シャニマスレ◯プ!プロデューサーと化した野獣先輩 (ここあらいおん)
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Prologue シャイノグラフィ
今から約20年前。
科学技術が著しい進化を果たした一方、大規模な戦争による大量殺戮が世界中で相次ぎ、“人類史上最悪の時代”とも謂れた20世紀の末。
混沌とした時代であった20世紀晩期、東洋のとある小さな島国に「野獣先輩」と呼ばれるホモビ男優が居た。
周囲の共演者たちとは一線を画す、迫真に満ち溢れた演技。
老若男女問わず生理的拒絶反応を起こす甲高い喘ぎ声。
修羅さながらに後輩を追い詰める、鬼畜外道な人間性。
その卓越した才能を武器に淫夢ファミリー最高戦力とも呼ばれた野獣先輩だったが、後に訪れる新時代(世界的淫夢大流行時代)の到来と共に人々の前から姿を消し去り、時の流れと共にその存在は「都市伝説」という名の伝説と化していくこととなる。
––––そして物語は、2020年4月東京下北沢から始まる。
Prologue シャイノグラフィ
「……どうしたものか」
「どうしたものですかねぇ」
東京郊外に拠点を置くとあるアイドル事務所。
窓から差し込む春の日差しとは対照的に、シワひとつないスーツを着た男と、若い女性の二人だけの部屋はどんよりとした空気に包まれていた。
一年ほど前に芸能事務所として立ち上げた283プロダクション、その社長である天井努は深刻な問題に直面していた。
事の発端は数ヶ月前、自身が偶然帰宅途中に見かけた少女––––浅倉透に声をかけたことだった。
中性的ともいえる端正な顔立ち、どことなく漂う並々ならぬオーラ。
この業界に身を置いている人間であれば、誰もが惹かれるであろうほどの素質を素人ながら兼ね備えていた浅倉に、天井は一瞬で心を奪われ、そして躊躇いもなく声をかけた。
「アイドルに興味はないか」
「君なら間違いなくトップアイドルになれる」
数日にも及んだ熱心なスカウトは実を結び、思わぬところで思わぬ才能の原石を見つけた天井は浅倉を283プロに招き入れることに成功。だが浅倉が283プロにやってきたことがキッカケで嬉しい誤算と、良くない誤算が同時に生じてしまった。
嬉しい誤算だったのは、浅倉がアイドル活動を始めたことで彼女を慕う幼馴染の市川雛菜と福丸小糸が芋づる式で283プロにやってきたことである。二人とも動機が「浅倉がやるから自分もやりたい」という決して褒められた内容ではなかったものの、天井は二人の直談判をすんなりと受け入れた。浅倉ほどではないにせよ、二人からもそれなりのアイドルとしての素質を感じ取り、ここで見す見す逃すのは惜しい人材だと判断したからだ。
アイドルの素質を持った子が何も動かずとも勝手にやってきてくれた、こんな美味しい話はそうそうない。だがその結果、想定外だったアイドルが浅倉のみならず、二人も増えてしまうことになってしまった。
一人だったらまだどうにでもできる。
既存のユニットに追加メンバーとして組み込むことだってできるし、比較的ユニットの人数が少ないプロデューサーに預け、ソロで活動させることだってできたはずだ。
だがそれは一人だからこそできることで、それが三人になってしまうと話は当然変わってくる。現状どのユニットのプロデューサーも自分たちのところのアイドルだけで手一杯であり、他のユニットを掛け持ちで見たり、一気に3人の新人アイドルの面倒を見れるほどの余裕なんてものは持ち合わせていなかったのだ。
これが天井の頭を悩ます、浅倉が引き起こした良くない誤算だ。
数日熟考した結果、天井は三人を既存のユニットに組み込むのではなく、新たなユニットを結成させることに決めた。
そうなると当然3人の面倒を見るプロデューサーも必要になる。何かと資金力に乏しい立ち上げ一年目の新興プロダクションにとっては痛い人件費がのしかかることとなるが、これも一種の先行投資だと捉え、新たに一人のプロデューサーを採用するにした。したのだが––––。
「……まさか過去にホモビ出演歴があったなんて、さすがにたまげますよね」
求人サイトの募集を介して面接に来た男の内定が決まって数日、事務員である七草はづきがインターネット上で何気なく新プロデューサーとなる予定だった男、TDNの身辺調査を行ったところ、過去にホモビ男優として活動していたことが発覚。それもその界隈ではそれなりに知名度があった名俳優だったようで、この過去を重く受け止めた天井は彼の過去を年頃のアイドルを担当させるのは不適切だと判断し、泣く泣く採用を見送ることにしたのだ。
こうして再び求人サイトで新プロデューサーを募ることになったわけだが、その作業は難航を極めていた。
端的に言うと、283プロは清々しいほどにお金がなかったのだ。
創設一年目で20人のアイドルと複数人のプロデューサーを抱えているだけあって、想像以上に人件費が予算を逼迫。人手不足でもあったが、それと並行して資金繰りの問題が発生していた。
かと言って将来を担うアイドルの卵を預かる人間だけに、誰でもかんでも採用するわけにもいかない。
求める人材レベルは高いくせ給料は薄給––––……、そんな募集条件と給与だけでブラック企業だと一目で分かる案件に食らいつく阿呆な有能なんているはずがない。万が一いたとしても、それは英語力堪能で体力も礼儀もある体育会系出身、されど過去にホモビに出演した過去のあるTDNのような、何かしら大きな地雷を抱えた理由ありの人材だけなのだ。
こんな本末転倒になるくらいなら、そもそも浅倉に声をかけるなという話になるのだが、業界人としてあの才能を放っておくことなんてできるはずもなく。
––––はたして、どうするべきか。
天井の下に一通の応募メールが届いたのは、そんなどうしようもない現実に絶望しつつあった時だった。
不自然な静寂に包まれていた部屋に、インターホンの音が一度だけ鳴り響く。
玄関に通ずるモニターの方へと向かうはづきの後ろ姿を見て、天井はいつの間にか時計の針が約束の時刻を指していたことを知った。
「……社長、本日面談予定の方が来られたみたいですよ」
「分かった。玄関を開けてここに通してくれ」
はづきは来訪者に対してモニターの画面越しに応対すると、一度だけ天井の方を向いて頷いてから部屋を出た。その横顔が心なしか困惑したような表情にも見えたが、天井は何も触れずに退室するはづきを見送った。
そしてはづきが部屋を出た数分後、二度部屋のドアがノックされ、
「おっす、お願いしま〜す!」
クッソ汚い声と共に、汚物の擬人化のような風貌の男が天井の前へと姿を現した。
☆★☆★
常識はずれの挨拶と、妙になれなれしい声。
来訪者の入室と共に部屋の空気が一瞬でガラリと変わる様を天井は直に感じた。まるで一ミリも動かなくなるまで張り詰められたギターの弦のように、部屋中にほとばしる緊張感と圧迫感。様変わりした空気の重さに呆然とするあまり、息をつくことさえも忘れ、慌てて唾を飲み込む。
天井の今日までの芸能界でのキャリアは決して短くはない。そのキャリアの中で天井は大勢のアイドルの卵たちと出会い、そしてその中の幾つかは思わず言葉を失くすようなほどの煌めきを持つ者たちもいたはずだった。
だがこの男を一目見た時に天井が感じた衝動は、そんな煌めきたちがか細い光だったと思ってしまうほどの輝きを兼ね備えていた。
––––この男は一体何者なのか。
その正体が、ネット上に蔓延る幾千幾多の研究者たちが総力を上げても特定できなかった伝説のホモビ男優だと、天井は当然知る由もなく。
「そ、それでは早速面接を始めさせていただく!」
「おう! いいよこいよ〜」
男がパイプ椅子に着席したのを確認して、天井はわざとらしい咳払いを挟んだ。男はやはり緊張感のかけらもない言葉を発していたが、完全に彼の異様な空気に飲み込まれていた天井にはそんなことを気にする余裕すらもない。
「名前は田所浩二、さん……。では最初に年齢を教えてもらえるか」
「45歳です」
「45歳? もう働いてるの?」
「学生でした」
「あっ……、ふーん」
年齢に似付かないフレーズが飛び出し、慌ててプリントアウトしていた彼の履歴書に目を通す。履歴書の職歴の欄の上部分には“株式会社CO◯T”などという見慣れない社名が書かれていて、その下から現代まではアゼルバイジャンといったこれまたあまり馴染みのない国名と語学学校と思われる英語が記載されていた。
TDNの不祥事のせいで誰も望んでいない陽の光を浴びしてしまった『真夏の夜の淫夢』、通称“淫夢”。そんな淫夢が社会現象になり始めた2010年、ホモビを見て嬉々と喜ぶ日本国民に愛想をつかした田所は独りアゼルバイジャンに亡命していたのだ。これがいつまで経っても日本国内で野獣先輩が発見されなかった原因だった。
ちなみに彼の亡命を助けたのは、とある某動画配信サイトである。
淫夢ブーム到来時、主に野獣先輩をオモチャにした動画が星の数ほど投稿されたのを見て、田所は何度も某動画配信サイトの本社に動画を消すよう依頼したことがあった。だが動画配信サイト側は淫夢ブームが自身たちのサイトの知名度を爆上げする起爆剤になると判断し、田所の依頼を却下。その代わりに今後の生活費を支払い続ける条件を提示し、田所を日本人と殆ど縁のないアゼルバイジャンへの亡命を促したのだ。
ちなみにちなみに、田所がこうして日本に帰ってきて就活をしているのは、語学留学の名目でアゼルバイジャンに半永久的に滞在し続ける田所の生活費を、近年運営が傾き始めた某動画配信サイト側が工面するのが厳しくなったからである。
(履歴書だけ見ればなんの変哲もない、ただのプー太郎じゃないか)
当然田所の素性を知らず、この履歴書と自分が感じた衝動のギャップに疑問を感じていた天井。だが僅かな経歴の下に書かれた特技の欄が彼の目を一気に引き寄せた。
「この特技に書かれている、『演技』というのは? 俳優や舞台経験でもやっていたのか?」
「やってましたねぇ!」
待ってましたと言わんばかりに、水を得た魚のようにイキイキと話す田所の様子を見て、これがただのハッタリではないことを察した。
職種も書かれていないため唯一の職歴である株式会社CO◯Tが何の会社なのかは分からないが、初見で感じたあの衝動––––、もしかしたら田所は現場経験者のある業界人なのかもしれない。微かにだが全く正体が掴めなかった田所の姿が見えてきた気がして、天井は切り込んでいく。
「出演作品は?」
「それは……、会社的にダメみたいですね」
「なら出演した作品のジャンルとか、それくらいならいいだろう」
「そうっすね〜。やっぱり王道を行く純愛物とかですかね」
「純愛物––––、か。分かった。じゃあここで何か一つ、君の演技力を見せてくれ」
「いいっすよ。ほらほら、見とけよ見とけよ〜」
「ファッ!?」
天井は自身でもこの要求が度がすぎた無茶振りだと分かっていただけに、田所のあっけらかんとした態度は予想もしていなかった。
拍子抜けして思わず変な声を出す天井。そんな天井の前で何故か服を脱ぎ始めて上裸になる田所。
「良いっすか? はーい」
窓から差し込む優しい日差しが、ガッチリと鍛え上げられた田所の胸筋に影を作る。
呆然としたまま田所を見上げる天井は、次の瞬間、今までのつぶらな瞳が野獣の眼光へと姿を変えていく様を見た。
「……お前のことが好きだったんだよ!」
それはまるで女の子の特権と言わんばかりの大胆な告白。古今東西、世界中で使い古されたフレーズだった。
だが田所が言い放ったその言葉は、パステルよりも繊細で、モノクロームより純粋で、プリズムより多彩な色を持っていた。透明になるほどまでに使い古されたフレーズは田所によって鮮明なシャボン玉色へと姿形を変え、そして光空から一直線に落ちてくる流星になって天井の肺の底へと降り注いでくる。
(こ、こいつは本物だ––––)
たかが演技。そして相手は45歳無職のれっきとした男。
それなのに彼の言い放った言葉は天井の胸を激しく刺激する。それこそ、田所の言葉が可憐な美少女の口から溢れ出る大胆な告白のような錯覚さえも感じさせるほどに。
繰り返しにはなるが、この業界での天井のキャリアは決して短くはない。それ故に、天井の目はこの迫真の演技力が常人離れしたモノだと見抜けないほど、節穴ではなかった。
「––––採用だ」
これだけの演技ができるのであれば、きっと田所の実力は本物なのだろう。
天井は光空から降り注いできた流星を、ギュッと手に掴んだ。
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第1章 W.I.N.G.編(樋口円香)
シーズン0 : 夜に待つ
窮屈な階段を抜けて地上に降りると、ここにやってきた時は明るかったはずの空が真っ黒に染まっていた。
昼間の温もりは跡形もなく消えており、冬が置いていった微かな寒さが鍛え上げられた田所の強靭な肉体を襲う。冷たい北風が全身に鳥肌を走らせると、途端にどっと疲れが押し寄せてきた。
「ぬわああああああん疲れたもおおおおん」
口からとっさに溢れる過去の名言。幸い周囲には人の気配はなく、このクッソ汚い語録は誰かを不快にさせたり、はたまた田所自身に疑いの目を向けるような事態も起こさず、季節外れの冷たい風に拐われていった。
しかし、最近までアゼルバイジャンで悠々自適なニート生活を送っていた田所だ。
就職を賭けた面接だけでも気を張り詰めると言うのに、その後事務所内の設備の案内、そして自身が今後担当するアイドルたちの説明など、今日だけで多くのイベントが一気に起こったのだから、いくら週3回身体を鍛えているからとはいえ、気疲れしてしまうのも致し方ないことなのかもしれない。
疲れ切った身体は、彼の自宅のある下北沢までの帰路を何倍も遠くに感じさせたが、追憶の記憶となってしまった大学時代の水泳部と空手部を掛け持ちしていた頃と同じような疲労感はどこか懐かしく、そして心地よく感じられて、またあの頃のような充実した時間を過ごせるかもしれないという前向きな思いも含んでいた。
「––––あの、すみません」
「ヌッ?」
重い足を動かそうとした矢先、誰もいないと思っていはずの周囲の何処からか聞こえてきた女の子の声がその足を止めた。
田所が振り返った先、事務所が入った建物の一階にあるペットショップの入り口の前では前髪をピンで留めた赤髪の女の子が田所を見つめていた。田所を見つめるその瞳は、間違っても好意的とはいえない色を宿している。
「283プロダクションの方でしょうか」
「そうだよ(王者の風格)」
問いに対し、食い気味で答える田所。
女の子はそれがつい数時間前に決まった彼の職業だとは知らず、目を細める。そして人を疑うような色を残しつつも、今度は少しだけ声色をあげて続けた。
「急にすみません。私、アイドルに興味があるんです」
「あぁ〜いいっすねぇ」
「よかったらお話を伺えないでしょうか?」
「んぁ、大丈夫っすよ。バッチェしてやりますよ〜」
田所特有の独特な言い回しに若干引き気味の女の子。だが対照的に田所は突然現れた女の子に対して好意的な眼差しを向けていた。
暗闇で気付かなかったが、よく見れば女の子はついさっき事務所で見た自身の担当アイドルたちに負けないくらい端正な顔立ちをしていた。気怠げなタレ目の奥に潜む瞳は真っ直ぐな眼光を持っていて、そのアンバランスな目元が妙に魅力的に映る。目元だけじゃない、身体全体のスタイルも決して悪くなく、なにより女の子の持つクールな雰囲気がノンケではない田所の琴線さえをも激しく揺らすのだ。
45歳にしてようやく掴んだ定職。
そしてその早速舞い込んできた、プロデューサーっぽいイベント。(田所のイメージ)
仕事意欲に満ち溢れるあまり、田所は数時間前に採用されたばかりの新人社員なのに関わらず、既に独断と偏見でこの女の子を283プロにぶち込んでやる気に満ち溢れていた。
「事務所の中は……、ちょっと」
先程までの疲れなんてなんのその、すぐさまプロデューサーと化した田所は早速事務所の中へと女の子を案内しようとするも、あっさりと拒否されてしまった。
それならどうしたものか––––……。
暫く考え抜き、ふと先日見かけた屋台のラーメン屋の存在を思い出した。
「あっそうだ(唐突)。なんか腹減んないすか?」
「はぁ? なんですかいきなり」
「この辺にぃ、美味い屋台のラーメン屋きてるらしいっすよ」
「……意味が分からないんですけど」
「じゃけん、今からいきましょうね〜」
「おっ、そうだな––––っじゃなくて、なんでラーメン屋なんですか!?」
淫夢語録の特徴の一つとして、ホモガキだけではなく無意識のうちに周囲の人や聞き手の人間を伝染させる恐ろしい感染力が挙げられる。淫夢を知らないのに、知りたくもないのに自然と汚らしい語録を使ってしまう––––、そんな凄まじいまでの感染・影響力がこの島国に住む人々を下品な淫夢で笑う低俗な民度に染め上げたもっともたる原因だと言われているほどに。
そして不幸ながらもよりによって田所に声をかけてしまったこの少女もまた、例に漏れず。
女の子は訳がわからないまま、そして少しだけ声をかけたことを後悔しながら、田所に引き連れて行かれるように美味しいと噂の屋台のラーメン屋に向かうことになった。
☆★☆★
樋口円香は動揺していた。
円香はアイドル志望の夢見る少女を装って、事務所から出てきた人間に声を掛けた。幼馴染である浅倉透、市川雛菜、福丸小糸の3人が最近になって所属することになった283プロが、彼女らに悪どいことや騙すような真似をしていないかを確かめる為である。
煌びやかなイメージが強い反面、何かと良くない噂やトラブルが後を絶たない芸能界。
円香はそんな世界に突然行ってしまった幼馴染たちの身を案じていた。だからこそ、こうして円香自身も283プロの人間と接触し、悪意のある事務所かどうかだけでも確かめたかったのだ。
そのはずだったのだが、よりによって円香はこのステハゲ男に声を掛けてしまった故に、こうして訳も分からぬまま屋台のラーメン屋にやってきている。普段は決して他人に流されるようなことがない円香だけに、完全に相手のペースに飲まれ、自身でも意味が分からないままこうしてラーメンをすすっている状況は摩訶不思議かつ、妙な恐怖を感じさせるものだった。
散々美味しいと謳っていたわりにあまり美味しくなかったラーメンを完食した後、ステハゲ男は勝手にベラベラと喋ってくれた。やれ本人の資質に合わせた仕事やの、やれ本人が挑戦したいと思う仕事を極力やらせてあげるやの、口から溢れてきた言葉はまるでカンペを丸読みする三流俳優のようで、あまりに都合が良いと言わんばかりの内容ばかり。だけども自由かつ、自分の好きな芸能活動ができる––––、そんな甘い話をされたら、いくらこんな小汚い男の口から出た言葉だとしても世間を知らない年頃の少女はすぐに信じ込んでしまうだろう。
だが円香はそんな安易な高校生ではない。年齢に不釣り合いな円香の現実主義の思考は、甘い戯言や絵空事のような夢には決してなびかなかった。
この世に生を受けて17年、円香は決して長くはないその時間の中で、誰よりも自分を客観視することができるようになっていた。
自分が社会的にどんな立場の人間なのか、そして自分には何ができて、何ができないのか。
誰よりも自分のことを理解しているからこそ、この男の言葉の真偽を見抜くことができる。
「資質や希望? 本当に?」
ステハゲ男の言葉を、強調するかのようにあえて復唱する。
円香は自身を決して突出した人間だとは思っていなかった。
才能なんて便利なものはないし、今まで時間をかけて努力をして培ってきた一芸なんてものもない。そんなごくごく普通の高校生が競争激しい芸能界で、自分のやりたいことや好きなことだけをさせてもらえるなんて到底考えられなかったのだ。
「やりたくない仕事を無理やりさせたりとかは?」
仮に自分のようなアイドルがいたとして。才能も実力も、素質もないそんなアイドルが芸能界で生き残っていくにはどうすればいいか。
素人ながらもその答えは容易に想像がついた。誰もがやりたがらない仕事を率先してやっていくしかないのだと。
「まぁ、多少はね?」
「––––ほら、やっぱり」
予想以上にあっさりと本性を表したステハゲ男の言葉に溜息で返す。
いくら綺麗事を並べたところで実際はこの男の言うように、やりたくない仕事を強要させられることはあるのだ。そして円香には幼馴染たちが嫌がる仕事をやらずに芸能界で生き残れるほど、何かしらの才能に秀でているとは思えなかった。
「俺もやったんだからさぁ、当たり前だよなぁ?」
「は、なにそれ。貴方もアイドルやってた経験でもあるんですか?」
「ないです(食い気味)」
「……意味わかんない」
いまいちどころか、思い返せばこれまでの会話も終始噛み合っていなかった気がするが一応本来の目的は達成することができた。やっぱり283プロは甘い言葉で幼馴染たちを騙していたのだと、そのことが分かった以上円香はこんな意味不明なステハゲ男の相手をする必要はない。
円香はここで全てのネタバラシをした。自分はアイドル志望なんかじゃなく、ただ幼馴染である浅倉透や市川雛菜、福丸小糸らが心配でこのステハゲ男に接触したこと。そして283プロは思っていた通り胡散臭い事務所だったということ感想も併せて。
「ありがとうございました、もう結構です。最後にあなたの連絡先を頂きたいのですが」
「しょうがねぇなぁ〜(悟空)。ほれ、見とけよみとけよ〜」
「『810-1919-1919』、なんですかこの汚い番号……。うわっ、本当に繋がった」
冗談みたいな電話番号がステハゲ男のスマートフォンに繋がったことにドン引きしつつ、円香は席を立った。美味しくなかったラーメンのお代を支払い、お釣りを受け取って最後にもう一度だけ意味不明なステハゲ男の方を見る。ステハゲ男もまた円香を直視していて、互いに見つめ合ったまま数秒の沈黙が流れた。
(あれ、何してんの私……)
野獣の眼光のような視線に睨まれた円香の頭の中に浮かび上がってくる違和感。
目的は済んだはずなのに、帰ろうとしているのに帰ろうとしない自分。
まるでこの男からの何かを期待しているかのように、留まろうとする自分がそこにはいた。
意味が分からなかった。年頃の高校生に甘い言葉をかけて芸能界事務所に引きずり込むような下衆野郎に何を期待しているのか。
かき乱されたようにぐしゃぐしゃになった頭の中をリセットするように、一度瞼を閉じる。そして円香は「何かあったらこの番号に連絡します」とだけ言い残し、ステハゲ男に踵を返そうとしたその時––––……、
「あ、おい待てぃ」
今まで一度も口にしなかった江戸っ子のような口調で、ステハゲ男が円香を呼び止めた。
「お前さっき金払ってる時俺の方チラチラ見てただろ」
「はっ? 見てないですよ」
「嘘つけ絶対見てたぞ」
「なんで見る必要があるんですか」
唐突に因縁をつけ始めたステハゲ男に対し、円香はすかさず疑う余地のない正論で応戦する。
だがステハゲ男の表情はピクリとも動かなかった。その表情を前に、円香の背中を嫌な汗が流れていく。この男の鋭い眼光に、自身さえも分からなかったこの違和感の正体を見抜かれているような気がしたのだ。
「あっお前さ、さっきハラ……払い終わった時にさ、なかなか出ていかなかったよな」
「い、いやそんなこと……」
「そんなにアイドルになりたきゃ、ならせてやるよ」
年頃の女子高生にステハゲなんて勝手なあだ名を好き放題付けられている田所であったが、その正体は伝説のホモビ男優。
いくら若人が必死に虚勢を張ったところで、幾多の壮絶な撮影をくぐり抜け、そして老若男女問わず日本中の人々のハートを奪った百戦錬磨の男を欺くことなんてできないのだ。
田所はとっくに全てを見抜いていた。
アイドル志望として自身に近付き、最近になってアイドルを始めた幼馴染たちが騙されていないのかを確かめに来た円香だったが、最初に口にした言葉が彼女さえも気付かなかった胸の奥に潜む本心だったということに。
––––急にすみません。私、アイドルに興味があるんです。
仲の良かった幼馴染たちが揃ってアイドル活動を始めた。
その話を聞く過程で、きっと自分も彼女ら3人のようにアイドル活動をしてみたくなったのだろう。だがこの性格が災いして、素直にその思いを誰かに伝えるどころか、円香自身でさえも気が付くことができなかった。
だからこうして密偵のフリをして、283プロに近づいたのだ。「幼馴染が騙されていないかを確認する」という建前を言い聞かせ、そうすることで自分が283プロに所属したいと思える理由を正当化できると考えて。
円香が用いた、この建前(幼馴染たちの監視)と本音(自分もアイドル活動をやってみたい)戦法は実は田所が大学生だった頃から既に主流となっていた作戦で、実際に大学在学中に加入していた空手部の後輩や水泳部の後輩も同様の手口を使っていた。
そういった経験値があるからこそ、今の円香をどう導くべきなのか、田所はプロデューサーとして差し伸べる術を既に過去の経験から学んでいたのだ。
「ほらほらほらほら、やっとけよアイドル〜」
「ちょっ、近付かないで気持ち悪いっ!」
「よく考えろよ、ほらぁ。逃げんなよ〜」
相手が拒絶反応を起こしていたとしても、その壁をぶち壊して迫り続ける。
例え鬼畜外道と罵られても、これほどまでに迫らなければ相手は心を開いてくれないのだ。逆にこうすることで相手はいずれ折れて、頑なに見せようとしなかった本音を曝け出してくれる。
まさに過去に心より深い位置にある“何か”で、繋がり合うことのできた木村や遠野のように、円香もきっと––––……。
「分かった、分かりましたから!」
野獣と化した田所のしつこいセクハラまがいの勧誘に、とうとう円香が折れた。
「アイドルやりますから!」
「やったぜ」
寂れた屋台のラーメン屋に円香の悲鳴と野獣の勝ち誇ったかのような勝利宣言が響き渡った。
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シーズン1 : カメラレンズに笑う
「諸君、狂いたまえ」
「FOO〜↑ 気持ちいい~」
乱暴に開かれたドアの向こう側からやってきたのは、ホモ特有のねっとりした声と上裸でタオルを首元にかけたままの田所だった。まさに風呂上がりのような格好の田所を見て、せこせこと真面目にパソコンと向き合っていた事務員のはづきは悲鳴に近い声をあげる。
「ち、ちょっ! 田所さん! 事務所のシャワーはアイドル専用だから勝手に使わないでくださいって言ったじゃないですか!?」
「FOO〜↑ 上がったらビールですよ~、先輩~」
「事務所でビールはマズイですよ!」
「ビール!ビール!」
「アッー! ほんとにやめてくださいってばっ!」
年頃の女性アイドル専用のシャワー室を無断で使用し、おまけに仕事場でビールを飲む人間の屍にとってはづきの警告もなんのその。やりたい放題の田所は冷蔵庫から取り出したビールを片手にソファに座り込む。はづきも口では止めるよう言いつつも、自分の席から動こうとはしておらず、それは一種の諦めの表れのようにも見えた。
ここ最近、283プロでよく見られるようになってきたこの異様な光景。そんな光景を、部屋の隅からドン引きするように眺めていたアイドルが4人。
「ねぇ、あの人が私たちのプロデューサーなんだよね」
「あは〜♡ 雛菜、あの人本当にヤバいと思うな〜」
「ひ、雛菜ちゃん! そ、そんなこと言ったらダメだよっ!」
幼馴染たちを283プロに引き込んだ浅倉透、彼女を追っかけるようにしてやってきた市川雛菜と福丸小糸。田所が採用を決めた円香を含めたこの4人は幼少期から幼馴染として仲の良かったグループであり、不運にもプロデューサーと化した田所に担当されることになってしまった不幸な新人アイドルだ。
4人とも田所と会ってからまだ日が浅いとはいえ、『見る抗うつ剤』とも呼ばれた伝説のホモビ男優の奇想天外な言動や身にその異様な雰囲気から明らかに只者ではないことを語感で察していた。おまけに円香が半ば強引にアイドルになることを強要された話も聴いていただけに、当然抱いている印象は最悪に近い。
––––アイドルとプロデューサー。
本来は信頼関係が最も大事な要素になるはずの両者の関係性。だが現実問題として事務所内で物理的に保たれている距離以上に、彼女らと田所の心の距離は開かれている。
まぁ本格的な淫夢ブームが到来した現代とはいえ、尊敬の眼差しと同じくらい軽蔑の眼差しを向けられてきた田所にとって、彼女らから向けられる白い目くらいは痛くも痒くもない話ではあるのだけれども。
「……でも、樋口はプロデューサーと一緒に出るんでしょ? あれ、なんだっけ」
透の言葉に、今まで一言も発してこなかった円香の眉毛がピクリと反応した。そしてソファでビールを飲んでご満悦のステハゲの方を一瞥して、明らかに不機嫌そうなため息をつく。
「––––“W.I.N.G.”、ね」
「おー、それだ」
新人アイドルの祭典である“Wonder.Idol.Nova.Grandprix”、通称“W.I.N.G.”。
大規模なアイドルコンテストであり、新人アイドルにとっては登竜門とも云われている “W.I.N.G.”に、283プロからは円香がエントリーされることになっていた。
円香を“W.I.N.G.”にエントリーしたのは社長である天井だった。
天井は283プロの新プロデューサーとして採用された日に新たなアイドルを独断で連れてくる常識はずれのスカウト技を見せつけた田所に度肝を抜かされたものの、“W.I.N.G.”を利用することによって、田所のプロデューサーとしての力量は勿論、ポテンシャルが未知数である円香の今の実力を図る絶好の機会になるのではと考えた。
要は自分で連れてきたアイドルを“W.I.N.G.”の舞台で優勝させることで、自分たちの力を証明してみせろ、と。
円香からすれば全くもって迷惑な話ではあるが、そのような経緯があって二人には283プロでの初仕事として、“W.I.N.G.優勝”というミッションが天井より課せられることとなったのだ。
最も、その“W.I.N.G.”本戦に出場するためには二週間毎に開催されるオーディションを勝ち抜く必要があるため、当面の目標は『W.I.N.G.優勝』というより、『本戦出場』になるわけではあるが。
「大丈夫そ?」
「……何が?」
円香に問うた透の瞳は笑っている。
その瞳に向けて一応そう返事はしたものの、質問の意味に円香は気が付いていた。透の言葉が意味するものは、“W.I.N.G.”のことではなくあのヘンテコな男と上手くやっていけるかどうかだ。
「……ほんと、最悪」
これじゃ答えになっていないと分かっていながらも、出てくるのは円香の心の中で渦巻く本音。
円香はこれから暫く続く地獄のような日々に、憂鬱な気持ちを抱くことしかできなかった。
☆★☆★
「はえ〜すっごい。外面だけは良いって、はっきりわかんだね」
「それはどうも」
「よし、じゃあこの写真を取引先にぶち込んでやるぜ」
都心のスタジオで円香の宣材写真を撮り終えた日の帰り道。
土曜日の昼下がりの時間帯でまばらな空席が目立つ列車内で、田所は実物の円香からは想像もできないような素敵な表情をした宣材写真を見て、感心するあまり皮肉とも本音とも言える言葉を同時に溢してしまった。だが人が二人ほど座れるほどの隙間を空けた円香にその声は届いていたはずだが、リアクションは一切見せず、窮屈そうな眼差しで車窓の外を眺めているだけ。田所と出会ってから一貫して見せている、彼女なりのコミュニケーション拒否の構えだった。
「レッスンの調子はどう? 慣れた? 慣れない?」
「……それなりに」
「生活リズムも変わって大変だろ? まぁW.I.N.G.近いから仕方ないね」
「…………」
円香が明らかに田所を避けているのは明白だ。
しかしその意思表示が無言なのをいいことに、田所は執拗にコミュニケーションを取ろうとしている。
どうにかして会話をしようとする田所と、どうにかして会話を途切れさせようとする円香。
両者の相反するコミュニケーションの取り方は、側から見れば二人がプロデューサーとアイドルの関係には見えないほど冷え切ったものだった。
(これもう分かんねぇなぁ)
男ではなく女の子……、しかも歳の離れた現役女子高生の扱いに苦労する田所。
283プロに田所と円香がやってきて早一週間。両者の関係は最悪の一途を辿り続けていた。
いかんせん初対面の円香に対する田所の強引かつ汚い振る舞いは強烈かつトラウマを植え付けるレベルのものだっただけに、こうして円香が心を閉ざすのは致し方のないことなのかもしれない。
だがその原因に田所自身が気付けていない上に、円香の頑固な性格も災いしてプロデューサーである彼の全てを拒絶している。そういった事情もまた、この最悪なムードに拍車をかける要因の一つになってしまっていた。
「あ、そうだ(唐突)。ほら、見ろよみろよ」
電車を降りて事務所に帰る道中、ふと人集りの向こう側に立つある人物を見つけた田所が円香に声をかけた。少し離れた距離を歩いていた円香もまた、鬱陶しそうな表情で田所の視線の先を追う。
二人の視線の際……、そこでは可愛らしいフリフリの衣装を着た名も知らないアイドルのトークショーが開かれていた。
「は……? こんな路上で?」
人集りにすら気付いていなかったのか、円香は少しだけ驚いたように冷え切った目を見開いた。
田所がこのトークショーが近くのCDショップが定期的に開催しているイベントなのだと説明すると、今度は目を細めて人集りの真ん中でマイクを握るアイドルを見つめる。だが興味深そうな視線を向けていたのもほんの束の間、細めた目の奥に潜む円香の瞳はすぐに普段の冷え切った瞳の色へと戻ってしまった。
「素敵ですね」
そう口にしたものの、その言葉とは裏腹に瞳は大勢の人に囲まれたアイドルを軽蔑するような目をしていた。
「私の想像通り。笑っておけばなんとかなる、アイドルって楽な商売」
「ふぁっ!?」
「別に否定してませんよ。おかげで私のような素人でもやれるんですから」
「……うーんこの」
円香の冷徹とも言える台詞に、田所は言葉を詰まらせた。吐き捨てるように口にした円香の言葉を、まるで検討外れなことだとは思えなかったからだ。
かつて、田所が共演したホモビ男優だちの中には、それはもう悲惨なレベルの演技をする者たちもいた。
セリフも棒読みで感情が微塵もこもっていない。
プロ意識のカケラもない彼らの演技は言うなれば学園祭のステージレベルの代物で、間違ってもこの世に商品として送り出すには到底レベルが達していないクオリティだった。
だがそんな悲惨なクオリティでも、それなりの値段がついた商品として販売され、適当な演技をしたホモビ男優もまた、当然のようにギャラをもらっている。
そういった現場を田所は見てきただけに、円香の意見が全くもって間違っているとは思えなかった。
だけど田所は知っていた。上手い下手関係なしに、真剣に向き合った演者の姿は観る者の心を強く打つことを。あのカオスな演者たちの中で一人、迫真の演技をして見せたが故に淫夢ファミリー最強戦力とも言われるほどにのし上がった田所は身を持ってその事実を経験しているのだから。
「……あのさぁ」
円香には適当なホモビ男優たちのような、くだらない演者にはなってほしくない。
そういう想いがあったからこそ、田所は円香の言葉を否定した。取り繕った笑顔を作ればいいわけではない、ダンスやトークのレベルはまだまだだとしても一生懸命やることに意味があるのだと。
だがそれでも円香の瞳の色は一向に変化の兆しを見せない。
「つまり未完成でも商売になるってことですよね」
––––頑張ることに意味があって、その姿は何よりも美しく、観る者の心を捉える。
円香はそんなご都合主義の話をすんなりと受け入れるほど幼くもなく、また円香の思考が根底から覆されるようなほどに田所のことを信頼もしていなかった。
「社会ってもっと厳しいものだと思っていました。私の勘違いで何よりです」
「お前精神状態おかしいよ……」
「では教えてください。アイドルとは?」
鋭い眼光でグッと見上げながら、円香はそう尋ねる。
思わぬ質問をぶつけられ、田所は開いていた唇を閉ざした。ホモビ男優界隈を超え、今ではアイドルと呼ばれても過言ではない田所自身でも、『アイドル』という存在意義を問われると咄嗟にまとめて言葉にするのは難しく、答えに詰まってしまったのだ。
––––誰かを笑顔にできる人。
––––誰かを元気付けれる人。
きっと一概にアイドルと言えども、多種多様なアイドルがいて、またアイドルは観る者の捉え方によっても存在意義が変わる、変則的な存在だ。
だとすればどうすれば田所の抱くアイドル像を円香に伝えることができるのだろうか。
暫く頭を悩ませた結果、田所は彼なりに分かり易いと思った例え話で円香に伝えることにした。
「え~とそうですね。あの、伸縮性のある、ボクサー型の、っていうんですかね。ちょっとスパッツに近い感じ……」
似ているけど実際は全然違うボクサーパンツとスパッツのように、アイドルもまた似て異なる存在だ。
円香の言うようにアイドルが例え笑っているだけでなんとかなったり、未完成でもやれる安い商売に見えたとしても、実際はそれ以上に奥深くて、多くの人に勇気や元気を与えることができる素敵な商売なのだと。
そのことを安物のボクサーパンツのような風貌をしていても多くの高機能を兼ね備えているスパッツに見立てて話したつもりだったが、
「は?」
田所の存在の全てを否定し拒絶している今の円香には、その想いは届かなかった。
そのまま円香はアイドルに向けていた軽蔑の眼差しを今度は田所へと向けて、その場を離れていってしまった。
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シーズン2 : バウンダリー
今日から円香の新しいSSR出たからみんな課金してガチャ回してくれよな〜頼むよ〜
田所と円香の異様なまでの心の通わなさは相変わらずだったが、それに反して円香はW.I.N.G.本戦に向けて一歩一歩、順調にその足を進めていた。
二週間毎に計四回開催される予備オーディションも既に半分を終えたが、ここまでは何事もなくクリア。技術に粗さはあれど毎回ステージ上では安定したパフォーマンスを発揮し、危なげなく勝ち抜いていた。
と、そう言えば聞こえはいいのだが、実際これまでのオーディションのレベルはそこまで高いわけではなかった。参加者は多いがその分合格枠も多く、円香は勿論ライバルたちも全員が新人アイドルなだけに突出した能力を持つ者は殆どいない。素人同然のアイドルたちが集まるオーディションのレベルなんてたかがしれており、業界人の間では W.I.N.G.の一次、二次オーディションは、撮影中に『少し自重しろ』という意味合いを含んで『イキすぎ』と出されたカンペを目にして、そのまんま『イキすぎィ!』と叫んでも受かるくらいのレベルだと認識されているほどだった。
問題はここから先、ある程度人数が絞られてレベルが上がってくる三次オーディションからだ。
ここからが本番だと知ってか、はたまた結果の一つに一喜一憂しない性なのか、円香はこれまで予備オーディションの合格を知らされても顔色一つ変えずに淡々とした様子だった。
そんなクールな表情を貫いていた円香が田所の前で珍しい表情の色を見せたのは、三次オーディションの一週間ほど前の日曜日。
駅近く店を構える喫茶店での取材を終えて、田所と円香がしっかりとソーシャルディスタンスを保ちながら事務所へと帰っている時のことだった。
「あ、あのっ! すみません!」
喧騒の中から聴こえてきた声に、二人は足を止められた。
咄嗟に振り返った先では、ブレザーの制服を着た一人の女子高生がオドオドした様子で不自然に立ち止まっている。思わずネットで自分を散々玩具にして遊び呆けているホモガキかと警戒した田所だったが、どうやら声の主は汚らしいホモガキではなかったようで、少しだけ緊張した様子で円香の方だけへと視線を向けていた。
「樋口っ……円香……さんですかっ?」
恐る恐る確認するかのように問いかけた様子から、田所はこの女子高生が円香の知り合いではないと察する。
「……はい、そうですが」
知らない人に対しても変わらず、淡白な受け答えをする円香。
素っ気ない返事にも聞こえたが、円香の言葉を聞いた女子高生の顔は途端にスポットライトに当てられたかのように、一気に明るくなっていった。
「わあっ……! 実はこの前のライブを見まして……! えっと、ファンに……なりました! 握手してくれませんか? よかったら写真も––––!」
「あ、ええと––––」
どうやらこの女子高生はマイナーな動画配信サイトで配信された二次オーディションを視聴していたコアなドルオタだったらしい。
余程本人に会えたことが嬉しかったのか、困惑する円香に対してファンを名乗る女子高生は興奮しながら捲し立てるように詰め寄っている。初めてのことでどう対処すれば良いのか分からず、視線で視線で助け舟を求めてきた円香に田所は頷いて見せると、円香は不器用ながらも慣れない手つきと慣れない笑顔で女子高生のファンの要求に応じて見せた。
「ありがとうございました! 円香さんなら絶対トップアイドルになれると思うので頑張ってください!」
何度も何度も頭を下げながら、そう言い残して円香とのツーショットの写真が入ったスマートフォンを抱えて去っていた女子高生。だが、その後ろ姿を円香は浮かない表情で見つめていた。
羨望の眼差しと温かい言葉までもらって、どうして円香は表情を一ミリたりとも緩めないどころか、険しい顔をしているのだろうか。
その表情の裏に隠された本心を、田所は汲み取れなかった。
たかだがホモビデオの一つや二つに出演しただけで面白おかしくあることないことネットに書き込んだり、クソみたいな寒くて汚らしいMADを大手動画配信サイトに投稿したり、挙げ句の果てには『肖像権が機能しない男』などという法律を根底から否定するとんでもない暴論を言い始めるホモガキたちとは違って、あの女子高生は間違いなく悪意がない、純粋な好意を円香に寄せていた。
田所が見た限りでは、そこに円香の表情を曇らせるような要素が含まれていたようには到底思えない。
「なんだよホラー、本当は嬉しいダルルォ?」
「…………」
「え、こういうの嫌いじゃないけど好きじゃない?」
「––––いえ、疑問が先立って」
だんまりを決め込んでいたがホモ特有のしつこいアプローチに折れて、少しの沈黙の後に円香が口を開いた。
視線は未だに女子高生が去っていった方へと向けられていたが、そこにはもう彼女の姿はない。見ず知らず人々が二人が知る由もない目的地に向かって足早に歩いていく光景だけが永遠と繰り返されている。
「私に、何を期待しているのだろうと」
誰に伝えるわけでもなく、独り言のように円香は言葉を紡いだ。
前髪の奥に潜む細めた目は遠くを眺めている。だけどそれは遠くを眺めることで直視しなければいけない目の前の現実から逃げているようにも見えて、田所には円香の表情は何かに怯え、怖々しているようにも見えた。
実に円香らしくない表情だった。
普段から感情を表には出さず、常にクールな雰囲気を崩さない円香の端正な顔に、滲む不安の色。何かに怯えるかのようなその色は、真っさらなパレットの上では明らかに浮いた色合いで、不自然なグラデーションを作り出している。
無意識に現れていた表情を気付かれたと察したのか、円香は慌てて怖々としていた表情を隠すように––––いや、まるで田所に喋らせる隙を与えないように、平静を装って言葉を続ける。それこそ、「もうこの話は終わり」と無理くり締め括るように。
「まぁ分からなくても対応しますよ。アイドルには必要なことみたいですから」
「あのさぁ、円香––––」
しっかりとソーシャルディスタンスを保ったまま、再び事務所への帰路を辿ろうとする円香を、田所は無理やり呼び止めた。
普通の人ならば円香を気遣って、一瞬だけ垣間見た表情の変化には敢えて触れないのかもしれない。だが常識離れした鬼畜外道の多い淫夢ファミリーの中で、誰よりも後輩思いで人間の鑑とまで称されてた聖人田所は、その変化を曖昧に見過ごすほど薄情な人間ではなかった。
「おっ、大丈夫か大丈夫か〜?」
ホモやノンケ問わず、人間は誰しも精神的に弱りきった時や悩み事を抱えている時、はたまた体調が良くない時などに優しくされると、心を開きやすい傾向にあるという。この心理テクニックは田所の得意技の一つでもあり、現にこの策を用いて大学時代に水泳部の後輩を堕とすことに成功した実績もあって効果は立証済み。当然女性に興味がないため円香に対して恋愛感情を抱いているわけではないが、この策を使うことでこれまで一向に埋まらなかった二人の距離感が、少しでも縮まるのではないかと考えたのだ。
だがこの下心丸出しの心理テクニックが成立するのは、あくまで“普通”以上の関係性を築けている相手限定で、尚且つその場の雰囲気や一時の感情に翻弄されやすい人間だけ。
悲しい哉、円香と田所は“普通”を遥かに下回った、どちらかと言えば底辺に近い関係であり、おまけに円香はそんな安直な策にまんまとハマってしまうほど幼い子供ではなかった。
「その言葉は無理をしそうな人にかけるべきです。それかちょっと優しくすれば、簡単に落とせそうな子にね」
ため息をつきながらあっさりと淫夢ファミリー屈指の優しさを、円香は容赦無く突き放す。そのついでに田所が過去に野獣邸で愛を確かめ合った後輩のことも遠回しにディスって、いつもと同じように汚物を見るような蔑んだ目を向けてトドメを刺した。
「雰囲気で喋るのはやめていただけますか。ミスター・第四章で眠らせてくるやつ」
「オォンアォン……(届かぬ想い)」
円香は田所の虚しい嗚咽にもまるで動じず、そそくさと一人事務所へと帰っていってしまった。
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シーズン3 : 二酸化炭素濃度の話
「おい、アレ見ろよ。噂の283プロだぞ」
「ほんとだ、やべぇよやべぇよ……」
どこにでもいそうでどこにもいなさそうな汚い男と、全く前評判のなかったアイドルがかなりの高得点を叩き出して予備オーディションを勝ち続けている。
円香と田所が一歩一歩W.I.N.G.本戦へと通ずる道を歩んでいく間に、二人の存在は次第に業界の中で広まり始めていた。
283プロは立ち上げてから一年ちょっとの新興プロダクション。まだ実績も皆無なだけに、業界人といえどもその名を知っている者は決して多くはない。そんな無名プロダクションからエントリーしたアイドルが破竹の勢いで予備オーディションを勝ち続けているのだから、こうして巷で話題になるのは致し方ないことなのかもしれない。
「円香、ほらいくどー」
「私は一人で帰るんで。勝手に帰って、どうぞ」
「あぁ〜たまらねぇぜ〜」
「なんだあの二人の会話は。たまげるなぁ」
「色々とダメみたいですね」
実際はオーディションを勝ち抜いていることより、何処かで見たことあるような顔のプロデューサーと、そのプロデューサーに容赦無く辛辣な言葉を浴びせるアイドルが繰り広げる意味不明なコミュニケーション術の方が話題になっていたりするのだが。
そんな風に自分たちの知らないところで変に噂になっていることを全く知る由もなかった二人だったが、円香は無事に三次オーディションを通過。
田所が円香の本心にようやく辿り着いたのは、まだそのことを知らない、三次オーディション終了後の車内でのことだった。
「ねー、今日オーディションキツかったね」
「……」
「今日調子はどう? ベストを出せた? 出せなかった?」
「…………」
いつもと変わらない、ねっとりした口調で一方的に世間話を振っていた田所は、円香の様子がいつもと違うことに気がついてバックミラーを覗き込んだ。バックミラー越しに見える円香は頬杖を付きながら窓の外を眺めていて、物思いに耽ているように見える。
円香の視線の先に何が映っているのかまでは分からない。
だが、細めた目の奥はいつになく澱んでいて、今の円香の瞳に映っている景色は決して綺麗なものではないのだろうと田所は思った。
「円香?」
「え? あぁ……、今日の感想ですか?」
「そうだよ」
名前を呼ばれて、円香は我に返った。先日、街でファンだと名乗る女子高生に声をかけられた時と同じく、自分の瞳の奥の色を隠すように慌てて平静を装いながら。
「別に……。強いて言うなら、もっと居心地のいい控室が良かったですね」
「他のオーディションの参加者と同じだったから、狭かったり騒がしかったりするのはしょうがないね」
「––––空気の話です」
円香の言葉と同時に信号機が赤に変わり、田所はゆるやかにブレーキを踏んだ。二人を乗せた車の前を、大勢の人々が通り過ぎていく。
再度田所がバックミラーを覗き込むと、ミラー越しに円香と視線が交錯した。だが田所を見つめる円香の瞳は、その澱みを隠せていない。
「手の震えが止まらない子、何度も深呼吸している子……。オーディションが終わって大声で泣き出す子もいましたね」
「そう……(無関心)」
「失敗した、悔しい、情けないって、まだ結果も出ていないのに」
止め処なく円香が喋る。
いつの間にかフロントガラスの前から人々の姿が綺麗さっぱり消え去り、赤だったはずの信号が青になっていたことに気が付いて田所は慌ててアクセルを踏む。無人の交差点を通過する際にもう一度だけバックミラーを見たが、円香は変わらずに澱んだ瞳でミラーを睨んでいた。
「緊張すると力出ないからね。ベスト出せるようにね」
「……」
「まぁ、円香なら大丈夫でしょ」
「…………本当に?」
バックミラーに向かってそう尋ねた円香の声は、半信半疑などではなかった。まるで自分が三次オーディションに落選することを確信しているような、そんな声色だったのだ。
「本当にそう思ってます? それ、あなたの本心ですか?」
決して事実に反した気休めの言葉などを掛けさせないよう、鋭く問い詰める。その圧力に押され、黙り込んだ田所は思わずバックミラーから視線を逸らした。
三次オーディションでの円香の調子は決して悪くなかった。だが一次、二次オーディションとは違って、三次オーディションからはライバルも強くなってきている。厳しい戦いになっているのも事実だった。
円香は高校生らしからぬ現実主義な性格で、端的に言えばませた子供だ。
故にプライドも高く、気休めや情けをかけられることを極端に嫌がる。未だ数週間の付き合いとはいえ、田所もそんな気難しい円香の性格を把握していただけに、ここで安易な言葉を選択するのか最善の策ではないことだと分かっていた。
田所が見た限り、円香が今日の三次オーディションを勝ち抜く可能性は五分五分だった。
要は審査員の捉え方や評価基準次第で合格にもなるし落選にもなる。円香含めて圧倒的な個性を放つ参加者がいなかっただけに、非常に合否の判断が曖昧で難しいオーディションだったのだ。
暫く円香は言葉を待っていたが、田所は今掛けるべき最善の言葉を見つけきれなかった。
沈黙の時間が長くなるにつれ、車内の空気は重量を増していき、嫌な空気へと変わり始める。そんな空気を破ったのは、意外にもずっと田所の言葉を待っていた円香自身だった。
「……前に見たアイドル、覚えてますか?」
「ん? カンノミホ?」
「いえ、あのショップイベントで安っぽい笑顔で歌っていた人」
「あっ、そっかぁ……」
まるで見当違いな有名人の名を口にした田所にツッコミを入れるわけでもなく、円香は黙々と話を続ける。
「……今日のオーディションにいました」
「はえ〜。どうだった?」
「…………」
特に深い意味もなく田所は訊いたはずなのに、円香は何故か口を閉ざしてしまった。
らしくない顔で何か言葉を探すように、視線を周囲に泳がしている。だけどこの狭い車内にも、そして過ぎ去っていく窓の外の景色の中にも、円香が今日のオーディションで見かけたあの日のアイドルを上手く形容するヒントなんかどこにもなくて、結局円香は自分自身が見た光景をありのままの言葉で伝えることしかできなかった。
「控え室で泣いてたの、その子です」
バックミラーに向かってそう話した円香の瞳は、あの日と同じだった。
動画配信サイトで配信されていた円香のオーディション風景を視聴し、ファンだと言ってくれた女子高生を見送った時に見せた、何かに怯えて、不安と恐怖に支配され、恐々とした瞳。
一見冷め切ったようにも見える円香の瞳だが、その中にはビー玉のような煌めきも僅かにだが残されていた。だがあの時も今も、その純粋な一面は真っ黒な闇に支配されているかのように光を失っている。
二度同じような光景を見て、田所はようやく円香が怯えているモノの正体に気が付くことができた。そして田所は円香の恐怖心と不安を取り除くべく、ハンドルを事務所ではない別の方向へと切った。
☆★☆★
今日は珍しくおしゃべりウ◯チが静かだなと思っていた円香が下ろされたのは、本来向かっていたはずの事務所から少し離れた場所だった。行き先も何も言わないまま駐車した田所はエンジンを切ると、一度だけこっちを振り向くと円香に降りるように目線で目配せし、そのまま無言で車から降りる。
口から出る言葉だけではなく、とうとう行動まで狂ってしまったかと円香は思いつつもその後を着いていくと、田所が足を止めたのは普段から利用しているレッスン場が入った狭いビルの入り口だった。
「あの、何処に行くんですか?」
「こ↑こ↓」
「ここ、レッスン場ですよね? 今から?」
「当たり前だよなぁ」
「今日のスケジュールはオーディションで終わりのはずなんですが。時間外労働を強要させる気ですか、ミスター・サイクロップス先輩」
「そうだよ(断言)」
「えぇ……(困惑)」
至極当然のように開き直る田所に圧倒され、円香は流されるようにレッスン場にやってきた。意図が全く汲み取れないながらも、とりあえず着替える為に更衣室に行こうとした矢先に、田所から「演技指導だからその必要はない」と言われて止められてしまった。
「あの、本当に意味が分からないんですけど」
「ほんとぉ?」
「……もしかして煽ってるんですか? あったまきた(冷静)」
唐突にレッスン場に連れてこられて、おまけに誰もお願いしていない演技指導を始めると言い出した田所。ただでさえオーディションでの疲れもあるというのに、田所の言動の全てが意味不明すぎて次第に苛立ちを覚え始める。
意味も意図も分からないまま振り回され、我慢の限界点を突破した円香が「こっちの事情も考えてよ」と叫ぼうとした瞬間。コンマ数秒の差で、田所が先に口を開いた。
「ほんとは怖いんダルルォ?」
「は? 怖い?」
「ビビってんのか円香? 自分の限界なんかに」
「なっ––––」
田所は気付いていた。円香の綺麗な瞳を曇らせていたモノの正体に。そして円香もまた、その正体に薄々勘付いていたものの、こうして自分以外の他人に悟られているとは思いもしていなかったのだ。
円香が恐れていたもの––––、それは自分の限界だった。
自分の限界を知ってしまうこと、身の程を初めて知った時に味わう挫折や屈辱、現実。誰かの期待を背負い、そしてその期待に応えられなかった時に向けられる失望と哀れみの眼差し。自分には何ができて、何ができない、そんな明確な線引きを知ることを、夢破れ敗北者としての自分を受け入れざるを得ない現実を、円香はずっと恐れていたのだ。
光り輝くステージとは裏腹に、アイドルの世界の裏側は残酷な世界だ。常に自分の限界を試され、いくら努力を重ねたところで実力のない者だと判断されれば容赦無く淘汰されてしまう。強く願えば願うほど、必死に努力をすればするほど、夢破れた時に感じる敗北感は大きくなるだけなのだ。
そんな精神のすり減る世界に身を投じ、実際に幾多のオーディションを経験してきたからこそ、円香は自分の限界を知るのが怖くなったのだろう。
そして今日のオーディション終了後、控え室で泣き崩れたアイドルの姿に、円香は自分の未来を重ねてしまった。遅かれ早かれ自分もあのアイドルのように現実を知る時が来るのかもしれないのだと。
それは円香が田所どころか、親しい幼馴染たちにも決して見せなかった弱みでもあった。
だが田所は一部の過激派淫夢厨から後輩を昏睡させレ◯プする鬼畜外道野郎と言われる反面、空手部では荒ぶって暴走するポッチャマ先輩のフォローをしつつ、ひ弱な後輩への気遣いも忘れない先輩の鑑としての側面を見せつけたホモの中の男。そんな後輩想いな田所の前にとって、まだまだケツの青い女子高生の悩みを見抜くことなど朝飯前だったのだ。
「そんなに限界を越えたいのなら越えさせてやるよ」
円香の根底にある恐怖心の正体が分かった以上、プロデューサーとして田所がしてあげれることはその恐怖心を取り除いてあげることだけである。その為に、田所は自分が持っている技術の全てを、円香に継承させることで敗北に怯えない“本物”の実力を備え付けようと考えたのだ。
そう、田所の唯一無二の得意分野であり、ネット界で田所は元々劇団員だったのではないかという諸説が乱見されるほどに恐れられた、迫真の演技力を。
「ほら、俺が手本見せてやるから見とけよ見とけよ〜」
「はぁ……」
とりあえず田所の演技を見てそれを真似するように指示された円香だったが、この時は田所の本気を知らなかっただけに、正直鬱陶しさの方が勝っていた。
訳のわからない名言製造機男にまんまと図星をつかれた挙句、トレーナーではないプロデューサーが直々に演技指導をするなんて言いだしたのだから、プライドが高い上に田所の全てを拒絶している円香がそう思うのも当然っちゃ当然のことないのかもしれないが。
だがそれも次の瞬間、まるで天地がひっくり返ったかのように、円香は田所への印象を覆されることとなる。
「ハァハァ、イキすぎぃ、イクゥ、イクイクゥ……、ンアッー!」
普段は全く見せない、まるで女の子のような表情で叫ぶ田所。
その姿を見た円香に、雷のような衝撃が駆け巡った。衝撃が全身を駆けると胸の奥から得体の知れない何かが込み上げてきて、胸があっという間に優しい気持ちに満たされて一杯になる。円香はこの時になって初めて「感銘を受ける」という言葉の意味を身を以って知ることができたほどに。
田所のセリフ自体の意味は全く分からない。
イキすぎてるのかイキすぎてないのか、そもそも何がイキすぎてるのか全く見当もつかない意味不明なセリフだった。
だが、それは円香が生きてきたこれまでの人生で一度足りとも経験したことのない感動を与えた演技だった。
「はい、やってみて、どうぞ」
「え、私もやるんですか?」
「そうだよ。あくしろよ」
いつの間にか可愛らしい女の子の顔からいつものステハゲの顔に戻っていた田所に催促され、円香は慌てて意識を取り戻す。
想像以上の田所の演技力に魅了されるあまり心を奪われてしまった、なんてことを円香が正直に言えるはずもなく。円香はわざと気怠けに溜息をついて深呼吸をすると、つい先ほど見た田所の姿をもう一度だけ連想し、トレースした。
「……い、イキスギィ」
「はぁ〜全然だめ。辞めたら? この仕事」
「なっ––––!」
険しい目と厳しい言葉を浴びせられた円香だったが、自分自身でも分かっていた。同じ台詞を言っているはずなのに田所と自分の演技力には雲泥の差があることを。
だとすれば、どうすれば田所のような演技が自分もできるのか。
田所のような衝撃を与える演技をするのに、自分には何が足りていないのか。
煽られるような言葉も着火剤となり、円香の闘争心に火がついた。何度も一度だけ見せた田所の演技を脳裏で再生して、繰り返し試行錯誤を重ねていく。
「はぁはぁ、いきすぎぃ!」
「もっと舌使えよ、ほらほらぁ〜」
「いっ、いきすぎぃ!」
「ちょっと歯ぁ当たんよ〜(意味不明)」
「イクイク、アァー!!!!」
☆★☆★
レッスン場を出ると、外はいつの間にか夕暮れ時を迎えており、二人の影は伸び切っていた。慌ててスマートフォンを見て、この時初めて円香はレッスン場に来てから三時間も経過していたことを知らされた。
三時間もレッスン場にいたことに気が付いた途端に、一気に疲れが押し寄せてくる。だけどその怠さ以上に妙な充実感が円香の疲れた身体を満たしていて、円香は未だ経験したことのない不思議な感覚に包まれていた。
(この人、ただのステハゲじゃなかったんだ)
初めて見た田所の“本気”に、すっかり印象を改めさせられていた円香。
結局三時間もレッスン場にこもっていながら、円香は一度たりとも田所のような演技を披露することはできなかった。だけど不思議と悔しい想いはなく、胸に詰め込まれているのは好奇心ばかり。
ボンヤリと空を眺めながら思う。今はまだ難しいのかもしれないが、この人のような迫真の演技ができるようになったら時、自分はどんな世界にいるのだろうかと。
その世界に辿り着けるのか、そしてその世界がアイドル界ではどのレベルなのかは未だ分からない。だけど今は自分の限界点を知ることを恐れていたはずなのに、その限界点から見える景色の方を見たいという好奇心の方が何倍も強くなっていた。
「あ、そうだ。これから活動時間外で拘束される時は特別手当を頂きますので」
後部座席ではなく助手席に乗り込んだ円香がシートベルトをしたのを確認して、田所は車を走らせる。最初の信号で車が停車した拍子に円香がそう提案すると、田所は「ええやん」と何故か肯定した。
「なんぼなん?」
「そうですね、三十分で五万とか?」
「十四万!? うせやろ、ぼったくりやんけ!」
「……いや、誰も十四万とか言ってないんですけど」
信号が変わって青になる。
円香と田所を乗せた車は、夕日に向かって再び走り始めた。 その助手席に座る円香の口角が、僅かに上がっていたことに二人とも気付かないまま。
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シーズン4 : 敗退コミュ
仕事が忙しくてですね〜、ほれでま執筆しなきゃいけなんですけどもいまいちね~やる気がないんですよね
仕事忙しいし~ちょっとめんどくさいしで、この作品はここで終わらせていただきます(語録無視)
田所の迫真の演技とイキ顔を見たあの日から、円香は一変。
日々のレッスンはもちろん、課外でのアイドル活動も今まで以上に精力的に取り組むようになった。アイドル活動に夢中になる円香の姿からは、それこそかつて路上でのイベントで愛想よく振るまうアイドルの笑顔を「安っぽい」と一蹴した頃の面影は見事なまでに消え去り、 次第に女子高生の年相応であると同時に“新人アイドル”でもある、等身大な笑顔が見受けられる時間も長くなり始めていた。
依然として円香の口数は少なく、まだまだ掴み所が分からない部分は多い。だが未だかつてないほどの生き生きとした表情でアイドル活動に向き合う円香の姿は、あの日の田所の演技指導が彼女に多大な影響を与えたことをしっかりと証明しているようだった。
自分の限界を知る怖さより、その限界を超えた先にある世界に興味を持たせる。
一見、そんな田所の狙いがものの見事に的中した––––……、ようにも思われた。
だがそれも束の間、田所が良かれと思ってやった行動が後に思わぬ事態を引き起こす事になる。
「あの、イキすぎコージーさん」
日頃から円香のレッスンを担当しているトレーナーから声をかけられたのは、W.I.N.G.本戦出場を賭けた最後の予備予選を、いよいよ数日後に控えた日のことだった。
ちなみに田所がこんな汚らしいあだ名で呼ばれるようになったキッカケは、連日のように一人で自主練に励む円香が鏡に向かって「イキすぎぃ!」と叫んでいた姿を見たトレーナーが、円香自身にその意味不明な言葉の経緯を問いただしたことがキッカケである。
当事者だけではなく周囲の人間もひどく不愉快にさせる呼び名な気もするが、今までに星の数ほどの蔑称を付けられた田所にとってこれくらいのあだ名はノーダメージでなんのその、何も言わずにその呼び名を受け入れたため、こうして一部の人間の間では“イキすぎコージー”の蔑称が定着してしまっていたのだ。
「円香ちゃんのことでご相談なんですが、どうも最近様子が変なようで」
「ふぁっ!?」
「いえ、その、何かが悪いって訳ではないんです。悪いわけではないんですけど……」
予想以上に食い気味の田所に驚きながらも、トレーナーはあくまで悪い報せではないと強調する。
だけどその割には歯切れは悪く、口から溢れ出る言葉は丁寧に選び抜かれているような気がして、田所はその強調があまり良くない報せの予防線なのではないかと察していた。
ここ数日、決して付きっきりで円香の様子を見れていたわけではない。
だが事務所内やレッスン中の円香の様子を見た限りでは、そこまで危惧するような異変があるようには思えなかった。むしろ取り繕った笑顔の仮面を被っていた当初に比べ、何事も前向きに取り組むようになった今の円香の振る舞いには感心していたほどだ。
だとすると、トレーナーは何を懸念しているのか。
最後のW.I.N.G.予備予選が間近に迫った今、例え些細なことでも当然トラブルは避けたい。
田所の屈強な胸筋の奥に潜む心臓が、嫌な予感を感知する。
トレーナーが虚空に視線を泳がせ、言葉を詰まらせる時間が長くなるにつれてその不吉な予感は胸の中に滲み始めていた。
「本当に最近の円香ちゃん、すごいやる気はあるんです。そのことは私も評価してますし、吸収力も段違いでなんですけど」
褒められているはずなのに、その言葉に含まれた得体の知れない違和感。
トレーナーがようやく開いた口を再度閉した時、二人だけのいない事務所内に時計の針が大きく動く音が響いた。その音を合図に、トレーナーが自信なさげながらも、おもむろに話を続ける。
「あくまで私の印象なんですけど、円香ちゃんはちょっと遠くを見過ぎてるのかなって気がして––––」
「あっ……(察し)」
ひどく抽象的な言葉にも聴こえたが、田所はトレーナーが伝えようとしていたことが分かってしまった。それからトレーナーは、時折田所の持ち前の察しの良さに助けられつつ、自身がここ最近の円香に対して抱いていた懸念材料を断片的に話し始めた。
トレーナー曰く、最近の円香はどうも何においても必要以上に先走り過ぎている感が否めないらしい。レッスンにしても未だ完璧とは言えない基礎の練習を差し置いて何故か次に段階に進むとしたり、仕事でも今までより数段背伸びをした受け答えをする様子がここ数日でグッと増えたように感じていたそうだ。
確かにここ最近の円香は別人のように見間違えるほどの変貌ぶりで、今まで以上に真摯にアイドル活動に向き合ってくれている。田所はもちろん、トレーナーとしても当然それは大いに嬉しい変化なのだが、そんな最近の円香は向上心が強すぎるあまり、今まで積み重ねてきた大事な基礎が疎かになり始めているのではないかと心配していたのだ。
目標を高く設定し、それを目指して努力をする事自体は何も間違っていない。むしろ日々のモチベーションをアップさせる上で、非常に効率のいい方法だということも分かっている。
それはそうなのだが、実際の円香はまだ事務所に入って数ヶ月の新人アイドルである。今は遠くの目標を追い求めることより、アイドルとしての基盤を作る基礎を固めなければならない大切な時期だった。
現時点での目標であるW.I.N.G.本戦もあくまで新人アイドルの祭典であって、求められるのはアイドルとして完成されたクオリティではなく、例え未完成で荒削りだったとしても今後の未来を感じさせる可能性だ。そのためにも今の時期はアイドルとしての最低限の基礎を叩き込んだ上で、プラスアルファとして円香自身の個性やキャラクターを強調してW.I.N.G.に臨もうと、トレーナーや田所はそう考えてプランニングしていたはずだった。
「何があったのか分かりませんけど、最近の円香ちゃんは今自分がやるべきことが見えていない気がするんですよね」
「それは……、キツイですよ」
「ですよねぇ。何度か私からも声を掛けてはみたんですけど、いかんせんあの性格なので何処まで伝わっているのか……」
きっと円香は田所の演技指導の際に、“ホンモノ”の一流の世界に初めて直に触れ、その世界を、強く追い求めるようになってしまったのだろう。
あの日の一件は円香の渇き切った心を満たし、これまで抱えていた恐怖を振り払うほどの果てなき向上心を植え付けた一方で、円香の視線を今はまだ遥か遠くにある世界に釘付けにしてしまったのだ。
遠くばかりを見つめていると、どうしても近くにある大切なモノたちを見落としがちになってしまう。遠くを見つめ過ぎて足元を救われるなんて典型的な本末転倒の話ではあるが、人間は一度でも自分の心を奪い去り、強く惹き込んだ世界をそう簡単に忘れることなんてできない。案の定円香も初めて経験した一流の世界に心を強く惹かれて渇望してしまったあまり、今の新人アイドルとしての自分がやるべきことに集中し切れなくなってしまっていた。
何事においても基礎は大切な要素だ。言わば基礎は自身の根底から支える基盤そのもので、しっかりとした基盤がなければいくらその上に技術を積み重ねてもハリボテにしかならない。そしてアイドルの世界は、そんなハリボテが勝者になりえるほど甘い世界ではなかった。
「……大丈夫でしょ。ま、多少はね?」
一通りの報告を受け、田所はそう安易に返事をした。というより、そう言うしかなかった。トレーナーもまた、示し合わせたように相槌を打つしかなかった。
だが何かしらの問題に直面した際に具体的な改善策も対策も講じずに述べる「大丈夫」は魔法の言葉でもなんでもない、ただただ無責任極まりないだけの言葉である。この場合の「大丈夫」はあくまで当事者たちの希望的観測を含んだ現実逃避に過ぎず、根本的な問題解決になっていないのは二人とも分かりきっていた話で、当然問題解決から目を背けて「大丈夫」の一言で片付けようとしたその報いはきっちりと払わされる事になるのが世の定めということも理解していた。
まぁだからと言って一度遠くの世界を知ってしまった円香に「やっぱり忘れて、どうぞ」なんて言ってどうにかなるわけもないのだが。
田所が良かれと思ってやった行動が結果として裏目に出てしまった以上、もうどうすることもできなくなってしまっていたのである。
そしてというか案の定というか、最後のW.I.N.G.予備予選に参加した数日後、しっかりと事務所には円香の落選通知が届けられてしまった。
「FOO〜↓ 辞めたくなりますよぉ、この仕事」
薄い封筒に入った一枚の落選通知をテーブルの上に広げ、ビール片手に溜息を吐く田所。その様子をテーブルを挟んだ向こう側には事務員のはづきと社長の天井が冷淡な表情で冷ややかな視線をぶつけている。
田所と円香の力量を図る上で天井は二人に『W.I.N.G.優勝』というミッションを与えた。正直なところ、これはやや高めに設定されていた目標であって、天井の中での最低合格基準は本戦出場だった。いくら二人の実力が未知数とは言え、さすがに本戦にまでは辿り着くだろうと。そう考えていただけに、まさか予備予選で落選通知を持ち帰る醜態を晒すことになるとは天井も全く想定していなかったのだ。
「私にはどうして彼女が参加できないのか、ちっとも分かりません……!」
芝居がかった口調のはづきの言葉。円香を気遣うようにも聞こえる言葉だが、その真意は「円香には本戦に出場する実力があったのだから、今回の落選は田所の責任だろうが」というプロデューサーとしての責を問う皮肉しか込められていない。
田所が入社して数ヶ月、何度注意しても事務所でビールを飲むわアイドル専用のシャワーを使うわ、おまけに黄ばんだクソみたいな色のブリーフ一枚で屋上で日焼けしてるわで、クソステハゲ汚物の数々の奇行と愚行にはづきは心底並々ならぬ怒りを抱えていた。
どうにかしてこの無能なくせに謎の王者の風格を醸し出す田所のことを事務所から追い出したいと考えていたはづきにとって、今回の予想外の失態は願ってもないチャンスだ。こんな絶好機を前に、畳み掛けないはずがない。
「あ、でもプロデューサーさん。さっきこの仕事辞めたいってぼやいてましたよね?」
「んにゃぴ……。そ、それはすみません許してください! なんでもしますから!」
「ん? 社長、今こいつなんでもするって言いましたよ」
どうにかして辞めさせたい事務員と、辞めたいのか辞めたくないのか分からないプロデューサーの鎬の削り合い。そんな仲睦まじい二人のやり取りを蚊帳の外から眺めていた天井は唐突に話を振られ、慌てて考え込んだがこんな捨てるところのないゴミ男にしてほしいことなんて何一つ思い浮かばなくて、結局その有難い(?)申し出を無視する事にした。
「お前、担当アイドルのことをどう思っている?」
仕切り直して天井が「クゥーン」と仔犬のような鳴き声で落ち込む田所に問いかける。田所はビールを片手に握ったまま、一度だけ瞼を閉じて質問に答えた。
「確かに負けてしまいましたけど……、円香こそが王道を行くアイドルだって、はっきりわかんだね」
「あのさぁ、社長にタメ語で話して恥ずかしくないの? とりあえず土下座しろこの野郎、おう。早くしろよ」
「センセンシャル(土下座)」
「いや、そんなことしなくてしなくていいから(ドン引き)」
相変わらず汚らしい言葉遣いと喋り方ではあるが、田所の眼は初めて出会った際に天井に衝撃を与えたあの日と同じ眼光だった。
とりあえず聞きたかった言葉も田所の口から聞けて、あの日の眼光がまだ残っていることが確認できた天井は、田所が汚い土下座を事務所で披露する前にとっとと追い出すことを決めた。
「そういうことなら私から言うことはない。さぁ、早くその最高のアイドルに会いに行ってこい」
「ありがとナス!」
屋上にいるから、と天井が円香の居場所を告げる前に、田所は感謝の言葉だけを残して屋上に向かって走り出していた。
嘘です。
ちょっとペース落ちるかもですけど、ひっそり頑張っていきます。
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シーズン5 : 心臓を握る
最近シャニマスは何かと炎上系のニュースが多いですよねぇ……。
こんな時だからこそ、シャニマスの魅力を伝えたい……ッ!という気持ちで初投稿です。
屋上へと続く扉を開くと、田所はすぐに漆黒に包まれた闇の世界の隅で一人佇む円香の姿を見つけることができた。
円香は錆びたフェンスに両肘をついたまま、田所の方を一瞥することなくボンヤリと夜の街を見下ろしている。もうとっくに桜の花は散ってしまったというのに、未だに残り続けている朝晩の気温をぐっと下げる春風が屋上を駆けて行って、円香の髪を激しく揺らした。乱れた髪の隙間から見えた瞳はまるで夜空を翔ける流星のように、一直線の軌道を描きながら何かを捉えているようだった。
今の田所には円香の瞳が見据えるモノの正体は分からない。だが円香の視線の先に存在するモノが決して曖昧なモノではないことだけは、なんとなくではあるが察することができた。
「……なんですか」
初めて田所と円香が283プロの前で出会った頃から変わらない、円香の低い声が二人だけの闇の世界に響く。円香は依然として遠くにある「何か」を見つめたままだったが、闇に姿を隠していた田所の存在には気づいていたらしい。
社長に促されて円香に会うために屋上に来てはみたものの、実際本人にどうやってW.I.N.G.本戦に行けなかったことを伝えるべきか何も考えていなかった田所は咄嗟に言葉を詰まらせてしまった。
真剣にアイドル活動に向き合った上でのこの結果は、彼女の努力を根底から否定する非情な現実だ。自分の限界点を知ることに異様なまでの恐怖心を抱いていた円香にとって、この敗北はどれだけの時間を費やしても乗り越えられない大きな挫折になりうる可能性だって大いにありうる。
万が一そうなってしまった場合、プロデューサーとしてアイドルを導く存在の田所はどのように接することで円香を立ち上がらせることができるのだろうか。 “W.I.N.G.優勝”という目標はおろか、本戦にすら到達できなかったこの事実を、どのような言葉で円香に伝えれば少しでもショックを和らげることができるのか––––。
いくら世界一イキ顔を見られた伝説のホモビ男優といえども、そんな難題を解決する答えを僅か数ヶ月のプロデューサーキャリアで見出すことなんてできるはずがない。それ故に、田所は円香が直面した現実をありのままに伝えることしかできなかった。
「あのさぁ円香、W.I.N.G.の最終予選のことなんだけど––––」
「あぁ、そのことですか。ダメだったんですよね?」
「ヴォエ!?」
あまりに淡々とする声で先手を取られ、思わず自身の排泄物を塗られた時に出るようなえずき声がでた田所。だがそんな汚い言葉にはまるで動じず、円香はずっと遠くを見つめていた。
「……自分のことは自分が一番分かっているつもりです。落ちるだろうなって予感はしてました」
「あ、そっかぁ」
あっさりと自身の敗北を受け入れた円香の声色に、後悔や悲壮感は一切感じられない。普段と何も変わらない落ち着いた様子で、非情な現実を受け入れているようだった。
W.I.N.G.予備予選の結果に気付いていたことには勿論、あれほどまでに怯えていた自身の限界点を知ってしまったのに関わらず、落ち着き払った態度を見せる様子に田所はどことない違和感を感じていた。もっと悔しがったり落ち込んだりと、普段は決して見せない年相応のリアクションを予想していただけに、直面した現実から目を背けずに全てを受け入れようとする円香の態度は田所にとってあまりにも予想外なリアクションであったのだ。
あっさりと屋上へやってきた目的を片付けられてしまい、田所は自分の身の置き方が分からなくなる。自然と言葉が詰まり、沈黙が闇夜の世界を覆う中で冷たい風が二人の頬を叩いた。
「……あなたは何故、私をアイドルにしたんですか」
「ぬっ?」
独り言のように綺麗な唇から溢れた円香の問いかけ。その視線は遠くの「何か」ではなく、咄嗟に訊き返した田所へと向けられていた。
「は?(困惑) 自分からアイドルになりたいって言ってたじゃん……、言ってたくない?」
「そ、そうだよ(開き直り)」
いつの間にか円香の中では自分はスカウトされてアイドルになったのだと、記憶が捏造されていたようで、田所にマジレスを返されて恥ずかしさのあまり視線を虚空へと逃す。星の見せない東京の上空には、頼りない月明かりだけが瞬いていた。
雲に覆われて弱りきった灯りを見上げながら、円香がポツポツと不安を漏らしていく。
「……アイドルなんか本当はなりたくなかった。期待なんか背負いたくない、必死になんかイキたくない」
「円香……」
「自分のレベルなんか試されたくない。何度も……、何度も……。そんなのが私は、怖かった」
円香の口から次々と溢れる言葉たち。それは以前田所が感知した円香の本音を、誰にも打ち明けてこなかった不安を、明確に言語化した言葉であった。
アイドルの世界は媒体越しに見られるような煌びやかな世界だけではない。常に誰かと比較され続け、自分の明確な実力や立ち位置を嫌というほどに突きつけられる勝負の世界だ。どれだけ努力を重ねたところで成功の保証なんてものは一切なく、血の滲むような努力よりも生まれ持った才能がモノを言う残酷な世界でもある。
誰かに応援されることは、即ち自分ではない他人の期待を背負うことでもあり、その期待に応えられなければ当然期待は失望と変わり、そして心ない批判へと姿を変えていく。常に誰かの期待を背負い、それに応えていかなければならない人生は、想像以上に過酷な旅路なのだ。
失敗、挫折、炎上––––。
例えそれが小さな子供や大人になりきれていない高校生が相手だろうが、時に現実は一切の容赦無く牙を剥いて襲いかかってくる。
円香も小さな子供ではなく、大人の入り口に片足を突っ込んだ高校生だ。世の中の仕組みを、自分は何ができて何ができないのかを嫌でも気付く歳になって、その上で勝負の世界で試されることを怖いと感じるのは致し方ないことなのかもしれない。散々ネットでおもちゃにされた挙句、自分の恥ずかしい姿を数えきれない人に見られてもこうして平然と生きていける田所が異常なだけで、そういった不安が付き纏うのは至極当然のことなのだから。
「––––だけど、あの日の演技を見てその恐怖が薄らいでいった」
雲の切れ目から月が顔を覗かせ、遮るものがなくなった月明かりが円香の表情を照らす。
気怠けな垂れ目に、特徴的な泣きぼくろ。月明かりに当てられて煌めく前髪をまとめたヘアピン。
それは数ヶ月前に初めて田所が出会った時と何も変わらない表情だった。だけどその眼差しはあの時よりも何倍もの希望を、そして何かを強く渇望するような、そんな強い欲求を秘めているように田所には映っていた。
「初めは社長に言われた“W.I.N.G.優勝”というミッションを果たせればいいと思ってた。それも、適当に笑っておけばなんとかなるって思ってた」
だけど、今はそんなんじゃない。
そう区切ると、円香のか細い人差し指と親指をピンで止められた前髪へと伸ばした。前髪を触る間、視線は虚空を慌ただしく泳いで、円香は慎重に言葉を考え抜くように時間をかけている。
「……怖いけど、自分の限界にイってみたい。その限界の先にある世界を見てみたい」
あの日、二人きりのレッスンルームで見た田所の迫真の演技。
田所の本気のイキ顔と、円香のハートを心底震わせた衝撃が脳裏のフィルムに焼き付いていることを確認し、円香は月下の光のもとで新たな目標を宣誓する。
「––––W.I.N.G.にはイケなかった」
「…………」
「でも、イこうとした」
円香はそっと目を閉じて、月を仰ぐ。その口元は微かに上がっていた。
「熱意があればいいわけでも、技術があればいいわけでもない。勝ち上がったところで将来の保証があるわけでもない。なんでそんなものに挑んでいたんだか……」
再び肌寒い風が吹いて、円香は乱れた髪を強引に耳へと掛けた。その拍子に開かれた目は、真上で八の字を描いている眉毛とは正反対に笑っている。
「ふふっ、でもこうして負けたことが悔しいって思えるってことは……、ねぇ? どういうことだと思います?」
W.I.N.G.に出場することはできなかった。それは即ち、今の円香の限界がここまでだったということを示す結果である。
だけど、円香はその現実を知ってもなお、前向きにその結果を受け入れようとしていた。自分の限界を知った今でも怯えることもなく、今はまだ手を伸ばしても届かない遠くの世界を真っ直ぐに見据えている。それは今までに見せたことのない、意欲的な眼差しだった。
もしかしたら円香にとってこの挫折は、結果的に良い経験になったのかもしれない。W.I.N.G.出場で満足するのではなく、そのもっともっと先の世界に興味を持ってくれるのなら、今はそれだけでアイドルを続けるモチベーションになるのかもしれないのだから。
その遠くの世界を見せたのは間違いなく田所だ。だからこそ、田所には円香をその場所へと導く義務がある。田所は改めて覚悟を決めて、円香の問いに答えを出す。
「そんなにイキたいのならイかせてやるよ」
「……はい。私を限界の先にイカせてください」
田所の誘いに、円香は初めて出会った頃からは想像も付かないような優しい表情で笑う。
春が終わろうとする季節の変わり目の夜に、新人プロデューサーの田所と新人アイドルの円香は、新たな未来を誓い合った。二人の距離感は依然としてソーシャルディスタンスが保たれていたが、心は間違いなく近づいていた。
☆★☆★
社長とはづきは既に退勤していたようで、円香をビルの下まで見送って戻ってきた事務所は無人だった。
とりあえず溜まった事務作業だけでも終わらせて帰ろうと、田所はパソコンを起動させる。パソコンが立ち上がるまでの間にテレビを点けると、薄型テレビの中ではよく見かけるベテランの女性ニュースキャスターの姿が映っていた。
「––––では、次のニュースです。本日、東京都で新たに確認された陽性者の数は……」
どうやら最近巷で流行っている妙な感染症のニュースをやっていたようで、心なしかニュースキャスターの声色が沈痛な声にも聴こえた。だが田所はそのニュースをあまり重くは受け止めておらず、あくまでBGMの一環として聴きながしらパソコンでの事務作業に没頭していったため、テレビから発信される情報には一切耳を傾けなかった。
きっとこの時、田所だけではなく日本中……いや、世界中の殆どの人がこのニュースを聞き流していたのだと思う。後にこの感染症によって世界がとんでもない様相を呈することになるとは想像もせずに。
田所だけの事務所内には、今後の未来を危惧する専門家たちの警告が、誰の耳に届くこともなくひたすらに響いていた。
WING円香編終了。
次回、感謝祭・福丸小糸編。
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第2章 感謝祭編 (福丸小糸)
シーズン0 : 異変と異常
––––春。
厳しい寒さを和らげる優しい日差しや日本の象徴でもある桜と共に訪れるこの季節は、大勢の人々の人生を動かす、まさに“ターニングポイント”ともいえる季節でもある。
旅立ちと別れ、始まりと終わり––––。
雪解けが進んだこの季節には数えきれないほどのドラマが含まれていて、この少女––––福丸小糸もまたその例外になく……、むしろ例年に比べて今年はより一層その意味合いを強く感じていた。
この春、小糸は中学校を卒業し、高校へ進学。
新たなステージで小糸を待っていたのは、幼少期から親睦を深めてきた浅倉透、市川雛菜、樋口円香ら三人の幼馴染たち。
幼馴染たちの中で一人違う中学校へと進学し、三年間離れ離れになっていた小糸にとって、その胸中では環境が変わる不安よりも幼馴染たちがいる場所に「戻れた」といった安心感が圧倒的な割合を占めていたのだ。
それに加え、年明けに唐突にアイドルとなった浅倉透を追っかけて自身もアイドルの世界に身を投じたことも相まって、今年の春は例年にないほどに忙しく––––、されど未だかつてないほどの期待と希望に満ち溢れた春となっていた。
(やっぱみんなと一緒に過ごせるのは最高やなっ!)
孤独感に誘われていた中学三年間とは打って変わり、自分が本来いるべき居場所に戻れたことへの幸せを噛み締めていた小糸。
そんな小糸が妙な違和感に気が付いたのは怒涛の春が過ぎ去り、夏の足音が近付いてくるのを感じ始めた五月の暮れの頃のことだった。
この日、兼ねてから休みを合わせていた四人は惜しくもW.I.N.G.本戦目前で出場機会を逃した円香を慰める会(透の提案)という名目の下、透の自宅に幼馴染四人で集まっていた。
慰める会と言いつつも、特別何かをするわけでもない。繰り広げられているのは、いつもと同じような雰囲気でいつもと何ら変わりない、他愛のない会話ばかりだ。されど四人で過ごす何の変哲もない時間と空間こそが、小糸にとっては何にも変え難い大切な時間でもあった。
そんな至福の時間に潜む違和感を、ふとした拍子に小糸の五感が感知したのだ。
「ねー、W.I.N.G.惜しかったねー」
「……」
「まぁ、アイドルになってまだ日が浅いから仕方ないね」
円香を慰めようとフォローの言葉をかける透の口調から見え隠れする、得体の知れない違和感。
(あれ、透ちゃんってこんな喋り方してたっけ……)
普段はあまり感情を出さない、淡々とした口調が特徴的だった透が、妙にねっとりとした話し方をしている。円香と喋っているのは紛れもなく透本人のはずなのに、小糸はその姿がまるで透の姿形をした違う誰かが喋っているかのように感じられたのだ。
一見、何も変わらない四人が過ごす日常の一コマに見えるものの、疑う余地のない現実に組み込まれた明らかな異常が違和感を生み出している。
その異常に小糸が気付いた途端、いつからか日常の一コマに潜んでいた違和感たちが次から次へと小糸の前に姿を現し始めた。
「あは〜♡ ウーバーで頼んでたお寿司届いたよ〜」
「は?(威圧) 雛菜、いなりがないやん」
「あ、ホントだ。いなりだけ入ってない」
「いなりが食べたかったから注文したのに」
(円香ちゃんってこんなにいなりに執着心持ってたっけ……)
「透先輩〜、このクソデカ枕どうしたの〜?」
「あぁ、それ? ネットで買ったんだ。いい……よくない?」
「はえ^〜♡ この辺がセクスィ〜、エロい!」
(雛菜ちゃんに至ってはなんかキャラ崩壊してるよ……)
次から次へと小糸の目に付く、言葉では言い表せない違和感たち。
透も円香も雛菜も、間違いなく何かがおかしい。小糸の知っている三人とは決定的な何かが違うのは確かなのだが、肝心なその違和感の正体が分からなかった。
だが、それも仕方がないことなのかもしれない。常日頃からホモビを視聴するような特殊な趣味を持たない人間にとって淫夢は無縁の世界の話なのだから。
しかし、淫夢が日の当たる場所に姿を現して十年弱。
その爆発的な感染力で日本列島を瞬く間に世界有数のホモビ国家へと染め上げた淫夢文化は、今となっては小糸のようなホモビとは無縁の世界で暮らす人々の日常の中にまで侵食してしまっている。
故に、こうして淫夢を知らない人でも、ホモビに出てくるようなセリフを無意識に口走っている自覚が一切ないのに、見ず知らずのうちに語録を使ってしまうようなステルス感染を巻き起こしていた。
「––––いと」
(なんか変だよみんな……)
「––––……小糸? どうしたの、さっきからぼーっとしてるけど」
「んにゃぴっ!? ……じゃなかった、ぴえっ!?」
283プロのプロデューサーに就任した田所からまずは円香に、そして円香から幼馴染たちへとあっという間に伝染していった淫夢語録たちは、ものの二ヶ月足らずで純白だった四人をしっかりと淫夢色に染め上げた。
当然、三人と共に過ごす時間が長い小糸にも淫夢の魔の手が及ばないはずがない。自身も淫夢に毒されている自覚はないようだが、実際は小糸もまた三人同様にしっかりと骨の髄まで淫夢に染め上げられてしまっていた。
「小糸はさ、感謝祭で何かやりたいこととかないの?」
「え? か、感謝祭っ!?」
「あ〜、小糸ちゃんもしかして今までの話聴いてなかったの〜?」
「せっ、センセンシャル……」
目に付いた異常ばかり気を取られていたが、いつの間にか三人は梅雨明けに開催されるステージの話をしていたらしい。テーブルを挟んで小糸の対角線上に座る透の手に握られたノートには、それぞれが発案したと思われるアイデアが箇条書きで記されている。
(感謝祭かぁ……)
“感謝祭”とはまさにその名の通り、ファンとアイドルの交流を目的としたライブイベントだ。なんでも小糸らが入社する前に283プロからデビューした幾つかの既存のユニットの活動が認められ、毎年他社と合同で開催されている“ファン感謝祭”に招待されたそうだ。
合同ライブになるため283プロに与えられた時間は限られており、なおかつ当然ステージのメインは招待された既存のユニットたちになる。だが今回は特別にノクチルのデビューステージとしての枠も確保してもらうことができたらしく、ユニットとして初めてリリースする新曲を一曲だけ披露することになっていた。
田所からは感謝祭のステージは極力アイドルたちの希望に沿った内容にしたいと聴いている。どうやら三人はその感謝祭のステージの演出やコンセプトをどういったものにするかについて、アイデアを出し合っていたようだった。
「でも感謝するって言ったら、対象はファンや友達とかだよね〜?」
「それなら家族もじゃない?」
「おお、さすが。樋口は家族に沢山迷惑かけてるって、それ一番言われてるからね」
「それ、浅倉にだけは言われたくない」
幼馴染たちの何気ない会話の中から飛び出した単語を聴いて、小糸の胸がちくりと痛む。
だけど小糸は先程妙な異変に気付いた時と同様に、なるべく胸の内を悟られない様に極力自然な笑みを取り繕って、必死に隠すことしかできなかった。
☆★☆★
天井社長から授かった“W.I.N.G.優勝”というミッションを遂行し損ねた田所が次に挑むミッションは、多くのプロダクションが参戦する“感謝祭”のステージで、283プロの新ユニットとなるノクチルの初ステージを成功させることだった。
田所が入社する以前から在籍していた透、雛菜、小糸の三人は既にソロでのアイドルデビューを果たしていたが、円香を含めたユニットとしての活動は感謝祭が初めてとなる。それだけにユニットとしての今後の活動を勢いづけるためにも––––また、円香のW.I.N.G.予備予選での失態でプロデューサーとしての手腕が疑われ始めているのも相まって、この感謝祭のステージでは絶対に失敗が許されなかった。
だが、失敗が許されないミッションを抱えてる時に限って、あまりよろしくない問題が山積みになって行手を阻むのが現実の嫌なところ。感謝祭でのステージの雲行きを怪しくさせる幾つかの問題を、田所は既に抱え込んでいた。
一つはノクチルが四人組のユニットであることだ。
古代エジプト文明が栄えた遥か昔より、迫真空手部然り、黒塗り高級車激突サッカー部然り、 ACCEED三銃士然り、世間に受け入れられるユニットは三人組という確固たる方程式が存在していた。
だがノクチルはその勝ち確ともいえる方程式に反し、四人組ユニットだ。三人組ユニットではないが為に、これまでの淫夢ユニット成功の方程式が通用しなくなる。
(いやーキツいっすねこれは……)
前例がないだけに果たしてどのようなプロデュースで四人を導けば、三人組ユニットのように幅広く世間に受け入れられるのか––––。貴重な田所の成功体験が適用されない且つ絶対に失敗が許されないミッションなのに関わらず、闇の中を手探りで進んでいく様な試行錯誤のプロデュース路線に舵を切らざるを得なかったのだ。
そして、二つ目の問題。それは––––……、
『本日、新たに東京都内で確認された新型コロナウイルスの陽性者数は過去最多の––––』
「……なんだか大変な事態になってきましたよね。都内じゃもうマスクがどこも売り切れだそうですよ」
「明日からテレワーク導入だからな。必要なものは忘れずに今日中に持ち帰るんだぞ」
昼夜問わずテレビで報じられている感染症のニュース。
外国で突如発生したこの感染症は瞬く間に日本にも進出し、そしてものの数週間でこれまでの日常をガラリと変えてしまった。
日に日に増加していく感染者の数と、募っていく人々の不安。メディアでは根拠のない情報と憶測が飛び交い、秩序と調和があっという間に乱れた東京都内は未だかつてないほどの混乱が生じていた。
感染症自体のニュースはちょうど円香がW.I.N.G.の予備予選で敗退した頃あたりから度々報じられていた。まさかここまで世界中で混乱を招く事態に発展するとは想像もしておらず、いくら外国で感染症による死者が増えようが、いくら日本で初めての感染者が確認されようが、それは対岸の火事の出来事で自分には関係のないニュースだと、誰しもがそう捉えていたのだと思う。
だが結果として感染症の広がりに歯止めが効かず、こうして連日都内で多くの感染者を記録するようになると、平穏だった日常は急速なスピードで変わり始めていった。政府からの不要不急の外出自粛要請が発令されると、お店はどこもシャッターが下り、仕事も殆どの企業が自宅でのリモートワークに切り替えられると、世界一人口密度が高いと称されていた東京の街からは人流は途絶え、活気のないゴーストタウンと化した。
そんなご時世なだけに、人と人が触れ合うイベントなど開催できるはずがない。
予定されていたイベントが相次いで中止を余儀無くされると、アイドルたちの出演イベントのスケジュールが書き込まれていた事務所のホワイトボードはあっという間に真っさらになっていく。
ノクチルが参戦する感謝祭は幸い二ヶ月先なのもあって、主催者側から正式な中止の通達はきていない。だが誰の目にも開催される可能性より中止になる可能性の方が圧倒的に高いのは明らかで、またそれもいつ正式に発表されるかが分からない状況だ。仮に開催されたとしても、当初の予定通りにイベントが進むとは考えにくかった。
要は田所とノクチルの四人は開催されるかどうか定かではない、それもどのタイミングでレギュレーションが変更するかも分からない感謝祭に向けて、あくまで開催される“前提”で準備を進めないといけないのだ。
尺の問題や演出や設備の制限、それらが全く不透明なまま、ステージを創りあげるのは決して容易いことではない。準備の面でも、アイドルらのモチベーションの面でも、だ。
「あ〜もうめちゃくちゃだよ」
そう嘆いても現状が変化するわけでもなく。
田所は行末が全く見えない未来を、ただただ茫漠と好転する様に祈ることしかできなかった。
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シーズン1 : Idol IS GOD
実は理由あって仕事を辞めました。
理由は本気でホモビを極めようと思ったからです。
親と社長にめちゃくちゃ止められたけど絶対俺ならトップになれるって言ってなんとか説得しました。
今日から毎日13時間淫夢視聴します。
これからよろしくお願いします。
年明け間もない一月上旬、海外で爆発的な感染拡大を巻き起こした未知の感染症。
報道当時はメディア越しに広がる外国の異様な光景を対岸の火事だと捉えていた日本も、国内で初の感染者が確認されると状況は一変。日に日に感染者の数は増え始め、その魔の手が日本全体を覆い尽くすのにはそう時間は要さなかった。
『本日より、東京を含む7都府県に緊急事態宣言が発令されました』
『全国で新たに確認された新規陽性者は––––』
次から次に増えていく日本国内感染者の数、そして一向に収束の気配を見せない海外諸国の惨状。
世界各地で世紀末の様相が暫く続いた後、専門家の研究結果によって感染拡大の原因が人同士の接触によるものだと判明すると、特に感染状況が酷い国々は国民に厳しい外出制限を課すことで人流を減らすという原始的かつ単純明快な策を講じることとなる。
世界各地の都市から人の姿が消えること数週間、感染拡大に歯止めが効かない日本でも、政府はとうとう事実上のロックダウンとなる緊急事態宣言を発令。発令に伴い街から活気は消え、人々は『ステイホーム』の呼び掛けのもと、前代未聞の自宅での引き篭りが推奨される時代が訪れた。
当然こんな非常事態なだけに、アイドル関係のイベントなんか行えるはずがない。
283プロに勤務する従業員やアイドルたちも世間の例に漏れず、他人との接触を控えるべく不要不急の外出が禁じられ、長い長い自宅での、終わりの見えない自粛生活を強いられていた。
(あたまに来ますよ……)
数年ぶりに日本へと帰国してきたのに––––と、田所はそのタイミングの悪さに文句を言いたくなる気持ちも山々だが、状況が状況なだけに国の要請に従わないわけにもいかない。死ぬほどホモビに出て、死ぬほど男にケ◯の穴を掘られ、自身もまた掘り返し、そんな過酷な下積み時代の結晶とも言える下北沢の自慢のマイホームで独り、田所も自粛生活を送っていた。
孤独な自粛期間中は当然事務所に立ち入ることが禁じられていたが、一応リモートワークといった形で田所は自宅で仕事をこなしていた。しかし仕事と言えども、その内容は毎朝毎晩自分が手掛けているアイドルたちの体調に変化がないかを確認したり、時たま届く仕事のメールに返事をしたりする程度で、とてもじゃないが丸一日潰せるほどの仕事量ではない。
莫大に余る時間の中で気分転換にとテレビをつけても毎日同じような感染症に関する番組が永遠と流れ続けるばかりで、誰に会うことも、何処かに行くことも許されない日々。それは日本中に自分のイキ顔を晒された時とはまた違った精神的苦痛をもたらす、気が狂いそうな地獄の日々であった。
そして、自粛生活が始まって約一週間が経過したある日の昼下がり。
いつものように後輩遠野のケ◯の穴より更に深く自身の正体について掘り下げた「野獣先輩新説シリーズ」や、ごく稀に目を見張るような巧みに練り込まれたストーリー物もある「BB先輩劇場」を視聴しながら、原作にもこれくらいしっかりとした脚本があれば違う脚光の浴び方をしたかもしれないのにと、そんなたらればを考えながら世界一無駄かつ退廃的な時間を過ごしていた時だった。一通のチェインの通知が田所の柔らかスマホを静かに揺らした。
「……ヌっ?」
差出人は担当アイドルの一人である福丸小糸。
どうやら普段から業務連絡やこの自粛期間中の体調確認などで利用しているノクチル四人と田所が加入したグループチェインではなく個人のチェインだったようで、妙なこともあるものだなと、少しだけ驚きながら柔らかスマホを手に取った。こうして小糸から個人のチェインが来るなんてことは、今までに一度足りともなかったからだ。
『プロデューサーさん、お疲れ様です。今お時間大丈夫ですか?』
『当たり前だよなぁ? バッチェ暇してますよ〜』
謙虚で丁寧な彼女の人柄が滲み出る文面に相応しいようにと、田所も極力丁寧な文面を心掛けて返信をする。小糸はトーク画面を開いたままにしていたのか、田所が送った返信にはすぐ既読のマークが付いた。その様子を確認してすぐに返事がくるだろうと、田所もトーク画面を開いたまま小糸の返事を待ったが、なかなか次のチェインは返ってこない。
小糸のことだから何度も文面を考え直しているのか、はたまた丁寧に長文を打っているが故に時間がかかっているのか、画面越しに一生懸命チェインの文面を考えている小糸の姿を想像しながら待っていた田所だったが、暫くして新たに届いたチェインは長文とは言えない、数行かつ端的な文章だった。
そして小糸のチェインを見た田所の胸には槍を刺されたような衝撃が走り、思わずその目を見開く。その瞬間に脳裏に浮かんだのは、ここ最近永遠とテレビで報道されている感染症の特徴だった。
『実は昼過ぎから体調が優れなくて、今熱を測ったら38度を超えてて、倦怠感も凄くて……』
☆★☆★
(な、なななななんでこんなに体温が––––)
たまげるなんてレベルじゃないほどの衝撃に身体を貫通された小糸は咄嗟に床に落とした。
震える手で体温計を拾い上げて、電源を入れ直す。もしかしたら壊れていてデタラメな体温が表示されているのかもしれない、もしくは無意識のうちに脇を締めすぎて熱を帯びてしまっていたのではないかと、そんな藁にもすがるような淡い期待を抱きながら。
「だ、大丈夫だから! へーきへーき!」
加速する鼓動を落ち着かせようと、そう自分に言い聞かせる小糸。だが何度計測し直しても結果は小糸の望むようなものではなく、表示されるのは普段の体温とはかけ離れた異常な数字ばかり。期待とは裏腹に、体温計が示すのは小糸の身体に明確な異変が起きているといった、紛れもない事実だった。
「や、やべぇですよ、やべぇですよ……」
まさかとは思っていた最悪な事態が、じわじわと現実味を増してくる。
意識が遠のくほどの高熱、身体全体の倦怠感、唾を飲み込むのも一苦労するほどの喉の痛み––––。それらの症状は、ここ連日様々な媒体で報じられてきた世間を混乱の渦に陥れた感染症の特徴と、ピッタリ当てはまっていたのだ。
––––もしかしたら自分は感染症に罹ってしまったのではないか。
感染症の感染拡大に伴い、東京都に緊急事態宣言が発令されてから今日まで、学校も休校しアイドル活動も停止となった小糸は一度たりとも自宅を出たことがなかった。両親の仕事もリモートワークとなり、同居している家族の中でも外出するのはせいぜい母親が食料の買い出しに近所のスーパーマーケットに行くぐらい。真面目な福丸一家は、家族一丸となって各メディアで報じられている感染症対策を徹底していたはずだった。
だがこの感染症の特徴として発症までの潜伏期間が最長二週間ともいわれており、二週間前といえば緊急事態宣言の発令前で小糸は通常通り、高校に通いながら283プロでもアイドル活動に精を出していた頃だ。その頃に不特定多数の人間と接触していたの確かで、既に小糸の体内にはウイルスが潜伏していた可能性はある。
「も、もし陽性反応だったら––––。やめてくれよぉ(絶望)」
最長二週間にも及ぶ潜伏期間の他に、陽性者が発信源になって周囲に二次感染を起こす異常なまでの感染力も特徴の一つとして報じられていた。そのため保健所では陽性となった患者の直近二週間の行動を洗いざらしにし、二次感染が疑われる濃厚接触者の特定を徹底している。万が一小糸が陽性者になってしまった場合、間違いなく二週間以内の行動を調べられることになるはずだ。
もし自分が検査を受けて陽性反応が出てしまったら、自分のせいで周囲の人を感染させてしまっていたら、過去の行動全てが公に晒されてしまったら––––。
次々に浮かんでくる、最悪な事態が繋がっていって、負の連鎖を産んでいく。
ごクリと飲み込んだ唾が、激痛の喉の上を走った。
自分が感染症に罹るのは当然怖い。だけどそれ以上に小糸が遅れていたのは、自分が原因で周囲に迷惑をかけること、そしてその結果隠し通してきた、ある“嘘”が発覚することだった。
「すみません許してください。なんでもしますから」
高熱で朦朧とする意識の中で、一人では抱えきれない恐怖と不安。現代に舞い降りたGODとも称されるGOへと唐突に祈りを捧げ始めた小糸は、検査を受けて結果が陰性ならば全てが解決するという簡単なことにさえも気付かないほどにパニックを起こしていた。
親に相談して一度検査を受けにいくか、自分の免疫力を信じてこのまま自室で回復するのを待つか––––。今の自分にとって最善の選択肢がどちらなのかを考えることに疲れ、現実逃避をするかのようにスマートフォンを弄っていた小糸は、ふとサッカー部の三人が黒塗り高級車に突っ込む底辺YouTuberがやりそうなくだらない動画の次に出てきた動画を見て、その指を止めた。
電脳世界の先で彼女を待っていたのは、透がアイドルになるまで全く興味もなかった小糸ですら認知していた一人のアイドル。おでこの両端に付けられたリボンが特徴的なそのアイドルは、自身の自宅と思われる背景を背にして一人、小糸に向かって優しい口調で語りかけている。
『まずは手洗いうがいなどの感染予防を徹底し、今は不要不急の外出を控えてください。そして、万が一疑わしい症状が発症した場合は、怖がらずにすぐに保健所に連絡をしてくださいね』
歳は確か小糸の一つ上か、もしくは二つ上。名前もうろ覚えですぐには出てこない。好きか嫌いかとかのレベルじゃなくて、ただ存在を知っている程度。
そんな曖昧な知識しか持たないはずなのに、この時小さなスマートフォンの画面越しに見たアイドルの姿はとても心強くて、そしてまるで母親の腕の中で守られていた幼少期を思い出すかのような安心感を小糸は覚えていた。
アイドルといえども、中身は小糸と同じただの人間だ。アニメや漫画に出てくるような都合のいい救世主でもなければ魔法使いでも何でもないこのアイドルが、世界中から感染症を消し去ることなんてできないことくらい分かっている。こんな呼びかけの動画を配信したくらいで、何も解決しないことだって。
だけど、それでも「この人がそう言うのなら大丈夫」といった、根拠のない安堵感が小糸の胸の奥底から湧き上がってくるのは確かだった。その理由は分からないが、いつしか小糸はGOに祈りを捧げるのをやめ、食い入るようにこのアイドルの姿を目に焼き付けていた。
『周囲の大切な人たちを守るために、今は皆で協力してこの感染症に打ち勝ちましょう』
「大切な人たちを守る……ために」
パニックになっていた数分前から一転、落ち着きを取り戻した小糸は考える。今自分は何をするべきなのか、そして自分がもし陽性者だった場合、少しでも周囲への被害を抑えるためにどうすればいいのか––––。
動画が終わったのを合図に、小糸は動画配信サイトのアプリを閉じてチェインを開く。そして脳裏に焼きついたあのアイドルとGOの姿を思い出しながら一度だけ深呼吸を挟み、田所へとチェインを送信した。
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シーズン2 : 目的と夢
––––真面目な優等生。
それが福丸小糸を知る人物の多くが彼女に対して抱いている印象だろう。
勤勉で成績も優秀、決して器用な人間ではないものの、何事にも常に全力で取り組む努力家で、純白清廉の良くも悪くも裏表のない素直な人間性。それが福丸小糸が人々を惹きつける魅力であり、唯一無二の個性でもあった。
そんな優等生気質の小糸の人間性に助けられた大人は数知れず、そして田所もまた、何かと個性の強い面子ばかりのノクチルを陰ながら支える貴重な常識人として、密かに絶大な信頼を寄せていた。
だからこそ小糸が発熱したとの一報を受けた時、田所は驚きと動揺を隠せなかった。
緊急事態宣言下の今の時期に、真面目な小糸が感染リスクのある行動を取るようには思えなかったからだ。
『緊急事態宣言が出てからは一度も外出もしてないですし、親もリモートワークで買い出し以外では外に出ていなかったんですが……』
小糸本人曰く、本人のみならず福丸一家全員で感染予防のための対策は徹底していたそうだ。これまでに家族内で小糸の他に疑わしい症状を発症した者はいないそうで、当然家庭内感染が起こっている可能性も考えにくい。
もちろん普段の小糸の人間性から、その発言が嘘だとも思えなかった。
だがそうなると、残された感染源は緊急事態宣言が発令される以前から、ウイルスが小糸の体内に潜伏していたケースだけだ。それは即ち、緊急事態宣言が発令する二週間前に何の対策もなく接していた田所やノクチルの面々が濃厚接触者になることを意味することになる。
(それはマズすぎるっぴ……)
ステロイドの副作用で薄くなった田所の頭皮に、嫌な汗が滲み出てくる。
一人ならまだしも、万が一他のアイドルや従業員などにも陽性者が続出し、クラスターにでもなってしまうと事務所としては流石に隠し通すことはできず、声明を出すなどの対応に追われるのは明白だ。
この感染症が流行り始めてからというもの、SNSや匿名掲示板などでは著名人、一般人問わず陽性になってしまった人物に対しての差別や誹謗中傷のコメントが後を絶たない。
感染が確認された人間に向けられるコメントはホモビに出た男優を罵ったり小馬鹿にするようなクソガキたちのコメントが生暖かく感じられるほどに、辛辣な内容のものばかりだ。新種の感染症が秩序を乱す混沌とした今の時代で、人々は目に見えない敵を恐れるあまりに、誰しも罹りたくて感染しているわけではないという当たり前のことさえも忘れてしまって、世間では『感染する=悪』という悪しき風潮が蔓延させてしまっていたのだ。
「……本当に怖いのは感染症じゃなくて人間だって、はっきりわかんだね」
そんなご時世だけに田所は、自身が感染したり事務所から陽性者を出したことによる世間からのイメージダウンよりも何より、陽性者の特定や世間からの心ないバッシングなど、感染症によって引き起こされる二次被害の方を懸念していた。
「と、ととととととりあえず検査に行って、どうぞ」
兎にも角にも、小糸の検査結果が出るまで事務所側としては動きようがない。
田所の勧めにより小糸はすぐに近所の病院で感染症の検査を受けに行くこととなった。
小糸からの検査結果を待つ間、田所は何も手が付かない極限の精神状態に陥っていたが、時は永遠に続く時間の中で緩やかに、されど確実に明日へと向かって歩み続けている。
窓から覗く景色が漆黒に染まった頃、ふと田所の意識はいつから点けていたのか分からないテレビのニュースを捉えた。液晶の向こう側では沈痛な面持ちのニュースキャスターが、先日感染が確認された有名タレントの近況を報道している。
状況はかなり悪いようで、報道によると有名タレントは今は都内の大きな病院の緊急治療室で命を取り留めるための集中治療を受けているらしい。慌ただしく揺れる現地の映像と、緊迫したスタジオとニュースキャスターの声が、有名タレントが直面している事態の深刻さを表しているようだった。
「……小糸」
祈るようなか細い声で、田所は小糸の名を呼ぶ。
田所の不安が積み重なったかのように進みが遅くなった時計の針は、今にも立ち止まりそうなほどのスピードでゆっくりと、長い夜を越えていった。
☆★☆★
両親に発熱を訴えて、連れて行ってもらった近所の病院で感染症の検査をした後、検査結果は翌朝にしか出ないことを告げられて小糸はメインの病棟から離れた敷地内の端に位置する古びた建物の一室へと連れて行かれた。
検査結果が出ていない以上、今の時点で感染しているかどうかは分からないが、症状から判断するに感染している可能性は極めて高い––––、と。そう医者の口から告げられた小糸は、万が一陽性だった場合に周囲へ感染を拡大させないため、即席で用意された隔離部屋で検査結果が出るまで待機するよう指示されたのだ。
病院まで運転してくれた母親は今にも泣き出しそうなほど目頭を真っ赤にしており、医者もまた不安と動揺を隠しきれない困惑した様子で、隔離部屋へと向かう小糸を見送っていた。だが当の本人の心境は、朦朧とする意識の中でも不思議なほどに落ち着いていた。
ベッドとトイレだけが備え付けられた孤独な隔離部屋で、小糸はただ一人夜が明けるのを待つ。充電するまもなく病院にやってきたせいで僅かだったスマートフォンのバッテリーはすぐになくなり、外部からの情報が完全にシャットアウトされてしまった中で、小糸の脳裏に繰り返し浮かんできたのは、病院に来る前に動画配信サイトで観たアイドルの姿だった。
「……あの人、凄かったなぁ」
小学生並みの感想が口から溢れる。だけどそれはあの時に感じた衝撃を形容する言葉を見つけきれないだけで、小糸はたった数分のメッセージ動画に登場したあのアイドルからとてつもないほどの勇気と元気を貰ったのは確かだった。
あの動画を観たからといって自身の症状が良くなるわけでもない、ましてやただのアイドルに過ぎない彼女にこの世界を混乱に陥れる感染症を途絶えさせる異能力がないことだって分かっている。観る人にとっては気休めにもならない、ただのメッセージ動画だということも。
「それなのに、どうしてあんなに勇気をもらえたのかな……」
その答えを探し求めるかのように、小糸は一睡もしないまま長い長い夜を過ごした。普段は夜更かしなどしない小糸にとって深夜の時間特有の雰囲気は新鮮そのもので、窓から差し込む月明かりと僅かな隙間から部屋に迷い込んできた夜風が、妙に神経を刺激し様々な思考を張り巡らせていく。
何度も擦り切れるようにあのアイドルのメッセージ動画を繰り返し脳内で再生させていくと、次第に底のない勇気をくれたアイドルに自分の姿が重なり始めていった。
幼馴染の透に憧れ、半ば付いていくような気持ちで自身も始めたアイドル活動。
だが小糸は透に続くように身を投じたこの業界が、決して友達付き合いだけでやっていけるような甘い世界じゃないことには薄々勘づいていた。きっとこの世界には身を削るような努力と、人生を賭けた覚悟で挑戦しているアイドルたちもいて、そんな人たちに比べて小糸がアイドルを志した理由はあまりに弱すぎることも、そして、幼馴染の中でも恐らく理由もなくアイドルの世界にやってきたのは自分だけだということにも。
数週間前、小糸は樋口円香がW.I.N.G.の予備予選で敗退し、独り屋上で誰にも悟られないように悔し涙を流している姿を目撃した。
普段はクールで、決して情熱なんてもののカケラを一ミリたりとも見せない円香があそこまで感情を露わにする姿は、これまでの長い付き合いの時間の中で少なくとも小糸は一度も見たことがない姿だった。だけど本気で挑み、そして敗れ去った円香の失意の背中を見て、小糸は察した。円香は自分のようになんとなくこの世界にやってきたのではなく、彼女なりの覚悟を持ってやってきたのだと。
今まで誰も打ち明けなかっただけで、もしかしたら透も円香も雛菜にも、アイドルの世界に身を投じたことに何かしらの目的や夢があるのだと思う。夢中になれる何かが、貴重な青春時代を費やしてでも掴みたい何かがあって、その手段としてアイドルになる道を選んだのだとも。
その過程を踏まえた上で、今度は自分に矢印を向けてみる。
小糸は何のためにアイドルになったのか、そして“アイドル福丸小糸”として何ができるのか––––。
「福丸さん、検査結果は陰性でした」
翌朝、一睡もせずに朝日を迎えた小糸の元にやってきた医者は口角を上げてそう告げた。心なしか小糸より医者の方がほっとした表情をしているようで、その後体温と血中酸素濃度を測り、いつの間にか正常値に戻っていたのが確認されると医者は更の頬を緩める。
「体調も回復されたようなので、ご家族に連絡してご自宅に帰ってもいいですよ」
医者曰く、昨日までの体調不良はここ最近の緊急事態宣言による心身のストレスに加え、春から高校に進学したことでいつの間にか疲労が溜まっていたことが原因かもしれないとのことだった。かなり曖昧で不明確な話ではあるが、自身を取り巻く環境や気候などが急激に変化するこの時期にはよく見られるケースだそうで、特に感染症が流行っている今年は例年に比べて小糸のような心因性発熱を訴える患者は多いそうだ。
何はともあれ、感染症に感染していなかったことが判明し、結局一睡もしなかった隔離部屋から無事解放された小糸は病院の電話を借りて自宅に連絡し、昼過ぎには病院を後にした。
「…………ねぇ、小糸」
帰路へと向かう道中で、不自然に母がそう切り出した。
体調も回復し感染症の疑いも晴れて、安堵のあまりうたた寝をしていた小糸は慌てて目を覚ます。その様子をバックミラー越しに見ていた母は、少しだけ困ったように眉をしかめ、バックミラーから目線を逸らした。
「いえ、なんでもないわ。小糸も疲れてるでしょうから、今日は帰ってゆっくり休みなさい」
「う、うん」
妙に母の言葉が歯切れの悪い口調にも聞こえたが、さすがに徹夜した疲れには勝てず、小糸は車の心地良い揺れに後押しされ、沈むように深い眠りに落ちていった。
☆★☆★
小糸からの続報がない。
そのことに田所が焦りを感じ始めたのは、小糸から熱発したとの連絡を受けた翌朝からだった。
昨日の夕方時点で病院で検査を受けに行くと連絡があったため、検査結果はもうそろそろ出ていてもおかしくはないはずだ。それなのに小糸からは病院で検査を受けに行くとの旨書かれたチェインを最後に、何も続報が届いていないのだ。
『お、大丈夫か大丈夫か〜?(ガチ)』
『検査結果出るまでまだ時間かかりそうですかね〜?』
『お前ノクチルの中でペットみたいだって、それ一番言われてるから(意味不明)』
さすがに心配になり、一部界隈ではそこらへんの女子高生よりも遥かに乙女とも称される田所は乙女特有の追撃チェインを何通も送ったものの、何通送っても返事がないどころか、既読マークすら付かない。
何度も何度も柔らかスマホを開く度に、小糸から音沙汰のないチェインのトーク画面が乙女田所の不安を募らせていく。そして募りに募った不安が創り出すのは、考えたくもなかった最悪の光景だ。昨晩ニュースで観た、緊急治療室で治療を受ける苦しそうな有名タレントの姿が何度も何度もフラッシュバックしては、記憶の中のあどけない小糸が同じように苦しんでいる姿にすり替わっていく。
居ても立っても居られなくなった田所は、チェインではなく小糸のスマートフォンに電話をかけたものの、同様にリアクションは何もなく、ただただ無機質なアナウンスが流れただけだった。
「……うせやろ」
もしかしたら小糸は陽性判定を受けただけではなく、容態が悪化して重症化しているのではないか––––。
電話にせよ、チェインにせよ、これだけ連絡をしているのに関わらず小糸からの応答が一切ない。ましてや、“あの”几帳面で真面目な小糸が、だ。
少しの間熟考した後、田所は事務所から持ち出したノートパソコンを開いた。個人情報がまとめられたフォルダから、田所が283プロに入社する前に小糸が社長に提出していたプロフィールのPDFデータをクリックする。
小糸自身に何度連絡しても返ってこないのなら、最後の連絡手段は自宅の電話番号にかけるしかない。さすがに自宅にかければ家族の誰かは出るだろうし、そうすれば小糸の容態や検査結果がどうであれ、今の状況を把握することができるはずだと目論んだのだ。
だがそんな田所の目論見は、事態を想像もしていなかった方へと転がし始める。
『––––もしもし、福丸ですけど』
何度目かのコールの後、田所の電話を取ったのは小糸の母親と思われる女性だった。電話越しの声は淡々としていて、感染症騒動の当事者とは思えないほどに、落ち着き払った声をしていた。
妙に胸が圧迫されるような感覚を覚える田所。無意識に背筋を伸ばし、裏返りそうな声をどうにか抑えて、言葉を紡ぐ。
「ういいいいいいぃぃぃぃぃす! どうも! 283プロの田所で〜す」
『…………は?』
「ふぁっ!?」
思わぬ返しに、虚をつかれた。
電話が遠かったのか、はたまた自分の滑舌が悪かったのか、羞恥心と緊張感を飲み込んで、もう一度仕切り直して大々的に告知したオフ会に誰も集まらなさそうなYouTuberっぽい声で自身の名を名乗る。聴いてるだけで鳥肌が立つような寒い挨拶の後、気が重くなるような沈黙を挟んで、小糸の母は蔑むような声で田所との会話を終わらせた。
『––––283プロ? 失礼ですが、後輩のアイスティーに睡眠薬を入れるような下衆人間は福丸家の知り合いにはいませんので。それでは』
受話器を置く大きなと音と共に通話が寸断される。
更に状況を把握できなくなった田所の頭には、一定のリズムで繰り返される「ツーツー」といった効果音だけがこだましていた。
今回あんま汚くなくてごめんよ〜。
次回は頑張るからさぁ〜頼むよぉ〜。
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シーズン3 : ガラスの嘘
体調もすこぶる良くなり、無事に感染症の疑いが晴れたため自宅へと戻ってきた小糸。
病院の一室で過ごした昨晩は殆ど眠ることができなかったのもあり、自室に戻った小糸はそのままベッドに直行して泥のように眠った。深い眠りの中で、小糸は昨日からずっと頭に居座り続けている“あの”アイドルに出会った。
夢の内容を小糸は殆ど覚えていない。“あの”アイドルが夢に出てきたという微かな記憶だけを残して、目が覚めると同時に夢の内容はすっぽりと記憶の中から消えてしまったからだ。
深い深い眠りから目覚めると、いつの間にか部屋は闇に染まっており、窓の外から差し込む街灯の心許ない灯りだけが部屋に差し込んでいた。
今は何時だろうか、時計を確認しようとポケットに入れたままになっていたスマートフォンを取り出すも、小糸の操作に画面は一向に反応を示さない。この時になってようやく昨晩からスマートフォンの充電が切れていたことを思い出し、小糸は近くに佇んでいた充電コードを手繰り寄せ、真っ暗なスマートフォンに繋ぐ。暫くしてスマートフォンを再起動させると、すぐさま複数のチェインの通知が小糸を出迎えてくれた。そのLINEの殆どは小糸の安否を気に掛ける田所からのもので、その時になってまだ検査結果を伝えていなかったことにも気が付いた。
心配をかけているだけに早く検査結果を伝えなければ、その一心で田所から届いた直近のチェインに返事をしようとした時だった。最後のチェインの文面が目に止まり、返信をしようとしていた指を思わず止めた。
『あ、そうだ(唐突)。お前さ、なかなか親に挨拶させようとしなかったよな?』
「––––んっ、んにゃぴっ?」
田所から最後に届いたチェインは、それまでの体調を心配するLINEとは全く脈絡がない内容だった。
だがその一見意味不明に思えるチェインに隠された本質を理解するよりも先に咄嗟に口から溢れた可愛さの欠片もない悲鳴。現役JKが使っちゃいけないような淫夢語録が口から無意識に飛び出てきて初めて、小糸はその文面の意味を理解し、絶句した。
「こここここ、これってまさか……」
世界は呆然とする小糸だけを取り残し、時の流れが止まったかのような静寂が訪れる。そしてすぐさま、暴れ馬のように激しく脈打つ鼓動が、時が止まっていた世界を強引に動かし始めた。
ずっと頭の片隅に隠していた最悪な事態が、脳裏にほとばしる。
絶望に打ちひしがれる小糸に追い討ちをかけるように、震える手のひらの上のスマートフォンが揺れ始めた。
「ふぁっ!? た、ターミナルさん!?」
まるで小糸がチェインをチェックしたのを見計らっていたかのようにかかってきた田所からの電話。
頭が真っ白になるような衝撃が引き金となり、背中から「ぶっちっぱ」といった排出音が聞こえてきそうなほどの勢いで、冷や汗が湧き出てくる。この時点で小糸は確信がついた。 田所が何かしらの経緯を経て、小糸のついた嘘に勘付いているのだと。
いつかこの時が訪れることは頭で理解していたものの、こうも不意打ちのようなタイミングでこられてしまうと、一瞬で平常心を保てないほどの動揺に飲み込まれてしまう。
後ろめたさ、後悔、恐怖––––、様々な感情がぐしゃぐしゃに入り混じるなかで、小糸はもう言い逃れできないことを覚悟し、震える指で通話ボタンをタップした。
「……もっ、もしもし」
『––––お、大丈夫か大丈夫か〜?』
小糸の心配とは裏腹に、スマートフォンのスピーカーから聴こえてくる田所の声は、まるで今から日焼けをしないかと誘ってきそうなほどカジュアルで、いつものようにネットリとした喋り方だった。
それは特別怒っているわけでも、軽蔑しているわけでもない、ただただ何処にでもいるホモの口調だ。
「だ、大丈夫ですっ! 検査結果も陰性で体調も良くなりました!」
『そう(無関心)』
「えっ……(困惑)」
心配をしているはずなのに素っ気なかったりと、相変わらず要領を得ない田所の会話。だが普段通りのはずなのに、小糸はこの時ばかりは田所のセリフが心なしかぶっきらぼうにも聴こえた。
その口調が、激しく揺れていた小糸の鼓動のスピードは更に加速度を上げていく。そしてそんな小糸の動揺を電話越しとはいえ安易に見逃すほど、田所は鈍感な漢ではなかった。
『あっ、お前さ小糸さ、さっきヌッ……送った俺のチェイン、なかなか返事しなかったよな?』
「い、いや、そんなこと……」
『嘘つけ、絶対無視してたゾ』
ホモ特有の脈絡のない唐突な切り口で、ズカズカと小糸の胸を田所の言葉が抉っていく。
隠していた嘘を面と向かって問い詰められているからなのか、はたまたあまりに理不尽な言い掛かりをつけられているからなのか、何が何だか分からないまま小糸は汚らしい淫夢語録の集中砲火を浴びせられることとなった。
『おい、肝心なこと言い忘れてるゾ』
『何とボケてんだ、ここあらいおん(意味不明)』
『お前さ、親に黙ってアイドル活動して恥ずかしくないの?』
『ほらほら、認めとけよ、認めとけよ〜』
「やめてくれよ……(絶望)」
淫夢語録とはもともとホモビで使われたセリフ集である。
今でこそ淫夢語録は世間でも幅広く認知され、世界でも有数のコミュニケーションツールの一つとして広まっているものの、もともとはホモビを見てゲラゲラ笑う悪趣味を持ったクソガキたちが面白おかしく世に広めただけであって、表社会で安易に使われていいはずの言葉ではない。
故に小糸のような思春期真っ只中の女子高生が、清廉潔白とはまるで正反対の淫夢語録の集中砲火に耐えられるはずがなかった。
「––––すみません、私……。親にはアイドルやってること内緒にしてました」
とうとう小糸は親に黙ってアイドル活動を行っていたことを自白してしまった。そしてこれ以上汚い淫夢語録の集中砲火を浴びたくない一心で、これまでの経緯を説明した。
親の勧めで中学校は私立に進学し、幼馴染たちから離れて孤独感を感じていたこと。
本当は私立の中学には行きたくなくて、だけど自分の意思をはっきりと伝えることができなかったこと。
透や雛菜がアイドル活動を始めたことで、また自分だけが取り残されてしまうのではないかといった不安から自らもアイドルになったこと。
アイドル活動を高校の部活動だと言い張って、これまで誤魔化してきたこと。
これまで誰にも打ち明けてこなかった小糸の秘密。田所はその秘密を告白されても、時折「はえ〜」、「ンンー、オホッ!」などと丁寧な相槌を打つだけで、小糸の話を遮ることなく聞き手に徹し続けていた。
小糸は283プロに入社する際、両親の許可を取らずに自らの意思だけで勝手に事を進めてしまった。両親に相談したところで引き止められる事は分かりきっており、それでもなおアイドル活動を幼馴染たちとしたかったが故である。
だが小糸は未成年であり、当然アイドル活動をするには保護者の承認が必須だった。283プロの契約書にもこれは記載されており、保護者の同意なしでは活動ができないことも明記されている。そして小糸は保護者の承諾を取らないどころか、自らの手で保護者のサインを偽装し、提出してしまっていた。この行為は小糸が考えている以上に深刻な問題であり、現実問題として刑法第159条の私文書偽造罪にあたるれっきとした犯罪行為だった。
腹が減ったから配達中のいなりを無断で食すのと同等レベルの犯罪なだけに、事務所の立場としては小糸の行為を当然見逃すわけにはいかない。
「わ、私が黙ってアイドル活動をしていたことは反省してます! だ、だから親にだけは内緒にしててもらえないでしょうか……」
だがこの期に及んで、小糸は頑なに親にアイドル活動をしていたことを打ち明けようとせず、田所がどれだけ説得しても、この時ばかりは小糸らしからぬ頑固な姿勢を崩そうとしなかった。
必死に抵抗を続けるのは、親に黙ってアイドル活動をしていたことがバレたら最後、間違いなくアイドル活動を辞めさせられることになると分かっていたからだ。小糸がアイドルを辞めるとなると間違いなく幼馴染とは中学時代同様に疎遠になってしまう。あの頃の孤独感を味わっている小糸にとってそれは死活問題であり、是が非でも避けなければならない事態だった。
『俺も後からちゃんと説得するからさぁ、頼むよぉ〜』
「だっ、ダメです! 本当に困りますっ!」
『こんなんじゃ(まともなアイドルとして)商品になんないよ〜(棒読み)』
「そ、それはもっと私が頑張るので!」
小糸自身も自らが犯した過ちの重さを理解している。そして事務所側が、それを迂闊に見逃すことができないことも。だけど自分の居場所を守るためにも、どうにかして親に摘発されることだけは避けたかった。
田所も何度も小糸に対してアイドルを辞めさせたいわけではなく、今後アイドルを続けていくためにも親の許可をちゃんと取りたいのだと説明をした。だが小糸からすればただでさえ自分の立場が不利な上に、こんな汚物完全体が話し合いに参加すると事態が余計に悪化するようにしか思えなかった。百歩譲って天井社長やはづきさんならまだしも、ネットどころか世界中でイキ顔を見られた男を親に会わせたくないと思うのは、至極当然の考えである。
だからこそ、子供のような駄々をこねてでも、小糸は必死に抵抗を続ける他なかった。
『だからこんなんじゃ商品になんねぇんだよ(棒読み)』
「すいません許してください! 何でもしますから!」
『ぬっ?』
互いに一歩も譲らないまま、まさに「ああ言ったらこう言う」の応酬で暫く埒のあかない言い争いが続いた時だった。咄嗟に小糸が発した「なんでもしますから」の言葉を受けて、田所の口が不自然に閉ざす。
その瞬間、小糸はしまったと自分の発言をひどく後悔し、血の気が引いていく感覚を覚えた。必死になるあまり思わず口にしたこの言葉が、自分を圧倒的に不利な立場にする言葉だと、今更ながら気付いたからだ。
『ん? 今なんでもするって言ったよね?』
「ん、んにゃぴ……」
無駄に勘だけは鋭い田所が、小糸の失言を見逃すはずがなかった。
そして、水を得た魚の如く、イキイキとした田所が小糸を畳み掛ける。
『よっしゃ、動物裁判や!」
「ぴ、ぴぇっ! 裁判はやめましょうよ!」
『は?(威圧) 大丈夫だって安心しろよ』
「ぬわあああああん!!」
『お楽しみはこれからだゾ〜』
小糸の発狂虚しく、こうして緊急事態宣言解除後に田所と小糸、小糸の保護者を交えた動物裁判を開廷する事が決定してしまった。
緊急事態宣言の解除予定日はあと2週間後、それまで小糸は不安で夜も眠れない日々を過ごすことになったのだった。
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シーズン4 : 動物裁判
田所から緊急事態宣言解除後に保護者を交えた動物裁判(意味不明)を執り行うと言われていた小糸は、緊急事態宣言が死ぬまで続いて欲しいと切に願っていた。だが当然そんな都合よく事が進むわけもなく、田所の提案からちょうど2週間後、予定通りに東京を中心に発令されていた緊急事態宣言は解除されてしまった。
解除されたとはいえ、感染症の脅威は完全に消え去ったわけではない。今でも連日のように新規感染者が増え続けては、患者たちが日本各地の病床を逼迫し、テレビでは多くの専門家たちがその危険性を説いて国民に不要不急の外出を控えるよう訴え続けている。
だが、いくら国民が自粛を続けたところで世界規模で広まってしまった感染症を根絶することはもはや不可能に近かった。緊急事態宣言も結局はその場凌ぎにしかならない結果に終わり、感染症に対して明確な打つ手が失くなった以上、感染症の脅威を承知した上で経済の崩壊を防ぐため、徐々に元の生活に戻していく方向へと舵を切らざるをえなかったのだ。
「あ、あの! 会って欲しい人がいるんだけど!」
小糸がようやく母親に話を切り出したのは、緊急事態宣言が明ける二日前のことだった。
少しだけ力んだ声の小糸の口調は不自然だったものの、台所で食器を洗っていた母親は一瞬だけその手を止めただけで、特別驚いた様子は見せなかった。
「……分かったわ。なら予定を決めましょ」
「ふぁっ?」
「ん? どうしたの小糸?」
「な、なんでもないです(食い気味)」
「そう(無関心)」
勇気を振り絞った小糸に対し、母の反応は淡白としたものだった。
電話での田所の口ぶりから、小糸は既に母が何かしらの経緯を経てあの汚物と接触していたとばかり考えていた。だが今の母のリアクションはまるで一連のことを何も知らないかのような薄さだ。
てっきり無許可で事務所に所属したことをこの場で責められる事態も覚悟していただけに、この反応には思わず拍子抜けしてしまう。だが、かと言ってこの場で自身の罪を全てを白状する勇気を持ち合わせているわけもなく、小糸は母の薄いリアクションに戸惑いつつも、それ以上自ら深掘りするようなこともしなかった。
そして緊急事態宣言が解除されてから迎えた初めての週末。
都内にあるチェーンの喫茶店で、小糸と小糸母、そして恐らく世界で最も有名なホモビ男優田所の三人による地獄の三者面談が実施された。
「おっす、お願いしま〜す」
「やっぱり、あの時の電話の––––」
マスクで口元を覆っていても、隠しきれない田所の不快感。
待ち合わせの時間より810秒遅れているにも関わらず、全く悪そびれる様子もなく姿を現した田所を見て、小糸の母はわざとらしくクソデカ溜息を吐いた。
「また君かぁ……、(胸が)壊れるなぁ」
「ん? 嬉しいダルルォ?」
「それは君の錯覚だよぉ(照れ)」
(や、やっぱり二人は面識があったんや……!)
二人のやり取りから察するに、やはり小糸の知らないところで二人は何かしらの経緯を経て面識があったらしい。だがそうだとすれば、不自然なのはどうして母はあの場では何も言及しなかったのか、だ。
小糸の母は、生真面目な母親だった。
教育熱心かつ過保護な性格でもあり、これまで小糸はそんな母の厳格な管理下で育ってきた。幼少期からアレはダメ、これはダメ、それなら大丈夫、これをしなさい……といった風に、自然と母の轢いたレールを小糸が歩く教育方針が福丸一家には形成されており、小糸が人生で最も苦痛な時間だと感じていた私立の中学受験も元は母が勧めたのがキッカケだった。
そんな母だからこそ、無断で芸能事務所に所属しているかもしれない娘を野放しにするとは考えにくい。仮にバレるようなら、母はすぐにでも真偽を確かめ、小糸を辞めさせようとするはずだ。
小糸はそう予測していただけに、母のこれまでの一連の行動に「らしくなさ」を感じていた。
簡単な挨拶を済ませた後、田所は手短にこれまでの経緯を話した。
小糸は幼馴染の浅倉透が事務所に所属したのを機に、自ら志願してオーディションを受けにきたこと。その際に渡した書類には親権者の同意書が含まれており、小糸はその同意書に確かに親のサインと印鑑を押して事務所に提出したこと。だが田所はそれが偽造されたサインではないかと疑っており、万が一それが小糸自らが偽装して提出した書類だった場合、法律に触れる行為になってしまうため事務所としては見過ごす事ができず、故にこうして話し合いの場を設けたこと。
そして最後に、もしここで改めて親の同意が得られるのであれば、小糸をこれまで通り283プロのアイドルとして活動させたいと田所は言った。それは普段から汚らしい語録ばかり喋るおしゃべりうんちの姿からは想像もできない、まさに王道を往くプロデューサーの立ち振る舞いだった。
一連の話を聞き、小糸の母は何も言わずに立ち上がった。そして腰を折って、深々と頭を下げる。
「……この度は小糸が多大なご迷惑をおかけしてすみませ––––、センセンシャル」
「顔上げて、どうぞ(良心)」
何故わざわざ言い直す必要があったのかは疑問だが、田所はすぐに小糸の母に頭を上げるように促した。
再度小さく会釈のように頭を下げながら座る小糸の母。その隣の小糸は、終始表情を隠すかのように俯いたままで、顔を覗く事を許さない。
「今回の一件は仰る通り何も存じていませんでした。例の同意書にも、署名した覚えは一切ございません」
これまでの田所の話を全て肯定する言葉に、俯いたままの小糸は小さく肩を震わせた。
緊急事態宣言が明けたとはいえ未だ収束の兆しを見せない感染症の影響からか、店内は週末とは思えないほどに空席が目立っている。盛り上がりに欠ける店内はゆったりとしたピアノのBGMが響くだけで、その妙な静けさが三人のテーブルを包む空気を心なしか重くしているようだった。
「––––あの、浅倉さんがいるということは、樋口さんと市川さんも?」
「そうだよ」
「やっぱりそうでしたか」
歯切れの悪い口調で沈黙を破った小糸の母は、田所の語録に再度クソデカ溜息を返す。その瞬間、小糸の肩が小刻みに震え始めたのを田所の視線は見逃さなかった。
「正直な話ですが、私はあの三人に対してあまり良い印象を持っていないんです」
「は?(焦り)」
突然のカミングアウト。
虚をつかれた田所も、隣にいる小糸もお構いなしに、話を紡ぎ続けていく。
「三人のことは昔から知っていました。貴方にこういうことをお話しするのもどうかと思いますが、あの三人は昔から汚らしい淫夢語録ばかり喋っていて––––」
「そ、そう……」
「何処にいても口を開けば汚い語録ばっか喋って、公園に行けば迫真空手部ごっこなんておぞましい遊びを始めたり。親としては、自分の娘がどうしてもそんなホモガキたちと一緒にいてほしくないと––––」
「ねぇっ!!」
堰が決壊した肛門から汚物が溢れ出るよう、とめどなく喋っていた母の話を、乱暴な叫び声が強引に遮った。
シンと静まり返る店内に、顔を真っ赤にして立ち上がった小糸の脈の音だけが響く。遠くで退屈そうにスマホを弄っていた若い女性も、アクリル板を挟んで楽しげに話していたカップルも、レジの奥で洗い物をしていた店員も、皆が三人のテーブルに視線を向けている。だがその視線たちをもろともせず、激昂した小糸は小さな拳をわなわなと震わせて、隣に座る自身の母親を睨みつけていた。
「どうして私の友達にそんなこと言うのっ!?」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ」
慌てて田所が制止に入るも、小糸の耳にその声が届いていないのか、視線を向けもしない。小糸はただただ、未だかつて見た事がないような怒りの眼差しを、母親に向け続けているだけだ。
「お母さんはいっつも私に指図するし、友達関係にも口出しするっ! 三人のこと何も知らないくせにっ!」
「……」
「中学受験だって本当はしたくなかったっ! 私はお母さんの操り人形なんかじゃないのにっ!!」
感情を爆発させ、怒りをぶつける小糸。小糸の母は俯いたまま、何も反論しなかった。
その対応が更に小糸の怒りをエスカレートさせたのか、しまいにはいつしか溢れ出てきた涙を拭いもせず、泣きじゃくりながら小糸は小さな手のひらで作っていた拳を、思いっきり机に叩きつけた。
「私の大事な友達を、汚い淫夢厨呼ばわりしないでっ!!」
机を殴る音と涙混じりの叫び声だけを店内に残し、小糸は店から出て行ってしまった。
嵐が過ぎ去った後のように、シンと静まり返る店内。変わらないはずのBGMの音量が、やけに大きくなったかのように聴こえる。
小糸が去り、取り残された二人を気まずそうに見つめていた他の客や店員の視線が程なくして外れたところで、小糸の母がおもむろに口を開いた。
「……すみません、お見苦しいところを見せてしまって」
「んにゃぴ、よく分からなかったです(本音)」
「ですよね」
先程までの様子とは一転、力なく笑う小糸の母は一度コーヒーを口に含む。そしてチラリと小糸が先程まで座っていた椅子を見て、話を続けた。
「失礼ですが、田所さん、お子様は?」
「いないです」
「でしょうね、男同士では子供はできませんから」
なんかボソッと変なことを呟いた気もするが、田所は聞こえなかったフリをして聞き逃す。
小糸の母の頬は、自然な形で緩んでいた。それは優しい母親の顔付きで、厳格で教育熱心な親御さんとばかり思っていた田所は、こんな笑い方ができる人なのだと、別人のような一面を見てそう感じていた。
「––––小糸は、未熟児として生まれました。そのせいか小さい頃から病弱で、よく体調を崩していて、本当に手が掛かる子だったんです」
「そ、そう……(相槌)」
「だからこそ、私は親として小糸を正しい方向へ導こうと思っていました。なるべく小糸が元気に、そして楽しく過ごせるようにって」
そこで一度区切って、困ったように眉をハの字にした。
「ですが、今になってそれは私のエゴだったのかもしれないと反省しています。良かれと思って小糸にしてきた事が、あの子を逆に苦しめていたんですよね」
こんなんじゃ母親失格ですよね。
そう言いながら力なく笑い、コーヒーカップの中をスプーンでかき混ぜる姿を見て、田所は察した。
きっとこの人はこの人なりの愛情を持って小糸に接していて、だからこそ、その愛情が小糸を苦しめていたことに罪悪感を感じているのだと。そう思うと、どうしても居た堪れなくなってしまう。
田所には子供がいない。だから子育ては当然経験したことがないものの、親が子を思う気持ちをある程度想像することはできる。
小糸の母が間違っているとは思わなかった。誰だって自分の子供が汚いホモビの語録ばかり喋る淫夢厨と絡んでいると、なるべく友達を選んで欲しいと思うのは至極当然のことだ。
だが実際にどうするかを決めるのは子供自身であって、間違っても親が決めることではない。淫夢厨の友達だろうがのびハザの実況YouTuberだろうが、最終的に誰と付き合って仲良くしていくかは当事者である子供が決める他ないのだ。
「小糸は怒って出て行ってしまいましたが、まだ私の話は終わっていませんでした。田所さんだけでも聞いてもらえませんか?」
田所が頷くと、小糸の母は礼儀正しく頭を下げて、「ありがとうございます」と返す。そして止まっていた話を再開させた。
「正直、田所さんからの電話で察しました。小糸が何かを隠してやっているのだと。それで283プロダクションで調べたらアイドル事務所だったから、少し驚きましたけど」
「……まぁ、多少はね?」
「ですが驚き半分、もう半分は嬉しさもありました。あの子が初めて自分の意思でやりたい事を見つけたんだなって思って」
いつの間にか、店内にいる名前も知らない人々は二人に関心を失っていた。知らぬ間に変わっていた店内のBGMも、新たに来た客たちも、入れ替わったレジに立つ店員も、誰も二人の邪魔をしようとはしていない。
その元に戻った世界で、愛する子の未来を案ずる母親が、静かに宣誓する。
「小糸ももう高校生です。友人関係、自分がやりたいと決めた事、私は口出しせずに静かに応援したいと思います」
「……よう言うた! それでこそ母親や!」
「ありがとナス! 今後とも小糸のことをよろしくお願いします!」
小糸の母は小糸にアイドルを辞めさせるために今日ここに来たのではなかった。本当は正式に彼女のアイドル活動を認めるために来ていたのだ。
両者ともに深々と頭を下げあって、その想いを確認できたことを嬉しく思う反面、田所はこの母の想いが小糸にちゃんと伝われば尚良かったのになとも思う。だがいかんせん親子の問題はナイーブな問題なだけに、第三者である田所がどこまで介入していいのかも分からず、安易な言葉をかけることはできなかった。
「小糸のことはこちらでどうにかします。これ以上プロデューサーさんにご迷惑をかけるわけにはいきませんから」
そんな田所を見越してか、小糸の母はそんな言葉を掛けてくれた。
心配ではあるものの、小糸の母がそう言う以上、田所は親子の関係に口を挟むような真似をするつもりはない。これから先は当事者同士に任せることに決めた。
多少頑固な一面があるかもしれないが、小糸もそこまで物分かりが悪い方ではない。
きっと今は怒りで母の話を聞く耳も持たないかもしれないが、時間が経って落ち着けばきっとちゃんと話を聞き、今日伝えそびれた母の気持ちを理解してくれるはずだ。
何はともあれ、小糸の親権者同意書の偽装提出問題は解決した。これでこれからは何も負い目を感じることなく、アイドル活動に専念することができる。
抱えていた大きな問題が解決して、ほっと胸を撫で下ろした時だった。
「あの、最後に一つお願いがあるんですけど」
一応念のために持ってきた新たな親権者同意書にサインをし、田所に向かって差し出した小糸の母が申し訳なさそうに言った。
「もしよければ、サインをいただけないでしょうか?」
一瞬、小糸の母が何を言っているのか理解できなかった。
暫くの間を挟んで、田所は283プロに所属するアイドルのサインが欲しいのだと理解し、誰のサインが欲しいのかを尋ねる。だが小糸の母は何故か気恥ずかしそうに頬を赤くしながら、首を横に振った。
「いえ、田所さんのサインが欲しいんです」
「ふぁっ!? うせやろっ!?」
「嘘じゃないですっ! ずっと田所さんのファンで、真夜中の淫夢も、魅惑のラビリンスも、discoverシリーズも、全部ぜんぶ視聴しました! なので良かったら是非サインを……!」
「お、お前精神状態おかしいよ……(ドン引き)」
思わぬカミングアウトにドン引きしながらも、田所は小糸の母が着ていた白シャツの端にサインを書いてあげることにした。伝説のホモビ男優のサインがよほど嬉しかったのか、小糸の母は突然饒舌になり、淫夢に賭ける自身の情熱を語り出す。
「私、淫夢の「い」の文字も知らないし本編も見たことないくせに、ネットで知り得た語録をベラベラと喋るだけで淫夢を知った気になる、にわか淫夢厨が大嫌いなんです。小糸には申し訳ないのですが、幼馴染の三人もファッション淫夢厨なので、どうしても好きになれないんですよね。そもそも淫夢語録はホモビ界隈から派生した由緒正しい日本語の––––」
その後、小糸の母の熱弁は数時間にも及んだ。
☆★☆★
ようやく解放され、店から出た時だった。
ポケットに入れっぱなしになっていた柔らかスマホが揺れたのに気付いて、田所は画面を点けた。ロック画面にはメールの通知が一点だけあり、メールの差出人は天井社長。その件名には、『Fw:感謝祭2020の開催について』とだけ記載されている。
どうやらクライアントから送られてきたメールを天井社長が転送して送ってきたらしい。そういえば感謝祭なんてものあったなぁ、なんて思いながら田所は柔らかスマホをポケットに戻す。ここ最近は小糸の発熱や動物裁判、もちろん世の中を掻き回す感染症など様々な問題が立て続けに起こっていただけに、すっかり感謝祭の存在を忘れてしまっていたのだ。
たしか緊急事態宣言中に実施されたオンライン会議では、今年の感謝祭は中止が濃厚だと話していたはずだ。残念だがそれは当然の結果だとも思う。新型の感染症で世の中が大きく変わり、人と人との接触を控えるよう推奨されている今のご時世に、ライブなんてもの開催できるわけがないのだから。
だから天井社長からのメールも、きっと中止が確定した旨の連絡に違いない。
田所はそう勝手に思い込んでいただけに、自宅についてメールを開いて読んだ時、その文面にド肝を抜かされた。
『感謝祭2020 開催のお知らせ
関係者様各位、平素より大変お世話になっております。
表題の件ですが協議の結果、感謝祭2020は関係者及び出演者の感染症対策を徹底した上で、フルリモート(無観客)により開催することが決定致しましたことをお知らせいたします』
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シーズン5 : 始まりの汽笛
実は先日福岡で行われた声優の愛美さんのライブ(ミリマスのジュリア役)に行ったんですが、愛美さんの清香らかで綺麗な歌声を聴いて自分はなんて汚いSSを書いてるんだと自己嫌悪になっていました。
が、日本もドイツに勝ったので初投稿です。
感謝祭2020。
田所のみならず、283プロに関わる全ての人間––––……、いや、おそらく関係者の殆どがこのイベントの存在自体を忘れていたに違いない。
突如現れた新型の感染症によって世界がガラリと様相を変えてしまってから早一ヶ月。新型の感染症が引き起こす恐怖と混沌に世界中の人々は振り回される一方で、もはや感謝祭を開催する云々の話どころじゃなくなっていたのだ。
だからこそ、まさかの開催決定の連絡に田所を含む大勢の関係者はそのド肝を抜かれた。
『主催は近年急速に名を上げているベンチャー企業だ。こんな時代だからこそ多くの人に元気と勇気を与えるイベントが必要だと言っている』
急遽開催されたリモートミーティングで、天井社長は開催に至るまでの経緯をそう説明した。
いかにもベンチャー企業らしい考え方だなと、田所は思う。
勿論その言葉に嘘はないのだろうけど、大方今更中止にしたところで発生する被害総額のデカさに怖気ついたのだろう。もしくは、この状況下で開催することで良くも悪くも世間にインパクトを残しやすく、当初の算段よりも多くのメリットを見込んだのか––––。
いずれにせよ、この強行開催が物議を醸す結果になるのは明白だった。
だが天井社長は最後に主催側は感謝祭への参加を強制しているわけではなく、あくまで事務所や出演予定のアイドルたちの意見を汲み取った上で決める意向だと話した。だから十分にリスクを伝えた上で担当アイドルたちと話し合い、アイドルたちとの意見を十分に尊重した上で参加するかどうかを決めるようにとも。
『私は感謝祭に参加したいです』
リモートのミーティング後、田所がチェインでノクチルの面々に感謝祭に参加するか否かの相談を持ちかけた。その矢先、1分足らずで真っ先に返事をしたのはリーダーの透でも、W.I.N.G.敗退で淫夢に堕ちた円香でもなく、小糸だった。
すぐさま他3人の既読がついたものの、皆言葉を選んでいるのか小糸以外の返事はなかなか表示されない。小糸の返信により田所とノクチルの4人で構成された汚れのない清らかなチェイングループには妙な空気が渦巻き始めていた。
『うせやろ。小糸、本気で言ってるの?』
『本気だよ』
少しの間を置いて出てきた円香の問いかけにも怯まず、小糸は参加の意思を頑なに示し続ける。
田所も小糸に感謝祭に参加することで生じるリスクを再度説明した。このご時世だけに、開催することをよく思わない人たちも当然いて、そういった人たちのノクチルに対する印象が悪くなってしまうことも、そして当然大勢の人が集まるイベントだけに、いくら対策をしたところで自分たちが感染してしまうリスクがあることも。
だがそれでも小糸の意見は変わらず、参加したいの一点張りだった。
『なら参加しよっか。小糸ちゃんもそう言ってることだし』
『お、そうだな。透先輩がそう言うなら〜、雛菜も参加で良いと思う〜』
何度目かのやりとりの後、既読をつけながらも今まで傍観し続けていたリーダーの透が初めて返事をし、それに雛菜も同調。普段はあまり自己主張をしない小糸の珍しい一言がキッカケで、ノクチルの感謝祭への参加が決定したのだった。
283プロから感謝祭に出演することになったのは田所率いる令和の淫夢ユニットことノクチルの他、シーズとアルストロメリアの2つのユニットのみ。他のユニットは参加を見合わせた為、タイムスケジュールには大きな空きが出て、ノクチルにも当初のスケジュールよりも大幅に長い時間を割り当てられることとなった。
本来こういった合同ライブで、ノクチルのような新人ユニットに与えられる時間は限られている。その尺はせいぜい一曲分ほどで、MCはおろか自己紹介させてもらえれば御の字、名前や紹介などは後付けのテロップで簡易に済まされるケースが殆どだ。
それだけに新人ユニットが1秒でも長くステージに立てるのは有り難い話ではある。本来なら願ってもない好機になるはずだった。
「……ねぇ、これ私たちが出る意味ってあるの?」
しかし、円香がふいにそんなことを言葉にしたのは、本番直前のリハーサルが行われたある日のことだった。
この時ノクチルは本番を間近に控えているのに関わらず、ステージ上で余分に増えた時間で何をするかが明確に定まっていなかった。その話し合いをリハーサルの休憩中に行っていた時、円香が恐らく誰もが気付いていながらもあえて口にしなかった疑問を、明確な形として言葉で表したのだ。
「感謝祭なのに、ファンもいない私たちは誰に何を感謝をするの?」
淡々とした口調で問いかける円香に、誰も言い返すことができない。
円香の言い分はご尤もだった。本来感謝祭とは常日頃から応援してくれるファンにアイドル自身が感謝の気持ちを伝えるイベントであって、そもそもノクチルのような新人ユニットが出ること自体が矛盾しているのだから。
感染症のパンデミックが発生する前、ノクチルはあくまで283プロの新人ユニットとして“おまけ”のような形でステージに立つだけの予定だった。だから田所も話を受けたはずなのに、今となっては辞退したユニットの影響で持ち時間が倍になり、歌以外のパフォーマンスも求められることとなっている。ユニットとして活動するのは感謝祭2020が初めてで、当然ファンも知名度も殆ど皆無なのに、だ。
「うーん、家族とか友達とか?」
「それ、感謝祭でしなくてもよくない?」
「え〜、雛菜たちが楽しむだけじゃダメなの〜?」
「ふざけんな! とりあえず土下座しろこの野郎!」
透と雛菜が苦し紛れに捻り出した答えを、円香は躊躇なく正論で論破していく。
自分たちが感謝祭のステージに立つ意味はあるのか。
果たしてこのご時世にステージに立つことを選んだ判断は正解だったのか。
ステージに立つことを決めたのは彼女ら自身だ。そして感謝祭が本来どういった場で、そこに自分たちが参加することが理に叶っていないことも、十分に理解している。
だがそれでもこの不安定な時代情勢もあって、開催日が近付くにつれてノクチルのメンバーたちにはそんな悩みが生まれ始めていた。
(どうすっかなぁ〜俺もなぁ〜)
田所も田所とて、どうにか彼女たちを導けないかと試行錯誤してはいるものの、プロデューサーとしての経験値の浅さ故にかける言葉を見つけられずにいた。
部活に性を出していた大学時代は、それこそ迷ったらとりあえずケ◯穴にぶっ込みぶっ込まれろの精神で何もかもを乗り切ってきた。信じられないかもしれないが、あの時代は四の五の言わずにケ◯穴確定しとけば何でもかんでも解決できるご都合主義な風潮があったのだ。
だが時代は変わり令和の世になって、突如世界中を襲った新型の感染症がケ◯穴確定の風潮含むこれまでの一般常識を瞬く間に破壊し尽くしてしまった。これから先の世界がどうなるのか全く見通しが立たない以上、誰もこれからの時代で何が正しくて何が誤りになるのかは分からない。それはノクチルのメンバーよりも長い時間を生きてきた田所にも、だ。
不幸にもそんな時代を高校生として生きる若人の彼女らが、不安を抱かないはずがなかった。
「––––ね、ねぇ!」
正解のない答えを探し、討論を重ねること数分。
これまで一度も会話に参加しなかった小糸が、初めて口を開いた。
「どうしたの、小糸」
「あ、あのね! ひ、ひとつ提案があるんだけど––––」
円香の抑揚のない言葉に怯みながらも、感謝祭に参加することを決めた時と同じように、小糸が自己主張を見せた。
そして––––。
☆★☆★
真っ暗で誰一人として人影のない観客席。漆黒のスタンド席では一定の距離を空けて設置された異様な数のカメラが鋭い眼光をステージに向けており、まるでこれからライブが始まる会場とは思えないほどに静まりかえっている。
リハーサルでステージに上がったノクチルの4人の目の前に広がっていたのは、そんな異様な光景だった。
今日は主役アイドルの後ろで演奏するバックバンドも、色鮮やかなペンライトを振りアイドルのコールに応える観客も、この会場には誰一人としていない。いるのはマスクとフェイスシールドを装着し、万全の感染症対策をおこなった少数のスタッフと、前例のない「無観客ライブ」の光景に不安を覚えるアイドルたちだけだ。
「はえ〜……、すっごい(震え声)」
「あは〜、円香先輩ビビってる〜?」
「は?(震え) 勝手にたまげてろクソホモガキ」
感謝祭がユニットとして初めてのライブとなるノクチルの面々にも、この光景が普通ではないことが伝わっていたようで、心なしか4人の顔色には不安な色が伺える。
感謝祭の開催については最後まで賛否両論があった。こうして開催日を迎えた今でも、東京都では連日過去最高の感染者数を記録し続けるほどにウイルスが蔓延しており、依然として世界は感染症の猛威に翻弄され続けている最中である。
田所は感謝祭当日までに何度も4人に参加の確認をとったが、その度に小糸が真っ先に「参加します」と言い切るだけで、微塵も迷いを感じさせることはなかった。
それがある種の強がりなのには、田所は気付いていた。だが何故4人は頑なに参加に拘るのか、そしてそれを小糸が率先しておこなっている理由までは分からない。
(しょうがねぇなぁ〜)
きっと小糸たちが感謝祭の参加に拘るのも、何か彼女らなりの目論見があってのことなのだろう。
色々なことを思う節も、参加することへのリスクもあるけれど、それでも彼女らはもう高校生だ。子供ではないのだから、だからこそ田所は4人の意見を極力尊重しようと思う。万が一何かがあった時、その時は自分が責任を取ればいいのだから。(取るとは言ってない)
「ありがとうございました。今後ともSHHisをよろしくお願いします」
「FOO〜↑ きもちぃ〜↑」
「ありがとうございました(ガン無視)」
「皆さんも体調に気を付けて、次は有観客のライブでお会いしましょう! 以上、アルストロメリアでした」
「リモートライブは初めてか? 肩の力抜けよ」
「ちょっ、TENGAちゃ––––じゃなかった、甜花ちゃん! もう終わったんだから変な事言ってないで早く行かないとっ!」
誰一人として人影がないスタンド。観客からのレスポンスが一切ないMC。
異様な空気と重度の緊張感を抱えたまま始まった無観客ライブではあったが、先にステージに上がったシーズとアルストロメリアは本来のライブ同様、まるでそこに人が存在するかのように振る舞い、アイドルとしてのパフォーマンスを見せている。
その甲斐あってか、ライブの配信時には当初の予想以上のアクセスが集中。コメント欄は配信開始810秒で既に114514以上のコメント数が集まり、凄まじい勢いで増え続けていた。
ノクチルの出番が回ってきたのは、配信開始から1時間ほどが経過した19時19分頃だった。
「あ、あのさぁ」
舞台袖でステージに上がる瞬間を待っていた4人に、田所はおもむろに声をかけた。
「ぴえっ!? じゃなくて、んにゃぴ!?」
「い、いきなりなんですか? ミスター汚い抗うつ剤」
ふいに声をかけられて驚いて振り返った4人の様子から、これから自分たちが立とうとしているステージに不安を抱えているのは一目瞭然であった。
本当であれば無観客などではなく、ちゃんと観客がいるステージでデビューさせてあげたかった。これが田所の本音であったが、感染症に振り回される世界情勢がそれを許してはくれない。
だがそれでも、彼女らはこの状況下でステージに立つことを選んだ。その決意に隠れた真意を田所は知らないが、そんな4人だからこそ伝えたいことがあったのだ。
田所はステージまでの短い時間で、映像が持つ効力の強さを説いた。
今は無観客で4人には不安があるかもしれないが、レンズ越しには数えきれないほどの人たちがライブ配信を観ていること。そしてこの先の未来できっと今日の映像を見て勇気をもらう人たちが沢山いることも。
それは決して気休めや励ましなんかじゃない。田所が自ら経験したことだからこそ、自信を持って言える言葉だった。
ホモビに出演してから約10年の歳月を経て、田所は思わぬ形で世間の注目を集めた。そしてデビューから10年は全くの無名だったホモビ男優が、今や世界中の人々に勇気と元気を与える偉人にまで上り詰めている。映像として残っていれば、今すぐにではないにせよ田所のように、後付けのような形で多くの人に希望を与える可能性だってあるのだ。
普段は田所の話を適当にしか聞いていなかった4人も、この瞬間ばかりは汚い語録を挟むことも、田所をステロイドハゲ扱いすることもせず、磁石に引き寄せられるかのように田所の話を聞き込んでいた。
「ノクチルさん、スタンバイお願いします」
そして、いよいよノクチルの船出を告げる汽笛が鳴る。ほんの少しだけ肩の力が抜けた4人は小さな背中を田所に向け、ファーストステージへと続く一歩を踏み出した。
その最後尾に位置していた透が、階段へと片足をかけた時に田所の方を振り返った。
「プロデューサー、そこから見とけよ見とけよ〜」
ニヤリと笑って、透は踵を返す。
☆★☆★
ステージに上がった4人を待っていたのは、無数のカメラと真っ暗な観客席だった。目の前に広がる交易はリハーサルで観ていた光景よりも更に闇深く、まるで魔物が潜んでいるかのような不気味な静寂に包まれている。
自分たちが今どのように映っているのか、そして突如現れた新人ユニットに対してお客さんはどのようなリアクションを抱いているのか。それを確認する術は、残念ながらステージ上に立つ4人にはない。
「み、皆さん! 初めまして! 私たちノクチルと言います!」
緊張で裏返りそうな小糸の声が、会場に反響した。
返ってくるのは徐々にボリュームが減っていく木霊だけ。得体の知れない違和感に押し潰されそうになりながらも、小糸は震える拳を握りしめて言葉を紡ぐ。
「ま、まず最初に、私たちのことを知っている人は殆どいないと思います。本当は今日がデビューステージだったのですが、感染症の問題で無観客開催になってしまい、対面してご挨拶ができないのがすごく残念です」
相変わらず闇の観客席からの反応はない。だがいつの間にか小糸はスラスラと喋り続けていた。
「今の状況でのライブに疑問を持つ方もいるかと思います。だけど、今のような暗くて先が見えない時代だからこそ、誰かが大勢の人を明るくさせ、元気と勇気を与える人間にならなければと思ったんです」
小糸の脳裏に浮かんだのは、発熱した日の夜に動画配信サイトで観た一人のアイドルの姿。
根拠はないけれど不安を一瞬で消し去る勇気を与えてくれたあの人のようなアイドルに、小糸はなりたいと願った。それは、これまで自分の意思表示をすることができず周囲に流され続けて生きてきて、アイドルになった過程でも特別理由も夢も持たなかった小糸が初めて持った、明確な夢だったのだ。
「今の私たちにはまだそんな力はないのかもしれませんが、それでも、そんな風に一人でも多くの人に元気を与えられるアイドルになれるよう頑張るので––––。宜しくお願い致します!」
誰もいない観客席に向かって深々と4人は頭を下げる。
ゆっくりと顔を上げる途中で小糸の手の平には感触があった。きっと今日のステージを境に自分たちはあの日観たアイドルのようになれるのだと。
そして願わくば、その夢への旅路を隣にいる3人と共に歩いて行きたい。それぞれ背負う覚悟、掲げる目標は違えど、きっと通ずる道は一つなのだから、その長い長い道を協力しあって歩き続けていければと思う。
顔を上げた拍子に、隣の透と目が逢った。逆を向けば円香と雛菜も、小糸の瞳をじっと見つめている。
「じゃ、行きますよ〜イクイク」
リーダーの透の言葉を機に、4人はマイクを握り直した。そして、
「それでは聴いてください! ノクチルで『いつだって僕らは』!」
この日、ノクチルの4人はアイドルとなった。
無観客ライブから1週間後、小糸から田所の一通のチェインが届いた。
母親と和解したようで、今後も283でアイドル活動を続けていきたいと。
その際に小糸の母親がどうしても田所に直接会って挨拶をしたいとしつこいようで、それだけは丁重にお断りし、田所はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
感謝祭小糸編終了。
次回、G.R.A.D.ですが透にするか雛菜にするかは考え中。
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第3章 G.R.A.D.編(浅倉透)
シーズン0 : 羨望と渇望
東京某所のとあるオフィスビルの一室。
夜になっても決して灯りが消えることのないこの煌びやかな建物の上層階から、夜の東京の街なみを一人の男が死にそうな顔で見下ろしていた。
整った中性的な顔立ちとは裏腹に、悲壮感漂う表情の男。
ヨレヨレのシャツに曲がったネクタイ、何より目の下にできた真っ黒なクマが男の悲壮感をより一層漂わせている。
「––––木村さん? 外なんか眺めて何をしているんですか?」
「ぬっ!?(震え声)」
木村と呼ばれる男は、突然背後から聴こえてきた声に、肩を震わせながら振り返った。振り返った先にはまるで恐怖とは縁のなさそうな、朗らかで人当たりの良さそうな笑顔を向ける三つ編みの女性が木村を見つめている。
「せ、千川さん……」
「まだお仕事終わってないですよね? もしかして、飛び降りようとでも思ってました?」
「な、なんで死ぬ必要があるんですか(正論)」
「ですねぇ、良かったです」
木村の言葉を聴いて安堵のため息をついた千川は、「それではお先に」とだけ言葉を残して部屋を出て行った。
その小さな魔王の背中を見送ると、部屋は静寂に包まれる。その静寂が、木村を押し潰すかのようにどっと負荷を増してきた。木村だけになったオフィスでチラリと時計に目を向けると、いつの間にか日付を跨いでいた時計の針は、丑三つ時を回ろうとしていた。
「あぁ、逃げられない(カルマ)」
木村は東京上空に広がる漆黒の闇に負けないほどの深い絶望をひたひたと感じながら、断末魔と共にその場で膝から崩れ落ちる。
男、木村の半生は散々たるものだった。
学生時代に安易な気持ちでホモビに出演した黒歴史がクソデカ枕屍先輩が有名になったせいで世間に知れ渡り、木村の人生を大きく狂わせた。
ネット上では人権がない人間として杜撰に扱われ、次第に普通の生活が送れなくなるほど知名度が増すと、何処に行っても不名誉な淫夢ファミリーの肩書きだけでその人間性を判断されては敬遠される毎日。自身が「淫夢の木村」だと身バレをする度に職を変え、そうこうしている間に木村はまともな職歴を持たないまま歳だけを重ね、その結果流れ着いたのが低賃金・重労働などで有名な346プロダクションだったのだ。
「やめたくなりますよ〜仕事」
ホモビに出演した前科があり、尚且つ短いスパンで転職を繰り返してきた中年男性が安定した職に就くことは、それこそ数ある研究者たちが導き出した「野獣先輩女の子説」を論破することよりも遥かに難しい。むしろ、こうして正社員で雇ってもらえる会社があるだけでも有り難いと思わなければならないくらいだ。
そんな事、かつて二人の鬼畜な先輩に死ぬほど辱めを受けた木村でも理解していた。
だが、いかんせん仕事がキツい。キツすぎる。
毎日のように本来の就業時間の倍の時間働いても残業代は一円も出ず、有休はおろか休日出勤なんて当たり前。加えて木村の仕事は自社のアイドルを指導するプロデューサーであり、それに従い当然未来ある若者を導く教育者としての責任も伴ってくる。
どう考えても、その莫大な仕事量と背負う責任が、木村が毎月もらっている給料の額に見合わないのは明白だった。特に最近の忙しさは超人的なもので、もう最後に休んだ日のことが思い出せないほどに木村は仕事に追い込まれていた。
「……まぁ、大会(G.R.A.D.)近いから仕方ないね」
色々と思う節はあるがここを辞めると最後、今後もまともな職に就ける保証もない。
そう自らに言い聞かせて、深夜の誰もいないオフィスでパソコンに向かう。近々ソロアイドルが実力を競い合うオーディション番組、Grand Repute AuDition––––、通称“G.R.A.D.”の開催が予定されており、木村が担当するアイドルも優勝を目指して参戦することが決まっていた。ここ最近はその打ち合わせや準備などで忙殺されていたが、ここを越えれば少しはラクになれるはず。
そして何より、プロデューサーとして大舞台で結果を出すことができれば、G.R.A.D.は昇進もしくはボーナスアップの絶好の機会となるかもしれない。
少しでも今の奴隷の立場から脱却するためにも、木村にとってこのG.R.A.D.はとても大きな意味を持つオーディションでもあったのだ。
何が何でもオーディションを勝ち抜くためには、当然他社のアイドルよりも優れていなければならない。ちょうど今日(正確には昨日)、運営本部から参加者の名簿データが添付されたメールが着ていたことを思い出し、木村は未読になったままのメールをクリックした。
「……浅倉透、283プロ?」
PDFにまとめられたG.R.A.D.に参加するアイドルたちとその所属事務所の名簿の中で、木村は見たことのない名前を見つけた。気になって283プロの名前で検索をかけると、動画配信サイトに丁度1週間前にアップされたばかりのライブ動画が最上位に出てくる。
興味本位で何気なくクリックしたその動画を見て、木村はど肝を抜かれた。
「なんだこれ(ドン引き)、汚ねぇアイドルだな……」
木村の目に飛び込んできたのは無観客の会場で、カメラに向かって恥ずかしげもなく汚い語録を話す4人組のアイドル。
本来、清廉潔白でなければならないはずのアイドルたちが、汚らしい淫夢語録をステージ上でやりたい放題言いまくっている。まさにアンチテーゼともいえるその立ち振る舞いは、見ているこっちが頭を抱えてしまうほどに見ていられないカオスな光景だ。
(もう終わりだよこの国は––––、ん?)
ネット上のホモガキのみならず、今時の女子高生が淫夢語録を使う世の中はいよいよ末期だなと、今後の日本の行く末を案じていた時だった。
ふとG.R.A.D.の参加者名簿に記載された、283プロの責任者の名前を見て木村は思いっきりたまげた。プロデューサーとして書かれていた名前は、かつて木村のア◯ルをしつこく掘りまくった先輩だったのだ。
G.R.A.D.編 浅倉透
「ねぇ、浅倉さん」
感謝祭から二ヶ月が経過した、とある夏の日。
猛暑が厳しい中、冷房の効いた教室で生真面目にマスクを着用するクラスの委員長に声をかけられ、頬杖をつきながらボンヤリとしていた透は我に返った。
透の視線が捉えたのは、委員長の手に握られていた冊子で、表紙には「2年4組特別カリキュラム」と書かれている。まるで自分には縁のなさそうな冊子を見て、透は首をかしげた。
「え、なに?」
「今度、クラスの特別カリキュラムで“野獣先輩の生体論”について発表するでしょ? そのナレーションを浅倉さんにお願いしたくって」
「あぁ……」
そういえば先日のホームルームでそんな話をしていたような気がする。
まるで興味がない事には殆ど関心を示さない透だが、何故かこの事は薄らと覚えていた。だが記憶にあるのは教壇に立って一生懸命にクラスメイトに協力を呼びかける委員長の姿で、不思議なほど肝心の内容は殆ど記憶にない。
「––––いいよ」
だけど透は自身も無意識のまま、咄嗟にそう返事をした。
あまりにもその返答があっさりしすぎていたからか、委員長も一瞬戸惑った様子を見せるも、すぐにパッと表情を明るくして思わず手を叩く。
「……わぁ。浅倉さん、ホント……!」
「1919円ね」
「え? ふふふっ、1919円でいいの?」
「じゃあ810万円」
「はぁ~~~(クソデカため息)。あほくさ」
呆れたように溜息をつくも、委員長の頬は緩んだままだ。その表情につられて、透も笑う。
それから委員長は透に特別カリキュラムの簡単な内容と今後の流れを説明し、最後にこう付け加えた。
「でも浅倉さん、忙しいんだもんね。あんまり負担かからないようにするから」
常日頃からアイドルと学業の両立で忙しい透を気遣って、委員長はそう言ったのだろう。
だがその言葉を聞いた時、透の心臓が大きく脈を打った。
冷房の意味がなくならないよう、しっかりと閉められた窓の外からは夏の音が聴こえてくる。セミが限りある生涯で奏でる人生の音色、唸るような暑さの中で東京のアスファルトの上を駆け抜けていく車のエンジン音。それらの音から思い浮かぶ街の情景には足早に歩く人たちがいて、透は何故かそんな人たちに羨望の想いを抱いていた。
「ううん、忙しいじゃん、委員長のが。勉強とか」
突拍子なことを口にした透に、委員長はまたも戸惑いの表情を見せる。言葉の意味を上手く汲み取れないまま、その場凌ぎのように「勉強は浅倉さんだって」と返すも、透に「やってないやってない」とあっさりと否定されてしまった。
確かに透は勉強をしていない。課題だって基本的に提出期限を守らないし、授業中も寝ているかスマホでBB先輩劇場を見ているかのどちらかで、真面目に勉強をしている姿なんて一度も見たことがなかった。
「どうやってなるの、2番。あれ、1番だっけ」
「2番……? 学年順位のこと?」
「ん」
透が言う“2番”が、前回のテストの学年順位だということに気付くまでほんの少しの時間を要した。
透の会話はいつも言葉足らずの場合が多い。時折唐突に脈絡のない会話を広げることも多く、そんな掴み所のない言動が多い透を、「不思議ちゃん」と比喩する人間も少なくはない。
だがそんな透には物凄い吸引力で人を引き寄せる不思議な魅力と、高校生になった今でも損なわれていない清廉さがあり、それが透の周囲に人を集める最もたる所以だった。だからこそ委員長を含む、周囲の人間は透がアイドルになった話を聞いても不思議とそこまでの驚きはなかった。透なら狭い学校の枠組みを超えて、もっと大勢の人の関心と興味を集められそうな、いつかそんな人間になる予感がしていたからだ。
「成績は、そんな……! そういう大変とは違うっていうか––––」
「え、そうなの?」
「そ、そうだよ(適当)」
「へー、そうなんだ」
まるで他人事のような素振りを見せる透だったが、その様子に嫌味は一切感じられない。そこらの高校生よりアイドルの方がよっぽど忙しいはずなのに、透は自らの立場に胡坐をかくような真似は一切しない。
それどころか、委員長を見つめる眼差しはキラキラとした子供のような純粋な憧れの色を灯している。遥かに現役高校生でありながらアイドル活動もおこなっている透の方が大変な立場の人間のはずなのに、だ。
ちょうどその時、予鈴を告げるチャイムが鳴った。
「あ、そうだ(唐突)。早く帰って宿題しなきゃ(使命感)」
委員長は次の授業が提出期限だった課題の存在を思い出し、慌てて席を立った。
次の授業の先生は寛容な先生で、提出期限に厳しい先生ではない。何なら透はこれまで一度もその先生の課題を提出したことがなかったが、何もお咎めがないほどだ。
だからそんなに慌てるなんて必要ないのに、透はそう疑問に思ったが委員長は慌てて自分の席に戻って課題に取り組んでいる。その様子を、透は心底羨ましそうな眼差しで見守っていた。
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