鶏が先か、卵が先か (楊枝)
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第零章
おやとひな


 一面真っ白な地獄の中で、私は“私”を自覚した。私の中の“私”の存在に気づいて、結果的にすべて悟ってしまったわけである。

 過去は過ぎたこと。現在は今ある状況。未来は───決まっている道筋。

 

 今日のカリキュラムを終えて、真っ白の部屋の中で子どもたちが自由に過ごしている。人数は少ない。みんなリタイアしていったのだ。

 今いるのは、まだ優秀な子どもたち。まだもう少しだけ優秀でいられる子どもたち。

 

 生気の抜け落ちたドールのような顔が並んでいる。心などない。私が異常なだけだ。……違う。異常なのはこの白い空間だ。私は、だから、私一人だけが正常なのだ。

 私は平凡な女だ。女の『子』だ。平凡でありながらこの空間で生き残っていられたのは、“私”が存在していたからであり、私だけでは今ここに立ってすらいなかった。“私”という正常が異常な私を生かし、私は“私”を活かしていた。皮肉だと思う。

 どちらが欠けても今さら私は私になり得ない。

 

 なら私は、私を尊重しよう。“私”のおかげで、……いや。“私”は私だ。私がしたいと思ったから行動するのだ。

 研究室の奴らが毛嫌いするような理由で動く。したいと思ったからなんて、まるで獣のようだと思う。そこに計算はないし、打算もない。

 もとより人間は獣なのだ。この異常な空間に飼い慣らされて、獣の本能は忘れちゃいけないだろう。いわば、そう、私は本能を取り戻したのだ。それだけなのである。

 ……調子が戻ってきた。良い調子だ。

 固い表情筋を動かせば、少し痛かった。もう随分と動かしていなかったから致し方あるまい。でもこれからは調子が戻って表情も絶好調になるから、今から先の私は顔の筋肉痛を覚悟していてほしい。顔の筋肉痛ってなんだよ。

 

 一人内心ノリツッコミもこの辺にして、茶髪の子どもの前に立つ。影がかかって、しゃがんでいる男の子が顔を上げる。見えた顔を知っている。その無機質な表情を識っている。

 視線を合わせるために私もしゃがんだ。呑み込まれそうな無の前で、笑った。

 

「あなた、お名前は?」

 

 返事はない。当然か。今の今まで関わろうとしてこなかったのだ、お互い様に。私は私のことで精一杯だった。彼は知らないが。

 同じ無機質だった子どもの一人が突然自我を出してきて、真っ先に声をかけてくる。そりゃ表情には出てないけど内心戸惑っていることだろう。本当に戸惑っていない説もあるが、今は別に気に留めない。他の子を置いて真っ先にこの子に声をかけているのは本当だから、まあ、言い逃れはできない。言い訳はできるが。

 大事なのは行動だ。内心は後でいくらでもついてくる。おかしな言い回しだが、言い得て妙だと自画自賛する。

 もう一度、ゆっくりと言う。

 

「あなたの名前が知りたいの。教えてくれる?」

 

 こく、と目の前で喉が動いた。小さな口が開く。瑞々しい赤い口内がよく見えた。

 無機質な瞳が交差する。不思議な色合いをしているが、“この世界”じゃ普通のことだと識っている。私もきっと同じだから。

 

 告げられた名前に笑みを深めた。口端が痛い。急に笑うのは良くない。でも笑みは本心からのもので、自然なものだから引っ込められない。

 瞳が瞬いた。小首を傾げる動作が年相応だ。いや、成長した彼にもままあることだったか。もしかしたら昔から、気付かぬうちにあった癖だったのかもしれない。今さら確認しようはないが、私がそうだと思ったならそれが正解だ。

 だって私は、今からきっと、ずっと長い間目の前の彼と時間を共にすることになる。そんな予感がしているから。

 

「そっか。教えてくれてありがとう」

 

 両手でそっと彼の紅葉のような手を握った。ぷくぷくと柔らかい。私もおんなじ手をしている。彼が不思議そうに握り返す。おんなじようにぷくぷく触っている。

 

 名前を口にする。それは存在の証明に等しい行為だと思いはしないか。

 或いは。

 

 

「───よろしくね、清隆くん」

 

 

 ……否。私には関係のない話だったか。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「清隆くん。一緒にいよう」

 

 今日のカリキュラムを終え、自由時間になる。子どもたちはまた減って、減って、減った。この調子だと二人だけになるのも時間の問題かもしれない。もしかしたら“この記憶”にある通りなら、彼一人きりになってしまう未来も起こり得るかもしれない。それは嫌だから、もう少しだけ頑張ろうと思う。

 この体は、頭脳はハイスペックだ。記憶と合わさって異常値を叩き出している、そういう認識が正しい気がする。勘でしかないが、間違っていない。この場合でも気がする、という言葉で締め括ることにする。

 まあもちろん、本物には敵わないわけだが……。

 

 その本物たる彼のそばに寄って行って、肩を合わせる。合わさった肩から伸びるお互いの手を重ね、ぎゅうと握った。触れる面積が大きくなるように指と指の隙間を埋める繋ぎ方をする。されるがままの清隆くんとするがままの自由気ままな私。案外相性が良いかもしれない。

 

「問9、異常に難しくなかったくない? あれ解くのだけで大分時間使っちゃった」

 

 ……コク、と一つ頷かれる。お返しのようにうんうん頷いた。

 こうやって彼が私の一方的になっている会話のドッジボールに反応してくれるようになって、どれくらいの月日が経っただろうか。碌な月日でないことは指折りで数えなくても確かにわかる。

 此処での異常は私であり、彼が普通だ。この空間での何よりの異質が私であり、此処に残っている彼らの無機質が真だ。

 さっきから何度も言葉にしているが、私も私命名:白い地獄の中では真面目にしている。真面目にしすぎて無機質になっている。真面目なほど無機質になるという地獄。私が未だ此処に残り続けているのは、自由時間と白い地獄とのギャップ、所謂異質を買われてというのもあるかもしれない。憶測でしか言えないわけだが、あながち外してもいないはずだ。憶測だけが妙に上手くなっていく。これが白い地獄処世術だろうか。身につけたくない術である。

 

「筋力テストはどうだった? 私そろそろ20突破できそう。前よりムキムキになれた気がする」

 

 齢6歳の子どものセリフとは思えない。己はゴリラか。はいゴリラです。

 清隆くんが私をジーッと見て、一度ぎゅっと繋いだ手を握った。不思議に思って清隆くんを見る。

 

「……25」

「……6歳の平均って知ってる?」

「……知らない」

「私もわからないから今すごく困ってる……」

 

 どうしよう。すごいことはわかるんだけど、比較対象が私しかいない。他の子に聞けば平均が取れるだろうか。私と清隆くんぶっちでヤバいのわかっているから、どうにも正確な平均を取れる気がしない。

 最初に己はあくまで平凡と銘打っておいてこんな快挙を遂げているのは、リミッターが外れたからじゃないかと推測している。これも記憶のせいなのね。そうなのね。都合の良い言い訳にできて困る。否、言い訳でもないか。真実か。真相は闇の中でもあり、私としてもどうにも首を傾げざるを得ない。だがまあその謎の力のおかげで此処に残れているのだから、あまり思い詰める必要はないだろう。

 なんにせよ、この年でこの数値を叩き出したのが凄いことはわかる。自分も含めて無邪気に喜ぶし、清隆くんを褒める。

 

「すごいなぁ。ここにいる大人は褒めてくれないけど、これはすごいことなんだよ。もっと喜んでいいんだよ。だって私はすごく嬉しい。すごいから」

 

 馬鹿みたいなすごい連呼だ。私が褒める節に入ると途端に語彙力が低下するから困る。自由時間は頭が死んでいるから語彙力は言ってもいつもこの程度な気もする。南無三。

 清隆くんが私をジーッと見て、また一つコク、と頷いた。お返しのようにうんうん頷く。

 表情を観察して見ればちょっぴり口角が上がっていることがわかった。私のあほ発言に笑ったのかそれとも素直にすごいことに喜んだのか判断が微妙なところだが、笑ってくれたならどちらでもいい。これがすごいことなのだとわかってくれたならいい。毎度すごいことを自覚させようとして躍起になっているのだ。報われたいよ。すごいんだよこれ。記憶があるからわかるんだ。

 

 そのあとは特に会話のドッジボールをすることもなく二人で静かに寄り添ったままでいると、いつもの無機質な機械の声が放送を流す。

 夕食の時間が来た。子どもの栄養が考えられた最適で最善の色の殺されたご飯だ。知っているか、清隆くん。ジャンクなフードほど美味しいんだよ。君にもいつかそれがわかる日がくる。そうだな……具体的に言えば9年後かな。本当に具体的すぎて笑えない。

 夕食を取る部屋はこの自由時間の部屋とはまた別だ。清隆くんの手を離して一人で立ち上がる。

 いつもと違って、離した手を握られる。

 

 振り向く。清隆くんが私を見ている。眉を下げて、優しくその手を解いた。

 

「大人が見てるから」

 

 感情が見えない。まだそこに明確な感情が無いからか。それとも本人ですら何の感情なのかわかっていないからか。

 初めて彼から行動を起こしてきたのだが、その初めてが私を引き留めるための動きとは。なんだか少し照れくさいものがある。

 初めて彼が起こした能動的な動きを否定したくない。だから受け入れて受け流す。

 

「大人が見ていないならいいよ」

 

 ……コク。いつもより遅い気がしたけれど、ちゃんと反応してくれた。うんうん頷いて、彼を置いて部屋を出る。

 

『大人が見ていないならいいよ』

 

 この言葉には語弊がある。大人が見ていない箇所なんてない。自由時間でさえ監視されているだろう。四六時中というわけではなく、録画して、後で確認作業を行う程度か。

 私は記憶を得てそれを受け入れたことでリミッターが外れ、もともと備わっていた頭脳・身体能力の数値等を異常に底上げすることとなり、結果清隆くんに次ぐ実力を発揮するようになった。だが、あくまで『次ぐ』だ。いつかは切り捨てられる側であることに変わりはない。そうならないよう尽くすが、わからない。記憶では私がいることはあり得ないから、最後はやっぱり此処を出ていくことになるかもしれない。情けない話だがすべて『かもしれない』であり、明確な根拠とはなり得ない。記憶を引き合いに出せば根拠になるだろうか。目視できないなら証拠とはならないか。

 何をもって切り捨てるか。何をもって此処に残すか。すべてを総合的に見て判断するなら、一人一人の自由時間の行動でさえ重要な指針となるはずだ。そのとき私の異常が判断材料となる。簡単に捨てさせる気は毛頭ない。

 

 後をついてくる足音が聞こえる。存外近くからする。私によって鍛えられてパーソナルスペースが狭くなっている子は一人しかいないから、清隆くんだろう。後ろ髪が引かれる思いとはこのことかと有名なことわざを身をもって実感する。実感するだけで振り向きはしない。

 席に着く。隣の椅子がすぐに埋まる。完璧なテーブルマナーで機械的に口に物を運ぶ。

 食事を終えたら次はお風呂。次は歯磨き。次は就寝だ。そりゃこんな機械的な毎日、機械的な生活をずっと続けていたらサイコパスにもなるだろうと思う。私じゃなきゃなっちゃってるね。実際白い地獄……ホワイトルーム出身者ってみんなサイコパスだったくないか? ここでいっちょ私がならないことでホワイトルーム出身者=サイコパスという式を崩してみせよう。これでみんな胸を張って常識人だ。私がその第一人者となる。

 

 夕食時間以降はマニュアル通り過ごすだけとなっている。これには時間制限はなく、子どもそれぞれのペースで行って良い。だから私は今日も他の子を置いて一人さっさとマニュアルをこなす。

 お風呂へと向かう私の背後にまた気配がある。どうやら今日の彼は雛鳥の気分らしい。振り向かないし待たないし、彼も何も言ってこない。ただついてくるだけ。自由時間でのべったり具合はなんだったんだと問いただしたくなるような徹底振りをしていると自分でも思う。

 一人じゃないこと。それがどんなに尊いことか記憶が語る。

 私はまだ何もできない。まだ何もしない。でも今此処に在ること、それが彼の一片の救いになっていればいいなと希望的観測をする。

 歩くスピードを落とす。せめてもの大人への抵抗であり、せめてもの彼への意思表現だった。彼は今後ろでどんな顔をしているのだろう。無表情は変わらずとも、内心で少しでも喜んでくれていたらいいなと思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 雛鳥清隆くんは健在だ。だんだん距離が近づいて、もはや並んでいると言った方が正しいくらいになっている。けれどチラと見て居場所を確認すればそれで終わりだ。そろそろ歩幅とか身長的な問題で追う追われる立場が逆転するだろうと思いながらも幾数年、未だに律儀についてきてくれている。これが刷り込みだろうか。

 子どもはもういなくなった。ついに二人だけになってしまった。私たちは二人ぼっちでこの白い地獄の中を未だ逞しく生きている。逞しいかどうかは謎だが、身体能力的には言い得て妙であろう。頭脳も逞しくなった気がする。血管ビキビキだぜ。ここでは脳筋の意を示しているわけではなく脳の皺が増えたという意味で言っている。私は何を詳しく説明しているんだ。ボケを自分で説明することほど恥ずかしいことはないと個人的に思っている。誰に聞かせると言うわけでもないからボケるのはやめないが。

 

 今日のカリキュラムを終えて、束の間の自由時間の中で壁にもたれてぼーっとする。私の肩に清隆くんは頭を預けて、触れた肩から伸びる手はお互いに繋がっている。私もこてんと彼の頭に側頭部を預けた。同じシャンプーの匂いに混じって彼自身の匂いもする。不快感はない。なんなら、安心する匂いだと思う。

 

 

 ───機械的な日々を無為に繰り返して早10年。私たちは10歳になっていた。

 

 

 一般的に女子の方が第二次性徴が早く訪れる。膨らんだ胸を見下ろし、隣にいる彼と比べたら随分と細い肩、腕、手。違いを数え出したらキリがないことに間違いはない。そもそも身長からして違う。それだけで一つ一つの部位の長さも変わっていく。

 同じだった体格に変化が訪れ、体の厚みも変わった。彼と並んだら私は随分とひ弱に見えることだろう。同じカリキュラムをこなしているはずなのに、こんなに変わってしまった。まあそれも今ではカリキュラムまで変わってしまって、ああ、本当に私たちは変わってしまったんだなぁと痛感する。痛感したのだ。だから私たちがこうして会えて触れ合うのは自由時間の一時間だけになってしまった。まあ同じカリキュラムだったとして、試験中はずっと虚無虚無しながら課題をこなしているので、どちみち顔を合わすことも触れることも会話することもなかったが。

 それでも確かに、お互いが生存していることを確認できた。今日もお互いに生き残れたことを実感できた。今じゃこの自由時間だけが彼の存在を確かめられる唯一の術となっている。

 彼が脱落することはないと知っているから私は特に不安を感じないのだが、彼の場合はどうだろうか。カリキュラムまで変わって、そろそろ私が脱落するんじゃないかと不安になってやいないだろうか。……不安になってくれていたらいいな、と人としてどうなのかという気持ちを抱く。

 初めは打算だったかもしれない。同情もあったか。私は記憶を持っているから知っている。温かい気持ちも嬉しい気持ちも、悲しみも怒りも知っている。だけど彼はわかってない。知らないからわからない。感じ方からわかっていないんじゃないか。それは寂しいことだろう。だから少しでも私が何か彼に与えてやれたらと思った。与えたいと思った。

 懐柔というには言葉が悪すぎる。

 

 ……私は、たぶん、私がいたという証を残したかったんじゃないだろうか。彼の中に一片。私という欠片があればいいと思った。彼の中に何かを残したくて……いや。残りたかった、のだろう。

 

 無機質な放送が流れる。私だけが呼ばれている。確か今日は複数人を相手にした戦い方の実戦講義だったか。……少し嫌な予感がしている。

 前回の講義終わりに嫌な声の掛けられ方をした。確かあれは、あの目は……言葉にするならば───。

 

「葵」

「……なぁに、清隆くん」

 

 ぎゅ、と手を握られる。知っている声よりも少し高い声を聞くと、なんとなく優越感に浸れる気がする。彼が紡ぐ自身の名が宝物にでもなったみたいだ。彼は私の名を呼ぶたび、ひどく大事そうに紡ぐから。自惚れてしまう。

 名前が知りたいと、私の服の袖を掴んでジッと見つめてきた幼い彼を思い出す。どうして今さらそんな昔のことを思い出したんだろう。……いよいよ虫の知らせみたいだ、と思って、うすらと笑った。

 彼の髪が首に当たる。くすぐったくて肩をすくめた。離れていく頭に合わせるように私も隣に顔を向ける。間近で視線が交わり、幼い丸い瞳が私を見つめ返す。以前より丸みは失ってしまったけれど、童顔な彼の瞳は依然愛らしくくりくりとしていた。

 不思議な色合いの瞳が瞬く。

 

「……いってらっしゃい」

「……うん。いってきます」

 

 お互いに何も言わない。暗黙の了解染みたそれは、だけど今このときだけはありがたかった。

 

 

 私は生き残る。この子を独りにはしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは実験なのだ、と血を垂れ流し床に蹲る私の前で白衣を纏った男が言った。

 私を囲う筋肉隆々な男たちに血の痕はない。いや、強いて言うならば握られたナイフには血が滴っている。もちろん彼らの物ではないが。

 致命傷は避けた。体中にできた夥しいあざは時間経過により完治するだろう。姑息なものだと思う。

 白衣の男の行先を邪魔しないように私を散々痛めつけてくれた男たちが下がる。両手を背中に回してまるで偉い教授みたいな態度で、白衣の男が私のそばに立つ。しゃがむわけがない。見下ろすわけでもない。どこを見ているのかわからない目で“何か”を見据えながら淡々と言う。

 

「講義は段階を経てプログラム通り終えた。後は教えた内容が身についているか、目標地点にまで到達しているかの確認。WR4-35とWR4-01は親しい様子を見せていた。実験をするにあたってこれほど相応しい者はいない」

 

 機械の声だ。ぼやけた視界で捉えた白いロボットに笑う元気もない。幻覚とはとても思えない。

 連れて行け、という平坦な声がする。雑に持ち上げられて、微弱な振動の中で千切れそうな意識を保つ。気を失ってしまいたいが、身の安全を確認してから意識を手放したい。治療はちゃんとされるのか、その点だけでも確認しておきたかった。

 私の体を持ち上げていた男がある地点で止まる。歩数的に考えて、…意図が読めない。私をここに運んでどうするつもりだ。

 扉の開く音が聞こえる。感じていた浮遊感がなくなり、後に体に伝わる冷たい床の温度。

 出口付近にいる離れた複数の人の気配。対する部屋の奥にいる一人の気配。

 講義。プログラム。目標地点。……実験。ああなるほど、そういうことかと遅ればせながら理解する。こういう理解が遅く鈍いところが彼と私が分たれた要因なのだろう。

 

「WR4-01。今からテストを行う。直ちに此方に来るように」

 

 致命傷はない。傷はあるが、どれも浅いものだ。量が多いため少し大袈裟に見えるかもしれない。自分の今の姿を鏡で見ていないため大分予測が入ってしまうことが残念だ。

 足音が近づいてくる。一定の歩幅と速度。すぐ隣まで迫り、止まる。

 視線を感じて体力消費のため閉じていた瞼を開けた。せっかく開けたのに逆光で顔がはっきりしない。

 

「テストとは?」

 

 しばらくの無音。私を挟んで両者とも動く気配がない。間に挟まれた私が気まずいのだが……あと一応我、怪我人。怪我人ぞ?

 ふざける元気はもとよりないわけだが、息がうまくできない重圧を人知れず感じて口籠ってしまう。別に何か言ったところで状況は変わらないのだろうが、呼吸さえ躊躇するような空気にはさすがに戸惑ってしまう。息が満足にできないのに、当然喋れるわけもない。

 ただならぬ雰囲気に戦々恐々としている私なのに、なぜか複数人いる側の気配が落胆したものに変わった。代表して聞き覚えのある白衣の男の声が言った。

 

「……計測不能。時期を急ぎすぎたか? それともやはり習得は難しい、か」

 

 ボードにさらさらと何かを書き込む音と、続けて速やかに指示を出しまた私の体が雑に持ち上げられた。掴まれた箇所は大きいあざができている場所だ。一瞬息を詰め、努めて深く息を吐く。痛みを逃す。

 目を開ける元気も今ので根こそぎ奪われた。固く目を閉じ、浅く変わろうとする呼吸をどうにか抑える。私に勝てるのは私だけだ。間違えた、私を落ち着かせるのは私だけだ。ダメだ危機感が一周回って頭おかしくなってる。

 今度こそ医務室に向かってくれるだろうか。まさか清隆くんのテストのためだけに私の体をダメにして脱落させるわけあるまい。というか、それで脱落になったら無念すぎて泣く。

 淡々と運び出されながら、胸の中で嘆息に似たため息をこぼした。内心複雑すぎてなんとも言い表せない。そもそも彼の瞳を覗けなかった。それでは僅かに瞳の中に現れる彼の感情の変遷も確認する術はない。

 テストで判定された『計測不能』はいいとして、気になったのはあの全身にかかった息もうまくできないような酷い重圧だが……それも目を開けることさえ満足にできないポンコツ化した私からしたら気のせいだった可能性も否めない。

 早く回復したい。回復していつも通り無為な日々を過ごしたい。

 忌避してた無為さを愛するようになったら人間終わりだと思っていたのに、体をボロボロにされたら愛するようになるなんて随分都合が良いことだ。いっそ人間らしいと言えるだろうか。……やっぱり皮肉なもんだと内心で笑う。

 早く体を治して、清隆くんに会いたい。今はあの無表情がひどく恋しかった。

 

 いつもと変わらない日々の証明が欲しかった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 悲報。清隆くんと心の距離が空いた。あんなに懐いてくれていたのに。あんなに自由時間二人でくっついていたのに!

 久々に! って使った気がするな。私思ったよりこの白い地獄に精神やられていたのかもしれない。大丈夫、私がホワイトルーム出身者=サイコパスの式を崩すっていう目標は諦めてないから。その前段階で心折れそうになってるけど。

 

 顔を上げずに彼の様子を確認する。私と対面する形で壁にもたれており、一切視線は寄越してこない。その無言の拒絶っぷりに心が折れた。気合いで折り返して修復した。

 なるほど、なるほど。物知り顔でふんふん頷く。

 なんとなく読めてきたぞ。私がズタボロになった姿をテストと称して見せられた日から数十日。回復して一人で歩けるようになってまたこの部屋に無事戻って来れたが、どうやら清隆くんはその数十日の間で独り立ちをしたらしい。あんなに私の後をついて歩いていたのに、食事のときだって後ろをついて来ていたのに、今はさっさと先に行かれる。二人しかいないから今度は私が追いかけてるみたいになってる。

 長年染み付いていた刷り込みから解き放たれて、一人で自由に行動できるようになったんだね……あれ……嬉しいことのはずなのに涙が……。

 下を向いていじいじと指先を弄った。本当は今すぐにでも清隆くんに縋りつきたい欲はある。そもそも最初から私の体当たりアタックで関係が始まったのだ、もう一回繰り返してもおかしなことではないと思う。でも、……彼の選択を尊重したいとも思うから、行動に起こせない。

 このまま薄れて、途切れるのだろうか、とぼんやり考える。

 ……いや……“これ”こそ、記憶通り、か。

 

 胸がじくりと痛む。寂しいと思う感情を抑え込む。体育座りで膝の間に頭を埋めた。情けない話だけど、少しだけ涙がこぼれてしまった。

 

 どうやら私もこの異常な空間で、気付かぬうちに随分と心が弱くなっていたらしい。彼を支えてあげるなんて驕った考えだ。私がずっと彼に縋っていたのだ。私が彼にしがみついていたくせに。

 

 

 どうにもこうにも、救えないなぁ。瞼を閉じて、薄暗い世界に一人閉じこもった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 白い地獄の一年の停止。私と清隆くんは停止中に別荘に連れてこられ、そこで執事の松雄さんと共に待機を命じられた。

 ついにこの時が来たと思った。そしてようやく私が温めてきた策が日の目を見る時が来たのだ。

 

「清隆くん」

 

 私の呼びかけにピク、と彼の肩が反応する。こうして声をかけるのも随分久しぶりのことだった。話さないまま何年経っただろう。もう覚えていないや。

 与えられたそれぞれの個室。清隆くんの部屋の扉を無遠慮に開け、中に入ることなく言いたいことを伝える。

 

「私はこれからいろいろ行動する。不審に思うこともあるかもしれない。でも、邪魔だけはしないでほしい」

 

 それだけだから、と言いたいことだけ言って部屋から去る。自分勝手が天元突破していることはわかっている。でも今の間じゃないとできない。

 することは決まっている。成功材料もコツコツと集めていき、準備は既に整っていた。後は緻密に、精密に事を行なっていくだけだ。

 人事を尽くして天命を待つ。なのだよ!

 

 

 まずは執事の松雄さんを変えることから。これは簡単だ、適当に文句をつけてダメ出しして、新しい人がいいと要望を出せばいいだけ。かなり面倒くさい文句を言っている私を静かに見ている目はあったが、最初にお願いした通り清隆くんは邪魔をしないでくれている。今はそれだけでありがたい。

 松雄さんからあっさりと変わり後任となった執事……も文句をつけ変更。これは周囲が松雄さんにだけ注意を向けないようにするためだ。私の目的が松雄さんを私たちのそばから遠ざけることにあったということに気づかれないようにするため。念には念を入れていきたい。

 何かと文句をつけ執事変更を繰り返すこと2桁に迫る頃、ついにちょうどいい人物がやってきた。最後の執事は小悪党気質の男だった。私たちに当てられた資金をちょろまかして私腹を肥やしたりするタイプの小悪党である。採用です、おめでとうございます。

 この執事は望んだ通りご立派に役目を果たしてくれたので、そのおかげで私たちの食事など含む生活は少し質素になってしまった。が、ピンチはチャンスだ。再度清隆くんの部屋に突撃し改めてそのことについて謝りつつ、少しの間だけ我慢するようにお願いして部屋を後にした。言いたいことだけ言って去るスタイルが身に付いている。

 

 私のやりたいことの一つに松雄さんを救いたいというのがあった。松雄さんは報われるべき善人だ。彼を生かさずして私が此処にいる意味は万が一にでもあるのか。エゴだとわかっている。でもどうしても救ってあげたかったのだ。松雄さんは清隆くんの恩人だから。今の彼には身に覚えがないだろうけど、それでもいいから感謝を示したかった。

 傲慢さは反省して萎むどころかむしろ余計に膨らんでばかりいる。私らしくていいじゃないか。私はエゴと傲慢を愛する人間だ。なれば、エゴと傲慢も私を愛しているはずである。つまり相思相愛だ。誰にも私たちの間に入り込めないんだからぁ!

 という冗談はさておき、着々と準備を進めていく。幼い頃一度訪れた人物の携帯番号を思い出しながら電話をかけた。もちろん足跡がつかないよう受話器には細工済みだ。電話が繋がり単刀直入に要件を告げる。

 

 

「ホワイトルーム生を秘密裏に貴校に迎え入れていただけませんか」

 

 

 坂柳理事長。

 

 

 電話の向こうで息を呑んだ気配がする。私はうっそりと口元に笑みを刻んだ。

 

 

 

 

 よぉしこのままスピーディーに高度育成高等学校まで直進するよぉ! みんな遅れるなよ! みんなっていうかまあ私含めて二人しかいないんだけど!

 



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第一章
決意は祈り、祈りは決意


 紆余曲折というほどの紆余曲折はなく、協力者である坂柳理事長と私の計画・手筈通りに事態は進行していった。裏でこそこそやって表で小悪党執事を受け流しつつ生活していたら、あっという間に一年経っていた。つまり季節は春。春といえば入学シーズン。

 つまり桜の花びらが舞う今日この日、僕たち(清隆くん)私たち(私)はようやくスタートラインに立ったのだ。

 記憶の在処。これは物語の冒頭、始まりの部分である。

 

 

 私と清隆くんは今日、高度育成高等学校に入学する。

 

 

 指定されたバスに乗り込んで空いていた座席に座る。私と清隆くんの座席は当然のように離れている。結局距離は変わらないままだった。今さら縮めようとも思わない。

 車窓から流れていく景色を眺める。瞼を閉じた。微睡んで見た夢の中で、幼い私たちが手を繋いで微睡んでいる。胡蝶の夢という言葉が頭によぎった。

 夢の中の彼らが安らかであること。なら、それで充分だと思う。

 

 

 ───目標は達成した。それは高度育成高等学校に入学すること。其処に私まで入学するのはたった一つの想定外だったのだが、坂柳理事長のご厚意なのだろう。ありがたく享受しておく。

 目標は達成し、また新たに目標が生まれる。今度は束の間の自由としないこと。3年間だけの期限付きの自由にしないこと、だ。そのために私は計画を立て直す必要がある。

 内側から崩すのも一つの手だと思っているが、これは最終手段だ。今はまだ考えなくていい。

 ……考えたくない、と、平和ボケしそうな安らかな景色を瞳に映しながら思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 案の定バスから降りた清隆くんが黒髪美少女に捕まり、何か絡まれている。原作通りバスの中で見たり見られたりしたんだろう。うむ、苦しゅうない! 原作ファンだからやっぱり原作にある内容をリアルで見たらテンション上がっちゃうね。外の平和っぷりに私の精神まで引きずられて平和ボケしてしまっているのもあるかもしれないが。

 清隆くんもきっと内心はっちゃけていることだろう。はっちゃけているに決まっている。やっぱりホワイトルームから抜け出せたらついはっちゃけちゃうよね。私原作の初期清隆くんめっちゃ好きだったよ、心の中が終始愉快で面白かったから。だから今美少女に絡まれてる清隆くんの内心を予想してめちゃくちゃ楽しんでるよ。

 表面上涼しい顔をしながら内心ニコニコ彼らを見守っていると、ふと黒髪美少女───堀北さんと目が合う。強気に釣り上がった眉が目が合うことで余計に反りを作る。

 

「何かしら、こちらをじっと見て。言いたいことでも?」

「あ、いえ……」

 

 いやこの眼力を前にしたら言葉窄みになっちゃう感覚わかっちゃったな…。睨まれてしゅんとなれば、少しだけ堀北さんがバツが悪そうな顔をした。

 

「……別に、用がないなら構わないわ」

「あ、はい!」

 

 諸君、知っているか。会話の初めに必ず「あ」をつける奴はみな等しくコミュ症なんだぜ。つまり私は……ゾッとしないお話である。

 ちょうど堀北さんと清隆くんの会話も終わっていたのか、堀北さんは私たちを置いてさっさと校門を目指し立ち去っていく。その後ろ姿を『さすが堀北さんェ……』という感じで見ていると、視線を感じた。顔を向ければ清隆くんが私を見ている。視線が交わる前にスッと前を向かれ、堀北さんに続くように歩いて行ってしまった。

 追いかけることはしないが、目的地は一緒なためどうしても追いかける形になってしまう。歩幅を小さくして、少しずつ距離を空けた。寂しいけれど、仕方のないことだ。

 願わくば彼の高校生活が順風満帆であること。今まですべてを覆す色に溢れた生活を、好奇心に満ちた日々を過ごしてほしいと思う。隣に私がいないことが上記の条件に必須ならば、私は大人しく彼の前に出ないよう過ごすだけだ。どんなに冷たくされても私が彼を好きなことに変わりはないのだから。

 

 

 

 

 案の定のDクラス。張り出されたクラス表を見てげんなりしてしまうのは否定できない。茶柱先生が一番野心がなさそうに見えたから、という理由で原作では清隆くんはDクラスに配属されたのだ。そりゃあ私もDクラスになるに決まっている。

 すごすごとDクラスの教室を目指して行く。中に入って行く生徒たちに続き、私も教室に入った。

 机の上にあるネームプレートを一枚一枚確認していく。私の席は……廊下側から2番目の列、前から2番目の席、か。なかなか運が悪い席と言えよう。

 嘆いていても仕方がないので、鞄を机の横に引っ掛け、大人しく席に着いた。教室に人が増えて行くのを何をするでもなくぼーっと見守る。友達を作らないとと思う気持ちはあるのだが、まあ焦って行動することもない。というか、あれだな……たぶん読者の目線でいるんだろうな。だからどうにも自ら行動を起こす気になれない。もうなんか教室で埋もれる影の者になれればいいと思う。よしそれ目標で行こう。

 大分ハードルが下がった目標を掲げることを誓った矢先、ガラガラと教室のドアが開いた。Dクラスの担任、茶柱先生満を辞しての登場である。

 

「えー新入生諸君。私はDクラスを担当することになった茶柱佐枝だ」

 

 おおおお、原作とおんなじセリフだ。なんか本当に本の中の世界なんだなって感動してしまう。実際本の中のような生活をしていたのだが、あの頃はそういうふわふわした思考をする余裕がなかった。今、私、すごく楽しい。

 感動で内心打ち震えている私を置いて先生の話は進んでいく。Sシステムの説明を終え、ぐるりと生徒を見渡している途中。

 張本人だからか、わかってしまう。私と清隆くんがいるのであろう窓際後ろの方の席への不自然な視線の投げかけ。目は合わないが、それが何よりおかしな話だ。シンプルに巻き込まれたくないな、とは思う。

 清隆くんは世界の強制力とかなんかそういう不思議なアレで巻き込まれていくのだろうが、私はノープロブレムじゃないだろうか? そんなに心配しなくても良い気がしてきたな。

 ぽや〜っと明後日の方向を向いて頭お花畑になっていると、かの有名な言葉が聞こえてきた。なお茶柱先生はとっくに教室を退散している。故にここでの有名な言葉とは決まっており、有名な人もまた然り。

 

「皆、少し話を聞いて貰ってもいいかな?」

 

 キタァァァ! キャーッ!(黄色い悲鳴)

 

 目をキラキラさせて声の聞こえた方を向く。ひひひ平田くん……! カッコいいと思ってたし知ってたけど実際に見ると本当にカッコいい……。

 イケメン鑑賞に勤しんでいるうちにクラス皆が自己紹介に着く流れになっている。もちろん平田くんの自己紹介は耳をダンボにして聞いた。イケメンはイケメンたる理由があるんだなって察する内容だった。にしてもイケメンだな……。

 平田くん以外でも耳をダンボにして聞いている。櫛田さんや池、山内、高円寺くん、それに軽井沢さんも……! 知っている人物がいることにとても興奮する。本当に私、本の中にいるんだ。本の中でもメインの人たちがいて、話しているのを聞いている。不思議な感じだ。すごく楽しい。

 清隆くんのある意味有名なコミュ症を抜群に発揮した自己紹介も聞くことができた。聞いている最中テンションMAXである。終わった後は平田くんに続いて拍手をして、微力ながら慰めた。心の内では供給に感謝していた。矛盾がひどい。

 ニコニコみんなの自己紹介を聞いていると、平田くんがぐるりと教室を見回して、数名残っている生徒を見やる。私を見て視線を止めた。……そうか。もう私の番か。 

 席から立ち上がって、努めて穏やかに微笑み短く挨拶をする。あまり誰の印象にも残らないように意図しつつ、あくまで自然に。

 

「私は水元葵です。自分から話すことが得意じゃないので、たくさん話しかけてもらえると嬉しいです。クラスに早く馴染めるように頑張ります」

 

 ぺこ、と頭を下げて席に座る。

 

「うん。よろしく、水元さん」

 

 平田くんがそう言葉をかけてくれて、そのあと女の子からも男の子からも軽めに「よろしくー」と声をかけられた。ニコニコ微笑んで頷いた。出だしは好調である。後は気配を消してみんなの記憶からフェードアウトしていくだけだ。

 

 教室に残っていた人たちの分の自己紹介は終え、みんな帰路に着く流れになる。私も流れに乗って教室を出ようとして、ある声を拾った。

 

「平田くん! ねぇねぇ、今からカラオケ行かない?」

「もちろん、いいよ。せっかくならみんなで行こうか」

「ほんと!? やったー!」

 

 平田くんの生歌、だと……!?

 

 ここを逃しては男が廃る。間違えた、女が廃る。

 出て行こうとしていた教室に逆戻りし、後はさらっとグループの輪に入ってカラオケについていった。生歌はすごかった。私言ってなかったけど、平田くん好きなんだよね……いいよね平田くん。好きだよ。平田くんを嫌いな人いないよ。池とか山内は……いいんだよ。いないよ。誰?

 櫛田さんや軽井沢さんの生歌も聞けて、今日は素晴らしい日だった。そして人の生歌を聞くだけ聞いてうまいことフェードアウトしてみんなで帰った。私もしかしたら幻のシックスマンの才能があるのかもしれない。いや、もしかして幻のシックスマンは私だった…?

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 カラオケを同行していた人たちと別れ、寮に着く。さっそく中に入って電気をつけ、内装を確認していく。監視カメラは……くまなく探したがどうやら無さそうだ。そりゃプライバシーの問題に関わるんだから当然か。

 制服を着替えるのも忘れ、まだ何も敷いていない床に直に座って一息ついた。やっぱり人に会うのは疲れるな。ホワイトルームにいた頃はほとんどずっと二人きりだったし、それもいつしか二人でいるのに一人きりみたいな空気になっていた。だから大勢といると少し気疲れしてしまう。

 慣れないとな、とため息をつきながら思う。瞳を閉じて、疲れている目を休めた。

 

 

 ───唐突に無機質な機械の音が部屋に響き渡る。

 それは寝ていても飛び起きてしまうくらい神経を刺激する、否が応でも鼓膜を震えさせる、いわば不快音に近い。

 

 

 ………チャイムの音、だよね?

 

 静寂を無惨に裂いた音に瞼を開ける。音のおかげで頭が冴えたが、しかし起き上がるのは億劫なままだ。時計を見て、午後7時を指す針にまだそんなに遅い時間ではないことを確認する。

 なら、無視をするのは悪いか。制服を着ているから部屋着を見られるわけでもない。そうだ、楽な部屋着も買いに行かないとな……。

 今後の予定を客を待たせつつ組み立て、ついでに立ち上がって玄関に向かう。入学初日なのだ、部屋に訪ねてくるのは十中八九業者の類だろうと当たりをつける。水道管とかトラブルでもあったんだろうか。

 

「はいはーい。少しお待ちくださーい」

 

 インターホンで訪れた人の顔を確認するでもなく、玄関の覗き穴で見ることもなく。

 無防備に、無警戒に扉を開けた。どうせ無防備だろうと無警戒だろうと、一般人に遅れを取るつもりはない。これは慢心ではない。事実であり、普遍の現実なのである。

 

 

 だってまさか、玄関の前に立つのが数少ない私が敵わない相手だとは思いもしまい。

 

 

 思わずえっと声が出た。目を見開いて、扉を開けた間抜けな姿勢で固まる。随分久しぶりに間近で顔を突き合わせた気がする。視線だってそうだ。

 交じわる視線に、その引力のある目に途端顔を逸らしたくなってしまう。逸らされていたのは私だったのに。ここでも立場が逆転しているのか。

 無意味な音が口からこぼれ出る。あー、と声を出した。

 

「……清隆くん……あの、その」

「中に入れてくれないか」

 

 言葉が思いつかなくて言い淀む私を半ば遮るようにそうお願いされる。言葉が頭の中で反芻された。清隆くんを、部屋の中に、入れる。

 困惑して、眉を下げて清隆くんを見上げる。こうやって並んで立てば、いつのまにか身長差もこんなにできていたのか。なんだか知らない人みたいだ。そう思ったことに可笑しくなって、そのおかげで緊張が緩んだ。

 そうだ。清隆くん相手に何を不安になる必要がある。なんならこの世で一番安全な存在だろう、清隆くんは。断る理由がない。

 

 素直にうん、と頷いて扉を大きく開け、中に入れるようにする。清隆くんが私に代わり扉を閉めてくれた。続け様にガチャンと鍵も閉める。……鍵も閉める……?

 あれ? と思って見上げる瞬間には私はキツく抱き竦められていた。今度は囲われた腕の中で目を白黒させる。

 

「葵。葵。ようやく二人になれた。今度はちゃんと二人きりだ」

「えっ?」

 

 爪先が宙に浮かぶ。加減も覚束ないほどに抱き締められ、抱き付かれて、頭が混乱したまま戻ってこない。清隆くんも私を抱き締めるのに必死なのか、この状況のヒントとなる言葉をそれ以上何も落としてくれない。

 現状把握には圧倒的な情報不足だ。戸惑いながらも、けれど、久しぶりの彼との触れ合いが嬉しいことに変わりはなかった。ちょっと強引だし力任せだとは思うけど……。

 そろそろと清隆くんの背中に腕を回した。ぎゅっと抱きしめて、腰の太さの違いに驚かされる。あれ。どうしてこんなに違いが出るんだろうか。これが男と女の違いか? 努力するのが馬鹿馬鹿しくなってくるな……。

 

 しばらく清隆くんの好きにさせていたのだが、あまりに微動だにしてくれなくて結局私が折れることになる。ちょいちょいと彼が着ている制服の裾を引っ張った。無理矢理腕の中で顔を上げ、視線を合わせる。ひどい顔をしているなと思った。顔面蒼白で、でも瞳が何よりも輝いている。恍惚と潤んでいる。

 

「清隆くん、ずっと玄関でいるのもあれでしょ。靴脱いで、中に入ろうよ」

 

 先に部屋に上がり、誘導して清隆くんを連れて行く。というより、手を繋がれているから連れて行くという表現ほどこの状況に当てはまるものがない。

 清隆くんは部屋を見渡すわけでもなく、終始私をジーッと見ていた。なんだか懐かしい視線だ。少し照れくさくなって、口元を緩めて下手くそに笑った。

 

「あはは……清隆くんのその視線、久しぶりで少し照れちゃうな」

 

 照れてそう口にする私を華麗に放って、部屋の中でまた抱き締められる。今度は新しく抱き癖でもついたんだろうか。矯正してもう少し優しく抱けるようにさせないといけない。

 思考が斜め上方向にクラウチングスタートを切ったのを察知し、慌てて軌道修正に走る。清隆くんの胸に両手を当て、距離を取ろうと腕を伸ばした。ビクともしないどころか僅かに空いた隙間を嫌がって余計にキツく抱き締められる。

 

「こ、こら……! 一回離して、落ち着いて話ができないでしょ!」

「このままでも話はできる」

「立ったままだと落ち着かないよ!」

「なら、座っているならいいんだな」

 

 言うが早いか今度は清隆くんが先導して部屋を進んだ。勘違いしないでほしい、ここは私の部屋だよ。

 ベッドを背もたれに清隆くんが胡座をかいて床に座って、私は清隆くんの足の上に向かい合わせになって座らされた。これ、立って抱き締め合ってる方がまだマシな恥ずかしさなんじゃないか?

 胸元少し下あたりまで伸びている私の髪を清隆くんが指で弄っている。清隆くんよりも黒に近い茶髪は世間一般で言えばごくありふれた色と言えよう。そんな髪を清隆くんは大事そうに触れてくるから、どうしてもムズムズしてしまう。久しぶりだからか、照れが先に来てしまう。髪を指先で弄りながら、もう片方の彼の腕ががっちり私の腰に回って抱き寄せてきているのもあるだろう。距離感狂ってない? 大丈夫?

 

 文句を言っても離してくれそうにない力の強さをひしひしと感じるので、諦めてこの体勢で話を始めることにする。諦めも肝心なのだ。

 清隆くんの髪を久しぶりに手櫛で梳きながら、疑問に思うことを問いただすために口を開く。

 

「そもそもだよ。清隆くん、前まで……今日、今、直前までだよ。私にすごく塩対応だったじゃん。なのにどうしてこんな急に関わり持とうとしたの?」

「今までは監視の目があった。オレが葵と親しくしていることで、葵が体よく利用されることに気づいたから、苦渋の決断で距離を取った。今はその反動が来ている」

「反動かぁ……」

「ああ」

 

 至極真面目に頷かれて思わず脱力してしまう。げんなりした表情を隠せない私に構わず、清隆くんはマイペースに髪を弄っている。気が抜けるというか、毒気が抜けるというか…。

 

「にしても、清隆くんが私にまったく関心を寄せなくなってもう何年も経ってるんだよ……こんな反動くるくらい、よく我慢できたね」

「……葵が、いるなら……それでよかったんだ。五体満足ならそれで……よかった」

 

 腰に回る腕がぎゅっと締まる。結局ゼロ距離になって、清隆くんの頭が私の頭とくっつく。側頭部をすり、と擦り付けられた。ホワイトルーム時代でもこんなにくっついたことはなかったぞ。我慢していたとはいえ、タガが外れすぎじゃないだろうか。

 拍子抜けするくらい昔と変わらない……いやちょっとかなり甘えたになっているっぽい清隆くんに、これはこれで可愛いかもな、なんて清隆くんの態度に負けない激甘な顔をする。

 私からも抱きついて、私を包み込む大きな体を優しく撫でてやる。

 

 

「昔の距離に戻れて、私も嬉しい。本当はずっと……寂しかった」

 

 

 ポツリ。こぼれた声があまりにも泣きそうに聞こえて、自分のことなのに驚いて肩が震えた。

 清隆くんは何も言わず、抱き締める腕の力を強めた。まるでそれが返事のようだ、と思って、実際そうなんだろう。清隆くんらしい優しい返事だと思った。

 お互いの鼓動が重なる。呼吸の音に安堵する。私たちは昔、こうやってお互いの無事を確認していた。生を感じていた。昔みたいに戻れたことがこんなに嬉しいなんて思いもしなかった。

 まるでこのまま眠ってしまいそうな安心感の中、ぽつり、ぽつりと今まで空いていた隙間を埋めるように言葉を交わす。過去のことじゃない、私たちの未来についての話だ。けれどそんなに先の見えない未来じゃない。平凡を望んできた私たちにピッタリの、なんとも気の抜ける未来の話。愛おしいこれからの話。

 

「私、映画見に行きたいんだ。カフェとかにも行きたい。他にもいろんなところに行きたい」

「オレもだ。いろんなところを見て回りたい。きっと、絶対、楽しいだろうと思う」

「うん、うん。私も思う。きっと、絶対、楽しいよ。楽しいだろうなぁ」

 

 私たちが“普通”の話をしている。それが泣きたいほど嬉しい。泣いてしまいそうなほど、心が震えた。

 項に清隆くんの息遣いを感じる。ぎこちないそれに、こんなところでもおんなじだなぁ、と泣き笑いの顔をした。

 

「でも……それにはまず、“平凡”を装わないとね」

「ああ。“普通”を楽しむには、“平凡”を装わなければならない。誰にも……邪魔はさせない」

 

 暗く深い声だ。私も似たような声で話をしているんだろう。

 それはホワイトルームで生き延びた以上必然であり、そして必要なことだった。

 私の中には傍観者の私と当事者の私、二人がいる。どちらも私であり、どちらも含めて私だ。私は私の悔いがないよう生きていくだけ。どっちも私なら、どっちも有しているのなら、二人分の楽しみがあるとは考えられやしないか?

 私は存外、いや、かなりポジティブなのだ。

 

 口元に笑みを浮かべる。一度思い切り清隆くんを抱き締めた。突然の力任せな抱擁に清隆くんが「うおっ」と真抜けな声を出して、反対に私を抱き締める腕を緩める。

 私はこの高校生活を有意義なものにしたい。そのためには彼の存在は必要不可欠なのだ。当事者としてはもちろん、それは───傍観者としても!

 

 パッと勢いよく体を離す。清隆くんの両手を取りそれぞれでぎゅっと繋いで、間近で顔を合わせて笑う。額が重なり、鼻先が触れる。

 

「学校生活、楽しみだね! 清隆くん!」

 

 弾けるように笑った私を呆気に取られた顔をして数秒見つめて、つられるように清隆くんがふにゃと笑った。

 

「……ああ。本当に……」

 

 頭の上で交じった髪がくしゃと音を立てる。清隆くんの茶髪とそれよりも濃い焦茶色の髪が絡まる。

 本当に楽しみだ。瞳を閉じて改めて深くそう思う。

 

 私よりも一回り大きく節張った手を、大事に握った。知っていて思うこととしては滑稽なことだろうが、それでも祈らせてほしい。

 どうかあなたの未来が幸せに溢れるものであるように。

 

 

 ───あなたの物語を私に見せて。

 

 

 傍観者、或いは観測者としての私の願いだ。

 

 

 

 

 

 

 




つまり綾小路は攻略済みヒロインで確定ってこと
ヒロインは綾小路(ヒロインは綾小路)


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友情のち部活動

 入学式を経て学校生活二日目の今日、授業初日ということもあり授業の大半は勉強方針等の説明だけだった。確かにそんな感じだった気がする。

 私は今世のことは事細かく記憶を有しているが、原作を知っている前世については部分部分あやふやだったりするのだ。そりゃ意識の仕方も違うしそもそも元の能力値からして違うのだ、当然のことだろうと思う。

 前の方の席というのもあり、変な態度は取れない。これは後ろの席だったら授業を真面目に受けないという意味ではなく、背後からの視線が少なくなるから気を緩めて授業を受けられるいう意味である。私は元来コミュ症なのだ。そういう意味では早く席替えがしたいものだ。

 

 ぼーっと話を聞いている間に午前の授業を終え、時刻は昼を指している。昼食の時間だ。生徒たちが思い思いに教室を出て行く。私も大好きな小説の中の世界、聖地巡り気分で学校探検をしたいのもあり、教室を出て行く生徒たちを追うようにして立ち上がった。

 教室を数歩進んだすぐ後に後ろから声をかけられる。

 

「葵」

「ん?」

 

 パタパタとこっちに向かってくる清隆くんが、追いついて、自然に私の手を取った。

 

「昼ごはん食べに行くんだろう? オレも行く」

「え……あ、うん。いいけど……」

 

 完全にお一人様気分だったため、出鼻を挫かれて変な返事になってしまう。清隆くんは気にせず私を見ていた。

 

「どこに行くんだ?」

「あ、うん。とりあえず食堂行ってみようか?」

「わかった」

 

 本当はコンビニでおにぎりでも買って、あとは校内を見て回る予定だったのだが、それはまた別の機会でも構わない。清隆くんも楽しみにしている“普通の”学校生活だ、私の勝手な聖地巡りに付き合わせるのは申し訳ない気持ちがある。

 二人で歩き出して廊下を曲がってすぐ、後ろから「あの!」と可憐な声がかかった。コミュ症二人、自分たちが声をかけられたなんて微塵も思わずのんびり食堂に向かっていく。と、私たちの腕が同じく可憐な手に掴まれた。

 

「あの、無視しないでくれないかな……?」

 

 えっ。桔梗氏? 私の腕を掴んでいるのは櫛田桔梗氏?

 大きな愛らしい瞳を若干潤ませて、眉を下げて怒ったような困ったような顔をした櫛田さんが私たちを上目遣いに見ている。「はわ……」という謎の言語が口から出た。可愛い。ヒロインってこんなに可愛くていいの……?

 清隆くんが謎に固まっている私をチラと見てから、櫛田さんに視線を移す。知っている無気力な声で「なんだ?」と端的に用件を尋ねた。

 櫛田さんは歩くのを止めた私たちを確認してから掴んでいた手を離す。背中で手を組んで少し俯き加減になって、前髪の隙間から覗くように私たちを見つめた。そのあざとさに百点満点を与えたい。

 

「えっとね……あ、えと、綾小路くんと、水元さん……だよね?」

「おう」

 

 清隆くんが沈黙している私の脇腹あたりを軽く肘でつついた。ハッと意識を取り戻して清隆くんと同じように返事をする。

 

「うん、そうだよ。どうかした?」

「私、同じクラスの櫛田だよ。覚えてくれてるかな?」

 

 もちろんです。

 

「もちろんだよ。こんな可愛い子、忘れられないって」

「そんな、可愛いなんて……えへへ、ありがとう。水元さんの方こそ可愛いよ」

 

 今、私、あの櫛田さんと女子トークしてる……! 女子特有の褒め褒め女子トークしてる! テンション上がってしまう。

 別に本心からそう言われているわけではないことは分かっているのだが、どうしても照れくさくなってしまう。にゃは……と変な顔をして笑った。

 照れて使い物にならなくなった私に代わって清隆くんが再度用件を尋ねる。

 

「オレたちに何か用か?」

「あ、うん。実は相談があって……」

 

 言葉が尻すぼみになっていく。櫛田さんの視線は下にあった。ジーッと見つめてから、細い指先がある箇所を指す。

 

「……二人って、随分仲が良いんだね?」

「え?」

 

 指先を追うように視線を下げる。指差されている箇所を確認し、「……あ、あ〜〜」と納得の声をあげた。納得の声をあげながら、指と指の隙間を埋めて繋いでいた手を軽く振ってその反動で離した。清隆くんがチラと私を見て、大人しく離されたままになってくれる。

 

 ヤベェ。ナチュラルにされすぎてナチュラルに受け入れていたな。

 

 穴があったら入りたい。むしろ自分から掘って入りたい。今から穴掘りに中庭にでも行こうかな……中庭あるかな……。

 微妙に現実逃避し始めた私と清隆くんの顔を交互に見比べて、櫛田さんが一度うんと頷いた。パチンと可愛らしくウインクしてくれる。

 

「わかった。秘密、だね?」

「違う違う違う違う」

 

 とんでもない勘違いの予感に慌てて弁明の声を上げる。

 

「私と清隆くんは……幼馴染なんだよ。だから櫛田さんが思ってるような関係じゃないから」

「? そうなの……?」

「そうなの」

 

 力強く肯定する。訝しんでいる櫛田さんにこれ以上つつかれてボロを出さないよう、今度は私から用件を尋ねる。

 

「それで、なんだっけ。相談があるんだよね?」

「あ、うん! 聞いてくれる?」

「うん、いいよ」

 

 櫛田さんもようやく本当の目的を思い出して、私たちの方にずいと体を寄せてきた。

 

「少し聞きたいことがあって……その、ちょっとしたことなんだけど綾小路くんって、もしかして堀北さんと仲がいいの? ……あ、ごめんね水元さん。これはそういう意味じゃなくて」

「あ、あ〜〜大丈夫大丈夫。全然私のことは気にしないで。あと私たちは櫛田さんが思ってるような関係じゃないから」

 

 会話をしながらだんだん思い出してきた。それは堀北さんの苗字を聞いて完全に思い出すことになる。そうだ、これはイベントだ。

 原作ってこんなに早くから櫛田さんから声をかけに来ていたんだな…。

 私に関係ない話であることは間違いないので、ボーッとして時が経ち悩み事相談が終わるのを待つことにする。その間目の前の美少女をぼんやり見つめて人知れず内心でテンションをあげていた。

 

 清隆くんと櫛田さんが握手をする。ここでようやく会話が終盤を迎えていることに気づく。

 今度は私に差し出された手を、スカートの裾で手を拭いてから握った。

 

「二人とも、おんなじことしてるよ……別に気にしなくてもいいのに」

 

 櫛田さんが困ったように、そしておかしそうに笑う。そりゃ可愛い子を前にしたら手を拭くでしょうよ、と思いつつ口にしたら引かれるので口にしない。

 

「改めてよろしくね、水元さん」

「よろしくね、櫛田さん」

 

 可愛らしく手を振って櫛田さんが私たちの元から離れて行く。

 同じように振り返していた手を下ろせば、その手がその後またナチュラルに取られる。さっきと同じ要領で軽く振って離す。

 

「手はもう繋がないよ。ほら、食堂行こう!」

 

 清隆くんがジッと私を見ていることには気づいていたが、構わず先を行く。歩幅の違いかすぐに隣に並ばれて、その後は二人でのんびり食堂に向かった。

 やっぱり聖地巡りをするならそれ相応の食事もしないとね! と私は初っ端から生き急いで山菜定食を頼んだ。なるほど、確かに……山菜だな。

 そのまんまの感想を思い浮かべて仏の顔をしている横でチキン南蛮定食を食べている清隆くんが私のお皿から一つ山菜を取り、その代わり一切れチキン南蛮をくれた。大変美味でした。

 

 チキン南蛮の美味しさに感動している私の横で山菜を口にしうっという顔でゆっくり咀嚼している清隆くんというちぐはぐコンビで食事を終えて人心地ついていると、食堂に設置されているスピーカーから音楽が流れてきた。

 

『本日、午後5時より、第一体育館の方にて、部活動の説明会を開催いたします。部活動に興味のある生徒は、第一体育館の方に集合してください。繰り返します、本日───』

 

 部活動。その言葉にある部活が頭の中に過ぎって、少しの間逡巡する。

 清隆くんが私を見て、尋ねてくる。

 

「葵は部活に入るのか?」

「んっと……う〜ん……」

 

 どうしよう。悩むな。

 別に入らなくてもいいけど、入ってもいい。このどっちつかずな感情をどっちかにすることから始めたい。

 

「正直、悩んでるかな……」

 

 頭を掻き、困った顔をして笑う。清隆くんはジッと私を見ている。

 机の下で繋いでいた手に時々力を入れながら悩む。無意識の行動だ。思考をしている間指弄りをしてしまう私は、どうやら手を繋いでいる場合は相手の手を握っては緩めるという行動を取るらしい。

 机の下でそんなことになっているとは一ミリも気づかない私に、清隆くんが隣で声をかける。

 

「葵のしたいことをすればいい。オレは応援する」

「うん……ありがとう、清隆くん」

 

 背中を押された気分だ。少しだけやる気が出る。

 ……そうだ。一度きりの高校生活。したいことをしたってバチは当たらないし、なんなら今まで頑張ってきた分好きなことをして気持ちを昇華すればいい。

 俄然やる気が出てきた。今度は力強く頷いた。

 

「……入るよ。私、入りたい部活がある」

「そうか。頑張れ、葵」

 

 勇ましく宣言する私に清隆くんが早速応援の声をかけてくれる。優しく握ってくれる手がありがたかった。……でもあれ、もう私手を握らないって直前で言わなかったっけ?

 振り解こうとするも、思い直して握ったままにする。手のひらから伝わる温もりを離れがたく思った。私がこう思うのを見越して繋いでいるとしたら、清隆くんはとんだ策士だ。

 しかし私の話ばかりで、清隆くんの話は聞いていない。それに気づき、顔を上げて今度はこっちから尋ねる。

 

「清隆くんは? 何か部活入るの?」

「いや、オレは……」

 

 逡巡するように視線を下げ、私を見て、緩く首を振った。

 

「オレは別にいい。たまにお前が入っている部活を見に行くさ」

「え〜。清隆くんも何か入ったらいいのに。もったいない」

「あまり興味がないしな。こんな奴が入ってきても困るだろうし、申し訳ないだろ」

 

 そういう考えもあるか。それなら無理強いはできない。

 あと私が部活している姿を見に来たって、何も楽しくないと思うが…。

 と、ここで名案が浮かぶ。

 

「じゃあ、私と一緒に同じ部活入ればいいのでは!?」

「……いや。オレはお前の姿を見ているだけでいい」

「アレ!? なんで!?」

 

 部活見に来るくらいは興味あるんじゃないの!?

 即座にお断りされて思わず素っ頓狂な声を上げる。清隆くんに遠慮している様子が見られないからなおさらだ。

 最終的には清隆くんがそれでいいならいいけど……と渋々提案を取り下げることになった。名案だと思ったのにな。いや……原作でも彼は帰宅部だったか。なら、良いのかなぁ……。

 

「じゃあ、部活動説明会にも行かないの?」

「そうだな……一応、見に行くだけしておくか」 

「私も行く! 一緒に行こう!」

「ああ」

 

 放課後の予定が決まった。二人で顔を合わせ、楽しみだなぁと笑う。清隆くんも私を見つめて口角を緩めている。

 清隆くんの笑う顔は見ていてとても嬉しい。だからそれだけで嬉しくなって私はより一層笑みを深めてしまう。

 もうずっと、数年もの間見ていなかった表情だ。忘れるわけがない。変わらない、花が小さく綻ぶような笑い方が愛おしくて、繋いだ手が確かにあの頃から変わらない私たちを表しているようで、私はまた意味もなく笑っていた。

 

 

 

§

 

 

 

 放課後になり、教室から一緒に並んで第一体育館に向かう。私たちと同じ目的地を目指し同じ方向に向かっている生徒は見た限りではかなりいるように感じた。

 その流れに沿って生徒たちの後をついていくように歩き、体育館に到着。時計を見て、所定の時刻まであと5分弱であることを確認する。

 しばらく待っていると、上級生らしき人が舞台上に上がるのが見えた。

 

「一年生の皆さんお待たせしました。これより部活代表による入部説明会を始めます。私はこの説明会の司会を務めます、生徒会書記の橘と言います。よろしくお願いします」

 

 舞台で挨拶した……橘先輩? の横にズラッと部の代表者らしき人が並び出す。みんなそれぞれ部活動のユニフォームを着ているから、なんとも見がいのある光景だ。

 目的の部活動の説明が来るのを待っていると、なんと初めに挨拶した人がその目的の部活動の主将だった。少し身を乗り出す。

 ふんふん話を聞いている分に、そんなに予定を詰め込んで練習をするほど厳しくなく、わりかしみんな思い思いに緩くやっている部活っぽかった。その緩い部活感で心が決まる。

 

「私、あの部活に入るよ」

「あの部活って、弓道部か?」

「そう。私、ずっと弓道したかったんだ」

 

 弓を引く。離す。的に当たり、パンと空気を裂く音。あの爽快感をこの世界でも味わいたい。

 記憶にある弓道部での思い出を振り返って、少ししみじみとする。

 

「そうか。頑張れよ、葵。応援してる」

「うん!」

 

 温かい声援に気前よく返事をする。説明会が終わったら、さっそく入部受付に行かないと。

 

 目的を早々に終えてしまい、少し暇になってしまった。チラと隣を見れば清隆くんは静かに舞台上の説明を聞いている。あ、いや……視線が動いた? 誰か見ているみたいだ。

 どうしたんだろうと視線の先を追って誰がいるのか確認した後、なるほどと納得した。生徒に混じって堀北さんがいる。肝心の堀北さんはある一点をジッと見つめて固まっているみたいだ。さらに堀北さんの視線を追って……ビンゴ。堀北(兄)生徒会長が舞台袖でチラ見えしている。一方的ではあるが、兄妹感動の対面に違いない。

 そしてこの様子を見る感じ、原作通り清隆くんと堀北さんは仲を深めているようだ。よきかなよきかな。

 

 かの堀北(兄)生徒会長の有名な演説も聞き終え、部活動説明会はお開きとなった。清隆くんに一言断りを入れ、一人さっさと入部受付に行く。

 受付を経て弓道部に無事入部することができ、満足感とともに清隆くんのいる場所に戻る。と、清隆くんの近くには生徒が3人……まだこう呼ぶのは早いが、通称3バカが集まっていた。

 足を止め、しれっと方向転換をする。私、あの3人見る分には好きなんだけど、関わりを持つのはちょっとこう……遠慮願いたい。それも初期3バカだ。初期3バカはキツい。

 ごめんね、清隆くん……お先に……!

 心の中で親指を立て調子良くサムズアップをしておいた。もちろん涙を呑んで、だ。まさか満面の笑みだなんてそんな。

 

 

 

 

 そのあと普通にスーパーで捕まった。なんでこんなにピンポイントで見つけられたのか聞くと、どうやら相手の連絡先を知っているとGPSで相手の居場所を確認できるらしい。いや早いよそれに気づくのが。まだ先のことでしょうが。

 別に居場所を確認される程度気にすることじゃないので、あっさりと追及をやめて本来の買い物に戻る。

 今日私がスーパーにいるのは、今晩のご飯を作るためだ。それを聞いて清隆くんが「オレも食べたい」と言ってきたので、二人で買った材料を折半することになった。あとなんか作ってもらう気満々みたいだけど、私も今世一度も料理したことないからね。共同作業に決まってるでしょ??

 

 なおその後、二人でせっせと拵えたカレーは苦労した分とても美味しく感じました。

 次回は私がサラダ作るから、清隆くんは肉焼いて味付けするってことで話はついた。この場合どっちが楽なんだろうな。料理って奥が深いよね……。

 



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煌めけプールの回

 部屋を出て乗ったエレベーターから降りると、ロビーに置かれた椅子に座っている清隆くんがいる。私の姿に気づくと、軽く手を挙げた。

 

「葵、おはよう」

「おはよう、清隆くん」

 

 手を自然に取られ慣れたように繋げば、そのまま二人で歩き出す。もちろん意識なくそれを受け入れ、意識なく繋いだ手にそっと力を込めた。

 私の歩幅に合わせて清隆くんはゆっくり歩いてくれる。その紳士っぷりに脱帽だ。こういうところが男の、清隆くんのモテる要素なんだよ。

 

 なぜか私が満足気にうんうん頷きつつ、軽い世間話をしながら学校に向かう。この頃は私の部活の話ばっかりだ。弓を引くのがどれだけ楽しいかを熱弁して、清隆くんはうんうんと頷いていちいち相槌を打ってくれていた。たまに質問してくれるから楽しく会話ができている。私の話ばかりして申し訳ないところだ。でも清隆くんが聞き上手なのも悪いと思うよ。

 清隆くん、無表情がデフォルトで声にもほとんど抑揚がないけど、なんかこう不思議となんでも話したくなる雰囲気持ってるよな……なんでも受け入れてくれそうだからかな。いつかポロッと言ってはいけないことまでもらしてしまいそうで心配だ。

 学校に着き、同じ教室なのでそのまま二人で向かう。ガラッと扉を開けて入り、清隆くんと別れて自分の席につく。

 

 ……なぜか妙な視線を感じる。どこか上擦ったような、生温かい感じ? 好奇心とか興奮とか、そういう類の視線も感じる。

 

 戸惑っていると、一人の生徒が私の席に寄ってきた。あ、軽井沢さんだ。ポニーテールが可愛い。

 目の前のギャル系(偽)美少女に和んでいる私に、軽井沢さんがどこか赤い顔をして興奮した様子で尋ねてきた。

 

 

「み、水元さんって、綾小路くんとはどんな関係なの!? もしかして、付き合ってるの?」

 

「………………ゑ?」

 

 なんて?

 

「朝から二人恋人繋ぎして登校してきてさ、もうすっごく噂になってるよ! いや、昨日昼食とか部活動説明会でも手繋いでたから軽く噂にはなってたんだけど、でも、まだそれ見てた人が少なくってさ…だから今日の朝二人が恋人繋ぎで登校してきて、もうなんか光の速さ? で噂が広まって! 噂は知ってたんだけど、でも、どっか疑っちゃってたからさ。実際この目で見て本当だったんだって感動しちゃった〜」

 

 長い長い長いはやいはやいはやい。

 え? なんて?

 

 軽井沢さんがキラキラと目を輝かせて私に迫る。両手を取られ、ぎゅっと握られた。有名な美少女との握手なのに今は何も嬉しくない。

 ヒクヒクと口端を引き攣らせる私に気付いているのかいないのか、いや、これは確実に気づいていない。

 軽井沢さんの背後には同じように目をキラキラさせた女子たちが集っていた。

 

 

「綾小路くんと付き合った経緯、聞かせて〜!」

 

 

 恋バナをするときの女子の押しは強いし、話は聞いているようで聞いていない。それを身をもって体感した。

 

 

 清隆くんとは幼馴染なだけだと懇切丁寧に説明をしたが、本当に信じてくれたかは定かでない。必死に誤解を解こうとする私をみんなニヤニヤしながら見て、わかったわかったと軽い返事をした。何もわかってないだろ、ちゃんと人の話を聞け! 後生です聞いてください!

 そして私が女子に囲まれて質問攻めに合い誤解を解こうと苦しんでいる間、清隆くんは清隆くんで男子に囲まれてキッツイ詰問をされていたらしい。わかるのはお互いに苦労していたということだけだった。

 清隆くんも誤解を解こうと説明はしてくれたようだが、それも果たして信じてくれたかどうかは怪しいとのことだった。まあ側から見たら怪しい行動しかしてないからな……。

 手を繋いで登校するのはやめようか、と嘆息混じりに提案すれば、清隆くんは少しの間何も言わなかったけれど、ゆっくりと頷いた。寂しく思う気持ちは一緒だけど、周囲に誤解をさせたくはないから仕方のないことだ。

 清隆くんがいつか好きな人と結ばれるとき、私は清隆くんの邪魔になりたくない。だから私たちが距離を取るのも仕方のない話なのだと素直に受け入れてくれると嬉しい。こんな尽くし系彼女みたいな彼女でもないのに恥ずかしい思考をしていることなんて本人には絶対言えないが。だって恥ずかしいし。

 

 

 

 なおその後時間ギリギリに私の部屋から出て行く清隆くんとか清隆くんの部屋から一緒に登校する私たちとかを目撃されて噂の疑惑が深まったのは言うまでもない。

 おっかしいな、手を繋いで登校とかはあれ以来一度もしてないんだけどな……。

 それに清隆くんが時間ギリギリまで私の部屋にいたのは一緒にご飯作って食べていたからだし、私が清隆くんと一緒に朝部屋を出て登校していたのは常識的に考えてお泊まりしていたからである。何が問題あるというのだ。正当な権利だろう。お泊まりとか友達間で普通にするじゃん?

 ……という話を噂の真偽を確かめるためこれまた迫ってきた軽井沢さんたちにすると、すごい引き攣った顔をされた。なんで? おかしいことを説明するのも面倒くさいとまで言われぞろぞろと私の席を離れていった。なんで?

 

 なお清隆くんも同様のことがあったらしい。似たもの同士だね。わかんないから仕方ないよね? ねーという女子顔負けの会話はしたと思う。

 

 

 

 以降、だんだんと私たちの関係について本人に話を聞こうとする者はいなくなったという話はしておこう。故に私たちも『あ、なーんだ。別にコレおかしなことじゃないんだ』とタガが外れていくのだが、それはまた追々の話である。

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 清隆くんと登校して、教室に着いて別れた後。

 私たちの後、しばらく経って登校してきた山内に先に教室にいた池が爽やかに声をかけた。

 

「おはよう山内!」

「おはよう池!」

 

 結構デカめの声だったから、みんな顔を上げてなんだなんだと視線を寄せる。当然私も顔を上げた一人だ。

 池と山内は揃って満面の、てっかてっかの笑顔を浮かべている。なんだか既視感のある会話だ。

 

「いやあー授業が楽しみ過ぎて目が冴えちゃってさー」

 

 ……あ。思い出した。そうか、そうだった。今日は確か───

 

「なはは。この学校は最高だよな、まさかこの時期から水泳があるなんてさ! 水泳って言ったら、女の子! 女の子と言えばスク水だよな!」

 

 今コイツら教室にいた女子全員敵に回したな。それがよくわかるセリフであった。ちなみに私も敵側にいる。

 やはり女子である身、ああいう下劣というか下品な言葉を聞くと気分が悪くなるものである。

 池と山内、たまに須藤の会話に女子が氷のように冷めた視線を投げかけているのだが、彼らは一向に気づく様子がない。だからモテないのだ、アイツらは。3バカは見る分には好きだけど、関わりたくない理由の一つである。なんか、こう……無理。唯一良かった点といえば、私が美少女じゃないことか……あれ、なんか目頭が熱くなってきたな……。

 

 彼らは周囲を気にせず大声で話すからよく声が通る。そこに外村くんが加わり、会話の内容の下劣さが増す。それに倣って女子の視線が氷点下にまで落ちる。

 あ、ちょうど清隆くんが呼ばれた。なんやかんか友達作りに励んでいる清隆くんだ。呼ばれると一瞬躊躇した様子を見せたものの、ゆっくりと輪に加わった。

 清隆くんの声は本人が抑えているのかよく聞こえなかった。ただ無言で男子たちの話を聞きながらおそらく机の上に置いてあるのであろう、記憶通りなら誰が一番胸がデカいかを示すオッズ表とやらを見下ろし、口を開いて一言二言何か言ったらしかった。

 

 

 その途端男子たちが一斉に口を閉じ、妙な沈黙が落ちる。それは教室をも呑み込むほどの奇妙な沈黙だった。

 

 

 先ほどとは違う意味でなんだなんだと視線を集めだした男子の集団に、清隆くんはといえばなんとも我が道をいっている。机の上のペンを取り、何かを塗り潰し始めた。ここからではよく見えないが、表のある一つの欄を塗り潰しているみたいだ。

 

「もう、するなよ」

 

 今度はちゃんと聞こえた。前の内容がわからないからなんとも要領を得ない言葉だ。

 清隆くんは最後にそれだけを言い、男子たちはと言えばなぜか顔色を悪くしながら無言でコクコクと頷いている。いや本当に何があった。

 推察している間に、今度は清隆くんがこっちに向かって来ていた。

 

「葵。行こう」

「え……どこに?」

「どこでも」

 

 手を取られ立ち上がらされた。引っ張られるまま後をついていく。いつもと違って少し強引な気がする。

 引っ張られるまま後をついて歩いている途中、私はふとあることに気づいてなおさら戸惑った。

 

「えっと……清隆くん。なんか……怒ってる……?」

「……、別に……」

「いや怒ってるでしょ」

 

 居心地悪そうにしているのを見る分に、果たして自覚はあるのだろうか。いや、本人も戸惑っている気配がするからなんとも言えないな。

 しまいには私より背が高いくせして、上目遣い気味に私を見てくるという高等技術を用いてくる。

 

「……オレ、怒ってるのか?」

「私に聞かれても困るんだけど……」

 

 張り詰めた空気が徐々に離散していくのがわかった。それに気づき、少しだけ詰めていた息を意識して普段のものに戻すことができるようになる。

 清隆くんが本当に困ったように眉を下げていた。本人もわかっていない衝動のようだ、なのに私なんぞが理解できるわけもない。

 

 先の説明を求めるも首を振られて、結局清隆くんは何も教えてくれず。

 私たちは授業開始ギリギリまで外のベンチに並んで座り、朝の出来事と全然関連しない平和な会話をするのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 待ちに待っているほどでもないプールの時間。女子と男子に別れ、更衣室に行く。いまだ常時一緒にいるような友達がいない私は、一人黙々と着替えを済ませていた。同じ女子とは言え裸を晒すのは恥ずかしい性分なのだ。手早く着替えを済ませること、それに尽きる。

 パパパパッと光の速さで着替え、完了させる。周囲を見てまだみんなのんびり着替えていることを確認、ついでに誰も私を見ていなかったことを認識し安堵の息をついた。

 一人でプールサイドに向かう勇気はないので、後は気配を消しながらみんなが着替え終わるのを待ち、後ろをついて行くだけである。

 ぼーっとしていると、可憐な声がかかった。

 

「水元さん、着替えるのすっごくはやいね!」

 

 櫛田さんだ。ブラ姿で話しかけられ、同じ女子なのにドギマギする。直視しないようにだけ気をつける。

 

「私、着替える姿は鬼神って言われてるから……」

「あはは、鬼神ってなにそれ〜」

 

 私の滑らないギャグ(?)に可愛らしく笑ってくれた。優しい。

 そのままくだらない会話をしながら、目の前で豊満な胸が晒された。直視しないようにしていたのに、その揺れる乳房をついつい見てしまう。でっか……。言葉を失いもはやガン見している私に、櫛田さんが着替えながら照れて困ったような顔をした。

 

「あんまり見られると恥ずかしいな…」

「すみません」

 

 条件反射で謝罪してしまった。ガチトーンである。櫛田さんの方が慌てるレベルであった。

 

「あ、いいよいいよ! 怒ってないし! 同じ女子なんだからさ、そんなに気にしてないよっ」

「でもごめん……次着替える時は私のことガン見していいから……」

「あはは。うん、わかった!」

 

 まあガン見していいとは言ったが、先ほども言った通り鬼神の如く着替えるので私の裸体を見られることはないと思うがな。

 ……とゆうか今気づいたけど私……櫛田さん(裏切り系ヒロイン)と普通に会話してね……? 今さら?

 

 同じクラスメイトである以上誰かしらと会話はするだろうが、物語の根幹に関わる人物と深い関係になるのは極力避けたいのが私の方針だ。恐ろしいのは原作ブレイクである。あいや、清隆くんと同じ立場だった時点でもうなんか手遅れ感は否めないが、それでも努力はしていたいのだ。

 どちらにせよ、櫛田さんの表の性質上関わらないことは逆に至難の業か……。

 今さら避けるのもおかしな話なので、距離を取ることはせず二人で世間話をしながら櫛田さんが着替え終わるのを待つ。櫛田さんを直視しないようにしていたら他の女子の着替えシーンが目に入ってきたのは不可抗力と言えよう。顔面偏差値の高いDクラス、胸もトップクラス級に大きい子が多くてそれはもう目の保養になるわ目の保養になるわ。おっさん目線で申し訳ないね。

 私も胸はあるにはあるが、長谷部さんや佐倉さんにはとても敵わない。強いて言うなら……堀北さんと同レベル、いやそれよりは大きい程度だろうか。美乳と言ってほしい。

 水泳に参加する真面目なクラスメイトたち全員が着替え終わったのを確認し、櫛田さんが先導する形でプールに向かう。そして自然と隣からフェードアウトし、後方に紛れた私であった。幻のシックスマンは……私だ。

 

 

 

 

 プールに着いてすぐ聞こえたのは男子たちの雄叫びだ。見学女子組の後に我ら参加組の登場であるからであろう。胸大きい組は尽く見学組だが、それでも男子からしたら僅かに参加する女子生徒の存在はありがたいはずだ。これに関しては参加する女子たちに同情する。まるで見せ物小屋のパンダにでもなった気分だな。

 私はそんなに注目されるような目立ったところ(色んな意味で)がない生徒なので、その点は唯一の救いと言えるだろうか。胸もそんな大きいわけじゃないし、なにより大事なのは顔がそんなに可愛いわけじゃないことである。自分のことは自分がよくわかっているのだ。別にブサイクではないけれど、この顔面偏差値の高いクラスメイトに囲まれていたらね……それ相応の自信になるってものよ。今まで外の世界に行ったこともないので、他に比較のしようもないし。

 

 さっそく櫛田さんが男子たちの生贄になっているのを他の女子組に紛れてぼーっと見ていると、ふと清隆くんと目が合った。彼も櫛田さんを囲む男子たちを見ていたらしい。笑ってみせると、ほんの少し微笑み返してくれる。ははは、愛い奴め。

 と、堀北さんが清隆くんのところに向かった。筋肉の話だっけか? ホワイトルームで鍛え上げられた清隆くんの見事な筋肉について疑問を呈しているのであろう。それはとても帰宅部のそれじゃないとかなんとか言ってるんじゃないだろうか。わかるよ、清隆くん誤魔化し方下手くそだよね。

 かく言う私も筋肉がついているので、お腹はほんのうっすらではあるが割れていたりする。そりゃ鍛えないとホワイトルームで生き残っていられなかったし。清隆くんには負けるが、筋肉には割と自信があったりする。これでさらに女子の魅力減である。なので私がモテないことは納得済みだ。筋肉ある女子に需要はない。別にいらんけど。いや、本当全然気にしてないから。本当全然。

 しばらく二人は会話していたが、それも終えたらしい。櫛田さんも一瞬そこに参戦したが、先生の登場によりすぐに意識はそっちにいった。

 

 しばらく体慣らしにプールの中を軽く泳ぎ、早速競争をする流れとなった。もちろん知っている通り、一位には5000ポイントが与えられるとのこと。

 貰えるものは欲しいが、それは“平凡”を犠牲にしてまで欲しいものではない。ここは諦めることにしよう。清隆くんも同じ考えだろう。

 

 まずは女子からということで、そそくさと列に並ぶ。視線は……まああるにはあるが、他の女子と比べたらマシなんじゃないだろうか。これで私の顔が良かったらマズかったな。愛すべきはこの平凡さである。

 幸運なことに櫛田さんと同じレースだ。彼女が男子からの視線を一挙に引き受けてくれたおかげで、怖気の走る視線はそこまで感じない。清隆くんは私を見ていたが、彼の視線はノーカンだ。

 確かこのレースは……水泳部の小野寺さんもいた。彼女が優勝するとして、櫛田さんもそこそこに速い方だったから、櫛田さんより遅くなるよう調整して泳ぐことにするか。

 櫛田さんと徐々に距離を離しつつ泳ぎ切って、結果は総合7位。一見早いように感じるかもしれないが、女子は見学が多いため7位で真ん中に近い順位である。まずまずだ。満足してプールサイドに上がる。と、清隆くんがこっちに向かってきていて、自然と私の手を取った。

 

「葵。おつかれ」

「清隆くん」

 

 手を引かれるまま後ろをついていく。私を後方の椅子に座らせるだけ座らせると、「じゃあオレも行ってくるから」と離れようとする。この後自分のレースもあるだろうに、わざわざ私の手を引いて椅子に座らせてくれるとは、紳士も顔負けだな。

 離れて行く背に声をかけた。

 

「行ってらっしゃい。がんばってね、清隆くん」

「ああ。行ってくる」

 

 列に並びに行く清隆くんを見守る。すぐにレースは始まって、清隆くんも同じように調整しながら泳いでいるみたいだ。同じレースに須藤くんがいるから、そっちが目立つわ目立つわって感じだった。特に問題なくレースを終え、プールサイドを上がってくる。濡れた顔を拭いながらこっちに向かってくるのを確認しながら、私は私で次のレースに大注目していた。

 ひひひ平田くん……! 上半身細マッチョの平田くん! なるほどこれが女子にモテる体型……理解した。

 そう思えば清隆くんは筋肉がしっかりついている。どっちかというと須藤くんタイプの筋肉だ。まあ彼に須藤くんのような見せ筋はないため、どうしても目立たないのだが。一番すごいのは清隆くんだぞ! 目立ってないけど! あ、平田くんがコースに並んだ見よう今すぐ見よう。

 

 ホイッスルの音とともに平田くんがプールに綺麗なフォームで飛び込んだ。う〜ん、泳いでいる姿も無駄に格好いい。女子の歓声も納得だ。

 平田くんに視線を向けている私の前を遮る形で清隆くんが戻ってくる。邪魔なので清隆くんの体に手を当て横にずらした。「おい……」という声が聞こえるが無視する。う〜ん、プールから水を滴らせながら上がってくる平田くん、さすがイケメンと言わざるを得ない。

 

 良いものを見れて大満足だ。現金なもので、水泳の授業があることに感謝したくなる。可愛い女の子たちの水着姿も見れたし、我らがイケメン平田くんも拝むことができた。傍観者の立場として百点満点だ。

 隣に座っている清隆くんからどうにも白んだ視線がする。

 

「葵……まさか、平田のこと狙ってるとかじゃないよな」

「なんてことを言うんだ! 平田くんは目の保養だよ。狙うとか恐れ多い」

「……なら、別にいいが……」

 

 納得いってない声である。それに加えて本人も戸惑っている気配がする。またか。本人がわかっていないなら私もわからないよ。

 触れた肩から伸びる手を隙間なく繋ぎながら、安心させるよう笑いかける。

 

「何を心配してるの? 私は清隆くん一筋だよ」

 

 ついでに冗談を言って清隆くんを笑わせようとする。清隆くんはジッと私を見てから、ゆっくりと口元を緩めた。

 

「……ああ。オレも」

 

 繋いだ手にそっと力を込められた。清隆くんの返事に私の方が嬉しくなって、それ以上におかしくなって笑ってしまう。

 返事のセンスがさすがだ。そうだよ、こういうところが清隆くんが後々とんでもなくモテる理由だよ。3バカは見習って欲しい。

 

 近くにいた人物が私たちの会話を聞いて、呆れたような声をかけてくる。

 

「あなたたち、そんな恥ずかしい話をよくそう堂々とできるわね……」

「あ、堀北さん」

「……こんにちは」

 

 先に声をかけてきたのに、私が顔を向ければフイと逸らされてしまう。馴れ合うつもりはないということか。その意思を尊重し、それ以上声はかけないでおく。

 清隆くんは空気を読まず発言した。そういうところだぞ、清隆くん。

 

「何が恥ずかしい話なんだ?」

「……自覚していないならなおさらね。救いようがないわ」

 

 そしてバッサリ切り捨てられた。心なしか清隆くんの肩が落ち込んだように下がっている。私はあの有名なリアルツンに内心で大興奮していた。カオスである。

 

 

 

 プールでは高円寺くんたちがちょうど並んでいた。さっきも見たが、見事なブーメランパンツだ。あんなにあのパンツが似合う男はいないだろう。そして私は高円寺くんの唯我独尊キャラ、何気に好きだったりする。3バカと同様、こっちも自ら関わろうとは思わないが。

 圧倒的差をつけてゴールした高円寺くんをお〜と見ていると、また新たに可憐な声がかけられる。

 

「高円寺くんも須藤くんも泳ぐの早いから、凄く楽しみだねっ」

 

 櫛田さんだ。清隆くんの元に続々とヒロインが集まっていく。あ、ヒロイン一人離脱した。

 櫛田さんが清隆くんの隣に座る。なんと、これが両手に花ってやつだろうか。惜しいところは私が櫛田さんに遠く及ばない花という点だが、そこは清隆くんに我慢してもらうしかない。というか花なんだろうか? ダメだ、Dクラスの顔面偏差値が高いせいでみるみる自信が失くなっていく。性別は女だから許して欲しい。

 

 櫛田さんが清隆くんと私、その間で繋がれた手を見て悪戯っ子のように笑う。

 

「相変わらず仲がいいね、二人って」

「まあ、幼馴染だから……?」

「それにしても、だよ」

 

 指摘されてすぐに手を軽く振って離した。いや本当自然とされるから自然と受け入れちゃうんだって。しかもどっちが先に繋いだのかもあやふやである。これじゃ清隆くんのことばっかり言えない。

 

「それにしても変わってるよね。4月から水泳の授業があるなんてさ」

 

 話が変わって、これ幸いとばかりに乗っかる。これ以上藪を突かれては堪ったものじゃない。

 

「本当だよね。なんか変な感じ」

「これだけ立派なプールがあればこそだな。そういや櫛田、結構速かったな。中学の時苦手だったなんて信じられないくらいだ」

「それ私も思ったよ。全然追いつけなかったな」

「そんなことないよ! 水元さんも遅くないし、綾小路くんだって普通に泳げてたじゃない」

「普通止まりだけどな。運動もそれほど好きじゃないし」

「右に同じく。どっちかというと体動かすの嫌いかもしれない」

 

 清隆くんと揃ってお互いどの口がという会話を繰り広げる。事情を知らない櫛田さんは笑って世間話として受け流すだけだ。

 世間話の延長で清隆くんの体の話に入る。

 

「そうなの? でも、なんかその、凄く男の子らしいよね。綾小路くんって。細身だけど、バスケットしてる須藤くんよりガッチリしてるって言うか」

 

 櫛田さんわかってる! さすが櫛田さん観察眼優れてる!

 清隆くんが褒められて私は鼻高だ。マジマジと体を見られている清隆くんはどこか緊張したように体を強張らせていた。

 

「生まれつき筋肉質なだけで、別に特別な理由はないぞ。事実帰宅部だし」

 

 そんな会話をしているうちに、今度は可憐じゃない声がかけられる、というより襲いかかってくる。

 

「何やってんだよ綾小路!」

 

 池が足音荒くこっちにやってくる。清隆くんを無理矢理引っ張って連れて行き、何かコソコソと耳打ちしている。大方櫛田さん関連で釘を刺しているのだろう。

 察しがついている私と察しがついているけど知らないフリをしている櫛田さんで困ったように笑い合う。

 

 なんか気づけば池が青い顔をしている。無言でコクコク頷いていた。櫛田さんの話からどうやってあんな状態になるんだろうか。疑問に思ったが、先生のホイッスルで集合を呼びかけられ、うやむやになった。そのうち疑問もどこかへと追いやられ、思い出すこともなくなった。

 

 

 

 

 

 放課後になり、清隆くんがこっちに来ようとして平田くんに捕まっている。待とうと思ったが、思い直して先に寮に帰ることにした。そういえばそろそろ櫛田さんが堀北さんとの取っ掛かりを得ようと、清隆くんにいろいろ頼もうとする時期じゃないだろうか。私は傍観者なので関わるつもりはないのである。

 あばよ、清隆くん……武運をな……! と内心良い笑顔でサムズアップしておいた。清隆くんがあっという顔をしてこっちに手を伸ばそうとするのを華麗に躱す。

 どのみち私には部活がある。一緒に帰ると言っても武道館の前までだ。だからそれぞれ別で帰るのは何もおかしなことではない。

 

 道中で最近同じクラス、同じ一年生、さらに同じ部活ということもあってぽつぽつ話すようになった三宅くんを見つけ、自然な流れで二人並んで武道館に向かう。

 

「三宅くん、水泳どうだった?」

「あー……別に普通だ。可もなく不可もなく、だな」

「それが一番だよ。カナヅチじゃないなら全部擦り傷みたいなもんだから」

 

 私の滑らないギャグにちょっと笑ってくれた。よしウケたな。私のギャグセンスも捨てたものじゃないということだ。ちょっと自信がつく。

 

「水元はどうだったんだ?」

「私はね、なんと〜……………7位でした!」

「変に溜めるな、ばか。普通だし」

 

 ツッコミが的確で話していて面白い。これはもう自他共に認める友達だろう。彼もそう認識してくれているはずだ。

 彼も後々綾小路グループのメンバーとして清隆くんのお友達になり、原作に深く関わるようになる人物なのだが、こうやって世間話をする程度に距離を縮めているのは別に支障はないだろう。私は傍観者ではあるけれど、同時に友達が欲しいのも本当なのだ。

 三宅くんは同じ部活だから親しみやすくて、ついつい話しかけに行ってしまう。学校ではそんな様子は見せないのだが、部活では割と話したりする。これくらいの距離感でいいのだ。

 

 

 今日も部活でさらっと汗を流し、気持ちよく帰路に着く。三宅くんはまだしばらく部活をしていくみたいだ。先に別れを告げ、武道館を後にした。

 寮に着き鍵を開けようとして空振りした。扉を開けて中に入り、鍵をかける。ひょこ、と玄関に顔を出した清隆くんに「ただいま」と声をかけた。

 

「おかえり、葵」

 

 腕を広げる清隆くんの胸に落ち着く。

 

「今日は何しようかな」

「オムライスっていうの作ってみたい」

「おーいいね! 卵一昨日買って帰ったから、まだ全然余裕あるもんね」

「グリーンピースとかいろいろ買ってきた」

「よし、何も問題ない。卵係とご飯係どっちがいい?」

「どっちでも……いや、卵かな」

「じゃあご飯は任せろ!」

 

 あまりに“普通”で“平凡”な会話。二人で一度顔を合わせ、じわじわとおかしくなって笑った。

 

 

 胸が温かい。幸せだなぁと思った。

 

 

 

 

 

 

 




主人公は綾小路と同じタイプの顔をしています(ヒント)
ほら主人公、綾小路と同じで目立った何かがないから…
あとほら、(ほぼ)四六時中ペアでいる人いるし…


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ヒールはだーれだ

 授業中にも関わらずガヤガヤ煩い生徒たちを一切相手にせず、滞りなく先生は講義をしていく。この光景もここ数週間……もう3週間か。すっかり見慣れてしまった。今じゃ真面目にしている方が少数派だ。

 かく言う私もその少数派には入っている。後で責められる理由を作らないことに越したことはない。

 授業中平気で会話するキャピキャピ女子グループに、堂々と遅刻してくる須藤くん、に話しかける池山内。問題はこれだけではない。

 私語は当然として、居眠り、スマホ弄りなど、まあそれはひどいものだ。知っていたが実際目にすると普通に引く。高円寺くんが真面目に授業受けているのがバカみたいだろ!

 

 3時間目。茶柱先生が小テストを行うことを宣言し、ついにこの時が来たかと内心で覚悟を決めた。

 小テストの内容は遥かに簡単で、そして最後の3問はとんでもなくえげつない。もちろんスルーし、簡単な問題だけ解答欄を埋めた。

 あとは座して待つのみ。後にこの教室を包むであろう阿鼻叫喚も同じく、だ。

 

 

 

 朝から清隆くんと二人で作ったお弁当を食べ終え、私たちは何か飲み物が欲しくなり自販機に来ていた。其処にいたのは3バカである。

 並んでやってきた私たちを見て、なんというか、複雑な顔をした。代表して池が声をかけてくる。

 

「なあ、綾小路……お前、水元さんとは本当に付き合ってないんだよな?」

「なんだ急に。前にも言っただろ、付き合ってないぞ」

「そうだよ。付き合ってないよ」

「じゃあなんで手繋いでんの!?」

 

 あ。指摘されて手を軽く振って離した。

 

「ほら、手繋いでないでしょ」

「離すのが遅いわ!! 疑惑深めてる理由わかってんの!?」

 

 池のテンションがおかしくなってる。目を剥き出しにして掴みかかる勢いで清隆くんに迫っているのが面白くて、つい声をあげて笑った。

 ハッとした顔をし私を見れば、その顔にパッと赤が散る。そしてすぐに青くなった。清隆くんに向かって全力で首を振っている。

 

「違う違う違うからなッ! 何も思ってない! 何も!」

 

 清隆くんが挙動不審な池を見やってため息をついた。

 

「別に、何かしようとか思っていない。それより自販機に用事があるんだ。通してくれ」

「お、おう! 水元さんもごめんね!」

「全然。気にしなくていいよ」

 

 女子耐性のない池くんは女子を前にしたらすぐに顔を赤くするから、私を前にしてもよく赤くなっている。そして隣の清隆くんを見て顔を青くするまでがセットだ。何か脅されでもしているんだろうか。脅すことある?

 

 道を避けてくれた池の横を通り、自販機の前に立つ。順に見ていって、『弾ける炭酸ゼリー飲料! 上下に振って飲めるようになる不思議な飲み物』というのを見つけた。清隆くんにこれでいい? と確認し、首肯が返ってきたのでさっそく買う。

 ブンブン上下に振り回しながら頃合いを見てプルタブを持ち上げる。小気味のいい音がして蓋が開いた。

 ぷるぷるしたゼリーの食感……確かに炭酸が効いていてシュワッとする。味はブドウ味だ。なるほど、悪くないな。

 半分ほど飲んでから、清隆くんに缶を手渡した。受け取って清隆くんも口をつける。口に含んで一発目にくる炭酸に一瞬肩をビクつかせたが、その後は落ち着いたのか美味しそうにコクコク飲んでいた。

 

「悪くないな」

「ねー」

 

 3バカがすんごい目をして私たちを見てきていた。なんだなんだ、何かおかしなところでもあっただろうか。

 山内がどこか疲れたようにため息を吐いて、ボソボソ言った。

 

「俺、綾小路と水元さんに関してはもう何も言わねーわ……」

「それが正解だな……」

 

 池と山内がお互いの肩を慰め合うようにポンポンと叩いている。須藤も同情的な目線だ。

 私と清隆くんは揃って目を合わせ、不思議そうに首を傾げ合った。

 

 

 

 今日は部活がないため、まっすぐ帰路に着いた。清隆くんは池と山内に誘われて、放課後遊びに行くようだ。

 私も誘われたが、丁重に断って「やっぱりオレも行くのやめる」と手のひらクルーして言い出しかねない清隆くんの背を押しておいた。大方場の賑やかし要員として呼ばれたんだろう。清隆くんが賑やかせるかどうかは謎だが、友達付き合いは大事だ。私に合わせて帰る必要はない。

 

 一人部屋で落ち着いて、若草色のラグマットの上に座る。白いミニテーブルの上には作ったばかりのミルクティーがマグカップに入れて置いてあった。

 甘い飲み物を口に含み、ほうと息をつく。視線を流し、小さな窓枠から見えるまだ明るい空に目を細めた。

 鳥が飛んでいる。窓枠から見える範囲でしか存在を確認できないため、鳥はすぐに見えなくなってしまった。

 何もない空は綺麗で、少し、寂しいなと思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 5月最初の学校開始を告げる始業チャイムが鳴った。程なくして、手にポスターの筒を持った茶柱先生がやって来る。その顔はいつもより険しい。

 ついに来た、と内心でぼやいた。

 

「せんせー、ひょっとして生理でも止まりましたー?」

「これより朝のホームルームを始める。が、その前に何か質問はあるか? 気になることがあるなら今聞いておいた方がいいぞ?」

 

 池のセクハラ発言をさらっと無視して茶柱先生が話を進める。

 みんな戸惑いながらも、今月のポイントが振り込まれていない点についてザワザワと声を上げ始めた。今朝清隆くんと話したばかりだし、そもそも最初から事情を知っているので驚きはない。

 

 騒めく生徒たちを無言のうちに見渡し、茶柱先生がゆっくり口を開く。

 

「……お前らは本当に愚かな生徒たちだな」

 

 その後はトントン拍子で事態は進んだ。茶柱先生の嘲り混じりの説明、生徒たちの阿鼻叫喚、残された暗く重い沈黙。

 ポイントの説明を終えれば、今度は黒板に一枚の紙が張り出される。並ぶ数字がこの間したばかりの小テストの点数だとすぐにわかる者は何人いるのか。

 えーっと、私の点数と順位は……おっ60点ジャスト。順位はちょうど真ん中あたりに位置している。予想を外していなかったのでちょっと嬉しい。

 清隆くんは50点で私よりちょっと下にいた。今回も点数で遊んでいるみたいだ。

 

 茶柱先生と平田くんの応答、高円寺くんの演説を終えて、再び教室が重い沈黙に包まれる。その沈黙を破り、最後にまた茶柱先生が冷酷に言い放った。

 

「浮かれていた気分は払拭されたようだな。お前らの置かれた状況の過酷さを理解できたのなら、この長ったるいHRにも意味はあったかもな」

 

 話は続く。

 

「中間テストまでは後3週間、まぁじっくりと熟考し、退学を回避してくれ。お前らが赤点を取らずに乗り切れる方法はあると確信している。出来ることなら、実力者に相応しい振る舞いをもって挑んでくれ」

 

 ちょっと強めに扉を閉めると、茶柱先生は今度こそ教室を後にした。

 がっくりと項垂れる赤点組たち。チラと後ろを見れば、相変わらずの無気力な顔をした清隆くんがいる。その横で顔を青くして表情を強張らせている堀北さん。

 

 なるほど。前途多難だ。他人事のようにそう思った。

 

 

 

 平田くんが代表して話を進め、紆余曲折ありながらも一旦の落ち着きを見せたクラスメイトたち。

 時間は有限だ。今は朝のHRであり、もう少しすれば1限目が始まる。落ち着かざるを得なかったのもあるだろう。

 平田くんがひとりひとりの席を回っていて、私の席にもやってくる。

 

「放課後、ポイントを増やすためにどうしていくべきか話し合いたいんだ。水元さんも参加してくれるかな」

 

 ひひひ平田くんが私の名前を呼んでくれてる……! いややっぱりどうしてもテンション上がっちゃうな。平田くん好きだから仕方ない。

 テンションは上がったけれど、だからといって返事は難しいところだ。参加してもいいけど、でも清隆くんたち参加してなくなかっただろうか? それなら私も合わせて参加しない方がいいのかな、とか頭を悩ませる。

 う〜んと渋る様子を見せた私に、へなりと平田くんの形の良い眉が下がった。

 

「だめ、かな……?」

「全然行けます」

 

 ハッッ! 口が罪悪感とかときめきとかいろいろもろもろで勝手に!

 口を押さえる私の前で平田くんがパッと笑顔になった。

 

「ありがとう、水元さん! そんなに時間はかけないから、安心してほしい」

「はわ……はい……」

 

 返事じゃなくて意味不明言語が先に出ていることに私の機能停止っぷりを見てほしい。なんか目がハートマークになっている気がする。

 後頭部にはグサグサと視線が刺さっていた。平田くんが離れて行ってから、後ろを振り向いてその視線の主を確認する。

 清隆くんが半目になって私を見ていた。その瞳の奥、ぐらりと呑み込まれそうな闇が揺れて、目が合って離散する。……見間違い、だろうか……?

 すぐに目を逸らして前を向くのもあれなので、軽く手を振って笑っておいた。清隆くんがふっと口角を緩めて、同じように軽く手を挙げて振り返してくれる。

 いや〜やっぱり私は清隆くん派だな!

 

 

 

 

 時は経ち、放課後。平田くんは教壇に立ち、黒板を使って対策会議の準備を進めている。

 教室はほぼ満席だ。数名の男女を除きそのほとんどが参加して席を埋めている。改めて平田くんの凄さを窺える結果だ。

 

 ぼけーっとした顔で会議の準備が進められていくのを見守る。教室の後方では清隆くんが山内に絡まれ、その後櫛田さんと会話しているのが聞こえてきた。

 

「大変そうだね、ポイントを使い切っちゃった人たち」

「櫛田の方こそ、ポイントは大丈夫なのか? 女の子は色々必要なものがあるだろ」

「うーん、まぁ、今のところは、かな。半分くらいは使っちゃった。この一ヶ月自由に使い過ぎて来たから、ちょっと我慢するのは大変だけどね。綾小路くんは大丈夫?」

「交友関係が広いだけに、全く金を使わないって生活も難しいよな。……オレもいろいろ料理したり、部屋のインテリアを買ったりしていたから、そんなに多く残っているわけじゃないんだ。櫛田と同じか、それより少し多いくらいか?」

「へ〜! すごいね、男の子なのに料理って! インテリアとかも良いね、残る物だから」

「ああ。葵と一緒に料理したり、インテリアを買ったりしていたらいつのまにか部屋に物が増えていたな」

「へ〜……すごいね……」

 

 明らかに櫛田さんの声のトーンが変わった。引いてるよ。なんで?

 

 なおお互いの部屋に行き来しまくっているので、私たちはお互いが過ごしやすいように部屋をデザインしていたりする。私の部屋には若草色のラグマット、清隆くんの部屋には深青色のラグマットだったりと、色違いで揃えている物も多い。

 私たちの部屋に両方行くような生徒しか気づかない仕掛けだ。仕掛けも何も仕掛けたつもりは微塵もないが。

 でもインテリアを買うのも控えないとな……無駄遣いしたつもりはないが、入ったばかりの寮は必要最低限の物しか置いていなく簡素で、ついつい物を買ってしまった。しばらくポイントの支給はないし、あっても微々たるものだから使わないに越したことはない。

 

 今後のぼんやりした予定を考えていると、私の前に軽井沢さんがやってきた。へらっとした顔で軽く両手を合わせてポイントの譲渡を頼んでくるので、私も軽い態度で了承の返事をしてさっそく教えられた番号に振り込んであげる。可愛い子の頼み事は断れない。

 軽井沢さんが感謝もそこそこに次に譲渡を頼む相手の席へと向かった。それを見送ったところで、穏やかな効果音が校内放送で流れる。

 

『一年Dクラスの綾小路くん、水元さん。担任の茶柱先生がお呼びです。職員室まで来てください』

 

 お? ……そうか、やっぱりか。

 覚悟はしていたが、本当に私の名前も呼ばれるとちょっとドキッとしてしまう。校内放送は良くない。これで全校生徒に私の名前が広まってしまった。自意識過剰でも辛いものがある。

 

 清隆くんが私のところにやってきて、手を取った。

 

「呼び出しだ。行こう、葵」

「いややっぱりなんで私も呼ばれ……はい」

 

 渋々立ち上がって手を引かれるまま歩く。背中にクラスの重いような、生温かいような視線を感じながら、教室を抜ける。

 背後で「アイツら、フジュンイセーコーユー? していたから呼び出されたんじゃね?」という失礼な言葉が聞こえた。山内、アウトー! 退学!

 

 笑えない冗談を内心で繰り広げる。並んで歩きながら、清隆くんが首を傾げて私を見た。

 

「葵、呼び出された理由ってわかるか?」

「え〜……私たち、もしかしてお互いの部屋を行き来しすぎて呼ばれた……?」

「そんなの普通だろ。何も悪いことはしていないぞ」

「そりゃ悪いことはしてないけど……」

 

 なんか本当にそれで呼ばれた気がしてきた。時間は守っていたし、お泊まりダメとかマニュアルに書いてなかったよね……?

 二人で頭を悩ませている間に職員室に到着する。扉を開けて中に茶柱先生がいないのを確認すると、手っ取り早く清隆くんが扉から一番近い位置にいた先生に声をかけた。

 

「あの、茶柱先生居ます?」

「え? サエちゃん? えーっとね、さっきまでいたんだけど」

 

 星之宮先生だ! おお! 胸でかい。可愛い。お酒好きそう(?)

 一言二言交わし、私たちは廊下で茶柱先生を待つことになった。壁際に立ち大人しくしていると、ひょっこりと星之宮先生が廊下に出てくる。そして人懐っこく話しかけてくる。

 

「私はBクラス担任の星之宮知恵って言うの。佐枝とは、高校の時からの親友でね。サエちゃんチエちゃんって呼び合う仲なのよ〜」

 

 お〜! ぜひ茶柱先生がチエちゃんって呼んでるの聞いてみたいな。たぶん笑う。

 

「ねぇ、サエちゃんにはどういう理由で呼び出されたの? ねえねえ、どうして?」

「さあ。それはオレにもさっぱり……」

 

 私たちを観察するように上から下までジロジロと見ようとして、ある箇所に視線を定め、その顔がニヨ〜と笑みの形に歪んだ。

 

「手なんか繋いじゃって、二人はもしかしてカレカノなのかな?」

 

 おっと。慣れたように軽く手を振って繋いでいた手を離した。

 

「何言ってるんですか?」

「え……? 君が何言ってるの……? それで誤魔化してるつもりだったら私心配だよ……?」

 

 ガチトーンで心配された。ちょっと傷つく。

 星之宮先生が調子を取り戻すようにコホンと一度咳をし、改めて絡んできた。

 

「そ、れ、で! 君たちの名前は?」

「綾小路、ですけど」

「水元です」

「そっかそっか。綾小路くんに、水元さんね。二人とも初々しいカップルね〜可愛い〜」

「カップルじゃありません」

 

 即座に否定するが、信じてくれたかどうか怪しい。というか、十中八九信じていない。そういう目だ。面白がっているから余計にタチが悪い。

 

「え〜? じゃあ手を繋いでいたのはどうして? ねえねえ、どうして?」

 

 全く嫌な先生に当たったものだ。可愛いのにしつこいとは、プラマイゼロだぞ! もっと別のことで絡んできなさい!

 ため息を吐きつつ、こういう時に決まって言うセリフを今日も今日とて口にする。

 

「私たち、幼馴染なんです。これくらいの距離感でいたから、つい癖でやっちゃうんですよ」

「ほんとかな〜?」

「本当です」

 

 顔を覗き込まれる。ニヨニヨと楽しそうに笑っているところ悪いが、背後にクリップボードを掲げた鬼がいるぞ。

 タイミング良く凶器は振り落とされ、スパンッと響きの良い音が鳴り目の前で星之宮先生の頭がしばかれた。星之宮先生がその場で蹲る。

 

「何やってるんだ、星之宮」

「チエちゃんって呼ばないんですか?」

「コイツらに何を言った、星之宮」

 

 額に青筋が浮かんでいる。星之宮先生が涙目になりながら声を上げた。

 

「いったぁ。何するの!」

「うちの生徒に絡むな。あと変なことを言うな」

「サエちゃんに会いに来たって言ったから、不在の間相手してただけじゃない」

「放っておけばいいだろ。待たせたな、綾小路、水元。ここじゃ何だ、生活指導室まで来て貰おうか」

「いえ、別に大丈夫ですけど。それより指導室って……オレたち何かしました? これでも一応目立たないよう学校生活を送ってきたつもりなんですけど」

「ほぉ……お前たちの噂は職員室にまで届いているぞ? あれで目立っていなかったつもりか?」

「え、やっぱり私たちそれで呼び出されたんですか!?」

「……今はその話はいい。とにかく、ついてこい」

 

 茶柱先生が先を行く。仕方ないのでついて行こうとして、星之宮先生がニコニコしながら後をついてきていた。それに気づいて、茶柱先生が鬼の形相で振り返る。

 

「お前はついてくるな」

「冷たいこと言わないでよ〜。聞いても減るものじゃないでしょ?」

 

 私たちを挟んで喧嘩するのやめてほしい。

 星之宮先生は背後に立っているから、浮かべている表情は見えない。それでもビリビリとした空気が伝わってきて、一触即発なことはわかった。

 聞こえた単語にため息を吐きたくなる。下克上、か。

 しつこく食い下がってついてこようとする星之宮先生だったが、それも一人の女子生徒が現れたことで流れが変わる。そして私の心臓も跳ね上がった。動悸が怒涛の勢いでドキドキし始める。

 

「星之宮先生。少しお時間よろしいでしょうか? 生徒会の件でお話があります」

 

 ……かッ……可愛い……。

 

 茫然と女子生徒を見つめる私の前で手をかざし、軽く振って見せて、反応がないことを確認してから清隆くんが私の手を取る。

 

「行きましょう、茶柱先生」

「お、おう……大丈夫か、水元は?」

「大丈夫だと思います」

「ならいいんだが……おい、お前にも客だ。さっさと行け」

 

 茶柱先生が星之宮先生のお尻を雑にクリップボードで叩いた。頰を膨らませ、けれど客がいるのは本当なので大人しく引き下がった。

 

「も〜! これ以上からかってると怒られそうだから、またね、綾小路くん、水元さんっ。じゃあ職員室にでも行きましょうか、一之瀬さん」

 

 びゅーてぃふぉー……一之瀬さん……。

 

 良いものを見れた、と輝くような満面の笑みになる。清隆くんが私をジッと見て、手を引いて歩いた。

 茶柱先生の後に続き、程なくして指導室に着く。中に入って椅子に座らせてくれるわけでもなく、すぐに給湯室に清隆くんと揃って押し込められる。

 

「お茶でも沸かせばいいですかね。ほうじ茶でいいすか?」

「ばっか、日本人は黙って緑茶だよ! 茶柱も立つし! ですよね先生」

「今すぐ黙れ。余計なことはしなくていい。黙ってここに入ってろ。いいか、私が出てきて良いと言うまでここで物音を立てずに静かにしてるんだ。破ったら退学にする」

「え、めっちゃ理不尽……」

「聖職者としての態度かアレ?」

「黙れ。それ以上口を開くな」

 

 思い切り給湯室のドアが閉められる。明かりもついていない部屋の中で清隆くんと目を合わせた。

 

「嫌な予感がするな」

「私は校内放送の時点で帰りたかったよ」

 

 腕を広げられてため息を吐きながら中に入る。今後のことを思うと頭が痛い。ため息をつかないとやってられない。

 慣れた体温の中で人心地つきつつ、グルグル頭を悩ませていると、程なくして指導室のドアが開く音がした。

 その人物は決まっている。

 

「まあ入ってくれ。それで、私に話とは何だ? 堀北」

 

 まあ堀北さんに決まってますよね…。

 知っている会話が扉の向こう側で繰り広げられる。舌戦にもならない、この場合どこまでも正当で正義なのは茶柱先生の方だ。堀北さんの圧倒的不利は変わらない。それでも噛み付くのは堀北さんのすごいところだ。

 茶柱先生が堀北さんとの応答の中で、意味深なセリフを言う。

 

「Dクラスにもいると思うがな。低いレベルのクラスに割り当てられて喜んでいる変わり者の生徒たちが」

 

 完ッ全に私たちのこと言ってんだよな。

 

 応答は終盤を迎え、堀北さんが怒りもそこそこに指導室を出て行こうとする。そうだそうだ、そのまま出て行ってしまえ。それで三人で今度こそちゃんと話しましょう、茶柱先生。茶柱先生?

 

「出て来い綾小路、水元」

 

 神はいなかった。

 

「………だって、清隆くん。呼ばれてるよ?」

「奇遇だな。葵も呼ばれてるぞ」

「出てこないと退学にするぞ」

「「はい」」

 

 すごすごと給湯室の扉を開ける。堀北さんが私たちの姿を目に留めて、当然驚き戸惑っていた。

 

「私の話を……聞いていたの?」

「清隆くん、話聞こえてた?」

「聞こえなかったよな。壁厚いし」

「だよね〜」

「そんなことはない。給湯室はこの部屋の声が良く通るぞ」

 

 逃がしてくれる気は毛頭ないらしい。堀北さんの顔が歪んでいく。

 

「……先生、何故このようなことを?」

「必要なことと判断したからだ。さて綾小路、水元。お前たちを指導室に呼んだワケを話そう」

 

 自分の疑問が流され、堀北さんが首を軽く振って部屋を出て行こうとする。すかさず茶柱先生が声をかけた。

 

「待て堀北。最後まで聞いておいた方がお前のためにもなる。それがAクラスに上がるためのヒントになるかもしれないぞ」

 

 当然堀北さんは出て行くのをやめ、もう一度椅子に座り直した。

 私からしたらすべて茶番でしかない。

 

「手短にお願いします」

 

 茶柱先生がニヤニヤと笑っている。クリップボードと、清隆くんと、私。意味深にゆっくりと交互に視線を移す。

 

「お前たちは面白い生徒だな、綾小路、水元」

「清隆くんは面白いとしても、私はそんなことありません。誤解しないでください」

「待て葵、オレを売る奴があるか。先生オレは面白くありません、面白いのは先生の茶柱という苗字の方です」

「全国の茶柱さんに土下座してみるか? んん?」

 

 面白いのなすりつけ合いである。なんて醜い争いなんだ。

 自分から始めたことは棚にあげ、なんとか活路を見出そうとする。茶柱先生は容赦なくその路を塞いだ。

 

「入試の結果を元に、個別の指導方法を思案していたんだが、綾小路のテスト結果を見て興味深いことに気がついたんだ」

「やっぱり私関係なくないですか?」

「水元は少し待て」

 

 さらっと流される。ダメだ、逃がしてくれる気配がない。だって私は本当に目立ったところがない生徒だぞ。

 茶柱先生が見覚えのある入試問題の解答用紙をゆっくりと並べていく。

 

「国語50点、数学50点、英語50点、社会50点、理科50点……おまけに今回の小テストの結果も50点。これが意味するものが分かるか?」

「偶然って怖いっスね」

 

 その言い訳は無理がある。やっぱり私関係なくないですか? 私は真面目にちゃんとバラけた平均点取ったはずだよ? 清隆くんみたいに遊んでないよ?

 堀北さんが食い入るようにテスト用紙を見て、清隆くんに視線を向ける。茶柱先生はおかしそうに目を細めた。

 

「ほう? あくまでも偶然全ての結果が50点になったと? 意図的にやっただろ」

「私帰っていいですか?」

「オレを置いて帰るな。……偶然です。証拠はありません。そもそも試験の点数を操作してオレにどんな得があると? 高得点を取れる頭があるなら、全科目満点狙ってますよ」

 

 ぐっと手を掴まれて逃げられなくされる。敵は二人いた。

 茶柱先生が呆れたようにため息をついた。どの点に関してため息をついたのかわからない。

 

「水元。お前はあくまで自分は特別なことをしていない、と言うんだな」

「当たり前ですよ。私ほど平凡な人間はいません。神に誓えます」

「なら、今からお前の解答用紙も並べよう」

 

 今度は私の解答用紙が並べられていく。……よく見たけれど、何もおかしなところはない。点数だってうまくバラけている。清隆くんみたいにわかりやすく変な点数を取っていない。

 

「ここで入試問題の平均点を挙げよう。国語60点、数学54点、英語58点、社会68点、理科61点。そして、今回の小テストの平均点は60点。……意味がわかるか?」

「……マジで?」

「…………まさか、狙ったわけじゃないのか?」

 

 冤罪だ。これは立派な冤罪だ! 勝訴! 勝訴!

 

「こんなバラバラで狙って取れるわけないでしょ! 私は予知者か何かですか?」

 

 ひどい言いがかりだ。私は真面目に平均点を狙っただけだ。そんなジャストで当てる気なんてさらさらなかった。これこそただの偶然という言い訳が使える事象である。

 

 茶柱先生が顎に手を当て、しばらくした後に「……ふむ」と一度頷いた。あ、流したな。と直感した。

 

「お前は実に憎たらしい生徒のようだな。いいか? この数学の問5、この問題の正答率は学年で3%だった。が、お前は前の複雑な証明式も含め完璧に解いている」

「見て! 見てください! 解けてない! 私それ解けてないですよ!」

「一方、こっちの問10は正答率76%。それを間違うか? 普通」

「間違えてない! 私間違えてないです! ちゃんと正解してますほらぁ!」

「世間の普通なんて知りませんよ。偶然です、偶然」

「なんでみんなそんな話聞いてくれないの?」

 

 唯一は堀北さんが同情的な視線を寄越してくれることだけか。救いはここにしかない。

 堀北さんが清隆くんの解答用紙を見下ろす。

 

「あなたは……どうしてこんなわけのわからないことをしたの?」

「ほんとそれ」

「葵はオレの味方をしろ。いや、だから偶然だっての。隠れた天才とか、そんな設定はないぞ」

 

 茶柱先生がニヤニヤ笑っている。

 

「どうだかなぁ。ひょっとしたらお前よりも頭脳明晰かも知れないぞ堀北」

 

 こっちに関しては私のことはフル無視することにしたらしいな。自分のミスを認めないとか幼稚園児ですか? 幼稚園児でも認めるよ。茶柱先生は赤ちゃんかな?

 

「勉強好きじゃないですし、頑張るつもりもないですし。だからこんな点なんですよ」

「この学校を選んだ生徒が言うことじゃないな。もっとも、お前たちの場合、高円寺のように、DでもAでも良いと思えるような、他の生徒とは異なる理由があるのかもしれないが」

 

 ここで急に私も含められてビクッとしてしまった。清隆くんも繋いだ手に一瞬力を込める。

 あくまでも自然に真っ直ぐ茶柱先生を見据え、清隆くんが問いかける。

 

「何ですか。その異なる理由って」

「詳しく聞きたいか?」

 

 誘導されている。……わかっていたことだが、実際耳にすると驚いてしまうものだな。

 彼女は詳しいことは知らないとはいえ、今、パンドラの箱を覗いている。その箱は決して開けてはならないものだ。

 

 清隆くんがふうと息をついた。やれやれ、なんて風に体裁を取り繕う。

 

「やめておきます。聞くと突然発狂して、部屋の備品という備品を破壊しそうだ」

「その時は私も手伝うよ、清隆くん」

「ありがとな葵」

「そうなればお前たちはEクラスへ降格だな」

 

 マジで手伝わせてくれ。なんなら今から暴れる? それで今の会話の流れぐだぐだにしちゃう?

 

 

「Eクラスってのは、イコールExpelled。退学ってことだ」

 

 

 降ってくる容赦のない言葉に、今ほどニヤニヤ笑いが憎らしいと思うことはないんだろう。

 

「私はもう行く。そろそろ職員会議の始まる時間だ。ここは閉めるから三人とも出ろ」

 

 言いたいことだけ言われ無遠慮に暴かれて、私たちは満身創痍だ。背中を押され廊下に放り出されて傷心にもなる。

 

 とりあえず、話が終わったことに変わりはない。ゴリゴリに精神を削られたが、イベントは過ぎ去った。帰ってすぐ精神療養に努めよう。

 

「帰ろう、清隆くん……」

「お、おう……おつかれ……」

「待って」

 

 並んで帰ろうとする私たちの背中に堀北さんの声がかかる。チラと振り返り、私には関係ないことだと先に帰ろうとして、繋がれたままの手が離されないことに気づく。どうやら敵はまだ潜伏していたらしい。

 

「さっきの点数……本当に偶然なの?」

「私は偶然だよ。マジで」

「オレもだわ。それに意図的だって根拠もない」

「清隆くんは黙っててくれる? 私の偶然だって主張の信憑性薄れるでしょ」

「ひどい言われようだ……」

「……根拠はないけれど……綾小路くん、少しわからないところがあるし。事なかれ主義って言ってるから、Aクラスにも興味なさそうだし」

 

 私を置いて話は進むわ進むわ。私の出る幕などないし、出るつもりももとよりない。

 とりあえず、私が取った奇跡の平均点ジャスト解答用紙は、ちゃんと偶然だって信じてもらえたと見ていいか。実際本当に偶然だし、本当勘弁してほしい。

 ポケーッとしながら二人の会話が終わるのを待つ。先に帰りたいが、手を掴まれている以上そうは問屋が卸さない。いつものように軽く振って離せる程度の力だったらよかったのに、どれだけ私と離れたくないんだよ。赤ちゃんかな?

 

 堀北さんが清隆くんに協力をお願いしている。清隆くんは嫌そうだ。

 でも私は知っている。彼は堀北さんに協力するし、強力な駒に仕立て上げる。……はっ、今すごい綺麗なダジャレ言えてたんじゃね?

 

 私がダジャレの出来に人知れず感動している間に会話は終盤を迎えたようだった。

 

「悪いが、やっぱり協力はできない。オレ向きじゃないよ」

「じゃあ、考えがまとまったら連絡するから。その時はよろしく」

 

 見事にスルーされている。哀れ清隆くん。

 プププと笑っていると、堀北さんがこっちに顔を向けた。

 

「水元さんもよろしく」

「ゑっ?」

 

 急に矛先を向けられた私は一言も何か反論する間がなかった。

 

 ……二人で堀北さんが颯爽と去って行く背中を見つめる。ついに背中も見えなくなり、廊下に私たち以外の存在がいなくなったとき。

 

「……葵」

「……なぁに、清隆くん」

 

 

「どう思う」

 

 

 動きを止める。彼の背後に広がる空は落陽に差し掛かり、青と赤と宵、三つの境界線を曖昧にしている。

 

 果たして今、彼から見た私の瞳は何色を宿しているのだろうか。

 

 

「まだ確信には至っていない。なら、手出しはできないよ。違う?」

「……ああ。そうだな」

「そんなことより、帰ろう。清隆くん」

 

 

 踵を返す。繋いだ手はお互いに離さない。

 

 

 記憶を上書きするほどの鮮烈な衝動が本来のものであるなら、ならば今目の前の彼は。

 

 

 

 

 ………なるほど、確かに。これはとんだヒールの役割だと、苦い顔をした。

 

 

 

 

 

 

 



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一欠片の願い

IQ3になって読んでください回



 

 

 

 5月初日から、早くも1週間が経とうとしていた。

 

 茶柱先生から嘲笑混じりに真実を明かされて以降、表向きは黙って授業を受ける生徒が大半となっていた。まあ須藤は別だが。

 私みたいに最初から真面目に授業を受けている生徒ほど損を被っていることになるが、だからといってどうすることもできない。できるのはこれからクラスポイントがプラスに転じることを祈りながら、真面目に生活することだけだ。

 

「たうわ!?」

 

 あ、清隆くんが堀北さんにコンパスの針で刺されてる。ずっと思ってたけど、可愛い悲鳴だよね。女子力が高いあざとい悲鳴だと思う。あれが計算じゃないんだから恐ろしい。

 茶柱先生が軽く注意を飛ばし、清隆くんは素直に謝罪していた。一連の流れを耳にしながら私の意識は授業に戻る。

 きっと今頃清隆くんにはクラスポイントに敏感になっているクラスメイトたちからの冷たい視線が刺さっていることだろう。せめて私だけでも無視してあげよう。

 

 

 

 昼食の時間だ。前の授業で机に広げていたノート類を片付けて、お弁当を入れている小袋を取り出す。いつものように清隆くんと連れ立って最近見つけたベストプレイスに向かおうとして、振り向いた。それより先に平田くんが口を開いた。

 内容を聞くに、どうやらDクラスのヒーローは慈善事業も始めるようだ。赤点組の救済を考えてのことだろう。ふむ、原作通りの流れだな。

 殊更須藤に対し優しく語りかけ、あくまで善意として手を差し伸べようとする平田くんはマジ平田くんだったとだけ言い残しておこう。

 

 実は私平田くんが主催する勉強会、一回参加してみたいんだよね……きっと優しい教え方なんだろうな……ときめくんだろうな……。

 ふら〜っと光に集う蛾のように平田くんの席に向かおうとして、それより先に手を捕まえられた。清隆くんが呆れた顔をしてそばに立っている。私を掴んでいる手とは反対に、もう片方の手には私たちのお弁当箱二つがあった。

 

「昼ご飯食べに行くぞ、葵」

「平田くんの勉強会の予約だけしてきていい?」

「オレがつきっきりで教えてやる」

「私より下の点数の人に教えられたくないよ!」

 

 茶番を繰り広げつつ、繋いでいた手を引っ張られて平田くんの席から離されていく。仕方ない、予約するのはまた今度にしよう。時間はまだまだたっぷりあるのだ。私は諦めない。

 

 廊下を出てしばらく歩いてからだ。後ろから声をかけられ、同時に振り向く。

 

「少し話を聞いてもらえないかしら」

「げ、堀北……」

 

 清隆くんが嫌そうな顔をした。さっきコンパスの針で刺されたことを思い出しているんだろう。

 提案の口調をしながら、堀北さんに譲歩する気配は微塵も感じない。凛とした表情をしている堀北さんを見て、無気力ボーイの清隆くんに視線を移して、やれやれと肩を下げた。

 

「ほら、堀北さんが呼んでるよ。私は二つ分のお弁当食べて待っておくから」

「さらっとオレのも食べる発言をするな。嫌だ、オレは行かないぞ。堀北の話を聞くつもりはない」

「協力するって言ったわよね?」

「あいにくだが、そんなこと一言も言った覚えはないな」

「いいえ、私には心の声が聞こえたもの。協力するって言ってた」

「それまだ言ってるのか…」

「言うわよ。この耳で聞いたんだもの」

 

 廊下で三人立ち止まって話をしているものだから、だんだんと周囲から視線が寄せられてくる。徐々に居心地が悪くなってきた。

 清隆くんが頭に手をやり、ぽりぽりと掻いてから、一度大きくため息を吐いた。

 

「……わかった。話を聞こう。先に言っておくが、聞くだけだからな」

「ええ。それじゃあ行きましょうか」

 

 私たちの前に出て、堀北さんが先導する形で進む。私と清隆くんは一度顔を合わせ、お互いに息を吐いた。

 

「それじゃあ頑張ってね」

「葵も行くんだよ」

 

 

 

 結局逃してもらえず、先を歩いていた堀北さんを抜かし私たちが私たちのベストプレイスまで案内して、そこで話を聞くことになった。

 とは言っても、私ができることは本当にない。これは謙遜ではなく事実だ。今清隆くんと堀北さんが話している横でマイペースにお弁当を食べているところからもわかるだろう。

 一応話は耳に入れているが、案の定というかなんというか、赤点組かつ平田くんに与しない組、通称3バカの救済についての話だった。

 清隆くんは渋りに渋っている。話を聞いているうちに協力してもいい気になってきたが、でもなんかやっぱりちょっと……っていう渋りに見える。今回はスペシャル定食の奢りもないから立場が弱くないというのもあるのかもしれない。

 渋る清隆くんに堀北さんが畳み掛ける。

 

「櫛田さんと結託して、嘘で私を呼び出したこと、許したつもりはないのだけれど?」

 

 お、清隆くんは原作通り櫛田さんと堀北さんの友情のキューピット作戦に出ていたのか。この様子だと原作通り失敗したようである。でしょうねとだけ言い残しておく。

 清隆くんがさらに嫌そうな顔をして数度応答していたが、最終的には協力することを受け入れたようだった。

 堀北さんがさっそく携帯番号とアドレスを教えている。清隆くんに教え終わると次に私の方にも顔を向けた。

 

「水元さんも。自分は関係ないって顔してるけど、手伝ってもらうわよ」

「私本当清隆くん以上に役立たずなんだけど……」

「あなたは将棋の歩よ。余計なことはしなくていいし考えなくていいの。また必要になったら連絡するから」

「さいですか……」

 

 言い返す気力もない。どう足掻いてもなんやかんやとやり込められることがわかっているからだろうか。それとも、そもそも私が美少女に弱いというのもあるのか。

 最近思うのだが、顔面偏差値が高いこの学校、誰かに何か頼まれごとをされたらホイホイ引き受けそうな気がしている。

 

 すごすごと連絡先を交換して、堀北さんは用件を終えたとばかりに颯爽と去って行った。そして清隆くんは堀北さんが去り、ようやく落ち着いたとばかりにお弁当を食べ始めた。

 

「葵、今日の卵焼きうまくできてないか? 今朝は一つも焦がさなかったんだ」

「それ思った。すごい綺麗だし、味付けも甘口で美味しかったよ」

 

 私の感想を聞いて嬉しそうに目尻が垂れた。直前まで堀北さんとほとんどやり込められていたけど、舌戦を繰り広げていたとは思えない能天気な顔だ。その横でお弁当を食べていた私が言えたことじゃないかもしれないが……。

 明日は私がお弁当を作る番だ。清隆くんだったり私だったり、二人で作ったりとゆる〜くやっている。こんな感じでこれからもゆる〜く学校生活を送りたいものである。……無理だろうなぁ……。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「勉強会は明日から?」

「ああ。櫛田が協力してくれて、堀北が赤点組に勉強を教える。オレたちはおそらくその場にいるだけだな」

 

 清隆くんの部屋でさっき作ったスパゲッティを食べながら、合間に会話をする。櫛田さんを引き込んで3バカを集結させる作戦か。マナー通りに綺麗に食べながら、ふんふん頷く。

 先に食べ終わった清隆くんが誰かとチャットでやりとりしていた。文面を見て少しだけ目を瞠って、感心した様子を見せる。

 

「櫛田の呼びかけもうまくいったみたいだ。これで赤点組も集まるだろう。……ただ、櫛田も勉強会に参加したいみたいだが……まあ、難しいだろうな」

「堀北さん絶対嫌がるやつだよ」

「ああ。だが背に腹は替えられない。堀北にも連絡しておく」

 

 清隆くんが堀北さんにチャットを送ってすぐ電話がかかってくる。はっや。そして話が長くなる予感がビンビンするぞ。

 スパゲッティをちょうど食べ終わり、食べ終わった二人分の食器を流しに置いて水に浸してから部屋に戻ってくる。清隆くんは堀北さんと電話で会話している。

 横で話を聞いているのもあれなので、口パクで『お風呂入ってくるから、その間に済ませててね』と告げれば、軽い首肯が返ってきた。持ってきたお着替えセットを手に浴室に向かう。

 堀北さんとの電話が終われば次は櫛田さんと電話をするはずだ。可愛い女の子と電話しまくりでお母さんは嬉しいよ。

 

 

 お風呂を済ませた私と入れ替わり、今度は清隆くんが浴室に向かう。さらっとした生地の長袖パジャマを纏った私は、ラグマットに座りテレビのリモコンを取った。お笑い番組があったので、それを見ることにする。

 たまに渾身のギャグがあったりして面白いので、お笑い番組を見るのは好きだ。もっぱらテレビをつけたらお笑い番組しか見ない。

 ちょうど面白いギャグがあって一人ケラケラ笑っていると、お風呂を上がったばかりでほかほかしている清隆くんが部屋に戻ってくる。私の隣に座ってテレビに視線をやった。

 ちなみに彼も私と同じさらっとした生地の長袖パジャマを身に纏っていたりする。二人で出かけて二人で同じパジャマを買ったから、まあ自然な流れだ。でも色は違うため、すべてがすべて同じというわけではない。私は深青色で、清隆くんは若草色を選んだ。特に深い意味はなく、なんとなく。

 

「お笑いか?」

「そうそう。今ちょうど面白いギャグ言ってるんだよ〜」

 

 清隆くんにも見るよう言おうとして、面白かった芸人さんはタイミング悪く舞台裏に入ってしまった。今はあまり私の知らない芸人さんがネタを披露している。

 仕方がないのでテレビから目を離し、清隆くんを見た。正確には髪。ところどころ湿っているのを見て、まーた適当に乾かしてきたと白んだ顔をする。

 

「まったく、世話が焼けるなぁ」

 

 洗面台からドライヤーを持ってきて、ベッド近くにあるコンセントにプラグを挿し、清隆くんの背中に回る。ベッドに座り、足で清隆くんの体を挟み込みながら温風を選択した。ぶおーという音とともに清隆くんの柔らかい色をした茶髪が風に揺れる。

 

「悪いな」

「悪いと思ってるならちゃんと乾かしてきなさい」

 

 頭を撫でるように髪を梳きながら、丁寧に乾かしていく。男の子は髪が短くて乾かしやすいから助かる。乾かすのにあまり時間もかからないし、良いところしかないと言える。だから毎度適当に乾かしてくる清隆くんのことが理解できないんだが……。

 乾かし終わって、スイッチを切った。一度ドライヤーを床に置いて、本当に髪が乾き切っているか確認するのに改めて手で髪を梳いていく。……よし、ちゃんと乾いてるな。満足げに息をつき、上から清隆くんの顔を覗き込んだ。

 

「乾いたよ〜清隆くん」

「ん……ああ。ありがとう、葵……」

「どういたしまして」

 

 気持ちよさそうに瞳を閉じていたところ悪いが、今夜はまだ寝かせないぞ。

 さらさらになった髪を手慰みに梳いたり撫で付けたりしつつ、電話の内容を尋ねる。

 

「電話で話し合って、結局どんな感じになったの?」

「オレも、あまりわかってないんだ。櫛田がどうにかするって……堀北は嫌がっていたが、櫛田は何か考えがあると……言って……」

 

 話の最中にも関わらず、清隆くんがうつらうつらと船を漕ぎ出す。もう少し詳しく聞こうかと思ったが、眠そうな顔を見ているとこれ以上無理強いをして話をさせる気になれない。

 

 私は週2、3回清隆くんの部屋にお泊まりするのだが、いつも泊まった日はお風呂から出た清隆くんの髪をドライヤーで乾かして、彼はちょっとしたうたた寝に入る。ドライヤーで髪を乾かしていた体勢のまま寝に入るので、私のお腹にあたまを預ける形だ。私は私でテレビを見ながらちょうどいい位置にある清隆くんの頭を無意識に撫でていたりする。

 たまに視線を下げるのだが、少し上向いてどこか間抜けな顔を無防備に晒して寝ている清隆くんを見るのは、私のちょっとした楽しみだったりする。

 

 と、まあ、そんなわけで。

 

 髪を乾かしてもらってからうたた寝に入るという一連の流れがほとんど習慣化している清隆くんからしたら、今の状況は酷だろう。だいたいの流れは彼が今言った通りだろうし、もちろん私の方も知っているのでこれ以上聞いてもお互いに何の益もない。一応記憶に間違いがないか確認しようとしただけである。

 頭を撫でて「もういいよ。またベッドで寝るときになったら起こすから」と言うと、小さく返事をして寝る体勢に入る。私に凭れて、お腹に頭が預けられる。

 一度頰を撫でてやってから、テレビに視線を向けた。テレビの中で芸人さんがネタを披露し、お客さんの笑い声と私の笑い声が部屋に響く。清隆くんはたまに訪れる私の笑い声による体の震えに眠気が覚めるということもなく、変わらず呑気にすやすやと安らかな顔をして眠っている。

 

 

 お笑い番組が一段落を終えて、時計を見て頃合いが良いこともあり、清隆くんの体を揺らして起こす。ゆっくり開いていく瞳に上から顔を覗き込んでいるためか、どこか間抜けた顔をした私が映っている。

 

「そろそろ寝ようか。清隆くん」

「ん……」

 

 立ち上がって手を差し出した。伸ばされる手を取り、二人で洗面所に向かう。並んで歯磨きをして、それも終えるとまた二人で手を繋いで部屋に戻る。

 いつものように先にベッドに入って壁側に行き、清隆くんが入りやすいよう毛布を持ち上げた。隣に寝そべったのを確認すると、リモコンを取って部屋の明かりを消す。

 清隆くんの体に毛布を被せつつ、私もしっかり包まって眠る体勢に入る。

 

「おやすみ、あおい……」

 

 ぽやっとして眠たそうな声がすぐ耳元でする。体を横に向けて手探りに清隆くんの頰に両手を当て包み込み、一度額を合わせた。それと同時くらいに腰に腕が回り、緩く抱きしめられる。

 密かな笑みをもらして、囁くように言う。

 

「おやすみ、清隆くん」

 

 パジャマの生地越しに肌に馴染んでいく彼の体温が心地良い。同じように、私の体温も彼にとって心地良いものであればいいなと思った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 放課後、清隆くんに連れられ、堀北さんについていき図書館に向かう。懇切丁寧に私にやれることはないと説明はしたのだが、堀北さんの眼光に負けた。あと単純に清隆くんが手を離してくれなかったのもある。これは捕まるより先に平田くんに突撃しに行く必要があるな……。

 今後の予定を練っていると、櫛田さんの「連れて来たよ〜!」という明るい声が聞こえてきた。顔を上げ、櫛田さんとその後ろにいる3バカ、あと沖谷くんの姿を目に留める。沖谷くん……可愛いな……こうやって改めて見ると男子とは思えないほど可愛い……。なんでヒロインじゃないの?

 

 じっと見つめていると、何か不穏なものを感じたのか櫛田さんの背中に隠れられてしまった。しまった、邪な感情が漏れ出ていたか…!

 反省して今度は私の方が隣に座っていた清隆くんをうまいこと壁にして隠れる。チラと私を見て、何か察したのか清隆くんも積極的に隠してくれた。

 私と清隆くんを置いて話は進んで行き、最終的にこの場にいる全員が堀北さんの勉強会に参加することが決まる。櫛田さんの説得がうまくいった形だ。聞いていてハラハラしたが、全員無事参加できることになってひとまず安心する。

 

 ……が。やはりすぐに問題は起こった。

 堀北さんのキツい物言い、かつ遠慮の欠片もない正論にまず須藤が切れた。胸倉を掴むくらいの切れ具合、一触即発な空気はとりあえず櫛田さんや須藤自身のなけなしの自制心によって解かれたが、腹の虫が治まるわけもなく勉強会から離脱。それに続く形で池、山内も離脱し、沖谷くんも周りの空気に負け離脱。メイン赤点組が消えた勉強会に意味などない。

 櫛田さんが堀北さんに、清隆くんに縋るように声をかける。しかし結果は無情なものだ。堀北さんがそう判断するなら従うまで、清隆くんが言っていることはそういうことだ。

 櫛田さんが最後に私に縋るような目を向けた。そっと視線を逸らす。それだけで私の立ち位置もわかったんだろう。

 

 悲しいよ、と言った櫛田さんの俯いた瞳にはここからだと涙がうっすら浮かんでいるように見えた。切り替えるように顔を上げた彼女は、だけど気丈で逞しい。

 

「……じゃあね三人とも、また明日」

 

 短い挨拶とともに櫛田さんも去って行き、残ったのは堀北さんと清隆くん、そして役立たずな私である。

 清隆くんが櫛田さんとはまた別の角度で須藤たちを擁護し、櫛田さんを追いかけるためか図書館を出る。そしてさらに残る堀北さんと私。

 

 静まり返った図書館も相まって、ひどく居心地が悪い。座った位置的にも堀北さんの前だったため、気まずさ倍増である。

 なんとなく肩を寄せもぞ……としていると、堀北さんが教科書に目を落としながら静かな声で言った。

 

「あなたは何かないの」

「え?」

「あなたはじっと見ているだけ。聞いているだけで、何も行動を起こさない。何も言わない。いつもそう」

 

 視線は合わない。きっと合わせてくれる気も彼女にはさらさらないだろう。だから私が一方的に見ているだけだ。

 うーん、と小さく唸る。薄っぺらい笑みを浮かべ、それに相応しい薄っぺらいセリフを言う。

 

「私は傍観者でしかないから」

「そう。綾小路くんの事なかれ主義と似ているわね。私には到底理解できない考えだわ」

「ま、似てるのは否定できないかな」

 

 バッサリ切り捨てられるのは想定内だ。会話が終わり再び静寂が落ちると、堀北さんが冷淡に「早く綾小路くんを追いかけでもしたらどう」と言ってくる。提案の形をしているが、これは強制だ。体よくこの場から追い出そうとしているのだろう。裏の意味は『邪魔よ』といったところ、か。

 素直に従い、荷物を持って席を立つ。堀北さんはずっと一人教科書に目を落としている。一瞥して、図書館を出ようと扉を開ける。

 

 ……なんとなく。少しだけ、世話を焼きたくなった。

 孤独な少女を憐れにでも思ったのだろうか。

 

「堀北さん。じゃあ今日は、私も一つだけ言うよ」

「……何かしら」

「孤高はね、人が人を認めて、尊敬して……その根本は人からの好意で生まれるものだよ。今の堀北さんはどうなのかな」

 

 ほとんど言い捨てに近い。開けていたドアを潜って後ろ手に閉めれば、一度も振り返らずに立ち去る。

 

 言われた通り清隆くんでも追いかけようか、と一瞬思ったけれどやめておいた。おそらく今は櫛田さんと屋上に続く階段でドンパチ(語弊あり)している頃なんじゃないだろうか。追いかけて二次被害を被るのは勘弁願いたい。あと素直に櫛田さんに敵認定されたくない。これが一番強い。

 私は可愛い櫛田さんが好きです。でも可愛くない櫛田さんも可愛くて好き。どっちも好きだけど、敵認定はされたくない。この気持ちわかってほしい。

 

 一人帰路に着きながら、『そういや清隆くん、櫛田さんの胸揉んでるのかな……』とすごくしょうもないことに思いを馳せた。

 いいなぁ……私も今度水泳の授業とかあったら着替えるときに揉ませてもらおうかなぁ……無理かなぁ……。

 

 

 

 

 自分の部屋に帰って先にご飯を作っていると、清隆くんが帰ってきた。具沢山チャーハンに目を輝かせている。

 時間もちょうどいいのでテーブルの準備は任せ、お皿に大盛りによそったチャーハンを二つ運ぶ。もちろん私も大盛りだ。私も基本的には大食いなのである。

 ホワイトルームにいた頃より頭にも体にも負荷をかけまくり日夜訓練に明け暮れていたので、気づけばもりもり食べる系女子になっていた。胃が馬鹿になっているのかと問われたら、否定はできないかもしれない。

 

 さっそくマナー良く、しかしもりもり食べている清隆くんを向かい側に座って見ていると、自然と笑みが浮かんできた。こうやって清隆くんと二人で過ごしているときが一番平和であることを実感する。願わくば、……いや。人が永遠を望むのは傲慢すぎるだろう。

 そうだな、と代替を考える。清隆くんが視線を上げ、ちょうど目が合う。

 

「葵?」

 

 ……うん、と一つ頷いた。こっちを見ている清隆くんに軽く笑いかける。

 

「いやぁ、2回目だからかうまくチャーハン出来てよかったなぁって思ったんだよ」

「ああ、なるほど。1回目は……キッチン周辺が悲惨なことになったもんな」

「最初っからプロみたいに空中にお米を浮かべて作ろうとしたらダメだね。反省した」

「料理は奥が深いよな……次はオレに作らせてくれ。オレも今度こそうまくやってみせる」

「いいね。じゃあ次は清隆くんよろしく」

 

 そう思えば、願いはずっと変わっていない気がする。健気なものだ。健気というか、頑固なのだろうか。

 

 いつか私がこの目で願いが叶ったことを、知らないうちに叶っていたことを確認できたならば、私はきっと嬉しすぎて幸せ過ぎて、たとえ一人でだってなんだってできるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 




土日は定期更新お休みします、すみません
また月曜から定期で更新していく予定です
一章が終わるまで残すところ後三話ほどですが、最後までお付き合いしてくださると嬉しいです


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