香霖堂と私 (ノノクジラ)
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<第一話> 新たな世界と私

 

 『はたして、妖怪はこの世に存在するのか?』

 

 昔、そんな事を誰かに尋ねられた時。私はどのように答えただろうか。

 

 かつての。まだ何も知らなかった頃の私ならば『恐怖が作り出した虚構の存在』とでも答えたのかもしれない。

 

 でも仮定で空想で、意味なんて有りもしないけれど。今も同じ事を尋ねられたのであれば? 

 

 そしたら、きっと私はこう言ったはずさ。

 

 『可愛らしい女の子だったよ』と。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ――《忘れ去られた謎の手記》より抜粋――

 

 人類の技術は著しい発展を遂げた。

 

 錬金術は化学と同一化した。魔法は手品へと貶められた。技術の進歩は人類に大いなる繁栄をもたらした。その対価に様々な神秘を奪い去りながら。

 

 真なる世界には多くの神秘があった。妖怪・幽霊・妖精・神。人知を越えた力を持つ彼女達を今では誰もが幻想だと思い込んでいる。

 

 しかし、それらは本当に存在しなかったのだろうか。ただのおとぎ話だった? ……。いや、そうではない。彼女達は今も息をひそめて隠れているのだ。幻想達の楽園、『幻想郷』に。

 

 我々の世界の片隅。その不思議な場所は『幻想』と、隔離された人間と、忘れ去られた何かによって構成されている。不可視の結界に覆われているため、幻想郷と外の世界の往き来は殆ど不可能であるらしい。

 

 

 <中略>

 

 

 人間は幻想郷でも生活を営み続けた。危険な『幻想』が各地に生息しているのに、どうして人間は生き延びる事ができたのか。それは『幻想』の一種、妖怪のおかげだ。

 

 ――――人間は無力である。

 

 幻獣のように強靭な身体を持たず、妖精のように空を飛ぶこともできない。一部の例外――人間の退魔師は『幻想』と渡り合えたが、全ての人々を守りきる事は到底不可能だった。

 

 だが、人類にも幸運と奇跡だけはあったのだ。

 

 妖怪は人間よりも遥かに強い。外見は人間の女性に近しいが、優れた知性と頑丈な身体に加えて特殊な能力まで持っている。

 

 一方、妖怪には重大な弱点があった。それは彼女達が人間の想いから生まれた『幻想』である事だ。

 

 『幻想』は人間が滅ぶと存在が維持できない。幻想郷の人間が多数の『幻想』に襲われて消えていく姿を眺め、ついに妖怪は危機感を覚えた。

 

 ――人間を保護できなければ楽園は崩壊する。

 

 そして、妖怪は人間のための保護区域を設定した。妖怪に襲われずに日常生活を営める地域。これが『人間の里』の成り立ちである。

 

 こうして、人々は襲われなくなり、いつしか人間は妖怪と交流する事さえも可能になった。

 

 けれども。里の本来の目的を忘れてはいけない。

 

 里は人間を守るが、それは幻想を守るための檻なのだ。人々は外の世界へ逃げ出す事を禁じられ、里の内部で一生を過ごさなければならない。

 

 しかし、何事も例外は存在するものだ。

 

 人間にも。妖怪にも。あるいは、その中間にも。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 人間の里から少し離れた場所に『魔法の森』という場所がある。体を蝕む瘴気が広範囲に漂っている危険地帯だ。森に入る事を人間だけでなく妖怪さえも敬遠すると説明されれば、その恐ろしさが伝わるだろうか。

 

 瘴気は幸いな事に森の入り口には届かないが、それでも広大な森の大部分が覆われている。そのため、獣を狙う狩人も魔法の森には近づけず、人の気配は常として皆無である。

 

 その魔法の森の入り口。誰もが近付かない道無き場所に、奇妙な店がぽつりと存在していた。

 

 店の名は香霖堂。

 

 人間であり、妖怪でもある、半人半妖の店主が営む古道具店である。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 彼岸の季節のとある日。

 

 幻想郷から夏の暑さが少しづつ消え去ろうとしていた頃の話である。森の古道具店に、落ち着きの無い白黒姿の少女が訪れた。

 

 ――――カラン、カラララン。

 

「よう、邪魔するぜ」

 

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 

 閉店と下げてある札を押しのけて、いきなり誰かが戸を開ける。余りの勢いに戸が軋むほどの乱暴な開け方だ。こんな開け方をするのは彼女だろう。

 

 私は床のゴミを箒で掃く事を止め、ゆっくりと彼女に目を向けた。ずかずかと店の奥へと入ってきたのは元気そうな少女。霧雨魔理沙だった。

 

 私の姿を見つけた彼女は、さっそく呆れ顔で話しかけてくる。

 

「やれやれ、元気が足りないな。店員だからって何も陰気な所まで香霖に似せなくてもいいんじゃないか?」

 

「いえ、これが私の気質ですので」

 

 店に訪れた彼女を少し説明すると、魔法の森に住んでいる魔法使いである。つまり、ご近所さんだ。森の瘴気から離れた場所で営業をしているこの店とは違い、瘴気に耐えながら普通に生活をしているのだから驚く他にない。

 

 彼女曰く、慣れれば住み心地が良いとの事だが、移り住む人間が彼女以外にいない事が現実を示している。そんな彼女は店を見渡して、ぽつりと言葉を零した。

 

「で。香霖はどこに出掛けたんだ」

 

 香霖とは店主の事を指している。どうやら店主に会いに来たらしい。

 

 この店の主は、森近霖之助さんという男性である。魔理沙さんのように彼を香霖と呼ぶ人もいるが、それは彼を屋号で呼んでいるためだ。

 

 では、私は誰かって? ただの従業員である。それもつい先日に雇われた外来人だ。

 

「森近さんなら無縁塚に行きましたよ?」

 

「ん? 無縁塚か。なんだってそんな場所に」

 

「どうやら、無縁仏の供養をするようで」

 

 無縁塚とは外来人の死体を埋め立てるための共同墓地である。

 

 墓地の付近は結界が緩んでおり、偶然迷い込んで来た外来人の死体や外界の道具が落ちている事が多い。だが、危険な場所であるために幻想郷の人間は訪れず、死体は野晒しになっている。

 

 しかし、森近さんは彼らの遺品や外界の道具を商品として回収する対価として、危険を冒しながらも無縁仏を弔っているのだ。

 

「あー、この時期は道具拾いだったか。それなら帰ってくるまで待ってるぜ」

 

「そうですね。もうお昼ですから、一休みしましょうか」

 

 ちらりと店内の置き時計に目を向けると、正午を少し過ぎたあたりだった。

 

 魔理沙さんは話しながらも勝手に棚から煎餅を漁っている。あったあった、と彼女は呟き、居間の机でお茶を準備し始めた。彼女と店主は親しい仲とはいえ、いつも通りの傍若無人っぷりである。

 

「魔理沙さん。せっかくですから、何か外の世界の話でもしましょうか」

 

「お宝に関わる話なら気になるが、私は香霖ほど外の世界には興味が無いぞ」

 

 面白くない話なら他の話をしろ、という意味だろうか。煎餅を齧る彼女の目からは言外に催促の意が伝わってくる。

 

 では、どのような話をするとしようか。私はお茶を啜って喉を潤し、記憶を掘り起こす事にした。やはり、あの日の話がいいだろう。幻想郷に私が初めて訪れた日の事だ。

 

「では、私が雇われた時の話でどうでしょう。魔理沙さんは知らなかったですよね?」

 

「いいかもな。詳しい内容は知らなかったんだ」

 

 彼女のお気に召したらしい。私は思い出すようにゆっくりと語り始めた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 あの日の天気は曇り空だった。今にして思えば、それは私の先行きを表していたのかもしれない。

 

 意識を取り戻し、よろよろと体を引き起こした私が見たものは、枯れた地面が広がるだけの寂れた場所だった。自らの姿を確認すると、地面の砂で激しく汚れており、服もぼろぼろと酷い有様である。

 

 私に何があったのか。私の名前は何だったのか。何も思い出せない。一方、生活の知識に関しては少しだけ残っているようだった。

 

 ぐるりと周囲を見渡して僅かに嘆息してしまう。自分の周りには彼岸花が咲き乱れており、人の気配は感じられない。

 

 これからどうしたらいいのだろうか。今の現状ではサバイバル生活なんて論外。救助の可能性を考えるなら下手に動くべきではないが、何もかもが不明の状態では何も判断できないだろう。

 

 

 事態に変化があったのは数分後。自分の所持品と思われる物品を確認してから少し経ち、もの寂しいと感じる光景を眺めながら、今後の進退を考えている時だった。

 

「そこの人間。ちょっと君に尋ねたいのだが」

 

 座り込んでいる私の背中へ、後ろから小さな声が聞こえた。

 

 鈴が鳴るような声。こんな荒れ果てた場所には似合わない綺麗な声だ。絶望のせいでついに幻聴まで聞こえてきたらしい。

 

 いや、待てよ。女性の声?

 

 聞き間違いでは無い事を頭が理解して、後方を素早く確認する。

 

 ――小さな少女がいた。

 

 ネズミのコスプレをした可愛らしい少女だった。場違いな服装に思えるが、どこからやってきたのだろうか。

 

「……。現地の人でしょうか? 少し尋ねてもよろしいですか」

 

「構わないが、君の質問に答えたらこちらの話も聞いてもらうよ。つまらない事に時間は取りたくないから、さっさと話してくれ」

 

 こちらを値踏みしている彼女の視線は冷たく、排他的な雰囲気を漂わせている。

 

「とりあえず私がいる場所が何処か教えていただけませんか?」

 

 まずは差し障りの無い事を聞き、他の情報を得る足掛かりとする。しかし、彼女は何故かこちらを訝しみながら口を開いた。

 

「ここは無縁塚だよ。もし君が本当に知らないのなら、ここからさっさと立ち去ったほうがいいだろうね。ここは人間が生きられる場所ではない。私みたいな妖怪ならば話は別だけど」

 

 何を言っているのだろうか。

 

「教えていただいてありがとうございます。ですが、妖怪? この付近に伝わる方言か何かの話でしょうか?」

 

「そうか。外来人は妖怪を忘れていたのだったか。それなら、これで理解できるかな?」

 

 彼女が何事かを呟いた瞬間、正面に立っていた彼女の瞳の輝きが怪しく変わり、私の体に強烈な寒気が走る。

 

 体が鉛のように重くなる。声を出すこともできず。膝の震えも止まらない。ふらふらと力が抜けて体が崩れ落ちた。すると、途端に謎の圧力は消え、彼女は得意げに話を始める。

 

「妖怪の威圧を感じた感想はどうかな? 怖かっただろう。恐ろしかっただろう。これに懲りたら、私の話は真剣に聞く事だ。この辺りで死ぬ人間は多いとはいえ、目の前で無駄死を見るのも気分が悪いからね」

 

 何の話かわからないが、今の状況が色々と危険である事はよくわかった。

 

「とにかくここは恐ろしい場所なんですね?」

 

「そのとおり。君にとっては危険な場所だよ」

 

 私にとっては問題無いけどね、と自慢げに彼女は笑う。

 

「では、私をここから安全な場所に連れて行っては頂けないでしょうか? 迷子になってしまったようなので」

 

「ふむ。迷子か。行きたい場所は外の世界だろう? 残念だけど、幻想郷と外の世界は違うよ。君は神隠しにあった外来人だろう?」

 

 神隠し。嘘のような話だが、不思議な事に何故か納得できた。記憶が無くなっている事が関係しているのだろうか。

 

「よくわかりませんが。私は神隠しにあったのですか?」

 

「そのように見えるね。疑うなら、ひとまず人里まで連れて行ってもいい」

 

「人里とは?」

 

「文字通り人間の里さ。多くの人間が住んでいる場所だから安全だよ?」

 

 彼女の奇抜な服装も相まって非常に怪しいが連れて行ってくれるらしい。どのみち手掛かりが皆無なのだから信じるしか無いだろう。私は腹を決める事にした。

 

「では、申し訳ありませんが、その場所までの道案内をよろしくお願いします」

 

「うん。確かに承った。だけど」

 

 私のお願いを聞いた彼女は頷く。しかし、指を振り、まるでわかってないと呟いて、続きを話し始めた。

 

「人助けをするのは吝かでは無いよ。けれど、物事は等価交換が基本だろう。次は私が尋ねたかった事について答えてもらおうか」

 

 ネズミの少女は少し口を噤み、真面目な雰囲気に変えながら再び話し始めた。

 

「君は知らないだろうが、私は宝探しが趣味でね。このあたりにはお宝の気配があるとダウジングが囁いたから、わざわざやってきたのさ。すると、ちょうど指し示す場所に君がいた。だから、私は君に問おう。君はお宝を持っているな? 人里まで連れていくのは、それを渡す事が条件だ」

 

 自信満々に少女は無い胸を張る。この彼女の顔を言葉に表すのは難しいが、強引に表すなら『慈悲のあるドヤ顔』である。

 

「宝ですか。私は持っていませんが、どのようなものでしょうか?」

 

「いや、隠しても無駄だ。お宝の姿形は知らないが、君が持っているんだろう」

 

「そう言われましても。私の持っている物を見せますから、どれがお宝か教えていただきませんか?」

 

 私の申し出に彼女は肯定の意を返す。だが、彼女は私を疑っているようだ。心なしか先ほどよりも冷やかにこちらを眺めている。しかし、私は貴重なものを本当に持っていただろうか。頭を悩ませながらも、彼女に所持品を全て見せる事にした。

 

「これで全部だと思います。別の物が近くに落ちていなければですが」

 

「うーん。これでもない、あれでもない。外の世界の食べ物は食べてみたいが違うな。君からそれなりの反応があったから、誤作動では無いはずなのだが……」

 

 数分後、その場には灰色の少女が雑に私の持ち物を仕分けていく姿があった。が、やはり見当たらない。面倒だと呟き、彼女は嫌そうな顔を見せている。その気持ちに合わせてか耳が動く。可愛い。

 

 しかし、困ったものだ。このまま、見つからなければ私は彼女に頼る事ができないかもしれない。嫌な予想が頭を駆け巡り、冷や汗が一筋ほど流れ出た。

 

「探し物は見つかりましたか?」

 

「いや、見当たらないな。本当に持っていないのか?」

 

 不満げなネズミの少女と困惑する私。新たな第三者が現れたのは、その時だった。

 

「おや? ナズーリン、君もここに来ていたのか」

 

 右から男性の声が聞こえる。視界に入りこんできた人は、これまた不思議な服装をした男であった。様々な様式を混ぜた奇抜な服装をしているが、顔にかかった眼鏡のおかげか、理知的な雰囲気を漂わせている。

 

「これはこれは道具屋の店主じゃないか。あの時はどうも」

 

「宝塔の件なら気にする事はない。僕も良い取引だったからね」

 

 ナズーリンとは彼女の名前だろうか。彼らの話し方から察するに二人はどうやら知り合いらしい。しかし、言葉とは裏腹に仲が悪い印象を受けるのは何故なのか。場違いな私は、話が落ち着くまでは口を挟むのを止めようと後ろ向きの決意をした。

 

「それでナズーリン。君が外来人に絡むとは珍しいじゃないか。僕の予想だと面倒事を避けそうなものだけども」

 

「その外来人からお宝の気配がしてね。ここから無事に連れ出す代わりにお宝を貰えるように頼んでいたのさ」

 

「けれど、見つからずに取引は難航していると。ふむ。ナズーリン、さっき僕が拾ってきた物を一つ譲るから、外来人をこちらに渡してくれないか」

 

「あの店主が交渉してくるなんて怪しいが、うーん。お宝は名残惜しいが見つからない。そして、私の手間は減る。よし、そいつは煮るなり焼くなり好きにしていいよ」

 

「交渉成立だな。あそこに置いたものから一つ持っていくといい」

 

「了解。あ、そうそう、人里に行く機会があったら命蓮寺に訪れて感謝の寄進でもしておくれよ。そこの外来人もね」

 

 そう言い残し、ネズミ少女は素早く立ち去っていってしまった。ちょっと様子見してたら、いつの間にか私も巻き込まれた事に驚愕を隠せない。先ほどの決意を後悔しても、後にも先にも立たず。私は目の前の彼と行く事になってしまったのだった。

 

「で、私はどうなるんです? ひとまず地面に置かれたものを回収したいのですが」

 

「もちろん君を安全な場所に連れて行くよ。だが、その前に君のものを少し見させてくれ。珍しいものだったら、僕が買い取らせて貰う」

 

 店主は私の持ち物をじろじろと手に取って眺め始めた。そして、彼は全てを順番に見終わると、私の所持品の何もかもを風呂敷に詰め込んでしまった。何をしているのだろうか。疑問に思う私の心情を察したのか、こちらを見て店主は言葉を発した。

 

「全てを売ってくれないか。外の世界のものはどれも僕には興味深いから」

 

 先ほどの少女とは好みが違うらしく、店主の目は爛々と輝いている。ちょっと怖い。

 

「構いませんが、今日中に安全な場所に到着できますかね? 日が落ちる前に着けたら良いんですが。幻想郷とか言われてもさっぱりわからないですし」

 

 すると、私の声を聞いた彼は張り切って説明をしてくれた。彼は他者に説明をする事が大好きなタイプのようだ。

 

「あぁ、彼女から聞いていなかったのか。危険な場所を躱して遠回りする予定だけど、時間的には問題無い。それと、この世界は幻想郷と呼ぶのだよ。妖怪や妖精、神が存在する場所と言った方が理解できるかな。まぁ、心配する事は無い。外来人は外の世界に帰る方法があるから、幻想郷に定住するかどうか選ぶ事ができる。だけど」

 

「だけど?」

 

「だけど、幻想郷の住人は外の世界には行けない。外の世界を詳しく知りたくてもその方法が無かった。だからこそ、僕は君に興味があるのだけど。参考になったか?」

 

 彼は眼鏡をずらしながら、つまらなそうに話していた。

 

「詳しい説明をありがとうございます。それと気になっていたんですが、持っていたものを彼女に渡してしまっても平気だったのですか?」

 

「それは大丈夫。貴重なものは懐に隠し持っていたし、外の世界の知識を得られる方が僕にとっては重要だから」

 

 したたかな人のようだった。そして、彼から期待されるのは嬉しいが、記憶喪失である事をどう伝えるべきか。

 

「その言い辛いのですが、私はどうも記憶と知識を多少失っているようでして。あまりお役には立てないかと」

 

 私の言葉が予想外だったのか驚く店主。彼は少し考えた後にかぶりを振って、気にする事は無いと言ってくれた。

 

「それは残念だが、君の記憶が戻った時に改めて聞かせてもらうから問題無い。それに君の様子だと外の世界にすぐ戻っても大変だろう。人里で生活するにも記憶が無いと不便だろうし、まずは私の店に住み込みで仕事をしてみないか?」

 

「いいんですか? ありがとうございます!」

 

 見ず知らずの人間を助けてくれるとは、なんて良い人なのだろうか。彼の優しさに心が温まるようだった。

 

 その時、思い出したかのように店主は言葉を付け足した。

 

 

「ただし、働く時には客との対応に注意してくれ。店には、巫女や魔法使いだけではなく、一捻りで人間を粉微塵にできる妖怪とかも訪れるから」

 

「――――え?」

 

「それと、まだ名乗っていなかったね。僕の名は森近霖之助。古道具店『香霖堂』の店主さ。それじゃ、僕の店を目指そうか。無事に生きられるように今後の君の幸運を祈ってるよ」

 

「え、えぇ?」

 

 今さらっと、酷い事を聞いた気がする。ぎこちなく首を動かして隣で歩く店主を見る。呆然と見た彼の眼鏡はきらりと邪悪に輝いていた。先ほどの妖怪少女にこの店主。幻想郷は魔窟だと私は初めて感じるのであった。

 

 これが私が香霖堂で働く事になる過程の記憶。始まりの記憶なのだ。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「――――って事があったんですよ」

 

「ふーん、なるほどな。それで香霖に雇われていたのか」

 

 回想は終わり、香霖堂へと時間は戻る。魔理沙さんにあの日の出会いとその後の出来事を語り終わった時には、窓の外は夕暮れへと差し掛かっていた。

 

「えぇ、それで私も後から気付いたのですが、ナズーリンさんが探していたお宝は私の壊れた携帯電話だった、っていうオチがありましてね。私はもう森近さんに渡したのですが、彼はナズーリンさんに渡されないために黙っていたんです」

 

 あの日、香霖堂に到着した時にその事を説明されて唖然としたのは内緒の話だ。携帯電話に金や銀が含まれている事など、指摘されるまで思い出す事はなかった。

 

「そいつは香霖らしい。携帯電話、というと、遠くの人と会話できるようになる魔道具だろ? あいつも私と同じく珍しい物を集める収集家の気があるからな」

 

「しかし、その話題の本人が中々帰ってきませんね。森近さんはどこかで寄り道でもしているのでしょうか」

 

「案外どこかでのんびり昼寝でもしてるんじゃないか? 香霖はたまに予想もしない突飛な事をするからな。どうやら、今日の晩御飯の用意は私がする事になりそうだな」

 

 魔理沙さんが自然体で晩御飯を食べる宣言をしているのを軽く流しつつ、何があったのかを考え込む。朝から出かけていったのだから、もうすぐ帰って来なければ何かあったのかもしれない。だが、その心配はすぐさま霧散した。

 

 ――――カラン、カラ。

 

「ただいま。今日は魔理沙も来てるのか」

 

 店の中に呼び鈴の音が鳴り響く。戸を労わるように開き、緩やかに体を見せたのは件の彼であった。

 

「よう、香霖。残念ながら一足遅かったな。今日の食事は私が決めさせてもらうぜ」

 

 お勝手から声が聞こえてきた。彼女はもう調理の準備をしているようで、包丁などを準備している姿がちらりと見える。食事の内容をどれにするか悩んでいるようで、『魔法の森のキノコ料理』などといった内容が聞こえてくるのが心配だ。

 

「待て、魔理沙。それは僕が前に食べさせられた妖念坊だろ。毒キノコを食事に混ぜるな」

 

 私がぼうっとしている間に森近さんもお勝手に入っていったようだ。彼岸花の毒を洗い落とすついでに、魔理沙さんが持参した食べ物を次々と却下していた。机に置かれた帽子からは怪しい食材が見えていたが、やはりダメだったか。ひとしきり注意が終わったのか、森近さんはこちらに戻ってきた。

 

「今日は店を閉店にしていたけど、魔理沙以外に来客はあったか?」

 

「いえ、営業していた一昨日や昨日と同じく、閑古鳥が鳴いていましたよ」

 

「やはりか。いつも通りだから構わないが」

 

 私の返事を聞いた森近さんは拾ってきた道具を鑑定し始めた。彼の仕事をしている姿をじっと見る。食事の良い匂いが立ち上り始めた頃、彼の仕事は一段落付き、ついに私は彼に話しかけた。

 

「ええと、森近さん。少し話があるのですが」

 

「話か。察するに、君の名前に関する事かな?」

 

「ええ、何度も引き伸ばしましたが、自分の名前をようやく決めました。」

 

 そうなのだ。実をいうと、私はまだ名前を持っていない。私には本当の名前があるはずなのに、別の名前を持つのがなんだか嫌だったのだ。しかし、もう一週間。すぐに記憶を思い出す事はできなかった。

 

 名前とは自己の証明である。言霊が現実味を帯びた世界で、本来の名前とは異なる名前を持つ事は自らを歪める危険性がある事を私は知っていた。

 

 それでも、名前が無い状態に比べれば、偽名でもあった方がマシではあると、森近さんに説明されてからは、真剣に新しい名前を考えていたのだ。

 

 

「安直だって笑われるかもしれないですが、決めました。私の名前は――――名無し。名を無くし、自己を探し求める姿そのものを名前にしました。笑ってもいいですよ?」

 

「いや、笑いはしないさ。それに名無しという名は安直ではない」

 

「そうか? 私は随分と簡単な名前にしたもんだと思うが」

 

 気が付くと調理が終わった魔理沙さんも話に加わっていた。皿の上に乗ったキノコ料理が続々と私と森近さんの目の前に置かれていく。全てが置き終わったのを見計らってか、彼女が腰かけると同時に森近さんは話し始めた。

 

「名前が無いというのは不確かなものだ。まるで空に浮かぶ雲のように、自らの寄って立つ場所が無いのだから。そして、世界が発生する以前の物で無い限り、万物は必ず名前を持つ。ゆえに、名前が無いものは違和感が際立ってしまう。名前とは、世界に対する楔であり、自らの可能性を縛る事で名前が表す力を世界から得るものなのだよ。ところでだ。しっかりとした拠り所を持たない人間を『根無し草』と呼ぶのは知っているかい? 根無し草とは浮き草を指す言葉なのだが、どうして人を草に例えたのだろうね」

 

「さあな。案外、植物が大好きな奴らがこぞって名前を付けたんじゃないか」

 

 熱弁を始めた森近さん。その言葉を真剣に聞き続ける私。近くの魔理沙さんは真面目な雰囲気が嫌なのか軽口を叩いていた。

 

「魔理沙の考えは当たっているのかもしれない。先日、外の世界から紛れ込んできた本の中に、ある一節があったんだ。『人間は一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である』ってね。葦とは言うまでも無く、植物の一種だ。つまり、これもまた人を植物に例えているというわけだ。さて、ここからは僕の考えになる。外の世界の人間達は、植物と人間を同一視していたのではないだろうか」

 

「おいおい、それは明らかに間違えているだろう。何もかもが違うじゃないか」

 

 どこかで聞き覚えのある言葉だ。知識が穴抜けになっている今の私には、本当にあっているのか判断できない。しかし、そのような意味だっただろうか?

 

「いいや、合っているはずだ。よく考えてみろ。確かに食べるものや姿形は違うとも。だけど、植物も人間も自らの居場所を求めて必死に生きようとしているじゃないか。心地良く生活できる場所を探して、植物は種を飛ばし、人間は各地を彷徨い歩く。そこに違いは全く無い。そして、長い旅の果てにその場所を見つけたら、人はそこで生活を始め、年を取って影が差し、最後には体を地に埋める。植物は春と夏に成長し、秋に葉が色づき、やがて冬に朽ち果てる。どうだ、違いはあるか?」

 

「香霖の話は長くて、まどろっこしいぜ。こいつと何の関係があるんだ?」

 

 私の疑問を魔理沙さんが代弁してくれた。他方では、森近さんは眼鏡をずらし、私を見ながら再び口を開いた。

 

「そうせかすな。何が言いたいかというと、『根無し草』というのは自らの居場所を探そうと努力する人を表しているんじゃないかって事だ。で、『名無し』と『根無し』は似ているだろう? 自らの記憶を探すというなら文字通り『根無し』にした方が良いと考えるのは早計だ。さっき言ったように、名前の意味に自分が引っ張られてしまうからね。だから、似ている名前を使う。ある程度意味をもたせるとともに、他の意味をもたせる余地を残すんだ。すると、君の名前が『名無し』というのは全然安直でも無く、今の君にぴったり合うわけだ。」

 

 これで僕の話は終わりだ。そう話し、森近さんは食事に手を付け始めた。

 

「なるほど。本当に森近さんって面白い方ですね」

 

「だろ? それが、香霖の良い所だよ」

 

 彼の怒涛の説明に私は終始押されっぱなしだった。魔理沙さんは悪戯っ子のようにくすくすと笑っている。

 

「まったく。一体何を笑っているんだか。それと、暗くなってきたから戸締りの準備をしてくれないか」

 

 森近さんは困惑しながらも、こちらに仕事を任せてきた。朝飯前ならぬ晩飯前である。魔理沙さんが帰るための入り口だけ鍵を開きつつ、その他の場所の鍵を閉めていく。窓に顔を出してみると、外は夕暮れを過ぎて、夜へと差し掛かっている。

 

 

 月明かりの下、幻想郷の木々は月の光で輝いていた。暗闇で輝く木々は、未だ緑のままである。

 

 

「おーい、さっさと戻ってこないと食べてしまうぜ!」

 

 魔理沙さんの声が後ろから聞こえる。どうやら急いで戻る必要がありそうだ。足を再び進める前に、もう一度だけ外を見る。

 

 

 幻想郷に秋が来るのはまだ先になりそうだ、と私は思うのであった。

 

 

 



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<第二話> 秋の訪れと私

 神無月、という言葉がある。

 

 文字通り神が存在しない月を表しており、現在の10月を旧暦で呼ぶ時の名だ。

 

 10月といえば、秋の季節であるわけだが、多くの人は秋と聞いて何を思い浮かべるだろうか。たとえば、紅葉の秋。実りの秋。秋を形容づける言葉は神の力の一端を表している。神が無い月であるにもかかわらず、これは一体どういう事だろうか?

 

 私が推測するに、月が地上の民に報復をしているのだろう。その理由は勿論ある。世界が月の旧暦から太陽の新暦へと変わり、人々が月ではなく太陽を選んだ事に怒っているのだ。にもかかわらず、我々は未だに月日を表すために「日」だけではなく「月」も使っている。

 

 つまり、我々が月を裏切った事に対して、月は時間をずらしたのだろう。その結果、過去と現在は同じ呼び方でありながら、似て非なるものになってしまった。時間にして1ヶ月から2ヶ月ほどずらされていると考えるのだが、その証拠として旧暦の月の呼び方の由来を考えてみよう。

 

 例えば、葉月。現在の8月だが、何故『葉』の月なのだろうか。葉っぱが生い茂っていたから? いいや、違う。立秋と残暑の時期であるが、紅葉には早く、緑の葉が生い茂るには遅すぎる。だが、時間をずらした場合は紅葉の時期である。葉っぱが染まり、舞い落ちる月だ。

 

 例えば、神無月。現在の10月だが、時間をずらすと12月。生命が死に絶え、雪が全てを覆い隠す過酷な月である。この状況の原因が『神の力が無くなったため』と考えると、師走よりも神無月と呼ぶ方が正しいのではないだろうか。

 

 

 さて、どうしてこのような話をしたのか。

 

 

 ――――――鮮やかに色づいて舞い落ちる葉。風に吹かれて揺れるススキ。

 

 

 幻想郷にも秋が訪れたのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 太陽が輝き、朝の光が地上へと降り注ぐ。魔法の森の入り口にある道具店『香霖堂』。その店の裏口では、勢いよく斧を振り回す者の姿があった。正体は1ヶ月ほど前に店で雇われた従業員。要するに私であった。

 

「よっと。これで薪割りは終わりですかね」

 

 斧の先を確認すると、斧は見事に薪の姿を二つへと変えていた。薪割りの腕前はまだまだ未熟なのだが、ひとまずは上手くいったようだ。一息をつき、横の薪置き場を見る。そこには私が割り続けた薪が山のように重なっていた。

 

 何気なく空を見上げる。太陽の動きを見ると、薪割りを開始してから一時間ぐらいか。薪は大雑把に切ったため一つ一つの形は大きいが、今回の森近さんから頼まれたのは風呂や竈に使う薪の備蓄である。使用する時に再び小さく切り分けるため、これで問題無いのだ。

 

「おーい、仕事は終わったか? こっちにきてくれ」

 

「はい、終わったので行きますよ」

 

 タオルで汗を拭い、それから一休みしていた時だった。店内から聞こえてきた声は男性の声。店主の森近さんだ。後片づけが終わったのを確認して、私は駆け足で戻る。次はどのような仕事だろうか。

 

 足早に戻りながら考えた事は自らの現状だった。記憶が無い私は未だに香霖堂で働いている。その合間に森近さんへ外の世界の知識を伝授したり、逆に森近さんから幻想郷で必要な技術や知識を仕事と一緒に学んでいるのであった。

 

「お疲れ様。もう薪割りは習得したか?」

 

「おかげさまでなんとか。次は何を教えてくれるんですか?」

 

「そうだな。竈を使ったご飯の炊き方は教えたし、後は縫い物かな。服が破れた時に直せないと困るから」

 

 店へと入った私の眼に映ったのは、店の奥で巫女服を縫っている森近さんの姿であった。どうやら霊夢さんからまたツケで依頼を受けたらしい。お店で厄介になっている私が言う事ではないかもしれないが、ツケで依頼を受け続けて大丈夫なのだろうか。

 

 霊夢さんとは幻想郷の管理・維持を行う博麗の巫女、博麗霊夢の事である。森近さんとは仲が良いのか、度々お店に冷やかしにやってくる人だ。私もすでに何度も面識があるが、初対面で御札と針を投げつけられたのが原因で少々苦手な印象を持っている。

 

 巫女といえば神職の補佐を行うものだと私は記憶していたが、幻想郷では違うようで。博麗の巫女の仕事は、人里での祈祷や悪い妖怪を懲らしめる事が主のようだ。

 

 ただ、彼女の妖怪退治は見敵必殺といえば聞こえがいいが、機嫌が悪いと見境なく妖怪もそれ以外も倒していくらしい。恐ろしい事である。

 

「縫い物ですか。細かい仕事は苦手なんですよね」

 

「なに、慣れればすぐにすいすいとできるようになる。何事も慣れだよ、慣れ」

 

「いやぁ、中々慣れるものじゃないですよ」

 

 縫い物も、幻想郷も。そして、自分自身についても。すぐになんとかしてしまえるほど、私は器用ではなかったようだ。

 

 で、店主の様子を見る限り、今日のお客様はその霊夢さんで決まりだろう。お茶の準備はしておくとして、煎餅はどうしようか? でも、あの人は一番良いのを店から直感で漁って食べるんだよなぁ。諦めて、最初から良いのを用意しておこう。

 

 頭を悩ますのは、巫女さんにあるまじき行動。魔理沙さんだけかと思ったら、彼女も勝手に漁る派だったのだ。霊夢さんと魔理沙さんの仲の良さを考えると、類は友を呼ぶという事だろうか。謎である。

 

 

 ――カラン、カラン。

 

「霖之助さん、いるかしら?」

 

 私の心を知ってか知らずか、霊夢さんがお店に訪れたのはすぐ後の事だった。

 

「奥にいますよ。森近さん、霊夢さんが来ましたよ」

 

「ちょっと待たせておいてくれ。もう少しで終わるから」

 

 私が店の奥へと振り返ると、森近さんはさっと顔を覗かせて、再び服を縫う作業へと戻ってしまった。一方、霊夢さんは用意したお茶うけを黙々と食べている。いつも通りの姿である。

 

 いや、私は違和感を感じた。よく見ると、霊夢さんの表情は普段の気怠い表情とは異なり、生き生きとしている。

 

「霊夢さん。今日って特別な事か何かありました?」

 

 不思議に思った私の質問に、霊夢さんは笑顔を輝かせて楽しげに答えた。

 

「あら? 私にとっては毎日が特別よ。でも、そうね。確かにいつも以上に特別な日だわ。なんてったって今日は」

 

「収穫祭が人里で行われるんだ」

 

 話に被せてやってきたのは森近さん。言葉を取られて不満そうな霊夢さんを尻目に、彼は手に持ってきた巫女服を机に置き、続きを話し始めた。

 

「外の世界はどうだか知らないが、幻想郷では年に一度、秋に収穫祭を行うのさ。神の力や自然の恵みに感謝して盛大にね」

 

「それで今日は巫女服を取りに来たのよ。神といえば神社。神社といえば巫女。つまり、祭りで信仰を増やすチャンスなわけ。で、霖之助さん。もう服は出来たの?」

 

 さっきからうずうずしていた霊夢さんは、森近さんの話を聞きながら、巫女服を広げて眺めている。

 

「あぁ、もう出来ているよ。全く、もう少し大事に着てくれると助かるんだが」

 

「文句は妖怪達に言ってよね。私の姿を見た途端、悲鳴を上げながら弾幕を打ってくるんだから」

 

「日頃の行いに問題があるのだと僕は思うよ」

 

「まさか。私のような素敵な巫女にそんな事あるわけないじゃない」

 

「はいはい。ところで、その素敵な巫女さんに頼み事があるんだが」

 

「アレね。霖之助さんが珍しく頼んできたからちゃんと覚えているわ」

 

 突然、二人の視線がこちらを向く。どうしたのだろうか。森近さんと霊夢さんは私の姿を見て、話を続けた。

 

「名無しさんは今まで人里に行った事はなかったんでしょ?」

 

「道中が危ないから、人里への所属申請は森近さんにお願いしましたね」

 

 外来人が外を歩くのが如何に危険なのかは、これまでの彼の教えで他の常識と共に習得している。そのため、まだ私は人里を見た事が無い。

 

「だから、霊夢がやってきたのが好都合と思ってね。祭りの日は皆が寛容になるから自己紹介にはいいのだが、道中で名無しを僕が守れる自信が無い。そこで霊夢に白羽の矢を立てたのさ」

 

「矢が立って犠牲になるのは道中の奴らだけどね。服のお返しは道中の適当な奴にぶつけるから、さくっと人里へ行けるわよ。という訳で、貴方の安全は私に任せなさい」

 

「ありがとうございます」

 

 霊夢さんの言葉に頷く私。少々物騒だが嬉しい申し出である。彼女は返答に満足したのか、いそいそと準備を始めた。

 

「名無し。これを持っていくといい。」

 

 森近さんは私に何かを放ってきた。掴んだ手のひらには、巾着袋?

 

「中身は、お金。これ、どうしたんですか?」

 

「君の道具を買った時のお金と、僅かだが賃金だ。祭りを楽しんでくるといい」

 

 そう言って、彼は眼鏡を弄りながら笑った。

 

 手元には水筒、編み笠、食料に財布。準備が整った事を確認し、私は店の戸を開けて歩き出す。

 

 外では霊夢さんが巫女服の飾りを指でいじりながら私の出立を待っていた。

 

「それでは行ってきます。霊夢さん、道中お願いします」

 

「わかったわ」と張り切った霊夢さんの声。期待に胸を躍らせつつ、私は一歩を踏み出した。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 目の前には、たくさんの人が行きかう姿。

 

 道中では特に何事も無く、私達は人間の里に到着した。

 

 霊夢さんの気配に気づいたのか、道中は僅かな襲撃があるだけだった。撃退する時に霊夢さんが発射した光球は綺麗で、当分忘れそうに無い。あれが妖怪を退治する力、弾幕なのだろう。弾幕を受けた幻獣は派手に吹っ飛び、人を襲う気は無くなっていたようだった。弾幕は普通の人間が使えるものではなく、私が真似するのは不可能だろう。

 

 おっと、話が逸れた。人間の里に入る前には、入り口で簡易的な取り調べを受ける必要があった。里以外に住む外来人が珍しいらしく、日々の生活を詳しく聞かれたが、里の人間にはこれも娯楽になるらしい。時々香霖堂に配られる天狗の怪しい新聞が、人里では好評を博しているほどなのだからよほど娯楽が少ないと見える。質問攻めに遭った私が解放されたのは、半刻の時が過ぎ去った後だった。

 

 一緒に来た霊夢さんはというと、私と違ってすんなりと里へ入り、既に仕事に出かけたようだ。伝言によると、祭りの終了後にここで待っていれば、帰りも送ってくれるらしい。心配事も無くなった事だし、それでは先に進むとしよう。ついに私は里へと足を踏み入れたのだった。

 

 周囲を見回すと、多くの人は収穫祭の準備をしているようだ。よく見ると妖怪と思わしき人々も嬉しそうに屋台の準備をしている。祭りに人妖の境界線は無く、皆が祭りを楽しみにしているのだろう。

 

 軽く見まわして満足した私は、邪魔にならないように近くの団子屋で一休みをする事にした。

 

 店内では多くの人間が寛いでいる。団子を食べる人。お茶を飲む人。新聞を読む人。私もその中の一人になった。暖簾をくぐった先で舌鼓を打つ私。そこに来客が訪れたのは、頼んだ草団子を食べ終え、お茶を飲もうとしていた時だった。

 

 私の前にやってきたのは青と白が入り混じった服装をした女性。不思議な帽子を被り、手に串団子を持っている彼女を私は見つめるが、立ち姿にはとんと見覚えが無い。誰だろうか。彼女は私を見つめて、話しかけてきた。

 

「こんにちは。失礼ながら、こちらの席に座ってもよろしいでしょうか?」

 

「はい、もちろん構いませんよ」

 

 彼女は私の返答を聞き、正面の椅子にゆっくりと座った。彼女の物腰は柔らかだが、その瞳は人に非ざる輝きを発している。背筋が寒くなるような氷の輝き。たぶん彼女は妖怪だろう。

 

 その彼女は、私を見つめて僅かに微笑んでいる。彼女の機嫌を損なわせないために何か話した方がいいのだろうか。

 

「えっと、初めまして、ですよね?」

 

「ええ、貴方から見ればそれで合っています。初めまして、私は上白沢慧音。寺子屋で子供への指導をしている者です。貴方は魔法の森に住む外来人ですね? 貴方の事は博麗の巫女から聞いています」

 

「という事は、霊夢さんのお知り合いですか」

 

「知り合いといえば、確かにそうでしょう。あまり良い出会いとは言えませんが。ですが、その話は置いといて。私は貴方に用があって来たのです」

 

「私に? 何か人里の掟を破ってしまいましたか?」

 

「いえ、単刀直入に申します。外の世界に関する授業資料を作る上で貴方にも協力していただきたいのです。貴重な知識は多いに越した事はありませんから」

 

 彼女は真面目な顔をして、例え話や身振り手振りでその重要性を表そうとしていた。他の客がこちらを見ているが、その目線に気付かないほどの真剣な目つきだ。

 

「なるほど。それで私にですか」

 

「はい。最近は特に異変が多く、外の知識は里の人間には関係が無い……とは言い切れませんから。人里はこれからも外の妖怪や道具が入ってくるたびに影響を受けるでしょう。その時に僅かでも里の役に立てたらと思い、里の外来人や貴方に声をかけているのです」

 

「それならば、もちろん喜んで協力しますよ」

 

「それは良かった。この後は何か用事でも? 無ければ、私が里を案内しますよ」

 

「お願いします」と、私は頼んだ。

 

 知らないままに彷徨うのもいいが、多くの人と顔を合わせるのはこちらの方が良いだろう。

 

 その後も彼女と話を続け、喉が乾いた事に気付いたのは長い話が終わってからの事だった。いい加減にお茶を飲もう。と思ったが、どうやら彼女は里の案内をするつもりで店を出るらしい。

 

 私はもう少し休みたかったが、急いで手元のお茶を飲み干して彼女の後を追う事に決めた。口の中に冷え切ったお茶の味を残しながら。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 端的に言おう。足が棒になりそうだ。

 

 里の大部分を慧音さんに案内され、訪れた場所は数えきれず。貸本屋、花屋、お菓子屋、様々な場所を訪れては挨拶をし、自己紹介をしていく。そして、目の前には木造のそれなりの大きさの家屋。最後に訪れたのは慧音さんが働いている此処、寺子屋だった。

 

 空を見ると、既に暁色に染まっていた。暮れるまでの時間は短くなったとはいえ、随分と私は歩き通したようだ。横を歩く慧音さんを見ると、疲労困憊で倒れそうな私に比べ、彼女はまだまだ余裕そうだ。これが普通なのだろうか。

 

 慧音さんと共に寺子屋の中に入る。当たり前の話だが、此処には人の気配は全くなかった。今日は祭りの日。この場所に通っている子供達は皆、屋台巡りをして楽しんでいるのだから。

 

 教室の片隅に目をやると、外来人が伝えたサッカー用の玩具が置いてあった。子供達の物らしい。紫色の立方体に取っ手があってまるで鈍器のようだ。しかし、これほど頑丈なサッカーボールがあっただろうか。娯楽では外の世界よりも進んでいる所もあるのかもしれない。

 

 その後も黙々と慧音さんに続いて廊下を歩きながら、私は寺子屋の説明を聞き入った。慧音さんは誇らしげに手を広げ、如何に寺子屋が素晴らしいかを熱弁していた。

 

 普段から慧音さんはしっかりと授業をしているのだろう。阿求さんという人が作った資料を見せては説明をする事を繰り返し、まるで私だけに授業をしているようだった。それから、幾何かの時間が流れ。

 

 

 外から、大きく太鼓の音が鳴り響く、周囲では収穫祭が佳境を迎えていた。夜が訪れたからだ。

 

 人の時間である昼が過ぎ去り、夜行性が多い妖怪達の祭りへとバトンが渡される。人間の屋台が消え、代わりに妖怪の屋台が増えるのだ。カラーうさぎに人魂ぼんぼん、河童の射的屋。物珍しい屋台に人妖が惹きつけられる。さて、私も祭りを見るとしよう。

 

 慧音先生に後日、改めて詳しい話をする事を約束し、私は祭りへと繰り出していったのだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 人と妖怪が焚火を燃やし、酒を飲み、肩を組んで、大声で叫ぶ。今の外の世界ではまず見ることができない光景だ。あれから里の方々に混じった私は、収穫祭に参加した多くの神々を眺め、神の奇蹟を間近で見たり、焼き芋を売る神から食べ物を買ったりして祭りを存分に楽しんだのだった。

 

 しかし、一つだけ残念な事があった。

 

 それは、どうやら私がお酒に弱い事だ。里の方々と騒いだはずだが、気が付くと見慣れた香霖堂の入り口。完全に記憶が飛んでいた。祭りの最後間近までは覚えているから、そこからどうやってここまで来たのやら。

 

「えーと、森近さん?」

 

 目の前には眼鏡をかけた森近さんが呆れた顔をして、地面に座り込んだこちらを眺めていた。彼の手には井戸から掬ってきた水桶が握られている。

 

「やれやれ、ようやく気が付いたか。そら、お水を汲んできたから飲むがいい」

 

「ありがとうございます。あれ? ここは香霖堂ですよね?」

 

 お礼を言って水を飲む。冷たい水は火照った頭を冷やすのに丁度良い。

 

「そうだ。全く記憶に無いのか? 霊夢の奴に霊力で運ばれ、いや、放り投げられてきたが」

 

「残念ながら、全く覚えていませんね」

 

 記憶が飛んで思い出せないが、祭りで倒れた私を霊夢さんが運んで立ち去ったらしい。

 

「はぁ、危なっかしいことだ。妖怪にでも食われたら、どうしようかと思ったよ」

 

 妖怪の中には人と馴れ合う事を良しとしないものがいる。もしも彼らに遭遇してしまったらどうなった事やら。あと、凄く眠いです。

 

「ですね。あ、あとお水をもう少し下さい」

 

「やれやれ、頭がふらふらしてるぞ。水を取ってくるから、外で寝るんじゃない」

 

 そう言って、森近さんはカランカランと鳴る扉の向こうへと入っていった。

 

 

 魔法の森は漆黒に染まり、冷たい地面が心地良い。彼の後ろ姿を見送った後で、私は地面に寝ころんだ。再来月は師走。師ですら走り回らないといけないほどの忙しさが訪れる月だ。

 

 思い出すのは人里の師である慧音さん。彼女の寺子屋はきっと忙しいだろう。けれど、私が働く香霖堂の師は?

 

 視界一杯に広がる空には満天の星空。月ははっきりと黄金色に輝いている。

 

 月は今も昔も変わらずに輝き続けていた。一説によると、月には遥か昔から神が住んでおり、地球を眺め続けているらしい。本当に神がいるのであれば、地上の人々の行動や未来も知っているのだろうか。

 

 しかし、神にだって限界はあるはずだ。過去も未来も把握する神でさえ、神が存在しない時間はどうにもできないのだ。

 

 だから、私は月に尋ねた。2ヶ月先の香霖堂の事を。神にしか理解できない未来の事を。本来ならば、その未来が『神無月』の時である事を知りながら。

 

 

 『神無月』は神が存在しない月だ。神が存在しないのは時間の月か。場所の月か。

 

 

 空に浮かぶ月からの返事は、予想通り無かった。



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<第三話> 数字の意味と私

今回はお正月(2015)の話。


 しんしんと雪が舞い落ちる。まだ朝は始まったばかりだというのに、魔法の森には粉雪が降り続いていた。

 

 幻想郷もついに新年を迎えたが、未だに毎日が雪模様。香霖堂で働いている私にとっては雪かきをする事が日課になっていた。しかし、今日の雪なら外に出る必要は無いだろう。雪かきが無いのは良い事だ。暇を持て余した外の妖精達に悪戯されないで済むのだから。

 

 店の主、森近さんは寝室でまだ眠っている。遅くまで彼が日記を書いていたのが原因だ。店主が休んでいる間に店の準備をしておくのも従業員の役目。さて、彼が起きる前に部屋を暖め、食事の準備をしておこうか。外套を室内で羽織り、異国情緒溢れる店内を歩きまわる。店の準備をするために私が触れた物体は、店内に置かれたとある暖房器具だった。

 

 石油ストーブ。貴重な化石燃料を使ったこの機械は森近さんが拾ってきたものだ。珍しく壊れていなかったために非売品となり、今日まで冬の寒さをものともせずに香霖堂を暖め続けている。人里の暖房がいまだに薪ストーブである事を考えると、ここが今の幻想郷で最も暖かい場所なのかもしれない。

 

 寒さで震える指がストーブに触れ、静かな店内に機械の点火音が鳴り響く。

 

 森近さんが起きてきたのは少し経った後。部屋がほんのりと温まった頃の事だった。

 

 

 ――カラン、カラ、カララ。

 

「いらっしゃいませ」

 

 昼過ぎ。相も変わらず外は寒いが店内は暖かい。そんな中、私が不思議な事に遭遇したのは森近さんの代わりに店番をしていた時だった。店の扉から聞こえたのは鈴が大きく鳴る音。どうやら、誰かがやってきたようだ。そう、そのはずなのだ。

 

「あれ、誰もいない?」

 

 しかし、入り口には雪が少し吹き込んできただけ。偶然扉が開いたにして音が大きかったが……。目を皿のようにして上下左右に見回したが、残念ながら私の目は誰の姿も捉える事ができなかった。お客様は神様というが、見えない神様の相手はどうするのだろうか。倉庫整理をしている森近さんに後で聞いてみよう。

 

「とりあえず、外を覗いてみますか」

 

 もしかしたら扉の外にいるのかもしれない。そう考え、私はゆっくりと扉の前へと歩み出した。一歩、二歩と近づき、ドアノブに手を伸ばそうとした瞬間。

 

 ポフッとした音。あたっ、と聞こえた幼い声。柔らかな感触を感じながら、私は何かにぶつかった。

 

 これは、もしかして。確信を持った私は周囲に手を伸ばしてみる。闇雲に伸ばした手は誰かを掴み、小さな姿の彼女達はついに姿を現した。

 

 見た目は子供。透き通るような綺麗な羽に謎の素材で出来た服。幻想郷に住む妖精の姿だ。目の前にいる赤色の太陽の光・青色の星の光・黄色の月の光の三妖精は、たまに店へ拾い物を持ってくる見慣れたお客達だった。

 

「やはり貴女達の仕業ですか。妖精さん」

 

 幻想郷に住む妖精の特徴とは、忘れっぽい・悪戯好き・不死身の三拍子である。彼らは自然の具現なので何度でも蘇り、そのせいなのか楽天的で一人で行動する者ばかりだ。けれど、彼女達は例外。彼女らは珍しく『人間ごっこ』として、三人一緒に活動しているのだ。ただ、『人間ごっこ』で三妖精が寝食を共にしている様子は、むしろ家族のようだと私は思う。

 

「あー、もう。どうしてバレたのかなぁ? 姿も音も消えたはずだったのに」

 

 赤いリボンをつけた妖精は見つかった事にご不満のようだ。唇を尖らせている彼女の名はサニーミルク。姿を消す能力を持つ妖精である。一方、サニーを窘めている青い服の妖精はスターサファイアという。

 

「まぁ、こんな時もあるわよサニー。ただ、扉の鈴が鳴ったのはダメだったわね。ねぇ、ルナ?」

 

 スターサファイアが振り向いた先には視線が泳いでいる月の光の妖精、ルナチャイルドがいた。スターサファイアが生き物の位置を知る能力を持っているのに対し、ルナチャイルドは音を消し去る能力を持つ。そのルナは視線に気づき、能力が使えなかった事の弁明を始めた。

 

「いや、だって…………その。まさか、扉をいきなり開けるなんて思わないもの」

 

「甘いわよルナ。これからの時代はジョーザイセンジョーよ。すぐに能力を使えたサニーを見習いなさい」

 

 ビシッと指を指されたサニーは、当店の傘型仕込み銃を眺めている最中だった。彼女は呼ばれた事に気付き、誤魔化すように質問する。

 

「え? うーん、ところでルナの言った錠剤洗浄って何だったかな?」

 

 尋ねるサニーの声を聞き、スターは「まだまだね」と皮肉げに笑って話を続けた。

 

「錠剤型の洗剤で洗うのよ。手軽に洗剤を用意できて、服が綺麗にシャッキリポンって事だと思うわ」

 

「なるほどねぇ。……ところで、私達は何をしに此処に来たんだっけ? 悪戯?」

 

 妖精らしくすっかり来た目的を忘れたようで、サニーは首を傾げながら二人に尋ねた。

 

「たしか体を温めに来たんじゃなかったかしら。凍死するのも面倒だから、あっちこっちで温まらないと。でしょうルナ?」

 

「いや、二人とも全く違うわよ。この拾い物を見せようって話を一緒にしたじゃない」

 

 自信満々にルナに語りかけるスター。しかし、ルナは二人を見て呆れたように溜め息を吐き、彼女が手に持っていた白い紙を見せた。

 

「あれ?そうだったかな?」「あら?そうだったかしら?」

 

「そうよ。まったくもう……。そういう訳で、この謎の白い紙の正体を教えて欲しいのよ」

 

 ルナは諦めたのか、やりとりを眺めていた私を見上げて用件を伝えてきた。外から紛れ込んできた物を鑑定して欲しいと。さて、今回は何を見つけてきたのだろうか。

 

 背伸びをした彼女から紙を渡してもらい、丁重に布で包んで調べてみる。鑑定が待ちきれないのか、そわそわと落ち着かない様子でルナは私の手元を見ていた。できれば、ルナの後ろで彼女達が店内を走り回っているのを止めてもらえないだろうか。そんな事をこっそりと願いながら私は紙をじっくりと眺め、勿体ぶるように鑑定結果を伝えた。

 

「ふむふむ。紙の形は長方形で、手触りはさらさら。片面には文字が長々と書いてあって、もう片面には羊の絵が描かれている。さてさて。これはたぶん、年賀状ですね」

 

 年賀状である。間違いなく紛うことなく年賀状だった。実は彼女から受け取った時点で気づいていたため、今のやりとりに意味が無いのは秘密だ。

 

「へー、年賀状なのね。って、その年賀状ってのは何なのよ?」

 

「これはね。外の世界で年始の挨拶を伝える紙で、あれ? 後ろの二人がいない」

 

 私の声を聞いたルナは小さな体でクルッと後ろを振り向いた。鈴鳴りと共に二人が消え去って扉が閉まる。さよならと言って、彼女達は立ち去っていった。目の前の妖精を残して。

 

「あぁ、もう。飽きて帰ったんじゃないかしら。いつも通りの事よ。私が最後なのは」

 

「ふうん、それじゃ君にだけ説明するとしよう」

 

 いないならしょうがない。諦めて彼女だけに年賀状を説明する事に決めた矢先、口をぽっかりと開けたルナが私の横を指さした。どうしたのだろうかと指先を辿って見ると、そこに彼はいた。半人半妖の店主。香霖堂の主。森近さんが、いつの間にか道具片手に佇んでいたのだった。

 

「僕を忘れてもらっては困るな。僕にも名無しの話を聞かせてもらおうか」

 

「ずいぶん早いですね。仕事はもう終わったのですか?」

 

「まだだけど、ちょっとばかり休むのもありだろう。そこの妖精もこっちに来て座るといい」

 

 森近さんが奥の椅子へ歩き出し、私達を手招きする。妖精を招く光景を見るのは奇妙な気分だ。人間の里だったら妖精から悪戯される前に追い払うのが普通だが、ここでは妖精が客として訪れているのだから。もちろん、その奇妙な部分が香霖堂の良い所でもある。

 

 私とルナが椅子に座った後、森近さんはお茶を淹れに立ち去った。その間に私もお菓子の準備を整える。子供っぽいからクッキーでもあげたら喜ぶかな。数分後。お菓子を嬉しそうに頬張るルナの姿で和みながら、私は年賀状の説明を続けた。

 

「まず年賀状についてですが、妖精さんは知らないとして、森近さんはどこまで知っています?」

 

「ある程度なら知っているよ。新年を祝って旧知の仲に送る紙だったと思うが」

 

「その認識で合っています。片面に送り主と宛先の情報を書き、もう片方に新年を祝う言葉や干支の絵などを書いて挨拶とするのが慣例ですね。幻想郷には無いのでしょうか?」

 

「僕の知る限りでは無いね。挨拶に使うには紙は高価すぎる。幻想郷で紙の価値が下がったのはここ数年の事で、外の世界から多くの紙が迷いこんできたからだ。そうでもなければ、僕が幻想郷の歴史を記した日記を書く事も無かっただろう。それに」

 

 そこで森近さんは区切った。続きが気になった私とルナが催促すると森近さんは咳払いをし、「推測や真偽不明な所も混じるが」と前置きをしてから話を続けた。

 

「干支は間違った考え方だから広まる事は無いだろう。12種類の動物を1年に当てはめて12年で世界が1周するとなっているが、それは間違いだ。世界が生まれ変わるのは12年周期ではなく60年周期。つまり、世界には60種類の1年が存在しているんだ。そして、その周期を構成する要素として三精・四季・五行がある。3つの要素を組み合わせると、3×4×5=60通りになるわけだ。けど、これらの要素を足すと3+4+5=12通りになるわけだから、外の世界の人間も世界の生まれ変わりを惜しい所で勘違いしたんだろう」

 

「四季は春・夏・秋・冬、五行は木・火・土・金・水でしょうけど、三精は何ですか?」

 

「三精については妖精が詳しいはずだ」

 

 森近さんはそう言って、ルナを指さした。ルナは少し考え込み、思いだしたのかポンッと手を叩いた。

 

「三精はお日様・お星様・お月様よ。私とスターとサニーはその三精の妖精なの」

 

「となると、春告精の場合は四季の妖精に分類されるのでしょうか?」

 

「それはわからないわ。他の妖精が何の妖精なのかは誰も、もしかしたら本人さえも気にしないから」

 

「ふむふむ。しかし、五行を見ていると一週間の曜日を思い出しますね」

 

「そうね。そういえば、どうして一週間は七日間なのかしら?」

 

「その疑問には僕が答えよう。君達は数字の意味を知っているか?」

 

 お茶を飲んでいた森近さんが話に割り込んできた。数字の意味。うん、聞き覚えがない言葉だ。

 

「いえ、私は知らないですね。妖精さんは知っています?」

 

 ルナに目を向けるが、彼女は首を振っていた。彼女も数字の意味を知らないらしい。森近さんは呆れとも喜びともとれる複雑な表情をしていた。

 

「やれやれ、君達は勉強が足りないな。今回だけは特別に僕が教えてあげよう。ただ長い話になるから話をするのは少しだけだ。例えば『八』という数字。この数字の意味は『完全』や『幻想』、『二つに分ける』だ」

 

「どうしてそんな意味があるとわかるのですか?」

 

「世界のルールだからとしか言えない。が、意味が使われている例なら挙げられる。まずは『完全』。霊夢のスペルカードにも使われている『八方』が由来だ。これは四方四隅をもって『全て』の方向とする事からわかる。次に『幻想』。これは幻想の象徴となっているものを並べればわかるだろう。幻想の鳥『八咫烏』、怪物『八岐大蛇』、神器『八尺瓊勾玉』。他にも多くの幻想に『八』が使われている。そして、最後の『二つに分ける』。これは漢字を見るといい。『分』にも結界の『界』にも『八』が含まれている。文字の形がそのまま意味を持っているんだ」

 

「むむっ、店主さんって凄いのね。数字の意味なんて全然考えた事はなかったわ」

 

 感心するルナ。私も知らなかったので、驚きの表情を隠せない。森近さんはその様子に気をよくしたのか更に話し始めた。

 

「数字の意味を知ると物事をより深く考えられる。最近だと外の式神の取扱書に書いてあった『繰り返しのfor』が、『four(四)』との語呂合わせを使い、輪廻転生における『四(死)の繰り返し』の概念を利用しているのではと睨んでいるのだが。まぁ、それはさておき。ここまで話をしたら、一週間が何故七日間になっているのかわかるか?」

 

 森近さんの突然の質問が私の元にやってきた。これまでの八の意味を考えると……。

 

「えっと、完全であり、幻想であり、二つに分ける事もあるのだから。もしかして『八』が存在できないという事ですか?」

 

「その通り。正確には『八』の概念は一部の存在しか扱えない。『八』は不完全な人間を、『完全』や『幻想』から『分ける』数字なのさ。だから、七までが人間が扱える数字で一週間は七日なんだ。四季を除いた五行と三精が一週間の要素となるはずが、星の概念が抜けてしまったのがその証拠だよ。外の世界では月の概念を排除して『六こそが完全な数』なんて言っているけど、月を蔑ろにした人間が完全だなんて間違いだ。他にも質問はあるか?」

 

「いや、無いですね。妖精さんは?」

 

「私も無いわよ。忘れないうちにスターとサニーへ今日のお話を土産にするわ」

 

「なら、僕の話はここまでにする。二人の参考になったら幸いだ」

 

 そう言って森近さんは話を終え、ルナは外へ出るための支度を始めた。

 

 

「今日はありがとう。私はもう行くね」

 

「ちょっと待って妖精さん。年賀状を忘れてますよ」

 

「あ、どうも忘れるところだったわ。……そうだ。年賀状の絵に描かれている羊?は幻想郷で見たことが無いのだけど実在するの?」

 

 私が渡した年賀状をしげしげと見て、ルナは心底不思議そうに言った。

 

「どうなんでしょう、森近さん?」

 

「羊か。書物での知識はあるが、幻想郷に現れた事は一度もないな。羊が生きるには幻想郷の気候や立地は適していないからな」

 

 森近さんは眼鏡を動かし、きっぱりと断言した。

 

「なるほど。森近さんは羊が幻想郷に現れないと考えているようですね」

 

「その言い方だと、名無しは羊が幻想郷に現れると思うのか?」

 

「えぇ、思っていますよ。妖精さん、いや、ルナチャイルドさん。私と賭けをしませんか?」

 

「随分と突然ね。一体どんな内容の賭けなの?」

 

「簡単ですよ。羊が幻想郷に現れるか否かです。期限は今年中。勝利した側が料理を一度だけご馳走になる。その程度のものです」

 

 私の提案を聞いてルナは何度か悩んだ後、忘れないようにメモに書いてから承諾した。

 

「いいわよ。面白そうだから、楽しみに待っているわ」

 

「それじゃ、賭けは成立という事で。本日はご来店ありがとうございました」

 

 私が店の入り口まで送っていくと、ありがとうと言って彼女は雪の中を飛び去って行った。雪は止むどころか、もっと勢いが強くなっている。遠くからは、ルナの「寒い!」と言う声が聞こえてきた。

 

 可愛らしいその悲鳴に私は笑った。思ったよりも声が大きかったらしい。店の奥で考え事をしていた森近さんから声をかけられた。

 

「なぁ、名無し。あんな賭けをしてよかったのか? 僕には名無しが負ける賭けに挑んでいるようにしか見えないんだが」

 

「いいんですよ、私の勝ちは揺るぎませんからね」

 

「随分と自信があるな。その理由は教えてくれないのか?」

 

「残念ながら、秘密です。ただ、そうですね。ヒントは森近さんがくれました」

 

 私の言葉を聞いて、眼鏡を拭きながら考える森近さん。何か呟いているが、すぐには思い出せないようだった。

 

 

 羊。ウシ科の哺乳類に属しており、毛は灰白色で柔らかい。性質は臆病で常に群棲。

 

 だけど、そんな事は重要じゃない。干支における羊の順番とは?

 

 

 

 私は勝利を確信していた。必ずや羊が幻想郷に訪れると。

 

 だって、今年の干支は羊。そして、羊は干支の『八』番目。『幻想』の動物なのだから。

 

 

 

 



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<第四話> 復活祭と私

 十六夜咲夜は悩んでいた。

 

 十六夜咲夜は人間である。銀髪の少女である。そして、妖精のメイド達を統括するメイド長でもあった。

 

 彼女が働いている屋敷は普通のお屋敷ではない。幻想郷の建物でも一際有名な巨大な館だ。

 

 紅色に染まっている巨大な建物。名を『紅魔館』。もしも、誰かがこの館を見かけたならば、尋常ならざる雰囲気に気付くだろう。それもそのはず。この屋敷の持ち主は吸血鬼の姉妹なのだから。

 

 姉の名はレミリア・スカーレット、妹の名はフランドール・スカーレット。

 

 咲夜は二人の主のお世話をしながら、毎日を過ごしていた。

 

 思い返せば、彼女が吸血鬼を主と仰ぐ事になったのは偶然のなりゆきであった。最初の頃は、しぶしぶと働いていた。しかし、いつからだただろうか。いつの間にか、吸血鬼との生活も悪くはないかなと思い始めていた。

 

 それは咲夜が生来、人間を好ましく思っていなかった事もあっただろう。しかし、それだけではなく、レミリアお嬢様の子供っぽい人柄や特殊能力も関係していたのかもしれない。

 

 幻想郷では、多くの妖怪が特殊能力を持っている。その能力は同じ種族でさえ異なるため、オンリーワンなのだ。だが、自らのできる事を申告する方式なので、同じ能力も存在しうるのは公然の秘密である。

 

 ともかく、妖怪は固有の能力を備えている事が多い。例にもれず、スカーレット姉妹もまた特殊能力を持っていた。レミリアは運命を操る程度の能力。フランドールはありとあらゆるものを破壊する程度の能力。

 

 程度、と書いてあるが強大な力である。能力を申告する時の慣習だと考えていた方が良いだろう。

 

 そして、咲夜も珍しく、特殊能力を持っている人間だった。時を操る程度の能力と呼ぶそれは、時間と空間を操作する事ができる能力だった。人の身には余る力を持った彼女は、どのようにこれまでを過ごしてきたのか。誰もその来歴を知る事はできない。

 

 ただ言えるのは、彼女はいつからか吸血鬼の元で働き出し、その能力を活用できる場所を幸運にも手に入れる事ができた、という事だけだ。

 

 例えば、ワインの発酵促進。屋敷の空間拡張。一瞬で調理され、運ばれてくる料理。

 

 その様子を誰が呼んだか。

 

 完全で瀟洒なメイド、あるいはタイムストッパー咲夜。

 

 

 十六夜咲夜は今日もお嬢様の期待に応えるために働く……はずだったのだが。

 

 飄々とした彼女には珍しく、自室にて険しい顔で一点を見つめていた。それほどまでに深刻な悩みであった。

 

 壁に掛けられたカレンダー。とある日付に赤色の丸印と小さく言葉が書いてあった。

 

 レミリアお嬢様の誕生日、と。

 

 

 霧の湖に佇む血のように紅い館では、役に立たない妖精メイド達が屋敷の廊下を楽しそうに歩いていた。その間を縫うように、咲夜は時間停止を活用して移動を行っていた。

 

 レミリアのお部屋と書かれたドアの前まで到着した事を確認して、すっと一呼吸。コンコンコン。控えめにノックをすると、ドアの向こうからは「入っていいわよ」と幼い声で返事が返ってきた。

 

 機嫌を損ねないように、優雅に、されど迅速に歩を進めると、レミリアお嬢様は読書中だったらしい。小さな椅子に腰かけて、ご友人の魔法使いから借りたと思われる本を読んでいるようだった。

 

 咲夜は能力を活用して一瞬で紅茶を用意する。清々しい葉の香りが部屋に充満する中、お嬢様は唐突にポイッとベッドに投げ捨てた。飽きたらしい。いつもの事である。

 

 一区切りがついた事を見計らって、咲夜はお嬢様に質問をした。

 

「そういえばお嬢様、最近は何かしたい事はありますか」

 

「いや、ないわよ。ずいぶんと突然ね、どうしたの」

 

 疑問を浮かべるお嬢様に応えるために、咲夜は続きを話す。

 

「ええと、そろそろお嬢様の誕生日が近づいているので、どうすれば良いかと考えていまして」

 

「なるほど、殊勝な考えね。それなら…………そうね。――――欲しい物があるわ!」

 

 考えている最中に表情がころころと変わるお嬢様。その様子を面白がって見てると、考えが纏まったらしい。元気よく声を上げて、レミリアお嬢様はお題を咲夜に伝えたのだった。

 

『珍しい卵』が欲しい。咲夜としてはどうにも困る、ふわっとした内容であった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 魔法の森に佇む古道具店『香霖堂』。そこに雇われているのは外来人の助手、名無し。つまり、私の事である。

 

 入念に店内の掃除をしていると、店の扉がゆっくりと開き、入店を報せるために鈴が鳴った。

 

 ――――カラン、カララ。

 

「やぁ、お疲れ様。調子はどうだい」

 

 扉から現れた人影が声を発する。年の若い男のような声だった。

 

「まずまずですね。埃があちこちに溜まってましたよ、森近さん」

 

 私が返事をすると、森近さん―――香霖堂の店主―――は「そうだろうね」と同意しながら小さく頷いた。

 

「僕はあんまり店を掃除しないからね。たまに霊夢の奴に手伝ってもらうんだが」

 

「客商売なんだから、そこはしっかりとした方がいいですよ」

 

 店に対して何となしに呟くその姿は、まるで他人事を話すような気負いの無さがあった。

 

「そうはいっても、売れなくても生活はできるからね。焦らなくても」

 

「森近さんは食事しなくても平気ですけど、私は駄目なんですってば。畑の収穫と物々交換で生活するのは流石にちょっと」

 

「まぁ、今の所は当分大丈夫そうだし、後々なんとかなるだろう」

 

「もう。気長だなぁ」

 

 人間である私からすると、森近さんは少しずれているように感じる時が多々ある。それはたぶん。森近さんが妖怪と人間の特徴を半分ずつ持っている半人半妖だからなのかもしれない。

 

 気を取り直して掃除をする前に、森近さんが見覚えのある紙を掴んでいる事に気付いた。

 

「ところで、森近さんが持ってる紙。それは新聞ですよね」

 

「ん? ああ、そうだよ。名無しにちょっと見せたい記事があってね」

 

 そう言って、森近さんは私を近くのテーブルに手招きする。その仕草に釣られて近寄ると、森近さんはテーブル全体を覆うようにバサッと新聞紙を広げて、私に見せつけるように記事を指さした。

 

「ここの記事なんだが、名無しはどう思う?」

 

「えーと、なになに」

 

『文々。新聞・号外』と書かれた新聞。彼が指差した記事には《新たな異変か!? 人間の里に流れる奇妙な噂!》との言葉が書かれてあった。

 

「足を売っている老婆、ですか。どっかで聞いた事があるような――――」

 

「おっと、間違えた。そっちの記事じゃなくて、こっちの広告を見て欲しいんだ」

 

 森近さんが軽く咳払いをして、少し右に指をずらす。そこには、《求む!珍しい卵!》と書かれてあった。

 

「珍しい卵? 広告で募集をしているのは紅魔館ですか。吸血鬼が住んでいる所でしたっけ?」

 

「そうそう。それで、僕が気になるのは珍しい卵についてだ。どうやら、館のメイドでお嬢様宛のプレゼントを探しているらしい。君は卵について、どう思う?」

 

 今日の森近さんは、卵について語りたい気分らしい。店主の望みを叶えるのも、店員のお仕事である。

 

「えっと、鳥が繁殖する時に生み出す物質というイメージですかね。食事に使う鶏の卵が一番最初に思い浮かびました」

 

「うん、それも間違っていない。他にも、生命の象徴のような役割も持っているはずだ。君の知識には心あたりがないか?」

 

「外の世界では、復活祭という名前のお祭りがあったはずです。イースターとも呼ばれていて、色を塗った卵やウサギが登場したような。うろ覚えですけど」

 

「やはりか。僕が本で読んだ通りだ」

 

 私の言葉に確信するような面持ちで、森近さんが頷いた。

 

「既に知っていたんですか? イースターの事」

 

「ああ、実は外の世界から流れ着いた本に書いてあってね。確か―――」

 

 その時だった。一陣の風が吹き、私と森近さんの目の前に、まるで最初からそこにいたかのように、メイド姿の少女が現れた。噂をすればなんとやら。紅魔館で働くメイド、十六夜咲夜がそこにいた。

 

「――――失礼。興味深い話をしているのね」

 

 突然の登場に動揺する私と対比するように、森近さんは冷静に言葉を紡ぐ。

 

「急な来訪は止めて欲しいんだけどね」

 

「あらあら。ごめんね、驚かせてしまったかしら」

 

「ああ。時を止める能力を使う時は、できる限り心臓に優しい方法で頼むよ」

 

「前向きに検討して、善処しますわ」

 

 それは反省しない人の常套句だろう、と私は思ったが、森近さんも同じ事に思い当たったらしい。苦い顔をしている。森近さんの態度が接客モードから変化しているから、相当怒っているはずだ。

 

「それで、どのような商品が欲しいんだ。また、霊夢の湯飲みを前衛芸術にでも変化させたのか」

 

「いえいえ、今回は火急の要件よ。貴方達の知恵を借りたくてね。ほら、新聞の広告を見てくれたでしょう」

 

 《珍しい卵》についてだろう。確かに卵について話をしていた所だ。彼女の言葉に反応した店主は、嬉しそうに語り出す。

 

「そうか、それならさっきの話をしよう。こほん。――――外の世界のイースターというお祭りでは、様々な色に塗った卵を用いてお祝いするらしい。どうして、白い卵に色を塗る必要があるのか。それは、赤色に塗る卵が非常に多い事がヒントになっている。名無し、わかるか?」

 

「ええと、わかりません」

 

「冷静に考えてみるんだ。卵の色は白。塗る色は赤。そう、僕らにも馴染み深い『紅白』だ。紅白餅に紅白幕、祝い事であるハレを意味する『紅白』の概念に、生命の象徴である卵を組み合わせる。これこそ最上の祝いを表すと言っても過言ではないと思うよ。その二色以外の色もあるのは、虹のような色彩にすることで、より広い範囲の意味を持たせるためだ」

 

 そんな意味は無かったような。喪失した記憶の断片が否定しろと伝えている。そこで、なんとか再考させるべく、私は別の疑問をぶつけてみる。

 

「それなら、イースターに登場する兎の意味は?」

 

「それは勿論、鳥の代用さ。兎は一羽、二羽と数えるように、昔から鳥と同様の存在として扱われてきた。その上、僕が新しく知った情報では、兎の足や尻尾は幸運のお守りになるらしい。つまり、鳥以上に素晴らしい、代用の鳥が兎なのだ。だから、イースターに兎を使うのは不思議じゃない。それにこの考えは、幻想郷の祭りにも反映されている」

 

 森近さんの熱弁を聞いている咲夜さんが胡散臭そうに質問をした。

 

「祭りを見ても、カラフルな卵も可愛らしい兎も見当たらないのですけど」

 

「いいや、姿を変えて見つけているはずさ。様々な色のヒヨコに、兎の焼肉。多少の姿形が変わっても、祝うためには支障が出ない。そして、一番の本題である、珍しい卵について、話をしよう」

 

「なるほど。お嬢様にプレゼントするために、是非ともお願いしますわ」

 

「さて、この様々な色に塗られて飾られるイースターエッグ。その中でも、最も珍しい卵の名前をインペリアル・イースター・エッグと呼ぶ。これは、卵であるが、本物の卵じゃない。黄金と宝石によって卵を模した芸術品なんだ。更にだ、これは合計で58個あるはずなんだが、外の世界では44個しか見つかっていないらしい。必死に捜索したのにもかかわらずだ。とても不思議だね、まるで『神隠し』に巻き込まれたみたいだ」

 

「・・・つまり?」

 

「もしかしたら、この幻想郷に流れ着いているのかもしれない。本当は秘密にしたかったんだが、しょうがない。かの芸術品は貴人のために作られたようだから、珍しい卵が欲しい彼女にはぴったりだろう」

 

「お嬢様へのサプライズとしては良いですね。問題は見つかるか、ですけども」

 

「可能性はある、ってだけだね。無理なら普通のイースターエッグでも良いだろう。外の世界の文化だ。間違いなく珍しいだろうさ」

 

「わかりました、できる限り探してみる事にしますわ。ありがとう。それから、店員さんにも迷惑かけたわね」

 

 礼を言った咲夜さんは、無言で聞いていた私にも声をかけた後、森近さんに情報料を渡した。彼の嬉しそうな表情をしている様子を見る限り、中々の量の金銭を貰ったらしい。

 

 その後、彼女は「また困った事ができたら、よろしくね」と言って、登場した時のように忽然と消え去った。

 

 残されたのは、嬉しそうな店主と手持無沙汰な私だけ。

 

 とりあえず、私は気になっている事を森近さんに伝える事にした。

 

「ところで、本当にインペリアル・イースター・エッグが見つかると思っています?」

 

 すると、森近さんは眼鏡を少しずらして、平坦な声で意見を述べた。

 

「さぁ、どうだろうねぇ。無理だとは思うけど、もしかしたらってのは考えているよ。自分で探したかったけど、紅魔館みたいに人海戦術は使えないからな。まぁ、浪漫を誰かに譲ったってだけだよ」

 

「そうですか。でも、実際に見つかったら、すごい悔しがりそうですね」

 

「ははっ、どうせ見つからないさ。――――見つから、ないよな?」

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「これが、例のインペリアル・イースター・エッグ、ですか」

 

 十六夜咲夜は震えそうになる声を抑えるように、平坦に努めて言葉を零した。

 

 長い道のりだった。すぐにサボる妖精メイド達を統括しての大捜索。死んでも蘇る妖精の特性を活用して、結界が不安定な場所へ捜索する手はずを整えるのは、今思い返しても、胃が痛くなるほどだ。

 

 それでも、それでもだ。ついに、1個だけ見つける事ができた。

 

 輝くダイヤモンドの煌き。他の色の宝石がアクセントとなりつつも、調和を崩さないデザインは、レミリアお嬢様に相応しい芸術品だろうと確信させる。

 

 ――――間違いなく、喜んでくれるだろう。

 

 プレゼント箱にかの芸術品を入れ、咲夜はついにレミリアの部屋の前までやってきた。

 

 準備は完璧。これで、後はプレゼントを間違いなく渡すだけだ。

 

 息を整えて、咲夜はノックをする。コンコンコン。

 

 ドアの先からは、いつも通りのお嬢様の声が聞こえてきた。ノブを回し、すこしずつ開いた扉に身を滑り込ませるように踏み入る。

 

 部屋にいたレミリアお嬢様は、飾りつけや料理を楽しんでいるようだった。無邪気な明るい声で、咲夜に話しかける。

 

「ねぇねぇ、咲夜。このタイミングで来たって事はプレゼントかしら? 楽しみに待ってたわ」

 

「えぇ、こちらがそのプレゼントです。間違いなく、珍しい卵だと自負しています」

 

 軽いはずのプレゼントが、やけに重々しく感じられた。中に入ってるのは、数種類のイースターエッグと本命の卵だ。

 

 

 ――――咲夜はプレゼントを渡し、勝利を確信した。

 

 

「そこまで咲夜が言うなんて、どんな珍しい卵かしら。――――あれ?」

 

 プレゼントを楽しそうに開いて、中身を見たお嬢様が疑問の声を上げる。

 

「あの、咲夜。見間違いでなければ、卵型の芸術品と色のついた鶏卵よね」

 

「ええ、お嬢様の言った通り、外の世界で使用される珍しい卵の飾りです。それが、何か?」

 

「――――ああ、そういう事ね。珍しい卵の意味をそう捉えたんだ。食べ物でいいのに」

 

 首を傾げたお嬢様の言葉に耳を疑う。――――聞き間違いかもしれない。

 

「お嬢様? 食べ物でいいとは?」

 

「やーねー、咲夜ったら。頭を捻り過ぎよ。私はガチョウの卵とかワニの卵とか、そういうものを食べてみたいって意味で言ったんだけど。理想としては、鴉天狗の卵を食べてみたかったなー。でも、これも綺麗だから大事に飾っておくわ。ありがとね」

 

つまる所、深読みしすぎたのだ。意味深な事を言うのが好きなお嬢様だが、根は子供らしいものだという事を失念していた。あるいは、ここまでを予想して、意地悪をするためにぼかしたのかもしれないが。

 

とはいえ、――――咲夜は敗北したのだ。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 後日の事だ。香霖堂に一通の手紙が届いた。

 

 その中身を見た店主と店員は、誕生日パーティで起きた事の顛末を知り、なんとも複雑な表情になったそうな。

 

 めでたくない、めでたくない。



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<第五話> 月の破片と私

 店内へ熱気が入り込むほどに随分と暖かな夜の事である。

 

 誰かに誘われるような夢によって目を覚ました私は、その不可解な意識の覚醒に首を傾げた。

 

「うーん?」

 

 耳を澄ませるが何も音はしない。誰かが眠りを邪魔したわけでなく、森近さんもまた眠っているようだった。

 

 気を取り直して再び眠りに入ろうとするが……どうにも寝付けない。気分転換に少し歩くか。

 

 草履が地面を踏むたびに、しゅるりと僅かに擦れた音を立てる。現代社会と違い、幻想郷の夜は本当に暗い。注意深く歩かなければ、たちまち香霖堂の商品に蹴っ躓いて怪我をするだろう。

 

 そんな事を考えながらも、私はここ最近の事を思い返していた。

 

 春が訪れてからは寝つきがどうにも悪い。幻想郷では様々な異変が相変わらず起きているが、眠れなくなる異変とかもあるのだろうか。

 

 しかし、眠れない事が不快なわけではない。虫の知らせとも違う。そう、まるでそれが――――。

 

 ――――どさり。思考を邪魔するように、なにやら重い物が地面に落ちたかのような音が店の裏から聞こえてきた。

 

 その音で、私は香霖堂の裏に桜が見事に咲き誇っていた事を思い出す。まさかとは思うが、夜桜を眺めに来たのだろうか。ここの桜は殆どの者が知らないため、香霖堂に訪れた客の誰かに違いない。

 

 古来より桜の魔力は人も妖怪も狂わせる。『美しい桜の下には死体が』なんて不吉な噂話もよくあるが、それは桜の魔力を恐れた誰かの恐怖の象徴だ。

 

 桜を見るためだけに、人々も妖怪もどこからともなく集まってくる。

 

 美しい花。ただそれだけのために、桜を育てる者は木が枯れない事に腐心するようになる。木を育てて、その姿を見てやろうと思っていたはずが、いつの間にかその下僕となってしまうのである。

 

 なんと恐ろしい。しかし、何よりも恐ろしいのは、それでもいいと感じてしまう事である。世界には様々な魔力を持った植物がいるが、人々を操る事に長けた桜の魔力はどれだけ強大なのであろうか。

 

 そして、今宵は誰がその魔力に操られたのやら。

 

 好奇心に押されて、私は何かに導かれるように静かに外へと歩き出した。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 綺麗に輝く満月、いや十六夜の月か。薄い雲が光を遮って、ぼんやりとした灯りが外を照らしていた。

 

 私は息を潜めて店の物陰に隠れて様子を探る。店員なのに微妙に怪しい動きをしているが、そんな小心者が私だ。

 

 見つめる先には予想通りというか、予想外というか、幽霊のように白い桜の下に誰かがいた。

 

 遠目でもわかるほどに派手な服。装飾過多な傘から僅かに見えるのは、ナイトキャップ型の帽子と深紅のリボン。

 

 香霖堂の客であり、謎の大妖怪でもある、八雲紫という名の少女がそこに佇んでいた。

 

 彼女について詳しく知る者は誰もいない。付き合いの長い霊夢さんですら、その素性は知らないらしい。

 

 私が知っているのは、彼女の能力で幻想郷の結界を維持している事と、香霖堂に訪れては貴重な燃料と引き換えに外の世界の物品を持ち去る、いわゆる取引先のような存在である、という事の2つだけである。

 

 香霖堂を知っている以上、彼女が夜桜を見に来ているのは何ら不思議ではないが――――。

 

 彼女の様子をじっと物陰から伺っていると、まるで最初から知っていたかのように彼女はこちらに振り向いた。

 

「あら? 貴方も桜を見に来たのかしら?」

 

 距離があるにも関わらず、彼女の声がやけにはっきりと聞こえた。

 

 その質問に答えるために私はおそるおそる近寄っていく。緊張するのも仕方ないだろう。なんていたって、彼女は妖怪の中でも最も得体の知れない妖怪なのだから。

 

 近付くにつれ、白桜の下にいる八雲さんの姿がはっきりと見える。

 

 若々しい素顔。服装や立ち振る舞いに目を瞑れば、そこらの少女と同じと言っても過言ではない。――――もちろん、独特の雰囲気と瞳の鋭さが妖怪だと自己主張しているため、見る者が見ればすぐに気付くだろうが。

 

「いえ、私はどうにも寝付けなくて。それで歩いていたら、八雲さんを見かけただけです」

 

「あら。夜更かしは駄目だわ。夜は妖怪の時間。人間にとって危険である事を理解しているのかしら?」

 

「もちろん。しかし、家で過ごすだけならば。夜なのに眠らない。そんな日があってもいいとは思います」

 

「ふぅん。ああ、夜と言えば、貴方は最近の里に現れる怪異についてご存じ?」

 

「怪異? それは前に新聞に載っていた、人間の足を売る老婆とかいう妖怪の事ですかね」

 

 『文々。新聞』に載っていた記事を思い出して尋ねると、彼女はわざとらしく泣き真似をして、口を開いた。

 

「しくしく。――――妖怪と怪異を一緒にされるなんて悲しいですわ。妖怪は幻想の存在。現れた怪異は幻想未満、たかだか仮想の存在なのですから」

 

 妄想・空想・予想・仮想・幻想。物事には存在強度の違いがある、とは森近さんの談だ。

 

「つまり、今回の異変は妖怪が引き起こしたものではないと?」

 

「ええ。同じ姿、同じ行動をする怪異が各地で同じ時間に発生しているんだもの。それも不安定な姿でね。妖怪は同一種族で近しい特性を持っても完全な同一ではない。その理由は、っていけない。長々と話し過ぎてしまったわ」

 

 私に語りかけながらも何かを納得した彼女は、自らの口元を扇子で隠して話を続ける。

 

「怪異は同じ存在が複数存在する。妖怪は厳密には存在しない。だから、違いますわ」

 

「人間の里では、そのような存在が複数体も現れていると?」

 

「里に現れている怪異は先触れよ。これからは各地で様々な怪異、例えば人面犬とかが登場するでしょうね。どう? 貴方はこれらの怪異に心当たりは無いかしら?」

 

 私に尋ねる八雲さんの面持ちは不気味で、誰かを探しているようであり、何かを隠しているような、どうにも胡散臭い様子であった。

 

「心当たりですか? 急に言われても……」

 

 答えられずにまごついていると、八雲さんはくすりと笑い、踵を返す。

 

「わからないのなら構わないわ。その怪異達は『都市伝説』と外の世界では呼ばれているそうよ。貴方が何かを思い出したらいいわね」

 

 そう言って、彼女は自らの能力で生み出した空間の亀裂、スキマへと身を放り込み、瞬く間に姿を消した。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 八雲さんとの邂逅を終え、さっさと眠ろうと香霖堂の入り口へと向かう。

 

 すると、「こつり」と小さな感触がして、私の頭に何かが落下してきた事を感じとった。下を見ると、ぶつかった何かはころころと地面を転がって、やがてぴたりと止まる。

 

「はて、何が落ちてきたのでしょうか?」

 

 疑問に思い、地面に屈んで近づいてみると、そこにあったのは…………シオマネキの大きな右鋏であった。

 

「どうしてこんな場所に蟹の鋏が? ファフロッキーズ現象でもあるまいし」

 

 ファフロッキーズとは、本来あり得ない場所に水棲生物が落下してくる事を指す。もっとも現在地が幻想郷である事を考えれば、発生しても何ら不思議ではないのだが。

 

 シオマネキの鋏を拾い上げてみると、身が入ってないようで、叩くと「こつこつ」と甲殻類特有の軽くも頑丈な音が聞こえてくる。

 

 ついでに、より詳しく見るために、拾ったシオマネキの鋏を月の方向に掲げてみるか。

 

 ――――雲の隙間から漏れ出た月光が、蟹が持っていた色合い、紅白の柄を強調する。それだけでなく、見覚えのある妖精の影が正面から近付いている事も浮かび上がらせていた。月の光の妖精、ルナチャイルドさんだ。

 

「こんな所で奇遇ね。名無しさんも月の破片を探しているの?」

 

「月の破片?」

 

「既に持っているじゃない。その蟹の鋏。今日の夜に拾ったんでしょ?」

 

 ルナチャイルドさんが指で示した先には、シオマネキの鋏があった。これが月の欠片?

 

「確かにそうですけど、どうしてわかったんですか?」

 

「満月の次の日、十六夜の夜には外の世界の品が落ちてくるの。それらは全て月に関連していて、満月を構成した何かが削られたものよ。だから月の破片。自宅のコレクション用に集めているから、できれば譲って欲しいんだけど」

 

「いいですよ。これが何の役に立つのかは知りませんが」

 

 特に愛着もないガラクタなので渡してあげると、月の羽を震わせてルナチャイルドさんは喜んでいた。しかし、ふと表情を変えて、疑問を呈する。

 

「そういえば、蟹がどうして月の欠片なのかしら」

 

「ああ、それはですね。月には兎の他に蟹も住んでいるからですよ」

 

「へぇ、そうなんだ。でも、鋏だけなのね。中身も入ってない空っぽで変なの」

 

「ええと。理由は確かあったはずなんですが、ちょっと思い出せないですね」

 

 最近はどうにも忘れっぽくなっている気がする。外の世界で必要な知識でもなく、幻想郷で必要な知識でも無いから不思議ではないのだが。

 

 ――――ぎちりぎちり。

 

 二人で考え込んでいると、不愉快な音と共に近くの空間が歪みだした。隣にいたルナチャイルドさんが顔を青褪めて震えている。

 

 空間が裂け、目玉が渦巻く裂け目から飛び出してきたのは――――先程の八雲さんだった。

 

「あら? お邪魔しちゃったかしら。ごめんなさいね」

 

 思わず安堵の息を漏らす。もっと心臓に優しい登場方法は無かったのだろうか、と愚痴を漏らしたらまずいので、気を引き締めて口を閉ざす事にする。

 

 一方、八雲さんはというと、こちらの気持ちを知ってか知らずか、呑気に話しかけてきた。

 

「さっきの話の中で伝え忘れた事がありましたの。貴方が未来で暮らすのは外の世界? 人間の里? それとも、この香霖堂で生活を続けるのかしら?」

 

「それは記憶が戻ってからでは駄目でしょうか」

 

「構わないわ。でも、その時のために今から考えていてね。なんて言ったって――――」

 

 

 ――――もうすぐ貴方自身が気付いてしまうのですから。

 

 

 聞き逃してしまいそうなほどに小さな声で、確かに八雲さんは呟いた。

 

「え? 八雲さん?」

 

 その真意を問う前に彼女の姿は煙のように消え去った。聞き間違いでなければ、八雲さんが私の何かに関わっていそうなのだが。

 

 そういえば、隣にいたはずの妖精さんが静かだ。彼女だったら悲鳴を上げていそうなものだが。

 

 横を向くと、そこには片方だけの靴が落ちていた。ちょっと離れた所では、転んで地面と抱き合っているルナチャイルドさんの姿が見えた。

 

 私が推測するに、八雲さんの妖気に恐れをなして、急いで離脱しようとするも失敗。といったところだろうか。

 

「大丈夫ですか」と声をかけて、土と葉っぱに塗れた彼女を助け起こす。

 

 やや涙ぐんだ様子のルナチャイルドさんであったが怪我はなかったらしい。お礼を言いながらも、大事そうにシオマネキの鋏を抱えているようだった。

 

 その光景を見て、私は蟹について思い出す。ああ、そうだ。そうだった。

 

「ルナチャイルドさん、どうして蟹の鋏だけが落ちてきたのか。わかりましたよ」

 

「それって本当?」

 

「ええ。蟹はですね。月に住んでいるのに月の光を恐れているんですよ。月夜の蟹っていうんですけどね。中身が無いのは、蟹が月の恐怖に痩せ細った証拠。鋏だけが残っていたのは、蟹が恐怖に耐えかねて、自分の鋏を自分で切ってしまったからでしょう」

 

「なるほどね。でも、どうして今頃になって思い出したの?」

 

「それは――」 「それは?」

 

「申し訳ありませんが――――言えません」

 

 

 下から私を見上げる、ルナチャイルドさんの純粋な好奇の瞳が今は心苦しかった。

 

 逃げ出した彼女に理由を言うわけにはいかない。

 

 それはたぶん。蟹のような彼女を怒らせてしまうから。

 

 世の中には、何事も言わない方が良い事もあるのだ。



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<第六話> 縁起と私

※今回の話は当社比1.5倍のゴリ押しです

ちなみにゴリ押しの由来は、ゴリゴリとした擬音
ひいては学名ゴリラ・ゴリラの逞しさから――――ごめんなさい、嘘です



 外の世界では『トマティーナ』と呼ばれる、人々がトマトを建物や人間にぶつける祭りが流行っているらしい。何故、人々はトマトを投げ合うのだろうか。

 

 トマトが幻想郷の食卓に登場するようになったのは少し昔の頃だが、外の世界では江戸時代の頃に外国から運ばれてやってきた。当時の名前は『唐柿』。つまり、柿の仲間のような扱いを受けていたのだ。これは当時流行していた柿の種類が非常にトマトに似ていたためと言われている。

 

 仮にトマトではなく、柿を投げあう様子を想像してみよう。

 

 道路に柿が叩き付けられては橙色の飛沫が飛び、人々の頭に柿がぶつかってはその固さに悶絶する姿が思い浮かぶ。地獄絵図だ。その様子は戦争のような様相を呈するに違いない。

 

 こうして考えると、柿を投げつけようとするよりも、柿の代用品として『唐柿』を使う方が遥かに安全である事は言うまでもない。では、柿を使って投げ合う理由は何だろうか?

 

 最初に思いついたのは、猿蟹合戦の再現である。

 

 猿蟹合戦と言えば、猿が投げた柿に親蟹が倒され、その敵討ちを小蟹が栗などと行う話だ。ついでに言うと、芥川龍之介と名乗る作家がその後の後日談なども書いていたが、それは関係ないか。

 

 ともかく、そう考えた場合、困った事に物語の再現をする理由が特に思い浮かばない。猿は馬を守る守護獣として有名な、いわゆる善性の存在だからだ。この考えはたぶん違うだろう。

 

 では、柿を投げるのではなく、投げる物体を間違えた説で考えてみよう。建物に投げる行為で有名な行事といえば、皆が知っているだろう『節分』だ。

 

 『節分』では豆を投げるのが一般化している。それは豆が鬼を払うと信じられているのが理由だ。

 

 だが、鬼を追い払うために投げる豆が、本来はとある果物の代用品であるという事は余り知られていない。

 

 その果物が何かって? それは『桃』である。

 

 桃が鬼ならず、様々な邪気を払う事は遥か昔から知られていた。古事記にもそう書かれている。

 

 有名なのはイザナギが黄泉の国に訪れた話だ。

 

 黄泉の国でイザナギは千五百体の化け物に襲われた。彼は持ち物の全てを投げて追い払おうとしたが、何も効果が無かった。しかし、追い詰められたイザナギは、咄嗟に道端の桃の木から入手した桃を三つ投げつけた。すると、千五百体の化け物はたった三つの桃を怖がり、全て逃げ去ったというものである。

 

 他に有名な話と言えば、言わずと知れた『桃太郎』である。

 

 桃から生まれた桃太郎が鬼を退治する話だが、登場した果物が桃だった理由を考えている人は少ない。これは桃が鬼を打ち払う象徴だからだ。

 

 桃の精だから、桃太郎は軽々と鬼を退治できる。これが柿だったならば、柿太郎はあっさりと鬼に負けてしまうだろう。

 

 どんな邪気も打ち払う聖なる果物。それが桃だ。

 

 しかし、大量の桃を用意する事は中々難しい。桃栗三年柿八年。果物は貴重なのだ。

 

 そこで代用されたのが、大量に用意できる豆だ。魔を滅する。略して、マメ。言葉遊びだが存外馬鹿にはできない。縁起が良いと信じれば、実際に良くなるのが世界の法則なのだから。

 

 これらを踏まえて『トマティーナ』を考えよう。

 

 人々は何故トマトを投げるのか? その理由は桃と間違えて、トマトを投げたのだと推測できる。邪気を払うためにトマトを投げるのだ。

 

 その行為に効果があるかはわからない。それでも縁起が良いと思いこめば大丈夫のはずだ。

 

 こういう事を何と言った方が良いんだったか。ええと、そうだ。

 

 ――――『鰯の頭も信心から』だったかな。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 ――――カランカラ、バン!

 

「いやー、疲れた。用は無いがお邪魔するぜ」

 

 私が店内で留守番をしていた時だった。乱暴にドアを開けた魔理沙さんは店内を突き進み、御勝手まで入ってきた。彼女を注意しようと思ったら、既に急須を用意してお茶を淹れている始末である。いつも通りではあるが、やはり慣れない。

 

「魔理沙さんったら。ドアはもっと丁寧に開けてくださいよ。しかも、服に木の葉も着いてるじゃないですか」

 

「すまんすまん。これでいいか?」

 

 普段よりもボロボロな服を着た魔理沙さんは、悪びれもせずに砂や葉っぱをその場で払い落とす。

 

「店内に入ってからじゃ遅いですよ。ああ、また商品の掃除しなきゃ……。それでどうしたんです?」

 

「どうしたって?」

 

「服ですよ。何を退治しようとしたんですか?」

 

 魔理沙さんの服がボロいのは大抵、何かの妖怪を退治しようとした結果である。本来は霊夢さんが担当する予定の依頼を、何でも屋を名乗る魔理沙さんが勝手にこなしてしまうのだ。しかし、普通の人間である魔理沙さんが手に負えない依頼も勿論ある。そういう時は決まって、こんな風にボロボロな姿へ変化するのだ。

 

「んーと、今回は都市伝説の怪異だぜ。学校の怪談って奴を探っていてな。準備不足でちょっと失敗したってわけだ。ああ、香霖には秘密にしてくれよ。また説教されるのは面倒だからな」

 

「私の仕事を邪魔しなければ、それでいいですよ。今は霊夢さんからの依頼をこなしている途中なので」

 

「ん? 霊夢のやつが来たのか。あいつは何を依頼したんだ?」

 

 私がテーブルの上で淡々と紙を折っていると、好奇心旺盛な魔理沙さんが隣に座ってきた。春の匂いというか草の匂いというか。やや野性的な匂いが妙に集中するのを邪魔してくる。

 

 深々とした溜息を一つ吐いて、私は横の魔理沙さんに構ってあげることにした。頬杖をついて退屈そうな彼女の眼前に、折りたたんだ大入り袋を見せてあげる。

 

「霊夢さんが封印に使うための退魔札の作成です。霊的な付与は霊夢さん任せなので、前準備だけですけど」

 

「あぁ、霊夢が異変で投げてるポチ袋か。お年玉かと思ったら豆一粒しか入ってなくてがっかりだったぜ」

 

 豆は邪気を払うのに使い勝手の良い食べ物だ。ただし、聖なる力は桃や御餅、銭の方が強い。

 

「魔理沙さんの考えも、あながち間違いでもないんですよ」

 

「ふーん、そうなのか?」

 

「お年玉は平穏を祈る為に『歳神』へ鏡餅を捧げるのが元々の内容でしたから。神霊に捧げた食べ物は非常に縁起が良くて食べる事で悪い事を遠ざけるのです。その鏡餅に宿った力が『歳神魂』。略して、トシダマです」

 

 今では鬼として扱われているナマハゲも元は歳神の一種である。

 

「捧げた食べ物に神霊の力が宿るのか。神霊本人が宿るのは聞いた事があるんだが」

 

「あー、そこの区別はなんとも難しくてですね。私も霊夢さんに聞いたことがあるんですよ」

 

 霊夢さん曰く、神霊とは『考え方の具現化』であるらしい。つまり、人々の信仰心が本体なのだ。二つの表裏一体の性格を持つのが神霊。妖怪の一種として実体化した神霊が神様。そして、神霊の力は名前に縛られた現象に過ぎないらしい。神霊が物質に宿るだけでは何もできないのだ。

 

「お年玉の効能は『歳神様』の『歳』の力なので健やかな成長です。だから、小さな子供にあげるわけです」

 

「随分と脱線しているようだが、どうして霊夢の札に豆が入ってるんだ?」

 

 魔理沙さんの冷静な言葉に思考が引き戻される。そうだった。動揺を悟られないようにお茶を飲んで誤魔化す事にしよう。お茶の苦味が鼻腔をくすぐって心を落ち着かせる。魔理沙さんの目がじっとりとしているが気にしない気にしない。

 

「豆はアレです。節分と一緒です」

 

「ああ、魔を滅するからマメだっけ。験担ぎか。神社の桃色仙人は否定していたけどな」

 

「考え方次第ですよ。効果が無くても信仰心の力で新たな神霊を生み出せばいいのです」

 

「鶏と卵のどちらが先なのやら。ちなみに聞くが、験担ぎと縁起が良いのは何が違うんだ?」

 

「験は縁起って意味なので同じですよ。エンギが逆さでギエン。なまってゲン。逆さ言葉です」

 

「それなら有名な逆さ言葉を私も知ってるぜ。ザギンでシースー」

 

「その例を聞くと、一気に豆の有り難さが薄れますね」

 

 私の言葉を聞いた魔理沙さんは、してやったとばかりに得意げな様子で笑った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 数日後の事である。外ではパラパラと小さな雨が降っていた。香霖堂には普段以上に湿気が高まり、じっとりした空気が私にへばり付くようだった。

 

 こんな時は読書に限る。雨の中で働くのは風邪が引きやすくて危ないからだ。ところで、出かけている森近さんは大丈夫だろうか。

 

 店主を心配しつつも、新たな知識を得るという行為を行う私。その至福の時間にゆったりと浸っていると、無粋な来客があった。おっと、いけない。お客様は神様である。

 

 ――――カラン、カラン。

 

「よう、食料を持ってきたぜ。これで何か作ってみるか?」

 

 白黒の魔法使いがやってきた。これは神様じゃないな。どちらかというと身内である。

 

「何を持ってきたんですか? 毒キノコ以外なら歓迎ですけど」

 

「キノコなんて食って死ななければ大丈夫だろ。持ってきたのは違うけどな」

 

 そう言って、彼女が黒白帽子の中から取り出したのは春雨と紅白餅だった。どういう組み合わせだろうか。疑問に顔に出ていたのか、魔理沙さんが説明をする。

 

「春の雨といえば春雨。駄洒落だぜ。人里で売っていなかったから命蓮寺から少し分けて貰ったんだ」

 

「分けて貰ったというか、魔理沙さんの事だから盗んだのでは?」

 

「失礼だな。永久に借りるだけだぜ」

 

 世間の人はそれを窃盗と呼ぶんですよ、と一応言ったが、彼女は悪びれる様子もない。いつの日か痛い目に遇わなければいいが。

 

「春雨はわかりましたけど、紅白餅はどうしたんですか。こっちも借りてきちゃったり?」

 

「いや、そっちは霊夢が新築の家で餅を撒いていたから拾ってきただけだ」

 

「あぁ、上棟式ですか。『散餅銭の儀』で五柱の神に捧げた餅だから縁起が良いですよ」

 

「また、その話か。縁起が良い物を食べるより、妖怪に叩き付けた方が早いと思うが」

 

 私による説明の雰囲気を感じたのか、魔理沙さんはあきれた様子だ。説明好きめ、とか思ってるに違いない。彼女と私を挟むように、ミニ八卦炉は火を灯して紅白餅を温めていた。火力調整を間違えなければいいが。

 

「だから、霊夢さんはお札を投げてるんじゃないですかね」

 

「お札に豆を入れて投げるより、銭でも投げた方が効果があるんじゃないか。お賽銭も神に捧げるから縁起がいいんだろ?」

 

「確かに効果がありそうですけど、霊夢さんの神社はお賽銭が……」

 

 人間の里でも有名な妖怪神社である。食物の奉納が頻繁にあるから食べ物には困らないだろうが、投げ飛ばすほどの金銭を用意できるとは思えない。イメージ上の霊夢さんが渋い顔をするのが思い浮かぶようだ。

 

「ははっ。霊夢の奴は先日も賽銭箱の中身が葉っぱで埋もれていた事に怒ってたぜ。三割ぐらいは私の仕業だが」

 

「現実的には豆投げぐらいが丁度良いんでしょうね。一応、銭投げは戦闘技術として存在するんですが」

 

「へぇ、ちょっと気になるな」

 

「外の世界では銭を使った技術が色々あってですね。銭投げの技術は『羅漢銭』って呼ばれてます。投げる方法を工夫する事で相手を倒せるとかなんとか。眉唾ですけどね」

 

 銭を投げる程度で人を倒せるとは考えづらい。銭投げで倒した妖怪を人と間違えた可能性が考えられる。よほど人間にそっくりだったに違いない。

 

「銭で倒すのは信憑性がないのか。他には?」

 

「擲銭法という、銭投げによる占いですね。易者が簡易的に使ったと言われてます」

 

 魔理沙さんのミニ八卦炉を指さす。八卦の力は様々な使い方ができるのだ。ミニ八卦炉は熱を発して、紅白餅を十分に温めていた。餅の香りがテーブルに広がる。

 

「なるほどな。当たるも八卦、当たらぬも八卦か。銭って便利だな」

 

「そうですね。身近にあるからこそ色々な使い道が模索されたのでしょう。ところで」

 

「ところで?」

 

 ぐぅと小さく腹の音が鳴った。空腹の合図である。

 

「お腹が空きました。春雨の調理は時間がかかるので、餅を先に食べてしまいましょう」

 

「いいぜ。熱くなってるから火傷に注意しろよ。ほいっと」

 

 ほくほくと湯気が立つ餅を慎重に受け取って頬張る。米の甘味が舌に残って美味しい。一口ずつ味わうように食べ進めていく。魔理沙さんも美味しそうに食べているようだった。

 

「米はいいですね。米は心を潤してくれます。地獄の餓鬼が救われるのも理解できる気がします」

 

「おいおい、食事の時にも縁起の話か」

 

「縁起が良いと言えば、お米もですから。施餓鬼米を投げる事で餓鬼が救われるんですよ?」

 

「結婚式の時にも投げるもんな。外の世界の本で見たぜ」

 

「それはライスシャワー」

 

 軽口を叩きながら彼女と食事を進めていく。数個の紅白餅を食べ終わった頃には、魔理沙さんも私もすっかり満腹になってしまった。襲い来る眠気から逃れるように話を進める。

 

「あと、お米はお守りにもなるんですよ。霊夢さんに今度作ってもらおうか、頼もうと思ってて」

 

「なんだ、名無しはお守りが欲しかったのか。なら、私のお守りを分けてあげるぜ」

 

 何となく言った言葉に魔理沙さんが反応する。彼女がポケットをまさぐって渡してきたのは、外の世界で見覚えのある半導体だった。黒の容器に白色の金属部分が刺さった小型部品である。お守りの色はまさしく魔理沙さんのようであった。

 

「前に香霖から貰った奴だが少し譲ってやるよ。私だと思って大事に持っててくれよ」

 

 冗談めかして渡された半導体を大事に受け取る。式神を使役して、ありとあらゆる物事を行う力を秘めるらしい。

 

 その部品を私は知っていた。トランジスタだ。

 

 半導体の使い道を彼女に伝えるのは簡単だろう。

 

 しかし、私はこの知識を心の奥底に秘める事にした。何故なら、魔理沙さんがお守りだと信じているからである。

 

 信じる者は救われる。足元ではなく、本当に自らが救われるのだ。

 

 

 ――――だから、私にとってのトランジスタはまさしく、『鰯の頭』なのである。



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<第七話> 妖怪の仕組みと私

 桜の時期も少し過ぎさり、外は暖かな晴天となっていた。洗濯物を干すには最高の天気だ。香霖堂で働く私にとって、外の天気が良いに越した事はない。雑用係は私の仕事なのだ。

 

「今日は良い天気ですねー。春っぽいけど、春過ぎない暖かさ。小春ですかね」

 

「名無し。小春日和は冬の天気の事だぞ」

 

「そうでしたっけ?」

 

 窓の外を眺めていた私の呟きに、森近さんがすかさず突っ込みを入れる。今日は、いや今日も来客が無いまま、お昼に差し掛かろうとしていた。窓から見える魔法の森の木々は、緑の色を濃く反映していて目に優しい。しかし、その緑を切り裂くように近づく物体があった。

 

 ガシャン、と窓が叩き割れる。恒例の天狗の新聞投下である。大雑把な性格をしている妖怪達は、このような雑な行為を好んで行う。わざわざ新聞をポストに入れるのが面倒なのだろう。

 

「森近さん。また天狗に窓を叩き割られたんですが。なんとかなりませんか?」

 

「無駄だから諦めた方が良い。僕達にできるのは割られた場所を新聞紙で代用して補修する事ぐらいだ」

 

 眉間に皺を作っている森近さんに尋ねると、気落ちした声音で彼は答える。たぶん既に試したのだろう。彼から手渡されたのは竹箒にチリトリ。天狗の後始末も私の仕事である。

 

 箒でガラスの破片を処理しつつ、暇そうにお茶を飲んでいる森近さんに私から尋ねたのは、天狗の事だった。

 

「そういえば、前に天狗を見かけたんですが、人間と外見が同じで驚いたんですよ。顔が鳥じゃないんですね」

 

「天狗か。幻想郷の妖怪は外の世界の絵と剥離した妖怪が多いからな。無理もない」

 

「理由があるんですか?」 「もちろんだとも」

 

 さっさと掃除を終わらせて森近さんのテーブルに相席する。自分の湯飲みにお茶を注ぎ、美味しい煎餅も用意した。聞く準備が整えている間に、森近さんは数種類の本を用意していた。彼のメモ帳のような物らしい。

 

「神霊の本体が信仰であるように、妖怪にも存在の源泉が存在する。それが人々の想像力と恐怖だ。妖怪の始まりは解釈からで、有名な例としては『鎌鼬』が挙げられる。いつの間にか皮膚を切られたことから、誰かの太刀によって斬りつけられたと恐怖した。それが『構え太刀』。しかし、いつしか名前は『カマイタチ』に変化した。更にその名前からイタチの絵が描かれた事で、『太刀』は『イタチ』の見た目に書き変わったんだ」

 

「誰かの思い描いた見た目が妖怪に反映されるんですか?」

 

「反映とは少し違う。新たな側面が混じったという方が正しい。そうだな。話が変わるが、妖怪の山は外の世界の富士山よりも高いのだが、幻想郷は外の世界の住民に知られていない。何故かわかるか?」

 

「八雲さんの結界で幻想郷が隔離されているからですよね」

 

 数日前に桜の下で出会った彼女の姿は今も脳裏に焼き付いている。

 

「忘れがちだが、幻想郷は外の世界と地続きである事も重要だ。単純に考えれば、結界で山を隠すのは難しいだろう。しかし、見事に隠し通せている。県一つほどの広範囲をだ。それは外の世界と重なるように幻想郷が存在しているからなんだ」

 

「外の世界に存在しているけども存在していない、と」

 

「虚数位相、あるいは異界と言うべきか。説明が難しいんだが、世界は様々な異界を内包している。法則による物理。精神による結果。記憶による確率。この三要素を土台に、夢や地獄、天界などの異界は世界の側面に間借りしている。それが積み重なって今の世界があるんだ。」

 

 もはや森近さんの話は理解が難しい領域に到達しているが相槌を打っておく。ふむふむ。なるほど。

 

 私の声が白々しかったのか、森近さんが怪しげな瞳でこちらを訝しんでいるが知らないふりをする。知っているふりだけども。

 

「それが妖怪とどのように関係するんですか?」

 

「人間の解釈が異界のような役割を果たすんだ。ちょっと図に書くか」

 

 ボールペンを用意した森近さんが紙にささっと書き記す。『人』・『神』・『妖怪』と書かれた三つの円が三角形状に配置され、それぞれの円が中央に重なる場所に『天狗』の文字が書き込まれる。これが天狗の仕組みらしい。

 

「天狗を構成する解釈を仮に三種類としよう。人間と風の神と山の妖怪だ。これらの解釈の数が偏るほど、その存在に近付いていく。すると、現在の天狗の姿は人間の説が有力だと推測できるわけだ」

 

「外の世界で天狗の正体が人間だったと信じられるほど、本当に変化してしまうと」

 

「天狗だけじゃない。河童も鬼も人間だったという説が有力だ。逆に言えば、そうではないと信じられている存在ほど人間になりづらくなる。ただ、それだけでは説明できない妖怪がいる事も確かだ」

 

「里の寺子屋にいる慧音先生とか?」

 

 私の疑問がよっぽど的外れだったのか、森近さんは両腕を交差して否定の印を作った。そこまでしなくても。

 

「彼女は人間を土台に妖怪が混ざっただけだから違う。特殊能力を持つほどの存在ならば、誰かに恐怖されれば妖怪にもなってしまうさ。で、さっきの例だけど、付喪神だ」

 

「えーと、人間に道具として使われて神霊がすり減った結果、生まれる妖怪でしたっけ」

 

「そうだ。使っている内に妖怪に変化するのだが、例外的に元の道具から人間の姿に変化する付喪神がいる。君も見た事があるだろう?」

 

 付喪神の妖怪。里で見かけた景色を思い返すと、該当する存在が一人いた。秦こころと呼ばれる少女である。たまに里で能楽を踊っているパフォーマンス系の妖怪だ。

 

「心綺楼という演目の能楽が面白かったのを覚えています」

 

「あの姿はお面が持つ人間の感情が含まれていたからと予想される。崇めれば神に、恐怖すれば妖怪に、しかし、彼女は解釈ではなく感情によって変化してしまった」

 

「もしかして、人間性に触れる事によって人間に変化する可能性がある?」

 

「かもね。人間と親しくなるほどに近付くのならば、幻想郷の妖怪の多くが人間の姿なのも納得できる。かつての妖怪と異なり、少女の姿に変化した。その原因が感情にあるのならば、人間から恐れられなければ、いずれ妖怪は力を失い、本当に人間になってしまうだろう」

 

 その前に存在が保てなくて消滅する可能性もあるが、と締めくくってお茶を啜る森近さん。人間に変化する妖怪か。――――あれ? 更なる疑問が浮かぶ。

 

「あの、森近さんも一応、半分は妖怪ですよね?」

 

「君の言いたい事はわかる。僕が妖怪らしくないと言いたいんだろう。その通り、僕は例外だよ。恐怖も食事もいらない。人間と妖怪の良い所取りだ。そういう僕の立ち位置は、人間にも妖怪にも干渉しない仙人に近い」

 

 通常の食事をしない事で有名な仙人。空に浮かぶ霞を食べて生きている彼らは、俗世で起きる出来事に干渉しない存在が多い。その立ち位置は観測者のようである。

 

「妖怪仙人ですか。人間にも妖怪にも関わらないと?」

 

「自分で異変を起こしたり解決したり、なんて事は嫌だね。僕は荒事は嫌いなんだ。だいたい、何かあったら霊夢の奴がどうにかするだろう。必要がなければ動くべきでは無いのさ」

 

 そう言って、彼は黙々と煎餅を齧っていた。これで話は終わりらしい。

 

 ふと外を見ると、外は夕方に近付いていた。随分と話し込んだせいか、気温も下がり寒々しい風が感じられる。その一因を担っているのは間違いなく壊れた窓だ。つまり、天狗のせいでもある。

 

 そこに思考が至り、天狗について考える。外の世界において天狗の仕業とされている悪行は数多い。道に迷ったり、事故に遇ったり、災害が起きたり。ましてや、『デング熱』などの病気さえ天狗の仕業とされているのだ。なんて悪い奴なんだ、天狗め。

 

 ――――いつか文句を言ってやろう。私は決意した。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 次の日の事である。ガシャリと音がした。またしても窓が割れたのだ。

 

 不機嫌を通り越して真顔の彼の姿を横目に見つつ、私は天狗が引き起こしたと推測される犯行現場に近付いていく。

 

 割れた窓ガラスを踏まないように慎重に近寄ると、予想外の物体が落ちていた。白い長方形の箱である。箱は無地で、文字も絵柄も何もない飾り気の無い見た目だった。

 

「それが何かわかるか?」と森近さんが聞いてくる。彼の疑問を解消すべく、私は箱の蓋を持ち上げた。

 

 箱の中には葉っぱに包まれた謎の物体が見える。それと、蓋の裏に貼られている紙には文字が書いてあった。読み上げてみよう。

 

「ええと、なになに。昨日はお騒がせしました。お詫びとしてはつまらないものかもしれませんが、こちらをお受け取りください。天狗の間で有名な栄養食です、だって」

 

「天狗の食べ物か。珍しいな」

 

 謎の食べ物に昇格した物体は森近さんの興味を引くことができたらしい。眼鏡を少し動かして、注意深く調べている。数分後、その正体に気付いたのか彼はその名前を言った。

 

「これは天狗の麦飯だね」

 

「天狗の麦飯、ですか。とんと聞き覚えがないですね」

 

「普通の人は知らないだろう。天狗が主食として食べていると噂されている菌類だ。食べられるカビだと思えばいい」

 

「青カビのチーズとかもあるから大丈夫でしょうけど、菌類と聞くと食べるの躊躇しちゃいますね」

 

 天狗の麦飯と呼ばれた物体は味噌のような外見だ。指で試しに触ると、ぷにぷにとした弾力があるのが感じられる。これが自然の食べ物とは信じがたい。

 

「先に僕が食べて見るか。味は、うん。不味くはないな」

 

 森近さんが気にする様子もなく口に含んだ。どうやら食べられる味ではあるらしい。

 

 一番槍は譲ったが、私も挑戦しようと思い立ち、天狗の麦飯を食べて見る。ぐにゅぐにゅとした食感と一緒に微妙な味が口に広がる。

 

「なんだろう。味もしない。匂いもしない。独特ですね」

 

 好んで食べる味では無いのは確かだ。もう少し味があったら、コンニャクみたいに食べられたかもしれない。

 

 私が天狗の麦飯を無事に食べ終えてわかったのは、やはり天狗の考えは理解できないという当たり前の事だった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 夜はまだ終わらない。都市伝説は終わらない。

 

 皆が寝静まった夜に、ひっそりと動き出す影があった。

 

 人の気配なんてこれっぽっちもない場所。外の世界に最も近い場所。無縁塚で彼女は動き出した。

 

 

 ――――ケタケタ。ケタケタ。ケタケタタタタ。

 

 

 笑って哂って、大きく嗤った。その姿を月明かりが照らし、彼女の様相が暴かれる。

 

 古めかしい人形だった。普通の様子ではなく。見るからに狂気と魔力を持ち合わせていた。

 

 

『其れは魔法の森の人形師の人形に非ず』

 

『其れは鈴蘭畑の毒を操る人形に非ず』

 

『其れは都市伝説の影に埋もれた人形である』

 

 

 ――――ミツケタ。見つケタ。私ノ主人。今度コそ自己紹介するの。

 

 

 影に潜むように小さな人形は緩やかに進みだす。主人の元へ辿り着くために。

 

 

 ――――あたし、メリーさん。今、幻想郷にいるの。待っててね。

 

 

 誰に伝えるわけでもなく、人形は語り出した。古めかしい黒髪の『日本人形』が。




次回予告 最終話『夢は時空を超えて』


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<第八話> 夢は時空を超えて

※祝! 東方夢時空二十周年!

始まりは終わりに、終わりは始まりに

ついに『名無し』は幻想に足を踏み入れる


 カード・コイン・タロット。世界には様々な占いがある。日本で有名な占いといえば正月の初夢だろうか。年明けに見た夢の内容で一年間の運勢を見極める、という方法らしい。

 

 一富士・二鷹・三茄子。

 

 最も良い夢と言われているのが、この三つ。一つでも見られたら幸運。三つ全てを見る事ができたら信じがたいほどに幸運。

 

 しかし、夢を見るだけで現実世界に影響を及ぼせるのだろうか?

 

 その疑問に回答すると、否定であり、肯定でもある。吉兆に対する捉え方が違うのだ。

 

 重要なのは、幸運と呼ばれる物体を見る事ではなく、自由に好きな物を生み出せる事。つまり、夢を操る力が肝心なのである。

 

 現実へ干渉できる夢の世界は恐ろしく万能だ。

 

 どんな場所にも移動でき、何者にも変化できる。だが、その使い方を間違えれば、人間が見知らぬ場所で蝶になってしまう事さえ有り得てしまう。扱いが非常に難しいのだ。

 

 そのため、普通の人間がどうにか扱いたければ『抜け道』を使用するしかない。

 

『抜け道』とは、自分だけではなく、神仏や妖怪に助力を求める方法である。彼らに精神世界から助けて貰う事で現実へ影響力を持つ夢を作り出すのだ。

 

 このような方法で得た夢を、人々は『霊夢』と呼んでいる。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 里と魔法の森の中間にある古ぼけた外観の店。それが香霖堂である。

 

 人間にとっても妖怪にとっても足を運びづらい、絶妙に駄目な立地。店主以外に使い方が分からない、需要の薄い商品。

 

 そして、それらを決めたのが店主、森近霖之助さん。彼もまた奇妙な人物だ。彼は商売人でありながら自らが仕入れた商品を売る事を好まない。実の所、商品を集める事が目的であり、販売は収集の副産物なのだ。

 

 そんな彼であるから、夏の暑さをものともせずに今日も外へ出かけていた。もちろん商品の仕入れのためだ。

 

 額に流れる汗を拭い、私は掃除を続ける。森の木々は生命力に溢れ、うるさいほどに蝉の鳴き声を響かせていた。

 

 

 ――――チリンチリン。

 

「魔理沙、居るかしら?」

 

「いらっしゃいませ。って霊夢さんですか」

 

 鈴の音を鳴らして、赤い服の巫女がドアからひょっこりと顔を覗かせる。熱気が漂う店内を見渡すと、彼女は床に置かれた小棚に腰かけた。一応、それも売り物なんですが。

 

「ここにもいないか。何処に行ったんだろ」

 

「今日は魔理沙さんを探しに来たんですか?」

 

「ええ。あいつったら、都市伝説を調べるなんて言って、先週から飛び回っているのだけど、何をするつもりなのか気になってね」

 

 霊夢さんは気だるげに溜め息を吐き、どこからか取り出したうちわを使って涼んでいた。心配事は白黒の魔法使いに関する事が原因のようだ。

 

 魔理沙さんといえば、人助けの他に好奇心でトラブルを引き起こす事でも有名である。かつて人間の里で流行した病にいたっては、魔理沙さんがうっかり祟り神の封印を解き放った事が原因だったらしい。

 

 その事件も霊夢さんが後始末をする羽目になったので、今回も厄介事を持ち込まないか心配なのだろう。

 

「都市伝説ですか。私が新聞で見かけた内容だと、不気味であっても無害な存在が多いと書いてありましたが、そんな存在を手に入れてどうするんですかね」

 

「元から無害なわけじゃなくて、無害な存在に変化させているのよ。怪異達は不安定だから、噂に影響されて姿や性質を上書きできるの。それを利用すれば、こういう風に」

 

 言葉を区切って、彼女が指をパチリと鳴らす。すると、どこからともかく空間が裂け、袋詰めの煎餅が落下してきた。なぜ煎餅なのかと尋ねたいがそれよりも。空間を裂く現象を引き起こすといえば。

 

「八雲さんのスキマ? いや、それにしては何か違うような」

 

「これが都市伝説の力よ。私の場合は『隙間女』。自分と相性が良い都市伝説を見つけて変化させる事で、その力を使えるようになるわけ」

 

「へー、便利ですね。でも、それなら魔理沙さんあたりが」

 

 黙っていない、と言おうとして霊夢さんが訪れた理由を思い出す。そうか、なるほど。

 

「霊夢さんが都市伝説の力を操っているのを見かけたとか?」

 

「いいえ、見せてないわ。ただ、私と同じ事に気付いて探している可能性がある。だから、魔理沙がいなければ霖之助さんにでも尋ねようかと思ったんだけど」

 

 彼女が指で差した店の奥は森近さんの定位置。そこには無人の空間が広がっていた。

 

「えーと、魔理沙さんでしたら、数日前に外の厠で何やら探し物をしていたような。それからは店にも来ていなかったはずです」

 

 手がかりと呼ぶには微妙な情報を伝えておく。厠に関係する事が何なのか、私には見当もつかないが。

 

「魔理沙が厠に? うーん。一応、覚えておくわ。それじゃ、また明日も来るから」

 

 そう言って、霊夢さんは次の心当たりに向けて、風のように飛び立っていった。

 

 少しの時が過ぎ、霊夢さんの話していた内容を思い返す。都市伝説の異変では、相性の良い怪異の力を借りる事ができるらしい。ならば、様々な人間や妖怪がその不思議な力を求める事になるのは想像に難くない。きっと争いが起きるはずだ。

 

 妖怪を恐怖する私にとって、弾幕のような争い事は苦手である。何事も平和が一番。超常現象に関わらずに生活できるなら、それに越した事はない。

 

 そう思っても、ままならないのが世の常である。その日の夜、私は眠りによって夢の世界へ訪れた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 その世界は赤色であった。青色でもあった。そして、緑色でもあった。世界は一秒ごとに風景を変え、目を離すたびに形が崩れては書き変わっていく。

 

 香霖堂で眠っていたはずの私は、この奇怪な空間に閉じ込められていた。目を覚ました時には、既に私はこの世界に立っていたのだ。

 

「あー、これは妖怪の仕業かな?」

 

 咄嗟に思いつく原因が自分自身の常識から剥離し始めている。こんな事で幻想郷に染まってきた事を実感するとは。とはいえ、自分にできる事は無いので、とりあえず自分の姿を見下ろしてみる。

 

「なんか、ぼやけてるような。輪郭は見えるけど、詳細が分からないって不思議ですね」

 

 何かに例えるなら、カメラのピントが合わない感じが近いだろうか。

 

 周囲では見覚えのある景色が現れては、ツギハギのように組み合わさっていく。夢の世界と思わしき場所は、崩壊と再構築を繰り返し続けていた。

 

 試しに不思議な光景に接触しようと思ったが、足はぴくりとも動かない。意識はあっても、自由に歩き回る事は出来ないわけか。少々残念だ。

 

「動くこともできないとなると、どうしましょうか」

 

 誰に聞こえるかは知らぬままに呟く。悪夢と称するには身の危機が無いために、脅威が感じられないのが問題だ。これが異変ならば、霊夢さんが必ず助けてくれるのだが。

 

 異変の時の彼女は凄まじいのだ。殆どの異変を一日以内に解決する、幻想郷最強の巫女さんなのだから。

 

 そんな事を考えていると、ふと違和感を感じた。どこかで誰かが見ているような? 

 

 私の訝しむ動きに気付いたのか、足元の影から誰かが這い出るように現れた。こちらと同じように相手の姿がぼやけているが、黒っぽいような白っぽいような服を身に纏っている姿が見える。

 

「あはははは。ようこそ、私たちの世界へ。あなたを待っていたわ」

 

 こちらの驚きを気にするそぶりもなく、謎の女性は楽しそうに笑う。この傍若無人さは妖怪に違いない。

 

「貴方が私をこの夢の世界に引きずり込んだのですか?」

 

「ん? あー、いや、うーん。私じゃないわよ? あなたの事をずっと見ていたのは確かだけど……」

 

 随分と歯切れが悪い。特に白々しく視線を逸らす素振りが怪しい。原因を探るべく、更に問い詰めようとすると、謎の女性は困った様子で話し始めた。

 

「もー、なんなのよー。そんな顔されたって教えられない事は無理なの。あなたが気付かないといけないんだから。どうしても知りたいなら……そうね。目覚めた場所の近くにいる人形と一緒に過ごしなさい」

 

 彼女が話した人形についても気になるが。それよりも。

 

「その口ぶりだと、この世界から脱出できるのですか?」

 

「もちろん。別にあなたを閉じ込めて何かしてやろう、なんて誰も考えてないわ。むしろ、お節介をしに来たんだから感謝してよね」

 

「お節介?」

 

「ええ。これから厄介な事が起きた時はこの場所を思い出しなさい。そしたら、少しだけ私達が手助けするから」

 

 私と違って、自由に動ける様子の彼女は、私の周囲をぐるぐると歩きながら語り続ける。彼女の服が黒から白に切り替わり、また黒に戻る。そして、彼女は最後に言った。

 

「そろそろ夢が壊れるから。お別れみたいね。また会いましょう。――――今度は現実で」

 

 世界が真っ白に薄れていく。彼女の言葉を聞きながら、私の体は霧散して消滅していった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 夜が明け、朝日が昇り、外の小鳥達が一日の始まりを告げる。その鳴き声を聞いた私は、無事に戻って来れた事に安堵の息を漏らした。そして、彼女との会話を思い出す。

 

 ――――ヒントは人形が持っている。

 

 夢で出会った白黒少女の言葉。しかし、私が借りている部屋は質素な調度品で占められており、飾り気の無い殺風景なものだ。飾りつけの人形なんて置いてあるはずがないのだが。

 

 その疑問に答えるように、コツコツと窓から小さな打撃音が聞こえる。どうせ小鳥の悪戯だろう、と音の発生源へと首を振り向かせると。そこには黒髪の日本人形が一体、窓ガラスに寄りかかっていた。

 

「――っ! これがたぶん。例の人形、ですよね?」

 

 先程までの眠気が一気に吹き飛ぶ。咄嗟に発しかけた悲鳴を堪え、霊夢さんから貰った退魔札を構えて近寄る。札は下級霊の攻撃を防ぐ優れ物だ。多くの都市伝説と同じく、無害な怪異であればいいが。

 

 ――――ガラリガラリ。

 

 窓を開けてあげると、小さな人形は頭と体を前に下げ、御礼をしてから入り込んできた。見た目の異様さに比べると予想以上に礼儀正しい。見えない糸で操られているような、ぎこちない動作に目を瞑れば好感が持てる動きだ。

 

 警戒心を保ちつつ怪異の動きを見守っていると、彼女はこちらをじっと見上げて微塵も動く気配がない。どうしたものか。試しに話しかけてみる。

 

「えーと、初めまして。私は名無しといいます。貴方の用事は何ですか?」

 

 返事は期待していない。動きで何かを表現してくれる事を期待していると、彼女は――驚くべきことに言葉を発し始めた。

 

「初めまして? イイエ、お久しぶり。やっと見つけた。置いていくなんて酷いわ」

 

「申し訳ないのですが覚えていないので、名前を伺ってもいいですか?」

 

 彼女はこちらを知っている素振りだ。記憶を失う前の知り合いだろうか。私の言葉がショックだったのか、両手を頬に当てて驚いている。感情があるのだろうか。

 

「あなたも知っているはずよ。あたし、メリーさん。あたしこそが本当のメリーさんよ」

 

 カタカタと日本人形は体を震わせて話す。動きに合わせて、彼女の長い黒髪が左右に揺れていた。

 

「うーん。私の思い違いでなければ、メリーさんは金髪の西洋人形だった気が?」

 

「…………! あぁ、ああぁ! 腹が立つ! あいつの何がメリーさんだ! 人に作られながら人を害する愚か者め! あたしが、あたしたちが許すものか!」

 

 私の質問の何が琴線に触れたのか、人形は急に怒って地団太を踏み始める。図体が小さいせいか、そこまで騒がしいわけではないが、どうにも気まずい。私は彼女の怒りが落ち着くまで、暫し待つ事になったのだった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「で、これがその夢の人物が紹介していた人形か」

 

 森近さんの見ている先には件の人形であるメリーさんが、いや、和風なので、めりーさんがいた。めりーさんは先程の怒りで疲れたのか、何も語ろうとはしない。どうにも困ったものだ。

 

「夢で話した彼女が白黒の姿だった事はぼんやりと思い出せるのですが、それ以外の手がかりがさっぱりで。夢に住む妖怪っています?」

 

「妖怪で夢といえば、有名なのは『獏』だな。悪夢を打ち払ってくれるらしい」

 

「えーと、悪夢を食べるんでしたっけ?」

 

「いや、違う。それは後付けだ。悪夢を食べるわけでもなければ、悪夢を見せるわけでもない。獏は夢の世界を管理して、人々の悪い夢を消去している妖怪なんだ。妖怪の中でも特殊で、人間を守る神に近い。しかし、その姿は正体不明で、実はハクタクであったとか様々な噂が存在しているんだ」

 

 ハクタクの妖怪といえば慧音先生か。人間の里を守護している彼女が夢に関係あるとは考えづらい。となると、別の存在が関わっているのは間違いない。

 

「獏の姿が確定していないから、それが夢に反映されていると?」

 

「どうだろうね。夢の世界そのものの特性かもしれない。あやふやで目覚めれば消えてしまう不安定な世界では、何が起きても不思議ではない。夢が現実世界にどう影響するかは、誰もわかっていないんだ。あるいは、誰もがわからないようにされているのかもしれない」

 

 森近さんの話を聞いていると、入り口へ来客が訪れたらしい。ドアの鈴が小さく鳴り響いた。

 

 ――――チリンチリリリ。

 

「今日は涼しいわね。魔理沙はやってきたかしら?」

 

「霊夢か。いらっしゃい。魔理沙は今日も来てないよ」

 

「あら、残念。ん、その人形は?」

 

 姿を見せたのは昨日ぶりの霊夢さんだった。森近さんと軽く会話をしてきて、こっちにやってきた。この人形を見た途端、真剣な雰囲気に切り替わっていている。

 

「朝目覚めたら、私の所にやってきたんですよ。都市伝説のようですが、私を主人と呼んでくるし、夢の人物にはこの人形と一緒にいろと言われるし、何が何やら。呪われてませんよね?」

 

「ふーん、確かに怪しいわね。その人形。ちょっと貸りるわね」

 

 霊夢さんがめりーさんを優しく持ち上げると、何やら呪文を唱え始めた。めりーさんは嫌がるように手足をばたつかせるが、霊夢さんの拘束が解けるわけもなく。数分後には諦めて、なすがままになっていた。

 

「これは困ったわ」

 

 霊夢さんが首を傾げて不思議そうに呟く。彼女が見下ろす先には、ぐったりとしためりーさんがいた。

 

「困ったとは、どういう事ですか?」

 

「んーとね。何と言ったらいいのかしら。たぶん、この人形は都市伝説ではないわ。だって、存在がしっかりとしているもの。名無しさんと相性が良いのもあるんだろうけど、完全に実体化してるわ」

 

 都市伝説は存在が不安定であるために、消滅しやすく変化しやすい。そうではないなら、妖怪や神様に準ずるものと考えるのが自然だ。

 

「それは本当か。だとしたら、それは付喪神なのか」

 

「付喪神でもないから困ってるのよね。強いて言うなら普通の人形だけど、それなら勝手に動くわけが無いし。ねぇ、名無しさん。この人形に何かした?」

 

 頭に手を当てて悩んでいる霊夢さん。よほどこの人形は珍しい状態らしい。

 

「何もしてないですよ。本当にこの人形、何なんでしょうね。メリーさんって名乗ってましたが」

 

「メリーさん、か。それだけなら都市伝説の具現化と判断できるんだけど、そうじゃないから問題なのよねぇ。もしも、他の都市伝説も変化し始めているなら、本格的に再調査する必要があるわね。人間の里が危ないもの」

 

 調べてからまた来るわ、と霊夢さんは足早にここから立ち去っていった。一方、森近さんは何か思い当たるふしがあるのか、里への買い出しついでに調べものをするらしい。彼もすぐにいなくなり、店内に残ったのは私と日本人形だけである。

 

 黒髪の人形といえば髪が伸びる噂で有名だが、茫洋としてテーブルに横たわったままのめりーさんは、恐怖をもたらす存在とは思い難い。どこにでもある子供向けの飾り物にしか見えない。かつて、厄除けであった人形が逆に恐怖の存在へと変わってしまったのはどうしてなのか。

 

 人形の歴史に想いを馳せながら、店内で過ごしていると、どこからか電子音が聞こえてきた。

 

 ――――ピリリリリリ。

 

 座っていためりーさんが急に跳ね起きる。彼女は生気を取り戻したかのように動き出して歩き出す。その先には音の発生源があった。

 

 「ここを開けて欲しいの」

 

 彼女が指差すのは森近さんの机の中。彼女の指示に従って恐る恐る、引き出しを開けると、そこには壊れたはずの携帯電話が、元気にけたたましく鳴り響いていた。

 

 液晶が砕け散った携帯を手に取る。すると、ボタンを押したわけでもなく、電話の先の相手の声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だった。だって、それは。

 

 ――――あたし、メリーさん。今、魔法の森にいるの。貴方を殺しに行くわ。

 

 目の前にいる、めりーさんと全く同じ声だったのだから。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 メリーさんからの電話は続く。

 

 電話は勝手に再生されて、少しずつ着実に近寄ってきていた。霊夢さんに助けを求めようかとも考えたが、間に合わない可能性が非常に高く、私は迎え撃つ準備をしていた。用意したのは霊夢さんが作成した退魔札である。

 

 「メリーさんが、もう一体存在するとは」

 

 香霖堂の店内では、無害そうな方のめりーさんがじっと周囲の警戒を続けていた。敵対関係にあるのならば私の味方なのかもしれない。

 

 ――――ピリリリリリ。

 

 五度目のコールが鳴る。メリーさんはすぐ傍まで近寄ってきていた。今度はどこにいるのか。全神経を集中して把握に努める。電話は再び勝手に再生されて、メリーさんの声が。聞こえてきた。

 

 ノイズ混じりの音。しかし、はっきりと、くっきりと、彼女は言った。

 

 

 ――――あたし、メリーさん。今 、 あ な た の 後 ろ に い る の。

 

 

 前方に飛び出す。走りながら首だけで振り返ると、金髪の西洋人形『メリーさん』が包丁を持って床に振り下ろしていた。

 

 乱暴にドアを開けて店外へ出る。後方では、精神を揺さぶる奇声が聞こえていた。

 

 急いで退魔札を構えて、店内の彼女達を待ち構える。すると、黒髪と金髪の人形が争いながら同時に転がり出てきた。メリーさんの包丁が日本人形の腕を破壊する。めりーさんの黒髪が西洋人形の右腕に絡みついてへし折っている。

 

 人形達が発する悲鳴と奇声が耳に入り込んでくる。

 

「ああぁあぁぁ! 壊してやるわ!」

「どけ、メリーさんの恥知らずが! お前の存在を消して、私が成り代わるの!」

「偽物が本物を騙るな!」

「私こそが本当のメリーさんよ!」

 

 二体の叫び声は、ほどなくして一つに切り替わった。ボロボロの姿の人形が立ち上がる。

 

 勝者はメリーさんだった。大地を踏みしめて、彼女は顎が外れながらも叫び続け、こちらに走り寄ってくる。

 

 ――――ああああぁあぁあぁ!

 

 彼女の鈍重な突進を避けて、冷静に退魔札を投擲する。札は風になびくことも無く、しっかりと彼女の背中へと命中。札の霊力が解放されて巨大な光が生まれた。

 

 札の爆発によって、地面からは土煙が噴き出し、メリーさんは空中に打ち上げられる。ボールのように地面を数度バウンドしながら転がっていくのが見えた。

 

 その様子を、奇妙なほどに冷静に眺めている『私達』がいた。

 

 怪異に恐怖する私がいる。人形風情に負けるものかと憤慨する私がいる。都市伝説である彼女達に親近感を持つ私がいる。

 

 そんな精神の異常とは裏腹に、肉体は彼女たちの会話をしっかりと覚えていた。金髪のメリーさんは有名な都市伝説通りの存在だった。黒髪のめりーさんは自らを本物のメリーさんだと語っていた。だが、その主張は金髪のメリーさんによって否定される。何が正しいのか。何が間違っているのか。思考が加速していく。

 

 視界の隅で再びメリーさんが立ち上がるのが見えた。

 

 追い打ちをかけるために、更に複数の退魔札を投げ込む。メリーさんが空を飛び、札を躱す。上昇した勢いを停止し、ダイブするように上方から加速して落ちてくるのが視界に移りこむ。

 

 上を見上げると、壊れかけの人形が見えた。そして、その手には握られている包丁の切っ先が、私の腹を裂こうとするのも見えた。

 

 後ろに数歩逃げようとして、小石を踏んづける。体勢を崩した私に回避する手段は無い。

 

 なんとか札を取り出そうとするが。

 

 札を投げる速度と、人形が落ちてくる速度。後者の方が速いという現実に気付いた脳は、更に加速して事態を解決しようとする。

 

 いわゆる、走馬燈というやつだ。

 

 見えた光景は、今日の出来事だった。夢の人物に出会って、人形に遭遇して、森近さんや霊夢さんと会話して、そして今はメリーさんに襲われている。

 

 ゆっくりと刃の切っ先が私の元へ近づいてくる。どうしようかと迷って、絶望しかけて、ふと今更ながら、夢の内容を確かに思い出した。なるほど、そういう事か。

 

 ポケットに入っていたトランジスタを握りこみ、私は求めた。

 

 求めるのは可能性。有り得たかもしれない、並行世界の存在を呼び出す夢だ。

 

「―――――――魔理沙さん!」

 

「紅夢の魔法使いが参上! 撃つと動く! 吹き飛ばしなさい、私のマジックミサイル!」

 

 私の呼び声に応えるように、真っ白な服の魔理沙さんが足元の影から現れた。彼女の声に従う数本の閃光が素早くメリーさんの胴体を貫き、粉々に砕く。

 

 バラバラになった人形は地面に吸い込まれるように落下していった。人形の破壊された姿は遠目からでもどうしようもないほどに壊れており、封印する必要もないほどだった。

 

 脅威が過ぎ去った事を確認した後、魔理沙さんがこちらに向き直る。その顔は私の知っている魔理沙さんと同じで、しかし、明らかに異なっていた。

 

「いやー、危なかったわ。呼び出されないのかと思って焦ったじゃない。うふふ。まぁ、いいわ。ようやく外に出て来られたんだから」

 

 嬉しそうに魔理沙さんが笑う。だが、その口調は私が知っている魔理沙さんとは違う。それもそのはず。彼女はこの世界の魔理沙さんではなく、『並行世界の魔理沙さん』を模した影なのだから。

 

「危ない所を助けて頂いてありがとうございます」

 

「あー? お礼は別にいいわよ。あなたがいないと私も出てこられないんだから。それより、私を呼び出せたって事は気付いたんでしょ。私であり、あなたでもある、名無しの存在の正体を」

 

 ニッと歯を見せて笑う魔理沙さん。世界が違っても、その性格に変化があるようには見えない。

 

「わかりましたよ。わかってしまいましたよ。私は『アレ』と同じなんでしょう?」

 

 地面に転がる二つの人形。その壊れた彼女たちを、私は確信を持って指差した。その様子を見た魔理沙さんが、にやりと笑って茶化す。

 

「自分は人形だー、ってことね。うふふ、ふふふ」

 

「もう、違いますってば。そうじゃなくて」

 

 とぼけたような魔理沙さんの言葉を遮って、これまでの事を思い返すように、その言葉を叩きつけた。

 

『名無しの正体は、人間ではない』

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 これまでの話をしよう。『名無し』の歩んできた道筋についてである。

 

 『名無し』が最初に現れた無縁塚は非常に危険な場所である。どれくらい危険な場所かというと、幻想郷縁起では危険度極高。人間どころか妖怪でも危ない。うっかりと結界に引っ掛かれば存在を維持する事もできずに消し飛び、そうでなくても狂暴な妖怪などもうろつく、難易度的にはルナティックな場所である。

 

 そんな無縁塚にやってきた『名無し』が野晒しにされて、幸運にも生還できる確率は如何ほどだろうか。

 

 奇跡。そう呼ぶにふさわしい出来事が偶然だったかと聞かれると、怪しいものだ。

 

 妖怪に襲われなかったのではない。襲われてなお、生き残れる『何か』があったはずなのだ。

 

 ならば、『名無し』は本当に人間だろうか。

 

 妖怪を容易く信じたのも。外来人でありながら外の世界の常識を知らないのも。始めて出会った博麗霊夢に襲われたのも。結界の管理者である八雲紫に目を付けられていたのも。

 

 そして、これまでに一度も『名無しの姿が表現されていない』のも、ただの偶然だろうか。

 

 さあ、ここまで言えば否応なく一つの結論に辿り着くはずだ。

 

 『それは偶然ではなく、必然だった』

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「大正解よ。あなたは人間ではないわ。そして、妖怪でもないわ」

 

 私の答えを聞いた魔理沙さんが、パチパチと拍手をする。確かめるように私の姿をじっくりと見た彼女は、目を細めて何故か頷いていた。

 

「にしても、随分としっかりと構成されているわね。これじゃ、どこからどう見ても人間のようにしか見えないわ。妖気も全く感じられないし、流石は人間に成りすますと噂されるだけはあるわね」

 

 魔理沙さんの言葉は私の正体に関するものだ。

 

 めりーさんは、知らず知らずのうちに私が生み出した存在であったが、並行世界からやってきた彼女は自分の立ち位置を見失い、暴走してしまっていた。

 

 彼女は成り済ますだけに飽き足らず、成り代わろうとしてしまったのだ。

 

 それははからずも、私以上に、私を構成する都市伝説の物語と一致していた。

 

「ドッペルゲンガー。あるいは影法師。有名な存在ですね」

 

「影女や影鰐のように、影は妖怪の特徴。でも、それ以上に影は模倣の象徴でもあるの」

 

 ドッペルゲンガーとは、自分と全く同じ存在が現れて襲い掛かるという都市伝説だ。様々なオカルトの中でも、一際有名なこの都市伝説は妖怪と混同される事が多い。だが、影法師は妖怪ではないのだ。

 

 妖怪と呼ばれる存在。実体化した概念。その根本には現象がある。

 

 山彦ならば、山中で音が反射する現象を再現しなければならない。天狗だったら、人間が唐突に消え去る現象を再現しなければならない。それが存在理由だからだ。

 

 しかし、影法師には、それが無い。

 

 役割を持つ妖怪達に対して、役割の無い都市伝説は『恐ろしい何か』でしかないのだ。

 

 だから、拠り所の無い都市伝説は不安定になる。噂によって容易く変化して、簡単に分裂して、あっさりと消滅する。

 

「ならば、どうして私が消滅しないのか」

 

 自分に投げかけた問いを、並行世界の魔理沙さんが答える。ある意味では自問自答だ。

 

「それは新しい噂によって変質したから」

 

 存在の不安定さを補おうとするならば、都市伝説が妖怪や人間の概念を入手するしかない。その点では、影法師は幸運であった。様々な噂があるからだ。

 

 例えば『影法師は妖怪である』という解釈。似ているのは妖怪が化けたからだ、という説だ。この場合は『シェイプシフター』という人間に成り済ます妖怪と概念が混ざる。

 

 あるいは『影法師は並行世界の人間である』という解釈。襲い掛かってくるのは並行世界の自分だからだ、という憶測に基づいた説である。

 

 このような噂によって、ドッペルゲンガーは変化した。半人半妖どころか、全人全妖である。

 

「さーて、そろそろ別のお客様がやってくるかな。後の事は任せたわ、靈夢」

 

 魔理沙さんの姿が私の足元の影に消えていく。入れ替わるように現れたのは、少し変わった姿になった霊夢さんだった。

 

 私の知っている霊夢さんは脇が見える改造巫女服にスカートという見た目だったが、こちらの靈夢さんは正式な巫女服に袴と、実に神職といった見た目だった。鮮やかに輝く黒い髪も相まって、神々しさもある。

 

「一応、自己紹介しておくわね~。私は博麗靈夢。夢と伝統を保守する巫女よ。それにしても魔理沙ったら、せっかくの初登場を奪うんだから酷いわ~。助力するために張り切っていたら、魔理沙を呼ぶんだもの。そこは私でしょ~」

 

「あはは。ごめんなさい」

 

 やや呑気そうな話し方の靈夢さん。何とは言わないが、魔理沙さんよりも活躍したかったらしい。前フリの流れ的に。

 

 それはともかく、靈夢さんに一応謝っておくと「今度はよろしくね」と返事が返ってきた。もう二度と戦闘なんか御免であるが、それは伝えないでおこう。

 

 霊夢さんが増えている姿を見られると、厄介事が起きそうな気がするからだ。レミリアさんとか、八雲さんとか、絶対に興味がありそうだと思う。

 

 一方の靈夢さんは、何かを気付いたのか、私の横を指さす。

 

「おっと、お客さんが来たみたいね。んー、あなたの知り合いかな?」

 

 ――――ギチリギチリ。

 

 お客さん? その疑問に応えるように空間が裂けた。噂をすれば影。いいや、噂をすれば本人か。

 

「あら。今日は珍しい人がいるみたいね。別世界の霊夢かしら」

 

 スキマから這い出るように現れたのは、八雲さんだった。靈夢さんが幻想郷に登場したのは初めてのはずだが、一目で見抜いて言及するとは流石である。

 

「あはは。珍しい妖怪だ~。ええと、こっちにも私がいるんだっけ。ちょっとややこしいかな」

 

「間違いなく霊夢だけど、私の霊夢じゃないわね」

 

 二人の少女が互いを確かめるように向かい合っている。靈夢さんは八雲さんの持つ派手な傘を眺め、八雲さんはパタパタと扇子を仰ぎながら、そんな彼女の様子を興味深そうに見ていた。

 

「ああ、そうだ。霊夢に構ってる場合じゃないわ。貴方に用があって来たのよ。正体が判明した以上、貴方は『名無し』ではなく、ただの『ナナシ』になるわ。それと、こないだの質問を覚えているかしら」

 

「質問というと?」

 

「忘れてしまっては困るわね。未来の住処の話よ。今度こそ、貴方の答えを聞かせて貰うわ。」

 

 少し前の十六夜の夜。その時も彼女は言っていた。外の世界・人間の里・それ以外のどれかを選ばなくてはならないと。

 

「その前に一つだけ尋ねてもいいでしょうか。貴方が私を幻想郷に呼び込んだのですか?」

 

「いいえ、私は関わっていないわ。この結界の内部に紛れ込んだ特異な存在を偶然見かけただけ。幻想郷を脅かす可能性が無い限り、ずっと見守るつもりだったわ」

 

 感情の籠っていない平坦な口調で、淡々と言葉を紡いでいく。

 

 人間であっても妖怪でもそれ以外でも。この世界の住民である限り、彼女にとっては同じなのだと。

 

「だって、幻想郷は全てを受け入れるもの。結果として何が起きてしまっても。等しく公平に幻想郷は扱ってしまう。それはそれは残酷な話ですわ」

 

「人間でも妖怪でもない都市伝説でも、ですか」

 

「ええ。だから、私は貴方の方針を聞きにきたの。貴方はどんな形で幻想郷の住民税を払うのかしら?」

 

 この世界に生きるのならば、必ず払わなくてはならない仕組みがある。

 

 払わなければ、外の世界への退去を。人間として払うのならば、妖怪への恐怖を。妖怪として払うのならば、人間への脅威を。例外として生きるのならば、妖怪や人間への不干渉を。

 

 記憶を取り戻した現在。私は自由である。どんな立場も選択できる特異な存在だ。

 

 その幾多の選択肢から選ぶなら。

 

「全人全妖の例外扱いで、お願いします」

 

 私の答えを聞いた彼女は、薄い唇を三日月形に歪めて、静かに笑った。

 

「最終確認よ。本当に、その選択でいいのね?」

 

「もちろん。後悔はしませんよ」

 

「わかったわ。これで貴方も幻想郷の住人ね。ああ、そうそう。外の世界では、地毛が緑色だったり、超能力を駆使する日本人がいるらしいわ。ご存じかしら?」

 

「まさか。外の世界にそんな人がいるわけがないですよ。幻想郷じゃあるまいし」

 

 八雲さんの質問に不思議な感情を抱きながらも返答をした。私の知っている『並行世界の人間の知識』では、そんな事実は無い。だいたい、地毛が緑色って何だ。どこの外国人でもあり得ない上に、ましてや日本人。有り得るわけがないだろう。

 

「くすくす。そうよね。そういう答えになるわよね。予言するわ。きっと貴方は驚くでしょう」

 

 そう言って、彼女はスキマの中に消えていった。どんな意図があったのだろうか。近くでは、八雲さんが消えた場所をじっと靈夢さんが見つめていた。

 

「あの妖怪も悪霊だったらコレクションにしたかったんだけど。残念だわ」

 

「悪霊集めとか神職がしちゃ駄目ですよ。止めましょうってば」

 

「私の神仙術で封印してあるから悪い物は何も無いわよ?」

 

「強いて言うなら、縁起が悪いです」

 

 不思議そうな面持ちの純白の巫女は、何が悪いのかもわからず首を傾げていた。

 

「趣味なんて人それぞれよ。私はちょっと変わってるだけで。ああ、そういえば。アレがこちらの世界の魔理沙かしら?」

 

 ふと何かに気付いた靈夢さんが森の上空を指さす。その先には、米粒ほどの大きさの物体が少しずつ大きくなっていき、見慣れた白黒姿の魔理沙さんが近付いてきていた。

 

 その気配に釣られてか、影に引っ込んでいた白装束の魔理沙さんまで登場してしまった。靈夢さんと魔理沙さんが、白黒の魔法使いを見て、あーだこーだと言っている。

 

 さて、この複雑な状況を、どうやって説明したらいいだろうか。

 

 頭を悩ませるのは、これから始まる幻想郷の生活よりも、『夢の存在』と魔理沙さんの会話についてだった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 それからの話をしよう。

 

 あの後、魔理沙さんと並行世界の魔理沙さんは弾幕ごっこで勝負をする事にした。弾幕は火力だぜ、が口癖の彼女の得意技『マスタースパーク』と、並行世界の彼女の必殺技『ギャラクシー』がぶつかりあい、結果は相打ち。

 

 星の光を収束して撃ち出した光線と、星の激突による波動は、互いに押しも押されぬ破壊力を秘めており、激突の結果、香霖堂の周辺に星属性魔法の傷跡を残した。具体的には窓ガラスとか、窓ガラスとか。

 

 それから、私は現在も香霖堂に住んでいる。森近さんに認めてもらい、暫定的な助手から正式な助手となったわけだ。

 

 霊夢さんは未知の存在となる私の扱いに難色を示していたが、八雲さんのとりなしもあって、やれやれとあきれ顔で滞在を認めてくれた。たまに私の影から現れる靈夢さんとは、あまり仲は良くないようだが。

 

 話からわかるように、私の影から現れた『夢』は、概念が混ざったためか私の制御を離れて、随分と好き勝手に過ごしている。

 

 といっても、今では妖怪の力が強化される満月の時ぐらいにしか、影から登場しなくなってしまった。

 

 オカルトの力は不思議の力。本来は外の世界にある力を圧縮した『オカルトボール』が幻想郷に送り込まれていたのが、今回の都市伝説異変の原因だったのだ。しかし、その都市伝説異変が収まったために、都市伝説は弱体化。幻想郷に定着したものの、都市伝説たちは細々と生活している。

 

 私が夢の力を自由に扱う事ができたのは、異変による後押しもあったらしい。ちょっぴり残念だ。

 

 魔理沙さんなどは、星属性魔法の研究がー、などと並行世界の自分との共同研究が捗らない事に愚痴を零してばかりいる。だからといって、香霖堂に来ても、私が簡単に召喚できるわけでもないのだが。困った困った。

 

 あとは、何か変わった出来事はあったかな。ああ、そうだ。

 

 森近さんが幻想郷の歴史を記した日記を書いているのを知っているだろうか。彼は自分の日記がいつの日か幻想郷の貴重な書物となる事を祈って、日々書き記し続けている。

 

 その行いを前々から知っていた私も、新たに書き物に挑戦する事にしたのだ。

 

 今は自分の寝室にて、小さな手記に様々な事を記録している。

 

 何のために書くのか? それは新しく訪れるだろう新たな妖怪や人間、そんな彼らへの説明のために幻想郷に関する様々な事を書き記しておくのである。

 

 その内容はというと、既にある程度は考えてある。

 

 幻想郷の成り立ち。幻想郷に根付いている人間と妖怪の関係性。里の人間の待遇。魔法の森の危険性。

 

 それから、忘れちゃいけないのが。

 

 香霖堂と私について。

 

 幻想郷がいつか誰かに忘れられても覚えて貰えるように、私はこの小さな手記に書き残すのだ。



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<番外編> 秘封倶楽部と未来宇宙

本編は皆様の評価に励まされて完結できました。ありがとうございます。


 かつて、人々は《地獄》が存在する事を信じ続けていた。

 

 現世で生を終えたとしても、その意識には続きがあるはずだと考えていたのだ。

 

 しかし、その考えはいつからか消え去った。反証可能性を問われる科学哲学が世界を支配してしまったからである。――――非科学的な存在。地獄の在り方を理論で肯定するには、それは余りにも神秘に溢れすぎていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 大学の構内。春の暖かな日差しが校舎に降り注ぐ中、カフェテラスで誰かを待ち望む金髪の少女がいた。

 

 彼女の名はマエリベリー・ハーン。愛称はメリー。霊能者サークル『秘封倶楽部』に所属している大学生である。ちなみに『秘封倶楽部』のメンバーはたったの二人だ。

 

 『秘封倶楽部』は表立った活動をしていないため、周囲からは不良サークルと呼ばれている。それはメリー達が不思議な力を使って調査をしている事が誰にも知られていない証拠でもあった。

 

 メリーが紅茶を飲んでいると、遠くから駆け寄って来る黒髪の学生が見えた。首から下げている学生カードには、宇佐美 蓮子と書かれている。『秘封倶楽部』の片割れだ。

 

 「遅くなってごめんね! メリー!」

 

 「4分38秒の遅刻よ」

 

 腕時計を見て不満を漏らすメリー。その仕草を気にする事もなく、蓮子は自らの鞄を漁り出す。何をしているのか尋ねようとして、首を傾げて様子を伺っていたメリーへ手渡されたのは、一冊のノート。宇宙に関する記事が纏められた時代遅れの紙媒体だった。

 

 近年では電子化が進み、紙の消費量は環境保護の名目で年々減少している。しかし、情報を入手する手段として非効率な、その無駄こそが世界を彩るのだと秘封倶楽部は知っていた。

 

 「蓮子、これって何? スターショット計画って書かれているけど」

 

 「それはね。地球の未来が《地獄》に変化する事を恐れた、過去の人々が進めていた計画よ。かのホーキングだって計画に参加していたんだから」

 

 科学が発展し、日本の首都が京都に戻るほどの時間を経ても、ホーキング博士を超える物理学者が現れる事は無かった。その博士も関わった計画が――――世界初の恒星間航行計画。

 

 「人々が争いを続ければ、地球は《地獄》へと変化する。そんな未来に備えて、移住できる惑星を探査するのがこの計画の目的みたいね」 

 

 もっとも、現在の地球は環境保護主義が一般的な考えだ。健全な環境による穏やかな生活。物品と資源の飽和による平和。そして、国によって選別された人間だけが生き残る社会。そのため、この計画は既に不要の物となっていた。

 

 蓮子から渡されたノートを読み上げたメリーはそこまで考えて、疑問が浮かぶ。

 

 「えっと、ホーキングって《地獄》の存在を否定してなかったっけ?」

 

 「違うわ。否定したのは死後の世界で、これはただの比喩表現。それに《地獄》と呼ばれる異世界が存在する事は否定してないんだから」

 

 「それで、それらの説明と秘封倶楽部の活動がどう繋がってくるのよ」

 

 「《地獄》を見てみたいって思わない?」

 

 何気なく話す蓮子の姿に、彼女は困惑する。それはメリーの特殊能力に関係する話だからだ。

 

 【結界の境目が見える程度の能力】は、世界の綻びを視認する事を可能とする。しかも、その能力は少しずつ強化され、夢の世界の風景を見るだけでなく、異世界から物品を持ってくる事さえできるようになってしまった。

 

 その事実をメリーは純粋に喜んでいるが、蓮子は快く思ってはいない。

 

 「珍しいわね。蓮子が提案してくるなんて。夢を見るのは危ないから止めよう、とか言うと思ってた」

 

 「今でも思っているわよ。夢は夢で現実は現実。蝶は人間に成り代われない。でも、私と違ってメリーは、夢での怪我が現実にも反映されるんだから当然じゃない」

 

 「それなら、どうして?」

 

 メリーの疑問に応えるように蓮子がテーブルに置いたのは、小さな石片だった。メリーが石片を転がして確認していると、蓮子は楽しそうに言葉を続けた。

 

 「安全で面白そうな物を貰ったのよ。これは《地獄》にある建物の欠片なんだって」

 

 「そんなものをどうやって入手したの?」

 

 「前に私と二人でバー・オールドアダムへ出掛けた事を覚えているかしら」

 

 「もちろん。あの古めかしくて汚い店ね」

 

 今では珍しい『健康に悪い旧型酒』が飲めるバーだ。加工された新型酒とは違い、自然の酵母で作られた旧型酒は、高級な癖に二日酔いまでしてしまう。そんな酒を嗜む客には変人が多い。

 

 『秘封倶楽部』の二人は、この店の奇妙な客たちが話すオカルト話を収集するために、課外活動として時々訪れているのであった。

 

 「嘘つきも多いけど、本当に異世界に迷い込んだ人がいるのが面白いのよね」

 

 メリーの能力を駆使すれば、他人の見た風景だって確認する事ができる。そうやって、彼女達は真のオカルトを収集していた。

 

 「その時の客の一人から譲って貰ったのよ。私達の調査活動の助けになるならって」

 

 「知らない内にそんな事をしていたなんて、蓮子も中々やるわね」

 

 「今回は特別よ。安全そうな場所だったって聞いたから貰ってきたのよ」

 

 「安全といっても地獄でしょう?」

 

 面白い冗談ね、と小声で笑うメリー。地獄といえば罪人を裁くために様々な苦しみを与える場所として有名である。そんなメリーのために、蓮子は更に説明を続ける。

 

 「それがね。既に廃棄された後の地獄らしいの。施設が老朽化でもしたのかしら? そのあたりのいきさつはさっぱりなんだけど」

 

 「再利用もしないで廃棄するなんて、地獄ってのも案外裕福みたいね」

 

 「それで、従来の地獄と区別するためにそこを《旧地獄》と呼ぶ事にしたわ」

 

 「《旧地獄》か。旧都の東京みたいに寂れているんでしょうね」

 

 前時代的な大型ショッピングモール。手入れをされる事もなく朽ち果てた車道。人々は答えの無い不思議を駆逐して、答えのある不思議を探求する。その結果として旧都に残ったのは、内面ではなく外面だけを追求した成れの果てだった。

 

 「地獄から運良く戻って来れた人によると、壊れた店が並ぶ繁華街の跡地があるだけだったみたい。きっと何処かに引っ越してしまったんでしょうね」

 

 「へー。同じ地底にあっても、場所によって様子が変わるのかしら」

 

 「時間が違うのも関係あるかも。過去と現在では地獄の認識も変わってるもの」

 

 少し前にメリーは異なる地底へと夢の中で訪れていた。恐ろしい死の匂いが充満した洞窟。黄泉比良坂に似た場所。古代の日本は神様が君臨する異世界だった。その探検の途中で拾った石を、彼女は今も大事に保管している。

 

 メリーによると、その石は神々の時代の人工物『伊弉諾物質』らしい。2500万年前の物品だと誇らしそうに胸を張るメリーを見て、不安で心がざわついた事は忘れられなかった。

 

 

 ――――メリーの能力はどこまで発展していくのだろうか。時間も空間も飛び越えて、異世界から物品を持ってくるなんてありえない。

 

 

 超統一物理学を専攻している蓮子は常識を投げ捨てた記憶は無い。これまでの知識と経験から判断すると、メリーの力は特異で危うい物だ。だから、その危険性を蓮子は彼女に何度も伝えていた。

 

 それでも、彼女は力を制御できないまま、軽い気持ちで能力を行使し続けている。もしかしたら、世界の不思議を全て解き明かしても冒険は続くのかもしれない。

 

 だからこそ、蓮子自身が用意した異世界の調査だけは安全に進めたかった。

 

 

 ――――まあ、気休めにしかならないんだけどね。

 

 

 蓮子は心の中で溜め息を零す。その想いとは裏腹に、普段通りに能力を使用するメリー。知的好奇心に突き動かされた瞳が赤から青、青から黄色と様々な色に変化して輝くのが見えた。

 

 メリーは《地獄》に縁のある物品を媒介にする事で風景を覗き込んでいるのだ。

 

 「確かに荒れ果ててるわね。暗い地面に薄暗い壁。こっちにまで湿気が伝わってきそうだわ」

 

 「移動先に奇妙な生命体は見えない?」

 

 「ええ、大丈夫。今日の夜にでも出発ね。準備は万端に」

 

 「わかってる。楽しみに待ってるわ、メリー。」

 

◇ ◇ ◇

 

 時が過ぎ、その夜は冬の寒さが残る涼しい空気が漂っていた。大学に設置されていた噴水は、月の光を浴びて黄色に染まっていた。近くでは静かに腰かける一人の少女の姿。メリーだ。

 

 水が流れる音を聴きながら蓮子を待つ。夜空では満月が綺麗に輝いている。

 

 一般人が月面旅行に行ける時代でも宇宙の神秘性は残り続けていた。その中でも最も優れた神秘が月だ。

 

 過去の人々は月に兎や神様が住んでいると考えていた。一方で、人々が月に訪れた現在でも、月には秘密が残っていると考える者もいた。『秘封倶楽部』もそのような人間である。

 

 待ち人来たれり。夜になると時間を呟く癖がある相棒は懲りずに遅刻していた。

 

 「2分の遅刻よ、蓮子」

 

 「残念。正確には2分19秒だと能力が教えているわ」

 

 蓮子は星と月を見る事で時間と場所を把握する事ができる。しかし、その能力が遅刻を防ぐ事には何の役にも立っていないことをメリーは知っていた。

 

 「それじゃ、準備はいい?」

 

 メリーが能力を発動させるために蓮子の体に触れる。蓮子はこくりと神妙に頷いて目を瞑った。

 

◇ ◇ ◇

 

 物理学者は知っている。素粒子が時間と空間を飛び越える奇妙な世界がある事を。メリーはその世界に妖怪が潜んでいる事を確信していた。

 

 逆さまの城が空に浮かんでいたのも、血のように紅い館があったのも、世界を異なる量子が支配していたためだ。そして、これから訪れる世界も。

 

 メリーと蓮子が目を開く。

 

 そこには偶然だろうか、《旧地獄》と書かれた立札と、怪しげな木製の橋が川を跨いで架けられていた。その先には遠目ながらも光の灯った町のような場所も見える。

 

 「――――あれ? おかしいわ」

 

 すぐ隣でメリーが疑問の声を漏らしたのが聞こえた。「奇遇ね、私もよ」と蓮子も呟いた。

 

 「ねぇ、ここで間違いないよね? ご丁寧に場所まで書かれてあるもの」

 

 「そうね。メリーが見た風景はここで合ってる?」

 

 「陰気臭い雰囲気なのも記憶通りだから、ここが旧地獄だと思うんだけど」

 

 「私の能力でも駄目ね。天井が岩で覆われているわ」

 

 空を見上げようとして、夜空が見えない事に気付いた蓮子が肩を落としていた。石を削り出した壁が各地を囲み、天井に空いた穴から風が吹き抜けて空気が循環しているように見える。

 

 「うーん、時間が異なっているとか?」

 

 「ああ、それはありそうね。空間移動に成功しても時間が違うのはお約束だわ」

 

 大昔に流行った空想科学小説にありがちな設定だ。猿が地上を支配してしまった映画の名前は何だっただろうか。

 

 「ここで悩んでいても仕方無いわ。さっさと地獄の観光に行きましょうよ」

 

 不安な様子の蓮子を元気づけるために、メリーが楽しそうに提案をする。いや、真実として、メリーは楽しんでいるのかもしれない。ここは間違いなく、未知の世界なのだから。

 

 逡巡の末、蓮子はメリーの提案に同意をした。

 

◇ ◇ ◇

 

 ――――地下に眠る神秘の世界で『秘封倶楽部』の活動は続く。

 

 湿気を具現化したかのような澱んだ空気。濁った風は怨霊の残り香か。

 

 橋に佇む怪しげな緑眼が印象的な少女。人ならざる気配を漂わせていた彼女に気付かれないように通る時は、蓮子だけでなくメリーも緊張していた。

 

 地獄に広がる石畳の道。あまり使われている様子もなく荒れていたが、メリーが見た記憶よりも新しい。

 

 生命の活気が溢れる繁華街。路地裏からこっそり覗き込んだ町並みの中には、鬼と思わしき角を生やした妖怪や、見た事の無い獣が道の往来を行き来していた。

 

 予想外だったのは、蓮子が目を離した隙にメリーが謎の両生類を拾ってきていた事か。見た目はサンショウウオだろうか? 現実では中々見つからない天然の生命という事が、メリーの好奇心を刺激したのだと蓮子は推測する。

 

 そこから先は妖怪に見つかり、追いかけてくる妖怪から逃げ出すうちに、いつの間にか夢から覚めていた。

 

 「せめて意思疎通ができればなぁ」

 

 異世界での冒険に疲れ切った蓮子がつまらなそうに愚痴る。妖怪を見るとピントが合わないようにぼやけるのだ。妖怪側もそうなのか、見つかる度に襲い掛かってくる。

 

 その不満を宥めるようにメリーが明るい笑顔で話す。

 

 「でも、お土産を確保できたから良しとしましょ。この生物が未知の生き物だったら、新しい学名を決めて発表する事だってできるかもしれないじゃない?」

 

 「入手した場所が不明なのに? ないない。水槽で飼って眺めて楽しむ分には良いかもしれないけどね」

 

 メリーの部屋の一角。小さな水槽の中で悠々と歩く謎のサンショウウオを眺めながら、二人は今後の活動について話し合っていた。

 

 メリーが腕時計を見ると、異世界での体験を随分と話し込んでしまっていたためか、夜になろうとしていた。

 

 「もうこんな時間か。光陰がここまで速いのは予想外ね。蓮子は泊まっていく?」

 

 「うーん、どうしようかな。冒険用に準備した寝間着とかあるから大丈夫ではあるけど」

 

 「なら、今日は一緒に寝てベランダから星空とか見ましょうよ。たまにはこういうのも風流でいいと思うの」

 

 肯定の意を返した蓮子の返答に、気分を良くしたメリーが喜び勇んで準備を始めていく。

 

 その間に、蓮子は水槽にいた怪生物の様子を眺める事にした。

 

 小さくつぶらな瞳。ナマズのような髭。愛嬌のある両生類だ。特に独特なのがその匂いで、まるで先日の旧型酒のような香りが水にまで反映されているようだった。

 

 「まさか、いや、そんなはずはないけども」

 

 ちょっとした好奇心から、水槽の上面にある水を少しだけ舐めてみる。どんな病気も治療できるこの世界で、二の足を踏む事は無かった。

 

 口に含んだその味は、蓮子の予想した通りの水――――ではなく。

 

 ――――信じがたい事に間違いなく旧型酒だった。

 

 自然酵母によって熟成された高級アルコール。独特の眠くなるような甘い匂いは旧型酒の特徴だ。

 

 急いで手元の端末で水だったはずの液体をスキャンする。結果はエタノール。酒だ。

 

 「メリー! メリー! ちょっと来て! これって凄い生き物かもしれないわよ!」

 

 「どうしたの蓮子? そんな異世界に行ってきた時みたいなテンションで」

 

 「このサンショウウオの水槽って水を入れたのよね! 私も確かめたもの!」 

 

 「そうよ。それがどうしたの?」

 

 「水が旧型酒に変わってるの! しかも、かなり美味しい味で!」

 

 その言葉に目を丸くしたメリーも近付いて、水だった酒を舐めて驚く。前に飲んだ酒よりも美味しいかもしれない、とのことだ。

 

 「これは凄い発見ね。惜しむらくは餌や生息地が不明なせいで発表できない事だけど」

 

 「でも、水を酒に変化させる生物が大量に溢れたら経済が壊れるから、これでいいんじゃないかしら」

 

 「それもそうね。で、どうする?」

 

 「どうするって、何を?」

 

 「この大量のお酒をどうやって楽しむか、色々と悩んじゃうじゃない」

 

 お酒のつまみに枝豆を用意するか。チーズを用意するか。あるいは、他の何を用意するか。メリーの提案はこの世紀の大発見に対して余りにも即物的な内容だった。しかし、そんな彼女だからこそ、この福の神を捕まえられたのかもしれないと蓮子は考える。

 

 昔話において、幸運を掴み取るのは欲が深くない人物が多い。意図せずして善行を積んだ人間が富を得る。逆に欲望が強い人物は地獄送りになるのは知っての通りだ。

 

 更に面白いのは、そんな生き物が地獄で捕まったという奇妙な事実だが。

 

 それはさておき、お酒の準備をするとしよう。蓮子はメリーと一緒に準備をして酒盛りを始める事にした。

 

◇ ◇ ◇

 

 お酒を飲んだ。星空を見た。夜空は綺麗に輝いていた。

 

 蓮子はゆっくりと目を覚ます。いつの間にか寝ていた彼女の隣には、同様に眠っているメリーの姿があった。どうしてか、胸騒ぎがする。

 

 ああ、なんだろうか。この感覚は。メリーを見たからではない。宇宙を眺めたからでもない。

 

 視界が歪み、頭に痛みが走り、どうしようもないほどに気分が悪い。

 

 そこまで考えて、蓮子は原因に気付いて溜め息を吐いた。美酒の欲に負けて大量に旧型酒を飲んだことを。

 

 「二日酔いになっちゃったみたいね」

 

 地獄のお酒は、信じがたいほどに蓮子に《地獄》の存在を教えてくれた。地獄送りという形で。



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<番外編> 蛇の足と茨華仙

 幻想郷の東。森に囲まれた山の中に、大きな赤い鳥居が佇んでいた。博麗神社の鳥居である。境内には綺麗に澄んだ池や、春の陽気に当てられて青々と生い茂った木々が立ち並んでいた。

 

 ――――ささりささり。と、誰かが竹箒で石畳の掃除をしている音が聞こえる。その箒の持ち主は黒髪の巫女。幻想郷を守護する今代の巫女、博麗霊夢であった。

 

 「あー、退屈だわ。何か起きないかしら」

 

 舞い上がる土埃に嫌気が差したのか、霊夢は溜息を吐いて空を見上げた。

 

 その時だった。青空に小さな黒点が写った事に霊夢が気付く。黒点は徐々に大きくなり、やがて人型へと姿を変える。それは誰かが空から神社に近付いている証であった。

 

 「あれは、天狗かしら?」

 

 黒い翼で羽ばたいて空を駆けていた天狗は、何をするわけでもなく、霊夢の目の前へ新聞を落として立ち去っていった。天狗たちが新聞の出来栄えを競って各地に新聞を(強引に)渡していく事を思い出した彼女は、地面との衝突を果たそうとしている新聞を救い上げる。

 

 『未知の魚か!? 水龍か!? 霧の湖に佇む黒い影!』

 

 「――――霧の湖に訪れた猟師が巨大な魚影を見かけた、か。妖怪だったら危険ね」

 

 霧の湖には僅かながらの猟師が立ち入る場合がある。今回の彼らは無事であったようだが、もしも妖怪に遭遇してしまっていたならば大変なことになっていただろう。

 

 霊夢がそう考えて身支度を整えていると、見知った顔の若い女が声をかけてきた。淡い桃色の髪、片腕には白い包帯。妖怪仙人の茨華仙だ。

 

 「霊夢? 今日はどこに出かけるのですか」

 

 「んー、あんたも興味あるの? 霧の湖に巨大な魚影が現れたんだって」

 

 「ああ、それなら私も付いていきましょう。動物の事なら任せてください」

 

 魚って動物だっけ、と霊夢が首を傾げていると、両腰に手を当てて胸を張って自慢げな仙人の後ろから、人影が現れた。白黒の魔法使い、霧雨魔理沙だ。

 

 「おーい、霊夢。もう新聞は見たか? 巨大な魚の妖怪が現れるかもだってよ」

 

 「既に確認済みよ。これから、あいつと一緒に行こうとしてた所なんだから」

 

 霊夢が近くに立っている華仙を指さすと、魔理沙は残念そうに首を振って言葉を続けた。

 

 「なんだ、お前らも見たのか。だったら、私も連れてってくれ。珍しいお宝があるかもしれないだろ?」

 

 魔理沙の言葉に対する二人の返事は、肯定だった。

 

◇ ◇ ◇

 

 「うわぁ、湿っぽいわねー」

 

 霧の湖に到着した霊夢は、すかさず湿気の強さに言及する。

 

 水滴が服にへばり付くかのような錯覚をもたらす湖の水中には、様々な生命が隠れ潜んでいるという。その中には、かつて霊夢と魔理沙が倒した妖怪も含まれている。

 

 「これだけ広いと目撃現場を探すのも一苦労ね。霊夢は目星を付けてあるのかしら?」

 

 「あるわけないじゃない。そういう作業は魔理沙の方が得意よ」

 

 「ん? 私の事を呼んだか?」

 

 華仙の声に振り向いた魔理沙はというと、帽子の中から様々な機材を取り出して、妖力の反応を探っているようだった。そんな彼らに来訪者が現れる。

 

 「あ、魔理沙さんに霊夢さん。それに仙人様も一緒ですか」

 

 「あら、早苗じゃない。貴方もここで巨大魚を見に来たの?」 

 

 早苗と呼ばれた緑髪の女性、東風谷早苗は妖怪の山に住んでいる巫女である。外来人の彼女は【奇跡を起こす程度の能力】を持っており、人間の里で布教活動を行っている宗教人でもあった。つまり、霊夢の商売敵でもある。

 

 普段ならば妖怪退治の霊夢、人心安定の早苗と、それなりに役割分担がなされているのだが。

 

 早苗は霊夢の質問に目を輝かせて、御淑やかな見た目と相反するほどの興奮具合で大声で叫んだ。余りの喜びように目の模様がシイタケになっているほどだ。

 

 「もちろんです! 湖に登場する巨大魚の影なんて未確認生命体に決まってます! UFOもネッシーも私の大好物です! あ、でもここはネス湖じゃなくて霧の湖だから、ネッシーではなくキッシーですか! そうそう、しかも魚影は巨大ですって! 大きな物体にはロマンが詰まってるんです! それから―――――」

 

 止まらない早苗の早口。普段の彼女であれば滅多に無いのであるが、興奮しすぎるとこうなってしまう事を一同は知っていた。ドン引きしながらも霊夢達は相槌を打ちながら、早苗のマシンガントークを聞き流していく。慣れたものである。

 

 少しの時間が経ち、落ち着きを取り戻した早苗を加えた一同は捜索活動を続ける。湖に近付いてみると、そこにすぐさま変化が見られた。

 

 空が暗くなり、湖の色が僅かながらに濃くなり始めたのである。このような変化を起こすのは妖怪に属する者と昔から決まっている。

 

 霊夢と魔理沙、早苗が緊張感を高め、華仙が普段通りの様子で湖を伺っていると、湖の端――――ちょうど一同の目の前に巨大な『それ』は姿を現した。

 

 その妖怪は大きな大きな姿をした――――妖怪鯨だった。断じて、巨大魚でもなければ未確認生命体キッシーでもない。かつての巨大魚騒ぎの『万歳楽』(幻想郷在住のアザラシ)は動物であったが、こちらは妖怪であった。

 

 「――――我の眠りを妨げる者は何者ぞ?」

 

 その問いにどう答えるか、一瞬ほど逡巡していると、霊夢の隣にいた華仙が前に進み出た。

 

 「失礼。貴方の眠りを邪魔するつもりではなかったのですが、興味を持つ人々が現れたようです」

 

 他の人間が仙人の答え方に疑問を浮かべると、妖怪鯨は誇らしげに笑い機嫌が良さそうに体を揺すった。水飛沫が飛び、霊夢達を濡らしていく。

 

 「ふっふっふ。誰かと思えば、先日の仙人ではないか。今日の晩にでも我を外界へ返還してくれるのであろう。となると、そやつらは貴様の連れか。うむうむ。せめて我を一目でも見たいとは殊勝な心掛けよな」

 

 大きな高笑いをすると、華仙に話しかけ終わった妖怪鯨は我が物顔で霧の湖を泳ぎ回り、そして、最後にはゆっくりと湖の中へと沈んで消えていった。

 

 妖怪鯨が立ち去った後には、仙人への御礼の品として、小さな丸い石だけが渡されたようであった。

 

 その様子を眺めていた一同は、華仙へと詰め寄り、肩を掴んで事情を聞こうと詰め寄ってくる。その展開を予想したのか、ひらりと身軽に躱した彼女は、うっすらと微笑んで嗜めるように話しかけた。

 

 「まぁまぁ、皆さん。聞きたい事もあるでしょうが、ここは場所が悪いです。霊夢の神社に行ったら質問を受け付けますよ。それでいいですね?」

 

 いいわけあるかー!と叫んだ一同であったが、そんな様子も華仙には露知らず。何食わぬ顔付きで空を舞った彼女を追いかけるように霊夢と魔理沙、早苗は空へと体を投げ出すのであった。

 

◇ ◇ ◇

 

 博麗神社の境内。不貞腐れた顔の霊夢を宥める華仙の姿がそこにはあった。霊夢は嫌そうな顔つきをしながらも華仙が既に妖怪鯨を知っていた事を追求しようとする。

 

 「えーと、とりあえず色々と聞きたいんだけど。まず、あんたは既に巨大魚の正体を知ってたって事でいいわけ? 私達と一緒に付いてきた時は、そんな様子を見せてなかったわよね?」

 

 「その通りです。私も幻想郷を守る賢者の一員として、今回の件は見過ごせないと考えていたので対処させていただきました。このままだと鯨に湖の生命が全て食われてしまう可能性がありましたからね」

 

 「じゃあ、どうしてそれを黙っていたのよ?」

 

 「だって、私が正体を先回りして言ったら面白くないでしょ? 私からのサプライズですよ」

 

 しれっと言い放つ華仙に、霊夢と魔理沙は不満顔だ。早苗はというと、未確認生命体でない事に非常にがっかりとした様子を見せている。

 

 「それじゃ、次の質問。私達が出会ったあの妖怪って何?」

 

 その質問に反応するのが早かったのは、華仙ではなく早苗だった。

 

 「ああ、そういえば霊夢さんは知らないんでしたっけ。鯨っていう海に生息している動物ですよ」

 

 「動物? 巨大な魚じゃないの?」

 

 「ほら、霊夢さんが前に見たアザラシとかと同じ扱いですよ。可愛くないですけど」

 

 「あー、なるほどねぇ。確かにそれなら動物なのかしら。可愛くはなかったけど」

 

 早苗の話に納得したのか、何度かこくりと頷く霊夢。魔理沙はというと、「食べ応えがありそうだったな」と少しズレた感想を零していた。

 

 「アレでも恵比寿様の御使いとして扱われているんですから、食べたら罰当たりですよ。それに鯨は竜蛇の仲間と呼ばれているんですから」

 

 「へー、あんな妖怪がねぇ。あんまり威厳とかは感じなかったけど」

 

 霊夢の脳内では、高笑いするだけの巨大な妖怪と認識されていた。哀れである。「それに」と、華仙が取り出したのは先ほど入手したばかりの小さな丸い石だった。一同は興味深く眺めている。

 

 「最後の質問だけど、あんたが妖怪鯨が貰ったその石って何なのよ」

 

 「これですか?」と華仙が掌に載せた石を右指で突っつく。

 

 「これは龍の涎です。かつて龍が海に涎を垂らして石として固まった物だと言われていますね。実際は事実とは違うのですが」

 

 「あ、その名前ならテレビで聞いた事があります。何だっけ。海岸で入手できる高級な素材だとか何とか」

 

 早苗は何かしらの心当たりがあるようだった。頭に手を当てて思い出そうとしているが、名前以外は思い出せなかったようで渋い顔をしている。

 

 「おっと高級素材か。それはいいな。マジックアイテムの材料として使えるのか?」

 

 魔理沙が素材と聞いて我慢しきれず、霊夢と早苗を遮って横から口を挟む。

 

 「いえ、これは高価な香水の材料として使えるだけなので魔道具には使えませんね」

 

 「なーんだ。それじゃ、私が永久に借りておく必要もないな」

 

 「別に渡しませんからね?」

 

 魔理沙の本気混じりの冗談に対して華仙はすげなく拒否する。親交の深い霊夢ならともかく、不老不死の技術を求めて仙人に付き纏う魔理沙に渡すには、残念ながら友好度が足りないようだ。

 

 「あぁ、でも霊夢になら貸してあげてもいいですよ?」

 

 「いいの? 貴重な石なんでしょ?」

 

 「私の家の飾りになるだけですからね。これが龍の涎じゃなくて龍の卵だったら私が大事に育てていた所ですが」

 

 華仙が所持する大多数のペットの中には、彼女自身が育てた龍の子供も存在する。かつて霊夢を華仙の修行場へと誘拐、もとい、強制的な招待をした時に活躍した幻想的な生物だ。ただの子供と侮るなかれ。最強生物の一角に位置する龍は、子供の時点で人並みに賢く、その体躯は人の何倍も大きく、そして超常の力を振るう事ができるのだ。

 

 しかし、彼らを育てるには大きな困難が待ち受けている。色々と存在する制約の中でも厄介なのは、所有者が龍の子供よりも強くなければならない事だ。龍の親になるためには、龍を調教できる程度の強さを持つ必要があるのである。

 

 その条件を満たすには常人には難しい。仙人であったり、魔法使いであったり、あるいは。強大な力を秘めた鬼でもなければ。

 

 「しっかし、龍の涎ねぇ。これを見世物にするには悩むわね。巨大魚の正体と一緒に広めても、肝心の鯨は華仙が結界の外に返してしまうんでしょ? だったら、私としては博麗神社で、仙人様の一発芸を見世物にした方が――――って、あっ」

 

 うっかりと口を滑らせて本音を漏らす霊夢。まずいと思った時には時すでに遅し。華仙は顔を真っ赤にして怒り出していた。さもあらん。仙人の技術とは長い修行によって得られる徳の高い行いなのだ。それを商売の道具にしようなどと、どっかの誰かが言い出してしまえば…………。

 

 「馬鹿者――――!! そんなことを考えているから貴方の神社はいつまで経っても人が訪れないのです! 神職とは神に仕える心の清い者ですよ! それがやれ人気取りだの、金儲けだの。最近では妖怪達から場所代を頂いて、神社の境内を使わせているではありませんか。それが人のためなら我慢しましょう。しかし、信仰心とは常に俗世の欲に塗れる事とは相反するものです。霊夢は今一度、反省をしなさい!」

 

 そう叫ぶと、華仙は霊夢に竜の涎を押し付けて、世界から消え去るように瞬時に姿を消した。残されたのは、仙人の怒りに尻もちをついた霊夢に、叫びに顔を引き攣らせた魔理沙。そして、そっとその場から距離を取っていた早苗の三人であった。

 

 「あーあ、霊夢ったら、また華仙のヤツを怒らせちゃったな。あの怒りは早々とは収まら無さそうだぜ。どうするんだ?」

 

 「あれだけ怒ってるんですから、後で霊夢さんが謝りに行った方が良いですよ。数週間の性根叩きなおしコースの修行に送られたら、私がきっちりと代理で霊夢さんの神社も管理しておきますから」

 

 「二人とも本当に他人事ね。もうちょっと私に言う事ないの?」

 

 「お前が悪い」「霊夢さんが悪いと思いますよ」

 

 霊夢がぶーぶーと頬を膨らませて抗議するも、二人は素知らぬ顔で呆れている。その様子を見て、少しは反省したのか、とある思い付きを口にした。

 

 「だったらさ。私がきっちりと神社を盛り立てる事ができる事を見せればいいんでしょ。神職失格だなんて言わせないわ。今回は何て言ったって、龍の涎という使えそうな道具があるんだから」

 

 一念発起した霊夢が手をぱちりと打ち合わせて気合を入れる。

 

 「さーて、どうやって繁盛させようかしら。まずは猟師向けのグッズとして、安全祈願の竜の涎型のお守りを作るでしょ。それから妖怪達に話を通して、龍の涎っぽいお菓子とか食事とかを作ってもらって、それからそれから」

 

 霊夢の脳内では既にどうやって龍の涎を商売に盛り込むか考えているようであった。霊夢の瞳がきらきらと輝いている。一方で、魔理沙と早苗は霊夢が嬉しそうにアイデアを出している姿を冷ややかに見ていた。

 

 「霊夢さんのあの状況ですけど、魔理沙さんはどう思います?」

 

 「どうって?」

 

 「失敗するか、それとも成功するか。ちなみに私は失敗する方に賭けます」

 

 「奇遇だな。私も霊夢が失敗する方に賭けるぜ。ああやって嬉しそうに金儲けを考える時は間違いなく失敗する。あいつは無意識の内に直感で行動するのが必ず最適解になるんだ。意識的にやっている時点で駄目だな」

 

 二人の意見が一致する。これまでに霊夢が行ってきた金儲けは殆どが失敗している。その事を知っていた魔理沙と早苗は、これからどうやって霊夢を慰めようかと頭を悩ませるのであった。

 

 「今回はどうやって失敗するのか気になるな」

 

 「人が来ないパターンとか。私の神社の方に人が流れるパターンは無いとして、龍の涎って名前じゃ縁起物だと思って貰えないんじゃないでしょうか」

 

 「そうか? 霊夢の言う事を信じるけど何かしらの不備が見つかって失敗しそうな感じもするが」

 

 「どうでしょうね。結果は数週間もすれば分かるでしょうし、霊夢さんのために宴会の準備でも進めておきましょうか」

 

 「そうだな。私は魔法の森で山菜とキノコを集めてくるから、そっちは魚介類か肉類で頼むぜ。春の山菜といえば、ふきのとうだな。あの苦味を味わえば元気も取り戻すだろ」

 

 意見を交わした二人は、準備を進めるために霊夢に一声かけて立ち去って行った。後には、うんうんと唸ってアイデアを出し続ける霊夢の姿があった。

 

◇ ◇ ◇ ◇

 

 後日の事である。龍の涎は一定の人気を経て、博麗神社の繁盛に役立ったのかと思われた…………が。

 

 早苗がふと思い出したのはテレビで見たという龍の涎の事についてだった。

 

 龍の涎とは、鯨がイカなどを食べた時に発生する老廃物。つまり、トイレで生み出す糞のような存在であった。その事を信者の前でうっかりと話してしまったのであった。

 

 早苗の信者の中には、霊夢の神社の事を妖怪神社と呼び、霊夢が妖怪に与する神職であると信じている人間もいる。そのためだろうか。霊夢の配った龍の涎のグッズは、幸運をもたらす縁起物ではなく、むしろ妖怪側に与するものではないかという迷信が広がってしまった。

 

 この噂を聞いた早苗と霊夢が慌てたものの、時すでに遅し。人の口に戸を立てるのは難しく、いつの間にか博麗神社は寂れた風景へと逆戻りをしてしまった。

 

 

 「何でこうなるのよー!」と霊夢が頭上へ叫ぶ。

 

 

 博麗神社にぽつんと残されたのは妖怪鯨――『竜蛇』が渡した竜の涎だけ。

 

 人が消え去った博麗神社には『蛇足』となった、飾り物の石だけであった。

 



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