ウサミン、一位だってよ (おフロディテ)
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瀬川悟

 事件はサービスエリアで発覚した。

 

「のの子が消えた!? いつ、なんで??」

「わからないわよ! 目を離した隙に消えてて……。友だちの家にも行ってないみたいだし、それに財布もなくなってる。あなた、心当たりないの?」

 

 清恵が今にも泣き出しそうな声で聞いてくるも、とんと見当がつかずむしろこっちが泣いてしまいたくなる。

 

「君にわからないこと、俺にわかるわけないだろ」

「なに無責任なこと言ってるのよ! 心配じゃないの!?」

「心配に決まってるだろ! あぁ、とにかく、俺もすぐそっちに戻るから」

「戻るって、あなた今日名古屋じゃ」

「行ってる場合じゃないだろ。じゃあ、一旦切るから」

 

 半ば強引に電話を切った。

 途端に、焦りと不安がどっと押し寄せて来て頭がクラクラしてくる。思わずその場にへたりこんでしまった。

 のの子は、清恵との間に生まれたたった一人の愛娘だ。幼い頃はパパ大好きと甘えてくる本当に可愛い子だった。けれど小学校に上がってからは仕事の忙しさにかまかけており構ってやれていない。情けないことだ。こんな時に、あの子が普段向いそうな場所ひとつさえ思い浮かばないなんて。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 へたり込んでいた為心配してくれたのだろう。青年が声をかけ顔を覗き込んでいる。いけない、こんな場所で混乱している時間の余裕はないのだ。

 

「ああ、すいません。ちょっと娘が迷子でして」

 

 しまった。口を滑らせてしまった。

 青年は驚いて目を見開く。

 

「大丈夫ですか? どこら辺ではぐれたんですか?」

「あ、いや、ここじゃないんです。家の近所でいなくなったみたいで。余計な心配をかけてしまいました」

 

 青年はラフなTシャツにウサギのロゴがプリントされた鞄を持っている。きっと楽しいお出かけの最中だったに違いない。それなのに、いらぬ心労をかけてしまったのではないのか。そう思い謝る。

 

「いえそんな。でも、確かに心配ですね。今から家へ?」

「はい。静岡まで戻ろうかと」

「静岡って、ここ名古屋ですよ!?」

「大丈夫です。なんとか戻れますから」

 

 俺が強くそう言ったので、相手は引き下がりながら顔には明らかに心配の色を浮かべていた。

 

「それじゃあ、お気をつけて。娘さん、見つかると良いですね」

「はい。それじゃあ失礼します」

 

 そう言い残して逃げるように車へ乗り込んだ。

 深呼吸して、鍵を回す。深呼吸は良い物だ。少なからず心を落ち着かせてくれた。落ち着いた頭に浮かんできたのは、一つの疑問。本当にのの子には消える予兆はなかったのだろうか。車の空調を感じながら、今朝ののの子を思い出していた。

 

 

 

「パパ、今日もお仕事なんだ。ごめんね」

 

 俺はそう言ったが、のの子は全く納得出来ていないようだ。頬を膨らませて腕を組みそっぽを向いてしまう。ふてくされている顔が少し清恵に似ていて、申し訳ないが愛おしく思えた。

 

「いっつもお仕事じゃん。ヨシちゃんのパパは動物園に連れてってくれるって言ってたよ」

「他所は他所だから。パパも、のの子やママがご飯食べられるように一生懸命働いてるんだよ」

「知らない知らない知らないもん!! パパ私嫌いなんでしょ! もういいから!!」

 

 そう言って、のの子は奥に引っ込んでしまった。

 入れ違いにキッチンから顔を出したのは清恵だ。

 

「……あの子も、本気じゃないのよ。ただ、ちょっと構って欲しいだけなの」

「仕方ないだろ、仕事なんだから」

「仕事も良いけど、家の事も考えてよ。最近全然起きてるときに会えないじゃない」

「家事は手伝ってるだろ」

「そういうこと言ってるんじゃないの。もっと私達との時間を大切にしてほしいの」

 

 清恵は良い妻だ。家の事を俺より沢山担ってくれて、今だって言いたいことがあるだろうに、言葉を選んで話してくれる。でも、俺だって必死なのだ。

 

「また夜、時間見つけて話し合おう。とりあえず今日は行ってくるから」

 

 腰を上げて、最後に確認する。財布に携帯、定期……。

 

「あれ? 手帳がない」

 

 何度も服を叩いて確認したが、間違いない。手帳がなかった。振り返って清恵に聞く。

 

「なぁ、俺の手帳知らない? スーツに入れっぱなしにしてたんだけど」

「知らないわよ。スーツ私触らないじゃない」

「困るな……、スケジュールとか必要なこと全部アレにメモしてるのに」

 

 少し責めるような言い方になってしまった。管理しているのは俺で、だからなくした責任は間違いなく俺にあるのに。寝室に落ちてはいないかと中に戻って探すも、やはりない。

 

「おかしいな。昨日は確かにあったはずなんだが」

 

 首をひねっていると、清恵が何か思いついたのかそそくさと奥の居間へと移動し、しばらくもしないうちに戻ってきた。

 

「今朝、あの子寝室を漁ってたのよ。何のつもりだと思ってたけど、やっぱりね」

 

 その手に持っていたのは俺の手帳だ。

 

「のの子のいたずらか。困るな」

 

 受け取ろうと伸ばした手が、空を切る。疑問に顔を上げると、苦い顔をした清恵が「なんでもない」と渡してくれた。

 一体なんなのか、わからなかったが、何も言わずに家を出た。

 

 

 

 嬉しいことに結婚し、家庭を持つことができた。けれど、今仕事に追われて家庭をないがしろにしていると言われても仕方がない生活を送っている。

 家庭を大事にしたいのはやまやまだ。けれど、働かなければ生活が成り立たない。仕事の手を抜けば今後に響く。かといって仕事のせいで家に帰れないのはすごく悔しい。

 自分は結婚に向いていないのだろうか。家庭など持つべきではなかったのだろうか。良い父親は、妻を労い、子の面倒を積極的に見て、家のことをやる人らしい。俺には無理だ。そんな時間ない。けれど、いつまでも清恵に頼り切りじゃあ、いつか愛想を尽かされてしまう。

 今日だって、その前兆ではないのか。のの子がいなくなっても、俺は大した力になれない。どうして俺はこんなにも無力で、どうしようもないんだ。深い後悔が、どうしようもなく。

 

 

 

 窓ガラスが叩かれて、顔を上げる。そこにはさっきの青年が顔を覗かせていた。

 

「あの、どうかしましたか」

 

 疑問を言うと青年はおずおずと。

 

「その、やっぱり心配で。一度名古屋駅へ向かうのはどうでしょう。そうすれば電車で静岡まで行けるので安心ですし」

 

 青年はニッコリト笑って、気をつけてと言葉を続けた。

 

 

 

 名古屋駅に向かったのは、青年の言葉もだが、自分の運転が不安だったことが一番にあった。降りて、駅構内を急ぐ。

 まだ時間は早かったが、家族連れの姿も沢山見えて、辛い。のの子と同い年ぐらいの子供と手をつなぐ彼の姿に自分を重ねる。だが、その幻想はすぐに消え去っていった。自分がああだった日は、なかったではないか。

 

 今日は電車を使うつもりがなかったので、ICカードを持って来ていない。仕方がないので券売機の列に加わったところで、向こうから見慣れた顔が歩いて行くのが見えた。

 信じられない人間がそこにいた。まさか、そんな。だが、あれは。

 

「のの子!」

 

 駆け出して、すぐに追いつく。名前を呼んだ彼女はこちらを振り向いて、顔をぱぁと明るくさせた。

 

「パパ! いた!」

 

 すぐさま力いっぱい抱きしめる。応えるように、のの子も俺を抱き返した。

 やがて、顔をしっかり見据えると、のの子はバツが悪そうに目をそらす。俺の顔がよほど真剣で怒られると察したのだろう。

 

「心配したんだぞ。どうしてここにいるんだ」

「……電車乗ってきた」

 

 手段を聞いたわけではなかったのだが。俺を追ってきたのは、多分間違いない。今朝手帳を見ていたのもそう思うと合点がいく。それにしたって、なんて行動力だ。子供が父親を乗って県境を越えるなんて、俺には想像がつかなかった。

 

「一人で来たのか?」

 

 そう聞くとのの子は静かにかぶりを振って後ろを指さした。見ると、二人の男性が少し後ろから優しい色を目に浮かべて見守ってくれていた。つい、警戒してしまう。

 

「もしかして、この人達に連れてきて貰ったの?」

「ううん、違うけど。でも、ここで下りた後、一緒に歩いてくれたよ」

「迷子センターに送ろうと思って」

 

 勘違いされないように後ろの人が言葉を加えた。見ると、先ほどのサービスエリアで会った青年と同じウサギのロゴが入ったシャツを着ていた。

 のの子にお礼を言えと促して、二人と別れた。『お父さんと会えて良かったね』と、そう笑って二人は去って行った。何かお礼をさせてくれと頼んだのだが、させてくれなかった。

 セクハラ、児童売春、成人男性が小学生女児に声をかけるのが躊躇われる時代に良く勇気を出して娘に声をかけてくれたと思う。のの子になにかあったら、今こうして帰れていなかったかもしれない。素直にありがたかった。

 

 

 

 車で帰路につく。道すがら、のの子と話をした。

 

「どうしてママと来なかったんだ」

「……だって、ママもパパも忙しいから、邪魔しちゃ行けないと思ったんだけど」

「それは」

 

 気を遣わせてしまったと言うことなのか。子供に。

 情けないことこの上ない。俺はいっつも、いっつも。

 

「パパはいつも頑張ってるよ! とってもエラい。ママも、パパも、凄い頑張ってる私のアイドルだよ」

 

 のの子は、俺がショックを受けたのを察してか、フォローをしてきた。

 

「お兄さん達言ってた。頑張ってる人は、いっつも大変なんだって。だから、頑張ってる人には頑張ってエラいって言うの! 私が支えたら、頑張ってる人達はもっと頑張れるようになるからって」

 

 のの子は続ける。

 

「お兄さん達もいつもしんどいんだって。その度に、アイドルに勇気を貰ってるって。自分なりに一生懸命頑張って、アイドルに元気を貰った分はまたアイドルに返してあげるって」

 

 自分は、返せていない。何も、家族にしてあげられない。

 

「ウサミンって子が好きなんだって。その子を応援してたら、その子は一位になったんだって。今日はそのライブなんだって。私、私……」

 

 そして、ついにのの子は叫んだ。

 

「パパがそんな顔してるのいやなの。いっぱい私はパパから幸せ貰ってるのに、パパが幸せじゃなくちゃダメなの!!」

 

 ハッとした。そうか、俺はそれを見落としていたのか。俺は、そうか。のの子の前でどんな顔をしていたのだろう。

 

「……ありがとう、のの子」

 

 何も解決していない。何も好転していないし、何も出来るようになっていない。だが、それでも今すべき顔はわかった気がする。

 明日は休みを取ろう。そして家族と向き合ってみよう。そう考えながら、俺はアクセルを踏む。




次回は9月14日更新です


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岩下かおる

 君との長い電話を切って、一人ぶらりと、夜の街へ繰り出した。

 

 随分色んな話をしたけれど、要約してしまえばたった一言に収まってしまう。

 

「サヨナラ」

 

 コンビニでタバコを買った。君と付き合って以来吸っていなかったから、多分二年ぶりの喫煙になる。

 最近喫煙者は肩身が狭い。車の中にヤニの香りを残しているだけで、少し眉根を寄せられてしまう。まして、目の前で吸おうものならば、非国民のレッテルを貼られ火あぶりにされる――勢いで非難される。

 

 タバコを初めて見たのは、近所に住む大学生のお姉さんだ。彼女は誰もいない公園でスパスパやっては、通りがかった主婦に文句を言われていた。

 憧れる要素なんて今思っても何もないけれど、なんとなくカッコいいなと思ってしまった。

 

 はじめてタバコを吸ったのは高校三年の時。誰にも内緒で、喫煙所のシケモクに火をつけて咥えてみた。臭くて、苦くて、とても味わえた物じゃなかった。けれど、どうしてだろう、タバコへの憧れは増していった。

 

 大学生になって軽いものなら吸えるようになって、初めての恋人が出来てしまった。

 君はヘビースモーカーで暴力を振るう父親が大嫌いで、だから、タバコも嫌いだった。

 

 タバコを捨てた後は、代わりにガムを噛むようになった。けれどついに、ガムは好きになれなかった。アゴは疲れるし、美味しくもない。けれどガムを噛んでいる横顔を、君は素敵と言ってくれた。

 すこしだけ、気が引けた。

 

 君がサヨナラと言った意味はなんだったのだろうか。自分自身に悪いところが全くなかったなんて、そんな愚かな思い違いはしない。

 君は几帳面でズボラな自分とは正反対だった。料理も出来ないし、洗濯も回せない。家の事がなにひとつ出来ない自分は、どうしようもなく「らしく」ないのだろう。

 

 けれど、君がサヨナラを言った理由はそこにないような気がした。

 根拠なんて何もない。

 一方的な思い込みだけれど、そう思ってしまったのだ。

 

 商店街を練り歩いて、少し外れにある行きつけの定食屋に顔を出す。

 店主は何も言わずにレモンサワーを出してくれた。下戸だと知っているから、アルコールは控えめに。

 

 焼き鳥を二、三本つまみながら、気分が上がらなかったので早々に席を立った。

 店を去る直前にふと耳をすませると、可愛らしい女の子が歌うポップスが聞こえた。雰囲気が変わったななんて思った。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

「のの子、このCDでよかったのか?」

 

「ウサミンって言えば、それなんだって」

 

 親子が楽しそうにすれ違う。ふと、この二人に君の姿を重ねている自分に気がついた。

 

 今時重いかもしれないが、交際すれば結婚をする、なんて価値観を持っている。

 君にそれを打ち明けこそしなかったが、もしかしたら感づかれていたのかもしれない。重いとか思われてたら嫌だな。

 

 結婚は素敵だと思う。

 自分の人生をラインで見通したとき、君との家庭が思い描けた。

 今は雲のように消えてしまったけれど、君はそういうつもりじゃなかったのかもしれないなんて。

 

 服屋の前を通りかかって、ショーケースに飾られるウェディングドレスに目を奪われた。

 純白のそれが、今日に限ってやたらと眩しかった。

 

『ウェディングドレス、やっぱり憧れる?』

 

『そりゃあ、ね。なんだかんだ言っても、こういうの女の子に生まれたら、憧れるもんだよ』

 

 君と交わした会話がフラッシュバックする。

 あの頃は無邪気に君との未来を信じられた。きっと叶うだろうと、疑ってすらいなかった。

 そんな未来はもう訪れない。君が今度出会う誰かは、きっと自分じゃないんだろう。

 

 街を眺めれば君との足跡が残っていて、少しだけ、ほんの少しだけ、泣きたくなる。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

「今日のゲストは、人気ファッション雑誌、nana.の大人気企画『おしゃれブランドシリーズ』で、大ブレイク。そのファッションセンスももちろん、今や実力派女優としても有名な桃木ももかさんです」

 

 街頭テレビの下に人だまりが出来て賑やかだ。彼ら、彼女らの目的は、考えるまでもなくいま画面に映っている女優だろう。 

 ぼんやりと画面を見つめてふと、彼女のことを君も好きだったななんて思い出した。

 

 あれは、いつだったろう。

 そう確か、日曜のリビングでテレビを見ている時だ。

 

 君は昼間っから居間でゴロゴロと寝転がって、スナック菓子片手にテレビを見ていた。

 

 ずっと同じ子ばかり見ているので、ついつい好きなのかと訊ねたのだ。

 特に深い意味はなかったが、君は堰を切ったように語り出して止まらなかった。

 

 基本的に他人の話を長々と聞いているのは好きではない。

 自分に興味のないことならなおさらである。

 だというのに、不思議と君の話は聞いていられた。

 理由はわかっている。好きだからだ。

 

 好きというのは実に不可解な現象だ。家族や友人にも抱く感情で、全世界に共通する普遍的なもの。だというのに、ある時、ある人にだけ、どうしようもなく好きな瞬間が生まれる。

 この好きは、他の好きとはまったく違って。もっと心の奥深くから生まれてくるような、言葉に出来ない自分だけの強烈な情。

 時に自分に信じられないほどの活力を与え、そして今のようにどうしようもない無力感をももたらすもの。

 

 この感情に振り回されたら最後、しばらくはまともでいられなくなる、いわば、病気にも似たもの。

 あぁ、と言うことは、自分はどうしようもなく君に恋をしていたのか。

 

 今更になって、改めて悟って、少しスッキリした気分になって、くすぐったい。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 本屋さんにぷらりと立ち寄る。

 

 お気に入りの歴史小説家の新作をとろうとして、ふと隣にあるポップが目に入った。

 

――安部菜々。

 

 聞き覚えのある名前だ。どこかであったことがあるのだろうか。

 頭をひねって考えるも、出てこない。

 けれど、確かに記憶の片隅には存在していて、一体誰なのだろうと気にしている間に、町が夜の空気に包まれてしまった。

 

 急いで外に出ると、もうすっかり星々が顔を覗かせており、思わず仰ぎ見た。

 

「あ、夏の大三角」

 

 デネブ、アルタイル、ベガ。

 星に興味のない自分が、唯一覚えた三つの星。

 

 君が教えてくれた小難しい逸話や、複雑な星座たちもぼんやりと覚えている。

 たしか、あの砂時計みたいなのがオリオン座。あっちの弓みたいなのがはくちょう座。たった二つのアレが、子犬座だったっけ。

 

 家に君の残した星座早見盤がまだある。

 それだけじゃない。歯ブラシも、クシも、ゲームのソフトも。君が置いていったものがまだあの家には残っていた。

 捨てるに捨てられなかったのだ。

 

 いや、捨てようとすらしていない。まだ、大事にとってある。歯ブラシなんかは捨ててしまっても、もういいよね、なんて。

 

 今の自分はどうしようもなくセンチメンタルだった。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 帰り道に付こうとして、大学生らしき女の子たちの会話が聞こえてきた。

 

「そう、安部菜々っていうの。結構良い歌、歌うんだよ」

 

「へぇ、意外。千春って案外そういうの聞くんだ」

 

「いや、ちょっと昔にね」

 

「あ、なに今の気になる反応。なんかあるんでしょ」

 

「ないって何にも――」

 

 安部菜々、そうだ、歌を歌うと言うことは、歌手かなにかか。ともかくそうだった、タレントだった。

 多分、君が語った推しの中に、その安部菜々がいたのだろう。

 

 けれど、その時の君の顔が思い出せない。

 どうしてかわからないが、思い出せないのだ。

 

 信号待ちをしている間も、歩道橋を渡る時も、結局ずっと考えていたけど、自力では思い出せずに気がつけば家の近くの商店街まで戻ってきてしまっていた。

 

「あ、タバコ、家に灰皿ないや……」

 

 ふと、そんな事を呟く。

 Uターンして、百均へ向かう。

 灰皿はおまけだった。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 これは恋の話。

 どうしようもない失恋の話。

 当たり前に人を好きになって、当たり前に別れて。

 劇的でもなんでもない、ありふれた日常にまぎれてしまうような、凡百の恋の話。

 

 別れてしまった今、この恋の話は終わった。

 始まったときから終わっていた。

 

 けれど、後ろ髪を引かれてこの先を歩き続けていくのは嫌だから。

 たった少しの立ち直りとして、エピローグを語りたくなってしまったのだ。

 

 つまりこれは自分の恋のエピローグ。

 打ちのめされた一般人に起きた、ささいで奇跡的な出会いの話。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 適当に買った灰皿が入ったレジ袋をぶら下げて、再び街頭テレビの所まで戻ると、人だかりは散ってしまっていた。

 

 テレビは当たり障りのない車の広告を流しており、見る価値もなくなってしまっている。

 

「あの、こんばんは」

 

 すると、背中に声がかかった。

 可愛らしい女の子然とした声だ。

 

 振り返るとそこには、背の低い女性が立っていた。

 目鼻立ちが整っていて、ぱっと見ただけでもそのオーラの違いが手に取るように理解出来てしまう。

 

 芸能人かな、と手元に視線を落とすと、それらしきマイクが握られていた。

 

「街頭インタビューをしているんですが、お時間よろしいですか?」

 

 派手な衣装から見るに、この人はアイドルだろう。

 それにしては礼儀のなっている人だと思う。社会でキチンと揉まれた、立派な社会人。

 

「かまいませんが」と答えると、彼女は本当に嬉しそうに笑った。

 そこで、頭を過ぎった名前。思い出す。

 

「ウサミン――」

 

 そうだ、ウサミンだ。

 今思い出したのは、彼女の愛称であるウサミンという名前。だが、それは彼女を呼んだ言葉ではなく自分の頭のもやもやに解をつけた言葉だった。

 

 そうだった。君が推していたその人は、ウサミンというアイドルだった。

 

「ありがとうございます! ウサミンという名前で活動してまして……」

 

「ああ、テレビでよく見てますよ」

 

 思ってもないことを。自分はあまりテレビを見ないのだ。

 

 すると、ふとウサミンが自分のレジ袋を眺めているのに気がついた。

 そういえば、今自分は灰皿を買ったばっかりだった。

 

 慌てて取り繕うと口を開き欠けたところへ、ウサミンが、

 

「タバコ、吸うんですね。素敵ですね」

 

 多分、彼女は他意なく言っている。喫煙を推奨するわけでも、お世辞を口から飛ばしているわけでもない。

 それがわかってしまうから、思わずそっぽを向いてしまった。

 

 

 

 インタビューはすぐに終わった。

 帰り道、ウサミンの顔を思い出して、溜まらず呟く。

 

「君が好きになるわけだ」

 

 君への執着はどこかへ飛んでいった。




これにて一旦終了です。またネタが溜まったら書きます。


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