鶏が先か、卵が先か (楊枝)
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第零章
おやとひな


 一面真っ白な地獄の中で、私は“私”を自覚した。私の中の“私”の存在に気づいて、結果的にすべて悟ってしまったわけである。

 過去は過ぎたこと。現在は今ある状況。未来は───決まっている道筋。

 

 今日のカリキュラムを終えて、真っ白の部屋の中で子どもたちが自由に過ごしている。人数は少ない。みんなリタイアしていったのだ。

 今いるのは、まだ優秀な子どもたち。まだもう少しだけ優秀でいられる子どもたち。

 

 生気の抜け落ちたドールのような顔が並んでいる。心などない。私が異常なだけだ。……違う。異常なのはこの白い空間だ。私は、だから、私一人だけが正常なのだ。

 私は平凡な女だ。女の『子』だ。平凡でありながらこの空間で生き残っていられたのは、“私”が存在していたからであり、私だけでは今ここに立ってすらいなかった。“私”という正常が異常な私を生かし、私は“私”を活かしていた。皮肉だと思う。

 どちらが欠けても今さら私は私になり得ない。

 

 なら私は、私を尊重しよう。“私”のおかげで、……いや。“私”は私だ。私がしたいと思ったから行動するのだ。

 研究室の奴らが毛嫌いするような理由で動く。したいと思ったからなんて、まるで獣のようだと思う。そこに計算はないし、打算もない。

 もとより人間は獣なのだ。この異常な空間に飼い慣らされて、獣の本能は忘れちゃいけないだろう。いわば、そう、私は本能を取り戻したのだ。それだけなのである。

 ……調子が戻ってきた。良い調子だ。

 固い表情筋を動かせば、少し痛かった。もう随分と動かしていなかったから致し方あるまい。でもこれからは調子が戻って表情も絶好調になるから、今から先の私は顔の筋肉痛を覚悟していてほしい。顔の筋肉痛ってなんだよ。

 

 一人内心ノリツッコミもこの辺にして、茶髪の子どもの前に立つ。影がかかって、しゃがんでいる男の子が顔を上げる。見えた顔を知っている。その無機質な表情を識っている。

 視線を合わせるために私もしゃがんだ。呑み込まれそうな無の前で、笑った。

 

「あなた、お名前は?」

 

 返事はない。当然か。今の今まで関わろうとしてこなかったのだ、お互い様に。私は私のことで精一杯だった。彼は知らないが。

 同じ無機質だった子どもの一人が突然自我を出してきて、真っ先に声をかけてくる。そりゃ表情には出てないけど内心戸惑っていることだろう。本当に戸惑っていない説もあるが、今は別に気に留めない。他の子を置いて真っ先にこの子に声をかけているのは本当だから、まあ、言い逃れはできない。言い訳はできるが。

 大事なのは行動だ。内心は後でいくらでもついてくる。おかしな言い回しだが、言い得て妙だと自画自賛する。

 もう一度、ゆっくりと言う。

 

「あなたの名前が知りたいの。教えてくれる?」

 

 こく、と目の前で喉が動いた。小さな口が開く。瑞々しい赤い口内がよく見えた。

 無機質な瞳が交差する。不思議な色合いをしているが、“この世界”じゃ普通のことだと識っている。私もきっと同じだから。

 

 告げられた名前に笑みを深めた。口端が痛い。急に笑うのは良くない。でも笑みは本心からのもので、自然なものだから引っ込められない。

 瞳が瞬いた。小首を傾げる動作が年相応だ。いや、成長した彼にもままあることだったか。もしかしたら昔から、気付かぬうちにあった癖だったのかもしれない。今さら確認しようはないが、私がそうだと思ったならそれが正解だ。

 だって私は、今からきっと、ずっと長い間目の前の彼と時間を共にすることになる。そんな予感がしているから。

 

「そっか。教えてくれてありがとう」

 

 両手でそっと彼の紅葉のような手を握った。ぷくぷくと柔らかい。私もおんなじ手をしている。彼が不思議そうに握り返す。おんなじようにぷくぷく触っている。

 

 名前を口にする。それは存在の証明に等しい行為だと思いはしないか。

 或いは。

 

 

「───よろしくね、清隆くん」

 

 

 ……否。私には関係のない話だったか。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「清隆くん。一緒にいよう」

 

 今日のカリキュラムを終え、自由時間になる。子どもたちはまた減って、減って、減った。この調子だと二人だけになるのも時間の問題かもしれない。もしかしたら“この記憶”にある通りなら、彼一人きりになってしまう未来も起こり得るかもしれない。それは嫌だから、もう少しだけ頑張ろうと思う。

 この体は、頭脳はハイスペックだ。記憶と合わさって異常値を叩き出している、そういう認識が正しい気がする。勘でしかないが、間違っていない。この場合でも気がする、という言葉で締め括ることにする。

 まあもちろん、本物には敵わないわけだが……。

 

 その本物たる彼のそばに寄って行って、肩を合わせる。合わさった肩から伸びるお互いの手を重ね、ぎゅうと握った。触れる面積が大きくなるように指と指の隙間を埋める繋ぎ方をする。されるがままの清隆くんとするがままの自由気ままな私。案外相性が良いかもしれない。

 

「問9、異常に難しくなかったくない? あれ解くのだけで大分時間使っちゃった」

 

 ……コク、と一つ頷かれる。お返しのようにうんうん頷いた。

 こうやって彼が私の一方的になっている会話のドッジボールに反応してくれるようになって、どれくらいの月日が経っただろうか。碌な月日でないことは指折りで数えなくても確かにわかる。

 此処での異常は私であり、彼が普通だ。この空間での何よりの異質が私であり、此処に残っている彼らの無機質が真だ。

 さっきから何度も言葉にしているが、私も私命名:白い地獄の中では真面目にしている。真面目にしすぎて無機質になっている。真面目なほど無機質になるという地獄。私が未だ此処に残り続けているのは、自由時間と白い地獄とのギャップ、所謂異質を買われてというのもあるかもしれない。憶測でしか言えないわけだが、あながち外してもいないはずだ。憶測だけが妙に上手くなっていく。これが白い地獄処世術だろうか。身につけたくない術である。

 

「筋力テストはどうだった? 私そろそろ20突破できそう。前よりムキムキになれた気がする」

 

 齢6歳の子どものセリフとは思えない。己はゴリラか。はいゴリラです。

 清隆くんが私をジーッと見て、一度ぎゅっと繋いだ手を握った。不思議に思って清隆くんを見る。

 

「……25」

「……6歳の平均って知ってる?」

「……知らない」

「私もわからないから今すごく困ってる……」

 

 どうしよう。すごいことはわかるんだけど、比較対象が私しかいない。他の子に聞けば平均が取れるだろうか。私と清隆くんぶっちでヤバいのわかっているから、どうにも正確な平均を取れる気がしない。

 最初に己はあくまで平凡と銘打っておいてこんな快挙を遂げているのは、リミッターが外れたからじゃないかと推測している。これも記憶のせいなのね。そうなのね。都合の良い言い訳にできて困る。否、言い訳でもないか。真実か。真相は闇の中でもあり、私としてもどうにも首を傾げざるを得ない。だがまあその謎の力のおかげで此処に残れているのだから、あまり思い詰める必要はないだろう。

 なんにせよ、この年でこの数値を叩き出したのが凄いことはわかる。自分も含めて無邪気に喜ぶし、清隆くんを褒める。

 

「すごいなぁ。ここにいる大人は褒めてくれないけど、これはすごいことなんだよ。もっと喜んでいいんだよ。だって私はすごく嬉しい。すごいから」

 

 馬鹿みたいなすごい連呼だ。私が褒める節に入ると途端に語彙力が低下するから困る。自由時間は頭が死んでいるから語彙力は言ってもいつもこの程度な気もする。南無三。

 清隆くんが私をジーッと見て、また一つコク、と頷いた。お返しのようにうんうん頷く。

 表情を観察して見ればちょっぴり口角が上がっていることがわかった。私のあほ発言に笑ったのかそれとも素直にすごいことに喜んだのか判断が微妙なところだが、笑ってくれたならどちらでもいい。これがすごいことなのだとわかってくれたならいい。毎度すごいことを自覚させようとして躍起になっているのだ。報われたいよ。すごいんだよこれ。記憶があるからわかるんだ。

 

 そのあとは特に会話のドッジボールをすることもなく二人で静かに寄り添ったままでいると、いつもの無機質な機械の声が放送を流す。

 夕食の時間が来た。子どもの栄養が考えられた最適で最善の色の殺されたご飯だ。知っているか、清隆くん。ジャンクなフードほど美味しいんだよ。君にもいつかそれがわかる日がくる。そうだな……具体的に言えば9年後かな。本当に具体的すぎて笑えない。

 夕食を摂る部屋はこの自由時間の部屋とはまた別だ。清隆くんの手を離して一人で立ち上がる。

 いつもと違って、離した手を握られる。

 

 振り向く。清隆くんが私を見ている。眉を下げて、優しくその手を解いた。

 

「大人が見てるから」

 

 感情が見えない。まだそこに明確な感情が無いからか。それとも本人ですら何の感情なのかわかっていないからか。

 初めて彼から行動を起こしてきたのだが、その初めてが私を引き留めるための動きとは。なんだか少し照れくさいものがある。

 初めて彼が起こした能動的な動きを否定したくない。だから受け入れて受け流す。

 

「大人が見ていないならいいよ」

 

 ……コク。いつもより遅い気がしたけれど、ちゃんと反応してくれた。うんうん頷いて、彼を置いて部屋を出る。

 

『大人が見ていないならいいよ』

 

 この言葉には語弊がある。大人が見ていない箇所なんてない。自由時間でさえ監視されているだろう。四六時中というわけではなく、録画して、後で確認作業を行う程度か。

 私は記憶を得てそれを受け入れたことでリミッターが外れ、もともと備わっていた頭脳・身体能力の数値等を異常に底上げすることとなり、結果清隆くんに次ぐ実力を発揮するようになった。だが、あくまで『次ぐ』だ。いつかは切り捨てられる側であることに変わりはない。そうならないよう尽くすが、わからない。記憶では私がいることはあり得ないから、最後はやっぱり此処を出ていくことになるかもしれない。情けない話だがすべて『かもしれない』であり、明確な根拠とはなり得ない。記憶を引き合いに出せば根拠になるだろうか。目視できないなら証拠とはならないか。

 何をもって切り捨てるか。何をもって此処に残すか。すべてを総合的に見て判断するなら、一人一人の自由時間の行動でさえ重要な指針となるはずだ。そのとき私の異常が判断材料となる。簡単に捨てさせる気は毛頭ない。

 

 後をついてくる足音が聞こえる。存外近くからする。私によって鍛えられてパーソナルスペースが狭くなっている子は一人しかいないから、清隆くんだろう。後ろ髪が引かれる思いとはこのことかと有名なことわざを身をもって実感する。実感するだけで振り向きはしない。

 席に着く。隣の椅子がすぐに埋まる。完璧なテーブルマナーで機械的に口に物を運ぶ。

 食事を終えたら次はお風呂。次は歯磨き。次は就寝だ。そりゃこんな機械的な毎日、機械的な生活をずっと続けていたらサイコパスにもなるだろうと思う。私じゃなきゃなっちゃってるね。実際白い地獄……ホワイトルーム出身者ってみんなサイコパスだったくないか? ここでいっちょ私がならないことでホワイトルーム出身者=サイコパスという式を崩してみせよう。これでみんな胸を張って常識人だ。私がその第一人者となる。

 

 夕食時間以降はマニュアル通り過ごすだけとなっている。これには時間制限はなく、子どもそれぞれのペースで行って良い。だから私は今日も他の子を置いて一人さっさとマニュアルをこなす。

 お風呂へと向かう私の背後にまた気配がある。どうやら今日の彼は雛鳥の気分らしい。振り向かないし待たないし、彼も何も言ってこない。ただついてくるだけ。自由時間でのべったり具合はなんだったんだと問いただしたくなるような徹底振りをしていると自分でも思う。

 一人じゃないこと。それがどんなに尊いことか記憶が語る。

 私はまだ何もできない。まだ何もしない。でも今此処に在ること、それが彼の一片の救いになっていればいいなと希望的観測をする。

 歩くスピードを落とす。せめてもの大人への抵抗であり、せめてもの彼への意思表現だった。彼は今後ろでどんな顔をしているのだろう。無表情は変わらずとも、内心で少しでも喜んでくれていたらいいなと思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 雛鳥清隆くんは健在だ。だんだん距離が近づいて、もはや並んでいると言った方が正しいくらいになっている。けれどチラと見て居場所を確認すればそれで終わりだ。そろそろ歩幅とか身長的な問題で追う追われる立場が逆転するだろうと思いながらも幾数年、未だに律儀についてきてくれている。これが刷り込みだろうか。

 子どもはもういなくなった。ついに二人だけになってしまった。私たちは二人ぼっちでこの白い地獄の中を未だ逞しく生きている。逞しいかどうかは謎だが、身体能力的には言い得て妙であろう。頭脳も逞しくなった気がする。血管ビキビキだぜ。ここでは脳筋の意を示しているわけではなく脳の皺が増えたという意味で言っている。私は何を詳しく説明しているんだ。ボケを自分で説明することほど恥ずかしいことはないと個人的に思っている。誰に聞かせると言うわけでもないからボケるのはやめないが。

 

 今日のカリキュラムを終えて、束の間の自由時間の中で壁にもたれてぼーっとする。私の肩に清隆くんは頭を預けて、触れた肩から伸びる手はお互いに繋がっている。私もこてんと彼の頭に側頭部を預けた。同じシャンプーの匂いに混じって彼自身の匂いもする。不快感はない。なんなら、安心する匂いだと思う。

 

 

 ───機械的な日々を無為に繰り返して早10年。私たちは10歳になっていた。

 

 

 一般的に女子の方が第二次性徴が早く訪れる。膨らんだ胸を見下ろし、隣にいる彼と比べたら随分と細い肩、腕、手。違いを数え出したらキリがないことに間違いはない。そもそも身長からして違う。それだけで一つ一つの部位の長さも変わっていく。

 同じだった体格に変化が訪れ、体の厚みも変わった。彼と並んだら私は随分とひ弱に見えることだろう。同じカリキュラムをこなしているはずなのに、こんなに変わってしまった。まあそれも今ではカリキュラムまで変わってしまって、ああ、本当に私たちは変わってしまったんだなぁと痛感する。痛感したのだ。だから私たちがこうして会えて触れ合うのは自由時間の一時間だけになってしまった。まあ同じカリキュラムだったとして、試験中はずっと虚無虚無しながら課題をこなしているので、どちみち顔を合わすことも触れることも会話することもなかったが。

 それでも確かに、お互いが生存していることを確認できた。今日もお互いに生き残れたことを実感できた。今じゃこの自由時間だけが彼の存在を確かめられる唯一の術となっている。

 彼が脱落することはないと知っているから私は特に不安を感じないのだが、彼の場合はどうだろうか。カリキュラムまで変わって、そろそろ私が脱落するんじゃないかと不安になってやいないだろうか。……不安になってくれていたらいいな、と人としてどうなのかという気持ちを抱く。

 初めは打算だったかもしれない。同情もあったか。私は記憶を持っているから知っている。温かい気持ちも嬉しい気持ちも、悲しみも怒りも知っている。だけど彼はわかってない。知らないからわからない。感じ方からわかっていないんじゃないか。それは寂しいことだろう。だから少しでも私が何か彼に与えてやれたらと思った。与えたいと思った。

 懐柔というには言葉が悪すぎる。

 

 ……私は、たぶん、私がいたという証を残したかったんじゃないだろうか。彼の中に一片。私という欠片があればいいと思った。彼の中に何かを残したくて……いや。残りたかった、のだろう。

 

 無機質な放送が流れる。私だけが呼ばれている。確か今日は複数人を相手にした戦い方の実戦講義だったか。……少し嫌な予感がしている。

 前回の講義終わりに嫌な声の掛けられ方をした。確かあれは、あの目は……言葉にするならば───。

 

「葵」

「……なぁに、清隆くん」

 

 ぎゅ、と手を握られる。知っている声よりも少し高い声を聞くと、なんとなく優越感に浸れる気がする。彼が紡ぐ自身の名が宝物にでもなったみたいだ。彼は私の名を呼ぶたび、ひどく大事そうに紡ぐから。自惚れてしまう。

 名前が知りたいと、私の服の袖を掴んでジッと見つめてきた幼い彼を思い出す。どうして今さらそんな昔のことを思い出したんだろう。……いよいよ虫の知らせみたいだ、と思って、うすらと笑った。

 彼の髪が首に当たる。くすぐったくて肩をすくめた。離れていく頭に合わせるように私も隣に顔を向ける。間近で視線が交わり、幼い丸い瞳が私を見つめ返す。以前より丸みは失ってしまったけれど、童顔な彼の瞳は依然愛らしくくりくりとしていた。

 不思議な色合いの瞳が瞬く。

 

「……いってらっしゃい」

「……うん。いってきます」

 

 お互いに何も言わない。暗黙の了解染みたそれは、だけど今このときだけはありがたかった。

 

 

 私は生き残る。この子を独りにはしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは実験なのだ、と血を垂れ流し床に蹲る私の前で白衣を纏った男が言った。

 私を囲う筋肉隆々な男たちに血の痕はない。いや、強いて言うならば握られたナイフには血が滴っている。もちろん彼らの物ではないが。

 明らかな戦闘のプロ。おそらく戦場を経験した者、或いはそれに近しい体験をした男複数人。

 行われたのは、そんな彼らを相手にした集団戦だった。

 彼らはナイフ以外にもさまざまな武器を手にしていて、動きからして熟練。それぞれ得意な得物を持っているのだろう。

 対する私は素手でのステゴロだ。今回は武器の保有を認められず、強制的に素手での戦闘と相成った。

 別にそれだけだったなら問題はなかったのだが、今朝から妙に体の動きが鈍く感じるというか……一人だけの別カリキュラムで、ある程度耐性はできているはずなのだが、その耐性を超えてくるのだから今回の出来事に相当力を入れていることはわかった。

 なんにしろ、今回は降参だ。完膚なきまでの敗北。状況がどうとか体調がどうだとかは関係ない。だが、動きの鈍い体で致命傷だけはすべて避けたのだから、せめての慈悲で及第点くらいにしてほしいと思う。過程で体中にできた夥しいあざはまあ……ご愛嬌にならないだろうか。ならない?

 

 そんな感じであえなく白い床を赤く染めながら倒れ伏している私に、白衣の男の行先を邪魔しないよう私を散々痛めつけてくれた男たちが下がる。

 両手を背中に回してまるで偉い教授みたいな態度で、白衣の男が私のそばに立つ。しゃがむわけがない。見下ろすわけでもない。どこを見ているのかわからない目で“何か”を見据えながら淡々と言う。

 

「講義は段階を経てプログラム通り終えた。後は教えた内容が身についているか、目標地点にまで到達しているかの確認。WR4-35とWR4-01は親しい様子を見せていた。実験をするにあたってこれほど相応しい者はいない」

 

 機械の声だ。ぼやけた視界で捉えた白いロボットに笑う元気もない。幻覚とはとても思えない。

 連れて行け、という平坦な声がする。雑に持ち上げられて、微弱な振動の中で千切れそうな意識を保つ。気を失ってしまいたいが、身の安全を確認してから意識を手放したい。治療はちゃんとされるのか、その点だけでも確認しておきたかった。

 私の体を持ち上げていた男がある地点で止まる。歩数的に考えて、…意図が読めない。私をここに運んでどうするつもりだ。

 扉の開く音が聞こえる。感じていた浮遊感がなくなり、後に体に伝わる冷たい床の温度。

 出口付近にいる離れた複数の人の気配。対する部屋の奥にいる一人の気配。

 講義。プログラム。目標地点。……実験。ああなるほど、そういうことかと遅ればせながら理解する。こういう理解が遅く鈍いところが彼と私が分たれた要因なのだろう。

 

「WR4-01。今からテストを行う。直ちに此方に来るように」

 

 致命傷はない。傷はあるが、どれも浅いものだ。量が多いため少し大袈裟に見えるかもしれない。自分の今の姿を鏡で見ていないため大分予測が入ってしまうことが残念だ。

 足音が近づいてくる。一定の歩幅と速度。すぐ隣まで迫り、止まる。

 視線を感じて体力消費のため閉じていた瞼を開けた。せっかく開けたのに逆光で顔がはっきりしない。

 

「テストとは?」

 

 しばらくの無音。私を挟んで両者とも動く気配がない。間に挟まれた私が気まずいのだが……あと一応我、怪我人。怪我人ぞ?

 ふざける元気はもとよりないわけだが、息がうまくできない重圧を人知れず感じて口籠ってしまう。別に何か言ったところで状況は変わらないのだろうが、呼吸さえ躊躇するような空気にはさすがに戸惑ってしまう。息が満足にできないのに、当然喋れるわけもない。

 ただならぬ雰囲気に戦々恐々としている私なのに、なぜか複数人いる側の気配が落胆したものに変わった。代表して聞き覚えのある白衣の男の声が言った。

 

「……計測不能。時期を急ぎすぎたか? それともやはり習得は難しい、か」

 

 ボードにさらさらと何かを書き込む音と、続けて速やかに指示を出しまた私の体が雑に持ち上げられた。掴まれた箇所は大きいあざができている場所だ。一瞬息を詰め、努めて深く息を吐く。痛みを逃す。

 目を開ける元気も今ので根こそぎ奪われた。固く目を閉じ、浅く変わろうとする呼吸をどうにか抑える。私に勝てるのは私だけだ。間違えた、私を落ち着かせるのは私だけだ。ダメだ危機感が一周回って頭おかしくなってる。

 今度こそ医務室に向かってくれるだろうか。まさか清隆くんのテストのためだけに私の体をダメにして脱落させるわけあるまい。というか、それで脱落になったら無念すぎて泣く。

 淡々と運び出されながら、胸の中で嘆息に似たため息をこぼした。内心複雑すぎてなんとも言い表せない。そもそも彼の瞳を覗けなかった。それでは僅かに瞳の中に現れる彼の感情の変遷も確認する術はない。

 テストで判定された『計測不能』はいいとして、気になったのはあの全身にかかった息もうまくできないような酷い重圧だが……それも目を開けることさえ満足にできないポンコツ化した私からしたら気のせいだった可能性も否めない。

 早く回復したい。回復していつも通り無為な日々を過ごしたい。

 忌避してた無為さを愛するようになったら人間終わりだと思っていたのに、体をボロボロにされたら愛するようになるなんて随分都合が良いことだ。いっそ人間らしいと言えるだろうか。……やっぱり皮肉なもんだと内心で笑う。

 早く体を治して、清隆くんに会いたい。今はあの無表情がひどく恋しかった。

 

 いつもと変わらない日々の証明が欲しかった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 悲報。清隆くんと心の距離が空いた。あんなに懐いてくれていたのに。あんなに自由時間二人でくっついていたのに!

 久々に! って使った気がするな。私思ったよりこの白い地獄に精神やられていたのかもしれない。大丈夫、私がホワイトルーム出身者=サイコパスの式を崩すっていう目標は諦めてないから。その前段階で心折れそうになってるけど。

 

 顔を上げずに彼の様子を確認する。私と対面する形で壁にもたれており、一切視線は寄越してこない。その無言の拒絶っぷりに心が折れた。気合いで折り返して修復した。

 なるほど、なるほど。物知り顔でふんふん頷く。

 なんとなく読めてきたぞ。私がズタボロになった姿をテストと称して見せられた日から数十日。回復して一人で歩けるようになってまたこの部屋に無事戻って来れたが、どうやら清隆くんはその数十日の間で独り立ちをしたらしい。あんなに私の後をついて歩いていたのに、食事のときだって後ろをついて来ていたのに、今はさっさと先に行かれる。二人しかいないから今度は私が追いかけてるみたいになってる。

 長年染み付いていた刷り込みから解き放たれて、一人で自由に行動できるようになったんだね……あれ……嬉しいことのはずなのに涙が……。

 下を向いていじいじと指先を弄った。本当は今すぐにでも清隆くんに縋りつきたい欲はある。そもそも最初から私の体当たりアタックで関係が始まったのだ、もう一回繰り返してもおかしなことではないと思う。でも、……彼の選択を尊重したいとも思うから、行動に起こせない。

 このまま薄れて、途切れるのだろうか、とぼんやり考える。

 ……いや……“これ”こそ、記憶通り、か。

 

 胸がじくりと痛む。寂しいと思う感情を抑え込む。体育座りで膝の間に頭を埋めた。情けない話だけど、少しだけ涙がこぼれてしまった。

 

 どうやら私もこの異常な空間で、気付かぬうちに随分と心が弱くなっていたらしい。彼を支えてあげるなんて驕った考えだ。私がずっと彼に縋っていたのだ。私が彼にしがみついていたくせに。

 

 

 どうにもこうにも、救えないなぁ。瞼を閉じて、薄暗い世界に一人閉じこもった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 白い地獄の一年の停止。私と清隆くんは停止中に別荘に連れてこられ、そこで執事の松雄さんと共に待機を命じられた。

 ついにこの時が来たと思った。そしてようやく私が温めてきた策が日の目を見る時が来たのだ。

 

「清隆くん」

 

 私の呼びかけにピク、と彼の肩が反応する。こうして声をかけるのも随分久しぶりのことだった。話さないまま何年経っただろう。もう覚えていないや。

 与えられたそれぞれの個室。清隆くんの部屋の扉を無遠慮に開け、中に入ることなく言いたいことを伝える。

 

「私はこれからいろいろ行動する。不審に思うこともあるかもしれない。でも、邪魔だけはしないでほしい」

 

 それだけだから、と言いたいことだけ言って部屋から去る。自分勝手が天元突破していることはわかっている。でも今の間じゃないとできない。

 することは決まっている。成功材料もコツコツと集めていき、準備は既に整っていた。後は緻密に、精密に事を行なっていくだけだ。

 人事を尽くして天命を待つ。なのだよ!

 

 

 まずは執事の松雄さんを変えることから。これは簡単だ、適当に文句をつけてダメ出しして、新しい人がいいと要望を出せばいいだけ。かなり面倒くさい文句を言っている私を静かに見ている目はあったが、最初にお願いした通り清隆くんは邪魔をしないでくれている。今はそれだけでありがたい。

 松雄さんからあっさりと変わり後任となった執事……も文句をつけ変更。これは周囲が松雄さんにだけ注意を向けないようにするためだ。私の目的が松雄さんを私たちのそばから遠ざけることにあったということに気づかれないようにするため。念には念を入れていきたい。

 何かと文句をつけ執事変更を繰り返すこと2桁に迫る頃、ついにちょうどいい人物がやってきた。最後の執事は小悪党気質の男だった。私たちに充てられた資金をちょろまかして私腹を肥やしたりするタイプの小悪党である。採用です、おめでとうございます。

 この執事は望んだ通りご立派に役目を果たしてくれたので、そのおかげで私たちの食事など含む生活は少し質素になってしまった。が、ピンチはチャンスだ。再度清隆くんの部屋に突撃し改めてそのことについて謝りつつ、少しの間だけ我慢するようにお願いして部屋を後にした。言いたいことだけ言って去るスタイルが身に付いている。

 

 私のやりたいことの一つに松雄さんを救いたいというのがあった。松雄さんは報われるべき善人だ。彼を生かさずして私が此処にいる意味は万が一にでもあるのか。エゴだとわかっている。でもどうしても救ってあげたかったのだ。松雄さんは清隆くんの恩人だから。今の彼には身に覚えがないだろうけど、それでもいいから感謝を示したかった。

 傲慢さは反省して萎むどころかむしろ余計に膨らんでばかりいる。私らしくていいじゃないか。私はエゴと傲慢を愛する人間だ。なれば、エゴと傲慢も私を愛しているはずである。つまり相思相愛だ。誰にも私たちの間に入り込めないんだからぁ!

 という冗談はさておき、着々と準備を進めていく。幼い頃一度訪れた人物の携帯番号を思い出しながら電話をかけた。もちろん足跡がつかないよう受話器には細工済みだ。電話が繋がり単刀直入に要件を告げる。

 

 

「ホワイトルーム生を秘密裏に貴校に迎え入れていただけませんか」

 

 

 坂柳理事長。

 

 

 電話の向こうで息を呑んだ気配がする。私はうっそりと口元に笑みを刻んだ。

 

 

 

 

 よぉしこのままスピーディーに高度育成高等学校まで直進するよぉ! みんな遅れるなよ! みんなっていうかまあ私含めて二人しかいないんだけど!

 



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第一章
決意は祈り、祈りは決意


 紆余曲折というほどの紆余曲折はなく、協力者である坂柳理事長と私の計画・手筈通りに事態は進行していった。裏でこそこそやって表で小悪党執事を受け流しつつ生活していたら、あっという間に一年経っていた。つまり季節は春。春といえば入学シーズン。

 つまり桜の花びらが舞う今日この日、僕たち(清隆くん)私たち(私)はようやくスタートラインに立ったのだ。

 記憶の在処。これは物語の冒頭、始まりの部分である。

 

 

 私と清隆くんは今日、高度育成高等学校に入学する。

 

 

 指定されたバスに乗り込んで空いていた座席に座る。私と清隆くんの座席は当然のように離れている。結局距離は変わらないままだった。今さら縮めようとも思わない。

 車窓から流れていく景色を眺める。瞼を閉じた。微睡んで見た夢の中で、幼い私たちが手を繋いで微睡んでいる。胡蝶の夢という言葉が頭によぎった。

 夢の中の彼らが安らかであること。なら、それで充分だと思う。

 

 

 ───目標は達成した。それは高度育成高等学校に入学すること。其処に私まで入学するのはたった一つの想定外だったのだが、坂柳理事長のご厚意なのだろう。ありがたく享受しておく。

 目標は達成し、また新たに目標が生まれる。今度は束の間の自由としないこと。3年間だけの期限付きの自由にしないこと、だ。そのために私は計画を立て直す必要がある。

 内側から崩すのも一つの手だと思っているが、これは最終手段だ。今はまだ考えなくていい。

 

 ……考えたくない、と、平和ボケしそうな安らかな景色を瞳に映しながら思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 案の定バスから降りた清隆くんが黒髪美少女に捕まり、何か絡まれている。原作通りバスの中で見たり見られたりしたんだろう。うむ、苦しゅうない! 原作ファンだからやっぱり原作にある内容をリアルで見たらテンション上がっちゃうね。外の平和っぷりに私の精神まで引きずられて平和ボケしてしまっているのもあるかもしれないが。

 清隆くんもきっと内心はっちゃけていることだろう。はっちゃけているに決まっている。やっぱりホワイトルームから抜け出せたらついはっちゃけちゃうよね。私原作の初期清隆くんめっちゃ好きだったよ、心の中が終始愉快で面白かったから。だから今美少女に絡まれてる清隆くんの内心を予想してめちゃくちゃ楽しんでるよ。

 表面上涼しい顔をしながら内心ニコニコ彼らを見守っていると、ふと黒髪美少女───堀北さんと目が合う。強気に釣り上がった眉が目が合うことで余計に反りを作る。

 

「何かしら、こちらをじっと見て。言いたいことでも?」

「あ、いえ……」

 

 いやこの眼力を前にしたら言葉窄みになっちゃう感覚わかっちゃったな…。睨まれてしゅんとなれば、少しだけ堀北さんがバツが悪そうな顔をした。

 

「……別に、用がないなら構わないわ」

「あ、はい!」

 

 諸君、知っているか。会話の初めに必ず「あ」をつける奴はみな等しくコミュ症なんだぜ。つまり私は……ゾッとしないお話である。

 ちょうど堀北さんと清隆くんの会話も終わっていたのか、堀北さんは私たちを置いてさっさと校門を目指し立ち去っていく。その後ろ姿を『さすが堀北さんェ……』という感じで見ていると、視線を感じた。顔を向ければ清隆くんが私を見ている。視線が交わる前にスッと前を向かれ、堀北さんに続くように歩いて行ってしまった。

 追いかけることはしないが、目的地は一緒なためどうしても追いかける形になってしまう。歩幅を小さくして、少しずつ距離を空けた。寂しいけれど、仕方のないことだ。

 願わくば彼の高校生活が順風満帆であること。今まですべてを覆す色に溢れた生活を、好奇心に満ちた日々を過ごしてほしいと思う。隣に私がいないことが上記の条件に必須ならば、私は大人しく彼の前に出ないよう過ごすだけだ。どんなに冷たくされても私が彼を好きなことに変わりはないのだから。

 

 

 

 

 案の定のDクラス。張り出されたクラス表を見てげんなりしてしまうのは否定できない。茶柱先生が一番野心がなさそうに見えたから、という理由で原作では清隆くんはDクラスに配属されたのだ。そりゃあ私もDクラスになるに決まっている。

 すごすごとDクラスの教室を目指して行く。中に入って行く生徒たちに続き、私も教室に入った。

 机の上にあるネームプレートを一枚一枚確認していく。私の席は……廊下側から2番目の列、前から2番目の席、か。なかなか運が悪い席と言えよう。

 嘆いていても仕方がないので、鞄を机の横に引っ掛け、大人しく席に着いた。教室に人が増えて行くのを何をするでもなくぼーっと見守る。友達を作らないとと思う気持ちはあるのだが、まあ焦って行動することもない。というか、あれだな……たぶん読者の目線でいるんだろうな。だからどうにも自ら行動を起こす気になれない。もうなんか教室で埋もれる影の者になれればいいと思う。よしそれ目標で行こう。

 大分ハードルが下がった目標を掲げることを誓った矢先、ガラガラと教室のドアが開いた。Dクラスの担任、茶柱先生満を辞しての登場である。

 

「えー新入生諸君。私はDクラスを担当することになった茶柱佐枝だ」

 

 おおおお、原作とおんなじセリフだ。なんか本当に本の中の世界なんだなって感動してしまう。実際本の中のような生活をしていたのだが、あの頃はそういうふわふわした思考をする余裕がなかった。今、私、すごく楽しい。

 感動で内心打ち震えている私を置いて先生の話は進んでいく。Sシステムの説明を終え、ぐるりと生徒を見渡している途中。

 張本人だからか、わかってしまう。私と清隆くんがいるのであろう窓際後ろの方の席への不自然な視線の投げかけ。目は合わないが、それが何よりおかしな話だ。シンプルに巻き込まれたくないな、とは思う。

 清隆くんは世界の強制力とかなんかそういう不思議なアレで巻き込まれていくのだろうが、私はノープロブレムじゃないだろうか? そんなに心配しなくても良い気がしてきたな。

 ぽや〜っと明後日の方向を向いて頭お花畑になっていると、かの有名な言葉が聞こえてきた。なお茶柱先生はとっくに教室を退散している。故にここでの有名な言葉とは決まっており、有名な人もまた然り。

 

「皆、少し話を聞いて貰ってもいいかな?」

 

 キタァァァ! キャーッ!(黄色い悲鳴)

 

 目をキラキラさせて声の聞こえた方を向く。ひひひ平田くん……! カッコいいと思ってたし知ってたけど実際に見ると本当にカッコいい……。

 イケメン鑑賞に勤しんでいるうちにクラス皆が自己紹介に着く流れになっている。もちろん平田くんの自己紹介は耳をダンボにして聞いた。イケメンはイケメンたる理由があるんだなって察する内容だった。にしてもイケメンだな……。

 平田くん以外でも耳をダンボにして聞いている。櫛田さんや池、山内、高円寺くん、それに軽井沢さんも……! 知っている人物がいることにとても興奮する。本当に私、本の中にいるんだ。本の中でもメインの人たちがいて、話しているのを聞いている。不思議な感じだ。すごく楽しい。

 清隆くんのある意味有名なコミュ症を抜群に発揮した自己紹介も聞くことができた。聞いている最中テンションMAXである。終わった後は平田くんに続いて拍手をして、微力ながら慰めた。心の内では供給に感謝していた。矛盾がひどい。

 ニコニコみんなの自己紹介を聞いていると、平田くんがぐるりと教室を見回して、数名残っている生徒を見やる。私を見て視線を止めた。……そうか。もう私の番か。 

 席から立ち上がって、努めて穏やかに微笑み短く挨拶をする。あまり誰の印象にも残らないように意図しつつ、あくまで自然に。

 

「私は水元葵です。自分から話すことが得意じゃないので、たくさん話しかけてもらえると嬉しいです。クラスに早く馴染めるように頑張ります」

 

 ぺこ、と頭を下げて席に座る。

 

「うん。よろしく、水元さん」

 

 平田くんがそう言葉をかけてくれて、そのあと女の子からも男の子からも軽めに「よろしくー」と声をかけられた。ニコニコ微笑んで頷いた。出だしは好調である。後は気配を消してみんなの記憶からフェードアウトしていくだけだ。

 

 教室に残っていた人たちの分の自己紹介は終え、みんな帰路につく流れになる。私も流れに乗って教室を出ようとして、ある声を拾った。

 

「平田くん! ねぇねぇ、今からカラオケ行かない?」

「もちろん、いいよ。せっかくならみんなで行こうか」

「ほんと!? やったー!」

 

 平田くんの生歌、だと……!?

 

 ここを逃しては男が廃る。間違えた、女が廃る。

 出て行こうとしていた教室に逆戻りし、後はさらっとグループの輪に入ってカラオケについていった。生歌はすごかった。私言ってなかったけど、平田くん好きなんだよね……いいよね平田くん。好きだよ。平田くんを嫌いな人いないよ。池とか山内は……いいんだよ。いないよ。誰?

 櫛田さんや軽井沢さんの生歌も聞けて、今日は素晴らしい日だった。そして人の生歌を聞くだけ聞いてうまいことフェードアウトしてみんなで帰った。私もしかしたら幻のシックスマンの才能があるのかもしれない。いや、もしかして幻のシックスマンは私だった……?

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 カラオケを同行していた人たちと別れ、寮に着く。さっそく中に入って電気をつけ、内装を確認していく。監視カメラは……くまなく探したがどうやら無さそうだ。そりゃプライバシーの問題に関わるんだから当然か。

 制服を着替えるのも忘れ、まだ何も敷いていない床に直に座って一息ついた。やっぱり人に会うのは疲れるな。ホワイトルームにいた頃はほとんどずっと二人きりだったし、それもいつしか二人でいるのに一人きりみたいな空気になっていた。だから大勢といると少し気疲れしてしまう。

 慣れないとな、とため息をつきながら思う。瞳を閉じて、疲れている目を休めた。

 

 

 ───唐突に無機質な機械の音が部屋に響き渡る。

 それは寝ていても飛び起きてしまうくらい神経を刺激する、否が応でも鼓膜を震えさせる、いわば不快音に近い。

 

 

 ………チャイムの音、だよね?

 

 静寂を無惨に裂いた音に瞼を開ける。音のおかげで頭が冴えたが、しかし起き上がるのは億劫なままだ。時計を見て、午後7時を指す針にまだそんなに遅い時間ではないことを確認する。

 なら、無視をするのは悪いか。制服を着ているから部屋着を見られるわけでもない。そうだ、楽な部屋着も買いに行かないとな……。

 今後の予定を客を待たせつつ組み立て、ついでに立ち上がって玄関に向かう。入学初日なのだ、部屋に訪ねてくるのは十中八九業者の類だろうと当たりをつける。水道管とかトラブルでもあったんだろうか。

 

「はいはーい。少しお待ちくださーい」

 

 インターホンで訪れた人の顔を確認するでもなく、玄関の覗き穴で見ることもなく。

 無防備に、無警戒に扉を開けた。どうせ無防備だろうと無警戒だろうと、一般人に遅れを取るつもりはない。これは慢心ではない。事実であり、普遍の現実なのである。

 

 

 だってまさか、玄関の前に立つのが数少ない私が敵わない相手だとは思いもしまい。

 

 

 思わずえっと声が出た。目を見開いて、扉を開けた間抜けな姿勢で固まる。随分久しぶりに間近で顔を突き合わせた気がする。視線だってそうだ。

 交じわる視線に、その引力のある目に途端顔を逸らしたくなってしまう。逸らされていたのは私だったのに。ここでも立場が逆転しているのか。

 無意味な音が口からこぼれ出る。あー、と声を出した。

 

「……清隆くん……あの、その」

「中に入れてくれないか」

 

 言葉が思いつかなくて言い淀む私を半ば遮るようにそうお願いされる。言葉が頭の中で反芻された。清隆くんを、部屋の中に、入れる。

 困惑して、眉を下げて清隆くんを見上げる。こうやって並んで立てば、いつのまにか身長差もこんなにできていたのか。なんだか知らない人みたいだ。そう思ったことに可笑しくなって、そのおかげで緊張が緩んだ。

 そうだ。清隆くん相手に何を不安になる必要がある。なんならこの世で一番安全な存在だろう、清隆くんは。断る理由がない。

 

 素直にうん、と頷いて扉を大きく開け、中に入れるようにする。清隆くんが私に代わり扉を閉めてくれた。続け様にガチャンと鍵も閉める。……鍵も閉める……?

 あれ? と思って見上げる瞬間には私はキツく抱き竦められていた。今度は囲われた腕の中で目を白黒させる。

 

「葵。葵。ようやく二人になれた。今度はちゃんと二人きりだ」

「えっ?」

 

 爪先が宙に浮かぶ。加減も覚束ないほどに抱き締められ、抱き付かれて、頭が混乱したまま戻ってこない。清隆くんも私を抱き締めるのに必死なのか、この状況のヒントとなる言葉をそれ以上何も落としてくれない。

 現状把握には圧倒的な情報不足だ。戸惑いながらも、けれど、久しぶりの彼との触れ合いが嬉しいことに変わりはなかった。ちょっと強引だし力任せだとは思うけど……。

 そろそろと清隆くんの背中に腕を回した。ぎゅっと抱きしめて、腰の太さの違いに驚かされる。あれ。どうしてこんなに違いが出るんだろうか。これが男と女の違いか? 努力するのが馬鹿馬鹿しくなってくるな……。

 

 しばらく清隆くんの好きにさせていたのだが、あまりに微動だにしてくれなくて結局私が折れることになる。ちょいちょいと彼が着ている制服の裾を引っ張った。無理矢理腕の中で顔を上げ、視線を合わせる。ひどい顔をしているなと思った。顔面蒼白で、でも瞳が何よりも輝いている。恍惚と潤んでいる。

 

「清隆くん、ずっと玄関でいるのもあれでしょ。靴脱いで、中に入ろうよ」

 

 先に部屋に上がり、誘導して清隆くんを連れて行く。というより、手を繋がれているから連れて行くという表現ほどこの状況に当てはまるものがない。

 清隆くんは部屋を見渡すわけでもなく、終始私をジーッと見ていた。なんだか懐かしい視線だ。少し照れくさくなって、口元を緩めて下手くそに笑った。

 

「あはは……清隆くんのその視線、久しぶりで少し照れちゃうな」

 

 照れてそう口にする私を華麗に放って、部屋の中でまた抱き締められる。今度は新しく抱き癖でもついたんだろうか。矯正してもう少し優しく抱けるようにさせないといけない。

 思考が斜め上方向にクラウチングスタートを切ったのを察知し、慌てて軌道修正に走る。清隆くんの胸に両手を当て、距離を取ろうと腕を伸ばした。ビクともしないどころか僅かに空いた隙間を嫌がって余計にキツく抱き締められる。

 

「こ、こら……! 一回離して、落ち着いて話ができないでしょ!」

「このままでも話はできる」

「立ったままだと落ち着かないよ!」

「なら、座っているならいいんだな」

 

 言うが早いか今度は清隆くんが先導して部屋を進んだ。勘違いしないでほしい、ここは私の部屋だよ。

 ベッドを背もたれに清隆くんが胡座をかいて床に座って、私は清隆くんの足の上に向かい合わせになって座らされた。これ、立って抱き締め合ってる方がまだマシな恥ずかしさなんじゃないか?

 胸元少し下あたりまで伸びている私の髪を清隆くんが指で弄っている。清隆くんよりも黒に近い茶髪は世間一般で言えばごくありふれた色と言えよう。そんな髪を清隆くんは大事そうに触れてくるから、どうしてもムズムズしてしまう。久しぶりだからか、照れが先に来てしまう。髪を指先で弄りながら、もう片方の彼の腕ががっちり私の腰に回って抱き寄せてきているのもあるだろう。距離感狂ってない? 大丈夫?

 

 文句を言っても離してくれそうにない力の強さをひしひしと感じるので、諦めてこの体勢で話を始めることにする。諦めも肝心なのだ。

 清隆くんの髪を久しぶりに手櫛で梳きながら、疑問に思うことを問いただすために口を開く。

 

「そもそもだよ。清隆くん、前まで……今日、今、直前までだよ。私にすごく塩対応だったじゃん。なのにどうしてこんな急に関わり持とうとしたの?」

「今までは監視の目があった。オレが葵と親しくしていることで、葵が体よく利用されることに気づいたから、苦渋の決断で距離を取った。今はその反動が来ている」

「反動かぁ……」

「ああ」

 

 至極真面目に頷かれて思わず脱力してしまう。げんなりした表情を隠せない私に構わず、清隆くんはマイペースに髪を弄っている。気が抜けるというか、毒気が抜けるというか…。

 

「にしても、清隆くんが私にまったく関心を寄せなくなってもう何年も経ってるんだよ……こんな反動くるくらい、よく我慢できたね」

「……葵が、いるなら……それでよかったんだ。五体満足ならそれで……よかった」

 

 腰に回る腕がぎゅっと締まる。結局ゼロ距離になって、清隆くんの頭が私の頭とくっつく。側頭部をすり、と擦り付けられた。ホワイトルーム時代でもこんなにくっついたことはなかったぞ。我慢していたとはいえ、タガが外れすぎじゃないだろうか。

 拍子抜けするくらい昔と変わらない……いやちょっとかなり甘えたになっているっぽい清隆くんに、これはこれで可愛いかもな、なんて清隆くんの態度に負けない激甘な顔をする。

 私からも抱きついて、私を包み込む大きな体を優しく撫でてやる。

 

 

「昔の距離に戻れて、私も嬉しい。本当はずっと……寂しかった」

 

 

 ポツリ。こぼれた声があまりにも泣きそうに聞こえて、自分のことなのに驚いて肩が震えた。

 清隆くんは何も言わず、抱き締める腕の力を強めた。まるでそれが返事のようだ、と思って、実際そうなんだろう。清隆くんらしい優しい返事だと思った。

 お互いの鼓動が重なる。呼吸の音に安堵する。私たちは昔、こうやってお互いの無事を確認していた。生を感じていた。昔みたいに戻れたことがこんなに嬉しいなんて思いもしなかった。

 まるでこのまま眠ってしまいそうな安心感の中、ぽつり、ぽつりと今まで空いていた隙間を埋めるように言葉を交わす。過去のことじゃない、私たちの未来についての話だ。けれどそんなに先の見えない未来じゃない。平凡を望んできた私たちにピッタリの、なんとも気の抜ける未来の話。愛おしいこれからの話。

 

「私、映画見に行きたいんだ。カフェとかにも行きたい。他にもいろんなところに行きたい」

「オレもだ。いろんなところを見て回りたい。きっと、絶対、楽しいだろうと思う」

「うん、うん。私も思う。きっと、絶対、楽しいよ。楽しいだろうなぁ」

 

 私たちが“普通”の話をしている。それが泣きたいほど嬉しい。泣いてしまいそうなほど、心が震えた。

 項に清隆くんの息遣いを感じる。ぎこちないそれに、こんなところでもおんなじだなぁ、と泣き笑いの顔をした。

 

「でも……それにはまず、“平凡”を装わないとね」

「ああ。“普通”を楽しむには、“平凡”を装わなければならない。誰にも……邪魔はさせない」

 

 暗く深い声だ。私も似たような声で話をしているんだろう。

 それはホワイトルームで生き延びた以上必然であり、そして必要なことだった。

 私の中には傍観者の私と当事者の私、二人がいる。どちらも私であり、どちらも含めて私だ。私は私の悔いがないよう生きていくだけ。どっちも私なら、どっちも有しているのなら、二人分の楽しみがあるとは考えられやしないか?

 私は存外、いや、かなりポジティブなのだ。

 

 口元に笑みを浮かべる。一度思い切り清隆くんを抱き締めた。突然の力任せな抱擁に清隆くんが「うおっ」と真抜けな声を出して、反対に私を抱き締める腕を緩める。

 私はこの高校生活を有意義なものにしたい。そのためには彼の存在は必要不可欠なのだ。当事者としてはもちろん、それは───傍観者としても!

 

 パッと勢いよく体を離す。清隆くんの両手を取りそれぞれでぎゅっと繋いで、間近で顔を合わせて笑う。額が重なり、鼻先が触れる。

 

「学校生活、楽しみだね! 清隆くん!」

 

 弾けるように笑った私を呆気に取られた顔をして数秒見つめて、つられるように清隆くんがふにゃと笑った。

 

「……ああ。本当に……」

 

 頭の上で交じった髪がくしゃと音を立てる。清隆くんの茶髪とそれよりも濃い焦茶色の髪が絡まる。

 本当に楽しみだ。瞳を閉じて改めて深くそう思う。

 

 私よりも一回り大きく節張った手を、大事に握った。知っていて思うこととしては滑稽なことだろうが、それでも祈らせてほしい。

 どうかあなたの未来が幸せに溢れるものであるように。

 

 

 ───あなたの物語を私に見せて。

 

 

 傍観者、或いは観測者としての私の願いだ。

 

 

 

 

 

 

 




つまり綾小路は攻略済みヒロインで確定ってこと
ヒロインは綾小路(ヒロインは綾小路)


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友情のち部活動

 入学式を経て学校生活二日目の今日、授業初日ということもあり授業の大半は勉強方針等の説明だけだった。確かにそんな感じだった気がする。

 私は今世のことは事細かく記憶を有しているが、原作を知っている前世については部分部分あやふやだったりするのだ。そりゃ意識の仕方も違うしそもそも元の能力値からして違うのだ、当然のことだろうと思う。

 前の方の席というのもあり、変な態度は取れない。これは後ろの席だったら授業を真面目に受けないという意味ではなく、背後からの視線が少なくなるから気を緩めて授業を受けられるという意味である。私は元来コミュ症なのだ。そういう意味では早く席替えがしたいものだ。

 

 ぼーっと話を聞いている間に午前の授業を終え、時刻は昼を指している。昼食の時間だ。生徒たちが思い思いに教室を出て行く。私も大好きな小説の中の世界、聖地巡り気分で学校探検をしたいのもあり、教室を出て行く生徒たちを追うようにして立ち上がった。

 教室を数歩進んだすぐ後に後ろから声をかけられる。

 

「葵」

「ん?」

 

 パタパタとこっちに向かってくる清隆くんが、追いついて、自然に私の手を取った。

 

「昼ごはん食べに行くんだろう? オレも行く」

「え……あ、うん。いいけど……」

 

 完全にお一人様気分だったため、出鼻を挫かれて変な返事になってしまう。清隆くんは気にせず私を見ていた。

 

「どこに行くんだ?」

「あ、うん。とりあえず食堂行ってみようか?」

「わかった」

 

 本当はコンビニでおにぎりでも買って、あとは校内を見て回る予定だったのだが、それはまた別の機会でも構わない。清隆くんも楽しみにしている“普通の”学校生活だ、私の勝手な聖地巡りに付き合わせるのは申し訳ない気持ちがある。

 二人で歩き出して廊下を曲がってすぐ、後ろから「あの!」と可憐な声がかかった。コミュ症二人、自分たちが声をかけられたなんて微塵も思わずのんびり食堂に向かっていく。と、私たちの腕が同じく可憐な手に掴まれた。

 

「あの、無視しないでくれないかな……?」

 

 えっ。桔梗氏? 私の腕を掴んでいるのは櫛田桔梗氏?

 大きな愛らしい瞳を若干潤ませて、眉を下げて怒ったような困ったような顔をした櫛田さんが私たちを上目遣いに見ている。「はわ……」という謎の言語が口から出た。可愛い。ヒロインってこんなに可愛くていいの……?

 清隆くんが謎に固まっている私をチラと見てから、櫛田さんに視線を移す。知っている無気力な声で「なんだ?」と端的に用件を尋ねた。

 櫛田さんは歩くのを止めた私たちを確認してから掴んでいた手を離す。背中で手を組んで少し俯き加減になって、前髪の隙間から覗くように私たちを見つめた。そのあざとさに百点満点を与えたい。

 

「えっとね……あ、えと、綾小路くんと、水元さん……だよね?」

「おう」

 

 清隆くんが沈黙している私の脇腹あたりを軽く肘でつついた。ハッと意識を取り戻して清隆くんと同じように返事をする。

 

「うん、そうだよ。どうかした?」

「私、同じクラスの櫛田だよ。覚えてくれてるかな?」

 

 もちろんです。

 

「もちろんだよ。こんな可愛い子、忘れられないって」

「そんな、可愛いなんて……えへへ、ありがとう。水元さんの方こそ可愛いよ」

 

 今、私、あの櫛田さんと女子トークしてる……! 女子特有の褒め褒め女子トークしてる! テンション上がってしまう。

 別に本心からそう言われているわけではないことは分かっているのだが、どうしても照れくさくなってしまう。にゃは……と変な顔をして笑った。

 照れて使い物にならなくなった私に代わって清隆くんが再度用件を尋ねる。

 

「オレたちに何か用か?」

「あ、うん。実は相談があって……」

 

 言葉が尻すぼみになっていく。櫛田さんの視線は下にあった。ジーッと見つめてから、細い指先がある箇所を指す。

 

「……二人って、随分仲が良いんだね?」

「え?」

 

 指先を追うように視線を下げる。指差されている箇所を確認し、「……あ、あ〜〜」と納得の声をあげた。納得の声をあげながら、指と指の隙間を埋めて繋いでいた手を軽く振ってその反動で離した。清隆くんがチラと私を見て、大人しく離されたままになってくれる。

 

 ヤベェ。ナチュラルにされすぎてナチュラルに受け入れていたな。

 

 穴があったら入りたい。むしろ自分から掘って入りたい。今から穴掘りに中庭にでも行こうかな……中庭あるかな……。

 微妙に現実逃避し始めた私と清隆くんの顔を交互に見比べて、櫛田さんが一度うんと頷いた。パチンと可愛らしくウインクしてくれる。

 

「わかった。秘密、だね?」

「違う違う違う違う」

 

 とんでもない勘違いの予感に慌てて弁明の声を上げる。

 

「私と清隆くんは……幼馴染なんだよ。だから櫛田さんが思ってるような関係じゃないから」

「? そうなの……?」

「そうなの」

 

 力強く肯定する。訝しんでいる櫛田さんにこれ以上つつかれてボロを出さないよう、今度は私から用件を尋ねる。

 

「それで、なんだっけ。相談があるんだよね?」

「あ、うん! 聞いてくれる?」

「うん、いいよ」

 

 櫛田さんもようやく本当の目的を思い出して、私たちの方にずいと体を寄せてきた。

 

「少し聞きたいことがあって……その、ちょっとしたことなんだけど綾小路くんって、もしかして堀北さんと仲がいいの? ……あ、ごめんね水元さん。これはそういう意味じゃなくて」

「あ、あ〜〜大丈夫大丈夫。全然私のことは気にしないで。あと私たちは櫛田さんが思ってるような関係じゃないから」

 

 会話をしながらだんだん思い出してきた。それは堀北さんの苗字を聞いて完全に思い出すことになる。そうだ、これはイベントだ。

 原作ってこんなに早くから櫛田さんから声をかけに来ていたんだな…。

 私に関係ない話であることは間違いないので、ボーッとして時が経ち悩み事相談が終わるのを待つことにする。その間目の前の美少女をぼんやり見つめて人知れず内心でテンションをあげていた。

 

 清隆くんと櫛田さんが握手をする。ここでようやく会話が終盤を迎えていることに気づく。

 今度は私に差し出された手を、スカートの裾で手を拭いてから握った。

 

「二人とも、おんなじことしてるよ……別に気にしなくてもいいのに」

 

 櫛田さんが困ったように、そしておかしそうに笑う。そりゃ可愛い子を前にしたら手を拭くでしょうよ、と思いつつ口にしたら引かれるので口にしない。

 

「改めてよろしくね、水元さん」

「よろしくね、櫛田さん」

 

 可愛らしく手を振って櫛田さんが私たちの元から離れて行く。

 同じように振り返していた手を下ろせば、その手がその後またナチュラルに取られる。さっきと同じ要領で軽く振って離す。

 

「手はもう繋がないよ。ほら、食堂行こう!」

 

 清隆くんがジッと私を見ていることには気づいていたが、構わず先を行く。歩幅の違いかすぐに隣に並ばれて、その後は二人でのんびり食堂に向かった。

 やっぱり聖地巡りをするならそれ相応の食事もしないとね! と私は初っ端から生き急いで山菜定食を頼んだ。なるほど、確かに……山菜だな。

 そのまんまの感想を思い浮かべて仏の顔をしている横でチキン南蛮定食を食べている清隆くんが私のお皿から一つ山菜を取り、その代わり一切れチキン南蛮をくれた。大変美味でした。

 

 チキン南蛮の美味しさに感動している私の横で山菜を口にしうっという顔でゆっくり咀嚼している清隆くんというちぐはぐコンビで食事を終えて人心地ついていると、食堂に設置されているスピーカーから音楽が流れてきた。

 

『本日、午後5時より、第一体育館の方にて、部活動の説明会を開催いたします。部活動に興味のある生徒は、第一体育館の方に集合してください。繰り返します、本日───』

 

 部活動。その言葉にある部活が頭の中に過ぎって、少しの間逡巡する。

 清隆くんが私を見て、尋ねてくる。

 

「葵は部活に入るのか?」

「んっと……う〜ん……」

 

 どうしよう。悩むな。

 別に入らなくてもいいけど、入ってもいい。このどっちつかずな感情をどっちかにすることから始めたい。

 

「正直、悩んでるかな……」

 

 頭を掻き、困った顔をして笑う。清隆くんはジッと私を見ている。

 机の下で繋いでいた手に時々力を入れながら悩む。無意識の行動だ。思考をしている間指弄りをしてしまう私は、どうやら手を繋いでいる場合は相手の手を握っては緩めるという行動を取るらしい。

 机の下でそんなことになっているとは一ミリも気づかない私に、清隆くんが隣で声をかける。

 

「葵のしたいことをすればいい。オレは応援する」

「うん……ありがとう、清隆くん」

 

 背中を押された気分だ。少しだけやる気が出る。

 ……そうだ。一度きりの高校生活。したいことをしたってバチは当たらないし、なんなら今まで頑張ってきた分好きなことをして気持ちを昇華すればいい。

 俄然やる気が出てきた。今度は力強く頷いた。

 

「……入るよ。私、入りたい部活がある」

「そうか。頑張れ、葵」

 

 勇ましく宣言する私に清隆くんが早速応援の声をかけてくれる。優しく握ってくれる手がありがたかった。……でもあれ、もう私手を握らないって直前で言わなかったっけ?

 振り解こうとするも、思い直して握ったままにする。手のひらから伝わる温もりを離れがたく思った。私がこう思うのを見越して繋いでいるとしたら、清隆くんはとんだ策士だ。

 しかし私の話ばかりで、清隆くんの話は聞いていない。それに気づき、顔を上げて今度はこっちから尋ねる。

 

「清隆くんは? 何か部活入るの?」

「いや、オレは……」

 

 逡巡するように視線を下げ、私を見て、緩く首を振った。

 

「オレは別にいい。たまに葵が入っている部活を見に行くさ」

「え〜。清隆くんも何か入ったらいいのに。もったいない」

「あまり興味がないしな。こんな奴が入ってきても困るだろうし、申し訳ないだろ」

 

 そういう考えもあるか。それなら無理強いはできない。

 あと私が部活している姿を見に来たって、何も楽しくないと思うが…。

 と、ここで名案が浮かぶ。

 

「じゃあ、私と一緒に同じ部活入ればいいのでは!?」

「……いや。オレは葵の姿を見ているだけでいい」

「アレ!? なんで!?」

 

 部活見に来るくらいは興味あるんじゃないの!?

 即座にお断りされて思わず素っ頓狂な声を上げる。清隆くんに遠慮している様子が見られないからなおさらだ。

 最終的には清隆くんがそれでいいならいいけど……と渋々提案を取り下げることになった。名案だと思ったのにな。いや……原作でも彼は帰宅部だったか。なら、良いのかなぁ……。

 

「じゃあ、部活動説明会にも行かないの?」

「そうだな……一応、見に行くだけしておくか」 

「私も行く! 一緒に行こう!」

「ああ」

 

 放課後の予定が決まった。二人で顔を合わせ、楽しみだなぁと笑う。清隆くんも私を見つめて口角を緩めている。

 清隆くんの笑う顔は見ていてとても嬉しい。だからそれだけで嬉しくなって私はより一層笑みを深めてしまう。

 もうずっと、数年もの間見ていなかった表情だ。忘れるわけがない。変わらない、花が小さく綻ぶような笑い方が愛おしくて、繋いだ手が確かにあの頃から変わらない私たちを表しているようで、私はまた意味もなく笑っていた。

 

 

 

§

 

 

 

 放課後になり、教室から一緒に並んで第一体育館に向かう。私たちと同じ目的地を目指し同じ方向に向かっている生徒は見た限りではかなりいるように感じた。

 その流れに沿って生徒たちの後をついていくように歩き、体育館に到着。時計を見て、所定の時刻まであと5分弱であることを確認する。

 しばらく待っていると、上級生らしき人が舞台上に上がるのが見えた。

 

「一年生の皆さんお待たせしました。これより部活代表による入部説明会を始めます。私はこの説明会の司会を務めます、生徒会書記の橘と言います。よろしくお願いします」

 

 舞台で挨拶した……橘先輩? の横にズラッと部の代表者らしき人が並び出す。みんなそれぞれ部活動のユニフォームを着ているから、なんとも見がいのある光景だ。

 目的の部活動の説明が来るのを待っていると、なんと初めに挨拶した人がその目的の部活動の主将だった。少し身を乗り出す。

 ふんふん話を聞いている分に、そんなに予定を詰め込んで練習をするほど厳しくなく、わりかしみんな思い思いに緩くやっている部活っぽかった。その緩い部活感で心が決まる。

 

「私、あの部活に入るよ」

「あの部活って、弓道部か?」

「そう。私、ずっと弓道したかったんだ」

 

 弓を引く。離す。的に当たり、パンと空気を裂く音。あの爽快感をこの世界でも味わいたい。

 記憶にある弓道部での思い出を振り返って、少ししみじみとする。

 

「そうか。頑張れよ、葵。応援してる」

「うん!」

 

 温かい声援に気前よく返事をする。説明会が終わったら、さっそく入部受付に行かないと。

 

 目的を早々に終えてしまい、少し暇になってしまった。チラと隣を見れば清隆くんは静かに舞台上の説明を聞いている。あ、いや……視線が動いた? 誰か見ているみたいだ。

 どうしたんだろうと視線の先を追って誰がいるのか確認した後、なるほどと納得した。生徒に混じって堀北さんがいる。肝心の堀北さんはある一点をジッと見つめて固まっているみたいだ。さらに堀北さんの視線を追って……ビンゴ。堀北(兄)生徒会長が舞台袖でチラ見えしている。一方的ではあるが、兄妹感動の対面に違いない。

 そしてこの様子を見る感じ、原作通り清隆くんと堀北さんは仲を深めているようだ。よきかなよきかな。

 

 かの堀北(兄)生徒会長の有名な演説も聞き終え、部活動説明会はお開きとなった。清隆くんに一言断りを入れ、一人さっさと入部受付に行く。

 受付を経て弓道部に無事入部することができ、満足感とともに清隆くんのいる場所に戻る。と、清隆くんの近くには生徒が3人……まだこう呼ぶのは早いが、通称3バカが集まっていた。

 足を止め、しれっと方向転換をする。私、あの3人見る分には好きなんだけど、関わりを持つのはちょっとこう……遠慮願いたい。それも初期3バカだ。初期3バカはキツい。

 ごめんね、清隆くん……お先に……!

 心の中で親指を立て調子良くサムズアップをしておいた。もちろん涙を呑んで、だ。まさか満面の笑みだなんてそんな。

 

 

 

 

 そのあと普通にスーパーで捕まった。なんでこんなにピンポイントで見つけられたのか聞くと、どうやら相手の連絡先を知っているとGPSで相手の居場所を確認できるらしい。いや早いよそれに気づくのが。まだ先のことでしょうが。

 別に居場所を確認される程度気にすることじゃないので、あっさりと追及をやめて本来の買い物に戻る。

 今日私がスーパーにいるのは、今晩のご飯を作るためだ。それを聞いて清隆くんが「オレも食べたい」と言ってきたので、二人で買った材料を折半することになった。あとなんか作ってもらう気満々みたいだけど、私も今世一度も料理したことないからね。共同作業に決まってるでしょ??

 

 なおその後、二人でせっせと拵えたカレーは苦労した分とても美味しく感じました。

 次回は私がサラダ作るから、清隆くんは肉焼いて味付けするってことで話はついた。この場合どっちが楽なんだろうな。料理って奥が深いよね……。

 



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煌めけプールの回

 部屋を出て乗ったエレベーターから降りると、ロビーに置かれた椅子に座っている清隆くんがいる。私の姿に気づくと、軽く手を挙げた。

 

「葵、おはよう」

「おはよう、清隆くん」

 

 手を自然に取られ慣れたように繋げば、そのまま二人で歩き出す。もちろん意識なくそれを受け入れ、意識なく繋いだ手にそっと力を込めた。

 私の歩幅に合わせて清隆くんはゆっくり歩いてくれる。その紳士っぷりに脱帽だ。こういうところが男の、清隆くんのモテる要素なんだよ。

 

 なぜか私が満足気にうんうん頷きつつ、軽い世間話をしながら学校に向かう。この頃は私の部活の話ばっかりだ。弓を引くのがどれだけ楽しいかを熱弁して、清隆くんはうんうんと頷いていちいち相槌を打ってくれていた。たまに質問してくれるから楽しく会話ができている。私の話ばかりして申し訳ないところだ。でも清隆くんが聞き上手なのも悪いと思うよ。

 清隆くん、無表情がデフォルトで声にもほとんど抑揚がないけど、なんかこう不思議となんでも話したくなる雰囲気持ってるよな……なんでも受け入れてくれそうだからかな。いつかポロッと言ってはいけないことまでもらしてしまいそうで心配だ。

 学校に着き、同じ教室なのでそのまま二人で向かう。ガラッと扉を開けて入り、清隆くんと別れて自分の席につく。

 

 ……なぜか妙な視線を感じる。どこか上擦ったような、生温かい感じ? 好奇心とか興奮とか、そういう類の視線も感じる。

 

 戸惑っていると、一人の生徒が私の席に寄ってきた。あ、軽井沢さんだ。ポニーテールが可愛い。

 目の前のギャル系(偽)美少女に和んでいる私に、軽井沢さんがどこか赤い顔をして興奮した様子で尋ねてきた。

 

 

「み、水元さんって、綾小路くんとはどんな関係なの!? もしかして、付き合ってるの?」

 

「………………ゑ?」

 

 なんて?

 

「朝から二人恋人繋ぎして登校してきてさ、もうすっごく噂になってるよ! いや、昨日昼食とか部活動説明会でも手繋いでたから軽く噂にはなってたんだけど、でも、まだそれ見てた人が少なくってさ…だから今日の朝二人が恋人繋ぎで登校してきて、もうなんか光の速さ? で噂が広まって! 噂は知ってたんだけど、でも、どっか疑っちゃってたからさ。実際この目で見て本当だったんだって感動しちゃった〜」

 

 長い長い長いはやいはやいはやい。

 え? なんて?

 

 軽井沢さんがキラキラと目を輝かせて私に迫る。両手を取られ、ぎゅっと握られた。有名な美少女との握手なのに今は何も嬉しくない。

 ヒクヒクと口端を引き攣らせる私に気付いているのかいないのか、いや、これは確実に気づいていない。

 軽井沢さんの背後には同じように目をキラキラさせた女子たちが集っていた。

 

 

「綾小路くんと付き合った経緯、聞かせて〜!」

 

 

 恋バナをするときの女子の押しは強いし、話は聞いているようで聞いていない。それを身をもって体感した。

 

 

 清隆くんとは幼馴染なだけだと懇切丁寧に説明をしたが、本当に信じてくれたかは定かでない。必死に誤解を解こうとする私をみんなニヤニヤしながら見て、わかったわかったと軽い返事をした。何もわかってないだろ、ちゃんと人の話を聞け! 後生です聞いてください!

 そして私が女子に囲まれて質問攻めに合い誤解を解こうと苦しんでいる間、清隆くんは清隆くんで男子に囲まれてキッツイ詰問をされていたらしい。わかるのはお互いに苦労していたということだけだった。

 清隆くんも誤解を解こうと説明はしてくれたようだが、それも果たして信じてくれたかどうかは怪しいとのことだった。まあ側から見たら怪しい行動しかしてないからな……。

 手を繋いで登校するのはやめようか、と嘆息混じりに提案すれば、清隆くんは少しの間何も言わなかったけれど、ゆっくりと頷いた。寂しく思う気持ちは一緒だけど、周囲に誤解をさせたくはないから仕方のないことだ。

 清隆くんがいつか好きな人と結ばれるとき、私は清隆くんの邪魔になりたくない。だから私たちが距離を取るのも仕方のない話なのだと素直に受け入れてくれると嬉しい。こんな尽くし系彼女みたいな彼女でもないのに恥ずかしい思考をしていることなんて本人には絶対言えないが。だって恥ずかしいし。

 

 

 

 なおその後時間ギリギリに私の部屋から出て行く清隆くんとか清隆くんの部屋から一緒に登校する私たちとかを目撃されて噂の疑惑が深まったのは言うまでもない。

 おっかしいな、手を繋いで登校とかはあれ以来一度もしてないんだけどな……。

 それに清隆くんが時間ギリギリまで私の部屋にいたのは一緒にご飯作って食べていたからだし、私が清隆くんと一緒に朝部屋を出て登校していたのは常識的に考えてお泊まりしていたからである。何が問題あるというのだ。正当な権利だろう。お泊まりとか友達間で普通にするじゃん?

 ……という話を噂の真偽を確かめるためこれまた迫ってきた軽井沢さんたちにすると、すごい引き攣った顔をされた。なんで? おかしいことを説明するのも面倒くさいとまで言われぞろぞろと私の席を離れていった。なんで?

 

 なお清隆くんも同様のことがあったらしい。似たもの同士だね。わかんないから仕方ないよね? ねーという女子顔負けの会話はしたと思う。

 

 

 

 以降、だんだんと私たちの関係について本人に話を聞こうとする者はいなくなったという話はしておこう。故に私たちも『あ、なーんだ。別にコレおかしなことじゃないんだ』とタガが外れていくのだが、それはまた追々の話である。

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 清隆くんと登校して、教室に着いて別れた後。

 私たちの後、しばらく経って登校してきた山内に先に教室にいた池が爽やかに声をかけた。

 

「おはよう山内!」

「おはよう池!」

 

 結構デカめの声だったから、みんな顔を上げてなんだなんだと視線を寄せる。当然私も顔を上げた一人だ。

 池と山内は揃って満面の、てっかてっかの笑顔を浮かべている。なんだか既視感のある会話だ。

 

「いやあー授業が楽しみ過ぎて目が冴えちゃってさー」

 

 ……あ。思い出した。そうか、そうだった。今日は確か───

 

「なはは。この学校は最高だよな、まさかこの時期から水泳があるなんてさ! 水泳って言ったら、女の子! 女の子と言えばスク水だよな!」

 

 今コイツら教室にいた女子全員敵に回したな。それがよくわかるセリフであった。ちなみに私も敵側にいる。

 やはり女子である身、ああいう下劣というか下品な言葉を聞くと気分が悪くなるものである。

 池と山内、たまに須藤の会話に女子が氷のように冷めた視線を投げかけているのだが、彼らは一向に気づく様子がない。だからモテないのだ、アイツらは。3バカは見る分には好きだけど、関わりたくない理由の一つである。なんか、こう……無理。唯一良かった点といえば、私が美少女じゃないことか……あれ、なんか目頭が熱くなってきたな……。

 

 彼らは周囲を気にせず大声で話すからよく声が通る。そこに外村くんが加わり、会話の内容の下劣さが増す。それに倣って女子の視線が氷点下にまで落ちる。

 あ、ちょうど清隆くんが呼ばれた。なんやかんか友達作りに励んでいる清隆くんだ。呼ばれると一瞬躊躇した様子を見せたものの、ゆっくりと輪に加わった。

 清隆くんの声は本人が抑えているのかよく聞こえなかった。ただ無言で男子たちの話を聞きながらおそらく机の上に置いてあるのであろう、記憶通りなら誰が一番胸がデカいかを示すオッズ表とやらを見下ろし、口を開いて一言二言何か言ったらしかった。

 

 

 その途端男子たちが一斉に口を閉じ、妙な沈黙が落ちる。それは教室をも呑み込むほどの奇妙な沈黙だった。

 

 

 先ほどとは違う意味でなんだなんだと視線を集めだした男子の集団に、清隆くんはといえばなんとも我が道をいっている。机の上のペンを取り、何かを塗り潰し始めた。ここからではよく見えないが、表のある一つの欄を塗り潰しているみたいだ。

 

「もう、するなよ」

 

 今度はちゃんと聞こえた。前の内容がわからないからなんとも要領を得ない言葉だ。

 清隆くんは最後にそれだけを言い、男子たちはと言えばなぜか顔色を悪くしながら無言でコクコクと頷いている。いや本当に何があった。

 推察している間に、今度は清隆くんがこっちに向かって来ていた。

 

「葵。行こう」

「え……どこに?」

「どこでも」

 

 手を取られ立ち上がらされた。引っ張られるまま後をついていく。いつもと違って少し強引な気がする。

 引っ張られるまま後をついて歩いている途中、私はふとあることに気づいてなおさら戸惑った。

 

「えっと……清隆くん。なんか……怒ってる……?」

「……、別に……」

「いや怒ってるでしょ」

 

 居心地悪そうにしているのを見る分に、果たして自覚はあるのだろうか。いや、本人も戸惑っている気配がするからなんとも言えないな。

 しまいには私より背が高いくせして、上目遣い気味に私を見てくるという高等技術を用いてくる。

 

「……オレ、怒ってるのか?」

「私に聞かれても困るんだけど……」

 

 張り詰めた空気が徐々に離散していくのがわかった。それに気づき、少しだけ詰めていた息を意識して普段のものに戻すことができるようになる。

 清隆くんが本当に困ったように眉を下げていた。本人もわかっていない衝動のようだ、なのに私なんぞが理解できるわけもない。

 

 先の説明を求めるも首を振られて、結局清隆くんは何も教えてくれず。

 私たちは授業開始ギリギリまで外のベンチに並んで座り、朝の出来事と全然関連しない平和な会話をするのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 待ちに待っているほどでもないプールの時間。女子と男子に別れ、更衣室に行く。いまだ常時一緒にいるような友達がいない私は、一人黙々と着替えを済ませていた。同じ女子とは言え裸を晒すのは恥ずかしい性分なのだ。手早く着替えを済ませること、それに尽きる。

 パパパパッと光の速さで着替え、完了させる。周囲を見てまだみんなのんびり着替えていることを確認、ついでに誰も私を見ていなかったことを認識し安堵の息をついた。

 一人でプールサイドに向かう勇気はないので、後は気配を消しながらみんなが着替え終わるのを待ち、後ろをついて行くだけである。

 ぼーっとしていると、可憐な声がかかった。

 

「水元さん、着替えるのすっごくはやいね!」

 

 櫛田さんだ。ブラ姿で話しかけられ、同じ女子なのにドギマギする。直視しないようにだけ気をつける。

 

「私、着替える姿は鬼神って言われてるから……」

「あはは、鬼神ってなにそれ〜」

 

 私の滑らないギャグ(?)に可愛らしく笑ってくれた。優しい。

 そのままくだらない会話をしながら、目の前で豊満な胸が晒された。直視しないようにしていたのに、その揺れる乳房をついつい見てしまう。でっか……。言葉を失いもはやガン見している私に、櫛田さんが着替えながら照れて困ったような顔をした。

 

「あんまり見られると恥ずかしいな…」

「すみません」

 

 条件反射で謝罪してしまった。ガチトーンである。櫛田さんの方が慌てるレベルであった。

 

「あ、いいよいいよ! 怒ってないし! 同じ女子なんだからさ、そんなに気にしてないよっ」

「でもごめん……次着替える時は私のことガン見していいから……」

「あはは。うん、わかった!」

 

 まあガン見していいとは言ったが、先ほども言った通り鬼神の如く着替えるので私の裸体を見られることはないと思うがな。

 ……とゆうか今気づいたけど私……櫛田さん(裏切り系ヒロイン)と普通に会話してね……? 今さら?

 

 同じクラスメイトである以上誰かしらと会話はするだろうが、物語の根幹に関わる人物と深い関係になるのは極力避けたいのが私の方針だ。恐ろしいのは原作ブレイクである。あいや、清隆くんと同じ立場だった時点でもうなんか手遅れ感は否めないが、それでも努力はしていたいのだ。

 どちらにせよ、櫛田さんの表の性質上関わらないことは逆に至難の業か……。

 今さら避けるのもおかしな話なので、距離を取ることはせず二人で世間話をしながら櫛田さんが着替え終わるのを待つ。櫛田さんを直視しないようにしていたら他の女子の着替えシーンが目に入ってきたのは不可抗力と言えよう。顔面偏差値の高いDクラス、胸もトップクラス級に大きい子が多くてそれはもう目の保養になるわ目の保養になるわ。おっさん目線で申し訳ないね。

 私も胸はあるにはあるが、長谷部さんや佐倉さんにはとても敵わない。強いて言うなら……堀北さんと同レベル、いやそれよりは大きい程度だろうか。美乳と言ってほしい。

 水泳に参加する真面目なクラスメイトたち全員が着替え終わったのを確認し、櫛田さんが先導する形でプールに向かう。そして自然と隣からフェードアウトし、後方に紛れた私であった。幻のシックスマンは……私だ。

 

 

 

 

 プールに着いてすぐ聞こえたのは男子たちの雄叫びだ。見学女子組の後に我ら参加組の登場であるからであろう。胸大きい組は尽く見学組だが、それでも男子からしたら僅かに参加する女子生徒の存在はありがたいはずだ。これに関しては参加する女子たちに同情する。まるで見せ物小屋のパンダにでもなった気分だな。

 私はそんなに注目されるような目立ったところ(色んな意味で)がない生徒なので、その点は唯一の救いと言えるだろうか。胸もそんな大きいわけじゃないし、なにより大事なのは顔がそんなに可愛いわけじゃないことである。自分のことは自分がよくわかっているのだ。別にブサイクではないけれど、この顔面偏差値の高いクラスメイトに囲まれていたらね……それ相応の自信になるってものよ。今まで外の世界に行ったこともないので、他に比較のしようもないし。

 

 さっそく櫛田さんが男子たちの生贄になっているのを他の女子組に紛れてぼーっと見ていると、ふと清隆くんと目が合った。彼も櫛田さんを囲む男子たちを見ていたらしい。笑ってみせると、ほんの少し微笑み返してくれる。ははは、愛い奴め。

 と、堀北さんが清隆くんのところに向かった。筋肉の話だっけか? ホワイトルームで鍛え上げられた清隆くんの見事な筋肉について疑問を呈しているのであろう。それはとても帰宅部のそれじゃないとかなんとか言ってるんじゃないだろうか。わかるよ、清隆くん誤魔化し方下手くそだよね。

 かく言う私も筋肉がついているので、お腹はほんのうっすらではあるが割れていたりする。そりゃ鍛えないとホワイトルームで生き残っていられなかったし。清隆くんには負けるが、筋肉には割と自信があったりする。これでさらに女子の魅力減である。なので私がモテないことは納得済みだ。筋肉ある女子に需要はない。別にいらんけど。いや、本当全然気にしてないから。本当全然。

 しばらく二人は会話していたが、それも終えたらしい。櫛田さんも一瞬そこに参戦したが、先生の登場によりすぐに意識はそっちにいった。

 

 しばらく体慣らしにプールの中を軽く泳ぎ、早速競争をする流れとなった。もちろん知っている通り、一位には5000ポイントが与えられるとのこと。

 貰えるものは欲しいが、それは“平凡”を犠牲にしてまで欲しいものではない。ここは諦めることにしよう。清隆くんも同じ考えだろう。

 

 まずは女子からということで、そそくさと列に並ぶ。視線は……まああるにはあるが、他の女子と比べたらマシなんじゃないだろうか。これで私の顔が良かったらマズかったな。愛すべきはこの平凡さである。

 幸運なことに櫛田さんと同じレースだ。彼女が男子からの視線を一挙に引き受けてくれたおかげで、怖気の走る視線はそこまで感じない。清隆くんは私を見ていたが、彼の視線はノーカンだ。

 確かこのレースは……水泳部の小野寺さんもいた。彼女が優勝するとして、櫛田さんもそこそこに速い方だったから、櫛田さんより遅くなるよう調整して泳ぐことにするか。

 櫛田さんと徐々に距離を離しつつ泳ぎ切って、結果は総合7位。一見早いように感じるかもしれないが、女子は見学が多いため7位で真ん中に近い順位である。まずまずだ。満足してプールサイドに上がる。と、清隆くんがこっちに向かってきていて、自然と私の手を取った。

 

「葵。おつかれ」

「清隆くん」

 

 手を引かれるまま後ろをついていく。私を後方の椅子に座らせるだけ座らせると、「じゃあオレも行ってくるから」と離れようとする。この後自分のレースもあるだろうに、わざわざ私の手を引いて椅子に座らせてくれるとは、紳士も顔負けだな。

 離れて行く背に声をかけた。

 

「行ってらっしゃい。がんばってね、清隆くん」

「ああ。行ってくる」

 

 列に並びに行く清隆くんを見守る。すぐにレースは始まって、清隆くんも同じように調整しながら泳いでいるみたいだ。同じレースに須藤くんがいるから、そっちが目立つわ目立つわって感じだった。特に問題なくレースを終え、プールサイドを上がってくる。濡れた顔を拭いながらこっちに向かってくるのを確認しながら、私は私で次のレースに大注目していた。

 ひひひ平田くん……! 上半身細マッチョの平田くん! なるほどこれが女子にモテる体型……理解した。

 そう思えば清隆くんは筋肉がしっかりついている。どっちかというと須藤くんタイプの筋肉だ。まあ彼に須藤くんのような見せ筋はないため、どうしても目立たないのだが。一番すごいのは清隆くんだぞ! 目立ってないけど! あ、平田くんがコースに並んだ見よう今すぐ見よう。

 

 ホイッスルの音とともに平田くんがプールに綺麗なフォームで飛び込んだ。う〜ん、泳いでいる姿も無駄に格好いい。女子の歓声も納得だ。

 平田くんに視線を向けている私の前を遮る形で清隆くんが戻ってくる。邪魔なので清隆くんの体に手を当て横にずらした。「おい……」という声が聞こえるが無視する。う〜ん、プールから水を滴らせながら上がってくる平田くん、さすがイケメンと言わざるを得ない。

 

 良いものを見れて大満足だ。現金なもので、水泳の授業があることに感謝したくなる。可愛い女の子たちの水着姿も見れたし、我らがイケメン平田くんも拝むことができた。傍観者の立場として百点満点だ。

 隣に座っている清隆くんからどうにも白んだ視線がする。

 

「葵……まさか、平田のこと狙ってるとかじゃないよな」

「なんてことを言うんだ! 平田くんは目の保養だよ。狙うとか恐れ多い」

「……なら、別にいいが……」

 

 納得いってない声である。それに加えて本人も戸惑っている気配がする。またか。本人がわかっていないなら私もわからないよ。

 触れた肩から伸びる手を隙間なく繋ぎながら、安心させるよう笑いかける。

 

「何を心配してるの? 私は清隆くん一筋だよ」

 

 ついでに冗談を言って清隆くんを笑わせようとする。清隆くんはジッと私を見てから、ゆっくりと口元を緩めた。

 

「……ああ。オレも」

 

 繋いだ手にそっと力を込められた。清隆くんの返事に私の方が嬉しくなって、それ以上におかしくなって笑ってしまう。

 返事のセンスがさすがだ。そうだよ、こういうところが清隆くんが後々とんでもなくモテる理由だよ。3バカは見習って欲しい。

 

 近くにいた人物が私たちの会話を聞いて、呆れたような声をかけてくる。

 

「あなたたち、そんな恥ずかしい話をよくそう堂々とできるわね……」

「あ、堀北さん」

「……こんにちは」

 

 先に声をかけてきたのに、私が顔を向ければフイと逸らされてしまう。馴れ合うつもりはないということか。その意思を尊重し、それ以上声はかけないでおく。

 清隆くんは空気を読まず発言した。そういうところだぞ、清隆くん。

 

「何が恥ずかしい話なんだ?」

「……自覚していないならなおさらね。救いようがないわ」

 

 そしてバッサリ切り捨てられた。心なしか清隆くんの肩が落ち込んだように下がっている。私はあの有名なリアルツンに内心で大興奮していた。カオスである。

 

 

 

 プールでは高円寺くんたちがちょうど並んでいた。さっきも見たが、見事なブーメランパンツだ。あんなにあのパンツが似合う男はいないだろう。そして私は高円寺くんの唯我独尊キャラ、何気に好きだったりする。3バカと同様、こっちも自ら関わろうとは思わないが。

 圧倒的差をつけてゴールした高円寺くんをお〜と見ていると、また新たに可憐な声がかけられる。

 

「高円寺くんも須藤くんも泳ぐの早いから、凄く楽しみだねっ」

 

 櫛田さんだ。清隆くんの元に続々とヒロインが集まっていく。あ、ヒロイン一人離脱した。

 櫛田さんが清隆くんの隣に座る。なんと、これが両手に花ってやつだろうか。惜しいところは私が櫛田さんに遠く及ばない花という点だが、そこは清隆くんに我慢してもらうしかない。というか花なんだろうか? ダメだ、Dクラスの顔面偏差値が高いせいでみるみる自信が失くなっていく。性別は女だから許して欲しい。

 

 櫛田さんが清隆くんと私、その間で繋がれた手を見て悪戯っ子のように笑う。

 

「相変わらず仲がいいね、二人って」

「まあ、幼馴染だから……?」

「それにしても、だよ」

 

 指摘されてすぐに手を軽く振って離した。いや本当自然とされるから自然と受け入れちゃうんだって。しかもどっちが先に繋いだのかもあやふやである。これじゃ清隆くんのことばっかり言えない。

 

「それにしても変わってるよね。4月から水泳の授業があるなんてさ」

 

 話が変わって、これ幸いとばかりに乗っかる。これ以上藪を突かれては堪ったものじゃない。

 

「本当だよね。なんか変な感じ」

「これだけ立派なプールがあればこそだな。そういや櫛田、結構速かったな。中学の時苦手だったなんて信じられないくらいだ」

「それ私も思ったよ。全然追いつけなかったな」

「そんなことないよ! 水元さんも遅くないし、綾小路くんだって普通に泳げてたじゃない」

「普通止まりだけどな。運動もそれほど好きじゃないし」

「右に同じく。どっちかというと体動かすの嫌いかもしれない」

 

 清隆くんと揃ってお互いどの口がという会話を繰り広げる。事情を知らない櫛田さんは笑って世間話として受け流すだけだ。

 世間話の延長で清隆くんの体の話に入る。

 

「そうなの? でも、なんかその、凄く男の子らしいよね。綾小路くんって。細身だけど、バスケットしてる須藤くんよりガッチリしてるって言うか」

 

 櫛田さんわかってる! さすが櫛田さん観察眼優れてる!

 清隆くんが褒められて私は鼻高だ。マジマジと体を見られている清隆くんはどこか緊張したように体を強張らせていた。

 

「生まれつき筋肉質なだけで、別に特別な理由はないぞ。事実帰宅部だし」

 

 そんな会話をしているうちに、今度は可憐じゃない声がかけられる、というより襲いかかってくる。

 

「何やってんだよ綾小路!」

 

 池が足音荒くこっちにやってくる。清隆くんを無理矢理引っ張って連れて行き、何かコソコソと耳打ちしている。大方櫛田さん関連で釘を刺しているのだろう。

 察しがついている私と察しがついているけど知らないフリをしている櫛田さんで困ったように笑い合う。

 

 なんか気づけば池が青い顔をしている。無言でコクコク頷いていた。櫛田さんの話からどうやってあんな状態になるんだろうか。疑問に思ったが、先生のホイッスルで集合を呼びかけられ、うやむやになった。そのうち疑問もどこかへと追いやられ、思い出すこともなくなった。

 

 

 

 

 

 放課後になり、清隆くんがこっちに来ようとして平田くんに捕まっている。待とうと思ったが、思い直して先に寮に帰ることにした。そういえばそろそろ櫛田さんが堀北さんとの取っ掛かりを得ようと、清隆くんにいろいろ頼もうとする時期じゃないだろうか。私は傍観者なので関わるつもりはないのである。

 あばよ、清隆くん……武運をな……! と内心良い笑顔でサムズアップしておいた。清隆くんがあっという顔をしてこっちに手を伸ばそうとするのを華麗に躱す。

 どのみち私には部活がある。一緒に帰ると言っても武道館の前までだ。だからそれぞれ別で帰るのは何もおかしなことではない。

 

 道中で最近同じクラス、同じ一年生、さらに同じ部活ということもあってぽつぽつ話すようになった三宅くんを見つけ、自然な流れで二人並んで武道館に向かう。

 

「三宅くん、水泳どうだった?」

「あー……別に普通だ。可もなく不可もなく、だな」

「それが一番だよ。カナヅチじゃないなら全部擦り傷みたいなもんだから」

 

 私の滑らないギャグにちょっと笑ってくれた。よしウケたな。私のギャグセンスも捨てたものじゃないということだ。ちょっと自信がつく。

 

「水元はどうだったんだ?」

「私はね、なんと〜……………7位でした!」

「変に溜めるな、ばか。普通だし」

 

 ツッコミが的確で話していて面白い。これはもう自他共に認める友達だろう。彼もそう認識してくれているはずだ。

 彼も後々綾小路グループのメンバーとして清隆くんのお友達になり、原作に深く関わるようになる人物なのだが、こうやって世間話をする程度に距離を縮めているのは別に支障はないだろう。私は傍観者ではあるけれど、同時に友達が欲しいのも本当なのだ。

 三宅くんは同じ部活だから親しみやすくて、ついつい話しかけに行ってしまう。学校ではそんな様子は見せないのだが、部活では割と話したりする。これくらいの距離感でいいのだ。

 

 

 今日も部活でさらっと汗を流し、気持ちよく帰路につく。三宅くんはまだしばらく部活をしていくみたいだ。先に別れを告げ、武道館を後にした。

 寮に着き鍵を開けようとして空振りした。扉を開けて中に入り、鍵をかける。ひょこ、と玄関に顔を出した清隆くんに「ただいま」と声をかけた。

 

「おかえり、葵」

 

 腕を広げる清隆くんの胸に落ち着く。

 

「今日は何しようかな」

「オムライスっていうの作ってみたい」

「おーいいね! 卵一昨日買って帰ったから、まだ全然余裕あるもんね」

「グリーンピースとかいろいろ買ってきた」

「よし、何も問題ない。卵係とご飯係どっちがいい?」

「どっちでも……いや、卵かな」

「じゃあご飯は任せろ!」

 

 あまりに“普通”で“平凡”な会話。二人で一度顔を合わせ、じわじわとおかしくなって笑った。

 

 

 胸が温かい。幸せだなぁと思った。

 

 

 

 

 

 

 




主人公は綾小路と同じタイプの顔をしています(ヒント)
ほら主人公、綾小路と同じで目立った何かがないから…
あとほら、(ほぼ)四六時中ペアでいる人いるし…


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ヒールはだーれだ

 授業中にも関わらずガヤガヤ煩い生徒たちを一切相手にせず、滞りなく先生は講義をしていく。この光景もここ数週間……もう3週間か。すっかり見慣れてしまった。今じゃ真面目にしている方が少数派だ。

 かく言う私もその少数派には入っている。後で責められる理由を作らないことに越したことはない。

 授業中平気で会話するキャピキャピ女子グループに、堂々と遅刻してくる須藤くん、に話しかける池山内。問題はこれだけではない。

 私語は当然として、居眠り、スマホ弄りなど、まあそれはひどいものだ。知っていたが実際目にすると普通に引く。高円寺くんが真面目に授業受けているのがバカみたいだろ!

 

 3時間目。茶柱先生が小テストを行うことを宣言し、ついにこの時が来たかと内心で覚悟を決めた。

 小テストの内容は遥かに簡単で、そして最後の3問はとんでもなくえげつない。もちろんスルーし、簡単な問題だけ解答欄を埋めた。

 あとは座して待つのみ。後にこの教室を包むであろう阿鼻叫喚も同じく、だ。

 

 

 

 朝から清隆くんと二人で作ったお弁当を食べ終え、私たちは何か飲み物が欲しくなり自販機に来ていた。其処にいたのは3バカである。

 並んでやってきた私たちを見て、なんというか、複雑な顔をした。代表して池が声をかけてくる。

 

「なあ、綾小路……お前、水元さんとは本当に付き合ってないんだよな?」

「なんだ急に。前にも言っただろ、付き合ってないぞ」

「そうだよ。付き合ってないよ」

「じゃあなんで手繋いでんの!?」

 

 あ。指摘されて手を軽く振って離した。

 

「ほら、手繋いでないでしょ」

「離すのが遅いわ!! 疑惑深めてる理由わかってんの!?」

 

 池のテンションがおかしくなってる。目を剥き出しにして掴みかかる勢いで清隆くんに迫っているのが面白くて、つい声をあげて笑った。

 ハッとした顔をし私を見れば、その顔にパッと赤が散る。そしてすぐに青くなった。清隆くんに向かって全力で首を振っている。

 

「違う違う違うからなッ! 何も思ってない! 何も!」

 

 清隆くんが挙動不審な池を見やってため息をついた。

 

「別に、何かしようとか思っていない。それより自販機に用事があるんだ。通してくれ」

「お、おう! 水元さんもごめんね!」

「全然。気にしなくていいよ」

 

 女子耐性のない池くんは女子を前にしたらすぐに顔を赤くするから、私を前にしてもよく赤くなっている。そして隣の清隆くんを見て顔を青くするまでがセットだ。何か脅されでもしているんだろうか。脅すことある?

 

 道を避けてくれた池の横を通り、自販機の前に立つ。順に見ていって、『弾ける炭酸ゼリー飲料! 上下に振って飲めるようになる不思議な飲み物』というのを見つけた。清隆くんにこれでいい? と確認し、首肯が返ってきたのでさっそく買う。

 ブンブン上下に振り回しながら頃合いを見てプルタブを持ち上げる。小気味のいい音がして蓋が開いた。

 ぷるぷるしたゼリーの食感……確かに炭酸が効いていてシュワッとする。味はブドウ味だ。なるほど、悪くないな。

 半分ほど飲んでから、清隆くんに缶を手渡した。受け取って清隆くんも口をつける。口に含んで一発目にくる炭酸に一瞬肩をビクつかせたが、その後は落ち着いたのか美味しそうにコクコク飲んでいた。

 

「悪くないな」

「ねー」

 

 3バカがすんごい目をして私たちを見てきていた。なんだなんだ、何かおかしなところでもあっただろうか。

 山内がどこか疲れたようにため息を吐いて、ボソボソ言った。

 

「俺、綾小路と水元さんに関してはもう何も言わねーわ……」

「それが正解だな……」

 

 池と山内がお互いの肩を慰め合うようにポンポンと叩いている。須藤も同情的な目線だ。

 私と清隆くんは揃って目を合わせ、不思議そうに首を傾げ合った。

 

 

 

 今日は部活がないため、まっすぐ帰路についた。清隆くんは池と山内に誘われて、放課後遊びに行くようだ。

 私も誘われたが、丁重に断って「やっぱりオレも行くのやめる」と手のひらクルーして言い出しかねない清隆くんの背を押しておいた。大方場の賑やかし要員として呼ばれたんだろう。清隆くんが賑やかせるかどうかは謎だが、友達付き合いは大事だ。私に合わせて帰る必要はない。

 

 一人部屋で落ち着いて、若草色のラグマットの上に座る。白いミニテーブルの上には作ったばかりのミルクティーがマグカップに入れて置いてあった。

 甘い飲み物を口に含み、ほうと息をつく。視線を流し、小さな窓枠から見えるまだ明るい空に目を細めた。

 鳥が飛んでいる。窓枠から見える範囲でしか存在を確認できないため、鳥はすぐに見えなくなってしまった。

 何もない空は綺麗で、少し、寂しいなと思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 5月最初の学校開始を告げる始業チャイムが鳴った。程なくして、手にポスターの筒を持った茶柱先生がやって来る。その顔はいつもより険しい。

 ついに来た、と内心でぼやいた。

 

「せんせー、ひょっとして生理でも止まりましたー?」

「これより朝のホームルームを始める。が、その前に何か質問はあるか? 気になることがあるなら今聞いておいた方がいいぞ?」

 

 池のセクハラ発言をさらっと無視して茶柱先生が話を進める。

 みんな戸惑いながらも、今月のポイントが振り込まれていない点についてザワザワと声を上げ始めた。今朝清隆くんと話したばかりだし、そもそも最初から事情を知っているので驚きはない。

 

 騒めく生徒たちを無言のうちに見渡し、茶柱先生がゆっくり口を開く。

 

「……お前らは本当に愚かな生徒たちだな」

 

 その後はトントン拍子で事態は進んだ。茶柱先生の嘲り混じりの説明、生徒たちの阿鼻叫喚、残された暗く重い沈黙。

 ポイントの説明を終えれば、今度は黒板に一枚の紙が張り出される。並ぶ数字がこの間したばかりの小テストの点数だとすぐにわかる者は何人いるのか。

 えーっと、私の点数と順位は……おっ64点か。順位はちょうど真ん中あたりに位置している。予想を外していなかったのでちょっと嬉しい。

 清隆くんは50点で私よりちょっと下にいた。今回も点数で遊んでいるみたいだ。

 

 茶柱先生と平田くんの応答、高円寺くんの演説を終えて、再び教室が重い沈黙に包まれる。その沈黙を破り、最後にまた茶柱先生が冷酷に言い放った。

 

「浮かれていた気分は払拭されたようだな。お前らの置かれた状況の過酷さを理解できたのなら、この長ったるいHRにも意味はあったかもな」

 

 話は続く。

 

「中間テストまでは後3週間、まぁじっくりと熟考し、退学を回避してくれ。お前らが赤点を取らずに乗り切れる方法はあると確信している。出来ることなら、実力者に相応しい振る舞いをもって挑んでくれ」

 

 ちょっと強めに扉を閉めると、茶柱先生は今度こそ教室を後にした。

 がっくりと項垂れる赤点組たち。チラと後ろを見れば、相変わらずの無気力な顔をした清隆くんがいる。その横で顔を青くして表情を強張らせている堀北さん。

 

 なるほど。前途多難だ。他人事のようにそう思った。

 

 

 

 平田くんが代表して話を進め、紆余曲折ありながらも一旦の落ち着きを見せたクラスメイトたち。

 時間は有限だ。今は朝のHRであり、もう少しすれば1限目が始まる。落ち着かざるを得なかったのもあるだろう。

 平田くんがひとりひとりの席を回っていて、私の席にもやってくる。

 

「放課後、ポイントを増やすためにどうしていくべきか話し合いたいんだ。水元さんも参加してくれるかな」

 

 ひひひ平田くんが私の名前を呼んでくれてる……! いややっぱりどうしてもテンション上がっちゃうな。平田くん好きだから仕方ない。

 テンションは上がったけれど、だからといって返事は難しいところだ。参加してもいいけど、でも清隆くんたち参加してなくなかっただろうか? それなら私も合わせて参加しない方がいいのかな、とか頭を悩ませる。

 う〜んと渋る様子を見せた私に、へなりと平田くんの形の良い眉が下がった。

 

「だめ、かな……?」

「全然行けます」

 

 ハッッ! 口が罪悪感とかときめきとかいろいろもろもろで勝手に!

 口を押さえる私の前で平田くんがパッと笑顔になった。

 

「ありがとう、水元さん! そんなに時間はかけないから、安心してほしい」

「はわ……はい……」

 

 返事じゃなくて意味不明言語が先に出ていることに私の機能停止っぷりを見てほしい。なんか目がハートマークになっている気がする。

 後頭部にはグサグサと視線が刺さっていた。平田くんが離れて行ってから、後ろを振り向いてその視線の主を確認する。

 清隆くんが半目になって私を見ていた。その瞳の奥、ぐらりと呑み込まれそうな闇が揺れて、目が合って離散する。……見間違い、だろうか……?

 すぐに目を逸らして前を向くのもあれなので、軽く手を振って笑っておいた。清隆くんがふっと口角を緩めて、同じように軽く手を挙げて振り返してくれる。

 いや〜やっぱり私は清隆くん派だな!

 

 

 

 

 時は経ち、放課後。平田くんは教壇に立ち、黒板を使って対策会議の準備を進めている。

 教室はほぼ満席だ。数名の男女を除きそのほとんどが参加して席を埋めている。改めて平田くんの凄さを窺える結果だ。

 

 ぼけーっとした顔で会議の準備が進められていくのを見守る。教室の後方では清隆くんが山内に絡まれ、その後櫛田さんと会話しているのが聞こえてきた。

 

「大変そうだね、ポイントを使い切っちゃった人たち」

「櫛田の方こそ、ポイントは大丈夫なのか? 女の子は色々必要なものがあるだろ」

「うーん、まぁ、今のところは、かな。半分くらいは使っちゃった。この一ヶ月自由に使い過ぎて来たから、ちょっと我慢するのは大変だけどね。綾小路くんは大丈夫?」

「交友関係が広いだけに、全く金を使わないって生活も難しいよな。……オレもいろいろ料理したり、部屋のインテリアを買ったりしていたから、そんなに多く残っているわけじゃないんだ。櫛田と同じか、それより少し多いくらいか?」

「へ〜! すごいね、男の子なのに料理って! インテリアとかも良いね、残る物だから」

「ああ。葵と一緒に料理したり、インテリアを買ったりしていたらいつのまにか部屋に物が増えていたな」

「へ〜……すごいね……」

 

 明らかに櫛田さんの声のトーンが変わった。引いてるよ。なんで?

 

 なおお互いの部屋に行き来しまくっているので、私たちはお互いが過ごしやすいように部屋をデザインしていたりする。私の部屋には若草色のラグマット、清隆くんの部屋には深青色のラグマットだったりと、色違いで揃えている物も多い。

 私たちの部屋に両方行くような生徒しか気づかない仕掛けだ。仕掛けも何も仕掛けたつもりは微塵もないが。

 でもインテリアを買うのも控えないとな……無駄遣いしたつもりはないが、入ったばかりの寮は必要最低限の物しか置いていなく簡素で、ついつい物を買ってしまった。しばらくポイントの支給はないし、あっても微々たるものだから使わないに越したことはない。

 

 今後のぼんやりした予定を考えていると、私の前に軽井沢さんがやってきた。へらっとした顔で軽く両手を合わせてポイントの譲渡を頼んでくるので、私も軽い態度で了承の返事をしてさっそく教えられた番号に振り込んであげる。可愛い子の頼み事は断れない。

 軽井沢さんが感謝もそこそこに次に譲渡を頼む相手の席へと向かった。それを見送ったところで、穏やかな効果音が校内放送で流れる。

 

『一年Dクラスの綾小路くん、水元さん。担任の茶柱先生がお呼びです。職員室まで来てください』

 

 お? ……そうか、やっぱりか。

 覚悟はしていたが、本当に私の名前も呼ばれるとちょっとドキッとしてしまう。校内放送は良くない。これで全校生徒に私の名前が広まってしまった。自意識過剰でも辛いものがある。

 

 清隆くんが私のところにやってきて、手を取った。

 

「呼び出しだ。行こう、葵」

「いややっぱりなんで私も呼ばれ……はい」

 

 渋々立ち上がって手を引かれるまま歩く。背中にクラスの重いような、生温かいような視線を感じながら、教室を抜ける。

 背後で「アイツら、フジュンイセーコーユー? していたから呼び出されたんじゃね?」という失礼な言葉が聞こえた。山内、アウトー! 退学!

 

 笑えない冗談を内心で繰り広げる。並んで歩きながら、清隆くんが首を傾げて私を見た。

 

「葵、呼び出された理由ってわかるか?」

「え〜……私たち、もしかしてお互いの部屋を行き来しすぎて呼ばれた……?」

「そんなの普通だろ。何も悪いことはしていないぞ」

「そりゃ悪いことはしてないけど……」

 

 なんか本当にそれで呼ばれた気がしてきた。時間は守っていたし、お泊まりダメとかマニュアルに書いてなかったよね……?

 二人で頭を悩ませている間に職員室に到着する。扉を開けて中に茶柱先生がいないのを確認すると、手っ取り早く清隆くんが扉から一番近い位置にいた先生に声をかけた。

 

「あの、茶柱先生居ます?」

「え? サエちゃん? えーっとね、さっきまでいたんだけど」

 

 星之宮先生だ! おお! 胸でかい。可愛い。お酒好きそう(?)

 一言二言交わし、私たちは廊下で茶柱先生を待つことになった。壁際に立ち大人しくしていると、ひょっこりと星之宮先生が廊下に出てくる。そして人懐っこく話しかけてくる。

 

「私はBクラス担任の星之宮知恵って言うの。佐枝とは、高校の時からの親友でね。サエちゃんチエちゃんって呼び合う仲なのよ〜」

 

 お〜! ぜひ茶柱先生がチエちゃんって呼んでるの聞いてみたいな。たぶん笑う。

 

「ねぇ、サエちゃんにはどういう理由で呼び出されたの? ねえねえ、どうして?」

「さあ。それはオレにもさっぱり……」

 

 私たちを観察するように上から下までジロジロと見ようとして、ある箇所に視線を定め、その顔がニヨ〜と笑みの形に歪んだ。

 

「手なんか繋いじゃって、二人はもしかしてカレカノなのかな?」

 

 おっと。慣れたように軽く手を振って繋いでいた手を離した。

 

「何言ってるんですか?」

「え……? 君が何言ってるの……? それで誤魔化してるつもりだったら私心配だよ……?」

 

 ガチトーンで心配された。ちょっと傷つく。

 星之宮先生が調子を取り戻すようにコホンと一度咳をし、改めて絡んできた。

 

「そ、れ、で! 君たちの名前は?」

「綾小路、ですけど」

「水元です」

「そっかそっか。綾小路くんに、水元さんね。二人とも初々しいカップルね〜可愛い〜」

「カップルじゃありません」

 

 即座に否定するが、信じてくれたかどうか怪しい。というか、十中八九信じていない。そういう目だ。面白がっているから余計にタチが悪い。

 

「え〜? じゃあ手を繋いでいたのはどうして? ねえねえ、どうして?」

 

 全く嫌な先生に当たったものだ。可愛いのにしつこいとは、プラマイゼロだぞ! もっと別のことで絡んできなさい!

 ため息を吐きつつ、こういう時に決まって言うセリフを今日も今日とて口にする。

 

「私たち、幼馴染なんです。これくらいの距離感でいたから、つい癖でやっちゃうんですよ」

「ほんとかな〜?」

「本当です」

 

 顔を覗き込まれる。ニヨニヨと楽しそうに笑っているところ悪いが、背後にクリップボードを掲げた鬼がいるぞ。

 タイミング良く凶器は振り落とされ、スパンッと響きの良い音が鳴り目の前で星之宮先生の頭がしばかれた。星之宮先生がその場で蹲る。

 

「何やってるんだ、星之宮」

「チエちゃんって呼ばないんですか?」

「コイツらに何を言った、星之宮」

 

 額に青筋が浮かんでいる。星之宮先生が涙目になりながら声を上げた。

 

「いったぁ。何するの!」

「うちの生徒に絡むな。あと変なことを言うな」

「サエちゃんに会いに来たって言ったから、不在の間相手してただけじゃない」

「放っておけばいいだろ。待たせたな、綾小路、水元。ここじゃ何だ、生活指導室まで来て貰おうか」

「いえ、別に大丈夫ですけど。それより指導室って……オレたち何かしました? これでも一応目立たないよう学校生活を送ってきたつもりなんですけど」

「ほぉ……お前たちの噂は職員室にまで届いているぞ? あれで目立っていなかったつもりか?」

「え、やっぱり私たちそれで呼び出されたんですか!?」

「……今はその話はいい。とにかく、ついてこい」

 

 茶柱先生が先を行く。仕方ないのでついて行こうとして、星之宮先生がニコニコしながら後をついてきていた。それに気づいて、茶柱先生が鬼の形相で振り返る。

 

「お前はついてくるな」

「冷たいこと言わないでよ〜。聞いても減るものじゃないでしょ?」

 

 私たちを挟んで喧嘩するのやめてほしい。

 星之宮先生は背後に立っているから、浮かべている表情は見えない。それでもビリビリとした空気が伝わってきて、一触即発なことはわかった。

 聞こえた単語にため息を吐きたくなる。下克上、か。

 しつこく食い下がってついてこようとする星之宮先生だったが、それも一人の女子生徒が現れたことで流れが変わる。そして私の心臓も跳ね上がった。動悸が怒涛の勢いでドキドキし始める。

 

「星之宮先生。少しお時間よろしいでしょうか? 生徒会の件でお話があります」

 

 ……かッ……可愛い……。

 

 茫然と女子生徒を見つめる私の前で手をかざし、軽く振って見せて、反応がないことを確認してから清隆くんが私の手を取る。

 

「行きましょう、茶柱先生」

「お、おう……大丈夫か、水元は?」

「大丈夫だと思います」

「ならいいんだが……おい、お前にも客だ。さっさと行け」

 

 茶柱先生が星之宮先生のお尻を雑にクリップボードで叩いた。頰を膨らませ、けれど客がいるのは本当なので大人しく引き下がった。

 

「も〜! これ以上からかってると怒られそうだから、またね、綾小路くん、水元さんっ。じゃあ職員室にでも行きましょうか、一之瀬さん」

 

 びゅーてぃふぉー……一之瀬さん……。

 

 良いものを見れた、と輝くような満面の笑みになる。清隆くんが私をジッと見て、手を引いて歩いた。

 茶柱先生の後に続き、程なくして指導室に着く。中に入って椅子に座らせてくれるわけでもなく、すぐに給湯室に清隆くんと揃って押し込められる。

 

「お茶でも沸かせばいいですかね。ほうじ茶でいいすか?」

「ばっか、日本人は黙って緑茶だよ! 茶柱も立つし! ですよね先生」

「今すぐ黙れ。余計なことはしなくていい。黙ってここに入ってろ。いいか、私が出てきて良いと言うまでここで物音を立てずに静かにしてるんだ。破ったら退学にする」

「え、めっちゃ理不尽……」

「聖職者としての態度かアレ?」

「黙れ。それ以上口を開くな」

 

 思い切り給湯室のドアが閉められる。明かりもついていない部屋の中で清隆くんと目を合わせた。

 

「嫌な予感がするな」

「私は校内放送の時点で帰りたかったよ」

 

 腕を広げられてため息を吐きながら中に入る。今後のことを思うと頭が痛い。ため息をつかないとやってられない。

 慣れた体温の中で人心地つきつつ、グルグル頭を悩ませていると、程なくして指導室のドアが開く音がした。

 その人物は決まっている。

 

「まあ入ってくれ。それで、私に話とは何だ? 堀北」

 

 まあ堀北さんに決まってますよね…。

 知っている会話が扉の向こう側で繰り広げられる。舌戦にもならない、この場合どこまでも正当で正義なのは茶柱先生の方だ。堀北さんの圧倒的不利は変わらない。それでも噛み付くのは堀北さんのすごいところだ。

 茶柱先生が堀北さんとの応答の中で、意味深なセリフを言う。

 

「Dクラスにもいると思うがな。低いレベルのクラスに割り当てられて喜んでいる変わり者の生徒たちが」

 

 完ッ全に私たちのこと言ってんだよな。

 

 応答は終盤を迎え、堀北さんが怒りもそこそこに指導室を出て行こうとする。そうだそうだ、そのまま出て行ってしまえ。それで三人で今度こそちゃんと話しましょう、茶柱先生。茶柱先生?

 

「出て来い綾小路、水元」

 

 神はいなかった。

 

「………だって、清隆くん。呼ばれてるよ?」

「奇遇だな。葵も呼ばれてるぞ」

「出てこないと退学にするぞ」

「「はい」」

 

 すごすごと給湯室の扉を開ける。堀北さんが私たちの姿を目に留めて、当然驚き戸惑っていた。

 

「私の話を……聞いていたの?」

「清隆くん、話聞こえてた?」

「聞こえなかったよな。壁厚いし」

「だよね〜」

「そんなことはない。給湯室はこの部屋の声が良く通るぞ」

 

 逃がしてくれる気は毛頭ないらしい。堀北さんの顔が歪んでいく。

 

「……先生、何故このようなことを?」

「必要なことと判断したからだ。さて綾小路、水元。お前たちを指導室に呼んだワケを話そう」

 

 自分の疑問が流され、堀北さんが首を軽く振って部屋を出て行こうとする。すかさず茶柱先生が声をかけた。

 

「待て堀北。最後まで聞いておいた方がお前のためにもなる。それがAクラスに上がるためのヒントになるかもしれないぞ」

 

 当然堀北さんは出て行くのをやめ、もう一度椅子に座り直した。

 私からしたらすべて茶番でしかない。

 

「手短にお願いします」

 

 茶柱先生がニヤニヤと笑っている。クリップボードと、清隆くんと、私。意味深にゆっくりと交互に視線を移す。

 

「お前たちは面白い生徒だな、綾小路、水元」

「清隆くんは面白いとしても、私はそんなことありません。誤解しないでください」

「待て葵、オレを売る奴があるか。先生オレは面白くありません、面白いのは先生の茶柱という苗字の方です」

「全国の茶柱さんに土下座してみるか? んん?」

 

 面白いのなすりつけ合いである。なんて醜い争いなんだ。

 自分から始めたことは棚にあげ、なんとか活路を見出そうとする。茶柱先生は容赦なくその路を塞いだ。

 

「入試の結果を元に、個別の指導方法を思案していたんだが、綾小路のテスト結果を見て興味深いことに気がついたんだ」

「やっぱり私関係なくないですか?」

「水元は少し待て」

 

 さらっと流される。ダメだ、逃がしてくれる気配がない。だって私は本当に目立ったところがない生徒だぞ。

 茶柱先生が見覚えのある入試問題の解答用紙をゆっくりと並べていく。

 

「国語50点、数学50点、英語50点、社会50点、理科50点……おまけに今回の小テストの結果も50点。これが意味するものが分かるか?」

「偶然って怖いっスね」

 

 その言い訳は無理がある。やっぱり私関係なくないですか? 私は真面目にちゃんとバラけた平均点取ったはずだよ? 清隆くんみたいに遊んでないよ?

 堀北さんが食い入るようにテスト用紙を見て、清隆くんに視線を向ける。茶柱先生はおかしそうに目を細めた。

 

「ほう? あくまでも偶然全ての結果が50点になったと? 意図的にやっただろ」

「私帰っていいですか?」

「オレを置いて帰るな。……偶然です。証拠はありません。そもそも試験の点数を操作してオレにどんな得があると? 高得点を取れる頭があるなら、全科目満点狙ってますよ」

 

 ぐっと手を掴まれて逃げられなくされる。敵は二人いた。

 茶柱先生が呆れたようにため息をついた。どの点に関してため息をついたのかわからない。

 

「水元。お前はあくまで自分は特別なことをしていない、と言うんだな」

「当たり前ですよ。私ほど平凡な人間はいません。神に誓えます」

「なら、今からお前の解答用紙も並べよう」

 

 今度は私の解答用紙が並べられていく。……よく見たけれど、何もおかしなところはない。点数だってうまくバラけている。清隆くんみたいにわかりやすく変な点数を取っていない。

 

「ここで入試問題の平均点を挙げよう。国語60点、数学54点、英語58点、社会68点、理科61点。そして、今回の小テストの平均点は64点。……意味がわかるか?」

「……マジで?」

「…………まさか、狙ったわけじゃないのか?」

 

 冤罪だ。これは立派な冤罪だ! 勝訴! 勝訴!

 

「こんなバラバラで狙って取れるわけないでしょ! 私は予知者か何かですか?」

 

 ひどい言いがかりだ。私は真面目に平均点を狙っただけだ。そんなジャストで当てる気なんてさらさらなかった。これこそただの偶然という言い訳が使える事象である。

 

 茶柱先生が顎に手を当て、しばらくした後に「……ふむ」と一度頷いた。あ、流したな。と直感した。

 

「お前は実に憎たらしい生徒のようだな。いいか? この数学の問5、この問題の正答率は学年で3%だった。が、お前は前の複雑な証明式も含め完璧に解いている」

「見て! 見てください! 解けてない! 私それ解けてないですよ!」

「一方、こっちの問10は正答率76%。それを間違うか? 普通」

「間違えてない! 私間違えてないです! ちゃんと正解してますほらぁ!」

「世間の普通なんて知りませんよ。偶然です、偶然」

「なんでみんなそんな話聞いてくれないの?」

 

 唯一は堀北さんが同情的な視線を寄越してくれることだけか。救いはここにしかない。

 堀北さんが清隆くんの解答用紙を見下ろす。

 

「あなたは……どうしてこんなわけのわからないことをしたの?」

「ほんとそれ」

「葵はオレの味方をしろ。いや、だから偶然だっての。隠れた天才とか、そんな設定はないぞ」

 

 茶柱先生がニヤニヤ笑っている。

 

「どうだかなぁ。ひょっとしたらお前よりも頭脳明晰かも知れないぞ堀北」

 

 こっちに関しては私のことはフル無視することにしたらしいな。自分のミスを認めないとか幼稚園児ですか? 幼稚園児でも認めるよ。茶柱先生は赤ちゃんかな?

 

「勉強好きじゃないですし、頑張るつもりもないですし。だからこんな点なんですよ」

「この学校を選んだ生徒が言うことじゃないな。もっとも、お前たちの場合、高円寺のように、DでもAでも良いと思えるような、他の生徒とは異なる理由があるのかもしれないが」

 

 ここで急に私も含められてビクッとしてしまった。清隆くんも繋いだ手に一瞬力を込める。

 あくまでも自然に真っ直ぐ茶柱先生を見据え、清隆くんが問いかける。

 

「何ですか。その異なる理由って」

「詳しく聞きたいか?」

 

 誘導されている。……わかっていたことだが、実際耳にすると驚いてしまうものだな。

 彼女は詳しいことは知らないとはいえ、今、パンドラの箱を覗いている。その箱は決して開けてはならないものだ。

 

 清隆くんがふうと息をついた。やれやれ、なんて風に体裁を取り繕う。

 

「やめておきます。聞くと突然発狂して、部屋の備品という備品を破壊しそうだ」

「その時は私も手伝うよ、清隆くん」

「ありがとな葵」

「そうなればお前たちはEクラスへ降格だな」

 

 マジで手伝わせてくれ。なんなら今から暴れる? それで今の会話の流れぐだぐだにしちゃう?

 

 

「Eクラスってのは、イコールExpelled。退学ってことだ」

 

 

 降ってくる容赦のない言葉に、今ほどニヤニヤ笑いが憎らしいと思うことはないんだろう。

 

「私はもう行く。そろそろ職員会議の始まる時間だ。ここは閉めるから三人とも出ろ」

 

 言いたいことだけ言われ無遠慮に暴かれて、私たちは満身創痍だ。背中を押され廊下に放り出されて傷心にもなる。

 

 とりあえず、話が終わったことに変わりはない。ゴリゴリに精神を削られたが、イベントは過ぎ去った。帰ってすぐ精神療養に努めよう。

 

「帰ろう、清隆くん……」

「お、おう……おつかれ……」

「待って」

 

 並んで帰ろうとする私たちの背中に堀北さんの声がかかる。チラと振り返り、私には関係ないことだと先に帰ろうとして、繋がれたままの手が離されないことに気づく。どうやら敵はまだ潜伏していたらしい。

 

「さっきの点数……本当に偶然なの?」

「私は偶然だよ。マジで」

「オレもだわ。それに意図的だって根拠もない」

「清隆くんは黙っててくれる? 私の偶然だって主張の信憑性薄れるでしょ」

「ひどい言われようだ……」

「……根拠はないけれど……綾小路くん、少しわからないところがあるし。事なかれ主義って言ってるから、Aクラスにも興味なさそうだし」

 

 私を置いて話は進むわ進むわ。私の出る幕などないし、出るつもりももとよりない。

 とりあえず、私が取った奇跡の平均点ジャスト解答用紙は、ちゃんと偶然だって信じてもらえたと見ていいか。実際本当に偶然だし、本当勘弁してほしい。

 ポケーッとしながら二人の会話が終わるのを待つ。先に帰りたいが、手を掴まれている以上そうは問屋が卸さない。いつものように軽く振って離せる程度の力だったらよかったのに、どれだけ私と離れたくないんだよ。赤ちゃんかな?

 

 堀北さんが清隆くんに協力をお願いしている。清隆くんは嫌そうだ。

 でも私は知っている。彼は堀北さんに協力するし、強力な駒に仕立て上げる。……はっ、今すごい綺麗なダジャレ言えてたんじゃね?

 

 私がダジャレの出来に人知れず感動している間に会話は終盤を迎えたようだった。

 

「悪いが、やっぱり協力はできない。オレ向きじゃないよ」

「じゃあ、考えがまとまったら連絡するから。その時はよろしく」

 

 見事にスルーされている。哀れ清隆くん。

 プププと笑っていると、堀北さんがこっちに顔を向けた。

 

「水元さんもよろしく」

「ゑっ?」

 

 急に矛先を向けられた私は一言も何か反論する間がなかった。

 

 ……二人で堀北さんが颯爽と去って行く背中を見つめる。ついに背中も見えなくなり、廊下に私たち以外の存在がいなくなったとき。

 

「……葵」

「……なぁに、清隆くん」

 

 

「どう思う」

 

 

 動きを止める。彼の背後に広がる空は落陽に差し掛かり、青と赤と宵、三つの境界線を曖昧にしている。

 

 果たして今、彼から見た私の瞳は何色を宿しているのだろうか。

 

 

「まだ確信には至っていない。なら、手出しはできないよ。違う?」

「……ああ。そうだな」

「そんなことより、帰ろう。清隆くん」

 

 

 踵を返す。繋いだ手はお互いに離さない。

 

 

 記憶を上書きするほどの鮮烈な衝動が本来のものであるなら、ならば今目の前の彼は。

 

 

 

 

 ………なるほど、確かに。これはとんだヒールの役割だと、苦い顔をした。

 

 

 

 

 

 

 



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一欠片の願い

IQ3になって読んでください回



 

 

 5月初日から、早くも1週間が経とうとしていた。

 

 茶柱先生から嘲笑混じりに真実を明かされて以降、表向きは黙って授業を受ける生徒が大半となっていた。まあ須藤は別だが。

 私みたいに最初から真面目に授業を受けている生徒ほど損を被っていることになるが、だからといってどうすることもできない。できるのはこれからクラスポイントがプラスに転じることを祈りながら、真面目に生活することだけだ。

 

「たうわ!?」

 

 あ、清隆くんが堀北さんにコンパスの針で刺されてる。ずっと思ってたけど、可愛い悲鳴だよね。女子力が高いあざとい悲鳴だと思う。あれが計算じゃないんだから恐ろしい。

 茶柱先生が軽く注意を飛ばし、清隆くんは素直に謝罪していた。一連の流れを耳にしながら私の意識は授業に戻る。

 きっと今頃清隆くんにはクラスポイントに敏感になっているクラスメイトたちからの冷たい視線が刺さっていることだろう。せめて私だけでも無視してあげよう。

 

 

 

 昼食の時間だ。前の授業で机に広げていたノート類を片付けて、お弁当を入れている小袋を取り出す。いつものように清隆くんと連れ立って最近見つけたベストプレイスに向かおうとして、振り向いた。それより先に平田くんが口を開いた。

 内容を聞くに、どうやらDクラスのヒーローは慈善事業も始めるようだ。赤点組の救済を考えてのことだろう。ふむ、原作通りの流れだな。

 殊更須藤に対し優しく語りかけ、あくまで善意として手を差し伸べようとする平田くんはマジ平田くんだったとだけ言い残しておこう。

 

 実は私平田くんが主催する勉強会、一回参加してみたいんだよね……きっと優しい教え方なんだろうな……ときめくんだろうな……。

 ふら〜っと光に集う蛾のように平田くんの席に向かおうとして、それより先に手を捕まえられた。清隆くんが呆れた顔をしてそばに立っている。私を掴んでいる手とは反対に、もう片方の手には私たちのお弁当箱二つがあった。

 

「昼ご飯食べに行くぞ、葵」

「平田くんの勉強会の予約だけしてきていい?」

「オレがつきっきりで教えてやる」

「私より下の点数の人に教えられたくないよ!」

 

 茶番を繰り広げつつ、繋いでいた手を引っ張られて平田くんの席から離されていく。仕方ない、予約するのはまた今度にしよう。時間はまだまだたっぷりあるのだ。私は諦めない。

 

 廊下を出てしばらく歩いてからだ。後ろから声をかけられ、同時に振り向く。

 

「少し話を聞いてもらえないかしら」

「げ、堀北……」

 

 清隆くんが嫌そうな顔をした。さっきコンパスの針で刺されたことを思い出しているんだろう。

 提案の口調をしながら、堀北さんに譲歩する気配は微塵も感じない。凛とした表情をしている堀北さんを見て、無気力ボーイの清隆くんに視線を移して、やれやれと肩を下げた。

 

「ほら、堀北さんが呼んでるよ。私は二つ分のお弁当食べて待っておくから」

「さらっとオレのも食べる発言をするな。嫌だ、オレは行かないぞ。堀北の話を聞くつもりはない」

「協力するって言ったわよね?」

「あいにくだが、そんなこと一言も言った覚えはないな」

「いいえ、私には心の声が聞こえたもの。協力するって言ってた」

「それまだ言ってるのか…」

「言うわよ。この耳で聞いたんだもの」

 

 廊下で三人立ち止まって話をしているものだから、だんだんと周囲から視線が寄せられてくる。徐々に居心地が悪くなってきた。

 清隆くんが頭に手をやり、ぽりぽりと掻いてから、一度大きくため息を吐いた。

 

「……わかった。話を聞こう。先に言っておくが、聞くだけだからな」

「ええ。それじゃあ行きましょうか」

 

 私たちの前に出て、堀北さんが先導する形で進む。私と清隆くんは一度顔を合わせ、お互いに息を吐いた。

 

「それじゃあ頑張ってね」

「葵も行くんだよ」

 

 

 

 結局逃してもらえず、先を歩いていた堀北さんを抜かし私たちが私たちのベストプレイスまで案内して、そこで話を聞くことになった。

 とは言っても、私ができることは本当にない。これは謙遜ではなく事実だ。今清隆くんと堀北さんが話している横でマイペースにお弁当を食べているところからもわかるだろう。

 一応話は耳に入れているが、案の定というかなんというか、赤点組かつ平田くんに与しない組、通称3バカの救済についての話だった。

 清隆くんは渋りに渋っている。話を聞いているうちに協力してもいい気になってきたが、でもなんかやっぱりちょっと……っていう渋りに見える。今回はスペシャル定食の奢りもないから立場が弱くないというのもあるのかもしれない。

 渋る清隆くんに堀北さんが畳み掛ける。

 

「櫛田さんと結託して、嘘で私を呼び出したこと、許したつもりはないのだけれど?」

 

 お、清隆くんは原作通り櫛田さんと堀北さんの友情のキューピット作戦に出ていたのか。この様子だと原作通り失敗したようである。でしょうねとだけ言い残しておく。

 清隆くんがさらに嫌そうな顔をして数度応答していたが、最終的には協力することを受け入れたようだった。

 堀北さんがさっそく携帯番号とアドレスを教えている。清隆くんに教え終わると次に私の方にも顔を向けた。

 

「水元さんも。自分は関係ないって顔してるけど、手伝ってもらうわよ」

「私本当清隆くん以上に役立たずなんだけど……」

「あなたは将棋の歩よ。余計なことはしなくていいし考えなくていいの。また必要になったら連絡するから」

「さいですか……」

 

 言い返す気力もない。どう足掻いてもなんやかんやとやり込められることがわかっているからだろうか。それとも、そもそも私が美少女に弱いというのもあるのか。

 最近思うのだが、顔面偏差値が高いこの学校、誰かに何か頼まれごとをされたらホイホイ引き受けそうな気がしている。

 

 すごすごと連絡先を交換して、堀北さんは用件を終えたとばかりに颯爽と去って行った。そして清隆くんは堀北さんが去り、ようやく落ち着いたとばかりにお弁当を食べ始めた。

 

「葵、今日の卵焼きうまくできてないか? 今朝は一つも焦がさなかったんだ」

「それ思った。すごい綺麗だし、味付けも甘口で美味しかったよ」

 

 私の感想を聞いて嬉しそうに目尻が垂れた。直前まで堀北さんとほとんどやり込められていたけど、舌戦を繰り広げていたとは思えない能天気な顔だ。その横でお弁当を食べていた私が言えたことじゃないかもしれないが……。

 明日は私がお弁当を作る番だ。清隆くんだったり私だったり、二人で作ったりとゆる〜くやっている。こんな感じでこれからもゆる〜く学校生活を送りたいものである。……無理だろうなぁ……。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「勉強会は明日から?」

「ああ。櫛田が協力してくれて、堀北が赤点組に勉強を教える。オレたちはおそらくその場にいるだけだな」

 

 清隆くんの部屋でさっき作ったスパゲッティを食べながら、合間に会話をする。櫛田さんを引き込んで3バカを集結させる作戦か。マナー通りに綺麗に食べながら、ふんふん頷く。

 先に食べ終わった清隆くんが誰かとチャットでやりとりしていた。文面を見て少しだけ目を瞠って、感心した様子を見せる。

 

「櫛田の呼びかけもうまくいったみたいだ。これで赤点組も集まるだろう。……ただ、櫛田も勉強会に参加したいみたいだが……まあ、難しいだろうな」

「堀北さん絶対嫌がるやつだよ」

「ああ。だが背に腹は替えられない。堀北にも連絡しておく」

 

 清隆くんが堀北さんにチャットを送ってすぐ電話がかかってくる。はっや。そして話が長くなる予感がビンビンするぞ。

 スパゲッティをちょうど食べ終わり、食べ終わった二人分の食器を流しに置いて水に浸してから部屋に戻ってくる。清隆くんは堀北さんと電話で会話している。

 横で話を聞いているのもあれなので、口パクで『お風呂入ってくるから、その間に済ませててね』と告げれば、軽い首肯が返ってきた。持ってきたお着替えセットを手に浴室に向かう。

 堀北さんとの電話が終われば次は櫛田さんと電話をするはずだ。可愛い女の子と電話しまくりでお母さんは嬉しいよ。

 

 

 お風呂を済ませた私と入れ替わり、今度は清隆くんが浴室に向かう。さらっとした生地の長袖パジャマを纏った私は、ラグマットに座りテレビのリモコンを取った。お笑い番組があったので、それを見ることにする。

 たまに渾身のギャグがあったりして面白いので、お笑い番組を見るのは好きだ。もっぱらテレビをつけたらお笑い番組しか見ない。

 ちょうど面白いギャグがあって一人ケラケラ笑っていると、お風呂を上がったばかりでほかほかしている清隆くんが部屋に戻ってくる。私の隣に座ってテレビに視線をやった。

 ちなみに彼も私と同じさらっとした生地の長袖パジャマを身に纏っていたりする。二人で出かけて二人で同じパジャマを買ったから、まあ自然な流れだ。でも色は違うため、すべてがすべて同じというわけではない。私は深青色で、清隆くんは若草色を選んだ。特に深い意味はなく、なんとなく。

 

「お笑いか?」

「そうそう。今ちょうど面白いギャグ言ってるんだよ〜」

 

 清隆くんにも見るよう言おうとして、面白かった芸人さんはタイミング悪く舞台裏に入ってしまった。今はあまり私の知らない芸人さんがネタを披露している。

 仕方がないのでテレビから目を離し、清隆くんを見た。正確には髪。ところどころ湿っているのを見て、まーた適当に乾かしてきたと白んだ顔をする。

 

「まったく、世話が焼けるなぁ」

 

 洗面台からドライヤーを持ってきて、ベッド近くにあるコンセントにプラグを挿し、清隆くんの背中に回る。ベッドに座り、足で清隆くんの体を挟み込みながら温風を選択した。ぶおーという音とともに清隆くんの柔らかい色をした茶髪が風に揺れる。

 

「悪いな」

「悪いと思ってるならちゃんと乾かしてきなさい」

 

 頭を撫でるように髪を梳きながら、丁寧に乾かしていく。男の子は髪が短くて乾かしやすいから助かる。乾かすのにあまり時間もかからないし、良いところしかないと言える。だから毎度適当に乾かしてくる清隆くんのことが理解できないんだが……。

 乾かし終わって、スイッチを切った。一度ドライヤーを床に置いて、本当に髪が乾き切っているか確認するのに改めて手で髪を梳いていく。……よし、ちゃんと乾いてるな。満足げに息をつき、上から清隆くんの顔を覗き込んだ。

 

「乾いたよ〜清隆くん」

「ん……ああ。ありがとう、葵……」

「どういたしまして」

 

 気持ちよさそうに瞳を閉じていたところ悪いが、今夜はまだ寝かせないぞ。

 さらさらになった髪を手慰みに梳いたり撫で付けたりしつつ、電話の内容を尋ねる。

 

「電話で話し合って、結局どんな感じになったの?」

「オレも、あまりわかってないんだ。櫛田がどうにかするって……堀北は嫌がっていたが、櫛田は何か考えがあると……言って……」

 

 話の最中にも関わらず、清隆くんがうつらうつらと船を漕ぎ出す。もう少し詳しく聞こうかと思ったが、眠そうな顔を見ているとこれ以上無理強いをして話をさせる気になれない。

 

 私は週2、3回清隆くんの部屋にお泊まりするのだが、いつも泊まった日はお風呂から出た清隆くんの髪をドライヤーで乾かして、彼はちょっとしたうたた寝に入る。ドライヤーで髪を乾かしていた体勢のまま寝に入るので、私のお腹にあたまを預ける形だ。私は私でテレビを見ながらちょうどいい位置にある清隆くんの頭を無意識に撫でていたりする。

 たまに視線を下げるのだが、少し上向いてどこか間抜けな顔を無防備に晒して寝ている清隆くんを見るのは、私のちょっとした楽しみだったりする。

 

 と、まあ、そんなわけで。

 

 髪を乾かしてもらってからうたた寝に入るという一連の流れがほとんど習慣化している清隆くんからしたら、今の状況は酷だろう。だいたいの流れは彼が今言った通りだろうし、もちろん私の方も知っているのでこれ以上聞いてもお互いに何の益もない。一応記憶に間違いがないか確認しようとしただけである。

 頭を撫でて「もういいよ。またベッドで寝るときになったら起こすから」と言うと、小さく返事をして寝る体勢に入る。私に凭れて、お腹に頭が預けられる。

 一度頰を撫でてやってから、テレビに視線を向けた。テレビの中で芸人さんがネタを披露し、お客さんの笑い声と私の笑い声が部屋に響く。清隆くんはたまに訪れる私の笑い声による体の震えに眠気が覚めるということもなく、変わらず呑気にすやすやと安らかな顔をして眠っている。

 

 

 お笑い番組が一段落を終えて、時計を見て頃合いが良いこともあり、清隆くんの体を揺らして起こす。ゆっくり開いていく瞳に上から顔を覗き込んでいるためか、どこか間抜けた顔をした私が映っている。

 

「そろそろ寝ようか。清隆くん」

「ん……」

 

 立ち上がって手を差し出した。伸ばされる手を取り、二人で洗面所に向かう。並んで歯磨きをして、それも終えるとまた二人で手を繋いで部屋に戻る。

 いつものように先にベッドに入って壁側に行き、清隆くんが入りやすいよう毛布を持ち上げた。隣に寝そべったのを確認すると、リモコンを取って部屋の明かりを消す。

 清隆くんの体に毛布を被せつつ、私もしっかり包まって眠る体勢に入る。

 

「おやすみ、あおい……」

 

 ぽやっとして眠たそうな声がすぐ耳元でする。体を横に向けて手探りに清隆くんの頰に両手を当て包み込み、一度額を合わせた。それと同時くらいに腰に腕が回り、緩く抱きしめられる。

 密かな笑みをもらして、囁くように言う。

 

「おやすみ、清隆くん」

 

 パジャマの生地越しに肌に馴染んでいく彼の体温が心地良い。同じように、私の体温も彼にとって心地良いものであればいいなと思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 放課後、清隆くんに連れられ、堀北さんについていき図書館に向かう。懇切丁寧に私にやれることはないと説明はしたのだが、堀北さんの眼光に負けた。あと単純に清隆くんが手を離してくれなかったのもある。これは捕まるより先に平田くんに突撃しに行く必要があるな……。

 今後の予定を練っていると、櫛田さんの「連れて来たよ〜!」という明るい声が聞こえてきた。顔を上げ、櫛田さんとその後ろにいる3バカ、あと沖谷くんの姿を目に留める。沖谷くん……可愛いな……こうやって改めて見ると男子とは思えないほど可愛い……。なんでヒロインじゃないの?

 

 じっと見つめていると、何か不穏なものを感じたのか櫛田さんの背中に隠れられてしまった。しまった、邪な感情が漏れ出ていたか…!

 反省して今度は私の方が隣に座っていた清隆くんをうまいこと壁にして隠れる。チラと私を見て、何か察したのか清隆くんも積極的に隠してくれた。

 私と清隆くんを置いて話は進んで行き、最終的にこの場にいる全員が堀北さんの勉強会に参加することが決まる。櫛田さんの説得がうまくいった形だ。聞いていてハラハラしたが、全員無事参加できることになってひとまず安心する。

 

 ……が。やはりすぐに問題は起こった。

 堀北さんのキツい物言い、かつ遠慮の欠片もない正論にまず須藤が切れた。胸倉を掴むくらいの切れ具合、一触即発な空気はとりあえず櫛田さんや須藤自身のなけなしの自制心によって解かれたが、腹の虫が治まるわけもなく勉強会から離脱。それに続く形で池、山内も離脱し、沖谷くんも周りの空気に負け離脱。メイン赤点組が消えた勉強会に意味などない。

 櫛田さんが堀北さんに、清隆くんに縋るように声をかける。しかし結果は無情なものだ。堀北さんがそう判断するなら従うまで、清隆くんが言っていることはそういうことだ。

 櫛田さんが最後に私に縋るような目を向けた。そっと視線を逸らす。それだけで私の立ち位置もわかったんだろう。

 

 悲しいよ、と言った櫛田さんの俯いた瞳にはここからだと涙がうっすら浮かんでいるように見えた。切り替えるように顔を上げた彼女は、だけど気丈で逞しい。

 

「……じゃあね三人とも、また明日」

 

 短い挨拶とともに櫛田さんも去って行き、残ったのは堀北さんと清隆くん、そして役立たずな私である。

 清隆くんが櫛田さんとはまた別の角度で須藤たちを擁護し、櫛田さんを追いかけるためか図書館を出る。そしてさらに残る堀北さんと私。

 

 静まり返った図書館も相まって、ひどく居心地が悪い。座った位置的にも堀北さんの前だったため、気まずさ倍増である。

 なんとなく肩を寄せもぞ……としていると、堀北さんが教科書に目を落としながら静かな声で言った。

 

「あなたは何かないの」

「え?」

「あなたはじっと見ているだけ。聞いているだけで、何も行動を起こさない。何も言わない。いつもそう」

 

 視線は合わない。きっと合わせてくれる気も彼女にはさらさらないだろう。だから私が一方的に見ているだけだ。

 うーん、と小さく唸る。薄っぺらい笑みを浮かべ、それに相応しい薄っぺらいセリフを言う。

 

「私は傍観者でしかないから」

「そう。綾小路くんの事なかれ主義と似ているわね。私には到底理解できない考えだわ」

「ま、似てるのは否定できないかな」

 

 バッサリ切り捨てられるのは想定内だ。会話が終わり再び静寂が落ちると、堀北さんが冷淡に「早く綾小路くんを追いかけでもしたらどう」と言ってくる。提案の形をしているが、これは強制だ。体よくこの場から追い出そうとしているのだろう。裏の意味は『邪魔よ』といったところ、か。

 素直に従い、荷物を持って席を立つ。堀北さんはずっと一人教科書に目を落としている。一瞥して、図書館を出ようと扉を開ける。

 

 ……なんとなく。少しだけ、世話を焼きたくなった。

 孤独な少女を憐れにでも思ったのだろうか。

 

「堀北さん。じゃあ今日は、私も一つだけ言うよ」

「……何かしら」

「孤高はね、人が人を認めて、尊敬して……その根本は人からの好意で生まれるものだよ。今の堀北さんはどうなのかな」

 

 ほとんど言い捨てに近い。開けていたドアを潜って後ろ手に閉めれば、一度も振り返らずに立ち去る。

 

 言われた通り清隆くんでも追いかけようか、と一瞬思ったけれどやめておいた。おそらく今は櫛田さんと屋上に続く階段でドンパチ(語弊あり)している頃なんじゃないだろうか。追いかけて二次被害を被るのは勘弁願いたい。あと素直に櫛田さんに敵認定されたくない。これが一番強い。

 私は可愛い櫛田さんが好きです。でも可愛くない櫛田さんも可愛くて好き。どっちも好きだけど、敵認定はされたくない。この気持ちわかってほしい。

 

 一人帰路につきながら、『そういや清隆くん、櫛田さんの胸揉んでるのかな……』とすごくしょうもないことに思いを馳せた。

 いいなぁ……私も今度水泳の授業とかあったら着替えるときに揉ませてもらおうかなぁ……無理かなぁ……。

 

 

 

 

 自分の部屋に帰って先にご飯を作っていると、清隆くんが帰ってきた。具沢山チャーハンに目を輝かせている。

 時間もちょうどいいのでテーブルの準備は任せ、お皿に大盛りによそったチャーハンを二つ運ぶ。もちろん私も大盛りだ。私も基本的には大食いなのである。

 ホワイトルームにいた頃より頭にも体にも負荷をかけまくり日夜訓練に明け暮れていたので、気づけばもりもり食べる系女子になっていた。胃が馬鹿になっているのかと問われたら、否定はできないかもしれない。

 

 さっそくマナー良く、しかしもりもり食べている清隆くんを向かい側に座って見ていると、自然と笑みが浮かんできた。こうやって清隆くんと二人で過ごしているときが一番平和であることを実感する。願わくば、……いや。人が永遠を望むのは傲慢すぎるだろう。

 そうだな、と代替を考える。清隆くんが視線を上げ、ちょうど目が合う。

 

「葵?」

 

 ……うん、と一つ頷いた。こっちを見ている清隆くんに軽く笑いかける。

 

「いやぁ、2回目だからかうまくチャーハン出来てよかったなぁって思ったんだよ」

「ああ、なるほど。1回目は……キッチン周辺が悲惨なことになったもんな」

「最初っからプロみたいに空中にお米を浮かべて作ろうとしたらダメだね。反省した」

「料理は奥が深いよな……次はオレに作らせてくれ。オレも今度こそうまくやってみせる」

「いいね。じゃあ次は清隆くんよろしく」

 

 そう思えば、願いはずっと変わっていない気がする。健気なものだ。健気というか、頑固なのだろうか。

 

 いつか私がこの目で願いが叶ったことを、知らないうちに叶っていたことを確認できたならば、私はきっと嬉しすぎて幸せ過ぎて、たとえ一人でだってなんだってできるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 




土日は定期更新お休みします、すみません
また月曜から定期で更新していく予定です
一章が終わるまで残すところ後三話ほどですが、最後までお付き合いしてくださると嬉しいです


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劇的アイロニー

櫛田さんと綾小路くんの屋上に続く階段でのひととき



 

 

「今ここで、あんたにレイプされそうになったって言いふらしてやる」

「冤罪だぞ、それ」

「大丈夫よ、冤罪じゃないから」

 

 櫛田は壁に追い詰めた男に手を伸ばす。先の発言を事実にするためだった。

 

 

「───やめろ」

 

「ッ……!」

 

 

 掴もうとした手はしかし、いつのまにか雑に跳ね除けられていた。痛くはない、が、乾いた音とともに衝撃が走ったのは言うまでもない。

 

 弾かれた手を胸の前で抱えるように持つ。淡々とした瞳でこちらをただ見下ろしているだけの彼に、一瞬恐怖を覚えた。

 その恐怖を覆い隠すように怒りに塗り替えて目を吊り上げ、キツく睨みつける。

 

「なにするの」

「それはオレのセリフだ。今、オレに何させようとしたんだ」

「別になんでもいいでしょ」

「レイプ、冤罪じゃない………考えられるのは大方、オレにお前への身体的な接触をさせようとした、か。胸でも触らせようとしたのか?」

「へえ……よくわかるね。だから?」

 

 お互いに無言で見つめ合う。片方は殺人でも犯したかのような暗く鋭い目なのに対し、もう片方は人への興味を極限まで失っているかのような無気質な目だ。冷酷とも違う、ただ本当に目の前の事象に興味がないだけだとわかるからなおさら、櫛田はその薄気味悪さに口を歪めた。

 

「ハッ……ほんと、きっしょくわるい男。他人に無関心なくせに、一人だけ異常に視界に入れたがる。側に置きたがる」

「……突然何を言ってる」

「自覚もないときた。最高ね」

 

 最大限に嘲りを込めて不遜に笑ってやる。目の前の男の表情が先ほどとは異なり、どこか困惑した様子を見せるのが少しだけ愉快だった。

 

 笑うだけでそれ以上櫛田は何も告げるつもりがないとわかり、男が───綾小路が話を戻す。

 

「お前はオレが今見たことを話すかもしれないと警戒して、もしもの場合を考えてこっちを脅す物証を求めている。そうだな」

「そうよ。じゃないと安心できない」

「じゃあ脱げ」

「…………は? いきなり何。頭いってんの? 脱ぐわけないでしょこのド変態野郎」

「……間違えた。違う、上着だけでいい。言葉が足りなかったな、悪い」

「きっも」

 

 訝しみながら上着だけを脱ぎ、櫛田が再度綾小路を睨み上げる。綾小路はその視線を意に介さず上着を受け取り、数秒観察してから胸元付近を握り込んだ。

 その行動に意表を突かれたのは櫛田だ。呆気に取られた顔をして、呆然と綾小路の珍行動を見ている。

 

「……なにしてんのよ」

「お前がお望みの証拠を快く提供しようとしてるだけだ」

 

 櫛田は差し出された上着を引ったくりたい気持ちを抑え、ゆっくりと受け取る。慎重に上着を羽織り、落ち着けばまた綾小路を睨みつけた。

 

「……一体どういうつもり? 自分から脅される材料を作るなんて」

「今のお前は何をしでかすかわからない。最悪オレに飛びかかりでもしそうだ。階段という不安定な場所で襲い掛かられたら、二人揃って大怪我だぞ。それを未然に防ぐため行動しただけだ」

 

 櫛田もこんな不安定な場所で襲い掛かるほど後先を考えない馬鹿ではない。遠回しに馬鹿にされているように感じ、綾小路を見る目に憎悪に近い嫌悪感が滲む。

 その目を見て櫛田が何を思ったのか気づいた様子で、綾小路は慌てたように手を振って否定の意を示した。

 

「ち、違うぞ。櫛田を馬鹿にしたわけじゃない。ただ、今のお前は焦っているように見える。オレに胸を触らせようとしたのだって、衝動的だったんじゃないか?」

「……まあ……少し慌てていたのは本当かな。でも、なら、そんな風に私が胸を触らせるってわかってたなら大人しく受け入れてもよかったんじゃない? せっかくの機会じゃん」

「つまり櫛田は男に平気で胸を触らせるビッチ認定ってことでよろしいか?」

 

 突如綾小路の太腿に衝撃が走った。体がふらつき、慌てて手すりに捕まる。

 

「危なっ! 落ちたら怪我するぞ!」

「バカ言うからだよ!」

 

 櫛田は怒りで顔を赤くし、噛みつく勢いで綾小路を怒鳴りつける。体勢を整えた綾小路が居心地悪そうに頭を軽く掻いた。

 

「……あまり……触られたくないんだよ。本当にお前を馬鹿にしたわけじゃないんだ。ちょっと誤魔化そうとしたけど……」

「わかってる。あんた、潔癖症のきらいもあるよね。というより、他人から触れられるのが嫌なタイプ? ことごとく私との接触避けてくれちゃって」

「……潔癖症なのか。オレ」

「………まさか、その自覚もなかったわけ?」

 

 櫛田は一瞬唖然として、すぐに呆れた顔をした。首を軽く振って面倒くさそうにため息をつく。そして「薮はつつきたくないんだよね」と小さくぼやいた。

 

「……? 薮……?」

「こっちの話。あんたには全然関係ないから」

 

 バッサリ切り捨てる。綾小路は詳しく話を聞きたそうにしていたが、櫛田は視線を外していていくら見ていても目が合いそうにないのがわかった。加えて彼女自身も綾小路を拒絶している空気を前面に醸し出している。

 譲ってくれそうにない雰囲気にそれ以上の追及を諦め、綾小路が改まったように尋ねる。

 

「なあ櫛田。どっちが本当のお前なんだ?」

 

 ……至極面倒くさい質問だ、と櫛田は内心で舌打ちをした。いやたぶん表にも出ていた。綾小路が一瞬肩をビクつかたのが見えたからだ。

 櫛田からしたらどっちを聞かれても面倒くさいことに変わりはないが、しつこく尋ねられるならこちらの方が幾ばくかマシだろうか、と冷静に判断する。

 

 まあ、だからといって素直にその質問に答えましょうなんて一言は絶対に口にしないが。

 

「そんなこと、あんたには関係ない」

「そうだな……。ただ、今のお前を見てどうしても気になった。堀北のことが嫌いなら自分から関わる必要はないだろ」

「誰からも好かれるよう努力することが悪いこと? それがどれだけ難しくて大変なことか、あんたに分かる? 分かるわけないよね?」

 

 嫌いな女の名前が出ても、不愉快になるだけでそれ以上もそれ以下もない。ただ腹立つことには変わりはないので、憂さ晴らしも兼ねて会話の途中で吐き捨てるように言ってやる。

 

「この際だから言っておくけど、あんたみたいな暗くて地味な男、凄く嫌い」

「そうか。残念だな」

 

 残念だと本当に思っているなら多少は態度に出るだろ。

 

 ぶっちゃけトークをしてやったというのにこんな薄い反応が返ってくるのだから、櫛田は余計に気が立った。気に食わない。さすがMr.無関心男、なんていつも内心で呼んでいた渾名を今日も頭の中で思い浮かべる。

 しかし同時に、その誰にも向かない代わりに唯一人に集中している執着を考えると、まあ妥当というか、少し胸がすく心地がする。これは馬鹿にしているという意味で。

 

 会話は続く。堀北堀北と煩くて、櫛田は次第に苛つきが増していく。綾小路の追及、それに基づく疑問があながち外れていないどころか、極めて正確に的を射ているからだ。

 さっさとこの時間を終わらせたくて、強引に話を端折る。

 

「もういい、黙って。これ以上綾小路くんと話してるとイライラしてくるから。私が言いたいのは一つだけ。今ここで知ったことを、誰にも話さないって誓えるかどうか」

「約束する。それに、もしオレがお前のことを話しても誰も信じないさ。だろ?」

「……水元さんは、わかんないよ」

「葵にも言わない」

 

 櫛田がじっと真っ暗な瞳で綾小路を見つめる。しばらく経って、低い声で言った。

 

 

「……わかった。綾小路くんを信じる」

 

 

 一度目を閉じる。ゆっくりと息を吐いて、心臓を、煮えた頭を落ち着ける。

 

「オレを信じられる要素なんてあるのか?」

「………綾小路くんってさ、余計なこと言わないと生きていけないタイプの人?」

「すまん、つい……」

 

 櫛田がギロッと綾小路を睨みつけるも、それで引き下がるようならそもそも聞いてこないだろう。

 逡巡して、ゆっくりと口を開く。堀北の性格上、誰彼構わず心を許さないこと。綾小路からは即座に「心は絶対許してない。絶対にだ」と返ってきたが、この際そこはどうでもいい。

 櫛田にとって嫌いな女の名前を出してまでこの話をしたのは、あくまで蛇足に過ぎない。綾小路が聞きたいのは、どうして己が信用に値したのか、その理由だ。先にした話はカモフラージュのようなものだった。さて、どうしてカモフラージュをする必要があるのか。

 

「私、人を見る目はあるつもりなんだよ」

 

 櫛田には綾小路を絶対的に信用できる材料は確実に一つある。しかしそれもまた、諸刃の剣であることには違いはないだろう。

 

 つまり、藪をつつかないに越したことはないということだ。

 

 

 

 

 聞きたいことを聞き終え、綾小路は満足したのか櫛田へのそれ以上の追及の手をようやく止めた。櫛田も会話しているうちに普段の自分と遜色ないくらいにまで落ち着き、「ちょっと待ってて」と言えば階段を上がって鞄を取りに戻る。

 綾小路のもとまで再度やってくると、いつものように、まるで天使のような裏表のない満面の笑みで言う。

 

「一緒に帰ろっか」

「あ、ああ」

 

 綾小路は櫛田の早変わりに少し面食らったように返事を詰まらせたものの、素直に二人で並んで帰路についた。

 

 二人で並んで帰っているその道中、櫛田はふと魔が差した。悪戯心とは違う。私に散々嫌な質問責めをしたんだから、それなら綾小路も同様に何か悩み苦しめばいいと思った。いや……悩み苦しむのではなく、少し路線を変えてみて……。

 薮をつつくのは本意ではない。だから、あくまで抽象的に、本人が勝手にぐるぐるとどん詰まりになるように。

 

 

「可哀想だね」

 

 

 会話の流れを一旦ぶった切る。綾小路が眉をひそめてこっちを見る。

 

「急になんだ?」

「あんたたち、たぶん碌なことにならない」

「……? たち、か? オレだけじゃなく?」

「私、さっきも言ったけど。人を見る目は確かなんだよ?」

 

 綾小路の疑問には一切答えない。櫛田は口元だけで痛ぶるように笑ってみせて、一片の笑みも滲まない鋭い目で綾小路を見た。

 しかし、それも一瞬のことで、先の表情はすべて幻だったみたいに弾けるような明るい笑顔に塗り替わっている。

 

 

「じゃあね、綾小路くん。また明日っ!」

 

 

 可愛らしく手を振って寮で別れる。後ろから視線を感じていたが、振り向くわけがない。

 櫛田は早々に頭の中から先程の会話を、そこで巡らせた考えを切り捨て、明日の予定について思いを馳せた。

 

 

 そうだ、明日はみーちゃんたちとお出かけする予定があったんだ。着ていく服を今日の夜のうちにちゃんと選んでおかないとっ!

 

 

 

 

 



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兄妹の確執

 今日は一緒に寝たいとお願いされたため、断る理由もないので手を繋いで清隆くんの部屋に向かう。

 順番にお風呂に入るまではよかったのだが、どうも清隆くんの寝付きが悪いようだ。ドライヤーで彼の髪を乾かしている最中もパッチリ目が開いている。俯き加減になって、何か考えているように見えた。

 

 なんにせよ彼がおかしなことに変わりはない。

 ドライヤーをしているとき、いつもうつらうつらと眠そうにするのに、今日は一切そんな様子を見せない。一体どうしたんだろうか。

 髪を乾かし終えてスイッチを切り、床にドライヤーを置く。とんとんと清隆くんの肩を叩いた。

 

「今日は全然眠そうじゃないね。何かあった?」

「……いや……」

 

 返事の歯切れも悪い。これは本格的におかしいぞ。

 

 首を傾げつつ何があったか追及しようとする私を躱し、清隆くんが立ち上がって「ちょっと外出てくる」と言う。ぽかんとしている私を置いてパジャマから軽装に着替えると、一人さっさと部屋を出て行ってしまった。

 

 様子のおかしい清隆くんを放っておけるわけがない。我に返り、慌てて清隆くんの後を追う。清隆くんの部屋に置きっぱなしにしている自身の軽装に着替えて、後を追うように部屋を出る。

 エレベーターの前まで行けば、下に降りていく清隆くんの姿がモニターに映っていた。このままだとエレベーターが再び上がってくるのを待っている間に彼の姿を見失ってしまう可能性もある。

 帰ったらもう一度お風呂に入ることを決め、私は階段を一気に駆け降りた。

 

 

 

 一階に着くと、ロビーにある自販機の前で立っている清隆くんを発見する。どうやら本当に外にまで出て行くつもりはなかったらしい。走って損した。

 若干脱力しつつも、今度は落ち着いて清隆くんの元まで歩いていく。清隆くんは私に気づくと少し目を丸くした。

 

「葵。どうしたんだ?」

「清隆くんが急に出て行くから、心配になって追いかけたんだよ」

「それは……悪いことしたな」

「反省して」

 

 謝罪の念を示すためか、私の分まで自販機で飲み物を買ってくれる。走って喉が渇いていたのもあり、素直に受け取ってすぐに蓋を開けた。

 こくこくと喉を鳴らして中の飲み物の量を順調に減らしていく。半分ほどお腹に収めたところで満足し、口を離した。清隆くんが自身の分の飲み物に口をつけながら、私を見ている。首を傾げて見つめ返す。

 

「清隆くん?」

「……いや……」

 

 返事の歯切れが悪い清隆くんは健在だ。眉をひそめて距離を詰めた。清隆くんが言い渋るなんてよっぽどのことだろうか? 一応話を聞いて状況を把握しておきたい。何か手伝えることが……少しはあるかもしれないし。

 

 問い詰めようと口を開く前に、逃げるように私より向こう側に視線をやった清隆くんが「あ」という間抜けた声を出した。視線を追って振り向き、私も「あ」と間抜けた声をこぼす。

 モニターには堀北さんが映っていた。どうやら下に降りてきているらしい。

 

「葵、こっちだ」

 

 手を引かれ一緒に自販機の陰に隠れた。少しでも体を小さくするため清隆くんは私を抱き締めるし、私も清隆くんに体を押し付ける。

 堀北さんが周囲を警戒しながら寮の外へ出て行くのが見えた。こんな時間に、それも制服でどこへ行くのか……と、思ったところで思い出した。

 そうか、今日だったか。堀北さんの『私のために争わないで!』事件。これは原作ファンとして見逃すわけにはいかない。完全な野次馬目線である。

 

 ワクワクして清隆くんの次の行動を待っていた私だったが、しかし彼はなぜか一向に動きそうにない。不思議に思い、首を傾げながらちょいちょいと服の袖を引っ張った。

 

「堀北さん、こんな時間に外に出かけるなんて心配だよ。追いかけないと」

「……そう……だな」

「……?」

 

 肯定の返事をしながらも、やはり動く気配はない。腰に回った腕が私を抱き締めたまま離れない。いや、ぎこちなく固まっている……といった方が正しいのだろうか?

 なんにせよ、このまま彼が動かないままだと私は事件の決定的瞬間を見逃してしまう。メインにはこの清隆くんがいるのだ。私には最後まで監督責任があると言える。言えるよね?

 

「清隆くん、行こう」

 

 私から無理矢理体を離し、手を取った。清隆くんが繋がれた手を見てから私を見る。

 一度不自然に力を込め、まやかしだったみたいにいつもと同じ握る強さに戻った。

 

「……ああ。追いかけよう」

 

 静かに、だけど素早く堀北さんの後を追う。その道中で私は繋いでいた手を離そうとする。清隆くんはチラと私を見たが、今は堀北さんを優先するべきという意思が伝わったのか素直に離されてくれた。

 清隆くんは堀北さんを兄の魔の手から救うためにすぐに飛び出すことになる。そのとき邪魔になるだけの私は必要ないのだ。

 

 

 

 堀北さんはすぐに見つかった。堀北兄に片手を頭上で磔にされ、動けなくされている。その上でほとんど一方的な押し問答のような会話を繰り広げており、状況も相まってなんか犯罪臭しかしない。

 ちなみにどちらも美男美女だからって許される場合と許されない場合があります。今回は事情を知っているから前者なだけだ。犯罪はダメ、絶対。

 

 いやそれにしてもは〜〜堀北兄……堀北さんの男バージョン……部活動紹介のときも思ってたけど、やっぱりカッコいいよな……。

 

 心の邪念を隠し、さらに清隆くんの背後に隠れながら慎重に彼らの様子を窺う。なおうきうきと心が躍っているのは大目に見てほしい。

 だって今からあの有名なシーンが! 見れるんだ! ぞ! この場で踊っていないだけマシだと思ってほしい。

 

「どんなにお前を避けたところで、俺の妹であることに変わりはない。お前のことが周囲に知られれば、恥をかくことになるのはこの俺だ。今すぐこの学校を去れ」

「で、出来ません……っ。私は、絶対にAクラスに上がって見せます……!」

「愚かだな、本当に。昔のように痛い目を見ておくか?」

「兄さん、私は───」

 

「お前には上を目指す力も資格もない。それを知れ」

 

 私から見ても直感的に危険だとわかる堀北兄の動き。

 清隆くんがそれを見て咄嗟に弾丸のように、しかし極限まで気配も音も殺して一緒に隠れていた物陰から飛び出すのを私は見送った。このとき脳内トロピカルパレードだったことは先に弁明しておく。

 

 背後から手首を捕らえられた堀北兄は、訝しげに視線を移動させ低い声で問うた。

 

「……何だ? お前は」

「あんた、今堀北を投げ飛ばそうとしただろ」

 

 興奮で今なら床をのたうち回れそう。堀北兄と清隆くん念願の邂逅! 交わす鋭い視線! 殺伐とした会話! 全部素晴らしい!

 

「やめて、綾小路くん……」

 

 そして堀北さんの意訳『私のために争わないで』発言もキタァァー! よし満足した。帰るか。

 いや冷静に考えたらメインの戦闘シーン見てなかったな。もうしばらくここに居ることにするか。

 

 この思考をする間1秒にも満たなかったのだが、彼らが戦闘に移るまでも1秒に満たなかった。目を離す隙などない。本当に一瞬だった。二人とも判断が早い。

 いや……いや。いや……私じゃなきゃ見逃しちゃうね。マジで。冗談じゃなく。この時だけはホワイトルームで鍛えられてよかったと思った。私にこんなこと思わせるとかとんでもないお二方である。ありがとうホワイトルーム、ホワイトルームには二度と戻りたくありません。

 

 戦闘は瞬きの間に終わってしまったが、その間に詰め込まれた二人の挙動の数々に興奮を隠せない。隠すけど。たぶん部屋に帰ったら我慢した反動がやってくる。ベッドに寝っ転がってもしばらく目ギンギンになって起きてる。なお私の中では割と高頻度で起こっていることだったりある。

 

 いや……にしてもカッコよ……堀北兄の鋭い攻撃はもちろんのこと、その全てに対応して避ける清隆くんハァ〜〜〜これはモテる……絶対……そりゃモテるよこんなの……こんな……。

 見惚れすぎて茫然としてしまう。何か習っていたのかと聞かれて「ピアノと書道なら」とかさらっと宣う清隆くんも最高。私も習ってたよ。ちなみに茶道も習ってた。清隆くんの勇姿はしっかりこの目に収めております。

 

 清隆くんと手合わせし、その強さに興味を引かれた堀北兄がどこか機嫌良さそうにしながら後を去る。寮に帰ろうとする。

 清隆くんの隣を通り過ぎて、私が隠れた物陰の横も───

 

 

「お前は誰だ?」

 

「!」

 

 

 あまりの萌に立ち上がったままでいられず、結果的にしゃがんで隠れていた私の存在に堀北兄は目敏く気づいたらしい。いつのまにか堀北さんとよく似た瞳が私を冷徹に見下ろしていた。

 その過程で一瞬で私の体に覆い被さるように壁に手を突き、何処にも逃げられなくするという芸当にまで出ている。もとより私の方には逃げるつもりも反応する気もなかったのだが。

 

「……女子か? どうしてこんなところに……」

 

 いや、近くで見るとさらにカッコいいな……眼鏡クールイケメン……もしかしたら堀北さんと同じタイプのツンデレタイプかもしれない。要素詰め込みすぎじゃない? 大丈夫??

 

 頭トリップからのしょうもない心配をして何も反応しない私に、堀北兄がじっとこちらを観察し無言で見下ろしながらも徐々に訝しげになる。なおその間も反応は一切しない。なぜなら頭がトリップしているからである。

 堀北兄、女子相手だからすぐには手を出さない紳士スタイルを保っているが、おそらくこの人は理由があれば容赦なく女子相手にも実力行使に出られるタイプと見た。清隆くんと一緒だ。そして今は明確な理由がないため手を出せない。助かったぜ!

 

「女子生徒がなぜ此処にいる。……私たちの話を聞いて───」

 

 

「おい」

 

 

 堀北兄の声に割り込む、先ほど彼と対峙していた時と随分異なり、凍てつくような圧を孕んだ清隆くんの声が耳を突く。

 

 清隆くんは壁に突いていた堀北兄の手を堀北さんを救った時と同様に後ろに持っていき、頑丈に押さえ込んでいた。堀北兄の手首がミシミシ言ってる気がする。さっきもこんなに強く押さえ込んでいたのだろうか。救うにしても随分過激じゃないだろうか。

 

「触れるな」

「……なるほど。お前の連れだったか」

「触れるなと言っている」

「触れていない。まずは手を離せ」

 

 今の状態の清隆くんに何を言っても無駄だと判断したらしい。体から力を抜き無抵抗であることを示した堀北兄に、清隆くんが警戒しながらも手首を掴んでいた力を緩める。

 あっさり離れてみせた堀北兄が、私を隠すような立ち位置に変えた清隆くんを対面にしてどこか愉快そうにしていた。

 

「ふむ。譲れないものがあることは良いことだ。お前にもちゃんとあるんだな。少し安心した」

「…………」

「触れていないと言っているだろう」

 

 私からは見えないが、清隆くんの表情を目の当たりにしている堀北兄が再度きっちりと否の言葉を返した。清隆くんどんだけ疑っているんだ。

 私からも堀北兄の肩を持つ一言を言おうとして、後ろ手に『声を出すな』とジェスチャーされた。大人しく開きかけていた口を閉じる。

 

 両者の間で流れた沈黙は案外短いものだった。

 

 

「わかった。これ以上長居はしない。私も用事は済んだ、これで立ち去るとしよう」

 

 

 あっさり引いた堀北兄がこの場を立ち去って行く微かな足音がする。清隆くんは動かずじっと暗闇の向こうを見ている。

 しばらく待ちようやく私の方を振り向いた。手を差し出してくれるので、素直に助けを借りて立ち上がる。その際繋いだ手はそのままに、清隆くんが私を連れて足を進め、再び堀北さんの前に戻った。

 

 壁にもたれて俯いていた堀北さんが二人分の足音に気づいたのか、勢いよく顔を上げて私の姿を目に留める。

 ……あの人じゃない。一瞬だけそんな顔をした。

 

「水元さんまで、どうして此処に……」

 

 いつも凛とツンとした堀北さんからは想像もできないほど精彩を欠き、どこか悲壮さを思わせる声。とても誤魔化して笑える空気じゃない。

 何か言おうとして口を開いたが、それより先に堀北さんが自嘲するように口元を笑みの形に歪めた。

 

「……そうね。あなたたちのどちらかがいたら、もう片方も揃ってる。そう思った方がいいわね」

 

 そんなことはないと思うけどな……別に常に一緒にいるわけじゃないし。

 とは思うものの、何も言わなかった。とてもそんなことを言える空気じゃない。清隆くんも同じような心境だろう。

 

 堀北さんが一度首を軽く振り、気丈に前を見据えた。それでもどこか滲むような弱々しさを感じてしまうのは仕方のないことだ。

 

「戻りましょう。時間も時間だわ、明日に響いてしまう」

 

 

 

 寮のエントランスに向かう。その途中で、清隆くんが堀北さんに声をかけた。赤点組たちの救済の話だ。

 私がのこのこ頭を突っ込んでいい話ではない。大人しく二人の会話を聞くことにする。

 

 堀北さんが言う。あなたは何のために私をそうまで説得するのか。理由を、その真意を問う。

 そして私は、清隆くんがどう答えるかを知っている。

 

「知りたいからだ。本当の実力って奴が何なのか。平等ってのが、何なのかを」

 

 そうだろう。知っている。私が多少なりとも介入したとはいえ、清隆くんはその答えを知りたくて此処に来た。作られた結論を誰かに突き崩して欲しくて、此処に来た。

 凪いだ気持ちでそれを聞いている私の手に、ふと力を込められる。

 

 

「そして……いや。……あと一つは、オレもまだよくわかっていない。だから今はこれ以上何も言えないな」

 

 

「……何それ。ふざけているの?」

「悪い」

 

 本当にわかっていない雰囲気、さらに本当にそれを申し訳なく思う気持ちが伝わってくるような悄気た声での短い謝罪の言葉に、逆に堀北さんがたじろいだ。私も猫目になって隣の清隆くんを見上げていた。

 

 えっ……あれ……『あと一つ』って何……? えっそんなのあったっけ……?

 

 記憶の中をいくら探しても見つからない。

 眉をひそめ困惑している私に、出鼻を挫かれ清隆くんへのそれ以上の追及を諦めた堀北さんが矛先を向けて来た。

 

「じゃあ、水元さんはどうなのかしら。彼と同じく何か理由があるでしょう?」

「えっ? いや、私関係ない……」

「いいえ。関係ならある。少なくとも、私たちの会話を聞いている。それだけであなたが話す理由は十分よ」

 

 堀北さんらしい理不尽な要求というかなんというか……でもまあ、意見はしていないと言っても、他の人が聞けないような二人の話を私が聞いているのは事実だ。私からも何か明かさないと、彼女は納得しないだろう。

 

 うーんと首を傾げる。改めて問われると難しいものだ。理由、理由か。彼女が私に何か問おうとするなら、なぜ何もしないのか、だろうか。

 数秒考えるものの、至って私の考えはシンプルなものであり変にこねくり回せば余計突っ込まれると思って、結局頭に浮かんだまま話すことに決めた。

 

「私はね、この世界が好きだよ」

「……突然、可笑しなことを言うわね」

「おかしくないよ。好きだから、傍観するんだよ。私が手を加えることによって、世界が歪むのが許せない」

「随分抽象的ね。それに、傲慢でもある」

 

 傲慢。的を射った言葉に思わず笑みが溢れた。堀北さんのこういう色んな意味で鋭くて、容赦のないところが好ましい。

 

「そうだね。そうかもしれない。……だから、私は……」

 

 

 ……はた、と言葉を止める。

 自分でも気づかないうちに、少し感情的になっていたみたいだ。堀北さんの裏表のない素直さに引き摺られでもしたのだろうか。

 言葉を待っている堀北さんと、じっと私を見ている清隆くんの存在に今さら気づく。少なくとも彼に聞かせる話ではない。……いや。誰に聞かせるつもりもない。

 

 たは、と空気を払拭するふざけた笑みを浮かべる。どこか拍子抜けしたように堀北さんが少しだけ目を丸めた。

 

「だから私は、これからも何もするつもりがないよ。良くも悪くも、ね」

 

 続ける言葉として不自然ではないはずだ。現に堀北さんは怒りの表情を浮かべている。

 

「あなたは……いえ、あなたたちは本当にふざけているわね。真面目に話を聞こうとした私が馬鹿みたいだわ。水元さんなんて特に」

「すみません……」

 

 謝罪の念は本当だ。私は真実、誠実にはなれない。どこまでも利己主義であり、ゆえに誰とも分かり合えない。一人だけ共感できそうな人物はいるが、やはり関わるつもりも毛頭ないので結局いつまでも一人ぼっちのままだろう。

 しかし望むところだ。もとより私はその覚悟でここまでやってきた。今さら後戻りするつもりも、ない。

 

 堀北さんが一度わざとらしくため息を吐く。私たちに聞かせるつもりなのは丸わかりだ。清隆くんと一緒に素直に彼女のため息を聞く。

 その態度も癪に障ったのだろうが、これ以上は時間の無駄だと判断したのか、堀北さんは今までの話を簡潔に締め括りにいく。

 

「私は私自身のために須藤くんたちの面倒を見る。彼らを残すことでこれから先有利に運ぶことに期待しての打算的な考え。それでもいい?」

「安心しろ。お前がそれ以外で動くとは思っていない。その方が堀北らしいし」

「右に同じく。さすが堀北さん、そこに痺れる憧れるゥ」

「なぜそこで痺れる必要があるの?」

「まさかこの定型句を知らない……だと……!?」

 

 戦慄している私にくだらないことを言われたと察したのか、冷めた目が向けられた。

 

「とにかく。これで契約成立ね」

 

 堀北さんが手を差し出す。清隆くんが先にその手を取り握手を交わして、今度は私に向けて堀北さんが手を差し出してくる。

 躊躇したのは事実だ。しかしここで私が堀北さんを無視することで発生するデメリット等考えると、握手くらい交わしていても何も問題はないだろう。あと美少女と触れ合う機会は積極的に回収していきたいという熱い思いもある。

 

 握った手は女の子らしく柔らかかった。

 

 なのに私を見る瞳は真っ直ぐで凛としていて、好きだなぁ、と純粋にそう思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 翌日の放課後。私は清隆くん、堀北さん、櫛田さんの三人がカフェパレットに向かうのを笑顔で手を振って見送った。清隆くんの視線が鋭かったのはご愛嬌である。

 いや私、平田くんの勉強会ちゃんと予約したから……清隆くんがトイレで教室からいなくなっていた間に……。つまり先約があるんだから仕方なくない?

 だって一度は受けてみたかったんだもん。とかわいこぶって言ったら「………………」と無言の圧をかけられた。これは寮に帰ったら執念く追及されるパターンだと察した。

 

 清隆くんは最後まで私を冷ややかな目で見ていたが、堀北さんたちに連れられ教室を去っていった。

 堀北さんにも平田くんの勉強会に参加することを言ったらお叱りの言葉を受けたが、「いやだから傍観者だって言ったじゃん」と開き直ったら清隆くんに負けない冷めた目を向けられた。う〜ん嫌な予感コンボ決まったな。

 

 

 まあそういうもろもろの問題は遥か彼方にボッシュートを決め、先生の授業みたいな講義形式を取る平田くんの勉強会は充分に楽しめたと言える。イケメンがする授業ってだけでまず話を聞く気が芽生えるのだから、美形っていうのは本当にお得だ。ほいほいつられている私が言うのだから説得力がすごい。

 平田くんは授業中でも変わらず競争率は高かったが、適当な質問をでっちあげて隣まで来てもらったりといろいろ試行錯誤したりもした。お前はどこに試行錯誤しているんだという清隆くんの呆れたツッコミが聞こえるようだ。

 ちなみに私の背後から腕を伸ばす形でノートを指差し疑問に答えてくれた平田くんから漂う匂いは素晴らしくイケメンだったとだけ言い残しておこう。イケメンは香りまでイケメンだからイケメンなのだ。世の真理だね。

 

 先ほど充分に楽しめたとは言ったが、息抜きとか目の保養にちょうどいいので今後も定期的に参加したい所存である。平田くんには先んじて許可を取った。

 爽やかな笑顔で「もちろん、気軽に来てもらえると嬉しいよ。一緒に勉強頑張ろうね」とまで言われて快く了承してもらえた。う〜んファンサがすごい。

 平田くんの勉強会には平田くん本人のみならず、クラスの美少女たちが自然と集ってくる。鑑賞の合間にちょっと勉強するのがちょうどいいのだ。間違えた。勉強の合間にちょっと鑑賞するのがちょうどいいのだ。

 

 平田くんの勉強会を終え、気分上々に帰路につく。玄関のドアを開ければ清隆くんが出迎えてくれる。放課後に見せた鋭い目は健在であった。

 

「楽しかったか? 平田主催の勉強会は」

 

 声に若干トゲトゲしさを感じる。倒置法を用いてくるとは、なかなかやるな。

 その高度な話術に応えるべく、私は極めて素直に返事をした。

 

「最高でした」

 

 

 

 なおその後機嫌を低空飛行させた清隆くんは、しばらくの間上からのしかかって体重をかけてくるという地味に嫌な手段に出た。

 仕方がないのでおんぶをして移動しようとしたら、慌てて退いたのは正直指を差して爆笑した。爆笑する私にまたもむすっと機嫌を悪化させたのは言うまでもないが、でも勝手に笑い声が出てしまうのだから仕方ない。

 

 見るかこの二の腕の力瘤を。

 清隆くん一人抱えて歩くくらい、私にとったら造作もないのだ。

 

 

 



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ビューティフルデイズ

一章が終わるまであと一話です



 

 

 

 勉強会は無事再結成され、なんだかんだ順調に回っているようだった。

 

 なぜこんなに他人事のような口調をしているのかというと、私が平田くんの勉強会に参加した日に彼らは彼らのみでうまく話を進め、私はその詳細を知らないからである。

 そこまでに至るまでの経緯は昨日清隆くんに聞かせてもらったが、私の預かり知らぬところで進んだ話であるのに違いはないため、やはり他人事のように感じてしまう。

 私自身前の方の席であるし、後ろを振り向いて赤点組の以前とは打って変わった真面目な様子を見ることができないのも理由の一つだろう。

 

 4月とは比べようがない先生の声と教科書のページを捲る音、シャーペンを動かす音だけが響く静かな教室で、机に肘をついてぼーっと黒板を見る。

 一度あくびを噛み殺し、握ったシャーペンで黒板の文字を書き写すだけの作業に戻った。

 

 

 

 昼のチャイムが鳴ると同時に、池たちが一目散に食堂へと駆けて行った。あまりの足の速さに少しだけ唖然として、池たちが消えていった教室のドアを見てしまう。本当にやる気があるんだな……。

 私も昼食を終えたら、図書館に行かなければならない。朝から堀北さんにこってり絞られたからだ。今回は逃すつもりはないらしい。

 別に逃げんて。平田くんの勉強会にはまた参加するけど。

 

 今日はお弁当を作ってきていないため、清隆くんと一緒にコンビニ飯にするつもりだ。ついでに今日はカップ麺を食べる予定で来ている。余談だが、カップ麺を定期的に買って食べるのは私たちの間では通例だったりする。

 一度二人で好奇心に赴かれるままカップ麺を買って家で食べたのだが、一口食べて感動し合ったのは記憶に新しい。私はかろうじて前世の記憶からカップ麺の感じはわかっているつもりだったのだが、やはりそれも遠い過去であることに違いはない。

 色のない健康的な食事をずっと続けていたため、久しぶりのジャンクなフードにはとても感動した。感動しすぎてちょっと目が潤んだまである。

 私でこのレベルの感動なのに、清隆くんなんか正真正銘生まれて初めてなので、同じ感動でも私とは比べ物にならなかっただろう。終始目をキラキラさせていたし、頰はほんのり上気していたと思う。

 

 カップ麺の思い出を振り返りつつ、現実では振り向いて清隆くんの姿を探す。ちょうど櫛田さんに絡まれているのが見えて、さてあの二人は何を話しているんだろうと首を傾げた。

 手を胸の前で合わせて何やらお願いしているらしい櫛田さんに、清隆くんが首を振っている。それでも折れずにお願いしているらしい櫛田さんをじっと見下ろし、観念したように一度ため息をついて、渋々了承したようだった。

 

 話が終わったのか、二人が私の元にやってくる。こうやって面を合わせて顔を見たら、清隆くんが若干不機嫌になってるのがわかってしまい笑う。

 櫛田さんが今度は私に向かって胸の前で手を合わせた。

 

「ごめんね、水元さんっ! 今日は私、綾小路くんとお昼一緒にしていいかな? 少し相談したいことがあるの」

「あ〜なるほど……私のことはお気になさらず! いってらっしゃい二人とも」

「葵……」

「本当にごめんね、水元さん。ありがとう! 今日だけだから安心してね!」

 

 櫛田さんは眉を下げて申し訳なさそうにしながらも、私の返事にホッと息を吐いて嬉しそうに笑う。私が無造作に体の横に垂らしていた両手を取り、きゅっと握ってきた。

 握られた手から伝わる女の子らしい柔らかい手の感触に、同じ女子なのにドギマギしてしまう。櫛田さんは魅惑の女の子です。

 

 清隆くんはといえばあっさり了承した私を半目になって少し睨んでいた。垂れ目ってだけで半目になられても睨まれても怖くなくなるのってお得だと思うの。

 

「でも、昼、葵はどうするつもりなんだ? 一緒に───」

 

 起死回生の一手、諦めずにどうにか私を巻き込もうとしている。それを察し、清隆くんが言い切る前に私は周囲を見渡した。

 ちょうど教室を出て行こうとしている堀北さんを見つけ、「お〜い」と気持ち大きめに声をかける。

 

 

「堀北さん、待って! 私も一緒に行く!」

 

 

 堀北さんが声をかけてきた私を一瞥し、返事もせずに歩き出した。教室を出て行く直前だったからかろうじて見えていた背中も、足を止めないから当然ドアの向こうに消えていく。

 これは完全に見えなくなる前に追いかけなくては。私を捕まえてごらんなさい、という彼女なりのサインなのだろう。はははこいつ〜。

 

 そういうわけだから、と改めて目の前にいる二人に視線を向けた。

 

「私は堀北さんと一緒に昼ごはん食べるから、気にしなくていいよ! 清隆くん!」

 

 良い笑顔を向ければ清隆くんからは一層白んだ目を向けられた。

 私は清隆くんには大いに青春を満喫してほしいのだ。ずっと私といても青春の幅が小さくなってしまうだけで、機会があるなら遠慮しないでどんどん大海に飛び出して行ってほしいと思う。

 

 

 

 これからカフェに行くらしい二人と別れ、堀北さんを追って教室を出る。どうせコンビニだろと思って行くと本当にいた。同伴するのが清隆くんならカップ麺を買ったのだが、今日は彼が隣にいないためパンを買う。

 カップ麺はこう、同じ感動を一緒に味わいたくて買っているのだ。もちろん単純に好きなのもあるけど、清隆くんと食べることでより一層美味しく感じるというか……目を合わせてお互い感動しているのをわかり合いたい。この気持ちが強い。

 同じくパンを買っている堀北さんに並んで、一緒に教室に戻る。そして私は清隆くんの席に座って並んで食べた。

 うん、一緒に昼ごはん食べているな。一言も会話してないけど。別に泣いてなんかいない。

 

 

 昼ごはんを食べ終えれば、堀北さんと一緒に図書館へと向かう。今回はちゃんと“一緒に”だ。

 なんと堀北さん、私が食べ終えるのを待ってくれていた。感動して目を輝かせたのは言うまでもない。

 

 これがツンデレのデレの部分……! クセになりそう。

 

 とか思っていたら絶対零度の目を向けられ、「その視線、不愉快だわ。何を考えているのかしら?」と私の感動は一刀両断された。でもこれがツンデレのツンの部分……! クセになりそう。

 

 めげないしょげない私に堀北さんはそれ以上何か言うのを諦めたらしい。ため息を吐いて、図書館に向かい始める。その後を慌てて追って、隣に並んで歩き始めた。

 楽しいなぁ、と柔らかく目を細めた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 約束の時間から、1分ほど遅れて櫛田さんと清隆くんは図書館にやってきた。

 

 先に赤点組と並んでノートを開いてスタンバイしていた私の隣に、当然の顔をして清隆くんが座る。

 池が清隆くんに櫛田さんと一緒にやってきた理由を問いただそうとしたのか、一瞬出鼻を挫かれた顔をしたものの、改めて訝しげに声をかけた。

 

「まさか二人で飯食ってたんじゃないだろうなぁ?」

「うんそうだよ。二人でランチしてたの。もちろん水元さん公認だよっ!」

「く、櫛田ちゃん……」

 

 池の質問に櫛田さんが答える。別に最後のは言わなくてよくない?

 池が私を見て、渋々頷いた。

 

「まあ、水元ちゃん公認なら……」

 

 なぜそれで出しかけていた矛を収められるのかわからないぞ、池。

 

 ちなみにいつのまにか水元ちゃんと呼ばれるようになっていたのだが、あだ名くらいなんと呼ばれても気にしないので好きにさせている。堀北さんも堀北ちゃんって呼ばれてるし。

 私も機会があったら堀北ちゃんって呼んでみようかな。……たぶん今よりもっと冷めた目を向けられるな……。

 

 切ない現実に涙を呑んでいる間、あれこれみんなが話している間にぼちぼちと勉強会が始まった。

 

「私から皆に問題ね。帰納法を考えた人物の名前は、なんでしょーか?」

「えーっと……さっきの授業で習った奴だよな? 確か……」

 

 うーんと頭を捻りながら、池が指先でシャーペンを回している。

 

「あぁアレだ。アレ。すげぇ腹の減る名前だった気がすんだよな」

「フランシスコ・ザビエル! ……っぽいヤツ、だろ?」

 

 惜しい須藤。

 

「思い出した。フランシス・ベーコンだ!」

「正解っ」

「うっし! これで満点確実だな!」

「いや、全然だろ……」

 

 清隆くんって何気にツッコミ属性あるの面白いよね。3バカが集まるとツッコミに回る清隆くん、見ていると面白いから好きだったりする。

 基本的に清隆くんはツッコミ属性だから、ボケる私にもよくツッコミしてるけど、第三者の視点で彼のツッコミを聞くことができるのは新鮮で面白い。

 それと基本的にツッコミ属性だから、ボケたときはさらに面白い。つまりどっちも好きということだ。

 

 多少の紆余曲折はありつつも3バカは協力し合って(?)櫛田さんの質問に正解することができ、素直に喜んでいるようだった。

 櫛田さんも喜ぶ3バカたちを見て嬉しそうにしている。

 

「皆、体調だけは崩さないようにしてね。勉強する時間も減っちゃう」

「大丈夫よ。この3人なら」

「さすが堀北ちゃん。俺たちのことを信用してくれてる感じ!?」

 

 堀北さんの皮肉の鋭利さ本当すごいと思う。もうプロの域じゃん。そしてそれに気づかない3バカは幸せそうでなによりです。ずっと気づかないままでいて。

 

 わいわい騒がしくも勉強している私たちに、唐突に乱暴な声がかかった。

 

「おい、ちょっとは静かにしろよ。ぎゃーぎゃーうるせぇな」

 

 注意をしてきたのは隣で勉強していた生徒の一人だ。静かにするべき図書館で私たちが騒がしくしていたのは事実なので、その注意は正当なものだ。

 池がパッと顔を上げて、へらっとした笑みを浮かべながら軽い謝罪を口にする。

 

「悪い悪い。ちょっと騒ぎ過ぎた。問題が解けて嬉しくってさ~。帰納法を考えた人物はフランシス・ベーコンだぜ? 覚えておいて損はないからな〜」

「あ? ……お前ら、ひょっとしてDクラスの生徒か?」

 

 池の言葉を無視し、一斉に顔を上げた隣の男子たちが向けてきたのは明らかな侮蔑、挑発を宿した視線だった。その視線はとても良いものではなかったが、眉を顰める程度に収め、みんな特に大きな反応はしない。

 しかしそこはやはり期待を裏切らない須藤である。隣の失礼な男子たちの様子が癪に障ったのか、苦々しく顔を歪めて鋭い眼光で睨みつけた。

 

「なんだお前ら。俺たちがDクラスだから何だってんだよ。文句あんのか?」

「いやいや、別に文句はねえよ。俺はCクラスの山脇だ。よろしくな」

 

 今度こそ隠す気皆無でニヤニヤと笑いながら、山脇と名乗る男子が私たちを見回す。

 

「ただなんつーか、この学校が実力でクラス分けしててくれてよかったぜ。お前らみたいな底辺と一緒に勉強させられたらたまんねーからなぁ」

「なんだと!」

 

 いや判断が早い。

 須藤の瞬時に立ち上がる俊敏さには感心するが、キレるの早すぎて毎回びっくりしてしまう。綺麗な須藤はどこに落ちてるんでしょうか。

 思わずビクッとなった私を、清隆くんが宥めるように手を重ねてくれる。

 

「本当のことを言っただけで怒んなよ。もし校内で暴力行為なんて起こしたら、どれだけポイント査定に響くか。おっと、お前らは失くすポイントもないんだっけか。てことは、退学になるかもなぁ?」

「上等だ、かかって来いよ!」

 

 これではわいわい勉強会をしていた時よりも騒がしくなっている。須藤が吠えるたびに嫌でも視線が集まってくるから、余計に状況は悪化していると言えるかもしれない。

 確かに、このまま事態がひどくなれば教師の耳に入ることもあるだろう。

 

 戦々恐々としている周囲を気にせず、ここで堀北さんが冷静に声をあげた。

 

「彼の言う通りよ。ここで騒ぎを起こせば、どうなるか分からない。最悪退学させられることだって、あると思った方がいいわ」

 

 そこで終われば完璧だったのに、しかしそこはやはり期待を裏切らない堀北さんである。

 

「それから私たちのことを悪く言うのは構わないけれど、あなたもCクラスでしょう? 正直自慢できるようなクラスではないわね」

 

 煽り耐性が、煽り耐性がすごぉい、堀北さん。う〜ん堀北さんはこうじゃなくっちゃ!

 山脇が堀北さんの言葉を聞きピクリと眉を反応させた。

 

「C~Aクラスなんて誤差みたいなもんだ。お前らDだけは別次元だけどなぁ」

「随分と不便な物差しを使っているのね。私から見ればAクラス以外は団子状態よ」

 

 ついに山脇からへらへらとした笑みが消える。堀北さんを睨みつけ、低い声で唸るように言う。

 

「1ポイントも持ってない不良品の分際で、生意気言うじゃねえか。顔が可愛いからって何でも許されると思うなよ?」

「脈絡もない話をありがとう。私は今まで自分の容姿を気に掛けたことはなかったけれど、あなたに褒められたことで不愉快に感じたわ」

「っ!」

 

 そして続くこのセリフの切れ味よ。堀北さんカッコ良すぎないか?

 

 思わず尊敬の目を寄せてしまう。たぶんキラキラ輝いていたと思う。

 私は感動していたのだが、言われた山脇の立場としてはたまったものではなかっただろう。派手に机を叩き、乱暴に席から立ち上がった。

 

 一触即発な空気は「お、おい。よせって。俺たちから仕掛けたなんて広まったらやばいぞ」 という山脇と同じクラスの生徒らしき人物によって宥められた。

 その声かけに少し冷静さを取り戻したのか、山脇が息を落ち着かせ、また何か余計なことを言ってくる。

 

「今度のテスト、赤点を取ったら退学って話は知ってるだろ? お前らから何人退学者が出るか楽しみだぜ」

「残念だけど、Dクラスからは退学者は出ないわ。それに、私たちの心配をする前に自分たちのクラスを心配したらどうかしら。驕っていると足をすくわれるわよ」

「く、くくっ。足をすくわれる? 冗談はよせよ」

「俺たちは赤点を取らないために勉強してるんじゃねえ。より良い点数を取るために勉強してんだよ。お前らと一緒にするな。大体、お前ら、フランシス・ベーコンだとか言って喜んでるが、正気か? テスト範囲外のところを勉強して何になる?」

「え?」

「もしかしてテスト範囲もろくに分かってないのか? これだから不良品はよぉ」

「いい加減にしろよ、コラ」

 

 おっとついに須藤選手山脇の胸倉を掴み上げました! 詰みまで秒読みである。

 

「お、おいおい、暴力振るう気か? マイナス食らうぞ? いいのか?」

「減るポイントなんて持ってねーんだよ!」  

 

 あわやというかついにというか、須藤がCクラスの人に向かって握った拳を振り上げた。直前までぽけーっとしていた清隆くんが椅子を引く。

 かく言う私は未だじっとしている。じっと、待っている。

 

 ───そして、唐突に凛と響いた声は。

 

 

「はい、ストップストップ!」

 

 

 …………いや……このためだけに図書館来た甲斐あったわ………。

 

 もはや放心気味になりながら、須藤とCクラスの人の間に割って入る形で颯爽と登場したストロベリーブロンドの美女───

 私が再び相まみえることを切々と願い続けていた一之瀬さんに、うっとりと見惚れる。

 

 は〜〜可愛い……うそ……こんなに可愛い人いる……?

 

 

「部外者? この図書館を利用させてもらってる生徒の一人として、騒ぎを見過ごすわけにはいかないの。もし、どうしても暴力沙汰を起こしたいなら、外でやってもらえる?」

 

 

 いやほんっっと可愛いマジで。近くで見れば見るほどヤバい。綺麗。可愛い。

 

 

「それから君たちも、挑発が過ぎるんじゃないかな? これ以上続けるなら、学校側にこのことを報告しなきゃいけないけど、それでもいいのかな?」

 

 

 口調も最高。可愛い。『〜かな?』って何? こんなに「〜かな」口調が似合う人いる?

 

 

「君たちもここで勉強を続けるなら、大人しくやろうね。以上っ」

 

 

 立ち去る姿は大輪の薔薇……。気のせいか薔薇の香りがする気がする。

 一之瀬さんは薔薇ってタイプじゃないけど、そのくらいの感情の昂りを私が感じているということを誰かわかってほしい。

 

 

 この間……というかもう一之瀬さん登場時から一之瀬さんの声しか耳に入れてなかったのだが、膝の上に置いていた手をふとギュッと握られたことでトリップしていた意識がようやく戻ってくる。

 隣を見れば私に顔を向けている清隆くんがいる。

 ……いや、もっと正確に言えば清隆くんしかいない。堀北さんも櫛田さんも、池たち赤点組も含めていつのまにか全員いなくなっている。

 

 状況が読めず周囲にはてなマークを飛ばしまくっている私に、清隆くんが言う。

 

「オレたち以外は職員室にテスト範囲について聞きに行ったぞ」

「え……マジで?」

「マジで」

 

 コクリと頷かれる。どうやら本当のことのようらしい。

 状況はわかったが、さらに疑問が浮かんできて頭をもたげる。困惑して眉をひそめながら、隣の清隆くんを見上げた。

 

「えっと、清隆くんはついて行かなくてよかったの……?」

「葵を置いていくわけないだろ」

「いや起こしてよ。いや寝てないんだけどね」

「わかってる」

 

 清隆くんがこっちを見ている。うーんと唇を引き結んだ。

 顔を上げて図書館に設置されている時計を確認する。昼休みが終わるまで……あと残り10分、か。

 

 

 繋いだ手はそのままに、「もう少しだけここでのんびりして、予鈴がなったら教室に戻ろうか」と提案する。清隆くんが嬉しそうに目尻を緩めて首肯した。

 

 束の間ではあるが、お互いに寄り添い合いながらゆっくりとした時間を過ごした。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「明日、テストの過去問をもらうために食堂に行こうと思う」

「りょうかーい」

 

 清隆くん特製チャーハンに舌鼓を打ちつつ、二人で会話をする。お互いチャーハンを作る腕を上げたようだ。健闘を称え合うように頷き合ったのがついさっきのことである。

 スプーンでチャーハンを掬って、口の中に入れる。のんびり咀嚼して飲み込み、一度口の中を空にすると、「やっぱりポイント払わないと過去問もらえないよねぇ」とぼやいた。

 

「まあ、そうだろうな。一万五千ポイントは最低取られるだろう」

「交渉次第でもっと下げられたりは?」

「交渉した上での最低額がこの辺り、だな」

 

 ふうん、と相槌を打つ。頭が目まぐるしく回るが、妙案は思い浮かばない。

 

 ポイントは使わないで済むならとことん使わずにいたいところだ。基本的に買うものが一緒なので清隆くんと私との間にポイント差はほぼないが、今回交渉することによって彼だけポイントが減ってしまう。

 後で補充として私からポイントを譲渡するが、できるだけ少ない額で抑えられるならお互いに万々歳なことに変わりはないだろう。

 

 自分の体を見下ろす。口を開いた。

 

「私も一緒に交渉しようか」

「葵が?」

「うん」

 

 ミュージカル女優のような気分で大袈裟な挙動を取り、自己紹介するみたいに胸にパッと開いた片手を当ててみせた。

 意味ありげに上目遣いをして清隆くんをチラと見やる。

 

 

「───色仕掛けでもする?」

 

 

「…………お前だけは絶対に連れて行かない」

「なんで〜〜!?」

 

 使えるものは使わないと損じゃない!? 騒ぎ立てる私に再度、清隆くんが言葉を区切って強調しながら言ってくる。

 

「絶対、連れて行かない」

「……そんな拒絶しなくても……」

「連れて行かない」

 

 見事な一点張りだ。譲ってくれる気が一ミリもないのはわかったので、若干拗ねつつも「はいはいわかりました〜」と素直に返事をした。

 こんなに素直に受け入れたのも、もともと色仕掛けに効果が薄いことはわかっているからだ。

 

「実際私がするよりも櫛田さんとか堀北さ……一之瀬さんとかがする方がより確実に効果あるよね」

「…………葵。少し話し合いたいことがある」

「なんで急に怒ってるの?」

 

 突拍子なさすぎて私ついていけないよ。

 

 

 ───チャーハンを食べ終えたその後。

 

 向かい合って正座しながら懇々と色仕掛けをするメリットデメリット、また学校生活で起こる問題等それはもう滔々と語られ、二度とこういう話を清隆くんにはしないことに決めた。反省した。

 

 

 

 

 そしてその翌日本当に食堂に連れて行ってくれなくて、私は櫛田さんに後を追われながら教室を出て行った清隆くんをただ見送ることとなった。

 ちなみに教室を出て行く直前に念を入れるようにこっちを見てきたので、調子良くサムズアップしておいた。大丈夫、二度と色仕掛けなんて言葉口にしないよ!

 

 一人になってすぐコンビニでおにぎりを三個買うと、さっさと食べ終えて校内散策に出る。

 私の聖地巡りに余念はないのだ。日進月歩の心意気である。

 

 

 



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明るくて幸せな未来

これにて一章はおしまいです。



 

 

 

 中間テストまでいよいよ……と思い詰めた顔をして言うこともなく、今日この日。当日に至る。

 

 今までコツコツとしてきた勉強に加え、前日に櫛田さんから配られた過去問までしっかり解いてきた生徒たちの表情には、確かな自信というものが窺えた。

 茶柱先生が教壇に立ち、そんな生徒たちの顔を不敵な笑みを浮かべながらぐるりと見回している。

 

「欠席者は無し、ちゃんと全員揃っているみたいだな」

 

 一度満足げに頷き、さっそく持っていたプリントの束を配り始めた。

 全員に渡る前にまた口を開く。

 

「もし、今回の中間テストと7月に実施される期末テスト。この二つで誰一人赤点を取らなかったら、お前ら全員夏休みにバカンスに連れてってやる」

 

 生徒たちが茶柱先生の放ったあるワードにすかさず反応する。そのワードとはもちろん『バカンス』だ。茶柱先生は愉快そうに笑った。

 

「そうだなぁ……青い海に囲まれた島で夢のような生活を送らせてやろう」

 

 茶柱先生に嘘を言っている様子はない。だから生徒たちはその言葉を信じ、テストを終えた後の“ご褒美”にそれぞれ思いを馳せてキラキラと目を輝かせた。

 特に男子の咆哮が凄いもので、私もどさくさに紛れて一緒に叫んでおいた。このビッグウェーブに乗らずして何の人生か。私も女の子たちの水着楽しみです。

 

 

 ───教師の合図で始まった中間テストは、一時間目、二時間目、三時間目と順調に終えていく。

 そして迎える四時間目も無事に終え、昼休み。

 

 事件はここで起こるのだ。

 

「楽勝だな! 中間テストなんて!」

「俺120点取っちゃうかも」

 

 一応私も堀北さん主催勉強会のメンバー入りをしているし、清隆くんと目が合ったのもあって堀北さんの近くに集まっていた。清隆くんの机に浅く腰掛け、ぽけーっとした顔をする。清隆くんもぽけーっとしている。

 そんな私たちをよそに、池と山内は明るい声をあげていた。だから必然とみんなの視線はある人物に集まった。

 

「須藤くんはどうだった?」

「……須藤くん?」

 

 須藤の顔色が悪い。彼が瞬きするのも忘れるくらい食い入るようにじっと見ている問題は、英語の過去問だ。

 

「須藤、お前もしかして……過去問勉強しなかったのか?」

「英語以外はやった。寝落ちしたんだよ」

 

 薄ら汗の滲んだ額。焦っているのもよくわかるし、イライラしているのもよくわかる。

 時計を見る。殘された時間は10分弱だ。この10分で問題のすべてを覚え切れるとはとても思えない。初めて目を通すならなおさらだろう。

 

「くそ、なんか全然答えが頭に入らねぇ」

「須藤くん、点数の振り分けが高い問題と答えの極力短いものを覚えましょう」

 

 堀北さんがすぐ席を立ち、須藤の隣についた。須藤は堀北さんの態度に若干驚きを示すものの、素直に頷いて指示を聞いている。

 

「だ、大丈夫かな?」

 

 櫛田さんが私たちのすぐ近くに来て、堀北さんたちの邪魔にならないようこそこそと不安の言葉をこぼした。

 

「日本語と違って、英語は基礎が出来てないと呪文みたいに見えるからな。それを覚えるのは時間がかかる」

「そもそも日本人が英語やる意味ある?」

「英語できない人の常套句じゃないかそれ……」

「あはは……」

 

 軽く雑談しているうちに、タイムリミットはすぐ来たようだ。無情にチャイムが鳴り、堀北さんが一旦ふうと息をついた。

 

「やれることはやったわ。後は忘れないうちに、覚えている問題から解いて」

「ああ……」

 

 須藤の顔色は悪いままだった。みんなその様子に不安を残しながらも、各々自分の席に戻っていく。

 清隆くんが私を見ている。一度視線が交差して、席に戻るため離れれば自然とすれ違った。

 

 

 

 最後のテストも終え、教室から生徒たちが続々と姿を消していく中。

 清隆くんを含む堀北さん主催勉強会メンバーは、再び須藤の周りに集まっていた。私は一度教室を出てお手洗いに行っていたため、自分の席に座ってごそごそと片付けをしている最中だった。

 

「な、なあ大丈夫だったか?」

 

 池の不安そうな声が聞こえる。

 

「わかんねえ……やれることはやったけどよ、俺、自己採点なんて出来ねえしな……」

「大丈夫だよ。今まで一生懸命勉強だってしたし、きっと上手くいくよ」

「くそ、何で寝ちまったかな、俺はよ」

 

 須藤が自分自身に悪態をつく。貧乏ゆすりでもしているのか、カタカタと小刻みに机が揺れる音がした。

 先ほどまで聞こえなかった堀北さんの声がする。

 

「須藤くん」

「……なんだよ。また説教か?」

 

 説教じゃない。

 彼女が今から須藤にするのは───

 

「過去問をやらなかったのは、あなたの落ち度よ。でも、テストまでの勉強期間、あなたはあなたなりにやれることをやってきた。手を抜かなかったことも分かってる。精一杯の力を振り絞ったのなら胸を張っていいと思うわ」

「んだよそれ。慰めのつもりか?」

「慰め? 私は事実を言っただけ。今までの須藤くんを見れば、どれだけ勉強することが大変だったかはわかるもの」

 

 誰かが息を呑んだ気配がする。片付けをする手は、完全に止まっていた。

 

「それから……一つだけ。あなたに訂正しておかなければならないことがあるの」

「訂正?」

「私は前に、あなたにバスケットのプロを目指す事は愚か者のすることだと言ったわ」

「んなこと、今思い出させるかよ」

 

 須藤が苦々しく言葉を吐く。堀北さんは構わず、生徒たちが一人、また一人と消えていく教室の中で淡々と喋り続ける。

 

「あれからバスケットのことを、その世界でプロになるのがどういうことなのか私なりに調べてみたわ。そしてやはりそれは、険しい茨の道であることが分かった」

「だから俺に諦めろって言うのかよ。無謀な夢だって」

「そうじゃない。あなたはバスケットに情熱を注いでいる。そのあなたが、プロになることの難しさを、生活していくことの大変さをわかっていないはずがない」

 

 ……動きを再開する。鞄の中身を整理し、筆箱を中に収めた。

 

「日本人でも、沢山プロの世界で戦っている人たちがいる。そして、その中には世界で戦おうとしている日本人もいる。あなたは、その世界を目指すつもりなのね」

「ああ。どれだけバカにされたって俺はバスケでプロを目指す。それがバイト以下の極貧生活になるとしても、俺はやり遂げて見せる」

「私は自分以外のことを理解する必要はないと思っていた。だから最初あなたがバスケットのプロを目指すと言った時、侮辱する発言をしたわ。けど今は後悔してる」

 

 席を立つ。音を立てず教室を後にする。

 声が、する。

 

 

「───あの時はごめんなさい。……私が言いたかったのはそれだけ。それじゃ」

 

 

 視線は変わらずあった。

 

 私が振り向くことはなかった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 教室に足を踏み入れた瞬間、茶柱先生は驚いたように生徒たちを見回した。当然だ、生徒たちが揃って中間テストの結果発表を固唾を呑んで待ち、ピンと張り詰めた空気が教室内を漂っていたからだ。

 なお例外高円寺くんは除く。私と清隆くんは周囲に合わせて真面目な顔をしているのでノーカンである。

 

 平田くんがクラスを代表して茶柱先生に質問をし、たった今、この瞬間から中間テストの結果発表が為されることがわかった。教室の空気がさらに緊張で張り詰めることになる。

 

「放課後じゃ、色々と手続きが間に合わないこともあるからな」

 

 茶柱先生のこの余計な一言が原因なのもあるだろう。

 

 黒板に張り出された大きな白い紙には、Dクラスの生徒の名前と点数が整然と並んでいる。

 上から順にすっと視線を動かし確認する。予定通りの並び、点数だ。最後尾にいる名前とその点数を確認し、静かに瞼を閉じた。

 

 茶柱先生の声が不気味に教室に響く。

 

「ああ、認めている。お前たちが頑張ったことは。だが───」

 

 

「お前は赤点だ須藤」

 

 

 赤いラインが須藤の名前の上でゆっくり引かれていくのが皮肉のようだと思った。あながち間違いでもないんだろう。

 

 騒然とする教室で、一瞬呆然となっていたのが嘘みたいに真っ先に須藤が声をあげる。

 

「は? ウソだろ? ふかしてんじゃねえよ、なんで俺が赤なんだよ!」

「須藤。お前は英語で赤点を取ってしまった。ここまでということだ」

「ふざけんなよ赤点は31点だろうが! クリアしてるだろ!」

「誰がいつ、赤点は31点だと言った」

 

 茶柱先生が赤点の判断基準の種明かしをしていく。みるみるうちに須藤の顔からは色が失われていく。とても平然と見ていられるものではない。

 

 凪いだ瞳が一対、須藤を見ている。

 

「これで、お前が赤点だと言うことは証明された。以上だ」

「ウソだろ……俺は……俺が、退学、ってことか?」

「短い間だったがご苦労だったな」

 

 どこまでも淡々と言い放つ茶柱先生に、ついに須藤は何も言わなくなる。項垂れて、再び重い沈黙が教室に満ちた。

 茶柱先生は待つわけもなく、また淡々と業務報告のように告げていく。

 

「残りの生徒はよくやった。文句なく合格だ。次の期末テストでも赤点を取らないよう精進してくれ。それじゃあ、次だが───」

「せ、先生。本当に須藤くんは退学になるんですか? 救済措置はないんですか?」

 

 平田くんの助けを仰ぐ声に対しても、茶柱先生の対応は変わらない。

 

「事実だ。赤点を取ればそれまで。須藤は退学にする」

「……須藤くんの答案用紙を、見せて貰えないでしょうか」

「見たところで、採点ミスはないぞ? ま、抗議が出ることは予想していた」

 

 ほとんど悪足掻きに近い須藤の答案用紙を見て採点ミスが無いかを探すという手段も、やはり徒労に終わった。

 須藤に続き、平田くんも顔色を悪くさせて力なく項垂れる結果となる。

 そのまま茶柱先生がホームルームの終わりを告げ、最後についでのように須藤には「放課後職員室に来い」とだけ言った。

 

 重苦しい沈黙が包み込む教室の中ですっと上がった細い腕は、一筋の救いの光のようにも見えたことだろう。

 

 

「茶柱先生。少しだけよろしいでしょうか」

 

 

 堀北さんが自主的に発言をするのは、これまでの学校生活において初めてのことだ。

 茶柱先生とよく似た淡々とした喋りで、この状況の打開策を捻り出そうと慎重に言葉を口にする。

 

「今しがた、先生は、前回のテストは32点未満が赤点だと仰いました。そしてそれは、今の計算式によって求められた。前回の算出方法に間違いありませんか?」

「ああ、間違いない」

「それでは一つ疑問が生じます。前回のテストの平均点を私が計算したところ、64.4でした。それを2で割ると、32.2になります。つまり32点を越えているんです。にもかかわらず、赤点は32点未満だった。つまり小数点を切り捨てている。今回の求め方と矛盾しています」

「た、確かに。前回の通りなら、中間テストは39点未満が赤点になる!」

 

 堀北さんがしたのは、赤点の採点基準は小数点を切り捨てているのではないか、というシンプルな話だ。その矛盾を突き、須藤の退学を阻止しようとする。

 

 茶柱先生は意外そうな顔をしている。

 堀北さんの言葉をクラスメイト全員が聞き、確かに教室の中には一瞬光が差す。

 

「なるほど。お前は須藤の点数がギリギリになることを見越していたのか。それで英語の点数だけが極端に低かったんだな」

「堀北、お前……」

 

 茶柱先生の言葉に須藤が、クラスメイトたちがハッとしたように張り出された紙を目をやった。

 そうして気づく。堀北さんは5科目中4科目は満点を取っているにも関わらず、英語の点数だけは51点という異質な数字を取っていること。

 

「お前、まさか───」

 

 須藤の呆然とした声を聞いてなお堀北さんの凛とした態度は崩れない。それは同様に、茶柱先生にも言えることだった。

 

 希望の光は容赦なく途絶えた。

 

 

「そうか。なら、もっと詳しく教えてやろう。残念だがお前の計算方法は1つ間違っている。赤点を導き出す際に用いる点数、小数点は四捨五入で計算される。前回のテストは32で扱われ、今回のテストは40で扱われる。それが答えだ」

 

 

 今度こそ完膚なきまでに救いの道は閉ざされた。矛盾のない適切な説明がされ、話はこれで終わったなと茶柱先生がついに教室を後にする。

 冷たい音を立て教室の扉は閉まり、再び教室の中は暗く重たい静寂に包まれた。

 

「……ごめんなさい。私がもう少し、ギリギリまで点数を削るべきだったわ」

 

 シンと静まり返った教室には、ポツリと落とされた堀北さんの言葉ですらよく響く。

 

「なんで……お前、俺のこと、嫌いだって言ってただろ」

「私は私のために行動しただけよ、勘違いしないで。それも無駄に終わったけれどね」

 

 堀北さんはそう言って、静かに腰を下ろす。また重い沈黙が教室に落ちた。誰も口を開こうとしないし、動こうとしない。

 

 時計の針はもうすぐ1時間目が始まることを指している。時間は無限じゃない。残酷なくらい有限なのだ。いつまでも待ってくれるわけがない。

 Dクラスの教室の外では、いつもとまるで変わらない喧騒が広がりつつある。

 

 

 

 ───静かに教室を後にする人物がいる。

 

 私は気づいていないフリをして振り向かず、ぎこちなく日常を取り戻していく音を耳に拾いながら、真っ直ぐ前を見続けていた。

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「お前たちがいれば、あるいは。本当に上のクラスに上がれるかも知れないな」

「彼はともかく、私は上のクラスに上がります」

「過去、一度たりともDクラスが上にあがったことはない。なぜなら、お前たちは学校側から突き放された不良品だからだ。そのお前たちが、どうやって上を目指す?」

 

「事実、Dクラスの生徒の多くは不良品かも知れません。けれど、クズとは違います」

「クズと不良品が、どう違うと?」

 

 

「不良品かそうでないかは紙一重です。ほんの少し修理、変化を与えるだけで、それは良品へと変わる可能性を秘めている、と私は考えます」

 

 

 茶柱先生が微かに笑う。

 

 

「なら、楽しみにしようじゃないか。担任として、行く末を温かく見守らせてもらう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰もいなくなった一階の廊下。正確に言うならば、まだ一人残っている。まだ一人。

 あと、一人。

 

 先ほどまで脇腹に手刀を叩きつけられ悶絶していたとは思えないほど平坦な声で、廊下の曲がり角、その陰に隠れた存在の名前を呼ぶ。

 

「葵。いるんだろ」

 

 

「───やっぱり、清隆くんにはバレちゃってたか」

 

 

 名前を呼ばれてあっさり姿を現す。曲がり角の陰から弾みをつけて廊下に出た。

 私が出てくる場所も予測していたのかすでに体はこちらに向けられていて、清隆くんは静かに私を見ている。

 

「葵」

 

 もう一度名前だけを呼ばれる。湖面のように凪いでいた瞳に僅かに感情が滲んだ。

 

「……清隆くん」

 

 一歩前に踏み出す。動かない清隆くんの代わりに、また一歩、二歩と足を進める。

 

 ついに目の前に立って、無造作に体の横に置かれていた清隆くんの両手を取った。エスコートするみたいに掬い上げ、手を繋ぐ。

 

「違うよ、清隆くん。私は何もしなかった。それだけだよ」

「……それは」

「そうだね。あんまり上手な言い訳じゃない。でもこれは、別に言い訳してるわけじゃないよ。私は事実を言っているだけ」

 

 繋いだ手に力を込められた。瞳が揺れている。込められた分の力、それをさらに上回る力で清隆くんの手を強く握る。

 

「私は何も変わってないよ。清隆くん」

「………」

 

 一度手を離そうとする。こうなった清隆くんが素直に離されてくれるわけもない。

 それでもじっと顔を見上げ続けていれば、欠伸でもしそうなくらいゆっくりと、確かに緩んでいく。

 

 完全に手が離れたのを確認すると、私は清隆くんの頰に両手を伸ばした。頰を包み込み、そのままぐっと下に引っ張る。

 鼻先が触れるくらいの至近距離で真っ直ぐ瞳を合わせて、前を見据えた。

 

 

 

「明るくて、幸せな未来のため。……私が言っていることは、もう信用できない?」

 

 

 

 私の言葉を聞き、揺れていた瞳が滲むような緩徐とした動きで焦点を定めていく。瞼もまた、ゆっくりと閉ざされていく。

 

 

 もう一度目が開いたときには、いつもの清隆くんに戻っていた。

 

 

「もうすぐ1時間目が始まる。戻ろう、葵」

「りょーかい」

 

 動き出した清隆くんに合わせて頰から手を離せば、いつものように手を取られた。教室に戻るために二人並んで歩き出す。

 喧騒が遠い。教室を出ていた生徒たちも、1時間目の授業に備えてとっくに教室に戻りつつあるのだろう。

 

 教室に戻るまでの僅かな時間。

 私たちの間に会話はなかったけれど、繋いだ手はずっと変わらない、優しくて穏やかなものだ。その手に力を込めれば、同じように握り返してくれる。

 

 そうだ。

 私はずっと変わっていない。

 

 

 変わっているなら、それは。

 

 

 

 

 

 

 

 




ストックしていた分はすべて出し終わりました。
二章以降もストックが溜まり次第一巻内容ごとに投稿していく予定なので、気長に待っていただけると嬉しいです。
評価、お気に入り、感想、ここすき等本当にありがとうございました!


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第二章
お小遣い支給日


前話の後書きで一巻内容ごと云々抜かしていましたが、志半ばで力尽きたので先に一話更新することにしました。
二章自体外形はできてるので、後は整えて出すだけです。気長にお待ちください。



 

 

 

 Dクラスの朝は……いや、Dクラスは時刻関係なく騒がしい。それは事実だ。なぜならDクラスの生徒は、基本的に元来真面目な性分の生徒が少ないからである。

 

 しかし今朝、いつも以上に騒がしいのには理由があった。

 

「おはよう諸君。今日はいつにも増して落ち着かない様子だな」

 

 ホームルームの開始を告げる鐘の音とほぼ同時に、茶柱先生が教室に入ってくる。

 池はさっそく非難がましい声を上げた。もちろん他の生徒たちも同意のことで、茶柱先生を見る目は厳しい。

 

「佐枝ちゃん先生! 俺たち今月もポイント0だったんですか!? 朝チェックしたら1円も振り込まれてなかったんだけど!」

 

 

 ───今日は5月の頭からゼロポイント、お小遣いゼロだったDクラスに、もしかしたらポイントが振り込まれるかもしれない運命の日。……だったりする。

 

 

 池が憤懣やるかたない様子で、鼻息荒く続け様に文句を重ねる。

 

「俺たちこの1か月、死ぬほど頑張りましたよ。中間テストだって乗り切ったし……なのに0のままなんてあんまりじゃないですかね! 遅刻や欠席、私語だって全然だし!」

「勝手に結論を出すな。まずは話を聞け」

 

 茶柱先生が一度ため息をつく。

 

「池、確かにおまえの言うように今までとは見違えるほど頑張ったようだな。それは認めよう。お前たちが実感を持っているように学校側も当然それを理解している」

 

 珍しく諭すような口調だ。茶柱先生が生徒に見せた表情といえば、無表情だとか、嘲笑だとか、碌なものじゃないのは確かなので、意外なその様子に池も渋々矛を収めたようだった。クラスメイトも同様だ。

 一旦の落ち着きを見せた教室をぐるりと見やり、茶柱先生は改めて口火を切った。

 

「ではさっそく今月のポイントを発表する」

 

 黒板に広げられた紙を見る。Dクラスの横にある数字は───87……か。

 

 池が飛び跳ねて喜んでいる姿を横目に、ぼーっと考える。思案に耽るほどではない。

 クラスメイトたちが4月以来初めてプラスとなったポイントに、池ほどではないが喜びを示している。茶柱先生は明るい雰囲気が漂う教室を見渡し、一瞬覚えのある嫌味な顔をしたが、すぐに表情を消し去った。

 

「あれ? でもじゃあ、どうしてポイントが振り込まれてないんだ?」

 

 まあ、当然の疑問だ。茶柱先生はその疑問を聞き、軽く肩をすくめてみせた。

 

「今回、少しトラブルがあってな。1年生のポイント支給が遅れている。おまえたちには悪いがもう少し待ってくれ」

「えーマジすかあ。学校側の不備なんだから、なんかオマケとかないんですかあ?」

 

 再度教室からは不平不満の声が噴出する。そりゃあそうだ、せっかく87ポイント、金銭で言い換えれば8700ものプライベートポイントをもらえることがわかったのだ。Dクラスからしてみれば二ヶ月ぶりのお小遣い、それが学校側の不備で支給が遅れているなどこっちからしたらふざけた理由にしかならない。私もそう思います。

 私も、お金、欲しい。清隆くんと遊びに行きたい。有料スポットにはまだまだ全然行けていないのだ。

 

 ブーブー文句を垂れている生徒たち(私含む)をいつも通り淡々とした目つきで見つつ、茶柱先生が言う。

 

「そう責めるな。学校側の判断だ、私にはどうすることもできん。トラブルが解消次第ポイントは支給されるはずだ」

 

 なお言葉の割に悪びれた様子が一切ないのは茶柱先生様々である。ちょっとは悪びれろよ! これだから茶柱先生は!

 

 

「……ポイントが残っていれば、だがな」

 

 

 ───そして最後に意味深な言葉を残すのも、彼女様々といえる、か。

 

 

 これから来るであろう一波乱にじんわり頭が痛くなってくる。平穏に過ごしたいだけだというのに、なんともまあ前途多難だ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 今日のお弁当は私作だ。最近だし巻きたまごの作り方と言うものを覚えたため、私作のときはだいたい渾身の出来たるだし巻きたまごがメインに入るという形になっている。

 ちなみに清隆くん作お弁当は卵を扱った料理なら卵焼きが基本だが、味はその日の気分で甘口だったり辛口だったりと、適当にやっているようだ。

 だし巻きたまごと、甘口と、それから辛口。みんな違ってみんないい。

 

 

 いつものベストプレイスで、ベンチに座って清隆くんと二人で昼食を取る。

 お互いのんびりと食べ進めていると、水を飲んで口の中をすっきりさせた清隆くんが言う。

 

「87ポイントあれば、どこかに行ってもいいんじゃないか?」

 

 清隆くんもそろそろ遊びに行きたい欲が高まっていたのであろう。そういえばポイントが支給されるのがわかっていたここ最近、ずっとソワソワしていた気がする。言わずもがな私もなので、二人でずっとソワソワしていた。

 無料処を回って遊んでいても、私たちは健全な高校生なのだ。やはりお金を使って遊びたい。どうせならお金を使って遊びたい。お金を使って遊ぶことほど楽しいものはないというのは、この世の真理なのである。

 

「87ポイント、つまり8700だから……一回……いや二回! 二回くらいならパーッと行ってもいいかも?」

「いや、三回はいける」

「ガバガバすぎないか? だめだよ、ここで我慢してこその解放されたときの楽しみなんだから!」

 

 でも三回はいけそうだな。

 

 ポイントが支給された後のことを考えると俄然楽しみになってきて、指折りこれからしたいことを数えていく。清隆くんも私に続く。

 

「まずは映画でしょー、それから〜」

「オレはパフェっていうのを食べてみたい」

「パフェ! いいね! そうだ、甘味処巡りとかいいかもしれない」

「それなら実質一回だしな」

「やっぱりガバガバすぎない?」

 

 映画、甘味処巡りでカウントは二回。残り後一回か。

 うーんと頭を悩ませる。私も清隆くんも楽しめる場所……こうやって改めて考えてみたら一瞬では思い浮かばないものだ。別にどこでも楽しめそうだからかな……。

 

 と、一つ名案が思い浮かんだ。そういえばまだ清隆くんと行っていない場所がある。

 明るい顔をし、早速提案した。

 

「カラオケ! カラオケ行ってみない?」

「カラオケ……か? 歌うところだよな?」

「そうそう。歌って踊るところだよ」

「踊るのか……?」

 

 踊る人もいるんだよ。入学当初、陽キャ軍団に紛れ込んで行ったカラオケでは、アイドルの振り付けで歌って踊るクラスメイトもいたのだ。嘘は言っていない。

 清隆くんとしてもカラオケという未知の場所、気にならないわけではないのだろう。踊るという言葉に少し面食らった様子ではあったが、興味深そうに首肯する。

 

「いいな。カラオケも行くか」

「ちゃんと踊るんだよ、清隆くん」

「本当に踊らなきゃいけないのか……」

 

 なんか騙してないか? という疑いの目を向けてくる清隆くんに元気よくサムズアップしてみせた。嘘は吐いていないから万事オーケーである。

 

「葵から先に言ったんだ。手本はよろしく頼む」

「任せて。私も学習してきたから」

「本気でオレに踊らせる気なんだな……」

 

 やはりカラオケで踊るのは嘘説を推していたらしい。先に私が踊るよう話を持っていき、嫌だと断られればオレも嫌だとか言う算段だったのであろう。この私がそんなこと許すわけなかろう。踊るのが嘘だと思っているなら、私自ら真実にするまでである。

 だって歌って踊る清隆くんとか普通に気にならないか? 私は見たいもののためなら出し惜しみする気はない。

 

 巷で有名らしいアイドルの振り付けを頭に思い起こして、自由な上半身だけで再現してみせる。清隆くんは、お〜と私を、ひいては私がしている即興ダンスを見ていた。

 

「なるほど。じゃあオレも何か覚えていくか」

「もしかして歌指定したら、それ覚えてくれる感じ?」

「あんまり動き回るようなものじゃなければ、別にいいぞ」

「やった!? マジで!?」

 

 これからのことを考えると楽しみになってきた。まさかの三番目の案、カラオケというダークホースが楽しみでたまらなくなるとは予想外だ。言質は取ったし、清隆くんが踊ってくれるのは確定である。

 まだ少し考えるのが早いが、清隆くんには何の歌で踊ってもらおうかな〜とワクワクしながら頭を悩ませる。

 今日帰って、さっそく調べるのもいいかもしれない。カッコよさに全振りしたダンスとか踊ってるの見てみたい。……いや、でも……可愛い振り付けが多いものを踊らせるのもいいな。普通に見たい。見たくない?

 

 一人で唸ってはいろんなパターンの踊りをしている清隆くんを想像し、目を爛々と輝かせる。口元にはニタァとした笑みが浮かんでいたと思う。

 

 清隆くんはそんな私を見て、先の軽率な発言をちょっと後悔していたようだった。

 でもまあ、なんやかんや楽しそうではあった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 放課後になり、部活に行くため早々に席を立つ。清隆くんはバッグを持って私のもとに向かってきていた。いつもと同じで、武道館までは一緒に帰るつもりなんだろう。

 二人で並んで教室を出ようとして、茶柱先生の声が耳に届いた。私たちに続いて、同じく教室を出ようとしていた須藤に呼びかけたようだ。

 

「須藤。お前に少し話がある、職員室まで来てもらおうか」

「は? 何で俺が。これからバスケの練習なんすけど」

「顧問には話をつけた。来るも来ないもお前の自由だが、後で責任は取らんぞ」

 

 茶柱先生の脅迫とも取れる言葉に、終始気怠そうにしていた須藤も態度を改める。警戒するような目つきで茶柱先生を見た。

 

「なんなんだよ……すぐ終わるんだろうな?」

「それはお前の心がけ次第だ。こうしてる間にも時間は過ぎていくぞ」

 

 それ以上押し問答をするのはやめたらしい。派手な舌打ちをかまし、須藤が茶柱先生の後に続く。

 私たちの後を追い越して、須藤と茶柱先生が廊下の向こうに消えていくのを、清隆くんと二人で見送った。

 

 

「あなたたちはどう思う?」

 

 

 背後から声が届く。今度は茶柱先生ではない。それに加えて私たちにかけられた声だとも気づく。

 

 清隆くんと二人で振り向く。

 すぐ近くには堀北さんがいて、ツンと澄ました顔をして立っていた。

 

「どう思うって、須藤のことか? なら、オレは別になんとも」

「水元さんは?」

 

 さらっとフェードアウトしようとしたが普通に許されなかった。目敏い。

 中途半端に去ろうとしていた姿勢から直り、振り向いてぽりぽりと頰を掻く。堀北さんが見逃さなかったため、清隆くんは手を繋いでくる。

 

「私も、特には何も思っていないよ。それより堀北さんはどうなの? 須藤に手を貸した一人として、さ」

 

 堀北さんの眉がピクリと持ち上がる。しかしそれも一瞬のことで、すぐに元通りになり淡々とした表情で言う。

 

「そうね……。クラスにとってプラスとなるかどうか、それがまだ未知数なのは確かね」

 

 須藤を助けるために自ら点数を下げたり、ポイントを消費してテストの点数を購入したりとあんなに献身的だったのに、まるでそんなことをしたとは思えない態度だ。さすが堀北さんというかなんというか……。

 堀北さんが思案げに視線を下げる。

 

「少し気になっているの。今朝先生が言っていたこと」

「ポイントの振り込みが保留になったことか?」

「ええ。トラブルがあったらしいけれど、それが学校側の問題なのかそれとも私たち生徒側の問題なのか。もし後者なら……」

「考え過ぎだ。最近は特に問題なんかもなかった。それに担任が言ってただろ。Dクラスだけがポイントの支給を止められてるわけじゃないと。単純に学校側の問題だって」

 

 清隆くんの言葉を聞いてもなお、堀北さんの視線は上がらない。

 

「そうあってほしいものね。トラブルは必ずポイントにも直結するから」

「私早くポイント欲しい……」

「オレも欲しい……」

「それだけ聞くとポイント乞食みたいね、あなたたち」

 

 仕方なくない? 此処はポイント=お金の世界なんだよ。世はポイント時代だよ。

 

 ここまで大人しく話を聞いていたが、チラと時計を見てバッグを持ち直した。至極申し訳なさそうな顔を作る。

 

「私この後部活あるから……すご〜く残念だけど、先に行くね」

「親指を立てないでくれるかしら? 知ってる? サムズアップは他所の国では侮蔑表現になったり、猥褻表現になったりするのよ」

「ココは日本です!」

 

 俊敏にその場を後にする。面倒くさいお小言は聞き流すに限る。もはや聞き流す前に離脱しているが、どちらにせよ些細な問題だ。

 離脱する直前繋いでいた手を振ればあっさり離れたので、清隆くんを置いていく形になってしまったが、まあ大丈夫であろう。きっとこの後堀北さんと寮に向かって帰りながら、話の続きをするんじゃないだろうか。

 

 いや〜残念だな〜。私も本当はもうちょっと話していたかったんだけど、まあ部活があるからな〜仕方ないよな〜。

 

 

 

 今日も今日とて弓道場で練習だ。

 

 やっぱり弓を引いているときは楽しい。なんというか、世界と自分が切り離されて、研ぎ澄まされて、頭が真っ白になるような……そんな感覚が好きなのだ。

 

 的の真ん中を突き抜けた矢を引き抜きながら、もう少し練習して帰ろうかなと考える。時計を見ればまだまだ練習できそうだった。

 夏には大会もあるみたいだし、もう少し練習して帰ってもいいだろう。夕飯……は少し遅れてしまうかもしれない。先に連絡入れとこう。

 

 

 

 

 そして清隆くんの寮に帰って玄関にある二足の靴を見て、一瞬で踵を返した私である。あばよ、清隆くん……達者でな……!

 夕飯は……今日のところは諦めるしかない。よってかくなる上は、朝早く清隆くんの部屋に突撃して昨日の夕食ならぬ朝食を取るのみだ。これで万事解決である。ついでに清隆くんとお弁当作って学校行こう。

 

 清隆くんの寮の玄関にはドアチェーンがかけられている。なお私の寮にもだ。理由は入学初日、私が無防備かつ無警戒にドアを開けて清隆くんを中に招き入れたことにある。

 最初こそそこのところを気にする余裕はなかったようだが、落ち着いてよく考えれば今度は私の無警戒さに不安が出てきたのであろう。いや別に私は無警戒じゃないが?

 

 その後しつこくドアチェーンをかけるべきだと言い募られたため、「別に清隆くん以外なら対応できるから」とは言った。言った瞬間その場で足を引っ掛けられ組み敷かれた。怖い。自分より上位の力って恐ろしい。金的でもすれば逃れられただろうが、普通に足も抑えられていた。怖い。ホワイトルーム生怖くない?

 さらにその後その姿勢を維持したまま上から淡々と言葉を落とされ、説得されて、それがあまりにしつこかったので渋々承諾した。

 からの、論点ならぬ話のすり替えである。

 

 

『じゃあ清隆くんもドアチェーンしてよ』

『は? いや、今は葵の無警戒さの話を』

『嫌だ。清隆くんがしないなら私もしない。なによりその考えは時代錯誤だ! 女子だけじゃない、男子も不審者には警戒するべきだ』

『いや、だから今は葵の』

『清隆くんがドアチェーンしないならこの話は無し! 言っとくけど清隆くんも私と似たような考えしてるでしょ! 説得力ない!』

『………それもそうだな』

 

 

 ……という経緯を辿って、お互い玄関にドアチェーンをつけることになったという。道連れにするためなら駄々なんていくらでも捏ねられるのだ。私は理不尽に抗う女なのである。

 

 清隆くんからすればさっそくドアチェーンが活躍するときが来たのだろうが、果たして本当に役に立ったんだろうか。結局中に招き入れているなら、ドアチェーンをつけた意味がないような気がする。

 いや、でも一応勝手に入られることはないから、それならドアチェーンをつけて良かったと言えるだろうか……?

 

 

 まあ、なんにせよ、やっぱり私の部屋にドアチェーンは必要なかったなと思う。だから言ったのだ、私より清隆くんの方が必要だろうと。……言ったっけ?

 

 自分の寮に帰りながら、軽くため息をついた私だった。

 

 

 

 

 

 

 




感想欄で葵ちゃんの容姿言及されてる方が挙げていたおそらくキャラ名「ザビー」をずっと考えていたんですが、Fateじゃね? という天啓を受け調べてみたところ、なるほど作者もイメージ近いなと思いました。ザビ子って検索したら出てきます。
作者的にはこんなにゆるふわ髪ではないですが、毛先の方はちょっとふわっているイメージはありますね。概ねストレート髪って感じです。前髪はもっと軽めで、髪の長さは胸下辺りなので本当にこんな感じ。あと綾小路同様垂れ目です。あと横髪? 触角? はこの量の半分くらいでもっと自然な感じです。いやもう作者もわからん助けてくれ(ドツボ)

でも各々好き勝手想像してくれたらいいです(上記の発言をすべてひっくり返す言葉)



あと他にも調べてる過程で思ったんですが、堀北ちゃんCカップじゃないんですね。失礼ながらB寄りのCかと思ってました。主人公勘違いしてますね。つまりそういうことです。


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救済組と部活組

 朝、軽く清隆くんから話を聞いていたが、どうやらその必要はなかったらしい。

 なぜなら朝のホームルームで、いつもは最小限の言葉だけで教室を出ていくはずの茶柱先生が、詳しく事の詳細を話してくれたからである。

 

「今日はお前たちに報告がある。先日学校でちょっとしたトラブルが起きた。そこに座っている須藤とCクラスの生徒との間でトラブルがあったようだ。端的に言えば喧嘩だな」

 

 茶柱先生の言葉に、教室がざわざわとした喧騒に包まれる。

 茶柱先生はそれを気にする風もなく、続けて淡々と須藤とCクラスが揉めたこと、責任の度合いによっては須藤の停学、そしてクラスポイントの削減が行われることを全て赤裸々に告げていく。

 

 まだ騒がしい教室の中、戸惑いがちではあるけれどすっと手が上がった。

 

「その……結論が出ていないのはどうしてなんですか?」

 

 もちろん平田くんだ。率先して質問するところは、Dクラスのヒーローの鑑といえよう。

 

「訴えはCクラスからだ。一方的に殴られたらしい。ところが真相を確認したところ、須藤はそれは事実ではないと言った。彼が言うには自分から仕掛けたのではなく、Cクラスの生徒たちから呼び出され、喧嘩を売られたとな」

「俺は何も悪くねえ、正当防衛だ正当防衛」

 

 須藤が悪びれた様子なく言い放った言葉に、クラスメイトたちの視線がより冷ややかなものに変わる。

 目撃者に名乗りを上げるよう呼びかけるが、当然出てくるわけもない。須藤はつまらなそうに目を伏せて、茶柱先生の疑いの目から避けた。

 

「学校側としては目撃者を捜すために、今各担任の先生が詳細を話しているはずだ」

「は!? バラしたってことかよ!」

 

 茶柱先生が放った次の一言に、すかさず須藤が声を荒らげた。教室に緊張が、そして険悪な雰囲気が満ちていく。ヘイトが徐々に、しかし確実に須藤に溜まっていっている。

 唸る須藤に構わず、茶柱先生は淡々と話を締めくくった。

 

「とにかく話は以上だ。目撃者のいるいない、証拠があるない含め最終的な判断が来週の火曜日には下されるだろう。それではホームルームを終了する」

 

 言い終わるや否や教室を出ていく。茶柱先生に続く形で須藤もすぐに教室を出て行った。

 緊張は解け、残されたのは険悪な雰囲気のみだ。諸悪の根源がこの場にいないことで、それがさらに増幅していくのがわかる。

 

「なあ、須藤の話最悪じゃね?」

 

 真っ先に口を開いたのは池だった。それを皮切りに、教室内が再び喧騒に包まれていく。みんな口々に不満をこぼし、今はこの場に主がいない空白の席に鋭い視線を向ける。

 不満の吐け口は、完全に須藤に集まろうとしていた。まあ気持ちはわからないでもない。私のポイント……。

 怒るというよりは落ち込んでいると、唐突に可愛らしい声が耳に届く。

 

「ねえ皆。少し私の話を聞いてもらってもいいかな?」

 

 櫛田さんだ。さすがDクラスの天使という異名は伊達ではない。

 櫛田さんの須藤を擁護する発言に続いて、平田くんが、軽井沢さんが後に続く。やはりDクラスにおいて、この三名の立ち位置は現時点でずば抜けて高いと言えよう。

 これからは敬意を込めてこちらの三人は御三家と呼ばせていただくことにする。アッ堀北さん……いつか四天王になれることを遠くからお祈りしてます。

 

「私、友達に当たってみるね」

「じゃあ僕も仲の良いサッカー部の先輩たちに聞いてみるよ」

「あたしも色々聞いてみよっかな」

 

 話が良い感じにまとまり、クラスも良い感じにまとまり、即興ではあるが須藤の無実を証明するための場が発足する。

 私も右に倣えで肯定的な雰囲気を醸し出しつつ、さてどのタイミングでフェードアウトしていくべきか……と考えていた。

 

 

 

「フェードアウト……の予定だったんだけどな……」

「葵……そのクセ直した方がいいぞ」

「すみません……」

 

 昼休み。私は何故かあるグループに交じって食堂に来ていた。

 メンバーは私、清隆くん、櫛田さん、堀北さん、池、山内、そして須藤だ。 お察しの通りである。

 

 だって仕方なくない? 昼休みになるなり櫛田さんが『じゃあ行こっか』なんて笑顔で誘いに来たら、そりゃ『おっけー! 任された!』ってなるでしょ。なるよね? だから仕方ない仕方ない。

 

 半ば無理やり連れてこられた筆頭と言える堀北さんが、さっそく呆れたようにため息をついた。

 

「あなたは次から次へとトラブルを持ってきてくれるわね、須藤くん」

 

 同意。

 

「ま、仕方ないから友達として助けてやるよ須藤」

 

 池に関しては手のひら返しがすさまじい。真っ先に須藤を非難していたくせに、これが櫛田さん効果というのか。絶大すぎるし偉大すぎる。

 池の華麗な手のひら返しを知らない須藤は、素直に「悪いな」と軽く謝罪をした。

 

「それと堀北。また迷惑かけちまって悪い。でもよ、今回オレは無実だからよ。何とかしてCクラスの連中に一泡吹かせてやろうぜ」

 

 今の言葉を聞き、堀北さんは眉を吊り上げた。そのまま目つきを鋭くして須藤を見る。

 

「申し訳ないけれど、私は今回の件、協力する気にはなれないわね」

 

 堀北さんは須藤からの救いを求める声を、一刀両断にして切り伏せた。

 

「Dクラスが浮上していくために最も大切なことは、失ったクラスポイントを一日でも早く取り戻してプラスに転じさせること。でも、あなたの一件で恐らくポイントはまた支給されることはなくなる。水を差したということよ」

 

 須藤が慌てて追い縋るように声を上げた。

 

「待てよ。そりゃそうかも知れないけどよ、マジで俺は悪くないんだって! あいつらが仕掛けてきたから返り討ちにしたんだよ! それのどこが悪い!」

「あなたは今どちらが先に仕掛けてきたかを焦点にしているようだけど、そんなことは些細な違いでしかない。そのことに気が付いてる?」

 

 堀北さんから与えられた遠回しではあるけれど、確かなヒント。彼女が須藤を救いあぐねている理由、返ってくる言葉によっては彼を手助けしてもいいというチャンスに、やはり須藤は気づくことなく。

 

「些細ってなんだよ。全然ちげえよ、俺は悪くねーんだ!」

 

 須藤から返ってきた言葉によって、堀北さんの目が完全に冷めたものに変わった。

 

「そう。じゃあ、精々頑張ることね」

「助けてくれねーのかよ! 仲間じゃねえのか!」

 

 手付かずの食事をトレーごと持ち上げ、堀北さんはさっさと立ち上がる。

 須藤は立ち去っていく堀北さんの背に慌てて声をかけるが、そのかけた言葉も問題であるならば、堀北さんがここで折れてくれる可能性なんて微塵もない。

 

 呆れか、侮蔑か。とにかく堀北さんの須藤を見る目は変わらず冷め切ったものだった。

 

「笑わせないで。私はあなたを一度も仲間だと思ったことはないわ。何より自分の愚かさに気づいていない人と一緒にいると不愉快になるから。さよなら」

 

 一度露骨にため息をついてみせて、今度こそ堀北さんが立ち去っていく。私も立ち上がった。

 

「私、堀北さんとご飯食べるね」

「は? おい、葵───」

「清隆くんはそこにいて!」

 

 堀北さんに負けず劣らずな一刀両断、というかもはやセリフの途中で遮っていたので堀北さんより酷いかもしれない。

 でも、清隆くんが来ても状況は変わらないし、私としても変える気がないので本当についてくる意味はないのだ。

 

 背後から「なんだよあいつら! くそっ!」という声は聞こえてきていたが、気にせず急ぎ足で堀北さんが歩いて行った方に向かう。持っているトレーを慎重に扱いつつ、歩くこと数分。

 案外すぐに堀北さんを見つけることはできたが、彼女はすでに席につき、一人黙々と食事をとっていた。

 

「堀北さん。お待たせ」

「待ってないわよ。……あなたも抜けてきたのね」

 

 即座に否定の言葉が飛んできたものの、こちらも気にせず隣にトレーを置いて席につく。私は私でさっそく食事をとることにした。

 本日の昼食はうどんだ。滅多にこない食堂、やっぱり来るたびにワクワクしてしまう。いつか食堂のメニューを全種類制覇したいところだ。

 

 うどんの、ラーメンとはまた違ってすうっと喉を通っていく感じが良い。そういえば食堂でも家でも麺といえばラーメンか、パスタばかり食べていたため、うどんを食べるのは今回初めてかもしれない。

 特に会話に興じるということもなく美味しい美味しいとうどんを味わっていると、先に食べ終えた堀北さんが視線を前に向けたまま声をかけてくる。

 

「あなたはどうしてこっちに来たの?」

「え? うーん……」

 

 水を飲んで口の中を空にする。うーんと言いながら首を傾げた。

 

「まあ私も、須藤のあの言い分はちょっと……あんまり好きじゃないから、かな」

「水元さん。あなた好き嫌いとかあったのね」

 

 ちょっと驚いたように堀北さんがこっちを見てくるので、思わず苦笑をこぼした。

 

「人間なんだから好き嫌いはあるよ」

「あなた、好き嫌いなさそうなんだもの。ありとあらゆる方面に対して、ね」

 

 なんだ。含みのある言い方だな。

 

「堀北さんの私の印象って何……? いやいい、聞きたくない。やっぱり黙ってて」

「どっちよ。……そうね……無興味、という言葉が一番しっくりくるかしら」

「だから言うなってば!!」

 

 止めたのに! そして案の定失礼すぎる。私が周囲に興味ないわけないだろ!

 

 気持ちを落ち着けるため、一度大きくため息をつく。ついでにやれやれと首も振った。

 

「失礼だなぁ、堀北さんは。見てよこの目のキラキラっぷり。今何に興味示してると思う?」

「うどんじゃないかしら」

「なんでバレた……?」

「うどん見ながら言われてもね……」

 

 なんともいえない顔で私とうどんを見比べられても困る。欲しいんだったらちゃんと言葉にして欲しい。おねだりの仕方によってはあげないこともない。

 うどんを啜ってゆっくり咀嚼し、飲み込む。水を飲んで口の中を空にし、それからしみじみと言った。

 

「私今度生地からうどん作るんだ……」

「それは……応援してるわ」

 

 応援してるという言葉に全然応援してる感はなかったが、とりあえずうどんは美味しい。しばらくうどん尽くしにしてもいいかもしれない。ポイントがありませんでした(完)

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 放課後。平田くん軽井沢さん率いるヒーロー&ギャル(偽)チームと、櫛田さん率いる美少女&お調子者チームに分かれ、手分けして聞き込みをすることで話し合いは決まったようだった。

 まあ、チームがあるといっても、実際に目撃者捜しの実行に移る人数はそう多くないのが現状ではあるが。

 

「じゃあ私は帰るから」

 

 堀北さんはあくまでマイペースだ。マイペースというか、我を通しているというか……。

 もちろん一人さっさと帰ろうとしている堀北さんに話しかける猛者もいる。

 

「本当に帰っちゃうの? 堀北さん」

「そうよ」

 

 にべもない。ちょっとくらい迷いをみせてもいいと思うの。相手は櫛田さんだよ。櫛田さん相手になんでそんな塩対応できるんだろう。

 

 ついつい堀北さんを尊敬の目で見てしまう。いや、だって櫛田さんだよ? 無理じゃない?

 

「葵、本当そのクセ直せ。良くないぞ」

「すみません」

 

 だって言ったじゃん。上目遣い+お願い=致死であると。なんか思うように櫛田さんにコントロールされている気がするが、でもこれは仕方がないことだ。だって抗えないんだから。

 人はどれだけ眠らずに過ごそうと覚悟を決めても、24時間から48時間で眠ってしまう。たまに○日眠らず過ごしたと豪語する猛者もいるが、いずれは力尽きる。

 つまり絶対に抗えない瞬間というのは訪れるということ。人間のメカニズムだ。

 

 一通りこそこそ清隆くんにしていた言い訳が終わったところで(なおすべて「わからない」「言い訳が苦しい」「反省しろ」とだけ返ってきた。ひどい)、櫛田さんが私たちに提案をしてきた。

 

「私、やっぱり堀北さんにも協力してもらいたい。だからもう一度声をかけてみない?」

「けどあいつ今帰ったぞ」

「うん。追いかけてみたいの。堀北さんなら必ず戦力になると思うし」

 

 こんな健気な子いる? メロッとした私だが、すかさず頭を小突かれた。

 

「それは否定しないが……」

 

 時間をかけて説得すれば、チャンスはまだあるはずだと櫛田さんは言う。そもそも私たちに止める権利はないのだ。二人でわかった、と頷いた。

 櫛田さんが池と山内に教室で待機しているよう言って、今度は私たちを見る。私はやれやれと息を吐いた。

 

「それじゃあ頑張ってね」

「葵も行くんだよ」

 

 私行く意味ある? とか思っていたら櫛田さんに「行こっ」と言われて腕を引かれてしまった。そのまま教室を後にする。清隆くんは先を歩く私たちの後を大人しくついてきていた。

 櫛田さんに腕を引かれながら思う。なんだろうこの甘酸っぱい感じ。今間違いなく、この瞬間から青春が始まったような気がする。へへっ。なお後ろからの視線は除外するものとする。

 

 玄関には堀北さんの姿はない。もう学校を出てしまっているのだろう。靴に履き替え、また堀北さんを追っていく。

 そしてようやく堀北さんの後ろ姿を発見した。

 

「堀北さんっ」

「……何かしら」

 

 少し驚いた様子で堀北さんが振り返って、私たちの姿を確認する。目が合って、軽く手を振っておいた。

 

「須藤くんの件、堀北さんにも協力してもらいたいなって……ダメかな?」

「その話なら断ったはずよ? それも数分前に」

 

 案の定秒で断られた。だから迷う素振りは見せろとあれほど。

 

 その後も必死に懐柔しようと言い募る櫛田さんと、そのすべてに秒で断りを入れる堀北さんのちょっとしたキャットファイトを眺めていたのだが、堀北さんが明らかになんらかの意思を持って私を見たことにより状況が変わる。

 

「今無理に彼を助けたところで彼はまた繰り返すだけよ。それは悪循環じゃない? もし今回の事件、本当にCクラスの生徒から仕掛けたものだったとしても、結局は須藤くんも加害者なのよ」

 

 同意を求めるような視線だった。なるほど、私に矛先を向けてきたか。

 

 もろちん私が取る手段としては視線を逸らす一択である。ついでに普通に美味い口笛もこれ見よがしと吹いてみた。

 堀北さんが私の様子を見て嫌な顔をした後に、面倒臭そうにため息をついた。

 

「どうして彼が今回事件に巻き込まれたのか。その根本を解決しない限りこれから永遠に付きまとう課題だってわかってる? 私はその問題が解決されない限り協力する気にはなれないわね」

「そんな……」

 

 取りつく島は一応あるんだよなぁ……。

 

 落ち込む櫛田さんを華麗にスルーし、堀北さんが改めて前を向いて帰路につこうとする。が、振り向き様にアドバイスするように言った。

 

「これでも納得できないなら、あとは後ろにいる彼女にでも聞けば? 私の考えてることを理解してるくせに、理解してないフリしてるだけだろうから」

 

 うーん最後に堀北さんやってくれたな……! でも可愛いから許す!

 

 颯爽と去っていった堀北さんにこれ以上追うのは得策ではないと踏んだらしい櫛田さんが、振り向いて私を見つめてくる。へなっと眉を下げて懇願するように私を見てくる。

 

「須藤くんも、加害者……? そう……なのかな?」

 

 やはり議題はそこになる、か。

 別にアドバイスする程度構わない。なにより折角堀北さんからキラーパスをされたのだ。答えてあげるが世の情けであろう。

 それに、櫛田さんからそんな可愛いお願いの眼差しを向けられたら、銀行の暗証番号も喜んで教えてしまいそ───頭を小突かれた。見上げれば胡乱な目つきをして私を見ている清隆くんがいる。

 やだな、教えないよ。私を見くびってもらっては困る。教えるなら、そうだな……胸を触らせてくれたら教えてしまうかもしれない。そう思えば先に櫛田さんの胸を触っている清隆くん羨ましすぎるんだが?

 

 話が逸れ気味の脳内を軌道修正しつつ、櫛田さんのお願い、そして堀北さんが熱い信頼のもと私に送ってきたキラーパスに応えるべく口を開いた。

 

「少なくとも、今回の件は須藤も悪いんじゃないかなって私は……堀北さんも感じてるよ。須藤は普段から人に恨まれても仕方がないようなスタンスを取ってるでしょ? 気に入らなければ誰が相手でも暴言を吐いたり、あるいは横暴な態度だったり」

「あ……」

 

 ハッとした様子で櫛田さんが口をつぐむ。

 

「バスケの才能が申し分なくあったとして、そのことを驕り周囲に傲慢な態度をとっていれば……少なからず嫌う人は出てくる。懸命に練習してる人からすれば、須藤は嫌味な相手に見えるんじゃないかな」

 

 櫛田さんは「そっか……」と小さく言葉を落とした切り、私の言葉に静かに耳を傾けていた。

 

「そういえば噂も立っていたよね? 須藤は中学から喧嘩ばかりしてるって。同郷がいるって話は聞いたことがないのにそんな話が知れ渡ってるってことは、そういうことなんじゃないかな」

「普段の行いや積み重ねが……こういう事態を招いた……ってことだね」

「簡単に言ってしまえば、そういうことになっちゃうね」

 

 櫛田さんの肩が下がる。余計に落ち込んでしまったみたいだ。まあ、真実ほど残酷なことはないということだ。

 

「周囲の反感を買う態度を続けていれば必然トラブルが起きる。そして証拠が無ければモノを言うのは日頃のイメージ。つまり心証だよ」

 

 ピッと人差し指を立てた。追い討ちをかけるようで申し訳ないが、どうせなら最後まできっちり説明はしておきたい。

 

「例えば殺人事件が起きたとして、だよ。容疑者は二人。一人は過去に殺人を犯した経歴がありもう一人は日々真面目に生きてきた善良な人間。この情報だけなら、櫛田さんはどっちを信じる?」

「それは……もちろん日々真面目に生きてきた人、だね」

「真実はそうじゃないかも知れない。けど、判断材料が少なければ少ないほど、ある材料だけで判断を下さなければならないこともある。今回の事件がまさにそう」

 

 須藤自身自分が悪いと自覚していないことが、堀北さんとしても、私としても許せない。さすが初期3バカは……3バカの名は伊達ではない。早く綺麗な須藤に会いたいです。

 

 櫛田さんは落ち込んでいたけれど、静かに「そっか、そういうことなんだね……」と声をあげる。一人小さく頷いて、顔を上げて私を見つめる。

 

「堀北さんは、須藤くんに思い知らせたいから助けないってことだよね?」

「そうなる……のかなぁ。罰せられることで、自覚を持って欲しいんじゃない?」

 

 話を理解してもらえたようでなによりだ。キュッと握った拳からは、今の説明で納得していないことはわかったが。

 強い意志を感じさせる凛とした眼差しで、櫛田さんが私を見る。

 

「懲らしめるために須藤くんを見捨てるって考え方は、納得いかないよ。もしそんな風に不満を抱いてるなら、せめて直接言ってあげなきゃダメだと思う。それが友達だよ」

「天使か……?」

「葵」

「はい」

 

 最近清隆くん、私の扱いを学んできた気がするな。

 若干の居心地の悪さを感じつつ、ぽりぽりと頰を掻いて櫛田さんに言う。

 

「須藤を助けたいって考え方は、私は間違ってないと思うよ。だから、私は櫛田さんを応援してる」

「うんっ! ありがとう、水元さん」

 

 可愛らしい笑顔にメロメロになりそう。

 

 使い物にならなくなった判断をしたらしい清隆くんが、私の後を継いで言う。

 

「ただ須藤に問題点を指摘するかどうかだが、もう少し熟考した方がいいかもしれないな。上辺だけの反省には何の意味もないし、自分自身で気が付いて初めて得るものもあるから」

「……そっか。わかった、それは綾小路くんのアドバイス通りにするね」

 

 ぐーっと櫛田さんが背伸びをする。気持ちを切り替えているんだろう。

 元の体勢に戻って見えた顔が、少し晴れたようなのが幸いだ。

 

「じゃあ行こっか。事件の目撃者を探しにさ」

「あっちょっといいですか?」

「? どうしたの、水元さん」

 

 私は至極申し訳なさそうな顔を作って言った。

 

「私このあと部活があるんだ。残念なんだけど……」

「あっ! そっか、水元さん確か弓道部だったよね? ごめんね、部活あるのに無理やり誘っちゃって……」

「全然いいよ。荷物取りに教室戻るから、それまではいろいろ今後の対策とか話そう」

「本当にごめんね……! ありがとう、水元さん」

 

 部活って入ってるとメリットしかなくない? って最近気づき始めました。

 なお後ろから向けられている視線は除外するとする。手を捕まえられても頑として譲らない心が肝心なのだ。私は初志貫徹の女なのである。

 

 

 

 道中これからの話をしながら、教室に辿り着く。池と山内が合流している傍らで、私は部活動に行く準備……言い換えれば一人で帰る準備をしている。

 

「あれ、結局堀北の説得はダメだったん?」

「うんごめんね、失敗しちゃった」

「悪いのは櫛田ちゃんじゃないよ。それに俺たちがいれば戦力として十分っしょ」

 

 戦力になるのかな2バカは……。

 

「期待してるね、池くんも山内くんも」

 

 期待に目を輝かせている櫛田さんは本当に可愛い。目の前でそれを見ている池と山内なら、なおさらそれを感じていることだろう。

 じゃあどっから行く? という話をしている彼らのもとに、バッグと道着が入った袋を持って向かう。清隆くんが気づき、私が輪に入れるよう横にずれた。その隙間に器用に入る。

 

「いやぁごめんね。私も今から部活に行くから、参加できなくなっちゃった」

「あれっ? 水元ちゃん、部活入ってたんだ?」

「うん、入ってるよ」

「へ〜そうだったんだ! ちなみに何の部活入ってんの?」

「弓道部だよ」

「弓道!? カッケェ〜!」

 

 私も弓道部はカッコよく見える部活ランキングの上位に位置してると思う。私自身そういう目線が無いといったら嘘になるし。

 まあ、弓道部に入ったメインの理由はそれじゃないが……。ここでわざわざ言う必要はない。

 

「すごいよな、部活動に入るなんてさ。運動部なんて特に」

「一応弓道部も運動部の端くれではあるけど、みんなが思っているようなハードな運動部じゃないよ」

「いやいや、それでもすごいよ。俺さ、部活やるヤツはバカだと思ってんだよね」

「え……? もしかして今私、喧嘩を売られている……?」

「あ! ごめんごめんちょっといきなりすぎた。バカにしてるわけじゃないんだよ、ほんとごめん!」

 

 直前で「バカだと思ってる」って言ったのに、その後「バカにしてるわけじゃない」って矛盾が激しすぎない?

 

 半目になった私の前で、池がより一層慌てている。

 

「だ、だってさ。運動が好きなら趣味でやればいいじゃん。厳しい練習やってまで得られるメリットなんてなくない?」

 

 なるほど。そういう考え方もあるのか。まず部活をメリットデメリットだけで見るのがそもそもおかしいとは思うが……個人の考えと言われたらそれまでか。

 

 池の言い分を聞き、ふむと一度頷く。半目から元に戻った私に、池がホッと息をついた。

 

「でも弓道部か〜……あの、なんかカッコいい……道着だっけ? みたいなの着てするんだよね?」

「もちろん。練習は本番のように、本番は練習のようにって言うしね」

「道着っていいよなー。あの胸が強調される感じがたまら」

 

 とりあえず言い終わる前に拳を叩き込んでおいた。お腹を押さえて呻き声を上げつつ蹲っている池に、頭上から堀北さん級の冷たい声を浴びせる。

 

「他の弓道部女子にそんなこと言ったら、次は……ない」

「何がないの!? ごめんなさい!!」

 

 真剣に部活をやっている人の前でなんてことを言うのか。そういうところだぞ。仮にも女子の前、さらには櫛田さんも聞いているのだ。池のもともとない好感度がぐっと下がる音がするようだ。

 

 反省している様子は見て取れたので、一度ため息を吐いて今回は見逃すことにする。制裁も下したので、これ以上責めるのも酷というものだろう。

 池を殴った際にずれたバッグと道着の入った袋を持ち直す。櫛田さんは困ったように池と私を見ていた。なぜ正しい行いをした私がそんな目で見られて……?

 

「暴力は、その……いけないと思うな。もちろん池くんも。真剣に部活をしている人に、そんな風に言ったらダメだよ」

「う、うう……ご、ごめん櫛田ちゃん……水元ちゃんも、本当にごめん……」

 

 鉄拳制裁がダメだったか……。私としても結構遠慮なく叩き込んだところはあるので、確かにやりすぎと言われたら否定はできない。音からして私の本気度が伝わってしまっていたのだろう。反省点だ。

 

「わかった。次から気をつけるよ」

 

 いかに音を立てないで拳を叩きつけるかを。池が野生の勘で何かを察したのか身震いした。

 

 清隆くんは未だ床に蹲っている池を助け起こそうとしている。友達だからだろう。肩を貸して、ちょうど清隆くんの顔が池の耳元に近づく体勢になっている。

 清隆くんの中で確かに根を張りつつある友情をこうやって目視することができて、私としては感動の思いでいっぱいだ。

 

 ヨロヨロ立ち上がった青を通り越して白い顔の池が再度輪に加わり、これからどこに行くか論議が始まる。

 

「もし皆が構わないなら、最初はBクラスに話を聞くのはどうだ?」

 

 最初に清隆くんが提案し、その理由を述べていく。

 BクラスにとってCとDでは、すぐ後ろを追ってきているCクラス相手に手助けをするとはとても思えないこと。また現時点でAクラスの情報はなさすぎること、ポイントが関わる厄介事には好んで首を突っ込みたがらないだろうこと。

 理由を聞き、みんながなるほどと頷いた。これで方針は決まったようだ。

 

 櫛田さんがさっそく勇んで、先頭を切り行こうとくる。

 

「早速Bクラスにレッツゴー!」

「ストップ」  

「にゃー!」

 

 にゃー!? 襟首を捕まえられて出る悲鳴がにゃー!? こんな可愛い女子高生いる?

 

「萌え~!」

 

 不本意なことに山内と同じ感想になってしまう。愛くるしい櫛田さんのアクションには、みんなこうならざるを得ないと思う。

 

「清隆くん、ナイスアシストだよ……」

「アシストした覚えがないんだが……」

「今から私清隆くんの襟首掴むから、にゃーって悲鳴あげてくれる?」

「オレたち会話してるんだよな?」

 

 どさくさで清隆くんにもにゃーという悲鳴をあげさせたかったのだが、普通にダメだった。半目でこっちを見てくるので、ひそひそ耳打ちして話していた体勢から直る。

 本当にできる人というのは引き時を誤らないのである。つまりまた別の機会を狙っていこう。

 

 ……と、そろそろ本格的に時間が押してきた。楽しくてなんだかんだと長居してしまう。

 櫛田さんのにゃーという悲鳴も聞けたことだし、気分は上々だ。今度こそみんなに手を振って別れた。

 

「部活頑張ってね、水元さん!」

 

 最後までサービス過多な櫛田さん、計算だとわかっていても可愛くて好き。むしろ計算だからこその萌えってないだろうか……?

 

 

 

 



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特別棟は出会いの場

 ここ最近は清隆くんの部屋が須藤救済組の溜まり場的な感じになっており、私は夕飯を食べに清隆くんの部屋に行ったり、お泊まりしたりすることなく自分の寮に帰る生活を送っている。

 

 とは言っても、朝はどちらも何を言わずとも待ち合わせして一緒に学校に向かっているので、情報伝達は完璧だといえよう。

 

「佐倉さんが目撃者の可能性がある?」

「ああ。堀北によると、だがな」

 

 なるほど。今はその段階、と。

 

 思案げに視線を下げながら、会話を続ける。

 

「そっか。Dクラスの生徒か〜」

「もし他クラスか他学年で、かつ学校側からも信頼の厚い目撃者だったなら、また話は違ったんだがな」

「ま、ないものねだりだよね」

 

 私の言葉に清隆くんが頷く。私もふんふん頷いた。

 

「今日櫛田が佐倉に話しかけてみると言っていたから、それまでは様子見するしかないな」

「何か進展あるといいね」

 

 私たちの歩く速度はそう速いものではない。なんなら人より遅いくらいだ。何から何まですべてを計測されていた以前と違い、今は急ぐ必要も事柄もないため、二人揃ってゆっくりしまくるという悪癖が出来上がっている。

 人に合わせろということなら別に何も問題はないのだが、私たち二人が揃い、なおかつ二人だけで他に気を遣う人がいないという状況であるならば、この悪癖が満を持して登場する。歩くスピードはまさしくその悪癖の代表といえた。

 

 私たちの他にも学校に向かっている生徒は多くいる。というよりどんどん増えていき、どんどん追い抜かれていったというのが正しい。みんな歩くの速い。

 

 照りつける太陽を見上げた。朝も早いことで、頭上には雲一つない爽快な青空が広がっている。

 パタパタと襟を扇いで、辟易しながら言った。

 

「暑いね……」

「そうだな。これが夏か……」

 

 お互いにしみじみと夏を実感する。

 

「ポイント手に入ったら、アイス食べない?」

「いいな。かき氷も食べてみたい」

「夏祭り行きたい夏祭り」

「ここって夏祭りとかあるのか?」

 

 ……なさそうだな……。

 

 なんにせよ、これからが楽しみなことに変わりはない。7月に入ってからずっとワクワクしている気がする。

 暑さでじんわり汗をかいている感覚ですら楽しかった。清隆くんは嫌そうに眉をひそめているが、その顔を見ているのも面白い。

 

 夏はまだ始まったばかりだ。もっとたくさんの未知に出会い、既知に変えていきたいと思う。なおダジャレを言ったつもりはない。

 

 

 

「綾小路くん、水元さん。おはよう」

 

 教室に着いて早々、平田くんが声をかけてきた。今日も相変わらず爽やかなフェイスをしている。暑さの方から逃げていきそうな爽やかイケメンフェイスだ。

 さらに微かに匂ってきたフローラル系の甘い香りに、女の子はみんな思わず『抱きしめて!』と懇願してしまうことだろう。そして優しい平田くんは困惑しつつも快く受け入れてくれる流れまで読めた。……あれ……つまり……?

 

 ふら〜っと光に集う蛾のように平田くんのもとに行こうとして、襟首を捕まえられた。まさか先に清隆くんにやられるとは思いもしなかった。

 仕方がないので期待に応えるべくコホンと一度咳をしたのち、『にゃー!』と叫ぼうとして後ろから口を押さえられる。

 

「それは今度聞いてやるから、今はやめろ」

 

 直前まで言おうとはしていたが、実際は目の前に平田くんがいたためさすがに恥ずかしくなって言う気がなかったなんて言えない。

 しかし好都合なので、口を押さえられたままモゴモゴと訳:そのときは清隆くんも『にゃー』って言ってね、と話していると、平田くんが私たちを見ながら苦笑していることに気づく。

 

「二人はいつも仲が良さそうでいいね」

 

 もし平田くんにキュンキュンポイントというものを与えられるなら、おそらく今目の前でされている苦笑にさえ私は30ポイントは与えている。なお上限は100だ。100になったら……始まる。

 

「そうだ、櫛田さんから聞いたよ。目撃者が見つかったんだってね、佐倉さんだとか」

 

 平田くんがさっそく本題に入った。もともと何か目的があって話しかけにきていたのだろうし、納得のことだ。

 あまり関わりがないから、わざわざ朝から話しかけにくるなんておかしいとは思っていた。

 

「佐倉とは話したりするのか?」

「僕? いや……挨拶をする程度だよ。彼女はいつもクラスで一人だからどうにかしたいと思ってるんだけど、異性だと強引に誘うってわけにもいかないからね。かといって軽井沢さんにお願いするのも、ちょっと問題が起きそうだし」

 

 軽井沢さんと佐倉さんの会話。確かに二人が話しているところはあまりイメージできない。

 

「ひとまず僕らは櫛田さんからの報告を待とうと思う」

「それはいいけど何故オレたちに? 池や山内に言った方がいいぞ」

「特に理由は無いけど……強いて言うなら堀北さんとも繋がりがあるから、かな? 堀北さんは君たち以外とは話もしないようだからね」

「なるほど」

 

 特に話してるのは清隆くんだと思うが……まあ私は清隆くんとよく一緒にいるからな。結果的に堀北さんと話している機会は3バカよりは多いか。ならば平田くんにそういう認識を持たれても仕方ない。

 ……そろそろ口を押さえている手が邪魔に感じてきた。会話も一旦の終わりを見せたことだし、ここで適当に剥がす。

 

「そうだ。もしよかったら近いうち一緒に遊びに行こうよ。どうかな?」

「えっ!? いいんですか!?」

「葵」

「はい」

 

 いかん。つい食いついてしまった。清隆くんに言っていることと理解しているのに、つい欲望が先に出て……! くそ、なんて悪い口なんだ。

 

 清隆くんの脇腹を肘で軽くつつく。よかったね、という意味だ。平田くんからのせっかくのお誘いだ、断る理由はあるまい。

 口に出さずとも行動で私の意思は伝わったのだろう。清隆くんが少しした後、ゆっくり口を開く。

 

「……まあ、別にいいけど」

 

 ぶっきらぼうな返事に唖然とした。この子は何を言っているの……!?

 平田くんは清隆くんのその返事を聞いて、申し訳なさそうな顔をする。

 

「ごめん、ノリ気じゃないかな?」

 

 嬉しいくせに! 嬉しいくせにこの子強がっちゃってるんです! 本当は嬉しいんです!

 

「行く、行く。全然行くから!」

 

 清隆くんに代わって慌てて返事をした。ちょっと気持ち悪いと思われそうな返事だが、やむを得ない。というか普通に私も行きたい。でも平田くん単体と行くのは違うから、叶うなら大人数で行きたい。そして清隆くんと二人でそこに紛れ込みたい。

 欲望が際限なく出てくる。全部表に出していないだけマシだと思ってほしい。

 

 

 

 平田くん、清隆くんと別れ、自分の席に向かう。その途中で、いつのまにか佐倉さんが席についていたことに気づいた。

 話しかけることはしない。佐倉さんは人見知りで、周囲の目がある中で話しかけられることが得意ではない。

 何をするわけでもなく、席に座って時間が過ぎるのを待っているように見える。そろそろ朝のホームルームが始まる頃だ。

 

 一体いつから一人で待っていたんだろう。

 そんな疑問が頭に思い浮かぶが、だからといって私がすることは何もない。

 

 今日も新しい一日が始まる。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 放課後になると、櫛田さんはさっそく行動に出た。

 

 ホームルームが終わると同時に席を立ち、静かに帰る準備をしている佐倉さんのもとに向かう。あの櫛田さんが緊張しているように見えるのは珍しいことだ。

 櫛田さんが佐倉さんに接触することを知っていた私たちに加え、池、山内、須藤の意識も彼女たちに向いている。

 

「佐倉さんっ」

「……な、なに……?」

 

 佐倉さんは声をかけられると思っていなかったのか、体を強張らせる。

 

「ちょっと佐倉さんに聞きたいことがあるんだけどいいかな? 須藤くんの件で……」

「ご、ごめんなさい、私……この後予定あるから……」

 

 最初こそバツの悪そうな顔をして話を切り上げようとしていた佐倉さんだったが、話が長引くごとに徐々にその表情に怯えが混じっていく。

 佐倉さんと櫛田さんという珍しい組み合わせが教室で話しているのもあって、必然と周囲の視線が集まってきているのだ。

 

 佐倉さんは櫛田さんから距離を取るように荷物をまとめ、立ち上がる。

 櫛田さんによる説得が失敗に終わったのは明白だった。

 

「さ、さよなら」

 

 言うが早いか逃げるように佐倉さんが踵を返す。机に置いてあった彼女の私物と思われるデジカメを握り締めて歩き出す。

 そしてその直後、携帯で友達と喋りながら前を見ず歩いていた本堂と肩がぶつかった。

 

「あっ!」

 

 短い悲鳴の後、無惨にもデジカメが床に叩きつけられる音が教室内で小さく響く。

 慌ててデジカメを拾い上げる佐倉さんに対し、本堂は悪い悪いと軽く謝りながらも携帯に意識を集中させたまま教室を出て行った。なんだアイツ。

 

「嘘……映らない……」

 

 佐倉さんがショックを受けた様子で、それでも諦めきれず何度も電源ボタンを押したり、バッテリーを入れ直したりしている。しかし主電源が入る気配はない。

 櫛田さんは佐倉さんに負けず劣らず顔を青くさせて、その様子を近くで見守っている。

 

「ご、ごめんね。私が急に話しかけたから……」

「違います……不注意だったのは、私ですから……さようなら」

 

 泣きそうな顔をしている佐倉さんを呼び止めることが出来ず、櫛田さんは去っていくその背を見送るしかできないようだった。

 

「何であんな根暗女が俺の目撃者なんだよ。ついてねえな。つか俺を救う気あんのかよ」

 

 誰か須藤の頭を救ってあげてください。

 

「須藤くん、かえって良かったかも知れないわよ。彼女が目撃者で」

 

 堀北さんがさっそく全力で煽りにかかっている。煽り耐性ゼロの須藤に、初手堀北さんの煽りぶっぱはキツいと思う。

 しかし堀北さん相手だからこそまだ我慢していると思ったら、少しずつではあるものの綺麗な須藤に変わりつつあるのか。うーん、これが成長……。

 

 

 ───教室内の空気は最悪になっていた。堀北さんに続いて、高円寺くんも須藤煽りメンバーに仲間入りしたからだ。堀北さんに勝るとも劣らない清々しい煽りっぷりだったと言っておこう。

 平田くんが間に入らなければ、きっとこの場で高円寺vs.須藤の喧嘩が始まっていたと思う。Dクラスのヒーローは今日も大活躍だ。

 

 仲裁されて一旦矛を収めた須藤だったが、その後盛大な舌打ちを一つ残し、すぐに乱暴に教室を出て行った。

 教室に残っていた生徒たちもそれに続き、ぱらぱらと出て行く。

 

 

 さて、私はこれからどうするか……今日は部活が休みなのだ。大会が近いとはいえ、毎日練習だと逆に効率が落ちるからという理由だ。

 

 後ろで清隆くんたちが会話しているのは聞こえていたが、中に入る気にはなれない。ので、荷物を片付けバッグを持ち上げる。

 

 肩に手が乗った。

 

 

「葵。今日は部活休みだって言ってたよな? 一緒に帰ろう」

 

 

 一足遅かったか……。

 

 振り向けば清隆くんは当然として、堀北さんもいた。

 どうやら今日はまだ少し長く続くらしい。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「あっついな……」

「さすがに私もこの場所はキツい」

「もう少しだけ我慢してくれ……」

「清隆くんの方が先にダウンしそうなんだよな……」

 

 朝よりも放課後の方が蒸し暑さが増すのは当然のことだ。加えて、今私たちがいる此処は特別棟。特別な授業が無い限り生徒の出入りはなく、そのため本校舎と違い四六時中冷房が効いているということがない。

 

 清隆くんが暑さによりいつもより生気を失った声で、先を行く堀北さんに言う。

 

「悪いな、こんなところに付き合ってもらって」

「私にも謝って……」

「すまん……」

「いいよ……」

 

 涼しい顔をしている堀北さんが羨ましい。こんなに暑いのに、新陳代謝どうなってるんだ。

 

 堀北さんは私たちの様子を一ミリも気にかけることなく、静かに特別棟の廊下を見渡していた。

 

「あなたも変わってるわね。自分からこの件に首を突っ込むなんて。目撃者は見つかったし、もう打つ手がないことも判明した。これ以上何をしようというの?」

「須藤は最初に出来た友達だからな。多少の協力はするさ」

「ならあなたには、彼を無罪にする方法があると思ってる?」

「それはどうかな。まだ何とも言えないな。それにオレが一人で動くのは、平田や櫛田たちと大勢で行動するのはちょっと苦手というか、得意じゃないからだ。今日も皆で校舎や教室を色々回るかもと思ったから、逃げただけとも言う。事なかれ主義らしいだろう?」

「本当にね。それで友達だから協力するって、相変わらずの矛盾ね」

「人間なんてお互い、大なり小なり都合が良い生き物だからな」

 

 会話するごとに暑さでやられていっているらしい清隆くんを見ているのはちょっと面白い。

 なお人のことを面白がっている場合ではない。あっつい。

 

「まあ綾小路くんの個人的な考えなんて私には関係ないし何をしても自由よ。それと、あの二人を苦手意識する姿勢は嫌いじゃないわ」

「それ、単純におまえが嫌いだからだろ」

「共通の敵を持つということはそれだけ協力し合えることでもあるもの」

「いや、苦手であって嫌いじゃないぞ。そこは一緒にしないでもらいたい」

「私はあの二人好きだよ!」

 

 一応勘違いされないよう主張しておく。堀北さんが私を見て、呆れたように息をついた。

 

 清隆くんが廊下の端まで歩いて、そして天井から壁の隅まで隈なく見て回っている。

 清隆くんのその挙動を見て、堀北さんは何かに気が付いたように真剣に辺りを見渡し始めた。そして考え込む。

 

「ここには無かったのね。残念だわ」

「え? なにが」

 

 白々しすぎて逆に疑いづらい……。

 清隆くんが暑さで順調にポンコツ化していっているようだ。もしかしたら早く終わらせたいのもあるのかもしれない。

 

「教室にあるような監視カメラよ。もしカメラがあれば確実な証拠が手に入ったのに。この特別棟の廊下には見当たらない」

「ああそうか。監視カメラか。確かにそんなのがあれば一発解決だったな」

 

 

 

 しばらくの間、特別棟を三人でうろうろする。私と清隆くんに至っては夢遊病者みたいな出で立ちとなっていた。あっつい。

 いくら歩いても得るものは何もないため、時間だけが無駄に過ぎていく。

 

 須藤を救済するためにポツポツ会話してみたりもするのだが、やはり名案は思い浮かばない。というかあっつい。無理だ。頭が回らない。

 いくら夏が好きだとしても、さすがに暑すぎるのは無理だ。これでまだ7月なんだから恐ろしい。真夏の特別棟には絶対行きたくない。

 

「堀北さんはここ暑くないの?」

「私、暑さや寒さには比較的強いから。水元さんと綾小路くんは大丈夫……じゃなさそうね。…………大丈夫?」

 

 ようやくこちらをちゃんと見たらしい。私たちの顔色は、堀北さんが思わず声をかけて心配するレベルであったようだ。ありがとう、そのデレのおかげで少し生き返れた気がする。

 清隆くんが夢遊病者が如く窓に近づく。あっと声を上げる元気もなければ、当然止める元気もなかった。

 

 清隆くんが窓を開き、そして尋常じゃない素早さで開けたばかりの窓を閉じる。ホワイトルームで培った能力を惜しげもなく出している。

 

「……危なかった」

「ごめん……清隆くんの自殺行為を見逃して……」

「気づいていたなら言ってくれ葵……」

「あなたたち本当にどうしたの?」

 

 ついに堀北さんが気味悪がるレベルにまで達していたようだ。さすがにもう限界だろう。

 清隆くんと目を合わせて頷く。

 

「用事も済んだし、帰るか」

「帰ろう帰ろう」

「急に生き生きしだして気味悪いわよ……」

 

 三人で来た道を引き返す。

 そのとき廊下を曲がろうとして、丁度同じように曲がってきた生徒とぶつかってしまった。それほど強い衝撃じゃなかったため、お互いに転ぶことがなかったのは幸いか。女子生徒同士というのもあったのかもしれない。

 

「ごめんなさい、気づかなくて」

「いえ。私の方こそすみません、不注意でした」

 

 お互いに頭を下げて謝り合ったところで気づく。佐倉さんだ。

 佐倉さんも私に気づき、目を丸めた。

 

「あ……水元さん……」

「こ、こんにちは。佐倉さん」

「こ、こんにちは……」

 

 コミュ症二人が揃えばこんなものである。うーん、挨拶できてえらい。

 

 ふと佐倉さんが握っている携帯に気づく。つい視線をやれば、少し慌てた様子で画面を見せてくれた。

 

「あ、えと。私は写真撮るのが趣味で、それで……」

 

 深く聞くつもりはなかったので、少し申し訳ない。

 頬を掻きながら、何とはなしに話を掘り下げてみる。

 

「趣味って、何撮ってるの?」

「廊下とか……窓から見える景色とか、そういうの、かな」

 

 ここで私の隣にいた清隆くんと堀北さんの存在に気づいたらしい。

 あっと小さく声を上げ、すぐに俯き加減になる。

 

「あ、えと……」

「少し聞いてもいいかしら佐倉さん」

 

 声をかけられて怯えてしまったのか、佐倉さんがじりじりと後退する。清隆くんを見れば目が合う。……うう、と内心で呻いた。

 今のところ佐倉さんがはっきり認知しているのは私だとわかっている。なのに未知数な清隆くんがここでいきなり話しかけても、佐倉さんはさらに怯えてしまう結果になるかもしれない。ならば、私から話を始める必要がある、か。

 

 堀北さんに佐倉さんを追及しないようジェスチャーを送る。

 その上で、「さ、さよならっ」と言い残し真っ先に遠ざかろうとするその背中に、努めて優しく声をかけた。

 

 

「佐倉さん。無理しなくていいからね」

 

 

 私の声かけに立ち止まった佐倉さんだが、振り返る気配はない。

 言葉を続ける。

 

「佐倉さんが目撃者だったとしても、名乗り出る義務はないよ。それに無理に強いて証言してもらうことに、きっと意味は無いはずだから。もし可愛くて怖い誰かに強要されそうになったらいつでも相談して。どこまで力になれるかは分からないけど、力になるよ」

「可愛いと怖いって両立するものなの? あとそれ誰のこと言ってるのかしら?」

 

 両立します。

 あと本気で誰のことかわかっていない様子にはちょっと笑う。

 

 ……と、今は佐倉さんをこの場から逃すのが先だ。

 

「私、何も見てないから。人違いだよ……」

「うん。それならいいんだ。ただ、もしも他の誰かに詰め寄られたら、そのときは教えてね」

 

 少しの沈黙の後。佐倉さんは小さく返事をして、またパタパタと階段を降りていく。

 

 堀北さんは無言で私たちの様子を見守っていたが、佐倉さんの気配が完全に消え去ったのを頃合いに、少し不満そうに声を上げた。

 

「千載一遇のチャンスだったかも知れないわよ? 彼女、事件のことが気になって足を向けたんだろうし」

「本人が認めないんだから、そこは無理強いしても仕方ないんじゃない? それに堀北さんも分かってるでしょ、Dクラスの目撃者は証人として弱いって」

「まあ、そうね」

 

 堀北さんが少し目を見開いて私を見た。今何か失言しただろうか?

 それにしても暑い。早くこんなところ出て行きた───

 

 

 

「ねえ君たち、そこで何してるの?」

 

 

 

 …………うそ………アッ………。

 

 

 もはや振り向くこともできない。

 固まったままでいると、先に振り向いて後ろから声をかけてきた人物を確認したらしい清隆くんがさらっと私の前に出た。慌てて私も動き出す。

 

「ちょ、ちょっとまアッ」

 

 振り向いた瞬間沈没した。結局自ら清隆くんの背中に縋り付くという情けないことになる。

 あまりの心臓の暴れっぷりに直視できない。こうやって隠れながらチラチラ見るので精一杯だ。

 

 三人のうち一人だけ異常行動を取っているのもあり、振り向いた先にいたストロベリーブロンドの美少女───一之瀬さんの視線が私に吸い寄せられる。み、見ないで……! こんな情けない私の姿を見ないでください!

 

「あの……彼女、大丈夫なの?」

「大丈夫だ。気にしないでくれ」

 

 彼女って呼ばれた……ありがとう……。

 

 謎の感謝を捧げながら清隆くんの背中により一層縋りついた。この背中がないと生きていけない。

 

 私の狂気しかない様子をただひたすら善意から心配してくれていた一之瀬さんだったが、清隆くんから「大丈夫だ」の一点張りをされ、心配しつつも一応この場ではこれ以上追及するのはやめたらしい。

 一之瀬さんが切り替えるように一度こほんっと咳をする。咳の仕方可愛いすぎない?

 

「えっと……ごめんね急に呼び止めて。ちょっと時間いいかな?」

「私たちに何か用かしら?」

 

 堀北さんはいきなり現れた一之瀬さんに警戒心を剥き出しにしている。こんな場所で声をかけられるなんて、堀北さんからしたら偶然だとは思えないからであろう。

 

「用って言うか……。ここで何してるのかなーって」

「別に。何となくうろうろしてただけだぞ」

 

 清隆くんの援護も続く。おそらく堀北さんが視線でプレッシャーをかけているのだろう。清隆くんなら別に素直に答えてもいいと思ったはずだ。

 

「何となく、かあ。君たちってDクラスの生徒だよね?」

「……知ってるのか?」

「君とは前に2回くらい会ったよね。直接話はしなかったけど。そっちの子も、図書館で一度見た覚えがあるんだよね」

 

 さすが一之瀬さん……これがコミュ力の王者の貫禄だよ。清隆くんは見習って。いや覚えることはできるんだけど話しかけられないのか……世知辛い世の中である。

 

「君の後ろにいる子も───」

「気にしないでくれ。大丈夫だから」

「あ、うん」

 

 ナイスアシストである、清隆くん。たぶん話しかけられたら私はダメになる。

 

 戸惑った様子ではあるものの、また気を取り直し一之瀬さんが話を続ける。

 

「てっきり喧嘩騒動絡みでここにいるんだと思ったんだけどな。私がいなかったタイミングで、昨日Bクラスに目撃者の情報探しに来てたみたいだしね。Dクラスの生徒が無実を証明しようとしてる、って後で聞いたんだよ」

「もし、私たちがその件に関わる調査をしていたとして、あなたに関係が?」

「んー、関係は……あんまりないね。でも、概要を聞いてちょっと疑問に思ったから。それで一度様子を見ようと思ってここに来たの。よかったら事情聞かせてくれないかな?」

 

 少しの間沈黙が続く。清隆くんたちも図りかねているのだろう。

 一之瀬さんは少しバツが悪そうに言った。

 

「ダメかな? 他のクラスのことに興味持ったら」

「いや、そんなことはないが……」

「裏があるようにしか思えないわね」

 

 穏便に運ぼうとした清隆くんの思惑が、堀北さんの容赦のない一言により無惨に切り捨てられる。哀れ、清隆くん。

 そして一之瀬さんは堀北さんの言葉の意味を解釈し、首を傾げながら微笑えんで───可愛すぎない?

 

「裏って? 暗躍してCクラスやDクラスを妨害する、みたいな感じの?」

 

 一之瀬さんが心外だなあ、と言いたげな表情を作る。

 

「そこまで警戒しないでもいいんじゃないか? 本当に興味本位って感じだし」

「私は他人の興味本位に付き合うつもりはないから。勝手にして」

 

 少し迷っていた様子だったが、どうやら清隆くんは話すことに決めたらしい。まあどうせ黙っていてもどこかではバレることだ。なら、こっちから先に説明してしまう方が得策だったりもする。

 

 一之瀬さんは終始真面目な様子で話を聞いていた。

 そして最後まで話を聞き終えると、提案をする。

 

「んー。あのさ、もしよかったら私も協力しようか? 目撃者捜しとか。人手が多いほど効率的でしょ?」

 

 堀北さんの訝しげな態度は崩れない。提案をされたこと、加えてその内容を聞いて、より一層形のいい眉根を寄せた。

 

「どうしてBクラスの生徒に手伝ってもらう流れになるのかしら」

「BクラスもDクラスも関係ないんじゃないかな? こういう事件はいつ誰に起こるか分からないよね。この学校はクラス同士で競わせてるからこそ、トラブルの危険性をいつも孕んでいる」

 

 一之瀬さんは落ち着いた様子で言葉を続ける。

 

「今回はその最初の事件のようだしさ。嘘をついた方が勝っちゃったら大問題だよ。それと話を聞いちゃった以上、個人的に見過ごせないってのもあるかな」

 

 今言ってることが本気なんだから、一之瀬さんのすごいところだ。

 

「どうかな? 私は悪い提案じゃないと思ってるけど」

 

 ……堀北さんは窓の外を見つめて動く様子がない。清隆くんは判断を待っている。私は後ろでチラチラと様子を伺っている。

 三者三様、自由でとても良いと思います。この三人組、自由が取り柄なところある。

 

 沈黙はしばらくの間続いていたが、それも唐突に破られた。もちろん破ったのは───

 

 

「手伝ってもらいましょう、綾小路くん」

 

 

 ───堀北さんだ。

 

 堀北さんから了承の返事をもらい、一之瀬さんが白い歯を見せて笑っ………可愛すぎない?

 

「決まりね。えーっと」

「堀北よ」

「よろしく堀北さん。それから綾小路くんだっけ。君もよろしくね」

 

 挨拶が交わされていく。この感じは順番だから、次は……。

 

 一之瀬さんが最後に私を見た。

 

 

「えっと、君の名前は何て言うの?」

「はわ……」

 

 やっぱりダメだ。わたしにはハードルが高い。

 

 

 清隆くんが私の方に少し振り向いた。目が合って、コクリと頷いてみせる。清隆くんもコクリと頷く。

 

「気にしないでくれ」

 

 ナイスアシストである、清隆くん。

 

「でも、私は名前が知りたいよ。せっかく友達になれるかもしれないんだからさ」

 

 

 一之瀬さんと、友達……? え、なる。

 

 見事な手のひら返しの瞬間であった。

 

 

 なんにせよ、いつまで経っても清隆くんの背中に隠れていては男が廃る。間違えた、女が廃る。

 潔く覚悟を決めて姿を現す。一之瀬さんの真っ向からの視線につい顔が赤くなる。ぎこちなく前に歩み出る私の手が清隆くんによって捕まえられ、それ以上前に進めなくなる。

 

「……水元葵、です。……よろしくお願いします!!」

 

 勢いよく清隆くんが掴んでいる手とは別の手を一之瀬さんに差し出した。もちろん頭は下げている。なんか告白現場みたいになっている気がするな。

 

 私の勢いに一之瀬さんはきょとんとしていた。でもすぐにおかしそうに笑う。

 

「あははは、面白いね君! うん! こちらこそよろしくね、水元さん!」

「はわ……」

 

 一之瀬さんが両手で私の手を包んでくれた。女の子らしく柔らかい手。近くに来たことで清潔そうな、女の子特有の甘い匂いもする。え……好きだ……。

 

 覚悟を決めたはずなのにさっそくあっさりと使い物にならなくなった私は、清隆くんに握られていた手を引っ張られたことで後ろに戻った。その結果一之瀬さんに包まれていた手は、あっけなく離れてしまう。

 いやしかしこれ以上包まれていたらいろいろ危なかったので、やはりナイスアシストである、清隆くん。

 

 

 

 その後の話からうちの担任、つまり茶柱先生のダメダメ加減を確認したところで、特別棟探索は終わった。最後に連絡先の交換をして、名残惜しくも一之瀬さんとお別れをする。

 私たちの代表として連絡先の交換をしたのはもちろん清隆くんだ。私は泣く泣く辞退した。ダメなのである。私にはまだその覚悟も資格もない……。

 

 清隆くんは女の子の連絡先を順調に増やしていって、存分に青春を謳歌してほしいと思う。……一之瀬さん……。

 

 

 やっぱり連絡先……交換しておけばよかったなぁ……。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 堀北さんが清隆くんの部屋から自分の寮に帰った後、久しぶりに部屋で二人っきりになる。

 いつもなら腕を広げて私を待つはずが、それより先に抱き寄せられた。私もすぐに清隆くんの背中に腕を回す。

 

「なんで最近来てくれなかったんだ?」

「まあ、邪魔したくなかったからかな……」

「邪魔って何が」

 

 朝、部屋に来ないことに関して多少文句は言われていたが、私は私で何か進展はあったのかと逐一聞きまくっていたので、実際清隆くんが不満を言う機会はあまりなかったというのが正直なところだ。

 

 だからなのか、部屋の中となると追及の手がすごい。

 

「邪魔っていうかなんていうか」

「何だ。邪魔って」

「いや、だって、清隆くん……」

「何だ」

 

 説明しにくい。理由ならあるが、それを説明したところで清隆くんからすれば意味不明もいいところだろう。なにより私も説明する気があまりない。というか、ない。

 

 清隆くんの手が私の後頭部を包み込み、さらりと髪を梳いてくれる。私も腕を伸ばして清隆くんの頭を撫でた。

 

「オレたちの邪魔になる、か? それなら葵も含まれているという認識をされていると思うが」

「……いや。違うよ。邪魔っていうのは、あれだよ。部活で遅れて途中で参加して、話の腰を折るのが申し訳ないっていう意味だから」

 

 咄嗟の言い訳としてはうまいこと言えたんじゃないだろうか。

 なお私の渾身の言い訳を聞いていた清隆くんはといえば未だ不審気に眉をひそめていたのだが、気にしたら駄目だ。

 

 ちょっと強引ではあるが、話を変える。

 パッと体を離して、正面から顔を合わせた。

 

「まあまあ、今日はゆっくりできるんだから。そうだ、ご飯作ろうご飯。今から買い物行く?」

「……ご飯……」

「旬のお魚とか塩焼きにしたら美味しいよ、きっと」

「今の旬は……アジ、とかか」

「そうそう。どう? 想像したら食べたくなってきたでしょ」

 

 目を細めて清隆くんに笑いかける。私の方が先に想像してしまって今から楽しみになってしまっている。そういえば最近あまり魚を食べていなかった気がするな。

 

 さっそく立ち上がり、清隆くんの手を引いて移動し始めた。同意を得る前に行動しているが、清隆くんも同じ考えのはずだ。きっとそうだ。

 なんたって私たちは以心伝心なのだ。私はちゃんと清隆くんのことわかっているからな、安心して身を任せてくれ。

 

 ……意識すればするほどお腹が空いてくる。

 もう少しくっついていてもよかったのだが、こうもお腹が空いている感覚が強くなってくると、どうしても気分が落ち着かない。

 それに、どうせなら満腹になって、幸せな気分でくっつく方が幸せマシマシでお互いにもっと気持ち良くなれると思うのだ。

 

 

 自論を内心でぐだぐだ垂れ流しつつ、お互いまだ制服姿なのもあって見かけを気にする必要がないので、そのまま外に出る。

 繋いだ手にそっと力を込められて、私からも握り返した。

 

 ただそれだけの行為が幸せでたまらないと思うのだから、つまるところ、私は清隆くんと何をしていても幸せだと感じるんだろう。

 

 

 

 

 



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正体不明、理解不能

感想、評価、ここすき、お気に入り、誤字報告等いつもありがとうございます。
感想、とても励みになってます…今のところ飽きずにやっていけそうです。今のところ(保険)



 

 

 

 朝。タイマーを止め、のろのろと起床する清隆くんの隣で爽快に目を開けつつ、学校に行く準備を始める。

 

 洗顔やら着替えやらと諸々の準備を済ませ、また朝食兼お弁当作りも済ませて、久方ぶりに二人揃って部屋を出た。

 清隆くんに代わり部屋の鍵をかけ、用が済んだ鍵を鞄に戻しつつ、隣に並び学校を目指して歩き始める。

 

 歩きながらも終始眠そうな気配を漂わせている清隆くんに、「だから言ったのに」と笑った。

 

「私の朝練に付き合わないで、清隆くんは無理せずゆっくりしてから出てきたらよかったのに」

 

 実は今日私たちが起きた時刻は、いつもより早かったりする。理由は私が朝練をするからだ。昨日は部活が休みだったため、先に少しだけ体を動かしておきたかったというのがある。

 昨日の夜に朝練をすることは伝えていたのだが、そのとき清隆くんは「葵に合わせてオレも早く起きる」と言っていた。

 しかし案外寝汚い清隆くんだ、朝になったら考えも変わるだろうと思っていたら、タイマーをかけてまで起きるという涙ぐましい努力を見せてくれた。

 

「清隆くんいつも気持ちよさそうに寝てるのに、今日はよく起きれたね」

「オレは別に寝汚くはないぞ」

「う〜んどの口が……」

 

 寝汚い清隆くんに巻き込まれがちな私が言うのだから、清隆くんは寝汚いぞ。Q.E.D. 証明終了。

 

 最近清隆くんに引き摺られて私も寝汚くなりつつあるような気がしている。まずい。せめてどちらかは爽快に朝からでも動けるようにしておかないと、有事の際に困ることになる。

 ……有事……あるかな……。なんか急に寝汚くても良い気がしてきたな。

 

 一応規定値以上の睡眠時間を確保すれば自動的に目が覚めるような体質になっているため、早く起きることそれ自体に問題はない。要は、いつもより少し早く寝ればいいだけだ。

 ……ただ、起きた後に微睡むのがこう……隣に清隆くんがいて、清隆くんも布団も体温に馴染んでいるというのもあって……気持ちいい。なんかどんどんダメになっていっている気がするな。

 

 自分の部屋で一人寝ているときはそんなことないのが、これが極めて難しい問題であるということを示している。

 ということはやっぱり清隆くんがダメっていうことだな。一人なら大丈夫なのだから、つまり最初から問題はなかった。いいね?

 

 

 

 二人でのんびり歩いて、文明の利器エレベーターを利用しつつも一階のロビーに着く。

 まだ早い時間だからか、生徒の姿は特に見当たらない。

 ……と思っていたら、ちょうど寮の管理人さんと話している生徒をさっそく一人見つけた。見つけて流れるように固まった。

 

 管理人さんと一言二言会話した後、お礼と共に頭を下げたその生徒が私たちの存在に気がつき、親しみたっぷりの笑顔を浮かべてこっちに向かってくる。アッ……。

 

 

「やっほ、綾小路くんに水元さん。おはよう。早いんだね」

 

 

 長くスラリと伸びたロングウェーブの綺麗な髪とクリッとした大きな瞳。

 二つのボタンで留められたブレザーを押し出す大きな胸。

 真っ直ぐ伸びた姿勢は堂々とした性格にマッチしていて、可愛いや綺麗の前に、格好いいと見惚れてしまう。そして私はこの方は女神か? と正気で見紛う。

 

 そんな彼女は、1年B組の一之瀬さんであった。

 

 

 清隆くんが使い物にならなくなった私の手を取り、一之瀬さんに答える。

 

「今日はちょっと早く起きてきたんだ。管理人と何話してたんだ?」

「うちのクラスから何人か、寮に対する要望みたいなのがあって。それをまとめた意見を管理人さんに伝えてたところなの。水回りとか、騒音とかね」

「一之瀬がわざわざそんなことを?」

 

 相変わらず可愛い……。

 

 茫然としている間に「おはよう一之瀬委員長〜」と声をかけてくる別の生徒が新たに現れ、一之瀬さんは爽やかに笑って応えていた。可愛い……。

 

 その後、なんとなくその場の流れで一緒に通学することになる。

 清隆くんを挟む形で、三人で並んだ。清隆くんの向こうに一之瀬さんがいると意識するだけでこんな有様になっているというのに、一之瀬さんの隣になったりなんかしたら多分私の心臓は爆発する。

 

「いつもはもう少し遅いんだ? そう言えば二人とも見たことないもんね、この時間に」

 

 一之瀬さんからテンプレ通りの、当たり障りのない質問が飛んでくる。ついほっこりしてしまった。一之瀬さんのような人でも、そういう普通の話題から少しずつ関係を構築していくのだ。

 そんなほっこりしている私を、一之瀬さんが少し前のめりになって、清隆くん越しに覗くように見ている。アッ……ぶなかった。

 

 そろそろ耐性……そろそろ耐性つけないとまずい。このままだと一之瀬さんに変人扱いされてしまう。それだけは避けなければ。

 

「水元さん、朝練なんだね。すごいなぁ、水元さんって弓道部なんだ。カッコいいね」

「はわ……一之瀬さんは可愛いね」

「にゃっ!? え!? 突然だね!? あ、ありがとう……?」

 

 好きだ……。戸惑い半分照れ半分で頰をちょっぴり染めている一之瀬さんは可愛い。きっと明日も可愛いぞ。

 

 見惚れていると、清隆くんに後ろに下げられてしまう。

 一之瀬さんは一度心を落ち着かせるようにこほんっと咳をした後、話題を変えた。

 

「そ、そうだ。二人は夏休みのこと聞いた?」

「夏休み? いや……夏休みは夏休みじゃないのか?」

「南の島でバカンスがあるって噂、耳にしてないんだ」

 

 ───バカンス。実はめちゃくちゃ楽しみにしてたりする。

 

 諸々の問題は横に置いといて、ポイント要らずで船の旅を楽しめるなんて、こんな太っ腹な学校ある? いや、ない(反語)

 

「信じてなかったんだが、本当にバカンスなんてあるのか?」

 

 清隆くんが改めてその言葉を耳にし、考え込んでいる。一之瀬さんがその様子を見て、苦笑をこぼした。

 

「怪しいよね、やっぱり。私はそこが一つのターニングポイントだとみてるんだよ」

「つまり、夏休みに大きくクラスポイントが変動する可能性があると?」

「そそ。中間テストや期末テストよりも、グッと影響力のある課題って奴? そうじゃないとAクラスとの差って中々埋まっていかないからさ。私たちもジワリジワリ離されていっちゃってるし」

 

 ポイントを増やすにしろ減らすにしろ、どのみち私たちのクラスにとっては当分先の見えない話だ。言葉のままの意味である。

 Dクラスはまとまりがなく、協調性に欠けている。これなら個人プレーの方がまだ良い成績を残せるんじゃないかと思うくらいだ。まあそれも、これから先、強制チェックが入ることになるわけだが。

 

「どのみち、ろくなことにはなりそうにないな」

 

 同意見だ。二人揃ってため息をついた。

 

 一之瀬さんが清隆くんのてらいのない感想を聞いて、また苦笑をこぼす。

 しかしその後すぐに、「でもっ」と弾んだ声を上げた。

 

「もし本当に南の島でバカンスだったら、それはそれで凄く面白そうだよね」

「……確かに……」

「でしょ! だから私、どっちにしてもちょっと楽しみにしてるんだ」

 

 本当にバカンスだったとしたら。そうならばきっと、とても楽しいものになる。

 清隆くんはぼんやりとバカンスを想像したんだろう。一之瀬さんに返事をしながら、その口元をゆるりと緩めている。

 

 一之瀬さんも頭の中でバカンスの想像を巡らせたのか、楽しそうに笑っていた。

 

「旅行っていいよね。行く前からこんなに楽しくなるんだもん」

「………ああ。そうだな」

 

 

 じわり。

 

 

 『旅行』という単語を聞いた瞬間、清隆くんの雰囲気が変わった。負のオーラとでもいうのか、暗く重たい何かが清隆くんから滲み出している。

 すっと視線を下げて、変わった雰囲気を誤魔化すように肯定の返事をしているも、うまく誤魔化し切れていない。

 侵食するように、私たちの間にも異様な空気が流れ出そうとしている。

 

 ───清隆くんがこうなる理由はわかっていた。すぐに手を繋ぎ、柔らかく力を込める。

 

 ………滲むような緩徐さで、徐々に異様な空気が解けていく。収束した、とも言い換えられるだろうか。

 とにかく、今は無事に落ち着いてくれたみたいだ。もう心配いらないだろう。

 

 

 ……気づけば私も、ポツリと独り言のように呟いていた。

 

 

「私も旅行、楽しみだな」

 

 

 物心ついた時から白い景色しか知らなかった。

 それはこうやって外に出られるまで、もしかしたら、下手をしたら永遠に続いていた光景だったかもしれない。実際はこうやって外に出られているから、違うわけだが。

 

 私からしたらすべての景色が新鮮だ。知っている、なんて陳腐な言葉だと知った。目の前にすれば違う。知っていたはずなのに、こんなにも違う。

 

 

 

 私は何も知らなかった。

 

 

 

 ……………繋いでいた手に力を込められた。気づけば立場が逆転してしまっている。ちょっと情けなくなった。

 

 改めて握り返し、『大丈夫だよ』と返事をした。

 

 

「そうだ。疑問に思ってることがあるんだけど聞いてくれる?」

 

 幸い一之瀬さんは気づいていない。お互いカバーし合った甲斐があるというものだ。

 いや、そもそもカバーしなきゃいけないような事態になるなって話だが、こちらとしてもふとした瞬間、想定外になってしまうのだから仕方がない。普段から考えないように気をつけているのだが、なかなか難しいものだ。

 

 なんにせよ、あっさり話が変わったことはありがたい。

 ……いや……日常なんて、こんなものか。目まぐるしく変化して、目まぐるしく流れていく。私たちはそれについていかなければならない。順応しなければならない。

 

 だからなのか。

 一之瀬さんの、いつでも全力投球な姿勢がひどく眩しく映るのだ。何事にも懸命な姿勢を、好ましく思う。

 

 一之瀬さんは、だから、そのままで在り続けて欲しいと思う。

 

 

「最初に4つのクラスに分けられたじゃない? あれって本当に実力順なのかな」

「入試の結果とはイコールじゃないことは分かってる。うちにも成績だけならトップクラスの人間が何人かいるからな」

「総合力、とかじゃないか?」

 

 清隆くんが適当に答えているのを聞きながら、私はといえば、『さて、良いタイミングで二人と別れられたらな』と全く違うことを考えていた。

 

 

 

 

 一之瀬さんがさっきまでの溌剌とした声のトーンを下げた。そしてどこか窺うように、私たちを……いや。

 

 清隆くんを見る。

 

「あのさ、参考までに二人に……ううん、綾小路くんに聞いてみたいことがあるんだけど、いいかな?」

「答えられることなら答えるぞ」

「綾小路くんは、女の子に告白されたことある?」

 

 

 ───ココだ!!

 

 

「あ、武道館近くなってきたし、私は此処で別れるね。じゃあまた、一之瀬さん。清隆くんも後でね!」

 

 完璧なタイミングだった。決まった……。

 

 フッ……と口元に笑みを刻みつつ、意気揚々と二又に分かれようとして、背後に気配を感じる。ちなみにすぐ隣に並び立ってきたので、気配の正体は丸わかりだった。

 

 目を剥いて勢い良く隣を見上げる。

 

「オレは見学してる」

 

 そういうこと聞いてるんじゃないんだよ!

 

 隣にいたのを無理やり押し戻し、ピッと人差し指を清隆くんの目前に突き付けた。

 

「一之瀬さん、清隆くんに話してるんだよ? ちゃんと聞いてからじゃないと」

 

 私の言葉を聞き、眉をひそめた不機嫌そうな顔が返ってくる。私としてもここは譲れない重要ポイントだ。

 

「えっあの……そんな大事にしなくても……」

「一之瀬さん大丈夫。安心して待ってて」

「話聞いて!?」

 

 敵対している私たちの間で一之瀬さんがアワアワしている。可愛い……じゃなかった。惑わされている場合ではない。一之瀬さんはなんて困った可愛い子なんだ。

 ゆえに、こんな可愛い子のために身を尽くさない私ではない……!

 

「一之瀬さん、清隆くんに話聞こうとしてたよね。つまり、最後まで話を聞く責任がある」

「ないよ!?」

「責任は義務じゃない。後でいくらでも聞ける。なんなら尋ねに行ってもいい」

「それでいいよ! 私は全然それでいいから!」

「いいや、今聞かれたんだから今聞く必要がある。今というタイミングで持ちかけられた話という点を考慮すべきだ」

「しなくていいよ! 落ち着いていこうよ!」

「………話を聞いたらいいんだな」

「おう」

「急に落ち着いちゃった……」

 

 話がまとまったので、改めて一人で武道館に向けて歩き出す。今度はついてくる気配がない。視線はあったが、それもいずれ感じなくなるだろう。これでいいのだ。

 一之瀬さんがなぜか知らない間にやつれていたのは気になるが、清隆くんに相談をしているうちにそれも解消されるはずだ。そして持ちかけた相談も解決する。一石二鳥である。

 

 清隆くんには存分に青春を満喫してほしい。これはずっと言っていることだ。私は清隆くんの青春の邪魔になる気はない。

 機会があればどんどん背中を押し出していくことを、先に宣誓しておこう。

 

 

 ……はやく慣れたいなぁ、と小さく歩きながら内心でぼやいた。

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 朝の弓道場は空気が澄んでいて気持ちいい。

 

 夏とはいえ、場所は日陰で、それに時刻が早いのもあってまだ地面は暖まり切っていない。僅かに立ち昇る熱は、朝露を含んでいる。

 状況としては、むしろ涼しいくらいだった。

 

 空気を裂く音は一瞬だ。ほぼ同時に的中し、パンッという音が辺りに響く。ふ、と軽く息をついた。

 順序通り腕を下ろし、落ち着いた姿勢になってから前に胡乱な目つきを向ける。

 

「清隆くん、なんで此処にいるの?」

「話が終わったからだな」

「話終わるの早くない??」

 

 此処の弓道場にはちょっとしたお座敷があるのだが、そこが見学スペースとなっている。他にも見学スペースはあるが、一番近くで見れるのが、今清隆くんが座っている場所だ。正しい名称は上座という。

 本来なら見学の用途で使われるような場所でないのだが、そうルールで縛りまくるのはどうなのかという理由で、目上の人がいない場合は見学のために使用されることが多い。

 幸い今は私以外人がいないし、清隆くんも見学だと言っているので、つまり使用上問題はないといえる。

 

 此処に来るのも初めてではないし、清隆くんもすっかり慣れた様子でいる。

 的の方を見やって、眩しそうに目を細めた。

 

「調子いいな、葵」

「だと良いな。ありがとう、清隆くん」

 

 言われた言葉に胸を張るも、時計を見てから慌てて矢を取りに走った。

 

 

 

 的から抜いた矢を所定の位置に戻す。弓も片付け終わり、あとは着替えだけだ。それも私にかかれば一瞬のことである。伊達に鬼神と自称しているわけではない。

 

 着替え終わり、私を待っていた清隆くんの隣に並んで早歩きで教室を目指して行く。

 

 その道中、何食わぬ顔をして聞いてみる。

 

「一之瀬さんの相談、どうだった? 何か進展はあったの?」

「進展も何も。いくつかアドバイスして終わったな」

「アドバイス?」

「ああ。オレにされても……な相談だったが、出来うる限り誠実に答えたつもりだ」

「えっと……じゃあ、放課後……何か予定が入ったりは」

「? 放課後? 予定……? 一体何の話だ?」

 

 

 あれ? 確か放課後に一之瀬さん告白イベントがあったはずじゃ……。

 

 

「そんなことより、今日は部活終わったらちゃんとこっちに帰ってくるだろ?」

「え? あ、うん」

「ならいい」

 

 戸惑っている間にあっさり話が流れてしまう。清隆くんは私の返事を聞いて満足そうにした。

 

 ……なんだか、少しずつ……在るべき流れが私の手を離れていっているような。

 

 言い表しようのないこの感覚は何なのだろう。ぐにゃぐにゃと不定形で、何も掴めた気がしない。……把握できていない……?

 不安とはまた違う。正体がわからない。

 

 考えていてもどうしようもないことで、頭が痛くなって、繋いだ手に力を込めた。

 

 

 握り返してくれる手に、安堵する。

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 夜、パソコンで何やら調べ物をしているらしい清隆くんと、テレビをつけてお笑い番組を見てケラケラ笑っている私のもとに、一本の電話が入った。

 

 ベッド傍のコンセントで充電している清隆くんの携帯の画面が、チカチカと光っている。

 私の方が距離が近かったため、充電していたコンセントを抜いて携帯を手に取った。着信欄には櫛田桔梗の名前が表示されている。おっと目を丸めた。

 

 こっちを見て誰だ? と首を傾げている清隆くんに携帯を差し出した。言うより見る方が早いだろう。

 清隆くんは着信欄を見て、見事な二度見を決めつつ名前を確認していた。私はその間にテレビの音量を下げる。

 

 清隆くんが携帯の画面をいくつか操作し、私たちの間に置く。私たちの間に置く?

 

『ごめんね夜遅くに。まだ起きてた?』

「ん? ああ。大丈夫だ、ちょうどパソコンを触っていたから起きていた。何か用か?」

 

 なるほど、スピーカーにしたのか。携帯からは櫛田さんの可愛い声がよく聞こえてくる。いやなんでスピーカーにした?

 これじゃ下手に動いたら私が近くにいることがバレてしまうではないか。

 

『佐倉さんのデジカメ壊れちゃったじゃない? 私が話しかけちゃったから慌てさせた部分もあると思うの。だからその責任を取りたくって……』

「少なくとも櫛田が責任なんて感じる必要はないと思うけどな。それに修理に出すだけだろ? 大切なものなら放っておいても修理に行くんじゃないか?」

 

 とりあえず微動だにせず話を聞いている分に、櫛田さんと佐倉さんはデジカメの修理のために家電量販店を訪れることになったらしい。

 佐倉さんは極度の人見知りで、一人で店まで修理に出しに行く自信がないらしく、櫛田さんはその付き添いをするとのこと。

 

 そして今、清隆くんに同行してもらえないかと申し出ているのだ。

 

「でもどうしてオレなんだ? 二人きりの方がスムーズに運ぶんじゃないか?」

 

 どうせ部屋にいるか、外に出ても近場の無料処を回るしかないいつもの休日だ。そして変わらないメンツ。つまり私である。

 いつもの日常、つまり私といるよりも、刺激がある非日常の方が良いに決まっている。清隆くんには圧倒的に刺激が足りていないと思う。

 私のことは気にせず行って来て、と隣でゴーサインを出した。

 

 清隆くんは私をチラと見て、またパソコンの作業に移る。会話しながらパソコンを弄るなんて、器用なことだ。私もテレビに視線を戻した。

 

『ただ修理に出すだけならね。だけど、今はもう一つ大切なことがあるから。綾小路くんにはそっちの方で協力してもらいたいの』

「須藤の事件を知っているのかどうか、ってことか」

『堀北さんはそう確信してるし、私も佐倉さんと接した感じ、何か知ってると思った。だけど本人がそれを否定してる以上、何か理由があるはずだよ』

 

 いや、今めっちゃテレビ面白い。なぜ私は一人耐久レースをしているのか。笑っちゃいけない場面だからこそ笑いたくなってしまう衝動ってあると思うの。

 でも笑うと存在がバレてしまう。このジレンマが私を苦しめる……ッ!

 

「よし、わかった。行こう。葵もいいか?」

『水元さん?』

「ああ。今隣で話を聞いてる」

「何で言った!?」

『あ、水元さん。こんばんはっ!』

「こんばんは櫛田さんっ!」

 

 清隆くんに掴みかかりながら元気よく挨拶をする。

 胸元を掴み上げられ前後に揺さぶられているため、若干震えた声で清隆くんが再度確認を取った。

 

「それで、葵も同行することはいいのか?」

『水元さんは事情を把握してくれてるし、人手は多い方がいいから、むしろ提案してくれてありがたいくらいだよ。水元さんもいいかな?』

「全然いいです」

 

 ああッ……! 私の悪い口が勝手に……!

 

「決まりだな。詳しく予定を聞かせてくれるか?」

 

 床に両手をついて自分のチョロさ具合に沈んでいる私を放置し、清隆くんと櫛田さんが話を進める。

 

 わかったのは明後日の日曜日、お昼前にショッピングモールに集合とのこと。

 同じ寮に住んでいるんだから一緒に待ち合わせして行けばいいと思うが、現地で待ち合わせすることに櫛田さんのちょっとしたこだわりがあるらしい。

 ということは櫛田さんとベタな会話を繰り広げられるチャンスがあるのか。元気になった。

 

 その後三人で軽い雑談に興じつつも、話は特に問題なく終える。

 

『じゃあ明後日はよろしくね、綾小路くん、水元さん』

「任せて櫛田さん!」

「ああ。よろしくな」

 

 勢いの違いにやる気が表れているようだ。

 

 通話を終え、現金なもので明後日のことを考えて楽しみになる。

 ショッピングモールも、四月と比べたら随分行っていない。用事が済んだら雑貨屋さんに行くのもいいだろう。買うかどうかは別として、新商品を見て回って楽しむことはできるはずだ。

 

「帰りにいろいろ見て回ろうよ、清隆くん」

「そうだな。そのつもりで葵を誘ったんだ」

 

 そうかそうか。すっかり忘れていたな。

 

「なんでさっき名前言った!」

「時効じゃないか?」

 

 再度掴みかかろうとして躱される。

 結果的に清隆くんにダイブする形になり、二人でラグマットの上に倒れ込むことになった。

 

 きょとんと目を合わせる。私は倒れ込んでも清隆くんなら持ち堪えるだろうと思っていたし、清隆くんは……これは私の勢いを予測できていなかったな。まだまだ未熟な証拠である。

 

 ……しょうもない争いしてるな、と思ったら急におかしくなってきて笑ってしまう。

 清隆くんも同じように、頰を緩めて笑っている。

 

 

 

 



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光在る場所

先に言っておくと主人公の身長は158cmです



 

 

 

 櫛田さんとの約束を果たすため、私たちはお昼前に寮を出て、ショッピングモールへとやって来ていた。

 二つ連なったベンチの片方には、一人先客が座っており、空いているもう片方のベンチに清隆くんと二人で揃って腰を下ろす。

 

 ………って、ん? 少し空いた位置にあるベンチに座っている先客を、よく観察する。

 

 深く帽子を被って大きなマスクをしているその人は、見惚れるほど綺麗な長い髪をしているし、なによりスタイルが一線を画している。それにかけている眼鏡も見覚えがあるものだ。

 あー、と迷ったような声を上げる。ぽりぽりと頬を掻いた。

 

「えーっと……佐倉さん……だよね?」

「あ……おはよう、ございます……」

 

 ぺこ、と会釈をされる。私も会釈を返す。

 清隆くんもようやく気づいたようで、驚いたように佐倉さんを見た。

 

「悪い、気づかなかった。おはよう、えっと、佐倉」

「う、うん……おはよう……」

「………」

「………」

「………」

 

 急募。コミュ症三人が揃ったときの会話方法。

 

「……そ、そうだ。佐倉さん、ごめんね、大人数になっちゃって。気まずくない?」

 

 絶賛気まずい空気の中私は何を言っているのか。

 

 佐倉さんは私の言葉を聞き、遠慮がちに首を振った。それから小さな声で言う。

 

「あの……じ、実は、私からお願いしていたんです。その……水元さんと、綾小路くん……二人がいてくれたらなって」

「えっそうだったんだ?」

「はい。だから、ごめんなさい。貴重なお休みを私なんかのために使わせて……」

「いや、それは全然気にしなくていいよ! むしろショッピングモールに久しぶりに来れたから、嬉しいくらい」

「それなら……いいん、ですが」

「うん、大丈夫」

「………」

「………」

 

 万策尽きた……か。

 目を閉じて空を見上げる。きっと頭上では快晴が広がっていることだろう。私の心の天気模様とは真逆である。今は木枯らしが吹いている頃だろうか。

 

 清隆くんが喋るわけもないので、再度気まずい沈黙が辺りを包む中、この何とも言えない空気を裂く底抜けに明るい声が向こうから聞こえてきた。

 

 もちろんその声の正体は、みんなの大天使櫛田さんであった。

 

「おはよー!」

 

 櫛田さんが少し駆け足になって私たちのもとに近寄って来ている。

 バッチリ全身コーディネートされた姿は可愛い以外の言葉で形容しようがなかった。天使の本領を発揮してきている。可愛い。可愛いぞ櫛田さん。初めてこの目で見る櫛田さんの私服姿に感動を抑えきれない。

 

「ごめんね、待たせちゃったかな?」

 

 そうだ。その言葉を待っていた!

 

「いや、今来たところだよ!」

 

 こちらもデートのテンプレセリフを返す。決まった……!

 でも清隆くんに言われる前にとちょっと勢い込んで言ってしまったので、ココは減点ポイントだろうか。うーん、なかなか奥が深い。

 

 清隆くんが軽く手をあげて、櫛田さんに挨拶をした。

 

「おはよう、櫛田」

「うん! 綾小路くんもおはようっ」

 

 時折目の前を通り過ぎていく生徒たちが、櫛田さんの私服姿に目を奪われている。そうだろうそうだろう。カップルの場合だと、彼女が彼氏の頬を引っ張って不機嫌そうに拗ねる様子も見られた。わかる。わかるぞ。彼女持ちでも見惚れてしまうほど櫛田さんは可愛いということだ。

 

 こうやっていくら櫛田さんを持ち上げても、可愛さを表現し切れない。櫛田さんは魅惑の女の子です。

 

「どうしたの?」

 

 櫛田さんは私より身長が低い。そのため、ちょっぴり覗き込むような体勢になって私を見つめている。所謂上目遣いというやつだ。

 動作でさえいちいち可愛いから困る。あと覗き込む体勢をされるとこう、妙に胸が強調されて……視線に困るな……。

 

「いや……いい天気だなぁって……」

 

 そういえば今のこの僅かな間だけで、可愛いを連呼しまくっている気がする。いまだ櫛田さんの私服姿に興奮が抑え切れていないのだろう。もはや可愛い可愛い言い過ぎて可愛いのゲシュタルト崩壊が起きそうだ。

 きっと清隆くんも内心で、私と同じように櫛田さん可愛い大感謝祭を開いているはずだ。

 

 

 ───耳に指が当てられ、髪をかけられた。清隆くん側の視界がクリアになる。

 

 

 思わずパッと横を向いた。結果、二人で見つめ合うことになる。

 不思議そうな顔をした清隆くんが、私に向かってどうしたんだと首を傾げる。勢いよく顔を横に向けたせいで、再度乱れてしまったらしい私の横髪を手のひらで撫で付けて、手櫛で軽く整えながら。

 

 ………? いや、どちらかといえば私が首を傾げる方なのでは……?

 

 

「あ。佐倉さん? おはようっ」

 

 首を傾げて見つめ合っている私たちをよそに、櫛田さんはさっそく佐倉さんの存在に気づいて明るく声をかけた。

 誰も何も言わずともさらっと気づく。さすが櫛田さんである。

 

「じゃあ、みんな揃っていることだし。さっそく行こっか!」

 

 櫛田さんが笑うだけで周囲が浄化されていっている気がするな……。そしてコレはきっと見間違いじゃない。なにより櫛田さんからは後光が見えている。間違いない。

 

「デジカメの修理って、ショッピングモールの電気屋さんでいいんだよね?」

「確か修理の受け付けもやってたはずだ」

 

 佐倉さんがその会話を聞きながら、申し訳なさそうに肩を縮めて頭を下げた。

 

「すみません……こんなことに付き合わせてしまって」

 

 帽子もマスクも装着したままだから、不審者感が半端ない。でも、逆に目立ってでも、私は彼女がそれを望んでいるならこれから対面する人物の視線から逃してあげたいと思う。

 

 だから、指摘はしなかった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 もともとショッピングモール内にいたということもあって、少し歩けば迷うこともなく家電量販店に着いた。

 パッと見た感じ、敷地面積はそう広くないものの、日常で必要そうなもの、学生たちが利用する可能性のある電化製品は十分に取り扱われているように思う。

 

「えっと、確か修理の受け付けは向こうのカウンターでやってたよね」

 

 櫛田さんがキョロキョロと周囲に目をやりながら、カウンターを探して奥に入っていく。私たちはその後に続いた。

 

「すぐ直るかな……」

 

 佐倉さんが手元のデジカメを見下ろして、不安そうにしている。

 

「よっぽど好きなんだな、カメラが」

「う、うん。……変、かな?」

「いや全然。むしろ良い趣味じゃないか? まあ、オレがカメラの何を知ってるんだって話ではあるんだが。早く直るといいな」

「うんっ」

 

 清隆くんと佐倉さんの会話を聞きつつ、私はさりげなく前方に注意を向けている。

 ……アレが、例の。だろうか。

 

「あったよ、修理受け付けてくれるところ」

 

 櫛田さんの言葉に佐倉さんが顔を上げた。何かに気づいた様子で、不自然にピタ、と動きを止める。

 耳を澄ませば、掠れた「あ……」という声が聞こえた。チラと顔を伺う。……目を細める。

 

「どうしたの? 佐倉さん」

 

 立ち止まった佐倉さんを変に思ったのか、櫛田さんが不思議そうに首を傾げて声をかける。その声に佐倉さんが肩を揺らして、視線を落とした。

 

「あ、えっと……その……」

 

 口を開閉する。言葉は紡がれない。

 

 何かを呑み込んだ仕草をして、佐倉さんは青白い顔に懸命に笑顔を作りながら私たちを見た。

 

「何でもないから……」

 

 佐倉さんはそれ以上何か言うことなく、修理受付の場所に向かった。櫛田さんがすぐに後を追って、隣に並び立つ。

 元々知り合いだったみたいに親しげな様子で受付の店員と話し込みながら、櫛田さんは佐倉さんに代わってデジカメの修理を依頼する。修理に出す持ち主の佐倉さんは、承諾や疑問点にのみ答えていた。櫛田さんの話術には、素直に感心するばかりだ。

 

 後方で清隆くんと並んで彼女たちの様子をぼーっと見ながら、「あ、そうだ」と声を上げた。

 

「清隆くん、今から目的の物確認しに行って来たら? 私たち此処で待ってるからさ。そしたら時間もちょうどいいんじゃない?」

「? いや、いい。葵も後で一緒に行こう」

 

 第一段階から難しいんだが?

 二回以上粘ったら不審扱いされるから、実質一回で決めなければならないというのに、清隆くんの難易度おかしいって。おかしくない?

 

 ……でもまあ、現状は冷静に受け止めなければならない。挑戦する前から諦めるのは私のポリシーに反する。

 ひとまず、いつもと変わらない様子で首肯を返した。

 

 

 店員は終始ハイテンションで、まくしたてる勢いで櫛田さんに積極的に話しかけていた。微かに聞こえて来たやり取りでは、どうやら櫛田さんをデートに誘っているらしく、シアタールームで上映されている女性アイドルのコンサートを観に行こうと言っていた。もう完全に黒だった。

 さらに相当なオタクのようで、選挙がどうのという会話から、雑誌のアイドルまで幅広いトークで言葉巧みにアプローチをかけている。

 櫛田さんが嫌そうな態度を見せないからって、調子に乗りすぎているだろう。あと櫛田さん普通に引いてると思う。彼女は天使なだけじゃないのだ。一番忘れがちな私が断言しておこう。

 絶対心の中ではドン引きしてるよ、櫛田さん。ブラック櫛田さんは確かに存在するのだ。……いや、もしかしてココはブラック櫛田さんが存在しない世界線の可能性微レ存……?

 

 思考が逸れた。軌道修正。

 

 

 ……と、まあ。店員がこんなだから、やり取りは非常に遅々としている。というか、ぶっちゃけて言うと事態は全く進行していないといえる。

 さすがにこのままだとまずいと感じたらしい櫛田さんが話を進めるべく、佐倉さんにデジカメを出すよう促し、ようやく次のステップに移った。

 

 店員に確認してもらったところ、デジカメは落ちた衝撃でパーツの一部が破損してしまったため、上手く電源が入らないとのことだった。

 幸いデジカメなどの個人的所有物はこの学校に入学してから買ったものであり、佐倉さんは保証書をしっかりと保管していたので、無償で修理を受けられるようだ。

 

 そして、あとは必要事項を記入して終わり。

 

 

「代わるよ。下がってて」

 

 佐倉さんがペンを持つ前にさらっと代わる。「あっ」と上がった小さな声に、「大丈夫だよ」と囁いて微笑んでみせた。

 

 佐倉さんと代わる形で前に出たことで、近くで店員と顔を合わせることになる。……こんな距離からこんな視線を受けていたなんて、可哀想なことをさせてしまった。

 やっぱり最初から……いや、それはさすがに強引すぎるし、不自然すぎるだろう。だからこのタイミングがベストだった。

 

「ちょ、ちょっと君……!」

「どうかしたんですか? メーカー保証は販売店も購入日も問題なく証明されているし……法的な問題はありませんよね? それに購入者と使用者が異なっても、問題はないと思いますが」

 

 ペラペラ口を回しつつ、ペンの上部をノックして先を出す。

 すべきことは、あともう一押し。

 

「そうだ。店員さん」

 

 前屈みになる。口元に笑みを刻んだ。

 

 

「もしよかったら───」

 

 

 

 …………あれ。なんか清隆くんの背中が見えているんだが。

 

 

 

「オレが書きます」

 

 えっ。………ええ………。

 

 ひくり、と顔を引き攣らせた。入れ替わる際に握られた手首が熱を持っている。

 握られた右手だけが小刻みに震えていた。背筋が凍えるお話である。あの一瞬でどれだけ強く握り込まれたのだろう。

 

 左手で右手首を労るように摩っていると、佐倉さんが青い顔でパタパタと走り寄ってくる。

 

「あ、あの、水元さん……!」

「いやぁ、ごめんね佐倉さん。せっかくカッコつけるチャンスだったのに、清隆くんに奪われちゃった」

「そんな……! なんで……」

 

 何を聞いているかはわかっている。ここで私は微笑んで、『佐倉さん、君を救いたかったからだよ……フッ』とか言っておいたら決まっただろうに。

 

 口から出てきたのは、あーあというため息だった。

 

 

「失敗したな……」

 

 

 眉根を寄せ、目を閉じる。佐倉さんが私の様子を見て首を傾げまくっている。

 

 計画がすべておじゃんだ。全部ポシャった。

 先に清隆くんに何もしないよう言っていたら───それはそれで普通に阻止されていただろう。懇々と説教されている姿が目に浮かぶようだ。つい直近でもあったことで、だから黙っていたのに。

 

 どちみちもうこの計画が表出することはない。この段階から唾をつけておかないと、最終局面で活かすことができないのだ。清隆くんには見事にしてやられてしまったと言えよう。

 言わない方がうまくいくと思ったのだが、うーん……現実とはなんともまあ難しいものである。

 

 

 気持ちを切り替えて、佐倉さんに笑いかける。

 

「とにかく、佐倉さんは何も気にしなくていいよ。あの店員、なんか気持ち悪かったでしょ? あんまり見られてなかった私が対応したら、うまくいくかなって思ったんだよ」

「ごめんなさい……ありがとう、水元さん……」

「いいよ。結局私何もできてないし」

 

 必要事項を記入し終えた清隆くんが戻ってくる。

 

 交わる視線。その瞳の奥で、ぐつぐつと煮え滾っているらしい碌でもない感情に気づいて、キュッと唇を結んだ。

 

 

 

 

「ちょっと店内を見てきていいか? すぐに終わるから、二人はここで待っていてくれるといいんだが」

 

 清隆くんのお願いに、櫛田さんと佐倉さんが快く応じる。二人が頷いたのを見て、掴んでいた私の手首を引っ張って清隆くんが先を行く。

 

 

 ここで怒りという感情について言説を垂れ流そう。

 

 心理学者のアドラーによると、怒りとは二次感情である。そう、二次だ。あくまで二次、それにしか過ぎない。前段階である一次感情を経て二次感情、怒りへと繋がる。

 つまり何が言いたいかというと、二次感情とはあくまで最終産物にしか過ぎないものであり、ここで最も重要なのは一次感情がどういったものであるか、という点である。

 怒りという感情は苛烈であり強烈なものだ。ゆえに二次感情たる怒りによって、一次感情がうやむやになってしまうことは多々ある。

 

 

 ───そういうわけで、今。

 

 先を歩く彼が内に包含しているであろうとんでもない怒りの出所を察知し、私は罪悪感でキリキリと心臓を痛めていた。

 

 

「どういうつもりだった」

 

 冷水を浴びせられた気分になる声だ。

 

 清隆くんは振り返らない。罪悪感はあれど、でも私だって怒りという感情を少しは抱いていたりする。

 考えていた言い訳に感情がこもった。

 

「清隆くんだって心配だよ。ああいうのは男だって手に負えないタイプだ。理性を失くしたら何をしでかすかわからない」

「なら、女の方が。なおさら女の子の方が危ないに決まっている。お前は前提条件から間違えている」

「前提は危ない人間を回避することだよ」

「回避していなかったくせによく言う」

 

 鼻で笑われた気配がする。顔を歪めて視線を落とした。

 

「……でも、清隆くんを回避させることは、できた……」

 

 清隆くんが足を止めた。必然、私もその場に留まる。

 

 

 ───振り向いた清隆くんの顔を見て、それ以上何も言えなくなった。

 

 

「お前だってわかってたはずだ。最善はオレが佐倉と代わることだった」

「……うん」

「そうだろう。なのに、わかっていたくせに、お前は自分が前に出るということに拘った。オレはその理由を聞きたい」

「……あの店員が清隆くんを害する可能性があったから……っていう理由じゃダメ?」

「それも嘘じゃないんだろう。だが、それだけとは思えない。リスクヘッジをすればお前がそこまで拘る理由はないはずだ。何か別の目的があるだろう」

「清隆くん、私のことなんだと思ってるの?」

「奇遇だな。オレも、お前がオレをどう思っているのか知りたかったところだ」

 

 無言で見つめ合う。怒りは隠れ、本来の怜悧さを取り戻した瞳が私を静かに見ている。

 

 圧倒的不利な立ち位置で、これ以上粘る気にはなれなかった。

 

 

「んー……あくまで可能性の話だよ。その……なんていうの……?」

 

 

 まごまごと言い訳する。清隆くんが片眉を持ち上げた。

 

「こう、どうせならド派手に花火を上げたいというか……あっ汚い方の花火なんだけど。完膚なきまでにというか、徹底的にやり込めたかったというか。そのためには体を張るのも吝かではないというか」

「つまり一言でいえば?」

「………」

 

 途端押し黙った私に、とんでもなく冷めた視線が向けられた。

 

「そういうことだな?」

「……………はい……」

 

 長い沈黙の後、潔く負けを認めて粛々と頷く。清隆くんがそんな私をしばらく無言で見やった後に、深く長いため息を吐いた。

 

 半目で私を見下ろして、圧の効いた低い声で告げる。

 

「帰ったらわかってるな」

「弓道部で鍛えられた足腰が唸るぜ」

「沈黙するまで続けてやる」

 

 手首が解放されると、いつものように手を繋がれた。並んで清隆くんの目的の場所へと向かう。

 

 電化製品のあるコーナーの前で立ち止まり、清隆くんが外村くん……通称博士に電話をかけていろいろ相談している。

 その会話を隣で聞きながら、私は私で静かに思考を巡らせていた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 佐倉さんから須藤の件で協力するという言葉を貰い、事態の確かな進展を見届けたその後。

 一緒に寮に帰る櫛田さんと佐倉さんを手を振って見送ると、私たちは私たちで久しぶりのショッピングモールを回って楽しんだ。気になる雑貨を見つけたので、ポイントが貯まったらまた来ようねーと話もした。

 

 

 そして夜。二人でご飯を作って食べた後、ベッドの縁に座る清隆くんの前で床に正座をしている私のもとに、これまた一本の電話が入った。

 

「………」

「電話出ないの?」

「オレは正座を崩していいと言っていないぞ」

「ウィッス」

 

 軽く息を吐いた後、清隆くんが携帯を取る。スピーカーにしてベッドに置く。

 元気いっぱいの可愛い声が聞こえてくる。

 

『さっきぶりだね、綾小路くん』

「ああ。さっきぶりだな、櫛田。どうしたんだ?」

『えっと、いろいろ意見交換? とかしてみたくて。あ、水元さんもいるかな?』

「いるぞ」

「こんばんは、櫛田さん」

『こんばんはっ!』

 

 もはや私がいることを暴露するのが普通だと思ってる気がするな。

 正座から動いたらキツいお灸を据えられそうなので、この場は大人しく返事をしておく。

 

「佐倉との距離は縮まった……って言っていいんだよな?」

『昨日までよりは、ね。はー、まだまだだな、私。自分にげんなりしちゃう』

「いやいや、すごいよ櫛田さんは。私たちだったら絶対そこまでいかないもん」

「おい……まあ否定はできないが」

『あはは……だったらいいんだけど。でも、まだまだだよ』

 

 櫛田さんは目標が高すぎる気がするな。本当にすごいと思っているのに、櫛田さんからするとまだまだとは。えっじゃあ私たちは一体……?

 

「そう言えば、なんで佐倉のメガネを外させようとしたんだ?」

 

 清隆くんが不思議そうに疑問を呈した。櫛田さんたちと別れる直前のことを思い出しているのだろう。

 ショッピングモールで最初に合流した地点に全員で戻りながら、櫛田さんは唐突に佐倉さんにメガネを外してみてくれないかとお願いしたのだ。確かにあれは不自然な流れだったと思う。

 

『うーん。何でって言われると困るけど。何となく似合わない感じがしたんだよね。佐倉さんとメガネが結びつかないっていうか』

 

 櫛田さんは困ったような声音で続ける。

 

『自分でもよくわかんない。会ったことがあるって思ったのも、ただの勘違いだろうし』

「いや……もしかしたら、櫛田の気のせいじゃないかも知れないぞ。佐倉ってオシャレとは程遠い格好してるだろ? オレもそうだけど、極力目立たないような地味な色合いの服を選んだり」

『そう、だね。意識してオシャレしてるとは思えないかな。でもそれがどうかしたの?』

「そんな子が伊達メガネなんてかけるのは、ちょっと不自然だと感じたんだ」

 

 電話口でえっという櫛田さんの声が上がった。

 

『佐倉さん、伊達メガネなの? だって目が悪いって……』

「メガネと伊達メガネは一見同じに見えるけど、決定的に違うところが一か所あるんだよ」

 

 清隆くんが私を見た。言葉を引き継ぐ。

 

「レンズの向こうの歪みが違うんだよ、櫛田さん。佐倉さんのレンズに歪みは無かった」

「ああ。だからオレはてっきりオシャレの一環として身に着けてると思ったけど、今日の佐倉の発言を聞いて不思議になってさ」

『そっか……。メガネだけオシャレしてるとか? うーん、普通しないよね』

「あるいはコンプレックスを隠すためか。例えばメガネをかけると知的に見えるだろ?」

『それはあるね。メガネかけてると頭良さそうだもん』

 

 また私を見た。今度は首を振る。

 

「……佐倉の場合は、素の自分を見せたくないって思いからかけてるのかもな。いつも前かがみな姿勢だったり、人と目を合わせないところ。ただの人嫌いって風にも思えない」

 

 清隆くんの見解を聞いて、櫛田さんが感心したような声をあげる。

 

『やっぱり綾小路くんを連れて来て正解だったね。よく相手を観察してる気がする』

 

 そうだろうそうだろう。清隆くんはすごいんだぞ。

 

 私が鼻高になっていると、櫛田さんがそのまま言葉を続ける。

 

『それから、水元さんも───』

 

 

 新たに着信音が鳴った。会話が止む。

 今度は私の携帯に一本の電話が入ったようだ。

 

 さっきの会話の流れから櫛田さんが言いかけたことは、おそらく私を賞賛する類のものだったのだろうと当たりをつける。

 櫛田さんから褒められたら舞い上がってそのまま立ち上がってしまいそうだったので、今電話が入ったのはちょっとありがたかったりする。

 

 手を伸ばして自分の携帯を取り、着信欄を見て動きを止めた。

 

「あ、私電話出てくるから。二人はそのまま話してて! じゃ!」

 

 さっと立ち上がる。長時間正座によるふらつきはない。

 

 部屋から出て、ドアを開けて外にも出た。ここなら大丈夫だろう。

 それから慌てて電話に応対する。

 

「もしもし。佐倉さん?」

 

 沈黙が続く。あれっと携帯の画面を見たが、普通に繋がっていた。もしかして拒否ボタンを間違えて押したのかと思ったが、そんなことはなかった。

 

 根気よく待つこと数秒。ようやく佐倉さんの声が聞けた。

 

『あ……水元さん……? はい、佐倉です……』

「うん。水元だよ」

 

 お互いに連絡先を交換し合っておきながら、名前を言い合うし確認し合うとは、妙な感じだと思った。

 ショッピングモールの帰りしな、全員で儀式的に連絡先を交換したと言っても、清隆くんは理解できるが私には絶対電話はかかってこないだろうと思っていた。なぜなら知っているから。

 

 だから今、この状況が不可解でならない。

 

 目の前がぐにゃ、とまた不定形に歪んだ。

 

 

『きょ、今日は付き合ってくれてありがとう』

「いいよ、全然大したことじゃないし。それに、何度もお礼を言われるとこっちまで気を遣っちゃうから、佐倉さんも気にしないでもらえると助かるな」

『うん……』

 

 再び沈黙の時間が訪れる。

 その間に逡巡する。思考を巡らせる。果たして、どう言葉を選択すればいいのか。……考えても仕方がない、か。

 

 彼女が私に電話を入れた。今はそれこそを考慮すべきだ。

 

「どうかしたの?」

『えっと……』

 

 努めて優しく声をかける。言い淀む気配を感じる。急かすことはしない。

 

『何か、思ったこと……なかった?』

 

 恐る恐る伺うような声でそんなことを聞かれ、携帯を持っている手とは別に、体を抱えるようにして腕を握っていた手に力を込めた。

 

「何かあったの?」

 

 

 ───白々しい。

 

 口元を歪めてわらった。

 

 

『……ごめんね、何でもないの……おやすみなさい』

 

 言葉を返す間もなく、佐倉さんによって電話は終了した。

 

 耳に当てていた携帯を離し、腕を下ろす。夜空を見上げてぼーっとする。

 雲がかかった空は、光がなければ出歩くことを躊躇するものだ。幸い此処では人工光が大いに活躍している。だから問題はない。

 

 

 背後で密かにドアの開く音を聞く。

 

 

 

「……葵?」

 

 

 漏れ出る部屋の光を背負う清隆くんが、私を覗いている。

 

 

 

 顔を見て、眉が下がる。気づけばふにゃりと情けない笑みが口元に浮かんでいた。

 

 導かれるまま、光が射す先へと足を動かした。

 

 

 

 

 

 



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目線の先にあるもの

「暑くない……?」

「今日もまた……いや、前より悪化している……」

 

 げんなりしながら寮のロビーを出る。冷房に慣れ切った体には朝からコレはキツい。夏が好きとは言ったけど、あまりに暑いのは嫌いだ……。

 

「これでまだ七月なんだから笑う」

「笑えない。笑えないからな」

 

 ぶわっと蒸し暑い熱風が襲い掛かってきた。二人揃って一歩後退りする。目を合わせて、覚悟を決めるように頷き合った。

 学校までの数分間、肌を焼く痛みに耐えながら緑葉の生い茂る並木道から、ようやく学校へと辿り着く。学校に着いてからの安心感が段違いだ。

 

 いつもと違うことに気が付いたのは、下駄箱から少し先にある階段の踊り場の掲示板だった。

 

「あ、これ───」

「須藤とCクラスに関係する情報を持つ生徒を、募集する貼り紙……か。なるほど、よく考えたな」

 

 さらには有力な情報提供者にはポイントを支払う用意があるとまで書かれている。これなら普段興味を持たない生徒たちも注目をするはずだ。

 

 一通り貼り紙の内容に目を通し感心していると、後ろから元気な声をかけられた。ビクーッと飛び上がりそうになる。

 

「おはよー綾小路くん、水元さんっ!」

「お、おはよう! 一之瀬さん!」

「おはよう、一之瀬。なあ、この貼り紙って、もしかして一之瀬が?」

 

 吃りつつも朝の挨拶を返すことができ、大満足の私である。

 清隆くんは挨拶もそこそこにさっそく貼り紙について聞いていた。一之瀬さんが掲示板の貼り紙に目を通し、興味深そうにする。

 

「へえ。なるほどなるほど。こういう手もありだねえ」

「え? 一之瀬じゃなかったのか」

「これは多分───あ、いたいた。おはよう神崎くん」

 

 ちょうどよく通りかかったらしい、この貼り紙を用意したと思われる男子生徒が静かに歩み寄って来る。

 

「この貼り紙、神崎くんだよね?」

「ああ。金曜日のうちに用意して貼っておいた。それがどうかしたのか?」

「ううん、彼が誰がやったのか知りたがってたから。あ、紹介するね。Bクラスの神崎くん。こっちはDクラスの綾小路くんと、水元さんだよ」

「神崎だ、よろしく」

 

 差し出された手を順番に取る。これがBクラスの参謀、神崎くんか……うーんイケメンだな。

  物腰は固めだが真面目そうな生徒であり、高身長、すらりとした体型をしている。平田くんとはまた別のタイプで人気がありそうなイケメンだ。まあ私は断然平田くん派なんですが……。

 

 清隆くんが私を見て、視線を戻した。

 

「どう神崎くん。有力な情報はあった?」

「残念ながら使い物になりそうな情報は無かった」

「そっか。じゃあこっちも例の掲示板見てみるね」

「掲示板? 他にも貼り紙を?」

 

 一之瀬さんが薄く笑う。そんな笑みも可愛い。

 

「学校のHP見たことあるかな? そこに掲示板があるんだけどね、そこで情報提供を呼び掛けてるの。学校での暴力事件について目撃者がいれば話を聞かせて貰いたいってね」

 

 そう言いながら私たちに携帯の画面を見せてくれる。

 そこには貼り紙に書かれている内容とほぼ同じ書き込みがある。こちらでは閲覧者数まで見られるようになっており、その数はまだ数十人のようだったが、直接聞いて回るよりも遥かに効率的なように思う。

 

「あ、ポイントのことなら気にしないで。私たちが勝手にやってることだから。それに今の手ごたえだとちょっと新しい情報は難しいかもね。……あ」

 

 言ってる矢先に、一之瀬さんが何かに気づいたような声を上げた。

 

「どうした」

「書き込み、2件ほどメール来てるみたい。少し情報があるって」

 

 しばらくメールを読んでいた一之瀬さんが、少し笑みをこぼした。すぐに私たちにも画面を見せてくれる。

 

「例のCクラスの一人、石崎くんは中学時代相当な悪だったみたい。喧嘩の腕も結構立つらしくて地元じゃ恐れられてたんだって。同郷の子からのリークかな」

 

 こうしてまた一歩着実に事態は進展した、か。

 

 けれどまだ証拠として弱い。この情報は心証だ。須藤が一方的に殴ったという事実は重い。半々に持っていくのが現時点での精一杯だろうか。

 

「とりあえず、情報くれた子にはポイント振り込んであげないとね。あ、でも相手は匿名希望か……どうやってポイント譲渡すればいいんだろ?」

「良かったら教えようか?」

「綾小路くんわかるの?」

「いろいろ携帯操作していて覚えた。相手のメールアドレスは分かるんだよな?」

「フリーのだけどわかるよ」

 

 一之瀬さんが清隆くんに携帯を向ける。その際無防備に清隆くんと距離を詰める一之瀬さんを見て、私はといえばハッと目を輝かせた。

 

 おっ……おお!?よしいけ! いけ! いけーっ! 身を寄せろ! いいぞ! 美男美女で目の保養だ、いい感じ………なんで避けた清隆くん!?

 

 内心騒がしくしている間にポイントの送信は無事に完了したらしい。一之瀬さんが身を離し、神崎くんの隣に戻った。

 

「ありがとう、綾小路くん。それじゃあ行こうか」

 

 一之瀬さんと神崎くんについていく形で、私と清隆くんも並んで教室に向かう。

 

 なにやら一之瀬さんを見て思案しているらしい清隆くんを横目に見つつも、私は私で覚えのあるぐにゃりとした感覚に苛まれていた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 教室に入って早々、櫛田さんが明るい笑顔で私たちに声をかけてくる。

 

「おはよ! 綾小路くん! 水元さんっ!」

「おはよう櫛田さん!」

「おはよう、櫛田」

 

 勢いの違いを見てほしい。清隆くんには天使の笑顔が見えていない可能性あるな。

 

「昨日はありがとう。本当に助かったよ」

 

 迷惑をかけられた覚えがないのに、こうして何事にも真摯に対応し、律儀にお礼を言ってくれるから櫛田さんは人気者なんだろう。私の方こそ私服姿の櫛田さんをありがとうって感じだ。

 

「また、今度一緒に遊ぼうね」

「ぜひに」

 

 すかさず返事をする。社交辞令ではない、リアルにする。そういう強い意志での返事だ。ちなみに清隆くんも一緒でお願いします。

 

 清隆くんと一旦分かれ、机に鞄を置きに行く。

 荷物を所定の位置に置いてから後ろを振り向いてみれば、どうやら堀北さんに話しかけられている清隆くんがいた。

 

 堀北さんから話しかけているなんて珍しい。好奇心が勝って、歩み寄って行く。

 

「そう? 別にそんなつもりはないわ、いつも通りよ。ただ、随分勝手に動くようになったなと感心していたのよ」

 

 私が近寄って来ていることに気づいたのか、なんだかものすごい顔をした堀北さんが私にも視線を投げかけてくる。

 

「あなたたちは私が頼むときには渋る癖に、櫛田さん相手だとすんなり承諾するのね。その違いは何なのか、冷静かつ慎重に分析していたところよ」

 

 お、おお……!? コレが……本領を発揮した堀北さんでは……!?

 

 全然冷静にも慎重にも見えない堀北さんを興味津々に見ていると、ちょいちょいと肩を指先でつつかれる。櫛田さんだ。ちょっと来て、と呼び出されて、清隆くんと揃って後をついていく。

 なおその間も堀北さんの冷静でも慎重でもない眼差しが向けられている。むしろキツくなったくらいだ。

 

 三人で廊下に出て、櫛田さんが驚きと喜びに顔を明るくしながらコソコソと言った。

 

「なんかものすごく新鮮なものを見た気がするね。あんな顔もするんだ堀北さんって」

「新鮮? 不気味……やや怒ったような堀北だったと思うが……」

「二人ともわかってないなぁ」

 

 やれやれとため息をつく。ついでに肩を上げて両手を上に向け、大袈裟な挙動も取ってみる。

 

 清隆くんと櫛田さんの注目が集まったところで、私は存分に溜めつつ言った。

 

「……あれが……」

「「あれが……?」」

 

 

「───ツンデレの……デレだ………」

 

 

「んぶふっ」

 

 櫛田さんが吹き出した。吹き出す櫛田さんとか初めて見たかもしれない。

 

「ツンデレ……? あれがデレ、なのか……?」

「そうだよ」

「迷いのない返事だな……」

 

 清隆くんは困惑し切っている。まだピンと来ていないんだろう。

 櫛田さんは未だお腹を抱えて震えていた。

 

「あ、あれは……私を誘ってくれなくて寂しい、疎外感を感じる、って奴だね」

 

 笑い過ぎて目尻に涙が浮かんでいる。それを指先で拭いながら、櫛田さんが懸命に言葉を紡いでいた。ちらっと教室を見て、また小さく吹き出す。

 

「あの堀北が? まさか」

「ほ、本人も無意識な気がするけど……。きっと友達と話したり過ごしたりする時間の楽しさに気づいたんじゃないかな。良いこと良いこと……ん、ふふっ……ふふふ」

 

 相当なツボに入ったらしい。櫛田さんが楽しそうで何よりだ。

 清隆くんは清隆くんで困惑し切った顔が抜けていない。櫛田さんとはまた別の意味で、同じようにチラチラと堀北さんを見ている。

 

「あ、もしかして綾小路くん、根本を勘違いしてるんじゃない? 堀北さんはね、綾小路くんと水元さんに誘ってもらえなかったことが嫌だったんだよ。……うん、ツンデレって言葉が一番わかりやす……んん゛っ! ん、ふふ、あはははっ!」

「ええ……」

 

 ついに声を上げて笑い出した櫛田さんを、清隆くんが引いたように見ている。

 

 ここに堀北さんツンデレ同好会が発足した。私の中で。

 清隆くんはともかく、誘えば櫛田さんはノリノリで入ってくれそうな気がしている。機会があれば本格的に準備して誘ってみようかな……。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 ホームルームを終えた茶柱先生をさりげなく追いかけて、職員室の手前で呼び止める。教室の中だと目立つため、佐倉さんに配慮したものだ。

 

 昨日の電話の話は結局できないししないまま、私たちは佐倉さんと共に後方で待機する。

 私が此処にいる必要はないとわかっている。でも見届けたかった。正体を、突き止めたかったのだ。

 

 

 櫛田さんが先頭に立ち、茶柱先生に佐倉さんの件を伝えている。

 

「目撃者? 須藤の事件のか」

「はい。佐倉さんが事件の一部始終を見ていたんです」

 

 櫛田さんが後ろで静かに待機していた佐倉さんを呼ぶ。佐倉さんは少し緊張した面持ちで、静かに一歩前に出た。

 茶柱先生の確認の言葉に佐倉さんが頷く。小さく肯定の返事をする。茶柱先生の眼光に居心地が悪そうにはしていたが、ちゃんと反応を示した。

 

 証言すると約束した通り、佐倉さんは茶柱先生の前でゆっくりと真実を口にしていく。茶柱先生は最後まで口を挟まず、静かに話を聞いていた。

 

 佐倉さんの証言を聞き終え、茶柱先生が口を開く。

 

「おまえの話は分かった。が、それを素直に聞き入れるわけにはいかないな」

「ど、どういうことですか? 先生」

 

 目撃者の発見に、Dクラスの担任である茶柱先生が喜ぶと思っていたのだろう櫛田さんが、期待を裏切られて慌てて理由を尋ねた。

 

 茶柱先生は淡々と言う。

 

「佐倉、どうして今になって証言した。私がホームルームで報告した際には名乗り出なかったな。欠席していたわけでもなかっただろう」

「それは……その……私は誰かと話すのが、得意じゃないので……」

「得意じゃないのに今になって証言するのも変じゃないか?」

 

 ……きっと最初の段階で名乗り出ていれば、茶柱先生も素直に目撃者の存在を喜べていたんだろうな。

 

「先生、佐倉さんは───」

「今私は佐倉に聞いているんだ」

 

 鋭く、怒気の籠った声で茶柱先生は櫛田さんの言葉を遮る。佐倉さんが怯えたように小さく縮こまった。

 

「えっと……クラスの、が、困ってるから……私が証言することで、助かるなら……そう思ったから……」

 

 茶柱先生は担任として、佐倉さんという少女の性格を把握しているはずだ。だから彼女がこうして真実を話しているだけでも、大きな前進だと感じているだろう。

 

「なるほど。お前なりに勇気を振り絞ってのことだったんだな?」

「はい……」

「そうか。おまえが目撃者だというなら、私は当然の義務としてそれを学校側に伝える用意がある。だがその話を学校側が素直に聞き入れ、須藤が無罪になることはないだろう」

「ど、どういうことですか?」

 

 感情のこもらない声で、また茶柱先生が淡々と言った。

 

「本当に佐倉は目撃者なのか? ということだ。Dクラスがマイナス評価を受けるのを恐れて、でっちあげた嘘なんじゃないかと私は思っている」

 

 茶柱先生の担任とは思えないあんまりな言い方に、櫛田さんが愕然とした表情になる。すかさず非難を込めた声を上げるが、茶柱先生は一ミリも揺るがない。

 

「茶柱先生、そんな言い方は酷いと思います!」

「酷い? 本当に事件を目撃しているなら初日に申し出るべきだ。期限ギリギリになって名乗り出られても怪しむのが当然だ。それもDクラスの目撃者とくれば尚更な」

 

 茶柱先生の言い分は、もっともだった。

 

「疑うなという方に無理がある。そうは思わないか? 都合よく同じクラスの生徒が人気のない校舎にいて偶然一部始終を目撃した。出来過ぎだ」

 

 疑われても仕方ない。佐倉さんが事件を目撃していたという事実は、あまりに出来過ぎだった。私だって第三者に言われれば、絶対に内輪の作り話だと思うだろう。

 公正なジャッジを行えば、目撃証言として弱くなるのは当然のことだ。

 

「しかし目撃者は目撃者だ。嘘だと決めつけるわけにもいかない。ひとまず受理しておくことにしよう」

 

 茶柱先生が試すように佐倉さんを見る。

 

「それから、場合によっては審議当日、佐倉には話し合いに出席してもらうことになるだろう。人と関わるのが嫌いなお前に、それが出来るのか?」

 

 意地が悪い言い方は茶柱節が利いていた。……茶柱節ってなんか……美味しそうだな。……思考が逸れた。

 

 佐倉さんは茶柱先生の揺さぶりじみた言葉を聞いて、若干顔を青ざめている。

 

「それが嫌なら辞退するのも手だ。その際には審議に参加する須藤に伝えておくように」

 

 顔色を心配した櫛田さんが佐倉さんに「大丈夫……?」と声をかけている。佐倉さんはこくこくと頷いた。

 一応声に出して返事もしているが、先ほどよりもさらに自信を失くした声をしている。

 人前で証言をすることに加えて、当日は須藤と二人きりで審議に参加ということ。それを佐倉さんに強いるのは少々……いや、かなり酷だろう。

 

 櫛田さんがそれに気づき、いち早く提案をした。

 

「私たちが参加しても構いませんか、先生」

「須藤本人の承諾があれば許可しよう。だが何人もというわけにはいかない。最大で二人まで同席することを許可する。よく考えておくように」

 

 今度こそ茶柱先生が職員室に入っていく。これ以上引き留めても話は堂々巡りだろう。

 

 

 職員室を後にした私たちは、教室に戻って堀北さんに事のあらましを説明した。

 堀北さんが説明を聞き、「当然といえば当然ね」と言い放つ。

 

「ごめんなさい……私が、もっと早く名乗り出てたら……」

「確かに事態は多少違ったかも知れない、けれどそれほど大きな違いはなかったでしょうね。目撃した人物がDクラスだったことが運のツキよ」

 

 慰め方が下手である。でもこれが堀北さんだ。順調にツンデレ街ど……人との接し方を学んでいるようで私は嬉しいぞ。

 

 堀北さんが思案気に視線を落とす。

 

「それから櫛田さん。当日は私と……綾小路くんに出席させて貰えないかしら。あなたが佐倉さんの支えになることは十分理解しているけれど、討論となれば話は別よ」

「それは……うん、そうだね。私じゃ、その部分は力になれないと思う」

 

 

 ───安堵。

 

 気づけば、肩から強張りが取れていた。

 

 

「佐倉さんも、それで構わないかしら?」

「……わ、わかった」

 

 佐倉さんの返事からは全然良くはないことを感じた。この場ではそう答えるしかないとはいえ、やっぱり少し可哀想だった。

 

 私は心の中で応援するだけに留めておいた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 櫛田さんは佐倉さんの裏の姿に気付いたであろう。

 池と山内が漫画の週刊誌を取り合っているのを見て、何かに気づいた様子で携帯で調べ物をしていた。気づくのは時間の問題だ。

 

 

 妙に落ち着かなくて、早めに切り上げた部活からの帰り道。

 寮のロビーに差し掛かったところで、一通のメールが届いたのに気づいた。差出人を見て動きを止める。

 

 メールを開いて目を通した。

 

 

『もし、私が明日学校を休んだらどうなりますか?』

 

 

 心臓が鳴っているのが聞こえる。額に手を当て、瞳を閉じた。

 一度息を吐くと、閉じていた目を開けて返信するために指を動かす。

 

『どうもしないよ』

 

 少し間を置いて、返信がくる。

 

『今、何してますか?』

『部活が終わって、今は寮に帰って来たところ』

『もし良ければ今からお会いできませんか。1106号室です』

 

『誰にも秘密でお願いできると……助かります』

 

 清隆くんも連れて行って大丈夫かと、途中まで書き込んでいたメールを止める。

 

 決定的に狂っている。バグだ。これはバグ。そうじゃないと、どう説明すればいい。

 ……いや、違う。佐倉さんはおかしくない。佐倉さんは間違っていない。理解している。理解できている。だから。

 

 バグ。狂っているのは。

 

 バグなのは?

 

 

『5分もかからないで行けるから、待っててくれる?』

 

 エレベーターのボタンを押す。

 下に降りてくるのを待っている間、私は真っ暗な画面を映す携帯を意味もなく見下ろしていた。

 

 

 

 

 エレベーターが一階で止まった。開いたドアを見つめる。

 

「……水元さん?」

 

 後ろから声がかかって、ゆっくりと振り向いた。声の主から誰かは簡単に推測できた。

 

「堀北さん。珍しいね、こんな時間に。どこか行ってたの?」

「買い物してたから。見てなかったの?」

 

 堀北さんが手にしていたビニール袋を軽く持ち上げた。ビニール袋特有の乾いた音が鳴る。

 あーと納得の声を上げた。

 

「そういえば堀北さんも自炊してたね」

「ええ」

 

 先にエレベーターに乗り込んで、開くボタンを押して堀北さんが中に入ってくるのを待つ。

 堀北さんが乗り込んだのを確認してから、ボタンから指を離し目的の階を押した。

 

 ゆっくりとエレベーターが上がっていく。沈黙は気まずいものではない。

 ふと私が押した階を見て、堀北さんが不思議そうな声を上げた。

 

「あなた、どこに行こうとしてるの? 綾小路くんの部屋でもないようだし、まして自分の部屋でも……10階でもない」

 

 10階? 急に何の話をしてるんだろうか。

 思い当たる節がない階層に首を傾げる。

 

「佐倉さんかしら?」

「違うよ」

 

 佐倉さんの名前が出て即座に否定したが、堀北さんは信じてくれていない気がする。

 私を見る目に、険が宿ったままなのが証拠だ。

 

「傍観者。自分のことをそう称していた割に、あなたも随分積極的なことね。何か心境の変化でもあったのかしら?」

「その点に関して言えば面目ない……」

 

 自分でも自覚がある。だからこそこうも悪足掻きのように修正しようと奔走しているのだ。しかし、同時にもはや修正不可能な段階だとも理解している。

 

 一度生まれた綻びは、なかなか元通りには戻ってくれないらしい。

 

 

 ポーン、と目的の階に着いた音がエレベーター内で鳴る。

 ドアが開き、少し前に進んでから振り返って軽く手を振った。

 

「じゃあまた、堀北さん」

「……ええ。また明日」

 

 前を向く。背後でエレベーターのドアが閉じる音がする。

 佐倉さんの部屋を目指して、足を進めた。

 

 

 

 

 インターホンを鳴らしてすぐ、玄関で待機でもしていたのかと思うくらいあっさりと鍵が開いて、中に招き入れられた。

 

「お邪魔します……」

「……どうぞ」

 

 佐倉さんは私服姿だ。今日は帽子もマスクもしていない。外じゃないんだから、当然か。

 

 部屋に入って、敷かれたラグマットの上に勧められるまま腰を下ろした。すぐに佐倉さんもテーブルを間に挟む形で対面になって座る。

 

 沈黙が辺りを包む中、私から口を開いた。

 

「それで、私に何か用があるんだよね?」

「あの……水元さんは前に、私に言ったこと覚えてますか……。私が目撃者だったとしても名乗り出る義務はないって言ってたこと。無理に証言したことに意味は無いって」

 

 ……なるほど。そこから狂っていたのか? なら、まだ、修正は可能……か。

 

 

 水滴が落ちて、そこから波紋が広がるように。

 安堵が胸に満ちた。ようやっと、視界がはっきりした感覚を取り戻す。

 

 

「……私……やっぱり自信がありません……」

 

 意識を戻す。

 顔を上げて、佐倉さんをしっかり見た。

 

「人前で話しきることに対して、かな」

「昔からダメなんです……人前で話すことが苦手で……明日、先生たちの前であの日のことを聞かれたら、ちゃんと答えられる自信がなくて……それで……」

 

 なるほど、と頷く。佐倉さんが言いかけた言葉を引き継いだ。

 

「学校を休んでしまおうかと」

 

 落ち込んだように頭を下げる。私の言葉に頷いたように見えなくもない。

 

 佐倉さんの頭は止まることを知らないかのように、そのまま額をテーブルにぶつけに行った。えっと素で声が出た。結構痛そうな音が鳴ったぞ。

 

 

「あーーーーもう、どうして私はこんなにダメなのぉぉ!」

 

 

 !? こんな駄々っ子みたいな佐倉さん、私が見ちゃっていいの!? 清隆くんチェンジだ! なるはやでココに来て!

 

 ジタジタと手足を動かし、もどかしそうに頭を抱えて佐倉さんが叫ぶようにしてそう言う。

 私はつい、しみじみと口を開いていた。

 

「……佐倉さんって意外とハイテンション系なんだね……」

「はっ!?」

 

 私の言葉を……というより私の声を聞いて驚いたように顔を上げる。

 まさか叫んでいたとき、私がいること忘れてたとかある?

 

 佐倉さんが真っ赤な顔になって首を振り、ついでに手を顔の前でかざして何度も左右に振った。

 

「ちが、違います。これは違いますっ!」

 

 佐倉さんのいろんな表情を見ていると、ついついほのぼのしてしまう。そんな表情も作れるんだなと、安心するというか。

 

 佐倉さんといえば思い出す顔は、だいたいいつも塞ぎ込んだ暗い顔ばかりだ。だから、こうやってころころ表情を変えている佐倉さんは良いと思う。

 

「ねぇ、一つ聞いてもいいかな。どうして私に声をかけたの?」

 

 私が意識しないうちに話しかけやすい土壌を作っていたとはいえ、それでも理由はまだ乏しいと思う。相談するならば櫛田さんの方が良いに決まっているし、他の生徒も、それに清隆くんだって。

 清隆くんは実際に店員さんから佐倉さんを守っているし、そんな風に、佐倉さんの周りには頼りになる人がいる。

 

 だからどうして真っ先に何も為していない私を頼ったのか、その理由が気になった。

 

 

「……み、水元さんは……すごく、綺麗だから……」

 

「…………ん?」

 

 

 なんか予想の斜め上というか、宇宙外から豪速球で投げ飛ばされたような回答が返って来たな……。

 

 困惑し切った顔で頰を掻いて、改めて理由を尋ねる。聞き間違いの可能性、無きにしも非ず。

 

「えーっと……綺麗……って何?」

「あ! あの。見た目じゃなくて、あ、見た目は可愛いって感じですよね! って違う! あの、その、私が言っているのは………目、です。目が、とても綺麗で……」

「お、おう………目?」

「はい……。すごく、目が。澄んでいるっていうか、その……」

 

 佐倉さんが真下を向いて俯いた。髪の隙間から見える耳は真っ赤だった。頭隠して尻隠さずみたいだなと思った。

 

「……じ、実は……私、水元さんのこと、よく見ていたんです」

「え」

「水元さん、ほら。よくうろうろしているじゃないですか」

「うろうろ……」

「はい。私もしてますから……」

 

 うろうろという言葉にちょっと傷ついたが、本人も普通にうろうろしているらしく、『うろうろ』は別にバカにしているわけじゃないとわかった。

 というより、今は別の言葉が気になっている。

 

 俯いたまま佐倉さんは言葉を続けた。

 

「すごく……いつも、キラキラしていて。まるで、世界まるごと綺麗だって、言っているみたいな……そんな目をしているから」

「……えっと……ちなみにどこで見てたの?」

「あ……いろんな場所で見かけました。水元さんはその、集中していたから……私も水元さんに気づいたらすぐ隠れて、物陰とか、遠くから見ていただけだし………あ」

 

 佐倉さん何か気づいたのか、顔をサッと青くする。そして私に向かって深々と頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい……! 勝手に見られてるのとか、気持ち悪いですよね。ごめんなさい、もうしません本当に!」

「あ、いや! それは全然気にしなくていい、いや全然でもないけど、別にそんなに謝ることじゃないしいいよ! 私も気づかなかったくらいだし」

 

 いくら距離があったとはいえ、害意のある視線だったら気づいたはずだ。……いや、よく思い出せばたまに視線を感じることはあった。それも気のせいだと思えるくらい希薄なものであったが。

 なるほど、その視線の主が佐倉さんだったなら納得できることだ。

 

 佐倉さんはただ普通に私を見ていただけ。それなら別に、何も咎める理由はない。

 

 

 ───私も、たまに出先で佐倉さんを見かけることはあった。同じように声をかけることなく、見かけたら静かにその場を退散していた。なんというか……お互い様な気がしている。

 

 

 そりゃ佐倉さん曰くうろうろしている同士だから……いつか鉢合うのも自明の理……。

 そしてコミュ症が幸いして今の今までお互いノータッチだったのも、なんか、こう。改めて考えたら笑える。笑えない?

 

 笑うのを堪えようとして、変な顔になる。佐倉さんは俯いていて、私の様子に気づいていないのがラッキーだった。

 

「そうだ。これからは一言声をかけてくれると嬉しいな。私もかけるから」

 

 こうやって声をかけることができるくらいには回復した。佐倉さんも落ち着いたのか、そろそろと窺うように私を見る。こくりと頷いて、ほんの小さくではあるが、笑みを浮かべてくれた。

 ……私には向いていない。改めて思った。

 

「須藤くんの、ことなんですが……見たことをそのまま話せばいいって分かってるんです。だけど、それがどうしてもイメージできなくて……どうすれば積極的に話せるんでしょうか?」

 

 私に聞くのだから、この数日間相当悩んでいたんだろうと思う。

 だが、最初に言っていた通り佐倉さんが無理をする必要はないのだ。

 

「やめたいなら、私から話しておくよ?」

「……怒らないんですか……?」

「だから最初に言ったでしょ? 強要させた証言には意味なんてないって」

 

 佐倉さんがまた視線を下げた。眼鏡の反射で瞳が見えない。

 膝の上に置いた両手を固く握り込んで、縋るような声で聞いてくる。

 

「あの……。水元さんはどうするのが一番だと思いますか……?」

「佐倉さんの好きなようにすればいいよ」

 

 具体的に指示をして欲しいのだろう。容易に察することができるが、私には無理な相談だ。

 

 私は誰かに指図出来るほど優れた人間じゃないし、そもそも誰かに指図していいような人間じゃない。自分のことは自分がよくわかっている。

 まあ、向いてないというのも単純に理由としてあるが。

 

「そうですよね。こんなこと急に言われても困りますよね……ダメだな、私。こんなだから友達が一人も出来ないんでしょうね……」

 

 自分に嫌気がさしたのか、佐倉さんががっくりと肩を落として苦笑いをこぼした。

 

「佐倉さんなら少し誰かに話しかけていけば、仲の良い子がすぐに出来そうだけどな」

「全然です……。どうやってお話ししていいかも満足に分かりません……水元さんはいろんな人と仲が良さそうで、ちょっと羨ましいです」

「え。私が?」

「はい」

 

 私はそんなに周囲と関わりがない方だが……? それを言うなら清隆くんの方がすごいだろう。やっぱり私、この場に似つかわしくない人物な気がする。

 

 微妙な気持ちになりつつも、ふと佐倉さんを見やってあっと閃く。

 

 ……少しだけ躊躇したのは事実だ。だけど、今ここでこの言葉を言うからこそ、……いや。やっぱり私には向いていないな。

 

 

「……こんなことを言うのはおこがましいかも知れないけど、友達みたいなものでしょ。私たち」

 

 

 へら、と笑う。

 佐倉さんは戸惑った顔をした。

 

「……友達、なんでしょうか?」

「佐倉さんが違うって言えば、違うかも知れないけど」

「いえ……っ。うれしいです……そう言ってもらえると……」

 

 また佐倉さんが小さく微笑んだ。さっきの笑みよりは、ちゃんと本物を感じる気がした。

 

 佐倉さんがぺこりとまた私に頭を下げる。

 

「ありがとう。今日、私なんかに会いに来てくれて」

「全然大したことじゃないよ。これくらいならいつでも呼んでくれていいから」

 

 もう用事は済んだだろう。立ち上がれば、見下ろした視界にまだ元気の無さそうな佐倉さんが映る。

 

 時間は……まあ、部活をして帰るって言ったからまだあるか。

 

「そうだ。今日って今から予定ある?」

「今からですか……? いえ、特にはありません。というか、いつもありません」

 

 そんな聞いていて悲しくなる情報は伝えなくていいんだよ……。

 

 ツッコミがたい内容はスルーすることにして、玄関を指差して笑いかける。顔を上げた佐倉さんが、私を見上げながらゆっくりと瞬きをする。

 

「じゃあ、ちょっと一緒に出かけない? もし迷惑でなければ、だけど」

 

 

 

 

 私としては場所はどこでも良かったのだが、佐倉さんにはどうやら行きたい場所があるらしい。

 後をついて行き、たどり着いた場所に目を丸めた。

 

「あれ。佐倉さん、もしかして弓道部とか興味あったの?」

「はい。弓道部……というか。水元さんが、どんな風に……どんな目で部活をしているのか気になってて……でも、結局一度も行けませんでした。一人だとどうしても目立っちゃうから……」

 

 相違点を突き付けられるたびに焦燥感が募る。

 

 ……不自然に止まっていた息に気づくと、そのまま溜めていた息を吐いて、努めて普段の呼吸を取り戻す。

 

 

 佐倉さんが弓道場の方を向いたまま、質問を投げかけてくる。

 

「どうして私に声をかけてくれたんですか?」

「どうして……って、うーん。改めて聞かれると答えにくいな」

 

 私も弓道場の方を見ながら、少しの間悩んで言った。

 少し遠くから、時折矢を射る音が聞こえている。

 

「気分転換になれば、って思ったからかな。部屋にこもってばかりだと、気分が塞ぎ込んでいくから……」

「それは……少し、わかります。私もそうだから……」

 

 沈黙が落ちる。以前のように、気まずさを感じるものじゃなかった。

 

 静かに耳を澄ませて、周囲の、自然の音を聞く。矢を射る音も、一見すれば喧しく聞こえるはずの部活に励んでいる生徒たちの声だって、聞いているとどうしてか落ち着くものだ。

 理由はまあ、なんとなく察することができるだろう。

 

「水元さんに友達だって言ってもらえて、嬉しかったです。そんなことを言ってもらえたの、初めてでした」

 

 静かに紡がれる声に、こちらも静かに言葉を返した。

 

「櫛田さんは? 最初に声をかけたのは、彼女じゃなかったっけ?」

「……はい。櫛田さんにはいつか謝らないといけません」

 

 佐倉さんが薄く笑った。自嘲交じりの、見ていて痛々しい笑みだ。

 

「声をかけてくれたのも最初に誘ってくれたのも櫛田さんだったのに、私に勇気が無かったから……。本当は一緒したかったんですけど。どうしても答えられなくて。情けないです」

 

 視線を落とした。気分転換のつもりで連れ出したのに、余計落ち込んでしまっている気がする。

 

 前に視線を向けて、少しの間逡巡した後。

 私はゆっくりと口を開いた。

 

「明日のことについて、ひとつだけ私からアドバイスしてもいい?」

 

 佐倉さんが私を見ていることに気づきながら、視線を前に向けたままた言葉を続けた。

 

「須藤のため。櫛田さんのため。クラスメイトのため。そんな考えは一度全部捨てて」

「えっ……? 全部……捨てる?」

「明日証言をするのは、事件を目撃したという真実を話す自分自身のためだよ」

 

 佐倉さんが自分をまず大切にすることができるように。

 

 自分が幸せになれずに、他人を幸せにすることなんかできない。自分を大切にして、それからようやく他人に目を向けることができるのだ。大切にしたいと、幸せにしたいと思うのだ。

 

 

 ───幸せになってほしい。

 

 ……これはまた、違うと思っているけれど。

 

 

「本当のことを自分のために話す。その結果須藤たちが救われる。それで十分だよ」

 

「………ありがとう、水元さん」

 

 

 泣きそうな声だと思った。何も言わないで、視線は前に向けていた。

 

 

 

 



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重ねて投げた影

二章が終わるまであと一話です



 

 

 今日は須藤の運命が決まる日だ。

 

 佐倉さんに向ける3バカたちの視線は明らかに、櫛田さん、堀北さん、清隆くんの視線は微妙に変化している。

 

 結局昨日は清隆くんの部屋に帰ろうとして、玄関に複数人の靴があったためサムズアップしつつ自分の部屋に帰ったのだが、その後清隆くんから電話で事のあらましは聞いていた。佐倉さんはアイドルの雫だった、と。

 朝も軽くその話をされて、「余計なことはするなよ」と釘を刺されたのだが、そもそも余計と言ったら私の存在自体余計なものなので今さらの話である。

 おい笑うところだぞ、笑えよ。

 

 ……と、つまりまあ、それなりに佐倉さんを心配しつつ教室にやって来たのだが。

 

 

 大丈夫だよ、と声に出さず唇だけでそう言って気丈に微笑んでみせた佐倉さんに、強い子だなぁと思う。

 それから、自然な動作で目線を外した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 私にできることなど元来何もない。

 

 放課後になって清隆くん、堀北さん、須藤、佐倉さん、そして佐倉さんの付き添いとして櫛田さんが教室から出て行くのをただ見送っただけで。

 そして長い審議を終えて、堀北さんが、須藤が生徒会室から帰っていくのを曲がり角の陰から見て、その後新たな二人分の足音と、誰かが嗚咽をこぼしながら泣いているのを聞くだけ。

 

 ───誰か、なんてわかりきったことを。

 口元にうすらと笑みを浮かべた。

 

 

 最後尾で生徒会室から出てきたのは、堀北兄と、書記の橘先輩だろうか。また新たな声が聞こえてくる。

 

「佐倉と言ったな」

 

 嗚咽は止まない。懸命に声を押し殺しているとはいえ、ぼろぼろ泣いていて、すべてを隠し通せるなんて到底不可能だ。

 

「目撃証言と写真の証拠は、審議に出すだけの証拠能力は確かにあった」

 

 淡々と真実を述べる声だった。そこに感情は一切含まれていない。

 

「しかし覚えておくことだ。その証拠をどう評価しどこまで信用するかは証明力で決まる。それはお前がDクラスの生徒であることでどうしても下がってしまうものだ」

 

 告げているのが偽りのない真実だからこそ、何よりもその言葉は刺さるものだろう。

 

「どれだけ事件当時のことを克明に語っても、100%を受け入れることは出来ない。今回、お前の証言が『真実』として認識されることは無いだろう」

「わ、私は……ただ、本当のことを……」

「証明しきれなければ、ただの戯言だ」

「オレは信じますよ。佐倉の証言を」

 

 清隆くんが間に割って入る。染み込むような強さを感じさせる声だった。

 

 堀北兄は清隆くんのその言葉を聞いた上で、変わらず淡々と言い放つ。

 

「Dクラスの生徒ならば、信じたいと思うのは当然のことだ」

「信じたいと思う、じゃない。佐倉を信じてるって言ったんだ。意味が違う」

「ならば証明できるのか? 佐倉が嘘をついていないと」

「それはオレじゃなくて、あんたの妹がやってくれるだろうさ。佐倉が嘘つきなんかじゃないと、誰もが納得してしまう方法を見つけ出してな」

 

 

 

 ……堀北兄と橘先輩が立ち去る足音が聞こえる。耐え切れなくなって本格的に涙を流し始め、悲しみに濡れる声も。

 

 役に立てなかったと、そう言ってぼろぼろ泣いている佐倉さんにゆっくりと語りかける声。

 静かに、愚直なほど真っ直ぐに聞こえる声は、そしておそらく私が抱いたこの印象は間違っていない。私だってそうだった。

 

 きっと、私もそうだっただろうから。

 

 

「オレはお前を信じる。それが……友達というものだ」

 

 ……友達、か。

 

 

「だから、もし困ったことがあったらその時には力になる。覚えておけ」

 

 

 それが一体“誰に”向けたセリフか、なんて。

 

 ───お互いに難儀なものだ。清隆くんも、私も。

 

 

 

「オレたちも、そうだった。だから、きっと……佐倉も」

 

 

 

 ……………もうなんか。頭痛が痛いって感じだな。

 

 明後日の方向を向いて、腕を組みながらむっつりと目を瞑った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 ぼーっとしていたら安全に逃げられるタイミングを逃して清隆くんに取っ捕まり、清隆くん、佐倉さんと共に揃って歩き出す。

 

 すっかり泣き止んだ佐倉さんが恥ずかしそうに笑いかけてきた。

 

「二人には恥ずかしいところ、見せちゃったね……」

「こちらこそ隠れててごめんなさい」

「葵は事あるごとに隠れようとするのやめろ」

「ふふ、別にもういいよ。それに、ちょっとすっきりしたから……」

 

 人前で泣くなんて随分久しぶりだったから、とちょっぴり頰を赤くして佐倉さんが言う。

 

「そりゃ良かった。オレも子供のころは人前でよく泣いたもんだけどな」

「あ〜泣いてたねぇ〜清隆くん」

「葵も人のこと言えないだろ」

 

 泣き方はどちらも人に言えるようなものじゃなかったが。

 

 佐倉さんが私たちの発言を聞いて目を丸めていた。

 

「二人とも、泣いたりするイメージを持ちにくいな……そうなの?」

「泣いたぞ。10回も20回も、人前でな」

「私はそれ以上かな」

 

 人は泣くことで成長できる。悔しくて恥ずかしくて泣く子どもが顕著だと言えるだろう。苦しくて逃げ出したくて、でも逃げられなくて泣く子どもも中にはいるが。というか、そっちの方が普通だ普通。

 

 佐倉さんは辛いことを溜め込むタイプみたいだし、今回のことは彼女にとっても大切な出来事……過程だったのかもしれない。

 

「……嬉しかった。信じるって言ってくれたこと」

「オレだけじゃないぞ。葵も、堀北も櫛田も、須藤も。クラスメイトの皆は信じてるはずだ」

「うん……。だけど、綾小路くんは真っ直ぐに伝えてくれたから。伝わってきたよ。水元さんは、ずっと私のことを支えてくれたから……」

 

 残っていた涙で視界が滲んだのか、佐倉さんがもう一度目元を指先で拭った。

 

 

「勇気出して良かった。水元さん、綾小路くん、本当にありがとう」

 

 

 小さな笑顔が今までで一番輝いて見えた。それだけで安堵してしまうのだから、単純なものだ。

 

 私は間違っていなかった。ようやく、正しかったのだと思えた。

 

 

 

 玄関までもうそろそろといったところで、三人の間で流れていた落ち着いた沈黙の中、ふっと佐倉さんが口を開いた。

 思わず、といったようにも、何か決意をしてのようにも見える。

 

「あ、あのね……こんなこと、今言うべきじゃないと思うんだけど……」

 

 静かに続きを促した。佐倉さんが私たちを見る。

 

 

「実は……私、今……」

 

「やっほ。随分遅かったね」

 

 

 振り返った。一之瀬さんだ。隣には神崎くんもいる。

 どうやら玄関で誰かを……いや、清隆くんたちを待っていたのか。

 

「待っててくれたのか」

「どうなったかなって思って」

 

 清隆くんが一之瀬さんたちにちょっと待ってくれと制して、改めて佐倉さんの方に顔を向けた。

 

「悪いな佐倉。続き聞かせてくれ」

「う、ううん。何でもないの。ただ、私、頑張ってみるね。勇気を出して」

 

 ジッと見ていた下駄箱から顔を上げて一度私たちの方を見ると、佐倉さんは早口でそう答えた。そしてすぐに私たちを振り切るように駆け足で去っていく。

 一之瀬さんたちの横を通り過ぎる際は軽く頭を下げて、すぐにその背中は遠ざかって見えなくなってしまった。

 

「あ……」

 

 気まずそうな顔をして、一之瀬さんがぽりぽりと頰を掻いている。

 

「ごめん。なんか悪いタイミングだったかな?」

「いや……」

 

 良いも悪いもわからない。

 

 

 ───実際は、どうだったんだろう。初めてそう思った。

 

 

 ……今さら佐倉さんを追いかけて、先の言いかけた話を聞こうとするのもおかしな話だ。

 切り替えたらしい清隆くんが、生徒会室であった一連の出来事を一之瀬さんたちに話して聞かせている。

 

「そっか。その提案蹴っちゃったか。Dクラスはあくまでも無罪を主張するんだね」

「向こうにとっては、1日でも須藤を停学にすれば勝ちみたいなものだからな」

 

 一之瀬さんと神崎くんは難しい顔をしていた。特に神崎くんは納得していないようで、清隆くんに堀北さんの決断を……暴走を止めるべきなんじゃなかったかと言う。

 対する清隆くんの返答は淡々としたものだ。そこに清隆くんの感情が入り込む余地はない。

 

「うちの大将がその判断を下した。どこまでも徹底抗戦するってな」

 

 それは戦う意思の表れであり、これからもDクラスは困難に立ち向かっていくんだという覚悟の証だ。

 清隆くんの誘導があったとはいえ、やはり、さすが堀北さんだと思う。

 

 一之瀬さんが眉を下げて、切り替えるように一度息をついた。そして笑って協力継続を申し出てくれる。

 

「今から有力な手掛かりが手に入るとも思えないけど、もう一度ネットで情報を集め直してみるね」

「俺も可能な限り証拠か目撃者が見つからないか当たってみよう」

 

 妥協するべきだったと話していた神崎くんも、一之瀬さんに続いて協力は惜しまないといった態度を見せてくれる。

 

「まだ協力してくれるのか?」

「乗りかかった船だしね。それに言ったでしょ。嘘は許せないって」

 

 いや……Bクラスの子、良い子多すぎない? 大丈夫?

 

 清隆くんと揃って良い子な彼らに感動しつつ、反対に戦慄した眼差しをも向けていた。こちらはバレないようにだが。

 

 

「申し出はありがたいけれど、それは必要ないわ」

 

 

 凛とした声が空気を裂くように響く。冷たく聞こえる足音と共に、堀北さんが姿を現した。

 きっと清隆くんが帰ってくるのを待っていたんだろう。

 

 突然の登場にみんな堀北さんに視線を向けていたが、彼女に動じる様子は欠片もない。真っ直ぐ私たちの方に向かってくる。

 一之瀬さんが困惑げに堀北さんを見た。

 

「必要ないって……どういうこと? 堀北さん」

「話し合いの場では無罪は勝ち取れない。仮にCクラスやAクラスから新たな目撃者が現れたとしても、やっぱり無理ね」

 

 淡々と言い放つ。

 

「けどその代わりと言っちゃなんだけれど……あなたたちに用意してもらいたいあるものがあるの。唯一の解決策のために」

 

 堀北さんの言葉を聞いて、一之瀬さんと神崎くんが目を合わせた。

 

「あるものって?」

「それは───」

 

 

 計画のために必要だという、堀北さんの欲しいものの名前を聞いて、朗らかだった一之瀬さんの顔が初めて強張ったのを見た気がする。

 

「え……参ったな。それは中々ハードなお願いだね」

 

 堀北さんが唯一の解決策だと言った詳細を、一之瀬さんと神崎くん、そして私たちに静かに話して聞かせる。

 どうしてそれが必要なのか。何に使うのか。どんな目的があるのか。

 改めて話を聞くと、とんでもない内容だ。こんなの普通だったら思いつくわけがない。だから堀北さんは、優秀なのだ。

 

 堀北さんから説明を聞き終えると、一之瀬さんたちは暫くの間言葉なく黙り込んで、何か考えているようだった。

 

「それ……いつから考えてたの?」

「話し合いが終わる寸前よ。偶然の思い付き」

「や……凄い手だよ。現場に足を運んだ私自身そのことは全く意識してなかった。というよりも蚊帳の外っていうか……想像の範疇になかったから」

 

 一之瀬さんたちはまだ表情が硬いままだ。

 

「想定外の発想。効果も、多分見込めると思う。だけど、そんなのってあり?」

 

 ドン引きした様子で隣にいる神崎くんに意見を求めている。ドン引きする気持ちもわかる。

 なんたってコレは、盤上をひっくり返すようなものだ。そしてひっくり返した盤上で別のゲームを始めているようなもの。なおこちらにすでに有利な状況であるとする。

 

「お前のルール、モラル的には反するかも知れないな、一之瀬」

「あはは、だよねぇ……。反則だよね。だけど……確かにたった一つの方法かも」

「そうだな、それは俺も彼女の話を聞いて思った。無かったはずの活路だ」

 

 堀北さんがまた言い放つ。

 

 

「嘘から始まったこの事件に終止符を打てるのはやはり嘘だけ。私はそう思う」

 

 

 ───きっとその言葉で一之瀬さんたちの心も決まったのだろう。

 

 それでもまだまだ不確定要素が多いことに変わりはない。

 堀北さんを見る一之瀬さんと神崎くんの目は、まだ変わらず訝しんでいるようだった。

 

「にゃるほど、ね。目には目を、嘘には嘘を、か。でもさ、それって実現可能なのかな? そんなものが簡単に手に入ると思えないんだけど」

「その点は心配ないわ。さっき確認してきたもの」

 

 清隆くんの援護もすぐに続いた。

 

「博士に協力をお願いすれば、細かい部分も上手くいくはずだ。オレから頼んでみる」

 

 スムーズに為される会話に、今度こそ一之瀬さんたちの表情が引き攣った。

 

「ねえ神崎くん……。私たち、Cクラスを引き離すために協力を始めたはずだよね?」

「ああ。そうだな」

「でもさ、ひょっとして今私たちがしようとしてることは、後々自分たちを追い込むことになるんじゃない? って、今考えてたんだけど」

「かも知れないな」

 

 難しい顔で小さく唸る。

 でも、すぐに晴れやかな顔をして一之瀬さんらしく笑った。

 

「参ったなぁ。Dクラスに君みたいな子がいるなんて、完璧計算外だよ」

 

 堀北さんに敬意を示してから、一之瀬さんは少し呆れつつも携帯を取り出した。これは堀北さんの要請を承諾したというサインだ。

 すぐ近くにいたから、堀北さんが小さくほっと肩を下ろしたのがわかった。やっぱり多少は心配だったのだろう。

 

「これは貸しだからね。いつか返してもらうよ」

「ええ、約束するわ」

 

 堀北さんが今度は清隆くんに体を向けた。顔だけじゃなく体ごとである。ん? と内心で違和感に首を傾げた。

 

「それから綾小路くん、あなたにも手伝ってもらいたいことがあるの」

「面倒なことでなければ手伝うぞ」

「基本的に手伝いは面倒で手間のかかるものよ」  

 

 

 あ。

 

 

「じゃあ行ぐっ!?」

 

 清隆くんがものすごい勢いで廊下を吹き飛んだ。吹き飛んだ後は転げるというお約束まできっちり見せてくれる。

 

 わー……綺麗なフォームだったなー……。

 

「あなたが私の脇を触った件、これで許してあげる。だけど次は倍返しよ」

「ちょ、え、あ……!」

 

 本当に痛かったのだろう。清隆くんの声が出ていない。実際避けられたんだろうが、構えないで潔く受け入れたことはよくわかった。

 まあ清隆くんが堀北さんにしたことは、緊張を解かすためだったとはいえ、セクハラと訴えられてもおかしくはなかったからな……。

 

 一之瀬さんは唖然とその光景を見守り、次に去って行く堀北さんをどこか恐ろしいものを見る目で見ていた。

 

 

 沈没している清隆くんを抱き起こしつつ、私は急に全部おかしくなって、気づけば声を上げて笑っていた。そして若干の涙目で睨まれた。ごめんて。

 

 

 



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適応するということ

これで二章はおしまいになりますが、この後幕間が一話あります。最後まで楽しんでいただければ嬉しいです。
それにしても二巻って、原作の中でも群を抜いてシリアス回でしたよね……(※個人の感想です)



 

 

 

 学校までの並木道を清隆くんと二人歩く。木々の間から差し込む真夏の太陽が容赦なく照り付けてきて、眩しい上に暑いったらない。

 のろのろ歩いている私たちの横を元気な学生が駆け抜けていった。頭おかしいんじゃないだろうか。

 

 私は今、背後から世界の終わりが近づいていても走らないかもしれない。もはや自分から出迎えに行くまである。

 

「清隆くん、今から世界が終わるとしたら絶対生き延びてね……」

「言ってること一瞬で矛盾してるぞ、葵……」

 

 私の屍を越えていってほしい。大丈夫、清隆くんならできる。清隆くんは強い子だ、私にはできないことを主人公然としてやってのけるッ!

 

「どうせ終わるなら、世界中を回ってもいいんじゃないか? ヨーロッパとか行ってみたくないか」

「めちゃくちゃ行きたい」

 

 脳直で返事をする。そこに余計な思考は介在しない。暑さがちょうど良い感じに私から思考をする力を奪っている。

 

 夢を語るのはいつだって楽しいものだ。

 

 清隆くんが私を見下ろして柔らかく頬を緩めている。私もきっとおんなじ顔をして清隆くんを見上げている。

 

 

 

 木漏れ日の先で、一人の女子生徒が手すりに腰を預けながらこちらを見ていた。美少女っていうのは風景と同化するのが得意だ。もし今手元にカメラがあったなら、私は連写して写真を撮っていたかもしれない。いや、携帯ならあったな……。

 

 鞄から携帯を取り出そうと思ったが、暑すぎて余計な動きをする元気がなかった。校内なら動けたというのに、これを狙っていたとはさすがやり手である。

 

「おはよう綾小路くん、水元さん」

「相変わらず涼しそうな顔をしてまあ……」

「見てると余計暑くなってくるぞ……こんなところで誰かと待ち合わせでもしてるのか? 堀北」

「ええ。あなたたちを……綾小路くんを待っていたの」

 

 堀北さんが手すりから離れる。私たちを観察するように見た。

 

「……あなたたちは相変わらず暑さに弱いのね」

「違うよ。極端な気候に弱いんだよ」

「そうだ。勘違いするなよ」

「一体何が違うのかしら?」

 

 三人で並んで歩き出す。

 その途中、堀北さんが静かに言った。

 

「今日ですべてが決まるわ」

「そうだな」

「もしかしたら、私は選択を間違ってしまったんじゃないか……そんな風に考えたわ」

「妥協しておけば良かったと?」

 

 余計な口は挟まない。私がすることは静かに話を聞いているだけだ。

 

 二人が話しているのを聞きながら、木漏れ日に手をかざして、輪郭以外真っ黒になった手を見ている。

 

「これで須藤くんに重い処罰が下されたら、私の責任よ」

「お前がそんな風に弱音吐くこともあるんだな」

「賭けに出たのは事実だから。それがどう出るかは多少不安ね。そっちは大丈夫?」

「昨日説明された作戦だな。一之瀬もいるし何とかなるだろう」

 

 堀北さんが何か言い淀む気配がする。

 

「ねえ───」

「ん?」

「……いえ。この件が無事片付いてからにするわ」

 

 結局何も言わないまま、堀北さんは静かに口を閉じた。

 

 

 

 

 教室に足を踏み入れて、清隆くんと堀北さんがある一点に気づくと驚いたように僅かに目を見張った。

 

 視線の先には佐倉さんがいる。驚くのも無理はないだろう。いつもならもっとギリギリの時間で登校してくるはずだからだ。

 そしてさらには、佐倉さんの方から挨拶の声をかけてきたのだから。

 

「えと……おはよう。水元さん、綾小路くん。……堀北さん」

「お、おはよう……」

「おはよう、佐倉さん……」

 

 清隆くんの途中まで緩く上げた手が見事に固まっている。

 

 私の席は清隆くん堀北さんペアからも佐倉さんからも離れている。なので一人さっさと自分の席に行き、荷物を置いた。

 チラと振り返れば、清隆くんと堀北さんが何か話している。

 

 会話に入る気はなかったので、私は冷房の効いた校内を一人探索に出た。

 

 

 ……ちょっとカッコよく言ってみたが、いつもの聖地巡りである。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 放課後になり、二回目の話し合いが始まるまで後少しとなった。

 

 今日は部活行くからと言って清隆くんと別れ、宣言通り弓道場に行く。しばらく経ってもうそろそろいいかなと判断すると、荷物を置いて携帯だけを持ち、画面を見ながら歩き出す。

 

 位置情報サービスを利用するのは初めてだった。もちろん検索しているのは、佐倉さんの位置情報だ。

 なんだかこう、友達とはいえプライバシーを侵害している気がして見る気になれなかったサービスである。普通こういうの、良心が痛まないだろうか? ……いや、だから痛まない奴が見るのか……池とか山内とか池とか山内とか……コレがリアル犯罪の温床である。みんな気をつけて。

 

 画面には佐倉さんを指すのであろう赤い丸が、ゆっくりと移動しているのが見えていた。移動先を推測するに……いや、推測するまでもない。知っている通りだ。

 赤い丸が動いているだけで安心できる。まだ彼女に危険は差し迫っていない。

 

 少し安心したのもあって、佐倉さんを追うように目的地に向かって歩きながら、ついでにこの機会だからと清隆くんの位置情報も検索してみることにした。本人から聞いていたし、やっぱり特別棟にいるようだ。

 清隆くんを指す赤い丸が微動だにしていないところを見るに、現在進行形で事態は進んでいるんだろうか? その場にいないので、少し不思議な感じがする。

 

 微動だにしない赤い丸を、意味なく指でタッチする。そのままなんとなく、意味なく指でそっと撫でた。

 

 

 ……なんだろう。急にこの、ただの赤い丸が、その。…………可愛く見えてきたんだが。うそでしょ?

 

 

 現在進行形で清隆くんは可愛くないことをしているというのに、それをわかっているはずなのに、なんだろうこの気持ち。

 あまりに呑気すぎる。状況を把握できていない呑気さだ。自分で自分のどうしようもなさに呆れてしまう。し、ちょっと落ち込んだ。

 こんな風に清隆くんを指す赤い丸を見て、ほっこりしている場合じゃないだろう。

 

 もうそろそろ気を引き締めないといけない。

 

 緩んだ気を引き締めるように、一思いに清隆くんの位置情報を消す。

 再度佐倉さんの位置情報を画面に映すと、私は本格的に彼女の後を追うことに意識を集中させるのだった。

 

 

 

 

 

「葵、本当に、ふざけるなよ」

 

 

 ───まさか消した後に高速で追ってきている赤い丸があるなんて、気づくわけもない。

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 物陰に隠れていた私は背後から拘束され口を押さえられ、さらにはド低音ボイスで「声を出すなよ」と恫喝されていた。なぜ私はこんな目に遭っているのか? その謎を解明すべく、私はアマゾンの奥地まで向かうことにした。

 

 と、ふざけるのも大概にして。

 

 顔をしかめて『なんで此処にいるの?』と目で問えば、瞬間鋭い眼光で睨まれた。やっぱりアマゾンの奥地に向かわなくてはならないらしい。

 

 なんとか自由な手である方向を指差す。指が差す先は家電量販店の搬入口……ではなくお店のある方角だ。清隆くんも私が指を差した先にあるもの───その意味に気づいているのだろう。スッと目が細まる。

 手を離せ、と背後から抱き込まれて碌に動けない体勢なりにジェスチャーする。その上でなんとか持っていた携帯、その画面を見せる。

 画面に映されているのは赤い丸だ。誰かはもはや言うまでもない。赤い丸は、今はお店の奥にいる。

 

 清隆くんは数秒微動だにしなかったものの、観念するように私を拘束していた手を徐々に緩めていった。

 

 自由になった口をさっそく開く。

 

「今はこっちの方が大事でしょ」

「……後で、ちゃんと話は聞くからな」

「いいよ」

 

 軽快に頷けば胡乱げな眼差しを向けられた。どんだけ疑われてんだ。葵ちゃんは嘘をつかない子だぞ。

 

 そして今気づいたのだが、清隆くんは荒く息を吐いて肩を上下していた。どうやら相当急いでこっちに来ていたらしい。

 まあ推理して佐倉さんの身に危険が迫っていることに気づいたのだ、仕方ないことだろう。私だって何も知らず、その上で推理して佐倉さんに迫る危険に気づいたのなら、急いで彼女を追いかけたことは容易に想像できる。

 

 見下ろした携帯の画面に映る赤い丸がこちらに向かってきていることに気づくと、改めて気を引き締めた。

 

「もうすぐこっち来るよ、清隆くん」

「ああ。葵、もっとそっち寄れ」

 

 携帯で決定的現場を押さえるべく、搬入口に数点ある障害物や壁、シャッターとの位置関係を考えて、私はベストな位置に隠れていた。

 

 清隆くんがそんな私を壁際に押す。そして私も押し返す。……? という顔を向けてきた清隆くんに、親指で出口の方を指差した。

 

「定員オーバーだ。清隆くんはあっち」

「うそだろ……」

 

 押せばいけるって、と無理に距離を詰めてくる清隆くんに頑として譲らず、「私は此処でバッチリ撮影してるから、佐倉さんが危なくなったら出て行って助けてあげてよ」と頼む。

 

「それとも私が出て行こうか? 役割反対になるけど」

「……わかった。その代わり葵は絶対出てくるなよ」

 

 うだうだしているうちに佐倉さんたちが迫ってきている。

 早く行けと背中を押し出し、清隆くんが戻って曲がり角に身を隠したのを確認してから、より見やすい位置を探りつつ携帯をセットした。

 

 ───それから数秒と経たないうちに、満を持してホシが現る。

 

 私は静かに画面にある録画ボタンを押した。

 

「佐倉、嬉しいよ。ようやく僕の想いをわかってくれたんだね。ずっと待ち焦がれていた、でもようやくわかってくれた。やっぱり僕たちは特別な絆で、特別な縁で結ばれているんだ。嬉しいなぁ」

「…………」

 

 見覚えのある店員がペラペラと喋っている。下卑た目で佐倉さんを舐め回すように見ながら、壁際に追い詰めるように距離を詰めていた。佐倉さんは何も言わず俯いて震えている。

 

「そうだ、これ僕の連絡先だよ。僕だけ佐倉の連絡先を知ってるなんて不公平だもんね? わかってるよ、これでお互いに知り合って相思相愛だ。佐倉もいつでも連絡してくれていいからね、僕はずっと待ってるよ」

「…………」

 

 差し出された紙には、おそらく店員の連絡先が書かれているのであろう。佐倉さんの肩がビクッと震えた。

 

 ……紙はいつまでたっても受け取られない。店員が気味悪く首を傾げた。

 

「……? 佐倉、どうしたの? もしかして照れてるのかい?」

 

 見当違いにもほどがある。もし本当に言葉の通りに思っているのだとしたら、あいつの頭は狂っているに違いない。

 

「………も………」

 

 小さく上がった声が掠れている。佐倉さんが尋常じゃないくらい震えていた。

 俯いたままだから、その表情は見えない。今彼女が震えているのは、果たしてそこにどんな感情があるからなのか。

 

 ……上がった顔は、とてもカッコいいと言える表情をしているわけではない。でも、わかる。

 

 今彼女の中にあるのは、決して怯えだけじゃなかった。

 

 

「……もう、私に連絡してくるのはやめてください……!」

 

 

 佐倉さんから聞く、初めて誰かを糾弾する声だった。怒りが一時でも怯えを覆うくらいに込められていて、正真正銘、怒っていることがわかる声。

 

 店員がその声を受けた上で、薄っぺらい笑みを浮かべる。叫んで肩を上下している佐倉さんににじり寄るように迫っていき、さらに壁際へと追い詰めていく。

 

「どうしてそんなこと言うんだい? 僕は君のことが本当に大切なんだ……。雑誌で君を初めて見た時から好きだった。ここで再会した時には運命だと感じたよ。好きなんだ……君を想う気持ちは止められない!」

「やめて……やめてください!」

 

 耳障りな声で紡がれる耳障りな言葉の羅列はもはや理解する気にもなれない。目の前で聞かされている佐倉さんからしたら、余計にだろう。

 

 佐倉さんは鞄から何かの束を取り出す。それは手紙だった。百にも届きそうなほどの量の手紙。きっとその手紙は、この店員から寄越されたものだ。考えるまでもない。

 

「どうして私の部屋を知ってるんですか! どうしてこんなもの、送ってくるんですか!」

「決まってるじゃないか。僕たちは心で繋がってるからなんだよ」

 

 本当に心で繋がっているなら、そうも相互不理解にはならない。やっぱりあの店員頭おかしいな。

 

「もうやめてください……迷惑なんです!」

 

 そう叫ぶのと同時くらいに佐倉さんが手紙の束を持っていた手を掲げ、地面へと叩きつけた。それは佐倉さんの覚悟を、決別を表すかのような力強さを感じるものだった。

 

 

 ───ついに、というべきか。ようやくというべきか。

 

 店員の顔色が、明らかに変わった。

 

 

 佐倉さんがそれに気づくと、怯えたように後ろに下がる。彼女の背中はすぐにシャッターに当たり、逃げ場がないことを嫌でも理解する。

 ……覚悟を決めて来たとはいえ、一時の感情の昂りでしかないのだ。佐倉さんは勇気を出しすぎた。

 

 自分の限界は、自分で把握しなければならない。

 

「どうして……どうしてこんなことするんだよ……! 君を思って書いたのに!」

「こ、来ないで……!」

 

 理不尽な憤怒に満ちた醜い顔で、店員が佐倉さんとの距離を詰める。今にも彼女に襲い掛かりそうな勢いだ。そして実際にその認識は間違っていないだろう。

 

 佐倉さんの腕が配慮の欠片もない力で乱暴に掴まれて、倉庫のシャッターに全身ごと叩きつけるようにして押し付けられる。

 携帯の画面には、痛みに、恐怖に怯えて真っ青な顔をした佐倉さんが映っている。

 

「今から僕の本当の愛を教えてあげるよ……そうすれば佐倉も、わかってくれる」

「いや、離してください!」

 

 店員の手が佐倉さんの体を這った。悲鳴が上がる。か細い悲鳴だった。

 

 制服の上着の前ボタンを外し、着ていたシャツのボタンが外されていく。店員の興奮で荒れた息が此処にいても聞こえてくる。

 最初こそ「いや、いやです……いやぁ……!」とか細く悲鳴を上げ続けていた佐倉さんだったが、その声も徐々に小さくなっていき、ついにはなんにも言わなくなった。今ではどこか力を失ったように目を瞑り、ときどき痛々しい様子でしゃくり上げながら静かに涙を流している。

 

 目の前で佐倉さんがボロボロ泣いている姿を見ているというのに、店員は良心が痛む素振りを一切見せない。むしろ余計に興奮したのか、明らかに先ほどよりも息が荒くなっている。

 佐倉さんの着ている制服を乱す手はさらに早くなって、動きに乱雑さが増す。あの店員、人間として終わっているな。

 

 

 ………これ以上は佐倉さんが限界だろう。決定的な場面も押さえられたし、早く助けに行かなくては。

 

 清隆くんも同じ判断をしたのだろう。タイミング良く曲がり角から姿を現す。なお制服は着崩されており、いかにも〜な出で立ちであった。

 加えてこれでもかとパシャパシャと音を立てて、カメラで佐倉さんたちを連写している。

 

 私もその間に110番に電話をすることにする。

 

「あー見ちゃったッスよ。なんか偉いことしてんなぁオッサン」

 

 小声で状況を説明しつつ、清隆くんたちの様子を見守る。

 

「大人が女子高生に乱暴。明日はテレビで大々的にニュースっすね~」

「ちょ、ち、違う。これは違うっ!」

 

 何が違うんだか。この状況で言い逃れできると思っているのに呆れてしまう。まあ店員がしているのは、言い逃れも何もない、ただの自己主張に過ぎないが。

 

 店員が佐倉さんから慌てて手を離す。清隆くんは些細な一挙一動さえ逃さないと言っているかのように、その間も何度もカメラのシャッターを切っている。

 なお佐倉さんは清隆くんのなんとも言えないチャラ男口調に驚いて涙も引っ込んだのか、目を丸めており、唖然として目の前の摩訶不思議な光景を見ていた。清隆くんのチャラ男口調にはこういう効果もあるという証左である。

 

「違う? 違わないと思うッスけど。うわー何この手紙、キモ。ストーカー?」

 

 他人の靴下を掴み上げるみたいに、清隆くんが鼻を摘まみながら手紙の角を人差し指と親指だけで挟み持ち上げている。うーん、煽りよる。

 

 店員はダラダラと気持ち悪い汗を流して、すっかり血の気の失せた顔でしどろもどろになんとか言葉を捻り出している。

 

「ち、違うんだ。ただ、そう。この子がデジカメの使い方を教えて欲しいっていうから、個別に教えてたって言うか。それだけなんだよ~」

 

 ……通報を終える。直に警察が此処へやってくるだろう。

 

 私もそこで物陰から姿を現した。清隆くんが一瞬だけ鋭く私を見た。

 

「よく言うよ。これなーんだ?」

 

 顔の横に携帯を持っていき、撮れたばかりの映像を画面に流す。

 男がまたサッと顔色を変えた。先ほどよりもさらに悪い顔色になっている。

 

「な、なにして……なんだよそれ……!」

「残念でした〜証拠ゲット〜。ばーかばーか」

 

 携帯を持つ手も持っていない手も顔の横くらいまで上げ、ひらひらと振る。こういう時舌を出すのは様式美だろう。……ヤ、ヤンキー口調って難しいな。こんなんでいいの? なんか普段と変わらなくない……? あれ?

 一瞬スペキャになるも、しかし店員が真っ赤になって激怒して、こっちに掴み掛かろうとドタドタ走ってきたので、まあ間違ってはいないはずだ。ちゃんと煽れていたのが確認できた。

 

 こっちも対応しようと軽く構えるが、その前に清隆くんが前に出て店員の服の裾を取り、軽快に投げ技を決める。脇がガラッガラだったので私もしようとしていたことだ。

 明らかに素人で、受け身なんか取れているわけがない。店員は路地裏の汚い地面に倒れ伏し、痛みに呻いて動けないでいる。

 その間に縛ってしまおうと用意していたロープを取り出し店員に近づいて、そのロープが清隆くんに取られた。なんか全部先手に回られてない?

 

 

 清隆くんが手早く絶対解けない縛り方で店員の手足をギチギチに縛っているのを見ながら、これで一安心だと判断する。

 シャッターに背中を預け、地面にお尻をつけてへたり込んでいる佐倉さんの方へと向かった。

 

「よく頑張ったね、佐倉さん」

「………ぁ、……」

 

 目の前に立つ私を佐倉さんが呆然と見上げている。ぽろ、と目の端で留まっていた涙がこぼれ、新たに頰に跡を残した。

 

 すぐにしゃがんで、佐倉さんの乱れた制服を勝手に直していく。シャツの前を合わせて、ボタンを留める。いつもの彼女を思い出して、上着のボタンも上から下まできっちり留めた。佐倉さんはその間されるがままで、終始無言で私の挙動を見ている。

 制服を整え終えるも、佐倉さんからは一向に反応が返ってこない。声をかけても一緒だった。困り果てて眉を下げる。 

 

 清隆くんに助けを求めようと振り返れば、ちょうどこっちを見ていて目が合った。手を挙げこっちに来るよう合図する。彼の目の奥で揺らめいている感情に気づきつつも、今は相手をしないこととする。

 

 今大事なのは佐倉さんだよ。後のことは後で考える。未来の私に任せた。

 

「佐倉。どうした?」

 

 清隆くんも私と同じように、佐倉さんの前で膝をついてしゃがんだ。……やっぱり反応が返ってこない。

 清隆くんと目を合わせ、どうしよう、どうする、と会話する。

 

「……ぅ……」

 

 ここでようやく佐倉さんが声を出した。顔を向ける。

 

 佐倉さんは、さっきまで止まっていたはずの涙を再びボロボロとこぼしていた。ひっひっと痛々しいまでに呼吸を引き攣らせて泣いている。

 あ、と思ったときには佐倉さんの腕が私たちに伸びていて、首が締まりそうなほど思い切り抱きつかれている。いや、正確には縋り付かれていると言った方がいいだろう。

 

 すぐ耳元にある佐倉さんの口から紡がれた言葉に、私はやっと“正しく”状況を理解した。

 

 

「う、ぁ、あ……こわかったよぉ〜〜……!」

 

 

 …………良心が痛んだ。

 

「よしよし。えらいえらい。佐倉さんはすごいな〜」

「すごかったぞ、佐倉。手紙を叩きつけたところなんて圧巻だった。格好良かったぞ」

 

 二人がかりで背中を撫でたりポンポン叩いたりして慰める。ひっくひっくと嗚咽をこぼし、佐倉さんは私たちにしがみついて離れない。

 佐倉さんがこうなった責任は、私たちにもある。

 

 警察が来るまでという短い間ではあったが、彼女が泣き止むまで、私たちは大人しく抱き枕になっていた。

 

 

 

 ───一之瀬さんは来なかった。

 

 頭の奥で、もはや惰性のように鈍い痛みが走るのを、凪いだ思考で冷静に感じていた。

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 警察に男を引き渡し、証拠である映像と写真を提出して、後日詳しく話を聞くということでその場は一旦解散となった。学校に連絡したりと、諸々複雑かつ面倒な事情があるのであろう。お勤めご苦労様です。

 

 佐倉さんに付き添って彼女を寮まで送って帰ると、今度は清隆くんと二人で学校に向かう。そして武道館前で別れた。清隆くんは私を学校に連れて行こうとしていたのだが、対する私には弓道場に荷物を置いて来たため取りに戻るという立派な理由がある。

 

 ちなみに胸を張って理由を述べている間、ずっと白い目を向けられていた。

 

「じゃ、そういうことで……私は今から荷物取りに戻って、それから寮に帰るから。清隆くんの予定は?」

「まだ時間があるからな……何か一之瀬が言いかけていたのも気になるし、先にそっちの話を聞いて、その後結果を待つ感じだな」

「了解。ということは、今日は私の部屋だね」

「わかった」

 

 じとっと見ている視線を気にせず振り切り、荷物を取りに向かう。この場では何も言われなかったが、清隆くんがいろいろ忘れてるわけがないので、帰ったら普通に追及・説教コースとなるだろう。

 一応ご飯を食べた後から始まるのが良心的だと思っている。腹が減っては戦ができぬと言うし。なおこの場合お互いにである。

 

 私が部活に行き出してからは、なんとなく私たちの間で先に寮に帰った方の部屋に帰るという習慣が出来上がっていた。

 今日は私が先に帰るため、清隆くんが私の部屋に帰ってくる番だ。なんだか逆になるのは随分久しぶりな気がする。

 部活に本格的に行き出してから始まった習慣で、かつ部活で帰りが遅くなる私はもっぱら清隆くんの部屋に帰ってばかりだった。そして清隆くんの部屋に帰ると、そのまま泊まっていくことも多い。

 まあ清隆くんは人気者だから、部屋に先客がいれば自分の部屋に帰るようにしている私としては、自分の寮に帰ること自体に久しぶり感はないが。

 

 夜ご飯は一緒に作るから、材料だけ用意して……いや、遅くなるようなら先に作っておくか。いつ頃帰ってくるのかわからないから、こちらも適当に動こう。

 

 結果を聞いて、見届けて。すぐに帰ってくるならば一緒にご飯を作ることができるだろうが、さて。

 

 

 

 

 ───玄関の開く音が聞こえた。

 

 火にかけていた鍋から顔を上げ、時計を見ながら、随分長かったなぁと思う。

 

 冷蔵庫の中にあった材料で簡単に作っていた味噌汁は、ちょうど出来上がったところだった。今日は全体的に和テイストを意識している。この後フライパンで魚も焼く予定だ。

 ちょうど味噌汁を作り終えたのもあって、一旦火を止めると、清隆くんを出迎えに玄関に向かった。

 

 清隆くんはドアを開けて私を見ていた。まだ玄関には入っていない。開いたドアの向こうには夜が広がっていた。時間も時間だし、外が暗くなっているのも当然のことだ。

 

 それはそれとして。

 一向に玄関に入らず、ぼーっと私を見ている清隆くんに首を傾げる。

 

「……清隆くん?」

 

 玄関から部屋に上がる際にある段差で、私たちの身長差は縮まっている。それでも同等にならないところに悔しさを感じたりもする。男女差というのは、なぜこうも理不尽で不公平なものなんだろうか。

 ……と、思考が逸れた。そんなどうしようもないことを考えたって現状は変わらないのだ。それならもっと別のことを考えて、時間を有効的に使うべきだろう。

 

 それになにより、今は清隆くんだ。

 

 

 部屋から漏れ出る光が、玄関外に立っている清隆くんの瞳に映っている。そこに逆光を背負った私も紛れて映り込んでいた。

 

 最近だと言われてばかりだった言葉を、いつもと反対だと思って、ちょっとおかしくなって笑いながら口にする。

 

「おかえり、清隆くん」

 

 清隆くんが私を見つめている。その口元が、ゆっくりと緩んでいく。

 

 一度だけほうと小さく息を吐けば、それに合わせて清隆くんの肩が僅かに下がった。あまり気に留めるほどじゃない、何気ない行動だ。

 

 

「ただいま、葵」

 

 

 

 今度こそ清隆くんが玄関に上がってくる。

 

 ふざけて笑いながらパッと開いた両腕に、さっきまで外にいたからか冷たい温度をした清隆くんが入ってくる。

 慣れた体温になるのも、きっとすぐのことだ。

 

 

 

 



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いつか

主人公誕生日回です。
時系列は夏休みに入ってすぐ、主人公は7月後半生まれの獅子座の女です。
夏が似合う女の子って良くないですか?



 

 

 清隆くんといつものようにのんびり部屋で過ごしていたときだ。

 

 テレビでお笑い番組を見ながら、一人声を上げて笑っている私のすぐ隣には、携帯をいじっている清隆くんがいる。なにやら調べ物をしているようだった。

 ……清隆くんがこんなに熱心に携帯をいじっているのは珍しいことかもしれない。冒頭に述べた『いつものように』は撤回することにする。

 

 熱心にというか真剣にというか、とにかくじっと携帯の画面を見ている清隆くんの様子が気にならないと言えば嘘になる。しかし邪魔をする気はなかった。

 お互い気づかぬうちに境界をあやふやにしがちだが、元来私には清隆くんの邪魔をする気はないのだ。お互いプライベートは大切にするべきだと思っている。

 共有しすぎて感覚が鈍っているが、越えてはならない境界というのは必ずある。ここで一番この状況に近しいものを挙げるならば……携帯の検索履歴あたりだろうか。見たら絶対ダメなやつだ。いろいろあやふやにしていても、超えてはいけないラインというものは必ずあるのだ。

 

 というわけで、チラと様子を見ただけでまたテレビに意識を集中させた私だったのだが、清隆くんの方からじっと視線を向けられたことで一時中断することにする。

 

 顔を横に向けて、目を合わせる。目を合わせたまま、清隆くんがゆっくり口を開いた。

 

「葵。何か……欲しいものとかないのか」

「え、急になに?」

「いいから。何かないのか?」

 

 あまりに唐突すぎて、質問に答えるより先に意図を探ってしまう。

 

 私の問いかけ返しに一瞬視線を逸らしたかと思えば、すぐにまた清隆くんは私を真っ直ぐ見つめてきた。そうすれば今度は視線を逸らした行動が気になるという。

 しかし今は普通にこちらを見てきているし、些細なことなのだろうか。どちらにせよあまりに突然なことに変わりはないので、何の見当もつきそうにないが。

 訝しげに清隆くんを見るが、視線は逸らされないし、ジッとこちらを見たままの姿勢は変わらない。……まあ、先に質問されたのはこちらだし、変に疑わないで素直に考えるとするか。

 

 うーんと首を傾げる。気分的には頭の中で木魚の鳴る音がしている。早く鈴の音も聞きたいのだが、こちらの方は一向に鳴ってくれそうにない。

 そもそも質問が難しいのだ。欲しいものって、そんなの私の方が聞きたい。私って何が欲しそうに見えるの?

 

「……全然思いつかない」

「なんでもいいんだぞ」

「ええ……じゃあ暑いしアイス」

「食べ物以外で」

「なんでもいいって言ったの誰?」

 

 全然なんでもよくないじゃないか。半目になって清隆くんを見れば、若干居心地悪そうにしている。

 

「じゃあポイント」

「急に投げやりになるのやめろ。……ポイント、か……」

「真剣に考え出すのやめて怖い」

 

 すっと視線を下げ思案に耽る様子を見せた清隆くんに、こっちが慌てる。

 

「別に、欲しいものって言われてもなぁ……すぐに思いつかないな」

「インテリアとか、雑貨はどうだ?」

「あれは見て回ってる時が一番楽しいし、そのとき欲しいって思って買うのが良いんだよ」

「確かにな……」

 

 清隆くんも同じ感覚を持っているようで嬉しい。私が雑貨を見て回るのが好きなのは、そういうなんてことない理由だったりする。

 

「じゃあ他に何かないのか?」

「うーん……え〜……? 私は別に、欲しいもの……今の状態で満足してるし……?」

「難しいな……」

「難しいって感想おかしくない? そういう清隆くんこそ何か欲しいものとかないの」

「オレか?」

「うん」

 

 考えても思いつかないものに時間を費やしてもどうしようもない。

 手っ取り早く質問返しをすれば、清隆くんの目が丸まって、同じように考え出したのか目を瞑った。

 

「………難しいな……」

「でしょ〜? 案外欲しいものなんてパッと思いつかないものなんだよ」

「オレも特に今のところは……葵と同じ理由だな」

「なに現状で満足してるんだ。清隆くんはもっと欲深く生きるべきだ」

「それ人のこと言えるか?」

 

 私は別にいいのだ。本心なんだから。それに私は常日頃から欲深く生きているし、大抵の願い事は己が力で叶えてきたという自信がある。

 だから、ここで問題なのは清隆くんの方なのである。彼ほど薄幸な人を私は知らない。

 

 どうやったら清隆くんはもっと欲深くなれるのかなぁと、違うことを考えて頭を悩ます。

 すっかり自分の欲しいものについて考えるのを忘れていたら、「それで話を戻すが」という清隆くんの仕切り直す声かけにより、ようやく初めにされた質問を思い出した。

 

「何か欲しいものないのか」

「堂々巡りだよコレ……だから、ないってば。そもそもなんで急にそんな質問してきたの」

「それは……」

 

 待ってみるも、それ以上言葉は紡がれない。何か言えない事情でもあるのだろうか。

 

 言葉で追及することをやめて、手っ取り早く携帯を操作する。一番にカレンダーを開けば、隣であっという顔をする清隆くんがいた。つまり……何かしら行事ごとが絡んでいるのか?

 

 眉をひそめてこれからの行事ごとを確認していく。欲しいものについて尋ねられるような特別なイベントなど無いはずだ。7月後半からじっくりと年内のイベントごとを確認するが、やはり思い当たる節はない。

 今も夏休みとはいえ、本格的な夏休み……つまり8月に入ればバカンス改め特別試練があるっちゃあるが、ここではその質問は関係ないだろう。欲しいものあるか? って、なんだ、清隆くんは私にその欲しいものをプレゼントでもしてくれるのか?

 

 

 ………ん? 『プレゼント』?

 

 

 カレンダーのある一点に視線を落とす。次に清隆くんを見上げる。清隆くんを注視しながら、人差し指である日付を指し示せば、滑らかにスーッと目線を逸らされた。

 

 ほぉ……なるほど。訳知り顔で顎に手を当て、頷く。

 

「なるほど。私への誕生日プレゼント、と」

「みなまで言うな……」

 

 サプライズでプレゼントしてくれようとしたんだろうが、まず最初の質問からして探るのが下手くそすぎる。そんなポンコツだったか、清隆くん。

 

 しかしそうと決まれば話は早い。

 

「誕生日プレゼントか〜。そんなの貰うの初めてだな」

「頼むからそういうことは貰ってから言ってくれ……」

 

 清隆くんはサプライズの完全なる失敗を悟って、落ち込んでしまったようだった。これは少し悪いことをしたな、と反省する。まあ遅かれ早かれだったとは思うが。

 ポンポンと優しく肩を叩いた上で、顔を上げた清隆くんにサムズアップしておいた。若干睨まれた。

 

「毎年お互いに言葉だけのお祝いだったもんねぇ」

「あんなところでプレゼントなんか用意できるわけないしな」

「せめて夜にケーキくらい出せよって感じだった」

「出されたら出されたで気持ち悪いけどな」

「わかる」

 

 そもそも誕生日というイベントごとに対して思い入れというものはないが……こういうところは本当に毒されてしまったな、と思う。

 それにお互いかけ合う言葉だって、おめでとうというよりは、ありがとうの方が多かっただろう。言葉のままの意味だ。容易に察することができるだろう。私たちにはその言葉の方が身近で、実感がこもっていた。

 誕生日を祝う習慣ができたのは、本の中の世界への憧れに近いモノもあったかもしれない。お互いに少しでも普通を、幸せを感じたかった。私は最初から純粋に祝いたいという気持ちもあったはずだが、今となってはそれも定かではない。記憶の方は鮮明であるとはいえ、どうも当時抱いていた感情については……あんまり。

 

 

 ……緩く首を振る。切り替える。私の様子に気づいてそっと繋がれた手を、『大丈夫だよ』と握り返した。最近は助けられてばかりな気がする。なんとも情けない。

 

 顔を上げて、そのまま真上を見る。背凭れにしていたベッドに後頭部を預けられそうなほど見上げて、改めて目を瞑り誕生日プレゼントについて真剣に考える。欲しいもの……欲しいもの、か。

 清隆くんにとっては初めて誰かにあげるプレゼントになる。確かに食べ物とかポイントとか言われたら、清隆くんからすればそりゃあ微妙な気持ちになるかもしれない。

 そして私にとっては、初めて誰かに貰うプレゼント、か。その誰かは清隆くん。

 

 ……うーん。どうせ……いや。そうだ。もしかしたら───

 

 

 …………良いモノを思いついた。

 

 

「……ある。欲しいものできたよ、清隆くん」

 

 清隆くんの目がこちらに向いたのを確認してから、できたばかりの『欲しいもの』を口にする。

 

 丸まった目をおかしく思いながら、私は鼻歌でも奏でそうなほど上機嫌に、着々と近づきつつある自身の誕生日に思いを馳せて微笑んでいた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 身につけたばかりのシンプルなネックレスチェーンを指先で弄る。口元には勝手に笑みが滲んでいて、ついでに我慢し切れるわけもなくご機嫌に鼻歌を奏でていた。

 

 喜色満面の私に、初プレゼントをした清隆くんもどこか安心した様子を見せている。

 

「『形に残るもので常に持ち運べるもの』って言われて、いろいろ悩んだんだが……葵が喜んでくれたなら良かった」

「うん! すごく嬉しいよ! ありがとう、清隆くん」

 

 誕生日。朝一番におめでとうと、ありがとうという言葉と共に渡されたのは、綺麗にラッピングされた小振りの箱。中に納まっていたのは、プラチナ製のシンプルなネックレスチェーンだった。

 チェーンだけだから、本当にシンプルなものだ。でもプラチナ製ってだけで値段は跳ね上がるから、清隆くんは随分奮発してくれたものだと思う。……こういうゲスな思考をしてしまうのはホワイトルームでの教育の賜物のせいである。ホワイトルームってサイテー。

 

「それにしても、どうやってポイント捻出してきたの? 高かったでしょ、コレ」

「まあ……少しな」

 

 いや、少しじゃないと思うが……。

 

 お互いにポイント残高を把握しているため、清隆くんが誕生日プレゼントを買う前と買った後、変わらないポイントについて気にならないと言えば嘘になるのだが、まあそれも込みで清隆くんの頑張りなんだろう。あまり深く追及しないことにする。

 

 それはそれとして推理はする。大方道場破りでもしてきたんだろうか? あまりマイナーな種目に手を出すとは思えないし、体を動かすような競技など目立たないためには以ての外。なら、頭を動かすゲーム部とか? そこでもマイナーなゲームに手は出していないだろうし、オセロとか、その辺りだろうか。

 どちらにせよ賭けをしてきたことに違いはないだろう、と当たりをつける。清隆くんも勝負に出たものだ。目立たないようにうまいことやりくりしたとは思うが……いいんだろうか?

 

 多少不安を残すものの、今は嬉しい気持ちの方が強い。ご機嫌に微笑みながら、身につけたチェーンを指で弄る。撫でる。

 今は夏休みだから学校がないとはいえ、もう少ししたらバカンス改め特別試練が控えている。その時にもつけているわけにはいかないだろう。それは夏休みが終わり、再び学校が始まってからも言えることだ。失くしたり傷ついたりしたら大変だ。プレゼントは丁重に扱わなくてはならない。

 

 とりあえず今は満足するまでつけて、満足し終わったら再度箱の中に元通り片付けよう。だから今の間に思う存分プレゼントを身につけ、この感じを満喫しておく。

 

「『形に残るもので常に持ち運べるもの』ってお題出されて、選ぶのがネックレスだなんて、清隆くんってばオシャレだなー」

「そうか? 別にネックレスを選んだからといってオシャレとかにはならないと思うが」

「オシャレだよ。よっさすが天然悪質な無自覚人たらし! なのにその上で常に最善の選択肢選ぶタイプの悪どいモテ男! そして個人的にヒモになれる才能もあると見てるラノベ主人公!」

「どういう意味だ。全部明らかに褒めてないだろ、それ。というかもはや言葉に悪意しか感じられないんだが」

「褒めてるよ、失礼だな」

 

 私の全力を込めた煽て節である。全部渾身の褒め言葉だ。ちくちく言葉は使いません。使ってないよね?

 

 しかしこんなに喜んではいるものの、一応高いプレゼントを貰った罪悪感というのも当然としてあったりする。私は常識人なのだ。

 眉を下げて、申し訳ない表情をする。

 

「なんかごめんね、清隆くん。形に残るものなら本当になんでも良かったんだけど……なんならおもちゃとかでも良かったんだよ。よくあるおもちゃの指輪とかおもちゃの宝石とか」

「なんでおもちゃに限定されてるんだ……。それにその選択肢から選ぶのはオレが嫌だ。プレゼントに3桁かそれ以下のポイントを支払っておもちゃを買うオレの身にもなってくれ」

「ポケットに入るサイズのおもちゃとかいいね」

「だから嫌だって言ってるだろ。ちゃんと話聞いてるか?」

 

 じとっとした半目で睨まれる。垂れ目の半目って本当に怖くないよな。逆に気が抜けるまである。

 私があながち本気で言っていることに気づいているから、清隆くんの態度も頑なだった。まあでも、おもちゃを買ってそれをプレゼント用にラッピングしてもらう清隆くんのことを考えると、確かに可哀想ではある。

 つまり彼の中でアクセサリー類を選ぶのは、妥当だった、か。

 

 余分な付属品がついていない、チェーンだけのネックレスをもう一度ゆっくりと一撫でする。違和感とは違う。なんともいえない妙な感じが胸のあたりをざわりと撫でる。

 こういうシンプルな型の方が珍しく、品揃えだって悪かったはずだ。わざわざ注文でもしないと、手に入れることができないように思う。なのにこれを選んで買ってきたなんて、不自然とも言えた。……何か特別な意味でもあるんだろうか?

 

「清隆くん、ネックレスに何か飾りがついているものを選ぼうとかは思わなかったの?」

「ああ、それなら来年から選ぶつもりだ」

「……ん? 来年から選ぶ……?」

 

 来年はまた違うネックレスを買うということ?

 

 訝しげに眉を寄せ首を傾げる私に向かって、清隆くんが手を伸ばす。正確には、私が身につけた首元のネックレスに向けて。

 そっと私の首に触れながらチェーンに手を当てる。そしてチェーンを軽く摘んで持ち上げる。

 

「そうだな、このチェーンに通すリングとかを選ぼうかと。良い案だと思わないか?」

「…………どこでそういうの学んでくるの?」

「学んで……? いや、特にそういうのはないが。なんとなくの思いつきだ」

「なんとなくでそういうことするな」

「なぜ急にキレて……?」

 

 なんとなくでそういうことするな。

 

 ただ、明確な理由はないことがわかって、肩の力が抜けたのは事実だ。小さくホッと息を吐いているのがなんとも状況に不釣り合いで、少しおかしくなる。

 気づけば気の抜けた笑みをこぼしている。そしてすぐに快活に笑った。

 

「清隆くんも楽しみにしててね、誕生日プレゼント」

「サプライズとか、オレたちの間では土台無理な話だったな……。ああ、楽しみにしてる」

「私の初プレゼントだよ。震えて待て」

「ああ。待ってる」

 

 ネタが普通にスルーされた……。

 

「というか、葵はもうオレへのプレゼントは決めてるのか?」

 

 首を傾げた清隆くんが私を見ている。

 気を取り直し、悪戯っぽく笑ってみせた。

 

「決めてるよ。だから、楽しみにしてて」

 

 清隆くんにあげたいもの。

 

 清隆くんが欲しいものじゃなくて、私があげたいものをプレゼントしようとしているところに、ずっと変わらない私のエゴな部分が現れている。きっと一生私のこの性質は変わらないだろう。そして私自身変える気もない。

 真実、私のための清隆くんへの贈り物であることに違いはないのだから。

 

「清隆くん、喜んでくれるといいな」

 

 ポツリと呟く。呟いた言葉を理解して、あ、と一瞬瞠目する。

 

 今度はちゃんと元気溌溂とした声で言った。

 

 

「清隆くんも、喜んでくれるといいな!」

 

 

 

 

 

 

 




薄々お察しのことかと思いますが、綾小路が主人公に贈ったプレゼントもこれから主人公が綾小路に贈るプレゼントも、本領を発揮するのはバッドエンドルートの時だったりします。主人公は(そんなつもりは)ないです。
ちなみにこの後二人は二章初めに約束していた通り、映画見に行って甘味処巡ってカラオケに行きました。

二章でもたくさんの評価、お気に入り、感想、誤字報告、ここすき等本当にありがとうございました!とても励みになりました。


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第三章
バカンスの開幕


回を追うごとに下書きが雑になっているので、例の如く前回よりも更新遅くなると思います。
失踪している間も感想・評価等ありがとうございます。読み返して活力にしています。



 

 

 

 茶柱先生、と。

 先に指導室を出て行った生徒とは異なり、最初から変わらない淡々とした瞳でこちらを見ながら、自身を呼ぶ生徒に視線を移す。

 

 思えばこの生徒は一体何なのか。特別な生徒であることに間違いはないはずだが、それにしても必ずどこかしらにあるはずの異常性を感じない。

 成績は際立ったものはなく、平均。運動能力についても特に何か不足しているわけでもなく、こちらも平均的といえる。性格だって、良くも悪くも善良と言えるものだ。突出したものは何もない。極めて平均的・一般的な生徒だ。

 

 前提知識が頭を鈍らせる。明確な異常を結果として形に残しているもう一人の生徒に意識がいきがちで、この生徒には疎かになりがちだ。

 指導室に彼女を呼んだのは、緩衝材となる可能性を見越してのことだった。あまり意味は……なかったようだが。

 

 視線を離す。冷淡に返事をする。

 

「なんだ、水元。綾小路を先に行かせて、後は追わなくていいのか?」

「いえ。清隆くんは待っているので。後で行きます」

 

 口端をくっと持ち上げた。もはや一体誰に向けているのかわからない不快感。後悔。焦燥が、自身ですら把握不可能なほど胸に蟠っている。

 

「お前たちは本当に仲が良いな。少し心配になるくらいだ」

「幼馴染ですから」

「体のいい言い訳だ。水元はまだ理解していると思っていたんだが」

「……嫌なこと言いますね」

 

 少しだけ感情が滲むが、誤差程度だ。この生徒は取り繕うのがひどく上手だ。

 

 口調が抜け切らない。綾小路と応酬していると、普段装っている冷淡さが剥がれて、代わりに嫌味な口調が増す。あの人を食ったようでいて、心底どうでもいいと隠しもしない態度が茶柱の鼻につくのだ。

 今回はどうでもいいとはならなかったようで、結果、己の服に皺が寄ることになったが。

 

 こうなることを見越して、覚悟して話を切り出したのだが、やはり肝が冷える。想像以上。いや、想定外なほどぶつけられた一瞬の激情は、いまだ鮮明に頭の中で思い起こせた。呑まれる、なんて思ったのは初めてだった。

 あの一瞬、瞳の奥で轟々と姿を現した闇は、見間違いだと断じるにはあまりに深すぎる。過った。私は確かに誤ったのだろう、と思う。

 

 だが今さらだ。茶柱の人生は後悔ばかりだ。一つ二つ増えたところで大差はない。

 

 

「イカロスの翼。知っていますか?」

 

 

 息を止める。

 

 知っているも何も、茶柱はつい直前にその話を思い出していた。綾小路とイカロスを重ねて、その最後を勝手に想像した。

 数あるギリシャ神話の中でも、彼女がその話を選択するのは状況と即してあまりに薄気味悪い。背筋が汗ばむのがわかった。

 

「ギリシャ神話の一つです。かつてギリシャには───」

 

 淡々と紡がれる彼女の声が頭の中で残響する。先ほど頭の中で思い起こしていた話だ。自分の声と彼女の声が重なる。不協和音を奏でる。

 その音が不愉快で、しかし彼女を止めるために開いた口からは何も出ない。声が喉に張り付いている。

 無機質な機械がまるで歌を奏でるように。矛盾しているのに、これ以上当て嵌まる言葉が思いつかない。

 

 不協和音は止まない。

 

 

 

 ───かつてギリシャには、ダイダロスと言う偉大な発明家がいた。

 

 ダイダロスはミノス王に命じられ、怪物ミノタウロスを閉じ込める迷宮を作り上げた。しかし後にミノス王に見放されることになり、息子のイカロスと共に塔へと閉じ込められてしまう。

 

 ダイダロスたちはその幽閉された塔から逃げ出すため、鳥の羽を集めて大きな翼を作り上げた。大きな羽を糸でとめ、小さな羽は蝋でとめた。

 やがて翼は完成し自由を求め飛び立とうとしたとき、父であるダイダロスは息子へとこんな忠告をする。

 

『あまり高く飛ぶと、蝋で固めた翼が太陽に焼かれ溶けてしまう。気をつけろ』……と。

 

 そう忠告を受けたイカロスは、父と共に塔から飛び立った。

 

 そしてイカロスは、自由を得た。

 

 だが自由とは、時として己を見失ってしまう危険なものだ。

 眼前に広がる自由を手にし、イカロスは調子に乗ってしまった。それは必然だったのかも知れない。束縛された苦しい状況からの打破。自由に魅入られ、父の忠告を忘れ高く高く飛んでしまったのだ。

 作り上げた偽りの天使の翼は、太陽に焼かれ瞬く間に蝋が溶け出してしまう。

 やがて偽りの翼は全て焼き尽くされ、イカロスは大海へと落ち死んでしまった………

 

 

 

「……それがどうした。唐突だな、話の脈絡がない」

 

 乾いた喉から、不自然にならないよう声を出す。離していた視線は再び水元に戻っていた。

 

 水元とは一定の距離を保ったままだ。テーブル越しに二つ並べたパイプ椅子は、今は一つ空いている。先ほどまで人が座っていたという温もりは、きっともう無くなっている。

 最初から変わらない、一本芯が通ったように伸びた姿勢は、崩れる様子はない。

 

 こちらを真っ直ぐ見上げる目には、何もない。

 

「私はイカロスを死なせる気はありません。鳥の羽など使わない。鳥を、天使を基にするから駄目なんですよ。天使が駄目ならば、その対となるモノを基にすればいい」

 

 天使の対。

 

「まさか、悪魔とでもいうのか?」

 

 思わずハッと笑う。馬鹿げたことを言う。

 

 水元は変わらないあの目で、視線を真っ直ぐ前に向けている。どこを見ているのかわからない。

 

「悪魔の羽はコウモリの翼を基にしているそうです。コウモリの翼を形成しているモノって知ってますか? 皮膜なんですよ。人間にして言うと皮膚。こんなに簡単な材料無いでしょう?」

 

 馬鹿げている。

 剣呑な眼差しで水元を睨みつけた。

 

「現実的じゃない。死ぬ気か?」

「天使の翼を作ること自体現実的じゃないですよ。そもそもコレは神話です。だからその反論は相応しくありません」

「……ダイダロスはどうなる。それだと、共に空には飛び立てないだろう」

 

 ここで初めて水元の表情が変わった。

 

 きょとんと目を丸め、茶柱を見上げる。首を傾ける仕草は、無垢な子どもを連想させた。

 まるで、こちらが間違ったことを言ったような錯覚。

 

 

「それでこそ、親でしょう?」

 

 

 ───この子は危ない。

 

 

 咄嗟に口を開いたのは、茶柱の教師としての責務か。

 とにかく何か言わなければと思った。彼女の考えを改めさせなければと思った。

 

「水元、」

 

 ───唐突に指導室のドアが開く。そこから遠慮の欠片もない様子で綾小路が中に入ってくる。

 綾小路はそのままつかつかと水元のところまで歩いてくると、彼女の手を取ってパイプ椅子から立ち上がらせた。

 

 茶柱が水元に呼びかけた言葉は宙ぶらりんとなり、水元の意識は完全に綾小路に向く。

 

「いつまで話してるんだ、葵」

「清隆くん」

「待ちくたびれた。早く帰ろう」

 

 綾小路に手を引っ張られ、水元も指導室を後にする。水元は部屋を出て行く際一度茶柱の方を向いて、ぺこりと会釈をする。模範的な、こう在るべきという生徒の像を体現している。

 綾小路に関しては先ほどノックなしで部屋に入ってきたことから、出て行く態度など言うまでもない。

 

 

 ……己以外誰もいなくなった指導室で、ふと見下ろした視界にテーブルの上で組んだ両手が映る。

 小刻みに震えている。

 

 強く握り込めば、手の甲に爪が刺さった。

 後悔はいつだって後からするから、後悔なのだ。

 

 

 彼女を先に部屋から出し、振り向き様にチラとこちらを見た彼の瞳。振り向き加減だけが理由じゃない、鋭く細まった瞳は、呑み込まれそうなほどの深い闇を孕んで茶柱を見ていた。もはや隠す気もない激情を込めて、明確に茶柱を見ていた。

 忘れられそうもない。あの深い闇を宿した瞳は、果たして茶柱から目を離した瞬間どうなったのか。前を向いた彼の前にいたのは誰か。

 

 頭にこびりついて離れない。

 

 

「厄介な生徒たちを受け持ったものだ……」

 

 

 力なくこぼした一言を、一体どんな立場で言えたというのだろう。

 

 わらうしかなかった。

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 夏だ! 海だ!

 

「バカンスだー!」

 

 ワーッと盛り上がる。隣では清隆くんが私と同じように海原を見下ろして、眩しそうに目を細めていた。

 

「すごいな。良い景色だ」

「人工島から見える海とはやっぱり違うね!」

「ああ。風も冷たくて気持ちいい」

「ねー」

 

 デッキから身を乗り出して海を見下ろす。豪華客船だから、見える海面が遠い。しかしこんなに遠くからでも透けて見えるのがわかった。

 

 じっと海を見下ろしていれば、危ないぞとお腹に腕が回ってデッキの方に引き戻される。まあ確かに海面を見るのに少しばかり夢中になって、身を乗り出しすぎていたのは否めない。

 大人しく言うことを聞き、数歩下がる。ついでに手に持っていたジュース、そこに差さっているストローを口に咥えて、パイナップル味の果実水を口に含んだ。

 

「カーッ! やはりバカンスといえばパイナップルに限る」

「おっさんか」

 

 呆れた顔をした清隆くんが、ほら、と私の口元に差し出してきたのは彼が持っていたジュースだ。味変にちょうどいいと遠慮なく目の前のストローを咥える。

 清隆くんはメロンソーダを頼んでいたので、口に含んだジュースはメロンソーダの味がした。美味しい。

 なお清隆くんはつい先ほどまでメロンソーダの入っているカップを目前に掲げ、「これが……メロンなのか……?」とか言いながら携帯でポチポチ調べ物をしていた。このスッキリした様子を見るに、どうやら疑問は無事解決したらしい。相変わらず好奇心の塊をしている。わかるよ、メロンソーダって不思議だよね。私も調べた覚えがある。

 

 そっちの飲み物もくれ、と指を差されたので同じように清隆くんの口元に差し出した。ストローを咥えて、黄色い果実水が吸い上げられていくのを見る。数度彼の喉仏が動き、満足したのか口を離した。

 

「南国気分ってやつだな。確かにバカンスといえばパイナップルかもしれない」

「でしょー?」

 

 同意を得られて鼻高になる。清隆くんもわかってくれたようでなによりだ。バカンスといえばパイナップル、これ、共通認識。

 

「じゃあ次は何味のジュースにしようかな」

「オレはマンゴーにする」

「ハッ……! それは盲点だった……ナイスバカンスチョイスだよ清隆くん! 私もマンゴー欲しい」

「Lサイズ頼んでくるか」

 

 清隆くんが飲み終えたジュースの空カップを二人分まとめて捨てに行き、ついでに新しくジュースを頼みに行ってくれる。

 ついて行ってもよかったのだが、海の景色があまりに綺麗なので、もう少しこの場に留まって満喫することにした。

 

 少し遠くから池の興奮した雄叫びが聞こえてくる。だんだん話し声が近づいてきているから、こっちに向かって来ているんだろう。

 振り向いてみると、案の定いつもの3バカがいる。3バカの声が大きくて気づかなかったが、櫛田さんや軽井沢さん率いるイケイケ女子グループもいた。

 

 ぼーっと見ていると、櫛田さんと目が合った。あっという顔をしたかと思えば可愛らしく微笑まれ、これまた可愛らしくこちらに駆け寄ってくれる。

 

「水元さんっ! こんにちは!」

 

 太陽の下で見ているからか、天使スマイルが余計に輝いて見える。浄化されそう。

 

 仏の顔で目を閉じ、この世の生きとし生けるものが幸せでありますようにと悟りを開いていると、お腹付近につんつん刺激を与えられた。

 目を開ければダイレクトに天使がいる。私を上目遣いに見上げ、不思議そうに目を瞬いて首を傾げる。

 

「あれ? そういえば綾小路くんがいないね? 堀北さんも、一緒じゃないの?」

「清隆くんはジュース取りに行ってるよ。堀北さんは……わからないな。確か朝食のときはいたよね?」

 

 堀北さん関連は私よりも断然清隆くんの方が詳しいと思う。私は堀北さんとそんなに一緒にいるわけではない。だから私に聞くのは間違いだ。

 

「もうすぐ清隆くん帰ってくると思うから、堀北さんのこと聞いてみようか」

「ううん、そこまでしなくていいよ。ちょっと気になっただけだから。水元さん、よくあの二人と一緒にいるでしょ?」

「堀北さんとはそんなに一緒にいないと思うけど……」

 

 眉を寄せて首を傾げる。一体櫛田さんは私に対してどういうイメージを持っているんだろうか。

 

 櫛田さんがニコニコしながら、「そうだっ」と声を上げて話題を変える。

 

「お昼は、島のプライベートビーチで自由に泳げるんだったよね。楽しみだなあ」

「これぞバカンスって感じだよね。トロピカルジュース頼まないと」

「あはは、いいね! 私も頼もうっと」

 

 トロピカルジュースに花の飾りはいるかどうかについて、うんうんタイミングよく相槌を打って聞いてくれる櫛田さんに熱く語る。

 ちょうどそのときガガッという電子音の後、船内のスピーカーからアナウンスが流れてくる。

 

『生徒の皆様にお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まり下さい。間もなく島が見えて参ります。暫くの間、非常に意義ある景色をご覧頂けるでしょう』

 

 アナウンスが終われば、続々と生徒がデッキに集まってきた。生徒たちはみんな一様に明るい表情をしている。いよいよ無人島にあるペンションに行けると思っているのか。そのワクワクとした表情を見ていると、なんともいえない気持ちになってしまう。

 

 私や櫛田さん、イケイケ女子グループとついでに3バカは最初からデッキにいたため、ベストポジションを取っていた。生徒が集まるにつれどんどん前に押し出されて窮屈な体勢にはなっていたのだが、それでもベストポジションであることに変わりはない。

 

 しかしそれが気に食わなかったらしい男子生徒の一人が、唐突に3バカの中で一番小柄な池の肩を突き飛ばした。突然のことで耐え切れるわけがなく、池が転倒する。

 櫛田さんが慌てて池のもとに駆け寄って行く。池は男子生徒への怒りよりも、櫛田さんが心配して駆け寄ってきてくれたことの方が嬉しいようで、男子生徒なんかすでに目にない様子だった。顔がデレデレしまくっている。羨ましい。私も櫛田さんに支えられて抱き起こされたかった。

 

 須藤は友達のピンチにすかさず「テメェ何しやがる!」と声を上げて威圧していた。池は呑気にデレデレしているというのに、なんて友情に熱い男なのだ。須藤、池なんか庇う必要ないです。

 男子生徒は鼻で笑って、蔑んだ様子を隠しもせずに言った。

 

「お前らもこの学校の仕組みは理解してるだろ。ここは実力主義の学校だ。Dクラスに人権なんてない。不良品は不良品らしく大人しくしてろ。こっちはAクラス様なんだよ」

 

 あまりに横暴な態度とセリフだ。しかし此処に表立ってまでDクラスの味方をしてくれる生徒はおらず、結局すごすごと船首から離れることになってしまった。

 須藤は終始不満そうにしていたが、喧嘩に発展することはなかった。着実に綺麗な須藤に近づきつつあることを再確認する。感動の思いでいっぱいだ。堀北さん……あなたやりましたよ……!

 

 Dクラスメンバーがデッキの隅に追いやられたところで、ジュースを手にした清隆くんが帰ってくる。場所を変えた私たち、ひいては私を見て、目を瞬いた。

 

「何かあったのか?」

 

 差し出されたジュースをお礼を述べながら受け取り、ストローを咥える。一通りマンゴー味を楽しんだところで口を離す。

 

「世の中は弱肉強食なんだなって改めて実感してきたところだよ」

「Dクラスは負けてきたか」

「Dクラスを負け犬って言うのやめなよ!」

「葵が今言ったんだろ」

 

 視界の端で偶然鉢合わせた平田くんが3バカに絡まれていたのだが、電話がかかってきたため、一言断りを入れて慌ただしげに去っていく。人気者はいつも大変そうだ。

 

 そういえば平田くんと清隆くんは同室だったなと、隣を見上げた。

 

「平田くんどう?」

「……どう?」

「仲良くしてるのかなって」

「別に。普通だ」

 

 口元にジュースが差し出される。ありがたく頂戴しながら、清隆くん照れてるのかな……とぼんやり考える。イケメンの前だと急に喋れなくなる現象ってあるよね。わかるよ。

 

 池が怪しく櫛田さんに近寄って行っている。どうやら下の名前で呼び合いたいらしい。櫛田さんは快い返事をして、さっそく池を「寛治くん」と呼んだ。またも上がる雄叫び。

 天に向かって「桔梗ちゃあああああん!」と吠える姿は、最近清隆くんと見た映画プラトーンを彷彿とさせた。池がしたら途端にギャグに様変わりするの面白いな。

 

「下の名前か……そういや堀北の下の名前って、なんだっけか。なあ?」

 

 興奮している池をよそに、須藤が私たちに近づいて不自然に尋ねてくる。私は自信満々に答えた。

 

「花子だよ。可愛い名前だよね」

「葵……嘘は良くない。卑弥呼だ、須藤。堀北卑弥呼」

「清隆くん……天才か?」

「卑弥呼か……俺の予想通りだぜ。フィーリングばっちりだな」

 

 もちろん卑弥呼案採用されたら、清隆くんが全責任を負うってことでいいよね? 私何も悪くない。

 

「っし、この夏休みの間に俺も下の名前で呼ぶぞ。卑弥呼、卑弥呼っ」

 

 無事に清隆くん案が採用された。今からは清隆くんが全責任を負うってことでよろしく。

 ……なんか遠目に櫛田さんの肩が震えているのが見えるな……夏であっても長時間海風に晒されたら寒くなるのは仕方ないことだ。あとでジャージの上着でも持って行ってあげよう。

 

 須藤がどこか熱い目で清隆くんを見つめる。

 

「そうだ、なあ試しに練習させてくれよ綾小路。卑弥呼って呼ぶ練習をよ」

「練習って何だ、練習って……。普通ないぞそんなもの」

「構わない。今から私が卑弥呼だ」

 

 気乗りしない清隆くんに代わって自ら名乗り出る。隣から「葵……」と呆れたように名前を呼ばれたので、「違うわよ、私は卑弥呼。間違えないでくださる?」と宣った。ため息をつかれた。

 

 役作り万全の私に、須藤が雰囲気に呑まれてかどこか緊張した様子を醸し出している。真剣な眼差しを向けてきたので、私も真剣な眼差しを返した。

 

「なあ堀北、ちょっといいか? 少し話があるんだけどよ……」

「3回まわってワンよ。話はそれからね」

「オレは何を見せられているんだ……」

 

 須藤と卑弥呼の感動すべき友情深め合いシーンに決まっている。これは清隆くんが始めた物語だろ!

 

「ほ……堀北。いつまでも他人行儀って、変じゃねえか? 俺らも知り合ってだいぶ経つしよ。他の連中は結構下の名前で呼び合ってるみたいだし。俺たちもそろそろどうだ?」

「話題の切り出し方としては及第点ね。須藤にしてはやるじゃない」

「須藤くんだ、葵」

「須藤くんにしてはやるじゃない」

 

 須藤が私の発言を聞き、パッと顔を明るくした。

 

「そ、それじゃ! そろそろ下の名前で呼びたいんだがいいか?」

「ウェイトよ。結論を急ぎすぎてはダメ。まずは私の意見を伺うのが先じゃないかしら?」

「葵は堀北になり切っているのか個人的にアドバイスをしているのか、どっちなんだ?」

「シャラップよ。清隆くん」

「綾小路くんだ、葵」

「シャラップよ。綾小路くん」

「やっぱり清隆くん呼びだった気がする」

 

 清隆くんが合間合間に口を挟むせいで、会話が混沌としている。

 須藤は私の言葉の意味を必死に考えているみたいだ。口を挟む清隆くんに何か文句を言う様子は見られない。

 

 恐る恐る私を見て、「どういうことだ……?」と素直に尋ねてくるので、こちらも素直に答えることとする。

 

「そうね……私が下の名前で呼ばれたいか否か。あなたが呼びたいかどうかじゃなくて、私が、あなただけじゃなく誰かに名前で呼ばれたいと思っているかどうか。まずはその確認を取ってみるのはどうかしら?」

「もしそれを聞いたら……?」

「受け入れてもらえるかは別として、どちらにしても須藤くんの気遣い力はアピールできると思うわよ」

「おおお……!!」

 

 須藤の顔がパァァッと明るくなる。私のアドバイスで将来に対する展望が見えたならば、何よりだ。期待しているぞ、須藤。

 その一方でたぶんどう足掻いても無理だとも思っているけど、希望を見せることくらい良いじゃないか! 人は希望無くして生きていけないのだ。

 

「な、なんかいけそうな気がしてきたぜ……! いろいろとサンキューな水元!」

「堀北よ」

「おお、そうだな! サンキューな水元!」

「だから堀北だってば」

「葵、まだジュースいるか?」

「堀北さんだよ私は!」

 

 なおジュースはありがたく頂戴する。

 

 清隆くんが呆れたように「もういいだろその設定……」とか言っているが、今私の中には完全に堀北さんが降りてきていたのだ。イマジナリー堀北さんだ。私だけは彼女を否定してはならない……!

 私の中のイマジナリー堀北さんを守ろうと立ち上がる。清隆くんがいけしゃあしゃあと「そもそも全然うまくなかったぞ」とか辛辣なことを言ってくるので、それに対抗してだ。

 

 反論しようと口を開いたタイミングで、ちょうど周囲が騒がしくなる。

 

 清隆くんから視線を外し、海の方を見た。いつのまにか肉眼で確認できるほど、島が近づいている。

 船はぐるりと島の周りを回り始めた。それに合わせて生徒のボルテージは上がっていく。

 

「凄く神秘的な光景だね……! 感動するなぁ。ねえ、水元さんもそう思わない?」

「え!? あ、うん!?」

 

 櫛田さんが接近していることに気づきつつも、まさか声をかけられるとは思っていなかった。素で動揺する。

 私の挙動不審っぷりにクスクスと笑い、その後声を潜めて「そうだ。堀北さんの名前、訂正しておいたよ。あんまりああいう意地悪はしちゃダメだよ?」と言う。そこに怒った様子は見られない。めっ! と軽く注意する感じだ。

 いや、櫛田さんが『意地悪』って言うときの破壊力すごくない? 『意地悪』というか『いぢわる』って感じだな。

 

 思考が逸れかけたが、名前を訂正するのを忘れていたのは事実なので、先に清隆くんと二人で櫛田さんにごめんなさいをする。櫛田さんはいいよいいよと再度笑ってくれた。

 

「それに私も、須藤くんが堀北さんのことを卑弥呼呼びするのは、ちょっと見てみたかったかも……なんてねっ」

 

 舌をちろっと出して悪戯っ子みたいに笑う櫛田さんの破壊力、本当にシャレにならない。

 

『これより、当学校が所有する孤島に上陸いたします』

 

 アナウンスのおかげでトリップしかけていた意識が戻ってくる。あともう少しで櫛田さんに怪しまれるところだった。すでにいろいろバレてる気はしている。

 

 アナウンスの内容を聞くに、今からジャージに着替えて所定の鞄と荷物を確認した後、携帯を忘れず持ってデッキに集合しなければいけないようだ。

 みんな部屋がバラバラなので、その場は手を振って別れて、それぞれ自分の準備をしに行く。

 

 準備を終えて再びデッキに戻ってくれば、先に清隆くんは着いていたようで、隣には堀北さんがいた。

 それを近づくことなく離れて見てから、視線を島に移す。

 

 島を目の前にした生徒たちは興奮と熱気に包まれている。

 ここが天国と地獄の境目だと気づいている生徒は、果たしてどのくらいいるんだろうか。

 

 なんにせよ、私の行動はずっと一貫している。

 

 

 

 

 




ようやく皆さんお待ちかねのラブコメ回(?)が始まりましたね。
ちなみに池が「堀北の下の名前って卑弥呼だったんだな〜」とか彼女の前で言わなかったら卑弥呼案は採用されていました。


それとこちら、見た瞬間作者の体に稲妻が落ちてきた主人公のイメージ画です。
イメージドンピシャでした。ホワイトルーム時代の主人公です。

【挿絵表示】

この感じのまま成長したのが本編主人公です。特に何も変わっていません。
あくまで作者のイメージなので、すでに確固たるものがある方は見なくても問題ないです。


使用させていただいたメーカーはこちらです。https://picrew.me/image_maker/58190


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試される絆

説明回です



 

 

 島に全生徒が揃う。それぞれのクラスで点呼が行われ、人数確認も、私物チェックだって万端だ。

 軽い挨拶と言葉少なな前置きの後、目の前の海に浮き足立つ生徒たちに、Aクラスの担任真嶋先生が冷酷に告げる。

 

「ではこれより───本年度最初の特別試験を行いたいと思う」

 

 バカンスなど最初からなかった。すべて幻想、一時の夢だったのだ。

 愕然とする生徒たちに構わず、真嶋先生は淡々と特別試練についての説明をしていく。途中で生徒から疑問の声が上がるたび、丁寧にその疑問に答えるが、それだけだ。

 

 説明を聞いてわかったことは、今から1週間、生徒たちはこの無人島で集団生活を行う必要があること。日焼け止めや歯ブラシといった最低限のものは無償で配布されること。各クラス毎に300ポイントが支給され、配布されたマニュアルよりあらゆるものが購入可能であること。

 

 そして特別試練を終えた際、このポイントの残高がクラスポイントとして加算され、夏休み明けに反映されること。

 

 ……生徒から疑問の声が上がらなくなる。ようやくすべての生徒が“コレ”は現実なのだと受け止め、今から始まる特別試練について頭を目まぐるしく回し始める。

 

 真嶋先生の話が終わり、それと同時に解散宣言がなされた。別の教師が拡声器を持って、各クラス担任の先生から補足説明を受けるように通達する。

 私たちDクラスはもちろん茶柱先生の元へと集まり出す。清隆くんが隣に来て、手を取った。

 

「今からお前たち全員に腕時計を配布する。これは1週間後の試験終了まで外すことなく身につけておくように」

 

 配布された腕時計を受け取りながら、説明を聞く。

 どうやらこの腕時計、時刻の確認だけでなく、体温や脈拍、人の動きを探知するセンサー、GPSまで備えているらしい。とても高性能な時計だ。こんなに小さいのに、不思議なものだと見下ろす。

 

 茶柱先生の説明の途中、清隆くんが私の腕を取って時計をつけてくれたので、私もお返しで清隆くんに腕時計をつけてあげた。

 

「茶柱先生。僕たちは今からこの島で1週間生活するとのことですが、ポイントを使わない限り全て僕たちで何とかしなければならないということでしょうか」

「そうだ。学校は一切関与しない。食料も水も、お前たちで用意してもらう。足りないテントにしてもそうだ、解決方法を考えるのも試験。私の知ったことじゃない」

 

 平田くんの丁寧な質問に対する茶柱先生のこの回答よ。だから言い方だって。

 

 その後池が軽い調子で言う。池は不安などないとばかりに明るい顔をしている。

 

「大丈夫だって。魚でも適当に捕まえてさ、森で果物でも探せばいいじゃん。テントは葉っぱとか木とか使ってさ。最悪体調崩しても頑張るぜ」

 

 茶柱先生が池の発言を聞き、皮肉げに口元を歪めた。

 

「残念だが池、おまえの目論み通りにいくとは限らんぞ。配布されたマニュアルを開け」

 

 そこから新たにわかったのは、この試練でのペナルティについてだ。

 

 まず、 著しく体調を崩したり、大怪我をし続行が難しいと判断された者はマイナス30ポイントであること。またその者はリタイアとなること。環境を汚染する行為を発見した場合、マイナス20ポイントであること。毎日午前8時、午後8時に行う点呼に不在の場合、一人につきマイナス5ポイントであること。

 そして一番重い罰には他クラスへの暴力行為、略奪行為、器物破損などを行った場合、生徒の所属するクラスは即失格とし、対象者のプライベートポイントは全没収となること。

 

 最後に関しては納得のペナルティだ。確かに他クラスへの攻撃ありなんかにしたら、そもそもの試験がめちゃくちゃになる。努力ってなに? って感じだ。妥当な処置といえる。

 

 とにかく以上の説明を受けてわかったことは、効率よくポイントを使い、節約し、この1週間をみんなで乗り越えなければならないということだ。Dクラスの絆が輝くときが来たと言えよう。

 

 

 ちなみにだが、今現在Dクラスはさっそくトイレ問題について揉めている。

 

 

「無理に決まってます! 絶対無理!」

 

 篠原さんを始め、ほぼすべての女子が一斉に段ボール式簡易トイレの使用を拒否している。茶柱先生は我関せずといった様子で、少し離れてDクラスの論争を眺めている。

 女子の、特に篠原さんの絶対受け付けないという姿勢に池が不機嫌になっていき、ついに口論が始まった。

 

 その後しばらく二人によるほとんど喧嘩のような論争が行われていたが、突如茶柱先生が生徒たちの後方を睨むように見たことから、言い争いは一端の終わりを見せる。

 そしておいでますは、みんな大好き星之宮先生であった。

 

「やっほ〜」

 

 気の抜けた声が後ろからかかる。星之宮先生は茶柱先生を捕捉すると、彼女の背後に回り込んで人懐っこく抱きついた。

 邪険にする茶柱先生にマイペースに懐いていて、すっかり二人の世界になっている。うーん、仲良きことは美しきかな。

 

 星之宮先生がふと顔を上げて生徒たちを見た。そして私は思い切り目が合う。隣にいる清隆くんもおそらく先生と目が合っただろう。

 

「あっ、綾小路くんに水元さんじゃない。久しぶり〜」

 

 星之宮先生とは放送で呼ばれて職員室に行った以来会っていない。彼女は普段は保険医をしているため、授業で顔を合わせることはないのだ。

 揃って会釈をする私たちに、見覚えのあるニマニマ笑いが向けられている。

 

「まーた手繋いでる〜。相変わらず仲睦まじくていいわね〜」

 

 カップルとか言われたら即座に否定できるのに、婉曲的に言われると何も言い返すことができない。指摘されて手は離したが、普通に手遅れだろう。

 星之宮先生のニマニマ笑いは留まるところを知らない。クラスメイトから向けられる視線が気になるから、これ以上このネタで弄るのはやめてほしい。

 

「うふふ、改めて告白とかするなら、こういう綺麗な海の前とか効果的かもよ〜?」

「おい。これ以上は問題行動として上に報告するぞ? それに、もう時間が無い」

 

 ちゃ、茶柱先生……! 思わぬところから救世主の登場だ。私、茶柱先生ならいつかやってくれると信じていました! それと清隆くんはさっきから茶柱先生を怖い目で見ない!

 

 茶柱先生の鋭い眼光かつ正論に、さしもの星之宮先生も手も足も出せないらしい。悲しげな顔をしつつ、すごすごと大人しくBクラスに戻っていく。

 頃合いとばかりに、茶柱先生が新たに話を切り出す。

 

「ではこれより追加ルールを説明する」

「つ、追加ルール? まだ何かあるのかよぉ……」

 

 どんどん追加されていく説明に辟易するのはとてもよくわかる。

 

 だが今から行われる説明こそが、この特別試練の肝なのだ。

 

 

 

「───葵。この試験」

「うん。わかってる」

 

 説明を積み重ね、示し出された道筋。

 

 自然な動作で口元を隠し、小声で会話する。一言二言交わすだけでお互いの考えは伝わる。意見交換は十分だ。

 すぐに口元から手を離し、いつも通りの顔をする。

 

 

 この特別試練。ポイントの節約も、スポットを押さえて得られる僅かなポイントだって、大量にポイントを得るには不十分だ。

 だからもとより、眼中にあるのはこの項目だけ。

 

 ───“リーダー当て”、だ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 茶柱先生からの説明もすべて終えたところで、いよいよDクラスの絆の見せ所がやってきた。

 

 

 ちなみに今は、絶賛トイレいるいらない論争の真っ只中である。

 

 あれ? 最初と状況変わってなくない?

 

 

「女子が仮設トイレを欲しがる気持ちは分からないでもない。しかし、だからって僕ら男子のポイントでもあるものを勝手に使おうとするのは納得がいかないな」

「私は……女の子の当然の要求をしてるだけよ。男子には関係ないでしょ」

「当然の要求? 男子には関係ない? 理解不能だ。それはただの差別じゃないか」

「差別って……あー頭痛くなってきた。平田くん、こんなのほっといて、ね?」

 

 今は池に代わりまして、バッターは幸村くんだ。池と篠原さんの戦いよりも、断然出てくる語彙は豊富になっている。

 どっちにしても挟まれる平田くん本当にかわいそう。

 

「僕はいつまでもDクラスに居るつもりはない。篠原さんのような個人の好き勝手を聞き入れていたら話にならないだろ。だから今ここでしっかりと方針を決めて貰いたい」

「は? それって私が何も考えてないって言いたいわけ?」

「本能のまま動くだけなら猿にでもできる。女は感情論で動くから嫌いだ」

「……はあ? 別に全部ポイントを使いたいって言ってるわけじゃないでしょ。最低限必要なものはあるって言ってんのよ。理論的に話してるつもりだけど?」

「二人とも落ち着いて。幸村くんの言いたいことも分かるけど、そんな喧嘩腰で話をしたところで解決しないことじゃないかな? もっと冷静に───」

「冷静? だったら、間違っても勝手にポイントは使わないってことだよな?」

「それは……」

「平田くん、男子の話なんか聞かなくていいって!」

 

 早くも混沌としている。

 

 ボルテージの上がった2人に、平田くんはどうするべきかわからないようだった。それでも困った顔は見せようとせず、なんとか意見を取りまとめようとしているところはさすが平田くんであった。

 

 少し距離が空いたところでその様子を清隆くんとぼーっと見ていると、後ろから声が聞こえてくる。

 

「統率力のないDクラスじゃ、先が思いやられるわね。それに平和主義の彼、平田くんには何一つまともに決められないんじゃない?」

「堀北さん」

 

 同じく言い争いをしている彼らを見ながら、堀北さんが重いため息をつく。

 

「今回の試験。思ったよりもずっと複雑で難解な課題と言えそうね……」

 

 堀北さんはどこか困惑した様子だった。あまり見ない表情だ。それだけこの試験が特殊だということだろう。

 

「大きくポイントを得られるチャンスだし、堀北は我慢するのも平気じゃないのか?」

「どうかしら。この段階で簡単だと言えるほど楽観的じゃないわ。私だって他の人たちと同じ。こんな場所で生活なんてしたことがないから何も計算しきれない」

 

 堀北さんがそのまま苦々しく言い放つ。

 

「一見単純そうに見えた試験も、立ち位置一つで大きく変わるのを実感してるところよ。全員が共通してポイントを節約したい気持ちはあるのに上手くまとまらない。いやらしい試験だわ」

 

 方針が一向に決まらず、未だに揉めているDクラスを少し遠くから眺めている茶柱先生の目は、ここからでも冷め切っているのが見て取れる。所詮Dクラスなんてこんなもの。そういう心中が透けて見える目。

 目が合う前に、視線を逸らした。

 

「堀北はどうしたいと思ってるんだ?」

「私としても、幸村くんの言うように1ポイントでも多く残したいわ。でも、満足な設備のない状態で1週間生活を送れる自信はない。それが正直な意見よ。チャレンジしてみようとは思うけれど、どこまで耐えられるか……。あなたたちは?」

「概ね同意見だ。全てが未知数すぎる」

「右に同じく。私もチャレンジはしてみたいと思ってるけど、実際問題難しくもあるよねぇ……」

 

 私たちDクラスがやきもきしている間に、AクラスとBクラスは話がまとまったようだ。それぞれのクラスから数人の生徒が固まって動き出し、森の中へと入っていっている。

 CクラスとDクラスは未だ最初の地点から動けていない。そして、おそらくまだ動くまでに時間がかかるだろう。あからさまにクラスごとの優劣を表しているみたいでちょっと笑う。

 

 口論の最中、池が乱雑に頭を掻いた。焦っているのだ。

 

「……あー、くそ、悠長にトイレの話し合いなんてやってる場合じゃないって! 俺はポイントを守るために何でもやるつもりだぜ。キャンプ地とスポットを探しに行く」

 

 1人でも強行突破して行きかねない雰囲気に、平田くんがすかさず止めようと声を上げる。しかし今の平田くんに、池の行動を止めるまでの説得材料がないのも事実だった。

 池の周りには、池と同じ考えをした男子たちが数人集ってきている。

 

「利用できそうなスポットとか拠点を見つけたらすぐに戻ってくるからさ。その後全員でそこに移動してから話し合いをすればいいじゃん。簡単な話だろ?」

「……わかった。でも、危険だと思ったらすぐに戻ってくるようにしてほしい。僕はクラスメイトの誰にも欠けてほしくないんだ」

「大袈裟だって! でもわかった、そのときはちゃんと戻ってくるよ」

 

 話がまとまった。根本的にはまだまとまっていないが、いつまでも平行線だったのが一応の前進は見せたか。

 池の周りに集っていた男子の1人である須藤が、清隆くんに声をかける。

 

「綾小路も行くか?」

「……行ってらっしゃい?」

「……いや。オレはいい」

 

 せっかくのお誘いを清隆くんが首を振って断った。それを受け、須藤があっさり「わかった」と頷く。

 池たち数人の男子が森の中に入っていくのを見送り、残されたDクラスメンバーは一旦日陰に行こうということで移動を始めた。

 

 ずっと日に晒されていたせいで、浮かんだ汗が首筋を伝う。清隆くんも同じ感じだ。私たちは暑すぎるのは苦手なのだ。

 いつでも涼しい顔をしている堀北さんがこのときばかりは羨ましく思う。……いや。今は涼しいだけではない、か。

 

 チラと堀北さんの様子を確認し、私もクラスの荷物を微量ながらも持つと、先を行くクラスメイトの背中を追って移動を始めた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 一旦の移動を終え、日陰に人も荷物も入る。いよいよDクラスの絆が活かされるときが来たと言える。

 

 

 ちなみに今はトイレ論争に戻ったところだ。ついさっきまでは移動しながら清隆くんと堀北さんが過去云々で若干殺伐とした会話してたし、このクラス本当にこの先大丈夫だろうか?

 

 

「移動してる間に考えていたんだけど、まずは1つトイレを設置するべきだと思う」

 

 

 あっ平田くんがいた。何も問題なかったわ。

 

 移動している最中に考えを整理したのか、平田くんの口調に迷いがなくなっている。

 幸村くんが即座に言い返すが、平田くんの常にない強い口調、また説得力ある話しぶりと内容の的確さにだんだん反論ができなくなっていく。

 

 やがて訪れた沈黙は、幸村くん本人のものと周囲のものが合わさっていることから、彼がこれから出す結論は読めたも同然だった。

 

「……わかった。だったらトイレ、設置すればいいだろ」

 

 ついに幸村くんが折れる。これでトイレ設置の明確な反対派はいなくなったと言えよう。

 

 篠原さんたちはもちろん、軽井沢さんたちや堀北さんも少し安堵した様子を見せる。平田くんも一つ問題が解決したことで、どこかホッとしているようだった。

 しかし平田くんはすぐに切り替え、池たちに続いてベースキャンプの探索に出るメンバーを募集する。これ以上のクラスメイトから出る反発を防ぐためにだろう。

 志願者は思った以上に少ない。自然の森に足を踏み入れたことがないなんて人間はざらにいる。無理もないことだ。

 

 誰もが俯いたり、視線を逸らしたりと消極的な態度を見せる一方で、ここで真っ先に動いたのはやはり櫛田さんだった。

 

「あの、私でよかったら行くよっ」

 

 それを皮切りに志願者が増える。櫛田さんのような可愛い子目当ての者もいれば、女の子に危険なことを率先させてしまったことへの恥ずかしさから志願した者もいるだろう。

 清隆くんが私の手を引いて、遅れて手を上げる。その手を振って離した。

 

「私はすることあるから」

「何するんだ?」

「いろいろ?」

「……わかった」

 

 清隆くんが私から離れ、探索組が集まる箇所へと向かう。その背中を見送ってから、私も私で動き始める。

 途中、佐倉さんがあれ!? という顔で私と清隆くんを交互に見たのは気になったが、彼女も無事探索組に入ることができたようだ。これで特に苦労することなく、Aクラスから情報を得ることができるだろう。

 

 清隆くんは佐倉さんと余った高円寺くんで3人組を作り、森の中に消えていく。チラと視線を寄越されたので、パッと笑って手を振っておいた。

 

 全員の背中が見えなくなってから、私は平田くんのもとに歩み寄っていく。

 

「平田くん」

「うん? なにかな、水元さん」

 

 平田くんも場所が日陰で多少マシになったとはいえ、真昼間の夏であり暑いことに変わりはないようで、首筋に薄らと汗を滲ませている。その汗すら爽やかに見えるのだから、イケメン効果って本当にすごいと思う。

 

 一度邪念を振り払うため咳払いをし、当初の目的を完遂すべく口を開いた。

 

「マニュアル見せてもらってもいい?」

「もちろんだよ。はい、どうぞ」

 

 代表してマニュアルを持っていた平田くんにお伺いを立てれば、快く手渡してくれる。ありがたくそれを受け取った上で、迷いなくマニュアルに載っているはずのあるモノを探し始める。

 私の動きをそのままなんとなく見ていたんだろう平田くんが、私が止めたページに載っているモノ一覧を見て目を丸めた。

 

「やっぱりアウトドアって言ったらこうじゃなくちゃね」

「もしかして水元さん、この状況を結構楽しんでたりする……?」

 

 なかなかできない経験なのだ、どうせなら楽しまないと損である。

 真っ直ぐな眼差しで頷く私を見て、平田くんがちょっと気が抜けた感じで笑った。

 

 

 もちろんアウトドアって言ったら釣りだろうという考えのもと、私は釣竿のページを見ていた。何個か検討してもらって、後で清隆くん誘って一緒にやろう。

 

 



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知らない人

 池たち先に探索していた組が戻ってきて、状況は著しく変わった。どうやら良いスポットを見つけたらしい。

 さっそく池が興奮した様子で平田くんに成果を伝えている。

 

「川だよ川! 物凄く綺麗な感じの! そこに装置みたいなんがあったんだよ! あれが占有とか何とかの機械だ! ここから10分もかからないから早速全員で行こうぜ!」

 

 よし、川なら気兼ねなく釣りができるな。

 

 池たちと同じく探索を終えて戻ってきたらしい清隆くんが隣に並んできたので、「楽しみだね」と声をかけた。何が? ってもちろん釣りだが?

 

「それは大手柄だね。水源が確保できたら僕たちの状況は大きく好転するかも知れない」

 

 平田くんが手放しに池たちを褒めている。それは実際にスポットに案内されて、場所を確認してからだとより一層顕著となる。

 

「うん。きれいな水に、日光を遮る日陰。地ならしした地面。ここならベースキャンプにするのに理想的かも知れないね。すごいよ池くん」

 

 平田くんのこういうところってバブ味すごくない? これは男でも惚れるわ、間違いない。先生を間違えてママって呼ぶパターンある、いつか絶対そういう場面が来る。

 

 池が平田くんに褒められて嬉しそうにしている。わかる、私も平田くんに褒められたい。

 

 あまりに羨ましくなったので、私でもできることを真剣に考えてみる。

 例えば……そうだ釣りッ! 釣りで成果出しまくったら褒めてくれる気がする。初めてするけどたぶん大丈夫、要領を掴めばなんかうまいこといけるはず。

 

「俄然やる気出てきた。もうこれはやるしかない、清隆くん」

「何にやる気出してるんだ。できればこっちに関してもやる気を出してほしいんだが」

「それはそれ、これはこれ」

「なんでそんなに楽観的なんだ……」

 

 額に手を当ててため息をつく清隆くんに、自信満々に笑いかける。

 

「大丈夫だよ。清隆くんは完璧にするでしょ」

「……ああ。二度と巫山戯た話を持ってこさせない」

「視線。視線アウト、清隆くん」

 

 手のひらで清隆くんの目を覆う。そのまま体を反転させて、茶柱先生が清隆くんの視界に入らないようにする。

 清隆くんの茶柱先生ヘイトが思った以上にすごい気がする。一体どうしてこんなことになってるんだ。清隆くんってあんまり表に出してなかっただけで、実際は茶柱先生のこと結構……?

 

 正直この辺りは未知な部分が多い。心情というのは厄介だ。すべてがすべて内心として曝け出されていたわけじゃないことを知る。知識が役に立たないときもあるんだなと痛感することになった。

 いや。それとも、本来とは異なり、彼がこうなる何かが生じた……?

 

「うん。じゃあ後は、誰がリーダーをするかだ。肝心なのはそこだからね」

 

 私がいろいろ思考を巡らせ、知識の役立たなさに落ち込んでいるうちに、話はリーダー決めまで至ったようだ。

 

 櫛田さんがクラスのみんなを集めて円を作らせて、それから視線を集めた上で小さな声で言う。

 

「私も色々考えてみたんだけど、平田くんや軽井沢さんは嫌でも目立っちゃう。でも、リーダーを任せるなら責任感のある人じゃなきゃダメでしょ?」

 

 神妙な顔で頷くクラスメイトたち。櫛田さんの視線が動いて、私を、清隆くんを素通りし、ある人物に目を留める。

 櫛田さんに伴って、自然とみんなの視線もある人物に集っていった。その手腕は本当に素晴らしいものがある。

 

 櫛田さんが、その人物の名前を告げる。

 

「その両方を満たしているのは、堀北さんだと思ったんだけど……どうかな……?」

 

 堀北さんは櫛田さんからの推挙があっても、動揺した素振りは見せない。重要なのは誰がリーダーを務めればリスクが最も少ないか、だ。そのため、冷静に周囲の反応を窺っているように見える。

 

 真っ先に賛成の声を上げたのは、もちろん平田くんだった。

 

「櫛田さんの意見に賛成だよ。というより、僕もリーダーは堀北さんが良いと思っていたから。後は堀北さんさえ良ければ引き受けてもらいたい。どうだろうか」

 

 堀北さんは答えない。まだ慎重に周囲の様子を窺っているようだ。ただ、拒否をすることもなかった。

 そこで須藤が何を思ったか、胸を張って声を上げた。

 

「嫌がってるんじゃねえか? 無理強いさせるなよ。代わりに俺がやってもいいぜ」

「わかったわ。私が引き受ける」

 

 ……堀北さん、ちょっと食い気味だったな……哀れ須藤。君の犠牲は無駄にはしない。堀北さんが。

 

 とにかく、本人も了承したことだし、リーダーは堀北さんで決定だ。

 平田くんが茶柱先生からカードを受け取り、堀北さんに託す。装置をそれとなくみんなでカモフラージュしながら無事占有すれば、再び話は今後のことについてになる。

 

 今は池が川を有効活用しようと、飲み水にすることを提案して篠原さんとバチバチやっていた。この光景今日だけで何回見た? あ、3回? ありがとう清隆くん。

 

「喧嘩するほど仲が良いと聞くけれど、あの二人には当てはまるのかしら?」

「それは……当てはまらなそうだな」

「今は……ね」

「いくら意味深に言っても、あの二人は無理があるだろ」

「そうね。あの二人は無理があるわ」

 

 今は……ね(2回目)

 

「篠原。おまえ文句言ってんなよ。全員で協力しなきゃならない試験だろ、これって」

 

 口論している池と篠原さんの間に割って入ったのは3バカが一人、須藤だ。クラスで二、三位を争う問題児でもある。一位は誰かなど言うまでもない、満場一致で高円寺くんだ。

 

 たぶん今頃……。一人だけ遠い目で海の方を見た。

 

「ちょ、やだ笑わせないで。全員で協力って、それ須藤くんが言う?」

「俺がクラスに迷惑をかけたことはわかってんだよ。だからこそ言ってんだ。つまんねーことで反感買ってたら、いずれそれが自分に跳ね返ってくるってよ」

「……なにそれ。どうせ須藤くんだってポイントを使いたくないだけでしょ」

「誰もそんなこと言ってないだろ。寛治、おまえも少し冷静になれよ。いきなり川の水飲めって言われたら普通抵抗感じるだろ。俺だってそうだしな」

 

 そう思えば、須藤も本当に綺麗な須藤になったものだ。今須藤が行動を起こしているのは、決して堀北さんが見ている前だからという理由だけじゃない。根本的な部分で彼は変わりつつあるのだ。

 

 篠原さんはまだ腹の虫が治らないようだったが、平田くんの「一度解散にしよう。まだ時間はあるし、慌てて決める必要はないよ」という発言に少しは冷静になったようで、黙って引き下がっている。

 平田くんが茶柱先生のもとに行き、仮設トイレのレンタル申請を行うのに伴って、Dクラスのメンバーは再び各々で動き始める。

 

 池はその場に黙って留まって、ずっと悔しそうに唇を噛み締めていた。

 

「くっそ、なんなんだよ篠原の奴。結局頑張る気ないだけじゃんか」

 

 そう愚痴をこぼすと、不満げに小石を拾いあげて、川に向かって水切りのように投げた。

 石は5回6回と水面を蹴って、向こう岸を悠々と飛び越えていく。清隆くんが感心したようにそれを見て、声をかけた。私は隣で目を細め、冷静に狙いを定めていく。

 

「もしかして、意外とアウトドア的なこと得意なのか?」

「ん? あーいや、別にそう言うわけじゃないんだけどさ。小さい頃よく家族と一緒にキャンプしてたからさ」

 

 やはり……ココは池。池だッ! 決定的な発言も得られたことだし。

 

「だったら最初に、キャンプ経験あるって名乗り出た方が良かったんじゃないか? それで信頼を得ていたらもう少し上手く運べたと思うぞ」

「ボーイスカウトやってたとかなら自慢出来るかもしんないけどさ。ただキャンプ経験があるってだけじゃ自慢にもなんないし───」

「はい!」

「? どうした、葵」

「え、え? なに、急にどったの? 水元ちゃん」

 

 突然声を上げたことで視線が集まる。池を見ながら声を上げたので、池本人も自分に声をかけられたことがわかっているようで、戸惑って首を傾げている。

 私は真摯に池を見つめながら、言った。

 

「釣りの仕方を教えてほしいなーって思いまして」

「え……? 釣り?」

「うん。食料調達で、後で釣り道具を買うのは決まってるんだ。だから釣りのとき、やり方教えてほしい!」

「あ……うん。それは全然構わないけど……」

「いいの!? ありがとう!」

 

 了承の返事をもらえて素直に喜ぶ。釣り、一度してみたかったのだ。のんびり自給自足生活みたいで憧れの気持ちがある。

 まあ試験の最中なので終始のんびりしてられないだろうが、それも含め楽しみだ。追われる生活というのも悪くない。

 

 後の楽しみができて気分は上々だ。ご機嫌に今後の予定を考えていると、池が「そっか……」と何か納得したように呟く。どこか後悔が滲んでいるような声音でもあった。

 

「全員、初めてみたいなもんなんだな、こういうキャンプ生活。誰だって少しくらい経験あると思ってたぜ。そう考えたら、ちょっと無理言ったかもしんないな」

 

 そう呟いたっきり少し考え込む様子を見せる。しばらく黙っていたものの、急に何か考えを振り切るみたいに首を振ったかと思えば、軽く私に謝罪してきた。

 

「ごめん、水元ちゃん。釣りはまた教えるからさ。俺ちょっと泳いでくるね」

 

 池は今日相当働いている。暑い中、このスポットを見つけるのに森を探索してかなりの体力を削っているだろうし、気分転換に泳いでくるのは良い案だ。喧嘩していた頭も冷えるだろう。

 

 遠ざかっていく背に声をかける。

 

「清隆くんにも釣りのやり方伝授してねー!」

「ええ!? ん〜……まあいっか! おー任せてー!」

「オレ抜きで話を進めるな……」

「えっ清隆くん釣りしたくないの!?」

「いや、それはしてみたいが」

 

 じゃあ何も問題ないな。やっぱり楽しいことは共有しなくては。二人で共有して楽しさ倍増だ。

 

「…………」

「考えすぎてもつまらないよ、清隆くん。楽しむところは楽しもう」

「……そうだな」

 

 能天気な私の発言に引き摺られたのか、清隆くんがほっとしたような、少し気が抜けた顔をする。島に来てからは固い表情ばかりしていたから、ちょっとでも気が緩んだようなら何よりだ。

 島に来るなんて滅多にない経験なのだし、気を詰めるばかりなんて勿体ない。楽しむところは楽しまないと損だと思う。

 

 堀北さんが遠さがっていく池の背中を見つめて、何か考えている。と、考えをまとめたのか口を開いた。

 

「アウトドアの知識に加えてある程度森の歩き方も知ってる。高円寺くんが利用できない以上、彼に何とかしてクラスを引っ張ってもらう必要があるわね」

「まあ、そうなるだろうな。池の知識は役に立つ可能性がある」

「綾小路くん……水元さんでも構わないわ。彼の後を追ってもらえる?」

「追って説得しろって?」

「そうね」

 

 一切迷いのない返事だ。自分が説得しようなんて微塵も思っていないことがわかる。ここまで堂々とされるといっそ清々しい。

 一度清隆くんと目を合わせる。頷く。

 

「堀北、オレたちしか頼る相手いないもんな」

「……普段頼られることが少ないんだから、内心嬉しいでしょう?」

 

 イラッという感情が込められた声であった。清隆くん、言い方。

 間に入りつつ、私が了承の返事をする。

 

「別にいいよ。それとなく声をかけてみる。でも、タイミングはこっちで決めていい?」

「……いいわ。確かに今声をかけることがベストかどうかはわからないから」

 

 堀北さんはそれで話が済んだのか、私たちから身を引いて遠ざかっていく。

 

 二人で小さくなっていく彼女の背中を見送る。

 もう声が届かなくなっただろう辺りで、揃ってため息を吐いた。

 

「学校側も計算しつくしてなんだろうな」

「堀北さんみたいな一匹狼タイプの生徒には、圧倒的に不利な試験だよね」

「決められたルールから抜け出せるようになれば、あるいは、だな」

 

 どちらにせよ、まだまだ当分先の話だ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 出来上がった2つのテントは、話し合いにより(もはや口合戦)女子に軍配が上がって、どちらとも女子が占有することとなった。私は女子組なのでありがたいが、結果的に野宿を強いられることになった男子にとったら堪ったものじゃないだろう。

 清隆くんも例外ではなく、というかむしろ地面で寝るのに抵抗が強い方であり、テントで悠々と過ごすことになった私を若干恨めしそうに見ている。申し訳ないがこれも天命なのだよ。

 

「今から食料を探しに行くんだけど、一緒についてきてくれる人ー?」

 

 櫛田さんの呼びかけが聞こえて、その内容の興味深さに清隆くんから視線を外した。

 近づいていって、詳しく尋ねる。

 

「食料って、木の実とか果物とか?」

「えっと、探索してみてからになるけど、目標は一応そんな感じかな?」

「はい! 行きます!」

「ありがとう、水元さん! 一緒に頑張ろうねっ」

 

 清隆くんも誘うか、と振り返って、ちょうど平田くんに話しかけられている。会話は終盤に近かったようで、平田くんが離れていくのに合わせて清隆くんが私を振り返って姿を確認し、歩み寄ってくる。

 

「今から焚火をするのに使えそうな枝を探しに行くんだ。葵、手伝ってくれないか」

「アッ……ごめん、私今から食料探しに行くことに……」

「……そうか……」

 

 今日はずっと清隆くんとタイミングが悪い。私が狙ってるときもあったけど、今回のことは完全なる偶然だ。そしてこの偶然もファインプレーであった。

 私から離れ、今度は須藤のもとに向かっている清隆くんの背中を見送ってから、私は私で先に準備をしている櫛田さんたちのもとに向かう。

 

 途中佐倉さんと目が合ったが、彼女は私が櫛田さんのところに向かっていると気づくと歩みを止める。そのまま俯いてしまったので表情がわからない。

 佐倉さんがとぼとぼと歩いて行った先には清隆くんがおり、気づかず清隆くんの背中に頭をぶつけてあわあわしている。お互い頭を下げ合って一言二言交わすと、佐倉さんがぶんぶん首を上下に振って、清隆くんもどこかほっとしたような雰囲気を漂わせた。……よし。これで安心して行って来れるな。

 

「水元さーん! 行くよ〜」

「はーい!」

 

 名前を呼ばれて櫛田さんのもとに急いで向かう。食料探索組は空のリュックを背負って、集団で森の中に入ろうとしているところだった。

 櫛田さんが私の姿を目に留め、ニコッと微笑んで手を振ってくれる。いや、本当可愛いな。

 

「頑張っていっぱい採ろうねっ」

 

 ……もしかしてここで頑張れば、櫛田さんにいっぱい褒めてもらえる可能性が……? 俄然やる気出てきた。

 

 食料探索組の人手はそう多くない。クラスに協力するより先に、海やら川やらに泳ぎに行っている人たちがなかなかの数いるらしい。さすがDクラス、個性豊かなメンバーに溢れている。もしくは日和見主義ともいえるだろうか?

 

 空のリュックを背負い直して、リュック案採用されてよかったな……と思う。リュックの存在をアピールしまくった甲斐があった。自分からは言い出さない、これ鉄則。

 

 それらしい食料は見つけ次第全部リュックに詰め込み、それから、池の出番だ。

 

 

 ちなみにちゃっかり褒めてもらうのも忘れなかった。

 

「櫛田さん見て、見て! これ野菜だよね!?」

「えっ!? ……あ、ほ、ほんとだ! すごいよ水元さんっ! こんなにたくさん見つけてきたの!? わぁっ、本当にすごい! ありがとう水元さんっ!」

「え……えへへ……えふふ……」

 

 弾けるような笑顔でしっかり褒めてもらえた。目的も達成でき、非常に満足した。

 

 あと同じく食料探索組にいた平田くんなのだが、彼にも褒めてもらおうとして見ればここでも女の子に囲まれており、さすがの私もそこに突っ込んで行くのは自重した。機会は……大丈夫。まだまだあるはずだ。こういうのはタイミング、タイミングが大事だから。

 

 

 

 

 夏の5時は明るいイメージが強いだろうが、実際その通りだ。異論はない。昼間より暗くなったとはいえ、夏の5時はまだまだ明るい。

 

 しかし此処、森の中となると話は変わった。

 

 伸びた木々が光を遮って、視界が悪くなるのはもちろんのこと、道の暗さが桁違いになる。日が落ちた森は危ない。体験すればわかる怖さであった。

 そんな中で、キャンプ地に戻る際に狼煙のように細く煙が上がっているのを見て、安心したというのが本当のところだ。目指す方角が一目でわかるだけで安心感が全然違う。

 森の中は目印を作っておかなければ、簡単に迷ってしまう。一応それとなしに作ってはいたのだが、暗くなればせっかく作っていた目印も見失いかけた。やはり夜の森は注意しなければならない。

 

 煙を頼りに暗い森の中を進む。キャンプ地に着いたとわかったときは、全員がホッと息を吐いた。

 食料を詰め込んだリュックを一旦下ろす。辺りを見渡し、森を抜ければ一気に明るくなった周囲に『これが森マジック……!』と感動する。

 

「おかえり、葵」

「あ、清隆くん。ただいま!」

 

 一人感動している時に、清隆くんが隣にやってくる。私の足元にあるパンパンになったリュックを見て、そのまま目を丸めた。

 

「こんなに採れたのか」

「実は途中で野菜を見つけたんだ。それもきゅうりだよきゅうり! 川で冷やして食べよう」

「川で……いいな。楽しみだ」

「他にもいろいろ採れてるよ。ほら」

 

 櫛田さんたちがいる方を指し示す。そこには果実、木の実らしきものを手のひらに乗せ、クラスメイトに食べられるものかどうか聞いて回っている彼女たちの姿がある。

 

「見たことないものばかりだな」

「そうなんだよね〜。でも美味しそうな見た目してるし食べられると思うよ」

「適当すぎるだろ」

 

 本心から思っていることだ。それに私は、そもそも知っていることでもある。

 

 食糧探索組が帰ってきたことで、キャンプ地は騒がしくなっている。騒ぎを聞きつけた池が、焚火付近から離れて櫛田さんたちのもとに向かった。

 櫛田さんの手のひらにある小さな果実を指先で摘んで持ち上げ、感嘆の声を上げる。

 

「お、これクロマメノキじゃん。桔梗ちゃんが見つけたの? すげーじゃん」

 

 みんなが果実を見て知らないと首を傾げて答えていた中、初めて手応えのある反応だ。櫛田さんが目を丸めて、どこか懐かしそうに目を細めて果実を見ている池に声をかける。

 

「寛治くん、これが何か分かるの?」

「ああ。クロマメノキって木の実だよ。昔山でキャンプしたとき食べたことあるよ。見た目通りブルーベリーっぽい味がするんだ」

 

 それから他の女子生徒が持っていた果実に目を移し、こちらにも感嘆の声をあげる。

 

「こっちはアケビだな。これも甘くて美味しいよ。いやー、懐かしいなー」

 

 池には気取った感じは全くなく、本当に懐かしい果実を見つけたといった様子で嬉しそうに子供のような笑みを零している。クラスメイトたちはそんな池を感心したように見ていた。

 いがみ合っていた篠原さんも池に質問をぶつけ、池は池で素直に答えている。今日一番のまとまりがある光景だ。

 清隆くんと目が合って、お互いに頷く。

 

 

 そのとき、ちょうど輪から抜け出して、平田くんが私たちのもとに歩いて来ていた。清隆くんに用事でもあるのだろう。

 

 と、思っていたら先に声をかけられたのは私だった。心臓がヒュンッてなった。

 

「水元さんが野菜見つけてくれたんだってね。本当にすごいよ、ありがとう」

「えっ! あっうん全然! こっちこそありがとう!」

 

 思ってもみないタイミングで褒められて、理想的な返しができない。謎のお礼を述べる私に、平田くんが優しく微笑みかけてくれる。後光が見えた。

 

「ありがとうって、そんな、こっちのセリフだよ。水元さんのおかげでクラスのみんなが助かるんだ。すごいことだよ」

 

 櫛田さんに続いて平田くんにも褒められて骨抜きにされそう。続けて「本当にありがとう」とイケヴォでお礼を言われて、完璧に骨抜きにされた。

 

 爽やかに笑い返す余裕もなく「そ、そんにゃあ……え、えへへ……えふふ……」と気色悪く照れていると、唐突に隣から静かに名前を呼ばれる。

 

 繋いでいた手に、不自然にぐっと力を込められた。

 

「葵」

「え、うん? どうしたの、清隆くん」

 

 顔を上げれば至近距離に清隆くんがいる。私の顔を覗き込んで、じっと……目だ。目を、見られている。

 

 頰を包むように両手を当てられた。見たことのない表情だ。

 無意味に口が開いた。

 

 

「……その……清隆くん……?」

 

「…………」

 

 

 時間にするとたった数秒。片手で指折り数えられるほど短い時間だった。

 

 

 至近距離で合わさっていた視線が外れて、同時に頰から首にかけて当てられていた手も離れる。

 

 清隆くんの視線は、今はもう完全に私から平田くんに移っていた。

 

「平田。他に何か用事はあるのか」

「えっ、あ、そ……そうだね。……えっと、そう……さっき頼んだ焚火のことなんだけど───」

 

 清隆くんと平田くんが何か話をしている。そこに池が加わって、それから池と篠原さんが何か話をして、それを見た平田くんがクラスメイトのみんなに向かって何か話をし始めて……

 

 ………私はその間ずっと、静かにその場で立ち尽くしていた。

 違和感。そうだ。これは、違和感だ。

 

 

 ───私は今、一瞬でも彼のことを、得体の知れないモノのように感じてしまった。

 それが、なによりも嫌だった。嫌だと、思って。

 

 

 再び握られた手からやけに温度を感じて、いつものように握り返すことができない。

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 夜になって、約束していた通り集合すれば、清隆くんと二人でこっそりキャンプ地を離れる。

 よく観察すれば整然と茂る木々の中を歩き、伸びた枝が程よく切り開かれ、見上げれば満点の星空が見える木の根っこに二人で腰を下ろした。

 

「綺麗だねぇ」

「ああ。こういう島から見る星空もいいな」

 

 繋いだ手から、触れ合った肩から、じんわりと温もりが伝わってくる。夏とはいえ夜は肌寒いから、伝わる体温が心地いい。

 

 しばらくお互い静かに星空を見上げる。本当に綺麗だ。ほうと息を吐いて、夢中になって見上げ続ける。

 人工光がないだけでこうも星空の綺麗さに違いが表れるなんて、ちょっと理不尽なように思う。まあ、空気中の塵や排気ガスも関係しているらしいし、人工光だけが原因でないことはわかっているのだが。

 

 この星空が見れただけで、此処に来られて良かったと思うのだから、我ながら単純だ。自分の呑気さにちょっと笑う。

 

「伊吹のことなんだが、葵はどう思う?」

 

 口を開いた清隆くんからそんな発言が出てきて、のんびりと言葉を返す。

 

「伊吹さん? そういえば清隆くんと山内が連れて来たんだってね」

「いや、断じてオレじゃない。主導したのは山内だ。オレがあからさまな厄介事に自ら首を突っ込むわけがない」

「わかってるよ。いやぁ、巻き込まれ体質って大変だな〜」

「最悪な体質すぎるだろ……勘弁してくれ」

 

 額に手を当て重いため息をつく清隆くんに声を上げて笑った。可哀想だが、宿命とも言える。私は蚊帳の外で応援していよう。

 

 最初の質問に答える。

 

「まあ、見るからに怪しいよね」

「ああ。怪しさしかない。でも、叩かれた痕は本物だった」

 

 チラと隣に視線を向ければ、暗闇の中でも清隆くんの目が鋭く細まっているのが見えた。これから起こり得るあらゆる可能性を考えて、今彼の頭の中では目まぐるしく一つ一つに対策が立てられているだろう。

 

「伊吹は、ある男と揉めて叩かれたと言っていた。……Cクラスの、ある男……」

 

 目を伏せ、清隆くんが思索に耽る。お互いに再び無言になれば、先ほどとは違い、冷たく鋭い沈黙の時間が流れた。

 

 ……ある男、ねぇ。星空を見上げながら、胸中でぼやいた。

 

「早くも面倒くさいことになりそうで今からドキがムネムネするよ」

「間違いない」

「清隆くん何気にネタスルーするの当たり前になってきたね」

 

 そうか? じゃないが。直前でもスルーしてるよね? 自覚ないわけないよね?

 

「伊吹の鞄の中身も確認しなければならないし、やることはたくさんある。葵はどうするつもりなんだ?」

 

 なんともいえない顔をしている私に、清隆くんがマイペースに尋ねてくる。頭を切り替えて素直に答える。

 

「こっちは臨機応変に対応って感じかな」

「今回は葵も動くのか」

「お痒いところはございませんか〜? ってね」

「ございまくります〜ってか」

 

 ……一拍置いて、同時に笑みをこぼす。

 清隆くんの雰囲気が、氷が溶けていくように徐々に緩んでいくのがわかった。

 

 

「いやぁ、それにしても高円寺くん笑ったね。笑えない?」

「笑えない……自由な男だとは思っていたが、まさかリタイアするとは。微妙な気持ちだ」

「あそこまで自由だといっそ清々しいよ。いいねぇ、自由」

「ああ、そういうことか。いいよな、自由」

「鳥になりたい鳥」

「じゃあ鳥籠用意しないとな」

「夜になる前に帰ってくるよ。というかそこは清隆くんも鳥になりたいって言うところだよ」

「鳥になりたい」

「二羽で大空に飛び立とう!」

 

 益体もない話だ。でも、このくだらなさが愛おしい。

 

 

 肩にそっと頭が乗った。私もその上に頭を乗せる。重なった箇所から、じんわり伝わってくる温もりが心地いい。

 

「もう少しだけゆっくりして、戻ろうか」

 

 

 星。綺麗だねぇ、ともう一度口にした。

 こういう時に返ってくる相槌は、格別に嬉しいものだ。

 

 

 

 

 




確認作業をした結果、平田は大丈夫だと判断された模様


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種まき

 さらりとした感触を腕に感じる。それと胸元で何かの気配。

 

 目を開けてすぐに広がった光景に、「お……あ〜……」と気の抜けた声を上げてしまう。思わず身動ぐと、寒そうに身を寄せられる。さっきよりも余計にくっついてしまった。

 

 今度こそ動けずにいる私の耳に、軽やかな鈴の音のような笑い声が届く。眠っている人に配慮した、小さな笑い声だ。

 

 視線だけを動かして誰か確認すれば、予想通りの人物と目が合う。ニコッと可愛らしく微笑まれた。

 

 

「おはよう、水元さん」

 

「く、櫛田さん……おはよう……」

 

 

 内心で『誤解! 誤解なんです! これはその、えっと、あのだから誤解です!』と、まるで浮気現場でも見られたみたいな反応で騒ぐも、内心だから櫛田さんが知る由はなく。

 

 軽く笑い返した私の顔が引き攣っていないことを祈るしかできない。腕の中にいる彼女の髪をこの美味しい状況で楽しまないわけがないので、まさに形ばかりの祈りではあった。

 

 ち、違うんです! 本当に誤解なんです! 信じてください! いやそれにしても堀北さんの髪やばくない? 髪ってこんなサラッサラになるんだすっごぉ……。

 

 

 

 

 日が昇ってきたのもあり、暑そうにしていれば櫛田さんに誘われて、一緒に顔を洗いに行くことになった。

 川に向かっている途中、櫛田さんがくすくすと笑い声を上げる。

 

「堀北さん、可愛い寝相してたね」

「うんん……あの、その、誤解しないでほしいんだけど決して私が抱き寄せたとかそういうわけではなく朝気づいたらああなっててだから私は関与してないわけでつまり事故ってことなん」

「待って待って、焦りすぎだよ! ちゃんとわかってるから! ふふ……それにしても、水元さんも随分慣れた抱き方? してたな〜とは思うけど」

 

 えっ!? と声が出た。素で動揺してしまった。

 

「そそそそんなことないと思うけどなぁ?」

「ふふっ、そういうことにしておこうかな?」

「誤解しないでください! 本当に違うんです!」

「うんうん、そうだね〜」

 

 見事に櫛田さんの手のひらの上でコロコロと転がされている。櫛田さんは魅惑の女の子です。

 

 というか慣れた抱き方ってなに!? 清隆くんか? たまに寝て起きたら腕の中いるもんな、清隆くん。逆もまた然りだが……。

 

 川に着いて、さっそく顔を洗う。冷たくて気持ちいい。

 川の水は地下水が湧き水として流れ込んでいる。だから温まりにくく冷めにくい性質があり、また上流から流れてくるから水温も上がりにくいという、まさに一石二鳥なのだ。

 改めて考えてみれば、本当に良いスポットを押さえられたなぁとしみじみと思う。

 

「気持ちいいねぇ」

 

 櫛田さんが濡れた顔をタオルで拭きながら、私に可愛らしく笑いかけてくる。今日も満点の笑顔だ。

 

 相槌を返し、テントに戻るために立ち上がる。と、その際痛んだ腰に手をやって、軽く摩った。

 

「? どうしたの、水元さん?」

「いやぁ、やっぱり地面が固くてさ。腰が若干痛いんだよね……」

「あ〜……そうだよね。私もちょっと痛いかも……」

 

 櫛田さんが苦笑する。私だけじゃなく、櫛田さんも痛むらしい。同じように腰を撫でている。きっと私たちだけでなく、他にも腰以外に各部位が痛む生徒が出てくることだろう。

 私も苦笑を返して、櫛田さんと目を合わせながら言う。

 

「なんとかクッションに代わるものを探さないとね。マニュアルでクッションを買うのはもったいないし」

「えっ、マニュアルにクッションなんてあるの?」

「え? あ、釣りの道具を見てたときに偶然クッションがあるのも見つけて。ほら、マニュアルって誰でも申請可能だし……平田くんも快く見せてくれたんだ」

「そうなんだ……そうだね。はやくクッションに代わるものを見つけないとっ」

 

 女の子の体はデリケートだもんね、とお茶目にウインクされる。うーん、何をしても満点。

 

 

「どこかに良いアイデアとかあったらいいんだけどな。参考にできるだろうし」

 

 

 そんなことを言いながら歩いていると、私は前方を見てあっという顔をした。それから少し声を潜めて櫛田さんを呼ぶ。

 

 私の突然の挙動不審な態度に不思議そうに首を傾げた櫛田さんが、私が指さす方を見て同じようにあっという顔をした。

 

「櫛田さん、あれ……」

「う、うん……平田くんに綾小路くんと……それと、Bクラスの神崎くんだね」

「なんかここから見たら三角関係みたいに見えるな」

「出てくる感想それなんだ……」

 

 視線の先には、隣同士で並んでいる清隆くんと平田くん、そしてこの二人に対面する形で神崎くんがいる。三人は何か話をしているようだが、会話を聞くには私たちがいる場所では遠すぎて聞こえない。

 

「BクラスがDクラスに一体何の用だろうね? 神崎くん一人みたいだし……」

「本当だ……神崎くん一人、だね……」

「こんな朝早くから活動的だなぁ。みんなほとんど寝てるのに」

 

 単独か誰かに指示されての行動かはわからないが、本当に立派なことだ。神崎くんならば単独の方が確率は高いと思うが。

 

 櫛田さんが不安そうに三人の様子を見ている。三人の様子が気になるようだが、どのみちこの距離じゃ彼らの話している内容はわからないし、櫛田さんもわざわざ話しかけに行くほど気にしているわけではないだろう。

 それに、そもそも少し考えたらわかることでもある。櫛田さんは頭が良いのだから。

 

 チラと櫛田さんの様子を横目で確認して、声をかける。

 

「もう戻ろうか。顔も洗い終わってスッキリしたし。みんなを起こさないといけない時間にもなるしね」

「う、うん。そうだね」

 

 櫛田さんを促して、彼らに背を向ける。

 

 やることは済んだ。種を蒔いたなら、後はその後の過程を見守るだけ。

 

 

 

 ………さて。今後の展開はどうなるか。

 

 

 いよいよ不明瞭になってきて、目を瞑り難しい顔をした。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 朝の点呼を終えると、平田くんの指示により各々でポイント節約のための作戦を開始する。一方、手伝う気のあまりない生徒もいるわけで、つまり堀北さんのような単独を好む人間はそれぞれ好き勝手を始める。

 櫛田さんはちょうど平田くんに話しかけていた。クラスの中心人物は大変だ。

 

 そんな私はといえば釣りで忙しい。池! 池! 釣り教えて! 清隆くんも早くこっち!

 

 

「何だよおまえら!」

 

 

 清隆くんを連れて池を探している途中、その池の怒った声が突然キャンプ地に響き渡ってびっくりする。清隆くんと一緒に声の方を振り向いて、状況を確認する。

 肩を怒らせている池の前には、二人の男子生徒が立っている。二人の浮かべているニヤニヤとした笑みがなんとも悪役っぽい。絵に描いたような悪役面だ。ちょっと感動する。

 

「すごい、見て清隆くん。絵に描いたような悪役面」

「葵、聞こえるからやめろ。確かにそうだがやめろ」

 

 ………ッフ、と近くで誰かが笑う気配がした。

 

 清隆くんと揃って声の聞こえた方を振り向く。伊吹さんだ。手の甲で口を押さえており、私たちと目が合うと気まずそうに目を逸らした。

 

 清隆くんと一度目を合わせる。

 

「オフレコでお願いします」

「……別に。告げ口する気はない。実際間違ってないと思うし」

 

 潔く頭を下げて平和的な解決を望む手を差し出せば、伊吹さんからあっさり、それも仄かにこちら側についているような返事が戻ってくる。ならば……ヨシ! 隣で清隆くんがため息をついた。

 

 二人の男子生徒は伝言を伝え終えると、しばらく挑発行為を繰り返し、散々池たちDクラスの生徒の反感を煽って帰って行った。最後まで立派な悪役を務めていた。

 

 彼らがいなくなってから、伊吹さんがぼそっと言う。

 

「私を探しに来た、ってわけじゃなさそうだな」

「ああ。単純に嫌がらせ目的っぽかったな」

「なかなかノリにノッた演技だったよね。すごく似合っモゴゴ」

「すまない。後でよく言い聞かせておくから、これもオフレコで頼む」

「……いや。だから、私は別に告げ口する気はないから」

 

 今度は顔ごと逸らされてしまった。

 

 清隆くんが後ろから私を抱え込んできっちり口を塞ぎながら、伊吹さんに疑問をぶつける。

 

「さっきあいつら、夢の時間を共有させてやるって言ってたが、心当たりはあるか?」

 

 伊吹さんが少し俯いて、思案する様子を見せる。

 

「もしかしたら、私の想像する最悪のケースで動いてるのかもな」

 

 そう呟くように言ったきり、伊吹さんは私たちから距離を取り、少し離れた木の傍に腰を下ろした。

 

 

「……偵察しに行く必要があるか」

 

 

 覆い被さるように私を抱きかかえているせいで、清隆くんが何か言うたびに吐息が耳にかかってくすぐったい。あとなんか……う〜〜ん。

 

 頭を意識して切り替える。

 

「モゴゴ」

「離さない。葵は……いや。葵は来なくていい。オレと堀北で行ってくる」

「モゴ」

「釣りは帰ってきてからだ。後でやり方教えてくれ」

「モゴゴ」

「櫛田? どうして櫛田の名前が───」

 

 朝食の呼びかけが聞こえてくる。

 

「モゴゴゴ」

「……そうだな」

 

 口を塞いでいた手がゆっくり離れていく。振り向いて、清隆くんの腕の中で笑う。

 

「昨日採ってきたきゅうりが朝食だって言ってたよ。一晩川で冷やしてたんだ、きっと美味しいよ!」

 

 ちなみにきゅうりを川で冷やすことを提案したのは私だ。どうせなら竹製のざるに入れて冷やしたかったのだが、さすがにそんな贅沢はこの状況で言えないので我慢した。どんな感じで冷やしているかというと、川の中で石を使って柵を作り、そこにきゅうりを立てかけて冷やしている。

 昨日からずっと楽しみにしていたのだ。清隆くんにもぜひ冷やしきゅうりを味わって感動してもらいたい。

 

 腕の中から抜け出して、手を引いてクラスメイトが集っている場所を歩いていく。

 

「よーし、今日はトマト狙う。川で冷やしトマト。想像するだけで美味しい」

 

 背後で軽くため息をつかれる。それから呆れたような声音で言われる。

 

「話を逸らそうとしてるんだろうが、後でちゃんと説教するからな」

「でも、警戒心はちょっとは解れたでしょ?」

「………」

 

 だから垂れ目のジト目は全然怖くないとあれほど。

 

 

 

 

 朝食を終えて私への説教も終わり、清隆くんが堀北さんのもとに向かう。

 

 清隆くんに呼ばれ、堀北さんがゆっくりテントの中から姿を見せた。それからしばらく二人は話していたが、堀北さんが一度頷いて動き始める。その足取りは軽いものじゃなく、どちらかといえば重いものだ。よく観察しなければ気づかない程度ではあるが。

 

 先を行く堀北さんについていく形で清隆くんも歩き始め、しかしある人物が彼らのもとに向かったことで歩みを止めることとなる。

 その人物を確認して清隆くんは目を丸め、堀北さんはわかりやすく嫌な顔をした。

 

 それからまたしばらく、今度は三人が話していたのだが、どうやら決着がついたらしい。ここからでもわかるくらい大きなため息をついた堀北さんがさっさと歩き始めて、その後ろを清隆くんと───櫛田さんが後に続く。

 

 

 ………少しだ。私が手を出すのは、少しだけ。

 

 

 一瞬清隆くんが私に視線を寄越してきたので、元気よくサムズアップを返しながら、そんなことを言い訳みたいに思う。

 

 手を出したとして、結果が変わらない可能性だって十分にあるのだ。そもそも手を出したというにはあまりに些細でもある。言っても所詮、キッカケを作った程度だろう。

 

 

 遠ざかって行く彼らの背中を最後まで見送ることなく、私も動き始める。有言実行が私の座右の銘なのである。

 食料調達班として櫛田さんが抜けたのは痛い。彼女の存在を目的にして協力していた人たちは、今日はきっと不参加だろう。しかし構わない。人数が少ない分、昨日より自由が利くはずだ。

 

 マニュアルを借りた際、こっそりページを千切って地図にした紙をポケットから取り出す。昨日食料を発見した位置には印をつけており、ついでに軽く辺りの地形なども描いておいた。今日は不自然な空白があるところに向かうとして……この付近が怪しいだろうか。

 

 ある程度あたりをつけ、再びポケットに紙を仕舞う。やることはたくさんあるのだ。釣りもしなければならないし、さっそく食料調達班の一員として集まらなければ。

 

 歩き出そうとしてすぐ、後ろから「あの!」と声をかけられる。それだけなら平然と対応できたのだが、その声の持ち主が誰か気づいて、思わず目を丸めて振り返った。

 

 

「み、水元さんっ! わわわ、私もついて行って、いい……かな……?」

 

 

 その声の持ち主───佐倉さんは頭から湯気でも出そうなほど真っ赤な顔をしており、上目遣いにそんなことをお願いしてきたわけだが。

 

 こんな無自覚あざといお願いの仕方なんかされたら、私が返す反応など最初から決まっているようなものであった。

 

 

 返事をした際、佐倉さんの花が咲いたみたいな笑顔はひたすらに眩しかったとだけ言い残しておく。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 バッグには大量のなすび、それと昨日と同じくきゅうりや果実が収められている。あんなに切望して精力的に動いたというのに、トマトは結局見つからなかった。世界はいつだって非情なのである。

 

「なすびまで見つけちゃうなんて、水元さんすごいよ!」

 

 わー! と隣で歓声を上げる佐倉さんに、「いやでも……」と落ち込んだ顔をする。

 

「トマトは見つからなかったから……」

「あ……そういえば、ずっとトマトトマトって言ってたもんね……」

 

 ずっとトマトトマトって言い続けてる私やばくない? 佐倉さん言い方。

 

 落ち込んでいる私を励まそうと、佐倉さんが必死に明るい声をかけてくれる。私の周りをぐるぐる移動して、何度も顔を覗き込んでくれる。

 その小動物的動きに癒されるもので、最初こそガチで落ち込んでいたのだが、今は落ち込んでいるフリをしていると言ったら彼女は怒るだろうか。

 

 佐倉さんに励まされながら歩き、キャンプ地に着く。今日の分の食料を調理班に報告し、すべて渡し終えたところで、ようやく私の時代がやってきたといえよう。

 

 川の方に視線をやれば、釣り糸を垂らしているクラスメイトがいる。今回買った釣竿は3本だ。見た感じ彼しかやっていない。後のみんなは……川で遊んでるんだろ(適当)

 

 パッと辺りを見回すも池が見つからないから、おそらく奴も川で遊んでいる組と見た。仕方がないのでさっそく探しに行く。別に嬉々としていない。『可愛い水着の女の子いるかも〜!』とか思っていない。

 

 

 心を躍らせながらみんなが泳いでいるだろう付近に向かう。私の後をそろそろついてくる足音がして、振り向いた。

 勢いよく振り向いたわけでもなかったのだが、目が合って軽く飛び上がられるとこっちがビックリする。

 

 眉を下げて、「あー……」と声を出した。

 

「佐倉さん……? 何か用事とかあったかな」

「あの、その……み、水元さんは……今から、何するんですか?」

「私? 私は今みんながいる場所に向かってるよ」

「みんなって……あ、泳ぐ……?」

「正確に言えば、泳いでいる人たちのところに行ってる感じ?」

「あ……水元さんは、その……泳がないの……?」

 

 予想外なことを言われて目を丸める。それから「まさか」と笑った。

 

「ごめんごめん、言葉が足りなかったね。釣りを教えてもらうために、泳いでいる人たち……池を探しに行ってるんだ」

「あ、そ、そうなんだ……水元さんが泳ぐわけじゃないんだね」

「あれ。佐倉さん泳ぎたいの?」

 

 言った瞬間佐倉さんは物凄い勢いで首を振った。振りすぎて首が取れそうとか思ったのは初めてだ。それから顔の前に両手を持っていき、首を振るのと同時進行でこちらも物凄い勢いで振る。

 

「ままままさか! それこそまさかだよ! わわ、私泳ぐの得意じゃないし、それに、は、恥ずかしいから……」

 

 手を振っている隙間から羞恥で赤くなった顔が見える。本当に恥ずかしがり屋らしい。

 

 ずっと首と手を振っていて疲れたのか、佐倉さんがようやく動きを止める。それから赤い顔のまま私を見て、尋ねてくる。

 

「水元さんは、その。泳ぐのは好きなの……?」

「水の中って気持ちいいから、泳ぐこと自体は嫌いじゃないかな」

「そうなんだ……」

 

 佐倉さんが『でも泳がないんだ……』みたいな顔をした。しかし顔だけであり実際声に出して聞かれてはいないので、これ幸いと気づかないふりをする。

 私だって、泳ぎたい気持ちがないわけではないのだ。ただ自ら肌を晒すというのは、どうしても抵抗感が強い。腕とか足はまあ誤魔化せるけど、お腹とか明らかだからなぁ……。

 

 シャツの上からお腹に手を這わす。相変わらず可愛らしい女の子とは程遠い。しかし同時にこれは努力の証でもあり、誇りに違いなかった。

 

 だから後悔は、ない。

 

 

「水元さん……?」

 

「そうだ、佐倉さん。佐倉さんも一緒に釣りしようよ。池に教えてもらおう!」

 

 

 さっき清隆くんも探したが、どうやらまだ帰ってきていないようだった。先に池から釣りの仕方を教わり、後で私が清隆くんにやり方を教えてあげるのもいいだろう。

 

 そうと決まれば善は急げである。

 

「行こう、佐倉さん!」

「あ、ま、待って!」

 

 駆け足になった私を佐倉さんが慌てて追いかけてくる。並びやすいように速さを調整しながら、まあでも一度は川でも泳いでみたいよな……と手のひらクルーして今後の予定を計算し始めた。

 

 正直お腹なんかどうとでも隠せるしな……タイミングが合えば行ってみよう。タイミングが合えば。

 

 

 

 予想通り川で遊んでいた池を捕まえ、陸地に引き上げ、釣竿の使い方やコツなどを伝授してもらう。

 しかし口頭の説明ではやはりどうにもしっくり来ないもので、お願いして釣り場まで来てもらい、そこで実践しながら教えてもらう運びとなった。

 

 佐倉さん目当てでついてきた山内を佐倉さんと二人で放置しつつ、池から熱心に釣りの仕方を教わる。

 実際に釣りをしてもらいながら、動作の途中途中で先ほど口頭でしてもらった説明を聞く。百聞は一見にしかず、やはりこちらの方が数段わかりやすい。

 

 最後に釣竿にかかった魚を見事な釣りテクニックで釣り上げてもらってから、手を振り去っていく池にお礼を言って、その場で見送る。山内はいらんから適当言って早々に池のもとに帰した。

 

 グイグイ来る山内に終始萎縮しっ放しだった佐倉さんは、ようやく山内がこの場からいなくなって安堵したのか、ホッと息を吐いている。

 

「ありがとう、水元さん……」

「いいよいいよ。佐倉さんもお疲れ様」

 

 好きでもなんでもない男子から絡まれるのは普通にキツいだろう。佐倉さんは生真面目だから尚更だ。ああいう輩は私くらい適当なのが適当に相手するのが一番である。

 

 

 山内もいなくなって、ようやく落ち着いて釣りができるようになる。教えてもらった通りの手順を踏んでから、念願の釣りを開始した。

 

 もちろんだが、すぐに魚がかかる気配はない。長丁場に備えて座り心地の良い岩場を探して腰を下ろし、釣竿をきっちり持った上で静かに目を閉じた。

 

 目を閉じれば、より一層自然の音が耳に入ってくる。川のせせらぎの音だとか、鳥の鳴き声だとか、風に揺れて葉っぱが擦れる音だとか。

 クラスメイトたちの喧騒が遠ざかって、一人だけ切り離されたような錯覚に陥る。……いや、今は二人か。しかし決して異物感はないのだから、佐倉さんも難儀な性質をしていると改めて思った。

 

 

 

 心地のいい沈黙を先に破ったのは、佐倉さんだった。どこか窺うように名前を呼ばれて、閉じていた目を開ける。

 

 隣を見て、緩く首を傾げた。

 

「どうしたの、佐倉さん」

「え、っとね……」

 

 急かすわけでも促すわけでもなく、続く言葉を静かに待っていると、わたわたしていた佐倉さんが徐々に落ち着いていく。

 

 それから落ち着いた様子で、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「……水元さんは、何か好きなこととか、ある?」

 

 

 思ってもみない質問だ。目を丸める私に、佐倉さんが釣竿を持っている手に視線を落としながら静かに続ける。

 

「私……私は、写真を撮ることが好きなんだ」

「うん。前言ってたもんね」

「水元さんは、何が好き?」

「うん?」

 

 やっぱり突拍子ない気がする。佐倉さん、何気に我が道行ってるからたまに振り回されるところある。

 

 しかし佐倉さんが私からの返事を待っていることは事実で、のらりくらり躱すことはできなさそうだ。それに好きなことを答える程度、何も問題はないだろう。あるかどうかは別として。

 

 佐倉さんから視線を離し、うーんと首を傾げて唸る。好きなこと、好きなこと……か。

 

「なんでも好きだよ」

 

 嫌いなものはない。

 

「なんでも……と、特に、とか」

「特に……うーん。部活とかでもいいの?」

「弓道?」

「うん。弓道とか好きだよ」

「それは、見てると伝わってくるな」

 

 佐倉さんがふふっと笑みをこぼした。

 

「他にはないの?」

「他に……」

 

 ……いや、思い浮かんではいる。思い浮かんではいるのだ。ただその中で一つを選べないだけで。

 

 最初に言った通り、私はこの世界のことならなんでも好きなのだ。

 

 ………どんどん自分が空っぽな人間のように思えてくる。普通に落ち込む。

 

「思った以上になんにもなかった……つまらない人間でごめん……」

「!? つ、つまらなくないよ! ごめんね、聞き方が悪かったかな」

「佐倉さんは何も悪くないよ……」

 

 全面的に私が悪い。ガックシと首を垂れて、乾いた笑い声をこぼした。

 

「せっかくこんな島に来てるんだし、佐倉さんはもっと好きなことしたらいいと思うな。私は面白味のない人間だし、一緒にいても楽しくないと思うよ」

 

 佐倉さんのことを考えて、そう言ったときだった。

 

 

「たっ楽しいもん!!」

 

 

 普段の佐倉さんからかけ離れた大声でそう叫ばれて、思わず呆気に取られる。まだ鼓膜がキーンとしている。

 

 呆然とした顔で隣の佐倉さんを見やる。

 

「え……あの……佐倉さん?」

「あ! これはその、ちがっ……違わないけど! でもそのッ……うー! たわー!!」

「うー! たわー?」

「!? ああああの、そのッ」

 

 佐倉さん面白すぎるな。うー! たわー! が好きすぎる。

 

 目をグルグルにして奇声(?)を上げる佐倉さんについつい和んでしまう。直前まで落ち込んでいたことはすっかり忘れていた。

 

 まだ何かもにょもにょ言っている佐倉さんをほっこりしながら見ていると、ふっと視界の隅に入ったのは、佐倉さんの持っている釣竿だった。それが尋常じゃなく震えている。

 間もなく糸がピンと張っているのにも気づいて、慌てて立ち上がった。 

 

「佐倉さん! 魚! 魚きてる魚!」

「え!? あっ!?」

「あーー! と、とにかく落ち着いて、リールを巻いて……って逆! 逆になってる佐倉さん!」

「あわわわッ」

 

 座っている佐倉さんの背中に回って、佐倉さんの釣竿に手を添える。リールを持つ手を重ね、正しい方向に一緒に回し始める。

 

 

「え!? 合ってますか!? これ合ってますよね!?」

「合ってる! たぶん!? なんか緩急が大事とか言ってたよね!?」

「そうでしたっけ!? あっ! これ以上リール巻けない! えっ!?」

「リール巻けなくなったら引っ張り上げたらいいんだよ! いける!?」

「いけっいけます! いけ……あーーー!」

「えっ……あーーー!」

 

 

 騒いで叫んでドタバタしているうちに、なんだか今起こったこと全部が無性におかしくなる。気づけば、口を大きく開けて笑っていた。

 

 お腹を抱えて笑っている私を見て、佐倉さんがきょとんと目を丸める。それから、私と同じように声を上げて笑い始める。私と比べたら上品な笑い方なのが、潜在的な女子力の表れであった。それすらおかしく感じる。

 

 クラスメイトたちの喧騒に、私たちの笑い声も混じる。愉快で平和な昼下がりだった。

 

 

 ちなみにだが魚は逃げていた。そりゃそう。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 佐倉さんと一緒にリベンジマッチを始めてしばらく経った頃、清隆くんが帰ってきた。並んで釣りをしている私たちを確認し、近寄ってくる。

 

「お疲れ、葵、佐倉。調子はどうだ?」

「清隆くんもお疲れ様〜」

「お疲れ様です」

 

 調子の方はこんな感じ、と獲った魚を入れていた鍋の中身を見せた。素直な「おお……」という感嘆の声を聞くことができて満足する。

 

 散々どうだ凄かろうと自慢し終えたところで、フッと遠い目をしながら暴露した。

 

 

「まあ八割くらい佐倉さんなんだけどね……」

 

「嘘だろ……?」

 

 

 そんな信じられないみたいな顔されても困る。私だってしたいよ。

 

 佐倉さんが私たちの会話を聞いて乾いた笑い声をこぼす。若干気まずそうだ。清隆くんがそれに気づいて慌てて否定した。

 

「あ、違うぞ。葵が自分の手柄みたいに報告してきたくせに、八割佐倉の手柄だと知って驚いたというか」

「何も誤魔化せてないぞ、清隆くん」

「あはは……別にいいよ。私も変な感じだから」

 

 話している間にも、佐倉さんの持っている釣竿がしなっている。どうやらまた魚がかかったようだ。

 

 場数をこなし、随分慣れた手つきで佐倉さんが釣竿を操作している。最初こそあんなに私と騒いでいたのに、成長スピードがおかしいと思う。

 

「コツとかあるのか?」

「えっと……なんていうのかな。魚の気持ちになる感じ……? それで、引いたり戻したりして、こっちにおいでーってイメージで……」

「私には一向にその感覚がわからない」

 

 そもそも釣竿が全く反応してくれなかった。もしかして私、魚に嫌われてたりする?

 

 新たに鍋に追加された魚を物悲しい目で見つめる。清隆くんは釣竿を取りに行ったので隣にはいなくなっている。

 

 本当に、最初は魚を釣り上げたものの触れないと半泣きで縋ってくる佐倉さんに代わって、魚を取って鍋に入れる係とかしてたのに……佐倉さんは半泣きしつつもいつのまにか全部一人でこなせるようになっていた。今では半泣きですらない。そのせいで私は余計に何もすることがなくなったという。

 

 まず魚だが、釣竿にかかってくれないと釣りとして話にならない。つまり私には成長も何もなく、それ以前の問題であった。

 

 佐倉さんがどんより落ち込む私を元気付けようと、声をかけてくれる。本日二回目である。

 

 

「だ、大丈夫だよ! それに私、落ち込んでる水元さんを見て『私が頑張らなきゃ』って思えたんだ。だから大丈夫!」

 

 

 何が大丈夫なんだろう……。

 

 よくわからない理論だったけど、佐倉さんなりに励まそうとしてくれているのはわかったので、素直にお礼を言う。浮かべた笑みは、眉を下げたなんとも情けないものではあったが。

 

「ありがとう、佐倉さん。もう少し頑張ってみるよ」

「う、うんっ! 一緒に頑張ろう、水元さん!」

 

 パァッと顔を明るくして笑う佐倉さんを見ると、やっぱり和む。悩んでいたことがどこかへ飛んでいくようだ。

 

 佐倉さんのおかげで気持ちを持ち直したところで、釣竿を握る手に力を込める。気合は未だ十分であった。まさか気合入りすぎて空回っているとかあるわけない。

 

 

「よしっ! じゃあ夕飯までもう一踏ん張りするか!」

 

 

 気合十分で再度釣りを開始した私の隣に、釣竿を取りに行っていた清隆くんが戻ってくる。タイミングが良いのか悪いのか。

 

 多少出鼻を挫かれたものの、自分の方の釣りは一時中断した。後でやり方を教えると約束したのは私だ。身振り手振り、口頭を用いてできるだけ丁寧に説明してやる。まあすべて池からの受け売りではあるが。

 清隆くんは終始素直に頷いて説明を聞いており、たまに何か疑問が出てきて私に質問してきては、都度やり方を把握しているようだった。

 

 一通り説明し終えて、他に聞くことはない? と首を傾げる。おそらく、と頷いてくれたので、ようやく自分の釣りに戻った。

 

 

 

 横並びにある程度の間隔をあけつつ三人、それぞれがそれぞれのペースで釣りを始めてしばらくして、そういえばと思い出す。ちょっとしたお節介心にも似ている。

 

 少し離れて隣にいる佐倉さんを見て、若干声を張り上げた。

 

「さっき佐倉さん、私に好きなものはないかって質問してきたんだけどさ、清隆くんには聞かないのー?」

「え……ええッ!?」

 

 見事に動揺している。佐倉さんの持っていた釣竿が大きく揺れた。あの様子を見るに、今かかりそうになっていた魚は逃げたな。私にチャンスが巡ってきた。

 

 魚の気持ちになる……魚の気持ちになる……と内心で呪文のように唱えつつ、マイペースに話を続ける。

 

「ほら、今ちょうど清隆くんフリーだよ。暇そうだから聞いてみれば快く答えてくれると思うなー」

「そもそも隣でそんな会話をされたら、今から質問をするも何もないと思うんだが……」

「清隆くんはシャラップ。ほらほら、佐倉さーん」

「えあッ……うう……その……」

 

 魚魚さかなさかなさかな……と目が血走ってるとは言わないが一心不乱に釣竿の先を見ていると、ぼそぼそ、なけなしの勇気を振り絞ったのがわかる声量で佐倉さんがさっきの質問を口にした。

 

 

「……あ……綾小路くんは、何か……好きなものとかって、ありますか……?」

 

 

 私を挟んでさらに隣からかけられた声だ。お世辞にも大きい声だとは言えない。

 

 しかし清隆くんは余計なツッコミを入れることなく、ちゃんと聞こえたぞとばかりに一度頷いてみせた。さすができる男である。

 

「好きなものか……なんでもいいのか?」

「な、なんでもいいですッ! 好きな魚とか魚の種類とか魚の色とか魚の形とか」

「もしかして魚限定なのか?」

「魚の気持ちになったらそういう風になっちゃうの?」

 

 まだまだ遠い道のりだな……と難しい顔をする。早く佐倉さんの域にまで到達したいものだ。

 

 清隆くんが釣竿を丁寧に動かしつつ、少し悩んだ様子を見せる。好きなもの、とか急に聞かれても案外思いつかないものなので仕方ないと思う。

 

「そうだな……葵はなんて答えたんだ?」

「私は弓道〜」

「葵らしいな」

「そうかな?」

 

 返事をした矢先だった。一瞬釣竿が反応した。

 

 さ……魚ッ! 今絶対かかった気がする。

 思わず前のめりになる。気が急いてルアーを巻く手に力がこもる。

 

 よし……よしよしよし、このまま! このままいけ! いけ! いけーッ!

 

「オレは……」

 

 ………見える何もない釣竿の先。呆然と釣り糸を摘んで持ったまま、ゆらゆら風に揺れている先っぽを見つめる。

 

 

 

「───……が好きなんだと思う」

 

「そ……っか。うん……うん。すごく良いと思う。素敵だなぁ」

 

 

 頭の中が逃した魚でいっぱいだった。

 私はまた……なんの成果も得られなかったのか……。

 

 

 悔恨の面持ちで歯を食いしばる。キツく目を瞑る。釣竿の悲鳴が聞こえるが、今の私に手を緩める余裕はない。

 

 震えた指先で持っていた釣り糸を離し、もう一度釣りを開始する。深呼吸を繰り返して、釣竿を持っていた手を緩める。何事も落ち着くことが大事だ。気張る必要はない。釣りは勝負事ではないのだ。

 

 

 隣で「お、」という声が聞こえた。顔を上げる。

 

 清隆くんの持っている釣り糸の、その先にかかっている……魚を、こぼれ落ちそうなほど見開いた目で捉えた。魚が清隆くんの手に渡る過程までしっかり見つめ続ける。

 

 

「そう言う佐倉の好きなものは何なんだ?」

「え、あ……私? 私は……写真を撮ることが好き、かな」

「写真か……自分のカメラを持ち歩いているくらいだもんな。納得だ」

「う、うん。でも、さすがにここには持ってこれなかったよ」

「私物の持ち込みは禁止だったからな。仕方ない」

「うう……残念だな」

 

 

 鍋に新たに加えられた魚を、自分の釣りそっちのけで食い入るように見つめる。

 

 

「本当なら、ここにデジカメがあったら……最高の一枚が撮れそうだったのにな」

 

 

 ……なぜ……? ぺいぺいの私よりはるかにぺいぺいのはずの清隆くんが、なぜ私より先に魚を釣り上げて……?

 

 

 油の切れたブリキ人形じみた動きで清隆くんの方を見やる。清隆くんは目を細めながら手を顎に当て、何か考えている様子だった。

 

 なるほど、じゃない。声に出してなくても唇が動いたら何言ってるかわかるんだよ。何を納得しているんだ。釣り方か? 釣り始めてさっそく魚を釣れて、さぞ気持ちいいんでしょうねぇ!?

 

 

 

 ムキになって対抗するように釣りを始めた私の成果、言うまでもない。

 

 

 

 

 

 




結果的に隠すことになった綾小路のセリフに特に意味はないので、またすぐ出てくると思います。


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エラーエラーエラー

 三日目。目が覚めて起き上がり、周囲を観察する。みんなリラックスした様子ですやすや眠っていた。かく言う私も、痛みのない体に人知れず感動している。

 

 昨日よりも断然快適に眠れ、気分は爽快であった。素晴らしい朝が来た。間違いなく希望の朝だった。

 

 

 ちなみになぜこんなに快適に眠れたかというと、昨日櫛田さん考案『トイレ用に支給されたビニールを使って、クッションを作ろう!』作戦が決行されたからだ。

 本人は「元々はBクラスの案だから、お礼とかいいよ」と苦笑して言っていたが、櫛田さん相手だからすんなり案を譲ることを了承してもらえたのだと思う。

 

 Bクラスの人は基本的にみんな優しいとして、それでもやっぱり自分たちで考えて編み出した案なのだ。それを他クラスに教えて、まして利用してもいいよなんて、いくら優しくてもさすがに言えないと思う。リーダーがどんなに優しくても、必ずどこかに反発者はいるはずだ。口では言わなかったとしても、内心でというのはあり得る話だ。

 

 しかしこうもスムーズに事を成せたのは、櫛田さんの人望のおかげと言って良いだろう。さすがDクラスの天使・櫛田さんだ。私たちに出来ないことをさらっとやってのける。

 

 

 

 昼前になって、今日も今日とてトマト探しに燃えながら空のリュックを背負った私のもとに、清隆くんがやってくる。

 

「ちょっといいか」

「よくない。見てわかるでしょ、今忙しい」

「今は何もしてないだろ。いいから」

 

 手を引かれる。後をついてくるよう言われるが、手を引かれているのに後をついていくも何もないと思う。強制で間違いない。

 

 トマト探しに燃えてはいるが、時間ならまだまだたっぷりあるのだ。櫛田さんにジェスチャーで今日は行けないことを伝え、了解という合図が返ってきたのを確認し、素直に清隆くんの隣について歩き出す。

 

「何するの?」

「高円寺が気になることを言っていてな。それの確認をしたい」

「オッケー」

 

 軽快に返事をしたところで、ふと違和感を覚えた。

 

 

 ───あれ……確かココは……?

 

 

「葵?」

 

 突然足を止めた私を、手を繋いでいたため清隆くんも同様に足を止めながら見てくる。緩く首を振って、なんでもないと返した。

 

 ハッキリと覚えていないなら、大したことじゃないんだろう。

 

 

 

 

 サクサクと土を踏んで進みながら、目印だという木に括り付けられたハンカチを探す。

 下ろすのを忘れてリュックを背負ったまま来てしまったのだが、中身はなく空っぽなので不便はない。清隆くんが代わりに背負おうとしたのだが、空っぽのリュックを背負えないほど脆弱ではないと断ったのがついさっきのことだ。

 

「ハンカチ見つからないねー」

「まだ大分先だ。近づいてきたらまた言うよ」

 

 歩いているうちに、段々と木々が生い茂った場所に入り込んでいく。本当に行き先合ってるのか? と訝しげに清隆くんを見るが、目が合えば頷くので間違っていないらしい。

 

 木々が生い茂っていくごとに先導するようになった清隆くんに、ありがたくその後をついていく。こういう場合だと体の大きい方が先に行く方が、何かと都合が良いものだ。小さい体で頑張っても、小さいが故に障害物の全てを退けることができない。結果的にどっちも怪我をするとかあり得る。

 別に私自身小柄なわけじゃないが、男子と比べたら当然小さい方になる。女の子同士だったらもちろん私が前に行くんだが。

 この学校の子、平均と比べたら小さい子が多いような気がする。だからみんな可愛いんだろうか?

 

 

 しばらく歩いて、前方もどんどん険しくなっていき、お互いに疲労を感じ始める。清隆くんの提案で少し休憩を取る運びになり、休む場所として最適な影ができる大きな木を見つける。

 その木の下に二人で座って一息ついていれば、虫が清隆くんの肩に落ちてきてお互い声なき声で騒ぐといった多少の紆余曲折があったものの、なんとか無事にハンカチの地点まで辿り着くことができた。

 

 汗の滲んだ額を腕で拭う。ふう、と達成感から息をついた。

 

「いやぁ、長い道のりだったね」

「こんなに疲れたと思うのは久しぶりだ……」

「虫はドンマイとしか言えない」

「葵がミスってとんでもないところに虫を飛ばしたからだぞ」

「頑張って助けたのにそんなこと言う!?」

 

 清隆くんの肩に乗った虫に気付き瞬時に木の棒を取りに行ったのまではよかったのだが、震える木先で虫を弾き飛ばしたら、力加減をミスり虫は肩から転がり落ちて今度は清隆くんのズボンについたという。終始固まっていた清隆くんはなかなかの見物であった。

 

 私も虫に必死になっていなければ、大笑いして清隆くんを見ていたというのに……至極残念だ。

 

 邪な考えがうっすら漏れたのか、じとっとした目つきで見られたので、普通にうまい口笛を吹いてその場を誤魔化した。

 

 

「それより、ほら。ここに何かあるんでしょ? 見つけないと!」

 

 

 清隆くんによると、高円寺くんはこの地点で意味深に「君たちにはこの場所がどんな風に見えているのかね?」とかなんとか言ったらしい。何か意味があると思ったらしく、その正体を突き止めたいというのが清隆くんの言だ。

 

 注意深く周囲を確認する。今まで歩いてきた森の中と何が違うのか、分析しようとするものの、一見しただけでは違いは見つかりそうになかった。

 ふむ、と近くの木に触る。そのまま裏に回ったり、近くの茂みを軽く左右に割ってみたりを移動しながら繰り返す。

 

「あんまり遠くには行くなよ。見失ったら大変だ」

「私が清隆くんを見失うわけない」

「オレも……って違う。そういう問題じゃない。とにかく、あまり離れすぎないように」

 

 りょーかい、と軽く返事をしつつ、周囲を探る手は止めない。後方でガサゴソ聞こえるので、清隆くんも探っているんだろう。

 『どんな風に見えているか』……か。高円寺くん、いろいろ規格外だからな……。

 

 何も見つけられないまま場所を移動すること、片手の指の本数をそろそろ超える頃。何度目かの移動後、ある茂みを視界に入れて、ここでようやく明らかな変化を見つけた。

 こちとら食料探索組で鍛えられた観察力と知恵がある。まだ経験数でいえば浅いものの、そんじょそこらの生徒にこの分野で負ける気はない。この分野が今後人生で役立つことがあるかどうかは謎なところではあるが。

 

「メーデー、メーデー、メーデー!」

「何か見つかったのか」

 

 声を上げれば、すぐに清隆くんがこっちに向かってくる。茂みを指差し、「たぶんここだよ」と言いながら清隆くんを置いて先に茂みの中に入っていく。

 

 ついてくる気配を感じながら、茂みを抜け切った先に広がる光景に目を細めた。

 

 

「……これは……トウモロコシ、か?」

 

「うーん、たぶんそう」

 

 

 同じく茂みを抜けてきた清隆くんが、隣に並ぶ。清隆くんは手を伸ばして実った果実を一本もぎ取り、本当にトウモロコシかどうかを調べている。

 確認はすぐに終わったようで、今は顔を上げて改めて周囲を観察していた。

 

「なるほど……高円寺が思わせぶりなことを言っていたのは、これだったのか」

 

 そして教えない意地の悪さ。さすが高円寺くんであった。

 

「とりあえずよかったね。また新しく食料が見つかった」

「ああ。微々たるものであっても、積もり積もればポイントの節約に繋がる」

 

 と、清隆くんが私を見て怪訝な顔になる。

 

「言葉の割に微妙な顔してるな?」

「私が探してるのはトマトなんだよ……」

「ああ……」

 

 そういえばずっとトマトトマト言ってたな、と呆れた顔をして言われる。私はこんなにトマトを求めているというのに、トマトがそれに応えてくれないのだ。魚と一緒である。

 

 落ち込んでいてもしょうがないので、トウモロコシの収穫を始める。ざっと数えた感じ、50本あるかないかくらいだ。

 置き忘れてきただけで、別に持ってくる意味なかったな〜と思っていたリュックが役立つときが来た。

 

「清隆くん、リュック入れて持って帰ろう。入らない分は手で持っていけばいけるかな」

「ギリギリいけるか」

 

 収穫したばかりのトウモロコシをリュックに詰めながら、区画内を移動する。新しく人が来てはいけないので、できるだけはやく収穫できるよう努めるが、この作業が結構難しい。

 なんとかリュックにパンパンになるまで詰め終わり、今度は手で持って帰る分を収穫していく。

 

 そうやって二人で四苦八苦しているときだった。

 

 

「見てください、葛城さん! 凄い量の食料ですよ!」

 

 

 聞こえた声に、一旦収穫をしていた作業を止める。二人で振り向いて、新たな来客の姿を確認する。

 

 別に初めて見るわけではないが、こんなに間近で見たこともなかったので、思わず目を丸めてしまった。葛城……くん? さん? うーん、どっちもしっくり来ないけど……どっちかというと葛城くんだろうか。

 あっちも急に顔も名前も知らないだろう私から葛城さん呼びされたら、驚くより先に引く可能性がある。よし、彼のことは無難に葛城くん呼びでいこう。

 なお戸塚弥彦は戸塚弥彦だ。それ以上もそれ以下もない。呼びやすくまた語呂も良くて、大変良い名前をしていると思う。

 

 全然関係ないことを考えながら彼らを眺めていた私だったが、清隆くんが私の前に出たことで現状を思い出す。

 

 戸塚弥彦は清隆くんの顔を見て、あっと声を上げた。

 

 

「おまえ、昨日スパイに来てた奴か!」

 

 いきなり怒鳴るのは良くないと思うな……。

 

 

 清隆くんの背後にいる形になっているため、うわぁ、という顔をした私は見えていないだろうが、葛城くんは怒鳴る戸塚弥彦をすぐに窘めて落ち着かせていた。

 

 それから顔を上げて、軽い自己紹介をする。

 

「俺はAクラスの葛城。こっちは弥彦だ。二度目だから自己紹介くらいいいだろう」

「オレはDクラスの綾小路だ」

「水元です」

 

 ひょこっと清隆くんの背中から顔を出して挨拶する。葛城くんは私の姿を確認して、軽く頷いた。

 

 短く挨拶を交わし合うと、葛城くんは戸塚弥彦を連れて回れ右をし、その場を後にしようとする。トウモロコシの存在を確認した上で、だ。

 

「それは君たちが見つけたものだ。無理やり横取りするつもりはないから安心しろ。しかしここを他の誰かに見つかれば持ち去られてしまう可能性は高いだろう」

「心配には及ばない。リュックがあるんだ。余りは手で持って帰ろうと思っている」

「しかし、手で持って帰るにも限度があるのではないか? ここからキャンプ地まで戻らなければならないだろう」

「あー……」

 

 清隆くんは葛城くんに言われて、今その考えに及びましたみたいな顔をしている。ぼけーっとした顔なら清隆くんは他の追随を許さない。

 対して私はといえば、言うてそんなに無理があるだろうか? と首を傾げていた。

 

 葛城くんが足を止めて私たちを見る。

 

「良ければ、我々も手伝おう」

「な、本気ですか葛城さんッ!? 二人いるんだから、どっちか片方が残って見張っていれば済む問題じゃないですか!」

「森の中を単独で動き回る危険性を軽視するな、弥彦。男だけならともかく、男女で行動しているのならどうしても行動に制限は付く」

「でも、Dクラスのために協力するなんて!」

 

 キャンキャン吠え立てて、当然と言えば当然の文句を言っていた戸塚弥彦だったが、葛城くんから鋭い眼光を浴びせられぐっと口を噤んだ。

 

 清隆くんはその一部始終を見ながら、少し考え込んだ様子を見せる。かと思えば、唐突に着ていたシャツを脱ぎ始めた。サービスショットかな?

 

「違う」

「急に何?」

「今失礼なことを考えなかったか?」

「別に」

 

 何も失礼なことなど考えていない。女性のサービスショットって需要あるけど、清隆くんはまた別枠として需要あると思うなーって考えたくらいだ。特に失礼には当たらない。

 

 訝しげに私を見ていた清隆くんだったが、改めて葛城くんに向き直る。

 

「シャツの口を結べば袋の代わりになる。これで一回で運べる量を多くできると思う」

「見たところによると、最低二往復は避けられないだろう。そもそも、男が持てる量と同量のものを女性が持てるとは思えない」

 

 清隆くんと二人であっという顔をする。第三者視点で考えることを忘れていた。

 

 いや、それにしても葛城くん紳士すぎるな……モテる。これはモテるぞ。だからこそ惜しい。本当に惜しいよ……。

 葛城くんの頭部を失礼のない範囲で見る。病気のため仕方ないこととはいえ、やはり惜しい。

 

 再び全然関係ないことを考え始めた私と違い、清隆くんは真面目に葛城くんに言われたことを考え、少し逡巡してから首を振った。

 

「ありがたい申し出だけど、うちのクラスから注意するように言われてるんだ。Aクラスに頼ったと知られたら後で怒られる。悪いけど辞退させてくれ」

 

 それを聞いて葛城くんがふむ、と彼らしい仰々しさで頷いた。

 

「なるほど。そうであるなら無理にとは言えないな。だが、こちらの言っていることを信用できるのか? おまえたちが立ち去った後すべて持っていく可能性もあるだろう」

「その場合は、今手に持ってる分で諦めるしかないな」

 

 葛城くんはそこまで聞き終えて、後は何も言うことなく静かに私達が通れる分の道を空けた。

 

 違和感を抱かれないように、リュックに無理やり詰めていた分を清隆くんの即成シャツ袋に投入する。手で持って帰る分として集めていたトウモロコシを追加すると、すぐに袋はいっぱいになった。

 行こう、と声をかけられ清隆くんについて歩く。

 

 

 十分葛城くんたちと距離を取った頃に、清隆くんが口を開いた。

 

「葛城たち、どうするだろうな」

「さぁ……でも、葛城くんの性質から考えると持って行かないと思うよ」

「どうしてそう思う?」

「男女の違いとか、そういう普遍のことを考えた上での発言をしたから。私的な指摘をすることもなかった……あれ? 今私ダジャレ言った?」

「言ってない」

「もっかい聞く?」

「いらん」

 

 最初の怜悧な雰囲気からすっかり遠ざかり、最終的には駄弁りながらキャンプ地まで帰ってくると、クラスメイトたちが私たちの姿を見て生温かい目を向けてきた。トウモロコシを確保してきたというのに、同じ熱量で喜びを分かち合ってくれる人がいない。

 

 清隆くんと目を合わせてなんだこの空気? と首を傾げ合いつつ、荷物を下ろしに行く。途中で清隆くんが池を捕まえて、残りのトウモロコシを取りに行くよう頼む際に、池まで生温かい目を向けてきていることに気づいた。

 

 理由を聞けばなんでもないと言われる。あからさまになんでもなくない態度なのに、怪しすぎる。

 

 何度か清隆くんと私でしつこく聞いていれば、疲れたようにため息を吐いた後、げんなりした様子で池が言った。

 

 

「片方上だけとはいえ裸なんだからさ、ちょっとは離れるくらいしたらどうなんだよ。普通どっちかは恥ずかしがるもんだろ? ……え? 俺が間違ってる……?」

「……清隆くん」

「待て、急に顔を青ざめるな。自分の体を抱きしめてすごいスピードで離れて行くな」

 

 

 すかさずガシィッと腕を掴まれる。赤くなって顔を両手で隠しながら逃げる方がよかっただろうか?

 

 

 両腕を掴まれ、強制的に向かい合わせになりつつやいのやいの言い合う。今からでも遅くない、普通を装うんだ派閥の私ともう手遅れだ、諦めろ派閥の清隆くんで熾烈な口合戦を繰り広げている間に、気づけば池は消えていた。ついでに周囲にいる人たちも各々自由に動いている。こっちを一切見てくる様子はない。

 

 とにかくさっきの空気はどこかに行ったらしい。ああいう雰囲気はどうしても居心地の悪い気分になるので、助かった。

 

 

 ホッと息を吐く。清隆くんに腕を離すように言って、しっかりシャツを着させた。

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 無人島生活もついに四日目となった。折り返しを迎えれば、先行きが見えなかった生活にもいよいよ終わりが近づいてきたのだという実感が芽生えてくる。クラスメイトたちの顔色も明るい。

 ポイントも予定より多く節約できている。今では全員……とまではいかないが、大半の生徒が川の水を飲むことにも抵抗が無くなったようだ。

 野菜、果実、魚などの食料も豊富に見つけ、また捕まえることだってできている。無人島生活は極めて順調であると言えよう。

 

 そしてこれは大事なことだが、変なものを買って無駄遣いしていない。そう、していな……。

 

 

「…………」

 

 

 私が過ごしているテントとは別に、もう一方の女子テントの中にいつのまにかあった扇風機は見て見ぬフリをした。世界の強制力というものをひしひしと感じた。沈黙は金。

 

 

 

 

 釣りの練習を終えて、実際チャレンジして今日は三匹釣り上げることができ、満足な結果に終わる。やはり落ち着いてすることが大事なのだ。

 ついつい一匹釣り上げるごとに興奮してしまってなんか倍近く魚を逃した気はするが、釣り上げた数がゼロじゃないから結果オーライである。

 

 気分良く、今度はトマト探しに行くかと空のリュックを背負った私だったが、昨日と同じく背後から近寄ってくる足音の後、全く昨日と同じセリフで「ちょっといいか」と声をかけられた。同じ手口にはかからない。

 

「じゃ、そゆことで」

「まだ何も言ってないだろ。いいから」

 

 手を引かれる。デジャヴであった。

 

 しかしまあ、無人島生活はまだまだあるのだ。焦る必要はない。

 切り替えて、清隆くんの隣について歩き始める。今日はなんと清隆くんも空のリュックを背負っていた。昨日の反省を活かしてだろう。

 

「今日はどこ行くの?」

「船で島の周囲を旋回していたとき、葵にも不自然な箇所が見えただろ。何があるのか確認しに行きたい」

 

 これは確か……記憶が間違っていなければ、清隆くん単独行動だったはずだ。そこでは大きな出来事も起こらなかったはず。それならば、私一人加わっても支障はないだろうか。

 

 わかった、と頷いて二人で森の中を進む。

 

 

「清隆くん、さっき私魚三匹釣れた」

「一昨日より調子良かったってことか?」

「断然調子良い。これは清隆くんにも勝つる」

「……探索から帰ってきたら勝負するか」

「吠え面かかせてやるよ」

「鼻を明かされるのはどっちだろうな」

 

 

 駄弁りつつ歩いていると、Aクラスのエリアにあっという間に着く。そのまま洞窟に向かうというわけでもなく森の中を進んで行き、微かに聞こえてきた波の音を頼りに木々を掻き分けて海岸を目指す。

 

「ストップ」

「はーい」

 

 森を抜けてすぐ、数歩先が崖になっている。このまま進んでいれば危なかった。

 

「確かこの下だったはず……」

 

 崖から下を覗き込む。洞窟からそう離れていないこの場所には、複数の施設が覗いていたが……ビンゴだ。

 

 どうにか下に降りられないものかと崖に沿って歩く。死角にハシゴが作られていることに目敏く気づき、頑丈さを確認した上で清隆くんに続いて降りていく。

 島に上陸する前に存在に気づけなければ、まず辿り着けない場所であることに間違いない。

 

 しばらく歩いて小屋を見つけ、二人で中を覗く。釣り道具がいっぱいだ。素直に羨ましい。

 小屋の出入り口にはスポットである証の装置が取り付けられており、予想通りAクラスの文字があった。葛城くんで間違いない。さすがAクラスといったところか。

 

 清隆くんがポケットから紙を取り出し、小屋の場所を書き記している。地図代わりだ。私と同じでマニュアルから破り取ったものであろう。

 しかしこれ以上好き勝手破っていると、平田くんが泣いてしまうかもしれないな……えっ平田くんの泣き顔!? …………。

 

「葵、この周辺はもう何もなさそうだし、上に戻って───なんだその顔は」

「罪悪感に満ちた顔だよ」

「それにしては目が輝いてるぞ……」

 

 それは清隆くんの錯覚だ。イケメンは泣き顔もイケメンなんだろうなとか別に考えていない。

 

 

 来た道を戻って、もう一度ハシゴを使って崖の上を目指す。先に上がらされたため、最後は清隆くんに手を差し伸べて彼の体を引き上げた。

 シャツについた汚れを払いつつ、「次は向こうの塔に行くの?」と聞く。首肯が返ってくる。

 

 島を旋回していたときに見えた景色と島、塔の位置と方向を照らし合わせ、「こっちかなぁ」とぼやきつつ再び森に入る。

 しばらく歩いて道が踏みならされていることに気づくと、清隆くんと揃って目を合わせた。

 

「Aかな」

「Aだろうな」

 

 ぼやぼや思い出してくる。なんだかこの後、あんまり楽しくない出来事があったような……いや。それを言い出したらキリがないことは事実だ。

 本当にAなのか確認するためにも、先に進まないことには話も進まない。

 

 前提知識があると言っても、詳細を覚えていないんじゃ役に立たない。重いため息を吐きたくなった。

 物語の根幹を揺るがすようなことや、印象に残ったことならば自信を持って覚えていると言えるのだが、果たしてこの先記憶がハッキリしなくてもやもやすることは一体何度あるのか。もしかしたら最初から覚えていない出来事もこれから出てくるだろうか。……そうだ、昨日だって。

 いや、すでにこれまでに……現時点で……?

 

 

 ………ドツボに嵌りそうだ。緩く首を振って、終わりのない思考から抜け出そうとする。

 

 自然と俯いていたので、なんでもないような表情を取り繕って顔を上げた。

 

 

 握った手から伝わる熱さを感じながら、大丈夫だと、暑さでうまく頭が回らない今は根拠なく信じることしかできない。

 

 

 

 

 

「そこで何やってる。ここは俺たちAクラスが利用している場所だぞ」

 

 

 楽しくない出来事ってこれ? 本当碌なことじゃなかったな。

 

 清隆くんと私を取り囲むようにして、Aクラスの男子が集ってくる。二対二だ。同じ数なのであまり圧迫感がないことは幸いだろうか。

 私たちが塔の端末から離れたのを見て、スポットを占有したかどうかを確認しに来たんだろう。

 

「お前たちは? 見ない顔だな」

 

 Aクラスの一人が持っている木の枝を、清隆くんの喉元に突き出した。脅迫まがいにもほどがある。

 枝折ってやろうかと思わないでもないが、どうせ実際にはこちらに手を出せないことも事実だ。ここは大人しく変に目立たないようにしておく方が良いだろう。

 

 清隆くんは脅迫に屈したように、すぐに名乗りを上げた。

 

「Dクラスの綾小路だ」

「聞いたことないな。そっちは?」

「水元です」

「こっちも聞いたことない名前……いや待て。有名なバカップルが確かお前たちみたいな名前だった気が……?」

「人違いじゃないですか?」

 

 どうやら私たちと似た名前をした、傍迷惑なバカップルがこの学校には存在するらしい。勘違いも甚だしい。Dクラスの日陰者である私たちには関係ない話である。

 

 眉を寄せて怪訝そうにしていたものの、今はそんな悠長にしている場合ではないと判断したのか、Aクラスの男子が再び威圧的な態度に戻って「怪しいものを持っていないか調べろ」と指示を出す。その言葉を聞いてすぐに私たちに手が伸びてきた。……いや待って、私一応女子だぞ。嘘だよね?

 

 とか思っていたら、私が何か言う前に清隆くんが黙っていられなくなったのか口を開いた。

 

「リュックはそっちに渡すから、好きに調べればいい。体はどうせズボンのポケットくらいしか調べる場所がないんだ、ポケットの生地を表に出せば確認できるだろ」

「……本当に他に隠してないんだろうな?」

「隠していない。あまり無理やり触ってくるようだと、教師に報告する。オレはいいかもしれないが、こっちは女の子なんだ。話を聞けば、教師だってそれ相応の対処をするはずだ」

 

 数秒睨み合いのようなものがあったが、折れたのは向こうだった。不確かな要素でポイントを減らされたくはないだろう。それもたぶん罪状はセクハラになると思う。あまりに不名誉であった。

 

 苛立たしげな舌打ちの後に、リュックを寄越せとつっけんどんに手を出される。

 一人の手に私たち二人分のリュックが渡って、隈なく中が確認されている。その横で私たちはズボンのポケットをひっくり返して、表に出して見せる。

 

 

 結局見つかったのは、清隆くんがポケットに入れていた紙とボールペンだけだった。それ以外は何もなく、最初から空っぽだったリュックが手元に戻ってくる。

 

 紙に書かれてある地図を確認して、Aクラスの男子が訝しげに目を細めた。

 

「何を狙ってる。お前たちだけの行動か?」

「……それは言えない」

 

 少し溜めての返事だ。清隆くんの言葉を聞き、嗜虐げに歪んで吊り上がっていく口が見える。

 

「なるほど。言えないということは、後ろで糸を引いてるヤツがいるってことだな? Dクラス全体で何か企んでいるのか? それとも一部の人間か?」

 

 リュックが戻ってきてからは、清隆くんに背中に隠されてしまっていた。今は前に出るなということだろう。こう隠されてしまっては後ろから私が答えるのもおかしな状況であるため、大人しくしておく。

 ……それにしても、今さらな気はするが私の背中に隠され率高くないだろうか? 自ら隠れる時もあるとはいえ、そろそろ違和感も感じなくなってきたな。いや、出る時は私も前に出るんだが。

 

 ………私だって清隆くんを隠せるぞ。謎の対抗心が湧いてきた。

 

「言えない。言ったら……オレたちはクラスに戻れなくなる」

「下っ端は辛そうだな綾小路。まあいいだろう。だが、何を頼まれたか知らないがこれ以上余計な行動はしないことだ。ベースキャンプで大人しくしておくんだな」

 

 ボールペンだけが足元に放り投げられて返ってくる。対面している清隆くんが動かないので、私が代わりにボールペンを拾って自分のポケットに仕舞った。

 この人たちも同じく下っ端だろうに、どうしてこうも態度に違いが表れるのか……やはりAクラスとDクラスという意識の差だろうか。

 

 そのまま高圧的な態度で「クラスを売れば報酬をやる」と提案されるも、同じ下っ端の言うことなんて信用ならないに決まっている。

 清隆くんが話を引き伸ばし、「信用できる人が取り計らってくれるのか?」と言いながら、Aクラスのリーダーである二人の名前を出した。

 

 瞬間、Aクラスの男子たちの顔色が変わる。

 

 

「何でそこで葛城の名前が出る」

 

 

 もう行っていい、とさっきまでの詰問はなんだったのかというくらい雑に放置され、清隆くんと二人その場でポツーンと立ち尽くす。

 

 振り向いた清隆くんと目が合って、お互いなんともいえない顔をした。

 

 

 

 

 ここにずっといても仕方ないので、また二人で歩き出す。

 しばらく歩いてAクラスの生徒たちがいる場所から十分離れたくらいになると、立ち止まった清隆くんが私の方に振り向く。

 

「どこも触られてないよな?」

「清隆くんが未然に防いでくれたからね。清隆くんも大丈夫だった? 喉とか怪我してない?」

 

 手を伸ばして清隆くんの首に触れる。見た感じも触った感じも擦り傷一つなさそうだ。改めて怪我がないのを確認すると、思わず安堵の息をついた。

 

 最後にそっと一撫でしてから手を離す。

 

「ひとまず何もされなくてよかったね」

「ああ。……だが、気分は悪かったな」

「そりゃそうだよ。なんでああ高圧的になれるのかわからない」

 

 驕り高ぶっているだけであそこまではならない。私たちがDクラスだから、あの態度だったのだ。それだけは確かに言えたことだった。

 

 そう思えばAクラスも随分混沌としているものだ。たとえどのクラスであろうと、代表に立ってクラスメイトをまとめる人は大変だなと改めて思う。

 

 さっき出会った、高圧的な態度で他所に敵を作るタイプの彼らも問題児であることに違いはないが、私と清隆くんみたいに単独行動をする輩もどこにだっているわけなのだから。

 

 

 

 

 




露呈する主人公の記憶の不確かさ
一体何度あるんでしょうね


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シック・ジョーク

 茂みの前で二人で座り込み、果実を物色する。手のひらには、ぷちぷちともぎ取った小さな果実が載せられていた。

 船で島を旋回したときに不審に思ったところを、二人で記憶を照らし合わせつつバーッと見て回ったのもあって、私たちは結構な重労働をしていた。崖だって何度か上り下りしている。

 

 つまり何が言いたいのかというと、ちょっとくらいつまみ食いしてもよくない? ということである。

 

 

 お腹空いたな〜、ね〜とか会話しているうちに運良く見つけたのは、池から教えてもらった果実の一つであるクロマメノキだ。甘さ控えめの素朴な味は、なかなかどうして美味しいものだった。また食べたいと思っていたので、見つけられてとても嬉しい。

 

 それぞれお好みの量を取って、近くの川を探す。

 

「葵、こっちに川がある」

「よし! でかした清隆くん!」

 

 振り返って、清隆くんのもとに小走りで向かう。手招きされるまま隣に並んでしゃがみ込み、果実を乗せた手のひらごと川に浸す。

 

「あー……冷たくて気持ちいい……」

「ずっとこうしてたいな……」

「手がふやける……」

「そういう問題か?」

 

 綺麗に洗ったクロマメノキを、一個一個口に運ぶ。やっぱり美味しい。

 

 先に食べ終わった清隆くんが、私を見ながらなんとなーく緩んだ雰囲気になっている。美味しいものは世界を救うという証左であった。

 仕方ないので、最後の一つは清隆くんの唇に押し付けて与えてやる。存分に美味しさを味わって欲しいし分かち合いたい。

 

 お互い小腹が満たされたところで、再び行動を開始する。

 

「Cクラスの様子を見に行こう」

「一昨日は私に来なくていいって言ってたくない?」

「だから、遠目から見るだけだ。それに、もうほとんどの生徒が船に帰っているんじゃないかと思って」

「まあいいんだけどね……」

 

 Cクラスが拠点にしていたという浜辺に着く。見渡した先は、すっかり閑散とした光景が広がっている。極少数の生徒が海で遊んでいるのが見えるが、それも時間の問題だろう。

 

 わかりきっていた光景を見ていても何も思わない。強いて言うならトマトのことしか考えていない。

 

 島を探索している道中、効率よくいこうと食料も探していたのだが、その尽くが残念なことに収穫済みというものが多かった。どのクラスも食料探しに奔走しているということだ。見た感じ私自身が収穫した場所も多かったため、根絶やしにしているのは私かもしれないが。

 この島にいるのがDクラスだけじゃないことは重々承知しているのだが、やはり収穫済みの跡を見ると不安になる。だって、だって……!

 

 

 ───私はまだ、トマトを収穫していない……!

 

 

 すでに他クラスで収穫済みであることは考えない。トマトの痕跡を見ていない。それだけで希望の光を絶やさない理由となる。絶望するにはまだ早いのだ。

 

「トマト早く見つからないかな〜……」

「トマトも夏野菜だからな。きゅうりと同じで、この島にある可能性がないわけじゃない」

「川で冷やして食べたい」

「映画のやつな。美味しそうに食べてたよな、あの姉妹。実際きゅうりは美味しかった」

「おばあちゃんの知恵ってやつなのかな。私あのシリーズで出てくる料理、全部網羅してみたいんだよね」

「わかる」

 

 大きいベーコンと卵を一緒に焼いて食べるだとか、目玉焼きを清隆くんと半分こしてパンに載せて食べるだとか、簡単にできるものはすでにチャレンジ済みだ。特別試験から帰ったら、またいろいろチャレンジせねばならない。

 夏休みの前半、私たちは某シリーズを全部見ようとDVDをレンタルしてきて、映画鑑賞会をやっていたのだ。そのため、まだまだお互い記憶に新しい。

 

 あれがよかったこれもよかったと呑気に話を咲かせていると、後ろからとんでもなく可憐な声が聞こえてきた。同時に体に稲妻が落ちてきたような衝撃が走る。

 

 

「なになに、なんだか楽しそうな話してるね!」

 

「一之瀬、急に話しかけたら相手が驚くだろう。ほら、水元が固まってるじゃないか」

 

 

 いいい一之瀬さんだ……今日も光り輝いている……そして明日も光り輝いている……ッ!

 

 いつまでも顔を合わせず固まったままでいるのは失礼に当たると、振り向いた瞬間に真っ向からの光の量が凄まじく目が潰れた。

 

 

 目を押さえてよろめく私に「え!? 急にどうしたの!? 大丈夫!?」と純然たる何の混じり気のない心の底からの心配をしてくれて、一之瀬さんが駆け寄ってくれる。

 一之瀬さんの手が私の体に触れる前に「大丈夫だ」と返して清隆くんが私を腕で囲い、体を支えてくれた。感謝しかない。一之瀬さんに触れられたらそのまま心臓爆発するところだった。

 

 久しぶりの一之瀬さんだからか、破壊力がすごい。これは定期的に摂取して耐性をつける必要が……あるかもしれない。

 

「一之瀬たちはどうしたんだ? こんなところで」

「え……? いやいやいや、そんなことより水元さんだよ。本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だ」

「なんだか妙に既視感ある気がするね、この会話……」

 

 一之瀬さんがしきりに首を傾げまくっている。そんな姿も可愛い。幼い仕草がとてもよく似合っている。可愛い! 可愛い!

 

「一之瀬さん本当に可愛い!」

「にゃっ!? え! 突然だね!? ……な、なんだかこの会話も既視感ある気がするな!」

 

 真っ赤になりながら「揶揄ってるよね!?」と精一杯怒ってますアピールをする一之瀬さんも可愛い。

 

「お前たちは食料探索か?」

「ああ。見ての通りの結果だ」

 

 神崎くんと清隆くんが騒ぐ一之瀬さんの横で、いつもの感じで会話を繰り広げている。

 清隆くんが自身のリュックを軽く手で押す。途端に萎んで潰れた様子は、中に何も入っておらず成果が芳しくないことがよくわかるだろう。

 

 私はといえば、可愛く怒っている一之瀬さんにうんうん菩薩の顔をして頷いていた。何をしていても一之瀬さんは可愛いのである。

 

 

 浮かれた生返事しかしない暖簾に腕押しな私に、一之瀬さんもツッコミ疲れたのか肩で息をしている。

 

「うう……まだ納得いってないんだけど……」

「水元っていつもこんな感じなのか? 綾小路」

「そうだ。だから気にするな」

「神崎くん、こんにちは!」

「直前まで俺のこと忘れてなかったか?」

 

 忘れてはいない。神崎くんもイケメンでいいと思う。目の保養だ。まあ私は平田くん派なんですが……。

 

 だんだん耐性ができてきたので、異常なテンションも徐々に落ち着いていく。

 もう一人で立ってられると、清隆くんに腕を離すよう彼の体を軽く叩いて合図する。離されないまま会話が続行する。

 

「一之瀬たちは?」

「俺たちは……偵察だな。Cクラスの様子を見に来たんだ」

「せっかく来たけど、こんなに人がいないんじゃね……Cクラスのリーダーくらい当てたかったんだけど、これじゃ難しいね。神崎くんの言った通り、Cクラスはリタイア作戦かな」

 

 一之瀬さんと神崎くんがほとんど無人となった浜辺を軽く見渡す。どこか哀れんだような視線を向けている。

 

「Cクラスはポイントを使い切ってるわけだよね? 私たちがリーダーを見抜いたとして、ペナルティってあるのかな」

「2学期への悪影響はないと言っていた以上、0以下になることはないだろう」

「ポイントを使い切る作戦、か……褒められたことじゃないけど、やっぱり凄いよね」

「考えついても実行しないようなことだ。この試験はプラスを積み重ねるための試験だ。それを放棄した時点で龍園は負けている」

「そう考えると、誰がリーダーかを当てるなんて無茶苦茶難易度が高いよね。無理無理」

「今回は大人しく見送り、手堅く試験を送るのが良さそうだな」

「うんうん。私たちには地道な戦略が一番だよ」

 

 赤裸々といってもいいくらい、二人は自分たちの方針を隠すことなく聞かせてくる。真偽の程は定かじゃないが。

 

 一之瀬さんたちは取り越し苦労と判断し、興味を失ったようにCクラスの浜辺から視線を外す。そこでちょうどいいと思ったらしい清隆くんが、気になっていたことを二人に聞き出している。

 

「ちょっと小耳に挟んだが、Aクラスは葛城と坂柳のグループで対立しているのか?」

「仲が悪いって話は事実だね、結構激しくやりあってるみたい。それがどうかしたの?」

「いや。堀北に時間があれば探って来いって命令を受けてただけだ。Aクラスを切り崩すチャンスはそこにあるとかどうとか」

 

 さらっと堀北さんの存在をアピールしつつ、気になることを確実に聞き出していく。

 

 しばらく会話した後、手に入れたい情報をある程度揃えられたらしく、清隆くんは満足したようだ。二人に向かって一度頷いてみせた。

 

「なるほどな……後で堀北に伝えておく。ったく、自分で調べろと思うが、人使いが荒いからな。おっと……今のは聞かなかったことにしてくれ。後で怒られるのはしんどい」

 

 よくそうぺらぺらと嘘八百を……いや、巧妙に事実も織り交ぜているからこそ見抜けない嘘……恐ろしいモノを見てしまった。

 

 知ってはいるけど清隆くん、恐ろしい子……! 私にその恐ろしさは向けてこないでほしいものだ。

 

 

 

 いろいろ話し込んでいるうちに、結構時間が経っていたらしい。

 神崎くんが腕時計を見て時刻を確認し、一之瀬さんにそろそろ戻るべきだと声をかける。一之瀬さんも指摘されて時刻を確認し、慌てた様子になる。

 

 私たちも頃合いだと目を合わせた。

 

「オレたちもそろそろ食料を探しに戻るよ。手ぶらで帰ったら怒られる」

 

 大きく手を振って別れを告げる一之瀬さんに、こちらも大きく手を振り返す。清隆くんはコクリと頷くだけだった。せっかく一之瀬さんが手を振ってくれているというのに、相変わらず清隆くんはもったいないことをしている。

 

 改めて二人きりになり、さっき言った通り私たちも動こうと声をかけようとして、なんだか妙な雰囲気になっていることに気づく。

 

 清隆くんが私をじっと見下ろし、口を開いた。

 

 

「葵は一之瀬のこと、どう思ってるんだ?」

 

 

 急に何を言っているのか。心底質問の意味がわからなくて、首を傾げまくった。

 

 

「そりゃ好きだよ。あんな天使この世に二人と存在しない」

 

「………」

 

 

 深々とため息をつかれた。体を折り曲げた清隆くんが、私の耳元辺りに頭を押し付けてくる。腰に回った腕が締まる。

 私としては子どもが力加減をミスりつつ抱きついているような感覚だ。つまり普通に痛い。

 

 なんだか夏休み前にも、経緯は違えど似たようなことあったなと思い出した。

 

「それよりトマト探しに行こうよ。トマトが私を待ってる」

「…………」

 

 無言で腕を締めないでほしい。でも清隆くんもトマト欲しいって言ってたよね?

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 無人島での特別試験が始まる少し前のことだ。一学期終業式の節目の日、私はついに迎える夏休みにワクワクしていたのだが、あえなくそのワクワクはボードを持った悪魔に奪い去られることとなる。

 

 

「綾小路、水元。帰る前に少し話がある。指導室に顔を出すように」

 

 

 それ、本当に私いる……? 加えてホームルーム終了直前に言うという意地の悪さ。おかげで視線が私に集中する。後方座席にいる清隆くんより、前方座席にいる私の方に視線が集まるのは自然の摂理であった。

 せめて個別に呼び出して知らせるとかの配慮はなかったのだろうか。先生、私と清隆くんをセットだとか勘違いしてない? 困るよ。巻き込まれ体質の人と一緒にしてもらっちゃ。

 

 

 

 先生が教室を去ってからも居心地の悪い空気に晒されつつ、手早く荷物をまとめる。こうなったらさっさと指導室に行ってこの空気から逃れようと、清隆くんの方を振り向いて見た。

 ……なにやら須藤に絡まれている。堀北さんも口が開閉しているのを見ると、彼らの会話に入っているようだ。

 

 先に行っても仕方ないので、荷物を持って清隆くんの席に向かう。

 

「なあ堀北。その、夏休み……暇か? ちょっと出かけようぜ」

 

 聞こえてきたところによると、どうやらちょうど須藤が堀北さんを遊びに誘おうとしているらしい。清隆くんが私に気づき、手招いてくる。

 手招かれるまま清隆くんの隣に立ち、須藤の懸命な頑張りをすぐ近くで聞く。

 

「どうして?」

「そりゃ、夏休みだからだっつーか。楽しまないと損だろ。映画観たり服買ったりよ」

「くだらないわね。夏休みとの関係性もないし。そもそもどうして私を誘うの?」

「ど、どうしてって。なんでそこだけ鈍いんだよ……」

 

 秒で敗色濃厚となっている。哀れ、須藤。

 

 本心から誘われている理由がわかっていなさそうな堀北さんに、須藤がもどかしげに頭を掻き毟る。しかし切り替えたのか、勢いよく顔を上げた。

 

「だからアレだよ。その、な? 男が休みに女を誘うってことはだ……」

 

 須藤が堀北さんに話しかけている間に荷物をまとめていたらしい。清隆くんが私の手を取り、指導室に向かおうとする。当然心細くなった須藤に引き止められる。

 

「おいどこ行くんだよ」

「どこって先生に呼ばれてるんだから仕方ないだろ」

「少しくらい良いだろ? 傍にいてくれたって」

 

 『あとなんか、お前らがいたらうまくいきそうな感じする。ごりやく? みたいな……』『『何だそれ……』』とかなんとか清隆くんと私と須藤の三人でコソコソ話している間に、堀北さんは堀北さんで荷物をまとめていたらしい。

 淡々と「さよなら」とだけ言い放ち、堀北さんは颯爽とその場を去っていった。無言で去っていかないだけ私たちよりもマシに思える。

 

 須藤は隙のない堀北さんの後ろ姿を呆然と見た後、また頭を掻き毟った。

 

「……くそ。全然ダメだな。部活行くか」

 

 ふむ。顎に手を当てて、須藤に声をかける。

 

「最初から単体で誘うんじゃなくて、団体とかだと警戒心が薄れるかも? あと誘う内容も、堀北さんが興味のあるものにするとか」

「そッ……それ、本当か水元!?」

 

 言った途端、掴みかかる勢いで須藤が私のもとに近寄ってくる。目を輝かせて近寄ってくる様子は、動物を思わせなくもない。大型犬かな……。

 

「本当本当」

 

 まあそもそも、堀北さんが誘いに応じる気がなければ最初から成立しない話だが……そこまで伝える必要はない。結局のところ、須藤の頑張りであることに変わりはないのだから。

 

 なんかこう、須藤は手を差し伸べたくなる一所懸命さというか……健気って言うのかな。そういうのがある。思わず胸を打たれてしまうのだ。

 

「そ、そうか……なるほど。わかった! ありがとな、水元! 助かるぜ!」

「うん。頑張れ〜」

 

 ゆるーく激励の声をかける私に片手をあげてみせて、須藤が明るくなった顔で部活に行くため教室を出て行く。

 

 今度こそ私たちも指導室に向かおうと、顔を上げて清隆くんを見た。なんとも言えない顔をして私を見ている。

 

「なに? どうしたの、清隆くん」

「いや……葵も残酷なことをするなと思って」

 

 堀北さんの鉄壁を知っているが故に、変な期待を与えるなというあたりだろうか?

 

 あんまりな言い草に軽く笑って、清隆くんの手を引いて歩いた。

 

 

「希望は大事だよ。そうじゃないと、浮かばれない」

 

 

 

 

 指導室前まで行くと、扉の前に人影が見えた。茶柱先生だ。どうやら扉の前でわざわざずっと待っていてくれたらしい。

 私たちに気づいて、俯いていた顔を上げる。

 

「入れ」

 

 端的にそう言って、中に入るよう指示する。

 

「呼ばれた理由が全くわからないんですけど」

「中で話す」

 

 繋いでいた手が一瞬強く握られる。来たのは一度だけとはいえ、指導室にはあまり良い思い出がないのは本当だ。

 

 渋々中に入り、茶柱先生が席につくまでを二人で立ったまま見る。

 

「指導室と聞くと嫌なイメージがあると思うが、ここは存外に悪くない場所だ。何故なら監視の目がない。個人のプライバシーに多くかかわる話をすることが多い故の配慮だ」

 

 警戒しているのがわかっているのだろう。だが、その言葉に「はあそうですか」と素直に頷けないのも、彼女自身の今までの行動を思い返してほしいものだ。

 

「それで話ってなんです? 今から夏休みの計画を立てるんで忙しいんですけど」

「そうだな。早く終わらせるには、お前たちの協力も必要だな」

 

 何かしらの意図を含ませた言い方だ。いつもの茶柱節というには、いつもより不穏さが増している気がするのは間違いじゃないだろう。

 

「今日は少し、私の身の上話を聞いてもらいたいと思ってお前たちを呼んだんだ。教師になってから、今まで誰にも話したことがない話だ。戯言と思って聞け」

「その前にお茶でも淹れましょうか。喉も渇くでしょ。葵、コップとか用意してくれないか」

「了解」

 

 給湯室の扉を開ける。

 

「この話を他の人間に聞かせるつもりはない。納得できたなら席に戻れ」

「……そうですね」

「でもせっかくだしお茶淹れようよ。茶柱先生も緑茶でいいですよね?」

「それもそうか。一回茶柱立ててみたかったんだよな」

「いいから座れ」

「「はい」」

 

 圧がすごかったので、余計なことはせず大人しく席につく。茶柱先生に対面する形で二人並んだ。

 

「お前たちDクラスには、担任の私はどんな風に映っている?」

「また抽象的な質問ですね。美人だとは思ってま……」

 

 これ以上茶化したら殺されそうな視線を向けられた。清隆くんは引き際をわかっていないのだ。……いや、茶柱先生にはわざとかもしれない。

 

「……他所の先生と比較して構わないなら、Dクラスの行く末などどうでもいいと感じている、生徒に興味のない冷たい担任。といったところでしょうかね」

「水元はどうだ?」

「清隆くんと同じ感じですね」

 

 両方の意見を聞いて、茶柱先生が口端をくっと持ち上げた。皮肉っぽい笑い方だ。

 

「間違ってます?」

「いや、その通りだ。否定するものは何もない。だが、それは真実とは違う」

 

 回りくどい言い方をする。早くハッキリ言ってしまえばいいのに。

 

 

「私は以前この学校の生徒だった。お前たちと同じDクラスだった」

 

 

 過去を悔いているような話し方だ。話を聞けば、茶柱先生の所属するDクラスはあと一歩のところでミスをして、Aクラスになるという目標も夢も崩れ去ったという。それも、茶柱先生の犯した罪によって、とのことだった。

 

 しかし私たちからすれば、だからなんだという話でしかない。

 

「話が飲み込めませんね。その身の上話とオレたちに何の関係があると言うんです?」

「お前の……お前たちの存在は、Aクラスに上がるために必要不可欠だと私は感じている」

「何を言い出すかと思えば。冗談でしょ」

 

 

「数日前。ある男が学校に接触してきた」

 

 

 綾小路清隆と水元葵を退学にさせろ、と。

 

 

 

 空気が一変する。茶柱先生が醸し出している気配だけではない。

 

 机の下で未だ離さずにいた手に、爪が突き刺さる。すぐに気がついたようで緩められるも、動きが固い。

 

 

「退学させろって、そりゃまた意味不明ですね。それが誰だか知りませんが、本人の意思を無視して退学なんてさせられませんよ。ですよね?」

「もちろんだ。第三者が何を言っても退学になど出来ない。この学校の生徒である限り、お前たちはルールによって守られている。しかし……問題行動を起こしたら話は別だ」

 

 

 茶柱先生の口から問題行動の一例として、喫煙、苛め、盗み、カンニングなどが挙げられる。それを聞いた清隆くんが淡々と答える。

 

「残念ですけど、どれもするつもりはないんで」

「お前たちの意思は関係ない。私がそうだと判断すれば全てが現実になるということだ」

 

 

 

「───もしかして、脅してるのか?」

 

 

 

 ………び……ビックリした……。

 

 

 清隆くんが身を乗り出し、茶柱先生の胸倉を掴み上げている。手出すの早くない?

 

 

 呆気に取られて清隆くんと茶柱先生を交互に見やる。清隆くんは感情を削ぎ落としたような無表情をしているし、茶柱先生は容赦なく胸倉を掴み上げられて苦しいのか、顔を歪めている。

 

 い、いやいや……ダメだよ。女性には紳士的にいかないとだな……。

 

 清隆くんを宥めすかして、なんとか茶柱先生から手を離させる。しかし一度身を乗り出し中途半端に立ち上がっていたのもあるのか、促しても座る気配はない。

 

 茶柱先生に掴みかかった拍子に離れた清隆くんの手は、横目で見ると拳を作って握り込まれている。この握りようだと、手のひらに爪が突き刺さっているだろう。

 

 

「……これは取引だ、綾小路。お前は私のためにAクラスを目指す。そして私はお前たちを守るために全面的にフォローする。良い話だとは思わないか?」

 

 

 なりふり構ってられなくなったとしても、茶柱先生の度胸には素直に感心する。それとも、清隆くんの様子に気づくほどの余裕が今はないのか。

 なんにせよ、覚悟が決まっていないとできない芸当だ。今の清隆くんには、私だって動くのを躊躇するほどの圧を感じる。

 

 少し経って、ふっと緩んだ清隆くんの手が私に伸びる。再び手を取られて、席から立ち上がるよう引っ張られた。

 

「帰ります。この話をこれ以上聞くつもりはないんで」

「残念だ綾小路。お前たちは退学になり、DクラスはまたもAクラスには辿り着けない」

 

 立ち上がらない私に清隆くんが焦れている。

 

「もう一度だけ聞こう。Aクラスを目指すか退学するか。好きな方を選べ」

「……あんた、どうかしてる。土足で人の家を踏み荒らしているようなもんだ。堀北があんたに不快感を表したときの気分がよくわかったよ」

「……そうだな」

 

 ここで茶柱先生が自嘲気味な笑みをこぼした。今まで強気だったのがまるで嘘みたいに弱々しい雰囲気だ。瞳はわずかに潤んでいる。

 

 

「私は私自身に驚いている。まだAクラスを諦めきれていないことに気づかされてな」

 

 

 しかし一瞬にして元通りの雰囲気となる。鋭い眼光で、睨みつけるように立ったままの清隆くんを見上げた。

 

「お前が自発的にDクラスを導いてくれればと思っていたが、これ以上猶予を与える余裕はない。今ここで決断しろ。私に手を貸すのか貸さないのか」

 

 時間にすると数秒。両手の指で数えられる程度の時間。

 私たち三人しかいないこの部屋では、誰かが何かを言えばよく聞こえる。

 

 清隆くんの口がゆっくりと開く。

 

 

 

「これが殺意なら、間違いなく、今オレはあんたを殺してる」

 

 

 

 ………こ……怖……。

 

 怖い。シンプルに怖いよ。殺意じゃなくて良かったよ。

 

 

 話の最中ぐいぐい引っ張ってくる手に抵抗して、こちらもぐいぐい引っ張り返す。私はまだ彼女に用事があるのだ。

 

「葵、」

「私はまだ此処にいる」

「………」

 

 譲る様子のない私を見て、清隆くんの顔が歪む。ゆっくりと手が離れていき、その緩徐とした動作とは真反対に素早い動作で踵を返した。この場にこれ以上居たくないのだろう。

 

「待て、返事は」

「オレを利用してAクラスになったところで、それはあんたがAクラスになったわけじゃない。自己投影も随分悲惨なことだ」

 

 吐き捨てるようにそれだけ言って、今度こそ清隆くんが部屋を出て行く。頭を冷やす時間は必要だ。今の清隆くんは感情を表に出しすぎている。

 

 

 

 茶柱先生は部屋を出て行った清隆くんを追うように視線を扉に向けていたが、ゆっくりと、対面にいる私に視線を戻す。

 

 さっきまで強気な様子だったのに、また弱々しくなっている。取り繕っているのはわかるが、視線のブレが隠し切れていない。呼吸も少し早くなっている。

 

 私が此処に残った理由に大したものはない。特に話したいこともあるわけじゃなかった。

 ただ、そう。少し雑談がしたくなったのだ。本当にそれだけの理由で留まった。……いや、多少私情も混ざっているだろうか。

 なんにせよ、気まぐれであることに違いはない。

 

 

「茶柱先生」

 

 

 対面にいる彼女を呼ぶ。

 

 

 さて、今からする話に彼女はどんな反応をしてくれるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 ───そんな感じで茶柱先生を揶揄っていたら、清隆くんが乱入してきて途中で話は終わってしまったのだが。

 

 

 指導室を出て、しばらく歩いてのことだ。今の感じで、廊下のど真ん中で抱き締められたのである。終業式のおかげで人通りがなかったのが幸いレベルの抱きつき方だった。

 

 今みたいに体を折り曲げて、私の耳元辺りに頭を押し付ける。腰に腕を回し、二本の腕で拘束する。

 

 違いがあるとするならば、あのときは終始無言だったが、今は話す余裕があるということ。なら、今の方がわかりやすくて良い。

 

 

「私の一番は清隆くんだよ。どうしてそんなに不安になってるの」

 

 

 ポンポン優しく背中を叩いて撫でてやる。私の言葉を聞いて、なぜか体に回る腕がさらに締まった。

 

 自分でも恥ずかしいと思うことを言ったというのに、返事がない。私ばかり恥ずかしい思いをしているというのは割に合わないので、清隆くんに顔を上げるよう促して返事を催促する。

 

 

「清隆くんは?」

 

「………」

 

 

 

 小さく開いた口から紡がれた名に、私は嬉しくなって頰を染めて笑った。

 

 

 

 

 



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円満解散

 何やら近くのテントが騒がしい。一番近いのは、私たちが過ごしているテントとは別の女子テントだ。イケイケ女子グループのテントともいう。

 

 騒がしさに目が覚めて、体を起こす。私以外の生徒も続々と起き出しており、困惑に顔を染めながら目を合わせて、「何があったの?」と誰かから事情を聞こうとする。しかし別テントでの騒ぎだ、様子を見に行かないことには事情を知るも何もない。

 

 櫛田さんも起きて、困惑しながら「ちょっと様子を見てくるね」とテントを出て行った。その後を数人の女子生徒が追う。

 

 

「……なに……なにがあったの?」

 

 

 気怠げに、隣にいた堀北さんが起き上がる。起きたばかりでまだ舌がうまく回っていない。

 堀北さんは自分の体を抱きしめるように二の腕を掴んで、ゆっくり腕を摩っている。

 

 その様子から視線を外し、テントの外を見やった。

 

 

「さあ……でも、きっと良いことじゃないな」

 

 

 

 

 軽井沢さんの下着が盗まれた。犯人は男子以外あり得ない。

 

 篠原さんが女子を代表して、起き出してきた男子を糾弾する。平田くんが懸命に落ち着かせようとするが、女子は男子を犯人と決めつけて譲らないし、男子は疑われて徐々に機嫌が悪化していく。

 

 それから始まった男子の荷物検査は、最後尾の山内池清隆くんで多少の滞りはあったものの、問題なく終える。

 しかしココで矛を収められたなら、最初から揉め事にはならないのだ。

 

 

「あのさ平田くん。もしかしたらポケットとかに隠してるかも知れないよね? さっき池くんと山内くん、それから綾小路くんがコソコソ話してたのも気になるし」

 

 

 さらに始まる身体検査。疑われている山内、池、清隆くんの順番で平田くんが隈なく確認する。

 全然関係ない話だけど、目を瞑って平田くんからの審判を待つ清隆くんには思わず笑いそうになった。笑っていい状況ではない。

 

 身体検査の途中、清隆くんと平田くんが一瞬視線を合わせる。それだけで、清隆くんが下着を持っている……持たされていることは確実にわかった。どうやら結局貧乏くじを引かされたらしい。

 

 一度荷物を片付けてくるから、と平田くんが言って、男子がそれぞれ荷物を置きに行く。清隆くんはテントの中に戻り、その後を平田くんが続いた。

 他の男子も動いているから、誰もその行動を怪しんでいない。きっと今頃二人はテントの中で……と謎の空白を作ってみれば、なんか妙な雰囲気にできるよね。後で清隆くんに言ってみるのも悪くないかもしれない。頭小突かれるかな……。

 

 

 くだらないことを考えているうちに、清隆くんと平田くんが戻ってきていた。平田くんが呼びかけて、再びDクラスの生徒が集まってくる。今度は軽井沢さんもいる。

 

 真っ赤に目を腫らしている様子は、直前まで泣いていたのがよくわかった。

 

「男子は信用できない。このまま同じ空間で過ごすなんて絶対無理……!」

「でも、男女で離れて生活するのはちょっと問題じゃないかな……。試験はもう少しで終わる。だからこそ、僕たちは仲間なんだから信じ合い、協力し合わないと」

「……それは、そうだけど。でも下着泥棒と一緒の場所なんて耐えられない!」

 

 平田くんがなんとか説得を試みるも、被害者は軽井沢さんなのだ。これ以上彼女に妥協するように言うのは二次被害に当たる。

 平田くんも重々承知なのだろう。それ以上言うことはなかった。

 

 それから話はとんとん拍子で決まっていく。

 男子と女子でエリア分けをすること。男子テントと女子テントを離すこと。そして、女子テントを移動するのに平田くんが手伝うこと。後の男子は信用ならないとの言である。

 

 ここまで順調(?)だったのだが、ここで異を唱える人物がいた。

 

 

「ちょっと待って。あなたたちに異議を唱えるわ。特に軽井沢さん」

 

 

 冷め切った空気の中、それを意に介さず声を上げる堀北さんの精神はさすがであった。

 

 軽井沢さんが訝しげに眉を寄せて、堀北さんを見る。

 

「なによ堀北さん。今の話に不満あったわけ?」

「男女で生活区画を変えるまでは構わないわ。犯人が見つかっていない以上、その可能性が高い男子から距離を取ることは間違いじゃない。だけど私は平田くんを信用してないもの」

 

 つまり堀北さんが言いたいのは、みんなが認める平田くんも下着泥棒である可能性は除外できないということ。そして平田くんだけが特別に女子のエリアに入って構わないというルールを作るのは納得がいかないということだ。

 

 それを聞いた軽井沢さんの顔色が変わる。憤怒から目を吊り上げ、堀北さんに詰め寄った。

 

「平田くんがそんなことするわけないでしょ。それくらいわかんない?」

「それはあなた個人の考えでしょう? 私にまで同じ考えを強要しないで」

 

 徐々に彼女たちの言い合いがヒートアップしていっていることがわかる。堀北さんの言い方は、軽井沢さん以外の女子も不快な思いにさせられている。

 男子だって女子の鼻を明かせて今は良い気分かもしれないが、堀北さんの矛が自分たちに向いたら不快な思いにさせられるはずだ。

 

 頭は良いが、対人関係には難がある。堀北さんの弱点が、今この状況においてもろに出ていると言っていいだろう。

 

「平田くんが犯人なんてこと絶対にない。彼氏どころか、まともな友達もいないあんたにはわかんないかも知れないけどね」

「何度も同じ事を言わせないで。彼一人じゃ納得しかねると言ってるのよ」

「じゃあ聞くけど、平田くん以外に信用できる男子なんて───!」

 

 あーあ、これからもっとヒートアップしていくんだろうな〜とか明後日の方向を向いてトマトのことを考えていたときだ。

 

 

「平田くん以外に……信用できる男子なんて……」

 

 

 軽井沢さんの言葉が急に尻すぼみになった。さっきと同じセリフを繰り返しているのも変なのに、勢いだってまるっきり変わっている。

 

 視線と一緒に明後日に飛ばしていた思考が戻ってくる。……あれ? なにこの展開。

 

 

「いるでしょう。ほら」

 

 

 シーンと静まり返った場には、堀北さんのそんなに張っていないはずの声もよく響く。

 

 Dクラスの生徒の視線が一点に集まっていた。私もその視線の先を追う。

 

 

 

「…………え?」

 

 

 

 清隆くんが自分を指さして、心細そうな声で「オレ……?」と言っている。え……? 清隆くん……?

 

 

 

 

 誰かが言った「解散」の一言で、集まっていたDクラスの生徒がバラバラに散って行った。私と清隆くんだけがその場に留まっている。

 

 二人しかいないため、当然目が合う。そしてもう一度心の底から「「え……?」」と言い合った。

 

 

 

 え……? 何この展開……?

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 清隆くんと平田くん(途中平田くんが女子に呼ばれて抜けたため、実質清隆くん一人)が頑張って女子テントの移動が終わる。これで女子と男子の完全なる分断が完成された。

 額の汗を拭い、疲れたように息をついている清隆くんのもとに労いに行こうとして、それより先に伊吹さんが向かったのが見える。足を止めて、少し悩んだが踵を返すことにした。

 

 

 

 今の時刻は10時をまだ回っていない。昼までは釣りをしようと、釣り道具を取りに行く。

 

 川辺へと向かえば、もはやこの場所では見慣れた姿が先に釣り場にいることを確認し、いつものように声をかけに行く。

 

「佐倉さん、今日も釣りに精出してるね」

「あっ、水元さん! うん、釣りって慣れると楽しいね」

 

 本当に楽しそうな様子を見ると、最初に誘ってよかったな〜と思う。楽しいなら何よりだ。

 少し間隔を空けて、隣に座る。今日の目標は……昨日よりも釣り上げること。つまり、五匹以上ッ!

 

 やる気に満ち溢れている私を見て、佐倉さんが楽しそうに笑っている。

 

「そういえば水元さん、昨日綾小路くんと釣り勝負してたよね。確か……」

 

 あっ……という顔をする佐倉さん。できるならその話題を出す前に気づいてほしかった。

 

 釣り糸を川に垂らしながら、フッ……と笑う。

 

「ギリギリで負けたんだよね……四匹と五匹は誤差だと思うんだよ、私」

「え……で、でも、水元さんすごく頑張ったと思うよ! だって最初全然釣れてなかったのに、昨日は四匹も釣れてたもん!」

 

 本人には一切悪気がなく、純粋な気持ちからの褒めとちょっとしたディスり(事実なだけ)が入るので、喜べばいいのか悲しめばいいのか分からない。喜べばいいと思うよ。

 

 佐倉さんが話題に出すから、昨日、私より多く釣り上げたことがわかったときの清隆くんのドヤ顔を思い出した。あれは絶対にドヤ顔だった。

 

「……今日は六匹釣り上げることにする」

「え? あ、そうだね。一緒に頑張ろう!」

 

 これで昨日の清隆くんより釣って、昨日の清隆くんに勝ったということにする。本人に言えばまた再戦になることは想像に容易いので、黙っておこう。

 

 佐倉さんと健闘を祈り合い、今度こそ釣りに集中する。

 

 私だって学習したのだ。釣りは燃えすぎると魚が寄ってこない。ほどほどの気持ちですることが大事で……まってコレ魚じゃない!? 落ち着け落ち着け落ち着けよしよしよしゆっくりリールを巻いて───

 

 

 あっ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 特別試験6日目。どうやら今日は朝からツイていない天気模様だ。重たい雲が空を覆っており、色も灰色と不穏な雰囲気を醸し出している。この分だと、雨が降るまでそう時間がかからないだろう。

 しかし地面を見れば、所々水溜まりがあったり泥濘んでいたりと、雨自体はとっくに降っていることがわかった。昨日みんなが寝静まった深夜から早朝まで降っていたんだろう。本当に嫌な天気だ。

 だが、私たちにとって好都合なことも確かだった。

 

 Dクラスの雰囲気は落ちに落ちている。一昨日までは男女協力し合い、和気藹々とまではいかないが順調に絆を育みつつあったというのに、すごい落差だ。6日目にして初日に返った感がすごい。

 

 昨日、どうやら堀北さんは清隆くんにイケイケ女子グループが申請した快適寝グッズをリークしたようで、その後なぜか私が清隆くんに怒られる羽目になるということがあった。両頬をつまんで遠慮なく伸ばされまくるという理不尽な目に遭ったのだ。でも仕方なくない? 制御できないものはできないよ。

 

 いくら清隆くんに怒られても、私から言うことは何もない。イケイケ女子グループも黙って快適寝グッズ……扇風機を購入したことに罪悪感はあったのか、それともこちらのテントの誰かが不平不満をこぼしたのか。真偽は定かではないが、購入した扇風機のうちの一つを一昨日こちらに譲ってくれたのだ。

 そのため私もさらに快適に寝られるようになったという恩恵を受けているのもあるし、あまり彼女たちを責める気にはなれない。やっぱり扇風機の存在は偉大だった。発明した人はすごいと思う。

 

 その後扇風機の偉大さを長々と語ったからイラッとして頰を引っ張られた気がしないでもないが、恨むなら女子に生まれなかったことを恨んでほしい。清隆くんも女子だったら快適に過ごせたと思うよ。今から清隆くんも女子にならないか?

 

 

「葵」

 

「あ、清隆くん」

 

 

 ぼーっとしていると隣に清隆くんがやってくる。並んで一緒に空を見上げていれば、清隆くんがポツリと「荒れそうだな……」なんて言葉をこぼした。果たしてどっちの意味で言っているのか。

 

 そして、正確に言うならば荒らすのは私たちだ。実行するのが清隆くんだとしても、間違いなく私だって加担しているのだから。

 

 

 

 

 平田くんの呼びかけでDクラスの生徒が集まる。今日を乗り切れば、明日は最終日のためポイントを使うこともない。自然と激励の言葉に力が籠っていく。

 ひとまず今日の分の食料を確保するため、班分けが始まった。私は……今日こそはトマトを見つけたいので、食料探索班だな。一応どの班に所属するかは希望制なので、ありがたいところだ。

 

 佐倉さんは釣り班がよかったようだが、すでに池や須藤といった男子に釣竿を取られており、入れなかったみたいだった。肩を落としているのが遠目に見える。

 

 一番人数の多い探索班から、平田くんが指示を出して挙手制でグループを作っていく。清隆くんの班に入ると真面目にトマトを探しに行けないので、早々に手を挙げた。隣にいた清隆くんがギョッと私を見てくる。すまない、私にも譲れないものがあるのだよ。

 最後まで手を挙げることなく残った余りものメンバーは、清隆くん、堀北さん、佐倉さん、櫛田さん、山内といった愉快なメンツとなっていた。楽しそうでいいと思う。

 

「葵……」

「健闘を祈る」

 

 同じ班の子に呼ばれている。清隆くんには良い笑顔でサムズアップを返してから離れた。

 

 今日こそトマトが私を呼んでいる!

 

 

 

 

 探索を開始して、しばらく歩いてのことだ。予定外のハプニングが起こった。

 昨日の雨で泥濘んだ地面で足を滑らせ、同じ班の一人がそのまま傾斜を滑り落ちてしまったのだ。

 

 しかし滑り落ちたのが崖じゃなく、緩やかな傾斜だったのは幸いだった。これが崖だったら本当に危なかっただろう。傾斜を滑り落ちていった同じ班の子を追いながら、冷静に分析する。

 傾斜を滑ることで摩擦によって衝撃が軽減され、地面に着いたときもそれほど痛みはなかったはずだ。滑った瞬間体が後ろに倒れたのが見えたから、これも好条件だった。頭から滑り落ちていったなら、傾斜の途中で無造作に生えている草木に目を傷付けられた可能性もある。

 

 なんとか自分は二の舞にならないよう気をつけながら、慎重に後を追う。木を利用しながら、濡れていない固い地面や突き出した岩を探りつつ、それを足場にしてゆっくりと降りていく。……と、危ない危ない。

 肩口が木に引っかかって、僅かではあるがシャツが破れてしまったようだ。このシャツはもう使えないだろう。もったいないことをした。

 

 

 そうこうしているうちに、不安げな声が上から降ってきた。私が様子を見て来るからそこで待ってて、と落ちた子以外の班の子には頼んでいたのだ。

 実は滑り落ちて行った子以外は女子というハーレム班だったりする。女の子を危険な目に遭わせるわけにはいかないと、勇ましく私が飛び出して行ったのがさっきのことだ。

 

 大丈夫だよと声を張り上げて返事をしながら、少し移動するペースを早める。戻って来なかったら誰か呼んできてくれとも頼んだのだが、面倒な騒ぎを起こしたくない。この後の展開にズレが生じては困るからだ。

 自分の着ていた服が否応なく汚れていっている。気にせず黙々と傾斜を下る。

 

 ……なんとか真っ平らな地面まで辿り着く。ふう、と息をついた。

 

 周辺を見渡して落ちた子を探していれば、少し離れた先で呆然と突っ立っているのが見えた。何かを注視しているのはわかったが、ここからだと彼の視線の先に何があるのかわからない。

 見た感じ、ちゃんと一人で立つことができている。服は当然汚れてしまっているが、重大な傷を負っているといった様子はない。ひとまず安心していいだろう。

 

 上で不安になりながら待機している班の子たちに早く無事を知らせねばと、彼のもとに向かう。

 

「おーい、大丈夫? 怪我とかしてない?」

 

 返事がない。ただの屍のようだ……と不謹慎なテンプレを心の中で垂れ流したところで、震えた声で名前を呼ばれた。

 

 首を傾げる。彼の視線の先を追う。

 

 

 

 ……気づけば目を見開いていた。

 

 

 だってそこには、ルビーの如き赤い輝きを見せる───

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 ホクホク顔でキャンプ地へと戻る。他の班の子たちが成果無しだったと落ち込んだ顔をしているのに対し、我らが班はみんな満面の笑みを浮かべて、英雄の凱旋のごとき堂々とした立ち居振る舞いであった。ついさっき班員が崖から落ちるというとんでもないハプニングがあったわけだが、全員すっかり頭から抜け落ちていた。

 

 代表して、ルビー……もといトマトを見つけた班一番の立役者(※傾斜を滑り落ちた人)が、意気揚々と料理班に結果を報告しに行く。彼がリュックに詰まったトマトを見せた途端、一拍広がる静寂。

 

 しかしすぐにワッと歓喜の声が上がって、静寂は一瞬で破れた。料理班が盛り上がるものだから、他のクラスメイトたちもなんだなんだとその場に寄って行く。

 

 さらに盛り上がる場を、私は少し距離を空けて見ていた。満足げに息を吐いて、心地の良い達成感に浸る。

 これでバカンスに思い残すことはほとんどなくなったと言えよう。

 

 

 特に何をするというわけでもなくその場でボーッと突っ立っていると、ちょうど清隆くんと愉快な仲間たち班が帰ってくるのが見えた。しばらく何か話をしているようだったが、それも終えて、それぞれ解散となっている。

 

 清隆くんはすぐにキョロキョロと辺りを見渡し、木のそばにひっそり立っている私に気づくと、迷わずこっちに向かってきた。

 

「葵」

「おかえりー、清隆くん」

「ああ………何があったんだ?」

 

 距離が近づくごとに清隆くんの顔がしかめられていっているのには気づいていたが、私の真前まで来るとより顕著になる。

 

 清隆くんは観察するように私の全身に目を走らせて、それから手を伸ばして肩に触れてきた。

 

「全体的に汚れているのも気になるが、この肩……怪我はない、か。でも、なんでシャツが破けてるんだ?」

「……あっ」

 

 トマトを見つけた達成感ですっかり肩のことを忘れていた。そういえば服も汚れているんだった。

 軽く頭を掻き、へらっとした笑みを浮かべる。誤魔化すための笑みとも言う。

 

「いやぁ、ちょっと救助活動みたいなことして……」

「救助活動? どういうことだ?」

 

 当然逃してくれる清隆くんではなかった。間髪を容れず詳細を尋ねられると、言わなきゃいけない空気のようなモノが生じる気がする。

 

 別段隠すようなことでもないのに、清隆くんの纏う空気が鋭い気がして妙に言い難く感じる。もごもごと答えた。

 

「えーっと……班の子が一人、崖から滑り落ちちゃったんだよ。それで私が後を追ったんだ」

「なんで葵が追うんだ」

「そりゃ私が一番動けたからだよ。落ちた子以外はみんな女の子だったしね」

 

 清隆くんの顔はしかめられたままだ。合点はいったものの、納得はしていないというところか。

 

 シャツが破けた箇所から清隆くんの指がするりと侵入してきて、露出した私の肩を撫でていく。……くすぐったいからやめてほしい。

 

「……あまり……危険なことはしないでくれ。葵がもし、怪我なんかしたら……」

「怪我なんか簡単にしないよ。今回のはただの事故だし、気にしすぎだよ、清隆くん」

「………それでも」

 

 駄々をこねている子供のような言い草に、少し笑ってしまった。

 

 俯き加減になった清隆くんの顔を覗き込む。本当なら頰でも撫でたいところだが、今は手が汚れているため触れることができない。

 

「前聞いてたから、わかってるつもりだったけど……相当トラウマになってるんだね。でも、もうあんな風に一方的に痛めつけられることなんてないよ。そろそろ安心してもいいんじゃないかな」

「……葵は、オレの立場じゃないからわからないんだ」

「まさか。私だって清隆くんの立場だったらトラウマになってたし、それ相応に引き摺ってたと思うよ。でも此処は違う。よっぽど下手を打たないと怪我のしようもない」

「…………」

 

 不安定に揺れる瞳を真っ直ぐ見上げて、「大丈夫だよ。もうあんな風に傷だらけになることなんてない」と静かな声で続ける。

 

 清隆くんの瞳は私の言葉を聞いてもなお不安定に揺れていたが、一度ゆっくりと目を閉じ、もう一度開けたときには落ち着きを取り戻したようだ。今は焦点がハッキリと定まっており、私が顔を覗き込む必要もなくなっていた。

 

 

 ひとまず安心して、肩を撫で下ろす。改めて自分の体を見下ろした。確かにこれは……汚れているな。

 

 自分の服の裾を摘み、うーんと悩む。

 

「着替えるのは当然として……体も綺麗にしてこようかな」

「川に行くのか?」

「うん。清隆くんも行く?」

「……いや。オレはやめておく。いろいろ差し迫っているしな」

「それもそうだね」

 

 素直に頷き、じゃあまた後でと手を振って別れる。

 

 

 

 水着に着替えにテントに戻ると、ベストタイミングというべきか否か。

 

 中には白い水着に着替えた泥だらけの堀北さんがいて、同じく泥々仲間の私は親近感たっぷりに声をかけた。

 

「堀北さんも今から水浴び?」

「……水元さん……あなた、何をしたらそんな状態になるの?」

「いやそれブーメランだからね」

 

 堀北さんが眉をひそめて「ブーメラン……?」と呟いている。ブーメランはブーメランだ。説明するまでもない。

 

 私も手早く着替える準備にかかる。

 

「堀北さん、よかったら泥洗い落とすの手伝おうか?」

「……別にいいわ。泥を洗い落とすくらい一人でできるもの」

「でも、見た感じ結構髪に絡みついてるよ? 後ろとかちゃんと洗い落とせたか確認できないでしょ」

「………」

 

 無言は肯定とみなす。

 

 堀北さんの気が変わらないうちにと急いで着替え始める。堀北さんはどこかぼーっとしていて、私を注視しているわけではない。

 神速と見紛う速さで着替え終わると、ぼーっとしたままの堀北さんの腕を取った。熱い、が、指摘するのも今さらだ。

 

 テントの扉部分に手をかける。頭だけで振り返って、堀北さんに声をかける。

 

 

「髪は私に任せてよ。行こう、堀北さん」

 

「……ちゃんと泥を落とせていなかったら、承知しないわ」

 

 

 幾分反応が遅いとはいえ、通常運転の堀北さんだ。

 

 任せろ、と堀北さんに向かって大きく頷いたところで、今度こそ二人で川に向かった。

 

 

 

 

 堀北さんの長い髪に、手のひらで掬った水をかけて、丁寧に泥を洗い落としていく。

 泥々だった髪が徐々に元の艶やかさを取り戻していく様子は、なかなかにやりごたえを感じる。なおさら丁寧な手つきになるってものだ。

 

 堀北さんが体を水に浸しながら、「まだかかりそうかしら……?」と尋ねてくるのに、こちらも「まだ綺麗に洗い落とせてないからダメ」と返す。

 気怠げなため息をこぼした堀北さんが、億劫そうに口を閉じる。

 

 ………よし。もういいだろう。

 

 もう一度確認するように、堀北さんの髪を手のひらで掬う。それから手のひらの上で毛先まで滑らせたところで、動きを止めた。

 

 本当に艶やかな髪だ。堀北さんらしく、真っ直ぐに伸びて曲がらない。几帳面に手入れしていることがわかる髪。

 

 

 ………無意識に、思ったことが口からこぼれていた。

 

 

 

「───堀北さんは、短い髪が似合うよね」

 

 

 

 あまりに突然言われたことで、堀北さんが「ぇ、」と気の抜けた声を出す。彼女のその反応を見て、私もあっとやらかしたことに気がつく。

 

 

「あなた、私のどこを見てそう判断したの……?」

 

 

 もしかしてさっきの気の抜けたような声は幻聴だったんじゃないだろうか。

 そう思ってしまうくらいジトッとした目つきで、訝しげに私を見てくる堀北さんに、とりあえず場を誤魔化すような苦笑を浮かべた。

 

 私は、堀北さんが長い髪の姿しか知らない。私含め、周囲の人間みんなそうだろう。入学以来彼女は髪を短くしたことなんてない。なのに、私が短い髪の彼女を知っているかのような発言をしたのは、彼女にとったら違和感でしかないはずだ。

 

 強い視線を感じながら、若干明後日の方を向いて「あ〜……」とぼやく。彼女の視線は全く緩まない。

 

 緩まない視線に観念して、ポツポツと言葉を紡いでいく。

 

「……なんとなく、だよ。堀北さんは、長い髪も似合うけど……」

 

 手持ち無沙汰に、彼女の髪をもう一度指で掬った。

 

 

 

「私の中で、堀北さんは……短い髪だって思ったんだ。なんとなく。本当にそれだけだよ」

 

 

 

 あまりに抽象的だ。正直ちゃんとした理由にもなってない。だが、だからといって良い言い訳も思い浮かばなかった。鋭い堀北さんのことだ、変なことを言えば容赦なく追求されてしまうのはわかっている。

 なら、やはり正直に答える以外ないだろう。すべてを明かしていないだけで、これも真実であることに違いはないのだから。

 

 

 適当言ってへらっと笑ったように見える私を、堀北さんはしばらく静かに見つめていたが、ゆっくりと視線を逸らされる。

 

 堀北さんは僅かな動きで波紋の生まれる水面に視線を落とし、冷めた声で言った。

 

「……本当に適当なことしか言わないわね。水元さん」

「私は常に真面目なんだけどな……」

「真面目な人は自分のことを真面目と言わないわ」

「いや、堀北さんも自分のこと真面目って思ってるでしょ」

「当然ね。わざわざ口にして言うまでもないことよ」

「……な、なるほどね……」

 

 相変わらず口が回る。押し切られる形で頷いたところで、堀北さんが小さく身震いしたことに気づいた。

 

 ……そうだな。もうそろそろいいだろう。

 

「髪も綺麗になったし、堀北さんはもう上がっていいんじゃないかな」

「……あなたは?」

「私ももう少ししたら上がるよ。もしかして待ってくれるの?」

「待つわけないでしょう」

 

 バッサリ一刀両断される。期待はしていなかったが、こうまで取り付く島もなく言い切られると傷つくものがある。

 

 

 

 私を置いてさっさと川を上がる華奢な後ろ姿を見つめ、その後ろ姿が見えなくなってから。

 

 私は一度天を仰いで見て、そのままザプンッと頭まで川に浸かった。

 

 

 

 川の中で薄く目を開ける。雲に覆われた空からじゃ、水面に光は一筋も差さない。

 

 

 ………意味のない行動だ。

 

 

 口を開けばコポコポと気泡が生まれ、水面に上昇していく。

 

 それだけは、妙に綺麗に思えた。

 

 

 

 



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大団円

三章が終わるまであと一話です



 

 

 一人耐久水中ゲームもやり尽くして飽きたところで、ようやく陸に上がる。タオルである程度体の水気を取ると、ジャージに着替えにテントに戻る。

 

 テントに戻る最中、なにやらクラスが騒がしくなっているのには否が応でも気づいたのだが、まだタオルの下が水着だったので一旦スルーさせてもらった。どうして騒がしいのかもある程度……否、確信を持って理解していたためだ。

 

 

 

 着替え終わって騒ぎの中心となっている場所に向かえば、呆然とマニュアルが燃やされた跡を見下ろしている平田くん、その後ろに伊吹さん、清隆くんと堀北さんがいる。

 

「マニュアルが燃やされたの?」

 

 堀北さんもどこか呆然とした様子で、ポツリと呟くように声を落とした。平田くんが暗い顔で頷く。

 

「……僕の責任だよ。マニュアルは鞄の中に保管していたんだ。テントの前に積んであったし、昼間だから誰かに盗られたりするなんて思いもしなかったんだ……」

 

 どこか危なっかしい足取りで、「まずはきちんと消火しないと……」と言いながら平田くんが川に向かう。その後ろをついていく清隆くんに、私も続いた。

 気配を感じたのか、清隆くんが振り返る。正体が私だと気づき、その目が少し丸くなった。私が腕に抱えるようにして持っている物も目を丸める要因となっているだろう。

 

「空のペットボトルだよ。この中に水入れて火を消そうと思って、ちょっと多めに持ってきたんだ」

「ああ……ありがとな、葵」

 

 特にそれ以上会話することなく、二人で平田くんの後を追う。

 

 平田くんも空のペットボトルを手に川の前でしゃがんでおり、一人黙々と水を汲んでいた。私たちもその隣に並び、水汲みを手伝う。

 

「手伝ってくれてありがとう、綾小路くん、水元さん」

「気にするな。有事なんだ、手伝うのは当然だ」

「右に同じく。気にしないで、平田くん」

 

 普段通りを装って、無理やり口角を上げて私たちに微笑みかけてくる平田くんには、どことなく痛々しいものを感じる。

 

 平田くんは常にDクラスのリーダーとして、クラスをまとめて動いている。今回のボヤ騒ぎも含め、平田くんの心身には、この特別試験中もうずっと大きな負荷がかかり続けていると言える。

 

「……どうして……皆、仲良くできないんだ……」

 

 いよいよ負荷に耐えきれなくなってきたのか、平田くんがボソボソと暗い顔で呟いた。彼の持っていたペットボトルがぐしゃりと音を立てて潰れると、ハッとしたように目の焦点を取り戻す。

 

 清隆くんが、それをただ無言で見つめている。

 

 

「………?」

 

 

 違和感。何か、どこか、おかしい気がした。

 

 しかしちょうどペットボトルに水を汲み終わり、そっちに意識がいったことで、確かに感じていたはずの違和感が薄れてしまう。

 

 とりあえずと、余分に水を汲んでいたペットボトルの一本を平田くんに差し出した。

 

「こっち使っていいよ、平田くん」

「あ……うん。ごめんね、ありがとう」

「気にしなくていいよ」

 

 三人で水の入ったペットボトルを手に火元に戻る。その途中、軽井沢さんを筆頭に男子と女子が対峙し、睨み合っている現場に差し掛かった。

 

 

「ねえ、誰がこんなことしたわけ? うちらのクラスに裏切り者が居るってこと?」

「何で俺らを疑うんだよ。下着の件とこれとは別問題だろ?」

「わかんないじゃない。それを誤魔化すために燃やしたりしたんじゃないの?」

「ふざけろよ、んなことするわけないだろ」

「ちょっと待ってみんな。落ち着いて話し合おう」

 

 

 平田くんがさっそく仲裁に入った。本当に平田くんの負担大きくて笑……笑えないな。Dクラスのママといっても限度があると思う。しかし平田くんレベルじゃないと、Dクラスをまとめられないのも事実だ。

 

 平田くんに渡したペットボトルが結局私のもとに返ってきたところで、清隆くんと二人で残り火を消しに向かう。

 

 昨日下着泥棒事件があったばかりで、双方共にヒートアップしており、しばらく言い合いは収まりそうにない気配だ。

 犯人探しをしているクラスの言い争いをBGMに、清隆くんと二人黙々とペットボトルを逆さにして、中の水をじゃんじゃん火元に流していく。

 

 ペットボトルをすべて空にし、水浸しになったマニュアルだったモノを見下ろして、ようやく一息ついた。

 

「とりあえず、これで燃え広がる心配は無いか」

「うん。お疲れ様、清隆くん」

「ああ」

 

 お疲れ様に込められた意味を正確に理解できる人は、この場に私たちだけしかいないだろう。

 

 足元に水滴が散る。それがペットボトルの水じゃないことは、頭に雫が落ちてきたことですぐに察することができた。

 

 

「雨、か」

 

 

 見上げた空は今朝よりもさらに黒ずんでいる。本格的に雨が降るまで、秒読みといったところだろうか。

 

 視線を未だに対立し合っている男女に向けて、それから平田くんに向ける。

 

「もう無理。まじで最悪。このクラスに下着泥棒と放火魔がいるなんて最低よね」

「だから俺らじゃねえって。いつまで疑ってんだよ!」

 

 平田くんは呆然としているようで、その場で立ち尽くして動かない。俯き加減に、どことも言えぬ虚空を見ている。

 

 

「つか寛治、伊吹ちゃんの姿みえなくね……?」

 

 

 山内が伊吹さんの不在に気づいて、声を上げた。よく見れば彼女の荷物も無くなっている。他の生徒も山内の発言を聞き、伊吹さんの不在を自身の目で確認すれば、口々に伊吹さんを疑う声が出てくる。

 

「もしかして、この火事の犯人って……」

「怪しい、よな。火事なんて起こすとしたら、それってやっぱり……」

 

 男子が伊吹さんを疑うにつれ、女子も伊吹さんの不審な行動に疑問の声を上げ始める。

 

 犯人探しに一旦解決の兆しが見えたが、雨が次第に強く降り始めてすぐにそれどころではなくなってしまった。

 

「やば。とりあえず話し合いは後にしようぜ。いろいろ濡れると大変だ!」

 

 膠着していた男女も各々で慌ただしく動き始める。池たちは食料や外に出していた荷物をテントの中にしまい始め、一人立ち尽くしたままの平田くんに指示を仰ぐ。

 

 

「平田、指示をくれ!」

 

 

 クラスメイトの声などまるで聞こえていないように、平田くんは微動だにしない。その間も容赦なく雨は勢いを強くしていく。この雨音じゃ近くに行って声をかけないと、簡単に声が掻き消されてしまうだろう。

 

 隣にいる清隆くんは、微動だにしない平田くんをただ見ている。

 

 

「……? 清隆くん……?」

 

 

 どうしたんだろう。声をかけにいくんじゃなかったか?

 

 チラと隣を見やる。清隆くんは目を細め、淡々とした眼差しで平田くんを見ていた。

 

 

 まただ。どうなっている?

 

 

「……清隆くん、平田くんの様子……」

「ああ」

「………声、かけにいかないの?」

「なぜ?」

 

 清隆くんの視線が平田くんから私に移る。私は清隆くんと目が合う前に、平田くんが気になって前を向いていた。

 

 雨音で平田くんの声が聞こえない。小さく唇が動いているから何か言っているのはわかるが、この距離じゃ聞こえそうにない。

 池が遠くから声を張り上げ、平田くんを呼んでいる。平田くんの尋常じゃない様子に気づいているのは、私と清隆くんしかいない。そして清隆くんに動く気配は、ない。

 

 これじゃあ埒があかない、と、平田くんのもとに向かおうとする。

 

 

 手を掴まれ、前に進めない。

 

 

 

「葵。葵は、好んでいる人が今とは別人のような性格になったら、どう思う?」

 

「……?」

 

 

 急になんだ?

 

 

「その場合以前の人格を好むのか? 以前の人格を好んでいるから、好意的だったのか? じゃあもし過去の人格……性格に戻ったとしよう。それが今とは真逆の性格だったとして、今抱いてる好意は持続するのか? それとも失望して興味をなくすのか?」

「ぇ、え? なに? 急にどうし」

「答えてくれ。答えてくれたら、手を離すかどうか考える」

 

 

 目が合う。鈍い光を宿す目が私を見つめ、口を開くのを待っている。

 すでに勢いで負けそうなのに、手だって振り解けそうにない強さで握り込まれており、完全に押し負けている。

 

 こんなクラス単位で緊迫した状況で、状況に不釣り合いな、空気が読めていないともとれる質問を呑気にする意図が読めない。

 

 とりあえず質問に答えないことには、何気に頑固な清隆くんだ。宣言通り離してくれないだろうことは容易に想像できたので、頭の中で改めて先ほどされた質問の意味を咀嚼し、口を開いた。

 

 

「私は……失望しないよ。その人にはその人の過去があるわけで、だから今に繋がると思ってる。過去なくして、今になり得ない。どっちも大切なもので……だから、私は失望しないし……一度好意を抱いたんなら、ずっと変わらないと思うよ」

 

「…………」

 

 

 清隆くんが私の答えを受けて、より一層目を細める。無言で見下ろされ、なんとなく居心地の悪さを感じる。

 雨が凌げる場所にいなかったから、お互いとっくにびしょびしょだ。そういう意味でも、もうそろそろ解放してくれると嬉しいんだが……。

 

 

 

「───なるほど、な。じゃあ意味はないな」

 

 

 

 ようやく手を離してくれる。結構強く握られていたので、手首が赤くなっていた。痛みはなかったが、なんとなくもう片方の手で握られていた手首を摩る。

 

 手を離してくれたのはよかったが、清隆くんの言葉には引っかかるものがある。訝しげに眉を寄せ、清隆くんを見上げた。

 

「ええ……? 結局何だったの? 『意味はない』ってどういうこと?」

「実験みたいなもの……だな。でももう意味がなくなったから、葵は気にしなくていい」

「なんだそれ……」

 

 よくわからない清隆くんだ。微妙な顔で、空気が緩んだ反動で腑抜けた笑みを浮かべたところで、ハッと正気に返った。

 

 慌てて平田くんの方に振り返り、駆け寄ろうとする。それより先に清隆くんが私の肩を掴み、その場から動けないようにしたところで、「オレが行ってくる」と宣言してさっさと一人で平田くんのもとに向かってしまった。

 

 結局清隆くんが行くんなら、もっと早く行ってくれてもよかったんじゃないかな……そうは思いつつも、清隆くんに声をかけられ平田くんが再起動し始めたのを見ると、知っている通りの流れなので安心感が勝ってくる。終わりよければすべてよし、だ。

 

 実際にはまだ終わっていないわけだが、あとは時間の問題であることに違いはない。タイミングも重要なため、見逃さないようにしなければ。

 

 

 

 クラスメイトに交じって片付けを手伝いながら、周囲に視線を巡らせる。

 堀北さんの姿はいつの間にかなくなっている。彼女が伊吹さんの後を追ったのは確実だ。

 

 同じくクラスメイトに交じって動いていた清隆くんだったが、集団からそっと抜け出ると、森の中に一人で踏み入ろうとしている。

 一人より二人の方が動きやすいかと思って、すぐに後を追おうとするものの、振り返った清隆くんが来なくていいと首を振ってきた。強めの視線付きだったため、大人しく頷いてもう一度クラスメイトに交じる。

 

 清隆くんと堀北さんがいなくなったクラスだったが、慌ただしさが勝って誰も彼らの不在に気づいた様子はない。

 せめて午後8時の点呼までは、誰も気づかないように誘導しておこうと考える。

 

 ……いや、平田くんくらいには先に触りだけでも話をしておいて、負担を減らしておくべきか。この場合の負担とは、両者含む。

 

 思い直し、片付けが終わった段階で、平田くんが一人になったタイミングを狙って彼のもとに向かった。

 

「平田くん。ちょっと話しておきたいことが」

「うん? どうかしたかな、水元さん」

 

 つい先ほど不安定だったのが嘘みたいだ。いつも通りの穏やかな顔を見て、内心でホッと息を吐く。

 

 改めて口を開いた。

 

 

「実はこれは、堀北さんの作戦なんだけど───」

 

 

 

 

 夜になって帰ってきた清隆くんを出迎える。清隆くんは私に気づいて、強張っていた顔を密かに緩めた。

 すぐに清隆くんの隣に並び、乾いたタオルを彼の頭に載せて、丁寧に水気を取っていく。雨に濡れて冷え切っている体を温めるため、今からシャワーを浴びるだろうから無駄な行為だとは思うが、こういうのは気持ちが肝心なのだ。

 

 清隆くんが頭を拭きやすいように屈んでくれるので、手早く、かつ丁寧に手を動かし迅速に拭いていく。その間、清隆くんと至近距離でひそひそ会話をする。

 

「堀北さんは?」

「リタイアだ。今はオレがキーカード保持者になってる」

「だよね……全部予定通り、か。じゃあ残るは」

「ああ。オレから平田にはすべては堀北の作戦だったと話しておく。どこで話すかはタイミングによるが」

「それだけど、先に私から触りだけ話はしておいたよ。平田くん、清隆くんが点呼にいない時や、堀北さんがリタイアしたことがわかったときも庇ってくれてね。私も援護したけど、やっぱり平田くんの求心力はすごかったよ」

「……クラスメイトには漏らさないよう口止めはしたか?」

「ちゃんとしたよ。明日までまだ作戦は続いてるって言ったから、大丈夫。ここまできてどこからか漏れたら、さすがの私でも笑えない」

「本当に笑えないぞ……でも、そうか。詳しくはまだ説明してないんだよな。オレからもう一度話しておく」

「うん。平田くんも、実際に清隆くんの口から話を聞きたがってると思う」

 

 ある程度拭き終わり、テントのところまで戻ってくれば、清隆くんの帰りを待っていたのだろう平田くんが二人分の足音に気づいて顔を上げた。

 平田くんは清隆くんからより詳しく話を伺おうとしたんだろうが、頭を拭いて多少マシになったとはいえ未だびしょ濡れのままの清隆くんを見て、慌ててシャワーに行くよう促した。

 

 平田くんに背中を押される形でシャワーに向かった清隆くんを見送り、その場には平田くんと私だけになる。特に話すこともないので、手を振って別れようとして、後ろから呼び止められた。

 

 平田くんはどこか改まった様子だった。不思議に思いながら足を止め、振り返って正面から向き合う。

 

「ごめんね。すぐに終わるから」

「全然いいよ。後はテントに戻るだけだから」

 

 申し訳なさそうな顔をして私に謝る平田くんに、こっちも慌てて首を振る。律儀すぎるのも考えものだ。平田くんはもっと傲慢になってもいいと思う。

 

「それで、どうしたの? 何か私に用事?」

「いや……えっと、少し気になることがあって」

 

 歯切れが悪い言い方だ。首を傾げる。そんなに言いにくいことなんだろうか? ……私に?

 

 眉を寄せ、平田くんを見る。平田くんは視線を彷徨わせ、それからどこか覚悟を決めたように私を真っ直ぐ見つめてきた。

 

「綾小路くんと水元さんは、付き合ってない……んだよね? ……本当に?」

「付き合ってないよ。平田くんには言ってなかったっけ?」

「その言い方は付き合ってる人の言い方だと思うんだけど……」

 

 私の返答に困ったように乾いた笑みを浮かべる平田くんだったが、またすぐに真剣な目つきに変わった。

 

「……少し、心配なんだ。綾小路くん……いや。綾小路くんだけじゃなくて……」

 

 しかし歯切れの悪さは変わっていない。その様子にはなんとなく既視感があった。ただ言いにくいわけじゃないのだ。

 

 

 『おかしいことはわかっているのに、その違和感を口にできない』感覚。

 

 

「……私たち、おかしいのかな」

「……! あ、いや……そうじゃなくて……!」

「いいよ。なんとなくわかってる。……わかってたんだ」

 

 他人から指摘されたことで、改めて突きつけられるようだ。

 

 気落ちして肩を下げ、俯き加減に頭を下げる私に、平田くんが慌てる。一度顔を上げさせようとでもしたのか、私の肩に手が伸びるが、直前で止まって結局触れてくることはなかった。

 結果的に平田くんのその不自然な動きが気になって顔を上げたので、無駄にはならなかったのだが。

 

 顔を上げたものの、平田くんとは視線が合わない。今度は平田くんが俯き加減になっている。

 

「本当に……おかしいなんて、思っていないよ。ただ、そう……君たちは、不安定というか……まるで」

 

 言葉が区切られる。首を傾げて、続きを待つ。

 

 

「まるで───お互いを」

 

 

 

「葵」

 

 

 

 清隆くんの声だ。意識がそっちにいく。

 

 足元の水溜りが跳ねているのも気にせず、清隆くんがこっちにやってくる。

 

「なんか早くない?」

「シャワーだけなんだから、こんなもんだろ」

「シャンプーとかは?」

「ちゃんと全身洗った。ほら」

「全然拭けてないのもしかしてわざと?」

「拭いてくれるのか?」

「タオル差し出しながら言うことじゃないと思う」

 

 タオルを受け取り、とりあえず清隆くんの頭に手を伸ばす。と、平田くんを思い出して振り返った。

 

 平田くんは苦笑をこぼしながら、私たちを見ている。

 

 

「二人の邪魔をしたいわけじゃないんだけど……よかったら、片手間に今日の成り行きを教えてもらってもいいかな」

「構わない。オレもそのつもりだったんだ」

 

 清隆くんが体を私に傾けた状態という決まらない格好で話を始める。

 

 掻い摘んで今日を含む、堀北さんの壮大かつ完璧な作戦・計画を清隆くんが訥々と話しているのを、平田くんはうんうん頷いて聞いていた。たまに疑問に思ったところを質問しては、きっちり内容の理解に努めている。

 二人が話しているのを、清隆くんの頭を拭きながら聞く。

 

 これで試験は終わりだ。だいたいの流れは変わらず。

 

 

 タオルを持つ手に、自然と力が籠った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 8月7日。長いようで短かった無人島での生活がついに終わる。

 終了時刻である正午を軽く過ぎたが、未だ先生たちの姿は見えない。

 

 と、ここでアナウンスが聞こえてきた。

 

 

『ただいま試験結果の集計をしております。暫くお待ち下さい。既に試験は終了しているため、各自飲み物やお手洗いを希望する場合は休憩所をご利用下さい』

 

 

 アナウンス後に、生徒たちが一斉に休憩所へと集まっていく。清隆くんと二人で大群の移動を遠目に眺め、「あの中入れる?」「いや入れない。踏み潰されると思う」という会話をしていると、平田くんが私たちのもとにやってきた。

 彼の片手にはそれぞれ紙コップが握られている。まさかの大群からの帰還を果たした勇者登場だった。持っている紙コップにはなみなみと水が注がれており、アイテムも取得しているようだ。文句なしの勇者だった。

 

「すごいね、平田くん……」

「ああ……さすが平田だ……」

「何に対してそんなに感心しているのかわからないんだけど……」

 

 私たちの反応に困惑しつつもどうぞ、と差し出された紙コップを、お礼を言いながら受け取る。紙コップ越しに水の冷たい感触が伝わってきて気持ちいい。これは一息で飲んだらさぞ気持ちいいことだろう。

 

 さっそく紙コップを傾けてごっくごっく飲み始めた私の隣で、清隆くんと平田くんが会話している。

 

「お疲れ様。この一週間いろいろありがとう、本当に助かったよ」

「お礼を言うのはこっちだぞ。平田はクラスをよくまとめてくれていると思う。それに、堀北がリタイアしたことや、オレが点呼に遅れた時に庇ってくれたんだろ」

「先に水元さんから理由を聞いていたし、綾小路くんの口からも詳しく話を聞けたからね……それを知ったら責められないよ。むしろ堀北さんには、これからのことを考えると感謝しないといけない。当然リスクはあるけど……体を張った堀北さんのためにも、僕だって動かなきゃね」

「……ッぷはー! いやぁ、水ってこんなに美味しいんだ。清隆くんも冷たいうちに早く飲んだ方がいいよ。あ、改めてありがとう平田くん!」

「いいよ、気にしないで。水元さんも一週間いろいろありがとう」

「いやいや、それこそお礼を言うのはこっちだよ。平田くんはクラスをよくまとめてくれているし、清隆くんが点呼に遅れた時や、堀北さんがリタイアしたことがわかった時も庇ってくれた。私だけだったら絶対収拾つかなかったよ」

「二人ってよく似たこと言うよね……」

 

 平田くんが苦笑している。そんなに似たようなこと……確かに言ってるな。でも普段から似たことを言っているわけではないと思う。

 

 首を傾げている私たちにもう一度苦笑をこぼしてから、平田くんの視線が移る。その先は───Cクラスだ。

 

 

「それにしてもCクラスは異常だね……別次元だ」

 

 

 平田くんのそのセリフと動作で、あ……と思い出した。そうだった。ここもある意味イベントなのでは?

 

 堪らずじりじり後退りする私に、清隆くんが不思議そうな顔をして手を握り直した。まずい。いや……まずくない? まずくなくする……? そんなこと……できる?

 

 Cクラスは生徒の大半がリタイアしており、砂浜には一人の生徒しか見当たらない。その一人は頻りにDクラスを見ており、今さらこの場から逃げてもチェック済みのような気がしてきた。

 

 

「どうして彼は……こんなことをしたんだろう。彼だけリタイアしなかったのは、どうしてなんだろう?」

 

 

 平田くんが不安そうにCクラスを見ている。清隆くんも遠目に様子を窺っており、私だけが必死に視線を逸らしているのもそれはそれで目をつけられそうなため、右に倣えの姿勢で同じように視線を向ける。

 

 となれば、やはり気付かれるのは時間の問題だったようだ。この場合は、隣にいるのが清隆くんという理由も……ありそうだが。

 

 

 視線に気づいた───否、清隆くんを振り返って見た彼が、そのまま獲物を嬲るみたいにゆっくりと私たちの元へ近づいてくる。私たちの間で緊張が走った。なお一人だけ緊張の種類が違うことは先に言っておく。

 

 彼が───なんとなくずっと避けていたし絶妙に避けさせられていたCクラスの暴君・龍園翔が、私たちに近づいて開口一番に言った。

 

 

 

「おい腰巾着。鈴音はどうした?」

 

 

 

 ……う、うおおおお……りゅ、りゅうえん……りゅうえんかけるだ……ほんものだ……。

 

 

 無意識に手が震えた。歓喜というか武者振るいというか、いろいろ込みの震えだ。もちろん手を握っているため、清隆くんにも私の震えは伝わっているだろう。

 

 清隆くんは一度私の手を握り直し、淡々と答えている。

 

「オレに聞かれても困る」

「おまえが鈴音のケツを追い掛け回してるのは知ってんだよ。この前も一緒にいたろ」

 

 龍園の視線が移動する。清隆くん、手、私といった具合だ。平田くんには見向きもしない。

 

「ああ、ケツ追い掛け回してんのはもう一人いたんだったな。ようやく姿が見れたなぁ? なぁ、お前どっちが本命なんだよ」

 

 ニタニタと嘲るように、馬鹿にするように龍園が嗤う。こんな笑い方似合う人いる?

 

「教えろよ。まあ見た感じ、本命はこっちっぽいがな」

 

 龍園は持っていた紙コップの中身を飲み干すと、軽く握り潰して清隆くんの足元に放り投げてきた。ウワッ……痺れるな……。

 

 

「代わりに捨てとけ」

 

 

 私はもともと清隆くんのと重ねて空の紙コップを二つ持ってるし、今さら一つ増えたところで変わらない。特に文句を言うことなく屈んで拾い上げ、一緒のゴミにする。

 

 怪訝な顔つきをした龍園が、私と距離を詰めてくる。

 

「……あ? なんだ、面白みのねぇ女だな。そこの腰巾着とよく似てんな」

 

 無精髭が生え、上下のジャージとも泥で汚れてワイルドさが増している龍園が近くまで迫っている。鋭く尖り、細まった目が私を見下ろす。

 彼には光が反射してわからないだろうが、今確実に、私の瞳孔は大きくなっていることだろう。

 

 

「なんだったか……腰巾着のついでで、一回テメェの名前も聞いたはずなんだよなぁ……特徴なくて忘れちまったな」

 

 確か、男でも通じそうな名前───そこまで言いかけたところで、清隆くんが口を開いた。

 

 

 

「リタイアしなかったんだな。龍園」

 

 

 

 清隆くんが声をかけたことにより、龍園の意識が私から逸れる。

 思い出そうとしてくれているのでなんか悪いし、名前くらいならいいかな……と自己紹介しようか悩んでいたのだが、意識が逸れたならもういいだろう。自分から声をかけてまで自己紹介する必要性は感じていない。

 

 龍園は声をかけられたことによりこの場に来た目的を思い出したようで、再び堀北さんの名前を出してくる。

 

「鈴音はどこだ。ケツでも撫でてやろうと思ったんだが」

 

 本当に息をするようにセクハラ発言をするんだな……。

 

 それにしてもこの数分間で、龍園は堀北さんの名前を三度も呼んでいる。やはり気になるのだろう。

 

 ジロジロと辺りを見回す龍園に、今まで黙っていた平田くんが口を開く。

 

「堀北さんなら昨日の段階でリタイアしたよ。ここにはいない」

「……リタイア? 鈴音が? あいつはリタイアするような女じゃないだろ」

「それは───」

 

 キィン、と拡声器のスイッチが入る音が砂浜に響き渡る。それからすぐに真嶋先生が姿を現した。自然とみんなの視線が集まっていく。

 

 緊張する生徒たちに楽にしているようにと言うが、無理な話だ。雑談は瞬時に消え去り、沈黙が満ちる。拡声器越しに真嶋先生の呼吸音まで聞こえてきそうなほどの静寂だった。

 

「ではこれより、端的にではあるが特別試験の結果を発表したいと思う」

 

 龍園はニタニタと笑っている。余裕ありげな顔は、しかし、真嶋先生が次に放った言葉で凍りついた。

 

 

 

「最下位はCクラス。0ポイント」

 

 

 

 事態が理解できない。そんな顔だ。動かなくなった龍園を置いて、真嶋先生は次々と結果を発表していく。

 

 

「続いて同率二位。Aクラス、Bクラスともに120ポイント」

 

 

 生徒たちの間でどよめきが広がる。誰も想定していなかった順位、そしてポイントだ。自分たちの計算していた数値との誤差に戸惑いを隠せないのだろう。

 かくいう私も動揺から目を見開いていた。予想はしていたが、それはDクラスに関してだ。……いや、そうか……Dクラスが変わったならば、他クラスも影響されないわけがない。ならばコレは、起こるべくして起こったこと、か。

 

 真嶋先生が一瞬だけ硬直したのが見えた。私も硬直している。

 

 

 

「そして、Dクラス───253ポイントで一位」

 

 

 ………心臓が痛い。なんというか、いろんな意味で。

 

 

 

 

 

 興奮と混乱が冷めやらぬ様子で、Dクラスがワーワー盛り上がっているのを横目で見る。顔は若干青ざめているかもしれない。

 清隆くんは隣で安堵したように息を吐いて、それから目尻を緩めて私を見た。

 

「やったな、葵」

「………」

 

 

 ………清隆くんのその顔を見たら、なんか急に全部どうでもよくなってきたな……。

 

 

 一度繋いでいた手を離し、無言のまま清隆くんの腕をガッシと掴んだ。突然変貌した私の雰囲気に、清隆くんは無防備に目を丸めながら私を見ている。

 

 そして私はそんなの全く関係なしで、予備動作なく駆け出した。

 

 

「やったーーー!!!」

 

「うわっ!? 急に引っ張るな葵!」

 

 

 半ばヤケクソで叫びながら、盛り上がるDクラスに清隆くんを連れて突っ込み中に紛れ込む。

 

 後先考えず騒ぎの中心に突撃しに行ったため、すぐにもみくちゃにされる。肩を組んで喜び合い、手を叩いてはしゃぎ合い、抱き合って狂喜乱舞する。

 

 

 その場のノリと流れで、清隆くんが私の腰を掴んで体を持ち上げて、漫画みたいにその場でクルクルと回った。

 いつもと逆で見下ろした清隆くんの表情は、おかしそうに笑っていた。

 

 

 めちゃくちゃだけど、このめちゃくちゃさが楽しいのだ。

 

 悩んでいたことを今だけはとさっぱり忘れ、私も声を上げて笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 




今話のMVP:実はまだ綾小路の射程範囲内にいた平田
誰が平田はもう安全だと言った?



・原作とのポイント変動詳細
一応説明。ほとんど原作通りの流れですが、主人公が暗躍というか実力行使で辺り一帯の食料根こそぎ収穫していたのでDクラスは足りない食料をポイントで補う必要がなくなり、またBクラスは食料が見つからなくて自動的に本来あったDクラスの損失を被る結果となりました。女子生徒の無駄遣いも主人公が人(櫛田さん)を動かして抑えていたため、Dクラスはポイントが増えています。
AクラスはCクラスから譲り受けた食料があるので、原作通りポイントの損失はありませんでした。

ちなみに龍園氏は本文で描写がなかっただけで、ワイルドなだけでなく頰が若干こけていたりしました。誰が島の食料を根こそぎ採っていったというんだ……。



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移ろい、定まる

 試験は終了となり、解散の流れになる。最後までワーキャー騒いでいたDクラスだったが、先生にさすがに喧しいと注意され、みんな渋々大人しくなった。それから乗船すべく、他クラスに続いてぞろぞろと歩き始める。

 

 この後2時間ほどは自由時間なようで、海で泳ぐも船上でのんびり過ごすもどちらでも構わないらしい。

 

 

 実は海自体は以前、一度だけ近くまで見に行ったことがある。ホワイトルームが稼働停止となり、別荘に移送された後のことだ。その時、少しの間だけ外に出る機会があった。

 監視付きではあったものの、数分という僅かな間だけ海の見える道を歩いたのだ。

 

 

 

 その日は眩しいくらいの晴天で、見える景色何もかもが綺麗に映ったのを覚えている。

 

 

 

 初めての外に内心でコッソリはしゃいでいた私は、当時はお互い距離を置いていたため離れて歩いていた清隆くんの隣を抜き去って、海に向かってパタパタと駆け足で向かった。海水に触れたいと思って、それで、もしできたら口をつけたりもしてみたいと好奇心のままに動いた。

 しかしいざ海を目の前にすれば、太陽の光を反射してキラキラと輝く海があまりに綺麗で壮大で、私は海の向こうをひたすら見つめながら砂浜に立ち尽くすしかできなかった。

 

 しばらくそのまま海をじっと見つめていたのだが、ふと思い出して振り返った。清隆くんの様子が気にかかったのだ。

 

 この景色を前にして、彼はどんな顔をしているんだろう。どんな感情が湧き上がったんだろう、と。

 

 

 清隆くんは砂浜に続くフェンスの前に立って、私と同じようにじっと海を見つめていたように思う。

 逆光で顔がよく見えなかったから目線がどこにあるのかはわからなかったが、頭の向きからして私と同じ方向を見ていることはわかった。私越しに海を見ているのだろう。

 

 あんなに熱心に海を見ているのに、どうしてこっちに来ないんだろうと思ったのだが、そういえば監視はフェンスよりもずっと向こうにいる。私の位置からでは見えないが、それは監視の立場からしても言えることだ。

 一人ならまだしも、急に二人も姿が見えなくなったら不審な行動をするなと厳重注意を受けて、すぐに連れ戻され狭い場所に押し込められるに決まっている。

 

 はしゃいでいたとはいえ、随分軽率な行動に出てしまった。状況が状況であることを思い出し、私は名残惜しく振り返りながら海を背にした。

 

 

 

 ───この時、結局海水には触れずじまいで、味を確かめることだってできていなかった。心残りしかない私の初海の思い出だ。いや、思い出と言えるほど満喫していないのだが。

 

 なんにせよ、今回はあの日の無念をリベンジできるということである。

 

 

「ねぇ清隆くん。一度荷物を置いて、後で海行かない?」

「いいぞ。オレもちゃんと近くまで行ってみたかったんだ」

 

 聞いてみればあっさり了承の返事をもらえる。

 出航するのは2時間後だから、そう焦る必要はないだろう。

 

 

 

 クラスメイトの最後尾につき、二人で乗船する。

 クラスを包む興奮と混乱は未だ収まっておらず、船に上がってすぐに唯一詳しく事情を知っていると見られる平田くんがクラスメイトに囲まれ、説明を求められていた。こちらとしても、昨日のうちに説明すべきことは説明している。あとは好きに話してくれたらいい。

 

 我関せずと遠目に見ていれば、デッキには高円寺くんと堀北さんが姿を現した。

 ツヤツヤテカテカの高円寺くんが憎たらしく「1週間の無人島生活はどうだったかな? 私は体調不良で寝込んでいて、参加できなかったからねぇ」とか言うのに男子からも女子からも一斉に責められている。本当に高円寺くん自由でいいなぁと思う。

 

 一通り不満をぶつけたものの痛くも痒くもない様子で平然としている高円寺くんに、疲れた一同が視線を外す。そうすると自然と次は堀北さんのもとに視線が集まった。

 

 

 ここでようやく平田くんが説明を始めて、明かされる堀北さんの活躍。

 

 

 軽井沢さんの下着を盗んだのは伊吹さんで、逃げ出した伊吹さんを問い詰めようと追い掛けた堀北さんは体調が悪化。軽井沢さんだけは先に平田くんから説明を聞いていたようで、その点についてぶっきら棒ながら素直に堀北さんに謝っている。

 

 この時点で目を白黒させていた堀北さんだったが、さらに平田くんが追加説明を行い、堀北さんがAクラスとCクラスリーダーを当てていたということが明かされる。

 

 

 堀北さんがハッとした顔で私たち───清隆くんを見たときにはもう遅い。

 

 

 堀北さんはクラスメイトに囲まれ、ワーキャーと騒がれては持て囃され、完全にDクラス包囲網から抜け出せられなくなっている。あの様子だとしばらく離してもらえないだろう。

 

 

 

 

 盛り上がる一同を横目に一度荷物を置いてから海に行こうと、清隆くんが私の手を引いて彼らから遠ざかろうとする。

 

 そこで見計らったように姿を現したのは、茶柱先生だった。

 

 

「少し顔を貸してもらおうか」

「もしかして悪役って流行ってるの?」

「あれは悪役というより不良だ。役じゃない分よっぽどタチが悪いぞ」

「私はここで話を始めてもいいんだぞ?」

「「手短にお願いします」」

 

 

 うっすら青筋を浮かべた茶柱先生に先導される形で、船の反対側まで歩いていく。

 歩き進めるごとに人の姿が見えなくなっていき、海の音以外聞こえなくなっていく。

 

 茶柱先生が振り返ったのを合図に、清隆くんが先に口を開いた。

 

「とりあえずこれで満足してもらえたと思っていいですかね」

「そうだな。まずは見事だったと言っておこう。素直に感心した」

「じゃあ今すぐ聞かせてください。『あの男』がオレたちの退学を要求した話は本当ですか」

 

 茶柱先生は答えず、柵に背中を預けて空を見上げた。長い髪が風に揺れている。

 

 清隆くんの声が低くなった。

 

「……その話が本当だと言い切れる根拠はあるんですか?」

「私がお前たちのことを詳しく知っている。それが何よりの理由だと思わないか。それに、他の教員たちはお前の本当の実力を知らない。疑ってすらいない」

「それは答えじゃない。なぜすぐ根拠を提示しない?」

 

 私を置いて話が進む。清隆くんはわかるのだが、茶柱先生に関してはこれに限らず割と最初の方から私を話に入れる気がなかったと思う。

 私自身そうなるように仕向けているとはいえ、こうも順調に放置されると茶柱先生ェ……となってしまうのは否めない。

 

 茶柱先生が清隆くんの低い声を受け、密かに肩を揺らしたように見えた。空を見上げる姿勢は変わらないまま、茶柱先生がゆっくりと口を開く。

 

 

「……有名な神話の話は、お前も聞いたことがあるだろう。イカロスの翼だ」

 

「……それがどうかしたんですかね」

 

 

 茶柱先生が一瞬だけ私を見た。すぐに視線を逸らされる。

 

「イカロスは自由を得るために幽閉された塔から飛び立った。しかしそれは一人の力ではない。父であるダイダロスが翼を作るように指示し、飛び立たせた」

「何が言いたいんですか」

「つまり自らの意思で飛んだわけではないということだ。……お前にそっくりだとは思わないか?」

「理解できませんね。それにあんた今、誰と誰を、どっちに当てはめて言ったんですか?」

 

 茶柱先生が一瞬視線を目配せしたところを見逃さなかったのだろう。嫌悪を滲ませて、清隆くんが茶柱先生を睨んでいる。

 

 茶柱先生はどこまでも清隆くんの質問に答えない。握られたままの手に力が籠っていく。

 

 

 

「あの男……いや、お前の父親はこう言っていた。清隆はいずれ自ら退学する道を選ぶ、とな。そして、水元葵は必ず帰ってくる、とも」

 

 

 

 ……なるほど。『先生』にはそう思われている、ということか。

 

 

 

 清隆くんの前に出た。後ろ手に彼の体を押して、私の背中に隠すようにする。

 

 それから呆れたような、やれやれといった口調で話し始める。

 

「イカロスじゃありませんよ。私も清隆くんも」

「……葵」

「以前言ったじゃないですか。神話は神話でしかない。内容が現実的じゃないんですよ。まあ神話だからって言われたら、それまでなんですけど」

「お前が───」

 

 茶柱先生が顔を歪めて私を見ている。続く言葉はおそらく私の以前の発言を蒸し返すものだ。やだな、あれは揶揄っただけなのだ。深い意味なんてない。

 

 口を開く。彼女が続けるはずだった言葉を遮る。

 

 

 

「茶柱先生」

 

 

 

 彼女の口が閉じるのを見てから、清隆くんの手を引いて元来た道を歩き始める。

 

 背中を向けた私たちに、茶柱先生が再び声をかけてくることはなかった。

 

 

 

 

 

 人の気配が増えていくにつれ、騒がしい日常の音を取り戻していく。ついさっきまで海の音以外聞こえなかったのが嘘みたいだ。

 清隆くんは私に手を引かれて歩いていたのだが、今は隣に並んでいる。

 

 ほんの少し力を込めて握られて、私も同じ強さで握り返した。

 

 

「葵は、茶柱と何を話したんだ」

 

 

 チラと隣を見る。清隆くんの目元には前髪がかかっており、色濃い影を作っていた。

 いつ見ても不思議な色合いをした瞳だ。今は影の中で暗い輝きを宿して私を見ている。

 

 私は嘆息して、やれやれと首を振った。

 

「茶柱先生ってイカロスの翼好きだよね。なんか思い入れでもあるのかな」

「……まあ、咄嗟には思いつかない話だとは思うが」

「先生ギリシャ神話好きなのかな〜。清隆くんギリシャ神話も網羅してるんだから、話が合う可能性無きにしも非ずだよ」

「万が一合ったとしても、話すことはない」

 

 私の言葉を聞き、嫌そうに歪む顔を見て笑う。予想通りの回答だ。

 

 少し落ち着いてから、先の質問に答えるために口を開いた。無視をするのも不自然だからだ。

 

「私たちも前に、イカロスの翼の話をしたんだ。神話と現実を当てはめて考えるなんてどうかしてるよね。願望って言われた方が納得できる」

「……願望、か」

「そう。まるで願ってるみたいだ。お前はイカロスなんだ。だからイカロスみたいに死んでしまえって」

 

 私の勝手な思い込みだとは理解している。だが、理解していることと受け入れることは違う。だからこれは、きっと八つ当たりだった。

 

 そんなことはさせない。そんなことにはならない。私が許さない。

 誰であろうと、彼に手を出すことは許さない。傷をつけることは許さない。

 

 意図せず、暗い声が出た。

 

 

「それに、相変わらず嫌な話だ」

 

 

 清隆くんが私を見ている。

 

「葵は、そうだな。昔からこういう話、好きじゃなかったな」

「うん。悲劇は嫌いだ」

 

 どうして本の中でも悲しい、辛い思いをしなきゃいけないのだ。私はそういうタイプの読書家である。

 

 だから強制して読まされた本以外、私が自ら選び取った本ならば、その結末は最初から決まっているようなものばかりになった。

 

 

 

「ハッピーエンドで大団円。気持ちよく終われる物語が一番良いに決まってる」

 

 

 

 清隆くんは私の言葉を聞いて、不満そうに若干眉をひそめた。

 

「推理小説にもハッピーエンドで終わる話はたくさんあるぞ?」

「なんで本の中でも推理とか、余分に頭を回さなきゃいけないの? 嫌だよ面倒くさい」

「今全世界の推理小説好きを敵に回した発言したぞ、葵」

「シンプルに申し訳ないとは思っている」

 

 この辺は考え方の違いだ。だから私が好んで読むのは必然的にコメディ寄りになるというわけである。

 

 

 ───そういえば、そろそろ図書館に行ってもいい時期だろうか。

 

 ちょうど本の話になって、思い出した。

 

 

 まるで今思いついたかのように言う。話の流れとして不自然な点はないだろう。ベストタイミングともいえる。

 

「そうだ。私たち学校に来てから外に出てばかりで図書館とか全然行ってなかったし、バカンスから帰ったら行ってみるのもいいかも」

「オレは葵と外に出て、いろいろ見て回るのも好きだが……そうだな。たまには図書館とかもいいかもしれない」

「よし! じゃあ帰ったら図書館だ。一度しっかり見て回りたかったんだよね〜」

 

 私自身最初の頃に、何度か学校探索で行ったっきり図書館には訪れていない。蔵書数がすごいことは覚えているのだが、いかんせんすべての背表紙を確認して回ったわけではないので、ジャンルごとの冊数を把握しているわけでもない。

 図書館に行ったら、本を選び終えた清隆くんが席に座って読書している間に、私は図書館内をふらふら探索することにしよう。図書館は蔵書数が多いだけでなく、展示の仕方や内装にも工夫や趣があった。この機会にじっくり見て回るのも良いと思う。

 

 それでその間に、清隆くんと───椎名さんがファーストコンタクトを果たしているだろう。図書館といえば椎名さんだ。そして椎名さんといえば図書館である。

 

 私が図書館を心ゆくまで探索しなかったのには、彼女の存在が主な理由にあった。

 清隆くんより先に彼女と知り合うことに、違和感が……罪悪感があるのだ。これは彼女に限った話ではないのだが。

 

 それに私は、あまりミステリー系は嗜まないから。そんな私とは違って、清隆くんも椎名さんもミステリーを好んでいるし、彼らは本の趣味が似ている。だから、二人は話が合うから、きっとすぐに……仲良くなるだろう。

 

 

「………」

 

「……葵?」

 

 

 一体私は何を躊躇しているのか。一瞬の動揺を押し殺して、あっけらかんと笑った。

 

 

「真夏の海ってなんか憧れるよね。はやく荷物下ろして、海行こうよ!」

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 砂浜に降り立ち、寄せてくる波が足先にギリギリ届かないところまで海に近づく。湿って変色した砂が波に攫われ、サラサラと流れていく。

 見上げた空は清々しいくらいの晴天だった。昨日雨だったのが嘘みたいだ。太陽の光が降り注ぐ海は、水平線の向こうまで燦然と輝いて見える。

 

 

 まるで、いつかの続きを見ているかのようだ。

 

 

 そんな錯覚に陥ると同時に、明確に違うとわかるのは、いつかとは違って隣には清隆くんがいるから。

 

 

「綺麗だねぇ」

 

「ああ。やっぱり、近くで見ても綺麗だった」

 

 

 しゃがんで、寄せては返す水面を見つめる。透き通った海水は、見た目はただの水と同じにしか見えないのに、どうしてか惹きつけられるモノがある。

 

 両手を丸めてお椀のような形にして、海水を掬う。おお……冷たい。こんなに日が照っているのに、不思議なものだ。

 

 感動を分かち合おうと、隣で立ったままの清隆くんを見上げた。パチリと目が合う。

 清隆くんも私と同じタイミングで私を見たということか。これが以心伝心ってやつだな。

 

 パッと手のひらの海水を払って、隣に立つ清隆くんの手を取る。

 

「ほら、清隆くんもしゃがんでしゃがんで! せっかく海の近くまで来たのに、触らない、舐めないなんてもったいない」

「いや、なめ……舐めるのか?」

「舐めるよ?」

「オレがさもおかしいこと言ってるみたいな目で見てくるな」

 

 ぐいぐい引っ張れば、清隆くんも隣にしゃがんでくれる。清隆くんはしゃがむことでより近くなった海面を、興味深そうにじっと見下ろしていた。

 

 せっかくここまで来たのに、舐めないのはまだしも、触らないのは勿体なさすぎるだろう。まだ掴んだままだった清隆くんの手を再度引っ張り、一緒に手だけを海に突っ込んだ。

 

「冷たくて気持ちいいよ」

 

 手の隙間から海水が入り込み、伝わる体温が遠くなる。

 波が寄せるたびに体温は薄れ、また波が返すたびに体温が戻ってくる。忙しなくて、それがなんだか面白い感覚だ。

 

 もう少しこの感覚を楽しみたい気持ちはあったが、しかしせっかくだから清隆くんに心ゆくまで海水を楽しんでもらいたい気持ちも本当で、名残惜しくも清隆くんの手を離そうとする。手を繋いだままの方が面白いなと思うのは私の意見だ。清隆くんまで私の面白さに付き合わせるのは申し訳ない。

 離そうとした手は、しかし改めて清隆くんから握り直された。いつもの繋ぎ方だ。こうなると私から手を離す理由はなくなったので、大人しくされたままになる。

 

 

 果てが見えない海の向こうを見つめる。光の反射でずっと遠くまでキラキラと輝いて見えて、目が眩む。

 

 心の底からの感嘆の言葉を、もう一度口にした。

 

「本当に、綺麗だ」

「ああ。綺麗だな」

 

 海風が髪を攫っていく。うっすら汗が滲んだ項に風が触れて、涼しくて心地いい。

 綺麗な景色というものは、ずっと見ていても飽きない不思議な魅力があると思う。海はまた特別だ。

 

 視線を近くの海面に移し、次に念のため持ってきていたタオルに移し、最後に自身の体を見下ろす。正確に言うと見ているのは足だが。

 

「……足だけ入ろうかなぁ」

「いいんじゃないか。そのためにタオルを持ってきたんだ」

「清隆くんの分もしっかり持ってきたよ!」

「オレも葵の分持ってきた」

 

 タオルの量は十分だ。いそいそと長ズボンの裾を捲り上げて、履いていた靴下とシューズを脱ぐ。

 隣を見れば清隆くんも準備を終えており、私を待ってくれていた。

 

「行こう!」

「ああ、行こう。……いや、ちょっと待ってくれ」

 

 清隆くんの手を引いて海に入ろうとして、繋いだ手をぐっと引き留められたことによりその場で止まる。どうしたんだろうと振り向けば、清隆くんはちょうどズボンのポケットから携帯を取り出しているところだった。

 

 急に携帯なんか取り出してどうしたのか。さらに首を傾げる私に、電源を入れながら清隆くんが答える。

 

「佐倉の言葉を聞いて、オレもいいなと思ったんだ」

「? 佐倉さん?」

「ああ。写真なら、思い出が形に残るだろ……うわっ」

 

 携帯の電源が入った途端、清隆くんが悲鳴を上げた。なんだなんだ。急にどうした。

 

 清隆くんの手のひらにある携帯の画面を覗き込めば、すぐに納得した。納得しつつも、無意識に口からドン引きした声が出てしまう。

 

 

「う、うわぁ……」

 

「怖すぎる……」

 

 

 物凄い勢いで画面が着信履歴で埋まっていく。表示されている名前はすべて堀北さんだった。携帯の震えが止む気配は一向にない。

 

 二人で震え続ける携帯を見下ろして、顔を合わせる。

 

「……どうする?」

「とりあえずメールを返して……後で会うことを約束しておく」

 

 言いながら、さっそく清隆くんが堀北さんに送るメール作成に取り掛かっている。一文二文ほどの短い文章を送ると、すぐさま返信があった。

 堀北さんから返ってきたメールにサッと目を通し、清隆くんはそれ以上気にかける様子はなくカメラのアプリを起動する。

 

 携帯を両手で構え、私にカメラのレンズを向けてくる清隆くんに、反射でピースサインを向けた。清隆くんの携帯からカシャッとどこか間の抜けた音が鳴る。

 

 撮ったばかりの写真を見下ろし、清隆くんは満足そうにしていた。画面を見つめて頰を緩めている彼に、少し反応が大袈裟なように思えて苦笑を浮かべてしまう。

 思わずポーズを取ってしまったが、私が写った写真を撮ったところで何の意味もないだろうに……まあ背景がこんなに雄大で清々しい海だから、私一人紛れていても誤差みたいなものか。

 

 

 

 用事が済んだ携帯をポケットに仕舞うと、清隆くんが再び私の手を取って悠々と海の中を進み始める。歩くたびに海面には私たちが起こす波が僅かに立って、それが海本来が起こす波に瞬く間に掻き消されていく。

 

 海から、自然からしたら、私たちが起こす行動など些細なものなのだ。自然が本気で猛威を振るうとき、私たちに抵抗する術がないように。

 手を引かれるまま後ろをついて歩きながら、そんな詮無きことを考える。

 

 

 水着に着替えた生徒たちが思い思いに遊んでいる海辺からどんどんと離れていき、喧騒が遠ざかっていく。

 波の音がさらに喧騒を掻き消すから、いよいよ本当に清隆くんと私しか此処にいないような錯覚に陥りそうになる。

 

 視線を落とした。それから、ゆっくり口を開く。

 

「堀北さん、怒ってたね」

「まあ……なんとかなるだろ」

「私いる?」

「堀北の怒りはオレがすべて受け止める」

「なんかすごくカッコいい感じに言ってくれてる」

 

 清隆くんの言い草に、思わず笑ってしまう。

 声には出さず、そうだよね、と呟いた。

 

「うん。じゃあ、これからも堀北さんのことはよろしく」

「ああ。オレたちのために、立派なDクラスのリーダーになってもらう」

 

 なんともまあ頼もしいセリフだ。堀北さんからしたら許可も得ず勝手に仕立て上げられているわけで、堪ったもんじゃないだろうが。

 だが、彼女が清隆くんの意図を理解した上で自らもリーダーになるべく行動するならば別だ。

 

 

「そうだね。堀北さんなら……清隆くんは、大丈夫だ」

 

 

 後ろをついて歩いているから、清隆くんの背中がよく見える。本当に、いつのまにこんなにも差ができたんだろう、と考える。

 

 小さい頃は私と背丈が変わらなかった。体の厚みだって同様だ。鍛えれば鍛えるだけ清隆くんに追いつくことができた。なんなら、途中で清隆くんの身長を抜かしてだっていたのだ。あの時の妙に勝ち誇った感覚は未だ鮮明に覚えている。

 まあ、今は完全に逆転しているわけだが……仕方ないことだ。男女の身体の構造上、女の私はどうしても不利にある。

 

 もし私が男だったならば。

 今まで散々考えてきたIFが、性懲りも無くまた頭を過ぎった。

 

 不毛だと理解していてなお考えてしまうのは、私にとってはそれが唯一『私の願い』を裏切らないと思っているからだ。

 

 

 

 ───だが、こうやって逃げ続けるのももう潮時だ。

 

 

 

「葵、これ。シーグラスってやつじゃないか?」

「ん? おお、本当だ。綺麗な色してる」

 

 突然体を屈めた清隆くんが海に手を突っ込んで、手のひらに載せて私に見せてきたのは、水色のシーグラスだった。元がガラスだったとは思えないくらい、角が取れてすっかり丸くなっている。

 薄らぼんやりとした優しい色合いは、眺めていると穏やかな気持ちになれる。

 

 シーグラスは夏休み当初、二人で見た海の図鑑で、海の漂流物の一つとして紹介されていた物だ。

 清隆くんは「バカンスなんて銘打っているが、十中八九試験だろう」と冷静に予想し分析して超冷めていたわけだが、そこは強引に私が引っ張り込んで一緒に図鑑を覗き込んだ。図鑑は久しぶりに行った図書館で借りてきた。

 目的のものだけ選んで借りて即行出て行ってしまったので、やはり一度じっくりと図書館を探索して回らなければならないと思っている。

 

 

 

 清隆くんは手のひらに乗せたシーグラスをじっと、海面に映る太陽の反射だけじゃない輝きを瞳に宿して見つめていた。図鑑に載っていた物をいざ実際に目の当たりにして、感動したんだろう。私だってそうだ。見つけた本人なら尚のことと言える。

 

 彼の初々しいとも言える反応に、つい微笑ましくなって自然と口元に笑みが浮かんだ。シーグラスを見つめている清隆くんを、私はじっと見つめている。

 

 清隆くんにはこうやってずっと、穏やかで在ってほしいと思う。曇った顔を、感情を殺した顔をしてほしくない。

 過程は関係ないのだ。過程なんか関係なく、最初から最後まで───清隆くんには幸せであってほしいと思う。

 

 

 区切りがついた。

 

 

 

「本当に……綺麗だ」

 

 

 

 目を細める。彼の茶髪は太陽の光を反射し輝いて、黄金の光輪ができていた。私の視線に気づいて顔を上げれば、ゆうるりと瞳を緩めていく。

 私は、それを見ている。

 

 

 ───入学当初に抱いていた二つの祈りは、私の望みは、今はもうぐちゃぐちゃに入り乱れて癒着してしまっている。

 幾分か形を変えながら生き残ったそれは、我ながら引くほど傲慢だ。私が思っているよりも遥かに、エゴに塗れている。

 

 だが、そうだ。それが私だ。私の本質は昔から変わっていない。

 

 

 私は、ずっと一貫している。

 

 

 

 

「葵。あっちに行こう。オレたち以外誰もいないから」

 

「………う〜〜ん……うん」

 

 

 

 ……いや。清隆くんの言い回しに妙な胸騒ぎがするなんて今さらの話だった。

 

 苦笑を浮かべて、手を引かれながら前に進む。

 

 

 

 どの記憶とも重ならない大きな背中を、眩しさに目を細めながら見ていた。

 

 

 

 

 

 

 




変わるものと変わらないもの。
スッキリした良い表情をしている二人です。



これにて三章はおしまいです。なんか良い感じに終わったのではないでしょうか。これもうハッピーエンドでよくね?と思わないでもない最後。
というわけでついに色々といろんな意味で吹っ切れた主人公でした。長すぎる前哨戦にここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!

それと、今章もたくさんの評価、お気に入り、感想、誤字報告、ここすき等本当にありがとうございました!毎度コメントくださっていた方ありがとうございます、とても励みになりました。


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第四章
自信の先取り


 味のあるサングラスを装着し、デッキの柵に肘を預けてそれっぽい雰囲気を出す。

 なお私の髪は風によってそれはもうバッサバッサと揺れ、その度に私の顔を激しく叩いており、サングラスと相まってなんともいえない間抜けな雰囲気を醸し出していることとする。

 

 同じくサングラスをかけて私の隣にいた清隆くんはといえば、サングラスのフレームを持ち上げて、普通に裸眼で私を見ていた。

 彼が呆れたような視線を私に向けてきているのは、黒いサングラス越しに見ているとはいえ見間違いではないだろう。

 

「いや……サングラスかける意味ってあったのか?」

「見た目がカッコよくない?」

「見た目だけはカッコいいな……」

「あとなんか……バカンスっぽい」

「バカンスっぽい……」

 

 とはいえ、見た目カッコいいしバカンスっぽいとしても、真っ黒なサングラスが目に悪いのはよく知られていることだ。

 

 目は、暗いところだと瞳孔が開き、より多くの光を吸収しようとする。光とは紫外線だ。紫外線は長時間浴びると、さまざまな目にまつわる病気を引き起こす。

 だからサングラスに紫外線カット機能がない限り、真っ黒なサングラスには効果も意味もないということだ。こんなに見た目カッコいいしバカンスっぽいというのに、世の中世知辛いものである。やはりオシャレには犠牲がつきものだということなのか。

 

 清隆くんの目を悪くするのは本意ではないため、彼からサングラスを奪い取る。貸し出し用グッズの一つとして置いてあったサングラスであるため、元の場所に返しにデッキを離れた。

 清隆くんの分のサングラスを返し終え、デッキは充分満喫したから今からは船内を回ろうと声をかけるため振り返った拍子に、清隆くんによって私のサングラスが奪われてしまう。

 

「長時間かけていると目が悪くなる。葵もそろそろ終わりだ」

「え〜」

「え〜じゃない」

 

 渋ってみるも、結局清隆くんによって私のサングラスが元の位置に返されてしまう。今日はハードボイルドに振る舞いたい気分だったんだが、致し方ない。

 

 

 

 二人並んでデッキを離れながら、船内に備え付けてある時計を見て、「あ」と声を上げた。

 

「もうお昼だ。清隆くん、今日は何食べたい?」

「昨日の夜はイタリアンだったからな……今日は和風でいきたい」

「和風か。いいね」

 

 夜のことを考えると、軽めの食べ物で抑えておくべきかもしれない。そうなると日本料理というよりは、やはり和食だろうか。

 

 船内の案内図の前を二人で陣取り、ここはどうだ、いやあっちはどうか、と思案する。数分悩んだ後お店を決めて、昼食に向かう。

 

 店内では清隆くんは山かけ月見そばを、私は海老天ざるそばを注文した。注文後しばらくしてテーブルに届いた料理に、それぞれ舌鼓を打つ。

 

「清隆くん、この海老天美味しいよ! 食べてみて」

「……ん、美味いな」

「でしょ!」

 

 今日を含めて三日間、清隆くんとはいろんなお店を回っているが、どこも料理が美味しすぎて驚愕するし感動する。

 豪華客船に備え付けられたお店はこうもレベルが違うのか……いろいろと後学になるため助かる。

 

「これってやっぱり生蕎麦なのかな……今まで食べてきたそばと違う」

「ああ……見た目もそうだが、食感からして違う。噛んだ時に広がる香りや風味も段違いだ。めちゃくちゃ美味い」

「もしかしてこれ十割蕎麦粉なんじゃ……? 十割でこんなに高度に仕上げられるってすごくない? いや、本当めちゃくちゃ美味い」

 

 美味いコールが止まらない。どのお店に行っても最終的には美味い美味いと言って、語彙力皆無になってしまう。私たちも今度はこんなそばを作れるよう精進しなければ……。

 

 清隆くんが先に食べ終わり、私も続く形で間もなく食べ終えて、二人でお店を出る。

 

 お腹が満たされ、気分は上々だ。なんとなく膨らんだ気がするお腹を撫でながら、清隆くんを見上げた。私の視線に気づき、清隆くんもこっちを見る。

 目が合ってから、ここ数日ですっかり腑抜けた顔で笑った。

 

「毎日こう呑気に過ごせると、楽しいねぇ」

「本当にな。船内が広すぎて、まだまだ全部見て回れてないしな」

「目指すは制覇だよ」

「抜かりない」

 

 腑抜けているのか腑抜けていないのかよくわからない目標を掲げつつ、のんびり廊下を進む。

 途中、軽井沢さんたちに囲まれて昼食に向かっている平田くんに出会った。女の子たちの身長が低くなければ、平田くんの存在に気づけなかっただろう。

 

 相変わらずイケメンだな〜と軍団の横を通り過ぎながら思いつつ、私たちは私たちで次の行き先を決める。

 

「今日はどこ行こうかな〜」

「確か今日の演劇はオペラ座の怪人じゃなかったか?」

「……この、ストーリーを知っているが故の葛藤と、せっかくの機会見なくてどうするという板挟み……」

「せっかくの機会見なくてどうする」

「だよね……なんだかんだ毎日劇場から離れられない」

「映画からも離れられない」

「本当それ」

 

 無料という言葉に弱すぎる。いや、劇場は演目が貴重というか、舞台が豪華客船ということもあってなかなか滅多に見られないような立派なものだからっていうのもあるし、映画は私たち二人が普通に好きだからなのもある。それにどれだけ見ても無料だし。無料だし(3回目)

 

 ちなみに船は全9階層と屋上に分けられていて、地上5階地下4階から作られている。私たちは今のところ地下1階から地下3階を往復している感じだ。この地下1階から地下3階に映画や舞台などのさまざまな娯楽施設が設置されている。

 階層ごとの内容はというと、1階はラウンジや宴会用のフロア、屋上にはプール、カフェなどが設置されており、3階から5階に当たる部分は客室があるフロアとなっている。

 客室は3階が男子で4階が女子という区別だ。船でも男女は教師も含め明確に分けられているらしい。とはいっても学校の寮と比べると制限は緩い。男女間で特に移動の制限は設けられていないし、禁止事項は0時以降になると男子は女子のエリアへの滞在と立ち入りくらいだ。健全でいいことだと思う。

 

 私たちがここ数日、メインで見て回っていた場所である地下1階から地下3階だが、映画や舞台は毎日内容が変わるため、ついつい長居してしまっているのが現状だ。そしてこの数日で、すっかり伊吹さんとは感想を語り合うような仲になった。

 伊吹さんは映画メインで見て回っていたようだが、今はたまに演劇の席でも出会すことがある。目が合って、一瞬気まずそうにしながらふいっと顔を背けるまでがセットであった。そして演劇が終わると、そそくさと去ろうとする伊吹さんを捕まえて感想を語り合うまでが本当のセットである。

 

 私たちが感想を語り合うようになったのは、私と清隆くんのみで語り合っていたところに伊吹さんが鉢合わせ、私たちの会話が聞こえていたのかぼそっと彼女も意見を言ってくれたのが始まりだった。

 

 私と清隆くんは割と感性が似ているというか、語り合うというのもお互いの感想に「やっぱりそうだよね〜!」「だよね〜!」と同意し合うことの方が多い。

 そのため、私たちとは違った切り込みからの意見を言った伊吹さんが新鮮で、思わず彼女をこちら側に引き摺り込んでしまったというのがことの次第である。

 

 もともと伊吹さんとは無人島で顔見知りになっていたし、お互いに素性を知っていたのもよかったんだろう。

 伊吹さんは常に威嚇している子猫みたいな感じだが、私が多少強引でも話しかけるうちにこちらの出方を伺う子猫みたいな感じにまでなった。なんというか、心地の良い達成感みたいなものがある。

 

 伊吹さんは今日は映画と演劇どっちにいるだろうな、と考えていると、平田くんたちに続いて今度は高円寺くんに出会った。

 上半身裸で海水パンツを穿いただけ、加えて全身に水滴が散っている姿を見るに、先ほどまでプールで泳いでいたんだろうか。高円寺くんの足元には転々と染みが続いており、この推測も間違っていないだろうと考える。

 

 高円寺くんのことだからそのまま私たちの横を通り過ぎるだろうと思っていたら、気まぐれでも起こしたのか、あっさりと話しかけられた。

 

「おや、水元ガールに綾小路ボーイじゃないか。偶然だねぇ」

「高円寺くんは今日も絶好調だね」

「もちろんさ。私が絶好調じゃない日など無い。常に自己研磨を欠かさず、私は自分自身が唯一の最高にして最強の人間であることを自負している。当然のことだねえ」

 

 高円寺くんがバッと濡れた髪をかきあげる。その際髪から水滴が飛び散って、私たちの方にまで飛んできた。二人で為す術なく水滴を浴びながら、うーんさすが高円寺くんだといつもの仏の顔をする。

 

「水も滴るいい男……」

「おや。よくわかっているじゃないか、水元ガール。そうだろう? 私の美しさにより磨きがかかっている。美しいものは得てして罪になるものさ」

 

 言ってる拍子にまた髪をブワッとかきあげた。さっきより距離が近づいていたから、もはや散弾銃の勢いで私たちに水滴が降り掛かってくる。隣で清隆くんがげんなりしている。

 

「前々から思っていたが、水元ガールはなかなかに見る目がある。そうだ、紙とペンは持っているかね?」

「はいっ!」

「なんで持ってるんだ」

 

 高円寺くんとはよっぽど必要に駆られない限り喋ろうとしない清隆くんだが、さすがに耐えきれなかったのか私に冷静にツッコミを入れてくる。なんで持ってるのかって言われても……いつか来るこの日を待っていたからだ。それ以外言いようがない。

 

 いそいそとポケットからメモ帳を取り出し、ボールペンと一緒に高円寺くんに差し出す。用意のいい私に高円寺くんは満足そうにしている。

 

 高円寺くんはさっそくメモ帳の1ページ目を開け、そこにさらさらと何かを書き込むと、私にメモ帳を返してくれた。返されてすぐにメモ帳を開き、清隆くんと一緒に覗き込む。読みづらい文字だが、しっかりと『高円寺六助』と書かれてあって、パァッと目を輝かせた。

 

「おお……すごい本物だ……!」

「そうとも。たとえ安物のメモ帳だろうと、サインを書いたのはこの私だ。将来きっと値がつくことになる。先見の明がある君にプレゼントをしよう。ありがたく保管したまえ」

「ありがとう高円寺くん! うん、大事にするよ!」

「オレはどこからツッコめばいいんだ?」

 

 サインにはしゃいでいる間に、高円寺くんが高らかに笑い声をあげながら颯爽と立ち去っていった。高笑いのエコーが未だ廊下に残っている気がする。

 

 丁寧にメモ帳をポケットにしまう。清隆くんは胡乱な目つきをして、高円寺くんの去って行った先を見ていた。

 

「行き先から見るに、部屋に向かっているのか……水浸しにされるのだけは勘弁してほしいんだが」

「清隆くん、そういえば高円寺くんと同室だったっけ」

「ああ……気まずさとか、そういう問題じゃない。疲れるんだ……」

 

 清隆くんから哀愁らしきものが漂っている気がする。少し可哀想になったので、よしよしと背中を撫でてやった。

 まあでも、可哀想は可愛いだからな……内心で思ったことは微塵も表に出さないようにする。

 

「劇が始まるのは何時からだったかな……いつも15時から始まるよね」

「15時で合ってる。まだ上映するまで時間はあるから、1階のカフェで───」

 

 と、そのとき唐突に携帯が鳴り響いた。音の鳴った場所に気づき、あれ、と目を丸める。

 ポケットを探り、自分の携帯を取り出す。画面に表示されている名前は……佐倉さんだ。電話ではなくメールだから、緊急ではない……のか?

 

 携帯を操作し、さっそくメール画面を開く。手元に影がかかったところで、慌てて隣の人物から携帯を遠ざけた。

 

「プライバシーの侵害!」

「今から会うのか?」

「この一瞬でバッチリ内容見てる……」

 

 見られているなら今さらか、と抵抗をやめてもう一度携帯を見下ろした。画面には先ほど開いたばかりのメールが提示されたままになっている。

 

『少し相談があります。お時間があるときでいいので、よければ二人で話したいです』

 

 簡潔な内容だ。時間指定も場所指定もない。私の都合に合わせるということなんだろう。

 

 ため息をつきながら、清隆くんに注意することは忘れない。

 

「清隆くんね……佐倉さんにもプライバシーがあるんだよ。あまりよそでは人様の携帯を許可なく勝手に見ないように」

「わかった」

 

 本当にわかってるのかな……。不安を覚えつつも、改めて今後の予定を考える。

 急ぎの用事はない。劇が始まるまでまだ数時間あるし、今からでも佐倉さんの相談を受けていいくらいだ。

 清隆くんを見れば、オレのことは気にせず行っていいと頷いてみせてくれた。

 

 本当なら清隆くんも連れて行った方がいいと思うのだが、佐倉さんはメールに『二人で』と明記している。私の我儘で清隆くんを連れて行くのは彼女にとって想定外だろうし、それに不義理でもあるだろう。

 

 携帯に文字を打ち込み、今からでも大丈夫といった内容のメールを送れば、返信はすぐに返ってきてとんとん拍子で落ち合う場所も決まる。

 

「じゃあ、私は佐倉さんに会ってくるね」

「ああ。終わったらまた連絡してくれ」

「はーい」

 

 清隆くんと手を振って別れると、私はさっそく指定した場所である船内の隅の休憩所を目指して歩き始めた。

 

 

 

「っ……はぁーーっ……はあああーーーっ……」

 

 しばらく歩き、目的地が見え始めた頃、少し遠くからでも聞こえるくらいの大きなため息を何度も何度もこぼしている佐倉さんを発見した。どうやら彼女は私より先に休憩所に着いていたらしい。ベンチに座って、ため息を吐くのと同時に大きく肩も上下させている。

 

 驚かせるのは本意ではないため、少し遠くから先に声をかけた。

 

「おーい、佐倉さーん」

「わあ! あっ、水元さん!?」

 

 この様子を見るに、多分どんな声の掛け方をしても驚いたんだろうな……。

 

 いつも丸まっている背中は、驚いたせいでピンと真っ直ぐに伸びている。

 あははと軽く笑ってみせて、私は佐倉さんの隣に並んで座った。

 

「驚かせてごめんね」

「う、ううんっ。その、私がちょっと変に緊張してただけで、水元さんは何も悪くないからっ」

「ならいいんだけど……」

 

 首が取れそうな勢いで頷く佐倉さんに、ついまた笑ってしまう。佐倉さんがよくする大袈裟な仕草は面白いし、それに何より可愛くて癒される。

 

 佐倉さんに和むのもそこそこに、改めて首を傾げてメールに書いてあった相談事というのを尋ねた。

 

「それで、私に相談って?」

「あ、あの……私、同じ部屋の人とのことで、ちょっと悩んでて……」

「あ〜……」

 

 なるほど、と頷く。

 

「私は余りもの組だし、佐倉さんは元々決まってたグループに一枠余ってるからって無理やり突っ込まれた組だったね……」

「うん……だから、すごく気まずくて……」

 

 佐倉さんが視線を伏せて、所在なさげに膝の上で指を弄っていた。横目でチラと私を見て、「でも……」と声を上げる。

 

「水元さんは最初から堀北さんと同じだったみたいだし、その……余り物じゃないと思うよ……?」

「結果的に余り物扱いされてたってだけだよ。気難しい子だからなぁ、堀北さん」

 

 そもそも堀北さんと同室になることが決まったのは、クラスの圧力とかなんかそういうのがあった。無人島で活躍して信頼を勝ち取ったとはいえ、この特別試験以前はまだ堀北さんクラスで遠巻きにされていたからな……。

 特に決まった人と仲良くなかったから私に白羽の矢が立っただけで、最初から堀北さんとセットになっていたとかそういうわけではない。

 

 一旦堀北さんのことは横に置き、改めて佐倉さんに問いかける。

 

「えっと、じゃあ佐倉さんの相談って同室の子と仲良くなりたいとか、そういう?」

「そう……だね。仲良くなりたい気持ちと、一人きりでいたい気持ち……両方ある、かな」

 

 佐倉さんが言いながら、落ち込んだように肩を落とす。いつのまにかいつもの猫背になっていて、元々身長が低い佐倉さんだとより体が小さくなったように見える。

 

「こんなだから、私ってダメなんだろうね……」

 

 ……そんなことないよ、と口で言うのは簡単だ。だが、そこにはどこまでも中身がない。慰めの言葉は人によったら一時の気休めにはなるかもしれないが、長期的に見れば具体性も中身もないただ元気付けるだけの言葉に意味はないだろう。

 

 佐倉さんと同じように視線を伏せる。それから何度か口を開閉して、やっと声に出せたと思ったら、どこか宙ぶらりんで頼りない。

 情けないな、と思えば、浮かんだ笑みも自然とへらりとした軽薄なものになった。

 

「……ね、佐倉さん。バカンスから帰ったらでいいよ。もしよかったら、私と一緒に勉強、頑張ってみない?」

「へ……っ?」

 

 佐倉さんから素っ頓狂な声が上がる。私の提案に驚いたせいか、佐倉さんが勢いよくパッと顔を上げて私を見た。私も佐倉さんに合わせて体を彼女の方に向けようとしたが、なんとなく彼女に向き直れないまま言葉を続ける。

 

「私ね、佐倉さんに足りないのはさ……自信だと思うんだよ。何か一つでも、自分に自信を持てる何かがあれば……人って簡単に変われるよ。私、これでもどんな教科だろうと平均点を取れる自信だけはあるんだ」

「平均点を取れる自信……」

「これも立派な自信だよ。たぶん平均点当てだと誰にも負けない自信だってあるね」

 

 佐倉さんが私の言葉に、少し吹き出すようにして笑ってくれた。それで空気が緩んだ気がして、なんとなく力が入っていた自身の肩から徐々に力が抜けていくのがわかる。

 

 うん、と大きく頷いた。今度はちゃんと彼女の目を見て、自信満々な笑みを浮かべる。

 

「そうだよ。だから、大船に乗ったつもりで佐倉さんは私に頼ってほしい」

 

 とりあえず、まずは勉強から。

 

 佐倉さんがジッと私を見つめて、それからゆっくりと頷いてくれた。胸の前でギュッと手を握っているところを見ると、なんとなく思いの強さみたいなものを感じる。

 

「うん……私……私、変わりたい。私も……」

「……? 私も?」

 

 中途半端に切られた言葉が気になり、続きを促すように繰り返した。佐倉さんはハッとした様子で口を手のひらで押さえ、少し視線を彷徨わせてから、眉を下げて微笑んだ。

 

 

「いつか……きっと、言えるように……頑張るよ」

 

 

 なるほど。自信を持てるようになったら言ってくれるのかな?

 

「そっか。じゃあ、楽しみにしてるよ」

「うん。待ってくれると嬉しいな」

 

 あまり待たされるとこちらとしても状況によっては困るのだが、私が彼女にしっかりと自信を持たせれば済む話だ。

 佐倉さんにも言ったように、方法はなんだっていいのだ。私は数ある方法の中で、勉強という一つの手段を取ったに過ぎない。人は誰しも可能性に、未来に溢れている。佐倉さんはただ、今までは明確なきっかけが無かったから燻っていただけだ。

 

 佐倉さんは変われる。私はそれを知っている。知っていながら……私の我儘で、その時期を早める。

 

 ……いよいよ取り返しがつかなくなってきたな、なんて思ったが、後で釣り合いが取れるようにするのだから問題ないだろう。大丈夫だ、そう、何も問題はない。

 

 

 思考に沈んでいたせいで、隣で佐倉さんがうわずった声で、何かもにょもにょ言っているのに気づくのが遅れる。

 

「水元さん、その、あのね。……その、もしよかったらなんだけどこの後ッ───」

 

 佐倉さんが用件を言い終わる前に、突然携帯から甲高い音が鳴り響いた。完全にデジャヴだった。

 

「あ、あれ!? へっ!?」

 

 佐倉さんは突然鳴り響いた音に驚いたんだろう。座っていたベンチから数センチ飛び上がって、わたわたと慌ててポケットから携帯を取り出している。私もそれに続き、ポケットから自身の携帯を取り出した。

 

 この音は確か……学校からの指示であったり、行事の変更などがあった際に送られてくるメールの受信音だ。入学後に説明は受けていたが、今日まで重要メールが届いたことは一度もなかった。

 

 携帯を取り出したのと同時くらいに、船内アナウンスが流れ始める。

 

 

『生徒の皆さんにご連絡いたします。先ほど全ての生徒宛に学校から連絡事項を記載したメールを送信いたしました。各自携帯を確認し、その指示に従ってください───』

 

 

 ……ついに始まったか。ため息を吐きたくなるのを堪え、画面をタップして届いたばかりのメールを開くと、その内容を確認する。

 

『間もなく特別試験を開始いたします。各自指定された部屋に、指定された時間に集合して下さい。10分以上の遅刻をした者にはペナルティを科す場合があります。本日19時20分までに2階201号室に集合して下さい。所要時間は20分ほどですので、お手洗いなど済ませた上、携帯をマナーモードか電源をオフにしてお越し下さい』

 

「……19時20分……2階、201号室……」

 

 反芻するように繰り返す。私の言葉を聞き、佐倉さんが目を丸めて首を傾げた。

 

「へ……あ、あれ。だとしたら、私と全然違うね……?」

「そうなんだ? もしよかったら、見せてもらってもいい?」

「も、もちろんだよっ」

 

 言うが早いか勢いよく携帯を差し出され、勢いに押される形で携帯を受け取りつつ、開かれたままの彼女のメールを見る。確かに私と時間も場所もまるで異なっている。

 確認し終えて彼女に携帯を返しながら、ふむ、と顎に手を当てた。

 

「これって、その、特別試験……だよね?」

「そうだろうね。無人島に続いてまた特別試験か〜嫌になっちゃうよ」

「うん……変なことにならないといいんだけど……」

 

 佐倉さんが再度しょげたように俯くので、私は少しでも元気づけようと隣で明るい声を上げた。

 

「大丈夫だよ。船内での試験だ、無人島みたいに体を使うことはないと思うよ。それに困ったら、今みたいに私に相談してよ」

「い、いいの?」

「もちろん。まあでも、話を聞くだけになっちゃうかもしれないけど」

 

 冗談っぽく軽く笑ってみせてから、そういえば先ほど佐倉さん何か言いかけてたな、と思い出した。

 突然届いたメールのせいで話が流れてしまったが、私に対して言いかけていた言葉のようだったし、聞き直した方がいいだろう。佐倉さんに向き直り、口を開く。

 

「佐倉さん、メールが届く前のことなんだけど、私に何か───」

 

 ……私の携帯が鳴っている。今度は電話だ。さっきから携帯が大忙しすぎる。

 メールを確認した後ベンチに置いたままだった携帯を取り、画面に表示された名前を見る。清隆くんだ。

 

 佐倉さんに断りを入れ、電話に出る。

 

「清隆くん。どうしたの?」

『チャットは入れていたんだが、既読がつかなかったから電話したんだ。葵はメール届いたか?』

「届いたよ。時間は19時20分、場所は201号室」

『そうか……オレは時間が18時で、場所は204号室だ』

「みんな見事にバラバラだね〜」

『佐倉も?』

「うん。私たちと違うよ。ね?」

 

 隣で佐倉さんがコクコク頷いている。

 

『いろいろ話したいんだが、こっち来れるか?』

「了解。今どこ?」

『1階の階段に差し掛かっているところだ。待ってる』

「はーい」

 

 清隆くんとの話が終わり電話を切ると、改めて佐倉さんを見た。ことごとくタイミングが悪かったが、今度こそ彼女がさっき言いかけた言葉を聞くことができるだろう。

 

「よしっ、じゃあもう一度聞くんだけど」

「う、ううんっ! なんでもないよっ」

 

 顔の前で両手を振り、ついでに首も振り、佐倉さんがなんでもなくない顔をしてなんでもないと言う。そんな態度をされたら俄然気になるもので、訝しげに眉を寄せて佐倉さんを注視する。

 

「ええ……? でも、さっき確かに」

「ごめんね、その、本当になんでもないの。……あ、その、またねッ」

「あっこら佐倉さん!」

 

 ピューッと駆け足で逃げて行ってしまった佐倉さんの背中に、私の手が中途半端に伸びている。

 所在なさげに揺れている手をすごすごと下ろし、私はなんとも言えない顔をしながら頰を指先で掻いた。

 

 

 

 

 




四章はすぐ終わるし定期更新する予定だったのですが、操作ミスって最後1話のデータが完全に飛んでしまい、大分やる気を無くしつつ投稿しています。内容端折って投稿すると思いますが、もう一度書き直すの面倒な気持ちでいっぱい(小並)なので、最後1話いつ投稿できるかわかりません。かといって最終話だけ永遠に投稿しないのもアレなので、他の話も最終話に合わせるかもしれません。気長にお待ちいただけると嬉しいです。


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水面下より

誰よその女!!(0巻扉絵を見て)
可愛いわね!!(陥落)



 

 

 

 劇場の席に着いて、他の観客の迷惑にならないようにと顔を寄せ合い、二人小声で会話をする。

 

「堀北さんからチャット来た?」

「オレから送った。堀北は20時40分かららしいな」

「本当見事にみんな分かれてるよね」

「ああ。でも、途中櫛田に会ったから聞いてみたんだが、櫛田は堀北と同じみたいだったぞ」

「法則は……今のところ断定はできないか」

「知ってる中ではオレが一番早いから、何かわかったら連絡する」

「うん。待ってる」

 

 現時点では情報が少なすぎる。お互いそれを理解しているから、メールの話はすぐに終わった。

 もう数十分もすれば、演劇が始まる。演目は『オペラ座の怪人』だ。

 

 軽くあらすじを述べるならば、舞台は19世紀中頃のパリ、オペラ座。オペラ座の地下には怪人・ファントムがいて、彼は天才作曲家でありながら醜い顔を隠すため常に仮面を被っている。そんな彼がクリスティーヌというソプラノ歌手の素質を見出し、『音楽の天使』として彼女に日夜レッスンを施す中で、次第に彼女に惹かれていく───。

 ……そうして二人惹かれあって、怪人の醜い顔ですら許容し乗り越え、本物の愛が彼らの間に芽生えたなら言うことなしのハッピーエンドなんだろうが。

 

「ファントムも可哀想だよねぇ」

「ん? ああ、まあ最後は悲惨ではあるよな」

「クリスティーヌが別の男と結ばれて、目の前で本物の愛ってやつを見せつけられて……やっぱり間男は死すべしっていう世界の共通認識を感じる」

「飛躍しすぎだろ。でも、ファントムだって初めて愛に触れられたわけだし、そう可哀想でもないんじゃないか?」

 

 悲惨ではあるが、可哀想ではない。一見矛盾しているようで、筋は通っているのか。

 

 演劇が始まるという合図の音が劇場中に鳴り響く。もともとそう明るくなかった劇場だが、すべての照明が落ちると本当に真っ暗になる。

 数拍置いて、パッと舞台に光が灯った。舞台からの光に照らされ、暗い劇場の中で私たちの肌が淡く浮き上がっている。

 

 自然と意識が集中する。清隆くんも真っ直ぐ舞台を見つめている。

 

 無意識に、私は小さく口を開いていた。

 

 

「かわいそうに」

 

 

 

 

 

 19時20分。清隆くんからの情報も受け取り、勇んで201号室に向かった私だが、集まったDクラスのメンバーを確認して思わず目を点にした。

 

「おや、水元ガールじゃないか。ふっ君も私と同じだったのかい」

「お、おお……まさか高円寺くんも私と同じだったとは……」

「そのようだねえ。日に何度も私と相見えられること、光栄に思いたまえ」

「それはもちろんでございます……」

 

 完全に想定外だ。トリッキーな彼を制御しながら場を支配するなんて、天地がひっくり返っても無理な話であった。

 

 内心で頭を抱える私を置いて、最後のメンバーである高円寺くんも着席したことにより、ようやく試験の説明が始まる。

 ちなみにこの部屋を担当している先生は茶柱先生だ。部屋に来て一度も目が合うことはなかった。あんなにたくさん個人的にも話をしたのに、冷たい先生である。

 

「ではこれより、特別試験の説明を行う」

 

 いつもの淡々とした口調で、簡潔な説明が彼女の口から為されていく。

 朧げだった知識を説明により補完し、今後の展開を頭の中で組み直す。……いや……やっぱり無理か? 無理じゃない? 詰んだな。

 

 私と高円寺くんの他にいる二人の生徒も、大人しく説明を聞いていた。高円寺くんという爆弾がこの場にいることもあって、余計に大人しくしているのもある気がする。

 

「……説明は以上だ。何か質問は?」

「ふむ。現時点で明かされた情報では、明確に断言することはできないが……まあ私にかかればこのような試験など、造作もないねぇ」

 

 うーん、詰んだな(2回目)

 

「質問はないな? ないならば全員速やかにこの部屋を去るように」

「わかったよ、ティーチャー。ではアデュー」

 

 英語なのかフランス語なのか、結局どっちなんだろうな……。

 

 嵐のように去っていく高円寺くんの背中を見届けてから、他の生徒に続き部屋を後にする。すぐに携帯の電源をつけ連絡を取ろうとするが、記載されている名前の一覧を見直し、タップするはずだった最初の画面の位置から指先を移動させる。

 チャットを送れば、すぐに既読がついた。彼女もちょうど携帯を見ていたのだろうか。なんにせよ、幸先がいい。

 チャットでの話を終えると、携帯をマナーモードにする。

 

 私は待ち合わせの場所に向けて歩き始めた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 部屋に戻ってくると、ドアの前にいる人物に目を丸めた。あっちも私に気づき、壁に凭れていた体勢から直って私の方に歩み寄ってくる。

 

「清隆くん」

「葵。携帯見てないだろ」

「え。あー……マナーモードにしてた」

「返事が来ないと心配になるから、マナーモードはやめてくれ」

「むちゃくちゃ言うなこの人……」

 

 清隆くんに見られながらマナーモードを解除する。顔を上げて、それで、と首を傾げた。

 

「もしかして緊急だった?」

「緊急……緊急だ」

「その間は何だ」

「葵から返事がなかったし……」

「私もいつだってすぐに返事ができるわけじゃないんだよ?」

「だって……」

「駄々を捏ねない!」

 

 不満そうに清隆くんが軽く唇を尖らせている。手を繋ぐと、力を込めて握り直された。

 

「ここは位置情報がうまく作動しない……」

「知らん知らん、ちょっとくらい我慢しなさい」

 

 清隆くんがこの調子だと、動きにくくて困る。これからはこの辺りも改善、もしくは何か解決策を見つけておかなければならないかもしれない……が、その手段はもう手に入れたも同然か。あとは使い方次第だな。

 どちらにせよ、清隆くんが一番厄介説があるということだ。

 

 清隆くんが私を見ながら、口を開く。

 

「それで、葵は何してたんだ?」

「散歩」

「誤魔化す努力くらいはしてくれ」

 

 今私たちがいる場所は4階、女子の客室の階だ。こんなところでずっと二人でたむろしていて、変な噂を立てられては困る。女の子は噂好きなのだ。それは恋愛が絡めば余計に言えることでもある。清隆くんもなぜ堂々と女子の階に来れるのか。

 

 清隆くんの手を引いて、手っ取り早く大勢の人がいる1階のラウンジに向かう。まずは人に紛れる必要がある。

 その途中、連絡に気づけなかった言い訳もしておく。

 

「前々から考えてはいたんだけど、人が足りなくて実行できなくて……でも、そうやって尻込みしてたらいつまで経っても前に進めないから。だから私、ついに一歩踏み出すことにしたんだ……! もちろん清隆くんなら私のこと、応援、してくれるよね……?」

「オレは今演劇でも見てるのか?」

 

 清隆くんの両手を取り、胸の前できゅっと握り込む。上目遣いに彼を見上げ数秒、冷め切った目が一向に変わってくれないので、これ以上ふざけるのをやめる。

 

 仕方ないので手を離し、真面目に答えた。

 

「ちょっと今後のことを考えると、こっちに引き入れておきたい人材がいるんだよ。その人に会ってたんだ」

「誰だ?」

「教えてあげたいのはやまやまなんだけど、私と清隆くんが繋がってる風に取られたら不味いんだよね。たぶん割とすぐバレると思うし、その時の清隆くんの新鮮な反応も求めてるから、まだ知らないままでいてくれると助かるかな」

「オレのか?」

「オレの新鮮な反応が大事なんだよ」

「………わかった」

 

 不機嫌そうな返事に、ごめんねと謝っておく。それでも譲れないものは譲れないのだ。伏線はいくら張っておいても悪いものではない。

 

 とにかく、と結論をまとめて言う。

 

「清隆くんじゃないけど、私も出し惜しみする気はなくなったってことかな」

「オレはそんなこと一言も言った覚えがないんだが……」

「大丈夫大丈夫。清隆くんは安心して私に身を任せなさい」

「葵に自覚はないかもしれないが、結構抜けてるぞ」

「清隆くんには言われたくない。この全自動タラシ機が。後で収拾つかなくなって困るのは清隆くんなんだからね」

「突然の悪口やめろ。あとオレはタラシじゃない。もしかして自己紹介してるのか?」

 

 ポンポン打てば響くような応酬をしているうちに、ラウンジについている。

 

 夜の8時前だとはいえ、ラウンジにはちらほらと結構な数の生徒がいる。そこに紛れ、軽食を提供するカウンターからお互い好きな飲み物を頼むと、カップを受け取り空いたテーブルに向かう。

 席につくと、さっそく私は報告できていない自身のグループの話をする。

 

「聞いてよ清隆くん、私のいる猿グループなんだけどさ、高円寺くんがいたんだよ」

「終わってないか?」

「たぶん初日には何らかの方法で終わる」

「詰んでるな」

「本当に自由でいいよね〜」

「毎回言ってるな、それ」

 

 呆れたような目で見られても、本心なのだから仕方ない。

 

 いろいろ結末が見えている猿グループの話は横に置いておいて、少し行儀は悪いがテーブルに肘をつき、ニヤニヤしながら清隆くんを見た。

 

「兎っていうお可愛いグループに所属している清隆さんは今一体どういうお気持ちで?」

「葵の可愛い基準が気になるところだが……まあ、今はまだ未知数だな。話し合いは明日からだし」

「清隆くんが兎っていうのが可愛いんだよ! 清隆くんが兎だよ、兎。兎耳……兎清隆くん……」

「何回も言うな。全然関係ない事柄なのに、連呼されるせいで微妙に恥ずかしくなってきた……あとどさくさで兎耳って聞こえたんだが冗談だよな?」

「………」

「なんで黙った」

 

 よくない? 兎耳。私動物の中で兎が一番好きな気がする。ふわふわで小さくて可愛いと思う。兎触り放題があるならば、ぜひ行ってみたいところだ。

 話がズレてケモ耳の良さについて熱く語っていたところで、清隆くんからは「葵と博士は絶妙な箇所で嗜好が重なってそうだな……」とどこか遠い目をしながら言われた。それは私も以前から思っていたことだ。機会があれば博士とは語り合ってみたい。

 

 時刻はいつのまにか20時40分に差し掛かろうとしている。ラウンジに取り付けられた時計を確認し、軽く息をついた。

 

「今頃堀北さんたちも説明受けてる頃かな」

「辰なんていう大層な名前をしたグループだ。Dクラスからは今のところ堀北、櫛田、平田……メンバー選出に何かしらの作為は感じるが、どうなんだろうな」

「他クラスのメンバーは堀北さんたちが帰ってきてから聞くしかないだろうね」

「そうだな。堀北とは明日どこかで落ち合うようにした方がいいかもしれない」

「その必要はないよ。私が今日明日で彼女とは部屋の中で話をしておく。ちゃんと後で話したことは教えるよ。清隆くんも試験内容が気になるのはわかるけど、すぐに動くのは止した方がいい。堀北さんは今一番注目を集めている生徒だ。彼女の動向が他クラスから逐一見張られている可能性だってある」

「……だとしたら、堀北が明日真っ先に会おうとした相手は疑われる、か。そうだな、葵からまた後で堀北と話したことを教えてくれ。オレもなんだかんだ焦っていたみたいだ」

「うん。清隆くんには私がいるんだ。存分に利用すればいい。だから大人しく待てしててね」

「兎扱いも嫌だが犬扱いも良いとは言ってない」

 

 視線をカップに落とし、頭を回す。すでに潰した手とこれから弄する手。私の望む結末においても、この三日間は重要なものとなるだろう。

 とは言っても、打てる手はもうほとんど打ったといっていい。あとは帰ってから慎重に事を進めていくだけだ。効率よく動かなければいけない。

 

 清隆くんはこれから兎グループにかかりきりになる。そのため、私が一人で動ける時間は確実にあるはずだ。修正のために動く場合があることを考慮したとしても、時間が足りないということはない。むしろ補って余りあるだろう。この点に関しては安心していいと言える。

 

「清隆くん、試験頑張ってね」

「高円寺がいるからといって諦めるの早すぎないか?」

「じゃあ清隆くんは高円寺くんを制御できる?」

「………」

「そういうことだ」

 

 実際猿グループに関しては何もするつもりがないから、全くの嘘ではない。嘘をつくときは、ほんの少し真実を含ませる。世界共通の騙り方法だ。

 

 私から言わせれば、私のこの言動は『刷り込み』に近いとは思っているけれど。

 

「堀北さんが帰ってくるのに合わせて私も帰るよ」

「そうだな。葵ならどうとでもするんだろうが、なるべくなら同室の奴らがいないうちに話しておいた方がいい」

「タイミングはうまく見つけるから任せて。アフターフォローまでバッチリだ」

 

 ……と、そろそろちょうどいい時間か。

 

 席から立ち上がる。飲み終えていた私と清隆くんの分のカップを重ね、返却口まで返しに行く。清隆くんは私の後をついて来ている。

 

「じゃあまた明日、清隆くん」

「ああ。おやすみ、葵」

「うん。おやすみ」

 

 三階の階段上り口で手を振って別れた。清隆くんの背中を見送り、私も自室に向けて歩き出す。

 

 ……あれ?

 

 四階の廊下、ちょうどよく見えた二人の背中に目を丸めた。すぐに明るく声をかける。

 

「おかえり、櫛田さんに堀北さん」

「あ! うん、ただいま水元さん〜」

「………」

 

 堀北さんを追いかけていた華奢な背中が、私の声かけでパッと振り返る。もちろんその人物とは櫛田さんだ。なお堀北さんは一切視線を寄越さずさっさと廊下を進んで行った。安定している。

 

 櫛田さんが先々歩いて行く堀北さんを見やって、残念そうな声をこぼす。

 

「せっかく同じグループになれたのに……」

「あんまり会話できてない?」

「うん。今後のこととか、いろいろお話したかったんだけど……」

 

 視線を下げて悲しそうな顔をしている櫛田さんに、なんだか私まで悲しくなってきた。

 

「櫛田さんには私がついているからね……」

「もしかして励ましてくれてるの? ふふ、ありがとね、水元さん」

 

 悲しい雰囲気は残したまま、しかし明るい顔で嬉しそうに笑ってみせる櫛田さんに胸がギュンッとなる。櫛田さん、健気すぎる。いやわかってる、ちゃんとわかってるんだけど私が対櫛田さんによわよわすぎるせいで簡単に騙されそうになる……!

 

 ガッシと櫛田さんの手を取り、真摯に見つめた。

 

「櫛田さん……二人で頑張ろうね……!」

「あ、アレのことだね? もちろんだよ、私も頑張るね!」

「ひとまず船上から帰ってからだけど、また集まって話そう」

「うん! 連絡待ってるね」

 

 癒しとしてもう少し話したかったのだが、どうやら櫛田さん、これから一つの部屋に集まって女子会なるものをするらしい。聞くところによれば、私と同室の子たちも集まるようだ。

 

 櫛田さんが首を傾げて、私を見る。

 

「そうだ、水元さんもどうかな? みんな歓迎してくれるよ」

「うーん……ありがたいけど、私は遠慮しておこうかな。堀北さん部屋で一人じゃ寂しがるだろうし」

「水元さんよくそういうこと言ってるけど、堀北さんが聞いたらはっ倒されそうだよね……」

「大丈夫大丈夫」

 

 適当な返事を返せば、櫛田さんが若干乾いた感じではあるが笑ってくれる。

 

 時間を聞けば、消灯時間ギリギリまで女子会をするようだ。

 ならば櫛田さんも女子会の準備で忙しいだろうと、今度こそ別れようとして、ふと服の袖をくんっと掴まれたことで立ち止まった。目を丸めて振り返る。

 

「櫛田さん?」

「水元さんは……もしも、だけど」

「? うん」

 

 恥じらいの浮かぶ赤い顔が私を上目遣いに見ている。

 

 

「もし、私と堀北さん、どちらかを選ばなきゃいけないとしたら……水元さんは、どっちを選ぶのかな」

 

 

 突然何を聞くかと思えば。

 きょとんとしながら、至極平然と答えた。

 

「櫛田さんだよ」

「……本当に、水元さんは迷わず私を選んでくれるよね……」

「櫛田さん全肯定マンだから致し方ない」

 

 自信満々にそう言いながら胸を張る私に、櫛田さんは一拍置いておかしそうに笑った。

 

「……うん。ありがとね、水元さん」

 

 袖を掴んでいた手が呆気ないほどパッと離れる。櫛田さんは可愛らしく顔の横で手を振り、「またね!」と言って駆け足で去って行く。

 髪に隠れていたがチラと見えた赤く染まった耳を思い返しながら、は〜〜本当に可愛いな〜〜と思いながら私も自室に帰る。

 

 自室にたどり着き、ドアを開けて中に入る。人の姿は見えない。だが、シャワーの音は聞こえているから、誰かいるのだろう。同室の女子二人は女子会に行っていることは既にわかっているので、消去法で堀北さんしかいない。

 私も堀北さんが出ればすぐにシャワーを浴びようと、手早く着替えの準備をする。消灯時間までまだまだ時間はあるし、スッキリしてから話をしたい。

 

 しばらく待つこと、堀北さんがシャワールームから出てくる。体が温まっているのだろう、彼女の頬は淡くピンク色に染まっていた。そして流れるように、私を見て顔を歪めるまでがセットだった。

 

「ひどいな、普通人の顔見てそんな表情する?」

「不可抗力ってやつね」

「余計理由がひどくなった……」

 

 脱力する。堀北さんは私の横を素通りし、自身のリュックに下着の入った袋を片付けている。

 私もさっさとシャワーを浴びようと座っていた自分のベッドから立ち上がる。袋を片付けていた音が止んで、後ろから堀北さんが声をかけてくる。

 

「水元さん。あなたのグループはどうだったかについて、話を聞きたいのだけれど」

「あ、それなんだけど先にシャワー浴びてきてもいい? 海風を長時間浴びてたからさ、なんとなくスッキリしたくて」

「ええ。構わないわ」

 

 見れば、堀北さんの手には本がある。私が入浴している間、本を読んでいるのだろう。

 それならあまり急いで出る必要はないかと、気を楽にしてシャワールームに向かった。

 

 

 

 シャワールームから出ると、すぐに話し合いが始まった。否、話し合いというよりただの一方的な情報開示ともいえる。

 私は知っている限りのグループについてつらつらと情報を並べて述べ、堀北さんはそれを聞いている。自分のグループはもちろんのこと、知っている限りなので清隆くんと佐倉さんのところのグループの話もした。

 

 堀北さんは私の話を聞きながら、顎に手を当てて真剣な様子で何かを考えている。

 

「そう……少なくとも、辰グループは明らかに誰かによる意図的な作為を感じるわね」

「えー? だれだれ? そんなにすごいグループだったの?」

「……水元さんに話すのはなぜか抵抗を感じるわね」

「なんで!?」

 

 粘っていれば、しぶしぶながら辰グループのメンバーについて話してくれた。ミッション達成である。だが、まだパーフェクトには及ばない。

 

 話を進める。

 

「いやぁ、絶対入りたくないグループNo. 1だな。よかった、こっちは平和で……平和で?」

「一人で言って一人で疑問を感じないでくれないかしら?」

「高円寺くん……」

「知らないわよ」

 

 辛辣に跳ね除けられる。ガックシと肩を落とした。

 めげずに顔を上げ、堀北さんに尋ねる。

 

「堀北さん、明日はどういう予定?」

「突然ね。何かしら?」

「いいから!」

「……読書してるわ」

「じゃあ、どこか出掛けたりはしない?」

「そうね。進んで出掛ける予定はないわ」

「なら、提案なんだけど」

 

 メモ用紙を取り出し、さらさらとシャーペンを滑らせて文字を書いていく。書き終われば、堀北さんにその紙を渡した。

 堀北さんは怪訝そうにしながらも紙を受け取る。それからそこに書いてある文字を見下ろし、形のいい眉がひそめられた。

 

「……これは何かしら?」

「おすすめ食事処朝昼晩コース」

「おすすめ食事処朝昼晩コース」

 

 演技がかった仕草で拳を握る。それから熱く語り出す。

 

「私、結構いろいろ食べて回ったんだよ……そして僭越ながら、ベスト10をつけさせていただいた!」

「はぁ……」

「それが紙に書いてある通りだ! 堀北さんにもぜひ堪能してもらいたい」

「お店の回し者でもあるまいし、その熱の入り様は何なの?」

 

 思いっきり冷めた目で見られるも、私の情熱はその程度じゃへこたれない。身振り手振りで熱弁する。

 

「堀北さん、決まったところでしか食事取ってないでしょ? せっかくこんな豪華客船なのに、勿体ないよ! 堀北さん好みの人の通りがあまり多くない、隠れた名店っぽいのを頑張ってセレクトしたんだよ。それにどうせ堀北さん暇なん」

「何?」

「すみません。いやでも本当、この感動を分かち合いたくてですね……」

 

 睥睨してくる冷たすぎる眼差しに、徐々に言葉が尻すぼみになっていく。私はただ……堀北さんにも豊かな食生活をと思って……。

 

 萎びた某黄色い鼠系モンスターのごとくしょんぼりしていれば、しばらく経って聞かせるがためだけのあからさまなため息を吐かれる。

 

「……どうせ食事を取りに外に出るのは変わらないのだから、気分転換にでも行ってみるわ」

「堀北さん……!」

「感想はあまり期待しないことね」

「全然いいよ! 私もお店選びには自信があるんだ」

 

 よし。これでパーフェクトだ。

 

 ニコニコと邪気なく笑う私を見て、堀北さんは額に手を当てていた。

 

 

 

 

 

 

 




アイエエエ!?ゼロカン!?ゼロカンナンデ!?(ガバ発生)

というわけでスピンオフだと思っていた0巻が後々かなり重要視されそうな気配を察知したので、構想を練り直すことにします。ただこの小説の最終回を変更する予定は今後とも無いので、そこまでに至る過程を多少しっちゃかめっちゃか変えるイメージだと思っていただければ大丈夫です。0巻の内容如何によっては更新済の話にばんばん修正入れるかもしれません。つまり入れない可能性もあるってことだな(淡い希望)

にしてもあの女の子可愛いですね。何あの守りたい笑顔?可愛くない?キレそう(可愛さと重大なガバ発生のダブルパンチ)


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自覚と無自覚

一年越しの投稿……?ばんなそかな……
覚えてる人いるのか思いつつ出来たので投稿します。
あとニ話ほどで終わります。


 

 

 

 翌日。清隆くんとはお互い優待者ではないことを確認し合ったのち。

 

 まずは最初の午後一時。

 それぞれ指示された部屋に集まり試合開始の合図であるゴング───簡潔で短いアナウンスが部屋に流れたことにより、ついに船上試験が始まった。

 

 

『ではこれより、1回目のグループディスカッションを開始します』

 

 

 実は私も高円寺くんのように観察力だけで優待者を見つけてみようと、前提知識を捨てて挑戦してみることにしたのだが。まあこれが撃沈……とまではいかないが、自信満々に答えられるほどでもない。改めて高円寺くんは規格外だと思う結果となった。

 おそらく己に自信があるか否かも関係しているのだろう、と予測をつける。そうなると、確固たる事実・証拠でもない限り次の行動に出られない、ある意味難儀なタチをしている私と清隆くんは、感覚タイプの高円寺くんとはとことん相性が悪いのだろうなと思う。

 裏を返せば、凸凹を補う形で合致すればめちゃくちゃ相性が良くなることもあるのだろうが、かなり狭き門であることに違いはない。本人たちの性格とかもあるし。

 

 うんうん頭を悩ませているうちに、最低限話し合うようにと指示されていた1時間が経っていたらしい。

 高円寺くんがいの一番に立ち上がり、いつもの挨拶「アデュー」と言うや否や颯爽と部屋から去って行った。

 その後ろ姿を残されたグループメンバーで無言のまま見送り、なんか気まずい空気のまま一人、また一人と高円寺くんに続いて解散していく。私もその流れで部屋を出た。

 

 集中力を途切れさせないために入室前に切っていた携帯の電源を入れる。電源がついてすぐ、画面にはチャットの通知が現れた。名前を見れば佐倉さんだ。

 一体どうしたのかと内容を見れば、時間があれば会いたいですとのことだった。昨日に続いて連日佐倉さんからの連絡が来るなんて、ちょっと珍しいというか、感動するものがある。

 もちろん断る理由はない。せっかく佐倉さんが勇気を出して連絡してくれたのだ、期待に応えようとすぐに返信をする。

 

 昨日と同じ場所でいいか確認すれば、佐倉さんも待っていたのかすぐに返信が来た。場所もあっさり決まり、目的地に向けて歩き出す。

 ……と、また新しくチャットが入った。佐倉さんかと思いきや、清隆くんだ。

 見れば船を回ろうと、試験そっちのけのマイペースすぎる内容が書かれてある。もちろん試験についても多少意見交換するだろうが、メインは船内巡りなんだろう。

 

 少し悩んで、『今から佐倉さんと会うんだ。清隆くんは私ばっかりといないで、須藤たちと遊んだりとか気晴らしで良いと思うよ』と返事をした。

 

 携帯をスカートのポケットにしまい、佐倉さんを探して辺りを見回す。休憩所の隅で、佐倉さんらしき人影が見える。船内の隅にあるこじんまりとした休憩所だから、他に人はいない。なのに部屋の隅にいるところに、佐倉さんの性格が滲み出ているようだった。

 

 昨日は驚かせないようにと遠くから声をかけたのだが、結局佐倉さんは驚いて飛び上がっていた。ならば今日は近くまで行って、そっと声をかけようか。

 特に足音を消しているわけでもなく佐倉さんに歩み寄っていくが、彼女が私の気配に気づく様子はない。というより、何かボソボソと呟いている。

 

「……冗談っぽく……そ、そしたら……」

 

 他に生徒はいないため佐倉さんの声しか聞こえないわけだが、元々佐倉さんの声は小さく、それに加えてどこかから聞こえてくる船の稼働音に負けてうまく彼女の声だけを聞き取ることができない。

 距離を縮めていけば、少しずつではあるが佐倉さんの声が聞き取れるようになってきく。

 

「わ、私と、その……で、でで、デー……」

 

 …………デート?

 

「佐倉さん?」

「トぅをおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!?」

「えごめん!?!」

 

 心なしか昨日よりも飛び上がっている佐倉さんに、私もつられて飛び上がる。目を白黒させて佐倉さんを見れば、佐倉さんも目を白黒させている。

 あわあわ口を開閉し、佐倉さんが真っ赤な顔で私に尋ねてくる。

 

「い、いい、いつ、いつの間にそこにぃ!?」

 

 吃り具合も過去最高だ。

 驚いた余韻を引きずりつつも、彼女の問いに答えた。

 

「一応今来たばっかりだよ」

 

 佐倉さんはすっかり焦っている様子で、手をバタバタさせている。

 

「き、聞いた!? 私の話、聞いちゃった!?」

「えー……」

 

 どうしよう。聞いてないといえば聞いてないし、正直に答えるべきか。

 だがしかし、なぁ……。

 

 悩んだのは一瞬だ。一度一人で頷いて、悪戯っぽい仕草でこてんと首を傾げて佐倉さんを見た。

 

「……デート、する?」

「とぅああああああああああ!!!」

「佐倉さん!?!」

 

 その場で崩れ落ちるように蹲った佐倉さんに、慌てて駆け寄る。小柄な背中に優しく手を乗せ、落ち着かせるように撫でた。

 

「ち、ちが、ちがうんです私冗談っぽく言ってその水元さんの負担にならないように断られても大丈夫なよう平気なようにって考えててだから決して変な意味があるとかそういうわけじゃなくてだから水元さんは安心してあのそのあの」

「一回息して! 怖い! 怖い!」

 

 人ってノンブレスでここまで喋ることってできるんだ。直近で自身にも似たようなことがあった気がしたが、すっかり忘れてそんなことを思う。

 

 ずっと背中を撫でているうちに、佐倉さんもようやく落ち着いたらしい。顔は赤いし体も羞恥からか異常に熱いのだが、落ち着いて呼吸をしながら話せるまでになった。

 顔を俯けた上で手のひらで覆うという徹底ぶりを見せつつ、佐倉さんがくぐもった声でボソボソと言う。

 

「ご、ごめんなさい……つい、その、取り乱しました……」

 

 とりあえずわかったのは佐倉さんは面白いということだな。

 

「私こそごめんね、つい」

 

 そう、つい。

 

 だが別に、嘘にするつもりはなかった。幸いこの後の予定はないし。私は嘘をつかない。

 

「佐倉さん、この後暇?」

「えっ」

 

 物凄い勢いで上げられた顔に多少面食らいつつも、私は笑ってもう一度提案した。

 

「もしよかったら、私とどこか遊びに行かない?」

 

 首が取れそうなほど上下に振られる頭に、今度こそ我慢しきれずに声を上げて笑った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 佐倉さんと船内のカフェ巡りや佐倉さん的おすすめフォトスポットを回ったりしてのびのび過ごしているうちに、いつのまにか2回目のグループディスカッションの時間がやってきていたようだ。時間が経つのは本当に早い。

 別れる際寂しそうにしている佐倉さんに、また一緒に回ろうと声をかければ、パッと顔を明るくして何度も頷いてくれる。

 しっかり癒された後で、第二回グループディスカッションに挑むこととなった。

 

 

 

 あ〜なるほど。優待者だと確信してから観察すれば、案外わかりやすいかもしれない。

 

 二回目は観察力だけでは限界があると思い、記憶を存分に利用して優待者に当たりをつけてから試験に挑んだ。自己紹介で明かされた名前を脳内で五十音順で並べ、干支の順番で猿に当たる人物に注目したのだ。

 結果、その人物の不審な様子が目についた。不自然な目配せ、必要以上な感情の発露。それと何か発言する際に顔を触る癖も妙に目についた。普段からの癖と言われるとそれまでだが、どうもそんな気がしない。

 もともと確信を持って観察しているのもそうだし、心理学的に考えても彼が優待者であることは間違いないだろう。

 

 優待者がわかりスッキリした気持ちで2回目のグループディスカッションを終え、1回目同様高円寺くんを筆頭に、続々と部屋から生徒が抜け出ていく。

 最後まで残っていた数人の生徒も何もすることがないと部屋を出ていくのを見送った上で、私も最後尾として部屋を後にした。

 

 さて、これからどうするか。他のグループではまだ話し合いが行われているかもしれないし、邪魔をするわけにはいかない。

 携帯の電源を入れるも、チャット等の連絡は入っていない。また試験が終われば連絡が来るだろうと、特に何もせず携帯をスカートのポケットにしまった。

 とりあえず夜ご飯の時間というものあり、今日はどこで食事をするか先にお店でも確認しに行こうと思い、一階に向かおうとする。

 

 

 階段に差し掛かる時だ。頭上に影が射す。

 

 

「簡単なゲームだ。君もそうは思わないかい?」

 

「……高円寺くん?」

 

 

 階段の曲がり角から高円寺くんが姿を現した。手すりに手をついて、いつもの不遜な様子で私を見下ろしている。

 困惑に顔を染めて、小首を傾げて高円寺くんを見上げた。

 

「んん……? どういうこと?」

「君も誰が嘘つきか、確信を持っているんだろう? そうじゃなければ、あれほど熱心に特定の人物を観察するわけがない」

「あちゃ」

 

 やはり高円寺くんにはバレていたか。本当に潜在能力が計り知れない人物だ。高円寺くんを意識して、彼にバレないよう観察していたつもりだったのだが。

 

 階段を上がる。高円寺くんと距離が近づいていく。

 

「高円寺くんは他人に興味ないから言いふらすつもりはないんだろうけど、それでもあまり口外しないでほしいな。こんな序盤で嘘つきがわかってるなんて、異端だ。優待者当ては高円寺くんがしていいからさ」

「そうだね、君に先を越されてはプライベートポイントが手に入らない。もともと私の貴重な時間がつまらないゲームに浪費されるのは気に食わなかったからねぇ」

 

 私の目の前で高円寺くんが携帯を操作し、程なくして操作を終えた直後のことだ。ポケットにしまっていた私の携帯に通知が届く。

 慌てることなくスカートから携帯を取り出して、通知を確認する。

 

『猿グループの試験が終了いたしました。猿グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気をつけて行動して下さい』

 

「これで私たちは晴れて自由の身になったってことだ。お互い船上生活を満喫しようね」

「このレベルの船、私ならばこの先いくらでも機会はあるがね。まあ、精々こんな船でも私の肉体を喜ばせるために利用させてもらうさ」

「今から屋上行く感じ?」

「夜の大海に浮かぶ船、月光が射すプールで優雅に泳ぐのも悪くないからねぇ」

 

 そのまま屋上に向かうかと思われた高円寺くんだが、動く様子はない。

 今度こそ本心から首を傾げた私に、少し身を屈めた高円寺くんが正面から私を見つめてくる。

 

「私も大概そうだが、水元ガールも随分つまらなさそうだ」

 

 一瞬、息が止まった。

 

「……どういうこと?」

「思考を放棄した人間は、得てして無気力だ。君の目には、それに通ずるものが映っているように見えたのさ」

「………」

 

 ……はて。

 

「おや。否定しないのかい?」

「……いや……私も、言われるまでは自覚がなかったかな」

 

 ぱちくりと瞬きする。幼げともいえる無防備な様子を見せれば、高円寺くんも揃って目をぱちくりとした。

 かと思えば、急に大声を上げて可笑しそうに笑った。

 

「はははは、実に愉快だ! 水元ガールは天然なのかな? 退屈を自覚しない人間がいるなんて、初めて知ったよ!」

「私なりに楽しんでるつもりだったんだけどな……」

「はははははは!」

 

 私の返事を聞いて、高円寺くんの高笑いがますます大きくなる。何がそんなに高円寺くんのツボにハマったのか。

 

 しばらく笑い倒して、ようやく高円寺くんが落ち着いてくれる。さすがにもう帰ろうかと思っていたので助かった。

 高円寺くんが笑いすぎて滲んだ涙をキザな態度で拭って、今度は姿勢をピンと正して私を見下ろしてくる。いつもの高円寺くんだ。

 

「綾小路ボーイとはまた違う異質さだ。なに、私も君のそんな目は初めて見たんだ。いつもとは全く異なる───極端で、だからこそ興味を惹かれるねぇ」

 

 これで話すことは終えたとばかりに、高円寺くんが踵を返す。相変わらずのゴーイングマイウェイぶりに感服する。

 

 遠ざかっていく背中に向かって、最後に声をかけた。

 

「高円寺くん。高円寺くんは、滅多にサインを人にあげないよね?」

「私は私の基準で人に施しを与えるよ。それがどうかしたかな?」

「ううん、ならいいんだ。貰ったサイン、大事にするね」

「ああ、ぜひそうしたまえ。君の目はなかなか気に入っているんだ」

 

 階段を上がる彼を見送る。私も高円寺くんに確認したいことを終えたので、予定通り夜ご飯を見に行こうと階段を下った。

 気になる単語は多々あるが、何にしても感覚派な高円寺くんだ。私には見えないものが見えているんだろうと無理やりに納得した。

 

 

 

 

 船内を練り歩いて、ついに今日の夕食を食べるお店を決めてしばらく経った頃だ。ポケットに仕舞った携帯が震えて、取り出せば清隆くんからの電話とわかる。随分遅かったなと思いながら、電話に出た。

 

 ……どうやら猿グループの試験が初日にして終わったことにより、あっちこっちで阿鼻叫喚が上がっていたらしい。兎グループも同じクラスメイト同士の話し合いが延びて大変だったとのこと。

 事情は食事の時にでもちゃんと話しておこう、うん。高円寺くんはさすがでした、と。

 

 

 



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嘘つきパラドックス

四章が終わるまであと一話です



 

 

 自室のベッドに寝転びながら、櫛田さんとチャットを交わす。可愛らしいスタンプ付きの返事に顔がにやけていれば、堀北さんから「気色悪いわよ」と容赦ない言葉が飛んでくる。どうやらまだ機嫌が悪いらしい。

 ベッドに肘をついて体を起こし、眉を寄せたまま本に目を落としている堀北さんを見る。

 

「もう、猿グループのことは仕方ないって。高円寺くんがいるんだよ? 遅かれ早かれ結果は変わらなかったと思うよ」

「同じグループのメンバーとして彼の暴走を止めるのが責任ってものでしょう? あり得ないわ」

「無茶を言わないで無茶を。過ぎたことはどうしようもないよ。これを機に堀北さんも高円寺くんのゴーイングマイウェイぶりを理解するべきだ」

 

 清隆くんと夕食を終えた後、堀北さんから鬼電が来たので清隆くんとは一旦別れ、自室で待っている堀北さんの元へとやってきたのだが、それはもう再三説明させられた。

 清隆くんに続いて二度目の説明で慣れていたとは言え、堀北さんからの追及は凄まじく、喋っているだけなのにどっと疲れた。

 

 私の懸命な説明は何だったのか、未だに納得いっていないらしい堀北さんが眉間に皺を寄せながら目を瞑り、何度も首を左右に振る。

 

「今度彼に会ったら直接叱責しておくわ。また転落するのは勘弁願いたいもの」

「高円寺くんが大人しく話聞くと思う? 外野よりも、堀北さんは自分のグループに集中した方がいいよ。なんか凄いメンバーが寄せ集められてるんだし」

 

 高円寺くんの話題だと、同じグループであった以上一生責められそうだ。ここは話題を変えていかなければ。

 

「確かに厄介な相手ばかりだけど、遅れを取るつもりはないから」

 

 頼もしいものだ。眩しいものでも見るかのように目を細めて、彼女に視線をやった。

 

 ……と、堀北さんに聞きたいことがあったのを思い出す。唐突ではあるが、話題に出した。

 

「ね、ね、どうだった? 私のおすすめ食事処朝昼晩コース」

 

 ワクワクしながら返事を待つ。堀北さんは一瞬虚を突かれたような顔をして、それから視線を本に落としぶっきらぼうに答えた。

 

「……悪くなかったわ」

 

 どうやらちゃんと行ってくれたらしい。ニコニコ笑みが深まった。

 

「まだ全部は回れてないでしょ? 明日も回って、堀北さんの一番悪くなかったところ教えてね」

「そんなこと聞いてどうするの。何か意味でもあるの?」

「意味はないけど、好きなものを共有するのは楽しいでしょ?」

 

 堀北さんが理解不能という顔をした。そんな露骨に顔に出さんでも。

 

 食い下がっていれば、渋々といった様子で話してくれる。聞いている感じ、食べ物の話以外堀北さんの口から出てくる話題はない。彼女の周りで何か変わったことはなさそうだ。実は後を尾けられているといった話が出たらどうしようかと思ったが、そんな様子もなさそうなので安心する。

 そもそも、後を尾けても堀北さんは潔白にも程がある行動しかしていないため、何も収穫が得られず早々に尾行をやめた可能性の方が高い。

 堀北さん傍から見たらマイペースに美味しいご飯食べに行ってるだけの可愛い女の子だよ。スイーツ系もおすすめしてるから、私がおすすめしたところをちゃんと行ってくれてるなら、堀北さんは美味しくて甘いものをこっそり一人で食べに行ってるだけのいじらしくて恥ずかしがり屋の本当に可愛い女の子ってだけだよわかるの。

 

 Cクラスの彼らがビミョーな顔になっているのを想像して、一人面白くなってしまう。

 肩を震わせつつなんとか笑い声を出すのだけは堪えていると、堀北さんからまた「気色悪いわよ」と容赦ない言葉が飛んできた。ひどい。

 

 ここで、視界の端でベッドの上に置いていた携帯が震えていることに気づく。

 

「あ、清隆くんだ」

「また? 本当にあなたたちはやり取りが多いわね」

「まあ船上だと部屋もグループも違うし、どうしてもね……」

 

 学校とは違い船上では常時マナーモード、試験中は電源を切っていることが多いため、私がチャットより電話の方が気付きやすいということを理解した清隆くんは、かなり電話頻度を上げていた。こんな調子で学校に戻ったら、余計に酷くなるような気がしないでもないが、お互いこういう事態に陥った場合の対処に慣れるためにも必要不可欠な通過点だったのだろうと思う。

 なんにしろ、船上では電話に出ない理由がない。他に大した用事があるわけでもないし。

 

 応答ボタンを押し、耳に携帯を当てた。

 

「はーい」

『葵。今から一緒にその辺歩かないか』

「それは全然構わないけど。何かあったの?」

『同室のメンバーが荒れててな。落ち着いて寝れそうにない』

「あー……高円寺くん?」

『と、幸村が直前まで言い合いしてたんだ。かなり一方的だったがな』

 

 脳内には、飄々としている高円寺くんに噛み付く幸村くんが思い浮かんでいた。そしてこの想像はおそらく間違っていない。想像に容易い。

 

「オッケー。待ち合わせは3階の階段にさしかかるところでいいかな」

『ああ。待ってる』

 

 電話を切り、出掛ける準備を始める。とはいっても、寝転んでいたから乱れていた髪を直す程度だが。

 手早く出掛ける準備を終えて、読書中の堀北さんに行ってきますと声をかける。堀北さんが返事代わりだろう、一度コクンと頷いてくれたのを見てから、彼女に手を振って部屋を出た。

 

 

 階段を降りてすぐ、手持ち無沙汰な様子で壁にもたれて待っている清隆くんを見つける。足音で私が来ていることに気づいていたんだろう、清隆くんは既に顔を上げていて、目が合えばゆるりと目尻を緩ませた。

 

「お待たせ清隆くん」

「オレも今来たばかりだ」

 

 お互いに歩み寄り、それから並んで歩き始める。時間が遅いこともあり、周囲に人はあまり見当たらない。

 夏とはいえ、夜、それも海の上となればかなり肌寒いものだ。その分繋いだ手が温かくてほっとする。

 

「どこか行きたいところある?」

「どこでも……ああ、でもこんな夜遅くに船外のデッキに行ったことはなかったな。行ってみないか?」

 

 船外のデッキか。……今の時間だと、もしかしたら鉢合わせてしまう可能性が高いな。

 

「それなら、私も清隆くんを連れて行きたい場所があるんだ。佐倉さんに教えてもらったんだけど、見晴らしが良くてすごく綺麗な場所だよ! 誰も知らないみたいだし、静かで落ち着いてたよ」

「もちろんそっちでもいいが……」

「よし、決まり!」

「デッキにも行ってみたい」

「……よし、後でデッキにも行こうか」

「ああ。楽しみだ」

 

 清隆くんを連れて、昼間佐倉さんに連れて行ってもらった場所を目指して歩く。昼間の景色は素晴らしかったが、果たして夜だとどうなるか。

 

「うわぁ……!」

「コレは凄いな……」

 

 案内したのは船外のデッキとは違い、申し訳程度の手すりがついた小さなデッキだ。船の表が船外のデッキなら、こっちは完全に裏側だろう。だが、余計な屋根がなく、ガラスに覆われているわけでもない。開かれた場所から見上げた空は、息を呑むほど綺麗だった。

 昼間は船が上げる水飛沫がキラキラ光って見えたのだが、さすがに夜となると真っ暗で見えそうにない。無意識に乗り出した身は、清隆くんによりキッチリと戻された。

 

 二人で空を見上げて、ぼーっとする。誰もいないから本当に静かだ。船の稼働音が遠くから聞こえてくる以外に音はない。

 

「……眠くなってきた……」

「……私も……」

 

 そういえば少し戻れば円形の施設用大型ソファがあったな、と再び清隆くんを連れて歩き出す。ソファを見つければ先に清隆くんを座らせ、私もすぐ隣に腰を下ろした。

 誰に見られるわけでもないので、遠慮なくあくびをする。隣で清隆くんも小さくあくびをしていた。

 

「ちょっと仮眠してから、デッキ行こうか……」

「ああ……久しぶりに葵と一緒だな……」

 

 どちらからともなく相手の体に寄り添って、相手の体に腕を回して、ゆっくりとソファに倒れ込む。

 

 ───久しぶりに、熟睡できそうだ。

 

 心地の良い体温を感じながら、静かに意識を手放していく。

 

 

 

 数時間後。つまり0時を回った深夜。

 

 ようやく目を覚まして、未だぐっすり眠り込んでいる清隆くんにつられてさらに寝そうになりながら、何とか耐えつつ清隆くんの体を揺らして起こす。

 軽く唸りながら体を起こした清隆くんに、解放された私も続いてソファから起き上がった。

 

「もう0時過ぎてるよ……部屋に戻らないと」

「ん……デッキ行こう」

「そこは忘れてなかったんかい」

 

 寝起きながら思わずキレ良くツッコむ。私も忘れてなかったとはいえ、今日はもう遅いしこのまま解散とばかり思っていた。

 まあ、あの大きな船外のデッキとなると、まだ人はいるだろう。なら、今から行っても構わないか。

 

 とりあえず、と声を上げた。

 

「喉乾いたし、一旦何か飲み物探しに行かない?」

「オレも喉が渇いた。何か飲みに行こう」

 

 満場一致で最初に一階へと向かう。起きてすぐはなんとなく飲み物が欲しくなるのは、人類皆共通だと思う(過言)

 

 この時間にカフェ等は空いていないため、必然的に自販機へと向かうことになった。一階の自販機といえば、学生には関係のない居酒屋やバーなどの施設ばかりが立ち並んでいる箇所にあるため、自然と生徒は誰も寄り付かなくなっている。

 途中、何人か見たことのある先生たちがソファで寛いだりして思い思いに過ごしているのを横目に、清隆くんと自販機を目指して歩く。

 

 そして自販機の近くまで行くと、見覚えのある後ろ姿を発見した。

 

「………」

「………」

 

 清隆くんとお互い無言で気配を殺し、特に合図という合図もなく、ある3人組……茶柱先生、星之宮先生、真嶋先生のいるバーのもとへとギリギリの位置まで近寄っていく。

 

 あまり近づきすぎてはバレてしまうため無理はできないが、十分会話を聞き取れる範囲まで辿り着いた。

 

「なんかさー、久しぶりよね。この3人がこうしてゆっくり腰を下ろすなんてさ」

「因果なものだ。巡り巡って、結局俺たちは教師という道を選んだんだからな」

「よせ。そんな話をしてもなんの意味もない」

 

 思い出話に花を咲かせている先生3人組。話題は徐々に移り変わる。

 

「───おまえは常に私の前に居なければ我慢ならない口だ。一つ一つの行動に先回りしていなければ納得しない。だから一之瀬を兎グループにしたんだろう?」

 

 茶柱先生がカクテルをちびちび口に含みながら、鋭く星之宮先生を睨んだ。それに対する星之宮先生の態度は飄々としたものだ。

 星之宮先生は、グラスにストレートで注いだウイスキーを手元で悪戯に揺らしている。

 

「私は本当に一之瀬さんには学ぶべき点があると思ったから竜グループから外しただけ。そりゃあ? サエちゃんが綾小路くんを気にかけてる点は気になるけど。ただの偶然なんだから。偶然偶然。島の試験が終わった時、綾小路くんがリーダーだったことなんて、全然気になってないしー?」

 

 茶柱先生と星之宮先生との間でバチバチと火花が散っているのが見えた。相変わらず仲がいいことだ。

 

 ───耳に入れるべき情報は入れることができた。この場合は清隆くんの耳を指す。

 

 もう行こう、と繋いでいた手を引かれた。頷いて、清隆くんの後をついて歩き出す。

 これ以上の長居は無用だ。私たちが話を聞いていたことがバレたら、それこそ面倒なことになりかねない。何事も適当が一番なのだ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 船外のデッキにある2人掛けの椅子に座って、空を見上げる。さっき佐倉さんとの秘密の場所で見た夜空も綺麗だったが、此処から見る夜空も充分に綺麗だった。

 吸い込まれそうな闇の中で浮かぶ満天の星に、自然と頰が緩む。目はきっと輝いているだろう。いつまでも見ていられる、それくらい美しい光景だった。

 

 周囲にはまばらに人がいた。連れ立った男女が多い印象を受けたが、明かりは殆どないため顔まではわからなかった。

 此処で知り合いを見かけたら面白いのだが、わざわざ正面までいって逐一カップルの顔を確認しに行くとか雰囲気ぶち壊しというか、もはやサイコパスの所業である。私はサイコパスとはほど遠い人間なのだ。大人しく清隆くんと隅っこの席に着いた。

 

「綺麗だねぇ」

「ああ。本当に……いつまでも見ていられる」

 

 感嘆の吐息をこぼし、真っ直ぐ夜空を見上げる清隆くんを横目で見守る。感情を共有できているのが嬉しくて、より一層ニコニコと頰が緩んだ。

 同じように再び夜空を見上げる。それから距離を縮めて、内緒話をするように声を潜めた。

 

「ね。清隆くんは、今回どう動くつもりなの?」

「どう動くも。特に予定はないな」

 

 距離を縮めた私に合わせるように、清隆くんも身を寄せてくる。余裕のある2人掛けの椅子で、中央にぎゅうぎゅう2人で身を寄せ合っているのはなかなかシュールな光景だと思う。

 

 いや。それよりも、だ。

 

 目を丸め、パッと清隆くんを見上げた。私を見ていたらしい清隆くんとバッチリ目が合う。目が合えば、清隆くんは嬉しそうに目尻を緩めた。

 

「さっきの話聞いたよね?」

「一之瀬のことか? だが監視役といっても、オレが何もしなければ問題はないだろ」

「……何もしないの?」

「して欲しいのか?」

「そういうわけじゃないけど……」

 

 とはいえ、私はともかく清隆くんは動くべきなんじゃないのか。いや、だってここ重要な出来事では。Dクラスの、ひいては清隆くんの今後を左右する、かなり大事な局面ではないだろうか? なのに、動かない……?

 

 真意を探ろうと、ジッと清隆くんを見上げた。自然と見つめ合う形になる。お互いに動くことはない。

 

「本当に何もしないの? 今の状態じゃ、手数は少ないし……そう。例えば、清隆くんと同じグループの軽井沢さん。彼女の求心力には目を瞠るものがある」

「次は軽井沢か」

「次って何?」

「こっちの話だ」

 

 清隆くんが目を逸らした。どことなく機嫌が悪くなったように見えて不思議に思うが、これ以上尋ねても答えてくれそうにないことは察することができたので、追及はやめておく。

 それに私が聞きたいことは別にあるのだ。

 

「清隆くんだって思ってるでしょ。私たちには圧倒的に目と耳が足りないって」

「別に」

「別にって……」

 

 適当すぎる返事に困惑する。こんな調子で、清隆くんのグループは大丈夫なんだろうか? というより、現時点で清隆くんの目指しているゴールがわからない。……正しくはわからなくなった、か。

 

「……本当に何もしない?」

「しない。する必要がない。結果はもう出した。これ以上茶柱に従う理由はない。なによりあいつは嘘をついている。それが分かった以上、あいつの自己満足には付き合いきれない」

「でもクラスが上がればもらえるポイントは高くなって、沢山遊べるようになるよ?」

「…………しない」

 

 ちょっと間はあったが、頑なに返事は変わらなかった。

 なるほど、そうきたか。まあ私も裏で動き始めた以上、他所で反動が……流れが変わってしまうことは、予想できていたことだ。

 

 ───否。覚悟はとうにできている。

 

 一度目を閉じる。頭を、……気持ちを整理する。

 

「……オーケー、わかった。清隆くんは兎グループで好きなだけぴょんぴょんしてて」

「ぴょんぴょんって何だよ」

「一之瀬さんと一緒に」

「余計な一言を追加するな」

 

 私が目指している終着点は、実を結ぶにはまだまだ当分先だ。だから多少流れが変わったところでいくらでも修正は利く。否、修正が利くように動かなければならない。私にはその責任がある。

 

 気長に行こうじゃないかと、脱力して肩をストンと落とした。

 清隆くんは少し黙り込んでから、ゆっくり口を開いた。

 

「……堀北の目と耳が足りないのは事実だ。だが、オレたちがいる。いくらでもサポートしようがある」

 

 堀北にはこれからもリーダーとして前に立ってもらわないといけないからな、と続いた清隆くんの言葉にきょとんとした。

 

 ……どうやら清隆くんは私たちじゃなくて、堀北さんの目と耳が足りないと判断しているらしい。

 

「そ、そっちかぁ……」

「逆に聞くが、オレたちが目と耳を確保する必要があるのか? オレはこれから先、必要以上にクラス間競争に関与するつもりはない。オレたちがいつも通りの日常を過ごせる程度には手を出すつもりだが、それ以上は労力の無駄だ」

 

 清隆くんの意見も尤もだ。目と耳が足りないと言っているのは、いわば私の我儘に過ぎない。私は清隆くんに……軽井沢さんと関わりを持って欲しくて提案したのだ。

 私も私基準で動くことを決めたとはいえ、清隆くんの周囲で起こる、もうハッキリ言ってしまえば女の子関連の出来事にはこれからも全力で関わらない方向でいくつもりだった。この辺は傍観する姿勢は変わっていない。

 

 ……が、清隆くんがこんな調子のため、これからも色々と齟齬が出てくるんだろうなと悟った目をした。

 

 清隆くんによりぐっと手を握られる。そのまま手を引っ張られて、体が傾いた。

 

「葵は目と耳を手に入れて、どうするつもりなんだ? そもそも今まではどんなに状況に迫られても動こうとしなかっただろ。葵が考えを改めた理由は何だ?」

 

 鼻頭が触れ合う距離で、清隆くんが私をジッと見ている。

 心臓の裏側まで見透かされそうな目だ。だが、視線を逸らすことはない。

 

 

 

「───お前は一体、何を企んでいる?」

 

 

 

 嘘偽りは許さない。口に出さずとも、伝わってくる圧で清隆くんの言いたいことを察する。だとすれば、私も真剣に返答するのみだ。

 

 真っ直ぐに見つめ返し、自信を持って、ハッキリと意思を告げた。

 

 

 

「あの時言った言葉に嘘はない。私はずっと、先を見据えて動いてるよ」

 

 

 

 しばらくお互い無言で見つめ合う。

 

 清隆くんは細めていた目をゆっくりと元に戻して、静かに言った。

 

「……信じる、からな」

「うん。清隆くんも知ってるでしょ。私、今まで一度だって嘘ついたことはないよ」

「知ってる」

「冗談ならいっぱい言ってるけど」

「それも知ってる。違いくらいわかる」

 

 一度軽く息を吐いて、清隆くんが私にもたれかかってきた。肩に清隆くんの頭が乗る。

 その頭に手を乗せてゆっくりと撫でながら、一段落して落ち着いたのもあり、私もまたのんびりと星空鑑賞を始めた。

 

 

 

 

 




これもう砂糖の加減わかんなくなってきたな…


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覚悟

 試験三日目。猿グループは一日目にして終わり、続いて佐倉さん属する牛グループも誰かの裏切りにより試験を終えたのだが、他のグループは予定通り計六回のグループディスカッションを行ったようだ。

 最後のグループディスカッションを終えて間もなく、携帯にはほとんど同タイミングで四通ものメールが送られてきた。それは鼠、馬、鳥、猪のグループから裏切り者が登場したことにより、試験が終了したという知らせだ。その少し前には清隆くん属する兎グループの試験終了の知らせも届いていたのだが。

 後で合流した清隆くんに話を聞けば、一之瀬さんが自身が優待者であるというメール文をグループで公開し、協力を仰ぐも裏切り者が出たことで試験が終了したとのことだった。

 

 ……残すは、学校からの試験終了の合図───メールを待つのみ。

 

「バカンス楽しかったな」

「清隆くんがすっかり染まっちゃってる……」

 

 カフェで貰ってきたジュースを手に、デッキの椅子に座って体から力を抜いた状態で空を見上げている清隆くんに、緊張のきの字もない。完全にオフの顔をしている。腑抜け切っている。ヒトとは物事を考えなくなるとこんな顔になるのかと言われると納得する顔だ。

 

「葵も人のこと言えないだろ」

「だってみんな試験にかかりっきりだしさ〜。やることなくって遊び呆けてたよね」

 

 これは本当だ。打てる手は既に打っており、これ以上は蛇足、動きすぎても今後の足枷となりかねない。

 船上という限られた区域と、人工島という限られた区域。どちらが動きやすいかなんて一目瞭然だ。分け与えられた部屋も個室ではないし、これでは人目が多すぎる。悩んだが、今回は動かなくて正解だろう。

 

 日焼け止めを塗っていたとはいえ、若干の日焼けの痕が垣間見える肌を見下ろす。

 

「高円寺くんが本当泳ぐの早くてさ、私もつい本気になっちゃったよ。いやぁ、楽しかったな〜」

「未だにその話一ミリも理解できないんだが」

「途中で同じく試験が終わって心許なさそうにしてた佐倉さん見つけたから引き込んで、3人でプールバレーもしたんだ。佐倉さんと二人がかりで攻めたのに高円寺くん激強すぎて笑った」

「マジで何してるんだ?」

 

 マジでも何も私と佐倉さんと高円寺くんの三人で遊んだだけだ。それ以上もそれ以下もない。

 命をかけていないだけで、こんなにもガチンコ勝負とは楽しめるものなのかと純粋に感動した。この数日間で高円寺くんの大笑いも一生分聞いた気がする。

 

 私も清隆くんと似たり寄ったりなだらしない体勢で、手に持っているジュースをストローで飲む。トロピカル感溢れるバナナ味を堪能し、喉を潤してから、満足のため息を吐く。隣からトゲトゲした視線が肌に刺さっている。

 

「……オレもすぐに試験を終わらせたらよかったか」

「何もしないって言ったの清隆くんでしょ」

「立場が逆転してるのが解せない」

「いや私今回も言ったら何もしてないから。全部高円寺くんだから」

 

 誤解されては困る。ほんの少しの認識の違いから、後々計画が丸潰れになったら洒落にならない。

 

 不機嫌そうにしながら、気を取り直したようにこちらに伸ばされた手に私が持っていたジュースを預け、代わりに清隆くんのジュースを受け取る。さっそく口に含んで広がるのはライチ味だ。こちらも美味しい。

 今度は二人揃って満足のため息を吐き、頭上に広がる満天の星を自然と見上げる格好になる。間を置いて、能天気な声をあげる。

 

「今回の試験も無事終わるねぇ」

「無事かどうかは怪しいが……まあ、退学者無しという意味ではそうだな。いちいち集合するのは面倒だったが、それ以外は充実した船日和を過ごせた」

「謎単語作ってる……船日和って何? いやニュアンスはわかるけどね?」

「船日和は船日和だ。まだしばらくこの生活を満喫したかった……」

「ぐう……ぐうの音も出ない同意……」

「出てるぞ、ぐうの音」

 

 ダラダラと終わりのない、取り留めのない会話をする。満たされた心地は本物だ。本当にこの生活が終わることを惜しく思う。

 きっとこれが最後の時間だ。何にも縛られず、あれこれと悩まず、先のことを考えて動かずに済む。

 ここからが、本番だ。

 

「あ、メール来たよ」

 

 そこかしこで携帯が一斉に鳴る。みんなが一様に携帯に手に取り、結果を確認する。私と清隆くんも周りに伴って、同じタイミングで携帯に視線を落とす。

 結果を一通り確認後、清隆くんは感心したように軽く息をついた。

 

「見事なもんだな」

 

 首肯でもって返事をする。

 

「一斉に4通もの裏切りメールが来ていたことから、何かしらの作為が動いていることは予測がついていたが……」

 

 全くその通りだ。だが、それも注目すべきこととはいえ、結果には他と比べても何より異質な点が一つある。

 今清隆くんの視線がどこを向いているのか、見なくても、聞かなくたってわかることだ。例えばどんな表情をしているのか、だって。

 

「……Dクラスは、これからさらに窮地に立たされるかもな」

 

 ……それでも耐えきれず、そっと隣に視線をやった。清隆くんは静かに携帯に視線を落としている。不思議な色合いを持つその瞳が、ゆらりと仄めくようにして光を漏らしたのを見逃さなかった。

 本当に表情豊かになったなぁ、と感慨深く思う。こうしてどんどん彼は変わっていくのだろうか。それは何よりも微笑ましいことで、私にとって何にも代え難く嬉しいことだ。私だけ置いていかれる一抹の寂しさだって、些細なことだと断じられるくらいに。

 

 ずっと眺めていたいような、視線を逸らしたいような相反した心境で、しかし顔を上げた清隆くんと目が合う前に自身の携帯に視線を移す。

 

「これからどうなるのかなぁ」

 

 本音のこもった相槌は白々しいものじゃない。

 

 ふと高円寺くんにかけられた言葉を思い出して、今の私は彼からしたらどう見えるんだろうかと、そんな疑問が頭をよぎった。

 

 

 

 

 

 

 

【試験結果】

 

 

子(鼠) ───裏切り者の正解により結果3とする

丑(牛) ───裏切り者の回答ミスにより結果4とする

寅(虎) ───優待者の存在が守り通されたため結果2とする

卯(兎) ───裏切り者の回答ミスにより結果4とする

巳(蛇) ───優待者の存在が守り通されたため結果2とする

午(馬) ───裏切り者の正解により結果3とする

未(羊) ───優待者の存在が守り通されたため結果2とする

申(猿) ───裏切り者の正解により結果3とする

酉(鳥) ───裏切り者の正解により結果3とする

戌(犬) ───優待者の存在が守り通されたため結果2とする

亥(猪) ───裏切り者の正解により結果3とする

 

 

 

 

辰(竜) ───試験終了後グループ全員の正解により結果1とする

 

 

 

 

 

 

 

 

 清隆くんと別れた後、私の足は船内の振り分けされた自身の部屋へと向かう。

 いかにも眠そうな顔をして、時折あくびを噛み殺しながら歩いていれば、さぞ一眠りをしに部屋へ帰っているよう見えることだろう。

 だからほとんどの生徒が部屋の外に出払って、結果メールにどよめいている中で一人違う行動をしても、不自然に思われることはない。

 

 部屋に入って短い廊下を抜けると、こちらに背中を向けてベッドに座っている華奢な背中が見える。

 私が帰って来たことにはドアの開閉音だったり足音だったりで気づいているだろうに、彼女に振り向く動作はない。だが、構わない。今の彼女にそんな余裕がないことはわかっているのだから。

 

 足音を消さないまま歩み寄る。

 

「堀北さん」

「……水元さん」

 

 ……酷い顔だ。苦笑を浮かべることもできない。浮かべたところで、今の彼女じゃ嫌味を言うこともできないだろう。それでは寂しすぎる。

 

 ベッドに腰を下ろした堀北さんが、私を拙い動きで仰ぎ見た。その拍子に肩から艶やかな黒髪が流れ落ちて、堀北さんの整った顔に濃い影を作る。その様を見ながら止まることなく彼女の元へ歩み寄り、そっと隣に腰掛ける。

 二人分の重みで沈んだベッドの上、いつもはピンと立っている堀北さんの背中は緩く丸まっていて、今の彼女の心情が如実にわかるようだった。

 

「何かあったの、堀北さん」

「……あなたも、結果を見たでしょう。竜グループは、……」

「どうして? 結果1なら、クラスポイントもプライベートポイントも、どっちも全員に配られることになる。一番良いことなんじゃないの?」

「ッ違う! 私たちのグループでは、櫛田さんが優待者で、私はそれを隠し通すために……ッでも」

 

 激情に駆られ、しかし行き場が無く肩を震わせるしかできない堀北さんに、手を伸ばして華奢な背中に添える。撫でることはしない。

 

「確か……優待者が所属するクラス以外、全員の指名が正解じゃなければ、結果1にはならないんだっけ」

「そうよ……だから、なのに、どうして……? 優待者だとバレないよう気をつけて行動していた、逐一指示だって出していたのよ、油断はなかった……」

 

 へぇ、と軽い相槌を打つ。重たい雰囲気の堀北さんと比べたら拍子抜けするくらいあっけらかんとした口調で、さも今思いついたように言う。

 

「じゃあ、誰かが情報を漏らしたってこと?」

「……どうしてそうなるのよ。言い間違えだったとして、普通はどこかから情報が漏れたとか、そういう言い方をするでしょう。なのにあなたの言い方じゃ、まるで……うちのクラスの生徒から情報が漏れたみたいじゃない」

「んん? ……あ、そうだね、そうだった。平田くんと櫛田さんだもんね。あの二人が情報を漏らすわけないか」

「そうよ……なぜ自身のクラスが不利になるような真似をわざわざするのよ。ありえないわ……」

 

 普通はそうだ。自身のクラスが陥るような真似をわざわざするわけがない。なぜなら不利益がかかるのは己の所属しているクラスで、ひいては己自身だ。だからそんな発想には思い至らない。表面上だけをなぞれば、だが。

 人の心理や価値観は様々だ。この世に絶対なんてありはしない。自分以外の他人の行動を予測するなんて不可能だ。ましてやその人自身の過去に基づいた行動理念など、過去の知りようがない以上行動を予測するなんて土台無理な話だ。

 

 顔色悪く、ブツブツ呟くようにして受け答えする堀北さんは、まだその発想に思い至る余裕がない。一匹狼気質で、人と関わる機会を極限まで排除している彼女だ。だからきっと、ギリギリまで気づくことができない。

 

「うーん……竜グループ、他に誰がいたっけ」

「……クラスの代表格ばかりが集められたグループだったわ。敢えて名前を挙げるとしたら、葛城くん、神崎くん、龍園くん……」

「じゃあその3人が怪しいのか」

「……そう、ね……いえ。いえ、私たちは同じクラスメイトであっても、私たち以外で櫛田さんが優待者であることを教えることも、仄めかすことすらなかったわ。だから……」

 

 堀北さんが片手を力無く額に当てている。次第にグッと力がこもっていき、彼女の手の甲には薄く筋が浮かんで見えた。

 

「清隆くんは?」

「綾小路くんが情報を漏らすわけないわよ。そもそも彼とは船内で碌に会っていないわ。櫛田さんが優待者であることも知らないはずよ」

「私も聞いてなかったしね……さらっと言われてびっくりしたよ」

 

 つまり清隆くんは私づてでしか堀北さんからの情報を得ていないということだ。

 今回の試験、清隆くんはほとんど行動を起こしていない。堀北さん関連だと私がそうするよう勧めていたのもあるし、茶柱先生への反抗心もあるだろうと見ている。だが、結果メールを見てからのあの表情……。

 

 

「じゃあ……一体、どこから……誰が……?」

 

 

 隣では堀北さんが私とは別の終わらない思考の渦にはまっている。

 一旦私の思考は横に置いて、このままじゃ延々と抜け出せなさそうな堀北さんをひとまず掬い上げることとする。

 

「まあ情報が漏れたとかじゃなくて、謎解きみたいに誰か問題解いたりしたのかもね!」

「……一応聞くけれど、誰が?」

「え? ……頭いい人が?」

「………」

 

 冷め切った目を向けられたらミッションコンプリートだ。やっぱり堀北さんはこうでなくては。私の性癖は別にMではない。

 

 堀北さんが額に当てていた手からは良い感じに力が抜けて、今は添えるだけとなっている。さらには彼女がいつものように呆れたため息をついたら、腕はベッドに落ちて完全に力が抜けた様子だ。

 

「あなたと話していたら気が抜けるわ……」

「えっそれ褒めてくれてるよね? やだな、堀北さんが褒めてくれるなんて珍しくて照れるよ」

「間違えたわ。あなたと話していたら集中力が途切れるわ」

 

 容赦なく訂正されながら、すっかりいつもの調子に戻っている堀北さんに笑みが浮かぶ。私の性癖は別にMではない。

 

 私も堀北さんに倣って体から力を抜き、ベッドに両腕をついてだらしない姿勢になる。本格的なあくびをして、うにゃむにゃと口を動かした。

 

「一人で悩んでいても仕方ないよ。まずは他所から情報を集めることから始めないと、ずっと堂々巡りになっちゃうよ。それにもう時間も時間だよ? 寝てから考えよう、そういう難しいことは」

「時間? ……あ」

 

 堀北さんがベッドの隅に投げ出していた携帯を手繰り寄せ、画面を見てから僅かに固まる。私も背伸びをして同じ画面を覗き込み、そこに提示されている時刻を見て、どうりで眠いわけだと納得した。

 携帯に提示された時刻は0時58分。日付が変わってすでに1時間経っている。健康的な生活を送る身としては、すでに眠っていてもおかしくない時間だ。

 

 そこで堀北さんの視線が時刻のほか、携帯の下部に移っていることに気づく。追うようにして私も視線を移し、同じく「あ」と声を出した。

 

「平田くんだ」

「……きっと結果について意見を聞こうとしたのね。……メール……いえ。電話してくるわ」

「でももう一時だよ? 平田くんザ・健康生活してそうだし、こんな時間じゃとっくに寝てると思うな」

「あなた、平田くんに対してどんなイメージ持ってるのよ……」

 

 とは言いながら、堀北さんも電話するのはやめたようだ。これが清隆くんなら時間都合関係なく電話をかけていただろうが、相手が平田くんだけあってさしもの堀北さんも遠慮している。これが平田くんパワーである。

 ……もしくは彼女が容赦無くなるというのも、清隆くんが為すパワーなのかもしれない。逆だったかもしれねェ……。

 

 堀北さんは渋々携帯を元に戻し、立ち上がりかけていた中途半端な姿勢を直して再びベッドに沈む。反対に私は立ち上がった。

 端っこのベッドを陣取っている堀北さんのすぐ横、ここでも暗黙の了解で隣となった私専用のベッドまで歩いて、傍に置いてある自身のバッグを探る。そこから寝巻き用のジャージやら下着やらを取り出すと、堀北さんに向き直って声をかけた。

 

「私もお風呂入ってくるよ」

「ええ。私ももう寝るわ」

「うん。おやすみ、堀北さん」

「おやすみなさい……」

 

 疲れた顔をした堀北さんがベッドに横になる。彼女の細い肢体がしっかり毛布に包まったのを見守ってから、私も浴室に向かう。

 

 

 

 浴槽に湯が張ってあることを先に確認すると、脱衣所に戻って服をすべて脱ぎ終え、改めて浴室に入る。さっそく全身を洗うために頭上のシャワーから満遍なく温水を浴びる。

 頭を上向きにし、目を閉じて髪を掻き上げながら十分に頭髪を濡らせば、一旦シャワーを止めて、備え付けのシャンプーを手のひらに塗りつける。少し泡立ったことまで確認すると、頭皮をマッサージしながらさらに泡立てていく。

 シャワーヘッドを手に取ってシャンプーの泡を丁寧に洗い流せば、次はリンスだ。いくら女子力がないとしても、最低限の女の子の嗜みは欠かさない。

 Dクラスの顔面偏差値が高すぎて、せめて見られてもスルーされるくらいにはならなければという意識が働く。清潔感があればまあどうにかなるだろうという自論があるものの、どちらにしろ手抜きはできない。

 

 そう、別に、可愛いなんて思われなくていいのだ。Dクラス……高度育成高等学校の女の子たちに張り合おうとか鼻から思っていない。レベルが高すぎる。そもそも張り合おうという思考になることがまずおこがましい。

 オシャレをしたって、もとが私だ。いくら取り繕っても程度が知れている。他の女の子たちが可愛いすぎて、背景に埋もれて消えるのが関の山だ。いや私はモブだからいいんだ。いいんだけど、やっぱりその……ごにょごにょ……。

 

 ……結局のところ、私は教室の隅でひっそり息しながら可愛い女の子たちを見て目の保養にするくらいがお似合いなんだ……もちろん平田くんも目の保養……あれ。つまり平田くんは女の子だった……?

 

 謎の思考に陥っている間、いつのまにかリンスを流し終えている。一旦シャワーを止めて、そうしたら次は体だ。顔はお湯に浸かって体が温まってから洗うのが私のルーティンとなっている。

 体も備え付けのボディスポンジを使って、石鹸で泡立てたスポンジを優しく全身に滑らせていく。泡だらけになった体を満足して見下ろし、またシャワーで洗い落としていく。

 

「あ」

 

 手に残っていた石鹸で手元が滑って、熱気でくもった鏡にちょうどよくシャワーの温水がかかる。クリアになった鏡には当然私の全身が映った。

 

「………」

 

 我ながら傷一つない綺麗な体をしていると思う。散々酷使されて、時には血を流して傷だらけになったりしながら、しかし治療が最先端だったからこうして外見だけは綺麗に保たれているのだろう。

 私はあまり進んで鏡を見ることがない。もちろん身嗜みの際はしっかり確認するが、それだけだ。全身だって出掛ける時に身嗜み程度にしか見ない。

 だから改めて今、裸の自分をこうして見つめていることがなんだか不思議な心地だった。

 

 鏡に映る自分に手を伸ばす。ぺたりと冷たい感触が手のひらに広がる。

 

「……やっぱり、女の子らしくないな」

 

 笑う。鏡に映る自分の顔にまた笑って、視線を落とした。

 筋の浮かぶお腹を指先でなぞる。擦るように、執拗に。

 

「また、鍛え直さないと……な」

 

 船から帰ったら走り込みをしなければ。部活に入っているとはいえ、弓道部は半運動部もいいところだ。柔軟や体幹トレーニングといった筋トレは行うが、全身運動と呼ばれるものはほとんど行わない。

 浮き出ていたはずの筋肉が薄らとなって徐々に消えていっているのがわかる。それじゃダメなのだ。

 

 私は凡人だ。なればこそ、勝つために、努力をし続けなければならない。それがいつか牙を向く術となる。

 相手が油断しているのはわかりきっていることだ。落ち着いて慎重に準備を重ねるだけでいい。勝算は……時がくれば、すべての事を終えているだろう。

 

 そうして最後に笑っているのは私だ。明確なイメージができているなら、結末は決まっているも同然。

 

 

 

「……………」

 

 

 

 ………だから、いつか来るその日までは………

 

 

 

 

 

 

 

 

 




これにて四章はおしまいです。
トラブル発生したり(データ消失)トラブル発生したり(0巻発売)トラブル発生したり(やる気消失)して一時は完全にもうエタってよくない?モードに入ってましたがなんとか持ち直し、こうして無事書き終えることができました。
今章でもたくさん感想、評価、お気に入り、誤字報告、ここすき等ありがとうございました!エタらなかったのもちょこちょこ反応もらえてたからです。本当にありがとうございました!
次章は幕間として、4.5巻の内容を踏まえつつ、番外編もちょこちょこ書く予定です。やる気とかいろいろ問題含めて更新は完全に不定期となってしまいましたが、時々思い出して覗いて、気が向いたら反応してもらえると嬉しいです。


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幕間一
占い師さんのちょこっとアドバイス


みんなどれくらい0巻読んでるんだ…?どこまで話に組み込んだらいい?
あと誰か雪ちゃんを幸せにしてくれないか?


 

 

 

「葵、占い行かないか」

「へ?」

 

 部活終わり、学校のシャワーで汗を流して直帰したのは清隆くんの部屋だ。来た時点ですでに空調がかけられており、炎天下を歩いて帰ってきた身としては室内は実に快適な温度だった。

 極楽極楽〜と空調機の前を陣取り涼んでいたところを、気を利かした清隆くんが氷の入った水を持ってきてくれたので、亭主関白もさながらで受け取って一気に喉に流し込んだ。そして一息ついて落ち着いた後、かけられた言葉に目が点になる。

 

 うらない。占い?

 

 突然降ってきた単語が清隆くんとうまく結びつかない。首を傾げる私に、清隆くんはどこか浮き足だったような様子を隠さずに詳しく説明してくれる。

 

「葵が部活でいない間、須藤から連絡があってな。どうやらちょうど今、ケヤキモールによく当たるという噂の占い師が来ていて───」

 

 話を聞くに、須藤から電話を通して堀北さんを占いに誘うよう指示され、清隆くんは清隆くんで私を誘って行けばいいんじゃね? と提案されたらしい。提案されたところで占いに猜疑心を持っており乗り気じゃなかった清隆くんだが、堀北さんと占い談義をするうちに興味が湧いてきたとのこと。

 ちなみに堀北さんには普通に断られたらしい。哀れ須藤。

 

 そこまで話を聞き終えて、うーんと頭を絞る。清隆くんはワクワクと私の返事を待っている。

 

「……いつ行くの?」

「できるなら明日にでも行きたい。……ダメか?」

「うぐ……」

 

 窺うように上目遣いに見られ、清隆くんのそんな顔に弱い私はあっさり折れそうになる。……が、予定は予定だ。

 申し訳なさを全面に出しつつ、明日の予定を挙げる。

 

「……ごめんね、基本夏休みは朝練なんだけど、明日は顧問が朝から用事があるみたいで……急遽練習が昼からになったんだよ。だから明日は行けない」

「そう、か……」

 

 眉を下げて残念そうにする清隆くんに、励ますよう明るく声をかける。

 

「占いをどんな風にやってるのか、見に行くだけ見に行ってもいいんじゃないかな。それでどんな感じだったか教えてよ」

「……そうだな。いつまでやってるのかも聞いてみる。朝練の日だったらいいんだよな?」

「うーん……」

「……嫌なのか?」

 

 さすがの清隆くんも察してしまう生返事をしてしまう。日程のことでなく、心情面で尋ねてきたのがその証拠だ。

 私は複雑な顔をして唇を引き絞っている。しかしいつまで経っても黙っていられるわけがないので、渋々口を開いた。

 

「別に……嫌なわけじゃないんだよ。でもなんか……当たってたら怖くない?」

「なるほど、そっち方面の拒絶もあるのか……」

 

 感慨深そうに納得しながらも、そこで折れる清隆くんではなかった。

 ずいと体を近づけて、熱心に私を見つめてくる。

 

「大丈夫だ。オレが隣にいる。一緒に話を聞こう」

「う、うーん……」

「そもそも境遇が似ているオレたちだ。当たり外れもわかりやすい。なんならオレだけ占ってもいい」

「じゃあ私外で待ってる……」

「……言われてみればそうだな。説得の仕方を間違えた。やり直そう」

 

 両肩に清隆くんの手が乗る。力を込められていない、ただ乗せられているだけの手だが、体に加えてずいと近づけられた顔で圧を感じている。部屋の電気の位置もあり、清隆くんが作る影によって私は完全に影の中に取り込まれている。

 

「これは堀北からの受け売りにもなるが、占い師は統計学やコールドリーディングを用いて、あたかも未来を予測したように占いを行うのが主な手法だそうだ。超能力やエスパーなんていう非現実的なものでなく、過去の膨大なデータを参照にするほか、占い師自身の観察力や話術によって予測が成り立つということだ。なら、データに関してはどうしようもないが、観察力を誤認させる方法などいくらでもある。葵はそれを逆手に取って占い師とやり取りすればいい」

「やり取りって……要は遊ぶってことじゃん……」

「まあ、そうとも言う……のか?」

「なんて人聞きの悪いことを! 清隆くんをそんな風に育てた覚えはありません!」

「遊ぶ云々は葵が言ったんだからな? オレはやり取りと言っただけで、わざわざ遊ぶと言い換えたのは葵だからな?」

 

 というかそもそも此処にはオレと葵しかいないんだからいいだろ、と付け加えられる。あとオレは葵に育てられていない、とも忘れずにきっちり訂正された。それはそう。

 ふざけるのは一旦やめて、真面目に答えることにする。複雑な顔は維持したままだ。

 

「でも、統計学ってことはさ、超能力とかそういうあやふやなモノなんじゃなくて、データに基づいたある程度の根拠がある予測ってことになるよね……やっぱり当たってたら怖くない?」

「その結論は変わらないのか……」

 

 清隆くんが項垂れる。その拍子に私の頰には彼の柔らかな髪がかかった。

 どの立場で感は否めないが、慰めるように清隆くんの背中に手を回してポンポン優しく叩いた。

 

「まあ、気が変わるかもしれないしさ……新しく情報が集まったらまた教えてよ。ね?」

「わかった……早く気を変えてくれ」

 

 残念そうにしつつも、ちゃっかり要望は伝えてくる。清隆くんのこういう強かなところ、とても良いと思う。できることなら叶えてあげたい。

 が、そもそもの話だ。部活の時間帯変更は本当だとして、たとえ朝練のままだったとしても私は返事を渋っていただろう。それは心情面でも言えたことだし、他にも理由はある。その理由とは───

 

 

 

 夏休みの間ですっかり主夫姿が様となり、部活帰りの私に甲斐甲斐しく時間帯としては少し遅い昼食を作ってくれた清隆くんが、昼食の素麺をちゅるちゅる食べている私を正面に座って眺めながら今朝のことを話してくれる。その際、間を開けず話に出てきた名前に顔を上げた。

 

「伊吹さんに会ったの?」

「ああ。伊吹も占いに興味があるみたいだった。オレよりよっぽど詳しかったぞ」

 

 へぇ、と相槌を打つ。ひとまず伊吹さん関連については深掘りせず、素麺を啜る。

 清隆くんもすぐに話を移し、今朝実際にケヤキモールに行って占いについて調べてきたことを話す。

 新たに得た情報としては、占いでは天中殺という方法を用いるとのこと。伊吹さんからもたらされた情報らしいが、後で清隆くんなりに調べて、それが人の運命の流れなど、大層なものを占うものであるとのこと。特にその人にとっての悪い時期などがわかるらしい。

 天中殺はこれまでも幾たびとブームになったことがあるようだ。それだけ占いというコンテンツが人から注目を集めている証拠であり、また最近でも占いが外れた云々で問題が起こったりと、今もなお人から関心を寄せられ続けているということで的中率は中々のものであるんだろう、というのが清隆くんの言だ。

 以前よりさらに好奇心に満ちた様子で、清隆くんがどことなくキラキラした目で私を見つめてくる。

 その視線に当てられながら、ちゅる、と残りの素麺を啜る。細い麺とはいえしっかり咀嚼し、喉に流してから、またしても私はうーんと首を捻った。

 

「それ、二人組じゃないと占ってくれないんだよね?」

「ああ。だから」

「伊吹さんも一人だったんだよね?」

「……そうだが」

 

 清隆くんの言葉に被せるようにして尋ねる。言葉を遮られて怪訝な顔をしながらも、清隆くんが頷く。

 

「じゃあ」

「葵がいい」

 

 今度は私が遮られた。私が次に発するであろう言葉を察してしまったらしい。納得がいっていないと丸わかりの表情をして、私を若干睨め付けるようにして見てくる。

 対して私も首を捻らざるを得ない。

 

「うーん……」

「何がそんなに嫌なんだ。葵だって変わったこと好きだろ」

「占いは微妙なんだよ……なんか怖いじゃん」

「だからオレが横にいるって言ってるだろ」

「何の安心材料にもならない」

「なんだと?」

 

 むしろ隣に清隆くんがいることが不安材料だ。……と、ここまで言えば本格的に機嫌を損ねそうなので黙っておく。沈黙は金。

 明日は通常通りの朝練だ。だから昼からなら行けないこともない、が……少しの間考えて、結局首を振った。

 

「そういうのは占いに関心がある人同士で行った方が楽しいと思うよ。伊吹さんもちょうど一人なんだし、誘ってみればいいんじゃないかな。彼女サバサバしてるし、誘っても他意なく頷いてくれると思うよ」

「………」

 

 むっと唇を引き結び、不機嫌な表情をしている清隆くんに苦笑をこぼす。

 

「また結果教えてよ。それ聞いたら気が変わるかも」

「……気が変わらない奴の言うセリフだ、それは」

 

 諦めたようにため息を吐く。清隆くんはそのままどこか思案げに机に視線を落としていた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 部活帰り、一応清隆くんの部屋を訪ねて誰もいないことを確認したのちに、自分の部屋に帰って昼食を取る。作りたての冷やし中華の麺をちゅるちゅる啜りながら、今頃清隆くんは伊吹さんと一緒に占ってもらってるんだろうな〜と考えを巡らせる。

 その後はドキドキ☆密室エレベーターの変が起こり、知っている通り葛城くんが招集されるのだろう。つまり今日の私は、暇……!

 

 食べ終わった冷やし中華のお皿を流しに置いて水につけると、洗うのは後にして再び部屋に戻る。

 学生にとっては夏休みとはいえ、社会全体で見ると仕事に明け暮れている人が多いであろうなんてことない平日の昼だ。当然テレビ番組で私の好きなお笑い番組が狙ってあるわけでもない。

 とはいえ他にすることもないので、軽く机を拭いてからテレビをつける。

 世界情勢やさまざまなニュースが流れる情報番組をなんとなく見ていると、携帯に電話がかかってくる。

 ちょうど今日のワンワンニュースというコーナーで柴犬が紹介されているのもあって、画面に釘付けになっていた私は、誰が電話をかけてきているのか碌に確認せず耳に携帯を当てた。

 

「はーい」

『葵。単刀直入に言う。今からケヤキモールに来て欲しい。詳細はケヤキモールに入ってすぐ近くにあるエレベーターでなく、モール内を迂回して反対側にあるエレベーターだ。それと念の為ケヤキモールの係員にも連絡を入れてほしい』

「え」

『実はオレたち……オレの他に伊吹もいるんだが、エレベーターが故障してちょうど二人中に閉じ込められている状況なんだ。まだしばらくは体調に支障がないと思うが、夏だし、エレベーター内の空調もいつまで保つかわからない。だからなるべく早く外に出る必要があっ』

「……? あれ? 清隆くん? 清隆くん!?」

 

 事態を把握するのは簡単だ。清隆くんの説明がわかりやすいのもあるし、なにより私自身がこの展開を知っている。

 どうして……いや、あれこれ考えるのは後だ。事は急を要する。

 テレビを消して、携帯を引っ掴んだまま急いで外に飛び出す。慌てながらフロントでケヤキモール直通の電話番号を聞き、そのまま事情を説明して電話をかけてもらうと、うまく連絡がいったようだ。すぐに対処してくれるとのことで、ひとまず安堵する。

 少し考えた後、一旦家に戻ってタオル数枚と冷凍しておいた保冷剤数個を保冷袋に入れ、また急いでケヤキモールに向かった。

 

 

 

 エレベーター横にある椅子に座って、スポーツドリンクを飲んでいる二つの人影を発見する。少し離れたところには大人がいて、無事にエレベーターから脱出できたようだ。

 炎天下の中を駆けてきたせいで二人よりよっぽどダラダラ汗をかきつつ、走るスピードを緩めて目の前まで行く。清隆くんが先に気づき、ギョッと私を見た。

 

「はい、これ、保冷剤、タオル、使って」

「オレよりよっぽど暑そうだぞ……すまん、急がせたな」

「全然、いいよ、心配で、無事でよかっ、はぁ、はぁ……」

 

 差し出したはずの保冷剤が清隆くんによって項に当てられる。気持ちよくて溶けそうになる。私のために持ってきたわけじゃないのに、いの一番に使ってしまっている罪悪感を今は感じない。

 抵抗せず気持ち良さから目を瞑って項の保冷剤を受け入れていると、少し離れて恐る恐るといった様子で声をかけられる。

 

「あ、あんた……大丈夫?」

「はぁ、あ、伊吹さん、これ、どうぞ」

「水元の方がよっぽど必要そうなんだけど……」

 

 伊吹さんにも保冷剤とタオルを差し出す。私の様子に思わず受け取っただけで、伊吹さんは使う素振りを見せることはなく手元を躊躇したように見下ろしていた。

 

「……? どんどん使っていいよ。家にまだあるし、使い終わったら捨ててくれてもいいから」

 

 呼吸も落ち着き、呼気を挟むことなく喋れるようになる。

 清隆くんがタオルを私の首元に当ててくれようとするので、それを避けた上で清隆くんの首元にタオルを当てて汗を拭き取りながら、「でも……」とまだ躊躇した様子を見せる伊吹さんに笑いかける。

 

「気にしないで。それより無事でよかった。伊吹さんは私たちの貴重な映画友達だから」

 

 伊吹さんが声を出さずに唇だけで『えいがともだち』と繰り返した。

 

「また一緒に映画の感想言い合おうよ」

「……ん」

 

 まだぎこちないながらも、受け取った保冷剤とタオルを使ってくれる。彼女に猫を幻視しつつ、その様子をニコニコ見守った。

 伊吹さんとの会話で疎かになっていた手からタオルを取り上げられ、私の首元に当てられる。

 

「私はいいって、それより清隆くんの方が」

「閉じ込められていた時間自体は短かったんだ。空調は途中で切れてしまったが、その後すぐにエレベーターが動いたから大事にならずに済んだ。それより走ってきてくれた葵の方が汗をかいているし、疲れてるだろ。大人しくしてくれ」

 

 空調が切れてすぐ……目の前にある清隆くんの首元を観察して、汗は滲んでいるものの滂沱というほどではなく、確かに暑かったんだろうが大事にならなかったという清隆くんの言葉に間違いはないのだろうと納得する。

 改めて安堵の息をついた。安心した笑みを浮かべる。

 

「心配だったんだ。本当に無事でよかった」

「ありがとう、葵。助かったよ」

 

 清隆くんが申し訳なさそうに、しかし目尻を緩めて嬉しそうにお礼を言う。私も笑って頷いた。

 

 汗を拭き終え、全員清々しい心地になる。私たちで使い終わったタオルと保冷剤はもともと入れていた保冷袋に戻し、伊吹さんの方を見やる。ちょうど彼女も手持ち無沙汰に、すっかり溶けてぐにゃぐにゃになった保冷剤と少しヨれたタオルを持っている。

 最初の躊躇していた様子を思い出し、彼女に口を開けた保冷袋を寄せた。

 

「捨てるのも面倒だったら、私の方でしておくよ」

「……や、いい。また洗って返す」

「別に気にしなくていいのに」

「私が気にするんだ。保冷剤も新しいのを用意しておく」

「それこそどっちでもいいのに……」

「うるさい。いいから」

 

 プイとそっぽを向かれる。気難しい猫ちゃんだ。

 まあ本人もこう言ってくれてるし、これ以上気にかけるのは野暮か……と口を噤む。そのまま立ち去るかと思った伊吹さんだが、スタスタ私に歩み寄って、目が微妙に合わないまま呟くように言う。

 

「その……来てくれて、助かったよ。……ありがと」

 

 それだけ言い終わると、さっさと背中を向けて早足で去っていく。私と清隆くんでその背を見送る。

 立ち去る間際、踵を返した時に髪が靡いてチラリと見えた耳が赤いのを見逃さなかった私は、圧倒的達成感でいっぱいだった。たまに家に立ち寄って餌を催促しに来てくれる猫ちゃんレベルに到達する日も近いのではないだろうか。

 見えていないとわかりつつ、彼女の背中に手を振っていると、その手を取られていつものように繋がれる。自然な動作で保冷袋は清隆くんの手に行き渡っていて、繋いだ手を引かれるまま歩き始める。

 並んで歩きながら、あっと声を出す。

 

「そうだ。結局占いはどうしたの? 伊吹さんとしたの?」

「ああ。まあ、一度受けたら概ね満足したな。たかが占いと軽視しない程度の認識を持った」

「じゃあよかったんだ」

 

 楽しかったならなによりだ。詳しく話を聞こうとして、前方に見える光景にん? と眉を寄せる。

 

「……あの。清隆くん?」

「なんだ?」

「すごい列……あと、看板にあれ、すごい『占い』って文字が見えるんだけど……」

「そうだな。占い師のところに行ってるからな」

「清隆くん!?」

 

 肯定された瞬間から必死に足を踏ん張るも、力が敵わずズルズル引き摺られていく。傍目から見たらとんだ間抜けな二人組に見えていることだろう。

 ハッとあることに思い至る。信じられないとばかりに清隆くんの背中に向かって声を上げる。

 

「ま、まさかこのつもりで私を呼んだの!?」

「いや、エレベーターは完全に事故だ。占いが終わったら普通に帰るつもりだったよ」

「じゃあなんで今私を引き摺ってまで連れて行ってるの!? 帰ろう! 予定通り普通に帰ろうよ!」

 

 嫌がる私を我関せずとばかりにスルーしながら、清隆くんが言う。

 

「オレが受けたのは基本プランだったんだが、例えば二人組専用の占いならどんなことを言われるのかとか、そういうのも気になってな。最後に言われた内容は確かにエレベーターでの出来事を予言していたかのようだった。それでもう一度受けてみるのも悪くないかと思って」

「じゃあ伊吹さんともう一度受けたらいいじゃん!」

「伊吹と二人組専用の占いを受けたって、その結果をどう受け止めたらいいんだよ。お互い困惑するだけだろ」

「……いや! いやでも、だからって私である必要は」

「オレは、最初から葵がいいと言ってる」

 

 わあわあ言い合っているうちに、列の最後尾についている。繋いだ手は頑なで、離してくれそうにない。

 うう、と泣き言みたく小さく声をこぼした。

 

「悪いこと言われたらどうするの……」

「当たってないなと思って終わりだ。逆に聞くが、葵は占いを信じているのか?」

「や……信じてる、わけじゃないけど」

「じゃあよくないか?」

 

 視線を落とす。

 

「でも……でも、悪いこと言われたら、嫌だよ。内容によっては寝込む……」

「寝込むって……」

「私は有言実行の女だよ」

「そんなところまで有言実行しなくていい」

 

 はぁ、とため息をつかれたところで私の意識が明るくなるわけでもない。むしろ悪化する。

 チラと後ろを見れば、すでに何組か並んでいる。いよいよもって退路が絶たれたことを認識する。

 

「清隆くん〜……」

「大丈夫だ。オレが横にいる」

「清隆くんが横にいるから不安なんだよ」

「なんだと?」

 

 徐々に近づいていく、おそらく占い師がおわすのであろう小さな仮施設。まるでそれが余命宣告のようで、私は背中にジトリと汗を滲ませるしかできない。

 

 

 

「マボヤ」

「ヤマノカミ」

「ミコノオビ」

「ビ……ビ……ビンキリ」

「リュウグウハゼ」

「ゼ……ゼ……ゼブラハゼ」

「ゼ……ゼブラウツボ」

「ボラ」

「ランチュウ」

「ウチワフグ」

「グ……」

 

 二人でする指スマの脆弱性を理解したところで、次いで何かと縛りながらしりとりをすること時間はどれくらい経ったのか。

 縛っている内容が内容なので、顔を寄せ合い、ぽそぽそ小声で現在は魚縛りしりとりをしていると、ようやく私たちの番が来たらしい。案内のお姉さんに呼ばれて、恐る恐る仮施設の内部に続く重たそうな幕を潜る。

 

「では次の方どうぞ。……おや」

 

 中では占い師らしき老婆が、テーブル全体を覆い尽くす暗褐色のテーブルクロス脇に座っている。テーブルの上にはいかにもな怪しげな光を放つ水晶があって、雰囲気が完成されている。

 ちょっと興味が湧いてキョロキョロ辺りを観察している私はさておき、占い師は清隆くんを見て、ローブに隠されて表情は碌に見えなかったものの驚いたように声を上げた。

 

「さっきも来てたね。今度は人を変えてかい?」

「こっちが本命です」

「おやおや……それはまあ……」

「お、お手柔らかに……」

 

 声や姿勢などでかろうじて占い師が推定老婆だとわかるものの、ローブで綺麗に表情が隠れていて、年齢を正確に推察することができない。しかし不思議なことに口元だけは見えて、それがニヤリと笑んでいるものだから雰囲気が出過ぎている。

 清隆くんに連れられるままテーブルを挟み、占い師の前にある二つ並んだ椅子に座る。

 

「さて、それじゃあコースはどれにする? 料金表はこれじゃ」

 

 のじゃ口調……ますます雰囲気が出ている。

 久しぶりにトリップしかけた意識の傍で、清隆くんが一人さっさとコースを決める。

 

「この……相性診断」

「恋愛コースでなくてよいのか?」

「……ああ」

「……? わかった」

 

 ピッという機械音で意識が戻ってくる。小型カードリーダーに自身のカードを置いて、そのまま続けて料金を払おうとしている清隆くんに気づき慌てて私のカードと取り替えた。強引だったとはいえ、無理矢理でも逃げなかった時点で私にだってお金を支払う義務がある。

 二人分の料金を払い終えると、ついに占いが始まる。

 まずは名前、生年月日とを告げる。紙を渡され漢字で名前を書いて、再び占い師の手に渡る。それから私と清隆くんの手相を見て、占い師は水晶の隣に置いていた分厚い辞書のような本を手元に置いた。パラパラとページをめくって、何か調べているようだった。

 

「ふむ……ふむ。……相性はいい。お主らはお互いの足りない部分を補い合う、相補関係にある」

 

 その辞書には一体何が書いてあるんだ……? 部屋全体が暗いせいで、文字も小さいのか碌に見えない。見せないのが演出だろうか。

 

「価値観も似通っている。話が合うだろう。一緒にいて居心地が良いはずだ」

 

 占い師の年齢を重ねて節くれだった指先が、本の文字をなぞっている。

 

「喧嘩は……どちらかが折れると円滑に収まるだろう。ただ、どうにも双方頑固な気質があるな。己が全て正しいと思うのではなく、第三者の意見を伺えばもっと円滑に進むだろう」

 

 その後も訥々と占い結果を告げられる。基本的には良いことを述べられ、喧嘩など二人の関係を悪くすることには気をつけること、また仲を長持ちさせるためのアドバイスなども授けられた。

 エスパーみたくなんでもかんでも神様視点で物事を言われるかと思いきや、口調は「〜だと思う」「〜だろう」といった推測・推定が多い。それに拍子抜けすると同時に、安堵した。そうだ、人の脳内などそう易々と見抜けるわけがないのだ。そもそもこれは統計学だ。確信し、ふう……と息を吐く。

 

 時間もそろそろということで、帰る支度を始める。とはいっても私たちはほとんど身一つのため、強いて言えば保冷袋を持つだけだった。

 お礼を述べ、立ち上がろうとして占い師に声をかけられる。

 

「そこの小僧は宿命天中殺だ」

「小僧って……」

「お主はそれに影響を受けている節があるな。自ら……同一中殺……? いや、それともまた違う。なんとも複雑なものよのぉ……」

「はぁ……」

 

 なんともいえない顔をしている清隆くんとは別に、私はといえば聞いたことない単語を言われて思わず生返事をした。占い師はその後もブツブツと何か言っていたが、軽く首を振って、それ以上の説明はやめたようだった。

 ローブの隙間から占い師の細まった目が見える。決して鋭いものでなく、そこに込められたものは慈悲や慈愛とか、そういう温かで優しいもののように見えた。

 

「長く積み重ねてきたものが、華開く。紡いだ縁はきっと裏切らない。……今は準備期間じゃ。これからも精進し続けなさい」

 

 最後に意味深な言葉を言われ、私への占いは終了となる。

 無言の私に、小僧である清隆くんも隣で一言二言占い師に言われていた。

 

「お主はちと内向的すぎる。周りに目を向け、物事をもっと客観的に捉えられるようになれば、余裕を持てるようになるじゃろうて」

 

 そうしている間に時間が来て、二人で仮施設を出る。

 天井の空調機から冷風が降りてくる。直撃する位置にいた私は、一瞬寒さにぶるりと震えた。

 

「…………怖ッ!」

「その結論は変わらなかったか……」

「個人的なアドバイスかなにかわかんないけど、なにあれ、あたかも神様みたいに……何視点!? 自分のことでもわかんないところを読まれたみたいなこの、この……怖ッ!」

「コールドリーディングだろ」

「わかってたとしてもだよ! 清隆くんだって最後何か言われてたじゃん、どうなの、当たってるの?」

「主語が無さすぎてなんとも……ああやって煙に巻くんだな、占い師ってやつは」

「私も私だけど、清隆くんも大概失礼だよ」

 

 繋いだ手の温かさで、冷えた体がじわりと温まっていくのを感じる。

 はぁ〜〜と深いため息をついた。なんとなくいつのまにか習慣のようになった雑貨屋巡りで、ケヤキモール内に点在する雑貨屋を目指して二人で歩く。

 その道中、渋い顔で会話する。

 

「私たちに占いは向いてないよ。やっぱり己の力しか信じられないね」

「同感だな。面白くはあったが」

 

 清隆くんも当分占いには自ら関わろうとしないだろう。

 私もこれで変な風に振り回されずに済む、ともう一度息をついた。今度は軽いものだった。

 

 



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部活動夏の大会編〜ラッキーを掴み取れ〜

 大会が近い弓道部は、今日も部員一同練習に明け暮れている。

 日付が近づくごとに残って練習する者も多くなり、団体戦は上級生がメンバーを占める中で、私と三宅くんは個人戦で出場することが決まっていた。これはまだ入学したての一年生ながらも狭き門を突破したということで、それなりの偉業である。

 大会出場メンバーに選出されていない部員は、少しでも弓道場の敷地を広くするために部活後すぐに帰るのが暗黙の了解となっている。もちろん残っている生徒はいるし、その場合は練習用の巻藁を使っている。

 兎にも角にも、私と三宅くんは顧問のひしひしと感じる期待を背負いつつ、上級生に交じりながら今日も並んで練習に明け暮れているということだ。

 

「今日も良い運動したぁ〜」

「今日も疲れたな……」

 

 正反対の感想を述べながら、三宅くんと二人で帰路に就く。

 部活終わりのシャワー後、待ち合わせしたわけじゃないが三宅くんとバッチリタイミングが重なったとき、なんとはなしに二人並んで一緒に帰るのが習慣となっていた。つまり今日はバッチリタイミングが重なった日ということだ。

 運動で火照った体はシャワーで冷めて、そして今炎天下で燃やし尽くされようとしている。頭上から燦々と照りつける太陽を翳した手のひら越しに見て、思わず目を細めた。

 

「にしても、毎日あっついね……弓道場もそうだけど、なんでか暑さ忘れるんだよね」

「それだけ集中してるってことだろ。水元は今日も皆中してたんじゃなかったか」

「おかげさまで……」

「……本当すごいよな。水元なら団体戦メンバーだって選ばれただろうに……」

 

 私よりなんだか悔しそうにしている三宅くんに、苦笑をこぼす。

 

「まぁ、仕方ないよ。三年生にとっては最後の大会だもん。実力至上主義を謳っているとはいえ、三年間苦楽を共にしてきた仲間を団体戦のメンバーに入れるなんてよくある話でしょ。部長の特権だよ」

「納得いかねえ……」

「これが現実! ってやつだよ」

 

 茶化すように言えば、三宅くんの不満はさらに増したようだが、当の本人である私が文句を言わないのでそれ以上言葉を連ねることはなかった。

 肩をひょうきんに下げて、一応弁明しておく。三宅くんの溜飲もこれで下がってくれるといいんだが。

 

「本番でも練習みたいにうまくできるかわからないし、私は個人戦だけでよかったと思ったよ。三年生の命運がかかる団体戦で失敗したら目も当てられない」

「その練習で水元より的中率が低い先輩がメンバーに選ばれてるが?」

「これが現実!」

「それ言えばいいと思ってないか? 水元」

 

 別にそんなことはない。適当にお茶を濁せるし便利な言葉だとは思っているが。

 ということでこれ以上三宅くんの目線が冷たくなる前に、さっさと戦略的撤退ならぬ話題を変えることとする。

 

「それより、前おすすめしたスーパーのアイス見てくれた?」

「ああ、あの……うどんアイスだっけか。あれマジで食べたのか?」

「うん。清隆くんも巻き込んだ」

「可哀想に……綾小路……水元の相手するのは大変だな……」

「いやそれが絶妙に美味しいんだって! そこはかとない出汁の味にちゃんとバニラの味がマッチしてて、おお! ってなるんだよ。感動する。清隆くんもなんやかんや言いながら完食してたし、つまり不味くないってことなんだよ。ぜひ食べてほしい」

「ええ……まあ、機会があれば」

「それ絶対食べない人の言い方」

 

 うどんとアイスの奇跡のコラボレーションについて熱く語っていれば、いつのまにか寮についている。

 エレベーターまで一緒に乗り、三宅くんの降りる階で手を振って別れた。

 それから今日も昼食を作ってくれているだろう清隆くんの部屋に向かう。確か今日は焼きそばを作ってくれる風に言っていた気がする。

 ワクワクしながら、合鍵を使ってドアを開ける。

 

「……?」

 

 一足靴が多い。清隆くんのものより大きいそれは、靴の持ち主の体格が良いということを指す。

 そういえば清隆くん、葛城くん関連で連日動いていたな……と思い出す。話はご飯を食べている時だったり、普段の会話でも聞いていた。

 じゃあ今清隆くんは部屋に葛城くんを招いて、お話し中ということだろうか。

 だとすると邪魔になってはいけないか、と音を立てないよう踵を返そうとする。

 

「……あお……だ」

「だが……もと……」

 

 名前を呼ばれた気がする。振り返って、足音を立てないよう死角から忍び寄る。

 清隆くんと、やっぱりもう一人は葛城くんだ。二人がテーブルを挟んで、向かい合って話している。

 ただ話しているだけなら去っていたのだが、どうにも清隆くんの声に嫌悪が混じっているのが気にかかる。

 

「……だから、葵はダメだ。須藤が適任だ」

「だが、須藤だと確実性がない。水元ならば」

「ダメだ。慣れていないし、第一初めての大会なんだぞ。そんな余裕はない」

 

 ……なるほど。葛城くんの妹さんに渡すプレゼントを学校の外へ運び出す役割で、私に白羽の矢が立っているというわけか。

 だとすると、私が今から取る行動は退散一択だ。

 清隆くんはおそらく最初に立てた僅かなドアの音で私の存在に気づいているだろうが、葛城くんはまだ気づいていない。気づかれないうちに音を立てないよう殊更注意して、部屋を後にする。

 葛城くんには申し訳ないが、私ではその役目は不適任だ。最悪のことを考えたら、どの生徒よりも一番といえる。

 私は大会へ出場して良い結果を残すことより、もっと別のところに重きを置いている。

 大会は合法的に高校の外に出られる唯一の手段だ。私はそこでいくつか確認したいことがあった。そして起こした行動で、葛城くん、ひいては葛城くんの妹さんまで巻き込みたくない。すべてを自分一人で完結させる意思だ。

 

 己の部屋を目指してコンクリートの廊下を歩きながら、ひとまず彼らの会話が終わるまでお昼はお預けだな……と切なく鳴いているお腹を撫でた。

 

 

 

 夕方。清隆くんから連絡が入り、ようやく昼食……時間帯的には夕食を食べに再度清隆くんの部屋に向かう。

 すでにテーブルに用意された具沢山の焼きそばを前にして、目がキラキラと輝く。諸手を挙げて喜び、挙げた手はしっかり洗い、いただきますと言い合ってから箸を取る。

 

「葵」

「ん?」

 

 清隆くんはふわふわ湯気をあげる焼きそばに手をつけないまま、視線を落とし気味に私を見つめている。

 

「……何か、するつもりなのか?」

「……? 何って、なに?」

「大会のことだ。葛城からの指名も、葵が話を理解しながら部屋を立ち去ったことで葵本人にもする意思がないことはわかった。だが……」

 

 合点がいって、ああ、と頷く。

 

「それなら、清隆くんもわかってるでしょ。高校の外では何があるかわからない。学校側の監視があるから、そう変なことも起こらないと思うけど……もしものことがあったら、葛城くんたちを巻き込むわけにはいかないよ」

「………」

 

 黙り込む清隆くんに、それが心配から来ているとわかるから安心させるよう笑いかける。

 

「大丈夫だよ。私の方でも気をつける。それに人目があるし、何にも無い可能性の方が高いんだ。清隆くんは安心して待っててよ」

「……葵に何かあったら」

「たとえ死んでも帰ってくるって」

「…………そういう冗談は、オレは嫌いだ」

 

 言われて瞬きする。……確かに不謹慎な内容、だろうか。あまり意識していなかったから、そこを指摘されると変な気分だ。だが清隆くんを不愉快な気にさせるつもりはないので、これからは覚えておこう。

 俯き気味でよく顔が見えない清隆くんを前にして、ぽりぽり頰を掻くと、申し訳のなさの滲む顔を作って軽く謝る。

 

「ごめん、不謹慎だったね。こんな平和なご時世で死んだりなんかしないよ。普通なら問題になるでしょ。でも、これからは言わないようにする」

 

 だから機嫌直して、と上目遣いにお伺いを立てる。清隆くんはしばらく目を合わさないままだったが、めげずに視線を送る私に根負けしたかのように、一度深くため息をついてから渋々の体で頷いた。

 

「……ひとまず、外で変な行動起こすんじゃないぞ。それからむやみやたらと人の後をつけないこと。学校から提供された食事以外口をつけないこと。何かおかしい、危ないと思ったらすぐに逃げろ。近くに人がいれば助けを求めるんだ。いいな?」

「いかのおすし?」

「いか……?」

 

 意識して言ったことではないらしい。まあちょっとズレてるしな……と一人納得する。

 

「わかった! 気をつけるよ!」

「返事だけはいつもいいんだよな……」

 

 私の元気のいい返事に呆れながら、けれどどこか気を抜いたようにも見える。ようやく焼きそばに手をつけた清隆くんを見守り、私も再び箸を動かし始めた。

 しかし焼きそばに口をつけてすぐ、名前を呼ばれて顔を上げる。

 

「葵」

「ん?」

 

 清隆くんは少し逡巡して、眉を下げた。

 

「大会。……楽しんでこいよ」

 

 大会に向けてずっと練習を頑張っていた私を見ていたから、そして普段の楽しげな練習風景を話で聞いていたからこそ出てきた応援の言葉だとわかる。だから清隆くんは不安でも、私が大会に、外に出て行くことを止めることはない。

 初心に返るような温かで優しい言葉に、緊張が解れていくような心地がする。

 うん、と頷いた。柔和に微笑み、言葉を返す。

 

「もちろん。ベストを尽くしてくるよ」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 個人戦で表彰されるのは8位まで。脱落する形で少しずつ人数を減らしていった高度育成高等学校、略して高育は、女子の部では今は私と3年生の生徒二人が残っている。

 男子の部は人数が女子より二人多く、構成は3年生と2年生で半々ほどだったはずだ。三宅くんはどうやら脱落してしまったらしい。先ほどまでは私と同じで弓道場に向かっていたから、直近で脱落したのだろうか。

 つい先ほど放送で私の名前も先輩たちと並んで呼ばれ、先輩たちについていきながら弓道場へ向かっている途中で三宅くんと会い、「頑張ってこいよ」と平時と変わらない感じで声をかけられたところだ。もちろん調子良くサムズアップを返しておいた。

 

 大会も後半に近づくにつれて、場に緊張感が増していった。ここまで残ると表彰されるか否かを明確に意識するようになる。寄せられる期待やら後輩たちからは尊敬の眼差しに、誰しも緊張を伴ってもおかしくない状況だ。ちなみに私に後輩はまだいない。来年が楽しみである。

 後輩の話はさておき、大会本会場である弓道場では、矢が的を突き抜けるパンッという乾いた音以外ではほとんどシンと静まり返っている。それも人々に緊張を与える要因となっていることだろう。

 

 唾を飲み込む音ですらそこかしこから聞こえてきそうだ。そんなことを思いながら、フゥ、と軽く息を吐く。

 前の列にいる生徒たちが射場に向かうのに倣って、私たちも動き始める。先輩の後に続き座っていたパイプ椅子から立ち上がると、執り弓の姿勢を取り、移動を始める。

 進むたびに足を床と擦りながら、足裏を見せないよう歩く。上座に礼をして、射場に入る。

 左足、右足と順番を守りながら丁寧に動く。前の組にいる最後尾・落の生徒の弦音を合図にして同組揃って揖をする。

 跪坐で待ち、弦音を待つ。

 

 私は、的を一点に見つめるこの瞬間が好きだ。

 

 研ぎ澄ました意識は他の何もかもを忘れて、外へ追いやって、今この瞬間、的以外何も見えなくなる。何も考えないでいられる。

 前から風が吹き抜けて、土の匂いを運んでくる。さらりと前髪が揺れた。

 

 弓を引いて、離す。

 と同時に鳴り響いた音は、射場に、弓道場に余韻を残しながら響き渡って、静かに消える。

 

 楽しいな。心の底からそう思う。

 目元だけで笑う。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 貰った賞状は7位。ラッキーセブンで良い感じだ。

 先輩や顧問、同輩の生徒から口々におめでとうと声をかけられ、私もそれに対して先輩もしくは顧問相手ならば「ありがとうございます、先輩(先生)の指導のおかげです」と謙虚に応えつつ、同輩にはサムズアップをして応えた。サムズアップの安売りをしている。

 

 今は顧問からもらったオレンジジュースをありがたく頂戴して、用意された椅子に座り何をするでもなく道ゆく人を眺めている。

 

 

 ……知らない知らない知らない知らない……

 

 

「入賞おめでとう、水元」

「お、ありがとう三宅くん」

 

 後ろから声をかけられ、その声の持ち主にすぐ気づいて笑顔を浮かべた。

 三宅くんはそのまま私の横までやってくる。

 

「それにしても7位か……水元ならもっと上でもいけたんじゃないか?」

「練習と本番じゃ違うってことだよ。魔物がいたね、魔物が」

 

 少しふざけたようにそう言えば、どこか訝しげに私を見ていた三宅くんも納得したように頷いた。

 

 

 ……知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない……

 

 

「魔物は言えてるな……俺も中学から何度か大会経験があるけど、まだ全然慣れる気がしねぇ」

「三宅くんも惜しかったんだって? 顧問が言ってたよ。オレンジジュースもらえなくて残念だったね」

「別にそれは羨ましくないけどな」

「またまた〜」

「いやマジで」

 

 果汁100%なのに……。まあとは言っても濃縮還元の方だから、厳密に言えば本当の果汁100%ではないのだが、この辺を言い出すと止まらなくなるので割愛する。

 結論、体に悪いものほど美味しいのだ。世の真理である。

 話はポイントに移る。

 

 

 ……知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない……

 

 

「入賞したらポイントもらえるんだっけか?」

「そうそう。プライベートもだけど、クラスポイントももらえると思うよ〜。どちらにせよ7位だから微々たるものだろうけど……」

「Dクラスなら泣いて喜ぶだろ」

「……ひ、否定できないのが悲しい……」

 

 Dクラスの業が深い……8月いっぱいはまだ倹約生活が続きそうだ。

 三宅くんと話しながら、私の視線は固定されたままだ。時折不自然にならないよう頭を動かして、しかし視線は前を向いたまま。

 話の流れで笑ったり笑わせたりしながら、ジッと前だけを見つめている。

 

 

 ………知らない………

 

 ………知らない知らない知らない知らない知らない………

 

 ………知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない………

 

 

 ……….知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない………

 

 

 

 

 知ってる。

 

 

 

 

 やっぱりいるんだな。それを確認して、視線を逸らした。

 今日はそれだけ確認できたら十分だ。ならばあとは時期を、タイミングを見計らうだけ。

 

 そうだ。せっかくだし、もっと良い手土産を持って行ってあげてもいいかもな。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 大会で予定されていたイベントもすべて終わり、寮に帰ってきたのはすっかり日の暮れた19時だ。夏の夜は明るいといっても、さすがにこの時間帯となると空は暗くなっている。

 大会に出場していた弓道部員一同、顧問と職員数名を乗せたバスは一旦武道館に行き、全員で矢や弓を所定の位置へ戻す。それからまたバスに乗って寮前まで送られ、生徒はぞろぞろバスを降りていく。

 私も流れに逆らわずバスを降りて、その足で清隆くんの部屋に直帰する。

 合鍵を使い玄関を開け放って早々、「たっだいまー!」とテンション高く帰宅の挨拶をかました。清隆くんが部屋の向こうからひょこりと顔を出す。

 

「おかえり、葵」

「聞いて清隆くん、7位! ラッキーセブン! これからいいことあるよ!」

 

 玄関まで出迎えてくれた清隆くんが、肩にかけていた道着等が入った荷物を持ってくれる。その最中に、私の発言を聞いて目を丸めた。

 

「7位? 本当か?」

「本当本当、マジの大マジだよ。これがベストを尽くしてきた証!」

 

 バッグから賞状を取り出し、胸の前に配置をして、鼻高々に勝利のVサインを決める。清隆くんは「お〜」と緩い歓声を上げながら手を揃えて拍手してくれた。それに手を挙げて芸能人もかくやといった様子で応える。

 靴を脱いで部屋に上がる。一度荷物を置いて洗面所で手を洗うところまで、清隆くんがひょこひょことその後をついてくる。

 

「すごいな、弓道だと初大会だろ? よく頑張ったな」

「もっと褒めてくれてもいいよ」

「すごいすごい。えらいぞ、葵。そんな頑張った葵にご褒美としてアイスを買ってある。しかもただのアイスじゃない」

「えっなになに?」

「期間限定」

「お」

「果肉たっぷり」

「おお……!」

「通常アイス3個分以上の値段に値する」

「おおお……!!」

 

 清隆くんがもったいぶったゆっくりした動きで冷凍庫を開けて、中から手に収まるほどの小さなアイスのカップを取り出す。

 真っ先に目に飛び込んでくるのは瑞々しい桃のプリントだ。一緒にジェラートのプリントもあって、その時点でただのアイスでないことが如実に表れている。

 そして同時に目に入る文字。高級感溢れるオシャレなフォント字体が示す、そのブランド名は───

 

「これは……かの有名なちょっぴり高級アイス……!!」

「期間限定に加え新発売とあって、なかなか見つから」

「清隆くんッ!!」

「うわっ!」

 

 言い終わる前に抱きつく。勢いを殺さず飛びつくようにして抱きついたので、清隆くんの体が一瞬傾いた。しかしそこは体幹の鬼、すぐに体勢を整えて、むしろ不安定さを補うように幼子みたく容易に抱き上げられる。

 そのままの体勢で、清隆くんの頭を力いっぱい抱きしめた。

 

「嬉しいよ、ありがとう! この種類のアイス、一度食べてみたかったんだ。さっそくいいことあった!」

 

 清隆くんがモゴモゴ何か言っている。耳を澄ませるも聞こえない。

 この状況で口籠もることなくない? と体勢のせいでいつもと違って清隆くんを見下ろし、「あ」と間抜けた声を出した。

 

「ごめんごめん、そりゃ話しにくいよね。今離れるよ」

「ぷはっ……はぁ、どうしようかと思った」

「大袈裟だなぁ。そんな埋もれるほどないでしょ」

 

 事実を述べてあっけらかんと笑えば、清隆くんが半目になる。

 

「………黙秘を貫きたいところだが、今後のためにしっかり言っておく。オレ以外に絶対するなよ」

 

 ガチめに言われたので、ちょっと体を引きつつ無言でコクコク素直に頷いた。

 清隆くんはしばらく胡乱に私を見上げて、浅くないため息をつく。それから視線を不自然に彷徨わせた。

 

「……葵は、その……魅力的な体を、している……と思う。だから、……自信を持って欲しい」

「……どういう説得?」

「オレは真面目に言ってるぞ」

 

 茶化そうとした気配を察してか、頬を薄く染めながらも睨むように見上げられて、再び無言でコクコク素直に頷いた。なんだか伝染したみたいに私の顔も熱くなっていっている気がする。

 眉を下げた情けない顔になりながら、これ以上ソウイウ話をしたくないため自然と小声になる。

 

「わかった。わかったよ……」

「いいや、わかってない。前々から思っていたが、葵は自己肯定感が低い……というより、己を必要以上に卑下する癖がある。何がそんなに自信を失くすことに繋がってるんだ? ……今目が動いたな。どこを見て……なんだ? オレがどうかしたのか」

「あーー清隆くん!! アイスアイス溶けるアイス溶ける! 溶けるよアイス!」

「え? ……あっ」

 

 危機一髪だ。なんというか、あらゆる意味で。

 大振りに動いて、清隆くんの拘束から逃れる。地面に無事着地すると、サッと彼の手からアイスを抜き取り、結露が原因で水滴の滴るカップを適度に拭いて再び冷凍庫に戻す。

 

「いや〜手遅れになる前に気づけてよかったよ。凍らし直せば全然美味しく食べられるし、また夜に一緒に食べよう!」

「……そうだな。すまない、アイスの存在を忘れていた。ところで話は戻るが」

 

 まだ続ける気か。

 清隆くんに向き合っていたのから一変して、顔のみならず体ごと向きを変えてこれ以上話をする気がないことを暗黙で示す。部屋へと歩きながら「さぁご飯ご飯」と弾んだ声を出せば完成だ。

 

「そうだな。久しぶりに正座で話し合うか。議題は『葵の魅力とは』だ。性格から体格まですべてにわたって語り明かす。腹が減っては戦はできぬ、だ。ご飯を食べてから始めよう」

「な、なんて恥ずかしい議題名なんだ……正気とは思えない……」

「そうだ、正気ではやってられない。だが日和って現状維持をしているようだと葵の認識はいつまで経っても変わらないし、いつかどこかで……瓦解するのは目に見えている。ならオレは恥を捨てて挑むことにする」

「なんか小難しく言ってるけど、別にそれ恥捨ててまでやるようなことじゃなくない!?」

 

 マジの顔をしてマジのトーンで言っている。戦慄した。暑さで頭がやられたとしか思えない。

 アイスを買いに出かけた際の短い時間で、いまだ暑すぎる気温に不慣れな彼は軽率にバカになってしまったのだろう。私はいくらか部活で暑さ耐性ができたため、こんな風にバカにはならない。

 謎のやる気に満ちている清隆くんに思わず怯むも、しかし怯んでばかりいられない。対抗せねば。いや、せめてもの正気に返ってもらわねばならない。それが仁義というものだ。

 

 テキパキと夕食の準備をしている清隆くんに向かって、声を張り上げる。

 

「じゃあ私は『清隆くんの魅力とは』でプレゼン資料作ってくるけどいいの!?」

「なんだその恥ずかしいプレゼン資料名は……正気で言ってるのか……?」

「直前の自分の発言思い出してくれる!?」

 

 夏の暑さで頭が沸いたとしか思えない。今完全に確信へと変わった。

 売り言葉に買い言葉だ。お互い容赦なく睨み合う。

 

「……決戦は後日にしよう。準備が必要だからな」

「そうだね。やるならとことんだ。あとこういうのは振り切れば恥ずかしくない」

「同意する」

 

 一旦揃って喧嘩腰を解除し、私はようやく腰を落ち着けカーペットの上に座る。清隆くんは清隆くんでキッチンの方へ行き、テキパキと食事の準備を始める。

 今日の戦利品である賞状や水筒、タオルに道着が入った袋など、バッグの中身を逐一確認していく。何か忘れ物でもあったりしたらいけない。

 

 キッチンから、おかずが盛り付けられたお皿を両手にして清隆くんが戻ってくる。

 昨夜はゲン担ぎだとカツ丼を作ってくれた清隆くんだが、今夜は豚肉の余りを使ってシンプルにパン粉をはたき、油で揚げたトンカツのようだ。トンカツをメインにしてトマトや千切りにしたキャベツ、キュウリが添えられており、彩りも豊かなものだった。

 目を輝かせて「わぁっ!」と歓喜の声を上げる。

 

「美味しそう〜! すごい清隆くん、お店みたいだよ! トンカツが黄金色に輝いてるのとか、初めて見た……!」

「本当は出来立てを作ってやりたかったんだが、帰ってくる時間がわからなかったからな……一応まだ作ってそんなに時間は経っていないから、温かいと思う。冷めないうちに食べてくれ」

 

 目を輝かせるのもそこそこに、慌ててカバンを片付けて、私も食器の準備をしようと立ち上がる。お茶碗二つを持ってきた清隆くんにお礼を言いつつ、同じく箸やらコップやらを纏めて持って行く。

 机の上でそれぞれを定位置に配置していると、お茶の水出しポットを持った清隆くんが部屋に戻って来て、コップに注いでいく。

 

 二人で落ち着いて対面に座り、揃って手を合わせると、ようやく食事につく。

 

 さっそくメインのトンカツを箸でつまんで齧り付く。サクサクの衣と、噛んだ端からじゅわりと染み出るしっかり味付けのされた肉の旨みに感動する。

 

「美味しい……」

 

 ゆっくり咀嚼し、味わって飲み込む。

 

「野菜から食べた方がいいぞ。血糖値の上昇が抑えられて」

「本当に美味しいよ清隆くんッ! 衣はサクサクしてるしカツは噛んだら肉汁が溢れてくるし、それにこのタレって清隆くん作でしょ? 味噌が効いてて、その中で甘味や酸味が調和してる……天才だよ清隆くん! すごい! タレだけでご飯もいけそうなくらい美味しい! こんな美味しい料理食べられて私は本当に幸せ者だ、清隆くんはいいお嫁さんになれる、私が保証する」

 

 改めて熱く感想を語る。さらっと言葉を遮ったのは事故であり、決して故意ではない。遮った自覚がありながらそのまま話し続けているのは、別に前も同じこと聞いたしいっかとか思ったからでもない。ないったらない。

 後半では少々話がズレたものの、すべて間違いなく私の本音であり掛け値なしの褒め言葉だ。

 言い終えたと同時に再度意気揚々トンカツに齧り付く。幸せいっぱいの顔をして味わいながら咀嚼する。

 

 清隆くんが蕩けるような表情をして、喜色に瞳を彩りながら私を見ている。

 

「葵がいつも美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるんだ。これからも幸せにできるよう頑張る」

「もちろん私も頑張るよ! 出稼ぎは私に任せて」

 

 実際プライベートポイントもクラスポイントも今日稼いできたので言葉の説得力が違う。

 

 確かな実績があることで胸を張って自信満々にそう宣言すれば、清隆くんはおかしそうに、楽しそうにふにゃりと顔を綻ばせていた。

 

 

 

 

 

 

 




薄々お察しかもしれないですが、主人公は無類の麺好きだったりします(なお適度に制限されている模様)


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