TS動画配信者の飼い猫♂になった件 (毒蛇)
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第一話 猫、飼われる
――気が付いたら猫だった。
いわゆる転生を果たしたのか、或いは人間の記憶を持った猫になったのか。
ただ、自分が人間だという確信を持ちながらも猫生を送らなければならない事を悟った。
「動画映えしないと捨てちゃうかも~」
変顔のような笑みを浮かべた飼い主の顔に気が遠くなった。
愛玩動物であろう自分は人気の猫種だったらしい。飼い主の独り言で知った。
それなりの額で買われて、あれよあれよとショップの檻から広い家の檻へ。
転生したら美少女になりたい。次点で雲になりたい。
そんな傲慢なことを思っていたから、猫という中途半端な転生をしたのか。
名前もどこで生まれたかも穴だらけな人間の記憶と意識を持った猫など何が良いのか。それならばただの記憶も何もない無邪気な猫として生まれ変わりたかった。
グルーミングとトイレを覚えて数日。
自分を購入した飼い主の家は広々としていた。
当然だろう。
机から何から全てが大きいのだ。
それだけではなく、なんとなくだが一般的な家よりも広い気がする。
「いや、もう……しゅごい……かわ~」
ゲージから解放され家の床を歩く。
そんな挙動の一つ一つに黄色い歓声を上げるのが飼い主だ。
「えっ、ぇ、え~! 天使!? あっ、キミか~」
容姿端麗な女。
肩まで伸びた黒髪を揺らし、自分を見て変顔を見せてくる女が飼い主だ。
小悪魔的な、どこかに男受けするあざとさを兼ね備えた姿には猫ながら目を奪われる。
「よ~し、それじゃあ撮ろうね~」
赤ん坊に話しかけるような柔らかな声で自分を抱き上げる。
それなりに豊かな双丘の感触と共に鏡に向けてスマホを向ける女。
その微笑と乳の感触でここに来た甲斐があった。
そんな思いはスマホを操作する女の手元を見て、吹っ飛んだ。
2010年。
随分と懐かしさを覚える年が画面の隅にあった。
自分はタイムスリップをしたのか。いわゆる別世界に来たのか。
なまじ知識などがあるから、硬直する自分を余所に女はどこかに写真を投稿した。
「おお~。ほら、もう『いいね!』が5000もいったぞ~」
上機嫌な女の様子。
彼女の腕に抱かれ、改めて彼女の小奇麗さと部屋の装飾に目を向ける。
色々な商品や物が置かれた部屋。
一度だけカーテンの隙間から見えた下界という名の建物群。
もしかすると有名人か富裕層に買われたのか。
自分の猫種に感謝をしながらも、ふと不安に捕らわれる。
『動画映えしないと捨てちゃうかも~』
捨て猫というワードが脳裏を過ぎる。
飼われて数日だが、こんな態度は最初だけではないのか。
保健所。殺処分。猫生などまだ二桁日程度だがそんな末路に身体が震えた。
そんな不安を解消するきっかけがあった。
グルーミングやトイレをしている際にもスマホやカメラを向けるのだ。
迷惑極まりないが、常に手元に持つ彼女の姿には数日程度で慣れざるを得なかった。
カメラ狂いなのかと思ったが、どうやら少し特殊な事情のようだ。
「ハロハロ~」
その日はソファに座る女と自分、そして少し離れた場所に設置されたカメラ。
陽気な挨拶を黒い四角形のカメラに向ける彼女が撮影をしているのは分かった。
「今日もお元気? トクガワのおじさんです!」
どこか芝居がかった口調と身体の動きは、慣れた物だ。
膝の上に置かれ、動かないように手で体躯を掴まれながら彼女を見上げる。
「本日でなんとトクガワちゃんねるも3年目! おじさんを応援してくれてありがとう~!」
おじさんと名乗る美少女にも美女にもとれる黒髪の女。
はにかむ彼女を見上げながら、彼女の言葉に思い当たるものがあった。
動画配信者。
ネットの海に動画を配信し、それを飯のタネとする職業。
大体そんな認識だったが彼女がそういう職業のようだ。
「チャンネル登録者もなんと400万人を突破! やったぜ! ……それはともかく」
自分の背中を撫でる彼女は笑顔で告げた。
「なんと今日からおじさんの家に~、家族が増えるよ!」
家族。家族といったか。
毛並みを指でくすぐる彼女はカメラに向けて言い放つ。
「名前はイエ! 家康からとってイエ! なんか偉くなりそうだから!」
自分のことを言っているらしい。安直だがクロとかタマよりは良いだろう。
それにしても動画投稿などしたことは無いが、登録者数が凄まじい。
その容姿で稼いだのか、日々の努力の賜物かはまだ不明だが、この画面の先にそれだけの人間が彼女と自分を見ているということになる。
そして今日がチャンネルの開設3周年らしい。
はきはきと喋る彼女の言葉に耳を傾け、身体中を弄られながら思考を続ける。
話は戻るのだが、そんな有名人だろうと抱える不安がある。
今はともかく、将来的に捨てられるかもしれない、虐待されるかもしれない不安だ。
今の自分はただの猫畜生に過ぎない。資格も就業経験もない。
従順を装い、人間に媚びを売らなければ「なんだこの猫、いらねーわ」と段ボールに入れられ見知らぬ野原に出荷されるかもしれない。そんなことをされたら生きてはいけない。
一応猫の身体をしているが狩りなどしたことはない。
どちらかというと狩られる可能性の方が高いのは間違いない。
食事も満足に取れなくなる。
屋根もない外で雨に打たれて、野良犬に噛み千切られて死ぬ。
遺体はきっとネズミにでも食べられるのだろう。拾われる可能性は期待できない。
だからこそ、自分はここで生きなくてはならない。
もしかすると何もしなくてもこの女は家に飼い続けてくれるかもしれない。
しかしそれは憶測であり、希望に過ぎない。
所詮は他人、それも出会って数日の美女になど騙されないのだ。
ではそんな知識があるだけの猫畜生に何が出来るか。
気に入って貰うのだ。自分を撫でる飼い主やカメラの先にいる視聴者に。
媚びを売る。考えられる限りの芸を覚えて人気を集める。
この世界に『イエ』などという猫がいることを知らしめるのだ。
猫動画が再生されるほど、この飼い主も喜ぶだろう。
愛着の一つでも覚えさせれば、捨てにくくもなる。
そして浅知恵で覚えた芸を世界に飽きられる前になんとか猫生を終えるのだ。
「ほ~ら、イエ! なんか言ってごらん~。まあ、全然鳴かないんですが」
そんな幸せ計画の第一歩。
まずは目の前の飼い主に媚びを売ろう。
『……初めましてマスター。どうせ聞こえないと思うけど』
「えっ」
『まずは、その気色悪い赤ちゃん言葉を止めてくれるかな?』
「オポポポッッ!!? 鳴い、鳴いたぞ! えっ、マジで!? 聞きましたか皆さん! 俺、いや私、今初めてイエの鳴き声を、いや、本当に……ッ!」
当たり前だが通じることは無かった。
驚愕の表情を向ける『おじさん』を名乗る飼い主に身体を預ける。
せめて捨てられないように。美味い飯にありつけられるように。
最低限の努力を惜しまず、動画映えする芸を覚えて媚びを売ろう。
これを人生の目標にするのだ。
どうやらこの身体は自殺に成功したらしい。
俺がそう判断したのは、異常な程に整理された部屋とテーブルにあった薬。
睡眠薬などを明らかに多量に摂取したのだろう。
同じく紙で書かれた遺書にはいままでの人生の恨みつらみが書かれていた。
親に虐待され、容姿の所為で虐められる。
毎日が嫌なことばかりで、誰にも助けては貰えない。
両親が事故で死んで、勉強だけは頑張って、誰も自分を知らない学校へ進学。
そうして日々を送っているうちに、ふと張り詰めた糸が切れてしまった。
そして自殺に至ったのだろう。
元の身体の持ち主は死んでしまったのか。
部屋を見る限りあらゆるものを捨てたらしい。
苗字も変えて、最低限の物だけ残して、残った物は俺の意識だけ。
小さな手鏡には確かに可愛らしい女がいた。
どこか性格の弱そうな女の表情はニヤリとした笑みに上書きする。
「それなら俺が使ってやろう」
死んでしまったのなら仕方がない。
だから、この身体の持ち主が誇りに思える、楽しい人生を送ってみせよう。
この少女を虐めて、苦しませた全ての者よりも幸せになれるように。
「まずは金だ」
いわゆる憑依なのか、本当に女の身体に転生したのか、もしくはただの夢なのか。
そんなことを考えるよりも現実的な問題に思考を向けなくてはならない。
生活を、食事をする為には金を早急に稼がなければ。
女の残した遺産のパソコンでネットを見ながら稼ぐ手段を模索する。
そうして気づいた。
「動画投稿者がいない」
動画サイトはあるがこの国の人間は見向きもしない。
否、これから月日が経過すればここに価値を見出す人間も現れる。
一切開拓されていない無人の市場。
ここに魅力と可能性は感じた。
俺が元居た世界の動画投稿者。
今は無き彼ら彼女らが行ったことを模倣すれば稼げるのではないか。
歌を歌ったり、人気の食べ物を食べたり、レビューをしたり。
ゲームを実況したり、変顔をしたり、出来るだけ子供や大人と幅広い層の需要を掴むのだ。
そこからはあっという間であった。
バイトをしながら動画を投稿し、それなりに稼げるようになるのに一年。
そろそろ動画一本で食べていこうとバイトを止めて動画投稿に勤しむのに二年。
この容姿は思った以上に人気だった。
何よりもこんな美少女が子供受けする下らないことをしているのが受けたらしい。
動画投稿の需要に気付いた後輩たちが増える中で、ゲーム実況や歌を歌ったりして三年。
毎日毎日、動画投稿の為にパソコンと向き合う日々。
企業からの案件の為に外出を繰り返し、ファンを増やす。
途中から早期リタイアを目指して日々動画投稿をしてきたが、そんな日々に少し疲れた。
言い寄る男は増えるが、中身が男の時点でスキャンダルはあり得ない。
ストーカーが現れたり男に襲われかけたり、多少の人間不信にもなった。
スタッフは綺麗な女たちで囲い、そういう人なのだと変な誤解もされた。
きっとこれから先、結婚だけは出来ないのだろう。
それだけはこの身体に申し訳ないと思う。
ただ、それなりに動画配信者として有名になってから、言い寄る人は誰も信用できない。
身体か金銭か、何かしら裏があるのではないのかと疑心暗鬼になってしまった。
この世界の、社会の闇を知り、年を取る度にそんな思いが強くなる。
動画配信者としての明るいキャラも身についてきた。
早期リタイア出来るだけの金も手に入り、資産運用を進めている。
現在年齢は22歳。30歳くらいか、それまでに登録者数が1000万になったら引退しよう。
その間、誰かに俺を癒して欲しい。
人じゃなくても良いから、俺を癒して欲しい。
「そうだ、猫。猫を飼おう」
ふと、そんなことに思い至った。
猫は良い。可愛い。世話は必要だろうが賢い猫種もいる。
何よりも動物は人と違って裏切ったりはしない。
健康診断をした時には動物アレルギーが無いことも判明している。
スコティッシュ・マンチカン・フォレストブルーという種類の猫を飼う事にした。
賢く、丈夫な身体と遺伝子改良でもしたかのような猫の良いとこ取りをした猫種の頂点。
生まれて数日程度の彼の目が俺を捕らえるのが分かった。
金色の大きな瞳は満月を思わせ、腹部は白く、背中は漆黒の毛並み。
即決だった。
「……うーん、視聴者にアンケート取ろうかな……、いや、変な名前は嫌だし」
これから先の生活がきっと彩りに染まるだろう。
彼の小さな身体は両手に収まるくらいに小さく、きっと癒しとして貢献してくれるだろう。
ついでに少しだけ。
職業病にもなりつつある動画サイトのことを思うと、ポロリと呟いた。
「動画映えしないと捨てちゃうかも~」
大きく見開いた瞳に微笑みかける。
子供映えする変顔は猫にも受けたらしく、コテンと静かに眠りについた。
「なんてね」
愛らしい寝顔と毛並みに疲れが取れた気がした。
癒しの偉大さを知りながら、これから大切に育てようと、そう決めた。
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第二話 猫、テーブルに立つ
今日も今日とて猫生を送る。
現在の、というよりも初めての飼い主の元で早くも二週間ほどが経過した。
最初のうちはトイレなどを覚えたり、広々とした居住地を覚えるなど忙しかったので、落ち着いた感覚はここ最近になるだろう。
自分という猫を、女は外に出そうとするつもりはないらしい。
その為、行動出来る範囲は限られているが、現状は窮屈さを感じない。
インドア派な自分であることが良かったのかもしれない。
意外にも自分を放置することのある飼い主は恐ろしいほどに勤勉だ。
誰の邪魔も入らない部屋で動画の編集をしていると思いきや、自由区画であるリビング兼撮影部屋となっている場所で何かしらの撮影をする。
そして合間に自分に構ったりするという日々。
自分よりも明らかに寝ているとは思えない労働環境だ。
「ハロハロチューブ。どうも~トクガワちゃんねるで~す」
決まり文句なのか、いつも同じ挨拶をする黒髪の美女。
ソファに座る彼女が撮影を始めると、近づいていき見上げる。
薄着の彼女はどこか艶やかで、衣服越しに隠せぬ双丘が目を惹く。ただアイシャドウでもしているのかという目のクマは良い感じに眼鏡で隠しているのが見て取れた。
「おじさんと……、イエ~。おいで~」
ソファに置いていた猫じゃらしを手に取る彼女はおもむろに振る。
先端が分かれたソレを見ると本能的な何かが疼くのだが、正直無視できる範囲だ。
『これ、邪魔ですよ』
「んぅぅぅ。挨拶出来るなんて可愛いねぇ~」
『はいはい』
「そうそう、コメント欄で指摘あったんですけど、こいつ賢そうなんですよ」
相も変わらずコミュニケーションに難ありだ。
そそくさとその場を後にしてしまいたいが、撮影は始まっている。
猫に見向きもされない飼い主など誰も見ないだろう。仕方なしにその先端に齧りつく。
右へフリフリ、左へフリフリ。じゃれる度に幸せそうな女の顔は美しい。
猫扱いされることに不満を覚えるが、その度に自分は猫だったと思い返すこと数十回。
稲穂のようなそれを追いかけて女の身体を野原のように駆けずり回る。
五分ほど遊んでいただろうか。
思い出したように玩具を置く彼女は、定点カメラのレンズに向けて話し始める。
今のようにたまに脱線することはあったが、恐らく編集で削るなりするのだろう。
「さて、今回はですね……以前に放送したイエの成長動画が大反響で――」
自分が気にすることではない、そう思う猫を撫でながら女はトークを続ける。
ある程度話す内容を決めているのか、淀みなく、分かりやすく喋る彼女の話。
「なんか今回企業しゃん……企業さんの方からですね、こちらの箱が届きました。わ~!」
一人で拍手する彼女。
その段ボールの箱はカメラの外に鎮座していた。
どこどこの有名企業なのだとか。
まだ中身は空けていないのだとか。
そんな滔々と話す『おじさん』の言葉に耳を傾ける。
「それじゃあ、早速開けちゃいましょう。ナイフを装備!」
変顔を見せる薄着の女。
おもむろに取り出したカッターナイフを見て、ふひっと笑う姿はメンヘラのようで。
腕ではなく、きっちりと箱のテープを切った彼女は中からある物を取り出した。
「おお~。こ、これは……!!」
驚愕の表情。芝居がかった口調と顔を見せる美女。
なんとなく目の前の物よりも、茶色の段ボールの中に入りたくなる、そんな謎の本能に逆らい理性を保つと、彼女が取り出したターンテーブルらしき物に目を向ける。
「新しい爪とぎですね」
昔の円盤を再生するような機械、それを模した爪とぎだ。
デザイン性が高く、レコード部分で爪を研ぐのだろう。
解説諸々をする彼女がおもむろに自分を抱き上げてターンテーブルの前に置く。
実は一度だけ、猫の本能に負けて壁を引っ搔いたことがある。
それ以降は控えていたが、目ざとい女はすぐに爪とぎを取り寄せてくれた。彼女がどこかのサイトから取り寄せた板状の爪とぎで満足していたのだが、運悪く企業案件と被ったのだろう。
『ほらマスター。さっさとカメラを向けて』
「イエ、そう、丸いところを爪で研いで、研いで」
にゃあにゃあと猫の真似をしてレコード部分を爪で研ぐ彼女。
ここまで来るとどんな猫でも何をすれば良いのか分かるだろう。
おもむろにレコード部分を回しながら、爪を研いでいく。
「……おお! DJイエ、爆誕!! 爆誕んんんっっっ!!!」
カメラを向けてくる女に顔を向けて爪を研ぐ。
なんて自分は従順なのか。如何にカメラ映えしているのか。そんなことを思う。
普通の猫ならば、今の場面はスルーしていた可能性が高い。
そんな知能の低さよりも、猫がDJのようにレコードをクルクルしているという画が撮れるのは女もカメラの先にいる視聴者も嬉しいだろう。
媚び猫爆誕。喜ぶ人間。需要と供給。チェケラ!
その後、女と適当にじゃれたり、腹を触らせたりする。
無駄もなくスピーディーに進み動画撮影が終わりを迎えた。
「ではまた会いましょう! チャンネル登録、高評価、よろしく!」
締めの挨拶を終えて撮影は完了。
そのまま終えるのかと思いきや、彼女はせこせことキッチンに向かう。
彼女は動画サイトに猫動画以外の物も多く上げている。猫動画がおまけみたいな物だ。
以前抱きかかえられてパソコンを見た際に、料理動画やレビュー動画、歌を歌ったりなど実に様々なジャンルの物を上げており、超人のような働きぶりを見せていたことを思い出す。
キッチンから声が聞こえる。
「はいどうも~、おじさんです。えっと本日は巷で話題のチキンカレーを作りたいと思います」
撮り貯めということなのだろう。
一日の間に何本か動画撮影を行い、編集を行う。それを毎日繰り返す。地獄か。
動画配信者とはこんなにも過酷な仕事なのか。
過る知識に子供がなりたい将来の仕事として動画配信者が圧倒的に上位であった。
確かに動画を見ている限り、動画の中心にいる彼ら彼女らは輝いて見える。
だが絶対に成功するとは限らない職業の現実など彼らはきっと知らないのだろう。
「カレーは良いですよね。おじさん、何を隠そう辛いのが好きなんですよ~」
そんな将来の期待を一身に背負っているだろう美女とは暫く別れる。
キッチンは危ないと言っている彼女に逆らうことはしたくなく、何より従順でありたい。
とはいえ、そうなると出来ることは少ない。
猫畜生に出来ることなど、寝るかトイレに行くか、食べるか、遊ぶかだ。
女がポツリと「お前は良いよなぁ~、俺も猫になりてぇよ」と呟く気持ちが良く分かる。
自分と二人の時は何故かときおり俺っ子口調になる美女。
それが素の状態なのかはともかく、彼女の仕事がこれだけ大変なのだと実感してしまうと、女が疲れている時には無言で毛並みを撫でさせたり腹を触らせざるを得ない。
そんなペット、もといニートな自分だが、そんな状況には甘んじられない。
何か芸の一つでも覚えられないかと模索は続いている。
リビングに備え付けにされた巨大なテレビ。
テーブルに置かれたリモコンを爪の先で押す。
『――……! ……!』
音量は小さく、そして彼女がいない間に情報を収集する。
ニュース、教育番組、つまらないバラエティなど適当にチャンネルを変える。
記憶の中にある知識と大差ない。
些か古いと感じる娯楽の類を切り捨てて、最終的にはニュース番組になる。
情報とは武器だ。
如何なる弱者であっても、情報一つで状況を変えることが出来る。
そもそもそんな危機的な状況が来ないで欲しいと思いつつも、主要なニュースの時間を過ぎると、時折だが評判の良かった動物の動画に目を向ける。
そこから何かヒントを得られないかと自分は考えていた。
そもそも芸とは何だろうか。
人間ならば手品とか、変装とかだろう。では猫や犬とかの芸は何か。
代表的なものは「お手」とかだろう。だが、そんなつまらない物で彼女は満足するのか。
――もっと何か、「お手」よりも高度な芸の方が良いのではないのか。
思考はドツボに嵌る。
画面上に映るのは、蚊取り器らしき白い豚に顔を突っ込むウサギ。
後ろ足で立ち上がりボールを口に咥える犬に人間が吹き替えを行う。笑う人間。
『下手くそな吹き替えをするなって』
ちなみに犬の言葉などは分からない。
人間が勝手に吹き替えした動画を見ながら、なんとなく後ろ足で立ち上がる。
少しだけ遠くの景色が広がる。
一瞬だが自分が人間に戻ったのではないのかという幻想。
見下ろすとクリームパンのような白いふわふわした手は猫である現実。
座る。後ろ足で立ち上がる。座る。立ち上がる。
スクワットのような動きを数回。これは体重維持の為に有効ではと思い始めると。
ふと、女の声が止んでいることに気付いた。
「イエ……?」
振り向く。
向けられる黒いカメラ。
驚愕の表情の女。
本日の仕事を終えたのか、時間が過ぎ去るのは早いようだ。
「あれ、テレビ、消したような……?」
どうやら見られてしまったようだ。
立ち上がり見つめ合う。
見つめ合ったからと言って素直におしゃべりは出来ない。
「イエ……お前」
『……』
薄く艶やかな唇が震える。
コクっと喉を鳴らし、カメラを構えて声を震わせる。
「人間、だったのか」
『――――』
真理に辿り着いた女の綺麗な瞳を見つめること数秒。
座る。後ろ足で立ち上がり、座る。
そしてそのまま寝転がり、両手両足を広げて腹を差し出す。
『……ほら、もふれよ』
「おっ、もふもふじゃ~ん」
ちょっとしたことはもふもふが解決する。
適当に鳴き声を発し、女の白い手に纏わりついて誤魔化した動画は、随分と後になって飼い主本人から『イエ、人間説①』として数百万再生されたことを知らされることになる。
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第三話 猫、お手を覚える
基本的に飼い主である女と自分以外でこの家を出入りする人はいない。
動画関係のスタッフや義妹を主張する女や、コラボなどでこの家に訪れる男や女に対して、甘えて、媚びを売り、笑顔を作り生存確率を高めていく。
この世界、この猫生も既に3ヵ月が経過した。
ひとつ屋根の下で働く勤勉な主のことも随分と理解が進んだ。
誰もが羨む絶世の美女は動画上で自らを『おじさん』と名乗っている。
トクガワちゃんねるという名前で活動をしているらしいが、苗字がトクガワだからという安直な物から取っていると動画で語っていた。ただ、彼女の名前は未だに判明していない。
人間が猫畜生に自己紹介などするだろうか。いや、しない。
コラボなどで訪れる人や、スタッフも誰もが『おじさん』呼びなのだ。
毎日何かしらの動画を撮っている女。
外はともかく家では独り言の多い彼女の話には注意深く耳を傾ける。
ソファに寝転がる時も。
キッチンにいるときも。
お風呂にいるときも。
動画投稿者として女はかなり人気の存在のようだ。
やることなすことの大半が成功し、再生数もファンも増えている無敵状態。
彼女の真似をして増えてきている同業者のようにいわゆる炎上するような発言や言動にも細心の注意を払い、動画投稿の頻度も非常に高い。ゲームはそれなりに上手い。そして美人。
勝ち組という言葉はこういう女の為にあるのだろう。
神にでも愛されているのか、嫉妬という言葉も芽生えない。
「俺って昔は一般人だったのに今では変装して、護衛の人までつけるとは……。人生って分からないよね~」
『マスターも大変なんですね』
「イエは可愛いな~。あれ、今の相槌?」
猫になってから最も磨かれた力は生存本能だろうか。
自らの身体の可憐さ、愛玩動物としての毛並みや肉球、会話という名の鳴き声を発するだけで、人間は少しの疑問よりも動物に癒されようとするのだ。なんだ偶然か、と。
『ほら、もふれ』
「あ~……あと五分で編集作業に戻らないとな。俺、なんでこの仕事やってんだっけ」
ブツブツとぼやく稼ぎ頭に今日も自分は腹を見せる。
腹部の白い毛を手で撫でるのが女は好きらしい。肉球に触るだけで美女の笑顔を見ることが出来るのなら、幾らでも従順な猫を演じていたい。
「お、また人間になってるじゃん」
最近、彼女はこんな台詞を吐くようになった。
自分が健康の為に後ろ足のみで立ち上がっていると、決まり文句にしたいのか、人間みたいになっていると言ってくるのだ。
最初に変な状況で見られた時はどうなるかと思ったが、モフモフが効果を発揮したらしい。
変な研究所に連れていかれるということは無く、現在もこうして飼い猫をしている。
とはいえ、現状に甘んじていて良いとは思わない。
この猫の身体がまだ小さいから可愛がられている可能性は消えてはおらず、大きくなった途端に別の猫を買ってきて関心が移るという未来は残っているのだ。油断はできない。
ちなみに後ろ足で立ち上がるのは人間を真似している訳ではない。
ただ、筋トレとしてスクワットもどきをしているついでに可愛さアピールしているだけなのだ。そんな自分の行為に思うところがあるのか、女は自分を抱えると編集部屋に移動する。
「イエ、ちょっと見て欲しいものがあるんだ。ちょっと動かないでね」
見るからに高級そうなパソコンが何台も置かれた部屋。
ケーブルを齧るかもしれないからと数回ほどしか入ることの出来なかった部屋に入ることが出来たことよりも、頭部に感じる豊かな感触に悦びを覚え、思わず鳴き声をこぼす。
「ん? 強くしすぎたか? ごめんね」
香水も何もしていない女の香りが猫の鼻腔をくすぐる。
美女の膝に座り、一体何をするのかと見上げるとパソコンを立ち上げる女。
この世界で有名な検索エンジンで動画サイトを開く。
そうして彼女は自分という存在がありながら猫動画を見始める。
「えっと……、これこれ」
彼女の声に目を向けると、動画に男が映る。
男が目の前にいる猫に手を差し出すと、猫はその手に前足を置く。
そして飼い主が良しと告げると同時に目の前に置かれた餌を食べ始めた。
「スコティッシュ・マンチカン・フォレストブルーはこれくらいは頑張れば出来るらしいよ」
『スコ……なんて?』
どうやらこの動画の猫は同族だったらしい。
妙に長い猫種の特徴として頭が良いらしく、先日のリモコンを触って、テーブルの上でスクワットしていた件はこういった同族の賢さという前提により怪しまれずに済んだらしい。
その後、似たような芸をしている猫を見せられ、部屋を移動、女の目が珍しく興奮に輝く。
「お手!」
『……いや、言うと思ったけど』
あの動画を見始めた時点でこうなる予想が自分にはあった。
先ほどまで自分を抱いていた柔らかそうな女の手に頭を擦り付ける。
「かわいい~。でもそうじゃない。お手!」
苦笑を浮かべて自分の頭を撫でる彼女。
薄着の彼女はその後も手を差し出したり、食べ物を出すと同時に手を出させようとする。
「ほら、イエ。さっき動画で見た感じで。お願い、ちゅーる上げるから。俺を癒してくれ」
『……!』
前足を彼女の手に置く。欠伸をするより簡単だ。
しかし、ここで簡単に食事に釣られ、芸を披露しても良いのだろうか。
「ほら、お手~」
『…………』
プライドがあるという訳ではない。猫畜生になった時点で消えた。
では何故なのか。
思ったのだ。あまりにも簡単に出来てしまうと賢すぎないだろうか、と。
動画を見て即座に模倣出来る猫。
凄いというよりも怖すぎではないだろうか。
『考えすぎかもしれないけど、一応ね……』
「お手!」
『何回も言うなって』
自分という猫に癒されている家主には申し訳ないが、カメラを忘れた女はただの女だ。
ここで前足を差し出しても喜ぶのは主一人だけだ。その感動は二度目三度目と薄れていくだろう。人間のように後ろ足で立ち上がった姿も今は『ま~た人間になったんか』とカメラを向けられる程度なのだ。
最初のお手、そのタイミングとカメラ映えは恐らく、再生回数的にも重要になってくる。
そうして主を喜ばせるのが、この家での今後の猫生に繋がる重要な要因なのだ。
だからこそ――、
『マスター、安心して下さい。そのうち必ずしますから。今はちゅーるを……』
「ん? どうした~」
彼女の喜びの声は大勢で分かち合いたい。
ならば、今は機会を窺うべきだろう。
何か特別な時に。最も高い効果を発揮しそうなタイミングを。
イエを迎え入れて3ヵ月が経過した。
これまで猫を飼ってこなかった俺としては事前準備として隙間時間に猫動画を見たりなどしていたが、猫というのはこれほどまでに賢い生物なのかと驚いた物だ。
カメラを向けると度々カメラ目線となる黒猫。
ふわふわの毛は定期的に専門の人間に手入れをお願いしている為、常に艶々である。
最近は猫動画の比率が増えたからか、急速に登録者数も増えてきている。
ゲームをプレイしたり、食べ物のレビューをしたり様々なことをして地道に登録者数を増やしてきたのだが、動物人気は根強いらしい。凄まじい勢いがある。
とはいえ、猫動画に甘んじていると足元を掬われかねない。
現状、俺の投稿する動画が高評価が続くのには理由がある。
確かにこの身体は美人だ。だが美人は三日で飽きるという。
初期の頃はポロリやチラ見せ目当ての層が多かったが、そういったことが少なければアンチになったりストーカーになったりと大変だったことがある。
また、基本的に行っていることは俺の記憶にあった動画配信者たちの真似事だ。
元々動画配信者自体が存在していなかったから、物珍しさもあっただけで調子に乗ってはならないのだ。謙虚さを忘れて他人を攻撃するとそれらは全て自分に返ってくる。
そんな自分の模倣動画は偽物、ネタが尽きた時には本当に才能のある配信者に負けるだろう。
既に十分な程に資産はある。それを運用して更に資産も増えている。
このまま辞めて、贅沢三昧な日々をこの身体に味わわせても余裕なだけは稼いだ。
ただ、今はまだこの動画配信を続けていきたい。
イエのおかげで、予想より早くチャンネル登録者数が500万人を超えたのだ。
もしかしたらこのまま1000万人を達成できるのではないのか。
そんなことを俺は思ってしまう。
「ハロハロチューブ。トクガワちゃんねるでーす。ゲリラ配信始まるよ」
普段の動画投稿とは異なり、視聴者のコメントを見ることが出来る。
この時代で最新のスマホ画面には突発的にもかかわらずコメントが並ぶ。
――そろそろ来ると思ってた。
――おじさん、ちっす。
――イエ、はよ。
――500万おめ。
「どーも、おじさんでーす。今回は登録者数500万人を記念してちょっとだけ配信しちゃいます」
グングンと増えていく視聴者数。
俺が操る美少女に沸き立つ彼らの反応に笑みがこぼれる。
「じゃあ、最初にせっかくなのでイエにご飯をあげてからにしましょうか」
俺の飼い猫は賢く、食事の準備を始めると足元をうろちょろと動く。
その姿をカメラに収めながら、皿に猫用ドライフードを盛り付ける。
「かわいいね~、あっ、そうだ。最近、ちょっと試していることがあるんですよね」
視聴者のコメントを見ながらイエの前に座る。
正面から見る飼い猫は大きな金の瞳をジッと俺に向ける。
何かを待つかのように目の前の食事ではなく、俺を見る。
「イエ……。お手」
もしかしたら。今日はきっと。
出来る訳がない。そんな冗談と保身混じりの俺の言葉に。
――白い前足がそっと俺の手に乗る。
「――ぁ」
小首を傾げて、ニャフーと愛らしい鳴き声を発する子猫。
ただそれだけのことなのに、これまでの苦労を労わるような、分かっているよ、そう言わんばかりの優し気な眼差しに何故だか俺の目元が熱くなった。
「イエ。俺は――」
思い過ごしかもしれない。偶然かもしれない。
それでも、何故か胸中に過る感慨深さに思わず天井を見上げた。そんな俺の奇行を前にして、ピコピコと両耳を動かし大きな瞳を瞬かせる愛猫は小さく鳴いた。
『――決まったな』
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第四話 猫、おじさんと寝る
前回のゲリラ配信はアーカイブとなり、反響があったらしい。
スマホやパソコンを見ながらニヤニヤする美少女、自称『おじさん』を自分は見る。
「ふひ……感動しました。……一生付いていきます。……猫吸いしたい」
ブツブツと呟く美少女ボイスは猫の耳で簡単に拾うことが可能だ。
動画に書かれたコメント欄の呟きは彼女の鈴音のような声を通して自分に届く。ちなみに飼い主だろうと猫吸いなど基本的にはさせない。病気になどさせたくはないからだ。
ピコピコと頭部に永久装着された耳を稼働させて、女の声を聞き取る。
「あー、またお手してくんねぇかな……」
チラチラと、こちらに向けられる男口調の女から顔を背ける。
頬を緩める彼女の笑みは大抵投稿した動画の再生数や良質なコメントを発見した類の物だ。それだけ高い反響があったのだろう、何度も『お手』のシーンを見せて、再現を要求してくるのだ。
遠くからカメラを向けてくる彼女に対して、顔を向ける。
背筋を伸ばし、出来るだけの決め顔とポーズでカメラ映えを気にする。
「おっとー? 今日はもしかして神がかった写真が撮れるのでは……?」
遠く、リビングから僅かに離れた一角。
空間的には同じ場所、しかし大抵その場所では仕事をしている為に近寄り辛い場所。
質素ながら高価な机と椅子、それだけの場所にパソコン片手の主。
動画編集中の彼女は飽きたのだろう、独り言と共にカメラをひっそりと向けてくる。
手軽に猫動画で再生数を稼ぎたい。少し前の『お手』動画のように。
そんなことを考えていそうだと適当にポージングをしながら思う。悪い事だとは思わない。それだけで美味い飯を食べることが出来るのだから、猫らしく主に貢献しよう。
『みんな好きだもんな。感動もの』
「ん……?」
人間は分かりやすい感動ものに弱い生物だ。
それも動物などに対して特にそういう感情を発生させやすい。
そんな感情を利用すべく今日も楽しく愛玩動物ライフを楽しむ。それだけで画面の皆も笑顔になれる。女も笑顔になれる。自分に笑顔になれる。幸せとはこうして作られるのだ。
「なんだあのポーズ……?」
呟く主の幸福の為に、身体を見せつけて、最後に後ろ足で立ち上がる。
苦笑を浮かべる彼女は満足したのか、スッと無表情になると再びパソコンと向き合う。
キーボードを叩く女の横顔を見ながら、喉が渇いて水を飲みに行く。
「あいつ、なんでここには来ないんだろ……」
『仕事の邪魔はしませんよ、マスター』
出来る猫は飼い主の邪魔はしないのだ。
そんな飼い主である女は本日の業務を終えたのか、ノートパソコンの蓋を閉じて静かに吐息する。疲労によって表情を失ったような真顔に慌てて足元に擦り寄る。
白い脚の甲、程よく脂と肉の乗った生腿に前足で抱き着いてみると、ようやく笑みをこぼす。
『このままだとお互い長生きはしないでしょうね』
「うん、寝るか」
奇跡的にそれっぽいコミュニケーションが成立する。
感動も何もないただの偶然。人間の記憶にあるブラック企業に勤めているような、しかし全て自分で自分を追い詰めているだけのストイックな女の一日がようやく終わりを迎えようとしていた。
テーブルに置かれた高価そうな時計は一寸の狂いもなく、夜を示す。
「あ、いや、その前にご飯食べて、お風呂に入らないと」
独り言の多い飼い主に対して勝手に哀れみを覚える。
思えば、この広々とした家に来てから女以外の顔など数えるくらいしか見たことが無い。
外に出る時は出るのだが、基本的には家にいるからか、色白の肌の女。
最初は猫畜生たる自分がいるからかと自惚れていたが、単純に自宅作業が多い。
「いいか、イエ。食事は日々の生活の活力になる。だから適当な物で済ませる奴は大体三十歳過ぎてから身体に病気となって現れる」
『まあ、健康志向は行き過ぎなければ大事ですね、マスター』
女の投稿する動画には料理動画もある。
素人による素人の為の、あまり手間を掛けないで作る料理独学動画。
独学というのはレシピ本とかを検索すること。その日の夕食か昼食として食べるという目的によって動画配信者を初めてからコツコツと定期的に投稿してきたらしい。
嫁に出ても恥ずかしくない程度の料理スキルは身に付いたと女は自画自賛する。
「まあ、でも俺は結婚なんてしないけどね」
『……』
「結婚なんて人生の墓場って言うし、俺は死ぬまで自由でいたいんだよね」
『……』
「それ以外の幸せを俺は私に与えようって決めたんだ」
無人だと独り言の多い女に曖昧に頷く。
彼女の価値観はともかく、食事に関しては大いに賛成だ。
猫でも人間でも食事は欠かせないものだ。
なまじ脳内が人間に占拠されている為か、残飯など食べる気にもならない。
「ほらイエ、ねこまんまだよ~」などとぐちゃぐちゃの飯を出す主でないことに感謝を抱く。そのついでに自分を見ている女はキャットフード以外にも肉、魚、果物などを調べて出してくれる。
忙しいだろうに、わざわざ調べてくれる彼女に感謝だ。
当然、撮影の為に向けられるカメラの存在には目を瞑り、黙々と食事する。
「美味いか~?」
『美味しいですよ』
差し出される掌を無視しながら胃袋を満たす。
少し悲し気な顔をする彼女の掌に思い出したようにそっと自分の前足を差し出すと喜びの声を上げる。こういった芸は要所要所で役立てていきたいものだ。
食事を終えて、風呂に入る彼女が自分を持ち上げて見下ろす。
「イエ、一緒に風呂入るか?」
素敵な誘い文句だった。
なんて返事を返すか考える自分に対して、彼女は一人で結論を出す。
「いや、まだいいか。今日はもう遅いし……。でも確かそろそろ洗った方が良いらしいし」
タイムリミットのある誘い文句だった。
精神的にはともかく、この身体は毎日風呂に入らなくては死ぬという訳でもない。洗いすぎは駄目とも聞く。
彼女も基本的にはシャワーで済ませるからか、余裕のある時に自分を洗うつもりのようだ。
「イエは爪を立てたりしないし、大人しくて最高の猫だよ」
『褒め過ぎですね』
「この世界の猫ってやっぱり凄いんだな」
別世界から来た人間、或いは宇宙人のような事を口にする彼女がシャワーを終える。
何かの企業案件だったか、機能性抜群と名高い、と宣伝していたパジャマを着用する彼女は妖精のような美しさがある。
女の姿に、態度に、人生を狂わされた男や子供が画面外に多くいそうな、そんな美しさ。
豊満な胸を張り、惹きこまれそうな笑みを自分に向ける魔性の女。
そんな女の姿を見て自分はそっとケージに向かう。
いつも自分と女はここで別れる。女は寝室のベッド、自分は檻の中で眠る。
ここに来てからは、そういうものだと思っていたのだが――、
「ハロハロチューブ。こんばんわ、トクガワちゃんねるです」
この日は、否。この日から違った。
わざわざケージの檻の扉を自ら締めた自分の行為を無駄にするように、女が扉を開ける。両手で自分を抱えると女の柔らかさが全身に伝わる。
カメラを設置し、リビングに布団を敷く女は黒髪を揺らして撮影を始める。
「やあやあ、我こそはおじさんなるぞ~。今ちょうど時計の針が上を向いたところです」
もはや職業病な彼女の残業を甘噛みして止めるべきか悩むも、彼女の言葉に悩みを解消させる。配信ではない、ただの撮影を続ける彼女の唇が言葉を紡ぐ。
「以前、視聴者アンケートで人気だった『おじさん、寝てみた』動画になりまーす」
反応に困るタイトル名だ。笑うべきだろうか。
女は片目を瞑り、その瞳をカメラに映すと、
「イエがこの家に来てもう5ヵ月。以前は身体が小さくて家具の隙間に行くのが心配でしたが、それなりに身体も大きくなったので今日は一緒に寝てみようと思います」
「健康は大事。そんな訳で『寝てみた』シリーズは遂にイエも参戦です。取り敢えず」
これからは一緒だよ~と甘えた声音で自分の腹に頬擦りする女。
カメラの前で言葉を区切った女が、呼吸をしてから、続けた。
「取り敢えず特に問題とか無ければ、今後は寝室で一緒に寝ようかなと」
「はい、よーいドン」
何かの最速動画が始まりそうな言葉と共に室内の電気が消される。
柔らかな光の照明が自分と濡羽色の女を照らす中、女はアイマスクを出す。
「ホットアイマスク良いですよ。おじさんが寝るときにおすすめです」
そう告げた彼女はいそいそと布団に寝転がる。
女は今回の為に買ったという猫専用の丸いベッドに自分を置く。
「ん~可愛いね~。はい、寝ます。今回は6時間作業用とショート用になりますのでチャンネル概要欄に貼っておきますね~」
敷いた布団の近くには設置されたカメラ。
新しいベッドは眠り辛く、そんなものよりも愛玩動物の役割を果たすべく彼女の傍に寄り添う。カメラが起動していると思うと何故かやる気が湧いてくるのだ。
「ふみふみしてる~」
『本能が失礼』
「私の身体を好きに出来るのなんて、俺とお前ぐらいだからな」
意識が眠っているか、無意識の場合は猫の本能が優先される。
女の身体によじ登ると前足でふみふみと始める自分の身体に戦慄していると、自分の鼻に女の人差し指が突きつけられる。
それが許可されたことなのかはともかく、触れた指から光が出る訳でも無く彼女は満足気な吐息を漏らす。彼女の顔の横で寝転がると柔らかな笑みを浮かべる。
逃げない自分に顔を明るくした女は身体を横たえる。
おずおずと壊れ物を扱うように、自分の体躯をそっと撫で始める。
「イエ」
『――――』
「ありがとうね」
カメラでは拾えないような囁き声。
それは、いったい、何の感謝なのか。
女の微笑に問い返す言葉もなく、ただ彼女に寄り添うことしか出来なかった。
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第五話 猫、ハムスターのごとく
心は男、身体は絶世の美少女。
この身体に意識が移った当時、当然ながら戸惑うことは多くあった。髪の毛や筋肉、声、詳細は省くが諸々の外見に興奮することは多々あるのは仕方のないことだ。
同時にスカートといった衣服、この身体になり生じる様々な現象に後悔する日もあった。
それでも時間経過とネットの海を泳ぐことで、俺は女の身体に対応してきた。
この世界に友人も家族もいない、孤独な女の身体に適応していく。
無知であったから恥を掻くことも、知識を得たから羞恥を覚えることもあった。
それでもこういう身体になったのだと順応したのは常にある危機感があったからだ。
俺と、この身体が楽をするには大金が必要だ。
この世界、この国では未だに浸透していない早期リタイアの実現。
今でこそ知識にある配信者たちの真似事が成功したから良かったものの、当時は動画投稿による収益化が成功するかどうかの不安は付きまとっていたのだ。
「あ、あの、はじめっ、しゃ、はじめまして……! トク、トクガワちゃんねるです」
――なんだこいつは。
――お嬢さん、アングラへようこそ。
――↑きっしょ。
最初の頃はそんな感じのリアクションが多かった。
まだまだ動画サイトがこの国に定着していない頃、俺は迷走していた。
はっきり言えば、恥ずかしかったのだ。
美少女の皮を被っていても、脳内に貯蔵された数多の配信者たちの喋り口調や、テクニック、どういった物が再生数を増やすかといった知識があっても。
中途半端な羞恥が脚を引っ張り、素のままではカメラの前で唇が震えた。
そんな迷える子羊に手を差し伸べたのは古参を名乗る紳士たち。
あの手この手でポロリといったものを狙う彼らは毒を吐きながらも反応をくれた。
美少女という外面の良さに助けられた瞬間である。外見至上主義に感謝だ。
動画投稿で最も恐ろしいのは、視聴者側からの一切の反応が無い時だったから。
「どーも、トクガワちゃんねるのおじさんです」
――おばさんの間違いでは?
――ロリコンニキちっす。
「俺は、いや私がおじさんだ。誰がなんといっても『おじさん』です」
羞恥を克服する為に恥ずかしいと思わない仮面を作る。
元々、絶世の美少女というアバターで新世界にいるのだ。その応用である。
『おじさん』というキャラにしたのは出来るだけ仮面と中身が乖離しない為だ。
――1周年おめ。
――おじさん結構しぶといじゃん。
――新参か? 俺ら中年の代表やぞ。
「毎回コメントありがとうございます! チャンネル登録よろしく! ではまたな!」
批判が少しずつ賞賛に変わる。
視聴者の毒やヘイトを乗り越えて、視聴者好みの女を作っていく。
やがて、中年男性のふりをした一般人女性という言葉がネットの海を泳ぎ始める。
コメント欄の反応から継ぎ接ぎしていく。
たまに行う配信、視聴者の反応から継ぎ接ぎ、継ぎ接ぎしていく。
賞賛と少なくない批判がコメント欄に吹き荒れる。
それなりに健全で幅広い層に受けるようにキャラを調整する。
――そんな風に過ごして『おじさん』が出来上がったのだ。
「どーも、おじさんです! 本日はですね、筋トレします! マッスル!」
動画配信者として活動していくと部屋の中で一日の大半を過ごす。
以前は俺しかいなかった動画配信市場も、最近は同業者も増え始め頭角を見せつつある。彼ら彼女らが完全に開花する前に、開花しても逃げ切れるように努力していきたい。
「今回は人気の高いダイエット兼筋トレ動画シリーズになりますね」
外に出ないから肌は焼けず、無駄な脂肪が増えていきがちな身体。
レビュー動画以外では出来るだけ節制と間食を控えているのだが、限度はある。
「まずはこのコロコロ、えっとアブローラーで腹筋を鍛えます。回数よりも姿勢が大事で、はい。取り敢えず今日も15回を3セットほどします。画面の皆、準備はいいかい?」
自宅で出来る筋トレ。そんな企画だ。
ニッチな需要、初見になる新鮮な企画を練るのも少しずつ厳しくなりつつある。
飼い猫であるイエの効果か、視聴者が視聴者を呼び、登録者数はうなぎ登りが続く。
勢いというのは大事だ。
数年前よりもハキハキと声を発しながら身体を鍛える。
「はぁー……、んっ、ん……」
食事は日々の生活の活力であり、身体は財産の中でもっとも大切な物だ。
不健康な生活は後々に影響が出るというのは、俺が良く知っている。
「ふっ、っ、くっ……よし」
喋りながら筋トレを行うのは厳しい。
しかし黙々と筋肉を虐めるだけの動画を誰が見るのだろうか。美少女といえど見ないだろう。
結果、何かしら語りながら筋トレをするという苦行を強いられるのだ。
この動画に触発され、同じように筋トレをしているというコメントも多い。
そういう彼ら彼女らの為に、程よく緩くラジオ感覚で聞ける雑談枠も兼ねているのだ。
「そういえば……はぁ、この前久しぶりに出張して握手会をしてきたんですよ。その動画も、近いうちに出しますので……よろしく、お願いしますねえ! ぐるじい!!」
現在の自宅である高層マンションの最上階、その一室をトレーニング用とした。
肉体的な事情やストーカー的な事情で、セキュリティが高く、猫も飼うことの出来る拠点。
基本的に誰も来ない俺たちのアジト、聖域、砦、城。
元々の人生でも、この身体でも知らなかった贅沢を俺は味わっている。
「そういえばこの前アナログ放送が終了しましたね~。マスコットが公式から届きました」
俺は気が付いたらこの美少女になっていた。
女体に戸惑いながら金銭を稼ぐ日々、当時この身体になった俺による楽にお金を稼ぐ手段としての動画配信が軌道に乗るまでは周囲を見る余裕はあまり無かった。
「そういえば、海外で大きな地震とかありましたね。皆も備えとかしておきましょうね」
改めて情報を収集すると、元々住んでいた国に近しい世界だった。
異世界転生をした訳ではない。ファンタジーも見る限りなかった。
中世ではなく、いわゆる現代的な法による国家、その国民として俺は生きている。
ここは並行世界なのか。
それともタイムリープをしたのか。夢なのか。
その疑問はこの世界で過ごしている現在も解決出来ていない。
俺が覚えていることは、記憶に残るような大事件や世界的に話題になったことが多い。記憶にある首相は実在はしていても別人が首相になったりと首を傾げてばかりだ。
こんなことならもっと勉強しておくべきだった。
「ふぅ……よし終わり。いや~疲れた。明日は腕ですね。今日も身体が火照りました……」
薄手のシャツを捲り腹筋を見る。
中々減らない脂肪の付いた腹肉は未だに割れる気配が無い。
くびれた腰を手で叩き、パタパタとシャツの裾で扇ぎ涼むと、開いたままの扉、そこから金目が覗いていることに気付く。ネットでニュースにもなったおじさんの飼い猫だ。
「ほら、イエも応援に来てくれましたね~。でも終わりです! 高評価、チャンネル登録よろしく! 次回はイエに関する重大発表があるよ!」
今日も今日とて勤勉な飼い主は無防備な姿を晒していた。
そういう計算をしているのか、純粋に男を知らないのか。
『おじさん』を自称しているだけあって、男のような仕草を見せる女に溜息を見せる。
「カメラ停止、確認ヨシッ!」
放送事故が無いように指を差して確認する主。
タオルで首筋を伝う汗を拭き取る女を見ながら、足元で仰向けになる。
「よしよし、いつからいたんだ~……?」
『最初からですよ』
わしゃわしゃと腹肉と白い毛を撫でまわしながら呟く女。
黒髪を後頭部でポニーテールにする女は自分を抱き上げて移動する。
『それで重大発表なんて初耳ですが?』
「う~ん?」
汗と甘い香りがこの女の物であることを猫の嗅覚が識別する。
吸って吐いて、吸って吐いて、呼気と共に尋ねると抱きかかえる女が呟く。
「なんかさ~、企業側がイエの写真を撮りたいなんて言ってたけど……」
『初案件の予感』
「ん? ストレスは掛からないとか言ってたよ~。ここでするらしいし」
飼い猫を気遣える女はさぞかしモテるだろう。炎上もしないだろう。
元々自分は動画再生の為に購入されたのだから、その程度の仕事は文句はないのだ。
ぬいぐるみのように脱力し、彼女に抱えられながら問題ないと一鳴きする。
「その時のお前の反応しだいだけどな」
『それなりに頑張ることを検討しましょう』
それにしても女の努力の姿勢は学ぶべきところが多い。
特に己の体形に関しては驚くほどにシビアだ。
そんな女の飼い猫として――、
『太った猫って不味いのでは?』
なんとなく自分はそんなことを思った。
シャワーを浴びる女が着替え、いつもの撮影部屋で何かを組み立てている時に思った。
鏡で見る限り、体形は変わりない。
身体が大きくなるだけで現状は変わりないが、未来は誰にも分からないのだ。
当然、餌を食べるだけで運動をしなければブクブクと太っていく。
体形管理も出来ない猫、以前の動画を見て「うわ、醜くなった」とは言われたくはない。
彼女を見習って、もっと運動をするべきだろう。
「よし、1時間掛かったけど出来た」
そんなことを考える自分を余所に、満足気な女が組み立てた物。
本能に身を委ねている間に完成したらしい、台座に乗ったホイール状の何か。
カメラを向けるという事は何かしらの撮影なのだろう。挨拶は後撮りなのだろう。
「ほら、イエ! こんな風に走るんだよ!」
手で砂を掻くように女が手を動かす度にホイールが回る。
ハムスターが走る回し車のような形状と主の動きに理解する。
女も分かっていたのだ。
自分は痩せるべきだということを。言外に告げていた。
『――――』
「うーん、餌で釣った方が良いのかな……。ちゅーるか猫じゃらしで……」
『どけ! 手、邪魔だ!!』
「おおっ!? マジか! 過去一番理解が早いぞ! あっ、やらせじゃありませんよ!!」
叫ぶように驚愕する女に向ける耳は持って無かった。
『うおおおおおっっっ!!!』
自分は走り出した。
必ず、おじさんを語る女の関心を惹き続ける為、体形を維持せねばと決意した。
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第六話 猫、現場猫
自分が女の飼い猫となって半年ほどが経過した。季節は既に秋。
動画配信者として多忙を極める彼女は基本的に一人で過ごすことが多い。
一人で撮影して、喋り、顔芸をして、編集する。
手が回らない、何かしらの企画を行う時にのみ自宅にスタッフを呼ぶ頻度が増えたように感じる。自分の身体が大きくなったことや人間に慣れたと家主が判断したのだろう。
「触っていいよ~」
「……、良いんですか?」
「ホンダさん、イエに触りたがっていたじゃん?」
「……まあ」
その日、飼い主以外の女と遭遇する機会があった。
眼鏡、白髪とストレスを感じることが多いのか眉間に皺を寄せた女。
手を此方に伸ばすように拳を開き、閉じられる。
今にも祈るように拳を振るいそうな女はジッと自分と目を合わせる。
レンズの奥から覗く瞳の色を冷静に染めながらも、僅かな不安に瞳を揺らす。
「い、いえ、今日は仕事ですから」
「撫でるだけなら一分で済むじゃん。……時間なら十分にあると思うよ?」
逡巡の末に断ろうとする彼女はいかにも仕事が出来そうなオーラを見せている。真面目が服を着てそうな彼女は、隣に立つ濡羽色の美女に揶揄われて渋々と動き出す。
触って良いと許可を出されて、僅かに頬を緩めたのを自分は見逃しはしなかったが。
自分としては家主が許可を出したという時点で異論はないのだ。
「――――」
コクンと白い喉を鳴らし、ネックニットとタイトスカートを着た白い女が床に膝をつく。
向かう先は、先ほどから床に寝転がり彼女らを見上げていた自分だ。
『頭が高いぞ、ひれ伏せ』
「な、鳴いた……」
自分の言葉に感動したのか、タイトスカートからすらりと覗く黒脚が震える。
曲線美を描く腿、黒色の薄皮に包まれた膝を床に擦り付け、女が玩具を振る。稲穂のような猫じゃらしは理性が抑えつけなければ本能的に追いかけてしまっただろう。
そんな状況で、右へ左へ揺れる猫じゃらしに目を向けず、女の顔をジッと見つめる。
――最近、焦らすという事を覚えたのだ。
「……ほ、ほ~ら」
白髪の女は何度か目にしたことがある。
人間不信なのかと思うほどに一人でいることの多い家主が招き入れる人物。
会話を聞く限り、マネージャーのような仕事やおじさんの代わりに外でカメラマンを担当したりしているスタッフの一人。主に裏方を担当しているホンダという女。
「あ、あれ? なんで……」
「ホンダさん。にゃんにゃんって言いながらするとイエは動きますよ」
「本当ですか!? 信じますからね。……にゃ、にゃん! にゃん!」
時代が違えば女騎士をしていそうな真面目そうな堅物。
目の前の白髪の女と黒髪の女がどういう経緯で一緒になったのかは不明だが、家主に負けず劣らずの美貌の持ち主を傍に置くのが、飼い主の趣味なのだろうと判断する。
女を騙してほくそ笑む家主を睨むと、眼前の見知らぬ女と戯れ始める。
『やれやれだぜ』
「おっ、おっ、本当だ! わ~!」
「えっ、いや、まあ……良かったですね」
猫じゃらしに飛びつきながら、足元に転がり腹を見せる。
タイツの化学繊維の感触を肌に感じながら、ジッと女を見上げて一鳴き。
『お前は次の瞬間、自分に向かってかわいいと言う』
「……か、かわいい」
どれだけ有能でも、どれだけ性格上は硬くても、猫の前では全てが崩れ去る。
如何にも気難しそうな顔をしていた彼女の眉間の皺が無くなり、頬を緩ませる。
『堕ちたな』
「爪も立てたりしない……、あの長い名前の猫種ってこんなにも人懐っこいんですね」
「他の子はあんまり知らないけど、猫ってこれが普通なんでしょ?」
「え? どうなんでしょうね、私も飼ったことはないので」
「それよりもホンダさんもそんな顔をするんだね。今なら彼氏とか出来そう」
「せ、セクハラですよ。トクガワさんこそそういう話は多いでしょう?」
「おじさんは独身貴族になるつもりだから」
彼女たちの雑談を聞きながら思う。
顔の覚えを良くし、媚びを売るだけで女の好感度を上げることが出来る。下げて困ることはあれども、上げて困ることなど無いのだ。
身体に擦りついて目を見て一鳴きするだけで簡単に喜びの声を上げる。
最近、思ってしまう。
――人間はちょろい生き物だと。
「わ~。イエちゃん、毛がふわふわですね。トクガワさんがされているんですか?」
「んお? お~、そういう時もあるけど、まあ、専門の人に任せたりもしてますね」
「そうなんですね。あっ、専門と言ったら、そろそろ来ますよね」
彼女の言葉に疑問を抱いた瞬間、首の後ろ付近がピリピリとする。
猫の身体に備わった第六感、自分はそれをキャットセンスと呼んでいるが、凄まじい聴力を有している猫耳と共にこの女たちのいる家に見知らぬ何者かが訪れるのを感じた。
直後、インターホンの呼び音に白髪の女が向かい、数人の人間を連れてくる。
「どうも、初めまして。本日はよろしくお願いします」
「あっ、初めまして。トクガワちゃんねるのおじさんです」
「スタッフのホンダです。打合せ通りにお願いします」
「はい、本日はよろしくお願い致します。あっ、いつもおじさんの動画見ています」
「ははっ、ありがとうございます」
来訪した見知らぬ男女による挨拶からの少しの雑談。
応対する飼い主たちの会話から、以前話をしていた自分の案件である事を察した。
急に人間の比率が多くなったが空間的にはそれでも広く感じる。
猫である自分への配慮か、静かにカメラを始めとした必要機材等を床に設置する彼らから少し離れて、カメラ棒を持ち撮影を始める黒髪の女に目を向ける。
「はい、今ですね、専門の方々に撮影して頂くらしいのですが……」
他人の目線など素知らぬとばかりにマイペースな女は朗々と語る。
おじさんに目を付けたとある行政とのコラボ、自分の写真を使った安全ポスターを作るらしい。動画配信の王として知名度は日々上昇していることもあるだろうが、物凄い事だ。
「いや、本当に光栄ですよ~」
いつもの撮影部屋。その一角にシートが敷かれ、小物が設置されていく。
玩具らしきフォークリフト、赤い三角コーン、コンテナ、脚立、パレット。
実際の物をそのまま猫サイズに縮めたような玩具に興味が惹かれる。
「今回、イエですが、ちょっと変身するそうです。今からそれに慣れさせていきますね~」
あらゆる男を虜にさせる魔性の笑み。
彼女の膝元には、特注で作られたのだろう小型のヘルメットとベスト。
緑の十字架が刻まれた黄色のヘルメットと蛍光色のベスト。
話の流れ、彼女の言葉、現場の状況から察するに自分は着せ替え人形にされるようだ。当たり前だが自分はともかく、猫が服を着たりはしない、筈だ。
飼い主の好みで勝手に着せられることはあれども、自ら好んで着ることはないが、
「よっこいしょ」
白髪の女が他スタッフと準備を進めている間、飼い主が自分を抱く。
豊満な乳房の感触を頭部に感じながら、目の前に差し出されるのは、おやつ。
「はい、こちらのちゅーるは、特製高級黒毛和牛&タラバガニ味とのこと」
『高級って名前がつけば良いって訳じゃないんですよ、マスター』
「いや~、美味しそうですね、ほら」
『んむ……美味いな』
パッケージの開封口から覗くペースト状のおやつ。
人間の記憶に猫のおやつを食した物は無かったが、猫の舌にはよく馴染む味だ。貰える物は貰わねばとペロペロと必死に舌を動かして、女の指に付着した物まで舐めとる始末。
薬でも入っているのかと思いながらも口の止まらない自分に、女がくすくすと笑い声を上げる。
「んっ、ふふっ……くすぐったい。ほら、皆。ペロペロ言ってるよ」
マイクを近づける中、一心不乱にちゅーるを舐めていると頭に違和感を覚える。
片方の耳を覆うヘルメットの感覚と胴体に感じるベスト。
前報酬なのか、着させられた自分を見る彼女が残りのおやつを取り上げる。
「残りは後でね」
『は?』
中途半端に食べさせて取り上げる。ふざけた女だ。
イラっとする自分を余所に、スタッフの準備が出来たと始まる撮影。
とはいえ、自分が何かをする訳ではない。
猫サイズのフォークリフトなど小道具が設置された一角を好きに移動する自分。その一角以外に移動しようとすると連れ戻されるが基本的に自由。ポーズの指定も何もない。
自分に触れないようにカメラマンがやや離れたところで黒色レンズを無言で向ける。
自分は指示待ち人間のつもりは無いが、しかし創作性に乏しい。
他人に面白いことをしろと、そう言われても曖昧な笑みを浮かべるのが精一杯だ。恐らく彼らは自然体な自分の写真を撮りたいのだろうが、今のところ特に思いつくことはない。
それはカメラマンも同じなのかシャッターを切る回数は少ない。
「ん~、イエ、今日はどうした? 慣れない人に興奮した?」
普段ならば慌てて何かしらの芸でも見せるところだが。
不思議なことに、先ほどのお預けの件に猫の身体が苛立ちを覚えていた。
簡単に言うならばへそを曲げていた。
本能率が上昇、猫扱いに苛立ちが収まらず、にゅあにゅあと自由奔放に脱走術を見せる。
猫らしくコンテナに乗り、三角コーンを蹴り飛ばしたり、飼い主が落ち着かせようと先ほど取り上げたばかりのちゅーるの袋に噛みついて苛立ちを誤魔化す。
知性を感じられない、そんな猫畜生の様子にやがてスタッフ陣営が家主の顔を伺い始める。
「おじさん、どうします? 一応時間も押してますが……」
「少し興奮されているようですね。日を改めるということも……」
「……うーん。もう少しだけ」
顎に手を当て、悩める女は目を細める。
猫とは本来気まぐれな動物なのだ。そんな簡単に猫の機嫌は直らないのだ。
理性を上回る本能に身を任せていると、簡単に女に捕まえられる。
「そうだなぁ。んじゃあ~……、まあ……、イエ」
『あん?』
女の手に持つのはスティックタイプの小袋が一つ。
「もう一本ちゅーる食べさせてあげるから、やる気だして」
『――――』
「本当はご褒美用だったんだけどね」
『――――』
「お願い」
いったい、どうして猫扱いされた程度で苛立ちを覚えたのだろうか。
脳が猫程度のサイズだからか、我慢するという行為を忘れていたらしい。
そもそも自分に選べる選択肢などあるのか。目の前の女に媚びると決めたのだ。
この生活を維持する為に、女の飼い猫として頑張ると決めたのではないのか。
へそを曲げている場合ではない。
ちゅーるを舐め、理性で本能を抑えつけると、自分はスクっと後ろ足で立ち上がる。
「おっ、立った」
「おじさん、何か言いましたか?」
「私は何も。でも、イエは賢いから。カメラさん、シャッターチャンスですよ」
自分の脳内に蠢く人間の知識から情報を検索。
このコスプレ、似たような状況から最も使えそうな情報を抽出。
安全を唄うヘルメットを着用した猫に相応しい行為の模倣を始める。
「おっ」
驚いたように女が小さく声を出す中、ゆっくりと身体を動かす。
難しいポーズも決め顔も必要ないのだ。猫らしく前足を差し出すだけ。
現場が問題ないことを確認するように。
ちょっと問題があっても多分大丈夫だろうと前足で指先確認をするように。
脳内知識でこういった状態の猫が告げるべき言葉は一つだ。
『ヨシ!』
――のちに現場猫と呼ばれるポスター写真が出来上がった。
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第七話 猫、質問される
「――今回も凄いコメント来てるな……」
辛辣な言葉や歓迎の言葉も多いSNS。
そこで注目される程、動画を視聴する登録者数の増加に繋がることを知っていた。
「今日の8時はおじさんのゲーム動画……企業さんとのコラボでおじさん加入、と」
SNSの有効性を俺は理解している。
前世、証明できるものは脳内にしかない記憶では数多の人間が賞賛を浴び、同時に炎上と呼ばれる批判を受けることもある魔境だ。
炎上商法というものもあるらしいが、長い目で見て伸びるとも思わない。
だからこそ、基本的には動画投稿時の予告といった最低限の使用に控えている。
俺自身、ゲームはそれなりに得意だ。
流石に将来発生するだろうプロレベルの人間ではないが、プレイスキルで足りない部分は外見とトークでカバーするように努力する。
モンスターを狩り、捕まえたり、鬼から逃げたりとゲーム動画も多数投稿している。
「う~ん……、ゲーム動画関係はまずまずの伸びか」
トクガワちゃんねるの登録者数の増加ペースは順調と言って良い。
この顔や身体、猫、必死に鍛えたトーク力を武器に、伸びてはいる。今後パソコンやスマホ機器を誰もが持ち、インターネット文化が広がれば更なる増加も見込めるだろう。
それこそ、1000万人達成の目標も叶う日も加速度的に近づく。
「まあ、それはそれだ」
目標を抱くのは良いが、その為には今を努力しなければ。
調子に乗ることはなく常に謙虚な姿勢でいることが大事なのだ。
頭を振って、俺は切り替える。
1000万人の登録者を迎え入れる為に、今日もカメラの電源を入れる。
「はい、いつも私が使う通販サイトから荷物が届いたので、ん……?」
届いた段ボールを手に持つと、擦り寄る猫。
最近は甘えることが多くなってきたのか、こうして脚に身体を擦り付けてくる。黒色の毛並みは艶があり、此方を見上げて小さく鳴き声を聞かせる姿は庇護欲を湧かせる。
知性を感じさせるような丸く大きな瞳に女の姿を映す、俺の飼い猫。
「んお、どうしたイエ。御主人様の美しさに惚れたか~」
にゃふ、と小さく鳴き声を聞かせる黒猫。
声を荒げる訳でもなく、不快に思うこともない鈴音の鳴き声を聞かせる。
「やっぱり猫だよな~。人間みたいに叫んだり大声を出したり裏切らないし」
カメラは止めない。
邪魔が入った程度で止めることはない。大体編集でなんとかなる。
ただ、最近は更に活動も増し、投稿する動画も多くなり、外注するかも検討中だ。
「――という訳でさっそく届きましたね。開けてみましょう」
興味津々な様子で俺の周りをぐるぐると回る猫。
撮影部屋に置き、カッターでテープを切り、段ボールを開く。
「はいはい……硬くておっきいですね~。説明書があるので組み立てます」
段ボールの中身は、猫の遊び場になる物だ。
中にある部品を繋ぎ合わせて、一つの遊具となる人気の商品。
特に語ることもなく黙々と作業をする。
動画上では早送りするだけのパートである。
それを興味深そうに座布団の上で丸まり、此方を見やる猫。
瞳を細め、ゆらゆらと尻尾を振りながら主人の組み立て作業を見届ける。
どこか堂に入ったような、新人を監視でもするかのような姿はまるで――、
「現場猫」
ぴたりと止まる尻尾の動きを気に留めず、俺は携帯端末を手に取る。
女の身体は男のように頑丈ではない。少し休憩が必要なのだと心の中で言い訳をしながら、開いたSNSで話題になっているワードに目を向ける。
#トクガワちゃんねる。
おじさんの飼い猫。
現場猫。
黄色のヘルメットを付けた猫が安全確認をしている写真が関係しているのだろう。以前の撮影動画を投稿して以来、視聴者の反応を始めとした多くの場所から反響があったのだ。
SNS上で呟かれるワードは前者二つはともかく、最後の一つは誰が思いついたのか。
「現場猫、か」
前世での記憶と見知ったワードが結びつく。
金の瞳を見開き、急に俺の身体へと走り飛びつく黒猫は全身を転がす。夏の頃より毛量が増え、もふもふの増した猫が甘えた鳴き声を発して、じゃれついてくる。
その柔らかさと甘えられていることを実感し、思わず頬が緩むのを感じながら、
「ハッハッハ……やれやれ。最近、こんな風に甘えてくるんですよね~、モフモフ~」
あざとさの塊のような、黒と白の毛玉が俺の身体をくすぐる。
顔に白い指先を近づけると、小さな鼻が指の腹に擦り付けられる。
「かわいいな~」
きゅうんと鳴くイエは俺の膝の上で撫でろとばかりに腹部を見せる。
それならばと、腹部の白い毛並を指で通しながら俺は呟く。
「お前が現場猫だったとはな」
いったい何のことだと小首を傾げる黒猫が指先を甘噛みする。
前世の記憶といっても、そこまで役立つ知識がある訳ではないのだ。
現場猫と呼ばれる画像は見たことがある。
黄色のヘルメットを被った猫が安全確認をしている絵が人気であることしか覚えていない。
ネット上で人気があった誰かが描いた猫の絵といった程度の認識だ。
「ビットコインとかアップルとか……、そういうのは覚えていたのにな……」
誰もが一度は想像するだろう。
もしも、未来の知識を持ったまま時間を遡れたら。俗物的な俺にとっては、やはり取り敢えず大金を得る為の方法を模索する、そういう妄想に耽ることはある。
本来はそれを誰かに話して一笑に付され、心に傷を負って生きていくのだろうが、
「現実になっちゃったよ」
事実は小説よりも奇なり。
こんな美しい女の身体で動画配信者になるとは思わなかった。
だから、という訳でもないが持ち込んだ記憶は有名な出来事や金稼ぎ関係が多い。
幸いにも、前世の記憶の世界との差異をあまり感じさせない世界でこれらは有効だった。ただ、その有効性も俺が大なり小なり行動したことで変わったのだろう。
「もしかしたら本来のお前の主人があんなポーズをするように仕込んだのか……」
おじさんの飼い猫であるイエも本来ならば他の誰かに飼われたのだろう。
そうして紆余曲折の果てに、あの不思議なポーズがこの世界でも話題になる筈だった。
「どちらにしてもお前が元ネタってことだろう。あんなに賢いんだし、そうなんだろう?」
事実関係が曖昧だからこそ、推測に近い。
だが、考える度にそうに違いないという思いが強まる。
俺の脳内にある記憶と、あそこまで合致した動きをする訳がないのだ。
「でなきゃ……」
いったい、他になんだというのか。
飼い主である女の妄言に付き合い、自分は寝たふりをしていた。
肉球を触られ、尻尾を触られ、毛並みを触られ、最後にカメラでその姿を撮られる。
「魂が抜けてるね~」
どこか慣れた手つきに目を閉じて人形のように扱われながら。
髪型をハーフアップにした黒髪の女の言葉の意味を自分は考える。
『自分、また何かしちゃいましたか?』
ここ最近の擦り寄りやモフモフ偽装でもかき消せない、女の懐疑的な目。
恐らく自分の脳内にある人間の知識から模索した現場猫の真似が原因か。
何か疑われるような真似をした覚えはない。
あの撮影現場で同じ状況になったら同じことをするだろう。
飼い主の反応的に間違いなく大成功したのだ。それで良いではないか。
『元ネタってなんのこっちゃ』
丁寧に毛布まで掛けられた座布団の上からでも自分の姿が見える。
何かの企画で使ったのだろう、大きな姿見は愛玩動物を、猫を映し出している。
飼い主の告げる現場猫は、自分のことではない。
あくまで自分の知識から検索したものを模倣しただけなのだ。
そのあたりを女は何か妙な誤解しているかもしれないが、
『……まあ、いいか!』
あれこれと考えても仕方がない。今後も捨てられないように努力するだけだ。
なによりも、多少脳内の知識を使ったところで、普通に考えて思い至る筈がない。
――自分の脳に人間の知識が搭載されているなど。
「はい、出来ました! テッテレーン!」
気が付くと段ボールの中身を組み立てていた女がいなかった。
いったいどこへと、周囲を見渡すと窓際に先ほどまで無かった建造物があった。
『キャットタワー……?』
鼻腔をくすぐるのはヒノキの香りか。
木肌の温かい支柱と台座となるクッションがいくつも積み重なり、ところどころに穴が開けられている。中腹付近と頂上に箱のようなスペースは猫の隠れ家なのか。
「はい! なんと! おじさんの家にもキャットタワーが届きました~……イエだけに」
『ん?』
「イエと出会って半年。ハーフアニバーサリー記念ということで買いました! 拍手!」
わざわざ自分の身体を抱き上げる女が窓際の猫タワーに連れていく。
遊ぶ画を撮りたいのだろう、支柱に備え付けらえた爪とぎが細かな配慮を感じさせる。
「これ、爪研いでも全然大丈夫、ほら! ほらぁ!!」
『はいはい、おかげでピカピカですよ』
猫の真似だろう、にゃんにゃんと自らの手で爪を研ぐ振りをするいい年した女から目を背け、一段一段、クッションや登ることを想定した穴を潜り上階を目指す。
ジャングルジムの猫版ともいえるこの場所を進む度に興奮に鼓動が高鳴る。
スルスルと登り最上階。
設置されたハンモックや高台よりも高い場所に到達する。
『おっ、マスターより高いですね……』
「は~、あっという間でしたね。俺の猫素早すぎぃ!」
見下ろした絶景とも呼ぶべき光景。
久方ぶりに人間の視点になったかのような、広々としたリビングや撮影部屋、キッチン、廊下へと続く扉が見える。カーテンの隙間から覗く数多の摩天楼は輝かしいが女の美貌には負ける。
絶世の美女、端正な顔は見上げることはともかく、こうして見下ろすことなど無かった。
『ありがとうございます、マスター』
半年以上も共に寝食を共にした仲なのだ。
女の性格もある程度は理解でき、捨てられる可能性は以前よりも低くなったかもしれない。
『ほっ』
「う゛っ……! あは……重くなったな」
服越しに豊かさを伝える双丘へとジャンプする。
ふわりと1秒程度の落下と同時に、呻き声と共にむにゅりと胸元で受け止められる。苦笑と共に自分の無邪気さを許す女の態度に、何度かタワーを登っては飛び込む。
猫でなければ楽しめない瞬間だった。
女の身体の柔らかさだけではない。高い所から女に飛び込むのが最高なのだ。
「あっ、そうだ!」
撮影の最中なのだろう。
五度目のルパンダイブを決めた後、女が声を上げ、自分を床に降ろす。
ラフなハーフパンツ、そのポケットから紙を取り出す。
紙は二枚、〇と×が大きく書かれたそれを床に置く彼女に目を向ける。
唐突な質問だった。
「イエ、お前人間だろ?」
『――ぁ?』
人間の言葉を発せなくて良かった。
高鳴る鼓動に思わず何か致命的な言葉を発しかねなかったから。
女の意図を探る前に、強張る自分がリアクションする前に、薄い唇が言葉を紡ぐ。
「〇がはい、いいえなら×を叩いてね~。……イエ、お前は人間か~……?」
『――――』
急展開に白く染まりつつある脳を回す。
バレたのか、と思いつつも声音には揶揄いが込められていることに気が付く。
周囲を見渡し設置されたカメラを見つける。電源は点けられていた。
撮影されているということはいずれ編集されて世に回る。
以前、女が告げていた猫動画の一環、いつも通りの撮影だろう。
ならば簡単だ。
猫らしく、いつも通りに、行動すれば良い。
自分は躊躇うことなく×と書かれた紙を叩いた。
念のため、そのまま足元に擦り寄り、モフモフされるべく腹部を差し出す。
「なんだ猫か」
『ほら、モフっておけよ』
「モフモフ~」
猫以外の何に見えるというのだろうか。不思議である。
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第八話 猫、せめてねこらしく
「ハロハロチューブ、どうもおじさんです。……今日はですね、おじさんが辛い物が好きだということで~、SNSで話題沸騰中のダブルデスバーガーを食べたいと思います!」
今日も今日とて女は配信に命を注ぎ、現在進行形で寿命を削ろうとしている。
猫の嗅覚でもアレは不味いだろうというのが分かる赤色に染まったバーガーを食そうとしている女。二人だけではあるが一家の稼ぎ頭の胃袋を考えると飼い猫として止めるべきか。
新品臭が抜け切れていないキャットタワー。
視聴者の要望により、撮影部屋で女が撮るカメラに収まるように移動した猫タワーの頂上から、自分は彼女の後頭部とそれなりに遠くであろうと強烈な匂いを感じさせる刺激物に目を向ける。
人間の知識でのハンバーガーはジャンクな味であることを記憶している。
女に可愛くおねだりをして、ちゅーるやカリカリを始めとして肉や魚、果物と人間に近い物を食べるが、流石にハンバーガーは猫の身体には合わないだろう。
黒髪の女もそれを理解しているのか包まれたそれを自分に近づけようとはしない。
「SNSとか見ていると食べきれなかったとか阿鼻叫喚らしいですね~。まあ? おじさんはね、結構カレーとか食べる人だからね。専門の店で3辛とか食べれちゃう人だから余裕だぜ~」
牛乳の入ったマグカップをテーブルに、笑顔をカメラに。
フラグ構築に励み、舌を虐めようとする動画撮影をする女を遠目に見つめる。
「それにしても辛いバーガーをあの企業さんが出すのは初めてで……楽しみです!」
「海外で今凄い人気らしくて、食べるのに同意書が必要と聞いて、おじさん書いちゃった」
「まあ、でもおじさんなら余裕でしょう。お残しは許しまへんで~」
いつもの撮影部屋。
カメラの黒レンズに愛想を振りまく女のそれは案件ではない。
SNS上で人気だから、せっかくなので購入、ついでに動画にしようというものだ。
台本も何もない、軽快なトークは聞いていて飽きない。
「いただきま~す。……なんだ、意外と……ぉ、ぅ、っ、っ!?」
やや大袈裟に見えるリアクションだが辛いのは事実なのだろう。
あまりの辛さに神経の伝達が遅れたのか、ほにょりと緩んだ頬を硬直させ、端麗な顔を歪める女が大きな瞳に涙を浮かべていく。
だが吐くことはせず、ゆっくりと嚥下し喉を鳴らす様をタワーから見届ける。
「ぅ……ぅ……」
『救急車呼ぶ?』
「おいしー!」
雪肌に汗を浮かべ始め、熱い吐息を漏らす女は遠目に見るだけなら艶やかだ。
否定的な表現は行わずどういった美味しさか、身体や顔で表現する女は黒髪を揺らす。
食べて、レビュー、食べて、レビュー。
プロ根性を見せる彼女は語りつくした後、汗ばむ姿で締めに入る。
「……うん。じゃあ、まあ、皆は一段階下のちょっと辛めの方が良いと思うよ~。またな!」
撮影終了。カメラの電源を切る女がふうっと溜息。
如何に辛いのかを語っていたが捨てるということはせず、黙々と食べる彼女は汗だくだ。
「あっちぃ……。牛乳無かったらヤバかったな」
完食、本日の彼女の昼飯となった。
女が食べ終わるのを見届けながら、俺は耳を澄ませる。
人間よりも鍛えられた耳が捉えるのは、窓越しに聞こえる雨音だ。
曇天から降り注ぐ雨水がアスファルトを黒く染め、窓ガラスを濡らす。キャットタワーに備え付けのハンモックに寝転がりながら、自分は女の姿をぼんやりと見届ける。
彼女からの謎の質問を受けて、数日が経過していた。
簡単な二択だと思って選択した、それが間違いだと自分は気づかされた。
「ほら、イエ。見ろよ。もう300万再生されたぞ! 300万!」
『マジかよ……』
女に抱きしめられてパソコンの前で動画を見る。
キャットタワーから女の豊かさを主張する双丘に飛び込む黒猫。
その目の前に置かれる〇と×が記載された紙を逡巡の末に叩いている動画。
『イエ、人間説②』という動画での可愛らしい黒猫の行動にコメント欄が賛否両論の嵐だった。偶然だというコメントも、人間の転生説など核心に迫るコメントが並んでいた。
殆どは冗談交じりの内容だが、一部は人間なのではと思い込んでいそうなコメントもある。
「なあ、イエ? お前は人間なのか?」
『ねこです』
自分の両脚を人形のように振り、頭を撫でて、女は楽しそうに笑う。
愛玩動物に癒されているように頬を緩める彼女を見上げるも、その端正な顔からは自分が人間ではないのかという確信を抱いているようには見えない。
それでも何を考えているのか分からない以上、念には念をと思考を深める。
「おっ、走ってる走ってる」
『ねこですから』
考え事をするならば動きながらが良い。
カラカラとキャットホイールを走りながら食べた分のカロリーを消費する様を撮影される。
女の職業病には慣れたもので、カメラ目線にならないように注意が必要だ。
『ふっ……ふぅ……!』
「気に入ってくれて俺は嬉しいよ。凄い売れ行きも好調らしいし」
そもそもこの愛くるしいハードの中身が人間など誰が解るものだろうか。
創作ならばあり得るだろうが、現実にいる人間が真面目にそんなことを考えるだろうか。
人間の真似をする、少し賢い飼い猫と考えるのが普通だ。
『まあ、大丈夫だろう』
あの質問での失態は偶然だ。何度もすることは無いだろう。
人間らしい姿を見せない、猫らしい姿をしばらく見せるだけで誤魔化せるだろう。可愛らしい鳴き声を聞かせて、毛並みを触らせるだけで人間など簡単に騙せるのだから。
不気味がられて捨てられないように、猫らしくありたい。
そう心に決めること一週間ほどが経過した。
『ねこです』
「わっ、わぁ! ……お手、とかしてくれるかな」
『よろしくおねがいします』
「おおっ……!! 凄い! 賢い! ちょっと人間みたく立ってみてくれる?」
「可愛い!」
『あなたがね』
白髪や金髪、茶髪といったおじさん御用達のスタッフが訪れた時には積極的に媚びを売った。おじさんを自称する黒髪の女が選んだ美しい女たちは猫が好きなようだった。
毛並みを触らせ、脚に擦りつき、猫であることを主張する度に何故かちゅーるをくれた。
そんな風にスタッフに向けて猫アピールをしていると飼い主に捕まる。
「美味しかったか?」
『格別な味だ』
「ホンダさんもサカイさんたちも皆して俺の猫に餌付けしようとしやがって……でも、キミは食べたら運動するから全然太らなくていいな」
『ねこだからね』
撮影の合間、時間のある時には誰よりも主人と触れ合う。
スキンシップ、肌と肌の触れ合いから少しでも愛着を持たせ、猫らしさを見せる。
健康的な白い腿に身体を預け、弛緩した身体を動画配信者が撫でながら動画撮影を行う。
「ではまた会いましょう。バ~イ!」
少し迷走気味な締めの台詞を放つ女。
カメラの電源を停止し、自分をソファに置くと立ち上がる。
何気なく壁に掛けられた高級時計に目を向ける。
ある程度決められた時間帯に飼い主は浴室に向かう、その時間帯だった。
――ここで唐突だが、飼い主のいるマンションについて少し説明しよう。
自分と彼女が住まうとあるマンションの最上階。
部屋は広い。明らかに一人と一匹が住むような空間ではない。
シャワー音を遠くから聞こえる女は家政婦といった人間を雇い入れようとはしない。掃除は空いた時間に行い、基本的に撮影、動画投稿、配信を優先する職業病だ。
レビューの為の物品はネットで購入し、当然必要のない段ボールが増える。
「――! ……!!」
登録者数の伸びが順調なのか、或いは同業者が炎上したのか。
機嫌が良さそうに浴室でアニソンを全力で熱唱している主のいない室内は綺麗とは言い難い。耳を傾けざるを得ない、そんな女の美声に耳を動かしながら周囲を見渡す。
比較的綺麗な撮影部屋には埃や、長い髪の毛、猫のものと思わしき毛が所々に落ちている。
けっして、主の株を下げるつもりはないのだ。
半年以上の同居、彼女がそれなりに綺麗好きであるのも知っている。
ただそれ以上に実情を知り、個人的に将来なりたくないランキング一位である動画配信者という仕事に魂を売っている人物の部屋が多少汚れるのは必然なのだ。
つまり――、
「きゃぁぁああっ!!?」
絹を裂いたような悲鳴に文字通り跳ね上がる。
強姦魔か強盗、窓の無い浴室で起きたあらゆる可能性を模索する。
声の方角、女の金切り声に脱衣所へと駆け走る。
全身でタックルすれば押し開けられるだろう半透明な扉が開かれる。
白い肌、バスタオルすら巻かれていない女の裸体。
くびれた腰、豊かな胸から顔へと見上げると幽霊に遭遇したかのような青白い顔。
自らが幽霊になったような女は床に滴を滴らせることも気にせず、叫ぶ。
「キンチョール!!」
自分はイエと名付けられた。
決して家庭用殺虫剤に改名したつもりはない。
「どこに置いたっけ? ヤバい! ヤバッ、出たっ、出るぅ!!」
語彙力を捨て、逃走力を増した女。
その背後、それを見た瞬間、自分に備わったキャットセンスが悲鳴を上げた。
『――――』
虫。黒い虫。
餌を求めて来たソレを、世界はゴキブリと呼ぶ。
黒光りしたカブトムシに近い形状を目にして思わず絶句する。
子供の頃は残酷にトンボの羽をむしり、蟻を踏みつぶし、幼虫を見て笑っていたのに、いったいどうして大人になると虫に触れることすら恐れを抱いてしまうのだろうか。
ぐちゃぐちゃのスパゲッティのように混乱する思考を余所に、思わず一歩後ずさる。
「たしかここら辺に……! なんでっ、ないんだよッッ!!!」
背後の撮影部屋で全裸の女が殺虫剤の紛失に声を荒げる。
女が武器を見つける前に、黒い虫が部屋の床を蹂躙するのが早いか。
「なんでえッッ!!」
以前にも虫はいたらしい。
だが、その時は昼間で男前な女スタッフと一緒に駆除したらしい。
その経験を活かし、きっと彼女なら全裸だろうと退治してくれるだろう。
『自分は奴を見張るだけでヨシ! マスターがなんとかしてくれるでしょう』
普通の猫なら退治して、獲物を家主に見せるかもしれない。
ただ、自分本位で申し訳なく思うのだが、そこまでして猫アピールをしたいとは思わない。そもそもあんな黒光りする物に対して積極的に触りたい訳がないのだ。
だからこそ、必然的に全裸の女の到着、文明の利器の出番を今か今かと待ち続け、
「おっ。あったけど、空じゃん……」
『は……?』
その絶望的な呟きを耳が拾った瞬間だった。
一瞬気が緩んだのか、身体が勝手に動いた。
『へ』
気が付くと自分の立ち位置が少し変わっていた。
瞬きの合間に、瞬間移動でもしたかのように虫のいた位置に自分はいた。
呆然とする自分に、右脚の、肉球に感じる感触に、ゆっくりと記憶が追い付いてくる。
電光石火の如き一撃。
一瞬の跳躍、無駄のない右脚での振り下ろし。
黒い虫という敵を前に、本能が身体を乗っ取ったようだ。
どうしても敵を仕留めたかったらしい。
『うわぁぁああっ!?』
何が猫らしくだ。馬鹿か。
一秒でも早く右脚に伝わる気持ち悪さを拭うべく、行動するのは当然だろう。
せめて、床に被害を増やさないように三本脚でティッシュ箱を目指すのは優しさだ。
『うぇぇ……』
箱から伸びる白い紙を口で引っ張り、右脚を叩きつける。
ポンと黒い肉球の痕が出来たが、気にすることなく擦り付けるのは仕方のないことだ。必死にティッシュ紙に不快な感触が無くなるまで右脚を擦り続けるのは当然だろう。
「イエ?」
声に振り返ると裸の女がいた。
白い肌を見せ、覚悟を決めたのか手には新聞を丸めた物が。
ふらふらと自分を見て、床に潰れた敵の残骸を見つけ、最終的に自分の右脚へ。
「おっ、仕留めたんだ。やるじゃ~ん」
『でしょ~?』
「あれ? このティッシュは……」
『モフモフだよ、ほら。いいからモフれよ』
結果はともかく、せめて猫らしくあろうとする。
そういう姿勢や努力が最も大事なのだと自分は思うのだ。
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第九話 猫、飼い主と新年を迎える
――猫の朝は遅い。
ふかふかのベッドから家主が起床する気配に身体を起こし、編集部屋か外での撮影の為にどこかへ出かける姿を見送った後に二度寝する。キチンと起きるのはいつも朝の7時頃になる。
早朝の自宅警備の為に家中を歩き回り、満足すると用意された朝食を食べる。
頑なに家政婦を家に入れようとしない為、主が出掛ける時は食事が多めに皿に置かれている。
『飯ウマ~』
猫の舌に合わせた食事は意外と美味だ。
給食のような、毎日食べていても飽きない味というべきか。
朝は主が籠るか不在の為、昼頃まで一匹で過ごすことが多い。
食事や寝床を用意して貰っている以上、不満はない。自分の中身は本能と人間の知識といったハイブリッドな構成をしている以上問題は無いが、普通の猫ならストレスを感じて鳴きそうだ。
『いや、自分はプライベートな時間って大事だと思うんですよ』
繰り返すが、猫初心者の主に対して不満はない。
少なくともカメラも、誰の目もない、自由な時間を大事に感じている。
誰の目も気にする必要のない自由時間だ。
この時間は体型維持の為に走るか、飼い主や画面の先にいる誰かが喜びそうな芸の練習を行う。主が外出中でカメラが設置されていない場合は家のテレビで情報収集を行う。
『今年も今日で終わりですね』
『この年になると1年というのは本当にあっという間なんですよ~』
『大晦日といったら何を視聴しますか?』
『――――! ……!』
年が、自分と女が出会った年が終わりを迎えようとしていた。
隔離され情報の流入が少ない以上、ここがどのような世界かは分からないが少なくとも季節が巡るという脳内の常識が変わらないことを確認出来た。
窓に目を向けると積もる程ではないが、存在を主張するように雪が舞い降りる。
猫はこたつで丸くなるという言葉がある。
この家にはこたつという物はないが、優しく美しい家主がイエが凍えて死なないようにと暖房を効かせてくれた。
家主である美女に感謝しながら情報取得を続けるも、特に面白みはなく電源を消す。
――――。
――。
「お、起きた~」
『……おはようございます、マスター』
いつの間にか女が帰宅するまで眠っていたらしい。
主が脱ぎ捨てていたシャツを寝床に丸まっていた自分をカメラに収める姿は正しく飼い主だった。その背後にいるのはストレスで白髪になったホンダという女スタッフ。
「イエさん、こんにちは」
『気安く呼ぶなよ』
「ぁ……! ぃぃ……」
おずおずと差し出される掌に頭を押し付ける簡単なお仕事。
それで笑みを浮かべる妙齢の女の姿を見送り、彼女たちの仕事を見守る。
「よくもまあ、ここまで汚く出来ますね。そこまでおじさんじゃなくても良いと思うのですが」
「今、おじさんを馬鹿にしたな? ところで自宅を掃除してみたって動画って需要ある?」
「ないです。それよりゴ……アレが出ると聞いたので会議は掃除しながらにしましょう」
「おっとー? おじさんの心にダメージが。謝れ! 500万人の視聴者を誇るおじさんに!」
「もうすぐ600万人到達に向けたブースト企画の為にも掃除しろって言ってんの!! 人来るんですよ! コラボに! 余所の動画配信者が! こんなおじさんの家が汚部屋なんて幻滅以外の何だというんですか! SNSに晒されますよ!」
「……は、はい」
残念だが自分は猫だ。
このクリームパンのような愛らしい手ではゴミ袋も掴めない。
咥えることなら可能だろうが、わざわざ人間アピールをするつもりはない。
どのみち賢さは露呈し始めているのだ。
愛嬌とモフモフで誤魔化せる限度を超えつつある中で、人間ではないけれど凄く頭の良い優秀な猫というポジションを獲得する為にも猫らしく寝転がりながら掃除を見守るしかない。
へそを天井に見せて寝転がり、耳だけで彼女たちを追う自分に、家主が一言呟く。
「生まれ変わったらおじさんも猫になりたい」
「……それよりもルンバ購入の動画、高評価でしたね」
妄言を語る家主と黙々と自宅の掃除を手伝うスタッフ。
以前、自分とおじさんが遭遇した黒い虫との戦い後、急遽ネットで頼んだ品物がルンバだった。
ゴミを吸引し、床を拭き、段差を乗り越え、自動帰還するという最新技術がこれでもかと注ぎ込まれた自動掃除機器を女が購入し、レビューを行った。
「まさか、イエさんがルンバに乗るなんて」
「――、イエは賢いからね~」
「あれから乗ったりはされたんですか?」
「いや、中々乗ろうとはしないね」
「また見たいですね」
『――――』
自分の記憶の中で猫のイメージにルンバに乗った猫という物が該当したことがある。
理由は不明だが、珍しさもあって思わず何度か見直す程度には人気があった。
だから脳裏を過ぎったソレを模倣しただけに過ぎない。
お手や後ろ足で立ち上がる訳ではない。
ただルンバに乗るだけ、大した労力でもない行為で再生数は生まれるのだ。
芸とは乞われてするものではない。
主を飽きさせない為に、芸を披露する頻度は少なくしているのだが、
『……仕方ないな』
「おっ?」
ちょうどルンバの起動時間だ。
黒を基調とした丸い機械が部屋の隅で目を覚まし、静かに床掃除を始める。埃や髪の毛、猫の毛など黒い虫を呼ぶ要因を吸い取っていく。
この機械を導入したことであの害虫と遭遇しなくなったのは喜ばしい。
「おおっ!」
歓喜の声を上げる女たち。
ルンバに乗り移動する様を見せると、スマホを取り出す姿にあざとく小首を傾げる。
『あれ? 自分、また何かしちゃいましたか?』
「かわいい~」
こんなことで喜ぶのなら他の猫も行えば良いのに。
そう思いながら、自分は彼女たちが部屋を綺麗にしていく様をルンバ上で見届けた。
「部屋ってこんなに綺麗になるんだ~」
しみじみと飼い主が頷く部屋は空気すら美味しく思える。
掃除を終えてトクガワちゃんねるの今後の企画などの会議を自分は聞いていた。チャンネル登録者数600万人に迫ろうとするおじさんに触発されて動画投稿市場は活性化しているらしい。
登録者100万人を超える逸材も増え始め、コラボも考えているとのこと。
「まあ、正月用の動画も撮りましたから明日くらいは休んで下さい」
「そうですね。手伝ってくれてありがとうございました」
「スタッフですので」
「ではそんなスタッフにおじさん鍋を御馳走」
自分の知識にある大晦日もこの世界には存在するらしい。
白髪の女も黒髪の女も大晦日? 今日も仕事してきましたが、といった感じで鍋の準備をしていた。何を考えたのかテーブルに自分の食事用の皿を置く飼い主が片目を瞑る。
「今日は特別だぞ」
「イエさんは私よりも良い物食べてますね」
食器にはカリカリだけではなくほたて貝柱やマグロ、ささみ肉、果物とふんだんに盛り付けされている。食事で主に対する忠誠度は買えるのだ。当然お手も笑顔で応える。
お手をした筈の前脚を女に握られて握手することになっても気にせず食事を行う。
「凄いコリコリ言ってる……」
「イエは賢いから基本的に溢したり、床に置いて食べたりしないんですよ」
「猫ってこんなに賢い生き物なんですねぇ」
テーブルに置かれた食器の為に、後ろ脚を立てて食べる。
人間と同じ場所で食べて欲しいらしく、溢さないようにほたて貝柱を食べる自分を見る飼い主たちの目が優しい。
「――――!」
「――! ……!!」
食事は日々の活力だ。
楽しそうに食事をする美女たちの声音に耳を澄ましながらも、舌を肥えさせる。食べた分は出来るだけ運動するようにしているのだが、自分を太らせようという意思を感じなくもない。
猫は太っているのが良いのか、スリムな方が喜ばしいのか。飼い主の意向次第でデブ猫への移行も検討せざるを得ないが彼女がそういった希望を口にしたことを見たことはない。
黙々と味わって食べている自分に触発されたのか。
彼女たちも仕事の話や雑談をそこそこに鍋の中身を胃袋に収めていく。
「鍋の締めはうどんですね~」
「ですね。……トクガワさん、もうすぐ日が変わりますよ?」
「マジ? 本当じゃん」
暖房の効いた深夜のマンション最上階。
邪魔する者は何もなく、カーテンの隙間から覗く白い雪が窓に張り付く。
「じゃあ、今年最後の撮影しよっか」
ハーフアップの黒髪を揺らす女の一声で動画投稿の準備が始まる。
自らを抱きかかえる女が撮影部屋の中心に立つ。白髪の女がカメラを手に取り無言で構える姿は経験豊富なのか様になっている。
そして自分はぬいぐるみのように抱えられる、それだけの簡単な仕事だ。
「15秒だけ本気だす」
『お、おう』
飼い主の言葉を合図に撮影が始まる。
「はい、どうも~おじさんです! 今ね、新年始まるまで15秒前です!」
「やっぱり新年を迎えるなら、大地とはおさらばするべきだと思います!」
何がやっぱりなのか。
15秒動画の撮影は自分の些細な疑問を吹き飛ばす。
「じゃあ、行きますよ! 3……2……1」
ぐっと自分を抱える腕に力が籠る。
内臓を圧迫しないように、ガラス細工に触れるように、猫を抱えた女が床を飛ぶ。
ふわりと身体が浮くのを感じながら自分と彼女は年を越した。
「新年あけましておめでとうございます! チャンネル登録よろしく!」
「……はい、投稿しました。英訳付きです」
「ヨシ! 多分今年最速投稿! 解散! うどん!」
「伸びました」
「ヨシ!」
麺が汁を吸った程度で食事を捨てる女はこの家にはいない。
伸びたうどん鍋に卵や諸々を落とし、思い出したように餅の袋を取り出す飼い主。
「イエ! 餅! アハハ!」
『笑う要素ある?』
圧倒的に金持ちの女にも関わらずスーパーの缶酒を好む女。
仕事を忘れて楽しそうに料理を突く彼女たちの無防備な姿を見られるのは、世界中で今日の自分だけなのだと思うと感慨深さに頬を緩めた。
気分も良いので暖を取るように女の膝元で丸くなると、そっと撫でられる。
「イエ」
『はい?』
「今年もよろしく」
『よろしくお願いします』
――猫の夜は、飼い主共々に遅い。
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第十話 猫、飼い主にのる
年が明けたが、特に何かが変わった訳ではない。
身体の毛量が僅かに増えた程度で、窓から覗く外は相変わらず雪景色が広がる。
春の訪れは遠く、雪解けの気配すら見えない。
曇天から降り注ぐ粉雪がときおり思い出したようにぺたりと窓に張り付く。
「さむ~」
そびえ立つ摩天楼を見下ろす自分を腕の中に抱く女は相も変わらず忙しそうだ。
だからと言ってぬいぐるみのように抱かれるのはと、腕の中から離れてソファに寝転ぶ。
「へそ天じゃ~ん」
『は?』
いったい何を言っているのかと思ったが、数秒後に意味を理解する。
自らの腹部を天井に向けて寝転がっている状態のことを指すのだと気づき、うつ伏せになろうかと考えたがここで体勢を変えるとまるで飼い主の言葉を理解していると思われかねない。
自分は猫だ。誰がなんと言おうとも猫なのだ。
「むふふ……」
思考に耽る自分を見下ろすのは、黒髪ハーフアップの美女だ。
美少女にも美女にも見える容姿端麗な女は、病院に連れていきたくなるような笑みを浮かべる。
いったい何をするつもりなのか。
前脚と後ろ脚を広げて全てを見せつける自分にジリジリと彼女は迫りくる。
膝をソファに沈ませ、続いてスタイルの良い身体も沈めて腹這いになると自分の腹付近に女の顔が近づき、その瞳と見つめ合う。
これだけの至近距離で見つめられたらそれだけで堕ちる男もいるのではないのか。
「イエはふわふわだの~」
『マスターがしょっちゅう撫でるからですよ』
鼻を指の腹が触れ、腹部の毛を指が梳く。
ガラス細工を扱うような手つきと甘えた声音に身体が自然と弛緩し目を閉じる。
このまま眠ることが出来たのならばどれだけ良いのかと――、
『お』
「……」
ふと腹部に感じる違和感、肌を吸われているような感触に思わず目を向ける。
純白の毛を覗かせる腹部に女が顔を埋めて深呼吸している姿に思わず暴れようとするが、
「すー……はー……」
極上の枕にうつ伏せになり眠るように、彼女は顔面を自分の腹部に沈める。
女の狙いに気付くも、暴れることを予感していたのだろう、女はその両手でぎゅっと自分の身体を押さえて呼吸を続ける。所詮は猫、人間に押さえられるとどうにもならない。
猫吸い、そういう言葉があるらしいが意味が分からない。
だが、どうしてそこまでして猫の身体に顔を埋めて呼吸をしたいのか。
モフモフに触りたいということなら分かる。ただ顔を埋めて呼吸をするということに関して、どうしても病気にならないかと衛生面のことが頭を過ぎるのだ。
彼女らとてそういったリスクを承知のうえなのかもしれない。
ただ脳に渦巻く人間の知識を利用しても、猫飼いの考えを理解出来るとは思えない。
『病気になるから止めていただけますか?』
「あと5秒だけ……」
『うへぇ』
天井の染みすらない、白い天井を見ながら女に告げる。
無論、言語化されていない鳴き声になるのだが、爪をそっと頬に宛がうと彼女は理解したのか顔を上げ、同時にそっと自分の拘束を解いた。
猫吸いをされ感じる違和感を取り除く為、本能が腹部のグルーミングを推奨し、従う。
「そんな顔して嫌がらなくても」
ペロペロと飼い主の痕跡を身体から消す行為を悲しそうに見る女を自分は無視した。
容姿端麗な美女であろうともされて嫌なことはある。これが自称ではないおじさんだったら噛みついていたかもしれない。
よほど愉快な顔をしていたのだろうか、カメラを近づける彼女に顔を向ける。
「ヨシ、……猫チャージしたから、午後も頑張ろう」
カメラに声が入らないように小さく笑う女はそのまま立ち上がる。
明るめのニットセーターを着た美女はカメラを止めると鈴音のような笑い声を聞かせながら編集部屋に足を向けた。
その後ろ姿を自分は無言のまま追いかける。
自分という猫の賢さを知ったからか、彼女は部屋の制限を解除した。
玄関部分には仕切りを立てたが撮影部屋と寝室以外の場所も自由に行動出来るようになった。自分が大人しく無意味に暴れたり無駄に鳴いたりしない姿を評価したのだろう。
「こんなに賢いなら、もっと早く猫を飼っておけば良かった」
あるいは撮影中に猫が介入するというハプニングを演出したいのか。
自分を見て呟く彼女の思惑はともかく、編集部屋も猫一匹分だけ入れるように扉が僅かに開かれたままだ。
「入ってきて良いからね~。――さて」
喉の調子を確かめながら女は編集部屋にある複数のパソコンの一つを起動する。
女の言葉に、しかし部屋に入るかどうか悩みながら頭を半分だけ覗かせて様子を見る。
「はい、こんにちは! 予告通り今日はおじさんワールドで配信するぜ!」
おじさんを自称する女の動画配信はおおよそ現実での商品レビュー動画や、○○をしてみたといったものから、ゲームの実況動画などまで幅広く行っている。
企業案件などもあるらしいが、どれも丁寧に対応を行い、高評価の物が多いらしい。
「作ってあそぼ~」
どこかで聞いたことのあるようなフレーズを口ずさみ、雑談と共にパソコンゲームを行う女。
猫になってからゲームをしたことはない。特にプレイしたいと思ったこともないが、楽しそうにゲームをしている彼女を見ている時間は意外と悪くはなかった。
「――、それで……」
チラリと扉から顔だけ見せる自分に目を向けた女。
その大きな瞳に過らせた感情を読み取る前に瞬きと共に消すと明るい口調でゲームを進める。
『……ねこが失礼します』
自分がギリギリ通れるかどうかに開かれたドア。
そこを通ると、高そうなパソコンのディスプレイに顔を向け、ゲームをする主に近づく。
「おっ、ナイス~。奴を狩ってくれたんですね! ありがとうございます!」
作って遊ぼうというフレーズ通りのゲームを女は遊んでいた。
剣と魔法、銃や魔獣を捕まえるといった、この世界で人気のゲームを楽しんできた彼女は、遂に世界を作る側に回ったのだろう、他のプレイヤーと共に町を作っているようだった。
『――――』
「これで城も完成ですね! やりましたねぇ!」
床に伏せて画面を見上げる。
動画配信の最中なのだろう、画面の端の方で女の顔やコメントが映っている。猫が訪れて背後にいることを指摘するコメントもあり、僅かに女の口端を上がるのを自分は見逃さなかった。
「あっ!」
少し女の掌の上で踊っている感覚はともかく、それが飯のタネなのだからと理解して猫らしく床で丸まろうとすると女が声を上げた。
顔を上げると、パソコンの画面では先ほどまでの平和そうな面影はなくなっていた。
「空襲だ!」
世の中には成功者の脚を引っ張りたがる人間がいる。
楽しそうにしている姿が気に入らなかったのか、あるいは愉快犯なのか、画面の中の街は爆発物や火事によってあっという間に壊滅的な被害を受けていた。
「俺の街が! え、炎上してるよぉ……!」
作るのは難しく、壊すのは如何に容易いことなのか。
それはきっと飼い主と愛玩動物の間にも言えるのだろう。作り上げた絆とて、何かしらの要因であっけなく崩れ去ってしまう。作り上げた町の滅びゆく姿を自分はそんな風に受け取った。
「ぅぅぅ……こんな、ことって」
神回だとか、草だとか人の心を感じない鬼のようなコメント欄。
自らの街があっという間に蹂躙される様を呆然と見届けるしかない女に歩み寄る。
グッと脚に力を入れて、一息に女の肩へとジャンプする。
「ふわっ!? ……い、イエ?」
女の肩に飛び乗り首の後ろに回り込むようにして座る。
飼い主に乗った光景は絶景という程ではないが、人間の視点を味わえる。
「慰めてくれるのかい? というか、こんなの初めて……」
『……ほら、モフれよ』
「もふもふ~」
パソコンの画面に映る煌びやかな町は既に廃墟だった。
自分と女の関係がそんな風にならないように、こうして少しでも女の心の隙間に自分を捻じ込む。同情3割、残りは全て打算的な物だが、女は喜んで頬を自分の毛並に擦り付けた。
『いくらでもモフモフしていいから、自分のことは捨てないで下さいね、マスター』
「……ん。はい、じゃあ皆さん。今回はキリが良いということでチャンネル登録と高評価よろしく! ゲームの方はバックアップを取っているのでご心配なく! ではまた!」
『は?』
「いたっ!」
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