櫻の樹の下を駆ける (シャカファイてぇてぇ)
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櫻の樹の下を駆ける

一発ネタ


 季節は冬から春に変わり、桜の花も咲き誇る季節。

 

 新入生と思わしき若きウマ娘達が期待と不安に胸膨らませながら校門を潜り、早足で校舎へ向かう。

 そう言えば『学園内は静かに走るべし』って校則があったなーと思いながら、煙草に火を付けた。雲一つ無い青空に紫煙をくゆらす。

 屋上の縁のフェンスにもたれかけながら胸一杯に吸い込みゆっくりと吐き出すと煙は空の海に消えてゆく。ふと穏やかな春風に吹かれながら後頭部に一つに纏めたポニーテールが靡き、後れ髪を抑えた。

 面倒くさいのでピンで止めなかったがこんな時はじれったいと思いながら悪態付くと同時に、正に女性の人が考える悩みだと失笑してしまう。

 制服に似つかわしくないレザーのウエストポーチを腰に巻き、ウマ耳尻尾を身に付けた物思いに更ける黒髪のウマ娘。

 それは「私」

 つい数ヶ月前は「男性」トレーナーであったウマ娘である。

 

「んっー、ま~た煙草吹かしてるの? よく退学にならないよねー?」

「あら、スカイちゃんじゃん。おはよ」

「おはよー、ナナシさん」

 

 屋上の貯水塔の側から顔を出す空色の髪をした少女は眠たそうな眼を擦りながら挨拶を交わす。

 彼女はセイウンスカイ。

 重賞でそこそこ勝ってる屋上サボり仲間で時折顔を出しては一人特等席で昼寝に勤しむどこか飄々とした少女。

 

「新学期になっても相変わらずおサボりに勤しんでるのを見るにナナシさんはホント大丈夫なんですかねー。セイちゃん、要らぬお節介掛けたくなりますよ」

「私は“訳アリ”なので問題ありませーん。そんな事より私は授業をサボるスカイちゃんの方が心配ですー」

「今日は2限までしかありませんでしたー。ホント何も知らないんだ。せめて名前ぐらい教えてくれたら良いのに」

「えーいいじゃん。ミステリアスな女って良くない?」

 

 唇に人差し指を当てシーっと隠し事のポーズ。

“ナナシ”は私が仕方なく名前を聞かれた際に答える呼称である。

 この姿になってトレーナー時の名前を述べる訳にも行かず、だからといって偽名を名乗るほど交友関係を築くつもりも無かった為、咄嗟に聴かれて思い浮かんだ名前が「名前なし」から取った“ナナシ”であった。

 

「私はそろそろ出るけどスカイちゃんはどうする? まだ居る?」

「セイちゃんはもう少しのんびりしてから帰るのでお気遣いなくー。鍵くれたら勝手に締めて何時ものところに隠しとくよー」

「りょーかい。それじゃ、ごゆっくり~」

 

 足下に置いたコーヒーの空き缶に短くなった煙草を押し込むと、セイウンスカイを傍目に軽く手を振りながらそそくさと後にする。

 屋上の鍵が開いてた以上、彼女が先にいることは分かって居たがやはり喋り掛けられると気が気じゃない。

 何時か私が私ではないかとバレてしまうかも知れない恐怖。自分が自分ではないという現実。セイウンスカイが見ている私は私ではない。本当はウマ娘ではない。

 そしてこの姿を担当の“彼女”が見てしまったらどんな顔をするだろうか。

「私」と言う定義で揺れ動く中、私は逃げるように早足で階段を駆け降りた。

 

 

 ***

 

 

 それは半年以上前の出来事である。

 その日は担当のデビュー戦初勝利の祝い事で、たずなさんとの飲みに行った帰りの出来事。

 学園内に職員寮がある為、校舎前の三女神像の前を雑談しながら通り過ぎようとしていた所、自分の前方不注意で足を滑らせそのまま泉に落ちてしまう。

 途端、三女神像と噴水は光りだし、思わず目を背けた。

 光りは収まり、全身ずぶ濡れになりながらも立ち上がろうとするが上手く力が入らない。

 咄嗟の出来事で何が起きたか分かっておらず、顔を上げると隣で歩いていたたずなさんが眼を大きく見開き、驚愕に染まった顔で立ち尽くす。

 盛大に転んで頭から落っこちたもんだから、たずなさんもビックリしたんだろうと思いもう一度立ち上がろうとするがズボンの裾を踏んづけてしまい、思わず転びそうになった。

 一体何が起きたのか。服が伸びてしまったのか。はたまた足が短くなったのか。

 

 足元に目を向けるとそこには視界を遮る膨らみが目に入る。二つの大きな膨らみがワイシャツを押しのけ、たわわに主張する。

 胸に手をあてると柔らかに吸い付き。

 それはまるで女性の胸のよう。って言うかおっぱい自身。

 両手でふくよかな胸を揉むと、手の中に広がるたわわな果実のしっとりとした感触。問題はその触れた果実の感触が自分自身の胸からも感じる事。

 そして気が付いた。

 股の方にあるはずのイチモツの感覚が感じられない事も。

 ボクサーパンツに包み込む相棒の感覚が喪失し、水で濡れた事も相まってぴっちりと張り付いた感覚が何もない股を包み込む。

 ウエストが細くなっている為か、ズボンは脱げ落ち、尾骶骨の辺りからパンツの隙間を通って今まで感じたことがない、濡れて滴る長毛に包まれた長い尾の様なモノが生えてるような感覚。

 振り返るとそこには見慣れたウマ娘達と同じ尻尾。

 

 恐る恐る頭に手を当てると、そこには人にあるはずがないピンと立つ耳の感触が。込み髪に何時も付いてる筈の肌色の耳は無くなっており、長くなった髪の毛が肩まで伸びている。

 正直理解が及ばない。一体何が起こっているのだろうか。否、理解は出来るがありえないの言った方が良いだろう。

 私はゆっくりと顔を上げ、たずなさんの方を向き直すと確認するように彼女に聞いた。

 

「もしかして……私、ウマ娘になって…ます……?」

「はい……やっぱり…トレーナーですよね……?」

「「……」」

 

「「えぇええええぇーーーっ!」」」

 

 やばいやばいやばい。理解が追いつかない。

 否、状況を把握し理解は出来るが納得出来ない。

 ついさっきまで成人男性だった自分自身が足を滑らせ噴水のオブジェに落っこちただけで女性、それも種族を越えたウマ娘になっているのである。

 水面に映る少女に今までの面影はなく、強いて言うならば同じ黒髪って程度。

 身体中を確認してみるとほくろの位置ぐらいは同じかもしれないが、そこに居るのは見知らぬ少女でしかない。

 

「とっ、取りあえず私の部屋に行きましょうか。状況の把握はその後からでも良いので」

「……あっ、えっ」

「他の人に見つかったらまずいですから、早く」

 

 夜中にずぶ濡れで呆然と立ち尽くす少女は端から見ると声掛けなければいけない事案。

 先に正気に戻ったたずなさんは滑り落ちるズボンのベルトを代わりに締め、ウエストポーチを引き上げると人目につかないよう放心状態の私の腕を掴み、部屋に連れ込んだ。

 もし私が何時もの男の姿でたずなさんの部屋に招き入れられたら興奮で生唾を飲込むだろうか。それとも緊張で口数が減っていたかも知れない。

 しかし今の私ははそのような事思う暇無く、綺麗に靴を並べ整理整頓された玄関を見てもどこか浮世離れした非現実の様な感覚でしかない。

 彼女は先に私の上着を持って部屋に上がると洗面台でタオルを取って投げ渡す。

 

「先にシャワー浴びちゃって下さい。シャンプーとかリンスは自由に使って貰って構わないので。その間にスーツ乾かしておきますから」

「あっ、えっ、ありがとうございます……」

「替えの服用意しておきますから、濡れた服は籠に入れておいて下さいね」

 

 取りあえず玄関で濡れた髪を拭き取ると浴室に連れて行かれ、ドアを閉められる。暫くぼけーっとしていたが、幾分冷静となり何時までも濡れた姿のままにはいかないと着衣に手を掛けた。

 ワイシャツのボタンに手を掛け、上の方から順に外していくとそこにはインナーを押し上げ、胸が顔を出す。

 どうも胸がキツいと思っていたが、胸囲から脇にかけて皺が出来ているのを見ると結構な圧迫になっていただろう。

 目を逸し、そそくさと長い髪が邪魔だと四苦八苦しながらシャツを脱ぎ、ベルトも外して尻尾に気をつけながら下半身の方も脱ぎ捨てる。

 そのまま籠の中に放り投げ、ゆっくりと鏡の方を向くと、そこには全裸のウマ娘。

 

 思わず鏡に触れると、鏡の先の少女も手を触れ返す。

 ピースをすると同じくピースして返し、頭に手を当て耳を潰すと同じように潰し返す。紛れなく鏡の前に映る姿は自分自身。

 肩まで伸びる黒髪に大きな瞳。まぁまぁ大きな胸を持ちながらすらりとした体格。どこかお姉さん的な印象を受ける姿は可愛いと言うより綺麗系とでも言うのだろうか。

 ウマ娘は比較的美人が多いと言うがこの姿も例外ではなく、男の時の名残は感じさせない。

 勿論股間には何もついておらず、代わりにお尻から尻尾が生える。

 そんな尻尾はなかなか奇妙な感覚であり、意図して動かすことは出来るが意識して動かそうとするモノではなく、感情に合わせて無意識に動かすのが自然に感じる。

 これは耳も同様であり、人間の時の耳はこうも動かせるモノではなかったので、奇妙に感じなくもない。

 シャワー浴びるのが二の次となりながらマジマジと自分の裸体に目を通していると、洗面台のドアが開き、たずなさんの陰が。

 

「取りあえず着替え置いておきますので早く出て下さい。理事長にも連絡しておきましたので着替え終わったら理事長室に行きますよ」

「あっ、はい。お手数お掛けします」

 

 彼女の一言で現実に引き戻されるとそそくさとシャワーを浴び始めた。

 女性は丁寧に身体を洗なければならないイメージがあるのが、だから言って長い髪の毛をどう洗えば良いのか分からず四苦八苦。

 胸や股間など男女の差として大きく変わった部位はまだ人間としての延長線なのでなんとなく分かるが、耳や尻尾など今までなかった部位はどうすれば良いのか分からず、髪の毛と同じ用法でシャンプーリンスを施す。

 

 これは後でたずなさんに色々聞いた方が良いかなと思いながら、一通り身体を洗い終えると浴室のドアを開けた。

 そこにはバスタオルの他に替えの着替えが置いてあり、袋に包まれた新品のブラトップとショーツ。そしてハンガーに掛けられた黒のワンピース。

 胸元には『これしかなかったので取りあえず使って下さい』と申し訳なさそうに書き置きが置いてあり、たずなさんの律儀さが垣間見えた。身体を拭きながらマジマジと服を見る。

 

 正直抵抗はある。

 今の自分は女であるし、女物は何も違和感はない。何なら似合うのだろうと思ってしまう。

 だが心の中ではまるで女装をしている感覚であり、男としての尊厳が根元で折れて、端の方から少しずつ崩れていくよう。

 だからといって濡れたサイズの合わない男モノのスーツを着直す訳にもいかない。

 仕方なく私は身体を拭き終えると用意された服に袖を通した。

 しかしながら結局一人で着ることが出来ず、四苦八苦しながらたずなさんに手伝って貰ったのは仕方ない事だろう。

 下着は脱がすことはあっても着ることなどない。何か大事な尊厳というモノに更なるヒビを入れながら着せ替え人形のようになされるがまま、顔を真っ赤に目を背けていた事はここに伏せる。

 

 

 ***

 

 

「驚愕ッ! つまりたずなが言うことが事実であるならば、そこに居るウマ娘はあのトレーナーであると……。俄には信じられないのだが……」

「私も彼も正直、今でも理解が追いついていなくて……。ですが現場に居合わせたこともあり確実にこの子はトレーナーだと断言できます」

 

 シャワーを浴びた後、私はたずなさんと一緒に人目を避けながら夜の校舎を駆け抜けて、理事長が待つ理事長室に顔を出す。

 そこには普段テンション高めな筈の理事長が真剣な表情で椅子に座っており、たずなさんと自分の姿を見ると驚きに満ちた表情をして、説明するよう求めた。

 たずなさんは事の顛末を説明するがやはり端から聞くと荒唐無稽でしかなく、訝しみながら品定めするような目で私を見ており、正直居心地が悪い。

 

「何かトレーナーの私でしか知り得ない事など質問して頂ければ、それが証明になりませんか……?」

「証明っ……と言ってもまだ君の事はそこまで知らないってのが本音だ。確かに私はトレーナーの目の輝きや面構えに見込んで、新人トレーナーとして注目していた」

「確かあのでっかい乗り物に乗って整地してた時に話されてましたよね」

「耕し君三号だッ! 確かにこの話はトレーナーにも話したな。だがもし君が本当にトレーナーであったとしても、いまのままトレーナー業は続けることは難しい」

 

 理事長曰く秋川やよいとしては半信半疑だが信じる事はやぶさかでは無い。しかし学園の理事長という役職としてトレーナーと見なすこと出来ないと言う話である。

 突きつけられたのは実質の解雇通知。

 確かに理事長の言い分も分からなくはない。学園としては身元不明のウマ娘をトレーナーとして置く訳にもいかないだろう。

 しかし担当の子達を思うと気が気ではなく、思わず食いついたが理事長は忽然とした態度で首を振った。

 

「一度離れて貰うしかない。そもそもウマ娘になった事を公にすることすら危険なので、君がトレーナーだと私達以外に話すことすら辞めておいた方が良い」

「そんな!? なんで……」

「後天的にウマ娘になったのが世間に知られれば格好の研究材料。しかも意図的に人間を超えた種族であるウマ娘を生み出す事が出来るかも知れない。これは君と学園以上の発展しかねないのだ!」

「なんだか少し大げさではありませんか?」

「そんな事はない。なんなら君。ウマ娘になって実感するだろう、人間との差を」

 

 確かにそう言われてみて、初めて気付く。

 性別が変わっただけでは表現出来ないコンディションの変化。全身の感覚が今まで以上に研ぎ澄まされ、手の平を握ると明らかに今までの数倍の力で握力が働き、その動きに堪える身体。

 空気の流れを全身で感じ、嗅覚は今まで嗅いだことがない未知の香りが鼻腔を擽る。世界に対する解析度が高くなったと表現するべきだろうか。

 そして大きな違いは心の奥底に宿る闘争心。

 この闘争心は走る事に対する渇望へ繋がる。

 

「……どうやら感じ取ってくれたかな?」

「……はい。人との違い、そして彼女らが何故走りたいのか。なんとなくその理由が分かったような気がします」

「承知ッ! 取りあえずこれらを踏まえて私の方で手を打とう。それまで待機しておくように! あと自分がトレーナーと悟られないように気をつけるんだぞ!」

 

 そしてこの場はお開きとなり、また後日今後の動向について連絡する形となる。

 帰り際、理事長が学園の設備によってこの様な事態になったことを謝罪し、ある程度の根回しを取り付けてもらう約束をして貰い、たずなさんと一緒に帰路についた。

 

「色々ご迷惑お掛けしましてすみません。服も一式揃えて貰って」

「いえいえ、元々買ったのは良かったのですがサイズが合わずタンスの肥やしになっていたので丁度良かったです。男性だったトレーナーさんには申し訳ないかもしれませんが、とても似合ってますよ」

「あははは……。ありがとうございます。なんだか変な感じです」

 

 自分の事を指しているが自分じゃないモノに褒められる感覚。

 例えるなら着ぐるみを褒められている様。褒められる事は嬉しいがそれは言わばガワでしかなく、中と外のギャップに笑うしかない。

 

「あの……あまり深く悩まないで下さいね。何時でも私はトレーナーさんの味方ですし、ここまで来たらトレーナーさんが女の子の間は女性の先輩としてもしっかりサポートしますから」

「……頼りにしてます」

 

 ふと無意識に癖で煙草を取り出そうと胸ポケットを漁るが煙草は勿論の事、胸ポケットすらなくやわらかな胸が弾み、思わず苦笑する。

 せっかく女性、それも「ウマ娘」になったのだから男性で「トレーナー」をお休みし、後学として担当するウマ娘と同じ立場となって彼女らを理解する良い機会かも知れない。

 こんな時でも彼女たちの事を考えてしまうのは一種の職業病だと苦笑しながら、自分の将来のように真っ暗で暗雲が立ちこめている夜空を見上げる。

 その後、職員寮に戻るわけにはいかない私はたずなさん家にお世話になり、最低限の女性としての生活をレクチャーしてもらい寝床に付く。

 

 その日から私の「ウマ娘」としての生活が始まったのだ。

 

 

 ***

 

 

 逃げるように屋上から退散した私は行く当てもなく、学園内をふらふらと歩いていた。

 セイウンスカイ自体嫌いじゃない。むしろ自分の後ろめたい気持ちを察し、踏み込んで欲しくないラインを上手く見極めてくれていると思うが、それが逆に気を遣われている様に感じてしまい惨めに感じる。

 まぁ、向こうからしてみるとこれほど興味深いウマ娘は居ないだろう。

 

 結論から言うと私は非公認としてだが学園に所属するウマ娘、言わばトレセン学園の生徒という立ち位置で落ち着いた。

 理事長言うには一見、生徒として扱った方が学園として保護するのに色々都合が良いらしい。

 しかし青を基調としたトレセン学園の制服の着用が義務づけられるのは年齢も相まって恥ずかしく、授業には出ない保健室通学の生徒みたいなのが唯一の救いである。

 普段は自室や図書館、保健室などで時間を潰し、時折理事長の息が掛かった病院で検査を受ける生活。

 先生方や生徒会のメンバーにはなにやら言伝えが出回ってるようで干渉されることは殆どなく、屋上に関してはプライベートになれる特別な場所として鍵を渡され使用が許可されていた。

 まぁ、紆余曲折合って今は自分一人ではないのだが。

 

 病院ではどうも最近「トレーナーと思い込む一般ウマ娘」として心療内科か精神科に通った方が良いのではないかと暗に諭されている気がする。

 普通に考えて医者の言うことはごもっとでああるが、医者の態度と立ち入り禁止が解除された三女神像を見るに原因も解決策も分かっていないのだろうとゲンナリする。

 半年が過ぎ、下手すれば1年近くウマ娘をやっている。

 刹那的に生きるしかない日常。将来に対する不安。

 今の私は私ではない。しかしこのまま元に戻らなければ私は“ウマ娘”として生きなければならなくなり、人として、トレーナーとしての人生を否定しなければならない。

 それが溜まらなく恐ろしい。

 

 肩を落としながら校舎脇の桜並木を歩く。季節は春。

 そのまま満開の桜の木に吸い寄せられて寄りかかると、ずるずると背もたれを預けながら座り込む。世界の底から空を見上げ、まるで花びらが雪のように降り注ぐ。

 

「そう言えばもうすぐ桜花賞か……」

 

 彼女はきっと走ってくれるだろう。私が居なくても彼女なら大丈夫。

 その名を冠する花のように勝利という花を咲き乱れる事を切に願いながら本でも取り出そうとした時、ふと風が拭いた。

 

 桜の花弁が宙を舞い、一面を薄紅色に染めると風に乗って文庫本に挟んだしおりが飛ばされる。

 突然の出来事に飛んでいったしおりは空高く舞い上がると少し離れた石畳にヒラヒラと落ちてゆく。私は身体を起こし、しおりを拾おうと立ち上がる。

 しかし私よりも先に一人の人物がしおりを拾い上げると私の方を向き直し、まっすぐな瞳で駆け寄った。

 大人しくて愛らしい雰囲気を持つ幼い少女が心配そうに見つめる。

 

 私はこの少女を知っている。

 慈愛に満ちたその心を。純粋無垢なその姿を。

 憧れに向かって歩む小さな背中を。

 

 彼女はゆっくりと、手にしたしおりを私に差し出した。

 

 

「あの、落としましたよ……?」

 

 

 錆び掛かった世界の針は

 

 音を立てもう一度

 

 刻を刻もうとしていた。

 

 




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