廃れた神社の狐娘 (ふーてんもどき)
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本編・一章
一話・お百度参りの果てに


 

 

 

 町の外れに寂れた神社がある。

 

 見るからに古く、さぞ由緒ある場所なのだろうと思われるが、今は名前すら定かではない。苔むした石段は所々がひび割れていて、境内は雑草が生茂りどこが参道か判然とせず、向かい合わせに建てられている狐の像の老朽具合からは、長い年月、手入れされていないことが窺える。

 

 社などはさらに酷いものだ。台風で吹き飛んだのか瓦屋根の一部が剥げており、全体もなんだか傾いている気がする。どこからどう見ても廃墟そのものである。中におわすのは御利益のある神様ではなく、魑魅魍魎の類なのではないかと思わせる迫力に溢れている。

 

 草だけではなく木の枝も伸び放題で、日陰が濃く、それがより一層不気味さを際立たせる。幽霊を恐れる繊細な人なんかは外からこの神社の様子を一瞥するだけでも青ざめて、走って逃げ出すのではなかろうか。

 

 どういう経緯で打ち捨てられたのかは分からないが、もはや人々の生活からは完全に切り離されてしまっている。参拝しようとする人は他所の神社へ行ってしまうし、あまりに不気味なので不良達の溜まり場にもなり得ず、もはや誰も訪れる者はいない。

 

 この僕、一人を除いては。

 

 

 

 

 

 

 労せずして願いを叶えようなどという思考は軟弱と呼ぶ他にない。唾棄すべき精神性だ。何か思いを遂げようというのなら、我々はそれなりの代償を払う必要がある。それが例え、他力本願だとしてもだ。

 

 その点において僕は盤石である。なにせ御百度参りを敢行しているのだから。

 

 御百度参りというのは、その名の通り百回にわたって神社に参拝しに行くことだ。人によってはこれを「百回その場でお祈りを済ませればいい」だとか「神社に通算で百回行けばいい」などといった風に捉えるらしいが、笑止千万である。百日間休まずに参拝するというのが本来のあるべき姿だ。

 

 神が実在するとして、下手に楽をしている者と、一心不乱に百日の修行に身を投じた者と、どちらの願いを聞き届けるだろうか。無論、後者であろう。

 すなわち僕である。

 

 三顧の礼もかくやというほどに通い詰め、苦行に等しい真摯な祈祷をし続けて初めて満願成就に至る。それだけの気迫を以ってすれば何か一つくらい為せるものがあるはずだ。神様も「もうええわ」と根負けして願いを叶えてくれるに違いない。

 

 思い立ったのは高校二年の春の終わり頃だった。その日から、僕は欠かさず神社に通っている。雨の日も風の日も、台風が来たって一日たりとも休まなかった。様々な警報や「何考えてんだ」という親の制止も聞かず大雨と暴風が渦巻く外へ飛び出し、命からがら神社へ行って「南無南無」と祈った。南無は仏教だっただろうか。いや、些細なことだ。大事なのは熱意である。

 

 さらに場所選びも完璧である。寂れた神社のただならぬ雰囲気を受けて僕は思った。これほどに妖気を垂れ流す場所に何もいないはずが無いと。

 町の中心部の大通りに面するところにも神社があり、そこは大きく立派で遠くから人が来るほどに有名だが、いかんせん人が多すぎる。年がら年中、あんなにたくさんの人間から願い事をされては神もさぞ辟易としていることだろう。必然、一市民である僕の願いも有象無象のなかに埋没する恐れがある。

 

 斯くして、ほぼ廃墟と化している神社への御百度参りを決行した。

 

 僕は祈った。来る日も来る日も祈った。

 

 雨にも負けず、風にも負けず。夏の暑さにも負けなかった。蚊には負けそうになったがスプレーを多用して乗り切った。

 

 

 全てはそう。理想の女性と巡り合い、交際するために。

 

 

 笑ってはいけない。呆れもしないでもらいたい。僕は至って真面目である。そうでなくては御百度参りなんてやっていられない。

 だからどうか、僕の真摯な思いを聞いていただきたい。

 

 

 高校二年目というものは、青春時代における一つの節目である。来年からは受験戦争の火蓋が切られ、それが終われば大学生活という名のモラトリアム最終処理場へと搬送される。或いは最悪の場合、そのまま社会の荒波へと放り出される。

 

 だから僕はこの貴重な時期にこそ、青春の象徴である恋愛の味を享受するべきであると論理的に考えた。経験は何事においても必要だ。思春期が始まって以来、周回遅れになりつつある我が青春を今こそ輝かせるのである。

 

 しかし、ここで焦って適当なことをするわけにはいかない。その辺でインスタント的に結びついている学生カップルたちと同じになっては意義もへったくれもない。清純な女性との理想的な出会いこそが僕の望む全てだ。それ以外は尽く却下する。

 

 かつて、中学校の友人には「身の程を知れ」と言われた。辛辣である。だが的を射ている。確かに正攻法で僕がそんな理想を遂げられるはずもない。そのくらいの良識は持ち合わせているつもりだ。

 

 故に、神頼みである。御百度参りの末に呪いじみた運命を授かり、誰もが羨む恋愛を手にするのだ。決して、正攻法で挑むことに臆したわけではないのだ。

 

「さて」

 

 自室の壁にかけたカレンダーの今日の日付に、油性マジックで丸をつける。同じ丸が過去の日付にも付けられている。その数はざっと九十九。本日をもって百個目だ。

 

 つまり今日こそが、御百度参りの最終日となる。

 

 

 

 

 

 

 外へ出ると、昼下がりの夏の太陽が僕の肌をじりじりと焼いた。駐車場に停めてある車からは陽炎が揺らめいている。そろそろ夏休みも終わり九月になろうとしているのに、夏は今まさに隆盛を極めんとしているようであった。極めなくていいから。

 

 しかし僕の気力は些かも損なわれることはない。なにせこれから、今までの百日間におよぶ苦行の成果が実るのだから。

 

 本当に叶うかどうかは定かではない。しかし周囲の人々から三日坊主の象徴的存在とされてきた僕が百日もの間、貫き通したのだ。それを思えば、今日という記念すべき日を快晴で迎えられたことだけでも胸がすくような気分になる。

 

「行くか」

 

 大いになる期待と不安を抱え、僕は神社へ向かって一歩を踏み出した。

 

 出来るだけ日陰になっている部分を選びつつ、熱されたアスファルトの脇道を歩く。歩きながら、己の青春を振り返る。

 

 恋というものを意識し始めた中学二年の秋。友人たちとこそこそ集まって作り上げた、学年・学級別の可愛い子ランキング。そこから選りすぐった女子にメロメロになった僕。徹夜して書いたラブレターを持参して臨んだ告白と、その惨憺たる結末。それから狐の葡萄よろしく「運命の人ではなかったのだ」といじけ倒して奥手の権化となった自分には同情の涙を禁じ得ない。なぜ僕だけがこんな目に。

 

 だが、しかし。そんな暗い過去ともついに離別を果たす時が来た。さらば、悲しき思春期の自分よ。薔薇色の青春を手に入れたあかつきには、二度とお前を思い出すことはあるまい。

 

 炎天下、滝のような汗を流しながら僕はニヤニヤと笑った。ふと、カーブミラーに映った己の顔を見る。あまりの醜態に思わず目を背けた。

 

 

 

 

 

 

 神社の境内に入ると、明確に気温が下がったように感じる。生い茂った木々によって日陰となっているのが主な理由だろうが、崩れかけの社を見ればそれだけではないように思える。いつ来ても雰囲気のある場所だ。

 

 二礼二拍手一礼というのはあまりに有名であるが、神社の参拝にはもっと多くの細々とした作法がある。僕はそのほとんどを忠実に守る。手水舎は無いのでその辺りは持参したペットボトルの水で済ませている。七面倒くさいことこの上ないが、全ては恋愛成就のためだ。

 

 参道の脇を通り、向かい合う狐の石像の間を抜け、社の前に立つ。他の神社ではよく目にするガラガラと鳴る鈴は無い。「どうぞ好きなだけ盗んでください」と言わんばかりのオンボロ賽銭箱がぽつねんとあるだけだ。

 

 財布から五円玉を取り出して賽銭箱に投げ入れる。カランカランと木にぶつかる音の後に、チャリンと底に落ちた音がする。恐らく賽銭箱の底に溜まっているのは、僕がこの百日間で投げてきた五円玉のみであろう。ここに参拝するためだけに五円玉を貯めた日々も、今となっては良い思い出だ。母からは「どうせ貯金するなら五百円玉貯金にしなさい」と豚の貯金箱を渡されたが。

 

 賽銭を入れた後は二礼二拍手一礼である。満願の思いを込め、一つ一つの動作は丁寧に。御百度参りの最終日ということもあって一層気合が入る。

 

 もはや達人の域に達したその動作を終え、僕は手を合わせたまま目を瞑った。すっと息を吸い、心の中で、願い事を唱える。

 

 

(どうか理想の恋人に巡り合わせてください。同じ学校の人でも他校の生徒でも構いません。上級生でも下級生でもどんと来いです。ギャルはちょっと厳しいです。可愛くて優しくて清純な子をお願いします。今すぐにとは言いませんが、高校二年が終わるまでには叶えていただきたい。やっぱり今すぐが良いです。そのためにこれまでずっと通ってきました。どうか超絶可愛くて性格もめちゃくちゃ良くて清廉潔白な彼女を僕にください。お願いします。お願いしますだ。どうか神様。これが僕の一生のお願いなのです。もう童貞仲間とくさくさするのは嫌なのです。どうか僕にウルトラハイパーアルティメット可愛い女の子との出会いを恵んでください。どうか。どうか。どうか彼女を。彼女、彼女、彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼女彼…………)

 

 

 

「うるさあぁぁぁぁぁぁい!!!」

 

 

 

 バァンッと、発破でもかけたような音を響かせて社の引き戸が開いた。そして、そんな物音をかき消す程の絶叫を上げながら現れた存在を見て、僕は呆然とした。

 

「いっつもいっつも何なんじゃ! 彼女が欲しい彼女が欲しいと。お主にはそれしか無いんか!?」

 

 和服を着た女の子だった。背丈は小学校の高学年くらいか。中学生と言うには少し小さい。目鼻立ちはくっきりとして整い、幼さの残る顔立ちをしている。

 

 しかし僕が呆気に取られたのは、その子の外見年齢のためではない。年端もいかない女の子が大声をあげて廃墟同然の社から出てきたためであり、何よりも彼女の妙ちくりんな格好に目を奪われたからだ。

 

 まず目に付くのは腰あたりまで伸びている金髪だ。一瞬、外国人かと思ったが顔立ちは日本人のそれである。しかし染めているにしては実に自然な艶のある髪に見えた。それが和服姿に不思議と似合っている。

 

 そして頭部からは二つ、髪色と同じような金毛にふさふさ包まれている狐の耳が生えていた。

 

 腕を組んで仁王立ちしている彼女の背後にもまた、金色のふさふさが揺れているのが見える。それはいつだったか、ドキュメンタリー番組やアニメの中で見たことのある、狐の尻尾に違いなかった。

 

「おい、なんとか言わんかい」

 

 狐のコスプレをした少女が僕を叱り付ける。僕は突然のことに声も出ない。

 

 願い事などは思考の地平線の遥か彼方へと吹っ飛んでしまっていた。変テコな少女、変テコな状況。およそ現実離れした現状の諸々に疑問を抱くべきなのだろうが、それさえもこの時の僕の頭からは抜け落ちていた。

 

 思ったことはただ一つ。

 

 正直、むちゃくちゃ可愛かった。

 



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二話・狐娘の環さん

 

 

 

「まったく呆れたものじゃ。女子(おなご)のことばかり考えよってからに」

 

 寂れた神社にて、狐のコスプレをした金髪美少女にお説教を受けている。何を言っているのか分からないと思うが僕も分からない。何かのご褒美なのだろうか。

 

 とりあえず社の縁側に上がれと言われ、正座させられてから随分と経つ。足の感覚はとっくになくなっていた。

 

 厳格な教師のごとく僕をお叱りになる彼女は何者なのか。僕は従順に「はい、はい」と答えながらも、ちらちらと相手を観察する。

 

 狐の耳や尻尾、それに和服と、外国人でも滅多に見ない透き通るような金色の髪。普通の少女と呼ぶには色々と難しいものがある。そんな子が片田舎の廃墟じみた神社にいるのだから、いよいよ怪しい。

 

「ここ最近、熱心に祈っておる(わらべ)がおるなあ、感心じゃなあ、などと思っていたのに……いざ耳を傾けてみれば来る日も来る日も『彼女ほしー、彼女ほしー』と呪いのように唱えおって」

「面目次第もありません」

「うむ。反省しているようで何より」

 

 僕が平伏すると、少女は満足そうに「うむうむ」と頷く。年不相応なほど偉そうなのに、それが何故か堂に入っている。少女相手に貫禄負けした僕は、疑問を差し挟む余地もなく敬語で話す。そして少女は少女で、敬語を使われることに何の違和感も感じていないらしく、それがさも当然であるかのように振る舞う。素晴らしい演技力だ。今すぐにでも芸能事務所の門戸を叩き、子役の道を邁進すべきだろう。

 

 しかし、そうやってただのコスプレ少女だと断定しようにもできない点が、彼女にはいくつかある。

 

 まず第一に、狐の耳と尻尾だ。現実的に考えればただのアクセサリーである。それ以外はあり得ない。あり得てはならないのだが、ただの付け耳が僕の声に反応してピクピクと動く。風もないのに時たま尻尾が揺れる。

 いや、それだけなら僕も馬鹿な想像をせずに済んだだろう。機械が内蔵されていて、モーターなどによって動いていると見るべきである。やや強引な解釈だけど無くはない。

 

 

 しかしだ。彼女はどういうわけか、僕の願い事の内容を知っている。

 

 

 放心状態から抜け出し、少し冷静になったところでこの事実に思い当たり、僕は愕然とした。誓って言える。この百日間、一度も自分の願い事を口に出したことなど無いと。

 

 それはなにも神社で祈る時だけではなく、親や友人に対してさえ漏らしていない。僕が神社に毎日通い詰めているという事だけを知る周囲の人間は「ついにイカれてしまったか」と実に失礼な憐憫を向けてきたが、それだけである。つまり僕が恋愛祈願のためにこの神社に御百度参りしていたことなど誰も知らないのだ。

 

「そもそもお主には節操がない。よいか。女子はな、男のそうした面も注意深く見ている。であるからして」

 

 なのに、この少女はまるでこっちの心を透かして見たかのように、僕の願い事の内容をお小言に乗せてペラペラと喋る。初めて出会った赤の他人に己の内情が筒抜けというのは末恐ろしいものがある。白昼夢でも見ている気分だ。ひょっとして本当にイカれてしまったのかと自分の頭が心配になるが、今はそんなことよりも優先して解明すべきことがあった。

 

「あの、すみません」

「なんじゃ」

 

 僕が恐る恐る挙手をすると、少女はお説教を中断してこちらの話に耳を傾ける。文字通り、ぴくりと狐耳が傾く。

 

 僕は今、高揚とも不安ともつかない感情の波に揉まれていた。少女コスプレ説を否定した場合、新たに一つの仮説が立てられるが、それは到底信じられるものではない。だが信じなければ説明がつかない。

 

「なんで僕の願い事を知っているんですか。それに、ずっとここに通っていたことも」

 

 僕の切実な疑問に、少女はあっけらかんと答えた。

 

「そりゃあ儂はこの神社の狐だからのう。ずっとここに住んどるし、参拝客の心を読むくらい容易いことよ」

「き、狐…………」

 

 僕が唖然として半ば無意識に呟くと、少女は「そうとも!」と高らかに言い、腰に手を当てて胸を張った。

 

「儂こそは古来より稲荷大明神に側仕え、この神社の守護を任される誉れ高き霊狐なり! 偉大なる母より賜りし我が名は(たまき)! 力無き人間よ、畏れ慄き崇め奉るがよい!」

 

 バアァーンッ!

 

 という効果音が飛び出てきそうな強烈な自己紹介。まるであらかじめ原稿を用意し練習していたかのようにハキハキとした口調だった。

 

 自分の正体を惜しげもなく明かした少女、もとい環さんは「むふん」と誇らしげに息を弾ませる。頰が紅潮しているのは興奮のためか。今の台詞を言いたくて仕方がなかったのだろうと思われる。尊大な名乗りを挙げたわりに、そういった仕草のせいでより子供っぽく見えた。

 

 彼女は自分を狐だと言う。稲荷大明神に仕えていると言う。古来から神社にいるらしいが、それはどれくらい昔のことなのか。

 

 などと思考を巡らせながら、彼我の温度差に付いていけなかった僕の頭に、ふと新たな疑問が浮かんだ。環さんは人の心が読めると言った。しかしさっきから僕が考えているのは、彼女を敬うどころか子供扱いするようなことばかりである。もしも本当に環さんが僕の心を読んでいるのだとしたら不機嫌になってもおかしくは無いのに、なぜ怒り出さないのか。

 

「じゃあ今も僕の考えていることが分かったりするので?」

 

 そう聞くと、環さんは首を横に振った。

 

「さとり妖怪でもあるまいし、それは出来んよ。儂に許された力はあくまで、参拝に来た人々の願いを知るためのものじゃからの…………あ、もしや今、失礼なことを考えていたのではあるまいな?」

 

 環さんがジロリとこちらを睨む。僕は背中に冷や汗が伝うのを感じながら「滅相もない」と必死に否定した。心眼恐るべし。本当に心を読まれていないのだろうかと不安になる。

 

「まあ良いわ。しかし驚いたぞ。今の時代、こんな神社に御百度参りをするような若者がおるとはな。阿呆な願い事はさて置き、信心深いのは良いことじゃ」

 

 環さんはさりげなく僕をアホ呼ばわりしつつも「感心感心」と嬉しそうにしている。さっきまでのお説教も何処へやら、気合の入った自己紹介といい、彼女はえらく上機嫌のようだった。

 

「いやあ、信心深いとか、そういうわけでは」

「御百度参りしとっただろうが。なのに神仏を信じておらぬと言うのか」

「まあ見たこともないので……」

「じゃあ儂のことは?」

 

 環さんが自分を指さして聞いてくる。信じるか信じないかで言えば、まだ天秤はどちらにも傾かない。彼女の話は鵜呑みにしようにもあまりに現実離れしている。

 

 最終確認をする必要がある。僕は決意を固めて言った。

 

「やっぱり、まだ信じられません」

「むぅ」

 

 環さんは困ったように顔をしかめたが、こちらの心情を察してか寛容に頷いた。

 

「まあ仕方あるまいか。我らが人間に姿を見せるのは、あまり無いことだからな。で、どうしたら信じられる?」

「畏れながら、環さんの耳を触らせていただきたく」

「は?」

「あ、尻尾でもいいんです。むしろそっちの方が良いかな。付け根あたりを触らせてもらえれば」

「えっ……」

 

 僕が言葉を紡ぐごとに、環さんの顔が青くなっていく。一体どうしたのだろう。あれだけ堂々としていたのに腰が引けているし、肩もわずかに震えている。まるで怯える子犬のようでとても可愛い。間違えた。急な変化に僕も戸惑ってしまう。

 

「まさか、ここまでの変態だったとは」

 

 今度は僕が青ざめる番だった。もの凄くひどい勘違いを受けている気がする。気のせいだと思いたい。

 

「初めて会った女に敏感なところを触らせろとか……怖っ……」

「いや、いやいや、違いますって」

「しかも尻まで撫でたいと……!」

「尻尾です、尻尾!」

 

 気のせいではなかった。環さんは性犯罪者を見るような目を向けてくる。弁明すべく僕が前のめりになると、彼女は「ひい」と言って後ずさる。なんだろう、すごく落ち込む。これが冤罪か。

 

「僕の目を見てください。これが変態の目に見えますか」

「うん」

 

 即答である。彼女は涙目、僕も涙目。この場の誰も幸せではない。

 僕は両手を上げて無害をアピールしつつ、懸命に弁解を試みる。

 

「百日も僕の心を読んでいたというのなら分かるでしょう。僕は無実だ」

「だから変態と言うとるんじゃ。よくもまあそんなことを宣える。女の胸を揉みたいだの尻を撫でたいだのと、破廉恥なことばかり考えておったくせに」

「そ、そこまで思ってない!」

「いーや。お主の深層心理はそう言うとった!」

「深層心理!? 僕はそんなプライベートなところまで覗かれていたのか!?」

 

 プライバシーの侵害だ。人権を脅かされている。憲法第十三条に著しく抵触していることは明らかだ。僕は法的措置に踏み切りたい衝動に駆られたが、しかし目の前の存在はたぶん法なんかに縛られはしない。敗色は濃厚であった。

 環さんは「はい論破!」とでも言わんばかりに僕を見据えている。自分ですら知らない心理の奥深くを晒された僕は、それ以上まともに言い返すこともできず、ただ項垂れた。

 

「し、仕方ないじゃないか……男なんだし……高校生だろ……」

 

 出会って間もない少女に変態のレッテルを貼られてしまった。最悪だ。死んでしまいたい。ああ、来世はあるのだろうか。生まれ変わるなら頭脳明晰な高身長イケメンになってモテまくりたい。

 

 そうやってしくしくと落ち込んでいると、環さんが僕にそっと近寄った。どうしたのかと思って顔を上げると、彼女は膝を曲げて僕と目線を合わせる。漆塗りのような環さんの黒い瞳には、諦念とも憐憫ともつかない光が宿っていた。

 

「その、悪かった。さすがに言い過ぎた。お主が稀代の奥手であることを忘れておった。尻尾は駄目だが……耳くらいなら、よいぞ」

 

 環さんがそう言って顔を下に向け、頭を差し出してくる。僕の目の前にはぴょこんと飛び出た二つの狐耳。見るだけでもその手触りの良さが感じられるような、魅惑的な光景だった。

 

「いいんですか?」

「ちょっとだけじゃぞ。ちょっと確認のために触るのを許すだけじゃ。揉んだりつねったりしてはいかん」

「は、はい……」

 

 言われるままに、環さんの頭に手を伸ばす。まるで壊れ物を扱うかのようにそっと狐耳に触れてみれば、ふわふわとした毛の感触のなかに、ほんのりとした温かみがある気がした。

 

「んっ」

 

 そこから下へなぞっていくと、くすぐったいのか耳がぴくぴくと震える。絹糸のような黄金色の髪を指でかき分けて付け根あたりを触ってみる。狐耳はしっかりと地肌から滑らかに続いており、つまり彼女の体の一部に違いなかった。

 

「んん……あ……」

 

 注意深く意識を向けてみれば、指先にわずかな血の巡りが感じられる。不思議だ。こんなことが現実にあるだなんて。

 とても、不思議な手触りだ。猫や犬を撫でたりしたことはあるけど、こんな手触りは初めてだった。指の間をさらさらとした涼風が抜けていくような感触の中に、人肌の温もりがある。いつまでも撫でていたくなる。これは素晴らしいものだ。

 

「ちょ、そろそろ……」

 

 やばい、超気持ちいい。最高だ。

 

「お、おい、もういいじゃろ。聞いとんのか、おい」

 

 このままわしゃわしゃと撫でくり回したい。そうしてもいいだろうか。いいよね。たぶん大丈夫な雰囲気だ。

 

「止めんかコラァ!」

「げふうっ」

 

 アッパーカットが僕の顎に炸裂した。少女の力ながら、見事な捻りの加わったパンチだった。彼女の拒絶が明確に伝わる。

 

「この無礼者めが! ちょっとだけだって言ったのに!」

「すみません……」

「たわけ! たわけ!」

 

 環さんは両手で狐耳を押さえながら飛び退いた。頰は上気して目が若干潤んでいる。斯して僕の信用は再び地に落ちた。環さんの存在を信じるための行為だったはずなのに、どうしてこうなった。

 僕はペコペコと頭を下げつつも、理性を失わせるほどの魔性の触り心地に慄いた。すごかった。もう一回触りたい。

 

 ひとしきり「たわけ!」と叫んだ環さんは、土下座しっぱなしの僕を見てふうっと大きく息をついた。どうやら何とか気を鎮めてくれたらしい。

 

「本当にお主はどうしようもない…………で、どうじゃった」

「はい。とても素晴らしい触り心地でした」

「そっちじゃない!」

「あ、ああ……はい。環さんは紛れもなく本物です。信じます」

「よろしい」

 

 僕がそう答えると、環さんはどっかりと胡座をかき頬杖をついた。憮然とした様子だが、まだ少し顔が赤い。

 

「話を進めようか。お主は御百度参り、もとい百日詣を成した。これは現代人にしては非常に珍しいことじゃ」

「ありがとうございます」

「うむ。そこで神の御使である儂が、その方の願いを叶えて進ぜよう」

「ははあー…………って、え?」

 

 あまりに予想外の言葉に、僕は呆けて間抜けな声を出した。そんな僕の姿を見て環さんは面白そうに笑う。

 

「今、なんと……」

「だからお主の願いを叶えてやると言ったのじゃ。そのために儂は姿を現したのだからな」

 

 つまりそれは僕の苦行が実を結ぶということであり、さらに言うと彼女が出来るということだ。しかも願い事の内容は理想の美少女と運命的な出会いを果たすというものであり、それが叶ったあかつきには僕は…………。

 

「僕は最強のリア充になれるということか!」

「り、リア……なに?」

 

 環さんが首を傾げる。世俗に疎いようで、リア充という言葉も知らないらしい。

 

「簡単に言うと恋人がいる人のことです」

「ふうん。今の時分はそういう風に言うのか」

 

 納得したと言うように「りあ充、リア充」と神妙に頷く環さん。

 

「昔、ここな場所は山村であったが、実り豊かな豊穣の山じゃった。それも我ら稲荷に連なる者が居ればこそ。中秋の名月にはこの神社に米俵を積んで祭りを行い、その太鼓の音は山向こうにも聞こえたものよ。良縁を結ぶべく、他所の娘っ子がよく嫁ぎにも来た」

 

 環さんがつらつらと並べる言葉を聞き、僕はその如何にも豊かな里の様子を思い描いた。神社の威光に導かれてやって来るのは薄紅を差した白無垢の別嬪さん。伏して三つ指をつく清楚な佇まいはまさしく僕の理想と呼ぶべき女性像であり、興奮するな吝かではない。

 だが、環さんは「しかしなあ」と言って顔を曇らせた。

 

「ぬか喜びさせてしまって申し訳ないが、儂にそういった願いをぱっぱと叶えてやれるような力は無いんじゃよなあ、これが」

「ええ!?」

「見ての通り、この神社にかつての神格は無い。信仰を失ってずいぶんと久しく、儂の力もすっかり衰えて一介の狐に成り下がってしまった。出来ることなら、お主をリア充とやらにしてやりたいのだが」

 

 天国から地獄とはこのことか。気分はまさに蜘蛛の糸を断ち切られたカンダタのごとし。

 しかし環さんがこの神社に仕える狐であるというのは、もはや疑いようの無い事実だ。ここで望みを捨て去ってなるものか、と僕は食い下がる。

 

「ど、どうにかならないんですか。環さんがいるなら、神様とかだっているんでしょ?」

「うーん、それなんじゃがなあ」

 

 環さんは実に言いにくそうに口をもごもごとさせた。

 

「神は、おらん」

「へ?」

「もうおらんのじゃ。この神社に、神は」

 

 僕は今度こそ絶句した。神がいない、なんて普通は考えるまでもなく当たり前のことだが今は事情が違う。環さんの存在を信じるなら必然、神もいるべきではないか。環さん自身も稲荷大明神に仕えているなどと言っていたのに、居ないとはどういうわけだろう。

 

「昔はもちろんおったのだが。しばらく前に天界に帰ってしもうた」

「それはまた何故?」

「拗ねて、しまっての。誰も信仰してくれんからって…………」

「ええ…………」

 

 構ってちゃんか。思った以上に俗っぽい理由に聞いたことを若干後悔する。環さんも気まずそうな顔をして、しゅんと耳を垂れている。

 

 話を聞くに、遥か昔、神社に信仰が集まっていた時代はまだ神も健在で、環さんの他にもう一人(もしくは一匹)狐がいたらしい。しかし今はもう誰からも見向きもされず、神も従者である狐の片割れも天界という場所に帰ってしまい、環さんただ一人が残ったのだという。

 

 ちなみに稲荷というのは一柱の神を指すのではなく、豊穣や商売繁盛などを司る神々に対して用いる総称であるらしい。この神社に居たのは、そんな八百万の神の一柱というわけだ。

 

 あれ、そうなるとここに縁結びを願いまくった僕はどうなるんだろう。ひょっとして凄くお門違いな願い事をしていたのではないか。

 ふとそんな疑問が浮かんだが、環さんは特に何も言わないのでこちらも余計なことは言うまいと気付かなかったことにする。正直、その辺りを追及されたら恥ずかしい。

 

「だ、だが安心せい! 儂とて神に従属する霊狐じゃ。我が主人に代わり、お主の願いを叶えるため尽力しよう!」

 

 僕が「お祈りする神社を間違えたかもしれない」と悩んでいたのを、願いが叶わず絶望していると思ったのか、環さんはこちらを元気付けるように胸をドンと叩いてみせる。耳を触らせてくれた事といい、ひょっとしたら凄く良い子なのかもしれない。

 

「でも尽力って、どのように?」

「これでも伊達に長生きしておらん。まず初めに問うが、お主に意中の相手はいるのか?」

「え、いや、うーん」

 

 聞かれて、僕は返答に悩んだ。そう言われても特定の誰かと付き合いたくて神社に通っていたわけではないし、身近にいる女性を思い浮かべてみても、今は特に誰が好きというわけでもない。

 一瞬、ほんの一瞬だけ、中学生の頃の想い人の顔がその痛ましい玉砕事件と共に脳裏を過ったが、僕は努めてそれを忘却の彼方に追いやった。

 

「特にはいないです」

 

 僕がそう答えると、環さんは神妙に頷く。

 

「そうか……なるほど……では、お主にありがたき啓示を賜わす。しかと聞くがよい」

 

 なんとも自信たっぷりである。まさか一つの質問だけで、僕の運命や可能性なんかを見通したのだろうか。曲がりなりにも神の使いだ。力が衰えたとは言え、その全てが失われたわけでもないのだろう。彼女が今まさに告げるであろう輝かしい未来へと導く御言葉に期待が膨らみ、思わず背筋が伸びる。

 居住まいを正した僕に、環さんは大真面目な顔でお告げを述べた。

 

「お主はまず好きな女子を見つけることから始めよ」

「えっ」

「然るのちにその相手と親密な関係を築くが良い。焦ってはならぬが、自分から積極的に声をかけることが肝要じゃな」

「えっ」

「そして逢瀬を重ね、仲が深まったところで思いの丈を、どどどーん!っと伝えるのじゃ。これで完璧。間違いなし!」

 

 この狐娘は何を言っているのだろう。今のどこにそんな「儂、良いこと言った」みたいな顔で胸を張れる部分があったと言うのか。

 彼女の啓示というのはつまり…………。

 

「それではただの正攻法ではないですか!」

 

 僕はありったけの声で叫んだ。確信を持って言える。これに関しては僕の方に理があると。

 しかし環さんもよほど自分の作戦(笑)に自信があったのか負けじと言い返してきた。

 

「な、なにが問題じゃ! 恋ってそういうもんじゃろうが!」

「それが出来れば誰も御百度参りなんかしませんよ! 伊達に長生きしていないとかやたら自信満々だったのに、どこがありがたいんですか今の啓示!」

「なんじゃと、この……へたれ! へたれ!」

 

 僕らはひとしきり騒いだ後、どちらもゼーゼーと息を切らした。こんなしょうもないことにエネルギーを使ったことが悔やまれる。

 

「環さん、僕に正攻法は、無理です」

「ぬう。頑固じゃのう」

「神のお力でどうにかならないものですか」

「だから無理だと言っておろう。今の儂に出来ることは変化が精々といったところなのじゃから」

 

 僕らは揃って困り果てた。僕は神通力とかそういうので縁結びをして欲しいが、環さんにその力は無い。現状は手詰まりと言っていい。

 

 いや、ここで諦めるわけにはいかない。僕は理想の青春を手に入れるのだ。そのために御百度参りを達成したのだ。この百日間が水泡に帰すことだけは避けなくてはならない。

 

 環さんも環さんで「霊狐の誇りにかけて成さねばならん大仕事じゃ」と言う。僕のことを節操がないとか言ったわりには非常に協力的だ。人の願い事を聞き届けることが神の御使いとしての本分なのかもしれない。誇りにかけて、という言葉は嘘ではないと思う。

 

 それから僕たちは如何にして願いを成就させるか議論した。

 傍から見れば、人気のない神社で冴えない風貌の男子高校生と和服を着たコスプレ少女が、如何にして女を口説くか話し合っているという絵面になる。考えるだけで恐ろしい光景だ。通報されておまわりさんに連行されても仕方ない気がする。もちろん捕まるのは僕だけだろう。

 

 それはもう夢中になって話し込んだ。不思議なほどに話題が湧き出てきて、喉が乾いて仕方なくなるほどに環さんと言葉を交わした。話すうちに作戦は飛躍して、国民的アイドルをメロメロにさせて添い遂げるところまで行ったが、華族のごとき神前式を挙げる段になって二人ともはたと我に帰り「前提として無理があった」という結論を出した。

 そこから理想が高すぎたんじゃないかということになり、基準を下げて、僕のスペックなどの現実面を考慮し、また基準を下げる。そうして理想はどんどん磨り減っていき、やがて議題は「理想とは何ぞや」という終わりなき概念追及に突入し、僕らは無闇に疲弊した。

 

 僕は言った。

 

「なんだか自信がなくなってきました」

 

 環さんは言った。

 

「儂も」

 

 全く実りのない会話によって、時間はあっという間に空費されたのであった。

 

 

 

 

 

 

 四方からアブラ蝉の鳴く声が響いている。すでに日が傾いているようで、来た時と比べて境内はだいぶん暗くなってきている。話し込んでいるうちに、気付けばもうそんなに時間が経っていたらしい。

 

 僕はひとまず帰ることにした。今日は色々と疲れた。帰ってゆっくりと頭の中を整理したかった。

 

「環さん、僕はそろそろ帰ろうかと」

「む、そうか。もう夕時か」

 

 環さんはそう言って西空を仰いだ。夕陽の茜色が、さわさわと風に揺れる木々の間から漏れている。やわらかな風が木立を抜けて境内にも吹き、環さんの髪を靡かせた。

 

 その瞬間、僕の目には、彼女の横顔がどことなく寂しげに見えた。

 空ではなく、それよりももっと遠くを見つめるように環さんの目が細まっていた。心なしか唇がきゅっと結ばれているようだった。

 

「そうだ。お主の名を聞いていなかったな。なんと申す」

 

 しかしそれも一瞬のことで、僕の方に向き直った環さんは、さっきまで話していた時と同じような調子で言う。

 

「晴人です。稲里晴人(いなさとはると)

 

 僕が答えると、環さんはニッと笑った。心底嬉しそうな笑顔だった。空を見上げた瞬間のあの表情は僕の見間違いだったのかと思うほどに。

 

「晴人か、良い名じゃ。苗字も豊かな風情があって良い。いなり、とも読めるのう」

「ああ、本当だ。そうですね」

 

 名前を褒められたのは初めてのことで、僕はむず痒くなって曖昧な返事をした。環さんはそんな僕を見ながら名残惜しむように微笑んだ。

 

「また来るといい。儂には縁結びの力などないが、お主の願いを叶えてやりたい気持ちに嘘はない。これからはいくらでも相談に乗ろう」

「ありがとうございます」

「では、またな。晴人」

「はい。また来ます」

 

 別れの挨拶を交わし、僕は立ち上がろうとする。

 

 なんとも不思議な時間だった。環さんとはたくさん話したのに、未だに夢を見ているような気分だ。

 

 これから先、僕はどうなるのだろう。この出会いをきっかけに何かが変わっていくのだろうか。降って沸いた非日常。そこから始まる青春活劇を思うと血潮が滾るようだった。

 心臓がどきどきと脈打って、居ても立ってもいられない気持ちになってくる。

 

 

 

「……」

「……」

 

 居ても立っても、いられない気持ちになる。

 

「……え、行かんの?」

 

 立とうとしない僕に、環さんが言った。

 僕は正座したまま答えた。

 

「足が痺れてしまったみたいで……」

 

 夏の生温い風とともに、気まずい沈黙が二人の間に流れた。

 

 

 

 

 

 

 



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三話・儂に秘策がある

 

 

 

 九月の到来とともに夏休みが明けて、学校生活はつつがなく再開された。何故再開されなければならないのか不満でならない。まだ真夏日は続いているというのに。

 

「休もう。暑いのだから」

 

 教室の隅、僕の隣の席で、机に突っ伏している男が呻いた。

 

 突っ伏しているのにデカい。何がデカいかと言うと全身がデカい。

 丸まった背中の筋肉は盛り上がり、分厚い僧帽筋と見事に一体化している。パッドでも入れているのかと思うほど発達した肩から先も逞しく、半袖のカッターシャツから伸びている腕は樹皮のごとく節くれ立っており、とても同じ人類のものとは思えない。

 そこまで見れば、上着や黒の学生ズボンに隠れている部位の発達具合も推して知るべしである。

 

 高校生という枠組みを遥かに超越した筋肉の塊がそこにはいた。

 

「お前から熱が出てるんじゃないのか。なんだその筋肉。夏休み前よりデカくなってるぞ」

 

 僕がそう言うと、彼は大きなため息を吐いた。

 

「そうだろ、デカくなったろ。でもモテないんだよ。どうして?」

 

 些か逞しすぎる肉体を持つ彼は、しかしその筋肉に見合う威厳を投げ出すかのように腕をだらんと垂らしている。暑さに負け、今にも湯気を立てて蒸発してしまいそうであった。

 

 彼の名前を伊藤という。僕の友人である。伊藤はその身体と強面のせいで勘違いされがちだが、とても繊細な男だ。

 高一の頃、初めて出会った時は僕もいつ殺されるのかと冷や冷やしていたが、ガラス細工のように繊細微妙な心理によって形成された彼の価値観に触れた後、すっかり打ち解けた。

 

 端的に言って、我々は純愛を求める同志であった。何故、伊藤がこのようなマッチョマンに成り果てたかということについては簡単に説明ができる。彼はモテたかったのだ。

 

 詳細は省くが、伊藤は恋とは清らかであるべきという理念に基づいて思考を進め、紆余曲折を経てマッチョ主義に至った。『女は男の筋肉が好き』『男は女を守る筋肉を持つべき』。そんな感じのやや偏見的な信念のもとに、当時中学生だった彼は努力を重ねた。

 重ねた結果、誰もが一目置き距離も置く益荒男となり、晴れて孤高の称号を手にしたのである。なんという悲劇だろう。一年前に彼と青春談義を交わした際にはその境遇に涙を禁じ得なかった。

 

 僕だって、中学の頃に想い人を校舎裏に呼んで恋文を朗読したという恐るべき過去を持つ男だ。僕たちは互いの恋愛事情を心から嘆き、深い理解を示した。

 

 そのあまりに高潔な精神のせいで、僕たちはお互いが学校生活における数少ない友人となっていた。おかげで絆はいっそう強固なものとなったがその反面、色恋沙汰からは遠ざかるばかりの日々である。

 

「晴人はどうなんだ」

 

 伊藤が聞いてきた。僕が「どうって?」と聞き返すと、彼は顔をこちらを向けて言った。

 

「秘策があるとか言ってたじゃないか。夏休み明けには成果が現れるとか。あれどうなった」

「あー、うん。あれか。あれね…………」

 

 僕は思わず言葉を濁した。

 秘策とは言わずもがな、御百度参りのことである。人に願い事を教えてはいけないという鉄則のために、伊藤にも『絶対にモテる秘策』とだけ称して詳しくは伝えていなかった。そしてつい先日、確かにその大業を果たしたところだ。

 

 しかし百日に及んだ戦いの成果は、とても他人に言えるようなものではなかった。頭に過るのは金毛色白の狐娘。神の御使いを名乗るあの少女との出会いをどうやって説明すれば良いのか分からない。

 

「気を落とすなよ。まだ高二の時間は半分も残っているんだから」

 

 環さんのことをなんて伝えようか、そもそも伝えるべきなのかと僕が悩んでいると、伊藤は穏やかな声で慰めてきた。おおかた秘策が失敗したと思われたのだろう。実に心外だが、あながち間違いでもないのが悔しい。

 

 恋愛祈願の御百度参りによって呼び出されたるは、狐娘の環さん。一見してコスプレをした少女にしか見えない彼女の特殊能力は、参拝客の願い事を根掘り葉掘り、その深層心理まで盗み見ること。そしていざ願いを叶えようとすれば、誰にでも思いつくような正攻法を伝授されるばかり。

 

 これを失敗と言わずに何と言おう。神頼みってもっと違う気がする。

 

「そろそろ、俺たちも妥協という言葉を知るべきなのかもしれないね」

「馬鹿な! そんな弱気でどうする」

 

 伊藤の言葉に、僕はやおら立ち上がった。今さら理想を取り下げて何の意義があるというのか。それはこれまでの自分を否定する行いだ。僕は断固として拒否する。

 

「けどこのままじゃ俺たちの青春は真っ青なままだよ」

「そんなことは無い。まずお前はどこか部活に入れ。運動部だ。持て余しているその筋肉を活躍させてやるんだ。金メダルを取りまくれ。そうすれば活躍に惹かれて女子もやってくる」

「む、無理だよ……。俺、体育会系のノリとか苦手だし、もう何度か勧誘も断っちゃってるし」

「大丈夫だ。伊藤が行けば、どこだってエースの座を空けてくれるさ」

「そうかな。でも、やっぱりダメだよ」

 

 伊藤の弱腰は筋金入りであった。彼の無駄に鍛え上げられた筋肉が日の目を見ることはおそらく無いだろう。

 

「晴人こそ部活に入ったら? 俺と違って人見知りでもないし。ほら、茶道部とか」

「なぜ茶道部をピックアップした」

 

 茶道部は当然のことながら女子が圧倒的多数を占める。新入生の体験入部ならともかく高二になった今頃、しかも男一人で異性だらけの空間に突撃していく蛮勇など持ち合わせていない。

 

 しかし伊藤は、拒絶を示す僕に言った。

 

「だって茶道部には小野町さんがいるじゃないか」

 

 小野町とは、僕らと同じクラスにいる女子である。今も教室の真ん中で他の女子たちと集まり、何やら楽しそうに談笑している。

 

 彼女の特徴はなんと言っても美しいという一言に尽きる。ただでさえ目立つ容姿に加えて品行方正、成績優秀とまるで死角がない。他のクラスであっても色恋沙汰に目がない高校生たちの噂に上ることから、その知名度が窺い知れるというものだ。

 

「お前な、彼女を狙うのはあまりに無謀だぞ。僕に死ねと言うのかよ」

「ち、違うって。晴人は、小野町さんと小学校も中学校も一緒だったんだろ。だからちょっとは芽があると思うんだけど……」

「無い。絶無だ」

 

 話しながらなんとなく気になって、小野町の席をちらりと見る。すると偶然にも此方を向いていた小野町と目が合った。僕は思わず視線を逸らす。会話を聞かれていたのだろうか。いや、僕も伊藤も声は抑えていたし、昼休み時の騒々しい教室内で、隅にいる僕らの会話を聞き取るのは難しいはずだ。

 

「小野町さんってちょくちょく晴人の方見てるよね」

 

 伊藤がそんなことを言う。彼も小野町と目が合ったらしい。

 

「気のせいだろ。偶然だ。彼女のように日の当たる場所にいる人種が、僕みたいな日陰者を相手にするわけがないんだ」

「自分で言ってて悲しくない?」

「悲しいさ」

 

 俺が自己否定を持ち出してまでキッパリ拒んでも、伊藤は納得していないようで「でもなあ」と話を続ける。

 

「小野町さんは人当たりが良いよ。うん。一年の時、俺にだってビビらずに挨拶してくれたし」

「バカお前、それは八方美人というんだよ」

 

 僕はため息を吐いた。引っ込み思案のためにまだ一度も挫折したことのない伊藤は、少々甘いところがある。

 

 ただ伊藤の言う通り、僕は確かに小野町とは同じ地元に生まれ、小中学校を共にした。高校生活も合わせたその期間は約十年と、生半な長さではない。

 

 だから何だというのか。

 僕は小野町との接点はほとんどない。いやそれどころか他の女子ともあまり話した記憶がない。子供の社会はなかなかにシビアである。女子と遊ぶのはダサいという暗黙の了解が男子の間には存在しており、それを破ると最悪の場合、村八分のような状況に陥る。謎に満ちたこの規律の拘束力は凄まじく、幼くして男と女の間にはベルリンの壁のごとき隔たりが出来る。

 僕の生来の性格もあって、これまでに女子と話した経験はほんの僅か。つまり小学校や中学校が一緒だったことなど、なんのアドバンテージにもなりはしないのだ。

 

 いや、例えそこに目を瞑ったとしても、小野町だけは無い。何故か。それは僕の過去に起因する。

 

「伊藤、ちょっと耳を貸せ」

 

 僕は伊藤のそばに寄って小声で話した。

 

「この際だから言っておく。お前にも話していなかったがな……」

「うん」

「僕が中学の頃に告白して、フラれた相手っていうのが、小野町なんだよ」

 

 伊藤が驚愕の表情で僕を見た後、深く納得したように頷いた。彼の大きな手が僕の背中をぽんぽんと慰める。同情の視線が痛い。当時嫌というほど味わった羞恥が蘇り、僕は甲高い悲鳴を上げそうになった。

 

 あの時の光景は、今でも昨日のことのように思い出せる。放課後の校舎裏は夕陽で赤く染まっていた。僕が友人連中と作り上げた可愛い子ランキングという卑猥極まる統計において堂々の一位に輝いていた小野町は、僕の呼び出しに素直に応じてくれた。可愛い子ランキングは見た目だけではなく性格の良さも考慮されていた。

 僕が一晩かけて練りに練った恋文を朗々と読み上げる。恋文の内容はもう覚えていない。思い出したくもない。朗読している間、小野町がどんな表情だったかも。

 ただ、読み終えた瞬間に「ごめんなさい」と勢いよく頭を下げ、小走りで立ち去る小野町の背中だけが僕の網膜に焼き付いていた。いや、ひょっとしたら小走りではなく全力疾走に近かったかもしれない。僕は当時、どのようなポエムを書いたのだろう。手紙はシュレッダーにかけた後焼却し、精神保護のため記憶からも抹消しているのでその真相は闇の中である。

 

 我ながら阿呆な中学生だった。あのような手痛い経験をしたにも関わらず能天気に進学し、小野町と同じ学校に通うことになってしまったのだから。しかも二年になった現在では同じクラス。これは何らかの神罰だろうか。

 

 唯一の救いは僕が小野町にフラれたという噂が立たなかったことか。友達にも言いふらさなかった小野町には心から感謝すべきなのだが、今では彼女の視線が怖くて堪らない。

 

 伊藤が先ほど言ったように、たまに小野町と目が合うことがあり、僕はゴルゴーンに睨まれた蛙のごとく内心で硬直する。大抵はこうして伊藤と恋愛論議を熱く交わしている時に起こる。警戒されているのではないかと思うと気が気ではない。ストーカー疑惑をかけられているかもしれないという被害妄想さえ浮かぶ始末だ。

 

 しかし暗い学生生活も気まずい環境も、一つの念願さえ叶えば全てが払拭される。そう、すなわち彼女さえできれば。

 

「決して、決して諦めはしないぞ……! 理想の青春をこの手にするまでは……!」

 

 握り締めた拳が震える。伊藤も、僕の心からの声に深く頷いていた。

 

 

 

 

 

 

 放課後となり生徒たちが集まって駄弁ったり教室を出て行く中、僕も早々に支度を整えて帰ろうとしていた。

 

「今日もまっすぐ帰るの?」

 

 鞄を持って立ち上がった僕に伊藤が言った。

 

「ちょっと用事があるんだ。悪い」

「なんか大変そうだね」

「ああ……じゃ、また明日」

「じゃあね」

 

 簡潔に別れを告げて、僕は足早に教室から出る。下駄箱で靴を履き替えて昇降口の階段を降り、帰宅する生徒たちの群れに混ざる。ガヤガヤと話しながら歩く彼らの間をすり抜けるように学校の敷地から出て駅に向かい、改札に定期券を通して電車に乗った。

 

 伊藤にはまっすぐ帰ると言ってあるが、あれは嘘だ。僕はいつも寄り道をする。目的地はもちろん、あの廃神社である。

 

 ガタゴトと電車に揺られ、外の景色がどんどん流れていく。何駅か跨ぎ、やがて自宅の最寄駅に到着するというアナウンスが聞こえてくる。

 

 車窓から外を眺めていると、遠くの方に開発途中の閑散としたが土地が見えた。その一角に木々が鬱蒼と茂った場所がある。ポツンと目立つそこが、件の稲荷神社だ。

 

 電車のアナウンスを聞きながら、今日は何を差し入れようかと、僕は考えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 蝉時雨が鳴り響く。肌にまとわりつく空気は蒸し暑いが、冷えたラムネを飲むとそれが一気に清涼感へと変わり、実に心地良い。

 

「また来いとは言ったが」

 

 僕の隣で縁側に腰掛けている少女、環さんが口を開いた。彼女の手には僕と同じくラムネがある。先ほど僕が駄菓子屋で買ってきたものだ。

 

「なんか毎日来とるのう、お主」

「ご迷惑ですか」

「いや、儂としては退屈しなくて良いんじゃがな」

 

 環さんはそう言いながら学生服姿の僕をちらりと見る。

 

「今日も学校帰りか」

「夏休みも終わりましたからね。来年からは受験戦争だって、先生たちがもう張り切っていまして」

「受験かあ。そんなもん、昔はあったかのう」

 

 徒長した草が生えている以外には何も無い境内を見つめながら、僕たちはラムネを片手にぽつぽつと話す。

 

 御百度参りを終えてからも、僕はこの神社に足を運んでいた。今回のラムネのように土産を、もとい貢ぎ物を持ってくるようになったのは二回目の訪問からだ。

 

 最初コンビニで稲荷寿司を買ってみたところ、環さんは「普通に美味い」と言っただけだった。もっとこう、飛び上がって喜ぶような姿を期待していたのだが、狐だからといって油揚げが好物とは限らないらしい。次に持って行ったメンチカツの方が嬉しがっていた。

 

 以来、学校帰りに何かしら食べ物や飲み物を買って、環さんのいる神社へ寄るようになった。ここしばらく、ずっとそれが続いている。

 

「ラムネは美味いですか」

「うん、美味い。シュワシュワする」

 

 環さんは時に語彙力が貧弱になる。小並感とか付きそうだ。本人曰く何百年と生きているらしいが、とてもそうには見えない。言ったら怒られそうだから口には出さないけど。

 

「しかしなあ。晴人はこれで良いのか」

「何がです?」

「学校にはお主と同じ年代の女子がたくさんいるのだろう。なのに勉学が終わって早々ここに来ては、実る恋も実らんのではないか」

 

 環さんの発言は的を得ていた。僕は返答に困り、ラムネを飲んで間を持たせる。

 

 僕の目的はあくまで、素敵な乙女と理想的な出会い方をして青春を謳歌するというものだ。それを叶えるために環さんの協力を仰ぐのは良いが、毎日入り浸っては本末転倒ではないか、と環さんは心配しているのだろう。確かにその通り。反論の余地はない。

 

 しかし何故か通ってしまう。御百度参りを経て、神社に来るのがもはや習慣になりつつあるし、何よりも環さんのことが気になる。一日のうちの六割くらいは「次はどんな貢物を持って行こうか」と考えている。ちなみに残りの二割は妄想、もう二割は腹が空いただのトイレに行きたいだのといった生理的欲求である。あれ、僕はいつ勉強に思考を割いているのだろう。まあ良い。学生の本分は青春だ。

 

「前にも聞いたが本当に意中の女子はおらんのか」

「うーん。これといって、特には」

 

 そこが目下最大の悩みであった。恋ある青春を欲しているというのに肝心の想い人がいないのである。

 

 頭の中で理想をこねくり回す内にイメージは現実からどんどん乖離していき、僕は恋というものが分からなくなりつつあった。心にあるのは少女漫画すら慄かせるような肥大しすぎた虚妄のみ。これは実に由々しき事態だ。

 

 想像の中で、理想とする女性はワンピースを着て日傘を差し、南アルプスの高原にあるような花畑に立っていたりするのだが、彼女の顔だけがどうも上手く思い描けない。常に神々しい光に遮られていて、微笑んでいるのであろうと辛うじて分かる程度だ。

 

 自分の想像力の至らなさを嘆く反面、そう易々と理想の相手の顔を具体的に設定してしまっては、理想というものの価値を貶めることになるのではないかという思いもある。理想とはある種の神秘性を帯びているべきで、当人にさえ触れ得ない未知の領域があるからこそ、その神秘性は保たれるのだ。これは伊藤とかつて熱く語った議題であり、僕の中でも確固たる価値観として根付いている。

 

 しかし、それはつまり未完成ということである。

 

 想像の中の彼女が纏う光のモヤが晴れなければ、自分の理想の完成形は分からぬまま。いつまでも神秘のベールに包まれているのみで、決して手は届かない。それは僕の理想がいつまで経っても叶わないこと意味する。

 だが先述の通り、具体性と神秘性は相反するもの。このジレンマをどう解消するべきなのか。ニーチェやフロイトといった名だたる哲学者の著書を読んだところで、これを解決してくれる画期的な方法はどこにもなかった。何故研究しないのだろう。人類にとって永遠のテーマのはずなのに。

 

「なんぞ阿呆なことを考えておるな」

 

 環さんが僕の深淵なる悩みをバッサリと切り捨てた。勘も舌鋒も鋭いことこの上ない。

 

「はあ……まあ思い付かんものは仕方が無い。そうさな。ほんの少し気になるとか、何故か視界に入りやすいとか、それくらいなら身近な女子の中で一人はいるのではないか」

「それくらいなら……」

「よしよし。ほれ、思い浮かべてみい」

 

 環さんのアドバイスに従って考えてみる。

 さて、なんとなく視界に捉えてしまうような子か。もっと言うなら、気付けばふと顔を思い浮かべている、そんな相手…………。

 

「うーん」

「どうした。難しい顔して」

 

 我ながら環さんの顔が思い浮かんだのには驚いた。

 横に目を向けると、想像の中の環さんと現実の環さんの顔が重なる。実物と一寸の狂いもなく、僕の頭には環さんがハッキリと完璧な形で浮かんだわけだ。

 

「で、誰じゃ。誰じゃ」

 

 環さんが身を乗り出して聞いてくる。

 言うか。「貴女です」と。

 

 言えるわけがない。それではまるで告白ではないか。だいぶん仲良くなったとは言え、環さんと出会ってからの期間はまだまだ短い。いや、それ以前に見た目は完全に女児である彼女に、僕が告白紛いのセリフを吐くのは犯罪臭が凄まじい。環さんの実際の年齢等はともかくとして、絵面が罪深すぎる。普段は大らかな環さんにドン引かれて天界に逃げられでもしたら、僕の黒歴史ランキングがまた変動してしまう。

 

「……やっぱり思い付きませんでした」

 

 僕は答えに窮した挙句、そう述べた。環さんは呆れたように「はー、やれやれ」と後ろに倒れ、大の字になって寝そべった。

 

「しょうのない奴じゃなあ」

「そうは言う環さんは経験あるんですか」

 

 人の恋路に対してこれだけあけすけに物を言えるのだからさぞ経験豊富なのだろう、という思いを込めて聞いてみる。まあ人間とは違うしそもそも狐だし、無いとは思うが。いや、でも本当に恋愛経験あったらどうしよう

 

「儂? ないない」

 

 僕の思いは他所に、環さんは手を振って即答した。つまり環さんが語る恋愛論は全て彼女の机上の空論であることが明かされたわけだ。それでよくもまあ、ありがたい啓示などと自負できたものである。あまりの豪胆さに、僕は呆れを通り越して感心すら覚えた。

 

「なんじゃ文句あるんかワレ」

「滅相もない」

 

 不遜さが視線に現れていたのか環さんが僕にメンチを切る。口調がどことなく崩壊している気もするが、藪蛇な気がしたのであえて言及することはしなかった。

 

 それから僕たちは暫く無言だった。寝そべったままの環さんを見てみると、目を瞑って身じろぎもしない。まさかこの短時間で眠ってしまったのかと思って僕は彼女の顔を覗き込もうとする。その瞬間、環さんはカッと目を見開いた。

 

「儂に考えがあるんじゃけどもっ」

 

 一転、環さんは叫んで勢いよく跳ね起きた。どうやら寝ていたのではなく何やら考え事をしていたらしい。ビックリした僕に対して彼女は不敵に笑っている。

 

「今の今まで忘れておった。恋といえば、儂には母上から習った秘伝の奥義があるんじゃった。これからはそれをお主に授けて進ぜよう」

 

 我に名案ありといった風情だ。秘伝とか奥義とか、やたらと期待を煽る単語が飛び出てくる。

 しかし僕はどうも嫌な予感がした。これまでの環さんの言動からして、彼女のアドバイスはあまり当てにならない。それどころか僕より初心な面があるように思う。今みたいに調子に乗っている時なら尚更である。下手をしたら某友人のように「モテたいなら筋肉をつけろ」などと言いかねない。

 

「聞きたいか。聞きたいじゃろ」

「はい。教えてください」

 

 機嫌を損ねてもらっては困るのでそう言うと、環さんはさらに気を良くして声高らかに告げた。

 

「恋文じゃ! 古今東西、男女の仲には恋文が欠かせまい。一読すれば虜となる文の書き方を儂が手ずから教えようぞ」

 

 やはり聞くだけ無駄であった。僕は寝転んで欠伸をした。

 無論、環さんは憤慨した。

 

 



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四話・狐の掟

 

 

 僕の願いを叶えるべく、環さんが打ち立てた方策は以下の通りだ。

 

「恋文じゃ! 歌を詠むのじゃ!」

 

 それはかつて僕が惨敗を喫した方法とまるで同じだった。恋慕の情を紙にしたため、相手の目の前で朗読しろというのである。この恐るべき自爆特攻作戦に対して、僕は当然のことながら猛烈に抗議した。

 

「そんなんで上手くいくはずがないでしょう」

「何故そう言い切る」

「恥ずかしい話ですが、僕は昔、それをやって玉砕したことがあります。経験者なんです。あんなものは、人生に汚点を残すだけなんですよ」

「それはお主の恋文が下手だったのじゃ」

 

 思い出すことすら憚られる僕の黒歴史は、環さんに一刀両断された。詳しく知りもしないのに何故か自信たっぷりに断言され、僕は愕然とする。ラブレターを朗読するのが駄目なのだとばかり思っていたが、まさか手紙の内容がいけなかったとは。目から鱗の新境地であった。そんなわけあるか。

 

「恋文が上手ければ女はころっと落ちる」

「落ちません」

「儂を信じろ。筆と紙は持っとるか」

 

 環さんは実に強引だった。僕は言われるがまま、学生鞄を漁ってノートと筆箱を取り出す。表紙に『自習用』と書かれた罫線ノートは最初に漢字の書取りがしてある以外は真っ白だ。僕の怠慢の証である。シャープペンを渡すと「なにこれ!」と環さんは面白がった。

 

「変な筆。いや、筆かこれ。どうやって墨を吸わせるんじゃ」

「上の部分を押すんです。墨ではなく黒鉛で書きます」

 

 ノートに書いてある漢字を見せると、環さんはそれを真似して同じ字を書き始めた。

 

「わっ、細いのう」

「便利でしょ」

「うむ。しかしお主の字は下手くそじゃのう」

「それは言わんでください」

 

 初めて扱うシャープペンの感触が楽しいようで、環さんは落書きし始めた。何か御利益のあるお札のような呪文でも書くのかと思いきや、へのへのもへじや棒人間を描いている。完全に子供の所業であった。

 

「これ面白いのう。スラスラ書けるぞ」

「気に入ったならあげますよ」

「いいのか!?」

「二本持ってますからね。また百均で買えばいいし。そのノートもどうぞ」

「うーん。儂としては嬉しいが」

 

 まるでトランペットを貰った少年のようにきらきらとした目でペンとノートを見つめる環さんだったが、申し訳なさそうに眉根を寄せて聞いてきた。

 

「本当にいいのか? 自習用とか書いてあるけど」

「そこは気にしないでください」

 

 

 

 

 

 

 誠に残念ながら、環さん主催の恋文技術講座がまるで進展しなかったことを謹んで申し上げなければならない。

 

 僕らは落書きに熱中するあまり、当初の目的を完全に忘れていた。鉛筆と紙さえあれば無限に遊べた子供時代を追体験するような魅惑的な時間だった。その内容は○✖️ゲームや迷路作りなど様々である。特にノートの見開き半分ずつをお互いの陣地として、棒人間を戦わせる遊びは白熱した。

 

 争いは苛烈を極め、無法地帯と化した紙面はあっという間に惨憺たる状況となり、その度にページをめくっては血で血を洗う戦争を再開する。

 僕が現代兵器を用意すると環さんは「ずるい!」と言って怒る。逆に雷神だの風神だのを召喚して天変地異を起こされた僕が「ずるい!」と抗議したら、環さんは「問答無用!」と呵呵大笑した。

 

 そんなことをしている内に外が暗くなり始め、僕らは肝心の恋愛相談がまったく進んでいないことに気付いた。

 

「夕焼けじゃあ」

 

 環さんが空を見上げて呆然と呟いた。思考停止しているその顔は、まるで竜宮城から帰ってきた浦島のようである。

 

 強い風が吹いて、広げてあるノートをパラパラとめくる。そこにはもはや白紙のページなど一つもなく、僕と環さんの戦いの記録がぐちゃぐちゃに刻まれている。見返すと当人である僕たちでさえ何が書いてあるのか分からない。二人とも絵心は皆無だった。

 

「しまった。紙が無くなってしまった」

「いいんですよ。ノートくらいまた買えばいいんですから」

 

 僕がそう言うと、環さんはこっちを向いて目をパチクリとさせた。

 

「前から思っておったが、お主の家は相当な金持ちなのか?」

「え、違いますけど。なんでそう思ったんですか」

「毎回珍しい食い物を持ってくるし、筆や紙といった貴重品をほいほい他人にあげていたら、誰でもそう思う気がするが」

 

 一瞬言われた意味が分からなかった。ややあって、環さんが人間とは比べ物にならないほど長い時を生きている狐だということを思い出し、凄まじいジェネレーションギャップを感じた。紙が高価だったのっていつの時代だろう。

 

「環さん、現代ではどっちも安くなってるんですよ」

「そうなのか? いくらなんじゃ」

「これ二つとも百円くらいですね」

「百円!?」

 

 僕が答えた瞬間、環さんは目をむいて驚愕した。今度はなんだ。

 

「どこが安いんじゃ……やっぱり大金持ちではないか……」

 

 百円が大金らしい。からかわれているのかとも思ったが、どう見ても冗談を言っている様子ではない。大真面目に慄いている。

 

「環さんって今の元号知ってます?」

「昭和!」

「令和です」

 

 即答で間違いが返ってきて、僕は納得した。環さんの中の時代は百年近く前で止まっているようだ。聞けば、それくらいからこの神社は廃れ始め、やがて神が拗ねて不在になったという。神威が無くなった神社からは遂に参拝客の足も途絶え、環さんは浮世の事を知る術を失ったのだとか。

 

 しかしよくよく考えてみると、僕は百日間もの間、賽銭を投げていたではないか。賽銭箱には少なくとも五百円は溜まっているはずである。環さんはその辺りの確認はしていなかったのだろうか。

 

 そのことを伝えると、環さんは首を傾げた。

 

「御百度参りで僕が毎日お賽銭を入れていたでしょう」

「うん。あの穴のあいた小銭じゃろ。てっきり五銭とか十銭だと思っておったが」

 

 財布から五円玉を取り出して「これです」と手渡すと、環さんは硬貨の表裏をしげしげと興味深そうに観察した。本当に五円玉を間近で見たことがないらしい。

 

「はあ、細かいのう。こうも緻密に稲穂の絵を掘るとは、時代も進んだものじゃ」

 

 現代の鋳造技術に感心の声を漏らす。小銭やシャープペンでこれだけ反応を示すのだから、百貨店にでも連れて行ったらどんなに面白いことになるだろうと僕は思った。

 

「賽銭箱を開けて確かめたりはしなかったのですか」

「儂にその権利は無いからなあ。許されておらんのじゃ。触ろうとすると、こう、バチッてなる」

 

 電気でも通っているのかと思い賽銭箱を触ってみるが、別にどうってことはない朽ちた木の感触だった。ただの人間と神社の狐とでは勝手が違うのだろうか。

 

「金があっても外へ出られるわけではないし、こうして客が来ない限りは暇で仕方がないわい」

「ああ、まあその尻尾や耳では目立ちますね」

 

 彼女の特徴的な部分を見て納得する。しかし環さんは「いや」と言って何の前触れも無く、ポンっと耳を消してみせた。僕が唖然としている内に、尻尾もみるみる縮んでいき、服の中に消え入ってしまった。

 

 気付いてみればそこには、どこをどう見てもただの人間の少女が立っていた。金髪や和服は変わらないが、彼女のアイデンティティとも言っていい狐要素はその痕跡すら無かった。

 

「人に化けることなど造作もないぞ。耳や尻尾を出したままにしていたのは、そっちの方が楽だからじゃ」

 

 初めて会った日、頭を撫でさせてもらった時以来に環さんが人外である証拠を目の当たりにし、僕は言葉が出ない。

 環さんはそんな僕を尻目にすたすたと歩いて行き、鳥居の前でふと立ち止まった。

 

「出られぬというのは、そのままの意味じゃ。儂がこの神社の敷地から出ることは叶わぬ。そういう決まりなのだ」

 

 環さんが鳥居の外へと手を伸ばす。しかしその手は見えない壁に阻まれるかのように、そっと宙空に添えられるだけだった。撫でる軌跡は滑らかで、一流のパントマイマーもかくやと言うべき真実味を帯びている。

 

 馬鹿なと思い、僕は走り寄って鳥居を越えてみるが、当然そこに壁など無い。何にもぶつかることなく境内から出るだけだ。試しに環さんの手を取る。

 

「ちょっと、失礼します」

「無駄じゃぞ」

 

 外から環さんを引っ張ろうとしたのだが、彼女が言う通り、一定以上鳥居を越えようとすると環さんだけが見えない何かに弾かれて、繋いだ手もするりと解ける。信じられずもう一度試させて欲しいと言ったが、環さんは「やるだけ無駄じゃ」と踵を返して社の方へ戻ってしまった。いつの間にか耳と尻尾も元通り生えている。

 後に続いて、僕も社の縁側に再び腰掛ける。

 

 神社から出られない。あまりに常識からかけ離れた出来事だが、今しがた体験したのは確かに現実のことだった。まだ燻る疑心に蓋をして考えた時、次に僕の頭に浮かんだのは、環さんがここにいる年数だった。

 

 彼女の価値観は最新でも昭和の初期あたり。そこから先の世情に疎いのは、この神社が廃れ、環さんの同僚や仕えるべき神様がいなくなってしまったからだ。ならば、環さんが過ごした孤独の時間は…………。

 

「無用な心配じゃ」

 

 隣に座る環さんは僕の方を見ずにそう言った。

 

「晴人が感傷に浸るようなことでもない。気にするな」

「……心を読みました?」

「まさか。読むまでなく分かるわい」

 

 彼女の表情には喜怒哀楽のどれも浮かんではいない。泰然としたその横顔は、いつになく大人びて見えた。

 

「儂は自分で残ると決めた。だから今もここにいる。それだけの話じゃ」

 

 僕はふと、鳥居の側に向かい合って佇んでいる狐の石像の方を見る。片方は古ぼけてはいるが狐の形をそのまま保っており、もう片方は所々が崩れて見るも無残な状態となっている。

 

「環さんの他にもう一人、この神社に仕えている狐がいたと言っていましたよね」

「ああ。それは儂の姉でな。神と一緒に天界へ帰った」

「じゃあ環さんも、望めば帰れるってことですか」

 

 そう聞くと、環さんは「いいや」と首を振る。

 

「まあ、帰れるが、まだその気はない。意地を張って残った手前、おめおめと引き下がるのも格好が付かんしな。それに…………」

「それに?」

 

 考え込むように言葉を区切った環さんに話を促すと、彼女は僕の方を向いて微笑みを浮かべた。それはまるで母親が我が子を慈しむような、優しい笑い方だった。

 

「お主の願いをまだ聞き届けておらん。このような寂れた神社に百日間も通い続けたんじゃ。以前も言ったと思うが、そんな者の願いを無碍にしては、それこそ儂の面目が立たんからな」

 

 僕は何も言えなかった。彼女の目を真っ直ぐに見れない。環さんがその笑顔の奥底で何を思っているのか見当も付かない僕では、彼女の意志に答えるための言葉を持たなかった。

 

 きっと同情なんてするべきではないのだ。環さんは自分で選んだと言う。僕のような凡百の人間が抱く浅はかな同情は、彼女の誇りに泥を塗るだけなのかもしれない。人には人の価値観があり、それはおいそれと言葉にできるものではないし、ましてや他人が無闇に口を挟むものでもない。そのくらいの常識は若輩の身であろうと持っているつもりである。

 環さんには環さんの事情がある。

 だからきっと、彼女の心に踏み込むべきでは、ないのだろう。

 

「……晴人、どうした?」

 

 黙りこくってしまった僕はを気にしてか、環さんが覗き込んで来る。まん丸な彼女の瞳に見つめられ、僕は曖昧に微笑む。

 

 その時、僕は唐突に閃いた。それは天啓とも言うべき落雷に打たれたような歓喜的な思い付きであり、今しがた心に燻っていた暗澹たる靄を晴らすに十分だった。

 

「ねえ環さん。昔の環さんはもっと強力な霊狐だったんですよね?」

 

 僕がそう聞くと、環さんは「無論である」と威張った。

 神格とは環さんたちの存在意義そのものであり、里全体が信仰に満ちていた頃の環さんたちの存在感は今とは別格だったらしい。行動範囲も広く、神社だけでなくもっと遠くの場所まで好き勝手に出歩けたという。この神社にいた神はそもそも周辺の山も含んだ里全体の豊穣神であり、その従者である環さんもまた相応の立場にあったというわけだ。

 

 里の山々を自由に駆け回っていた日々のことを自慢げに話し始める環さんに、僕は質問を重ねた。

 

「じゃあ、色んな神通力とかも使えたんですかね」

「うむ。そりゃあもう凄かったぞ。全盛期であれば豊穣のみならず、畑違いの縁結びだろうが下駄の鼻緒を結ぶが如くチョチョイのチョイであった」

「それです!」

 

 身を乗り出した僕に環さんが驚いて固まる。彼女が以前にも言っていたことだ。今では力が衰えてしまったと。それならば取り戻せば良い話ではないか。

 

「この神社にまた信仰が集まれば、環さんも力を取り戻せるんじゃないですか」

「むむむっ」

 

 僕の言いたいことが伝わったようで環さんは顎に手を当てて考え込む。今、彼女は脳内で僕と同じ思考プロセスを辿っている筈である。

 

 現状、環さん一人の力では手詰まりだ。神社は廃れたまま、見向きもされることはないだろう。しかしそこに外部者である僕の協力があればどうか。きっかけさえあれば、事態は一変するに違いない。

 

 神社に信仰が集まれば環さんの力が増す。その力を使って名声を広めれば、さらに神社に人が集う。僕はその信仰インフレーションの恩恵にあずかって理想の恋人を得る。そうして僕たちカップルをモデルケースとして遂に神社の威光は日本全国にあまねく広がり、我も我もと氏子になりたがる人々が続出して環さんは献金の風呂に浸かれるほど儲かるのである。もちろん協力者である僕の懐も潤うだろう。素晴らしいではないか。

 

 やがて顔を上げた環さんの瞳はキラキラと輝いていた。僕たちは見つめ合う。言葉を交わさずとも、それだけで僕たちは互いの意見の一致を悟った。

 

「天才じゃ、天才の所業じゃ!」

「そうでしょうとも。僕は願い事を叶えられる。環さんも神社を再興できる。これこそwin-winの関係というものです」

「うぃんうぃんって何?」

「どちらにも利益があるということですよ。両得です」

「ほほう。うぃんうぃん」

 

 調子に乗った僕たちは立ち上がり「うぃんうぃん!うぃんうぃん!」とお互いを鼓舞するように叫んで拳を振り上げた。その間抜けな咆哮は駅向こうの商店街にまで響いたという。

 

「して、どうやってこの神社に人を呼ぶ」

 

 もっともな環さんの問いに、僕はあっけらかんとして答えた。

 

「それはまだ考えていません」

 

 「阿呆」という罵倒と共に環さんの非力なチョップが脳天めがけて飛んできた。僕にとってご褒美だったのは言うまでもないことだ。

 

 

 

 

 

 

 神社から出ると、茜色の空が目に眩しかった。遠くの方では西陽に照らされた積乱雲がマッターホルンのように聳えている。木々が茂っている神社からではあの景色は見れないな、と感慨深く思った。

 

 神社の周りの土地は田畑が多かった。『多かった』と言うのは、今はかなりの面積が埋め立てられているためだ。おそらくは住宅地になるのだろう。僕の地元は片田舎だが、街へ行くには便利な立地をしている。ここからなら駅も近いし確かに需要はあると思うが、砂利が剥き出しの土地を見ているとなんだか物悲しさを覚える。

 

 そこから離れれば民家が建ち並ぶ旧来の住宅地に入り、僕がいつも通学に利用する駅も見えてくる。駅前には古びた昔ながらのショッピングモールや小さな商店があり、風情のある街並みが今もなお色濃く残っているものだ。

 

 松葉屋という肉屋の前を通ると、揚げ物の良い匂いがした。ここのメンチカツは安い上にやたらと美味い。以前貢物として買って行ったら、環さんにも好評だった。小腹が空いていたのもあってそれを一つ買い、軒先のベンチに座って食べることにする。

 

 肉汁たっぷりのメンチカツをむしゃむしゃ食っていると、少し遠くの路地を歩いている女性が目についた。長い黒髪が遠目からでも美しく、背筋が見栄え良く伸びている。衣服がジャージというのが残念ではあるが美人には変わらない。

 眼福眼福などと思っていた僕だが、よくよく見てみるとどうにもその人に見覚えがある。と言うか見覚えしかない。

 

 小野町だった。ジャージを着て、犬を連れて散歩をしている。

 生活圏が同じなのでたまにこうして街中で見かけることはあるが、犬の散歩をしているのは初めて見た。部活もやりながら毎日犬の世話もしているのだろうか。学校の中でも外でも彼女は品行方正なんだな、と感心する。

 

 そんなことを何と無しに考えていた瞬間だった。

 ふと、小野町と、目が合った。

 

 心臓が跳ね上がる。小野町が横を向き、彼女を見ていた僕と視線がかち合ったのだ。僕たちの距離はかなり離れているというのに。何故、どうして。今からどのようなコミニュケーションをすれば紳士としての面目が立つ。最悪でもストーカーではないと信じてもらわなければ。

 

 一瞬のうちに様々な考えを巡らせていた僕を他所に、小野町は何食わぬ顔でふいと視線を外し、スタスタと歩いて行ってしまった。逃げられたのか。いや、表情からして僕に気づかなかったのだろう。確かに目が合ったと思ったのだが杞憂だったようだ。

 

 小野町の姿は建物の陰に隠れ、すぐに見えなくなる。無駄に焦って損をした、と思いつつ深く息を吸って吐く。

 

 彼女の顔を見て、僕は一つ思い出したことがあった。小野町の勉学の成績についてだ。中学校の頃から何かと秀でている彼女だが国語、特に古典に関しては無類であり他を寄せ付けぬほどの好成績を維持し続けていると聞く。高校に入ってからも国語と言えば小野町であると有名なものだ。

 

 しかしこの度、僕は彼女に勝たねばならぬ。それが環さんと固く誓った神社再興計画の足掛かりとなるからだ。小野町と張り合うのは色々な意味で気が進まないが、男にはやらなければならない時がある。あるらしい。環さんからそう言われた。

 

 すでに街灯の明かりが映えるほど夕闇が濃くなっていた。僕は急ぎ残りのメンチカツを食べ切ると、足早に帰路に着いた。早く帰って勉強しなればならない。

 

 全ては輝かしい青春を手にするために。環さんが縁結びの力を持つために。

 

 その先駆けとして、学問の神と崇められるようになってもらう必要があるのだ。

 



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五話・苦手なあの子

 

 

 

 視界の隅で紅葉の葉がひらひらと舞い落ちる。

 僕は古びた社の縁側に正座していた。緊張を堪えて固唾を飲み込む。

 

 僕の目の前には狐の耳と尻尾を生やした少女が胡座をかいており、数枚の原稿用紙に綴られた文章を黙々と読んでいる。少女とはもちろん、古くからこの廃神社にいるという狐の環さんのことである。

 いや間違えた、霊狐だ。ただの狐と一緒にしてはいけない。怒られてしまう。自分では一介の狐だとか言うのに、僕がそう呼ぶと怒るんだこれが。

 

 環さんは原稿用紙に目を走らせながら「うむ、うむ」と時折、神妙に頷く。今、環さんが読んでいるのは僕が書いた作文である。それもただの作文ではなく、古典文学の素養に裏打ちされた平安貴族を彷彿とさせる雅な小説。甘味と見紛うほどに甘ったるい恋愛短編だ。

 何故、満足な教養も文才も無かった僕がそのようなものを書いたのか。その全ては神社復興計画のためである。

 

 信仰を集めて環さんの力を取り戻し僕の悲願を叶えてもらう。それが本計画の目標だ。

 しかし言うが易し、行うは難しがこの世の常である。

 環さん曰く信仰にも種類があり、それ如何によって使える力が違ってくるらしい。豊穣の力を振るうにはそもそも豊穣神として祀られている必要がある。縁結びを行うにも同様で、縁結びの神として下々に名が知られていなければならない。人の願いとは種々様々であり、その数だけ神もおわすというわけだ。八百万とはよく言ったものである。

 

 稲荷狐の環さんは豊穣を司る。より正確に言えば豊穣を司る神に仕えていた。縁結びは畑違いもいいところであり、さらにこの神社の窮状も考えると環さんが男女の赤い糸をちょいちょいと弄れるようになるのは果てしなく険しい道のりである。

 

 そこで僕たちは話し合った結果、縁結びの先駆けとして学問における信仰を勝ち取ろうという結論に至った。

 はじめ、環さんは「嫌じゃ嫌じゃ」と駄々をこねた。自分の専門分野である豊穣で身を立てられないのが気に入らないらしい。

 しかしそうは言っても現代は飽食の世である。神の恩恵を与えられるまでもなくそうそう食うに困らないのだから、集まる信仰など皆無に等しいだろう。そもそも以前から環さん自身が、今では農耕であろうとそう大した力は振るえないと嘆いていた。落ち込んだ彼女の機嫌を取るために僕はメンチカツを買いに松葉屋へ走ったものだ。

 

 一足跳びに縁結びの神社として有名になるのも至難の業である。僕たちはどちらも恋愛なるものに対して全くの無知であり、どうすれば男女をくっ付けられるのかなどらいくら考えたところで分からない。これについては大いに激論を交わしたが、結局は僕が誇大妄想の持論をぶちまけて環さんをドン引きさせるだけとなり、何も得ることのないまま会議は自然消滅した。あの時の環さんの冷たい視線はなかなか忘れられない。

 

 そうこう話して僕が最後に提案したのが、まずは学問の信仰を得ることだった。僕と同年代の若者にとって何が重要なのか考えてみれば自ずと勉強に行き着いた。

 もっと具体的に言うと受験である。時に受験戦争とすら呼ばれるそれは高校生の恐怖の対象だ。無論僕も恐怖している。僕には姉がいて、昨年から他県の大学へ通うために家を出たのだが、大学受験が近づくに連れ大らかだった姉から余裕が失われていく様を目の当たりにして戦慄したものだ。当時高校一年生だった僕は姉の焦燥ぶりから、あまり難しい大学は受けないようにしようと思った。今もそう思っている。人生に最も大切なものは心の余裕である。その余裕を活かすかどうかは些細な事だ。

 

 閑話休題。

 とにかく、受験とはほとんどの若人が通る茨の道であり、現代でさえ藁にもすがる思いで神頼みに走る輩が絶えない。僕はそこに狙いをつけた。願えば実際に学力が上がる神社なんかがあれば千客万来、信仰も捨てるほど集まるに違いない。

 そうして若い男女が次から次へと来れば、結ばれる仲もあろう。他人の恋路を取り持つようで甚だ不服だが、これも将来の布石と思うしかない。

 

 方法は至って単純だ。僕がテストで良い点数を取り、それがこの神社に願ったおかげだと宣伝して回る。SNSにも書き込む。噂を聞きつけた何人かがお参りに来て、その中には本当に成績が伸びる人もいるだろう。それはもちろん御利益などではなく、当人の努力の賜物だが。

 願い通りテストの点数が上がれば「あの神社は本物だ」と信仰に目覚めるに違いないし、それほど変わらないかむしろ下がってしまった人たちは「神頼みなんてそんなもん」と割り切るだろう。人とはそういうものだ。

 評判は評判を呼び、いつしか環さんは本当に学問の神格を得て、道に迷える受験生達を片っ端から合格に導く。僕もその恩恵に与って悠々と進学する手筈だ。我ながら惚れ惚れする完璧な計画である。

 

 しかしここにも関門があった。僕は勉強が全く出来ないのである。即ち良い点数が取れず、完璧だったはずの計画は土台から崩れることとなる。真面目に勉強しなさいよ、と言われればぐうの音も出ないが、人間には得手不得手がある。こればかりはどうしようもない。どうしようもないのである。

 万策尽きたかに思われ、途方に暮れた僕の顔を上げさせたのは環さんだった。彼女は項垂れる僕の頭を撫でて言った。

 

『勉強なら儂が教えてやる』

 

 この環さんの発言に対して僕は思った。無理でしょうと。とても彼女が高校レベルの教養を有しているようには見えなかった。

 しかし、聞けば環さんら霊狐は神に仕えるべく相応の教育を施されてきたらしい。つまり生え抜きのエリートだ。例によってエリートという言葉が分からなかった環さんに意味を教えると「そう、儂はエリート」などと威張っていた。少なくとも彼女から英語を学ぶことはできそうにない。

 

 何が出来るのかと問えば、詩に書き物、算盤(そろばん)や他様々な芸事が得意だという。芸事は全く勉強には関係ないし環さんご自慢の算盤では高校数学に太刀打ちできない。

 

「これが今時の算盤です」

 

 スマホの電卓アプリを開いて見せると、環さんは何が何やらといった様子で目を白黒させ、無闇やたらにポチポチと弄るばかりだった。

 

「変な文字ばっかりじゃ」

「漢数字じゃなくてローマ数字ですからね」

「これはなんじゃ」

「三角関数です。サインコサインタンジェント」

「わからん! 全然わからん!」

「実は僕もよく分からないです」

 

 このような調子だったから、理数系の壊滅は早くも確定してしまった。数学物理英語世界史エトセトラ、絶望は枚挙に暇が無い。

 その中で一つだけ期待が持てそうだったのが古文だった。環さんは数百年前から生きており、お母さんからは古典文学や和歌の作法を叩き込まれたという。そのことを踏まえると、彼女以上に古文の教師としての適任はいないだろう。

 目指すは一点突破。成績下位の僕が古文であらゆる猛者を押しのけて一位を取り、この神社の威光を知らしめるのである。本当なら全科目の底上げを目指すべきだが贅沢は言えない。むしろ贅沢は敵だ。僕は日本人らしく清貧を重んじる。

 

 そうして僕は彼女に師事を仰ぐこととなった。文法が間違っている、言い回しが雅ではない、と繰り返されるダメ出しの末に一月が経ち、ついに中間テストを控えた最終試練へと漕ぎ着けたのである。

 

 環さんは僕の古典的掌編を黙読している。膝の上で握った拳に汗が滲む。体感で長い時が流れ、僕が痺れを切らしそうになった頃、ようやく環さんは食い入るように見つめていた紙束から目を離した。凛とした瞳がこちらに向けられる。

 

「いかがでしょうか」

 

 不安と期待で上擦りそうな声を抑えて尋ねる。僕の問いに、環さんは大きく頷いてにっこり笑った。

 

「素晴らしい。非の打ち所がない。これをもって晴人を免許皆伝と認める」

「し、師匠……!」

 

 約一ヶ月の苦労が報われた瞬間であった。環さんからのお墨付きをいただくことに成功したのである。

 

 僕と環さんは熱い抱擁を交わす。男女間における甘ったるさや気恥ずかしさなどは皆無で、僕たちの間には苦楽を共にすることでしか築けない強い絆が芽生えていた。

 

「良くやった。たった一月でほんに良くやった。これでこの神社の未来は安泰じゃ」

「はい、必ずや参拝客を呼び込んでみせます」

 

 僕はやおら立ち上がる。気炎万丈、総身に力が漲っている。感情の赴くままに環さんを抱え上げてくるくる回ると、彼女も幼児のごとく「きゃー」と言って喜ぶ。最高だ。雰囲気に任せればこんなことも出来てしまう。僕は環さんと回りながら大変に感動した。

 

 ひとしきり高い高いをして満足した後、降ろされた環さんは何処にあったのか火打石を持ち出し、背伸びをして僕の肩あたりでカチカチと鳴らした。背中に火を付けられるのかと驚いたが、ドラマなどで見たことのある古風な見送りの儀式であることを思い出し恭しく受け入れた。

 

「では行け、晴人。今までの努力を信じ、大望を成し遂げるのじゃ!」

 

 背を叩かれて邁進する。斯くして僕は、環流和歌道の免許皆伝となったのである。

 無論、門下生は後にも先にも僕一人だけだろう。

 

 

 

 

 

 

 上述の茶番から一週間が経った日のことだ。

 

 季節が流れるのは早いもので、あれだけ鬱陶しく思っていた夏は瞬く間に秋にとって変わられた。残暑も過ぎ去り、明け方には肌寒さを覚えるようになった十月の中頃。二学期における中間テストの結果が出て、教室内は阿鼻叫喚と気色満面の二極に分かれ、いつもの数割増しで賑わっている。

 

 定期考査、つまり期末や中間期に行われるテストは学生にとっての一大イベントと言っても過言ではない。体育祭や文化祭など青春を彩る行事は数あれど、それらと比較しても何ら遜色ない話題性を持つ。

 

 僕の通う高校は三学期制で、学年末テストも含めて一年のうちに計五回行われる。五回もだ。他の行事は一年に一回なのに、何故テストという苦行のみがそんなにも頻繁に催されるのか不満でならない。

 

 数学の意味不明な図形や方程式、歴史の年号、英語のイディオム、国語のあやふやな記述問題。多種多様な関門が僕の前に立ち塞がり、毎度毎度いじめ倒してくる。いい加減にして欲しい。しかも順位付けまでしてこちらの劣等感を煽るとは、なんと意地の悪い仕組みであるか。日本が競争社会と言われる由縁は全てここにあると僕は断ずる。持つ者と持たざる者は相容れず、いつか争いを起こすことは歴史が証明しているではないか。すなわちテストとは戦争の火種である。テストを無くせ。世界平和に貢献しろ。

 

「晴人、どうだった」

 

 伊藤が採点を終えて返ってきたテスト用紙を持って、僕に尋ねてきた。いつものことながら彼の顔は青い。おおかた勉強よりも筋トレに勤しんでいたのだろう。偉丈夫がテストの点数にしょぼくれて小さくなっている様は何度見ても見慣れない。

 

 伊藤に聞かれた僕は、自分の成績表に目を移す。常であれば、そこには友人のことを笑ってなどいられない非情な現実がある。そう、常であれば。

 いつもは苦手な理数科目でも赤点を回避できたのが唯一の救いといった有様だ。しかし今回は一科目に限り異様に点数が高い。国語、その中でも古文は満点だった。他が爆撃された都心のように悲惨な状況の中で、ただ一科目が摩天楼のごとく圧倒的存在感をもって聳え立っている。学年別、クラス内共に堂々の一位を取っていた。

 

「なんという一極集中」

 

 隣で僕の成績表を見ていた伊藤が呆れとも感嘆ともつかない声を上げる。僕はニヤリと笑う。

 

「なんで国語だけそんなに頑張ったんだ?」

 

 伊藤の質問に僕はふんぞり返った。目標を成し遂げた自負心が胸の内から滔々と湧いて尽きることがない。鼻高々、ピノキオの如くどこまでも伸びていくかに思われた。いやあ困った困った。

 

 正直なところ、環さんの指導に疑問を抱いたのは両の指で数え切れない。なにせ文学の基本だとか言ってテスト範囲外のことばかりやらせるのだ。そればかりか教科書にある問題集など放ったらかし、独特な修行法を授けてくる始末。その最たるものが前述した短編小説の作文である。

 

 しかし蓋を開けてみれば、特訓の成果は明らかだった。環さんと過ごした今は懐かしの日々が脳裏を駆ける。落書きで遊ぶ合間に差し挟まれるその講義は実にスパルタ的で、僕の腑抜けた集中力を無理やり引き出させ、海馬にあらゆる古典文学の教養を叩き込んできた。

 結果として活用形は骨の髄にまで染み込み、僕の古文IQは指数関数的に上昇した。しかもそれだけに留まらず、環さんは「文に隠れた心情を読み解く力も必要じゃ」などと言って源氏物語を暗記させ、登場人物や筆者の意図を巧みに汲み取ることを命じてきた。付随して読解力も稲穂のごとくメキメキと伸びた結果が今回の総合得点として表れている。

 

「知りたいか伊藤。鯉の滝登りのように劇的な伸びを見せた僕の国語力の秘密を」

「あ、ああ。なんだいその口調は」

「まあ聞き給えよ。あることをするだけで、お前だって古文の点数が良くなるのだから」

 

 伊藤は謎に踏ん反り返っている僕に気圧されながらも、興味を隠しきれない様子で話の先を待った。あまりにも学業成績が悪いとトレーニング器具を一切合切親に取り上げられてしまうらしい。彼にとっては死活問題なのだろう。

 

「神頼みだ。僕の地元に神社がある。そこでお参りすれば良いんだ」

 

 僕は伊藤にだけでなく、周りにも聞こえるようによく通る声で言った。ここが宣伝のしどころだ。近くにいたクラスメイト達がちょっとした変人を見るような目を向けてくるが、注目されているならば良し。少しばかり僕の評判を落とそうとも、ここで尻込みしてはいけない。

 

「僕は春先から夏休みにかけて百日間、お参りを欠かさなかった。もちろんテスト前の勉強もするにはしたが、一位を取れたのは神のご加護があったからに違いない」

「晴人、ちょっと声が大きくないか」

「なあに、一科目とは言え一位を取れたんだから気分が良いんだ。一位を取れたんだからな。はっはっはっ」

「お、おお、そうか」

 

 執拗に順位を念押しする僕に、伊藤は軽く引いている。引かれては困るが、しかし今の僕にある武器はこの古文の成績だけだ。環さんとの二人三脚の賜物であるこれをアピールしていかないことには始まらないのである。

 僕は及び腰の伊藤の肩をがっしり掴んで引き寄せた。

 

「伊藤もぜひお参りに来い。結果は必ず出る」

「いや、俺は別に神様とか信じてないし……」

「よく考えてみるんだ。この僕が学年一位を取ったんだ。この僕がだぞ。 それなのに欠片も信じられないと言うのかい」

「うーん。そう言われてみれば」

 

 伊藤、押しに弱い男である。すでに靡きかけている。しかしその決定打が僕の普段の成績の低さだというのは憤懣やるかたない話だ。僕の学力が向上することにおいて、努力よりも神頼みのおかげと言う方が説得力があるということではないか。嘆かわしい。

 だが今は好都合と思おう。周囲の興味は引けている。

 

「晴人の地元っていうと、あの大きな神社のことか。うちも正月は家族で初詣に行くよ」

「いや、違う違う。別のところ」

 

 僕は慌てて言った。僕の町には環さんがいる廃神社の他にもう一つ大きな神社があり、こちらは参拝客の足が絶えない立派なものだ。どうやらその神社の方が環さんの所よりも随分後になって出来たらしく、環さんは悔しそうにしていた。「うちの方が古いから偉いのに」とぐずる幼児のようだった。

 

「駅の東口から降りてまっすぐ行くと広い田んぼとか畑があるんだよ。今は埋め立てられてるけど。その奥の方にボロっちい神社がある。背の高い木が生えていて薄暗くて気味悪い感じの。僕が言ってるのはそっちのことだ」

 

 我ながら、環さんが聞いたら怒りそうな説明である。まあ、あの神社の特徴としてはそう言う他にない。

 僕の説明に「暗いのかあ」と伊藤は渋面をする。どうしたのかと聞くと呪われたり幽霊が出ないか心配らしい。学内随一の身長を誇る男にしては何とも情けない話だが、筋肉信奉者だから物理が効かない手合いが怖いのは仕方のないことかもしれない。それなら僕が一緒に行ってやると言うと伊藤は大変喜んだ。乙女かお前は。

 

「しかし一科目しか点数が上がらないってどういうわけだ」

「そういう神様だからな。古文の神様だ。他にも日本史と、算盤とか書道とかを司っている」

「ニッチだなあ」

 

 まあそれでテストの点が上がるなら、と伊藤は割と乗り気になっているらしい。まずは信者候補を一名確保できたわけだ。

 さて、伊藤は良しとして、他にも誰か勧誘しておきたいところである。そう思って教室内を見ました僕の目に、小野町の姿が止まった。他の女子たちとテスト結果を持ち寄って話している。

 

「え、小野町さん今回二位なの?」

 

 聞こえてきたその声に、僕は口角が上がりそうになるのを堪える。今話題に出ているのは間違いなく古文のことだ。周りにいる女子たちが騒ぐごとから、如何に小野町の成績が盤石であったか分かるというものだ。そんな彼女を下したという事実を殊更実感し、僕は悦に浸った。

 

 しかし愉悦の時間はまたたく間に過ぎ去った。

 

「ねえ、稲里君が満点だったんだってさ」

「ウソ、マジで?」

 

 女子たちの注目がこちらに向く。もちろん小野町も。瞬間、僕は蛇に睨まれた蛙の如く硬直し、額からはガマ油のような汗が滲み出る。出来たことといえば咄嗟に顔を背けたくらいだ。

 いや、落ち着け。ここはアピールポイントだ。ゆくゆくは縁結びの信仰を得るためにも男女問わず神社の名を売り込まなければならないのだ。臆してはいけない。僕は環さんの使者としての覚悟を固める。

 

「こっちに来るぞ」

 

 伊藤の言葉にハッと顔を上げれば、小野町の友人が確かに此方へまっすぐ歩いて来ている。何故か小野町本人も連れて。固めた覚悟が一瞬にして砕け散る。

 まずい。小野町は対象外だ。何故なら元から成績が良い。彼女を勧誘するメリットは皆無である。

 まさか一位の座を取ったことに難癖を付けてくるとは思わないが、何かしら会話をすることは必然であり、そうなると非常に困る。小野町と関わることはすなわち自分の黒歴史と向き合うということ。彼女には全く非がないが、僕にとっては立派な拷問である。

 

 そもそも僕は長らく女子と話していない。経験がない。例外で環さんがいるけれど、彼女と話せるのは奇抜な出会いによる距離の近さと、環さんに独特の親しみ易さがあるおかげだ。周りに他のクラスメイトもいる中でまともな会話すら成り立たせられず、醜態を晒すことだけは何とかして避けたかった。

 

 どうする。どうすればいい。

 

 僕は藁にもすがる思いで伊藤を見た。伊藤の巨体と厳しい面構えによる威圧感は彼の持つ数々の武勇伝が保障している。不良も恐れて近付かぬ彼を盾にすれば、この窮地を乗り切れるやもしれぬ。

 

「あ、ちょっとトイレに行ってきます」

 

 僕と一瞬視線が交錯した伊藤は、そう言って足早に立ち去ってしまった。女子にビビりやがった。裏切り者が。

 

「稲里くん」

 

 伊藤の後を追うべく僕が慌てて腰を浮かせたのと、隣に立った女子に名前を呼ばれたのは同時であった。振り向けばそこには当然、小野町の友人が面白そうに此方を見ており、その後ろには小野町がいる。

 

 こうなっては観念する他にない。僕は求められるままに成績表を見せるしかなかった。

 

「わあ。一極集中してる」

 

 小野町友人が伊藤と全く同じ感想を述べる。

 僕は早く終わってくれと思いながらも、小野町の様子が気になってチラリと彼女を見た。すると例によって視線がかち合い、慌てて目をそらす。彼女も成績表の方を見ているだろうから大丈夫と踏んだのに、とんだ誤算だった。

 

 一体、小野町は僕に対してどのような感情を抱いているのだろう。実に気まずい。伏せた顔を上げられない。下手に関わって、ストーカー疑惑がいよいよ現実のものとなったら僕は学校にいられなくなるのではないか。

 少なくとも、僕が彼女のことを気にしていつもジロジロ見ている、と思われているのは十中八九間違いないだろう。それほどまでに視線の交わる回数が多い。向こうが見てこなければ目が合うことは起こり得ないので僕だけの責任ではないはずなのだが、客観視すると僕に罪の比重が傾くから不思議だ。

 

「ねえさっき言ってた、神社にお願いしてたのってマジ?」

「え、あ、ああ、マジです。たぶん」

「ウケる。どっちよ」

 

 小野町友人の質問にドキリとして、変な受け答えをしてしまう。どうやらその辺も聞かれていたらしい。宣伝目的で声を大にして話していたのだから当然なのだが、まさかこうも自分の首を絞めることになるとは考えていなかった。

 壊滅的なコミュニケーション能力を今日ほど恨んだことは無い。一体どうしたら過去のしがらみから解放されて異性とまともに談笑できるようになるのか。全ては暗雲の中である。

 

 いや、逆境であるほど落ち着かなくてはならない。今からでも恋愛シミュレーションの如く適切な会話を選択してこの場を穏便に済ませるのだ。あわよくば小野町に対する僕のイメージアップにも繋げ、過去の精算をしてみせよう。それしかない。

 

 まずは正しい認識を持たねばならない。現状把握だ。僕は冷静になれと努めて己に言い聞かせ、状況の分析を試みた。小野町から見て今の僕はどのような人物に映るのか、今一度振り返ろう。

 

 中学の頃に奇天烈な告白をしてフラれ、それなのに何故か同じ高校に進学し、いつも遠くからチラチラと様子を伺い、万年成績下位だったのが唐突に小野町の得意科目で一位を取って威張り散らし、それが全ては神頼みによるおかげだと言う。しかも大声で。

 なんだその頭のおかしい男は。僕だった。死にたくなった。

 

 冷静な分析により勝手に致命傷を負った僕は、どう足掻いても覆せない絶望を垣間見て思考を止めた。小野町はよく僕を虐めたりしないなあ。偉いなあ。

 そんなことを考えていると「稲里君」と小野町が僕の名前を呼んだ。僕は目を伏せたまま「はい」と畏まる。

 

「稲里君の言ってた神社って、あの駅向こうの神社だよね?」

 

 小野町の問いに僕は頷く。彼女は地元が同じなので、そういった表現だけでも伝わるものだ。

 

「私、犬の散歩する時にあの辺りも通ることあるんだけど、稲里君ってこの前の夏休みの間、よくあの神社に行ってたよね。ずっとお参りしてたの?」

 

 僕は一瞬呆気に取られ、顔が火照るのを感じた。夏休みといえば御百度参りを強行していた時期だ。理想の出会いを求めて参拝していたことは知られていないはずだが、廃神社に通い詰めるという奇行をずっと前から知られていたとは、なかなかに恥ずかしい事実である。

 どう言い訳したものか。散歩が趣味で、そのついでに寄っていたとでも言うか。いや、ついさっき神頼みをして古文の成績を上げたと自分で豪語している。実に苦しい。

 

 会話に少しの間が空く。

 小野町は何か言うのを躊躇っている様子だ。きっと好意的な言葉は出ないだろう。もういい。帰ったら環さんに泣きつこう。馬鹿にされるだろうが、彼女ならその後に何やかんやで慰めてもくれるはずである。

 

 そんなくだらないことばかり考えていた僕にとって、小野町が告げた事実は衝撃的過ぎた。

 

「あの神社ね、無くなっちゃうんだって」

「は?」

 

 間抜けな声が出る。話を理解し切れないでいる僕に、小野町は「やっぱり知らなかったんだね」と同情するように言った。

 

「今度取り壊されちゃうらしいの。住宅地開発のためだって、うちのお爺ちゃんが言ってた」

 

 時間が止まった気がした。

 



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六話・諸行無常の響きあり

 

 

 

 自宅の最寄駅の東口から降りてしばらく真っ直ぐに行くと、住宅街を離れて田畑を埋め立てた開発地が広がっている。

 その真ん中、通い慣れた道を僕は駆け抜ける。運動不足の心臓がけたたましく暴れ、脇腹には鈍い痛みを感じる。しかし僕は足を止めずに走り続けている。走らずにはいられなかった。

 

『あの神社、取り壊されちゃうらしいよ』

 

 小野町の言葉が何度も脳裏に過ぎる。その度に言いようのない焦燥が胸を焦がした。せっかく古文のテストで一位を取ったのに、全てがこれから始まると思っていたのに、環さんが喜んでくれるはずだったのに。

 

 小野町の祖父は市議会議員を務めているらしい。この辺り一帯の住宅地開発を巡る会議において、前々から環さんのいる神社もどうするか意見が交わされてきたという。それで神主も居らず荒れ果てていることだからと、ついこの間取り壊すことが決まったそうだ。

 冗談だと思いたかったが、小野町が僕に対してそんな冗談を言う理由はない。話を聞いた直後、僕は強引に会話を打ち切って教室を飛び出た。廊下ですれ違った伊藤が何か声をかけてきたが、それを気にする余裕などなかった。後で無視したことを謝らねばならない。

 

 僕は少しでも早くこの件を環さんに伝えなければならないという使命に駆られていた。

 遠目に木々の生い茂る廃神社が見える。辺りはどこもかしこも綺麗に均された整地ばかりだ。環さんがずっと住んできた社までもが、こんな何も無い真っ平らになってしまうのかと思うと、胸が絞めつけられるような思いだった。

 感情の急くままに走り抜け、神社の石段を一段飛ばしで駆け上がる。

 

「環さん!」

「な、なんじゃあ!」

 

 僕が叫ぶと、絶賛木登り中だったらしい環さんは慌ただしく木から滑り降りてきてこちらに駆け寄った。

 呼んだはいいが、僕はしばらく何も言えなかった。ぜえぜえと乱れた息を整えるのに手一杯である。環さんはそんな僕を心配しておたおたしている。「大丈夫? 水飲むか?」と古びた柄杓に水を持ってきてくれた。いい子である。その水が雨水を溜めたものだと知っている僕は、環さんの気持ちだけを受け取っておいた。

 

「ははん。そんなに急いで帰ってきたと言うことはあれだな、吉報じゃろう。結果はどうだったんじゃ晴人や」

 

 僕が何か言う前に環さんは納得したようにうんうんと頷いた。テストの点を見せろと言う。

 呼吸が戻ってきた僕は、環さんの肩をガシっと掴んだ。びっくりする環さんに「そんな場合じゃ無いんです」と告げる。

 

「よく聞いてください。今度、この神社が、壊されてしまうらしいんです」

 

 僕は小野町から聞いた話を、環さんも分かりやすいように言葉を選びながら伝えた。最初は目をパチクリとさせるばかりだった環さんだが、僕が説明し終える頃には事態を理解したようで神妙な顔つきになっていた。

 しかし僕の予想とは違い、環さんはその話を聞いても別段驚いたり、悲しんだりしていなさそうだった。僕の話を聞いた後、最初に出た彼女の言葉は「そうか」とただ一言、あまりにも簡素であった。

 

「そうかって……無くなっちゃうんですよ、神社」

「うむ。困った」

 

 狼狽する僕とは対照的に、環さんはどこまでも泰然自若としていた。まるで困っているようには見えない。

 

「晴人には悪いな。せっかく頑張って勉強をしたというのに。無駄骨になってしまった」

 

 僕は環さんの言うことに現実味を感じられず呆けていた。彼女の口調はまるでもう、全てを受け入れているようではないか。僕にとってはそれが俄かには信じられなかった。

 

「まったく、お主の願いもまだ叶えられていないというのに。不甲斐ない限りじゃ」

 

 この人は、既に諦めているのだろうか。

 

「環さんはいいんですか、それで」

 

 僕が聞くと、環さんは「んー」て腕組みをして考え込んだ。僕はその仕草が、答えに迷っているものだと思いたかった。さっきの諦めたような台詞を撤回してほしかった。

 しかし環さんの表情から、単に言葉を選んでいるだけで答えは既に決まっていることを、僕は頭の片隅で分かっていた。

 

「良いわけではないが、どうすることも出来んじゃろう。来るべき時が来たと、ただそれだけのことよ」

 

 環さんはそう言いながら、鳥居の境に手をかざす。見えない結界に触れているのだろう。彼女は百年間、そこから一歩も外へ出たことはないのだ。

 

「まだ、判らないじゃないですか」

 

 僕の口から出た言葉には怒りのようなものが込められていた。自分で言って、自制しきれない不可解な感情に驚く。

 振り向いた環さんは、そんな僕に困ったような微笑みを浮かべた。

 

「お主は本当によく分からん童じゃ。腑抜ける時はとことん腑抜けなのに、意地でも譲らん頑固なところもある」

 

 ほら、こんな風に。

 

 環さんに言われて、僕はいつの間にか拳を固く握りしめていたことに気づいた。環さんは僕の手を取り、その白く細い指でやんわりと開かせる。

 

「少なくとも晴人がリア充になれば、儂も思い残すことは無いんじゃがなあ」

「今は、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」

「大切なことじゃよ。この神社の最期に来てくれた者の願いなのだから」

「最期って…………」

 

 環さんの口にする心残りはあまりにも細やかだった。本当にそれだけなのかと、胸の中でモヤモヤとした気持ちが燻る。

 

「ちなみに、この神社が無くなったら、環さんはどうするんですか」

 

 僕は分かりきっていることを聞いた。

 

「そりゃあ帰るよ。儂はこの神社の狐じゃもの。仕える場所が無くなるならば、儂も共に下界を去るのみじゃ」

 

 即ち、環さんは神様たちの世界である天界とやらに帰ってしまうのだ。そうなれば僕たちが会うことはもう無いのだろう。

 

 冷たい秋風が吹き、神社の傍にある赤い紅葉を散らした。一枚の葉がひらりと舞って、環さんと僕の足元に落ちる。環さんはそれを摘んでじっと見つめた。その瞳は穏やかで、しかし奥底に郷愁を忍ぶ色があるように思われた。

 

「少し夢を見た」

「夢、ですか」

 

 環さんがうむと頷く。

 

「お主と出会ったから、儂にとっては本当に楽しいことばかりじゃった。夏にラムネを飲んだように、秋には芋を焼き、冬には餅をつき、雪が溶けて春になれば桜の花を見る。いつまでもそんな時間が続く気がしていたよ」

 

 しみじみと語る環さんに、僕は不覚にも涙が出そうになった。彼女と全く同じ気持ちだったことを今になって知った。

 僕はどんな表情になっていたのか。環さんはこちらを見て恥ずかし気に苦笑する。

 

「いかんな。感傷が過ぎた。まあ、これも諸行無常の理の内じゃ」

 

 やっぱり寂しいんじゃないか。辛いんじゃないか。

 僕は今度こそ、自分の胸に湧く感情を抑えることは出来なかった。環さんの肩を掴んで、まだ諦めるには早いと言う。

 

「大丈夫です。僕がなんとかします。今思いつきました。たくさん署名を集めて取り壊しの反対をするんです」

 

 深く考えもせず思いつくままを口にしたが、言っている内にこれはいけるのではないかと思えてくる。日本国において多数決の効果は絶大だ。民主主義万歳である。

 どれだけの署名を集めなければならないのかは分からないが、僕の通っている学校だけでも四百人はいる。それだけの数が揃えば発言力もそこそこ大きくなるはずだ。後はどうやって署名を集めるかだ。伊藤に頼む必要がある。少々手荒いが彼の威圧感で有無を言わせず書いてもらうのは一つの手だ。それ以外にもSNSなどを使って出来る限りのことをしなければ。

 

「晴人」

 

 考えを巡らせながらつらつらと饒舌に述べ立てていた僕は、環さんに名前を呼ばれてハッとした。

 

「良いんじゃ。もう」

「でも、でも」

「儂もな、少し疲れた。だからもう大丈夫じゃ」

 

 環さんの短い言葉が、僕を現実に引き戻す。

 一瞬前まで思い描いていたことが信じられなかった。僕は本気で言っていたのか。署名を集めてこの神社の取り壊し撤回を要求するなどと。

 環さんはきっとその無謀を、僕が語り始めてすぐに見抜いていたのだろう。彼女の穏やかな目がそう言っている。

 

「さようならじゃ。ありがとう。お主といた時間は短かったが、楽しかったよ」

 

 僕は結局、それ以上なにも環さんに言うことは出来なかった。

 

 

 

 

 

 

『昔はここに立派な神社が建っていたんだがねえ』

 

 テレビ画面の向こうでお婆さんが喋っている。お婆さんが指をさしている方には大きな商店がある。旅物の企画で街を訪れた芸能人はいかにも感慨深そうな相槌を打つ。

 僕はぬるくなった汁椀を片手に、その映像を見ていた。頭に浮かぶのは環さんと、彼女が住む神社のことばかりだ。

 

 夕食はあまり喉を通らなかった。気もそぞろで、食事中もテレビ番組をボーッと見る僕を母は心配した。

 

「何かあったの?」

「いや、なんでも」

 

 母の問いかけに生返事で答える。少しの間が空いた。ややあって僕は何となく、本当にただ何となく、母に聞いてみた。

 

「こういう神社の取り壊しってさ、署名とか集めたら何とかなったりするかな」

「無理なんじゃないの?」

 

 間を置かず返ってきた答えは実に明瞭だった。

 取り壊すにも様々な人が様々な意見を交わした上で決められている。それを後になって、他所の人間が反対だと言いだしても仕方のないことだ。まったく、考えるまでもない。

 横目で父の方を見ると、黙々と食べていた父は小さく頷いて母に同意した。父は寡黙だが、家族の話はいつもちゃんと聞いている。

 

「そうだよね」

 

 話を終え、僕は食事に向き直った。今更何を言ったところで結論は既に出ているのだ。

 しかしそれでも「さようならじゃ」と言った環さんの顔がチラついた。その日のご飯はやはり、喉を通りにくかった。

 

 



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七話・くよくよなよなよ

 

 

 

 諸賢、僕は全くの腑抜けになってしまった。あらゆる物事への意欲は途絶え、もはや飯を食うことすら億劫である。

 

 秋の木枯らしが身に堪えるので窓を閉め切り、万年床の上で何をするわけでもなく横たわっている。

 毎朝叩き起こしにきてくれる母からは「キノコが生えてきそう」と手痛い酷評を受けたが、反論する気も湧かなかった。「んああ」とゾンビめいた生返事をした僕に、母は怪しい色のキノコを見るような目を向けてきた。およそ愛息子に向けるべき視線ではないが、今の僕の生産性は明らかに菌糸類を下回っているので、ひょっとしたらあれでも情状酌量の余地が与えられているのかもしれない。

 

 五月病という逃れようのない疫病が蔓延する春頃にも同じような対応をされた気がするが、あの時の僕は今よりよっぽどやる気に満ちていた。朝に耐え難い睡魔と戦う必要があり、それに辟易してこそいたが、魂は健全そのもので学校へ行けば伊藤と青春談義を交わすことに余念がなかった。

 

 翻って現在はどうか。半ば使命感すら持って臨んでいた恋愛ゲームすら手につかない有様である。聖典として崇め奉っていた青春文学の数々も色褪せて見え、読み返そうにも一ページも読まぬうちに手が止まる。

 僕はどうしてしまったというのか。人より誇れるものと言えば鮮やかな青春にかける情熱と、清い男女関係について日夜思索を繰り返し得た知見だけだというのに、その尽くが失われたように思われる。僕の存在意義は何処へ。

 

 モヤモヤとつまらぬ思いが燻る中で、幾度となく思い出すのは環さんのことだ。彼女のことばかりは考えないようにしてもつい頭に浮かんでしまう。

 

 ここしばらく僕はあの神社に足を運んでいなかった。ついこの間まで百数十日にもわたって毎日通い続けてきたわけだが、一度行かない日があると途端に足が重くなる。日記のようなものだ。

 

 再び顔を出すためには行かなかった口実と、何かしらの話題が必要なわけだが、この二つを用意するのは至難だった。口実と言っても正直なところどういう顔をして会えば良いか分からないので行きにくいというだけ事であるし、何か話そうにも僕の口から出るのはおそらく神社のことや環さんの今後など、明るい話題ではないだろう。

 無理に他愛の無いことを言おうとしたところで変にぎこちなくなるのは目に見えている。

 

 結局は気まずい空気を作るだけとなり、環さんにも暗い顔をさせてしまうに違いない。それは僕がもっとも恐れるところだ。

 などと考えて二の足を踏み、一週間以上環さんと顔を合わせていない。そうする内に殊更行きづらくなり足は遠のくばかりだった。日々の中で得るのは罪悪感のみであり、そのせいもあって環さんのことが頭に浮かび、また罪悪感を抱えるという悪循環に陥っている。

 

「晴人、いつまで寝てんの。学校遅刻しちゃうわよ」

 

 階下から母の声が聞こえる。羨ましいほどに元気だ。何故母親が子供を呼ぶ声はあんなにも張りがあるのか謎である。寝不足の頭に響く叱咤に僕はまごまごとした返事をしながら、重い足取りで部屋を後にした。

 

 何をしていても、どんなに腑抜けていても思い出す。環さんが言った「さようならじゃ」が胸に染み付いて仕方なかった。

 

 

 

 

 

 

 学業の義務とはかくも苦しいものか。朝から意欲の底をついていた僕は、一日の授業が終わるころにはすっかりくたびれ果てて天日に晒されたアジの開きのようになっていた。

 

 すぐに帰る気も起きず無暗矢鱈に元気な同級生諸氏を眺めて呆けている。つい先ほど体育の授業でグラウンドを走り回らされたことを些かも感じさせない活力だ。これから部活に赴こうとする者などは、もはや僕と生物学的分類を同じくしているとは思えない。三千メートルだぞ。人間が走って良い距離ではない。

 

 しかし僕が真に驚くのは、一週間ほど前は誰よりも溌溂としていの一番に学校を飛び出していた自分が存在したことである。あの滾々と湧き出て尽きることのないエネルギーの源はなんであったのかと、今や懐かしく思う。

 有体に言えば環さんの所へ通うことが目的だったわけだが、それが無くなるだけでこうも人生に支障をきたすとは何事だろう。情けない話だ。僕はまだ憧れの青春を謳歌するどころかその取っ掛かりにすら辿り着いていないというのに。

 

 またも環さんのことを考えては勝手に落ち込んでしまった。これでは彼女に対しても失礼ではないか。誰もいない神社で独り耐え忍んでいた彼女の最期を見届ける男がこんな体たらくではあまりに浮かばれない。

 

 ……いや、いかん。なんだか死に別れるような感じになってしまった。別に環さんが死んでしまうわけではない。しかし今生の別れであることには変わらないか。

 

「くそ、幸せになりてえ……」

 

 僕は机に突っ伏したまま呪詛のごとく独り言ちた。蚊の鳴くような小声だったつもりだが、それを聞いた者がいた。

 伊藤だった。隣の席の彼は生気の失せた僕を心配するように見つめていた。

 

「どうした晴人。死ぬのか」

「分からぬ。もう駄目かもしれぬ」

「葬式にはちゃんと出るよ」

「死ぬ前提で話を進めるな。引き止めてくれ」

 

 いつもと変わらぬ軽口を叩くも、やはりどこかキレがない。主に僕の方に。それを伊藤も感じているらしく冗談の続きは言ってこなかった。

 

「本当にどうしたよ。最近ずっと元気ないけど」

「うーん。何と言ったらいいか」

 

 伊藤は完全にこちらの話を聞く姿勢だ。

 しかし僕が抱えている事情を一から人に伝えるのは難しい。環さんのことは言わずもがな、恋愛祈願のためにお百度参りをしていたことまで説明せねばならず、その羞恥は想像するに余りある。さすがの伊藤も呆れるに違いない。

 

 第一に、これはもう人に相談したところでどうにかなる話でもないのだ。環さんが去ってしまうことは既に決まっている。覆りようは無い。

 

 僕とてここしばらく、何とかならないものかと考えを巡らせ続けた。と言うか何をしようにも四六時中環さんのことばかり頭に浮かぶので考えざるを得なかった。それによって一つ、我ながら妙案と呼べるものも思いついてはいた。

 しかしそれを実行に移すことはない。進言したとして、環さんが聞き入れてくれるとは思えないからだ。

 

 問題のきっかけは神社の取り壊しにある。環さんの住まいが無くなり、必然として彼女は帰らざるを得なくなる。つまり人の世である下界から去り、天界に戻るということ。

 よくよく考えてみれば、それを解決するのは容易だった。住居が無くなるなら、新たに住む場所を見つければ良いだけの話だ。

 

 手頃な社、それこそこの町にあるもう一つの大きな神社にでも引っ越せば下界に留まれて、尚且つこの先も安泰に暮らせるだろう。

 調べたところによれば神様のいる場所を移すことを遷座と呼び、それはあまり珍しい話ではないらしい。社が古くなったので建て替えたり、人々の暮らしに合わせてより相応しい場所へ移されたりと割とぽんぽん住まいを変える。

 

 神様がそうであるのだから、霊狐の環さんが引っ越せない道理はない。

 引っ越し先の神社にいる神様との折り合いがつくかどうかという疑問はあるが、不可能ということはないはずだ。

 

 しかしこれは思い付いたすぐ後に却下した。根本的な解決にはならないからである。

 

 環さんは「少し疲れた」と言っていた。少しの部分を除けば、それはきっと彼女の偽らざる本心なのだろう。

 人の一生よりも長く独りの時間過ごした心境は推し量るに余りあるが、それでも環さんが口にした「疲れた」という言葉の持つ重みは分かっているつもりだ。

 

 思い出されるのは、どことなく憑き物の落ちたような環さんの表情。

 諦めてしまったのだろう。過去への執着を。孤独に耐えてまだ欲しかった何某かを。

 恐らくそれは、あの神社でなくては意味がなかったのだ。でなければ環さんならとっくに自ら何処かへ移り住み、今とは違う生活をしていたはずである。

 

 結局のところ、初めから他人が口を出す余地などなかったのだ。

 環さんは既に諦めをつけている。ならば僕もこの寂しさを乗り越えて強く生きてゆかねばならない。それが道理というものだろう。

 

 しかしそんな思いとは裏腹に燻ってばかりいる。現実とはままならないものである。

 

「僕はダメな男だ。誰も幸せにできない」

「暗いなあ。そんなんじゃモテないぞ」

「いいよもう。どうでもいい」

 

 僕が力なくそう言うと、伊藤は声にならぬ悲鳴を上げた。まだ教室に残っていた何人かのクラスメイトが何事かとこちらを向いたが、なんだいつもの変人二人かと納得した様子ですぐに興味を無くす。

 

 一方で伊藤は大地が裂け、天が割れる光景を目撃したかのごとく取り乱していた、何か言おうとしているが、アワアワと言うばかりで意味のある言葉になっていない。

 彼は百面相をした挙句、その巨大な両手で僕の肩を掴んで揺さぶってきた。

 瞬間、僕の首から上に凄まじいGが襲いかかった。

 

「しっかりしろ!死ぬには早いぞ!」

「待て、死ぬ。マジで死ぬ。止めてくれ」

 

 僕の必死の説得により、伊藤はなんとか恐慌状態から立ち直ってくれた。間違いなく過去最大の危機であった。

 ただでさえ朝から重かった頭がさらに朦朧とする。あわや教室内で殺人事件が起こるところだった。

 

「ほ、本当にどうしちゃったんだよ。色恋沙汰がどうでもいいとか、それもう晴人じゃないだろ」

「僕の存在定義が薄すぎないか?」

 

 いやまあ完全に間違っているわけでもないけれど。

 

 僕が気にするなとなだめて話を打ち切ろうとするも、伊藤は頑として一歩も引かぬ構えだった。こうなった彼はテコだろうがブルドーザーだろうが、クレーン車で吊られようが動かない。物理的にそうされても動じないだろうと思わせる迫力がある。

 

 説明の必要に迫られた僕は頭を捻り、しばらく考えてから口を開いた。

 

「例えばだ。海外から移住してきた女性がいるとする」

「唐突だね」

「その人は美人だ。そして伊藤、お前と仲が良いものとする」

「おお……それで」

 

 何の前振りもなく始まった僕の話に面食らった様子の伊藤だったが、次の瞬間には全力で耳を傾けていた。こういった妄想は僕たちの会話の鉄板であり、それにより磨かれた彼の順応性は素晴らしかった。

 

「日本に憧れてやって来たは良いが、彼女はそれまで日本での生活に馴染めていなかった。そこで出会ったのが伊藤だった。二人はなんやかんやで意気投合する。いつしか定番の待ち合わせ場所ができて、毎日逢瀬を繰り返す」

「す、すごい……」

「趣味が合うので話すだけでも面白い。彼女の屈託のない笑顔や、天真爛漫で元気に溢れた仕草を思い出すだけでも楽しく、充実した日々」

「最高じゃないか……」

「だが突然、彼女は故郷に帰らねばならなくなってしまうんだ」

「なんでー!」

 

 伊藤は慟哭した。この短時間で想像上の外国人にずいぶんと入れ込んだらしい。強面の巨漢が現実にいもしない美女を想って泣く様は親友である僕をしてさえ見るに耐えない。

 僕は彼を無視して話を続けた。

 

「家の都合なんだ。多少頑張れば日本に残るという選択も出来たが、彼女はそれをしなかった」

「なんでさ。こんなのあんまりだ。俺との時間は嘘だったのか」

「……まあ、思うところがあったんだろ」

「俺に?」

「日本に。それと実家に。移り住んで暫く、いろいろと溜め込んでいたものもあったんじゃないかな。他人であるこっちが相手の全てを理解するなんて土台無理な話だ。彼女自身それが分かっているのか別れに際しても潔い。少し憑き物の落ちたような顔さえ、する」

 

 少し語り口調に熱が入りすぎたか。僕は恥じて眉間を揉み、一息ついてから伊藤に問うた。

 

「なあ。そんな時、伊藤は彼女を引き止めるか。日本に残るよう説得するか」

 

 伊藤はひどく悩ましそうに腕を組んで考え込んだ。ついぞこんなにも真剣に悩む彼を見たことはない。追試に向けた勉強をしている時でさえここまで集中してはいなかっただろう。

 

「……俺は引き止めない、かな。ていうか出来ない」

「そうか」

「たぶん彼女なりに辛いことがあったんだろうし、晴人が言ったように全部分かってあげられないなら、止める資格なんてない気がするよ。なんて言うかそれはもう相手のためとかじゃなくて、こっちのエゴなわけだし」

「そうだよな」

 

 伊藤の言葉に僕は納得した。それは僕が欲していた答えそのものだった。やはり親友である。ここぞという時に意見が合致する。

 一人で悩んでいた時と違いこうして人の見解も取り入れると、揺れていた心も定まるものだ。

 

「なあ、今の話だけどさ、晴人の体験を捻った例え話ってことでいいんだよな」

「うんまあ、そうなるな。詮索はするなよ、頼むから」

 

 僕がそう言うと、伊藤はなおも悩ましげな顔をしてブツブツと呟いた。

 

「つまり、その、アレか……」

 

 なんだ。アレでは分からん。

 

「晴人は失恋したってことか」

「えっ」

 

 言われて僕は呆然とした。それは思ってもみなかった事だった。

 

 確かに僕は環さんに良縁祈願をしてばかりいたが、一度として彼女自身に恋愛感情を抱いたことはなかった。親友とか悪友とか、そういった位置付けにあると既に結論付けていた。

 

「いや、これは、違うだろ。さっきの例え話ではそう聞こえたのかもしれないが、僕のこれは恋愛とは関係ない。だって中学の頃にフラれた時とは全然違うんだ」

 

 そう、これが初めてのことならいざ知らず僕は経験者だ。既に失恋の味は嫌というほど知っている。

 アレは羞恥と後悔の塊であり、誓って僕が今感じているような郷愁にも似た喪失感などはなかった。

 

「うーん。でもなあ。話を聞く限りは失恋したようにしか考えられないけど」

 

 未経験故か伊藤の歯切れは悪い。しかしその口調はどこか確信めいていた。

 

 僕は反論しようとしたが、出来なかった。理屈などを超えた心の奥底で納得している自分がいた。

 

 にわかに環さんと過ごした日々の思い出が頭を過ぎる。

 暑い日に二人並んでラムネを飲んだこと。ノートを丸々一冊も使って遊び倒したこと。環さんが舌を火傷しながらも美味そうにメンチカツを頬張っていたこと。他愛もない話で何時間でも喋っていられたこと。

 

 夏休みが終わってからの約数ヶ月。今にして思えば実に短い時間だった。光陰矢の如しとはこのことだ。間違いなく僕の半生で最も短く、濃く、楽しい時間だった。

 

「なあ晴人、さっきの話どこまで本当?うちの学校の女子?というかいつの間にそんな甘酸っぱい青春を……」

 

 伊藤が何か言っているが、僕は茫然自失として答えることができなかった。

 

 ようやく腑に落ちた。モヤモヤの正体をはっきりと認識できた。だからこそ、胸の内を締め付ける思いがさらに強くなった気がした。

 

 そうか、僕は失恋したのか。

 

 

 

 

 

 

 その日、家に帰ると母から買い物を頼まれた。一日中学業に勤しんだ息子を帰るなり使い走らせるとは何事かと憤慨したが、今日は唐揚げと言われてしまっては致し方ない。せっかく出掛けるなら松葉屋の良い鶏肉を買ってこようと思い、僕は制服姿のまま家を出た。

 

 日が落ちるのが随分と早くなったもので、薄いうろこ雲が茜色に染まっていた。秋風は既に冷たく、上にもう一枚着てくれば良かったかと思いつつ足早に商店街へと向かう。

 

 夕暮れ時の商店街はそこそこ賑わっている。

 隣町に大型のショッピングモールができてからこちら、衣類や雑貨を扱う店は廃れるところも出てしまいシャッターが降りている場所が増えたが、未だに食料品を求める客は多く、全体で見れば活気に溢れている。

 

 昨今の時勢に逆らうように昔ながらの光景を残すその様子は、まるで八百万の神々の加護でも受けているかのようだ。

 もしそうだとしたら、環さんも関わっているのだろうか。

 いや、本人が力を失ったと言っていたしそれは無いかと思い直す。彼女のことだから祈りくらいは捧げていたかもしれないが。

 

 少し歩くと松葉屋のレトロな看板が見えてきた。遠目でも常連の奥様方で賑わっているのが見え、風に乗って揚げ物の香ばしい匂いがこちらまで漂ってくる。

 僕は不意にメンチカツを食べたくなった。

 伴って連想するのは環さんのこと。僕が毎日のように持って行った貢物の中でも彼女は松葉屋のメンチカツを特に気に入っていた。その味わいを二人して絶賛しながら頬張った憧憬がよみがえり、僕はたまらなく泣きそうになった。

 

 やはり別れの挨拶くらいはきちんと済ませておくべきなのだろう。このまま自然消滅というのはあまりに悲しいし、何より環さんに対して不義理だ。

 ほんのわずかでも夢と理想を共有した仲なのだから、せめて別れは晴れやかなものにしたい。つい先ほど気付いた僕の慕情を伝えるかどうかは置いておくとして。

 

 そうだ。すっきりと別れよう。一週間もうじうじと悩んだのが馬鹿みたいに思える。きっと最初からそうすべきだったのだ。環さんを訪ねる口実も何も必要ない。二言三言話して終わり。それで良いじゃないか。

 

 善は急げ。鉄は熱いうちに打て。僕はまた億劫になることを嫌い、今すぐにでも環さんに会いに行こうと思った。手土産に松葉屋のメンチカツを持っていけば尚良いだろう。

 別れの品に形の残らない食い物を渡すのはあまり一般的ではないかもしれないが、むしろ後腐れがなくて良い気がする。環さんとの思い出の品であることには変わらないし、僕の気持ちは十分に伝わるはずだ。

 

 僕の、気持ちは。

 

 ダメだ。ことあるごとに陰鬱な思いが浮かび上がってくる。大きく息を吐いて邪念を散らす。

 

 既に決意は固めた。今日だ。今日行くのだ。こんな気持ちにはさっさと決着をつけてやらねばならない。

 

 僕は勇み足で主婦の方々の列に並んだ。

 しばらく待って運良く揚げたてのメンチカツを二つ購入し、さあ行こうと心の帯紐を結び直した、ちょうどその時だった。

 

「稲里くん」

 

 横合いから声をかけらて、僕はドキリとした。聞き覚えのある女子の声だった。

 

 油の切れたロボットのようにぎこちなく振り向くと、そこには小野町がいた。

 私服姿で、犬を連れている。憎めない顔をしたダックスフンドは僕の靴を執拗に嗅ぎ回る。しまいには短い前足を伸ばしてこちらに登ってこようとする。「こら、タロー」と飼い主である小野町に注意されてもまるで反省の色はない。

 

「学校帰りにおつかい?」

「う、うん。そう」

 

 突然のことに思考がショートしかけていた僕は自分でも引くくらい声が吃っていた。

 しかし小野町はそんなことは気にもせず「私も」と言って買い物袋を見せる。

 

 僕はもう何が何だか分からなかった。

 いや、偶然クラスメイトに街中で会ったから普通に声をかけただけなのだろうが、生憎僕と彼女の関係は普通の同級生とは言い難い。なにせ中学の頃のいざこざがある。

 その上でわざわざ僕に挨拶なんぞする小野町の肝っ玉には驚嘆せざるを得ない。おかげで僕の方の肝は凍てついた。

 

 ほんの少し言葉を交わすだけでもう居たたまれない。さっさとこの場から退散しよう。

 そう思い「それじゃ」と言って彼女の横を通り抜けようとした。

 

「待って」

 

 小野町の一言が僕の足を否応なしに止めさせた。なんたる強制力。

 恐る恐る振り向いて小野町の表情を伺う。剣呑な感じはなく、普段通り人当たりの良さを感じさせる顔だが、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳には何かしらの固い意志があるように思われた。

 

 僕はたいへん押しに弱いので、こうなるともう逃げようがない。女子が相手となると尚更だ。

 

 僕の足に乗ってこようとする犬のリードを引きながら、僕が何か発言するよりも先に小野町は言った。

 

「ちょっと話したいことがあるの」

 

 

 

 



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八話・話をしよう

 

 

 

 僕は小野町に誘われるがまま近くの公園に移動した。公園は夕陽の色に染まっているが、砂場では小学生くらいの子供たちがまだ遊んでいる。僕と小野町は隅にあるベンチに座った。

 

「稲里くんって商店街にはよく行くの?」

「まあ、それなりに」

「そう言えば近所だもんね。私もあの辺は散歩とかでよく通るんだけど、今日みたいに偶然ばったり会うのがこれまでなかったのって、なんか不思議」

 

 小野町が何やら喋っている。緊張で岩のごとく固まっている僕は会話の半分ほどしか理解できていない。

 商店街の本通りから公園に来るまでに少しは冷静さを取り戻せるかと期待したが、僕は今もなお混乱の渦中にあった。状況整理をしたいのに頭はとんと働かない。

 

 僕の足元では小野町の飼い犬であるタロー氏が元気よく走り回ったり、こちらの靴の臭いを嗅いだり、前足を僕の脛に乗せてきたりしている。もはや可愛らしいを通り越して鬱陶しい。

 しかし今この状況では彼だけが癒しだった。もしも犬に戯れつかれていなかったら緊張の逃げ場がなく、会話の半分どころか小野町の発言の全てが右から左へ抜けていたことだろう。僕の心の均衡を寸でのところで保ってくれているタロー氏には感謝するばかりだ。もっと鬱陶しくしてくれ。

 

「さっき買ってたのってメンチカツだよね。それが今日の晩御飯?」

「いや、これは、おやつと言うか」

「おやつにメンチカツ!?すごい、意外と大食いなんだね、稲里くん」

「別に大食いというわけでは……」

 

 僕は今何を話しているのだろうか。自分の口が勝手に動いている感覚だ。誤って変態的なことを言わぬよう気を付けたいが、そこまでの余裕が持てているのか自分でも怪しい。少なくとも今のところは相手を不快にさせてはいないようだけど。

 

「ねえそれよく買うの?」

「よくと言うほどじゃ……いや、最近はよく食べてるかな」

「へえー、良いなあ。私もおつかいで松葉屋にはたまに行くんだけど、メンチカツは食べたこと無いんだよね。唐揚げとか揚げ物系おいしいから気にはなっているんだけど」

 

 しかしどうにも先程から小野町はよく喋る。普段小野町との交友が無い僕から見ても、彼女にしてはかなりテンションが高い気がする。お世辞にも僕の相槌は面白いと言えないはずなのに。

 

 彼我の間に温度差があると低い方は思考が冷静になるもので、僕もまたそれを意識したために若干ではあるが平静を取り戻した。そしてようやく現状について一考する。

 

 わざわざ公園まで連れてきたにも関わらず、何故、小野町はこうも益体のない世間話を僕に振るのか。

 

 自他共にコミュニケーション能力不足を認める僕であっても分かることがある。赤の他人がこういった当たり障りのない話をする時は、大抵の場合そのあとに何か重要な、或いは言いにくい本命の話題を切り出したいからであると。

 しかも学校の友人などでは無く僕に話しかけてきたのだから、彼女の隠し持つ話題は僕にも関わることに違いない。

 

 では小野町と僕の関係における、言い出しにくい話とは何か。

 考えられるのはただ一つ。中学の頃の告白事件である。あの凄惨極まる事件の生傷は未だ癒えず、僕と小野町の間には高校に進学してからというもの事あるごとに互いの視線が交錯すると言う珍妙な現象が頻発している。

 

 まさか、その件に関して糾弾されるのか。

 いや、まさかではない。それしか考えられない。僕は絶望した。

 

 目が合うことは避けようの無い不運な事故であり、こちらとしても何とか解消したいと常々思っているのだが、それはあくまで僕側の視点での話である。

 

 小野町からしたらきっとこう思うだろう。あんな頭のおかしい告白をしてきた奴がこっちをジロジロ見てきている、と。恐るべき冤罪だが証拠も何もないので僕は反論ができない。

 

 そして証拠不在の水掛け論において、最も効果を発揮するのは多数決である。小野町は言うまでもなく優等生で交友関係も広い。彼女を支持する輩は多くいるだろう。

 それに対して僕は孤立無縁である。伊藤がいる?女子相手に彼が何の役に立つと言うのか。

 

 圧倒的劣勢の僕が敗訴するのは火を見るよりも明らかであり、異議ありと唱えたところで耳を貸す者はいないだろう。その後、卒業するまで付いて回るのはストーカーの汚名。つまり青春の終わりである。

 

「こらタロー。稲里くんのメンチカツ盗ろうとするんじゃないの」

 

 いつの間にか松葉屋印の紙袋を僕の手からくすね盗ろうとしていたタロー氏が小野町に捕まって引き離される。割とキツめの口調で怒られているが、タロー氏はメンチカツの入った紙袋をつぶらな瞳で見つめたまま一切の悪意が無い顔で舌をぺろぺろ出している。

 

 横槍が入ったことでふと我に還り、僕は先ほどまで考えていたことを思い直した。

 小野町が数の暴力に頼ろうとするなら、わざわざこうして僕と二人で話そうとはしなかった筈だ。それに彼女は元から意地悪なことをする性格でも無い。もしそうであれば僕が校舎裏に呼び出して恋文の朗読をしたことを、中学生の頃に周囲へ言いふらしていただろう。

 

 少なくとも、学校での立場が危うくなることはない。

 そう結論を出して腹を据える。覚悟は固まった。

 

 さあ小野町、どこからでも話を切り出すがいい。今ここで過去の精算をしてやる。

 

「うちのタロー何でも食べようとするの。この前なんて台所にあった生の玉ねぎ食べかけてて、本当に焦ったよ」

 

 羞恥と屈辱を乗り越える覚悟で僕はそう意気込んだのだが、小野町はやけに饒舌で、世間話がなおも続く。何なんだ。犬のことなどどうでもいい。前置きはもう十分だろう。早く僕に沙汰を言い渡してくれ。

 

 元来堪え性というものと縁の無い僕である。木綿豆腐のように押し固めた覚悟は早々に崩れかけ始めた。まるで死刑宣告を待つ囚人の気分であり、有り体に言えば大変居た堪れない。

 小野町に返事するにも精神を振り絞る必要がある。そのせいで一秒一秒が理不尽に長く感じ、この針の筵に座らされているかのような苦痛が永遠に続くかに思われた。

 

「雨以外の日は毎日散歩に連れて行っているんだけど、そこでも何かと拾い食いしようとするから大変で」

 

 逃げよう。僕はそう決めた。一分前の覚悟などとうに消え失せた。

 

 一言断ってスマホで時間を確認する素振りを見せ、それから「もう帰らなきゃ」とでも言ってこの場から立ち去ろう。そんな計画を一瞬で組み立てる。演技力に自信は無いが、おつかいの大義名分もあるし、多少わざとらしくても構やしない。

 あとは今まで通り、小野町とは距離を置いて、出来れば目を合わせないよう努め、高校卒業までやり過ごせば良い。今後神社回りを僕が彷徨つくことも無くなれば今日のように街中で出会すこともないだろう。

 これは恥知らずの逃走ではない。戦略的観点に基づく撤退である。

 

 一拍、小野町の話に区切りが出来る。好機だ。僕は気持ちが早って腰を浮かせかける。

 

「ねえ稲里くん」

 

 僕が立ち上がることはなかった。縫い止められたように動きも思考も止まる。僕の名前を呼んだ小野町の口調はさっきまでのものと違い、どこか真剣味を帯びていた。

 

 まずい。ここでいきなり本題を切り出されるなんて。覚悟を固め直す余裕など無いというのに。

 出鼻を挫かれた僕は、それでもと半ば強引につい今しがた立てた計画の続行を試みる。

 

 しかし僕の起立をタロー氏が物理的に阻んだ。膝の上に乗ってきて、メンチカツの紙袋を見つめながらクゥンと鳴くのだ。僕が咄嗟に紙袋を遠ざけると、今度は膝に乗ったまま伏せの体勢をとって寛ぎ始める。癒しとは何だったのか。

 

 逃げる機会は完全に逸した。僕は小野町の次の発言を準備不足の覚悟で迎えるしかない。

 ジロジロ見てしまいごめんなさい。中学の頃のことは忘れてください。

 そうやって謝り倒す言葉だけを用意し、身を固くする僕に小野町は言った。

 

「稲里くん、最近元気ないよね」

「えっ」

 

 実に間抜けな声が僕の口から漏れる。予想していたものとは違う言葉に上手く対応できなかった。

 

「一週間くらい前にテスト結果出た時、少し話したでしょ。稲里くん急に帰っちゃうし、次の日からずっと元気なさそうだし、それがちょっと気になってて」

 

 なぜ小野町が僕の調子など気にかけるのか。いやそれ以前に僕は傍目からも一目瞭然なほど憔悴していたというのか。まさか知らぬうちにそこまでの無様を晒していたとは思っておらず、僕はにわかに恥ずかしくなった。

 

 何を言えば良いのか分からず目ばかり泳がせる僕に、小野町は言葉を続ける。

 

「稲里くんがそうなったのって、やっぱりあの神社が取り壊されることと関係あるんだよね」

 

 糾弾ではない。

 しかしこれはまた別の意味で困った。どういうつもりか分からないが、小野町はぐいぐいと僕の抱える悩みの核心に迫ってくる。某少年探偵に追い詰められる犯人の心境とはこういうものか。

 

「……なんで小野町がそんなことを気にするんだ」

 

 とにかく考えるゆとりが欲しい僕は、そうやって答えをはぐらかす。小野町は困ったように苦笑しながらも言葉を選んで僕の問いに答えた。

 

「うーん。やっぱり私が神社のこと言ったからっていうのはあるよ。ちょっと変かもだけど、それだけでも気になるものは気になるし」

 

 それに、と小野町は続ける。

 

「稲里くんとは、その、中学の頃のこともあるから」

「な、なんのことですかぁ!」

 

 僕は絶叫した。膝の上のタロー氏も砂場で遊んでいる子供たちもびっくりしてこちらを見る。

 油断していた。そっちの話題に飛ぶとは思っていなかった。

 心の中で悶絶する僕に小野町は追い討ちをかけてくる。

 

「え、何って稲里くんが校舎裏に私を呼んで手紙を読んだあの……」

「やめて。分かってる。だから全部言うのはやめて」

 

 僕は顔を覆い隠して背中を丸める。穴があったら入りたい気分だ。先ほどの覚悟など嘘だったのだと痛感する。現実に向き合わされるというのは想像を絶するほどに耐え難いことだと知った。

 

「忘れてくれ。あの時はどうかしていたんだ。今では反省している。だから小野町と目が合うのも偶然で、僕は邪なことなんて考えていないんだよ」

 

 僕は思いつくままにそう言った。後半、何か要らぬことを口走ったと気付いた時には遅かった。

 

「目が合う?私と?」

「いやそのあの」

 

 中学時代の話から離れたいがために捲し立てたのが失敗だった。もっと触れて欲しくない話題を自ら口にしてしまうとは。

 

 邪なことなんて無い。いかにも邪な考えの人間が言いそうな台詞である。どうにか上方修正をしようと言い訳を試みるも、僕に心の余裕など一欠片も無かった。

 意味不明な言葉の羅列が浮かんでは消え、口から出るのは「あうあうあ」などという奇声ばかり。環さん助けてください。

 

 恐らく今の僕は過去最高に気持ち悪かっただろうが、しかし小野町は特に引くこともなくポツリと言った。

 

「そっか、稲里くんもそう思ってたんだね」

 

 そう、とはどういう意味だ。僕はそれまで捻り出そうとしていた言い訳の一切を忘れ、小野町の言葉に耳を澄ませた。

 

「中学の時のこと、稲里くんは真剣だったのに私が有耶無耶にしちゃったからずっと気になってたんだよね。それで話すきっかけがないかなって稲里くんの方チラチラ見たりしちゃってて。そのせいで目が合うから、むしろ困らせてるんじゃないかって思うと余計に声をかけづらかったりして……」

 

 照れ臭そうに小野町が頰を掻く。

 あまりに予想外の展開に付いて行けず、僕はしばらく呆然とした。

 

「その、ごめんね。あの時は逃げちゃって。高校でも迷惑かけちゃったし」

 

 小野町の言葉を頭に巡らせながらタロー氏を撫でている内に、段々と彼女の言っていることを理解し始める。

 

 どうやら面倒臭くあれこれ悩んでいたのは僕だけではないようで。

 とどのつまり、小野町もまた僕と同じように互いの距離感について「どうしよう」と考えていたらしい。

 

 中学の頃の告白の件を精算したいということも、目が合うことで相手を困らせているのではという不安も結局はお互い様で。

 たったそれだけのことに僕たちはおよそ二年もの間悩み続け、すれ違い続けて来たわけだ。

 

 言葉にすれば簡単なことだったのに。まったく、遠回りにも程がある。

 

「は、はははっ」

 

 人生の命題のごとく悩んできたことが馬鹿らしくなって、僕は思わず笑ってしまった。糾弾されるとか、ストーカー疑惑だとか、本当に馬鹿みたいだ。

 真面目な話をしていたのにこちらが突然笑い出したせいで小野町は戸惑っている。

 

「え、なに。なんで笑ってるの」

「だってそりゃ、ははは、僕はずっと悩んでたんだよ。なのに蓋を開けてみたらこんな簡単に解決する話で、もう笑うしかないって」

 

 腹の底から笑う僕にしばらく呆然としていた小野町だったが、次第につられて可笑しくなったのかくすっと笑った。

 その笑顔を見て僕は思った。小野町の中でも、この二年間抱き続けてきたしこりが溶けて消えたのだろうということを。

 

「話せて良かった。じゃあこれで私たちの問題は解消、ってことでいいんだよね」

「ああ。そうなるな。誓って言うけど、僕だって小野町のこと変な目で見てたわけじゃないから」

「分かってるよ。大丈夫」

 

 念を押す僕に小野町が笑いながら頷く。

 

「あと出来れば中学の頃のことも忘れてくれよ。キモかっただろ。本当にどうかしてたんだよ、あの時は」

「別にキモいとか、そんなこと思ってないよ」

 

 いやそれは嘘だろ。僕が怪訝な目を向けると小野町が「ほんとほんと!」と食い下がる。

 

「どう返事していいか分からなくて頭パニックになっちゃったから逃げただけで、告白自体は嬉しかったのよ。あんな、その、熱烈に言われたことも無かったから凄く印象深かったし」

「やめろ。熱烈とか言うな」

「……嬉しかったよ?」

「やめろぉ!」

 

 恥ずかしがる僕をからかってか、小野町がそんなことを言う。ただの良い子ちゃんだと思っていたのに意外な一面だ。かつて中学時代に仲間と苦心して作り上げたの女子ランキング帳にもこんなことは記されていなかった。

 

 今にして思えば、中学生の僕は恋などしていなかったのだろう。小野町のことなど何も知らぬまま、その外側にだけ惹かれていたのだから。

 

 僕の反応は余程からかい甲斐があったらしく、小野町はしばらくの間楽しそうに笑っていた。その笑いがひと段落したところで、僕はふと気になったことを尋ねた。

 

「しかしなんで今日、わざわざ僕に話しかけたんだ」

「それはさっきも言った通りだよ。稲里くんが最近悩んでて元気無さそうだったから、何かあったのかなって」

 

 小野町の目を見る。疑るまでもなく、彼女は本心から言っているのだと分かる。「それをきっかけに、こうやって色々話したかったのもあるけどね」と罰が悪そうに小野町は言う。

 

「何について悩んでるのかな、神社のことかな、私のせいじゃないといいな、とか考えててね。それで今日、稲里くんと伊藤くんが話してるの聞いて一つ確信したことがあったんだ。だから商店街で偶然会った時、これはチャンスだって思って」

「待て、待て小野町」

 

 小野町の言葉の中に聞き捨てならない部分があり、僕は話を遮った。

 

「僕と伊藤の話を聞いてたって、アレのことか?」

「そう、アレだよ」

「つ、つまり放課後の」

「そうそう。仲良くなった女の子が故郷に帰っちゃうとか、失恋したとか話してたアレ」

「忘れてくれ」

 

 僕は何度目になるか分からない台詞を吐いてうなだれた。小野町が「まあまあ」と言って背中をぽんぽん叩いてくる。こいつ絶対僕が恥ずかしがることを分かってて言ってるな。

 

「実際のとこさ、あの例え話ってどこまで本当なの?」

「……駅向こうの神社と関係がある。ってとこまでは分かってるんだよな」

 

 僕が聞くと小野町はこくりと頷いた。

 まあそうだろう。神社が取り壊されると知ってから落ち込み始め、そのことで心配してきた伊藤に『もしも外国人の美女と友達だったら』なんて例え話をしたのだから、関連性があるのは側から見てた小野町にも明らかだったに違いない。

 

「まあ、ちょっと複雑でな、詳しくは話しにくいんだ。でも大丈夫だよ。小野町が心配することはない。どのみち神社は取り壊されるんだし、僕はもう納得してるからさ」

「じゃあ、相手の女の人も納得してるの?」

「ああ。そう言ってたよ。と言うか彼女が納得してるみたいだったから僕もそうしようと思った。こっちばかりが子供みたいに駄々を捏ねたって仕方ないからな」

 

 口に出して、環さんとの別れに対して自分がちゃんと納得できていることを認識する。大丈夫だ。そう思いながらタロー氏の頭を撫でくり回す。

 

 すでに結論は出ているのだから、もう深堀するものも何もない。

 しかし小野町は何故か不満そうだった。足を組んで頬杖を突き、難しい顔をしている。彼女でもそういう姿勢をするんだなどと思っていると、小野町はパッと顔を上げこちらに向き直った。力強い視線が、僕を射抜く。

 

「私はやっぱりちゃんと話をするべきだと思う」

「え、ああいや、僕もそのつもりだよ。実はこれから神社に行ってきちんとお別れの挨拶を済ませようと思っていたんだ。ほら、このメンチカツは手土産で」

「違うよ。そうじゃない」

 

 小野町は僕の発言をばっさりと切り捨てた。あまりの気迫に僕は思わずたじろぐ。

 

「稲里くんはその神社で会っていた人のことが好きなんでしょ?」

「は、はい。そうです……」

「本当は一緒に居たいって思ってるんだよね?」

「はあ……」

 

 小野町の繰り出す怒涛の質問に僕は生返事で答えるしかない。昔告白して振られた相手にこうして恋愛事情を聴かれるというのは、なかなかどうして居心地の悪いものだ。

 

 あまり深く聞かないでくれると助かるんだが。

 そんな抗議を込めた目を向けるも、小野町は僕のささやかな抵抗など一顧だにせず、強烈な一言を真っ向から叩きつけてきた。

 

「稲里くん、そのこと相手の人に全然伝えていないでしょ」

 

 何か言おうとして、しかし何も言えず押し黙った僕に、小野町は「やっぱり」と苦笑した。その微笑にはからかいや面白半分といった感じは無く「しょうがないなあ」とでも云うような慈愛の色があるように見えた。

 

「それを言わなきゃ。相手にちゃんと伝えなきゃ、ずっとずっとモヤモヤした気持ちが残ると思うよ」

「ま、待て待て。それは僕側の気持ちの問題だろ。エゴってやつだ。相手には関係ないし、ただの重荷にしかならないに決まってる」

「本当に? どうやって確認したの?」

 

 さっきまでの和解の雰囲気もどこへやら、小野町は鬼気迫った様子で畳みかけてくる。僕はまたもや沈黙し小野町に言われたことについて考えざるを得なくなった。

 

 相手が、環さんが本当はどう思っているのか。

 そんなこと確認などするまでもなく大体の見当はつく。本当は帰りたくなどないのだろうと。

 何せ彼女は百年もの間あの神社に残りながら人と戯れる日を夢に見てきたのだから。心の底から楽しかったであろうかつての日々をもう一度と願い、待ち望んで生きてきたのだ。しかしそれが叶わないと知り、神社の取り壊しを潮時と見て天界に帰ろうとしている。

 

 その決断をするためには並々ならぬ勇気が必要だったはずだ。長年の孤独に耐えてまで欲しかったものを手放すという勇気が。だから僕は彼女の意志を尊重すべく、せめて後腐れのない形で終わりにしようと——————。

 

「……?」

 

 そこまで考えて、僕の中にふと疑問が湧いた。

 

 環さんの意志とは何か。

 彼女が天界に帰ろうとしているのは今まで抱いてきた意志を折らざるを得なくなったからだ。そして今まで環さんが抱いてきた意志とは、独り下界に残ってでも叶えたかった願いに他ならない。

 

 なのに僕は環さんの諦めを尊重して、彼女が押し殺そうとしている願いは切り捨てるのか。

 僕自身も、本当は環さんに帰って欲しくないというのに。

 

 僕たちは一度も、お互いに本音を語ってなどいないというのに。

 

「小野町。僕は……」

「ね。言葉にしなきゃ伝わらないことって、あるんだよ」

 

 小野町の声音は柔らかかった。ようやく、僕は彼女の言わんとしてることを理解し始めた。

 考えてみれば……いや考えるまでもない。

 話し合うとか尊重し合うとか、それ以前の段階で僕は立ち止まっていたのだ。物分かりの良いふりをして環さんの本心も聞かず、自分の本心も打ち明けず。

 

「私も、最初はこんなこと言うつもりじゃなかったの。余計なこと言って迷惑かけたら嫌だなって思っていたし」

 

 でもね、と小野町が照れ臭そうに笑う。

 

「さっき稲里くんと話して、お互いに変な誤解をしていたんだって分かってさ。それで思ったんだ。やっぱり心って、声に出さなきゃ伝わらないんだよ。相手の人もきっと迷惑だなんて思わない。私と同じで、話してくれたら嬉しいはずだから」

 

 夕陽に照らされた小野町の屈託のない笑顔はとても可憐だった。きっと中学の頃の僕なら卒倒していただろうし、環さんと出会っていなかったら今だって惚れ直していたかもしれない。けれどこの時、僕はただ純粋に、人のためを思って笑える小野町が素敵だと思った。

 

 不意に、タロー氏が飛び起き、メンチカツの紙袋を再び奪おうとしてきた。僕はそれをサッと避け、タロー氏を抱きかかえて膝から降ろして立ち上がる。ズボンが抜け毛だらけだ。

 きょとんとするタロー氏を横目に、僕は小野町に礼を述べた。

 

「ありがとう小野町。色々とスッキリした。時間も無いから、僕は行くよ」

「うん。頑張ってね」

 

 気持ちが急く。すぐにでも環さんの所へ行きたいという、およそ一週間ぶりに感じる衝動が僕を突き動かす。気付けばすでに数歩、駆け出していた。

 勢いのまま小野町と別れようとした時、一つ思い付いて僕は振り返った。

 

「小野町も何か悩みがあったら相談に乗るよ! 僕で良ければ!」

 

 それだけを一方的に言って走り出す。返事は聞かなかった。照れくさくて聞けなかった。しかし小野町のびっくりした顔を最後に見られただけでも収穫だった。そう思いつつも、もし本当に小野町が何か相談してきたら親身になって協力したいと考える。今日、彼女から教えてもらったことはあまりに大きく、返すに返しきれない恩が出来てしまったから。

 

 僕は駆けた。もう日没までは幾許も無い。

 商店街を一目散に走り抜け、陸橋を越え、東口から西口へと駅を横断する。

 

 息が上がるのも構わず、神社めがけて。落ちる夕陽を追うようにひた走った。

 



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九話・僕の神様になってください

 

 

 

 一週間ぶりに訪れた神社の入り口には、立ち入り禁止の黄色いテープが張られていた。すぐ側に置いてある立て看板には、取り壊しが決まった旨と工事の日時などが記載されている。老朽化のため崩れる危険があるから入らないように、とも。

 

 小野町と公園で別れてからこちら、一度も止まらずに走ってきた僕は息も絶え絶えだったが、一切の躊躇なく立ち入り禁止のテープを乗り越えて境内へと侵入した。

 神社の敷地は相変わらず雑草に支配されていたが、生えている種目がススキなどの秋季のものに変わっていた。今まで気にかけることもなかった時の移ろいを目の当たりにして、僕の心は焦燥に波立った。

 

「環さん、僕です。晴人です」

 

 いつもなら僕がやって来たと見るやとっとこ出てくるはずの環さんの姿が見えない。社の前に立って呼びかけても森閑としているばかりだ。

 普段から不気味な雰囲気のある境内は、夕暮れで薄暗いこともあり不吉な予感を起こさせる。

 

 僕は不安に駆られた。もしかしたら環さんは既に天界に帰ってしまったのか。せっかく小野町に背中を押してもらい自分の本音と向き合う決意を固めたのに、全ては遅きに失したと言うのか。

 

「環さん! 環さーん!」

 

 僕は腹の底から彼女の名前を叫んだ。ジュリエッタを呼ぶ悲恋のロミオさながらの気持ちで環さんの行方を探す。

 

 すると、境内の隅で何やら影が蠢いた。茂った草の間でもぞもぞと動く影はホラー映画さながらの恐怖を感じさせる。

 畏れながらも凝視すると、立ち上がったそれはよく見覚えのあるシルエットをしていた。上に立つ尖った耳と、輪郭だけでも豊かな毛並みの分かる尻尾。環さんの姿であった。

 

「ふああ……」

 

 環さんは欠伸をしながら覚束ない足取りで此方へやって来る。まさか外で眠っていたのだろうか。相も変わらず天衣無縫の人である。

 僕も歩み寄ると、眠たそうだった彼女は擦っていた目をパチクリとさせて驚いた。

 

「ややっ、晴人! 誰じゃと思うたらお主か!」

「はい。ご無沙汰していました」

「まったくもう。最近全然来ないから何事かと心配していたのだぞ」

 

 フンスと鼻息の荒い環さんだが、その口調には喜びの色があった。どうやら僕が一週間も顏を出さなかったことを怒ってはいないらしい。

 

「草むらで何をされていたんですか」

「おう、蟻の行列があってな。暇潰しに眺めておったらいつの間にやら寝てしまった」

 

 もう日暮れじゃのう、と環さん。時間の使い方が大雑把すぎる。

 

「しかし蟻とは、いつ見ても珍妙じゃよなあ。大勢があんなちっこい穴から出入りしておるが、土の中でどう暮らしているのか見当もつかん。奴らの家は異界とでも繋がっておるのだろうか」

 

 数百年は生きているはずなのに少年のような目でそんなことを言う。僕は呆れつつも、環さんが何も変わっていないことに深く安堵した。もう二度と、こんな風に彼女と喋れないのではないかと思っていたから。

 

「蟻の話は置いておいて、はいこれ、今日の供物です」

「わあメンチカツ!」

 

 まだ仄かに温い紙袋を渡すと、環さんは飛び上がる勢いで喜んだ。「ほら、はよ食うぞ!はよう!」と僕の手を引き、社の石段に並んで座る。環さんはいただきます、と手を合わせて早速三角の紙に包まれたメンチカツを頬張る。

 

「ほれ。二個あるから一つはお主の分じゃ」

「もともとそのつもりで買ってきたんですよ。なんで僕が貰う感じになってるんですか」

「はあー、美味い。美味いが、熱々じゃったらもっと美味かったのう」

「無視しないでください」

 

 あっという間にペロリと一個食べ切ってしまった環さんが物欲しそうに僕のカツを見てくるので、一口ならと差し出したところ二口食われてしまった。唯我独尊の霊狐である。本当にこの人はどうしようもない。

 まあ分かっていたことではあるので、僕は大人しく残り少なくなったメンチカツを食した。

 

「こればかりが心残りじゃ。天界に帰ったら二度と食えないんじゃよなあ」

 

 天界。その単語が出たことを僕は好機と見た。環さんが醸すのほほんとした空気に浸って腑抜けてはいけない。このきっかけを逃さず、話すべきことを話すのだ。

 

「環さん。お話があります」

 

 僕がそう言うと、環さんは「なんじゃらほい」とヘンテコな返事をする。せっかく真剣な雰囲気を作ろうとしたのに台無しである。小野町助けてくれ、と念じつつ僕は覚悟のほぞを固め直した。

 

「僕はこの一週間ずっと悩んでいました」

 

 環さんの顔がにわかに凛と引き締まる。見た目に似つかわしくない思慮深そうな双眸が僕を見つめ、続きを話せと促してくる。

 

「環さんのことを引き留めるべきじゃないと思っていました。僕にそんな資格は無いし、そもそも環さんが望んではいないかもしれないから」

 

 さっきまでの和気藹々としたやり取りが嘘のように、僕たち二人の間の空気が張り詰める。それを感じているのは僕だけだろうか。緊張による錯覚だろうか。

 何をするにせよ、本当の瞬間とは怖いものだ。裸足で逃げ出したくなるほどに。

 

 しかし僕はつい先程、その恐怖に立ち向かう勇気を小野町からもらった。ここで発揮できなくて何とする。

 

「でもやっぱり僕は、環さんに帰ってほしくないです」

 

 少し前まで胸の内にしまっておこうと思っていた言葉をハッキリと口にした。

 環さんは睨め付けるかのように僕の目を強く見つめていたが、しばらくしてふと視線を逸らし、ため息をついた。

 

「はあ。お主はまったく……同情などせんでいいと言うのに」

「同情じゃないです。僕が環さんに居て欲しいんです」

 

 畳みかけるように言うと、環さんは困ったように苦笑して自分の尻尾を弄り始める。

 

「言うではないか。でも、なあ。そう我儘を言ってもおれんのよ。下界での儂の居場所はこの神社のみじゃ。ここが無くなることに変わりはないのだから、最早どうともならんて」

「いいえ。そんなことはないはずです。方法なら考えてきました」

「ほう。どんな」

「引っ越すんですよ。新しい社に還座しましょう」

 

 一度は思い付き、口に出すこともなく破棄した愚案。環さんは意外そうに目を瞬かせたが、やはり聞き分けの悪い子供を諭すような苦笑に戻った。

 

「なるほど。少しは勉強したな、晴人。だがそれも無理じゃ」

「何故です」

「人間であるお主には分からないかもしれんが、儂らの世界にも色々としきたりや風習というものはある。今からすぐに移り先を見つけるのは難しい。それにな……何よりも儂が嫌なんじゃよ。他に移りとうない」

 

 言い聞かせるように語る環さんは、躊躇いがちに最後の言葉を付け足した。僕はそこに、彼女の本音を垣間見た気がした。

 

 環さんの気持ちは痛いほどに分かる。本音を、もっと言うなら自分の弱い部分を少し見せることで相手に退いてもらいたいのだ。これ以上踏み込めば面倒な話になるということを匂わせて、会話を打ち切りたい。自分の経験と照らし合わせ、きっとそういう心理なのだろうと僕は断定した。

 

 退いてなどやるものか。僕はまだ伝えたいことの一部しか言葉に出来ていないのだから。

 

「勝手で申し訳ないのですが。環さんの還座先はもう絞ってあります」

「は?」

「どうか僕の家に来てください。立派な神棚を僕の部屋に飾りますから、そこへ来て、一緒に暮らしましょう」

 

 再びこちらを見た環さんは驚きのあまり呆然としていた。口がぽかんと開いたままになっている。目がキョロキョロと泳ぎ、左右に振り回されている尻尾からは彼女の混乱具合がよく分かる。

 時間が経つにつれて環さんの頬が赤く染まっていき、みるみるうちに顔全体が紅葉のように真っ赤になった。

 

「は、晴人お主! 自分が何を言っておるのか分かっておるのか!?」

「もちろんです。僕は本気ですよ。いずれは環さんに信仰を集めて、自由に外出できるよう努力もします」

「い、いや待て。待つのじゃ。そう、お主の願い事はどうなる?」

 

 プロポーズ紛いの発言に環さんが待ったをかける。

 僕の願い事。理想の女性と、理想の出会いを。それを叶えるべく僕と環さんは夏から秋にかけて侃侃諤諤の議論を交わしてきたわけだ。

 

 今となっては的外れの、ちゃんちゃら可笑しい話だが。

 

「そんなもんは既に叶っています」

「そ、そんなもん!?」

「僕が今言ったのは、それを踏まえた上での追加のお願いです」

「百日詣に追加なんてないぞ!?」

「願うだけならタダだと何処かで聞きました」

「強欲じゃあ……」

 

 強引に迫る僕に気圧された環さんはほとほと弱り果てた様子だった。まだ赤みの抜けない顔で「これだから人間は」などとぶつぶつ言っている。

 僕は環さんの正面に立ち、深々と頭を下げた。正真正銘、掛け値なしの一生に一度のお願い。その覚悟を持って告げる。

 

「お願いします。僕の神様になってください」

 

 九十度に腰を折ったまま、僕は環さんの返事を待った。

 しかし返事は無い。曲げている腰が痛くなり始めるくらいの時間が経っても環さんは何も言わなかった。

 

 僕はゆっくりと頭を上げる。向き直ってみれば、環さんはひどく難しい顔をして俯いていた。この数ヶ月ずっと彼女に会ってきたが、今までに見たことのない表情だった。膝の上に置いた手をもじもじとさせるばかりで、一向に返事をする様子は無い。

 

「駄目ですか」

 

 ややあって、こくりと環さんが頷く。

 

 告白の熱が幾分か冷めた僕はにわかに不安に襲われた。もしかしたら、何処かで環さんの地雷を踏み抜いたのか。今にも泣き出しそうな環さんの顔は、そう思わせるのに十分な説得力があった。

 どうしよう。この状況は聞いていない。自分の気持ちを伝えようと、そればかりで話していたから想定外の展開に対応できない。

 

 そうだ。とにかく環さんの気持ちもちゃんと確認しなければ。僕は努めて平静を装い、ゆっくりとした口調で話を続けた。

 

「嫌なら、ハッキリ言ってもらって大丈夫です。僕は腹を割って環さんと話がしたいんです」

「……嫌では、ないんじゃ」

 

 環さんの声はなんとか絞り出したように苦しげだった。辿々しく、まるで迷子の子供が上手く自分のことを話せないような拙さを感じさせる。

 

「嫌じゃない。たぶん、儂は嬉しい。嬉しいと思っておる。晴人といるのは楽しい。なのに変じゃ」

「変、ですか?」

「よう分からんのじゃ。儂はもう何もかんもよう分からん」

 

 どういうことかと環さんの言葉の意味を僕が考えている間に、彼女の目尻には涙が浮かび始めていた。

 

「何をどうしたら幸せなんじゃ。ずっと考えてきたのにとんと分からん。思えば儂は、晴人のこともよう知らん。一緒にいて楽しいのは分かるのに、ずっと居られるのか考えると、分からんくなってしもうた」

「これから知っていけば良いではないですか」

「……きっとまた分からなくなる」

 

 僕のありきたりな言葉を否定し、環さんはぽつぽつと語り出した。

 

「実はのう。昔のことをよく覚えてはいないんじゃ。楽しかったことや嬉しかったことは分かるのだが、誰と仲良くなったのか、どうやって遊んだのか、あまり思い出せない。時が経つにつれて、どんどん思い出せなくなっていっとる」

 

 そんなはずはない。現に環さんはこれまで、過去の思い出を幾度となく滔々と話してきたではないか。

 

 考えていることが顔に出ていたのか、環さんはこちらを見て寂しそうに笑った。環さんと初めて会った夏の日に見た、遠い情景を見つめるような顔が不意に思い出される。

 

「晴人もあるじゃろう。よく覚えていないことでも、その前後の記憶からこうだっただろうなと考えて、空白を埋めるようなことが。儂のはそれじゃ。別に嘘を言っていたつもりはないんじゃが、正確に覚えていることなど微々たるものでな。それも端からどんどん曖昧になって、儂の中から出会った人間たちの顔や名前が消えていくんじゃよ」

 

 僕は辛そうな彼女に少しでも寄り添いたくて肩に手を置こうとしたが、振り払われてしまった。そのぞんざいな態度が「同情しないでくれ」と訴えていた。

 

「忘れるのは、何も儂だけではない。この神社に来ていた人間たちも、年月が経てばその分だけ過去のことを忘れていく。そんなことを気にして残るなんてお前はどうも人間くさいと、仕えていた神様や姉妹たちにも言われたよ。儂だって、自然なことだというのは分かっているんじゃ。この神社の廃れた原因が単に周りから忘れられていっただけということも、それが避けようのないことだったのも分かっている。分かってはいるが……!」

 

 環さんは声を荒げ、着物の袖で目尻に浮かんでいた涙を拭った。

 

「儂ばかりが覚えている! 人と遊んで楽しかった気持ちも、神社の祭りの高揚感も、全部儂しか覚えていない! 他のことは皆と同じように忘れられるのに、あの日の感情だけがずっと残って消えないんじゃ!」

 

 環さんが堰を切ったように叫ぶ。それは荒ぶる感情に任せた魂の悲鳴であり、血を吐くように悲痛さがあった。

 ひとしきり叫んだ環さんは息を抑えようとしながら、両手で顔を覆った。猫背に丸まったその姿からは、羅生門の老婆のように鄙びた哀愁が漂っていた。

 

「どうしたらこの苦しさが消えるのかずっと考えてきたよ……でも時間が経てば経つほど寂しくなるばかりで、どうしようも無いんじゃ。一緒にいると約束してくれた者たちもいつの間にか居なくなってしまった。今じゃ顔すら思い出せん。なのに忘れたはずのそれをまだ欲しがっている自分がおる。自分のことすらままならぬ。もう儂は、何を信じたら良いか、これっぽっちも分からんのよ」

 

 環さんの独白はそこで途切れた。僕たちは向かい合ったまま、しかし俯く環さんと目が合わないまま沈黙した。

 鈴虫の鳴く声がどこからともなく薄暗い神社に響いている。見上げれば生い茂った木々の枝の隙間から藍色の空が見え、仄かに白い月が顔を覗かせている。

 

 環さんの抱えていたものは、僕が考えていたそれよりずっと広く深かった。たかだか一介の高校生である僕の想像など及ぶべくもなかった。

 

 どう言葉をかけたら良いか。どうしたら上手い具合に彼女を慰められるのか。僕は内心で血眼になって思考を巡らせた。

 しかしそれも十数秒程度のことだった。夜の冷たい空気を吸い込むと頭の中が明瞭になり、重く捉えていた悩みも押し流されていく。

 

 僕が一人であれこれ考えて分かることなど知れている。何が相手のためになるかなんて、いくら悩んだところで言い訳と妥協が澱んで濁り、屁理屈未満の情けない結論がひり出されるのみだ。

 僕に出来ることは最初から決まっている。今日はそれ胸に、環さんの元を訪れたのである。

 

 今ここで環さんの悩みを全て払拭する妙案など浮かぶべくも無い。僕は僕の覚悟を、真剣な思いを、迷い続けている彼女にきちんと伝わるまで誠意を尽くすしかないのだ。

 

「環さん。僕のことも信じられませんか」

 

 尋ねてみても、環さんは黙ったままだ。膝をついてしゃがみ、彼女と目線を合わせようとしたがそっぽを向かれてしまう。僕はそれに構わず言葉を続けた。

 

「幸せが分からなくなったなら、これから探していきましょう。その中でだんだんと信じられるようにならば良いんです。約束します。僕は絶対に環さんから離れたりしません」

 

 環さんはそっぽを向いて黙ったままだ。暗い中でも着物の裾を握る彼女の手が強張っているのが分かる。

 

「秋が終わるまでに焚き火で芋を焼きましょうよ。冬には餅をついて、春になったら桜を見に行きましょう。環さんに言われて僕も思ったんです。ずっとそうやって暮らしていけたら良いなって」

 

 環さんは黙っている。僕が何を言っても。子供が親の小言に耳を塞いで嫌がるように。

 

「……そうですか。分かりました」

 

 僕はやおら立ち上がった。環さんがハッとした顔でこちらを見上げるが、そんな彼女の横を通り抜けて石段を登る。

 

「は、晴人?」

 

 環さんは僕が怒ったとでも思っているのか困惑した声をかけてくる。それを背中に受けながら僕はずんずんと歩き、古びた賽銭箱の前に立った。

 

 ズボンのポケットから財布を出す。小銭入れにはちょうど良く五円玉が一枚あった。僕は穴の空いた黄金色の硬貨を満腔の思いで握りしめ、賽銭箱に放り投げた。チャリンと底に落ちた音が鳴る。

 

 言葉で駄目なら、もうこれしかない。

 

 環さんは神社の霊狐だ。多くの力を失った今でも、参拝客が願い事をする際に心の内を見ることはできるという。僕も御百度参りで恋人が欲しいという願い事どころか自分さえ預かり知らぬ深層心理まで覗かれたものだ。環さんの能力は折り紙付きである。

 

 今はとくと覗くがいい。言葉では分からないと言うのなら、何を信じたら良いか分からないと言うのなら、言葉にし尽くせないほど深い心の中を覗き見るといい。

 これは賭けだ。深層心理など自分のことさえ定かではない。もしも僕の奥底にある想いが環さんの心を揺さぶるほどのものでなかったら、この行為には何の意味もなくなる。それどころか、彼女を傷つける恐れすらあるだろう。

 

 しかし迷うことなど無い。今この瞬間だけは、環さんに対する思いだけなら、僕は僕自身に全幅の信頼を置ける。

 

 背筋を伸ばし、呼吸を整える。久しぶりに行う祈祷の型は、しかし百日間の練磨のおかげで些かも衰えてはいない。考える必要もなくすんなりと身体が動く。

 二礼二拍手。僕は粛々とその儀式をこなし、ありったけの願いを心の中で唱えた。

 

 どうか、どうか環さんと。

 

 …………。

 

 本気の御参りは短く済んだ。たった一つだけの単純な願い事だったからだ。御百度参りで幾度となく祈りを捧げたきたが、今回ほど真剣に願ったことは一度もないと断言できる。

 

 伝わっただろうか。今の僕に出来ることは全てやったわけだが。

 合わせていた手を解いて最後に一礼をし、さて成果や如何にと振り向く。

 

「わっ!」

 

 振り向いた瞬間、僕の胸に金色の風がすごい勢いで突っ込んできた。たたらを踏みそうになるのを何とか堪えて抱き止める。

 飛び込んできた環さんは顔を押し当て、しがみ付いたまま離れようとしない。背中に回された彼女の手が僕のシャツをぎゅうと掴む。

 

 暫し混乱していた僕は、取り敢えず彼女の名前を呼ぼうと口を開きかけて止めた。胸に顔を埋めたままの環さんから、ひっくひっくと啜り泣く声が聞こえてきたからだ。

 

「ば、馬鹿もんが…この馬鹿もん……」

 

 嗚咽混じりに環さんが言う。

 

「はい。そうです。馬鹿なんです」

 

 そう答えると彼女は頭をぐりぐりと擦り付けてきた。回されている腕に一層力が込められる。僕は少し逡巡した後、彼女の頭を撫でた。愛くるしい耳には当たらぬよう気を付けながら、子供をあやすように撫でる。

 

「浮気は許さんぞ。絶対じゃ。狐の恨みは恐ろしいんじゃからな」

「承知しました」

「あと、貢物を欠かすでないぞ。言っておくが、儂はあのメンチカツが好物じゃ」

「分かっています」

「あと、それと、えっと…………」

 

 まるで言い訳を探すように環さんは辿々しく言葉を重ねる。僕はそれにとことん付き合うつもりだった。今まさに、一生をかけて彼女の側にいると誓ったのだから。

 

 ひとしきり喋って、環さんは落ち着いたらしい。もう啜り泣いてはいないし抱き締める強さも和らいだ。しかしそれでも一向に離れず顔を見せようとしない。

 僕は頭を撫で続けながら、そんな彼女のいじらしさを心の底から好ましく思った。

 

「晴人」

「なんです」

「……ありがとう」

 

 日が沈み、すっかり暗くなった境内。空には煌々と輝く太陽の代わりに満ちかけの白い月が浮かんでいる。四方から鳴り響く鈴虫の音色に混じって、彼女がぼそりと呟いた言葉は確かに僕の耳に届いた。

 

 その後もしばらく無言で抱き合う僕たちを、淡い月明かりが照らしていた。

 

 



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最終話・日照り雨

 

 

 

 大晦日。

 駅前の商店街が一年の内で一番活気付く日である。三ヶ日はどの店も閉まってしまうので客が怒涛のように押しかけ、緩み切った財布から金をばら撒いていく。往来に出店まで並び、やたらと良い匂いをさせて誘惑してくる。

 

 防寒着を着込んだ僕は行き交う人々の間を縫って歩く。

 高校も冬休みに入り飼い猫のごとく家でぬくぬくと過ごしていたのだが「大掃除も手伝わないならお使いくらい行け」と母に蹴り出され、こうして寒空の下へ追放されてしまった。午後からは雨が降るかもしれないと予報も出ていたのになんて仕打ちだろう。

 

 頼まれたおせちの材料を買い込みがてら、僕は松葉屋に寄りこっそりメンチカツを購入した。

 我が家に住まう神様はこれを貢げば大抵ご機嫌になる。家内安全、無病息災などなど願うことは豊富にあるのでご機嫌取りをしておくのに越したことはない。

 

 Prrr……。

 

 松葉屋を出たところでポケットに入れている携帯電話が鳴った。盟友である伊藤からの着信だ。

 

「おう、どうした」

『晴人! 大変なんだあ!』

 

 持てる肺活量を全て使ったのではないかと思うくらいの音量に、僕は携帯から耳を遠ざけた。元から気の弱い男で狼狽えやすいが、ここまで動揺しているのは初めてだった。

 

「なんだよ。落ち着けよ」

『む、む、無理だよ。やばいんだ本当に』

 

 要領を得ない伊藤を宥めつつどうにか話を聞くに、彼は女子に告白されたという。家のポストに熱烈な思いの綴られた恋文が投函されていたらしく、どうして良いか分からず僕に泣きついたというわけだ。

 

『こんなの何かの間違いだよ。俺は怖い』

 

 涙ぐむ伊藤のことを情けないと思いつつも、混乱してしまうのも仕方ないと同情する。

 なにせ彼に告白してきた物好きな女子というのは、かの小野町だったのだから。

 

 昔の僕であれば奴が告白されたなどと聞けば嫉妬と歓喜の間で悶え苦しんだ挙句、ろくなアドバイスも送れず血涙を流しながら祝福するしかなかったであろう。

 

 しかし今の僕には恋愛経験者として言えることが少なからずあるし、何より彼の恋路を後押しする義務がある。

 

 何故ならラブレターを送ることを小野町に提案し、二人の仲を取り待とうとしたのが他でもない僕なのだから。

 

 

 

 

 

 

 時は遡り秋の暮れ頃のことである。環さんとの一件が片付いて暫く経ったある日、小野町から呼び出された。

 

 時刻は夕時。場所は校舎裏。奇しくも中学生時代に僕が恋文を読んだ状況がそのままに再現されており、心中穏やかではなかった。

 周りに誰もいないのを何度も確認してから小野町は言った。

 

「恋愛相談に乗ってほしいの」

 

 公園で話し合った日、僕は去り際に「困ったことがあれば相談に乗る」と言い残した。そう、確かに言ったが、まさかよりにもよって恋に関する話を持ち掛けられるとは考えてもみなかった。

 

 いくら気兼ねしない仲になったとはいえ、振った相手にその手の話ができる小野町の胆力たるや尋常ではない。相談された僕は呆れるどころか感心して笑ってしまったほどだ。小恥ずかしそうに顔を赤らめた小野町に「笑わないでよ」と怒られたことは記憶に新しい。

 

 話を聞くに、小野町は高校に入学してからすぐに伊藤のことが気になり始めていたという。

 それで僕は小野町としょっちゅう視線が合っていたことに対し合点がいった。どうにも伊藤と一緒にいる時に頻発する気がしていたのだが、小野町は僕とのわだかまりを解消したいのと同時に、伊藤にもアプローチをかけられないかと虎視眈々狙っていたわけだ。

 大人しそうな優等生面をして中々に強かである。「かーっ、卑しかばい!」とからかったらまた怒られた。

 

「ちなみにアイツのどんなところを好きになったんだ」

 

 そう聞くと小野町は顔を真っ赤にしてしばらくモジモジと悶えた後、神父に罪を告解するカトリックのような面持ちで答えた。

 

「私、筋肉が好きなんです」

 

 なんとも単純かつ強烈な事実に僕は天を仰いだ。明瞭にもほどがある。

 

 僕が間抜けヅラを晒している間にも、スイッチが入ってしまったのか小野町が喋る喋る。

 小学校三年生くらいから既に男の人の筋肉に憧れがあっただとか、毎日寝る前にスマホでボディービル大会の動画を見るのが止められないだとか、一番好きな部位がどうたらこうたらとか、聞きもしない性癖がタガの外れた小野町の口から雨霰のように乱射され僕を打ちのめした。

 

 王様の耳がロバの耳であることを知った理髪師のごとく、僕はやたらめったら周りに言いふらしたい衝動に駆られた。クラスのマドンナがまさかの筋肉フェチである。それも重度の。

 

 しかしまあ、色々と腑に落ちたのも確かだ。僕は自分の二の腕を触ってみて思う。なるほど、これでは小野町を振り向かせるに足るはずもないと。やはり恋文の良し悪しなどは関係なかったのである。

 

 延々と伊藤の筋肉がいかに素晴らしいかを語ろうとする小野町を落ち着け、僕は伊藤がいかにロマンチックで純情な演出に弱いかということを教えると共に、彼女へ秘策を与えた。

 その名も『押して押して押しまくれ作戦』である。要は一歩も退かぬ構えで勢いのまま相手を丸め込むのだ。気の弱い伊藤にはこれ以上無く効果的な作戦と言える。

 

 そしてついに小野町は秘策を実行に移した。効果のほどはご覧通りてきめんであり、伊藤は訳も分からず僕に泣いて縋り付いてきたというわけだ。

 

 いやあ、めでたしめでたし。

 

 

 

 

 

 

「泣くな、みっともない。良かったじゃないか。お前の育て続けてきた筋肉がついに日の目を見たんだぜ」

 

 伊藤の弱腰はさすがに僕の想像の範疇を超えていた。小野町に押されれば誰だろうとコロっと落ちるに違いないと思っていたのだが割と手強い。「怖い怖い」と怯えるばかりの軟弱野郎に対し、最初は面白かったのが段々と面倒になってくる。

 

『晴人、僕はどうしたらいいんだ』

「男なら抱きしめてやれ。その逞しい腕で。小野町はきっと大喜びするぞ。じゃあな」

 

 これ以上付き合ってられるか。さっさと帰って環さんと炬燵に入りたい僕は言うだけ言って通話を切った。

 あとは当人同士だけでイチャイチャするがよろしい。そもそも他人の恋路にやたらと首を突っ込むのは清純を旨とする僕の趣味ではないのである。

 

 

 さて次は何をするんだっけ、と買い物のメモを取り出して見てみれば、湯葉を買いに一箇所だけ商店街ではない駅向こうの店に行かねばならないらしい。母が重宝している豆腐屋があるのだ。

 少々面倒に思ったのも束の間だった。一つ思い付いたことがあり、僕は途端に意欲が湧いてきた。

 

 せっかくだ。少し寄り道でもしよう。

 さっさと帰りたいからと伊藤を突っぱねた理由も何処へやら、足取り軽く商店街を通り抜ける。雨予報は外れたらしく空はからりと晴れていた。

 

 駅の構内を抜けて旧来の住宅地に入り、目的地である豆腐屋の前も過ぎ、しばらく歩けば閑散とした土地が目立つようになってくる。

 

 いや、閑散としたという表現は適切ではないかもしれない。田畑が埋め立てられた土地には端から迫るようにいくつもの家の骨組みが建ち始めている。

 現代の住宅建築はかなり素早いと聞く。一年もしない内にこの辺り一帯には整然と同じような家々が並び、たくさんの人々が新しい生活を始めるのだろう。

 

 今はまだ発展途上の風景を感慨深く眺めながら歩いていると、すぐに例の場所に着いた。

 僕が恋人欲しさに御百度参りをし、霊狐の環さんと出会い、そして何やかんやと楽しい日々を過ごした神社。

 

 その跡地である。

 

「綺麗さっぱりだ」

 

 久しぶりに訪れた僕は、目の前の荒涼とした光景に思わず呟いた。

 

 砂利が剥き出しのあまりに平らなその土地には、かつて神社が建っていた面影など欠片もない。解体工事は順調に進んだようで、鬱蒼とした木々も、崩れた狐の像も、傾いた社も、何もかも無くなっている。

 それは一つの歴史が終わりを迎えたことを如実に示していた。

 

 これから他と同じように骨組みが建てられ、やがて人の住む真新しい家が出来上がる。知らない誰かがここに引っ越してきて、神社があったことやそこに狐の環さんがいたことなどつゆ知らず、各々の生活を営むのだ。

 

 僕はそれを嫌だとも寂しいとも感じなかった。時の流れと共に人や物、土地さえも様々に変わっていく。そして僕たちは変わりゆく中でも自分なりの幸せを探して生きていかねばならない。

 

 願わくば、ここに新しく住む人々もまた、幸せでありますように。

 

 今は無き神社に向かって慣れた動作でお参りを済ませる。柄にもないが、年の瀬だ。たまにはこういうのも悪くない。うちの神様も良い心掛けであると言って笑ってくれるだろう。

 

 寄り道に満足し、踵を返して元来た道を戻ろうと歩き出したところで、顔にポツポツと何かが当たる感触があった。

 

 空を見上げてみれば、僅かながら小雨が降り始めていた。しかし冬の澄んだ青空に雲は少なく、依然として太陽も明るい。

 

 晴れている中で雨が降る。珍しい天気だ。何か洒落た呼び方があった気がするが、それにしても陽光に照らされながら降る小雨という景色は乙なものである。

 

 いちおう鞄に折り畳み傘を入れてきたが使う気にはならなかった。遮ってしまうのはどうにも勿体ない。僕は少し得した気分になり、足早に残りの買い物を済ませて帰路に着く。

 

 来年はどんな年になるだろう。

 考えれば考えるほど心が躍り、居ても立ってもいられなくなる。僕はいつの間にか小走りで駆け出していた。

 

 環さんが待つ家に向かって一直線に駆けていた。

 

 

 

 

 

 

おしまい




これにて完結です。読んでくださった方々、ありがとうございます。誤字報告などのご協力にも感謝しております。
正直、のじゃロリ狐娘とラストの狐の嫁入りを書きたかっただけのお話でした。でも主人公の晴人や他二人のキャラクターも書いていて楽しかったし、キャラ立ちさせることも出来たかなと。


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閑話
霊狐の家庭事情


 
本編に捩じ込めなかったボツシーンを書き直して短編にしてみました。

時系列は本編四話と五話の間くらい。中間テストに向けて晴人くんが環さんに古文の勉強を手伝ってもらっている時のことです。


 

 

 

 夏の暑さも和らいできた今日この頃、神社の再興計画を立てた僕と環さんは学問の神格を得るべく地道な勉強に明け暮れていた。

 もちろん教科は古文のみである。何故なら環さんが僕に教えられるのはそれ以外に無いからだ。

 

 越えなければいけない壁として小野町の成績のほどを伝えたところ負けず嫌いの環さんがやる気に満ちてしまい、僕もヒイヒイ言いながら彼女の勢いについて行かねばならなかった。

 

「ちょっと休みしましょうよ。このままでは僕は現代人としての自覚を失いそうです」

 

 あまりに古典文学に触れすぎて頭が痛くなってきたことを訴えると、環さんは「軟弱じゃなあ」と呆れながらも休憩を許可してくれた。

 

「軟弱って言いますけどね、僕はこれまで勉強なんてしてこなかったんですよ。キツイのは仕方ないじゃないですか」

「その言い訳、情けさに拍車がかかっておるだけだぞ」

 

 強くなれ、お米食べろ、などと環さんは僕を激励しつつ本日の貢物である饅頭を頬張っている。

 

「儂なんかなあ、神社の奉公に遣わされる前は刻苦勉励の日々じゃったぞ。歌謡に舞踊に琴や笛、算術習字と数え切れん。お主に教えている文学とて一朝一夕で身に付けたものではないのだからな」

「環さんは勉強つらくありませんでした?」

「めっちゃつらかった。母上怖いし」

 

 かつての艱難辛苦を思い出してか環さんは苦い顔をする。思い出すだけで渋柿をそのまま食べたような顔になるとは、どれだけ苦労したのだろうか。

 

「そういえば環さんのお母さんってどんな人なんですか」

「一言では表せんが、強く聡明で自他共に厳しい、霊狐の象徴とも言うべき狐じゃよ。実際に儂らの始祖みたいなもんじゃし」

「へえ、ちなみに何歳くらいなんですか」

「さてなあ。母上のことは儂も知らないことが多いし。平安の頃はブイブイ言わせとったらしいが」

「平安って、平安時代ですか?」

「うん」

 

 何でもないことのように環さんは頷く。この人と話しているとたまに人間の常識や価値観を揺るがされる。もはや驚くことも疑うこともなくなってしまった。

 

「あらゆる妖術に精通し教養高く、立場も神と変わらん。年に一度、出雲で八百万の神々の集会が開かれるんじゃが、母上はその出席権も持っておるしな。儂も含めて娘一同、尊敬の念に堪えん」

 

 出雲ってたしか島根県だったか。その程度の知識しかない僕は環さんの言う凄さもよく分からず「へえ」と生返事をする。

 しかし由緒正しき神々の集いだ。さぞ荘厳かつ豪華絢爛で、常人の想像などまるで及ばない宴会なのだろう。某宮崎監督作品の女の子が神様たちの風呂屋で働くアニメのイメージが頭に浮かび心が躍る。

 

「なんだか楽しそうですね」

 

 何となくそんな感想を言うと、環さんに「こら」と叱られる。

 

「無礼であるぞ。上古の時代より続く由緒正しき催しじゃ。しかと敬うように」

「はあ、でも何のために集まるんですか」

「人間のあれやこれや。まあ主には男女の縁を決めておる」

 

 縁。縁結び。

 僕は一瞬思考停止した後、やおら立ち上がった。環さんがびっくりして目を丸く開き、耳と尻尾をピンと立てる。

 

「な、なんじゃ、なんじゃっ」

「僕の願い事そのものじゃないですか! 何で早く言ってくれなかったんです!?」

 

 お百度参りとは何だったのか。まさか八百万の神々が一同に集まって決めることが男女の縁とは露とも知らなかった。そこで僕の良縁も結ばれれば当初の目的は解決してしまうではないか。

 

「その集会はいつあるのですか」

「十月じゃけど……ほら、神無月というじゃろう」

 

 もう目と鼻の先だ。こうしてはいられない。

 

「環さんから僕の縁結びを打診してくださいよ。今、すぐにっ」

「待て待て、落ち着かんか。いち人間の意見など聞き入れられるわけがなかろう」

「僕の願い事叶えてくれるって言ったじゃないですか!」

「ああもう喧しいのう!」

 

 詰め寄ると、環さんはピューと逃げてしまった。出会った日に尻尾か耳を触らせて欲しいと言った時と同様、まさに狐のごとき素早さだった。

 「嫌いになるぞ」と脅されれば流石に冷静にならざるを得ない。僕は環さんに平伏して謝罪した。

 

「全く、そもそもお主の考えているように実際に縁結びが行われているわけではないのだ」

「どういうことですか」

「昔はか弱い人間を導くためのものじゃったが、暫くすればその必要も無くなった。今では昔の名残りで集まって宴を開き、それぞれの近況や前年に占った相縁が結ばれたかどうかなどの話を肴に酒を酌み交わすらしい」

 

 もちろん儂は参加などしたこと無いから又聞きの噂でしか知らぬが、と環さん。

 僕は愕然として膝をつく。それではただの飲み会ではないか。しかも他人の恋バナが酒の肴ときたもんだ。有り難みも何もあったものではない。

 

 とことん上手くいかない現実に打ちのめされている僕に、環さんは冷たい視線を送る。そこには呆れと怒りの色があった。ひどく憮然とした表情をしており、僕がどうしたのかと聞くと拗ねたようにそっぽを向いてしまう。

 

「あーあ。二人で神社の再興を誓い合った矢先に自分の願いだけを叶えて一抜けしようとは。晴人は薄情じゃのう」

 

 顔から血の気が引く。裏切る気など毛頭無いが、しかし先程の僕の発言はそう思われても仕方ない。錯乱していたとは言えあまりに申し訳ない失言だった。

 

「許してください。どうかこの通りです」

「ふん。もう土下座なんかじゃ誤魔化されんぞ」

「決して悪気があったわけではないんです。これからも環さんと仲良くしたいんです。何でもしますからどうかお許しを」

「ほほう。何でもするのか」

「はいっ、そりゃもう……」

 

 顔を上げた僕の目に、環さんのしたり顔が映る。「今何でもするって言ったよね?」とニヤニヤしていらっしゃる環さんを見て僕は悟った。嵌められたのだ。環さんは最初から僕の考えなどお見通しで、拗ねて見せたのは演技だったらしい。

 

 斯くして、勢いに任せて何でもすると宣言してしまった僕はこれから一週間休まず松葉屋のメンチカツを貢ぐことと、今まで以上に環さんを敬い信仰すること、そしてどんな時でも生返事などせずちゃんと構うことを確約させられた。霊狐恐るべしである。

 

 上記についてはさて置き、迂闊な僕をからかうことが一番の目的だったらしい環さんはしばらく愉快そうに笑っていた。その笑いが収まったところで、僕は不都合な話の流れを変えるべく環さんの家族のことについて尋ねた。

 

「たまに話に出てきますけど、環さんのご姉妹ってどんな人たちなんですか」

 

 話題を変えたかったのもあるが、単純に興味もあった。環さんのように人懐こく破天荒なのか、或いは先ほど話に聞いたお母さんのように厳格な狐なのか気になるところだ。

 

「どんなと言われてもなあ。性格など千差万別じゃし、一概にこうとは言えんよ。それに姉妹全員と面識があるわけでもないしな」

「まあ掻い摘んででも良いので……って今なんて?」

 

 環さんがさも当然の如くさらりと言うので、危うく聞き流すところだった。面識が無いとはどういうことだ。生き別れでもしたのか。

 

 理解に苦しむ僕に「そう深刻な話ではない」と環さん。姉妹があまりに多いので一々覚えてもいられないそうだ。環さんが下界の神社へ奉公に来て何百年と経つ。その間に生まれた妹もいるので、会ったことも無い姉妹が多くいるのだと言う。

 

「ああ、もちろん仲の良い者もたくさんおるぞ。この神社で儂と一緒に神に仕えていた姉とも親しかったものよ」

「お姉さん、ですか」

「うむ。儂より二、三十年ばかし上の姉じゃ」

 

 その年の差は霊狐的に近いのか遠いのか。ばかし、と言うからには近いのだろうと僕は納得した。

 

 環さんの話を聞いて、無意識に参道を挟んで向かい合う狐の像を見る。片方は古びてこそいるがまだ健在で、もう片方は半ばから崩れてしまっている。それが何を意味するのか考えると悲しくなる。

 

「お姉さんは天界に帰ってしまったんですよね」

「そうじゃ。共に里を守護し、人々を導いたものじゃが……」

 

 ふっと環さんの表情が暗くなる。たまに彼女が見せる、過去をしのぶ時の顔。

 

「信仰が減るにつれて姉はだんだんと人間を見下すようになってしもうた。昔は仲睦まじかったのじゃが、最後は喧嘩別れのようになってのう」

 

 人との思い出を捨て切れず残った環さんと、人に見切りをつけて帰ったお姉さん。袂を別って百年余り。二人の間にある因縁がどれほど深いのか僕では分からない。無論、環さんの心情に寄り添ってあげることも出来ないのだろう。悔しい話だが。

 

「今は何をやっているのやら。まあ人間嫌いになった姉がまた下界に降りて何処ぞの神社で奉公しているとは思えんが」

 

 晴人と会わせてみたかったな、と環さんは苦笑する。お姉さんは元々真面目かつ勤勉で、文学の素養は環さんよりもあったという。そんな姉を尊敬していると述べる環さんの顔は寂しげでありながらどこか誇らしそうでもあった。

 

「あ、でも儂だって姉より優れたところはたくさんあるんじゃぞ」

「例えば?」

「まず変化の術は儂に軍配が上がる。母上からも飲み込みが早いとよく褒められた。姉妹で集まって隠れんぼをしたら、まあ儂が最後まで見つからんかったよ。他にも木登りじゃろ、メンコじゃろ。栗拾いやタケノコ掘りも儂は凄かった」

 

 しんみりとしていたはずが一転して上機嫌だ。環さんは指を折って野遊び武勇伝を数え上げ「あっはっは」と高らかに笑う。聞けば聞くほど子供の所業であった。

 

 微笑ましい事実につい頬が緩みそうになるのを堪えながら僕は環さんを褒めそやす。すごい、えらい、かっこいい。

 

 するとさらに機嫌を良くした環さんが、今から一緒に木登りでもするかと意気込む。どうしても己の勇姿を見せたいらしい。僕では敵いませんからと恭しく断ると、環さんは残念がりながらも満更ではなさそうだった。最近になってこの人の扱い方が分かってきた気がする。

 

「お姉さんとも、また仲良くなれると良いですね」

 

 神社の復興さえ叶えば、ゆくゆくは名声に釣られて環さんが仕えるべき神が舞い戻り、それに付随して霊狐のご姉妹と再会する機会も訪れるかもしれない。

 僕がそう言うと、環さんは少し目をパチクリとさせた後、可笑しそうに笑った。晴れ晴れとした小気味良いその笑い声を聞くとこちらまで嬉しくなってくる。

 

「さて、そろそろ休憩は終わりじゃ。勉強を再開するぞ」

「ええー。今日はもう疲れましたよ」

「たわけ。そんな調子では道など切り拓けんぞ。母上も姉も生真面目なんじゃ。神社復興の暁にはお主も立役者として目通りが叶うやもしれん。その時になって腑抜けられては儂の立つ瀬が無いわい」

 

 環さんは毅然として厳しい言葉を投げかけるも、その口調には隠し切れない温かみがあった。

 

 勉強は嫌いだが先に繋がるものがあると思えばやる気の一つくらい出る。僕は良縁を結び輝かしい憧れの青春を手にすべく、環さんは神社を立て直しかつての美しい思い出を取り戻すべく。目的こそ別だが同じ方向を目指して彼女と歩む日々は大変充実している。

 

 幸せになりたいものだ、お互いに。

 朗々と和歌を読み上げる環さんを眺めながら、僕は強くそう思った。

 

 

 

 

 

 

 とある街中の大通り。夕時の街は仄かな茜色に染まりつつあった。

 スーツケースを持った仕事上がりの会社員、友人と連れ立って歩く放課後の学生、夕飯の食材の詰まった買い物袋を提げている主婦など、様々な人々がひっきりなしに闊歩しすれ違う。

 

 そんな往来にあって、道行く一人の女性が周囲から視線を集めていた。

 

「え、今? あたしはネイル塗り終わったとこ。片方だけ店員さんおすすめのラメ入れてね。もう激カワ。インスタにも載せたから、とりま『いいね』よろ」

 

 通話しながら歩くその女性は慣れているのか、または気付いていないのか周りの視線など意にも介していない。

 最新のトレンドを取り入れた所謂ギャル系の服装に、すらりとした脚美をさらに引き立たせるハイヒール。ネックレスにピアスにブレスレットetc…上から下まで華美なアクセサリーで飾っている。今しがた塗ったばかりのネイルは西日の光を反射し、宝石のように艶やかな光沢を帯びていた。

 

 一見してけばけばしくも見えるその装飾は、しかし彼女の美貌をまるで損なうことなく見事に装飾としての役目を果たしている。歩く度にふわりと揺れる金髪は染めているはずなのに生まれ持ったかのような自然さで、人々の目を引くだけの魅力を伴っている。

 

 言動も含めてどこからどう見ても確かにギャルなのだが、単純にそう評するには常人とあまりにも決定的に何かが違う。あえて言葉にするなら隠しようの無い品格、或いは雅とでも言うべき優美な趣が彼女にはあった。

 

「タピってカラオケ? うん、全然大丈夫だよ。うち門限とか無いしアリ寄りのアリって感じ。んじゃ秒で行くから」

 

 通話を切り、意気揚々と足取りを早める。その様子は実に楽しげで、今まさに我が世の春を謳歌しているに違いなかった。

 

「はー、やっぱ下界サイコーだわ……くしゅんっ」

 

 咄嗟に口元を押さえてくしゃみをし、ティッシュで鼻をかむ。別にまだ肌寒い季節ではなく、そこまで薄着をしているわけでもない女性は首を傾げる。

 

「なんだろ。誰かが儂……あたしの噂でもしてんのかな」

 

 とりま後でお祓いしとくか。などと現代の若者にはおよそ似つかわしく無いことを言いつつ、女性は友人が待っている場所へ急ぐ。

 自分で着ておいて短いスカートが気になるのだろうか。後ろへ回した手は何かを隠すように尾骨あたりを押さえていた。

 

 

 

 

 

 

おわり




 
最後に付け加えた部分はかなり蛇足だったか……いやしかし書きたかったし……。
予想外に多くの方々に読んでもらえたのが嬉しくて衝動的に書きました。本編に入れる余地の無かった設定集的な何かですね。まあ蛇足は蛇足だし、もしかしたら突然恥ずかしくなって消すかもしれないのであしからず。


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食欲の秋

本格的に秋っぽくなったので思い付き投稿。山の無いのゆるい話です。


 

 

 

 銀杏の葉も落ち始めた秋の暮れのことである。

 学校から帰ってくると、玄関先で母とばったり出会した。今から買い物に行くらしい。冷え性な母は真冬のような防寒装備でもこもこに膨れている。

 

「今ね、環ちゃんが庭の掃除をしてくれているんだよ。あんたもゲームばかりせず手伝ってきなさい」

 

 母はそう言い残し、闘志を沸き立たせながらタイムセールに向かって行った。まさしく怠けようとしていた僕は荷物を部屋に置き、のそのそと重い足取りで庭に向かう。

 

 我が家に環さんが越してきてから早一ヶ月弱、彼女はすっかり家族の一員として迎え入れられていた。

 当初、突如として神棚を買い込み自室に設置した僕に「頭でも打ったのか」と心配してきた両親は、その直後にやって来た環さんに唖然としていた。高校生の息子が狐のコスプレをした少女を連れ込み、しかも家に住まわせると宣うのだ。両親の驚愕は察するに余りある。

 

 言うに及ばず、その晩に緊急の家族会議が開かれた。真っ先に槍玉に挙げれたのは僕に対する犯罪疑惑である。誘拐はダメよ、と母が言う。この正当でありながらも甚だ無礼千万な尋問に僕は猛烈に抗議し、何度も同じ質疑応答を繰り返した後ようやく最低限の信用を得た。

 

 その時の些細を語り尽くそうとすればキリがなく、閑話の閑話を作らなければならぬ事態になるので割愛させていただく。

 僕が他所のお子さんを誘拐して来たのではないと分かれば、環さんが霊狐であることから始まり、神社が無くなったので我が家に引っ越したいという旨を伝えるに至るまでの説明は大変スムーズに進んだ。両親共々、環さんが変化の術を見せれば「なるほど狐だ」と簡単に納得してしまった。その順応力の高さをどうして最初の段階で発揮し得なかったのか、僕は息子として大いに不服である。

 

 ともあれ「学費もかからないなら」と現実的な決め手もあり、環さんを家族として迎え入れることが決まった。

 母はその晩に赤飯を山盛り炊き、環さんが山盛り食べ、父から振る舞われる酒もしこたま飲んだ。見てくれは完全に少女である環さんが飲兵衛の父と意気投合するほどに酒を鯨飲する様は圧巻ですらあったが、見事に泥酔して前後不覚となった彼女を僕が介抱せねばならなかった。健やかに眠る環さんは実に酒臭かった。

 

 そうして苦もなく我々の生活に溶け込んだ環さんだが、庭掃除をしているとは妙な話である。

 

 なにせ環さんは家事手伝いなど滅多にしない。やるにしても気が向いた時、暇潰しがてら台所にいる母を訪ねるくらいのものだ。それだって夕飯のおかずをつまみ食いしてやろうという腹である。霊狐の誇りとは何処へ行ってしまわれたのか。

 

 「自分は神様であるからして、そこに居るだけで偉いのだ」と環さんは宣う。ただの居候なら追い出されても文句を言えない威張りようだが、彼女の場合これが真実であるため如何ともし難い。父も母も「そういうものなら仕方ない」と納得してしまっている。

 事あるごとに掃除だの洗濯だのおつかいだのと駆り出される僕とはえらい違いだ。僕もどうにかして神様ポジションを得て威張れないものだろうかと、そんなことを考える今日この頃である。

 

 本当に掃除などしているのか。訝しみながらも居間や僕の自室に環さんがいないことを確認しつつ庭に出る。

 家庭菜園も出来るくらいの広さがある我が家の庭の隅、柿の木が生えているそこで、せっせと箒を掃いている環さんがいた。顔を出した僕に気付いて手を振ってくる。

 

「おう晴人。おかえり」

「ただいまです。庭で何してるんですか、環さん」

「見て分からんか。掃除じゃ掃除。この季節は落ち葉がよく積もるからのう」

 

 嬉々としてそう言う環さんの足元にはこんもりと落ち葉の山が出来ている。どうやら本当に庭掃除をしていたらしい。最近は「寒い寒い」と言って炬燵に入ってばかりいたのに、一体どういう風の吹き回しだろう。

 

「見るがいい、この大量の落ち葉を。良く焼けると思わんか」

「はあ……焼く?」

「芋じゃよ芋、焼き芋! 焚き火でさつま芋を焼くんじゃ」

 

 なるほど、平常運転だった。焼き芋をやりたいがために落ち葉の掃除をしていたらしい。見れば軒下の縁側にはさつま芋の入った籠がある。我が家には台所の勝手口から出たすぐ側に保存のきく野菜などを入れておくための食糧庫があり、そこから幾つか持ってきたようだ。

 

「儂としたことが秋の風物詩をすっかり忘れておった。芋は良いよなあ。儂はこう見えてさつま芋が大の好物での」

 

 こう見えても何も、どこからどう見ても焼き芋が好きなことは十二分に伝わってくる。彼女の恍惚とした顔は、黄金色に輝く焼き芋を熱く所望していた。

 

 しかし、母はこの事を知っているのだろうか。いや知らぬだろう。芋を少し持ち出す程度ならまだしも勝手に焚き火などしたら大目玉である。昔、姉と二人で同じような事をしようとして散々怒られた記憶がにわかに蘇った。

 見過ごしたとあっては僕まで雷を落とされかねないので、やめるよう環さんを説得する。

 

「こんな所で火なんか焚いたら通報されますよ」

「通報って、どこに」

「消防署に決まってるじゃないですか。あ、警察も来るのかな。なんにせよ煙が上がれば火事と間違われて焼き芋どころじゃなくなりますよ」

「なんでそんな大事になるんじゃ! 芋くらいどこでも焼くじゃろうが」

 

 環さんは納得できないと駄々をこねる。神に仕えていた割に彼女はなかなかに頑固で、己の欲望に忠実である。

 

「今はそういう時代なんですよ。堪忍してください」

「世知辛いのう……」

 

 食い気に目を輝かせていた環さんは一転して、しおしおと落ち込んだ。首を垂れ、ついでに狐耳も垂れてしょぼくれている。どんだけ芋焼きたかったんだこの人は。つまらなそうにその辺の草をむしりながら「昔は良かった。今はダメじゃ」などと懐古厨のようなことを言う。引越し当初、洋式トイレやテレビに対して「文明の利器!」とはしゃいでいたことなど忘れてしまったようだ。

 

「ほら寒いですし、もう中に入りましょう」

 

 促しても集めた落ち葉を見つめたまましょぼくれている環さんをよいしょと担ぎ上げて家に戻る。普段、担がれたら「ちゃんと敬え」と言って怒るものだが何の反応もない。

 どうやら本気で落ち込んだらしい。まあ、それも大した事ではない。代わりの好物を与えればたちまち元気になるだろうから。

 

 

 

 

 

 

 楽観的だったと言わざるをえない。僕は先刻までの自分の考えを恥じた。食べ物を与えておけば環さんのご機嫌を取れると思っていた。往々にしてそれは正しいのだが、今回に限って言えばそうは問屋が卸さないようだ。

 

 環さんを僕の自室に連れ帰って布団の上に放ると、彼女は頭まですっぽりと布団を被って出てこなくなってしまった。こんもりと小山のように盛り上がっているのは環さんが丸まっているからか。まるで子供の拗ね方だ。

 

「環さん、出てきてくださいよ」

 

 呼びかけるも応答はない。拗ねた者など捨て置くに限るのだが、環さんの場合はそうすると更に不機嫌になることがあるので難儀である。

 

「ずっとそこにいても息苦しいでしょ。居間で炬燵に入って蜜柑でも食べませんか」

「嫌じゃ、焼き芋がいいっ」

 

 環さんの意思は固い。冬が近づいてからこちら、指先を真っ黄色にするほど毎日飽きずに蜜柑を食べているとは思えない頑固さだ。

 

「じゃあ松葉屋のメンチカツは」

「…………焼き芋!」

 

 ずいぶん迷ったようだが、やはり今は焼き芋が食いたいらしい。彼女の大好物でも駄目となると僕はもうお手上げである。こうなれば万事休す、あとは呼びかけながら時間が解決してくれるのを待つより他にない。

 

 いや、しかしこのままで良いのか。僕の脳裏に天啓が響く。

 いつまでも環さんに平伏してばかりで良いのだろうか。彼女は確かに崇め敬う対象だが、同時に僕の人生のパートナーでもあるわけだ。今こそ僕は大和男子として奮い立ち、古式ゆかしい亭主関白を発揮すべきではないかと思い至った。すなわち、ちゃぶ台返しならぬ布団引っぺがしである。

 

 オラ出てこいコラ、とぐいぐい布団を引っ張れば、環さんは「ぬわあああ」と悲鳴を上げて抵抗する。「敬え、敬え」と訴える声はどこか楽し気である。どたばたと暴れるうちに僕も楽しくなってきて餅をこねるように揉みくちゃにしたり、環さんを布団ごと一抱えにして持ち上げたりした。すると布団の膨らみが不意に無くなり、同時に一匹の狐が僕の腕からするりと抜け出て体当たりをかましてきた。環さんの見事な変化術。いや変化というよりは元の姿に戻ったと言うべきか。

 びっくりして仰向けに倒れた僕の上を、狐の姿になった環さんがトランポリンで遊ぶ子供のように飛んだり跳ねたりする。そうして勝ち誇ったように胸に乗っかり顔を覗き込んで来るので、僕が負けじと脇腹をくすぐってやると「キャインキャイン」と犬のような鳴き声を上げて悶える。しかし瞬きの内に普段の姿に戻った環さんはクッションを振り上げポフポフと殴りかかってきた。

 

 そうやって不毛な攻防を繰り広げていた時、不意に環さんが手を止めた。

 

「待て晴人。なにか聞こえる」

 

 待てと言いながら今しがた攻めていたのはクッションを武器にした環さんだったのだが、僕は大人しく従った。

 環さんの耳はネコ目犬科に属する狐のそれであり、ただの人間である僕なんかよりずっと優れている。彼女の素晴らしい聴覚が何を捉えたのか。

 

「聞こえる……焼き芋って聞こえる!」

 

 環さんが叫んだ。僕は残念に思った。どうやら焼き芋食いたさにとうとう幻聴が聞こえたらしい。こんなところで争っている場合ではない。早々に焼き芋を食べさせてあげなければ手遅れになるやもしれぬ。

 

「ほら、晴人もちゃんと耳を傾けてみい」

 

 環さんがあまりに真剣に言うので僕もしぶしぶ耳を澄ませてみる。無論なにも聞こえはしない。と思っていたら、外から何かスピーカー音声のようなものが微かに響いてくる。音源は移動しているのか我が家に近付いて来ており、段々と僕の耳にもハッキリと聞こえ始める。

 

 その特徴的なメロディーは聴き馴染んだものであった。世代を超えて僕たちをセンチメンタルな気分にさせる屋台の音。

 

 "石焼き芋〜、お芋だよ〜、ほっかほか〜……"

 

「や、焼き芋ですね!」

 

 僕が言うと、環さんは満面の笑顔で「そうじゃろじゃろ!?」と食い気味に詰め寄ってくる。

 

「しかし石焼とはどういうことじゃ。焼き芋は普通、落ち葉で焼くものだが」

「いや、たぶん何処にでもありますよ。環さんは石焼き芋食べたことないんですか」

「無い!……うまい?」

「そりゃあもう」

 

 外から音が聞こえるのは石焼き芋の販売車がすぐ側に来ているからだと説明すると、環さんは目をギラリと光らせ立ち上がった。僕は鞄から財布を取り出す。僕と環さんは互いの顔を見つめ頷き合った。

 

「晴人、買いに行くぞ!」

「合点!」

 

 音からして、焼き芋販売のトラックはすでに家の前を通過している。僕たちは勇んで駆け出し、玄関扉を蹴破らん勢いで外へ飛び出る。

 

 しかしそこで問題が発生した。環さんが我が家から出られないのだ。

 霊狐の環さんは仕える土地から離れることが出来ないという制約を課されている。無理に出ようとしても見えざる結界に弾かれてしまい土地の外へは行けないのである。信仰を集めて力を増し、神格を得ればその限りではないらしいが、今はまだ条件を満たしていないようで環さんの行動範囲は稲里家の敷地内に限られている。

 

 狼狽した環さんは決して越えられない壁に顔面を押し当てて何とか通ろうと四苦八苦している。神社にいる時、本当に結界なんてあるのかと試そうとした僕に「やるだけ無駄じゃ」と言った彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。

 僕も必死になって彼女を引っ張り出そうとしてみるが当然どうにもならない。厚さ0ミリの壁に阻まれた僕たちは悲劇の演目のごとく互いの名を呼び合った。

 

「ああ晴人、儂はどうしたら」

「こうなっては仕方ありません。僕だけで買いに行ってきます」

「嫌じゃあ! 儂も石で芋を焼いてるところが見たい!」

 

 そうこうしている内にも焼き芋の販売トラックは呑気なメロディーを流しながら遠ざかってしまう。移動がなぜか異様に早い。本当に売る気があるのか。

 もはや自転車に乗って全力で追っても追い付けなさそうなほど離されてしまった。結局、環さんは家の敷地から一歩も外には出られなかった。

 

「あ、あああ…………」

 

 ショックのあまり環さんがその場でへたり込んでしまう。神社の取り壊しが決まった時より落ち込んでないか、この人。

 

 環さんは呆然としたまま動かなくなってしまった。僕が声をかけても悔し気に呻くばかりだ。

 困ったことになった。今いる場所は玄関から出た先、道路に面する駐車場。つまり往来の目があるのだ。そこで蹲っていじける環さんと、彼女に構う僕の姿をご近所さんにでも見られた場合、どんな誤解を受けるのか考えて背筋が凍る。火急的速やかにこの状況を打開しなければ。

 

「今からスーパーに買いに行きますよ。だからほら、環さんは家の中に戻ってゆっくりしていてください」

「わ、儂は……屋台売りの石焼き芋が、食べたかったの……っ」

 

 環さんが嗚咽混じりに言う。あるいは落ち葉の焚き火で芋を焼きたかったのだと主張する。この愛おしき我儘ポンコツ狐め。

 

「ちょっと」

 

 不意に、後ろから声をかけられて僕は飛び跳ねた。

 見られたか。女児誘拐未遂で手錠をかけられ警察に連行される未来が一瞬で脳裏を駆け巡り、僕を戦慄させた。

 

 しかし恐る恐る振り向くと、そこには買い物袋を引っ提げた母が立っていた。挙動不審な僕を訝しげに見ている。

 どうやら九死に一生を得たらしいと安堵したのも束の間、僕は母が買い物袋とは別に持っている茶色の紙袋の存在に気付いた。

 

「母さん、それは……」

 

 指をさして尋ねると、母は「ああこれ、焼き芋」と答えた。瞬間、僕の視界の隅で萎れていた環さんの狐耳が勢いよくピンと立った。

 

「帰りがけにちょうど石焼き芋屋が通りかかったから、つい買っちゃった」

「ご、御母堂……それ、石焼き芋?」

「そうよ環ちゃん。石焼き芋。一人一個ずつね」

 

 感激に打ち震える環さんに母が焼き芋の入った紙袋を手渡す。環さんは紙袋の口を広げて中を確認し、えも言われぬ恍惚とした表情を浮かべた。横にいる僕の方にもその香ばしい匂いが漂ってきて食欲をかき立てられる。

 

「ありがたや」

 

 環さんは半ば無意識に母に対して畏敬の念を示した。「あらあら」と母。

 なるほど、これが信仰を獲得するということか。僕は納得した。片や家の守り神として鎮座する霊狐で、片や一介の専業主婦。信仰を受けるべき立場が逆なのが如何ともし難いところである。

 

 ああ、この調子では環さんが自由に外出できるようになるのは何時になるのやら。と言うか、我が家に越してきてから環さんの子供っぽさに更に磨きがかかってしまったように思われる。甘やかしすぎたのだろうか。父や母からはただの食いしん坊の童女と思われているに違いなく、信仰など望むべくもない。

 「少しは厳しく接するべきか」と先行きを憂いながらも、本当に幸せそうに焼き芋を食べる環さんを眺めていると心穏やかになるのだから、全くままならないものだ。

 いつか環さんと一緒に石焼き芋を買いに行ったり、集めた落ち葉で火を焚いて芋を焼けたらなあと、僕は切に思うのだった。

 

 

 

 

 翌日、放ったらかしにしていた落ち葉が風で飛ばされて散り散りとなり、僕と環さんが初冬の寒さに凍えながら庭掃除をしたことを記し、本項の結びとする。

 

 

 

 

おしまい

 

 



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本編・二章
一話・引きこもりニートのじゃロリ狐娘(嫁)


ある程度プロットが練れたので新章の投稿を開始します。
ちなみに書き溜めは今のところ無し。不定期更新になりますが、それでも良ければ応援よろしくお願いします。


 

 

 

 人生とは塞翁が馬であると授業で習った。自分にとって何が幸福になり、何が不幸になるかは分からぬという話だ。

 しかし僕が考えるに、この世には明確に苦しいことがあり、それが連綿と続いているのではないか。

 いつになれば、逃げた馬がもう一頭引き連れて戻ってくるような幸福に巡り合うのか、とんと見当がつかぬ。

 

 人生とは長く険しい登山のようなものではないか。ここ最近、僕はそう思うものだ。

 登れど登れど坂道が続いているばかり。難題をこなせばこなすほどに新たな試練が我が身に降り注ぎ、落ち着く暇もない。

 

 つまり何が言いたいかというと、受験勉強が辛いのである。

 

 諸賢、鼻で笑ってはいけない。呆れもしないでいただきたい。「そんなことで人生だの登山だのと大袈裟な」と思われるであろうが、しかし僕にとっては紛れもなく切実な悩みなのだ。

 

 高校三年生となった僕は受験生と呼ばれる立場にある。

 休みの意義を疑う夏休み期間が明けた先日。むくつけき夏の課題をやっとこさ終わらせたと思ったら、先生方は「ここからが正念場だ」などと言ってやたらめったら教鞭を振るってきた。信じられない暴挙である。

 しかし己の望む大学へ進もうとする以上、我々はこの愛のご鞭撻を受け入れねばならぬ。補習に次ぐ補習。現実逃避をしようにも、夏休み明けに間も無く行われた模擬テストの惨憺たる結果が客観的事実として背中にのしかかり、逃れようが無い。

 

 いや、百歩譲ってそれは良しとする。

 

 この受験勉強という名の賽の河原の如き責め苦は、何も僕だけに与えられたものではないからだ。大なり小なり皆が苦しみ、進学以外の道を選ぶ人も将来の不安くらいは抱いていたりする。

 そうした平等性を僕は認めるところである。先生あるいは親に「辛いのは皆同じなんだから」と、そう言われてしまえば「なるほど仕方ないな」と納得せざるを得ない。

 

 

 しかし今、それに加えて僕が抱える難題、もとい不安はもう一つあった。

 

 

「晴人や、パソコン貸しておくれ」

 

 

 将来を誓い合った嫁がヒキニート化していることだ。

 

 

 

 

 

 

 狐娘、もとい霊狐の環さんが我が家に引っ越して来てからおよそ九ヶ月の時が経った。

 僕と彼女があの廃神社で出会ってからはちょうど一年になる。

 

 環さんが元々住んでいた神社は既に無い。今ではその跡地に真新しい一軒家が建ち、どこぞの誰かに購入されるのを待っているはずだ。或いはもう居住者がいるのであろうか。

 工事が本格的に始まって団地が作られてからというもの、僕はあの辺りに近寄ることがなくなったので詳しくは知らない。

 

 まあそんなことはどうでもいい。過ぎた話だ。

 大切なのは今。追及すべきは、環さんの生活が些かだらしなさすぎるという点に尽きる。

 

 ついさっきまでベッドの上で漫画を読んでいた環さんだが、飽きたのか僕が使っているノートパソコンを要求してきた。

 志望校のPDF資料を漁っている最中だったので断ると、環さんは「それなら待っとるぞ」と言ってまるで退く様子を見せない。

 

「ゲームしたいんですか?」

「うむ。来月にレイドバトルなる大層なイベントがあるらしくてな。今から準備せねばならん」

 

 環さんの口からパソコンだのイベントだのという単語が自然と出てくるのを昨年の僕が聞けば、驚愕のあまり目を白黒させただろう。

 

 木登りや落書きが大好きだった環さんは、今やデジタル社会の現代色に染まりきっている。最近ではもっぱらネットゲームにご執心である。

 日夜チャットをこなす彼女のタイピング速度たるや、もはや僕ごときの及ぶところではない。たいへんな辣腕である。

 

 ちなみに、現在の環さんは『肉食』と大きく書かれたTシャツとデニムの短パンを着こなしている。

 ふさふさの尻尾をどうやって衣服から出しているのか気になっていたが、聞けば妖術で上手いことやっているらしい。僕にその辺の詳しい理屈までは分からない。

 近頃の環さんに人外らしさと言うか、霊狐らしさを感じられる部分を挙げるとするならそのくらいのものだ。ここしばらく彼女の着物姿はお目にかかっていない。

 

「ほら、パソコン空きましたよ」

 

 しばらくして作業を終えたので、場所を環さんに譲る。彼女は喜び勇んでパソコンの前に座りゲームを起動した。

 

 画面にゲームのタイトルロゴが映る。

 『神様これくしょん』

 テレビでもよくcmをやっている流行りのオンラインゲーム。日本全国を巡って八百万の神様をポ○モンのごとく捕まえ、強大な敵と戦っていく和風MMORPGである。

 無論、戦いに駆り出された神様はダメージを受けるし、体力が無くなると戦闘不能になる。そして戦闘不能になった神様に御神酒というアイテムを与えれば即座に復活する。

 この非常に冒涜的なゲームを、本物の神に仕えてた霊狐の環さんが嬉々として遊んでいるという事実に、僕はなんとも言えない気持ちになる。もっとも本人が楽しんでいるので余計な口を出すことはないが。

 

 ただし一つ物申したことがある。

 環さんのユーザーネームである『イナリ神卍』に対してだ。

 

 初めのうちは『たまき』と実に安直かつ無難な名前だったのに、一ヶ月も経つ頃には他のプレイヤーの影響を受けて現在の『イナリ神卍』に変更した。稲荷大明神に仕えるべき彼女が神を自称しているのだ。空恐ろしい話である。

 「あまりに不遜ではないですか」と畏れながらも聞いた僕に、環さんは「だってゲームだし」とあまりにも模範的かつ俗っぽい返事をした。現代の感性に馴染み過ぎている。

 

「いつ見てもイカつい名前ですね」

「格好ええじゃろ。特に卍の部分が」

 

 そのネーミングセンスは中学生の頃の僕と類似するものがあり、昔の羞恥が呼び起こされて返事に窮する。インターネットに触れたことにより、まさか齢数百歳の環さんが中二病に目覚めるとは思ってもみなかった。

 正直なところ彼女に何でもかんでも娯楽を提供しすぎた気がしている。底の無い娯楽の沼に順調にハマっていく環さんを見ていると仄かに罪悪感すら抱く。

 

『こんにちわー』

『お、イナリ神卍氏来ましたね』

 

 僕が自戒の念に悶々としている内に、環さんは自分の所属する団体のメンバーとチャットで話し始めていた。

 

『あら、サンライズ氏だけ? 他のギルメンは?』

『今は皆ログインしてませんね。朝から私一人です』

 

 サンライズ氏という人は、環さんが所属している団体のリーダーをやっているらしい。右も左も分からなかった新人の環さんに付き添って色々と教えてくれたり、ギルドに馴染みやすいようメンバーとの仲を取りなしてくれたりと、かなり面倒見のいい人物のようだ。今ではすっかり環さんはサンライズ氏を崇拝している。

 

 ただ、度々サンライズ氏の話を聞いて思うのだが、彼はかなり重度の廃人プレイヤーのようだ。

 四六時中どの時間帯に環さんがログインしても必ずゲームにいる。もしや現実の肉体から分離した精神がゲームに囚われているのではないかとすら思える。

 サンライズ氏はこんなアイテムを持っておってな、と環さんが僕に語ってきた物の中には超低確率でしか手に入らないようなレアドロップ品が五万とあり、神様これくしょんのことをよく知らない僕をも唸らせた。暇人ここに極まれりである。

 

 そんな人に環さんが感化されているのは如何なものだろうと思うこともあるが、僕の懸念を他所に当人たちは非常に気が合うようで、環さんも順調に廃人への道を邁進している。

 

『とりあえず勾玉集め行っとく?』

『あ、それはノルマ分やっておきました。ギルドの資産欄見てもらえば増えてるかと』

『うわヤバ。サンライズ氏やっぱ鬼ヤバい。虹までがっつりあるじゃん。これ今度のイベントでギルドランキング上位入着あるじゃろマジで』

『あざっすw 周回なら素材集め行きますか? たしかイナリ神卍氏が引いた新キャラの強化素材足りてなかったですよね』

『もうマジ神。一生ついて行きます』

『ははは。ギルマスとして当然のことですよ』

 

 楽しげにチャットをしている環さんの姿は微笑ましいが、僕はやはり一抹の不安を抱かずにはいられなかった。

 

「環さん。外に出るつもりありますか?」

 

 僕がそう言うと、環さんの肩がびくりと震えた。

 

「は、はあ? あるが。バリバリあるが?」

「声震えてますよ」

 

 肩や声どころか指先まで震えており、磨き上げられたタイピング技術は見る影もない。ゲーム内で戦闘中のサンライズ氏が「回復ください。イナリ氏? 回復プリーズ!」と必死に訴えている。

 

「環さん、今のあなたを世間で何と呼ぶか知っていますか」

「知らん……知らん知らん知らん!」

「ニートですよ」

「いやあああああ!」

 

 僕が無情にも真実を告げると、環さんはもの凄い拒絶反応を示した。

 

「違うの! 儂は神様なの! だから就労の義務とか無いの!」

 

 環さんの必死の訴えは滅茶苦茶な謎理論に聞こえるが、確かに彼女は神様なのである。神社からこの稲里家に遷座し、今は家付きの神として祀られている。

 決して人間ではなく、故に日本国憲法に記された三大義務も環さんには関係のない話である。

 

 だから僕は環さんに働けとは言わない。本当はニートだとも思ってはいない。彼女は敬われるべき存在であり、そこにおわすだけで大変ありがたいのである。

 現に、父や母も環さんに対しては就労の義務を説くどころか家事手伝いすら頼むことはない。環さんがたまに風呂を洗ったり庭の掃除をしたりするのは、気が向いた時に自らの意思で行っているだけだ。それで良しとするのが神と人との付き合い方であろう。

 

 ただし外に出られないという、その事実が問題であった。

 

 環さんは霊狐であり、本来ならば神に仕えて神社を守護する役目を持つ。つまりその存在は神社の土地に縛られることになるのだ。我が家に越してきてからもそれは同じことで、環さんは制約のもと外へ出ることが出来ない。

 

 しかし抜け道が無いわけではない。

 神格を得ることができれば環さんも外へ出られると言うのだ。

 

 守護する土地に縛られるのは霊狐の特性であって、ちゃんと人々から信仰されている神であればその存在も強大なものとなり、小さな一つの土地に縛られるものでもなくなる。

 環さんは霊狐でありながら、この稲里家の神になった。あとは信仰を集めるだけで神格が高まり外出することが叶うという。

 そうなったら一緒に色んなところに行こうと、僕と環さんは約束した。

 

 約束してから冬が終わって春も過ぎ、夏を迎え、今やもう九月である。

 その間、環さんは外へ出ようとするどころか不摂生な生活ぶりに磨きをかけてばかりいた。

 

「環さん、前に言ってましたよね。家の神様はもともと小さな神だから必要とする信仰も少なくて済むって」

「あ、ああ。そうだったかのう。言ったかのう儂」

 

 明後日の方向をむいてとぼける環さん。僕は環さんが引っ越してくる際に神格に関する話をしかと聞いてからというもの、信仰を捧げることに注力してきた。

 両親も環さんが霊狐であることは知っており、家族として気さくに接しながらも家内安全などを願うことは忘れない。

 具体的には夕食前にいただきますと言う時に、環さんに祈る時間が設けられている。僕と父と母にに祈られる際、環さんは実に満足そうに踏ん反り返っている。

 

 あとは、正月とゴールデンウィークとお盆に帰ってきた姉も環さんに会っている。大らかな性格の姉は、両親と同様に環さんの存在をすんなりと受け入れ「弟をよろしくお願いします」と平身低頭、環さんに敬意を払っていた。

 まあ、あれは神への信仰とは少し違う意味にも思えるが、敬っていることには違いない。

 

 このように環さんは僕の家族全員からすでに信仰を受けているのである。それなのに未だに外へ出られない現状を僕は憂いていた。

 一体いつになれば環さんとデートに行けるのか。そればかりが気掛かりで勉強も手につかない。

 

「し、信仰が足らんのじゃ!」

 

 言葉に窮していた環さんはまごまごとした末に、そのようなことを宣い始めた。まだまだ神格を万全なものにするには信仰心が足らないと言う。

 

「でも環さん、僕を含めてうちの家族は全員が環さんのことを信仰しているんですよ。家の神様なんだからその家の人間から祀られたら十分だって、環さんもそう言ってたじゃないですか」

「い……言ったけども。でも足らんものは足らんの! 儂が外に出られん事実が動かぬ証拠じゃい!」

 

 だからニートじゃない。儂悪くない、と環さん。

 言い訳がましく目も泳いでいるが、確かに彼女の言うことには一理ある。

 

「ちなみにあとどれくらい信仰が必要そうなんですか。僕と両親がもっと祈るのでは駄目ですか」

 

 僕がそう聞くと、環さんはさらに目を忙しなく泳がせて「えー」とか「うーん」と随分悩んだ末に、こう答えた。

 

「まあ、やはり新しい信者があと一人か二人……いや、二人以上は欲しいところかの」

 

 困ったことだ。そうなると外部に頼る他にない。

 里全体から祀られていた神社ならともかく、今は僕たち核家族の神様なのに、他所の人の信仰も必要だというのはどうも腑に落ちないものがある。

 しかし一介の人間である僕に神様の事情は分からない。僕は腹を据えて環さんの言うことに従うことにした。

 

 己のか細すぎる人脈を辿って考える。誰に環さんを紹介するべきか。

 ただ単に人を連れて来るだけではいけない。

 環さんという霊的存在を信じ、だからといって周囲へみだりに言いふらしたりはせず、その上で環さんをありがたがって信仰してくれるような、そんな人選をせねばならない。つまり信頼が置ける純朴な心の持ち主でなければ。

 

 僕はしばらく考えを巡らせた後、環さんに言った。

 

「二人、信者を増やせばいいんですよね」

「え、うんまあ、そうじゃけど」

 

 僕の言葉が予想外だったのか、環さんは目をぱちくりとさせている。「え、マジで言ってんの?マジで出来るの?」と顔に書いてある。その表情はどこか困っているようにも見えたが、恐らく僕の気のせいだろう。

 

「明日、学校帰りに信者候補を連れてきます。環さんは今みたいなダサTなんか着ないで、きちんと神様らしく正装して出迎えてくださいよ」

 

 信仰を得られるかどうかは、結局のところ環さん次第である。人に敬われようと言うのだから、威厳がなくてはどうにもならない。

 その思いで僕は「ちゃんとしてくださいよ」と告げた。

 

 環さんは自分が着ているTシャツを見ながら言った。

 

「ダサくないもん」

 

 



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二話・誤解と勉強会と和服美女

 

 

 

 翌日、僕は環さんとの約束通り信者候補を二人連れて帰宅した。

 

 

 一人は同級生の伊藤。僕の親友だ。

 

 同じ人類だとは思えない鋼の肉体と、不良が裸足で逃げ出す強面が特徴的な男である。

 しかしその見た目に反して心は純粋で、ガラス細工のような繊細さで出来ている。

 なにせ女子と付き合うに足る男らしさを手に入れるという理由で、尋常ではない筋トレに励んできた筋金入りの阿呆だ。

 手にした圧倒的な腕力はケンカに用いられることもなければ、部活動などで活躍することもない。それはひたぶるに純愛を求める伊藤の魂の結晶と呼ぶべきものである。僕は純愛主義論者として彼に敬意を表している。

 

 妄想力豊かで愚直な伊藤ならば、環さんの存在もあるがままの事実として受け入れてくれるに違いない。

 

 

 もう一人も僕と同じクラスに通う小野町という女子だ。

 そして彼女は、前述した伊藤と恋仲でもある。

 

 優しく清楚で品行方正。そして黒髪で肌白い。

 そんな小野町は、僕と同じ小中学校の出身である。

 まだ中坊だった僕は可愛い子ランキングで最上位に輝いていた小野町に告白をして玉砕した過去を持つ。脳みそに砂糖でも詰まっているのかと疑いたくなるような恋文を、小野町の目の前で読み上げるという暴挙を犯した。

 それから同じ高校に上がってからもお互いに何かと気まずい思いをして過ごしていたが、環さんがいた廃神社を取り壊す一件がきっかけで小野町と色々と話し合い、僕たちの間にわだかまっていた靄は綺麗さっばり無くなった。

 告白事件に対する僕の羞恥心が消えたわけではないが、今は良い友人関係を築けていると思う。

 

 仲良くなってから知ったことだが、小野町は筋肉フェチであり、そのため筋肉の化身である伊藤へ密かな恋心を抱いていた。小野町から相談をされた僕は、伊藤と彼女をくっつけるためにひと肌脱ぎ、アドバイスを送った。

 結果は前述の通り、気の弱い伊藤は小野町の押しにいとも簡単に負けて、何かとイチャイチャしやがっている。

 

 まあ、小野町は僕が腹を割って本音で会話したことのある貴重な友人の一人であり、彼女もまた信頼が置ける人間だ。

 

 

「晴人の家に遊びに行くの久々だなあ。前に遊んだのっていつだったっけ」

「もう一年以上前になるな。僕が環さんと出会う前だから、去年の夏休みが最後だったか」

 

 歩きながら話す伊藤に僕が答える。

 すると伊藤の隣にいる小野町も会話に入ってきた。

 

「私は稲里くんの家に行くの初めて。楽しみだなあ。ついに『環さん』に会えるんだねえ、私達」

 

 僕は気恥ずかしくなって、ニコニコと笑いかけてくる小野町から顔をそらした。

 

 環さんのことは伊藤と小野町にも掻い摘んで話をしていた。もちろん霊狐という正体までは説明していないが、紆余曲折あって今は僕の家で一緒に暮らしている女性であると、そういう認識になっている。

 

 今までは極力、環さんの話題に触れることは避けてきたのだ。僕がけっこうな大恋愛をしたことだけを知っている二人は「ぜひ会ってみたい」と常々言っていたが、それを突っぱねてきた。

 

 学校で噂が立ったら困るとか、単に環さん関連の説明が面倒だとか、そういう理由もある。

 しかしやはり何と言っても気恥ずかしさが拭えなかった。

 僕の理想とする純愛には朴訥の要素が含まれる。つまり他人に対してのべつまくなし自分達のことを話すのは風紀上よろしくないという、我ながら至極真っ当な倫理観に基づく信念がある。恋とは誰かに見せるステータスではないのだ。

 

 だが、最早そうも言っていられなくなった。

 このままでは環さんの外出がいつまで経っても叶わない。

 

 僕の高校生活も残り僅かだ。卒業して進学してしまうまでに、何としても環さんの現状を打開したい。そうでなければ僕の当初の目的である、高校生のうちに理想的な青春を送るという願いが達成されない。

 映画館やアミューズメント施設の高校生割引が使えなくなっては困るのである。出来れば今、環さんの外出を可能にしたかった。

 

 しばらくして自宅の前に着き、僕は深呼吸して心持ちを整えた。

 

「いいか二人とも。見たらびっくりするとは思うが、冷静でいるように。近所迷惑になるほど騒いだりするんじゃないぞ」

 

 僕が念を押してそう言うと、伊藤と小野町はにわかに緊張して身構え、ごくりと固唾を飲んだ。

 環さんの外見についてはあえて説明してこなかった。実際に会ってもらわなければ、狐の耳や尻尾が生えていることについていくら口で言っても、信じてもらいようがないからだ。

 

 ただいまと言って僕が家に入り、二人もその後に続く。

 階段を上がって僕の部屋の前に立ち、恭しくドアをノックした。

 

「環さん、ただいま帰りました。信者候補の二人も一緒です。入ってよろしいでしょうか」

 

 すると部屋の中からドタバタと何やら慌ただしい物音が聞こえ、僕は思わず頭を抱えそうになった。

 一方、背後では伊藤と小野町がヒソヒソと話している。

 

「け、敬語なんだね稲里くん。それに自分の部屋に入るのにノックするって……」

「うん。あれは相当尻に敷かれているぞ」

 

 なにやら不当な勘違いをされているようだが、僕は目の前の大事に集中すべく喉まで出かかった抗議をぐっと我慢した。

 

「苦しゅうない。入るがいい」

 

 ややあって環さんからGOサインが出る。

 あんたはどこの殿様だ、とツッコみたくなるのを堪えつつ、後ろの二人を伴って部屋に入った。

 

 六畳間の自室。その真ん中で、環さんが並々ならぬ存在感を放って立っていた。

 

「よく来たな、晴人の友人とやら。我が名は環。この稲里家に祀られている守り神である」

 

 立派な着物に身を包んだ環さんは仁王立ちで腕を組み、仰々しくそう言った。

 

 身長140cm余り。

 幼さの残る可愛らしい顔立ち。

 しかして狐の耳と尻尾を生やした御身はありがたい霊狐の姿そのものである。

 

「あとは、その……晴人と夫婦の契りを結んでもいる。故に晴人の友人である汝らには『環』と気軽に呼ぶことを許そう」

 

 途中で恥じらい、つっかえかけたものの、環さんは昨晩から練習していたセリフを言いきった。

 不遜な態度はまさしく神霊と呼ぶに相応しく、見目麗しい環さんの姿もより一層神々しく輝いて見える。僕は久しぶりに霊狐としての威厳を見せようと背筋を伸ばしている環さんに感極まり、思わず拍手を送った。

 さあ、どうだ。この堂々たる神威を見よ。

 

 振り向けば、伊藤と小野町はあんぐりと口を開けて呆然としている。

 その様は一年前に初めて環さんと出会った時の僕自身を彷彿とさせるものだ。突然の登場に驚いたこともあるが、あの時の僕は確かに環さんに見惚れていた。

 その神秘的なカリスマこそ、環さんが霊狐たる所以なのだろう。現に、伊藤と小野町も固まって言葉を忘れている。

 

 しばらくして硬直から抜け出た彼らは、僕と環さんを何度も交互に見比べる。その仕草だけでも、環さんを前にして緊張している様子が伺えるというものだ。

 

「晴人」

「稲里くん」

 

 伊藤と小野町はお互いに顔を見合わせ、そして頷き合い、僕に向けて決意を込めた口調で言った。

 

「「自首しよう」」

 

 お前らふざけんな。

 

 

 

 

 

 

 女児誘拐疑惑という恐るべき冤罪をかけられそうになったものの、僕と環さんの必死の説得により、伊藤と小野町はなんとか話を聞く姿勢になってくれた。

 しかし未だに僕を見る二人の視線が生温かいというか、手の施しようがない憐れな人間に向けるような妙に優しい目をしている。やめろ。僕はロリコンじゃない。好きになった人が偶然そういう見た目だっただけだ。

 

 などと多少のいざこざがあったものの、僕の見立て通り伊藤と小野町は環さんの存在をあっさりと信じてくれた。目の前で変化の術や読心術を行ったのが大きかった。

 

 特に読心術は盛況だった。

 環さんは元々、神社の参拝にやって来た人間の願い事を、その深層心理まで見通す能力を持つ。それは今も健在であり、僕と両親も夕食毎に祈る時、ちゃっかり心の中を見られているらしい。まあその上で問題なく良好な関係を続けられているので、何も気にすることはないが。

 

 伊藤、小野町の両名ともに、誰にも漏らしていない心理を言い当てられてびっくり仰天していた。

 プライバシー保護のためにそれぞれ環さんが耳元でコソコソと話したので、どんな願い事をしたのか、そしてどんな心理を探り当てられたのかは分からないが、二人の反応は側から見ていて面白いものであった。

 

 斯くして、伊藤と小野町も環さんが霊狐であること理解し、信者増員の第一関門は無事にくぐり抜けた。

 

 あとはきちんと環さんを崇拝してもらうだけだが、それは一朝一夕では難しいようだった。環さん曰く、二人ともすぐに叶えられるような願いを抱いていないため、今この場でありがたがれと言うのは無理があるということだ。

 しばらくは人と人とが信頼関係を築くように、様子を見ながら少しずつ二人の仲に信心が育まれていくのを待つしかない。

 

 環さんが外に出られない事情を説明し、どうにか協力してくれないかという僕の嘆願を、伊藤と小野町は二つ返事で快諾してくれた。持つべきものはやはり友である。

 

 そうして、これからは勉強会をするついでに僕の家に集まろうという話になり、その日は解散となったのだった。

 

 

 

 

 

 一足飛びに時は経ち、夏休みが開けてから一ヶ月弱が過ぎた。

 

 九月も終わりに近付いてきた今日この頃、僕はふと思う。

 ほぼ毎日僕の家で開かれている勉強会だが、これは勉強会ではなく塾なのではないかと。

 

 何が言いたいかというと、小野町と比べて僕と伊藤の男二人の偏差値があまりに低いのである。そのせいで面倒見のいい小野町は自分の勉強そっちのけで、僕たちにセンター試験の対策を施すことに躍起になっている。

 これではまるで小野町を講師役とした出張塾。彼女にかけている負担があまりに大きすぎる。

 

 おそらく僕たちは、今まで純愛理論という名の屁理屈をこねることに人生の大半を注ぎ込んできたせいで、勉強に必要な論理的思考が困難となってしまっている。

 数学の問題を解いていても、しばらく考える内に頭の中がぐつぐつに煮詰まり「因数分解で恋と愛は切り離せるものなのか」とか「分布? そこに愛はあるのか?」などと簡単に迷走し始める。

 その手綱を引くのはいつだって小野町だ。

 

「俺はもうダメだ。筋トレのメニューばかりが頭に浮かぶ!」

 

 今日も今日とて小野町に教えてもらいながらの勉強中、伊藤が参考書に突っ伏して呻いた。自然と筋トレのメニューが思い浮かぶとか、それもう病気だろ。

 

「頑張って、いっくん*1。筋トレはとっても大事だけど、今は英語の勉強に集中しよ」

「ううう、proteinとmuscleならこの前覚えたよ……」

「その英単語はたぶん試験の範囲外だよ、いっくん」

 

 情けない彼氏の肩を叩いて小野町が励ます。

 叩くと言うか、さすっている感じだ。あいつこっそり筋肉の感触を楽しんでやがる。なんなんだこの灰汁の強い連中は。僕は見てはいけないモノを目撃した気がして、独自の空間を作り始めている二人から目を逸らした。

 

「晴人は大丈夫か。なんぞ先ほどから煮詰まっておるようだが、儂が教えちゃろうか?」

 

 手が止まっていた僕に、先ほどまで漫画を読んでいた環さんが話しかけきた。

 

「いや、今やってるの古文じゃないですから」

「任せろ。インターネットで現代知識を詰め込みまくった今なら、晴人の勉強を見るくらい赤子の手を捻るようなものじゃろうて」

 

 これまで僕の勉強に関しては全く触れてこなかった環さんが、藪から棒にそんなことを言う。何故か僕と遊ぶ時のように張り切っている。

 大方、小野町が僕らに勉強を教えていることに触発されて、自分もやってみたくなったのだろう。

 

 じゃあこれを、と今しがた解いていた数学の問題を見せる。

 環さんは意気揚々と取り掛かったのも束の間、数学記号の羅列に目を回し、頭をぐわんぐわんと揺らし始めた。解答ページを見ながら理解しようにも「何が何やら」といった様子で頭を傾げてばかり。

 終いには伊藤と同じように音を立てて机に突っ伏した。

 

 脳がオーバーヒートして倒れた者が二名。

 取りまとめ役の小野町もストレスが溜まっていたのか、半ば無意識に伊藤の背筋を触ってばかりいる。

 そんな中にあって僕の集中力も底をついた。

 もはや継続不可能。本日の勉強会は完全に崩壊した。

 

「環さんのお力で何とかならないんですか」

「んあ?」と環さん。

「学問のご利益とか、そういうのを授かるわけにはいきませんか」

 

 僕の問いかけに、高校数学に打ちのめされて沈黙していた環さんはのそりと顔を上げた。

 伊藤と小野町も僕の言葉につられるように環さんの方を見る。小野町はともかく、伊藤の目には明らかに神に縋りたくて堪らないといった期待の色があった。

 

「ここにいる二人を環さんに紹介してからもう一ヶ月近く経ちます。そろそろ何か変化と言うか、進展のようなものはないんですか」

 

 現状は煮詰まっている。ここは一つ神の威光にあやかりたい。

 僕がそう言うと、環さんは腕を組んでひどく悩ましげに「うむむ」と呻いた。

 

「その、まだちょっと、難しいかなって……。ほら儂、まだ外にも出られんし。学問のご利益を授けるのはちと厳しいと言うか……ぶっちゃけ不可能」

 

 しどろもどろな環さんの話を聞いて僕は落胆した。

 信者を二人増やせば良いのだと思い実行したにも関わらず、結局はこれまでと何も状況が変わっていない。

 環さんはありがたい御利益を僕たちに振りまくどころか、未だに自分の外出もままならない有り様。この進展の無さにはさすがに落ち込むものがある。

 

「元気出して環ちゃん。絶対に環ちゃんのせいなんかじゃないから、気にすることないよ」

「俺も、神様に頼らなくたって成績上げられるように頑張るよ」

 

 伊藤と小野町が二人して、俯いた環さんに励ましの言葉をかける。まるで敬語を使わない上に小野町に至っては「ちゃん」付けで呼んでいるが、まあ環さんの容姿と普段の言動を鑑みれば致し方ないことと言える。

 そうした接し方を見ていると、まだ彼らが信心を抱いていないのではないかということも考えられたが、二人はちゃんと環さんを神様として認識しているし年長者として敬意も払っていると言う。

 

 なんにせよ、現状で信仰の有無についてとやかく言ってもどうしようもない。結果として外に出られない以上、環さんがきちんとした神格を得られていないという事実が厳然としてそこにあるのだから。

 

 僕は一息入れようと思い、座椅子から立ち上がった。

 

「休憩しよう。すぐそこのスーパーにでも行ってジュース買ってくるよ」

 

 伊藤と小野町も付いて行くと言ったが、あくまで客人である彼らの手を煩わせるわけにはいかないからと、エアコンの効いた部屋で待っていてもらうことにした。

 

 

 

 

 

 

 外に出ると残暑の季節らしく、まだ生温かい風が吹いていた。駅前のショッピングモール内にあるスーパーに向けて歩く。

 

 最近の環さんは信仰やら外出やらの話をされると歯切れが悪くなるというか、すぐに落ち込みやすい。ネットゲームにハマったりして能天気に暮らしているだけに見えるが、なんやかんやで彼女が一番堪えているのかもしれない。

 そのことを踏まえると、僕のさっきの発言は少し無遠慮に過ぎただろうか。冗談半分で「御利益をくれ」などと言ってみたが、環さんを苦しめたのではと思うと途端に罪悪感が芽生え始める。

 

 兎にも角にも、まずは元気でいてもらわなくてはいけない。

 

「久々に奮発でもするか」

 

 僕は環さんの好物であるメンチカツを買うべく商店街に寄り道することにした。

 ついでに伊藤と小野町にも松葉屋の極上メンチカツを差し入れてやるかと考えながら商店街の大通りに入る。

 

 すると向かい側、僕の正面から一人の女性が歩いてくるのが目に入った。

 下町然とした商店街には似つかわしくない立派な着物姿の女性。

 

 一瞬、時が止まった気がした。

 僕は思わず女性に釘付けになり、その場で固まってしまった。

 

 いや、僕だけではない。道行く人々のほとんどが、その女性を見つめている。中には僕と同じように足を止めている人さえいる。

 仕方のないことだ。それほどまでに目の前の人の美貌は常軌を逸していた。

 

 しっかりと和服を着付け、長い金髪を流した妙齢の麗人。

 ぱっと見で外国の人が着物のコスプレでもして観光にやって来ているのかと思ったが、その顔立ちはどう見ても日本人のそれである。

 裾から覗く白足袋と下駄は、それらが纏まって一つの芸術品のようですらあり、小さな歩幅でしずしずと歩く様はまさに浮世離れした美しさを醸していた。

 

 ハッとして我に帰るも、やはりその女性が気になって仕方ない。

 絶世の美女であることもそうだが、どことなく覚えがあるというか、環さんを彷彿とさせるその雰囲気が僕の心を惹きつけて止まなかった。

 

 慣れているのか、周りの視線など気にも止めず歩く女性は、しかし何かを探しているようでしきりに辺りをきょろきょろと見回している。

 どうも道に迷っているようだ。やはりこの街に住んでいる人ではないらしい。

 

 声をかけようか、かけまいか。

 僕が悩んでいる内に、彼我の距離は着々と近付いている。

 

 どうしよう。どうしよう。

 ここは物怖じせず紳士らしく助けになるべきだろうか。いやしかし下心を見透かされて軽蔑されたら死ねる。と言うか今こうして悶々としていること自体が環さんへの裏切りではないか。

 そうとも、僕は環さん一筋。他の女性になど決して靡かぬ。ならばやはり「どうしましたか」と話しかけることには何の問題も無いのではないか。

 

 自分でも何を考えているのか分からなくなり、思考の泥沼に埋没しかけていると、和装の女性はすでに僕の横を通り過ぎるところだった。

 

 声をかける機会を逸した。僕はそう思い、落胆すると同時に、緊張から解放されたことによって安堵した。

 

「もし」

 

 背後から淑やかな声。絶対に今すれ違った女性の声だった。

 

 いや、僕じゃない、僕じゃない。

 心の中で自分に言い聞かせながら立ち去ろうとしたが、女性は明らかに僕に向かって声をかけてきていた。

 

「もし、そこの方」

 

 不思議と強制力のあるその声に誘われて振り向くと、女性がすぐ側で僕を見つめていた。

 近くで見ると尚更もの凄い美人であると分かる。しかも並んでみればこちらより幾分か背が高い。

 僕の心臓は否応なしに高速で脈打った。

 

 緊張でろくに返事もできない僕に、女性は困り顔で言った。

 

「道をお尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか」

「へ、へえ。いや、はい。なんなりと」

 

 半ば錯乱しているせいか、或いは女性の古風な話し方のせいか、僕も妙ちくりんな口調になってしまう。自覚はあるがどうにもならない。

 

「この辺りに神社があるはずなのですが、迷ってしまいまして。どちらにあるのか教えていただけますか?」

 

 神社。

 その単語を聞いた瞬間、環さんのいた廃神社が脳裏を過ぎり、僕の心臓は一際大きく跳ねた。

 

 いや、あそこのはずがない。女性の姿をチラチラと盗み見ながらも僕は早る心を落ち着ける。

 

 既に取り壊されて久しい上に、もともと人気が皆無の神社だった。今さらそんな所に用がある人間などいるわけがない。

 

 この町にはもう一つ大きな神社があって、そちらは有名で参拝客も多い。たまに海外の観光客を見ることもある。

 

 女性が探しているのは明らかにその立派な神社の方だろう。僕はすぐにそう当たりを付けて、しどろもどろになりながらも道を教えた。

 

「ご親切にありがとうございます。この恩はいつか必ず」

 

 女性は恭しく頭を下げて立ち去って行った。一挙手一投足が絵になり、遠くなっていく背中すら美しい。

 

 いつか必ず、とあの人は言っていたが、僕たちは当然のことながら連絡先も交換しなかった。

 口を突いて出た台詞だったのだろうけど、また次があるのかと意識せざるを得ず、何だかむず痒い気持ちになる。

 

 目的の買い物をするために歩きつつ、心頭滅却と唱える。

 

 僕には環さんがいる。僕には環さんがいる。

 

 だから、いくら美人であろうと、他の女性と懇ろになりたいなどとは思わないのである。

 絶対に、決して思わないのである。

 

 

 

 

 

 

 家に戻った僕は、商店街で出会った女性のことを三人に話して聞かせた。

 

「いやもう、とんでもない美女だったぞ。芸能人にもあんなのはいない」

 

 僕の興奮気味の大演説に、皆は三者三様の反応を見せる。

 

 伊藤は血が滲みそうなほど唇を噛んで羨ましがり、小野町は苦笑しながらも彼氏である伊藤に「私がいるじゃない」と己の存在をアピールしている。

 

 そして環さんは雄叫びを上げて僕に掴みかかってきた。凄まじい勢いの彼女を受け止めきれず、後ろにあったベッドに押し倒される。

 

「浮気か! 浮気なのか晴人!」

 

 肩を掴まれてぶんぶんと揺さぶられる。

 尋問の激しさとは裏腹に、環さんはどこか面白がっているようだ。この状況を喜んでいる節がある。

 彼女はいつも浮気不倫のオンパレードである昼ドラを楽しんで視聴している。純愛主義の僕は全く良さを理解できないが、環さんと僕の母は昼になれば婦人会と称して茶の間に集い、ドロドロした昼ドラを和気藹々と仲良く観ているのだ。

 

「儂というものがありながら!」

 

 言いたくて仕方なかったのだろう、定番の台詞を嬉々として叫ぶ環さん。

 

「やかましい! 僕は一途だ!」

 

 こちらも黙ってやられているわけにはいかないので脇腹をくすぐって抵抗すると、環さんは「きゃいんっ」と狐のように嘶いて飛び跳ねた。

 そして土産物のメンチカツを差し出せばさらに上機嫌になって「美味い美味い」と食べ始める。結局は僕と環さんのいつも通りのやりとりが行われただけであった。

 

「しかしその女の人、見た目も雰囲気も環さんに似てたんですよね。和服で金髪だったし、どことなく雅と言うか」

 

 環さんはもはやメンチカツを味わうのに夢中で何も聞いちゃいない。

 その反対に伊藤は身を乗り出して僕の話に耳を傾けている。

 「私も茶道部で和服着てたんだけどな」と小野町がボソリと言う。

 

 

 

 そんな風に四人でまったりと休憩時間を過ごしていた時だった。

 

 家の呼び鈴の音が聞こえてきた。

 

 完全に気を抜いていて驚いたのか、環さんは尻尾の毛をぶわっと逆立てて目を見開く。

 ただの呼び鈴の一体何が恐ろしかったのか、身を固くして汗を滲ませ、小刻みに震えている。

 

 何もそんなにビックリしなくても、と僕は苦笑しつつ立ち上がった。

 

「は、晴人。居留守を使おう。出てはならん」

「何言ってんですか。またドラマかアニメの台詞ですか」

 

 今は両親共に働きに出ているので僕が対応しなければならない。縋り付く環さんの手をやんわりと解き、再び席を外して玄関まで降りて行く。

 

 サンダルを履いて、玄関扉を開けて。

 

 

 その来客を見て、僕は硬直した。

 

 

「こんにちは。先刻はどうも」

 

 我が家の軒先ではんなりと佇んでそう言うのは、つい今さっき話題にしていた和服の金髪美女だった。

 

 何故。神社へ行ったのではないか。もしかしてストーカー。

 

 僕は驚愕のあまり挨拶を返すことすら出来ない。

 

「貴方に教えていただいた神社ですが、私の探していた場所とは違ったようです。それで気配を辿ってもう一度聞きに参ったのですが……」

 

 渋滞した思考に割り込むように、鈴の鳴る様な女性の声は頭にすっと響いてくる。響いても尚、僕は上手く状況を理解できない。

 

 もう一度聞きに来た?気配を辿って?

 意味がわからない。

 

 しかし女性は混乱の渦中にいる僕の疑問をすっ飛ばして話を続けた。

 

「どうやら手間が省けたようです」

 

 そう言う女性の視線はこちらに向いていない。僕の背後にある、二階へと続く階段の先を睨みつけていた。

 

「私が来たことにはとっくに気付いているのでしょう。隠れていないで出てきなさい」

 

 一体全体なんの話だ。

 さらに困惑した僕が疑問を差し挟む暇もなく、女性はその見目麗しいたおやかな姿からは想像もできない迫力で声を張り上げた。

 

「環! 姿を見せなさい!」

 

 途端に二階からドタバタと物音がした。と思ったら、環さんが大慌てで階段を駆け降りてきた。

 あまりに慌てていたので最後の二段を踏み外してすてんと転び、もんどり打って廊下に倒れ伏す。

 

 環さんは呻きながら顔を上げ、そして女性の方を見て、呆然とした表情で呟いた。

 

「は、母上……」

 

 思いもかけない単語を聞き、僕も反射的に玄関の方を振り向くと、そこにはやはり和服を身に纏った絶世の美女が立っている。

 

 ついさっきまでは無かった狐の耳と、環さんよりも立派な金毛の尻尾を、九本も生やして。

 

 和服の女性、もとい環さんのお母上は毅然として言った。

 

「なんですか、そのだらしない格好は」

 

 本日の環さんはよりにもよって『肉食』と書かれた例のダサTを着ていた。

 

 

 

*1
伊藤の愛称。伊藤の下の名前も『い』で始まるので小野町はそう呼んでいる



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三話・爆弾宣言

 

 

 

 我が家の居間はかつてない緊張感に支配されていた。

 

 隣り合って座る僕と環さんの真向かいには、テーブルを挟んで環さんのお母上が鎮座なされている。

 

 テーブルの上にはお茶を注いだ湯呑みが三つと、茶請けとして木の器に盛ったポテトチップスがある。

 何故、こんな時に限ってお菓子がポテトチップスしかないのか。僕と環さんが親に内緒でこっそりと戸棚のものを漁って食べてしまっているからだ。昨日食べた羊羹は美味かった。

 

 せめてお茶くらいは上等な物をと思い、来客用とラベルが貼ってあった茶缶の新茶を使って淹れたものの、お母上は「ありがとうございます」とお礼を述べただけで、まだ一口も飲んではいなかった。

 

 僕たちもお茶なんて飲む気にはなれない。それほどまでに場の空気が重い。

 環さんに至っては耳をぺたんと垂れ、全身を小刻みに震わせ怯えている。真っ青な顔をして俯いており、その様はまるで針の筵に座らされている罪人のようだ。着替える暇も与えられずダサT姿のままでいるのがさらに哀愁を漂わせている。

 

「改めまして、お初にお目にかかります。私はそこにいる環の母でございます。名は数えきれぬほど多く持っていますが、どうぞ玉藻とお呼びくださいまし」

 

 お母上、もとい玉藻さんがそう挨拶したのを皮切りに、僕と環さんへの質問が始まった。

 環さんはとてもではないがまともに話せる状態ではないので、僕が答えていく。

 

 御百度参りと、それによる僕と環さんの出会い。

 環さんの仕えていた廃神社が取り壊されたことと、僕のお願いでこの家に環さんが遷座したこと。

 引っ越してきてからの生活ぶりの説明(慎ましく差し障りのない範囲で)と、僕たち家族がちゃんと環さんを敬っていること。

 

 そして信仰を集めているにも関わらず、未だに神格は高まること無く、環さんが外出もできずにいること。

 

 ここ一年のことを一通り話すと、玉藻さんは「成る程」と神妙な面持ちで頷いた。

 次に僕の横、まだ青褪めたままの環さんに視線を向ける玉藻さん。

 この世の本質を全て見透していそうな鋭利な瞳が、娘である環さんを見据えている。

 

「今おっしゃられた件はそもそも、信仰云々以前の問題なのですが……。環、貴女まさか、晴人殿に伝えていないのですか?」

 

 非難めいた声音に、環さんの肩がビクリと大きく跳ねた。

 

 より一層、空気が張り詰める。僕は玉藻さんの言っていることを理解しきれず混乱する。

 

 環さんが僕に伝えていないって、一体何を。

 信仰以前の問題とは、どういうことか。

 

 ふと横を見ると、環さんはまるで大蛇に睨まれたガマ蛙のごとく、ダラダラと大量の汗を流していた。その様子は夏休みの宿題を溜め込んで親にこってり叱られる子供にも酷似しており……。

 

「環はまだ正式にこの家の神になっていません」

「へ?」

 

 素っ頓狂な声を漏らした僕に、玉藻さんが言う。

 

「やはりご存じなかったようですね。何某かが新たに神と成るには、一度は天界に赴き大御神より許しを得なければなりません。それが我々の道理なのです」

 

 衝撃の事実に僕は放心する。

 待て、待ってくれ。玉藻さんの話が本当だとすると、これまで信じてきたことが根底から覆るのではないか。

 

 暫くして、僕は声の震えを抑えながら言葉を絞り出した。

 

「つまり、環さんはまだ神様ではないと……」

「ええ」

「だから、信者をいくら増やしたところで神格は高まらないし、霊狐の制約を打ち消せるわけがなかったと……」

「左様でございます」

 

 僕がゆっくりと環さんの方を見ると、環さんは気まずそうにふいと顔を背けた。紛うことなき確信犯の反応である。

 

「環さん、何か言うことは……」

 

「うわあああ〜! ごめんなさいぃ〜!」

 

 僕の問いかけが最後の一押しとなった。環さんは罪の意識に耐えきれず、ついに己の不徳を白状した。両手で顔を覆ってわんわんと泣く。

 

「なんで隠していたんですか!? いや、隠すだけでなく信仰が足らないとか信者を増やせとか嘘までついて!」

 

 目の前にいる玉藻さんの重圧も忘れて僕は叫んだ。

 環さんは普段の勝気な態度からは想像もできないほどしおれて「ごめんさなさい、ごめんなさい」と謝り倒す。そして泣きべそをかきながらも、このように言った。

 

「ほんに、ほんに申し訳ない! 実を言うと天界に帰りたくなかったんじゃ。意地張って下界に残って、帰って来いと言われとったのを無視していて。なのにいつの間にか神社を離れて人間と結ばれとったなんて……母上に会って話すのが怖かったんじゃあ!」

 

 つまり平たく言えば、環さんは叱られるのが怖くて帰省しなかった放蕩娘、ということになる。

 

「いや子供かッ!」

 

 僕はツッコまずにはいられなかった。どんなに重たい事情があるのかと思いきや、数百年生きてきたとは思えない幼稚さに満ちた理由を暴露されては流石の僕も呆れるしかない。

 

 環さんは以前、お母上がどれだけ厳しい人、もとい狐であるかを語って聞かせてくれたことがある。記憶にしっかりこびりついた苦手意識と、百余年の歳月で出来た溝とが混ざり合い、彼女の中で不安の芽がどんどん育ってしまった結果が今のこの状況なのだろう。

 正直、八十そこらで寿命を迎える人間の僕には想像するのも難しい超長期的な問題なので、帰りづらいという環さんの心情も察するに余りある。

 

 しかしそれでも納得できないことではあった。

 環さんは決して、このような利己的な嘘をつく人ではない。この一年間、すぐ側で彼女のことを見てきた僕は確信を持ってそう言える。そうやって信じることができていなければあの時、秋暮れの神社で、僕が心の内を曝け出した時に環さんは僕と一緒に歩む道を選んではくれなかっただろう。

 

 どこかに齟齬がある。僕の認識に、或いは今の話の中に。

 そうやって僕が拭い難い違和感にモヤモヤとしている間にも、玉藻さんの叱責は続いていた。

 

「はぁ……貴方はどうしてそうも破天荒なのでしょうか」

 

 玉藻さんは頭痛を和らげるように眉間を揉む。

 静かであっても母の一声は強い。べそをかいていた環さんは途端に口をつぐみ、再び肩身が狭そうに小さくなってしまう。

 

「昔から勝手なことばかり。帰らぬ件もそうですが、親に黙って婚姻とは何事ですか。結婚とは己と相手方の親族全てに影響する一大事なのですから、ただの惚れた腫れたではまかり通りません。そのくらいの良識は娘たち全員に教えたつもりでしたが」

「ううう……申し訳ありません……」

 

 節々に棘がある玉藻さんのお言葉に、環さんはしおしおと萎れて謝罪する。

 

 玉藻さんの言う昔気質めいた結婚論は、現代人の僕にとって理解し難いところがあったけれども、なにせ神様の世界での決め事だ。とやかく言うわけにもいかない。

 

「私の方からこうして下界まで会いに来なければどうするつもりだったのですか。ずっと逃げ隠れていましたか。それとも私が居ない隙を見計らってこっそり天界に来る腹積もりでしたか」

 

 一つ一つの言葉が重い玉藻さんのお叱りを受け続ける環さんは、しかし言われるばかりでなく、抗議の声を上げた。

 

「な、ならば、きちんと顔見せをすれば、母上は儂と晴人のことを認めてくださったと言うのですか。いえ。いいえ。母上は……母上だけではなく姉たちもこぞって、断固として反対したでしょう」

 

 顔はまだ僅かに俯いており、身体も小刻みに震えている。だがそれは明らかに、環さんが誰よりも恐れる実の母に対して放った反論だった。

 

「神に成りたいからと天界へ帰れば、儂と晴人は引き離されるのでしょう。儂にとっては、そのことが何よりも耐え難いのです」

 

 環さんの口調は確信めいており、どこまでも断定的だった。

 少し飛躍しすぎているんじゃないか。そう思った僕は差し出がましくも親子二人の間に口を挟んだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。落ち着いて。どうしたんですか環さん」

「晴人……」

「なにも今ここでそんなに意固地にならなくても良いじゃないですか。お義母……玉藻さんが折角出向いてくださったんですから、ここはお詫びと話し合いをして、それでちゃんと認めてもらいましょうよ」

 

 僕もいずれは環さんのご家族に会ってきちんと挨拶をしなければならないと思っていた。玉藻さんの突然の来訪には驚いたが、見方によってはこれは好機だ。この場できちんと話し合っておく必要がある。

 

 そう思って僕がどれだけ宥めても、環さんは頑として首を縦に振らない。話し合いの余地など何処にも無い、とでも言うように。

 

「無論です」

 

 玉藻さんがぴしゃりと告げた。

 

 僕の発言に賛同してくれたのかと思って振り向くと、玉藻さんは尚も厳しく鋭利な視線を投げかけていた。環さんと僕の二人に向かって。

 

 

「あなた達二人の結婚は認めません」

 

 

 それは死刑宣告にも似た酷薄さを伴って、僕たちに叩きつけられた。

 

 あまりに強すぎる断言に僕は唖然としてしまう。ややあって硬直から抜け出し、頭の中でまとめた言葉をなんとか絞り出す。

 

「えっと……お気持ちはその、分かります。娘さんがどこの馬の骨とも知れない男とくっ付くなんて、考えたくもないことだと思います」

 

 辿々しい僕の発言を、玉藻さんは静かに聞いている。それがことのほか不気味だった。

 聞き流すでもなく言葉を被せて押し込もうとするでもなく、こちらの意見に耳を傾けて静聴した上で、尚も全く引きそうにないその姿勢はまるで堅牢な城砦のようだった。

 

 しかし僕にも僕の矜持がある。今は臆さずにそれを伝えなければいけない。

 

「でも、僕は真剣です。遊びや半端な覚悟なんかじゃなくて、真剣に環さんとのこと、考えています」

 

 だからどうか、少しずつで良いから認めていただきたい。

 

 誠心誠意、僕が頭を下げてそう言うと、玉藻さんは小さくため息をついた。

 

「先程も申したでしょう。惚れた腫れたではまかり通らないと」

 

 一切動じる気配のない玉藻さんの声音が、凛として部屋に響く。

 

「環の世話を焼いていただいたことは、母として厚く感謝申し上げます。後ほどお礼の品を御輿に一杯、牛に引かせて届けましょう。しかしそれと婚姻の話は別です」

 

 玉藻さんはキッパリとそう告げて、今度は環さんに問いかける。

 

「環、母が何故、神無月の迫った今日になって貴女に会いに来たか分かりますか」

 

 ふるふると環さんが首を横に振る。

 

 ここまでの話で何となく有耶無耶になって忘れかけていた事を、僕もはたと思い出した。

 そうだ。まだ玉藻さんが訪ねてきた理由を聞いていなかった。環さんの顔を見に来たのだろうと思っていたが、彼女の口ぶりからしてどうもそれだけではないらしい。一体、神無月とか言うものと何の関係があるのか。

 僕は玉藻さんの次の言葉を待ち、ごくりと固唾を飲んだ。

 

「めでたきことです。貴女の結婚のお相手が決まりました」

 

「……は?」

 

 今度こそ、僕は完全に思考停止した。

 

「私が掛け合ったところ、由緒正しき縁結びの神様が貴女をお嫁に貰ってくださるとのことです。今も立派な御社に住まい、人々から祀られている偉大な方ですよ」

 

 錆びついた機械のように僕が横を見てみれば、環さんは押し黙っており、膝の上で拳をぎゅっと握っていた。

 逆らえないのだ。

 環さんのその態度から、僕は直感的に察した。ついさっき、ほんの少し反論したのが彼女の精一杯。それほどまでに環さんにとって、いや霊狐にとっての玉藻さんとは畏怖すべき存在なのだろう。

 

 瞬間、僕の中でタガのようなものが外れて消し飛んだ。

 

「母と共に天界へと帰り、神無月の集会に出席なさい。神々の御前で報告奉り祝言を挙げれば、貴女は晴れて……」

「駄目だ」

「……なんですって?」

 

 玉藻さんが再び僕の方を向く。さっきまでとは違い、環さんに浴びせられていたであろう冷徹な視線を叩きつけられる。

 しかしそんなものは一顧だに値しない。ここで退いてはならぬ。僕は燃える衝動のままに言った。

 

「環さんの隣だけは譲りません。例えお義母様のおっしゃることであっても、それだけは駄目です」

「誰が義母ですか、誰が」

 

 玉藻さんが眉間を揉む。

 だから惚れた腫れたでは……と同じ台詞を口にしかけたのを、僕はやおら立ち上がって封殺した。純愛主義論者として声高に言わねばならなかった。

 

「愛なき結婚に何の意味がありますか! 相手が神様だろうがなんだろうが、僕は反対です。こんなこと勝手に決められて納得できるわけがありません!」

 

 僕の言葉に、玉藻さんもより一層威圧感を増す。

 

「少年、誰に向かって意見しているのか分かっているのですか。世に名高い白面金毛九尾の狐とは、私のことなのですよ」

 

 よく分からないが、偉い存在だから下手に出ろと言いたいらしい。出るわけがない。

 

「ビャクメンキンモー? 知ったことか! 環さんの伴侶はこの僕だ!!」

 

 僕の声が響き渡った後、居間は時が止まったような静寂に包まれた。

 玉藻さんは僕の発言が予想外だったとでも言いたげに目を丸く開いている。それと同時に、彼女から発せられていた圧力もフッと消えたように思われた。

 

 お互いに見つめ合う。そうして僕が目を逸らさないと見ると、玉藻さんは大きくため息をついた。

 

「……成る程。そこまで意思が固いと言うのであれば、こちらもそれなりの対応をするしかありませんね」

 

 実力行使か。僕は一瞬身構えたが、玉藻さんに先程のような敵意は無く、ポテチを一枚食べて静かにお茶を飲み干しただけだった。

 

「今日はここでお暇させていただきます。後日、改めて話し合いの場を設けようと思います。今回の縁談は相手方の神様も快諾してくださったものですから、その方も交えもう一度、腰を据えて話すと致しましょう」

 

 そう言って玉藻さんは立ち上がり、俯いたままでいる環さんの横を通り過ぎる。

 

「ああ、そうそう。ずっと廊下で耳をそば立てていた童たち。あなた方は晴人殿と環の友人でしょう。話が気になるのであれば、次は堂々と顔を見せて結構ですよ」

 

 廊下の方の壁からわたわたと慌てるような音が聞こえた。どうやら小野町と伊藤が盗み聞きにやって来ていたらしい。

 と思っていたら二人とも素直に出てきて、ごめんなさいと僕たちに謝った。

 

 しずしずと歩き、玄関へ向かう玉藻さん。彼女を見送るために僕も後に続く。下駄を履いた玉藻さんはふと僕を見つめた。何かを確かめるように数秒ほど。

 

「あの、何か」

「……いいえ。お気になさらず」

 

 玉藻さんは懐からお札のような紙切れを一枚取り出して僕に手渡してきた。

 

「日取りが決まったら式神にてお伝え致します。晴人殿、申し訳ありませんがそれまではまた、環の世話をよろしくお願いします」

 

 言われるまでもない、という意味も込めて僕は頷く。玉藻さんはくるりと踵を返して「お邪魔しました」と言い、家から出て行った。

 

 バタンと玄関扉の閉まる音がしてから暫く経ち、ようやく僕は安堵の息を吐いた。

 どっと疲れた気がする。あまりの情報量の多さに脳がパンクしそうだった。

 

 環さんの婚約相手である神様との話し合いや環さんの神格についてなど問題は山積みだが、今しばらくは何も考えずに落ち着きたかった。

 

 

 

 玉藻さんから渡された式神らしきお札を持って居間に戻ると、そこにはニマニマと満面の笑みを浮かべた小野町と伊藤がいた。

 

「カッコよかったね、稲里くん!」

 

 唐突な小野町からの賛辞にびっくりしていると、伊藤も強く頷きながら僕を褒めそやす。

 

「男気を見せたな。いや感心したよ。晴人はやっぱりやる時にはやる男だ」

 

 言われて、ようやく僕はついさっき玉藻さんに対して自分が口走ったことを思い出した。

 思い出した途端、顔から火が出るような恥ずかしさに襲われた。興奮していたとは言え何て事を大声で叫んだんだろう。しかもそれを友達二人にも聞かれていたなんて。

 

 天晴れ、すごいすごい、と褒められれば褒められるほど恥ずかしくなり、僕は逃げ場を探して環さんの方を見た。

 

 するとどうしたことだろう。玉藻さんが帰ったというのに、環さんは何を言うでもなく下を向き、顔を両手で覆って固まっている。小さな手のひらに収まらず見えている頬は真っ赤に染まっていた。

 

「環さん、どうしたんですか?」

 

 僕が近寄ると顔をぷいと背けられる。

 

 そんな僕ら二人を見ていた小野町は何か閃くことがあったのか「環ちゃんこっちこっち」と手招きをして部屋の隅に彼女を連れて行き、何やらゴニョゴニョと話し始めた。

 

「うん、うん。ははん」

 

 環さんと二言三言話した小野町は、僕に向かって言った。

 

「えー、単刀直入に言うと、惚れ直したとのことです」

 

 今度は僕が赤くなる番だった。

 

 

 




もっと、もっとコメディ成分を…。


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幕間・母狐、はじめてのホテル泊

 

 

 

 片田舎とは言え一応観光地としての顔を持つこの町には、かの帝国ホテルを模した老舗の宿が建っている。

 偉人をもてなし、政財界の大人物や著名な芸能人も訪れたことのあるそこには今、尋常ならざる来客があった。

 

「宿を貸していただきたいのですが」

 

 鈴の鳴るような声。

 制服を着こなした熟達の係員が、客人である女性を前にして僅かに身を固くし、緊張の色さえ見せている。それは女性の美貌のためか。はたまた神威とすら言える浮世離れした雰囲気のせいか。

 

 一つ一つ必要なことを話していく。

 予約はしていない一人客。何泊するかは未定とのこと。幸にして部屋は空いており、最上のスイートルームへ案内することも出来るが……。

 

 そうして係員が部屋の希望を聞こうとしたところ、女性はこう言った。

 

「いえ、宿を、貸していただきたいのです」

 

 その意味を図りかねていた係員だったが、しばらくして女性の言わんとしていることに思い至り唖然とした。

 

「貸し切り……でございますか」

「そうです。勘定は如何程でも」

「その、誠に申し訳ありませんが、ご予約のお客様もいらっしゃいますので、当ホテル全体の貸し切りというのは承れません」

 

 係員に頭を下げられた女性は残念そうに眉を顰めたが、無理に押し通そうとすることはなく「それでは一番良い部屋を」と言った。

 

「ああ、それと応接間はありますか。客人が訪ねて来た時、話をするために利用したいのですが」

 

 なんとも贅沢な願いに、係員が「あちらのロビーでしたら」と答える。立派なホテルとは言え、客室とは別に応接用の個室などは設けられていない。恭しく指し示されたロビーの方を眺めて、しばらくの間があった後「承知しました」と女性。

 バーカウンターを備えたロビーラウンジ。置かれている椅子や机は上質で、配置にも細やかな気配りが見られるが、恐らく女性はそこを使いはしないだろう。ロビーラウンジを眺める興味の無さそうな彼女の目がそう物語っている。

 

「よろしければお荷物を部屋まで運ばせていただきますが……お荷物はまだお車の中で?」

 

 女性が小さな手提げ鞄以外持っていないのを確認しながら係員が尋ねる。「はて、車?」と女性は不思議そうに首を傾げた。

 

「御厚意だけいただきましょう。部屋へ案内してくださいますか」

「は、はい……どうぞ此方へ」

 

 係員は妙だと言いたげだったが表面上はなんとか平静を保ち、フロントから鍵をとって女性を部屋まで案内する。

 

 廊下で通りすがる他の客たちが女性の方をまじまじと見つめる。

 絹糸のように美しく長い金髪。現代では滅多に見ることのない雅な着物。まさしく彼女だけが一人、別世界に生きているような非日常的外観に、誰しもが振り向かざるを得ない。

 

 そうして注目を浴びながらも全く動じることなく厳かに歩く女性が、その実、内心では浮かれていることなど誰が察せられようか。

 

 久々に下界に舞い降りた白面金毛九尾の狐。

 またの名を玉藻。

 

 生まれて初めてのホテル泊であった。

 

 

 

 

 畳ではない。

 

 係員に案内されて部屋に入った玉藻が初めに抱いた感想がそれだった。

 

(土足のまま……大丈夫かしら)

 

 慣れない文化にやや戸惑いながら、歩き疲れた足を休めようと椅子に腰掛ける。霊狐の祖と言っても、足は足。折角だからと使い魔の人力車を断って一人歩いてみたわけだが、神社を探し回ったのもあって玉藻はくたびれていた。

 

(座布団は厚手で触り心地がよろしいこと)

 

 兎にも角にも無事に宿をとり、羽根を休めることができる。椅子に備え付けの座布団、もといクッションの良さを噛み締める。

 案内係の態度も良かった。道行く人に訪ねて、この町で一番上等な宿を教えてもらった甲斐があったというものだ。

 ただ、だからこそ不可思議なことが一つ。

 

(お茶が、来ないわね)

 

 普通、安宿でも客が来れば茶の一杯くらい出すものだが。値段もそれなりで品格のある宿で何も無しというのはどうなっているのだろう。玉藻は不満だった。

 

 不満だったが、すぐにあることに気が付いた。

 机の上に急須や菓子などが載せられた盆が置いてあるのだ。その側には茶缶のような筒もある。現代のルームサービスにおいては当たり前となっているアメニティ。

 玉藻、齢千歳超。青天の霹靂であった。

 

(自分で淹れろと?)

 

 席を立って筒の蓋を開けてみると、そこには絹のような物で茶葉を包んだ小袋がたくさん入っている。匂いからして緑茶である。一般ではティーバッグと呼ばれるそれを、玉藻は『茶袋』と呼称することにした。

 

(他にも変わったものがいくつか……)

 

 紅茶、ジャスミン茶、烏龍茶など、様々な茶の用意がある。それらは緑茶と違って個別で紙袋に入れられており、おいそれと破いて確認するわけにもいかない。更にはcoffeeと書かれた包みもあり、これはもうどう手を付けたらいいのか皆目見当もつかない。

 

(とりあえず緑茶を)

 

 どれを飲んだらいいのか暫く悩んだ玉藻は、結局一番親しみのある物で一息つこうと考えた。

 

 考え、急須に茶袋を一つ入れたところで、はたと手を止めた。

 

 一体どこにお湯があるというのか。

 

 困ったことに土瓶も鉄瓶も無い。それどころか火を起こせる場所が無い。客室なのでそれは当然だろうと思う反面、これだけの用意をしておきながら肝心の湯は無いのかと困惑する。

 

(火鉢。火鉢は)

 

 見回してもそれらしき物は無く、玉藻は仕方なしに自分の能力を使うことにした。みだりに下界で使っては人との間に無用な軋轢を生みかねないため自重しているのだが、今は使うべきだと判断した。

 

 まずは結界による音と気配の断絶。これにより誰もこの部屋には寄り付かない。

 次に懐から印籠ような立派な刺繍をあしらった小袋を取り出し、その中身を手のひらに移す。細切れになった白い和紙。

 

「式よ。我が命に従い、火鉢を探すのです」

 

 霊力を込めて玉藻がふうと吹けば、それらは紙吹雪となって舞い散る。空中でふわふわと浮き、すると途端に自我を持ったように飛び回って、部屋の隅から隅まで調べ始めた。埃一つとして見逃さぬ徹底ぶり。一つ一つの式神が小さいとは言え、無数のそれらを操る玉藻の技量は凄まじいものである。

 

 そうして些か仰々しい捜索は三十秒とかからず完了した。成果は無し。ホテル内をいくら探しても火鉢などあるはずもない。

 徒労に終わった紙吹雪の式神を袋に戻し、玉藻は嘆息した。茶が飲みたい。

 

 と、そこへ戻し忘れた一つの式神が目の前にふよふよとやって来て、玉藻にあることを伝えた。

 曰く、あの白い筒型のものに『給湯』の文字を見たと。

 

 棚の上にある見慣れない道具。どう使うのか分からなかったが、近寄ってよく見れば確かに『給湯』やら『保温』やらと書かれている。なんと下には注ぎ口のような穴まで空いているではないか。

 言わずもがな只の電気ポットである。

 

「珍妙な」

 

 なんとなく、ここに湯が入っていることは分かった。

 して、どうすれば湯が出るのか。

 玉藻は新たな問題にぶつかった。

 

 給湯器なるものの存在を聞いたことがある。おそらくはこれがそう。なるほど、絡繰り仕掛けというわけかと納得する。

 

 給湯と書かれている部分が僅かに膨らんでおり、どうにも押してみたい作りになっている。突然湯が溢れては困るので注ぎ口の下に急須を持ってきて「いざ」と押してみる。

 しかし湯は一滴も出ず。膨らみ(ボタン)の部分に小さな明かりが灯るのみ。長押しをしてみてもやはり出ない。給湯ロックが外れただけで、そこを押したところで湯が出ないことを玉藻が知る由もなかった。

 

 揺すり、弄り、様々な膨らみを押しまくり。

 ようやく玉藻は急須に湯を注ぐことに成功した。

 

「おお……」

 

 湯気を立てて注がれていく熱々の湯を感嘆たる面持ちで見つめる。火にかけてもいないのに、どうやってか熱を保っているらしい。まこと妙なり、湯汲み絡繰。

 

 ようやく茶にありつけた玉藻は、ティーバッグで淹れたその味に「可もなく不可もなし」と評価を下しつつ、今日の出来事について考える。

 娘の環と、彼女が見そめた晴人少年に思いを馳せる。

 

 娘には実に久しぶりに会ったが、あまり変わりはないようでホッとしたのが正直なところであった。

 やんちゃで頑固なわがまま子狐。あの子に芸事などを学ばせるのはいっとう苦労したものだ、と玉藻は昔のことをほんのりと懐かしむ。

 

(しかし、よもや人間の男と睦まじい仲になっていようとは……)

 

 悪くない。

 

 それがあの稲里晴人という少年に抱いた感想だった。

 年齢相応に青々しいし、阿呆そうなところがあったが、一本真っ直ぐな芯が通っているように思われた。

 

『ビャクメンキンモ―?知ったことか!環さんの伴侶はこの僕だ!』

 

 この玉藻に凄まれて尚、ああも堂々と啖呵を切れる者などそうはいない。環を想う彼の気持ちは本物なのだろうと、認めざるを得ない。

 

 しかし、それを踏まえてもやはり、二人の仲は認め難かった。

 

 玉藻は憂う。

 彼らは本当に分かっているのだろうか。人と霊狐ではどうしても住む世界が根本から違うことを。

 

 親元での修業を終えて姉と共に稲荷大明神の神社に仕えてからというもの、環が水を得た魚のように生き生きとして幸せに暮らしていたことを、母である玉藻は知っている。

 神社が廃れてからも百年近く意地を張って下界に残り続けたのは、環がそれだけ人の世の営みを愛しているからだと知っている。

 

 出来れば、今回の神との縁談が無事にまとまって欲しいと玉藻は思う。

 

 現代でもきちんと信仰が集まっている神社は多く存在する。そういったところの神に嫁げば、環が好きな下界に留まり続けることができる。もう寂しい思いをしなくても済むのだ。娘の末永い幸せを願うのならば間違いのない選択であると玉藻は考える。

 

 ただ、気にかかるのはやはり晴人少年の存在。

 さっき稲里宅で行った話し合いは終始緊張感が場を支配していたが、それでも彼の側にいる環はどこか幸福そうに見えた。そのことがずっと玉藻の胸の内に引っ掛かっている。

 

(環の心は……しかし一時の感情程度では……やはり神との婚姻を……いやしかし…………)

 

 考える内に、うつらうつらと船をこぎ始める玉藻。

 座り心地の良い椅子に背もたれて、彼女はいつしか眠りに就いていた。

 

 

 

 

 

 

 玉藻が起きてみれば既に窓の外は薄暗くなっていた。

 

 目元を擦ってみて、自分の手が金色の毛に覆われていることに気が付く。五本の指はなく、掌には柔らかい肉球がついている。

 どうやら寝ている内に狐の姿になってしまっていたらしい。

 

(私としたことが)

 

 居眠りをしたというだけでも恥ずかしいのに、天下に名を轟かせた九尾の狐がこのような愚を犯すとは。結界を張っていて本当に良かったと内心で胸をなで下ろす。

 娘らには死んでも見せられぬ、と思いながら玉藻はまた人の姿となった。

 

 茶を淹れて飲む。一度覚えれば、電気ポットの扱いも慣れたもの。

 

(自分で淹れるというのも、悪くないかもしれないわね。人をわざわざ部屋に呼びつけなくて良いし、こうして自分の好きな時に気兼ねなく飲める)

 

 最初は不満に思った人間の文化にも光るところはあるものだ。

 そうして熱い茶を飲むと眠気も霧散していき、頭がすっきりとしてくる。一つ連絡を入れなければいけなかったと思い出し、玉藻は式神の御札を取り出して念話を繋げる。

 

「もし、もし」

 

 暫くして念話を送った相手の声が聞こえてきた。「お久しゅうございます、母上」と。

 

 今日の出来事を簡潔に話していく。環との再会と、彼女が人間の家に転がり込んでいることを。

 

「後日、話し合いの場を設ける約束をしました。そちらの都合も聞きつつ準備を進めますから、またこの札に連絡なさい」

 

 そういって短い念話を終えた玉藻は小さく息をついた。問題はまだまだ山積みである。さしあたって環の件が重要ではあるが、もう一つ天界でも解決しなければいけないことがあった。あまり下界でうかうかしてもいられない。

 

(いや、この下界で解決の糸口を見つけられれば良いのだが……)

 

 まあしかし、今日やるべきことは果たした。あとは夕餉をいただき、風呂に入って寝るだけだ。そう思うと途端に腹が空いてきた気がして、玉藻は立ち上がった。

 

 部屋に案内される際に渡された食事券なるものを懐に入れる。食堂へ行って係りの者にこれを見せれば食事にありつけるとのことだった。

 部屋へ運ばせようかとも考えた玉藻だったが、折角だからここは郷に従うこととしよう、と人間文化を堪能する方針に定めた。

 

 部屋を出て鍵を閉め、少し胸を高鳴らせながら食堂へ向かう。

 

(口に合うと良いのだけれど)

 

 味の心配をする玉藻は、まだ知らない。

 

 この後、バイキング形式という名の新たな試練が待ち受けていることを。

 

 

 



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四話・神との会談。ギャルを添えて

 

 

 

 環さんのお母上である玉藻さんの来訪から数日が経ち、週末になった。

 まだお達しは来ていない。

 

 玉藻さんからの連絡を待ちつつも、伊藤と小野町を家に呼び、僕たちは恒例となった勉強会を今日も開いていた。

 

 しかし各々の調子は芳しくない。

 伊藤は相変わらずあらゆる教科で四苦八苦しているし、それに付き合う小野町も大変である。

 

 僕も全く進歩していない。玉藻さんが開くという神様との会談が気になりすぎて勉強など手に付かない。

 今だって化学式の問題に取り組んでいたはずなのに、気付けば玉藻さんたちとの話し合いに向けて、面接対策じみた草案を書き始めている。

 どうすれば相手方を説得できるのか。

 そればかりが四六時中頭の中を駆け巡り、心休まる暇がない。

 

 そうした精神的な不安定さは勉強だけでなく生活面にも支障をきたすものである。

 

 僕や小野町は寝不足気味といったところだが、伊藤に関してはその見た目からしても変化が顕著だった。

 

「のう、伊藤や。前々から思っておったのだが、お主肥えてきてはおらぬか」

 

 小休憩の折、僕が聞きたくても中々聞き出せなかったことを、環さんはあっさりと質問してくれた。

 

 環さんの言う通り、伊藤は日に日にふくよかになっているように見える。

 一本一本の筋繊維すら皮膚に浮いて見えゴツゴツと樹木のように節くれ立った肉体は、今や豊かな丸みを持ち始めている。

 ストレス故に暴食でもしているのか。

 或いは時間が取れず筋トレを疎かにしてしまっているのか。

 

 そんな僕らの疑問に答えたのは伊藤ではなく、彼の隣にいる小野町だった。

 

「大丈夫だよ!」

 

 彼女は突然身を乗り出して言った。

 

「これは増量期といってね、バルクアップに必要なものなの。脂肪もつくけどそれ以上に筋肉を大きくして、減量期でカットを作って磨きをかけちゃうんだから!」

「もういい。分かった。落ち着け」

 

 藪蛇だったらしいと猛省しつつ、早口で捲し立てる小野町をどうどうと宥める。

 しかし僕程度では暴れ馬を止められないようで、小野町は尚も興奮気味に筋肉の増量と食事の関係性、脂肪燃焼と無酸素運動のあれやこれやと意味の分からない話をし続けた。

 

「つまり、いっくんは更なる筋肉の高みに行こうとしているんだよ。ね、そうだよね、いっくん!」

「えっ、ああ、そうかな。うん、そうだね」

 

 拳をぎゅっと握りしめて彼氏に同意を求める小野町。

 問いかけられた伊藤は面喰らいながら曖昧に返事をした。困ったように僕に目配せを送ってくる。どうやら彼としては特に高い志があるわけではなく、気付いたら太っていたらしい。

 伊藤のことだから筋トレは欠かしていないのだろうが、不意に擁護をぶつけられて複雑な心境だろう。なまじ彼女からの期待が厚い分、下手に否定も出来ないでいるところが伊藤らしい。

 

 そんなくだらない話をしている時だった。

 部屋の片隅から声が聞こえてきた。

 

『もし、もし』

 

 耳の良い環さんがそれにいち早く気付いて僕の袖を引っ張った。あまねく霊狐のお母上、玉藻さんのお声だった。

 書類棚の上にある、玉藻さんから式神だと言って渡されたお札。万が一にも紛失することがないよう丁重にファイルで挟んでいたその紙切れから声が聞こえる。

 

 電話のように応答すればいいのだろうか。

 そう思って僕が動こうとすると、お札は一人でにするりとファイルから抜け出て、宙を漂い僕の目の前にやって来た。環さんで何かと慣れている僕はともかく、伊藤と小野町はこの世ならざる怪奇現象を目の当たりにして唖然としている。

 

『晴人殿、環。お待たせしました。先方の都合がつきましたので、正式な会談の場を設けようと思います。出来れば本日これからお会いしたいのですが、いかかですか』

「今日、ですか」

 

 勉強会の途中だが、良いのだろうか。そう思って伊藤と小野町の方を見ると、二人とも了解の意を込めて頷いてくれた。ついでに環さんの様子も確認してみるが、やはり緊張でガチガチに固まっているだけだ。まあ彼女はどのみち強制参加だから意思など関係無い。

 

 僕が「分かりました」と答えると、玉藻さんは話を先に進めた。

 

『場所なのですが、私が今泊まっている宿で丁度良い席を用意しています。是非そこへお越しください』

「えっ、でも、環さんは外に出られませんが」

『問題ありません。直接来られずとも、私の力で転移させることが可能です。この式神には転移術の陣式を書き込んでありますので、容易に渡ることが出来ます』

「転移……」

『また、宿一帯には結界を張っております。一時的に現世との位相をずらし、土地の制約を外すものです。さすれば環も問題なくこちらへ来られましょう』

「はあ、結界……」

 

 宙空でふよふよと浮いているお札を見る。転移や結界などという言葉を現実の世界で真面目に聞くことになるとは思いもしなかったが、相手は紛れもなく千年以上を生きる霊的存在。そういうこともあるだろうと納得する他ない。

 

「あの、私たちも行って良いでしょうか!」

 

 横からそう言ったのは小野町だった。たち、と言うのは伊藤も含めてのことだろう。伊藤は驚愕して小野町を見つめている。

 攻めの姿勢で伊藤を堕としてからというもの、彼女の積極性は天井知らずである。興味本位でここまで行動できるのだから図々しいを通り越して豪気と評するに値する。

 

 そんな小野町に対して『構いませんよ』と玉藻さん。込み入った話に第三者を入れるのは大丈夫なのだろうかと僕は思うものの、やはりその辺りの価値観なども神と人とでは違うものなのかもしれない。

 こういう時、僕は邪推をしてしまいがちで、人間などものの数には入らない木っ端の存在だと思われているのではないかとも考えてしまう。どれだけ重大な秘密を話すときでも、虫や動物に聞かれることを煩う人はいないだろう。

 そうなると同じ人間である僕の意見も、相手方の神様には軽んじられるのではないかという不安も頭をもたげてくる。

 

「大丈夫だよ稲里くん。私たちがついて行くから」

「そうさ。何ができるか分からないけど……」

 

 環さんと同様にいつの間にか緊張で全身が強張っていた僕に、伊藤と小野町は小声でそう励ましてくれた。

 そうか。興味本位だけではなくてそういう理由でついて行くと申し出たのか。

 

 僕が友人たちの厚意に胸を打たれていると、玉藻さんは一つ咳払いをして言った。

 

『ただ一つ、申し訳ないのですが』

 

 思わぬ前置きに僕は姿勢を正す。

 

『少々、天界の方で急用ができてしまいまして、私は参加できません。つきましては、代理の者に進行役を任せますので、ご承知の程を』

 

 代理の者。他の神様だろうか。

 僕が心の中で抱いた疑問に答えるように、玉藻さんは淀みなく話を続けた。

 

『私の娘の一人に、豊女という狐がいます。彼女に私の代わりを任せました。今回の話し合いにも関わりの深い者故、適任でしょう』

 

「豊、姉様……?」

 

 環さんがポツリと呟いた。どうやらその豊女さんという方は環さんの姉であるらしい。

 

 環さんのお姉さんに会える!

 玉藻さんの系譜である以上、絶世の美人であることは自明の理。興奮せざるを得ない。

 

 しかし内心で色めき立つ僕とは対照的に、環さんは緊張しているにしても不自然なほど表情が強張っていた。

 お姉さんと顔を合わせるのが嫌なのだろうか。仲違いでもしているとか。

 

 そこまで考えて、一つ思い当たることがあった。

 神社で逢瀬を重ねていた頃、環さんが話してくれたことだ。昔は姉の霊狐と一緒に稲荷大明神に仕えていたと。

 仲が良かったが、信仰が薄れ始めてから姉は段々と人間を嫌うようになり、最後は環さんと意見が食い違い喧嘩別れしてしまったらしい。

 

 環さんが一人ぼっちになっておよそ百年。年数で見ればもう随分と昔のことと言える。

 しかしそんな昔のことを話す時、確かに環さんは寂しげな表情をしていた。余程の鈍感でもない限り、姉と袂を分かった件が、未だに彼女の中で尾を引いていることが察せられるというものだ。

 

 ああ、もしかして、豊女さんというのは……。

 

『それでは今から転移門を開きますが、宜しいですね?』

 

 玉藻さんの言葉で、思考に埋没しかけた意識が戻る。僕は慌てて待ったをかけた。

 

「ちょっと時間をもらえますか。ほら、環さんも立って」

「え、なんじゃなんじゃ」

「着替えなきゃいかんでしょ」

 

 僕と環さんは揃ってだらしない部屋着を着ていた。

 

 

 

 

 

 

 伊藤と小野町に一旦部屋から出て行ってもらった後で、僕は学生服に着替え、環さんは晴れ着にも似た立派な着物に薄紅と白粉で化粧をして準備をした。

 玉藻さんの式神であるお札は待機状態にあるのか、今は稼働していないようでぺたりと机の上に落ちている。

 

 普段はしないようなきちんとした支度を整えている環さん。僕はその傍らに座り、辛抱堪らずお姉さんのことについて尋ねた。

 

「豊女さんって環さんのお姉さん、なんですよね」

「……うん、そうじゃ」

「ひょっとして、前に神社で一緒に暮らしていたっていうのは」

「察しが良いな。その通りじゃ。豊姉様と儂は同じ神に仕えておった。今は懐かしき、誉れ高き時代のことよ」

 

 噛みしめるように言う環さんの顔には、やはり憂いの色がある。

 

「難儀なものじゃ。豊姉様は根っからの生真面目でな。そこに人間嫌いときたものだから、儂らのことを認めてもらうには、ちと骨が折れそうじゃの」

 

 突然の母親の来訪。自分が預かり知らぬところで進んでいた婚約の話。そして仲違いしたままの姉との意図せぬ再会。

 

 色々なことが重なった環さんの心労はいかばかりであろうか。

 

 

 そう慮りつつも、今ならば自然と環さんの頭を撫でたりして甘酸っぱい雰囲気を作れるのではないかという思惑が、突如として僕の右脳から迸った。

 

 いや、撫でるだけに留まらず、あすなろ抱きなる夢にまで見た伝説の秘技すら使えるかもしれない。

 今までそうした如何にも睦じい行為はお互いに恥じらってしてこなかったが、困難が降りかかっている今こそ絆を強化なものとすべく、イチャラブちゅっちゅするべきではなかろうか。

 それでこそ、縁結びの神様とやらとの舌戦に臨む事が出来るというものだ。

 そうだ何もやましい事など無い、大義名分我に有り。

 

 意を決して「いざ」と環さんを後ろから抱きしめようとしたものの、絶妙なタイミングで化粧を終えた環さんが立ち上がり、僕は出鼻を挫かれてしまった。

 

 振り向いた環さんが、腕を広げた変な体勢で固まっている僕を見つめる。不思議そうに小首を傾げた後、したり顔で「ははん」と言った。

 

「えっち」

 

 僕の抗議が虚しく部屋に響いた。

 

 

 

 

 

 

 それから玄関などの戸締りを確認して、居間で待ってもらっていた伊藤と小野町を呼び戻し、四人でまた僕の自室に集った。

 

 環さんのめかし込んだ姿を見て、伊藤と小野町は「可愛い!」「綺麗!」とはしゃいでいた。

 褒め言葉にめっぽう弱い環さんは、こんな状況下でもちゃっかり機嫌を良くして「良きにはからえ」などとおっしゃる。

 

「ふふ、ついさっき晴人にも襲われかけたわ。のう晴人や」

 

 調子に乗ってそんなことを得意げに言うものだから、友人二人の僕を見る視線が大変に冷たくなった。「違う、僕は紳士だ」といった僕の正当な弁解に彼らはまるで耳を貸さない。

 騒ぎ立てる僕を尻目に環さんは式神のお札に指を添えて「もし」と呼びかける。

 

 環さんが話しかけてもなかなか繋がらない。

 こちらの準備を待ってくれていたのだから直ぐにでも返事があると思っていたのだが。天界でも何か色々といざこざがあるのか、どうやら玉藻さんは本当に忙しいらしかった。

 

 暫くしても音沙汰が無く、間を置きながら何回か呼びかけて、ようやく応答してくれた。「失礼しました」と玉藻さん。

 僕たちは準備が出来たことをお札に告げる。

 

『では、いらっしゃいまし』

 

 玉藻さんが言うと同時、お札が青い炎を上げて燃え出した。側にいても全く熱さを感じない不思議な瑠璃色の焔。

 音もなく燃えるその炎は、四角い枠を形作って段々と空間に広がって行く。真ん中に覗くのは僕の部屋ではなく、暗闇ばかりの虚空がある。

 終いには人がすんなり通れそうな大きさまで広がり、そして暗黒だった枠の中に何か形のあるものが見え始めた。

 

 青い炎を隔てた先。朧げに霞むそこには、何やら人影のようなものが立っているのがうっすら見て取れる。

 ピントがずれたようにぼんやりとした輪郭しか分からないが、特徴的な耳と尻尾の形を見るに、きっとあの人が豊女さんなのだろう。

 

『どうぞお通りください』

 

 固まっている僕たちの横を通って、環さんが先に立つ。

 

「大丈夫。ど○でもドアみたいなもんじゃ」

 

 環さんは大変分かりやすい例えで雰囲気を台無しにしながら、僕たちに手本を見せるように炎の向こう側へ歩いて行った。僕、伊藤、小野町も一列になって後に続く。

 

 

 青い炎の先は立派な応接間になっていた。

 中央に備えられた楕円型の円卓と、僕のような無頼漢にも一目で高級と分かる造りの椅子が並べられている。絨毯は厚手で今までの半生で味わったことのない踏み心地。壁に伝う花と蔦の絵も、柱に彫られた彫刻も実に美しく繊細である。

 

 驚くべき非日常。しかし豪華絢爛な部屋も霞んでしまうほどの存在感を放つ人物が、僕たちの前にいた。

 

「おっすー☆ 待ってたよ〜。もう聞いてるかもだけど、環ちゃんの姉の豊女で〜す。気軽に豊ちーって呼んでね♡」

 

 ギャルだ。ギャルがいる。

 

 短く切った金髪は緩くウェーブが掛かっている。大胆に肩を出す形の上着と極端に短いデニムのパンツを着ているため、肌の露出割合が危険水準に達している。

 つまり僕と伊藤には刺激が強すぎる。

 元々の美貌を引き立てているであろう化粧、アクセサリや色とりどりのマニキュアなども当然のようにバッチリとキメて、もう僕の感性ではよく分からない毒々しいほどの華やかさで満ち溢れていた。

 

 思考停止した僕は、目の前の現実にただただ圧倒されていた。

 

 真面目で厳格だと聞いていたから、てっきり玉藻さんの生き写しのような人を想像していたのに、これは完全に予想外だった。他の三人も僕と同じく呆けており誰も言葉を発せないでいる。

 いや、僕たちの中でも環さんがいっとう困惑していた。彼女は口をあんぐりと開けたまま茫然自失としている。無理もない。どうして予想など出来ようか。久しぶりに再会した生真面目なはずの姉が、まさかギャルに変貌しているなどと。

 

「ちょ、無視すんなしw つか皆揃って同じ顔してんの超ウケるんですけど」

 

 清楚どこ……? ここ……?

 

 ポカンと間抜け面をしている僕たちを見て豊女さんは一人でウケている。よしんば豊女という名前が同じなだけの別人かもしれぬと現実から目を逸らしかけたが、彼女には環さんらと同じ霊狐の象徴と言える耳と尻尾が確かに生えていた。

 

「あ、あの、私たちは……」

 

 いち早く硬直の解けた小野町が、豊女さんにおずおずと話しかけた。本来であれば小野町と伊藤は招かれざる客である。そんな立場でも自分から話そうとする小野町の気丈さには感動するものがある。

 ふと見れば伊藤も僕と同じく感嘆たる面持ちで小野町に尊敬の眼差しを送っていた。おい彼氏、それでいいのか。

 

「ん? ああ、君らが晴人くんのお友達ね。一応話には聞いてるから、同席オッケーだよ。アレっしょ、友達のために来た感じなんでしょ? やー泣けるわー」

 

 小野町が顔を赤らめる。

 豊女さんにからかわれているのかと思ったが、彼女の口調は明るく嫌味が無い。流石に泣いてはいないが、割と本当に感心しているのだろうということが伺えた。人間嫌いの設定は何処へ行ったというのか。

 

「本当に……豊姉様、ですよね……?」

 

 次に環さんがやっとこさ口を開いた。

 

「うん。久しぶりだね、本当に」

 

 環さんに向けて笑う豊女さんの顔はとても優しげで、少なくとも僕は、そこに姉妹としての純粋な愛情があるように見えた。

 しかし感慨に浸りかけたのも束の間で、豊女さんはギャルとしての顔に戻ってペラペラと喋りまくる。

 

「驚いたっしょ? アタシ今、下界で暮らしててさー。もち神社住まいね。んでまあ見ての通り色んなことにどハマりした感じ。あ、このマニキュアとか自分で塗ったんだよ。マジ可愛くない?」

 

 自分の身の回りのことを楽しそうに話す豊女さんは全く止まる気配がない。マシンガントークという言葉が存在するが、なるほど機関銃の掃射を受けているが如きどうしようもなさである。

 環さんもネットの匿名掲示板などで、ギャルという存在や現代のファッションなどについて知り得ているはずだが、豊女さんから語られるあまりの情報量の多さに目を回してばかりいる。

 

 僕もどう対応したら良いか分からず呆けていると、小野町がこっそりと僕の腕をつついて「頑張って」と言うような目配せを送ってきた。

 僕は短い逡巡の後に奮い立った。

 そうだ、今はどんな事態が起きようと男を見せねばならない。そう気を取り直して、些か機会を逸しすぎた自己紹介を試みる。

 

「えっと、はじめまして。稲里晴人といいます。環さんとその、お付き合いをさせていただいて……」

 

 最初は良かった。

 豊女さんのマシンガントークを寸断する形で、こちらの流れを作れそうだった。

 

 しかし僕の話の続きは、目をキラキラさせた豊女さんに再び遮られた。

 

「知ってる知ってる! うちのおかんに噛みついたんでしょ!?」

「お、おかん……」

「それ聞いた時からアタシ、君のファンになっちゃってね? いや〜マジか〜やるじゃんよ〜って!」

「はあ、どうも」

「アタシら霊狐があの人に逆らうとか絶対ムリだから、マジ尊敬しかないわけ。口ごたえなんて生まれてこの方したこともないし。あっそうだ、記念に握手してもらってもいい?」

「えっ、あ、はい」

「わあ感激〜!」

 

 きちんとした挨拶で仕切り直しをしようとしたのに、いつの間にか豊女さんの怒涛のペースに飲み込まれて、僕はワケも分からぬまま握手を交わしていた。恐ろしいことである。

 

 握手が長い。差し出したこちらの右手を、向こうは両手で包んでニギニギとしてくる。あざとい、あざと過ぎる。

 

 柔らかく滑らかな豊女さんの掌の感触。

 香水でもつけているのか、女性特有の甘くて良い匂いがふわりと香ってくる。

 

 そうか。楽園はここにあったか。

 

 今までに関わったことのないタイプの女性からのスキンシップに理性が溶けかけて恍惚としていたところ、環さんから肘鉄をもらって我に帰った。

 

 デレデレしている場合ではなかった。この場における豊女さんはあくまでも仲人の代理人。彼女に気を取られて肝心の話し合いで躓いては元も子もない。

 

 ただ、その話し合いの相手である神様の姿がまだ見えないわけだが。

 

 いつ来るのだろうと、豊女さんにそう聞いたところ「ごめんねー、もうちょっとのはずだから」と言われる。

 

「最近うちの神社忙しくてさー。ダーリンも中々手が空かなくてね。だから都合がつきそうな時にってことで、今日こうやって晴人君たちをいきなり呼び出しちゃったりしたわけ」

 

 待て。僕は今、聞き捨てならない単語を聞いた。

 

「「ダーリン?」」

 

 僕と環さんが揃って疑問を口にすると、豊女さんは「あれ?」と不思議そうな顔をした。

 

「聞いてないの? 環ちゃんの婚約者になってる神様は、アタシの旦那でもあるんだけど」

 

 絶句する僕たちに「ほら見れ」と左手を掲げて見せる豊女さん。

 その薬指にはめられている指輪が、照明の光を受けてキラリと光った。

 

  へえ、日本の神様たちの間でも結婚指輪をつける文化があるのか。下界の店で買ったのかな。

 

 いやそんなことは今は関係ない。

 関係ないが、少しくらい目の前の現実から思考を逸らさないとやっていられない。

 ショックの許容限界を迎えた脳味噌から湯気が出る思いだった。重婚、ハーレム、両手に花、けしからん、羨ましい。僕の脳裏に様々な言葉が浮かんでは消え、意見としてまとまった形になるものは一つとしてない。

 

「あ、来た来た」

 

 豊女さんがそう言って振り返る。

 彼女が視線を向けた先には、ついさっき僕たちが通ってきたのと同じ青い炎が現れた。

 広がって枠になった炎の向こう側から、揺らめく人影がこちらへ歩いてくる。おそらくは件の神様の御来場。どんな甘い面をした優男が出てくるのかと、僕は身構える。

 

 しかし目に写るのは、霞んでいてもよく分かる、ふくよかな体の輪郭。

 その足取りは悠々としており、踏みしめる度に部屋を揺らしても不思議ではない貫禄に満ちている。

 

「やあ、お待たせした」

 

 現れたのは豊かな髭を蓄えた、実に大柄な男性だった。

 いや、大柄と言っても身長はそれほど高くない。僕と同じかそれ以下だ。しかし何と言っても胴回りの幅が尋常ではなかった。見るからに上等そうな朱色の召し物がパツパツに張っている。

 

 その見た目から「彼が食を司る神か」と慄きかけたが、よくよく思い返してみれば玉藻さんは縁結びの神だと言っていた。どんな美男子が来るかと身構えていたものだから、僕の父親とほとんど同い年くらいに見える神様の登場に面食らってしまった。

 

 太った神様はその丸顔に大変穏やかな微笑みを浮かべ、右手を軽く挙げて僕たちに挨拶をした。

 もう片方の手、つまり左手の薬指には光る輪っかがある。

 ポークソーセージのように丸々とした指に慎ましくはめられているそれは、紛れもなく豊女さんとお揃いの結婚指輪であった。

 

「やっほー☆ ダーリン、お疲れ様!」 

「なんの。縁結びの願い事はどれだけ聞いても面白いものだよ」

 

 豊女さんは旦那であり仕えている主でもある神様に向かって、極めて軽い口調で話す。いやそればかりか、神様の豊満に肥えた身体に抱きついて、やたらとイチャイチャし始めている。終いには、此方を置き去りにして「ダーリン」「豊ちー」と互いを呼び合う始末。

 

 僕たちは一体何を見せられているのだろうか。何故か無性に腹立たしくて仕方がない。

 

 傍から見た図としては、年若いギャルがメタボリックなおじさんにぎゅっと抱きついているわけで、援助交際と後ろ指をさされても言い逃れのしようもない絵面となっている。

 

 とても夫婦には見えない外見年齢差。事情を知らぬ人が見れば十中八九、非難するであろう犯罪集が漂っている。

 

 しかし、緊張のためかこれまで固く口を閉ざしていた伊藤が、その凄まじい光景を前にしてボソリと一言呟いた。

 

「うわっ、羨ましい」

 

 

 

 

 

 

 多少の落ち着きを取り戻したところで、僕たちは机を囲んで席に着いた。

 

 改めて自己紹介を交わし、相手の神様が大山之国津茂神というお名前であることを知った。

 語感だけ聞いても大層立派な名前に思われ、決して言い間違えたりすまいと気を引き締めたのだが、本人から「大山さんとでも呼んでくれたまえ」と言われた。

 

「長くて呼びにくいだろう。私も名乗る時、たまに噛むんだ」

 

 ワハハ、と笑う大山之国津茂神様……もとい大山さん。

 あまりに親しみやすい。その朗らかさは親戚のおじさんといった表現がぴったりな具合で、神と聞いて思い浮かぶ超常的な威厳や風格などは些かも見られない。

 恋敵と見定めて相対する覚悟を固めていた僕は、すっかり毒気を抜かれてしまった。

 

「晴人氏といったな。私も豊ちーも、君のことは大いに気に入っている」

「はあ、ありがとうございます」

 

 神様から気に入られる名誉よりも、当たり前のように豊女さんを『豊ちー』と呼ぶことに衝撃を受けてつい生返事をしてしまう。彼らは本当に神霊の類いなのだろうかという疑問が拭いきれない。

 

 玉藻さんから聞いたのだろう、大山さんは面白がって先日の些細について尋ねてくる。伴侶だなんだと言ったヤケクソ啖呵を再現させられ、顔から火が出る思いである。

 そもそも白面金毛九尾の狐というのがどう云ったものかをてんで知らなかったからこそ、あれだけ大胆なことを言ってのけられたのだが、今更弁明しても仕方がないので僕は甘んじて褒めちぎられることにした。

 大事にされているんだなあ、と言われて環さんも頰を染めている。

 

「で、そこの二人は晴人氏の友人かね」

「はい。小野町といいます」

「い、伊藤です」

 

 話を振られた伊藤と小野町が揃って頭を下げると、大山さんは柔和な笑顔をさらにニコニコと深めて「良いなあ。愛だなあ」と嬉しそうにしている。

 彼らが恋仲であることはまだ言っていないのだが、縁結びの神である大山さんには僕たち人間には分からない何かを感じ取れたりするのだろうか。

 

 大山さんは曲がりなりにも環さんの婚約者のはずである。

 それなのに腰を落ち着けてから話すのは、僕たちの近況についてばかり。環さんに対してがつがつした様子は微塵も無いどころか、僕と環さんの仲良しエピソードを興味津々といった風に聞いてくる。

 今のところ、若者の恋バナを肴に酒を飲むおじさんのような印象しかない。本当に環さんと結婚する気があるのか定かではなく、一体どうなっているんだろう、と僕たちは困惑するばかりだ。

 

 そうして会談ならぬ雑談をしていると、部屋の隅でお茶を淹れていた豊女さんがお盆を手に戻ってきた。金髪のギャルが急須と湯呑みをお盆に乗せて持って来る光景はなんとも凄まじいギャップがある。

 

 豊女さんは僕たちそれぞれにお茶を配りながら、今しがた使った給湯器を指さして言った。

 

「アレさ、おかんが何かゴリ押しで勧めてきたんだよね。『私が直々にこの絡繰の使い方を教えましょう』なんて真顔で言ってきてさ。いや知ってるってw つか見たら分かるってw」

 

 玉藻さんのモノマネをする豊女さん。元々顔の作りがそっくりなので生写しのごとく似ている。

 

 しかしまあこの人たちは、談笑しに来たのかと思うくらいよく話す。会談の進行において中立であるはずの仲人が率先して雑談し始めるとは思ってもみなかった。

 婚約者の話を聞いてから数日間、どう受け答えようか悶々と考え続けてきたのだが、この展開はさすがに欠片も考慮していなかった。なんかもう「環さんと一緒にいたいです」と主張すれば「はいどうぞ」と言われかねない雰囲気である。

 

「まあでもそんなこと言えんし、黙って従うしかないじゃん? 元からおかんに対してはイエスマンなわけだし」

「豊女さんは……玉藻さんの前だと今みたいな喋り方しないんですか?」

「するわけないじゃんww 本人の前ではバリバリ貞淑にしてるって。格好もこういうのは駄目。少しでもナメた態度してたらぶっ飛ばされるだろうし『おかん』なんて呼んだ日にはどんな目に遭うか……」

 

 玉藻さんのお叱りを想像したのか、豊女さんがブルリと震える。ついでに僕の隣で環さんも震えている。

 なるほど、母は強し。絶対王権もかくやと言うべき君臨っぷりである。

 もしかしたら僕は思ったより恐ろしい人に啖呵を切ってしまったのだろうか、と今更になって戦々恐々とする。

 

 

 

 まさか、僕の些細な畏怖に呼応でもしたのか。

 そう思うほどのタイミングであった。

 

 

 

 僕たちの真向かい、つまり豊女さんと大山さんの背後に、青い炎の枠が出現した。

 

 

 

 環さんと僕、婚約者側の大山さんこと大山之国津茂神様、そして仲人の代理である豊女さん。すでに役者は揃っているはずのこの場に、一体誰が来るというのか。

 

 妖しげに揺らめく炎の先に、僕は九本の尻尾を見た気がした。

 

「そもそもおかんはアタシらに厳し過ぎるんだって。自分だって昔は上皇サマに首っ丈だったらしいくせにさー」

 

 背後の気配には気付いていないようで、豊女さんは尚も玉藻さんの話をし続ける。奇しくも彼女の語り口調には熱が入り、話の内容も愚痴っぽくなり始めている。

 

 不味い。この状況はとにかく不味い。

 

 僕がそう思い豊女さんに声をかけようとした時には、既に玉藻さんが炎をくぐってこの部屋に登場していた。

 

「すみません。用事が早く済みましたので遅ればせながら参上しまし———」

 

「環ちゃん知らないでしょ? おかんさ、酔わせると結構凄いんよ」

 

「…………」

 

「誰と懇ろになっただとか、仲を引き裂いた陰陽師憎しとか、大昔の惚れた腫れたばーっかり。自分がそんなんなのに環ちゃんと晴人君のこと言えなくね?ってアタシは思うんだけどねえ」

「と、豊姉様……」

「いやマジで酒癖ヤバいんだよ玉藻ちゃん。今度の神無月もアタシはダーリンの付き添いで行くんだけどさ、おかんと顔合わせんの面倒くさいんだよね。酔った後で記憶無くなるのもタチ悪いしー」

「あの、後ろ……」

「あん? 後ろ?」

 

 環さんに言われて、ようやく振り向いた豊女さんはピシリと硬直した。

 

「豊女……あなたは……」

 

 南極のブリザードの如く凍てついた玉藻さんの声。空間が歪んで見えるのは気のせいであろうか。声音はどこまでも冷え込んでいるのに、お顔が真っ赤なのが何ともちぐはぐである。

 

 豊女さんは先程の比ではなくガタガタと震えている。振動がこっちにまで伝わってきそうなほどだ。

 道路工事なんかで使われている地ならし用の機械みたいだなあ、と僕はほんわか思いつつ、豊女さんに向けて心の中で「南無南無」と合掌した。

 

「豊女、お話があります」

 

 玉藻さんの鶴の一声によって、僕と大山さんとの会談の場は、瞬く間に家族会議の舞台となった。

 さっきまでの会話の勢いはすっかり消え失せて怯え続ける豊女さんを、玉藻さんがこんこんとお叱りになる。

 

 蚊帳の外へ放り出されてしまった僕は、伊藤、小野町と目配せを送り合う。

 

 正直、もう帰りたかった。

 

 

 



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五話・覚悟と試練

 

 

 

 急遽、参加することになった玉藻さんを交えて会談は仕切り直された。

 仕切り直すも何も、今まで本題とは関係ない雑談しかしていなかったのだが、無論そのことは誰も玉藻さんに口外しなかった。口は災いの元なれば。

 

 玉藻さんが加わった代わりにドロップアウトした者がいる。

 豊女さんである。

 

 なんたる言葉遣い。

 破廉恥な格好。

 仲人の役目はどうした。

 

 などと玉藻さんにこってり絞られた彼女はお茶汲み係に任ぜられ、茶菓子を出した後は部屋の隅で(はべ)っている。

 もちろん着替えを済ますようにと玉藻さんに言いつけられ、今は女中のような質素な柄の着物姿となっている。

 

 先程まで僕たちを翻弄し尽くしていた威勢はもはや欠片も無い。僕がお茶を飲み干したところで粛々とおかわりを注いでくれたのだが、もう明らかに落ち込んでいて見るに堪えない。

 環さんは環さんで「おいたわしや姉上」と憐憫の情を送っていた。同じ母を持つ者同士、他人事とは思えないのであろう。

 

「さて」

 

 玉藻さんの凛とした声に、場の空気がより一層引き締まる。

 変わらず呑気そうにしているのは大山さんだけだ。茶を啜って菓子にまで手をつけている。当事者の一人なのにこの余裕。恐るべき豪胆ぶりである。

 

「話はどこまで進みましたか」

 

 玉藻さんは、進行役を任せていた豊女さんに聞いた。しかしそれに答えたのは大山さんだった。

 

「晴人氏らの近況を聞いていたんだ。いや彼は中々に面白い青春をしている。そこに並んでいる友達の二人も良い子たちだ。私は彼らのことが好きになったな。うん」

「……つまり、婚約の話は進んでいないと」

「そうなるねえ」

 

 笑う大山さん。

 玉藻さんは苦々しい表情で眉間を揉んでいる。彼女は何か言いたげだが、しかし何も言わなかった。

 神前であるため堪えている、ということか。きっと苦労人なのだろうなあ、と僕は玉藻さんに同情すると共に、少し親近感を覚えた。狐も人も、目上の存在には振り回されるものらしい。

 

 しかしそうやってほっこりとしたのも束の間だった。

 

「環、貴女はこちらにおわす大山之国津茂神様に嫁ぐのです。良いですね?」

 

 玉藻さんの声音には此方が息を飲むほどに固い意志が滲んでいた。取り付く島もない。

 

 あまりに強硬的な物言いに、さすがに一言くらい言わねばと僕が口を開きかけたところ、玉藻さんの鋭い双眸がこちらを真っ直ぐに見つめた。深層心理のさらに奥、魂の核すらも射抜くように。

 

 初めて会った時とは比較にならないほどの重圧を受けながらも、僕は平静を保とうと必死になった。

 バクバクとうるさい心臓をあやすように、自分に一つでも落ち度がないかと確認する。先日の我が家での話し合いで生意気な口を利いてしまった自覚はあるが、あれに関しては玉藻さんもそれほど怒った様子は見せていなかったように思う。

 そんな考えが顔に出ていたのか、玉藻さんはこう言った。

 

「晴人殿が本気であることは理解しています。先日、貴方のお宅に寄らせてもらった際、それはしかと示してもらいました故。ただ一つ、聞きそびれたことがあります」

「な、なんでしょう」

「晴人殿は、環との今後の人生を真剣に考えていると、そう仰いましたね」

「その通りです」

 

 なるべく動揺を見せないよう、間を空けず返事をする。

 躊躇えば相手に疑念を抱かせる。疑念とは即ち不信感だ。一度湧き出た不信感はそう簡単には拭えない。それこそが今、僕の最も恐れるべきもののはずである。

 だから決して、どんな質問が来ようと、躊躇う事だけはしないようにと気を付ける

 

「その“今後”というのは、何時までのことと考えておいでで?」

「……何時まで、とは」

 

 少し間が開いた。予想の外、と言うよりは予想していた中で一番触れられたくない質問だった。

 自分の声が震えていたのが分かる。我ながら間抜けなオウム返しの返事だったが、今は僅かでも心を落ち着ける猶予が欲しかった。

 

 そして玉藻さんはまるで容赦なく、直截に、僕の猶予を打ち砕いた。

 

「百年ですか。二百年ですか。一体、どれほどの時を環と過ごすおつもりで?」

 

 今度こそ、僕は完全に沈黙した。

 

「分かっているでしょうが、我々霊狐はもっと長く生きますよ。長く、永く。それに比べて、人間である貴方の寿命は如何ほどですか」

 

 それはぐうの音も出ない正論だった。僕はもう、玉藻さんの目を見つめ返すことさえ出来なかった。

 

 寿命の差を意識してこなかったわけではない。むしろずっと胸に引っかかっていた。

 何度も頭を過っては、どうしようもないことだからと考えないようにしてきた不安。きっと環さんに相談しても「何を今更」と笑われるだろうと思って、ちゃんと話し合わずにいた。

 その不徳を、今ここで指摘されることになろうとは。

 

 少し話しただけでも分かる。玉藻さんは恐ろしく聡明だ。僕の沈黙から、こっちが何を考えているのかは殆ど察しがついてしまうのだろう。彼女は毅然とした口調で話を続けた。

 

「晴人殿は環の伴侶として名乗りを上げましたね。しかし伴侶とは生涯を添い遂げるもの。一時、身を寄せ合うだけの関係を、婚姻と認めるわけにはいきません」

 

 もっともな意見だ。反論のしようもなく沈黙する。

 頭ごなしに否定されるのであれば、いくらでも抵抗することができた。それこそ先日のように、神であろうが九尾であろうが、自分の主張を声高に掲げるつもりだった。

 しかしこうも理路整然と諭されては如何ともし難い。

 

 僕は言うまでもなく根っからの純愛主義者である。

 盟友の伊藤と共に古代ギリシャの賢人のごとく崇高な思索の日々を過ごしてきた。

 ニーチェ・フロイト博士の著書から巷で“薄い本”と呼ばれる書籍までも読み漁り、パソコンを使い数多の仮想世界で多岐に渡るシミュレーションをこなし、我々は恋愛研究を押し進めた。その成果を文面化したならば途方もない量の論文が積み上がり、学会を震撼させるに違いないと踏んでいる。

 

 だからこそ、玉藻さんのお言葉は僕の胸の奥にずんと効いた。参りましたと言いたくて仕方がない。

 

 純愛主義者としての僕はもはや彼女の質実剛健な価値観に白旗を上げるどころか、尊敬の念すら抱き始めている。是非とも僕と伊藤の輪の中に加わって議論を交わしてもらえないだろうか。

 

 しかしそれでも、今この場で負けを認めるわけにはいかない。退いてしまえばそれまでだ。

 環さんとの仲を認めてもらう道があるとするならば、それはもう、僕が頑なであること以外には無いのだから。

 

 打開策を探しながらも黙っているしかできない現状。

 

 そんな歯痒い沈黙を破ったのは僕ではなく、環さんだった。

 

「母上。儂はそれでも、晴人と一緒に居たいと、思います」

 

 震え声で、しかし真っ直ぐに環さんは言った。玉藻さんに視線を向けられてたじろぎそうになるも、意志の力で背筋を伸ばして相対する。

 

 僕は驚愕して環さんを見つめる。

 決意を秘めた凛々しい横顔。普段は言動の何もかもが幼くてちゃらんぽらんなのに、ふとした時に僕の両親よりもずっと思慮深く達観した価値観を有した顔つきをする。

 

「本気ですか」

「はい」

 

 玉藻さんの問いに環さんはハッキリと答える。

 言葉の上ではひどく端的だが、二人とも相手を見据える瞳は言い表しようのないほど真剣味を帯びていた。

 

 環さんは僕と違い、寿命差の問題というものを正しく認識しているはずだ。理屈としてではなく、感覚のものとして。

 なにせ彼女はつい昨年まで、およそ百年もの間実際に孤独を味わってきたのだから。玉藻さんもそうした環さんの内情を理解している。故に多くを語ることはない。相手の目をまっずぐに見つめて意思をぶつけることが肝要になる。

 僕はいくらか遅れて、そのやり取りの意味を理解した。

 

 どちらも譲る気配は無い。環さんはさらに畳みかけるように、大山さんの方を向いて頭を下げた。

 

「大山之国津茂神様におかれましても、せっかく縁談を承諾してくださったのに申し訳ありません。しかし儂……私はもう晴人と離れるなど考えらぬのです。どうかその縁結びの御力で、私たちのことを祝福してはくださりませんか」

 

 環さんの言葉にハッとして僕も頭を下げる。

 どうかお願いしますと、お辞儀をしながらも頭の中では『寿命、寿命』とそればかりがグルグルと駆け巡る。退いてはならない。それは分かっているのに、剝き出しになった現実を前に、僕の心は否応なく揺れ動いていた。

 

 ただ、僕個人の心情はさて置き、この場で僕たちにとって幸いなのは環さんの婚約者であるはずの大山さんの存在に他ならない。

 

 彼は登場してから今も一貫してにこにことしており少しも剣呑な雰囲気が無い。これは本当に予想外だった。環さんを間に挟んで僕と敵対するどころか大変に友好的で、こちらに協力してくれそうでさえある。

 それに環さんが今お願いした通り、彼は縁結びの神だ。その力で僕と環さんを運命的に結び付けてくれるのであれば心強い。

 

 浅ましくもそう期待していたのだが、暫くしても返事が無い。代わりに「ううむ」と大山さんの悩ましそうな声が聞こえる。

 

「私としても今ここで貴君らを盛大に祝いたい気持ちではあるのだが、なかなかそうもいかんのだ」

 

 大山さんは僕たちに頭を上げさせて「ほら、これを見たまえ」と言って何やら懐から取り出した。

 博物館に展示されていそうな和紙製の古びた手帳だった。表紙には達筆な文字で『縁起帖』とある。

 

「これは私の仕事道具でね。まあ読んで字のごとし、縁結びの天啓が書かれた手帳だ。既に結ばれている者、これから結ばれる者、私の神社を中心にここいら一帯の良縁を網羅している。兎も角この手帳に書かれた者たちは必ず結ばれるというわけだ」

 

 説明しながらぺらぺらとページがめくられる。

 一枚一枚にびっしりと人の名前が書いてあり、よく見れば男女で対になるように記載されているようだった。

 時々、どう見ても男同士で縁結びが成されている部分が見受けられた気がしたが、気のせいだと断じた。

 

 これが全て現実におけるカップルの登記だとはにわかに信じ難い。おぞましい数だ。

 何故、これだけの組み合わせがあって、僕は生まれてから環さんに会うまでの十七年間でただの一人の女子からもモテたことが無かったのか理解に苦しむ。一度くらい良い目を見させてくれても良かったんじゃないか。僕はそんな恨みを込めて穴が開くほど手帳を見つめる。

 

「あった。ここだ」

 

 大山さんは紙をめくる手を止めて、ある一点を指さした。まだ真新しい項目にはこう書かれていた。

 

 

 

 

 

 国 × 環

 

 

 

 

 

「認められるかあああ!!」

 

 僕は肺活量の限り叫んだ。

 今日び、小学生ですらこんなもの書かんぞ。婚約届でもない、こんな落書き一つで環さんを盗られて堪るか。

 

 いや冗談だろうと思って大山さんを見るも、彼は真剣そのものといった様子で眉根を寄せている。

 

「そうは言っても君、現にこう書いてあるのだから難しいのだよ」

「いや消せばいいでしょ! これに何の拘束力があるんですか!?」

「そりゃ神のお告げだからね。天啓だよ」

「天啓って、一体誰が決めて書いたんです?」

「無論、私だ」

 

 『縁起帖』なるインチキ書物を目の前の神の手から奪い取ってビリビリに破り捨てたい衝動を抑え込んだ自分を、僕は褒めてあげたい。

 

「ううむ」

 

 悩ましい声が聞こえた。大山さんでは無い。隣の環さんからだ。

 なんと彼女は驚くべきことに、ふざけた手帳に書かれている大山さんと自分の名前を見て真面目に困っている。

 

 一も二もなく否定する場面では?

 僕としてはそう思うのだが、見れば玉藻さんも動かぬ証拠を提示した検事のような顔をしており、常識が音を立てて崩れる音を聞いた気がした。

 

 僕は理解に苦しみながらも、どうやら一笑に伏すことが出来るような話ではないらしい、と無理くり納得せざるを得なかった。

 少し引いた位置から僕たちのやりとりを見守っている伊藤と小野町だけが僕に共感と同情入り混じる視線を送ってくれており、それだけが救いだった。

 

「まあしかしだ」

 

 大山さんは手帳をパタンと閉じて懐へしまった。

 

「横恋慕というものは私も好きではない。これは晴人氏の存在を知らぬうちに環氏との縁談を結んでしまった、すれ違いの結果だ。その上で無理矢理こちらが伴侶を奪ってはあんまりだろう」

 

 僕の中で地に落ちかけていた大山さんの評価がV字回復する。特に「横恋慕が好きではない」という言葉が僕の胸を打った。そこに関しては全く同感であり、同志を見つけた高揚感を覚える。

 

「玉藻さん。あなたの顔に泥を塗るようで申し訳ないが、やはり二人の仲を応援するということにはならんかね」

 

 環さんが感極まった表情で大山さんを見つめる。次いで、この場の全員の視線が玉藻さんに集中する。

 裁判長の判決やいかにといった感じの雰囲気に、さしもの玉藻さんも暫く悩ましげに黙考している。一貫して僕と環さんの仲を認めないと言っている彼女も、どうやら神である大山さんの発言を無碍には出来ないらしい。

 

 難しい顔をする玉藻さんに、大山さんが言葉を続ける。

 

「何も今この場で彼らの祝儀を挙げるというわけでもない。ただ機会くらいは与えられるべきだと思うわけだよ。そう例えば、彼らの覚悟を試す、くらいの機会は」

 

 試す。つまり、試練。

 

「貴女も結局はその辺りを落とし所として考えているのではないかな」

 

 大山さんにそう問われて、玉藻さんは「ええ」と答えた。

 

 予想外だった。彼女は僕と環さんの仲に対し断固として反対し続けるものとばかり思っていたから、最初から試す方向で考えていたとは意外であった。

 

 しかし試練とは、何をさせられるんだろう。

 目の前の人たちのどこか抜けたところを鑑みればそこまで無茶なことは言われないと思いたいが、しかし相手は曲がりなりにも神である。大学を卒業してからとか、同棲期間を設けるとか、仕事が安定して蓄えが出来たらとか、そういった人間基準での話は通用しないかもしれない。

 

「晴人殿」

「は、はい」

 

 名前を呼ばれ、殊更かしこまって背筋を伸ばす。

 玉藻さんの声色にさっきまでの詰問のような雰囲気はもう無かった。その代わり、真剣にこちらと向き合う腹を決めた凛とした気迫があった。

 

「もし環と正式に結ばれたいと言うのでしたら、晴人殿には神々の集会に出席していただくことになります。そこで大御神様より許しを得なければ貴方がたが結ばれることはないでしょう。しきたりとはそういうものです」

 

 只の高校生が関わるにはまた大それた話になってきたぞ、と肝を冷やしながらも、僕は玉藻さんの話に一つ思い当たる節があった。

 

 神々の集会。

 

 いつだったか、環さんから聞いたことがある。

 毎年旧暦の十月になると、日本中の神様が島根の出雲へと赴き、一同に会するのだと。

 

「神無月……」

「左様です」

 

 僕の口から漏れた呟きに玉藻さんが頷く。

 

「ただし人間である貴方を何の条件も無しに招くわけにはいきません。貢ぎ物の一つでも持ってきていただかないことには」

 

 玉藻さんが言いながら何処からともなく美しい錦画家の刺繍がされた手提げ鞄を出現させた。手品のようだが、恐らくはタネも仕掛けもない妖術。

 

 貢ぎ物と聞いて僕の中で悪い予感が膨らんだ。

 まさか身体の一部を差し出せと言われるんじゃないか。

 神に血肉を捧げる。そういった話はネットなんかで都市伝説と検索すれば幾らでも転がっている。

 

 夏の間中、環さんと二人でその手のまとめサイトを漁りまくったので生贄関連の逸話にも幾つか覚えがある。

 大抵は「怖い怖い」とふざけて楽しんでいたのだが、時たま「これガチじゃない?」と環さんが真面目に考察しだして本当に怖い思いをさせられた。

 真夜中のトイレへ行くため環さんに付き添ってもらったところを母に見られたことは、僕の人生の真新しい汚点である。

 

 何はともあれ、神隠しや生贄文化というものは決して架空のものだけではないということだ。

 ましてや目の前にいるのは本物の神や妖怪なのだから、どうしても不安が先立つ。

 

 玉藻さんが小さな手提げ鞄の中に手を入れる。身構える僕の前に、彼女は鞄から取り出した物をそっと置いた。

 

 それは瓢箪だった。

 

 くびれと飲み口に紐が巻き付けてあり、肩に提げたり片手で持って飲めるような仕様になっている。

 

 そして何より大きい。婦人が小脇に抱えているような小さい鞄には到底入れられないサイズである。

 どうやって入っていたのだろうと疑問に思うが、存在が怪奇そのものと言える玉藻さんたちを前にそれは意味のない考えだろう。

 

 触っても良いとのことで恐る恐る持たせてもらったが、中身は空のようだった。触った感じも特に何もなく、不思議な何かが僕の身に起こるということもなかった。

 

「これは酒瓢箪といいます。注いだ水が上物の酒に醸される、大変珍しい逸品です」

 

 言われて、飲み口に鼻を近づけてみると確かに仄かだが日本酒のような匂いがする。

 父が酒好きでよく居間で飲んでおり、味が気になった僕もしばらく前に一口飲ませてもらったことがあるのだが、飲めたものではなかった。まだまだ酒を嗜む舌になるには若過ぎる、ということらしい。

 しかしそんなお子様な僕をしても、瓢箪から香る酒精は思わず喉を鳴らしてしまうほど良い匂いだった。

 

 玉藻さんが僕に課す試練は、この瓢箪に水を汲んで来る、というものらしい。

 

「無論、ただの水ではいけません。とある山に湧き出る、神聖な泉から汲んで来てもらいましょう」

 

 とりあえず身を削る類の話でなくて助かった。

 そう思って僅かに安堵した刹那、僕は見た。

 

 一瞬。ほんの一瞬だけ、玉藻さんの口角が上がった気がした。

 

「霊峰、龍ヶ峰に登りなさい」

 

 聞いたことのない山だった。横目で確認するが、伊藤と小野町も知らない様子である。

 

 よく分からず呆けている僕たちと違い、環さんは玉藻さんの言葉に過敏に反応した。

 

「は、母上……そこは、尋常の場所では……」

「尋常では試練になりません」

「しかし……」

「安心なさい。元より人の身で意図して辿り着ける場所でもないですから、案内をつけましょう。まずは環、貴女が付き添いなさい」

 

 思わぬ玉藻さんの発言に、環さんの狐耳がピンと立つ。

 

「儂も、一緒に?」

「伴侶を名乗るのであれば、貴女も同じく龍ヶ峰に登るべきでしょう」

 

 玉藻さんは先ほどの手提げ鞄から一枚のお札を取り出して環さんに手渡した。覗き込むと、式神としてこの前渡された物とは、書いてある模様や文字が全く違っている。

 お札を受け取った環さんの手が微かに震えていた。「これは大御神様の」と畏れるように呟いている。

 

「免状です。下界の時間にして十日ほど、貴女は外へ出ることが可能になります。それを試練の期日としますので、必ず返すように」

 

 環さんは感極まった様子で、うっすらと涙すら浮かべ「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。玉藻さんは相変わらずツンと澄ました顔をしている。

 

「豊女」

「はいッ」

 

 唐突に呼ばれた豊女さんがビクリと直立し、風のような速さで玉藻さんの側に寄った。

 

「貴女が二人の案内役を務めなさい。いいですね」

「かしこまりました!」

 

 ここが軍隊だったのなら「イエスマム」と叫んで敬礼しそうな勢いで、豊女さんは案内役の命令を拝領した。恐るべき絶対君主制である。

 

 豊女さんは以前、その龍ヶ峰という山に訪れたことがあるらしく、案内役としては適任とのことだった。大体一週間ほどの旅になるだろうから路銀も持たせてくれると言う。

 試練と言う割にはかなり気を回してくれるなと思う。

 

「では無事に帰ってくるように」

 

 玉藻さんは僕たちにそう言い、大山さんにも会釈をした後、スッとその姿をかき消した。

 何の前触れもなく唐突に、瞬きにも満たないほどの間に彼女は居なくなっていた。

 

 僕は驚いて伊藤たちと顔を見合わせる。

 まさしく狐に化かされた気分だ。

 しかし僕の手には確かに、先ほど玉藻さんから受け取った瓢箪がある。

 

 試練か。

 どうにもまだ実感の湧かないその言葉を胸の内で反芻する。

 

「な、なんだか大変なことになっちゃったね」

 

 それまでひたすら静かに話の成り行きを見守っていた小野町が声をかけてきた。僕は「うん、まあ」と気の抜けた返事をする。

 

 正直、まだ気持ちが現実に追い付いていなかった。

 天界へ行って神々の宴に参加しろと言われても、全くイメージが湧かない。

 まさか魑魅魍魎に取り囲まれて裁判じみた儀式にかけられ、挙句の果てに神隠しに遭って二度と帰れない、なんて事態には陥らないと思うが。思いたいが。

 

 まあ何にせよ、僕はこれから龍ヶ峰なる山に登らなければならないらしい。

 

 高さはどれくらいなのか、そもそも日本の何処にあるのかすら知らないが、一週間もかかるとなるとかなりの遠出になるのだろう。

 今までに経験した外泊と言えば修学旅行の二泊三日がせいぜいの僕にとっては中々に勇気がいる大旅行だ。

 それでもヤマタノオロチを倒してこいとか天ノ岩戸を開けろだとか、一般人には不可能な無理難題を吹っ掛けられなかっただけでも、ありがたいと思おう。

 

「は、晴人。どうしよう……」

 

 環さんの震えた声に振り向くと、彼女は顔面蒼白で困り果てていた。

 

 どうしたのだろう。

 まさか、龍ヶ峰は環さんがこんなにも怯えるほどに恐ろしい場所だというのか。命を落とす、或いは帰って来れなくなるといった類の危険が伴うとでもいうのか。

 

 再び不安を覚える僕の袖口を小さな手でぎゅっと握り、環さんは重々しく言った。

 

「神これが……」

 

「……ん?」

 

 理解が遅れる。

 

 カミコレ?

 いや、神これ。

 

 ややあって、人気ネットゲーム『神様これくしょん』の略称だと思い出す。

 

『秋イベ*1が……もう始まるのじゃが…………』

 

 このネトゲ廃人がよ。

 

 

 

*1
秋に行われる大型イベントのこと。環はこのイベントのためにサンライズ氏と長期間に渡って資金集めなどの準備を進めてきた



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六話・旅前の団欒

 

 

 

 玉藻さんが去ったことで会談も終わった。

 

 緊張が解けてから気付いたことだが、玉藻さんの転移術によって連れて来られた豪華なこの部屋は扉と窓が一つも無い異質極まる場所だった。前後左右、どこ見ても出入り口が存在しない。

 完全密室空間に閉じ込められるというサスペンス作品でありがちな状況はいざ直面してみると耐え難いほど恐ろしく、僕と伊藤と小野町の人間三人組は軽い恐慌状態に陥りかけた。

 特に心臓の小さい伊藤は「大丈夫だよ大丈夫だよ」とお呪いを唱えるように繰り返す。ズボンを履いていてもその太さが分かる丸太のような彼の足が、生まれたての子鹿みたいにガクガクと震えている様子はどう見ても『大丈夫』から程遠かった。

 

 豊女さんはそんな僕たちを「かわいー」と笑いながらも御札で玉藻さんと通話し、部屋から出してほしい旨を伝えてくれた。

 どうやら玉藻さんは僕たちを閉じ込めることに何か特別な意図があったわけではなく、ただ単にうっかりしていただけだったらしい。お札を通じて恥ずかしそうな声で「申し訳ございません」と言い、来た時と同じように転移術で僕たちを帰してくれることになった。

 

 後々になって豊女さんから聞いた話によると、僕たちが呼ばれてやって来た一室は玉藻さんが妖術によって拵えた異空間のようなものだということだった。素になっているのは実際に玉藻さんが借りているホテルの一室らしいが、そこに結界を張って小さな幽世(かくりよ)を作ったとかなんとか。

 

 正直なところ説明されても原理はチンプンカンプンだったが、この部屋にいる間は僕たちの存在が現実世界から切り離されていたらしいということは理解した。

 つまりこれ自体がちょっとした神隠しだったというわけで、神や霊狐といった存在には人間の常識が通用しないということを改めて認識させられるのには十分な体験となった。彼らがその気になれば指先を一つ振るだけで僕なんぞあの世送りに出来てしまうのだろう。

 

 僕はこれから先きちんと神様を敬おうと心に決め、取り敢えず今回の件が片付いたら京都の八幡宮に行って大学受験にすんなり合格できるようお参りしようと思った。

 

「さて、私からは何も出来んが頑張りたまえよ君たち。何なら出発前に私の神社に寄って旅の無事でも祈っていくと良い」

 

 別れ際に大山さんがそう言った。

 なんでも彼の神社は僕たちが通う高校と同じ町内にあるらしい。僕の地元からは数駅先、伊藤の自宅からは徒歩でも行けるご近所だった。

 

 これには僕や伊藤よりも、環さんが驚いていた。まさかそんな近くに姉の豊女さんが暮らしていたとは思わなかったのだろう。

 「世間狭くない?そんなことってある?」と叫んだ環さんに対して、何故か「ごめんね」としおらしく謝った豊女さんが印象的だった。

 

 

 

 

 

 

「うぇいうぇいうぇーい! マジうちらの時代来たっしょコレ!」

 

 会談があった翌日、日曜日の昼過ぎのことである。

 僕の家を訪ねてきた豊女さんは、上機嫌などという言葉では収まらないほどに有頂天だった。謎に「ウェイ」だの「Foo」だのと言いながら、僕や環さんとハイタッチを交わしにくる。

 昨日叱られた反省の跡が全く見られない。お茶汲み係をしていた時の侍女のように慎ましい態度は何だったのかと言いたくなるような変貌ぶりであった。

 

「嬉しそうですね、豊女さん」

「そりゃそうでしょ! だって旅行よ旅行! めっちゃ楽しみー! たくさん温泉入って美味しい物いっぱい食べよー!」

「いや試練ですから。割と真面目に僕と環さんの人生かかっていますから」

「ふふふ。何事も楽しんでこその人生ですよ晴ぽん」

「晴ぽん……」

 

 調子に乗った豊女さんはこちらの言葉など気にも留めず、一週間を如何にして楽しむか考え始めている。この人が案内人で本当に大丈夫なのだろうか。

 

 僕たちがこれから登りに行く山、龍ヶ峰。

 どういう場所なのだろうと昨日からインターネットで調べてみてはいるのだが、それらしい山は日本全国のどこにも無かった。竜ヶ峰という場所なら検索に引っ掛かったけれど、環さん曰く()ではなく()らしい。

 

『儂も話にしか聞いたことが無いから詳しくは分からぬが、現世に存在する山ではないというぞ。生きたまま人の身で行き着くことは稀だそうじゃ。ましてや此度の晴人のように、意図して行く者など殆どおるまいて』

 

 昨晩、寝る前に環さんはそう言っていた。彼女はその後ぐっすりと眠ってしまったが、僕は不安で一睡も出来なかった。

 

 現実に存在しない山。一週間という長い期間。

 どこを取っても不安になる要素しかない。

 旅行旅行、と言ってはしゃいでいる豊女さんのテンションに着いていけないのも無理からぬことである。

 

「なに晴ぽん、死にそうな顔しちゃって。目の隈ひどいよ。アタシのファンデーション貸したげようか?」

 

 ファンデーションだけと言わず、持ってきた鞄から化粧道具一式を取り出す豊女さんの好意をやんわりと断る。

 本当にこれから登山をしに行くのか疑問である。山を舐めたら死ぬらしいが、この調子で大丈夫だろうか。ただただ不安が増していく。

 

「いやだって、どんな山かも分からないもんですから昨日は全然眠れませんでしたよ。豊女さんは行ったことがあるんですか。その龍ヶ峰って場所」

「うん。あるよー」

 

 豊女さんはお気楽な返事をして、宥めるように僕の肩をぽんぽんと叩いた。

 

「安心しなって。ちと手間取るけどちゃんと連れて行ってあげるから。荷物も私が作ってきたリスト見てもらえれば良いから…………」

 

 少し間を空けて「あー」と言葉を濁しながら僕の足元に視線を向ける豊女さん。

 僕の足元、と言うか周囲には雑多な物が散乱していた。

 

 

 四人用の丈夫なテント、三人分の寝袋、ソーラー充電機能付き電気ランタン、折り畳み式の椅子とテーブル、ガスバーナーとガスボンベ半ダース、コッヘル一式にサバイバルナイフとまな板、インスタント食品を含めた約十日分の携帯食料、飲料水10ℓ、チョコレートなどの嵩張らず高カロリーなお菓子、丈夫な20mのロープ三束とカラビナ多数、携帯式シャベルと片手用のピッケルに…………。

 

 六畳間の自室を埋め尽くすアウトドア用品の山。

 全て父に頼んで貸してもらったものだ。食料などの消耗品は今日の内に僕の小遣いで買い込んでおいた。おかげで財布はすっからかんである。

 

 旅は何が起こるか分からない。備えあれば憂いなし。家の本棚で埃を被っていたサバイバルブックにも一通り目を通しておいた。ちなみに携帯食のチョイスは環さん監修のもと行ったので彼女の嗜好によるものが多い。

 

 この用意周到さには豊女さんも感動して言葉を失ってしまったと見える。

 案内役に全てを押し付けず、言われずとも登山に必要な物は揃えた。こういった準備一つとっても手を抜かない部分を是非とも評価していただきたい。どうでしょう、僕は真剣です。

 

 いや、しかし彼女の顔はどうも感動している感じではない。むしろ呆れてやしないか。

 

 何がいけなかったのだろう。

 少し考えて、遭難することを見越して食料と水をさらに増やすべきかと思い至る。そのことを環さんに耳打ちして相談すると、彼女もどうやら僕と同意見だったようだ。

 

「晴人、これっぽっちの飯では遭難した時に餓死してしまうぞ」

「レトルトのご飯とカレーでも追加しますか」

「儂はポークカレーが良い」

 

 ひそひそと話し合って、更にリスクを見越した食糧追加の方針を固める。そのことを豊女さんに伝えようとしたが、口を開いたのは彼女が先だった。

 

 僕と環さんでかき集めた数十キログラムに及ぶ荷物を見渡して、豊女さんは大変言いづらそうに口を開いた。

 

「取り敢えず、これ片付けよっか」

 

 

 

 

 

 

 

 泣く泣く用意した登山グッズを父に返納した僕と環さんは、豊女さんに言われた通りに日帰り旅行程度の荷造りをした。非常に残念だったが、あんな大荷物をいったいどうやって持ち運ぶつもりだったのか自分でもとんと分からない。登山の装備を減らすことは危険だが、あれはあれで無謀だった。

 

 豊女さんから言い渡された日程としては、今日は準備に専念。出発は明日の朝方で、一度大山さんの神社に寄ってお参りをしておこうとのこと。龍ヶ峰に辿り着くためにはどうしても運の要素が絡み、早ければ三日と待たずに行けて、遅くとも目安として言い渡されている一週間以内には見つかるであろうと言われた。

 山を見つける、とはどうも変な言い回しだが、そこは非現実側の世界のこと。豊女さんの案内に従う他にない。

 

 他の準備としては学校への連絡ぐらいで、これはインフルエンザということにして両親から学校側へ既に連絡済みだ。一週間の欠席は病欠にしても些か長過ぎるが、どうにか誤魔化してくれるとのことだった。

 

 やはりと言うべきか、僕の両親は今回のことに協力的だった。

 学校を休んで何処にあるかも分からない山に登り、神の集会に参加する。常識的な人生からは大いに逸脱したその道を、父も母もなんら迷うことなく応援すると言ってくれた。電話越しで姉にも話したが「環ちゃんを離すなよベイべー」とのことだった。

 

 僕は少しでも反対されるかもと思って身構えていた自分を恥じた。僕だけではなく皆にとって、環さんは既に紛れもない家族の一員になっていたのだ。

 環さんの実母である玉藻さんの意見と言えど、みすみす他所へ盗られてなるものか。それはもはや我が家の総意であった。

 そうしたやり取りが行われたのが昨日の晩飯時だった。環さんは涙ぐみ、父に勧められるがままに芋焼酎を飲んで酔っ払っていた。

 

 

「環ちゃんさ、昨日帰った後、外に出てみた?」

 

 あらかた準備が終わってお茶を淹れて一息ついたところで、豊女さんがそう言った。家に置いていくことになった登山用のお菓子をリスのように頬張っていた環さんは咄嗟に答えることが出来ず、代わりに首を横に振った。

 

 そう言えば色々あり過ぎて僕もすっかり忘れていたが、玉藻さんから去り際に渡されたお札があった。なんでも環さんの霊狐としての制約を一時的に外してくれるとかなんとか。

 

 信仰を捧げたり信者候補を募ったりと、外出も含めた環さんの自由な生活を目標に据えて今までやってきたわけだが、いざそれを解決する便利アイテムをぽんと手渡されてもあまり実感が湧かない。

 土地に縛られる霊狐の制約がいかに絶対的なものかは僕も知るところである。葉書の半分ほどの面積しかない紙切れ一つで環さんを外に連れ出せるようになるとは、にわかには信じ難かった。

 

「試しにさ、ちょっと出てみようよ」

 

 

 

 僕たち三人は外へ出た。

 豊女さんが最初に玄関扉を押し開け、次に続いて僕が、最後に恐る恐るといった様子で環さんが家から出て来る。

 

 以前、移動販売の焼き芋を買おうと慌ててトラックを追いかけようとした時、環さんは我が家の敷地から出ることが出来なかった。神社でもそうだったように、見えない壁に弾かれるのだ。

 

 環さんの懐にはお札がしまってある。それに祈るようにして胸に手を当てながら環さんは一歩を踏み出す。家の方から此方側へ。公共の道路に足を着ける。

 

 何にも弾かれない。空気は空気としてそこにあり、環さんを阻むものは存在しなかった。

 いとも簡単に、彼女の外出は叶った。

 

「出れましたね……」

「じゃなぁ……」

 

 言い様のない気持ちだった。

 これが試練を成すための一時的な措置だと分かっているので、特に感動は無い。むしろ呆気なさすぎることに虚しいような気持ちになる。今までの苦労はなんだったのか。いやしかしここは素直に喜ぶべきなのだろうか。

 

 感情を処理しきれず、お互いに意味のない言葉しか紡げないでいる僕たちに向かって「なにボケっとしてんの」と豊女さんは笑った。

 

「どーしたの。百年ぶりに下界で自由に動けるのがそんなに嬉しかった?」

 

 環さんはふるふると首を横に振った。よく見れば彼女の頬は少し赤く、口元が緩んでいる。いつも元気いっぱいで溌剌とした感情表現をする環さんにしては珍しい、静かで穏やかな反応。

 

「いや、百年ぶりだからと言うか、その、ようやく晴人と出掛けられるのが……」

 

 もじもじとしながら話す環さんに、豊女さんが抱き着いた。

 

「環ちゃん可愛いー!」

「わっ、と、豊姉様?」

「いやー我が妹ながら今のは可愛い過ぎんよー。食べることばっかり考えてた環ちゃんにもようやく春が来たんだねえ。うふふ、アツアツですねえ」

「は、はあ!? アツアツではない!」

 

 豊女さんに背後から被さる形で抱きしめられた環さんはもう顔を真っ赤にして取り乱す。「うりうりうり」と頬をつつかれて狼狽えるばかり。

 いつも僕に対してやっているような絡み方を自分がされて困っている環さんを眺めるのは新鮮である。未だに初心なので、攻めることは出来ても攻められるのには滅法弱い環さんだった。

 いや、もしかすると相手が姉の豊女さんだから上手く抵抗できないのかもしれないが。

 

 取り敢えず僕はスマホで姉妹のツーショット写真を撮った。

 さりげなくやったつもりだったが、カメラを向けられたことに目敏く気付いた豊女さんはすぐに環さんとのハグを強めてポーズまで決めてきた。

 撮り慣れているなあと僕は感心しつつ、金髪美人姉妹が映っている写真をパスワードで保護。バックアップとして己のパソコンに転送し、スマホのSDカードのメモリにも複製を作り、ついでに待ち受け画面にした。

 後になってそれに気付いた環さんが「消せ、消せ」と迫ってきてスマホ争奪戦へと発展したが、体格差を遺憾なく発揮して僕が勝利をおさめた。

 

 

 

 

 ひとしきり環さんをいじって楽しんだ豊女さんは、僕に先導を命じて駅前の商店街へと繰り出した。「どっか面白そうな所よろしく」と言われてもここは取り立てて見るべきものなど無い片田舎である。環さんよりも年上なのに現役ギャルでもある彼女をどんな場所に連れて行けば喜ぶのか僕では想像もつかなかった。

 

 悩んだ末に、ひとまず松葉屋にでも行きますかと言ったら豊女さんではなく環さんが喰い付いた。松葉屋は商店街にある肉屋で、環さんの好物のメンチカツを売っている。

 環さんはついさっき僕との仲を揶揄われて不機嫌になっていたのが嘘だったかのように舞い上がり、どこに松葉屋があるかも知らないくせに僕の前に立ち率先してずんずんと歩調を早めた。あまりに興奮したためか変化の術で隠している狐耳が出かかっており、僕はそっと彼女の頭に手を置いてそれを押さえた。

 

「環さん、そんなに急がなくても店は逃げませんよ」

「いや分からん。寸でのところで売り切れてしまったらどうする」

「まだ昼だから大丈夫ですって。それに松葉屋なら欲しい総菜が売り切れていても注文すれば新しく揚げてくれますから」

「え、うそ。神ではないか」

 

 ついに神という単語を形容詞的に使い始めた環さん。彼女にぐいぐいと引っ張られるままに僕も早足で歩く。

 豊女さんはちゃんと着いてきているだろうかと思ってふと後ろを振り向くと、とても優しげな柔らかい笑顔を浮かべて僕たちのことを見つめていた。僕の視線に気付くとニマニマとした悪戯っぽい笑顔に変えて「おかまいなく」と言うように手をひらひらと振ってくる。出会って二日とは言え色々と会話はしたのに、未だ何を考えているのかよく分からない人だ。

 

 美人であり金髪でもある彼女たちに挟まれていると嫌でも目立つもので、僕たち一行はすれ違う人々から視線を集めている。肩身が狭くて歩き辛いが、僕以外の二人は気にした様子もない。豊女さんは普段から慣れているのだろうし、環さんはキョロキョロと忙しなく松葉屋の看板を探しており通行人に気を向ける余裕など無さそうだった。

 

「あった! あれあれ!」

 

 霊狐の優れた視力を駆使して、常連の僕よりも早く松葉屋の存在を目視した環さんが駆け出した。慌てて追いかけると、環さんは松葉屋の前で呆然と立っていた。感激のあまり言葉すら出ないようで、今にも跪きそうなその様はまるで聖地に辿り着いた殉教者だった。

 

「メンチカツが、たくさん並んでおる……」

 

 見えない力で吸い寄せられるようにショーウィンドウの方へ。変てこな客に松葉屋のおばちゃんは目を丸くしていたが、常連客である僕に気付くと何か察したのか「ああ、その子が」と納得したようだった。理解が早いのは助かるが、したり顔は止めてほしい。

 

「女将よ」

 

 僕が注文するよりも早く、放心状態から抜け出した環さんが言った。おばさんは突然の女将呼びにも動じず「はいいらっしゃい何が欲しいのお嬢ちゃん」とニコニコ。

 

「このメンチカツ全部おくれ!」

「三つ、三つで良いです」

 

 

 

 店の前にあるベンチに並んで座りおやつ代わりのメンチカツを食した僕たちは町歩きを再開した。他と代わり映えのしない町並みのどこが面白いのか、豊女さんと環さんの二人は夢中になってあちこちを見て回っている。

 環さんは全てが物珍しいようで、目につく店へ片っ端から立ち寄る。右へ左へふらふらと彷徨うので着いていくのも一苦労である。一方で電気屋にあったゲーミングパソコンの前から頑として動こうとせず、逆立ちしても買えないからと彼女を引き剥がすのには骨が折れた。

 

 豊女さんはずっとスマホで写真を撮っており、特に環さんとのツーショットをしきりに撮りたがった。最初は恥ずかしがって拒否していた環さんだが次第に慣れてきたらしく、豊女さんに駄菓子屋で棒付きぐるぐるキャンディーを買ってもらってからは大人しく撮られている。

 そして豊女さんは撮ったそばからSNSに投稿していた。彼女に促されるままアカウントをフォローして見てみれば、環さんと一緒にメンチカツを食べている写真が既に多くの好評を得ている。両親と姉と伊藤しか繋がりのない僕とは比べるべくも無いフォロワー数。流石、伊達にギャルをやっていない。

 

 そんな彼女たちに振り回されつつも商店街を歩いていく。ゲームセンターの前を通ると、強烈な音と光に興味を示した環さんが「あれはなんじゃ」と言いながら僕の答えなど待たずに吸い込まれるように店へと入っていく。

 

「環ちゃん本当に楽しそうだね」

 

 豊女さんが僕の横に立って言った。

 

「確かにいつもよりテンション高いかも。町の全部が初めて見る物だから目移りしちゃうんでしょうね」

「ううん。晴人君がいるからだよ」

 

 言われた意味が分からず首を捻る。豊女さんは店の入り口にある両替機で千円札を崩しながら話を続けた。

 

「はしゃいでる環ちゃんなんて久しぶりに見るよ、アタシは。まあそもそも百年は会ってなかったんだけどさ。それでも仲悪くしてた時期も長かったし、あんなに楽しそうに笑う子なんだってようやく思い出した」

 

 お姉ちゃんなのにね、アタシ。

 そう言って喜びと悲しみを一緒くたにしたような顔で豊女さんは笑う。

 

「あの子が今幸せそうにしてるのは晴人君のおかげだよ。本当ならずっと昔にアタシが環ちゃんにしてあげなきゃいけなかったことを、君がしてくれている」

「いえ、僕だって特別なことは何も……ただ一緒にいるだけって言うか」

「それが一番大事なんだって」

 

 機械が吐き出した十枚の百円玉の内、半分を僕にくれた。手渡す際、豊女さんの手がそっと僕の手を包み、励ますように優しく握ってきた。

 

「だから晴人君ならきっと山頂にも登れる。アタシはただの案内人だけど、応援してるからね」

 

 突然のスキンシップに緊張してまともな返事が出来なくなってしまった僕に豊女さんは悪戯っぽく微笑んで、クレーンゲームコーナーに齧り付いている環さんの方へと歩いて行った。

 

「やばい晴人! はよ来い! 神これのぬいぐるみが仰山入っとるぞここ!」

 

 豊女さんの言葉の意味を解せぬまま、僕は遅れて彼女たちに合流した。狐姉妹は巨大なぬいぐるみを取ろうとしてキャーキャー言っている。

 

 構いまくる豊女さんに対して最初はよそよそしかった環さんも次第に素の表情を見せるようになってきている。今では肩を寄せ合って一緒にゲームをしているのだから、喧嘩別れして長い間疎遠だったと言っても元々仲の良い姉妹なのだと分かる。

 

 環さんが楽しそうにしているのは、僕が側にいるおかげだと豊女さんは言った。

 しかしそれはきっと、豊女さんに対しても言えることだ。環さんが姉である豊女さんとのお出かけを喜ばないわけがない。いつにも増してはしゃいでいるように見えると言うのなら、それは豊女さんが一緒であるからだ。環さん検定一級を自負する僕はそう確信する。

 今度また機会があれば、豊女さんにそれとなく伝えてみよう。

 

 衆目を集める二人の隣に立ち、僕もクレーンゲームに挑戦する。豊女さんに励ましてもらったおかげか、試練に対する不安はすっかり忘れて二人との時間を楽しむことが出来た。

 

 そうして僕たちは夕方までひとしきりゲームセンターで遊んで、最後に駅向こうにある新興の住宅地を見て回ってから帰路に着いた。環さんたちが住んでいた神社の跡地にある家は何の変哲もない二階建ての一軒家で、表札などを見るにまだ入居者はいないようだった。

 環さんも豊女さんも既に割り切っているらしく「変わっちゃったね」「ねー」などというだけで特に感慨に浸ることもなかった。僕は少しだけ寂しく思ったが、今ここに環さんが居ることの方が重要だと考えて気持ちの整理をつけた。

 

 夏の暑さも和らいできた秋の空には、夕焼けに染まったうろこ雲が薄く広がっている。電車で帰る豊女さんと駅のホームで別れて、僕と環さんは家路に向かった。

 今日の商店巡りのことや豊女さんのことを話しながらゆったりと歩く。

 昔の堅物だった頃の豊女さんについて嬉々として語る環さんは、ゲームセンターで店員さんからのお情けによって頂いた巨大ぬいぐるみを両手に抱えていた。

 

 

 




一応この話で三人のお出掛けの様子を書くことは出来たんですが、後の展開をどうするか悩んでいます。
旅行の様子はサラッと流して終盤に向けてさっさと話の本筋を進めていくべきか、ちょっと寄り道でほのぼの旅行パートを入れるべきか判断がつきません。需要がある方で書いていきたいのでアンケートにご協力いただけますか。



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七話・出立の朝

 

 

 

 早朝、朝靄の立つ中、荷物を背負った僕と環さんは両親に見送られて家を出発した。

 

 平日の朝に学生服ではなく私服に着替え、学習用具の入ったスクールバッグではなく衣服と日用品が詰まったリュックサックを持って堂々と外へ出る非日常には背徳的な興奮を覚えた。

 

 しかし背徳的とは言え、何も人道に反することはしていないと胸を張れる。何故ならこれから僕は環さんと人生を共にするための資格を得に行くからだ。即ち愛の試練である。その尊さと正当性は万人に認められて然るべきものだ。

 正直なところ仮病を使ってこそこそと学校を休むことすら歯痒い。受験受験と、それ以外の単語を忘却してしまったのかと思われる先生諸氏に面と向かって堂々と言いたいものだ。俺は愛に生きると。

 

 最寄駅にて環さんの分の切符を買い、改札をくぐる。最初の目的地は僕の学校の近くにある大山さんが住まう神社であり、そこまでは僕が普段から使っている定期券が役に立つ。

 改札を無事に通過できたことにいたく感動している環さんを連れて電車に乗り込む。まだ早い時間であるために乗客は少ない。僕と同じ学校に通う学生の姿は見えず、スーツ姿の会社員らしき人々がちらほらいるくらいだ。

 

「これ、いつも晴人が乗ってる電車?」

「そうですよ。十分ちょっとで僕の学校のそばにある駅に着きます」

「は〜。便利なものじゃなあ。あ、変な輪っかが天井からぶら下がっておるのはなんじゃろう」

「吊り革です。電車は揺れますからね。立って乗る人はあれに掴まるんですよ」

「ふうん」

「環さんの身長じゃ掴まれないから関係ないかもしれませんが」

「なんじゃと!」

 

 ムキになって「見ておれ」と環さん。背伸びをしても届かないのでジャンプして両手で吊り革に掴まり、ぶらぶらと揺れている。まるで吊り革の用を成していないが何故か彼女は得意げである。これが誉れ高き霊狐の姿であっていいのか。玉藻さんが見たら言葉を無くすに違いない。

 

 他の乗客の目もあるので環さんを引き摺り下ろして隣に座らせる。

 すると今度は座席の上で膝立ちになって窓の外の景色を見始める。電車が加速するに連れてどんどん流れていく街並みを眺めて「おお」と何やら感嘆した声をあげている。遠足に行く小学生でももう少し落ち着きがあるんじゃないか。

 僕は旦那と言うより娘を持つ父親のような気分になりつつ、通学で見慣れた風景を環さんと一緒になって眺めた。

 

 一部が住宅地として開発されたとは言え、地元の近隣はまだまだ田園地帯である。青々としていた田んぼは色づき始めており、稲穂は重たそうに頭を垂れている。

 そんな景色を車窓から眺めていると夏もとっくに終わったのだと強く感じるものだ。

 同時に秋の訪れを思う。もうすぐ神無月を迎えようとしているのだと。

 

 

 

 

 

 

 電車を降りて南口の改札から出て、通学路から逸れた方向へ。遠回りで神社を目指す。

 学校の知り合いに見つからないようにするためだ。

 

 始業まではまだ随分と時間がある早朝。帽子にマスクにサングラスと三拍子揃った変装をして、通学路も避けているので大丈夫だとは思うが不安は拭えない。

 今の僕はインフルエンザで休んでいることになっている。そんな男子生徒が学校周辺をうろつき、挙げ句の果てにどう見ても血の繋がりが無い小学生くらいの少女を連れているのだから、見つかったら最悪だ。出来るだけ人目につかないよう気配を殺して動かなければならない。

 

「いいですか環さん、あまり目立たないようにしてくださいね。息を潜めて……あ、人が来た! 建物の影に隠れましょう」

「コソコソしとった方が目立つのではないか?」

「用心するに越したことはありません。もう少しで神社に着きます。このまま裏路地を通って行きましょう」

 

 環さんの手を引いて住宅街の狭路を抜ける。こんな道を通って迷わないのかと環さんに心配がられたが、それは杞憂である。学校周辺で土地勘はあるし、今目指している神社には一度だけ足を運んだことがあった。

 

 大山さんの住む神社。名前もそのまま大山神社というその場所は、縁結びのパワースポットとして巷で有名なのだ。

 なんでもそこで御参りすれば不思議と良縁に恵まれたり、今抱いている恋が成就したりといった幸運が降ってくると噂になっている。

 

 高校一年の頃、その真偽を確かめるべく学校帰りに伊藤と行ってみたものの、神社の境内はカップルの溜まり場となっており僕たちは素早く撤退した。人目も憚らずべたべたと馴れ合う恋人たちが跋扈するその光景に目が潰れそうになったものだ。野郎二人で居るにはあまりに耐え難い空間であった。僕と伊藤は話し合い、あそこは既に恋人がいる人間が行く場所だったのだという結論を出したのだ。

 それ以来、忌避して訪れることもなかったのだが、実際に神様がいて御利益を授けているというのだから驚きだった。恋愛成就の噂というのもあながち間違いではなかったらしい。

 

 そうして僕は環さんを伴い、再び大山神社の前に立った。

 早い時間に来たおかげで他の参拝客の姿は無い。ありがたいことである。恋人たちがイチャつく様を見せつけられなくて済む。

 いや今は僕にも環さんがいるのだから気後れする必要などないのだが、やはり長年かけて形成された苦手意識というものは生半に克服できない。学校や街中でカップルを見るたびに末長い爆発を願うこの悪癖はいつになったら治るのだろうか。

 

 鳥居をくぐって境内に入っても大山さんと豊女さんの姿が見えない。

 取り敢えずは礼儀として参拝を済ませようと、僕たちが手水舎の方へ向かったところ、そこには先客がいた。言わずもがな若い男女である。

 

 なにくそ、と思ったのも束の間。

 彼らは僕のよく知る人物、伊藤と小野町の二人組だった。

 

 僕たちが近寄ると彼らもこっちに気付いて手を振る。

 

「伊藤、小野町。お前らこんな時間にどうして」

 

 そう聞くと、二人は口を揃えて僕と環さんを見送りに来たのだと言った。確かに前もって二人には今朝出発することと、僕が龍ヶ峰へ行っている間の学校関連のフォローをお願いしていたが、こんなにも早い時間に会いに来てくれるなんて思ってもみなかった。

 まだ部活の朝練すら始まらない時間だ。伊藤は眠たそうに目を擦っている。

 僕は二人からの友情を嬉しく思い「わざわざありがとう」と礼を述べた。

 

「うん、それは良いんだけどさ。稲里くんはそのサングラスとかマスクは取った方がいいんじゃないかな」

 

 小野町は何故か引き攣ったような苦笑いを浮かべている。いや、伊藤もだ。

 

「なんで。必要だろ。今の僕はインフルエンザで休んでることになってるんだからさ、見つからないように変装しなきゃ」

「あーなるほど。稲里くんの気持ちは分かるんだけど、別の問題が発生しているわけで」

「ぶっちゃけ今の晴人、不審者だよ」

 

 伊藤がそう言い、小野町は手鏡を取り出して僕に鏡面を向ける。そこにいるのは完璧な変装をした目立たない男ではなく、全身から変態性が匂い立つ不審者そのものであった。

 

「しかも環ちゃんを連れてるから、本当にヤバい絵面だよ。通報されなくて良かったね」

 

 僕は心底生きた心地がせず手を繋いだままの環さんの方を見た。「環さんは気付いていたのですか」と聞けば、誘拐ごっこをしているみたいで楽しかった、とのことである。頼むから教えて欲しかった。

 

 

 悔恨のもと真人間の状態に戻った僕は、環さんらと拝殿へ向かい賽銭箱に小銭を投げ入れた。四人揃ってぱんばんと手を合わせてお辞儀をする。本来は拝礼を受ける側である環さんだが、彼女の所作が一番綺麗だったように思う。そういった丁寧さはやはり玉藻さんに教え込まれたところによるものなのだろうか。

 

「うむ、感心」

 

 頭上から声がした。

 僕たちがお参りを済ませて顔を上げると、そこには大山さんがいた。正しくは大山之国津茂神様が、賽銭箱の上にでんと胡座をかいていた。

 ついさっき、お参りする前は居なかった。音も気配も無く唐突に現れたのだ。

 

「きゃあ!」

 

 悲鳴を上げて尻餅を打ったのは嘆かわしいことに伊藤だった。そんな彼に小野町が「大丈夫?」と慌てて起きるのを手伝っている。

 どっちが男か分かったものではないが、そんなことにツッコむ余裕は僕にも無く、声も出せずただ呆然とするばかりだった。環さんだけが何も驚くことなく恭しく礼をしている。

 

「はははっ、君たちは相変わらず元気だなあ。いやよく来たよく来た。立ち話もなんだ。まずは上がって茶でも飲んでいきなさい」

 

 大山さんはそう言って僕たちに本殿の方へ上がるよう促してくる。

 現実的に一般人が立ち入って良い場所ではない、ということは混乱している僕でも分かっていた。しかしここで神様の好意を断るのも如何なものか。

 

「駄目だってダーリン。勝手に上げて神主くんにバレたら怒られるのはその子らなんだからね?」

 

 戸惑う僕に助け舟を出してくれたのは、大山さんの後ろから姿を現した豊女さんだった。

 昨日ぶりに会う彼女は早朝であってもメイクを済ませて粧し込んでいる。それに大きめのショルダーバッグも持っているし、既に準備万端といった様子であった。

 

 しかし何よりも気になるのは豊女さんの表情だ。僕たちを眺め回してニマニマと笑っている。気付けば彼女だけでなく大山さんも同じように何か面白そうに微笑んでいた。

 

 ややあって、先程みんなで揃ってお参りをしたことを僕は思い出した。

 

 神社での参拝は神様に己の心の内を曝け出すことと同義である。霊的な力のほとんどを失っていた環さんですら無意識下の深層心理を読めるのだ。豊女さんと大山さんのご夫妻が僕達の心に何を見たのか、それは僕達本人ですら分からない。

 

「伊藤某。君は実に面白いな」

 

 大山さんはふわりと賽銭箱から降りて、特に気に入ったらしい伊藤の肩を叩く。

 

「素晴らしく阿呆な純情っぷりだ。君は見込みがある」

 

 心を読まれたのだと分かっていないようで伊藤と小野町は曖昧な返事をしている。環さんの異能を見せるために一度体験してもらったことがあるけど、まだ神や霊狐といった存在自体に慣れていないのだろう。

 

「環ちゃんと晴ぽんは覚悟完了って感じね。良いじゃん良いじゃん。その分なら龍ヶ峰にもぼちぼち着けるっしょ」

 

 豊女さんが親指を立てて言う。

 僕が先ほど願った内容はもちろん、この試練を無事に乗り越えられますように、というものだ。その根底にある感情は言わずもがな環さんへの思慕である。多少の自覚があるとは言え、そうした心理を覗かれ言及されるのはやはり恥ずかしい。いや、豊女さんの反応を見るに好意的だし胸を張るべきなのかもしれないが。

 

「ちょっと難儀しそうだけど」

 

 ぼそりと豊女さんが何か言った。あまりに小さな呟きだったので聞こえなかったのだが、環さんの狐耳が反応したのを僕は横目に見ていた。しかも心なしか表情が固くなったような……。

 そのことが気になったが、僕の疑問を遮るように豊女さんはショルダーバッグのポケットからある物を取り出してこちらに渡してきた。

 

「これから頑張る二人にお姉さんからのプレゼントね☆」

 

 手渡されたそれは真っピンクのハート型の物体であった。持ってみた感じ材質は木である。

 一瞬何のための物か分からなかったが、少し眺めて思い出した。これは絵馬だ。目に痛いほど明るいピンク色に加えてハート型などあざと過ぎて見るに堪えないが、これは大山神社で購入できるれっきとした絵馬である。

 

 振り返れば社の側には絵馬を奉納するための棚があり、隅から隅までびっしりと吊るされたハート型絵馬のピンクに染まっている。その一つ一つを見てみればカップルの名前のみならず「ずっと一緒!」だの「ぜってー幸せにする」だのと歯の浮くような甘ったるい文章が必ずと言っていいほど書かれている。

 これこそ大山神社が縁結びの名所として知られる由縁の最たるものである。

 

 思えば懐かしい。

 僕と伊藤が調査と称して訪れた時、今と同じピンク一色の壁を目の当たりにして、その悍ましさに耐えられず僕たちは逃げ出したのだ。こんな物に自分達の名前を書いて、さらには赤裸々な愛の文まで熱く綴り人前に堂々と飾るなど正気の沙汰とは思えなかった。

 異国に彷徨い込んでしまったのではないかと錯覚するほどのカルチャーショックを受けた僕と伊藤は近くのレンタルビデオ屋に逃げ込み日本人として本来あるべき古き良き恋愛情緒を探し求め、借りてきたお気に入りの純愛映画を片っ端から視聴したものだ。

 そして後日、視界を埋め尽くすほどのハート型の絵馬については僕たちの見間違いだったという結論を出すことにより事なきを得たのである。あんなものが存在して良いはずがない。

 

 しかし今、心の中で存在を否定したはずの呪物が僕の手にある。見れば伊藤も大山さんから同じく絵馬を渡されていた。

 

 書いて良いものか僕は迷った。

 確かに僕は今や環さんというお相手を得ているのだから桃色絵馬に慕情を書き殴って衆目の前に晒す権利がある。

 

 だが本当に良いのか。体面上リア充という名の特権階級になったからと言って、俗物的な風潮に身を任せてありきたりな行いをただ焼き増しすることは果たして正しいことなのか。

 

 否、断じて否。

 これまで人一倍純愛に焦がれながらも長き冬を耐え忍んだのは何故であるか。世に蔓延る有象無象に迎合するためではなかったはずだ。理想的な出会いを得たのならば理想的な付き合い方をしなければならない。そして僕が抱き続けてきた理想とは昭和や大正の浪漫を彷彿とさせる奥ゆかしい形であって、このようにお膳立てされたあからさまな行為ではないのだ。

 ちなみに、まかり間違ってもカップル的な行為に及ぶのが恥ずかしいから否定するわけではない。僕の信念の問題である。そこを間違えてもらっては困る。

 

 なあ、そうだろう伊藤。僕たち硬派だよな。

 

 葛藤の末に己が信念を見つめ直した僕は賛同を求めて伊藤の方を見た。同志たる彼ならば言葉にせずとも必ずや僕の意思を汲み取って頷いてくれるはず。

 

 しかしいつの間にか、僕の隣いたはずの伊藤と小野町が居なくなっていた。

 探して辺りを見回せば、既に自分達の名前を書き込んだ絵馬を吊るして奉納している二人がいた。ノリノリな小野町に引っ張られて、伊藤も赤ら顔で満更でもない様子だ。あの裏切り者が。

 

「晴人、これで良いかの」

 

 気付けば僕の手にあった絵馬を環さんが持っていた。もう名前を書き込んだらしい。達筆な字で稲里晴人と稲里環の名前、そして『一生を共に』という簡素ながら念の篭った一文。

 なんか恋仲っぽい!と普段の僕なら気恥ずかしさで一杯になっていただろうが、今そんなものを感じる余裕は無かった。

 

 一生という言葉に僕の心は波打った。

 僕と環さん、どちらの一生なのか。そんな考えが瞬時に頭の中を支配する。連想して思い出すのは玉藻さんのお言葉だ。

 

『百年ですか、二百年ですか。一体、どれほどの時を環と過ごすおつもりで?』

 

 寿命差。

 本来、人間同士の付き合いでならほとんど考慮に入れることのない要素である。それが僕と環さんの間には何よりも大きな問題として存在している。

 

 この期に及んでそんなことで悩む自分に腹が立った。

 あの日、夕暮れの廃神社で、寿命差など承知の上で環さんに思いの丈を伝えたのではなかったのか。既に固めていた覚悟が揺らぐようなことなどあって良いのか。良いはずがない。純愛主義者として許されざる不義理だ。

 

 しかし僕がどう思うと、この身の寿命は百年にも満たない。どうしたって霊狐の環さんは人間とは違うし、僕たちは同じように歳を取ることすら出来ないのである。時の流れの中で取り残されていく環さんの気持ちは如何ばかりかと考えると胸が締め付けられるような思いだった。

 

「晴人?」

 

 声がしてハッと気が付けば、環さんが心配そうに僕を見つめていた。急に押し黙ったから不安にさせてしまったのだろう。

 何をしているのだ、僕は。将来を憂うよりも先に、今ここにいる環さんをこそ大切にするべきなのに。

 

「ああ、すみませんボーッとして。やっぱり環さんは字が上手いですね」

「そうじゃろうとも。よし、気に入ったのならこれを奉納してくるぞ」

 

 僕が努めて普段の調子で誉めそやすと、環さんもまたいつも通り気を良くしたようで絵馬を抱えて小走りで伊藤と小野町の側へと駆けて行った。

 何故か追いかける気にならず彼女の小さな背中を見つめていると、後ろから豊女さんにポンと肩を叩かれた。

 

「なーに複雑そうな顔してんの。言っとくけどあの絵馬の効果はけっこう凄いよ。めっちゃ祈祷込めてるかんね」

「込めてるって、豊女さんが?」

「そ、アタシー」

 

 にかっと曇りのない笑顔を向けられる。励まされているのだろうか。

 一見奔放そうなギャルに見えて豊女さんは物事を深く考えているのだろう。もともとはそういう霊狐だと環さんが言っていたし、昨日出掛けた時にほんの少し豊女さんが見せた大人びた雰囲気からもそれは察せられる。

 

「前向きに行こ。ね?」

 

 心が揺らいだのを知られたことがむず痒くて、僕はハッキリとした返事が出来ずまごついた。

 

 そんなことをしている内に環さんたちがこちらへ戻ってくる。

 小野町と恋人らしいことが出来てよほど嬉しいのか、伊藤は赤ら顔をでにへらにへらと実に不愉快な笑みを浮かべている。「いやあ春を感じるなあ。暑いなあ」などと意味不明なことを宣う。今は秋の中頃だ。僕にも環さんというお相手がいなければ妬み嫉みの勢いが余って絶交に及んでいたかもしれない。

 

「じゃあやることやったし、ぼちぼち出発しようか」

 

 荷物を担ぎ直した豊女さんに言われ、僕と環さんが背筋を正す。伊藤と小野町も口々に「頑張って」「気をつけて」と温かい言葉を向けてくれる。

 

「晴人、何かあったら電話しろよ。よ、妖怪と戦うとかは無理かもだけど、助けに行くから」

「いやお前は勉強頑張れ。小野町に楽をさせんと」

 

 僕の冷徹なツッコミに、伊藤は大変苦い顔をしたがなんとか頷いた。

 まあ僕も人のことは言えないが、今は環さんの件が最優先である。旅先でも少しくらいは勉強しろと参考書などを親に持たされているが、断腸の思いで目を瞑ることとする。

 

 互いの健闘を祈る僕たちの傍らで、豊女さんと大山さんも別れの挨拶を交わしている。気付けば豊女さんはまたしても人目も憚らず大山さんに抱きついており、甘えた声で「すぐ帰るからねダーリン」などと言っている。

 

 あまりに犯罪的な光景に思わず目を背けたところ、僕の横では環さんが心ここに在らずといった様子で立ち尽くしていた。

 明らかにショックを受けており、目は死んでいる。気持ちは分かる。姉が突然典型的なギャルになっておじさんと結婚しイチャついていたら、僕も環さんと同じように茫然自失となるだろう。先日も目にした光景ではあるが慣れることはなかった。

 

 こうして何とも締まらない雰囲気の中、どこにあるとも知れない神の山を目指す僕たちの旅が始まったのであった。

 

 

 

 

 

 

 豊女さんを伴って駅に戻った。これから長い電車の旅になるからと、環さんの分の電子マネーカードを買うことになった。

 環さんは改札に切符を通して穴を開ける一連の流れが好きだったらしく乗り気ではなかったが、貴女の専用カードですよと言って渡したら感嘆して喜んでいた。単純である。

 

 そうやってカードを発行してもらっている間に電車が停まったらしく、たくさんの人がぞろぞろと改札を抜けて来た。その中に僕の学校の制服を着た学生たちがけっこうな数いる。時計を見ればもう運動部の朝練が始まる時間になっていた。

 慌てて帽子マスクサングラスの三点セットを身に付け、駅構内の隅で小さくなって気配を殺す。そんな僕に豊女さんは「うわテラ不審者」と愉快そうに笑った。

 

「ほんと晴ぽんって面白いよね。もしかして神社に来る時もその変装してたん?」

「ちょっと、今は話しかけないでください。豊女さん金髪で目立つんだから、一緒にいると僕まで注目されてしまいます」

「アタシ関係なく今の晴ぽん目立ってると思うけど。むしろ一人でいた方がヤバくね」

「友達にも言われたんですけどそんなに怪しいですか、この格好」

「犯罪的だよ」

 

 忌憚のない率直な豊女さんの指摘を受けて消沈した僕は、本当に知り合いに見つかってしまう前にさっさと電車に乗ってしまうことにした。

 

 環さんのカードにお金を入れる。二万円ほどを気軽にぽんと。

 そんな大金を僕が持ち合わせているわけがない。豊女さんが出してくれたのだ。ついでと言って僕にも二万円を手渡し、自分のカードにも同額をチャージする。

 恐るべき財力に僕は慄いた。ギャル、大金、と続いてあまりよろしくない単語を連想しかけたが、豊女さん曰く「おかんから貰った」とのことだった。確かに思い出してみれば玉藻さんは路銀をくれると言っていた。

 

 まさか昔話よろしく、葉っぱで出来た狐流の偽札ではあるまいかと不安になったが、精緻に印刷された福沢諭吉先生が「本物である」と物語っていた。僕は恭しくそれを電子マネーに変えた。

 

 しかし初っ端から交通費にここまで使っても良いものだろうかと思い豊女さんに聞いたところ、彼女は不敵に笑って懐から絹の包みを取り出した。包みを解くと茶封筒が入っており、厚く膨れたそこには僕が見たことのない札束が入っていた。全て万札である。

 

「控えめに言っておかんの金銭感覚ぶっ壊れてるからね。まあアタシも昔はあの人のこと言えなかったけど。これでいくらでも豪遊できるねー」

 

 やはり豊女さんは遊ぶ気満々の旅行気分らしい。

 まあこれだけの資金を見せられては僕も流石に不安が和らぎ、少しくらいハメを外してしまっても良いかという気になってくる。持っているだけで心に余裕が生まれる。金の力は偉大である。

 

 環さんも大金の魔力に吸い寄せられるように、豊女さんに見せてほしいとせがんで札束をペラペラと捲って数える。

 ほとんど触れることこのない万札を手にして興奮気味である。現代でも百円が大金だと勘違いしていたはずの環さんは、一年を経てすっかり価値観が上書きされていた。

 

「こ、これさえあれば、ガチャを何回引けるか……」

 

 上書きされ過ぎていた。

 

 僕は環さんの手から金を奪って豊女さんに返した。

 「本当にゲームに注ぎ込んだりせんわ」と環さんから抗議を受けたが、奪った際に「ああっ」と残念そうな声を上げた彼女への信頼は皆無である。

 いや、豪遊すると言って憚らない豊女さんに預けてもあまり変わらない気はするが。

 

 

 

 豊女さんの後に続いて改札を通り一番線のホームへ。

 やってきた鈍行の電車に乗り込む。向かう先は僕の家から遠ざかる方面となる。

 ほとんど利用したことのない路線の電車に乗っている事実に、これから旅に出るのだという実感が高まってくる。

 

 僕は興奮気味に、どこを目指すのかと豊女さんに尋ねた。

 すると彼女はまるで行き先が決まっていなかったように考える素振りをしてから実に曖昧な返事をした。

 

「んー。まあ取り敢えずそれっぽい山かな。富士山とか? その辺」

 

 僕の不安がぶり返したのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 



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幕間・伊藤の所感

 

 

 

 俺の友人に稲里晴人という男がいる。

 

 高校に入学して間もなく、彼は他の生徒と何かが違うぞと、傍目から見ていた俺は思った。

 

 まず目がギラギラしている。

 新入生というのは中学でも高校でもキラキラしているはずだけれど、彼の場合は明らかにギラギラしていた。なんとなーく青春を謳歌しようと浮かれている同級生たちとは一線を画した気迫が彼の瞳には宿っていたのだ。

 明確な目的を持ち、それに向けて邁進することに余念のない者の目だった。そのただならない迫力に俺は当初、晴人という男を恐れていた。恋愛目的で筋肉を鍛え続けている俺のような人間が近付きでもしたら「喝!」と叫ばれそうな気さえして、クラスで孤立しているぼっち同士でありながら話しかけることに二の足を踏んでいたのである。

 

 しかしいざ話をしてみれば、彼は同好の志であった。俺と同じで清く美しい青春を求めていたのだ。

 周囲をなで斬りにしそうな鋭い双眸はその実、僅かな好機も見逃さぬためのものであり、授業中であろうと全身から尋常でない気迫が迸っているのは常に女子から告白された時のシミュレーションを脳内で行なっているからだ。

 まさしく行住坐臥。俺が晴人を尊敬するのに時間はかからなかった。

 

 ブレーキが壊れた機関車のように熱を上げて理想へと突っ走る彼に変化があったのは、高校二年の夏休みが明けてからだった。

 蓋を開けてみれば俺の預かり知らぬところで彼は漫画じみた青春活劇を繰り広げていたらしく、更には失恋したなどとぬかす。俺は同情と嫉妬の奔流に飲まれ、相談を受けたその日の晩は寝られずオーバーワーク気味の筋トレで発散する他なかった。

 

 紆余曲折あり彼は彼自身で問題を解決したらしく、俺の心配羨望その他諸々の感情をよそに清々しい顔で登校するようになった。どうやら意中の彼女との関係を拗らせずに済んだのだろうということは想像に難くなかったが、詳細を聞いてもはぐらかされる一方で俺の興味は肥大の一途を辿っていた。

 

 しかし俺にも転機が訪れ、何故かクラスの中心人物である小野町さんとお付き合いすることとなった。彼女からのラブレターが送られて来た時は鍛え上げた心臓が止まるかとすら思ったものだ。

 

 お釈迦様が垂らした蜘蛛の糸が目の前にある。

 俺は恐怖した。

 こんな上手い話があるものかと思った。

 

 想定外の事態に冷静な思考は吹き飛んでしまい、俺は晴人に相談するという暴挙に出た。

 小野町さんといえば晴人が中学生の頃に告白して玉砕した相手でもあり、唯一の親友とは言えまだその頃の傷を抱えているであろう晴人に相談するなど本来してはならない。しかし混乱の渦中にあった俺は数少ない連絡先から彼に電話を繋げた。

 

 事情を話した俺に対して晴人は何故かとても落ち着いていて、そして彼の返答は実に簡潔だった。

 俺のこの腕で小野町さんを抱きしめてやれと言う。なんてことを宣うんだ俺の盟友は。そんなことをしたら小野町さんが圧死してしまう。

 電話を切られたので俺の抗議は虚しくも空振り、その後に何度かけ直しても再度繋がることはなかった。

 

 その後、今度は学校で直接小野町さんが話しかけてきて、筋肉フェチであることを告げられ俺が混乱している間にお付き合いすることとなっていた。

 びっくりし過ぎたせいで告白の際に俺自身がどんな受け答えをしたかは覚えていない。気付いたら恋人が出来ていたわけで、実感を得るまでに一ヶ月ほどの時を要した。棚から牡丹餅などという言葉では到底収まり切らない一大事であった。

 

 しかし今になって考えると、小野町さんからの告白の件には裏で晴人が一枚噛んでいたのではないかと思う。なにせ彼はあまりに冷静だったし、電話でのやり取りでは俺と小野町さんの仲を明らかに後押ししていた。

 小野町さんと恋仲になった当初、友人のかつての想い人を盗ってしまったのではと自責の念に駆られていた俺だが、悩み抜いた末に「俺たち付き合うことになりました」と言ったところ晴人から返ってきたのは「そりゃ良かった」とあまりに淡白な返事だった。淡白とは言っても別に興味関心が無いわけではなく、純粋に俺と小野町さんのことを祝福していることが分かった。

 

 この時点でいくつか察しがついたことがある。

 まず晴人は小野町さんへの未練を完全に断ち切ったということ。しかもその上でどうやってか小野町さんと友達になり、何も気負わず会話できる関係になっていること。

 確認こそしていないが、やはり彼が小野町さんに協力して俺との仲を取り持ったのだろうということも分かった。そうでなくてはあの落ち着きぶりに説明がつかない。

 

 さらに驚かされたのはしばらくの月日が経ってから知った事実で、どうやら晴人は件の女性と一緒に実家で暮らしいているらしいという話だった。

 晴人は何故か執拗に隠したがっていたが、意外なほど好奇心旺盛な小野町さんの追及により明らかになった。

 

 その頃になると俺はもうすっかり小野町さんに惚れ込んでいて、晴人のお相手が例えクレオパトラや楊貴妃に迫る美女だったとしても妬まない自信があったが、同棲ときては話が別である。

 けしからん。実にけしからん。

 しかも親公認での実家住まいとか、もうなんか色々とヤバい。

 

 そうと分かってからは俺も小野町さんに便乗して晴人を問い詰めたが、彼の口は固く、件の女性の詳細は聞けなかった。俺たちは興味を募らせるばかりで、一切が謎である女性のイメージ像は二転三転した。日本人から外国人、妖艶から純朴、おっとり系からサバサバ系、果ては男の娘からニューハーフへと幾通りにも変化した。

 

 悶々とする俺たちが答え合わせの機会に与ったのは高校三年生の夏休みが明けた後のことだった。

 晴人は珍しく真剣な顔をして「彼女と会ってほしい」と言う。もちろん俺と小野町さんは喜び勇んで頷いた。

 そして放課後、晴人の家へ行き、長い間ヴェールに包まれていた女性の正体を目の当たりにした時の衝撃はきっと一生忘れられないだろう。

 

 どうやら僕の親友はロリコンらしかった。

 

 

 

 

 晴人と環さん、そして環さんの姉である豊女さんの三人はあの世に似た場所にあるらしい山へ向けて大山神社を出発した。

 彼らを見送って早々、神社に祀られている大山のなんちゃらさんという神様(ただのおじさんにしか見えない)は二度寝をすると言って社の奥へと引っ込んでしまったので、俺と小野町さんは静かな境内に取り残された。

 時刻はまだまだ早朝で、校門が開くにもしばらく待たなければいけない。俺と小野町さんは木陰のベンチに隣り合って座り、晴人たちのことをポツポツと話した。

 

「稲里くんたち、無事に帰って来てくれると良いね」

「うん。さっきお参りした時願っておいた」

「私も。でも願掛けするまでもなく大丈夫だと思うけどね。環ちゃんのお姉さんが付いて行っているわけだし」

 

 環さんのお姉さん。

 うちの高校全体を探しても稀なほど派手なギャルのお姉さんがウェイウェイ言っている姿を思い出す。

 

「俺はあの人だから少し心配なところもあるけど……」

「それは、うん……そうかも」

 

 乾いた苦笑を浮かべる小野町さん。

 

「稲里くんって凄いよね。一途で行動力があって、受験勉強よりもずっと大事なものを見つけていて。たまに同い年じゃないように感じる時もあるよ」

「年上? それとも年下?」

「うーん、えっと、どっちも?」

 

 つまり大人びて見える時もあれば馬鹿に見える時もあると。

 俺も同感である。

 

 ただし常に尊敬してはいる。青春への情熱を同じくしていると言っても、晴人の行動力は俺とは比べ物にならない。

 学年のマドンナを呼び出して目の前でラブレターを朗読するなんて普通じゃない。晴人が苦々しくも語ってくれたそのエピソードを聞いた時から、俺は彼に深い敬意を持つようになった。

 今も、彼は環さんを一途に想い、何ら迷うことなく課された試練に挑もうとしているのだから感銘を受けるばかりだ。ロリコンという事実を差し引いても一人の男として敬意を持てる。

 

 それに対して俺はどうだ。

 やることといえば筋トレばかり。その道自体に迷いや後悔は無いが、他に誇れることも無い。小野町さんと付き合えたのも彼女に運良く見初められたことと晴人の暗躍があったからこそで、俺はひたすらに受け身だった。しかも勉強会では小野町さんに付きっきりで教えてもらい、彼女の勉強の邪魔になる始末。

 情けない! あまりにも!

 しかも最近は食べ過ぎてしまうことが多々あり、唯一の自信の源である筋肉さえも情けない丸みを持ちつつある。もちろんストレス故の暴食であり、小野町さんの言う増量期などではない。

 

 勇ましく出立した晴人の背中を思い浮かべながら俺は考える。どうすれば彼のように思い切りのある人生を歩めるのだろうかと。

 このままではいつか小野町さんの心も離れてしまう気がして不安でならない。

 

 隣に座る彼女の横顔をちらりと盗み見れば、小野町さんは「どうしたの?」と小首を傾げて無垢な瞳で俺を見つめ返してくる。

 …………別れたくねえなあ。

 

 憂慮に耽りつつも静かな朝の時間を二人で共有していることにほんのりとした幸せを感じていたところ、小野町さんが突然「あっ」と大きな声を上げた。

 

「私、体操服忘れちゃったみたい」

「えっ、えっ、どうする? あ、俺の使う?」

 

 口走った後で、俺は何を言っているんだと恥ずかしくなる。いくら彼氏彼女の仲とは言え、体操服の貸し借りは無いだろう。しかも俺のサイズはXXL。それを小柄な小野町さんに着せるなど正気の沙汰ではない。

 

 小野町さんは苦笑しながら俺の阿呆な申し出をやんわりと断り「家まで取りに帰るね」と立ち上がった。ここから小野町さんの家までは電車を使って往復しなければならない。まだ時間に余裕はあるが、一度学校の側まで来ておいてサラリと忘れ物を取りに帰る決断が出来ることには驚いた。

 

「じゃあ俺もついて行こうか」

「ううん大丈夫。私は定期券持ってるけど、伊藤くんは電車賃払わなきゃいけないでしょ。それに私のポカに付き合わせるのも悪いから。校門が開く時間になったら、私のことは待たずに先に教室行っててね」

 

 言うが早いか、小野町さんは手を振って駆け足気味に神社から立ち去ってしまった。一人残された俺は息を吐く。

 

 あの小ざっぱりしたところが好きだ。

 変にベタつかず、それはそれこれはこれ、と割り切れる健康的な彼女の心根が好きだ。

 

 こういったふとした瞬間に、小野町さんは精神的に自立しているのだと実感させられる。常に誰かと居ないと不安になるような軟弱さが無い。それは俺と晴人が願ってやまなかった清い恋愛に必要なものだし、小野町さんがそうであってくれるのは有難いことだ。

 

 翻って自分の軟弱さが嫌になる。

 受験という佳境に立たされてようやく将来について考え始めたような俺の如き未熟者に彼女の隣に立つ資格はあるのか。

 

 唯一の取り柄はこの筋肉だが、それもここ最近は不摂生のせいで脂肪の比率が上がってきている。このままでは小野町さんに嫌われる可能性が浮上し、それらすなわち死を意味する。

 早急に鍛えなければ。いや、しかし勉強も頑張らなければ。

 

 よしんばこの窮地を乗り切ったとして今後が安泰かと言われれば依然として不安は残る。小野町さんが俺を好いてくれる要因は筋肉にこそあるが、仮に俺より立派な筋肉を持つ男が現れた時、果たして俺は愛してもらい続けることが出来るのか。

 そんなことを思うにつけ不安になり夜も眠れない。すると夜中にお腹が空いて仕方なくカップ麺を食べてしまうのである。なんとも度し難い悪循環だ。

 

 

 しばらく頭を抱えて悶々としていた俺は、ふと今いる場所が神社であったことを思い出し、縋るように賽銭箱へと駆け寄った。

 これまでの人生、神仏よりも筋肉を信奉してきたわけだが、今は本当の神様がおわすことを知っている。人智では如何ともし難いこの難局に神様の助けを借りずなんとする。

 

 俺は財布からなけなしの千円札を抜き取って賽銭箱の中に突っ込んだ。晴人から神社での参拝には御縁との語呂合わせで五円玉を使うのがメジャーだと聞いているが、高額であるのに越したことはないはずである。どうか200倍のご利益を授けてください。

 

 明晰な頭脳、衰えぬ体、高学歴、高収入、家内安全、子宝エトセトラ。

 

 一心不乱に欲望のまま願い事をする。ただひたすらに小野町さんとの輝かしい未来を手にするために。

 

 そんな俺の一途な思いが天に通じたかのように拝殿の奥へと続く襖が厳かに開き、後光のさす神様が降臨なされた。

 

「君は本当に賑やかだなあ」

 

 あくびを噛みころしながら大山さんが言う。

 俺の願いに応えて現れてくれた大山さんがたいへん神々しく思えたのも一瞬のことで、改めて何回か瞬きをして見れば、やはり何処にでもいそうなおじさんにしか見えなかった。

 襖が厳かに開いた気がしたのは彼の動作が緩慢だったからだし、後光がさして見えたのは単に室内のLED電球が光っているだけのことだった。

 おそらく二度寝をしていた最中に俺の心の声を聞き届け、起きて来てくれたのだろう。そのことには申し訳なさと感謝の念を抱くけれど、一度目にやった時のようにもっと神様らしい登場をしてもらえなかっただろうかと思う。

 

「ずいぶん色々と願っていたが、その実君の望みは一つのはずだ。そうだろう?」

 

 言われてドキリとする。彼ら人外の存在は、やはり人間の心を奥深くまで読むことが出来るんだ。

 

「伊藤氏。君の直近の悩みはその腹回りなんかに蓄えられている脂肪にあるわけだ」

「は、はい。その通りです。彼女に嫌われたらと思うと不安で不安で……」

 

 俺の涙ながらの訴えに、大山さんは全てお見通しと言いたげに「うむ」と頷いた。

 

「何故、君は筋肉を求める」

「えっ」

 

 唐突に問われて困惑する。困惑したが、それも一瞬のことで俺は毅然と答えることにした。

 筋肉主義は長い自己問答の末に導き出した、数少ない俺の誇るべき信条である。その誇りにかけてどんな問いかけにも自信を持って答えられなくてはいけない。

 

「モテモテになるためです」

「では何故、筋肉があればモテモテになれる?」

「包容力があるからです。包容力とは雄大な力強さのこと。そして力強さの象徴とは筋肉です。俺は誰よりも強く大きな筋肉をつけることで包容力の化身となり、モテモテになることを目指してきました」

 

 俺の力説に大山さんは再び頷いた。

 

「ならば君、何の問題もないじゃないか」

「え、ど、どういうことですか?」

 

 俺の筋肉恋愛論について納得してもらえた様子だったのに、どうして問題ないという結論になったのか分からない。肥え太りつつある俺のこの体を見れば、今まさにマッスルクライシスに陥っていることは一目瞭然なはずなのに。

 

「肥えることは悪ではない」

 

 俺の疑問に対し、大山さんはキッパリと言い放った。

 

「何故、脂肪には包容力が無いと決めつけるのかね。不摂生? 馬鹿を言ってはいけない。脂肪は贅肉とも言うだろう。贅とは本来富める者にしか享受できぬもの。そして富めることとは包容力そのものではないか。つまり贅肉とは富の象徴なのだよ」

 

 大山さんの言葉を受けて俺は自分の腹の中をつまんだ。

 今までは憎き敵だとすら思っていた脂肪という存在。それが筋肉に並び立つ包容力の象徴だった……?

 

「美という漢字があるだろう。あれは「羊」と「大」の二文字に分けることが出来る。大きく肥えた羊こそが素晴らしいと思われていたのだ。ならば太ることに忌避感を持つ必要があるものか。不安がることはない。むしろこれは好機である。脂肪という、今までの君にはなかったもう一つの包容力を身につけるまたとない機会だ。力と富の象徴。その両方を手にするがよろしい」

 

 大山さんは腹鼓(はらづつみ)を打った。ポンっと景気の良い音が鳴る。昔話の狸や和尚でもこんなに立派な音は出ないだろう。なるほど、この御方の貫禄はギャル霊狐の豊女さんを妻に迎えるに足るものだと納得せざるをえない。

 

 俺はいつの間にか跪いていた。既に完成したと思っていた理論の地平線に新たな夜明けを見た。

 胸の内からは止めどなく感動が溢れ出し、自然と涙がこぼれてくる。信仰とはこの気持ちを指すのだと理解した。

 

「太っても……良いんですか……?」

 

 震え声を絞り出す俺に、大山さんはにっこりと笑って頷いた。

 

「良いとも」

 

 もう迷うことはない。

 今日、俺は紛れもない天啓を得たのだから。

 

「汝、肥えたまえよ」

 

 



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八話・温泉旅行

 

 

 

 長閑な景色が車窓から見える。

 連なる山々。その間を縫うように走る深い渓谷。谷の底では細やかな川が流れている。空を眺めていると時折り鷹のような大きい鳥が飛んでいるのが見える。

 もはや長閑という表現を通り越して自然そのものと言える景色がここ暫くずっと続いている。

 

 今いる場所は、岐阜は飛騨の山間である。そこを走る鈍行のワンマン電車に揺られて僕たちはゆったりと移動していた。

 

 出発時、豊女さんは富士山へ行くと仰っていた。それが何故か僕たちの地元から一直線で向かうことはなく、中部地方ど真ん中の山間でくねくねと遠回りしているのである。今はもう正午を過ぎたお昼時。とてもではないが今日中に着く算段とは思えない。

 

「豊女さん。僕たち富士山を目指してるんですよね?」

「うん、そうそう。一応ね」

 

 僕の問いかけに豊女さんはこちらを見もせず答えた。

 彼女の視線は手元に落とされている。手には複数枚のトランプ。真剣に悩み吟味して、結局のところパスを宣言した。場が流れる。

 その瞬間、目を光らせた環さんが「儂のターン!」と言って即座に動いた。

 

「革命じゃ! 今度こそ大貧民の座を返上してくれようぞ豊姉様!」

「うわあここで来たかー。マジヤバいんだけどこれ」

「うふふ。なんぞ強い手を秘めていたようじゃが足元を掬われたかの。豊姉様、それこそ俗に言うエリクサー症候群よ」

「エリ……?」

「あー豊姉様は割とサブカル方面には興味が薄いんじゃな」

 

 人の少ない車内で、僕の向かい側に座る環さんと豊女さんの掛け合いが繰り広げられている。二人がけの席を向かい合わせにして座っており、空いている僕の隣の席はトランプの山札などを置くために利用されていた。

 

 和気藹々と遊びに興じる姉妹とは対照的に僕の不安は募るばかりだった。

 出発してからこちら、駄弁ったり持ってきた玩具で遊んだりしてばかりいる。大きなターミナル駅から特急や新幹線に乗って富士山へ向かうのかと思っていたのに、現実は鈍行に継ぐ鈍行。しかもわざわざ迂回するように山間部を通る道程を選んでいるのだからいよいよ何処を目的地として移動しているのか、僕は分からなくなり始めていた。

 

「龍ヶ峰が富士山の近くにあるんじゃないんですか? その、どうしてこんな遠回りを?」

 

 案内役を務めてくれている豊女さんに失礼にならないよう心掛けながらも質問すると、豊女さんはトランプの手札を伏せて僕の方を見た。

 

「安心しなって晴ぽん。君は試練に備えてどっしり構えていればいーの」

「で、でも環さんの外出できるお札には期限があるんでしょう。それなのにこんなにのんびり遠回りして良いのかなって……」

「まだ初日だよ? 心配性さんめ。まあ大船に乗ったつもりでアタシにどーんと任せといてよ。これでもしっかりとナビする気だし」

 

 それに、と豊女さんが言葉を続ける。

 

「全然遠回りしてるわけじゃないから。つーか最短ルート通ってっからさ」

 

 いやでも富士山。

 僕が再三の疑問を口にしようとするも、それより先に豊女さんに謝られた。

 

「あ、そか。アタシが最初に富士山目指すとか言ったから混乱させちゃったんだよね。ごめんごめん。あれは取り敢えずの分かりやすい目標、というか目印みたいな感じで言ったんだ。別に富士山に行けば龍ヶ峰に着けるってわけじゃないの。むしろ晴ぽんの言うこの遠回りが肝心なんだよね」

 

 いまいち理解できず首を傾げる僕に対して豊女さんは本腰を入れて説明してくれる気になったようで、一旦トランプゲームの中止を告げた。勝利間近だったらしい環さんは残念そうにしていたが、仕方無しと静観してくれている。

 

「いい? 龍ヶ峰っていうのはね、現世には存在しないの。もっと言えばこの世の何処にも正式な入口は存在しない。アタシが富士山の名前を出したのは、日本一高い霊峰が龍ヶ峰との位相に合いやすいからってだけ。古い話では比叡山の修行僧が知らない内に入ったり、何の変哲もない田舎道から人間が迷い込んだりしたこともあるんだって。だから厳密には現世の場所なんて関係なくて、入りやすい環境の中で移動し続けることが龍ヶ峰に着く可能性を高めるってわけ」

「可能性って……つまり結局は運次第ってことなんですか?」

 

 また別の不安が鎌首をもたげる。出発前は山を登る心配をしていたが、そもそも目的の山に着けるかどうかがまず怪しい。

 

「そ、運だよ。運がなければ一生かけても辿り着けない。けどその運を手繰り寄せることは出来る」

 

 豊女さんは確固とした口調でそう告げた。

 

「龍ヶ峰に招かれる人間には共通して迷いがあるの。人生の大きな岐路に立たされて行くべき道を見失いかけた魂。それが入山するのにめっちゃ大事な条件なのよ」

「招かれるって、まるで神隠しみたいですね」

「神隠しそのものじゃよ。故に、迷い込んで帰れた人間はごく僅かと聞く」

 

 横合いから環さんが囁くように言った。その発言に僕の背中がぞわりと粟立つ。今更になって未知の場所へと赴く恐怖がぶり返し、試練という言葉の重みを鮮明に感じた。

 僕が緊張に身を縮こまらせると、豊女さんはそれをほぐすように僕の肩をぽんぼんと叩いた。

 

「大丈夫だって晴ぽん。環ちゃんも怖がらせるようなこと言わないの。ね、安心してよ二人とも。アタシが付いてっからさ。案内人としては本来過干渉しちゃいけないんだろうけど、個人的には応援したい派だしね。出来るだけサポートするよ」

 

 頼もしくガッツポーズをして見せてから「話を戻すけど」と豊女さん。

 

「普通電車で山の中を走ってるのは、トンネルを多く潜るためなんだよね。ほら都市伝説で聞いたことない? トンネルを抜けたら変な世界に行っちゃったーみたいなの」

 

 あるある。

 僕と環さんが同時に頷く。夏の間、納涼と称し二人してパソコンに張り付き怪談を漁ったことはまだ記憶に新しい。

 

「あれって結構マジでさ。今回はそれを利用することにしたわけよ。あとはアタシの占術で補助すれば数日以内には入山できるっしょって見立て。場所的にはやっぱり富士山あたりになるかな」

 

 ドヤ顔でピースする豊女さんは格好だけで言えば派手なだけの女子学生にしか見えない。しかしトランプで遊んでいる最中でも時折り懐から木でできた御札や羅針盤のような小道具を取り出して、真剣な顔で見つめていることがあった。彼女は確かに案内人としての勤めを果たしてくれているらしい。

 

 現地へ着けるかどうかの不安は杞憂であったのだと納得できた。その反面で、やはり生きて帰れるのかという、より切実な不安が鎌首をもたげてくる。環さんや豊女さんと一緒に登るのだから何もないと信じたいが。

 

 そうこう話している内に田舎にしてはそこそこ大きめの駅に停まる。ちょうどお昼時なので僕たちは売店で飯を調達することにした。

 

「うわ見てよこれ。和牛幕内弁当3000円だってさ。鬼高くてウケるんだけど。アタシこれにしよっかなー」

「えー儂もそれにしたかったのに」

「別に環ちゃんも同じのにすれば良いじゃん。あ、それか和牛メンチカツ弁当なんてのもあるよ? 環ちゃん好きっしょメンチカツ」

「メンチカツは松葉屋が最強じゃから」

 

 僕の不安を他所に、狐の姉妹は駅弁を巡って楽しそうに話している。完全に電車旅を満喫しているようにしか見えないが、やはりその実は僕などより遥かに長い年月を生きる霊狐なのだ。彼女たちが大丈夫だと言う以上は素直に任せるしかない。

 今は言われた通りどっしり構えるしかないと覚悟を固め直し、僕も駅弁論議の輪の中に加わったのだった。

 

 

 

 

「じゃーん! ここが今日泊まる宿でーす!」

 

 豊女さんの溌剌とした声。夕方になって駅から降りた彼女に導かれるまま着いたのは龍ヶ峰ではなく、いかにも老舗といった門構えの厳かな温泉旅館であった。

 

「ふふん。この前の会談で試練の案内役に抜擢されてから、ソッコーで予約しといたんだよね」

 

 昼時に固め直した覚悟が揺らく。ダメだこのギャル、やっぱり旅行がメインになっている。

 

 しかしそうは思いつつも大きくて美しい旅館を前にしては流石に興奮を抑えることができない。僕のような凡百の人生で一度でも泊まることがあるだろうかと思われる高級感が全体から漂っており、否が応でも贅沢にもてなされる予感をひしひしと感じる。まあまだ旅も初日なわけだし、今日のところはゆっくりして旅の疲れを取ることに専心すべきだろう。

 

 ロビーの受付で豊女さんがチェックインを済ませる。僕たち三人の関係性を測りかねてか仲居さんに一瞬だけ怪訝そうな顔をされたが、特に何か聞かれることはなくて安心した。

 

「ねえ環さん。もし一般の人に僕たちの関係を聞かれたらどういう風に答えるようにしましょうか」

「え? 普通に夫婦で良くない?」

「駄目に決まっているでしょう。死にますよ僕が。社会的に」

 

 部屋に案内されながらコソコソとそんなことを話す。自分の意見を否定された環さんがむくれているので頭を撫でて機嫌を治してもらう。過度なスキンシップは駄目でも頭を撫でるくらいならそう変な目では見られないだろう。

 

「それではごゆっくり」

 

 部屋に着き仲居さんはしずしずと立ち去って行った。豊女さんが取ってくれたのは12畳間の広々とした部屋で、なんと露天風呂付きという豪華な仕様であった。広縁もあり、その窓からは旅館の美しい庭が見える。

 

 しかし僕が何よりも驚いたのはそうした部屋の素晴らしさではなく、この一部屋しか予約をしていない点だった。

 環さんとはいつも一緒に寝ているから問題無いが、豊女さんと同じ部屋というのは些か不味いものがあるのではないか。一応人妻なわけだし。

 その辺りどうなんですかと聞いてみれば、豊女さんに「大丈夫っしょ」と軽く流された。

 

「この旅行……じゃなかった試練自体がダーリン公認だし、晴ぽんが思春期特有の妄想力であれこれ考えたって全部杞憂で終わるんだからノープロノープロ」

「し、思春期って……」

 

 紳士として常識的な発言をしたつもりでいたのに思春期の妄想として処理されてしまった。なんだか手痛いしっぺ返しを喰らった気分である。

 しかもついでとばかりに環さんからも横槍が飛んできた。

 

「豊姉様。こやつの(さが)を一過性と侮ってはならぬぞ。深層心理はかなりのエロで満ちておる」

「はあ!? 満ちてないですけど!? つーかそりゃ一年前の話じゃないですか!」

「ふーん。今日だけで8回も豊姉様の胸に視線を向けておいてよくそんなことが言えるのう」

 

 なんで数えてるんだこの人。トランプやってる時も駅弁食べてる時も頑張って意識の外に置こうとしていたのに。

 

 前にちらっと環さんから聞いた話で、なんでも変化の術にはいくつかの制限があるらしく、己にふさわしい姿以外には軽々に化けることが出来ないという。その時は妖術の理論やらなんやらを聞かされたが、つまり僕なりに要点をまとめると環さんは巨乳になることが難しいという話である。密かな望みが絶たれたあの日は落ち込んだものだ。

 

 豊女さんは妹のそれとは似ても似つかない自分の胸に手を当てて「8回……」と呟く。やめてください違うんですちょっと目の端に映ったかな程度だったはずなんです。

 

「あ、拗ねてるんだ! 環さん拗ねてるからそんなこと言うんだ!」

「はああ!? 全っ然拗ねてないが? 儂が拗ねる理由がこれっぽっちも思いつかないんじゃが?」

「ふ、今の状態でも十分可愛いですよ」

「っ……うううっ、慰めはいらんわい……!」

 

 環さんは唸って早々に白旗を上げ始める。環さんが僕を理解しているように、この一年で僕も彼女について多くを学んだ。

 まず口論になった際は売り言葉に買い言葉で進むべきではない。我が家においてポンコツ狐のイメージが定着しつつある環さんだが、しかし実際のところ彼女は賢くないわけではない。悔しいことに人生経験と学の素養の差によって舌戦では環さんに一日の長があり、基本的にこちらの分が悪い。なので心理戦を仕掛ける必要があった。

 とにかく相手の心理にまっすぐ切り込んで動揺を誘い、その後で悪態ではなくストレートに好意的な言葉を伝える。すると環さんは振りかざした拳の置き場を無くし、なんやかんやで話は有耶無耶になるのである。しばらく前に完成させたこの手法で僕は通算3回ほどの勝利をもぎ取っている。ちなみに環さんが冷静だったら失敗することもある(4敗)。

 

「慰めなんかじゃありませんって。可愛い可愛い」

「ま、まあ儂とて母上の娘なわけだし、見てくれが良いのは至極当然ではあるがの。えへへへ」

 

 勝ったな。

 どうやら今日の環さんは冷静さを欠いているらしい。旅の非日常感のせいかもしれない。何にせよ助かった。さあ後は風呂に入って美味い飯でも食うか。

 

 窮地を乗り切った達成感に浸っていると、豊女さんがこちらに白けた目を向けてくる。なんだか呆れた感じというか、強いて言うなら女たらしのダメ男を見るような。どうして敬虔なる純愛主義者の僕がそんな目で見られなければならないのか。

 不服の申し立てをしようとしたが、それよりも先に豊女さんは環さんに近寄って何かを耳打ちした。

 

「環ちゃん。ちょっとお耳を拝借」

「なんじゃ豊姉様……うん胸を……は? 本当は13回……?」

 

 おい待て。それは何の回数だ。

 可愛いと言われて上機嫌だった環さんが一瞬にして真顔になる。嫌な予感がするも既に状況は一変しており、もはや反抗の余地など残されてはいないようだった。

 

「太ももまで……?」

 

 おかしいな。クーラーの電源なんて入れていないはずだが、少し肌寒い気がする。温泉に入って温まることにしよう。今すぐに。

 

「おい晴人……おい逃げるな! 話はまだ終わっとらんぞこの助兵衛!」

「晴ぽんのえっちー、変態ー、ろりこんー」

 

 背後から集中砲火を受けながら僕はほうほうの体でその場を脱した。三十六計逃げるに如かず。

 

 尚、着替えの浴衣やバスタオルなどを忘れたために結局は部屋に戻らなければならず、誠に不本意ながら狐姉妹からの折檻をきっちり受けることとなった。最後にはもう泣きながら言うしかなかった。「不可抗力なんです」と。

 

 

 

 

 夕食を終えた僕は、出された料理のあまりの多さにノックアウトされて布団の上で身じろぎの一つも出来なくなってしまった。

 僕ごときの文化レベルではよく分からんほど緻密な見た目と味の料理が次々と給仕され「うまいうまい」と食っていくうちに自分でも信じられないくらい腹が一杯になっていた。栗とか松茸はもう一生分を食った気さえする。豊女さんがどれだけ金を使ったのか気にはなったが、怖くて聞けなかった。

 

「いやー食った食ったー。もう動けなーい」

「儂もじゃー」

 

 環さんと豊女さんも僕と同じく寝転がっている。しかも手足を大きく広げた仰向けの大の字である。美しい箸使いで懐石料理を食べている姿からは高い教養が感じられ、まさに誉れ高き霊狐といった様子だったのに、気付けばすぐにこの有り様だ。

 まあ酒を注文するために年齢確認や身分証明などの難関を妖術を駆使して誤魔化し通していた辺りは、化け狐の面目躍如たるところではあったけれども。

 

 そうして三人であれが美味しかったこれが好きだったと料理の感想を言い合ってのんびりしていたところ、豊女さんがぱっと飛び起きた。

 豊女さんは慌てた様子で棚の上に置いてある自分の鞄に手を伸ばし中を漁る。取り出したのは一枚の紙切れで、それはついこの間僕も見たことがある玉藻さんの式神であった。

 

『豊女、定時連絡の時間ですよ』

 

 式神から玉藻さんの声がする。

 なるほど。いくら忙しいとは言え試練に関して豊女さんに完全に任せきりの投げっぱなし、というスタンスではないらしい。流石は霊狐の母。聡明そうな見た目に違わず、やるべき仕事をきちんとこなす御方のようだ。

 まあもっとも、案内役につけた生真面目なはずの娘がギャル化しているので不安に思ったから、という理由もありそうだけれど。

 

『進捗はどうですか?』

「は、はい。飛騨山中を回ってはみたのですが龍ヶ峰には至らず、明日に備えて宿をとったところでございます。明日以降は富士山を目指しつつ他の場所で入山の糸口を探す所存です」

『なるほど。まあ一筋縄では行かぬでしょうが、妥当な道筋ですね。明日からも励むように』

「はい!」

 

 側に居なくとも玉藻さんに頭が上がらないのは相変わらずのようで、畏まるギャルという大変貴重なものを再び見ることが出来た。

 豊女さんの報告に対して玉藻さんは特に不満を持った様子は無く、短いやり取りで連絡は終わりそうな雰囲気だった。

 

『ちなみに、路銀の無駄遣いはしていませんね?』

 

 ピーンッと豊女さんの尻尾が真上に逆立ち、毛がぶわっと開いた。

 

「ッ!……もちろんで、ございます。母上から頂いた貴重な銭であります故、必要なものにのみ大事に使っております」

『よろしい。それでは、おやすみなさい』

 

 玉藻さんがそう言うと同時、真っ直ぐ伸びていた紙切れが力を失い、豊女さんの手の中でヘナりと垂れる。

 その瞬間、豊女さんが滝のような汗をかき、式神と同じようにぐったりと倒れ伏した。

 

「あ、危なかった〜!」

「めっちゃ動揺してましたね」

 

 僕が言うと、豊女さんは「他人事みたいに言わないで!」とでも言いたげにキッと鋭い視線を向けてくる。

 

「いや仕方ないでしょ!? あんなド直球に図星突かれるなんて思わないじゃん! あーでもマジ助かったあ……普段だったら絶対にビビったのバレてたよ。念話も急いで切り上げた感じだったし、やっぱこの時期の母上めちゃんこ忙しいんだなあ」

 

 喚いて満足したのか、すぐに安堵感が優ったようで豊女さんは再びうつ伏せになって倒れた。頭をぐりぐりと畳に擦り付けながら今度は文句を垂れ始める。

 

「まったく、なんで母上も今になってあんなこと聞くかなー? もうとっくに子供じゃないってのに。ダーリンに嫁ぐ時に『豊女なら安心』とか言ってくれたのはなんだったんだよう」

 

 そりゃ『今』の姿見られちゃってるからね。仕方ないね。

 どちらからともなく僕と環さんは顔を見合わせた。環さんは姉の痴態に諦念を帯びた遠い目をしている。恐らく僕も全く同じ目をしているに違いない。暗黙のもと意見の一致を見た僕たちはただ深く頷き合った。

 

「豊女さんって本当に昔は真面目だったんですか?」

 

 興味本位でそう聞くと、豊女さんはのそりと起き上がって不服そうに言った。

 

「ちょいちょい晴ぽん。それじゃあ今がまるで不真面目みたいな言い草じゃん?」

 

 そう言っているんですが。

 とまでは正直に口にはせず適当に誤魔化す。頬を膨らませてむくれる豊女さんの様子は妹の環さんの不機嫌な時とそっくりである。流石は姉妹。口調も趣味も違えど、態度は鏡写のように似るものだ。

 しかしそんな風に僕が思った刹那。ほんの一瞬だけ豊女さんの表情に影が差した。

 

「まあ、つまんない狐ではあったけどね」

「え?」

 

 ポツリと出た独り言のような呟きに、思わず聞き返すような言葉が漏れる。豊女さんはすぐに彼女らしい笑顔を浮かべて「なんでもない」と話を切り捨てた。

 

「そんなことよりさ。二人とも卓球やろうよ」

「え、今からですか?」

「変な汗かいちゃって気持ち悪いからさ。気分転換に体動かして良い汗流してリフレッシュしよってこと!」

 

 いや変な汗をかいたのは玉藻さんと念話した豊女さんだけだし。それにまだお腹が一杯なんですが。

 そんな風に僕が難色を口にするより先に環さんが興味を示した。

 

「たっきゅう? ネットで名前を見かけたことがあるような、無いような。何じゃったかの」

「まあ平たく言って球遊びの一つだね。これをやらなきゃ温泉旅行に来たとは言えないぜ環ちゃん!」

「球遊びか! 球遊びなら儂大好きじゃ!」

 

 そうして二人のテンションがみるみるうちに高まってしまい、多数決の必然によって僕も立ち上がらざるを得なくなった。

 こうなっては仕方がない。元より、お出かけ先では女性の意見に寄り添い従うべきだ。伊藤との恋愛研究の産物である『デート技法』第二条にもそう記されている。決してデートの経験が無くリードの仕方が分からないから相手任せにしようといった魂胆では無い。これは男女の仲をより円滑にするために僕たちが編み出した立派な技法であり、それを否定する意見は断固として認めていない。

 

 まあしかしだ。やるからにはやる。

 いかにレディーファーストが重要と言えど、卓球は曲がりなりにもスポーツなわけだ。ならばスポーツマンシップに則り、全力をもって勝負するべきだろう。

 環さんにも言ってはいなかったが中学の途中まで僕は卓球部に所属していたことがあり、尚且つ同じく卓球部だった姉と何度も遊んだ経験がある。つまりこの中で僕だけが経験者ということだ。

 

 豊女さん、環さん。悪いが本気でいかせてもらう。

 僕のドライブの冴えに黄色い歓声を上げていただこう。あわよくば勝負に際して「言うことを一つ聞かせられる権利」なんかを賭けて実利を得るのも良い。ああもう今から何をお願いしようか楽しみになってきた。

 牙を隠した僕は確定した勝利の悦に浸り、陰でニヤリと笑った。

 

 

 

 なお、蓋を開けてみれば豊女さんの圧倒的な実力が露見し、ぐうの音も出ないほどコテンパンにされた。挙句の果てに肩揉みから足ツボに至るまでの丁寧なマッサージを要求され、労働力として酷使されたことを謹んでご報告申し上げる。

 

 

 

 

 

 

 卓球で汗をかいたので再び風呂に入った僕たちは、それでも冷めやらぬ興奮に任せて遊び倒した。

 電車内で散々やったトランプを持ち出して勝負し飽きもせず白熱した結果、僕たちの戦いはいつの間にかカードゲームではなく枕投げに移行していた。

 何故かは分からない。大方、環さん辺りがちまちまとしたカードのやり取りではなく肉体言語に訴えたくなったのだと思われる。

 

 無駄に張り切った豊女さんが防音の結界を張ってしまい、それを皮切りにふわふわとした只の枕の投げ合いは、修学旅行の男子部屋もかくやと言うほどの狂宴と化した。豊女さんが妖術で幻の枕を作って困惑させてきたり、環さんが変化の術で自らを巨大な枕にして突貫してきたりと、てんでルール無用の支離滅裂な合戦であった。

 

 もちろん一般人である僕は狐に化かされるまま七転八倒した。

 そうして途中で疲れがピークに達したのか、自分でも気付かぬ内に寝落ちていたのだった。

 

 

 

 

 

 もぞり、と隣で何か動く気配があり、僕は目を覚ました。

 

 薄っすら目を開けてみれば部屋の中は暗く静かで、どうやら真夜中になっているらしかった。さっきまで巨大枕の環さんと格闘していたはずなのだが。と、まだ夢と現実の境い目がぼやけている頭で考える。

 

 起きた原因である気配の方に目を向けると、揺れる狐の尾が広縁へと入っていくのが見えた。背丈が高いから豊女さんだ。

 

 障子を開けてその向こうへ足を踏み出した彼女がふと振り返って僕の方を見た。

 上体を僅かに起こした僕と、豊女さんの瞳が交錯する。しかし豊女さんは何も言うことはなく、代わりに人差し指を口に当てるジェスチャーをしてみせた。

 

 静かに? 

 言われずとも夜中に騒いだりはしないが。

 

 僕の反応を待たず、豊女さんはひっそりと広縁に姿を消し、障子戸を閉めた。

 

 まだ頭が覚め切っていない中、環さんがどこで寝ているのか気になって部屋を見回したが、もぬけの殻になっている布団が二つあるだけだった。一つは今しがた起きた豊女さんの物。もうひとつは環さんが寝ていたのだろう。

 環さんはトイレにでも行ったのか。そんな風に思った矢先、広縁の方から豊女さんの声が聞こえてきた。

 

「や、環ちゃん。月見酒?」

 

 今一度、広縁の方に目を向けると月明かりに照らされているためか障子にくっきりとした影法師が写っていることに気付いた。

 椅子に座る二人の人物。否、霊狐の影に。

 

「どうにも眠れなくてな。豊姉様はずっと起きておったのか?」

「うん。アタシは環ちゃんとちょっと話したいなーって思ってたから、良い感じの頃合い見計らってたんだ。こうして自然に二人きりで話せる機会って案外少ないからね」

「確かに……儂も少し、話したいことがあった」

 

 二人はしっとりと静かに言葉を交わしている。環さんの小さな影が酒瓶のようなを持って女さんにお酌をしているのが見える。

 

 話したいこととは何か。

 興味をそそられた僕はすっかり目も覚めて、障子越しの会話に耳を傾けた。

 

 

 




混浴とかね、書こうとは思ったんです。温泉だし。でもこの面子でお色気はちょっと無理がある(泣)


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