政長伝 (羽柴播磨)
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天下分け目の大戦
泰平の崩壊


永和3年 1598年
豊臣秀藤により天下統一が成し遂げられた世の中は豊臣の元、泰平は続いていた。
しかし小さな綻びから泰平は簡単に崩れ去る。



永和3年 1598年 5月5日

【大阪城下町 穴山屋敷】

 

豊臣政権において、四老中に任ざれし男あり。

名は穴山民部少輔(みんぶのしょう)政長。

関白を任命されし豊臣秀藤に仕えた者である。

幼少時代、まだ一武将だった秀藤の中国攻めで父の政英や弟たちと共に臣従し、本能寺の政変で主君 織田長信が死んでから、秀藤の天下統一事業を支えた者だ。

 

しかし近年、彼には心配事があった。

「近頃、太閤殿下のお身体が悪いようだ」

彼がそういうと家老の田中一忠が答えた。

「太閤殿下はご心配なされておられるようで」

「そうだ。太閤殿下はご自身が亡くなられた後、例の者が幼君様に刃を向けぬかをな.....」

彼の言う例の者は関東一円を治め、石高は二百十万九千石という大名の松平家吉である。

家吉は内大臣の官位を帝より賜り、内府と呼ばれ、豊臣政権においては五大老筆頭を任ぜられている。

何故秀藤は内府を心配するのか。

それには少し昔を遡る必要がある。

秀藤による天下統一を目前に、家吉と対立していたことがあった。

原因は北愛知国 愛知を治める織田宗家の家督問題であった。

織田家は長信亡き後は孫の織田弾正尹(だんじょういん)信永と従兄弟の織田中務卿(なかつかさきょう)信明とで家督を争っていたことがあった。

秀藤は中務卿を、家吉は弾正尹を擁し、愛知国 小牧でぶつかった。

この戦は中務卿の無断講和により終結。

家督は弾正尹が継ぎ、中務卿は豊臣家が引き取ることとなった。

そんな過去が太閤の心を不安にさせていた。

「内府は太閤殿下が亡くなれば必ず兵を挙げるだろう」

政長がそう言うと一忠は自身の意見を告げる。

「殿、いくらあの内府でも刃向かうことはございませぬ。殿の心配のし過ぎではなかろうかと」

政長は心配のし過ぎかと思い

「そうだろうか?私の心配のし過ぎであるとよいが.....」

政長と一忠は酒をぐいっと飲み干すとそれぞれの寝床へ歩きだした。

その日の夜、政長は中々寝付けずに夜を過ごした。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

翌日、政長は大阪城へ登城していた。主君である秀藤に呼び出されたのだ。

政長は太閤に謁見する為に側近へ付いていった。

そこには

石川・富山国(七十五万六千石)の前田大納言(だいなごん)利秀

滋賀国佐和山(十九万石)の石田治部少輔(じぶのしょう)三秀

関東千代田(二百十万九千石)の松平内大臣家吉が既にいた。

四人が揃うと秀藤は政長たちへ遺言とも受け取れる命令を言い渡し始めた。

「お主らへ言っておきたい。わしが死んだ後は、四人で頼藤を支えてほしい。大納言は大阪城で頼藤の補佐を、佐吉(三秀)は伏見城にて政を、内府殿は東国大名の監視を、龍千代(政長)は西国大名の監視をしてくれ」

太閤の命令を受けた四人は承諾し、その日は家吉以外大阪城へ泊まることとなった。

謁見から一刻が過ぎたであろう頃、政長の元へ三秀が会いに来た。三秀は

「政長、今日の内府をどう思う。俺には奴がどうも信じれないでいる。太閤殿下が亡くなられば奴は動くだろう。お主はどう思う?」

三秀は率直な意見を政長へ求めた。政長は三秀に、

「俺もそう思う。内府殿は豊家を乗っ取るつもりであろう。奴には松平一の謀臣と名高い本多佐渡守(さどのかみ)(家信)殿がいる。佐渡守殿が存命である限り内府が強敵であることはかわりないだろう」

政長の感想を聞いた三秀は

「では佐渡守を殺すか?」

と、率直に言った。

しかし、政長は

「無理だな。佐渡守殿は松平家において元老を務めている。むろん、護衛も多く引き連れておろう」

政長の意見を聞いた三秀は少し不満げに

「そうか。やはり戦での決着でないとならんか」

と呟いた。

政長は

「そうであろうな。だが、内府の味方をするであろう大名には武功を上げる者が多い。特に、お主を嫌う者がな」

と、少し嫌みととれるであろうことを言い、三秀へ忠告した。

「お主は素直すぎる。素直すぎるが故に天下統一後の事業で敵を作り過ぎたやも知れぬな」

と言った。

しかし、三秀は

「太閤殿下がおっしゃったことをただ実行したのみ。不満を持つなど太閤殿下に従わない逆臣であろう」

と言った。

政長は

『内府へ勝つには三秀の周囲への対応次第であろう.....。俺はできる限り三秀を嫌う者を内府の元へ行かせないようにせねばな』

政長は一人で今後やらねばならぬことが一つ増えたことに憂鬱な気分となった。

そんな政長の心中に気がつかない三秀は別の話題に変え、話し始めた。

「思えばそなたと出会ってからもう八年か.....。あの頃の太閤殿下は若々しかった。毎日のように戦へ向かい、俺とそなたは共に付いて回った。そして太閤殿下と共に飯を食い笑いあった.....。懐かしい」

三秀は一人で思い出に浸かっている最中、政長は今後についてずっと頭を悩ませていた。



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幼い武士と主の知らぬ盟約

夏も終わりを迎えようとしているある日、政長が滞在する穴山屋敷へと客がやって来たようだった。

この時、政長は外へ少し出ていた為、屋敷には小姓や侍女しかいない状態だった。

数十分が過ぎようとした頃に帰宅した政長は玄関にて結城栃木守(とちぎのかみ)(秀武)であると名乗る者がやって来たと小姓から伝えられると政長は慌てて門を飛び出した。

走り出してからどのくらい過ぎたであろう。

前方にて騎馬を数騎引き連れている秀武を見つけた政長は

「お待ちくだされ!!栃木守殿!!」

と叫んだ。

周囲の民衆は何があったのかと集まりだし、秀武やその家臣は後ろを振り向くと秀武は馬を降り、走って政長の元へやって来た。

「民部少輔殿、どうかなさったか?」

秀武は心配する顔で政長を見た。

政長は

「申し訳ない。せっかく来てらっしゃったのに出迎えてやれず」

と、頭を下げて言うが秀武は

「いやいや。こちらこそ急な来訪であったことお詫びしたい。申し訳ない」

と自身も頭を下げて謝罪した。

政長は

「屋敷へ来てはもらえぬだろうか。こちらも盛大なもてなしをさせてほしい」と言うと秀武は

「そうか?ではお邪魔してよろしいだろうか」

と聞いたので政長は屋敷へ招いた。

秀武を屋敷へ招いたことで小姓や侍女は慌ててもてなしの準備を始めた。

政長と秀武は用意ができるまで話をすることとなった。

「栃木守殿、内府殿とは最近どうであるか?」

政長は秀武がまだ幼い頃、当時まだ結城ではなく松平という姓を名乗っていた時のことである。

秀武はよく政長の元へ行き、政などについて教えてもらっていた経緯がある。

故に、よく相談にのってもらったりしている関係が続いていた。

秀武は政長に聞かれると

「父上でありますか?そうですな.....。最近は大阪へよく滞在する故、実はあまり話せてはいないのです。最近の父上はどこか落ち着かないようで.....」

と言うが、政長は

「そうであるか」

と言うだけであった。

この時の政長は秀武の父である内府が最近落ち着かないのはどのように政権を乗っ取るのかを考えているのを見抜いていた。

そして、秀武にはそのようなことは知ってほしくないと思っていた。

「まぁ、なんだ。今はそなたの父には近づかない方がよい。落ち着かないのも太閤殿下のご体調が悪化しておるのも影響しておろう」

「そうだとよいのですが.....」

と会話は途切れた。

部屋の空気は暗くなり、両者はただ下を向いていただけだった。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

一方、その頃の一忠はある計画を立てていた。

それは【松平包囲網】である。

五大老である内府は確実に天下を狙っている。

これは最近は高齢ゆえ表舞台に出ていない一忠でさえ見抜いていたことだ。

この計画を立てているのは一忠だけではない。

五大老の前田大納言(利秀)と長尾新潟守(にいがたのかみ)(景政)

五奉行の石田三秀

三小老の長田亮政と小川政輔の五名である。

彼らは反内府派であり、政長とも仲の良い者たちである。

「本日はお集まり頂き、感謝いたす」

一忠が感謝の意を示すも四人も

「いやいや。こちらこそ近日の内府の行動には疑惑を持っておるでな」

「内府のことであれば集まるに決まっておろう」

「我らとて内府を許すわけにはいかないからな」

「うむ。某も内府の対処について話し合いたいと思っておったところだ」

と様々な返しを言った。

まだ夏特有の蒸し暑さが広がる部屋に男が六人。

より蒸し暑さが増してあるように感じてしまう。

「内府を包囲いたす為に、どのような計画がよいか案を出して頂きたい」

「では、某の所領は冬は雪が深い故に勘弁して頂きたいと思っておる」

発言したのは利秀だった。

五大老の一人にして、大納言の官位を賜った者。

彼が治める石川・富山国は冬は雪が深く積り、夏は険しい山々が行く手を阻む難関の地だ。

太閤により任せられる本来の任は東国の監視。

本来ならば利秀に任せるべきであるが、既に内府は豊臣政権に欠かせない存在になっていた。

だから仕方なく内府に任せた。

この時、利秀は齢61歳、既に隠居していてもよい年齢である。

しかし、嫡男の前田秀常は暗君と名が広まっている。

秀常は内府派の代表格である故に利秀はわざと家督を譲っていない。

「さらに、息子の秀常は内府の味方をすべきと申しておる故に家中が分裂しておる。まずは前田をどうにかしてからでないと厳しい」

と言うと、政輔が

「ならば、某が仲介を務めよう。家老の福谷善之助を遣わせるゆえ御嫡男の処遇はどういたす」

と言った。

利秀は

「秀常は廃嫡する。次男の秀政を後継者としたい」

と当時にしては厳しいことを言った。

「ならば太閤殿下の御許しが必要であるな。理由が欲しい」

一忠は関係なしといった風に話を進めた。

「秀常が太閤殿下に謀反を働こうとしたというのはどうだ?」

と亮政は言うが

「それでは前田の存続が危うい。秀常が自身の領地にて暴政を働いたというのはどうであろうか?」

と政輔が言った。

「大納言殿、いかにいたす?」

三秀は利秀に対して判断を求め、

「秀常は暴政を強いたとして廃嫡しよう」

と利秀は決断した。

「うむ。某らが助命すれば前田は安定し、秀常に恩を売れるであろうな。それに、太閤殿下にとって前田は内府に立ち向かう強力な味方である必要がありますからな」

一忠は自身を除く四名で助命することで秀常を廃し、恩を売るのとで前田の安定を謀ることとした。

一方、その頃の秀常は、

「父上は愚かだ。既に世は内府に傾きつつあるのに.....。これだから古い考えを持つ者たちは嫌いなのだ」

と憂えていた。



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宇角の乱

秋も中頃、前田領は内乱の予兆が現れ始めた。

前田利秀の嫡男 前田秀常が天下人 秀藤の命により廃嫡。

次男の秀政が嫡子となり、秀常は現在の領地を没収され新たに能美6000石の土地が与えられた。

利秀は秀常廃嫡後も大阪に留まり、秀政が所領を治める状況が続いたがある事態が起こり状況は一変した。

前田の城 加賀城で城主の宇角総兼による謀反が発生したのだ。

宇角軍は北上を開始し、石川城へと迫りだした。

さらに、能美で利常ら反秀政派が合流。

総勢一万を超える軍勢が石川へ進軍した。

秀政は大阪へ急報を走らせるとすぐさま軍を召集させるが急であった為、五千しか集まらなかった。

その後、両軍は野々市にて衝突した。

宇角軍は

宇角総兼隊 二千

は末松廃寺跡に布陣。

前田秀常隊 五百

は新庄に布陣。

他の二隊は

清金・下林に布陣した。

一方、前田軍は

前田秀政隊 三千五百

は押野に布陣。

岡信勝隊  五百

田中清隆隊 五百

佐川兼定隊 五百

は本町に布陣。

一見、バラバラな宇角軍が不利のように見えるが前田軍の方が不利ではあった。

理由は兵数にある。

前田軍は秀政隊に固まっており、秀政は前へ出ない為、前田軍は実質千五百のみで一万に戦わなければならなかった。

前宇角軍一万に対して前田軍五千が激戦を繰り広げた。

合戦は二日に及び、かろうじて前田の優勢が続いていた。

要因は家老であり実質的な総大将の岡信勝の存在であろう。

御隠居の利秀が中年頃から仕え、今では前田家で利秀に次ぐ齢69歳。

信勝は前田家軍監を務め、秀政の教育係を任せられた重臣の一人。

「殿、我らの劣勢が続いていております。どうか撤退の下知を!!」

と家来が言う。

しかし、秀政は

「ならんのだ。誇り高き前田が撤退など.....」

と決断を見送っていた。

「殿!!」

家来たちは何度も撤退するよう進言するが

「駄目だ。父上の帰りを待つのだ。嫌なら勝ってくれ」

といっさい受け入れなかった。すると、

「殿を置いて死ぬことをお許しくだされ。」

と秀政が幼い頃から支えてきた岡信勝が死ぬというと

「何を言う.....」

秀政は(こんな状況で冗談を)と思ったが信勝は

「某らが敵中へ突撃いたす。その間にどうか右翼の敵勢を頼みますぞ」

そう言うと信勝は僅かな兵を率いて敵へ向かって騎馬を走らせた。

「信勝!!」

秀政は叫ぶが信勝は止まらない。

信勝の背が小さくなっていくと秀政は

「皆!!行くぞ、信勝たちの命を無駄にするな!!」

と兵へ向け叫び、自らが先頭に立って敵へ向かった。

その頃、宇角軍は混乱していた。

「殿!!僅かですが敵が突撃を!!」

「慌てるな!!少数では何も変わらん!!」

総兼はそう言っていたが事態は急変した。右翼に前田軍が集中攻撃を開始したのだ。この攻撃で約千人が戦死。宇角軍は右翼が壊滅したことで突撃した信勝軍の攻撃に耐えきれなくなってきた。

しかし、

「敵将、討ち取ったり!!」

ある兵が岡信勝を討ち取ると岡軍は壊滅し、中央の軍が右翼へ移動。全戦力を集中し始めた。

「殿!!これ以上の攻撃は無理です。後退を!!」

秀政はまだだと叫び、前進させると宇角の姿が見えた。

「見えた!!あそこだ」

秀政が指を指すと前田軍の兵は宇角へ向かって突撃。次々と倒れていく兵を追い越してゆくと秀政は総兼の首へと刀を当てた。

「宇角、覚悟!!」

ぐさっと嫌な音があたりへと響いた。

「宇角、討ち取ったり!!」

秀政がそう叫ぶとあたりの兵は歓声をあげ、宇角の兵は周辺へばらばらに逃げ始めた。

その日の夜、秀政は陣の外で

「父上、私は成長できたでしょうか.....」

と一人寂しく、夜の空へと呟いた。



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前田騒動

宇角の乱は首謀者 宇角総兼の戦死により鎮圧。

前田秀常は石川国の隣 岐阜国北部を領する福嶋家の元へ逃亡した。

秀政は福嶋則正に対して引き渡しを要求するが則正は既に秀常は内府に引き渡しているとして拒否した。

これは内府による政権乗っ取りの始まりに過ぎなかった。

秀常の内府へ引き渡し、この報が大阪にいる大納言(利秀)の元へ届く。

「何故関係のない内府がなぜ関わる。これは太閤殿下への謀反であるぞ」

利秀は怒り、太閤殿下へ告訴する。

太閤は体を起こして

「家吉は謀反の兆しがあるやも知れぬ。直ちに城へ登城し弁明せよ」

と連絡役へ伝えると再び眠りについた。

書状を届けてから三日後、内府は大阪城へ登城し太閤殿下へ謁見した。

「太閤殿下。此度のこと、誠に申し訳ございません。某が事情を知らずに中納言殿の元ご嫡男を匿う形となり、謀反の疑いがでてしまったことで太閤殿下のご心配を煩わせたことを.....」

と内府は反省すると共に、秀常に関してはこのまま内府へ引き渡すことが決まった。これは本人の希望や利秀ら反松平派が承諾したことも関わっていた。

前田家は謀反人である秀常の所領 能美6000石を没収。能美は利秀の直轄領となった。

「秀常は愚かであった。やはり家督を譲らなかったのは正しかったようだな。後は.....」

利秀にはまだ前田家安定の為にやらねばならないことがあった。

それは重臣の粛清であった。

秀常を支えた四名の家臣、

戸部清亮(とべきよすけ)

冷泉衡右衛門(れいせんひらうえもん)

垣田信良(かきたのぶよし)

吉良季長(きらすけなが)

の処遇を秀藤から利秀は任ぜられた。

利秀は、

戸部清亮と垣田信良に切腹。

冷泉衡右衛門に追放。(後に復帰)

吉良季長は穴山政永の監視下に置くことで秀常派を粛清した。

「政永殿、吉良のことよろしく頼みますぞ」

大阪城にて利秀からそう言われた政長。

「承知した。吉良季長は私に任せられるがよい。絶対に裏切れんようにする」

「季長は某との付き合いも長い故、他の者とは違って軽い刑を言い渡してしまった......」

「大納言殿、吉良はあなたを長く支えてきた。その功績が彼の罪を軽くした.....という理由はどうであろうな」

政永の提案を利秀は

「そうであるな.....。そういたそう」

と自身を説得した。

 

━━━石川国 能美━━

宇角の乱後、前田家は混乱していた。

秀政派の松井旅順(まついりょじゅん)

反秀政派の原田佐助(はらださすけ)

この二人を中心に、家中は再び分裂しだした。

利秀は原田佐助を何とか抑えていたが、宇角総兼の遺児 宇角総保が佐助と共謀して松井旅順を含め、秀政派数名を謀殺。

検死の結果、毒殺と判明するが当主 利秀にはこの連絡は来ず、秀政の元へ来た。秀政は毒殺したとして原田佐助を捕縛。

しかし、反秀政派の宇角総保や田住政成らが秀政を批判。この事態に内府が仲介し、反秀政派を根こそぎ出奔させた。

出奔した者の中には、利秀が若き頃から仕えていた者も多くいた。

このことが利秀に届いたのは発生から五日後だった。

「これは.....」

その連絡を聞いた利秀は思わず息を飲み、頭の中が真っ白となった。

「大納言様、直ちに国許へ帰国してくだされ。このままでは前田は終わりです」

と連絡役に言われた利秀。

しかし、利秀は離れることができない理由があった。それは幼君の補佐である。

関東にて東国大名監視の任を務める内府は監視を理由に各地の大名領へ兵を駐屯している。これは本来、言い渡された任には含まれていない。だが、太閤殿下が現在進行形で衰弱している。

もはや、内府を一人で止めれる者はいないだろう。

「某がここを離れることはできん」

利秀は帰国を拒否したが

「ですが!!」

と連絡役は帰国を求めている。命令か家か、利秀には少ない時間で決めねばならない。太閤殿下の命令を聞かなければ減封、又は改易があり得る。そうでなくても転封は確実だろう。

しかし、国許(石川国)に帰国すればいつ内府が大阪へ来訪し権力を握るか分からない。そんな時、

「大納言殿、国許へ帰られよ。御嫡男や家臣が心配してあろう」

悩んでいた利秀に話しかけてきたのは三秀だった。

「何を言うか。某がいなければ幼君が.....」

「前田なくして我らに勝利はない。内府が勝つだろう」

三秀は利秀にいかに前田が内府に対して重要か、幼君は我らで御守りすると言って利秀を説得。それを聞いた利秀は

(若い衆はまだ内府の本当の恐ろしさを知らんか.....)

とどこか呆れたような表情をうかべるが渋々納得。

翌日には国許(石川国)へ帰国した。

この報を千代田城で聞いた内府(家吉)は、私室にてとある人物と話していた。

「ついに中納言が帰国したようじゃ。佐渡守、いよいよじゃな」

「えぇ。ついに殿の天下が」



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北政所

前田家で御家騒動が起こった時、同じく大阪でも問題が起こっていた。天下人(豊下秀藤)には二人の室がいた。

正室の北政所(伏見姫)と側室の神崎殿(近江姫)である。

正室の北政所との間には子はおらず、側室の神崎殿との間にできた子の頼藤が関白職を継いだ。しかし、このことが原因で秀藤と北政所との仲は悪くなり晩年のほとんどを別居状態で過ごしていた。

そんな中、大阪では北政所党と神崎殿党とで冷戦状態と化していたのだ。北政所党の代表格は内府(家吉)だが、神崎殿党の代表格は光秀であった。権力でいうと神崎殿が勝っているが人脈は北政所が優位である。

 

前田利秀帰国の前日

━━━━京都国・桃山 伏見邸━━━━━━━━━━━━━

まだ所々に緑葉が残っている時期、北政所の住む伏見邸にとある客が訪れた。シミが目立つ薄黒い皮膚をした老人である。その客は北政所の侍女に導かれると、とある部屋へ案内された。

「あら?珍しいお客ね」

襖を開けた人物に北政所がそう言った。その人物は、

「お久しぶりでございます。伏見姫様」

と言い、北政所は

「久しぶりね。弥八郎」

北政所が弥八郎と呼ぶ男は本多佐渡守正家。弥八郎とは佐渡守の幼名である。佐渡守とは秀藤が滋賀国一国を有した時からの付き合いがある。

「何の用かしら」

北政所は佐渡守に用を聞くと

「伏見姫様、申したいことがあるのです」

と佐渡守は言った。

「私でよければ申してみなさい」

その言葉に佐渡守は真面目な顔となり話し始めた。

「五奉行の一人、石田治部少輔が太閤殿下の御体調悪化を理由に近江姫様と幼名様を利用しておられます」

北政所は何も語らず佐渡守の目を見つめ、嘘かどうか見定めているようだった。佐渡守は思わず冷汗が吹き出してしまい、今すぐにでも部屋から飛び出してしまいたいほどであった。北政所はこのような歳になってもなお武士の妻の気迫が残っているのかもしれない。

「そう。私からも申してみましょう」

「ありがとうございます」

佐渡守はそれだけを言って部屋を退室した。伏見邸を出た佐渡守は人生で初めて女の恐怖というものを身をもって感じたのかも知れない。

「伏見姫様はあれほど恐ろしかったのか。わしはこの歳になるまで女の恐怖というのを知らなかったとはな」

佐渡守は足早に伏見邸から離れるように合流場所へ向かっていった。

「弥八郎、あの子は松平にはもったいないわね」

北政所には神崎殿党殲滅だけでなく、他の目的があることはまだ誰も知らない。




今回少なめ


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太閤死去

内府陣営と反内府陣営による権力争いが密かに行われようとしていた頃、太閤 豊臣秀藤にその時がやって来た。

昨年頃から医者に言われていた太閤の余命、名医でも治すことのできない程進行していた。今夜が山場と言われた秀藤は大阪の大名屋敷全てに急使を走らせた。

急使を走らせてから30分程たっただろうか。続々と大阪城へ大名らが登城してきた。

そこには、太閤殿下お気に入りの

岐阜国北部高山 福嶋則正

熊本国北部熊本 加藤清望

豊下一門の

福岡国東部福津 小早川秀冬

岡山国岡山   沖田秀家

など様々な大名が深夜にも関わらず太閤の元へ駆けつけた。

しかし、太閤に面会できるのはその中でも僅かであり

五奉行筆頭 石田三秀

五大老筆頭 松平家吉

五大老   前田利秀

四老中筆頭 穴山政長

の四名のみである。

その四名に見届けられながら太閤 秀藤は

「わしは死なんぞ.....。やらねばならんことが.....」

と所々聞き取れないような小さな声で

「頼藤が.....。心配じゃ.....」

とかすかな声で言った。すると、内府が

「太閤殿下!!幼君様は我らにお任せくだされ」

と言うと秀藤は少し内府のことを睨むとそのまま目を閉じた。

秀藤が死ぬと利秀と家吉は号泣するが三秀と政長は泣くことなく部屋を退出した。

二人は途中で別れ、少しすると三秀に駆け寄ってくる三人がいた。

やって来たのは藤堂秀虎、加藤清望、福嶋則正だった。

「太閤殿下はどうなったんだ!!」

と則正が叫ぶが三秀はしずかに首を振ると則正は崩れ落ちて泣き出した。三秀は涙を流していないことに気づいた秀虎は

「貴様!!何故泣かんのだ」

と怒るが三秀は

「私にはやらねばならんことがある」

とそっけなく言った。それを聞いた清望が

「あの大納言殿でさえ泣いておるのだぞ!!」

と叫ぶ。が、三秀は聞こえなかったかのように歩き始めた。

夜の廊下には内府と利秀の泣き声が響いていた。

三秀は三人を無視するかのように廊下を歩き出す。則正は号泣し、秀虎と清望は三秀を睨む。

一方、政長のところには嶋津義公、黒田藤政の二人が訪れた。

「民部殿、太閤殿下が亡くなられたそうだな」

義公にそう聞かれた政長は

「そうだ」

と一言だけ言った。そして、義公と藤政は今後を案じた。

「内府はどうするつもりだ」

藤政の言ったことに政長は

「内府は必ず我らを従えようとする。幼君様の後見人の権力を使ってな」

と言った。義公は

「ならどうする」

と二人に聞くと

「亡き者にするか?」

藤政は提案した。藤政の単純な提案に義公は

「お主の父ならばそのようなことは考えん」

と藤政の父 黒田孝政(如林)との頭の違いを言い、

「某もまだまだのようで」

と藤政は己の未熟を改めて感じた。

「内府を殺すことも大老の座から落とすことも我らにはできん」

政長は自分達の持つ権力では内府を落とすことはできないと分かっていた。

「そう、我らが協力せねばな」

義公が付け足し、三人は計画を練ることとした。

「しかし、誰を誘うのです?」

藤政が二人に質問すると

「老中は某がやろう。他の奉行は.....治部少輔がやるだろう」

と政長は不安そうに言う。

「それほどあの小僧が心配か」

義公は政長の心配を見抜いていた。

「あいつは他大名は豊臣に加担するものだと思っている。内府には味方せんとな」

と言った。

「確かに。あやつならばあり得よう」

政長が言ったことは戦国の世を生き抜いた義公には理解できた。

藤政は少し疑問を抱えながらも次へと進めた。

「九州の大名はできるだけ味方に引き入れたいですな」

「背後の憂いをなくす為か」

と言う。

政長は

「確かにな。お主らがいるからと油断はできん。鍋嶋がな」

と鍋嶋が油断できぬことを二人へ伝える。

「うむ。それに四国も心配だ。長宗我部が分からんからな」

と義公は九州だけでなく、四国にも内府へ付くかもしれぬ大名がいることを伝えた。政長は

「長宗我部は内府へ付くかもな。あの時も内府とは協力していたからな」

と小牧・長久手での戦いを思いだし警戒せねばならないことを考えた。

「某は毛利が心配です」

と藤政は言った。そこに

「吉川か.....。あやつは確かに信用できん」

と義公が詳しく言った。吉川とは毛利照就の代に照就の息子である元冬が養子としてはいり、支配した家である。

照就の息子達は父亡き後は隆照、元照と二代を支えた者達である。

吉川ともう一つの小早川は両川体制といい二家で毛利を支える体制を築き、繁栄した。その吉川が彼らにとっては毛利の不安要素となっていた。

「そうだ。毛利の当主が昨年亡くなり若年の嫡子が継いだ。だが、舵取りは家老の吉川博忠と安国寺恵雪がとっておる。安国寺は我らに加担するが吉川は分からん」

と政長は毛利が不安定であること、家老の安国寺恵雪は味方するであろうことを加えて吉川について話すことにした。

「吉川は内通するだろう。毛利存続の為に」

と政長は吉川は内府へ加担するであろうこと。理由は毛利存続の為だと言った。すると喜弘が

「間違ってはおらんが、内府が密約を守るとは思えん」

と吉川は間違ってはいないが内府を信用しすぎだと感じた。

政長は

「毛利を潰し、吉川を残すだろうな」

と言い、内府がするであろうことを想像した。

「吉川.....。元冬殿ならば我らに味方しただろうか」

藤政は亡き元冬のことを考えていた。藤政は何度か大阪で元冬と会ったことがあるからだ。

「したな。元冬は毛利第一だ。毛利が味方するなら吉川もしただろう」

と義公は元冬なら裏切らなかっただろうと言い、悔やんだ。

「あの頃の毛利は強かった。小早川元景と吉川元冬による両川体制が」

政長は亡くなった小早川元景と吉川元冬がいた頃を思い、あの頃の毛利が今あればと何度も思った。

「元景殿も一昨年亡くなった」

「毛利の英傑は一昨年消えた。毛利の地位もその時に落ちた」

義公は毛利の地位が危ういことを密かに感じていた。

「毛利が五大老にいれるのは太閤殿下がその力を信じたからだ」

「その力も、たった一人により無くなろうとしておる」

と吉川博忠による毛利崩壊を危惧していた。

「元景殿、元冬殿がおれば内府は動けんかった」

「残るは大納言殿か......」

「そう。大納言殿だけだ。そこまで我らは時に追い詰められた」

政長は改めて自分達が時間に追い詰められていることを見に感じた。

「某は期待せぬことだな。遠すぎる」

義公が言うように嶋津は鹿児島である。大阪からは遠すぎた。

「それに、嶋津とて一枚岩ではないのだ」

と嶋津が一枚岩でないことを伝える。

「兄か」

政長は即座に答え、

「そうだ。兄者がなかなか認めん」

「嶋津存亡を賭けるようなものだ。仕方ない」

と政長は仕方ないと片付けた。義公としてはその対応に感謝するが政長のそういうところが今後、何かを招くのではと思ってしまった。

義公は

「すまぬ。某も説得の書状を送っておるのだが」

と申し訳ない顔をするが

「無理強いはせん。まだ時間はある」

と政長は言った。

「それなら藤政殿も一枚岩ではないそうで」

と政長は藤政へ言い始めた。

「そうなのです。父上は大丈夫なのですが家臣が......」

と黒田家の問題を聞くと

「父の権力を使えんのか」

と聞いたが、

「父上は自分でどうにかしろと。お主の今後の為だと.....」

と藤政は首を振った。すると、

「まぁ、如林殿の気持ちは分かる。某も息子を持つ故な」

と如林の悩みに共感した。

「毛利の力、なんとか保たねばな」

と政永は毛利を引き入れることが勝利の道へ近づくと確信し、考えることにした。

 

━毛利領・広島国 広島城━━━━━━━━━━━━━━━

「内府へ味方すべきだな」

博忠は内府の勝利だと感じた。主君 毛利元照を内府へ加担させれば勝利はより近づくことになる。すれば毛利しかり吉川の加増は確実だ。しかし、博忠には毛利を内府へ加担させるには問題がある。

同じ毛利二家老の一人、安国寺恵雪である。

広島国安国寺の大名であり、毛利の最盛期を築いた毛利照就の代に仕官した下級僧だが実力一つでのし上がってきた。

彼が得意とするのは頭脳である。照就が亡くなり先代の隆照が当主となると武の吉川元冬、智の小早川元景・安国寺恵雪と名が挙がる程であった。対して、博忠は元冬の嫡子であるだけで現在の地位にいる。実力と父の名誉、同じ権力を持つ二人だが当主が置く信頼は安国寺が大きい。博忠は父が遺した地位と僅かな人脈で毛利を内府側へ傾かせねばならなかった。

「まずは家中を分けるべきだな。内府へ反発する者はその期に粛清するとしよう」

だが、この選択が博忠を追い詰めるとはまだ知らなかった。



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九州大名

黒田如林

天下人 豊下秀藤が主君 小田信長の命により、中国地方へ侵攻を開始した際に才能を認められて家臣となった。

そんな如林だが、天下統一後は自身の才能を危惧されて兵庫国姫路の所領から遠い九州大分一国を与えられ事実上の左遷を受けた。

しかし、如林はこの転封を認め逆に反対した家臣を追放した。

この際追放された家臣は秀藤が雇う者もいたが大半が沖田・穴山へ仕官した。

━黒田領・大分国 中津城━━━━━━━━━━━━

「天下が乱れるな.....」

とある一室で老人の如林はある者と話していた。

廊下には小姓が二人いるが聞こえないように設計された私室では如林も安心して話せた。

「内府が天下を制すと?」

如林と話す男は兄の孝鎮(日田城主)である。如林の信頼できる一人であり、良き相談相手でもあった。

「うむ。内府は九州を親松盛の大名で固めたいだろうな」

「さすれば光秀らは挟撃されますな」

如林は目を細めると

「我らはどちらに付くべきかの」

と孝鎮に聞くと

「藤政様は治部少へと加担すべきと」

と孝鎮は言った。

「あのせがれがか......」

と如林は少し理解しずらいと思うが口にだすのは我慢した。

すると孝鎮は

「えぇ。しかし、家臣はどうも」

と言う。如林は

「内府へとか.....。我らも一枚岩ではないということか」

と家臣の言い分を理解していたし自身もそちらの考えだった。

しかし、もはや治部少に加担するしかないと思った如林。

孝鎮は

「我らは治部少に加担するしかないですな。ならば鍋嶋が気になる」

と言うと

「うむ。それについてはわしも気になっていた。鍋嶋が内府へ加担すれば黒田も加担するしかないだろうな」

と如林は言った。黒田にとって、鍋嶋は自分達とは格上の存在であった。(黒田 十六万石・鍋嶋 二十六万石)

「毛利は治部少側へ?」

と孝鎮は言うと

「分からん。あの若造が果たして九十七万石の力を使いこなせるかどうか」

と如林は言う。毛利の当主は昨年亡くなり、嫡子が継いだがまだ若い。如林にしてみれば九十七万石を若く戦経験の無い者がこの世間を渡り歩くことは難しいと思っていた。

「安国寺がいます」

と孝鎮は言う。安国寺恵雪は孝鎮に軍学を教えたことがあることで孝鎮にとって信頼できると思っていた。これで毛利は味方すると確信していたが

「吉川がおる。あやつは内府に味方する」

と如林は吉川の姓を言った。

「決まったわけでは」

と孝鎮は擁護するが

「いや。確実に味方する」

と如林は言いきった。

少し沈黙した孝鎮だったが

「.......。だとすれば毛利の九十七万石に吉川の二十六万石が敵へと流れますな」

と毛利が敵になる可能性が浮上してきた。

「そうだ。わしら黒田は一国を持ってしても十六万石」

如林いわく黒田単体では無力に近い。

「単独では負けますな」

と孝鎮が言う。

「そう。仲間がいるな。誰がおったか」

と如林は聞くと

「熊本人吉 小西、鹿児島 嶋津、福岡福津 早川ですな」

と孝鎮は答えた。

「嶋津以外頼りないな」

「そうでありますな。治部少が西国でいかに味方を増やせるかが肝となりますな」

と二人は言った。二人にとって九州の勝敗は治部少にかかっていただろう。

「あの治部少がこなせるとは思えんがな」

と治部少次第だが期待はできずにいた。

「こなせるとすれば?」

「石川の中納言殿か、姫路の穴山のどちらかとは思うがな.......」

と如林は言うが

「中納言殿は老人で大阪にいるのが精一杯、穴山殿は......」

と孝鎮は期待できる二人にも問題があることに言葉を出せなかった。

「あの小僧は何を考えておるか分からん」

と如林は言う。

世の大名達は内府以上に穴山ほど恐ろしい者はいないと考えていた。理由は考えが分からないというもの。現在の内府は豊下に密かな敵意を向けているがそれまでまさか内府が裏切るとはと思っていた。

「そう。穴山殿は内府へと加担する可能性も捨てきませぬ」

と孝鎮は言う。

「穴山の弟 兵庫守(政輝)は内府の子息と親交があるからですな」

穴山兵庫守(政輝)

穴山政永の弟。姫路城代を政永により任せられ、実質の領主である。

「うむ。兵庫守は兄とは仲は良いが、子の政久とは仲が良くない」

と如林は言う。この政久という者は兵庫守の長男で龍野城主。

兵庫守と子の政久はあまり仲が良くなかった。理由は分かっていない。

「政久は伊達の姫を娶っていたな。」

「えぇ。政久殿が内府へつけば伊達も」

政久は伊達龍宗の次男 夏宗の娘 麻亥姫を娶り、伊達と縁をもっている。政久次第で

「さすれば治部少はより追い込まれる」

と如林は言う。まさにそうであった。実際、政永の頭の中には政久が裏切らないようどうするかというのがあった。

「治部少は穴山と相談する仲らしいが穴山は」

「彼は太閤に恩がございます」

孝鎮は穴山が内府へ付かないと言うが、如林は

「いや、むしろ神戸三十六万石しか有していないことに不満があるやも知れぬ」

と言い、

「若くして三十六万石は多いと感じるかも知れぬがあやつはそれ以上の功績がある」

と続けて言った。

「我らと同じように太閤殿下は恐れたのでしょうか」

と孝鎮が聞くと

「あり得るな。あの太閤殿下は一門衆が少ないからな。少しの不安も取り除きたかったのだろう」

と如林は言った。

「しかし、逆に格差ができてしまったのですな」

と孝鎮は太閤の大名領地管理の欠点を言った。

「そうだ。内府・前田・毛利と老いた自身では潰せない家は加増することで恩を与え、我らや穴山の才能ある者は加増と称して少しでも遠くの土地へ追いやる。穴山は少し信頼できたのか兵庫に置いたのやもな」

如林は穴山が三十六万石しか貰えなかったことに不満を持っていると思っているが政永はどうとでも思っていなかった。

「だとすれば、太閤殿下は間違えましたな」

孝鎮はそう言うと

「太閤がしたことは敵に力を与えてしまった。内府は確実に恩を感じていない」

と如林は言った。

如林にとって内府はいけすかない男だった。

中国攻めで家臣となった如林と主君の盟友だった内府、太閤は内府を臣下にする為に加増をしたが如林には転封し、九州へ追いやった。如林にしてみれば不満は当たり前だった。

「失礼します。殿、こちらが」

すると、小姓が書状を渡してきた。

「うむ。ご苦労」

そう言った如林は書状を見ると

「これは.....」

と言った。

書状を見た如林は汗を垂らした。それを見た孝鎮は

「なんと?」

と聞くと

「太田からだ」

と如林は答えた。

太田とは太田一政である。臼杵城主 太田顕政の嫡子で鍋嶋の大阪留守居役を任せられている。

「太田ですと?」

そう聞いた孝鎮に

「大阪にて動きあり。治部少率いる五奉行が幼君に法案を提出したらしい。聞いたところ浪人雇用を限られた大名家は上限なく迎え入れれると......」

と言う如林。孝鎮は

「戦力増強の為ですな。いよいよ天下は......」

と黒田拡大のチャンスが到来したことを嬉しく思った。

黒田はこの太田からの報せを受け、軍の準備をする。

太田の功績で黒田は九州戦線において、西軍優位へと傾かせることに成功するが後に家臣が内府へ内通していたことが発覚。

論功行賞では官位のみとなってしまった。

━加藤領・熊本国北部 熊本城━━━━━━━━━━━━

加藤清望

豊下秀藤の生母である大政所と母が従姉妹であった縁から、滋賀長浜城主となったばかりの秀藤に小姓として仕えた。

秀藤の中国攻めで清望は総社城で一番乗りを果たし、足守将臣を討ち取った。その後、天下統一後は九州 熊本国北部を与えられた。

しかし、その恩賞は清望にとっては不満があった経緯があり、現在は内府派となってしまっていた。

「父上はまだ大阪にいるのか」

そう家臣 相良清茂に聞いたのは嫡男 加藤望広である。

「はい。内府様より治部少(光秀)を監視せよと......」

と清茂は答える。

「父上は真に豊下を滅するつもりか」

望広は突然物騒なことを聞いた。清茂の反応は沈黙である。

すると

「沈黙は肯定と見なすぞ」

と望広は言い

「父上は何を考えておられる......。内府に従っては潰される」

と父に対しての不満を語りだした。すると清茂は

「殿はそのような失敗はしませぬ」

と主君 加藤清望を擁護するが

「内府という男は分からんぞ」

という望広の言葉に対しての返答が出てこなかった。

少しの間が空いた後、清茂は

「若君、殿より伝言でござります」

と突如として言い出した。望広は

「なんだ?」

と聞くと

「殿は内府に従わないお前は廃嫡、勘当とすると......」

と当時、嫡男に対して厳しすぎることを嫡男に言い渡した。

清茂からそう聞いた望広は

「廃嫡に勘当?私がか?」

と少し信じれないような顔をしたが、

「......はい」

という清茂の顔を見たことで嘘ではないと確信した。

「ふっ。父上はあのお歳でボケたか.....」

と望広は悪口を言うが

「若君.....」

と少し申し訳なさそうに注意した。すると、

「清茂」

と名前だけ言うと

「身支度をする。馬を出しておけ」

と突然言った。清茂は理解したが

「何処へ行くおつもりで」

と嘘であってほしいと思いながら聞いた。しかし、

「私は勘当されたのだ。今すぐここから去ろう」

と望広は言ったことで清茂には切腹という未来が見えた。

だが、清茂は既に未来は分かっていたかのように

「若君、その前に廃嫡の儀がございます。しばし待たれた方が」

と念のため望広に言うが

「知らん」

と突っぱねた。

「若君、そのようなことをされる場合は某が処せと殿から.....」

と清茂は忠告するが

「私を処すか。面白い、殺るのか?」

と望広は恐れなかった。清茂は

「答えよ」

と言う望広の目を見て

「某には出来ませぬ」

と言った。

「そうか。清茂、お主は優しい者だ。父に嫌われておる私にいつもついてきてくれた」

と望広から誘いがくるが

「若君」

と一言言うと

「そうか」

と望広は理解した。清茂は共に逃げることは出来ないと。

「さらばでございます。若君」

その言葉を聞いた望広は

「うむ」

と言いただ一言だけ言って走り出た。

清茂は

「曲者だ!!」

と叫び守備兵を呼び寄せると望広は門の近くの茂みに身を隠した。門の見張りが行ってしまうと、望広は颯爽と門の近くに用意された馬に乗ると北へ向かった。

加藤家はこの望広出奔騒動で勢力が弱まり、最大限の力を出すことができなかった。

後に、望広は姫路へ向かい姫路城代の穴山政輝(弟)に謁見。政輝から書状を与えられると大阪にいる政永に謁見し、政輝の部下として認めてもらった。望広は垂井の戦いで穴山政輝軍として父 清望と対峙すると重鎮三名を討ち取る戦果を果たす。

その後は穴山で昇格していき穴山政輝の側近となる。

対して、父の清望は戦後所領は安堵されるが大阪の陣で再び敵となり戦死となる。

 

━小西領・熊本国南部 人吉城━━━━━━━━━━━━

小西行繁

石田光秀の旧友であり、吉利支丹大名である。

石田と大谷からの懇願もあり熊本人吉の地を与えられた。しかし、懇願は小西を中央政治から遠ざける為だったという噂がたったことで以来会っていない。そんな行繁は熊本守の官位を持ち、北部の加藤とは犬猿の仲だ。

「忌まわしき虎め」

行繁は加藤清望のことを毎度忌まわしき虎と呼ぶ。

「殿、どうなされたので?」

そう聞くのは家老の相良繁房である。

「なに、また氷川に嫌がらせをしてきおってな」

小西は加藤からの嫌がらせを受けており、そのほとんどが氷川であった。

「また太閤へ申し届けを出さねばですな」

小西は毎度太閤へ報告するが既に容態が悪い時であったことで内府が代理として処理することとなっていたが将来を見越して処罰は無いことに行繁含め小西家は気づいていなかった。

行繁は

「繁房、頼めるか?」

と言い、繁房は

「承知致しました。直ちに大阪へ」

と言った。

「うむ。頼んだ」

行繁から命を受けた繁房は大阪へ行くが到着した時には、既に戦準備が始まっていて各地の関所で足止めをくらっていた。その後、大阪で太閤が亡くなったことを知るが行繁にその報が伝わったのは伏見城攻略の二日前であった。

小西家はすぐに軍を出すが合流したのは決戦の二日前。

結局、小西家は戦に参加できたが兵糧担当となったことで戦後の論功行賞では加増など無しとなった。

さらに、戦後に繁房が加藤の家臣の手により亡き者にされていたことが判明。小西は西軍に征伐の要求を申し入れるが光秀が拒否。

加藤は安堵となり、小西は不満を持った。

━鍋嶋領・佐賀国 佐賀城━━━━━━━━━━━━

鍋嶋秀茂

元龍造寺家老。

龍造寺隆茂が嶋津久家との合戦で討ち取られると混乱した龍造寺を乗っ取った。三男の隆元を当主に擁し、嫡男の隆邦と次男の隆正を追放しようとして謀反を起こした。

秀茂は嶋津と同盟を組み、隆邦勢の拠点 平戸城を攻略、隆正を討ち取るが隆邦は逃してしまう失態を犯すがなんとか勝利した。秀茂は乗っ取り後は天下統一事業の九州征伐がその時に起こっていたので同盟相手の嶋津を見捨て豊下秀藤に謁見。

承認を得て隆元を補佐する形で家を乗っ取ることに成功した。

その後は嶋津攻めに参加するなどした男である。

「殿、こちらを」

「秀茂、もう私の補佐はしなくてよいのだぞ?」

そう言うのは龍造寺隆元である。前記のとおり秀茂の手によって当主となった。ゆえに逆らえなかった。

「いえいえ、殿が立派な当主となる為に某がよりお支えいたします」

と秀茂は言った。

「だからな」

と隆元がなにかを言おうとしたが

「殿、それよりもご採決のほうを」

と秀茂が遮った。

「まぁ、そなたの考えたことだ。正しいだろうから採用する」

と不満げな感じだが隆元は採用した。

秀茂は

「は。直ちに実行いたします」

と退室した。

「殿」

退室して直ぐに話しかけてきたのは表上では秀茂と同等の家老職を担う百武正和である。

「正和、ここでは殿と呼ぶな。佐賀守と呼べ」

秀茂は佐賀守の官位を持つが本来は隆元が貰うべきであったが秀茂の助言により隆元は辞退。しかし、助言した秀茂が変わりに貰うという嘘のようなことを行った。

「は。申し訳ございません」

「構わん。その我慢もあと少しだ」

と言う秀茂に正和は

「どういうことで?」

と聞いた。すると秀茂が

「もうすぐ天下が二つに割れる。勝利する方へ味方し、家督を継承する許可を貰うのだ」

とあり得なさそうなことを言った。しかし、正和は

「ほう。二つに割れるですか」

と驚かなかった。正和にとって、秀茂はそのようなことも成し遂げることができる存在として見ていた。

「そうだ。内府と治部少とでな」

と言う秀茂に

「治部少?あぁ、あの男ですな」

と治部少という男が一瞬分からなかった正和だったが理解した。

「治部少に加担するのは気に入らんが我慢せねば」

と秀茂は治部少のことは気に入らないが我慢しなければと言い、

「隆元様はどうするつもりで?」

と正和が隆元の処理について聞いた。

「どうせ内府が反乱を起こすよう書状をよこすだろう」

「ではその際に滅すると」

「そうだな。南の有馬が気になるがな」

秀茂の言う有馬とは長崎国南部、大村の有馬信成と島原の有馬延吉のことだ。元は一つだった有馬だが、先代の有馬信堯が後継者を指名せずに亡くなると正室と一門衆が延吉を、家臣達は信成を推すが決まらずに内乱へ発展。しかし、太閤が介入したことで終結。

二つに分裂することとなった。

すると

「心配無用でしょう」

と正和は言った。鍋嶋は佐賀一国と長崎北部を有する二十六万石の大大名に対して、大村有馬は三万石、島原有馬は二万石の小大名にすぎない。

「まぁ、有馬など相手にならんか」

「我らがすべきことは龍造寺の撲滅ですな」

正和は言うと秀茂は

「そう。まずは邪魔な隆元をつぶす」

と言った。

秀茂の予想通り、隆元は反乱を起こすが秀茂らにより鎮圧。

当主の隆元と共謀した松浦鎮元・大村准庵・五越玄二の三人を斬首。その他の者は追放や切腹の刑とした。なお、百武正和はこの反乱で五越玄二により討たれ、戦死している。




振り仮名つけるべきかな?分からん


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前田大納言

太閤が亡くなってからというもの、大阪城の(さむらい)達は疑いの目を向けあっていた。

「大阪はこのごろ殺伐としとるようじゃ」

内府(家吉)は独り言を言うが

「それもその筈。今や天下の民は既に気づいております」

と本多佐渡守(さどのかみ)(家信)がそう返した。内府はまさか佐渡守が答えるとは思っていなかったのか

「そうじゃな」

とだけ言った。

松平の行列が大阪城から国許へ帰る道中、大阪の人々は内府の姿を見ただけで自然と頭を下げて平伏しだした。

「しかし佐渡、この様な場所で言うでない。どこで治部少輔(じぶのしょう)(三秀)の手の者が聞いておるか分からぬぞ」

実際、この会話を聞いていた者がいた。石田家臣 太田左衛門である。彼はこの会話を聞いて直ぐ様石田屋敷へ走り出した。

しかし、その後ろ姿を内府に見られてしまっていた。

「佐渡、やつを追わすのじゃ」

佐渡は側にいた付き人に左衛門を追わせた。

日も沈みかけた頃、左衛門の周囲に士が現れた。

「なに奴!!」

左衛門は叫ぶが士は名乗らず斬りかかってくる。

突然のことに驚いた左衛門は体勢を崩すがすぐに立て直し

「名乗らず斬りかかるとは武士の風上にも置けぬ!!」

と頸を狙う。が後ろから近づいてきた者に気づかず胸を刺された。

左衛門は大阪の路地裏で密かに討ち取られ、左衛門の遺体は神崎川へ投げ棄てられた。

左衛門を討ち取った武将は相沢新助という士であり、関ヶ原の初戦で討死することとなる。

その頃、石田屋敷にて茶を飲む三秀と清光は内府帰国についての会話をしていた。

「内府が国許へ帰るというではないか」

「殿、これは好機でござりますれば」

「まぁ、清光。今はまだ動くときではない」

三秀にとって内府の国許帰国はなんの心配もなく、自身の頭の中で描いた予定通りに事が進めば勝てると確信していた。

この癖が三秀の短所であろう。

三秀は何事にも予定を組み、順序通りに進行させる癖がある。

これは天下統一後の政治の大半を一人で行っていたことが所以だろう。

「清光、内府に組みするであろう大名を書状に認めておけ」

「承知いたした。しかし、民部少輔(みんぶのしょう)(政長)様にはお伝えしたほうが」

「いらぬ。あやつは全て分かっておる故な」

「治部少輔は真に内府(家吉)を国許へ帰したか」

「左様でございまする。治部少輔様は上方で兵を集い、岐阜の地にて決戦を行うとか」

「分かっておらぬ。内府を嫌う者が治部少輔に協力するのは前田大納言(利秀)殿がおられる故。大納言殿がおらねば我らは勝てぬことを何故気づかぬ」

「治部少輔殿は太閤殿下の遺光は健在であるとか.....」

「遺光とな。あの嫌われておった太閤殿下のか」

「殿、誰に聞かれておるか分かりませぬゆえ」

「一忠、その様なこと心配するでない」

政長は三秀の計画に不備があることを見抜いていた。

三秀の計画は西国の大名らが加担することを前提としていた。

毛利や沖田、曽我部など西国大名が協力せぬ場合三秀含め上方勢は挟撃されてしまう。

そのまま大阪へ攻めいられるという可能性さえある。

しかし、三秀はその可能性さえ頭にない。

全ての西国大名は豊臣へ着き、内府の元へ行く者はいるはずがない。

しかし、それはあくまで机上の理論である。

太閤の政策に不満を持つ大名が大半であり、豊臣恩顧の大名でさえ不満を持ってしまっていることは本来あってはならない。

「三秀に何度言っても分かるはずない」

「分かりませぬぞ。治部少輔様は聡明なお方ですぞ」

「一忠、これは刑部(秀継)でさえ思っておること」

この言葉に一忠は黙ることしかできなかった。

一忠との会話から五日が過ぎた。

政長は伏見にある前田屋敷を訪ねていた。

「大納言殿、お久しぶりですな」

笑みを浮かべる政長。しかし、

「大納言殿、内府について話したいことが」

その言葉と共に面構えを変えた。

利秀は昔に戻ったかのように姿勢を変える。



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織田中務卿

織田中務郷(なかつかさきょう)(信明)は豊臣家で大阪:屋根川三万石を有し、本拠の織田屋敷は寝屋川近くにあったことで寝屋川殿とも言われている。

しかし、当主の信明は太閤秀藤とほぼ同時期に病を得て亡くなっており、いまは嫡男の明秀が中務卿の官位を父のを貰う形で賜り、家臣を纏めていた。

隼人(はやと)武衛(ぶえい)はおるか」

明秀が呼ぶのは百々綱信と木造信正である。

彼らは小牧・長久手で敗れた信明に付いていった百々綱氏と木造長実の嫡子である。

綱信は官位は隼人佑(はやとのじょう)を賜り、二千石を食み、信正は官位は右兵衛少尉右衛門少尉(うひょうえのしょうじょう)を賜り、同じく二千石を食んでいる。

少したってから小姓が二人を連れてきた。

「殿、いかがなされましたか」

そう綱信が聞くと

「なに、そろそろ決めねばと思ってな」

「殿、何度も言いましたが此度の戦は内府様が勝ちまする」

「何を根拠に」

「あの豊臣恩顧の大名である福嶋や加藤でさえ内府へ服従しつつありますれば」

現に、加藤・福嶋の両家が内府に与始めると豊臣恩顧大名も我らもと松平伏見屋敷に訪問し、服従を誓っている。

「我らには毛利も上杉もおる」

「毛利には吉川が」

両者は譲らない。明秀には父の無念を晴らす為に、綱信と信正は主家である織田を守る為。

「吉川一人ではどうもならん」

「殿、失礼致します」

「おぉ、河尻か。して、どうであった」

河尻明長、屋根川織田家で家老の木造・百々の二人に次ぐ千五百石を食んでいるが官位は従六位下:壱岐守を賜っている。

父の河尻安長は家老の二人に暗殺された疑惑が残っており、家中は二分している。

「はっ。まず、内府様は北愛知と官位は中納言を」

「ほう。つまり信永は転封か改易であるのだな」

「であればいま急ぎ内府様へと」

「しかし、治部少輔(じぶのしょう)様は岐阜・北愛知を宛行うとのことです」

「上方の方が得ることは大きいと」

「左様でございまする。さらに治部少輔様は殿に権大納言の官位を」

「権大納言だと.....」

この時点での権大納言を賜る者は誰もいない。いや、いたといった方が正しいだろう。権大納言を賜った武士の大半が半年以内に急死する呪いの官位と噂されている。

ゆえに誰も賜りたがらないのだ。しかし、この明秀はまだ十九歳でる。さらには政務のほとんどを百々と木造の二人に独占されている状況。明秀が欲しいのは官位である。

彼らよりも高い官位を賜ることで実権を取り返そうとしていた。

「よし。治部少輔殿に書状を」

「はっ」

小姓は書状を持ち、慌ただしく走り去っていった。

「殿、我らはここらで」

木造と百々の二人は颯爽と去っていく。

二人は屋敷を去った。

大阪城下を馬に跨がり、揺られながら雑談をする。

「玄斎殿に助言いただこう」

綱信が突如そう言う。

「隼人、諦めよ」

信正は綱信を止めた。当然である。五奉行の一人、玄斎は三秀と同じ反松平である。助言してもらおうにも無理がある。

「殿が若いと困るものよ」

「我らで出奔いたすか?」

「ふっ。冗談を言う時ではなかろう」

「我らは殿を東軍へ参戦することはできぬ。されば、内府を仕留めるのみ」

町人の賑やかな声に交じりながら言を交える。

この二人は気づかない。自分達には先が無いことを.....

二人が去った屋敷に密かな会話は続く。

「河尻、あの二人をどう思う」

「怪しいですな」

「うむ。父の代から支えてくれた二人だが.....」

この時、既に二人の信頼は無に近かった。

どこで誤ったであろうか。いや、最初から彼らに信頼という二文字は明秀には無かった。

 

永和三年(一五九八年) 九月十日

 

また一つの家が壊れ始めた。

 




《明秀について》
明秀の幼名は泰平丸である。
母、大姫が明秀を生んだのは一五八二年である。
その二年後、父 信明が家吉にその地を追われる。


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