バーボンのボトルを空にしたファドは、やがてゴリラのような
今だっ!
心の中でスタートの合図があった。エマは、ベッドのタオルケットの中に用意していたボストンバッグを掴むと、同時にTシャツとGパン、スニーカーを履いた体を起こした。
抜き足差し足でファドのベッドを横切ろうとした
ホッと胸を撫で下ろすと、そのままじっとして、次の鼾を待った。だが、横を向いたせいか、寝息を立てるだけで、なかなか鼾はやって来なかった。
……でも、熟睡しているはずだ。
エマは再びスニーカーの爪先を立てると、ドアを目指した。そしてノブを握るとゆっくり回し、引いた。
ギィッ!
甲高い
「うっう~」
ファドが
鼾をかくタイミングに合わせて、再びノブを引いた。鼾は止まなかった。安心すると、急いでアパートを出た。ファドの
ーー
……どこへ行こうか?
当てなどなかった。車窓に映る
着いたのは、〈
「ハーイ、ご注文は?」
少し年上だろうか、
「パンケーキとコーヒーのセットを」
メニューも見ないで即答した。
「ベーコンとハムがあるけど、どっちがいい?」
友だちにでも話すような物の言い方だった。
「じゃ、ベーコンで」
「オッケー。すぐ持ってくるわね」
愛嬌を残して背を向けた。時間が早いせいか、客は疎らで、浮浪者風の中年男や早起きの近所の
「お待たせ」
窓を向いていたエマの前にトレイを置くと、
「旅行?」
と、椅子に置いたボストンバッグを見た。
「え?えぇ、まあ」
「ステキな町よ。私が休みなら案内してあげたいくらい」
黒いカチューシャがブロンドの髪にマッチしていた。
「私、スージー。よろしく」
握手を求めてきた。
「私はエマ」
スージーの手を握ると、笑顔を向けた。
「ね、もし時間があったらテルちょうだい。友だち募集中なの。今、番号書いてくるから」
「えぇ」
腹が鳴っていたエマは、スージーが背を向けた途端、パンケーキにかぶりついた。ーー
〈Nice〉を出ると、散策に出掛けた。駅周辺は賑やかだが、郊外に行くと
……こんな美しい地で暮らせたらどんなに幸せだろう。小汚ないブロンクスとは
スージーから退店時間を聞いていたエマは、時間を見計らって電話をしてみた。
「よかったら、私の部屋に来ない?」
スージーが気安く招いた。ーースージーから聞いた道順を行くと、比較的新しいこぢんまりとしたアパートに着いた。ノックすると、例の愛嬌で迎えた。
「夕食を一緒にしない?何か作るわ。それとも、外で食べる?」
「どっちでも。スージーに任せるわ」
「オッケー。さて、何を作ろうかしら」
スージーは真新しい冷蔵庫を開けると、独り言のように呟いた。キャスター付きのワゴンに載った小型テレビからはジョン・レノ○の『イマジ○』が流れていた。
「ーー私もまだ半年ぐらいよ、ここにやって来て。町が気に入って、いつの間にか居着いちゃったって感じ」
フォークでサラダを突っつきながらエマを
「確かに、いいところ」
ビーフステーキをナイフで切りながら、エマが
「でしょ?エマもこの町に住めばいいのに」
「でも、家賃とか高いでしょ?」
不安げに訊いた。
「ね?この部屋に住めば?」
閃いた目を向けた。
「えっ?」
「ベッドを買うだけだし、家賃も半分で済むじゃない」
積極的だった。
「……けど」
エマは
「もちろん、プライバシーは
結局、エマはスージーと同居することにした。
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2
スージーに誘われて同じ店で働くことにしたエマは、
店はランチとディナーの時間帯が忙しく、レジも兼ねているので、エマは計算ミスがないか心配だった。その上、メニュー名や値段も覚えなくてはいけない。
スージーとエマは17時までの早番で、17時からは遅番が出勤する。その一人にスティーブがいた。歳は25、6だろうか、体育系のがっちりした体格だった。
「おはよう、エマ」
キッチンの裏で帰り支度をしていると、出勤したスティーブが声をかけた。
「あ、おはようございます」
「少しは慣れた?」
人懐っこい笑顔だった。
「ええ、おかげさまで」
「今度の休み、デートしない?」
ロッカーから白いエプロンを出した。
「えっ?」
「ドライブでも」
「……考えとくわ」
ピンクのエプロンをロッカーに入れると、エマはポシェットを肩に掛けた。
外で待っていると、伝票の整理にもたついていたスージーが出てきた。
「お待たせ!ね、たまには飲みに行こうか」
スージーは乗り気だった。
「私、まだ未成年よ」
「大丈夫よ、私と同じ歳に見えるわ。私のメイクが上手だから」
「……けど」
「ね、ね、行こう」
腕を引っ張った。ーー連れて行かれたのは、〈
「ニック。紹介するわ、ルームメートのエマ」
「……初めまして」
「どうも、いらっしゃい」
30過ぎてるだろうか、愛想は良くないが、何気に哀愁を感じさせる
「私はジントニック。エマは?」
スージーはそう言って椅子から降りると、ジュークボックスのほうに行った。
「……何かアルコールの弱いものを」
「じゃ、カクテルを作ってあげよう」
グラスにボトルを傾けながら、エマを見た。
「ええ」
スージーに目をやると、ジュークボックスから響くロックのリズムに合わせて踊っていた。エマと背格好がよく似たスージーは、スリムなボディをしなやかに動かしていた。その様子を眺めながら、カウンターの隅に座った初老の客がグラスを傾けていた。ニックもシェイカーを振りながら優しい眼差しを向けていた。
「はい、どうぞ。〈
青い液体が入ったカクテルグラスをエマの前に押した。
「できた?」
スージーが戻ってきた。
「わあー、キレイな色」
カクテルのことを言った。
「じゃ、乾杯!」
エマが手にしたグラスに自分のグラスを当てた。
「何に乾杯しようか……そうだ、入店祝いと友だちになったお祝いに」
「ありがとう」
「よろしくね」
「こちらこそ、よろしく」
「ね、ニックもいつもの飲んで」
スージーが向きを変えた。
「じゃ、遠慮なく」
「ここは私のオアシス。くつろげると言うか……客が少ないからかも。ふふふ」
エマの耳元で小さく笑った。ニックはビールの栓を開けていた。
「ニックはビール党だもんね」
スージーは頬杖をつきながらニックを目で追っていた。
……スージーはニックのことが好きなのかも。エマは思った。ーー
出勤すると、鼻歌交じりでモップを動かすスージーがいた。
「ご機嫌ね」
冷やかした。
「まぁね。うふっ」
スージーは意味深な含み笑いをした。ーーその日は珍しく客が少なかった。暇潰しに窓から往来を眺めていると、店内を
「いらっしゃいませ」
お冷を置いた。男はエマを一瞥すると、
「コーヒー」
と、つっけんどんに言った。年季の入ったボストンバッグを横に置いた男は、薄汚れたYシャツの袖を捲っていた。
……スージーとこの男の関係は?エマは男を見下ろしながら、ギリシャ鼻を
「な、ここにスージーっていないか?」
「えっ?」
男の不意打ちに、エマは答えに迷った。
「……いいえ、いないわ」
「偽名を使ってるかもしれないな。ブロンドで、ブルーサファイアの瞳をした21、2の女だ」
「……いいえ。もう一人は今日はいないわ。それにブラウンの瞳に茶髪よ。歳は30過ぎてるわ」
エマは適当な話をでっち上げた。
「……じゃ、ここにはいないか。だが、一応確認しとくか。その女はいつ出勤するんだ」
「誰が?」
「もう一人の女だよ」
「あら、今もいるとは言ってないけど」
「……どういう意味だ」
「茶髪がいたって言ったのよ。辞めたわ、1週間前に」
「辞めた?」
「ええ」
「で、どこに行ったか知ってるか?」
「いいえ。でも、電話をくれるかも。そしたら教えましょうか」
「ああ」
「どこに連絡すれば」
「いや。まだ泊まるとこ決めてないんだ」
「だったら、〈
「じゃ、そこにするか」
「お名前は?」
「デップだ」
「じゃ、モーテルに着いたら、部屋番号を教えて。今、電話番号書くから」
「ああ」
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3
エマは店の電話番号と自分の名前をメモると、デップと名乗る男に渡した。デップが店を出ると、エマは急いでキッチンに入った。スージーはキッチンの隅に
「立ちくらみらしい。早退しなって言ったんだが」
フライパンを動かしながら、ジョセフが心配そうな顔を向けた。
「スージー、大丈夫?」
スージーに駆け寄ると、背中に手を置いた。
「……大丈夫」
小さく呟いたスージーの横顔は青ざめていた。そこには、いつもの明るいスージーの姿はなかった。
「……帰ったら話してくれるよね?何もかも」
耳元で
エマが休んだ翌朝、モーテル〈ACE INN〉の一室から男の
「で、どんな女でした?」
刑事は手帳を開いた。
「どんなって……横顔がチラッと見えただけだから」
「いくつぐらい?」
「さあ……22、3かな。ブロンドの髪が印象的だった」
「白人?黒人?」
「もちろん、白人ですよ」
ーー所持品の運転免許証から被害者の身元が判明した。アルバート・デップ、42歳。警察は、娘のスージー・デップ、21歳にたどり着くと、取り調べた。だが、死亡推定時刻の午後3時は店で働いていたことが、店主や客の証言により立証された。事件当日、店を休んでいたエマ・バーナード、19歳は除外された。モーテルの主の証言に、‘客室から出てきた女は白人’とあったからだ。エマ・バーナードは黒人だった。ーー金銭トラブルか何かで売春婦と揉めて殺されたのだろう。それが刑事の見解だった。間もなくして、エマとスージーは店を辞めた。
ーー2年近くが過ぎていた。エマはスティーブと結婚して男児を
「エマちゃん。幸せそうだね」
薄ら笑いのファドの顔が受話器の向こうに見えるようだった。
「……どうして、ここが分かったの?」
「どうして分かったかって?そりゃあ、捜したからさ。お前が持ってた金はたかが知れてる。バス代か電車賃ぐらいだ、飛行機には乗れない。あの時間に乗れるのは、この町行きのバスだけだ」
「……」
「さて、どこに隠れてるかと考えた結果、手っ取り早く働くにゃウェイトレスぐらいだろうと、喫茶店やレストランを訪ね歩いたら、〈Nice〉の客がご親切に教えてくれたってわけさ。すぐに連れ戻すこともできたが、それじゃ、
「……」
「と言うことで、少しばかり金を都合してくれねぇか」
「そんなお金ないわよ」
「お前になくても旦那にはあるだろ?お前が言えないなら、俺から言ってやろうか?俺たちのーー」
「やめてーっ!」
「じゃ、自分から頼み込むことだ、愛する旦那に」
「……分かったわ。何時にどこに持って行けばいいの?」
「お利口さんだね、エマちゃんは。それじゃ、時間と場所を言うよーー」
翌日の午後3時ごろ、男の水死体が公園の池から発見された。第一発見者は、公園をジョギングしていた若い男だった。背中の傷から、鋭利な刃物で刺されたのちに池に突き落とされたものと推測された。また、この発見者は、被害者と一緒にいた若い女を見ていた。
「どんな女?」
刑事は手帳を開いた。
「アフロヘアーの」
「アフロ?黒人?」
「ええ」
被害者の身元は歯型によって判明した。ファド・バーナード、42歳。娘のエマ・バーナードにたどり着いた刑事は取り調べた。だが、事件当日、エマには完璧なアリバイがあった。主婦仲間の
……2年前にも似たような事件を担当したな。あれは白人だったが、今回は黒人だ。どっちも父親が殺されている。そして、どっちにも完璧なアリバイがある。違うのは一方は白人で、もう一方は黒人と言うことだ。
刑事は2年前に
……ここで足取りが
……ん?ちょっと待てよ。2年前の事件の時、第一発見者の、‘見かけたのは白人の女’ との証言で、黒人のエマを取り調べなかった。ここに落ち度があったのでは?……白と黒。ーーあっ!そうか。
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4
刑事は自分の閃きに自信を持つと、エマを再度取り調べることにした。
「奥さん。あんた、ニック・スミスに頻繁に電話をしているね」
「……」
「何者だい、この男は」
「……以前、飲みに行ったことがあるバーのマスターです」
「そうだよね。〈FANCY〉というバーのマスターだよね。なんでまた、そんな男にしょっちゅう電話してるんだ?旦那も子どももいる既婚者のあんたが」
「……2年前、初めて会った時から好きでした。でも、彼は白人。どうせ付き合ってくれないだろうと思って、気持ちを打ち明けませんでした。……でも、今でも忘れられなくて、声を聞けるだけでいいんです。スティーブがいない時に電話をしてました」
エマを帰したその日の夕刻、ニックが店に出て誰もいないはずのアパートを見張った。ーー間もなくして、ニックの部屋から女が出てきた。顔を見た途端、刑事はアッと心の中で叫んだ。読みが的中したからだ。声をかけると、スージーはびっくりした顔を向けた。
「覚えてますか?私のことを」
その問いに、スージーは小さく頷いた。
目の前にある公園に誘うと、街灯が照らすベンチに腰を下ろした。ふと見上げると、空は淡い紫色に染まっていた。
「エマとは連絡を取ってる?」
「いいえ」
スージーははっきりと言い切った。
「どうして?友だちだったんでしょ?〈Nice〉で一緒に働いていた頃は」
「ええ。でも、嫌いになったんです」
「どうして」
「私の彼のニックにモーションをかけたことを知ったからです。友だちだと思っていたのに、私の彼を横取りしようとしたことが許せなかった。だから、絶交したんです」
丸暗記した台詞を喋っているように刑事には聞こえた。スージーもまた台本を用意していたようだ。
「……なるほどね。けど、エマはあんたの恋人のニックと今でも連絡を取り合っているよ」
「えっ?うそよ!」
わざとらしく驚いた顔を向けた。
「うそじゃない。エマ宅の通話履歴でニックの名が浮上、それでアパートが判明し、こうやって、同棲しているあんたを取り調べるまでに至ったわけだから」
「チキショー!あの女。亭主も子どももいるって言うのに、私の彼にちょっかいを出しやがって。亭主にばらして、離婚させてやろうかしら。ったく」
スージーのその汚い言葉は演技だと、刑事は見抜いていた。
「さっき、エマとは連絡し合ってないって言ったよね?」
「……ええ」
「なのにどうして、子どもがいることを知ってるの?」
途端、スージーは
「……それは、〈Nice〉にいたころからスティーブと付き合ってたのは知ってたから、あれから2年も経ってれば結婚して子どももいるだろうと推測して……」
お茶を濁すかのように早口で捲し立てた。
「……なるほど、推測してね……エマの父親が死んだのは知ってる?」
「……いいえ。新聞は読まないから」
目を逸らした。
「どうして、新聞が関係あるの?」
「えっ?」
言ってる意味が理解できない様子で顔を向けた。
「どうして、エマの父親の死が新聞に載ってると思ったの?」
「えっ?」
目を丸くした。
「死んだと言っただけで、殺されたとは言ってない」
「……それはつまり、2年前に私の父が殺されたから、そのことが頭の隅にあって、たぶん殺されたんだと思い込んで」
「先入観てヤツ?」
「……たぶん」
「ところで、×日の午後3時ごろ、どこで何をしてた?」
「×日ですか?」
「そう」
「……部屋にいたと思いますーー」
スージーにはアリバイがなかった。仮にニックが、‘スージーと一緒に部屋にいた’と証言しても、恋人の証言は信用性が低い。完璧なアリバイにはならない。いよいよ、刑事の読みが色を濃くした。
刑事の見解はこうだ。スージーの父親を殺したのはエマで、エマの父親を殺したのはスージー。つまり、【交換殺人】だ。肌の色こそ違えど、二人は背格好が似ている。その方法はメーキャップとかつら。黒人のエマはライトナチュラルのファンデーションとブロンドのかつらで白人に扮した。その逆に、白人のスージーはブラウンのファンデーションとアフロヘアーのかつらで黒人に扮した。そして、アリバイを完璧にするために目撃者を作ると、ブロンドやアフロなど、わざと目立つ髪型を印象付けた。
交換殺人を確信した刑事はその夜、エマの自宅を訪ねると、鎌をかけてみた。
「スージーが自白したよ」
「えっ!」
エマが目を剥いた。
「交換殺人のからくりを」
「……」
エマは俯いた。
「スージーの父親を殺したのは、白人に扮したあんたで、あんたの父親を殺したのは、黒人に扮したスージーってことを」
「……」
刑事の読みが図星であることを教えるかのように、エマは
「最初から話してもらおうか」
覚悟を決めたのか、エマはため息をつくと、ソファに深く座り直した。
「2年前、一人の中年男が店にやって来たのがすべての始まりでした。その男を見た途端、スージーの顔色が変わったんです。話を聞くと、その男は父親で、その父親が怖くて逃げてきたと。そして、私と同様に虐待されていたことを知りました。スージーを父親の呪縛から解き放してやりたかった。いつもの明るいスージーに戻してやりたかった。だから、殺害する方法を考えたんです。それしか、スージーが幸せになる道はないと思ったから。
あの日。店に電話を寄越したスージーの父親、アルバートからモーテルの部屋番号を聞き出すと、『明日、スージーの友人が直接モーテルに行く』と伝えました。
翌日、スージーの上手なメイクで白人になった私は店を休みました。アルバートと会う約束の午後3時までの間、指紋がつかないように指先に透明のマニキュアを塗ったり、返り血を浴びても目立たない服選びをして、部屋で待機していました。
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5
そして、約束の時間にモーテルに行きました。ノックのあとにドアを開けたアルバートは、私が昨日話をした〈Nice〉のウェイトレスだとは思いもせず、安易に部屋に入れました。
『スージーの友だちよ。リサ。よろしく』
私だとばれないように、故意に片言の英語を使いました。
『スージー、あとで来るね』
『えっ?ここに来るって?』
予期せぬ朗報に、アルバートは喜んでいました。
『スージーに、サービスするよう言われた。私、マッサージで働いてるね。パパさん、マッサージするね』
『えっ?マッサージしてくれるのか』
『するね。ベッド、横なって』
私の話を信じたアルバートは、ウキウキ気分でベッドに
なんの
客室を出ると、目撃者を作るためにわざとヒールの音を響かせました。自分の身を守るためと、スージーのアリバイを完璧にするには、アルバートの死亡推定時刻に客室から出てきた‘白人の女’を印象付ける必要があったからです。明るい時間に犯行に及んだのもそれが理由です。
私たちが〈Nice〉を辞めたのは、事件に関わっていることを周りに気付かれないようにするためです。いつなんどき余計なことを喋って墓穴を掘るか分かりません。そのことを恐れて辞めました。そして、事件は迷宮入りになった。
私はスティーブのアパートに移り、スージーはニックのアパートに移りました。そして、スティーブと結婚した私は子どもをもうけました。幸せに暮らしている時に、私の父親、ファドから電話があったんです。あまりの恐ろしさで目の前が真っ暗になりました。連れ戻されたら奴隷のように扱われ、死ぬまで暴力を振るわれるのは目に見えています。今の幸せを失いたくない。
私はニックと同棲しているスージーに相談することにしました。電話で事情を話すと、『私に任せて。明日の3時に公園の池で会う約束をして。あなたは午後3時の完璧なアリバイを作っておいて』そう言ってくれたんです。私は涙が
話し終えたエマは、深いため息をつくと
スージーからも話を訊くために、刑事はその足でニックのアパートに引き返した。エマから電話があったのだろう、ドアを開けたスージーは刑事の訪問を予期していた顔の様子だった。
「あの日、エマから電話をもらった私はアフロのかつらを買いに行きました。黒人に扮装する目的で。翌日、公衆トイレで黒人の格好をすると、瞳の色を隠すためにサングラスをして約束の時間にファドに会いに行きました。
『ファドさん?』
ベンチから腰を上げたファドは、エマから聞いたとおりの大男でした。
『そうだけど』
『私、エマの友だちでオリビアと言います。子どもの具合が悪いので病院に行くから少し遅れると伝言を頼まれました』
『そうかい。わざわざすまないな』
無精ひげのファドが前歯を覗かせた。
『いいえ。ステキな所ね。風が爽やかだわ。あらっ、あれは何かしら?』
池のほとりに立つ大きな柳の木に隠れると、独り言のように呟きました。
『何か動いてる』
『どれ?』
ファドは
『その水草の下』
と指を差しました。
『えっ?どこだ?』
ファドはそう言って前のめりになりました。
『そこです、そこ。水草のとこ』
私はそう言いながらポシェットからジャックナイフを出すと両手で持ち、力を込めてファドの背中を刺しました。そして、ファドの腰を片足で押すと同時にナイフを抜きました。ファドは低い
すべてを打ち明けたスージーは、ゆっくりと顔を上げた。
「刑事さん。子どもは親の言いなりになるのが義務なんでしょうか?子どもは、……幸せになってはいけないんでしょうか?」
スージーの目には涙が溢れていた。
「……いや、そんなことはない。子どもは親を選べない。それが何より不幸だ。しかし、誰しも幸せになる権利があります」
刑事は真剣な眼差しを向けた。
「……刑事さん」
逮捕される覚悟をしていた二人だったが、秋が深まる頃になっても刑事はやって来なかった。
「あの刑事さん、口は悪かったけどキレイだったね」
スージーがエマに電話をした。
「ほんとに。それにハートも優しかった。なんかお母さんと話してるみたいでほんわかした」
「だね。エマも私もお母さんいないから、あんなお母さんがいたら、幸せだったね」
「そうだね。また会って話したいなぁ」
「私も。ね、どうして私たち逮捕されなかったの?」
「……分かんない。刑事さんが迷宮入りのままにしてくれたのかな?」
「もしそうなら、感謝しないとね」
「うん。……ほんとに」
「私たちを幸せにするために、迷宮入りのままにしてくれたんだよ、……きっと」
そう言ったあと、受話器の向こうから無邪気な子どもの笑い声が聞こえてきた。スージーは幸せを噛み締めるかのように小さく微笑んだ。ーー
完
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