転生したメイドですが、大切なお嬢様の様子がちょっとおかしい (春川レイ)
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第1部 お嬢様と呪いと私
プロローグ&家出します




なろうにて、気分転換に連載を開始して投稿していましたが、いろいろ思うところがあり、こちらでも投稿することにしました。
心の広い方向けです。駄文で、世界観や設定もゆるゆるです。よろしくお願いいたします。








 

 

 

「どうしてなの?」

 

私の前に、お嬢様がいる。

 

いや、前にと言うか、上にいる。私は、現在、自分がお仕えするお嬢様に押し倒されている。

 

状況がさっぱり分からない。どうして私はお嬢様に押し倒されているのだろう。綺麗な薄い金髪から薔薇のような香りがする。緑色の瞳が、私をまっすぐに見つめてくる。その美しい手が、私の傷だらけの手を握る。可愛らしい赤い唇がまた動いた。

 

「ねえ、ベッカ。私の話を聞いてる?」

 

聞いてない。こんな状況なのに、お嬢様はなんて綺麗な人なんだろう、と考えていた。

 

「……申し訳ありません。聞いてませんでした」

 

お嬢様は顔をしかめて、また口を開いた。

 

「だからね、どうしてあなたは大きな荷物をまとめているの?あなたのお部屋が空っぽになっているのはどうして?」

 

「……それは」

 

「もしかして、出ていこうと思ってるのかしら?」

 

思わず息を呑むと、お嬢様はますます私の手を強く握った。私は慌てて口を開く。

 

「……申し訳ありません、でも、」

 

「言い訳しないで。私から離れないって約束したじゃない。あれは嘘だったの?」

 

「ち、ちがうんです……でも……」

 

お嬢様が突然顔を近づけてきた。心臓が高鳴って、それ以上言葉を続けられなくなる。

 

「ねえ、ベッカ。あなたは、誰のもの?」

 

「……」

 

「答えなさい」

 

「お嬢様の、ものです」

 

「ええ、その通り。私のベッカ。そして、私もあなたのものよ。ベッカ」

 

お嬢様が笑う。その華のような可憐な微笑みに、思わず見とれた。だから、反応が遅れた。

 

「逃がさないわ。あなたを誰にも渡さない」

 

そして、お嬢様は私の頬を包み、そのまま唇を重ねてきた。

 

突然の行動に驚いて目を見開く。甘い香りにクラクラして抵抗できない。

 

どうしてこうなってしまったのか。

 

私はお嬢様の唇を受け止めながら、これまでの人生を振り返っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気がつくと真っ白な世界にいた。

 

『はい、ということで転生です、転生!』

 

不思議な声が聞こえる。

 

『え?私ですか?ああ、別にどうでもいいでしょう?神様的な存在ですよ、神様。そんなもんだと思ってください。私のことはどうでもよろしい。とにかく転生の時間です』

 

声を出そうとしたけど、何も出なかった。こちらが戸惑っている間にも、声は続く。

 

『申し訳ありませんね。こちらの手違いであなたを死なせてしまったんです。本来は普通に長生きできるはずだったんですけど』

 

え?なにそれ?

 

『あなたの魂をこのまま送るのは立場上少々まずいので、特典付きで転生させてあげますよ。次の人生で、ちょっとだけ役立つ才能をあげるので、自由に生きてください』

 

なんかどこかで聞いたというか、よくある話だね。自分がこんなことに巻き込まれるとは思わなかったよ。

 

『それじゃあ、新しい人生をお楽しみください。幸運を』

 

次の瞬間、世界が暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

転生はしたけど、前世の記憶は全然ありません。

 

気がついたら赤ん坊だった。生まれた世界は予想通り魔法があふれるヨーロッパ風の異世界だった。この世界で生きる人間は全員魔法が使える。十歳になると全員が魔力測定を受け、自分の魔力の強さを知る。平民は火を起こしたり、水を出したりなど小さな魔法が使える程度。魔力が強いのは貴族ばかりだ。たまに平民でも強い魔力を持つものが生まれるらしいがそれは滅多にない。魔力が強い人間はほとんどが十五歳になると魔法学園に入学する。

 

 

 

 

 

キャロル・リオンフォール

 

それが今世の自分の名前らしい。まっすぐな栗色の髪に、美しい青色の瞳を持つが、全体的な容姿は普通だ。醜くもないが、美しいと誉められる事もない。

 

キャロルは貴族の令嬢である。しかし、あまり裕福ではない田舎の子爵家の娘で、それも末っ子の六女だ。上に兄が二人、姉が五人いる。末っ子で、六番目の女の子、容姿は特に悪くもないけど良くもないとなれば、家での扱いは完全なみそっかすである。いじめられることはないけど、家族はもちろん使用人までもがキャロルに無関心である。ほとんど構われた事がない。

 

「お嬢様はとっても可愛らしいですよ」

 

唯一、キャロルを可愛がってくれた年配のメイド、レベッカはキャロルの頭を撫でて微笑みながらそう言った。

 

「私は世界一可愛いと思っています」

 

「レベッカ、本当?」

 

「ええ、もちろん!」

 

キャロルの話を誰も聞いてくれなかったけど、レベッカはきちんと耳を傾けて、おしゃべりに付き合ってくれた。手を握って、抱き締めたり頭を撫でてくれたのは両親ではなくてレベッカだった。

 

キャロルはレベッカが大好きだった。しかし、キャロルが七歳になる前に、高齢だったレベッカは腰を痛めてメイドを辞めることになった。

 

「申し訳ありません。お嬢様が結婚するまでは頑張りたかったのですが……」

 

「気にしないで。どうかこれからは自分の事を一番に考えて、ね?」

 

キャロルが涙を堪えながらそう言うと、レベッカも涙を流しながら大きく手を振って去っていった。

 

レベッカが辞めてからも、手紙のやり取りはしているが、とにかく寂しくて仕方なかった。二年ほど経ち、レベッカが風邪を拗らせて亡くなったと知らせが届いた。それを聞いた瞬間、キャロルは生まれて初めて大声を出して泣いた。

 

完全にひとりぼっちの生活が始まった。時々寂しいと思ったけど、徐々に慣れていった。

 

そんなキャロルの生活が変わったのは十歳になった時だった。この世界の人間は十歳になると魔力測定検査を受ける事になっているため、キャロルも父親に連れられて、測定会場へと向かった。

 

そして

 

「し、信じられない……!」

 

「魔力が1000!?――通常の十倍もあるなんて!」

 

「何かの間違いか?測定器が壊れたのでは?」

 

どうやら、神様の特典というのは強い魔力だったらしい。

 

会場がざわつき始め、隣の父親が目を輝かせたのを見て、キャロルは大きなため息をつきそうになった。

 

その後、子爵家でのキャロルの扱いが明確に変わった。無理もない。魔力の数値だけで考えれば、もしかしたら将来大出世するかもしれないのだ。有力な貴族へと嫁げる可能性だってある。両親は目をランランと輝かせながらキャロルの教育方針や将来を話し合い、兄や姉達は悔しそうな顔でこちらを見ていた。

 

それからは、家庭教師をつけられて、勉強漬けの日々だった。魔法はもちろん、言語、歴史、地理、数学などとにかく知識を詰め込まれる。幸か不幸か、キャロルは勉学に関しても非常に優秀だったため、両親は狂喜乱舞していた。

 

一方、キャロルは十三歳を迎える頃には、あることを決心していた。

 

「よし、逃げよう」

 

周囲から期待されて勉強ばかりの毎日に、もううんざりしていた。今までそっぽを向いていたのに、魔力が高い事が判明して、周囲からチヤホヤされても、今さらとしか思えなかった。それに、このままでは両親の決めた道を歩くことになる。恐らく、魔力の強さを売りに、有力貴族と結婚させられる。そこに、もちろんキャロルの意思はない。誰も味方はいない。使用人達は父が雇い主だからキャロルの話は聞かないし、兄や姉達からは妬まれていて、最近は嫌がらせを受けるようになってきた。このまま、自分の意思のない人生を生きていくなんて絶対に嫌だ。

 

『自由に生きてください』

 

神様モドキだってそう言ってたし、いいよね。そうだ、そうしよう。

 

まだ十三歳だけど、身長は高いからギリギリ十五、六歳くらいには見える、多分。年齢を誤魔化したらきっと働ける場所はあるはずだ。

 

決心を固めて、すぐに動き出した。誰にもバレないように家出の準備を始める。そして、家出決行当日の夜、まずは魔法で瞳と長い髪を黒く染めた。洗濯室からは事前に使用人の服を拝借してきた。男性用の服を着て、帽子を被り髪を隠す。これで見かけは完全に少年だ。最後に、荷物が入った大きな鞄を手に持ち、手紙を書く。

 

『家出します。探してもいいけど見つからないと思います。さようなら』

 

誘拐と思われないように、適当に文章を綴る。そして、こっそりと部屋の窓から逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 












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新しい生活

 

 

 

屋敷から、そして生まれ育った地から逃げ出し、ひっそりと旅をするのはなかなか大変だったが、それよりも自由になれた解放感の方が大きかった。実家から持ち出した装飾品を売って、寝るところと食べ物をなんとか確保しながら、目立たないように旅を続ける。そして、乗合馬車の乗り場へと向かい、馬車に乗った。行き先は王都方面にすると決めていた。王都かその周りの大きな街なら、きっとすぐに仕事も見つかるだろうと予想していたからだ。

 

そして予想通り、王都に着いて、すぐに仕事は見つかった。

 

「……これはメイド、になるのかな」

 

王都の職業斡旋所に貼られた一枚の張り紙。そこには皿洗いや洗濯をする職員を募集するという内容が記されている。募集しているのはコードウェル伯爵家らしい。

 

「……ふむ」

 

一人で頷く。自分はまだ社交界にデビューしていないから、顔は知られていない。伯爵家ではあるが、正体がバレることはないだろうし、何よりも給金がよく、さらに住み込みも可というのが素晴らしい。ある程度の魔法なら使えるし、皿洗いや洗濯なら自分でもできるだろう。

 

「……ここにしよう」

 

職業斡旋所の職員にコードウェル家の場所を聞いて、すぐに向かった。

 

コードウェル家は簡単な面接だけですぐに採用された。採用されたのは嬉しかったが、あまりにも簡単すぎて逆に戸惑う。伯爵家であればもっと細かく面接されて、素性を調査されるかもしれないと少し心配していたのだ。面接の際に、近くの村出身の十五歳で仕事を探しに王都へ来た、と適当に伝えると、面接をした執事は特に深く追究してこなかった。そして、できるのなら今すぐにでも仕事に入ってほしいと言われたので、早速制服を受け取り、案内された台所へと向かった。

 

「……レベッカ・リオンです。よろしくお願いいたします」

 

キャロル改め、レベッカ・リオン。自分の新しい名前だ。本名は名乗れないので、愛すべきメイド、レベッカの名前をもらった。

 

働き始めて、簡単な面接だけですぐに採用された理由が分かった。

 

とにかく、人手が足りない。

 

「レベッカ、それ洗って!終わったらこっち手伝って!」

 

「はーい!」

 

毎日せわしなく動き回り、手を休める暇もないほど忙しい。毎日するべき仕事が山のようにあるのだ。レベッカの仕事は皿洗いと洗濯のはずだったのに、簡単な魔法が使えるという事が知られると、いつの間にかメイド長に指示されて掃除はもちろん、時には庭仕事もするようになった。

 

時折コードウェル伯爵やその夫人の顔を見かける事はあったが、下級メイドである自分が直接関わる事はなかった。第一、伯爵夫妻は何やら多忙らしく、ほとんど屋敷に帰ってくることはない。

 

朝早く起き、夜まで休む間もなく働き、夜遅くに与えられた使用人の部屋へと帰り、泥のように眠る毎日だった。

 

――なんでここってこんなに働いてる人が少ないんだろう。

 

その疑問は働き始めて、2ヶ月ほどで分かった。

 

「――ねえ、今日って……」

 

「え、ジェーンが休み?嘘でしょ!」

 

「じゃあ、誰が掃除に行くのよ……」

 

ある日、朝から他のメイド達がザワザワとしていた。誰もが不安そうな顔で、落ち着きなくソワソワしているのだ。その様子に首をかしげたが、すぐに台所の皿洗いに呼ばれたため、メイド達の様子の事は忘れてしまった。

 

しかし、昼前になって、突然メイド長が話しかけてきた。

 

「レベッカ、悪いんだけど、今日はちょっと特殊な仕事を頼みたいの」

 

「はい、何でしょうか?」

 

メイド長が話しかけた瞬間、その場の使用人全員の視線を感じた。その視線を不思議に思っていると、メイド長が顔をしかめながら大きなため息をつき、口を開いた。

 

「お嬢様の、部屋の掃除をしてもらいたいの」

 

「……え?お嬢様?」

 

驚いて聞き返すと、メイド長は早口で言葉を続けた。

 

「いつもはメイドのジェーンがしてくれてるんだけど、……今日は気分が悪くて休んでるのよ。悪いけどお願いね」

 

「あの、でも……、私でいいんですか?」

 

伯爵令嬢の部屋なら、下働きの自分ではなくもっと上の立場の使用人がするべきではないだろうか、と考えたが、

 

「もうあなたしかいないの。じゃあ、頼んだわよ」

 

メイド長はそう言い放つと、さっさと出ていってしまった。

 

「あーあ、レベッカ、お気の毒に」

 

「ごめんね、私達も怖くて……」

 

他のメイドや使用人達がレベッカから気まずそうに目をそらしながら口々に言う。レベッカは言葉の意味が分からず、周囲の人間に問いかけた。

 

「あのー、お嬢様の部屋の掃除って、何かあるんですか?」

 

メイド達が一斉に驚いたような顔をした。

 

「えー!レベッカ、お嬢様のこと、知らなかったの?」

 

「あんなに有名な噂なのに?」

 

その言葉にレベッカが戸惑っていると、近くにいた一人のメイドが、ああ、と声をあげた。

 

「そっか、レベッカはここに来てまだ日が浅いし、知らないのも仕方ないわね。普段は下働きだし……」

 

メイドは、レベッカの耳に口を近づけてきて、小さな声で囁いた。

 

「あのね、この家のお嬢様は呪われているの」

 

「はい?」

 

意味が分からず眉をひそめたが、メイドは小さな声で言葉を続けた。

 

「生まれた時から、呪いにかけられたお嬢様なの。手足にね、痣があるの。赤くて、すごく不気味な痣が」

 

「……痣?」

 

「今までお嬢様の姿、見たことないでしょ?呪いのせいで、ずーっと自分の部屋に閉じ籠って生活しているからよ。その呪いの痣に触れた人間はね、……呪い殺されるんだって」

 

殺される、という物騒な言葉に目を見開くと、他のメイドが慌てたような顔をした。

 

「ちょっと!痣があるのは本当だけど、触ったら殺されるって言うのはただの噂でしょ!」

 

「えーっ、でも、前に働いていたメイドが、間違って少し触れちゃって、その後寝込んだって言ってたわ」

 

「ちがうわよ、殺されるんじゃなくて、痣が自分に移るんでしょ?」

 

よく分からない様々な話にレベッカはどう反応したらいいのか分からず、首をかしげた。

 

「とにかく、レベッカ。悪いけど、掃除をしてきてちょうだい」

 

「ジェーンがいつもしてるみたいに、お嬢様に近づかないようにしながら、できるだけ早く掃除を済ませればいいわ」

 

「お嬢様は掃除をしている間、何にも話しかけてこないらしいから大丈夫よ」

 

メイド達からそう言われて、押し付けられるように箒やらバケツを持たされる。そして、

 

「それじゃあ、お願いね!幸運を祈ってるわ!」

 

背中を押されて、部屋から追い出された。

 

皆が嫌がる仕事を体よく押し付けられたな、と思いながら、ため息をつく。仕方なく、伯爵令嬢の部屋へ向かうため、階段を昇り始めた。

 

足を進めながら考える。呪いとは何の事だろう。本当にそんな痣があるのだろうか。もしかして、この家の使用人が異様に少ないのって、その呪いの噂があるせいなのではないか、と思い当たり、頭が痛くなった。

 

やがて大きな扉の前に到着する。何度か深呼吸をして、扉をノックした。

 

「――あの、掃除に参りました」

 

そう声をかけて、返事を待ったが、何も返ってこない。もう一度、扉を叩く。

 

「掃除に参りました」

 

さっきよりも大きな声でそう言ったが、やはり返事はなかった。

 

どうしよう、と考える。返事もないのに勝手に入るのは失礼すぎるだろう。もしかしたらお嬢様は、見知らぬ人間に入ってほしくないのかもしれない。一度戻ってメイド長にどうするべきか確認するべきか―――、

 

その時、扉の向こうから微かに声がしたような気がした。

 

「お嬢様?」

 

何を言っているのか聞き取れない。レベッカは迷いつつも、扉の取っ手に手をかける。躊躇いながら少しだけ押すと、扉は難なく開いた。

 

「あの、お嬢様?」

 

声をかけながら、扉の隙間から中を覗き込む。そして、広大な部屋の床に少女が倒れているのが目に入り、目を見開いた。慌てて扉を大きく開けて、中に飛び込む。

 

「え、あの、大丈夫ですか!?」

 

少女を抱き起こす。恐らくこの少女が伯爵令嬢だろう、ということはすぐに分かった。飾り気はないが、見るからに高級で上品なワンピースドレスを着ている。薄い金髪が異常に長く、信じられないくらい痩せ細っている、小さな女の子だった。顔色が悪く、身体が熱い。苦しそうに呼吸をしており、時折喉を絞められたような唸り声を上げていた。

 

「あ、あの、お嬢様!お嬢様!」

 

何度も呼ぶが、反応はなかった。慌てながら、とにかく目の前の苦しんでいる少女を楽にさせてあげたくて、額に触れる。治癒の魔法はほとんど使ったことはないが、実家で家庭教師に習ったことがあるため、できる自信はあった。目を閉じて、自分の手に魔力を貯めて、集中する。ゆっくりと、身体の熱を下げていった。

 

うん、上手くいった。ホッとしながら、目を開ける。思った通り、目の前の少女は少し楽になったようで、呼吸状態も穏やかになっていた。まだ顔色は悪いから、医者に見せたほうがいいだろう。

 

そう思いながら、額を軽く撫でると、少女がぼんやりと目を開いた。信じられないくらい透き通ったエメラルドのような瞳だった。その瞳が、ゆっくりとレベッカの方へ向けられる。

 

「――だれ?」

 

掠れたような声に、レベッカはほんの少し微笑んで答えた。

 

「お嬢様、大丈夫ですか?すぐにお医者様を呼びますからね」

 

「――あなた、だれ?」

 

また同じ質問をされて、苦笑しながら答えた。

 

「メイドのレベッカ・リオンと申します」

 

「――ベッカ?」

 

「いえ、レベッカです。とにかく、ベッドに寝ましょう。お運び致しますね」

 

少女を抱きあげると思った以上に軽くて、また驚く。抱き上げた拍子に、手足が見えて、そこには噂通り赤い痣があって驚いた。本当に不思議な模様の奇妙な痣だ。でも、今はそんなことに構っている暇はない。とにかくベッドに寝かせないと、身体がきついはずだ。ゆっくりと少女を抱いたままそっと、立ち上がり、そのまま、部屋にある大きなベッドへと寝かせた。

 

「お嬢様、もう大丈夫ですよ。ゆっくり休んでくださいね」

 

そう言って安心させるように笑うと、少女は呆けたようにポカンと口を開けた。レベッカは、身体を覆うように毛布をかけ、また口を開いた。

 

「身体を冷やしたらダメですよ。それじゃあ、ちょっと待っててくださいね」

 

そのままクルリと背を向けて、足早に部屋から出る。

 

「――あ、」

 

後ろで少女が何かを言っていたが、レベッカはそれに気づかず、メイド長の元へと向かった。

 

 

 

 

 

 



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お世話係

 

 

メイド長の元へと走り、お嬢様の状態を報告する。メイド長はすぐに医者を呼ぶようにと近くの使用人へ命じ、レベッカには今日は掃除はしなくていい、と言って、お嬢様の部屋へと向かっていった。レベッカはホッとしながら、自分の持ち場である洗濯室へと戻った。

 

「あれ?レベッカ、お嬢様の部屋の掃除、もう終わったの?」

 

洗濯室へ入ると、同じ下級メイドかつルームメイトでもあるキャリーが驚いたように尋ねてきた。

 

「いえ、お嬢様のお体の調子が悪いようで……掃除はできないみたいなので……」

 

軽く首を横に振りながらそう答えると、キャリーはホッとしたように笑った。

 

「よかった。心配してたのよ」

 

レベッカはキャリーの隣へ腰を下ろし、衣服を手に取りながら問いかけた。

 

「あのー、お嬢様の呪いって……」

 

「ああ、もう見たの?呪いの痣」

 

キャリーの言葉に小さく頷き、躊躇いながら、

 

「呪いの痣って、本当ですか?」

 

衣服を洗いながらそう聞くと、キャリーは思い切り顔をしかめた。

 

「私もよく知らないの。でも、昔から王都やその周辺の街では結構有名な噂よ。触れると呪い殺される、恐ろしい痣を持つ伯爵令嬢だって」

 

 

 

ウェンディ・ティア・コードウェル

 

 

 

あの金髪の小さな少女は、そんな立派な名前の由緒正しき伯爵家の令嬢らしい。

 

「生まれた時から痣があって、ずっと部屋に閉じ籠って生活しているから、私も顔は見たことないの。いつもはメイド長とジェーンが中心になって世話をしているらしいけど……」

 

「ああ、そういえば、ジェーンさんというメイドさんがお体の調子が悪いとか……」

 

そう言うと、キャリーは苦い顔をしながら、口を開いた。

 

「あのね、今日聞いたんだけど、ジェーンは辞めるかもしれないんだって」

 

「えっ、そうなんですか?」

 

「お嬢様の世話はもう嫌だって泣き喚いて部屋に引きこもってるみたい。元々ね、お嬢様の世話係は誰もやりたがらないし、やってもみんな長続きしなくて……。ジェーンは半年は頑張ったんだけどね……、まあ、持った方だわ」

 

不気味な赤い痣を怖がって、誰もが令嬢に近づくのを拒否するらしい。

 

「ジェーンはね、元々メイド長の親戚の娘だったの。実家が困窮していたらしくて……高い給金を払うからって、メイド長に頼まれて、それで仕方なくお嬢様の世話係担当になったの。でもずーっとお嬢様の呪いが怖いって、嫌がっててね……限界が来たみたい。もうお金なんかどうでもいいからとにかく辞めさせてくれって、叫んでたらしいわ」

 

その話に若干引きつつ、レベッカは再び問いかけた。

 

「でもメイド長さんは平気なんですよね?」

 

「メイド長は昔からこの家に仕えているしね。でも、メイド長も多分お嬢様の世話をするのは嫌がってるんだと思う。それにメイド長も他の業務が忙しいから、お嬢様を一人で世話するのは流石に難しいのよ。特に最近はお嬢様の呪いを怖がって使用人はどんどん辞めていくし、新しい人はなかなか来ないしね。これからどうなるのかなー」

 

その話を聞いた時、なんだか嫌な予感がした。

 

数日後、お嬢様の病状はただの風邪であり無事に快方に向かったことと、正式にジェーンというメイドが辞めたという噂を聞いた。

 

そして、レベッカの嫌な予感は見事に的中した。

 

「レベッカ、ちょっと来て」

 

メイド長にそう呼ばれた瞬間、胸騒ぎがした。それでも逆らうことはできない。トボトボとメイド長に続いて歩き、小さな部屋に入る。そのまま部屋のソファに座るように言われて、おとなしく腰を下ろした。

 

レベッカがソファに座ると、真正面のソファに座ったメイド長が早速口を開いた。

 

「急で悪いのだけれど、お嬢様のお世話をしてほしいの」

 

あー、やっぱりか、と思いながら、顔が強張るのを抑えきれなかった。

 

「お世話、ですか……」

 

「難しいことはないわ。部屋の掃除をして、食事や必要な物を運ぶだけよ」

 

みんなが嫌がる厄介な仕事を新参者の自分に押し付けるらしい。思わずうつむくと、メイド長が慌てたように口を開いた。

 

「お嬢様の噂は聞いたかもしれないけど、呪い殺されるとか痣が移るなんて、デタラメよ。私やお嬢様の主治医は昔からお世話をしているけど、死んでないし、痣も移っていないわ」

 

メイド長は何かを誤魔化すように早口で話を続けた。

 

「私一人でお世話をするのは限界があるの。特に最近は人手が足りなくて……あなたは、平民にしては、とても礼儀正しいし、働き者だから……ぜひお願いしたいの」

 

「あの、でも、私……」

 

なんとか断れないか理由を探しながら口ごもる。

 

「引き受けてくれたら、今の倍は給金を払うわ。それに、あなた専用の一人部屋も用意するから……」

 

拝むようなその声に、とうとうレベッカは折れた。

 

「……承知しました」

 

小さな声でそう言うと、メイド長は心から安心したような顔をした。

 

「ああ、ありがとう、本当に……。早速仕事内容を説明するわね」

 

メイド長から仕事の内容を確認する。食事や必要物品の運搬、後片付け、部屋の掃除、風呂の準備など、業務としてはそれほど難しいことはない。むしろ簡単だ。

 

「お嬢様はお一人でずっと生活しているから、自分のことは自分でするのよ。むしろこちらが手出しをするのを嫌がるから……だから今説明したこと以上のことはしないでちょうだいね」

 

「はい」

 

短く返事をしながら、悲しいことだな、とひそかに思った。伯爵令嬢という高い地位を持つ少女が、他人の手出しを嫌がり、自分のことを自分でしてしまうなんて。

 

一体、今までどんな生活を送ってきたのだろう。

 

「それじゃあ、今日から、お願いね」

 

そう言われて、頷くと、メイド長はさっさと自分の持ち場へと行ってしまった。

 

大きくため息をついて自分も立ち上がる。まさか、こんなことになるなんて。でも引き受けたからには仕方ない。そう考えながらキッチンへと向かった。

 

キッチンで仕事をしている料理人へ声をかける。

 

「あの、お嬢様のお食事をお願いします」

 

キッチンの料理人の一人がその言葉に、驚いたように振り返る。そして、一瞬だけレベッカを哀れむように見て、そしてすぐに目をそらした。キッチンの隅に置いてあった料理の載っているトレイを、レベッカに押し付けるように渡してきた。

 

「ほら、これだ」

 

「ありがとうございます」

 

軽く頭を下げて、背を向ける。そして素早くその場から立ち去った。キッチンから出た瞬間、声が聞こえた。

 

「今度の生け贄はあの娘らしいな」

 

「可哀想に。何日持つかな」

 

生け贄、という言葉に思わず振り返りそうになるが、結局そのまま足を進めた。

 

途中で顔見知りのメイドや使用人と会ったが、全員既にレベッカが令嬢の世話係になったことを知っているらしく、哀れむような視線を向けてきた。

 

「……」

 

その視線にうんざりしながら、歩を進め、ようやく令嬢の部屋へと到着した。

 

扉を大きくノックする。

 

「お食事の時間です」

 

そのまま扉の横に設置してある小さなテーブルにトレイを乗せ、足早に立ち去った。メイド長の説明によると、こうしておけば、レベッカが去ったあと、お嬢様は扉を開けて自分でトレイを部屋に入れるらしい。食べ終わったあとは、空になった食器を、再び扉横のテーブルに置いてくれるそうだ。

 

数分後、お嬢様の部屋へと向かうと、メイド長に説明された通り、テーブルには空になった食器が置いてあった。その食器をキッチンへと運び、片付ける。休んでいる暇はない。次は部屋の掃除をしなくてはいけないのだ。

 

掃除道具を持って、扉の前で深呼吸する。そして、大きくノックした。

 

「失礼します。掃除に参りました」

 

そう呼び掛けた。また返事がなければどうしよう、と思ったが、

 

「………どうぞ」

 

小さな声がした。安心して、ゆっくりと扉を開ける。

 

「失礼します」

 

そう言いながら部屋へと足を踏み入れる。前に入った時は、倒れているお嬢様の姿に驚きすぎて、きちんと見ていなかったが、広くて立派な部屋だった。でも、どこか空気が湿っぽくて、暗くて、寂しい雰囲気がする。

 

部屋を見回し、お嬢様の姿が見当たらないので一瞬驚いたが、すぐに見つけた。部屋の隅で全身をシーツで包み、こちらへ背を向けて座っている。

 

「……掃除いたしますね」

 

「……」

 

何も返事がない。でもまあ、拒否はしていないみたいなので、手早く済ませようと箒を手に取った。

 

簡単な魔法を使いながら、手際よく掃除を済ませていく。広いけど、すぐに終わりそうだ。そんな中、視線を感じて、困惑した。お嬢様が、こちらを興味深げにチラチラと見てくるようだ。

 

つい、部屋の隅へと視線を動かしてしまう。バッチリと目が合ってしまった。

 

「――あ」

 

エメラルドのような美しい瞳だ。お嬢様は慌てたようにまた顔をそらして、壁を向いてしまった。

 

「……あの、何かお困りのことはございますか」

 

目が合ってしまったので、そう尋ねる。レベッカの声に、お嬢様はビクリと身体を震わせた。

 

「何か必要な物がございましたら、お持ちしますよ」

 

しばらく沈黙が続いて、やがてお嬢様がゆっくりとこちらを向いた。

 

「……あの」

 

小さな声が聞こえた。可愛い声だ。前に聞いた時は掠れた声だったのに。あの時は喉を痛めていたのだろうか。

 

「……あなた、あの……」

 

「はい」

 

短く返事をすると、またその肩がビクリと震えた。迷うように目を泳がせながら、言葉を続ける。

 

「……あなたは、なんにちか、まえ、びょうきになったわたくしを、たすけてくれたひと?」

 

その言葉に、ああ、と声を出しながら肩をすくめる。

 

「倒れたのを発見したので、熱を下げて、助けを呼んだだけですよ」

 

そう言うと、お嬢様は何度か頷いた。

 

「……ベッカ、だったわよね」

 

「いいえ。レベッカです。レベッカ・リオンと申します」

 

改めてそう名乗り、深く頭を下げる。そんなレベッカを見つめながら、お嬢様はソワソワしながら問いかけてきた。

 

「あなたが、きょうから、わたくしのおせわをしてくれるの?」

 

「はい」

 

頷いてそう答えると、お嬢様は何かを言いたげな顔をしたが、結局何も言わずにクルリとこちらに背を向けた。そして、素っ気なく言い放つ。

 

「……はやくおわらせて」

 

「承知しました」

 

また頭を下げる。そして命じられた通り、さっさと掃除を済ませた。

 

「失礼しました」

 

そう挨拶をして部屋から出ていく。

 

出ていく寸前、お嬢様がこちらを振り返ったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 



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雷の夜に

 

 

「レベッカ!」

 

名前を呼ばれて振り返ると、ルームメイトのキャリーがこちらへと走ってきた。

 

「聞いたわ!新しくお嬢様のお世話係になったって……」

 

「ええ、まあ……」

 

「大丈夫なの!?」

 

顔を青くさせて問いかけてくるキャリーを安心させるように、小さく微笑んだ。

 

「まあ、なんとかなりますよ」

 

「なんとかって……、の、呪いが移ったら……」

 

「呪いが移るとか、殺される、というのはただの噂のようです。ですから、大丈夫ですよ」

 

キャリーは呆然と口を開けていたが、やがて少し怒ったように眉を吊り上げた。

 

「レベッカ、ちょっと呑気すぎるわ!お嬢様のお世話係をして寝込んだ使用人だっているのよ!!」

 

「うーん。それは聞きましたけど……でもメイド長からも大丈夫だと言われましたし……それに、その……断れなくて……」

 

「あなたが断れないのが分かっていたのよ!新入りだからって押し付けたんだわ!」

 

キャリーは、はっきりと大声で言った後、頭を抱えて大きなため息をついた。

 

「はあ……なんてこと……とにかく、危険を感じたらすぐに逃げるのよ。分かった?」

 

「そんなお嬢様が猛獣みたいな……」

 

「猛獣の方がまだマシよ」

 

キャリーの言葉に苦笑しつつ、言葉を続けた。

 

「キャリーさん、そういうわけで、私、今日から一人部屋に移ることになったんです」

 

「……ああ、聞いたわ。寂しくなるわね。でも本当にお願いだから、危ない時はすぐに逃げてね」

 

「はい」

 

レベッカが再び安心させるように笑うが、キャリーはまだ心配そうな顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レベッカに新しく与えられた一人部屋は伯爵令嬢・ウェンディの部屋に近い、広く立派な一室だった。どう考えてもメイドには不相応な部屋だ。

 

「……」

 

ウェンディは、何か用事がある時は呼び鈴を鳴らすそうなので、それが聞こえたら部屋へと向かわなければならないらしい。だからこそ、この無駄に広いが、ウェンディの部屋から近い部屋を与えられたのだろう。

 

「お嬢様は呼び鈴を鳴らすことはほとんどないから。だから大丈夫よ」

 

メイド長が誤魔化すようにそう説明した。一人部屋をもらえたのは嬉しいが、なんだか騙されたような気がする。

 

「疲れた……」

 

仕事が全て終わり、新しい部屋のベッドで寝転がる。今まで使っていたベッドより、ずっと高級なベッドだ。フカフカして心地いいが、なんだか落ち着かない。しばらく天井を眺め、目を閉じて大きなため息をつく。

 

「まあ、なるようになるか……」

 

キャリーが言った通り、自分は呑気すぎるのだろう。でももう後戻りはできない。悩んでいても仕方ないのだから、前に進むしかないじゃないか。

 

そう考えながら、いつの間にか意識が遠くなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディのお世話係は、予想はしていたが、やはりそんなに難しい仕事ではなかった。食事や必要な物の運搬、部屋の掃除や風呂の用意、後片付けをする毎日だ。他の使用人は遠くから気の毒そうにレベッカを見てくるが、そんな視線にも慣れた。ウェンディはレベッカが部屋に入ってくると、大抵シーツで全身を覆い、部屋の隅で背中を向けてじっとしていた。

 

「掃除に参りました」

 

「うん」

 

ほとんど声は出さず、目を合わせようともしない。レベッカの呼び掛けに小さく返事を返すだけで、自分から話しかけてくることはなかった。

 

ただ、レベッカに何か言いたいことがあるのか、時々チラチラとこちらを見てくるのが気になっていた。

 

そんなぎこちない関係が変わったのは、ウェンディのお世話係になって1ヶ月ほど経った時だった。

 

「掃除に参りました」

 

いつも通り、扉をノックしながら声をかける。

 

「うん」

 

小さな返事が聞こえたので、扉を開けて入る。

 

ウェンディはいつも通り、シーツにくるまれて部屋の隅に座っていた。しかし、

 

「あっ」

 

思わず声が出る。どうやら本を読んでいたらしく、ウェンディのそばには大きな本が置いてあった。その表紙に見覚えがあったため、つい話しかけてしまった。

 

「その本、面白いですよね」

 

その瞬間、ウェンディの背中が震えた。ゆっくりとレベッカの方を振り返る。

 

「し、しってるの?」

 

「はい。昔、読んだことありますよ」

 

その本はいろんな国の童話がまとめられた児童書だった。有名な本ではないが、滑稽で珍しい物語がたくさん収録されており、読みやすくまとめられていて面白い本だった。

 

「私は雪のお姫様の話が好きなんです」

 

幼い時から、本を読むことが大好きだった。実家では一人の時間が多かったため、大抵本を読んで過ごしていた。幸運なことに、祖父に当たる人間がやはり本が好きだったらしく、多くの本が実家の屋敷にはあった。

 

「わ、わたくしもすき!」

 

レベッカの言葉にウェンディが目を輝かせた。

 

「ゆきのおひめさまが、いのちをかけて、だいすきなひとをたすけるのよね」

 

「悲しくて、すごく胸が締めつけられる話ですよね」

 

「そう!すごくせつないの!」

 

「あと、旅人がスプーン一つで巨人を倒すお話もいいですよね」

 

「そのおはなしもだいすき!でもね、こどもたちがそらにさらわれるおはなしはとってもこわくて――」

 

夢中で話を続けるウェンディがハッと我に返ったように口をつぐんだ。そしてプイッと再び背中を向け、

 

「……はやくしごとをおわらせて」

 

とぶっきらぼうに言い放った。

 

「……はい」

 

レベッカは短く返事をして、いつも通り掃除を始めた。

 

掃除をしながら、こっそりと部屋の隅の小さな背中を見つめる。先ほどの、輝くような顔が忘れられない。いつも無表情なので、本当にびっくりした。あんな子どもらしい顔もできるんだ、と思いながら掃除を終わらせた。

 

「終了しました。失礼しました」

 

そう言って、部屋から出ていく。ウェンディは何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうなの?お嬢様は」

 

洗濯室へ立ち寄ると、たまたまキャリーと出会い、そう尋ねられる。レベッカは困ったように首をかしげ、口を開いた。

 

「……難しい方、ですね」

 

「まあ、生まれた時からずーっと、ほとんど人と関わらずに生活してきた方だしね」 

 

キャリーは心配そうにレベッカを見つめてきた。

 

「本当に大丈夫?問題ない?」

 

「はい。思ったよりも、仕事は難しくないですし」

 

そう言って笑うと、キャリーは少し安心したように微笑み返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから1週間ほど経ったある夜のこと。

 

「……天気、悪いなぁ」

 

その日の仕事を終えて、部屋に戻り、窓から空を見上げる。いつもの星空は見えず、厚い雲が空を覆っていた。

 

「今日は早く寝よう……」

 

そう呟き、寝衣に着替えようとしたその時、

 

「……ん?」

 

空から、ゴロゴロと唸るような恐ろしい音が聞こえた。雷鳴の音だ。

 

「……」

 

静かに外の風景を見つめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと、昔のことを思い出した。小さい頃の、思い出だ。幼い時の自分は雷が恐ろしかった。あまりの恐ろしさに、真夜中にメイドのレベッカの部屋へと駆け込んだ事がある。

 

『レベッカ!怖い、雷、怖い!』

 

『まあまあ、お嬢様、大丈夫ですよ。ほら、大きな音がして光るだけです』

 

『でも、でもね、雷が鳴る夜は――』

 

雷に怯えながら、泣きじゃくり、レベッカに抱きついた。レベッカは優しく頭を撫でて、その夜はずっと付き添ってくれた。懐かしい思い出だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今は、もう雷なんて怖くない。あの頃のように、恐ろしさのあまり、誰かに泣きつくことはない。

 

だが――

 

「……」

 

少し考えて、静かに私室から出る。そのまままっすぐにキッチンへと向かった。幸運なことに、キッチンには顔見知りの料理人が残って仕事をしていた。

 

「すみません」

 

そう声をかけると、料理人は少し驚いたような顔をした。

 

「お、どうした?」

 

「ミルクと蜂蜜を少しいただけませんか?」

 

レベッカの言葉に料理人が首をかしげた。

 

「え?なんで?」

 

「……少し、必要でして。お願いします」

 

「まあ、いいよ。ちょっと待って」

 

そう言って、料理人はキッチンの奥から、ミルクと蜂蜜の入った小さな瓶を持ってきてくれた。

 

「これでいいか?」

 

「助かります。ありがとうございました」

 

軽く頭を下げて、ミルクと蜂蜜を抱えてキッチンから出ていった。

 

そのまままっすぐに目的の部屋へと向かう。その途中で、凄まじい音が轟いて、一瞬立ち止まる。空を裂くように雷が鳴り響いた。

 

「……」

 

再び歩き出す。少し足を早めて、階段を昇った。そして、ようやくウェンディの部屋へとたどり着いた。

 

扉を軽くノックして声をかける。

 

「……お嬢様、少しよろしいですか」

 

しばらく返事はなかった。戻ろうか、と一瞬迷ったその時、

 

「……はいって」

 

小さな声が聞こえて、扉を開けた。

 

「失礼します」

 

そう言いながら扉を開ける。ウェンディはいつもの部屋の隅っこではなく、大きなベッドの上でシーツを被って丸まっていた。

 

「……なにか、ようじ?」

 

いつも通り、素っ気ない言葉だ。レベッカが答えようとしたその時、

 

『ドォーン!!』

 

目の前が光って、部屋を揺さぶるような轟音が鳴り響いた。その瞬間、ウェンディがビクッと身体を震わせたのを見逃さなかった。轟音が静まった後も、プルプルと震え続けている。

 

レベッカは苦笑する。思った通りだ。

 

「お嬢様」

 

「……な、なに?」

 

「私、雷が苦手なんです」

 

その言葉に、ウェンディがシーツの中から顔を出した。戸惑ったようにこちらを見ている。

 

「――え?」

 

「雷が、苦手なんです」

 

再びはっきりと言う。そして、困ったように首をかしげて、言葉を重ねた。

 

「一人は心細いので、ここにいていいですか?」

 

レベッカの言葉に、ウェンディは呆然と口を開けた。そして目を泳がせながら、小さく口を開いた。

 

「……そ、それなら、しかたないわね。ここに、いれば、いいわ」

 

ウェンディはそう言いながらも、安心したような顔をしていた。レベッカは自分の想像が当たった事を確信し、こっそり苦笑しながら頭を下げた。

 

「感謝いたします。お嬢様」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きっと、ウェンディは雷が怖いはずだ。そう思ったのは、先日の児童書と、ウェンディとの会話がきっかけだった。

 

『こどもたちがそらにさらわれるおはなしはとってもこわくて――』

 

ウェンディの言葉で思い出した。児童書の中に収録されている一編。それは、少し珍しいホラー作品だった。夜、魔物が雷とともに天から地上に降りてくる。そして、子どもたちをさらっていく、という怖い物語だった。児童書にしては恐ろしい描写が印象的で、レベッカも小さい頃初めて読んだ時はトラウマになった。雷が苦手だったのもその物語の影響だ。

 

あの頃のレベッカのように、きっとウェンディは一人ぼっちで夜の雷に怯えている。それを想像すると、放っておけなかった。余計なことはするべきではない、と分かってはいたが、心配でたまらなかったから、仕事ではないのに、ここに来てしまった。

 

レベッカはできるだけ優しくウェンディに話しかけた。

 

「お嬢様、ミルクを飲みませんか?」

 

「……みるく?」

 

「はい。蜂蜜入りの、ミルクです。甘くて美味しいですよ」

 

そう言いながら、ウェンディの返事を待たずに、魔法でミルクを温め、カップに注ぐ。そこに蜂蜜を少し垂らした。周囲に甘い香りが満ちていく。

 

「どうぞ」

 

微笑みながら、カップを差し出すと、ウェンディは躊躇ったようにしながらも、手をこちらへと伸ばして、それを受け取った。ウェンディがカップを手に取った拍子に、腕の赤い痣が見えてドキッとした。

 

ウェンディはカップを手にしばらくそれを見つめていたが、やがてゆっくりとそれを一口飲む。そして、

 

「――おいしい」

 

そう言って、少しだけ笑った。その顔がとても可愛らしくて、思わずレベッカも顔が綻んだ。

 

その時、再び雷鳴が鳴り響いた。同時にウェンディの肩が震え、

 

「ひっ」

 

と小さく悲鳴をあげる。そして慌てたように、口を開いた。

 

「ち、ちがうの。いまのは、すこし、びっくりして――」

 

「はい。驚きましたね」

 

レベッカは肩をすくめながら、言葉を続けた。

 

「でも、大丈夫です。すぐに雷はどこかに行きますよ」

 

「……ほんとう?」

 

「はい。寝て、目が覚めたら、もう雷は消えています」

 

その言葉に、ウェンディが再び安心したような顔をして、またミルクを飲む。そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「じゃ、じゃあ、かみなりがいなくなるまで、ベッカはここにいる?」

 

「ベッカではなくレベッカです。ええ、はい。一人では心細いので、雷が鳴る間はずっとここにいます」

 

その言葉に、ウェンディがほんの少し笑ってミルクを飲み干した。

 

「お嬢様、そろそろお休みの時間ですよ」

 

レベッカはそう言って、カップを片付け、ウェンディに毛布をかけた。

 

「さあ、寝てください」

 

「……ねむれないかも」

 

ウェンディの不安そうな言葉に少し笑う。きっと雷の音が怖いのだろう。レベッカは少し考え、口を開いた。

 

「では、子守唄を歌います」

 

「こもりうた?」

 

「はい」

 

小さな声で、子守唄を歌う。有名な子守唄だ。きっと雷の音が気にならなくなり、すぐに眠れると思ったのに、レベッカの歌声を聴いたウェンディが変な顔をした。

 

「どうされました?」

 

「……ベッカって、おんちなのね」

 

「ええっ!そんなまさか!」

 

思ってもいなかった言葉にショックを受けて、そう言うと、ウェンディが呆れたような顔をした。

 

「だれにも、なにもいわれなかったの?」

 

「……誰かの前で、歌ったことはなかったので」

 

「こんごは、ひとまえでうたうのはひかえたほうがいいわ」

 

ウェンディが心から哀れむような目で見てきて、レベッカはガックリと肩を落とした。

 

また、目の前が光り、大きな音が鳴る。ウェンディがまた身体を震わせて、毛布を頭まで被った。

 

その怯える姿が、幼い頃の自分と重なり、胸が詰まる。そして、自然と手を伸ばして、毛布越しに安心させるように軽く頭を撫でた。ウェンディが毛布の中で身じろいだのが分かった。

 

「大丈夫ですよ、お嬢様。大丈夫、大丈夫……」

 

「……べつに、こわくなんてないわ」

 

「はい。存じております。でも大丈夫ですよ。一人ではありませんからね……大丈夫、大丈夫……」

 

そのままウェンディを撫で続け、大丈夫という言葉を繰り返す。

 

いつの間にか、雷の音は聞こえなくなっていた。ウェンディの身体の震えも消えている。無事に眠ったようだ。

 

レベッカは安心して、ウェンディを起こさないようにしながら、部屋から出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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近づく距離

 

 

 

雷の夜から、なんとなくウェンディの態度が変わったような気がした。

 

「掃除に参りました」

 

「うん」

 

レベッカが部屋に掃除に来た時は、やはり隅っこで丸まっているが、もう背中は向けていない。レベッカが掃除をしている姿を静かに見つめてくる。しかし、

 

「何かお困りのことはございますか?」

 

そう尋ねても、首を横に振るだけでやはり口数は少なく、ほとんど声を出すことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日、いつも通り掃除が終わったため、ウェンディに声をかけようと振り返ったところ、

 

「――あら」

 

ウェンディは壁にもたれて眠っていた。穏やかな顔をしていて、可愛らしい小さな寝息が聞こえる。

 

ゆっくりとウェンディに近づき、その無防備であどけない寝顔を見つめた。とても可愛らしくて、自然と顔が綻ぶ。

 

こうしてみると、本当に美しい少女だ。

 

「綺麗な髪だなぁ……」

 

腰に届くほど長い輝くような金髪、雪のように真っ白な肌、長い睫毛と形のいい薔薇色の唇。いつも地味なワンピースドレスを着ているけれど、着飾ればもっと輝くだろう。大人になったら、絶世の美女になるのは間違いなかった。

 

しかし、その四肢には不気味な赤い痣が刻まれている。これが有る限り、この小さな少女は、周囲から忌み嫌われ、恐れられ、遠巻きにされ続けるのだろう。

 

「……」

 

急に、目の前のウェンディがとても可哀想になって、胸が詰まった。ゆっくりと腕を伸ばして、その頭を撫でる。

 

「う、……うぅん」

 

ウェンディが少し顔を緩めて、ゆっくりと目を開いた。ぼんやりとこちらを見上げてくる。

 

「あ、起きましたか?」

 

レベッカが声をかけると、その声で完全に目を覚ましたらしいウェンディが飛び上がった。

 

「な、なっ……っ」

 

慌てたように、座ったまま後ろに下がる。

 

「あなた、わたくしにさわったの!?」

 

「あ、気を悪くされたのなら、申し訳ありません」

 

その様子に驚いて、慌てて謝り頭を下げた。いいわけをするように口を開く。

 

「なんだか、寝ている姿が可愛かったので、つい――」

 

「か、かわ……っ」

 

ウェンディが顔を真っ赤にして震える。そして、

 

「つ、つぎにきょかなくさわったら、ゆるさないから!」

 

そう言って、浴室へと走り、乱暴に扉を閉めてしまった。

 

「……失敗したな」

 

自分の行動を反省して、浴室の扉に向かって声をかける。

 

「お嬢様、申し訳ありませんでした。――掃除も終わりましたので、失礼します」

 

ウェンディからの返事はなかった。どうやら、相当怒っているらしい。レベッカは小さく息を吐いて、肩を落として部屋から出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もしかしたらクビになるかな、と思ったが、実際はそうならなかった。翌日、ウェンディはレベッカが部屋に入ってくると、少し睨むような瞳で見つめてきたが、何も言わなかった。

 

「あの、昨日は本当に申し訳ありませんでした」

 

再びそう謝り、頭を下げる。

 

「もう二度としませんので」

 

そう言うと、ウェンディは何かを言いたげな顔をしたが、すぐにプイッと顔を背けた。

 

「……もう、いいわ」

 

小さな声が聞こえて、ホッとする。いつものように掃除を開始した。

 

掃除が終了して部屋を出ていこうとしたその時、珍しくウェンディの方から声をかけられた。

 

「……ねえ」

 

「はい?」

 

声をかけられたことに驚きながらもそちらへ顔を向けると、ウェンディが何かを差し出してきた。小さな桃色の封筒だ。躊躇いながらもそれを受け取る。ウェンディは小さく声を出した。

 

「これ、だしてきて」

 

「お手紙、ですか?」

 

「うん」

 

ウェンディは軽く頷き、そのまま風呂に入るのか浴室へと入ってしまった。

 

封筒をまじまじと見つめる。そこには宛先は何も記されていない。どうすればいいのか分からなかったため、取りあえずウェンディの部屋から出て、メイド長の部屋へと向かった。

 

メイド長に手紙を預かった事を伝えると、すぐに

 

「ああ、大丈夫よ。私が出しておくから」

 

と言ったため、ひとまず安心する。しかし、誰宛の手紙なのか気になり、問いかけた。

 

「あの、どなたへ書かれた手紙なのでしょうか?」

 

教えてはくれないだろうな、と思ったが、予想に反してメイド長はすぐに答えてくれた。

 

「クリストファー様よ。伯爵のご子息で、ウェンディ様のご令兄様ね」

 

「えっ」

 

伯爵夫妻に息子がいたことを初めて知り、レベッカは思わず声をあげた。

 

「ご子息がいらっしゃったんですか?」

 

「あなた知らなかったの?」

 

メイド長が呆れたような顔をして教えてくれた。

 

伯爵夫妻の一人息子かつ後継者のクリストファーは、16歳。魔法学園の寄宿舎で生活しているらしい。真面目で勤勉な、心優しい少年だそうだ。

 

「まあ、学園での生活が忙しいらしくて、ここにはあまり帰ってこれないのだけどね」

 

たった一人の妹、ウェンディとは仲が良く、手紙を送り合っているそうだ。歳が8つも離れているためか、クリストファーはウェンディの事をとても可愛がっているらしい。

 

「え?お嬢様って8歳なんですか?」

 

小柄で痩せているため、てっきり5~6歳かと思っていた。

 

初めて知った事実に驚いていると、メイド長がますます呆れたような顔をした。

 

「レベッカ、あなた本当にこの家のこと、何も知らないのね」

 

「あはは……」

 

誤魔化すように笑うと、メイド長は大きなため息をついた。そのあと、何かに気づいたような顔をして口を開く。

 

「そういえば、レベッカ、あなた、最近働き詰めだったわね。明日は休んでいいわ」

 

「えっ、いいんですか?」

 

「最近全然休んでないでしょう?新しい人がやっと何人か入ってきたから、1日くらいなら大丈夫」

 

「でもお嬢様のお世話は……」

 

「明日1日くらいは私がやるから」

 

メイド長の言葉に安心して、レベッカは深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、久しぶりに私服に着がえて街へと足を伸ばした。メイドの仕事を始めてから、かなり金も貯まってきた。経済的にはかなり余裕が出てきたため、久しぶりにのんびりと買い物を楽しんだ。服や装飾品の店をひやかし、本屋に立ち寄り気になっていた本を購入する。そして、満足しながら屋敷へと戻った。

 

その翌日、制服に袖を通してキッチンへ食事を取りに行く。そして、いつも通り、ウェンディの部屋へと向かい、扉横のテーブルに食事を置いて、ノックした。

 

「お食事をお持ちしました」

 

そう声をかけた瞬間、ガタン、と大きな音がした。その音に驚いて目を見開いたその時、ガチャリと音がして、扉が開く。あちらから扉が開いたのは初めてだ。目を丸くしていると、扉の向こうからネグリジェを身につけたボサボサ頭のウェンディが姿を現した。なぜか目が真っ赤になっており、呆然とこちらを見つめている。その姿に戸惑っていると、ウェンディが突然目を潤ませた。ギョッとして、声をかける。

 

「ど、どうされました?お体の調子が悪いんですか?」

 

その問いかけに何も答えず、ウェンディは泣きじゃくり始めた。どうすればよいのか分からずレベッカがオロオロしていると、ウェンディがようやく口を開いた。

 

「――や、やめたのでは、なかったの?」

 

「はい?」

 

その言葉に、レベッカはキョトンとした。首をかしげながら、言葉を返す。

 

「やめた、と言うと……?」

 

「……き、きのう、ずっと、ここにこなかったじゃない。わ、わたくし、ベッカはもういなくなったのだと、おもって……っ」

 

その震える声に、レベッカは、ああ、と声を出した。

 

「昨日1日お休みを頂いたので、……普通に休んでいただけなんです……」

 

お嬢様には事前に言っておくべきだったな、と考えた時、ウェンディが今度は怒ったような声を出した。

 

「やすむなら、やすむといってちょうだい……っ」

 

「申し訳ありません」

 

反省しながら、深く頭を下げた。

 

「私の不徳の致すところです。誠に申し訳ありませんでした」

 

そう言うと、ウェンディがため息をついた。

 

「ほんとうに、なってないメイドね」

 

「ごもっともです。本当に、申し訳ありませんでした」

 

ウェンディはしばらくレベッカを見つめていたが、やがて小さく声を出した。

 

「――ミルク」

 

「はい?」

 

「ばつとして、きょうのよる、よびりんをならすから、ミルクをもってきて」

 

初めての命令に、驚いて顔を上げた。

 

「ミルク、ですか?」

 

「はちみついりの、よ」

 

その言葉に思わず笑う。どうやら先日の蜂蜜入りホットミルクがお気に召したようだ。

 

「はい、かしこまりました」

 

笑顔でそう答えると、ウェンディは怒ったような顔のまま、食事の載ったトレイを手に、再び部屋の奥へと行ってしまった。レベッカは笑いながらその扉を静かに閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜、チリン、と鈴のような音がして、レベッカは立ち上がった。少し冷えるため、ショールを身につける。そして、準備していたミルクと蜂蜜の載ったトレイを手に、私室から出た。

 

扉をノックして声をかける。

 

「失礼します。ミルクをお持ちしました」

 

「うん」

 

小さな声が聞こえたので、ゆっくりと扉を開ける。思った通り、ウェンディはシーツで身体を覆い隠して、ベッドに座っていた。

 

レベッカは微笑みながら、ベッドへと向かう。

 

「お嬢様、ミルクです。ご要望通り、蜂蜜入りですよ」

 

「ん」

 

ミルクの入ったカップを差し出すと、ウェンディは小さく頷いてそれを受け取った。温かいミルクを一口飲むと、その強張った表情が、ほんの少し柔らかくなった。

 

「それを飲んだら、お休みになってくださいね。もう遅い時間ですよ」

 

レベッカがそう言うと、ウェンディは少し拗ねたような顔をしたが、何も言わずに頷いた。

 

ふと、顔を横に向けると、ベッドの横にある小さなテーブルが目に入る。そのテーブルには本が乗っていた。

 

「――あ」

 

思わず声を出す。それは、今話題の冒険小説の2巻だった。

 

「これ、面白いんですか?」

 

レベッカがそう声をかけると、ウェンディの肩がビクリと震えた。そして、戸惑ったような様子で口を開く。

 

「――ま、まあ、おもしろい、わ」

 

「そうなんですか」

 

そう答え、レベッカは少し笑いながら言葉を続けた。

 

「私、昨日の休みに本屋に行って、この小説の1巻を購入したんです。まだ初めの部分しか読んでないんですけどね、面白かったら、続きも買おうかなって思ってて……」

 

レベッカの言葉に、ウェンディがミルクを一口飲み、ゆっくりと声を出した。

 

「お、おにいさまが」

 

「はい?」

 

「おにいさまが、おくってくれたの……とてもおもしろいから、ウェンディならきっと、きにいるよって……」

 

その言葉に、思わず微笑んだ。

 

「お優しい方なのですね」

 

「……うん、やさしい……おにいさまも、それから、」

 

ウェンディは何か言葉を続けようとして、口ごもってしまった。そして今度は目を泳がせながら、モジモジし始める。どうしたのだろう、とレベッカがその様子を見つめていると、ようやく口を開いた。

 

「と、とても、おもしろい、から……だから……」

 

「……?はい?」

 

「つづきなら、これをよめば、いいわ。わたくしは、もうよみおわったし、……ここに、あるのだから、……か、かうひつようは、ないでしょ」

 

その言葉に驚いて、思わず大きな声を出す。

 

「えっ、それは、貸してくれるって事ですか!?」

 

ウェンディが、レベッカの大きな声に怯えたような顔をした。そして、震えながらまた口を開く。

 

「……わ、わたくしのほんに、さわりたくないのなら、べ、べつに……」

 

「いえ」

 

はっきりとそう言って顔を横に振る。そして、笑いながら、口を開いた。

 

「もしよろしければ、ぜひ、貸してください」

 

ウェンディがほんの少し口を綻ばせた。そして、レベッカから目をそらすようにして声を出す。

 

「――し、しかたないわね。ベッカにだけ、とくべつよ」

 

そして、全て飲み終えたカップを、レベッカに押し付けた。それを受け取ると、ウェンディは再びシーツにくるまった。

 

「そ、そのかわり、あしたから、よびりんをならしたら、ミルクをもってきなさい」

 

その言葉に苦笑しながら返事をする。

 

「かしこまりました」

 

「ぜ、ぜったいよ」

 

「はい。それでは、おやすみなさい」

 

言葉を返して、深く礼をして、ベッドから離れる。なるべく音をたてないように静かに扉を開いて、部屋から出た。そして、扉を閉じる寸前、

 

「――あ、りがと」

 

微かに声が聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ぬくもりと笑顔

 

 

 

翌日から掃除や食事の運搬に加えて、夜にミルクを持っていくことが仕事に加わった。毎晩のように、チリンと呼び鈴が鳴り、その音を合図にレベッカはウェンディの部屋へと向かう。

 

「お待たせしました」

 

「ベッカ、おそい」

 

ウェンディはいつもベッドの上で待っていた。もはや、レベッカです、と訂正するのも面倒くさくなった。苦笑しながらミルクを温めて、蜂蜜をたっぷり入れる。

 

「はい、どうぞ」

 

「ん」

 

蜂蜜入りの温かいミルクを差し出すと、ウェンディは小さく返事をして受け取る。相変わらず口数は少ないが、最初の頃と比べるとその表情は随分と柔らかくなった。ちびちびと少しずつミルクを飲むウェンディを近くから見つめる。

 

「美味しいですか?」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディは何も言わなかったがコクリと頷いた。その姿がとても可愛らしくて、レベッカは思わず微笑んだ。そんなレベッカにウェンディは何かを言いかけ、

 

「……っ」

 

結局何も言わずに目をそらす。レベッカはただ微笑みながらウェンディを見つめ続けた。

 

気がつくと、レベッカがウェンディの世話係になって3ヶ月も経っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、レベッカ、大丈夫なの?」

 

「はい?」

 

久しぶりにキャリーと会い、そう尋ねられる。

 

「体調悪くない?」

 

「ええ、前にも言いましたが、大丈夫ですよ」

 

そう答えて微笑むと、キャリーは心から安心したような顔をした。

 

「よかった。最近全然会わないから心配だったのよ」

 

その言葉に苦笑する。最近はウェンディの世話がメインの仕事になりつつあり、キッチンや洗濯室での仕事をするのが少なくなってきていた。

 

「ご心配おかけして、申し訳ありません。私なら本当に大丈夫なので」

 

「うん。すごいわ、本当に。お嬢様の部屋の仕事がこんなに長く続けられるなんて……」

 

「もう慣れましたから」

 

肩をすくめながらそう言った時、後ろから声をかけられた。

 

「レベッカ」

 

はい、と返事をして振り向くと、メイド長がこちらへ近づいてきた。

 

「これ、お嬢様に渡しておいてくれる?クリストファー様からの手紙よ」

 

そう言って、封筒をレベッカへ差し出してきた。

 

「承知しました」

 

レベッカが頷いてそれを手に取ると、メイド長はさっさとどこかへ行ってしまった。

 

「クリストファー様からのお手紙かー。元気なのかなぁ」

 

「あ、キャリーさんはご子息に会ったことあるんですね」

 

「うん。すっごくかっこいいの。それに優しくて真面目でね……伯爵様とは大違い」

 

最後の言葉を吐き捨てるように言ったため、驚いてキャリーの顔を見た。

 

「それは、どういう――」

 

その時、キッチンから大きな声がした。

 

「キャリー、こっち手伝って!」

 

そう呼ばれたキャリーは

 

「あ、はーい!じゃあね、レベッカ」

 

慌てたようにそう言って、走って行ってしまった。

 

「……」

 

なんだろう、今の言葉。なんだか、気になる。

 

モヤモヤしたものを感じながら、ウェンディの部屋へと向かった。

 

「お嬢様、お手紙です」

 

そう言って、手紙を差し出すと、ウェンディはハッとしたような顔をして、素早く受け取った。ソワソワしながら手紙を開封し、それを読む。その顔はいつもの無表情ではなく、明らかに緩んでいた。

 

本当に仲がいいんだなと思い、微笑ましくなり、ついレベッカもクスリと笑ってしまった。それに目敏く気づいたらしいウェンディがこちらを見てきた。

 

「……なによ」

 

「あ、何でもありません」

 

慌てて背を向けて、風呂の準備をするために浴室へ向かう。背中にウェンディの強い視線を感じ、こっそり苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日後。

 

「本当にお借りしていいんですか?」

 

「うん」

 

ウェンディは所有している小説を本当にレベッカに貸してくれた。先日購入した、今話題になっているという冒険小説の1巻は、評判通りとても面白かった。ウェンディが貸してくれるのはその続編だ。小説の続きを読めることが嬉しくて、レベッカは顔を輝かせながらウェンディにお礼を言った。

 

「ありがとうございます、お嬢様!」

 

「――うん」

 

レベッカの笑顔を見たウェンディは戸惑ったように顔をそらした。

 

それから数日かけて、仕事が終わってから、ウェンディが貸してくれた冒険小説を読んだ。

 

「面白かったです!」

 

「も、もう、よんだの?」

 

本を返却したレベッカに、ウェンディが驚いたような顔をした。

 

「はい!お嬢様の仰ってた通り、とっても面白かったです!」

 

「そ、そう」

 

「特に、主人公が宿敵と対決するシーンは胸が熱くなりました」

 

レベッカの言葉に、ウェンディが大きく頷いた。

 

「わ、わかるわ。あそこ、ほんとうにどうなるかわからなくて、わたくしもドキドキしたもの」

 

「あと、新しく登場した魔女!性格が面白いですよね」

 

「そう!ゆかいで、ばかみたいだけど、おかしいの!」

 

「続きが楽しみですね。3巻も絶対に読みたいです」

 

「わたくしも、ぜったいに、かうわ!」

 

ウェンディが大きな声でそう言って、レベッカは微笑んだ。ウェンディがハッとしたように、下を向く。そんなウェンディに、レベッカは声をかけた。

 

「……また、教えてください」

 

「え?」

 

ウェンディがキョトンとする。レベッカはゆっくりとしゃがんで、ウェンディとまっすぐに目を合わせ、言葉を紡いだ。

 

「お嬢様のオススメの本。また、紹介していただけますか?」

 

その言葉に、ウェンディがポカンと口を開ける。そして、戸惑ったように目を泳がせながら小さく答えた。

 

「し、しかたないわね。すこしなら、……よくてよ」

 

「はい」

 

レベッカが笑う。ウェンディはモジモジとした後、逃げるように浴室へと飛び込んでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、レベッカ!」

 

ある日、午後になってすぐ、メイド長から声をかけられた。

 

「はい、なんでしょうか」

 

淡々と答えると、メイド長が少し困ったような顔で口を開いた。

 

「お嬢様の部屋の掃除、終わったんでしょう?今からキッチンの仕事をお願いできる?」

 

「承知しました」

 

そう答えると、メイド長は急いでどこかへと行ってしまった。

 

「今日は忙しいのかな……」

 

そう呟きながらキッチンへと向かう。なんとなく使用人達もバタバタしているような気がした。キッチンへ顔を出すと、すぐに皿洗いを頼まれた。運ばれてきた食器をどんどん洗っていく。メイド長や使用人が忙しそうにしている理由はすぐに分かった。

 

「もしかして、伯爵様か奥様が帰ってきてるんですか?」

 

洗うよう命じられたたくさんの皿や食器が、明らかに高級な物ばかりだったため、近くの料理人にそう尋ねると、料理人は苦笑しながら頷いた。

 

「ああ、珍しく、旦那様がね」

 

どうりで使用人達が忙しくしているわけだ。レベッカは心の中で納得しながら皿洗いを続けた。

 

この屋敷の主、コードウェル伯爵は、滅多に屋敷に帰ってこない。そのため、レベッカは伯爵がどういう人間なのか、雇い主だというのによく知らない。何やらいつも仕事で忙しいから屋敷には帰ってこない、という事しか知らないのだ。伯爵夫人に至っては、どこで生活しているのか今まで一度しか姿を見たことはなかった。

 

そういえば、ウェンディの口からも伯爵夫妻の話は出てこないな、と気づいた時、近くの使用人から声をかけられた。

 

「レベッカ、これを備品庫に運んでもらえる?」

 

大きな箱を差し出されて、慌てて濡れた手を拭いてそれを受け取った。

 

「承知しました!」

 

箱を手に持ち、急いで備品庫へと向かう。適当な場所に箱を置いて、キッチンへと戻ろうと廊下を進んでいたその時だった。

 

誰かの笑い声が聞こえた。甲高くて、はしゃいだような、知らない女性の笑い声だ。

 

声がした方を振り返り、目を見開く。廊下の向こうから、誰かが歩いてくるのが見えた。伯爵と知らない女性だ。慌てて廊下の端へと移動し、頭を深く下げた。伯爵と女性はレベッカの事など全く気にも留めずに廊下を歩き続け、どこかへと行ってしまった。

 

「……」

 

頭を上げて、二人の後ろ姿を見つめる。伯爵と女性は随分と親しい様子だった。女性は伯爵にピッタリとくっついて、腕を絡ませている。伯爵は下品な笑みを浮かべていた。

 

「ああ、新しい愛妾でしょ」

 

キッチンへと戻り、たまたま顔を合わせたキャリーに伯爵が知らない女性と歩いていた事を話すと、あっさりとそう言い放ったため、レベッカは驚いた。

 

「愛妾、ですか……」

 

「知らなかった?伯爵様、物凄く女好きなのよ。奥様がここにほとんど帰ってこないでしょ?それをいいことに、たまに、今日みたいに愛妾を連れてくるのよね。何を考えているのやら」

 

「す、すごいですね」

 

少し顔を引きつらせながらそう言うと、キャリーは唇をレベッカの耳元に近づけてヒソヒソと声を出した。

 

「今の結婚だって、3回目なのよ」

 

「3回目!?」

 

「声が大きい!1人目の奥様とは子どもができなくて離縁、2人目の奥様との間にはクリストファー様が生まれたけど、伯爵様の女遊びに奥様が怒っちゃって離縁、3人目――今の奥様ね、結婚してすぐにウェンディ様がお生まれになったけど……今はかなり仲が悪くて、いつ離縁してもおかしくない、って感じらしいわ。今の奥様がここに帰ってこないのは、伯爵様とお嬢様の顔を見たくないから、らしいし……」

 

「か、顔を見たくないって……」

 

母親なのに?と思わず言いそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。

 

「レベッカも、伯爵様には気をつけてね。あの女好きは、きっと一生治らないわよ」

 

キャリーが肩をすくめながらそう言って、レベッカはどう答えればいいか分からず、曖昧に頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チリン、と呼び鈴が鳴って、レベッカは慌てて立ち上がった。すぐにミルクと蜂蜜をトレイに乗せて、ウェンディの部屋へと向かう。

 

「失礼します」

 

扉をノックして、開くと、ウェンディはいつも通りベッドの上で待っていた。その顔を見て、レベッカは首をかしげる。いつもの無表情だが、なんとなく憂鬱そうな顔をしているような気がした。

 

素早くミルクを温めて、カップに注ぐ。蜂蜜を入れて、ウェンディにカップを差し出した。

 

「お嬢様、どうぞ」

 

ウェンディは無言でそれを受け取る。ゆっくりとカップを唇に近づけ、

 

「……」

 

結局唇をつける前に、カップを下ろした。下を向いて、大きく息を吐く。

 

「……お嬢様?どうされました?」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディはゆっくりと口を開いた。

 

「……きょう、……お、とうさまが、きてたでしょ」

 

その言葉に、少し驚いたがすぐに頷いた。

 

「はい……よくご存知ですね」

 

「お、とうさまが、きているときは、なんとなく、……このやしきの、くうきが、いつもとちがうから」

 

ウェンディが言葉を区切るようにそう言って、また大きなため息をついた。

 

「お嬢様……?大丈夫ですか?」

 

その様子に、レベッカが声をかける。ウェンディはしばらく無言だったが、不意に顔を上げてレベッカを見上げた。

 

「……ベッカ」

 

「はい」

 

「ここ、すわって」

 

「はい?」

 

首をかしげると、ウェンディが自分の乗っているベッドをポンポンと軽く叩いて示してきた。

 

「ここよ、ここに、すわるの」

 

一瞬キョトンとしたが、レベッカはすぐに動いた。

 

「では、失礼します」

 

一応そう声をかけて、示された位置に座る。ウェンディはレベッカを見ながらソワソワと四つん這いで近づいてきた。

 

「べ、ベッカ」

 

「はい?」

 

「あ、あのね、あの、ね……」

 

「なんですか?」

 

首をかしげながら、ウェンディの言葉を待つ。ウェンディは迷ったようにオドオドしていたが、ようやく口を開いた。

 

「……さ、」

 

「さ?」

 

「――さ、さわってもいい?」

 

レベッカはウェンディの言葉の意味が分からなくて、眉をひそめた。

 

「触る?何をですか?」

 

「――べ、ベッカに、さわっても、いい?」

 

ポカンと口を開ける。ウェンディはレベッカの反応を見て、泣きそうな顔をしていた。ウェンディの言葉の意味が分からず、困惑しながら、とりあえずレベッカは答えた。

 

「えーと、よく分かりませんが、とりあえず、……どうぞ」

 

レベッカがそう言ってウェンディに身体を近づけると、ウェンディはビクリと少し後退りした。

 

「ど、どうぞって……いいの?」

 

「え?なにがですか?」

 

「の、のろわれる、かもしれないのよ。あざが、うつるかも」

 

その言葉にレベッカは驚いて声を出した。

 

「えっ、移るんですか?メイド長さんがデタラメだって言ってましたけど」

 

「う、うつらない、けど」

 

「じゃあ、問題はないじゃないですか。それに、最初、風邪を引いた時に、一度お嬢様を抱っこしたり、頭を撫でたりしていますから。今更ですよ」

 

「そ、そうだけど」

 

「さあ、どうぞ」

 

またウェンディに近づく。ウェンディはビクビク震えていたが、大きく息を飲むと、ようやく手を伸ばしてきた。

 

ウェンディの手が、レベッカの頬に触れる。小さな、子どもらしい手だ。思わず笑うが、ウェンディは真剣な瞳でレベッカの頬を撫でた。

 

「あたたかい、のね……」

 

「そうですか?」

 

「やわらかい……」

 

レベッカは笑いながら、ウェンディの手を自分から握った。

 

「……っ」

 

ウェンディが驚いたように一瞬呼吸を止めた。

 

「こっちはもっと温かいでしょう?」

 

そう言って微笑む。そして、ゆっくりとぬくもりを分け合うように、ウェンディの両手をそっと優しく包んだ。

 

「……ほんとだ」

 

ウェンディが泣きそうな顔で何度も頷いた。

 

「……ベッカ」

 

「はい」

 

名前を呼ばれて、返事をする。

 

「……ベッカ、……ベッカ、ベッカ」

 

「はい」

 

「……わたくしを、よんで」

 

「お嬢様?」

 

「そうではなくて、……なまえを、よぶの」

 

「……はい、ウェンディ様」

 

レベッカが名前を呼ぶと、ウェンディは華が咲いたように笑った。その笑顔に心臓が高鳴る。あまりにも美しく、無邪気な笑顔だった。ウェンディが笑顔のまま言葉を重ねる。

 

「こんやは、ずっとここにいて」

 

「ここに、ですか?」

 

「わたくしが、ねむるまで、こうして、てをにぎってて、ほしいの。おねがい」

 

「はい、よろしいですよ」

 

レベッカの答えに、ウェンディが満足そうに頷き、ベッドに横たわった。

 

「――ベッカ」

 

「はい」

 

「あのね、こんやは、すごく、いいゆめをみるようなきがする」

 

「あら、どうしてですか?」

 

「ふふふ」

 

レベッカの問いかけにウェンディは答えず、小さく笑った。笑いながら、瞳を閉じる。そしてゆっくりと夢の世界へと旅立った。レベッカはウェンディの手を握りながら、その様子を静かに見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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知らない世界

 

 

「ベッカ!ベッカ!」

 

「はい、お嬢様」

 

ウェンディとの距離が、また近づいた。最近ウェンディは部屋の隅っこにはいない。レベッカが部屋に入ると、すぐに駆け寄ってくるようになった。自分から話しかける事が増え始め、更には時折レベッカの手を握るようになった。

 

「これ、かしてあげる!」

 

ウェンディがはきはきと声を出して、大きな本を差し出してきた。見たことのない表紙だ。

 

「新しい本ですか?」

 

「うん!おにいさまが、またおくってきてくれたの。おもしろいのよ!」

 

「私が読んでもよろしいのですか?」

 

「うん!」

 

ウェンディが大きく頷いたので、レベッカは笑いながら本を受け取った。

 

「それでは、今日仕事が終わったら、早速読んでみますね」

 

本の表紙をじっくり眺めながら、レベッカはウェンディに尋ねた。

 

「どんな内容なんですか?」

 

「しゅじんこうが、ねがいをかなえてくれるおはなをさがして、たびするおはなしよ。ちょっとながいけど、おもしろいの」

 

ウェンディの言う通り、少し分厚くて読むのに時間がかかりそうな本だ。冒険ものか、と考えながらペラペラとページをめくる。その時、あることに気がついて、レベッカは少し笑った。

 

「お嬢様は冒険もののお話が好きなんですね」

 

ウェンディが気に入る本は、主人公が旅をしたり冒険をする内容が多い。レベッカの指摘にウェンディが目を丸くした。

 

「あ……そうなの、かしら?」

 

「気づいていらっしゃらなかったんですか?」

 

「……うん」

 

ウェンディがコクリと頷いた。

 

「私も好きですよ、冒険もの。ワクワクして、楽しいですよね」

 

レベッカの言葉に、ウェンディがまた大きく頷いた。

 

「そう!しらないせかいをしることができるから、すき!」

 

ウェンディとレベッカはクスクスと笑い合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜、ウェンディの部屋を訪れ、蜂蜜入りのミルクを準備するのは、もはや習慣のようになってきた。

 

「ベッカの、いれてくれるミルク、すき」

 

ウェンディがミルクを一口飲み、顔を綻ばせながらそう呟く。その柔らかい表情を見て、レベッカは微笑みながら口を開いた。

 

「私も、昔、眠れない夜に、こうやって蜂蜜入りのミルクを入れてもらって、飲んだんです」

 

幼い頃、実家でミルクを入れてくれたのは、今は亡きメイドのレベッカだった。

 

『さあ、どうぞ、お嬢様』

 

優しくそう言って、差し出されたミルクはびっくりするくらい甘くて美味しくて、ホッとしたのを覚えている。

 

懐かい思い出に浸っていると、ウェンディが不思議そうにこちらを見つめてきた。

 

「ベッカ?どうしたの?」

 

ウェンディの方へ顔を向けて、思わず笑った。

 

今では、自分がレベッカと同じメイドという立場になり、主人にミルクを入れている。そんな状況がなんだかおかしくなり、クスクスと笑いながらウェンディへと手を伸ばし、頭を優しく撫でた。

 

「お嬢様が、とっても可愛らしいな、と思って」

 

「な、なに、とつぜん」

 

ウェンディが狼狽えたような顔をする。レベッカは笑いながら、言葉を重ねた。

 

「世界一、可愛いです。本当に」

 

「……っ、なんなのよ、もう!」

 

ウェンディが顔を真っ赤にしてレベッカの腕を軽く叩いた。レベッカはそれでも笑いながら、ウェンディを撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日、ウェンディの部屋にて、レベッカはいつも通り掃除を終わらせたあと、ウェンディに声をかけた。

 

「お嬢様、申し訳ありませんが、明日のお掃除はちょっと遅くなります。午後から始めますね」

 

テーブルで兄からの手紙を読んでいるウェンディが、その言葉に軽く首をかしげた。

 

「いいけど……なにかあるの?」

 

「いえ、明日、庭師さんの手伝いを頼まれまして……庭仕事をするんです……それで、午前中はこちらには来るのは難しいかと……食事はいつも通りの時間にお持ちいたしますので」

 

「わかった」

 

ウェンディは小さく頷き、また手紙に視線を戻した。レベッカは特に何も言われなかったことに少し安心しながら、掃除用具の後片付けをして部屋から出た。

 

次の日、午前中に庭師と共に庭の手入れを終えると、すぐにウェンディの部屋へと向かった。

 

「失礼します。お待たせして申し訳ありません……」

 

「べつにまってないわ」

 

ウェンディはソファに座って本を読んでいた。

 

「では始めますね」

 

「んー」

 

そう声をかけ、掃除を開始する。床を綺麗にして、窓を拭いていると、不意にソファに座るウェンディが本を閉じて、声をかけてきた。

 

「にわのていれは、どうだった?」

 

その問いかけに振り返って答える。

 

「少し大変でしたが、綺麗になりましたよ。今は黄色の薔薇が綺麗に咲いているんです」

 

「……ばら」

 

「はい」

 

レベッカはふと思い付いたように声を出した。

 

「よろしければ、一緒に庭に行って、見てみませんか?本当に綺麗な薔薇なんですよ」

 

いい気分転換になるだろう、と深く考えずにそう誘ってしまった。たまには庭で過ごすのもいいのではないか、と軽く考えていた。

 

ウェンディは、レベッカの誘いに肩をピクリと動かした後、何も答えなかった。しばらく沈黙が続く。

 

「お嬢様……?」

 

レベッカが戸惑いながら声をかけたその時、ようやくウェンディが首を横に振った。

 

「いかない」

 

きっぱりとしたその声に、少し驚く。ウェンディの顔は強張っていた。

 

「あ、……そうですか」

 

レベッカが困惑しながら肩を落とすと、ウェンディはハッとして慌てたように口を開いた。

 

「あ、ち、ちがうの。ベッカといくのがいやなわけじゃない、わ……」

 

「え、は、はい……」

 

レベッカが戸惑っていると、ウェンディが気まずそうに顔をそらした。

 

「……わたくしが」

 

「はい?」

 

「わたくしが、そとにでると、……みんな、あざを、こわがって、きんちょうしてしまうから。だから、いいの。わたくしは、このへやから、でない」

 

その言葉に、言葉が詰まった。それと同時に安易に庭に出ようと提案したことを多いに後悔する。

 

「も、申し訳ありません」

 

深く頭を下げると、ウェンディが静かに声を出した。

 

「こちらこそ、ごめんね、ベッカ。せっかくさそってくれたのに」

 

「……申し訳、ありませんでした」

 

震えながら再びそう謝る。自分の言動が恥ずかしくて、顔が熱くなった。

 

私はやはり馬鹿で呑気だ。主人の気持ちを考えもせずに悲しい思いをさせてしまうなんて。

 

そう思った時、唐突に気づいた。ウェンディが本を読むことが好きなのは、この部屋から出るのを諦めているからだ。ウェンディは生まれた時からずっと部屋にこもって生活をしている。冒険小説を好むのは、この部屋以外の世界を知らないから、外の世界を自分の目で見ることが出来ないから、なのだろう。だから、知らない世界に少しでも触れたくて、本を読んで想像の世界を楽しんでいる。

 

そんな生き方しか、できないから。

 

それに気づいた瞬間、心が沈んでいき、胸が苦しくなった。心臓が痛くて仕方ない。今まで気づかなかった自分の鈍さに怒りを感じた。

 

その時、ウェンディが立ち上がる気配がした。

 

「ベッカ」

 

「……」

 

「おかおを、あげて」

 

そう言われて、ゆっくりと頭を上げる。小さな主人は目の前で笑っていた。

 

「わたくしのためにいってくれたんでしょう?ありがとう」

 

「……」

 

ウェンディにお礼まで言わせてしまい、情けなくなって思わず顔を歪める。そんなレベッカの手を、ウェンディが自分から握ってきた。

 

「ねえ、こんやは、ふたりでミルクをのみたい。はちみついりの、よ」

 

「……はい」

 

「また、ねるまで、わたくしのてをにぎって」

 

「はい」

 

「それからね、ベッカのこもりうたがききたいの。おうたを、うたってね」

 

「……お、おんちだから、いやです」

 

「それでいいの。ベッカのおうたがいいの」

 

ウェンディが楽しそうに笑う。反対にレベッカは泣きそうな顔でウェンディの手を強く握り、やっとのことで頷く。

 

この笑顔を、守りたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日。

 

「これ……」

 

ウェンディがポカンと口を開け、こちらを見上げてくる。レベッカは緊張した面持ちで、薔薇の花束をウェンディへ差し出した。

 

「庭師さんとメイド長さんから許可をいただいて、持ってきました」

 

黄色の薔薇の花束を見て、ウェンディは呆気に取られていたが、やがて声を出して笑い出した。

 

「ふふふ、ほんとう、きれい、ね」

 

「はい、お嬢様にも見てほしかったんです」

 

「わたくし、このばら、とてもすきだわ」

 

「本当ですか!」

 

「うん。おへやに、かざって」

 

ウェンディが笑いながら、命じる。レベッカは大きく頷いて、返事をした。

 

「承知しました!」

 

他の使用人から花瓶を借りて、部屋のテーブルに薔薇を飾る。ウェンディとレベッカは一緒にソファに肩を並べて座り、薔薇を眺めた。

 

「こんなにきれいにさくのね……」

 

「他にも綺麗なお花が庭に咲いているんです。また、もらってきますね」

 

「かわいいおはながいいなぁ……」

 

「承知しました。あ、そういえば、庭師さんから面白いお話を聞いたんです。この薔薇は観賞用なんですけど、食べられる薔薇もあるそうですよ」

 

「えぇぇ?うそぉ……」

 

「本当です」

 

「じょうだんでしょ?」

 

「いや、本当なんですよ」

 

2人で会話をしながら、薔薇を見つめる。ウェンディが嬉しそうに笑って、レベッカを見上げてきた。

 

レベッカも微笑み返しながら、この時間が楽しいな、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日後。

 

「レベッカ、倉庫から掃除道具を持ってきて」

 

「はーい!」

 

使用人から頼まれて、急いで倉庫へと向かう。これが終わったら、お嬢様の夕食を運んで、キッチンでの仕事を終わらせなければ。何時ごろ仕事が終わるかな、と考えながら足を進め、角を曲がったその時だった。

 

「あっ」

 

誰かとぶつかる。軽い衝撃を受けて、反射的に口を開いた。

 

「申し訳ありませんっ」

 

「いや、こちらこそ、すまない。大丈夫かい?」

 

聞き覚えのない声が聞こえて、前を向く。そこに立っていたのは、一目で分かるほど、上品で高級な服を身につけた美しい青年だった。薄い金髪を少し伸ばして後ろで結んでいる。その瞳は、紫水晶のように美しい。こんなにも美しい男性を見たのは初めてだ。思わず見とれていると、青年が困ったような顔をしながら口を開いた。

 

「ちょうどよかった。君、レベッカというメイドがどこにいるか知ってるかい?」

 

青年の問いかけに、思わず目を見開いた。どう答えればいいのか分からず、困惑した声が出る。

 

「あ、あの…」

 

「ああ、ごめん、ごめん。急にこんなこと聞かれたらびっくりするよね」

 

青年が苦笑しながら、言葉を重ねた。

 

「僕の名前は、クリストファー・ジーン・コードウェル。レベッカというメイドを探しているんだ。――どこにいるか、知らない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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兄と妹

 

 

 

「そうか、君がレベッカだったのか」

 

レベッカが戸惑いながらも頭を下げながら自己紹介をすると、クリストファーが朗らかに微笑んだ。

 

「妹からよく話は聞いているよ。いつもありがとう」

 

「いえ……」

 

その言葉に驚いて口を開く。

 

「私の話って……」

 

「最近のウェンディからの手紙はね、8割は君の事を書いているんだ。よくしてくれて、本当にありがとう」

 

「はあ……」

 

困惑しながら頷くと、クリストファーは軽く頭を下げた。

 

「ろくでなしの父に代わって礼を言うよ。最近の妹は、本当にとても楽しそうなんだ。手紙からも伝わってくるほどに」

 

「あ、いえ、とんでもございません……」

 

頭を下げられたことでオロオロしていると、クリストファーは顔を上げて再び微笑んだ。

 

「もしよければ、今からウェンディの部屋で一緒に夕食はどうかな?」

 

「え、えっと……」

 

「ウェンディもきっと喜ぶよ。食事はこちらで準備させるから」

 

熱心にそう誘われて、レベッカは困惑しながらも、小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おにいさま!」

 

ウェンディの部屋に入ると、クリストファーの顔を見た瞬間、ウェンディが駆け寄ってきた。そのままクリストファーに抱きつく。

 

「ウェンディ」

 

クリストファーがウェンディを優しく抱き締める。

 

「かえってきたの?」

 

「少し時間ができたんだ。久しぶりだね、ウェンディ。少し大きくなったかな」

 

クリストファーがウェンディの頭を撫でながらそう言って、ウェンディが嬉しそうに笑った。

 

レベッカは扉の近くに控えて、その姿を静かに見つめ、美しい兄妹だな、と考えていた。2人は母親が違うためか、顔は全然似ていない。クリストファーは、彫像のように目鼻立ちが整っており、優しげな瞳の凛々しい顔つきの青年だった。2人の兄妹に共通しているのは薄い金髪と、とんでもなく美形だということだ。

 

ぼんやりと眺めていると、ウェンディがレベッカの存在に気づき、声をあげた。

 

「あっ、おにいさま、ベッカよ!わたくしのメイド!」

 

ウェンディがクリストファーから体を離し、レベッカに近づき手を握る。そのままクリストファーの方へとレベッカの手を引いた。

 

クリストファーがその様子に少し目を見開き、また朗らかに笑った。

 

「うん。さっき廊下で会って、来てもらったんだ。今から三人で食事でもどうかな、と思ってね」

 

その言葉に、ウェンディが顔を輝かせた。

 

「おしょくじ?おにいさまと、ベッカと?」

 

「そうだよ。ウェンディの好きなものを用意させたからね」

 

ウェンディが嬉しそうにレベッカを見上げてきた。

 

「うれしい!ベッカ、こっちにきて!」

 

「あ、お、お嬢様――」

 

ウェンディに手を強く引っ張られ、戸惑いながらテーブルへと向かった。

 

「ベッカ、きょうはわたくしのとなりにすわるのよ」

 

「は、はい」

 

そう命じられて、戸惑いながらも椅子に腰を下ろした。ウェンディが珍しくはしゃいだ様子でレベッカの隣に座り、クリストファーも微笑みながらテーブルへと近づいてきた。

 

「ウェンディと食事するのは久しぶりだね」

 

そう言いながら、椅子に座った時、誰かが扉をノックした。

 

「どうぞ」

 

クリストファーが声をかけると、レベッカの知らない執事らしき人物が入ってきた。

 

「お食事をお持ちしました」

 

「うん。頼む」

 

クリストファーが軽く頷くと、すぐに何人かのメイドが入ってきて、テーブルに豪勢な食事が並べられた。レベッカがソワソワしていると、クリストファーが安心させるように微笑んだ。

 

「気楽に楽しんでくれ。緊張しなくていいからね」

 

「は、はい」

 

そう言われてもこんな状況では緊張が止まらないんですけど、と思いながらフォークとナイフを手に取る。そのまま3人での不思議な晩餐が始まった。

 

ウェンディがレベッカの隣で楽しそうに食事をしている。今まで見たことのないくらい幸せそうな顔だ。とても可愛らしくて、ほんの少しだけ緊張が解けた。

 

「ウェンディ、美味しいかい?」

 

クリストファーも食事を楽しんでいるような様子でウェンディに声をかける。ウェンディは咀嚼しながら大きく頷き、飲み込んでから口を開いた。

 

「おいしい。それにね……」

 

「うん?」

 

「おにいさまと、ベッカと、さんにんでの、おしょくじ、うれしい!」

 

「そうか。それはよかった。レベッカを誘って正解だったな」

 

クリストファーがこちらを見てきて、レベッカも微笑み返した。その時、クリストファーが何かに気づいたように口を開いた。

 

「レベッカ、君、食べ方がとても綺麗だね」

 

「え、あ、ああ……、そうでしょうか」

 

曖昧に答えながら思わず目をそらす。これでも元貴族だから、マナーに関してはきちんと教育を受けてきた。でも平民と偽ってここで働いているのだから、それを知られるわけにはいかない。レベッカは誤魔化すように声をかけた。

 

「クリストファー様は、また学園に戻るのですか?」

 

「うん。この食事のあと、すぐにね」

 

その言葉に、ウェンディが落胆したような声を出した。

 

「そんなにすぐにいってしまうの……?」

 

「うん。ごめんね、ウェンディ」

 

クリストファーが申し訳なさそうにウェンディに謝った。

 

「また、戻ってくるから。手紙も出すよ。それに、またウェンディが気に入りそうな本を贈るから……」

 

「……」

 

ウェンディが悲しそうに下を向いた。

 

その後は、クリストファーが何を話しかけても、ウェンディは落ちこんだ様子でほとんど話さなかった。

 

食事が終わり、別れの時間が来た。部屋の扉の前で、クリストファーがしゃがみこみ、下を向いたままのウェンディの肩を優しく抱いて口を開く。

 

「ウェンディ、どうか元気を出して。長期休暇もあるし、すぐにまた会えるよ」

 

「……」

 

「顔を上げておくれ。ウェンディの笑顔を見てから戻りたいんだ」

 

「……」

 

何も答えないウェンディに、レベッカは思わず声をかけた。

 

「――お嬢様」

 

その声に導かれたように、ウェンディが顔を上げて、クリストファーを見上げた。

 

「おにいさま」

 

「うん」

 

「かえってきてね。わたくし、ずっとまってるから」

 

その言葉に、クリストファーが一瞬言葉に詰まったような顔をする。そして、ウェンディを強く抱き締めた。そのまま小さく囁く声が聞こえた。

 

「ウェンディ。僕との約束、覚えてるかい?」

 

「うん」

 

「絶対に、約束は守るよ。ウェンディの呪いは――僕が必ず解いてみせるから」

 

その声が聞こえて、ウェンディの後ろで控えていたレベッカは目を見開いた。ウェンディがクリストファーの腕の中で声を出した。

 

「わたくしなら、だいじょうぶよ、おにいさま。むりしないで」

 

「ウェンディ……」

 

「それにね、いまは、まえよりもすこしだけ、げんきだから」

 

「うん?」

 

ウェンディがクリストファーから体を離して、今度はレベッカの方へ体を向けた。そのままレベッカの手を強く握りしめる。

 

「ベッカがいるから。わたくし、もうひとりじゃないの」

 

そのままニッコリと無邪気に微笑んだ。その笑顔を見て、クリストファーも笑った。

 

「そうか……」

 

そして、クリストファーは今度はレベッカに向かって口を開いた。

 

「どうか、妹のことを頼む」

 

「――はい」

 

レベッカは真っ直ぐにクリストファーを見つめ、返答した。クリストファーはレベッカの答えに満足そうに笑いながら、

 

「それじゃあ、またね」

 

そう言って、部屋から出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリストファーが出ていった後、すぐにウェンディはベッドへと向かい、そのままうつぶせに寝転んだ。

 

「お嬢様……」

 

声をかけたが、ウェンディは何も答えない。兄が去ってしまって、やはり、心細いのだろう。レベッカはどう慰めればいいのか分からず、ベッドのそばでオロオロした。

 

「あ、あの、お嬢様、ミルクをお持ちしましょうか。それとも、何か――」

 

ウェンディにそう声をかけると、ようやくウェンディが声を出した。

 

「いらない。なにもいらない」

 

「そ、そうですか」

 

どうしよう。どう慰めればお嬢様は元気になるのだろうか。自分のやるべき事が分からず、泣きそうになった時、再びウェンディが口を開いた。

 

「ベッカ」

 

「は、はい!」

 

動揺しながらも大きく返事をすると、ウェンディがこちらへと顔を向けた。

 

「ここ、すわって」

 

「は、はい」

 

命じられるまま、ウェンディのベッドへと座る。レベッカが腰を下ろした途端、ウェンディが身体を起こして、今度はレベッカの膝の上に頭を乗せた。

 

「お、お嬢様?」

 

そのままウェンディはレベッカの膝の上で静かに目を閉じた。少しの沈黙の後、ウェンディが口を開く。

 

「――ベッカ」

 

名前を呼ばれて、小さく答えた。

 

「はい」

 

「……ここに、いて。ミルクもなにもいらない。ベッカが、いてくれるだけでいいの」

 

「……はい」

 

ウェンディの言葉に、胸がいっぱいになって、思わずウェンディの頭を撫でた。ウェンディは拒否することもなく、唇を少しだけ綻ばせて、瞳を開ける。美しいエメラルドの瞳が、レベッカを真っ直ぐに見据えた。

 

「ベッカ」

 

「はい」

 

「ベッカ……ベッカ……」

 

「はい」

 

何度も名前を呼ばれる。ウェンディはレベッカの方へとゆっくり腕を伸ばして、頬を撫でた。

 

「ベッカがいてくれるから、わたくし、もうさびしくないの」

 

「はい」

 

「だから、ずっとそばにいてね。わたくしからはなれては、ダメよ」

 

「はい、ウェンディ様」

 

名前を呼ぶと、ウェンディが幸せそうに、また微笑んだ。

 

 

 

 

 

 



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一番仲良し

 

 

「へー、クリストファー様と会ったのね」

 

クリストファーと初めて対面した次の日、久しぶりにキャリーと一緒の仕事をすることになった。庭で洗濯物を干しながら、クリストファーと食事をしたことを話すと、キャリーが笑いながら口を開いた。

 

「カッコよかったでしょ」

 

「はい。本当にものすごく美形ですね」

 

「恋しちゃった?」

 

「まさか」

 

キャリーの問いかけに思わず吹き出したが、キャリーは真面目な顔で言葉を返してきた。

 

「メイド達の中には、何人か本気で恋してる子がいるのよ」

 

「へぇ……」

 

あの顔なら納得だな、と考えていると、キャリーが洗濯物を手に取りながら言葉を重ねた。

 

「顔も良くて、真面目で、優しくて、しかも頭もいいから、本当にスゴいのよね。学園でも優秀な成績を修めているんだって」

 

「なんというか……完璧超人って感じですね」

 

「それがそうとも言えないのよねー」

 

「え?」

 

レベッカが首をかしげると、キャリーがヒソヒソと声を出した。

 

「あのね、クリストファー様は魔法が苦手なの」

 

顔が良く、頭も良く、性格もいいクリストファーの唯一の欠点、それは魔力の低さらしい。

 

「平民に毛が生えた程度の魔力しかないんだって」

 

「それはお気の毒に……」

 

「だからこそ、顔も良くて真面目な有力貴族なのに、婚約者がいないらしいのよね。まあもっとも、結婚の話が出ないのはお嬢様の呪いの件が大きいのかもしれないけど」

 

呪い、という言葉に、レベッカは下を向く。クリストファーが別れ際にウェンディへと言っていた言葉を思い出した。

 

『絶対に、約束は守るよ。ウェンディの呪いは――僕が必ず解いてみせるから』

 

あの言葉は、本当なのだろうか。

 

もしも、お嬢様の呪いが解けるのなら、それは――

 

「レベッカ?どうしたの?」

 

突然黙りこんだレベッカに、キャリーが不思議そうな顔をして声をかける。レベッカは慌てて誤魔化すように声を出した。

 

「いえ。何でもありません」

 

そう答えながら、洗濯かごを持ち上げる。

 

「キャリーさんは、これから台所で仕事ですか」

 

「うん。ジャガイモの皮むき。レベッカは掃除?」

 

「はい。お嬢様のお部屋の……終わったら、そちらを手伝いますね」

 

「助かるわぁ。今日は他にも仕事がいっぱいあるのよねー」

 

キャリーと会話しながら庭を歩いて屋敷に入ろうとしたその時、

 

「――ん?」

 

誰かの強い視線を感じた。眉をひそめながら、その場で立ち止まり、上を見上げる。そして、驚きで目を見開いた。ウェンディが部屋の窓から、じっとこちらを見つめていた。

 

「あ……」

 

レベッカと目が合ったウェンディは、慌てたように窓から離れる。

 

「……?」

 

その様子に首をかしげていると、キャリーが声をかけてきた。

 

「レベッカ、どうしたの?」

 

「あ……、すみません、今行きます!」

 

そう答えながら、窓から視線を外し、キャリーの元へと走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼します」

 

キャリーと別れた後、掃除のために、ウェンディの部屋に入る。ウェンディはソファの上で膝を抱えるように座っていた。

 

「お嬢様、お掃除をしますね」

 

「……ん」

 

声をかけると、ウェンディは小さく短い返事を返してきた。

 

その様子が気になり、レベッカは掃除をしながらも、ウェンディへ、チラチラと視線を向けた。なんだか、今日のウェンディは元気がない。どことなくぼんやりとしていて、表情が暗い気がする。いつもはレベッカが部屋に入ってきたら、嬉しそうに駆け寄ってくるのに、今日は話しかけてもこない。

 

「あの、お嬢様、どうかされましたか?お身体の調子が悪いのですか?」

 

心配になってそう声をかけたら、ウェンディがハッとして、直後に顔をしかめた。そして、突然ソファから降りて、立ち上がった。

 

「……お嬢様?」

 

フラフラと歩いてきて、レベッカのエプロンを小さな手で掴む。

 

「どうされたんですか?」

 

レベッカはしゃがんでウェンディと視線を合わせようとするが、ウェンディはレベッカから目をそらし、なぜかモジモジし始めた。

 

「あの、ね……」

 

「はい?」

 

「さっき、おにわで、ベッカがおはなし、していたひと……」

 

「お庭……あ、キャリーさんでしょうか?」

 

やはり、さきほど、庭でレベッカがキャリーと会話をしていたのを見ていたらしい。

 

「それが、どうかされましたか?」

 

「……あのひとは、ベッカのおともだち?」

 

「……えーと、まあ、そうですね……同僚で元ルームメイトだった方なので……」

 

首をかしげながらそう答えると、ウェンディが不安そうな声を出した。

 

「……ベッカの、なかよしの、ひと?」

 

「……」

 

ウェンディはまるで迷子になったような心細そうな表情をしていた。レベッカは首をかしげながら口を開く。

 

「……えっと、ですね。よくお話しする、仕事仲間です」

 

「……そ、そう」

 

ウェンディがショックを受けたような顔をした。今にも泣きそうな表情だ。

 

レベッカはその表情に一瞬驚いたが、少し考えた後、ウェンディを安心させるように優しく微笑み、口を開いた。

 

「えーと……、でもですね……、今のところ、私が、一番お話しして、一番仲良くしていただいてるのは、……ウェンディ様だと思います」

 

その言葉に、ウェンディが一瞬ポカンとした後、唇を震わせ、顔を真っ赤にした。そして、

 

「そ、そう」

 

短くそう答えて、レベッカのエプロンから手を離す。

 

「それなら、いいわ」

 

そして、またソファへと戻り、赤い顔を隠すように本を広げた。

 

「――はやく、そうじをして」

 

誤魔化すように、そう命じる。レベッカは笑いながら、

 

「かしこまりました」

 

と返事をして掃除を再開した。

 

ソファの上では、本で顔を隠したウェンディが、

 

「んふ、んふふ」

 

上機嫌になった様子で、小さく笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気がつけば、季節が移り変わり、レベッカがウェンディの世話係になってから随分と時間が過ぎた。

 

「ベッカ」

 

「はい、お嬢様」

 

名前を呼ばれて、振り向く。ウェンディが楽しそうに本を差し出してきた。

 

「おにいさまからのあたらしいほんよ。よむ?」

 

「ありがとうございます。どんな内容ですか?」

 

「えーと、おんなのこがしゅじんこうでね、ドラゴンとたたかうおはなし」

 

「戦闘ものですか、珍しいですね」

 

その頃には、ウェンディから本を借りて、仕事が終わったらそれを読んで、感想を言い合うのが一番の楽しみとなっていた。

 

本を受け取った時、ウェンディが思い出したように声を出した。

 

「あのね、おにいさまが、もうすぐ、かえってくるんだって」

 

「あ、学園が、長期休暇に入るんですか?」

 

「うん」

 

「それは楽しみですね」

 

ウェンディが嬉しそうに頷いた。

 

「また、おしょくじ、したいの。ベッカもいれて、さんにんで」

 

ウェンディの提案に、レベッカは頷いた。

 

「クリストファー様からお許しをいただいたら、ぜひ」

 

その答えに、ウェンディが喜びを隠しきれないように、小さく笑いながら顔の前で手を合わせた。

 

「たのしみ」

 

 

 

 

 

 

 



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誕生日

 

魔法学園が長期休暇に入り、クリストファーが屋敷へ戻ってきた。クリストファーが帰ってくる日は、屋敷中が出迎えの準備に追われ、朝からずっと忙しかった。相変わらず伯爵夫妻は姿を見せなかったが、使用人達はどこか落ち着きなく、特に若い女性のメイド達は色めき立ったようにソワソワしていた。

 

ウェンディもまた、兄が帰ってくるのが待ち遠しいらしく、朝から落ち着きなく部屋の中をウロウロしていた。何度も窓の外や時計へチラチラと視線を向ける。

 

「まだ、かな?」

 

「きっともうすぐですよ」

 

レベッカはウェンディの部屋にて、一緒にクリストファーを待つことになった。

 

「クリストファー様と会うのも久しぶりですね」

 

「うんっ。うれしい」

 

「こちらへ来られたらお茶をお入れしますね」

 

「おかしもつけてね。おにいさま、あまいもの、すき」

 

「かしこまりました」

 

レベッカが笑って答えたその時、ノックの音が聞こえた。その瞬間、ウェンディの顔が輝く。

 

「かえってきた!」

 

大きな声でそう言いながら、扉へと駆け寄り、勢いよく開いた。

 

「おにいさま!」

 

「ただいま、ウェンディ」

 

扉を開けた瞬間、クリストファーが姿を現し、ウェンディが飛び付く。クリストファーも笑顔でウェンディを受け止めた。

 

「まちくたびれたわ」

 

「ごめんごめん。ウェンディに会えて嬉しいよ」

 

「うん!」

 

仲のいい兄妹の姿に微笑ましくなりながら、レベッカも深く頭を下げ、クリストファーに挨拶をした。

 

「お帰りなさいませ、クリストファー様」

 

「うん。ただいま、レベッカ」

 

軽く挨拶を交わし、レベッカはお茶を入れるために準備を始めた。

 

「がっこうは、たのしかった?」

 

「うん。でも、ウェンディに会えなくて寂しかったよ」

 

会話を聞きながら、香りのいいお茶と、キッチンから持ってきた焼き菓子をテーブルへと運び、二人の前に並べる。

 

「ああ、美味しそうだな」

 

お茶と焼き菓子を見たクリストファーが嬉しそうな顔をした。

 

「ベッカがおにいさまのために、よういしてくれたのよ」

 

「そうか、ありがとう、レベッカ」

 

お礼を言われ、レベッカは静かに頭を下げた。

 

ソファに座った2人はお茶を飲みながら、仲良くおしゃべりを始めた。ウェンディが楽しそうに兄へと話しかける。

 

「あのね、このあいだ、おにいさまがおくってくれた、ほん、とてもおもしろかったの。ベッカもおもしろいといってたわ」

 

「それはよかった。二人が気に入ってくれて僕も嬉しいよ」

 

クリストファーも笑顔でウェンディの頭を撫でつつ、優しく答える。レベッカは二人の邪魔にならないよう、後ろで静かに控え、見守っていた。

 

本当に仲のいい兄妹だなぁ、とぼんやり考えていると、不意にクリストファーがこちらへ顔を向けた。

 

「レベッカは、普段どんな本を読むんだい?」

 

「え……」

 

突然クリストファーから話をふられ、戸惑いながらも答えた。

 

「えっと、そうですね……、なんでも好きですが……、ミステリーや純文学とか……あとは恋愛ものとかも、好きです……」

 

それを聞いたクリストファーが嬉しそうに声を出した。

 

「それはいい。僕もミステリーは好きなんだ。今度ゆっくり話をしよう」

 

「はあ……」

 

レベッカが曖昧に返事をしたその時、ウェンディがなぜかムッとしたような顔をして口を開いた。

 

「わたくしも!わたくしも、ベッカがすきなほんをよみたいわ!」

 

「ええ……?それはちょっと……」

 

8歳の女の子が読むには少し難しいジャンルだ。レベッカが困ったような顔をすると、ウェンディがますます憤慨したような声を出した。

 

「おにいさまだけずるい!わたくしも、ベッカとほんのおはなしするの!」

 

「お嬢様とは、ほぼ毎日してるじゃないですか……」

 

レベッカの言葉に、クリストファーが噴き出した。そのままクスクスと笑い出す。

 

「ウェンディからの手紙で知ってはいたけど、君達、本当に仲良しだね。ちょっと妬けるよ」

 

「……」

 

お嬢様の手紙には一体何が書かれていたのだろう、とレベッカが思ったその時、クリストファーが再び視線を向けてきた。

 

「今度、またウェンディや君が気に入りそうな本を探しておくよ。楽しみにしててくれ」

 

「……はい」

 

その言葉に感謝して頭を下げる。ウェンディはまだムッとした顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリストファーが帰ってきた次の日、見知らぬ客が屋敷を訪れた。眼鏡をかけて、立派な髭をもつ壮年の男性だ。

 

クリストファーが真剣な顔をして、その客を出迎える。そして、その客はウェンディの部屋へと入っていった。

 

「……?」

 

今のは、誰なのだろう?そう思ったその時、メイド長から声をかけられた。

 

「レベッカ、しばらくお嬢様の部屋には入らない方がいいわ」

 

「あ……はい」

 

そう言われ、反射的に頷く。その後、迷いつつも、思い切って、メイド長に尋ねた。

 

「今、お嬢様のお部屋に入ったのは、どなたなのでしょうか?」

 

メイド長は顔を曇らせ、一瞬目を泳がせたが、すぐに口を開いた。

 

「……あなたは知っておいた方がいいわね」

 

メイド長は顔を曇らせたまま少し小さな声で言葉を重ねた。

 

「高名な魔術師の方よ。……お嬢様の、呪いを解くために、クリストファー様が依頼したの」

 

その言葉に大きく目を見開いた。

 

「な、治るんですか?痣が?」

 

メイド長は難しい顔をした。

 

「分からないわ。今までも、何度か有名な医者や魔術師の方をお招きして、痣を見てもらったのだけど……全然ダメだったの。でも、もしかしたら……、今度こそは……」

 

メイド長の言葉に期待が高まる。その後は仕事をしても、どこか上の空だった。ウェンディのことが心配で、何度か部屋の前へ行き、ウロウロする。

 

やがて、ウェンディの部屋からクリストファーと魔術師の男性が出てきた。

 

「あ……」

 

慌てて物陰に隠れる。クリストファーは落胆したような顔をしており、魔術師も申し訳なさそうに頭を下げていた。その様子で結果を察して、レベッカも肩を落とした。

 

魔術師はすぐにその場から立ち去り、あとには暗い表情のクリストファーが残された。レベッカはその背中に、おずおずと声をかけた。

 

「……あの」

 

クリストファーが振り返り、レベッカの姿を見て一瞬戸惑ったような顔をする。その後、無理矢理笑顔を作って口を開いた。

 

「……やあ、レベッカ」

 

「あの、お嬢様は……」

 

レベッカの言葉に、クリストファーが顔を強張らせた。

 

「……少し、話そうか。庭に出よう」

 

クリストファーにそう言われ、レベッカは戸惑いながらも頷く。そして庭へ向かって歩き始めたクリストファーの後ろから、静かに付いていった。

 

外に出ると、雲一つない澄んだ青空が広がっていた。柔らかい日差しが降り注いでいる。穏やかで、気持ちのいい日だ。

 

広大な庭園にてクリストファーが立ち止まった。その顔は、深い失望を宿している。しばらく沈黙していたが、やがて暗い表情のまま頭を抱え、口を開いた。

 

「……今、来ていたのは、有名な魔術師の方なんだ。ウェンディの痣を、見てもらった」

 

「……はい」

 

レベッカは短く返事をして、クリストファーを見つめる。クリストファーが苦しそうな顔をして、大きなため息をついた。

 

「――ダメだった」

 

拳を強く握りながら、レベッカから顔をそらし、下を向く。クリストファーは震えながら、声を出した。

 

「今度こそは、と思っていたのに。解けない、と言われた」

 

「……」

 

「妹の、呪いは……解けないんだ。どうしても。このままでは、あの子は……一生、あの醜い痣を刻まれたまま、……ひとりぼっちだ。……部屋から出ることを、諦めて……この、太陽の下を歩くこともできない……」

 

「……クリストファー様」

 

思わず声をかけると、クリストファーがようやく顔を上げた。再び無理矢理笑みを作る。

 

「すまないね。君にこんな愚痴を言ってしまって……」

 

「いえ」

 

慌てて首を横に振る。

 

再び沈黙が落ちた。レベッカがどう言葉をかけようか悩んでいたその時、クリストファーが何かを思い出したような顔をして、口を開いた。

 

「そうだ、レベッカに頼みがあるんだ」

 

「は、はい。何でしょうか」

 

「もうすぐ、ウェンディの誕生日なんだ。一週間後」

 

「えっ」

 

知らなかったため、思わず大きな声をあげた。

 

「普通なら盛大なパーティーを開くところなんだが……それは、難しくてね」

 

「はあ……」

 

そうだろうな、と心の中でこっそり頷く。伯爵家の令嬢なら、多くの友人を招いて誕生日パーティーを開くところだが、部屋に籠っているウェンディは盛大なパーティーは嫌がるだろうし、パーティーに招く友人はいないのだろう。

 

「もしよければ、今年は僕と君と、3人でウェンディの誕生日を祝いたいんだ。ウェンディもきっと喜ぶだろうし」

 

クリストファーの言葉に、ウェンディの笑顔を想像して、レベッカは頷いた。

 

「承知しました」

 

レベッカの答えに、クリストファーが顔を綻ばせた。

 

「よかった。楽しい誕生日になりそうだな」

 

「あの、何を準備すればよろしいですか?」

 

レベッカの問いかけに、クリストファーは笑いながら首を横に振った。

 

「何もいらないよ。僕と一緒に、ウェンディを祝ってくれるだけでいいんだ」

 

「はあ……」

 

「ケーキや食事なら僕が手配するから」

 

その言葉にコクリと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディの誕生日を祝うことになって、レベッカは焦った。クリストファーからは何も準備はいらないと言われたが、やはりプレゼントは必須だろう。

 

「う~ん」

 

仕事が終わった後、久しぶりに街へと出向き、いろんな店を見て回る。ウェンディへのプレゼントに何を買えばいいのか、分からない。

 

「服……、玩具、ぬいぐるみとか……?」

 

9歳になる女の子、それも伯爵令嬢に何を送るべきか、全く見当もつかない。いろいろな店を見て回ったが、いまいちピンとこなかった。

 

よく考えてみれば、ウェンディが何が好きなのか、あまりよく知らないな、とレベッカは思った。

 

「本が好きなのは知ってるけど……」

 

無難に、ウェンディが気に入りそうな冒険ものの本を購入するかな、と考え、本屋へ足を向けようとしたその時だった。

 

「……あ」

 

装飾品の店の、ガラス張りの飾り棚にある商品が目に入った。

 

「……」

 

少し考えて、その店へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一週間後、メイド長から許可をもらい、お昼にウェンディの部屋へと向かった。

 

「失礼します」

 

扉をノックして部屋へ入ると、既にクリストファーは部屋の中で待っていた。

 

「やあ、レベッカ」

 

ウェンディもレベッカを見て声をあげる。

 

「ベッカ!おしょくじをもってきたの?」

 

レベッカは少し笑って首を横に振った。

 

「いいえ。今日は仕事ではありません」

 

「……?」

 

ウェンディがキョトンとする。レベッカはゆっくりとウェンディへ近づき、しゃがんでウェンディと目線を合わせた。

 

「――今日は、お祝いのためにここに参りました」

 

ウェンディが驚いたような顔をする。レベッカは微笑みながら、言葉を重ねた。

 

「9歳のお誕生日、おめでとうございます」

 

ウェンディが顔を赤くして、パッとクリストファーの方を振り返った。クリストファーも微笑みながら頷く。ウェンディは再びレベッカの方へと顔を向け、震えながら口を開いた。

 

「お、おいわい、してくれるの?ベッカも?」

 

レベッカは頷き、ウェンディの両手をそっと握った。

 

「はい、もちろん。――お嬢様がこの世界に生まれ、出会えた奇跡に感謝します」

 

レベッカの言葉に、ウェンディの顔が固まった。

 

一瞬の後、ポロポロと涙を流し始める。その涙を見て、レベッカは慌てて声を出した。

 

「お、お嬢様、どうされましたか?嫌でしたか?」

 

「ちがうよ、レベッカ。なあ、ウェンディ?」

 

クリストファーが笑いながら口を挟んできて、ウェンディが何度もコクコクと頷いた。

 

「ウェンディは嬉しくて泣いてるんだよ」

 

クリストファーの声を聞きながら、レベッカはオロオロとハンカチを取り出してウェンディの涙を拭った。

 

「――あ、りがとう、ベッカ」

 

ウェンディが震えながら声を出した。

 

「わ、たくしも、あなたと、であえて、うれしいわ」

 

そう言って、ようやく笑顔になった。レベッカも微笑み返す。

 

「さあ、そろそろ食事にしよう。もちろんケーキもあるよ」

 

クリストファーがそう言うと、ノックの音が聞こえ、数人の使用人達が入ってきた。瞬く間に、たくさんの料理とケーキが並べられる。

 

「ベッカ、いっしょにたべましょう」

 

ウェンディがレベッカの手を握り、引いた。レベッカも笑いながら頷き、ウェンディと共にテーブルへ向かった。

 

食事中、ウェンディはずっと上機嫌だった。はしゃいだ様子で無邪気に笑い声をあげながら、何度もクリストファーとレベッカに話しかけ、楽しそうにケーキを食べる。

 

レベッカも共に笑いながら、食事を楽しんだ。

 

食事が終了し、クリストファーが使用人を呼び出すために、立ち上がる。レベッカはソワソワとしながら、ウェンディに向かって口を開いた。

 

「あ、あの、お嬢様」

 

「なあに?」

 

レベッカは準備していたプレゼントの包みを取り出し、ウェンディへと差し出した。

 

「これ、プレゼント、です」

 

「えっ」

 

ウェンディがまた驚いたような顔をする。

 

「わ、わたくし、に?」

 

「えっと、その、あまり高級な物ではありませんし、もしかしたら、気に入らないかも、しれませんが……」

 

ウェンディはレベッカの言葉が耳に入らないような様子で、その包みを受け取り、すぐにそれを開いた。

 

「わぁ……」

 

包みに入っていたのは、レースのリボンだった。繊細な刺繍の、可愛らしいデザインだ。

 

「……」

 

ウェンディは呆けたように、言葉を出さずにそれを見つめる。レベッカはその反応に不安になって、何かを誤魔化すように口を開いた。

 

「あ、あの、お嬢様に、似合いそうだな、と思って……で、でも、気に入らなければ――」

 

「きにいらないわけ、ないでしょう」

 

ウェンディがムッとしたように言葉を返してくる。そして、顔を綻ばせて、リボンを包みごと優しく抱き締めた。

 

「ありがとう、ベッカ」

 

「は、はい」

 

レベッカは安心して、ホッと胸を撫で下ろす。ウェンディが笑顔のまま口を開いた。

 

「かみに、つけるね」

 

「あ、私がいたしましょうか?」

 

「えっ」

 

レベッカは軽く頷いて、ウェンディの後ろに回った。そして、また言葉をかける。

 

「もしよければ、私が髪を、お結びしますよ」

 

ウェンディは一瞬緊張したように体を固くしたが、すぐにレベッカにリボンを差し出してきた。

 

「じゃあ、おねがい」

 

「はい」

 

サラサラの長い金髪に触れ、丁寧に後ろで編み込む。最後に、自分が贈ったレースのリボンを結んだ。

 

「出来ました」

 

「かがみ、みせて」

 

「はい」

 

ウェンディの部屋にある手鏡を持ってくると、ウェンディは鏡を手に持ち、それをじっと見つめた。

 

「どうでしょうか?」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディが顔を上げ、ニッコリと笑った。

 

「ベッカ」

 

「はい」

 

「しゃがんで」

 

そう命じられて、キョトンとしながらも、言われた通り、その場に腰を下ろす。しゃがんだ瞬間、ウェンディが正面からレベッカに抱きついた。驚きのあまり、レベッカは全身が硬直した。

 

「わたくし、こんなに、しわあせなおたんじょうび、はじめてよ」

 

耳元でウェンディが囁き、レベッカの心臓が高鳴った。

 

「ありがとう、ベッカ。だいすき」

 

その言葉に、レベッカは喜びを感じながら、ゆっくりとウェンディの背中へと腕を回す。

 

二人の抱き合う姿を、クリストファーは穏やかに微笑みながら、静かに見つめていた。

 

 

 

 

 

 



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執事の話

 

 

誕生日の翌日は、クリストファーは何やら忙しいらしく、不在だった。レベッカは仕事のためにウェンディの部屋へと入る。入った瞬間、ガチャン、ガチャンと不思議な金属音が聞こえて、レベッカは驚いた。机の上で、ウェンディがゆっくりと小さな機械を動かしていた。

 

「お嬢様、それは……?」

 

見慣れない機械に驚いて声をかけると、ウェンディがその機械から目を離さず答えた。

 

「たいぷらいた!」

 

「たい……、あ、タイプライターですか」

 

「それ!おにいさまからの、たんじょうびの、ぷれぜんと」

 

そう答えながらも、ウェンディは真剣な表情で手を動かし続けている。レベッカは手元を覗き込みながら、言葉を続けた。

 

「なんだか、難しそうですね」

 

「うん。でも、なれたら、もっとはやくうてそう」

 

「これで、お手紙を書くんですか?」

 

「う、ううーん、そうね……」

 

ウェンディがなぜか曖昧に答えながら、一度手を止める。そして、大きく息を吐き、レベッカの方へと視線を向けた。

 

「ベッカ、かみをむすんで」

 

その命令に、レベッカは笑いながら大きく答えた。

 

「はい」

 

ウェンディがレースのリボンを差し出してくる。

 

「リボンもつけて」

 

「かしこまりました」

 

レベッカは自分が贈ったレースのリボンを手に取り、微笑んだ。

 

ウェンディの後ろへと回り、柔らかい金髪を櫛でとかす。

 

「前から思ってましたが、綺麗な髪ですね」

 

「えへへ」

 

会話を交わしながら、丁寧に編み込み、最後にリボンを結んだ。ふと、ウェンディが着ているワンピースドレスの隙間から見える小さな肩へと視線が止まり、驚きで目を見開いた。

 

「お、お嬢様……」

 

「なあに?」

 

「痣が、広がっていませんか……?」

 

元々、ウェンディの赤い痣は四肢全体に見られていたが、腕の痣が肩の方へと明らかに広がっていた。

 

「うん、そうね」

 

ウェンディがあっさりとそう言って軽く頷いたため、ギョッとする。ウェンディはレベッカの方へと怪訝な顔を向けた。

 

「しらなかったの?このあざ、どんどんひろがっているの」

 

「えっ……そ、そうなんですか?」

 

「うん。……ちいさいころから、すこしずつ、からだにひろがってる」

 

初めて知る事実に、ショックを受け、固まってしまった。

 

「そ、そうなんですか……」

 

どう答えればいいのか分からず、やっとのことで声を出した。

 

ウェンディはレベッカから顔をそらして、鏡で髪型を確認すると、再びタイプライターと向き合った。

 

「ベッカ、おちゃ、いれてくれる?」

 

そう声をかけられ、慌てて返事をした。

 

「は、はい。かしこまりました」

 

暗くなった表情を誤魔化すように立ち上がり、お茶の準備を始めた。ウェンディは無表情でタイプライターで文字の入力を行っている。その顔は何を考えているのか分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日、レベッカは庭に出るために廊下を一人で歩いていた。今日の仕事は、ウェンディの夕食を運べば、終了だ。夕食を持っていくついでに、ウェンディの部屋に新しく花が飾ろうと考え、花をもらうため、庭へと向かっていた。

 

「……」

 

昨日、ウェンディの前で痣のことで思わず動揺してしまい、嫌な思いをさせたかもしれない。廊下を歩きながら、唇を噛んで顔をしかめる。後悔しても、もう遅い。とにかく、ウェンディの気が少しでも晴れるように可愛い花を部屋に飾ろう、と考えていた時、声をかけられた。

 

「こんにちは」

 

ハッとして振り向く。そこに立っていたのは背の高い青年だった。黒い執事服をに身につけ、眼鏡をかけている。どことなく冷たい雰囲気を持った青年だった。見覚えのある顔だ。誰だっけ?と一瞬眉をひそめ、すぐに思い出した。

 

「あ、クリストファー様の……」

 

「はい。専属執事を務めさせて頂いております、リードと申します」

 

リードと名乗った執事はそう挨拶をして軽く頭を下げた。レベッカも慌てて口を開く。

 

「こ、こんにちは。レベッカ・リオンと申します」

 

挨拶を返し、チラリと顔を見た。クリストファーに付き従い、身の回りの世話をしているらしい専属執事だ。よくクリストファーの後ろに控え、時折ウェンディの部屋で食事をする時は、必ず彼が中心となり食事を準備していた。

 

「えーと、どうされましたか?」

 

声をかけられたことに戸惑いながら尋ねると、リードはこちらを見つめながら口を開いた。

 

「……申し訳ないのですが」

 

「はい?」

 

「備品庫の方に、荷物を取りに行きたいのですが、手伝っていただけないでしょうか?」

 

そう頼まれて、レベッカは慌てて頷いた。

 

「承知しました」

 

リードは軽く頷き、そのままクルリと背中を向けて備品庫へと向かう。レベッカはリードの後から付いていった。

 

なんとなく冷たくて怖い人だなぁ、とぼんやり考えながら歩いていると、リードが口を開いた。

 

「――ウェンディ様の」

 

「は、はい?」

 

ウェンディの名前が突然出てきたため、驚いて声をあげる。リードはチラリとレベッカを振り返り、正面へ顔を向けると、言葉を続けた。

 

「ウェンディ様のお世話は大変でしょう」

 

「……いえ」

 

「最長記録です」

 

その言葉に、レベッカはキョトンとした。

 

「はい?」

 

「ウェンディ様の世話係としては、最長記録です。大抵の人間は、あの痣を怖がり、近づくのを嫌がります。ほとんどは、半年も持ちません。ですから、こんなにも長く世話係が続いたのは、あなたが初めてです」

 

「……」

 

リードが何を言いたいのか分からず、レベッカは無言で彼を見つめ返した。リードは再びレベッカをチラリと見て、口を開いた。

 

「坊っちゃんも、あなたを気に入っているようです」

 

「……坊っちゃん?」

 

聞き慣れない言葉が出てきたため、一瞬戸惑うが、すぐに坊っちゃんというのがクリストファーの事だと気づいた。どう反応すればいいのか分からず、取りあえず口を開いた。

 

「えーと、……光栄です」

 

「……」

 

またリードがこちらへ視線を向けた。一体何が言いたいのだろう、とまた首をかしげる。すると、リードが突然足を止めた。レベッカへ正面から顔を向けて、口を開く。

 

「――ウェンディ様の世話を続けても、これ以上坊っちゃんには近づけませんし、相手にされませんよ」

 

その言葉にレベッカはポカンとした。

 

「――えっ?」

 

「ですから、坊っちゃんは、あなたのことをウェンディ様の世話人としか見ていません。坊っちゃんの関心を引くのが目的であれば、早く諦めた方がいいと思います」

 

一瞬意味が分からず混乱した。

 

そして、すぐに、リードから勘違いされていることに気づく。クリストファーに近づくために、ウェンディの世話をしていると思われているらしい。

 

「――めんどくさっ」

 

思わずボソッと心の声が漏れて、リードがギョッとしたような顔をした。

 

「は?」

 

レベッカは慌てて頭を下げる。

 

「失礼しました」

 

そして、頭を上げて、口を開いた。

 

「えーと、ウェンディ様のことは、本当に可愛らしくて、……お側で世話をさせていただくのは、楽しいです。でも、あの、クリストファー様のことは、……えー、いつもお世話になっておりますが、そのー……、正直、興味はないです」

 

「……興味がない?」

 

「あ、えっと、はっきり言って、……えー、どうでもいいです」

 

「……どうでもいい?」

 

「はい」

 

レベッカはリードをまっすぐに見据え、言葉を重ねた。

 

「ウェンディ様の、そばにいたいと思いました。守ってあげたい、と思いました。寄り添いたいと思いました。私が世話人を務めさせていただいている理由は、――それだけです」

 

リードが何かを言おうとして口を開くが、すぐに気圧されたように口を閉じた。

 

「……」

 

「……」

 

廊下のど真ん中でしばらく沈黙が続いた。リードが冷たい瞳でこちらを見つめ続けるので、視線をそらしそうになる。どうしよう、と悩んでいると、ようやくリードが動いた。

 

「大変失礼いたしました」

 

深々と頭を下げられ、謝罪される。

 

「あ、ええっと」

 

レベッカは戸惑いオロオロした。

 

「申し訳ありませんでした。無礼をお許しください。私の、勘違いだったようですね……」

 

「あ、あの、別に気にしていません。顔を上げてください!」

 

レベッカがそう言うと、リードがゆっくりと顔を上げた。そして、レベッカを見て柔らかく微笑んだ。

 

「――あなたは、優しい人ですね。ウェンディ様が仰ってた通りです」

 

「え、えーと、お嬢様が、私の事をそう言ってたんですか?」

 

「はい。クリストファー様への手紙に書いてあったそうです。あなたが、優しくて温かい人だと」

 

その言葉に、思わず頬が緩んだ。リードがそんなレベッカを見つめながら、言葉を続けた。

 

「申し訳ありません。――何度か、坊っちゃん目当てでウェンディ様に近づこうとした使用人がいたもので」

 

「あ、……そうなんですか」

 

「しかし、どの使用人も、あの痣と呪いの噂に怯え、すぐに逃げました」

 

またリードが歩き始め、レベッカも話を聞きながら一緒に歩いた。

 

「喜ぶべき、でしたね。ウェンディ様が、坊っちゃん以外に信頼できる方と、知り合えたことに」

 

「……」

 

「しかし、――どうしても心配で。あなたの目的が、もしもクリストファー様ならば、ウェンディ様が大いに傷つくだろうと思うと……」

 

「リードさんは、クリストファー様とウェンディ様を、大切に思っていらっしゃるんですね」

 

思わず口を挟むと、リードは軽く頷いた。

 

「私は、昔からこの屋敷に仕えていまして……お二人の事はよく知っています」

 

備品庫に到着し、荷物を持ちながらもリードの言葉は続いた。

 

「元々、私は従者としてこの屋敷で働いていたんですが、クリストファー様に頼まれて、専属の執事として一緒に学園に行くことになったんです」

 

「では、普段は学園で生活しているんですか?」

 

「はい。レベッカさんと同じ、お世話係ですよ」

 

リードが微笑みながらそう言った。笑ったら随分と印象がちがうな、と思いつつ共に廊下を歩き、荷物を運び終わった。

 

再び庭に向かうため、リードに声をかけようとしたその時、リードが真剣な顔をして口を開いた。

 

「レベッカさん。クリストファー様は、ウェンディ様の呪いを解くためにありとあらゆる努力をなさっています」

 

その言葉に、レベッカは目を見開き、恐る恐る尋ねた。

 

「……お嬢様の呪いは、解けるんですか?」

 

リードが目を伏せて、小さな声で答える。

 

「分かりません。しかし、クリストファー様は、絶対に諦めないでしょう」

 

そして深く頭を下げた。

 

「どうか、ウェンディ様を支えて上げてください。とても、とても、――このうえなく不幸な方なのです」

 

リードの言葉を聞いて、レベッカはずっと誰にも聞けなかったことを問いかけた。

 

「……あの、そもそも呪いって何なんですか?」

 

「……」

 

リードは一瞬顔をしかめたが、また顔を伏せ、首を横に振った。

 

「……私の口からはお答え致しかねます」

 

そして、再び深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

恐らく、リードは何かを知っているようだが、絶対に答えるつもりはないのだ、ということが分かった。レベッカもうつむきながら、声を出した。

 

「……いえ。私の方こそ申し訳ありませんでした。急に、こんなことを聞いて……」

 

レベッカは暗い表情のままその場から立ち去る。その背中をリードが静かに見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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眠れぬ夜に

 

 

 

レベッカはモヤモヤとした思いを抱えながらも、通常通りウェンディの世話をしながら過ごした。気がつけば、クリストファーの長期休暇も終わりへと近づいていた。

 

「やあ、レベッカ」

 

廊下で声をかけられて、レベッカが振り返ると、クリストファーが穏やかな顔で立っていた。その後ろではリードが控えている。

 

「あ、おはようございます……」

 

「おはよう。知ってるとは思うけど、僕は明日、学園へ戻るんだ」

 

「はい」

 

「最後に3人で夕食でもどうかな?」

 

にこやかにそう誘われた。特に断る理由もないため、コクリと頷く。

 

「よかった。それじゃあ、今夜、ウェンディの部屋で」

 

「はい」

 

クリストファーがレベッカの肩を軽く叩いて、手を振りながら立ち去る。リードも軽く会釈をしてそれに続いた。レベッカも静かに頭を下げ、それを見送った。

 

遠くでその光景を目撃したメイド達が何かコソコソ話していたが、レベッカは気がつかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方、ウェンディの部屋を訪れると、ウェンディはテーブルに座って頬杖をついていた。明らかに落ち込んでいて元気がない様子だ。小さな声で呼びかける。

 

「お嬢様……」

 

ウェンディはぼんやりとこちらに視線を向けるだけで、返事はなかった。最愛の兄がまたいなくなるのが寂しいのだろう。どう慰めようか迷っていたその時、ノックの音が聞こえた。

 

「やあ、ウェンディ、レベッカ」

 

扉が開き、クリストファーが入ってきた。レベッカは静かに頭を下げる。クリストファーの後ろから、リードを含めた何人かの使用人が入ってきて食事の準備を始めた。ウェンディはその光景を無言で眺めていた。

 

「それじゃあ、食べようか」

 

クリストファーがそう声をかけても、ウェンディは何も答えなかった。

 

「お嬢様……あの……」

 

ウェンディの隣に腰を下ろしたレベッカが呼びかけると、ようやくウェンディが口を開いた。

 

「おにいさま……」

 

「うん?」

 

「こんどは、いつ、もどってくる?」

 

その問いかけに、クリストファーは少し困ったように笑いながら口を開いた。

 

「すぐにもどってくるよ」

 

「……でも、つぎの、おやすみは、ずーっと、さきでしょ?」

 

「長期休暇はね。でも、2ヶ月後に学園で学科試験が行われるから、その後試験休みがあるんだ。5日くらいはこっちで過ごせるよ」

 

その言葉に、少しだけウェンディの顔が明るくなり、レベッカもホッと息をついた。

 

「にかげつ、まてば、かえってくるの?」

 

「うん。それまで、いい子で待ってるんだよ。また、ウェンディの好きな本を贈るからね」

 

クリストファーがそう言ってウェンディの頭を撫でた。ウェンディの顔に笑顔が戻る。

 

その後は3人で穏やかに最後の晩餐を楽しんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日、クリストファーとウェンディは、部屋で別れの挨拶を交わした。

 

「またね、ウェンディ。手紙を送るからね」

 

そう言って、クリストファーがウェンディを強く抱きしめる。そしてリードを伴って学園へと戻っていった。

 

クリストファーが去り、やはりウェンディは寂しいのか、その日は一日中口数少なく、何度もため息をついて、ぼんやりと過ごしていた。

 

その様子を心配しながらも、レベッカは普段通り仕事を終わらせ、私室へと戻った。

 

夜になっても、ウェンディの呼び鈴は鳴らなかった。今夜はミルクはいらないのかな、と思いながら自分もベッドに入ろうとしたその時、チリンと音が鳴った。思わず部屋の時計に視線を向ける。もう日付が変わる寸前だ。いつもなら、とっくにウェンディは寝ている時間だった。

 

「……お嬢様、眠れないのかな」

 

一言呟いて、ミルクの準備をする。心細くて眠れないのだろうか、と考えながら、急いでウェンディの部屋へと向かった。

 

扉をノックし、なるべく音を立てないようにしながらゆっくりと開き、足を踏み入れる。

 

「失礼します……」

 

部屋に入った瞬間、ガチャン、ガチャンと音が聞こえた。部屋の奥に視線を向けると、テーブルの上でウェンディがタイプライターを動かしていた。

 

「お嬢様、何をなさっているんですか……?」

 

レベッカがそう尋ねると、ウェンディが視線を向けてきた。

 

「ねむれないの。ベッカ、ミルク」

 

「あ、はい」

 

慌ててミルクを温め、蜂蜜の準備をする。その間も、ウェンディはずっと指を動かしていた。

 

「あの、お嬢様。何を書かれているんですか?」

 

思い切ってそう尋ねたが、ウェンディは、

 

「う、ん。いろいろ」

 

曖昧な答えだけが返ってきた。一体何を書いているんだろうと疑問に思いながら、蜂蜜入りのホットミルクを差し出した。

 

「どうぞ」

 

「ありがとう」

 

タイプライターを打つ手を止めて、ウェンディがカップを手に取る。一口飲んで安心したように息を吐いた。

 

「お嬢様、それを飲んだらお休みになってください。もう随分と遅い時間ですよ……」

 

レベッカの言葉に、ウェンディは少し考え、首を横に振った。

 

「まだ、もうすこし」

 

その言葉に、もう一度入眠を促そうと口を開きかけたが、

 

「……」

 

結局止めて、口を閉じた。そのうち自然と眠くなるだろう、と考えながら蜂蜜の瓶を抱える。

 

「では、私は戻ります。――おやすみなさい」

 

そう言って、扉の方へ向かおうとしたその時だった。

 

「ベッカ」

 

「はい?」

 

名前を呼ばれて、振り返る。ウェンディがタイプライターを打つ手を止め、モジモジとしていた。

 

「あ、あのね。もうちょっと、ここに、いてくれる?もうすこし、でいいから」

 

その言葉に思わず笑った。すぐに頷く。

 

「かしこまりました」

 

その答えにウェンディが嬉しそうな顔をして、またタイプライターへと視線を向けた。

 

「もうすこしで、もじをうちおわるから、それまでソファにすわってて」

 

「はい」

 

レベッカは言われた通りにソファに座った。ウェンディはミルクを飲み干して、また文字を打ち始める。その姿を静かに見つめた。ガチャン、ガチャンと金属音が部屋に響き渡る。不思議と、心地のいい音だ。聞いていると、なんだか心が穏やかになるような気がする。

 

タイプライターの音が、レベッカの眠りをじわりと誘った。靄のような眠気が目蓋を襲い、意識がぼんやりとしてくる。ダメだ、と分かっているのに、止められない。コクリ、コクリと首が縦に揺れるのが分かった。

 

「ベッカ」

 

夢とうつつの間をさまよっていると、耳元で可愛い声が聞こえた。

 

「――は、い」

 

「こっち、きて」

 

「え、あ、いえ……」

 

眠気と戦いながら、必死に声を出した。

 

「私、部屋に、戻らないと――」

 

「いいから、こっち」

 

温かい小さな手が、レベッカの手を握り、引っ張られる。抵抗できずに、立ち上がり、そのままフラフラと足を動かした。眠すぎて目が開けられない。

 

「お……お嬢様……?」

 

朦朧としながら呼びかけると、突然体を軽く押され、そのまま倒れた。柔らかい何かが、レベッカの体を受け止める。

 

何これ。すごく、気持ちいい……。

 

うっとりとしながら、ぼんやり目を開くと、すぐそばにウェンディがいた。楽しそうにレベッカを見つめている。

 

「きょうだけ、とくべつ。ね?」

 

耳元で砂糖菓子のような甘い声が聞こえた。言葉の意味がよく分からないまま小さく頷く。ウェンディがまた楽しげに笑って、レベッカに抱きついてきた。反射的にウェンディを抱きしめる。ゆっくりと瞳を閉じた。

 

「おやすみ、ベッカ」

 

腕の中でウェンディが囁いたが、レベッカは既に深い眠りへと落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝、目覚めると、ウェンディの部屋のベッドで寝ていて、しかもウェンディを抱きしめていた。驚きのあまり、声にならない悲鳴をあげる。慌てて腕を離すが、ウェンディはレベッカの胸に顔をうずめるようにして抱きついて、ぐっすりと眠っていた。息を呑み、そっと自分の身体からウェンディの手を離す。ゆっくりと起き上がり、ベッドの上で頭を抱えた。

 

何をやっているんだ、自分は。いくら眠かったとはいえ、自分の主人のベッドで寝てしまうなんて、この馬鹿!

 

心の中で自分を罵倒しながら、悶え、大きくため息を吐いた。チラリとウェンディに視線を向ける。ウェンディはレベッカが起きたのに気づかず、まだすやすやと眠っていた。可愛らしい寝顔だ。まだ起きる気配はない。ふと、時計に視線を向け、ギョッとして慌ててベッドから降りた。キッチンの仕事へ行かなければならない時間だ。

 

レベッカはウェンディに毛布をかけると、慌てて部屋から飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ひとりぼっちの2人

 

 

「レベッカ、今日はどうしたの?キッチンに来るのが遅かったみたいだけど……」

 

キャリーに話しかけられて、レベッカは顔をひきつらせながら声を出した。

 

「あ、ちょっと寝坊しちゃって……」

 

誤魔化すように笑って、朝食のトレイを手に取った。

 

「それじゃ、私、これを運んできますね!」

 

早口でそう言いながら、逃げるようにキッチンを飛び出す。

 

キャリーが不思議そうな顔でそれを見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、お嬢様、お食事をお持ちしました」

 

扉横のテーブルにウェンディの朝食を起き、ノックしながら声をかける。そのまま逃げようと思ったのに、すぐにウェンディの声が聞こえた。

 

「――はいって」

 

レベッカの顔が強ばった。そして、諦めたように小さく息を吐き、扉を開けた。

 

「失礼します」

 

部屋の中では、ウェンディがベッドの上に座り、こちらを見ていた。

 

「おはよう、ベッカ」

 

その声が少し固くて、思わず目をそらしそうになる。

 

「……おはよう、ございます」

 

挨拶を返し、レベッカはそのまま深く頭を下げた。

 

「あの、お嬢様、昨夜は申し訳ありません、でした」

 

「……」

 

「……図々しくも、お嬢様のベッドで、眠ってしまい、本当に申し訳ありま――」

 

「それはいいの」

 

ウェンディがレベッカの言葉を遮るように声を出す。レベッカは戸惑いながら顔を上げた。

 

「お、怒っていらっしゃらないんですか……?」

 

「うん。わたくしがおきたとき、ベッカがとなりにいなかったのは、ちょっとざんねんだった」

 

「そ、そうですか」

 

ウェンディの言葉にどう答えればいいのか分からず、再び頭を下げて口を開いた。

 

「あの、本当に申し訳ありませんでした。二度とこのようなことはしないよう気を付けますので……」

 

「……いいわよ、しても」

 

「はい?」

 

ウェンディの言葉の意味が分からず、思わず頭を上げた。困惑しながら、声を出す。

 

「えーと、……え?」

 

「ベッカとぎゅってしたら、あったかいし、きもちいいから。だから、またいっしょにねても、よくてよ」

 

「……え?」

 

「それに、ね」

 

ウェンディがベッドから降りて、レベッカの方へ近づいてきた。悪戯っぽい笑みを浮かべて、レベッカのエプロンを握る。そして楽しそうな表情を浮かべ、口を開いた。

 

「ベッカのねがお、とても、かわいかった」

 

「……」

 

言葉に詰まって、なぜか顔が熱くなるのを感じた。ウェンディは今度は真剣な顔でレベッカを見上げ、言葉を重ねた。

 

「でも、わたくしいがいには、みせてはダメよ」

 

「……はい」

 

思わずそう答えると、ウェンディは満足そうに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の昼間、庭で洗濯物を干しながら、ウェンディに言われたことを繰り返し思い出していた。

 

『とても、かわいかった』

 

微笑みながら言われた言葉が脳裏で響く。ウェンディにかわいいと言われた時、なんだかフワフワして、くすぐったくなるような、不思議な感覚がした。

 

でも、もう絶対にお嬢様の部屋で寝ないように気をつけよう、と考えながら、洗濯物を干し終わり、大きくため息をつく。次はキッチンの仕事だ。

 

屋敷へと戻り、まっすぐキッチンへ向かう。その途中で、顔見知りの数人のメイドとすれ違った。普段通り、軽く頭を下げる。

 

「お疲れ様です」

 

レベッカがそう挨拶をすると、メイド達はあからまさにレベッカを無視し、足早にどこかへと行ってしまった。レベッカはその様子に戸惑ってそちらへ視線を向ける。メイド達は何かひそひそと話していた。

 

なんだか、とても嫌な雰囲気だった。

 

「それ、嫉妬ね」

 

キッチンで、キャリーにその事を話すと、即座に簡潔な答えが返ってきて驚く。

 

「嫉妬?」

 

「レベッカ、最近クリストファー様と仲良くなったでしょ?メイド達はそれが気に入らないのよ」

 

その言葉に驚いて口を開く。

 

「クリストファー様とはちょっとお話して、お嬢様と3人で食事しただけですよ!」

 

「だから、それが羨ましいんじゃないの?クリストファー様って、使用人にすごく人気があるけど……専属の執事以外は、あまり人を寄せ付けないらしいし。気軽に話せるあなたが妬ましいのよ」

 

「えぇ…?何ですか、それ…?」

 

呆然と呟くと、キャリーが顔をしかめながら言葉を続けた。

 

「気を付けてね、レベッカ。嫌がらせとかされるかもしれないから」

 

「い、嫌がらせをされるんですか!?」

 

「分からないけど……、クリストファー様に本気で惚れてる子達ならやりかねないかも……」

 

その言葉に、思わず頭を抱えて呻いた。

 

「クリストファー様とは本当に何でもないのに……」

 

キャリーも困ったように首をかしげた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜、呼び鈴がなったため、レベッカは素早くミルクの準備をしてウェンディの部屋へと向かった。

 

「失礼いたします」

 

ウェンディはベッドの上に座り、静かにレベッカを待っていた。

 

「ベッカ、ミルク」

 

「はい。少々お待ちくださいね」

 

いつも通り、ホットミルクの準備をする。ミルクを温め、蜂蜜の瓶の蓋を開けるレベッカの姿を見つめながら、ウェンディは首をかしげた。

 

「ベッカ、きょう、げんきない?」

 

「えっ」

 

ウェンディの言葉に思わずミルクを入れる手が止まりそうになった。

 

「お嬢様、どうしてそう思うんですか?」

 

「うぅーん、なんとなく……なんか、くらいようなきがしたから……」

 

その答えに苦笑し、出来上がったホットミルクをウェンディに差し出しながら答えた。

 

「何でもありませんよ。気にしないでください」

 

あなたのお兄様が原因です、とは口が裂けても言えない。ウェンディはホットミルクを飲みながらも、まだこちらを心配そうに見つめてきた。

 

「だいじょうぶ?」

 

「はい」

 

安心させるように笑顔を作ると、ウェンディがホッとしたような顔をする。その顔を見つめながら、レベッカは口を開いた。

 

「お嬢様、それでは、私はこれで――」

 

「まって」

 

部屋から出ていこうとしたその時、ウェンディが声をあげた。ベッドをポンポンと軽く叩き、上目遣いをする。

 

「ベッカ、いっしょに、ねよ」

 

その言葉にレベッカの全身が固まった。すぐに首を横に振る。

 

「――いえ、それは……」

 

「ベッカといっしょがいい」

 

「……ム、ムリです。本当に」

 

困惑して、声が震える。こんなワガママは初めてだ。

 

「……あんな図々しいこと、もう二度とできませんよ」

 

「わたくしが、いいといっているのよ」

 

その言葉に、またブンブンと首を横に振った。

 

ウェンディはムッとしたように口を尖らせたが、やがて諦めたように大きくため息をついた。

 

「じゃあ、もうすこしだけ、ここにいて」

 

その言葉に少し考えて、ゆっくりと頷いた。

 

「かしこまりました」

 

ウェンディは頬を緩ませ、再びベッドを軽く叩いた。

 

「ここ、すわって」

 

「はい」

 

言われた通りに座ると、ウェンディは嬉しそうな様子ですぐにレベッカの膝に頭を乗せてきた。その行動に驚きながらも苦笑し、ウェンディの額を優しく撫でる。ウェンディは心地よさそうに瞳を閉じた。

 

「ベッカに、なでられるの、すき」

 

「そうなんですか?」

 

「うん。はじめて、あったときも、わたくしをこうやってなでてくれた、でしょう?」

 

ウェンディは瞳を開けて、レベッカをまっすぐに見つめた。

 

「あのとき、すごく、あんしんした」

 

そして、華のように笑った。

 

「ありがとう」

 

「……恐れ入ります」

 

レベッカが笑い返すと、ウェンディは再びゆっくりと目を閉じて、声を出した。

 

「ごめんね、おれいをいうのが、おそくなって」

 

「はい?」

 

「あのひ、たおれていたわたくしを、たすけてくれて、ありがとう。ずっと、おれいを、いいたかったの」

 

「お礼、ですか?」

 

「うん。でも、どういえばいいのかわからなくて……」

 

レベッカはウェンディの額を撫で続けながら、初めて出会った時の事を思い出し、少し笑った。

 

「あの時はびっくりしました。部屋で倒れていらっしゃったので……私も必死でしたね」

 

ウェンディはウトウトとしながらまた口を開いた。

 

「ベッカは、どうしてそんなにやさしいの?」

 

「はい?」

 

「みんな、わたくしをこわがるわ。ぜったいに、はなしかけてこないし、ちかづこうともしないの。ベッカは、どうしてわたくしにやさしくしてくれるの?のろいが、こわくないの?」

 

その問いかけに、レベッカはしばらく無言になる。そして、考えるようにしながら、口を開いた。

 

「そりゃあ、初めは怖かったですよ……でも、不安に思っても仕方ないですし、……まあ、なるようになるかな、と」

 

「なにそれ……」

 

「それに、放っておけなかったんですよ。お嬢様を」

 

レベッカは笑いながら言葉を重ねた。

 

「私も、昔はひとりぼっちだったんです。そんな時、たった1人だけ支えてくれた人がいたんですよ。その人がいてくれたから、つらい時も悲しい時も、前に進むことができました。……あの時の自分とお嬢様がなんだか、似ているような気がして……ですから、お嬢様を放っておけなかったんだと思います」

 

ウェンディの手を軽く握った。

 

「ひとりぼっちは、寂しいから……お嬢様に寄り添って、守ってあげたい、と思ったんです。それだけ、ですよ」

 

「……」

 

ウェンディは目を閉じたまま何も言わなかった。もう眠ったのかな、とレベッカが思ったその時、ようやく小さな唇が開いた。

 

「ベッカって、ほんとう、のんき……」

 

「えっ?何ですか、急に」

 

「……んふふ」

 

ウェンディが薄く瞳を開けて、小さく笑った。

 

「ねえ、おうたをうたって」

 

「……ご存知ですよね?私の歌は――」

 

「ベッカのおんちなおうたを、ききたいの。おねがい」

 

ウェンディの言葉に苦笑した。そして、小さな声でゆっくりと子守唄を歌う。ウェンディが笑いながら、目を閉じる。

 

夜がひっそりと深くなっていく。

 

ふとレベッカは、幸せだな、と思った。

 

 

 

 

 

 



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特別な想い




初のお嬢様視点となります。











 

 

 

 

 

 

 

女が囁く

 

 

 

 

 

『これは、呪いだ』

 

 

 

 

 

『一生嘆き、苦しめ』

 

 

 

 

 

『私の幸せを奪った報いを、その身で受けろ』

 

 

 

 

 

 

 

この人は、誰だろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『お 前 だ け は 許 さ な い』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディ・ティア・コードウェルの人生は、つまるところ最初から孤独が多く、寂しさに満ちたものだった。

 

ウェンディの手足には、生まれた時から、奇妙な赤い痣が刻まれている。ウェンディから見ても、不気味で気持ちの悪い痣だ。年齢と共に少しずつ広がっていくこの痣は“呪い”なのだ、と周囲の大人達は言っていた。“呪い”とは何なのか、ウェンディはよく分からない。説明してくれる人間はいなかった。

 

ウェンディの“呪い”は忌み嫌われ、恐れられた。物心ついた時から、ウェンディの周りには兄以外誰もいなかった。伯爵令嬢だというのに、屋敷の使用人でさえ必要以上に近づこうとはしなかった。

 

『ごめんね、ウェンディ』

 

たった一人、最愛の兄だけは、ウェンディのそばにいてくれた。

 

『本当にごめんね、ウェンディ』

 

ウェンディの頭を撫でながら、兄は何度も謝った。その顔は深い悲しみに包まれている。なぜ兄が謝っているのか、ウェンディはよく分からなかった。

 

小さい頃は、部屋の外で兄と過ごすこともあったが、ウェンディが部屋を出た瞬間、使用人達が“呪い”を恐れて一斉にソワソワし始め、緊張したように体を固くする。その視線が体を刺してくるような感覚がして、居心地が悪く、つらく、悲しかった。やがて自分から部屋を出ることはなくなった。一人、部屋に籠り、大好きな本を読んで静かに過ごす。そのうち、着がえや入浴など、自分のことは、ある程度自分で出来るようになった。

 

兄は部屋に籠りきりのウェンディを見て、つらそうに顔を歪めていた。それでも、ウェンディは部屋から出ようとしなかった。部屋の外の世界に興味はない。兄さえそばにいてくれればそれでよかった。例え、実の親に嫌われていても。

 

ウェンディは自分の両親の顔を、もうよく覚えていない。幼い頃、何度か対面した父はウェンディと目を合わせようともせず、見て見ぬふりをしていた。話しかけてもこなかった。

 

母についての記憶はもっとひどい。母と顔を会わせたのは、一度だけだ。その時、ウェンディの母は、ウェンディを見ると、嫌なものを見たとでも言うように顔を背けた。

 

『近づかないでちょうだい』

 

その声には嫌悪が宿っていた。

 

『ああ、なんて汚らわしい。気持ちの悪い子』

 

ウェンディの隣にいた兄が、その言葉に激怒して何かを言っていたが、ウェンディは体を固くしたまま、何の反応もできなかった。

 

だから、ウェンディは実の両親の事が苦手だ。母は、ほとんど屋敷に戻ってこないし、自分と関わろうともしない。顔も覚えていないし、もはやどうでもいい。父は時々屋敷に帰ってくるが、そんな日はなんとなく屋敷中がゾワゾワしていて居心地が悪くて、嫌いだった。

 

兄さえいれば、どうでもよかった。ただ一人、ウェンディに優しくしてくれて、慈しんでくれる兄がいれば、ウェンディは他の事など、どうでもよかった。

 

よかったのに。

 

『ごめんね、ウェンディ』

 

また、兄が謝る。兄は魔法学園に入学することになり、屋敷を出て学園の寮に入ることになった。

 

『休みになったら帰ってくるよ。手紙も出すからね』

 

寂しさのあまり泣きじゃくるウェンディに、兄は優しく宥めるようにそう言った。

 

『それにね、ウェンディ。学園で魔法を学べば、呪いが解ける方法だって分かるかもしれない』

 

兄はウェンディとまっすぐに視線を合わせて、真剣な表情で言葉を重ねた。

 

『約束するよ、ウェンディ。僕が、必ず君の呪いを解いてあげる。きっと、部屋から出て、のびのび生きられるようになるから』

 

そして、強くウェンディを抱き締めた。

 

『だから、待っててくれ』

 

その言葉を最後に、兄は魔法学園へと旅立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディはひとりぼっちになった。

 

兄がいなくなって、今度こそ周囲には誰もいなくなった。ウェンディの“呪い”を恐れて、部屋にはほとんど誰も入ってこない。入ってくるのは、兄に頼まれてウェンディの様子を見に来るメイド長と、部屋の掃除を頼まれた若いメイドだけだ。メイド長は古くから伯爵家に仕えているため、あからさまにウェンディを怖がる様子はない。でもその視線は、ウェンディの痣を明らかに恐れていた。

 

年若いメイドはもっとひどい。担当が何度も変わった。メイド達は呪いを恐れるあまり、ウェンディと一緒の空間にいるのに耐えられず、どんどん辞めていく。ウェンディの世話を嫌々行っているのは明白だ。ウェンディに近づくのも嫌がり、目を合わせるのさえ避けているため、メイドが掃除をしている間、ウェンディは部屋の隅で背中を向けて座り込んでいるしかなかった。

 

それでいい、とウェンディは思う。兄以外の人間に恐れられ、嫌われるのには慣れた。とにかく、兄が帰ってくるまで、静かにひっそりと暮らすだけ。何も言わず、何も行動を起こさなければ、時間はすぐに過ぎて、兄は帰ってくる。だから、待てばいい。

 

そう思っていたのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『メイドのレベッカ・リオンと申します』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日突然、そのメイドはウェンディの世界に飛び込んできた。

 

こんなに不思議なメイドは見たことがない。見た目は普通の女性だ。いや、まだ少女といってもいい年頃だろう。髪と目の色は夜空のような深い黒、身長は高くスラリとしているが、その表情はどこか幼い。

 

特別なところなんか何もない、ただの普通のメイドだ。

 

 

 

でも、そのメイドは、

 

 

 

『お嬢様』

 

 

 

呑気で、優しい、そのメイドは、

 

 

 

『お掃除に来ましたよ、お嬢様』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディにとって、兄以外の、初めての“大好きな人”になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ベッカ」

 

その名前を口にすると、幸せになる。

 

ウェンディだけが呼ぶ、特別な名前。

 

「ベッカ!ベッカ!」

 

何度も呼ぶと、彼女は振り返って、絶対に微笑んでくれるのだ。

 

『はい、お嬢様』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初は変なメイドだと思った。ウェンディの呪いの事を知っているはずなのに、簡単にウェンディに近づいて、触れてくる。今まで、兄以外そんな人間はいなかった。

 

『お嬢様、ミルクですよ』

 

夜遅く、呼び鈴を鳴らすと、蜂蜜の入った温かいミルクを入れてくれた。甘くて優しくて、幸せな味がした。こんなに美味しい物がこの世に存在するなんて知らなかった。

 

『お嬢様が貸してくださった本、とても面白かったです』

 

ウェンディとまっすぐに視線を合わせて、話をしてくれた。

 

『お嬢様、さあ、もうおやすみになってください』

 

眠れぬ夜に、そばで手を握ってくれた。

 

『お嬢様、ほら見てください!庭に咲いていたお花、もらってきたんです。可愛いでしょう?』

 

知らない感情が、生まれる。

 

世界が、少しずつ光っていく。

 

『お嬢様』

 

だから、もう、寂しくないの。

 

『ウェンディ様』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベッカ、あなたがそばにいてくれるから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、自分が、こんなにも幸福を感じるなんて

 

こんな想いは、初めて

 

この想いは大切で特別で、絶対に手離したくない

 

 

 

『ウェンディ様』

 

 

 

名前を呼ばれると、心が温かくなる。

 

もっと近づきたい。

 

もっと触れたい。

 

わたくしは、あなたがいれば、もう何もいらないから。

 

だから、ずっとそばにいて。

 

 

 

 

 

 

 

『はい、お嬢様』

 

 

 

 

 

 

 

ねえ、ベッカ

 

 

 

 

 

あなたは、わたくしのものよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディは目の前で眠っているレベッカの顔を見つめる。ここで寝るように誘ったらレベッカは強く拒否した。しかし、よっぽど疲れていたのか、再びウェンディのベッドで眠ってしまった。

 

「――ベッカ」

 

名前を呼ぶ。レベッカは一瞬ピクリと動いたが、覚醒することはなかった。

 

「ベッカ」

 

また名前を呼ぶ。今度は動かない。ぐっすりと眠り込んでいる。

 

そっとレベッカの頬に触れる。フワフワとしていて、温くて、柔らかい。

 

頬に触れても、やはり目を覚ますことなく、赤ん坊のようにすやすやと眠っていた。

 

「……かわいい」

 

思わず呟いたが、レベッカはやはり起きなかった。

 

それをいいことに、その体に抱きつく。柔らかい胸に顔を埋める。レベッカは眠っているのに、すぐに抱き締め返してくれた。温かくて、心地いい。

 

ウェンディはレベッカの胸の中で思わず笑った。レベッカから、優しい匂いがした。

 

蜂蜜の香りだ。

 

「んふふ」

 

少しだけ笑って目を閉じる。

 

 

 

 

 

このうえなく、幸福だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ベッカ」

 

ウェンディにとって、レベッカの存在は特別だった。

 

好きで、好きで、たまらなくて、

 

大好きで、特別なメイド

 

「ベッカ」

 

このメイドは、ウェンディだけのものだ。

 

そばにいてくれれば、もう何もいらない。

 

 

 

 

 

ウェンディの想いは、徐々に強くなっていく。

 

あふれていく。

 

止まらない。

 

それでいい、と思う。

 

だって、レベッカはずっとウェンディと一緒にいてくれるから。

 

どんな事があっても、この呑気なメイドはずっと自分のそばにいてくれる。

 

そう思っていたのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――レベッカが、メイドを辞めることになりました」

 

ある日、扉の外から聞こえたその言葉に、ウェンディは崩れ落ちる。あまりの絶望に、胸が痛くて、呼吸が苦しい。

 

そして、目の前が真っ暗になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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嫌がらせ



レベッカ視点に戻ります。










 

 

 

 

事の発端は、メイド達の態度の変化だった。

 

「おはようございます」

 

朝、キッチンで顔見知りのメイドへ挨拶をするも、そのメイドは顔を思い切り背け、何も言わずにどこかへと行ってしまった。

 

「……」

 

その態度に困惑しながらも、仕事の準備を始める。その後、他の年若い使用人達へも何度か話しかけたが、全員から返事はなかった。見事な無視だ。

 

「――やっぱりクリストファー様の件ですよねー」

 

「まあ、そうでしょうね」

 

洗濯室でため息をつくレベッカに、キャリーは肩をすくめた。

 

「レベッカ、大丈夫?」

 

「はい。気にしてません」

 

「メイド長に言っておきましょうか?」

 

「うーん、……いえ、大丈夫です。そのうち、元通りになりますよ」

 

楽観的な事を言うレベッカに対して、キャリーは心配そうな表情のまま言葉を続けた。

 

「あのね、でも、ペネロープには気を付けた方がいいかも……」

 

「え?誰です?」

 

聞き覚えのない名前に首をかしげると、キャリーがヒソヒソと教えてくれた。

 

「メイド達のリーダー的な子よ。親の代からこの屋敷で働いててね……クリストファー様の専属メイドの一人だったの」

 

「あ、専属メイドがいらっしゃったんですね」

 

「そりゃあ、伯爵のご子息だからね。学園に入るまでは、何人かの専属メイドがいたのよ。まあ、執事がほとんど仕事をしていたけどね」

 

その言葉に仏頂面の執事、リードの顔を思い出した。

 

「ペネロープは昔から、クリストファー様大好きというか、熱烈なファンというか、……本気で恋しちゃってるというか……とにかく、過激派なのよ」

 

「過激派……」

 

「そう。まあ、ペネロープはメイドだけど、元は没落した貴族の家の娘だから……クリストファー様のことを本気で狙ってるんじゃないかな……クリストファー様からは全く相手にされてないけど」

 

「難儀ですねー」

 

「とにかく、本当に気をつけてね。無視くらいなら可愛いもんだけど……いじめられたらすぐに言って」

 

「あはは、大丈夫ですよ」

 

キャリーの忠告にレベッカは笑って答える。キャリーはまだ不安そうな表情をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜、ウェンディの部屋にて、レベッカは困ったような顔で立ち尽くしていた。目の前では、ウェンディが怒ったような顔で仁王立ちをしている。

 

レベッカは顔に手を当てて、軽く首をかしげて口を開いた。

 

「お嬢様、ミルクも召し上がったようですし……本当にそろそろおやすみになってください」

 

「いやっ」

 

ウェンディが細い腕を組みながら、言い放つ。

 

「ベッカといっしょに、ねるの!」

 

その言葉に思わず頭を抱えた。

 

最近、ウェンディは子どもらしいワガママを言うようになった。レベッカ限定ではあるが。それは喜ばしい事だし、可愛いワガママなら叶えてあげたい、と思う。しかし、

 

「お嬢様のベッドで私が寝るわけにはいかないんですよ……」

 

一緒にベッドで寝たい、というウェンディのワガママは、流石に聞き入れるわけにはいかない。

 

レベッカの困惑をよそに、ウェンディは頑なに一緒に寝る、と言い張った。

 

「このあいだは、ここでねたじゃない!」

 

ウェンディが自分のベッドを指差す。痛いところを突かれて、レベッカは目をそらした。

 

確かに、ミルクを入れるためにこの部屋に入った際、あまりの疲れから、気を失うようにここで眠ってしまったことがある。一度だけならまだしも、ここ数日は睡魔に負けて、3回ほどウェンディのベッドで寝てしまった。流石にメイドとして、これはまずい。

 

「お嬢様……これがバレたら私がメイド長に怒られます」

 

レベッカが小さくそう言うと、ウェンディは腕を組んだまま唇を尖らせた。

 

「わたくしが、いいといってるのよ!」

 

「いけません。メイドが主人と一緒に寝るなんて、……とんでもありません」

 

レベッカがキッパリとそう言うと、ウェンディが頬を膨らませた。その顔が可愛くて笑いそうになったが、頑張って堪える。レベッカはゆっくりとしゃがみこみ、ウェンディと視線を合わせた。

 

「なぜ、そんなに私と寝たいのですか?」

 

その問いかけに、ウェンディが拗ねたように答えた。

 

「いっしょだとあんしんする……」

 

「安心、ですか」

 

「ん。ベッカのにおい、すき。はちみつの、におい。ぎゅってするの、だいすき」

 

「うーん……」

 

「あと、ついでにベッカのおむねもやわらかくてすき。ふわふわ」

 

「……」

 

思わず真顔になり、無言で自分の胸に視線を向ける。すぐに顔を上げて、苦笑しながら口を開いた。

 

「では、こうしましょう」

 

「うん?」

 

「お嬢様がしたいとき、いつでもぎゅってします」

 

「……いつでも?」

 

「はい。それで許していただけませんか?」

 

その提案に、ウェンディが一瞬迷ったように目を泳がせ、すぐに上目遣いでレベッカを見つめてきた。

 

「ほんとうに、いつでも?」

 

「はい。いつでも、どんな時でも」

 

レベッカが笑いながらそう言うと、ウェンディがパッと顔を輝かせた。

 

「ほんとうね?いつでも、ぎゅってしてくれるのね?わたくしがのぞめば、どんなときでも?」

 

「はい」

 

「じゃあ、いますぐにして!」

 

ウェンディがそう言って期待するようにレベッカを見てきた。レベッカは少し驚きながらも、すぐに微笑む。そして、すぐに目の前のウェンディの小さな身体に腕を回した。

 

包み込むように、優しくウェンディを抱き締める。ウェンディの腕も、すぐにレベッカの背中へと回った。二人で体温を分け合うように抱き合う。ウェンディからは、花のような香りがした。ウェンディの甘い香りを感じながら、レベッカは口を開く。

 

「これで眠れますか?」

 

「まだ。ぜんっぜん、たりない」

 

レベッカの胸の中で、ウェンディがモゴモゴと声を出す。レベッカは笑いながら、ウェンディの背中を安心させるように軽く撫でた。

 

そのままウェンディが満足するまで、二人は暗い部屋で静かに抱き合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これ、やっておいて」

 

「はい?」

 

廊下にて、突然大量の洗濯物を押し付けられて、レベッカは目を見開いた。押し付けてきたメイドに、レベッカは戸惑いながらも口を開く。

 

「私、あの、掃除があるのですが……」

 

「私にだって他の仕事があるのよ。あなたはお嬢様の世話をするとか言って、どうせ怠けてるんでしょ?とにかく、やっておいて。夕方までに」

 

絶対に夕方までには終わらないと思いますが、と言いかけたが、レベッカが口を開く前にメイドはその場から立ち去っていった。

 

「うーん……」

 

最近、このように仕事を大量に押し付けられる事が増えてきた。毎日のように、一人では絶対に出来ない量の仕事を指示される。

 

たくさんの洗濯物を抱えながら、物思いに耽っていると、少し離れた場所で数人のメイドが、レベッカを見てクスクスと笑っていた。

 

「……」

 

それをチラリと見るが、何も言わずにレベッカは洗濯室へと足早に向かう。メイド達の横を通り過ぎようとしたその時、メイドの一人が足を突き出してきた。

 

「……」

 

無言でヒラリと軽く飛び上がり、その足を避ける。

 

「ああ、申し訳ありません」

 

レベッカはペコリと頭を軽く下げると、何事もなかったかのように平然と洗濯室へ足を進めた。一瞬だけ振り返ると、足を引っ掛けようとした赤毛のメイドが悔しそうな顔をしているのが見えた。

 

「お見事」

 

声をかけられて、そちらへと顔を向けると、キャリーが笑っていた。

 

「ペネロープ、あなたを転ばせようとしたのね。まったく、あの子ったら」

 

「あ、今の赤毛の方が、例のクリストファー様好き好きメイドさんですか?」

 

「せいかーい」

 

キャリーが苦笑しながら、洗濯物を半分持ってくれた。

 

「あ、すみません……」

 

「いいのいいの。二人でやればすぐ終わるわよ。さあ、行きましょ」

 

キャリーに感謝しながら、レベッカは洗濯室へと急いだ。キャリーも一緒に歩きながら口を開く。

 

「嫌がらせ、やっぱり始まったのね」

 

「あはは、標的にされちゃいました」

 

レベッカはわざと明るく声を出した。

 

「あの方々も、健気というか純粋というか、……頑張ってますねー」

 

「レベッカ、やっぱりメイド長に言った方がいいと思う」

 

キャリーは真剣な顔をして言葉を重ねた。

 

「何をするか分からないわよ、あの人達。手遅れにならないうちに、対策をするべきだわ」

 

「……うーん」

 

レベッカは少し考え、すぐに首を横に振った。

 

「とりあえず、もう少し様子を見ます……そのうち、飽きるかもしれませんし」

 

「でも……」

 

「何かあったら、すぐに相談しますから」

 

レベッカがそう言って笑うと、キャリーは不安そうな顔をしながら深いため息をついた。

 

「なんだかなぁ……本当にあなたが心配だわ」

 

レベッカはそんなキャリーを見返し、ふとあることに気づいて口を開いた。

 

「それよりも、キャリーさんの方は大丈夫ですか?私と一緒にいたら、立場が悪くなるのでは?」

 

その問いかけに、キャリーは少し怒ったような顔をした。

 

「そんなこと気にしないの。元ルームメイトでしょ。――私に出来ることがあれば、協力するから」

 

キャリーのその言葉に深く感謝して、レベッカは頭を下げた。

 

「……ありがとうございます。キャリーさんも困ったことがあったら、すぐに言ってくださいね」

 

「私なら大丈夫」

 

キャリーがそう答えた時、ちょうど洗濯室へと到着した。

 

「私、洗剤を持ってきます」

 

レベッカはそう言いながら、洗剤を探しに向かう。その後ろ姿を見つめながら、キャリーが小さく囁いた。

 

「……でも、相談はしておくべきよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、期待に反して、メイド達は嫌がらせに飽きることはなく、レベッカへの当たりは日に日に強くなってきた。

 

赤毛のメイド、ペネロープとその数人の仲間達が中心となり、レベッカに嫌がらせをしてくる。無視や仕事の押し付けはもちろん、レベッカにだけ業務上の連絡が回ってこなかったり、他のメイドのミスをレベッカのせいにされたりもした。

 

「うーん、どうしようかなあ……」

 

押し付けられた庭の掃除をしながら、レベッカは呟く。最近はペネロープに指示されたのか、キャリーとメイド長以外のほとんどの使用人達は、レベッカの存在を無視するように振る舞っていた。レベッカが話しかけても、誰も応えない。みんな、気まずそうな顔でレベッカから目をそらすのだ。

 

そんな状況になっても、レベッカは特に焦っていなかった。思ったよりも害は出ていないからだ。なんだかんだで、レベッカは仕事ができたし、時にはキャリーが助けてくれるので、忙しくはあったが、メイドの業務はきちんとこなせていた。それに、元々キャリー以外のメイドや使用人とはほとんど話さなかったので、無視もそんなにつらくはない。

 

キャリーはメイド長に相談するべきだと主張していたが、レベッカはいまいち踏ん切りがつかなかった。

 

もう少し様子を見てからでもいいかもしれない。別にそんなに困っているわけではないし。それに、ただでさえ人手が少ないため、毎日忙しく働いているメイド長に頼るのは、なんだか申し訳ない。

 

「……うん。もうちょっと、様子を見よう」

 

レベッカはそう心に決め、庭掃除を終えると、屋敷へと戻った。

 

廊下を歩きながら考える。今日はお嬢様から借りた本を返さなければ。それで、お嬢様の好きなお茶を用意して、二人でたくさん本の感想を言い合おう。

 

ウェンディの笑顔を思い浮かべながら、レベッカは廊下を歩み進める。

 

メイド達の嫌がらせの事は、もう既に頭から離れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メイド達の嫌がらせは続いたが、特に大きな事件が起きることはなく、2ヶ月が過ぎる。ウェンディが待ち焦がれた日がやってきた。クリストファーの一時帰省だ。

 

「おにいさま!」

 

試験休暇で屋敷に帰ってきたクリストファーは、笑顔でウェンディを抱き締めた。

 

「ウェンディ、2ヶ月ぶりだね」

 

「とっても、あいたかったわ!」

 

あふれるような笑顔で言葉を交わす兄妹を見つめながら、レベッカも無意識のうちに微笑んでいた。部屋の扉の横では、執事のリードがいつも通り無表情で立っている。

 

「なんにち、ここにいられる?」

 

「5日間だよ。二人でゆっくりと過ごそう」

 

「うん!」

 

ウェンディが嬉しそうに笑って大きく頷く。そして、クリストファーは今度はレベッカに顔を向けた。

 

「レベッカも、久しぶり」

 

「はい、ご無沙汰しております」

 

ゆっくりとクリストファーに一礼する。クリストファーはウェンディを抱き上げながら、レベッカに問いかけてきた。

 

「何かあった?元気がないみたいだけど」

 

その問いかけに、レベッカは穏やかに微笑んだ。

 

「いいえ」

 

首を横に振り、そしてすぐにまた口を開く。

 

「クリストファー様、ウェンディ様、お茶を用意いたしますね」

 

そう言いながら、茶葉やお菓子の用意を始める。

 

クリストファーとリードがそっと目配せしたが、レベッカはそれに気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レベッカ!」

 

クリストファーが帰ってきた日の午後、廊下で窓を拭いていると、名前を呼ばれてた。振り向くと、クリストファーがにこやかに笑って近づいてきた。

 

「クリストファー様、どうされました?」

 

てっきり、ウェンディの部屋で仲良く過ごしていると思っていた。レベッカが戸惑っていると、ゆっくりとこちらへ近づいてきたクリストファーは、突然レベッカの手を取った。思わず肩がビクリと震える。そんなレベッカの様子に構わず、クリストファーは笑顔を消すと、レベッカの手を握りながら真剣な顔で口を開いた。

 

「……今夜、夕食でもどうかな?」

 

その真剣な表情にポカンとする。

 

なんだか、変な誘われ方だな、と思った。こんなに真剣な顔のクリストファーを見るのは初めてだ。

 

「えーと、……食事、ですか」

 

「うん。街でいいレストランを予約しているんだ。どうだろうか?」

 

レベッカは困ったように首をかしげた。

 

「……仕事が」

 

「メイド長には僕から伝えておくよ。どうか、僕と一緒に食事をしてくれないかな?」

 

クリストファーの誘いに、迷いながらも断る理由が見つからず、レベッカはゆっくりと頷いた。

 

「……承知しました」

 

その答えにクリストファーがニッコリと笑う。

 

「それじゃあ、今夜、部屋で待っててくれ。迎えに行くからね」

 

そして、レベッカの手を離すと、楽しそうに立ち去っていった。レベッカは困惑しながらその後ろ姿を見つめる。

 

少し離れた場所から、メイド達がレベッカを鋭い視線で睨んでいたが、困惑していたレベッカは気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリストファーが予約したというレストランは、小さかったが、落ち着いていて、静かな雰囲気の店だった。

 

「……」

 

「……」

 

レベッカは戸惑いながら隣に視線を向ける。レベッカの隣には、なぜか仏頂面のリードが座っていた。その顔は何を考えているのか分からない。

 

レベッカの正面に座ったクリストファーが楽しそうに口を開く。

 

「いやあ、外食なんて久しぶりだよ。ここの店の料理は何でも美味しいんだ。レベッカ、好きなものを頼んでね。リードも」

 

「……はあ」

 

曖昧にそう答えながらも、レベッカはまた隣に視線を送った。クリストファーと二人きりの食事がよかった、なんて言う気はさらさらないが、まさかリードも同じ席で食事をするとは思わなかった。3人での食事とは、なんだか不思議な感じだ。そして、気のせいか、リードはこの店に入ってきた時から非常に不機嫌そうだった。

 

「あのー、リードさん……?」

 

「はい?」

 

思い切ってリードに話しかけると、明らかに怒ったような声でリードが答えたため、レベッカはビクッとする。反対にクリストファーは笑いながら口を開いた。

 

「リード、そんな怖い顔をするな」

 

「……坊っちゃん。私は今夜先約があったのですが」

 

「うん、知ってる」

 

「……」

 

「今度、きちんと埋め合わせをするよ。とにかく、今夜は3人で楽しもう」

 

「……」

 

リードは何かを言おうとして口を開いたが、結局何も言わず、代わりに大きなため息をついた。

 

やがて、注文した食事が運ばれてきた。レベッカは少しだけ目を輝かせる。本当に美味しそうな料理だ。早速ナイフとフォークを手に、温かい料理を口にする。クリストファーの言った通り、絶品だった。

 

「レベッカ、こうやって、ゆっくり話すのは初めてだね。最近の調子はどうかな?ウェンディとは仲良くしてる?」

 

「あ……はい、そうですね……」

 

食事を楽しみながら、クリストファーと少しずつ会話を交わした。クリストファーと話しながら、この人会話が上手だな、とレベッカはぼんやりと思った。こちらの話を穏やかで柔らかい表情を崩さずに聞き出し、話が途切れないように盛り上げてくれる。なんとなく会話を交わしていると、安心感が芽生るのだ。これはモテるのも分かるな、とこっそり思った。

 

一方、レベッカの隣にいるリードは言葉少なく、何度もため息をつきながら食事をしていた。

 

伯爵子息と執事とメイドの奇妙な晩餐会は、その後も穏やかに続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリストファーは5日間の休暇中、レベッカの顔を見かけたら何度も話しかけてきた。なんだかよく話しかけられるな、と思いつつも、穏やかな表情で事務的に会話を交わす。

 

時々、レベッカがクリストファーと話していると、ペネロープや他のメイド達が睨んでいるのは分かっていたが、クリストファーを無視するわけにもいかないので、気にしないようにした。

 

そして、5日間の試験休暇が終了し、クリストファーはウェンディとの別れを惜しみながらも、再び学園へと戻っていった。

 

「――あれ?」

 

クリストファーを見送り、仕事のためにキッチンへと向かっていたその時、廊下の向こうから歩いてきた人物を見て目を見開く。

 

「リ、リードさん?」

 

歩いてきたのは、クリストファーの専属執事、リードだった。

 

「あ、あれ?なんで、まだここにいらっしゃるんですか?」

 

てっきりクリストファーと共に学園へ向かったと思っていた。リードはレベッカの問いかけに、軽く肩をすくめた。

 

「こちらで、少し仕事が残っていまして」

 

「そ、そうなんですか……」

 

「その仕事が終わったら、すぐに坊っちゃんの元へと向かいます」

 

「え、えーと、何かお手伝いしましょうか?」

 

その言葉に、珍しくリードが少しだけ笑った。

 

「いいえ。あなたは、あなたの仕事を、最後までこなしてください」

 

「は、はい……」

 

レベッカが困惑しながら頷くと、リードも頷き、すぐにどこかへと立ち去った。

 

レベッカはその後ろ姿を首をかしげながら、静かに見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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事件



視点がコロコロ変わります。










 

 

クリストファーが学園に戻った二日後、事件は起きた。

 

朝早く、メイド服に着がえ、髪を整えていると、突然部屋の扉が強くノックされる音がした。

 

「レベッカ、レベッカ!ここを開けて!早く!」

 

キャリーの叫ぶような声が聞こえる。驚きながら、扉を開けると、キャリーが飛び込むように入ってきた。

 

「キャリーさん?おはようございます。どうされました?」

 

「大変よ!伯爵の指輪が盗まれたんですって!」

 

「え?」

 

キョトンとするレベッカにキャリーが慌ただしく、一から説明してくれた。

 

朝早く、伯爵の私室の掃除担当となっているメイドが、掃除のために部屋に入ったところ、部屋が酷く荒らされているのを発見したらしい。急いで人を呼び、部屋を確認したところ、伯爵の指輪が盗まれていたそうだ。

 

「それは……大変ですね。泥棒だなんて……」

 

レベッカがポカンとしながらそうこぼすと、キャリーが顔を真っ青にさせながら口を開いた。

 

「大変なのは、そこじゃないの!!」

 

「はい?」

 

「あなたがその犯人だって言われてるのよ!!」

 

「……え、え?……えー!!」

 

一瞬キャリーの言葉の意味が分からなかったが、理解した瞬間、大声で叫んだ。

 

「な、なぜ!?どういうことですか!?」

 

「ペネロープよ!あの子が、真夜中にあなたが屋敷をうろついているのを見たって!だから、あなたが泥棒に間違いないって、そう言ってるの!!」

 

「そ、そんなわけないじゃないですか!」

 

レベッカは動揺しながら大きな声を出した。

 

「私は盗んでなんかいませんよ!!昨日仕事を終わらせて、それからはずっとこの部屋にいて……あ!!」

 

レベッカは昨夜の事を思い出し、頭を抱えた。

 

ちがう。ずっと部屋にいたわけではなかった。昨夜はウェンディに呼ばれて、いつも通りミルクを入れるために部屋を出た。そして、蜂蜜を切らしていたことに気づき、夜中に一人でキッチンへと向かったのを思い出した。

 

「……キ、キッチンに一度行きました。蜂蜜をもらいに……でも、伯爵様の部屋には行っていませんよ!!」

 

「それ、誰か証明してくれる人はいる?」

 

キャリーの言葉に、弱々しく首を横に振った。無理だ。一人で行動したのだから、証明してくれる人などいない。

 

レベッカの顔が真っ青になったその時、バタバタと足音がして、メイド長を先頭に何人かの使用人達が駆けつけてきた。

 

「レベッカ」

 

メイド長に名前を呼ばれて、小さく返事をする。

 

「……はい」

 

「ちょっと話を聞きたいの。こちらに来てちょうだい」

 

厳しい顔をしているメイド長に向かって、レベッカは叫ぶように声を出した。

 

「わ、私、盗んでません!!指輪なんて、知りません!!」

 

動揺で声が震えるのが分かった。とにかく、自分の無実を証明するために、言葉を重ねようとする。しかし、

 

「嘘よ!私、見たもの!!レベッカが真夜中に、伯爵様の部屋の近くを歩いていたわ!!」

 

メイド長の後ろにいたペネロープが大声を出す。周囲の使用人達が鋭い視線をレベッカに向けた。

 

「ち、ちがいます。私は、キッチンに行っただけで……!伯爵様の部屋には、入ってなんか……」

 

声がどんどん小さくなる。身体がガクガクと震えるのを感じた。

 

「レベッカ、とにかく、こちらへ来て。話を聞くだけだから」

 

メイド長が冷静にレベッカに声をかけた。レベッカは身体を震わせたまま、真っ青な顔で下を向き、メイド長や使用人についていった。

 

残されたキャリーは、ペネロープが勝ち誇ったようにニヤニヤと笑うのが見えて、怒りのあまり唇を強く噛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、ウェンディは朝食を食べながら、物思いに耽っていた。

 

今日はレベッカの姿を一度も見ていない。それが不思議だった。

 

レベッカが世話係になった当初は、ウェンディの部屋の扉横のテーブルに朝食を置いていた。しかし、最近は声をかけながら部屋に入り、朝食のセッティングまでしてくれるようになったのに、今日は来てくれなかった。朝早く、扉をノックされただけで、外には誰もいなかった。朝食は扉横にポツンと置いてあっただけだった。

 

もしかして、ウェンディがワガママを言い過ぎて、呆れてしまったのだろうか。

 

「……すごく、おこった、のかしら?わたくしのこと、きらいに、なった?」

 

ウェンディは不安を感じて、思わず小さく声を出す。レベッカに嫌われたのかもしれない。もしかしたら、自分と顔を合わせたくないのかも――

 

ウェンディはブンブンと勢いよく首を横に振った。

 

「――あやまる」

 

そうだ。レベッカは優しいから、ウェンディのワガママに困ったような顔をするけど、決して怒ったりはしない。きっと、心から謝れば、許してくれる。きちんと、謝罪しよう。

 

ウェンディはそう決心して、大きく頷き、朝食を食べ終えた。

 

朝食が終わって、しばらくしてから、扉がノックされた。待ち望んでいた音だ。ウェンディは勢いよく、扉へ駆け寄る。

 

「ベッカ!」

 

しかし、部屋に入ってきたのは知らないメイドだった。ウェンディと目が合うと、泣きそうな顔でビクリと震える。ウェンディは見知らぬメイドの顔を見て、慌ててベッドに逃げた。素早くシーツで身体全体を覆う。

 

「お、お、お掃除を、いたします……」

 

メイドが怯えたような声でそう言ったのが聞こえた。掃除をしているらしき音が聞こえるが、ウェンディの思考は乱れてグチャグチャになっていた。

 

どうしてレベッカはここに来ない?今日は休み?いや、ちがう。休む日は、前日に必ずウェンディに知らせてくれていた。だから、休みではない。

 

もしかして、本当にウェンディの事を嫌いになったの――?

 

ウェンディの身体が小さく震え始めた。レベッカの事を、掃除をしているメイドに聞こうと思ったが、ウェンディに怯えているのかベッド周辺に近づいてこない。それに、ウェンディも見知らぬ人間に話しかけるのは怖い。

 

ウェンディは結局言葉を出せないまま、掃除が終わるまでシーツの中で震えるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メイド長に連れていかれてのは、今まで入ったことのない小さな部屋だった。メイド長と向かい合って、小さな椅子に座った。その周りでレベッカを睨むように、何人かの使用人が控えている。

 

メイド長が冷静な視線を向けながら、口を開いた。

 

「――昨日、伯爵様の指輪が盗まれたの」

 

「……はい」

 

小さく返事をした。手が震えるのを必死に抑える。

 

「――ペネロープが、真夜中にあなたを伯爵様の部屋の近くで目撃したと言っているわ」

 

「違います!」

 

レベッカは大声を上げた。

 

「私は、確かに、真夜中、キッチンへ蜂蜜を取りに行きました……でも、伯爵様の部屋には入っていません!指輪なんて、盗んでいません!!」

 

メイド長を真っ直ぐに見つめながら、大きな声で否定する。メイド長はしばらくレベッカを見つめていたが、やがて頭を抱えてため息を吐いた。

 

「とにかく、こちらでも調査をするわ。レベッカ、あなたは、しばらくこちらが用意した部屋にいてちょうだい。外に出ないように」

 

「そ、そんな……、それでは、仕事は――」

 

「泥棒の疑いがあるのだから、屋敷で働かせることは出来ないわ」

 

泥棒、とはっきり言われて、レベッカは泣きそうになった。メイド長は厳しい視線を向けながら、またため息をついて、言葉を続けた。

 

「――あなたは、最有力の容疑者なの。分かってちょうだい」

 

「メ、メイド長――」

 

「連れていって」

 

メイド長の言葉と共に、後ろで控えていた使用人がレベッカの腕を掴み、強引に立たせる。

 

「ま、待ってください!せめて、お嬢様に――」

 

伝えなければ、と言いかけたが、そんなレベッカの様子には構わず、使用人達は無理矢理腕を引っ張り連行していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

使用人達に連れていかれたのは、倉庫のような小さな部屋だった。初めて入る部屋だ。みすぼらしくて、埃臭い所だ。

 

「全く、こんな泥棒が屋敷にいたとは」

 

「覚悟しておけ。お前が犯人だと確定したら、すぐに衛兵に突き出してやる」

 

使用人達にそう言われながら、部屋に放り込まれる。レベッカが部屋に入った瞬間、バタンと扉が締まり、鍵のかかる音がした。

 

慌てて扉に駆け寄る。使用人達はもう立ち去った後だった。

 

「ど、どうしよう――」

 

こんな事になるとは。間違いなくペネロープの策略にちがいない。でも、それを証明する術はない。このままだと、本当に泥棒にされてしまう。そうなったら、確実にこの屋敷から追い出されるにちがいないし、自警団に引き渡されるか、最悪レベッカの身元がバレて実家に強制送還されるかもしれない。

 

いや、ちがう。自分のことは、どうでもいい。レベッカの脳裏に浮かぶのは、小さな金髪の少女だった。お嬢様の事が心配でたまらない。きっと寂しがっているにちがいない。せめて、しばらく世話をできない、という事を伝えたい。

 

魔法でこの部屋を出るのは、正直容易い。しかし、そうなったらますます疑われるのは明白だ。

 

どうしよう、と扉の前で考え込んでいると、突然声がかけられた。

 

「――いい気味ね」

 

ハッとして、扉の隙間から外を覗く。そこにはペネロープが立っていた。

 

「あなた――!」

 

「目障りだったのよ、ずっと。クリストファー様に、色目なんか使って、本当に図々しい。あの化け物みたいなお嬢様にまで取り入って近づいて」

 

「なっ――」

 

自分の事よりも、ウェンディを化け物と呼んだ事に対して、怒りが湧いた。

 

レベッカが声を出す前に、ペネロープが言葉を続けた。

 

「誰もあんたの事なんて信じないわよ。じゃあね、泥棒さん」

 

クスクスと笑いながら、ペネロープは素早くその場から立ち去っていく。

 

レベッカはなす術もなく、扉に額をつけて、瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ペネロープが立ち去ってから、使用人の一人がパンと水という簡素な食事を持ってきてくれた以外は、誰もここに来なかった。もう外は暗くなっている。今夜はここで寝ることになりそうだ。

 

レベッカが本気で部屋から逃げ出すことを検討したその時だった。

 

「レベッカ」

 

扉の外から小さな声が聞こえた。

 

「キャリーさん!」

 

「シーっ!静かに」

 

キャリーの声が聞こえて、慌てて扉に近づいた。

 

「大丈夫?」

 

「今のところは。それよりも、事件はどうなったんです?」

 

少しの沈黙のあと、キャリーの重い声が響いた。

 

「――あなたが、犯人ってことになりそう」

 

その言葉に、レベッカの顔がまた青くなった。

 

どうやら、指輪はすぐに街の質屋で発見されたらしい。指輪はレベッカの名前で質入れされたらしく、しかも、質屋の主人は黒髪の女性が指輪を持ってきた、と証言しているそうだ。

 

「そ、そんな……堂々と本名で質入れするわけないじゃないですか!」

 

「うん、私もそう思う。でも状況は不利よ」

 

まだ調査は続いているが、ペネロープと質屋の主人の証言、そしてレベッカの普段の勤務態度が悪いというデタラメの噂まで追加され、レベッカが犯人だとほぼ確定されているらしい。

 

「メイド長は多分庇ってくれていると思う。でも、あなたはこの屋敷で働き始めてまだ日が浅いし、あまり人と関わっていないでしょう?あなたを疑う人が多すぎて……」

 

「うう……」

 

思わず呻く。この屋敷に来てから、身元や本当の年齢がバレるのが嫌で、ルームメイトのキャリー以外の人間とあまり関わらなかったのが裏目に出た。

 

「ペネロープの証言が大きいわ。少なくとも、あの子はこの屋敷では古株で、仲間も多い。いろんな人から信頼されているし……」

 

「――もう、打つ手はない、ですか」

 

レベッカが小さく呟くと、キャリーが慌てたように声をかけてきた。

 

「諦めないで!絶対になんとかなるから!」

 

「なんとかって……」

 

「伯爵様と連絡が取れないみたいで、あなたの処遇はまだ決まっていないの。指輪は戻ってきたから、衛兵に任せるか、このまま追い出すかって話になってるみたいだけど――、でも、どうにかするから!」

 

必死なキャリーの声に、レベッカは呟くようにまた声を出した。

 

「キャリーさん、もういいですよ」

 

「レ、レベッカ、もういいって……」

 

「このままだと、キャリーさんの立場も悪くなるのでしょう?これ以上迷惑をかけるわけにはいきません」

 

「私の事は気にしなくていいから!レベッカ――、」

 

「いいえ」

 

レベッカはゆるゆると首を横に振った。

 

「もう、いいです。私、ここを辞めます」

 

「や、辞めるって――」

 

「衛兵に突き出されるかもしれませんが、このままだと、キャリーさんだけではなく、いろんな人に迷惑をかけてしまうので。自分から出ていきます」

 

衛兵に連れていかれて、身元がバレるのだけは避けたい。その前に逃げ出そう。

 

「メイド長に伝えてもらえませんか?明日、ここを出ていくということを」

 

「レ、レベッカ――」

 

キャリーが泣きそうな声を出した。レベッカはキャリーに感謝しながら、扉に額を当てた。

 

「ありがとうございます。キャリーさん。あなたに、心からの感謝を」

 

そして、ゆっくりと目を閉じて、言葉を続けた。

 

「それと、お嬢様にも伝えてください――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――レベッカが、メイドを辞めることになりました」

 

扉の外から聞こえてきた言葉に、ウェンディは衝撃を受けて、崩れ落ちる。

 

なんで、どうして――?

 

もしかして、本当に、ウェンディの事が嫌いになったの――?

 

クラクラして、気持ち悪い。手がガクガクと震える。呼吸が乱れて胸が痛い。もう何もかもが分からない。頭の中で、どうして?を繰り返す。

 

離れないと、言ってくれた。寂しい時は、手を握ってくれた。

 

いつでも、どんな時でも、抱き締めてくれる。そう約束したのに――

 

その時、扉の外から、また声がかけられた。

 

「レベッカからの伝言です。ごめんなさい、そして、ありがとうございました、と。それから――」

 

ゆっくりとウェンディは顔を上げる。

 

「短い間でしたが、あなたと過ごせて幸せでした、と」

 

その言葉が聞こえて、強く手を握る。

 

「あなたの幸せを祈っております。お嬢様の事が、大好きです、心から、と」

 

なぜか、瞳が熱い。一瞬のあと、泣いているという事に気づいた。

 

『お嬢様』

 

レベッカの声が頭の中で響く。

 

幸せだった、と感じてくれた。他人から、怖がられ嫌われる自分と過ごしたことを、レベッカは幸せだと思っていてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

雷の音

 

 

 

冒険小説

 

 

 

温かいミルク

 

 

 

蜂蜜の匂い

 

 

 

かわいいお花

 

 

 

レースのリボン

 

 

 

音痴な歌

 

 

 

優しい眼差し

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、いつでも、どんな時でも抱き締めてくれるぬくもり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全部、全部、ウェンディの宝物だ。絶対に、離したくない、ウェンディだけの思い出だ。

 

人生に希望はない。この薄暗い部屋の中で、光り輝く物はない。

 

でも、それでも。

 

ウェンディ・ティア・コードウェルには、唯一手離したくない物が、ある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベッカ

 

 

 

 

 

わたくしだって、しあわせだったのよ

 

 

 

 

 

あなたがいてくれたから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディはゴシゴシと服の袖で涙を拭った。そして、扉を鋭く睨む。

 

怖がっている暇はない。怯えている時間もない。

 

自分は、今すぐ行動を起こすべきだ。

 

行かなければ。

 

勇気を出して、立ち上がろう。

 

進め、進め。

 

大好きな冒険小説の、主人公達のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

躊躇わずに立ち上がって、扉へと近づいた。そのまま、勢いよく扉を開く。

 

そして、ウェンディは数年ぶりに、外の世界へと飛び出した。

 

「えっ、……えっ?」

 

扉の外では、見たことのないメイドが目を白黒させながら立ち尽くしていた。そのメイドに向かって叫ぶ。

 

「いますぐ、あんないして」

 

「は、はい?」

 

「ベッカのところ、いく!あんないして!!」

 

メイドを睨みながら命じる。メイドは呆然としながらも、弱々しく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少ない荷物をまとめて、伯爵家の大きな扉の前で、レベッカは最後の挨拶をした。

 

「お世話に、なりました」

 

メイド長に深く頭を下げる。周囲では、レベッカを泥棒だと決めつけているらしい使用人達がこちらを睨んでいた。

 

「本当に、申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけして――」

 

レベッカが頭を下げながらそう言うと、周囲の使用人が数人声をあげた。

 

「やっぱり、追い出すだけなんて――」

 

「衛兵に突き出すべきよ」

 

「この泥棒娘!」

 

顔を上げると、使用人達に混じって、ペネロープとその仲間のメイド達がニヤニヤと笑っているのが見えて、レベッカは目をそらした。

 

「静かに。指輪は戻ってきたのだから。これ以上騒ぐのはやめなさい」

 

メイド長の言葉に、使用人達は不満そうな顔をしながらも口を閉じる。レベッカはメイド長に感謝しながら、また口を開いた。

 

「――どうか、お元気で」

 

メイド長が無言でレベッカに手を差し出す。レベッカが軽くその手を握ると、メイド長がこっそりと小さな声で囁いた。

 

「――申し訳ない、と思ってるわ」

 

その言葉に苦笑する。きっとこの人は、薄々と真実に気づいているのだろう。レベッカを庇ってくれたと聞いた。でも、レベッカの無実を証明することができず、使用人達の目もあり、庇いきれなかったのだろう、と推測できた。

 

「いいんです。ありがとうございました」

 

そう言って、また頭を下げる。

 

そして、背中を向けて、重い扉を開く。

 

ああ、お嬢様に挨拶出来なかった。そのことだけが、悲しい。きっと、怒ってるだろうな。

 

そう思いながら、屋敷の外へと出ようとしたその時だった。

 

 

 

 

 

 

 

「――カ、ベッカ」

 

 

 

 

 

 

 

声が聞こえた。

 

 

 

可愛い声だ。

 

 

 

 

 

 

 

「ベッカ、………ベッカぁ……」

 

 

 

 

 

 

 

使用人達がザワザワと揺れる。皆が怯えたように、声の方へと視線を向けた。レベッカも後ろを振り向く。

 

使用人達が、何かを恐れるようにさっと道を空けた。

 

「――あ、」

 

レベッカが思わず声をあげた。

 

「まさか、そんな――」

 

メイド長が呆然と声を出した。

 

レベッカを呼びながら、フラフラと歩いてきたのは、ウェンディだった。ネグリジェのまま、不安そうな顔で、人混みの中を歩いてくる。その後ろから、キャリーが戸惑ったような顔で付いてきた。

 

「――ベッカ」

 

レベッカの顔を見たウェンディがピタリと足を止める。レベッカはポカンと口を明けて、その姿を見つめた。ウェンディは一瞬、息苦しそうに顔を歪める。

 

その場の全員が、無言でウェンディを見つめていた。

 

ウェンディは、目をギュッと強く閉じる。そして、声を出した。

 

「――だれが、やめていいと、いったの」

 

レベッカは凍りついたように、その場で固まった。

 

「お、お嬢様――」

 

声が震える。ウェンディが、瞳を開いて、今度は大きな声を出した。

 

「わたくしのそばをはなれるきょかは、だしていないわ!!はやく、そうじをして!!そして、かみをむすびなさい!!わたくしに、ミルクをもってきなさい!!それから、それから――」

 

ウェンディは言葉を止める。

 

そして、今にも泣きそうな顔でレベッカを見て、今度は囁くような声を出した。

 

 

 

 

 

「――いますぐ、わたくしを、だきしめて」

 

 

 

 

 

その言葉に、レベッカも泣きそうになる。ウェンディは大きな雫を瞳からこぼして、言葉を重ねた。

 

「いかない、で。ここにいて。もう、これから、ワガママはいわない、から。……だから、……っ、おねがい、ベッカ」

 

レベッカの手から荷物が落ちる。そして、荷物を放り出したまま、レベッカはウェンディに駆け寄った。

 

「お嬢様!!」

 

ウェンディも走りながら、こちらへ向かってくる。そして、2人は強く抱き合った。

 

「ベッカ、ベッカぁ……」

 

「申し訳ありません、……申し訳ありませんっ……」

 

ウェンディを強く抱き締めながら、何度も謝る。

 

きっと、自分の部屋から出るのは、恐ろしかっただろう。何年も部屋に籠っていたウェンディにとって、外の世界へと足を踏み出すのは怖かっただろう。

 

それでも、追いかけてきてくれたのだ。レベッカのために。

 

ウェンディの気持ちを想像しただけて、胸がいっぱいになる。心が苦しくて、仕方ない。

 

「ごめんなさい……っ」

 

また、謝罪の言葉を口にする。レベッカの瞳からも涙が流れた。

 

その時、知っている声がその場に響いた。

 

「――盛り上がっているところ、申し訳ないんだけど、ただいま」

 

その声に、レベッカはウェンディを抱き締めながら顔を上げて、ポカンと口を開いた。

 

使用人達も戸惑ったように揺れる。メイド長もまた、呆然と口を開いた。

 

「ク、クリストファー様!?」

 

そこにいたのは、魔法学園にいるはずのクリストファーだった。魔法学園の制服らしき物を身につけ、困ったように屋敷の中へと入ってくる。

 

クリストファーの後ろから、見たことのない男性が付いてきた。クリストファーと同じ服を着ており、背が高く、ニコニコと楽しそうな表情を浮かべている。フワフワの茶色の髪に、金色の瞳を持つ、クリストファーに負けないくらい美しい青年だった。

 

「な、なぜ、ここに!?」

 

メイド長が叫ぶようにそう言うと、クリストファーが肩をすくめた。

 

「今日、指輪の盗難についての手紙を受け取ってね。慌ててここに戻ってきたんだ」

 

「も、戻ってきたって……っ、学園からここまで、馬車で何時間もかかるのに」

 

その言葉に、クリストファーがチラリと後ろの青年を振り返った。

 

「僕の友人で、瞬間移動――いわゆる“転送”の魔法が得意でね。彼に頼んだ」

 

クリストファーの友人らしき茶髪の青年は、レベッカと目が合うと、楽しそうに素早くそばに近づいてきた。そして、戸惑うレベッカの手を取ると、その手に軽くキスをして、爽やかな微笑みを浮かべて口を開いた。

 

「やあ、可愛らしいお嬢さん。僕の名前はエヴァン。僕達、前にどこかで会ったことない?もしよければ、今からお茶でも一緒に――」

 

レベッカが戸惑って言葉を返せないうちに、クリストファーがエヴァンと名乗った青年の襟元を掴んでレベッカから引き離した。

 

「レベッカ、このナンパ男の事は無視していいから」

 

「は、はあ」

 

レベッカは呆然としたまま頷く。レベッカの腕の中のウェンディもポカンとしていた。

 

「それじゃあ、さっさとこの馬鹿な事件を終わらせよう。――リード」

 

クリストファーが名前を呼ぶと、すぐに

 

「はい」

 

どこからかリードの短い返事がした。使用人達を掻き分けるようにリードが衛兵を引き連れて、近づいてきた。リードの手は、

 

「ちょっと、離しなさいよ!!」

 

ペネロープの腕を掴んでいた。ペネロープはリードに抵抗して必死に叫んでいる。混乱する使用人達を前に、リードが仏頂面のまま口を開いた。

 

「ようやく尻尾をつかみましたよ。このメイドが犯人です」

 

「は、はあっ!?何を言って――!」

 

ペネロープが顔を真っ赤にさせながら、口を開く。それを遮るように、リードが言葉を重ねた。

 

「極秘で調査をしていました。レベッカさんに罪を被せて追い出そうと話していたと、目撃証言が取れましたよ」

 

「なっ――」

 

「それに、あなた、今まで気づかれないように、こっそり何度も横領や盗みを繰り返していましたね」

 

ペネロープの顔が大きく歪む。リードが淡々と言葉を続けた。

 

「なかなか巧妙に隠していたようで、こちらも調査に手間取りましたが、ようやくこれまでの証拠を掴みました。最近はレベッカさんを追い出そうと躍起になっていたらしく、隠蔽が疎かになっていたようですよ。少なくとも、これまでの盗みは、彼女や彼女の仲間が犯人で間違いないです。指輪の盗難に関しては、まだ証拠は不十分ですが……恐らく、そちらもすぐに解決するかと」

 

「うん。それじゃあ、その女を連れていって。そして、二度とここに来ないように、手配を」

 

クリストファーの言葉に、リードが無言で頷く。そして、ペネロープを後ろの衛兵へと引き渡した。ペネロープが顔を歪めながら、クリストファーに向かって叫ぶ。

 

「クリストファー様!クリストファー様!お願いです、信じてください!私は、そんなこと――」

 

その時、レベッカが大声で叫んだ。

 

「待ってください!」

 

その場の全員が、レベッカに視線を向けた。

 

「ベッカ?」

 

ウェンディが不安そうに声を出す。ウェンディの頭を少しだけ撫でて、レベッカは微笑む。そして、すぐに笑みを消すと、立ち上がった。

 

「レベッカ?」

 

キャリーが心配そうにレベッカを呼んだが、レベッカはそれに答えず、ズンズンとペネロープへ近づく。

 

そして、ペネロープを無言で見つめた。ペネロープが憎悪の瞳でレベッカを見つめ、口を開いた。

 

「なによ……っ、あんたが悪いのよ!!全部、全部、あんたが悪いんだから!!そうよ、あんたのせいで……っ!クリストファー様が、」

 

言葉を続けようとしたペネロープの襟首を、レベッカは強引に掴んだ。ペネロープが驚いたように言葉を止めて、そばにいたリードも眉をひそめる。周囲の人々の視線を感じながら、レベッカはゆっくりと口を開いた。

 

「いいんですよ、別に。泥棒だと、疑われたのは、あんまり、怒ってないです。いえ、まあ、少しは怒ってますけど。――でも、それよりも」

 

レベッカはペネロープの耳元に唇を近づける。そして、ウェンディに聞こえないように、小さく囁いた。

 

「――大切なお嬢様を、化け物呼ばわりしたのは、許せない」

 

そして、鋭い瞳で、ペネロープを睨む。ペネロープがその視線に怯えたような顔をした。

 

「しっかり、喰いしばっててくださいね」

 

歯を。

 

そう言うのと同時に、レベッカは渾身の力で、ペネロープの顔を強く殴る。パーンと乾いた音が響いた。

 

「連れていってください」

 

放心したようなペネロープを衛兵に引き渡す。衛兵達は戸惑ったような顔をしながら、ペネロープをどこかへと運んでいった。

 

「ベッカ!」

 

ウェンディが叫ぶようにして、またレベッカに抱きついてきた。レベッカはそれを受け止めながら、クリストファーへと視線を向けた。

 

「――ありがとう、ございました。クリストファー様」

 

リードが軽く頷き、クリストファーは穏やかに笑って首を横に振った。

 

「いいや。それよりも、遅くなってすまない。もっと早く来るべきだったね」

 

「いえ」

 

レベッカは軽く首を振り、今度はリードに顔を向けた。

 

「リードさんも、ありがとうございました」

 

「いいえ。こちらこそ、助けるのが遅くなって申し訳ありませんでした」

 

リードも軽く頭を下げる。ふと疑問を抱いたレベッカはリードに問いかけた。

 

「リードさんは、ずっとあのメイドの調査をしていたんですか?」

 

「ええ。あなたが嫌がらせを受けている、と手紙で相談を受けまして。それで2ヶ月前から、いろいろと極秘で調査を」

 

「相談?手紙?」

 

相談などした覚えはない。レベッカが首をかしげると、どこからか声があがった。

 

「あ、それ、私!」

 

声と共に手を上げたのはキャリーだった。

 

「レベッカはいいと言ったけど……、やっぱり心配で。この人に手紙を出して、相談をしていたの」

 

キャリーの言葉に、レベッカは不思議そうな顔で口を開いた。

 

「リードさんとキャリーさんは、お知り合いだったんですね」

 

「いや、お知り合いというか――」

 

リードは肩をすくめて、キャリーの隣に立った。

 

「私の妻です」

 

レベッカは呆気に取られて、大声を出した。

 

「え、え、えーーー!?」

 

リードがレベッカの声に眉をひそめて、キャリーへ顔を向けた。

 

「話していなかったのか?」

 

「いや、別に話すほどの事ではないかな、と思って」

 

キャリーがあっさりとそう言って、レベッカは混乱しながらまた声を出した。

 

「え!え?えー?ほ、本当に夫婦なんですか!?ウソ!」

 

「いや、ホント。結婚3年目」

 

「え、えー……?」

 

キャリーの言葉に、まだ現実を受け止めきれず、レベッカは弱々しく声を出す。その時、あることに気づいて、再び口を開いた。

 

「あ、あの、キャリーさんっておいくつなんです……?」

 

考えてみれば、キャリーの実年齢をレベッカは知らない。キャリーはどう見ても、レベッカより少し年上にしか見えない。それで結婚3年目ということは、一体何歳になるのだろう。

 

レベッカの質問に答えたのはリードだった。

 

「若く見えますけどね、これでも私より年う――」

 

その時、キャリーがリードの足を踏みつける。リードの言葉が止まった。

 

「レベッカ、細かいことは気にしないの」

 

キャリーの強い視線に気圧されて、レベッカは戸惑いながらも無言で頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レベッカにはすまないと思ったけど、囮になってもらう形になった」

 

場所を移して、レベッカはクリストファーの私室でソファに座っていた。ウェンディは久しぶりに外に出て疲れたのか、レベッカの膝の上で気を失うように眠ってしまった。キャリーがお茶を入れてくれながら、チラチラとクリストファーを見ている。クリストファーの隣では、エヴァンが穏やかな顔でお茶を飲み、その後ろではリードが控えていた。

 

「キャリーからの相談をきっかけに、極秘で調査を始めて、あのメイドやその仲間が盗みや横領をしているのが分かった。でも、巧妙に隠れていたから、なかなか証拠は掴めなかったんだ」

 

クリストファーは顔をしかめ、言葉を続けた。

 

「あのメイドは昔から僕にしつこく絡んできてね……、今回の帰省で、僕が君に気があるような素振りをすれば、怒って、何か行動を起こすんじゃないか、と思ったんだ。それで、監視のためにリードを残した。けど、まさか、指輪の盗難事件を起こすとはね」

 

クリストファーはレベッカに深く頭を下げた。

 

「本当に、すまなかった。君を利用する形になってしまって」

 

「あ、えっと、いえ、そんな……」

 

レベッカがオロオロしていると、クリストファーは頭を上げて、真剣な表情で言葉を重ねた。

 

「今回の事件は早急に解決させるよ。あのペネロープというメイドの、仲間や協力者も既に確保した。その中の一人、レベッカと同じ黒髪のメイドがレベッカのふりをして指輪を質に入れた事を認めた。君の身の潔白もすぐに証明できる」

 

そして、クリストファーは再び頭を深く下げた。

 

「だから、どうか、このままうちで働いてくれないだろうか」

 

クリストファーが絞り出すように声を出す。

 

「――ウェンディは、君の事を心から慕っている。君に辞めてほしくないんだ。君の待遇は、これまで以上に良くするよ。君が望むなら、何でも叶えよう。だから、どうか、これからもウェンディのそばに――」

 

クリストファーの声を聞きながら、レベッカは眠っているウェンディの頭を撫でた。

 

「――私からも、お願いしようと思っていました」

 

レベッカの言葉にクリストファーが頭を上げる。レベッカは少し笑って言葉を続けた。

 

「私の望みは、たった一つです。今後も、ぜひ、ウェンディ様のお世話を続けたいです。どうか、お願い致します」

 

レベッカの言葉に、クリストファーがホッとしたように笑う。そして、

 

「ああ。これからは、君をウェンディ専属のメイドとして、雇いたい。受け入れてくれるかな?」

 

レベッカはまた笑うと、ゆっくりと頭を深く下げた。

 

「謹んでお受けいたします。どうか、よろしくお願いいたします」

 

レベッカがそう言うと、後ろから泣き声が聞こえた。

 

「よ、よかった~。レベッカ、よかった~」

 

キャリーが安心したように泣いていた。レベッカはそっとウェンディの頭を膝から下ろすと、キャリーに駆け寄り、何度も頭を下げた。

 

「キャリーさん、ありがとうございました。キャリーさんのおかげです。本当に、本当にごめんなさい。ありがとうございました」

 

「ふぇーん、よかった~」

 

キャリーが泣きながらレベッカに抱きつく。レベッカはキャリーと抱き合って、そして、笑った。

 

「それじゃあ、話は終わりだよね?お嬢さん達、僕と食事でもどうだろうか? いいレストランを知っているんだ。きっと気に入るよ。この素晴らしい夜を、ぜひ君達のような美しい女性と過ごし――」

 

クリストファーの友人だという青年、エヴァンがレベッカとキャリーに話しかけてきたが、今度はそれをリードが止めた。

 

「――レベッカさんはともかく、人妻を誘うのはおやめください、殿下」

 

殿下、という敬称にレベッカとキャリーの身体が固まる。最初に口を開いたのはキャリーだった。

 

「ちょ、ちょっと待って。殿下って、この人――」

 

「あ、自己紹介がまだだったね。この国の第二王子、エヴァン・ティリエル・ジョーンズ・アルヴェルトです。どうぞ、よろしく」

 

エヴァンが楽しそうに自己紹介しながら、握手をしようと手を差し出してくる。レベッカとキャリーは呆然と固まったままだった。

 

その光景をクリストファーが呆れたようにため息をついて、立ち上がった。

 

「そろそろ、学園に戻ろう。外出許可を貰ったとはいえ、遅くなったらマズい。エヴァン、“転送”を頼む」

 

「はいはーい。悲しいけど、今日はお別れだ。またね、お嬢さん達」

 

そして、クリストファーとエヴァンはリードを従えて、部屋から出ていった。

 

レベッカとキャリーはあまりの衝撃に、しばらくその場で固まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 












ちょっと裏設定







※リード・ウィルソン

身寄りがなく、ホームレス同然の生活をしていたところをクリストファーに拾われた。それからは使用人を経て、クリストファーの専属執事を勤める。優秀で真面目な苦労人。

妻の事を心から愛している。しかし、クリストファーと学園で生活するため、離れて暮らすことになった。絶対に顔には出さないが、寂しさを感じている。

クリストファーと帰省する度に、時間を作ってキャリーとデートをしている。









※キャリエッタ・ウィルソン

愛称はキャリー。リードの妻。元は街のレストランにてウエイトレスをしていた。そのレストランに、クリストファーとリードが食事に来たのが出会いのきっかけ。若く見えるが、年齢不詳。実年齢はリード以外誰も知らない。破局と復縁を繰り返した果てに、3年前にようやく結婚。それをきっかけに、人手不足に喘ぐ伯爵家でメイドとして働き始めた。

リードと離れて暮らしているが、メイドとしての仕事がそこそこ楽しいので、夫ほど寂しさは感じていない。

実は若くして病気で亡くなった妹がいる。レベッカがその妹に似ているため、可愛がっている。









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「まさか、王子がこの屋敷に来るだなんて……」

 

「クリストファー様の交遊関係って、一体どうなってるんですかね」

 

クリストファー達が学園に戻った後、レベッカとキャリーは疲れきった顔で廊下を歩いていた。レベッカの腕は、眠っているウェンディをしっかりと抱いていた。

 

「なんか疲れたわねー…」

 

「はい。それに、今日は驚く事が多すぎて……まさかキャリーさんとリードさんが夫婦だとは思ってもみませんでした」

 

「まあ、離れて暮らしてるからねー。あっちも仕事で忙しいから、クリストファー様と帰省した時にちょっと会うくらいよ」

 

「それは寂しいですね……」

 

「この前帰省した日の夜も、久しぶりに2人で食事をしようって言われてたの。でも、クリストファー様に命じられて、あなたと3人でレストランに行くことになったって、拗ねていたわ」

 

「ああ……」

 

だから、あの時リードは怒っていたのか。ようやく怒りの理由が分かって、レベッカは苦笑した。

 

ウェンディの部屋へと到着して、レベッカは頭を下げた。

 

「それでは、お嬢様を寝かせてきます」

 

「うん。それじゃあ、おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

キャリーに軽く頭を下げて、扉を開ける。ゆっくりとウェンディの部屋に足を踏み入れた。

 

まっすぐにベッドへと向かう。そっとウェンディの身体を寝かせて、毛布をかけた。

 

「――ふぅ」

 

少しだけ息を吐いて、ベッドから離れようとしたその時だった。レベッカの服をウェンディが掴んだ。

 

「あれ?」

 

驚いて振り向くと、ウェンディが怒ったような顔でレベッカを見上げていた。

 

「お嬢様、起きていたんですか?」

 

「ん」

 

「いつから……」

 

「けっこう、まえ」

 

寝たふりをしていたのか、とレベッカが考えていると、ウェンディが今度はレベッカの手を取り、強く引っ張った。

 

「ここにいて」

 

「はい?」

 

「わたくしから、はなれようとした、ばつよ。きょうは、ここにいて」

 

ウェンディの緑の目が不安そうに揺れている。その瞳を見つめて、レベッカは少し笑った。

 

「――それでは、ここで寝てもよろしいですか?」

 

レベッカの提案に、ウェンディの顔が一瞬輝く。しかし、慌ててツンとした表情を作り、素っ気ない言葉をだした。

 

「すきにすれば」

 

レベッカは笑いながら、そっとベッドへと上がった。自分のせいで、ウェンディにもたくさん頑張らせてしまった。今日だけならいいか、と思いながら、ウェンディの横に潜り込む。ウェンディはまだツンツンしながらも、レベッカが眠れるように、ベッドの上で少しだけ身体をずらしてくれた。

 

レベッカが身体を横たえても、ウェンディは怒ったような顔を消さなかった。

 

「――お嬢様、今日は申し訳ありませんでした」

 

改めてそう謝ると、ウェンディはレベッカを睨むように見てきた。

 

「私の不徳のいたすところです。勝手に辞めようとして、本当に、申し訳ありま――」

 

「そうじゃなくて」

 

ウェンディが突然声を出して、レベッカの言葉が止まる。レベッカはキョトンと不思議そうな顔をした。

 

「はい?お嬢様、私が黙って辞めようとしたのを、怒っているのではないのですか?」

 

「ちがう。いえ、それもおこっているけど。そうじゃなくて――」

 

ウェンディは顔をしかめて、言葉を続けた。

 

「あのひと」

 

「え?」

 

「おにいさまの、つれてきた、あのふわふわあたまの、へんなひと」

 

ふわふわあたま、という言葉で、ウェンディが言っているのがエヴァンの事だと分かった。

 

「あ、えーと、エヴァン様のこと、ですよね?あの方がどうかされました?」

 

「……あのひと、ベッカの、てに、きす、してた」

 

その言葉でエヴァンが最初にナンパしてきた事を思い出す。よく考えれば、王子にナンパされるなんてとんでもない経験をしたな、と思いながら苦笑した。

 

「ちょっと、不思議な方でしたね」

 

「きす、してた!」

 

ウェンディが怒ったように繰り返す。なぜ怒っているのか分からなくて、レベッカは眉をひそめた。

 

「まあ、してました、けど……」

 

「ベッカはわたくしのなのに!わたくしのきょかもなく、ベッカにさわった!」

 

「なんですか、それ……」

 

いつの間に許可制になったんだ、と思わず笑う。しかし、ウェンディは憤慨したように言葉を続けた。

 

「ベッカも!あんなふわふわあたまに、さわらせるなんて!」

 

「だって突然すぎて……対処できなかったんです」

 

「もう、ぜったいに、あんなふわふわバカにちかづかないで!!」

 

一国の王子をふわふわバカ呼ばわりか、とレベッカが噴き出すのと同時に、ウェンディがレベッカの手を取った。エヴァンに口付けされた方の手だ。

 

何をするのだろう、と疑問に思うのと同時に、ウェンディがレベッカの手に唇を押し付けた。

 

「お、お嬢様?」

 

驚いて声を出す。ウェンディはレベッカの様子に構わず、今度はペロッと手を舐めた。

 

「ちょ、くすぐったいです……」

 

戸惑うレベッカを見つめながら、ウェンディは更に、カプリと指を咥えた。

 

「な、何をしているんです!?」

 

今度は大きな声をあげる。歯を軽く立てられて、少しだけ痛みを感じた。レベッカが少し顔をしかめると、ようやくウェンディが口を開いた。

 

「これも、ばつ」

 

「はい?」

 

ウェンディは今度は指をペロリと舐めて、レベッカを睨むように見てきた。

 

「わたくしいがいに、さわらせた、ばつよ」

 

「……」

 

思わず無言になる。ウェンディは今度は泣きそうな表情で、口を開いた。

 

「きょうは、ほんとうに、いやないちにちだったわ」

 

「……」

 

「ベッカ」

 

「……はい」

 

「もうにどと、わたくしから、はなれないと、やくそくして」

 

「……はい。約束します」

 

レベッカが頷きながらそう言うと、またウェンディはクシャリと顔を歪めて、レベッカに抱きついてきた。レベッカも優しくウェンディを抱き締める。

 

2人はお互いに強く抱き合ったまま、ゆっくりと夢の世界へと旅立っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その頃、魔法学園の寮にて、クリストファーは疲れきった顔でソファに座り、お茶を飲んでいた。

 

「もう、本当に疲れた。リード、お菓子を持ってきてくれ。疲れた時は甘いものが一番だ」

 

「ダメです。夜に甘いものを食べると、体によくありませんので」

 

リードのキッパリとした言葉に、クリストファーが唇を尖らせる。そんなクリストファーの横では、エヴァンが楽しそうな表情でお茶を飲んでいた。

 

「いやあ、面白かったな。想像以上だ。可愛い女の子と会えたし、何よりも、あのメイドの平手打ちときたら!本当に面白かった。転送の魔法を使った甲斐があったよ!!」

 

「……エヴァン」

 

クリストファーはウンザリとした顔で、友人へと顔を向けた。

 

「君には感謝しているが、人の家の騒動を面白がらないでくれ。正直、あまり気分はよくない」

 

「あ、これは失礼」

 

エヴァンは飄々と言いながら軽く謝る。そして、楽しそうに話を続けた。

 

「それにしても、クリスの家に行くことができて、本当に嬉しかったよ。また行きたいな。今度は長期休みの時にでもお邪魔して――」

 

「勘弁してくれ……。今日だけは仕方なく付いてきてもらったけど、王子が遊びに来るなんて、今度こそ屋敷中が大騒ぎになる」

 

クリストファーが頭を抱え、エヴァンはますます笑った。

 

「それに、あの平手打ちしたメイドとは、またぜひ会いたいな。とても個性的というか、面白そうな女の子だ。もっとゆっくり話したい」

 

「……エヴァン、君の女好きはよく知っているが、うちのメイドに手を出すのは本当にやめてくれ……今日も会っていきなりナンパなんかして……」

 

「ははは、悪い悪い」

 

そう言いながらも、絶対に反省していない友人を見て、クリストファーは深くため息をついた。

 

そんなクリストファーに構わず、ヘラヘラとエヴァンは笑い、そして小さく呟いた。

 

「うーん、確かに可愛いから、ついつい声をかけちゃったけど、それだけじゃないんだよなぁ」

 

こちらを戸惑ったように見上げてきた、メイドの大きな瞳を思い出す。

 

『僕達、前にどこかで会ったことない?』

 

思わずそう声をかけてしまった。

 

「うーん……」

 

エヴァンは思い悩むように、眉を寄せ、そっと囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのレベッカとかいうメイド、前にどこかで見たような気が……」

 

 

 

 

 

 

 

 







またまた裏設定


※エヴァン・ティリエル・ジョーンズ・アルヴェルト

第二王子でクリストファーの悪友。大の女好き。

“転送”の魔法を得意とする。しかし、彼の魔力自体はあまり高くない。むしろ王族としては低い。それゆえに、周囲から軽んじられ、見下される事が多かった。そのため、昔は少々粗っぽい性格だったが、同じく魔力が低いクリストファーと出会い、なんやかんやあって、意気投合した。クリストファーの事を一番信頼している。

女の子と会うと必ずナンパする。前に人妻に手を出しかけて、かなり面倒な事になった。その時はクリストファーが呆れながらも協力してくれて、なんとか解決できた。それでも懲りずに、様々な場所で女の子と遊んでいる。













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食べられる

 

 

 

 

指輪の盗難事件の翌日、屋敷で働く何人かの使用人やメイド達がレベッカに謝罪をしてきた。彼らはレベッカを無視したり、嫌がらせをした事に関して、心から反省しているようだった。しかし、事件の一因としては、レベッカが屋敷の人間とあまり関わらなかったことや、嫌がらせを受けていることを上の人間に相談もせずに放置していた事も関係している。レベッカもその事を反省をし、彼らの謝罪を受け入れた。

 

だが、正直に言うと、彼らの謝罪を気にするどころではなかった。

 

仕事がますます忙しくなったせいだ。ペネロープとその仲間や協力者が捕まり、彼らはもちろん伯爵家を解雇されたため、使用人がますます減少した。元々人手不足だったというのに、事件によって労働力が減ったため、使用人やメイド達は悲鳴をあげた。レベッカも毎日の激務に追われることとなった。

 

「もう嫌だ、疲れた、休みたい……」

 

洗濯物を運びながら、キャリーが疲れたように呟く。レベッカはキャリーと同じように洗濯物を手に持ち隣を歩きながら、励ますように声をかけた。

 

「キャリーさん、洗濯物を干したら、少し休みましょう」

 

「うぅ……でも、まだ皿洗いが残ってる……」

 

「私も手伝いますから」

 

レベッカがそう言うと、キャリーは力なく首を横に振った。

 

「……ううん、大丈夫よ。なんとかする」

 

「でも……」

 

「レベッカ、まだお嬢様の部屋の掃除、残ってるでしょ。行ってあげて」

 

キャリーの言葉に、レベッカは心配そうに言葉を重ねた。

 

「でも少しくらいなら……」

 

「大丈夫よ。それに、レベッカが行かないと――」

 

キャリーの言葉を遮るように、後ろから声が聞こえた。

 

「ベッカ!」

 

振り返ると、ウェンディがパタパタと走ってくるのが見えた。

 

レベッカとキャリーは顔を見合わせて苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

指輪盗難事件は意外な方向に影響を及ぼした。

 

ウェンディが、自分から部屋の外に出るようになったのである。

 

クリストファーによって、レベッカはウェンディの専属メイドを正式に任命された。しかし、実際は屋敷中の仕事が忙しすぎて、ウェンディの部屋に長く留まるのが難しくなってしまった。慌ただしくウェンディの部屋の掃除や世話を終えると、すぐに次の仕事に向かわなければならない。そのせいで、ウェンディとの交流が前よりも著しく減少してしまったのである。

 

レベッカとの時間が少なくなってしまったウェンディは、徐々に不満を貯めていった。そして驚くことに、とうとう自分から部屋の外に出て、レベッカの元へと来るようになってしまったのである。今まで、あんなにも外に出るのを拒否していたというのに。

 

それまでのウェンディは、屋敷の人間の目を恐れていたらしいが、

 

「なんか、ふっきれた」

 

そう言って、レベッカを探すために堂々と屋敷中を歩き回るようになった。

 

当然、周囲の使用人達はウェンディを恐れ、姿を見ると悲鳴をあげたり目をそらす人がほとんどだ。しかし、ウェンディはレベッカしか目に入らない様子で、彼らの事はもはや気にしていなかった。

 

そうなってくると、使用人達も少しずつウェンディの存在に慣れてきてしまった。話しかけてくる猛者は流石にいないが、最近はウェンディの姿を見てもあからさまに嫌な顔をする人間は明らかに減少してきている。

 

「お嬢様、こんにちはー」

 

最初は怖がっていたキャリーもすっかりウェンディに慣れた様子で挨拶をする。ウェンディはキャリーを無視するように、プイッと顔を背け、レベッカのエプロンを握って口を開いた。

 

「はやく、わたくしのへやに、きて」

 

「お嬢様。もう少しお待ちください。まだ仕事が――」

 

「はやく!はやく!」

 

「この洗濯物を干したらすぐに行きますので」

 

「そんなの、あとにして!とにかく、はやくきて!」

 

「ちょっと待っててください」

 

駄々をこねるウェンディと、それを穏やかに宥めるレベッカの姿を見て、キャリーは微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢様、可愛らしいわね」

 

ウェンディを部屋に戻してから、庭に出て洗濯物を干す。一緒に干していたキャリーがそう声をかけてきて、レベッカも微笑んで頷いた。

 

「はい」

 

キャリーは苦笑いをしながら言葉を重ねた。

 

「最初は私も噂に惑わされて、すごく怖かったけれど……呪いの痣以外は、可愛い女の子ね」

 

キャリーは少し息を吐いて、ポツリと呟いた。

 

「きっと大きくなったら、かなりの美人になるわよね。そうしたら、きっとすごくモテて、結婚相手だって選び放題だったでしょうに。もったいないわね」

 

「……そうですね」

 

レベッカも同意して頷いた。確かに、ウェンディはまだ幼いというのに、輝くような美貌を持っている。このまま成長すれば、誰もが振り返るような女性になるだろう。

 

しかし――

 

「あの痣さえなければねー」

 

キャリーの言葉に、レベッカは表情を暗くしてうつむいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もうっ、おそい!」

 

キッチンへ仕事に行くキャリーと分かれ、ウェンディの部屋を訪れると、ウェンディが怒ったように声をかけてきた。

 

「はやくきなさいと、いったでしょう!」

 

「申し訳ありません……」

 

レベッカが頭を下げながら謝ると、ウェンディは頬を膨らませた。

 

「さいきん、いっつも、おそい!」

 

「仕事がなかなか終わらなくて……」

 

「あのキャリーとかいうメイドと、なかよくおしゃべりをしていたんでしょうっ」

 

ウェンディが強い視線で睨んできたため、レベッカはばつの悪さを誤魔化すように再び頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

謝罪してから、顔を上げると、ウェンディはまだ怒ったようにこちらを見上げている。レベッカは優しく笑うと、しゃがみこみ、ウェンディと視線を合わせた。

 

「私と早くおしゃべりしたかったんですか?」

 

「……」

 

「私も、お嬢様とおしゃべりしたかったです。とっても」

 

レベッカの言葉にウェンディの口元が緩んだ。レベッカは微笑みながら、首をかしげ言葉を続けた。

 

「お嬢様、今日は何を読みました?」

 

レベッカの問いかけに、ウェンディが唇を尖らせる。そして、すぐに口を開いた。

 

「……あたらしい、ほん。きしが、おひめさまをたすけるために、ぼうけんするの。かいぶつと、たたかう……」

 

「あら、面白そうですね。私も読みたいです」

 

レベッカがそう言うと、ウェンディはパッと顔を輝かせて、ベッドの方へ走る。ベッドの上に置いてあった本を掴むと、すぐに戻ってきた。

 

「これ!よんでみてね!」

 

「はい。ぜひ」

 

レベッカは本を受け取り、パラパラとめくりながら言葉を続けた。

 

「今夜早速読んでみますね」

 

「うん!」

 

ウェンディが元気よく頷き、レベッカは笑った。

 

そんなレベッカにウェンディは微笑み返し、不意にレベッカの手を取った。

 

「ね、ベッカ」

 

「はい?」

 

「こっちに、きて」

 

ウェンディに手を引かれる。すっかり機嫌は直っているようだった。

 

「ここ、座って」

 

「はい?」

 

ウェンディにソファに座るよう命じられて、レベッカは首をかしげた。

 

「あの、お嬢様。私、お掃除が――」

 

「いいから、ちょっとだけ」

 

ウェンディにそう言われて、不思議そうな顔をしながらも、レベッカはソファに腰を下ろす。

 

レベッカがソファに座った途端、ウェンディが膝の上に乗ってきた。

 

「えっ、あの、お嬢様?」

 

「ごめん、でも、ちょっとだけ」

 

レベッカの体にギュッと抱きついてきて、ウェンディが囁いた。

 

「おしごとが、いそがしいの、わかってる。でも――」

 

子どもらしい体温と甘い匂いに、レベッカは動揺した。そんなレベッカに構わず、ウェンディは言葉を重ねた。

 

「ひとりじめ、したいの。わたくしの、ベッカ。いまだけでいいから、こうさせて……」

 

ウェンディの小さな声に、レベッカの胸が詰まった。

 

「お嬢様は寂しがりやさんですねぇ」

 

その言葉と同時に、レベッカはウェンディの小さな身体を優しく抱き締めた。

 

「さびしいわけではないわっ。あなたが、ここにあまりきてくれないから、すこしおこっているだけ!」

 

ウェンディが今度は怒ったような声を出す。レベッカは笑いながら言葉を返した。

 

「それが寂しいということでは?」

 

ウェンディがレベッカの腕の中で身じろぐ。レベッカはウェンディを抱き締めながら、思わずクスクスと笑った。

 

次の瞬間、

 

「――痛っ」

 

首に微かな痛みが走った。

 

何が起こったか分からなかったが、一瞬の後、ウェンディがレベッカの首を噛んだ事に気づいた。レベッカは狼狽えながら、大きな声を出した。

 

「な、何をするんです!?」

 

「――はらが、たったの」

 

ペロペロと、噛んだ場所を舐められる。その感触にゾクリとした。なんだ、これは。変な気分になって、身体中の力が抜けそうになる。レベッカが困惑している間にも、ウェンディは淡々と声を出した。

 

「わたくしを、わらうから」

 

「いや、だからって、噛むなんて……」

 

レベッカが抗議すると、ウェンディがようやく身体を離した。赤くなったレベッカの首筋を眺め、満足そうに笑う。

 

「それにね、ベッカのからだ、やわらかくて、たべたくなるの」

 

「……はい?」

 

「もっと、なめたい」

 

ウェンディが今度はレベッカの手を取って、指を咥えた。いつかの夜のように、レベッカの指を優しく噛んで、舐める。チラリと可愛らしい赤い舌が見えた。ウェンディが指を舐めながら、レベッカを見上げる。その視線に、今度は心臓が高鳴るのを感じた。レベッカは慌てて手を引っ込めながら、口を開いた。

 

「お嬢様!これ以上は禁止ですっ!」

 

レベッカが厳しくそう言うと、ウェンディがムッと顔をしかめた。

 

「なんで?」

 

「な、なんでって……とにかくダメです!!」

 

「――ベッカはわたくしにたべられるの、イヤ?」

 

「い、嫌というか――」

 

なんと答えればいいのか分からなくて、レベッカは口をつぐむ。

 

その時、ウェンディがレベッカの耳に唇を寄せた。そして、囁くように声を出した。

 

「わたくしは、とてもたのしいわ」

 

その囁きにビクリと身体が震えた。レベッカは動揺しながらも、ウェンディを素早く膝から下ろし、立ち上がった。

 

「本当に、もうダメです!」

 

叫ぶようにそう言って、強い視線をウェンディに向けた。

 

「お嬢様、掃除をいたします。もう本当に止めてください」

 

キッパリとそう言うレベッカに、ウェンディは拗ねたように唇を尖らせながらも、頷いた。

 

慌ただしく、レベッカは掃除を開始した。まだ動揺が隠しきれず、バタバタと動くメイドを見つめながら、ウェンディが、

 

「つぎはどこをたべようかなぁ……」

 

と呟いていたが、幸か不幸かレベッカの耳には入ってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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望みをひとつ

 

 

 

「あれ?レベッカ、髪を下ろしているの、珍しいわね。いつも結んでるのに……」

 

キャリーにそう声をかけられて、レベッカはギクリとしたが、それを顔に出さないようにしながら、落ち着いて答えた。

 

「たまには気分転換です」

 

「ふーん」

 

キャリーはすぐに興味を失くしたように、仕事へと戻る。レベッカは自分の髪で隠した首筋の赤い痕を思い出しながら、ため息をつきそうになった。

 

お嬢様はなんであんな事をしたのだろう、と考えながら、自分もキッチンへと向かう。歩きながら、ウェンディに舐められた事を思い出して、再びゾクリとした。

 

あの時の、ウェンディの目。レベッカは自分の指を見つめた。噛まれた時の甘い痛みを思い出すと、また顔が熱くなる。レベッカを噛んだ時のウェンディの目。あれは、まるで、獣のようだ、と思ってしまった。

 

また身体を震わせて、それを誤魔化すように足を進める。しばらくは髪を結べないな、と思いながらキッチンへと入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

指輪の盗難事件から2ヶ月ほど経ち、ようやく何人か新しい使用人が雇われ、レベッカの周囲も落ち着いてきた。

 

「失礼します」

 

仕事のためにウェンディの部屋に入った瞬間、ガチャンガチャンと金属音が耳に入る。音の方へ視線を向けると、ウェンディが久しぶりにタイプライターを動かしていた。その周囲には何枚かの紙が散らばっている。

 

「お嬢様、お掃除に参りました」

 

「うん」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディは簡単な返事をしたが、タイプライターから顔を上げなかった。その様子に首をかしげながら、ウェンディにそっと近づく。床に散らばる紙を手に取ったその時、

 

「ダメっ!!」

 

ウェンディが慌てたように、レベッカの手から紙を奪い取った。

 

「みちゃダメっ!!」

 

「えっ?」

 

ウェンディが素早く周囲の紙を拾い集め、レベッカから隠すように引き出しに入れる。その様子に、レベッカは驚きながら口を開いた。

 

「お嬢様?どうしたんですか?」

 

「……。とにかくっ、ベッカはみちゃダメっ!みたら、おこるから!!」

 

ウェンディが気まずそうに目をそらす。レベッカはその様子を不思議に思いながらも肩をすくめ、

 

「承知しました」

 

そう言って頭を下げ、部屋の掃除を開始した。

 

レベッカが掃除をしている間に、ウェンディはタイプライターを仕舞う。そして、ぼんやりと掃除をするレベッカを見つめていた。

 

掃除が終了して、レベッカはウェンディに顔を向けた。

 

「終了しました」

 

「ん」

 

短く返事をするウェンディに、レベッカは思い出したようにポケットから本を出した。少し前にウェンディから借りた本だ。

 

「お嬢様、本をお返ししますね」

 

小さな本だが、仕事が忙しくて、読むのに時間がかかってしまった。レベッカがウェンディに本を差し出すと、ウェンディはそれを受け取りながら、

 

「どうだった?」

 

と尋ねてきた。

 

本の感想を求められたレベッカはニッコリ笑いながら、答えた。

 

「面白かったですね。特に、最後の展開は意外でした。まさか、お姫様が恋に落ちたのが、騎士ではなく魔法使いの方だったとは……」

 

「そう!でも、すごくすてきな、けつまつだったでしょう?」

 

「ええ……最後の結婚のシーン、よかったですね」

 

ウェンディの言葉に同意しながら、レベッカは頷く。ウェンディが貸してくれたこの本の最後は、お姫様と、彼女が愛する魔法使いが結婚式で口づけを交わすシーンで締め括られていた。

 

「素敵なお話でした。感動しましたね」

 

レベッカが物語のラストシーンを思い出しながら感想を述べると、ウェンディも楽しそうに頷く。しかし、

 

「私もあんな結婚をしたいものです」

 

すぐに続いたレベッカの感想に、ウェンディの顔が歪んだ。そのまま小さく声を漏らす。

 

「――け、」

 

「え?」

 

「けっこん……?」

 

ウェンディが呆然と小さく呟いたため、レベッカは首をかしげた。

 

「お嬢様?どうされました?」

 

「なに、……けっこんって、……」

 

レベッカはウェンディの様子を不思議そうに見つめながら言葉を続けた。

 

「……?結婚は結婚ですよ。まあ、できるかは分かりませんけど、いつかは誰かと――」

 

その時、ウェンディがレベッカの言葉を遮るように、勢いよく抱きついてきた。

 

「お、お嬢様!?」

 

レベッカが慌てて声をかけると、レベッカのエプロンに顔を埋めたウェンディが口を開いた。

 

「わ、わたくしから、はなれてしまうの?」

 

「――お嬢様?」

 

「ベッカが、わたくしいがいの、だれかのものになってしまうの?」

 

ウェンディが顔を上げる。その顔は今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。

 

「――いやっ」

 

「えっと、……」

 

「そんなの、ぜったいに、いや……っ、わたくしから、はなれるなんて!!」

 

ウェンディが瞳を潤ませながら、そう叫ぶ。あまりにも動揺している様子だったため、レベッカはウェンディの肩を優しく抱き締めながら、口を開いた。

 

「ご安心ください。今のところ、そんな予定はありませんよ」

 

「……いまのところ?」

 

「はい。相手もおりませんし……」

 

そう言いながら苦笑すると、ウェンディが難しい顔をしながら、思い悩むように顔を伏せる。しばらく経った後、顔を上げて、ウェンディが口を開いた。

 

「……あいてが、できたら、……けっこんする?」

 

「え?それは、まあ……」

 

ウェンディが再び顔をしかめた。そして、今度は顔を真っ赤にさせて、レベッカの身体を軽くポカポカと叩き始めた。

 

「わたくしというものがありながら!なんて、ひどいメイドなの!」

 

「そんな事を言われましても……」

 

「ぜったいに、ぜったいに……っ、けっこんなんてゆるさないんだからー!!」

 

ウェンディの叫びが部屋中に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あははははっ」

 

夜、台所にてレベッカが皿洗いをしながらウェンディの話をすると、隣で皿を拭きながらキャリーは楽しげに笑った。

 

「可愛いじゃない。嫉妬してるのね」

 

「あれからずーっとご機嫌ナナメなんですよね。どうしたらいいのか……」

 

レベッカが困り果ててそうこぼすと、キャリーは笑いながらも、レベッカを慰めるように声を出した。

 

「大丈夫よ。そのうち機嫌も直るでしょ」

 

「……そうだといいんですけど」

 

レベッカは少し顔を伏せ、困ったように言葉を重ねた。

 

「なんだか、……最近、お嬢様の様子が少し変だな、と感じる事が多いんです」

 

「様子が変?どんな風に?」

 

キャリーに問いかけられて、レベッカは迷いつつも言葉を選ぶように答えた。

 

「なんと言いますか……すごく変な目でこちらを見てきて……頻繁に私の体に触れたがるし……あちらの方からも、よく体をくっつけてきて……それに――」

 

食べられそうになった、と続けそうになり、慌てて口をつぐむ。キャリーは不思議そうに首をかしげていたが、やがて、

 

「別にいいんじゃない?」

 

「えっ……」

 

あっけらかんと、そう言い放ったため、レベッカはそちらに顔を向けた。キャリーは肩をすくめて、言葉を続けた。

 

「だって、お嬢様って、クリストファー様以外に、誰も甘えられる人がいなかったんでしょ?きっと、ずーっと無理して、我慢してたんじゃない?だから、きっとレベッカに甘えたいのよ」

 

「……甘えたい、ですか」

 

「好きなだけ甘えさせてあげれば?そのうち満足して、治まるわよ、きっと」

 

キャリーの言葉に、レベッカは皿を洗う手を止めた。そのまま再び顔を伏せる。

 

キャリーの言う通りだ。ウェンディはまだまだ子どもだ。時折大人びた言動を見せるが、たった9歳の女の子だ。それも、ほとんどの時間をひとりぼっちで過ごしてきた。世界から孤立して、誰も受け入れてくれる人間がいなかった。

 

レベッカと関わる事で、ウェンディの中に甘えたい欲求が出てきたのだろう。

 

自分は、ウェンディの専属メイドだ。主人の心と向き合い、受け止めるべきだ。

 

レベッカは大きく頷くと、キャリーに向き直った。

 

「ありがとうございます、キャリーさん。私、頑張ります!」

 

気合いを込めるようにそう言ったレベッカに、キャリーは、

 

「その意気よ。どーんと構えて、頑張りなさい」

 

笑いながら、レベッカの背中を軽く叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜遅く、いつも通りチリンと呼び鈴が鳴る。レベッカはミルクと蜂蜜を手に取ると、張り切ったように部屋から足を踏み出した。

 

「失礼します」

 

レベッカが部屋に入ると、自分が呼び出したというのにウェンディは怒ったような顔で出迎えた。

 

どうやら、例の結婚の話でまだ怒っているらしい。レベッカは苦笑しながら、ウェンディに近づき、声をかけた。

 

「お嬢様、ミルクですよね?すぐに準備いたしますね」

 

「……」

 

ウェンディは何も答えない。ベッドの上で膝を抱えて、レベッカを強い視線で見つめてきた。

 

レベッカは困った顔をしながら、ミルクを準備する。

 

「――どうぞ」

 

カップをウェンディに差し出すと、ウェンディは何も言わずに受け取った。まだ不機嫌そうにしている。レベッカは少し考えてから、ベッドの横にある椅子に腰を下ろす。そして、ミルクを飲むウェンディに声をかけた。

 

「――お嬢様」

 

「……」

 

何も答えてくれなかったが、レベッカは言葉を続けた。

 

「あの、何でも言うことを聞きますので、許していただけませんか?」

 

「……なんでも?」

 

ウェンディがようやく声を出した。レベッカはその事にホッとして、頷いた。

 

「はい。……私ができることなら、ですけど。お嬢様のお望みを、えーと、……一つだけなら、聞きます。それで、機嫌を直していただけませんか?」

 

レベッカの言葉に、ウェンディが何度か瞬きをする。そして、少し考えてから口を開いた。

 

「……じゃあ、きす、して」

 

「――へあ?」

 

とんでもない単語が聞こえて、レベッカの口から変な声が飛び出した。

 

「……き、えーと、え?き、き……?」

 

頭が真っ白になる。そんなレベッカの様子に構わず、ウェンディが再び口を開いた。

 

「あの、ほんの、さいご。おひめさまと、まほうつかいがしたみたいに、わたくしに、きす、して」

 

「え、えー?」

 

まさかの望みに、レベッカは困惑して眉をひそめた。

 

「き、きす、ですか……」

 

「うん。きす」

 

「……」

 

「……」

 

ウェンディが真顔でこちらを見つめてくる。レベッカはオロオロとしながら声を出した。

 

「えーと、ですね。さすがに、それは……」

 

「なによ。なんでもっていったのはベッカじゃない」

 

「あ、はい。そうなんですけど……」

 

数分前の自分の言葉を後悔しながら、レベッカは必死に言葉を続けた。

 

「あの、ですね、お嬢様。そういうことはですね、……その、一番好きな人とするんですよ」

 

「わたくしは、ベッカがいちばんすき」

 

「あ、そ、そうですか……」

 

「もんだいないわね。さあ、して」

 

ウェンディがレベッカに顔を近づけて、瞳を閉じた。

 

――キャリーさん、この場合はどうすればいいんでしょう?

 

心の中で、その場にいないキャリーに助けを求める。すると、頭の中で、キャリーが出現して親指をグッと立てて、ニッコリ笑った。

 

『レベッカ、どーんといっちゃえ!』

 

なんでそんな事いうんですか!と声が出そうになって、慌てて口を閉じた。頭をブンブンと強く横に振ると、頭の中のキャリーは消失した。

 

目の前のウェンディは目を閉じたまま、レベッカを待っている。

 

ゴクリと生唾を飲み込む。汗が流れるのを感じた。目を閉じて、深呼吸をする。そして、レベッカは決心したように、瞳を開き、ゆっくりと唇をウェンディに近づけた。

 

ふわりとウェンディの額に唇を押し当てる。すぐにそれを離して、レベッカは誤魔化すように立ち上がった。

 

「は、はい、終わりです!」

 

ウェンディがパッと瞳を開いて、唇を尖らせた。額に手を当てると、

 

「どうして、ここなの!?ここじゃなくて、ふつうは、おくちでしょ!」

 

抗議するように声を出した。レベッカは視線をそらしながら、それに答える。

 

「く、唇にしろとの命令ではありませんでしたので」

 

「ベッカ!」

 

ウェンディの怒った声を聞きながら、レベッカは赤くなった顔を手で覆った。

 

「私にはこれが精一杯、です……お嬢様……」

 

声がどんどん小さくなる。ウェンディはしばらく黙ってレベッカを見つめていたようだが、やがて大きなため息が聞こえた。

 

「――わかった。いまは、これでがまんする……」

 

顔から手を離すと、ウェンディは不満そうにしていたが、こちらを見つめながら口を開いた。

 

「そのかわり、きょうはわたくしがねむるまで、てをにぎって」

 

「はい、もちろん」

 

レベッカはまだ赤い顔を緩めると、ウェンディの手を包むように優しく握る。ウェンディはようやく笑って、そのままベッドの中にもぐり込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日経ったある日、

 

「レベッカ」

 

後ろから声をかけられて、振り向く。クリストファーの顔を見て、レベッカは驚いて声をあげた。

 

「クリストファー様?なぜこちらに?学校は――」

 

レベッカの問いかけに、クリストファーが苦笑しながら答えた。

 

「ちょっと様子を見るために戻ってきたんだ。あれから、屋敷も大変だっただろう?」

 

「ああ……」

 

指輪事件の後の激務を思い出し、レベッカの顔が引きつった。

 

「それに、ウェンディの顔も見たくて、ね。明日には戻るけれど……」

 

相変わらず優しくて妹思いだなぁ、とレベッカが考えていると、クリストファーが言葉を重ねた。

 

「もしよければ一緒にウェンディの部屋に行こう。レベッカに少し話もあるんだ」

 

クリストファーにそう誘われ、レベッカは迷いつつも小さく頷いた。

 

2人並んで歩く。クリストファーは足を進めながら、言葉を続けた。

 

「ウェンディからの手紙で、知ったんだ。最近は部屋の外に出るようになったって。本当かな?」

 

「あ、はい。そうですね。お出になりますよ。時々、ですが……」

 

レベッカがそう答えると、クリストファーは安心したような顔をした。

 

「ああ、よかった。少しでも外に興味を示してくれたみたいで……数ヵ月後には、嫌でも外に出なければならないからね」

 

「え?」

 

クリストファーの言葉にキョトンと首をかしげる。外に出なければならない、というのはどういうことだろう?レベッカの疑問を見透かしたように、クリストファーは難しい顔をしながら、言葉を重ねた。

 

「ウェンディは、10歳になる」

 

「――あっ」

 

レベッカはようやく気づいた。10歳になる、という事はこの世界では重要な意味を持つ。

 

「……魔力測定」

 

「うん」

 

クリストファーは億劫な表情をしながら頷いた。

 

「魔力測定は義務、だからね。流石に無視するわけにはいかない。ウェンディには申し訳ないけれど……」

 

「――では、測定の会場に、お嬢様は……」

 

「うん、行かなくてはならない。幸運なことに、ウェンディの誕生日は僕が長期休暇に入っているから、会場には僕も付いていくけどね。……それでも、ウェンディは相当嫌がるだろうなぁ」

 

クリストファーは困ったような顔でレベッカに視線を向けた。

 

「その時は、レベッカ。一緒に説得を頼むよ」

 

「――はい」

 

レベッカは小さく返事をしながら頷いたが、その時のウェンディの気持ちを想像して、一気に表情が暗くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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「おにいさま!」

 

ウェンディの部屋へ入ると、クリストファーの顔を見た瞬間、ウェンディの顔が輝いた。そのまま、駆け寄ってきて、クリストファーに抱きつく。

 

「どうしてここにいるの?」

 

「ウェンディの様子を見に帰ってきたんだよ。元気そうでよかった」

 

ウェンディを見つめながら、クリストファーは顔を綻ばせた。

 

「いつまで、いられるの?」

 

「あまり長くは無理なんだ。明日には学園に戻るよ」

 

その言葉にウェンディはガッカリした表情をした。

 

「そんなに?もっとここにいればいいのに……」

 

「ごめんね。その代わり、今日は一緒に過ごそう。この前の時は、ウェンディと全然話せなかったからね」

 

クリストファーがそう言うと、ウェンディは少しだけ笑った。

 

「レベッカ、お茶を入れてくれる?」

 

「はい」

 

クリストファーに命じられて、レベッカはすぐに動いた。お茶やお菓子を準備するために、キッチンへと向かう。

 

キッチンでは、なぜか使用人達がザワザワとしていたため、不思議に思ったが、クリストファーとウェンディを待たせたくなかったので、素早くお茶の準備を済ませるとすぐにキッチンから抜け出した。

 

「それじゃあ、どこまで書いたんだい?」

 

「あのね、あのね、たいぷらいたで――」

 

部屋に入ると、ソファで楽しげに話していたウェンディはレベッカの姿を見て、ハッとした顔で口をつぐんだ。

 

ウェンディの様子に首をかしげながら、レベッカは頭を下げた。

 

「お待たせいたしました。クリストファー様、お嬢様」

 

すぐに頭を上げて、ソファへと近づき、お茶やお菓子をテーブルに並べる。

 

「ああ、美味しそうだな。新しい料理人は、甘いものを作るのが得意だと聞いたから、楽しみだ」

 

テーブルに並べられた焼き菓子を見て、クリストファーが嬉しそうな声を出す。そして、クッキーを一つ頬張ると、すぐに口元を緩めた。

 

「うん、美味しいな。気に入ったよ。いくらでも食べられそうだ」

 

「おにいさま、あいかわらず、あまいものがおすきね」

 

ウェンディも楽しげに笑いながら、カップを手に取りお茶を飲む。その姿を眺めながら、レベッカはふと辺りを見回し口を開いた。

 

「そういえば、リードさんは……?」

 

いつもクリストファーに付き従っている執事の姿が見えないため、そう尋ねるとクリストファーは苦笑しながら手をヒラヒラと振った。

 

「休みを取って、奥方とデートさ。2人きりで会うのは久しぶりだから、嬉しそうだったよ」

 

「ああ……」

 

だから先程のキッチンでキャリーの姿を見なかったのか、と納得してレベッカも苦笑した。

 

クリストファーとウェンディはしばらくそのままソファで楽しげに話していたが、やがてクリストファーが何かを思い出したような顔をして声をあげて、立ち上がった。

 

「あ、そういえばウェンディにまた何冊か本を買っていたんだった……」

 

ウェンディがそれを聞いて、また嬉しそうに手を合わせた。

 

「ほんとう?うれしい!」

 

「僕の部屋に荷物と一緒に置きっぱなしだったよ。すぐに持ってこよう。レベッカ、たくさんあるから、少し手伝ってもらっていい?」

 

そう声をかけられて、レベッカはすぐに頷いた。

 

「承知しました」

 

そのままクリストファーと共に部屋を出た。

 

クリストファーと共に並んで廊下を歩く。レベッカが無言で付き従うように歩を進めていると、クリストファーが口を開いた。

 

「ウェンディは随分変わった」

 

レベッカがそちらに視線を向けると、クリストファーは感慨深そうに言葉を続けた。

 

「前よりも身長が伸びて、ふっくらとしている。9歳とは思えないくらい小さかったけど、少しずつ成長しているんだね。何よりも、口数が多くなったし、表情が豊かになってきている」

 

「――そうでしょうか?」

 

「君のおかげだよ、レベッカ」

 

クリストファーはレベッカへ、輝くような笑顔を向けてきた。

 

「ウェンディが変わったのは、君のおかげだ」

 

「――私は、何も……」

 

「君がウェンディに寄り添ってくれたからだ。君が、そばにいてくれたからこそ、妹はあんなにも変わることができた」

 

「……」

 

レベッカは何と答えればいいか分からず、無言になる。そんなレベッカに構わず、廊下の真ん中で、クリストファーは足を止めた。そして、レベッカの顔を真っ直ぐに見つめて、頭を下げた。

 

「ありがとう、レベッカ」

 

「あ、あの、頭を上げてください!」

 

レベッカはクリストファーの行動に動揺して、慌てて声をあげる。頭を下げるクリストファーから目をそらし、モジモジと手を動かした。クリストファーは顔を上げると、レベッカを見つめながら、言葉を重ねた。

 

「本当に、感謝しているよ。君がいなければ、きっと妹は――」

 

その時、クリストファーの言葉がピタリと止まった。レベッカが眉をひそめながら顔を上げる。そしてギョッとした。クリストファーの瞳には、見たことないほどの凄まじい怒りと憎しみが宿っていた。その視線はレベッカの後ろへと向いている。

 

レベッカが慌ててそちらを振り返ると、そこには、

 

「――あっ」

 

コードウェル伯爵が見知らぬ女性と手を組んで、ニヤつきながら廊下を歩いていた。

 

伯爵も屋敷に戻っていたのか、とレベッカは驚く。そして、先程のキッチンで使用人達が騒いでいた理由を瞬時に悟った。普段滅多に帰ってこない伯爵とクリストファーが同時に帰ってきたのだから、みんなが驚いていたのか、と考えていると、コードウェル伯爵がこちらへ気づいたのか視線を向けてきた。クリストファーの姿を見た瞬間、嫌な笑みを浮かべていた伯爵の顔が強張る。

 

「――行こう」

 

クリストファーが硬い声を出して、レベッカの手を取った。そのまま伯爵を無視するように、背中を向け、レベッカの手を引っ張るように歩き出す。

 

「あ、あの、クリストファー様?」

 

しばらくクリストファーに引っ張られるまま歩いていたが、クリストファーがあまりにも酷い顔をしているので、レベッカは声をかけた。その声に反応するように、ようやくクリストファーは足を止める。そして、振り向いて、伯爵の姿が見えなくなったのを確認すると、大きなため息をついた。

 

「レベッカ、すまなかった」

 

そのままレベッカの手を離し、頭を抱える。

 

「まさか、あの男もここに戻っていたなんて」

 

自分の父親を、あの男、と呼んだことにレベッカが戸惑っていると、またクリストファーはため息をついた。

 

「最悪だ……今日は楽しい1日になるはずだったのに」

 

「あ、あの――」

 

クリストファーの様子に首をかしげながら、レベッカは声を出した。

 

「あの、クリストファー様も、お嬢様も、伯爵様が……その、苦手、なんでしょうか?」

 

「……」

 

クリストファーが何も答えずに、思い切り顔をしかめたため、レベッカは慌てて言葉を続けた。

 

「も、申し訳ありませんっ……私、失礼な事を――」

 

「苦手どころか」

 

クリストファーがレベッカから顔をそらして口を開いた。

 

「この世で一番嫌いだね」

 

吐き捨てるようなその言葉に、レベッカは眉をひそめた。

 

「嫌い、ですか……」

 

「自分の親とは思いたくない。あの男の血が自分の体に流れていると思い出すだけで、吐きそうになる。できることなら二度と顔を見たくない。この世から消えてほしい」

 

「……」

 

普段温厚なクリストファーから信じられないほどの言葉が飛び出して、レベッカは目を見開いた。

 

「父とは絶対に呼びたくない。身勝手で、独善的で……自分の欲望しか考えていない、本当に気持ち悪い男だ。レベッカ、あの男には近づいてはいけないよ。あの男のせいで、ウェンディは――」

 

クリストファーがハッとしたように言葉を止めた。レベッカが戸惑いながら、その姿を見つめていると、クリストファーは自分を落ち着かせるように深呼吸をする。そして、弱々しく微笑んだ。

 

「――ごめんね。こんな事を君に言ってしまって……」

 

「……いえ」

 

「とにかく、レベッカ、あの男には関わらないように。さあ、行こう」

 

そして、クリストファーは気を取り直したように、自分の部屋へと歩き出した。レベッカも慌ててクリストファーを追いかけるように足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コードウェル伯爵は、その日の午後にすぐに出ていったらしい。それを聞いたクリストファーは安心したような顔をしていた。一方ウェンディは、1日中兄と過ごすことができたため、楽しかったのか機嫌よくニコニコとしていた。

 

その次の日、別れを惜しみながらもクリストファーは学園へと戻ってしまった。レベッカはウェンディが落ち込まないかと心配だったが、思ったほどウェンディは落胆していなかった。

 

「おにいさま、すぐにもどってくるって、いってたから。だいじょうぶ」

 

心配そうな顔をするレベッカに、ウェンディはそう言って笑った。

 

なぜクリストファーはあんなにも父親の事を憎んでるのだろう。レベッカは難しい顔をして廊下の掃除をしつつ、物思いに耽っていた。いつも優しく穏やかなクリストファーが、伯爵に対してあんなにも強い憎しみを持っているなんて。何か、とても大きな確執があるとしか思えない。一体、過去に何が起きたのだろうか。

 

『あの男のせいで、ウェンディは――』

 

クリストファーの最後の言葉が気になって仕方ない。ウェンディと何の関係があるのだろうか。

 

もしかして――

 

レベッカが考えをまとめようとしたその時だった。

 

「あ、あの、レベッカさん」

 

後ろから名前を呼ばれた。慌てて振り向くと、そこには、コック服を着ている麦藁色の髪の青年が立っていた。

 

「えーと……?」

 

レベッカは首をかしげた。名前は知らないが、キッチンで顔を何度か見た事がある。最近雇われたらしい若い料理人だ。

 

「あ、あの!俺、ロックっていいます!」

 

ロックと名乗った、赤い顔で自己紹介をする青年にレベッカは困惑しながら自分も言葉を返した。

 

「あ、どうも……レベッカです。あの、何か御用でしょうか……?」

 

「あ、えっと、あの、……聞きたいことがあって……」

 

ロックはソワソワとした様子で口を何度も開いたり閉じたりしている。その様子にレベッカが首をかしげていると、ロックは躊躇いながらも、拳を握り大きな声を出した。

 

「あ、あの!えっと、……どうしても、気になって……昨日の、焼き菓子、俺が作ったんですけど、……その、クリストファー様は何か仰っていましたか?俺、クリストファー様が、俺の作ったお菓子をお気に召したかどうか、どうしても知りたくて……」

 

レベッカはその言葉に少し驚きながらも、苦笑し、安心させるように声を出した。

 

「はい。美味しいと仰っていましたよ。とても気に入ったみたいでした」

 

レベッカの言葉に、ロックの顔がパッと輝いた。そして、感極まったようにレベッカの右手を強く握った。

 

「あ、ありがとう!ありがとう!」

 

「え、ええ……」

 

「俺、まだまだ半人前だし、自信がなくて……でも、これからも頑張れそうだ!本当にありがとう!」

 

あまりにも嬉しそうなその様子に、レベッカの顔も自然と綻んだ。

 

「よかったですねぇ」

 

その顔を見たロックの顔がますます赤くなる。そして、思い切った様子で再び口を開いた。

 

「あ、あの、もしよければ、今度食事でも――」

 

その時、大きな声が響いた。

 

「ベッカ!!」

 

鋭い声に慌てて振り向く。そこには、怒りに満ちた表情のウェンディが立っていた。

 

「あ、お嬢様――」

 

ウェンディはズンズンとレベッカとロックの方へと近づいてきた。そして、レベッカの手を握るロックの手を睨む。そして、小さな手を伸ばすと、ロックからレベッカの手を強引に離した。そのままレベッカの手を引っ張る。

 

「こっちきて」

 

「え、えっと――」

 

レベッカが動けずにオロオロしていると、再び鋭い声が飛んできた。

 

「わたくしのめいれいをききなさい!」

 

「は、はい!」

 

慌ててウェンディに引っ張られるまま歩き始める。少しだけ振り向いて、ロックへ軽く頭を下げた。ロックはウェンディとレベッカの姿をポカンとした顔で見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あのー、お嬢様?」

 

ウェンディの部屋へ入ると、すぐにソファへ座らされた。ウェンディはレベッカの膝へと座ると、すぐに抱きついてきた。

 

「お嬢様?どうされました?」

 

レベッカが声をかけても、ウェンディは何も答えない。ただ、レベッカを抱き締める腕に力がこもる。

 

レベッカがおずおずとその小さな身体を抱き締め返す。すると、ウェンディから少しだけ力が抜けた。

 

「お嬢様?」

 

レベッカが再び声をかけると、ようやくウェンディがレベッカから身体を離す。

 

そして、レベッカを睨むように見つめながら、今度は両手でレベッカの右手を握った。

 

レベッカの右手を、小さな手でにぎにぎと揉むように握る。そのまま、唇を尖らせて、レベッカの右手を握り、見つめ続けた。

 

「どうしたんです?」

 

レベッカが首をかしげながらまた声をかけた時、ようやくウェンディが口を開いた。

 

「いまの、ひと」

 

「え?」

 

「いま、ベッカのてをにぎってた、ひと」

 

ウェンディは強い視線をレベッカの顔を向けた。

 

「あのひとと、しゃべらないで。ちかづかないで。めもあわせるのも、ダメ」

 

「ええ……?」

 

その言葉に、レベッカは驚いて声を出した。

 

「いや、無理ですよ」

 

「なんで!」

 

「あの方はこの屋敷の使用人で、料理人ですから……一緒に仕事をしているんです。ですから、お嬢様の命令でも、それは無理です」

 

「……うー!」

 

ウェンディが奇妙な声を出しながら、ポカポカとレベッカを叩いてきた。

 

「それでも!ダメ!ダメなの!!」

 

「お、お嬢様」

 

「わたくしのベッカにちかづくなんて、ゆるせない!!ぜったいに、ダメ!!」

 

癇癪を起こしたようなウェンディの手を、レベッカは掴みながら、呆れたように声を出した。

 

「いや、しかしですね……話すのも近づくのも目を合わせるのも禁止というのは、流石に仕事に支障がでますので……私がクビになっちゃいます」

 

「……!それはもっとダメ!!」

 

ウェンディが叫ぶようにそう言って、頬を膨らませた。

 

その様子にレベッカは苦笑すると、今度は自分からウェンディの手を握った。

 

「……分かりました。それでは、仕事以外では、できるだけあの方と話さないようにします」

 

「……」

 

「今回はそれで許していただけないでしょうか?」

 

「……」

 

「お嬢様、お願いします」

 

レベッカが困ったようにそう言うと、ウェンディは大きく息を吐いて、小さく声を出した。

 

「―――しかたないわね」

 

レベッカはその言葉に微笑んだ。

 

「感謝いたします、お嬢様」

 

「でも、ほんとうに、おしごといがいでははなしては、ダメよ。さっきみたいに、さわらせたら、ゆるさないんだから」

 

「はい」

 

レベッカが頷くと、ウェンディは怒りが治まったのか、再びレベッカの胸に顔を埋めるように抱きついてきた。

 

これもまた嫉妬なのかな? と思いつつ、ウェンディの背中を優しく撫でる。その時、小さな囁きが聞こえた。

 

「――ときどき」

 

「はい?」

 

「ときどきね、ふしぎな、きもちになるの」

 

「不思議な気持ち……?」

 

「あのね」

 

ウェンディがレベッカの胸から顔を上げる。その瞳を見て、レベッカの心臓は大きく脈打った。ウェンディのその美しいエメラルドの瞳は、とても強くて鋭くて、恐ろしいほどの眼光を放っていて――、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのね、ときどき、ね。……ベッカに、くびわをつけたくなるの。わたくし、へんかしら?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり獣みたいな瞳だ、とレベッカは思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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こんな夢を見た

 

 

「――お嬢様、私はペットではありませんよ」

 

レベッカが淡々と言葉を返すと、ウェンディはムッとしたようにレベッカを見てきた。

 

「しってるわよ。……じょうだんだから」

 

そして、そのままピョンとレベッカの膝から飛び降りた。

 

「ベッカ、おちゃをもってきて」

 

「え、えーと、私、掃除の続きが……」

 

「まあ、わたくしのせんぞくメイドなのに、わたくしのめいれいをきけないの?」

 

「――承知しました」

 

レベッカは苦笑しながら、立ち上がった。

 

最近本当にワガママが増えたなあ、と微笑ましく感じながら軽く頭を下げる。

 

「お待ちください。すぐに持ってきます」

 

小走りで部屋から出ていく。ウェンディは無言でその姿を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月日はゆるやかに過ぎていき、季節も穏やかに変化した。

 

「ベッカ、こっちにきて」

 

「はい。お嬢様」

 

レベッカとウェンディの関係は特に変化はしていない。ウェンディは相変わらず甘えたがりで、レベッカにベッタリとくっついてくる。好きなだけ甘えさせていればそのうち治まるだろう、というキャリーとレベッカの予想は見事に外れた。

 

「ねえ、手をかして」

 

「え、……嫌ですよ」

 

「なんでよ」

 

「だってお嬢様、食べようとしてくるじゃないですか……」

 

レベッカは自分の手を守るように、少し後退りした。ウェンディは、いまだにレベッカの身体の一部分を咥えたり甘噛みする癖がある。その度にレベッカの身体のあちこちに赤い痕が残り、隠すのに苦労するのだ。

 

ウェンディは後退りするレベッカに上目遣いをしてきた。

 

「ね、ちょっとだけ、おねがい」

 

「拒否します」

 

「少しなめるだけだから、ね?」

 

「駄目です」

 

レベッカがキッパリと断ると、ウェンディはつまらないとでも言うように唇を尖らせた。

 

この数ヶ月で、ウェンディはようやく年相応に成長した。身長も伸びて、顔つきも大人っぽくなった。やや幼く舌足らずだった喋り方も、最近は随分と滑らかに言葉が出てくるようになってきた。

 

「じゃあ、抱き締めて」

 

「えー……」

 

レベッカがそれも拒否するようにまた後ろへと退がると、ウェンディは眉を吊り上げて鋭い声を出した。

 

「いつでもギュッてしてくれるって言ったじゃない!」

 

「……そうですけど……そうなんですけど」

 

「ベッカのうそつき!」

 

「……だって、抱き締めたら、お嬢様は今度は私の首に噛みつくじゃないですか……」

 

レベッカが困り果ててそう言うと、ウェンディはフンと鼻をならした。

 

「ベッカの体、やわらかくてふわふわして、何度もかみたくなるんだもん。ベッカが悪い」

 

「そんな理不尽な……」

 

「ベッカがそんなにイヤだって言うんなら、別のところを食べるわよ」

 

「え、……べ、別のところというと……?」

 

レベッカがギクリとして聞き返すと、ウェンディが猛獣のような瞳で立ち上がった。今にも舌舐めずりしそうな勢いでレベッカに近づいてくる。レベッカは慌てたように再び後ろへと退がりなら、抵抗するように声を出した。

 

「あ、あの……っ、お待ちください……、分かりました、分かりましたから!指でいいです!いえ、ぜひ指を舐めてください!……っ、ちょっ、……お嬢様、そこは……っ、あっ……」

 

レベッカのか細い悲鳴が部屋に響いた。

 

 

 

 

 

数分後、満足した様子のウェンディはレベッカから離れ、ソファに座る。レベッカは顔を赤くさせながら、ウェンディに向かって口を開いた。

 

「お嬢様!流石に怒りましたからね!!今度あんなことしたら、クリストファー様に言いますよ!!」

 

厳しく叱るようにそう言うが、ウェンディはプイッとレベッカから顔を背けた。これは絶対にまたやるな、と確信しながらレベッカは大きなため息をつく。

 

「お嬢様、私は食べ物じゃないんですよ……」

 

「――だって仕方ないじゃない。ベッカがイヤなのは知ってるけど……私は、すごく安心するんだもの……」

 

ウェンディが不貞腐れたような顔でそう言って、レベッカは言葉に詰まった。

 

ウェンディの心が不安定になっている理由は分かっている。あと少しで魔法学園は長期休暇に入り、クリストファーは屋敷へと戻ってくる。そして、ウェンディはもうじき10歳になる。すなわち、魔力測定の日が近づいているのだ。

 

最近のウェンディは自分の部屋から出て、屋敷中のいろんな部屋や庭で過ごすことも多くなった。しかし、屋敷の外へと出るのはウェンディにとって初めてなのだ。

 

不安と緊張で、誕生日が近づくにつれて、ウェンディの顔は、張り詰めたようにどんどん固くなっていった。

 

「お嬢様……大丈夫ですよ。測定なんてあっという間です。クリストファー様が付いててくださるんですから、何も心配することはありません」

 

「……ベッカの時はどうだった?」

 

不意にウェンディがそう尋ねてきて、レベッカは顔が大きく引きつった。

 

自分の魔力測定の事は正直思い出したくない。自分の魔力が数値として現れた瞬間、周囲のたくさんの大人たちが大騒ぎをしたのはまだ記憶に新しい。

 

レベッカは記憶を振り払うようにブンブンと手を振った。

 

「私の時は何にもなく、すぐに終わっちゃいました、アハハ……」

 

「……?ふーん」

 

レベッカの様子にウェンディは少し首をかしげたが、すぐに思い詰めたような表情で膝を抱えるような体勢となった。

 

「お嬢様?どうされました?」

 

「――魔力測定も嫌だけど……最近、ちょっと、眠れなくて……」

 

「眠れない……?」

 

「……」

 

ウェンディは躊躇ったようにしながらも、小さく言葉を続けた。

 

「……変な夢を見るの」

 

「夢?」

 

「……怖い、夢。昔から、よく見る夢なんだけど、最近は特に多い。あのね、あのね、……女の人が、こっちを睨んでるの」

 

「女の人……?」

 

「うん。すごくね、きれいな人。真っ白な、髪の毛の、女の人。その人がね、ずーっと、怒ったように、私にささやくの」

 

 

 

 

 

 

 

「お前だけは許さない、って」

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

「その夢を見るとね、とても、とっても、苦しくなるの。それに、……すごく、悲しい。最近は眠るの、怖いの。怖いよう、ベッカ……」

 

ウェンディが顔を上げる。その瞳は潤んでおり、今にも涙がこぼれそうだった。レベッカはすぐに腰を下ろして、ウェンディを優しく抱き締めた。

 

「大丈夫ですよ、お嬢様。それは、ただの夢です。怖がることなんてありません」

 

「……うぅ」

 

「大丈夫ですよ、お嬢様。大丈夫です……」

 

レベッカは何度も大丈夫、と繰り返し言って、ウェンディの背中や頭を撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディが何度も繰り返し見る夢とは何だろう。

 

レベッカは夜遅く、自室でミルクを準備しながら物思いに耽っていた。

 

ただの夢だ、とウェンディには言い聞かせたが、何故かとても気になりモヤモヤした。

 

何か、とても重要な事のような気がしてならない。でも、それが何なのか全然分からないのだ。

 

「うーん……」

 

レベッカが首をかしげたその時、呼び鈴がチリンと鳴った。レベッカはハッとして慌ててミルクと蜂蜜を手に持ち、自室から飛び出した。

 

「お嬢様、お待たせしました」

 

そう言いながら、ウェンディの部屋へと入る。ウェンディの顔はまだ陰鬱に沈んでいた。その顔を見たレベッカはミルクの準備をしつつ、ウェンディを励ますように、明るく声をかけた。

 

「今日はですね、とっておきの蜂蜜なんですよ。メイド長に頼んで、買ってもらったんです。あまり手に入らないと言われている、すごく貴重な蜂蜜なんですよ。ミルクに入れたら、甘くてとっても美味しいですよ」

 

ニッコリ笑って、ミルクの入ったカップをウェンディに差し出した。

 

「さあ、どうぞ、お嬢様!」

 

「――ん」

 

暗い表情のまま、ウェンディはレベッカの手からカップを受け取った。そのまま少しずつミルクを飲み始める。

 

「……お嬢様」

 

レベッカはベッドのそばの椅子に腰を下ろし、ウェンディの頭を撫でながら口を開いた。

 

「眠れませんか?もしよければ、お嬢様が寝るまでここにいましょうか?そうしたら、眠れますか?」

 

心配しながらそう言葉をかけると、ウェンディはチラリとレベッカの顔を見て、小さく口を開いた。

 

「じゃあ、いっしょに、寝てほしい……」

 

「――お嬢様」

 

レベッカは少し顔をしかめて首を横に振った。

 

「いけません。メイドである私が、主人と同じベッドで寝るなど、許されません」

 

「――うー」

 

ウェンディが不満そうに呻き、レベッカを上目遣いで見つめてきた。

 

「――どうしても、ダメ?」

 

「ん゛ンっ」

 

その顔が可愛くて、負けそうになったが、

 

「駄目です。絶対に」

 

キッパリ断ると、ウェンディは拗ねたような顔で息を吐いた。

 

「ベッカってふだんはのんきなのに、こういう時はがんこ……」

 

「はいはい。それでは、ミルクも飲み終わったようですし、私は戻りますね」

 

レベッカがそう言いながら立ち上がろうとすると、ウェンディが慌てたような様子で口を開いた。

 

「あっ、まって、やっぱり、寝るまでここにいて!」

 

その様子に、レベッカは思わずクスリと笑って、ウェンディの手を握った。

 

「はい、お嬢様」

 

ウェンディもホッとしたように笑うと、そのままベッドへともぐり込んだ。

 

「あのね、ベッカ、明日はいっしょに、お庭をおさんぽして?」

 

「あら、いいですね。ちょうど庭のお花も綺麗に咲いてますし。では午後のお掃除の後で、いいですか?」

 

「うん。たのしみ!」

 

「あっ、そうだ。キャリーさんも誘っていいですか?」

 

「えー……ベッカと2人がいい……」

 

「人数が多い方が楽しいですよ」

 

その後も2人は小さな声で会話を続けていたが、ウェンディは疲れていたのか、すぐに目蓋を閉じて眠ってしまった。すやすやと穏やかな寝顔を見つめて、レベッカは微笑みながら、立ち上がる。そして、

 

「おやすみなさい、お嬢様」

 

起こさないように小さく挨拶をして、部屋から出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自室へと戻り、レベッカも就寝の準備を始めた。手早く寝衣へ着がえ、明日の予定を確認し、ベッドへと向かう。

 

「お嬢様、今日は眠れるといいなぁ……」

 

ウェンディの様子を心配しながら、レベッカもベッドにもぐり込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不思議な夢を見た。

 

『ベッカ』

 

誰かに名前を呼ばれる。重い目蓋をこじ開けると、そこにはエメラルドがあった。

 

『ベッカ』

 

あ、ちがう。これは、エメラルドじゃない。

 

これはお嬢様の瞳だ。

 

『ベッカ、……あのね……』

 

お嬢様が何かを言っているが、何と言っているのか、全然分からない。お嬢様、早く寝ないと、また寝坊しちゃいますよ、と言いたいのに、声が出ない。あれ?おかしいな?夢の中だというのに、体がだるくて、眠い。とにかく、すごく眠い。

 

『ねえ、……いい?』

 

お嬢様が何かを言ってくるが、わけが分からない。ぼんやりとお嬢様を見つめながら、コクリと頷いた。

 

お嬢様の顔が、パッと輝く。そして、そのまま唇を重ねてきた。

 

触れるだけの可愛いキスだ。信じられないくらい柔らかな唇の感触に、抵抗できないまま、受け入れる。

 

あれ?なんでこんなことしてるんだろう?

 

混乱しながら、目の前のお嬢様をただ見つめていると、お嬢様は満足げに唇を離して、ニッコリと笑った。

 

『んふ、ベッカ、かわいい』

 

そう言って、再び唇を押し付けてくる。

 

あはは、可愛いのはお嬢様ですよ。

 

そう言いたいのに、お嬢様の唇のせいで言えない。

 

ああ、なんかこれ、すごく幸せ、と感じる。

 

そのまま意識は闇の中へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハッとして目を覚ますと、もう朝だった。勢いよく身体を起こし、窓へと視線を向ける。光がカーテンの隙間から差し込んでいる。

 

「うわ、なんか、すごい夢見た……」

 

頭を抱えて、そう呟く。顔が熱い。鏡を見なくても、顔が真っ赤になっているのが分かった。

 

何だ、あの夢は。あんな、夢を見てしまうなんて、なんて失礼な。ああ、もう、お嬢様に顔向けできな――

 

「ん?」

 

不意に、自分以外の気配を隣から感じて、視線を向ける。そこには、

 

「え、えっ、お嬢様ー!?」

 

ウェンディが穏やかな顔で眠っていた。レベッカが大きく叫ぶと、ウェンディが目を覚ました。

 

「ううーん、ベッカ……?おはよ……」

 

「あ、おはようございます……ではなくてですね!なんでここにいるんですか!?」

 

レベッカの問いかけに、ウェンディがぼんやりと答えた。

 

「……えーと、また怖い夢を見て、夜中におきたの。どうしても1人では眠れなくて、ベッカの部屋にきた」

 

レベッカはまた頭を抱えた。まさか自分の部屋に来るなんて思いもしなかった。

 

「お嬢様……怖いからと言って、メイドの部屋に来るのは……」

 

その時、ハッとしてレベッカは言葉を止めた。

 

「あっ、あ、あの、お嬢様……」

 

「んー?」

 

「も、もしかして、もしかして、なんですけど、夜中に、私に――」

 

キスしました?と言いかけたが、グッと言葉が詰まってそれ以上声が出なかった。代わりに、またどんどん顔が熱くなっていく。

 

「ベッカ?どうしたの?」

 

ウェンディが不思議そうに首をかしげた。レベッカはウェンディから目をそらしながら、慌ててベッドから降りた。

 

「と、とにかく!私の部屋に来てはいけません!!」

 

そう言いながら、ウェンディの身体を抱き上げて、ベッドから降ろす。そのまま小さな背中を押して、扉へと向かい、自室から外に出した。

 

「すぐに朝食をお持ちしますので!!部屋に戻っててくださいね!」

 

そう言い放ち、勢いよく扉を閉めた。扉を閉めた瞬間、へなへなと崩れ落ちる。

 

「……最悪だ」

 

これじゃあ、ウェンディに八つ当たりしているみたいじゃないか、と思いながら、両手で顔を覆う。

 

あれは、夢?夢だよね?夢に決まってる!

 

あんな夢を見るなんて。本当に自分は一体どうしたのだろう。あんな、あんな――、

 

夢の中の柔らかな唇の感触を思い出して、生唾を飲み込む。

 

そして、

 

「う、うわあぁぁぁ~……」

 

悶えるように、その場でのたうち回り、呻いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、追い出されるように部屋の外へと出されたウェンディは、しばらくレベッカの部屋の扉を見つめていたが、やがて肩をすくめると歩き出した。

 

廊下を歩いていると、早くも仕事を開始している使用人達がウェンディに怯えるようにビクビクしながら、頭を下げてくる。使用人達の様子に構わずに、ウェンディは私室へ向かって歩き続ける。

 

歩きながら、ウェンディは不意に自分の唇に触れた。その顔はほんのりと紅潮している。その緑の瞳には、喜びが溢れていた。そして、

 

「んふ、んふふふふっ」

 

幸せそうに小さく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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暗闇

 

 

 

 

目の前に、どこまでも闇が広がっている。

 

ここは、どこだろう。

 

なんだか、とても嫌な場所だ。

 

闇の中で、泣き声が聞こえた。

 

とても悲しい声だ。

 

誰かが泣いているの?

 

そちらに視線を向けて、目を見開く。

 

白銀の髪を持つ女が、誰かを強く抱き締めて泣いていた。

 

その表情は絶望に染まっている。

 

彼女は、一体誰だろう?

 

『ポーレ、ポーレっ……』

 

必死な顔で、涙を流している。

 

『なぜ、あなたがこんなことを……っ、ポーレ!!』

 

ポーレとは誰なのだろう。

 

『大丈夫だからね、ポーレ……』

 

白銀の女性は、何かを決心したように強い瞳で言葉を続けた。

 

『ひとりぼっちじゃないわ。姉さんが、一緒だからね、ポーレ』

 

そして、彼女は鋭い瞳をこちらに向けた。

 

 

 

 

 

『お前が殺したんだ、この子を』

 

 

 

 

 

『絶対に許さない。必ず地獄に落としてやる』

 

 

 

 

 

『お前だけは許さない――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢様……」

 

レベッカが目を覚まして、隣に視線を向けると予想通りそこにはウェンディが眠っていた。思わず大きなため息をつく。レベッカは顔をしかめながら、ウェンディを軽く揺すった。

 

「お嬢様、お嬢様、起きてください」

 

「うぅん、ベッカぁ、……まだ眠い」

 

「寝るなら自分の部屋で寝てくださいよ……」

 

レベッカは呆れながら、またため息をついた。

 

最近、ウェンディは夜中になるとレベッカの部屋に忍び込むのがすっかり習慣となってしまった。レベッカが気がつかないうちに、こっそりとベッドにもぐり込む。そして、レベッカにくっつくように眠るのだ。

 

レベッカがどんなに厳しく叱っても、無駄だった。何を言っても、聞こえないフリをして絶対にレベッカのベッドへとやって来るのだ。

 

これにはいつも能天気なレベッカも困惑して頭を抱えた。今のところは、幸運なことにメイド長やその他の使用人にはバレてはいないようだが、バレたら非常にまずい。それに、何よりも、ウェンディが隣に来ると変な夢を見ることが増えたのだ。

 

 

 

 

 

『ベッカ』

 

 

 

 

 

夢の中のウェンディの甘い声を思い出すと、身体が震える。柔らかな唇の感触が甦り、ザワザワと心が揺れるのを感じた。

 

慌てて首をブンブンと横に振り、頭の中に浮かんだ夢の映像を追い払った。赤い顔を誤魔化すように、腰に手を当てて、思い切り眉を吊り上げる。そして、少し厳しい顔で、ウェンディに声をかけた。

 

「お嬢様!本当にいい加減にしてください!寝るなら自分のベッドで寝てください!寂しいからと言って、ここに来てはいけません!」

 

レベッカがそう言うと、ウェンディはチラリとこちらへ視線を向けて、シーツの中に顔を埋めた。

 

「だって……イヤなんだもの」

 

「はい?」

 

レベッカが首をかしげると、ウェンディは顔を上げる。その顔は今にも泣き出しそうで、レベッカは戸惑った。

 

「変な夢を、見るのがイヤなの……女の人が、こっちをずっと見てくる夢……私を、絶対に許さないって……地獄に落としてやるって……っ」

 

ウェンディの怯えたような声を聞いて、レベッカはオロオロしながら、ウェンディの肩へ手を置いた。

 

また例の怖い夢を見て、ウェンディは怯えきっているらしい。最近のウェンディは、頻繁に怖い夢を見るせいで、心が不安定になってきている。レベッカのベッドにもぐり込んでくるのも、それが原因のようだ。

 

レベッカは困惑しながらも、ゆっくりとウェンディの肩を優しく抱き締めた。

 

「お嬢様、それは夢です。ただの夢なんです……」

 

そう言い聞かせながらも、その夢が普通の夢ではないという事は、流石に気づいていた。一体なぜそんな夢を見るのだろう、と疑問が止まらない。

 

しかし、とりあえずは怯えるウェンディを落ち着かせるのが最優先だ。

 

「お嬢様、そんな怖い人はどこにもいませんよ」

 

ゆっくりとウェンディを包み込むように抱き締める。頭や背中を何度も撫でながら声をかけ続けた。

 

「私が必ずお嬢様をお守りいたします。だから、安心してください。絶対に大丈夫ですから……」

 

ウェンディもレベッカの背中へ腕を回す。そのままウェンディが落ち着くまでレベッカは抱き締め続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディの精神状態が不安定のまま、日々は過ぎてゆく。そして、魔法学園が長期休暇に入り、クリストファーが帰ってきた。

 

「ただいま、ウェンディ」

 

「お兄様」

 

久しぶりに再会した兄妹が抱き合うのを、レベッカはそばで見守っていた。クリストファーの近くにはリードが控えており、目が合ったレベッカは小さく頭を下げる。リードも軽く頷いて挨拶を返してくれた。

 

「レベッカも、久しぶりだね。元気だったかい?」

 

「はい」

 

クリストファーもいつも通り爽やかな笑顔でレベッカに声をかけてくれた。レベッカも穏やかに微笑み、頭を下げた。

 

「学校はどうだった?」

 

「うん。面白い後輩がいてね……とても優秀だけど、少し変わった子なんだ――」

 

ウェンディとクリストファーはソファに腰を下ろしてお互い楽しそうに話し始める。レベッカとリードは2人でお茶やお菓子の準備を開始した。

 

お茶をテーブルに置くと、クリストファーは少し真剣な顔をして、ウェンディをまっすぐに向き合った。

 

「――ウェンディ。改めて話があるんだ」

 

ウェンディも姿勢を正して、クリストファーを見返した。

 

「――はい、お兄様」

 

クリストファーは少し笑って言葉を続けた。

 

「……本当に大きくなったね、ウェンディ。ごめんね、ずっと寂しい思いをさせて」

 

「寂しくないわ。ベッカがいるもの」

 

ね?とウェンディがこちらへと視線を向け、レベッカも微笑み返した。クリストファーは笑みを消して、言葉を重ねた。

 

「ウェンディ。3日後、君は10歳になる」

 

「――はい」

 

「意味は分かるね?君は魔力測定をしなければならない……外へと出なければならないんだ」

 

ウェンディは怯えるように身体を震わせたが、それでもクリストファーから目をそらそうとはしなかった。

 

「……測定は、どこであるの?」

 

「この地方では、街の教会が会場になっているんだ。誕生日に、そこに行くんだよ」

 

ウェンディは拳をギュッと握り、クリストファーを見つめながら再び問いかけた。

 

「それは、お兄様も行く?」

 

「もちろん。家族は付いていけるようになってるからね」

 

ウェンディはチラリとレベッカへ視線を向けて、また口を開いた。

 

「じゃ、じゃあ、ベッカは?」

 

「いえ、それは――」

 

レベッカは思わず口を挟もうとしたが、それよりも先にクリストファーは首を横に振った。

 

「駄目だ」

 

「どうして?」

 

「魔力測定は家族だけがその場にいることを許されている。普通は両親が――」

 

クリストファーはハッとしたように一瞬口をつぐんだが、すぐにニッコリと微笑んだ。

 

「とにかく、レベッカは会場にはいけない。でも、会場の入り口までは一緒に行けるよ。会場では、ぼくがずっと一緒にいるからね。だから、今回は頑張ってほしいんだ、ウェンディ」

 

「……」

 

ウェンディは困惑したようにまたチラリとレベッカを見てきた。レベッカは安心させるように微笑み、小さく頷く。ウェンディは大きく深呼吸すると、再びクリストファーへと視線を戻し、大きく頷いた。

 

「はい、お兄様」

 

クリストファーがホッとしたように笑い、レベッカもこっそりと息を吐く。レベッカの隣では、リードも無言で安心したような顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すまなかったね、レベッカ」

 

レベッカがウェンディの部屋から出ると、クリストファーがすぐに声をかけてきた。

 

「はい?」

 

レベッカが首をかしげると、クリストファーは気まずそうな顔をして言葉を続けた。

 

「いや、勝手に会場まで付いていくことを決めてしまって……」

 

「あ、いえ。それは構いません。全然。あの、それより、クリストファー様」

 

「うん?」

 

「ご相談したいことがありまして……」

 

レベッカの言葉にクリストファーの顔が瞬時に強張った。

 

「もしかして、また嫌がらせを受けている?」

 

「え?あ、違います!それはないです、本当に!」

 

レベッカは慌てて首を横に振った。クリストファーがホッとしたような顔をする。

 

「よかった。僕が知らない間に、また厄介なことが起きているかと……」

 

「あ、えっと、私ではなくて、ですね……」

 

レベッカは小さな声で、コソコソと言葉を続けた。

 

「あの、お嬢様が、最近ずっと怖い夢を見ているみたいで……私、すごく心配で……」

 

その瞬間、クリストファーの顔色がサッと青くなった。後ろに控えていたリードと顔を合わせ、頷き合う。

 

「あの……?」

 

レベッカがその反応に戸惑っていると、クリストファーはレベッカから顔をそらして口を開いた。

 

「――それはウェンディからの手紙で知ってるよ。恐ろしい女性が出てくる夢だろう?」

 

「あ、ご存知でしたか」

 

考えてみれば、ウェンディとクリストファーは頻繁に手紙を送り合っているのだから、知ってて当然だ。自分の考えの至らなさに、レベッカは苦笑した。

 

クリストファーの方は顔を伏せ、何か思い悩むような顔をしていた。やがて、ゆっくりと顔を上げる。クリストファーは、何かを決心したように強い瞳でレベッカを見つめてきた。

 

「レベッカ」

 

「はい?」

 

「ウェンディの魔力測定の後、少し話をしよう。夜、備品庫の隣の部屋に来てくれる?」

 

「え?」

 

レベッカはキョトンとした顔でクリストファーを見返した。

 

「えっと、お嬢様の、話、ですよね?」

 

「ああ」

 

クリストファーは短く返事をして頷いた。

 

「承知しました。必ず参ります」

 

レベッカがそう答えると、クリストファーは、

 

「それじゃあ、よろしく頼む」

 

そう言って、リードを従えてその場から立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







たくさんの感想ありがとうございます。全然返信できていませんが、一つ一つ全て読ませて頂いています。本当に嬉しいです。励みになります。この場を借りて御礼を申し上げます。本当にありがとうございます。
今後、少し更新がゆっくりになると思いますが、必ず完結まで書きます。今後もよろしくお願いいたします。






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呪い

ウェンディの10歳の誕生日がとうとうやって来た。

 

レベッカは朝早くから朝食を手に、ウェンディの部屋を訪れた。

 

「お嬢様、失礼いたします」

 

ノックをして扉を開けると、ウェンディは既に起きており、ベッドの上に座っていた。ぼんやりとレベッカに視線を向けてくる。

 

「おはようございます。朝食をお持ちしました」

 

挨拶をしながら、朝食をテーブルにセッティングする。ウェンディはフラフラとテーブルへ近づいてきた。

 

「朝食を済ませたら、本日は私が身支度をお手伝いいたしますね」

 

ウェンディは無言で頷きながら、椅子へと腰を下ろし、スプーンを手に取った。

 

「……何時に行くの?」

 

ウェンディが朝食を食べながら、ボソボソと声をかけてきた。

 

「えーと、午前中、早めに終わらせるそうですよ。お着がえが終わったら、クリストファー様をお呼びしますね」

 

レベッカの答えに、ウェンディが顔をしかめた。

 

魔力測定が控えているため、緊張しているのか不安そうな表情のままだ。食欲もない様子で、大量の食物を皿に残したまま、すぐに食事は終了した。

 

そのまま沈んだ様子で、鏡の前に座る。 

 

「ベッカ。髪、お願い……リボン、結んで」

 

レベッカはすぐに頷いて、櫛を片手にウェンディの髪を整え始めた。その間も励ますように声をかけ続ける。

 

「お嬢様、魔力測定が終わったら、誕生日のお祝いをしましょう。きっと楽しいですよ。クリストファー様がプレゼントを用意しているみたいですし、とっても美味しそうなケーキもありますからね」

 

「……ん」

 

ウェンディは短く言葉を返してくれたが、やはりその顔は強張っていた。

 

レベッカはどう励ませばいいのか考えながら、髪を整え、レースのリボンを結んだ。そのまま今日のために用意された服を取り出す。クリストファーが準備したらしいその服は、上品な藍色のドレスだ。

 

「お嬢様、見てください。とても可愛いドレスです。きっと、お似合いですよ」

 

「……」

 

ウェンディはチラリと視線を向けて、すぐにそらし口を開いた。

 

「ベッカ、ローブも用意して。顔を隠せるフードが付いているのが、棚に入ってるから」

 

「えっ……」

 

レベッカが戸惑って声をあげると、ウェンディが顔をしかめながら言葉を続けた。

 

「……できるだけ、人前で顔を晒したくないの。だから、お願い」

 

ウェンディの言葉に、レベッカは少し肩を落とし、返事をした。

 

「……承知しました」

 

鏡の前でウェンディの着がえを手伝う。ウェンディがネグリジェを脱いだ時、また身体の痣が広がっているのが見えて、大きく動揺してしまった。思わず目をそらしそうになる。腕の痣は首にまで、足の痣は腹部にまで広がっていた。

 

「……このドレス、きっとクリストファー様が一生懸命選んだのでしょうね……本当にお嬢様にお似合いです」

 

動揺を隠すようにドレスを着せながらそう言ったが、ウェンディは何も答えなかった。ドレスに着がえ終わると、最後にウェンディはローブを羽織った。せっかくのドレスがローブで見えなくて、ちょっともったいないな、と思いながらレベッカはその場にしゃがみこみ、ウェンディと視線を合わせた。

 

「……お嬢様」

 

「なに?」

 

ウェンディの瞳を真っ直ぐに見つめながら、レベッカはエプロンのポケットから、準備していた物を取り出した。

 

「こちらを、どうぞ」

 

「……なに、これ?」

 

眉をひそめるウェンディに微笑みながら、レベッカは言葉を重ねた。

 

「プレゼントです」

 

「……え」

 

「お嬢様にとっては、とても憂鬱な日だとは思いますが、……私にとっては、このうえなく嬉しい日なんですよ。なんせ、大切な方がこの世に生まれてきたことを、お祝いできるんですから」

 

「……た、たいせつ……」

 

ウェンディの顔がほんのりと赤くなった。その顔がとても可愛らしくて、レベッカは微笑みながらプレゼントを差し出した。

 

「お嬢様、10歳のお誕生日、おめでとうございます」

 

それは、可愛らしい花のブローチだった。ウェンディが呆けたような顔でそれを見つめ、口を開く。

 

「かわいい……キラキラしてる……」

 

「お気に召しましたか?」

 

「うん!今、付けてくれる?」

 

ウェンディが大きく頷きながらそう言ったため、レベッカはすぐにそのブローチをローブへと装着した。

 

「手作りなので、壊れやすいから気をつけてくださいね」

 

「え、えっ、……ベッカの手作りなの?」

 

「はい……あ、駄目でしたか?」

 

手作りのアクセサリーを付けるのは好きではないのかな、と思いながらウェンディの顔を覗き込むように見る。しかし、ウェンディは首を横に振り、嬉しそうにブローチへと視線を向けたため、ホッとした。

 

「私はおそばにいることはできませんが……せめて、私の代わりにこれを持っていてください」

 

レベッカがそう言うと、ウェンディは、

 

「うん!」

 

と大きく頷いてようやく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ、出発しよう」

 

準備が終わると、レベッカとウェンディはすぐにクリストファーが用意したらしい馬車へと乗り込んだ。レベッカがウェンディの隣に腰を下ろすと、そのすぐ後にクリストファーが続き、最後にリードも馬車へと入ってきて、向かい合って座った。

 

「行ってらっしゃいませ」

 

多くの使用人が頭を下げて挨拶をした。その中にはキャリーもいて、レベッカと目が合うと、声には出さずに唇を「頑張って」と動かした。レベッカも微笑んで小さく頷いた。

 

「行ってくるね」

 

クリストファーが軽くそう言った瞬間、馬車がゆっくりと動き出した。

 

先程まで、嬉しそうにブローチを見つめていたウェンディは、馬車が動き出した瞬間、また怯えたように顔を歪めた。馬車にも乗るのが初めてらしいウェンディはそのまま全身を硬直させ、レベッカの手を強く握ると、そのまま下を向いた。

 

「ウェンディ、そんなに緊張しないで。すぐに終わるよ」

 

「お嬢様、帰ったら、みんなでパーティーをしましょう!たっくさん、美味しい料理を食べて、ゲームをしたら、きっと楽しいですよ!」

 

クリストファーとレベッカが声をかけても、やはりウェンディは何も答えずに顔を伏せたままだった。

 

魔力測定の会場になっているらしい教会は、屋敷からそれほど遠くない場所に建っていた。馬車が止まった瞬間、ウェンディの肩がビクリと揺れた。

 

「さあ、行こう、ウェンディ」

 

クリストファーがウェンディに手を差し出す。ウェンディは今にも泣きそうな顔でレベッカへ視線を向けてきた。

 

レベッカは何も言わずに、自身の胸を指差す。ウェンディはハッとした顔で、胸につけられたブローチへと視線を向けた。そして、もう一度レベッカへ顔を向け、コクリと頷く。レベッカも微笑んで、小さく頷いた。

 

ウェンディは覚悟を決めたように、レベッカから手を離す。そして、顔を隠すようにローブを深く被ると、クリストファーの手を取った。

 

「大丈夫だよ、ウェンディ。頑張ろうね」

 

クリストファーはそう言いながら、ウェンディを導くように優しく手を握り、立ち上がる。そして、2人はゆっくりと馬車から降りた。

 

「私達は入り口で待っていましょう」

 

リードにそう言われ、レベッカも頷きながら立ち上がる。リードの後から続くように馬車から降りた。

 

教会の入り口は閑散としており、ほとんど人がいなかったため、レベッカはホッとした。教会の職員やその関係者らしき人物しかいないようだ。数少ない人々は、クリストファーとウェンディの姿を見て、ハッとしたような顔をすると、目をそらした。その様子を無視するように、クリストファーはしっかりとウェンディの手を握ると、足を進めた。ウェンディはチラチラとレベッカを振り向きながら、クリストファーと共に教会へと入っていった。レベッカは無言でその姿を見送った。

 

「ウェンディ様の事が心配ですか?」

 

突然リードに話しかけられ、レベッカは頷いた。

 

「それはもちろん……とても、心配です」

 

ソワソワしながらそう答えると、珍しくリードが少し笑った。レベッカがびっくりしてリードをまじまじと見つめると、リードが少し気まずそうな顔で教会へと視線を移した。

 

「失礼。……まるで、数年前の私を見ているようで……」

 

「……?数年前?」

 

「坊っちゃんの魔力測定で、付き添いでここに来た私は、今のレベッカさんのように、落ち着きなくソワソワとしながらここで坊っちゃんを待っていました」

 

その言葉にレベッカは目を見開きながら声を出した。

 

「なんだか想像できないですね。ソワソワしているリードさんも、10歳のクリストファー様も」

 

「坊っちゃんも昔はもっと可愛げがあったんですけどね……」

 

レベッカはその言葉に少しだけ笑ったが、すぐに表情を曇らせて、教会の扉を見つめた。

 

「……本当に、心配です。クリストファー様が付いているから、きっと大丈夫だって、分かってるんですけど……」

 

リードは、不安そうな表情を浮かべたレベッカを静かに見つめると、やがて口を開いた。

 

「――坊っちゃんも、不安なんです」

 

「はい?」

 

「坊っちゃんも、……両親の代わりに、ウェンディ様に付き添うことを、とても不安に思っています」

 

レベッカが首をかしげると、リードは言葉を重ねた。

 

「魔力測定では、保護者の付き添いが許可されていますよね?」

 

「え、あ、はい……」

 

レベッカは戸惑いながら、頷く。リードの言う通りだ。レベッカの魔力測定の時も、父親が付き添っていた。

 

「大抵は親が付き添います。しかし、ウェンディ様の付き添いは……兄であるクリストファー様しかいません」

 

「……」

 

「伯爵様が、ウェンディ様の父親としてここに来ることは絶対にありません。恐らくは、今日がウェンディ様の10歳の誕生日であることさえ忘れているでしょう。――あのクソ……失礼、伯爵様は、自分さえよければどうでも、いいのです。女遊びと金の事しか興味ありません」

 

レベッカが何と答えればいいか迷っていると、リードの言葉は続いた。

 

「クリストファー様の10歳の誕生日、魔力測定には伯爵様が付き添われました。伯爵様は終始面倒くさそうな様子でしたが、……クリストファー様は跡継ぎですし、さすがに体裁を気にされたようで。しかし、……レベッカさんもご存知だとは思いますが、……坊っちゃんの魔力はかなり低かったのです。それを知った伯爵様は激昂して坊っちゃんを殴りました。“この無能が!ゴミのような魔力で親に恥をかかせやがって!”と大声で叫んで」

 

「……」

 

レベッカが呆然とリードを見返すと、リードは肩をすくめた。

 

「そういう方なのです、伯爵様は。そのせいで坊っちゃんも魔力測定には嫌な記憶しかなく、ウェンディ様と同じくらい緊張して、不安に思っています。気丈に振る舞ってはいますが、昨日はほとんど眠れなかったようですしね」

 

「――大丈夫なんでしょうか?」

 

レベッカが恐る恐る尋ねると、リードは少しだけ微笑んだ。

 

「坊っちゃんは可愛げはありませんが……誰よりも強いですから。きっと、すぐに帰ってきますよ」

 

レベッカはその言葉に、教会の扉へと再び視線を移した。

 

リードの言う通りだった。クリストファーとウェンディはそれから少しして、教会の扉から出てきた。

 

クリストファーはリードとレベッカを見ると、小さく声を出した。

 

「帰ろう」

 

そして、すぐに馬車へと乗り込む。レベッカとリードもそれに続いた。ウェンディはローブを顔を隠すように着ており、どんな表情をしているか分からなかった。

 

馬車が出発して、すぐにウェンディはローブから顔を出した。

 

「お嬢様、だい――」

 

大丈夫でしたか?と続ける前に、ウェンディはレベッカの膝に乗り込み、抱きついてきた。

 

「わっ、お嬢様?」

 

レベッカが戸惑って声を出す。クリストファーがその姿を見て苦笑する。それに構わずリードが口を開いた。

 

「――どうでしたか?」

 

その問いかけに、クリストファーはすぐに言葉を返した。

 

「……人が少ない時間を狙って来たから、すぐに終わったよ。予想通り、ほとんど人もいなかったし」

 

クリストファーは安心したように微笑んだ。

 

「ウェンディの魔力は平均的な数値だった。安心したよ。僕よりはずっと高い」

 

クリストファーの声を聞きながら、レベッカはウェンディの頭を撫でた。

 

「お嬢様、大丈夫ですか?身体の調子が悪いですか?」

 

「――ううん」

 

ようやく耳元で小さな声を出す。そして、ウェンディはゆっくりとため息をついた。

 

「――疲れた」

 

その言葉に、レベッカはウェンディの身体をギュッと強く抱き締めた。

 

「……お疲れ様でした。お辛かったでしょう。もう大丈夫ですからね……」

 

「……ん。……ねえ、ベッカ」

 

「はい?」

 

「あのね、あのね、……今日は、ずーっと、ギュッてしてて」

 

「あら、それでは、ケーキは食べなくてもよろしいですね?お嬢様の分まで私が食べちゃいますよ」

 

「それはダメっ」

 

レベッカがクスクスと笑うと、ウェンディはようやく身体の力を抜き、レベッカを見上げて微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の午後から、改めてウェンディの誕生日パーティーが開かれた。ウェンディの部屋のテーブルに、たくさんの料理やケーキが並べられる。昨年と同じく、小さなパーティーだったが、ウェンディは肩の力が抜けたように、レベッカのそばで笑顔で楽しんでいた。その様子を見つめて、レベッカも安心しながら誕生日を祝った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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皆が寝静まった夜、レベッカは静かに私室から出て、足を踏み出した。寝ている人間を起こさないように、静かに廊下を歩く。目的の部屋へ到着して、軽くノックをすると、すぐにリードが迎えてくれた。

 

「レベッカさん、こちらへ」

 

部屋に入って、レベッカは驚きで目を見開いた。見たことのない光景が広がっていた。部屋の床から階段が続いている。

 

「あの、これは……?」

 

「地下への入り口です。安心してください。中は明るいですよ」

 

リードの言葉に半信半疑で、階段を下りる。階段の先には、茶色の扉があって、ノックもせずにリードはそれを開いた。

 

「あ、……」

 

リードの言う通り、扉の先では明るい光が待ち受けていた。

 

「やあ、レベッカ。待っていたよ」

 

部屋の中ではクリストファーが待っていた。穏やかな顔で、真ん中に置かれたソファに座っている。

 

「――うわ」

 

レベッカは部屋の中を見回して、思わず声をあげた。部屋の中には今まで見たこともないほどの大量の本と本棚があった。本の他にも、よく分からない道具が転がっている。

 

「あの、ここは……?」

 

「僕の個人的な研究室。こっそり作らせたんだ。本当は自分の部屋で研究したいんだけど、あまり見られたくない資料があるから……驚いた?」

 

レベッカは本を見回しながらコクリと頷く。そして再び問いかけた。

 

「何の研究ですか?」

 

「――呪いの、研究だよ」

 

その答えに、レベッカがクリストファーへと、視線を移すと、クリストファーが穏やかに微笑みながら言葉を続けた。

 

「さあ、ここに座って」

 

そう言われて、大人しくソファへと腰を下ろす。すぐにリードかお茶を持ってきた。

 

「レベッカ。ここに来て何年になる?」

 

突然の質問に、レベッカは戸惑いながらもすぐに答えた。

 

「もうすぐ、2年になります……」

 

「――ウェンディの専属になって、1年以上経ったね」

 

無言で頷くと、クリストファーが腕を組みながら言葉を重ねた。

 

「ずっと、不思議に思っていただろう?ウェンディの痣について」

 

その言葉に、無意識に生唾を飲んだ。ゆっくりと頷くと、クリストファーが小さく笑った。

 

「ごめんね、ずっと何も話さないまま、ウェンディを任せて……」

 

「――あの」

 

レベッカは少し躊躇いながらも口を開いた。

 

「確かに、その、気になりますが……でも、あの、無理に話す必要は……」

 

「いや、そろそろ話しておこうと思ったんだ。君が気になっているであろう、“呪い”について」

 

クリストファーが少し目を伏せる。レベッカはその姿を見つめながら、問いかけた。

 

「では、あの、……お嬢様の“呪い”とは、何なのですか?」

 

クリストファーはレベッカを見つめ返し、ゆっくりと口を開いた。

 

「分からない」

 

「……は?」

 

その答えにポカンと口を開く。クリストファーは深く息を吐くと、首を横に振りながら言葉を続けた。

 

「分からないんだ。本当に。呪いの正体が、全然分からない。だからこそ、僕はここで研究をしている。妹を助けたくて――」

 

「あ、あの、分からないって……」

 

レベッカが戸惑ったように声をあげると、クリストファーは顔をしかめ、自分を落ち着かせるようにお茶を飲み、再び口を開いた。

 

「――そうだね。とにかく、初めから話そう。どこから、話せばいいか……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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最初に言っておくが、決して気分のいい話ではないよ。外では絶対に話したくない、コードウェル家の恥であり、汚点とも言える過去の出来事だ。

 

 

 

……。

 

 

 

ああ、ごめんね。ちょっと迷ってしまって。どこから話せばいいか……。

 

 

 

 

 

レベッカは、この家の当主、コードウェル伯爵がどんな人間かもう知っているよね?

 

ここで働いていたら嫌でも耳に入ってくるだろう?

 

うん。はっきり言って、クズだよ。

 

醜悪にして下劣で好色、金と女の事しか頭にない、自尊心が高く、虚栄心が無駄に強い、最低最悪な人間だ。

 

昔から女遊びが大好きでね。顔がいいから、黙っていても女性にモテるんだ。今の結婚も3回目だ。ああ、それは知ってた?

 

何度も何度も女性関係で騒動を起こして、全然懲りない。

 

エヴァンの馬鹿も女たらしだが……少なくともあいつは女性は大切にするし、他人を故意に傷つけることは絶対にしない。馬鹿だけど。

 

失礼、話がそれた。

 

とにかく、コードウェル伯爵は、品性下劣で自己中心的な、クズなんだ。

 

女性関係にだらしないだけならまだしも、……自分の目的のために、他人の幸せを崩壊させる、横暴で卑劣で最悪の人間だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事の始まりは、数年前のこと。僕は何も知らない子どもで、コードウェル伯爵は3回目の結婚をしたばかりだった。そう、ウェンディの母親だよ。

 

その頃、数人の新しいメイドが雇われたんだ。その中に、一際目立つ綺麗なメイドがいた。

 

彼女は珍しい容姿の美しいメイドだった。顔も綺麗だったけど、とにかく目を引いたのは、珍しい白銀の髪だった。真っ直ぐで、キラキラしていて、月のように白く輝く綺麗な髪だったよ。

 

 

 

 

 

彼女の名前は、ポーレ。ポーレ・アネット。

 

 

 

 

 

彼女は元々、この屋敷から少し離れた場所の、小さな村の出身でね。大きな湖がある村だよ。そこで穏やかに暮らしていたんだ。両親と、双子の姉の四人暮らし。お父上は村で小さな商売をしていた。ポーレの双子の姉は、その村の村長の息子との婚約が決まっていた。

 

ある時、ポーレのお母上が、少々厄介な病気になってしまったらしい。その薬代を稼ぐために、ポーレはこの屋敷で下級メイドとして働き始めたんだ。ポーレに、この屋敷の仕事を紹介したのは村長だった。当時、この屋敷で働く使用人の一人と村長が、古い知り合いだったらしくて、その関係でこの仕事を見つけたんだ。

 

 

 

 

 

メイドとして屋敷で働き始めたポーレは、とても純粋で優しい女性だった。

 

メイドの仕事を頑張っていたよ。頑張って働いて、絶対に、お母上の病気を治したいんだ、と言っていた。

 

穏やかで、争い事を好まない、朗らかな人だった。

 

 

 

 

 

それに目を付けたのが、他でもない、コードウェル伯爵だった。

 

ポーレの、珍しい白銀の髪と美しい顔を気に入ったあの男は、強引に迫ったんだ。

 

自分の愛妾になるようにと。

 

さっきも言った通り、伯爵はその頃、3回目の結婚をしたばかりだった。呆れて言葉も出ないだろう?

 

本当に頭が痛いよ。あんなのと血が繋がっているだなんて。ああ、もう、本当に吐き気がする……。

 

また話がそれたね。すまない。

 

慎み深く、堅実なポーレは、伯爵の下劣な誘いをキッパリ断った。

 

純粋で穏やかだけど、心の強い女性だったんだ。

 

伯爵はポーレに誘いを断られ、激昂した。呆れたことに、自分の誘いを断るわけがないと高を括っていたんだ。卑劣な誘いを、ポーレは簡単に受け入れると思っていたらしい。ところが、結果はあっさりとフラれてしまった。

 

下級のメイドに、誘いを断られた事に怒り狂った伯爵は、最低な報復をした。

 

裏で手を回して、屋敷中の多くの使用人達を使って、ポーレに嫌がらせを始めたんだ。

 

嫌がらせというよりは、もはや苛めだったらしい。

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

 

 

ごめん。その苛めの内容に関してはあまり話したくないから、省略させてもらう。

 

とにかく、凄まじい苛めに心も体も傷つき、耐えきれなくなったポーレは流石にメイドを辞める事を決心して、村へと帰っていった。

 

ところが、またしても伯爵は裏で手を回していた。ポーレに誘いを断られた事や伯爵家での苛めの件を、外に広まるのを恐れたのだろう。先回りをするように、村中に、ポーレの悪い噂を広めた。

 

伯爵に迫って、フラれた、身持ちが悪く図々しいふしだらな娘だと。

 

村に帰ってきたポーレを迎えたのは、村人達の冷たい視線だった。

 

その村の村長は、伯爵から悪い噂を聞いてそれを全て信じてしまい、せっかく仕事を紹介したのに恥をかかされたとして、激怒した。ポーレの話を全く聞かず、すぐにポーレの姉と村長の息子の婚約は解消された。

 

村長から嫌われたポーレとその家族はあっというまに村八分になってしまった。

 

村中から無視され、差別されたポーレの一家はどんどん追い込まれていった。お父上がやっていた商売は傾き、食べるのにも困るようになるほど、生活が立ち行かなくなった。更に、悪いことに、その頃、ポーレのお母上の病が急激に進行していった。治療のために莫大なお金が必要になった。ポーレとその姉とお父上は必死になっていろんな人に助けを求めたけど、悪い噂を信じた人々は、誰も助けてはくれなかった。

 

極限にまで追い詰められたポーレは、意外な行動を起こした。お母上を助けるために、再びここへと戻ってきたんだ。藁にもすがる思いだったんだろう。伯爵に助けを求めて、取りすがったんだ。愛妾にでもなんでもなるから、お金を貸してくれ。母を助けてくれと。

 

そんなポーレの願いを伯爵は鼻で笑って突っぱねた。

 

“今さら、なんて厚かましい。ふしだらな田舎娘などごめんだ。興味などないし、助ける理由はない。二度とここに来るな、尻軽”と言ってね。

 

そのまま伯爵は、泣きじゃくって何度も頭を下げるポーレを、無理矢理追い出した。

 

意気消沈したポーレが村へと帰ると、待っていたのはお父上の死だった。お母上を助けるために、必死に金を集めようとしていたお父上は、過労で亡くなったんだ。そのすぐ後に、元々病で体が弱っていたお母上が、夫の死にショックを受けたのか、後を追うように亡くなった。

 

両親が亡くなり、失意のどん底に落ちたポーレは、両親の葬儀を終えると、そのまま村の湖へと飛び込んだ。

 

発見したのは、ポーレの双子の姉だった。

 

彼女の名前はハイディ。ハイディ・アネット。

 

ポーレと同じく、白銀の髪を持つ美しい女性だった。

 

妹の亡骸を発見したハイディは、ポーレの冷たい身体を抱き締めながら、泣き叫んだ。何度も妹の名前を呼んでいたらしい。

 

 

 

 

 

全てを失ったハイディは、家族の崩壊の元凶となったコードウェル伯爵へと怒りを向けた。怒りで正気を失ったハイディは、そのまま村を飛び出し、この屋敷へと乗り込んできた。

 

運悪く、友人の屋敷を訪問するために、伯爵とその夫人と、僕は屋敷の門戸の近くにいた。そして、伯爵夫人はちょうどその頃、妊娠していた。

 

あの時の事は、今でも忘れられない。

 

突然、恐ろしい形相の女性が屋敷に乗り込んできて、本当に驚いた。彼女は汚れていて、ボロボロで、痩せ細っていた。衛兵が止めようとしたけど、無駄だった。凄まじい力で抵抗して、伯爵の目の前へとやってきたんだ。そして、伯爵に向かって叫んだんだ。

 

『お前が殺したんだ、あの子を、私の妹を!壊したんだ、私の家族を、未来を!!絶対に許さない。お前だけは許さない!!必ず地獄に落としてやる!』

 

抑えようとする衛兵や使用人たちを無視して叫び続けた。伯爵と夫人と僕は、彼女の姿に動揺して、その場から動けなかった。

 

そして、彼女は、妊娠してお腹が膨らんでいた夫人の姿を目に留めると、その腹を指差して叫んだんだ。

 

『お前の家族に呪いをかけてやる!その身体に、呪いを刻み込んでやる!!今度は、私がお前の家族を壊してやる!!お前の愛する者が、一生苦しむような呪いを、……私が!!』

 

その瞳からは、真っ赤な血が流れていた。

 

『これは、呪いだ。一生、嘆き、苦しめ』

 

そして、彼女は何かの呪文を唱えると、その場で崩れ落ち、息絶えた。

 

その場にいた多くの衛兵や使用人達がその光景を目撃していた。屋敷中が大騒ぎになった。流石に伯爵も真っ青になっていたよ。全身を震わせて、冷や汗をかいていた。

 

その後、この事件は闇に葬られた。伯爵はあらゆる手を使って、使用人達の口止めをして、事件を必死に揉み消した。

 

 

 

でも、この騒動がきっかけで、僕は知ってしまった。自分の父親がどんな人間で、何をやらかしたかを。

 

 

 

伯爵に怒りと憎しみを抱いたまま亡くなったハイディは、伯爵を苦しめるために、伯爵本人ではなく、その家族に呪いをかけた。全ては、自分の家族を壊した伯爵家を、破滅へと導くために。

 

彼女が何をしたのか、“身体に呪いを刻み込む”とは何なのか、誰もよく分からなかった。ひょっとしたら、ただの脅しだったのではないか、と思っていた。

 

ところが、事件から数週間後、伯爵夫人が子どもを出産した。その子どもを見た瞬間、多くの人間が衝撃を受けた。僕も、その身体を見て、ショックを受けた。

 

生まれてきた女の子の手足には、見たこともない不気味な痣が刻まれていたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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おやすみなさい

 

 

 

 

「――ハイディがかけた、“呪い”とは何なのか。今でも詳細は分からない」

 

クリストファーは淡々と感情のこもらない声で話を続けた。

 

「当時事件を目撃した使用人はウェンディを怖がって、ほとんどが辞めてしまった。……今では、事件の事を知る者は、この屋敷の中でもごく僅かだ」

 

そして、苦悩するように顔を歪めて、ゆっくりと息を吐いた。

 

「ウェンディが生まれたその日から、多くの魔術師や医師に見せた。しかし、誰もあんな不気味な痣は見たことがないと言った。僕も、あらゆる文献や資料を探し、目を通したが、身体に痣が出てくるという呪いは、いまだに発見できていない」

 

クリストファーは周囲の本をチラリと見て、再びレベッカへと顔を向けた。

 

「これが過去に伯爵家で起きた事件の全てだ。ウェンディの“呪いの痣”は、ある家族の幸せを……伯爵が故意に壊した結果なんだ」

 

「……そんなの、そんなのって」

 

クリストファーの話を聞き終わったレベッカは、声を震わせながら叫んだ。

 

「お嬢様は、ただ巻き添えを食らっただけじゃないですか!」

 

「ああ、その通りだ」

 

クリストファーは顔をしかめて頷いた。

 

「ウェンディは、伯爵の娘というだけで、巻き込まれてしまった」

 

そして、クリストファーは頭を抱えながら顔を下へと向けた。

 

「……呪いの痣のせいで、ウェンディは生まれた時から様々な物を失い、諦めてきた。他人から忌み嫌われ、恐れられ、普通の生活を送ることさえできず、ずっと閉じこもったままだ。……ウェンディの母親は、伯爵の女遊びに失望し、更にはそれが事件へと繋がってしまった事に対して激怒した。そして、自分が生んだ娘に不気味な痣が出た事を気味悪がって、屋敷を出ていった。今ではもう、ほとんどここへ帰ってこない。ウェンディは、きっともう、母親の顔さえ覚えていない……」

 

クリストファーは絞り出すように声を出し、拳を握るとテーブルを強く叩いた。

 

「ハイディは一つだけ見誤っていた。あの男は、誰よりもクズだ。ハイディは伯爵を苦しめるために、娘であるウェンディを標的にしたが……伯爵は、自分の事しか考えていない。家族の事を何とも思ってなんかいない。血の繋がった子どもでさえ、あの男にとって道具でしかないんだ。自分のせいで娘が苦しんでいるというのに、反省もしていない。見て見ぬふりをして、問題から目をそらしたまま、前と変わらず遊んで暮らしている。僕が問い詰めたら、あのロクデナシは、こう言ったんだ。“自分に呪いがかからなくて本当によかった”って。……この手で、殺してやりたいほど憎いよ……」

 

怒りの炎を燃やしているクリストファーに、レベッカは恐る恐る尋ねた。

 

「……あの、この事をお嬢様は――」

 

「言ってない」

 

クリストファーは首を横に振った。

 

「まだ幼いウェンディに、どう事情を話せばいいか分からなくて、……あの子は何も知らないんだ。僕の口から、いつかは説明しなければならないとは分かっているが……」

 

そして、大きくため息をついた。

 

「――レベッカ。この事は誰にも言わないでくれ。周囲の人間にはもちろん、ウェンディにも。折を見て、僕からきちんと話すから」

 

「……はい」

 

小さく返事をすると、クリストファーは真剣な顔で真っ直ぐにレベッカを見据えて言葉を続けた。

 

「僕は必ず、呪いの正体を突き止めるつもりだ。そして、必ず、ウェンディを救ってみせる。だからレベッカ、どうか、これからもウェンディを支えてくれ」

 

「……」

 

「あの子には、君が必要なんだ。どうか、そばにいてあげてくれ」

 

「――はい」

 

レベッカが頷くと、クリストファーは少しだけ唇を緩めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私室へと戻った後、すぐにベッドにもぐり込んだが、全然眠れなかった。目を閉じたまま、物思いに耽り、何度も寝返りを打つ。クリストファーから聞かされた話がグルグルと脳内を駆け巡った。

 

どうにかしてウェンディにかけられた呪いを解きたい。苦しんでいるウェンディの力になりたい。

 

だけど、自分に何ができるだろう。そばで支えることしか、できないなんて。

 

無力感に打ちのめされて、思わず呻きそうになった。何もできないことがこんなにもつらいだなんて。

 

どうすればいいのだろう。お嬢様のために、自分にも何かできることがあるはずだ。

 

もしも、できることがあるのなら――

 

「眠れないの?」

 

ハッとして、瞳を開く。いつの間にか、ベッドの上にウェンディがいて、不思議そうな顔でこちらを見下ろしていた。

 

「お、お嬢様?」

 

レベッカは驚いて声を出した。

 

「ベッカがまだ起きているの、めずらしい。いっつも、すーぴー、じゅくすい、してるのに」

 

ウェンディがクスクスと笑いながらそう言って、レベッカは困ったような顔をしながら身体を起こした。

 

「またここに来たんですか……?」

 

「ん。いっしょに、寝ようと思って」

 

ニッコリ笑うウェンディに、レベッカは小さく息をついて、口を開いた。

 

「お嬢様、メイドの部屋で主人が寝るのは……」

 

いつも通り、説教を始めようとしたその時、ウェンディが不思議そうな顔で首をかしげた。

 

「ベッカ、何かあった?」

 

「――はい?」

 

レベッカは言葉を止めて、同じように首をかしげた。

 

「何か、とは?」

 

「ベッカ、なんだか、元気ない。何かあった?」

 

そう指摘されて、レベッカはグッと言葉に詰まる。慌てたように思わずウェンディから顔をそらして、手を振った。

 

「そんなこと、ありませんよ。ちょっと、その、なんというか、疲れているだけで――」

 

どう見ても挙動不審に言い訳をするレベッカを、ウェンディは無言で見つめる。そして、

 

「ベッカ」

 

「は、はい?」

 

「ここに、寝て」

 

突如、ウェンディがそう言いながらベッドの上を指差す。レベッカはキョトンとしながら言葉を返した。

 

「え?何ですか、突然……」

 

「いいから、ここに寝なさい!」

 

「は、はい」

 

強い口調でそう命令されて、反射的に返事をする。言われた通りその場に横たわった。

 

「えっと、お嬢様――」

 

レベッカがウェンディに話しかけたその時、小さな手が伸びてきた。

 

「――え」

 

ウェンディが、横たわったレベッカの頭を撫で始めた。優しく労るように、何度も撫でてくれる。

 

「あの、お嬢様……?」

 

レベッカが戸惑いながら、目の前のウェンディを見つめると、ウェンディが少し不安そうな表情で口を開いた。

 

「――ベッカ、これで、元気になる?」

 

「はい?」

 

「私は、ベッカにこうやって撫でられたら、とっても、うれしくて、元気になるの。ベッカは、私に撫でられたら、うれしい?元気になる?」

 

ウェンディの言葉に、胸が詰まった。元気のないレベッカを気遣って、ウェンディはなんとか励まそうとしてくれたのだろう。その気持ちが、心から嬉しくて、涙が出そうになった。

 

レベッカは少し笑って、口を開いた。

 

「……本当、ですね。とても、本当にとても元気になりましたよ」

 

レベッカがそう言うと、ウェンディの顔が輝いた。

 

「じゃあ、今度から、ベッカが元気がない時は、私が撫でてあげる!」

 

「……たいへん、嬉しく存じます。ありがとうございます、お嬢様」

 

レベッカが微笑むと、ウェンディは真剣な顔で大きく頷いた。

 

ウェンディに頭を撫でられるうちに、目蓋が重くなってきた。強烈な眠気が襲ってくるのを感じて、意識がぼんやりしてくる。

 

ああ、ダメなのに。お嬢様を部屋へと送らなければならないのに――

 

そう思ったのに、眠気に逆らえなかった。ゆっくりとレベッカの瞳は完全に閉じられる。

 

そして、夢の中へと意識は落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ベッカ?」

 

完全に眠ってしまったレベッカにウェンディは声をかける。疲れているのか、レベッカはその声に覚醒することもなく、ぐっすりと眠っていた。

 

「……」

 

穏やかな寝顔のメイドを、ウェンディは無言で見つめる。そして不意に、レベッカの長い黒髪を一房、掬うように手に取った。そのまま顔に近づけて、瞳を閉じて、髪の匂いを楽しむ。そして、チラリとレベッカの顔に視線を向けた後、自分の唇を髪に押し付けた。軽いリップ音が響く。

 

レベッカが起きる様子はない。ウェンディは眠り続けるレベッカを見つめながら、髪から手を離した。そのまま、いそいそとベッドへもぐり込み、レベッカに抱きつく。そして、

 

「――おやすみなさい、ベッカ。いい夢を」

 

小さく囁いて、幸せそうに微笑みながらゆっくり瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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くすぐり

 

 

 

 

クリストファーからウェンディの“呪い”の経緯を聞いてから、レベッカは一人で物思いに耽ることが多くなった。

 

「ベッカ、ベッカ!」

 

「はい?」

 

名前を呼ばれてそちらへ視線を向けると、ウェンディが怒ったような顔をしてレベッカを見上げていた。

 

「またぼーっとしてたわね!何を考えていたの?」

 

「あ、……えーと、何でもありませんよ」

 

レベッカは無理矢理笑顔を作ってそう答えるが、ウェンディは納得していない様子で頬を膨らませた。

 

「うそ!最近、ずーっと、何か悩んでる!」

 

その言葉に思わず目をそらす。

 

「――いいえ?全然悩んではいません」

 

そして、レベッカは慌てた様子で誤魔化すように、

 

「私、廊下の掃除をしてきますね」

 

そう言って、ウェンディの部屋から出ていった。ウェンディは眉をひそめてその姿を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レベッカ、最近どうかしたの?」

 

「え?」

 

その夜、台所で食器を洗っていると、キャリーに話しかけられて、レベッカはキョトンとした。

 

「何がです?」

 

「なんだか、ぼーっとしていることが増えたじゃない。何かあった?」

 

その言葉に、レベッカは気まずく思いながら視線をそらした。

 

「――すみません。ちょっと、疲れてるみたいで。何でもないですから」

 

キャリーは少し困惑したようにレベッカの顔を覗き込んだが、やがて、

 

「……何か悩みがあるなら、いつでも力になるから」

 

そう言って離れていった。レベッカはホッとして皿洗いを続けた。

 

キャリーは、過去の事件やウェンディの“呪い”の詳細を知らないらしい。レベッカの事を心配してくれているようだが、クリストファーから口止めをされているため、キャリーに話すことができない。

 

心の中でひっそりとキャリーに謝罪しながら、台所仕事を終えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その数日後、久しぶりに仕事が休みになったレベッカは街へと来ていた。コードウェル邸から少し離れた場所にある、大きな街だ。目的はただ一つ、この街にある古い図書館を訪れるためだ。

 

ウェンディの“呪い”の話を聞いて、自分でも調べてみようと考え、馬車を使ってわざわざこの街へとやって来た。いつも買い物をする街にも図書館はあったが、小さい図書館で資料は少なかった。

 

「うぅーん」

 

大きな図書館を歩き回りながら、呪術に関する本や資料に片っ端から目を通す。しかし、どの資料にも、痣が出る呪いに関する記述はなかった。

 

「簡単にはいかないか……」

 

何年も呪いを調べ、研究しているクリストファーが見つけられていないのだから、簡単には分からないだろうな、と予想はしていた。レベッカはため息をつきながら、資料を探すのを諦め、図書館の出口へと向かった。

 

「――せめて、何かお土産を買って帰ろうかな。何がいいかな……」

 

そう呟きながら、図書館から出て、考えながら歩きだしたその時だった。

 

レベッカのすぐ近くを、小さな馬車が通り過ぎた。昨日、雨が降ったためか、そこにはたまたま水溜まりがあった。馬車がその水溜まりの上を走った瞬間、同時に水が跳ねて、レベッカが着ていたスカートに水がかかった。

 

「あっ」

 

驚いて声をあげるのと同時に、小さな馬車が急停止した。

 

「――申し訳ありませんっ」

 

馬車から降りてきたのは、小柄な女性だった。赤みがかったブロンドの長い髪、水色の瞳を持つ妖精のような可愛らしい女性だ。大きな眼鏡をかけている。慌てた様子でレベッカへ近寄ってきた。

 

「本当に申し訳ありません。服を濡らしてしまって――」

 

申し訳なさそうに頭を下げて謝罪する女性に、レベッカは微笑んで首を振った。

 

「気にしないでください。少し濡れただけですから……」

 

レベッカがそう言った時、眼鏡の女性がその場に腰を下ろした。レベッカのスカートへと手を当てる。

 

「――あの?」

 

戸惑うレベッカに構わず、女性が目を閉じる。次の瞬間、不思議な魔力を感じて、レベッカは目を見開いた。気がついた時には、スカートは完全に乾いていた。

 

女性はホッと息を吐いて、レベッカを見上げて微笑んだ。

 

「これで大丈夫だとは思いますが……気になるようでしたらクリーニングを」

 

「え?あっ、大丈夫です!本当に」

 

レベッカは慌てて首を振る。そして、チラリと女性の顔を見た。

 

――多分、この人、すごく魔法が上手い人だ

 

何故か、そう感じた。

 

女性はまだ恐縮したような様子で、再び頭を下げると、ポケットから小さな紙とペンを取り出しサラサラと何かを書いた。

 

「本当に申し訳ありませんでした。もし、汚れが気になるようでしたら、こちらへ連絡をください。きちんと対処させていただきますので――」

 

そう言って、女性が何か小さな紙を押し付けてくる。

 

「それでは、私はこれで」

 

またそう頭を下げると、女性は足早に馬車へと乗り込み、そこから去っていった。

 

女性が渡してくれた紙に視線を向け、レベッカは声に出してそこに書かれた文字を読んだ。

 

「えーと、……『魔術研究所 研究員見習い トゥルー・ベル』……」

 

名前の下には連絡先が記載されていた。

 

「……なんか綺麗な人だったなぁ」

 

レベッカはそう呟きながら、再び店が立ち並ぶ区域へと足を向ける。

 

しばらく経つと、その女性のことはすっかり忘れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆっくりと時間は過ぎていく。相変わらず、レベッカはウェンディの事で思い悩み、モヤモヤしていた。

 

最近は、仕事中も呪いの事をずっと考えているせいで、失敗も多い。

 

「――申し訳ありませんでした」

 

「今度から気を付けなさい」

 

今日は、台所で皿を一枚落として割ってしまった。伯爵家の者が使う高価な皿ではなく、使用人用の皿だったため、メイド長から叱られるだけで済んだのは不幸中の幸いだった。

 

「……ああ、もう。何をしているんだろう、私」

 

ガックリと肩を落としながら、昼食をウェンディの部屋へと運ぶ。このままではいけない。とにかく今後は失敗しないように、仕事に集中しなければ。

 

「……失礼いたします、お嬢様」

 

ノックをしてウェンディの部屋に入ると、ウェンディはソファに座りタイプライターと向き合っていた。何やら難しい顔をしている。

 

「お嬢様、どうかされましたか?」

 

レベッカがテーブルに昼食を置きながらそう尋ねると、ウェンディはハッとしたように顔を上げて、慌ててタイプライターから手を離した。

 

「ううん、何でもないっ」

 

そして、レベッカの方へと視線を向けると、今度はウェンディの方が不思議そうな顔で首をかしげた。

 

「ベッカ、なんか元気ない……?」

 

「えっ」

 

「気分でも悪いの?」

 

そう聞かれて、慌てて首を横に振った。

 

「い、いえ!ちょっと、その、仕事で失敗してしまって……ちょっと疲れてるだけですから!」

 

そう誤魔化すように笑うと、ウェンディが少し考えるように顔を伏せる。そして、ゆっくりと立ち上がると、レベッカへと近づいてきた。

 

「お嬢様?どうかされましたか?」

 

「んふふ」

 

ウェンディは小さく笑うと、レベッカの前に立ち、両手を広げた。

 

「――ベッカ、おいで」

 

その言葉にレベッカはポカンと口を開けた。

 

「……はい?」

 

「ギュッてして、頭を撫でてあげる。そうしたら、ベッカは、とっても元気になる、でしょう?だから、おいで」

 

ウェンディが微笑みながらそう言って、レベッカは顔を赤らめた。

 

「い、いえ!あの、大丈夫です!!お嬢様にそんな事をさせるわけには……っ」

 

「ベッカ」

 

甘い声で名前を呼ばれて、身体が震えるのを感じた。

 

「はやく、しゃがんで」

 

ウェンディが命令するようにそう言って、緑色の瞳で真っ直ぐに見据えられる。

 

 

 

 

 

――ああ、またこの瞳だ。この瞳には逆らえない。強くて、獰猛なのに、どこか優しくて、目が離せない、獣みたいな眼光……

 

 

 

 

 

「ベッカ、さあ、おいで」

 

またそう声をかけられて、レベッカはとうとう屈した。ゆっくりと腰を下ろし、ウェンディと目線を合わせる。

 

ウェンディが満足そうに笑って、ゆっくりとレベッカの背中へと腕を回した。子どもらしい温かい体温に包まれる。髪から花のような香りがして、心臓が高鳴った。

 

ウェンディの小さな手がレベッカの頭をゆっくりと優しく撫でて、また身体が震えた。徐々に強張っていた全身から力が抜けていく。無意識に大きく息を吐き出して、瞳を閉じた。

 

その時、クスクスと笑う声が聞こえて、レベッカは目を開ける。ウェンディが楽しそうに声を出して笑っていた。

 

「――何ですか?お嬢様」

 

「ベッカ、私に、こうやって頭を撫でられるのだいすきなのね」

 

「……」

 

その言葉に何も答えられず、無言で目を泳がせる。ウェンディは悪戯っぽくレベッカの耳元で囁いた。

 

「ねえ、やっぱり首輪をつけたほうがいいのではなくて?」

 

「……はい?」

 

「だって、頭を撫でられて喜ぶなんて、ベッカったら犬みたいに可愛いんだもの」

 

ウェンディの言葉に、少しだけムッとする。レベッカはウェンディから身体を離し、真っ直ぐにウェンディを見て、口を開いた。

 

「お嬢様が、そんなにからかうのであれば、こちらにも考えがあります」

 

「え?」

 

レベッカはウェンディへと手を伸ばして、身体をくすぐり始めた。

 

「――へっ、あっ、ちょっと、ひゃあ!あはははっ、やめて、ベッカ!」

 

「あら、もう降参ですか?」

 

「ふひゃあっ、あっ、あははっ!!こうさん!こうさんするぅ!」

 

ウェンディが大声をあげながら笑い、レベッカも思わず噴き出した。

 

二人がじゃれついていると、

 

「……お邪魔だったかな?」

 

いつの間にか入ってきたらしいクリストファーが苦笑しながら声をかけてきた。

 

レベッカは慌てて手を止めて立ち上がり、頭を下げた。

 

「ク、クリストファー様!失礼いたしました!」

 

「いや、二人がとても楽しそうで何よりだ」

 

クリストファーがそう言ったその時、

 

「――んっ」

 

ウェンディが突然声を出して顔をしかめた。それに気づいたクリストファーが眉をひそめる。

 

「ウェンディ、どうかした?」

 

「う、うーん、なんだかね、今、ちょっと胸が苦しくて……」

 

その言葉にレベッカは狼狽し、慌ててウェンディへと声をかけた。

 

「だ、大丈夫ですか?くすぐりすぎましたか?」

 

「ううん、ちがうの。さいきんね、時々胸が苦しくなることがあって……」

 

ウェンディがそう答えると、クリストファーが神妙な顔をして口を開いた。

 

「念のため、医者に見せよう」

 

「大丈夫よ、お兄様……」

 

「いや、きちんと診察をした方がいい。レベッカ、医者を呼んで」

 

「は、はい!」

 

レベッカはすぐに返事をして、ウェンディの部屋から足早に飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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すぐに医師が呼ばれ、ウェンディは診察を受けた。

 

「……ん?」

 

診察中、ウェンディの服の隙間から痣が見え、レベッカはある事に気付き、思わず首をかしげた。

 

幸い、誰もレベッカの様子を気にかけていなかったようで、診察は淡々と進み、医師から特に異常はないと診断を下された。

 

「ね?大丈夫だったでしょ?」

 

ウェンディが苦笑し、クリストファーもホッとしたように微笑んだ。

 

「でもウェンディ、体調が悪くなったらすぐに言うんだよ」

 

「はい、お兄様」

 

兄妹の会話を聞きながら、レベッカは安心したようにこっそり息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――気づいたかい?」

 

ウェンディの部屋から出て、すぐにクリストファーから声をかけられる。レベッカは一瞬目を見開き、頷きながら口を開いた。

 

「痣の色が……」

 

ウェンディの身体に刻まれた不気味な痣が、微かにではあるが色が濃くなっていた。

 

「……あれは、あの痣は一体……」

 

「分からない」

 

クリストファーは顔をしかめながら首を横に振った。

 

「最近、ウェンディは恐ろしい夢を見ることが増えている。もしかしたら、それも関係しているかもしれない……」

 

「大丈夫なのでしょうか?」

 

レベッカが顔色を青くさせながらそう言うと、クリストファーは難しい顔をしながら下を向いた。

 

「大丈夫、だと信じたいが……今のところ、大きな異常はないみたいだし……」

 

そして、レベッカへ真剣な顔を向けた。

 

「レベッカ。僕はもう少ししたら長期休暇が終了する。もし、僕が不在の間、何か変わったことがあったらすぐに知らせてくれ。小さいことでもいいから」

 

そう言われ、レベッカも自分の手を強く握りながら、

 

「承知しました」

 

と答え、深く頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリストファーが学園へ戻る日がやって来た。

 

その日は、朝からじとじとと雨が降っており、空気がひんやりとしていた。そして、兄がいなくなるのが寂しいのか、ウェンディの顔も空と同じくらい暗かった。

 

「ウェンディ、すぐに試験休暇が来るよ。その時は必ず戻ってくるからね」

 

クリストファーはウェンディを抱き締めると、元気づけるようにそう言葉をかける。そして、レベッカに軽く頷くと、そのままリードと共に馬車へと乗り込んだ。そして、

 

「それじゃあ、またね」

 

大きく手を振って、旅立っていった。

 

ウェンディは沈んだ表情のまま、私室へと戻り、ソファに座ると、そのままぼんやりと窓から景色を眺めていた。

 

「お嬢様」

 

レベッカはウェンディに呼びかけた。

 

「……なあに?」

 

その声があまりにも、か細く、寂しげで、胸が詰まる。レベッカは、ゆっくりとウェンディへと近づき、言葉を続けた。

 

「そちらに座ってもよろしいですか?」

 

その言葉に、ウェンディがチラリとレベッカへ視線を向ける。そして、

 

「……好きにすれば」

 

そう答えたため、レベッカはすぐにウェンディの隣へと腰を下ろした。

 

「失礼します」

 

レベッカは、外の景色を見つめるウェンディの横顔を静かに見つめ、やがてゆっくりと声をかけた。

 

「――静かになりましたね」

 

「……うん」

 

ウェンディは小さく声を出した。

 

「あのね、ベッカ」

 

「はい?」

 

「……私ね、ベッカがそばにいてくれれば、もうだいじょうぶって思ってたの。……でもね、……やっぱり、お兄様が遠くにいくのは、……とってもさびしい」

 

ウェンディが今にも泣きそうな顔で顔を伏せる。

 

レベッカはその顔を見て、思わず口を開いた。

 

「――お嬢様」

 

「うん?」

 

「今日は特別です」

 

「え?」

 

「今日は私に何をしてもいいですよ」

 

その言葉に、ウェンディはポカンとした。

 

「え?」

 

レベッカは目を泳がせながら、言葉を重ねた。

 

「えーと、今日だけなら、どこを食べてもいいです。あ、それとも、ギュッとしましょうか?それともナデナデがいいですか?」

 

ウェンディが言葉を出せない様子で、呆然としている。その顔を見て我に返ったレベッカは思わず頭を抱えた。

 

――いやいや、何を言っているんだ!お嬢様が困っているじゃないか!

 

その時、クスクスという小さな声が聞こえた。ハッと顔を上げると、ウェンディが楽しそうに笑っていた。

 

「ずいぶんと思いきったのね」

 

「……え、えーと」

 

「そうねぇ。何をしようかしら……?」

 

ウェンディが先ほどの悲しみに満ちた顔から一転、目をキラキラと輝かせながらレベッカへと顔を向けてきた。レベッカは思わず息をゴクリと飲んだ。

 

「あ、あのー、あんまり、その、難しいことは……」

 

「あら、何をしてもいいんでしょ?」

 

ウェンディはニッコリと笑い、レベッカに抱きついてきた。

 

「んふふ」

 

そのままレベッカの身体を強く抱き締めてきた。

 

「ギュッてして」

 

「は、はい」

 

ウェンディに命じられて、レベッカは慌てて優しく抱き締め返す。

 

「……えーと、これでいいですか?これだけ、ですか?」

 

しばらく抱き合った後、レベッカが恐る恐る尋ねると、ウェンディが身体を離した。そして、レベッカに向かってまたニッコリと笑った。

 

「んふふ。まだ」

 

「はい?」

 

「何をしてもいいのなら、この機会を大切にしなくちゃね」

 

そして、レベッカに顔を近づけてきた。

 

「――え」

 

気がついた時には、こめかみに唇を押し当てられていた。可愛いリップ音がすぐそばで聞こえて、思わず大きな声をあげる。

 

「お、お嬢様!何して――」

 

「静かに。だれかがきちゃうわよ」

 

「え、あっ、ちょっ――」

 

左の耳元で、吐息を感じて、身体に電流が走ったような感覚がした。

 

「――お耳が、よわいのね」

 

ベッカ、と甘い声で名前を囁かれた。ゾクゾクと身体が震え、顔が熱くなる。もう一度、こめかみにキスをされた。思わず目をギュッと閉じる。

 

そして――、

 

「あっ」

 

不意に、ウェンディが声をあげた。レベッカはビクリと肩を揺らして、ウェンディの方へ顔を向ける。ウェンディは驚いたように、窓の向こうを凝視していた。

 

「ベッカ!ベッカ!あれ!!」

 

「はい?」

 

ウェンディが窓の外を指差して、レベッカもそちらへと視線を向ける。そこには、

 

「あ……」

 

いつの間にか、雨が止んで、空には美しい虹が架かっていた。

 

「すごい!あれ、すっごい!!あれって、にじ、でしょう!?初めて見た!!」

 

ウェンディがソファから飛び降りて、窓へ近づき興奮したように叫ぶ。その子どもらしい姿に、レベッカも思わず笑い、同じように立ち上がって窓へと近づいた。

 

「見事な虹ですねー」

 

「ほんで読んだことはあるけど、初めて見た!!きれい!きれい!」

 

ウェンディは、はしゃいだようにそう言って、顔を窓に押し付けるように空を見つめる。

 

レベッカもそんなウェンディの様子を微笑ましく見つめながら、頷いた。

 

「本当に綺麗ですねぇ」

 

ウェンディは楽しそうな様子で、空を見つめながらレベッカに抱きついた。

 

「ねえ、お兄様にも見えてるかなぁ……」

 

「きっと見ていますよ」

 

「そうだといいなぁ」

 

ウェンディがレベッカへ楽しそうに微笑む。レベッカも微笑み返して、ウェンディを優しく抱き締めた。

 

そのまま二人は寄り添いながら、美しく輝く虹を見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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予兆

 

 

『姉さん』

 

大好きな、声がした。

 

『姉さん、姉さん、ハイディ姉さん!』

 

誰よりも大切な人物がこちらへと駆けてくる。

 

私の、半身。

 

私の、全て。

 

姉さん、と呼ばれるだけで、幸せだった。

 

『見て!庭にお花が咲いていたの。綺麗でしょう?』

 

うん、綺麗だね、と笑うと、あの子も笑う。

 

ああ、なんて、綺麗な笑顔なんだろう。

 

あなたと一緒にいられたら、私は何もいらなかった。

 

『ねえ、お母さんに持っていきましょう。きっと喜ぶわ』

 

この笑顔を守りたかった。

 

世界で一番、守りたかったの。

 

『姉さん』

 

誰よりも大切な、私の妹――、

 

『私ね、仕事が決まったの。村長さんの紹介で。とてもお給金がいいのよ。きっとお母さんも助かるわ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『コードウェル伯爵家で働くの』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レベッカが目を覚ましたら、隣にウェンディが寝ていた。もはや、それは日常的な事なので、驚かない。しかし、

 

「――ダメ、……っ、ダメ……っ」

 

「お嬢様?」

 

苦しそうに唸されており、呼び掛けたが覚醒する様子はなかった。

 

「お嬢様!お嬢様!」

 

少し大きな声で呼び掛けながら、身体を揺らす。するとウェンディはようやくハッとしたように飛び起きた。

 

「お嬢様、大丈夫ですか?」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディはすぐにレベッカに飛び付いてきた。

 

「お嬢様?」

 

「こ、こわい、夢を見た」

 

ガタガタと身体を震わせながら、ウェンディが小さな声を出した。

 

「また、例の女性の、夢ですか?」

 

レベッカが尋ねると、ウェンディはブンブンと首を横に振った。

 

「ち、ちがう。よく分からない、けど、泣きたいくらい、悲しくて、こわい夢……っ」

 

そのままウェンディはレベッカに抱きつきながら、泣きじゃくった。

 

「……ベッカ、……ベッカ……っ」

 

レベッカは静かにウェンディを抱き締めながら、頭を撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリストファーが学園へ去ってから、穏やかな風のように、時が流れた。しかし、コードウェル家では不吉な予感が姿を徐々に現し始め、レベッカもさざ波のような嫌な胸騒ぎを感じつつあった。

 

ウェンディの身体の痣が、徐々に色が濃くなり続けているのだ。それと同時に、ウェンディは時々体調を崩すようになった。

 

「なんか、ね……たまに、むねが、くるしい……それに、すごく、だるい……」

 

そう訴え、一日中部屋で寝る日もあった。

 

医師を呼び、診察をしてもらったが、診断は前と同じく、『特に異常無し』だった。

 

「お嬢様、大丈夫ですか?」

 

レベッカが声をかけると、ベッドの上でウェンディは弱々しく微笑んだ。

 

「うん……きっと、ちょっと疲れている、だけ」

 

そう言いながらも、ウェンディの顔色は明らかに悪い。

 

「ベッカ、手を握って」

 

「はい」

 

レベッカがウェンディの手を優しく握ると、ウェンディは嬉しそうに微笑む。レベッカはこんなことしか出来ない自分を歯がゆく思い、思わず泣きそうになるのを必死にこらえた。

 

ウェンディが寝たら、すぐにクリストファーに手紙を書いて報告しよう。レベッカはそう考えながら、ウェンディの手を握り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ頃、魔法学園のサロンにて、クリストファーは一人静かに、呪術に関する書物を読んでいた。

 

「やあ、クリス」

 

そこに数人の女性を引き連れて、エヴァンがやって来た。朗らかに声をかけてきたエヴァンをチラリと見るが、すぐに本へと視線を戻す。

 

「何か用か?僕は忙しいんだが」

 

「いやいや、ちょっと課題を手伝ってくれないかな~と思って……」

 

「女遊びをやめたら考えてやろう」

 

クリストファーがキッパリと言い放つと、エヴァンは大きくため息をついて、周囲の女性達に声をかけた。

 

「ごめんね、みんな。今日はここまで。また遊ぼうね」

 

女性達にニッコリと笑うと、彼女達は不満そうにしながらも離れていった。

 

エヴァンはクリストファーに向かい合うようにソファへ座ると、言葉を続けた。

 

「実はさ、課題の事だけじゃなくて、クリスに頼みがあって――」

 

「今度はどこの女だ?またどこかの人妻か?」

 

「ちがうって!!もうあんな失敗はしないよ!!まだ根に持っているのか……」

 

クリストファーがジロリとエヴァンを睨むと、エヴァンは誤魔化すように笑い、言葉を続けた。

 

「あのさ、紹介したい女の子がいて……」

 

「断る」

 

「まだどんな子か言ってないじゃないか!!」

 

「僕に女を宛がうつもりなら、僕達の友情もこれまでだな。エヴァン、さようなら」

 

「いやいやいや!早まらないでくれよ!そういうのじゃないんだって!!その子は君とどうしても話がしたいって言っているんだ!!」

 

エヴァンが大きく叫んだその時だった。

 

「あの、お話中、すみません。失礼します……」

 

そう言いながら、誰かが入ってきた。クリストファーは振り返り、目を見開く。

 

そこに立っていたのは、大きな眼鏡をかけた小柄な女生徒だった。

 

「君は……」

 

クリストファーが小さく声を出すと、エヴァンが気を取り直したように、彼女の隣に立って口を開いた。

 

「紹介するよ。彼女の名前は――」

 

「いや、知っている」

 

クリストファーはエヴァンを遮るように声を出し、女生徒へ向かって手を差し出した。

 

「学園創設以来の天才と呼ばれている彼女の事を知らないわけがないだろう。初めまして……トゥルー・ベル」

 

トゥルー・ベルと呼ばれた少女は小さく笑いながらクリストファーと握手を交わした。

 

「初めまして、クリストファー様。クリストファー様のお噂はかねがね伺っております。本日は、エヴァン様の紹介でこちらへ参りました。貴重なお時間を頂き、感謝致します」

 

「僕の噂?」

 

クリストファーはトゥルーにソファを勧めながら、首をかしげた。トゥルーはソファに腰を下ろして、微笑みながら頷いた。

 

「はい。とても優秀で真面目な方だと……それに、クリストファー様が昨年書いた論文を拝見しました。とても感銘を受けました」

 

その言葉にクリストファーは苦笑して首を横に振った。

 

「いや、僕の論文なんて、君に比べたらたいしたことはない。君の事は、よく知っているよ。魔道具の研究家として有名なアーロン・ベル男爵の愛娘。魔力測定で前代未聞の測定値を叩きだし、数多くの分野で活躍している優等生。学生の身でありながら魔術研究所で研究員もしているという天才なんだろう?」

 

「わ、私なんて!」

 

トゥルーは慌てたように首を横に振って、照れたようにクリストファーから目をそらした。

 

「正式な、研究員ではなくて、まだ見習いです……。まだまだ未熟ですし、……それに、私より魔力の高い方はまだいますから……」

 

「えっ、そうなのか?」

 

クリストファーが目を見開くと、トゥルーは大きく頷いた。

 

「あれ?クリス、知らなかったのか?」

 

エヴァンが少し驚いたようにクリストファーへと顔を向けた。クリストファーは頷いた。

 

「ああ。確か、今までで、最高値を出したのが、彼女だと聞いていたが……」

 

その言葉にトゥルーが勢いよく首を横に振った。

 

「いえ、違うんです。実は、私と同じ年代で、私より高い測定値を記録した方がいるんです」

 

トゥルーは思い出すように上を見つめて、言葉を重ねた。

 

「確か……リオンフォール子爵の息女、キャロル・リオンフォールという方です」

 

クリストファーが眉をひそめて口を開いた。

 

「聞いたことがない名前だな……そんな生徒いたか?」

 

「いや、いないよ、クリス。その子はここに入学していないからね」

 

エヴァンがお茶を飲みながらそう言って、クリストファーは驚いたようにそちらへ顔を向けた。

 

「は?入学していない?」

 

「うん。行方不明なんだ」

 

「行方不明?」

 

クリストファーが驚いたように聞き返すと、エヴァンは苦笑した。

 

「なんだ。結構噂になったけど、クリスは知らなかったのか。キャロル・リオンフォールは何年か前に、突然失踪したんだ。大規模な捜索をしたけど、いまだに見つかっていない。目撃者がいなくてね……すぐに、捜索も打ち切りになったらしい」

 

トゥルーが残念そうな声を出した。

 

「研究家として、彼女の魔力にはとても興味があります。ぜひ、会ってみたかったです……」

 

エヴァンも小さく頷いて、言葉を重ねた。

 

「うん。国の歴史を変えるかもしれないと言われるほどの高い魔力を持っていたらしいからね……なんか、もったいないよね」

 

その言葉を聞いたクリストファーが、また首をかしげた。

 

「エヴァン、お前、妙に詳しいな」

 

「ああ、それは――」

 

エヴァンは何かを言いかけて、ハッと口をつぐんだ。

 

「いや、別にそんなの、どうでもいいじゃないか。トゥルーは、君に用があって来たんだから、話を聞いてあげてくれ」

 

そう言って誤魔化すようにお茶を一口飲む。

 

クリストファーは怪訝な顔をしながらも、トゥルーに向きなおった。

 

「それで?僕に何の用事が?」

 

トゥルーは躊躇ったような顔をしつつ、口を開いた。

 

「あの、……噂で、聞きまして。クリストファー様の、ご令妹様が、不思議な“呪い”に苦しめられている、と」

 

「……ああ」

 

クリストファーは少し顔をしかめながら、トゥルーから視線をそらした。

 

「それが、どうかした?」

 

「……あの、その“呪い”は、痣、なんですよね?」

 

トゥルーが確認するように尋ねてきて、クリストファーは困惑したような様子で頷いた。

 

「ああ、そうだけど……」

 

「全身に、広がる、赤い痣、ですか?」

 

「……ああ。奇妙な、赤い痣だよ。でも、全身じゃない。手足からどんどん広がっているんだ……」

 

その話を聞いたトゥルーは何かを考えるように顔を伏せた。

 

「……どうかした?」

 

クリストファーが戸惑いながら声をかけると、トゥルーはようやく顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

「あの。もしかしたら、私、その痣の事を知っているかもしれません―――」

 

 

 

 

 

 

 



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失われた人々

 

 

「失われた人々、もしくは失われた民の伝承を御存じですか?」

 

トゥルーの言葉にクリストファーは眉をひそめた。エヴァンはキョトンとした顔で首をかしげる。

 

「なんだい、それ?」

 

エヴァンの問いかけに答えたのはクリストファーだった。

 

「おとぎ話だ。子ども向けの……昔読んだことがある」

 

トゥルーがその言葉に頷いた。

 

「ーー数百年前に、滅びた民族です。彼らは、人里離れた土地で静かに生きていました」

 

トゥルーがゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

ーー彼らに名前はありません。かつてはあったかも知れませんが、長い時を経て忘れ去られました。名前どころか、存在さえ知っている人間は少ないでしょう。彼らの事を記している文献もほとんどありません。伝説に近い存在なのです。

 

彼らは、小さな小さな民族でした。人里離れた緑の多い土地で、穏やかな生活を営んでいました。外の世界との接触を避け、閉鎖的な世界で彼らはひっそりと生きていました。

 

彼らの一番の特徴はその強い魔力です。彼らは生まれた時から凄まじい魔力を秘めており、独自の魔法を使いながら暮らしていました。

 

ある時、その民族を恐ろしい“怪物”が襲いました。その“怪物”に対して、彼らは自分達の持つ強い魔力を武器に、必死に戦いました。力を合わせて戦ったことで、“怪物”を退けることに成功しましたが、多くの人間が命を奪われました。生き残った人々は、“怪物”が再びやって来るのを恐れました。そして、生まれ育った土地を捨てて、どこかの国へと旅立っていきました……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なんというか、あやふやというか、ぼんやりしている話だな」

 

話を聞いたエヴァンが小さな声で呟き、トゥルーが苦笑した。

 

「はい。私も初めて本で読んだ時はそう思いました。なんせ“怪物”なんて出てきますしね……」

 

「それで、今の話がどうかしたの?」

 

エヴァンの問いかけに、トゥルーが少し迷ったような顔をしながら答えた。

 

「魔術の研究者として、魔力の高い民族というのは、とても興味深い存在です。数年前、私はこの伝承を研究していたんです」

 

「え?こんなおとぎ話を?」

 

クリストファーの訝しげな声に、トゥルーは頷いた。

 

「おとぎ話のようですが、数百年前、独自の魔法や魔術を使う閉鎖的な民族がいたのは事実のようです」

 

「へえ、興味深いな」

 

クリストファーは小さく呟いたが、

 

「研究の過程で、私は、失われた民の子孫を発見することができました」

 

「えっ」

 

続けられたトゥルーの言葉に驚いたような顔をした。

 

「それは、すごいな……とても大変だったんじゃないか?」

 

クリストファーがそう言うと、トゥルーが苦笑しながら頷いた。

 

「はい。とてもとても苦労しました。……それで、ですね……長い話になるので省略しますが、その子孫の方と接触した時に聞いたんです。かつて、彼らは独特の魔法や魔術を武器に“怪物”を退治しました。その魔法とは、“呪い”だそうです」

 

“呪い”という言葉にクリストファーとエヴァンがハッとした。

 

「彼らは、“怪物”に“呪い”をかけることで、退治したのです。その“呪い”にかかった“怪物”は……全身を不気味な痣で覆われ、もがき苦しみ死んでいったそうです」

 

「不気味な痣、ね……なるほど、クリスの妹の話と似ているな」

 

エヴァンがぽつりと呟き、クリストファーが勢いよく立ち上がった。

 

「それは、その“呪い”とは一体何なんだ!どうすれば、解ける!?」

 

「それはーー」

 

クリストファーの問いかけにトゥルーが答えようとしたその時、大きな音を立ててサロンの扉が開いた。珍しく焦った様子のリードが入ってくる。

 

「坊っちゃん!」

 

「リード、今大切な話をしているんだからーー」

 

クリストファーの言葉に構わず、リードが大きな声で言葉を続けた。

 

「レベッカさんから手紙が来ました!ウェンディ様に何か起きたようです!」

 

「は?」

 

リードが差し出した手紙を、クリストファーは慌てて手に取った。素早く封を開け、手紙に目を通す。そして真っ青になった。

 

「クリス?どうした?」

 

「ーーウェンディが、意識不明になったって。痣が、どんどん広がっているって……」

 

震えながらクリストファーがそう呟き、エヴァンとリードも息を呑んだ。トゥルーは一瞬目を見開くと、素早く立ち上がる。

 

「行きましょう、クリストファー様」

 

「い、行くって……」

 

「妹様の元へ。私も共に参ります。ーー準備をしてきます。クリストファー様も、早く準備を」

 

クリストファーが青い顔をしたまま、頷く。エヴァンも深刻な顔をして声をかけた。

 

「僕も行くよ。“転送”を使うからーー」

 

エヴァンの言葉にトゥルーが首を振った。

 

「いえ。“転送”の魔法なら私も出来ますので。それよりも、エヴァン様にはやっていただきたいことが」

 

「え?なんだい?」

 

「急な外出になるので、恐らく学園側はいい顔をしないでしょう。申し訳ありませんが、学園から、外出ーー、いえ、外泊の許可を取ってきていただけませんか?恐らく王子であるエヴァン様が頼めば、学園も……」

 

「了解!すぐにもぎ取ってくるよ!」

 

エヴァンが大きく頷いて、ソファから立ち上がり、急いで教務室へと走っていった。クリストファーとトゥルーもそれぞれ準備をするためにサロンから足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、お嬢様……」

 

コードウェル邸にて、レベッカは泣きそうになりながらウェンディの手を握っていた。

 

数時間前、ぐったりとしていたウェンディは気を失うように眠り、起きなくなってしまった。どんなに声をかけても、目を開けない。痣の色がどんどん濃くなっていき、今は赤黒くなっていた。そして、徐々に手足から全身へと広がっていきつつある。

 

慌てて医師を呼び戻し、クリストファーへ緊急の手紙を送った。医師の診察でも、ウェンディの体の異常は原因が分からず、どうすることも出来なかった。ウェンディが眠っているベッドの周囲では他の使用人達やメイド長がオロオロしている。

 

「どうしよう、……どうすれば……」

 

レベッカの瞳から涙がこぼれる。強い魔力を持っているのに、自分にはどうすることも出来ない。そんな自分が情けなくて、不甲斐なくて、たまらなかった。

 

「お嬢様……」

 

そっと耳元で呼んでも、何の反応もない。小さな目蓋は開かれなかった。

 

『ベッカ』

 

あの声をもう聞くことは出来ないかもしれない。そう考えるだけで心臓が止まりそうになる。絶望で目の前が真っ暗になったその時だった。

 

バタバタと足音が聞こえた。

 

「ウェンディ!!」

 

飛び込むように部屋へと入ってきたのは、クリストファーだった。続けてエヴァンと、もう一人、誰かが入ってくる。

 

「ーーえ?」

 

入ってきたのは、見覚えのある少女だった。大きな街に出かけた時に出会った、妖精のような少女だ。あちらもレベッカと目が合うと、驚いたような顔をした。

 

しかし、少女はすぐにウェンディへ視線を向ける。その痣を目にして、驚いたような顔をした。

 

「ーーこれが、失われた人々の呪い……なんてこと……」

 

小さな呟きが聞こえた。

 

「ウェンディ!ウェンディ!!目を開けてくれ!!起きるんだ!!」

 

クリストファーが大きな声をあげる。その顔にいつもの落ち着きはなく、真っ青になっていた。

 

「ーークリストファー様、妹様を運んでください。ここを出ましょう」

 

少女の言葉に、レベッカはポカンと口を開けた。クリストファーも驚いたように少女の方へ顔を向ける。

 

「で、出るって……」

 

「ーーこの呪いをよく知っている人物がいます。妹様を連れて、そこへ行きましょう。もしかしたら、解呪できるかもしれません」

 

その言葉にレベッカが息を呑んだ。同時にクリストファーが勢いよく立ち上がる。

 

「よし、行こう。今すぐにでもーー」

 

レベッカは慌てて口を開いた。

 

「待って、待ってください!!私も行きます!!」

 

クリストファーが戸惑ったようにこちらへ視線を向けた。

 

「レベッカ、君はーー」

 

「お願いです!!ここで何も出来ずに、ただ待っているなんて耐えられません!どうか、どうかお嬢様のお側にいさせてください!!決して足手まといにはなりません!!だからーー」

 

必死に何度も頭を下げる。クリストファーは躊躇ったような顔をしていたが、

 

「ーーいや、それは出来ない。君を巻き込むのは……」

 

その言葉にレベッカが言い返そうとしたその時だった。

 

「クリス、彼女を連れていこう」

 

そう言ってくれたのはエヴァンだった。

 

「君の妹を、君がいない間ずっと支えていたのは彼女だろう?連れていってあげよう」

 

エヴァンの言葉に迷ったような顔をしたが、やがてゆっくりと頷いた。

 

「分かった。レベッカ、早く準備を」

 

「はい!」

 

レベッカは大きく頷くと、慌てて部屋から飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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タチアナ

 

 

「ーーここは……?」

 

トゥルーの“転送”の魔法によって、どこかへと一気に飛ばされた。到着してすぐにレベッカは辺りを見回した。今まで来たことがない土地なのはすぐに分かった。夜なので、暗くてよく見えないが、周辺に人はおろか建物もない。ザワザワと風が木々を鳴らす音が聞こえた。クリストファーに運ばれているウェンディの様子を確認する。目は覚めていないが、表情は穏やかだったので一先ずは安心した。

 

「ここから、少し歩きます。ついてきてください」

 

トゥルーがそう言って歩き始める。レベッカ、エヴァン、そしてウェンディを抱いたクリストファーが慌ててそれに続いた。

 

「あの、どこに行くんですか?」

 

レベッカの問いかけに、トゥルーがチラリと視線を向けながら口を開いた。

 

「ーー“失われた民”の子孫の方の家です」

 

「……?失われた?」

 

首をかしげるレベッカに、トゥルーが手短に説明してくれた。

 

「ここから少し離れた場所に、子孫の方が住んでいらっしゃるんです」

 

小さな声でそう話すトゥルーに、クリストファーが声をかけた。

 

「転送で直接その家に行くことは出来なかったのかい?」

 

「その方は……ちょっと変わった方でして……自分の家の周囲に魔法をかけて、転送の魔法を使えなくしているので……」

 

少し困ったような顔でそう言うトゥルーに、今度はエヴァンが声をかけた。

 

「トゥルー、君はその人と親しいのかい?」

 

その問いかけにトゥルーは歩きながら頷いた。

 

「はい。“失われた人々”の事をいろいろと研究をしたくて、……子孫の方を探したんです。それで運良く見つけることができて……何度か家を訪ねて、話をしているうちに、仲良くなることができました。研究以外でも、いろいろとお世話になっています」

 

トゥルーがほんの少し微笑んだ。

 

そんなトゥルーに今度はレベッカが声をかけた。

 

「……あの、昔、本で読んだことがある気がします。“怪物”に襲われて、滅びた一族の話……あの、でも、なんか変ですよね」

 

「変、とは?」

 

トゥルーの問いかけにレベッカは小さな声で答えた。

 

「“怪物”というのが、なんだか変な存在だなと思って……その民族の人達が倒したんですよね?でも、また“怪物”が来ることを恐れて逃げ出したって……倒したのなら、別に生まれ育った土地を捨てて逃げる必要はなかったのでは……」

 

その言葉にトゥルーが勢いよくレベッカへ顔を向ける。

 

「そう!そうなんです!!私が最初に気になったのも、そこなんです!!」

 

「は、はい?」

 

レベッカはその勢いに戸惑ったが、トゥルーは気にすることなく話を続けた。

 

「伝承の中で登場する“怪物”は、明確な表現がほとんど無く、存在自体が非常に漠然としており、曖昧です。その“怪物”というのは比喩なんです。長い時を経て、歴史がねじ曲がり、不思議な伝承として残ったのでしょう。よくあることです。その“怪物”とは、本当の“怪物”ではありません。“怪物”の正体はーー、」

 

トゥルーが何か言葉を続けようとしたその時、声が聞こえた。

 

「そこまでじゃ、このおバカ。ペチャクチャと勝手に喋りおって」

 

不思議な声だった。トゥルーがハッとした顔で、視線を前に向ける。

 

「ーータチアナお姉様?」

 

トゥルーが囁くようにそう言った時、暗闇の中で、突然光が灯った。

 

そこに立っていたのは背の高い女性だった。キリっとした気の強そうな瞳に、真っ赤な唇が美しい。顎先にかかるほどの真っ直ぐな黒髪に、大きく胸の開いたやはり黒いドレスのような服を着ている。ゾクリとするほど色気のある女性だ。女性は小さな杖を手に持っていた。その杖の先から魔法で光を灯しているらしい。

 

女性が睨むような強い視線をこちらへと向けてくる。その視線の圧に、レベッカは思わず息を呑んだ。しかし、レベッカの少し前にいたトゥルーは女性の姿を目にした瞬間、興奮したように叫んだ。

 

「お姉様っ!!」

 

トゥルーが女性に駆け寄る。そんなトゥルーの頭を女性が一発殴った。

 

「痛い!!」

 

「帰れ」

 

「ひ、酷い……せっかくお姉様と久しぶりに会えたのに……っ、ふぇ~ん」

 

「何がふぇ~んじゃ、このバカ!泣き真似なぞしおって。ここには誰もつれてこないようあれほど言ったというのに……来る時は絶対に一人で来るよう何度も何度も何度も言ったじゃろうが!」

 

「そ、そうなんですけどぉ~」

 

トゥルーは瞳を潤ませながら女性へすがりついた。

 

「お姉様は私と会えて嬉しくないんですか?」

 

「うるさい。はよ帰れ」

 

「私は物凄く嬉しいです」

 

「ちょっ、抱きつくな!!胸に顔を埋めるな!!揉むな、吸うな、舐めるなーー!!」

 

女性の怒りの声が響く。他の三人は呆然とその光景を見つめていた。

 

「ーーえーと、そろそろ紹介してくれる?」

 

戸惑いながらも、ようやくエヴァンが声をかける。女性が疲れた様子でゼエゼエと呼吸をしながら、こちらへ視線を向けてきた。そして、妙にツヤツヤした顔のトゥルーも三人の方へ振り返り、口を開いた。

 

「こちらは、タチアナ・ミューラー様です。先ほど言った“失われた民”の子孫です。私が昔からお世話になっている方で……とーっても魔法がお上手な方なのですよ」

 

トゥルーがにこやかに微笑みながらタチアナに視線を向ける。そんなトゥルーに顔をしかめながら、タチアナは口を開いた。

 

「……こいつらはなんじゃ?私に何の用があってーー」

 

「お姉様、まずはこれを見てください」

 

トゥルーがクリストファーの腕の中のウェンディへと手を伸ばし、服を捲ってタチアナに痣を見せた。その痣を見たタチアナが大きく目を見開き、息を呑んだ。

 

「ーーこれは……」

 

「“呪い”です」

 

トゥルーの言葉にタチアナは動揺したように瞳を揺らす。

 

「なんということじゃ……まさかそんな……本当に……」

 

ボソボソと何事か呟く。そして唇を噛み締め、大きくため息をついた。

 

「ーーなるほど……お前がここにきた理由がよく分かった」

 

そして、再び睨むように全員を見ると、言葉を続けた。

 

「ついておいで。……私の家で話そう」

 

タチアナがゆっくりと歩き始めた。レベッカは戸惑ったようにクリストファーと目を合わせ、後を追うように付いていった。暗闇の中、タチアナは小さな光を揺らしながら、迷う様子もなくしっかりとした足取りで進んでいく。

 

しばらく歩いたところで、不意に何かが浮き出るように視界に入ってきた。

 

「ーーあれ?」

 

レベッカは思わず立ち止まって、声を出した。それは小さな家だった。古そうだが、煙突のある可愛らしい家だ。全く目に入らなかったのに、フワリと突然出現したため、レベッカはポカンと口を開いた。

 

「この家の周りには、お姉様が結界の魔法をかけているんです。誰にも見えないように。お姉様が招いた人しか入れません」

 

トゥルーがクスリと笑いながら家に入る。一行は慌ててそれに続いた。

 

「うわぁ……」

 

レベッカはポカンと口を開けた。失礼になるとは分かっていたが、部屋の中を見回す。タチアナの家は信じられないほどゴチャゴチャとしていた。一番多いのは本だ。かなり古いと思われるボロボロの本が部屋中に収められていた。それ以外にも見たことのない道具が床に転がっている。

 

「こちらにその子を寝かせておあげ。お前達はその辺に適当に座れ」

 

タチアナがそう言って部屋の角のベッドを指差した。クリストファーは言われた通りにウェンディをベッドに降ろす。

 

その間に、トゥルーは勝手にキッチンらしき場所へ行き、慣れた様子でお茶の準備をしてテーブルに並べ始めた。座れとは言われたが、なんとなくそんな気になれず、レベッカはウェンディの方をチラチラと見ながら、トゥルーを手伝った。一方クリストファーもベッドの近くで心配そうな表情でウェンディを見つめている。エヴァンの方は落ち着いた様子で小さな椅子へ腰を下ろした。

 

「少し確認させてもらうぞ」

 

タチアナはそう言いながら、ウェンディの全身を観察する。そして、首をかしげながら呟いた。

 

「ーーなんと……、初めてじゃ……、これは、確かに私が祖母から昔聞いた“呪い”の特徴と一致する……じゃが、完成していない、な。いや、完成しつつある……?」

 

「……?どういう事ですか?」

 

クリストファーが声をあげる。しかし、タチアナはウェンディから目を離さず、言葉を続けた。

 

「この“呪い”は、いつかけられた?いや、誰がかけたんじゃ?包み隠さず全て話せ」

 

「それはーー」

 

クリストファーがウェンディの呪いの経緯を説明する。その間にもタチアナは痣を観察し続けていた。やがて、クリストファーが話し終わると、何度も頷く。

 

「ーー“呪い”、そうか、白銀の髪の娘……そうか……なんということじゃ……」

 

「お姉様、やはり……?」

 

「ああ」

 

トゥルーの声に、タチアナは大きく息を吐き、答えた。

 

「ーー間違いない。私の先祖が、かつて作り出した“呪い”じゃ」

 

クリストファーが大きく息を呑んだ。

 

「“呪い”を作った?あなたの先祖、失われた民が……?」

 

「ああ」

 

タチアナが軽く頷いた。

 

「よく分かりません……なぜお嬢様にあなたの先祖の呪いが……?」

 

レベッカがそう尋ねると、タチアナは躊躇ったような表情をしながらもポツリポツリと話し始めた。

 

「死んだ祖母から、幼い頃に聞いた……。私の先祖は、……閉鎖的な土地でひっそりと生活をする小さな一族で……外の人間と関わることを嫌っておった……しかし、生まれもった強い魔力で、一風変わった魔法や魔術を作り出すのが得意じゃったようじゃ。じゃが、ある出来事がきっかけで、先祖達はやむなく故郷を捨て、バラバラに別れた……」

 

タチアナは顔をしかめ、大きくため息をついた。

 

「私の先祖は故郷から離れ、この地で暮らし始めた。代々、過去の出来事や魔法に関して伝えてきたんじゃ。一族が作り出した魔法の技術に関しても、一部じゃが詳細が残っておる」

 

タチアナはチラリとボロボロの本の山に視線を向ける。そして、何かを考えるように目を閉じ、腕を組むと、再び口を開いた。

 

「恐らく、そのハイディとポーレという双子は私と同じ、“失われた民”の子孫じゃな……ということは、私の親戚、という可能性もあるのか……」

 

タチアナの言葉にクリストファーが驚いたように声を出した。

 

「ハイディとポーレ?……あの二人が?」

 

タチアナは瞳を開き、軽く頷く。そして、突然パチンと指を鳴らした。

 

その瞬間、タチアナの真っ黒な髪が変化した。クリストファー、エヴァン、レベッカはギョッと目を見開く。タチアナの黒い髪が、一瞬で月のような白銀へと変化した。キラキラと輝く美しい髪だ。三人の驚いたような視線に、タチアナがうんざりしたように髪をかき上げた。

 

「ーーこの髪色は目立つんじゃ……いつもは黒に変えておる」

 

「銀髪のお姉様も素敵……」

 

うっとりと見つめるトゥルーを無視して、タチアナはまたパチンと指を鳴らす。髪は再び黒へと戻った。

 

「ーー知られてはいないが、一族の特徴はこの銀色の髪じゃ……その双子も銀髪だったんじゃろう?恐らくは私と同じ子孫で間違いはない。“呪い”の技術がその双子の家系に伝えられたのじゃろうな」

 

タチアナが再び腕を組ながら話を続けた。

 

「一族の人間は、それぞれ独自に魔法や魔術を生み出した。その中には“呪い”も含まれておる。この“呪い”は、先祖が作り出した魔術の中でも、飛びっきり厄介な魔法じゃな……“怪物”を退治するために、一族が独自に作り出した魔法じゃ……」

 

「“怪物”を退治するための“呪い”……?」

 

エヴァンが不思議そうな顔をする。エヴァンやクリストファー、そしてレベッカをチラリと見てから、タチアナは声を出した。

 

「……お前達は貴族じゃな?それもかなり位の高い」

 

「ーーそうですが……なぜ分かるんですか?」

 

クリストファーがそう聞くと、タチアナは大きなため息をついて頭を抱えた。

 

「見れば分かる……雰囲気が平民とは違うしの……」

 

そして言いにくそうな顔をしながら言葉を続けた。

 

「ーー“怪物”は本物の怪物ではない。“怪物”とは……その時代の権力者のことじゃよ。お前達のような。貴族か王族かは知らんが」

 

レベッカは驚いてタチアナを見返す。タチアナは全員を見回しながら、ゆっくりと話を続けた。

 

「私達の先祖は小さな集落で隠れるようにひっそりと静かに暮らしていた。じゃが、その時代の権力者の一人が、先祖達を発見してしまったんじゃ。その権力者は私利私欲のために先祖の魔力を利用した。何があったか、詳しい話は伝わってはいない……じゃが……何か、相当酷い事をしでかしたのじゃろう」

 

タチアナは悲しそうな顔で顔を伏せた。

 

「私達の先祖は、自分達が作り出した魔法を、醜い欲望のために利用されたことが許せなかったんじゃ。……だから、自分達の最大の武器ーー独自の魔法で、その権力者に制裁した。その魔法が、“呪い”じゃよ。“失われた民族”は、自分達の魔法が再び他者の目に触れ、利用される事を恐れた。だから、二度と自分達の魔法や魔術が見つからないように、故郷を捨てて、バラバラに逃げたんじゃ」

 

「ああ……だから、“失われた”ということか……。彼らが作り出した魔法が失くなった……欲深い人間の手から逃れるために……」

 

納得したように呟くエヴァンの言葉に、タチアナは暗い表情で顔を伏せた。

 

「ーーこの“呪い”は、信じられないほど複雑な魔術であり、命を代償にかけられる“呪い”じゃ。魂の一部を“呪い”の“核”へと変換し、他者へと植えつける。“呪い”を植えつけられた人物は、全身を赤い痣で覆われ、たった数日でもがき苦しみながら死んでいく……」

 

「ーーで、でも……」

 

エヴァンが何かを言おうとして口をつぐむ。それをクリストファーが引き継ぐように口を開いた。

 

「妹は、生まれる前から呪われています……ですが、死んでいません。痣も、全身に広がっては……」

 

タチアナは考えるように首をかしげながら口を開いた。

 

「ーーよく分からぬ。想像でしかないが、恐らくこの娘に呪いをかけた人間は、先祖ほど魔力は高くはない……。平民と同じくらいか……?“呪い”をかけるには魔力が足りず、中途半端になってしまったのか……?」

 

タチアナがブツブツと小さな声で言うのが聞こえた。

 

「では、あの……お嬢様はどうなるんですか?」

 

レベッカの問いかけに、タチアナは顔をしかめながらはっきりと答えた。

 

「……恐らく、かなり危険な状態じゃ……痣が全身に広がりつつある。長い時間を経て、今、“呪い”が完成されようとしているんじゃ」

 

レベッカはハッとしてウェンディに視線を向けた。タチアナがまた小さな声で呟いた。

 

「こんなにも長い時間をかけてまで……強い執念じゃ……本当に……」

 

クリストファーが真っ青な顔で大きな声を出した。

 

「この“呪い”は解けますか!?」

 

その言葉にタチアナがチラリとウェンディを見て、口を開いた。

 

「ーー方法はある。“解呪”の方法が」

 

その言葉にレベッカはホッとして、クリストファーがまた大きな声を出した。

 

「お願いします!!どうか呪いを解いてください!!出来ることはなんでもしますからーー」

 

その言葉にタチアナが顔をしかめた。

 

「私はこの“呪い”に関して祖母から聞いたことはあるが……見るのは初めてじゃ……もちろん“解呪”をやったことはない……かなり複雑な魔法じゃ。私にできるか……」

 

「あら、それなら私も協力しますわ、お姉様」

 

トゥルーがニッコリと笑いながら声を出した。

 

「ご安心ください。どんな魔法でも必ず成功させて見せます」

 

「じゃが……」

 

「お姉様、これでも私は、魔法学園創設以来最高の天才と呼ばれた人間ですよ。どんなに複雑な魔法でも絶対にやり遂げてみせましょう」

 

タチアナは瞳を揺らしながらトゥルーを見つめる。そして、今度はギロリとクリストファーに強い視線を向けた。

 

「先祖達が守った魔法を、貴族のために使うのは……正直気に食わぬ……お前達を助ける義務が、私にはない。私は巻き込まれたくないし、貴重な時間をお前達のために使う理由もない。ーーじゃが」

 

すぐにウェンディへ視線を向けた。

 

「ーーまだ幼いな。可哀想に」

 

小さな声でポツリと呟く。そしてゆっくりと立ち上がった。

 

「トゥルー、私が言う通りに準備を」

 

「はい!!」

 

「お前達にも手伝ってもらうぞ」

 

タチアナがクリストファー、エヴァン、レベッカへ強い視線を向ける。三人はそれぞれ大きく頷いた。

 

 

 

 






裏設定

※トゥルー・ベル

学生にして魔術研究所の研究員見習い。魔道具の研究家として有名なアーロン・ベル男爵の長女。魔力測定で高い測定値を記録し、数多くの分野で活躍している天才。何かに興味を持つと、それを研究せずにはいられない。知識欲と好奇心の塊。
魔法学園に入学前、“失われた人々”を独自に研究しており、意地と執念の結果、タチアナ・ミューラーを発見した。それから頻繁にタチアナの家に押しかけ、一緒に過ごしている。現在もタチアナの先祖が残した魔法を研究している。研究をしているのは自分の好奇心を満たすことだけが目的なので、研究結果をどこかに発表する気はなく、タチアナを発見したことも誰にも言っていない。
タチアナの事が大好き。





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ローレンの剣

 

 

「まずは、何をすれば?」

 

クリストファーがタチアナにそう尋ねると、タチアナは少し考えるように顔を伏せたあと、ゆっくりと口を開いた。

 

「……まずは身体に植え付けられた呪いを何とかして外に出さねば……それから……呪いを切り離す……やはり難しいか?いや、でも……解呪するにはそれしか……」

 

タチアナはブツブツと呟き、やがて顔を上げると杖を振り上げた。まるで空中に文字を書くように杖を動かし、最後に大きく振り上げる。次の瞬間、目に見えない何かが、勢いよく飛んでいく気配がした。

 

「……?今のは?」

 

キョトンと首をかしげるレベッカに、タチアナが杖を仕舞いながら答えた。

 

「――気にするな。助っ人を呼んだだけじゃ」

 

「助っ人?」

 

「ああ。……私と同じ、“失われた民”の子孫じゃよ」

 

「えっ」

 

タチアナの言葉に、トゥルーが大きな声をあげた。

 

「お姉様以外の、子孫の方ですか?」

 

「……ああ。……あまり関わりたくはないが……奴が持つ、ある道具が必要なんじゃ」

 

タチアナは難しい顔をしながらそう答えると、大きく深呼吸をした。

 

「……恐らくは数時間のうちに“転送”で、奴はここに来るじゃろう。その前に準備を始めるぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タチアナは、家の中にある本の山から、古い一冊を取り出した。それを読みながら何かを羊皮紙に書き記す。

 

「お前達は、これを調達してこい。なるべく早く、な」

 

そう言って羊皮紙をクリストファーに突きつける。そこに書かれた文字を読んだクリストファーとエヴァンが眉をひそめた。

 

「……どうしてこれが必要なんです?」

 

「あとできちんと説明する。お前達なら調達するのは難しくないはずじゃ。いいからさっさと行ってこい」

 

クリストファーとエヴァンは戸惑ったような顔をしながらも、立ち上がった。タチアナは今度はレベッカに顔を向けた。

 

「お前はここに残って、私を手伝っておくれ」

 

そう命じられるように言われたレベッカは無言でコクンと頷いた。ウェンディのそばにいたかったので心の中ではホッとしていた。

 

そして、タチアナは最後にトゥルーに視線を向けた。

 

「お前は、この2人の手伝いをしてこい」

 

クリストファーとエヴァンの方を手で示す。タチアナの言葉に、

 

「ええっ、私ですか?」

 

と、トゥルーは唇を尖らせた。

 

「私はお姉様のそばにいたいです~」

 

「うるさい。はよ行け」

 

淡々と言葉を返すタチアナの様子に拗ねたような顔をしつつ、トゥルーは立ち上がった。

 

「それじゃあ、行ってくるね。なるべく早く帰るから」

 

エヴァンは安心させるようにレベッカに向かって微笑んだ。一方クリストファーは真剣な顔をしながら口を開く。

 

「――レベッカ。妹を頼む」

 

そう言われたレベッカは深々と頭を下げた。

 

「承知しました」

 

クリストファーは軽く頷くと上着を手に取った。

 

レベッカも見送るために立ち上がったその時だった。

 

突然強い力でトゥルーに腕を掴まれた。驚いて視線をそちらに向けると、

 

「……私がいない間、ぜーったいに、お姉様に必要以上に近づかないでくださいね」

 

トゥルーがレベッカの耳元に唇を近づけてきて、小さく囁く。その瞳はギラギラとした眼光を放っていて、レベッカは思わずギョッとした。

 

「約束ですよ。ね?」

 

トゥルーが一方的な約束を述べながら、怖い微笑みを浮かべる。その約束を破ったらどうなるのか聞いてみたかったが、トゥルーの声と視線が恐ろしくて、結局何も聞かずに、レベッカは無言でガクガクと何度も頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こちらへ来ておくれ」

 

タチアナがそう言ってレベッカを部屋の奥に招く。

 

「まずは、これを洗って欲しい」

 

タチアナの言葉に、レベッカは戸惑って思わず声をあげた。

 

「は、はい?」

 

そこには、小さな浴槽があった。信じられないほど汚れている。

 

「こ、これですか?」

 

「……いや、これほど汚れているのは、今までほとんど使ってないからで……別に掃除を怠っていたわけでは……」

 

言い訳をするようにボソボソと言うタチアナに構わず、レベッカは首をかしげた。

 

「呪いを解くのに、これが必要なんですか?」

 

その問いかけにタチアナは難しい顔をしながら、答えた。

 

「……正確には、呪いを解くというより、身体に植え付けられた呪いを刈り取る、と言った方が正しいが。とにかく、汚れを残さぬよう、これを綺麗にして欲しいんじゃ」

 

その言葉に、レベッカは不思議に思いながらも頭を下げた。

 

「承知しました」

 

タチアナの言っている事はよく分からないが、とにかくウェンディが助かるなら、必要であれば何でもしよう。そう思いながら、レベッカはタチアナに渡された掃除用具を手に取った。

 

「私はあちらで他の準備をしているからの。終わったら声をかけておくれ」

 

「はい」

 

タチアナの言葉に、短く返事をして、レベッカは動き始めた。

 

タチアナが言っていた通り、浴槽は随分と長い間使用していないらしい。道具を使いながら、全ての汚れを取り除いていく。

 

しばらく磨き続けることで、ようやく浴槽は本来の輝きを取り戻した。

 

「タチアナさん、終わりました」

 

そう言いながら、レベッカが部屋に戻ると、タチアナはウェンディの寝ているベッドの横に座っていた。古い本を熱心に読み込み、何かブツブツ呟いている。

 

「タチアナさん?」

 

レベッカが近づきながら声をかけると、今気づいたようにタチアナが顔を上げた。

 

「タチアナさん、掃除終わりました」

 

「あ、ああ。すまないな。助かった」

 

タチアナが慌てたようにそう答える。レベッカはそのままウェンディへと視線を移した。

 

「お嬢様は……」

 

「大丈夫じゃよ。まだ呪いは完成していない」

 

タチアナの言った通り、ウェンディは深く眠っているが表情は穏やかだった。しかし、やはり痣は少しずつ広がってきている。レベッカはその小さな手をゆっくりと握った。

 

「ウェンディ様……」

 

名前を呼んでも、その小さな瞳は固く閉じられたまま、開くことはなかった。

 

「……解呪は、成功しますか?」

 

レベッカがタチアナにそう問いかけると、タチアナは顔をしかめて腕を組んだ。

 

「……正直、厳しいな。あまりにも複雑な呪いじゃ。呪いを、身体から切り離す事ができれば……」

 

その言葉に、レベッカは顔を伏せた。そんなレベッカを慰めるように、タチアナは言葉を続けた。

 

「……全力で取り組む。約束する」

 

その力強い言葉に、レベッカは小さく頷いた。そんなレベッカから顔をそらして、タチアナは立ち上がった。

 

「――少し休んで、お茶でも飲もう」

 

「……はい」

 

タチアナがキッチンへと向かい、カップを取り出す。レベッカもそれに続き、タチアナの隣に立った。

 

「手伝います」

 

タチアナはレベッカをチラリと見たが、何も言わなかった。しばらく二人は無言で作業を続ける。

 

次に口を開いたのはレベッカの方だった。

 

「――ずっと、ここで、一人で暮らしているんですか?」

 

そう尋ねると、タチアナはゆっくりと答えた。

 

「生まれた時からここで暮らしている……元々は祖母と二人暮らしじゃったが、随分と前に祖母は亡くなった。祖母が亡くなった後は、……知人と同居していた……じゃが、その知人も出ていった。それからは、ずっと一人じゃな」

 

タチアナが少し笑ってそう答える。なんとなく、知人、という言葉に含みがあるような気がした。もしかして、恋人だろうか、と考えていると、今度はタチアナの方がレベッカに問いかけてきた。

 

「お前はあの娘の使用人、か?」

 

「はい。……専属のメイドです」

 

「そうか」

 

タチアナは短く答えながら、カップにお茶を注いだ。

 

「――他にも、“失われた人々”の子孫の方はいらっしゃるんですか?」

 

レベッカの質問にタチアナは困ったような顔をした。

 

「――ああ。少ないが、子孫は他にもいる。祖母の話によれば……故郷から逃げ出した人々はバラバラに散らばり、様々な所で隠れるように新しい生活を始めた……お互いに連絡を取る事はほとんどないが……」

 

レベッカはお茶を一口飲むと、さらに質問を続けた。

 

「今から来る方はどのような方なのですか?」

 

「奴は少し変わった人間で……かなり遠方に住んでいるが、知らせを受けとればすぐにでも“転送”で飛んでくるはずじゃ」

 

その時、ガタンと音がして玄関の扉が開いた。

 

「お待たせしました~」

 

クリストファー、エヴァン、トゥルーの3人がバタバタと家の中に入ってきた。タチアナが少し驚いたように瞬きをする。

 

「早かったな。朝になると思っていたが……」

 

エヴァンが何かが入っているらしい袋を持ち上げて笑った。

 

「いやあ、それでも、これを集めるには結構苦労したよ。僕じゃなければ無理だったかも」

 

ヘラヘラと笑うエヴァンに対して、隣のクリストファーが上着を脱ぎながら、

 

「……こいつが王子で本当によかった。権力のある人間というのは……まったく……でも助かったし……」

 

などとブツブツ呟いていた。どうやらエヴァンの立場が大いに役に立ったらしい。

 

「何を集めたんですか?」

 

レベッカが袋の中を覗き込むと、見たことのない植物や何かの道具が入っていた。

 

「本当に、普段はなかなか手に入らない物ばかりで苦労しました。エヴァン様の力とか、私やクリストファー様の持つコネとか最大限に利用してなんとか集めたんですよ。“転送”の魔法を使ってあちこち回って、本当に疲れました~」

 

疲れたようにトゥルーがそう言って、レベッカは首をかしげた。

 

「これは一体……」

 

レベッカが問いかけようとしたその時、タチアナがハッと顔を上げて窓の方を向いた。

 

「お姉様?どうしたのですか?」

 

トゥルーがタチアナに声をかけた瞬間、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。

 

タチアナが軽く杖を振るうと、音をたてて扉が開く。

 

「――よお、姉さん。来たぜ」

 

そこに立っていたのは、ボロボロのマントを羽織った人物だった。声で男性だとは分かったが、深くフードを被っていて、顔がよく見えない。大きな箱を大切そうに抱えている。

 

「……ん?」

 

その箱を目にした瞬間、何か不思議な感覚がした。モヤモヤとした、微かな違和感だ。レベッカは思わず小さく声をあげたが、幸運なことに、誰もそれに気づかなかった。

 

「久しぶりじゃな。ローレン」

 

タチアナが声をかけると、ローレンと呼ばれた男性はゆっくりと家の中に足を踏み入れた。

 

「ああ。懐かしいな。ここに来るのは何年ぶりだろう」

 

そう言いながら、身に付けていたフードを外す。その姿を見たレベッカは小さく息を呑んだ。クリストファー、エヴァン、トゥルーも驚いたような顔をする。

 

鋭い藍色の瞳を持つ青年だった。左目に大きな傷があり、薄い唇はほんの僅かに笑みを浮かべている。何よりも目立つのはその短い髪だ。タチアナと同じ、輝くような白銀の髪だった。

 

「これは、ローレン・ホープ。私と同じ“失われた民”の子孫の一人じゃよ」

 

タチアナが面倒くさそうな顔で紹介してくれた。ローレンはなぜか少し楽しそうに一同を見回す。

 

「君がトゥルー?」

 

そう声をかけられたトゥルーがキョトンとしながら頷いた。

 

「え、はい、そうですが……なぜ私をご存知なのです?」

 

その言葉にローレンは顔を綻ばせ、トゥルーの手を握る。そして、ブンブンと勢いよく握手しながら答えた。

 

「いやあ、ずっと会いたいと思っていたんだ。タチアナは手紙で君の事をしょっちゅう……」

 

「ローレン!!」

 

なぜかタチアナが鋭い声をあげてローレンの言葉を遮った。

 

「そんな事はどうでもよい!例のアレは持ってきたのか!?」

 

「あ、ああ。言われた通り持ってきたが……何に使うんだ?」

 

トゥルーから手を離したローレンが不思議そうに問いかける。タチアナは無言でウェンディの寝ているベッドの方へ視線を向けた。ローレンもそちらへと顔を向け、すぐに絶句したように口を開いた。

 

「――これは……」

 

「お前も知っているじゃろう。“呪い”じゃよ」

 

ローレンは困惑したように頭に手を当て、ゆっくりと首を横に振った。

 

「なん、……これ、え?……本当に?」

 

うまく言葉にならない様子でウェンディの赤黒い痣を見つめる。

 

「なんでこの呪いが……どうやって……」

 

「説明は後じゃ。とにかくこの娘の呪いを刈り取るぞ」

 

「か、刈り取るって言ったって……姉さん、待ってくれ。そんな方法は……」

 

戸惑ったようなローレンに構わず、タチアナは再び杖を振るった。ポン、と不思議な音がして、レベッカはそちらに視線を向ける。部屋の真ん中にレベッカが綺麗にした浴槽が出現していた。その中にはたっぷりの水が入っていて、レベッカは驚いて目を見開いた。

 

「お、お姉様?何をするつもりなんです?」

 

トゥルーが声をかけると、タチアナは浴槽に近づき、水を撫でるように手を動かした。

 

「――“呪い”の核を身体から出さねばならん。その核は、元は人の魂の一部じゃ。浄化を行う事で、魂を取り除く」

 

「……浄化って……そんなこと、出来るんですか?」

 

クリストファーが尋ねると、タチアナは難しい顔をしながら言葉を続けた。

 

「恐らくは。お前達に集めさせたのは、浄化の水を作るために必要な物じゃ……元は私の先祖が編み出した魔術じゃからな。方法はきちんと把握しておる」

 

そう言いながら、タチアナはチラリとクリストファー達が持ってきた袋を見た。一方、ローレンは頭を抱えながら、口を開いた。

 

「いや、待ってくれ。もしかして、俺に持ってこさせた“アレ”は――」

 

「……お前の考えている通りじゃよ」

 

タチアナの言葉に、ローレンは顔をしかめる。その様子を見たレベッカはおずおずと口を開いた。

 

「あの、……“アレ”とは?」

 

その問いかけに、ローレンは大きなため息を吐きながら、持ってきた大きな箱を手で示した。

 

「これの事だ……」

 

そう言いながら、箱へと手を伸ばし、その蓋を開く。そこに入っていたのは細長い剣だった。

 

「……うわ」

 

「ひゃっ」

 

レベッカとトゥルーが同時に声をあげた。

 

なぜかその剣が目の前に姿を現した瞬間、形容できない「何か」を感じた。

 

「こ、これは?」

 

動揺するトゥルーの姿を、タチアナが興味深そうに見つめながら答えた。

 

「これは、ローレンの家に伝わる魔法具の一つじゃな。……少々特殊な魔法具じゃ」

 

「これはね、『魔法そのもの』を断ち切る剣だ」

 

その場の全員が首をかしげた。

 

「俺の先祖は独特の魔術で道具を作るのが好きだったらしくてね。俺の家には、先祖が残した道具がまだ残っているんだ。いろいろと特殊すぎる物が……これもその一つだよ。人や物は絶対に切らない。魔法や魔術を断ち切り、破壊することができる」

 

ローレンが説明してくれたが、話を聞いてもきちんと理解できないレベッカはただ首をかしげた。一方トゥルーは目をキラキラさせてその剣を見つめた。

 

「そんな道具があるなんて……すごい、ぜひ研究してみたいです」

 

今にも剣に手を伸ばしそうなトゥルーを止めるようにローレンが言葉を続けた。

 

「ああ、それと、この剣は使い手を選ぶんだ」

 

「はい?」

 

トゥルーが眉をひそめる。ローレンは不意に剣へと手を伸ばした。剣に手が触れた瞬間、バチっと音がしてローレンの指が弾かれた。それを見た全員が驚きで息を呑む。

 

「すごいだろ。俺ですら触れないんだ……魔力の高い人間だけがこの剣を扱える。魔力の高い人間に、この剣は“語りかけてくる”らしいぜ」

 

「……?語りかけてくる?何ですか、それ?」

 

エヴァンが不思議そうに聞き返し、ローレンは困ったように首をかしげた。

 

「俺もそれはよく分からないんだ。先祖の残した記録には、ただ“語りかけてくる”ってしか記されていなかったからな」

 

「……魔力の高いお前なら、何か感じたのではないか?」

 

タチアナがトゥルーに尋ね、トゥルーも戸惑ったように頷いた。

 

「――ええっと、……語りかけてくる?というのはよく分かりませんが、不思議な感じは、しますね。今も、ずっと続いています。なんというか、こう、とにかく、変な感覚です……」

 

レベッカはトゥルーのその言葉に、心の中でこっそり納得した。先程から感じている違和感はそれだ。よく分からないが、剣はレベッカとトゥルーに“語りかけて”いる。

 

「おっ、じゃあ、君ならこれを扱えるだろうな。持ってみるか?」

 

そう言ってローレンが箱ごと剣をトゥルーに差し出した。トゥルーは躊躇いなくそれに手を伸ばす。難なくその剣に触れると、箱から取り出した。それを見たローレンが感嘆したように声を出した。

 

「すごいな……箱からこの剣が出たのは初めて見た」

 

「結構軽いですね。私でも十分に使えそうです」

 

トゥルーは興味深そうに剣を観察している。それを見たクリストファーがタチアナに声をかけた。

 

「その剣を使うんですか?」

 

クリストファーの言葉にタチアナが頷いた。

 

「ああ。解呪するには、呪いの核を刈り取らねばならん。魂を浄化しようとしたら、必ず呪いは身体から出てくるはずじゃ。それをこの剣で切り離すぞ」

 

「そんなうまくいくか?」

 

不安そうなローレンにタチアナが鋭い視線を向けた。

 

「やるしかないんじゃ」

 

そして、大きく声をあげた。

 

「準備をするぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トゥルーとタチアナは古い本を片手に準備を始めた。レベッカにはよく分からない不思議な薬草や花、石、粉などを浴槽に入れている。

 

「大丈夫でしょうか?」

 

ウェンディのそばでそれを見守るレベッカが不安そうな声を出す。答えたのはローレンだった。

 

「信じるんだ。タチアナの姉さんは魔力はそんなに高くはないが……技術に関してはすごいからな」

 

ローレンの言葉に、待つことしかできないレベッカは頷く。そんなレベッカにローレンは言葉をかけてきた。

 

「ときに、嬢ちゃん、あんたの名前は?」

 

「え、あ、レベッカ・リオンです」

 

「そうか。なあ、レベッカ、ちょっと聞きたいんだが、……さっき俺が剣を出した時、なんか変な顔していたような気がしたんだが……」

 

ギクリとレベッカは思わず肩を揺らした。ローレンは真剣な顔で言葉を重ねる。

 

「――もしかして、あの剣が“語りかけて”きたんじゃないか?」

 

「――まさか」

 

レベッカは素知らぬ顔で首を横に振った。

 

「見たこともない不思議な剣だったから、ちょっと驚いただけですよ」

 

「ふーん、そうか」

 

ローレンが納得しように頷いたため、レベッカはホッと息をつく。チラリと視線を横に向けると、クリストファーとエヴァンは少し離れた所で何か熱心に話し込んでいた。今の会話を聞かれなかったことに、また安心して小さく息を吐いた。

 

「よし、できた!」

 

「完璧ですね!」

 

その時、ようやくタチアナとトゥルーの言葉が聞こえ、レベッカは素早くそちらへと向かった。

 

「完成ですか?」

 

「ああ。あの娘をこちらへ」

 

タチアナにそう言われ、クリストファーがベッドへと向かう。すぐにウェンディを抱いて戻ってきた。

 

「お前は剣を」

 

「はい!」

 

トゥルーは大きく頷き、剣を手に取った。

 

「私が浄化の魔法をかける。すぐに呪いの核は外に出てくるはずじゃ。私の言った通り、その剣で斬るんじゃ」

 

「はい!」

 

トゥルーの返事にタチアナも頷くと、クリストファーに顔を向けた。

 

「その娘を、水の中へ」

 

「……大丈夫、なんですよね?」

 

クリストファーが顔を強張らせてタチアナに声をかける。タチアナは、真剣な瞳でゆっくりと頷いた。

 

その瞳を見返し、やがてゆっくりとクリストファーはウェンディを浴槽に入れた。顔以外の全身が水に浸される。それを見届けたタチアナは、

 

「……全員、下がっていろ」

 

と囁くように言う。トゥルー以外の全員がその場から少し下がる。そして、タチアナはゆっくりと杖を大きく動かした。

 

「……あっ」

 

レベッカは思わず声をあげた。

 

タチアナが杖を振るった瞬間、“何か”がウェンディの身体から出てきた。

 

「……なに、これ」

 

エヴァンの困惑したような声が聞こえる。

 

“それ”は黒い靄のような、得体の知れない物だった。フワリと視界に広がる“それ”を見て、レベッカは呆然とした。まるで影のように真っ黒で、不気味に蠢いている。

 

「これが、呪い……こんなのが、ずっとウェンディの身体に……」

 

クリストファーもまた絶句していた。

 

「呪い……魂の一部……これが?随分と濁っているな」

 

ローレンも驚いたように呟いた。

 

「――これを、斬ればいいんですよね」

 

トゥルーは黒い靄の出現に少し戸惑っていたようだったが、すぐに自分の役割を思い出したらしく、剣を握り直した。

 

「それでは、いきますっ!」

 

そして、トゥルーが動こうとしたその時だった。

 

突然、黒い靄が大きく動いた。まるでトゥルーを狙うように、靄がトゥルーに向かってくる。

 

「あっ」

 

黒い靄は明らかに攻撃するかのように動いた。勢いよくトゥルーが弾き飛ばされる。小柄な身体が家の壁に勢いよくぶつけられた。手から剣が離れて、床に落ちる。

 

「トゥルー!!」

 

動揺したようにタチアナが悲鳴をあげた。

 

「まずい……まずいぞ、これ」

 

ローレンの顔が青くなり、声は震えていた。

 

「どういうことですか!?」

 

レベッカが声をあげた瞬間、靄は再び動き始めた。ウェンディの身体を包むこみ、どんどん大きくなっていく。うっすらとウェンディの姿は見えているが、徐々に色濃くなってきた。ローレンが焦ったような声を出す。

 

「……俺達が考えていたより、ずっと呪いの力は強かった……暴走しているぞ!」

 

「そんな……っ、ウェンディ!!」

 

クリストファーが大きく叫ぶ。

 

「待ってください!もう一度、やりますから……っ」

 

弾き飛ばされたトゥルーが叫んだ。身体を強く打ったため、ヨロヨロと立ち上がろうとするが、思うように身体が動かないらしい。駆け寄ったタチアナがトゥルーの身体を支えた。

 

「お姉様、もう一度」

 

タチアナもまた真っ青な顔で震えながら口を開いた。

 

「トゥルー、でも……」

 

「剣を、早く……」

 

その時、黒い靄がまた大きく動いた。同時に、黒い靄の中のウェンディが瞳を開く。その目は、焦点を失ったように虚ろだった。

 

「ウェンディ!」

 

クリストファーの大声が響く。次の瞬間、ウェンディは靄の中で口を開いた。

 

「――あ、あああああああああぁぁぁぁぁっっっ」

 

悲鳴のような声がウェンディの口から出た。その顔を、凄まじい勢いで赤黒い痣が侵食する。黒い靄はそのまま色を濃くしていき、瞬く間にウェンディの姿は見えなくなった。

 

「ウェンディ!」

 

ウェンディに駆け寄ろうとしたクリストファーの腕を、エヴァンが掴んだ。

 

「駄目だ、クリス!!」

 

「離せ!妹が――!」

 

クリストファーがエヴァンに鋭い視線を向けたその時、レベッカが動いた。

 

「お、おい!」

 

慌ててローレンが止めようとするが間に合わなかった。

 

「お嬢様!」

 

躊躇することなく浴槽へと飛び込み、靄の中へと入っていく。

 

「ば、馬鹿!駄目じゃ!!」

 

タチアナもまた声をあげたが、レベッカは聞いてはいなかった。

 

黒い靄に入った瞬間、視界が真っ黒に染まる。何も見えない。なぜか、頭を殴られたように、ガンガン痛むような気がした。

 

「お嬢様、ウェンディ様……っ」

 

名前を呼んだはずなのに、自分の声が聞こえなかった。暗闇の中で、必死に手で探る。

 

「ウェンディ様――」

 

思い切り手を伸ばしたその時、何かに触れた。

 

「あ――」

 

一瞬で分かった。間違いない。ウェンディの手だ。

 

手に触れたそれを強く握りしめる。次の瞬間、レベッカの意識は闇へと落ちていった。

 

意識が失くなる直前、耳元で確かに声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

「―――ベッカ!」

 

 

 

 

 

 

 

 



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悲しみの光景

 

 

―――寒い。

 

レベッカが意識を取り戻した時、まず感じたのは雨が降っているような冷たさだった。

 

「……うぅ」

 

頭がガンガンと痛み、思わず呻く。頭を片手で抑えるのと同時に現在の状況を思い出して、ハッと目を開いた。

 

「ここは……」

 

目の前は真っ暗な闇だった。ゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。どこまでも続き、終わりの見えない寂しい空間だった。

 

「お嬢様……?」

 

ウェンディを探して、辺りを見回したその時だった。

 

 

 

 

 

『ポーレ』

 

 

 

 

 

知らない声が聞こえた。透き通るような美しい声だ。

 

目の前に、何かが現れた。ふわりと浮き上がるように、ぼんやりとした幻影のような何かだ。

 

「え……」

 

突然出現したその光景に、息を呑む。現実感がまるでない。揺れる陽炎みたいだ。

 

そこには、1人の小柄な少女が膝を抱えるようにして座っていた。キラキラとした白銀の髪を持つ、美しい少女だった。

 

『ポーレ!』

 

その少女に向かって誰かが近づいてくる。やはり、白銀の髪を持つ美しい少女だった。ポーレと呼ばれた少女が顔を上げる。

 

「あ……」

 

レベッカは思わず声をあげる。2人の少女はそっくり同じ顔をしていた。ポーレの表情は、今にも涙が流れそうな深い悲しみに包まれていた。

 

『……ハイディ姉さん』

 

ポーレが小さく呼び掛けると、ハイディと呼ばれた少女は、ニッコリ微笑んだ。

 

2人の少女は、まるでレベッカの姿が見えないように言葉を交わし始めた。

 

『どうしてこんなところにいるの?ポーレ』

 

『……別に』

 

ハイディは、ポーレの隣に、ゆっくりと寄り添うように座った。

 

『どうしてそんなに悲しいお顔をするの?』

 

『……』

 

『言って、ポーレ』

 

ハイディがそう促すと、ポーレはポツリポツリと言葉を漏らした。

 

『……婚約、するんでしょう?』

 

その言葉に、ハイディが少し驚いた後、頷いた。

 

『ええ……結婚はまだまだ先だけど』

 

『……村長さんの、息子さんと?』

 

『ええ……』

 

ハイディは朗らかに笑って言葉を続けた。

 

『とても、いい人よ。ポーレだって知ってるでしょう?』

 

ポーレはその言葉に小さく頷く。そして、迷うように瞳を揺らした後、隣に座るハイディの服を小さく摘まむように引っ張った。

 

『今の、ままがいい――』

 

『ポーレ?』

 

『結婚なんて、してほしくない。姉さんとずっと一緒が、いい。ずっと、ずっと、おばあちゃんになっても、――2人で一緒にいたいの』

 

その瞳から、ゆっくりと涙が流れ始めた。

 

『姉さん、いやよ……姉さんは私だけの姉さんだったのに。姉さんがそばにいてくれないと、私、寂しくて泣いちゃう……』

 

泣きじゃくるポーレを、ハイディが包み込むように抱き締めた。

 

『泣かないで……結婚しても、私はあなたの姉さんよ。あなたも、私の大切なたった1人の妹なの』

 

何度も何度も安心させるようにポーレの背中を撫でる。

 

『ね、ポーレ。知ってるでしょう。私達、生まれる前からずっと一緒だったんですもの。私達は、離れていても、ずっと繋がってる。例え、世界が、変わったとしても、それだけは変わらないわ。ね?』

 

『……姉さん』

 

ポーレもハイディの背中に腕を回し、ギュッと抱き締めた。ハイディは背中を撫でながら、ポーレの耳元で囁く。

 

『だから、どうか、……笑って、ポーレ。私は、あなたの笑顔が何よりも大好きなの』

 

『姉さん……』

 

『ポーレ、お願い』

 

その言葉に、ポーレはハイディから身体を離すと、ようやく微笑んだ。

 

『――ごめんね。泣いちゃって。喜ばないと、いけないって、本当は分かってるの』

 

そして、大きく息を吸う。そして、

 

『姉さん、婚約おめでとう』

 

祝福の言葉を紡いだ。

 

ハイディは、そんなポーレの頬を両手で包み込む。少し笑うと、幸せそうに答えた。

 

『ありがとう、ポーレ』

 

 

 

 

 

 

 

 

その瞬間、目の前の光景がゆらりと揺れた。

 

「あ……」

 

レベッカが驚きで声をあげた瞬間、場面が切り替わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ねえ、ポーレ、本当に働くの?』

 

不安そうな声が響く。

 

『ええ。村長さんが、紹介してくれたから』

 

大きな荷物を手に、ポーレが微笑んだ。

 

『やっぱり、私も行くわ、ポーレ。1人で外に働きに出るなんて――』

 

心配そうな表情のハイディに、ポーレが首を横に振る。

 

『もう、姉さんたら。その話は済んだでしょ。お母さんの具合もよくないんだし、姉さんは婚約したばかりじゃない。ここに残って、お母さんのそばにいてあげて』

 

『……でも』

 

不安そうなハイディに、ポーレは励ますように言葉を続けた。

 

『お金を稼いだら、すぐに戻るわ。伯爵家に行ったら、手紙も書く。だから、心配しないで』

 

『……でも、あなた1人は心配だわ。やっぱり私も行った方が――』

 

『姉さん』

 

ポーレはハイディの手を軽く握った。

 

『私達は、離れていても繋がってる。そうでしょ?』

 

『……ポーレ』

 

『だから、大丈夫!』

 

そして、まだ不安そうな表情のハイディから手を離す。そして、荷物を持ち直すと、大きく手を振った。

 

『行ってきます!』

 

 

 

 

 

 

 

再び視界が揺れて、光景が切り替わる。

 

 

 

 

 

 

 

次にレベッカの目に入ったのは、青白い顔色をしている、白銀の少女だった。ハイディなのか、ポーレなのかは分からない。たった1人でフラフラと歩いている。その姿は信じられないほどに痩せ細っていた。

 

周囲の人間が、まるで嫌なものを見た、とでも言うように少女から目をそらした。

 

『あの家の娘が……伯爵に言い寄って迫ったらしい』

 

『なんて図々しい……ふしだらな……』

 

『村長も怒り狂っているらしいな』

 

『そりゃそうだ。なぜ村長の紹介した仕事先でそんなことを……』

 

ヒソヒソと話す声が聞こえる。少女は周囲の人間の声が聞こえていないように、無表情のまま歩き続ける。突然、少女に向かって何かが飛んでくる。気がついた時には、少女の服は泥で汚れていた。

 

『出ていけ!村から早く出ていけ!!』

 

『この恩知らず!アバズレめ!!』

 

その声から逃げるように、少女は小走りで走り出した。飛び込むように自分の家らしき建物の中に入る。

 

『ハイディ……』

 

家の中では、やはり痩せ細った女性がベッドに横たわり、少女へと手を伸ばしていた。

 

ハイディは、今にも泣き出しそうな顔でベッドへと駆け寄ると、女性の手を握った。

 

『お母さん……』

 

『村長さんは……話を聞いてくれた……?』

 

その問いかけに、ハイディは顔を歪めながら顔を横に振った。

 

『ダメ……ダメだった。……全然、話を、聞いてくれないの……もう、村から出ていってほしいって……婚約も、破棄するって……』

 

その言葉に、ベッドの中の女性が呆然とする。

 

『そ、んな……』

 

『お母さん……ごめんなさい……お薬が……』

 

その時、扉が開く音が聞こえた。ハイディが振り返ると、そこには真っ青な顔のポーレが立っていた。

 

『――ポーレ』

 

ハイディが名前を呼ぶと、ポーレは崩れるようにその場に座り込むと、泣きじゃくった。

 

『ごめんなさい、お母さん、お父さん……っ、ハイディ姉さん……っ、……わ、私の、せいだ……本当に、ごめんなさい……』

 

 

 

 

 

 

 

そして、また光景が揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

『ポーレ、ポーレっ……』

 

ハイディが、泣き叫んでいる。

 

『なぜ、あなたがこんなことを……っ、ポーレ!!』

 

その腕の中に、ずぶ濡れになったポーレがいる。その顔には、もう何も浮かんでいない。ハイディは泣き叫びながら、事切れたポーレの身体を抱き締めていた。

 

『大丈夫だからね、ポーレ……』

 

そして、涙を流しながら、天を仰ぐように顔を上げると、そっと囁いた。

 

『ひとりぼっちじゃないわ。姉さんが、一緒だからね、ポーレ』

 

 

 

『ポーレ』

 

 

 

『ポーレ』

 

 

 

『私のたった1人の妹―――私の、半身―――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――これ、は……」

 

過去の光景、なのだろうか。あまりにも悲壮な結末に、レベッカは手で口を抑える。そうしないと、自分も泣いてしまいそうだった。

 

「どう、して……」

 

なぜ、私は過去の光景を見ているのだろう、と不思議に思いながら一歩下がったその時だった。

 

 

 

 

 

『殺す――』

 

 

 

 

 

突然聞こえたのは、殺意に満ちた恐ろしい声だった。

 

『許さない。許さない許さない許さない――』

 

ハッとして振り返る。暗闇の中で、声の主を探して、目を凝らす。

 

「――あ、」

 

何かが、見えた。

 

『地獄に落としてやる―――、絶対に、絶対に許さない!!』

 

白銀の少女が、そこにいた。憎悪の言葉を吐きながら、何かに覆い被さっている。白銀の少女の下にウェンディがいるのが見えて、レベッカは叫んだ。

 

「ウェンディ様!!」

 

ウェンディは、全身を赤黒い痣で覆われていた。

 

「ダメ、……っ、ウェンディ様!ダメです!!」

 

その姿を見て、動揺のあまり、わけの分からない事を叫びながらそちらへ向かう。その時、白銀の少女、ハイディがこちらを見た。

 

その瞳から、真っ赤な血が流れていた。

 

『――無駄よ。もはや、この娘の命は長くない』

 

その言葉に構わず、レベッカは必死に2人の元へと走る。

 

しかし、何かに妨害されているようにどうしても近づけない。

 

「やめて、やめてください!!お嬢様!」

 

大きく叫ぶが、ウェンディの瞳は固く閉じられたままだった。

 

『長かった……』

 

ポーレは瞳から血を流しながら微笑むと、その真っ白な手でウェンディの首を撫でた。

 

『やっと、やっと……呪いが、完成する……!この時を待っていた……ああ!』

 

そして、ゆっくりとその細い首に手をかける。

 

『ポーレ!ポーレ!もうすぐそちらへ行くわ――――今度こそ、絶対に、あなたを1人にはしない!』

 

手に力を込め始めたのが分かり、レベッカは再び叫んだ。

 

「お嬢様!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、クリストファーは顔を真っ青にさせていた。

 

「ウェンディが、妹が――!!どうすればいいんだ!!」

 

タチアナに向かって怒鳴るが、タチアナは冷静な顔で再び杖を握った。

 

「なんとか浄化をする。その後にもう一度トゥルーに剣で斬らせる――」

 

ウェンディを包む黒い影に向かって杖を振るう。影は一瞬揺れたが、何も変わらなかった。

 

「お姉様……っ、これでは、厳しいです!あまりにも力が強くて……」

 

トゥルーが焦ったように叫び、ローレンも顔を歪めながら口を開いた。

 

「タチアナの姉さん、この子の言う通りだ……姉さんの魔力じゃ足りねえよ、多分――」

 

「だからと言って、諦められるわけないじゃろう!!」

 

タチアナが憤慨したように叫ぶ。すると今度はエヴァンがオロオロとしながら口を開いた。

 

「レベッカちゃんはどうなったの……?」

 

その問いかけに答えられる者はいなかった。

 

タチアナが苦し気に顔をしかめて、再び杖を振り上げる。

 

「分からぬ……っ、呪いの核に触れてしまえばどうなるのか―――、とにかく、なんとかして浄化を続ける……っ!!」

 

タチアナが杖を振るうと、やはり影は一瞬大きく揺れた。次の瞬間、黒い影が攻撃するようにタチアナに向かって、動いた。目に見えないほど素早く飛んでくる。

 

「お姉様!!」

 

トゥルーが叫んだ時は、もうタチアナの身体は壁に強く叩きつけられていた。

 

「お姉様……っ、お姉様!!」

 

トゥルーの動揺したような叫び声が響く。

 

 

 

 

 

その時、トゥルーのそばに落ちていた剣が、カタン、と音を出して微かに動いたが、誰もそれに気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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救われたもの

 

 

 

ウェンディを包む大きな影が揺らめき、また大きくなってきた。その場の空気が一気に凍っていくような感覚に包まれ、タチアナは息を呑む。全身に痛みを感じながら、その恐ろしい呪いの力に戦き、一瞬目を閉じそうになったが必死に耐えた。

 

「お姉様ぁっ……!」

 

トゥルーが大きな声をあげながらタチアナに駆け寄ってくる。差し出されたその手を握り、ヨロヨロと立ち上がる。タチアナは苦悩に顔を歪めながら、トゥルーへと口を開いた。

 

「トゥルー、私の事はいいから、剣を持って準備するんじゃ」

 

「だけど――」

 

「早く!!私がなんとかして浄化をする!」

 

「でも、でも、こんなに暴走しているんですよ!これを鎮めるなんて――」

 

トゥルーが大きな影に視線を送りながら、狼狽したように叫ぶ。ローレンもまた、真っ青な顔で口を開いた。

 

「呪いの核が抵抗しているみたいだ……姉さん、とにかく一度考えて……」

 

「そんな暇はないじゃろう!もう呪いが完成しかけているんじゃ!!」

 

タチアナの言葉に、クリストファーが一瞬呆然とした後、

 

「ウェンディ!!」

 

大声をあげながら、焦ったように黒い影の方へ駆け寄ろうとした。それを、クリストファーのそばにいたエヴァンが再び慌てたように止める。

 

「クリス!やめるんだ!!」

 

「エヴァン、離せ!」

 

クリストファーは必死な顔でエヴァンの手を振り払おうと動く。

 

「妹が、妹が危険なんだ!僕が助けないと!!」

 

「やめるんじゃ!!あれに触れたらどうなるか――」

 

クリストファーに向かってタチアナも叫ぶ。

 

その時だった。

 

「えっ」

 

トゥルーが驚いたような声をあげる。タチアナはその声に思わずそちらへと視線を送り、

 

「――あ?」

 

彼女もまた、ポカンと口を開けた。

 

その場の全員が、その声に反応するようにそちらへと顔を向け、そして呆然とした。

 

床に落ちていたはずのローレンの剣が、空中に浮かんでいた。暗い部屋の中、青白い光を放ちながら、フワフワと浮いている。

 

「――姉さん、あんた、あの剣に何をしたんだ?」

 

ローレンが唇を引きつらせながら、タチアナに問いかける。タチアナは困惑しながらもそれに答えた。

 

「何もしては、いないぞ、私は……」

 

次の瞬間、剣は大きく動いた。

 

「ちょっ、なんだこれ――」

 

思わずといったように、ローレンが剣を掴んで止めようとするが、剣はローレンの手を簡単に弾いた。

 

「いってぇ!!」

 

ローレンの悲鳴を無視するように、剣は空中をさ迷うように揺れる。そして、まるで吸い込まれるように、黒い影の中へと勢いよく飛び込んでいった。

 

「え、えええぇぇぇっ?何ですか、あれ?」

 

トゥルーが叫ぶが、その声に答えられる者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢様!」

 

レベッカは必死にウェンディの方へ駆け寄ろうとしていた。しかし、何か透明な壁のようなものに妨害されていて、どうしても近づくことができない。その時、ハイディがこちらへと顔を向けた。

 

『ここは、私だけの領域』

 

片手をレベッカの方へと向ける。

 

『邪魔するのは許さない』

 

その瞬間、レベッカの身体は、何か見えない力によって強く後ろへと突き飛ばされた。

 

「キャアッ!」

 

思わず悲鳴をあげたが、なぜか痛みは感じなかった。

 

「お、お嬢様!!」

 

大声をあげながら、再び立ち上がる。必死に考えを巡らせる。

 

どうすればいいのだろう。ハイディを止めるどころか、近づくことすらできない。ああ、でも、早くしなければ、お嬢様の命が危ない――!

 

必死になりながら、再び駆け寄ろうとしたその時だった。

 

“何か”の気配を感じた。

 

「え?」

 

思わず、そちらへと視線を向ける。何も見えない。ずっとずっと、暗闇が広がっているだけだ。だけど、確かに感じた。“何か”が近づいてくる。

 

「――何?」

 

レベッカが戸惑いながら、声を漏らした時だった。

 

「あっ」

 

“それ”がレベッカに向かって飛んでくるようにやって来た。

 

“それ”はローレンが持ってきた細長い剣だった。剣はレベッカの方へと近づくと、レベッカの目の前で空中にとどまる。まるでレベッカが手に取るのを待つように、その場で浮かんでいた。

 

レベッカは息を呑むと、迷うことなくそれを手に取った。

 

剣はレベッカの手を弾くことなく、ピッタリと手に収まる。まるで強力な仲間を得られたような気がして、レベッカは大きく息を吐いた。そして、剣を手に、再び足を踏み出す。

 

「ウェンディ様!」

 

剣の使い方なんて、よく知らない。それでも、無我夢中で動かした。目の前にある見えない壁を破るように、剣を振るう。

 

何も見えないし、何も聞こえなかった。しかし、“ガシャン”と、確かに何かが破壊されるような感覚がした。

 

『なっ――』

 

ハイディがそれに反応して、驚いたように目を見開く。レベッカはそのまま走ってハイディへと近付くと、ウェンディの首に手をかけている白い腕を掴んだ。

 

「手を、離してください……っ!!」

 

その瞬間、思いもよらない事が起きた。

 

レベッカが触れたハイディの腕から、不思議な熱が、勢いよく伝わってくるような感覚がした。

 

「え?」

 

何かが、レベッカの身体に、流れるように吸い込まれていく。

 

「これ、これって……」

 

この温かい不思議な感覚。これが何か、レベッカは知っている。

 

「これは、」

 

魔力?そう口に出そうとしたその瞬間、ハイディが悲鳴をあげた。

 

『あ、ああっ、あああぁあぁぁぁぁっ!!』

 

ハイディは素早くレベッカの手を振り払った。そのまま、自分の顔を抑える。そして、ウェンディから身体を離すと、後ろへと倒れこんだ。

 

『ああああああっ――』

 

「ちょっと!」

 

思わず、レベッカはハイディの腕に再び触れる。触れた瞬間、再び熱を感じる。それと同時に、不思議な感覚がレベッカを襲った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポーレ

 

 

 

あなたのことが、大好き

 

 

 

ごめんね、こんな姉さんで

 

 

 

もっと、いい姉でありたかった

 

 

 

あなたのそばにずっといるべきだった

 

 

 

もっと寄り添うべきだった

 

 

 

そうすることができたのは私だけだったのに

 

 

 

私は、できなかった

 

 

 

心は繋がっている、とそう言ったのは私だったのに

 

 

 

ポーレ

 

 

 

あなたのこと、守ってあげたかった

 

 

 

大好き、大好き、大好き

 

 

 

あなたに、もう一度、会いたいの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポーレ

 

 

 

 

 

まだ私のこと、待っててくれてる――?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何が、起きたんだ?」

 

クリストファーが困惑したように呟く。

 

剣が影の中に吸い込まれるように消えた。

 

その場の全員がどうすればいいか分からず戸惑っていたその時、大きな影は、大きくうねり、揺らめき、そして僅かに小さくなった。

 

「なっ、どうなってるんだ?」

 

動揺したように声を出すローレンに構わず、タチアナは再び杖を構えた。

 

「今じゃ!もう一度、浄化をするぞ!!」

 

そのまま、不思議な動きをしながら杖を振るう。影は一瞬抵抗するような動きはしたが、もう攻撃はしてこない。その動きは、確実に鈍くなっていた。

 

「よく分からんが、弱っているようじゃ。望みはあるぞ!!」

 

タチアナが杖を振るいながら、大きく叫ぶ。トゥルーは眉をひそめながら、影を見つめ呟いた。

 

「一体、あの中で何が起きているのでしょうか――?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハイディの気持ちが、レベッカの脳内に直接伝わってくるような感覚がした。あまりにも切実な想いに胸が痛くなる。

 

レベッカは震えながら、ハイディから手を離した。

 

『う、ううぅぅぅぅ』

 

呻くような声が聞こえる。

 

ハイディは、その場に踞るようにして泣きじゃくっていた。その姿はあまりにも弱々しくて、小さな子どものようだった。

 

『もう少し、だったのに――』

 

泣きじゃくりながら、ハイディが呟く。

 

『もう少しで、完成だったのに……ポーレ……』

 

その言葉を聞いたレベッカは、ハイディのそばに座り込み、声をかけた。

 

「……あなたの、本当の望みは、呪いをかけることなんかじゃない。妹さんに、ポーレさんにもう一度会うこと、ですよね」

 

ハイディがピクリと肩を揺らす。レベッカはその姿を見つめながら、言葉を重ねた。

 

「……つらかったですね。苦しかったですね。どんなに無念だったか……」

 

『あなたに、何が分かるの!!』

 

ハイディが勢いよく顔を上げ、レベッカに鋭い視線を向けた。

 

『誰にも理解できはしない!!私の、私達の思いは、誰にも!!』

 

「――はい。そうかもしれません。だけど……」

 

レベッカは少しだけ顔を伏せ、言葉を続けた。

 

「大切な人と、ずっと一緒にいたいという想いは、きっと同じ、だと思うんです……どうか、怨みと怒りに心を支配されないでください……お嬢様を苦しめるのは、もう止めてください……あの方は、何も関係ない。まだ小さな、女の子なんです」

 

レベッカはその場で大きく頭を下げた。

 

「……代わりに私の命を差し上げます。ですから、どうか……終わりにしてください。私は……もうあなたにも、苦しんでほしくないんです」

 

その言葉を聞いたハイディがまた涙を流す。その時だった。

 

「……ベッカぁ?」

 

小さな声が聞こえた。レベッカが驚いてそちらに顔を向けると、いつの間にかウェンディがそこに立っていた。

 

「お、お嬢様……?」

 

全身に赤黒い痣を刻まれたウェンディは、レベッカとハイディの方へとトコトコと近づいてくる。そして、レベッカの隣に立つと、首をかしげるようにしてハイディを見つめた。

 

「――あなたね」

 

突然のウェンディの言葉に、レベッカはきょとんとする。ハイディもまた、眉をひそめた。

 

「お嬢様?」

 

「わたくしの中で、ずっと泣いていたのは、あなたね」

 

まるで確信するようにそう言って、レベッカは驚く。そんなレベッカに構わず、ウェンディは突然ハイディの方へと手を伸ばす。そして包み込むように、ギュッと抱き締めた。

 

ハイディが困惑したように身体を硬直させる。そんなハイディを安心させるように、ウェンディはゆっくりと口を開いた。

 

「……わたくしが、かなしかったり、さびしい時はね、ベッカがこうしてギュッとしてくれるの。だから、わたくしも、あなたにそうする。ずっと、こうしたかったの」

 

レベッカは戸惑いながらも、ウェンディの行動をただ見つめた。ハイディが大きく目を見開くのが見えた。

 

「わたくしが、できることなら、なんでもするわ。だから、どうか、もう、なかないで。だいじょうぶ、だから……」

 

ハイディの瞳から、ゆっくりと大粒の雫が流れ落ちた。

 

それをそばで見守るレベッカは、囁くように声を出した。

 

「――あなたには、できませんよ」

 

ハイディがこちらへと視線を向けた。

 

「……だって、あなたは、本当は、優しい人だから……さっき、あなたに、触れた時に、よく分かりませんけど、……伝わってきたんです。ポーレさんと同じくらい、あなたは、とても、とても、優しい人だから……だから、呪いを、完成させることはできませんよ。……だって、知っているでしょう」

 

ハイディがウェンディから身体を離す。片手でウェンディを引き寄せながら、レベッカはハイディへと言葉を続けた。

 

「理不尽な事で、苦しみを受ける気持ちを、あなたは知っているはずです。……だから、もう終わりにしましょう」

 

ハイディが、涙を流しながら、顔を伏せ、小さく声を漏らした。

 

『……そうしたら、私は、もう一度、ポーレに会える?』

 

「――はい、きっと……」

 

レベッカがそう答えた時、辺りが光に包まれた。

 

ハイディが微かに安心したような表情をして瞳を閉じる。一方、レベッカはとっさに片手でウェンディを抱き締めた。

 

「ベッカ!」

 

「そのまま、動かないでください!!」

 

悲鳴を上げるウェンディに答えながら、レベッカは強い力で剣を握り直した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フラフラになりながらも大きく杖を振るうタチアナの身体を、トゥルーは必死に支えた。

 

「お姉様っ、大丈夫ですか!?」

 

「なんとか――ほら、もう少しで浄化が終わるぞ!」

 

黒い影が徐々に小さくなっていく。それを見つめながら、ローレンがタチアナに声をかけた。

 

「けど、姉さん、浄化が終わっても、呪いの核を刈り取らなけりゃ、解呪は終わらねえだろ?剣はないし、どうするんだ?」

 

その言葉を聞いたタチアナが小さく舌打ちをした。

 

「……っ、この中に剣はあるはずじゃ。浄化が終わったら、なんとかして剣を戻せば――」

 

その瞬間、パン、と何かが弾けるような声が聞こえた。その衝撃に全員が反射的に目を閉じる。

 

すぐに目を開いたクリストファーは、大きく叫んだ。

 

「ウェンディ!!」

 

部屋の中心にある浴槽の中で、ずぶ濡れになったレベッカが座り込んでいた。片手で剣を手に取り、もう片方の手でウェンディの身体を支えている。ウェンディは意識はないようだが、その胸の辺りから、不思議な小さな光が浮かんでいた。

 

「ウェンディ!」

 

「レベッカちゃん!」

 

クリストファーとエヴァンが近づこうとしたその時、座り込んだまま、レベッカが手を動かす。まるでウェンディの身体から光を切り離すように、剣を振るった。

 

「あっ……」

 

タチアナとトゥルーが同時に声をあげた。

 

「――終わりましたよ」

 

レベッカが小さく呟いた。

 

「終わりました……」

 

光はまるでレベッカに何かを伝えるように小さく輝く。

 

「……あなたの魂が、どうか今度こそ救われますように」

 

レベッカがそう囁くと、光はフワリと揺れ、そして消えた。

 

「ウェンディ!!」

 

クリストファーが素早く駆け寄ってきた。脇目もふらずに浴槽に飛び込んでくる。

 

「クリストファー様……」

 

レベッカがクリストファーにウェンディの身体を差し出す。ウェンディの姿を見て、目を見開いた。

 

「――これは」

 

ウェンディの身体から、痣がすっかり消えていた。何も刻まれていない真っ白な肌だ。

 

「ウェンディ……?」

 

クリストファーが小さく呼びかけると、ウェンディはその声に反応したようにゆっくりと瞳を開いた。

 

「……お兄様?」

 

ぼんやりとしながら声を出す。その声が耳に届いた瞬間、クリストファーは安堵のあまり、その場で涙を流した。

 

「ウ、ウェンディ……よかった……よかった……本当に……」

 

そう言いながら泣き崩れるクリストファーを見つめながら、レベッカもまた涙を流す。

 

そして、その場でゆっくりと崩れるように倒れこんだ。それを見たエヴァンやローレンが慌ててこちらへと駆け寄ってくる。

 

レベッカはゆっくりと目を閉じた。

 

どこからか、声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――姉さん

 

うん、ポーレ

 

――姉さん、ずっと一緒にいてくれる?

 

ええ、もちろんよ。私の、半身。

 

ここに、いるわ。ずっと、ここにいる。

 

あなたの、隣にいる。

 

――姉さんがそばにいてくれないと、寂しくて泣いちゃう……

 

泣かないで。泣く必要なんて、ない。

 

絶対に、もう離れないから。

 

私の、たった1人の妹。

 

優しいあなたを、もう二度と苦しませることはしない。

 

ねえ、ポーレ。

 

世界は、何も優しくないね。

 

ずっと暗闇のまま。もう何も見えないの。

 

光は、どこにもない。

 

だけど、そんな世界でも絶対に不変で、確かなことがあるんだよ。

 

 

 

――姉さん、大好き

 

 

 

ポーレ、ポーレ。

 

私も、あなたのことが大好きだってこと。

 

この気持ちは、私だけのもの。絶対に奪われはしない。

 

 

 

だって、私達、生まれる前から一緒だったんだもの。

 

どんなにつらくても

 

どんなに痛くても

 

あなたと一緒にいられるなら、きっと受け止めみせるよ。

 

ね、ポーレ

 

――姉さん、ハイディ姉さん

 

ポーレ、ポーレ

 

 

 

もう、帰ろう。

 

真っ暗だけど、大丈夫。

 

今度は、手を繋ぐから、大丈夫。

 

 

 

 

 

 

 

ポーレ

 

今度こそ、一緒に帰ろうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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秘密の会話

 

 

レベッカが目を覚ました時、まず認識したのは自分の頭を撫でる小さな手だった。柔らかい手の感触が、心地いい。

 

「……んん?」

 

「あっ、ベッカおきた!」

 

その声に驚いて横に視線を向けると、ウェンディがすぐそばに立っていた。

 

「おきた!ベッカおきたよー、トゥルー!」

 

嬉しそうに声をあげる。

 

「お嬢様……?」

 

レベッカがウェンディを呼びながらゆっくりと起き上がる。どうやらタチアナのベッドに寝ていたらしい。ウェンディに声をかけようとしたその時、トゥルーがバタバタと駆け寄ってくるのが見えた。

 

「ああ、よかった~、レベッカさん、体の具合はどうですか?気分が悪くはないですか?」

 

その問いかけに、レベッカは首を横に振りつつ答えた。

 

「いえ、特には……」

 

「本当によかったです~。ずっと起きなかったから本当に心配で……」

 

「え、ずっとって……」

 

レベッカがトゥルーの言葉に、首をかしげる。それに答えたのはウェンディだった。

 

「ベッカ、ずーっとねむってたの。ふつかかん」

 

「えっ……そんなに?」

 

随分と長時間眠っていたことに驚き、直後にハッとしながらウェンディへと声をかけた。

 

「お嬢様、お嬢様は大丈夫でしたか?」

 

ウェンディはニッコリと微笑み、大きく頷いた。

 

「うん!ほら、見て、ベッカ!」

 

そう言いながら、自分の腕を差し出す。その腕は真っ白で、どこにも痣は刻まれていなかった。

 

「きえたの!もうね、なんにもないの!手にも、足にも!ベッカのおかげ!!ありがとう、ベッカ!!」

 

そう言いながら、勢いよくウェンディがレベッカに抱きついてくる。その元気な様子に、ホッとしながら自分もウェンディを抱き締めたその時だった。

 

「おっ、起きたかー」

 

「ああ、よかった……体調はどうじゃ?」

 

タチアナとローレンが部屋に入ってきた。レベッカはウェンディから身体を離しながら2人へ顔を向けた。

 

「はい。申し訳ありません。随分と長く眠っていたみたいで……ご迷惑をおかけしました」

 

「気にするな。お前のおかげで解呪は成功したのじゃから」

 

タチアナが肩をすくめる。レベッカはふと、辺りを見回しながら眉をひそめた。

 

「あの、クリストファー様とエヴァン様は……?」

 

レベッカの問いかけにウェンディ以外の全員が顔を曇らせた。

 

「あの……?」

 

その反応にレベッカが戸惑っていると、突然トゥルーがウェンディに声をかけた。

 

「ウェンディちゃん、レベッカさんのためにお茶を入れたいんです。手伝っていただけますか?」

 

その言葉にウェンディは元気よく、

 

「うん!」

 

と頷く。トゥルーはチラリとタチアナを見てから、ウェンディを連れて部屋から出ていった。

 

「あの……、どうかしたんですか?」

 

レベッカが困惑しながら尋ねると、タチアナが小さく息を吐き、近くの椅子へと腰を下ろした。

 

「その……何から説明すればよいのか……」

 

タチアナは迷うような様子で言い淀んだが、そのまま冷静な声で言葉を続けた。

 

「少し言いにくいんじゃが……あの2人は一度自分の家に戻ったんじゃ。本当はお前が目を覚ますまでここにいるつもりだったようじゃが……その、予想外の事が起こっての……」

 

「予想外?」

 

レベッカが首をかしげると、タチアナは言いにくそうにしながらもレベッカが眠っていた間の出来事を話してくれた。

 

解呪が終わって数時間ほど経った時、クリストファーの執事、リードから緊急の知らせが届いたらしい。

 

それは、コードウェル伯爵が死亡した、という知らせだった。

 

「は、はい?」

 

レベッカは思わずポカンと口を開けた。あまりにも急すぎて現実を受け止めきれない。頭の中が真っ白になる。

 

そんなレベッカの様子を見つめながら、タチアナは淡々と説明を続けた。

 

コードウェル伯爵は愛妾と楽しい夜を過ごしていたようだが、早朝、突然苦しみながら倒れ、そのまま息を引き取ったという事だった。どうやら心臓発作だったらしい。伯爵が亡くなったのは、ウェンディの解呪が終わった時間とほぼ同じだった。

 

「そ、れは……」

 

レベッカは呆然としながら、声を出した。

 

「それは、偶然、ですか……?」

 

タチアナは顔をしかめながら首を横に振った。

 

「私にも分からぬ……病死なのは間違いないらしいが……」

 

偶然とはとても思えない。見えない力が働いたような気がして、レベッカは背筋に冷たいものを感じた。同時に、なぜウェンディをこの部屋から出ていかせたか理解した。

 

「お嬢様は、その事を……」

 

「ああ、まだ知らない。いろんなことが急に起こりすぎたからの……落ち着いてから、クリストファーがきちんと話すと言っていた」

 

あまりにも急激な展開に困惑しながらも、レベッカは再び問いかけた。

 

「……あの、じゃあ、クリストファー様は」

 

それに答えたのはローレンだった。

 

「一度屋敷に戻ったよ。突然の事だったから、いろいろな処理や手続きで、いろいろと忙しくなるみたいだし。あの王子様もそれを手伝っているようだ。2人とも嬢ちゃんのことを心配してたぜ」

 

ローレンの言葉に心配させたことを申し訳なく思っていると、今度はタチアナが口を開いた。

 

「さあ、次はお前の番じゃ」

 

「はい?」

 

「呪いが暴走した時、何が起きたか教えておくれ」

 

「あ……えっと……」

 

その問いかけに、レベッカはどう答えたらいいか分からず、口を濁す。しかし、タチアナとローレンの強い視線に耐えきれず、結局起こったことを手短にではあるが、そのまま話した。

 

レベッカが全て話し終えた時、ちょうどウェンディとトゥルーがお茶を運びながら部屋に戻ってきた。

 

「ベッカ、はい、これ、どうぞ!」

 

「ありがとうございます、お嬢様」

 

ウェンディの小さな手からカップを受け取り、温かいお茶を一口飲む。少し心が落ち着いたような感覚がして、ホッと息をついた。

 

「……」

 

「……」

 

そんなレベッカを、タチアナとローレンは無言で見つめていた。

 

「……あの?」

 

レベッカが首をかしげながら声をかけると、2人はそっと顔を見合わせた。タチアナはすぐにレベッカへと視線を戻し、小さくため息をつくと、口を開いた。

 

「……とにかく、無事で何よりじゃ。礼を言うぞ、お前がいなければ、解呪は失敗していた。本当に助かった」

 

「あっ、いえ、こちらこそありがとうございました!」

 

レベッカも慌てて頭を下げた。タチアナはレベッカをなぜかとても複雑そうに見つめる。何かを言おうとして口を開いたが、

 

「……」

 

結局口を閉ざし、何も言わなかった。

 

レベッカがそんなタチアナの様子を不思議そうに見つめていると、今度はローレンが口を開いた。

 

「――じゃあ、嬢ちゃんも目覚めた事だし、俺は帰るわ」

 

その言葉に、タチアナがローレンへと顔を向ける。

 

「なんじゃ、もう帰るのか」

 

「ああ。予定していたよりも長く滞在してしまったんでね」

 

ローレンは朗らかに笑いながら、準備していたらしい荷物を手に取る。そして、レベッカに大きな箱を押し付けた。

 

「ほら、嬢ちゃん。これはあんたのだ」

 

「はい?」

 

レベッカは戸惑いながらも反射的にそれを受け取る。箱の中には、細長い剣が収まっていた。

 

「えっ、こ、これって……」

 

「こいつは、嬢ちゃんを使い手として選んだ。だから、それは嬢ちゃんの物だ」

 

ローレンの言葉にレベッカは驚き、慌てて口を開いた。

 

「ええっ、ちょ、ちょっと待ってください!あの、よく分からないんですけど、これって、すごく貴重な物ですよね!?私が貰うわけには――」

 

レベッカは慌ててローレンへ箱を押し戻そうとするが、ローレンは軽く手を振り苦笑した。

 

「いや、まあ、確かに家宝みたいな物だが……扱うにはあまりにも難しすぎて、正直持て余していたし……俺が持っていても仕方ない物だから、嬢ちゃんが貰ってくれ。好きにすればいい」

 

レベッカは戸惑ってオロオロしていたが、結局そのまま箱を受け取った。そんなレベッカを嬉しそうに見つめながら、ローレンは言葉を重ねた。

 

「《アイリーディア》」

 

「はい?」

 

「その剣の名前、《アイリーディア》っていうんだ。大切にしてくれ」

 

レベッカは不思議そうな顔で剣へと視線を向けた。

 

「なんだか、人の名前みたいですね……」

 

トゥルーもまた、興味深そうな顔で剣を見ながら口を開いた。

 

「もしや、これを作った方のお名前とか?」

 

「いいや。これを作ったのは俺の先祖だが……そんな名前じゃあなかった。どうして《アイリーディア》と呼ばれているかは不明だ。まあ、何か思うところがあって剣に名前をつけたんだろう」

 

ローレンは肩をすくめながらそう言うと、ボロボロのマントを羽織った。

 

「それじゃあ、またな」

 

そして、手をヒラヒラ振りながら、短く挨拶をして風のように去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の午後、クリストファーとエヴァンが家を訪ねてきた。

 

「レベッカ!ああ、よかった。目を覚まして――」

 

クリストファーは家に入ると、心から安心したような顔ですぐにレベッカへと駆け寄ってきた。

 

「クリストファー様、ご迷惑をおかけしまして――」

 

「いいや、君のおかげで本当に、本当に助かった。ありがとう、本当にありがとう、レベッカ」

 

クリストファーはレベッカの手を両手で握り、何度もそう言いながら頭を下げた。

 

「レベッカちゃん、体は大丈夫?具合は悪くない?」

 

横からエヴァンがそう尋ねてきて、レベッカは頷いた。

 

「はい。大丈夫です。どこも悪くはありません」

 

エヴァンがその言葉に安心したように微笑み、クリストファーもホッと息をついた。

 

「ああ、本当によかった。レベッカに何かあったらどうしようかと思っていた」

 

そう言ったクリストファーの顔はどこか疲れたような表情をしていた。顔色も少し青白く、目の下にはクマが出来ている。

 

「あの……」

 

レベッカは伯爵の事を尋ねようとしたが、隣にウェンディがいることを思い出して、慌てて口を閉じた。

 

その時、タチアナが声をかけてきた。

 

「ちょっといいか」

 

その視線はクリストファーを捉えていた。

 

「――少し、話がある」

 

「え?僕に、ですか?」

 

クリストファーが眉をひそめる。タチアナは軽く頷いた。

 

「……こっちに来てくれ」

 

タチアナが奥の部屋を手で示し、そちらへと向かう。クリストファーは不思議そうな顔をしながら、タチアナについていった。

 

残されたレベッカはウェンディと顔を見合わせた。

 

「なんのおはなし?」

 

「さあ……?」

 

その時、エヴァンがレベッカの手に触れてきた。

 

「君が無事で本当によかった。君みたいに可愛い女の子を失うなんて、世界の損失だからね」

 

熱っぽく語りかけてくるエヴァンに、レベッカは顔を引きつらせる。そんなエヴァンにウェンディがムッとしたように睨んで口を開いた。

 

「ちょっと!私のベッカから手をはなしなさい、このふわふわバカ!」

 

「ちょっ、お嬢様――」

 

王子に対してなんて事を、とレベッカが慌ててウェンディを止めようと口を開く。しかし、

 

「ええっ、ひどいな、ふわふわバカだなんて……」

 

エヴァンはさほど気にしていないように、ニッコリ笑った。そのままレベッカの手をギュッと握ってくる。それを見たウェンディがますます眉を吊り上げた。

 

「ベッカにさわらないで、私のなんだから!!」

 

「ええ~、君だけずるいなぁ。ちょっとくらいならいいじゃないか」

 

「ちょっとじゃない!ぜんっぜん、ちょっとじゃない!!さっさとはなして!!ゆびいっぽんふれるのもダメ!!」

 

ウェンディが怒鳴りながら、レベッカからエヴァンを引き離そうとする。

 

「にぎやかになりましたねぇ」

 

トゥルーはそれを止めることなく微笑みながら見つめていた。

 

喧嘩をしつづけるウェンディとエヴァンの間で、レベッカが一人でオロオロしていたその時、タチアナとクリストファーが戻ってきた。

 

「何をしているんだい」

 

クリストファーが呆れたような顔で声をかけてくる。

 

「お兄様、このふわふわバカがベッカにさわるの!!」

 

ウェンディが憤慨したようにそう言って、クリストファーは苦笑した。

 

「ウェンディが元気になって本当によかった……」

 

ふとクリストファーと目が合う。レベッカを見たクリストファーは、奇妙な顔をした。どう形容していいか分からない、不思議な表情だ。しかし、レベッカがその意味を考える前に、クリストファーは再び笑顔を浮かべた。

 

「――そろそろ屋敷に帰ろうか」

 

「えっ、もうかえれるの?」

 

「ああ。これ以上迷惑をかけるわけにはいかないからね」

 

クリストファーは再びタチアナに向き直った。

 

「お礼の方はまた改めて」

 

タチアナは腕を組ながら、無言で肩をすくめた。

 

「レベッカ、ウェンディ、帰る準備をしておいで」

 

「は、はい」

 

レベッカは慌てて自分の荷物を準備するために立ち上がった。

 

全ての準備が終わり、レベッカはウェンディと共にタチアナの家から外に出た。

 

「“転送”の準備をしてくるから、待ってて」

 

エヴァンがそう言って、魔法の準備を始めた。

 

「トゥルー、君は一緒に帰らなくていいのかい?」

 

クリストファーにそう声をかけられたトゥルーは微笑みながら頷いた。

 

「はい。ちょっとやり残した事がありますので。私の事はお気になさらず、お戻りください」

 

何をやり残したんだろう?とレベッカが考えていると、今度はタチアナがトゥルーの隣で口を開いた。

 

「――私や、ローレンの事は、外で話さないように。うるさい人間に、存在を知られたくはないからの」

 

「ええ、それはもちろん」

 

クリストファーはしっかりと頷いた。

 

レベッカはふと後ろを振り向き、小さな家を見つめる。ここで、随分と長い時を過ごしたような気がした。

 

「ベッカ」

 

名前を呼ばれて、隣に視線を向ける。ウェンディがニッコリ笑っていた。

 

「ベッカ、かえろ」

 

そして、レベッカの手に小さな手を重ねた。

 

「私たちのやしきへ、かえろう」

 

レベッカはウェンディに微笑み返す。

 

「はい、お嬢様」

 

そして、その小さな手をギュッと握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4人が帰った後、トゥルーとタチアナは部屋のソファで向き合って座りながら、お茶を飲んでいた。

 

「お姉様」

 

「あ?」

 

「よろしかったのですか?彼女に言わなくて」

 

「……なんのことじゃ?」

 

タチアナが冷静に言葉を返す。トゥルーは一口お茶を飲み、言葉を続けた。

 

「――彼女は気づいていないようです。きちんと指摘するべきだったのでは?」

 

「何が?」

 

「……」

 

トゥルーはお茶のカップをテーブルに置くと、タチアナをまっすぐに見つめ言葉を紡いだ。

 

「――ウェンディちゃんにかかった呪いを、限りなく完成に近づけたのは、レベッカさんですね」

 

「……」

 

タチアナはトゥルーの問いかけに、答えるのを拒否するようにしばらく無言だった。しかし、トゥルーの目をチラリと見返して渋々口を開いた。

 

「――想像でしか、ない。真実は、誰にも分からない」

 

タチアナは大きくため息をつき、言葉を重ねた。

 

「……元々、ハイディという娘がかけた呪いは、ハイディ自身の魔力が弱すぎて、完全には呪いをかけきれなかった。その結果、伯爵令嬢の命を奪わずに、痣だけを身体に刻み込ませる形となったんじゃろうな……まあ、長い年月をかけて、少しずつ痣は身体を侵食しておったようじゃが……」

 

トゥルーが顔を伏せながら口を開いた。

 

「それを、レベッカさんの魔力が呪いを補助してしまう形になったんですね。そして、短期間で呪いの力は増大し、完成に近づいてしまった……」

 

タチアナが小さく頷いた。

 

「あのメイド―――レベッカは、伯爵令嬢の専属の使用人だったようじゃな。恐らくは一番近くにいた人間じゃろう……呪いの核がレベッカの魔力を少しずつ吸い取っていたんじゃ。多分、元々、ハイディとレベッカの魔力は、僅かに波長が合っていたんじゃろうな……運が悪かった。普通は魔力を吸い取られると、身体も衰弱していくが……レベッカの魔力があまりにも膨大すぎたのじゃろう。その結果、魔力を吸い取られても、レベッカの身体は変調を来さず、レベッカ自身もその事に気づかなかった。想像でしかないがな」

 

「いいえ。その考えは、恐らく当たっています」

 

トゥルーが少し顔をしかめた。

 

「だからこそ、レベッカさんが呪いの核に触れた時、突然呪いが弱体化したのでしょう。……レベッカさんが無意識に、吸い取られた自分の魔力を取り戻したんですね」

 

タチアナは顔を伏せて、ゆっくりとそれに答えた。

 

「――私たちの想像にしか過ぎない。何も、証拠はない。この考えが合っていたとしても……レベッカが意図的にしたわけではない。それに……呪いを完成に近づけたのはレベッカじゃが……呪いを解いたのもまたレベッカ自身じゃ」

 

「――なんて、すごい魔力」

 

トゥルーが天井を仰いだ。

 

「ああ、もう、なんて羨ましい……一度研究してみたい……」

 

そうこぼしつつ、再びタチアナに顔を向けた。

 

「――レベッカさんに言わなくてよかったのですか?」

 

「口止めされた」

 

その言葉に、トゥルーは目を見開いた。

 

「口止め?」

 

「ああ。あの青年――クリストファーに、な」

 

「えっ」

 

「……さっき説明したら、黙っているよう頼まれたんじゃ。レベッカには、話さないでほしいと。恐らく、話したらレベッカは責任を感じて、離れようとするだろうから……それは絶対に避けたいそうじゃ」

 

タチアナの脳内を先程会話した時の、クリストファーの声が響く。

 

 

 

『レベッカは命を懸けて、妹を助けてくれた。僕は無力だった。妹が苦しんでいるのに、何も出来なかった。でも、レベッカは身を挺して、妹のために戦ってくれた。レベッカが原因だとしても、その事実は変わらない』

 

『それに、レベッカは、ずっとずっと前から妹の心を救ってくれている』

 

『もう、呪いは消えた。もう、妹が苦しむことはない。だから、どうか言わないでください』

 

 

 

タチアナはゆっくりと息を吐き、再びお茶を口にした。

 

トゥルーが少し複雑そうにタチアナを見つめる。しかし、結局何も言わずにゆっくりとソファに身を沈めた。

 

沈黙がその場を支配する。やがて、トゥルーは気を取り直したようにソファから体を起こすと、身を乗り出した。

 

「ところで、お姉様、まだ聞いていないことがあるんですけど」

 

「――まだ何かあるのか?そろそろ休みたいんじゃが」

 

億劫な様子のタチアナに構わず、トゥルーは立ち上がる。そのままタチアナの後ろへと回った。ゆっくりと細い肩に手をかける。タチアナが顔をしかめながらトゥルーの顔へと視線を向けた。

 

「……なんじゃ?」

 

「あの人、ローレンさんとはどのようなご関係ですか?」

 

トゥルーの言葉に、タチアナはギクリと肩を震わせた。その反応を見たトゥルーが顔を強張らせる。

 

「やっぱり!何か怪しいと思ってたんです!!どういう関係ですか?まさか、まさか元恋人とか――」

 

「んなワケないじゃろう!」

 

タチアナが怒鳴り、頭を抱えた。トゥルーは唇を尖らせながら、言葉を続ける。

 

「でも、でも、なんだかすごく親密そうだったじゃないですか!お姉様との距離が近かったし……」

 

「だから、ちがう!」

 

タチアナはうんざりしたようにため息をつき、口を開いた。

 

「奴とは……一時期一緒に住んでいた」

 

「いっ、い、い、一緒に?住んでたぁ?や、やっぱり――」

 

「だから、ちがう!奴は……昔から弟みたいな存在で……祖母を亡くした時、私が精神的に少し不安定になって、体調を崩して……それを心配して、しばらくここに住み、面倒をみてくれたというだけじゃ。断じて、そんな関係になったことはない!!」

 

タチアナがキッパリとそう言って、トゥルーは不安そうな顔で首をかしげた。

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「本当の本当?」

 

「しつこいな。本当だと言っているじゃろう。そもそも、――奴は妻と息子がおるぞ」

 

「えっ」

 

トゥルーは驚いて声を出した。そのままタチアナの顔を見つめる。やがて安心したようにゆっくりと後ろからタチアナを抱き締めた。

 

「ああ、もう、よかったぁ……私、本当に不安で……」

 

「はいはい」

 

タチアナが呆れたような様子でトゥルーから身体を離し、そのまま立ち上がった。

 

「茶を新しく入れるぞ。お前も飲むか?」

 

湯を沸かす準備をする後ろ姿を、トゥルーはしばらく無言で見つめる。やがて、ゆっくりと口を開いた。

 

「いえ、……おかわりは、結構です。私も学園に戻ります」

 

「えっ」

 

驚いた様子でタチアナは振り返る。トゥルーはフッと息を軽く吐いて言葉を続けた。

 

「お姉様もお疲れのようですし、私がここにいては迷惑でしょう?ですから、帰ります。失礼しました」

 

トゥルーはそう言ってクルリと背を向けた。そのままスタスタと歩いて、部屋から出ようとする。しかし、突然後ろから引っ張られて、ピタリと立ち止まった。振り返ると、部屋から出ようとするトゥルーの服を、タチアナが掴んで、止めていた。

 

「何ですか、お姉様?」

 

「……」

 

タチアナが顔を伏せ、何かをボソボソと呟く。トゥルーがタチアナの顔を覗き込むようにしながら、言葉を重ねた。

 

「そんな小さな声では、聞こえないんですけど?」

 

トゥルーの言葉に、タチアナは顔を上げる。その顔は真っ赤に染まっていた。

 

「――迷惑なんて、言ってない」

 

タチアナの囁くような声に、トゥルーは冷静な顔で言い返した。

 

「……それで?」

 

「――別に、今すぐ帰る必要はないじゃろう」

 

「……」

 

「……」

 

トゥルーが無言でタチアナを見つめる。タチアナもまた無言でその顔から視線をそらす。やがて、再び顔を伏せ、ようやく小さな声を出した。

 

「……お前と、一緒に過ごしたい」

 

その言葉を聞いたトゥルーがニッコリ微笑んだ。

 

「ああ、そんな可愛い顔されたらたまらないですよ、もう」

 

そのままソファにタチアナを押し倒す。タチアナは真っ赤な顔のまま顔をしかめた。

 

「うるさい」

 

「うふふ、お姉様、耳まで真っ赤」

 

「うるさいうるさいっ」

 

大きな声を出すタチアナを、クスクスと笑いながらトゥルーは見下ろす。

 

そして、その唇を塞いで黙らせた。

 

タチアナは一瞬目を見開いたが、すぐに目を閉じてそれを受け入れた。やがて、トゥルーは唇を離し、優しく微笑みながら口を開いた。

 

「どうして機嫌が悪かったんですか?」

 

「――お前が、男を連れてここに来たから」

 

「ああ……ヤキモチでしたか」

 

トゥルーが納得したように何度も頷き、そしてまたクスクスと笑い出した。

 

「私と同じじゃないですか」

 

タチアナが拗ねたように唇を尖らせる。

 

「……仲がよさそうに、していた」

 

「もう、私はお姉様一筋です~」

 

その言葉に、タチアナは思わず唇を緩める。

 

トゥルーはその様子を見て、幸せそうに微笑む。そして、その赤い唇に、再びキスを落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






裏設定

※タチアナ・ミューラー

“失われた民”の子孫。元々、彼女の先祖は“水”に関連する魔法を得意としていた一族。独特の言葉遣いをするのは、高齢の祖母と暮らしていたため、それが移ってしまった。現在は、祖母も亡くなり、小さな村の近くで1人で静かに暮らしている。家にはたくさんの先祖の残した本や道具があるが、掃除や後片付けが苦手で、どこに何があるのか把握していない。魔力自体はそれほど高くないが、技術は高い。普段は薬を作り、それを村に売ることで生活をしている。
素っ気ない態度をとるが、なんだかんだでトゥルーの事が一番好き。意外と愛が重くて面倒くさいタイプ。






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祈り

 

 

 

「ああ、レベッカ!レベッカ!!よかった~、おかえりなさい!!」

 

伯爵家に到着し、屋敷へ入るとすぐにキャリーが駆け寄ってきた。

 

「キャリーさん!ただいま戻りました。すみません、仕事を休む形になってしまって……」

 

「ううん!いいの。レベッカが無事で本当によかった!!」

 

キャリーは安心したようにレベッカに軽く抱きついてきた。それを隣のウェンディがムッとしたように睨む。

 

「あ、キャリーさん……」

 

ふとキャリーの服装に目を留めて、思わず声をあげた。キャリーは黒いワンピースを身につけていた。レベッカの視線に気づいたキャリーは身体を離し、軽く頷く。

 

「大変だったの……とても……」

 

その時、リードに上着を渡しながら、クリストファーが声をかけてきた。

 

「レベッカ、少し休んでおいで」

 

「え、しかし……」

 

「仕事なら大丈夫。君はずっと頑張ってくれたから……休むことが必要だ」

 

その言葉にレベッカは少し迷ったが、結局は頷き頭を下げた。

 

「ありがとうございます……」

 

「私も、ベッカとやすむ!」

 

ウェンディが大きな声をあげてレベッカの手をにぎる。しかし、それをクリストファーが止めた。

 

「ウェンディには、少し話があるんだ。だから、僕の部屋に行こう」

 

「おはなし?」

 

「うん。大事な、大事な話」

 

その言葉に、ウェンディは渋々レベッカから手を離した。レベッカは苦笑しながら、再度頭を下げた。

 

「それでは、失礼いたします」

 

そう言いながら、荷物を一緒に持ってくれたキャリーと共に部屋へと向かう。

 

その姿を、クリストファーはエヴァンと共に見送った。

 

「クリス……彼女は……」

 

エヴァンが何かを言おうとする。しかし、言葉を続ける前に、クリストファーはエヴァンに鋭い視線を向け、無言で首を横に振った。そして、唇に人差し指を立てる。

 

「――頼む、エヴァン」

 

クリストファーの小さな声に、エヴァンは複雑そうな顔をしながらも口を閉じた。それをウェンディは不思議そうな顔で見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レベッカはキャリーと共に階段を上りながら小さな声で会話を続けた。

 

「――それでは、葬儀は終わったんですか?」

 

「うん……伯爵が亡くなった状況がアレでしょ……正直不名誉すぎるから……クリストファー様もあまり大事にしたくなかったみたい」

 

キャリーの話によると、伯爵の葬儀はクリストファーが中心となりひっそりと開かれたそうだ。一応は数人の貴族が葬儀に訪れたようだが、小規模で寂しい葬儀だったらしい。レベッカはふと疑問を抱き、キャリーに問いかけた。

 

「――伯爵夫人はどうされたんですか?」

 

「昨日まではいたわよ、流石に。クリストファー様といろいろ話した後に、どこかに行っちゃった」

 

「えっ、自分の夫が亡くなったのに?」

 

「もう愛情なんか無いんでしょ」

 

キャリーが吐き捨てるようにそう言って、レベッカも顔をしかめた。母親だというのに、ウェンディの事はどうでもいいのだろうか、と考え大きなため息をつく。キャリーがレベッカを慰めるようにポンポンと肩を叩いた。

 

「レベッカ、大丈夫?」

 

「はい。なんだか、いろんな事が起こりすぎて、ちょっと混乱しそうで……」

 

「まあ、突然の事だったしね……無理ないわ」

 

ふと、キャリーはレベッカが手に持つ大きな箱に視線を向けた。

 

「そういえば、その箱は何が入ってるの?」

 

「あ、……ええっと、……いろいろ、です」

 

《アイリーディア》の剣の事をどう説明すればいいのか分からず、曖昧に笑って誤魔化すと、キャリーは不思議そうな顔で首をかしげた。その時、ようやくレベッカは重要な事を思い出し、思わず足を止めた。

 

「……あ」

 

「ん?どうしたの?」

 

キャリーも立ち止まり、不思議そうな顔で声をかけてくる。

 

「……まずい」

 

失念していた。この剣を使えたという事の意味を。今の今まで、すっかり頭から抜けていた。自分のバカさ加減に頭が痛くなる。どうしよう。

 

この剣を使用できた事に関して、特に誰にも何も言われていない。でも、絶対に怪しまれているはずだ。今更ながら、レベッカは冷や汗を流した。クリストファーもエヴァンもトゥルーも、誰も詮索してこないが、どう思っているのだろう。

 

「……どうしよ」

 

レベッカは一瞬後ろを向いて、クリストファーの元へ戻ろうとしたが、

 

「……うう」

 

余計なことを言ったら、自分で自分の首を絞めることになるような気がして、思わず呻いた。その場で思い悩み、考えあぐねつつ、剣の入った箱を抱えオロオロと動く。

 

突然挙動不審になったレベッカを、キャリーは不思議そうに見つめながら声をかけた。

 

「レベッカ?どうしたの?何かあった?」

 

「……」

 

レベッカは無言で片手で頭を抑えた。しかし、

 

「……何でもありません」

 

結局そう答え、再び箱を両手で持ち直した。

 

クリストファーもエヴァンも何も言ってこないのだから、自分から余計なことを言うのはやめよう。きっと大丈夫。大丈夫のはずだ、多分。そう自分に言い聞かせながら、キャリーに弱々しく微笑んだ。

 

「キャリーさん、すみません。早く部屋に行きましょう」

 

「?うん」

 

キャリーが不思議そうな顔で頷く。レベッカは心の中で、大丈夫、大丈夫、と暗示のように自分に繰り返し言い聞かせた。

 

「あっ、そうそう!お嬢様の呪いが解けたらしいわね!何があったの?聞かせて!!」

 

「あ、えっと……」

 

レベッカはキャリーにどう説明しようかな、と思考を巡らせる。根っから呑気で楽観的なレベッカは、もう剣の事について考えるのを停止した。

 

後に、レベッカはこの時深く考えるのをやめたことを大きく後悔することになる。しかし、この時のレベッカはそんなことを知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の夜、レベッカの部屋の呼び鈴が鳴った。レベッカは久しぶりに聞いたその音に、クスリと笑ってベッドから立ち上がる。予想通りだ。

 

事前に用意していたミルクの瓶を手に持ち、自室から外へと出た。

 

「失礼します」

 

ノックをして部屋に入ると、ウェンディがベットの上に座り、レベッカを待っていた。

 

「ベッカ、待ってた」

 

「はい、お待たせしました」

 

レベッカは優しく微笑むと、ミルクの瓶をウェンディに見せた。

 

「ご用意しますね、ホットミルク」

 

しかし、ウェンディは首を横に振った。

 

「今日は、いい」

 

「え?よろしいんですか?」

 

「うん」

 

ウェンディはスッと両手を前に向けた。

 

「ベッカ、こっちきて」

 

「はい?」

 

「いいから、はやく」

 

首をかしげながら、ウェンディに近づく。レベッカが近づくと、ウェンディは勢いよくレベッカに抱きついてきた。

 

「お嬢様……?」

 

レベッカの胸に顔を埋め、ウェンディは瞳を閉じる。レベッカはその小さな身体をそっと抱き締めた。

 

「……おとうさま、なくなったんだって」

 

小さな声が聞こえて、レベッカは短く答えた。

 

「はい」

 

どうやらクリストファーが昼間にウェンディにきちんと話をしたらしい。

 

ほとんど接することがなかったとはいえ、やはり喪失感はあるのだろう。ウェンディの表情はどこか沈んでいた。レベッカは何も言わずにウェンディの背中を優しく撫でた。

 

やがて、ウェンディが身体を離して、レベッカの手を取る。そして、自分の頬に手を当てさせた。

 

「ふしぎなの……おとうさまが、いないなんて、へんなかんじ」

 

「……はい」

 

「……ベッカは、いなくならない、よね?」

 

その不安そうな声に、レベッカは大きく頷いた。

 

「もちろんです」

 

「ほんと?」

 

「はい。どこにも行きません」

 

その答えに、沈んでいたウェンディがホッとしたように息をつく。そして、レベッカに手を伸ばすと、その両手をギュッと握った。

 

「あ、あのね、あのね、ベッカ」

 

「はい?」

 

「それじゃあね……わた、くし、私と……そ、そい……」

 

「ん?」

 

「そ、そい、……えっと……そ……?」

 

ウェンディが何かを言おうとして、首をかしげた。どうやら言葉が出てこないらしい。

 

「お嬢様、何ですか?」

 

「あのね、いいたいことばが、あるの……ずっと、いいたかった、むずかしいおことば……そ、そ……」

 

「そ?」

 

「んっと……そ、……いっしょ……?」

 

レベッカはきょとんとしたが、やがて微笑みながらウェンディに声をかけた。

 

「あ、もしかして、これからも一緒にいたいって言いたいんでしょうか?」

 

「う……うんん?……?」

 

ウェンディは少し腑に落ちないような顔をしたが、結局頷いた。

 

「そんなかんじ!」

 

と言って、レベッカに微笑み返した。レベッカは小さく頷き、口を開いた。

 

「はい、お嬢様。ずっと一緒です。お嬢様が望む限り、離れません」

 

ウェンディがパッと顔を輝かせる。そして、そのまま身を乗り出してきた。

 

「お嬢様……?」

 

ウェンディは戸惑うレベッカに構わず、額にそっとキスをした。

 

「えっ」

 

レベッカが思わず額を押さえる。顔が赤くなるのが自分でも分かった。唇が触れたところが、熱い。

 

「んふふっ」

 

ウェンディは口元に両手を持ってきて、照れたように笑った。

 

「お嬢様……」

 

レベッカは口を開いたが、何も言えずにただ苦笑する。そんなレベッカにウェンディは再び抱きついてきた。

 

「ベッカ、だいすき!ずっといっしょにいる!」

 

「……はい」

 

レベッカは再び小さな身体を優しく抱き締める。

 

その姿を、空に浮かぶ月だけが見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その頃、タチアナの家にて。

 

タチアナとトゥルーの2人はベッドに横たわり、言葉を交わしていた。

 

「あーあ、やっぱりあの剣は私が欲しかったです~」

 

「……まだ言っているのか」

 

「研究してみたくって……」

 

「無理じゃろ……あの剣はレベッカを持ち主として選んだのじゃから」

 

トゥルーは拗ねたような顔をしながら、タチアナを抱き締めた。

 

「代わりにお姉様が慰めてください」

 

「疲れたし、眠いから嫌じゃ」

 

「もう!少しだけですから~」

 

タチアナが拒否するようにトゥルーに背中を向ける。しかし、トゥルーは楽しそうな様子でタチアナの肩に軽く口づけた。

 

「しつこい」

 

「えへへ」

 

ふと、トゥルーはあることを思い出し、タチアナに声をかけた。

 

「そういえばぁ、ウェンディちゃんにすごいことを聞かれたんですよ」

 

「――ああ、そういえば、お前達、妙に仲良くなっておったの」

 

「うふふ、お友達になっちゃいました」

 

タチアナは、トゥルーにバレないよう、こっそりムッとした。

 

「……それで?何を聞かれたんじゃ?」

 

「うふふ」

 

トゥルーは楽しそうに笑いながら言葉を重ねた。

 

「お姉様と私は結婚しているのか?ですって!!」

 

「……」

 

「あの子には私達がそんなふうに見えていたんですねぇ~」

 

「……」

 

タチアナは無言だったが、その耳は真っ赤に染まっていた。トゥルーはクスリと笑いながら、後ろからタチアナを抱き締めた。

 

「――それで?」

 

「はい?」

 

「それで、お前は、何と答えたんじゃ?」

 

タチアナの問いかけに、トゥルーはニッコリ笑って大きな声で言葉を紡いだ。

 

「もちろん、こう答えましたよ!……“一生を添い遂げたい相手なんですよ”って!!」

 

トゥルーの言葉に、タチアナはモゾモゾと動き、声を出した。

 

「……ふーん」

 

トゥルーはその真っ赤な耳に軽く口づけをする。すぐに首をかしげて、言葉を続けた。

 

「ちょっと難しい言葉だったから、ウェンディちゃん、理解できなかったみたいで……でも、意味を説明したら、なんだかウェンディちゃん、顔がすごく輝いていたんですよね~。何だったんでしょうか?」

 

「……」

 

タチアナは、レベッカにベッタリと甘えるウェンディの姿を思い出した。トゥルーに何かを言おうとして、口を開く。しかし、

 

「さあな……」

 

タチアナは結局それだけを呟く。

 

そして、トゥルーの柔らかい唇の感触を背中に受け入れながら、ゆっくりと瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日後、新しくコードウェル家の当主になったクリストファーにレベッカは呼び出された。

 

内心ビクビクしながらクリストファーの部屋に入ると、クリストファーは穏やかな顔で迎えてくれた。

 

「やあ、レベッカ。今日は話があってね」

 

「は、はい……何でしょうか?」

 

もしかして、《アイリーディア》の剣を使ったことに関して何か言われるかもしれない、とレベッカがオドオドしながらクリストファーを見ると、クリストファーはレベッカを安心させるように朗らかに笑った。

 

「お礼をしたいんだ」

 

「え?」

 

「ウェンディを助けてくれた事、本当に感謝している。君にお礼をしたいんだ。何か欲しいものはあるかい?何でも言ってくれ」

 

「えーと……」

 

「君が望むことなら、何でもしよう」

 

レベッカは困惑しながら、その場で考えこむ。

 

「うーん……」

 

正直、今欲しいものはない。でも、きっとクリストファーは善意で言ってくれたのだろう。それを断るのも、なんだか悪いな、と思いながら首をひねり、そして声を出した。

 

「あ、それでは……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その翌日、レベッカはクリストファーやリードと共に小さな村を訪れた。

 

「すみません、ここまで連れてきてもらって……」

 

「いや、いいよ。僕も一度来なければと思っていたし」

 

クリストファーが少し顔を強張らせる。レベッカは用意してきた大きな花束を抱え直した。

 

レベッカがクリストファーにお願いしたのは、ハイディとポーレ姉妹が住んでいた村を訪ねる事だった。失意のうちに亡くなった2人のために、改めて祈りを捧げたかったためだ。

 

ちなみにウェンディは屋敷で留守番をしている。

 

幼いウェンディは、呪いが解けたことは認識しているが、その詳細をまだ知らない。父親の所業が絡んでいるため、もう少し成長してから、クリストファーから改めてきちんと説明するらしい。ウェンディは最後までレベッカと一緒に行くと我が儘を言ったが、それをなんとか振り切ってここまでやって来た。

 

クリストファーとリードの後に続いて村を歩き、目的地へと向かう。村の人間は、レベッカ達を不思議そうに見てきたが、声をかけられることはなかった。村を抜け、奥へどんどん歩いていくと、やがて大きな湖が見えてきた。

 

「……ここ、ですか」

 

「うん」

 

レベッカの問いかけに、クリストファーが短く答える。ここが、ポーレが飛びこんだという湖なのだろう。静かだが、人気がなくて寂しい所だった。

 

「……もっと早く来るべきだった。ウェンディの事で、頭がいっぱいで……ここに来ることを思いつきもしなかった。僕も、最低だな」

 

クリストファーが沈んだ声でそう言って、リードが慰めるようにその肩に手を置いた。

 

「……申し訳なかった。どんなに謝っても、許されることではないが……どうか、安らかに」

 

クリストファーがその場に膝をついて祈りを捧げる。レベッカもまた、湖のそばに花束を置いて、ハイディとポーレのために祈った。

 

「……坊っちゃん、そろそろ」

 

しばらく祈りを捧げたあと、リードが声をかけてきた。クリストファーは軽く頷き、立ち上がる。

 

「……行こう、レベッカ」

 

「はい」

 

レベッカも頷いて、立ち上がった。クリストファーとリードに続いて湖へと背を向ける。

 

その時だった。

 

微かに、後ろから声がした。2人の少女の笑い声だ。

 

「え……」

 

レベッカはその声に反応して、振り向く。そして、大きく目を見開いた。

 

2人の、白銀の少女の後ろ姿が見えた。まるで幻影のように、フワリと湖に浮かんでいる。2人の少女はしっかりと手を繋いでいた。

 

「……あ」

 

思わず声をあげて、目を強く擦る。再び湖に視線を向けるが、2人の少女の姿は既に消えていた。

 

「……」

 

今のは、幻だったのだろうか。

 

「レベッカさん、どうしました?」

 

突然立ち止まったレベッカに、リードが声をかけてきた。クリストファーも不思議そうな顔でこちらを見つめている。レベッカは慌てて2人の方へ顔を向け、声を出した。

 

「あ、あの……」

 

今見たことを、2人に言おうとしたが、

 

「……」

 

口を閉ざして、再び湖へと視線を向けた。空を映した湖は穏やかにキラキラと光っている。レベッカはそれを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「……いいえ、何でも、ありません」

 

もう一度祈りを捧げるように顔を伏せて、目を閉じる。そして、顔を上げると、クリストファーとリードの元へ向かって、走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

また、ここへ来ようと思った。

 

きっと、今度は、ウェンディと一緒に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  【第1部・完】







ここまで読んでいただきありがとうございました。閲覧及びお気に入り登録、評価、しおり、感想をありがとうございます。取りあえずは、切りのいい所で終わらせました。そろそろ完結か、と予想していた方は本当に申し訳ありません。今までのお話は第1部となっています。元々3部構成で考えていました。まだ回収されていない伏線がいろいろと残っていますね。そして、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、プロローグのシーンは、もう少し未来の出来事となっています。来たるXデーのために、今後も少しずつ続けていきます。そして、必ず完結まで頑張ります。更新は不定期になりますが、気長にお待ちください。




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第2部 お嬢様と私の事情
変化




第2部になります。よろしくお願いいたします。










 

 

 

 

--あの人の事を、語ろうと思う。

 

私の愛するあの人の事を。

 

何から語ろうか。

 

最初に知って欲しいのは、あの人が私にとって、人生でただ一人、特別な女性であるという事だ。

 

あの人が私の前から消えた今でも、目を閉じればその美しい姿はすぐに甦る。

 

追憶の中、彼女は一人、丘の上に佇み、空を見つめている。

 

雪のように白い肌、風になびく金髪、真っ直ぐな緑の瞳。

 

あの人の全てが、この脳裏に焼き付いている。

 

私は、決して忘れない。あの人の事を。

 

私の中で、誰よりも特別であり、そして、誰よりも真っ直ぐで気高くて美しい人。

 

 

 

ウェンディ・ティア・コードウェルという女性は、そんな人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《フリーデリーケ・メイルズの手記より一部抜粋》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レベッカさーん!!」

 

コードウェル邸の廊下にて。

 

大きな声で名前を呼ばれて、庭に面した窓を拭いていたレベッカは後ろを振り向いた。

 

レベッカを呼んだのは、最近入ってきたばかりの後輩のメイド、セイディーだった。慌てたようにレベッカの方へと駆け寄ってくる。

 

「セイディー」

 

レベッカは咎めるような声を出した。

 

「廊下を走ってはダメだって何度も言ったでしょう。危ないんだから……」

 

注意するレベッカに構わず、セイディーは早口で言葉を続けた。

 

「メイド長が、お嬢様を探しているみたいなんです!どこにもいなくて……、レベッカさんに聞いてこいって!」

 

「……ああ」

 

レベッカはセイディーの言葉に思わずため息をつきそうになった。

 

「……分かった。探してくるって伝えて」

 

「はい!」

 

セイディーはハキハキと返事をすると、再び小走りでメイド長の所へと行ってしまった。

 

レベッカは少し深呼吸をすると、掃除用具を仕舞った。早足で廊下を進み、外へと出る。広大な庭には美しい花が咲いているが、そちらにも目もくれずに、隅っこにある大きな木の方へと進む。

 

木の下では、小さな少女が膝を抱えて座りこんでいる。レベッカは迷うことなく声をかけた。

 

「お嬢様」

 

レベッカの声に反応して、小さな身体がピクリと動く。

 

「迎えに来ましたよ……戻りましょう」

 

レベッカの言葉に、12歳になったウェンディ・ティア・コードウェルは顔をしかめながらゆっくりと顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェンディの呪いが消えた夜から2年ほど経ち、レベッカの周囲は、様々な事が変化した。

 

ウェンディはレベッカの予想通り、薄い金髪とエメラルドのように美しい瞳が印象的な、可憐な容貌の少女へと成長した。舌足らずだった言葉遣いも、スラスラと発音できるようになってきた。小柄ではあるが、少しずつ身長も伸びてきて、大人へと近づいている。

 

「……迎えにこなくても、よかったのに」

 

唇を尖らせながら、ウェンディはブツブツと声を出した。

 

「別に、ベッカを待ってたわけじゃないもん……」

 

「よくそんなこと言えますね」

 

レベッカは苦笑した。ウェンディは、レベッカがこの時間帯に、庭に面した廊下の掃除をすることを知っている。レベッカが見つけやすいように、ウェンディが庭に隠れたことは明らかだった。

 

「……どうしてそんなに拗ねているんです?」

 

レベッカがウェンディの隣に腰を下ろしてそう尋ねると、ウェンディはプイッと顔を背けながら答えた。

 

「……歴史の勉強とダンスの練習が面倒くさかっただけ」

 

ウェンディの言葉にレベッカは困ったように首をかしげた。

 

現在、ウェンディはクリストファーによって多くの家庭教師をつけられ、いろいろなことを学んでいた。元々呪いのせいで引きこもっていたウェンディは貴族の令嬢としてはかなり教育が遅れている状態だった。一般的な知識から始まり、ダンスや音楽や刺繍、伯爵令嬢としてのマナーや嗜みなど、勉強しなければならないことがあまりにも多く、ウェンディは毎日忙しそうにしていた。

 

「お嬢様、ダンスはともかく、歴史の勉強はお好きじゃないですか」

 

レベッカの言葉に、ウェンディは再び顔をしかめた。

 

「お嬢様、何がそんなに不満なんです?私に話してください」

 

「……」

 

ウェンディはしばらく無言だったが、やがて諦めたように顔を伏せながら、小さく声を出した。

 

「……お兄様が」

 

「クリストファー様が?」

 

「……今日の夜、お話ししたいって頼んだのに……今日もお仕事があって、ダメだって」

 

ああ、とレベッカは納得して頷く。

 

正式にコードウェル家の当主となり、学園を卒業したクリストファーもまた、当主としての仕事が大変らしく、毎日多忙を極めていた。特にここ最近は忙しいらしく、ウェンディと話すどころかほとんど会えない状況が続いている。クリストファー本人もなんとかウェンディと過ごす時間を作ろうとしているようだが、難しいらしく、兄妹の生活は完全にすれ違っていた。

 

「……仕方ないって、分かってるけど……でも、やっぱり、ちょっとくらいお話ししたい」

 

小さく呟くウェンディの頭を、レベッカは慰めるように軽く撫で、口を開いた。

 

「……今夜」

 

「うん?」

 

「今夜、一緒にクリストファー様にお手紙を書きましょうか」

 

「……お手紙?」

 

「はい」

 

レベッカはニッコリ微笑んだ。

 

「直接は難しいかもしれませんが……お手紙で気持ちを伝えてみませんか?前に、クリストファー様が学園生活をしていた時みたいに……お嬢様がお手紙を書いたら、私が渡します。クリストファー様は、必ず読んでくれますよ」

 

その言葉に、ウェンディの顔が少し明るくなった。

 

「そう、かな?」

 

「はい。絶対に」

 

ウェンディはレベッカの言葉に、少し考えた後、大きく頷いた。

 

「うん。お手紙、書く!」

 

「はい」

 

レベッカも微笑みながら頷くと、ようやくウェンディも笑って立ち上がった。

 

「ベッカ、今夜、一緒に便箋選んでね」

 

「はい、もちろん!」

 

「ホットミルクもね」

 

「はい!」

 

「蜂蜜もね」

 

「はい!」

 

「それでね、そのままベッカは私のお部屋にお泊まりね」

 

「はい!――って、いや、ダメですよ、それは……」

 

思わず勢いで頷いてしまったレベッカは慌てて首を横に振った。

 

この2年で、ただ一つ変わらないこと、それはレベッカに対するウェンディの態度だ。相変わらず、隙あらばレベッカに身体をくっつけてきて、ベッタリと甘えたがる。そんなウェンディに困りつつ、押しに弱いレベッカはそれを上手く断ることが出来ないでいた。

 

ウェンディは、レベッカの言葉に今にも舌打ちしそうな表情で腕を組んだ。

 

「――いいじゃない。どうせ何度も私の部屋で寝てるんだから」

 

「それは、お嬢様を寝かしつけていたら、ついそのまま私も眠ってしまったからで……本当は絶対にダメなんですよ!メイド長にバレたら何て言われるか……」

 

「バレないわよ。絶対」

 

「何を根拠にそんな――」

 

レベッカが言葉を続けようとしたその時だった。

 

「レベッカさん」

 

誰かが駆け寄るように近づいてきた。セイディーと同じくレベッカの後輩のメイド、ジャンヌだ。

 

「あ、ジャンヌ……」

 

「メイド長が怒ってましたよ。お嬢様とレベッカさんはどこだって」

 

それを聞いたレベッカは、慌ててウェンディの手を握り、引っ張った。

 

「お嬢様、早く戻りましょう!」

 

「えー……」

 

「さあ、早く!」

 

不満そうな声を出すウェンディを宥めながら、レベッカは屋敷へと入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レベッカがなんとかウェンディを部屋へと戻し、仕事に戻るため、廊下を歩いていたその時だった。

 

「あっ、レベッカ!」

 

大きな声が聞こえて、レベッカは振り向く。そして、パッと顔を輝かせ、声を出した。

 

「キャリーさん!それに……パムちゃん!」

 

レベッカに向かって近づいてきたのは、キャリーと、キャリーが一年ほど前に生んだ娘、パムだった。

 

「こんにちは!久しぶりね」

 

「はい!お元気でしたか?」

 

レベッカは軽く頭を下げながら感激したように声を出した。キャリーは娘を生んで、仕事を休んでいたため、こうして顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。

 

「元気よ。私もこの子も」

 

キャリーがニッコリ笑って、頷いた。

 

レベッカはキャリーの腕の中できょとんとしている小さな女の子に視線を向けた。キャリーの娘、パメラは一歳になる。周囲の人々からパムという愛称で呼ばれている小さな女の子は、大きな瞳をレベッカに向けてきた。レベッカはその可愛らしさに思わず微笑む。どちらかというと父親であるリードに顔が似ているな、と思いながら、キャリーに言葉をかけた。

 

「今日はどうしたんですか?」

 

「仕事の復帰の相談に来たの」

 

「仕事!復帰するんですね!」

 

「もちろん。もう少し落ち着いてからになるけどね」

 

キャリーの言葉にレベッカは頬を緩ませた。

 

「また一緒に働けるのを楽しみにしています!」

 

「ええ、私も!」

 

キャリーも嬉しそうに微笑む。

 

「それじゃあ、正式に決まったらまた知らせるから、よろしくねー」

 

そう言いながら、キャリーは手を振りつつ立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢様って、レベッカさんの前だと全然違いますよね」

 

「うん?」

 

夜、仕事が一段落し、レベッカがお茶を飲みながら休憩していると、突然セイディーが話しかけてきた。

 

「違うって?」

 

「えーと、お嬢様って、ボクやジャンヌが話しかけるとほとんど口を開かなくて……ホント、必要最低限の事しか話してくれないんですよ。でも、レベッカさんの前だと違うなーと思って。ねえ?」

 

セイディーが隣のジャンヌに同意を求めるように視線を向けた。ジャンヌも同意するように軽く頷きながら、答える。

 

「……口数が少なくて、顔もほとんど無表情ですしね」

 

「あっ、そういえば、ボク、お嬢様の笑った顔、見たことないよ!」

 

セイディーが思い出したように声を上げて、ジャンヌも頷いた。

 

「ううーん……」

 

レベッカはカップの中のお茶を見つめながら、少し笑って言葉を続けた。

 

「……いろいろ、あったから……難しい方なの……でも、笑うとね、すごく、すごく可愛らしいのよ。まるで天使みたいに――ううん、天使よりずっと、ずーっと可愛いの」

 

レベッカの言葉に、セイディーとジャンヌは顔を見合わせた。

 

「いろいろって、何が――」

 

セイディーがレベッカに声をかけてきたが、レベッカは時計を確認して、慌ててお茶を飲み干して立ち上がった。

 

「ごめん、私、そろそろ行かなくちゃ。じゃあ、また明日ね!」

 

まずい。気づいたら、ウェンディとの約束の時間を少し過ぎていた。きっとウェンディは苛々しているはずだ。レベッカは焦りながら、バタバタと部屋を出ていく。残されたセイディーとジャンヌは、首をかしげながらその後ろ姿を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遅かったじゃない」

 

ウェンディの部屋に入ると、ウェンディは鋭い視線を向けてきた。

 

「すみません、お嬢様……」

 

レベッカは慌てて頭を深く下げる。ウェンディはその姿を見ながら立ち上がると、レベッカの方へと素早く近づいてきた。

 

「本当に反省しているのかしら?」

 

「もちろん――」

 

「じゃあ、体で示して」

 

その言葉に、レベッカは顔を上げる。ウェンディはレベッカの顔を眺めながら、楽しそうに口を開いた。

 

「ベッカ、私を抱き締めなさい」

 

その言葉に、レベッカは困ったように眉を寄せた。

 

最近ウェンディが自分を抱き締めるよう要求することが増えてきた気がする。

 

「……あの」

 

「聞こえなかった?私を、抱きなさい」

 

「……」

 

「早く」

 

レベッカは諦めたようにため息をついた。その場に跪き、ウェンディをそっと抱き寄せる。

 

「もう、仕方ありませんねぇ」

 

別に抱き締めるだけなら構わない。しかし、ウェンディも、もう12歳になったのだから、少しレベッカに甘えすぎているような気がするのだ。結局甘えられるままに、いつも抱き締めてしまう自分も悪いのだが。

 

レベッカが抱き締めると、ウェンディは胸に顔を埋め、大きく息を吸った。そのまま頬擦りをしてくる。そして、幸せそうな声を出した。

 

「やっぱり、こうしてると落ち着く……」 

 

「……それは、ありがとうございます……?」

 

なんで私はお礼を言ってるんだろう、とレベッカは思わず頭を抱えそうになった。

 

「ベッカ、もうちょっと、ギュッてして」

 

「え、はい……」

 

ウェンディの言葉に、腕に軽く力を込めた。そのまま安心させるように背中を撫でる。ようやくウェンディは満足したように身体を離した。

 

「ありがとう、ベッカ」

 

「……はい」

 

「んふふ」

 

ウェンディは声に出して笑うと、そのままレベッカの頬に軽く唇を押し当ててきた。レベッカは驚き、すぐに何とも言えない表情で、頬に触れる。ウェンディは頻繁にレベッカの頬や額にキスをしてくる。親愛のキスだとは分かっているが、何度もされると不思議な気分になるのだ。レベッカが頬に触れながら、困ったように眉を寄せていると、ウェンディは悪戯っぽく自分の唇に人差し指を当てた。

 

「唇の方がよかった?」

 

ドキリと心臓が揺れるのを感じた。それを隠すように、レベッカは冷静に言葉を返した。

 

「……ご冗談を」

 

その答えにウェンディはつまらないとでも言いたげに、唇を尖らせた。

 

「それより、お嬢様、お手紙を書くんですよね?そろそろ始めましょう」

 

「……はーい」

 

ウェンディが机へと向かい、便箋やペンやインクを取り出す。その姿を見て、レベッカは声をかけた。

 

「あれ?お嬢様、タイプライターは使わないんですか?」

 

テーブルの近くには、クリストファーがかつてプレゼントしたタイプライターがある。しかし、それを手に取る様子がないため、レベッカは首をかしげた。ウェンディはやや言いにくそうに口を開いた。

 

「……いや、あれは……まあ、別にあれを使ってもいいけど……手紙って、やっぱり手書きの方がいいかなって思ったの」

 

「ああ、なるほど」

 

レベッカはウェンディの言葉に微笑んだ。

 

「それじゃあ、文章を考えましょうか」

 

「あ、その前にミルクお願い」

 

「承知しました」

 

レベッカは軽く頭を下げ、ホットミルクの準備を始める。そんなレベッカの姿を、ウェンディは幸せそうな顔で見つめていた。

 

 

 

 

 

 






閲覧及びお気に入り登録、評価、感想をありがとうございます。感想に返事ができず、申し訳ありません。

第1部から少し時間が飛んで、主人公とお嬢様も成長しました。

今後もよろしくお願いいたします。




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噛み痕

 

 

 

 

声が聞こえる。

 

 

 

 

 

『馬鹿娘が。魔法しか取り柄がないんだから、少しくらいは役に立て』

 

『本当に、つまらない子ね』

 

『ちょっと魔力が強いからって、調子に乗るな』

 

『お前なんか生まれなければよかったのに』

 

『早く消えてくれない?』

 

 

 

ああ、こんなこと、聞きたくない。

 

 

 

全部全部、壊れてしまえばいいのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バコン、と。

 

突然の衝撃がレベッカを襲った。

 

「痛い……」

 

呻くように声を出す。気がつくと、レベッカは床に横たわっていた。窓からは朝の柔らかな光が差し込んでいる。額に強い痛みを感じながら、ゆっくりと身体を起こした。どうやら、寝ている間に、ベッドから落ちてしまったらしい。

 

「うぅ……嫌な夢見た……」

 

レベッカは顔をしかめながら、額に手を当てた。そのまま気持ちを切り替えるため、軽く自分の頬を叩く。

 

さっさと着がえて、仕事に行かなければ。

 

深呼吸をしてから、素早く用意していたメイド服を身につけた。

 

「えーと、今日は午後から外の掃除しないといけないし……念のため上着を持っていこうかなぁ……」

 

レベッカはブツブツとこぼしながら、服を収納しているクローゼットを漁った。

 

「えーと、上着は……」

 

その時、クローゼットの隅っこに隠すように収納している大きな箱が目について、レベッカは思わずハッとした。ゆっくりとそれを取り出す。魔法の剣、《アイリーディア》が入っている箱だ。正直使うことは全くないため、箱から取り出すことはなく、眠っている状態だった。

 

「壊れてないよね……?」

 

取り出したついでに、確認のために箱を開ける。細長い剣が姿を現した。こうしてきちんと見るのは久しぶりだ。

 

改めてよく見ると、美しい剣だった。真っ直ぐで透き通るような剣身が輝いている。よく見ると、鍔の部分には小さな水色の石が埋め込まれていた。

 

「……ごめんね、《アイリーディア》……使ってあげられなくて」

 

ポツリと剣に向かって謝る。しばらく剣を見つめていたが、やがて仕事の時間が近づいていることに気付き、慌てて剣を箱に入れて、クローゼットの奥に突っ込む。

 

「いけない、遅刻しちゃう」

 

そして、慌てて部屋から飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廊下を歩いてウェンディの部屋へと向かっていたその時、ちょうどどこかに行こうとしているジャンヌに出会った。

 

「レベッカさん、おはようございます」

 

「おはよう、ジャンヌ」

 

「額が赤いですけど、どうされました?」

 

「あ、ちょっとね……」

 

レベッカは曖昧に笑うことで、誤魔化した。

 

「あれ?セイディーは?」

 

レベッカが問いかけると、ジャンヌは淡々と答えた。

 

「今日は洗濯の担当らしくて……、私も手伝ってきます」

 

ジャンヌは軽く頭を下げると、足早に去っていった。

 

「仲良しだなぁ……」

 

そんなジャンヌの後ろ姿を見送りながら、レベッカはポツリとこぼした。いつも元気いっぱいで子犬のようなセイディーと、冷静沈着で真面目なジャンヌは、幼馴染みという間柄で、仲良く一緒に行動することが多い。性格は全然違う2人だが、妙に気が合うらしく、仕事中にじゃれあっている姿を見かけることも多かった。

 

「さて、私も仕事しなきゃ……」

 

その時、後ろから声をかけられた。

 

「おはよう、レベッカ」

 

その声に、レベッカは慌てて振り向き頭を下げた。

 

「おはようございます、クリストファー様」

 

そこに立っていたのは、クリストファーと執事のリードだった。

 

「こうしてきちんと顔を合わせるのは久しぶりだね。元気だった?」

 

クリストファーは穏やかな笑顔を浮かべているが、少しやつれているような気がした。

 

「はい……。クリストファー様は、その……大丈夫ですか?」

 

レベッカが思わず尋ねると、クリストファーは苦笑しながら頷いた。

 

「うん……ちょっと忙しいけどね。ウェンディの様子はどう?」

 

「あっ」

 

クリストファーの言葉に、レベッカは慌ててウェンディから預かった手紙を取り出した。

 

「あの、これ、お嬢様からのお手紙です!」

 

「えっ、手紙……?」

 

「はい。昨夜、一生懸命書いていましたよ」

 

その言葉にクリストファーは顔を綻ばせ、手紙を受け取ってくれた。

 

「ありがとう、レベッカ……」

 

クリストファーは嬉しそうに手紙を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。

 

「最近は本当に忙しくて、時間が作れないんだ……」

 

「はい……」

 

「でも、もう少しで落ち着くと思うから……待っててほしいと、ウェンディに伝えてくれる?」

 

「はい!」

 

レベッカが大きな声で返事をすると、クリストファーは再び小さく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢様?おはようございます」

 

朝食を手に部屋へと入ると、ウェンディはたった今目覚めたばかりのようで、ベッドの上でぼんやりとしていた。

 

「おはよ……ベッカ、お手紙渡してくれた?」

 

ウェンディの問いかけに、レベッカは微笑んで頷いた。

 

「はい、クリストファー様、とても嬉しそうにしていましたよ。それから、もう少ししたらお仕事の方も落ち着くらしいです。それまで待っててほしい、とのことでした」

 

その言葉に、少しだけウェンディの顔が明るくなった。

 

「よかったぁ……ありがとう、ベッカ」

 

「はい、どういたしまして」

 

レベッカは微笑みながら、テーブルに朝食を並べ始める。そんなレベッカを見つめながら、ウェンディはベッドから降りる。そして後ろからレベッカに抱きついてきた。

 

「わっ、お嬢様、危ないですよ」

 

「んふふ」

 

ウェンディは楽しそうにレベッカの身体をあちこち触る。

 

「もう、くすぐったいです!それに、お仕事をしてるんですから、離れてください!」

 

レベッカが少し怒って言葉を続けるが、ウェンディはそれを気にする様子も見せず、再び小さく笑った。

 

「んふふふ」

 

「お嬢様!」

 

「ベッカ、蜂蜜の匂いがする……私、この匂い大好き」

 

「もう!それより、朝食の後はマナーのレッスンがあるそうです。ですから、早く召し上がってくださいね」

 

その言葉に、ウェンディはレベッカから身体を離して、唇を尖らせた。

 

「……私、マナーのレッスン嫌い。今日は体調不良ってことにして」

 

「そんなの、ダメに決まってるじゃないですか……」

 

レベッカは呆れたように声を出した。ウェンディは今度は頬を膨らませた。

 

「メイドなら主人の命令を聞きなさいよ」

 

「いや、命令というか……お嬢様のそれはただの我が儘じゃないですか……ダメですよ、そんなの」

 

その言葉に、ウェンディはムッとした後、少し考えるような顔をした。直後にレベッカを上目遣いで見つめてくる。その目を見た瞬間、レベッカは嫌な予感がした。

 

「じゃあ、ベッカ」

 

「……何ですか?」

 

「レッスン頑張るから、私のお願いを聞いてくれる……?」

 

“お願い”という言葉に、思わず顔をしかめる。恐る恐る、ウェンディに言葉を返した。

 

「お願いとは?」

 

ウェンディはモジモジとしながら声を出した。

 

「あのね、あのね、……私と一緒にお風呂に入ってくれる?」

 

その言葉にレベッカは一瞬呆然と口を開ける。そして狼狽えながら、ウェンディに問いかけた。

 

「えーと、それは、……お嬢様、お風呂のお世話をしてほしいということでしょうか……?」

 

レベッカが専属メイドになって数年経つが、ウェンディが風呂に入る時に手伝ったことはない。元々ウェンディは小さい頃からほぼ一人で生活しているので、風呂に入るのに世話は必要ないからだ。

 

レベッカの問いかけに、ウェンディは首を横に振って口を開いた。

 

「ううん。私ね、ベッカと一緒にお風呂に入りたいの!」

 

「却下です!!」

 

レベッカは考える前に大きな声を出し、首をブンブンと勢いよく横に振った。ウェンディは再び頬を膨らませる。

 

「ちょっと一緒にお風呂に入るだけじゃない。ね、ちょっとだけだから、お願い」

 

「……いやいやいや」

 

レベッカは頭を抱えた。

 

ウェンディとお風呂。それはもちろん、自分も服を脱いで入らなければならないのだろう。ウェンディの瞳をチラリと見る。ウェンディは懇願するようにまだこちらを上目遣いで見つめている。

 

--いや、ダメだ。ダメだダメだ。なんか、ダメだ。それは多分、なんか、絶対にダメだ。

 

言葉でうまく言い表せないが、妙な抵抗感があった。レベッカはウェンディを振り切るように大きく首を横に振った。

 

「ダメです!!」

 

頑ななレベッカの様子に、ウェンディは頬を膨らませたが、やがて諦めたようにため息をついた。

 

「分かった……それじゃあ、今度のお休み、私と一緒にお出かけしてくれる?」

 

「お出かけ……ですか?」

 

「ん……あのね、あのね……街の本屋に行きたいの……お兄様の許可は取るから」

 

その言葉にレベッカは少し考えた後、小さく頷いた。

 

「分かりました。一緒に行きましょう」

 

ウェンディがパッと顔を輝かせた。

 

「ありがとう、ベッカ!」

 

引きこもりのウェンディが街に出たいと言うのは、かなり珍しい。でも、外の世界に少しでも目を向けるのはいいことだ。きっと、いい気分転換になるだろう。ウェンディにとっても、自分にとっても。そう思いながらレベッカも微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっ」

 

その日の午後、レベッカが庭の掃除をしていると、伯爵家専属で顔見知りの庭師、ポールが話しかけてきた。その内容に驚いて、目を見開く。

 

「えっと、お見合い、ですか?」

 

「いや、そんな大層なやつじゃないよ……紹介するから、ちょっと会ってみないかい?レベッカちゃん、独身だし……」

 

どうやら、ポールの若い弟子の一人が、恋人を探しているらしい。それを聞いたポールが弟子のためにレベッカに声をかけてきたのだ。

 

「どうかな?庭師としても優秀で、いいやつだよ。真面目だし、働き者だ」

 

「う~ん」

 

レベッカは困惑しながら、少し首をかしげた後、口を開いた。

 

「……ちょっと、考えさせてください」

 

ポールに軽く頭を下げ、その場から早々に立ち去る。

 

レベッカは気づいていなかったが、その姿を少し離れた場所で、数人のメイド達が目撃していた。メイド達は顔を見合わせると、何かコソコソ話し始めた。

 

「……恋人、か」

 

レベッカは足を進めながら、小さく呟く。レベッカの実年齢は17歳だが、世間的には19歳ということになっている。若いとはいえ、結婚してもおかしくない年頃だ。

 

「うーん……」

 

気は進まない。だが、そろそろ自分の将来を真剣に考えるべきかもしれない。

 

この屋敷での、穏やかな暮らしをレベッカはとても気に入っている。このままメイドとしてずっと働きたいと思っている。ウェンディに仕えるのは、とても幸せだ。ずっと、このままの暮らしを続けていきたい。

 

でも、きっとこれからも、レベッカの周囲はどんどん変化していくだろう。今のコードウェル家は、クリストファーとウェンディだけだが、そのうちクリストファーが結婚するだろう。そうしたら、子どもも生まれて、家族がどんどん増えていくはずだ。きっと、ウェンディも成長したら好きな男性が出来るだろう。そして、結婚してこの家を出て行くのだろう。自分はもちろんそれを心から祝福して--

 

「……」

 

レベッカは眉をひそめた。なぜかよく分からないが、とてもモヤモヤとした嫌な気持ちになった。ウェンディに対して、こんな思いを抱くのは初めてだ。

 

自分の感情を否定するように、首をブンブンと横に振る。そして、ポツリと呟いた。

 

「……会って、みようかな」

 

ポールの弟子と会ってみよう。自分の世界は、ウェンディと同じくらい狭すぎる。自分もいろんな人と交流して、もう少し外の世界に目を向けてみたほうがいいのかもしれない。そう思いながら、レベッカは次の仕事のために、キッチンへと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日経ったが、折り悪くポールと顔を合わせていないため、返事が出来ずにいた。レベッカが淡々と廊下の掃除を終えて、窓を拭いていると、こちらへと駆け寄ってくる足音が聞こえた。

 

「ベッカ!」

 

輝くような笑顔で駆け寄ってきたのは、ウェンディだった。

 

「お嬢様、どうされました?」

 

「あのね、あのね、今日の午後、お兄様、お仕事はお休みなんですって。一緒にお茶を飲んで、ケーキを食べるの!」

 

ウェンディが珍しくはしゃいだようにそう言ったため、レベッカは思わず微笑んだ。

 

「あら、それはよかったですねぇ」

 

「うん!ベッカがお手紙書くように言ってくれたおかげ!ありがとう、ベッカ!」

 

そのまま勢いよく抱きついてくるウェンディに、レベッカは苦笑した。

 

「お嬢様、嬉しいのは分かりますけど、私、今はお掃除中なので……」

 

ウェンディが汚れるといけないので身体を離そうとしたその時、後ろから大きく呼びかけられた。

 

「あっ、レベッカさーん!」

 

大きな声でレベッカを呼んだのはセイディーだった。

 

「あ、セイディー……」

 

セイディーは目をキラキラさせながらこちらへ近づき、レベッカのそばにウェンディがいることに気づいて慌てて頭を下げた。

 

「あ、お嬢様、こんにちは」

 

「……」

 

ウェンディは真顔になり無言で頷く。

 

ウェンディの素っ気ない様子を気にすることなく、セイディーは興奮したようにレベッカに声をかけた。

 

「レベッカさん、お見合いするって本当ですか!?」

 

その言葉を聞いた瞬間、ウェンディの顔が固まった。

 

レベッカは驚いて声を出した。

 

「どうして知ってるの?」

 

「噂になってますよ!庭師のポールさんのお弟子さんと会うって」

 

なんで噂になっているんだ、と苦笑しながらレベッカは軽く頷いた。

 

「……ちょっと、ね。まだ分からないけど」

 

「もしも、いい人だったら結婚するんですか!?」

 

セイディーの問いかけにウェンディの顔が真っ青になる。レベッカはセイディーの肩を軽く叩いた。

 

「その話はまた後で。仕事に戻って」

 

その言葉にセイディーは不満そうに顔をしかめながらも、

 

「はい」

 

と頷き、その場から立ち去った。

 

「……なによ、それ」

 

「はい?」

 

震える小さな声が聞こえて、レベッカはウェンディの方へ顔を向ける。ウェンディは強く拳を握りながら、レベッカへ鋭い視線を向けていた。レベッカは驚いて慌ててウェンディへと声をかけた。

 

「お嬢様、どうされました?」

 

「……なによ、結婚って!!」

 

大きな声をあげる。その瞳は激しい怒りに満ちている。ウェンディの顔は真っ赤になっており、感情が高まっているのが分かった。レベッカはその様子に驚いて、口を開いた。

 

「あの、お嬢様……」

 

「私に隠れてコソコソと!!結婚なんて何考えてるのよ!!」

 

「いや、別に隠していたつもりは……それに、結婚じゃなくて、ちょっとお弟子さんと会わないかって誘われただけですよ……」

 

「私はそんなの許可した覚えはないわ!!」

 

「いえ、あの、これは個人的な事ですし……それに、ほら、私もいい年なので……そろそろ将来の事を、」

 

「ベッカ!!」

 

大きな声で名前を呼ばれ、レベッカの口が止まる。

 

ウェンディはレベッカの手を強い力で掴むと、グイグイと引っ張った。

 

「お、お嬢様……?」

 

レベッカの呼びかけに答えることなく、そのままウェンディは歩いていく。やがて、ウェンディの私室へと到着すると、中に入らされた。

 

「お、お嬢様、あのー……」

 

レベッカが声をかけたその時、ウェンディがレベッカの手を強い力で掴んできた。そのまま強い視線を向けられて、レベッカは大きく息を呑む。

 

「結婚なんて、絶対許さない……っ」

 

冷たい声が響く。

 

「他の誰にも、渡さない……、私だけのベッカなんだから、私から、離れるなんて……っ、絶対に、許さない……」

 

ウェンディがレベッカの腕を強く握りながら、声を絞り出す。その強い視線にビクリと身体が震えた。

 

「お、お嬢様……」

 

レベッカはウェンディの様子に困惑しながら、小さく呼びかける。ふと、自分の腕を握るウェンディの手もまた震えていることに気づいた。

 

レベッカはゆっくりとウェンディの手から腕を離し、その場に座り込んだ。今度は自分からそっとウェンディの手を握る。

 

そして、ウェンディの瞳を真っ直ぐに見つめながら、ゆっくりと呼びかけた。

 

「お嬢様」

 

「……」

 

「お嬢様、……申し訳ありませんでした。私の不徳の致すところです。お嬢様に、不愉快な思いをさせてしまって……」

 

そういえば、随分前にも、結婚の話題になった時にウェンディが不機嫌になったことをレベッカは思い出した。

 

未だに、結婚という言葉にこんなにもウェンディが過剰に反応して取り乱すとは思わなかった。

 

もう少し慎重に考えるべきだったかもしれないな、とレベッカが思ったその時だった。突然、ウェンディがくしゃりと顔を歪めた。そのまま大粒の涙が瞳からこぼれ落ちる。レベッカがギョッとするのと同時に、ウェンディが口を開いた。

 

「行かないでよぉ……ベッカ」

 

「お、お嬢様……」

 

「どこにも、行かないで……そばにいて……」

 

泣きじゃくりながら、ウェンディは言葉を重ねた。

 

「おねがいだから、ここにいてよぉ……わたくしには、あなたしかいないのに。あなた以外になんにも、いらないの。あなたが、いてくれれば、それでいいの。あなただけは、うしないたくない……あなたが、のぞむなら、わたくしの、すべてをあげるわ。だから、……ずっと、わたくしのそばにいて。わたくしを、だきしめて……」

 

「お嬢様……」

 

「ふ、う、うぅぅっ、うぅ……っ」

 

ポロポロと雨粒のような涙をこぼしながら、ウェンディは声をあげて泣いた。レベッカは一瞬強く唇を噛みしめ、そしてゆっくりとウェンディを抱き寄せた。

 

「申し訳ありません、お嬢様……」

 

「うぅぅっ……」

 

「絶対に離れません……約束します。私は、ずっと、お嬢様のお側にいます……」

 

そのままレベッカはウェンディを抱き締めながら、優しく背中を撫で、何度も同じ言葉を繰り返した。

 

数分後、ようやくウェンディは落ち着いたらしく、自分から身体を離した。スンスンと鼻を鳴らしている。その瞳は赤くなっており、まだ潤んでいた。

 

「……お嬢様、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫なわけないでしょうっ!!」

 

ウェンディが怒ったように言葉を返してくる。レベッカはゆっくりと立ち上がると、頭を下げた。

 

「ポールさんには、お断りの返事を致します」

 

「当ったり前でしょっ!」

 

「申し訳ありませんでした」

 

頭を下げたまま、もう一度謝罪する。ウェンディはそんなレベッカをしばらく無言で見つめ、そして小さく声を出した。

 

「顔を、上げて」

 

「はい」

 

レベッカが短く返事をして、言われた通りに顔を上げたその時、ウェンディが抱きついてきた。

 

「わっ、お嬢様?」

 

次の瞬間、首筋に強い痛みを感じて、レベッカは悲鳴をあげた。

 

「ヒャッ」

 

驚いて、慌ててウェンディを身体から引き剥がそうとしたが、ウェンディがそれを許さなかった。再び首筋にチクリとした痛みを感じて、レベッカは声をあげる。

 

「ちょ、ちょっと、お嬢様!?」

 

数秒後、ようやくレベッカから身体を離したウェンディがペロリと唇をなめた。

 

「信用できないから、印を付けたわ」

 

「はい?」 

 

「髪は下ろしておいた方がよくてよ」

 

その言葉に、レベッカは慌てて部屋にある鏡へと駆け寄り、自分の姿を映す。そして、大きな声をあげた。

 

「お、お嬢様!!」

 

首筋には赤い噛み痕が残っていた。

 

やられた、とレベッカは頭を抱える。最近、ウェンディから噛まれる事はなかったので、完全に油断していた。

 

「もう、なんで噛むんですか!!隠すのが大変なのに!!」

 

頭を抱えながらレベッカが抗議の声をあげると、ウェンディはツンとした顔で腕を組んだ。

 

「ベッカが悪い」

 

「お嬢様!!」

 

ウェンディはプイッと顔を背けた。この様子では何を言っても、無駄だ。長年の経験からそれを察したレベッカは大きなため息をついた。

 

「……もう、いいです。仕事に戻ります」

 

ポツリと呟く。なんだか、とても疲れた。レベッカは再びため息をつきながら、部屋から出ていった。

 

残されたウェンディはその姿を見送る。そして、

 

「--いっそ、あなたを、どこかに閉じ込められたらいいのに」

 

小さく呟いたが、幸運なことにレベッカの耳には届いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








裏設定

※セイディー・ヴィンス
レベッカの後輩メイド。短い赤毛に茶色の瞳が印象的な、子犬のような雰囲気の少女。裕福な商人の娘。兄弟が多く、賑やかな家庭で育った。明るくて、いつでも元気いっぱい。身長が低いことを気にしている。恋の話が大好きで、彼女自身も優しい年上の恋人がいる。恋人は遠くの学校で学生をしているため、彼が卒業したら結婚する予定。





※ジャンヌ・バシェット
レベッカの後輩メイド。真っ直ぐなダークブロンドの髪に青い瞳を持つ、真面目で仕事熱心な少女。実家は有名な新聞社。スタイルが良くて、胸が大きい。コードウェル家で働く男性からよくモテる。セイディーとは幼馴染みで、仲良し。セイディーの事を誰よりも大切に思っている。








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約束

 

 

朝の光を感じて、レベッカは覚醒した。

 

「うぅーん……」

 

ぼんやりと呻く。窓の外で鳥が鳴いている気配がした。

 

--ああ、早く仕事に行かなくちゃ。でも眠い。すごく、眠い。

 

「……?」

 

何だろう。何か違和感がある気がする。

 

日だまりのような温もりを感じる。まるで、誰かに後ろから抱きしめられているような--

 

「あれ?」

 

ハッと目を大きく見開く。寝惚けていた意識も、急速に現実へと切り替わった。

 

まさか、と思いながら後ろへと視線を向ける。そして、自分の腰に誰かがしがみつくように眠っているウェンディを発見した。

 

「お嬢様!」

 

大きな声で呼びかけると、ウェンディがゆっくりと目を開いた。

 

「……おはよ、ベッカ」

 

レベッカを上目遣いで見つめながら挨拶をしてくる。

 

「もう!またこっそり入ってきたんですか?」

 

レベッカが身体を起こしながらそう言うと、ウェンディもまた目を擦りながら身体を起こしコクンと頷いた。

 

「ダメですよ。自分のお部屋で寝ないと……」

 

「……ふん」

 

レベッカの言葉にウェンディは拗ねたようにそっぽを向いた。

 

「とにかく、早く戻ってください。朝食を準備しますから……」

 

レベッカがそう言うと、ウェンディは顔をしかめながらモゾモゾと動き、ベッドから降りた。

 

「……明日」

 

ウェンディが小さく声を出し、レベッカは首をかしげた。

 

「はい?」

 

「明日、……覚えているわよね?」

 

「ああ」

 

レベッカは苦笑しながら頷いた。

 

「お出かけですよね?はい、もちろん」

 

ウェンディと約束した日だ。明日はウェンディの希望で、2人で本屋へと行く予定になっていた。

 

「楽しみですね」

 

その言葉にウェンディはチラリとレベッカに視線を向ける。そして、

 

「……ん。私も」

 

そう呟くと、ゆっくりと立ち上がり、部屋から出ていった。

 

「……まだ気にしているのかなぁ」

 

一人になったレベッカは小さく声を出した。例の見合い話はレベッカからポールに断りの返事を入れたため、立ち消えたが、あれからウェンディはなんとなく元気がない。夜中にレベッカの部屋にこっそりと忍び込む回数も増えた。

 

あの時のウェンディの切羽詰まったような泣き顔を思い出す。レベッカの想像以上に、ウェンディは精神的につらい思いをしたのかもしれない。浅はかな事をしてしまった、と後悔しながらレベッカはメイド服へと着がえた。そのまま、自分の髪を後ろでまとめるために櫛を手に取るが、

 

「……あっ」

 

と短く声を出し、その手を止める。鏡の前に立ち、自分の姿を見つめ、眉を寄せた。首筋にはまだ微かに赤い印が残っている。小さくため息をついて、首筋を隠すように髪を整えた。

 

仕事をする時は少し煩わしく感じるが、仕方ない。

 

「明日のお出かけが気分転換になるといいけど……」

 

そう呟きながら、仕事のために部屋から出て足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えーっ、断っちゃったんですか!?」

 

仕事の合間に、ワクワクした様子でレベッカに見合いの話を切り出してきたセイディーに、断ったことを話すと、セイディーは大声をあげた。

 

「レベッカさん、すごく乗り気だったのに!?」

 

「いや、別に乗り気だったわけじゃ……」

 

レベッカは苦笑した。一体メイド達の間にどんな噂が広まっているんだろう。

 

「なんで断ったんです?何かあったんですか!?もしかして、他に好きな人が……」

 

「セイディー、落ち着きなさい」

 

身を乗り出してきたセイディーの頭をパコンと軽く叩いたのはジャンヌだった。

 

「レベッカさんが困ってるでしょう。あんまり詮索しないの」

 

「う~、はーい……」

 

セイディーが唇を尖らせながら座り直す。レベッカが唇の動きだけで“ありがとう”と伝えると、ジャンヌは無言で小さく頷いた。

 

「あ、そうそう、私、明日はお休みで屋敷にはいないの。悪いけど、仕事は任せるわね」

 

話題をそらすようにレベッカがそう言うと、ジャンヌが口を開いた。

 

「どこかに行かれるんですか?」

 

「うん。お嬢様と街へ行くの」

 

レベッカの言葉にセイディーとジャンヌは揃って

 

「えっ」

 

と、驚いたように声を出した。

 

「お嬢様、外出するんですか?珍しい……」

 

「どこに行くんですか?」

 

セイディーの問いかけに、レベッカは微笑みながら答えた。

 

「街の本屋さんに行くだけよ。すぐ近くにあるところ。私はその付き添いね」

 

その言葉にジャンヌが納得したように頷いた。

 

「……そういえば、お嬢様って相当な本好きでしたね」

 

「ええ。何か欲しい本があるんだと思うわ」

 

レベッカが微笑みながらそう言うと、セイディーが何か思い出したような顔をして口を開いた。

 

「あ、そういえば、クリストファー様も明日お出かけするみたいですよ」

 

「えっ、そうなの?」

 

レベッカが聞き返すと、セイディーは頷いた。

 

「メイド長がチラッと話していました。明日はクリストファー様も不在だからとか言ってて……」

 

「へえ……お仕事かしら……?」

 

レベッカがそう呟いたその時、

 

「レベッカ、セイディー、ジャンヌ!ちょっとこっちの仕事を手伝ってくれない?」

 

メイド仲間の声が聞こえた。3人は、

 

「はーい!」

 

と返事をしながら慌てて立ち上がると、仕事に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日、レベッカは外出用の服に着がえ、荷物を手に取ると、ウェンディの部屋へと向かった。

 

「……失礼します、お嬢様」

 

ノックをしてから、部屋に入ると、ウェンディも既に上品な青色の外出着を身に付けていた。鏡の前に座っている。

 

「ベッカ、準備できた?」

 

「はい」

 

「じゃあ、適当に髪を整えてくれる?」

 

ウェンディの言葉にレベッカは、

 

「承知しました」

 

と言って、ウェンディに近づいた。そのまま後ろへ立ち、金色に輝く髪を手に取る。

 

櫛を手に取り、髪を優しくとかす。

 

「相変わらず綺麗な髪ですね」

 

レベッカが話しかけるが、ウェンディは軽く頷くだけで何も答えない。鏡に映るウェンディの表情はやや張り詰めている気がした。

 

「今日の髪型はどうされます?」

 

「……結んで」

 

ウェンディがそう言いながら、リボンを差し出してきた。それを見たレベッカは顔を綻ばせた。レベッカが数年前に初めてプレゼントしたレースのリボンだ。

 

「それじゃあ、飛びっきり可愛く結びましょうね」

 

レベッカが弾んだ声を出す。ウェンディは、

 

「……そんなに気合い入れなくても……すぐそこの本屋に行くだけなんだから」

 

そう言いながら、ようやく少しだけ笑った。

 

髪を後ろでまとめ、最後にリボンを結ぶ。

 

「はい、できました」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディは鏡で自分の姿を確認してから、ゆっくり立ち上がった。

 

「それでは、行きましょうか」

 

「うん……」

 

街の本屋は、屋敷から比較的近い場所にある。馬車を使うことも考えたが、ウェンディが首を横に振った。

 

「すぐ近くでしょ……歩いて行くから」

 

メイド長は渋い顔をしていたが、ウェンディはそれを振り払うようにレベッカの腕を掴むと、強く引っ張る。そのまま屋敷の外へと出た。

 

「外に出るのは久しぶりですね」

 

「うん……」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディは軽く頷いた。ウェンディは普段から屋敷に引きこもりがちだ。呪いの痣はもう身体に刻まれていないが、それでも外に出ることはほとんどない。恐らく人と関わるのが苦手ということもあるが、根本的にあまり外の世界に興味がないのだろうな、とレベッカは推測していた。ウェンディが屋敷から出るのは、どうしても外に出なければならない用事が出来た時だけだ。それもほとんどないが。

 

隣を歩くウェンディの顔をチラリと見る。その表情は緊張しているように、固い。顔色も少し悪い気がする。

 

レベッカはウェンディの方へと手を伸ばした。そのまま安心させるように、手を優しく握る。ウェンディはハッとしたようにレベッカを見上げてきた。

 

「お嬢様、私、今日を本当に楽しみにしていたんですよ」

 

レベッカが話しかけると、ウェンディは小さな声を出した。

 

「……そう、なの?」

 

「はい。お嬢様におすすめの本を教えてもらいたくて」

 

レベッカの言葉に、ウェンディは噴き出した。

 

「ベッカ、いつも本のことばっかりね」

 

「お嬢様に言われたくないですよー。今日は何の本を買いたいんですか?」

 

「今日発売する小説……早く読みたかったの」

 

「どんなお話なんですか?」

 

「えーと……」

 

2人で手を繋ぎながら歩き続けていると、ウェンディの緊張は徐々に解けていく。目的地に到着した頃には、表情も少し明るくなっていた。

 

小さな本屋に入ると、ウェンディはソワソワしながら、本棚に眠るたくさんの本を見渡した。

 

「お嬢様のお目当てはどれですか?」

 

レベッカが声をかけると、

 

「これ!」

 

ウェンディが一冊の本を手に取った。

 

「新聞に連載していたの。面白いのよ!」

 

楽しそうなウェンディの姿に、レベッカも微笑みながら口を開いた。

 

「それでは、それを買いましょうか」

 

そう言うと、ウェンディは小さく首を横に振った。

 

「あ、待って。もうちょっといろいろ見せて」

 

その言葉にレベッカが、

 

「はい」

 

と頷くと、ウェンディは再び本棚の前をウロウロ動き回る。その様子を、

 

--かわいいなぁ

 

レベッカはそう思いながら、見つめていた。いつも可愛らしいが、本棚の前で楽しそうに好みの本を探すウェンディの姿はいつもより可愛らしく感じた。

 

やがて、満足した様子のウェンディがレベッカに声をかけてきた。

 

「待たせてごめんね、ベッカ」

 

「もうよろしいのですか?」

 

「うん!」

 

ウェンディが笑顔で頷く。レベッカも笑い返しながら、2人で会計へと向かった。

 

会計を済ませ、本屋から外に出ると、ウェンディから話しかけてきた。

 

「ベッカ、今日は付き合ってくれてありがとう」

 

「いえいえ。もう帰りますか?」

 

「うん。本も買えたし」

 

「では--」

 

レベッカが言葉を続けようとしたその時、ウェンディがハッと息を呑んだ。次の瞬間、ウェンディがレベッカの手を強く掴んだ。そのままレベッカを無理矢理引っ張る。

 

「お、お嬢様?」

 

「静かに!」

 

そのまま物陰へと押し込められた。

 

「あの、どうされ--?」

 

ウェンディが人差し指を唇に当てる。そのまま、そっと物陰から顔を出した。

 

「--見て」

 

「はい?」

 

レベッカも少しだけ顔を出す。そこには、

 

「あれ?クリストファー様?」

 

珍しく、クリストファーが1人で歩いていた。なぜか顔を隠すように、マントのような地味な服を着ている。

 

「なぜ、ここに--」

 

「--きっと、この近くでこっそり会うつもりなのね」

 

何かを知っているようなウェンディの言葉にレベッカは首をかしげた。

 

「お嬢様?それは一体……?」

 

「--ついてきて」

 

ウェンディがクリストファーを素早く追いかける。レベッカも慌てて動いた。

 

「お、お嬢様!待ってください!」

 

コソコソと歩く兄を、やはりコソコソと追いかける妹の後をレベッカは困惑しながらもついていった。

 

「お嬢様、これはマズいのでは……」

 

「シーッ、ベッカ、うるさい」

 

レベッカの言葉に構わず、ウェンディはひたすらクリストファーを追いかける。やがて、クリストファーが目的地に到着したのか足を止めた。ウェンディとレベッカも同じく足を止めると、サッと再び素早く物陰に隠れる。

 

「あの、お嬢様」

 

「ベッカ、見て」

 

ウェンディの言葉に、レベッカはクリストファーへと視線を向ける。そして、

 

「--あっ」

 

思わず声をあげた。クリストファーに誰かが駆け寄っていくのが見えて、唖然とする。

 

それは、上品な服を身につけた美しい女性だった。恐らくはレベッカと同じ年くらい。亜麻色の髪がキラキラと輝いている。

 

2人はお互いに微笑み合いながら少し会話をすると、やがて腕を組みながらどこかへと行ってしまった。

 

「--帰りましょうか」

 

その様子を見届けて、ウェンディが口を開いた。

 

「えっ、あ、あの、追いかけなくていいんですか!?」

 

レベッカが思わずそう言うと、ウェンディは首を横に振った。

 

「多分、この後は馬車に乗ってどこかへ行くと思う。そうなると追いかけるのは無理でしょ」

 

ウェンディは肩をすくめると、そのまま歩き出した。レベッカも慌ててそれに続きながら、ウェンディに話しかけた。

 

「あ、あのー、今の方は……」

 

「リゼッテ・ブランフィールド嬢。ブランフィールド子爵の娘」

 

サラリと答えたウェンディに、レベッカはギョッとした。

 

「お、お嬢様のお知り合いの方だったんですか!?」

 

困惑しながらそう尋ねると、ウェンディは呆れたようにレベッカをチラリと見た。

 

「いいえ。私のお知り合いなわけないでしょ」

 

「えっ、じゃあなんで--」

 

「……お兄様が学園にいた時に送られてきた手紙に、何度か出てきたから……見るのは初めてだけど、多分、間違いないと思う……あの人、お兄様の後輩で……お兄様の仲良しの人なの」

 

ウェンディが顔を伏せながらそう言って、レベッカは唇を引きつらせた。

 

「そ、そうなんですか……」

 

しばらく無言になる。レベッカがどう声をかけようか迷っていたその時、ウェンディが口を開いた。

 

「--あの人、多分、お兄様と結婚すると思う」

 

「えっ」

 

「お兄様、あの人の事、好きみたいだし……どこまで話が進んでいるか知らない、けど」

 

ウェンディがあまりにも心細そうな声を出したため、レベッカは思わず顔を覗き込んだ。ウェンディの表情はとても複雑そうで、寂しげな瞳をしていた。

 

「……お嬢様」

 

レベッカはどう言葉をかけたらいいか分からず、しばらくソワソワしていたが、やがてウェンディの手を取った。

 

「お嬢様!」

 

ウェンディが眉をひそめながら、レベッカを見上げてきた。

 

「……なに?」

 

「ちょっとだけ、私に付き合ってもらえませんか?」

 

「え?」

 

「こちらに来てください!!」

 

「え、ベッカ?どこに行くの?」

 

困惑したようなウェンディに構わず、レベッカは街中を進んでいった。

 

「お嬢様にぜひお見せしたい物があるんです」

 

「なによ、見せたい物って……」

 

「こっちです」

 

レベッカがウェンディを連れてきたのは、街中の小さな公園だった。来ている人間は少なく、閑散としている。

 

「ここって……」

 

「よく買い物する時に、来るんですよ。いつかお嬢様に見せたいと思ってて……」

 

レベッカはニッコリと笑いながら、歩みを進めた。やがて、目当ての物が見えて、レベッカは前方を指差した。

 

「ほら、見てください!!」

 

ウェンディがそちらへと視線を向ける。そして、

 

「わあ……」

 

感嘆したように、声をあげた。レベッカの指差した先には、とても大きな木があった。淡い色の美しい花が咲き誇り、木を彩っている。小さな花びらが、雪のように舞い散っていた。

 

夢のようなその光景に、ウェンディは目を奪われたように、しばらく無言で見とれた。

 

「綺麗でしょう?お嬢様に、ぜひお見せしたかったんです」

 

レベッカはニッコリと笑った。

 

「この季節の、とても短い期間しか咲かない、珍しいお花なんですよ」

 

「本当、綺麗……」

 

ウェンディの言葉にレベッカは大きく頷いた。

 

「私の、一番好きなお花なんです」

 

散りゆく花びらを見つめながら、ウェンディも微笑んだ。

 

「--私も、好きだわ。このお花」

 

ウェンディの言葉にレベッカはホッとした。どうやら、少しは気分も晴れたようだ。ウェンディはそのままレベッカへ顔を向けると、ゆっくりと言葉を重ねた。

 

「ありがとう、ベッカ」

 

その言葉に、レベッカも微笑み返し、頷いた。

 

「どういたしまして、お嬢様」

 

フワリと、穏やかで温かい風が吹く。ウェンディは淡く揺れる花へと再び視線を向けながら、

 

「--外に出るのも、いいものね」

 

と、ポツリと呟いた。

 

「このお花、また見にきたいわ」

 

その言葉にレベッカは困ったように首をかしげた。

 

「うーん、もうすぐ全部散ってしまいますからね……また来年ですね」

 

それを聞いたウェンディは、レベッカへと手を伸ばす。そして、ギュッと手を握ってきた。

 

「それじゃあ、……ベッカ、来年、また私とこのお花を見に来ましょう」

 

レベッカは大きく頷いた。

 

「はい、ぜひ!」

 

「約束よ?忘れないでね」

 

「はい、もちろん。楽しみにしておきますね」

 

ウェンディが幸せそうに笑う。レベッカも微笑みながら、ウェンディの小さな手を握り返す。そして、花を満開に咲かせる美しい木を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日のウェンディとの約束を果たすことが出来なくなるなんて、レベッカは思いもしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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出発

 

 

ウェンディとの外出から数日経った。

 

あの日から、ウェンディは暗い顔で考え事をする時間が多くなった。恐らくクリストファーの事で思い悩んでいるのだろうと察しはついていたが、レベッカにはどうすることもできない。今も、ウェンディは家庭教師から出されたらしい課題を机の上に広げてはいるが、全然集中できていない。ぼんやりとしている。

 

「お嬢様、お茶を入れたので少し休憩しませんか?」

 

レベッカがオズオズと声をかけると、ウェンディは小さな声で答えた。

 

「うん……」

 

椅子から立ち上がり、フラフラと近づいてくるウェンディのために、レベッカはお茶やお菓子の準備を始めた。

 

「お茶には蜂蜜も入れますね」

 

そう声をかけると、蜂蜜が好きなウェンディの口元がほんの少し緩んだ。そんなウェンディの前にお茶のカップを置いたレベッカは、ふとあることに気づいて声をあげた。

 

「あれ?お嬢様、少し背が伸びましたか?」

 

小柄なウェンディの身長が少し伸びたような気がして、レベッカは首をかしげた。

 

「え?そう?」

 

「成長期なんですねぇ」

 

レベッカが笑いながらそう言うと、ウェンディは嬉しそうに口を開いた。

 

「いつか、ベッカと同じくらい大きくなるかしら?」

 

「うーん……、それは……どうですかね」

 

レベッカは返答に困り、曖昧な返事をした。レベッカは元々女性としては身長が高い。反対に、ウェンディは同年代の少女と比べてもかなり小柄だ。そんなウェンディが自分と同じ背丈になるのは、なんだか想像できなかった。

 

「私と同じくらい大きくなりたいんですか?」

 

レベッカが問いかけると、ウェンディは大きく頷いた。

 

「ええ!だって……」

 

「だって?」

 

突然、ウェンディが身を乗りだし、レベッカの顔へと手を伸ばす。レベッカの頬に触れて、悪戯っぽく微笑みながら、見上げてきた。

 

「顔の高さが近ければ、常に同じ目線でお話出来るでしょう?」

 

レベッカは心臓が跳ねるのを感じて、唇を引きつらせた。

 

「あ、えーと、そうですね」

 

心臓が高鳴ったのを誤魔化すために、レベッカは慌てて顔をそらす。

 

--お嬢様って、こんな顔するんだ

 

なんとなく大人っぽくて、不思議な笑顔だった、気がする。

 

レベッカは戸惑いながら、意識を仕事へと戻し、再びお菓子の入った皿へと手を伸ばす。

 

「お菓子、まだ召し上がりますか?」

 

そんなレベッカを少し不満そうに見て、ウェンディは椅子に座り直し、呟いた。

 

「……やっぱり、私、ベッカよりも大きくなる」

 

レベッカが再びウェンディの方へ視線を向ける。ウェンディは宣言するように、言葉を重ねた。

 

「いつか、絶対、ぜーったい、ベッカよりも大きくなって、それでベッカを見下ろしてみせるわ」

 

レベッカはどう答えようか迷って目を泳がせたが、結局、

 

「……楽しみにしていますね」

 

そう言って微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日後、いつものようにレベッカが屋敷の掃除をしていると、メイド長が慌てたような様子で台所へと入っていくのが見えた。

 

「……?どうかしたのかな?」

 

レベッカはそれを見つめながら首をかしげた。そのまま台所へと向かい、少しだけ中を覗き込む。

 

なんとなく台所もザワザワしているような雰囲気がした。

 

「どうかしたんですか?」

 

レベッカが顔見知りのコックに尋ねると、苦笑いを返された。

 

「クリストファー様に来客だってさ」

 

「え?随分と急ですね……」

 

レベッカが驚いてそう言うと、コックも頷いた。

 

「ああ、なんでも、クリストファー様が学生時代に世話になった人らしい」

 

「へえ……」

 

レベッカがそう呟くのと同時にコックは仕事仲間に呼ばれ、レベッカに軽く手を振りながらその場から去っていった。

 

来客なんて珍しいな、と思いながらレベッカも自分の仕事へと戻る。恐らく自分が直接来客に対応することはないだろう。それはメイド長やリードの仕事だ。

 

それから数時間後、来客がコードウェル家へとやって来た。レベッカは他のメイドと共に、頭を深く下げて、その人物を出迎えた。

 

屋敷へとやって来たのは大柄な男性だった。立派な服を身に付けており、一目で貴族だと分かる。太い眉と口髭が特徴的な、獰猛な顔の人物だ。リードの案内で、クリストファーが待つ部屋へと歩いていった。

 

頭を深く下げていたレベッカは、客が立ち去った後、頭を上げ、横にいたセイディーやジャンヌと顔を見合わせる。セイディーがポツリと呟いた。

 

「……なんか、怖い顔の人でしたね」

 

「ちょっと、失礼でしょ」

 

ジャンヌがセイディーの頭を軽く叩く。口には出さないが同じことを感じていたレベッカは、無言のまま苦笑した。

 

その後は再び自分の仕事へと戻った。怖い顔の来客はクリストファーと何か話した後、早々に帰ってしまったらしい。レベッカはなんとなく来客の事が気になって、仕事中もぼんやりと考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜、レベッカがいつものように夕食を手に、ウェンディの部屋へと向かっていたその時だった。

 

「レベッカ」

 

名前を呼ばれて、振り向くとクリストファーがにこやかに立っていた。

 

「あ、クリストファー様……どうされました?」

 

クリストファーは微笑みながら、レベッカへと近づくと、口を開いた。

 

「ちょっと話があるんだ」

 

「お話……ですか?」

 

「うん。仕事が終わったら、僕の部屋に来てほしい」

 

「は、はい。承知しました」

 

レベッカがそう答えると、クリストファーは軽く頷きその場から去っていった。

 

「……なんだろう?話って」

 

レベッカは首をかしげながら、再びウェンディの部屋へ足を進めた。

 

その日の仕事を全て終え、レベッカは早足でクリストファーの部屋へと向かった。軽く扉をノックすると、すぐに声が聞こえた。

 

「どうぞ」

 

レベッカは少し緊張しながら、扉を開いた。

 

「失礼します……」

 

そう言いながら、部屋へと足を踏み入れたその時、

 

「あ、ベッカ!」

 

部屋の真ん中にあるソファにウェンディが座っていることに気づいて、驚いて立ち止まった。

 

「あれ?お嬢様?」

 

ウェンディも不思議そうにレベッカへと声をかけた。

 

「ベッカ、なんでここに来たの?」

 

「僕が呼んだんだよ。2人に話があって」

 

クリストファーがニッコリと笑いながら、レベッカに座るよう促す。クリストファーの後ろには、執事のリードが静かに控えていた。レベッカは眉をひそめながら、ウェンディの隣に腰を下ろした。

 

クリストファーも、ウェンディとレベッカの正面に座る。

 

「あの、お話とは……」

 

レベッカが話を切り出すと、クリストファーは少し迷ったような様子をしながら口を開いた。

 

「今日、屋敷に客が来ただろう?」

 

「あ、はい。あの……」

 

怖い顔の人、と言いかけたレベッカは慌てて口を閉じた。それに気づかず、クリストファーは言葉を続けた。

 

「彼の名前は、ダニエル・クリードというんだ。僕の友人、というか先輩でね」

 

「はあ……」

 

「彼はクリード男爵のご子息で……僕の1つ上の学年の生徒だったんだけど、学生の時は、いろいろと世話になってね……とてもいい人なんだ」

 

「えっ、ひ、1つ上、ですか?」

 

昼間見た男性はどう見てもクリストファーより10歳以上は年上に見えたため、レベッカが思わず聞き返すと、クリストファーは苦笑した。

 

「強面の上にかなりの老け顔なんだ。本人も気にしてる」

 

「そ、そうですか……」

 

どう答えればいいか分からず、レベッカは曖昧な言葉を返した。しかし、クリストファーは特に気にする様子もなく話を続けた。

 

「今日は彼と久しぶりにいろいろと話してね。……実は、旅行に誘われたんだ」

 

「え、旅行?」

 

ウェンディが驚いたように口を挟んだ。クリストファーは頷く。

 

「ほら、最近は本当にいろいろと忙しかっただろう?でも僕の仕事もようやく落ち着いてきてね……ちょっと休暇をとろうと思って。それを話したら、休養も兼ねて、ダニエルさんの所有する別荘に来ないかって誘われたんだ……遠方にある小さな島に別荘があるらしくてね。とても自然豊かで、静かな所らしいよ」

 

旅行、と聞いてレベッカは戸惑いながらチラリとウェンディに視線を向けた。クリストファーが旅行に行くとなると、ウェンディはどうなるのだろう。

 

レベッカがそう思った時、クリストファーはウェンディへと顔を向けた。

 

「ウェンディも僕と旅行に行かない?」

 

「旅行……?」

 

「うん。とても自然豊かで静かな島らしいから、ウェンディも気に入るよ」

 

クリストファーの突然の提案に、ウェンディは困惑したように瞳を揺らす。そのままクリストファーとレベッカの顔をチラチラと見てきた。

 

屋敷に引きこもりがちのウェンディは、当然今まで旅行に行ったことなど一度もない。突然の誘いにどうすればいいのか分からずに戸惑っているのだろう。それを察したレベッカが、ウェンディに声をかけようとしたその時、クリストファーの口から思いもよらない言葉が飛び出した。

 

「それで、なんだけど、もしよければレベッカも一緒に行かないか?」

 

「はい!?」

 

レベッカはギョッとして思わず大きな声を出した。慌ててクリストファーへと顔を向ける。

 

「わ、私もですか?」

 

ウェンディはともかく自分も誘われるとは想像していなかった。ウェンディもキョトンとしている。

 

クリストファーは笑いながら頷いた。

 

「うん。レベッカにはいつも世話になってるし、それに、正直メイドの君がいてくれた方が助かるんだ……リードは今回は一緒に行かないし」

 

「え?」

 

レベッカがリードへと視線を向けると、リードは無表情のまま口を開いた。

 

「旅行は魅力的ですが、妻と娘と、絶対に離れたくはないので」

 

リードは“絶対”という言葉を強調した。

 

「あ、ああ……」

 

レベッカが納得したように声を出したその時、ウェンディが横から口を挟んだ。

 

「ベッカが行くなら私も行く!」

 

「えっ」

 

レベッカが驚いて声を出す。ウェンディがすがりつくようにこちらを見上げてきた。

 

「ね?一緒に行きましょう、ベッカ!」

 

「えっ、えーと……」

 

援護するようにクリストファーも声をかけてきた。

 

「きっと楽しい旅になるよ、レベッカ。僕らと一緒に行こう」

 

「えーと……」

 

レベッカはオロオロしながら何度もクリストファーとウェンディを見る。しばらく悩んだが、結局ウェンディの視線に説得され、根負けしたレベッカは口を開いた。

 

「……行きます」

 

ウェンディがパッと顔を輝かせ、クリストファーもホッと息をついた。

 

「それじゃあ、決まりだね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うーん、旅行かぁ……」

 

部屋に戻ったレベッカは小さく呟いた。クリストファーによると、出発は1週間後だと言う。それまでに旅行の準備をするように言われた。

 

「……」

 

レベッカはベッドに横たわり、天井を見つめた。

 

突然決まったことに、まだ実感が湧かない。

 

「旅行、……お嬢様と……」

 

引きこもりのウェンディが外に出るので、恐らくはその精神的なサポートのために自分が誘われたのだろうなということは想像が出来る。

 

だが--、

 

「……ふふふ」

 

この屋敷を出て、旅が出来る。ウェンディも一緒に。

 

それが楽しみで、レベッカは一人で笑った。ワクワクするのが抑えきれない。

 

「楽しみだなぁ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後。出発が明日へと迫り、レベッカは部屋中をグルグルと回りながら旅行の準備をしていた。

 

「えーと、着替えはこれでいいだろうし、後は何が必要かな……?」

 

クローゼットを何度も開けては閉め、大きな旅行鞄を手に、もう一度持ち物を確認する。しかし、何度確認しても落ち着かず、ソワソワしていた。

 

「……もう寝よう」

 

準備するだけで疲れてしまったレベッカは、ようやくベッドに入った。早く寝ないと、明日に響く。しかし、ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。明日が楽しみで眠れないなんて子どもみたいだ、と思いながら、深呼吸をして目を閉じる。数分後、ようやく意識は遠退いていった。

 

レベッカが眠った後、開けっ放しになっているクローゼットの隅っこで、カタンと小さな音が聞こえた。だが、ぐっすりと眠っていたレベッカがそれに気づくことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、大荷物を持って現れたレベッカにクリストファーとウェンディは同時に噴き出した。

 

「ベッカ、すごい荷物」

 

「あはは、いろいろと詰め込み過ぎちゃって……」

 

「それ、重くないの?」

 

「軽くする魔法をかけました」

 

そう答えるレベッカにクリストファーは苦笑しながら、屋敷の大きな扉を開けた。

 

「馬車を用意しているんだ。そろそろ乗ろうか」

 

「馬車で別荘まで行くの?」

 

ウェンディの質問に、クリストファーは首を横に振った。

 

「馬車に乗って港まで行くんだ。それから、船に乗るんだよ」

 

レベッカはふと疑問に思い、クリストファーに問いかけた。

 

「そういえば、“転送”の魔法は使わないんですか?」

 

「うん。僕は魔法は苦手だし……それに、せっかくだから船旅を楽しもうと思って」

 

その言葉に納得しながら、馬車に乗り込む。

 

「それじゃあ、行ってくるよ。留守は任せた」

 

クリストファーにそう声をかけられたメイド長とリードが深々と頭を下げる。レベッカは見送りに来た使用人の中に、セイディーとジャンヌを見つけた。2人が小さく手を振ってきたため、レベッカも手を振り返す。

 

こうして、多くの使用人に見送られて馬車は出発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さあ、港に着いたよ」

 

馬車に揺られながら、無事に港に到着した。クリストファーに声をかけられて、レベッカは馬車から降りる。辺りを見渡すと、思ったよりも人が多い。外や人混みが苦手なウェンディは大丈夫だろうか、と心配になって視線を向けると、ウェンディはレベッカの服を強く握りながらもソワソワと周囲を見回していた。思ったよりも緊張はしていないようだ。レベッカはこっそりと安心した。

 

船に乗るために乗船手続きをしなければならないのだろうか、と考えていたその時、声をかけられた。

 

「クリストファー!」

 

クリストファーだけではなく、ウェンディとレベッカもそちらへと顔を向ける。こちらへ誰かが近づいてくるのが見えて、クリストファーが声をあげた。

 

「ダニエルさん」

 

大柄な体格のダニエル・クリードが駆け寄ってきた。相変わらず迫力のある顔をしているな、とレベッカが考えている間に、クリストファーとダニエルは軽く握手を交わしていた。

 

「今日はお招きいただき、本当にありがとうございます」

 

「いや、来てくれて嬉しいよ」

 

ダニエルは相変わらず怖い顔をしていたが、朗らかに笑っていた。怖いけど笑ったら意外と可愛らしい人だな、とレベッカがこっそりと考えていたその時、クリストファーがこちらへと顔を向けた。

 

「こちらが先日話した妹のウェンディと、メイドのレベッカです」

 

「やあ、ダニエル・クリードだ。今日は来てくれてありがとう」

 

レベッカは慌てて頭を深く下げた。

 

「レベッカ・リオンと申します。よろしくお願いいたします」

 

ウェンディも緊張した様子で、口を開く。

 

「ウェンディ・コードウェルです。本日は、お招きありがとうございます」

 

いつも他人には素っ気ない態度のウェンディだが、流石に兄の友人に対してはきちんと挨拶をしたため、レベッカはホッとした。

 

「それじゃあ、早速船に乗ろう。こっちへ来てくれ」

 

そう言われて、一行はダニエルの後に続く。

 

「これに乗るんだ」

 

そう言われて、レベッカはウェンディと共にその船を見上げた。

 

「わあ……」

 

思わず声が出る。想像していたよりも、船はかなり大きかった。

 

「船に乗るの、初めて。楽しみね、ベッカ」

 

ウェンディがソワソワしながら声をかけてきた。

 

「はい、そうですね」

 

レベッカも船に乗るのは初めてだ。少し緊張しながらも、微笑んでそう答えた。

 

係員に荷物を任せ、ウェンディと手を繋ぎながら早速乗り込む。

 

クリストファーとダニエルについて行きながら、甲板に立った。気持ちが高ぶっていくのを感じる。レベッカが辺りを見回したその時、隣のウェンディが口を開いた。

 

「なんか、すごい、ね」

 

「はい?」

 

突然の言葉に、戸惑いながらウェンディを見る。ウェンディは楽しそうに海を見ていた。

 

「私、船に乗ってる!すっごい!」

 

「--本当、すっごいですね」

 

その様子が可愛らしくて、レベッカも一緒に笑った。

 

やがて、船はしずしずと出港した。

 

「ベッカ、一緒に船の中を見に行きましょう!」

 

「はい」

 

レベッカはウェンディの提案に頷き、クリストファーとダニエルに断ってからウェンディと共に船を見て回った。

 

波を切るような大きな音を聞きながら、ウェンディと船の上を歩く。船室内も広々としていて綺麗だった。

 

ウェンディと共にキャアキャアと声をあげながら一通り見て回り、元の場所へと戻る。

 

クリストファーに声をかけようとして、レベッカはびっくりしてその場で固まった。クリストファーは真っ青な顔をしていた。

 

「お兄様?どうしたの?大丈夫?」

 

ウェンディが心配そうに問いかけると、クリストファーは無言で小さく頷いた。

 

「船酔いだろう?大丈夫か?」

 

ダニエルの言葉に、

 

「………大丈夫」

 

クリストファーがボソボソと答える。その元気のない姿が心配でレベッカも声をかけた。

 

「あの、お水とか持ってきましょうか?」

 

「……いや、……大丈夫……ちょっと、あっちで休んでくる……」

 

そう言ってクリストファーはフラフラと立ち上がる。レベッカは慌てて口を開いた。

 

「クリストファー様、私も一緒に--」

 

「……レベッカは、……妹といてくれ……僕は、大丈夫だから」

 

クリストファーは青い顔のままゆっくりと船室内へと行ってしまった。

 

レベッカとウェンディは顔を見合わせる。

 

「お兄様、大丈夫かな……?」

 

「心配しなくても、もうすぐ島に到着する。船から降りたら元気になるさ」

 

ダニエルが苦笑しながらそう言ったため、ウェンディはホッと息をついた。

 

「あの、今から行くのはどんな島なんですか?」

 

ダニエルの隣に腰を下ろし、レベッカは問いかける。ダニエルは少し笑いながら答えた。

 

「小さな島だよ。本当に小さな……あまり観光客は来ない、自然豊かで静かな所だ。のんびりとしていて、休暇にはぴったりだと思う」

 

「楽しいところ?」

 

ウェンディの質問に、ダニエルは大きく頷いた。

 

「ああ。きっと気に入るさ」

 

そのままウェンディの頭を軽く撫でてきた。ウェンディは少し顔をしかめたが、その手を拒否はしなかった。

 

ウェンディから手を離したダニエルは、ふと顔を上げた。そして声をあげる。

 

「ほら、あれだよ」

 

ダニエルは前方を指差す。レベッカがそちらへと視線を向けると、小さな影が見えた。どうやら、あれが目的地である島らしい。

 

「あれが、私達の目的地--ミルバーサ島」

 

ダニエルはニヤリと笑った。

 

「ようこそ、“神の眠る島”へ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--海のような瞳が開いた。

 

暗闇の中、《彼女》は、いま目覚めた。

 

眠りの世界から現実へと戻ってきたのは、本当に久しぶりだ。

 

なぜ覚醒したのだろう、と考える。

 

起きたくなんか、なかった。

 

一人は、嫌だ。一人は、寂しい。

 

だから、もっと眠っていたい。眠っていたら、そんなこと、感じないのだから。

 

さあ、もう一度、幸せな夢の中へ戻ろう。そこには、自分を苦しめる物はない。怒りも、憎しみも。

 

--孤独感も。

 

そう思って、瞳を閉じる。

 

 

 

その時、《彼女》は何かの気配を感じた。

 

 

 

驚いて、再び目を開く。顔を上げて、集中する。

 

間違いない。

 

それは、《彼女》にとって愛しい者の気配だった。

 

愕然とする。

 

--まさか

 

まさか、まさか。

 

帰ってくるのか。

 

 

 

気配は、どんどん近づいてくる。

 

 

 

間違いない。こちらへと、来るのだ。

 

 

 

自分が覚醒した理由がようやく分かって、《彼女》は震えた。

 

まさか、生きているうちに、愛しい者と再び会えるとは思ってもみなかった。

 

ああ、まさか、戻ってくるだなんて。

 

嬉しさに、胸が高鳴る。

 

波立つような幸福感でいっぱいになり、涙さえあふれそうだ。

 

 

 

 

 

--ああ、早く戻ってきて。

 

早く、早く。

 

会いたい。

 

あなたに、会いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《彼女》は大きく吼えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ミルバーサ島

 

 

ミルバーサ島は、広大な海にぽっかりと浮かんでいる宝箱のような小さな島だった。

 

船を降りて、島へと足を踏み入れたレベッカは深呼吸をした。海と風の匂いがする。白い海鳥が飛んでいる姿が見えた。空には雲がちらちらと浮かんではいるが、抜けるような青色が広がっている。

 

「お嬢様、陽射しが強いので、帽子を被っていてくださいね」

 

「うん!」

 

レベッカが声をかけるとウェンディは元気よく返事を返してきたが、その瞳はキラキラと周りを見渡していた。一方、クリストファーは船酔いのせいで今にも吐きそうな顔をしている。

 

「クリストファー様、本当に大丈夫ですか?」

 

レベッカの呼びかけに、弱々しく頷いた。

 

「ああ……大丈夫……全然大丈夫」

 

全然大丈夫そうではない声が返ってきた。

 

ダニエルが苦笑しながら口を開く。

 

「とりあえず別荘に行こうか。馬車を待たせてあるから」

 

一行はダニエルの案内で馬車へと乗りこんだ。

 

「別荘まで遠いんですか?」

 

「いや、すぐに着くよ」

 

ダニエルの言った通り、馬車に揺られて数分で別荘に到着した。

 

馬車から降りたレベッカは、その屋敷を見上げた。

 

屋敷というよりも大きな家と表現した方がいいかもしれない。大きな樹木に囲まれている、白い壁と緑の屋根の気品のある屋敷だった。

 

「俺の祖父が祖母のために建てたんだ。祖母はこの島が大のお気に入りだったらしくてね」

 

ダニエルがそう話しながら扉を開くと、すぐに使用人らしき人々に迎えられた。

 

「ようこそ、皆様」

 

そう言って頭を下げられ、レベッカは戸惑いながら自分も軽く頭を下げる。

 

「じゃあ、早速部屋に案内しよう」

 

ダニエルにそう言いながら、使用人に荷物を預け、上着を脱ぐ。レベッカもまた促されるまま使用人に荷物を手渡した。そのまま全員で2階の部屋へと向かった。

 

「1部屋ずつ用意してあるから、自由に使ってくれ」

 

2階には各部屋の扉が並んでいた。レベッカに宛がわれたのは、一番奥の部屋だった。ウェンディの部屋の隣だ。

 

「何か足りない物があったらすぐに言ってください」

 

使用人がそう言いながら、扉を開ける。

 

扉の向こうには整然としている上品な空間が広がっていた。

 

「少々古いが我慢してくれ」

 

ダニエルはそう言ったが、全然古さは感じない。使いやすそうなソファやベッド、家具が設置してあり、スッキリとしていて過ごしやすそうな部屋だ。

 

「用意していただき、ありがとうございます」

 

レベッカがそう言って頭を下げると、ダニエルはニッコリと微笑んだ。

 

「それじゃあ、荷物の整理が終わったら、下に降りてきてくれ。食事を用意しているから」

 

「はい」

 

レベッカがそう返事をすると、ダニエルは頷き、使用人と共にその場から立ち去った。

 

レベッカは部屋の扉を閉めると、ホッと息をついた。ようやく少し落ち着いたような気がした。

 

ゆっくりと窓辺へと向かい、大きな窓を開けると、フワリと風が入ってきたのを感じた。樹木が揺れるのが見える。少しだけ外の景色を眺めてから、ゆっくりと窓辺から離れた。

 

荷物の整理を始めるために、持ってきた鞄を開ける。

 

「……やっぱりちょっと荷物多すぎたかなぁ」

 

そう言いながら、着替えなどを取り出そうとしたその時だった。

 

「……あれ?」

 

何かが鞄の奥でキラリと光った。

 

首をかしげながら、鞄の奥へと手を伸ばす。そこには、

 

「え、--えええっ!?なんで!?」

 

《アイリーディア》の剣が納まっていた。

 

「え、え?なんで?私、入れたっけ?入れてないよね!?」

 

混乱しながら必死に昨夜荷物をまとめた時の事を思い返すが、自分が剣を入れた記憶は全くなかった。

 

なぜ、剣がこの中に入っているのだろう。

 

なぜ、剣が入っていることに気づかなかったのだろう。

 

疑問がグルグルと脳内を回る。

 

いくら細い剣とはいえ、重量はある。荷物の中に入っていることに気づかないなんて--

 

「あ、あー……そうか、魔法……」

 

そういえばコードウェル家を出る前、荷物を軽くする簡単な魔法をかけていたのをレベッカは思い出した。

 

レベッカは頭を抱えたが、すぐに気持ちを切り替えるべく剣を持って立ち上がった。

 

「危ないから、ここにいてね」

 

そう言い聞かせるようにしながら、部屋にある小さなクローゼットの奥へと剣を仕舞った。

 

気を取り直して、荷物の整理を再開した。

 

しばらくすると、扉を叩くノックの音がした。

 

「はーい!」

 

慌てて立ち上がり、扉を開くと、そこにはウェンディが立っていた。

 

「ベッカ、もうすぐお食事だって。一緒に行きましょう」

 

「あ、分かりました」

 

レベッカは頷きながら、部屋から出た。

 

「お嬢様のお部屋はどうでしたか?」

 

「広くてきれい、あと家具が大きい!」

 

「それは何よりです」

 

「ベッドも大きいの!ベッカも私のお部屋で眠ればいいわ!」

 

「いやいや、それは--」

 

ウェンディと話をしながら、階段を降りる。ふと、踊り場でレベッカは足を止めた。

 

踊り場の壁に大きな鏡があった。レベッカの全身が映るほど大きな楕円形の鏡だった。美しい金属の装飾が施されてある。

 

綺麗な鏡だな、と思いながらそれを見ていると、ウェンディに手を引っ張られた。

 

「ベッカ、何してるの?早く行きましょう!」

 

「あ、すみません」

 

レベッカは慌ててウェンディの後に続いた。

 

ウェンディと共に食事をするホールへと向かうと、ダニエルとクリストファーが待っていた。食事の準備をする使用人を手伝おうと思い、レベッカは声をかけたが、

 

「お客様だから、座っていてくれ」

 

とダニエルに言われ、躊躇いながらもウェンディの隣に座った。ちなみにダニエルの隣には、

 

「……ごめんね、情けないところを見せて」

 

まだ顔色の悪いクリストファーが座っていた。

 

「お兄様、大丈夫?」

 

「うん……まさか、自分がこんなに船に弱いなんて知らなかったよ。新たな発見だ……」

 

そう言いながら、弱々しく笑った。

 

別荘の料理人が用意してくれた食事は、新鮮な海の幸を使った料理で、その全てがとても美味しかった。ちなみにクリストファーはまだ食欲は湧かないのか、スープだけを少し飲むと、早々に部屋へと戻ってしまった。

 

フラフラと部屋へと戻るクリストファーの後ろ姿を、ウェンディは心配そうに見つめた。

 

「お兄様、本当に大丈夫かしら?」

 

「さっき薬を渡したから、明日になれば良くなっているさ」

 

ダニエルはウェンディを安心させるように微笑む。ウェンディとレベッカはその言葉に安心して食事を再開した。

 

食事が終わり、レベッカは与えられた部屋へ戻った。

 

「ふぅ」

 

ベッドへと寝転がり、息をつく。

 

ミルバーサ島に滞在するのは約5日間の予定だ。

 

--明日は何をしよう。お嬢様と島の散策をしようかな。

 

ワクワクしながら、明日の計画を立て始めたその時だった。

 

 

 

 

 

『--』

 

 

 

 

 

微かに、何かが聞こえた。

 

「うん?」

 

慌ててレベッカは身体を起こす。確かに聞こえた。不思議な声のような何かが。

 

「……?」

 

耳をすませる。しかし、もう何も聞こえなかった。

 

「空耳かな……?」

 

首をかしげながら小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日、ダニエルが用意してくれた薬のお陰で、クリストファーの体調は改善したらしく、顔色も良くなっていた。

 

朝食が終わり、どこに行こうかウェンディやクリストファーと話していた時、

 

「こんにちは、ご無沙汰しております」

 

突然別荘に誰かが訪ねてきた。ダニエルに向かって頭を深く下げたのは、壮年の優しそうな男性だった。彼はミルバーサ島の島長で、わざわざ屋敷まで挨拶に来たらしい。

 

「何もない島ですが、どうぞお楽しみください」

 

と言いながら深く頭を下げて帰っていった。

 

島長の言う通り、ミルバーサ島は観光地とは言い難い島だった。住んでいる人間は少なく、目立つ場所はほとんどない。

 

「だけど、何もないってところがいいところなんだよ」

 

ダニエルはそう言って豪快に笑った。

 

確かに、ダニエルの言う通りだ、とレベッカは思った。クリストファーやウェンディと共に島を見回ってみたが、ミルバーサ島は、空気が新鮮で美しい島だった。自然豊かな景色が広がり、夜は空に満点の星空が輝く。どこか神聖な雰囲気がする不思議な場所だった。また、島の住人達は皆素朴でいい人ばかりだった。ほとんどの人が、畑の作物や海の恵みで静かにのんびりと暮らしているらしい。

 

レベッカはウェンディと共に島をのんびりと散歩したり、時には島で暮らす人々と交流したりと島での時間を大いに楽しんだ。ダニエルが釣りに連れていってくれたり、乗馬を教えてくれたりもした。初めて旅行を体験するウェンディも、島の静かな雰囲気を気に入ったらしく、楽しそうに過ごしていた。

 

島に来て、3日ほど経過したある日の事だった。その日はダニエルが何か用事があるらしく、島長の家へと行ってしまったため不在だった。

 

クリストファーやウェンディと午後のティータイムを過ごす。会話を楽しみながら、お茶を飲んでいると、ウェンディは眠くなってしまったのかウトウトし始めた。

 

「お嬢様、お昼寝しますか?」

 

「……ううん、ねむくない……」

 

そう言いながらも、ウェンディはぼんやりとしていた。

 

「眠っていいよ、ウェンディ。部屋に行こうね」

 

クリストファーがそう言ってウェンディを抱き上げ、そのまま部屋へと運んでいく。ウェンディは何かブツブツ言っていたが、結局眠気に抵抗出来なかったのかそのまま眠ってしまった。クリストファーはそんなウェンディを運び、部屋へと入るとベッドへ優しく横たえた。

 

「お疲れだったのでしょうか?」

 

クリストファーの後についていったレベッカが小さな声で問いかけると、クリストファーはウェンディの頭を撫でながら、頷いた。

 

「ここに来て、毎日たくさん遊んだからね。でも、楽しんでくれたみたいでよかった」

 

そう言いながら、クリストファーは立ち上がる。そして、

 

「レベッカ、少しその辺を散歩しないか?」

 

突然そう声をかけてきた。レベッカは少し驚きながらも頷いた。

 

「はい」

 

クリストファーと一緒に外へ出る。ゆっくりとクリストファーの少し後ろを歩いた。昼下がりの午後、陽射しが温かくて、心地いい。ダニエルの別荘の周囲にはクリストファーとレベッカ以外誰もいなかった。

 

静かな時が流れる。静寂の中、クリストファーは突然口を開いた。

 

「レベッカ、来てくれてありがとう」

 

「はい?」

 

クリストファーの言葉にレベッカは首をかしげた。

 

「この旅行に、強引に誘って悪いと思っていたんだ……でも、僕だけじゃなくて、きっと君がいてくれた方がウェンディも楽しく過ごせると思ってたから……」

 

「いえ、そんな……私も、とても楽しいです」

 

レベッカの言葉に、クリストファーは安心したように微笑んだ。

 

それから、再び2人は無言でゆっくりと歩く。やがて、クリストファーが唐突に足を止めた。そして、レベッカの方へと顔を向ける。しばらく躊躇った後、何かを決心したように口を開いた。

 

「レベッカ」

 

「はい」

 

「……僕は、もうすぐ結婚する」

 

レベッカは静かにクリストファーを見返した。

 

「……驚かないんだね」

 

クリストファーの問いかけに、レベッカは穏やかに笑った。

 

「はい」

 

静かな沈黙が2人の間に流れた。

 

次に口を開いたのはレベッカだった。

 

「お相手の事を聞いてもよろしいですか?」

 

クリストファーは小さく頷いて答えた。

 

「学園で、後輩だった子だ……明るくて、優しい子なんだ。家柄も、申し分ない」

 

クリストファーは淡々と言葉を重ねた。

 

「……まだ公表していないし、結婚自体はずっと先になるだろうけどね」

 

「クリストファー様の選ばれた方なら、きっと素晴らしい方なのでしょうね」

 

レベッカの言葉に、クリストファーは寂しげに笑い、小さく頷いた。

 

レベッカは一度だけ深呼吸をした。そして、手を前で組むと、その場でゆっくりと頭を下げた。

 

「おめでとうございます、クリストファー様。心より、お祝い申し上げます」

 

レベッカがそう言うと、クリストファーは、

 

「--ありがとう、レベッカ」

 

穏やかな声でそう答えた。

 

レベッカが顔を上げると、クリストファーは少し難しそうな顔をしていた。

 

「まだウェンディには話していないんだ。この旅行から帰ったら改めて話すつもりでね……」

 

ウェンディは既に知っているが、レベッカはそれを話さず、ただ、

 

「そうですか」

 

とだけ答えた。そのまま、2人でポツリポツリと話しながら、屋敷へと戻った。

 

「レベッカも内緒にしててくれ。もう少ししてからきちんと公表するから……」

 

「もちろんです」

 

レベッカが頷いたその時だった。

 

 

 

 

 

『--い』

 

 

 

 

 

何かの声が聞こえた。今度は少しだけはっきりとした声だった。

 

「ん?」

 

レベッカは足を止めて、周りをキョロキョロと見渡した。

 

「レベッカ、どうかした?」

 

突然立ち止まったレベッカをクリストファーが不思議そうな顔で声をかけてきた。

 

「……あの、今、何か変な声がしませんでしたか?」

 

「変な声?」

 

クリストファーは眉をひそめた。

 

「……特に、何も聞こえなかったけど」

 

「……そう、ですか」

 

やっぱり気のせいかな、と思いながらレベッカは再び足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 



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声に導かれて

 

 

次の日、レベッカはウェンディに誘われて島の散策に出掛けた。

 

「今日は、まだ行ってない所へ行ってみましょう!」

 

ウェンディは声を弾ませながら、レベッカの手を取った。レベッカはその様子を微笑ましげに見つめながら、

 

「はい、喜んで」

 

と言葉を返した。

 

ちなみにクリストファーはダニエルと共に屋敷でのんびりボードゲームを楽しむらしく、今日はウェンディと2人だけのお出かけだ。

 

「デートね、ベッカ!」

 

ウェンディが楽しそうにそう言って、レベッカもクスクス笑った。

 

2人で手を繋ぎながら、屋敷を出る。空を見上げると、透き通るような青が視界に飛び込んできた。

 

ミルバーサ島の美しい自然を眺めながら、ウェンディと共に歩く。柔らかい日差しの中、美しい緑が濃く光っている。時折畑仕事をしている島の住人を見かけた。ウェンディは2人で歩くという事が楽しいらしく、踊るような足取りでぴょんぴょんと歩いた。

 

「お嬢様、危ないですよ。転ばないように気をつけてください」

 

「だいじょうぶ!あっ、見て、ベッカ!」

 

突然ウェンディが足を止めて、声をあげた。レベッカもウェンディの視線を追う。

 

「あら、とても可愛いですね」

 

そこには、赤茶色の屋根が特徴的な、まるで童話に出てきそうな家が建っていた。あまりにも可愛らしい家だったため、レベッカは思わずまじまじと見つめた。広い庭には名前の知らない美しい花が咲いている。ダニエルの別荘ほどではないが大きな家だ。

 

「絵本に出てきそうなおうちですね」

 

「私も思った!」

 

ウェンディと言葉を交わしていたその時だった。

 

「お嬢さん」

 

誰かの声が聞こえた。レベッカとウェンディが驚いて辺りを見渡す。

 

「こちらですよ、可愛らしいお嬢さん方」

 

慌てて声の方へ顔を向けると、いつの間にか、可愛らしい家の庭に、上品な高齢の女性が立っていた。こちらをニコニコと笑いながら見つめている。

 

「こんにちは、お嬢さん方」

 

「あ、こ、こんにちは」

 

レベッカは戸惑いながら、頭を下げる。人見知りのウェンディはパッとレベッカの後ろに隠れてしまった。そんなウェンディに気を悪くした様子もなく、女性は穏やかに微笑みながら言葉を続けた。

 

「お嬢さん達は、ダニエル様のお客様でしょう?」

 

「は、はい……」

 

「ああ、やっぱり」

 

女性は、レベッカの方へと近づきながら言葉を続けた。

 

「もしよければ、お茶はいかがですか?可愛らしいお嬢さん方と、ぜひお話してみたいわ」

 

その言葉に、レベッカは困惑しながら目を泳がせた。そんなレベッカに構わず女性は言葉を続ける。

 

「おいしいお菓子もあるんですよ。さあ、遠慮しないで、どうぞ」

 

レベッカはウェンディとチラリと目を合わせた。断るのは難しそうだ。レベッカは躊躇いながらも、ウェンディと共に可愛らしい家へと入った。

 

女性の家は広々としていて、どこか甘い匂いがした。中にある家具や小物もとても上品で可愛らしい。女性はレベッカとウェンディを家の中へと案内しながら、アメリアだと自己紹介してくれた。

 

「あの、お一人で暮らしているんですか?」

 

レベッカの問いかけに、アメリアはお茶の準備をしながら答えた。

 

「ええ。夫が亡くなってからはずっと一人暮らしなんです。時々は家事のために人を雇いますがね」

 

そう話しながら、レベッカとウェンディの前に小さなケーキとお茶を置いた。

 

「さあ、どうぞ、お嬢さん方」

 

「ありがとうございます」

 

レベッカは礼を言いながら、カップを手に取りお茶を飲んだ。ウェンディもモジモジとしながらケーキを口に入れる。すぐに、

 

「おいしい!」

 

と大きな声を出した。言った後に、大声を出したのが恥ずかしかったのか少し顔を赤らめて下を向いた。

 

アメリアはそんな様子をクスクスと笑いながら見つめ、口を開いた。

 

「この島で採れるベリーを使ったケーキなんですよ。よかった、気に入っていただけて」

 

その優しげな声に、ウェンディも緊張が溶けたらしく、再びケーキを頬張った。

 

お茶とケーキを楽しみながら、アメリアと会話を続ける。アメリアは元は大きな街で夫と共に商売をしていたらしい。引退した後、商売を息子に譲り、夫婦でこのミルバーサ島へ移住したとの事だった。

 

「とてものんびりしていて、静かな所が気に入ったんです」

 

アメリアはニッコリと笑って言葉を重ねた。

 

「それに、なんと言っても、ここは神様がいる島ですからね」

 

その言葉に、レベッカとウェンディは首をかしげた。そういえば、ダニエルもそんなことをチラリと言っていたなと思い出した。

 

「神様って、なんですか?」

 

ウェンディが小さな声でアメリアに尋ねた。アメリアはお茶を一口飲んで、口を開いた。

 

「よくあるおとぎ話ですよ。この島には、神様が眠っているそうです。どこかに、神様の寝室に繋がる入り口があるそうですよ」

 

確かによくあるおとぎ話だな、とレベッカはこっそり心の中で呟いた。一方、ウェンディは興味深そうに話を聞いていた。

 

「もちろん、今まで神様を見た人は一人もいませんけどね。でも、とても素敵でしょう?神様が眠っている島なんて」

 

アメリアの言葉に、レベッカは微笑み、

 

「本当ですね」

 

と答えた。

 

「そういえば、お2人はこれからどこへ?」

 

アメリアの問いかけに、レベッカは考えながら答えた。

 

「のんびりと散歩をしていただけです。この島のまだ行っていない場所へ行ってみようかと--」

 

「あら、じゃあ、あっちの丘へは行ったかしら?」

 

レベッカは首をかしげた。

 

「丘、ですか?」

 

「この家の近くにあるのだけどね、とってもいい場所だから、行ってみるといいわ」

 

そう言いながら、アメリアは簡単に場所を教えてくれた。

 

「じゃあ、そこに行ってみましょうか、お嬢様」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディはコクリと小さく頷いた。

 

アメリアにお茶とケーキのお礼を言いつつ、可愛らしい家から出て、再びウェンディと手を繋ぎながら、歩き始める。

 

少し歩くと、アメリアの言った通り小さな丘が見えてきた。目を凝らすと、丘の上に大きな木が一本だけ立っているのが見える。それほど高い場所ではないが、少し距離がありそうだ。

 

「お嬢様、登れますか?」

 

レベッカの言葉に、ウェンディは拗ねたように唇を尖らせた。

 

「流石にこれくらいは登れるわよ。馬鹿みたいなダンスで足を鍛えているんだから」

 

「馬鹿みたいって……」

 

ウェンディの言葉に苦笑しつつ、丘を登るために足を踏み出した。

 

2人でゆっくりと歩き続け、思ったよりもすぐに丘の上に到着した。大きな木の下でウェンディと共に景色を眺める。

 

そこには、緑の世界が広がっていた。

 

「綺麗ね」

 

ウェンディが囁く。

 

「はい。とても、美しい景色ですね」

 

レベッカも微笑みながら答える。

 

心地のいい爽やかな風が吹いた。同時に周囲の草木がザワザワと揺れる。澄みきった青空が、すぐ近くにあるような気がした。

 

「本当に綺麗……来てよかったね、ベッカ」

 

「はい」

 

ウェンディの手を優しく握りしめる。ウェンディもレベッカの手を握り返した。そして、不意にこちらへと顔を向けた。

 

その時、一段と大きな風が吹いた。ウェンディの金髪がフワリと揺れる。レベッカを見つめながら、ウェンディは花のような笑顔を浮かべた。それを見たレベッカは目を見開いた。

 

「ねえ、今だけは、この景色、私とベッカの2人占めね」

 

その笑顔は、本当にこの世の物とは思えないほど美しくて、

 

「ベッカ……私ね、この景色を忘れないわ。きっと、一生」

 

まるで本当に天使みたいだ、とレベッカは思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜、レベッカは自分の部屋で荷物の整理をしていた。この島との別れの時間が近づいていた。明日の夕方、迎えに来る船に乗って帰ることになっている。

 

「楽しかったなぁ……」

 

そう呟きながら、クローゼットの扉を開けたその時だった。クローゼットの奥に押し込んだ、《アイリーディア》に目が留まった。

 

「うん?」

 

レベッカは眉をひそめる。《アイリーディア》の鍔の部分にある小さな水色の石が、小さく光っていた。

 

「あれ?なんだろう、これ……」

 

レベッカが剣を手に取ったその時だった。

 

 

 

 

 

『--い』

 

 

 

 

 

また、声が聞こえた。聞いたことのない、不思議な声だ。

 

レベッカは剣を手にしたまま、ハッと顔をあげた。

 

 

 

 

 

『--たい』

 

 

 

 

 

周囲を見渡す。自分以外、誰も見当たらない。

 

その時、《アイリーディア》の水色の石が強く光り始めた。

 

「う、うわ、なに!?どうしたの!?」

 

レベッカは混乱してオロオロしながら、立ち上がった。その時、

 

 

 

 

 

『--会いたい』

 

 

 

 

 

不思議な声が、部屋の外から聞こえた。今度ははっきりとした声だった。その声に導かれるように、レベッカは剣をその場に置いて、扉へと近づくと、恐る恐るそれを開けた。

 

その瞬間、《アイリーディア》がカタンと音をたてた。そのままフワリと浮かび上がる。

 

「ちょ、ちょっと!」

 

レベッカは慌てながら駆け寄り、剣を止めるように再び素早く手に取った。

 

剣を持ったまま、扉の方へと戻り、そっと廊下に顔を出す。そこには暗闇が広がっていた。夜遅いため、レベッカ以外全員寝ているらしく廊下は静まり返っている。その不気味な雰囲気に戸惑いながら、レベッカはゆっくりと外へ出た。

 

 

 

 

 

『戻ってきて』

 

 

 

 

 

今度は階段から声が聞こえた。暗闇に脅えながらも、レベッカはゆっくりと階段を降りる。今だけは、《アイリーディア》の変な光だけが頼りだ。

 

 

 

 

 

『会いたい』

 

 

 

 

 

レベッカは困惑しながら、踊り場へと足を踏み入れ、顔を上げた。明らかに、声は踊り場の鏡の方から聞こえた。

 

「……誰?」

 

小さく囁いたが、それに答える者はいなかった。震えながら、大きな鏡を見つめる。脅えた表情の自分が、こちらを見つめ返してきた。

 

ふと、鏡面が僅かに揺れたような気がした。レベッカは恐る恐る片手で鏡に触れる。その瞬間、鏡が光り輝いた。

 

「ひっ、なにこれ!?」

 

驚いて思わず悲鳴をあげ、慌てて手を引っ込めた。そのまま一歩後ろへ下がる。

 

レベッカはオドオドしながら、しばらく光輝く鏡を見つめていた。やがて再び光にそっと指で触れる。不思議なことに、何の抵抗もなく指は光る鏡の中へと吸い込まれた。その感覚が恐ろしくて、再び指を引っ込める。

 

一体何が起きているのか、全然分からない。

 

だけど、これだけは確かだ。誰かが、自分を呼んでいる。恐らくは、この鏡の中から。

 

レベッカは目を閉じて、大きく深呼吸をした。そして、瞳を開く。一瞬だけ躊躇った後、意を決して、レベッカは光の中へと飛び込んだ。

 

飛び込む瞬間、再び声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

『あなたに会いたい。--我が友よ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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リースエラゴの物語

 

 

 

 

鏡の向こう側に広がっていたのは、真っ白な世界だった。《アイリーディア》を握りしめながら、レベッカは周囲を見回す。目が痛いほど白くて、何も見えない。

 

ゆっくりと足を踏み出す。下の方で確かに硬い感触があるのに、床は見えなかった。まるで空間に浮いているような不思議な感覚に息を呑む。

 

「ここは……なんだろう……?」

 

勢いに乗って飛び込んできたが、もしかして自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。

 

レベッカは今更ながら自分の行動を後悔した。

 

後ろを振り返る。もはや、自分がどこからここへ来たのか分からない。

 

「うう……」

 

呻きながら、再び一歩踏み出す。

 

次の瞬間、足元にある硬い感触が消えた。

 

「ひゃっ」

 

悲鳴をあげるのと同時に、浮遊感を感じた。そのまま、レベッカの身体は一気に落ちていく。

 

「……っ」

 

あまりにも突然すぎて、声も出ない。

 

ザブンと水の音が聞こえた。

 

どうやら下には水が広がっていたらしく、レベッカの身体はそのまま一瞬にして水の中へと沈んだ。落ちた衝撃で、瞳を強く閉じる。

 

その時、レベッカの手の中で、《アイリーディア》の水色の石が再びチカチカと光った。

 

次の瞬間、声が聞こえた。

 

 

 

“--お願い”

 

 

 

先程の声とは明らかに違う声だった。透き通ったように、美しい女性の声。

 

「……っ?」

 

驚いて水の中で目を開ける。

 

周囲は真っ暗だった。レベッカがどうすればいいか分からず、とにかく身体を動かそうとしたその時、目の前に、フワリと何かが光った。

 

「……?」

 

混乱して、瞬きを繰り返す。暗闇の中、目の前の光は徐々に大きくなっていき、やがて映像のように広がっていく。水の中だというのに、その映像のような物はなぜかはっきりと見えて、レベッカは戸惑った。

 

そこに映し出されたのは、ベッドに横たわる女性の姿だった。左の頬に大きな傷跡がある、かなり高齢の女性だ。何かを抱き締めるようにして、瞳を閉じている。レベッカは目を凝らしてそれを見つめた。そして、女性が何を抱き締めているのか認識して、驚きで目を見開いた。それは間違いなく、《アイリーディア》だった。細い剣を胸に抱いた女性は、静かに目を開いた。その瞳は、白く濁っている。何も見えていないらしい。

 

「……?」

 

レベッカが水の中で首をかしげた時、女性がゆっくりと口を開いた。

 

 

 

“私の魂と魔力の全てを、剣に捧げましょう。そうすることで、この剣は完成する。……この剣を使えば、きっと彼女を助けてあげられる”

 

 

 

その言葉の意味が理解できず、レベッカは眉をひそめた。女性は優しく剣を撫でながら言葉を重ねた。

 

 

 

“……問題は、私が死んだ後、誰がこの剣を持って、彼女を助けるかということ……。この剣は、魔力の強い人間しか扱えない……この剣を使える人を、剣自身が選び、導いてくれる。きっと、長い時間がかかるかもしれない。……だけど、もうその方法しかないの”

 

 

 

女性はゆっくりと瞳を閉じる。その瞳からゆっくりと涙が流れた。そのまま、剣の鍔の部分へと手を添え、言葉を続けた。

 

 

 

“だから、どうかお願い……彼女を助けて。きっと、ずっと彼女は私を待ってる”

 

 

 

その声が頭の中で響いたその時、身体が浮かび上がるのを感じた。一気に視界が明るくなっていく。

 

「プハっ」

 

水からようやく顔を出すことができて、レベッカは息を吐き出した。少し離れたところに、地面が見えたため、必死に水の中を進んでいく。

 

「はぁ、はぁ……うぅ」

 

荒い息遣いをさせながら、ようやく水から這い上がった。ゆっくりと深呼吸をしながら、辺りを見渡す。後ろには少し大きな水たまりのような池がある。どうやら自分はそこに落ちていたらしい。そして、目の前には、たくさんの樹木が生い茂る森が広がっていた。奇妙なことに、鮮やかな緑の葉が光っているのに、草木の匂いは全くしない。上を見ると、水色の世界が広がっている。明るいのに、雲も太陽も見えなかった。その非現実的な光景に、レベッカは目を丸くする。

 

生き物の気配は全くない。鳥の声も、木葉を揺らす風の音も何も聞こえない。不思議な場所だ。

 

ここは、どこなんだろう。

 

ふと、昼間に出会ったアメリアの言葉を思い出した。

 

 

 

--どこかに、神様の寝室に繋がる入り口があるそうですよ

 

 

 

「……まさか、ここって」

 

神様の寝室?と、レベッカが小さく呟いたその時だった。

 

 

 

『--会いたい』

 

 

 

レベッカは、ハッと顔を上げた。同時に、《アイリーディア》の石が再び光る。

 

弾かれたようにレベッカは立ち上がり、声の方へと駆け出した。身体が重くて怠い。だが、どうしてもそちらへと行かなければならないような気がする。

 

声は、はっきりと耳に届いた。きっとこの近くに、声の主はいるはずだ。

 

 

 

 

 

『会いたい』

 

 

 

 

 

樹木の間を駆け抜ける。その手の中で、《アイリーディア》は光り続けた。それと同時に、レベッカの脳内でも、声が響いた。

 

 

 

“どうか、お願い……助けてあげて”

 

 

 

その声に眉をひそめたその時、何かが視界に入ってきた。慌てて足を止める。そして、それを見上げて、レベッカはポカンと口を開けた。

 

「これ、は--」

 

言葉がそれしか出てこない。

 

それは、巨大な竜の石像だった。周囲の樹木よりもずっと大きいその石像は、精巧な造りをしており、今にも動き出しそうだ。背中の翼を広げてはいるが、その瞳は閉じられている。灰色の巨大な尻尾が地面に付いている。その尻尾の先を囲うように、奇妙な赤い輪のような物が着いていた。それだけが鈍く光っている。

 

この石像は、一体なんだろう?レベッカが呆然としながらそう考えたその時だった。

 

突然、竜の瞳が開いた。

 

レベッカが驚く前に、ゆっくりと石像が動き出した。ズズズ、と重い石が動くような音が響く。レベッカは悲鳴もあげられずにその場で固まった。石像は少しずつ動きながら、その恐ろしい顔を近づけてきた。気がつくと、レベッカの目の前に、石像の大きな瞳が見えた。まるで深い深い海のような青色の瞳だ。それを見たレベッカは思わず呟いた。

 

「--なんて、綺麗な瞳……」

 

その声に、石像の瞳が一瞬揺らぐ。レベッカは自分の体の力が抜けるのを感じた。崩れるようにその場に座り込むのと同時に、声が響いた。

 

『--そなた、何者だ?』

 

石像がレベッカを真っ直ぐに見つめていた。その声は、紛れもなくミルバーサ島に到着してからずっとレベッカを呼んでいた声だった。

 

レベッカがポカンと口を開ける。それに構わず、石像が言葉を続けた。

 

『なぜ、ここに人間がいる?ここに、人間は入ってこれないはずだ』

 

レベッカはその言葉に答えようとして口をパクパクと開閉させたが、声は出なかった。

 

そんなレベッカを見つめながら、石像は少し首をかしげた。

 

『--ん?ちょっと待て。そなたから、我が友の気配がする。なぜだ?おかしい。……そなた、本当に何者だ?』

 

不思議そうな声が耳に届く。レベッカはようやく声を出した。

 

「わ、私をずっと呼んでいたのは、あなたですか?」

 

石像は不審げな瞳でこちらを見つめ、声を出した。

 

『--小さき人間よ。お前を呼んだ覚えはない。私が呼んでいたのは、我が友だけだ』

 

レベッカはその言葉に首をかしげた。

 

「で、でも、私、ずっと、あなたの声が聞こえていましたよ?」

 

石像はレベッカの言葉に何も答えず、無言で鋭い視線を向けてきた。その恐ろしい視線に逃げ出しそうになるのを我慢しながら、レベッカは言葉を重ねた。

 

「あ、あの……あなたは、神様、ですか?」

 

『神?』

 

石像はレベッカの言葉にやや戸惑ったような様子を見せた。そのまま言葉を重ねる。

 

『--私はそのような存在ではない。まあ確かに、かつて、そのように呼ばれた事はあるが……あとは怪物やら魔物やら……そなたと同じ生物ではないという事は確かだ』

 

石像はレベッカからゆっくりと顔を背けた。

 

『--私は、人あらざる者……そなたとは異なる時を生きる者。名を、リースエラゴという』

 

石像はどこか誇らしげにそう名乗った。レベッカはポカンとその姿を見つめる。そして、恐る恐る口を開いた。

 

「こ、ここは、どこですか?」

 

その問いかけに、リースエラゴと名乗った石像は少し迷ったように瞳を揺らし、答えた。

 

『--私の住み処だ……ここはそなたが生きる世界とは異なった場所。--時間や空間が歪んだ世界であり、時間流が乱れる場所でもある。説明するとややこしいが……そうだな……簡単に言えば異次元の空間だ』

 

その答えにレベッカは唇を引きつらせた。なぜ鏡の中がこんなところに繋がっているのだろう、と考えていると、再び声をかけられた。

 

『小さき人の子よ、もう一度聞く。そなたは、何者だ?なぜ、ここへ来た?』

 

石像が再び視線を鋭くさせる。レベッカは慌てて言葉を返した。

 

「わ、私にも分かりませんよ!ミルバーサ島に来てから、あなたの声が何度も聞こえてきて……」

 

『なぜ私の声が聞こえた?私の声はあちらの世界には届かないはずだ』

 

「そんな事言われても……」

 

言葉を続けようとしたレベッカは、ハッとして顔を、《アイリーディア》に向けた。

 

「そ、そうだ!これ!」

 

《アイリーディア》をリースエラゴへと向けた。

 

「この剣の、この変な石が、あなたの声に反応するように光っているんです!もしかして、これが関係してますか!?」

 

剣を目にした石像は、驚いたように体を動かした。

 

『--これは』

 

ゆっくりと石の顔を、《アイリーディア》へと近づける。しげしげとそれを見つめ、声を出した。

 

『……間違い、ない。この剣から、気配がする』

 

その声が、なぜか泣いているような気がした。

 

『我が友、セツナの気配がする』

 

リースエラゴは視線を縫い付けられたように、《アイリーディア》を見つめ続けた。その姿に戸惑いながら、レベッカはオズオズと声をかけた。

 

「……セツナさんとは、誰ですか?」

 

その問いかけに、リースエラゴはゆっくりと剣から目を離し、レベッカへと視線を向けてきた。

 

『たった一人の、……私の友だ』

 

「--その人の気配が、なぜこの剣に?」

 

『……分からない』

 

レベッカの問いかけに、石像は考えこむような顔をしながら、再び声を出した。

 

『……その剣は、どこで手に入れた?』

 

「……えーと、ちょっとしたきっかけで、知人から、もらったというか……」

 

ローレンの事をどう説明すればいいか分からず、レベッカは言葉を濁した。

 

リースエラゴが再び胡散臭いと言わんばかりの視線をレベッカに向けてくる。

 

レベッカはその視線に怯みそうになったが、なんとか踏みとどまり、身を乗り出した。

 

「教えてください。さっきから、もうワケが分からないんです。あなたは、何者ですか?セツナさんという方は誰なんですか?」

 

石像は、困惑したような様子でしばらく黙っていた。

 

考え込むように、何度もレベッカと剣を見比べる。そして、ようやくポツリポツリと話し始めた。

 

『私は、悠久の時を生きるもの。古き時代、まだ人間の世界が渾然としていた時代よりも、ずっと前から生きている存在だ。

 

遥か昔、かつての私は人間の世界で生きていた。ある国の森の中……人間が入ってこない、深い森の中で静かに暮らしていた。

 

このような姿をした私を、その時代の人間達は多いに怖れていた。その頃の私は、わけあって人間と関わるのを避けていた。人間達に恐れられても、別に構わなかった。こちらが何もしなければ、彼らも関わってはこない。私は森の中で静かに暮らすことができた。一人の暮らしは孤独だったが……穏やかで、自由で、気ままで、心安らかに過ごすことが出来た。

 

そんな私の静かな暮らしに、突然その人間は飛び込んできた。

 

その女は、セツナと名乗った。

 

近くの大きな村からやって来た、魔術師の女だった。

 

セツナは、おかしな奴だった。感情豊かで、快活で、無邪気で、よく笑う変な人間……いつも、馬鹿みたい明るくて、……それに、……それに私の事を怖がらなかった。

 

私と初めて会った時、セツナはとても驚いた顔はしていたが、決して逃げなかったな。興味深そうにどんどんこちらへ近づいてくるものだから、逆にこちらが驚いた。

 

セツナは深い森の中にある私の住み処を、頻繁に訪ねてきた。何度も何度もここに来るなと私は言ったが、それでもセツナは何度も訪ねてきた。

 

そのうち、私もセツナが来ることに慣れて……結局、受け入れるようになってしまった。

 

セツナと過ごすのは、とても不思議な感じだった。セツナは、いつもおしゃべりでうるさくて……でも、よく笑っていた。私と過ごせるのが楽しいと言って笑っていた……そんな事を言うのはセツナくらいだ。ああ、……本当に、変な女だったな』

 

懐かしそうな声を出すリースエラゴをレベッカは無言で見つめた。昔のことを語るリースエラゴの瞳に、何かとても温かい光が宿っているのがレベッカにも分かった。

 

『セツナはよく笑っていたが……時々泣いていた。自分の事を、役立たずな人間だと嘆いていた。

 

私にはよく分からないが、セツナは魔術師として村で働いていて……所属している群れのような団体があるらしくて……そこで仕事がうまくできず、悩んでいた。他の人間に“能無し”やら“穀潰し”と蔑まされ、馬鹿にされていたらしい。

 

確かに、セツナは魔法や魔術が下手だった。

 

だが、……私は、セツナは偉大な力を秘めていた、と思う。セツナから感じられる魔力の気配はとても大きなものだった。恐らくその力を使いこなせず、暴走させていたのだろう。

 

泣いているセツナを私は何度も慰めた。大丈夫だ、お前ならきっといつか大きな力を発揮できる、と言うとセツナは安心したように笑ってくれた。

 

セツナが笑うと、私もうれしくて、幸せだった。……本当に。

 

ある時、たくさんの人間が私の住み処へとやって来た。人間達は、私を捕らえた。私を人喰いの化け物だと言って。

 

誓って言うが、私は人を喰ったことはない。

 

ただ、私が存在するだけで、人間達は不安だったのだろう。その不安を取り除くために、私を駆逐しようとしたんだ。

 

私を捕らえた人間達の中には、泣きそうな顔で震えているセツナもいた。

 

後から分かったことだが、セツナが所属していたという団体の目的は、……私を殺すことだった。

 

セツナは、初めから私の事を探るために、ここに来ていたんだ。

 

セツナよりも上の地位にいる人間達から命令されたらしい。他の人間と比べて仕事が出来ないのだから、人喰い竜の元へ行き、どんな生き物か探ってこい、と。役立たずでもそれくらいなら出来るだろう、と言われ、セツナは断れなかったらしい。だからこそ、何度も私の住み処に来ていたんだ。

 

それを知っても、私は怒る気にはなれなかった。残念だとは思ったが。

 

捕らえられた私は、多くの人間の前で見せしめに殺されることになった。逃げようと思えば、逃げられたかもしれない。けれど、私は動かなかった。このままその人間達に、殺されようと思った。私は、セツナに裏切られた事で、無気力になっていた。

 

もう生きるのに疲れたんだ』

 

リースエラゴが言葉を切る。しばらく沈黙が続いた。

 

レベッカはおずおずと声をかけた。

 

「あの、でも……助かったんですよね?」

 

レベッカの言葉にリースエラゴはしばらく答えなかった。何度か瞬きをした後、ようやく言葉を発した。

 

『--セツナのおかげだ。ギリギリの所で、セツナは私を助け、逃がしてくれた。

 

何度も私に謝っていたな。ごめんなさい、と。裏切ってしまってごめんなさい、と。泣きながら、謝っていた。

 

捕らえた私を逃がす事は、重罪になるはずだ。そんな事をすれば、セツナも多くの人間に追われる身となる。殺されるかもしれない。だからやめろ、とそう言ったが、セツナは首を横に振って笑った。構わない、と言って。

 

あなたは友達だから助けたい、と。逃げて、そして生きてほしい、とセツナは言った。

 

その言葉が嬉しくて、本当に嬉しくて、私はようやく動いた。セツナと共に人間達を振り切って、逃げ出した。だが、逃げる寸前、魔力の強い呪術師によってこの魔法具を付けられてしまった』

 

リースエラゴが自分の尻尾に視線を向ける。その尻尾の先で、赤い輪が光っていた。

 

「それは……?」

 

レベッカの言葉が続く前に、リースエラゴが答えた。

 

『……呪術の込められた魔法具の一種だ。これのせいで、私の魔力はどんどん弱くなっていった。セツナはどうにかしてこれを外そうと努力してくれたが……あまりにも強力な呪いが込められているせいで、外れなかった』

 

呪い、という言葉にレベッカの手がピクリと動いた。それに気づかない様子で、リースエラゴは言葉を続けた。

 

『セツナと私がなんとかこの輪を外そうとしているうちに、人間達の追手が迫ってきた。彼らの執拗な追跡に、危険を感じたセツナが、私をこの世界に逃がしてくれたんだ……この世界に繋がる入り口を作ってくれた。異次元の空間に行きさえすれば、人間達は追ってはこれない。セツナは私をこの空間に逃がすと、入り口を閉じた。あちらから入ってこれないようにする。絶対に人間は入ってこれないようにするから、そこで待っているようにと言った。

 

私は一緒に行こうと言ったが、セツナは拒否した。自分はここに残り、私の呪いを解く方法を見つけるから、と。何度も説得したが、セツナは結局頷かなかった』

 

リースエラゴは何かを思い出すように瞳を閉じる。そうして、ゆっくりと言葉を続けた。

 

『最後に叫んでいた。“待ってて”と。“必ず、あなたを救ってみせるから。絶対に諦めない。だから、待ってて”と』

 

レベッカはリースエラゴの声を聞きながら、チラリと手の中にある細い剣を見た。

 

『この世界に逃げてから、この魔法具の呪いはどんどん進行した……いつの間にか私の身体は石に覆われ、ほとんど動けなくなった。昔は魔法を使うことも出来たが、今ではもう呪いのせいで全く出来ない……こうして、声を出すのが精一杯だ』

 

リースエラゴの声は、寂しさと悲しみに満ちていた。ゆっくりと瞳を閉じて、言葉を重ねた。

 

『--もはや、私の身体は呪いによってボロボロだ。それでも、私は待っている。ここでずっと待っている。ずっと、ずっと、たった一人の友を待っている』

 

リースエラゴはそう言って、口を閉じてしまった。レベッカはそんな石像を無言で見つめる。そして、そのまま再び、《アイリーディア》へと視線を向け、ゆっくりと強く握りしめた。

 

そんなレベッカに応えるように、《アイリーディア》の石は再び光を放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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セツナが遺したもの

 

 

--それは、罰だった

 

 

 

彼女を裏切った罰だった

 

 

 

護れなかった罰だった

 

 

 

--もう生きていたくない、もう終わらせて、死にたい

 

 

 

何度も何度もそう思った

 

 

 

それでも、私は生き抜いた

 

 

 

あなたとの約束を果たすために

 

 

 

あなたを救うために

 

 

 

あなたのためならば、役立たずの私は何でもできる

 

 

 

茨の道だって、裸足で進めるの

 

 

 

あなたを苦しめる世界だって、この手で壊してみせるよ

 

 

 

だって、誰にも愛されない私を、あなたは受け入れてくれたから

 

 

 

大丈夫だよって、言ってくれたから

 

 

 

だから、私は--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『--いや、本当は、分かっている。気づいて、いるんだ』

 

リースエラゴが呟くようにそう言った。

 

『--この空間と、外の世界の時間の流れは、違う。ここでずっと、眠っていたが……それでも、分かっている。きっと、セツナと別れたあの日から、人間の世界では何十年も、何百年も経ったのだろう……セツナも、とっくの昔に死んでいるはずだ。どれほど待っていても……セツナは、戻ってこない』

 

リースエラゴの青い海のような瞳は悲しみに染まっている。そんなリースエラゴを真っ直ぐに見つめ、レベッカは口を開いた。

 

「そうとは……限らないと思います」

 

その声に反応してリースエラゴはレベッカを見る。そして、困惑したような声を出した。

 

『は?』

 

その様子に構わず、レベッカは顔を伏せて小さく呟いた。

 

「ようやく、分かりました。どうしてこの剣がここへやって来たのか。私をここに導いたのか」

 

もしかしたら、この島を訪れることになったことも、偶然ではないのかもしれない。そんなことを思いながら、レベッカはリースエラゴに視線を向け、言葉を続けた。

 

「……セツナさんという方は、もしや左の頬に大きな傷がありますか?」

 

その言葉に、リースエラゴは大きく目を見開いた。

 

『--なぜ知っている?確かに、セツナは私と逃げる時に攻撃を受けたせいで、頬に傷跡が残っていた……』

 

レベッカはそれを聞いて、確信した。

 

《アイリーディア》をリースエラゴに向ける。

 

「これ、この剣は、魔法そのものを斬ることが出来るという剣だそうです。実際に、二年ほど前、私はこの剣で呪いを斬った事があります。そして、恐らく、これはセツナさんが作った物です--あなたを助けるために!」

 

リースエラゴはその言葉を聞き、訝しげな声を出した。

 

『セツナが……?確かにその剣からセツナの気配を感じるが……だが、そんな事が……』

 

信じきれない様子で、リースエラゴは剣に視線を向ける。しかし、

 

「この剣の名前は、《アイリーディア》というそうです」

 

レベッカの言葉を聞いたリースエラゴがハッとしたように息を呑む。そして絶句した様子で真っ直ぐに剣を見つめた。

 

「何かご存知なんですね?」

 

レベッカがそう尋ねると、リースエラゴは小さな声を出した。

 

『--アイリーディアというのは、……私の昔の名前だ……セツナだけに教えたことがある。セツナしか知らない……私が、人間だった時代の名前だ』

 

「えっ」

 

その言葉に、レベッカは驚いて思わず大きな声をあげた。

 

「あなた、に、人間だったんですか!?」

 

リースエラゴは気まずそうな声で答えた。

 

『--元は、人間として生きていたんだ』

 

何かとても話したくなさそうな様子で顔を背ける。レベッカもそれ以上の事は聞けずに、オロオロとしていたが、気を取り直して口を開いた。

 

「えーと、とにかく、この剣でその魔法具を斬ってみますね……?」

 

『--いいのか?』

 

レベッカの言葉に、リースエラゴは目を細めて言葉を返してきた。

 

『私がお前を騙しているかもしれないぞ……呪いが解けた瞬間、お前を喰うかもしれない』

 

「え?喰べるんですか?」

 

キョトンとしながらレベッカが問いかけると、リースエラゴは目を伏せた。

 

『……喰べない。人間を喰べたいと思ったことはない』

 

その様子に、レベッカは少し笑った。

 

「あなたが嘘をついているなんて思いませんよ。それに、それに……、この剣、《アイリーディア》が私にずっと語りかけてきましたから。あなたを助けてほしいって」

 

その言葉に、リースエラゴはしばらく無言でレベッカを見つめ、やがておかしそうに目を細めた。

 

『お前、呑気な奴だな』

 

「よく言われます」

 

レベッカも微笑み返すと、ゆっくりと剣を握った。

 

「それでは、いきますね」

 

『--頼む』

 

リースエラゴの言葉に、レベッカは走って尻尾の先へと回った。赤い輪へ向かって剣を構える。そして、

 

「よっと」

 

変な声を出しながら、剣を振るった。

 

剣が赤い輪に触れた瞬間、ピシリと音をたてる。そして、輪は強く光り輝き始めた。

 

その光に、レベッカは目を見開いたが、そのまま輪を切るために剣に力を込めた。

 

「むっ……」

 

なんだか、とても硬い感触がする。輪が抵抗しているような気がした。刃先が全然進まない。

 

--これ、本当に斬れるの……?

 

レベッカが顔をしかめたその時、剣の石がチカチカと光った。諦めないでと言われているような気がして、レベッカは思わず小さく笑う。大きく息を吸い込むと、再び力を込めた。ゆっくりと、刃先を進めていく。

 

そして、再びピシリと音がした。

 

「あっ」

 

レベッカは思わず声をあげる。

 

赤い魔法具が放つ光が消える。そして、そのまま粉々に砕け散った。あまりにも簡単に壊れたため、レベッカは狼狽えながら、一歩下がる。そして、リースエラゴを見上げ、驚いて口をポカンと開けた。

 

パキンと音をたてながら、石像にひびが入った。細い割れ目は、リースエラゴの身体の全体に広がっていく。

 

石像は、音をたてながら砕けていった。

 

「……っ」

 

レベッカは息を呑んで、思わず腰を抜かしたようにその場に座り込んだ。石像が割れ、中から現れたのは真っ白な竜だった。全身が雪のように白く輝いている。

 

竜は青い瞳を大きく開くと、そのまま天を見上げ、大きく吼えた。

 

その時、レベッカが持っていた剣の石が今までで一番強く光った。そして、

 

「えっ」

 

レベッカが驚いて声をあげるのと同時に、剣の刀身が折れる。

 

そのまま、リースエラゴを復活を見届けて安心したように、《アイリーディア》はボロボロと崩れていった。

 

後に残されたのは、剣に付いていた水色の石だけだった。コロンと地へと転がったその石へ、レベッカが手を伸ばそうとしたその時、石が再び光った。

 

「わっ」

 

石から、小さな光が浮かび上がるようにフワリと現れた。小さな光はそのまま空中をフワフワと移動し、やがてリースエラゴの顔の前で止まる。

 

その光を見たリースエラゴが絞り出すように声を出した。

 

『--お前、……お前、やっぱり馬鹿だろう』

 

その海のような瞳が、潤んでいた。

 

『私なんかのために、こんな、こんなに時間をかけて……自分の、魂まで使って……』

 

その時、不思議な声が聞こえた。

 

 

 

 

 

“戻ってきたの。約束したから”

 

 

 

 

 

“ただいま、リーシー”

 

 

 

 

 

その声を聞いたリースエラゴの瞳から次々と雫がこぼれていく。

 

『こんなになってまで……約束を、守ってくれたんだな……セツナ』

 

祝福のように、光が強く輝いた。

 

『--知っているか?セツナ。私は……、幸せだったんだ。お前がそばにいてくれたから……』

 

声が震えていた。

 

『--セツナ、セツナ、どうか、覚えていてくれ。忘れるな。私のことを。私が、お前を、世界で一番好きだったということを。私も、忘れない。お前との出会いを。お前と過ごした日々を--!』

 

ゆっくりと光は弱くなっていった。少しずつ消えていく。

 

リースエラゴは小さく呟いた。

 

『いつか、また出会えたら、その時は、今度こそ、ずっと一緒にいよう。--約束だ』

 

それに答えるように、光が揺れる。そして、蝋燭の火のように、フワリと消えていった。

 

その光景を、レベッカはポカンと見つめていた。

 

しばらく沈黙が続く。そして、リースエラゴはまだ潤んだ瞳で、レベッカに視線を向けた。

 

『--感謝する』

 

そう声をかけられたレベッカはビクリと肩を震わせた。

 

『これで、ようやく呪いが解けた。本当に、ありがとう、小さな人の子よ』

 

レベッカは慌てて立ち上がった。

 

「ひ、人の子なんて呼び方はやめてください。私は、レベッカです」

 

それを聞いたリースエラゴが目を細めながら、頷いた。

 

『そうか、では、レベッカ。私の事は、“リーシー”と呼ぶがよい』

 

「ええっと、リーシーさん……?」

 

『さん、はいらぬ。ただ、リーシーでいい』

 

その言葉に頷きながら、レベッカはゆっくりとリースエラゴに近づいた。

 

「えーと、リーシー……身体は大丈夫ですか……?」

 

『ああ。まだ体力と魔力は完全に戻ってはいないが、しばらく休めば回復するだろう』

 

その言葉にレベッカはホッと胸を撫で下ろす。そんなレベッカを見ながら、リースエラゴは言葉を続けた。

 

『何か、お前に礼をしたい。望むものはあるか?』

 

リースエラゴの声に、レベッカは小さく笑って首を横に振った。

 

「いいえ。お礼なら、既にセツナさんからもらっているので」

 

『うん?』

 

不思議そうな声を出すリースエラゴにレベッカは微笑んだ。

 

「--セツナさんが遺してくれた、《アイリーディア》のお陰で、私も大切な人を救えました。だから、気にしないでください」

 

あの剣がなければ、きっとウェンディを助けられなかっただろう。セツナの力のお陰だ。

 

レベッカの言葉に、リースエラゴは不思議そうな顔をしていたが、やがて気を取り直したように再び口を開いた。

 

『--その、もし、よければなんだが』

 

「……なんですか?」

 

どこかモジモジしたような様子のリースエラゴをレベッカはキョトンと見返した。

 

『その……、ここで暮らさないか?』

 

「--はい?」

 

レベッカがポカンと口を開けると、リースエラゴは何かを誤魔化すように言葉を重ねた。

 

『その……お前、かなりの魔力を持っているだろう?……人間とは思えない、強い魔力だ。人間というか……精霊とかその辺に近いな』

 

「……あー」

 

『お前のような存在は、あちらで、かなり生きにくいだろう。私は、知っている。欲深い人間の醜さを。強い魔力を利用しようとする愚かさを。……ここは異次元の空間で、普通の人間は入ってこれない。ここにいれば、お前は静かに穏やかに、ずっと生きられるだろう。だから--』

 

「いいえ」

 

リースエラゴの言葉を遮って、レベッカは首を横に振った。

 

「--あちらで、私を待っていてくれる人がいます。その人のそばにずっといると、約束しましたから、だから……帰ります」

 

その言葉に、リースエラゴは目を大きく見開く。そして、すぐに、

 

『--そうか』

 

と、小さく頷いた。

 

「あなたは、外に出ないんですか?」

 

レベッカの問いかけに、リースエラゴは少し首をかしげた。

 

『元々、私は外の世界では生きにくいからな……身体が回復するまではここで休むとしよう。その後は……分からないが、まあ、もう少し考えて……』

 

ふと、リースエラゴはレベッカの近くに転がっている水色の石へと視線を向けて、口を開いた。

 

『そうだ。お礼と言えるかは分からないが--これを』

 

「え?」

 

リースエラゴは地に転がっている、《アイリーディア》の水色の石を手に取った。

 

『これをお前に贈ろう』

 

「えっ?」

 

リースエラゴがフッと息を石に吹きかける。すると、水色の石は瞬く間にリースエラゴの瞳のような深い青の石へと変化した。

 

「それは……?」

 

『--元は、魔石の一種だったようだな。先ほどまではセツナの魔力と魂が入っていた。セツナが消えた今、普通の石に戻ってしまったが……』

 

リースエラゴは大きな手で、その石をレベッカへと差し出してきた。

 

『今、私の魔力を少量、この石に込めた。これを身に付けておけ。何かあれば、いつでも私の名前を呼ぶがよい。お前のためなら、いつでもどこでも駆けつけよう』

 

レベッカは戸惑いながら、青色の石とリースエラゴをチラチラと見た。

 

「えーと、いいんですか?もらっても……」

 

『ああ』

 

リースエラゴが大きく頷いたため、恐る恐るレベッカは青色の石を手に取った。

 

「あ、ありがとう、ございます……」

 

小さな石だった。まるで宝石のようにキラキラと光っているが、まるで海が閉じ込められているような深い色だ。

 

綺麗だな、と見つめていると、再びリースエラゴが声をかけてきた。

 

『--そろそろ、戻った方がいい。外の世界では、お前を待っている者がいるのだろう。相当時間が経ったのではないか?』

 

レベッカは苦笑した。

 

「あ、はい……でも、真夜中ですから……」

 

きっと全員寝ているはずだ。レベッカがいないことにも気づいていないだろう。そう思っていると、リースエラゴが首をかしげた。

 

『さっき言っただろう。ここと外の世界は、時間の流れが違うと』

 

「……へ?」

 

『私も詳しくは把握していないが……恐らく外の世界の方が時間の進みが早いんだ。多分、あちらでは何時間も経っているぞ』

 

「それを早く言ってくださいよ!!」

 

レベッカは慌ててポケットに青色の石を突っ込んだ。

 

「えっ、それじゃあ、今は何時!?」

 

『さあ……?』

 

「で、出口は!?どこなんです!?」

 

レベッカはあたふたと辺りを見渡した。リースエラゴは少し笑って、手を上げた。

 

『仕方ない。私の手で、お前を帰すとしよう』

 

「わっ!」

 

リースエラゴが突然レベッカの背中を押した。その瞬間、ザブンと音がした。レベッカの身体は再び水の中へと沈んでいく。

 

沈む瞬間、リースエラゴの声が聞こえた。

 

『本当にありがとう、--レベッカ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「--ベッカ、ベッカ!!」

 

最初に聞こえたのは、ウェンディの声だった。

 

「ううぅ……?」

 

気だるさを感じながら、瞳を開ける。

 

そこには、心配そうに自分を見つめるウェンディ、クリストファー、ダニエルや屋敷の使用人達がいた。

 

「……あれ?お嬢様?」

 

レベッカが眉をひそめるのと同時に、今度はクリストファーが大きな声をあげた。

 

「レベッカ!よかった、目を覚まして……大丈夫かい!?」

 

「え……あれ?……私……」

 

戸惑いながら、身体を起こす。周りを見回すと、そこはダニエルの別荘の踊り場だった。

 

「ベッカ、どこに行っていたのよ!?どこにもいなくて、……本当に心配したんだから!!」

 

「えっと……申し訳ありません」

 

ウェンディの怒ったような声に、どう答えればいいのか分からず、レベッカは慌てて頭を下げながら謝罪した。そして、思う。

 

--もしかして、全部夢だったのかもしれない。だってあり得ないだろう。異次元の空間に、竜に、呪いだなんて……

 

レベッカがそう考えたその時、ポケットに重みを感じて、レベッカはハッとした。そして、誰にも分からないようにさりげなくポケットに触れる。

 

そこには確かに石の硬い感触が存在していた。

 

レベッカは息を呑む。そして、ゆっくりと顔を上げると、チラリと鏡に目を向ける。鏡は何事もなかったかのように、ただその場の光景を写していた。

 

レベッカは周囲の人々を見回しながら、問いかけた。

 

「……今、何時ですか?」

 

それに答えたのはダニエルだった。

 

「そろそろお昼だな」

 

「えっ」

 

レベッカは絶句した。自分の感覚では短時間のはずだったのに、一夜明け、何時間も経っていた。

 

リースエラゴの言った通りだ。

 

「屋敷中を探し回ったのに、どこにもいなくて、島を捜索しようか迷っていた時、ここに倒れているのを発見したんだ。本当にどこに行っていたんだい?レベッカ」

 

「えーと……」

 

クリストファーの問いかけに、レベッカはしどろもどろになりながら、言いわけを考え始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方になり、荷物をまとめたレベッカはクリストファーやウェンディと共に海へと向かい、船に乗り込んだ。屋敷へと戻る時間だ。

 

「もう!行方不明になるだなんて……本当に心配したんだから!!」

 

「申し訳ありません……」

 

帰りの船の中で、まだプンプンと怒るウェンディにレベッカは頭を下げた。

 

結局、朝早くに一人で島を散歩していたら迷子になって、その後ようやくひっそりと屋敷へ戻り自分の部屋と間違えて踊り場で眠ってしまったことにした。

 

クリストファーとダニエルはレベッカが無事だったことにホッとしていたが、ウェンディは疑わしそうにレベッカを見ていた。

 

「ベッカ、私に何か隠していない?」

 

その言葉に、レベッカはドキッとしたが、

 

「いいえ、何も」

 

微笑みながらそう答える。ウェンディはムスッとしながら、レベッカを睨んだ。

 

「えっと、ほら、お嬢様、そろそろ、出発みたいですよ」

 

レベッカは誤魔化すように慌てて声を出した。

 

「旅行、楽しかったですね」

 

楽しくて、不思議な時間を過ごしたミルバーサ島とも、もうお別れだ。

 

船がゆっくりと動き始める。

 

ウェンディはようやく島へと視線を向けて小さく頷いた。

 

「うん……とても、楽しかった」

 

そのままレベッカの手をギュッと握ってきた。

 

「また、ここに来たいわ」

 

「……そうですねぇ、……また、いつか、きっと」

 

レベッカは微笑みながら、ウェンディの手を握り返す。そして、自分も小さな島を見つめた。

 

--不思議な島だった。本当に。

 

「そろそろ、お兄様の所に行きましょうか」

 

ウェンディの言葉に苦笑する。クリストファーは船酔いを恐れて、船に乗ると早々に休憩所へと引っ込んでしまった。

 

「そうですね。何か飲み物を持っていきましょう」

 

レベッカは島へ背を向けて、ウェンディと共に歩き出した。

 

その時、何かが聞こえたような気がした。

 

「--ん?」

 

レベッカは振り向く。

 

「ベッカ、どうしたの?」

 

「……」

 

レベッカは離れゆく島を見つめた。

 

真っ白で海の瞳を持つ、ひとりぼっちの神がいる島を、静かに見つめた。

 

どこかで、別れを惜しむような大きな竜の声が聞こえたような気がした。

 

「……」

 

さようなら、と心の中で呟く。

 

そして、再び島に背を向けると、ウェンディの元へと駆け寄った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『--本当に、不思議な娘だったな』

 

ひとりぼっちの神は、小さく囁いた。

 

レベッカの顔を思い出して、リースエラゴはクククっと小さく声を出して笑う。

 

レベッカはかつての友人と、セツナとよく似ていた。外見は全然似ていない。しかし、うまく言い表せないが、雰囲気がそっくりだった。

 

“--なんて、綺麗な瞳……”

 

レベッカが自分を見た時に言った言葉。

 

同じだった。あの言葉は、かつてリースエラゴとセツナが初めて出会った時に、セツナが言った言葉と同じだった。

 

その場にいない友人に、リースエラゴは語りかける。

 

『なあ、セツナ……あいつ、面白い人間だったな。また会えるだろうか』

 

もちろん、その言葉には何も返事は返ってこない。それでもリースエラゴは穏やかに笑って、ゆっくりと瞳を閉じた。

 

--きっと、いつか会えたら、その時はもっといろんな話をしたい。

 

呑気だが、優しい娘だった。

 

きっと、今頃は親しい人間と共に家へと帰っているのだろう。

 

ふと、あることを思い出し、リースエラゴは瞳を開く。そして、遠くを見つめた。

 

--レベッカ本人には言えなかった。

 

レベッカと出会った時、黒い何かが憑いているのが見えた。まるで影のような深い闇。その影が見えたのは一瞬で、すぐに消えてしまった。だから、不安にさせるかもしれないと思って、口に出すことができなかった。

 

『--あれは、まるで』

 

リースエラゴはポツリと囁く。

 

 

 

 

 

 

 

『まるで--死相みたいな……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






裏設定



※セツナ

かつて、魔術師として“魔物討伐隊”に所属していた少女。魔力は強いが、よく暴走させていたため、あまり強くなかった。そのため、周囲から蔑まれ、馬鹿にされていた“役立たずの魔女”。
リースエラゴと別れた彼女は、追手からの逃亡の末、ある一族に助けられた。その一族の、ある家族の養子となり、追手から逃れた。その後は、結婚もせず、隠れるようにしてその一生を“呪い殺しの剣”の製作に捧げた。
剣に、全ての魔力と自分の魂までを込めることで、ようやく完成させることができた。最期に、剣に《アイリーディア》という名前を付け、一族の子どもたちにリースエラゴの救出を託した。
しかし、その一族がある理由でバラバラになってしまい、やがて剣の役目は忘れられてしまった。
後に残ったのは、《アイリーディア》という名前だけだった。




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不安と勇気と幸せ

 

 

ミルバーサ島からコードウェル邸へ戻り、日常が戻ってきた。

 

「ねぇ、ベッカぁ、お願いっ!」

 

掃除をしているレベッカに、ウェンディが甘えるように抱きつく。

 

「嫌です」

 

レベッカはそれを軽く交わして、箒を動かし続けた。

 

その素っ気ない返事に、ウェンディは頬を膨らませて、言葉を続けた。

 

「だからっ、お風呂に一緒に入ってほしいのっ!ちょっとだけだから!」

 

「拒否します」

 

「うーっ……、なんでよ?そんなに嫌!?」

 

「だって、一緒にお風呂に入ったら、多分、お嬢様は変なことをするじゃないですか」

 

「そんなこと……し、しないわよ!」

 

ウェンディが少し言い淀み、目をそらした。レベッカは掃除をする手を止め、ウェンディに顔を向けた。

 

「私の目を、真っ直ぐに見て、もう一度言ってください。“絶対に変なことをしない”、と」

 

「……」

 

ウェンディが無言になる。

 

何か変なことをするつもりはあったらしい。レベッカは呆れたようにため息をついて、掃除を再開した。

 

「やっぱり拒否します」

 

ウェンディがムッとしたように再び頬を膨らませる。その時、レベッカの首に目を止めて、眉をひそめながら声を出した。

 

「あら……ベッカ、なあに、それ?」

 

「え?」

 

「その首……何かアクセサリーをしているの?」

 

「ああ……」

 

レベッカは微笑みながら、それを服の中から取り出した。

 

それは、青い石のついたペンダントだった。リースエラゴから贈られた石だ。自分で簡単にペンダントに加工して、身に付けることにした。仕事中は目立つため、服の中へと隠している。

 

「……綺麗な石ね。ベッカがこんなの付けるなんて珍しい……」

 

しげしげとペンダントを見つめたウェンディは、やがてハッとしたようにレベッカへと視線を向けた。

 

「ひょっとして、誰かからのプレゼント!?」

 

「えっ」

 

「誰から!?まさか、男の人じゃないでしょうね!?」

 

「ち、違いますよ!!」

 

レベッカは慌てて首を横に振った。

 

「男性から貰った物ではありません!」

 

贈り物というのは事実だが、男性からではない。というか人間ではない。しかし、それをうまく説明できないレベッカは苦笑しながら言葉を続けた。

 

「えーと、綺麗な石を拾ったので……自分で、作ったんですよ」

 

「ふーん……」

 

ウェンディは疑わしそうにそのペンダントとレベッカを交互に見つめる。

 

レベッカは誤魔化すようにウェンディから離れた。

 

「お、お嬢様、そろそろ家庭教師の先生が来ますよ。準備をしてくださいね!私は台所の仕事に行きます!」

 

バタバタと逃げるように出ていくレベッカを、ウェンディは不思議そうに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから1ヶ月程経ち、とうとうクリストファーが婚約するという話が発表された。クリストファーに想いを寄せていたらしいメイドや若い女性の使用人の悲鳴や嘆き声で、屋敷全体が騒がしくなった。

 

昼休み、セイディーやジャンヌと共に、レベッカは昼食を囲んだ。モグモグと昼食のパンを食べながら、セイディーがレベッカに話しかけてきた。

 

「クリストファー様、婚約するんですね……相手はどんな方なんですかね?」

 

「さあ……私も会ったことないから分からないわ」

 

正確には顔は見たことがあるが、それを言うといろいろとうるさくなりそうだったため、レベッカは曖昧に微笑んだ。

 

すると、今度はジャンヌが口を開いた。

 

「式はいつ頃になるんでしょうか?」

 

「うーん、どうなんだろう……よく分からないけど、結婚式はいろいろと準備が必要だろうし、……きっとまだまだ先になるでしょうね」

 

レベッカは首をかしげながらそう答える。

 

そんなレベッカを、セイディーがじっと食い入るように見つめていた。

 

「……?セイディー、何?」

 

レベッカがその視線に戸惑いながら、声をかけると、セイディーが慌てたように目を伏せ、ポツリと呟いた。

 

「ボク……勘違いしてたみたいで」

 

「勘違い?」

 

レベッカがキョトンとしながら聞き返すと、セイディーは気まずそうな表情で言葉を続けた。

 

「ボク……その……レベッカさんがクリストファー様の恋人なんじゃないかって思ってたんです」

 

「は、はあ?」

 

その言葉に、レベッカはギョッとする。一方、ジャンヌも食事の手を止めて困ったような顔をしながらセイディーへと視線を向けた。

 

「だって、あの、クリストファー様と一番距離が近いのってレベッカさんだし、クリストファー様もレベッカさんのことをすごく信頼してるみたいだし、もしかしたら隠れて付き合っているのかなって!!」

 

「お、おう……」

 

レベッカは思わず変な声をあげた。

 

「だから、2人のこと、影から応援しなきゃって思っててっ、身分違いの恋だけど、きっとレベッカさんなら乗り越えられるから……っ!」

 

「ちょっと止まって、セイディー……」

 

何やら一人で盛り上がってるセイディーを止めながら、レベッカは唇を引きつらせる。

 

昔、他のメイドからクリストファーとの仲を疑われて嫌がらせをされたことや泥棒事件を思い出した。頭痛がしてきた気がして、レベッカは頭を抱えながら口を開く。

 

「……違うから。クリストファー様のことは尊敬してるけど、そんな感情は一切ないから」

 

「ええっ、あんなにカッコいいのに!?」

 

大声をあげてレベッカの方へ身を乗り出したセイディーを、今度はジャンヌが咎めるように制止させた。

 

「ちょっと、セイディー」

 

「あ、すみません……」

 

セイディーが慌てて小さく頭を下げた。

 

レベッカは困ったように首をかしげると、ゆっくりと口を開いた。

 

「……えーと、何というか……クリストファー様のことは……とても素敵で、いい人だと思うけど……そんな目で見たことはない、かな」

 

「そうなんですか?」

 

「うん」

 

ハッキリと頷いたレベッカに、セイディーはなぜか残念そうな表情をした。

 

「それじゃあ、本当にボクの勘違いですね……」

 

気落ちしたようなセイディーに、ジャンヌが声をかけた。

 

「だから言ったじゃない。セイディーの妄想だって。暴走しすぎなのよ」

 

「うぅ~、だってだって~、2人が恋人ならすごく素敵だと思ったから~」

 

「だから、いい加減にそんな妄想するのは止めなさい」

 

ジャンヌが軽くセイディーの額を指で弾くと、セイディーは泣きそうな顔で額を手で抑えた。

 

その顔に思わず笑いながら、レベッカはセイディーの声をかけた。

 

「恋人といえば、……セイディー、あなたはどうなの?お付き合いは順調?」

 

セイディーに恋人がいるらしいということは以前本人の口から聞いたことがあった。その恋人は学生で、遠方の学校に通っているらしく、滅多に会えないらしい。現在は手紙を交わすことで、仲を育んでいるようだ。

 

レベッカの問いかけに、セイディーはパッと顔を輝かせて大きく頷いた。

 

「はい!今度久しぶりに会えることになったんです!やっと長期の休みが始まって、こっちに遊びに来れるらしくって」

 

「それはよかったわねぇ」

 

「えへへ、2人でどこに行こうかすっごく悩んでて、今から楽しみで--」

 

幸せそうに頬を赤く染めながらそう話すセイディーに、レベッカも微笑む。

 

ふと、セイディーの横を見ると、ジャンヌがぼんやりとセイディーを見つめていた。レベッカの視線に気づくと、ジャンヌは慌てたようにセイディーから視線を離す。そして、どこか寂しげな表情で目を伏せると食事を再開した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから3日後、レベッカは夜遅くにウェンディの部屋へと呼ばれた。いつものことなので、ミルクや蜂蜜を用意して足早にウェンディの部屋へと向かう。

 

そして、そこで聞かされた話に、レベッカは大きく目を見開いた。

 

「え……パーティー、ですか?」

 

「うん」

 

ウェンディがソファに座りながら、短く返事をする。

 

ウェンディの話によると、次のウェンディの誕生日にクリストファーがこの屋敷で大きなパーティーを開くことを提案したらしい。

 

「……いろんな人を招待して、ダンスパーティーをするのはどうかって」

 

「それは……」

 

レベッカは言い淀み、無理矢理笑顔を作ると、ウェンディに言葉を返した。

 

「それは、素敵なお話ですね」

 

「……」

 

ウェンディは、この世の終わりと言わんばかりの顔をレベッカに向けてきた。

 

「やっぱり嫌ですか?」

 

「当たり前じゃない……」

 

ソファの上でウェンディは頭を抱える。

 

「たくさんの人に囲まれて、しかもダンスだなんて!!」

 

「……うーん」

 

レベッカは少し困ったようにミルクをテーブルに置くと、ウェンディの手を取った。

 

「私から、クリストファー様にお話しましょうか?お嬢様がどうしても無理なら、きっと--」

 

「……ううん」

 

ウェンディは顔を上げて、囁くような声を出した。

 

「……いつかは、出なきゃいけないから。分かってるの。お兄様が私のために、してくれているんだって」

 

レベッカは苦笑した。ウェンディの言う通りだ。

 

ウェンディは幼少期の呪いのせいで、伯爵家の令嬢だというのにずっと引きこもりの生活を続けている。元々ウェンディは人と関わるのが根本的に苦手なのだ。しかし、今後は貴族として多くの様々な人と交流していかなければならない。華やかな社交界に足を踏み入れなくてはならない時期が来たのだ。

 

それは義務であり、絶対的で、避けられない事だ。クリストファーはウェンディを少しでも社交界に慣れさせようとして、自邸でパーティーを開くことを提案したのだろう。

 

「……本当に、大丈夫ですか?」

 

レベッカがウェンディの手を撫でながら問いかけると、ウェンディはレベッカの顔を上目遣いで見てきた。

 

「……ベッカが、膝枕してくれたらがんばれる……かも」

 

その言葉にレベッカはクスリと笑い、頷いた。ベッドへと向かい、腰を下ろす。

 

「はい、どうぞ」

 

ポンポンと膝を軽く叩きながらそう言うと、ウェンディは嬉しそうに駆け寄ってきた。

 

「んふふ」

 

小さく笑いながら、ベッドに乗ると、そのまま横になりレベッカの膝に頭を乗せる。

 

そして幸せそうに瞳を閉じた。

 

「こんな事でいいんですか?」

 

「いいの」

 

レベッカの問いかけに、ウェンディは笑って答える。そのまましばらく穏やかな顔でレベッカの膝の上で目を閉じていた。やがて、ゆっくりと目を開き、レベッカの方へと手を伸ばしてきた。

 

「ねえ、ベッカ」

 

「はい?」

 

「覚えておいて。私ね、本当は誕生日にケーキもプレゼントもいらないの」

 

ウェンディはレベッカの頬を撫でながら、言葉を重ねた。

 

「あなたに、おめでとうって言われるだけで、それだけでいいのよ。私にとって、それが一番幸せなの」

 

それを聞いたレベッカは驚いたような顔をした後、照れたようにはにかんだ。

 

「それは……光栄です」

 

ウェンディも微笑み返し、ゆっくりと身体を起こす。そして、今度はレベッカの膝に乗り込んできた。

 

「お嬢様?」

 

そのままウェンディはレベッカに抱きついた。目を閉じて、レベッカの胸に顔を埋める。

 

「はあ……落ち着く……」

 

至福を感じたようにそう呟くウェンディに、レベッカは困ったような顔をしながらもすぐに抱き締め返した。

 

「もう、仕方ないお嬢様ですねぇ」

 

そう言いながらも、ウェンディの頭を優しく撫でる。それを感じながら、ウェンディはレベッカの胸の中で、

 

「んふ、んふふ」

 

と笑う。

 

そして、顔を上げると、レベッカの髪を一房手に取った。

 

「お嬢様?」

 

「綺麗な髪ね……いい香り……私の好きな蜂蜜の香りだわ」

 

レベッカの声を無視するように、ウェンディはそう呟くと、レベッカの髪に口付けた。

 

「お、お嬢様」

 

レベッカが声をかけると、ウェンディが髪に口を触れさせたまま、レベッカを見上げてきた。その瞳を見たレベッカの心臓が大きな音をたてる。愛らしい丸い瞳が一変して、獣のような光を宿していた。

 

「……もう少し、ちょうだい」

 

「はい?」

 

ウェンディの言葉にレベッカが眉をひそめた次の瞬間、ウェンディがレベッカへと顔を近づけてきた。

 

そのままウェンディはレベッカの頬にキスをした。

 

「ひゃっ……ちょっ、お嬢様!くすぐったいですよ!」

 

レベッカが慌ててそう言いながら、ウェンディを押し返す。

 

「もう終わりですっ」

 

ウェンディはムッとしたようにレベッカを見た。

 

「足りないわ」

 

「は、はい?足りないって……」

 

「全然、足りないの。もっと欲しい」

 

その言葉と同時に、突然レベッカは身体を後ろへ押される。気がつくと、ウェンディによってベッドに押し倒されていた。

 

「お、お嬢様--」

 

レベッカが困惑しながら、声を出す。ウェンディはうっとりしながら、口を開いた。

 

「なんて、いい眺め……」

 

レベッカは唇を引きつらせた。

 

「あの、えっと、お嬢様……っ」

 

「ベッカ、もうちょっと食べさせてね」

 

「へっ……?」

 

レベッカの声に構わず、ウェンディは今度はレベッカの耳へと顔を近づける。そして、ベロリと耳を舐めた。

 

「ひあぁっ!?」

 

今度こそ悲鳴をあげたレベッカは慌ててウェンディの腕を振り払うように起き上がった。そのまま勢いよく下がると、ウェンディから距離を取る。

 

「な、何するんです!?」

 

「だから、ちょっと食べたの」

 

「……っ、お嬢様!!もう本当に怒りました!」

 

顔を真っ赤に染めたレベッカはベッドから降りて、逃げるようにドアへと向かった。

 

「帰ります!!」

 

部屋から出るためにドアを開けようとしたその時、後ろからウェンディの手が伸びてきて、レベッカの手を取った。

 

「待って」

 

小さな声でレベッカを引き留めたウェンディは、そのままレベッカに後ろから抱きついた。

 

「……ごめんなさい。変なことして」

 

珍しく、ウェンディが素直に謝ってきたため、レベッカは大きく目を見開き、後ろを振り返った。

 

ウェンディはレベッカの背中に額をくっつけ、言葉を続けた。

 

「……不安だっただけなの。あなたに、触れると、少しだけ勇気が出るから……」

 

その声に、レベッカは少しだけ天を仰ぐ。そして、大きく息を吐き出し、ウェンディに声をかけた。

 

「……また、こんなことしたら、本当の本当に怒りますからね。ホットミルクも、持ってくるのはやめます」

 

「……分かった」

 

自分がウェンディに対して甘いということは承知の上だ。それでもレベッカは、ウェンディから身体を離し、その場に腰を下ろしてかがみ込む。そして、ウェンディの両手を握ると、その緑の瞳を真っ直ぐに見つめながら微笑んだ。

 

「お嬢様」

 

「……」

 

「お嬢様の誕生日に、必ず時間を作ります。こっそりと、お祝いしましょう。2人きりで」

 

その言葉に、ウェンディがパッと顔を輝かせた。

 

「本当?」

 

「はい。2人だけの、秘密ですよ?」

 

レベッカがそう囁くと、ウェンディは大きく頷いた。

 

「……嬉しいっ。約束ね、ベッカ。絶対よ!」

 

「はい」

 

無邪気なウェンディの様子に、レベッカは微笑む。

 

ウェンディは再び幸せそうに、

 

「んふ、んふ」

 

と声を出して笑った。

 

 

 



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星屑のダンス

 

 

翌日には、コードウェル邸でダンスパーティーが開かれるという話が、屋敷で働く使用人達の間に広まっていった。

 

ウェンディの呪いが原因で、長らく社交界から遠ざかっていたコードウェル家で開かれるパーティー。開かれるのはもう少し先だが、早めに準備をしなければならないだろう。

 

レベッカが予想した通り、仕事は一気に増えた。メイド長や執事のリードもパーティーの準備に追われ、ピリピリしている。また、クリストファーも冷静に仕事をしているようには見えるが、徐々に表情に余裕がなくなってきているのが感じられた。

 

しかし、恐らく一番大変で、忙しいのはウェンディだった。

 

パーティーに向けて、大嫌いなダンスやマナーのレッスンが増えたのだ。

 

ダンス教師の声がホールに響く。

 

「お嬢様、右手はもう少し上げてください。背筋ももっと伸ばして!」

 

「……」

 

「ステップがずれています。もっと早く動かしてくださいませ!」

 

「……」

 

ダンス教師の言葉に、ウェンディは真顔のまま何も答えずに身体を動かす。

 

「もう少し表情も意識してください!優雅に上品に、そして笑顔で!」

 

「……」

 

ウェンディが唇を引きつらせるように無理やり笑顔を作る。その姿を、レベッカはハラハラしながらそばで見守った。

 

人見知りで無口で他人と関わるのが嫌いなウェンディは教師とさえほとんど会話をしない。ただひたすら、言われた通りに行動をする。

 

しかし、夜になると、

 

「疲れた。疲れたの。う~っ、ベッカぁ」

 

「はいはい」

 

ウェンディは必ずレベッカを部屋に呼び出し、抱きついて弱音を吐き出した。

 

「ダンスなんて嫌い。楽しくもないのに笑えるわけないじゃないっ」

 

「そうですね、その通りです」

 

「優雅にって何よ。分からないわよ。足も痛いし、もうイヤなのぉ……」

 

「そうですね、嫌ですよね」

 

ソファに座るレベッカに、ウェンディは強く抱きつくようにしながら胸に顔を埋め言葉を吐き続ける。レベッカはそれを聞きながら、ウェンディの小さな頭や背中を優しく撫でた。

 

「ベッカ、ベッカ、ベッカ……」

 

「はい」

 

「もっとギュッてしてぇ……」

 

「承知しました」

 

命じられた通りに強く抱き締めると、ようやく満足したのかウェンディが顔を上げた。

 

「ん、ありがとう」

 

「はい。……ミルクを入れましょうか?」

 

レベッカがそう尋ねると、ウェンディは身体を離しながら短く答えた。

 

「ううん。いらない」

 

その答えにレベッカは首をかしげる。奇妙なことに、最近ウェンディがホットミルクを頼むことがなくなってきた。夜にレベッカを呼び出し、抱き締めることや膝枕は要求するが、ホットミルクを入れることは命じない。

 

「……あの、お嬢様、最近ホットミルクを飲まないようですが……どうかされましたか?」

 

レベッカがそう尋ねると、ウェンディが苦笑しながら答えた。

 

「ホットミルク飲んだら眠くなっちゃうから……夜にやりたいことがあるの」

 

「……?何をするんですか?」

 

ウェンディは僅かに目を泳がせたが、すぐに口を開いた。

 

「昼間にできないことよ。家庭教師から出された課題とか……」

 

「ああ、なるほど」

 

レベッカは微笑んで頷いた。

 

「私にお手伝いできることはありますか?何か必要な物があれば……」

 

「ううん、大丈夫。ベッカは部屋に戻って。遅くまで付き合わせてごめんね」

 

ウェンディの言葉にレベッカは頭を深く下げた。

 

「それでは、失礼します。何かあったら、いつでもお呼びください」

 

「うん」

 

そのままレベッカは足を踏み出し、静かに扉を開けるとウェンディの部屋から出ていった。

 

残されたウェンディは、大きく息を吐き出す。そして、テーブルへと足を向けた。近くに置いてあるタイプライターを手に取る。今度はゆっくりと机の方へと向かい、タイプライターを置いた。椅子に腰を下ろすと、しばらくそれをまっすぐ見つめる。

 

やがて、ゆっくりと手を動かし始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

準備に追われながらも、ダンスパーティーの日はどんどん近づいてきた。

 

今日は仕立て屋を呼び、ウェンディのドレス合わせをすることになっている。

 

窓の少ない部屋にて、仕立て屋が持ってきたドレスにウェンディはさっそく袖を通した。

 

「あら、まあ……」

 

その場にいたメイド長が感嘆したように呟いた。レベッカも無言で目を見開く。

 

仕立て屋が作った淡紅色のドレスは素晴らしかった。美しく細かい刺繍に、フワリと広がるフリルとレースが印象的なドレスだ。

 

これ以上ないほど、ウェンディによく似合っている。

 

「素晴らしいですよ、お嬢様」

 

「本当に、お美しいですわ」

 

メイド長と仕立て屋の賛辞に、ウェンディは、

 

「……うん」

 

と小さく頷く。レベッカの方をチラチラと何か言いたげに見てきた。しかし、レベッカは、

 

「……」

 

ただポカンとしたようにウェンディを無言で見つめていた。

 

--とても、とても美しかった。本当に。

 

おとぎ話に出てくるお姫様のようだ、と思いながら、レベッカはウェンディを見つめ続けた。

 

「では、このドレスでよろしいでしょうか?」

 

「ええ。そうですね、あとは……」

 

そのまま何事か話し始めたメイド長と仕立て屋をよそに、ウェンディがソワソワしたようにレベッカの方へ近づいてきた。

 

「ベ、ベッカ、……どう、かしら?」

 

「……あっ、はい……と、とても似合っています。思わず見とれちゃいました」

 

慌ててレベッカがそう答えると、ウェンディは嬉しそうにはにかんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バタバタとした日々を駆け抜け、とうとうダンスパーティー当日になった。

 

その日は、当然朝からレベッカもウェンディも忙しく、ほとんど顔を合わせられなかった。

 

パーティーの始まる時間が近づいてくると、招待された人々がどんどんやって来た。コードウェル家の広間はかつてないほどにぎわっている。

 

「楽しそうですねぇ……」

 

キッチンで仕事をこなすレベッカが思わず呟くと、古株の料理長が苦笑して頷いた。

 

「昔は先代がよくパーティーを開いていたがね……こんなの、本当に久しぶりだよ。大変だろうが、頑張ってくれ」

 

その言葉にレベッカは苦笑しながら、

 

「はい」

 

と答えた。

 

やがてパーティーが始まった。着飾った華やかな人々がそれぞれ楽しそうに会話をしたり、食事を楽しむ気配が伝わってくる。

 

そんな中、レベッカはキッチンにて裏方の仕事に精を出していた。

 

「あれ?レベッカさん、今日はずっとキッチンですか?」

 

ジャンヌに声をかけられ、皿を洗いながらレベッカは頷いた。

 

「うん。こっちの方が大変そうだったから……」

 

元々、コードウェル家のキッチンで仕事をするコックや使用人の数は少ない。パーティーの日がかなり忙しくなるだろうということは予想していたため、レベッカは自らキッチンの裏方の仕事を希望した。

 

「レベッカ、すまないな」

 

料理長が申し訳なさそうにそう声をかけてきた。

 

「人手が足りなくてな……本当に助かるよ」

 

レベッカは笑いながら首を横に振った。

 

「いえいえ。気にしないでください。あとは何をすればいいですか?」

 

「それじゃあ、食器を用意してもらえるか?それからーー」

 

料理長の指示を聞きながら、身体を動かし続ける。

 

やがて、優雅な音楽の音が微かに聞こえてきた。きっと今頃お嬢様はダンスをしているんだろうな、と考えながら、目の前の仕事をこなしていく。

 

それから、1時間ほど経った時のことだった。

 

「レベッカ」

 

「はい?」

 

コックの1人に名前を呼ばれて、返事をすると、コックが扉の方を指差した。そちらの方へ視線を向ける。扉の近くに、執事のリードが立っていた。こちらに向かって、手招きをしている。

 

「……?」

 

首をかしげながら、そちらへ駆け寄ると、リードが無表情のまま口を開いた。

 

「爆弾が爆発寸前です」

 

「……はい?」

 

レベッカがキョトンとすると、リードがコホンと小さく咳払いをした。

 

「--失礼。お嬢様の精神状態が限界に近づいているようです」

 

「えっ」

 

「先ほどから、必死に自分を保っているようですが……そろそろ爆発するかもしれない、とクリストファー様が仰っています。まだパーティーから抜けるのは無理なので……そこで、レベッカさんをお呼びするようにと」

 

「……えっと」

 

チラリと料理長に視線を向ける。料理長は、行ってこいと言うように快く頷いてくれた。レベッカは小さく頭を下げて、リードと共にキッチンから出ていった。

 

広間では、多くの人々がそれぞれパーティーを楽しんでいるようだった。そんな中、広間の隅っこにウェンディは1人で立っていた。美しいドレスに身を包み、髪も優雅に整えられている。その姿を見たレベッカは思わず呟いた。

 

「……ああ」

 

一見、ウェンディはニコニコと微笑みながらパーティーを楽しんでいるように見える。誰かに話しかけられれば、にこやかに対応している。しかし、その瞳は全く笑っていない。虚ろな目で周囲を見つめていた。よく見ると、唇も微かにピクついている。

 

「相当疲れていますね」

 

レベッカがそう言うと、リードも深く頷いた。

 

「はい。……流石に多くの人の前で切れることはないとは思いますがね」

 

「ちなみにクリストファー様は?」

 

「あちらに」

 

リードが指した方へ視線を向けると、クリストファーは婚約者の女性と腕を組み、多くの人と談笑していた。

 

「婚約者のリゼッテ様のご友人も多くいらっしゃっているようで、そのお相手を。ですから……」

 

ウェンディを助ける余裕がないのだろう、ということをレベッカは察した。少しでもウェンディを落ち着かせるために、リードに命じてレベッカを呼んだらしい。

 

「えーと、どうすれば?」

 

レベッカがリードに問いかけると、リードはスッと水の入ったグラスを差し出した。

 

「これをお嬢様に。そして、言葉をかけてあげてください。恐らくは、それで少しは落ち着かれるでしょう」

 

レベッカは苦笑しながら、グラスを受け取った。

 

ゆっくりと広間に足を踏み入れる。そのまま静かに、素早く人々の間を進んでいく。幸運なことに、レベッカに声をかける人物はいなかった。

 

「--お嬢様」

 

レベッカがウェンディに声をかけると、死んだ魚のような目をしていたウェンディがハッとしたように顔を向けた。

 

「……ベッカ」

 

「お水ですよ。少しずつ飲んでください」

 

グラスを渡す。ウェンディはオロオロしながらグラスを受け取ると、言われるままゆっくりと喉に流し込んだ。

 

「ゆっくり、静かに、深呼吸してください」

 

レベッカがそう言うと、ウェンディは素直に息を大きく吸い込み、吐き出す。それを数回繰り返してから、レベッカは優しくその手を握った。

 

「お嬢様」

 

「……うん」

 

「これが終わったら、ご褒美がありますよ」

 

そっと耳元で囁くと、ウェンディの肩がピクリと動いた。

 

「……ごほうび」

 

「はい。ですから、もう少し頑張りましょう」

 

待ってますから、と小さく囁きウェンディの瞳を見る。ウェンディはコクリと頷いた。

 

レベッカは柔らかく微笑み、優しくウェンディの手を撫でる。

 

その時、ザワリと人々が動揺したように揺れた。多くの人が驚いたようにどこかを見ている。レベッカとウェンディもそちらへと視線を向ける。

 

そこにいたのは、王子であるエヴァンだった。人の視線を気にすることなく、にこやかに広間を進み、クリストファーに近づいていく。

 

レベッカは驚いて目を見開いた。エヴァンの顔を見るのは久しぶりだ。1年程前、彼は他国の身分の高い令嬢と結婚をした、とクリストファーから聞いていた。結婚してからは、ほとんどここに来ることがなくなったため、今日もまさか来るとは思っていなかった。

 

多くの人がエヴァンの姿を見て、ザワザワと話しながらそちらに気を取られている。エヴァンはそんな人々の様子を気にすることなく、クリストファーと親しげに言葉を交わし始めた。

 

レベッカは苦笑して、ウェンディと顔を見合わせる。そして、ゆっくりと手を離してその場から立ち去った。

 

広間から出るためにコソコソと歩いていたその時だった。不意に、クリストファーと会話しているエヴァンと目が合ってしまった。エヴァンがパッと顔を輝かせ、レベッカに手を振ってくる。その周囲にいた人々がレベッカの方へと視線を向けてきた。レベッカは慌てて軽く頭を下げると、足早に広間から出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜、仕事が一段落したレベッカは、ウェンディの私室にて、ウェンディが帰ってくるのを待っていた。

 

恐らくは、そろそろのはずだ。ウェンディに命じられたとはいえ、誰もいない部屋で待っているのは落ち着かない。ポケットに手を入れて、中を確認する。そのまま、時計をチラチラと見つつ、ウェンディを待ち続けた。

 

やがて、小さな足音が聞こえた。レベッカがハッと扉に駆け寄った時、ガチャリと音がして扉が開く。

 

「……ベッカ」

 

「はい、お嬢様。お疲れさまでした」

 

レベッカがそう言って一礼すると、ウェンディはホッとしたように駆け寄ってきた。

 

「疲れたわ。本当に」

 

「ダンスは出来ましたか?」

 

「うん。最初はお兄様と。あとは何人かに誘われて。ちゃんと、足を踏まずに踊れたのよ」

 

ウェンディの言葉にクスクス笑う。

 

「もうパーティーはおしまいですか?」

 

「ううん。まだだけど……もう夜遅いし、疲れたから、お兄様に休みたいって話して、抜けてきたの。私がいなくても、みんな勝手に楽しんでいるし、ね」

 

ウェンディがソファに座りながら、溜め息をつく。どうやら、本当に疲れているようだ。

 

「大丈夫ですか?」

 

「うん。こんなにたくさんの人と話したのは初めてよ」

 

「楽しかったですか?」

 

「……」

 

ウェンディが無言で唇を尖らせる。その表情で答えが分かり、レベッカは苦笑した。

 

「本当にお疲れ様でした。大変でしたね」

 

「本当よ。親しくもない人間とダンスなんてもうしたくないわ」

 

ウェンディの言葉にレベッカは困ったように首をかしげた。ウェンディがどんなに嫌いでも、これから何度もダンスをしなければならないだろう。

 

レベッカがどう言葉をかけようか迷っていると、不意にウェンディが立ち上がる。そして、いいことを思いついた、と言うようにレベッカへと手を差し出した。

 

「ねえ、ベッカ、踊って」

 

「はい?」

 

レベッカが驚いてウェンディを見返す。

 

「ベッカと、ダンスをしてみたいの」

 

「……えーと、お嬢様。私、ダンスはちょっと……」

 

できない、ということは実はない。実家にいた時は、それこそウェンディに負けないくらいダンスのレッスンを受けていたのだから。

 

レベッカが言葉を濁していると、ウェンディが再び声をかけてきた。

 

「私がリードするわ。だから、お願い」

 

そう言われて、仕方なくレベッカは躊躇いながらもその手を取った。

 

ウェンディが少しだけ微笑み、レベッカの手に口づけた。レベッカの心臓が大きな音をたてて揺れ動く。

 

「お、お嬢様……」

 

「ベッカ、さあ」

 

ウェンディがそう言って、手を引いたのが始まりの合図となった。

 

音楽はない。にぎやかな声も、きらびやかな光も。

 

二人を見ているのは、月明かりと星の瞬きだけ。

 

ウェンディにリードされながらレベッカは足を動かす。ステップは難しくはないため、徐々にリズムを掴み始める。動きが乱れなくなり、どんどんウェンディとの距離が近づいてきた。

 

「--んふ、んふふ」

 

「ふふっ」

 

ウェンディが幸せそうに微笑み、レベッカもつられるように声を出して笑った。

 

星屑をリズムに、ステップを刻む。月明かりを浴びながら、幸せの時間は過ぎていく。

 

やがて、ウェンディが足を止めて口を開いた。

 

「ベッカ、踊れるじゃない」

 

「……お嬢様のレッスンをいつも見ていましたから」

 

レベッカは結ばれた手の力を抜いて、そう答えた。

 

「……そうね。ベッカは、いつも私を見ていてくれる、ものね……」

 

ほどこうとしたレベッカの手を、ウェンディが再び握る。そのままウェンディはレベッカの手を自分の顔へと持っていき、目を閉じて頬擦りをした。

 

「お嬢様?」

 

「……パーティーの時も、ずーっとあなたのことを考えていたのよ」

 

ウェンディが瞳を開く。

 

「あなたに、会いたかったの」

 

その顔を見て、再びレベッカの鼓動が高鳴った。

 

ウェンディのその表情。今までにも何度か見た表情だ。愛らしく、可憐だが、どこか儚げで、魅惑的な顔だった。不思議なことに、ウェンディが大人になりつつある、ということを、今、実感した。

 

きっと、今のウェンディを抱っこすることは、もうできない。

 

もう、暗い部屋の隅っこでシーツに包まれている孤独な少女は、いないのだ。

 

「……お嬢様」

 

「うん?」

 

「……お嬢様、大きくなりましたね」

 

レベッカの言葉に、ウェンディは拗ねたように唇を尖らせた。

 

「何よ?突然……」

 

レベッカは少しだけ笑う。そして、そっとウェンディから手を離すと、そのままポケットに突っ込んだ。

 

「お嬢様、13歳のお誕生日、おめでとうございます」

 

レベッカはポケットからプレゼントを取り出し、ウェンディに差し出した。ウェンディの顔が輝く。

 

「開けてもいい?」

 

「ええ、もちろん」

 

小さな包みをウェンディが開ける。入っていたのは、手作りの栞だった。

 

「お花の栞?」

 

「はい」

 

レベッカがこっそりと作った押し花の栞だ。

 

ウェンディが嬉しそうに見つめ、すぐにレベッカに抱きついた。

 

「ありがとう、ベッカ!」

 

「どういたしまして」

 

レベッカも笑いながら言葉を返す。

 

喜んでもらえたようで一安心だ。今年もお祝いできてよかった、とレベッカは心の中で呟き、ウェンディをギュッと抱き締めた。

 

 

 

 



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過去からの声

 

 

パーティーから1ヶ月後、怒涛の日々も終わり、静かな日常が戻ってきた。

 

「レベッカさん、何かいいことでもありましたか?」

 

昼食を取っている時、セイディーに声をかけられた。

 

「え?なんで?」

 

「なんだか、とても表情が明るいので……」

 

その答えに、レベッカは笑った。

 

「とてもお世話になった人が、もうすぐ仕事に復帰するのよ」

 

午前中、仕事をしている時にリードに話しかけられた。キャリーがもうすぐメイドの仕事に正式に復帰するらしい。出産してからかなり忙しかったようだが、ようやく生活が整ってきたようだ。

 

「それはよかったですね」

 

「うん。とても楽しみだわ」

 

レベッカはそう答えながら食事を続けた。

 

その日の午後、レベッカが廊下の掃除をしている時、後ろから声をかけられた。

 

「あっ、ベッカ!!」

 

振り向くと、パタパタとウェンディが駆け寄ってくるのが見えた。そのままレベッカに勢いよく抱きついてくる。

 

「わっ、お嬢様、どうされました?」

 

「えへへ」

 

珍しく上機嫌なウェンディの様子に、レベッカは首をかしげる。ウェンディはレベッカから身体を離すと、耳元で囁いた。

 

「あのねあのね、とっても素敵なお知らせがあるの」

 

「素敵な……?」

 

「うんっ!」

 

「何ですか?」

 

「ええっとね……私ね--」

 

何か言いかけたウェンディは、途中でハッと口をつぐんだ。

 

「やっぱり後で教えてあげるっ」

 

「ええ……?何ですか、それ。気になりますよ……」

 

「んふふふ。今日の夜、お兄様と私の部屋で食事をするの。ベッカも来てちょうだい」

 

「えっ、食事、ですか……」

 

「お兄様には話してあるから。夕食の時に、教えてあげるわ」

 

ウェンディはそのまま軽く触れるようにレベッカの頬にキスをした。

 

レベッカが驚く前に、ウェンディは身体を離す。

 

「今夜はごちそうよ。期待してて。それじゃあ、後でね!」

 

そのままウェンディは楽しそうに踊るような足取りで立ち去ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方、レベッカは庭掃除を頼まれた。1人で広大な庭にでて、箒を動かす。

 

「お嬢様、どうしたのかな……?」

 

先ほどのウェンディの様子が気になり、レベッカは呟く。

 

とても楽しそうな笑顔だった。ウェンディがあのように笑うのはとても珍しい。

 

何かとてもいいことがあったのだろうか、と想像しながら、掃除を終わらせる。夕食の席で話してくれるだろう。

 

ウェンディの輝くような笑顔を思い浮かべながら、屋敷の中へ戻ろうとしたその時だった。

 

 

 

突然衝撃を感じた。次に鋭い痛み。

 

 

 

「あっ--」

 

思わず声をあげるが、その口を何かで塞がれる。

 

何が起きたのか分からない。

 

ぐらりと視界が揺れた。周囲の景色が回転する。

 

目の前に誰かが立っている。見知らぬ小柄な人物だ。

 

--誰?

 

疑問を抱く前に、レベッカの意識は闇に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数分後、ウェンディはレベッカを探していた。約束した夕食の時間までまだ余裕はあるが、早く会いたかったからだ。

 

他の使用人にレベッカの居場所を尋ねる。庭で掃除をしているらしい、と聞いて足早に庭へと向かった。

 

早く自分だけのメイドに会いたくて、高鳴る心臓と共に、足を動かす。

 

今日はとても嬉しい事が起きた。知っているのは兄だけだ。でも夕食の席でレベッカに話すつもりだった。

 

話したら、絶対にレベッカは喜んでくれるだろう。そして、きっとその後には優しく抱き締めてくれる。

 

ウェンディは、それを想像して、1人で笑った。

 

パタパタと廊下を走る。メイド長に見つかったら怒られるだろう。でも構わない。今日は何か言われても、関係ない。記念すべき日なのだから。

 

ようやく庭に出る。もう空には少しだけ夕闇が見えていた。レベッカの姿を探して、庭を進む。

 

「ベッカ?どこー?迎えに来たのよ」

 

大きな声で呼びかけながら、庭を見回す。どこにもレベッカはいない。いつもなら、ウェンディが呼んだらすぐに返事が返ってくるのに。ふと、庭の真ん中の地面に目を留めて、ウェンディは眉をひそめた。そこには、ポツンと箒が転がっていた。だけど、近くにメイドの姿は見えない。

 

箒の方へと駆け寄り、辺りを見渡す。

 

「……ベッカ?」

 

もう一度、名前を呼ぶ。

 

ウェンディの声に、答える者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めに感じたのは、痛みだった。意識が浮上するとともに、何か変な音が脳内で響く。

 

「……うぅ」

 

全身がおかしい。意識は戻っているのに、動かない。早く行かなくちゃ、お嬢様が待っているのに……。夕食が……ごちそう……、

 

--あれ?

 

ハッとレベッカは顔を上げた。そして、呆然とする。

 

見知らぬ場所に、レベッカは横たわっていた。何の家具も装飾品もない殺風景な部屋だった。近くに1つだけ、窓がある。少し離れた所に扉があるのが見えた。

 

「えっ、ええっ……ここは……?」

 

なんでこんなところにいるんだろう。自分は庭で掃除をしていたはずだ。

 

そうだ、とレベッカはようやく思い出した。掃除が終わって屋敷に戻る時に、誰かに殴られたような気がした。

 

だけど、一体誰に--?

 

混乱しながらも、レベッカは部屋から出るために、扉へと近づいた。部屋から出たらここがどこなのか分かるかもしれない。しかし、

 

「あ、あれ?」

 

鍵がかけられているのか、扉は全然動かなかった。

 

しばらく格闘していたが、全く開く気配がないため、仕方なく諦める。次に、窓へと向かったが、そちらも鍵がかかっているのか開かなかった。外を見てみるが、夜のため景色はほとんど見えない。ただ、ここが1階ではないという事は高さで分かった。暗闇の中、外には樹木だけが数本見える。

 

「……ん?」

 

何か違和感を感じ、レベッカは首に触れる。

 

「……え?何これ……?」

 

いつの間にか、変な首輪のような物を着けていた。何だろう、これは……?

 

その時、ギイッと扉が開く音が聞こえた。レベッカは振り向き、呆然と口を開けた。

 

「ようやく起きたのね、このノロマ」

 

その声に、レベッカは肩を揺らす。

 

入ってきたのは、露出の多い紫色のドレスを着た女性だった。気の強そうな赤みがかった茶色の瞳に、やはり明るい茶色の巻き髪。レベッカを真っ直ぐに見つめ、女性はニヤリと笑った。

 

「相変わらず、貧相な顔をしていること」

 

その声に、冷たい汗が流れるのを感じた。

 

「--久しぶりね、キャロル」

 

昔の名前を呼ばれて、レベッカは口を開いた。

 

「……ジュリエットお姉様」

 

情けないことに、恐ろしさで声が震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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揺らめく存在

 

 

--ジュリエット・リオンフォール

 

思い出したくない名前だった。リオンフォール子爵家の次女。容姿は姉妹の中で最も美しい。その美しさから、母の大のお気に入りだった。しかし、性格は最悪。気が強く、我が儘で傲慢で、自己中心的。欲しいものは何でも手に入らないと気がすまない。昔は彼女に何か気に入らない事がある度に、八つ当たりのように叩かれたりつねられたりされた。

 

そのジュリエットが、今現在、自分の前に立っている。

 

「な、なんで……」

 

「隠れるのはもうおしまいよ、このグズ。探すのに、どれほど苦労したか--」

 

突然、パンと何かが炸裂する音が聞こえた。衝撃を受けて目を閉じるのと同時に身体が倒れる。すぐに、ジュリエットに頬を叩かれたということが分かった。

 

「何年もコソコソと隠れて……!本当に、薄汚いネズミみたいな子ね!!」

 

そのまま身体を大きく蹴られる。あまりの痛みに、目を閉じる。勝手に声が漏れた。

 

「……うぅぅ」

 

その時、小さな声が聞こえた。

 

「ジュリエット様、落ち着いてください……」

 

「うるさいっ、ココ!」

 

レベッカはうっすらと瞳を開いた。いつの間にか、ジュリエットのそばに誰かが立っていた。浅黒い肌に、短い黒髪、恐らくはウェンディと同じ年くらいの小柄な少年だ。その姿を見て、思い出した。コードウェル家の庭で、自分を気絶させたのはこの少年だ。

 

ジュリエットが再び叫んだ。

 

「あんたは引っ込んでなさい!!」

 

「あの、でも、……そろそろこちらに」

 

ココ、と呼ばれた少年が何かを言いかけたその時だった。

 

「そいつの言う通りだ。ジュリー」

 

2人の人物が部屋に入ってきた。

 

1人は、黒髪を後ろに撫でつけた、長身の青年だった。青白い顔色に、瞳は冷たく光っているが、凍りついたようにその顔は何の感情も宿していない。

 

青年の後ろに控えるように立っているのは、灰色のワンピースドレスを身につけた、黒髪を腰まで伸ばしている女性だった。どこかオドオドとしながら、こちらを見ている。

 

2人ともジュリエットと同じ赤みがかった茶色の瞳をしていた。

 

「--サミュエルお兄様……ブランカお姉様……」

 

男性は、リオンフォール家長子、サミュエル・リオンフォール。そして、もう1人は五女のブランカ・リオンフォールだった。

 

サミュエルはレベッカを無視して、ジュリエットに声をかけた。

 

「そいつには手を出すな、ジュリー」

 

「だけど、兄様っ」

 

「……顔は傷つけるな。そいつには、まだ使い道がある」

 

サミュエルの言葉に、ジュリエットは憎々しげにレベッカを見る。そして、今度はレベッカの腹部を大きく蹴った。

 

「……っ」

 

声を出せずに、目を閉じる。次に、強く髪を掴まれて、引っ張られるように顔を無理やり上げさせられた。

 

「随分探したぞ、キャロル」

 

痛みで涙が出るのを必死に堪えながら、目を開ける。目の前で、サミュエルがレベッカの髪を強く掴みながら、冷たい瞳でこちらを見据えていた。

 

「お前のようなみすぼらしい娘が、うちの名を名乗るのだって我慢ならなかったのに、まさか逃げ出すなんて、な」

 

レベッカは震えながら、必死に声を出した。

 

「……っ、どうして、居場所が……」

 

それに答えたのはジュリエットだった。

 

「コードウェル伯爵が最近婚約したでしょ?その婚約者の友人に、我が家の親類がいたのよ。伯爵家で開かれたパーティーに、その親類も招かれて、メイド姿のあんたを見かけたって教えてくれたわ」

 

それを聞いて、レベッカは唇を噛んだ。

 

「調べたわよ。まさか、髪と目の色を変えて、しかも偽名で伯爵家でメイドをしていた、なんてね。あんたを連れ戻すために、ココに屋敷に侵入させたの。この子、馬鹿だけど使えるのよ」

 

ココ、と呼ばれた少年がビクリと肩を震わせた。

 

レベッカは必死に声を絞り出した。

 

「……なんで、今更……っ」

 

「今更、じゃないさ。お前が必要なんだ。お前さえいれば、我が家は復興できる」

 

サミュエルがゆっくりとレベッカの髪から手を離す。そして、言葉を続けた。

 

「嬉しいだろう?魔力しか取り柄がない、不器量でみすぼらしい末っ子が、ようやく我が家の役に立てるんだ」

 

その言葉にゾッとして、反射的にレベッカは叫んだ。

 

「……っ、お断りです!!」

 

必死に身体を起こしながら、言葉を続ける。

 

「どうせ、私の魔力が目的でしょう!?絶対に、嫌!!私は、帰ります!!」

 

「帰る?馬鹿ね、あんたの家はここよ」

 

ジュリエットの言葉に、レベッカは眉をひそめた。

 

「は?」

 

その時、五女のブランカが初めて声を出した。

 

「……ここは、リオンフォール家よ、キャロル。“転送”の魔法でここまで運んできたの。屋敷、というか、正確には……屋敷の倉庫、だけど……」

 

ボソボソと聞き取りづらい声が響き、レベッカは眉をひそめる。

 

「そ、倉庫って……」

 

「屋敷の、隅っこにある倉庫の2階なの……もっとも、ここにあった物はほとんど売っちゃったから、倉庫として機能していないけど……」

 

「余計なことを言うな、ブランカ」

 

サミュエルの鋭い一言に、ブランカはすぐさま口を閉じた。

 

レベッカは素早く辺りを見回す。数年前の記憶を遡るが、倉庫の存在は思い出せなかった。

 

サミュエルが小さくため息をつく。

 

「……まあ、いい。お前の意思は関係ない。お前が何と言おうと、本来の役目を果たしてもらおう。リオンフォールの娘としての、な」

 

そう言ってクルリと背を向けた。

 

「行くぞ、ジュリー、ブランカ」

 

その言葉に、2人の姉も立ち上がった。サミュエルの後に続くように部屋から出ていく。

 

「ちょ、ちょっと--」

 

レベッカが慌てて立ち上がろうとしたその時、ブランカが振り向いた。

 

「……お兄様とお姉様に、逆らわない方がいいわ、キャロル。その首輪……強力な魔道具で、あなたの魔力を封じているの。だから、逃げようとしても無駄よ」

 

小さな声でチラリと首輪を見ながら囁く。そして、レベッカが引き留めようとする前に、バタンと素早く扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ頃、コードウェル家の屋敷では、レベッカがいなくなった事で、ウェンディが大騒ぎしていた。

 

「ベッカ、ベッカ?どこにいるの!?」

 

大声でレベッカを呼びながら、屋敷中を探し回る。他の使用人や、メイド達も一緒にありとあらゆる場所を探したが、レベッカの姿はどこにもなかった。

 

「お兄様、お兄様!!ベッカがいないの!!」

 

ウェンディが今にも泣き出しそうな顔で、クリストファーに訴える。クリストファーは慰めるようにウェンディの頭を撫でた。

 

「--大丈夫だよ、ウェンディ。もしかしたら、急に用事ができて、出掛けたのかもしれない……」

 

そう言いつつも、クリストファーの顔色は悪かった。レベッカが誰にも何も言わずに、屋敷の外に出るという事は考えられない。不安がるウェンディを慰めながらも、胸騒ぎがしていた。

 

「--クリストファー様」

 

その時、後ろから小さな声でリードが話しかけてきた。

 

「少しこちらへ」

 

そう言われて、クリストファーはウェンディに向かって微笑む。

 

「ちょっと待っていてくれ。この後すぐに、僕もレベッカを探すからね」

 

そう声をかけて、リードと共に部屋から出た。

 

「どうした、リード?」

 

「--レベッカさんは夕方に庭の掃除をしていたそうですが……屋敷の警備を確認した所、何かが侵入したような形跡が残されていたそうです」

 

クリストファーはハッとしてリードに聞き返した。

 

「それは本当か?」

 

「はい……不明瞭で本当に微かな魔法の形跡が……あまりにも巧妙な魔法で誰も気づかなかったそうです」

 

クリストファーの顔が険しくなる。

 

「--まずいな。かなり、まずい」

 

「クリストファー様?」

 

リードが声をかけたが、真っ青になったクリストファーは何も答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、倉庫の2階に取り残されたレベッカは、必死に首輪を外そうとしていた。

 

「ぐぐぐ……っ」

 

力任せにちぎろうとするが、どうしても首輪は外れない。ブランカの言った通り、全然魔法は使えなかった。

 

「……う~っ」

 

悔しくて、口から呻き声が漏れる。首輪を外すのは諦めて、何とか倉庫から脱出しようとした。しかし、部屋の扉と窓には鍵がかかっており、部屋に使えそうな道具は何もない。窓はどれだけ叩いても割れなかった。

 

ちなみに、先ほどは気づかなかったが、部屋の隅っこにもう1つ小さな扉があり、そこはトイレになっていた。

 

「……どうしよう」

 

レベッカは焦りながら呟いた。

 

このままだと、あの兄や姉達に利用されるだけ利用されてしまう。先ほど、サミュエルは具体的なことは何も言わなかったが、魔力の強さを売りに、無理やり有力貴族と結婚させられる可能性が高い。それを想像するだけで、肌が粟立った。

 

早くここから逃げないと--

 

その時、部屋の扉が小さく開いた。隙間から、水が入ったボトルと小さなパンが投げ込まれる。

 

「あっ、ちょ、ちょっと……!」

 

隙間から見えたのは、兄でも姉でもなく、ココと呼ばれた少年だった。レベッカと目が合い、ココはビクリと震える。レベッカが駆け寄る前に扉は閉まってしまった。

 

「お願い、ここから出して!!」

 

扉へと近づきドンドンと叩きながら声をかけるも、外から返ってきたのは、

 

「--ごめんなさい」 

 

というか細い声だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投げ込まれたパンと水を摂取することなく、レベッカは必死に考える。待っていたら、コードウェル家の誰かが来てくれないだろうか。いや、無理だ。レベッカは唇を噛む。誰もレベッカの本当の素性を知らない。誰も、自分がここにいることは知らないのだ。どうにかして、助けを呼ぶ方法がないか、と考えたその時、脳裏に浮かんだのは真っ白な竜だった。

 

「そ、そうだ!」

 

レベッカは服の中から、青い石の着いたペンダントを取り出した。

 

 

 

 

 

『--これを身に付けておけ。何かあれば、いつでも私の名前を呼ぶがよい。お前のためなら、いつでもどこでも駆けつけよう』

 

 

 

 

 

竜の言葉が頭の中でよみがえる。レベッカは早速石に向かって呼びかけた。

 

「リ、リーシー!」

 

しばらく待つが、何も反応はなかった。

 

「あ、あれ?リーシー!!リーシー!?リースエラゴさーん!?」

 

何回呼んでも、何も訪れない。どうやら、この首輪はリースエラゴの石の魔力さえも封じているらしい、という事を悟って、レベッカはガクリと肩を落とした。

 

その時、扉の外から声が聞こえた。

 

「--ねえ」

 

その声に反応して、レベッカは慌てて顔を上げる。

 

「食事はちゃんと取った?」

 

扉へと近づく。声の主は、五女のブランカだった。

 

「ブランカ、お姉様……」

 

「食べた方がいいわよ……」

 

小さなボソボソした声が響いた。

 

「--悪いと思ってるわ。本当に。でも、もうあなただけが頼りなの」

 

その声に、我慢できずレベッカは大きく叫んだ。

 

「どうして……今さら……私の事なんて、放っといてほしかったのに!お兄様もお姉様も私の事が嫌いなんだから……っ」

 

「それがそうもいかないのよ、キャロル。……我が家は、今、破滅寸前なの。いろいろとね」

 

「はあ?」

 

ブランカが小さな声で、レベッカが家を出てからの出来事を語ってくれた。

 

数年前に両親である子爵夫妻は死去し、兄であるサミュエルが子爵家を継いだらしい。レベッカは両親が亡くなったことを聞いても、さして反応はしなかった。

 

サミュエルが後を継ぎ、次兄は遠方の貴族に婿入りした。他の姉妹達もそれぞれ結婚したらしい。ところが--、

 

「私と、ジュリエットお姉様は離縁して戻ってきたの」

 

「……理由を聞いていい?」

 

「ジュリエットお姉様の性格を考えれば分かるでしょ?」

 

その言葉にレベッカは思わず1人で頷いた。恐らくは、嫁ぎ先でも我が儘放題で、見限られたのだろう。

 

「私の方は……その、いろいろあって……」

 

ブランカは自分の結婚の事に関してはあまり話したくないのか、口を濁してしまった。

 

ジュリエットとブランカがほとんど同じ頃に離縁され家に戻ってきた時、ちょうどサミュエルの方にも問題が起きていた。

 

「……サミュエルお兄様、賭け事にはまってしまったの。それで借金をしちゃって……もううちの経済状況はボロボロよ。金になるものは全部売ったわ。それでも、足りないの。そんな時、あなたを見かけたって知らされて、いろいろと調べて……ココを使ってあなたを連れてきたの」

 

「そのココって子は……?」

 

「うちの使用人よ。唯一の、ね。でも、こんな状態になってから、ほとんどの使用人は雇っておけなくて、クビにして追い出したの……あの子は、元々母親がメイドだったんだけど、その母親が病気で死んじゃって、他に行くところがなくて……あんなに小さいのに、妙に魔法が上手いから、お兄様とお姉様が便利に使ってるわ」

 

だから、レベッカをあの屋敷から連れ出すことができたのか、と納得した。

 

「--私を、これからどうするの?」

 

レベッカの問いかけに、ブランカは何も答えなかった。

 

「ブランカお姉様、答えて。お兄様は何を考えているの?」

 

もう一度問いかける。しばらくして、ブランカの小さな声が返ってきた。

 

「私は、知らないわ。あなたがいれば、お兄様はなんとかなるって言ってた。……悪いとは、思ってるけど」

 

レベッカはその答えに、苛ついて大きく扉を叩いた。

 

「そう思ってるなら、ここから出して!私をコードウェル家に帰して!!」

 

「……無理よ。お兄様とお姉様には、逆らえない」

 

レベッカは舌打ちしそうになった。

 

五女のブランカはいつもこうだった。実家にいた頃、ブランカはキャロルに積極的な嫌がらせはしてこなかった。ただし、他の家族がキャロルに酷いことをしても、それを止めることは絶対にしない。昔から、内向的でいつも暗く、オドオドと人の顔色を伺う、控えめで臆病な性格の持ち主だった。上の立場の者には絶対に逆らわず、自分の意思を滅多に口にしない。相変わらずおとなしくて卑屈な人だ、とレベッカが思ってると、

 

「……あなたが、羨ましいわ、キャロル」

 

囁くように、ブランカが言葉を重ねた。

 

「いっつも、あなたはいいとこ取りよね、キャロル……本当に、いつも運が良くて羨ましい……」

 

「ブランカお姉様?」

 

「……さっきは、言わなかったけど、私ね、夫に捨てられたの」

 

「……」

 

レベッカが何と答えれば言いか分からず無言になったが、それを無視するようにブランカの言葉は続いた。

 

「……政略結婚だけど……最初は上手くいくと、思ってた。夫は、いい人だったし。だけど……、嫁ぎ先で義理の両親から嫌われて……、何か失敗する度に怒られて、い、嫌みを言われて……つらくて、苦しかったわ。夫は助けてくれるだろうと思って、待っていたのに……結局何もしてくれなかった。最後には、ゴミみたいに扱われて、追い出されて……今でも、夫が迎えに来てくれるのを待ってるの。あの人が、謝罪して許しを乞うのなら、私はいつでも帰るのに……でも、夫はずっと知らんぷりしているの……酷いわ、私はずっと待ってるのに……」

 

「……」

 

「サミュエルお兄様がね……言うの。あなたがいれば、きっと何もかも上手くいくって……きっと、夫はすぐに迎えにきてくれる。そうしたら、きっと今度はいい関係を築ける、から……だから、言う通りにしてね……絶対に、逆らわないでね……あなたさえ我慢すれば、私は幸せになれるんだから……」

 

レベッカがその言葉に愕然とする。

 

「何よ、それ……っ」

 

あまりの怒りに全身が震える。それ以上の言葉を口から出す前に、ブランカの声が続いた。

 

「当たり前でしょう?あなたは、今まで散々いい思いをしてきたんだから……本当に、羨ましい。ずっと、ずっと、不愉快で、腹が立って、仕方なかったわ、キャロル」

 

その声には、紛れもなく憎しみの感情が宿っていた。レベッカは思わず顔をしかめる。

 

「はあ?」

 

「--私には何もない。いつも家族の余り物……」

 

ブランカの言葉はボソボソとしていてよく聞こえなかったため、レベッカは扉に耳を近付けた。

 

「……本当の余り物は、末っ子のあなただったのに。だけど、あなたには強い魔力があった。それに……小さな頃から優秀だったわね、キャロル。あんな母親から生まれたくせに……」

 

その言葉に、レベッカは困惑しながら扉の方へ声をかけた。

 

「ちょっと、待って……あんな母親って?」

 

「ああ」

 

ブランカは何かを思い出したように声を出した。

 

「そっか……キャロル、あなた本人は何も知らなかったわね……お父様が口止めしていたし」

 

「な、なに?」

 

「--私達兄妹の中で、あなただけは母親が違うのよ」

 

レベッカは無言で一歩扉から離れた。ブランカの声が続く。

 

「家族の中で自分だけが青い瞳を持つことを、疑問に思わなかった?生まれた時からほったらかしで、家族から嫌われているのを、不思議に思わなかった?--あなたは、お父様がメイドと関係を持って、生ませた子よ。まあ、あなたの母親はあなたを生んですぐに死んだけど」

 

「……」

 

「あなたが強い魔力を持ってるって分かるまでは、お父様はあなたのこと、とても邪魔に思っていたわ。もちろん、お母様も。よく“生まれてこなければよかったのに”って言ってた。あなたの存在は、我が家の恥そのものよ……キャロル。あなたが生まれて、我が家に引き取った時、お父様が全員に口止めをしたの。あなたの母親の事は二度と口にしないようにって……まあ、もう関係ないわね。お父様もいないし」

 

「……」

 

「そんな卑しい生まれのあなたが、今、メイドをしているなんて、ね。血は、争えない……やっぱり浅ましいメイドの娘だけあるわね」

 

初めて知る事実を聞いても、レベッカの心は落ち着いていた。そうだったのか、と心の中で冷静に受け止める。

 

「--とにかく、痛い目にあいたくなければ、お兄様の言う通りになさい、キャロル。分かったわね?」

 

ブランカの言葉に、レベッカは何も答えない。いつの間にか、ブランカは立ち去ってしまったらしく、もう扉の向こうからは何も聞こえてこなかった。静かな空間で、レベッカは床に座り込む。

 

 

 

レベッカの中で、キャロル・リオンフォールという存在が揺らめいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 







※裏設定



主人公は兄2人、姉5人がいる。





長男 サミュエル  現・リオンフォール子爵
そこそこいい所の貴族令嬢と婚約していたが、賭け事と借金がバレて婚約破棄



次男 コーマック 貴族の家に婿養子



長女 オーロラ 男爵の息子と結婚
ただし子どもができず、離婚寸前。



次女 ジュリエット 出戻り  
子どもがいるが、元夫に引き取られた。



三女 アンネット 既婚
ジュリエットの双子の妹だが、あまり似ていない。ジュリエットとは不仲で、会えば凄まじい喧嘩になる。



四女 グレイシー 既婚
政略結婚を拒み恋人と駆け落ち。現在、実家とは絶縁状態。



五女 ブランカ 出戻り



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ココ

 

 

凍りついたような静寂が部屋を満たしていた。世界から音が消えてしまったみたい。ここに閉じ込められて、何時間経ったのだろう。かなりの長い時間が過ぎたような気がする。

 

レベッカは壁に背中を預け、膝を抱えるように座っていた。虚無のような疲労が全身を支配しているのを感じる。石のように身体が重い。何も考えたくない。

 

ゆっくりと膝に顔を埋める。冷たい風が心の中を吹き抜ける。泣きたいほど、寒い。頭がおかしくなりそうなほどの孤独感を感じて泣きたいのに、不思議と涙は出てこなかった。徐々に意識が弛緩していくのを感じる。

 

 

 

 

 

--ああ、もう嫌だ。

 

--消えてしまいたい。この世界から。

 

 

 

 

 

ぼんやりと脳内が濁っていく。感情も感覚も消えてしまいそうだ。もういい。もう、何も考えたくない。

 

レベッカが目を閉じたその時、なぜか目の前にウェンディの顔が浮かんできた。

 

 

 

『ベッカ』

 

 

 

はい、と答えると、ウェンディが笑う。

 

 

 

『ベッカ、ミルク持ってきて。あと、膝枕して』

 

 

 

その命令には従えない。

 

だって、身体が動かないんです。

 

すると、ウェンディは拗ねたように唇を尖らせたが、すぐに言葉を重ねた。

 

 

 

『それじゃあ、お歌を歌って』

 

 

 

音痴なので嫌です。

 

 

 

『いいの。それでいいの。ベッカの下手なお歌がいいの』

 

 

 

そんなにおねだりされたら、拒否はできない。ああ、やっぱり私はお嬢様に甘いなぁ……

 

そんな事を考えながら、レベッカはゆっくりと唇を動かし始めた。

 

「……さあ、眠りましょう……優しい夜が、あなたを包んでいる……」

 

それは昔から、ウェンディによく歌って聞かせた子守唄だった。

 

「月と、……星が……あなたを見守っているから……朝が微笑むまで……ずっと一緒に……」

 

ウェンディの顔を思い浮かべながら、必死に歌を紡いでいく。

 

その時、誰かの気配を感じた。

 

一気に意識が浮上する。レベッカがパッと顔を上げると、目の前に小柄な人物が立っていた。ココと呼ばれていた少年だ。いつの間に入ってきたのか、小さなパンと水の入ったボトルを持ったココは、なぜか涙を流しながらレベッカを見つめていた。

 

「え……な、なに?」

 

その様子に戸惑いながらレベッカが声を漏らすと、ココはハッとした顔をした。慌てたように、床にパンと水を置き、そのまま背中を向ける。レベッカは素早く立ち上がり、ココの手を掴んだ。

 

「待って!」

 

ココが焦ったように振り返る。そんなココの様子に構わず、レベッカはココの細い足に目を向けた。

 

「怪我してるじゃない……」

 

ココの足には、小さな傷があった。よく見ると出血もしている。

 

「手当てした方がいいわ。そのままだと、傷跡も残ってしまうし……」

 

レベッカの言葉にココは動揺したように目をそらす。

 

「あなた、魔法が得意なんでしょう?治癒の魔法は?」

 

その問いかけに、ココはモゴモゴと小さな声で答えた。

 

「……治癒は、難しくて……うまく出来なくて……」

 

そういえば、医療や治癒に関する魔法はかなり難易度が高かったな、とレベッカは思い出した。

 

「うーん……じゃあ、せめてこれを」

 

レベッカはそう言いながら、自分の着ているエプロンの端を適当に破る。ギョッとしたようなココに構わず、レベッカはエプロンの切れ端を足に軽く巻いた。

 

「せめて保護はしておいた方がいいわ。ね?」

 

レベッカはそう言いながら、ココの顔を見る。ココはどうすればいいか分からない、とでも言いたげに困惑したような表情をしていた。レベッカはふとあることに気づき、ココの全身を見回す。小柄で、浅黒い肩や首は細かった。いや、細すぎだ。貧弱と言ってもいいくらいに痩せている。あちこちに小さな傷跡がたくさんあった。よく見ると、顔も左の頬が少し腫れている。

 

「……もしかして、お姉様とお兄様に暴力を振るわれてる?」

 

レベッカが問いかけると、ココは明らかに動揺した様子で大きく顔をそらした。レベッカは大きくため息をつく。どうやら図星だったみたいだ。

 

「わ、私、戻ります……っ」

 

声を震わせながら、出ていこうとするココをレベッカはもう一度引き止めた。

 

「ちょっと待って!」

 

手を強く掴むと、ココは必死にレベッカから離れようとする。そんなココの顔を見て、レベッカは気づいた。

 

--この子、女の子だ!

 

てっきり少年だと勘違いしていた。薄汚れていて傷だらけだが、よく見るとかなり可愛らしい顔をしている。

 

「ねえ、何日食べてないの?」

 

レベッカの突然の質問にココは驚いたような顔をして、レベッカを見てきた。

 

「あんまり、食事を取ってないんじゃない?」

 

その問いかけに、ココは答えなかったが、代わりにお腹から大きな音が聞こえた。

 

ココが顔を真っ赤にする。レベッカは少し考えると、床に置かれたパンを掴む。そのままココの方へと差し出した。

 

「食べなさい。私はいらないから」

 

ココはギョッとしたようにレベッカの顔へと視線を向けてきた。レベッカはココをまっすぐに見つめながら、安心させるように言葉を重ねた。

 

「誰にも言わない。約束するから。バレないようにこの場で食べていきなさい」

 

レベッカが更に言葉を重ねると、ココは困惑したように何度もパンとレベッカの顔を見比べる。やがて、迷ったようにしながらもおずおずとパンを手に取った。チラリとレベッカの顔を見る。レベッカが無言で頷くと、ココはようやくパンを頬張った。そのまま勢いよく食べ進める。あっという間に小さなパンは消えていった。途中でレベッカが水を渡すと、ココは今度は躊躇いなく受け取り、ゴクゴクと飲み干した。

 

どうやら兄や姉はこの使用人の少女にロクに食事もさせていないらしい、と悟り、レベッカは頭を抱えた。

 

「……あ、ありが、とう、ございます……」

 

パンを食べ終わったココはモジモジしながら呟くように礼を言う。そんなココをしばらく見つめる。やがて、レベッカはゆっくりとその場に腰を下ろし、ココと目線を合わせながら声をかけた。

 

「さっき、どうして泣いていたの?」

 

その問いかけに、ココは驚いたような顔をした後、唇を強く結んだ。無言でレベッカから顔をそらす。

 

「……答えたくなければ、いいけど」

 

レベッカがそう言うと、ココの口から小さな声が漏れた。

 

「--同じ」

 

「ん?」

 

「……同じだった、んです。子守唄が……お母さんが歌ってくれた……」

 

レベッカは大きく目を見開いた。そして、すぐに思い出す。ブランカはこの子の母親は病気で死んだと言っていた。きっと子守唄を聞いて母親の事を思い出し、泣いてしまったのだろう。レベッカは無言でゆっくりと手を伸ばす。そのままココの頭を優しく撫でた。ココはポカンと口を開けてレベッカを見返してきた。

 

そんなココを見つめながら、レベッカは口を開いた。

 

「あのね、……悪いことは言わないから、ここから……リオンフォール家から出ていきなさい」

 

その言葉にココは大きく瞳を揺らした。

 

「お兄様とお姉様にひどい事をされてるんでしょう?とても痛くて苦しいでしょう?このままだと、あなた、ずっと、ずーっとあの人達に奴隷みたいに扱われ続けるわよ。そんなの、嫌でしょう?」

 

レベッカがそう言葉を続けると、ココは目を伏せた。

 

「……できません」

 

震えるような小さな声が部屋に響く。

 

「ジュリエット様には、お母さんも、私も、お世話になりましたし……そ、それに、他に行くところが、ないんです」

 

「そんなの--」

 

レベッカが言い返す前に、ココはクルリと背を向ける。

 

「あっ、……待って!」

 

もう一度引き留めようとレベッカは腕を伸ばしたが、ココは風のように素早く動くと部屋から飛び出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倉庫から出たココは、そのままリオンフォール邸へと戻った。静かに走りながらサミュエルの部屋へと向かう。扉をノックすると、

 

「……入れ」

 

低い声がそれに答えた。サミュエルの冷たい声だ。

 

少しだけ息を呑み、ココは扉を開ける。

 

その瞬間、小さなカップがココの方へと飛んできた。避ける間もなく、ココの頭にぶつかる。鋭い痛みを感じた直後、

 

「遅い!何をモタモタしていたのよ!!」

 

ジュリエットの叫び声が響いた。

 

部屋の中では、サミュエルとジュリエット、そしてブランカが向かい合うように座っていた。サミュエルとブランカはココの姿を見てもほとんど何も反応しない。逆にジュリエットはイライラした様子でココを睨んでくる。

 

ココは慌てて頭を下げる。

 

「……も、申し訳、ありません」

 

「さっさとお茶を入れ直しなさい、この愚図!!」

 

その命令に頭を上げると、ココは動き始めた。

 

テーブルの上の食器を取り下げ、新しくお茶の準備をしている間にも、3人はココの存在を無視して話を続けた。

 

「それでは、もう話はついているんですか?」

 

「いや、そんなものは必要ない。ただ、連れていきさえすればいいんだ」

 

「大丈夫なんですの?」

 

「ああ、全てうまくいくさ。……キャロルさえこちらにいれば」

 

その名前を耳にしたココの肩がピクリと震える。3人はその様子に気づかず、会話を続けた。その場にいたココはその内容をほとんど理解できない。ただ、ジュリエットの折檻が怖いため、淡々と自分の仕事に集中した。

 

やがて、3人の会話は静かに終了した。ジュリエットが立ち上がり、部屋から出ていく。ココも素早く身体を動かし、ジュリエットの後ろに付いていった。

 

「ココ、明日は忙しくなるわよ」

 

歩きながら、ジュリエットが囁くように声を出す。その顔を見た瞬間、ココの背筋を冷たいものが走った。ジュリエットはとても楽しそうに笑っていた。それは、ココに対してお仕置きをする時の恐ろしい微笑みと同じだった。

 

ジュリエットから思わず目をそらしたココは、ふと、先ほど声をかけてくれたレベッカの顔を思い出した。妹だというのに、ジュリエットとは全然似ていない、と思った。ジュリエットのように華やかで派手な女性ではなかった。どちらかというと地味な人だった。

 

だが、怪我の手当てをしてくれて、更に頭を撫でてくれた。頭を撫でられたのは、母が亡くなってから初めての事だった。

 

--とても優しい声だった。温かい手だった。

 

ココはギュッと一度目を閉じる。そして、震えながら、瞳を開くと、声を絞り出した。

 

「……ジュリエット様……あの人、どうなるんですか?」

 

震えるようなココの問いかけに、ジュリエットは煩わしそうな目でココをチラリと見ると、口を開いた。

 

「--あんたには関係ないわ、ココ。黙って命令に従えばいいの。食事抜きは嫌でしょう?」

 

その言葉に、ココは無言でコクリと頷く。

 

ふと、立ち止まり、窓から外を見る。何も見えない闇の世界が広がっていて、押し潰されそうな空気を感じた。

 

ココはその景色から目をそらし、足を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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空が不気味な赤みを帯びてきた。長い夜の終わりが来たらしい。夜明けを迎えて、世界が目を覚ましつつある。

 

誰かが近づいてくる足音が聞こえて、レベッカは顔を上げた。

 

ほとんど同時に、扉が開く。

 

「……」

 

扉の向こうから、サミュエルが姿を現した。レベッカの顔を見て、冷たく笑う。

 

「来い、キャロル」

 

サミュエルが近づいてきて、強い力で腕を掴まれた。無理矢理立たされる。レベッカは抵抗することもなく、それに従った。

 

強引に腕を引っ張られ、歩かされる。レベッカはようやく小さな部屋から外へと出ることが出来た。

 

サミュエルが無言でレベッカの腕を引っ張りながら歩き続ける。

 

「--私を、どうするんですか?」

 

レベッカが声をかけると、サミュエルは肩をすくめて答えた。

 

「すぐに分かる。今まで好き勝手やっていた分、お前には働いてもらわなくては」

 

「……」

 

何も答えないレベッカに構わず、サミュエルは淡々と言葉を続けた。

 

「その無駄に強い魔力を必要としている方がいるんだ。お前は今から行くところで、精々可愛がってもらえ、キャロル。リオンフォール家の人間として」

 

その言葉を聞いたレベッカの肩がピクリと動く。

 

そして、小さく声を漏らした。

 

「--ちがう」

 

「は?」

 

その声を耳にしたサミュエルが、顔をしかめながらレベッカへと視線を向けてきた。

 

「なんだ?」

 

「……違う。私は、違う」

 

眉をひそめるサミュエルに構わず、レベッカは言葉を重ねた。

 

「--私は、」

 

こんな状況だというのに、やっぱり心の中に浮かんだのは、大切な女の子の姿だった。

 

 

 

『ベッカ』

 

 

 

あの輝くような緑の瞳。

 

真っ直ぐに自分を見てくる大きな瞳--

 

もう一度、見たい。

 

もう一度、小さな身体を抱き締めたい。

 

--もう一度、会いたい。

 

祈るような気持ちで、レベッカは一瞬目を閉じる。誰も助けてくれない。世界に救いはない。奇跡なんて、存在しない。

 

だけど、たった一つだけ、確かなことがあると、自分は知っている。

 

--あの温かい場所に、帰りたい

 

自分の居場所は、お嬢様の隣だ。

 

それだけは、間違っていない。絶対に。

 

誰が否定しようとも、それだけは確実だ。

 

世界が壊れても、全部消えてしまっても、それは変わらない。

 

お嬢様の隣にいられれば、それで幸せだ。

 

他には、何もいらない。

 

 

 

『ベッカ』

 

 

 

お嬢様。

 

ごめんなさい。申し訳ありません。

 

私は、馬鹿なメイドです。

 

あなたのそばを離れた不甲斐ないメイドです。

 

どんな罰でも受けます。でも、どうか、どうか--

 

私があなたのそばにいることを、どうか許してください。

 

あなたの笑顔を見ることを許してください。

 

あなたが、笑顔でいてくれたら、私はきっと立ち上がれるから。

 

きっと、強くなれるから。

 

--だから

 

「私は」

 

もう一度、声を出す。サミュエルに掴まれたまま、手を強く握る。

 

ここで諦めるなんて、絶対にダメだ。

 

このまま、終わるわけにはいかない。

 

帰りたい。

 

帰りたい、帰りたい、帰りたい--!

 

お嬢様に会いたい。

 

このままじゃ、終われない。

 

だから、動かなくては。

 

--帰りたい、お嬢様のところへ

 

もう一度、心の中で祈るように叫んだ。

 

祈りは、きっと、力になる。

 

 

 

『ベッカ』

 

 

 

また、あの声で名前を呼んでほしいから。

 

 

 

私の、名前を。

 

 

 

もう一度、呼んでください、お嬢様

 

 

 

--私の、名前

 

 

 

「私は」

 

レベッカは顔を上げて、真っ直ぐにサミュエルを見据えた。サミュエルがその視線に圧されたように眉をひそめる。

 

 

 

 

 

「私は、キャロルじゃない。--レベッカです。今も、これから先も、ずっと」

 

 

 

 

 

そう言い放った瞬間、レベッカは勢いよく足を動かした。サミュエルの股間を強く蹴りあげる。

 

声にならない叫びをあげて、サミュエルはレベッカから手を離した。

 

レベッカは素早くサミュエルから身体を離し、その場から逃げ出した。

 

一目散に走る。必死に足を動かして、出口を探す。まずはここから脱出しなければならない。

 

キョロキョロと辺りを見回しながら、走り続ける。やがて、階段を見つけた。かなり長い階段だ。

 

「キャロル!」

 

その階段を降りようと足を踏み出したその時、後ろからブランカの声が聞こえて、レベッカは振り返った。同時にブランカがレベッカの腕を掴む。

 

レベッカが振り向くと、眉を吊り上げたブランカがそこに立っていた。

 

「離して、ブランカお姉様」

 

レベッカが冷静に声を出すと、ブランカは強い視線で睨み返してきた。

 

「キャロル、あなた、何を考えているの!?」

 

「私は、帰ります」

 

「あなた、自分が何をしているのか分かって--」

 

「ええ、分かっているわ。お姉様。--何も分かっていないのはあなたの方よ」

 

レベッカの言葉に、ブランカが困惑したような表情をした。そんなブランカを見据えながら、レベッカは言葉を重ねる。

 

「--お姉様。もうやめて。本当は分かっているんでしょう?私を売ったとしても--あなたの幸せには繋がらない」

 

その言葉に、ブランカが息を呑む。

 

そんなブランカに、レベッカは容赦なく言葉をぶつけた。

 

「私が、いつもいいとこ取りだって、……運がいいって言ってたわね。教えてあげる。違うわ。そうじゃない。私は運がいいんじゃなくて……ブランカお姉様と違って、自分から行動しているだけよ!!」

 

「……っ、」

 

「どうしていつも待ってばかりなの?どうして自分から何も言わないの?何も行動しないの?お姉様は昔からそう……誰かが助けてくれるまで、ずっと黙って待ってる……それじゃあ、何も変わらない!!お姉様の結婚生活の時だって、お姉様は嫌みを言われても、やっぱりずーっと声も出さずに助けを待ってるだけだったんでしょう?……自分から何かした?抵抗したの?--助けてって、叫べばよかったのよ!!」

 

「何を……っ」

 

「今だって、そうよ!どうして何もしないまま、迎えが来るのを待つだけなの?このままずーっと一歩も動かないつもり?好きな人のところに戻りたいのなら、自分からここを出るべきなのよ!!」

 

次の瞬間、突然凄まじい力でブランカが飛びかかってきた。あまりにも素早い動きに、レベッカは対応出来ない。気がついた時、ブランカはレベッカの身体を押し倒していた。そのまま恐ろしい形相でレベッカの首を締め付けてくる。

 

「……あんたに、何が、分かるのよ……っ!」

 

怒りで顔を真っ赤に染めたブランカが、涙目でレベッカを睨みながら声を出した。

 

「キャロル、あんたに、あんたに、何が分かるってのよ……っ、ふざけるんじゃ、ないわよ……この死に損ないが……っ!!」

 

ブランカの両手が喉を圧迫している。苦しい。息を吸えないし、吐けない。

 

「……ぅ……っ」

 

必死に抵抗して、ブランカの手首を掴むが、ブランカは更に強い力で首を締め付けてきた。

 

--まずい、これ……殺される……!

 

レベッカは必死に抵抗して、もがき続けた。

 

その時、すぐ近くでココの声がした。

 

「ブランカ様!」

 

その声が聞こえた直後、ブランカの手が首から離れた。喉が解放されて、肺に空気が入ってくる。

 

「何よ!離してよ!!」

 

ブランカが何事か叫んでいたが、それに構わずレベッカは大きくむせ込んだ。必死に呼吸を整えながら、顔を上げる。そこには、ブランカを必死に抑えているココの姿があった。

 

「ブランカ様、落ち着いてください!!」

 

「離しなさい、使用人の分際で--」

 

ブランカが叫び、再びレベッカを睨む。

 

レベッカもそれを見返しながら、喉を抑える。そして、必死に立ち上がろうとしたその時だった。

 

ココがレベッカの背後を見て、大きく目を見開いた。

 

「ジュリ--」

 

ココが何かを言う前に、ガン、と不思議な音がして、同時に衝撃が走った。今まで感じたことのないほどの、激しい痛みが襲ってくる。

 

背後から殴られた、と認識した瞬間、視界がぐらりと揺れて、回転した。ジュリエットの怒りに満ちた恐ろしい顔が微かに見える。手に何かを抱えているが、よく見えない。

 

どうやら、ジュリエットが何か硬い鈍器のような物で自分を殴ったらしい、と気づいた。そのままジュリエットの足が素早く動く。レベッカの胸を強く蹴りつけてきた。その衝撃に身体が揺れる。視界がチカチカした。

 

「ジュリエット様!!」

 

ココの悲鳴のような声が聞こえたのと同時に、レベッカの身体は階段の方へと倒れる。そのまま勢いよく転落していった。

 

「何をやっているんだ!?」

 

サミュエルの大きな声が聞こえた。

 

階段から転落したレベッカは、床に激しく叩きつけられる。それと同時に、強く頭を打った。咄嗟に目を閉じる。

 

痛い。あまりの痛みに息をするのも苦しい。視界が、真っ暗だ。目を開けたいのに、開かない。起き上がろうとしたが、身体が動かない。手足の感覚が消えた。意識が朦朧とする。全身が痛くて痛くて、たまらない。

 

その時、ドタバタと足音が聞こえた。

 

「馬鹿が!!お前達、何をやっているんだ!?」

 

「だって、お兄様、あいつが!」

 

「ご、ごめんなさい、お兄様……」

 

遠くで兄や姉達の声が聞こえる。

 

全員がこちらへと近づいてくる気配がした。

 

「おい、まずいぞ……かなり出血している」

 

「い、医者を呼んだ方が……」

 

「やめてよ!!バレたら、私達、何もかも終わりよ!!」

 

「じゃあ、どうするんだ!?このままだと--」

 

倒れているレベッカの周囲で3人が騒ぐ。

 

レベッカはようやく、ゆっくりと目を開ける事が出来た。ぼんやりと視界に何かが入ってくる。

 

それは、震えながらこちらを見ているココの姿だった。

 

涙を流しながら、何か小さく呟いている。

 

「ご、ごめんなさい……ごめんな、さい……」

 

何を謝っているのだろう、とぼんやり考えながらも、レベッカは唯一動く唇を必死に動かした。小さな声でココに話しかける。

 

「……く、び」

 

「え?」

 

声がよく聞こえなかったらしいココが、オロオロしながらレベッカの口元に耳を寄せてきた。

 

「……くび……とって……」

 

ようやく声を出すと、ココが困惑したように瞳を揺らす。一瞬躊躇ったようにした後、すぐに頷いた。小さな手を、レベッカの首に近づけてくる。

 

パチン、と首輪の外れる小さな音が、レベッカの耳に届いた。

 

「おい、何をやっている!?」

 

サミュエルの声が響いたのと同時に、レベッカの唇も動いた。

 

 

 

 

 

「……リー……シー」

 

 

 

 

 

次の瞬間、強い衝撃を感じた。

 

咄嗟にレベッカは目を閉じた。

 

一体何が起きたのだろう。何がなんだか分からない。

 

とても、大きな音がする。サミュエルとジュリエットの悲鳴。ブランカの泣き声。そして物が割れたり、壊れるような音がした。

 

レベッカは周囲の音に反応する気力もなく、目を閉じたまま、ぼんやりとしていた。濁りきった頭で考え続ける。

 

ああ、もう疲れた。眠い。

 

もう、動けない。

 

ダメだ。私は、帰らなくちゃ。

 

お嬢様が、待ってる--

 

『--おい』

 

聞き覚えのある声が聞こえる。その声に反応して、レベッカは再び瞳を薄く開いた。

 

『大丈夫か?私の声が聞こえるか?』

 

リースエラゴの声が聞こえたはずなのに、白い竜の姿は見えなかった。

 

代わりに視界に入ってきたのは、激しく燃える炎だった。

 

--あれ?

 

--なんで燃えているんだろう?

 

『もう声も出ないか……頭も打っているし、出血も……かなりひどいな……』

 

リースエラゴの心配そうな声が聞こえる。

 

一体、彼女はどこにいるのだろう。声は聞こえるのに、何も見えない。

 

『--おい、聞こえるか?お前、このままだと死ぬぞ』

 

その言葉に言い返そうとして、レベッカは微かに唇を開くが、声を出すことは出来なかった。

 

『私の言った通りだろう?小さな人の子よ』

 

すぐ近くで、声が聞こえた。まるで子どもに言い聞かせるような優しい声だ。

 

『お前に、人の生きる世界は合わない。もう分かっているだろう?この世界は、醜いんだ。下劣で浅ましい、欲深い心が満ちている。弱き者を支配しようとする愚かさがあふれている』

 

 

 

 

 

違う。

 

 

 

違いますよ、リーシー。

 

 

 

 

 

レベッカは心の中でリースエラゴに答えた。

 

--私は、知っている。

 

私は、知っているんです。

 

あなたの言う通り、世界は醜いかもしれないけれど。

 

優しい光は、確かにあるんです。

 

絶対に、それは失くならない。

 

永遠に、消えることはないんです。

 

だから、私は--

 

『--それでも、お前は、この世界で生きるのを望むか?レベッカ』

 

リースエラゴの言葉に、レベッカは心の中で叫んだ。

 

 

 

 

 

私は、生きたい。

 

お嬢様の隣で。

 

 

 

 

 

再び心の中にウェンディの笑顔が浮かび上がる。

 

--お嬢様

 

--ウェンディ様

 

もう一度名前を呼びたかったのに、やっぱり声は出なかった。

 

レベッカの意識はそのままゆっくりと沈んでいく。そして、静かになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--お嬢様

 

 

 

 

 

美しい宝石のような緑の瞳が開いた。

 

レベッカの声が聞こえたような気がして、ウェンディ・ティア・コードウェルは周囲を見渡す。

 

誰もいない。

 

確かに声が聞こえた、と思ったのに、大好きなメイドの姿は見えなかった。

 

「……ベッカ?」

 

ウェンディの孤独に満ちた声が響く。

 

しかし、その声は誰にも聞かれることなく、闇の中へと吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 







閲覧及びお気に入り登録、評価、しおり、感想をありがとうございます。
これにて第2部は終了となります。少しダークな雰囲気になりました。不快になられた方がいましたら、申し訳ありません。
次より、最終章となります。不定期な更新になりますが、必ず完結まで頑張りますので、よろしくお願いいたします。




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