さよなら愛しき記憶たち。 (滝 )
しおりを挟む

Prologue

 一味違った、きっとまだ誰も読んだ事のない八雪をあなたに。
 最初の三話は基本シリアス展開です。
 ストーリーが進むうちに山谷がありますが、楽しめそうだという方は最後までお付き合い下さると嬉しいです。



「それでは今日はありがとうございました。また来週、宜しくお願い致します」

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 

 俺たちが立ち上がって頭を下げるより先に、担当の彼女は深々と頭を下げた。

 部屋を出て大理石の廊下を歩くと、間も無く式場の裏出入り口に出る。気を付けてお帰り下さい、と綺麗に腰を折った彼女に一言二言言葉を返すと、 夜闇(やあん)に煌々と照らし出される式場を横目に歩き始めた。

 

「ようやくイメージが固まって来たわね」

「ああ」

 

 隣を歩く雪乃にそう返すと、真っ白な息を吐きながら夜空を仰いだ。一月も中旬ともなると寒さは一層厳しさを増し、思わずコートの襟をかき合わせる。

 東京の街はクリスマスシーズンさながらに、未だイルミネーションに彩られたまま。その光景を少しだけ暖かなものに感じられるのは、きっと隣を歩いてくれる人がいるからだろう。

 

「そっちの方は誰を呼ぶか、もう決まったか?」

「ええ。親族の方は、はっきり言って母にお任せね。例え呼びたくない相手がいても、決定権は無いようなものよ」

 

 だからきっと葉山くんも来るでしょうね、と付け足すと、雪乃は苦りきった表情を浮かべる俺を楽しそうに見ていた。

 

 ──俺と雪乃との結婚式まで、あと三ヶ月と少し。

 

 お互い何かと忙しくて中々打ち合わせも進められなかったが、やっとここまで来た。プロポーズをして随分経つというのに、ようやく段々と結婚するのだという実感が湧いてくる。社会人になると同時に同棲を始めたから、生活としてはほとんど夫婦のそれに近いのだろう。しかし籍を入れるとなると、また気の持ちようというのは違うのだ。

 

「なんか、腹減ったな」

「ええ。また、あのお店で食べていく?」

 

 雪乃が言うあのお店、というのは、結婚式の打ち合わせをした後によく行くダイニングバーだ。初めての打ち合わせに帰りにふらりと立ち寄ったきり、飯を食ってから帰ろうとなるとその店にいくのがルーチンになっていた。

 

「そうするか」

 

 そう答えると、週末の忙しない人波を掻い潜るように歩いていく。

 師走も越えたというのに、相変わらず東京の街は人にまみれている。五分ほど歩けば目的の店に到着し、重厚な木製扉を押し開く。カランと高く澄んだ音でベルが鳴り、店の一番奥の席に通される。

 しっかりと暖房の効いた店内では、微かな音量でジャズが流れていた。急に暖かい場所に来た所為か、雪乃の白い頬にはほのかな赤みがさしている。

 

 本当に綺麗になったと、心の底からそう思う。

 

 高校の時から美しさの権化たる存在だった彼女は、歳を重ねる毎にその美貌のピークを更新し続けている。その度に俺は心を差し出し続け、彼女は正しく受け取り続けてくれた。有り体に言えばベタ惚れだ。彼女への慕情は青春時代のそれより尚青く、しかしその気持ちを表現する事が少しだけ上手くなったと思う。あるいは妥協する事に慣れた、とも言えるのかも知れないが。

 

「今日は何にする?」

 

 俺の視線に柔らかな笑みを返すと、メニューをこちらに見えるように滑らせてくる。俺はメニューを九十度回転させて雪乃と顔を寄せると、季節のメニューから確認していく。

 注文が決まると店員の男の子にオーダーを告げ、程なくして飲み物だけテーブルに運ばれてくる。ライムの浮かぶジントニックが二つ。音を立てないように、グラスを合わせた。

 

「お疲れ」

「お疲れさま」

 

 お互いにそう言って、軽くグラスを傾ける。トニックの苦味の後に針葉樹のボタニカルを感じると、ふはっと息を吐いた。

 いつの間にか身体中に張り巡らせていたらしい緊張の糸を断ち切ると、身体中が弛緩する。

 

「あなたは最近、本当に疲れているわね」

 

 その様子を見ていた雪乃は、にわかに気遣わしげな表情を浮かべる。吐息に疲れを混じらせてしまう程、全身を包む気怠さはしつこいものらしい。

 

「今日も取材だったんでしょう?」

「ああ」

 

 頷いて、もう一口ジントニックを飲んだ。全くこの俺が取材を受けるなんて、柄じゃないし専門外だ。むしろ取材をするのが本業だというのに。

 

「いくといいわね。ミリオンセラー」

「いや、まだまだそんな数字じゃないし⋯⋯。仕事の話はもうやめようぜ」

 

 今日も今日とて慣れない事で疲れているのは確かだ。上手い事やれたかというとそう言い切れる自信もないし、つい雪乃と喋っていると仕事の話になりがちだ。そういう部分は俺たちの出会った、あの陽だまりのような部屋に居た時から変わらない。

 

「そう。色々訊きたかったのだけど、記事が出るまでの楽しみにしておくわね」

「そうしておいてくれ」

 

 肩から力を抜くと、背もたれに背を預けて身体を逸らした。ぼけっと天井から吊り下げられたエジソンバルブを見ていると、不意に雪乃はテーブルの上で手を握ってくる。テーブルの向こうからこちらに身を寄せるその姿は内緒話をしたがっているかのようで、俺もまた彼女の方に身体を傾けた。

 

「ねえ、八幡」

 

 目だけで返事を返すと、薄く引かれたルージュが弧を描く。

 

「私、今が一番幸せよ」

 

 とくんと一瞬、心臓が跳ねる。しかし次の瞬間に訪れるのは、この上のない平穏と、遥かな心地だった。

 

「⋯⋯俺もだ」

 

 ああ、ここが店でなければ、何も気にせずにキスできたのに。

 そんな事を考えながら、俺はその手を握り返した。

 

 

 

 

「ううっ、さぶっ」

 

 店を出た途端に俺たちの間を寒風が駆け抜け、思わず身を縮こまらせた。店の中が暖か過ぎた所為か、寒暖差にやられて頭が痛いほどだ。薄手のスラックスなんてものを履いている所為で、太ももがじんじんするほどに寒さを感じる。

 

「本当、この頃冷えてきたわね」

 

 雪乃はそう返しながらも、そこまで寒がっている様子はない。細身のその体型は昔から変わらないが、彼女がぶるぶる震えているところなど見た事はなかったから、元々寒さには強いのだろう。

 駅に向けて歩き出すと自然と雪乃の腕が絡み付いて来て、指を互い違いにして手を繋ぐ。触れ合った手は温かく、その奥には確かな熱を感じられた。

 

「なあ──」

 

 明日の朝飯、何にしようか? と、そう訊くつもりだった。

 突如として脳を直接ハンマーで叩かれたかのような激しい頭痛を感じ、思わず声を失って脚を止め、その場に(うずくま)る。しかしその痛みは数秒と経たずに消え、痛覚だけが名残惜しそうにその感覚を覚えている。

 

「ちょっと、どうしたの? 大丈夫?」

「いや⋯⋯」

 

 なんでもない、と答えるには、余りに鋭い痛みだった。飲み過ぎたかと思ったが、たかだか二杯の酒で頭が痛くなった経験はない。かぶりを振って、首の調子を確かめる。やはり何もないし、身体も動く。

 

「少し頭痛がしただけだ」

「⋯⋯本当に少し? ずいぶん痛そうだったわ」

 

 そう言って雪乃は隣にしゃがみ込むと、さっきまで繋いでいた手を俺の額に手を当てた。彼女の手の方が幾分温かく感じるから、熱はないはずだ。

 

「熱はないみたいだけど⋯⋯。やっぱり今日は相当疲れているのね」

「かもな⋯⋯。今日は帰ったらすぐ寝るわ」

 

 立ち上がり、肢体の感覚を確かめる。大丈夫。何も問題はない。

 そう思って一歩踏み出した瞬間──再び激しい痛みが、頭どころか全身を突き抜けた。

 世界が傾き、平衡感覚が消失する。頭蓋骨を貫通して脳にピッケルでも刺したみたいな痛みと、スローモーションの視界の中でゆっくりと近づいてくる地面。強い衝撃、鈍い音、声にならないほどの痛み──。

 

「──八幡っ!」

 

 暗転した視界にはもう何も映っておらず、彼女を見る事は叶わない。指一本すら動かせず、酷い痛みだけが神経を支配していた。

 

「八幡──じをして⋯⋯! 八幡──⋯⋯」

 

 混濁していく意識の中で、聴覚もやがて鈍く消えていく。

 

 完全に意識を失う、その瞬間まで。

 もう聞こえなくなった彼女の叫びだけが、俺の頭の中を木霊していた──。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その祈りは届かない。

 規則的な電子音が、微かに聞こえていた。

 身体は未だ夢から覚めやらぬといった調子で、頭も四肢も酷く重い。ゆっくりと目を開くと、カーテンレールを吊り下げた白い天井が見える。視界の端には点滴スタンドと、恐らくは俺のバイタルを示すモニター。

 

「⋯⋯お兄ちゃん?」

 

 その声に、ようやく俺はすぐ近くに人がいる事に気付く。

 ――お兄ちゃん。

 そうだ。俺には妹がいる。けれどその名前を呼ぼうとしても上手くいかない。涙をいっぱいに溜めたその顔を見ても、その名前は浮かんでこなかった。

 

「よかった⋯⋯目が覚めたんだね。小町、本当に心配したんだから⋯⋯本当に⋯⋯っ! うぅ⋯⋯」

 

 そうだ、小町――だったはずだ。俺の妹の名前は。

 嗚咽を漏らし出した小町を見ても、しかしかけるべき言葉が見当たらない。

 そもそも俺は、何故こんな病室のような場所で寝ているのだろう。余りにも自分の置かれた状況が分からない。ベッドから身を起こそうとすると、それを彼女は慌てて止めに入る。

 

「待って! 目が覚めても動かないように、お医者さんから言われてるの」

「ああ⋯⋯」

 

 そう答えると、酷く(しわが)れた声が出た。まるで何日も寝ていた後みたいに、意識も声も感覚すら朧気だ。

 お医者さん、という事はどうやらここは病院で間違いないらしい。どうしてここにいるのかは、未だに判然としなかったが。

 

「ちょっと待っててね。今着替えを取りに行って貰ってるところだから、連絡してくる」

 

 そう言って彼女は、慌ただしく病室を出ていった。着替えを取りに行っている、という事は、母親の事だろうか。それよりも今この状況を詳しく知りたかったのだが、状況を知っているであろう人がいなければそれも叶わない。

 ベッドサイドのモニターに映し出された、俺の心臓が動いている証を見る。状況から分かるのは、バイタルを常時監視しなければいけないほど、重篤な状態にあったらしいという事だ。

 

 モニターを眺めて、かれこれ五分は経っただろうか。唐突に病室の扉が開くと、その向こうから息せき切った様子の女性が入ってくる。

 

 濡れ羽色の長い髪に、蒼い珠玉のような双眸。歳は二十代前半だろうか。鼻目立ちはおよそ完璧と言っていいほど整っており、思わず見惚れてしまう。

 彼女は入ってくる病室を、間違えたのではないかと思った。ドラマの撮影か何かをしていて、誤ってこの部屋に入っただけなのだと。

 

「八幡⋯⋯よかった。本当、に⋯⋯っ」

 

 しかしその女優は確かに俺の名前を呼び、そしてベッドの端に額を押し付け泣き崩れた。その手には、しっかりと俺の手を握って。

 ズキンと一度だけ強く、頭痛が走った。

 何かを失くしてしまったのだという、酷く、圧倒的な喪失感が心に影を落とす。大切にしていたものが確かにそこにあったはずだという感覚だけが、痛いほどの寂寥感を運んでくる。

 

 だけど俺は、彼女を知らない。

 

 これほどまでの美人、一度会ったら忘れないだろう。しかし彼女は、俺を知っている。

 一体なんだというんだ、本当に。壮大なドッキリでも仕掛けられているのだろうか。

 

「雪乃さん⋯⋯」

 

 開けっ放しの扉から小町が入って来ると、そっとその女性に寄り添った。彼女もまたその双眼に涙を溜め、言葉にならない様子で女性の肩を撫でる。

 

「あの⋯⋯」

 

 俺が声をかけると、滂沱(ぼうだ)の涙に瞳を濡らした女性と目が合う。ドッキリなら、大した名演技だ。本当に大切な人を亡くしかけ、帰ってきてくれたような喜びと悲しみに(まみ)れた表情。俺が映画賞の審査員なら、彼女に最大級の賛辞と最優秀賞を贈るだろう。

 

「あんた、誰だ⋯⋯?」

 

 俺の言葉に、二人は目を(みは)った。その表情に俺はいたく居心地が悪くなる。

 

「あなた⋯⋯、婚約者の名前を忘れたの?」

 

 婚約者――。その響きはあまりにも耳慣れていなかったし、俺にそんな人がいれば忘れるはずがない。

 ましてやこれほど綺麗な女性ならばなおさらだ。だから俺を騙すためのドッキリであるはずだし、そうであって欲しい。

 

「お兄ちゃん、本気で言ってるの?」

 

 しかしその声音が、目が、俺のある種楽観的な考えを否定していく。さっきから妙に鼓動は早く、恐れにも似た感覚が背中を奔っていた。

 

「⋯⋯小町さん。まだ手術してそれほど経っていないから、混乱しているのかも知れないわ。先生に目を覚ました事は伝えてある?」

「はい⋯⋯。さっきナースステーションに寄って伝えてます」

 

 その会話が途切れるのを待っていたかのように、トントンと急いだ様子のノックが響いた。小町が「どうぞ」と返事をする前に、慌ただしく看護婦と白衣を来た男性が入ってくる。

 

「比企谷さん、ちょっと失礼しますね」

 

 医者らしき人はモニターを一瞥すると、真剣な顔で俺の目を、全体を見ていく。看護婦は点滴の様子を確かめ、医者の指示の通りにテキパキと手を動かしていた。

 やはりこれはドッキリでも、はたまた夢でもなんでもない現実だ。周りを慌ただしく取り囲む人たちを見て、俺はそう確信を得たのだった──。

 

 

 

 

「クモ膜下出血⋯⋯?」

「名前ぐらいは聞いた事があると思うけど、どんな症状かは知っているかな?」

「確か、脳の中で血管が破裂するとか⋯⋯」

「そう、正しくは血管が動脈瘤(どうみゃくりゅう)という(こぶ)になって、それが破裂する事を言うんだけど⋯⋯。君の年齢で発症するのは、非常に珍しい例だね」

 

 俺の主治医を名乗った白髪の男性は淡々と、しかし穏やかにそう俺に告げた。病室には俺の微かな息遣いと、バイタルを示す電子音だけが流れている。

 

「一般には高血圧が引き金になる事が多いんだけど、自分が血圧高かったかどうか、覚えている?」

「いえ⋯⋯」

「そうか⋯⋯。やはりそういう記憶も、思い出せなくなっているんだね」

 

 先生は電子カルテに何事かを入力しながら、僅かにその表情を暗くさせた。

 信じられないという気持ちも、もちろんある。しかしありとあらゆる出来事は、これは現実に起こった事なのだと、頑然たる事実を突きつけていた。

 

「まあ普段血圧が低くても、血圧サージと言って急激に血圧が上がる症状もあるからね。後は喫煙歴⋯⋯は無かったようだから、ストレスや家族歴、つまり遺伝的な要因だけど、親近者に脳卒中になった事がある人は⋯⋯覚えてないかな」

「はい⋯⋯」

 

 意識がはっきりとしてからも、俺は妹の事や婚約者の事を思い出せていなかった。彼女たちから知人たちの名前や両親の名前を聞いても、さっぱりと何も思い出せない。

 昔の事を思い出すと何があったかはぼんやりと覚えているのに、そこに誰が居たのかが分からないのだ。断片的な記憶の中で顔は白く塗りつぶされ、その人物を思い浮かべようとしても雲を掴むかのように上手くいかなかった。

 

「こんな事、あるんですかね⋯⋯。記憶が失くなるなんて」

「無い、とも言い切れないね。後遺症の一種としてもあるし、君の場合は気を失った時に強く頭を打っているから、外傷性の可能性もある。それと一つ訂正するなら、君は恐らく記憶を失くした訳ではないよ」

 

 そう言うと先生は電子カルテを操作してメモ帳らしきものを立ち上げると、いくつかの丸を書いてそれを線で繋いだ。幾何学模様を切り出したみたいな絵は、ニューロンの説明に使われる物とよく似ていた。

 

「記憶とは、神経同士の結びつきなんだ。結びつきが強ければ強固な記憶となってすぐに思い出せるし、弱ければ中々思い出せない。断定は出来ないけど、君の場合はところどころでその結びつきが弱くなったり、信号のやり取りのエラーが起きている可能性が高い」

「⋯⋯じゃあ、思い出す可能性もあるって事ですね」

 

 俺がそう訊くと、さっきまで饒舌だった先生はすぐに答えてはくれなかった。じっと俺の目を見つめると、短く息を吐く。

 

「可能性としては、否定できない、としか言えない。エピソード記憶の中で、特に人物記憶を中心に症状が出るのは、極めて珍しい」

「珍しい、って事は、過去にあるにはあるんですよね?」

「一応、だけどね」

 

 先生はそう言うと、電子カルテのページを繰った。映し出された画像は、どうやらCTとかMRIで撮影されたものであるらしい。

 

「ここが右側頭葉で、影があるのは分かるね? ここが今回手術した箇所だ。君の言うように人物記憶を無くした症例は過去にもあって、その場合は同じ部位に萎縮が見られた。けれど原発性のものだったし、君の病状とは明確な違いがある」

「⋯⋯つまり、どうなるかは分からない、と」

「そういう事になるね。僕は余り楽観的な言い方はしたくないんだけど、一時的な健忘なら数時間で記憶が戻る事もある」

 

 答えてから先生は、音もなく溜め息をついた。憂うような、言遣方無(いいやるかたな)しと言った表情を浮かべている。その青色の吐息は、暗にその可能性が低い事を示唆していた。

 

「君は、思い出せるようになりたいかね?」

 

 不意に訪れたその問いに、俺はすぐに答えられなかった。医者がそんな事を言い出すなんてという、多少の驚きもある。

 

「それは、⋯⋯分かりません」

 

 答えは『はい』が正解だと分かっているのに。

 俺はそう答える事ができなかった。婚約者だと言った彼女の表情を見れば、どれだけ俺が大切に思われていたのかが分かる。

 だから分からないのは、俺の心の内だ。俺にとって彼女の大切さが、分からない。ただそれが酷く悲しいとも感じている。けれどその感情の出処ですら、元々自分にあったものなのか、それとも世間一般の状況に当てはめてそう感じているのかが分からない。

 

「忘れていた方がいい記憶も、あるのかも知れません」

「⋯⋯ずいぶん正直で悲観的だね」

 

 先生は目を細めて微かに笑うと、丸椅子の上から立ち上がった。

 

「そろそろ回診の時間だから行くよ。何かあれば、コールボタンを押すように」

 

 分かりました、と俺が答えると、先生はうんと一つ頷いて病室を後にした。

 静寂の中に、また電子音が等間隔に響く。

 大変な事になった、という実感だけはあるのに、不思議と焦燥感はなかった。彼女への心持ちと一緒だ。非常事態になったという事だけは分かっているのに、その非常さすらも分からない。

 

 先生が病室を去ってから一分とせず、コンコンと小さなノックの音が入口の扉から聞こえてきた。どうぞ、と答えると、静かに扉は開かれる。

 

「大丈夫?」

 

 ベッドサイドまで来てそう訊いたのは、婚約者の彼女だった。大きな瞳に整った鼻梁。薄桃色の唇。その相貌は愁いの混じった表情の所為で、薄幸の佳人という言葉を連想させた。

 

「⋯⋯ああ」

 

 どう答えるかしばし逡巡し、呟くようにそう答えた。彼女とどう喋ったらいいのか、どう扱っていいのか、未だに決めかねている。

 そしてそっと、何気なく。

 先程病室に入ってきた時と同じように、俺の手は彼女の手に握られていた。その瞬間、とくんと心臓が跳ねる。

 

「あ⋯⋯。ごめんなさい」

 

 びくっと手が反応したのが分かったのだろう。彼女はそう言うと、そっと顔を伏せる。

 もしこの場に謝るべき人間がいるなら、それはきっと俺なのだろう。忘れてはならないはずの人の事を、忘れているのだから。

 

「今のあなたにとってみれば、赤の他人だものね。浅慮だったわ」

「いや⋯⋯」

 

 俺がそう言うと、細長く開けられた目に囚われる。憂愁に彩られたその瞳は取り込まれてしまいそうなほどに澄み、空恐ろしさを感じるほどに美しかった。

 

「私の名前は⋯⋯まだ思い出せない?」

「ああ、悪いんだけど⋯⋯」

「⋯⋯いえ、何も悪くないわ」

 

 彼女はそう言うと「んんっ」と声の調子を確かめる。椅子に座り直すと、俺の方に向けて居住まいを正した。

 

「私の名前は、雪ノ下雪乃。⋯⋯不思議なものね。初めて出会った時は、名乗らなくても私の名前を知っていたのに」

「そう⋯⋯なんだな」

 

 俺が言うと、雪ノ下雪乃は綺麗な笑みを浮かべて頷いた。不意に訪れた笑顔に思わずどきりとして、そして少しだけ安心する。悲しげな表情ばかり浮かべていては、美人が台無しだ。

 

「俺は、その⋯⋯。なんて呼んでいたんだ?」

 

 さっきみたいに「あんた」と呼ぶのにも違和感を感じて、そんなふわっとした質問になってしまう。しかし察しがいいのか、その中途半端な問いにも詰まる事なく彼女は答える。

 

「雪乃、と呼んでいたわ。出来ればこれからも、そう呼んで欲しい」

「えぇ⋯⋯」

「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない⋯⋯」

 

 直裁な願いに思わずそう口に出してしまうと、恨めしげな目が俺を捉える。僅かに尖らされた唇が、妙に可愛らしい。

 俺からしてみれば、出会ったばかりの美人さんだ。いきなり名前呼びにしろとか、ちょっとハードルが高すぎやしませんかね⋯⋯。

 

「まあ、無理にとは言わないけれど⋯⋯」

「あ、いや⋯⋯。まあ、⋯⋯雪乃がそれでいいなら」

 

 わざとそう名前を呼ぶと、俺の感じるムズムズした感覚とは裏腹に、雪乃は満足そうな微笑みを浮かべた。やはり華やかな顔立ちのこの子には、笑顔が似合う。

 

「ではそろそろ面会の時間も終わるし、帰るわね。また明日も来るわ」

「ああ。⋯⋯その、ごめんな。雪乃の事、忘れちまうなんて」

 

 俺がそう謝ると、雪乃は一瞬だけ驚いたような表情をした。しかし次の瞬間には、その顔に悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「⋯⋯気にしなくていいわ。忘れたのなら、思い出してもらうまでよ」

「⋯⋯そうなるといいけどな」

 

 浮かべられた笑みは勝気なものに変わるが、俺には彼女が無理をしていると分かった。何故そう感じたかは分からないが、きっとその感覚だけが彼女との絆の証左だった。

 

「おやすみなさい」

「⋯⋯ああ。おやすみ」

 

 耳馴染みのある言葉だけを部屋に残して、彼女は病室を後にした。

 後に残るのは、途切れることのない電子音だけ。俺はリモコンスイッチで部屋の灯りを落とすと、暗闇に包まれた天井を見詰める。

 本当に今日は、色々ありすぎた。術後というのもあるのだろう。身体はさっきよりも重く感じられ、一人になったのをきっかけに強烈な睡魔が訪れる。

 

 目が覚めたら、俺が忘れ去った全てが思い出せていますように。

 そんな祈りを捧げながら、俺は意識を手放した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

きっとあなたは好きになる。

 手術を受けてから二週間が経った。

 現実とは薄情なもので、俺の記憶が完全に戻る事はなかった。多少は昔何があったという事を思い出してきたのだが、誰が、という人物の記憶は未だ白い靄に包まれている。

 ただ記憶を取り戻せなくても分かった事は、俺はどうやら非常に周りの人に恵まれていたという事だ。毎日当番でも決まっているかのように、知人や友人を名乗る人たちが代わるがわる俺を見舞いに来てくれていた。

 

『どうしてこんな大切なことを、忘れちゃうの?』

 

 ──流石にお団子頭をしたあの子に泣かれた時は、堪えたけれど。

 

 トントン、と、ノックの音が病室に響く。近頃はその強さとリズムで、彼女だと分かる。

 

「どうぞ」

 

 俺が応えると、静かに扉を開けて雪乃が病室に入ってくる。俺と目が合うと、ふわりと微笑みながら椅子に腰掛けた。

 

「こんばんは。今日の気分はどう?」

「ん⋯⋯。まあ、いつも通りかな」

 

 今日も仕事帰りに寄ってくれたらしく、雪乃は皺一つないスーツに身を包んでいる。俺の顔色を確かめると、肩に掛けた鞄から下着の替えやら日用品やらと取り出し、ベッドサイドのチェストにしまっていく。

 その姿を見る度、献身的だと強く思う。以前彼女は外資系のコンサル企業に務めていると教えてくれたから、毎日こうやって見舞いに来てくれるだけでも大変なはずだ。

 

「今日の先生とのお話は、どんな事を話したの? そろそろ退院の日を決める、と聞いていたけど」

 

 雪乃は持って来たものを仕舞い終わると、椅子に座り直してそう問い掛ける。

 

「ああ。術後の経過は問題ないらしいけど、大事を取ってあと二週間は入院って話になった」

 

 俺の言葉にそう、と頷くと、雪乃はいつになく嬉しそうに笑った。

 医者が言うには、傷病後の経過としては記憶以外全く問題ないらしい。クモ膜下出血は死亡率も高く、感覚障害や運動障害が残る事も多いらしいから、その点では幸運だったと言えるだろう。

 

「退院後の話だけど⋯⋯あなたはどうしたい?」

「どう⋯⋯って?」

「私と一緒に住み続けるか、一度実家に帰るという選択肢もあるわ」

 

 その言葉に、俺は退院後の自分の姿を思い描く。残念ながら、俺は両親の名前ですらその顔を見ても思い出す事は出来なかった。だからいずれにせよ、俺にとって新たに出会った人たちと生活する事になる。

 

「ただ小町さんももう家を出ているし、ご両親は相変わらずお忙しいみたいだから、あなたの世話という面ではあまり変わらないかも知れないけど」

「いやまあ、世話とかは大丈夫なんだが⋯⋯」

 

 リハビリやテストを通じて、俺は意味記憶──つまり知識の記憶や、手続き記憶と言った身体で覚えたものを思い出せるのは確認してある。医者からも日常生活に支障はないだろうと言われているし、そうなると後は俺の選択次第という事になる訳だが。

 

「⋯⋯雪乃は、どう思うんだ? その⋯⋯、俺と一緒に住むって事に対して」

 

 どちらにすべきかは、なんとなく分かっていた。彼女の事を思い出せないなら、思い出せるようになる可能性が高い方を選択すべきだ。

 けれど俺は、彼女の愛した男とは違う。

 積み重ねたものを失った人間は、もう同一人物だとは言えないだろう。一方的に赤の他人になってしまった男と一緒に住む事が、彼女にとって本当にいい事なのかどうか分からなかった。

 

「もちろん、私はまたあなたと一緒に暮らしたいと思っているわ」

「⋯⋯けど俺は、雪乃の知ってる俺じゃないんだぞ」

「ええ。でも私はあなたを知っている」

 

 雪乃は澄んだ瞳で俺を捉えると、(たお)やかに口元を綻ばせた。心臓の根元をきゅっと掴まれたような気分になって、一瞬息をする事すら忘れてしまっていた。

 

「⋯⋯雪乃を好きだって気持ちまで忘れてしまっているんだぞ、俺は。本当にそれでもいいのか?」

「私は、それでも構わない。もし思い出せなくても、また好きになってもらうまでよ」

 

 穏やかな笑みに勝気を混ぜると、雪乃は試すように俺の手を握ってくる。その手の柔らかさと温かさに、また思わずどきりとしてしまう。

 

「私、片想いをするのなんて初めて。どうやって好きになって貰うか考えるの、ちょっと楽しいのよ」

 

 雪乃は笑顔のままそう言ったけれど、俺にはまた彼女が無理をしていると分かった。彼女が一番辛いだろう事も、知っている。

 それでも俺は、思い出す為に彼女の側に居たいと思った。見舞いに来てくれた知人たちの反応を見ていても、そうするべきなのだと分かる。

 俺は記憶だけじゃなくて、そこにあったはずの幸せすら失ってしまった。その幸福が、どれだけ奇跡的だったのか。俺の状況を憂いてくれたお団子頭の彼女が、その涙でもって教えてくれたから──俺はそれを取り戻したい。

 

「⋯⋯いいんだな、本当に」

「ええ。それに思い出せないのなら、あなたを矯正するチャンスだわ。そっちの方が楽しみかも」

「えぇ⋯⋯」

 

 雪乃の目の色が変わったのを見て、俺は怖気が走るのを感じた。断片的な記憶から(ろく)でもない過去や感情があるのは確かだし、自分の性格が真っ直ぐではない事は分かっちゃいるが、⋯⋯この子ちょっと怖い。

 

「安心してちょうだい。悪いようにはしないから」

 

 だからそれが、怖いんだって。

 俺は混じり気の無くなった笑顔を浮かべる彼女を見て、やはり綺麗な人だと、そう思った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

これが、雪乃と一緒に暮らすということ。

 あっという間に二週間が経ち、退院の日がやってきた。

 エレベーターの階数表示を示す液晶には十七の数字が映し出され、どこか気品のある電子音が到着を知らせると、音もなく扉は開く。雪乃が先行して歩き出すと、いくつかの扉の前を通り過ぎた後にカードキーを取り出した。ヘアライン仕上げの重厚な扉にそれをかざすと、かちゃっと解錠の音がする。

 

「久しぶりの我が家ね」

 

 そう言うと雪乃は扉を開けたまま、俺が動き出すのを待っていた。どうやら先に中に入れという事らしい。

 玄関に入ってその部屋の中を見渡すが、やはりそこは見覚えのない場所だった。靴を脱いで廊下を歩きながら、間取りを確かめる。3LDKというやつなのだろう。二人で住むには広すぎるし、何より二十五という俺たちの年齢に対して、明らかに豪奢すぎるように思えた。

 

「トイレはここ。隣は納戸になっているの」

 

 客人に説明するかのようなトーンで話す雪乃は、以前実家は建設業だと話していた。その関係に加えてやたらと給料のいいコンサル業であれば、意外と収入に見合った生活なのかも知れない。

 

「こっちはバスルーム」

 

 鍵付きの扉を開けて脱衣所を見せると、何故か雪乃はおかしそうな笑みを浮かべている。

 

「一緒に入りたくなったら、いつでも言ってくれていいわ」

 

 試すような口調に、一瞬言葉を失ってしまう。そんな綺麗な顔して言っていい冗談じゃないな、それは。

 

「お前な⋯⋯。それ俺からしたら完全に痴女発言なんだけど」

「なっ⋯⋯。ち、じょ⋯⋯」

 

 俺の返しに恥ずかしくなってきたのか、雪乃はそう繰り返すと顔を赤くしていく。やめろよその反応。言ってしまったこっちまで恥ずかしくなるじゃねぇか⋯⋯。

 

「⋯⋯やはりその意地の悪さは矯正する必要があるわね。今からあなたを躾けるのが楽しみだわ」

 

 少しだけ早口になってそう言い切ると、雪乃はまた廊下を歩き出す。躾って言ったか、こいつ。

 この一ヶ月で、雪ノ下雪乃について俺はかなり色々な事が分かってきた。というか、最初に抱いたイメージを段々と壊されてしまった。

 当初俺はその見た目から、性格も見目もいい完璧美女などという、中二病の妄想に出て来そうな印象を抱いていた。性格が悪い⋯⋯とは言わないが、揶揄を交えて言うならば『いい性格をしている』のが雪ノ下雪乃だ。

 

「こっちが、あなたの書斎」

 

 雪乃が扉を開くと、俺は部屋の中を見渡すのに留まらず、そのまま室内に入った。きっと多くの時間を過ごした場所だと思うのだが、やはり記憶を呼び起こすものは何もない。

 

「あなたの職業は、この前伝えたわね。ここがあなたの仕事場よ」

「ああ」

 

 彼女から伝え聞いた俺の職業。それはノンフィクション作家という、なんとも珍しい職業だった。

 曰く、俺が初めて上梓した本が、どこぞの有名な報道文学の賞を受賞したらしい。加えてその本の売れ行きも好調だった事から、取材をする立場から取材を受ける立場になり、忙しくしている最中に倒れた、という事らしかった。

 

「いつ仕事に復帰するかは、好きにしたらいいわ。しばらくは印税で生活に不自由する事はないでしょうし、いざという時は私が養ってあげる」

「いや⋯⋯、そうならないように頑張る」

 

 俺がそう答えると、雪乃はどうした訳かポカンと口を開けてこちらを見ていた。そして何がおかしいのか、声を押し殺して笑い始める。

 

「おい。何がそんなに面白いんだよ」

「だって、あなたの口から養われなくていいように頑張るだなんて。あなたは学生の時から、専業主夫になりたいって言っていたのよ」

 

 雪乃は声を出さないように堪えながら、本当におかしそうに笑っていた。専業主夫というキーワードを聞くと、確かにそんな事を言っていたような気がする。未だに誰にむけてそう言ったのかとか、それがいつの事なのかは思い出せないが。

 

 

 それから我が家の内覧会という奇妙なイベントが終わると、雪乃の作ってくれた夕食に舌鼓を打ち、大人二人が入れそうなバスタブで身体を温めた。もちろん、入ったのは一人でだが。

 二十畳以上はあろうかというリビングのソファで、俺は携帯に保存された写真を流し見ていた。病院ではあまり自分に刺激を与えない方がいいと主治医に言われていたから、脳がダイレクトに思い出に触れるような行為を避けていたのだ。

 写真は当然のように、見覚えのないものばかりだった。取材で撮ったらしい風景や、時折現れるのは見舞いに来てくれた知人たちの姿。それよりもずっと多いのが俺と雪乃とのツーショット写真や、雪乃だけを切り取った写真だ。

 

 猫を膝に乗せて屈託無く笑う雪乃。

 どこかの牧場にいるのか、緑の世界の中でソフトクリーム片手にピースをする雪乃。

 彼女を隠し撮りしたのか、後ろ姿や目線がカメラの方に来ていない写真もいくつかある。

 

 そんな生々しい記録を見て、俺は今頃になって失った物の大きさに途方にくれていた。

 きっと俺は、この上なく幸福だったのだ。

 高校で付き合い始めて、八年もの間一緒に歩み続け、そして婚約して。きっとこれからもっと、幸せになれたのだろう。

 けれど俺は、今の状態で雪乃と結婚すべきだとは思わない。彼女が俺を好いたままでいてくれたとしても、やはりそれはすべきではないのだ。

 

「あら、懐かしい写真を見ているのね」

 

 パジャマに着替えた雪乃は、紅茶を載せたトレイを持ったままそう言った。ガラス張りのテーブルにトレイを置くと、ソーサーを俺の前に置いてくれる。

 

「これは横浜の中華街に行った時のね。あそこの小籠包、本当に美味しかったわ」

 

 中華料理を前に笑顔を浮かべる雪乃の写真を見ると、彼女はそう言って紅茶を一口飲んだ。俺もカップを取って一口飲むと、淹れたてのはずなのに丁度飲み頃の温度になっていた。

 

「ねえ、次の写真」

「ああ」

 

 雪乃に言われて画面をスワイプすると、彼女はソファに座り直して俺との距離を詰めた。近い。完全にパーソナルスペースに入っているし、なんなら太ももとか超くっついている。ボディソープとか同じ物を使っているはずなのにいい匂いがするし、スッピンなのに化粧としている時との違いが分からない。本当に二十五歳なんだろうか。ちょっとサバ読んでない?

 

「ちょっと、何を撮っているの?」

 

 次々に現れる写真に写っていたのは、明らかに隠し撮りしたと思しき雪乃の姿だった。恐らく中華街に遊びに行った際のものなのだろう。限定のパンさんぬいぐるみを手に真剣な表情を浮かべていた。

 

「いや、俺に言われても⋯⋯」

「⋯⋯そうだったわね」

 

 致し方なし、と雪乃が長く息を吐いたのを合図にして、俺は携帯のスリープボタンを押した。彼女の前で写真を見続けるのは、後々の俺の為にならない気がしたからだ。

 

「なあ。俺って家にいる時、何をして過ごしてたんだ?」

 

 リビングをぼんやり見ていると、ふとそんな疑問が湧いてきた。そうね、と雪乃は頬に手をやり首を傾ける。そんな一つひとつの所作も、様になっている上に可愛らしい。

 

「仕事の時は書斎に篭りっきりだったけれど、それ以外はこうやってリビングで寛いでいるのが多かったわ。あとは私の帰りが遅い時は、よく料理をしてくれていたわね」

「なるほど」

 

 だから写真の中に、時々ここのキッチンで作ったらしい料理の写真が出て来たのか。てっきり雪乃が作ってくれたものかと思っていたけれど、基本的に家が仕事場の俺が料理をするのは、それほどおかしな事ではない。

 

「私と暮らすようになって、ずいぶん上達したのよ。最近では色んな料理に挑戦して、私の舌を楽しませてくれていたわ」

 

 また作ってくれる? と雪乃は小首を傾げながら俺の目を覗き込んでくる。めちゃくちゃ可愛い。俺を落とそうとわざとやっているのかも知れないが、それにしたって可愛すぎる。

 

「まあ、料理の仕方を覚えてたらな」

「ええ。楽しみにしてるわ」

 

 そう言うとそっと身体を傾けて来て、彼女の体重が俺に預けられる。まるで恋人の距離だ。いや、恋人なのか? 少なくとも婚約を解消していないから、そういう事になるのだろう。

 

「あとはこうやって⋯⋯くっついていたわね。いつも」

 

 雪乃はくてっと首を倒して俺の肩に頭をのせると、そっと左手を俺の膝の上に置いた。その薬指には、俺の嵌めている物と同じデザインの指輪が光っている。

 彼女とのスキンシップも少しは慣れてきたはずなのに、一等近い距離にとくんと心臓が跳ねた。

 

「こうするのは、嫌?」

「⋯⋯全然」

「あら、意外と素直ね」

 

 横から俺を見詰めてそう訊くと、答えを聞いた雪乃は嬉しそうに笑みを溢した。美人なのに、その笑顔は殺人級に可愛らしい。さっきから俺、可愛いしか考えてねぇな。

 

「ねえ、私のことが好きになったら、すぐに言ってね」

「すげぇ自信だな⋯⋯」

「当たり前じゃない。だって思い出せなく前のあなたは、私のこと相当好きだったはずよ」

「⋯⋯そりゃ、結婚したくなるぐらいだもんな」

「ええ。⋯⋯それから私も、あなたのことがとても好き」

 

 唐突で直裁な言葉が、平穏を取り戻そうと必死な心に強烈な一撃を叩き込んだ。こんなの一発ノックアウトだ。──けれど微かに残った冷静さが、俺をリングに立ち上がらせる。

 

「けど俺は、雪乃が知ってる俺じゃない」

「⋯⋯いいえ。あなたはあなたよ。良いところも悪いところも、あなたのまま」

 

 それは恋の(まじな)いか何かのような響きで、きっと俺はその術にかかってしまったのだろう。彼女の恋焦がれるような声に、それ以上何も言えなくなってしまう。

 

「⋯⋯早いけど、そろそろ寝るかな」

 

 そう言うとソファを立ち上がり、脱衣所に備え付けられた洗面台へ向かう。──何故か雪乃も、ピッタリと寄り添って。

 

「別に一緒の時間に寝なくてもいいんじゃねぇの」

「いいえ、駄目よ」

 

 雪乃はいつになく強い口調でそう言うと、俺の隣で歯を磨き始める。⋯⋯一体何をお考えなのだ、このお方。

 歯磨きを終えて、リビングの照明も消して、そして向かうのは当然ベッドルームだ。キングサイズのベッドが中央にドドンと鎮座する、主寝室である。

 

「⋯⋯なあ、来客用の布団とか」

「あるけど、駄目よ。あなたはお客さんじゃないもの」

 

 雪乃はベッドに腰掛けると、ぽんぽんとその隣を叩く。仕方なく、俺は雪乃の隣に座った。ほんの少しだけ、間を開けて。

 しかしその僅かな間隙(かんげき)も雪乃が座り直す事によって詰められてしまうと、んんっと彼女は声の調子を確かめた。

 

「あなたには、私の抱き枕になってもらいます」

「⋯⋯マジで?」

「はい」

 

 そう厳かに言われたところで、その言葉の指す意味は変わらない。こんな女優ばりの美人ちゃんの抱き枕になるとか、童貞の妄想臭すぎてまるで現実感がない。

 

「一ヶ月も我慢していたのよ。焦らさないでちょうだい」

 

 ともすると性的な意味を含んでいてもおかしくない言い回しだと感じてしまう俺は頭お花畑ですかそうですか。しかし俺と彼女は婚約者だった訳だから、当然そういう関係にあってもおかしくはない訳だが。

 

「さあ、寝ましょうか」

 

 雪乃はそう言うとろくすっぽ反応を返せなくなった俺をそのままに、リモコンで照明を落とした。茶色の薄闇の中で雪乃はベッドの中央に身を置くと、また俺を呼ぶようにぽんぽんとシーツを叩いた。

 どうやらここいらが年貢の納め時らしい。覚悟を決めて彼女の待つベッドの真ん中まで到達すると、ごろんとベッドに仰向けになった。

 

「左腕を広げて」

 

 雪乃の言う通りに左手を伸ばすと、腕を枕にして雪乃もベッドに寝転んだ。彼女が掛け布団を引き寄せると、二人分の熱がその中に籠っていく。

 

「はぁ⋯⋯」

 

 本当に待ち侘びていたのだろう。満足そうに息を吐くと、至福とでも言い出しそうな目で俺を見てくる。

 

「八幡、緊張してる」

「するだろうよ、そりゃ⋯⋯」

 

 俺の答えに、雪乃はくすくすと笑い出して、その細い身体を揺らした。どうにもさっきから、彼女に心も調子も乱されっぱなしだ。

 

「なんだか、可愛いわね」

 

 そう言いながら俺の頬を撫でてくる雪乃は、それがどれほどの意味を持つのか分かっているのだろうか。薄闇の中で見る彼女の顔は一層美しく、絵画の中から飛び出してきたかのようにすら感じる。

 

「あなたには悪いけれど、今夜はぐっすり眠れそうよ」

「⋯⋯そりゃ何よりだな」

 

 こっちはもう、ちっとも眠れそうにない。微かな吐息も、首に回された腕も、脇のあたりに押しつけられたささやかだが確かな柔らかさも、俺から眠気を吹き飛ばすのに充分過ぎた。

 

「おやすみなさい」

「ああ、⋯⋯おやすみ」

 

 そう言って雪乃は、そっと瞼を閉じる。彼女がそうしてからも、俺はじっとその顔を見ていた。

 薄暗闇の中でもよくわかる、透き通るほど白い頬。すっと通った鼻梁(びりょう)も、桜色の唇も、伏せられた睫毛も、全てが完璧で奇跡的だった。

 一体何がどうして、これほどまでに見目麗しい女性と婚約というところまで進めたのだろう。自分の顔に自信がない訳でもないが、それにしても彼女の相貌(そうぼう)は、その存在は玲瓏(れいろう)さを極めていた。

 

 俺は頭の中で何度も繰り返したその疑問を、改めて自分に向ける。けれどもちろん分からない。頭の中にあるはずなのに、手を伸ばしても掴めない。

 そんなもどかしさを胸に俺は、寝息が聞こえてくるまでずっと彼女の顔を眺めていたのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

担当編集、その名は。

 比企谷八幡の朝は早い。

 

 しかし朝と夜の境界というのは、どのように定義付けるべきであろうか。俗説だが寝て起きたら朝、という見方もある。それに則って話をするならば、朝が早い訳ではなく、単に夜が深いだけなのかも知れない。

 詰まるところ、一睡も出来なかった。

 俺の左腕の中にすっぽりと収まるようにして、眠り姫は今も熟睡の最中である。こっちがようやく眠りかけたと思ったら雪乃が寝返りを打って柔らかいやらいい匂いやら色々と振りまくものだから、ちっとも眠れなかったのだ。

 

 携帯を見ると時刻は六時を少し過ぎたところだった。もうここまできたら起きてしまおうと、俺は雪乃を起こさないように左腕を引き抜く。

 

「んんっ⋯⋯」

 

 微かに開いた薄い唇から、少しだけ不機嫌そうな声が漏れた。ベッドに広がる長い髪。伏せられた長い睫毛。あまりにも安らかな寝顔に、思わず見惚れてしまう。

 そうして雪乃が起きるまで見つめ続けるのも一興なのだが、俺には試したい事があった。料理が出来るかどうかだ。一応、入院中に日常生活に必要な作業については出来る事を確認してあるが、流石に料理が出来るかまでは試していない。

 

 寝室を出てキッチンに立つと、パントリーらしき場所の扉を開いて中を見分する。食パンの袋を見つけて取り出すと、冷蔵庫からベーコンと卵を取り出しキッチンのワークトップに並べた。大丈夫だ。何をどうしたらいいかは、覚えている。⋯⋯本当に覚えておくべき事は、思い出せないけど。

 

「おはよう。早いのね」

 

 食パンをトースターに放り込んでベーコンエッグを作っていると、不意にそんな声が届く。パジャマ姿の雪乃は漆のように黒い髪を僅かに外側に跳ねさせ、まだ眠そうな顔を浮かべていた。

 

「⋯⋯誰かさんの寝返りで起こされちまってな」

「あら、それはごめんなさい。でも慣れてもらうしかないわね」

 

 どうやら今夜も眠れない事は半ば確定しているらしい。雪乃は近くまで歩いてくると、ひょいと俺の肩越しにフライパンの中を覗いてくる。朝っぱらから、とても近い。

 

「何を作っているの?」

「ベーコンエッグ」

「あなたが朝ご飯を作ると、大体そうなるわね」

 

 そういうところも変わってないわ、と付け足すと、雪乃は上機嫌に笑う。曙光の中で見る彼女の笑顔は一層神々しく、一瞬女神に微笑まれたのかと勘違いしてしまうぐらいだった。

 雪乃がスーツに着替えてキッチンに戻ってくると、ちょうど全ての料理が出来上がる。ダイニングテーブルを挟んで対面になって座ると、昨晩と同じように「いただきます」と手を合わせた。

 

「いつもこんなに早いのか?」

「いいえ。誰かさんが途中で居なくなったから、目が覚めてしまったの」

 

 当て擦りみたいな事を言うと、雪乃は悪戯っぽく笑んだ後にその小さな口でトーストを食んだ。

 

「そりゃ悪かったな」

「別にいいわよ。フレックスだから、早く出社して早く帰ってきたいし」

 

 なるほど流石外資系⋯⋯と考えたところで、俺はもっと自由なのだと思い出した。フリーランスでかつ基本自宅勤務。時間もほとんど自由だ。まあ、働かねば稼ぎがないのは同じだが。

 

「そう言えば、今日の予定は覚えているわよね?」

「ああ。大丈夫だ」

 

 今日は午後から俺の担当編集というのが来訪予定だ。退院して即行で働かせようとするとか、やはり出版業界はブラック過ぎる。

 

「彼の事も覚えていないでしょうけど⋯⋯。まあ、優しくしてあげてちょうだい」

「ん? ああ⋯⋯了解」

 

 そう言えば入院中に見舞いに来なかったのは、小町が止めていたからだとか言っていたな。何でも刺激が強すぎる人物だからとか、そんな説明を受けた気がする。

 

 朝食を摂り終えて後片付けをしていると、ちょうど身支度を整え終わった雪乃が廊下から顔を出した。

 

「では行ってくるわね」

「おう」

 

 俺はそう返事をすると、洗い物の手を止める。何となく、見送るべきのような気がしたからだ。

 雪乃について玄関まで行くと、ヒールを履いた彼女は俺を振り返る。

 

「いってきます」

「ん。いってらっしゃい」

 

 そう言って雪乃は(おとがい)を上げると、俺の方を向いたまま目を閉じた。

 ⋯⋯なんだこれ、今なんの時間だ?

 

「⋯⋯行かないのか?」

 

 俺がそう言うと雪乃ははっとして目を開き、途端に頬を赤く染め始める。いや、なんなのその反応⋯⋯。

 

「い、行ってきます⋯⋯」

 

 か細い声でもう一度だけそう言うと、今度こそ雪乃は玄関から出て行った。よく分からないが、どうやら俺が彼女を恥ずかしがらせてしまったらしい。その理由は皆目見当もつかなかったが。

 さてではゆっくり睡眠時間を取り返そう⋯⋯と思ったのだが、残念ながら眠気は全くと言っていい程感じていなかった。朝から活動的に動き過ぎたらしい。

 どうしようかと少し考えて、俺はいつもそうしていたと聞いたように、自分の書斎に入った。昨日ちらっとその中を覗いただけで、しっかりと見るのは初めてだった。

 部屋に入ると真向かいの壁に机がくっつけられており、あとの壁という壁は本棚で覆い隠されていた。ピアノの鍵盤のように敷き詰められた本たちに、取材メモと思われる紙束がファイルからはみ出すぐらいに詰め込まれている。

 ノンフィクション作家、か。

 今思い出そうとしても、やはり俺がどうしてその職業を選んだのかが分からない。雪乃が教えてくれた話では、どうやら大学生時代から出版社に出入りし、作家のアシスタント的なものをしていたらしい。

 何気なく椅子に腰掛けて机の上を見ると、一冊の本が目に飛び込んでくる。

 

『太陽の子どもたち』 比企谷八幡

 

 そのタイトルを見た瞬間、なんてしゃらくせぇ題名なんだと鼻で笑ってしまった。たしか童謡にも同じ題名の曲があったような気がするが、それにしたって俺らしくない。いや俺らしさとは何かという話にもなってしまうが、少なくとも俺が捕捉できているこの身の中の人物は、とてもそんな前向きなタイトルを考えつくとは思えなかった。

 俺が薄ぼんやりと思い出せる記憶は中学生時代までの事がほとんどで、まさに暗黒時代とも呼べる代物だ。更に誰が言ったのかを全く覚えてないものだから、悪感情だけしか掘り返す事が出来ない。そんな人間がこんなタイトルを思い付くとは、一体どんな心変わりがあったというのか。

 まあ、ちょうどいい。午後からは担当編集が来る予定だから、自らの過去作を読んでおくに越した事はない。

 目次をざっと流し読みすると、一枚いちまいページを繰り、執筆の時の気持ちを思い出せないか、丁寧にそのセンテンスを追っていく。

 

 本の題材として扱われた人たちは、多種多様だった。

 ワーキングプアと呼ばれる青年に、底辺ギリギリを生きるシングルマザー。自殺未遂の会社経営者に、(ろく)にご飯も食べられない幼少期を送った少女。その過去の話は思わず鼻白んでしまうぐらいに劣悪で、そして生への渇望に満ちていた。

 一気に最後まで読み終えると、酷い疲れが押し寄せて来る。随分と捻くれた物の見方をしている割に、最後は一縷(いちる)の希望を感じさせるように書いているのだけが、書籍としてはまともだったと言えた。

 読者をこれを読み終えて何を感じたのだろう。自分よりも酷い状況にある人を知る救いの無い安心感か、それとも憐憫(れんびん)、あるいは心を引き裂かれるような共感だろうか。

 そして俺は実際にこの登場人物たちに会い、そして文章と向き合い、何を感じていたのだろう。想像するだに恐ろしいほどの精神的重労働だ。医者が原因の可能性の一つと言っていたストレスというのは、実は執筆に纏わる事だったのかも知れない。

 俺はふらふらと書斎を出ると、リビングのソファに身体を投げ出した。これ以上あの本について考えたくない。目を閉じてから泥のような眠りに落ちるまで、それほど時間はかからなかった。

 

 

       *       *       *

 

 

 俺を眠りの世界から現実に引き戻したのは、インターホンの呼び出し音だった。

 気怠い身体を引きずってインターホンのモニターの前まで歩くと、液晶の中でスラックスにYシャツ、ニットのセーターと言った出立ちの男が映っていた。二月だというのにコートも無しに寒くはないのだろうか。まあその体躯が回答なのだろうと思いながらポチポチとタッチモニターを操作していると、通話する方法が分からないままマンションのエントランスの扉が開く。

 彼が雪乃の言っていた、俺の担当編集なのか。そう思いながらぼけっとモニターの前で寝ぼけ眼を擦っていると、今度はドアホンの方のモニターが反応した。早く出ろ、と言わんばかりに、男はモニター越しに俺を見詰めている。

 何となく会話が億劫になって、俺はそのまま玄関に向かうと扉の鍵を開錠した。その途端に、担当編集はバーンと効果音でもついていそうな勢いで扉を開ける。

 

「遅いぞ八幡! 貴様がこの扉を開けるまで、世界を二度滅ぼす程の時間が経ったぞ!」

「お引き取り下さい」

 

 俺はそう言ってその巨躯を押し返すと、バーンと実際に音を立てて扉を閉めた。全く、俺の思い出せない間に日本はどうしてしまったのだろう。やはり俺の担当が厨二病なのはまちがっている。

 

「おーい、八幡? 我、見舞いも断られて久し振りに会える事を楽しみにしてたんですが? いかん思わずデレてしまったではないか照れるから早く開けろ。貴様の担当編集を締め出すとは何事か」

 

 分厚い扉越しに届く言葉に、俺は戦慄を覚えた。俺の担当編集、キャラ濃過ぎるだろ⋯⋯。

 

「⋯⋯どうぞ」

「うむ。最初からそうしていれば良かったものを」

 

 渋々扉を開けると、恰幅のいい男は鷹揚に頷きながら玄関へと入ってくる。この堂々として慣れ切った態度からして、本当に俺の担当編集で間違いないらしい。

 

「あの⋯⋯。悪いんだけど、俺なにも覚えて⋯⋯」

「良い。雪乃女史から聞いておる。邪魔するぞ」

 

 勝手知ったるなんとやらと言った調子で担当編集は家に上がり込むと、脇目も振らずに書斎へと向かった。あの本を出すまでの間、ひょっとしたら何度もあの部屋で打ち合わせをしていたのかも知れない。

 担当編集は書斎の隅にあったクッションを持ってきてどっかと床に座ると、うおっほんと大きく咳払いをした。

 

「しかし何とも薄情なものよ。貴様とは輪廻転生の度に命運を共にする中だと言うのに、生を新たにする以外で我の事を忘れるとはな。今世など高校の時からの付き合いなのだぞ?」

「あ、はい、すいません⋯⋯」

「⋯⋯おい。素で謝るな悲しくなるだろう⋯⋯」

 

 俺が詫びると担当編集は急に素になって肩を落とした。よかった。デフォルトであのキャラなら大分しんどいところだった。

 どうやら彼とは学生時代からの付き合いで、だからこそ通じるノリもあったのだろう。主に厨二なテンションとか。⋯⋯ひょっとして俺もこいつと同じ口調で喋ってたりしたのか? もしそうなら痛過ぎる。

 

「まあいい。自己紹介をやり直せばいいだけだ」

 

 担当編集は胸ポケットから名刺入れを取り出すと、その中から一枚取って俺に渡してくる。

 

「えーっと⋯⋯。材木座さん?」

「他人行儀だな。我の事は剣豪将軍で良い」

「分かった。剣豪将軍」

「⋯⋯すまん、やっぱ今の無しで」

 

 さっきからなんだこいつ⋯⋯。キャラブレブレじゃねぇか。

 つい先ほどまで寝ていたというのに、どっと疲れが押し寄せてくる。そう言えば俺、まだ飯も食ってねぇなぁ⋯⋯。

 

「我の事は材木座でいい。敬語も要らん。旧知の仲だからな」

「ああ。じゃあそうさせて貰う」

 

 俺が答えると、材木座はうむと大袈裟に頷いた。クッションにその巨躯を下ろし直すと、材木座は俺を正視する。

 

「して八幡。貴様、すぐに働く気概はあるか?」

「え? ああ⋯⋯。ぶっちゃけ何が出来るか分からんけど、仕事があるなら」

 

 雪乃は仕事への復帰は好きにしたらいいと言っていたが、恐らく一刻も早く再開すべきなのだろう。そうする事で、思い出す事だってあるかも知れない。

 

「あい分かった。では仕事だ。この記憶喪失の体験を元に、自伝を書くのはどうだ?」

「自伝って⋯⋯。俺、ほとんど過去の事を覚えてないんだぞ?」

「分かっておる。だからこれから起こる事を書き起こしていくのだ」

 

 我が担当編集は相当に商魂逞しいらしく、また遠慮も何も無い。きっと昔からこんな風にざっくばらんに話せる間柄だったのだろう。

 俺のこれからを原稿に起こしていく事は、人生を切り売りする事に他ならない。だがそれを言い出したら俺の取材に対し、心根を明かしてくれたあの登場人物たちはどうなるという話だ。

 

「⋯⋯ネタになりそうなら、そういうのも有りかもな。書きたくない事は書かなきゃいいんだし」

「まあその件はすぐに決断しなくとも良い。とりあえずは、温めていた例の仕事で再出発と行こうではないか」

 

 そう言うと材木座は鞄の中から薄い冊子のような物を取り出し、俺に渡してくる。どうやら企画書のような物らしい。

 

「⋯⋯地下アイドル?」

「左様」

 

 ざっと目を通すと、俺は疑問符を浮かべながらそう言った。アイドルとノンフィクション、確かに相性は悪く無さそうだが。

 

「でもこんなの、誰かがもうやってるだろ」

「確かにな。しかし貴様は賞作家だ。世間の見る目が違う。ついで言うと貴様の穿ったものの見方はもっと違う」

 

 さらっと俺が非常識人扱いされた気がするが、自らの本を読んだ後なので否定も出来なかった。何はともあれ、フリーランスは働かねば食えない。いくら賞を取ったからと言って、仕事を選んでいる場合じゃないだろう。

 

「分かった。やろう」

「良き返事だ」

 

 俺がそう言って手を差し出すと、材木座はがっしりと力強く握手を返す。

 ひょっとしたらこんな風に、学生時代から彼とは協力関係にあったのかも知れない。俺も握手に力を込め返すと、あったかも知れない過去に想いを馳せた。

 

 

 

 

「彼とはどんな話をしたの?」

 

 雪乃は俺の作ったポトフを嚥下すると、フォークにパスタを巻きつかせながらそう訊いた。

 時刻はもう夜の八時。あまりの空腹から自らの手料理にがっついていたいた俺は、口に残ったミートソースを水で流し込んだ。

 

「なんか、地下アイドルを題材に書く事になった」

「アイドル⋯⋯。生身の?」

「どうやったら二次元に取材できるんだよ⋯⋯」

 

 あらやだ雪乃さんったら俺の事をどう思っているのかしら。⋯⋯まあ、動画アプリの履歴に残っていたアニメタイトルを見ると、何も否定出来ないんですが。

 

「近頃はVtuberとか言うのもあるじゃない」

「あー⋯⋯なるほど。中の人に取材するのもありだな」

 

 忘れない内に、と携帯のメモアプリに打ち込んでいると、目の前から大仰な溜め息が届く。

 

「食事の時は携帯を仕舞いなさい。⋯⋯仕事になると、すぐそうなるんだから。やっぱりあなたはあなたのままね」

 

 俺を諌めると、言いながら雪乃は徐々に表情を緩ませた。食事のマナーを指摘されるなんて、まるで子どもだ。

 

「仕事に精を出すのはいいけど、あまりのめり込まないでね。まだ病み上がりと言ってもいいぐらいの時期なんだから」

「あぁ⋯⋯。分かった」

 

 雪乃にそう言われてしまうと、俺は何も言い返せなかった。確かにまた無理をして倒れたのでは、本気で笑えない。

 

「担当編集が無茶をさせようとしていたら言いなさい。あらゆる手を尽くして担当を変えさせるわ」

「怖ぇよ⋯⋯」

 

 君、今朝は彼に優しくするようにって言ってたよね? と疑問の目を向けつつ、雪乃が買ってきてくれたサラダをもしゃもしゃと頬張る。

 それっきり会話が途切れると、回想ついでに今朝の雪乃の姿を思い出した。彼女が玄関に立ち尽くしてしまった時の事だ。

 

「そういや今朝、家を出る時に何を待ってたんだ?」

「⋯⋯」

 

 雪乃はパスタを口に入れようと唇を開けたまま固まると、また今朝のように頬を朱に染め出した。⋯⋯だからなんなの、その反応。

 

「⋯⋯全部思い出したら、分かるわ」

 

 雪乃はパスタを口に入れると、この話は終わりとばかりにそっぽを向いた。

 まあよく分からんけど、可愛いからいいか。

 俺はそんな事を考えながら、ポトフのスープを啜るのだった。

 

 




 はい、という訳であとがき何も書かないのも味気ないので、ここからあとがきを書いてみます。

 今回は材木座さん登場と何かを待っているいる雪乃さんでした。
 材木座は編集者になれるほど優秀なのか? という考察でいくと、やたらと読んでいる作品は多そうなので目は肥えているだろうと思います。なおかつ八幡の捻くれっぷりに理解があるので、八幡の持つ能力を最大限に引き出すんだろうなぁ、と。

 今週はあと一話は投稿しますので、のんびり待って頂けたらと思います。それでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

地下アイドルという生き方。

 

 働かざるもの食うべからず。

 生活保護制度が充実し、それを利用する可能性が誰しもにある昨今、時代錯誤な言葉である。

 しかし働ける者は当然ながら、労働力という名の社会の歯車にならなくてはならない。俺の仕事が果たして歯車たり得るのかどうかは、別として。

 

「そういうの、ほんっとしんどくて。何、これも仕事の一つなの〜? って考えちゃったんですよね」

 

 春も幾分と近付いた頃。

 俺はレンタルオフィスの中で、地下アイドルの『カラフルゆめみ』を取材していた。その名の通り色彩豊かなウィッグを着けた彼女は、今すぐにでも歌って踊れますとでも言うように、アイドル衣装に身を包んでいる。

 

 アイドル衣装を見るのは、今日で二度目だ。しかしどうしてまた、あんな所に──。

 

「あの〜、聞いてますぅ?」

「あ、はい。大丈夫ですよ」

 

 今朝の出来事に想いを馳せていると、心配そうな声音とは裏腹に疑わしげな目が俺を捉えていた。先程までの発言をメモに書き留めると、彼女は続ける。

 

「そこでゆめみは思い付いたんです。面倒くさいけど、仕事として割り切れたらいいんじゃないって。昔から男を適当にあしらったり手玉に取るのは得意だったんですよ〜」

 

 さっきからアイドルになろうと思ったきっかけを聞いていたのだが、随分な物言いだ。これ、後から事務所に確認した時に全部NGくらったりしないだろうか。

 

「なるほど。アイドルには元々興味があったんですか?」

「い〜え〜? それほどは。あ、でも子どもの頃は流行りのアイドルの振り付け覚えたりしてたんで、本当は憧れがあったのかも知れません」

 

 少しだけ真剣な表情になった彼女は、どこか自分を納得させようとしているようにも見えた。当たり前の事だが、地下アイドルにもそのキャラクターの分だけ人生がある。彼女のようになんとなくで地下アイドルになれた人間もいれば、切望して努力してようやくなれた者だっている。アイドルグループでデビューした後に不祥事で解雇され、地下アイドルとしてやり直しているなんて子もいた。

 

「最後に写真、何枚か頂いていいですか?」

「あ、はい。どうぞ〜」

 

 週末アイドルとしての在り方や印象に残っているエピソード等を聞き終えると、俺は鞄からデジタルカメラを取り出した。いくら賞作家とは言えまだまだ駆け出しの身だから、わざわざカメラマンが帯同してくれるなんて事はない。足で稼ぎ手で作る。物書きの基本で本質だ。

 

「可愛く撮ってくださいね〜」

 

 ゆるふわキャピルン☆ とでも擬声すべきポーズを取る彼女を、ファインダーの中の世界に閉じ込めていく。格好は奇抜だが、彼女の顔は造形で言ったらメジャーデビューしていてもおかしくないほどだ。それでも中々メジャーにはいけないのだから、本当に厳しい世界だと思う。

 

「撮った写真はネットの記事になるかも知れませんが、大丈夫ですか?」

「あ、はい。使う写真事務所に確認してもらえたら大丈夫です〜」

 

 彼女の答えを聞くと、俺は撮ったばかりの写真を再生画面で確認する。担当編集の材木座と相談して、数人分の記事をネット新聞のコラムとして寄稿する事になっているのだ。収入源にもなるし、記事の反応を見て次の著書に入れるべきかどうかも判断できる。これが業界のセオリーなのかも知れないが、ああ見えて材木座は中々のやり手だった。

 

「それでは、以上になります。今日はありがとうございました」

「はい、こちらこそありがとうございました〜」

 

 そう言って俺は鞄を手に立ち上がったのだが、ゆめみは一向に動く気配が無かった。それどころか、瞬き一つせずにこちらを見詰めてくる。

 

「比企谷先生って、記憶喪失になっちゃったんですよね?」

 

 先生と呼ばれてむず痒さを覚えるのと同時に、その質問に「またか」と思ってしまう。

 正確には逆向性健忘という症状だが、地下アイドルの取材を続けていると時折同じ質問をされる事がある。俺が倒れる前に取材を申し入れてきていたメディアは、キャンセルを受け入れる代わりに俺の事を記事にしたらしい。

 

『若き賞作家、クモ膜下出血に倒れ記憶喪失』

 

 材木座にその事を聞いてエゴサーチをしてみたところ、そんな見出しがいくつかネット記事として上がっていた。大した反響はなかったとは聞いているが、そういった記事の事を彼女も伝え聞いているのだろう。

 

「よく知ってますね」

「もちろん知ってますよ〜。ゆめみ、前から先生のファンだったんですから。よかったら、これにサインして貰えませんか?」

 

 そう言ってゆめみは鞄から俺の書いた本を取り出すと、両手で「はい」と渡してくる。⋯⋯この子、ひょっとして俺までファンにしようとしてるのかしら。

 それにしても本まで買ってくれて準備するとは中々やる⋯⋯と考えながら裏表紙を開くと、なんと初版だった。本当に前から、俺のファンでいてくれたらしい。

 

「初版で買ってくれてたんですね」

「はい〜。だってファンですから」

 

 そう言ってくてっと首を傾ける姿は、実にアイドルらしい。アイドルにそれほど興味はなかったと話していたが、こういう子の方が大成するのかも知れない。

 どうやって自分のサインを書いたらいいのか俺の右手はよく覚えていて、サラサラと奥付けにサインを書き入れる。報道文学の賞など一般の人は興味もないだろうと思っていたが、俺は意外に有名人なのかも知れない。

 サインした本を受け取って嬉しそうに笑う彼女を見て、ふとそんな事を考えた。

 

 

 

 あれからもう一件取材を終えると、俺は自宅であるマンションに戻って来ていた。

 一日で取材を二件はしごするなどあまり無かったし、二件目の子の方がキャラが強烈だった所為で精神的に疲弊している。まさか目の前で歌って踊られるとは予想できなかった。

 

「ただいまー⋯⋯」

 

 誰も居ないとは知りつつも、癖になった言葉を廊下に向けた。今日は土曜日だったが、雪乃は休日出勤だから家にいない。厚着をしたまま歩いていた所為でじっとりと汗をかいてしまっているし、今日はいつもより疲れた。書斎に取材道具一式を置くと、とぼとぼとバスルームに向かう。

 少し早いが、風呂を入れてしまおう。そう考えながら、脱衣所の扉を開けると──。

 

「え⋯⋯っ」

 

 目に飛び込んで来たのは、肌色。

 そのなだらかな身体に纏わりつく、未だ拭かれぬ水滴。

 全てが凍りついたと思ってしまうほどの静謐な時間は、その肢体を伝い落ちる雫によって時の流れを取り戻す。

 

 簡単に、簡潔に言えば、何故か雪乃がそこに居た。

 一糸纏わぬ、生まれたままの姿で。

 

「す、すまんっ!」

 

 慌てて扉を閉めると、早足でリビングに向かった。まるで坂道ダッシュでもした後みたいに心臓は早鐘を打ち、ソファに座ってしばらくしても落ち着く気配がない。

 普通に、ばっちりと、見えてしまった。いや彼女の口振りだと、過去にも見た事があるはずだ。だが今の俺(・・・)は当然初めてで、童貞かってぐらいに動揺している。

 なるべくもう、思い出さないように。しかしそう念じても何度も甦ってくる光景に悶々としていると、十分ほど経った後に雪乃がリビングに入ってくる。

 

「その、さっきは悪かった。⋯⋯思ってたより、早かったんだな」

「⋯⋯ええ。早目に用件が片付いたから」

 

 雪乃はそう言いながら隣に座ってくる。やばい、目を合わせられない。

 

「八幡」

 

 しかし雪乃の方は裸を見られた側だというのに、意外な程に動揺はなかった。それどころか伏せられた俺の顔を覗くように下から見上げ、無理矢理に目を合わせてくる。

 

「一緒にお風呂に入りたい時は、先に言って貰えると助かるわ」

 

 そして余裕たっぷりににっこりと。さっきまで裸の女神だった彼女は着衣の女神になると、そう言って俺に笑いかけてきた。これを挑発と言わずに何と言えばいいのだろう。

 

「⋯⋯お前、押し倒すぞ」

「ええ。いつでもいいわよ」

 

 精一杯の抵抗は虚しく、(かわ)されるどころか真正面で受け止められてしまう。ことこの手のやり取りにおいては一枚も二枚も上手な雪乃のペースに、さっきから惑わされっぱなした。

 

「いえ、すいませんでした⋯⋯」

 

 それ以上の事を行動に移せるはずもなく、俺はぼそぼそとそう言うに留まる。この流れで勝てる気がしない。

 

「⋯⋯まあ、まだもう少し時間が必要かも知れないわね」

 

 どこか諦念のようなニュアンスを含ませながら言うと、雪乃はソファから立ち上がる。

 

「今日は私がご飯を作るわね」

 

 そう言ってキッチンに立った雪乃の姿は、全くのいつも通り。

 その後も、慣れた手つきで料理をする雪乃を、何度も何度も見てしまう。ついさっきの光景を、思い出しながら。

 

 

 

 悶々とした気持ちのまま風呂に入り、雪乃の絶品手料理を食べ終えたあと。

 夜も充分に深まり、後は寝るだけなのだが、そうなるとまた思い出してしまう事がある。いや雪乃の裸ではない。それと同じぐらい、重要な事だ。

 俺は雪乃より先に就寝の準備を整えると、一人その戸の前に立っていた。その中はウォークインクローゼットになっており、衣服のほとんどはここに収納されている。

 今朝の事である。

 近頃温かくなってきた事から、俺は春物の衣服を探しチェストの中を漁っていた。その際に見つけてしまったのだ。どういう訳か、アイドル衣装を。

 それだけではない。猫耳と尻尾の下着セット。ナース衣装に白いスクール水着、どう考えても雪乃のサイズの燕尾服。それらと一緒に入っていたエプロンを、見つけてしまったのだ。

 

「どうしたの?」

 

 後から寝室に入って来た雪乃は、立ち尽くしている俺に声をかけてくる。彼女に確かめるべきだろうか。いや、答えを聞かなくてももうその存在自体が答えのようなものだ。ついさっきも雪乃の裸を見てしまって気まずい思いをしたばかりだったし、これ以上のイベントはもうお腹いっぱいである。

 

「ひょっとして⋯⋯。あれ(・・)を見つけたの?」

 

 しかし黙り込んでしまった俺を怪訝に思ったのか、雪乃にばっちりと言い当てられてしまった。

 

「ああ⋯⋯」

 

 しらばっくれてもよかったのだが、結局俺は好奇心に負けて頷いた。この機会を逃したら、暫く知る機会も無さそうだ。

 雪乃はひっそりと息を吐くと、背中からぴたりと俺にくっついてくる。そしてすぐ耳元で、僅かな羞恥を滲ませた声で言った。

 

「エプロンを用意したのは私。あとはあなたが用意したものよ」

「⋯⋯そうですか」

 

 どうやらこうなる前の俺は、随分と雪乃とお愉しみであったらしい。過去の俺はこれが地雷となり、そして自らが踏む事など露ほども考えなかっただろう。もー! 八幡のバカ! エッチ! どうすんのこの空気⋯⋯。

 

「⋯⋯寝ましょう」

 

 雪乃は先にベッドに上がると、ぽんぽんとその隣を叩いた。彼女と寝床を共にする事などもう慣れたはずなのに、そこに向かう俺の動きは妙にぎこちない。

 ベッドに寝転がると、雪乃は布団を引き寄せながらぽふっと俺の左腕の上に落ちてくる。リモコンで照明の明かりを落とすと、眠気など微塵も感じさせない大きな瞳が俺を捉えた。

 

「その⋯⋯。大丈夫?」

 

 薄暗闇の中で、いつも通りに雪乃は俺の身体に腕を巻き付かせながら訊いてくる。

 

「⋯⋯何が」

「だって⋯⋯。以前なら少なくとも三日に一度は求めてきたわけだし、これだけ長い間しなかったのも、初めてだし⋯⋯」

 

 段々声が小さくなってもにょもにょ言う姿が、まるでウブな少女のようだった。本当、そうやって天然なのか人工なのかは知らないが、こっちを試すような言動は控えて頂きたい。

 

「だから本当に我慢できなくなったら、⋯⋯いいのよ?」

「おい、お前さっきからやべぇ事言ってんぞ。お前のこと好きかどうかも分からない男に抱かれてもいいってのかよ」

「私が好きなんだから問題無いでしょう」

 

 そこははっきり言うんかい⋯⋯。しかしこれじゃ、夕食前のやり取りの焼き直しだ。

 いつかまたそういう関係になるとしても、きっとそれは今じゃない。たとえ彼女がそれを許したとしても、中途半端な事は出来なかった。

 

「⋯⋯寝よう」

 

 俺はそう言って、目を瞑る。近頃は雪乃との距離の近さも慣れてきたけれど、また今夜は中々寝付けそうにない。

 雪乃は俺の隣でもぞもぞと動くと、瞬間、柔らかな感触が頬に触れた。はっとして目を開くと、僅かに頬を染めた雪乃と目が合う。

 

「今日はこのぐらいで許してあげる」

「お、おう⋯⋯」

 

 そう言うと雪乃は、表情を隠すように俺の胸に額を押し付けた。まるで子猫が甘えてくるような仕草に、胸が馬鹿みたいに高鳴る。

 

 ──いつか、はち切れるんじゃないだろうか。

 

 そんな事を考えながら、俺は無理矢理に目を閉じるのだった。

 

 





 という事で、ちょっとだけ微エロありの話でした。
 このぐらいなら、R-15タグつけなくてもいいよね……?

 この話は八幡から見たら、雪乃がいきなりデレてくる話なんですよね。
 これは以前プロット叩いて途中で展開思いつかなくて止めてしまった、雪乃が八幡と結婚した後に逆行してきて八幡ともう一度出会う話を活かしています。
 雪乃さんみたいな美人がいきなりデレて来たら普通は即完落ちなのですが、そうならないのが八幡な訳です。

 それでは、また次のお話で。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

忘れたいぐらいの、たくさん。

 四月も中頃になると寒さもすっかりと緩み、過ごし易い季節になったと感じる。

 リビングに差し込む陽光は、俺の足元に暖かな陽だまりを作っていた。ソファに座ったまま首を回せば、キッチンで忙しくしている雪乃の姿が見える。さっきからずっと火を使っている所為か、嗅いでいるだけでお腹が鳴るほど美味しそうな香りが漂っていた。

 まだ昼食を摂っていないが、このまま昼寝してしまったらどれだけ心地いいだろうか。そんな事を考えていると、聞き馴染みのあるドアホンの音が鳴る。

 

「八幡、出て」

「あいよ」

 

 俺は立ち上がると、ダイニングの方まで歩いてドアホンのモニターを確認する。そこに映っているのは、お団子頭の女の子と亜麻色の髪が艶やかな眼鏡の女の子だ。いや年齢的に大人女子とでも言った方がいいのだろうか? そんな事を考えながら「今開ける」と声をかけて、玄関に向かう。

 

「やっはろー! ヒッキー」

「お邪魔しまーす」

「お、おう⋯⋯やっはろー。いらっしゃい」

 

 扉を開けた瞬間に謎挨拶をぶちかましてくる由比ヶ浜結衣と、にっこり素敵な笑顔を向けてくる一色いろは。二人は顔を見合わすと、やがて由比ヶ浜はくつくつと笑い出した。

 

「なんだよ⋯⋯。なんか面白いところあったか?」

「だって、ヒッキーがやっはろーって⋯⋯。ふふっ、初めて聞いた」

「ですねー。いつも『おう』とか『うっす』でしたし」

「さいですか⋯⋯」

 

 どうやら俺は挨拶もそぞろなシャイボーイであったらしいが、「やっはろー」で返さなかったのはそれが正解な気がする。俺が言うと違和感凄いし、アホっぽいし。それにしても、自分の事を自分より他人の方が知っているというのは、やはり不思議な気分だ。

 二人を連れてリビングに戻ると、雪乃は視線をコンロの上の鍋からこちらに移した。

 

「いらっしゃい。ごめんなさいね、わざわざ来てもらって」

「いえいえ〜。雪乃先輩の手料理で祝って貰えるならどこにでも駆け付けますよ」

 

 そう答えた一色の横で、由比ヶ浜もうんうんと頷いている。

 本日我が家に集まったのは、一色いろはの誕生会の為だ。

 先月は小町の誕生日会で集まったきりだったから、こうして顔を合わせるのは一ヶ月と少しぶりだった。ちなみに小町ちゃんは休日出勤だとかで、本日は不参加である。

 去年までは居酒屋なりレストランなりで集まっていたらしいが、今日は雪乃が手料理とお手製ケーキを振る舞うとの事で我が家での開催となった。ひょっとしたら、俺が過去を思い出せなくなってから一滴も酒を飲まなくなったのに配慮してくれたのかも知れない。倒れる直前に酒を飲んでいたという話を聞くと、どうしても飲む気にはなれなかったのだ。

 

「ゆきのん、あたしも何か手伝おっか?」

「いえ大丈夫よ何もしないでゆっくりしていてちょうだい」

「なんか凄い早口で断られた⁉︎」

 

 そんなやり取りの後、ふと二人は破顔した。まるで「懐かしいね」と囁き合うような、緩やかな時間が二人の間だけに流れている。

 何があったかはよく思い出せないけど、本当仲良いな。こいつら。

 

「まーたやってる⋯⋯」

 

 俺の隣に並んだ一色は、そう言ってふと微笑む。

 俺も多分そんな顔をしているんだろうなと思いながら、同意する由もないというのにそっと頷き返した。

 

 

 

 雪乃お手製の昼ご飯を食べ、プレゼントを渡し、小腹が空いてきたところでこれまた雪乃謹製のケーキを頂く。

 一色の誕生を祝う会は(つつが)無く(なご)やかに、土曜日の午後を暖かいものにしていた。

 

「でね、プロムが終わって泣き出しちゃったいろはちゃん宥め終わった後に、こっそり泣いてるの見ちゃったんだよね」

「⋯⋯マジで?」

「結衣先輩、その話はわたしにもダメージあるんですけど⋯⋯」

 

 雪乃の作ってくれたケーキを食べながら、彼女たちは俺の知らない思い出話に花を咲かせていた。生徒会長をしていた一色が俺たちを送り出す卒業式後のプロムで泣いてしまったという話から、ついでに俺まで泣いていたらしい。思い出せないのだからノーダメージのはずなのに、何故か恥ずかしくなってくる。

 雪乃曰く、俺と雪乃と由比ヶ浜は同じ部活の仲間であったらしい。一色は高校一年の時から二年まで生徒会長をしていて、何故かは分からないがよくつるんでいたという事だ。

 

「あなたには言っていなかったけど、実は私も一緒に見ていたのよね」

「やめろよ⋯⋯。っていうか泣いてたの俺だけなのか?」

「あたしも超泣いてたよ!」

「自信満々に言う事でもないと思うけど⋯⋯。まあ、その⋯⋯私も泣いてしまったし」

 

 あれ、なら俺だけ弄られる感じになっているのはおかしいのでは⋯⋯。俺に胡乱げな目を向けられながらも、雪乃は昔の事を思い出しているのか、その瞳に優しさを滲ませながら言う。

 こうやって社会人になってからも、理由を見つけては集まる仲なのだ。きっと俺たちの間には、強い絆があったのだろう。そう思うと、それすらも思い出せない俺が酷い薄情者に思えてくる。

 それに少し──いや、大いに勿体無い事をしているなと思った。これだけタイプもそれぞれで綺麗で可愛らしい子たちとの高校生活を過ごしていたのだ。俺の性格からウェイウェイしていたとは思えないが、どう考えてもリア充の青春ではないか。なんだそれどこのラブコメの主人公だよ爆発しろ。

 

「⋯⋯で、先輩は昔話を聞いて、何か思い出す事はありましたか?」

 

 一色はそう言って、くてっと首を倒した。なんともあざと可愛い仕草は、どこぞのアイドルを思わせる。

 

 ⋯⋯⋯⋯って、あれ?

 

 俺は一色の仕草に、引っ掛かりを覚えた。この仕草を、俺は知っている。というか、最近見た覚えがある。

 

「一色、ちょっと眼鏡を外してくれるか?」

「⋯⋯いいですけど」

 

 一色はそう言ってウェリントンの眼鏡を外すと、自信ありげな笑顔で俺を見た。

 やはりだ。髪型も色も違うけれど、ここまでくれば見間違えようもない。

 

「ひょっとして⋯⋯カラフルゆめみ?」

「あ、やっと気付きましたか」

「え? なに、どう言うこと?」

 

 あっけらかんと認める一色に、事情が飲み込めていないのか俺と一色を交互に見る由比ヶ浜。その隣で、雪乃は全部知ってますと言った顔で優雅に紅茶を飲んでいた。

 

「ひっどいですねー先輩は。ゆめみはずっと先生のファンだったのに」

「マジかよ⋯⋯」

「ねえ、全然話見えないんだけど⋯⋯」

 

 勝手に話を進めていく俺たちに、取り残された由比ヶ浜は口を尖らす。どうやら彼女にはアイドル活動の事を言っていなかったらしい。

 かいつまんで事情を説明すると、由比ヶ浜はほえーっと呆気に取られた表情を浮かべていた。

 

「そんなことしてたんだ。それで急に眼鏡を⋯⋯」

「ええ。たまにファンの方に気付かれちゃうことがあったので」

「ゆきのんも知ってたの?」

「⋯⋯自分を売り込むにはどうしたらいいか、前に相談を受けてね」

 

 アイドルのマーケティングは専門外なのだけれど、と付け加えると、雪乃はすっと目を細めて俺を見る。

 

「知り合いだからと言って、記事を書く時に依怙贔屓(えこひいき)にしては駄目よ」

「ええー、ゆめみは全然オッケーっていうか超ありがたいんですけど」

 

 きゃぴルン☆ と一色は言っているがそれを見る雪乃の目は冷ややかだ。雪乃ははむっと自分で作ったケーキを食べると、一口紅茶を飲んでから言う。

 

「一色さんなら大丈夫よ。私や八幡の後押しがなくても、きっと成功するわ」

「あー⋯⋯いや、ワンチャン売れそうならそっちで頑張るのもアリかなって思ってるぐらいなんですけど⋯⋯。そういう台詞本当ずるいな格好よすぎる」

 

 面映いのか雪乃を直視できなくなった一色は、俺の隣でもじもじし始めた。あれか、このいろはすは照れはすだな。あと雪乃さんもキメ顔で言うと誰よりも格好良くなってしまうから自重しなさい。

 

「あ、じゃあさ、今度みんなでいろはちゃんのライブ観に行こうよ!」

「あ、是非ぜひ。グッズも買って下さいね」

「身内にまで売り込むのかよ⋯⋯」

「冗談ですよ。Tシャツ団扇タオル一式で差し上げますんで、一緒にゆめみとドーリーミン☆ して下さいね」

 

 そう言うと一色は横ピースに舌をぺろりと出して、いつぞやの撮影の時と同じポーズを取る。あざと可愛いそのポーズは、地下アイドルとは言えプロ然としていた。

 

「私はもう、持っているけれど⋯⋯」

 

 その発言に俺は「えっ」と固まり、由比ヶ浜は「ん?」と首を捻る。

 雪乃さん、実は一回ライブに行ってガッツリはまっちゃった系だったりするのか?

 地下アイドルにはまる雪乃さん⋯⋯アリだと思います!

 

 多分⋯⋯。

 

 

 

 

「いやー、やっぱり雪乃先輩の手料理は最高ですね。毎日食べたいまである」

「うん、本当それ。何食べても美味しいもん」

 

 綺麗に舗装された歩道に、時折現れる路駐の車。そこかしこを走る電線の下を、俺たちはゆっくりと歩いていた。

 夕方になり彼女たちが帰る段になると、私は夕食を作るからあなたが送って上げてと雪乃に言われたのだ。

 

「それじゃわたしはこの駅なんで。送ってもらってどうもでした」

「おう」

「じゃあね、いろはちゃん」

 

 一色はぺこりと一礼すると、手を振ってから駅の入り口へと吸い込まれていく。さてもう一人の子はというと、一色の姿が見えなくなるまでじっと立ったままだった。

 

「由比ヶ浜が使う駅はどっちだ?」

「こっち。⋯⋯だけど、寄り道しよっか」

 

 由比ヶ浜はそう言うと、自ら指さした方向に向かって歩き出した。どうせすぐに帰ったところで、まだ夕食は出来ていないだろう。俺は頷くと、由比ヶ浜の背中を見ながら歩き始める。

 線路沿いから少しだけ離れていくと小さな公園が見えて来て、由比ヶ浜は特に何も言うでもなくそこに入っていく。ベンチに腰掛けると、由比ヶ浜はほうっとした様子で空を見ていた。

 もう大分と季節は進んだとは言え、まだまだ暗くなるのは早い。俺もつられるように頭上遥か彼方を仰ぐと、林立するビルに侵蝕された空には茜色に染まった羊雲が見えた。

 視界の端で、ママ友同士と思われるお母さんたちが井戸端会議に熱中している。小さな男の子が公園を走り回っていたかと思うと、砂場の段差で転けて派手に泣き始める。

 

「ヒッキーはさ」

 

 由比ヶ浜は男の子に駆け寄る母親の姿を見ながら、そう切り出した。

 

「ゆきのんと、結婚しないの?」

 

 思っても見なかった方向からのど直球な質問に、俺ははっとして由比ヶ浜の顔を見た。けれど彼女は、目の前の出来事の一部始終を見続けている。

 

「なんで⋯⋯?」

「結婚式の話、今は中断してるって聞いたから」

 

 そう言われて俺は「ああ」と小さく呟くと、彼女に倣うように幼子をあやす母親へ視線を移した。

 由比ヶ浜の言う通り、俺たちは結婚に関する全ての物事を先送りにしている。そう言う事はまず俺が過去を思い出せるようになってから、と話したっきりなのだ。

 

「まあ⋯⋯。今のところは、しないな」

 

 それが正直な気持ちだったし、選択としてまちがってもいないと思う。本当なら今頃雪乃と式を挙げている頃合いだったが、彼女をまともに愛せてもいない男が伴侶になるなど、あってはならない事だった。

 

「そういうのは、ちゃんと思い出せるようになってからだと思う」

 

 俺が出来るだけ正直に、取り違えもないように伝えると、由比ヶ浜はようやくをこちらを見た。

 

「質問をちょっと変えるね。今のヒッキーは、将来的にはゆきのんと結婚したいと思ってる?」

「それは⋯⋯」

 

 答えはすぐに出て来なかった。イエスかノーで考えると、その答えは性急過ぎるようにも感じる。

 雪乃に心惹かれているのは確かだった。大事な過去をどこかに閉じ込めてしまった俺をそれでも愛してくれて、時々面倒臭くて辛辣なのにそれも可愛くて。毎晩その愛らしい寝顔を眺めて、明日も明後日も見ていたいとも感じている。

 けれどそれだけでは、雪乃と人生を歩むにはまだ足りなかった。彼女が注いでくれている愛情と同じ量の愛情を返せるかと言われれば、きっとまだ無理だと思うから。

 

「将来的にはしたい。⋯⋯けど、順番を逆にはしたくない。まずは俺がちゃんと昔の事を思い出して、雪乃に向けていた気持ちを取り返したいんだよ。そうじゃないと⋯⋯フェアじゃない」

 

 俺が訥々とそう語る間に、母親に抱かれた子どもはもう泣き止んでいた。由比ヶ浜はそれに少しだけ安心した表情をした後に、俺を見てはぁと盛大に溜め息をついた。

 

「ヒッキーって、やっぱりヒッキーだね。そういう律儀っていうか⋯⋯頑固なところ、本当にヒッキーらしいよ。⋯⋯それから、ずるい」

 

 最後はとても小さな声だったのに、由比ヶ浜の言葉は俺の心の深くにめり込んだ。

 

「ゆきのんは、今のヒッキーをちゃんと見て、それでも好きだって思ってるよ。それにヒッキーは、ちゃんと向き合ってない。思い出せたら全部上手くいくって思って、昔の自分に期待してる。そんなの、ずるいよ」

 

 悔しさとやるせ無さでいっぱいになった顔で、由比ヶ浜は唇を噛んでいた。言われたことは、全部図星だ。それでいいのか、これでいいのかと自問を繰り返して、自分から雪乃への気持ちを停滞させようとしているんじゃないかとすら感じる。

 今の俺と過去の俺は、決定的に、隔絶的に違う。

 その強固な認識が、雪乃の気持ちを素直に受け取れなくしているのだ。

 

「ちゃんと、ゆきのんを見てあげて。愛が重いなーって思うかも知れないけど、昔のことを思い出せるようになってもそう感じるのはたぶん変わらないよ。もともと激重なんだ、ゆきのんは」

 

 一体何が、雪乃と由比ヶ浜とをここまで強く結びつけたのだろう。どうすればこれほどまでに強く、お互いを思いやれるのだろう。

 きっと俺は知っていた。雪乃の事も、由比ヶ浜の事も、全部とは言えなくてもちゃんと向き合って知っていたはずだった。色々な事を知っていて、その上で俺には彼女を愛する資格があるのだと、疑いようもなく信じていたはずだったのに。

 

「⋯⋯ありがとな、由比ヶ浜」

 

 俺の口から溢れた言葉に、由比ヶ浜はううんと首を振る。いつしか公園内には俺たちしか居なくなり、茜色の空は藍色へと移り変わっていた。

 

「たぶん、色々あったんだよな。俺たちには」

 

 遠くから聞こえてくる車の走行音にさえ負けてしまいそうな声で、そう呟いた。由比ヶ浜はどこか疼痛を感じるような表情で、しかし茫洋(ぼうよう)とした優しい笑みを浮かべる。

 

「うん、いっぱいあったよ。すっごくたくさん。⋯⋯忘れちゃいたくなる事も、あるぐらい」

 

 由比ヶ浜はそう言うと、また空を見上げた。口元と目尻に僅かに残った微笑みが、痛いほどの郷愁を呼んでくる。

 

 

「けど忘れたくないな、絶対」

 

 

 由比ヶ浜は空よりも海よりも深い瞳に、慈愛を閉じ込めて俺を見る。

 その目が、表情が、言葉以上に雄弁に語っていたから。

 

 俺は今の俺に出来る事を──すべき事をしようと、そう思った。

 

 




 今回もお読み頂きありがとうございました。
 この話はこの物語の中でかなり大事な回になってまして、理由はもう言わずもがなですね。

 私が八雪の長編を書くと結衣にこういう役回りばかり回ってくるのが、結衣もいろはも好きな自分に取って非常に心苦しい⋯⋯。
 けれど八幡に正しく言葉を届けられるのは、やはりこの話では結衣しかいないんですね(少なくとも現時点では)。

 よければ評価や感想を頂けると嬉しいです。
 次回も早目に更新できるようにバリバリ書いておりますので、引き続きお楽しみ下さい。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

彼は一歩、彼女に向けて踏み出した。

 鍋の中には昆布が一枚、張られた水の中で揺蕩(たゆた)っていた。

 昨晩から仕込んでおいたそれを七十度まで上げると、三十分キープ。それから昆布だけを取り出すと、鰹節を入れてコンロの火を強くする。

 

 由比ヶ浜に背中を押して貰ってから幾ばくかの時間が流れ、もう夏の足音が聞こえてくる時分になった。今日も今日とて家で仕事をしていた俺は、もう間も無く帰ってくる雪乃の為に夕食を作っている。

 今日のメニューは蕎麦だ。何も出汁から取らなくても、つゆの素を使って美味しく出来るのは分かっていた。しかし料理に没頭している時間も嫌いではないから、こうして敢えて時間をかけて作る事がある。

 

 あれから俺も、色々と考えてきた。彼女と正しく向き合うとは、どういう事か。本当にすべき事は、何なのか。

 こうして手間暇をかけて料理する事も、その答えの一つだ。丁寧に、時間をかけた分だけ料理は美味しくなってくれる。気持ちを込めた分だけ彼女の舌を楽しませ、癒しを与えられるのだと信じている。

 

「ただいま」

 

 ちょうど蕎麦を茹でているところに、スーツ姿の雪乃が帰ってくる。帰る時間はラインで聞いていたから、タイミングはばっちりだ。

 

「おかえり。もうすぐ出来るぞ」

「ええ、ありがとう」

 

 雪乃は肩越しにすんすんと匂いを嗅ぐと、いい香りねと呟いてから自室に向かった。彼女が私服に着替えて席に着くと同時に、鮎の甘露煮と錦糸卵、ねぎののった蕎麦が着丼する。

 

「本当にいい香りね。美味しそう」

「出汁取るところから作ったからな。美味いぞ」

 

 そう言って二人で手を合わせ、いただきますと声を揃える。

 食事の最中は、あまり喋らない。料理の感想ぐらいは言うが、基本的には静かな食卓だ。余程特別な事がない限り多くは語らないが、そんな沈黙も悪くないし、気詰まりだと感じる事もない。

 しかし今日ばかりは、俺はいい加減言い出さなくてはならない事がある。それが蕎麦を啜りながらなのが正しいのか、それとも風呂に入ってゆっくりした後の方がいいのかは分からない。ただちょっと気まずい感じになったりおかしな空気になったとしても、食事をしているという事実が多少は緩和してくれるのではないだろうか。そう考えて俺は、雪乃が蕎麦を嚥下したのを見計らって声をかけた。

 

「今度の休みなんだが」

「ええ」

 

 ちらり、と碧玉を思わせる双眸(そうぼう)が俺を捉えて、喉から出かかった言葉が引っ込みそうになる。しかしもう、言葉の端緒は紡がれたのだ。引く事も誤魔化す事もすべきじゃない。

 

「その、⋯⋯デート、しないか?」

 

 俺の言葉に雪乃はその大きなお目目を更に大きくさせると、しかし次の瞬間には優しく細められる。とても綺麗な笑みが、湯気の向こうから俺に向けられていた。

 

「もちろんいいわよ。⋯⋯あなたとのデートを断る訳がないわ」

 

 てっきりデートという言葉を揶揄されるかと思ったが、雪乃はただ真正面からその言葉を受け止めてくれていた。それに少しだけ安心する。

 

「それで行き先なんだが」

「ええ」

 

 俺の言葉の続きを促すと言うよりは食い気味に、雪乃は返事を挟む。その顔にはわくわくを隠せないとでも言うように、無邪気な微笑みが浮かんでいた。

 

「分かっているわ。もし違っていても、行き先を訂正したらいいのよ」

 

 雪乃はそう言うとちゅるっと蕎麦を一口食べた後に、妙に得意げな顔になった。あまり見ない表情に、思わずドキッとしてしまう。俺も彼女に合わせて口に含んだ蕎麦を嚥下すると、それを待っていたように雪乃は告げる。

 

「私たち元千葉県民のデートの行き先は、決まっているもの」

 

 

 

 

 デート、というのはそれすなわち、一般的には男女で行くものであり、その親睦を目的とするのが共通認識でいいだろう。稀に女同士、親子、はたまた男同士でも使う可能性もあるが、やはり目的が変わる事はない。

 

 電車を乗り継ぎおよそ一時間。

 故郷である千葉の地を踏んだ俺たちは、そのファンシーでメルヘンでドリーミンな世界の中に居た。千葉県民のデートと言えばそう、ディスティニーランドである。当然ながら入場して即行で『パンさんのバンブーファイト』のファストパスは取得済みだ。

 しかし、それにしてもである。

 白亜の城の裾野。タペストリーの旗めく広場は、人でごった返していた。過ごし易い季節の上に日曜日なのだから当然と言えばそうなのだが、東京の人ごみに慣れた俺でもこれには辟易してしまう。

 

「人多い⋯⋯帰りたくなってきた⋯⋯」

「はぁ⋯⋯。そういう部分も本当に昔から変わらないから安心はするのだけど⋯⋯。流石に次言ったら、怒るわよ」

 

 冷ややかな視線を向けられ、俺は小声早口で「あ、はい、さーせん」と態度を正した。いけないわ八幡。すぐ本音が()いて出ちゃうんだから。

 

「デートなんだから、人が多いぐらい我慢なさい。私だって得意じゃないんだから」

「うい⋯⋯」

 

 何故かフランス語で返してしまったが、しかしこれはそう、デートなのだ。馬鹿な事を言っている場合ではない。

 雪乃と買い物に出かけたりとか、食事に行く事は今までもあった。けれどデートと称し、エンターテインメントを楽しむのを目的に出かけるのは今回が初めてだ。今の俺にとって、雪乃との初デートだと言ってもいいだろう。

 

「さて、じゃあまずはショップに行きましょうか」

「え⋯⋯なんでショップ?」

 

 ショップなんていう物は、大半は土産物を買う為に立ち寄るところだ。まだランド内に入ったばかりだから、向かうには早過ぎる。

 

「だって前に買った物は、くたびれて捨ててしまったし」

 

 そうとだけ言うと、雪乃は一切の迷いもなくショップへと歩き始める。理由はよく分からないが、雪乃も元千葉県民として一家言あるのだろう。目的のショップまで歩いて行くと、まだ開場直後という事もあってガラガラと言っていいぐらいの店内に入った。

 

「はい、あなたの分」

「⋯⋯はい?」

 

 そう言って雪乃が渡して来たのは、パンさん耳のカチューシャである。彼女はもう一つパンさん耳を手に取ると、すちゃっと自らの頭に装着する。クソ可愛い。英語で言えばファッキンキュートだ。しかしこれ、俺がつけたら絶対残念な事になるに決まっている。

 

「つけてみて」

「いやでございます」

「なぜ。前もつけていたでしょう」

「記憶にございません」

 

 だって八幡思い出せないんだもーんと事実を元に完全拒否モードに入っていると、雪乃は短く溜め息をついて携帯をシュシュっと軽やかにスワイプした。程なくして目的のものを見つけたのか、表示された写真を俺に見せてくる。

 

「ほら。高校の時からこうしていたんだし、別にいいでしょう?」

 

 雪乃がそう言って見せてくれたのは、制服に身を包んだ俺たちの自撮り写真だった。雪乃の頭にはもちろん、俺の頭にもしっかりとパンさん耳が装着されている。

 しかし、え、これ、マジか。マジなのか。

 高校生の雪乃さん、激マブ超可愛スーパーキュートなんですが? 残念な俺の姿などどうでもいい。天使だ。天使が携帯に閉じ込められているぞ助けなきゃ!

 

「⋯⋯今、高校の時の私の方が可愛いと思ったでしょう」

 

 思わず雪乃だけ拡大して画面を凝視していると、呆れたような声が届いた。しかし、それは事実と違う。

 

「いやはちゃめちゃに可愛いとは思ったけど、今の雪乃も可愛いしとんでもなく綺麗だぞ。美人過ぎてドン引きするまである」

 

 若干早口になりながらそう言うと、段々と雪乃の頬が朱に染まってくる。えぇ⋯⋯なにその反応。絶対間違った事は言ってないはずなのに。

 

「そ、そう⋯⋯。ありがとう⋯⋯」

 

 ぽしょぽしょとそう呟くと、雪乃さん改め照れノ下さんは頭につけたパンさん耳を外す。瞬間、しまったと思った。まだ写真を撮っていないではないか。

 

「ほら、買うわよ」

 

 ああでも、そうですか。

 二つ買うのは、確定なんですね。

 

 

 

 

 二人してパンさん耳をつけて、ランド内をゆるゆると歩いていく。

 すでに『パンさんのバンブーファイト』は乗り終え、二度目のファストパスも取得してある。それにしても雪乃さん、本当にパンさん好きですね。

 激込みのレストランやら長蛇の列に疲弊して時折り休みながら楽しんでいると、もう辺りは暗くなり始めていた。深遠な青と燃えるような赤の境界を背景に、白亜の城はライトアップされ燦然と輝いている。

 

「次はあれに乗りましょう」

 

 そう言って雪乃が指さしたのは、スプライドマウンテンだ。相変わらずそこそこ待たされそうだが、次のバンブーファイトまでの待ち時間を考えると丁度いい。

 列に並んで暫くすると、隣に立つ雪乃はちょいちょいと俺の袖を引いてくる。

 

「私たち、ここに来るといつも最後の方にここに並ぶのよ」

「ほう⋯⋯」

 

 なるほど、これが俺と彼女の鉄板コースというやつらしい。千葉県民はやたらとランドやシーの巡り方にこだわりがあるから、特別な話ではなくむしろ当然と言えるだろう。

 一定のペースで列が進んでいくと、表示されていた待ち時間よりも十分ほど早く乗り場である最前列までやってくる。ライドは人々と興奮を乗せて帰って来ると、名残惜しむ暇も与えず乗客を吐き出した。入れ替わりでライドの座席に座ってセーフティーバーが下されると、がたこんと僅かに揺れながらライドは発進する。

 

「懐かしいわ」

 

 しみじみと、遥か遠くの昔を思い出すような声が、ライドと同じ速度で紡がれる。そんな感傷なんてお構いなしに、キャラクターたちは水飛沫を上げながら登場と退場を繰り返す。

 

「初めてあなたとこれに乗った時に、私はあなたに言ったの」

 

 水上を滑るライドの上で、雪乃は俺を真っ直ぐに見ていた。バーを握る手は、少しだけ力が入っているように見える。

 

「いつか、私を助けてねって。⋯⋯それからたくさん、助けてもらったわ」

 

 バーを握り込んだ左手の指輪が、その華奢な耳につけられたフープ形のイヤリングが、明滅する光に照らされてキラリと光った。雪乃は左手をバーから離して俺に伸ばすと、早く、と言わんばかりに目で語る。

 まったく、情けない。こうまでして貰わないと、俺は彼女の手すら握れないのか。

 

「だから今度は、私があなたを助ける番ね」

 

 俺が雪乃の手を握ると、彼女は気高く、しかし儚げな微笑みを浮かべた。ライドはトンネルの中に入り、途端に辺りは薄暗くなる。その人口の洞窟の先には、さっきよりも煌々と照らされた白亜の城と、どこかノスタルジックな暖色の光たち。

 

「あなたの事が好きだから。絶対に手を離したりなんてしないわ」

 

 ライドは頂点に達すると、僅かにその速度を速めた。

 結局俺は、言葉も何も返す事が出来ないまま。

 眩い光に照らされて、どこまでもどこまでも落ち続ける。

 

 

 

 

「お待たせ」

 

 スプライドマウンテンの外に出て柵に身体をもたれさせていると、細長いビニール袋を手に雪乃が戻って来た。先に出ていてと言われて待っていたのだが、何か買い物でもしていたらしい。

 

「おう」

 

 そう答えると、柵から身体を離して歩き始める。ちらほらとパレードの場所取りに向かう人たちも見えるが、とりあえずはパンさんだ。ファストパスも取ってあるし、本日二度目だったが雪乃の希望とあらば迷う余地もない。

 並んで歩いていると、街灯にちらちらと照らされる度に、雪乃の顔が横目に入ってくる。

 本当に、綺麗な子だと思う。今日だって、何人彼女を振り返って見ていたか分からない。

 だから少しだけ、緊張する。

 そうする事を暗に許されていると知っていても、俺からそうするのはきっと持つ意味が違うから。

 

「⋯⋯」

 

 そっとチノパンで手のひらの汗を拭うと、雪乃の左手を取った。今度は、俺から。

 雪乃は一瞬はっとして目を開いたが、次の瞬間には嬉しそうに目尻を下げていた。

 

「大きな進歩ね」

「⋯⋯やっぱ手、離していいか」

「だめ」

 

 妙に(いとけな)い言い方を耳にくすぐったく感じていると、雪乃は指を互い違いに絡めてくる。繋がれたその手は、心なしかさっきよりも大きな振り幅で揺れていた。

 

「さっき、離さないって言ったばかりじゃない」

「でしたね⋯⋯」

 

 いいのだろうかと、未だに思う。

 触れる事を許されてしまって、彼女の気持ちをそのまま受け取ってしまって、それが本当に正しいのか、分からない。

 それでも俺は、一歩踏み出した。自らの意思でそうする事が出来たのは、彼女の言う通り進歩だと思う。

 

 俺はそっと、繋がれた手に力を込めた。

 雪乃は前を向いたまま、同じ強さで握り返す。

 

 その手の熱さはしっかり俺の胸の真ん中まで届いて、冷めないカイロみたいに心を温め続けていた。

 

 





 以上、ディスティニーデートの回でした。
 あんまり関係無いのですが、俺ガイル原作では「ディスティニー」と書かれていたり「ディスティニィー」とも書かれたりするんですが、どっちが正解なんでしょうね。

 結衣に後押しされて、一歩を踏み出せた八幡の今後の展開にご注目下さい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一歩進んで、一と半歩下がる。

このお話はあまり本筋とは関連性が薄いので、読んでも読まなくてもストーリー上は影響ありません。
ただ八幡と雪乃をプールで戯れさせよと天啓を得たので書きました。





 色とりどりの光が、水面を綺羅びやかに彩っていた。

 宵闇はとっぷりと辺りを覆い尽くし、それを跳ね飛ばすかのように明るい声がそこかしこから飛び交っている。

 

 ホテルに併設されたナイトプールは盆を越えても盛況で、ぽつねんと一人待つ俺の疎外感をより強調しているように思えた。

 一体何故、こんな所にいるのか。

 理由は単純明快。雪乃とのデートである。ディスティニーランドにデートに行ってからというもの、時折りこうしてデートらしいデートを重ねるようになっていた。

 夏らしいデート、と考えた時に真っ先に思い浮かんだのは海だったが、色々と持ち込む物が多いので車を持っていない俺たちには厳しい。レンタカーを借りても良かったが、そもそも海は暑すぎて俺が無理だ。

 しかし、敢えて有り体に言おう。

 雪乃の水着姿が見たい。見たいったら見たい。裸も見てしまった事があるだろうという話なのだが、ラッキースケベな全開チラリズムと見られる事が意識された局部のみを隠すチラリズムでは、明らかに後者の方がくるものがあると思う(個人の見解です)。

 そこでそれらの制限をクリアしつつ、雪乃の水着姿を見る為に提案したのがこのナイトプールである。最初は雪乃も渋ったが、以前俺とのデートを断るはずがない言っていたのを引き合いに出して何とか了解を取り付けた。目的の為なら手段を選ばない俺が怖い。

 

「お待たせ」

 

 その鈴が鳴るような声に振り返ると、瞬間俺は息を呑んだ。

 ほっそりとした白い脚はまるで写真モデルのように完璧な脚線美を描き、夜の帳を連想させる漆黒の長い髪はシュシュでアップにまとめられている。そしてその上半身は――。

 

「おう⋯⋯。その、なんでパーカー?」

「パーカーじゃなくて、ラッシュガードよ」

 

 雪乃は上半身から腰の辺りまで、水色のラッシュガードでその素肌を隠していた。ちらりと見えるボトムの形からでは、それがワンピースなのかビキニなのかは分からない。脚だけ素肌見えてるのもやたらと悩ましくていいのだが、出来る事ならその全容を見たい。見たいったら見たい。

 

「夜だから、日焼け対策は要らんだろ」

 

 ラッシュガードとは本来体温の低下を防ぐ意味もあるらしいが、ここ東京はまだまだ暑い。それに夜だから当然日焼け対策など必要ないはずだ。

 俺が言うと、雪乃は短く息を吐いて顔を顰める。

 

「そうなのだけど⋯⋯。人目に晒すのは、ちょっと」

 

 えぇ⋯⋯。じゃあなんで今日の為に水着新調してくれたんでしょうか楽しみにしていたのに。

 俺が心情を隠し切れない目で見ていると、雪乃はぽしょぽしょと補足する。

 

「⋯⋯大学の時に、みんなで海に行ったことがあるの。その時にちょっと、注目を集めすぎてしまって」

「ああ⋯⋯。うん、まあ、見るだろうな」

 

 みんな、というのは恐らく由比ヶ浜や一色の事だろう。彼女たちのスタイルの良さは服の上からでもよく分かるが、そんな中にあっても雪乃の水着姿は目立ってしまったらしい。というか多分そのメンバーなら雪乃だけではなく、三人ともそこらの視線を集めて止まなかっただろう。俺なら確実に目の動きだけでガン見して脳裏に焼き付け、後から見過ぎだと怒られるまである。バレちゃうのかよ。

 

「浮き輪は借りて来てくれたみたいね」

「ああ」

 

 この話は終わり、とばかりに雪乃が言うと、俺もこれ以上言及するのは止めて頷いた。雪乃の水着姿を見るのを諦めた訳ではないが、下手に食い下がって頑なになられても困る。

 行きましょうか、と言って先に雪乃は歩き出す。雪乃がプールサイドに立ってこちらを振り返った瞬間、俺は彼女のその身体に大型の浮き輪をかけた。雪乃は反射的に浮き輪を落ちないように持つと、まるで極太のフラフープに身体を通しているみたいな格好になる。

 

「⋯⋯私だけ?」

「いやまあ⋯⋯。俺は掴まって浮いてるからいい」

 

 俺の答えに少しだけ不満そうな顔をすると、雪乃は静々とプールに入る。レンタルした大型の浮き輪は細身の雪乃には大き過ぎるようで、サイズの合わない服を着せられた子どもみたいな可愛さがあった。

 正直俺も一緒に入れないサイズではないのだが、そうすると確実にめちゃくちゃくっついてしまう。そうするのはやぶさかでは無いのだが、色々まずい事になりそうだから自重しておく事にする。

 俺もプールに入ると、宣言通りに雪乃が使っている浮き輪に掴まった。ナイトプールは水の中からも外からもライトアップされ、その特別感を上手く醸成している。

 ⋯⋯けどこれ、どうしたものだろう。俺が拝むのはラッシュガードという名のパーカーに秘匿された雪乃の背中。ずっとプールの(すみ)に居るのも邪魔なので取り敢えず浮き輪を押して空いている場所を漂ってみるのだが、これがナイトプールの楽しみ方で合っているのだろうか。ぐるりと周りと見渡して見ると、派手なビキニを着た女の子たちがぐっと腕を伸ばして自撮りに夢中になっている。

 

「せっかく来たんだし、私たちも撮りましょうか」

 

 そう言って雪乃は、何やらもぞもぞとパーカーのチャックを下ろす素振りを見せる。何、ようやく水着見せてくれる気になったのん? と覗き込むと、パーカーの内ポケットから防水ケースに入れた携帯を取り出すところだった。

 そして一瞬、見えてしまった。ボトムと同じで、その身を包むのは黒だ。全容が明らかになっていないので、やはり水着のタイプは分からない。ついでにふにょんと形を変えたささやかながらも柔らかそうな丘陵まで見えてしまって、とくんと心臓が跳ねた。童貞かよ。

 

「もうちょっと寄れる?」

 

 雪乃は携帯の画面を確認すると、ちらと俺を振り返る。(よこしま)な考えや視線には気付かれてないはずだ、多分。

 言われた通りにぐっと身体を寄せると、画面の中で気持ち俺の顔が大きくなる。

 

「これでどうだ?」

「まだ私ばかり映るわね。やっぱりあなたもこっちに入って」

 

 雪乃はそう言うとぽんぽんと浮き輪をタップした。簡単に言ってくれるが、言われた通りにすると妙にくっついてしまう事になる。

 

「⋯⋯一旦浮き輪から出たらどうだ?」

「それでもいいけれど、どうせくっつくのには変わりないわよ」

 

 どうやら俺が何に抵抗を覚えているのかはお見通しのようだ。まったく一方的に理解があるというのは、言い訳も何もかも予想され尽くしてしまうので困る。

 周りを見ても浮き輪は大きい物がほとんどで、カップルはもちろん女の子同士でも一緒に入って使っている姿ばかり。っていうか人の見てるとすげぇバカップルっぽいなと思うんだけど、マジでこれやんの?

 

「早く」

「はい⋯⋯」

 

 もう一度浮き輪をタップされ、俺も遂に観念した。というか、最初からそうすべきだったのだ。少なくとも俺は、ちゃんと雪乃と向き合おうと心に決めたのだから。

 浮き輪を少し持ち上げてその中に入ると、プールの中で太もも同士が密着する。雪乃はそれに反応する様子もなく、またぐっと腕を伸ばしてインカメラのプレビューを見ていた。

 

「もう少しこっちに」

「はい⋯⋯」

 

 ぶっちゃけもう画面には二人ともちゃんと収まっているのだが、雪乃さん的には構図が今一つらしい。ほとんど雪乃の肩を抱くのと変わらない近さになると、「撮るわよ」の一言の後にシャッター音が響く。

 雪乃は撮りたての画像を確認すると、むふーっと満足そうな顔でそれを見ていた。なんだこいつ可愛いの塊かよ。

 写真を撮り終わってそそくさと浮き輪から出ようものならまた呆れられるのは分かり切っていたので、そのまま浮き輪に掴まって色鮮やかに照らされる水面を揺蕩(たゆた)う。雪乃はまたパーカーの内ポケットに携帯を仕舞うと、くるりと浮き輪の中で身を回してこちらを見た。そのまま何を言う訳でもなく、俺の顔を見て静かに微笑む。

 

「なあ、それ脱がないのか?」

「⋯⋯正直、今更じゃないかしら」

 

 少しの逡巡の後に、雪乃はそう言った。しかしわざわざナイトプールに来ているというのに水着姿を拝ませて貰えないとは、生殺しもいいところだ。

 

「プールの中なら、脱いでもそんなに見られんだろ」

「それは、そうかも知れないけど⋯⋯。そんなに見たいの?」

「見たい。見せてくれないならせめてワンピースかビキニかだけ教えてくれ」

「急に素直になったと思ったらただの変態発言ね⋯⋯」

 

 雪乃はこめかみを押さえるが、別に下着の色を教えてくれと言っている訳じゃない。ちなみに雪乃の持っている下着は黒は一着だけで後は淡色系が多い。八幡、洗濯物干してるうちに覚えちゃった。

 

「はぁ⋯⋯。分かったわよ。でもここだと、やっぱり人目が気になるから⋯⋯」

 

 すい、と視線をスライドさせて、雪乃はプールサイドの方を見た。その奥を見れば、休憩用の建物の間でコの字の空間が出来ている。

 視線の意図を汲み取ると可及的速やかにプールサイドへと移動し、二人して陸に上がった。一瞬ライトアップされた雪乃の細い脚に視線を奪われそうになるが、見過ぎて機嫌を損ねたくないので意思の力でそれを剥ぎ取る。

 

「さっきから見過ぎよ」

 

 コの字の空間に入ると、雪乃は目を細めてそう言い放つ。全然隠せてませんでしたね、はい。

 

「正直、あなたの目を見ていると見せる気が失せてきたのだけど⋯⋯」

 

 と、そう言いながらも雪乃はゆっくりとパーカーのチャックを下ろし始める。少しずつと露わになっていく、雪乃の白い肢体。自ら、しかも焦らすようにゆっくりとほとんど半裸と言っていい姿を曝け出すその行為は、生唾ごっくんどころか生唾ごくごくものだ。俺は手を差し出してパーカーを雪乃から受け取ると、正真正銘、混じりっけなしの水着姿を堪能する。

 

「ど、どうかしら⋯⋯」

 

 そう言って雪乃は右手で左肘を持ち、うら恥ずかしいのかその身を捩る。

 雪乃の身を包むのは、黒のビキニだった。

 なだらかな肩。その下の鎖骨からは艶かしく水滴が滴り、決して深くはないが美術品のような谷間に滑り落ちていく。身体のどこにも無駄な脂肪は無く、腰のくびれが作る曲線美は完璧なカーブを描いていた。

 およそ全ての理想を詰め込んだかのような、究竟のスレンダーボディー。それが最小限の黒い布地だけで守られている姿を見て、俺の感想はとてもシンプルな物になる。

 

「いい⋯⋯」

 

 語彙力を完全に消失した俺は、ドーラ一家の次男が如くその感動に打ち震えていた。一体何を言えばこの地上に舞い降りし女神の全貌を伝えられるのか、物書きの端くれのくせに(ろく)に思いつきやしなかった。

 

「うわ、見て」

 

 いい加減見詰め過ぎて、雪乃がもじりだしたその時だった。不意にそんな声が聞こえたのは。

 一気にアクセルが踏み込まれる思考。しかしそれよりも早く、俺は雪乃を壁に押し付けるようにして彼女の身体を隠していた。

 

「いいねもう五○いったんだけど。ヤバくない?」

「えーすご。誰が見てる?」

 

 明るい声がすぐ近くを通り、やがて遠ざかっていく。ナイトプールの喧騒が耳に戻ってくると、それよりも心臓が早鐘を打つ音がうるさく聞こえた。

 

「あ、の⋯⋯」

 

 今の状況は、誤解を承知で言うなら壁ドンの格好に近かった。ただし、壁ドンなんて距離ではなく、俺の身体は雪乃の身体に密着しており、言わば壁プレスである。胸板に感じる柔らかさから心臓の高鳴りが伝わりやしないかと思うぐらいに、何もかもが近い。鼻がくっつくぐらいの距離で見る雪乃の顔は、一体いつからそうなっていたのか真っ赤と言っていい程に紅潮していた。

 

「あ、ありがとう⋯⋯。もう大丈夫だから」

「あ、ああ⋯⋯。その、急にすまん」

 

 そっと身体を離すと、雪乃にパーカーを渡す。それに袖を通す姿ですら直視できなくなって、俺はずっと光の揺らめく水面を見ていた。

 

「あの⋯⋯」

 

 その言葉に雪乃へと視線を戻すと、彼女はパーカーを羽織ったまま前をはだけさせていた。自らの身体をかき抱くような仕草のお陰で、その柔らかい部分が二割増しに大きく見える。

 

「まだ、ちゃんとした感想を聞いていないのだけど」

 

 恥ずかしいのか顔が少し伏せられている所為で、雪乃は上目遣いになる。緩やかに心拍数を下げていた心臓は、また鞭打たれたかのように走り出す。

 いい、なんて一言では、雪乃は納得してくれないらしい。けれどこの感動をなんと伝えればいいのか、未だに最適な言葉が見つからなかった。

 それでもようやく戻ってきた語彙で、伝えるしかない。恥ずかしそうな態度を、完全に払拭し切るまで。雪乃が自分の真の価値を、完璧に理解できるまで。

 

「雪乃、すごく──」

 

 

 

 

 明るい雲の間にぽかんと浮かんだ月は、口を開けて笑っているようだった。

 高層ビルの間を抜ける風は涼やかとは言えず、強いて言えばぬるやかに俺たちの間を駆け抜けていく。ずっと水中にいた所為か、どこか身体は重く、まだ夜も十時を回っていないというのに強い眠気を感じる。

 

 結局あのあと閉場時間ギリギリまで、俺たちはナイトプールに滞在し続けた。ただプールで浮いているだけの時間は意外にも早く過ぎ去って、少し名残惜しいぐらいだ。そんな風に感じるのはきっと、というか間違いなく隣を歩く人が居たからだろう。

 

 当の本人は薄ぼんやりと笑う月を時折り見て、夜闇に包まれた道に視線を戻すのを繰り返している。

 俺との距離は、半身分と言ったところだろうか。偶に手と手が触れ合うが、それ以上の事は起こらない。これではディスティニーランドに行った時より、後退しているではないか。一歩進んで二歩下がるとはこの事だ。

 そう考えると、やはり夢と魔法の国の効果は凄い。あの国では誰もが主人公になって、一歩踏み出す勇気を貰えるのだ。

 

「なあ」

 

 けれど、俺は。

 今度は私があなたを助ける番と言った彼女の言葉を鵜呑みにするつもりは無い。彼女に任せっきりでは、不実に過ぎるし本意じゃないから。

 

「前もこんな風に、プールに行ったりした事はあるのか?」

 

 僅かに俺の方に身体を向けた雪乃に問いかけると、雪乃は柔らかな微笑みを浮かべて答える。

 

「あるわよ。ナイトプールは初めてだけれど」

 

 その答えに少し安心して、やはり少し悔しくなる。その気持ちをかき消すように、俺は雪乃の手に自らの手を伸ばした。

 俺に触れられた雪乃は、びくっと僅かに指を反応させる。次の瞬間手を握ろうとした俺の手から逃れ、代わりとばかりに小指同士を絡ませてきた。

 

「こうやって初めてのことを積み重ねていけるのが、とても嬉しいの」

 

 指切りげんまんでもするみたいに小指と小指を繋いだまま、雪乃は前を見て言った。ああ、しまった。このままでは、全部言われてしまう。けれどそれも、答え合わせをするみたいで悪くない。

 

「だからこんな風に、また出掛けましょう。行ったことのない場所に行って、やったことのない事をするの」

 

 ああ、と頷くと、雪乃は「約束」と言って微笑んだ。

 手を握る事は叶わなかったが、これはこれできっといい。

 一歩進んで、二歩下がる。それでもそこから半歩でも一歩でも踏み出せるのなら、彼女とこうして美しく歩んでいける。

 

 これは予想や希望なんかじゃなくて、約束なのだから。

 

 




 という事で八幡と雪乃がナイトプールに行くお話でした。

 社会人になっていてかつ東京に住んでいたら、ナイトプールというのもアリだよなぁ⋯⋯と。

 気付いた方もいるかも知れませんが、パーカーの下りは私の大好きな作品『やはり俺の社会人生活は間違っている(kuronekoteruさん作)』のオマージュです。
 シチュエーションは違いますが、焦らして見せるのって絶対ドキドキワクワクすると思うのです。

 少しずつ進んでいく物語。引き続き楽しんで頂けたと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

誰も彼もが、それぞれの人生を歩んでいる。

 年の瀬も近くなると、心なしか街行く人々の足音も慌ただしくなってくる。ハロウィンシーズンが終わったと思えば、あっという間に街は赤と緑の比率が増え、段々とクリスマスムードが色濃くなってきた。

 (こよみ)はもう十二月、師走である。

 師走の語源には諸説あるが、一説によると師走の師とは僧侶の事であり、昔は年末になると家に僧侶を呼んでお経を上げてもらう風習があったらしい。忙しくしている現代人がみんな僧侶ならもう少し世の中のギスギスも解消しそうなものだが、残念ながら本職の僧侶ですら犯罪に手を染めたりするのが今の世の中だ。もちろん、一部の人間だけではあるが。

 

 

 

「みんなーっ! ありがとーっ!」

 

 ステージの上からそんな声が降り注ぐと、野太い声がライブハウスを揺らした。怒号のようなそれに見送られながら、彼女はぺこりと大きくお辞儀をすると、手を振りながらステージを後にする。

 ここ東京にはライブハウス――通称ハコがいくつもあるが、騒音の問題からか小さな会場は地下に作られている事が多い。地下のハコを使って活動するインディーズアイドル、それが地下アイドルの語源となったらしいが、それならインディーズバンドは地下バンドと呼ばれて然るべきじゃないかと思わないでもない。

 

 俺は肩から下げていたデジタルカメラを背中に背負い直すと、会場を出て演者の控え室へと向かう。関係者を示すシールをズボンに貼り付けてあるが、小さなハコにはわざわざそれをチェックする人員もいない。通路を狭めているアンプやスピーカーといった機材を避けながら控え室に辿り着くと、こんこんと開けっ放しの扉をノックする。

 

「どうぞー」

 

 入室を許可されると、俺はカメラのグリップをひっつかんで控室に入る。そこにいるのは先程まで華麗に歌い、舞い踊っていた地下アイドル・カラフルゆめみだ。

 

「あ、先輩。お疲れ様でーす」

「ちょっと待った、そのまま」

 

 そう言って汗を拭こうとしたカラフルゆめみこと一色いろはの動きを制すると、額の汗と瞳にフォーカスが合うように一枚写真を取った。再生画面を確認すると、うんと頷いて彼女の前にあった丸椅子に座る。

 

「すまん、もういいぞ」

「あぁ、はい。⋯⋯なんか先輩に写真撮られるのって、不思議な気分ですね」

 

 一色は化粧が落ちないようにか、ぽふぽふと押し当てるように額から滲み出てくる汗を拭いていく。

 一色のライブを観に来るのは、今日で二度目だ。一度目は由比ヶ浜の提案通り、俺と雪乃と由比ヶ浜、それに小町も誘って観に行った。では本日の位置づけはと言うと、夏頃に公開したカラフルゆめみのネット記事の好評を受けて、追加取材という事になっている。

 あの記事の公開からお客さんの入りが倍近くになったというのだから、俺も書いた甲斐があるというものだ。今日もキャパの小さな会場というのもあるのだろうが、満員の客入り。歓声は前に見に来た時よりも明らかに力強くなっているのだから、彼女の人気の上昇ぶりがよく分かった。

 

「マネージャーさんは?」

「物販でグッズ売ってます。取材内容はおまかせでいいそうです」

 

 しかしまだメジャーには遠いのか、本日もマネージャーさんはライブを運営する一要員としてきりきり舞いらしい。

 俺は予め用意しておいた質問を一色に投げかけると、彼女はすっかりとカラフルゆめみになって答えていく。明らかに作り物のそのキャラクターはあざとく、しかし作り物ではない可愛さと相まってクセになる。そんな彼女の魅力にファンたちの熱は冷めやらぬのか、熱狂は喧騒となって控室にも聞こえてきていた。

 

「さて、わたしはそろそろ会場に戻ります」

 

 取材が終わると、一色は椅子から立ち上がる。ファンの出待ちは会場付近の迷惑になるから、ライブが終わって暫くした後に会場で交流の機会を作っているらしい。流石にその様子までは取材許可を取っていないから、今日の仕事はこれでお終いだ。

 

「ところで、先輩?」

 

 俺が立ち上がると、何故か一色は控室から出る事なくこちらを見詰めてくる。俺が不思議に思っていると、彼女は少しだけ真面目な表情になった。

 

「雪乃先輩にはクリスマスプレゼント、用意するんですよね?」

「ああ⋯⋯、うん、まあ⋯⋯」

 

 俺は一応肯定とも取れる返事を返すが、その言葉はあまりにも頼りなかった。

 もちろん、贈るべきだとは分かっているし、贈るつもりもある。しかし何を渡せばいいのか、全くアイデアがなかった。雪乃の身の回りを見ても不足する物は何一つとして無かったし、ちょっといい雑貨や家電を贈るというのも違う気がする。

 

「ちなみに知っていると思いますけど、雪乃先輩の誕生日は一月三日です。プレゼントはまとめちゃ駄目ですよ」

「分かってるよ」

 

 そう、その上その直後に彼女の誕生日まであるのだ。これがまた悩ましいところだった。

 

「ちなみに一色、知ってたらでいいんだが、去年は――」

「あーあーあー、わたしは知りませんし、知ってても言いませんよ。なんでか分かります?」

 

 一色はてくてくと控室の出口の方へ歩くと、くるりと振り返って小首を傾げる。実にあざとい仕草だが、その目は真面目に答えろと言っていた。

 

「さっぱり分からん。なんでだ?」

「諦めるの早⋯⋯。そんなの、決まってるじゃないですか」

 

 そう言うと一色はまるでファンサービスでもするみたいに、ぴっと人差し指を俺に向けて自信満々な笑顔を作る。

 

「それは今の(・・)先輩が選んだ物を贈って欲しいからです。ちなみに今わたしが欲しいのはパルミューダのスチームトースターです!」

「あー、はい⋯⋯。うん、そうね。最後のはファンにお願いしたらいいんじゃないの」

「それはわたしのプライドが許しません。ファンから貰いたいの声援と応援、先輩から貰いたいのは家電です」

 

 なんじゃそりゃ、と呆れていると、一色は「じゃあ行ってきますねー」と言い捨てて控室を後にした。

 残された俺は、控室にぽつんと一人。

 未だプレゼント選びに関してはヒントもなければ、地図も羅針盤も何もない。ただ一つ、一色の『今の俺が選んだ物』という言葉だけが、静かに心を漂っていた。

 

 

 

 

 翌日の月曜日。

 俺は午前中に家事を終わらせると、午後から銀座に繰り出していた。

 贈り物を選ぶには事欠かないし、ここなら雪乃に似合うものも見つかるだろう。当然買う物やブランドによっては相当なお値段になるが、普段雪乃の身につけている物のレベルや似合うかどうかを考えたら銀座しか選択肢として出て来なかったのだ。

 そんな訳でいくつかの店に入って見たのだが、当然ながら有名ブランドも新興ブランドも場所柄そこそこのお値段はする。しかしありがたい事に、過去を思い出せなくなる前に出版した本の売上は好調だったし、日銭以上の稼ぎはあった。だから雪乃の事だけを考えて、喜んでくれるかどうかのみを気にして選んだらいい。

 

「いらっしゃいませ」

 

 誰もが聞いた事のあるブランド店を、ひたすらにはしごする。慇懃(いんぎん)な声に迎えられるのも、今日で五度目だ。

 鞄、財布、アクセサリー、コスメ。正直どのブランドも信じられないぐらい瀟洒(しょうしゃ)で、物によっては豪奢すぎるほどだ。何を贈っても、雪乃ならその魅力を引き立てる一つとして取り入れてくれるだろうし、似合うとも思う。

 しかし、だからこそ余計に決められない。デザインはとりあえず置いておくとして、何を贈るかぐらいは決めないと。

 

「お客様。宜しければ、お探しもののお手伝いをさせて頂きます」

 

 イヤリングのショーケースの前で声にならない唸りを上げていると、そんな声が背後から届いた。無為に振り返ると、髪をアップにまとめた女性店員がいる。やはり有名ブランドともなると、店員の容姿もこだわりと言うか選出される基準もあるのだろう。ひと目見て美人と分かるその店員は、どうしてだか俺の顔を見るや否や「え、ヒキ⋯⋯」と声を上げて目を見開いた。

 なんでぇ⋯⋯その反応。ひょっとして格好からヒキコモリだと思われたのだろうか。確かに仕事場的にはヒキコモリだし、しかし身なりにはそれなりに気を使っているつもりだっただけに、その反応はショックだ。

 

「⋯⋯ええ。クリスマスプレゼントに何がいいか、迷ってるんですが」

 

 しかしその提案は門外漢の俺にとって、垂らされた蜘蛛の糸に等しい。決めかねているなら、いっその事その道のプロに尋ねるのが一番正解には近づけるのだろう。

 

「失礼ですが、お贈りする予定の方とはどのような関係になるのでしょうか?」

 

 少し派手目のメイクの彼女は、こそばゆいぐらい丁寧な言葉遣いでそう訊いてくる。

 しかしその質問には、どう答えるべきだろうか。色んな呼び方が頭に浮かんでくるが、恐らくは対外的に一番分かりやすくて語弊のない言い方をするなら、こうなるだろう。

 

「一応、婚約者、という形になるんですが」

「それはおめでとうございます。宜しければなのですが、ご婚約者様のお写真を見せて頂ければ、私共でお力添えできるかも知れません」

「あ、はい。お願いします」

 

 有名ブランド店ともなると、そこまでしてくれるものなのだろうか、俺は携帯の画面を開くと、雪乃の顔がよく分かる写真を選んで女性店員に見せた。彼女は写真の中で微笑む雪乃をまじまじと見ると、ふっと破顔して親密な声で言う。

 

「綺麗な方ですね」

「ええ、そうなんですよ」

 

 言った直後、しまったと思った。これでは思いっきり惚気(のろけ)ではないか。

 しかし彼女はよくある事なのか気にした様子もなく、既にショーケースに視線を移して商品の選定に入っている。

 

「こちらのデザインであれば、ご婚約者様によくお似合いだと思うのですが」

 

 台座ごと差し出されたのは三つのリングが重なった、所謂(いわゆる)トリニティデザインと呼ばれるタイプのイヤリングだ。写真の中のフープ型のデザインと少し似ているが、色も印象もまるで違う。イヤリングを買うと決めて見ていた訳ではないのだが、頭の中でそのイヤリングを装着した雪乃をイメージすると、これしかないのではないかと思うぐらい彼女に似合っていた。

 

「いいですね。これにします」

 

 俺の即決に驚く素振りすら無く、店員の女性はありがとうございますと丁寧に腰を折った。こんなに早くしっくりくる物が見つけられたのだ。こちらこそありがとうございます、と返すと、彼女はさっきよりも自信に満ちた顔で言った。

 

 

「きっとご婚約者様も、お喜びになられると思います」

 

 

 

 

 プレゼントを買い終えると、俺は銀座の街を駅に向けて歩いていた。

 相変わらず綺麗な街並みで、行き交う足音だけが雑多なところだ。さっきからずっと頭を使い、歩き回っていた所為か小腹が空いてきている。どこか店に入って甘いものでも食べようか、と視界に入ってくるカフェに注意を向けていると、その店内によく見知った顔が見えた。

 雪乃――。

 聞こえるはずもないのにその名前が口を()いて出そうになって、しかし次の瞬間目に入った光景に俺は言葉を失った。彼女の真向かいの席に、スーツを着た男が親しげに話しかけながら座ったのだ。同じくスーツ姿の雪乃は薄っすらとした微笑みをその男に向けると、いつも通り優雅な所作でカップを傾ける。

 男の容姿はどう見ても普通以上で、有り体に言えば一切の隙がないイケメンだった。窓越しに見るその光景は正に美男美女のカップルだ。似合いすぎて、――少し息がしづらくなる。

 二人の格好からして、恐らくは仕事上の付き合いなのだろう。彼女の微笑みだって、きっと俺以外の男に向けられる事だって多々あったはずだ。

 それなのにどうして、ここまで俺は動揺してしまっているのだろう。どうしてここまで、胸の中が淀んだ黒に染まっていくのだろう。さっきまで感じていた食欲は完全に失せ、ごろごろとした不快感だけが胃の中を転がっている。

 しかしそうして、見すぎてしまっていた所為か。――雪乃は俺に気づくと窓に寄ってきて、手招きをしながら口をぱくぱくと動かした。

 そこまでされて見なかった振りなど出来るはずもなく、俺は入口にまわって店内に入る。出迎えてくれた雪乃は、さっき見たよりもずっと素敵な微笑みを俺に向けた。

 

「こんなところで偶然ね。今日も取材?」

「ああ、いや⋯⋯。ちょっとぶらついてただけだ」

 

 雪乃は席に座ると、隣の椅子を引いてそこに座るように促してくる。着席すると当然、斜め向かいに座った件のイケメンと相対する事になる。

 

「久しぶりだな、比企谷」

 

 男はどこか親しげにそう言うと、爽やか過ぎるほどの笑みをこちらに向けてくる。久しぶり、という事は、彼は俺の知人であるらしい。もちろん今の俺にとってみれば思い出す事のできない、初対面の男になるわけだが。

 

「葉山くん。さっきも話したけれど⋯⋯」

「分かっているさ。⋯⋯けどどうしても、『はじめまして』とは言いたくなくてね」

 

 葉山と呼ばれた男はそう言って笑顔を引っ込めると、酷く淋しげな微笑みを浮かべる。そんな表情をするという事は、俺と親しかった一人になるのだろうか。毎度の事ながら再会したのに始めましてという展開には、妙な心苦しさがある。

 

「ああ⋯⋯。何というか、すまない。思い出せなくて」

「謝らないでくれ。雪ノ下さんの事まで忘れてしまってるんだ。不可抗力だよ」

 

 彼はコーヒーを一口飲むと、近くを通りがかった店員を呼び止める。俺がコーヒーに砂糖とミルクを付けるように注文すると、彼はこちらに向き直った。

 

「俺は葉山隼人。君とは高校で二年、三年と同じクラスだった同級生だ。今は親の弁護士事務所を継ぐ形で弁護士をしている。今日は雪ノ下さんとクライアントが一緒になって、仕事の打ち合わせをしていたところさ」

 

 きっと葉山の方も、店外から見ていた俺の視線に気付いたのだろう。状況を説明しながらさらりと誤解を解いてくるとは、どうやら出来るイケメンらしい。

 それにしても企業の顧問弁護士に、コンサルタントか。まるでドラマの設定みたいだが、そう言う俺もノンフィクション作家などという特殊な職業だ。華やかさには欠けるが、つまらない職業ではない。

 

「ついでに言うと、私と彼は幼馴染という事になるわ。あなたと葉山くんは⋯⋯親友? ということでいいのかしら」

「まさか。そんな風に思われたことは一度もないはずだよ」

 

 あくまで自分目線の意見は言わずに、葉山は仮面のような微笑みを顔に貼り付けている。担当編集の材木座といい、俺のまわりは絆が強いようで妙に拗れた付き合いが多いし、何とも癖の強い男ばかりだ。いや男友達と呼べる人で言えば入院中に見舞いに来てくれた戸塚は別格だったな。あれ以来会っていないが、なんであんなに可愛いんだろう。男なのに。

 

「そう。私には少なくとも、親友同士に見えていたけれど」

「それは嬉しいやら悲しいやら、複雑な気分だよ」

 

 静かに届いたコーヒーに、俺は砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。

 昔を懐かしむ声と、郷愁を帯びた表情。

 それが消えて無くなればいいと思いながら、白と黒の境目がなくなるまで、俺はコーヒーをかき回していた。

 

 

 

 

 カフェを出たところで葉山と分かれると、俺たちは駅に向けて歩き出した。見上げればビルの窓ガラスは鏡面のように空を写し込み、濃紺の中に橙の灯りを灯している。

 吹き抜けた風はさっきよりもずっと冷たくて、思わず肩を窄めた。それを横目で見ていたのか、雪乃はくすりと小さな笑みを零す。

 

「一気に冷えてきたわね」

 

 ああ、と小さな声と一緒に頷きを返すと、ダウンジャケットのポケットに突っ込んでいた手を外に出した。

 ぷらんぷらんと、手持ち無沙汰。

 雪乃はその細い身体に似合わず寒さには強いのか、手袋もつけないまま歩いている。あるいはその手は、何かを待っているのだろうか。

 

「なあ」

 

 そっとその手を握る。雪乃の手に強張りはみられない。それに少しだけ安心して、俺は言葉を続けた。

 

「その、さっきの葉山って⋯⋯」

 

 けれどまるで目詰まりを起こしたフィルターみたいに、その先は出てこない。否、言いたくないという気持ちが、全てを堰き止めてしまっていた。

 雪乃は俺の顔を覗き込むと、くてんと小首を傾げて続きを促してくる。なんでもない、なんて言葉で逃げそうになる俺を、そのあどけない表情が遮ってくる。

 こんな事を訊くなんて、本当に無粋だしどうしようもない。否定してくれるのを願っていて、もし肯定された時の覚悟なんて何一つ決まっていないのに、それでも俺は知りたいと願ってしまっている。

 

「ひょっとして、元彼だったりするのか?」

 

 雪乃は俺の言葉を聞き届けると、ぱたりと歩みを止めた。そのまま歩みを進めていた俺の手と手が離されて、絶望的なまでの寒さが手のひらを撫でる。

 

「⋯⋯っ」

 

 雪乃は何かに耐えかねたかのように、その場にしゃがみ込んだ。寒さが瞬時に、俺の心の奥まで染み渡って来る。

 俺は、どうして興味という底無しの欲望に抗えなかったのだろう。知らなくていい事を、どうして知りたいと思ってしまったのだろうか。

 冴え冴えとした空気の中で、俺の心は大敗を喫した古戦場の跡地が如く酷い寂寥に満ちていた。

 

「雪乃⋯⋯」

 

 異常だ、こんな感情は。

 こんな綺麗な女性に、俺以外の恋人がいなかったなんて、そんな訳がない。当たり前じゃないか、そんな事。ショックを受ける方が、絶対に、おかしい──。

 

「八幡」

 

 雪乃は目尻に雫を溜めながら、俺の真正面に立って正視してくる。思わず、目を逸らしてしまいたくなった。それでも俺は現実を受け止めようと、雪乃の目を真っ直ぐに見返す。

 

「あなたが入院している時に言ったことを、忘れたのかしら。私が好きになったのは、生涯であなただけ。恋人として、婚約者として過ごしたのも、あなただけよ」

 

 最後までその言葉を聞き届けた俺の顔は、きっと酷く間抜けな顔をしていただろう。口をぽかんと開けたままの俺の手をギュッと握ってくると、雪乃は続けた。

 

「でも少し⋯⋯。いいえ、凄く嬉しいわ。あなたがここまで分かりやすく嫉妬してくれたの、初めてだから」

 

 雪乃に手を引かれて、再び俺は歩き出す。冷たい空気、濃く蒼い空の下を。

 

「ねえ、八幡。最近言っていなかったから、ちゃんと言うわね」

 

 雪乃は俺の手を握ったままそれを胸の高さに持ち上げると、少しだけ恥ずかしそうに言う。

 

 

「あなたのことが、大好きなの。誰よりも、何よりも、一番」

 

 

 そう言って笑った雪乃の顔は、きっと宇宙から見た地球よりも美しくて。

 俺は鼻がつんとなってしゃがれそうな声の代わりに、きゅっと強く彼女の手を握り込んだ。

 

 




 というわけで、少し季節は飛んで十二月のお話でした。
 次回はクリスマスの話になります。

 引き続きよろしくお願いします!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思い出と、クリスマスと、これから。

 ぽつり、ぽつりと、

 その小さな光の粒はグラデーションを描くように、点灯と消灯を繰り返していた。

 

 リビングに置かれたクリスマスツリーの高さはおよそニメートル。流石に大き過ぎるんじゃないかと雪乃に言ったら、あなたが買ってきたのよと返された。昔の俺は頭が沸いていたとしか思えない。

 気付けばもう十二月の二十四日。クリスマスイブその日だ。普段無宗教であるはずの多くの日本人が、それなりに盛り上がる日。その御多分に漏れず、本日の晩御飯は雪乃さんお手製の豪華ディナーだった。

 

「八幡、できたわよ」

 

 キッチンの方からそんな声が届くと、俺は皿に餌を入れられる音を聞きつけたにゃんこの如き速さで食卓に向かう。普段と違って真っ白なテーブルクロスが敷かれたダイニングテーブルには、誕生日や来客時などの特別な時しか使わない銀のカトラリーが並んでいた。

 テーブルの中央にはグリルされたチキンが鎮座し、色彩豊かなサラダの上にはローストビーフが横たわっている。黄金色のコンソメスープの横に並べられたバゲットはまだ温かく、ホタテとトマトにかけられたジェノベーゼソースが良い香りを放っていた。

 

「めっちゃくちゃ美味(うま)そうだな」

「謙遜なしに答えるなら、今年も自信があるわ。さあ、どうぞ召し上がれ」

 

 いただきます、と声を合わせると、待ての解かれた犬の気持ちになってまずはローストビーフとサラダを食べる。続いてコンソメスープ、バゲット。普段よりもじっくり時間と手間をかけた料理はやはりとんでもなく美味で、料理に伸びる手が止まらない。

 

「どう?」

 

 むぐむぐと咀嚼しながら、そう言えばまだ味の感想を言っていないのに気が付いた。それぐらい、俺は雪乃の料理に夢中になっていたらしい。

 

「俺は今、地球上で一番美味いクリスマスディナーを食べている、世界一幸運なやつだ」

「⋯⋯その誉め方は今までで一番ね」

 

 雪乃はそう言うと、安心したように口元を綻ばせる。芝居がかった言い方に突っ込みが無かったのは寂しいが、俺の感想はちゃんと伝わったようだった。

 

「俺って毎年、世界一の料理を食べてたのか?」

「レストランに行った時もあったけれどね。その年の一番は、シェフに譲りましょうか」

 

 悪戯っぽく笑いながら、雪乃はグリルチキンを切り分ける。肉汁がじゅわっと染み出したそれを皿に載せると、俺の前に置いた。

 

「早いものね。あと一週間で今年も終わりなんて」

 

 雪乃はそう言ってコップから一口水を飲んだ。今日ぐらいワインや何か飲むほうが料理には合うと思うのだが、彼女も俺に合わせて全然酒を飲まない。そんな生活が今年の始めの方、俺が過去を思い出せなくなってから続いている。

 そう考えると、もう一年近くもこの状態が続いているのだ。最近は思い出さなくてはという焦りすらも薄れてきたが、俺と彼女にとって長い時間が経った。

 何度か病院には出向いたが、健忘症状以外の予後は何も問題ない。記憶に関する事は脳医学の中でも未解明の部分が多く、いつ治るのか、そもそも治る見込みがあるのかどうかすらもはっきり言えない、というのが主治医の話から受けた印象だった。

 そんな状況を一番悲観するはずなのは、雪乃の方だ。それなのにただの一度も俺を責める事なく、ずっと寄り添ってくれたのには感謝なんて言葉では足りない。思い出せない事に関して心の底から謝りたい気持ちもあるが、多分そうする事は自己満足でしかないだろう。

 

「雪乃にとって、この一年はどんな一年だった?」

 

 だから俺は、雪乃に訊いてみたかった質問をぶつける事にした。雪乃は口に含んでいたサラダを嚥下すると、そうね、と顎に手をやり考える。

 

「すごく、新鮮な一年だったわ。あなたの魅力を、再認識した一年だった」

 

 そんな面映い台詞にうっとり見惚れてしまいそうな笑みを添えると、俺の心臓はざわざわと騒ぎ出す。一色もずっと前に言っていたが、雪乃は時々こっちが照れてしまうぐらい直截な表現を使う事がある。きっとそうやって言い切れるのは、彼女が自分の価値観に絶対的な自信があるからだろう。それも彼女の魅力の一つだけど、こちとら言われ慣れていない身からすれば些か眩し過ぎるのだ。

 

「あなたは、どんな一年だった?」

 

 雪乃は満潮のように満ちた笑顔を引っ込める事なく、俺に同じ質問を返してくる。答えなんて決まっていたが、俺にとってみればとても一言で言い表せられる量でも大きさでもない。

 

「俺も、新鮮というか⋯⋯。それだけじゃ伝え切れないんだけど」

 

 思い返せばこの一年、俺にとって全て雪乃を中心にまわっていた。彼女の悲壮な表情が俺に現実を知らしめ、その笑顔に救われ続けた一年だ。

 雪乃の新しい一面を見る度に心にはさざ波が立ち、あるいは大波となって飲まれてしまう事もあった。そんな心の機微を誤解や意図しない解釈を挟む余地なく伝えるのは、食事をしながらでは難しい。

 

「その質問への答えも含めて、雪乃に話がある。飯食って、落ち着いてからでいい。少し時間をくれるか」

 

 雪乃は湛えていた笑みを引っ込めると、もちろん、と呟く。

 それから暫くの間、食卓にはカトラリーと食器の当たる音だけが、静寂と沈黙の間を満たしていた。

 

 

 

 

 二人で一緒に食後の片付けを終わらせると、買っておいたケーキを食べる。その甘さを雪乃の淹れてくれた紅茶と共に楽しむと、もうお腹はパンパンだ。

 人心地つくと俺たちはいつものようにソファに並んで座り、明滅を繰り返すクリスマスツリーを見ていた。電飾は窓に映り込み、東京の街を彩る灯りと混じり合う。どこまでも人工的だが、雪乃と手を繋いで見る景色はひたすら純粋で無垢なものに見えた。

 

「プレゼントが、あるんだけど⋯⋯」

「あら奇遇ね。私もあなたにプレゼントがあるの」

 

 いたずらっぽく笑う雪乃に俺も笑みを返すと、彼女は立ち上がって戸棚から包装紙に包まれた箱を取り出す。言い出しっぺの俺はと言うとさっきトイレに行く振りをして、プレゼントをこっそりソファのクッションの間に隠してある。そっとそれを手の中に忍ばせると、俺たちはソファの両端に座り、若干距離を取りながら向かい合う。

 

「俺から先に渡してもいいか?」

 

 ええ、と頷いた雪乃の前に、小さな箱を差し出した。シルクを思わせる純白の包装紙には、小さな造花があしらわれている。雪乃は産まれたての赤子を受け取るようにそれを両手で迎えると、まだ中身も知らないというのに心の底から嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。開けてみてもいい?」

「ああ」

 

 俺の返事を聞くと、雪乃はほとんど音も立てず、丁寧に包装を剥がし取っていく。やがて見えた小さなジュエリーボックスを開くと、文字通り雪乃は目を輝かせた。

 

「⋯⋯綺麗」

 

 どうやらあの女性店員の見立ててくれたイヤリングは、雪乃の好みにも合致してくれたらしい。雪乃はイヤリングを手に取るとうっとりと眺めた後、今身につけているイヤリングとそれを交換する。

 雪乃はさっきまでその綺麗な耳を引き立てていたフープ型のイヤリングを手のひらにのせると、それを見ながらくすっと笑みを溢した。

 

「やっぱりあなたは、あなたのままね」

「そりゃどういう意味だ?」

「このイヤリングは、去年クリスマスプレゼントにあなたから貰ったものなのよ」

 

 そう言うと雪乃は、今度こそ堪えきれないとでも言うようにふふっと声に出して笑った。その笑みはさっきからずっと彼女の内面を映し出すかのように、無邪気な喜びに満ちていた。

 

「ちなみに異性にイヤリングを贈る意味は、『いつでも自分の存在を感じていて欲しい』という気持ちの表明だそうよ?」

「その解説がなきゃ綺麗に終われたのになぁ⋯⋯」

「否定しない、という態度は、肯定的に受け取っておくわね」

 

 まったく、これだから雪乃には敵わない。

 イヤリングを選んだのは、少なからず潜在的にそんな想いがあったのだろう。ならばそれを否定する由もなく、俺が言うべき言葉は別にある。

 

「まあ、気に入って貰えたなら何よりだ」

「⋯⋯それだけ?」

 

 雪乃は笑顔を引っ込めると、顎を引いてこちらを試すような視線を送ってくる。ともすればあざといぐらいの仕草だったが、彼女がそれをすると(いとけな)さが際立って可愛いとか可愛いとか可愛いとかしか考えられなくなる。やばい頭バグりだした。

 

「あー、その⋯⋯。すげぇ似合ってるな」

「ありがとう。やっぱりあなたに褒めてもらうのが、一番嬉しい」

 

 素直な感想をそのまま言葉にするのは中々に恥ずかしいというのに、対する雪乃は見ているだけで蕩けてしまいそうな笑みを浮かべながらそう答える。付き合いたてのカップルのようなやり取りはひたすらむず痒くて、しかしどこまでも甘い。

 

「今度は私からね」

 

 雪乃はローテーブルに置いていた長方形の箱を手に取ると、はいと両手で差し出してくる。俺はそれを両手で恭しく受け取り、ありがとう、と呟いてしげしげと眺めた。

 

「開けていいか?」

「ええ」

 

 雪乃が頷くのを見届けると、俺は濃紺のどこか重々しい雰囲気を纏った包装紙を破る事なく剥がしていく。姿を現したしっかりとした作りの箱を開けると、タイトルのない荘重な装丁(そうてい)の本が収まっていた。

 

「⋯⋯本?」

 

 俺の疑問の声に、雪乃はふるふると首を横に振った。手に取って開いてみると、ほとんど全ての頁は同じ様式で軸線が書かれている。

 

「いや、日記か。聖書でももらったのかと思った」

「いくらクリスマスとは言え、そこまでもらって困る物は選ばないでしょう⋯⋯」

 

 それは、確かに。もし本当に聖書をもらって「これを読んで清く正しく生きなさい」とか言われたら、うっかり司祭様にジョブチェンジするのを目指してしまうところだった。

 雪乃は呆れ混じりの微笑みを引っ込めると、少しだけ神妙な表情を作る。

 

「よければだけれど、使って欲しいの。あなたと私のことを、書いていって欲しい」

 

 そう言って雪乃は、俺に向けて手を伸ばした。俺はその手を迷う事なく握って、どちらともなく座り直し、身体を寄り添わせた。

 こんなに嬉しくて、──うら悲しいプレゼントが、あるだろうか。

 日記帳の装丁をひと撫でしてローテーブルに置くと、雪乃は俺の肩に頭を乗せてもたれ掛かってくる。

 

「なあ。今まで過ごしたクリスマスのこと、話してくれるか」

「ええ、いいわよ」

 

 雪乃は携帯電話とスカートのポケットから取り出すと、いつものように写真をスクロールし始めた。彼女には時折りこうして、俺の思い出せない過去の話を聞く事がある。ひょっとしたらそうする事で思い出せる事もあるのかも、と期待しての事だったが、いつしかそれは雪乃と俺の気持ちの大きさを確かめる行為になっていた。

 

「これは大学三回生の時、ルミナリエを観に行った時の写真」

 

 雪乃の携帯に映し出された写真の中で、俺と彼女は恥ずかしそうに手を合わせてハートマークを作っていた。背景には幾何学模様のイルミネーションが、荘厳なまでの輝きを纏っている。

 

「こいつ、ハートマークなんて作ってるよ」

「それを言ったら私もなのだけど⋯⋯」

 

 あまりにもバカップルらしい写真に照れ隠しの言葉が()いて出てくると、雪乃は横目で批難めいた視線を送ってくる。しかしそれも一瞬の事で、画面がスワイプされる度に煌びやかな光のアートが現れる。

 

「この日は前に行ったディスティニーの比じゃないぐらいの人で、あなたは近くの駅に着くぐらいからげんなりしていたわね。挙句に写真撮ったらさっさとご飯食べに行こうなんて言うんだから、ちょっと怒ってしまったわ」

 

 それ、本当にちょっとだったのかなぁ⋯⋯。そう思いながら雪乃を見ると、当時を思い出したのか俺の肩にのせた頭をぐりぐりと動かして言外に指弾する。もちろんそんな事をされても、俺にしてみればめちゃくちゃ可愛いなこいつ以外の感想が出てこない。

 

「他には?」

「そうね、別の年のだと⋯⋯」

 

 雪乃はそうして携帯から写真を探し出しては、写真と共に思い出を見せてくれた。どの写真も俺の表情はおおよそ素直な感情表現になっているとは言い難かったが、それでも二人の仲は円満だった事が伝わってくる。

 高校で初めて付き合った彼女と社会人になるまで付き合いを続けて、そのままゴールイン。きっと青春時代を過ごしている少年少女から見れば、甘やかな理想を体現したような話だ。

 呼び起こす事のできない大切な思い出に触れるように、俺はそっと自分の頭に手をやった。そこにあるのに触れられない悔しさで、力いっぱい奥歯を噛み締めたくなるのを必死に抑える。

 

「そう言えば、なんだが」

 

 クリスマスの話を聞き終えると、俺は肩に頭をのせたままの雪乃に向けて言う。少しだけ硬くなった声音に気付いたのか、雪乃はふと頭を持ち上げて俺の方を見た。

 

「俺はどうやって、雪乃にプロポーズしたんだ?」

 

 雪乃は少しだけ驚いた顔をした後、すぐに微笑みを浮かべてまた俺の肩にしなだれかかる。写真はもう必要ないとでも言うように、彼女はそっと携帯をポケットにしまった。

 

「あなたの本の出版が決まった、少し後のことだったわ」

 

 ぼんやりと窓に映る光を見ながら、雪乃は訥々と語り始める。それほど昔の話ではないはずなのに、酷く郷愁に満ちた声だった。

 

「たまにはちゃんとしたところでディナーでも食べようって、あなたに誘われたの。クリスマスとか、誕生日とかでもない、何でもない日だった」

 

 雪乃の手が、俺の手に重なる。それに応えるように俺は手のひらを上にすると、彼女は指を互い違いにして絡ませてくる。

 

「ホテルの高層階の、イタリアンのレストランだったわ。思えば食事をしている時から、あなたは緊張した様子だった。ディナーを終えて、ホテルの利用者だけが入れる展望室に移動して、こんな風に夜景を見ていたの。そして展望室から誰も居なくなったタイミングで、あなたは指輪を差し出した」

 

 握られた手にそっと力が入る。俺は身を任せるように頭を傾けると、頬が雪乃の髪に触れた。

 

「それからあなたは言ったの。『俺と長く一緒に居た所為で、お前もだいぶ歪んじまったと思う。だから俺の人生をかけて、責任を取らせてくれないか』って」

 

 雪乃は目線も姿勢もそのままにして、もう片方の手を俺の手に添えた。熱いと感じる程の熱が、そこから伝わってくる。

 

「⋯⋯本当に、嬉しかった。どうしてそんな言い方しかできないのって思ったし言ってしまったけれど、答えるのに迷いはなかった」

「⋯⋯そうか」

 

 雪乃の手を握り返すと、そっとその手の中から抜け出した。それに違和感を感じたのだろう、雪乃は身を起こすと横から俺を見る。

 

「じゃあ、やり直さないといけないな」

 

 俺はソファから下りると、雪乃の前でかしづいた。先ほど贈ったイヤリングの物とは別のジュエリーボックスを、彼女の目の前で開く。

 きっと俺は、彼女の想う俺であって、少し違った──言うなれば、歪んだ存在なのだろう。

 ならば俺は、今の俺の言葉で、言わないといけない。

 取り違えもなんのまちがいも起こり得ない言葉で、確かな感情を、今、伝える――。

 

 

「雪ノ下雪乃さん。心の底からあなたのことが好きになりました。俺と結婚して下さい」

 

 

 真っ直ぐに雪乃を見て、一直線な言葉で、俺は彼女に求婚した。

 雪乃の瞳に潤いが増してくるのを、その唇が何を紡ぐのかを見逃さないように彼女を見詰め、その答えを待ち続ける。

 

「──はい」

 

 鈴を転がしたような声が聞こえるのとほとんど同時に、雪乃の(まなじり)から一筋の涙が落ちた。

 その答えが、じんわりと俺の中に染み入ってくる。どこまでもどこまでも奥まで入ってきて、泣いてしまいそうなぐらいに温かい。

 差し出された雪乃の左手を取ると、既に指輪をしている薬指に真新しい指輪を通した。二つの約束は、彼女の指の上できらりと輝いている。それも段々と滲んで、鈍い光へと変わっていく。

 

「⋯⋯っ」

 

 次の瞬間には雪乃はソファを下りていて、俺の唇に確かな柔らかさと熱さを伝えていた。頬を伝った熱い雫は、もう誰のものなのか分からない。腕の中の細い身体は、絶え間なく小刻みに震えている。けれどそれはきっと俺も同じで、その震えを止めようとするかのように、雪乃の腕がきつく俺の背中を抱いていた。

 

「ねえ、八幡」

 

 一体どれぐらい、そうしていただろう。

 微かな嗚咽が溶けてなくなると、雪乃はそっと身体を離した。

 目だけで続きを促すと、彼女の薄桃色の唇が弧を描く。

 

「私、今が一番幸せよ」

 

 とくんと一瞬、心臓が跳ねる。しかし次の瞬間に訪れるのは、この上のない平穏と、狂おしいまでの愛しさだった。

 もう俺は、雪乃との間にあった全てを知る事は叶わないのかも知れない。きっと確かに感じていたであろう焦がれるほどの恋慕も、積み重ねた美しい思い出にも、もう触れられない。

 それでも、身勝手にも俺は雪乃と歩みたいと、そう願った。

 だから──。

 

「雪乃」

 

 立ち上がり、彼女の手を取る。

 雪乃と同じ、未来を歩む為に。

 もう失くしようもない、大切な思い出を重ねていく為に。

 

「──」

 

 瞬間、視界が歪んだ気がした。

 鈍い音が身体を駆け抜け、最後に鼓膜を震わせる。

 

「⋯⋯八幡?」

 

 どうしてだか、白い天井とソファの脚しか俺の目には入って来ない。目の前にいたはずの雪乃が、酷く狼狽えた様子で俺の上から覗き込んでいた。

 

「──八幡っ!」

 

 目を瞑ってもいないはずなのに、視界は白くぼやけていく。

 身体から何もかもが──受け取った熱ですらも、抜けていく感覚。

 

「ねえ、八幡──! ──⋯⋯ん!」

 

 混濁していく意識の中で、聴覚もやがて鈍く消えていく。

 

 完全に意識を失う、その瞬間まで。

 もう聞こえなくなった彼女の叫びだけが、俺の頭の中を木霊していた──。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私は婚約指輪を、そっと外した。

 年の瀬を迎えた病院の廊下は、酷く慌ただしかった。

 以前彼が運び込まれたのと同じ病院とは思えない程そこで働く人々の脚は忙しなく、外から聞こえるサイレンの音はうるさい程に近付いては消失する。着の身着のまま救急車に乗った所為で、暖房があまり効いていない廊下は少し寒く感じた。

 

 からから、という担架が引かれる音で私は床から目線を上げた。彼だろうかと思って見ては期待を裏切られてきたけれど、担架に仰向けに寝かされている人物の顔を見て、今度こそ間違いないと立ち上がる。

 

「あの、先生。彼の容体は⋯⋯」

 

 担架と一緒に早足で歩く白衣のその人の隣を、置いて行かれないように歩き始める。当直の医師なのか見覚えのない男性は、私を一瞥してから早口に言う。

 

「ご家族の方ですか?」

「⋯⋯そうなる予定の者です」

「結果から先に伝えますが、身体に特に異常はありません。CTでは前回の術後から残っている影が依然としてありますが、出血の再発は認められませんでした。他の検査については、主治医に引き継ぎたいと思います」

 

 余程急いでいるのか拙速な説明だったけれど、取り敢えずは彼の無事が確認できた。思わずその場でへたり込んでしまいそうな身体に鞭を打つと、そのまま担架について歩いていく。

 

「すみませんが次がありますので、私はこれで」

 

 そう言うと医師は立ち止まった担架をそのままに、廊下の向こうへと歩いて行く。残された担架を看護師さんたちが病室に運び込み、せーのの掛け声で彼はベッドに移された。

 ベッドに横たわった彼の顔は、いつもの寝顔と変わらない。思わずベッドに縋り付くように、私は膝を折る。看護師さんは私の肩をぽんぽんと叩くと、「気を確かにね」と言って病室を後にした。

 

 それから、どれだけ時間が経っただろう。

 ベッドに縋りついたその姿勢のまま、指一本すら動かす事ができなかった。また彼が手術を要するような大事には至っていないというのに、未だ意識を失ったままという事実が重くのしかかってくる。

 思えばあの夜も同じような心持ちで、私たちは過ごしていた。訪れる明るい未来を疑いもせず、幸せの最中に身を置いていたはずだった。

 それがどうして、こうなってしまうのだろう。もうあの頃の彼を返して欲しいだなんて、思ってもいない。ただ同じ時を歩んでいけさえすれば、それ以外は何も要らなかったのに。

 けれど今は、強く願っていた。彼が目を覚ましてくれる事を、それだけを強く強く願っている。

 

「⋯⋯ん⋯⋯っ」

 

 その祈りが、通じたのだろうか。彼はゆっくりと目を開けると、すぐに私に気付いてくれる。それにどこまでも安心して、思わずベッドに顔を伏せた。

 

「よか、った⋯⋯」

 

 これでもう最悪の事態は──このまま目を開けてくれないんじゃないかという最後は、もう訪れない。

 思わずこみ上げてきそうな嗚咽を抑えて、顔を上げる。彼は置かれた状況が分かっていないのか、身を起こすと不思議そうな顔をして私を見ていた。

 

「気分はどう?」

 

 そう言いながら手を伸ばすと──彼は上半身を僅かに傾けてその手から逃れる。ひょっとして、どこか痛いところでもあるのだろうか。しかし私がその疑問を言葉に変えるよりも早く、彼は(かす)れ気味の声を出した。

 

「⋯⋯あんた、誰だ? なんで俺は、病院⋯⋯? にいるんだ?」

 

 彼はそう言ってぐるりと病室を見まわして、最後に再び私と目を合わせた。その初めて会う人を見るかのような他人行儀な視線に、私の心に酷い疼痛が広がる。

 

「なにを⋯⋯言っているの? 私のことを、また忘れてしまったの⋯⋯?」

 

 私の問いかけに、彼は額に手をやり俯く。痛みを抱えるような仕草に、思わずまた手を伸ばしかけ、先程の反応を思い出して引っ込める。

 

「悪いんだけど⋯⋯思い出せない。どこかで会ったことがあるのか?」

 

 その言葉に息をするのも忘れて、心臓も止まってしまうんじゃないかと思った。声も言葉も出て来ないのに、押し止め切れない涙だけが出てこようとしてくる。

 

「──っ!」

 

 気付いた時には彼の元から駆け出し、病室を出ていた。

 廊下をかけて行く私に看護師さんが何かを言いかけるが、その言葉が出てくる前に走り抜ける。

 談話室の中、電話をする為の通話ボックスに入ると、私は思わず(うずくま)る。久々に走った所為で脚が痛いし、息切れも酷い。でもそれよりももっと心の奥の方が痛くて──痛くて堪らない。

 

「あぁ⋯⋯」

 

 情けない声と一緒に、止めどなく涙が溢れてくる。拭っても、拭ってもパンクしたホースみたいに雫が溢れて、ポタポタと床に染みを作っていく。

 

 どうして、彼は忘れてしまうのだろう。

 どうしてこんなにも大切な事を、無かった事に出来てしまうのだろう。

 

 誰に向けていいのか分からない嘆きばかりが頭の中を巡って、どこにも行けなくなってしまう。

 彼に非がない事は、分かりきっていた。誰かを責めるとしたら、私自身にすべき事だ。

 もし以前のクモ膜下出血の原因がストレスだったなら、きっと私にはできる事があった。根を詰めすぎないように諭したりはしたけれど、それだけでは不十分だったのかも知れない。彼の上梓に向けた情熱を抑える事はできなくても、もっと彼を癒やす事はできたはずだ。

 

「う⋯⋯、あぁ──っ」

 

 そう考え始めると、後悔と涙が止まらなくなる。ここが外界から隔たれているという事実もあって、声を抑えて泣くことすらできなくなっていた。

 一体この部屋の中で、何度泣いたのだろう。もう泣かないと決めてここを出て、一年もしない内に帰ってくるなんて、誰が想像できただろう。

 彼が生きてさえいればちゃんとやり直せると、あの日私は自分に言い聞かせた。事実、もう一度彼からプロポーズを受けるぐらいに、私と彼の心は通い、重なり合っていたはずだった。

 彼のプロポーズの言葉を聞いた時、ようやく私はあの日に戻れたのだと感じていたのに──神様がいるのだとしたら、どうしてこんな事をするのだろう?

 曰く、人生に訪れる試練というのはその人がクリアできる事しか起こらないという。確かに私は与えられた試練を乗り越えられたと思った。けれどそんな矢先に同じ試練を突きつけるなど、無情に過ぎる。

 

 ようやく嗚咽が収まり始めると、ポケットの中の携帯電話が震えた。先程届いたばかりのメッセージを開くと、小町さんから『今どこですか?』とだけ書いてある。通話ボックスから出ると、ちょうど小町さんが談話室に入ってくるところだった。

 

「雪乃、さん⋯⋯」

 

 私を見るなりくしゃっと崩れた顔を見て、もう彼に会ったのだと分かった。小町さんは駆け寄ってくると、私の胸に飛び込んでしゃくりあげる。小さな肩は細かく震えて、全ての感情を堰き止めているのだと分かった。

 

「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが⋯⋯また⋯⋯っ!」

 

 私がそっと肩を抱くと、今度こそ小町さんは声を上げて泣き始める。

 今日病院に来て、初めてよかったと思えた。ちゃんと私が泣き切った後で、ちゃんと彼女の涙を受け止められる人がいて。

 肩口に押し付けるように小町さんを抱きしめると、その震えを全身で感じる。また出て来そうになる涙を必死に押し止めると、彼女をあやすように肩を撫で続けた。

 

 きっと私と同じぐらい、長く泣いていたと思う。

 時が流れているのかどうかさえ曖昧になってくるぐらいの時間が経って、ようやく小町さんは泣き止み顔を上げる。可哀想なぐらいに目が真っ赤になっていたけれど、それは私も変わらないだろうと思った。

 

「ごめんなさい⋯⋯。一番辛いのは、雪乃さんなのに⋯⋯」

「⋯⋯いいえ。辛いのに一番とか二番はないわ」

 

 気丈に振る舞おうとする小町さんが痛々しかったけれど、それは私も同じかも知れない。悲嘆に暮れたくなる気持ちは、確かにある。けれどそれだけでは、そのままではいけない。一緒に泣いてくれる人が居て、私はそうやって強く在る事ができた。

 座りましょうか、と声をかけると、小町さんは肩を落としたまま小さく返事をする。私たち以外だれもない談話室は、慌ただしい病院の中で異質な程の静けさを保っていた。

 

「あの⋯⋯雪乃さん」

 

 小町さんは机に視線を落としたまま、悲哀に枯れた声で言った。

 

「兄の後遺症は、もう治らないかも知れません。一緒に居ても、また忘れちゃったり、するんだと思います⋯⋯」

 

 彼女が何を言わんとしているか、よく分からなかった。確かにそんな可能性もあるのだろう。けれどこの場では、もっと前向きな話がしたかった。しょうがないよね、あの人は、あの兄はと言って、未来の話をしたかったのに──。

 

「だから雪乃さんは、兄を待つ必要はないと思ってます」

 

 冷たい、温度を殺した声が、私の胸を射抜いたみたいだった。

 まったく、こんなところは彼とよく似ている。いつも誰かの事を優先して、痛みに鈍感な振りをする。そんな優しいところは嫌いじゃないけれど、小町さんには彼の真似をして欲しくなかった。

 

「⋯⋯小町さん」

「こんなこと言ったら怒るかも知れませんけど⋯⋯。雪乃さんが幸せになる道は、兄と一緒になることだけじゃないと思います」

 

 生気を失った色の唇が、力を入れすぎて震える拳が、彼女が無理をしている証左だった。彼の周りで、誰よりも彼の幸せを願っていたのは、小町さんだったはずなのに。

 彼女の文字通り心をバラバラにしてしまうみたいな心配りが、ひたすら胸に痛い。そして僅かでもそんな未来を想像すると、途中で考えるのを放棄してしまうぐらいに恐ろしかった。

 

「⋯⋯いいえ、それは違うわ」

 

 自分でも驚くぐらい硬質な声が出て、小町さんの肩がぴくっと震える。まるで喧嘩の最中みたいな空気だと思って、私は一度深呼吸してから続けた。

 

「幸せはなるものじゃなくて、そこに在るのに気付くことだそうよ。⋯⋯私はもう見つけたから、手放したくないの」

「雪乃さん⋯⋯」

 

 自分に言い聞かせるように言いながら、これは依存だろうかと考える。端的に言えば、私の幸せには彼が必要不可欠だと宣言しているに過ぎない。

 けれどそれは事実だ。彼なしの人生なんて考えられないし、彼が彼である事を捨ててしまわない限り、私が彼を見放す事はない。──否、もしそんな事が起きても、私はあがき続けるだろう。

 彼に贈るクリスマスプレゼントを買った日の事を回顧する。あのプレゼントを、日記帳を贈ろうと決めたあの時の気持ちを思い出して、私は自分を奮い立たせた。

 

「私は、大丈夫。もう一度彼と、歩いていくわ」

 

 諦めない、絶対に。

 私たちが見つけた本物(・・)は、こんな事で壊れたりしないのだから。

 そんな決意を込めて、私は贈られたばかりの婚約指輪をそっと外した。

 

 

 

 

 コンコン、と病室の扉をノックすると、酷く沈鬱な声で「どうぞ」と返ってくる。音を立てないように扉を開けると、酷く居心地の悪そうな表情で、彼は私を見ていた。

 

「さっきは急に飛び出したりしてごめんなさい」

 

 ベッドサイドの丸椅子に腰掛けると、私は彼に微笑みを向ける。きっと目は充血したままだし、腫れていると思う。その事実が彼を責めてしまわないように、努めて冷静に優しく声をかける。

 

「私の名前は雪ノ下雪乃。いきなり言われても驚くかも知れないけど、あなたの婚約者」

 

 左手をかざして、一つだけ残った婚約指輪を彼に見せた。彼は自らの左手を見て、同じデザインの指輪が薬指にはまっている事を確認する。僅かに開かれる目。本気で言っているのか、とその瞳が問いかけてくる。

 

 だから私は、彼の目を真っ直ぐに見詰めて言う。

 信じられない事を、信じて貰えるように。

 私は虚言など吐く事はないと、もう一度知ってもらう為に。

 

 

「あなたにはもう一度、私を好きになって貰うわ」

 

 

 




ここまでお読みくださりありがとうございました。
ようやくこの物語も後半編、と言ったところです。

高評価の方もありがとうございます。
たまにランキングに入ったりして、読んで頂いている方も増えてきたようです。

小説情報にてお知らせしている通り必ず最後まで書き切りますので、引き続きお付き合い頂けたら幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

材木座義輝は斯く語りき。

 皿を洗っているとふわんと小さなシャボンが飛び、ステンレスのシンクに張り付いて消える。かちゃかちゃと皿同士が音を立て、それはまるで時を刻んでいるようだった。

 時刻は午前七時半。

 音も香りも、朝食のメニューまでいつも通りの朝だ。スリッパが床を叩く音がダイニングに入ってくると、その音の主は俺に声をかけてくる。

 

「八幡、行ってくるわね」

「おう」

 

 洗い物がちょうど終わったところだった俺は、蛇口を閉めてしっかりと手を拭いた。玄関に向かうと、先に行っていた彼女は靴を履いて俺を待っている。

 天使の輪を描く、黒く艷やかな長い髪。化粧なんかいらないんじゃないかと思うほど白く抜ける肌。そして今まで見た中で一番の美人が、俺に向けて微笑みを浮かべていた。

 

「行ってきます」

「ん。いってらっしゃい」

 

 そっとその髪を撫でると、彼女は笑みを深くしてから俺に背を向ける。玄関の扉を出る瞬間にこちらを振り返ると、胸の前で小さく手を振った。

 がちゃん、と扉が閉まると、振り返していた手を下げる。そのまま俺は書斎へと向かうと、部屋に入るなり俺は床を転がり回った。

 

「だあぁぁぁ⋯⋯!」

 

 くっそ、なんだあの可愛い仕草は、あの笑顔は。飛び抜けて美人なのに死ぬほど可愛いとか俺を殺しにかかっているのか? 毎日抱き枕にされているだけでも可愛さ全開お腹いっぱいなのに毎朝なんなんだよぉぉ!

 俺は誰もいないのをいい事にひたすら床を転げ続けると、顔を覆っていた手を下ろして天井を見上げた。いくら一人とは言え、ちょっと気持ち悪すぎる。うん、一旦落ち着こう。

 

 俺は床から身を起こすと、服を正して机に向かう。開くのは仕事道具のパソコンではなく、一冊の日記帳だ。栞紐を引いてページを開くと、昨日書いた分の日記を眺める。

 

 俺が過去を思い出せなくなり、雪ノ下雪乃と一緒に暮らすようになって、五ヶ月が過ぎた。

 

 俺がこうなったのは、今回で二度目であるらしい。一度目はクモ膜下出血で、二度目の原因は不明だが倒れた後。今でこそ普通に雪乃と生活できているが、病院で目覚めた当初は酷い混乱だった。

 俺の心のうちのざわめきはともかく、こんなにも穏やかに過ごせているのは、ひとえに雪乃のお陰だと思う。二度目という事もあってか俺の扱いも慣れたもので、正直手玉に取られているのではないかと思うぐらい、彼女に惹かれる気持ちは日に日に強くなっていく。

 

『あなたにはもう一度、私を好きになって貰うわ』

 

 あの日雪乃は、目覚めたばかりの俺に向けてそう言った。泣き腫らした目で、強い覚悟と決意をもって。

 最初は何言ってんだこいつと思った。しかし雪乃の口調も表情も、俺に全て真実だと知らしめるのに十分過ぎるほど真剣で、それは後から来た小町も一緒だった。

 未だにこれでいいのかと思う事はある。彼女に甘えてしまって、言われるがままに惹かれていって。俺は彼女の愛した俺じゃないというのに、本当にいいのかと。

 そんな事を由比ヶ浜に話したら、呆れられながら怒られた。いや、あの時の由比ヶ浜のマザー味からすると、叱られたと言った方が正しいかも知れない。

 斯様(かよう)な経緯もあって雪乃に正面から向き合おうとすると、しかしそれはそれで大変だった。言わずもがな、今朝の出かける時の事であり、普段の雪乃の事だ。

 時々辛辣だったり怖かったりするが、一緒に生活していると分かってくる。完璧さの中に同居する隙であったり、大人の女性然としているのに内在する少女らしさ。何より俺への純粋過ぎるほどの気持ちは、直視できないほどに眩しい。

 凍えるほど冷たい冬は彼女の温かさに救われ、春が訪れれば花弁のように綻んだ微笑みに癒される。一歩いっぽ季節が進むたびに、俺の中に芽生える感情は明確な名前を持っていくように思えた。

 

 ピンポーン、と。

 今日の日記の書き出しは何にしようか考えていると、扉の向こうから呼び出し音がなった。今日は担当編集がくる予定だったから、きっとあのクセの塊が来たのだろう。案の定モニターの中の人物は材木座で、俺はぽちぽちと機器を操作して彼を部屋へと招き入れた。

 

「調子はどうだ、比企谷八幡」

「ぼちぼちだな、材木座」

 

 芝居がかった口調に一応テンションを合わせてやると、材木座は「邪魔するぞ」と言って我が家に上がる。書斎に入ると、いつものように材木座は自分でクッションを用意してどっかと座りこんだ。

 

「さて、原稿の進み具合はどうなのだ」

「あー⋯⋯。まあ、それもぼちぼちだな」

 

 原稿、というのは俺が倒れる前から書いていた地下アイドルに焦点をあてたノンフィクション小説の原稿の事だ。俺はその紙束を材木座に渡すと、彼はふむふむと唸りながらそれ確かめる。

 ほとんど執筆は終わっていたものの、全体の推敲が残っており、これが非常に厄介だった。誤字脱字の修正などは誰でも分かるが、本当にこの表現がベストなのか、構成上の演出は最適なのか、思い出せない所為でさっぱり分からない。結果として重要そうなところは再取材するという二度手間になり、先日出版予定が延期されたばかりだ。

 

「なんだ、これっぽっちしか進んでおらぬのか。仕事をしろ、比企谷八幡」

「中々取材の予定が合わないんだから仕方ないだろ⋯⋯」

 

 俺の力ない抗議に材木座も気が抜けたのか、ふっと笑って後ろ手をついた。担当編集から旧知の顔になると、材木座はさっきより幾分トーンを落とした声で言う。

 

「話は変わるが⋯⋯。どうなのだ、最近。雪乃女史とは」

「え? ああ⋯⋯」

 

 なんとも神妙な声音と言い難そうな様子に、違和感を覚える。まるで誰かから訊いてこいとでも言われたみたいな口ぶりだ。どうせそんな事を言い出すのは、小町ぐらいなものだろうが。

 

「まあ、なんだ。言ってみりゃよくできた嫁みたいな感じだな」

「まだ結婚しておらぬだろう」

「だから言ってみりゃ、って言っただろ。なんか、お見合いですげぇいい相手に当たったような感覚だ」

 

 その説明の仕方もどうなのかと思ったが、大きく間違ってはいない。まるであらかじめ用意されていた幸福のような、そんな感覚はいつまでも残っている。

 いくら由比ヶ浜が「みんなちゃんと今のヒッキーを見てる」と言われても、どうしても考えてしまうのだ。過去の俺があったから、こんなにもみんな良くしてくれるのだと。二度も記憶を失くした俺を諦めずに一緒にいてくれようとするのは、今の俺に価値がある訳ではなく、過去の俺の遺産なのだ。そんな事を言ったら、間違いなくまた由比ヶ浜に怒られるが。

 

「なんでここまでして貰えるんだろうってのは、よく考えてる。二回も顔や名前まで思い出せなくなるなんて、普通は呆れ果てて見放されてもおかしくない」

「⋯⋯八幡」

 

 材木座は胡座をかいている両膝に両手をつくと、つかつめらしい顔を作る。俺を真っ直ぐに見ると、重々しく口を開いた。

 

「呆れておるに決まっておるだろうが。少なくとも我は『何忘れとんじゃボケ』と百回ぐらい思ったわ」

「お、おう⋯⋯」

 

 なんかいい事でも言ってくれるのではと期待した俺がバカだった。こいつはこういう奴なんだった。

 はあぁと気が抜けた息が漏れると、材木座はごほんと咳払いする。

 

「しかし、それでも変わらず貴様の周りには人が集まっている。その意味は分かるな?」

「⋯⋯ああ」

 

 それはもう、痛いほどに分かっている。きっとみんな、記憶を思い出せなくなっても、俺は同質だと思っているのだ。比企谷八幡はどこまで行っても比企谷八幡なのだと、誰もが盲信している。そんな保証は、どこにも無いというのに。

 

「それだけの事を、してきたのだ。比企谷八幡という男は」

 

 やはりそうなんだな、と俺は諦念にも気持ちで材木座の言葉を受け止める。

 みんな、今の俺(・・・)を通じて過去の俺を見ている。どこかにいるはずなのだと、俺を見て、本当の俺を探し求めているのだ。

 

「まあ、我は巻き込まれた記憶しかないがな」

「なんか、⋯⋯悪いな。迷惑ばっかりかけてたみたいで」

「よせ、素直に謝られると気色が悪い。謝るならちゃんと思い出してから謝るのが筋というものだろう」

 

 材木座の言う事はもっともだった。俺が謝ったところで、呆れるぐらいに意味がない。

 だから俺は、知りたいと思った。

 みんなが求めている俺は、何者であったのか。俺の価値はどこに、どれほどのものがあるのか。俺が雪乃を想う気持ちは、どれほどのものだったのか──。

 

「どうやったら、思い出せるんだろうな」

 

 天井を仰ぎ、そう呟く。それにつられるように、材木座も腕を組みながら天井を見上げた。

 

「思い出したいか、全てを」

「そりゃな。できるなら、それが一番だろ」

「貴様の場合は、思い出せない方がいい事も多分にあると思うがな」

「⋯⋯それでも、だ。どんな過去があったって、元々は全部俺のものだろ」

 

 もし材木座の言う通りの過去だったとしても、それは俺の欲求を止める理由になりはしない。どんな過去であろうと、知らなくていいはずがなかった。

 

「前に由比ヶ浜に言われたんだよ。しっかりしろ、って。思い出せたらなんとかなるなんて期待せずに、ちゃんと今の俺として、雪乃と向き合えって。これ言うの二回目だって言われたから、きっと前も同じ事してたんだろうな、俺は」

 

 そう言うと材木座は、天井から俺に視線を戻した。問い質すような目が、その言葉の続きを促してくる。

 

「それでも俺は、思い出したい。別に思い出したら全部が上手くいくとか考えてる訳じゃないけど、ただ知りたいんだよ。俺が作り上げたものはどんな物だったのか。俺の価値ってのは、どれほどのものなのか」

 

 どこか青臭い独白めいた言葉が、書斎に響いて消えていく。しんと静まり返ったその部屋の中で、材木座は沈黙に耐えかねたように息を吐いた。

 

「我に貴様の記憶を思い出させる事はできぬ。しかし貴様の価値というのなら、教示する事はできる」

 

 材木座はむふん、と大仰に胸を張ると、やたらと格好いい声で俺に告げた。

 

 

「いいだろう、比企谷八幡。久々に男同士の付き合いといこうではないか」

 

 




お読み頂きありがとうございました。

次回、男子会開催です。
残念ながら(?)戸部は出ません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

迷える仔羊と、それにまつわる昔話。

 日本の誇る大都会・東京。

 山手線の駅ともなると、どの駅で降りてもかなりの人出だ。特に今日は日曜日という事もあり、行き交う人々は数え切れないほど多い。

 そんな雑踏の中、俺は材木座と共にとある人物を待っている。待っているのだが⋯⋯、それにしてもである。

 

「なあ、材木座」

「どうした、八幡」

 

 材木座義輝、この男の格好には非常に違和感がある。最近ただでさえ暑くなってきたというのに、何故かトレンチコートを着ているのだ。普段冬でもコートすら着ないというのに。

 その姿はくたびれた中年サラリーマンのように見えなくもないが、やはり季節を考えると異様だ。ここ東京は多数の、本当に様々な人間が集まるせいで華麗にスルーされてしまっているが、俺の感覚がおかしくなった訳ではないと思う。

 

「なんでこの気温で、コートなんて着てるんだよ」

「知れた事を。これが我らの正装であろう」

「我ら⋯⋯?」

「ああ、学生時代は共にこの装束をまとい、世にはこびる悪を駆逐していたものよ」

 

 その言葉に、俺は愕然とした。マジか、こいつ。いや俺は正気だったのか? こんなの厨二病まっしぐら、痛いなんてもんじゃ済まされない。

 

「⋯⋯嘘だろ?」

「ああ、嘘だ」

「この野郎⋯⋯」

 

 本気で殴ってもいいだろうかと拳を握りしめた時だった。後ろから朗らかな声が届いたのは。

 

「はっちまーん!」

 

 どーんと背中を押されて前方によろめき、向かい合っていた材木座の腹に跳ね返された。悪戯っぽい声に振り返ると、そこにいたのは一人の女性だ。

 女性はカーブパンツに緩めのシャツを合わせ、髪は短い所為でどこか中性的に見える。しかしその笑顔は燦然と輝いていて、活発な女子大生といった印象を抱かせた。

 

「久しぶりだね」

 

 そう声をかけられるが、全く想像していなかった展開に頭がついていかない。ちょっと失礼、と材木座を引き寄せると、ぼそぼそと事情聴取を開始する。

 

「おい、今日は男同士の付き合いって言わなかったか?」

「そう言ったが?」

「じゃあなんで女の子が混じってるんだよ」

「女の子ではない。戸塚彩加は男だ」

「はぁ? 彩加って言っちゃってんじゃねぇか。名前からしても女だろ」

「しかし、戸籍上は間違いなく男なのだ」

「んな訳あるか。あんな可愛い男がいるかよ」

「うぬぬ⋯⋯。こいつ面倒臭いな⋯⋯」

 

 彼女を背に小突きあっていると、「あのー⋯⋯」と申し訳なさそうな声をかけられる。

 

「ごめんね。そういえば、初めましてになるんだよね?」

「あ、はは、はいっ。初めましてっ」

「八幡⋯⋯。貴様は本当にどうしようもないぐらい八幡だな⋯⋯」

 

 上擦った声に材木座の呆れ果てた声がかぶさってくる。仕方ないだろこんなの。例え婚約者がいようと、ここまで可愛い人に笑顔を向けられてしまえば、若干緊張してしまうのが男という生き物なのだ。

 

「聞こえてたけど⋯⋯僕は男だよ」

「は⋯⋯?」

「えっと⋯⋯証拠見せた方がいい?」

 

 ちら、と彼女は、自分のズボンの方を見る。それは流石に、いざ男説が本当だった時のダメージがデカい。

 

「いえ、大変ありがたい申し出ですが結構です⋯⋯」

「八幡。その反応はもうよせ。誰も幸せにならぬ」

 

 妙に達観した言葉がかけられると、少しだけ冷静さを取り戻す。現実は小説よりも奇なり。男の娘という存在もまた、現実に存在するのだろう。

 

「とりあえず、行くか。もう一人は遅れるらしいから現地集合だ」

 

 材木座はそう言って歩き始めたので、俺も彩加ちゃん⋯⋯じゃなかった、戸塚と隣り合って歩き始めた。人の流れにのるように歩きながら、戸塚は早速といった調子で語りかけてくる。

 

「ごめんね、お見舞い行けなくて。ちょうど海外遠征に行ってて」

「海外遠征⋯⋯?」

「うん、僕はマッサージャー⋯⋯いわゆるマッサージ師をやってて、選手専属で遠征に同伴する時があるんだ」

 

 そう言って戸塚が上げた名前は、俺でも知っているような有名スポーツ選手たちだった。なんとも凄い人脈を持つ人もいるものだ。

 俺も今からスポーツ選手を目指して戸塚にマッサージして貰おうかなやっぱ無理だななどと考えていると、材木座が足を止めた。どうやら目的地についたらしいが。

 

「なんでサイゼリヤ⋯⋯」

「逆にサイゼ以外のどこがあるというのだ?」

 

 道すがらに似たようなファミレスはあったのに、わざわざ少し離れた場所にある店を選ぶ理由はよく分からない。まあ、大した問題ではないけど。

 店内に入るとすぐにテーブルに通され、ドリンクバーと喋りながら摘めそうな料理を数点注文した。全員が飲み物を用意し終わったら、ようやく今日の本題だ。

 

「さて、今日集まったのは物忘れの激しい八幡が自分の価値が分からんなどと人生の迷子じみた事をのたまった為だ。面倒臭いが旧知である我らで、この迷子を救ってやろうと思ってな」

 

 なんて言い草だと思ったが、残念ながら俺が言い返せる事は何一つなかった。いつもより目を腐らせた俺を見て、戸塚は苦笑を浮かべている。

 

「えーっと⋯⋯とりあえず、昔の話をしたらいいのかな? 八幡がどんな人だったか」

「であるな」

 

 材木座と戸塚が目を合わせると、戸塚だけうんと頷いた。そして俺の方を向き直ると、やはりどう見ても可憐な女の子にしか見えない顔で語り始める。

 

「じゃあ、僕の知っている事から話すね――」

 

 

 

 

 以前、材木座は言った。

 思い出せない方がいい事も多分にあると思う、と。

 戸塚と材木座の話を聞き終えた俺は、思わず頭を抱え込んでいた。

 なんと言うか⋯⋯千葉村の話は小学生相手に容赦がないし、文化祭の話に至っては自分に対して容赦がない。やり方がストイック過ぎて、高校生らしくない解決の方法だった。

 ただ、俺らしい、とは思った。過去は思い出せなくても、原体験とも言うべき感情や思考の癖は残っている。その解決策がどんな帰結を示したとしても、過去の自分に対して否定するつもりはない。

 だが今の俺ならどうするだろう、と考えると、きっと同じ手法は取らないだろうと思った。解決のベクトルは大きく変わらないだろうが、もう少しマイルドな方法を考えるはずだ。そう考えると俺は過去を思い出せないながらも、重畳されてきた性格は変わっていないと類推できる。

 

「僕たちから伝えられるのは、こんなところかな」

「そうか⋯⋯。ありがとな、色々教えてくれて」

 

 俺はそう言って、戸塚に向かって軽く頭を下げた。正直戸塚には、要らぬ心労をかけてしまったように思う。俺の言動に対する感情をオブラートに包みながらも間違えないように伝えるのは、中々難しい事だっただろう。

 しかし顔を上げて目が合った戸塚が浮かべていたのは、疲労ではなく微笑みだった。

 

「僕の印象は、あの時から変わってないな。一人でも、強さが揺るがないっていうか⋯⋯格好いいなって、ずっと思ってる。雪ノ下さんと一緒になってからも、それは変わらないよ」

 

 きっと戸塚は、ずっと俺を近くから、あるいは一歩引いた場所から俺を見続けてくれたのだろう。瞳の奥に住む慈しみのような感情が、それを物語っていた。

 思わず「戸塚ぁ⋯⋯」と泣きむせびそうになっていると、どこかから携帯電話の振動する音が聞こえた。その音の出処は戸塚の携帯らしく、ポケットからそれを取り出すと画面を見る。

 

「隼人くん、もうすぐ着くみたい」

「左様か。思ったより早かったな」

 

 二人にしか分からない会話に疑問符を浮かべていると、戸塚が立ち上がっておーいと手を振った。軽く手を上げ返してこちらに向かって来たのは、爽やか過ぎるぐらいのイケメンだ。

 

「はじめましてだな。ヒキタニくん」

「あ、ああ⋯⋯」

 

 俺の前の前に座った男は、張りぼてみたいな言葉を投げかけてくる。どこか底意地の悪さを感じさせるようでいて郷愁に満ちた、そんな口調と声音だった。

 それにしてもどういう組み合わせだ、とテーブルを見回して思う。爽やかイケメンの隣には、女子大生風の男の娘、それから厨二臭の漂う中年サラリーマンとヒキコモリ生活の文筆家。どう見たってチグハグな組み合わせだ。特に隼人と呼ばれた男が来てから若い女性客がこちらをちらちらと見ていて、妙に目立ってしまっている。

 

「俺は葉山隼人。君とは親友と悪友を足して二で割ったような関係だったかな」

「言い得て妙であるな」

 

 葉山隼人の自己紹介に、材木座はぬふんと大きく頷いた。こんな日向しか歩いてこなかったように見える人間とそんな関係になるとは考え難いのだが、見た目で判断し過ぎだろうか。

 

「えっと、今日来てもらった理由だけど⋯⋯」

「ああ。自分の価値が分からないという迷える仔羊を救えばいいんだろ?」

 

 葉山はそう言って俺に笑みを向ける。どうやらやはり、俺は見てくれの印象だけでこの男を定義しようとしてしまっていたらしい。

 なんとなくだが、彼には深淵な闇があるように思える。理解される事などまるで望んでいなければ、その闇を見せようともしない、そんな濁りを俺は彼から感じ取っていた。

 

「どこまで話したんだ?」

「千葉村での事とか、文化祭の事とかかな」

「そうか。ならあの件は、俺から話すべきだろうね」

 

 そう言って葉山はテーブルの上で指を組んだ。どこか祈りにも似た仕草に、机を囲む誰もが意識を吸い寄せられる。

 

「修学旅行の時の話だ」

 

 葉山はそう切り出すと、先程までとは打って変わって硬度の高い声で語る。

 彼のグループ内で、ある男子から女子へと告白したいと相談を受けた事。その手伝いを俺と雪乃、由比ヶ浜が属していた奉仕部に頼んだ事。――そして俺が解決策として見出したやり方と、その後の不和。

 客観的に聞くと、何故それが起こったか推察する事はできた。雪乃はきっと、愛とか恋とかの一歩手前の感情を、あるいは友情のようなものを抱いていたのではないか。それ故に俺の行動は彼女の理解を越えてしまった。その当時の俺が、嘘の告白の結果をどう感じたのかは分からない。しかし雪乃たちからすれば、俺が傷を負う事で葉山たちグループの崩壊を止めたように見えるだろう。

 

「その少し後に、君に言った事がある。君は誰かに助けて欲しいから、誰かを助けるんじゃないのかって。そうしたら君は珍しく感情を顕わにして怒っていたよ。そんな君の姿を見るのは、本当に珍しい事だった」

 

 葉山の語りがそこで止まると、沈黙が場を支配していた。そこかしこから飛び交う話し声の中、ぽっかりと俺たちだけ宙に浮いているような気分になる。

 

「俺は君の事を、勘違いしていたんだろうね。きっと自分と同じように考えているだろうなんて、尊大に考えていたんだ、俺は」

 

 葉山はじっと目を逸らす事なく、俺を見ていた。

 言葉とは裏腹に、そこに後悔の念などない。ただ強く、裁判官が判決を下すように、彼は言い放った。

 

 

「君は誰かの為に身を粉にできる。それが君の価値だとは言わない。ただみんなを惹きつけた理由は、そこにあったんだろうね」

 

 

 

 

 

 茜色の空の下をとぼとぼと歩いて、俺は見慣れた高級マンションに吸い込まれていく。

 エレベーターに乗っても、カードキーを玄関扉にかざしても、俺はずっと同じ事を考えていた。俺の価値は何か。過去ではなく、今の俺に何があるのかを。

 

「ただいま」

 

 扉を開けると、玄関まで夕食のいい匂いが漂って来ていた。何かを炒める音に引き寄せられるように、俺はダイニングキッチンに入る。

 

「おかえりなさい」

 

 雪乃は半身で振り返ると、そう言って視線をフライパンの中に戻した。彼女の後ろに立つと、思わず息を止める。

 

「今日は楽しかった?」

 

 まるで母親が子どもに問いかけるような、優しい声だった。しかし俺は、その問いには答えない。

 

「⋯⋯雪乃」

 

 そっと俺は、後ろから雪乃を抱きしめた。彼女の細いからが一瞬強張り、すぐにその力は抜けていく。

 こんな風に彼女を抱きしめるのは、初めての事だった。許されるのか否かと言えば、許されてしまうと分かってやっているのだから、俺も性質(たち)が悪いと思う。

 

 だがこうせずには、いられなかった。

 

「俺、やっぱり思い出したい。雪乃との事を。みんなとの事も」

 

 野菜が水分を失っていくじゅうじゅうという音が、やけに耳にうるさい。

 雪乃は俺に抱きしめられてから、一切の動きを止めていた。微かな息遣いを耳元に感じながら、俺は彼女の答えを待ち続ける。

 

 俺は今の自分が無価値だとか、今のままでは雪乃に愛される資格がないとか、そんな事は考えていない。愛する価値があるかどうかなんて、彼女が決める事だ。

 ただ俺は、純粋に知りたかった。彼らが俺に教えてくれた過去を、類推するしかない感情を、全てを取り戻したい。大切なものの大切さを知らずに生きていく事は、もうこれ以上耐えられそうになかった。

 

「八幡」

 

 雪乃はコンロの火を消すと、そっと俺の腕を撫でて抱擁を解いた。俺に向き直ると、その白い手で俺の手を握る。

 

「ついてきて」

 

 雪乃はそう言うと俺の手を引いて、彼女の自室へと入った。ここにはほとんど入った事がない。掃除も自分でしてしまうから、部屋で仕事をしている彼女に飯が出来たと知らせる時に入るぐらいだ。

 雪乃は俺を棚の前まで連れてくると、日除けのカーテンを開けた。棚の正体は本棚であったらしく、まるでピアノの鍵盤みたいに本が敷き詰められている。

 

「あなたが昔の記憶を思い出せるようになるにはどうしたらいいか、私も考えた事があるの」

 

 そう言って雪乃は、収まった本の背表紙たちを撫でる。その一角の本の題名を見て、俺は目を見開いた。

 記憶、脳科学、健忘症状、脳外科、神経科学――まるで専門医の本棚のように、見慣れないタイトルが並んでいる。それは彼女から俺への想いであり、熱量だった。

 

「主治医の先生にも推奨はできないと言われていたから、まだ試していない事があるわ」

 

 雪乃は別の段にあった一冊の本を取り出すと、その表紙を俺に向けた。タイトルには厳かな金文字で、大きく『総武高校』と書いてある。

 雪乃からその本を取り出してページをめくると、それは卒業アルバムであるらしかった。数ページめくって過去の級友たちの顔を見ても、やはり俺が思い出す事は何もない。

 本から目線を上げると、雪乃と目が合う。しかし雪乃は元からそれで思い出すとは期待していなかったのか、覚悟を決めた声で俺に告げた。

 

 

 

「――行ってみましょうか。私とあなたが出会った、あの場所へ」

 

 

 

 

 







という事で男子会の回でした。
次回、総武高校に向かう二人に何が起こるのか。

引き続きお楽しみ頂けたら幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私は堪らなく、愛おしかった。

 リノリウムの床、等間隔でならぶ部屋、見覚えのないサインプレート。

 かつては俺が、そして雪乃が何度も歩いたであろう廊下は閑散としていて、来客用のスリッパが床を擦る音だけが響いていた。

 

「また君たちとこんな風に歩くなんて、想像もしていなかったよ」

 

 俺たちの前を歩く女性──平塚先生は、顔だけで振り返りながらそう言った。

 

「ひょっとしたらこうして君たちを案内するために、私は戻って来たのかも知れないな」

「私も驚きました。電話口で聞き覚えのある声だと思ったら、平塚先生だったなんて」

 

 歩く度に揺れる黒く長い髪は、後ろ姿だけ見ると姉妹のように見えなくもないが、彼女は俺たちの所属していた部活、つまり奉仕部の顧問であったらしい。数年前に転勤でこの総武高校を離れたが、今年の春からまた戻って来たのだそうだ。

 奉仕部での活動については雪乃からだったり、由比ヶ浜や一色が家に遊びに来た折に聞いた事はある。平塚先生の事も当然聞き及んでいたから、こうして会うと物語の登場人物に巡り会ったかのような、不思議な気分だった。

 

「さて、どうする。部室からにするかね?」

「いえ⋯⋯。いきなりは刺激が強いかも知れないので、まずは学校を見てまわれたらと」

 

 雪乃の答えに、平塚先生はうむと頷いた。雪乃と俺は平塚先生に先導をお願いして、まずは一階を、次に二階をと、ぐるぐる回るように歩いて行く。

 この総武高校は中庭を囲むように建造されており、本校舎と特別棟と呼ばれる校舎は東側の通路と西側の空中廊下で繋がっているらしい。歩いているうちに本校舎と特別棟を行き来する事になるのだが、その間に見覚えのあるものは何一つとして見当たらなかった。

 

「何か思い出した?」

 

 雪乃はそう言って立ち止まって振り返ると、俺にそう問いかけた。見上げたサインプレートには二年F組と書いてある。J組まであるらしいから、中々大きな学校だ。

 

「君が二年の時に過ごした教室だ。きっと思い出深い場所だと思うんだが」

 

 平塚先生に言われて教室の中に踏み入れると、どこか懐かしい感覚を覚える。しかし教室なんて、ほとんどどこの学校も同じようなものだ。その郷愁は果たして高校の時のものなのか、はたまた中学時代のものなのかも分からない。

 その空気を味わうように深呼吸をすると、ふっと小さな笑い声が届いた。平塚先生はどこか母親じみた声音で、俺に語りかける。

 

「私が君を見ると、大体一人だったな。寝たふりをしていたり、本気で寝ていたり。けれどクラスに大きな波風が立つ時は、大体君が関わっていたものだよ」

 

 そう言って細められた目と眼差しは、底なしに優しく感じられた。きっとこの人にとっても、思い出深い場所なのだろう。

 ──ああ、まただ。

 そんな風に懐かしい顔を、大切な思い出に触れた安堵を見てしまうと、俺は渇望してしまう。その思い出に、ただ触れたい。欠片でもいいから欲しい。それこそ喉から手が出るほどに、求める気持ちが止まらなくなる。

 

「君が奉仕部に入部した経緯は、誰かから聞いたか?」

「雪乃から、少しだけですけど」

「そうか。では私からの目線で話をしよう」

 

 平塚先生は教壇に立つと、そっと黒板に触れた。机の間に立った俺たちに振り返ると、そっと白衣のポケットに両手を突っ込んで黒板に背を預ける。

 

「君は随分捻くれた物の見方をする生徒でな、つい構いたくなってしまったんだ。今でも君の作文を思い出すよ。書き出しは『青春とは嘘であり、悪である』だったかな」

「はは⋯⋯」

 

 本気で書いていたなら笑えない。いや、笑うしかないか。雪乃も隣でひっそりを息を漏らして、口元に笑みを浮かべたのが分かった。

 

「他にも変わる事は逃げだとか、専業主夫になりたいから職場見学の行き先は自宅がいいとか調査希望に書いていたな。懐かしいよ」

「まあ、作家業は働きながら主夫をやっているようなもんですが」

「では半分夢は叶ったな。まずまずの結果じゃないか」

 

 少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた平塚先生に、俺は苦笑を返す。専業主夫志望とはなんとも高校生らしくない将来の夢だが、今の生活は意外にしっくりきている所為で、妙に納得してしまった。

 

「まあ、そんな調子だから君たちは面白い生徒だったんだ。雪ノ下は真っ直ぐ過ぎるし、君は真っ直ぐに捻くれていた。そんな君たちがどんな化学反応を起こすか楽しみにしていたんだが⋯⋯まさか婚約するところまでいくとはね」

 

 結婚とは言わずに婚約と表現したあたりに、平塚先生の気遣いを感じた。その言葉の通り、結婚の約束は未だ有効であるものの、結婚した訳ではない。

 平塚先生はベストのポケットに手を突っ込むと、くしゃりとその中で音を立てて、ついでにくしゃりと表情を潰した。

 

「久々にタバコを吸いたい気分だが、近頃は学校も厳しくてな。敷地外でしか吸えなくなってしまった」

 

 いや、厳しくなる前でも教室でタバコはアウトだろ⋯⋯。

 同意を求めて雪乃を見るのだが、平然としていて平塚先生の言動に違和感を覚えている様子はなかった。流石に教室で吸ったりはしていないだろうが、結構学校内で吸っていたのかも知れない。

 

「その捻くれっぷりは君の本を読む限り大して変わっていないようにも思えるが、あの頃に比べたら随分真っ直ぐになったものだよ。しかしあの作文を書いた人間が今や賞作家とは、人生は何が起こるか分からない。君には随分作文やレポートを書き直させたが、ひょっとしたら才能をつぶす行為だったのかも知れないな」

「いえ⋯⋯。そんな舐めた作文は突き返していいと思いますが」

「⋯⋯やはり変わったな、君は」

 

 その一言は俺にとって、珍しい種類のものだった。いつも俺を知る人に会っては、やはり俺は俺なのだと妙に納得されていたからだ。

 だからその言葉は、俺の中に重く響いた。俺は俺であって、以前の俺とは隔絶的に違う。平塚先生にそんな意図はないだろうが、どうしてもそう受け止めてしまうのだ。

 

「そして変わったのは雪ノ下、君もだよ」

「⋯⋯私も、ですか」

 

 まさか自分にまで話が及ぶとは思っていなかったのか、雪乃は少しだけ目を大きくして平塚先生を見詰め返す。しかし次の瞬間には、平塚先生と同じように、親しげで優しい笑みが浮かんでいた。

 

「それは、そうかも知れません。八幡に関わっていると、彼曰く少しずつ歪むんだそうです」

「不思議な表現だが⋯⋯、『変わる』という言葉を忌避するあたり、実に比企谷らしいな」

 

 平塚先生がはは、と短く笑うと、珍しく雪乃も少しだけ声を出して笑う。そうやって笑みを交わす姿は、やはりどこか姉妹のように思えた。

 そんな柔らかな時間が流れ切ると、平塚先生は教壇から下りる。そして俺たち二人に向き直ると、酷く(ゆか)しいものを見るように、目を細めて言った。

 

 

「そうやって少しずつ歪んでいく君たちが、私は堪らなく愛おしかったんだ」

 

 

 

 

 特別棟に向かおうとすると、平塚先生はタバコが吸いたいと言って校舎を後にした。どうやら昔話をしていて無性に吸いたくなってしまったらしい。

 雪乃と二人、通い慣れたはずの廊下を歩く。彼女が立ち止まったのは、真っ白なサインプレートのかかった教室だ。雪乃は平塚先生から預かっていた鍵でその扉を解錠すると、その感覚を反芻するようにそっと扉に手を当てる。

 

「もし調子が悪くなるようだったら、すぐに言うのよ」

「⋯⋯ああ」

 

 そうなる予感が今のところ何一つないのが、残念なところだ。雪乃は俺の答えを聞き届けると、がらりと扉を開いた。

 

「⋯⋯あの頃から、変わってないのね」

 

 空き教室なのか、机や椅子のたぐいは後方に積み上げられている。部屋の中ほどには長机が一つと、椅子が三つ。雪乃の口ぶりからすると、ここが奉仕部の部室であるらしい。

 この部屋での出来事。そして思い出。

 雪乃から、あるいは由比ヶ浜と一色から、そして先日の彼らから話を聞き、しかし直に触れるのは初めての場所だ。

 聞けば聞くほど、ここでの出来事はありふれているようで、どうしてそうなるという話が多かった気がする。そのほとんどは俺の所為で、時々誰かと誰かの相乗効果で拗れ、中々普通の青春とは呼べない出来事ばかりのようだった。

 けれどここには、間違いなく俺の青春が詰まっていたはずだ。雪乃という大切な人を見つけた場所が、その時間が、ここにはある。それに触れるのが少しだけ怖く感じた。触れてしまえば壊れてしまうような、そんな儚さや繊細さを、伝え聞いた話から感じ取っていたのかも知れない。

 

「ここが⋯⋯」

 

 一歩その部屋に踏み入れると、さっき二年F組の教室に立ち入った時とは違う、胸が痛いほどの懐かしさを感じた。香りか、それともその光景にか、どちらなのかは判然としない。

 ただこの空気を俺は知っているような気がした。肌に馴染み、心に染み入る、漠然とした感覚。今日ここにきて初めての感覚に、思わず心臓が騒ぎだす。

 

「ここが、私とあなたが出会った場所」

 

 雪乃はそう言って、一番窓際の席に座った。きっとそこが彼女の席だったのだろう。

 吸い寄せられるように、俺は長机を挟んで雪乃と向かい合う。そして机につっと指を滑らせた瞬間──一つの言葉が、頭の中に降ってきた。

 

「⋯⋯本物」

 

 呟いた瞬間、俺は頭に何かが突き刺さったみたいな、鋭く重い痛みを覚えた。

 

「──っ」

 

 耐えきれずに膝を折ると、雪乃はがたっと慌てた様子で椅子から立ち上がり、駆け寄ってくる。

 

「八幡っ!」

「だい⋯⋯じょうぶだ」

 

 そう答えるが、未だ痛みは引かなかった。なんとか顔を上げると、酷く心配そうな表情をした雪乃と目が合う。

 

「俺は⋯⋯ここで『本物』がどうとか、話をした事があったか⋯⋯?」

「あなた──思い出したの?」

 

 雪乃の口ぶりから、俺は確信に似たものを感じ取る。やはりこれは、俺の記憶の中にあるものだ。触れたくて触れたくてあがき続けた、その先にあるもの──。

 しかしその言葉の意味を探ろうとすると、頭痛は更に酷くなる。もう一度頭を抱えた俺に、雪乃は背中を撫でながらかぶりを振った。

 

「もう、やめておきましょう。⋯⋯あなた、凄く辛そうにしてる」

 

 雪乃は有無を言わせない勢いで俺の腕を掴むと、引きずり出されるようにして奉仕部の部室を後にする。廊下に出ると幾分頭痛はましになったが、何かを思い出せそうな感覚も薄まっていく。

 

「なぁ⋯⋯」

「今日はもう帰りましょう。あなたにとっても私にとっても、ここ以上に思い出深い場所はないと思うわ」

 

 俺の言葉を遮ると、雪乃は腕を掴んでいた手で俺の手を握ってくる。

 握り返したその手は細かく震えていて。

 ──だから俺は、それ以上何も言えなかった。

 

 

 

 

 帰りの道すがら、俺は『本物』という言葉に関わる話について雪乃に尋ねた。渋る彼女から聞き出した話は、しかし実に曖昧なものだった。

 

『本物が欲しい』

 

 何故そう言ったのかは、口伝された状況だけでは分からない。言った本人が思い出せないのだから当然と言えば当然だ。

 

 家に帰りついても、俺はずっと『本物』というキーワードについて考え続けている。

 上手く立ち行かなくなってしまったクリスマスのイベント。葉山から聞いていた、不和と言って差し支えない状況。そこで高校生の俺は何を感じ取り、何故その言葉を選び取ったのか。求めた『本物』とは、一体何の事だったのか。

 しかし酷い頭痛からの解放と引き換えに、記憶は遠ざかって行ってしまった気がしてならない。ひょっとしたら、我慢してあの部屋に居続ける事ができたら、もう少し掴めるものがあったのだろうか。

 

「大丈夫?」

 

 声をかけられるまで、俺は立ったままだった事に気づかなかった。薄闇に覆われていく東京湾を見ながら思案に暮れると言えば聞こえはいいが、現実は暗中模索だ。

 雪乃はそっと背後から腕を回すと、俺の身体を抱きしめた。背中に感じる柔らかさと熱さは俺の心臓を蹴り上げるのに充分な衝撃だったのに、今日はその行動に浮かれる事もできない。

 

「⋯⋯本物って、何だったんだろうな」

 

 俺の一言に、雪乃の身体が固まったのが分かった。何故そんな反応をするのかまでは、分からない。本当に俺には、分からない事だらけだ。

 

 本物の強さ、本物の自分、本物の絆、本物の──本物が、何だって言うんだ。

 絶対に、大切な事なのに。

 どうして何一つとして、その先を思い出せない?

 

 俺はそっと雪乃の腕を下ろさせると、彼女に向き直った。真正面から俺と目を合わせた雪乃は、浅く唇を噛んでいる。

 こんな表情を見たくて、母校を訪れた訳じゃない。もっと屈託のない、憂いの一つもない笑顔が見たかっただけだった。それなのにどうしてこうも、上手くいかないのだろう?

 

「────」

 

 悔しさで俺まで唇を噛みそうになったその瞬間だった。

 そんな事はさせないとでも言うように、俺の唇は雪乃の唇によって奪い去られていた。

 

「⋯⋯雪乃?」

「分からないわ」

 

 雪乃は唇を離すと、額を俺の肩口に当てたまま小さく頭を横に振った。今度は細い腕が俺の背中を引き寄せ、二人の間に僅かな間隙すら許さないように、身体を密着させる。

 

「分からないのよ、私には何も」

 

 いつだったか材木座たちは、俺を人生の迷子だとか、迷える仔羊だと揶揄した。まったくその通りだ。

 俺も、彼女も、迷える無力な仔羊だ。

 

「⋯⋯すまない。俺の所為で、雪乃まで悩ませちまったな」

 

 俺の言葉に、雪乃はまた小さくかぶりを振る。そんな仕草ですら、俺の胸はしくりと痛む。

 

「そんな事はいいのよ。ただ思い出せない事で、自分を責めないで。私はあなたを責めるつもりなんて、一切ないの」

 

 雪乃はゆっくりと身体を離すと、もう一度俺を正視した。

 神話の中から出てきたみたいな美しい顔を見て、そう言えば初めて雪乃とキスをした事に気付く。きっと彼女とは、何度もそうして唇を重ね合わせたのだろう。感覚だけは妙に懐かしくて、くすぐったくて──叫びだしそうな程に、切ない。

 

「本当はね、思い出せなくてもいいの。あなたさえ、そばに居てくれれば」

 

 その言葉は俺に向けられているようで、その実誰に向けられたものだったのか。

 言い聞かせるような、確かめるような。その言葉はきっと、彼女だけのものだった。

 

「⋯⋯それだけで、いいの」

 

 ──そう言うと雪乃はもう一度、優しく俺に口付けた。

 

 

 




お読み頂きありがとうございました。

総武高校で思い出を辿るお話でした。


平塚先生は台詞を考えるのが難しいのですが、八幡たちよりも更に大人の目線から語れるところが書き手としては重宝する登場人物ですね。
さて何故平塚先生は、途中でタバコが吸いたくなったのでしょう。色々あるのですが、想像してみると楽しいかも知れません。

それではまた次話でお会いしましょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ごきげんよう、比企谷先生。

「ありがとうございましたぁ」

 

 綺麗に腰を折り、しかし慇懃(いんぎん)になり過ぎない声で彼女は言った。その隣で、俺も同じ言葉を繰り返しながらぺこりと頭を下げる。

 季節は進み、秋も深まった時分。

 今日は俺の新しい本の発売を記念したサイン会である。⋯⋯が、それだけではない。

 出版と時を同じくしてメジャーデビューしたカラフルゆめみ改め一色いろは。彼女がメジャーで初めて発売するCDとの、同時購入者限定合同サイン会だ。会場が大型CDショップなあたり、俺の方がオマケである感じは拭えない。

 なんでも俺の出版した本の先出し記事が起爆剤になり、一色のデビューが決まったらしい。彼女のマネージャーさんからいたく感謝されたが、記事を書いた当時の事を思い出せないのでどうにも反応に困った。

 本来俺が関わった事で一色の人生が一歩でも先に進んだなら、それは純粋に喜ぶべき事だ。しかしデビューに合わせて芸名を本名にするぐらいの覚悟を彼女に決めさせた事は、少し恐ろしく感じた。ほとんどの芸能人が芸名を使う中、その意味が持つ重さは計り知れない。

 

「今日は来てくれてありがとー☆」

 

 一色はそう言いながらファンの差し出したCDのケースを開ける。ペンを握り直すと、目の前に立った女性ファンに飛びっきりの笑顔を向けながら問いかけた。

 

「お名前教えてもらってもいいですかー?」

「──ハルでお願いします」

「はーい。ハルさん、これからも応援よろしくお願いしまー⋯⋯す?」

 

 一色は何故か語尾にクエスチョンを付けると、あれと小首を傾げる。

 まじまじと目の前の人物を見るが、その女性は誰かに見られるとまずいのだろうか、マスクにサングラス、それにキャスケット帽子という出立ちだった。帽子も目深に被っている所為で、より怪しさを増している。

 

「ありがとうございましたぁ」

 

 しかし後ろの行列を思い出したのだろう、一色は宛名付きでサインを書き終わると、両手で女性にCDを返した。続いて俺の目の前にやって来て本を差し出したが、その後のやり取りは大して変わらない。

 確かに普通ではない格好だが、ひょっとして一色の知り合いだったのだろうか?

 

 そんな事を考えながら俺はサインを書き込むと、本を閉じて目の前の女性に差し出した。

 

 

 

 

「お疲れさまでしたー⋯⋯」

 

 控室代わりに通されたバックヤードに入ると、一色はさっきとは打って変わって素の声でそう言った。その顔にはもう笑顔は貼り付けられていないし、疲労を隠そうともしない。だるーんと肩から力を抜いて、全身で疲れましたと言っている。

 

「いやー、中々疲れましたねぇ。今日だけで二百回以上サインしたらしいですよ、わたしたち」

「通りで腕も手も疲れるわけだな」

 

 そう言いながら一色はお茶のペットボトルを目の高さに掲げたから、俺も貰ったばかりのペットボトルをそれにぶつける。キャップを開けてそれを飲むと、『ありがとうございます』の言い過ぎで枯れた喉に染み入るようだった。

 

「しっかし、まさかメジャーデビューまでいくとはな」

「わたしもビックリです。いきなり大きなステージに立てる訳じゃないので、あんまり実感ないですけど」

 

 MVもローカル局でしか放送されないんですよねー、なんて言いながら、一色はまんざらでもない表情を浮かべていた。彼女が頑張っていたのは、ずっとアイドル活動を通じて見て来たから知っている。その努力が実る事はきっと彼女にとっても良い出来事のはずだし、椅子に座ったままぷらぷら揺れる足が犬の尻尾じみていた。

 実際、凄い事だと思う。グループアイドル全盛の時代にソロデビュー。彼女の可愛さは本物だと思うが比較的に言って若いとも言い難いし、ましてやデビューと同時に今までの芸名を捨てるとは中々思い切った事をさせて貰っているなと感じる。事務所もよくオーケーを出したな⋯⋯とか謎のP目線になってしまった。

 

「けど今日は驚きましたね。先輩も気付きました? ⋯⋯あ、いえ、すいません。何でもないです」

「え? お、おぅ⋯⋯」

 

 その言葉に俺が目を向けると、彼女は何でもないとでも言うようにかぶりを振る。

 一体何の事を言っているのかさっぱり分からなかったし、訊く前に話を切られてしまった。驚く事、と言われたら沢山あってどれの事なのか。

 一色にはカラフルゆめみ時代の衣装を自作したという女性ファンが居たし、俺には以前出した処女作を十冊買ったと言った中年男性も居た。俺も若い女の子の方が良かったとか言ったら、相当あれだし一色にも呆れられるだろうが。

 

「あ、そう言えばなんですけど、ひょっとしたらフジの番組に出られるかも知れません」

「え。マジかそれ。ローカル局だけじゃなかったのか?」

「MVはそうですけどー、なんか情報番組の食レポ、みたいなので」

 

 一色の話題転換は妙にわざとらしい気がしたが、こうなってしまったら真実を掘り出すのも骨が折れるだろう。

 だから今は彼女の躍進を祈って、その話に耳を傾ける事にした。

 

 

 

 

 サイン会の会場を出た瞬間、色なき風が頬を撫でた。

 近頃はぐっと気温も下がってきたから、そろそろダウンジャケットを着るべきだろうか。道行く人々は俺よりずっと暖かい格好をしているように思えた。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 そう、だからその人も、とても暖かそうな格好をしていた。

 枯葉色のチェスターコートにマスクとサングラス。肩にかかるぐらいの長さの髪が、秋風に吹かれてさらさらと揺れている。キャスケットを深めに被ったその人は、ついさっき会ったばかりだからよく覚えていた。

 まさか俺の出待ちか? と身構えていると、その人はつかつかと俺の目の前までやってくる。そしてマスクとサングラスを外すと、俺を正視した。

 

「え⋯⋯」

 

 思わず、声に出していた。妙に胸騒ぎがして、酷く落ち着かない気分になる。

 それは彼女が掛け値なしの美人だっただけではない。俺の知っている顔だったからだ。

 口元に浮かべられた笑みは雪乃とよく似ているようで、しかし同質とは言い難い。目鼻立ちは瓜二つなのに、(うち)にある感情や思考が違い過ぎるのだ。未だまともに言葉を交わしていないというのに、それだけは感覚で分かった。

 

「ごきげんよう、比企谷先生」

 

 凛と鈴が鳴るような声で、俺の名前を呼ぶ。

 グロスに輝く唇で弧を描くと、彼女は慇懃に言った。

 

「わたし、あなたのファンなんです。よければお茶して行きませんか?」

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃と名乗った彼女は、席に座るとアールグレイを頼んだ。俺はブラックのホットコーヒーを頼むと、レトロな雰囲気の喫茶店には静かに流れるクラシックの音しか聞こえなくなる。

 注文した飲み物が届くまでの間、一言の会話も生まれない静謐な時間が流れていた。天井のシーイングファンが店内の空気をかき回し、やがて芳しい紅茶の香りが漂ってくる。

 

「君とこうしてお茶するのは、いつぐらいぶりかな」

 

 陽乃さんは届いたばかりのティーポットを見ながら、俺に分かるはずのない質問を口にした。俺は無言でその答えを返すと、彼女は瞳に笑みを浮かべて続ける。

 

「それで、どう? 雪乃ちゃんとは上手くやってる?」

 

 その質問に、この人が何をどこまで知っているのだろうと思った。

 雪乃の姉だという事は、つい先程聞いたから知っている。以前雪乃から姉がいるとは聞いていたから、ああやっぱりという感想しかない。

 だが雪乃からはあまり陽乃さんの話を聞いたことがなかった。俺の知らないところで連絡を取り合ったりしているのかも知れないが、少なくとも今年倒れてから一度も会っていないから、仲良し姉妹という感じではないらしい。

 

「まあ⋯⋯それなりに、ですかね」

 

 実際には、それなりなんて言葉で込められないほどの感情はある。街を歩けばカップルに見えるぐらいには、雪乃との距離は近づいているはずだ。

 しかしその芽生えた感情の名前を陽乃さんに伝えるのは何か違うと思うし、伝えるべきは雪乃だろう。

 

 この数ヶ月の間に、色々あった。

 彼女は掴めそうで掴めない記憶に歯噛みする俺に寄り添い、ちゃんと今の俺を見ようとしてくれていたように思う。そこには確かに諦念のようなものもあったし、淡い期待のようなものもあった。俺の心が揺れ動くのと同じように、彼女もまた揺れている。あるいは俺よりも、ずっとその心の動きは激しかったのだろう。

 それでも彼女は、一貫していた。俺と共にある事を決して諦めず、常に前を向いていた。

 その姿勢は健気だと、兎角(とかく)そう思う。どれだけ強さで覆い隠そうとしても消せない儚さが、殊更にそれを感じさせた。それほどの想いを向けられて、そして彼女の魅力に直に触れて、何も感じない者などいないだろう。

 

「それなり、ね。ならいいんだけど」

 

 陽乃さんはティーポットから紅茶を注ぐと、香りを確かめてから口に含んだ。その優雅な所作は、やはりよく雪乃に似ている。

 俺もそれに倣うようにホットのコーヒーを飲むと、まだ熱すぎた所為で舌を火傷しそうになった。かちゃり、とソーサーにカップを置くと、さっきからずっと気になっていた事を口にした。

 

「さっきはどうして、変装なんてしてたんです?」

「ん? ああ⋯⋯だって本当は声をかけるつもりなんてなかったから」

 

 ならどうして、と口を()いて出そうになるが、心の中で留めておく事にした。直截に訊いてしまえば、「どうしてだと思う?」と返ってきそうだった。

 

「君とあの子の様子だけ見て、帰ろうと思ってたんだ。けどそれが当たり前なのに本当に私だって気付かなくて、気が付いたら君を待ってたんだよ」

 

 僅かばかりのやるせ無さを笑みに混ぜて、陽乃さんは俺を見ていた。陽乃さんからしたら、悔しい事この上ないだろう。

 陽乃さんが雪乃の事をどれほど想っているかは知らない。しかし曲がりなりにも血の繋がった姉妹だ。妹の結婚が保留となり、あまつさえ自分の事すら思い出せなくなってしまう。その現実をはいそうですかと、受け入れられるはずがない。

 

「ねえ、そんな事よりこの前、総武高校に行ってみたんでしょ? どうだったの?」

 

 何故この人がそんな事まで知っているんだと思ったが、雪乃が伝えたのだろうか。だとしたら、思ったよりも仲はいいのかも知れない。

 しかし俺から言える事は、たった一つしかない。そんな答えを聞いても、陽乃さんを困らせるだけになるような気がする。

 

「⋯⋯部室に行った時に、一つだけ思い出しました。『本物』って言葉だけですけど」

 

 俺が言うと、陽乃さんは予想に反して目を少し開いて驚きを見せた。ひょっとしたらそのキーワードに対して、彼女も何か関わっていたのだろうか?

 陽乃さんの反応を窺っていると、彼女は紅茶の水面に目線を落として言う。

 

「⋯⋯そっか」

 

 そして返ってきたのは、その一言だけ。

 しかしその言葉には、一つでは済まない意味が込められているような気がした。

 

「ちゃんと見つけられていたのにね。君も、雪乃ちゃんも」

 

 静かに流れるクラシックの曲間を縫うように、陽乃さんはそう言った。感情を押し殺した声音は激しさの一つもないのに、俺は責められているような気分になる。責めている人間がいるとしたら、それは自分自身なのかも知れない。

 

「ねえ、まるでドラマみたいだと思わない? 君は薬か手術で記憶を消されて、目を覚ましたら周りは知らない人ばかり。実は全員仕掛け人で、君はそのドラマの主人公なのよ。そして壮大なエンターテインメントとして、君の様子は世界中で放送されているの。トゥルーマン・ショーみたいに」

「もしそうなら、商材の宣伝が足りてないんじゃないですかね」

 

 ずいぶん気の利いた冗談だった。むしろそうであってくれた方が、どれだけ良かったか。

 婚約者に忘れ去られてしまう薄幸の美人なんて居なかった。その苦悩は無かったのだとしたら、きっと俺はその嘘を許せるだろう。

 

「やっぱり君のそういうところ、好きだな」

 

 陽乃さんはそう言って、今までで一番明るい笑みを浮かべた。驚くほど素敵な笑顔で、捉え方によっては性質(たち)の悪い冗談の後にする表情らしくないほどだった。

 

「そのドラマの中で、君は妻を(めと)るのかな?」

 

 しかし次の質問には冗談では済まない重い響きがあって、背中にぴりりと電気が流れた気がした。

 本当にどうなるのだろうか、このドラマは。だが今求められているのは、ストーリーの展開予測じゃない。物語の主人公がどうするか。どうしたいかだ。

 

「きっと、そうするんでしょうね」

 

 過去の出来事を思い出せないままでも、嵐のような感情に揺さぶられ続け、きっとその答えに行き着くのだろう。婚約しているからとか、そんな事は関係なしに、ただひたすらに自分の意思で。

 俺の答えを聞き届けると、陽乃さんは安心と少しの憂いを瞳に込めた。

 

「それなら比企谷くんは、もっと雪乃ちゃんを見てあげないとね」

 

 どこかで誰かが言った言葉のリフレインが、俺の中を満たしていく。

 それに対する答えなんて、もう決まっている。いくらでも正面から見てやろう。ぶつかり合っても擦り切れそうになっても、きっとエンドロールには、二人の名前が並んでいるはずだ。

 

 

「嘘か真か。偽物か本物か。君ならそれが、分かると思うから」

 

 

 陽乃さんはそう言うと、カップに残ったアールグレイを飲み干した。

 

 

 




ここまでお読み下さりありがとうございました。
八雪なのに雪乃が出て来てないぞって?
私も書き終わってから気付きました。
陽乃さんは平塚先生とは別の視座から登場人物たちを見られるキャラで、この話において結衣と立場的には似ているようで全く違う意見になるところがキーですね。

それではまた次話をお待ち下さい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私はずっと、あなたのそばにいる。

 人を正しくみるとは、どういう事だろうか。

 見る、観る、視る──当てはめる言葉によって意味は変わっていくが、そのどれもが正解とは思えなかった。

 

 年が明けて、今日で三日目。

 以前陽乃さんから受け取った「もっと雪乃ちゃんを見てあげないとね」という言葉の意味を、俺は今でも反芻する事がある。

 

 真意を紐解いていくならば、それは一個人として正しく向き合うべし、という事ではないかと思う。

 環境も経緯も、情報すら何も無かったものとして扱って、ゼロベースで雪ノ下雪乃という人をみる。それが陽乃さんに言われた事の、最適解なのではないかと思った。

 

 今まで書いた日記を読みながら、それが出来ているかと考える。

 それほどまちがった物の見方はしていないはずだ。彼女の真摯さには真摯さで、優しさには優しさで返し、互いを尊重し合ってきた。彼女の真っ直ぐな視線には、ある意味俺らしくないほど真っ直ぐに見詰め返せていたはずだ。そうしていつしか俺の中に灯る熱は、胸を焦がすほどの温度になっていた。

 本当にもう、どうしようもないぐらいに、惹かれていく。陽乃さんの一言がなくても、俺はそれに抗えなかっただろう。抵抗しようとしていた事すら馬鹿らしく思うぐらいに彼女の想いは大きく、器から溢れてしまいそうなほどだった。

 

 ──コンコン、とノックの音がする。

 書斎の扉を開くと、たった今まで想っていた人が目の前に立っていた。

 

「もう準備できたから、いつでも出られるわ」

 

 ワンピースのイブニングドレスに身を包んだ雪乃は、凛とした立ち姿でそう言った。いつもよりしっかりとメイクをした雪乃のその姿は、今からアカデミー賞の授賞式に行くのだと言われても納得してしまうほど女優然としている。

 すっぴんを知っていると化粧なんてしなくてもいいのではと言いたくなるが、やはりした方が彼女の顔の良さが引き立つのも確かだ。つまり雪乃は何をどうしたって、どこからどう見ても、ひたすらに美しい。

 

「八幡?」

 

 黙って見惚れてしまった俺に違和感を覚えたのだろう、雪乃はそう言って首を傾げた。その仕草も堪らなく愛らしいのだが、いつまでも見惚れている訳にはいかない。

 

「ああ、いや⋯⋯。すげぇ、綺麗だなって思って⋯⋯」

「ありがとう。あなたも悪くないわよ。仕方なく着ている感じが凄く素敵」

 

 ジャケット姿の俺を見ながら、雪乃はそう言って微笑む。

 ほとんど語彙力が死んだまま褒める俺に対して、雪乃は余裕綽々と言った調子なのは、まあいつもの事だ。こと相手の取り扱いに関しては雪乃が一枚も二枚も上手過ぎて、いつもぐうの音が出なくなるまでやり込められてしまう。

 

「そりゃどうも⋯⋯。じゃあ行くか」

「ええ」

 

 そう言ってマンションを出ると、俺たちは最寄り駅へと向かった。真冬の冷たい風に身をすくめると、何も言わずに雪乃の手を握る。彼女もまたそれが当然のように、俺の手を握り返した。

 今日は雪乃の誕生日だ。

 よって今晩はレストランでディナーと洒落込む予定であり、その行き先はまだ雪乃に言っていない。そっちの方が、彼女にとって楽しめるだろうと思ったからだ。

 駅に着くと数駅分だけ電車に乗り、下車した駅を出ればもう目と鼻の先に目的地はある。世界的な有名なホテルの、その最上階。本日のディナー会場を有する巨大な建造物は、どこまでも真っ直ぐ天に向かって背を伸ばしていた。

 

「ここだ」

 

 そのままホテルの前を素通りしてしまいそうだった雪乃の手を引くと、二人して立ち止まる。雪乃はホテルを見上げるとそんなに意外だったのか、目を見開いて驚いているように見えた。

 入り口に立っていたドアマンに行き先を告げると、続いてコンシェルジュに案内されてエレベーターに乗り、扉が開けば待ち構えていたレシェプショニストに迎えられて店内へと導かれる。窓際の席に座るまで驚くほどスムーズに事が運び、その仕事ぶりは敬意を払うべき一流のものだった。

 

「こんなところ、よく知っていたわね。前にも来たことがあるの?」

「いや、実を言うと初めて来る。調べてたら、良さそうだなと思ってな」

 

 飲み物を注文し終えると、雪乃は淡すぎる程の照明の下でそう問いかけた。薄暗い店内にはオールディーズのジャズが流れ、誰も彼もが密やかに言葉を交わしている。

 有り体に言ってしまえば、ここは高級イタリアンと呼ばれるレストランだった。当然よく利用する類のものではないし、初めて来るところだったからもっと戸惑う事もあるかと思っていたが、今のところ全くそんな様子もない。それを感じさせないのもまた、プロの仕事なのだろう。

 

「とりあえず、乾杯するか」

 

 飲み物が届くと、グラスを軽く上げてそう言った。雪乃は頷くと、同じようにグラスを持ち上げる。

 

「誕生日おめでとう」

「ありがとう」

 

 グラスを目の高さまで上げると、ジンジャーエールを一口飲んだ。ドライジンジャーのぴりりとした感触が、舌に広がる。

 

「あなたにこうして祝って貰えるのは、久しぶりね」

 

 雪乃は感慨深げにそう言って、ふと口角を上げた。薄暗い店内では、それが妙に蠱惑的に見えてしまう。

 

「去年はそれどころではなかったし。綺麗さっぱり忘れられていたから」

「あー、うん⋯⋯ごめんね? なんか色々⋯⋯」

 

 こうやって意地悪く揶揄するのも、雪乃なりの優しさだ。こうして謝りたい気持ちを上手く消化させてくれるあたり、本当に俺をよく理解してくれていると思う。

 届いたばかりのアンティパストを一瞥して、では俺はどれだけ雪乃の事が理解できているだろうと考える。

 常に美しく気高いが、それを決して鼻にかけたりしないし、そこにかける情熱を人に見せようとしない。完璧主義者のようでいて、どこかでボタンを掛け違えたみたいな独特のずれがある。睨みを効かせれば相手を恐怖に陥れ、微笑めば女神のようにその心を包み込む。そして猫が好きで、その次ぐらいに俺の事を──。

 

「食べないの?」

 

 雪乃の言葉にはっとして顔を上げる。彼女の両手にはフォークが握られており、目の前のカプレーゼとスモークサーモンはゆっくりとその鮮度を落としているところだった。

 

「いや。食べるか」

 

 かぶりを振って、俺もフォークを握る。今日は彼女の誕生日なのだ。いくら頭の中が雪乃でいっぱいであったとしても、目の前の本人を疎かにしていい訳がない。

 しかしこの後の事を考えると、やはり平静ではいられないのか。

 そう言えばトマトは嫌いなんだよなと気づいたのは、カプレーゼを口に入れた後の事だった。

 

 

 

 

 会計を済まして店外に出る直前、キャッシャーの女性に「よければもう少し夜景をお楽しみ下さい」と提案され、俺たちは展望室へと足を向けていた。

 ホテルの利用者だけが入れるその場所は、下調べしてあったから知っている。先ほどまで居た店内とは反対で東京湾に背を向ける格好になり、眼下には息を呑むほど壮麗な光の海が広がっている。

 

「綺麗ね」

 

 ゆっくりと歩く雪乃の足元を、淡く青い間接照明が照らしていた。ミディ丈のスカートから伸びた脚は幻想的なまでに蒼白く、夢か現か分からなくなるほどだ。こんな時は君の方が綺麗だなんて三文芝居でも打った方がいいのかと考えるが、彼女の趣味でもないだろう。

 ああ、と小さく返事を返しながら、展望室の中に目を向けた。正月の三ヶ日と言うのは利用客も多いらしく、俺たちの他にも何組か夜景を楽しんでいる。できれば人が少ない方がよかったが、幸い誰もが夜景に、若しくはパートナーに夢中で、俺たちの方を気にする様子はない。

 

「ちょっと座らないか」

 

 俺が提案すると、雪乃は「ええ」と頷いて窓に向けて(しつら)えられたベンチに座った。俺は彼女が座った方とは反対側にハンドバッグを置くと、静かにそれを開ける。底にしまっていた二つの箱の大きい方を取り出すと、自分の膝の上に置いた。

 

「僭越ながら、誕生日プレゼントを用意しております」

「作家とは思えない言葉選びね」

 

 いえ、作家だからかしらと続けながら、雪乃は口元を綻ばせた。夜景よりもずっと輝いている笑顔に、思わず見惚れてしまいそうになる。

 しずしずと両手で細長い箱を差し出すと、雪乃もそれを両手で受け取った。

 

「ありがとう。開けてもいい?」

「ああ」

 

 雪乃は周りを気にしてか、音を立てないように白い包装紙を剥がし取っていく。けれど見立ての通り、誰も俺たちの方など気にしてはいない。やがて現れたボックスの蓋を開けると、雪乃は微かに息を吸い込んで止めた。

 

「⋯⋯綺麗ね」

 

 夜景に向けた感想と同じ言葉だったのに、その声はずっと陶然としていて、見惚れるように雪乃は俺からのプレゼントを見ていた。そっと持ち上げられたネックレスの先では、ティアドロップ型のペンダントトップが揺れている。

 雪乃はしばらくそれを眺めた後に、そっとボックスに戻した。彼女は身につけていたパールのネックレスを外すと、俺に微笑みかける。

 

「あなたが着けてくれる?」

 

 頷いてボックスを受け取ると、彼女がそうしたようにネックレスを持ち上げる。永遠の輝きが閉じ込められたペンダントトップが、俺を急かすように揺れていた。

 引き輪の口を開くと、両手を雪乃の首裏にまわす。中々引き輪がプレートにかかってくれずもたついていると、くすりと彼女は笑った。生温かい息が鼻先にかかって、思わずとくんと心臓が大きくなる。

 

「着けたぞ」

「ええ。ありがとう」

 

 そう言って離れようとした瞬間、雪乃はちらと周りを窺うと、逆に俺の頭に手を回して引き寄せた。互いの柔らかい部分が触れ合って、脳が痺れるほどの浮遊感が訪れる。思いもよらなかった行動に、身体も思考も停止してしまう。

 

「⋯⋯すごく嬉しい」

 

 顔を離すと、まるで少女のように雪乃はそう言った。ここが薄暗くなければ、きっと頬を染めた彼女が見えただろう。

 鎖骨が見えるほど横に開いたイブニングドレスに贈ったばかりのネックレスがワンポイントとして加わると、神秘的なまでの美しさを感じる。瀟洒(しょうしゃ)にて華やか、不可侵の美が、確かにそこに在った。

 俺たちはベンチに座り直して距離を詰めると、どちらともなく手を握り合う。隣り合って座ると必然的に宝石箱を撒き散らしたみたいな夜景の方を向く事になるが、俺が見ているのはこの世でたった一つの宝石だった。

 

「気に入って貰えたか?」

「もちろん。あなたのセンス、嫌いじゃないわ」

 

 雪乃はそういいながらキュッと手を握り込んでくる。彼女の横顔を見詰めていると、その口元が緩むと同時にこちらを見てきた。

 

「それにしてもあなたのプレゼントは、身に着ける物が多いわね。そんなに私を一人占めにしたいのかしら」

「⋯⋯そうだったのか?」

「ええ。私の持っているアクセサリーの半分は、あなたから贈られたものよ」

 

 くすくすと笑い漏らす雪乃に対して、俺はなんとも曖昧な笑みしか返せない。よく言われる事がある。八幡はどこまで行っても八幡だと。言われているこっちとしては、苦笑するしかない。

 

「指輪、ネックレス、イヤリング。ブレスレットも貰った事があるわ。全部、自分でも似合うと思うものばかりだった。きっとたくさん悩んで、選んでくれたのね」

 

 雪乃の体重が、僅かに肩にかかる。もう彼女は周りを気にする様子すらなく、俺の肩に頭を預けていた。

 雪乃の口から思い出話を聞くのは、嫌いじゃない。触れたくても触れられない歯痒さを感じる事はあるが、いつも俺の中に残るのは胸が窮屈になるぐらいの愛しさだった。

 ──だから。

 俺がそんな質問をするのも、必然で当然の事だと思うのだ。

 

「なあ⋯⋯。俺はどうやって、雪乃にプロポーズしたんだ?」

 

 それはいつものように。

 雪乃に昔語りを頼むのと同じトーンで、同じ響きを持っていたはずだった。

 

「──」

 

 しかし雪乃から返ってきたのは身体の強張りと、失われてしまった言葉だ。その反応に、どうしようもないぐらいの動揺を感じ取ってしまう。

 ひょっとして俺は、触れてはいけない琴線に手を伸ばしてしまったのだろうか?

 けれどどこを探しても、その答えはない。彼女の口から紡がれない限り、俺にそれを知り得る手段はなかった。

 

「八幡」

 

 どこか諭すような響きをもった声が、俺の名前を呼ぶ。光の粒を閉じ込めた雪乃の瞳が、俺を捉えていた。

 

「⋯⋯焦らなくてもいいの。私はずっと、あなたのそばにいるから」

 

 その言葉が、それが持つ意味が、俺の中に走り抜けて行く。

 分からない。

 俺にはちっとも、──これっぽっちも分からない。

 もう一度私を好きになってもらうと、俺が目覚めたあの日に雪乃は言った。婚約者という関係も、何一つ変わっていない。

 思い出せなくても構わないと、俺が居てくれるだけでいいと彼女は言った。それに甘えて、俺の中で答えを出した訳じゃない。ちゃんと向き合って、雪乃をただ見詰めて出した答えは──どうしようもないぐらい、まちがっていたのだろうか?

 

 不意に陽乃さんが言った、夢想のような冗談が脳裏に蘇る。

 俺は記憶を消されてしまっていて、周りはみんな仕掛け人。俺の人生は他人の娯楽。悲しく滑稽なトゥルーマンは、舞台の上で踊り続ける。

 

「そう、だな⋯⋯」

 

 無理矢理出した声は、酷く(しわが)れて俺の声ではないみたいだった。なんて馬鹿らしい考えに囚われているのだろう。そんなはずなんてない。俺の中にあるものも、彼女の中に灯った熱も、まちがえようもないぐらいの本物だ。だからきっと、彼女の言葉の意味は──。

 

「そろそろ行きましょうか」

 

 そう言って雪乃が俺の手を離すと、先に立ち上がった。ああ、と掠れ気味の声で答えて、俺も立ち上がる。

 

「──」

 

 眩暈(めまい)のような感覚を覚えて、俺はすっと目を閉じた。

 瞬間、平衡感覚が抜け落ちて、鈍い音が身体の真ん中を揺らした。

 

「⋯⋯八幡?」

 

 目を開いてもどういう訳か、展望室の真っ黒な天井と、夜景にぼんやりと照らされた窓しか見えない。

 目の前にいたはずの雪乃が、酷く狼狽えた様子で俺の上から覗き込んでくる。

 

「──八幡っ!」

 

 目を瞑ってもいないはずなのに、視界は白くぼやけていく。

 身体から何もかもが──確かにあった熱ですらも、抜けていく感覚。

 

「ねえ、八幡──! ──⋯⋯ん!」

 

 混濁していく意識の中で、聴覚もやがて鈍く消えていく。

 

 完全に意識を失う、その瞬間まで。

 もう聞こえなくなった彼女の叫びだけが、俺の頭の中を木霊していた──。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺はいつまでも、その手を見詰めていた。

 押し殺したかのような嗚咽が、微かに聞こえていた。

 身体は未だ夢から覚めやらぬといった調子で、頭も四肢も酷く重い。ゆっくりと目を開くと、カーテンレールを吊り下げた白い天井が見える。

 

「⋯⋯お兄ちゃん?」

 

 その声に、ようやく俺はすぐ近くに人がいる事に気付く。

 ――お兄ちゃん。

 そうだ。俺には妹がいる。けれどその名前を呼ぼうとしても上手くいかない。涙をいっぱいに溜めたその顔を見ても、その名前は浮かんでこなかった。

 

「わたしの名前、分かる?」

 

 酷く不安そうな声が、瞳が俺に向けられる。俺は身を起こして彼女を見るが、その問いに答える事ができない。

 

「いや、悪いけど⋯⋯」

「そっ、か⋯⋯」

 

 俺の言葉に返って来たのは、さっきまで聞こえていた嗚咽の続きだった。

 一体なんだと言うのだろう。何故見ず知らずの人間に、こんな反応をされなければならないんだ?

 

「お兄ちゃん、これで何度目か分かる?」

「何度目⋯⋯?」

 

 何度目とは、そもそもどういう事なのか。彼女が俺の妹として仮定するなら、こうやって上手く思い出せない状況を言っているのだろうが⋯⋯思い出せないなんて、本当に彼女は俺の妹なのか?

 

 

 

「──もう、五度目(・・・)だよ。お兄ちゃんが全部⋯⋯ぜんぶ思い出せなくなっちゃうの⋯⋯」

 

 

 

 降り落ちた沈黙に、耳がキンとした。

 全部、思い出せない──?

 言われて俺もこの状況になるまでの経緯を思い出そうとしてみるが、まったく上手くいかなかった。何故病院のような場所にいるのか、昨日何をして、何を食べたのか。家族の顔や名前ですら、何も思い出せない──。 

 

「小町の事も、たぶん雪乃さんの事も、⋯⋯全部忘れちゃうんだよ、お兄ちゃんは。何度も」

 

 小町、と言うのは彼女の名前だろうか。彼女は俺の寝ていたベッドに突っ伏すと、肩を揺らして泣き始めた。

 彼女の口から一つひとつ言葉が溢れる度に、心臓の音がうるさくなっていく。にわかには信じられないが、彼女の反応は真に迫っているなんてレベルではなく、とても演技とは思えなかった。

 

「⋯⋯わたしはね、小町。お兄ちゃんの妹だよ」

 

 小町は一頻(ひとしき)り泣くと、鼻を啜りながらそう言った。彼女は足元の鞄から一枚の紙とカードを取り出すと、俺に渡してくる。

 随分前に取ったらしい戸籍謄本と、彼女の運転免許証。それが偽造でなければ確かに彼女は俺の妹らしかったが、俺にそれを説明するには嫌に手慣れ過ぎていて、彼女の発言の真実味が増していく。

 

「もうすぐ、雪乃さんが来るよ。携帯を見て」

「あ、ああ⋯⋯」

 

 雪乃さんって誰だ、と思いながら身の回りを見渡すと、枕元に携帯電話を見つけた。それを目の前に持ってくると鍵のマークがロック解除を示し、背景には俺と女性のツーショット写真が表示されている。

 

「その人が、雪ノ下雪乃さん。お兄ちゃんの婚約者」

「は⋯⋯?」

 

 俺に、婚約者⋯⋯? 俺は婚約者の顔や名前まで、忘れてしまったというのか?

 携帯の中で笑う女性は、美人なんて言葉では足りないぐらいの麗人だった。女優顔負けの美貌を持つその人が俺の婚約者とはとても信じられないが、写真の中で俺と頬をくっつけて笑っている。そうする事が堪らなく幸福だとでも言うようなその顔は、優美が故にどこまでも俺を追い詰めるようだった。

 こんな美人と会って、こんな風に写真を撮って、忘れるはずがない。けれど教えられた名前だって合っているか分からないぐらいに、彼女の事が思い出せなかった。小町の話した全てが、置かれている状況と合致していく。

 

「本当に忘れちまったのか、俺⋯⋯」

 

 画面をスワイプすると、写真のライブラリが開いていた。俺とその雪ノ下雪乃さん(・・・・・・・)の写真がほとんどで、最新のものほど親密さが分かるぐらいに距離は近く、時間を遡るほど離れていった。そしてまた恋人同士のようなツーショットが並び、また付き合いたてのカップルみたいにぎこちない笑顔になっていく。

 

 ──もう、五度目だよ。

 

 信じたくなかった。そんなはずがないと叫び出したかった。

 けれどそうする事は無駄だと、どこか冷静な自分が囁いている。頭の方はもう、諦めてその事実を認めてしまったのだろう。五度目というその意味が、ずっしりと肩にのしかかっている。

 

「雪乃さんが来たら、きっとこう言うと思う。⋯⋯あなたにはまた好きになってもらう、って」

 

 どういう訳かは分からないが、小町はそう言って瞳を潤ませていく。戦慄(わなな)く唇が、何か決定的な事を言わんとしていた。

 

「──でも、断って。絶対に断って。じゃないと雪乃さん、ずっと、何度も傷つくことになっちゃうんだよ」

 

 そう言って小町は、はぁぁと震える息を吐いた。彼女が瞬くと、一雫の涙が転がり落ちる。

 悲しみに濡れていたはずのその瞳は、いつの間にか強い意志が宿っていて、まるで俺を睨んでいるようだった。

 

「何度も、何度も⋯⋯っ! そうして来たんだよっ。諦めずにまたお兄ちゃんと一からやり直して、上手くいったと思ったらまた何も思い出せなくなっちゃて──! その度に、雪乃さんは泣いてたよ。苦しんだんだよ。お兄ちゃん⋯⋯っ!」

 

 小町は俺の手を取ると、痛いほど強く握り込んでくる。その痛みは、きっと今彼女の感じているものの比ではないのだろう。

 長年一緒に過ごした相手に忘れられてしまう悲しみは、小町もまた同じのはずだ。少し想像してみただけで、無力感と喪失感に苛まれる。そんな事を⋯⋯繰り返して来たのだろう。

 

「ごめんね⋯⋯。お兄ちゃんが何も悪くないのは分かってるの。⋯⋯それでも、お兄ちゃんは雪乃さんとの関係を、ちゃんと終わらせるべきだと思う」

 

 きっと小町はそんな事を言いたくはないのだろう、苦悩の表情から随分無理をしているのが分かった。

 例え家族であろうと、他人の人間関係に口を出すなんて傲慢だ。けれど彼女もそんな事は覚悟の上だと、その目が言っている。だから取り違えの余地を一切与えずに、主張する、意見する。強い意思をもって介入しているのだ。

 震える声も、肩も、全部誰かを想うが故で、その思念の強さは俺にもしかと届いていた。

 

「雪乃さん、もう三十歳になっちゃうんだよ。お兄ちゃんが手放さないと、雪乃さんはずっと自由になれない。幸せになんか、なれない、よ⋯⋯」

 

 また嗚咽だけが、病室を満たしていた。鼻を啜る音が聞こえる度に、悲しみが雪のようにしんしんと降り積もる。

 

 ──幸せになんか、なれない。

 

 その言葉は果たして未だ見ぬ彼女に向けたものだったのだろうか。太い針のような言葉が、俺の胸に深く刺さって抜けていかない。

 まるで天罰でも受けているような気分だった。けれど罪人にはその罪の大きさを推察する事は出来ても、自覚の一つすらない。

 そんな俺の様子を見ていた小町は、手を握ったまま、懇願するように呟く。

 

「だからお願い、お兄ちゃん⋯⋯」

 

 涙を湛えた小町の瞳には、酷く悲壮な表情を浮かべた俺の顔が映っていた。

 

 

 

 

 小町が病室を後にしてから、俺はずっと携帯に残った婚約者との軌跡を見ていた。

 写真、メッセージ、通話履歴。そのほとんどが雪ノ下雪乃という名前で埋められていて、俺と彼女はとても閉じた関係だったのだと分かる。

 彼女からのメッセージは絵文字も感嘆符もなく一見冷たく見えるが、その言葉の中身自体は柔らかく暖かなものだ。言葉の奥にある傾慕も、写真を見ていれば分かってくる。

 そんな彼女を、小町が言うように俺は何度も傷つけて来たのだろう。不可逆で圧倒的な力の前に、彼女や周りの人ばかりが痛みを抱えてきたのだ。

 

 ──トントン、と。ノックの音が病室に響いた。

 どうぞ、と思っていたよりずっと低い声が出ると、からりと静かに音を立てながら扉が開く。そこから姿を表したのは、予想通り雪ノ下雪乃その人だった。

 彼女は俺と目が合うと、はっと息を吸い込んだように見えた。少しだけ早足で近づいてくると、さっきまで小町が腰掛けていた丸椅子に座る。

 

「目が覚めたみたいね。私のことは分かる?」

 

 小町から状況は聞いていないのか、それとも分かっていて聞いているのだろうか。彼女は痛いほどに真剣な目で俺を見詰めてくる。

 

「雪ノ下雪乃さん⋯⋯だよな」

 

 名前を呼んだ瞬間喜びに開かれた瞼が、続く言葉でゆっくりと伏せられていく。期待させたみたいで悪いとは思うが、知らないものを知らないと言っていいほど、楽観的な状況ではなかった。

 

「⋯⋯私のことを、覚えているわけではないのね」

「ああ⋯⋯。悪いんだけど⋯⋯」

 

 彼女はそっと顔を俯かせて、その表情を隠す。その表情が俺を責める事になると思っているのか、悲しみすら秘匿しようとしていた。

 

「いいえ⋯⋯。仕方がないわ。あなたにどうこう出来る問題ではないもの」

 

 そう言って彼女は笑おうとしたが、ちっとも上手く笑えていなくて、こちらまで悲しい気分になってくる。

 本当に、酷い話だ。俺は思い出せないというショックはあるが、記憶の中から居なかった事にされるという憂いを知らない。知りようもなくて、それが今の俺には一番辛かった。

 

「小町さんにはどこまで聞いたの?」

「今回で五度目、ってことは聞いてる」

「そう⋯⋯」

 

 短くそう呟いた声は、諦念に濡れていた。まるで自然災害にでも遭ったかのような、どうしようもないやるせ無さが滲み出ている。

 きっとこんな風に期待して諦めて、何度も繰り返してきたのだろう。きっと良くなると信じて。また忘れ去られてしまうかも知れない恐怖を胸に抱えたまま、ずっと。

 あまりにも、残酷だ。

 神様の仕業だというなら、何故こんな血も涙もない事をするのだと糾弾したいぐらいの所業だった。これじゃまるで、賽の河原ではないか。

 積み上げて、完成したと思った途端に突き崩される。とても生身の人間が耐えられる事じゃない。もしそんな地獄のようなループが終わらせられるとしたら、それは──。

 

「私はあなたがそうやって思い出せなくなる度に、言っている事があるの」

 

 今にも泣き出しそうな目で、彼女は俺を見詰めていた。その視線はまるで俺の中に残っている、過去の俺(・・・・)の残りカスを探しているかのようだった。

 

「私はあなたの婚約者で、それは今この時でも変わっていないわ。あなたにとって会ったばかりの私に、なんの感情もないでしょうけど」

 

 慰めるような、労るような、そんな声。

 その奥にある強い意志も、触れただけで壊れてしまいそうな儚さも、全部を込めて、彼女は言う。

 

「あなたにはもう一度、私のことを好きになってもらうわ」

 

 彼女はそう言い切ると、勝気に笑った。──否、笑おうとした。やはりちっとも彼女は上手に笑えていなくて、瞬きをした瞬間に涙が頬を伝い落ちる。

 嗚呼、どうしてここまで小町の言う通りになってしまうのだろう。せめて彼女の意見が今まで違うなら、別の答えだって出せていたかも知れないのに。けれどそんな考えは責任転嫁でしかなく、俺は決めたばかりの覚悟を発露しなくてはならない。

 ゆっくりと息を吸って、音もなく、絞り出すように吐き出した。俺にその言葉の重みは分からないのに、思わず声が震えてしまいそうになる。それでも俺が口にできる言葉はもう決まっていて、彼女をループから救い出すにはその答えしかなかった。

 

「いや⋯⋯。もう止めておこう」

 

 言った瞬間、刻の律動が止まった気がした。

 互いに見つめ合ったまま、指先ひとつすら動かせられなくなる。浅い呼吸の音が耳に戻ってくると、じわじわと時間は流れ始める。

 

「どう、して⋯⋯?」

 

 さっきまでと違う、(しわが)れた声が疑問を紡ぐ。心底分からないといった様子が、目に焼き付いていくようだった。

 

「多分もう⋯⋯俺は治らないと思う。それにいつまでも付き合わせる訳にいかない」

 

 決別の言葉は、その声音は、あまりにも虚ろだった。自分の言葉であるはずなのに、どこか他人事めいた響きを持っている。

 本当に酷い話だと思う。言われた方はこの上なく傷ついて、言った方はその痛みすら分からない。俺たちにとって迎える結末は同じなのに、決定的にそこだけが違っていた。

 

「雪ノ下さん⋯⋯。俺と別れてくれ。もう俺の回復は、待たなくていい」

 

 そう言い切ると、心も感情も、何もかもが抜け落ちていくような気がした。後に残ったのは空っぽな自分だけ。記憶も愛も、何もかもに別れを告げた、俺だけだ。

 彼女は唇を震わせると、その形のいい口を引き結んだ。痛みに耐えるような表情が、俺の言ってしまった事の重みを伝えてくる。それでもその言葉をなかった事にはできない。

 もう俺も彼女も、どこにも戻れはしないのだろう。メッセージのやり取りのように心を通わせる事も、写真のように頬を寄せ合う事も、きっとない。

 

「あなたは知らないのね。今は当然かも知れないけど、私のこと」

 

 いやいやをするようにかぶりを振ると、彼女は強い意志を瞳に込めていた。何故こうも、彼女は強いのだろう。こんな事を繰り返していたら、とっくに心が壊れていたっておかしくないというのに。

 

「私、負けず嫌いなの。あなたはまた、私の事を忘れてしまうのかも知れない。それでも私は、その運命に抗うわ。絶対に負けたりしない」

 

 その声は涙に濡れて、悲しみに震えていた。目にはまだ力が残っていたけれど、それはまるでぼろぼろの仮面だった。崩れていきそうな内面すらそこには滲み出していて、まるでその役目を果たしていない。

 彼女の意思は、尊ぶべきものだ。ありがたくて、温かで──そしてそれに反するように、現実は冷酷だった。

 

「違うんだよ、雪ノ下さん」

 

 彼女から視線を外すと、俺はゆっくりと頭を振った。

 

「あんたが辛いだけじゃない。俺も辛いんだ。⋯⋯俺のせいで幸せになれる可能性を奪ってしまうのは、俺自身が許せないんだよ」

 

 それが、俺の本心だった。

 小町に言われた事も、もちろんある。けれどその答えを決めたのは俺で、冷酷なのは俺だった。

 この厳しい現実に立ち向かうのは、俺一人でいい。今は痛くても、傷はいつか癒えるだろうと、そう思う。

 叶うならば、彼女の元に本当の幸せを届けられる誰かが現れますように。何年か経って、痛みが懐かしさに変わるぐらいに、彼女の将来が幸福であって欲しい。痛く身勝手だろうが、俺はそう祈る他なかった。

 

「⋯⋯だから、さよならだ」

 

 ぎっ、と丸椅子が軋む音がした。

 立ち上がった彼女を見上げると、その瞳が雫を落としたところだった。

 

「──っ!」

 

 彼女が駆け出すと、勢いよく出入口の扉は開かれ、冷たい空気が吹き込んでくる。

 僅かな音を立てて扉が閉まると静寂は完全なものになって、今度こそ時が本当に止まったような気がした。

 

 力なく下げられた手を、ただ見詰める。その手はきっと、もう誰の手も掴む事はないだろう。

 だから俺はそうやって、いつまでもいつまでも。

 失くしてしまったものの大きさを推し量るように、その手を見詰めていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

だからそれでいいんだよって、抱きしめる腕に力を込めた。

 外ではちらちらと、雪が舞っていた。

 逃げるように病室を出た時から走りっぱなしだった脚は痛いほどに張っていて、冷たい空気を吸い込みすぎた肺は悲鳴を上げている。

 できればもっと、遠くに行きたかった。どこにも誰もいない、そんな場所を見つけたかったのに、生来の体力のなさからそれも叶わず、いつしかとぼとぼと道を歩いている。

 傘も差さずに降られるががままになっている私の髪に、雪は悲しみのようにまとわりついていた。いっそこの感情も、同じように溶けてなくなってくれればよかったのに。――そんな事を考えても、自嘲の笑みすら浮かんで出てこない。

 やがて見知った公園が見えてくると、私は誘い込まれるようにその敷地に足を踏み入れた。東屋に入ると、腰掛けたベンチは今までになく冷たい。

 

 彼が過去を思い出せなくなるのは、これで五度目だった。

 その度に入院した彼に会う前に、若しくは会った後に、この公園に訪れた事がある。ある時は泣きに、ある時は物思いに耽りに。あまりいい思い出のある公園ではないけれど、今日が一番悪い思い出になってしまいそうだった。

 東屋の壁に背をあずけて、舞い散る粉雪を見上げる。鼻がつんと冷たくなって、私の視界はまた滲んでいく。

 

『だから、さよならだ』

 

 その言葉がまた胸に響くと、痛みなんて言葉では表しきれない感覚が広がって、溢れた分だけ涙になって転がり落ちた。ポロポロと惜しげもなく、遠慮もなく、いつまでも零れ落ち続ける。

 彼の言葉は、酷く一方的だった。独善的で、自己犠牲に満ちたそのやり方は、出会った頃の彼を彷彿とさせて、その事実ですら私の胸を叩き続けている。

 

「⋯⋯」

 

 上着のポケットに入れたままの携帯がぶるぶると振動して、本当に胸を叩かれたのかと思った。取り出して画面を見ると、そこには『由比ヶ浜結衣』の名前が表示されている。

 いつもなら逡巡すらなく通話ボタンを押しているのに、今日の私はそれができなかった。その声を聞いてしまえば、私はすぐにでもその優しさに縋り付いてしまいそうだったから。

 その震えが止むまで、私はそっと目を閉じて待っていた。自分から連絡しておいて、不義理だとは思う。それでも私が彼女に慰められてしまうのは、どうあっても避けるべき事だった。

 やがて携帯は、振動を止める。

 雪はその粒を大きくして、降り止む事はない。私の中に降ってくる彼の言葉もまた、止んでくれはしない。

 冷徹なほどの言葉なのに、私の中の熱はその量も熱さも失っていなかった。むしろ火の中に油を注がれたみたいに、轟々と唸りをあげている。

 どれだけ突き放されても、彼を知ってしまっているから、嫌いになどなれるはずもない。それが彼の優しさで、言った彼の方だって何も感じないはずがないのは知っている。

 きっと彼の決断は、私の心の痛みを慮っての事だろう。そしてそれは半分正解だ。また思い出せなくなってしまって、心は痛いに決まっている。叫びだしそうなぐらい、ずっとずっと痛い。

 けれど半分は不正解だ。彼の口から紡がれる『さよなら』の言葉ほど、私を哀傷させるものはない。これ以上の悲哀など、それこそ死に別れるぐらいしかなかった。

 賢人曰く、思考が現実を作り上げると言う。望んだものしか、目の前には起きないのだと。

 私は繰り返す痛みから逃げたかったのだろうか。もうこんな思いは二度としたくないと願って、より大きな痛みを呼んでしまったと、そう言うのだろうか。

 こんな結末なんて、欠片すらも望んでいなかった。何度忘れ去られようと、諦めるつもりはない。周りから何を言われても、依存だと言われようとも、何も関係ない。

 ぶるぶるとまた、手に持ったままだった携帯が振動する。

 画面を見ると、着信元は由比ヶ浜さんだった。何度もかかってくるのも当然だろう。また彼が倒れたと連絡されて、彼女だって心配しないはずがない。

 

「⋯⋯もしもし」

 

 携帯が十回以上振動した後、ようやく私は覚悟を決めて電話をとった。出てきた声は涸れ涸れと言っていい程酷いもので、何とか感情をのせないようにと思っているのに、それすらもできない。こんな声を聞かせてしまったら、また彼女に心配されてしまう。

 

『ゆきのん⋯⋯』

 

 ああ、やはり。

 私の心根に刺さった悲しみは、彼女にまで伝わってしまったのだろう。彼女だけの私の呼び名は、聞いた事もないぐらいにもの悲しい。

 

『立って。振り返ってみて』

 

 一瞬、その声はどこから出てきたのだろうと思った。一拍だけ遅れて重なる声に振り返ると、そこに彼女の姿はあった。水色の傘を広げた彼女は私に向けて手を振ると、通話を終わらせて東屋に入ってくる。

 どうして、ここが分かったのだろうか。思わず立ち上がったけれど、次の言葉が出てこない。

 

「ねえ」

 

 閉じられたばかりの傘が、彼女の手を離れてぱたんと倒れる。その音が耳に届いた次の瞬間には、私の身体は彼女の腕の中にあった。

 どこまでも深く、暖かい。いつの間にか止まっていた涙がまた溢れてしまいそうで、私は瞬きをするのを堪えていた。

 しんしんと、雪が舞っている。

 彼女は何も言わない。何も話さない。それはまちがいなく彼女の優しさで、それでよかった。ただ口から漏れてしまいそうな嗚咽を止めて、震える身体を抱きとめていてくれるだけで、それだけでよかった。

 やがて震えが止まると、彼女はゆっくりと身体を離していく。そして私の顔を正面から見ると、彼女の唇が開く。

 

「うちにおいでよ。久しぶりに、お泊まり会しよ」

 

 どこか(いとけな)い言い方でそう言うと、彼女はもう一度私を抱きしめた──。

 

 

 △ ▽ △ ▽ △

 

 

 アパートの玄関扉を開けると、誰もいない部屋の中に向かってただいまを言う。

 部屋に入ると急いでお風呂にお湯を張って、まずは彼女に入ってもらうことにした。彼女の長い髪は雪に濡れて寒そうだったし、何よりその心の中まで冷え切っているように見えたから。

 続いてあたしもお風呂に入ると、二人してパジャマになる。あたしのアパートに置きっぱなしにしていた、彼女のパジャマ。彼女がそれに袖を通すのは、ずいぶん久しぶりだった。ヒッキーがあんなことになっちゃってからは、中々こうして二人きりにはなれなかったからだ。

 思えばこうしてずっと黙ったままなのは、流石に初めてかも知れない。いつもならあたしが何かと喋りかけてしまうけれど、今日はそんな気にはなれなかった。

 

 キッチンで紅茶を淹れると、ローテーブルの隣に座っている彼女の前に置く。あたしもクッションを引き寄せて彼女の隣に置くと、ベッドを背もたれにして座った。

 こうして彼女に紅茶を淹れるのも、きっと初めてだ。うちにある紅茶はいつも彼女が選んでくれていて、買って来たついでに淹れて貰ってたりしていたから、全然あたしが淹れて出してあげた記憶がなかった。

 

「ゆきのんに淹れてもらったのと比べたら、あれかも知れないけど」

「⋯⋯いいえ。ありがとう」

 

 ようやく交わした言葉は、そんなぎこちないもので。それでもいいやと、あたしは思った。温かい物を飲んだら、きっと気持ちもほっこりすると思うから。

 あたしが先に一口飲むと、彼女はいつもと比べてゆっくりした動きでマグカップを傾けた。不味そうな表情をしていないかな、なんて心配しながら、ちらりと横目で彼女の反応をうかがう。

 その瞳も、表情も、まるで氷漬けになったみたいに寂しそうだった。大きな迷い猫を保護したみたい、と言ったら、怒られるかな。

 彼女は悲しみの深さの分だけ、いつもより儚く、綺麗に見えた。こんな時に何を考えてるんだって自分でも思うけど、それが正直な感想だった。

 できればそんな綺麗さは、見たくなかった。ただただ幸せそうに笑って、びっくりするほど素敵な彼女の笑顔を見ていたかった。彼女の周りの人は、あたしも含めてみんなそう思っていたはずだ。

 

「⋯⋯話を」

「うん?」

 

 何かを言いかけた彼女は、コップの中で揺れる紅茶を見ていた。彼女はそっとテーブルにマグカップを置くと、あたしの方を見る。

 

「聞いてもらってもいい?」

「もちろん」

 

 そう言うとあたしも、マグカップをテーブルに置いた。彼女の方から話そうとしてくれたことが、少しだけ嬉しい。そんな思いを込めて、あたしは彼女の手を握った。

 

「⋯⋯また、彼は全部思い出せなくなってしまったの。これで、五回目」

 

 うん、と小さな声で相槌を打つ。そうなんだろうなと思っていたけど、やっぱり辛い。あたしのことも、彼女のことも、彼の中では全部なかったことになってしまうなんて。

 何回経験しても、その事実は胸にじくじくとした痛みを呼んでくる。きっと彼女の感じている痛みに比べたらなんて思うけれど、それで痛みが紛れるわけでもない。

 どうして忘れちゃうんだろうって、何度も思った。はじめましてを繰り返して、その度に胸が窮屈になる。けど話したらやっぱり彼は彼でしかなくて、少しだけ安心する。そして彼らしい分だけ⋯⋯切なくなる。

 

「もう、別れようって言われたの。回復は待たなくてもいいって。そうしないと、私も彼も辛いままだからって」

 

 その言葉の強さに、あたしは思わず彼女の手を握り込んだ。思っていたよりずっと強く握ってしまって、それでも力を緩めることができない。

 彼らしい言葉だな、とは思う。けれど、言っていい言葉じゃない。

 彼の方だって辛いのは、分かっているつもりだった。幸せだったはずなのに、失くしてしまって。失くしたものがどれだけ大事かすら思い出せなくて、ただ周りの人が悲しんでいる姿を見るしかない。それはとても、辛いことだと思う。

 それでもあたしは彼にも彼女にも、幸せを諦めて欲しくなかった。押し付けがましいし、身勝手な考えだ。けどもちろんそれを強要することなんてできないし、するつもりもない。

 

「そっか⋯⋯」

 

 そう呟いた言葉は、紅茶から立ち上る湯気みたいに、宙に溶けて消えた。

 ぼんやり部屋の壁を見つめながら、あたしに何ができるんだろうって考える。たぶん、そんなに多くはない。それでもあたしは彼女にしてあげられることなら、全部したい。

 

「ゆきのんは、どうしたいの?」

 

 だからあたしは、彼女に向けてそう言った。答えはすぐには、返ってこない。

 ゆっくりでもいいよって、そんな気持ちを込めてあたしは彼女の手を握るのをやめると、そっとその手の甲を撫でた。

 

「⋯⋯分からないの」

 

 小指にできたささくれみたいな声で、彼女はそう答える。あたしは小さく、うん、と頷く。

 

「彼と離れるなんて、考えられない。⋯⋯けど、どうしたらいいのかも、分からないの」

 

 ぽつりぽつりと溢れる言葉を、あたしはゆっくりと拾い上げていく。

 ああ、やっぱり。

 何がどうなっても、どんなことが起きても。

 あたしは彼女には、彼女にだけは幸せになって欲しい。ならなきゃいけない。彼女がそうならなくて、誰がなるのってぐらい、強く強くそう思った。

 彼女の痛みも、気持ちも、あたしには手にとるように分かった。彼女よりずっと前に、あたしの中にあった感情だから。

 苦しくて、痛くて、辛くて、──どうしようもなく愛しくて。だからどうしていいか分からなくなる。まちがいも正解も、きっと誰にも分からない。

 

 ──けどね、ゆきのん。

 

「それでいいよ」

 

 そう言ってあたしは、崩れ落ちてしまいそうな彼女の身体を抱きしめた。ちょっとでも力を込めたら折れてしまいそうなぐらい彼女は細くて、どこまでも儚くて、まるで夢の中の登場人物みたいだった。

 いいんだよ、それで。

 分かるはずなんてない。だってまだ誰も正解に辿りついてなんていないから。ずっとずっと悩んでたっていいし、迷うのが普通なんだから。

 懐かしいなって、そう思う。もう十年以上にもなるんだ。あたしと、彼女と、彼の物語は。

 ずっとずっと前に、諦めた恋だった。だからその痛みは色褪せていて、どこかぼんやりしていて、それだけ長い時間をかけて思い出になっていたのに。

 

「ずっと前に、あたしが言ったこと、覚えてる?」

 

 そう聞くと彼女は潤んだ瞳に、おんなじ表情をしたあたしを映していた。

 

「あたしはね、全部欲しいんだ。本当に、全部」

 

 色を失くしていた思い出が、痛みが、彼女と一緒に歩み寄ってくる気がした。その胸を貫く想いは、本当に泣いてしまうぐらいに、ただただ痛い。

 それでも、あたしはもう一度その痛みが欲しかった。それが今彼女の為にできる、ただ一つの事だったから。一緒にそれを受け止めたら、半分になる気がしたから。

 

「あぁ⋯⋯──」

 

 彼女の吐息が、溢れる。悲しみの声が、漏れる。

 だからあたしは我慢しなくていいんだよって、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。

 

 

「う⋯⋯っ。ぁあ、あぁぁ⋯⋯っ!」

 

 

 そうやって泣いて、泣いて、泣いて。

 声がかれてしまうまで、泣き続けて。

 

 あたしは、あたしたちは、初めて本当の親友になれた気がした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

祈りにも似た、彼女の願い。

 手を握っては、開いて。開いては、閉じる。

 何かを掴み取るように。何かがすり抜けていくように。

 

 婚約者を名乗る彼女が去ってから、俺はどういう訳か一睡も出来ずに夜を明かしていた。思い出せる事もなければ反芻する事もないはずのに、延々と自分の言葉と、彼女の言葉を繰り返している。

 

 彼女の涙を見た後から、俺はあの答えしかなかったのかと自問していた。しかし何度それを繰り返しても、あれが最善だったとしか思えない。

 だからもう、そこで考えるのは終わりにすればいいのに。なのに彼女の涙が、どうしても脳裏から離れない。

 妹の小町があれほど真剣に願ったのだから、きっと俺と彼女は深過ぎるほどの関係だったのだろう。だから彼女の痛みは、推察する事しか出来ない。それを思うと、心はいつまでも鋭い痛みを抱えて離せなくなる。

 

 きっと俺はもう、彼女以上の人には出会えないだろう。

 彼女の事を思い出せないのに、ただそう確信していた。見た目の話ではなく、一人の人としての話だ。

 けどそれがきっと、正しい事なのだと思う。誰一人としてもう、俺を懸想すべきじゃない。どこか一人で遠くへ行ってしまおうと、本気でそう考えていた。

 このままではきっと、小町はいつまでもこの悲しみからは逃れられない。それは両親にとっても同じで、家族という絆は海底へと引き摺り下ろす錨にしかならなかった。俺はもう自分の事でこれ以上誰かが傷つくのは、許容できないのだ。

 

 トントン、と、優しくノックの音が室内に響く。

 小町が来たのだろうか。今日は夕方以降にしか来られないと言っていたはずだが、予定が変わったのかも知れない。

 

「どうぞ」

 

 俺がそう返すと、躊躇うような数秒の間の後に扉が開いた。そこに居たのは、またも見知らぬ女性だった。

 

「⋯⋯やっはろー。ヒッキー」

 

 不思議な挨拶だったが、あだ名呼びで俺の知り合いだったのだと分かる。可愛らしい顔にお団子にした髪型がどこか(いとけな)く、俺より年下に見えるが呼び方したら同級生か何かだろう。

 彼女は「ああ」とだけ返した俺を見ながら、ベッドサイドの丸椅子に座る。

 

「あの、悪いんだけど、俺⋯⋯」

「うん、分かってるから。ゆきのんから聞いてるの」

 

 ゆきのん、と言うのは、おそらく俺の元婚約者の事を指しているのだろう。小町から聞いた情報と合わせて考えると、どうやら彼女は俺の同級生で間違いないらしい。

 既に俺たちの事情を聞いているという事は、俺が婚約を――関係を一方的に解消したいと言った事は、もう伝わっているのだろう。そう考えると、少し億劫になる。自ら背負った業とは言え、積極的にその責めを受けたい訳じゃない。

 

「あのさ。よかったら外で話さない?」

 

 彼女はぐるりと室内を見渡すと、窓の方を見ながら言った。この寒いのにわざわざ外に行くとは酔狂だが、こちらもずっと病室に居て鬱屈していたところだから丁度いい。

 俺は「分かった」とだけ言って上着を羽織ると、コートを着たままだった彼女と病室の外に出る。彼女はこの病院に来た事があるのか、勝手知ったる様子で廊下を歩いていく。

 

「そう言えば、まだ名前を言ってなかったね」

 

 彼女は階段の踊り場まで来ると、俺を振り返って言った。確かにまだ、俺は彼女の名前を知らない。

 

「あたしは、由比ヶ浜結衣。ヒッキーが高校生の時の部活仲間? かな。ゆきのんと小町ちゃんも、同じ部活だったんだよ」

「へぇ⋯⋯」

 

 小町からは、そこまで詳しい話は聞いていなかった。だからその話に多少の興味はあるのだが、知ってもあまり意味のない事のようにも思う。

 俺はこれ以上、人と関わって生きていくべきではない。その人と重ねた時間が長ければ長いだけ、濃ければ濃い分だけ失望は大きくなる。それにその思い出に触れても⋯⋯また俺は、思い出せなくなるだけだ。

 中庭に出ると、日陰には薄っすらと雪が積もっていた。昨日雪が降ったのは知っていたが、どうりで冷える訳だった。

 

「小町ちゃんからは、どこまで聞いてる?」

「いや⋯⋯ほとんど何も。置かれてる状況ぐらいしか、知らないんだよ」

 

 前を行く彼女は歩幅を狭めると、俺の隣に並んでそう問いかける。俺が答えると、そっかと小さく頷いた。

 

「奉仕部って部活でね、部室で待ってると、たまに何かを手伝って欲しい人とか、相談したいって人が来るの。知る人ぞ知る何でも屋さんみたいな」

 

 それはまた、妙な部活もあったものだ。その説明から察するにボランティア部みたいなものだろうか。今の俺は奉仕精神を持っているとは言い難いし、ひょっとしたら学生の時は意識高い系にハマっていたのかも知れない。

 

「結構難しいお願いとかもあったけど、ヒッキー、いっつも普通じゃない方法で解決しちゃうんだ」

「普通じゃない⋯⋯?」

「うん。なんでそうなるのって考え方して、けど結局は解決しちゃう」

 

 あまりにぼんやりした言い回しで、当然ながらそれがどんな出来事だったのかは分からない。

 しかし分からないと言えば、それは彼女の言動も同じだ。

 

「なあ」

 

 そう呼ぶと、彼女は俺と目を合わせた。清流を思わせるような澄んだ瞳が、俺と冬の空を映している。

 

「俺はあんたのことを、なんて呼んでたんだ?」

「由比ヶ浜、って。一度だけ『結衣』って呼んでくれたこともあったかな」

 

 懐かしそうに遥か彼方の雲を見上げながら、彼女はそう答えた。どこか超然とした様子はいつまで経っても掴みどころがなくて、だから直裁に訊いてしまいたくなる。

 

「由比ヶ浜は、何をしに来たんだ?」

 

 なるべくフラットに訊いたつもりだったのに、やはりその言葉には言った俺ですら棘を感じる。しかし彼女の方はその問いにもどこ吹く風で、表情を崩さないまま小さく首を傾げた。

 

「どうしてその質問が出てくるの?」

「だって⋯⋯ただの見舞いじゃないんだろ。雪ノ下さんと話した上で、来てるんなら」

「雪ノ下さん、か⋯⋯」

 

 彼女は雪の残った地面に視線を落として、どこか寂しそうにそう言った。少なくとも婚約者だった俺が『雪ノ下さん』と呼んでいたという事はないだろうから、きっと彼女にとっては違和感のある呼び方だろう。

 

「お見舞いに来てるのは確かだよ。ただ目的が何かって言われたら、ちょっと説明が難しいかな」

 

 その言葉の通り、彼女は上手く説明できないようで、顎に手をやったまま暫く黙っていた。

 

「ゆきのんから、事情は聞いたよ。けど、それだけ。あたしはただヒッキーと話したいって、話さなきゃって思ったから来ただけなんだ」

 

 そう言って彼女は俺に、微かな微笑みを向ける。

 彼女の話から察するに、二人は高校の時からの付き合いで、昨日あった事もすぐに共有するような親しい仲であるらしい。言うなれば学生時代からの親友というやつなのだろう。状況からすれば一方的に婚約を解消したいと言った俺に非難を向けてもよさそうなものなのに、そんな様子もない。だからより、彼女が何をしたいのか分からなかった。

 

「よく分からないな」

「うん、あたしもよく分かんない」

 

 たはは、と彼女は笑ってまた空を見上げる。昨日までの雪が嘘みたいな、抜けるような青い空だった。

 それっきり、俺と彼女は黙り込んだ。話しに来たのに黙り込んでしまわれては、こちらとしては対応に困る。

 

「⋯⋯あのさ」

 

 結局その沈黙を破ったのは、俺の方だった。

 

「俺と由比ヶ浜は部活仲間だったって言ってたよな。本当にそれだけか?」

 

 あまりにもあけすけな質問だとは思う。しかしそう問いかけなければ何も分からないし、どこか気持ち悪いのだ。

 人は行動する時、達成したい目的がある。だから彼女が俺と話したいという事は、俺と話す事で何かを得ようとしているという事だ。それが何か。知っても仕方がないというのに、それを明らかにできない事には、どうにも気持ちが落ち着かない。

 

「それだけ⋯⋯じゃないよ。うん⋯⋯」

 

 彼女はそう言って俺を見ると、いたずらっぽく笑う。

 

「昔ね、ヒッキーのこと好きだったんだ。恋愛的な意味でね」

 

 解釈違いの余地を残さないその答えに、俺は再び黙り込むしかなかった。その答えも少しは考えたのが、こうも言い切られるとは思わなかった。

 しかし二人は親友同士で、時期的な話は分からないが同じ男を好きになって、そのまま仲良くなんて出来るものなのだろうか。恋に破れた方が傷心のまま去っていったり、酷い仲違いを起こしてさよならなんて場面しか思い浮かばない。

 

「だから悔しくて来ちゃったのかな。ゆきのんとヒッキーには、絶対に幸せになって欲しかったから。これじゃあたしの為って思われて仕方ないね」

 

 幸せになって欲しい──。

 その言葉は祈りにも似ていて、彼女の瞳はあまりにも純真だった。

 

「⋯⋯凄いな、由比ヶ浜は」

 

 本当に心底、そう思う。どうすればそこまでの境地に辿り着けるのだろうか。

 自分の所為で雪ノ下に幸せになる道を途切れさせたくない俺と、幸せになって欲しいという彼女。その意思は交差する事はあっても、同じ方向を向く事はない。

 ただ根本にあるものは、一緒なのだろう。俺も彼女も、雪ノ下に幸せになる事を諦めて欲しくないのだ。幸せになれる権利を、俺と関わり続ける事で放棄して欲しくない。それが雪ノ下自身が選び取った決断だとしても。

 

「そう、かな。そうなのかも」

 

 彼女はそう言って、どこか疼痛を覚えているような、ひっそりとした笑みを溢す。そのぼんやりとした笑顔は、薄い雲越しに見る満月のようだった。

 

「ヒッキー、一つお願いしていい?」

「お願い⋯⋯?」

「うん、お願い。絶対に叶えて欲しい、お願い」

 

 念押しするような言い方に、俺は少し身構える。そう言われても、俺はいつまた過去を思い出せなくなるのか分かったものではないからだ。

 

「ゆきのんがこれからどうするかは分かんないけど⋯⋯。もし、もしね? またヒッキーと会うことがあったら、また思い出せなくなるかもとかそんな状況は置いといて、ちゃんとゆきのんと向き合って欲しいの」

「それは⋯⋯」

 

 俺を見つめる目が僅かに潤みを増したように見えて、思わず言葉に詰まってしまう。

 それは俺が受けるべき願いではなかった。俺の導き出した答えと、真正面からぶつかる願いだ。だからはっきりとそれは出来ないと告げるべきなのに。

 

 

「⋯⋯お願い。ヒッキーならきっと、叶えられると思うから」

 

 

 ──祈るような彼女の言葉に、俺は何も返せなかった。

 

 

 

 

 数日が経ち、退院の日がやってきた。

 結局精密検査の結果からは、未だに記憶を思い出せなくなった原因は分からないままだ。クモ膜下出血の後と思われる影が変わらずに在り続けているが、それが原因とも言い切れないらしい。

 

 トントン、と病室の扉が叩かれる。

 きっと小町だろう。忙しい両親の代わりに、彼女がこれから暮らす家まで案内してくれる事になっている。

 

「どうぞ」

 

 そう返すと扉は静かに開かれ扉の向こうにいた人物は、俺に微笑みかける。

 ――どこか勝ち気で、とても上手な笑顔で。

 

「迎えに来たわよ」

 

 部屋に入ってきた彼女は――雪ノ下雪乃は、まるで約束を履行するかのようにはっきりとそう言った。

 

「は⋯⋯? なんであんたが⋯⋯」

「だって、あなたの帰る場所は私と住んでいた家しかないじゃない」

 

 さっぱり彼女の言っている事が分からない。俺ははっきりと婚約を解消しようと、関係を終わらせようと伝えたはずだ。

 あまりのショックで、おかしくなってしまったのだろうか? そう思って彼女の顔を覗き込むが、正気としか思えない力強い瞳に迎えられただけだった。

 

「ちゃんと小町さんとあなたのご両親から了承は得ているわ。⋯⋯まあ、小町さんと話した時は喧嘩みたいになって泣かしてしまったけれど。私も泣いてしまったから、お相子ね」

「けど、俺は――」

「悪いけど、あなたに選択肢はないわ。生活道具一式も、全部うちに置いたままよ」

 

 さあ手を取って、とでも言うように、彼女は俺に手を差し出してくる。まるで内気な少女をダンスパーティに誘う、物語の主人公のように。

 

「⋯⋯どうしてそこまでするんだ?」

「前に言ったでしょう。私、負けず嫌いなの。それに⋯⋯」

 

 すっと彼女の視線が、自らの手に落ちる。

 未だ掴む者のいない、差し出されたままの手。何かを掴み取ろうとしている手だ。

 

「やっぱり私はあなたのことが好き。だから、諦めない」

 

 彼女は真っ直ぐに俺を見ると、殊更にはっきりとそう言った。迷いも憂いも見せないその瞳は、朝日のような強さを湛えている。

 ふと由比ヶ浜のお願いを思い出す。ちゃんと彼女と向き合って欲しいという、彼女の願い。

 

「やってること、ほとんど脅迫じゃねぇか⋯⋯」

 

 これが彼女の願いを叶える事になるのかは分からないし、俺にとって正しい事だとも思わない。しかし選択肢を限られてしまった以上、そうする他ないのだろう。一人で行きていくにしたって、一旦の生活基盤は必要だ。

 

「例え一緒に住んだって、答えは変わらないと思うぞ」

「どうかしら。試してみないと、分からないわ」

 

 どこまでも勝ち気に、彼女は俺にそう返す。まるで未来を確信しているかのような、そんな自信に満ちていた。

 

「あなたはきっと、私を好きになる。何度でも」

 

 どこか芝居がかった台詞を、彼女は本気で言っていた。

 さあ、と急かすように、差し出されたままの手が揺れる。しかし俺はその手を取る事なく、ベッドから立ち上がった。

 

「⋯⋯あんたは本気なんだな」

「あんた、は止めて欲しいわね。雪乃と呼び捨てにしてくれて構わないわ」

「⋯⋯いや、俺にそう呼ぶ理由がない。そうだろ、雪ノ下さん(・・・・・)

 

 俺がそう言うと、今日初めて彼女の表情が曇った。彼女にしてみれば酷く他人行儀に聞こえるだろうが、由比ヶ浜との約束を守るなら今この場で彼女を名前呼びはできない。ちゃんと彼女を見てもいないのにそう呼ぶ事は、承伏できないのだ。

 

「そう⋯⋯。でもせめて『雪ノ下』にしてくれないかしら。あなたは出会った時から、呼び捨てだったから」

「⋯⋯ああ、分かった」

「では私も『比企谷くん』に戻そうかしら。出会った時みたいに」

 

 (おど)けた調子の言葉もどこか悲しげで、浮かべた笑みも自嘲のように思えた。けれど彼女が自分の意思を譲らなかったのと同じように、俺にも譲れないものがある。

 

「では改めてよろしくね、比企谷くん」

「⋯⋯こちらこそ、雪ノ下」

 

 そう言った俺たちの間に握手も無ければ、それ以上の言葉もない。

 そして恐らくは⋯⋯明るい未来もまた、ないのだろう。

 

「あなたにまた、名前で呼んで貰えるようになるわ」

 

 けれどそんな事はないとでも言うように、彼女は俺に向けた笑顔の照度を上げた。

 まるで燦然と輝く太陽のように、瞳の奥には火が灯っている。

 

「よく言い切れるな」

「言い切らないといけないのよ。私は嘘をついたりなんかしない。だから現実にする必要があるの」

 

 行きましょうか、と続けて彼女は歩き出す。

 ああ、と呟き俺もその後に続く。

 

 開け放たれた扉から陽の光が差すと同時に、吹き込んできた冷たい空気が頬を撫でていった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それは愛の記録だった。

 皿を洗っているとふわりと小さなシャボンが飛び、ステンレスのシンクに張り付いて消える。かちゃかちゃと皿同士が音を立て、それはまるで時を刻んでいるようだった。

 時刻は午前七時半。

 音も香りも、朝食のメニューまでいつも通りの朝だ。スリッパが床を叩く音がダイニングに入ってくると、その音の主は俺に声をかけてくる。

 

「比企谷くん」

 

 雪ノ下は海外ブランドのスーツをぱりっと着こなし、肩には黒いショルダーバックをかけている。薄っすらと引かれたリップが、彼女の健康的な唇を彩っていた。

 

「行ってくるわね」

「ああ、気をつけてな」

 

 雪ノ下はそう言って頷き返した俺に目を向けると、どこか悲しげに微笑んでリビングを後にする。開きっぱなしにしていた蛇口を締めると、廊下の向こうからカチャンと微かに玄関の閉まる音が聞こえた。

 俺は洗い終えた食器を並べると、手をしっかりと拭いてから書斎へと向かう。これもまた、いつも通りの朝のルーチンだ。

 

 雪ノ下雪乃と暮らし始めて、一ヶ月と少しが過ぎた。

 最初は慣れない事ばかりだったが、これだけ一緒に居れば大体の事に慣れてくるし、分かってくる。俺と彼女がどんな生活をしていたか、俺が何を生業に生きてきたのか。少なくない彼女との対話で、ようやく様々な事情が飲み込めていた。

 

 俺の仕事は職業作家らしく、机の上には二冊の長編と、二冊の短編集が並んでいる。本の印税と細々としたコラムでの稼ぎ、それにコンサル企業でそこそこのポジションにいるらしい雪ノ下との収入を合わせると、人並み以上の生活を送る事ができていた。

 一見すれば、大抵の人が羨むような生活だとは思う。誰もが振り返るほどの美人との共同生活など、お金で買えるものでもないだろう。

 しかしその状況に浮ついていられるほど、現実は楽観的ではない。俺が過去を思い出せくなってからというもの、沈鬱な気分が続いていた。

 

 雪ノ下雪乃は、無理をしている。

 彼女に対して抱いた感想を一言で述べるのなら、それに尽きた。

 意図して俺に話しかけ、距離を詰めようとする。しかし俺の張った予防線を乗り越えてくる事はない。きっと彼女の中でもここまでと思ったところがあって、そこで踏みとどまっているのだ。

 そんな事を繰り返すうちに、雪ノ下の笑顔は徐々にぎこちなくなっていった。ふとした時に見せる表情には哀愁が漂い、ぞっとするほどの美しさを見せたかと思えば、真夜中に彼女の嗚咽で起きる事もあった。

 

 正直、それが一番辛かった。

 雪ノ下の悲しみに直面する度に、やはり彼女の申し出を受け入れるべきではなかったと感じる。それでもこの生活を続けているのは、由比ヶ浜のお願いがあったからだ。あの切なる願いがなければ、俺は今頃一人で暮らしていただろう。しかし一旦受け入れた以上は、中途半端な事もできなかった。

 しかし、もう既に俺は半端をしてしまっているのかも知れない。一緒に住む事を了承したというのに、彼女の気持ちに素直に答えられているとは言えないだろう。

 俺の心持ちは、彼女に別れを告げた時から大きく様変わりした訳ではなかった。やはり俺は、彼女の人生に居続けるべきではないと、そう思う。彼女の魅力を知るほどに、その思いは強くなっていった。

 惹かれてはならない、惹きつけてもならない。つまり俺たちは、どこにも行けはしない。

 そうして雪のように降り積もった悲しみは、寒々しい場所では溶けもせず、いつまでもそこに在り続ける。この息の詰まるような時間が連綿と続いていく事に、耐えられる気がしなかった。

 

 はぁ、と一つ深い息を吐く。こんな調子じゃ、まともなものが書ける気がしない。請け負ったコラムは、一先ず置いておく事にする。

 俺は床に置かれたままのクッションに頭をあずけて寝転ぶと、天井を見上げた。本棚に囲まれた天井は、まるでのっぺらぼうが俺を嘲笑っているように見える。

 ふと本棚の方を見ると、下の段の方に見たことのない装丁の本を見つけた。タイトルのない、妙に厳かな雰囲気のある本だ。

 気になってその本を手に取ると、俺はクッションに座る。ぱらりとページを開くと、どうやらそれは日記らしかった。

 

 酷く、胸騒ぎがする。その筆致は、間違いなく俺のものだ。

 日記帳の最初から、ページを開き直す。止めておけと、心の隅からそんな声が聞こえてくる。しかし読み始めたら最後、俺は時間を忘れてページを繰っていた。

 途中で書く事を終えられてしまった日記帳を閉じると、立ち上がって本棚を隈なく探す。他にもタイトルのない本が、まるで隠すように仕舞われていた。先程読み終えた分を含めて三冊の日記帳を手にすると、俺は椅子に座ってそれを読み進める。

 

 それは、愛の記録だった。

 過去を思い出せなくなった俺が、いかにして雪ノ下に惹かれていったか。どれだけ彼女の気持ちが大きかったのか、どれほどまでに温かだったか――全て、あまりにも克明に記されていた。

 最後にページを捲って白紙が現れた時、そこには出来たての丸い染みが広がっていた。熱い雫は留まる事を知らずに、次々に零れ落ちる。

 やはり、止めておくべきだった。

 読むべきではなかった。

 しゃくり上げるのを止められず、身体の震えはいつまでも止まらない。

 まるで何人もの自分に囲まれて、説かれているような気分だった。雪ノ下雪乃が、どれだけ俺にとって大切で必要な人なのか、俺が俺の言葉で伝えてくるのだ。

 

 長い時間をかけて身体の震えを止めると、俺はふらふらと書斎を後にした。せめて気持ちを落ち着けようと、キッチンでコーヒーを淹れる。ブラックのそれにポーションと砂糖を適当に入れると、リビングのソファに座り込んだ。

 ゆっくりとそれを飲んでいると、ポケットの中で携帯電話が震える。持ち上げて画面を見ると、テレビを見ろとリマインダーが言っていた。

 そう言えば、今日だったか。そう思いながらテレビを付けると、情報番組のMCが溌剌と喋っているところだった。

 

『続いての話題はこちら! 国内の主要音楽配信サービス全てで一位を獲得したあのアーティストが、ついに東京ドーム単独公演です』

 

 その言葉の後に流れ出した映像の中で、先程の日記の中でも何度か登場した彼女が、ドームの大舞台でバラードを歌い上げていた。画面の端には『一色いろは』のキャプションが映し出され、続いてペンライトを振る大観衆にカメラが向けられる。

 今や押しも押されぬ人気アーティストとなった、一色いろは。彼女のデビューのきっかけになったのが、俺の出した本だったと言うのだから驚くばかりだ。

 彼女とは一度だけ、雪ノ下を介して会った事がある。今では女優としても一線で活躍する身で忙しいはずなのに、俺の状況を案じて時間を作ってくれたのだ。ただその時間も、テレビでの彼女と現実の彼女のギャップに驚いているうちに終わってしまったが。

 

『この曲は本当にいいですよねぇ。私もカラオケで練習中です!』

『はい、今流れているこの曲なんですが、初めて一色いろはさん自身が作詞した楽曲という事でも注目を集めていますね。大切な人を想って書いたというツイートで、ファンを驚かせています』

『彼女は今までスキャンダルとかもなかったですから、これは憶測を呼びますね』

 

 出演者たちの言葉の後に、一色の歌声がフェードインしてくる。額に汗を浮かべた彼女は観衆に向かって、あるいはその大切な人に向かって、声を振り絞る。

 

 

――思い出なんか 何もいらない

あなたが隣にいないなら いらない

わたしの世界は全部 あなただから

あなたがいない世界なんて

死んでしまってもかまわない──

 

 

 その歌がフェードアウトしていっても、俺の意識まだ映像の中に在るような気がした。テレビの出演者たちはもう次の話題に移っていて、俺だけがドームの中に取り残されている。

 彼女の歌は、誰の為のものなのだろうか。

 誰の為に、あの歌声を響かせたのだろうか。

 

 ──思い出なんか、いらない。

 

 本当にその通りだと思った。知らなければ、触れなければよかった。

 その大切さに気付いてしまえば、手放し難くなる。その尊さに気付けば、手放さなくてはいけなくなる。

 

 テレビを見詰めたままの俺の頭の中では、いつまでも一色の歌が繰り返されていた。

 

 

 

 

 フォークがサラダボウルの底を突く度に、かちかちと硬質な音を立てていた。いつも通り、二人きりの静かな夕食の時間だ。

 食卓を囲む時、俺たちは殊更に言葉を交わさない。それは沈黙を食事という行為で埋められるから、とも言えるのかも知れなかったが、今日は少し違う。

 

「雪ノ下」

 

 彼女の方も、話しかけられるとは思っていなかったのだろう。少しだけ目を見開くと、一拍置いた後に返事をする。

 

「なに?」

「今度の休みに、千葉に行かないか?」

「いいけれど⋯⋯。どうして?」

 

 雪ノ下が不思議そうな顔をするのも、無理はないだろう。今まで俺からどこかに行こうと誘う事もなければ、前もって約束して出かけるなんて初めての事だった。

 

「そこに行けば、思い出せるかも知れないから」

 

 そう言った瞬間、雪ノ下は全ての動きを止めて俺を見ていた。その反応も、想定の範囲内だ。

 雪ノ下はフォークを置いて一瞬目を伏せた後、しかと俺を見ながら言う。

 

「それも昔、試したことがあるの。期待通りの結果にならない可能性の方が高いと思うけれど⋯⋯」

「それでもいい。俺の自己満足みたいなもんだからな」

 

 言いながらパスタをくるりとフォークに巻きつけ、口に入れる。勿論そんなに上手くいくとは思っていない。しかしだからと言って何もしないままでは、俺も彼女も納得できないだろうと思う。

 

「⋯⋯いいわ。あなた(・・・)との、初めてのデートね」

 

 薄っすらとした笑み混じりの軽口ですら、この状況では空々しくてどこか悲しい。

 まるでピエロだ。

 泣き笑いながら、誰もその真の顔を知る事はない。だから真似するように笑う俺も、ただのピエロだ。

 

「デートコースは、任せてもいいか?」

「ええ。私にしか分からないでしょうし」

 

 少しだけその笑顔の温度を上げて、雪ノ下はそう答える。俺は頷きを返すと、もう一度サラダボウルの底を突いた。

 

 かち、かち──と、それはまるで、カウントダウンをするように。

 静謐な時間にはまた、フォークと食器が触れ合う音だけが流れていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

もう終わりにしようって、そういう意味で言ったんだ。

 冷たい海風が、防風林の間に作られた散策路を吹き抜けていた。

 さざ波の音と一緒に届いたそれは俺と雪ノ下の間を走り、少しだけ熱を奪ってどこかに行ってしまう。

 暦の上では春になってしばらく経つというのに、海沿いの道を歩いていると真冬のようにすら感じてくる。そんな気候もあってか、散策路には俺たちの他に二人、老夫婦がゆっくりと歩いているだけだ。日曜日らしくない光景だと思ったが、そもそもここがどんな人出だったかすら、俺は知らない。

 

 今日は先日の約束の通り、雪ノ下と千葉を訪れている。

 昼食はサイゼリヤで摂り、午後からはららぽーとやマリンピアを巡った後、俺達が訪れたのはここ稲毛海浜公園だった。そのどれもが俺と雪ノ下にとって所縁のある場所のはずだが、今のところ何かを思い出す兆しはない。

 

「比企谷くん」

 

 隣を歩いている雪ノ下は、マキシ丈のワンピースの裾を海風にはためかせながら、ふと俺の方を見て言った。コートを羽織ってはいるが、ノーカラーのそれでは首元が寒そうに見える。しかし雪ノ下は寒さに弱い訳ではないのか、その表情は穏やかだ。

 

「少し疲れたわ。休憩にしない?」

「ああ、そうするか」

 

 思えば昼食を終えてからというもの、ほとんど歩きっぱなしだった。過去を思い出せる可能性がある場所を出来るだけ多く巡ろうと、前のめりになりすぎていたかも知れない。

 散策路からそれると、雪ノ下は行く当てでもあるのか迷うことなく歩いていく。海沿いの道を歩いて水門を越えると、何やら洒落た建物が見えてくる。

 

「飲み物は任せて貰っていい?」

「ああ。じゃあ場所取っとく」

 

 そう言って一緒に店内に入ろうとしたのだが、雪ノ下はそっと俺の前に手を出すとかぶりを振る。

 

「あそこのソファー席をお願い」

 

 いいけど、と呟きオープンテラスのその席に向かう。何故こんな寒い日に、と思わないでもないが、そこまで明確に指示されてしまっては仕方ない。

 ソファに座ってぼんやり建物を眺めていると、雪ノ下はドリンクのカップを両手に持ってやってくる。はい、と手渡されたそれを見ると、タピオカミルクティーであるらしかった。

 

「珍しいもん頼んだな」

「そうね。まだ売っているなんて、私も驚いたわ」

 

 その口ぶりから察するに、ここもまた彼女との思い出の場所なのだろう。雪ノ下はいつもと比べてだいぶと近い位置に腰を下ろすと、そっと携帯を取り出した。しばらく画面を見ながら何か考えていたかと思うと、急に腕を絡めてくっついてくる。

 そしてカシャ、と。

 さっきより少しだけ遠くなった波の音に混じって、シャッター音が聞こえた。彼女らしからぬ行動とその俊敏さに、俺はきっと間の抜けた顔をしているだろう。

 

「⋯⋯これも、昔にやったことか?」

「ええ。あなたはもうちょっと、動揺していたかと思うけど」

 

 雪ノ下はそう言うと、撮ったばかりの写真を俺に見せてくる。予想通りの顔をしている俺の方は置いておくとして、雪ノ下の浮かべた笑みはまるで絵画のようだった。目元も口も笑っているのに、奥に詰まった感情が滲み出している。

 

「俺と雪ノ下は、いつも写真撮ってたんだな」

 

 俺は自分の携帯に保存されていた、過去の写真を思い浮かべながらそう言った。写真のライブラリには、彼女から送られてきたと(おぼ)しき写真が大量に残っている。

 

「そうかも知れないわね。特にあなたが、過去を思い出せなくなってからは」

 

 雪ノ下はそう言うと、ストローを口に含んでタピオカを吸い上げた。

 彼女が写真を俺に送っていたのは、思い出の共有だけが目的ではないのだろう。

 二人で撮った写真を見る事で、何か思い出せるのではないか――。きっとそういった僅かな望みをのせた行動だったのだろうと思う。そんな彼女の想いに触れるたびに、胸の中に疼痛を覚えた。

 そして過去にも恐らく、そうしていたのだろうか。雪ノ下はドリンクを飲みながら、そっと、少しだけ身体を俺の方に傾けた。風は吹き抜ける隙間を失って、俺と彼女の頬を撫でていく。

 

 そうしていつまでもずっと、その熱を奪うように。

 冷たい風が、俺たちの間を吹き続ける。

 

 

 

 

 稲毛海浜公園を後にすると、あたりは薄闇に包まれていた。太陽は水平線の向こうにその身を沈ませながら、最後の力を振り絞るように海面を照らしている。

 ゆっくりと夜の帳が下ろされていく中を、俺たちは駅に向かって歩く。やがて稲毛海岸駅が近づいてくると、雪ノ下は俺の顔を覗き込みながら言った。

 

「あと一箇所だけ寄って行きたいところがあるのだけど、いい?」

「ああ」

 

 まだそれほど遅い時間でもないし、否やを唱える由もない。高架下をくぐってといくつかの角を曲がると、やがて片側三車線の大きな道が見えてきた。それと交差して陸橋がかかり、自動車専用道の下に歩行者用の通路が通っている。規模感は違うが、構造的にはレインボーブリッジのそれに似ていた。

 ゆっくりとスロープを上っていくと、タイヤノイズとエンジン音ばかりが耳につく。太陽はすっかりと水平線の向こうに消え失せ、橙色の残照が空の藍色とグラデーションを描いていた。歩道の先には、まるで此方と彼方を分けるように、陸橋を支える巨大な柱がそびえ立っている。

 

「ここに来るのは、凄く久しぶり」

 

 歩道の真ん中辺りで立ち止まると、雪ノ下は振り返ってそう言った。懐かしむようなその声から、ここが目的地である事が分かる。

 ここもまた、俺と雪ノ下にとって思い入れのある場所なのだろう。通学路か、それともよくここで語り合っていたのか。

 しかし、俺がその答えを知る事はない。知ったとしても、仕方がないから。

 だから俺は、彼女に終わりの声をかける。

 

「ここで、最後にしよう」

 

 そう言った俺を、雪ノ下は真っ直ぐに見ていた。俺がここにいるというその光景すら、大切な思い出だと言わんばかりに、浮かべられた微笑みは優しい。

 

「そうね。今日のところはもう帰って──」

「そうじゃないんだ」

 

 俺がかぶりを振ると、雪ノ下は分からないとでも言うように、顔に疑問符を浮かべた。彼女にとって俺の言葉は、唐突な事に思えるだろう。

 しかし終わらせるなら、ここがいいと思った。彼女が最後に選んだ場所だからという訳ではなく、直感がそう言っていた。

 真正面から見る雪ノ下の姿が、橋の下を通る車のライトで照らされては薄闇の中へと戻っていく。彼女はただそこに立っているだけなのに、現実離れした美しさを湛えていた。

 

「もう終わりにしようって、そういう意味で言ったんだ」

 

 言った瞬間、雪ノ下ははっと息を呑んだように見えた。穏やかだった笑みは温度を失い、真意を問い質すような目だけが俺を捉え続けている。

 俺にはもう、彼女の時間をこれ以上奪えない。手を尽くしても何も思い出せず、俺たちの先にもう道はなかった。

 ひょっとしたら、まだ手はあるのかも知れない。もっと多くの思い出の場所を巡ったり、長い時間をかけて思い出していく可能性だってある。

 それでも、何度考えても、俺の結論は変わらない。

 これ以上雪ノ下に惹かれる前に離れなければ、また繰り返す事になる。それを自分に許してしまってはいけない。だから終わらせるのは、今の俺(・・・)でなければならなかった。

 

「⋯⋯本気で、言っているのね」

「⋯⋯ああ」

 

 雪ノ下の双眸(そうぼう)がしかと俺を捉えて、離さない。だから俺は、彼女から目を逸らせない。

 こんな言葉は、言いたくなかった。

 たった一ヶ月と少しの時間でも、彼女がかけがえのない人だという事を知ったから。

 誰よりも俺を愛してくれる、大切な人だと知ったから。

 

 けれど、だからこそ、俺は言わなくてはならない。

 

 ごめんな、由比ヶ浜。

 お願いをきいた結果が、こんな結論にしかならなくて。

 

 ごめんな、一色。

 歌にのせてまで伝えようとした事に、応えられなくて。

 

 それから――。

 

 

「雪ノ下。もう別れよう」

 

 

 ――本当にごめんな、雪ノ下。

 

 何度も何度も、お前の事を忘れてしまって。

 いつまでも時間を奪い続けてしまって、本当にすまない。

 

 俺の言葉を聞き届けた雪ノ下は、深く息を吐いて肩を下げる。彼女の瞳に映った空から、光が消えた。

 もう俺から伝える事は、何もなかった。何を言っても、慰めになどなりはしない。余りにも身勝手な、自己弁護にしかならないだろう。

 

「比企谷くん」

 

 雪ノ下は一歩、俺に向けて踏み出した。潤いを増した双眼が近くなって、隠しようもない悲しみが歩み寄ってくるようだった。

 

「もう十年以上になるのね。あなたと過ごした時間は」

 

 昔を懐かしむ声は、必死に震えを止めようとしているように思えた。

 雪ノ下の唇が、ゆっくりと言の葉を紡いでいく。鼓膜からしとしとと、胸の中へと悲哀が落ちていく。

 

「今まで、ありがとう。私と一緒にいてくれて。私にたくさんの、幸せをくれて」

 

 まるで詩でも読み上げるみたいな、穏やかで優しい声だった。けれど思い出を慈しむその言葉は、俺が受け取っていいものじゃない。俺に感謝される資格なんて、ないのだから。

 

「けれど初めて、嘘をついてしまったわ。またあなたに好きになってもらうって、名前で呼んでもらえるようになるって言ったのに」

「⋯⋯すまない。雪ノ下の気持ちに、応えられなくて」

「⋯⋯いいえ。あなたは謝らなくていいの」

 

 どうして彼女は、こうも優しく、強くあれるのだろう。どうしてこれほどまでに、胸は締め付けられるのだろう。

 雪ノ下がまた一歩、こちらに近づく。冷たい風が吹き抜けて、その通り道を塞ぐように彼女は俺の胸に額を押し当てた。溶々とした悲しみが、触れ合った部分から伝わってくる。

 

「あなたを愛してる。きっと、これからもずっと」

 

 その気持ちに、その哀情に、胸の内側はこれ以上なく狭くなって、声が出なかった。彼女にかけるべき言葉もまた、浮かんでくる事はない。もしもあるのだとしたら、それはきっと最後の言葉だ。

 雪ノ下は俺の方を向いたまま、一歩後ろに下がる。そこに在るのは諦念であり、執念でもあり、憶念だった。そんな何もかもを込めて、──彼女は俺に言う。

 

「さようなら、比企谷くん」

「⋯⋯じゃあな、雪ノ下」

 

 依依(いい)とした声が、想いが、ゆっくりと離れていく。彼女の言葉が、俺の言葉が耳に張り付いて剥がれない。

 小さくなっていく背中を見送る必要なんて、もう無いはずだった。それでも、彼女の後ろ姿から目が離せない。

 

 ──駄目だ。

 

 そんな言葉が、不意に頭に浮かんできた。

 

 ──ちがう。

 

 これで合っているはずなのに、こうするべきだとずっと考えてきたのに。

 

 ――このままでいいはずがない。

 

 その衝動に突き動かされるように、脚は勝手に前へと送られていく。

 

 ──こんなのは、まちがっている。

 

 ただ強く、そんな想いだけが、俺の身体を支配していた。

 

 だから──。

 

「雪ノ下!」

 

 ──その手を、掴む。

 

 瞬間、世界が反転するような、そんな錯覚を覚えた。

 脳が痺れ、全身を電流が駆け巡る。どくどくと心臓の音がうるさい。頭に鋭い痛みが走り、思わず俺は雪ノ下の手を握ったまましゃがみ込んだ。

 

「比企谷、くん⋯⋯?」

 

 玲瓏(れいろう)とした彼女の瞳が、俺を捉える。目が合った瞬間から、一瞬の内にジグソーパズルができあがるみたいに、記憶の奔流が押し寄せてくる。二人のロードムービーが強制的に上映され、俺の頭の中は彼女でいっぱいになっていく──。

 

 

 存在そのものを忘れ去られ、悲しみにくれる雪乃。

 

 一緒に暮らす事で、綻んでくるその表情。

 

 何度も、本当に何度も思い出せなくなって、その度にかけられた言葉。

 

 その悲壮も、傾慕も、慈眼を濡らした涙の意味も、全部。

 

 ──全てが今なら、分かる。

 

 

 いつかの日に聞いた医者の言葉が、頭の中に呼び起こされた。記憶とは、神経同士の結びつきなのだと。絡め取られ詰まりに詰まっていたものが押し流されるように、次から次へと雪乃との思い出が、愛の記憶が胸の奥に落ちてくる。

 

「ねえ、大丈夫? ひょっとして、あなたまた⋯⋯」

「いや、違うんだ⋯⋯。雪乃(・・)

 

 彼女が息を呑む音が、聞こえた気がした。驚きに見開かされた目ですら愛しくて、堪らなくなる。

 ずっと、ずっと彼女は俺のそばにいてくれた。

 どれだけその胸を痛めようとも、何度思い出せなくなっても諦めずに、ただ俺と共にあろうとしてくれていた。

 それがどれほどの事なのか理解をすればするほど、その想いの大きさの前に視界が淡く滲んでいく。今は、今だけはちゃんと雪乃の顔を見ていたいのに、止めどなく溢れた熱いものでそれも叶わない。

 

「言ったばっかだけど⋯⋯さっきの言葉は取り消させてくれ」

 

 雪乃の手を引くと、くずおれるように彼女は膝をついた。俺はその細く頼りない身体が折れないように、しかし強く抱き締める。

 彼女に見せたいのは、涙なんかじゃなかった。

 俺が見たいのは、彼女の涙なんかじゃない。

 触れた場所から伝わってその温もりと、その源泉たる熱を、俺は知っている。ずっと昔にこの場所で知ったその熱さを、その名前を俺は知っている。

 

「⋯⋯思い、出したの?」

「ああ。全部⋯⋯全部思い出した」

 

 雪乃の震える声が、肩が、俺の胸の内まで震わせて、涙が止まらなくなる。嗚咽が二つ重なって、泣き濡れた声が俺の名前を呼ぶ。

 やはり雪ノ下雪乃に、嘘はつけなかった。

 そんな想いを込めて、彼女の名前を呼び返す。胸に灯った熱を彼女に伝えるように、何度も何度もその名前を呼ぶ。

 

 一体どれぐらい、そんな事を繰り返していただろう。

 身体の震えが止まると、どちらからともなく立ち上がり、お互いの顔を見る。

 

 なんて美しいのだろうと、心の底からそう思う。

 なんて愛しいのだろうと、また溢れそうな涙が言う。

 

 交わす言葉も何もないまま、俺は彼女の肩に手を置いた。そっと伏せられた睫毛の先は、まだ濡れている。その唇もまだ震えているように見えて、俺はそれを止めたかった。

 

「──」

 

 触れ合った柔らかい部分が、またお互いの熱を伝え合う。抱きしめた身体は、どこまでも温かい。吹き抜けた風は冷たくとも、少しも寒さを感じなかった。

 

「ねえ、八幡」

 

 唇を離すと、雪乃は俺の腕の中でようやく笑顔を見せてくれる。どこか(いとけな)い、悪戯っぽい笑みだった。

 

「一度、私たちは別れたわけよね? やり直すのなら、それなりの言葉が必要じゃないかしら」

「あー⋯⋯。そう、だな⋯⋯」

 

 言葉は責めるようなのに、どこまでも優しい眼差しが妙にこそばゆい。

 ここで言えというのか、彼女は。

 けれどここしかないのだろう、きっと。

 

「どうしたの? 昔あなたがここで言ったこと、忘れてしまった?」

「いや、覚えてるけど⋯⋯」

 

 くすくすと笑みを零す雪乃が余りにも愛らしくて、まだ口づけしたくなる気持ちを必死に抑え込む。

 本当にもう、どうしようもない。

 どこまでも愛しくて、そんな言葉じゃ収まらなくて。やはりそれを言葉で伝えるなんて、今だって無理だ。

 けれどこう言えば、きっと雪乃は分かってくれる。伝えきれない分も全部、彼女の中には既にあるのだろうから。

 

「大概面倒臭いし、こんな風に回りくどい言い方しかできないけど」

「知ってる」

「たぶん、これからもお前に迷惑をかけると思う」

「それはお互い様ね」

「斜めに構えるのは変わんねぇだろうし、気の利いたことも言えない」

「まあ、いつものことね」

「そこは否定して欲しかったんだよなぁ」

「無茶を言わないでちょうだい」

 

 そこまで言うと、雪乃はふっと吹き出した。堪えきれずに、俺もまた笑う。

 ああ、やっとここまで戻ってこられた。こんな風に言葉を、笑みを、気持ち交わして、通わせて。

 それがどれだけ幸福な事なのか、俺はもう知っている。全部をかけて、彼女が教えてくれたから。だから俺はもう、決して手放さない。

 

「俺はお前のいない人生なんて考えられないし、想像もしたくない。俺の残りの人生、全部やる。だからお前の人生も、全部俺にくれ」

「⋯⋯全然、昔言ったことと違うじゃない。本当に記憶が戻ったのかしら」

 

 また(まなじり)に雫を溜めだした瞳が、真剣な顔をした男を映していた。

 まるであの日のように、国道を行き交う車のライトが彼女の姿を照らす。陸橋を照らす橙色の街灯が、目に染みる。

 

「けれどあなたの質問が変わったのなら、私も答えを変えないといけないわね」

 

 雪乃は俺の腕の中から抜け出すと、一歩後ろに下がった。

 俺の姿を視界いっぱいに捉えるようもう一歩だけ下がると、彼女は言う。

 

「あなたの人生を、全部貰うわ。けれど代わりに、あなたの欲しいものを全部あげる」

 

 勢いをつけた大きな一歩で、雪乃は俺の胸に飛び込んでくる。

 あの日のように猫が甘えるような仕草ではなく、全身で雪乃は俺を抱き締め、俺もまた彼女を抱き返す。

 

「――だからもう、離さないで」

 

 何度も抱いた背中を引き寄せて、一ミリの隙間も許さないように彼女の身体を抱く。

 慈しむように彼女の艷やかな髪を撫でて、風に攫われないようにと押さえつけた。

 

「離すもんかよ、絶対に」

 

 そうやってずっと、ずっと。

 それこそ永遠を誓い合うように。

 

 俺たちはいつまでも互いの存在を、記憶に刻みつけ続けていた──。

 

 

 




ここまでお読み頂きありがとうございました。
この作品のプロットが出来上がってからかれこれ二ヶ月以上書き続けて、ようやくクライマックスと言えるこのシーンまで書くことが出来ました。
次回が最終話となります。是非最後までお付き合いの程を、よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

さようなら、愛しき記憶たち。

 大理石の廊下。

 背の高い、ダークブラウンの重厚な扉。

 

 どこからか差し込んだ陽の光を足元に受けながら、俺はその扉の前で佇んでいる。

 別にその部屋も扉も、今日初めて見るものではない。中の作りだって、今朝入ったばかりだから知っている。

 それでも少し緊張してしまうのは、きっとこんな白い服を着ている所為だ。真白なタキシードほど、俺に似合わない服もないだろう。さっきから鏡に映った自分の姿を見る度にそう思うのだから、よっぽどだ。

 

 それでも、いつまでもこうしている訳にはいかない。小町から入って来ても大丈夫だと連絡を受けてから、もう五分は経っていた。

 トントン──と、背の高い扉をノックする。分厚い扉は部屋の内外をはっきりと遮断し、部屋の中の様子を伝え漏らす事はない。

 

「どうぞ」

 

 返ってきたそんな一言が、どこか懐かしい。記憶を探るとすぐにその所以を思いついたけれど、今は状況が違い過ぎていた。

 ノブを回して見た目通りに少し重たい扉を押し開けると、部屋に踏み入れた瞬間、淡い光に包まれる。

 白を基調としたブライズルームには、カーテン越しの陽光が差していた。アンティーク調の調度品はが並ぶそこは、まるで迎賓館か何かのような佇まいだ。

 その厳かな室内に視線を巡らせると、すぐに一番眩しい存在に意識を吸い寄せられる。クラシックなアームチェアに腰掛けたその人は、小町に髪を(くしけず)られながら俺に微笑みを向けた。

 

「お待たせ。これでもう、私の方もほとんど準備ができたわ」

「ああ⋯⋯」

 

 彼女の──雪ノ下雪乃のウェディングドレス姿を見るのは、今日が初めてだった。衣装合わせの時に、まだ見てほしくないと言われてしまったからだ。

 端然とした雪乃の身を包んでいるのは、純白のウエディングドレス。背中側がざっくりと開き、前も鎖骨が見えるほど開いた姿は婀娜(あだ)やかなのに、完璧なまでの清廉さと同居している。プリンセスラインのそれはふわりと絨毯の上に裾を広げ、まるでおとぎ話の中から一人出てきたお姫様のようだった。

 詰まるところ写真でしか見た事のなかったウェディングドレスは、カタログのモデルよりもずっと雪乃の方が似合っていて、俺の語彙では伝え切れないほどの絶美を彼女にもたらしていた。

 

「もー、お兄ちゃん。ああ、じゃなくて、もっと他に言うことあるんじゃないの?」

 

 ブライズメイドよろしく雪乃の髪を梳かしていた小町が、頬を膨らませてそんな事を言ってくる。小町の言う事ももっともだ。しかし、これは──。

 

「似合ってる⋯⋯なんて言葉じゃ、足りないな。綺麗だって言葉も、陳腐過ぎる」

「はぁ⋯⋯。あなたは記憶を失っている時の方が、素直に褒めてくれていたわよ」

「まあ、これも兄らしいと言ったらそうなんですけどね⋯⋯」

 

 俺のバカ正直なほどの感想に、雪乃と小町は微笑みを交わし合う。

 しかし、そんな穏やかな空気が流れたのも束の間。

 小町は櫛を動かしていた手を止めると、にわかに口元を抑えた。さっきまで優しい笑みを浮かべていた目が、みるみるうちに涙に濡れていく。

 

「⋯⋯っ。雪乃さん、本当に⋯⋯っ。綺麗で、うぅ⋯⋯っ。本当に、よかっ、た⋯⋯」

「いやおい、ここで泣くのかよ。フライングし過ぎだろ」

「うるさいっ。だって本当に、嬉しいんだもん⋯⋯っ!」

 

 段々と本気で泣き出した小町を見て、俺と雪乃は密やかに笑みを交わす。

 小町には家族として、人一倍心配をかけてきた。

 小町も由比ヶ浜も、そして一色も、様々な方面から俺たちに心を配ってくれていた。それがどれだけありがたい事か、今の俺ならば分かる。どうやって返していけばいいか分からないぐらい、俺たちはたくさんのものを貰ってきたのだ。

 

「ちょっと、外出てきます」

 

 小町はメイクが崩れないようにそっと目元を拭うと、そう言ってブライズルームを後にした。残された俺たちの間に、空白の時間が訪れる。

 

「小町さん、大丈夫かしら」

「まあ、大丈夫だろ。あいつだってパートナーがいるんだし、後でケアするように言っとく」

「パートナー、ね」

 

 その言い方に思うところがあったのか、雪乃はルージュの引かれた唇でそう呟く。椅子に座ったままの彼女はどこか人形のようで、どこまでも美麗だった。

 

「私は一時本気で、あなたと結婚できなくてもいいと思っていたの。どんな形でも、そばに居られるのなら、それでいいって」

 

 耳朶を撫でるその声に、俺の胸に懐かしい疼痛が戻ってくる。

 あの時の雪乃の気持ちを、俺は知らない。例え言葉で伝えられたとしても、きっと全てを知る事なんてできないだろう。それはどんな場面を切り取ったって一緒で、雪乃もまた俺の気持ちを完全に知り得る事はない。

 だけど俺は、俺たちは知りたいと思った。それが完璧な形にならなくとも、どこか歪んでいても、一つも構わない。

 いくつも、それこそ気の遠くなるぐらい何度も気持ちを重ねて、分かってくるのだろう。想いの強さが伝わった分だけ、理解出来てくるのだろうと、そう思う。

 

「でも今は、ちがう。あなたと結婚したいって、心の底から思っているの」

「世界一綺麗な花嫁を、上手に褒められない俺でもか?」

「ええ。そんなあなたがいいの」

 

 雪乃は(おとがい)を上げると、ふわりと春に花弁が綻ぶかの如く微笑んだ。

 

「あなたじゃなきゃ、駄目なの」

 

 俺を見上げてくる瞳は吸い込まれそうなほど澄明(ちょうめい)で、意識も何もかもを奪われてしまう。

 透き通るような白い肩に、俺は慈しむように手を置いた。俺の方に向いたまま瞼を下ろした彼女の唇に、柔らかくて熱い部分を押し当てる。たった数秒だけ彼女の熱を感じて、そっと唇を離した。

 

「誓いのキスまで、我慢できなかった?」

「できるかよ。⋯⋯お前のその姿を見て、できるわけがない」

 

 急に気恥ずかしくなってきて、俺はふいと雪乃から目を逸した。そんな横顔を、雪乃が微笑みながら見詰めてくるのが分かる。

 

「あなた、私のこと相当好きでしょう」

 

 視界の端に映った雪乃の顔が、からかうような笑みを作る。まったく、そんなの当たり前だろって話だ。

 思い出せなくなって、また好きになって、繰り返して。その分だけ気持ちは積み重なって、大きくなる。

 きっともう、二人で持ったって持ちきれない。雪乃の方だって大概重たいし、こいつ俺の事好き過ぎだろって思う事がいくらでもある。

 だからもう、ただただ気持ちの大きさに圧倒されて、またこんな言い方しかできなくなってしまうのだ。

 

「昔、言ったことあったよな。言葉じゃ伝え切れないって」

「ええ。一生かけて聞いてあげるって、私は言った」

 

 一生、という言葉は本来、とても長い時間を指して使うものだと思う。しかし俺に取ってみれば、余りにも短い。

 どうして、一度きりしか生きられないのだろう。どうして一度きりしか、彼女と一緒に居られないのだろう。

 

「多分もう、一生かかっても伝えきれない」

「それでも言葉にしないと、伝わらないわ」

 

 いつしか俺の視線は、雪乃の顔に引き戻されていた。期待するような目が、じっとこちらを見ている。

 本当、こういうところ変わんねぇな。こいつも、俺も。

 こうなったら逃げも隠れもできないし、言うまでしつこく追い回される。正直「好き」とか「愛してる」なんて、雪乃も聞き飽きているぐらいのはずなのに。

 けれど、それでも求めるんだろう。

 気持ちを象った言の葉を。仕草や表情だけでは伝えきれない、大きく育った気持ちを。

 上手く伝える自信はないけれど、しかしこう言えば、少しはまともに伝わるのではないかと思う。

 

「お前が俺を好きでいてくれるのと同じぐらい好き、って言い方じゃ駄目か?」

「それはもし私があなたのことを思い出せなくなったら、同じことをしてくれるってことでいいのかしら」

「当たり前だろ。俺だって、何回でもやり直す。絶対にお前のことを、諦めない」

「⋯⋯ならその言い方で許してあげる」

 

 そう言って雪乃は、そっと目を閉じる。その髪を撫でながら唇を落とすと、さっきよりも高くなった熱が伝わってきた。

 

「⋯⋯きっと何回でも、好きになるわ。あなたがそうだったように、私も」

 

 雪乃は目を開けると、花が綻ぶようにふわりと微笑んだ。そんな表情を見せられたら、何度だって唇を重ねたくなってしまう。

 けれど、いつまでもそんな甘やかな時間は続かない。

 トントン、とノックの音が聞こえると、俺たちは顔を見合わせた。

 

「そろそろ時間ね」

「ああ」

 

 頷き合うと、扉の方を振り返る。

 そして未だ見ぬ扉の向こうの人物に、彼女は応えるのだ。

 

 

「どうぞ」

 

 

 まるで懐かしいあの日のように。

 まるで日溜まりのような、あの場所にいるみたいに。

 

 

 

 

 背の高いパイプオルガンと聖歌隊の歌声が、天から降り注いでいる。

 囁き一つも許されないような厳かな雰囲気の中、ステンドグラス越しの光を背負い、俺は彼女が現れるのを待っていた。

 ヴァージンロードのその先に彼女が見えた時、誰もがその佳麗さに息を呑む。雪乃のウェディングドレス姿はさっき見たばかりだというのに、またも意識の全てを持っていかれてしまう。

 

 雪乃の母親が、彼女のヴェールを下ろす。

 彼女の父親が手を引き、雪乃は一歩いっぽを丁寧に送り出す。

 

 やがて雪乃が俺の隣に立つと、彼女の父親からその手を引き継いだ。

 祭壇の前に立つと賛美歌が斉唱され、牧師は聖書を朗読する。俺たちの結婚生活の安寧と幸福を、神に祈る。

 

 そして俺に向けて、牧師は尋ねるのだ。

 

「新郎・八幡さん、あなたはここにいる雪乃さんを、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い──」

 

 牧師はふと視線を、俺から雪乃に移す。

 

「──二度と忘れないことを誓いますか?」

 

 俺へと戻ってきたその目線には、悪戯心のようなものが浮かんでいた。

 はっとして雪乃の方を見ると、彼女もまた驚いたように目を見開いて俺を見ている。

 

 まったく、誰の差し金なんだか。

 けれど誰に、どこで訊かれたって、答えは変わらない。

 だから殊更にはっきりと、どこかで見ているだろう神様に向けて。

 隣に立つたった一人の人に向けて、言う。

 

「──はい、誓います」

 

 

 

 

 誓いの全てを終えて、雪乃と共に列席者たちに向き直る。

 掲げた結婚証明書を、(かざ)した指輪を、ある人は感慨深く、ある人は嗚咽混じりに見ていた。

 それぞれの心の(うち)にあるものがどれだけ温かいか、その表情から伝わってくる。それを読み取ろうとすればするほど鼻の奥がツンとして、俺は瞬きを止めてヴァージンロードを歩き出した。雪乃もまた歩調を合わせて、静かに一歩を踏み出す。

 

 その手に祝福の花びらを持つ人々の間を、ゆっくりと進んでいく。

 返しきれないほど温情に(むく)うように。俺たちの結末と始まりをその目に届ける為に、ただゆっくりと。

 

「ゆきのんっ、ヒッキー⋯⋯! おめでとう⋯⋯っ!」

 

 俺と彼女の一番の親友が、涙を堪えながら赤い花びらを撒く。

 

「おめでとうございまーす! 二人とも、今度コンサート来てくださいねー!」

 

 今をときめくトップアイドルが、ファンサービスさながらに黄色い花を飛ばす。

 

「「せーの⋯⋯。リア充爆発しろー!」」

 

 恩師と担当編集が、泣きながら白い花びらをぶつけてくる。

 

 自称悪友が、世界の妹が、妹への愛情がねじ曲がった姉が、──俺たちの人生に関わったたくさんの人たちが、祝意の花を天に舞わせる。

 

 こんなに居たんだな。

 俺たちと関わりあった人たちは。

 

 こんなに温かかったんだな。

 俺たちの周りにいた人たちは。

 

 視界いっぱいのフラワーシャワーが、胸まで満たしていくような気がした。

 気遣うように雪乃へと視線を向けると、幸福を絵に描いたような笑みに迎えられる。長い髪に祝福の花びらを纏わせた雪乃の姿を、俺はまた宝物を仕舞い込むように、その記憶に刻み込む。

 

 外に出ると雲ひとつない空から、暖かな陽光が降り注いでいた。

 ぞくぞくと教会内から出てくる、略礼服姿の男性陣と、色とりどりに着飾った女性たち。その女性陣に向けて、司会の女性がブーケトスの段取りをアナウンスする。

 

 ブライズメイドからブーケを受け取った雪乃は、その花束に顔を埋めるようにしてちらと俺を見た。たったそれだけの事なのに、思わずドキリと心臓が跳ねる。

 

 なんだよ、こいつ。

 そんなやたらと、いじらしい仕草なんかして。

 ついでに言えば可愛らしすぎるし、笑顔が眩しすぎる。

 

 それから試すような目が、本当に面倒臭い。

 なんで今その表情なんだよ、空気読めよ。

 みんな待ってんだから、早くしろよな。

 

 それから。

 

 それから――。

 

 そんなところが全部――愛しくて愛しくて、堪らねぇんだよ。

 

 

「ねえ、八幡」

 

 

 ──さようなら、愛しき記憶たち。

 

 

「私、今が一番幸せよ」

 

 

 ──おかえり、たった一つの本物よ。

 

 

 青空にアーチを描いた花束は、太陽の下できらりと強く輝いた。

 

 

 

 

 

Fin.

 

 

 




あとがき


 最後までお読み頂きありがとうございました。
 これにて『さよなら愛しき記憶たち。』完結です。

 天啓を授かるようにこの話が降りてきた瞬間から走り初めて、ようやくゴールする事ができました。

 さてこの作品を書こうと思った経緯について、少し語らせて下さい。

 過去作『まちがった青春をもう一度。(https://syosetu.org/novel/257731/)』を書き終えた後、頂いた評価的にも自身の満足度的にも良い物が書けた自信はあったのですが、少しばかりの心残りがありました。

 一つは超常現象ありきの物語になっていた事。
 もう一つは話の展開を原作頼り切りにしてしまった事です。

 この二つの心残りを解消できる話が書けないかと漠然と思い続けていたところ、この話が降りてきた、という感じです。

 なのでこの作品にはもう心残りはありません。
 ないのですが、実はまだ続きがあったりします。最終話詐欺ですね。

 ここで読了して頂いても結構なのですが、受け取り方によっては映画『インターセプション』的な終わり方にも見えると思います。
 それに対してのアンサーを、エピローグとして投稿する予定です。

 本当の最後の最後まで、お付き合い頂けたら幸いです。
 またよければ感想や評価でフィードバックを頂けると今後の励みになります。

 最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Epilogue


エピローグ、というのは最終話のように扱われる事が多いですが、演劇では劇が終わった後に俳優が本筋に対して注釈を述べる場の事を指したりします。
この物語に込められたメッセージは何だったのか、このエピローグから読み解いて頂けると幸いです。




 ウッドデッキを照らす、ランタンの灯り。

 それだけを頼りに、私はたった今その本を読み終えた。

 

 

『さよなら愛しき記憶たち。』 比企谷八幡

 

 

 ハードカバーのそれをそっと閉じると、テーブルの上に置く。ずいぶん夢中になっていたみたいで、外はすっかり暗くなっていた。それに、寒い。夏休みのたびにこの別荘に来るけれど、高原の夜はこの季節でも肌寒く感じる。

 私は背もたれにかけていたひざ掛けを自分の膝にかけると、隣りにいる本の作者に声をかけた。

 

「ねえ、パパ」

「ん?」

 

 パパは木製の椅子に腰掛けながら、何かの記事でも読んでいるのかタブレットをシュッシュと操作していた。そんな姿を見ていると、本当にこの人が書いたんだろうかと疑問に思えてくる。

 

「この本、本当にあったことなの?」

 

 私がそう聞くと、ちらり、とパパはこっちを向いた。タブレットを膝に置くと、穏やかな声で語りかけてくる。

 

「パパの職業はなんだった?」

「質問には質問で返すなって、学校の先生が言ってたよ」

「ならその先生の言うことは疑ってかかれ。で、パパの職業は?」

「⋯⋯ノンフィクション作家」

「つまり?」

「⋯⋯本当にあったこと」

 

 素直に「そうだよ」って返せば済む事なのに、この父親は本当に面倒臭い。

 多分、昔からなんだろうなと思う。ママに「あなたは昔からそうね」ってよく呆れられているから。

 

「よければ、作者に感想を教えてくれないか?」

 

 パパは優しく笑いかけながら聞いてくるけれど、小学生高学年の私にとっては分からないことだらけだった。

 使っている言葉の意味が分からないのもそうだけれど、本気で人を好きになったことがないから、ママの気持ちもパパの気持ちも分からない。

 けどママがパパのことを大好きだったり、パパもママのことがめちゃくちゃ好きなのよく知っている。言い合いはよくしているけど、隙さえあればベタベタイチャイチャしてるし。

 私はそんなパパとママを見るのが、とても好きだった。よくリビングとかでくっついてたり、普通にキスしてたりする。そういうのを見ると、私はとても幸せな家庭に生まれてきたんだなって、実感できる。

 

「難しくて、よくわかんなかった」

「そうか」

 

 私の正直な感想にも、パパは残念そうな顔ひとつせずに受け止めてくれる。

 感想は、以上。

 だけど、聞きたいことはある。

 

「ママ、よくこれを本にしていいって言ったね」

「それな。でももしまた思い出せなくなった時に役立つから、ってすんなりオーケーしてくれたぞ」

「思い出せなくなったことあるの?」

「俺がお前のことを忘れたことがあるか?」

「ないけど⋯⋯」

 

 本当に、ないって素直に言えばいいのに。ママはもう慣れているのか諦めたのか、パパの喋り方には何も言わない。まあ素直なパパなんてパパらしくないから、別にいいんだけど。

 

「この本、売れたの?」

「すげぇ現実的なこと聞くな⋯⋯。まあ、今まで出した本の中では一番売れた。自称医療評論家にはありえないってめっちゃ叩かれたけどな」

 

 パパはそう言って笑った後、そうだ、と言ってタブレットを触りだした。またシュシュッと操作すると、タブレットの画面を見せてくる。

 

「今度映画化するんだけど、観るか?」

「⋯⋯観ない。ママ役の人より、ママの方が綺麗だもん」

「お前⋯⋯。女性のなりたい顔ナンバーワン女優になんてこと言うんだ」

 

 そう言われたって、本当にママの方が綺麗だし。

 ママじゃない人がママを演じるとか、違和感しかない。ママが演技するんなら、見てみたいけど。

 

「一色いろはは、本人役で出るぞ」

「え⋯⋯。そうなの?」

 

 いろはお姉ちゃんが出るなら、ちょっと観たいかも⋯⋯。

 女優さんのイメージしかないけど、アイドル時代のシーンとかがあるなら、観たい。

 

「試写会で観れたら、いい経験になると思ったんだけどな」

「試写会⋯⋯って、私も行っていいものなの?」

「別に大丈夫だろ。材木座編集長に交渉させる」

 

 材木座編集長⋯⋯ああ、ざいちゃんのことか。たまにうちに来る、変な喋り方をする人だ。あの人、編集長だったんだ。

 

「ちょっと貸して」

「ん」

 

 私はパパからタブレットを受け取ると、キャストのページをじっくり眺めた。

 パパ役の人は⋯⋯ちょっと目が生き生きしすぎてて全然らしくない。ママ役もなんか違うし、結衣お姉ちゃん役の人より本人の方が可愛い。小町お姉ちゃんは、ちょっと似てるかな。陽乃お姉ちゃんはやっぱり本人の方が綺麗。ざいちゃん役は⋯⋯え、ちょっとイケメン過ぎる。本人、こんなにしゅっとしてないし。

 どうしよう、観たくないけど、観たいな⋯⋯と思っていると、玄関の扉がきいっと鳴った。

 

「外はだいぶ冷えてきたわね」

 

 お風呂に入っていたママは、吹いてきた風に長い髪をなびかせながらそう言った。アイロンを当てたばかりなのか、髪はつやっつやだ。ママは私の頭をそっと撫でながら、隣の椅子に座る。

 ああ、やっぱり本物のママの方が綺麗だなぁ。

 誰のママと比べたってダントツに綺麗だし、みんなママを見たらうっとりしてる。私はママに似ているらしいから、ママが褒められると私も嬉しくなる。

 ママはいつも優しいし、時々厳しいけど、全部納得できることしか言わない。本当、パパには勿体無いぐらいだよ。まあ、パパもパパで少しは素敵だけど。

 そんな事を考えながらママのを見ていると、ふと目が合った。優しい声で「なに?」と聞かれて、私は「ううん」と頭を振る。

 ママは微笑んだままテーブルに視線を移すと、さっきまで私が読んでいたパパの本を見てピタッと固まった。あれ、なんでそんな風になるんだろう。家にずっと置いてある本なのに。

 

「あなた⋯⋯。まさかこれを読ませたの?」

「読ませたっつーか⋯⋯。読んでみるって言ったから渡しただけだ」

「でも⋯⋯。タイミングってものがあるでしょう。きっと、まだ早いわ」

「読みたいと思った時が読み時だろ」

 

 パパが答えると、ママは長い溜め息をつきながらこめかみを押さえた。さっきから、よく分からないやり取りが続いている。きっとママとパパにしか、分からない。

 ぼけっと本の表紙を眺めていると、この本はママの為に書かれた事を思い出す。何度も何度も忘れられてしまった、これはいわゆるママの本だ。

 話の内容を頭の中で再生すると、私にもママの痛みが分かる。もしパパが私のことを忘れてしまったらなんて考えると、今にも泣いてしまいそうだ。

 

「ねえママ」

「どうしたの?」

「今日、一緒に寝ていい?」

「ええ、いいわよ。少し早いけれど、もう寝ましょうか」

 

 もう一人で寝られるから、私用の部屋で寝てもいいんだけど、今日はそうしたかった。

 ママが立ち上がると、私も膝掛けをくるくる畳みながら立ち上がった。パパにタブレットを返すと、ママが声をかける。

 

「あなたも。早く中に入りましょう」

「んー」

 

 パパは気怠げに立ち上がると、一緒に別荘の中に入った。

 パジャマに着替えて、ヘアバンドを外して、歯磨きをする。その間にママがヘアアイロンをかけてくれて、私の髪もママと一緒でつやつやのサラサラになる。

 そうやって寝る準備をしている間、私はずっとパパの書いた本のことを考えていた。今のパパとママからは全然想像もつかない話だったから、ずっとモヤモヤしている。

 寝室に入ると、私は迷いなくベッドの真ん中に寝転んだ。布団を引き上げると右側にパパが入って来て、反対側にママが入ってくる。

 

「ママ」

 

 私はそう言って、ママの腕をぎゅっと抱き締めた。お風呂から出たばかりだからか、ママの腕も手も温かい。

 

「ママ、辛かったよね? パパに忘れられて」

 

 私がそう言うとパパはもにょもにょした笑みを浮かべて、ママはふわりと笑いかけてくる。

 

「辛かった⋯⋯のは確かね。でもあなたを産んだ瞬間、これでよかったって思ったわ」

 

 ママは私の髪を撫でた後に、ぎゅうって両手で抱き締めてくる。そうしてくれる時のママの顔が、私は一番好きだった。

 

「あなたに会う為に全てがあった。そう考えたら、全部納得ができたの」

 

 あれ、と思った。どうしてこんな話になったんだろう。

 私はママが辛かった、心が痛かったって言ったら、慰めてあげるつもりで聞いたのに。

 

「あなたもそう思うでしょう?」

 

 ママがパパに向けて言うと、パパは私の髪を撫でた。ママとは全然違う、ちょっとだけゴツゴツした手。全然違うのに、ママに撫でられた時と同じ気持ちになるから、不思議だ。

 

「何一つ欠けても、今がなかった、って考えたらな。できればお前には、辛い目なんかに遭って欲しくなかったけど」

「いいえ。それでもよかったって、そう言えるわ」

 

 ママはパパとイチャイチャしてる時と同じ顔で、パパを見ていた。

 そんな表情を見ていると、ママはまだ恋する乙女なんだなって思う。恋したことないから、よく分かんないけど。

 

「当たり前のように続いていく毎日が、どれだけ大切で幸せかを知る為に必要なことだった。そう思わない?」

 

 ママはそう言いながら、片手をパパの方に差し出した。パパはその手を取って、ちょっとだけ私たちの方に寄ってくる。

 そして、チュッ、と。

 私の頭の上からそんな音が聞こえた。見えなかったけど、きっとまたキスしてるんだ、この二人。パパとママのサンドイッチが、ホットサンドになっちゃいそうだった。

 

「じゃあ、パパとママは、今しあわせ?」

 

 私が聞くと、パパは片手で抱くようにして髪を撫で続ける。私の頭にのせられた顎が、無精髭でチクチクする。

 

「お前が居てくれるのに、パパとママが幸せじゃないなんてありえるか?」

 

 本当にもう、こんな言い方しかできないんだから、このパパは。

 仕方ないなぁって思いながらママの方を見る。ずっと私を見ていたママは、浮かべていた笑みをもっと優しくて素敵にする。

 

 ああ、本当に好きだな、このママの表情。

 本当に気持ちいいな、パパに撫でて貰うのは。

 

 

「ねえ――」

 

 

 とても優しい声で、ママが私の名前を呼ぶ。

 そして幸福で仕方ないって表情のまま、私とパパを見ながら言った。

 

 

「私、今が一番幸せよ」

 

 

 そう言ってママは、私の額にキスをする。

 くすぐったくて、ちょっと恥ずかしくて、でも全然嫌じゃない。

 

 ママにぎゅっと、抱き締められながら。

 パパに優しく、髪を撫でられながら。

 

 私はそっと、目を瞑る。

 

 私も今が一番幸せだなって、そう思いながら――。

 

 

 

 

 

Fin.

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。