織田信奈と銀の鈴(完結) (ファルメール)
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第01話 与えられた命

「……どうして、おじさんはこんな事したの?」

 

 胸元を紅く染めてぐったりと横たわる足軽姿の男を、傍らにしゃがみ込んだ少女、銀鏡(しろみ)深鈴(みれい)は悲哀も動揺も浮かべていない、全くの無表情で見下ろしていた。

 

 彼女が冷酷な人間という訳ではない。ただ彼女の周囲を取り巻く状況があまりにも常軌を逸して、ちっぽけな彼女の想像力を通り越していて、泣き叫べばいいのか取り乱せばいいのか、あるいは気を失えばいいのか。分からなかった。

 

 このどことも知れぬ戦場に迷い込むまでで最も新しい記憶は、好物の果肉入りのイチゴアイスでも買い食いして帰ろうかと思いながら歩いていた学校からの帰り道だ。

 

 気が付けば轟く馬蹄、響く銃声、天地を揺るがす鬨の声。時折テレビドラマなどで見る戦国時代の戦場としか思えない場所に彼女は立ち尽くしていた。

 

 最初は映画かドラマの撮影現場にでも紛れ込んだのかと思ったが、周りの足軽達の必死の形相や、鬼気迫る表情で馬を奔らせる武将を見ればそんな考えも吹っ飛んだ。アカデミー賞にノミネートされるような役者でも、あそこまで真に迫った演技が出来るとは思えない。

 

 その時だった。ふと遠くに目を向けると、一人の足軽の姿が見えた。だが得物は剣ではなく槍でもなく、弓でもない。

 

 鉄砲。火縄銃。この時代では種子島と呼ばれるそれ。その黒い穴が、真っ直ぐに深鈴の胸元に向いていた。

 

「あ……」

 

 撃たれる。死ぬ。引き金が引かれる。今。すぐに。

 

 一瞬で様々なイメージが脳内を駆け巡り、走馬燈が見えた気がした。

 

 事故にあった人間はアドレナリンだかドーパミンだかが過剰分泌されて、ほんの一秒が十秒にも一分にも思えると言うが、それが本当なのだと理解出来た気がした。

 

 死ぬ。死んじまう。死にたくない。

 

 だがそんな彼女の思考など関係無くその足軽は引き金に掛けた指に力を込めて……

 

「危にゃあ!! 娘っ子!! 伏せるみゃあ!!」

 

 ぐいっと左腕を引き寄せられて、引き倒される感覚。反射的にそちらへと視線を向けると、別の足軽が彼女の腕を引いていた。

 

 そしてたった今深鈴が居た位置に、入れ替わるようにその足軽の体が入り……

 

 

 

 ばぁん。

 

 

 

 深鈴の度の強い眼鏡のレンズに、紅い滴が付いた。

 

 

 

 

 

 

 

「……おじさんは、どうして私を助けてくれたの?」

 

 見ず知らずの私を。

 

 足軽が撃たれた後、彼を引き摺るようにして街道まで連れてきた深鈴は取り敢えず周囲に危険が無さそうなのを確かめると、そのすぐ近くにしゃがみ込む。

 

 深鈴は鎧を脱がせて、撃たれたとおぼしき胸の辺りを強く押さえて止血しようとするが、紅い流れは止まらない。

 

 掌を通して伝わってくる脈動が、少しずつ弱々しくなっていくのが分かる。

 

 この人はもうすぐ死ぬんだ。

 

 ただの事実として、深鈴にはそれが分かった。一分後か、あるいは五分後かは分からないが、もうすぐこの人とは言葉を交わし合う事も、笑い合う事も、罵る事すら出来なくなる。

 

 だから、聞いておかねばならなかった。

 

「どうして、私を?」

 

「お主みたいな別嬪が死んだりしたら、もったいないみゃあ」

 

「……は?」

 

 想像を斜め上に越えた答えに、深鈴の瞳が丸くなった。

 

「わしは一国一城の主になって、女の子にモテモテになろうと思ったがみゃあ……こんな所で死ぬとは……運が無かったみゃあ……」

 

 ごぼっ、と足軽の口から血の塊が吹きこぼれる。

 

 だがそれでもその足軽は、笑っていた。

 

「だがみゃあ……お主みたいな別嬪を助けて逝けるんだ……無駄死にじゃあ、ないみゃあ……」

 

「……おじさん?」

 

 灰銀の長髪が、足軽の顔に掛かる。

 

 少しだけ顔を近付けた深鈴の手を、足軽の手が掴んだ。今にも死にそうなのにそれを些かも感じさせない凄い力だ。

 

「だから、娘っ子……わしの相方をくれてやる……お主は、生き延びろ……かな……ら……」

 

 少しずつ、言葉が途切れ途切れになっていく。死神の鎌が振り下ろされるまでのタイムリミットは、後数秒だ。

 

「……そうだ、おじさん!? おじさんの名前は!?」

 

「わしの名は……木下……藤吉郎」

 

「……っな……!?」

 

 木下藤吉郎と言えば、後の豊臣秀吉。一介の草履取りから関白として天下を取る英雄の中の英雄。

 

 ……と、いう事は……これが悪質かつ大規模なドッキリでない限り、ここは戦国時代で……ちらりと見た旗印から、今は今川と織田の合戦の真っ最中という事なのか? 私は、映画とかでよくあるタイムスリップをしてしまったとでも言うのか!?

 

 信じがたい、むしろ信じたくない事実ではあるが……顔をつねる必要は無い。藤吉郎の掴む手の感覚が、確かな現実であると教えてくれている。

 

「娘っ子……お主は、生きろよ……」

 

 その言葉が、最後だった。先程まで確かに感じられていた藤吉郎の手から力が抜けて、ぱたりと落ちた。

 

「木下氏、討ち死になされたか……南無阿弥陀仏、でござる」

 

 出し抜けに、背後から声が掛けられる。振り返るとそこには黒装束に身を包んだ少女忍者が腕組みして立っていた。

 

 あなたは、と深鈴が聞く前にその忍びが名乗る。

 

「拙者の名は蜂須賀五右衛門でござる。木下氏の遺言に従い、ご主君におちゅかえするといちゃす」

 

 最後に噛んでしまうのはご愛敬か。

 

「や、失敬。拙者、長台詞は苦手故」

 

「……藤吉郎さんの、娘……さん?」

 

「相方にござる。木下氏が幹となり、拙者はその陰に控える宿り木となりて力を合わちぇ、共に出世を果たちょう。そういう約束でごじゃった」

 

 彼女の限界はどうやら三十文字程度のようだ。

 

「ご主君、名は?」

 

「銀鏡……深鈴よ」

 

「では拙者、これより郎党”川並衆”を率いて銀鏡氏にお仕え致す」

 

「…………」

 

「それで銀鏡氏、取り敢えず織田家に仕官する所から初め……」

 

「待って」

 

 五右衛門の言葉を、深鈴の声が切った。

 

「は……」

 

「その前に、やる事があるわ」

 

 すくっと、立ち上がる。深鈴はすらりとした長身であり、視線を合わせようとすると五右衛門は少し首が痛くなった。

 

「藤吉郎さんを、弔うわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 深鈴は五右衛門と共に藤吉郎の遺体を運び、戦場からほど近い丘へと埋葬した。運ぶ道すがら、藤吉郎はこの時代の標準的な体格の小男なのに、眠っている体や死体は重く感じるというのは本当だと深鈴は頭の片隅で思っていた。

 

 深鈴は墓石も卒塔婆も立てられない、藤吉郎の刀を突き立てただけの粗末な墓に、近くで摘んできた花を添えた。それが彼女に出来るせめてもの供養だった。

 

 目を閉じ、傍らの五右衛門と共に合掌して、祈る。

 

「藤吉郎さん……あなたからは、命をもらいました」

 

 分からない事は山積みだが、一つだけ確かな事がある。

 

 それは、木下藤吉郎が自分を生かしてくれた事。今こうして生きているのは、間違いなく彼のお陰だ。

 

 だから、ここが何時代の何処であれ、この命を粗末に使う事だけは、それだけは出来ない。

 

 この命はもう自分一人のものではなくなった、自棄になって投げ捨てるような事は絶対に出来ない。

 

 自己満足でしかなかろうが、天秤の左の皿に乗ったこの命が、右の皿に彼の命を乗せた時に釣り合うものであると、証明しなければならない。

 

 だから。

 

「出世したら、必ずお墓を立て直して供養します。だからそれまで、天から見ていて下さい……私の、銀鏡深鈴の、生き様を」

 

 罪滅ぼしではない。それが彼女に出来る、たった一つの餞だった。

 



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第02話 織田家仕官

 

「織田信奈……姫大名……どうなってるの? これは……?」

 

 清洲の木賃宿の一室で、五右衛門を前にしつつ深鈴は難しい顔で唸り声を上げた。

 

 取り敢えずこの世界で生きていくと決意を固めた深鈴であったが、五右衛門の進言通りすぐさま織田家に仕官しよう。とは、思わなかった。

 

 まずは情報収集。その後に身の振り方を考えるべきであろう。彼女はそう判断した。何しろ一生どころか命を左右しかねない問題だ。石橋を叩き過ぎる事は無い。

 

 そこで今日は五右衛門が持っていたなけなしの銭で宿を取り、彼女が知っている事を、この世界では童子でも知っているような一般常識であろうと全て聞いてみる事にしたのだが……

 

 すると、恐るべき事実が浮上した。

 

 姫大名。この群雄割拠の戦国乱世ではお家騒動など起こせばたちまち他国の餌食。その結果誕生したのがこの制度であり。そして、この尾張を統治するのは織田信秀でも織田信長でもなく、織田信奈。うつけ姫の異名で呼ばれる姫武将だった。

 

 彼女は先日、正徳寺にて美濃の蝮・斎藤道三と同盟を締結したらしい。話によれば一時はあわや尾張と美濃で開戦となりかけたが信奈の、

 

 

 

 

 

『美濃にも色々込み入った事情があるでしょう? 蝮はそれをよく弁えているだろうから、わざわざこの私を敵にしないと思うけど?』

 

 

 

 

 

 と、息子の義龍との関係を見透かしたような一言が決め手となって白旗を揚げ、美濃の「譲り状」をしたためて「自分が死ねば数年で倅達は馬の轡を取るであろう」とまで褒めちぎったとか。

 

「……銀鏡氏、同盟の事は兎も角、今時こんな事は誰でも知っているでごじゃるじょ」

 

 呆れ顔の五右衛門だが、深鈴はそれどころではない。

 

『……どうなっているの……?』

 

 今川と織田の合戦、足軽の木下藤吉郎、忍者の五右衛門。

 

 これらの要素から理由や経緯はさておき、彼女はてっきり戦国時代にタイムスリップしたのだとばかり思っていたが……どうにも、事態はそこまで単純ではなさそうだった。

 

『ただの過去じゃなくていわゆるパラレルワールドというヤツなのか……それとも、私達の時代の記録の方が四百年の時間の中で歪められているのか……』

 

 前者は考証の仕様も無いが、後者も可能性は十分にある。

 

 上杉謙信女性説なんてものもあるし、この時代からは遥か未来の事だが賄賂政治で有名な田沼意次だって実際には清廉潔白な政治家で賄賂など受け取っていないという説もあるぐらいだ。

 

 歴史なんて結構、後の時代の人間の都合の良いように歪められるものだ。歴史を記すのは、何処まで行っても人間。主観の無い記述など有り得ない。

 

「まぁ……性急に仕官しなくて良かったとは思うけど……それは重要な問題ではないわね」

 

 信長が信奈だろうと、やる事は同じだ。織田家でなくともどこへなりと仕官して、この時代を生き抜く。

 

 だが……果たして身一つで仕官するのが良いだろうか?

 

 全く自慢ではないが、自分には槍や刀の心得などまるで無い。戦場の槍働きで出世するのは絶対に不可能。だが、五右衛門や川並衆を養う為には……

 

「私が持っている物は……」

 

 学生服のポケットの一つ一つに手を入れてまさぐって、そして、出て来たのは……

 

「五右衛門、明日になったら清洲でも指折りの大店に案内して。特に、店主が珍しい物好きとかだと尚良いわね……」

 

「承知。では、越後屋が良いでござろう。あそこの主は収集癖がゆうみぇいでごじゃりゅ」

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、五右衛門の紹介した尾張でも随一の大店である越後屋の暖簾をくぐって大通りへと出てくる深鈴の姿があった。

 

 深鈴の顔は、少し蒼い。その手には切り餅が4つ、握られていた。

 

『シャーペン一本が百両にもなるとは……!!』

 

「銀鏡氏が、南蛮渡来の筆を持っておられるとは。これで持参金が出来たでごじゃるにゃ」

 

 深鈴は、当座の金を得る為に五右衛門が紹介した珍品好きの商人、越後屋へと持ち物を売りに行ったのだ。

 

 彼女がこの時代に持ち込んだ物品は他にスマートフォンがあったが、しかし流石にこれは豚に真珠。この時代の人間の目には使途不明の意味不明なオブジェとしてしか映るまい。そこでシャーペンを売る事にしたのだが……『日の本に未だ一本しかない南蛮渡来の最新の筆』だと売り込み文句を付けて、実演もしてみせたのが効いた。

 

「まさか、百両なんて値が付くとは……」

 

 一両が確か現代の貨幣価値に換算して約4万円……即ち、400万円也!!

 

 深鈴のシャーペンは書き心地の良い製図用の1000円のものだった。

 

 1000円が、400万円に……!!

 

「何だか、凄く悪い事をした気がする……!!」

 

 だがまぁ、こちらとて生きるか死ぬか。騙した訳でも脅した訳でもなく、取引自体は真っ当なものだった。

 

 以前にインターネットで見たニュースではカードゲームのレアカードにオークションで120万円の値が付いたなんて話を聞いた事があったし、値段は品物それ自体ではなく希少価値に付いたと、自分を納得させて罪悪感を消失させる。

 

「これを手土産にすれば、織田に仕官しても粗略には扱われないでごじゃりょ……」

 

「いえ、まだよ」

 

「は?」

 

「まだまだ小さい。どうせ仕官するのなら、織田信奈の度肝を抜くような贈り物を持参するのよ」

 

 人に贈り物をする時は、必ずその人の想像の上を行く物を持っていく事。

 

 それが、人の心を掴むコツだ。

 

 

 

 

 

 そして、一ヶ月後……

 

「織田に仕官したいんですって? まずは、面を上げなさい」

 

 清洲城内にて、正座して平身低頭の姿勢で城主を待っていた正装の深鈴の頭の上から、声が掛けられる。

 

 顔を上げればそこには、片袖脱ぎにした湯帷子、縄帯、虎の皮の腰巻き、ぶらさげた火打ち石と瓢箪。デタラメな茶筅に結った髪。成る程、うつけ姫が他より一段高い座に腰掛けて、彼女を見下ろしていた。

 

 左右には、織田の重臣達。既に五右衛門から特徴を聞いている深鈴には誰が誰だかはっきりと分かっていた。

 

 丹羽長秀、柴田勝家、前田犬千代。いずれも織田家の重鎮達である。

 

「はい……近隣の諸大名を見渡しても、私が仕えるべき主は織田信奈様以外には無いと思い……これが、持参した手土産にございます」

 

 深鈴の差し出した巻物を犬千代が受け取り「姫様、どうぞ」と、信奈へと渡す。

 

 これは恐らく手土産の書かれた目録であろう。誰もが、信奈もそう思っていた。だが違っていた。

 

「これは……!!」

 

 床に転がされて、広げられた巻物に書かれていたのは文字の縦列ではなく、絵図面。描かれているのは、種子島。それを構成する部品が、事細かに記されていた。

 

「紀州の鉄砲鍛冶に描かせたものにございます」

 

 「「おおっ」」と、織田家臣団から声が上がる。それが落ち着くのを待って、信奈が深鈴を詰問する。

 

「南蛮のオモチャの、しかも設計図を持ってきて私が喜ぶとでも思っているの?」

 

 咎めるような口調であるが、口元と目は笑っている。これはいかほどの器量かとこちらを値踏みしているのだと、深鈴は踏んだ。

 

 既に織田信奈が500挺の鉄砲を買い揃えているのは、五右衛門の情報で裏が取れている。

 

「恐れながら……これからの戦は鉄砲になるかと……それに、持参したのは図面のみに非ず、こちらがその目録にございます」

 

 取り出した書面を再び犬千代が信奈の元まで運ぼうとするが、信奈が「良いわ、そのまま読み上げて」と促した。

 

「は……それでは……鉄砲の絵図面、種子島50挺……紀州の鉄砲鍛冶玄斎……」

 

「鉄砲鍛冶、玄斎?」

 

「はい、あちらに控えている者にございます」

 

 そっと、縁側の方に手を振る深鈴。そこには確かにがっしりとした体つきでいかにも鍛冶職人風の頑固そうな風体の男が、先程の彼女と同じように平身低頭の姿勢で控えていた。

 

「鉄砲鍛冶と絵図面、それに鉄砲50挺……デアルカ」

 

 圧倒されたように、信奈が天を仰ぐ。

 

 日本で最初に鉄砲へ目を付けたのは先だって彼女が同盟を結んできた斎藤道三であるが、その道三があらゆる手を尽くして手に入れた鉄砲が現時点で100挺足らず。

 

 織田家が保有する鉄砲総数の10分の1の数を揃え、絵図面と鉄砲鍛冶を連れてくる。個人の仕事としては驚異的の一言に尽きる。

 

 深鈴にとっても、ここまで来るのは決して平坦な道のりではなかった。

 

 100両を元手として、まず五右衛門に各地の相場を調べさせ、安く仕入れて高く売る。この繰り返しで金をどんどんと増やしていった。

 

 堺の街で麹を買い、井ノ口で売り。駿府で茶を買い、清洲で売った。山賊に襲われる事も三度や四度ではなかったが、五右衛門や川並衆の面々の助力もあって乗り切った。

 

 そうして十分な資金が貯まった事を確認すると資金の半分は五右衛門以下川並衆に運用を任せ、もう半分を使って、信奈への手土産として種子島と、そして尾張でもそれを生産出来るよう絵図面と鉄砲鍛冶を探し出して付けたのだ。

 

「西洋の新兵器、その極秘の絵図面すら手に入れるのが至難の所、日本にまだ数少ない鉄砲鍛冶までも……銀鏡どの、九十点です」

 

 微笑と共に、長秀が採点する。それは基準の厳しい彼女にしては稀に見る高得点であったが、信奈も納得したように何度も頷く。

 

「そうね。これは大将首を十取ったよりも大きな手柄よ!! 銀鏡深鈴……ん……ちょっと呼びにくいわね……銀鈴(ぎんれい)!! これから私はあなたをそう呼ばせてもらうわ!!」

 

「は……」

 

 信奈の言葉の一節を、深鈴は聞き逃していなかった。「これから呼ばせてもらう」、つまり。

 

「仕官の願い、しかと聞き届けたわ!! あなたを織田家の鉄砲奉行に任じ、鉄砲の生産と調練を任せるわ!!」

 

「!! は!! ありがたき幸せ!! この銀鏡深鈴、誠心誠意信奈様にお仕えする事、お約束致します!!」

 

 深々と頭を下げる深鈴。流石にこれだけの土産を持参したのに足軽から始まるとは思わなかったが、一足飛びに奉行職に任ぜられるとも思っていなかった。

 

 彼女の手土産は確かに信奈の想像を上回っていたが、信奈の待遇もまた彼女の想像を上回っていたのだ。

 

「銀鈴、これからよろしく頼むよ」

 

「一緒に頑張る」

 

 

 

 

 

 

 

「銀鏡氏、仕官の方は首尾良く行ったようでごじゃるな」

 

 取り敢えず準備を整えて参内すべく、泊まっている旅籠への帰り道、姿を現した五右衛門が後ろを付いてきながら話し掛けてくる。

 

 鉄砲奉行への大抜擢は、深鈴にとっても五右衛門にとっても想像だにしなかった大出世であった。

 

 しかし一難去ってまた一難と言うべきか、これからがまた大変である。ぶっちゃけありえない。

 

 鉄砲の生産は兎も角として、調練の方は……

 

「私も、基本的な理論は知ってるけど……」

 

 照星(フロントサイト)と照門(リアサイト)が一直線になるように的を狙い、引き金を引く……だったか?

 

 それにただ射撃の腕だけを磨くのではなく、実戦で使用するには早合などの技術も取り入れるのが望ましい。鉄砲を揃える時にある程度は説明を受けたが……

 

「私のは所詮、畳水練。役には立たないでしょうね……」

 

 溜息混じりに深鈴が言う。だからと言って今から訓練したって間に合うまい。となると……

 

「玄斎殿と同じく、鉄砲や弾込めの名人も連れてくる他ないでごじゃるな」

 

「うん……その為に……」

 

 一拍置いて、そして次に深鈴の口から出て来た言葉を聞いて五右衛門は自分の耳を疑う事になる。

 

「五右衛門、あなたに家を買ってあげるわ」

 



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第03話 英傑参集

 

「いやぁめでたい!! この度、晴れて織田信奈様に仕官が叶いました!! これも五右衛門以下川並衆の皆様のお陰です!! 私にはこれぐらいしかあなた達に報いる事が出来ませんが、どうか今日は遠慮せずに食べて飲んで騒いで下さい!!」

 

 運用した資金の一部を使って手に入れた五右衛門の家の広間には、上座に家主である五右衛門とその主君である深鈴が座り、向かって右には川並衆。左には深鈴に招待された犬千代を初め彼女が住む長屋の長である浅野の爺様や孫娘のねねといった「うこぎ長屋」の面々がずらりと並んでいた。

 

「嬢ちゃん、おめでとうございやす!!」

 

「親分も新居購入、おめでとうございやす!!」

 

「親分共々、支えてきた甲斐があったってモンだぜ!!」

 

「これからもどんどん出世して、いずれ俺達を侍にしてくれよな!!」

 

 荒くれ揃いの川並衆の面々は、下級とは言え武士である「うこぎ長屋」の住人達を前にしかし物怖じした様子も見せず、並べられた料理へ箸を動かし、空の徳利を次々生産していく。

 

 最初は何故自分達が呼ばれたのかと当惑気味であった犬千代達も、しかし年に一度食べられるかどうかという豪勢な料理を前にしては、そんな疑問は吹っ飛んだ。

 

「……美味しい……もぐ……もぐ……」

 

「おうおう、これは珍味じゃ」

 

「こんな料理をご馳走して下さるとは、銀鈴どのは太っ腹にございまする!!」

 

 犬千代を筆頭に、猛烈な勢いで皿を空にしていく。

 

 上座の二人はそんな喧噪を、やや離れた立ち位置から見ている形になった。

 

 深鈴はちらりと傍らの相方へと目を送って、この晴れの席に五右衛門が浮かない顔を浮かべているのに気付いた。

 

「銀鏡氏、拙者を労ってくれるのは嬉しいでござるが……」

 

 忍びの少女はそこまで言って、言葉を切ってしまう。

 

 確かにこの一ヶ月は息つく暇も無い、いつ死んでもおかしくない激動の日々であったし、ひとまずの目的であった仕官が叶ったのだから浮かれるのも無理からぬ所ではある。

 

 ……が、だからと言って、あまり大きくないとは言え自分に家を買い与えるなど……五右衛門はこの為に、わざわざ表の顔まで用意せねばならなかった。

 

『その心遣い……嬉しくないと言えば嘘にござるが……』

 

 しかし、だからと言ってこんな所で満足していて良い筈はない。仕官が叶ったのはあくまで始まりに過ぎないのだから。

 

『拙者の為に余計な金を遣って今後に差し支えては……』

 

 とも思うが……まぁ、それでも今日は何度か死にそうになりながらやっと始まりの地点に立った記念すべき日であるとも言える。この一日ぐらいは羽を伸ばしても良いだろう。明日からは、きっと気を引き締め直して鉄砲の名人捜しに邁進してくれるに違いない。

 

「信奈様への手土産として鉄砲を用意しようと発案したのは私ですが、お金を稼いで鉄砲を沢山買えたのは皆様の協力があったればこそです!! お礼の気持ちとしてここに一人頭三十貫文を用意しました!! うこぎ長屋の方々もどうぞ!! これは私の仕官祝いのご祝儀です!!」

 

 ……明日からは、きっと気を引き締め直して……

 

「あぁ、それと五右衛門。私も屋敷を買う事にしたわ。広くて便利の良さそうな屋敷が見付かったから……明日からはそこを拠点に動く事になるわよ」

 

 ……あ、明日からは、き、きっと……

 

 

 

 

 

 

 

「何考えてんだ、あのバカ!!」

 

 清洲の大広間に、勝家の怒号が響き渡る。

 

 犬千代が出席していた事も手伝い、深鈴が乱痴気騒ぎを演じたという情報はたちまち家中の誰もが知る所となった。

 

 勝家にしてみればあれだけの数の鉄砲を鍛冶ごと揃えるなど並大抵の事ではないし、姫様の意図も見抜いていた点からも、深鈴の事は正直かなり高く評価していた。

 

 そして次に深鈴が何をするのかと言えば、鉄砲を揃える事は出来たが自分は扱い自体は素人だからと言っていたので、今度は鉄砲の名人を捜しに出立するのだとばかり考えていた。そして二週間もすればきっと名手を連れて帰ってくるだろうと勝手ながら期待もしていたのだ。

 

 が、しかし。現実はどうだ。

 

 実際に彼女がやった事と言えば、蜂須賀彦右衛門正勝(五右衛門の表の顔)とかいう聞いた事もない自分の配下に家を買い与えるわ。

 

 その家に人を集めて酒池肉林の世界を繰り広げるわ。

 

「挙げ句の果てに、鉄砲の名人捜しにやっている事がこれか……」

 

 呆れたように、懐から一枚の紙を取り出す。これは深鈴が腰を据えた屋敷の前に掲げられた立て札に書かれている文面の写しである。

 

「何か一芸に秀でた方は、是非我が家の門を叩いて下さい。食客としてお招きいたします。ことに、鉄砲について心得のある方は優遇……」

 

 要約すればそういう事だった。

 

 これを見た時、勝家は胸から失望が湧き出でるのを堪えきれなかった。こんな立て札一本立てて待っているだけで、本当に人材がやって来ると思っているのか? あいつの事は切れ者だと思っていたのに……

 

「お前も、一緒に居たのなら何故止めなかった?」

 

 睨みつつそう咎められて、傍らに座っていた犬千代はしょぼんと小さくなってしまう。あの時は目の前のご馳走に我を忘れて大騒ぎしてしまったが……こうして振り返ってみればとんでもない暴挙だった。思い出しただけで赤面してしまう。

 

 そんな犬千代を尻目に、勝家が立ち上がった。

 

「姫様!! 仕官したばかりと言うのにこの浮かれよう、放置しておいていては他の家臣に示しが付きません!! あたしが行ってきつく注意を……!!」

 

「放っておきなさい」

 

 が、その提案は信奈の一言で切って捨てられてしまう。勝家は「しかし、このままでは姫様の名前にも傷が……」と食い下がるが……

 

「あいつが間違っていたのなら、あいつを選んだ私が間違っていた。ただそれだけの事よ……」

 

 捨て鉢になっているような言い方だが、しかし言葉からは怒りは感じない。怒りを通り越して最早深鈴を切って考えているのとも違う。寧ろ、余裕を感じさえするが……

 

「それにしても深鈴どのも、人材捜しに中々面白い手を打ったもの……六十点です」

 

 ゆとりを感じさせる艶然とした笑みを湛えたまま、長秀が採点する。

 

「??? 何言ってるんだ、万千代?」

 

 あの乱行狼藉のどこにそんな点数を付ける余地が……?

 

「……ちょっと見てくる」

 

 犬千代はそう言うと、愛用の槍を担いで大広間を退出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして深鈴の屋敷へとやって来た犬千代であったが、門前まで来た所で何やら様子がおかしいのに気付く。

 

 十数名の男女が、門の前にずらりと順番待ちのように並んでいた。

 

「これは……」

 

 何の行列かと思いつつ、割り込むつもりはない事を説明して屋敷の中に入り、話し声のする部屋の襖を開けると捜し人はすぐに見付かった。

 

「刃金甚五郎殿、山田流の鎖鎌術の使い手……まぁ、ゆっくりしていってください」

 

「はい、ありがとうござる」

 

「ご案内して差し上げるでござる」

 

 五右衛門の指示を受けた女中に連れられて、刃金甚五郎といったか。野袴を履いた中年の男が屋敷の奥に消えていくのを見送ると、犬千代は入れ違いにその部屋に入った。

 

「はい、次の方……って、あら?」

 

「犬千代どの?」

 

 深鈴と五右衛門は部屋の奥に座っていくつかの書面に目を通していたが、入ってきたのが予想外の人物であった事で僅かな驚きを見せた。

 

 驚いたのは犬千代も同じである。先日の様子からてっきり未だだらけているとばかり思っていたが、その実、何やら忙しそうにしているではないか。

 

「何してるの?」

 

「何って、食客希望でウチを尋ねてきた人の面接を……」

 

「すまないが、俺の順番はまだかい?」

 

 説明しかけた深鈴であったが犬千代の後ろから声が掛かった事でそれを中断する。

 

「ちょうど良いわ。あなたも面接を手伝って」

 

「ん? うん……」

 

 なし崩し的に深鈴の左に座り、五右衛門と共に両脇を固める形となった犬千代。五右衛門の指示によって、彼女とちょうど後ろから声を掛けてきた男にも茶が出される。

 

 その男は、南蛮の物かと思われる衣装を身に纏っていた。少なくとも明らかに和服ではない。宣教師ような、深鈴の居た現代では神父服に近いデザインの衣装を着ていて、その上から薄汚れた外套を纏っている。年齢は、十代後半から二十代前半といった所だろうか。

 

 全体的にほっそりとしていて顔や体もひょろ長く見え、一本の線のような切れ長の目が印象的だ。彼は座布団の上にあぐらをかいて座ると、被っていた山高帽を取って一礼する。

 

 同じように面接官の3人も一礼し、

 

「私がこの家の主の銀鏡深鈴です」

 

「従者の五右衛門でござる」

 

「……犬千代」

 

 三者三様の挨拶を受けて、男の方も名乗り返す。その言葉には犬千代の知るどんな国の訛りとも違う、独特のイントネーションがあった。

 

「俺は森宗意軒と申す」

 

「ふむ……では森殿。我が家を訪れる方は誰も拒まない方針ですが、あなたは他人より自慢出来るものがおありですか?」

 

「はい、俺は昔、乗っていた船が沈んで南蛮船に助けられたのをきっかけに南蛮へ行き、また先だっては唐土(もろこし)に渡って色々学んだ後に帰国して参りました。故に、南蛮や唐土の言葉が分かります」

 

 この説明に、深鈴は得心が行った思いだった。独特のイントネーションは長い外国生活の賜物という事か。

 

「それは凄い。これからは南蛮との貿易もより盛んになっていくでしょうし、語学に堪能な方は貴重な人材ですね。ゆっくりしていってください」

 

「では、ご案内して差し上げるでござる」

 

 先程の刃金甚五郎と同じように女中に案内され、宗意軒は屋敷の奥へと消えていく。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして間が空いたのを見計らって、犬千代が質問を再開した。

 

「銀鈴、何してるの?」

 

「何って……だから面接よ。この家を訪れる人で一芸を持っている人は誰でも食客として招くって書いてあったでしょ? 表の看板に……」

 

「でもどうして急にこんなに……」

 

 と、次の疑問を差し挟もうとした所で「失礼します」と、また次の客が部屋に入ってきた。今度の客は、どうやら礼儀正しいようだ。

 

 すらりとした長身と長いストレートの赤毛が特徴の女性だ。年齢は深鈴や信奈と同じか少し上ぐらいであろうか。長秀よりは年下に見える。

 

 彼女が袖を通している白い羽織を見て、深鈴はどことなく理科の実験の時に着ていた白衣を連想した。

 

 一礼し、宗意軒とは違って正座するその女性客。深鈴達の方は先程と同じく三人とも名乗り、そして女性客も名乗り返す。

 

「私の名前は……源内、と申します」

 

「では源内殿。先生の特技は何かございますか?」

 

「これを……」

 

 一枚の巻物を渡され、机の上にそれを広げる三名。だが、反応は2パターンに分かれた。

 

「「!??」」

 

 五右衛門と犬千代は「何だこの落書きは?」とでも言いたげな顔で首を傾げ。

 

「これは……!!」

 

 一方で深鈴は信じられないものを見たという風な驚愕を隠し切れないようだった。目を大きく見開く。

 

 描かれていたのは、ふいごと籠、それに紙を組み合わせて空中に浮く装置……彼女の生まれた時代では気球と呼ばれるもの。

 

 無数の滑車を組み合わせて、少ない力で重い物を持ち上げる機械。

 

 成分の調整によって、閃光と大音響を発する炸裂弾。

 

 他にも色々あるが、どれもこの時代には有り得ないほどの先進的技術の粋と言えるカラクリの絵図面であった。

 

「これは凄い……是非、私の家の食客に……いえ、あるいは信奈様に推挙を……」

 

 興奮気味にまくし立てる深鈴の袖を、犬千代がくいっと引いた。そして耳打ちする。

 

「何?」

 

「この女、佐久訛りがある。武田の間者かも。少しカマかけた方が良い」

 

 そう言われて「ふむ」と一つ息を吐く深鈴。

 

 佐久と言えば戦国最強の騎馬軍団を擁する「甲斐の虎」武田信玄によって侵攻された地。乱世の申し子とさえ呼ばれるような彼の武将であれば、確かに間諜の一人や二人、送り込んできていても不思議はない。

 

 少し、質問しておくべきか。

 

「源内殿、言葉から他国の出身のようですが、わざわざ尾張まで来なくとも、例えば武田家に仕官しようとは思わなかったのですか?」

 

「武田家にも同じように仕官しましたが……私のカラクリ技術は、いくら説明しても誰も理解してくれませんでした」

 

 そして彼女は自分の技術を記した書を実家に残し、正しい評価をしてくれる君主を求めて諸国を流離ったらしい。だが、どの国のどの大名も、カラクリ技術に理解を示さなかった。

 

「今回、銀鏡様は一芸に秀でていればどんな者でも食客として歓迎するという噂を聞きました。それでこうして参ったのですが……正直、ここまでの評価が頂けるとは、思っていませんでした」

 

 源内の目には涙が浮かんでいる。どれほどの数の大名が彼女の研究を理解せずに門前払いしてきたのか、その反応からも推して知るべしというものだ。

 

 しかし無理もあるまい、と深鈴は思う。これらは少なく見積もっても百年は先の人間の発想だ。現代出身の自分だからこそ理解出来るが、この時代の人間が理解出来ないのも無理は無い。むしろ、理解出来る方が異常とさえ言える。この巻物に描かれているのは発想・技術共にそれほどに先進的な内容だった。

 

 そして「はっ」と頭の中に浮かぶいくつかの言葉。

 

 源内。カラクリ。武田……そう言えば確か、あの有名な発明家の先祖も、武田信玄に滅ぼされた国の豪族ではなかったか……?

 

 ちらり、と巻物に視線を落とす。

 

『ま、まさか……?』

 

 深鈴は、思わず生唾を飲んだ。

 

 源内の発想や技術にはまだ時代が全く追い付いておらず、彼女の才能は誰にも理解されないままに埋もれるだけだった。だが彼女の家には技術を記した書が残されていて、それが百数十年も先の子孫の手に渡り、子孫の才能が開花した。

 

 それが藤吉郎の死ななかった、自分の居なかった正史の流れだとしたら……

 

 この、変わってしまった歴史では……

 

 今回行った人材募集。ここに、その技術を理解出来る者が居た。未来から来た、自分。

 

『大袈裟かも知れないけど……ひょっとして今私、とんでもない歴史の転換点に居るんじゃ……』

 

 ともあれ、やる事は決まっている。

 

 一芸に秀でていれば誰でも食客として迎え入れると表の看板で謳ってしまっているし、それにこれほどの者が居れば、織田信奈の天下取りにどれほど近付くか。

 

 彼女を万一にも他国に利用されるような可能性は、潰さなくてはならない。

 

「源内殿、あなたを食客の中でも最高の待遇で迎えます。研究に必要な資材や材料があるのなら、いつでも申し出て下さい」

 

「あ、ありがとうございます……ご期待に応えられるよう、励みたいと思います」

 

 

 

 

 

 

「銀鈴、鉄砲の名人捜しは……」

 

 正当な評価を得たのが余程嬉しかったのか号泣しながら女中に連れ添われて退室していった源内を見送って、犬千代は再び深鈴を詰問……

 

 しようとしたが、言葉の途中ではっと何かに気付いたように天井を向くと傍らに置いてあった槍を手にして、

 

「曲者!!」

 

 天井裏めがけて一突き。五右衛門も同じ気配を感じていたのか、深鈴に覆い被さって守ろうとする。

 

『……妙な手応え……?』

 

 怪訝な表情で槍を引き戻す犬千代。果たして槍の穂先にはブドウにリンゴ、バナナなどがみたらし団子のように突き刺さっていた。

 

「これは……果物……」

 

 一字違い。実に惜しい。

 

「「「……一体……?」」」

 

 顔を見合わせる3人だが、いつの間にか客人用の座布団の上に、新たな来客が座っている事に気付いた。

 

「「!!」」

 

 戦えない深鈴を守るべく、五右衛門と犬千代が前に出る。

 

 座っていたのは、全身をボロボロの黒布で覆った少年とも少女ともつかない小柄な人物だった。五右衛門以上に全身黒ずくめな中で、こちらを覗き込んでいるぎらぎらと輝く金色の両瞳と、髪飾りのように頭に付けた白い狐の面がアクセントも手伝って一際目立って見える。

 

 何にしても、深鈴は論外として忍びの技を使う五右衛門や槍を持たせては織田家でも随一の使い手たる犬千代が、この人物が部屋に入ってくるのに気付かなかったのだ。恐るべき実力者と見て間違いはあるまい。

 

「…………」

 

 謎の人物は無言のまま手を振ると、袖口からぱらりと一枚の紙が飛び出した。そこには、

 

<果物はお土産>

 

 そう、書かれていた。

 

「「「…………」」」

 

 再び、顔を見合わせる3人。良く分からないが、こんな手間を掛けるくらいならこの謎の黒ずくめが自分達を害する事などいくらでも出来たはずだ。ひとまず敵意は無い、と考えても良さそうだ。

 

 取り敢えず座り直す3人。ただし五右衛門は苦無から、犬千代は槍から手を離してはいないが。

 

「えっと……まずはお名前を教えていただけますか?」

 

「…………」

 

 黒ずくめが再び腕を振る。するとまた袖口から紙が飛び出した。

 

<加藤段蔵>

 

 その名前を見て、今度も反応は2パターンに分かれた。

 

「?」

 

 聞いた事のない名前だと首を傾げたのが犬千代で、逆に「こいつがあの!?」と言わんばかりに目を剥いたのが深鈴と五右衛門だった。

 

「あ、あにゃたが、飛び加藤でごじゃるか!?」

 

「天才忍者の……!?」

 

 段蔵が袖を振ると、再び紙が飛び出した。

 

<忍者は兎も角、そちらのお侍が私を知っているのは意外>

 

 もう一枚。

 

<私達のような仕事の者にとって名前が売れるのは好ましくない。ひっそりと目立たず任務をこなすのが一流>

 

 更にもう一枚。

 

<だが、知っているなら話が早い。雇ってくれるなら命を掛けて働く>

 

「どどど、どうしゅるでごじゃる銀鏡氏!?」

 

 飛び加藤がどれほどの忍びであるかは、五右衛門が最初から噛むほどに動揺している事からも明らかだ。

 

 だが、深鈴の答えは決まっている。

 

 先程と同じ判断だが、彼もしくは彼女が自分達に危害を加えようとするならいくらでも出来たのだ。他に考えられる可能性としては、自分達に取り入って信奈や重臣達の暗殺、あるいは織田家の機密を盗み出す事だが……

 

 これも、五右衛門や犬千代にさえ気取られなかった隠身術を以てすれば難しい事ではないだろう。わざわざ深鈴の食客から始める意味は無い。

 

 よって食客として迎え入れようと思っていたが……深鈴はここで一つ、テストを思い立った。

 

「あなたが本物の飛び加藤なら、何かそれを証明する技を見せていただけませんか?」

 

「……」

 

 彼あるいは彼女は少しの沈黙の後腕を動かし、袖口から今度は紙ではなく、一切の光沢を廃した黒い刀身が伸びてきた。良く見ると反りが無く、忍刀である事が分かる。刀身を黒く塗るのは、夜間の使用を前提として月明かりの反射を防ぐ工夫だろうか。

 

「!! 銀鈴、下がる!!」

 

 前に出る犬千代。しかし段蔵は槍を突き付けられつつも気にも留めていないように刀を動かし……

 

 そして、自分の胸に突き立てた。

 

「「なっ!?」」

 

 突然の自害。この行動に、犬千代も深鈴も表情と体を固まらせてしまう。

 

 どさりと、血を流しながら前のめりに倒れる飛び加藤。その時。

 

「しっかりするでござる!! 銀鏡氏、犬千代どの!!」

 

 突然響く五右衛門の声。

 

「「はっ!?」」

 

 二人が、頓狂な声を上げる。たった今自刃した筈の飛び加藤は変わらずにそこに座っていて、手にも胸にも刀は持っていないし突き立ってもいない。床にも血は流れていない。これは……

 

「幻術でござる」

 

 と、五右衛門。飛び加藤は忍法の体技以外に幻術を習得している天才忍者だという。深鈴と犬千代は、まんまとそれに引っ掛かった訳だ。

 

 再び、飛び加藤の袖口から紙が二枚、飛び出した。

 

<流石に、忍びの者は簡単には掛からない>

 

<これで私の実力は証明出来たはず。雇うか? 雇わないか?>

 

「言い値を出させてもらいますよ。その代わり、私の専属になってもらいますが……よろしいですか?」

 

 これほどの忍びを雇えるのだ。いくら出しても、惜しくはない。

 

<了承。私も当てのない旅にはくたびれていた所>

 

 ここに契約は成立した。現代なら握手の一つもする所であろうが、ここは戦国時代でましてや飛び加藤は忍び。他者に手を預けるなど有り得ない。

 

「では早速だけど任務を与えるわ。三河の松平元康、彼女の身の回りを探り、変わった事があればすぐに知らせてください」

 

<了解>

 

 そう書かれた紙を残して、次の瞬間には飛び加藤の姿は消えていた。残された三人は思い切り肩を落として、深く大きく息を吐いた。とんでもなく緊張する十数分だった。

 

「まさか、あの飛び加藤を引き入れるとは。お手柄にござるな、銀鏡氏」

 

「ええ……鉄砲の名人を呼ぶつもりが、源内と言い飛び加藤と言い、とんでもないのが釣れたわね」

 

 額に浮かんでいた汗を拭きながら言う二人を尻目に、犬千代は腑に落ちないという表情だった。

 

「……なんで、三河?」

 

 どうして深鈴は、飛び加藤の最初の任務として三河の松平元康の偵察を命じたのか。

 

 分からなくはない。今の松平家は今川家に従属する立場であり、もし今川が上洛を目指して尾張に攻め込んでこようとすれば、必ずや松平も動くだろう。

 

 しかしそれなら、何故「従」である松平家を探るのか。「主」である今川家を調査させた方が、有意義と言えるのではないか?

 

 その疑問をぶつけてみるが、深鈴は「いや、これで良いのよ。その内分かるわ」とそれ以上取り合ってはくれなかった。犬千代としては何としてでも聞きたかったが、飛び加藤は五右衛門や川並衆と同じく深鈴の私兵に近い立場である。ごり押しする事も出来なかった。

 

 そうしている間に、

 

「はい、次の方!!」

 

 再び、面接室の襖が開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「あははっ!! 銀鈴の奴、やったわね!!」

 

「深鈴どのは運も強いようです。八十点」

 

 三日後、清洲城内の茶室では信奈と長秀が、茶菓子の載った皿を挟んで向かい合い、笑い合っていた。信奈は豪快に、長秀は優雅に。

 

「隗より始めよの策。見事に当たった訳ね」

 

「少し意外でした。深鈴どのが『戦国策』をたしなまれていたとは……」

 

 唐土に於ける春秋戦国の時代、燕の昭王は良い人材を集める為に、まず自分の傍にいた郭隗を優遇する事から始めたという。

 

 すると彼の扱いを聞いた優秀な人材が、ならば自分ならばもっと厚遇されるに違いないと千里の道をも苦にせずに各地から燕に集まり、その中には兵法の秀才であり各国が競って欲しがる楽毅将軍が居て、後に将軍の活躍によって、燕は斉の七十を超える城を二城を残して全て制圧したという。

 

 この故事から転じて大事を成す為にはまず手近な者から始める事を「隗より始めよ」と言うのだが、今回の深鈴の策もそれに倣ったものだった。

 

 まず自分付きの乱波に適当な名前を与えて厚遇する。これが今回の五右衛門の役目だった。

 

 次にその噂をあちこちに広める。この役には川並衆やうこぎ長屋の面々がそれと知らされずに当たった訳だが、しかし深鈴の策を成功に導いた要素は、他にもあった。

 

「姫様の政策の賜物でもありますわ」

 

 と、長秀。海の堺、陸の尾張と呼ばれるほどの賑わいを見せる清洲であるが、これは信奈の政策が関係している。

 

 他国の武将は敵国の間者の出入りを嫌い、国境に関所を設けたり高い通行税を取ったりしている。

 

 対して信奈は戦国時代の大名としては異常とも言える大胆さで一切の関所と通行税を廃止して出入り勝手とし、更に楽市楽座の制度を敷いている。故に諸国から商人が集まり活気ある市場が出現したのだ。諸国に散っていく商人達は、間者など使わなくても流言や噂を勝手に広めてくれる。深鈴の策の効果は、最大限に発揮されていた。

 

 今や彼女の食客は川並衆を合わせて300人にも上り、剣術、柔術、本草学、ヒヨコのオスメス鑑定、音楽家、詐欺師、泥棒、物真似芸人、手形偽造、風水師、船乗り、金山師、マタギなど、様々な分野で一芸に秀でた者が集まっているらしい。鉄砲隊を調練する名人も、その中に居た。ただの贅沢に見えた大屋敷の購入も、これだけの人間を一所に集める為だったとすれば納得だ。

 

「言われてみれば何て事のない策なのにね……」

 

 信奈がこぼす。

 

 だが例え書物で読んだ事があったにせよ、あの若さでそれをすぐにしかもあれほどの規模で実行に移せる発想力と度胸を併せ持った者などどれほど居るだろう。少なくとも、今まで彼女が出会った中には居ない。

 

『あいつなら……ひょっとしたら私の話を、理解してくれるかしら……?』

 



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第04話 風雲急を告げる

 

「それじゃあ、行ってくるわね」

 

 出仕の時間となって庭先で掃除している奉公人に一声掛けると、深鈴は清洲城までの道を歩き始める。

 

 深鈴が信奈に仕えるようになってまだ一ヶ月とは経っていないが、これはもう彼女の中で一つの習慣、新たなる日常として定着しつつあった。

 

 しかし、この日は一つ変わった出来事があった。

 

「……あの、通れないのですが」

 

 ずらりと並んで道を塞ぐ若侍達に、爽やかな朝の気分を害されたと深鈴は苛立ちが滲んだ声を上げる。急病人を医者の所に運んでいたとかなら兎も角、こんな奴等に関わり合いになって遅刻する羽目になるなど、判で押したような生活を好む彼女には耐えられない。

 

 いざとなれば陸上部(ただし高跳び選手)の脚力で逃げ切ってやろう。などと考えていると、若侍達の列が割れて彼等よりも幾分年若い少年侍が進み出てきた。

 

「何ですか、あなた方は」

 

 と、深鈴。既に表情も声も内心の不機嫌を隠そうともしなくなっている。

 

「我等は織田勘十郎信勝さまの親衛隊よ!!」

 

 織田勘十郎信勝。その名前を聞いて、深鈴の片眉がぴくりと持ち上がった。この名前は彼女の知る歴史と同じだ。織田信長の、つまりこの世界で言う信奈の弟。なるほど彼の整った面立ちは、信奈のそれと共通点がある。確かに姉弟で間違いはあるまい。

 

「姉上が新しい家臣を召し抱えたと聞いて、どんな奴なのか見に来たのさ」

 

 信勝が言う。未だ声変わり前の高くて無邪気な声だ。

 

「それにしてもこんな大きな屋敷に住んでるのに、得体の知れない連中を沢山住まわせているらしいじゃないか。君も姉上も、一体何をかん」

 

「信勝どの」

 

 ずいと前に出た深鈴に凄まれて、信勝は怯んだように数歩後ずさった。

 

「な、何だよ」

 

「私個人を馬鹿にするのは構いませんが、信奈様は我が主君であり、屋敷に住んでいるのはどの一人も私の大切な客人です。侮辱するのなら、私も黙ってませんよ?」

 

 一戦交える事も辞さないと言わんばかりの強い声でそう言われて「うぐぐ」と唇を噛む信勝であるが、彼とて織田家の長男である。新参者に舐められたままではいられない。

 

「な、何だその口の利き方は!! お前も姉上と同じうつけだ、礼儀がなってないぞ!!」

 

「全くですな、信勝様」

 

「礼儀正しい若殿とは大違いですな」

 

「ですが、信奈様にはこんな不作法者がお似合いかと」

 

 取り巻きの若侍もここぞとばかりに捲し立ててくる。しかし今の言葉の中で、深鈴には聞き逃せない一節があった。今し方信奈への無礼には黙っていないと言ったばかりである。それに、

 

「ほう? 礼儀正しい方が、自分の姉上を阿呆と罵るのですか?」

 

「君は何も知らないんだな。姉上が今まで何をしてきたか」

 

「悪童達と野遊びでもしましたか? 泥にまみれての川乾(かわぼし)? 半狂乱の遠乗り? それとも父親の葬儀に袴無し、縄帯、片袖脱ぎ、茶筅まげで現れて場の一同を睨み付け、極め付けに抹香を鷲掴み、父親の仏前に「喝っ!!」と投げ付けたとか?」

 

「…………!!」

 

 思い当たる事を全て述べられて、信勝は思わず言葉を詰まらせる。

 

 一方で深鈴にしてみればこれらの知識はそんな大したものではなかった。四百数十年後の未来では、日本の歴史が好きな者ならば知っている事ばかりだ。無論信奈の真意も。

 

 当然と言えば当然だが、信勝はそれに気付いていないようだ。彼だけでなく、家中の誰も。勝家や犬千代、長秀も完全には分かっていないだろう。深鈴とて、現代の知識といった「ズル」をしているから知っているに過ぎない。

 

 つまり先代の信秀亡き今、信奈の理解者は家中に皆無だと言える。

 

『でも……あるいは理解されなくて幸せかも知れないわね』

 

 もし分かっていたら、今頃彼女は佞臣どもに邪魔者として暗殺されているだろう。

 

『同年代で同じレベルで話せるのは……私だけ、か……』

 

「わ、分かってるなら話は早い!! 姉上のあんな姿を見て僕は後悔したのさ!! いくら父上の遺言だからって、あんな姉上にこの尾張を任せていたら国が滅びる!! この僕が家督を継ぐべきだったとね!! 母上だって、幼い頃から姉上を嫌って、相手にもしなかった!!」

 

「母君というと……土田御前、香林院さまが?」

 

「そうさ、乱暴で我が儘で南蛮人なんかと親しくして、種子島だの天下だの訳の分からない事ばかり喋ってる姉上は、ずっと母上に疎まれていたさ!! その証拠に、母上は今も僕の居城に……」

 

「信勝さま」

 

 さっきよりも近く、眼前にドアップでずいと凄まれて、またもや「ううっ」と信勝は後ずさる。それを見た若侍達の何人かが鯉口を切るが、もう深鈴の視界に入っていなかった。生き延びる為に仕えたとは言えそれでも信奈は彼女の主君。愚弄されて良い気分ではいられない。

 

「あなたには分かるのですか?」

 

「え?」

 

「何故、先代信秀様が家臣や母親が信奈様を廃嫡してあなたに家督を譲るよう薦める中でそれに応じなかったのか。何故、信奈様がうつけの所行をしてきたのか」

 

 当然ながら、信勝は言葉に詰まる。一方で深鈴はこのまま感情任せに信奈の真意を洗いざらいブチ撒けてしまうべきかどうか、脳内の冷静な部分で検証を始めていたが、その時だった。

 

「銀鏡氏、一大事にごじゃる!!」

 

 空間から湧き出るようにして、五右衛門が姿を現す。信勝や取り巻きの若侍達が驚いた声を上げるが、深鈴はそれに頓着せずにしゃがみ込んで目線を合わせると、五右衛門の耳打ちを受ける。

 

 そして、目を大きく見開いた。

 

「本当なの?」

 

「間違いないでござる」

 

「いけない……!!」

 

 たった今の信勝への怒りもすっかり忘れて深鈴が立ち上がったそこに、今度は段蔵が影から浮き上がるようにして姿を現した。

 

「飛び加藤どの!!」

 

「何かあったの?」

 

「…………」

 

 ボロ布を纏った忍者はすっと一枚の書面を深鈴に差し出す。「読め」という事だ。

 

 深鈴は封を開いて内容に目を通して、そして先程の五右衛門からの報告を受けた時よりも大きな衝撃を受けたように、表情を引き攣らせた。

 

「おい、ちょっと……」

 

「五右衛門、段蔵。戻ってきたばかりで申し訳ないけど、二人にもう一仕事頼むわ。既に食客達の中で足の速い者、口の立つ者、忍びの技の心得のある者を集めた組を編成しているわ。彼等を使っての仕事よ」

 

 いきなり蚊帳の外に置かれた信勝が抗議の声を上げるが、深鈴は取り合わない。最早彼の相手などしている場合ではなくなった。

 

 指示を聞いた二人が消えるのを確かめると、深鈴もまた清洲城へと全力疾走していく。後には、呆然とした信勝以下若侍達が残されるばかりであった。

 

 

 

 

 

 

 

「信奈様、一大事です!!」

 

 城の大広間に、息せき切った深鈴が駆け込んでくる。そこには既に信奈、長秀、勝家、犬千代が集まっていた。

 

「遅いわよ、銀鈴。美濃の事なら既に聞いているわ」

 

 そう、美濃である。信奈が同盟を結んだ斎藤道三の息子である斎藤義龍が謀反したのだ。道三は稲葉山城を追われ、長良川の河原に布陣しているらしい。

 

 これは確かに一大事であったが、しかし深鈴の言う一大事とは別の事であった。

 

「それも重要ですが、三河の松平元康が関口刑部少輔の娘の瀬名姫、今川義元が鶴姫と可愛がっている姪を妹に迎えたとの事です!!」

 

 この報告を聞いた4人の反応は、綺麗に2対2に分かれた。

 

「何ですって!?」

 

「それは本当ですか!? 深鈴どの!!」

 

 信奈と長秀は血相変えて思わず腰を浮かし、

 

「……? 確かに重要な情報だが、美濃より大事な事か?」

 

「……?」

 

 勝家と犬千代は、どうして深鈴も含む3人がこのような反応を見せるのか、理解出来ないという様子だ。

 

「義元は、近い内に上洛する腹ね……」

 

 ぎりっ、と信奈が奥歯を噛み締める。

 

「万千代、銀鈴。説明してくれ。どうして松平元康が妹を迎える事が、今川の上洛に繋がるんだ?」

 

「……よく、分からない」

 

 先程の信勝と同じで蚊帳の外に置かれた勝家と犬千代に説明を求められ、信奈が目線で合図すると長秀が口を開いた。

 

「今川が上洛するとなれば、三河をしっかりと押さえておかねばなりません。三河と言えば松平党。その党首に姪を与えて結束を強化し、他の家族は人質に。となれば元康どの以下松平党は嫌でも今川に逆らえず、上洛の為の急先鋒に使われるのです。敵ながら中々の策……流石は海道一の弓取り、六十五点です」

 

「な、成る程……」

 

 長秀へと感心した視線を向ける勝家。一方で犬千代は同じ視線を、深鈴へと向けていた。

 

 先日飛び加藤を自分専属の乱波として雇った時、最初の命令として松平家の偵察を命じたのはこういう理由からだったのだ。成る程、これなら今川が上洛の為に軍備を整える姿を偵察するよりも更に早く、上洛の気配を察知出来る。あの時の犬千代には分からなかったが「主」の今川家ではなく「従」の松平家を探る意味は、まさにここにあったのだ。

 

「でも、それを聞いたのなら尚更、蝮に援軍は出せないわね。美濃の国主でなくなった斎藤道三には、もう利用価値は無いわ。このまま見捨てましょう」

 

「……よろしいのですか?」

 

 僅かな間を置き、深鈴が尋ねる。確かに、この判断は合理的と言えるが……

 

「当然よ。仮に今川の存在が無かったとしても下手に出陣してみなさい。私達は義龍の軍と信勝の軍に挟み撃ちにされるわよ」

 

 信勝の配下が水面下で斎藤義龍に通じているのは、信奈達ここに居る面々は全員、証拠が無いから処断出来ないだけで公然の秘密として知っている。もし信奈が道三に援軍を出せば、彼等はこの時とばかりに挙兵して清洲を占拠するだろう。さすれば信奈達は道三を助けるどころか帰る国を失って全滅してしまう。

 

 内憂外患を体現したようなこんな状況に於いて信奈の判断を少なくとも国主として、誰が責められようか。

 

『でも……ならば道三の義娘としての、信奈としては?』

 

 そんな思考が深鈴の頭に走った時、一人の小姓が駆け込んできた。

 

「申し上げます!! 近江より、浅井長政どのがおいでになりました!!」

 

 

 

 

 

 

 

 浅井長政。風雅という言葉がぴったりと当て嵌まるような若侍が持ち掛けてきた話は、ずばり信奈との政略結婚であった。

 

 これは、今の信奈の心を揺り動かすには十分なものがあった。

 

 浅井と織田が組んで美濃を北と南から攻めれば義龍軍とて敵ではなく、道三の救出も叶うだろう。更に近江・美濃・尾張が一体となればこれに勝る力は今の日本には存在しない。

 

 確かにこれは織田にも浅井にも損は無く、深鈴の居た時代では「Win-Win」と呼ばれる関係だ。しかし、気に入らないのは長政の物言いである。

 

 旦那様は自分で選びたいという信奈の気持ちは、この際武門に生まれた宿命として捨て置くとしても、長政は口先だけの「惚れた」という言葉さえも言わず、利用するだけの関係と言いくさった。

 

 長政は「返事はまた後日」と引き下がっていったが、信奈は自室に引き籠もってしまい、大広間に残された4人の雰囲気もまるでお通夜であった。

 

「……まだ道三様を救う方法がある。それを聞かされた事で、一度は封じ込めてしまった心を目覚めさせてしまいました」

 

 沈んだ声で、長秀が言う。

 

「だからって、あんな奴に!!」

 

「姫様、可哀想……」

 

 勝家と犬千代も、抱いた不興を表出させている。

 

「しかし、政略結婚は軍略的にも正しい判断。織田家が天下を目指す事だけを考えるなら……この結婚は、七十点です」

 

「万千代、お前!!」

 

 激昂した勝家が、思わず柄に手を掛ける。が、

 

「ただし!!」

 

 雷のような長秀の語気を受けて、白刃は鞘から解き放たれないままに終わる。

 

「私達の姫様の事を考えるなら、この結婚は零点以下です!! この戦国乱世、せめて姫様には、好きな人と……」

 

 深鈴はここまでの会話を瞑目して聞きつつ、そして考えを巡らせていた。

 

 自分も女だから長秀の言う事も好きな人と結ばれたいという信奈の気持ちも十分に理解出来る。

 

 しかし、そうした感情論を一切排除した上でもこの縁談は、織田家にとって良縁であるとは言い難い。

 

 仕官する前に五右衛門に集めさせた諸大名の情報によれば、浅井長政は今まで次々と六角方の武将の妻娘を籠絡し、利用するだけ利用して捨てていると聞く。信奈だけが例外でないと、何故言えるのだ? 結婚したが最後、骨どころか骨の髄までしゃぶられるに決まっている。

 

 しかも現時点での国力は浅井の方が上。これでは道三を救う事が叶っても、織田家が意思を通せるのはそれが最後。後はずっと浅井家の言うがままで、主導権を失ってしまう。

 

「銀鈴、お前からも何か言ってくれよ」

 

 と、勝家。それを皮切りに犬千代も縋るような視線を向け、長秀もじっと彼女を見詰める。三者の視線に共通する感情は一つ。「期待」だ。

 

 仕官する為に大量の鉄砲と絵図面・鍛冶を揃え、大勢の一芸の士を食客として集め、今川の動きを最も早く察知する為に三河を探らせた先見の明。

 

 こうした奇抜かつ効果的な一手を次々打ち出してきた彼女ならば今回もまた何か、姫様が長政と結婚しなくても道三を助けられるような、妖術のような起死回生の一手を打ちだしてくれるのではないかと。

 

 果たして皆の希望を託されて、深鈴の口から出た言葉は。

 

「……長政に返事をするまで、まだ時間があります。それまで、待ってみましょう。その間に、状況が好転するかもしません」

 

「「「…………」」」

 

 それを聞いて、勝家は「くっ」と呻いて膝を拳で叩き、犬千代は無言で俯いてしまい。

 

「……深鈴どの、三点です」

 

 長秀は「期待した自分が馬鹿だった」とばかりに吐き捨てた。切れ者と思っていたのに、こんな誰でも言える事しか言わないとは。かく言う自分とて代案がある訳ではなく、それが忸怩たる思いに拍車を掛ける。

 

 後一日二日の間に、どういう事か今川家が動けなくなって、織田が美濃へと援軍を出せるような状況になるというのか?

 

 そんな偶然に期待するなど、馬鹿げている。

 

「……兎に角、今は私達がこれ以上話し合っていても、仕方無いでしょう。私は姫様のご機嫌伺いにでも行ってきますよ」

 

 場の雰囲気に耐えかねたのか、深鈴は立ち上がって退室していく。

 

「あ……」

 

 犬千代が思わず手を伸ばすが、その手は深鈴の着物の裾を掴まずに、下ろされてしまった。

 

 4人の中の一人が欠けたその集まりは、その後はもう一人も言葉を発さずに、誰からともなく大広間から去っていった。

 



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第05話 尾張の運、信奈の運

 

「失礼いたします。ご機嫌伺いに参りました」

 

「入って良いと言った覚えは無いわよ」

 

 自室の上座にあぐらをかいて腰掛けた信奈は、入室してきた深鈴を見ようともせず、ぶっきらぼうにそう言って捨てた。

 

「では、入ってよろしいですか?」

 

「……まぁ、良いわよ」

 

 事後承諾ながら入室の了承を得られた事で深鈴は一礼して、そして信奈の対面に正座する。

 

 そのまま互いに一言も発しないまま、10分ばかりの時が過ぎる。その間、信奈は傍らの地球儀をぐるぐると弄んでいて、深鈴は瞑目したまま背筋をぴんと立てた良い姿勢を崩さなかった。

 

 果たして、先に焦れたのは信奈の方であった。

 

「……銀鈴、あなたはどうすれば良いと思う?」

 

「……それは美濃への援軍の事でしょうか? それとも、浅井長政どのとの婚姻の一件?」

 

 問いを受けた信奈は、無言。この沈黙の意味を深鈴は正確に察する事が出来た。つまりは「両方よ」という事だ。

 

「それは……」

 

 深鈴は答えない。場合によっては彼女の一言で信奈の命運も尾張の命運も左右されかねない。信奈もこれは即答を控えて然るべき重大な問いであると理解しているが故に、彼女の態度を優柔不断であるとなじる事はしなかった。

 

 そうして再び気まずい沈黙が両者の間に落ちて、信奈はまた地球儀を回し始める。

 

 今度、場の重苦しい空気に耐えかねたのは深鈴の方だった。きょろきょろと視線を外して話をはぐらかすように、

 

「……随分と、色々な物がありますね」

 

 そう言った。

 

 成る程信奈の部屋には地球儀の他にもチェンバロ、良く分からないがアフリカのどこかの部族が祭事の時に使う仮面、ワインの入った瓶。明らかに国産の品ではない物が、単純に片付けられないのかそれとも信奈の都合の良い場所に配置しているのかあちこちに散らかされている。

 

「あぁ、この品々はね、子供の頃に父上が津島の港から連れてきた南蛮の宣教師から手に入れたの」

 

 「これとは違って、他はお金を払って買った物だけど」と、信奈は手元の地球儀をぽんぽんと叩く。

 

「知ってる? 世界は平らじゃなくて、この地球儀みたいに丸く閉じているって事。そして今川、上杉、武田、浅井……私も含めた大名達が統一をめざしてあくせくしているこの天下は、世界全体から見ればちっぽけな島国に過ぎないって事」

 

「はい……」

 

「南蛮では科学が盛んに開発されていて、いずれ強大な武力と経済力で日本を呑み込んでしまうでしょうね。あいつらの国の王様達の中には、日本の事を「黄金の国じぱんぐ」って呼んで欲しがっていて、植民地にしたいと思っている奴もいるらしいわ」

 

「確かに、上杉が持つ日本最大の佐渡金山、武田が所有する黒川金山。今川の安倍金山など、この国には多くの金山があります故……」

 

 だからこそ深鈴の食客達の中に居る金山衆という職業も成り立つ訳だし。

 

「私はね、宣教師から色んな事を教わっている内に、いつか天下を一つに治めたら、日本を飛び出して世界中を巡ってみたいと思うようになったの。鉄鋼で完全防備した大きな船を作って、その船に乗って七つの海を渡りたいの。日本人の誰もまだ見た事のない景色を、最初に見る女になりたいのよ」

 

 今日の信奈は酒が入っている訳でもないのに随分と饒舌である。それが何故かなど、考えるまでもない。何もしないよりも何か話している方が、ずっと楽であろう。

 

「では……その宣教師の方が信奈様の夢の原点と言えるのですね……今度、紹介していただけませんか?」

 

「もう、死んじゃったわよ」

 

 ぶっきらぼうに信奈にそう言われて、これは失言であったと深鈴はずきんと胸に痛みが走るのを感じた。

 

「彼だけじゃないわ。父上も、蝮も。私が好きになった男の人は、みんな死んでしまうわ。私は、人を好きになっちゃいけない女なのかもね……」

 

 自嘲するように言う信奈の言葉を受けて、少しだけ深鈴の目付きが鋭くなった。これは彼女が心中の怒りを堪える時の癖であった。

 

「……入道どのは、まだ生きておられますよ?」

 

 穏やかな口調で訂正するが、信奈はふるふると首を振る。

 

「今の蝮の状況では、もう首を討たれたと同じ事よ」

 

 これは事実である。平地の戦は兵数で勝敗が決まる。そして道三軍と義龍軍は兵力差では話にならない。信奈が援軍を送ればまだ話も違うだろうが……信奈としてはそれは出来ない。それは道三の気持ちを裏切る事になるからだ。

 

 何故、戦上手の道三が圧倒的兵力差がありながら籠城戦ではなく野戦を選択したのか。

 

 鷺山城に籠城すれば信奈は援軍を送るだろう。そうなれば上洛を目論む今川軍が、手薄になった尾張を襲う事は必定。それでなくとも美濃でまごまごと戦っていれば、義龍と繋がっている信勝派の家臣達が空の清洲を攻め落とす。だが、それだけではない。

 

 野戦を選択したのは娘の帰蝶を妹として迎える信奈へ、引き出物を送る為なのだ。

 

 信奈が援軍を送れば、当然ながら義龍軍と信奈の軍は激突し、双方に被害が生じるだろう。信奈の軍兵は彼女だけの兵ではなく、尾張だけの兵でもなく、日本の為の大切な兵。それを死なせる事をあの老獪な大名は良しとしなかった。それこそが彼の引き出物。

 

 信奈も深鈴も、当然ながらそれに気付いていた。

 

「私はこれからも私の夢の為に、大勢の人間を死なせるでしょうね……みんな……こんな、うつけ姫の為に……」

 

「信奈様!!」

 

 窓から見える黄昏を眺めていた信奈であったが、咎めるように強い声を出した深鈴の声を受けて弾かれたように彼女を見る。姫大名は少しだけ、目をぱちくりと大きくしていた。

 

「どうかご自分の事を、卑下なさらないで下さい。あなたが自らを貶める事は、あなただけではなく家中の誰もがあなたを廃嫡するように言っても頑と聞かずにあなたに期待されていた、先代信秀様をも貶める事です」

 

「仏前に抹香を叩き付けた親不孝者に、今更それを言うの?」

 

 信奈は「はっ」と笑ってそう言うが、深鈴に怯んだ様子は無い。

 

「……私は、信奈様がお父上を憎んでいてそのような行いをしたのではないと……信じております」

 

「……へぇ?」

 

 そう言われた信奈は立ち上がると佩刀を抜き、ぴたりと深鈴の首筋に当てた。つまりは「答え如何では斬り捨てるぞ」いう事だ。どうやら父の話題は、彼女の心の中で相当に敏感な部分であったらしい。当然と言えば当然か。

 

 とは言え、事ここに至っては深鈴とてもう後には退けない。こうなったら思う事を、全て口にしてやる。

 

「じゃああんたは、私が何で父上の葬儀であんな振る舞いをしたと思っているの? 聞かせてみなさい?」

 

「……されば、第一に信秀様は享年四十二歳と聞いております。そのご壮齢。やらなければならない事がまだまだ山ほどあった筈です。その道半ばで亡くなられた事に怒っておられたのだと……」

 

 首筋に当てられた刃先が、ぴくりと揺れた。

 

「……他には?」

 

「次に、織田家の重臣達へのお怒りもあったかと」

 

 これは図星である。信奈はあの時、澄まし顔で居並びながら自分達の身の振り方ばかり相談している、自分への謀反を考えている目付きの重臣達への怒りは確かに感じていたが……だが、それだけではない。

 

 目の前の新参者のこの家臣は、”そこ”へも思い至っているというのか?

 

「信秀様の死因は、卒中であったと聞いております。確か、先年にご愛妾を迎えてから、すっかり酒浸りになってしまったとか……」

 

「!!」

 

 信奈と信勝の父・織田信秀は、尾張の虎、神出鬼没と呼ばれるほどの卓越した武将であったが、肥満に分類される体型の持ち主だった。

 

 昔から、四十才を越えた肥満型の武将にとって酒と女は何にも勝る毒薬とされている。ちょうど長年の戦場暮らしの無理がたたり、疲れの出てくる年頃なのだ。そこに若い女を近付けると、自然に酒に浸る機会が多くなり、健康を害していく。

 

 現在信勝の下に付いている重臣達は早く織田家を代替わりさせ、彼を傀儡としてこの尾張を自分達の思い通りに動かす為に、信奈の幼馴染みで美女の岩室(いわむろ)を信秀に側室として娶らせたのだ。結果、その策は見事に当たり、信秀は強酒強淫で命を削り取られてしまった。

 

 信奈はそうなる事を案じたからこそ乱暴放題を演じて、父にあれこれ嫌がらせをしていた。うつけ姫と呼ばれる彼女の行状は有事に備えて精鋭を育てたり領内の地形を調べるという意味もあったが、近年では自分なりのやり方で父を諫めるという目的の方が強くなっていた。だがそれが理解されず、この大事な時に酒と女に溺れて早世した父と、それを手引きした重臣達への怒りは、間違いなく葬儀の日の蛮行の一因だった。

 

 それほどに、父を愛していたのだと。

 

 信奈は、深鈴の言い分に納得したように刀を納める。

 

「……でも、私を評価していたのは父上だけ。他の者は母上でさえ、私をうつけと呼んでいるわよ? それについては、どう思うの?」

 

「……それは、単純にあなたが優秀すぎると言うだけでしょう。世間の小さな枡では、あなたの器は計れますまい」

 

 と、深鈴。彼女の食客の中にも同じような境遇の者が一人いる。

 

 褒められた信奈だったが、彼女は喜ぶでもなく力無く首を横に振った。深鈴の言葉を追従と取っている訳でもない。

 

「……私は、そんな無類の大器なんかじゃないわ。もし、私が本当にそんな器なら、蝮を助ける事だって出来る筈だと思わない?」

 

 無論これは長政と結婚せずに、という事を前提にしての話だ。

 

 彼女は尾張を治める大名。如何に道三が義父だとしても、一個人の感情だけで動いて自国を危険に晒す事は絶対に出来ない。

 

『……ならば……大名としての彼女ならば……』

 

 そう考えて、深鈴は話題を変えて切り出した。

 

「信奈様。仮にあなたが美濃へ援軍を送るのなら二つの利があり、送らないのであれば二つの害があります」

 

「……何? 聞いてあげるわ。言ってみなさい」

 

「……まずは援軍を出す事の利の方ですが……第一に、織田信奈は鉄壁の信義を持った女だという事になります。今の尾張の危険な状況にも関わらず、義父を助ける為に兵を出すのですから。織田信奈は日本中に、ぐんと女を上げる事になります」

 

「二つ目は?」

 

「援軍を送れば必ずどこかで義龍軍と戦闘になるでしょうが、その勝負には信奈様が勝ちます。それにより……信奈様の実力を尾張衆も美濃衆も、はっきりと思い知る事になります。そして援軍を出さない事による害ですが……」

 

「言う必要は無いわ」

 

 と、信奈。彼女は利発な少女である。そこまで聞けば深鈴の言わんとしている事は全て分かった。

 

 援軍を出さない事による害は出す事による利の逆だ。第一に同盟相手を平気で見捨てる女として、今後の外交に支障をきたす可能性がある事。第二に放置しておけば、このままでは義龍が美濃を制圧して盤石の体制を築き上げてしまうという事。

 

 同時に、深鈴の意図についても気付いていた。

 

 彼女の説く利害は、信勝派の反乱や今川の侵攻で尾張が奪われない事、また義龍との戦いで信奈が勝つ事を前提としている、こじつけに近いものだ。彼女ほどの切れ者が、こんな不確定要素を見逃す訳がない。つまり……

 

『たとえこじつけに近かろうと、大名としての私が援軍を送る大義名分を与えて……私の心を、汲もうとしているね……』

 

 これは深鈴の優しさであろう。この思いやりは、素直に嬉しく思う。だが信奈は、それに甘える訳には行かなかった。

 

「……ありがとね。もう下がって良いわよ」

 

「はい……」

 

 深鈴は食い下がる様子も見せず、一礼すると部屋の出口まで歩いていく。二人とも余計な言葉は必要としていない。それだけのやり取りで全てが分かっていた。

 

 だが深鈴は襖を閉める前に足を止めると、信奈を振り返った。

 

「……先程、信奈様は自分が好きになった殿方は全て死んでしまうと仰いましたが……」

 

「ええ、言ったわ。私はそういう星の下に生まれているのね、きっと……」

 

「そうでしょうか? 私の故郷の偉い人は言っていました。不運な巡り合わせだからと言って、その不運にしがみついている事それ自体が不運なのだと。運は、力尽くで自分の方に向かせるものだと」

 

「……デアルカ」

 

 それを最後として襖のすぐ外で膝を折って一礼すると、深鈴は襖を閉じようとする。だがそこに「待ちなさい」と信奈の声が掛かって、襖を動かしていた手が止まった。

 

「銀鈴、もし……その運に負けた時はどうするの?」

 

「……」

 

 その時は。

 

「笑って誤魔化すのですよ」

 

 

 

 

 

 

 

「……では、信奈様。お返事をお聞かせ願えますか?」

 

 夜が明けて、日が昇り、そしてその日が傾きかけて、あっという間に長政が刻限として指定した時刻となった。清洲城の大広間に、全員が集合している。

 

 君主を初め織田家臣団の表情は一様に暗い。

 

 一方で、長政は晴れ晴れとした表情である。彼にとって美濃のこの動乱は、まさしく好機だった。信奈の弱みに付け込み、尾張は浅井の物となる。

 

「これで何もかも、上手く運ぶのです」

 

「わ、私は……長政と……」

 

 拙い。拙い拙い拙い。絶対に拙い。

 

 ぎりりと、深鈴の噛み締めた奥歯が軋む。

 

『五右衛門……!! 段蔵……!! 間に合わなかったの……!?』

 

 ほんの数秒がこんなに長く感じたのは、生まれて初めてだ。後数秒で、取り返しの付かない言葉が信奈の口から出てしまう。

 

「私は長政と……け……けっこ……」

 

 言う。言ってしまう。

 

 長政の口端がきゅっと釣り上がり、家臣団の表情が歪む。

 

 その時だった。小姓が駆け込んでくる。

 

「申し上げます!! 只今、美濃より明智光秀殿が!!」

 

 

 

 

 

 

 

 門をくぐってすぐの広場では十数名の道三の兵と、それを率いる少女侍が傅いて信奈達を待っていた。長い黒髪を後ろで一つに束ね、金柑付きの髪留めをしている。彼女が道三の小姓、明智光秀である。

 

「あんた達……蝮は……? 蝮も一緒なんでしょう?」

 

 震える声で尋ねる信奈に、光秀は顔を上げた。沈痛な表情が露わになる。

 

 背後の籠から、一人の少女が出てくる。道三の娘の、帰蝶だ。

 

「約束の妹をお送りする。重ねて援軍は無用、と……道三様より言伝を預かって……いる……です」

 

 双眸より涙を滂沱として流しつつ、光秀が報告する。きっとその言伝を受ける時、彼女はそれを主君の遺言として聞いていたのだろう。

 

 この時、信奈ははっきりと動揺を見せた。今までで深鈴が見た中で一番、感情の波が大きく表に出ている。

 

「ぜ……ぜんぐん……」

 

 全軍で、美濃へ、援軍に。

 

 体の芯から湧き上がってくるような嗚咽と慟哭を抑えつつ、その一つの命令を下そうとする。

 

 そんな彼女の震える背中を見て、長政はくすりと笑う。光秀達がやって来て話が中断されたのは気に入らなかったが、しかしどうやら天は自分に味方してくれているらしい。

 

 これで決まりだ。援軍を出すか否か。その二つの天秤の間で揺れていた信奈の心は、今や完全に出兵する方へと傾いた。

 

 今川や弟を抑えつつ道三を救う為には、浅井の協力が不可欠となる。その為には自分と夫婦の契りを結ぶ他は無い。

 

『五右衛門っ……!! 段蔵っ……!!』

 

 深鈴は焦っていた。

 

 正直、ここまで早く事態が動くとは思っていなかった。だから二人を責める事は出来ないが……それでも、思ってしまう。

 

 間に合わないのか? もっと早くやれなかったのか!?

 

「ぜんぐん……ぜんぐん……でっ……み……」

 

「御免っ!!」

 

 その下知を下させまいと勝家が走り出し、もう半秒でその拳が信奈の鳩尾に叩き込まれようという瞬間、

 

「申し上げます!!」

 

 光秀達を迎えたまま開けっ放しの門をくぐり、人馬共に汗びっしょりの伝令が駆け込んできた。「姫様の前で、無礼ですよ」と長秀が咎めるが、その伝令は「火急の場合なればご容赦」と一声詫びると下馬して、報告に移る。

 

「国境の今川軍に、動きがありました!!」

 

「「「「!!」」」」

 

 場の全員の表情が引き攣る。こんな時に、今川まで。まさかもう上洛の準備を整え、尾張への侵攻を始めたのか!?

 

「武田と上杉が同盟し、背後から上洛の隙を衝こうという動きに対応する為、陣払いを始めております!!」

 

「何ぃっ!?」

 

「本当ですか、それは!!」

 

「ま、間違いじゃないわよね!!」

 

 信奈を含め、報告を聞いた全員が矢継ぎ早にその伝令へと詰め寄っていく。

 

 今川が上洛の為に駿府を空にした所を見計らって、武田と上杉が背後を衝く為に同盟する。これは確かに考えられない事態ではなかった。

 

 現時点で最も天下に近いのは余人に非ず、やはり今川義元である。動かせる兵力から言っても、今川は駿府・浜松・吉田・岡崎といった各地の城に守備隊を残して尚、上洛の為に二万五千の軍勢を動員出来る。これは今の日本で最大の数だ。

 

 全軍でも信奈が精々五千。

 

 上杉が八千。

 

 武田で一万二千。

 

 北条で一万。

 

 その戦国最大の勢力を倒す為の同盟。十分に有り得る話である。また、義元にしてもどちらか一方であれば兎も角、甲斐の虎と越後の軍神が手を組んだとあっては全力を以て応戦せねば危ないと見て、信奈のようないつでも倒せる小冠者は二の次としたのだろう。

 

 屈辱だが……しかしこれは今の信奈達にとっては、まさに天佑であった。これで少なくとも今川軍は気にせずに動ける。

 

「ば……馬鹿な……!! 何もこんな時に……!!」

 

 誰にも気付かれぬよう、長政は歯噛みする。

 

 何もかも、全てが上手く運んでいたのに。何故こんな時に、こんな知らせが入ってくる!?

 

「銀鏡氏」

 

 声がして深鈴のすぐ傍に、五右衛門と段蔵。彼女直属の二人の忍者が膝を付いた格好で姿を現した。段蔵の袖口から、紙が飛び出す。

 

<任務を達成し、只今帰還した>

 

「……ご苦労様、二人とも」

 

 他の者には見えないように、深鈴はぐっと指を立てて応じる。彼女の生まれ育った時代ではサムズアップと呼ばれる仕草だ。

 

『凄まじくギリギリのタイミングだったけど……何とか、間に合ったわね』

 

 先日、深鈴は「元康が義元の姪を妹にした」という段蔵の報告を聞いた時から、未だ織田家中が二つに割れてしまっているこの時期に今川に攻め込まれてはひとたまりもないと見て、返す刀で二人に忍び組を率いさせて駿府に「武田・上杉が同盟して攻め込んでくる」という流言を広げさせたのだ。

 

 現代人の常識としてホウ・レン・ソウ、つまり報告・連絡・相談を心掛けている彼女だったが、あの時は信奈に許可を求めていて手遅れになってはそれこそ一大事と考え、独断専行に走った。出来ればやりたくはなかったが……しかし、結果としてそれが幸いした。

 

 浅井長政が求婚してくる事だけは彼女にとっても全くの予想外であった。そして今、伝令が駆け込んできたのはまさしくタッチの差だったのだ。少しでも何かが遅れていれば、美濃への出兵か信奈の結婚のどちらか、あるいは両方が決まってしまっていたに違いない。

 

『これで少なくとも……時間は稼げる』

 

 後は、信奈がどんな判断を下すかだが……

 

 果たして彼女は、まずは長政に向き直った。

 

「申し訳ないけど、私はこれから蝮の援軍に美濃へ行かなければならないわ。結婚の事については追って返事させてもらう。今回はお引き取り願うわ」

 

「は……はい」

 

 これには浅井家の当主も「ぐう」と黙る他は無かった。

 

「姫様っ!!」

 

 先程と同じく勝家が腕尽くで止め立てしようとするが、しかし振り返って自分を見据える主君の鋭い眼光を受けて「うっ」と怯んだように言葉を詰まらせてしまう。

 

 今の信奈は先程までの感情に任せて全軍を美濃へ向けようとしていた彼女とは、明らかに違っている。その瞳は感情を超越した強い意思の光を宿し、爛々と燃えていた。

 

「援軍は鉄砲隊八百、槍隊、弓隊、合わせて二千!! 清洲の守備は勝家、あなたに任せるわ!!」

 

「!! 承知!!」

 

 下知を受け、織田家最強の女武者は一度膝を付いて礼の姿勢を取ると、守備隊の指揮を執るべく慌ただしく走っていく。

 

「信奈様!! 道三様は援軍は無用と……」

 

 主の遺言を無為にするのかと光秀が詰め寄るが、先程の勝家と同じく信奈の眼光に射竦められてしまう。

 

「それは援軍を出せば尾張が今川に攻められる、義龍の軍と私の軍がぶつかればこちらに多大な被害が出る。その二つが前提の話でしょう? 安心なさい。私にそんな気遣いは無用だと、証明してあげるわ!!」

 

 光秀にも援軍に同行するよう告げると、犬千代を引き連れた信奈は戦支度をする為に一度城内へと入っていこうとする。そうして深鈴とすれ違う時、

 

「銀鈴」

 

「……はい」

 

「貴女の言う通りだったわね。運を力尽くで自分の方へ向ける所、見せてもらったわ」

 

 そう言われて、深鈴は自分の心臓がいきなり凄い音で鳴った気になった。

 

「深鈴どの、五十点です」

 

 いつの間にか背後に立っていた長秀も、そう採点した。

 

 ごくり。

 

 深鈴は唾を呑んだ。この二人にだけは、バレている。

 

 長秀の点数はそのまま信奈の心情であると考えて良いだろう。信奈に許可を得るどころか一言も告げずの独断専行は許し難いが、結果オーライになったので今回だけは見逃す、という所か。

 

「は……」

 

 悪いのは自分であるという自覚も手伝い、深鈴は目を伏せて「肝に銘じておきます」という意思を示す。彼女達のやり取りを見て、事情を知らぬ犬千代だけが「?」と首を傾げていた。

 

「銀鈴、あなたの乱波二人、貸してもらうわよ」

 

 未だ深鈴の背後に跪いている五右衛門と段蔵を見て、信奈が言う。

 

「拙者達でごじゃるか?」

 

「…………」

 

「今度は私の番……!! 私が私の運を力尽くで変える所を、見せてあげるわ!!」

 



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第06話 道三救出戦

 

 道三の援軍として美濃へ入った信奈率いる織田の精鋭達は、国境に差し掛かった所で義龍・道三、双方の陣営が放っていた物見によって発見された。

 

 当然、どちらの物見も「信奈軍来る!!」の報を伝える為に本陣へと走ろうとする。だが道三方の物見が十歩ばかり駆け出した所で、彼の首筋にトンと軽い衝撃が走った。

 

「え……? 何、が……?」

 

 不意に視界がぐらりと揺らいで、走るどころか立っている事も出来なくなってどさりとその場に転がる。

 

「な……? は、早く……道三様に……」

 

 援軍が来た事を、伝えなければならないのに。

 

 だが論理立てた思考を行えたのはそこまでだった。後はもう視界が暗くなって、彼の意識はそこで閉じた。

 

 倒れた物見のすぐ傍に、五右衛門が姿を現す。今、物見を気絶させたのは当然彼女の仕業だ。これで、信奈が援軍に駆け付けたという情報が道三に伝わる事はなくなる。

 

 そう、伝わっては困るのだ。少なくとも今すぐには。もしこの情報がそのまま道三に伝われば、彼はすぐさま尾張勢に痛手を負わせまいと義龍軍へ遮二無二突っ込んで斬り死にを選ぶだろう。それをさせる訳には行かない。

 

 五右衛門へ、援軍よりも先行して美濃に入り道三方の物見を気絶させて情報を遮断せよと命令したのは、信奈だ。彼女は今回に限り、五右衛門と段蔵。二人の忍者への命令権を深鈴から受け取っていた。

 

「さて……」

 

 五右衛門は、周囲に気を張り巡らす。だが何の気配も感じられない。道三方の物見が他に居るかとも思ったが、少なくともこの周辺には居ないようだ。ならばと別の場所へ移動すべく、彼女は姿を消す。

 

 恐らくは今頃、義龍側の物見が本陣に信奈軍来襲の報を知らせているだろう。それを受けて義龍がどう動くかだが……

 

「両軍の合流を阻止するように動けば、こちらのものでござるにゃ」

 

 

 

 

 

 

 

「何ぃ!? 尾張のうつけ姫が、親父殿に援軍だと!?」

 

 長良川のほとり、道三の陣の対岸に敷かれた自陣でその報告を受け取った斎藤義龍は、手にしていた盃を叩き割った。明日には親父殿の首を取り、名実共に自分が美濃を統治する筈だったのに。

 

「それにしても……織田信奈、聞きしに勝るうつけ姫であったか」

 

 この乱世には嫁であろうと妹であろうと、全て政略結婚の道具でしかない。そして織田信奈が帰蝶を妹としてもらい義父として同盟関係を結んだのはあくまでも美濃の大名である斎藤道三であって、斎藤道三という個人ではない。美濃の大名の座を追われた道三には最早利用価値は無い。ならば当然、信奈は一兵の援軍も出さずに見捨てるだろう。と、それは義龍や美濃三人衆の共通した見解であったが……当てが外れた。

 

 だがそれならそれで良い。放っていた乱波の報告によれば今川に手薄にした尾張を衝かれる可能性は無くなったようだが、だが尾張にはこちらと通じている信勝が残っている。

 

 義龍としては、勝利する為に信奈軍と交戦する必要すら無かった。美濃に釘付けにしておきさえすれば、信勝派の家臣が蜂起して清洲を襲い、信奈達は帰る国を失う。そうなれば当然兵の士気はガタ落ちするだろうし、信勝軍と自軍とで挟み撃ちに出来る。

 

 そうなればしめたもの。親父殿とうつけ姫、どちらからでも各個撃破してしまえば良いだけの話。

 

 逆に言うと、この状況で義龍が気を付けねばならない唯一の事は。

 

「義龍殿。うつけ姫と入道どのを合流させては一転、こちらが窮地に陥りまするぞ」

 

「うむ」

 

 美濃三人衆の一人・氏家卜全の指摘に、義龍は頷く。

 

 そう、信奈軍と道三軍との合体。それだけはさせる訳には行かない。

 

「……よしっ!!」

 

 六尺五寸の巨体を床几(しょうぎ)から勢い良く立ち上がらせると、義龍は槍を振り回して全軍に号令を掛ける。

 

「親父殿の軍勢は少数、いつでも叩ける。合流を防ぐ為、うつけ姫を長良川の上流へと誘い込むのだ!!」

 

 下流に布陣している親父殿の軍との間に距離を作り、その狭間に自軍を入れて合流を阻止する。これで勝負は決まる。

 

 尾張のうつけ姫よ、見ているが良い。情に溺れて命を散らせた愚か者として、末代まで汚名を残してくれる。

 

 そして親父殿よ。美濃の「譲り状」などしたためたのが間違いであったと、うつけ姫の首を差し出して思い知らせてくれるわ。

 

 

 

 

 

 

 

「申し上げます!! 信奈どのの援軍が美濃に到着致しました!!」

 

「なんじゃと!!」

 

 駆け込んできた伝令からの報告を受け、道三は思わず床几から腰を浮かせた。そして数秒ほどの間を開けてどすんと再び腰掛けると「馬鹿な!!」と膝を打った。

 

 だが百戦錬磨の老将はすぐに冷静さを取り戻して、状況の把握に努めようとする。

 

「それで信奈どのの軍と義龍の軍、双方の現況は?」

 

「はっ、敵は信奈どのの軍勢を上流へと誘ってお屋形様との距離を作り、その間に自軍を楔として各個に撃破を企てているようです」

 

 その報告を聞いて、道三はほっと胸を撫で下ろした。それならば自分が今すぐにでも義龍の軍に切り込めば、自軍から遠く離れた信奈の軍は痛手を被らずに済む。

 

 援軍は無用と十兵衛にも言伝を頼んだが、しかし信奈は尾張を治める大名である前に一人の少女でもある。一度は、情で動いて判断を誤る事もあるだろう。

 

 だが、聡明な彼女に二度はあるまい。救出すべき対象である自分が死んでも尚、美濃でまごまご戦っているほどバカではない。

 

「バカ娘が……こんな死に損ないのジジイの為に、わざわざ危険を冒しおって……信奈ちゃんの想い、確かに受け取ったぞ」

 

 「その優しさは死んでも忘れん」と、道三は立ち上がる。全く、死出の旅には最高の土産が出来た。

 

 かくなる上は今すぐにでも義龍軍へと突入して織田勢が無傷のまま戦を終わらせねばと、地面に突き立てていた槍を引き抜く。その時だった。たった今援軍の情報を持ってきた伝令が、

 

「更に重ねて申し上げます。上流に向かった織田勢は、実は信奈様の囮隊でありました」

 

「何っ!?」

 

 そう、言ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、陸路を行く義龍軍と併走して長良川を遡上する船上で、長秀はすぐ側に立つ信奈に声を掛けた。

 

「姫様、そろそろ頃合いかと」

 

「……」

 

 先頭を進む船の舳先に立っていた信奈は無言のままに頷くと紅い外套をぐっと掴み、脱ぎ捨てる。その陰に隠れて一瞬だけ彼女の姿が見えなくなり、そして再び露わになった時、そこに立っていたのは既に織田信奈ではなかった。

 

 ボロボロの黒布と、爛々と輝く金の両眼。深鈴配下の二人の忍者の片割れ、飛び加藤こと加藤段蔵。

 

 彼あるいは彼女の姿を、山間を進む義龍軍も認めたのだろう。それまでは一糸乱れずに上流へと進んでいたかがり火の動きが、にわかに乱れる。

 

「これで……こちらの姫様が影武者であった事、並びに我々が囮であった事に、義龍も気付いたでしょう……」

 

 誘い出していたつもりの自分達がその実、誘い出されていた事に。

 

「と、なれば……次に彼等の取るべき行動は……」

 

 ややあって右往左往するように揺らぎ、止まっていたかがり火達が、再び整然とした動きを取り始める。先程まで進んでいたのとは、逆方向に。来た道を戻っていく。ただしほんの数分前より、ずっと速く。

 

「ここまでは全て、姫様の策の通り……五十点」

 

 長秀は満足げに頷く。

 

 これでこの先どうなろうと、織田軍は被害を最小に抑えて尚かつ義龍に痛手をくれてやる事は出来る。だが今回自分達が美濃へと入ったのは、斎藤道三を救出する為だ。たとえ何百の兵を討ち果たしたとしても、彼を救えなければこの戦いはこちらの負けだ。

 

 戦いの趨勢、それを託されたのは自分ではない。自分の役目は、義龍を誘い出し、彼等が引き返して後は自分達も引き返し、後方より追い立てる事。

 

「全部隊、反転!! 義龍軍に追い討ちを掛けます!!」

 

 各々に、背負った役目がある。

 

 勝家の役目は、信奈が戻るまで尾張を守る事。

 

 犬千代の役目は、信奈の傍で彼女を守る事。

 

 そして、もう一人。

 

「頼みましたよ、深鈴どの……」

 

 

 

 

 

 

 

「信奈様の本隊は、ここよりほど近い上流に待機しております」

 

「……そなたは」

 

 何故に、この伝令はそんな最新情報を知っているのだ? 大勢の伝令が矢継ぎ早に伝えに来るのならば得心も行くが、たった一人がこれほどの情報を、どうやって?

 

 そこまで考えた所で未だ老いに侵されぬ道三の頭脳は、答えを見抜いていた。

 

「顔を上げられるがよい、織田の軍使よ」

 

「……バレてしまいましたか」

 

 伝令はすくっと立ち上がり、目深に被っていた陣傘を取る。その下から現れたのは灰銀の長髪と度の強い眼鏡。深鈴の美貌があった。

 

「織田軍、銀鏡深鈴。我が主の名代として、斎藤道三さまをお迎えに上がりました」

 

 穏やかな笑みと共に、京の貴族もかくやと言わんばかりの完璧な作法で恭しく優雅に一礼する深鈴であるが、すぐに表情を引き締める。全てが信奈の立案した策の通りに進んでいるとすれば、時間はあまり残されてはいない。

 

 その僅かな時の中で、一度死を決意した道三の心を変えねばならない。それは容易な事ではあるまい。いかな話術を以てそれを為すのか?

 

「ご使者、戻って信奈どのに伝えられよ。生き死にを超えた誠に厳しきそなたの信義、道三は決して忘れぬ。正徳寺に引き続き、またもや見事にしてやられたとな」

 

「……共に参ってはいただけませぬか? 私とて信奈様より全幅の信頼を頂いてお迎えの大任を委ねられた身。連れてこられませんでした、などという返事は持って帰れませぬ」

 

「そうは行かぬ。重ねて言うが、ご使者どのは一刻も早くここを離れられよ。齢六十三、明日死んでもおかしくないようなこの命可愛さにそなたのような若い命を散らせたとあらば、この道三、ただの小悪党に成り下がってしまうわい。そなたのような若者は、この先ずっと信奈どのを支えてゆかねばならぬ筈。ここはそなたの死に場所ではあるまい」

 

 こちらとて一歩も引かない旨を伝える深鈴であったが、道三は取り合わない。テコでもこの場を動かぬと言わんばかりだ。

 

 深鈴にしてみれば意外、という訳でもなかった。老いたりとは言え流石は戦国三大梟雄が一角。この大悪党を前に、小手先の話術は通用しない。

 

「……では、言い方を変えましょう。あなたは信奈様に迷惑を掛けまいと死ぬ気だったのでしょうが、そんなものは余計なお世話です」

 

「なんじゃと!?」

 

「以前、私は信奈様に世間の小さな枡ではあなたの器は測りきれないと申し上げた事がありますが……それはあなたでも、例外ではないと言っています。生涯掛けて美濃一国しか治められないような器で、どうして信奈様を測れると思われたのですか?」

 

 戦場とは言え即刻無礼打ちにされても仕方の無い暴言であるが、しかし道三はこれを受けて怒るどころか、逆ににんまりと笑ってみせる。

 

「まるでそなたなら、測りきれると言いたげだの?」

 

 そう言われると、道三に合わせるように深鈴もまた不敵な笑みを見せた。

 

「さて、どうでしょうか……しかし、もし入道どのが我が主の器がどれほどのものか、今一度測ろうとされるならば、私と共に来られるがよい」

 

「安い挑発だの」

 

 ふんと鼻で笑う道三。その時、二人の頭上から声が掛かる。

 

「銀鏡氏、義龍の軍勢が引き返してきてござる!!」

 

 五右衛門だ。木の枝の上に立って、周囲を見回している。

 

 どうするか。共に行くにせよ、道三を置いて行くにせよ、そろそろ決断の時だ。果たして、道三の答えは。

 

「良かろう小娘。案内(あない)せい!! 見え透いたその挑発に、敢えて乗ってやろうではないか!! この上もし織田勢が痛手を被るようなら織田信奈はその程度の器、そなたの目もワシの目も揃って節穴であったと、笑って死んでやるわ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 道三の陣より十丁(1キロメートル)ばかり上流。数艘の川船と僅かな護衛を伴って、信奈は鞘に収まったままの刀を地面に突き立て、ぴんと水平に伸ばした両腕を預ける姿勢で仁王立ちして、深鈴達の帰りを待っていた。

 

 今回の策は、全て彼女の立案だった。

 

 まず五右衛門を先行させて道三方の物見を制圧し、尾張勢が援軍の為に美濃へと入ったという情報が、彼に伝わらないようにする。

 

 次に義龍は、信奈軍来たるの報を聞けば必ず道三軍との合流を阻止する為に動くだろうから、その策にはまったと見せ掛ける為、長秀に囮隊を率いさせて長良川を遡らせる。この囮隊に織田信奈が居ると見せ掛ける為の影武者役は、天才忍者で当然ながら変装の心得もある段蔵が務める。

 

 その隙を衝いて、深鈴を道三の本陣に説得の使者として送り込む。本来ならば信奈自身が向かいたかったが、彼女は上流へ向かったのが囮隊と気付いて引き返して来るであろう義龍軍に備える為に、本隊の指揮を取らねばならなかった。

 

 この策に今の所問題があるとすれば、深鈴が道三を説得出来ない可能性だが……

 

「大丈夫でしょうか……」

 

 傍らに控えていた光秀がそう不安を口にするが、しかし信奈はにっかりと笑い。

 

「大丈夫、あいつなら必ずやり遂げるわよ」

 

 その言葉が聞こえていた訳でもあるまいが、狙っていたように土手の向こうから十数名の人影が見えて、こちらへ走ってくる。

 

 人影の中に道三と深鈴のそれを確かめて、信奈は「ね」と光秀に笑いかけた。

 

「道三様!!」

 

 光秀は目に涙を浮かべ、もう二度と会う事はあるまいと思っていた主君へと駆け寄る。

 

 深鈴は信奈のすぐ傍まで走り寄ると、さっと跪いた。

 

「信奈様。この銀鏡深鈴、道三様お迎えの任を果たし只今……」

 

「話は後よ、銀鈴!!」

 

 報告は信奈の大声で報告は切られて、そして彼女はたった今道三や深鈴達が駆けてきた方向を指差す。まだ騎馬や武者の姿は見えないが、土煙が上がっているし馬蹄の音も聞こえてきている。

 

 戦に於いて引き上げる時ほど難しいものはない。道三を説得して連れてくるという深鈴の任務は相成ったが、未だ信奈達は道三含めて危険な状況に置かれているのには変わりなかった。

 

「さあ、みんな早く船に乗って!! 川を渡るわよ!!」

 

 道三の部下達を乗せた船は次々に岸を離れ、長良川を進んでいく。五右衛門もその中の一つに、既に乗り込んでいた。

 

「信奈様もお早く」

 

「私は一番最後よ」

 

 深鈴がそう急かすのと、鬨の声を上げて義龍軍が彼女達の視界に現れるのは同時だった。

 

「信奈様、敵です!!」

 

「分かってる、出して」

 

 船頭にそう指示して、信奈、深鈴、道三、光秀を乗せた最後の船が長良川へと漕ぎ出す。駆け付けてきた軍の先頭を走っていた義龍にも、その姿ははっきり捉えられた。

 

「おおっ!! あれは親父殿に、うつけ姫!! 奴等だけは逃がすな!!」

 

 彼の下知を受け、美濃勢の騎馬隊はある者は馬に乗ったまま川の中に押し入り、またある者はほど近い場所にあった船に乗り込んで、一斉に信奈達を追い始める。

 

 だがそれも全て信奈の計算通り。思う壺。

 

「犬千代!!」

 

 信奈が大声で叫ぶ。それを合図として対岸に立つ、織田家中随一の槍の使い手が愛用の朱槍を大きく掲げ、

 

「鉄砲隊、構え!!」

 

 そう指示すると対岸に配置されていた信奈軍の本隊が持つ、信奈が買い揃えた物と深鈴が仕官の手土産として持参した物。そして尾張領内で作られた物。合わせて八百の銃口が一斉に川向こうの美濃勢へと向けられ、

 

「皆、頭を下げなさい」

 

 無論、それは渡川中の船上からも見えていたので、信奈の指示を受けて彼女は勿論、深鈴、道三、光秀は慌てて体を伏せ、頭を低くする。

 

 犬千代はそれを見て頷くと、槍の穂先を義龍軍に向け、同時に叫ぶ。

 

「撃て!!」

 

 響く、無数の破裂音。数百の銃弾が一斉に追っ手へと襲い掛かる。あっという間に第一隊が全滅したのに衝撃を受けた義龍だったが、続いて二の手三の手を繰り出させる。

 

 だが、川の中では当然ながら兵の動きは制限される。彼等が信奈に追い付くよりも、鉄砲隊の弾込めが終わる方が早かった。

 

 銃弾の雨が再び義龍軍へと殺到する。繰り出した追撃隊は一人の例外もなく、丸太のように川面に浮かぶ羽目となった。

 

「義龍様、このままでは……!! 間も無く、上流へ向かった囮隊も引き返して参りましょう、そうなったら……!!」

 

「ぬううっ……!!」

 

 美濃三人衆が一人・稲葉一鉄の進言を受け、義龍は歯噛みする。

 

 確かにこのままでは信奈や道三を逃がしてしまうどころか、長良川の上流へと誘い出される振りをしていた囮隊に背後を衝かれ、挟撃されてしまう。前から飛んでくる鉄砲と、後ろから突き出されてくる槍。如何に数で勝ろうとこれでは勝負にならない。

 

「おのれ……うつけ姫がっ……!!」

 

 織田勢を誘い出すつもりが誘い出され。

 

 信勝の軍と挟撃するつもりが挟撃され。

 

 たった一度の戦で、二度も裏をかかれてしまった。こんな屈辱は初めてだ。だが、その怒りに任せていつまでもここで戦い続けてはそれこそ全滅してしまう。

 

 義龍として百戦錬磨の道三から兵法を叩き込まれている身。ここで無駄な犠牲を出し続けるのは馬鹿げていた。

 

 ここは退くのだ。君主たる自分が生き延び、そして軍団としての体を成すほどの兵が残っていれば再起も図れる。

 

「退けっ!! 退けっ!!」

 

 退却の指示を受け、稲葉山城へと引き返していく美濃勢。

 

 危険は去った。それを見て取ると川向こうの犬千代が大声で「撃ち方、止め!!」と指示を出して、銃弾の雨が止んで数秒が経ち、第二波が到来しない事を確かめると信奈達は顔を上げた。

 

「どう、蝮? これが鉄砲の威力よ」

 

 同じように顔を上げた道三は、しかし信奈ではなく後ろに座っていた深鈴へと振り返った。彼女もまた彼女の主と同じように「どうだ、見たか」と笑っていた。

 

 道三はこれを受けて「うむむ」と唸る。

 

 確かに、これは自分が間違っていた。自分の見立てでは、信奈の軍と義龍の軍がぶつかり合えば双方に多大な被害が生じると見ていたが、実際はどうだ。

 

 織田信奈は大量に備えた鉄砲と緻密な作戦によって、尾張勢に何の傷跡も残さずに義龍を退けてしまった。

 

 この若さで鉄砲に目を付けた才覚と、完璧に義龍軍の動きを読み切って全ての兵を動かした戦略眼。確かに、信奈の器の大きさは道三の考えていたそれを大きく上回っていた。

 

「信奈どの」

 

「ん?」

 

「銀鏡どのはそなたの良き家臣じゃ。大事にするがよい」

 

 確かに信奈の器の大きさは規格外と言うに十分だったが、誰よりも正確にそれを把握していた深鈴もまた、違った意味での規格外であると、道三の目にはそう映った。故に。

 

「そなたと同じ夢を見れるのは、今の世にはそやつぐらいしかおるまいて」

 

 夢とは誰かと共有してこそ。唯一人だけの夢は野望でしかなく。その夢が楽園を創るか地獄を生むかは、当人ではなく周りの者に掛かっていると言っても良い。

 

 主君は夢を示し。臣下は夢を見極め、共に歩む。

 

 それを為すのが、きっと深鈴なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 こうして信奈達によって行われた道三救出戦は、ほぼ無傷の信奈軍に対して義龍軍には痛手を与え、道三の救出も成功させるという尾張勢にとって恐らくはこれ以上無い結果に終わった。

 

 しかも、これらの作戦は出発から帰還まで全て電光石火の動きにて行われたが故に、尾張に残った反信奈派は織田家中最強の勝家を擁しているにもかかわらず、動くに動けなかった。

 

 この出兵により、深鈴が説いた美濃へ援軍を出す事による二つの利は、どちらも信奈にもたらされた。

 

 織田信奈は国内には謀反の常習犯である弟を持ち、またいつ何時上洛を目指す今川に留守の尾張を襲われても不思議ではない苦しい立場ながら、義父の危機には迷わず参ずる鉄壁の信義を持った女として日の本全土に大きくその名を上げ。

 

 更に義龍軍に快勝した事で尾張の者も美濃の者も、敵も味方も。全て彼女の実力を思い知った。これにより信勝派から何名もの家臣が信奈の側に鞍替えし、また美濃では義龍が築き上げようとしていた盤石の体制に一石を投じる事となったのである。

 

 この戦を長秀は、

 

「義龍を討ち取れなかった事以外は文句の付けようの無い戦果……九十七点です」

 

 そう評した。

 



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第07話 尾張の内乱(前編)

 

 朝靄の立ち込める尾張の林道を、三頭の馬が駆けていく。それらの馬にはそれぞれ信奈、犬千代、深鈴が乗っていた。

 

 信奈は毎朝三里(12キロメートル)程度を馬で駆けるのが日課であり、これまでは護衛として犬千代が随伴するのが常だったが、ここ最近ではそこに深鈴も加わるようになった。

 

 やや裕福ながら日本の平均的な家庭に生まれ育った深鈴に乗馬の経験などは小学生の頃、北海道に家族で旅行に行った時に牧場で一度乗った事があるぐらいだった。しかしこの時代にタイムスリップして織田家中でそれなりの地位を持つようになった以上は、馬ぐらい乗れなくては格好が付かないしいざという時に不便と考えて勝家や犬千代に指導を頼み、今では馬に乗らせては尾張一ともされる信奈にも何とかではあるが追いすがる事が出来るぐらいには上達していた。

 

 そうして手頃な広場に辿り着くと、信奈は馬を止めた。

 

「犬千代、銀鈴、ここで一休みするわよ」

 

 ひらり、と愛馬から下りる信奈。犬千代もそれに続く。二人に比べて乗馬の経験が薄い深鈴だけは、少し息を整えてから転げ落ちるようにして下馬した。

 

 どっかりと切り株に腰を下ろし、腰の瓢箪の中身をぐいっと飲み干す信奈。そして「ふう」と溜息を一つ。

 

「姫様、最近元気ない……」

 

 傍に控える犬千代はそう呟くと「何か心当たり無い?」と、深鈴に尋ねてくる。

 

 そう聞かれて深鈴は少しだけ思案顔になると、

 

「五右衛門!! 段蔵!!」

 

 直属の忍び二人を呼び出す。一秒ほどの間も開けず彼女のすぐ傍にあった影が質量を持ったように盛り上がって、二人の忍者へと変化する。

 

「ここに」

 

<只今推参>

 

 流石にこんな短い台詞では五右衛門も噛まない。一方で段蔵は、相変わらず咳一つ発さずに紙面を寄越して会話する。

 

「二人とも、しばらく私達のぐるり一丁(100メートル)に誰も近付かないように見張っていて」

 

「承知」

 

<了解した>

 

 そうして忍者達は姿を消す。二人の忍びとしての技量は、この場に居る3人の誰もが認める所。これで余人に会話を聞かれる心配は無くなった。それを確認すると、深鈴は会話を始める。

 

「ずばりお聞きしますが……信奈様は最近色々とお悩みのご様子……その原因は……信勝様……ですね?」

 

 それを聞いていた信奈の片眉が、ぴくりと動く。そして未だ無言のまま。沈黙を「続けろ」という合図と受け取った深鈴は、話を進めていく。

 

「ご存じの通り……信勝様派の家臣は、先日の美濃における入道どの救出戦での信奈様の手際の鮮やかさに仲間が次々鞍替えするのに焦り、蜂起の準備を進めています」

 

 これは信奈以下彼女の側近達の間では周知の事実であった。

 

 鞍替えした家臣の中でも特に信勝付き家老の一人である佐久間大学は未だ表面上では信勝派に属していて面従腹背の姿勢を取っており、彼を通じて情報は信奈に筒抜けとなっている。

 

 信勝派に属する家臣の詳細、人数。

 

 蜂起の日時。

 

 信奈を討ち果たす為の作戦。

 

 全てが信奈の知る所であった。

 

 これで彼等の目論見が成功する目は無くなった。故に現在信奈の心を占めているのは、蜂起を鎮圧した後の事であった。

 

 まず、如何にして織田家中最強の武将である勝家を失わずに済ませるか。彼女も信勝付きの家老という立場上、反乱が起これば共に起つ事になるだろうが、彼女を失っては今川や義龍に対抗する事は不可能となる。

 

 そしてこれが最大の懸念事項だが……信勝への処断をどうするか。

 

「信勝様は、謀反の常習犯と聞いていますが……」

 

「その度に姫様にやりこめられて、許されてる」

 

「ええ……母上が悲しむからね……だから私は許したわ」

 

 まだ先代信秀が生きていた時、自分に家督を譲れと末森の城に攻め寄せて、その結果父親を病死させる引き金を引いた時も。

 

 守山(もりやま)の城下町を焼き払った時も。

 

「でもね……今度、信勝が私に謀反したら……殺すわ」

 

 そう信奈に言われて、しかし反論の術を深鈴は持たない。犬千代も同じだ。家臣として、主君の決定には逆らえない。

 

 家中がいつまでも二つに割れたままでは外敵に向かえないという事など、自明の理として分かり切っている。となればいっそ信勝を斬って……そう考えるのは自然だ。恐らくだが信勝の方も、本人は「何も殺さなくても」と、それぐらいには弱気かも知れないが周りの家臣達が「お家の為です、泣いて斬りましょうぞ」ぐらいは言っているだろう。

 

 殺さなければ殺される。これは信奈が悪いのではなく、信勝が悪いのでもない。この人倫の乱れは乱世の宿命なのだ。と、深鈴は頭の中でそういう理屈を組み立てている。

 

 だが……全てを理屈で割り切るのも良くない。人は情無くしては生きられない。

 

『理解者であったお父上を失い、お母上には愛されず、そして今また弟まで亡くして……いや、自分の手で殺してしまったら……』

 

 恐ろしい想像が頭の中に浮かんで、深鈴は思わず唾を呑んだ。

 

 そんな事には、絶対にさせたくない。それでは如何に戦国の武門に生まれた者の宿命としても、信奈が不憫過ぎるというものだ。

 

『……かと言って、いくら弟とは言え謀反人を何度も許すのも良くない』

 

 そうなれば家中の者に示しが付かず、信勝も取り巻きの家臣も、偉そうな事を言ってはいても結局信奈は咎を犯した者を罰する事はしない。いや、出来はしないのだと付け上がり、めいめいが勝手に己の野心の命ずるままに行動するようになって、尾張は現在の信奈派・信勝派に二分されている状態が天国に思えるような百鬼夜行の世界に突入してしまう。

 

 詰まる所、深鈴の考える最善の展開は……

 

『信奈様に信勝様を殺させて、尚かつ信奈様に信勝様を殺させない……』

 

 あちらを立てればこちらが立たず。まさに無理難題。

 

『そんな事が、出来る訳が……』

 

 思い直し、一度全ての条件を整理してみる。

 

 この問題をより厳密に考えると、信奈がどんなに近しい人間であったとしても織田家の法に触れたのなら法に従って厳正に裁く所を見せる。これが肝。そうする事で織田家はぴしりと引き締まり、外敵に迎える態勢が整う。

 

 より突き詰めれば……

 

『実際に裁きが行われずとも、そうした状況になれば信奈様がその者を斬るだろうと、家臣団全員にアピールできれば良い訳よね……』

 

 この線で進めてみれば、上手く行く可能性は……

 

 その、ギリギリの妥協点を達成しうる手段はあるか? 深鈴は自分の持つ全ての札を頭の中でグチャグチャにシャッフルして組み合わせを試し、最善の役を探していく。

 

 そして「はっ」と気付いた。同時に頭の中で何か空気が循環せずに淀んでいた感覚が無くなって、スッキリとした爽やかさが取って代わる。

 

『そうだ……!!』

 

 ある、一つだけある。その針の穴のような隙間を通す術が。勿論、確実とは言えないが少なくとも可能性は見えた。現状、他に手段が無いのだからならば成功する事を信じて賭けるのみ。

 

 と、そんな思考が深鈴の中でぐるぐる回っているとは目の前の信奈も隣に座る犬千代も露知らず。「それより」と、信奈がもうこれ以上弟の事を考えるのを嫌ったのか、話題を切り替えた。

 

「問題は、どうやって被害を最小限にして謀反を鎮圧するかよ」

 

 それもまた重要である。謀反を鎮圧する事は出来てもその時信奈派の軍と信勝派の軍が共に壊滅状態となっていては、待ってましたとばかり外敵の餌食とされてしまう。両者の兵は共に尾張の兵。彼我の損害を抑えるのは絶対の条件だった。

 

「恐れながら信奈様、私に策があります……」

 

「聞いてあげるわ。言ってみなさい」

 

 主君からの許可も出た事で、深鈴は懐から地図を取り出すと地面に広げた。その地図にはいくつかの地点に赤丸で印が付けられている。これは佐久間大学から流出した情報で、信勝派が蜂起する際の作戦が行われる場所を示している。

 

 信勝派の策としては、以下のようなものだ。

 

 まず兵を本隊と別働隊の二隊に分け、信奈の所領である篠木三郷の田園地帯を信勝や勝家が率いる本隊が制圧する。

 

 すると当然ながら信奈は怒って詰問の為に城を出てくる。

 

 そこで別働隊が清洲城を制圧して、帰る城を無くした信奈を後は煮るなり焼くなり好きに料理する。

 

「彼等は信奈様を於多井川の川向こうに誘い出すつもりです。よって、私が於多井川を越えた名塚に砦を築きます」

 

「その砦には、銀鈴が立て籠もるの?」

 

 犬千代の質問に、深鈴は頷く。そしてここまで聞けば信奈にも策の輪郭が見えてきていた。

 

「砦を築くのはいつ?」

 

「彼等が挙兵する、前日に取り掛かります」

 

「っ、一日で砦を築く気!?」

 

「いくら銀鈴でも無理……!!」

 

 二人して一気に詰め寄られ、流石の深鈴も少し体を仰け反らせた。まぁ、城と言わず砦だろうが一日で築き上げるなどこの時代の人間からすれば常識の外の出来事なのだ。この反応は至って当然と言える。

 

 しかし、一方で「だが」「もしかして」と期待する心も二人の中には確かにあった。

 

 先の道三を救出する為に美濃へ出兵した時だって、義龍軍を退けたのは信奈の用兵だったがそもそも織田軍が出陣出来る状況を作ったのは五右衛門・段蔵以下乱波を多く用いた深鈴の諜報作戦によるものだった。

 

 信奈は確かに将として極めて優秀だが彼女の兵法はあくまで王道の武士の兵法。邪道である野武士・乱波の戦法には通じていない。

 

 いわば道三の救出が成ったのは信奈の手の届かない部分を深鈴が補ったからだと言えるだろう。どちらが欠けてもあの作戦は成功しなかった。

 

 ならば今回も、自分達には思いも寄らない奇策を使ってそれを為すのではないか、という期待はあった。

 

 そしてもし名塚に砦を築く事が出来たとしたら……

 

「奴等、驚いてその砦に攻撃してくるでしょうね」

 

 そうなったら、しめたものだ。

 

「分かったわ、銀鈴。全て貴女に任せる。必ず蜂起の日に砦を建てなさい」

 

「はっ!! お任せ下さい!!」

 

 そうして深鈴は深々と一礼すると、繋いであった馬に乗って信奈や犬千代に先駆け、清洲へと引き返していく。

 

 と、不意に背後にどすんと馬の尻の辺りに何かが落ちてくるような感覚が走った。この重みが何かなどは考えるまでもない。五右衛門が、自分のすぐ後ろに飛び乗ってきたのだ。

 

「銀鏡氏、密談は終わりでござるか?」

 

「ええ、これから忙しくなるわよ。その為に色々と動かないと……」

 

「承知。それで、まずは何処へ向かうでござる?」

 

「勝家どのの屋敷よ」

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、いよいよ蜂起の日の前日。

 

 手筈通り、深鈴は用意してあった材木を名塚に運び込んで砦を築き始める。当然、この情報は放たれていた斥候から信勝派にも伝わっていたが、

 

「恐れる事はありませぬ、我等が出陣するは明日」

 

「左様、一日で砦が出来る訳がありませぬ」

 

「銀鏡の手勢は配下の食客を合わせてもおよそ五百。一息に揉み潰せば良いだけの事」

 

 と、家臣達の意見もあって日取りがずらされたり作戦が変更されたりする事もなかった。

 

 だが、殆どの者がそう考える事こそが深鈴の狙いであった。

 

 もっと早くに砦の建設に取り掛かっていれば信勝派は情報が漏れて対策を立てられている事に警戒心を強くして作戦を変更しただろうし、あるいは佐久間大学の裏切りにも気付いたかも知れない。それをさせない為の前日施行であった。

 

 ところが、この日は未明より暴風雨となった。当然、

 

「銀鏡の成り上がり者め、これでは砦も築けまい」

 

 そう、誰もが考えていた。

 

 だが実際には、既に砦は半ばまで出来上がっていた。

 

「源内!! 注文通りに仕上げてくれたわね!! 流石よ!!」

 

 雨避けに蓑(みの)を着込んだ深鈴は笠が飛ばされないように押さえつつ風の音に負けないよう大声を張り上げ、建設作業を指揮する食客の一人へと呼び掛けた。

 

「この程度は!! 大した事はありませんよ!!」

 

 と、この雨の中でも白衣を思わせる白の羽織で頑張っている源内も大声で返してくる。

 

 彼女は、先に深鈴が行った人材募集によって集まってきた食客の一人であり、軽く百年、あるいは三百年は先を行く発想・技術を買われて食客達の中でも最高の待遇を受けている者だった。

 

 源内は以前から潤沢な研究資金と恵まれた環境に物を言わせ、深鈴より注文を受けた様々な新技術の開発に取り掛かっていた。

 

 今回、一日足らずで半ばまで砦を組み上げた技術もその一つ。

 

 これは深鈴の生まれた未来ではツーバイフォー工法と呼ばれる技術であり、つまりは現地に資材を運んで一から組み立てるのではなく、あらかじめいくつかの部品の段階にまでは作っておき、現地で一気に組み立てるというものだ。もっとざっくり言うならあらかじめ材木に切り込みを入れておくプラモデル式の組み立て術だ。

 

 しかも食客達の中には城大工も居て、彼等の助力もあってより短時間で堅固な砦の建造が可能となっていた。

 

「ははっ!! まさか一日で砦が建つとは!! 流石だな、大将!!」

 

 山高帽を風に持って行かれぬように押さえながら資材を運ぶ食客の一人、森宗意軒は能面のような笑みを崩さずに褒めちぎり、

 

「…………」

 

 加藤段蔵は相変わらず無言のまま木材を運んでいく。筆談をしようにもこの強風では紙が飛ばされてしまうので、まともに行えない。彼あるいは彼女は些か不満げであった。

 

「こんな奇策があったとは……流石は銀鏡氏、木下氏が見込まれただけのこちょふぁ……」

 

「親分が噛んだ!!」

 

「たまらねぇやぁ!!」

 

「こんな雨でも、俺達の心はカラッとした晴天だぜ!!」

 

 感心しつつも、五右衛門は川並衆の作業指揮を続けている。

 

「それにしても……銀鏡様、何故他のカラクリを使わせてくれなかったのですか?」

 

 それらを使えばもっと早くに作業が完了したのに、と源内はやや不満顔だ。彼女謹製のカラクリの中には滑車を組み合わせて未来に於けるクレーンのように僅かな力で重量物を持ち上げる機械や、多くの資材を一度に運べる一輪車がある。だが、深鈴は今回の作業でこれを使う事は禁止していた。

 

「もう少しテスト……あ、実験ね。それを重ねてから実用に移りたかったのよ。次に似たような機会があれば、その時は使わせてもらうわ」

 

 と、もっともらしい言葉で説明されて源内は「ふう、ん……?」と一応は納得した様子だったが……

 

 しかし、その裏には五右衛門にすら明かさない深鈴の本音があった。

 

『墨俣城の予行演習としては、十分な成果ね……』

 

 濃尾平野で、自分を庇って死んだ木下藤吉郎。藤吉郎の代わりに自分に仕える事になった五右衛門。そして給料払いが良いという理由もあって織田家に仕官した自分。

 

 これらの要素から、深鈴は未来からタイムスリップしてきた自分が本来の歴史で木下藤吉郎、つまり後の豊臣秀吉の居た位置に居るのではないかという仮説を立てている。

 

 そして信奈のこれまでの行動も、概ね自分の知っている織田信長のそれと一致している。

 

 となればこの後、美濃を攻略する際には、秀吉の手柄として有名な墨俣一夜城を築く役目を担うのは自分かも知れないという考えに行き着くのは自然。

 

 今回はそのデモンストレーションだった。カラクリ無しならどれほどの時間でどれほどの砦を築けるかの検証でもある。実際に墨俣に築城を行う段になれば彼女はカラクリの使用を解禁するつもりだった。つまり、その時は今回より短い時間での築城が可能と考える事が出来るのだ。また、こうしてカラクリ無しでの築城を体験しておけば何かのトラブルでカラクリが使えなくなった時にも慌てる事はなくなるだろう。

 

 逆に今回の作業でカラクリを使ってその使い方を実地で覚えさせるという手もあったが、まだ皆がカラクリを使い慣れていないという点を考慮し、確実性を重視する意味でそちらの案は却下していた。ある程度手は打っているが、それでもこの先に起こるのは実戦なのだ。カラクリの扱いは、今後に訓練して実戦で使えるレベルまでに習得してもらえば良い。

 

『尤も……既に私の知る歴史とは、大きく変わっているからこの未来の知識が、どれだけ役に立つかは……未知数だけどね』

 

 まぁ、今回の築城のノウハウは墨俣に城を築く機会が訪れなくとも、織田家の誰かが役立てるだろう。無駄にはなるまい。

 

 深鈴は歴史好きで、生まれた時代では日本史・世界史問わず様々な伝記を読んだり歴史ゲームも色々とプレイした。そうして得た様々な歴史の知識は強力な武器だと言える。

 

 だが、その武器が役立たずになる日は遠くないだろう。少なくともそのままでは。

 

 大量の鉄砲や鉄砲鍛冶・絵図面を手土産としての仕官。戦国四君のような人材募集。今川への流言。斎藤道三の救出。

 

 少なくとも自分の存在でこれだけ歴史が変わっている。木下藤吉郎はこのどれ一つとてしなかった筈なのだ(最後のは信奈の助力あってこそだったが)。

 

 特に人材募集。これは一番大きいかも知れない。集まってきた人材達。

 

 森宗意軒は本来の歴史では、島原・天草の乱を指導した一人だった。

 

 源内は(恐らくだが)彼女の技術は誰にも理解されないまま歴史の闇に埋もれて彼女自身も無名のまま生涯を閉じる筈だった。

 

 加藤段蔵は、武田信玄(あるいは信玄の命を受けた山本勘助)に殺される筈だった(尤も、その原因が織田家に内通していたからだという説もあるが)。

 

 他にも多くの一芸の士が、自分の元に集まっている。

 

 ここまで派手に歴史が変わっているのだ。都合の良い所だけ自分の知っている通りに未来が動くなど、どうして言える?

 

 故に、出来る事は全てやる。今回の予行演習のように、転ばぬ先の杖は付いておくに越した事はない。

 

 最初の百両を元手として今や尾張の経済を動かす程になっている膨大な資金や掻き集めた一芸の士達も、同じように杖の一つ。自分が存在する事で歴史が変わるのならば、変わっても関係無いほどの力を手に入れておくだけの話。

 

『……まぁ、そうした”保険”を用意しようと動くからこそ余計に色々変わるのだろうけど……』

 

 ジレンマである。とは言え、自分はこの時代で生きていく為に織田に仕官して成り上がる事を選んだのだ。その為にも力は不可欠となる。そこは妥協する他無かった。

 

『最早、私の中にある歴史の知識は指針としては使えても、頼りには出来ない。そう考えておくべきね……』

 

 例えば「こうした状況になればこんな事が起こる可能性が高い」という目安としては使えるだろう。だが、こちらは何も動かないのにそんな状況が都合良く整ったりはしないと考えておくべきだ。

 

「私は趙括の二の舞を演じたくはないからね……」

 

 春秋戦国の時代、趙国の将軍として任ぜられた趙括は兵法の天才と呼ばれていた。だが、彼はその実兵法書を丸暗記していただけで応用を知らず、秦国の白起将軍に悉く裏をかかれて大敗・戦死、捕虜になった四十万の兵は僅かな少年兵を除いて全て生き埋めという悲惨な最期を辿ったという。

 

 そうした故事から学べる事もある。未来の知識は兵法と同じだ。様々な状況に応じて、臨機応変に活用してこそ価値がある。

 

『これからはそう心して、事に臨まねばならないわね……』

 

 深鈴はそんな思考を行いつつも手を動かし、同じように五百人が不眠不休で動いて砦は夜半に完成する。

 

 そして夜が明け、日が昇った。

 

 稲生の戦いが、始まる。

 



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第08話 尾張の内乱(後編)

 

 夜が明け、信勝派の蜂起の日がやってくる。台風一過と言うが、この日の朝は昨夜の暴風が嘘のような快晴となった。

 

 信勝派の家臣達はかねてからの予定通り信勝を総大将、勝家を副将かつ実質的な指揮官として、未明より名塚へと向かった。まずは砦を築いている最中であろう深鈴を討つ為である。

 

 彼女は仕官と同時に一足飛びに鉄砲奉行として迎えられて後も「それしかない」と言うような見事な妙手・奇手を打ち続け、今や信奈からの信頼も篤い懐刀。その深鈴を捕まえるなり討ち取るなりすれば、それは良田地帯を制圧するよりもよほど、うつけ姫の心を逆撫でするだろうと読んでの事だ。

 

 そうして怒り狂った信奈が誘い出されて清洲城を空ければ、後はこちらのもの。

 

『銀鈴……大丈夫なんだろうな……?』

 

 騎乗して先頭を行く信勝のすぐ隣を同じく愛馬に乗って進んでいく勝家は、内心で同僚へと聞こえる筈もない不安をこぼしていた。

 

 先日、自分の屋敷へ彼女がいきなりやって来た時は何事かと思いつつも取り敢えず接待したが、開口一番に「信勝様が謀反した時の事について」と切り出された時には鬼柴田と恐れられる彼女も流石に度肝を抜かれた。

 

 深鈴の言によれば、

 

 

 

「もし信勝様が再度謀反される事になっては、勝家殿は逆らえないでしょう」

 

「しかし国を守る為に外敵と戦って死ぬならいざ知らず、内輪のお家騒動で命を散らせるのでは兵が報われませぬ」

 

「故に、犠牲を最小に抑える為に……信勝様が蜂起した場合、勝家殿は私の築いた砦に遮二無二攻め寄せて下さい」

 

 

 

 後はこちらで何とかする。との、事であったが……しかし、斥候からの報告によれば銀鈴の手勢が砦の建設に取り掛かったのは昨日の事だというではないか。あいつは確かに切れ者だが、一日で砦を建てられるものだろうか?

 

『銀鈴の手勢はあいつ個人で囲っている食客全てを合わせてもざっと五百……こちらは千五百強。しかも食客達は全てが兵ではないだろうから……もし、砦が出来ていなければ私はお前達を、戦ではなく撫で切りの根切りにする事になるぞ……』

 

 報告を聞いた時からずっとそうした懸念が頭の中を回り続け、胸の中に黒いものがムンムンと湧き出て溜まっていくような不快感を、勝家はずっと感じていた。

 

 何とか謀反を事前に防ごうと昨日も信勝に「何卒、お考え直しを!!」と直訴してみたが、挙兵取り止めどころか些か数を減じた家臣達に「信奈に通じているのではないか」「槍を遣わせては尾張一という話は嘘だったのか」などと責められる始末。豪放磊落な気性で天は二物を与えずという言葉を絵に描いたような彼女では、弁舌によって彼等を論破する事も出来なかった。

 

 こうなると後は、深鈴がちゃんと砦を築いてくれている事を祈るのみ。砦が完成しているのなら彼女の事だ。必ずや万事が上手く行く策を練っているのだろう。しかし、やはり一日では……

 

『い、いや……あたしは頭が良くないからそんな方法は思い付かないが……あいつの事だ。きっと思いも寄らぬ方法で、一日で砦を建てているに違いない……な? そうだよな? 頼むぞ、銀鈴……』

 

 そんな勝家の胸中の苦悶・不安など知らぬげに軍は進み……果たして、深鈴への期待は裏切られる事はなかった。

 

 名塚の小高い丘の上には、流石に急拵えの感は否めないが確かに砦が完成していた。

 

「おおっ」

 

 銀鈴の奴、やったな。と、勝家は胸中で歓声を上げる。

 

「なんと」

 

「これはどうじゃ、砦が出来上がっているぞ」

 

「銀鏡の小娘め、今度はどのような手品を……」

 

 随伴している重臣達からはそんな声が上がり、勝家は彼等を制するように信勝へと進み出た。

 

「信勝様!! あのような一夜作りの砦など、私がたちどころに落としてご覧に入れましょう」

 

「う、うん……勝家、頼むよ」

 

 一日で砦を作るなどという常識外の出来事を前に圧倒されている様子の信勝は、すぐに彼女の進言を取り入れた。

 

 これは勝家にしてみれば、深鈴への最大限の援護と言えた。こちらの手勢を砦へと攻め寄せさせるのが彼女の策なのだから、他の者達が何かそれ以外の余計な考えを起こす前に自分が実行する事にしたのだ。

 

「それっ!! あんな案山子砦など一息に踏み潰せ!!」

 

 愛用の槍を振り回して号令すると、足軽達は一斉に走り出して坂を上ろうとする。ところが、

 

「な、何だみゃぁ!?」

 

「す、滑る!!」

 

「足が、泥に取られるみゃあ!!」

 

 彼等の中の一人も、坂の半分ほどの位置にすら至れなかった。昨日の雨で丘は泥山のようになって、坂が滑るようになっていた。しかも、最初に上った者が滑り落ちると下にいる者達まで巻き込んで坂の麓まで転がり落ちてしまい、大混乱となってしまった。

 

「どうした、柴田の兵はこんな坂一つ上れにゃあか!!」

 

「腰抜けめ、よくそれでこの乱世が生きてこれたもんだみゃあ!!」

 

 ここぞとばかりに深鈴の兵に挑発されて、これが手筈通りと分かっている勝家も段々熱くなってきた。

 

「うぬぬ、たかが一夜作りの砦だ!! 中には何の備えも無い筈だ!! 人梯子を掛けてでも中へ切り込むんだ!!」

 

 勇将の下に弱卒無し。如何に弱兵とされる尾張の兵でも、それでも名にし負う鬼柴田の部下である。主君の命を受け、果敢に坂へと駆けていく。それを見た砦の兵達は、

 

「よし、今度は水を飲ませてやるにゃあ!!」

 

 足軽大将の合図と共に大桶を倒す。その中には昨日の雨水が溜め込まれており、それが滝のように柴田勢に襲い掛かり、兵士達は再び坂を滑り落ちる事となった。

 

「ええい、だらしのない!! あたしが手本を見せてやるからようく見ていろ!!」

 

 遂に頭に血が上った勝家は愛馬から下りると駆け出して、足軽達に混ざって坂を上っていく。

 

 流石は織田家最強武将の身体能力。足軽達が転ぶ場所でも彼女はぐっと足で地面を掴んで、鹿のように坂面を踏破すると数メートルも跳躍して柵を跳び越え、砦の内部へと飛び込んだ。

 

「うわっ!! 鬼柴田じゃあ!!」

 

「勝家どのが出た!!」

 

 砦の中の者達は勝家の登場に右往左往して、一人が鉄砲の銃口を彼女に向けたが、隣に立っていた者がぐっと押さえて下ろさせた。

 

「我が砦へようこそ、勝家殿」

 

 鉄砲を下ろさせたのは深鈴だった。見知った顔に会って、勝家も急激に頭を冷やした。ひとまず警戒を解いて、数百の兵に囲まれている事を忘れたように槍を下ろす。

 

「……と、こんな具合で良いのか? 銀鈴。ここまで全てお前の作戦通りに進んだ筈だが……」

 

「ええ、勝家殿……ここまで全て私と信奈様の作戦通りです」

 

「……姫様の?」

 

 勝家がそう問い返した時だった。にわかに砦の外が騒がしくなる。何が起こったのかと深鈴と共に物見櫓に上って、そして思わず息を呑んだ。

 

 砦へ攻め寄せていた信勝派の手勢は、いつの間にか現れた信奈の軍勢にすっかり包囲されていた。

 

「あ、姉上……」

 

 軍団の先頭に立つ信奈の姿を見て、怯えた声を上げる信勝。そんな自軍の大将を見た重臣の一人が「それっ、今こそうつけ姫を討ち取れ!!」と、足軽達をけしかけるが、

 

「誰も動かないで!! 鉄砲の威力を見たいの!!」

 

 信奈にそう一喝されたのと数百の銃口が自分達に向けられているのを見て、彼等の足は止まってしまう。元より同じ尾張の兵同士で戦う事も、尾張の民である自分達が尾張の主である信奈と戦う事も乗り気になれなかったのだ。今や士気はどん底と言って良い。

 

「今頃は清洲に向かった別働隊も、長秀が残らず捕まえている筈よ!! 大人しく降伏なさい!!」

 

 待ち伏せたようにこの場に信奈が現れた事と言い、清洲の守りと言い、全ての作戦が読まれていた。それを思い知らされては、もう信勝にも家臣にも為す術などあろう筈が無かった。元来より弱気な気性の信勝の事。完全に戦意喪失状態に陥り……

 

「こ、降参だ!! 降参します!!」

 

 総大将のその宣言が決め手となり、傍の家臣達から足軽に至るまで、一斉に武器を捨てていく。

 

 その一部始終を、櫓の上から深鈴と勝家は眺めていた。

 

「これが、お前と姫様の作戦か……」

 

「ええ……この砦は、ここに立て籠もるのが目的ではなく、信勝様派の目をこちらに引きつけるのが目的だったのですよ」

 

 佐久間大学からの情報で信勝達がこの篠木三郷に現れるのは分かっていたから、まず深鈴が砦の建造を始めて注目をそちらに集める。信奈はその間に動いて、周辺に兵を伏せて待機しておく。

 

 信勝派の軍が砦への攻撃を開始すればしばらくは静観しておき、皆の意識が砦に集中して周囲への警戒をおろそかにし始めた頃合いを見計らって、彼等を包囲する。

 

 見せ勢の派手な動きを煙幕に、本隊を影として動かす。定石通りの伏兵戦術であるが、それ故に今回の策はこれ以上無いほどに、見事に決まった。

 

 こうしてこの尾張の内乱は、先の道三救出戦に続き信奈の実力を尾張の皆に思い知らせる結果となって幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして反乱を鎮圧して後の清洲城。

 

 しかし今の天気は朝からの快晴が嘘であるかのような曇天。同じように城内大広間に勢揃いした織田家重臣達の表情も、一様に沈痛であった。

 

 信勝は白装束になって登城した勝家のすぐ傍でぶるぶると震えていて、彼へと向けられる視線も、

 

『もはや信勝殿は助かりますまい』

 

『信奈様も、考えに考えてのご決断であろう』

 

 と、同情の色一色に統一されている。たまらず誰彼構わず命乞いをするように頼む信勝であるが、この場に味方は一人。着ている衣装からも分かるように死の覚悟を決めてここに居る勝家だ。

 

「信勝様をお諫め出来なかったは、家老であるあたしの不始末。どうか、この場はあたしの首一つでお許しを……」

 

「あんたが居なかったら、どうやって今川と戦うのよ。却下」

 

 たった一人の味方による助命嘆願もすげなく退けられ、いよいよもって事態は彼にとって「詰み」となっていく。

 

「では、信勝様を除名なさるので……?」

 

「六は私付きの家老に配置換え、信勝には切腹を申し渡すわ」

 

 長秀がせめてもの妥協案としてもう兵を集める事も出来ない立場に落とす事を提案したが、その案も簡単に却下された。

 

「うわああん!! 姉上、二度と逆らいませんからお許しください!! 先の名塚の戦いでも姉上の実力がハッキリと分かりました!! それを知らずに何度も謀反していた僕が愚かでした!!」

 

 いよいよもって助かる見込みの無くなってきた信勝は、最早恥も外聞も無く泣き散らしながら命乞いを始める。

 

「そ、そうだ!! 銀鈴!! 君は姉上からの信頼も篤い!! 君からなんとか姉上に取りなしてくれ!! そうしたらきっと君には報いるから……」

 

「信勝様、見苦しいですよ」

 

「ええっ」

 

 一縷の望みとして縋った相手から氷よりも冷たい返答を返され、信勝の顔が哀れなほど蒼くなる。

 

「私は新参なのでそれを見た訳ではないですが、信勝様は何度も信奈様に謀反を起こして、その度許されていたと聞いています。悔い改める機会は今まで幾度もあった筈。改心するのなら何故その時なされなかったのですか? このような結果になったのも今までの積み重ねがあったからだと、諦めてください」

 

「そ、それは……」

 

 ぐうの音も出ないほどの正論で押し出されて、思わず言葉に詰まる信勝。そうして後ずさった彼の背中に何かがどんと当たる。

 

「へ……?」

 

 恐る恐る振り返ると、そこには一切の表情を消した信奈が立っていた。手には既に愛刀を握っている。それを見た信勝は再び後ずさって姉から距離を取る。だが、逃げ場など何処にもある筈が無い。

 

「銀鈴の言う通りよ。私は母上に助命を頼まれたのもあったけど、それでも何度もあなたを許してきた。あなたが心を入れ替えていれば、こんな事にはならなかったのよ!!」

 

「あ、姉上!! 切腹なんて嫌です!! そんな痛そうな死に方は無理です!!」

 

「そう、なら私自らの手で打ち首にするまでよ」

 

「姫様、信勝様は実の弟君です!! 何卒お慈悲を!!」

 

「くどいわよ、六!! 身内だからって何度も何度も許していたら、他の者に示しが付かないでしょう!? みんなもよく聞いておきなさい!! 今後私に逆らった者は、家族であろうと殺すわ!! それが尾張の民の為、ひいては天下の為なのよ」

 

 そこに居たのは既にうつけ姫ではなかった。今の信奈は第六天より来たりし魔王の化身、いやそのものとさえ言って良いだろう。それほどに恐ろしく、神々しく、侵しがたく、そして美しい。

 

 信奈は勝家のすぐ脇を通り抜けて、腰を抜かして動けない信勝のすぐ前までやって来ると、既に鞘より抜き放っていた愛刀を大上段に振りかぶる。

 

「ひ、姫様……」

 

「銀鈴……何とかならない?」

 

「……どうにも、なりませんね。さっきも言いましたがこれは信勝様の自業自得でしょう……」

 

 先程は厳しい言葉を投げかけはしたがそれでも深鈴なら何か助け船を出してくれるのではと考えて袖を引いた犬千代だったが、しかし返された彼女の言い分が正論であるが故に、押し黙るしかなかった。

 

 遂に誰も止め立てする者が居なくなり、信勝の首めがけて信奈の刃が振り下ろされ……

 

 びしゃり。

 

 間欠泉のように吹き出た血が床と襖に何とも言えぬ紅い紋様を描き。

 

 ごろり。

 

 信勝の体格相応の小さな首が、床に転がった。

 

 しん……。

 

 家臣団の誰もが言葉を失い。

 

 ひゅん。

 

 弟の返り血で全身を真っ赤に染めた信奈が、刀を振って血糊を払う。飛んだその血が、深鈴の頬に当たった。彼女は指でそれを拭うと、

 

「良いわよ、段蔵」

 

 そう、口にした。すると、

 

 ぱん。

 

 手を打つ乾いた音が一つだけ響き。

 

「「「はっ!?」」」

 

 場の全員が驚愕の声を上げた。

 

「へ? つ、ついてる?」

 

 信勝が自分の首筋をぺたぺたと触りながら自分の体や周りを見渡し、

 

「え? 刀は? 信勝は……?」

 

 上座に腰掛けていた信奈も、同じようにきょろきょろと視線を動かす。おかしい。たった今自分は信勝の首を刎ねる為に大広間の中程に立っていた筈なのに。それに見れば、手にしていた筈の刀も両手のどちらにもなく、小姓が持ったままだった。

 

「い……一体?」

 

 まるで狐につままれたようだと、勝家も頭の上に疑問符が見えそうなほどに頓狂な表情であちらこちらを見回している。良く見れば床にも襖にも、信勝が流した筈の血が見当たらず、消えていた。

 

 まるで信勝が頸を刎ねられた事など、最初から無かった事であったかのように。

 

「これは……!!」

 

 犬千代だけは、反応が違っていた。これと同じようなものを、彼女は前にも一度見た事があった。

 

『あれは確か、銀鈴の屋敷での面接で……!!』

 

「ご苦労様、段蔵」

 

「!!」

 

 いつの間にか背後に立っていたボロボロの黒布を纏った忍びを振り返って、深鈴がくすりと笑う。

 

「…………」

 

 天才忍者はいつも通り何も言わなかったが、いつも通り一枚の紙を寄越して、そして消えた。

 

「ん……?」

 

<いくら雇い主でも、こんな三文芝居に私を使うのはこれきりにして>

 

 そう、三文芝居であった。どこからかは分からないがこの場の全員が加藤段蔵の幻術に掛かり、信勝の死ぬ幻を見せられていたのだ。

 

 未だ犬千代以外の場の全員が何が起こったのか分からずに当惑している様子。付け入るなら動揺が収まっていないここしかない。

 

 すっくと立ち上がった深鈴は信奈のすぐ傍に傅くと、

 

「信奈様……この場はどうか……信勝様をお許し願えないでしょうか……」

 

 今更ながらに助命嘆願を行う。

 

「銀鈴、これは……いや、今のは……!!」

 

 信勝が死んだ、いや自分が斬ったのは一体何だったのかと尋ねようとして、しかし明晰な彼女の頭脳はもう、全ての答えを導き出していた。

 

 一体何が起こったのか。

 

 深鈴が何を思ってそれをさせたのか。

 

 全て分かった。

 

『……これしか、なかったのね』

 

 全てを理解した彼女は瞑目して頷き、そして立ち上がる。信勝はまた姉が自分の首を刎ねに来るのかと上擦った声を上げる。だが、違っていた。

 

「信勝、今回は銀鈴に免じて許してあげるわ。でも、これが最後よ」

 

 ”最後が何度もある”などと楽観的に思える者は、この場には居なかった。勿論信勝も。今度ばかりは比喩では無しに本当に死んだかと思ったのだ。二度とこんな体験をしたいとは思わない。

 

 だが、今回の一件は彼にとっても学ぶ事が多くあった。

 

 どうして母や家臣達が口を揃えて姉の廃嫡を迫っても父が頑とそれを許さなかったのか。

 

 どうして織田の知恵袋と呼ばれていた平手のじいがどこまでも姉に望みを繋いできたのか。

 

 それが全て分かった気がした。いみじくも彼自身が口にした通り、これまでの自分が愚かだった。姉はうつけ姫などではなく、逆に尾張を担う事の出来るのは姉しか居ないと思えた。少なくとも自分よりも遥かに上手くやってくれる筈だ。

 

「姉上、僕は二度と取り巻き連中に担がれないよう、織田の姓を捨て、分家の「津田」を名乗ります。名前も「信澄」に改め、生まれ変わったつもりで姉上の為に働きたいと思います!!」

 

「津田……信澄……デアルカ」

 

「これにて一件落着……九十三点」

 

 長秀がぱっと扇子を翻して、これでこの話は終わりだと全員に告げる。糸が切れたように緊迫した雰囲気が和らいで、全員がたまりかねたように大きく息を吐いた。

 

 この後、信勝改め信澄は勝家の与力としてしばらく修行する事となり、その取り巻きだった者達はしばらくの蟄居(つまりは謹慎)の後、配置換えを行って別の部署に移す事でこの一件は手打ちとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 この日の夜は昼間の曇天が嘘のように再び晴れ渡り、現代人の深鈴が見た事もないような大きく美しい満月が天上に輝いていた。

 

 尾張で一番天に近い場所、つまり清洲城の信奈の部屋からは二人の人物がその月を眺めていた。一人は当然部屋の主である信奈。もう一人は彼女に呼ばれてそこに居る、深鈴であった。

 

 信奈は湯帷子姿で肩の力を抜いた風だが、一方で深鈴は緊張した面持ちである。何故自分が呼び出されたのか。彼女には心当たりがありすぎた。

 

 どう考えても昼間の一件、それしかない。

 

 無言のまま膝を折り、忠節の姿勢を示す。

 

「信奈様、昼間はまた勝手な事を致しました……何なりと罰をお与え下さい……」

 

「……銀鈴、顔を上げなさい」

 

「はい……」

 

 命ぜられるままに上げた視界に入った信奈の表情は、穏やかな笑顔だった。

 

「昼間は……その、ありがとね……こんな事、皆の前じゃ言えないから……」

 

 それはそうだ。功のあった時でさえ臣下へ頭を下げる主君など何処にも居ない。ましてそれが、独断専行を行った不埒者相手ならば尚の事、他の者への示しが付かない。

 

 だが恐らくは、深鈴の策略以外に信勝を処断する事と信奈の心を汲む事、その二つを同時に成す術は無かったろう。

 

 とは言え独断専行は咎められるべき行為で、しかも深鈴には前科があるが……しかしこの場合は情状酌量の余地もあると、信奈は考えていた。

 

 今回の事は彼女に報告して許可を仰ぐ訳には行かなかったのだ。

 

 そもそも信奈が信勝を処断せねばならない理由は、如何な立場にある者であろうと法を犯せば裁かれると家臣団に強烈に印象付ける為だ。

 

 だがその裏で一個人としての信奈は、弟を殺したいなど夢にも思っていない。

 

 こちらを立てればあちらが立たず。ならばどうするか? そこで横車を押すようにして、無理矢理のギリギリで二つを満たすのが深鈴の今回の策であった。

 

 つまりは、飛び加藤の幻術。それを使って重臣達が勢揃いしている場で、信奈が信勝を斬る所を見せる事。(幻術であったのだから当然と言えば当然だが)結果的に信勝、いや信澄は生き残った。だが、もし飛び加藤が横槍を入れなければ、つまり深鈴が裏で色々と糸を引かねば間違いなく死んでいた筈なのだ。後で口さがない者が「あれは信奈様が裏で仕組んでいた事だ」と喚いたとしても問題ではない。あの場の参列者達は、”信奈が信勝を斬る所を見ている”のだ。文字通り百聞は一見に如かず。あの場の体験は、どんな言葉よりも彼等の心に強烈な一撃となって響いたろう。

 

 これで織田家中はぴしりと引き締まる。

 

 それを為し、尚かつ信勝を殺さない事。その二つを両立させるにはこれしかなかった。そして万一にも素振りや表情から気取られぬよう、深鈴はその事を信奈には告げなかった、否、告げられなかったのだ。

 

 深鈴は恐らくだが先日の遠乗りでの密談の時から、ここまでの展開を予測して全ての絵図面を描いていたに違いない。そしてほぼ全てが彼女の思惑通りに進んだ。

 

 信奈は僅かな情報からそうした全ての事情を推理し、理解していた。

 

 分からない事は、一つだけ。

 

「銀鈴、一つだけ、正直に答えなさい」

 

「はい……」

 

「あなたはどうして私に、ここまで尽くすの?」

 

 勝家のような譜代の家臣でもない。長秀のように昔から小姓として自分に仕えていた訳でもない。新参の家臣に過ぎない彼女が……

 

「それは……」

 

 深鈴は僅かに言い淀んだ。その本心を口にすれば、信奈は怒るかも知れない。

 

 だが……ここまで来て偽りを口にするのは信奈と自分の一度に二人を貶める行いであるとも、心中の純粋な部分が言っている。

 

 だから、真実を言おう。

 

「信奈様と……共に歩みたいと願うが故です」

 

 彼女が誰にも理解されない事を哀れに思うのではなく。

 

 ただ彼女の背中を追うだけでもなく。

 

 天下統一をも越えた、この時代には恐らく彼女だけが持つであろう夢を共に。

 

 信奈の願う夢だからこそ手伝うのではなく、同じ未来を夢見る事の出来る自分であるからこそ、共に歩みたいと願う。

 

 それが、深鈴の本心だった。

 

「……優しいのね」

 

 ふっと信奈は微笑する。

 

「あなたが私の為に動いてくれる事は、よく分かったわ」

 

 五右衛門達を使った諜報戦術で今川を一時的に国境より撤退させ、道三へと援軍を出せる時を稼いだ事。

 

 そして今回、家臣達を一枚岩に纏めてかつ信澄の命を救った事。

 

 どちらの時も深鈴は一個人としての信奈と尾張の大名としての信奈、その両方の彼女に配慮して、両方が立つように動いてくれていた。

 

 その赤心には、応える所がなくてはなるまいが……

 

「褒美はまた考えるとして……」

 

 そう言うと信奈は立て掛けてあった刀を取り、躊躇いなく抜き放つ。思わずびくりと体を震わせる深鈴。そんな彼女を見て信奈は笑うと、

 

「貴女とは、主従の儀式がまだだったでしょう? 折角だから南蛮風にしましょう。私も詳しい訳じゃないけど……」

 

「南蛮風の、主従……?」

 

 しばらく首を傾げた深鈴であったが「ああ」と頷くと、傅いた姿勢を崩さずにそこで待つ。

 

 信奈はそんな深鈴の前に立つと、問う。

 

「銀鏡深鈴。私への忠誠を、永遠に誓う?」

 

「はい、信奈様……」

 

 その答えに満足したように、信奈は刀の腹で深鈴の肩を叩くと、その刀を彼女へと渡した。

 

 見様見真似かつ略式ながら、恐らくはこの国で最初に行われた騎士の叙任式。立会人の一人とて居ない寂しい式ではあったが、月だけはその優しい光で二人を祝福していた。



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第09話 戦の前の戦

 

 駿府、松平元康の屋敷近くの森。

 

 今や草木も眠る丑三つ時ながら、しかしこのような時であるからこそ、昼間よりも余程激しく動いている者達が居た。

 

 今宵は新月。その闇の中に、時折甲高い金属音と共に僅かながらの光が走る。苦無や手裏剣がぶつかり合った事で生じる火花だ。

 

 闇の中に尚黒い影が幾筋も走っている。もし梟でも飛んでいて上空からこの一帯を俯瞰視点で見たのなら、それらの影はただ乱雑に動いているのではなく、一つの意思の下に統率された集団としての動きを取っているのが分かったであろう。

 

 無数の影は、二つの影を追って囲い込むようにして動いている。やがて森の一角で完全に包囲が完了して、全ての影の動きが止まった。

 

「飛び加藤、こんな所で貴様とまた相まみえるとはな」

 

「…………」

 

 周囲を包囲する無数の影、松平元康配下の忍者集団「服部党」を指揮する棟梁・服部半蔵が、輪の中心にいる二つの影の一つ、全身を隙間無くボロボロの黒布で覆い、闇から浮き上がるような白い狐面を髪飾りのように頭に付けた男とも女とも分からぬ者、加藤段蔵へと言い放った。

 

 服部半蔵と加藤段蔵。共に忍びの世界では知らぬ者なき凄腕であり、血で血を洗う争いを幾度も繰り返してきた宿敵同士である。

 

 敵対する立場となる事が多かったのもあるが、父の代から松平家に仕え元康を無二の主と定めて忠を尽くす半蔵と、傭兵として金で主を変える段蔵は思想面でも水と油。顔を合わせれば殺し合う仲であった。

 

「上杉の元からは離れたと聞くが……今度は何処の大名に雇われたのだ?」

 

「…………」

 

 当然ながら、段蔵は答えない。彼あるいは彼女の声を聞いた者は伊賀にも甲賀にも居ない。ボロ布で隠された口元は、あるいは本当に糸で縫い合わされているのではないだろうかという噂まで流れた事があった。

 

「ふん……黙して語らず、か。まぁ、誰に雇われたのかは知らぬが、大方姫様を拐かすか命を奪えとでも言われてきたのであろう」

 

 「だが」と、半蔵の口が動くと同時に服部党が一斉に忍刀を構える。

 

「この俺と服部党ある限り、それは叶わぬと知れ」

 

「飛び加藤殿、そろそろ潮時でござろう」

 

 段蔵と背中合わせに周囲を囲む服部党に向き合っていたもう一人の忍者、五右衛門が彼等を牽制するようにじりじりと姿勢を変えつつ、言った。

 

「…………」

 

 段蔵は無言のまま頷き、彼あるいは彼女の纏ったボロ布の袖口から、ボトボトと着火された焙烙玉が地面に落ちる。

 

「「「………?」」」

 

 この不可解な動きには、半蔵も含めた服部党全員の動きが止まってしまった。たった今焙烙玉が落ちたのは、段蔵と五右衛門のすぐ足下。あれでは吹き飛ばされるのは自分達ではなく、二人の方だ。よもや飛び加藤ほどの者が忍び道具の扱いを誤る訳も無く。微塵隠れを試みるにしてもぐるりをその手を承知している忍び者に囲まれていては成功する訳が無い。それが分からぬ飛び加藤でもない筈。

 

 ならばこれは、一体……?

 

 当惑によって自分達を包囲する忍者達の動きが止まったのを見て取ると、五右衛門は事前に言われていた通り両手で耳を塞いであんぐりと口を開ける。背中合わせになっている段蔵も同じように動いた。布越しの手を、フードのようになったボロ布の上から耳に当てる。

 

 この動きは……?

 

「……!! いかん!! お前達、目を逸らせ!!」

 

 漸く二人の不可解な動きの意味を理解し、半蔵が声を上げる。だが部下達は命令の意味を図りかねたように視線を彼に向けるだけだ。その反応の遅さに苛立ってもう一言を与えようとするが、遅かった。

 

 

 

 夜が昼になって、天地がひっくり返った。

 

 

 

 無論、時が何時間か先に進んだり天変地異が起こったのではない。

 

 五右衛門と段蔵の足下に撒かれた焙烙玉が炸裂して、およそ彼等忍び者が扱う火薬というものの常識を超えた轟音と閃光が走ったのだ。

 

「うぎゃあああっ!?」

 

「ひいいっ!?」

 

「め、目が!? 耳が!?」

 

「お、おのれっ……!!」

 

 咄嗟に防御態勢を取った半蔵だけは何とか正常な意識と判断力を残せたが、彼の部下達は酷いものだった。全員が全員、頭を抱えて身を丸くしてうずくまってしまっている。

 

 漸く光と音が治まった時には、当然と言うべきか二人の忍者の姿は何処にもなかった。

 

「ぬうっ……姫様の元へ向かったか……!?」

 

 すぐに自分も駆け付けねばとその場を離れようとする半蔵だったが、しかし彼は先程まで段蔵と五右衛門が立っていた場所に、一枚の書状が残されているのに気付いた。

 

「これは……」

 

 拾い上げた書に記されていた宛名は松平元康。彼の主人たる姫大名。差出人の名は……織田信奈。

 

 どうやら元康は、今すぐに命の危機に晒されている訳ではないらしい。あの二人は彼女を害そうとしてやって来たのではなく、この密書を確実に届ける事が役目だったという所か。

 

「……いずれにせよ、俺は一度姫様の元へ行かねば……」

 

 無論こんな思わせぶりな手紙で安心させておいて実はやはり元康を、という事も十分に有り得る。そう判断した半蔵の行動は早く、彼の姿は次の瞬間には消えていた。

 

 未だにうずくまっている部下達は放置された。

 

 まぁ、見る限り命に別状がある者は居ないだろうし、最後の一人になっても姫様を守り抜くのが服部党の任務。その内回復して、ゆっくり追い付いてくるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「服部半蔵殿は、密書をちゃんと見付けてくれたでござりょうか?」

 

「…………」

 

<彼なら必ず、見付ける>

 

 尾張への帰路、常人を遥かに超えた速度で駆けながら少しだけ不安を滲ませた声で言う五右衛門に対して、段蔵はいつも通り紙面を寄越す。

 

 彼あるいは彼女と半蔵は幾度も殺し合った仲だが、それ故に二人とも互いの実力を誰より正確に知っており、確信が持てた。

 

「それにしてもあの焙烙玉、凄まじい威力でござったにゃ」

 

<銀鈴は”素炭愚零寧怒”と言っていたっけ>

 

 二人が服部党から逃げ出す時に使用した焙烙玉は通常の物ではなく源内が開発した新型で、今回の任務で実地試験を行ってこいと持たされた物だった。

 

 源内曰く爆発すれば凄まじい閃光と轟音で相手の視力・聴力・思考力を奪う、逃走・制圧用の新型爆弾という事で、既に専用の実験場として与えられた広場で、彼女は何度となく昼も夜もなくあれの試作品を爆発させては周りの者からひんしゅくを買っていた。五右衛門と段蔵も、口には出さないものの似たような感想を抱いていたが……

 

 しかし先日の稲生の戦いで一夜にして砦を築いた技術もそうだが、今回新型焙烙玉の威力を目の当たりにした今は、もうそんな事は言えない。轟音や爆発に紛れての遁走は忍びの常套手段だが、あれほどの音と光を発する爆弾など二人は見た事も聞いた事もなかった。あれは乱波の戦術に確実に一石を投じる発明だ。

 

 恐るべき、そして頼もしきは源内の頭脳と技術。そして、

 

「流石は銀鏡氏。源内殿を最上位の食客として厚遇している理由がやっとわきゃっちゃでごじゃ……」

 

<私も十分過ぎるほど報酬をもらってる。銀鈴とは大事に付き合わせてもらう>

 

 

 

 

 

 

 

 時は数日前に遡る。

 

 今川義元が再び上洛の為の軍を起こす気配がある。五右衛門が指揮する諜報部隊によってもたらされたその情報を聞くや、清洲城内はにわかに色めき立った。

 

 早速、織田家臣団全員が招集され軍議が開かれる。

 

「先日は五右衛門や段蔵の流言によって国境より陣払いをさせましたが、あのような手は二度と通用しないでしょうね」

 

 と、深鈴。寧ろ「よくも武田・上杉が同盟して留守の駿府を急襲するなどと謀ってくれたな」と、怒りに燃えて尾張に襲い掛かってくるだろう。

 

「銀鏡殿が余計な事をしたばかりに、今川の逆鱗に触れたのでは?」

 

 家臣の一人が指摘してくる。それを受けても深鈴は反論しない。概ねの所事実だと認識していたからだ。

 

 一方で未だ正式な織田家家臣ではなく客将的立場ながら、猫の手も借りたいという理由から列席していた明智光秀はその言を聞いて顔を顰めた。

 

 聞いた話では信奈が道三救出の為に軍を出せたのは深鈴が流言戦術によって、一時的にせよ国境から今川軍を退かせたからだという。故に彼女は主の危機を救うお膳立てを整えた深鈴に一定の敬意と感謝の念を抱いており、その深鈴がなじられる事は本人だけでなく、主である道三が生き延びた事まで否定されているように聞こえていた。

 

「今は責任の所在を話し合っている時ではないでしょう。三十点」

 

「そうだ!! 皆でどうやって今川軍と戦うかを考えるかの軍議だろう!!」

 

 しかし長秀と勝家の取りなしもあって、彼等は「むう」と押し黙る。確かに今は織田家存亡の瀬戸際。一家臣の処遇を議論している場合ではない。

 

「籠城するという手は? 今川義元の目的はあくまでも上洛。こちらから手出しをせねば、尾張を素通りする可能性も……」

 

「素通りしなかった時は? 美濃が斉藤義龍の支配下となった今、援軍が来る当てはありません。その時は滅ぶしかないでしょう。三点です」

 

 家臣の一人から出た意見に対し、長秀が辛辣な批評を下す。とは言え彼女の意見も正論だった。古来より籠城とは同盟国などから援軍が駆け付ける事を前提としての戦法。それ以外で籠城して、勝った試しは無い。外部からの支援が無い籠城は、落城を先延ばしにするだけの意味しかない。

 

 美濃が未だ道三の統治下であればまだ話も違ったろうが……と、同席していた光秀は「くっ」と歯噛みする。自分がしっかり道三様を支え、義龍派に付け入る隙を与えなければ、あるいは……

 

 だが過去を悔いる事よりも、今は今の最善を考えねばならない。彼女は無言のまま、その頭脳を最大に回転させる。

 

「降って時節を待つという手もあるが……」

 

「姫様を敵に差し出すと? 家臣にあるまじき発言。零点です!!」

 

「っ、女子の分際で……!!」

 

「男の癖に女々しい方が情けないよ!!」

 

 徐々に場を支配するのが理ではなく感情になっていき、降伏か徹底抗戦かの二派に分かれて作戦会議というよりも痴話喧嘩に近い様相を呈し始める。

 

 上座に腰掛ける信奈は苦々しい顔でその様子を眺めていたが……肘掛けをとんとんと指でつつく様子から明らかに苛立っており、今にも付き合いきれないとばかりに席を立ちそうだ。

 

 これは、いけない。何とか話の流れを変えなくては。そう考えて発言したのは、

 

「皆様、落ち着いて下さい。戦には五つのやり方があります。それに則って、順序立てて考えましょう」

 

「ん、銀鈴?」

 

「貴様は黙っておれ!! そもそも誰のせいでこうなったと……!!」

 

「まぁ、聞いてみようではないか。して銀鏡殿、五つの戦い方とは?」

 

「攻められるのなら攻め、攻められぬなら守り、守れないなら逃げ、逃げられないなら降り、降る事も出来ないのなら最後は死……ですね? 銀鏡殿」

 

 深鈴に代わって答えたのは、光秀だった。無言のまま頷く深鈴。光秀は彼女の言わんとしていた事を完全に理解し、代弁してくれていた。

 

 この二人の弁もあって、白熱していた場の雰囲気もひとまずは落ち着く。同時に、彼女達の言わんとする事も全員に伝わっていた。つまり、籠城や降伏をまず考えるのは考え方の順序が間違っているという事。まず第一に論じられるべきは、

 

「で? 銀鈴、十兵衛の言に従うならまずは攻める事が出来るかを考えるべき、と言うのでしょうけど……貴女に何か考えがあるの?」

 

 軍議が始まって半刻(約1時間)が過ぎて、初めて信奈が口を開いた。

 

「はい、ではまず一同、これをお聞き下さい」

 

 そう言うと深鈴は懐から一枚の書面を取り出して、読み上げていく。そこには以前国境に布陣していた時の、今川軍の陣容が記されていた。あらかじめ五右衛門達に調べさせていた情報だ。

 

「先鋒に松平勢が三千、第二陣に朝比奈勢がこれも三千、第三陣鵜殿勢・三千、第四陣三浦勢・三千、第五陣に葛山勢・五千。そして今川義元の本陣が五千。その他小荷駄隊がこれも五千……勿論これは以前の今川軍の陣容で、今回尾張に侵攻してくる陣立てについては改めて調査させますが……本国に武田・上杉に備えて守備隊を多めに残してくるぐらいで、さほど変わったりはしないでしょう」

 

 今川義元が駿遠三の全軍を動員すれば総兵力はざっと四万。各地の城に守備隊を残したとしても、二万五千は尾張に侵入してくる。対して迎え撃つ尾張の兵は……

 

「こちらは全軍で五千。丸根・鷲津・丹下……他の各砦に守備隊を配置した後で動かせる兵力は、良いとこ三千、です」

 

 と、光秀。つまりこれは三千対二万五千の戦い。その差実に八倍以上。絶望的な戦力差に再び「籠城じゃ」「いや降伏だ」と声が上がるが、長秀が一喝して黙らせた。意見はどんどん言うべきだが、話を全て聞いてからだ。

 

「既に皆様が議論されている通り、真っ向勝負では万に一つの勝ち目も無いでしょう」

 

 「一人が十人を討ち取る術をご存じの方が居れば、話は別ですが」と付け加える。当たり前の事だがそんな妖術を知る者は居ない。そんな奴が居れば、そいつがとうの昔に天下を取っているだろう。

 

「逆にこの状況で攻めて織田勢に勝ち目があるとすれば……」

 

「義元の本陣への奇襲です、か」

 

 言葉を継いだ光秀に、深鈴は頷く。

 

「故にその際には五右衛門・段蔵以下、私直轄の諜報部隊を総動員して必ず本陣を突き止める所存ですが……信奈様、本陣発見に確実を期すなら、もう一手を打たねばなりません」

 

「もう一手?」

 

「はい、今川義元も織田が自分達を破るなら本陣を攻める以外は無い事ぐらいは予想しているでしょう。故に、乱波や斥候に本陣を探られないよう、向こうも乱波達を使って警戒させている事が考えられます」

 

「今川方の忍びと言うと……」

 

「松平元康麾下の服部党、ですか」

 

 再び的確な意見を述べた光秀に、信奈・深鈴共に頷く。

 

「その服部党の目を封じる為に、信奈様から松平元康へ、密書を送られてはいかがと」

 

「成る程、元康は姫様とは旧知の仲。織田に内応して今川を裏切るよう仕向けるんだな!!」

 

 それは良い考えだと意気揚々に言い放った勝家だったが……

 

「「「「…………」」」」

 

「……あ、あれ?」

 

 信奈、長秀、光秀、深鈴。知恵者連中四人から同じように同情とも呆れとも付かない視線を向けられて「え、違ってた……?」と、引き攣った気まずい笑みを浮かべる。

 

「当たらずしも遠からずですが……四十点です」

 

「松平元康は家族を人質を取られてます。そんなおおっぴらには逆らえないです」

 

「それに仮に松平勢が全て織田に付いたとしても、三千対二万五千が六千対二万二千になるだけ。あくまでも織田勢による本陣の奇襲が、勝ち筋の肝です」

 

「六、取り敢えず最後まで銀鈴の話を聞いてみましょう」

 

「……は、はい……」

 

 顔を真っ赤にして勝家が引き下がった所で、深鈴が話を再開する。

 

「文面には、服部半蔵以下服部党に、もし織田方の忍びや密偵が今川の本陣を探っているのを見付けても、見逃すように指示しろと書いておく」

 

「……そんな重要な事を手紙に書いたら、元康から義元に伝わるんじゃないの?」

 

 犬千代の指摘も尤もである。だから、それをさせない為の文を密書には書かねばならない。

 

「もし今川が打倒された場合、織田は松平家と対等な同盟を結び、独立を支援すると約束するのです」

 

「……確かに、私の目的はあくまで美濃の攻略。それに元康が独立して同盟を結べば、武田への備えという意味でも私達に有益な話ね」

 

「だが、それだけでは松平元康があくまで今川に義理立てする場合もあるだろう。やはり情報が漏れる危険があるのでは?」

 

 家臣の一人が言うその意見も尤もである。だが、元康が絶対に義元に密書の内容を伝えないようにする手は、既に考えてある。

 

「はい、ですから……」

 

「今川が勝った場合の話も一緒に書いておく、ですよね? 銀鏡殿」

 

「その通りです、十兵衛殿」

 

「……よく、分からないな? 銀鈴、噛み含めて説明してくれ」

 

 勝家の要望を受け、深鈴は密書に書くべき次の内容を述べていく。

 

 つまり織田が勝った場合は対等な同盟を結んで独立を支援するが、仮に今川が勝って織田が負けた場合でも、松平家・三河衆に損は無いと思わせるのだ。

 

 具体的には、

 

「仮に今川が勝つとしても、織田勢三千が本陣の五千に切り込むとなれば、無傷とは行かないでしょう。今川方も義元の側近である優秀な武将が大勢討ち死にする事態が想像出来ます」

 

「確かに」

 

「結果……今川の陣容に空洞化が生じ、相対的に松平勢の立ち位置が上昇。今川義元の心情がどうあれ、少なくとも今までのように簡単に使い潰す事は出来なくなるです」

 

 そこまで聞けば「成る程」と勝家も得心が行ったという表情で頷く。織田が勝てば三河独立。今川が勝てば現在の使い走りのような立場からは解放される。少なくともそうなる機会は与えられる。要はどちらに転んでも損は無いと元康に思わせる事が肝要なのだ。

 

「ダメ押しで密書の最後に「松平家にとって一番の損は今のまま今川のパシリで終わる事です」と書く、これで完璧です」

 

「良い案です、十兵衛殿」

 

 元康ならばどのみち最終的には同じ結論へと至るだろうが……しかしこちらは彼女が最終的に出すであろう結論を先に見抜いていると思わせ、更にその一文によって思考の方向を誘導する事で、万一にも彼女の口から義元に伝わる事はなくなる。

 

 その後もしばらく軍議は続いたが、結局今川本陣への奇襲・それを補助する為の松平家への密書。この二つに勝る意見は出ず、信奈が深鈴と光秀が述べた通りの内容の手紙を書き、それを届ける役目は五右衛門と段蔵が担うという事が決議され、この日の軍議はお開きとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 時は現在に戻り、深鈴の屋敷。

 

 日当たりの良い縁側では道三と深鈴が、碁盤を挟んで向き合っている。二人の傍らには深鈴の側に犬千代、道三の側には光秀が、それぞれ控えていた。

 

 救出されて後はすっかり隠居生活の道三は、蝮と呼ばれていた頃のぎらぎらした雰囲気がすっかり影を潜め、絵に描いたような好々爺として柔和な笑みを浮かべている。

 

 対して深鈴はいつになく真剣で難しい表情。

 

 小姓である光秀は道三の背後でにやにやと笑っている。

 

 犬千代には碁は分からないが、三者の表情を見れば盤上の勝負はどちらが優勢なのかは一目瞭然であった。

 

 ぱちん、と乾いた音が鳴る。道三の黒の石が盤上に置かれて、より一層深鈴の表情が険しくなった。

 

「ま……」

 

「待ったは無しじゃぞ」

 

「ぬくく……」

 

 今や織田家中随一の切れ者とされる彼女も、碁ではまだまだ美濃の蝮の敵たり得ないらしい。光秀はくすくす笑っている。

 

 体をメチャクチャに捻るようにして考えている深鈴を見て流石に哀れに思ったのか、道三が助け船を出した。

 

「光秀から聞いたが此度の今川の侵攻、如何にして迎え撃つか。随分と悩んでいるようではないか?」

 

 そう、話題を切り替える。

 

「はい……今の所、乱波を放てるだけ放って本陣を突き止め、そこを奇襲する方向で話を進めていますが……」

 

 盤面を見たまま答える深鈴だが、既に表情は遊戯に興じている時のそれではなくなっていた。五右衛門と段蔵は駿府より無事に帰還し、作戦の第一段階は成った。しかし第二段階以降も決して楽な達成条件ではない。

 

 奇襲するとしても義元の本陣は五千は居るだろう。対する織田はどれだけ集めても三千。場合によっては返り討ちに遭うかも知れない。それだけでなく、あまり長引かせれば本陣に何かあったと他の陣が察知して援軍に駆け付けてくる可能性も十分にある。

 

 つまり短期決戦で今川義元を討ち取るなり捕らえるなりするのが最善の形だが……

 

 ばさり、と床に尾張の地図を広げる。

 

 信奈に倣ってこうした時の為に尾張の地形を調べていたが、奇襲を行うのであれば適地はやはり史実通りの田楽狭間か土地の者が「桶狭間」と呼ぶ早口言葉のような名前の谷間。どちらも攻め手は坂の上から一気に襲い掛かる高所の利を得る事が出来るし、特に田楽狭間は丘陵が重なり合って普通の谷間よりも細く長いので大部隊では身動きが取れず、しかも丘の上に見張りを立てても前方の窪地と向こう側の丘が見えるだけで、展望はまるで利かない。

 

 もしここに義元が本陣を構えて休息するなら、織田勢は敵に気付かれずに義元へ近付く事が出来るという事になる。

 

『田楽狭間に今川本陣を誘き出す事が出来れば、勝負は決まる……!!』

 

 だが、問題はどうやって誘き出すかだ。いや、それだけでは不十分。信奈率いる織田の本隊がそれなりの距離に近付くまで、今川本隊がそこに留まっていなければならない。

 

『……史実では、田楽狭間で休息中の今川軍を降り出した雨に乗じて信長軍が奇襲、義元の首を挙げる訳だけど……』

 

 既に深鈴の生きているこの今は史実と乖離しているのだ。歴史の知識ばかりを当てに動く訳には行かない。とは言え、田楽狭間で戦う事が有利なのは厳然とした事実。

 

『天候はどうにもならない、文字通り運を天に任せるとして……今川義元を田楽狭間に留めるにはどうするか……』

 

 また、何か策を考えなくてはならない。深鈴は、彼女自身は戦う事は出来ない。故に、戦が始まるまでに何をするか。それが彼女の戦なのだ。

 

 だが今回は良い案が出ない。思考が煮詰まって、再び「ぬくく」と唸り始める。彼女だけでなく道三、光秀、それに犬千代まで思案顔だ。最早碁の勝敗など誰の頭からも吹き飛んでしまっていた。

 

 そうして四人が四人とも難しい顔を突き合わせていると、襖がすっと開き、

 

「皆様、お茶が入ったでございまする!!」

 

 茶と菓子を乗せた盆を持ったねねが、元気のいい声で入ってきた。

 

 彼女は深鈴が織田家に仕官した日に開かれた宴会に招かれたのが縁で、しばしばこの屋敷に遊びに来るようになり、食客達への賄いを手伝ったりして給金を貰ったりもしていた。

 

 一方で深鈴の方も働き者のねねを妹のように可愛がっており、うこぎ長屋の近くを通り掛かった時には必ず浅野の爺様に良い酒や肴を付け届けするなど、家ぐるみで親交が深い間柄であった。

 

 幼いながらもきちんとした作法で、ねねは四人それぞれに茶と菓子を配っていく。

 

「美味しい……もぐ……もぐ……」

 

 大好物のういろうを前にした犬千代は自分の前に皿が置かれた瞬間にはもう辛抱たまらんとばかりに手を伸ばして、一心不乱に頬張っている。

 

 それを見て思わず相好を崩す深鈴、道三、光秀、ねねであったが……

 

 ややあって「はっ」と閃く。

 

『ん……? そうか……!!』

 

 脳内に生まれたその可能性を素早く検証した後、深鈴はねねへと向き直った。

 

「? 銀鈴殿、いかがなされましたか?」

 

「ねね、今回の今川との戦が織田家の存亡に関わるものであるのは、知っているわね?」

 

 真剣な顔で問われて、幼いながらも利発な少女はこちらも表情を引き締めて、答える。

 

「はい、爺様も毎日長屋の皆様と、難しい顔で話し合っておりまする」

 

 その返答を聞いて、深鈴は満足そうに首肯する。それだけ分かっていれば十分だ。

 

 そして次に深鈴の口から出た言葉に、道三、犬千代、光秀。三者の表情が一様に、驚愕の色に染まった。

 

「そこでねね……あなたを見込んで、この戦の趨勢を左右する重要な任務を、お願いしたいのよ」

 



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第10話 開かれた戦端

 

「信奈様、失礼致します」

 

「失礼致しますです」

 

 清洲城の最上層、南蛮の品物が散らかされた信奈の私室に、深鈴と光秀が揃って入ってくる。地球儀をくるくると弄んでいた信奈は「待っていたわよ」と二人を迎えた。

 

「ご報告に上がりました。放っていた諜報部隊より今川義元が、駿府を出たとの報告が入りました」

 

「……そう、いよいよ来たわね」

 

 信奈は変わらず地球儀をくるくる回しているが、目付きと表情が厳しくなった。それを見た二人も同じようにいよいよ戦が近いという事を察し、表情を引き締める。

 

「それで、陣立ては?」

 

「はい、松平勢三千を先鋒に朝比奈・鵜殿・三浦・葛山。いずれも勇猛で知られる今川方の精鋭を先陣とし、義元はその後を、五千の本陣で悠々と進んでいます」

 

「概ね、銀鏡殿が予想された通りの編成です」

 

 ここまでは予想通り。となれば、こちらはやはり以前の軍議で決まった通り本陣目指しての奇襲を……

 

「銀鈴、十兵衛。私は次の戦、籠城する事に決めたわ」

 

「……籠城、ですか?」

 

「信奈様、先の軍議では本陣のみを狙って攻めると……」

 

「うるさいわね、兎に角決めたのよ。今川との戦は、打って出ても勝ち目が無いから籠城するわ」

 

 前回の軍議とはまるで違った信奈の命令に怪訝な声を上げる二人だが、その疑問を信奈は一言で切って捨ててしまった。

 

「で、あなた達を呼んだのは……」

 

「「はっ……!!」」

 

 反論は受け付けないとばかり厳しい声で言われ、深鈴と光秀は居住まいを正す。

 

「籠城するとなると、米や野菜、塩は足りてるけど味噌が足りないわ。だからあなた達二人には、戦が始まるまでに味噌をたっぷり買い込む事を命ずるわ」

 

「……? お言葉ですが信奈様、味噌は十分な量が蔵に……」

 

「信奈様の好きな三河の八丁味噌も沢山……」

 

「二人とも……私は”籠城する”と言っているのよ? なら……”味噌が足りない”でしょう?」

 

 両者の口から出た反論を、信奈は先程よりも強い口調で切る。

 

「「…………あっ」」

 

 深鈴と光秀は顔を見合わせて、そして図ったように同じタイミングで「はっ」と閃く。

 

「”籠城する”のですね……」

 

「確かに”籠城する”となれば味噌が足りないです。すぐさま調達にかかるです」

 

「頼むわよ」

 

 そうして信奈に一礼し、二人は肩を並べて退室した。残された信奈は立ち上がると、ピアノの上で指を踊らせる。涼しく、軽やかな音が部屋に響き、ややあって消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 清洲城下町の深鈴屋敷の広間に、あの後すぐに五右衛門によって招集された川並衆が集まっていた。

 

 上座には深鈴と光秀が座り、そのすぐ傍には五右衛門が控え、川並衆は二列になってずらりと並んでいる。彼等の前には人数分の酒と肴が用意されていた。

 

「川並衆の皆さん。此度の今川との戦、また皆さんの力をお借りしたいのですが……」

 

「嬢ちゃん、今更そんな水くさい事は、言いっこなしだぜ!!」

 

「そうそう、親分初め俺達はみんな、嬢ちゃんには世話になってんですぜ!!」

 

「こんな時に恩返ししなくて、いつ恩返し出来るかっての!!」

 

「何なりと申しつけて下せぇ!!」

 

 未だ侍としての位こそ持たない彼等であるが、深鈴はそれを負い目に思ってか働きに対して報酬を惜しまず、信奈から特別に下賜された恩賞は全て分け与えていた。最高待遇の食客である源内に次ぐほどの厚遇を全員が受けている彼等の士気は、高い。

 

 それを肌で感じ取って感極まった深鈴はぺこりと頭を下げ「呑(や)りながら話を聞いて下さい」と前置きして、説明を始める。

 

「今回、私達が信奈様から仰せつかった任務は、味噌を沢山買い込む事です」

 

「買い込みの指揮は、この明智十兵衛光秀が執るです!!」

 

「成る程……で、いつから始めやす?」

 

「明日の朝からお願いします。まずは清洲城下から始めて味噌を売るように聞いていって下さい」

 

「売らないと言ったらそのまま踏み込み、土蔵を破って根こそぎ取り上げりゅでござりゅきゃ?」

 

「親分が噛んだ!!」

 

「この瞬間の為に生きてるなぁ!!」

 

「たまんねぇぜ!!」

 

 やはり川賊の血が騒ぐのか物騒な事を言い出す五右衛門と、相変わらずの露璃魂(ろりこん)振りを発揮する川並衆。どうにも話が進まないので深鈴と光秀は顔を突き合わせて溜息を一つ。その後揃って「こほん」と咳払いして場の空気を落ち着かせると、話を進めていく。

 

「五右衛門、それは勘弁してくれないかしら……そんな事をされたら私の首が飛んでしまうわ……二重の意味でね」

 

「私的にはそれでも構わないですけど……打ち首は流石に可哀想です。皆さん、止めておくです」

 

「そんじゃあもし、隠して売らないと言ったら?」

 

「その時は「はいそうですか」と、次の店に行けば良いわ」

 

「……で、内々の事ですが今川勢が押し掛けてくるので籠城と決まったです。だから慌てて味噌を買い込んでいると、それぐらいは言って良いですよ」

 

 光秀の説明を受けて、川並衆達は怪訝な面持ちになる。次の戦で織田勢が籠城作戦を執るなどという大事を店先で口にしては、今川にそれを教えてやるようなものではないか?

 

 当然、その疑問が郎党の一人からも上がるが、

 

「まぁ、止むを得ないですからね。ごく内々に、不自然ではない程度にお願いしますよ」

 

 と、そう返されたきりだった。

 

「それじゃあ、味噌買いの方針について話すです」

 

 光秀は尾張周辺の地図を床へと広げ、計画を説明していく。

 

 まずは城下町から始めて那古野、古渡、熱田と行って段々と西三河に。徐々に遠くまで買い出しに行くのだ。

 

「そこでここからが肝ですが……恐らく、味噌を買っている途中で戦が始まるです。その時は順次に引き返すです」

 

「順次、ってえと……」

 

「一度に引き返してはならない、という事ですよ。帰る者はその時々に、今川義元が何処を通って何処に宿泊して、何処に向かうかを見届けて帰る……ですよね? 十兵衛殿」

 

「その通りです、銀鏡殿」

 

 信奈が二人に味噌買いを命じた真の意味は、まさにこれだった。仮に本当に籠城する事となっても、米も味噌も野菜も塩も、たっぷりと蔵に詰まっている。勿論、信奈の好きな八丁味噌も。

 

 大体して、本当に籠城すると決めたのならどうして軍議を開いて諸将に伝えるのではなく、わざわざ二人だけを呼び出して二人だけに伝えるのだ? それに、本当に味噌が足りないのであれば調達するのは台所奉行の役目であろう。鉄砲奉行の深鈴や客将である光秀の仕事ではない。

 

 ならば何故、信奈はそれを二人に申しつけたのか。目的は二つ。

 

 まず第一に今川は勿論、尾張の民にまで信奈が籠城するつもりだという情報を流す事。

 

 第二に、今川の動きを知る事。これは本来深鈴配下の諜報部隊の仕事でもあるが、保険の意味があった。例の密書で服部党がこちらの乱波を見逃す可能性は九割以上と見て良いだろうが、逆に言えば僅かな危険が残っている。それに対応する為の一手であった。

 

 こうして任務の子細が説明されて後は酒が入った事もあってそのまま宴会の様相を呈したが「明日からの任務に差し支えるほど飲み過ぎてはなりゃにゅ」という噛み噛みな五右衛門の鶴の一声もあって順々に解散となり、広間に残っているのは深鈴と川並衆の副長である前野某のみとなった。

 

「人員は私が用意し、指揮は十兵衛殿にお任せするとして……前野殿には私を手伝ってもらいましょう」

 

「俺に、ですかい?」

 

「ええ、銀蜂会の財力を使って用意したいものがあるのです」

 

 シャーペン一本と引き替えにして得た百両から増やし始めた深鈴の資産は、織田に仕官した時点でその半分でも未だ高級品である鉄砲を五十挺、更に絵図面と鉄砲鍛冶まで揃える程の巨額であったが、彼女は残り半分によって大工仕事や飯屋、小間物屋に八百屋、刀屋に仕立屋など幅広い事業を取り扱う元締めとして自分と五右衛門の姓から一字ずつを取って命名した「銀蜂会」を設立。その初代会長として就任していた。織田家家臣との兼任である。

 

 一応、五右衛門が副会長という立場にあるが彼女は忍びとしての任務に専念する為ほぼ名ばかりの役で、第三位である副会長補佐を川並衆副長と兼任する前野某が実質的にその役に当たり、深鈴の激務をサポートしていた。

 

 今や「銀蜂会」は尾張の経済を揺るがす程の巨大企業となっている。尾張で手に入る物で彼等に用意出来ない物は、ちょっと無い。

 

「で、何を用意いたしやす?」

 

「そうね……まず、餅米を三十俵ほど。それと酒を十樽。するめ、干し魚など酒肴もたっぷりと……」

 

 用意する物を帳面に記していた前野某は、怪訝な表情を見せる。提示されたのは随分な量だが、銀蜂会なら用意する事自体は可能だ。だが……

 

「嬢ちゃん、お城の食料はたっぷりあるのでは……?」

 

「ええ、勿論……」

 

 当然の疑問を受けて、銀鈴は涼しい顔で頷く。

 

 そう、これは織田勢の食べ物ではない。

 

「これは、今川方が食べる物なのですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、深鈴は裏で何やら悪巧みを始め。

 

 五右衛門は影となって動き。

 

 光秀は密命を遂行し。

 

 勝家は兵士達に調練を行い。

 

 長秀は君主としての務めを果たす信奈を補佐し、犬千代はその傍にあって守り。

 

 各々が各々の役目を果たしていく中で、遂にその日が来た。

 

 五月十九日未明。味噌買いから戻った川並衆の一人による「今川義元本隊、本日の大高城泊まりは確実」との報告を、光秀は信奈に伝えた。

 

 程なくして光秀が叩く小鼓(こづつみ)と、信奈が舞う敦盛の歌声が、未だ殆どの者がまどろみの中にいる清洲城へと響いていく。

 

 そして、舞が終わり。

 

「私の具足を!!」

 

 信奈の大声に叩き起こされた小姓の一人が、寝ぼけ眼のまま彼女の甲冑を持ってくると流石に慣れた手際で着装を手伝っていく。

 

「姫様……!!」

 

「犬千代!! 貝を吹きなさい!!」

 

「!! 承知!!」

 

 おっとり刀で駆け付けた犬千代はその指示を受けて反転、退室すると城内の高台へと上がって手にした法螺貝に、目一杯息を吸って肺に溜め込んだ空気を一気に注ぎ込む。

 

 ぶおお、という独特の音色が城中に大音量で響き渡り、夢の中に居た多くの織田家臣団が一斉に叩き起こされた。

 

「湯漬けを持ってきなさい!! 腹が減っては戦は出来ないわよ!!」

 

 茶筅髷や瓢箪といった普段のうつけ姫の装いも、信奈としては彼女なりの合理性を追求した結果である。食事も同じで、今回のように特に忙しい時などにはすぐに食べられる湯漬けを彼女は好んだ。別の小姓が持ってきたそれを食べながら他の小姓達による鎧の着付けも続けられ、そして茶碗が空になるのと信奈の装備が整うのはほぼ同時だった。

 

 その間、光秀はいつ声が掛かっても即応出来るよう心得て、片膝付いて控えていた。

 

「十兵衛、銀鈴は?」

 

「はい、銀鏡殿は今朝から姿が見えないです……ですが」

 

「デアルカ」

 

 光秀の言葉を受け、信奈は頷く。そう、「ですが」なのだ。

 

 逃げるような者ではない。例えここに姿が見えなくても、深鈴もまた深鈴の戦場に居る。二人とも、今やその確信は等しく持っていた。

 

 ここでは出遅れるかも知れないが、後から必ず追い付いてくる。それを信じ、自分達はただ駆けるのみ。

 

「よし、出陣よ!! 行き先は熱田神宮!! 者共続け!!」

 

 敦盛が舞い終わってから愛馬に跨った完全武装の信奈が城門を飛び出すまで、十分と掛かっていない。疾風の如き出撃に対応して信奈に付いて出れた者は光秀や犬千代を含めてたった五騎であった。

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、今川勢による尾張への侵攻も始まっていた。

 

 先鋒の松平勢は丸根砦へ、朝比奈勢は鷲津砦へと引き絞られていた矢のように襲い掛かった。

 

 だが、この緒戦の趨勢は既に見えていた。松平勢・朝比奈勢共にその数は三千。対して丸根には佐久間大学率いる手勢が四百。鷲津には織田玄蕃の兵が三百五十。古来より確実に城を落とそうとすれば攻めて手には守り手の三倍の兵力が必要とされるが、今回の兵力差はどちらの砦も実に八倍近く。

 

 しかも、丸根砦は前もって潜入していた半蔵率いる服部党の忍者集団によって内部から火の手が上がり、食料・弾薬の全てを焼き払われた所を攻められあえなく落城。佐久間大学は討ち死にした。義元曰く「乱波を使ってのこすずるい戦」である。

 

 輿に揺られ、この季節にはちと厚着が過ぎるであろう十二単を着込んだ貴族風の美少女。「海道一の弓取り」今川義元は服部半蔵からその戦果を聞いて「おーほほほ」と笑う。

 

「松平勢はそのまま前進、清洲への一番乗りを目指してもらいますわ」

 

「しかし、我が軍の被害も大きく……」

 

 半蔵が抗議するもその声は、義元の笑い声によって遮られてしまった。

 

「嘘おっしゃい。腹黒な元康さんがそんな戦する訳ないですわ」

 

 着ている衣装や化粧と同じく雅さを感じさせる義元の声だが、言葉の後半から一オクターブほど低くなった。

 

「松平勢はそのまま進軍。よろしくて?」

 

 これ以上の反論は許さないと、語気が強くなる。それを受けては半蔵は「御意」と言葉を残して消える他は無かった。

 

 上洛の急先鋒として使われ、元康が戦死すれば三河は今川の直轄地。そうでなくても常に先手に立たされる三河勢は戦えば戦うほどその数を減らしていき、松平党はいずれ自然消滅する。

 

「血を流すのは三河の田舎侍。今川本隊は戦力を温存したまま悠々上洛……これが貴族の戦ですわ」

 

 

 

 

 

 

 

 丸根の砦を落としたばかりの元康は、馬上にて半蔵からその報告を受けていた。

 

「このまま前進せよ、ですか~」

 

「はい……織田を蹴散らすと同時に、我々の戦力を削るのが狙いかと……」

 

 義元の狙いそれ自体は元康も上洛の軍を起こす前、自分の義妹として鶴姫を迎えた時から看破している。だが、彼女は家族を人質として取られている身。迂闊に逆らう事は出来ない。取れる選択肢は限られていた。

 

「それでは皆さん、このまま前進。見付けた織田の兵はボコっちゃいましょう~」

 

 本陣の義元が看破した通り、丸根を陥落させた後も松平勢の損耗は極めて軽微。無理押しさえ避ければこのまま進軍を続けても問題は生じ得ない。

 

 忠勇なる三河武士達は振られた軍配の動きに応えて雄叫びを上げ、前進を再開する。

 

 彼等と共に進みながら、元康は半蔵へと語り掛けた。

 

「半蔵、ちょっと良いですか~?」

 

「はっ……」

 

「私は半蔵と服部党の皆さんは、とても優秀な忍びだと思ってます~」

 

「光栄であります」

 

 片膝付いて平伏の姿勢を取ったまま、希代の忍者はその賞賛の言葉を受け取る。

 

 だが姫様は戦場で、何故いきなりこのような事を言い出すのか?

 

 彼女の、意図する所は。

 

「でも……いくら優秀な皆さんでも、うっかり敵の乱波を見逃してしまう事は、一度くらいはありますよね~?」

 

「……御意」

 

 それだけの言葉で全てを察した服部党の頭領は、現れた時と同じく空間に溶け込むように姿を消した。

 

 自分の意が伝わった事を確信すると元康は微笑し、馬を走らせる。

 

 そう、如何に服部党が優秀でも人間である以上、一度くらいの失敗はあるだろう。

 

 例えば、この戦で義元公の本陣を突き止めた織田方の忍びを、うっかり逃がしてしまうとか。

 

 

 

 

 

 

 

 時は正午近く。

 

 義元の本陣は、田楽狭間のすぐ近くに差し掛かっていた。

 

「申し上げます!!」

 

 輿の上の義元へ戦の最新状況を伝えるべく、駆けてきた早馬から伝令が下馬する。

 

「朝比奈勢、鷲津砦を陥落させましてございます!!」

 

「おーほほほほほ。朝比奈殿もやりましたか。それで、敵将は?」

 

「はい、敵将・織田玄蕃は夥しい死体を残して敗走いたしました」

 

 その報告を受けた義元の笑みが、少しだけ曇る。

 

「お手柄です、が……元康さんは敵の首級を挙げたのに泰能さんは討ち漏らしました。すぐに追うように伝えなさい」

 

「はっ!!」

 

 命令を受けた伝令が再び騎乗して駆け出し、その背中が見えなくなる頃にはちょっぴりだけ影が差した義元の機嫌は、この雲一つ無い青空の如く晴れ晴れとしたものに戻っていた。

 

「事は全て、わらわの思い描いた通りに進んでいますわ」

 

 織田方の対今川防衛線である丸根・鷲津を抜け、このまま清洲へ侵攻。全軍で以て尾張を蹂躙し、近江も平らげて最後は京へと至る。

 

 大雑把極まりない上洛計画であるが、しかしこと今川陣営に限ってそれは非難されるべきものではない。単純にちまちまとした計を弄する必要が無いというだけなのだ。実際、今の所は全て上手く運んでいる事だし。

 

 今川義元は間違いなく現在の日の本に於いて最大の兵力を擁する戦国大名である。古今はおろか恐らく未来にあっても物量に勝る戦略は存在すまい。世の中の殆どを支配するのは結局、数なのだ。

 

 兵法書には様々な奇策が記され、寡でもって衆を制する事こそが戦の華のように思われているが、しかしそれらは究極的にはあくまで一度限りの奇策・邪道でしかない。兵力・財力・国力……そうした物量を以て正面から敵を押し潰す戦こそが何百年先でも変わらずに使われているであろう王道の戦法であり、そうした戦い方でこそ今川という勢力は真価を発揮するのだ。

 

 ……と、義元自身はそこまで考えて軍を動かしている訳ではないが、彼女が立案して実行している小細工無用のこの上洛作戦は、全く理に叶ったものだった。

 

 常識的な兵法で戦う限り、織田には文字通り万に一つの勝ち目も無い。

 

「おーほほほほほ。思った以上に尾張の山猿共はあっけないですわね!! この分では、明日には清洲に泊まれることでしょう!!」

 

 先日は武田・上杉が同盟して上洛によって留守の駿府を狙っているなどと根も葉もない流言を流してくれて兵を退く羽目になったが、この分ではその借りはのしを付けて返してやる事が出来るだろう。

 

 ここに来るまでに聞いた情報によると、織田信奈は籠城を決め込んで清洲城内で震え上がっているらしい。明日の城攻めではそんな彼女を引きずり出してやろう。そうして生け捕りにしたうつけ姫の、その泣き顔を肴にとっておきの美酒を楽しんでやろう。と、義元がそんな妄想に浸っていると、また別の伝令がやって来た。

 

「姫様、この辺りの『礼の者』が参っております」

 

 それを聞いた義元はますます気を良くした。

 

 礼の者とは僧侶や神官、村の総代などが戦の勝者に貢ぎ物を届けてくる事であり、新しい支配者への媚びである。

 

 つまりは、民草が今川義元を新しい尾張の支配者として歓迎し、認めているという事なのだ。

 

「おーほほほほほ。わらわは頭を垂れて従う者には寛容ですわよ!! 決して無法はさせないと言って、安心させておあげなさい」

 

「姫様、実は今度の礼の者は今までのよりも遥かに多くの貢ぎ物を持ってきております」

 

「ふぅん? 米の十俵でも持参したのですか?」

 

「いえ。それが、餅米三十俵をちまきとして、酒十樽、するめ、干し魚など酒肴を馬十頭に積んで参りました」

 

 その貢ぎ物の量には義元も目を丸くした。いくら世間知らずな彼女でも、農民達が簡単に用意出来る量でない事は容易に理解出来る。この辺りの民はそれほどに豊かなのですか、と聞いてみるが、

 

「いえ、姫様のご上洛に備えて用意していたそうでございます。ご上洛のめでたい御旅、それをお祝いするのが歓びと、節句の餅米を今日の為にとっておいたそうでございます」

 

「ほほう」

 

 それを聞いた義元の機嫌はいよいよ良くなった。ここはまだ今川の治める地ではないと言うのに、賢い農民達も居るものだ。

 

「感心な事ですね。では、褒美として声を掛けて通って差し上げましょう」

 

 彼女の指示を受け、本陣は少しだけ進行方向を変えて別の道へと入っていく。そこには道に沿うようにして、農民達が一列に並んで平伏していた。

 

「おーほほほほほ。ちまきと酒肴を届けてくれたのは、あなた達ですか?」

 

 頭上より声が掛かり、人々の中程にいた少女が顔を上げる。

 

「はい、姫様がこの辺りを通られるのはお昼頃であろうと、三ヶ村で寝ずに作りました、ですぞ!!」

 

 まだ数えでも十にもならぬだろう幼子で、口調も大名を相手にするにはなっていないが、今の義元はそれを咎める気にはなれない。

 

「おーほほほほ。ご苦労でしたわ!! もうすぐお昼ですし、後で美味しく頂きますわ!!」

 

「ははーっ」

 

 再びその少女は顔を伏せて、義元は進んでいく輿からひらひらと手を振る。そうして人の列が途切れた所で、傍らを行く部下の一人を呼ぶと、

 

「おーほほほほほ。暑いですわね!! わらわは休憩したい!! それにそろそろお昼時、村人達の持ってきたちまきと酒で昼食にしましょう!!」

 

 そう申し付け、今川本陣は少しだけ行く先を変えた道を、田楽狭間へ向けて進んでいく。

 

 その隊列の最後尾が見えなくなった所で、顔を伏せていた農民達は一斉に立ち上がり、義元から声を掛けられた少女、ねねは何処へともなく虚空へ向け、呟く。

 

「聞いておられますな? 飛び加藤殿!! お伝えめされよ!! ねねは銀鈴様より仰せつかったお仕事、確かにやり遂げました、ですぞ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 熱田神宮から善照寺への道すがらにある山崎の地で、食客達を従えた深鈴は段蔵よりその報告を受けていた。

 

 義元の本陣を田楽狭間に誘導し、かつしばらくの間そこに留めておく策は見事に当たった。

 

 信奈の率いる尾張勢の本隊は義元の本陣だけと戦ってぎりぎり勝てるかという数。これ以上は一兵とて減らす訳には行かず、また兵が使えたとしても立ち振る舞いから織田の回し者だと今川の兵に看破される可能性も有り得たのでこの策には使えなかった。だから、ねねに白羽の矢が立った。

 

 彼女は、見事にやってくれた。だから後は自分達の番。それぞれがそれぞれの役目を全うする。それだけを考えて、動いていた。

 

「銀鏡氏」

 

 五右衛門が偵察の子細を報告に現れる。

 

「今川義元の本陣、手筈通り田楽狭間にて昼食中でござる」

 

 そこで一度言葉を切り、

 

「また、今川方の忍びによる警戒網は呆れる程にお粗末であり、密書のこょうきゃはあったようにござりゅ」

 

「了解、ありがとう」

 

 まずは、良し。

 

「では、段蔵と五右衛門は諜報部隊を指揮して引き続き田楽狭間の今川本陣の警戒を。何か変わった動きがあればすぐに知らせるように」

 

「承知!!」

 

<了解>

 

 指示を出して二人の忍びが姿を消すと同時に、深鈴も自分の馬に飛び乗ると食客達へ向けて声を張り上げる。

 

「では、私達はこれより熱田神宮へ向かい、信奈様と合流します!! 皆、遅れずに……」

 

「銀鈴、しばらく」

 

「んっ?」

 

 声のした方を見ると、およそ百名程のキレイどころよりどりみどり。尾張中から集めた可愛い女の子がずらりと並んでいた。侍はその中で数える程しかいない。

 

 尾張広しと言えどもそんな軍団を率いる武将は、一人しか居ない(尤も、それならまるで共通点の無い一芸達者ばかりの深鈴の食客達はまるで雑伎団のようで、他人の事をとやかく言えないのだが)。

 

「おや、信か……あ、いえ信澄殿」

 

 そう言えば彼はまだ謀反が許されたばかりで軍議に呼ばれなかったのを、今更ながらに深鈴は思い出した。

 

「君には命の借りがあるからね。僕も君の為、姉上の為、そして何より尾張の為に働きたいと思ってこうして参上した次第さ!!」

 

 そう言い終えるのと同時に「信澄様ステキ!!」「かっこいい!!」などと周りから黄色い声が上がる。何と言うか……見ていて疲れる。

 

「それで銀鈴、何か僕達で役に立てる事はあるかい?」

 

「えっと……」

 

 そう言われて、ずらりと並んだ信澄親衛隊を見渡す深鈴。町人とか村娘ばかりの編成で、戦闘力はほぼ皆無であろう。槍働きなどは期待する方が間違っている。

 

 だが……

 

『ん……? 待てよ……』

 

 美人ばかりの女性部隊であるからこそ、役立てるケースもある。それが今である事に、彼女は気付いた。

 

「では信澄殿はこのまま田楽狭間へ向かって下さい。ちょうど今川義元の本陣が礼の者から受け取った貢ぎ物で休息中の筈ですから、親衛隊の方達と一緒に……そう、戦勝の前祝いとでも理由を付けて、釘付けにしておくように」

 

「成る程、姉上達が駆け付けるまで時間を稼ぐんだね。分かった、任せておきたまえ!! それならお手の物さ!!」

 

 自信の笑みと共にそう言って、信澄は親衛隊と共に田楽狭間へと向かう。山崎の地には再び深鈴と配下の食客達が残された。

 

「ここまでは、全く計画通り……いや、それ以上……」

 

 本当に上手く行きすぎて、怖くなってくるぐらいだ。いや、上手く運んでいるのだから怖がらずに喜ぶべきなのだろうが。

 

 このままなら十中の七八は、深鈴が知る歴史知識に於ける桶狭間の戦いが再現される運びとなるだろう。ただ、未だ一つの要素が欠けているが故に、十中の八九とはならない。

 

 最後の、たった一つ。画竜の点睛。

 

 しかしそれは人の手ではどうにもならない要素であるが故に、諦める他は無かった。運を天に任せる以外の選択肢は、元より無い。

 

 だが、それでも……

 

「……雨さえ、降れば……」

 

 ぼそりと、風に解けて消えそうなその呟きを耳にして、集まった食客達の中の一人が進み出た。

 

 源内だ。

 

「おや、銀鏡様。雨を降らせれば良いのですか?」

 

「えっ?」

 



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第11話 雨中の決戦

 

 熱田神宮には、織田軍の主力が集結しつつあった。信奈が本陣を構える場所としてここを選んだのには、三つの理由があった。

 

 第一に、籠城すると思っている今川方に味方の行動を予知されない為。

 

 第二は、少し前まで信勝と身内同士で争っていた自分にどれほどの家臣が付いてきてくれるかを確かめる為。

 

 第三に、ここが敵に最も近く勢揃い出来る場所であった事。

 

 果たして信奈以下五騎が到着してから僅かに間を置いて、織田家の家臣達は集まってきた。

 

「姫様!! 遅ればせながらこの六も参上いたしました!!」

 

 まず凄まじい勢いで柴田勢を率いて勝家が駆け込んできて、

 

「間に合いましたか!!」

 

 同じように部下を連れた長秀も合流してきた。

 

 その後も次々に家臣達が馳せ参じ、集まった兵の総数はざっと三千。動かせる兵はほぼ全てが集まった訳だが、しかし信奈は動かない。

 

 彼女は待っていた。

 

 今川方は二万五千の兵を何手かに分けて進軍してきている。軍議で深鈴と光秀が指摘したように、織田勢に勝機があるとすれば本陣への奇襲のみ。故に本陣の位置が分からなくては、動きようがない。

 

「困った、わね……」

 

 ふう、と一息。それを受けて「何を今更」と勝家は猛る。「こうして出陣したからには今川軍めがけて全軍でまっしぐらに突撃あるのみ!!」と、今にも飛び出していきそうだ。

 

「この兵力差では、いかに剛勇無双の勝家殿とて途中で力尽きてしまうでしょう。十七点」

 

 そんな彼女を、長秀がたしなめる。

 

「ですが、信奈様……そろそろ動かねば……」

 

 確かに今川方の本陣を発見する事は重要だが、しかしあまりに待ちすぎて遅きに失しては本末転倒である。そう考えた光秀が僅かに不安げな声を上げた、その時だった。

 

「!!」

 

 何かを察したかのようにばっと身を翻した犬千代が、寺の入り口へ向けて槍を構える。

 

 自然と将も兵も、この場の者達の視線がそちらへと集中する。何人かは万一の事も考えて、刀の柄に手を掛けてもいた。

 

 一方で信奈はにっ、と口角を上げる。

 

「来た……!!」

 

 どうやら”困った”が、届いたらしい。あいつならきっとやり遂げると思っていたが、やはりやってくれた。

 

 報告を受けた訳ではないが、彼女にはそれが確信として分かった。

 

 先程の勝家や長秀にも劣らぬような勢いで、騎馬した深鈴が駆け込んできた。彼女の姿を認め、信奈と家臣団の表情が一斉に明るくなる。やはり全員が勢揃いするとしないとでは、空気が違う。

 

「遅いわよ、銀鈴」

 

「申し訳ありません。今川の本陣を探っておりました」

 

 下馬した勢いのまま膝を付いた深鈴の報告を受け、全員の表情が変わる。この戦で織田勢が勝つに欠かせぬ黄金よりも貴重な情報を、彼女は持ってきたのだ。

 

「今川の本陣五千は、田楽狭間にて礼の者が持参したちまきと酒を分配して昼食中。先行した他の部隊からは完全に孤立。現在、信澄殿達が足止めに動いています」

 

「勘十郎が……!!」

 

 信奈のその声は、震えていた。悲しみでも怒りでもなく、感動に。

 

 田楽狭間がどれだけこちらからの奇襲にうってつけの地形であるのかは、尾張の地形に詳しい信奈には良く分かっていた。まさか偶然、義元がそこに本陣を構えた訳がない。

 

 犬千代や光秀から聞いていたが、礼の者を使って今川勢を誘導する深鈴の策、それが見事成ったのだ。

 

 そうして深鈴が必殺の地形へと今川を誘き出し。

 

 信澄が今、そこに奴等を釘付けにしている。

 

 やり方は違えど皆が皆、この戦に勝つ為に力を尽くしている。

 

 ならば、次は自分の番。

 

 為すべき事を見据え、微塵の迷いも振り切った信奈の眼が強い意思の光りに燃えて、輝く。

 

「全軍、これより田楽狭間へ突撃!! 私の全てを、この奇襲に懸けるわよ!!」

 

「合点承知!!」

 

 下知を受けた勝家はどんと大きな胸を叩き。犬千代が出陣の時と同じく、法螺貝を吹く。

 

 独特の音色が響くのに一拍遅れて、兵士達もそれぞれ雄叫びを上げた。尾張無くして我ありと思うような者はこの場には一人として居ない。皆、信奈と運命を共にする覚悟だった。

 

「折角の熱田神宮です。神様に戦勝祈願をされては」

 

 長秀の提案を受けた信奈はずんずんと神殿の前にまで進み出て、

 

「一体、いつまでこの国を乱れたままにしておくつもりよ!! これからは、私があんた達に代わって民を守ってやる事にしたわ!! あんたが本当に神様だったら、この私を勝たせなさいよ!!」

 

 との暴言を皮切りとしてとても文章には出来ないようなハチャメチャな行動と言動を連発。神をも恐れぬ振る舞いとはまさにこの事。尤も、いかな理由があろうと仏前で抹香を投げ付けるなどという乱行を繰り広げた彼女である。今更かも知れないが。

 

 仏罰の次は神罰に怯える羽目になるのかと勝家は涙目になり、長秀は溜息だがその元気を評価して百点を付け。

 

 光秀は初めて見る信奈の破天荒振りにあんぐりと口を開けっ放しにして、犬千代は手柄を立てたらご褒美にどれだけういろうがもらえるかを脳内で皮算用していた。

 

「さあ、行くわよ!!」

 

 城からの出陣の時と同じく信奈が先頭を切って駆け出し、

 

「姫様に遅れてはなりません!!」

 

「馬が倒れても自分で駆けろ!!」

 

 それに続く家臣団に率いられ、足軽達も走り出す。三千の兵によって成る軍団それ自体が一つの生き物のように田楽狭間へ向けて、まっしぐらに突き進む。

 

 信奈のすぐ後ろを駆ける家臣達の中には、当然ながら深鈴の姿もあった。

 

 ちらり、と視線を上げる。

 

 空は未だ快晴。雨が降る気配は、無い。秋でもないこの季節に、急に天気が変わる事など有り得るのだろうか。

 

 正直、分からないが……

 

 少なくとも自分に雨を降らせると言った源内は、絶対確実とは言わぬまでもそれなりに勝算はある口振りだった。

 

『だから、全ての食客達を自由に使って良いと預けてきたけど……』

 

 どのみち、食客達の中で直接戦闘に長けた者はそう多くはない。故に、信奈の本隊と合流させずともマイナスは最小限に留める事が出来る。そんな計算もあって勝手を許した訳だが……

 

『天が私達に味方するのか、それとも源内、あなたが天運をも変えるのか……!! あるいは私達は天にそっぽを向かれて、源内も何も出来ずに終わるのか……』

 

 これは運試し。自分の、信奈の、尾張の命運を占うもの。

 

『頼んだわよ……源内……!!』

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、源内に主導された深鈴の食客達は山崎の地からほど近い広場に陣取って、何やら怪しくも仰々しい邪教の儀式じみた行為に忙しかった。

 

「さあ、燃えるものは木でも油でもどんどん燃やして!! もっと火を熾すのよ!!」

 

 広場の中心には巨大な火が燃えており、前野某がありったけ用意した薪や油、竹串に葉っぱ。燃えるものと燃えそうなものは兎に角何でもかんでもこの場に到着するなりすぐにその中に投げ込まれて、炎は更に燃え盛っていく。

 

 食客や川並衆は何故こんな事をするのかと疑問を抱いてはいたが、しかし彼等は深鈴から源内の指示に従うようにと言われており、首を傾げつつも手を動かしていた。

 

 それにしても一体どうやってこれで雨を呼ぶというのか? 日本各地に雨乞いの儀式は様々な方式が伝わっているが、そういうのには大抵神官の祈祷が付き物なのではないか? 見た所そうした類の者は居ないようだが……

 

 と、そうしている間にも火勢はどんどん強くなり、炎上した丸根の砦もかくやという規模になった。炎に触れなくても熱気だけで肌や髪が焼かれそうだ。

 

「こ、これは凄いな!!」

 

 愛用の山高帽を熱風に持って行かれないように押さえながら、いつも通りの線目と貼り付いたような笑みを崩さずに森宗意軒が唸る。

 

「しかし源内殿、本当にこれで雨が降るのか?」

 

 彼の疑問も尤もである。これは食客達や川並衆全員の代弁であると言えた。

 

「俺は南蛮で”根黒万死”という秘術を学び、唐土では老師から道術を学び、日本に戻ってからも高野山で色々と呪術を学んだ。だから分かるが……雨を呼ぶ法などは高位の陰陽師でもちょっと難しいぞ。あんたにそれが使えるのか?」

 

 そう尋ねられて、源内はむすっと頬を膨らませた。あからさまに不機嫌になったのを見て取って線目も笑みもそのままだが、宗意軒の表情が少しだけ意外そうに変化する。

 

「私の”科学”は、陰陽道のような妙ちくりんなものとは全く違うわ。一緒にされるのは心外だわね」

 

「科学、ねぇ……?」

 

「そうよ。陰陽道とかの類は、特別に才能のある人間が何年も修行しなくちゃ使えないでしょ? 科学は正しい知識を持って適切な準備を整えれば、誰でも使えるのよ」

 

 ふふん、と鼻で笑う声が聞こえそうな表情で源内が語る。それを受けて宗意軒は「ほう」と一言。

 

「それに科学は他のお呪いの類とかとは違って、どういう理由があってそうした結果に繋がるのか。はっきりと説明出来るのよ」

 

 つまり、理論などは殆どすっ飛ばして式神を出したり天候を操ったりする陰陽道よりはその分だけ優れている。と言いたいのだ。自慢げな表情からそれを読み取って、宗意軒は試みに尋ねる。

 

「……では、こうして火を燃やせばどうして雨が降るのか、それについても当然、説明出来るのだろうな?」

 

 挑発的なその問いに、源内は「勿論!!」と頷いて返した。

 

「森殿は、昔から合戦の後にはよく雨が降るというのをご存じで?」

 

「あ……? いや……」

 

「昔の人はそうした記録にも熱心で、書物にもはっきりと記されているのよ」

 

 宗意軒はそこまで説明されて「ふむ」と頷く。成る程、合戦と言えば火。ならば同じように火を焚けば、雨が降る可能性を高める事が出来るのは道理。だが何故、火を焚く事で雨が降るのか? 新しく生まれた疑問にも源内はしっかりと対応して、説明を続ける。

 

「次の質問ですが、森殿は「水」と言えばどんなのを思い浮かべる?」

 

「水? そりゃあ当然……」

 

「透明な、液体を思い浮かべるわよね? でも水はそれだけじゃなくて、今こうしている私達の周りの空気の中にも、含まれているのよ」

 

「空気の中に、水が……?」

 

 きょろきょろと視線を動かす宗意軒は信じられないと言いたげな顔だ。それも当然の反応だと、源内は勉強熱心な生徒を見る教師ように微笑む。

 

「そして、空気には暖められると軽くなって上昇するという性質がある。当然、これだけの焚き火だから大量の空気が水ごと上空に舞い上がる事になる。そこで……」

 

 源内は宗意軒を連れて巨大火柱から少し離れた場所へと移動する。そこには様々な道具を組み合わせた、何やら意味不明なオブジェとしか見えない物体が置かれていた。

 

「……何だ? この提灯に色々くっつけたような物は?」

 

「秘密兵器よ。さあ、始めるわよ!!」

 

 源内は巨大な提灯のすぐ下に縄で括り付けられたふいごの取っ手を押し引きして、火を熾す。するとそれまでは閉じた扇子のように畳まれていた提灯がみるみるうちに大きく膨らみ、十数メートルはあろうかという楕円型へと姿を変えた。

 

 しかも、巨大提灯は少しずつ空中へと上がって行きつつある。深鈴の生まれた時代では熱気球と呼ばれるカラクリであった。

 

「これは……」

 

「さっきも言ったわよね? 空気は暖められると軽くなる。だからこの提灯の中の空気も軽くなって、こうして少しずつ浮き上がっていくのよ」

 

 遠目からは分からなかったが、段々と上空へと浮き上がっていくのが分かるぐらいにまでの高度になると、場の者達からも歓声が上がった。

 

 この反応も当然。鳥でも、生き物ですらない只の物体が空中へと浮き上がるなど、彼等にとって全く想像の埒外の出来事なのだから。

 

「そして、もう見えるでしょ? あのふいごの下を見て」

 

「……ん? 何か、袋みたいなのが付いてるな」

 

 そう、袋だ。そのすぐ隣に何か箱のようなものがくっついている。

 

「あの箱の中には火薬を使った仕掛けがあって、ある程度時間が過ぎると爆発して袋の中身が飛び散るようになっているのよ」

 

「袋の中身は?」

 

「塩の粉末よ。他にも色々と混ぜてあるけど」

 

 そう説明している間にもふいご付き提灯はみるみる小さくなって、殆ど小さな点にしか見えなくなる。つまりはそれだけの高度にまで昇っているという事だ。

 

 と、その時。彼等の耳に小さく「パン」という乾いた音が入ってきた。源内の言っていた箱の中の仕掛けが作動して、袋が破れたのだろう。これで、空中に塩の粉末がバラ撒かれた事になる。

 

「後は、上空の空気中の水が塩にくっついて、雲の子供を作る……」

 

「ふぅむ……」

 

 顎に手をやって考える仕草を取る宗意軒。聞いてみて、源内の理論が素晴らしいのは分かったが、しかし現実が全く理屈通り上手く行くとは限らない。

 

 それは、源内自身も分かっているのだろう。今の彼女の表情は大金を掛けた賭博で、今まさに開かれる二つのサイコロが入った壺を見る博徒のそれに似ている。開かれたそこにあるのは丁半のいずれか。つまりは、のるかそるか。

 

 彼女だけではない。この場に集まったおよそ300名が固唾を呑んで空を見上げていたが……

 

 元々ここからではバカでかい焚き火から立ち上り、巻き上げられた煙によって空は青くは見えなかったが、しかし徐々に煙のせいだけではなく本当に空を雲が覆っていき、灰色に見えてきた。

 

 雲の中からゴロゴロという独特の雷音も聞こえてくる。

 

「源内殿、これは……やったんじゃあないか?」

 

「多分……ね」

 

 源内の理論と技術の正しさが証明されたのか、それとも彼女が何もせずとも今日、雨が降ったのか。

 

 いずれにせよ、これで深鈴の案じていた最後の一つの要素が埋まった。壁に描かれた竜に、目が描き入れられたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 同じものが今、田楽狭間へ向けて疾走する信奈の本隊からも見えていた。

 

 熱田神宮に祀られし神が信奈の傍若無人に怒ったのか、それともたった一人の人間の女子にここまで言われて動かないのは神の名折れと一念発起したのか。ともあれ蒼天がにわかにかき曇り、天の底が抜けたのではと思う程の豪雨が襲ってきた。

 

「信奈様……雨が……!!」

 

「これこそ天佑!! これで今川軍に知られずに近付けるわ!!」

 

 上空で雷神が猛っているにも関わらず愛刀を振り上げ、全軍を鼓舞する信奈を見て、ほとんど雨音に掻き消されて分からないが兵士達も鬨の声を上げる。

 

 この時代の戦に於いて、総大将が先陣に立つと立たないとでは兵の士気が全く違ってくる。自分だけが命を張っているのではない。兵士達にそう思わせられるのとそうでないとでは大違い。しかも信奈はあるいはそこまで計算しているのだろうか、自分は雷に打たれる事も恐れないという命懸けのパフォーマンスも手伝って、武将から一兵卒に至るまで闘志は天井知らずに高まっていく。

 

『源内……やったのね……!!』

 

 信奈のすぐ後ろを騎馬で駆ける深鈴は、心中で自分の食客に最大の賛辞を送っていた。信じてはいたが、まさか本当にやってのけるとは。

 

「この戦、勝った」

 

 その呟きは雨と馬蹄の音に遮られ、誰の耳にも届かずに消えていった。

 

 一寸先も見えなくなるような豪雨だが、織田勢には関係無かった。幼い頃より国中を遠乗りして回った信奈は体で地形を覚えており、目を瞑っていても正確に愛馬を操って最短の道を進む事が出来た。

 

 先陣を進む彼女を龍の頭として、家臣達はその胴体、兵は尾となって雨中を進んでいく。龍、つまり辰とは水の神。今の織田勢は雨、つまりは天すらもを味方としていた。

 

 一方、田楽狭間にて信澄と彼率いる親衛隊の歓迎攻めに遭っていた今川本隊は、突如として降り出した雨に右往左往し、槍刀も放り捨てて近くの林へと逃げ込んだり、位が上の者は幕の中に駆け込んだりと、今が戦の真っ最中である事すら忘れたような有様であった。

 

 丸根・鷲津の快勝。

 

 礼の者より届けられた過分なまでの貢ぎ物。

 

 信澄達の行った歓待。

 

 こうした様々な要素が今川方にこの戦は既に勝ったも同然と警戒心を奪い、そして大軍では動きの取れぬ田楽狭間の地形と、織田本隊の接近を隠す豪雨。

 

 天の御業も人の仕業も。全てが、信奈達の勝利を必然とする方向へと流れていた。

 

「みんな、私に命をちょうだい!!」

 

 落雷が近くの松を燃やし、雨の中でも尚燃える炎が信奈の端麗な容姿を照らし出した。彼女は愛刀の切っ先を今川本陣へと向け、号令を下す。

 

「狙うは今川義元、唯一人!! 突撃!!」

 

 雨と雷に負けじとあらん限りの声を上げ、三千の織田勢が突貫する。

 

「一番槍はあたしが!! どきやがれぇーーーーっ!!!!」

 

 柴田勝家が水車の如く愛用の槍を回し、本陣を守ろうとする僅かな足軽達を台風の前の羽のように吹き飛ばして進んでいく。

 

 やれ猪武者だ脳筋だと揶揄される事も多い彼女であるが、小細工無しの真っ向勝負に於いて彼女以上の武将は尾張に居ない。軍団という巨大な槍のその穂先として当たるを幸い薙ぎ倒し、突き進む。

 

「命の限り大暴れしてやる!!」

 

 頼もしき剛将が拓いた道を、長秀が、犬千代が、光秀が、信奈が、そして彼女達に従う兵達が広げ、進んでいく。

 

「皆、勝家殿に遅れを取ってはなりません!!」

 

「横に逸れてはならないです!! まっしぐらに義元を目指しやがれです!!」

 

 織田の武将達は今こそがその力を存分に振るう時と、八面六臂の活躍を見せている。

 

 更に、

 

「深鈴様!! 我々も参りました!!」

 

「俺達にも手柄、立てさせて下さいよ!!」

 

 雨雲が出た事で自分達の役目の一つが終わり、次の役目を果たさんと、源内に預けられていた食客達や川並衆も駆け付けてきた。

 

「銀鏡氏!! 我々も!!」

 

<いよいよここが正念場>

 

 彼等に続くようにして今川勢の監視に当たっていた五右衛門と段蔵が率いる諜報部隊もまた戦列に加わり、今川軍の混乱は最高潮に達した。視覚と聴覚を奪う豪雨の中と、想像もしなかった奇襲。驚愕が恐怖を呼び、恐怖は正常な判断力を奪い、誰が敵か味方かも曖昧になって遂には同士討ちが始まった。

 

「な、何ですの? 皆さん、祝い酒も良いですが取り乱してわらわの周りでの刃傷沙汰などもってのほかですわよ!!」

 

 のっそりと義元が幔幕から出て来た時には、最早何もかもが手遅れであった。

 

「今川義元、覚悟!!」

 

 馬から飛び降りた勝家が槍をブン回しつつ突進してくるのを見て、ようやくこの本陣が織田の奇襲に遭っているだと悟る。

 

「な、なんですの、この無礼者……!! ならばわらわの剣の腕を……」

 

 手にしていた鞠を投げ出して、先程まで雨避けに入っていた幕の入り口をめくる。そうして手を伸ばした所には、彼女の愛刀・『左文字』が……

 

「あ、あら……?」

 

 そこにあったのは太刀を立て掛ける為の台座だけ。肝心の刀は、煙の如く消えて失せていた。

 

「そ、そんな……私の刀は……?」

 

「あの……お探しの物は、これですか?」

 

 些か申し訳なさげに、すぐそこに立っていた深鈴が声を掛ける。彼女の手に握られているのはまさに今川義元の佩刀『左文字』。そして傍らには、食客の一人が控えていた。彼は諜報部隊の一人であり、どんな厳重な場所に保管されている物でも持ち出してみせるという盗みの腕を買われて雇われた泥棒であった。今まさに、その言に偽りが無かった事が証明された訳だ。

 

「あ……だ、誰か!! 曲者ですわ!! 出会え!! 誰か!!」

 

「無駄……この雨の中じゃ聞こえない」

 

 足軽達を蹴散らしつつ現れた犬千代が、絶望的な申告を下す。

 

 武器は奪われ、助けに来る兵も居ない。逃げる事も出来ない。義元にとって絶体絶命という言葉の意味を絵に描いたような状況となった。

 

「ひぃぃ……し、死にたくない~。わわわらわは、死ぬのは嫌ですわ!!」

 

「これも戦国の倣い、死にたくないなら縄を受けろよ」

 

「だ、誰があなた達尾張の田舎侍に降伏など……生きて虜囚の辱めを受けるぐらいなら、わらわは潔く死を選びますわ!!」

 

「だったら遠慮無く……」

 

「ひーっ、お、お助け!! どうかそればかりは……!!」

 

「「「…………」」」

 

 降るのか、死ぬのか。どちらともはっきりしない義元を見て勝家、犬千代、深鈴の三人は顔を見合わせる。

 

「おい、どうする……? もう戦意は無いみたいだが……」

 

「姫大名は、出家したら殺しちゃ駄目……」

 

 勝家と犬千代の視線が、深鈴に向く。この二人はどちらも武力極振りの戦闘特化。もしここに光秀が居たのなら様々な戦略的・政治的判断も手伝って、戦のどさくさに紛れてさっさと義元の首と胴体を泣き別れにするなり断髪式を執り行うなりしたろうが……今居る者でそうした見地に立つ事が出来そうなのは深鈴だけだった。何気に、彼女は重要な決断を迫られている。

 

 とは言え……良く考えてみれば今の義元の状況は所謂「詰み」。頸を刎ねるにせよ出家させるにせよ、大した違いは無い。ならば……

 

「取り敢えず捕らえてしまって、後の事は信奈様にお任せしましょう」

 

「うん、まぁそれが妥当かな」

 

「……賛成」

 

 無難な落とし所を提示されて、二人は頷く。

 

「五右衛門、段蔵」

 

 ぱちんと指を鳴らし、黒い疾風となって襲い掛かった二人によって義元が簀巻きにされるのに、二秒とは掛からなかった。

 

「ちょ……わらわにこのような無礼……許されませんわよーっ!!」

 

「それでは、私はこれからこの戦を終わらせに行くので……後は、任せますね」

 

「あ!! こら、左文字を返しなさーい!! ちょっと、聞いてるんですの!?」

 

 その場を去っていく深鈴の背中へ向け、蓑虫みたいになりながらも義元が気丈に喚く。彼女の耳に、深鈴が信奈へ助命を嘆願してくれたという話が入るのは、もうしばらく後の事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、桶狭間の戦いは織田の大勝にて終わった。

 

 残存していた今川軍も深鈴が「義元公討たれたり」の報を、証拠の品である「左文字」を振り回して告げると次々に武器を捨て、駿河目指して散り散りに逃げ去っていった。

 

「膨大な軍資金・兵糧・武具が手に入りました」

 

「松平元康は既に三河へ引き返したようです。今川が潰れた以上は、悲願であった独立を果たすつもりかと」

 

「義元公が破れた事による混乱に乗じ、武田信玄が瞬く間に駿河を攻略したようです」

 

 床几に腰掛けて矢継ぎ早に入ってくる報告を処理しながら、近付いてきた者達の中に深鈴の姿を認めて信奈の顔に笑みが浮かぶ。

 

 深鈴はいつも通り膝を付いて臣下の礼を取ると、持っていた”土産”を信奈に差し出す。「左文字」を受け取った信奈は鞘より抜き放って刀身に自分の顔を映し、くすりと笑った。

 

「これ以上無いお土産ね」

 

 後に信奈はこれを短くしてその茎(なかご)に「五月十九日 義元捕縛刻彼女所持刀 織田尾張守信奈」と刻んで愛刀の一本として身近に置くようになったという。

 

 そうしてひとまず全ての戦果報告が終了し、戦の終わりの宣言として、信奈主導で勝ち鬨が上がる。

 

「えい!! えい!! おーっ!!」

 

「「「おおおおおおーーーーーっ!!!!」」」

 

 歓声が響き、無数の刀や槍、旗指物やのぼりが掲げられたその空は、ほんの四半刻(30分)前までの豪雨が嘘であったかのように、雲一つ無く冴え渡っていた。

 



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第12話 光秀の初仕事

 

 だぁん。

 

「!!」

 

 聞き覚えのある音を目覚ましとして、明智十兵衛光秀は布団から跳ね起きた。見回してみれば、そこは自室とは違う、別の家の来客用の寝室らしかった。

 

 何故こんな所に……?

 

 枕元に置かれていた水差しから水を一杯飲むと、急激に昨夜の記憶が蘇ってきた。

 

 そうだ、昨日は深鈴の屋敷で開かれた宴会に招かれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 今川への大勝、そして光秀が正式に織田家臣入りした事の祝いの席だった。後者については、軍議の席での的確な意見や桶狭間の戦いでの槍働きを見た信奈が、道三に掛け合ってのものだ。道三の方も「こんな年寄りの一小姓で終わるよりは、信奈ちゃんの天下取りの力となる方が余程、光秀の才能を活かす事が出来るじゃろう」と快諾。何より光秀自身の強い希望もあってあれよあれよと言う間に本決まりとなった。

 

 宴席の上座にはやはり主催者である深鈴、今回の主賓である光秀とその元主人である道三の三人が並び、川並衆を含む食客達、ねね達うこぎ長屋の住人達が集まっていた。

 

 この晴れの席で深鈴は今回の戦での恩賞として信奈より下賜された二百貫を、全て食客や長屋の面々に分配している。彼女曰く、

 

「策を立案したのは私ですが、策が上手く進んだのは皆さんの力あってこそ!!」

 

 との事だった。光秀は彼女の気前の良さと言うかバカさ加減と言うか、どちらにせよスケールの大きさにぽかんと口を開けたままにして、一方で道三は「これぞ将の器よ!! 天晴れ!!」と、膝を叩いて感心した風だった。

 

 そうして恩賞分配が終わった後は、やはりと言うべきか乱痴気騒ぎが始まった。深鈴の織田家仕官が決まった時と全く同じ流れである。

 

「まっこと、銀鈴どのは太っ腹ですぞ!!」

 

 ねねは、まだ飲酒などして良い年ではないが、雰囲気だけですっかり出来上がってしまっていて、顔が赤い。

 

「ぱく、ぱく……もぐ、もぐ……」

 

 犬千代は既に何人前もの料理を平らげてしまっている。これほどの料理は中々食べられない。しっかりと、栄養を付けて帰らなくては。

 

「親分、ここは一献」

 

「いや、俺から注がせて下せぇ」

 

「いや、俺が」

 

「俺が俺が」

 

 川並衆の面々は相変わらず。五右衛門はそんな彼等を適当にあしらっている。そんな喧噪から少し離れて、光秀は冷ややかに思考を回していた。

 

『全く……出世競争の相手が増えたのに宴会です、か……肝が据わっているのか、只のバカなのか……』

 

 とも思うが、道三救出の一因となった流言戦術や桶狭間の戦いを有利に運ばせた策の数々は、バカに出来る事ではない。銀鈴は、織田家での出世競争に於いて間違いなく最大の壁だ。

 

 だが……今日ぐらいは、その好意に甘えておこうか。

 

 

 

 

 

 

 

「……そう、そうしてあの後、夜半まで騒いでもう遅いからと、この屋敷に泊まったのでした」

 

 思い出した所で身支度を調えて廊下に出ると、

 

「”轟天雷”は予定通り完成します。それと”鳴門”が出来上がったので……子市殿に試験を頼みたいのですが……」

 

「子市ならさっき銃声が聞こえたから、今頃は裏の射撃場に……おや、十兵衛殿」

 

 図面を見ながら歩いてきていた源内と深鈴に出くわした。

 

「昨晩はお世話になりましたです」

 

 礼儀正しい光秀は一宿一飯の恩を無碍には出来ない。競争相手に甘い顔はしないが、頭はきちんと下げる。

 

「ところで、さっき銃声が鳴ったようですが……」

 

「ああ、それなら射撃場でしょう。私の食客の中には鉄砲の名手も居ますから」

 

 「見て行かれますか?」と言われて、光秀は同行する事にした。断る理由も思い付かなかったし、それに彼女とて種子島はかなりの修錬を積んだ身。折角の機会だし深鈴の囲っている鉄砲の名手とやらがどれほどの腕前なのか、見ておくのも良いだろう。

 

『もし半端な業前だったら、私の腕を見せ付けて笑ってやるです』

 

 そうして三人は屋敷の裏へと移動する。そこは屋敷の縁側から十七間(約30メートル)ほどの距離を空けて土手に面しており、その坂面に弓道場のように的を設置してあった。

 

 縁側では一人の女性が、数挺の種子島を傍らに置いて射撃練習を行っていた。飾り気の無い質素な着物を纏い、それなりに長い黒髪をポニーテールに束ねてリボンで結んだ、深鈴や源内と同じぐらい、長秀よりは少し年下に見える少女と大人の女性のちょうど中間ぐらいの女の子だ。肌は日に焼けていて、食客となる前は長く旅暮らしをしていたのだろうと容易に推測出来る。

 

 女性の傍らにはねねが腰掛け、運んできた茶を置いていた。

 

「子市殿、ねねはまたあの芸当が見たい、ですぞ」

 

「ん……」

 

 子市と呼ばれた彼女は頷くと手にしていた物と傍らに置いてあった物、合わせて五挺の種子島に弾込めを始め、一方でねねは適当な大きさの石を拾い始める。

 

「何を……?」

 

 光秀が疑問の声を上げかけるが「しっ」と深鈴に制された。そうして全ての銃に弾を込め終わると「良いぞ」と、子市が一言。そしてほぼ同時に、

 

「ていっ!!」

 

 ねねが小さな体を目一杯に使って、握り込んだ数個の石を一斉に空中へと放り投げた。間髪入れず、

 

 だぁん、かっ。

 

 銃声、そして乾いた音。弾が命中した石が砕ける音だ。その二つが一続きに聞こえてきた。子市は撃ち終えた種子島を放り捨てるとすぐさま別の物に持ち替え、引き金を引く。

 

 だぁん、かっ。

 

 更に、次の種子島へ。

 

 だぁん、かっ。だぁん、かっ。

 

 三つ目の石は放物線の頂点に差し掛かった瞬間に砕け、四つ目は空と地の中程の位置で乾いた音を立てる。そして子市はすぐさま、最後の種子島を手に。

 

 だぁん、かっ。

 

 五つ目の石が地に落ちる寸前に、弾がそれを二つに割った。ここまでの時間、僅かに数秒。投げられた小石が空中にある間に五挺の種子島を撃ち、しかもそんな小さな的へと五発必中。この芸当は二十五間(約45メートル)先の的へと当てる程の腕を持つ光秀をして、信じられないものを見たという顔にさせるに十分なものがあった。

 

「まっこと、子市殿は日の本一の鉄砲撃ちじゃあ!!」

 

 彼女もまた源内と同じく深鈴の人材募集で集まった食客の一人で、今は鉄砲隊の調練を任されている身であった。この射撃の早さと正確さを目の当たりにすればそれも納得、と言う所であるが……子市は苦笑し、はしゃぐねねの頭にぽんと手を置いて頭を振った。

 

「そうでもないさ。私は二番目……世の中、上には上が居る」

 

「ちょっと信じられないです。これほどの腕前の、更に上が居るなんて……」

 

 思わず声を上げたのは光秀だ。自分も鉄砲の腕には自信があったが、たった今目にした子市の技量はまさに神業。上には上が居るという言葉を思い知った気分だが……しかしそんな彼女ですら及ばぬ高みがあるとは……?

 

「では、一番は……?」

 

 誰ともなくそう言い掛けた時だった。光秀と深鈴、それに源内の背後から声が掛かった。振り返ると、そこには普段通りに傾いた装いの犬千代が立っていた。

 

「銀鈴と光秀。姫様がお呼び」

 

 

 

 

 

 

 

 清洲城の大広間には既に織田家の主だった家臣達が集まっていた。大好物であるなごやこーちんのてばさきを囓っていた信奈は、登城した二人へ早速用件を切り出す。

 

「二人とも、今度三河の竹千代と同盟する話は聞いてるわね?」

 

 先の戦いにて今川勢の先鋒として尾張に攻め込んできた松平元康は、桶狭間の戦いにて義元が敗れると同時に岡崎城に引き返してしまい、そのまま今川家からの独立を宣言していた。

 

 とは言え、未だ松平家は戦国大名の中では吹けば飛ぶような弱小勢力。独立を保つ為には何処かの勢力と同盟して、後ろ盾を得る他無い。そこで、信奈に同盟を申し込んできたのだ。元よりこの同盟話は先の戦いで服部党の警戒網を無力化する為、織田家が勝利した場合の見返りとして信奈が申し込んでおいたものでもある。

 

 これは双方にメリットのある話だった。

 

 信奈の目的はあくまで西国。美濃を攻略し、その後は京に上洛を果たす事。まずは美濃だけに目を向けるとしても、攻略の第一目標である稲葉山城は難攻不落の名城。それに道三がこちらに付いたとは言えまだ義龍の下には美濃三人衆など名将が揃っていて楽観して良い相手ではなく、東国に構っている余裕は無い。特に今川が滅んだ後は戦国最強の呼び名も高い武田信玄が駿河を攻略してより強大な勢力となっており、三河にはその勢いを食い止める防波堤の役目を担ってもらうつもりだった。

 

 元康としては武田との同盟という手も考えないではなかったが、片や百戦不敗の甲斐の虎、片や小国の弱小大名。対等な同盟関係など望むべくもなく、仮に話が纏まったとしても属国に近い扱いを受けるは火を見るより明らか。先の約束を考えないにしても、東国に興味の無い信奈は対等な同盟関係を結ぶ相手としてうってつけであった。

 

「そこで十兵衛。あなたには竹千代の接待役を任せるわ。初仕事よ、しっかりやりなさい」

 

「はい、承知いたしましたです!!」

 

「銀鈴、あなたには今回、十兵衛の補佐を頼むわ。特に資金面とかでは、よく相談に乗ってあげて」

 

「!! 承りました」

 

 こうして、光秀と深鈴は協力して元康の接待に取り掛かる事になった。

 

 光秀としてはこの仕事は正式に信奈の家臣となって初めての仕事だという緊張があり、また道三の保証付きとは言え家臣団では新参の自分はやはり功績と信奈への信頼という二点に於いて、譜代の家臣である勝家、小姓時代から仕える長秀、現小姓として常に傍らに在る犬千代、そして新顔ながら目覚ましい手柄を立てて重用される深鈴といった面々に対しては遅れを取ってしまっているという焦りもあった。

 

 そうした事情で心理的に追い込まれていた事も手伝い、光秀は競走馬で言う所の”入れ込みすぎ”という状態に陥る程に気合いを入れて、この仕事に取り掛かった。

 

 そんな彼女を見た道三は丸めた頭に冷や汗を伝わせ、深鈴に一言。

 

「こりゃあ、どうもいかんのう……嬢ちゃん、上手く助力してやってくれい」

 

 ……などと心配されているとは露とも知らぬ光秀は早速、接待の準備に取り掛かった。

 

 まずは、清洲で一番の旅籠を見繕って元康ら一行が滞在するであろう期間、貸し切りとした。それだけではなく、内装にも手を加える。柱には浮き彫りの細工を施し、金銀の鋲を打ち、襖も風雅な絵の描かれた物に取っ替える。

 

 これらに要する資金は、銀蜂会の財力によって今や織田家の金庫番と呼ばれる深鈴の懐から出ている。また、様々な飾り細工を行う職人達も彼女の食客達の中に居た。後者は単純に光秀の指示に従うだけではなく、深鈴にも益のある話だった。

 

 やはり三百を超える食客達を食べさせていくだけの金は尾張一の金持ちである彼女をして馬鹿にならないものがあり(また、一部の食客は能力を発揮する為に別途で資金を必要とする。特に源内は有能だが多額の研究費を必要とする金食い虫でもある)、彼等の中の一人でも手に職を付けられるのならそれは喜ばしい事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 寝食を忘れたような光秀の指揮によって予定より随分早く内装も整い、次は部屋に置く壺などを選ぶ段となった。

 

 事前の指示もあって、深鈴が各国より集めた宝物をずらりと並べ、選定は光秀が行う。

 

「うーん、ここは……よし、これに決めたです!!」

 

 まず彼女が取り上げたのは、その中でも一際目立つ焼き物だった。陶芸界では有名な匠の手による物で、表面は凸凹ながら確かな才能の輝きを感じさせる名器であった。名家の出であり道三の一の小姓として最高の教育を受けている光秀は、審美眼も確かだった。

 

「……よく、分からない……」

 

「流石でござる」

 

 犬千代は光秀の選んだそれを見ても、他の物とどう違うのか分かっていない風だ。対照的に五右衛門は、やはりお宝の価値が分からぬでは川賊などやっていられないのか光秀がその壺を選んだのにも納得という風にしきりに頷いている。

 

「五右衛門、あの壺はそんなに良い品なの?」

 

「左様、世に二つと無い逸品でござる」

 

 それを聞いた深鈴は、しかし表情をしかめる。道三はこの役目を仰せつかるに当たって光秀が気負いすぎている事を気に懸けていたが、ここへ来てその弊害が顔を出してきた。

 

『で……そこを助けるのが今回の私の役目、ね』

 

 心中でそう呟くと、彼女は品定めを続けている光秀へと歩み寄った。

 

「十兵衛殿、しばらく」

 

「何ですか? 銀鏡先輩……」

 

 手にしていた壺を丁寧に置くと、やや機嫌を害したような顔で光秀が応じる。「今は大切な時なんだから邪魔するなです」とでも言いたげである。しかし、信奈の命とは言え今回の費用の多くを深鈴が負担している事を思うと、無碍にも扱えない。少なくとも表面上は。

 

「その壺の選定は些かどうかと思いますよ」

 

「何故ですか? 私の目を疑うと……」

 

「いや、十兵衛殿の選定は確かなものでしょう。しかし、だから拙いのです」

 

「?」

 

 今の光秀は最高の接待を行おうと心掛けるあまり、忘れている事がある。深鈴はそこをフォローする。

 

「まず、十兵衛殿はどういう方針で、松平元康の接待をなされようとされていますか?」

 

「勿論、ド派手な宿舎を用意して信奈様のご威光を見せ付けるです。今はいつ味方が敵になるか分かったものではないご時世。三河の眼鏡タヌキが裏切りなど夢にも思わないよう、この際に威圧しておくです」

 

「しかし、分を越えた馳走は相手への追従となり、却ってこちらの威光を損するでしょう。過ぎたるは尚及ばざるが如しと申しますし……それに、今回はあくまで同盟条約の締結に来る相手をもてなすのです。優位な関係を築くのは大切ですが、殊更に威圧しては逆に家臣として格下に扱おうとしているのではと考えて、警戒させてしまうかも知れません」

 

「む……」

 

 理詰めで応じたのを理詰めで返されて、光秀は少しだけ怯んだように言葉に詰まった。その目にはいくらか猜疑の光も伺える。深鈴の言葉にも一理はあると頭で認めている部分もあるだろうがその一方で、

 

『まさかこの女、今回の接待役を失敗させて私を出世させまいと謀っているのでは……』

 

『……と、疑っているわね。今までの流れからして……ならば……』

 

 こうなると家中での序列などという矮小なものを超えた領分の話で納得させなければなるまい。そう考えた深鈴は、僅かな時間で説得の段取りを決めた。

 

「……十兵衛殿、信奈様はいずれ天下をお取りになられるお方です」

 

「その通りです」

 

 光秀は頷く。彼女の目は眼前の補佐役を真っ直ぐに見据えて『私はいずれあなたを追い越し織田家第一の家臣として、信奈様に天下を取らせるです』と、雄弁に語っていた。それに気付いているのかいないのか、深鈴は話を続けていく。

 

「ならばいずれ、姫巫女様を我々がお迎えする事もあるでしょう。今回、一大名でしかない松平元康をこれ以上が無い程の待遇で迎えては、その時にはどうやってご接待申し上げれば良いか分かりません」

 

「……!! それは……確かにそうですね。私は今回の事にばかり集中するあまり、そんな先の事にまでは思い至らなかったです」

 

「気にする事はないでしょう。それだけ、十兵衛殿がお役目に一生懸命であるという事。それを補佐するのが、私の役目です」

 

 納得した光秀は改めて最初に選んだ物よりは多少格落ちするものの、しかし信奈を辱めぬぐらいの品を何点か選び直し、元康の部屋の置物とした。

 

 こうして完成した宿舎を検分した信奈はその出来映えに「これは見事ね」と、光秀の仕事ぶりを高く評価した。

 

 同じ頃、深鈴達は補佐役として三河一行へ振る舞われる事となる食事の材料を調べていたが、犬千代が野生の嗅覚によってその中に腐った魚が混ざっているのを発見していた。その魚はすぐに処分され、別の新鮮な魚と差し替えられたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、元康ら三河一行が尾張入りし、宿舎へと案内される。三河の姫大名は通された客間を見て、思わず息を呑んだ。まさか自分のような弱小国の主をもてなすのに、ここまで礼を尽くしてくれるとは。吉姉さまはそこまで私の事をと、彼女は出そうになった涙を堪えた。

 

「なんとも見事な物です~。光秀さんも銀鈴さんもお役目とは言えご心労の程、お察し申し上げます~」

 

「その言葉を頂けてこの光秀、全ての苦労を忘れたです」

 

「どうぞ、ゆるりとおくつろぎなされますよう……」

 

 上座に座った元康は出された茶で喉を潤した後、傍らの小姓に言って手土産の目録を取り出させる。

 

「心ばかりの贈り物として、金三千貫を持参いたしました~。どうぞ受け取られて吉姉さまによろしくご披露のほどを~」

 

「委細……」

 

 承知、と言い掛けて、光秀の視線がすぐ隣に座っている深鈴へと動いた。彼女は、元康には気付かれないように目配せしている。

 

「……?」

 

 何の合図かと思ったが、しかし聡明な光秀はすぐにその意味する所に気付いた。

 

 三河はまだ独立したばかりであり、何かと金が入り用である事は想像に難くない。それでなくとも三河の経済は八丁村特産の八丁味噌によって何とか持っているような状態であるというのは有名な話である。しかも現在の情勢では、いつ武田が上洛目指して攻め入ってくるか分からず、いざという時の軍費も確保しておかねばなるまい。

 

 そんな中で三千貫という大金を手土産として持参した元康。恐らくは彼女だけではなく、家臣一同が衣食を節して整えた金に違いない。これは彼女等の誠意の証であり、同時にこの同盟をどれほど重く見ているかという証明でもあった。尾張と手を結べるか否かで、三河の命運も決まってしまうのだ。

 

 と、向こうが向こうならばこちらとしても思い遣りが無くてはなるまい。ここは……

 

「恐れながら元康様、未だ天下が不穏な昨今、今後も何かと不慮の出費が生じると思われるです。ご用意された三千貫の内、二千貫は受納いたしますが、残り一千貫はお返しいたしますです。どうか、笑ってお引き取りの程を……」

 

 この申し出には元康の方も最初は少し驚いた様子だったが、彼女は彼女で光秀の気遣いを読み取ったのだろう。加えて、ここで受け取る受け取らないで押し問答していても始まらないと考えた部分もあったかも知れない。

 

「光秀殿のお心遣い、ありがたく受け取らせていただきます~」

 

 意外な程にあっさりと返納を受諾した。この話はその日の内に、清洲城の信奈達の耳にも入った。深鈴と共に呼び出された光秀は咎められるのではと内心ビクビクしていたものだが……

 

「よくやったわ、十兵衛。今回はこちらが主人側。接待役にはそれぐらいの気遣いがなくちゃいけないわ」

 

「あたしには良く分からないが、そのまま受け取っちゃ駄目だったのか?」

 

「三千貫もの大金となれば、こちらがどれほどもてなしたとしても向こうはそれ以上の出費となります。あちらの誠意には、こちらも誠意で返すべきでしょう……光秀殿の対応は見事……八十七点です」

 

 信奈初め家臣団からも評価は上々。光秀の初仕事は、まず成功と言って良かった。

 

「いえ……私だけではないです。銀鏡先輩の的確な助言あってこそです」

 

 新参であるが故に出世にも熱心な光秀であるが、しかし今回の事が自分一人の手柄と思う事は出来なかった。

 

 宿舎の器物・宝物選びの時もそうだったが、三河の経済事情を察しての判断も、自分一人では出来なかった事だ。もし三千貫をそのまま受け取っていた時を想像してみるが……それを知れば信奈様は同じように一千貫ぐらいは返せと言ったかも知れない。一度受け取った品を小児のように突き返す事など、耐えられぬ屈辱である。ただ失態を演じないというだけでなく、精神的な意味でも自分は深鈴に救われていた。

 

『今回、銀鏡先輩は失点に敢えて目を瞑って、後からいつでも私を蹴落とす事が出来たのに、ちゃんと立ててくれていたです……』

 

 只のお人好しではない。それぐらい、光秀には分かる。深鈴は家中での小さな争いに汲々とするのではなく、万一光秀の接待に何か不手際があり三河との同盟が上手く行かなかった時の事を案じたのだ。更に、松平家の懐にも思い至っていた。

 

 信奈より与えられた補佐役としての役目に忠実だった事もあるだろうが、それ以上に深鈴の目は単に今回の役目一つだけなく、より大局的な局面へと向いていたのだ。ただ豪勢に元康をもてなす事しか頭になかった光秀には、持ち得なかった視野の広さだ。

 

 勿論、出世に無関心な訳でもあるまい。例え一時の功で光秀が抜きん出ようと、すぐさま別の手柄で抜き返してみせると思っているに違いない。

 

『深謀遠慮のみならず、なんたる自信、なんたるゆとり……今回は、私の完敗ですね……』

 

 彼女こそが出世競争の最大の壁と見た自分の見立ては、間違ってはいなかったようだ。確かに今回は、皆が自分の手柄と褒めてくれるがその実深鈴あってこそのものだった。だが……

 

『相手にとって不足無し、です』

 

 光秀はすぐ隣に座る深鈴に視線を送って、不敵に笑む。いずれ掴み取る織田家第一の家臣の座を譲る気は無いが、歯応えのある競争相手が居る事は不快ではない。家中での戦にも、これぐらいの張り合いがなくてはならない。

 

 今回の勝負は負けた。完膚無きまでに。だが最後には勝つ。この日の本全土に織田の旗が翻るその時に、信奈様の寵愛を最も強く受けているのはこの明智十兵衛光秀だ。

 

『尤も……その時には銀鏡先輩も二番手ぐらいには付けてくれてないと、困るですが』

 

 恩義も感じている。能力や人格を認めてもいる。だからこそ譲れない。今まで同年代では武勇でも知略でも並び立つ者の居なかった光秀にとって、感じた事の無い熱がその胸を灼いていた。

 

 一方の深鈴にとって、偶然ながら接待の補佐役を与えられた事は明智光秀という人物を間近で観察する絶好の機会であった。

 

 明智光秀は、深鈴の知る正史に於いては本能寺の変で織田信長を滅ぼした謀反人として名高い。しかし、それはあくまで紙上の歴史での話である。

 

 深鈴は占いなどは信じないタイプであるが、未来での血液型占いでは「B型は自分勝手」とよく言われる。そうしてB型の相手に「自分勝手」だと頭から決めつけて接する事でその人物が本当に自分勝手な性格に矯正されてしまうという説を彼女は聞いた事があった。同じ理屈で、こちらが「いずれ謀反人となる人間だ」と決めつけていては、忠臣を逆臣に変えてしまうかも知れない。故に一度、ナマの部分で光秀を見極める機会を深鈴は望んでいた。そこへ今回のお役目は、渡りに船であったと言える。

 

 そうして彼女が見た明智光秀は、多少空気が読めない所もあるが、仕事熱心で一途に信奈を慕う忠臣であった。彼女が本能寺の変を起こすと言われても、今では信じる事が出来そうにない。それどころか、

 

『いや……仮に私が居なかったとしても、彼女は本能寺の変を起こさないのでは……?』

 

 とさえ、思えてきた。

 

 そういう考えに至るのも、実は彼女の生まれた時代にあっても何故本能寺の変を明智光秀が起こしたのかは諸説が存在しており、はっきりとしないのである。

 

 単純に自分が天下人になろうとした野心説を初めとして、叡山焼き討ちや長島願証寺での大虐殺を見てこの魔王を自分がどうにかせねばと考えたという英雄説、実際には光秀は実行犯に過ぎず、反乱をそそのかした者は別に居たという黒幕説。他にも色々ある。

 

 その中には冤罪説、つまり何者かが本能寺を襲ったので光秀は信長を助けようと現場に駆け付けたが、そのまま犯人扱いされたという説も存在する。

 

 深鈴はこの数日光秀を近くで見ていて、無性にその説を支持したくなった。

 

 正史の織田信長はあらゆる意味で希代の革命児であった。そして新しく生まれ出ようとするものは古き時代のものとぶつかるのが世の常。必然、敵も多くなり裏切りも多く経験する。確か、信長が経験した裏切りの数は光秀のを除いたとしても……

 

『信勝×2、1回目はそこに柴田と林も加わり、浅井、松永×2、荒木、波多野、別所、後は……ああもう、兎に角多いわね……あの人、よく49まで生きたわね……』

 

 と、呆れる程に多い。例え光秀でなかったとしても、例え裏切りでなかったとしても、誰が刺客を差し向けたとしても何の不思議も無い。

 

 同じ事が、自分の変えつつあるこの歴史の中でも起こるとしたら……

 

『まさか……?』

 

 そう、まさかだ。しかし明日の事など分かる者は居ない。分かった事は、自分の見た明智光秀は信奈を弑逆するような人間には、とても見えないという事だけ。

 

 自分の目と、誰が書いたかも分からぬような書物の文章。どちらを信ずべきかなど、分かり切っている。その結論に思い至った時、深鈴は最初に顔を見てその名を聞いた時に「謀反人」という言葉を頭に浮かべた過去の自分を強く恥じ、心の中で彼女に詫びた。

 

『十兵衛殿は信奈様にお仕えする同志……信頼こそすれ、疑うなど以ての外ですね……』

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、国境にある関所で八丁味噌に関税を掛けない事を条件として尾張と三河の不戦同盟が締結された。

 



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第13話 天才軍師を求めて

 

 清洲城内の大広間。いつもなら上機嫌で「なごやこーちんのてばさき」を囓っている信奈も、今日はむすっと不満顔だ。

 

 理由は簡単。三河との同盟が成り、ひとまずは東国の心配が無くなって、いざ美濃の攻略をと意気揚々と出兵した、までは良かった。

 

 しかし信奈軍の侵攻は思うに任せなかった。ある時は敵兵を蹴散らしたと思ったらいつの間にかぐるりを取り囲まれていて、またある時は石造りの迷宮に迷い込み、その度に這々の体で尾張に逃げ帰ってきたと言うのが、織田勢の偽らざる現状であった。

 

「あ~、もう!! 悔しい~~っ!! どうして勝てないのよ~っ!!」

 

 子供じみた癇癪を起こす信奈。これからという時に計画が暗礁に乗り上げてしまっては、それも無理からぬ所であろう。

 

「美濃には天才軍師がおるからじゃよ」

 

 ここで、道三が口を開いた。信奈軍に救出され、尾張に迎えられてからはすっかり隠居生活を送っていた彼だが今回の美濃攻めに当たり、元領主として土地の長所も短所も知り尽くしているという理由から軍議の席に顔を出していた。

 

 ”天才軍師”という言葉に、場にざわめきが走る。信奈が「静かにしなさい」と一喝して皆が落ち着いた所で、道三は話を再開した。

 

「蝮と呼ばれたワシでさえ、あやつの知恵には勝つ事が出来ぬ」

 

「残念ながら今の織田家中に、あの知謀に勝てる人は居ないです」

 

 元小姓という立ち位置からか、光秀が補足する。

 

「天才軍師など初耳ですが……」

 

「誰も知らぬのも無理はない。これまで世に出る事を嫌って、ずっと隠れておったんじゃからな。その者の名は……竹中半兵衛!!」

 

「……今孔明とさえ呼ばれる軍略家……ですか。私も名前を聞いた事があるのみですが」

 

「銀鈴、知ってるの?」

 

「流石は織田家中随一の知恵者と呼ばれるだけの事はあるのう」

 

 信奈は純粋に驚き、道三は感心した表情を見せる。

 

「その通り、竹中半兵衛は唐土の『臥龍』諸葛亮孔明に例えられる程の天才よ。断言しても良いぞ。半兵衛が守る限り稲葉山城は落ちぬじゃろう」

 

 尤も、今の織田勢は城を落とす落とさないの前に城下にすらたどり着けていない訳だが。

 

 信奈はその説明を受けても「今度こそは」と言う顔だ。彼女がここまで焦るのは、やはり東国の件だ。如何に三河を緩衝地帯としているとは言え、駿河を落とした武田信玄はその勢力を急激に拡大しており、いつまでも元康が押さえ切れるとは思えない。美濃の攻略に何年も時間を掛ける事は出来ない。一国の平定に手こずっているようでは、天下など夢のまた夢。

 

 とは言え、このまま無理に出兵を重ねても味方の被害が増すだけ。取り敢えず今すぐの出兵は思い留まってもらわねばならない。深鈴はそう判断した。

 

「信奈様、私も入道殿の意見に賛成です」

 

「銀鈴……」

 

「古来より城の守りには八つの禁忌があり、攻め手は守り手がその禁忌に違反している点に付け込むのが定石ですが……」

 

「銀鏡殿、その禁忌とは?」

 

 長秀の質問を受け、深鈴はその説明に移っていく。即ち、

 

 

 

 一、水源が城より高ければ水が溢れて陥没する。

 

 二、山が城より高ければ上から見下ろされてしまう。

 

 三、水量の多い川の傍であれば足止めを食らう。

 

 四、城が大きく人が少なければ手薄になる。

 

 五、人が多く兵糧が乏しければ滅びるのを待つだけ。

 

 六、物を蓄える場所が城外であれば物資を敵に奪われる。

 

 七、守備隊が脆弱であれば気圧される。

 

 八、守将が横暴で頑固であれば城は破られる。

 

 

 

「……以上八つ。最初の三つは構造上の欠陥によるものなので、稲葉山城は建築時に既に問題を解決しています。後の五つは指揮官が防衛戦を行う際に特に注意すべき事項であり、私でも知っている事なので当然……竹中半兵衛も思い至って万全を期しているでしょう」

 

 詰まる所、半兵衛が居る限り稲葉山城はまさに難攻不落。誰が攻めようと、それが武田信玄だろうが上杉謙信だろうが落とす事は出来ぬのだ。

 

 ……尤も、深鈴には出来ないでもない。守るのが本物の諸葛亮孔明だろうが、智多星の呉用であろうが問題無く。ただし「それ」はあくまで稲葉山城を落とす”だけ”が可能という事であり、長期的な戦略やその後の展望などは全く度外視した、言わば「木を見て森を見ぬ」下策である。

 

 美濃を制する者が天下を制す。日本の中心である美濃を足がかりに上洛、ひいては天下統一を目指そうとする信奈の考えと、「その手段」は完全に相反する。美濃を落とせても「その先」が無いのだ。仮に実行するとしても武田の動きが今以上に活発になって形振り構えなくなった時の最後の手、苦肉の策だ。深鈴が今、信奈に伝えないのはそうした事情からだった。

 

「……じゃあどうするのよ」

 

 ふてくされたように信奈は頬杖を付く。納得した風ではないが、少なくとも今すぐの出兵という考えは無くなったらしい。ひとまずは、良し。それを確認して、深鈴は考えを述べる事にした。

 

「竹中半兵衛を我が軍に引き抜けばよろしいかと」

 

「斬った方が早いだろう」

 

 と、勝家。直情的な彼女らしいが、しかしこの意見には深鈴が異を唱えた。

 

「勝家殿、信奈様の天下取りの為には優秀な人材がまだまだ必要。まして織田勢をここまでキリキリ舞いさせる程の軍師。味方に出来れば百人力でしょう」

 

「……また銀鈴の病気が出た」

 

 呆れたように犬千代が呟く。深鈴が人材の発掘・登用に積極的なのは今や織田家中では周知の事実。彼女が個人で養っている食客はいつしか三百から五百名にまで増えていた。この分では千の大台に届く日も遠くはなかろうと、昨今の織田家中にはそれがいつかを賭ける者まで出始める始末。無論、信奈も知っている。

 

「銀鏡殿の事は別に考えるとしても、連日の出陣で兵にも疲労が蓄積しています。半兵衛調略の期間を休養に充てると考えれば、無駄な日数にはならないかと」

 

 長秀からのその意見を受け、信奈は「ううん」と唸る。確かに、これまでは真っ正面から攻めてダメだったのだ。攻め方を変えるべきかも知れない。

 

「分かったわ。じゃあ竹中半兵衛については銀鈴、あなたに一任するわ」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして信奈からの許可も下りた所で、深鈴は早速人数を集め、竹中半兵衛勧誘作戦を実行に移した。

 

 今回のメンバーは勿論深鈴本人、それに美濃の案内役として光秀、いざという時の為に犬千代、説客として深鈴の補佐を行う為と立候補した森宗意軒の都合4名。これに五右衛門と段蔵が影からサポートするという形を取った。

 

 そうして一行は稲葉山城の麓に広がる井之口の町までやって来た。

 

 まずは「鮎屋」という茶屋で一休み。

 

「ほれ、ほれ」

 

「鮎、鮎」

 

 宗意軒が尻尾をつまんでぶら下げる鮎の塩焼きを、おあずけ食らった状態の犬千代が餌を貰おうと水面に顔を出す鯉のように口をぱくぱくしながら追っている。

 

 そんな光景を尻目にずずーっ、とお茶を啜るのは深鈴と光秀。しかし光秀は浮かない表情である。それも当然、殆ど勢いに任せるようにして美濃までやって来たが、義に篤いと噂の竹中半兵衛を口説き落とす事など、本当に出来るのだろうか。

 

「銀鏡先輩、信奈様に啖呵切ったからには、勝算はあるですよね?」

 

 果たして深鈴の返答は、

 

「取り敢えず単刀直入に「斎藤家を裏切って織田に仕官してください」と言います。説得はそれから……」

 

 普段は何かしら策を持って事に当たる彼女からは想像も出来ないような無策そのものであった。思わずがっくりと肩を落としてしまう光秀。表情が引き攣っている。

 

「せ、先輩……それであんな大ボラ吹いたですか……?」

 

 光秀の顔を、どぼーっと吹き出た冷や汗が伝っていく。

 

 ま、まぁ、竹中半兵衛ほどの知恵者を小手先の話術で懐柔しようとしても心の底にある思惑を見抜かれるだろうし、小細工無しに真っ正面からぶつかっていくという手も……無くは、ないか。搦め手を使っては逆に信用されないかも知れないし……と、光秀は自分を納得させる。ちょっと、苦しいか。

 

「唐土の劉備玄徳は、当時在野の身であった諸葛亮孔明に出馬を願うのに三回も、ある時は雪の中を草庵まで通ったと言います……今回、私達は曲がりなりにも斎藤家に協力している竹中半兵衛を味方にしようとしている訳ですから……まぁ、その倍は掛かると見て良いでしょう……十兵衛殿、覚悟しておいて下さい」

 

 正史に於いてまだ豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃、彼は半兵衛を自らの軍師として招く為に栗原山の重治の庵を七度訪ねたという。世に言う栗原山中七度通い。三顧の礼ならぬ七顧の礼という訳だ。

 

 深鈴は秀吉と自分は違う実存であると自覚しており、また自らの手で歴史を引っかき回している以上それをやれば必ず半兵衛が味方になるなどとは思っていない。しかし、歴史の知識を頼りすぎるのは危険だがそこから学ぶ事は多々ある。要は竹中半兵衛はそれほどの時間と手間を掛け、礼を尽くしてでも自軍に迎えるべきという事なのだ。

 

「まぁ、兎に角一度会ってみようではないですか。私達は未だ半兵衛の顔も見てはいないのですから。どんな人物なのか、会って言葉を交わしてみて、話はそれから……」

 

 それも正論。確かに、ここで話しているだけでは何も始まらない。光秀は頷き、

 

「でも銀鏡先輩、知ってやがるですか? 竹中半兵衛が、陰陽師だって事」

 

 それを聞いた宗意軒がぴくりと体を動かして反応し、動きが止まった所を狙って犬千代が吊された鮎にかぶりついた。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなやり取りの後、半兵衛の庵へと足を運ぶ一行。お目当ての人物の住処は、やはり栗原山の中程にあった。霧が肌にまとわりつくように立ち込めて、今日は晴れだというのに陽の光も木々に遮られてうっすらとしか届かない、鬱蒼とした場所だ。

 

「……お化け出そう」

 

「出やがりますよ~。だから人は滅多に近寄らないです」

 

「ふん、死者を恐れているようではまだまだ、だな」

 

「竹中半兵衛が陰陽師……ですか」

 

 確かに陰陽師だ妖術師だのと呼ばれていたという伝承も耳にした事があるが……それはあくまで神算鬼謀を指しての事ではなかったのか? と、先頭を行く深鈴がそんな取り留めもない思考を続けている間に、入り口の前まで来た。閉ざされた門には無数の呪符が仰々しく貼り付けられていて、まるで向こう側に魔物でも封印しているかのようだ。

 

 門を開けようと手を伸ばして、一度手を止める。開けた途端に何かが飛び出てきたら……

 

「「…………」」

 

 ごくり。

 

 同じ思考に至ったのか、顔を見合わせる深鈴と光秀。犬千代も似たような想像をしているのか、朱槍を握り直す。と、そんな三人に何の遠慮も無く森宗意軒が進み出ると、無造作に扉を押し開いてしまった。そして門の向こう側、霧の中に浮かぶ人影!!

 

「「「!!」」」

 

 思わず心臓が口から飛び出しそうになった三人であったが、しかし出て来たのが妖怪変化の類ではなく真っ当な人間であると分かって、すぐに平静を取り戻した。

 

 扉の向こう側にいたのはしっかりとした身なりをした壮年の侍だった。着ている着物もそうだが、刀の拵えを見ても安物ではない。それなりに高い身分にあるようである。そんな観察を深鈴が行っていると光秀が「安藤守就(あんどうもりなり)殿!!」と声を上げた。そう呼ばれた侍の方も「光秀」と驚いた顔を見せる。

 

 安藤守就。その名前には深鈴も心当たりがある。正しくは安藤伊賀守守就(あんどういがのかみもりなり)。美濃三人衆の中でも筆頭であり、斎藤家の家老。道三の片腕とも呼ばれた男だ。

 

「お主は道三様と尾張に行ったのでは……」

 

 そこまで言って、彼女がここに居る理由を察したらしい。神妙な表情となる。

 

「成る程、半兵衛を調略に参ったという訳か」

 

「……随分と、あっさりしていますね」

 

 無意識に彼から半歩下がり、声に警戒心を滲ませて尋ねる深鈴。敵対勢力の織田が美濃一の軍師と呼ばれる半兵衛を引き抜こうとやって来ているのなら、もっと警戒しても良いのではないか? 場合によってはいきなり抜刀する事もあるかと思っていたが……

 

「いや、道三様の腹心であった手前、最近はわっちも義龍様と折り合いが悪くてな……今日もこれから、お叱りの言葉を頂きに登城する所だわい」

 

 やれやれと溜息を吐きつつ安藤守就は「口説くのは構わんが、命が惜しくばくれぐれも半兵衛を怒らせぬようにな」とだけ言い残し、去って行った。

 

 罠かも、とも思ったがしかし尾張からここまではお忍びでの旅だったから、少なくともピンポイントで自分達を狙って仕掛ける事は出来ない筈。居るとすれば義龍が自軍の軍師に付けた護衛ぐらいだろう。人数にもよるが、十人ぐらいまでなら光秀と犬千代、それに影から付いてきている五右衛門と段蔵が居れば何とかなるだろうと相談した後、庵に入る一行。

 

 庵中の座敷には先客が居た。

 

「お前は……銀鈴か!!」

 

「近江の浅井長政殿、ですか……」

 

 先日、美濃の動乱にかこつけて信奈と婚姻を結ぼうとやって来た艶やかな若侍が、座っていた。

 

「お互い、考える事は同じという訳か……」

 

 竹中半兵衛を味方に付ければ、美濃は手に入る。この展開を予想していなかった訳ではなかったが、まさか浅井家の当主が自ら出向いて来ているとは。

 

 信奈との政略結婚の話は美濃への出兵の際に有耶無耶となり、その後は長秀が伸ばし伸ばしに誤魔化していて一向に進展が無かった。故に正式に破談となった訳ではないが事実上自然消滅した、というのが織田家中での認識だったが……後で知った事だがこの長政、この時点であちこちに自分と信奈との婚姻の知らせを飛ばしていたらしい。半兵衛を落としたらその足で信奈と祝言を挙げ、近江と尾張の連合軍で美濃を落とそうと画策していたのだ。

 

「しかし、ここで我等が争っても益は無い」

 

「確かに……では、我等のどちらが半兵衛殿を口説き落とそうと、遅れた方は文句は無しと言う事で……」

 

 そうして深鈴は長政の隣に座り、後ろに光秀、犬千代、宗意軒の三人が腰を下ろす。と、同時に。

 

「遠路はるばる、ようこそ参られた。お初にお目に掛かる、俺が竹中半兵衛」

 

 突然その場に、木綿筒服をゆったりと羽織った美丈夫が姿を現した。一人を除いてこの場の全員が、思わず腰を浮かす。五右衛門や段蔵といった忍びの者が気配を断って近付いてきたのとはまるで違う。まるで遠く離れた場所から空間を飛び越え、突如としてこの部屋に出現したかのような。

 

 ……と、圧倒されていた自分に気付いた深鈴は居住まいを正すと、まずは礼儀正しく一礼する。

 

「自己紹介、恐縮の至り。竹中半兵衛殿、私は……」

 

「織田家随一の知恵者、銀鈴殿。そして……浅井家当主、浅井長政殿」

 

 半兵衛の狐を思わせる細い目が、両者を値踏みするように動く。成る程、天才軍師の名は伊達ではないらしい。この分では、何故二人が自分を訪ねてきたかも分かっているに違いない。

 

 同じ結論に至った深鈴と長政は余計な事は言わずにどっしりと構える。ここからは知恵の絞り合いだ。如何にして相手に先んじ、半兵衛を自陣に誘降するか。二人の間で刃を持たぬ戦いが始まって、互いが互いへ向けて剣呑な気を放ち合い、座敷に満ちる空気が急に殺伐としたものに変わる。

 

 犬千代がその空気に耐えかねて、もぞもぞと居心地悪そうに体を動かした。

 

「まぁまぁ二人とも、来てすぐにそう殺気立たれる事もなかろう。差し当たっては、みたらし団子と粗茶でもどうぞ」

 

 半兵衛が手にしていた白羽扇を振ると狼耳を頭に生やした町娘姿の美少女が入ってきて、一同の前に団子をずらりと積み上げていく。

 

「この子は……」

 

「我が式神の”後鬼”ですよ」

 

 ケモナーにはたまらないだろう狼っ子は、一同の前にほかほかと湯気を立てたお茶を注いでいく。

 

 後鬼が退室すると同時に、犬千代が進み出てみたらし団子に手を伸ばす。団子には尾張者に配慮してか八丁味噌が塗られている。こんなのを前にしては、もう辛抱堪らない。

 

「……団子、美味しそう」

 

 手にしたみたらしを口に入れようとして……

 

「おっと、そこまで」

 

 不意に横から手が伸びてきて、彼女の手から団子をはたき落とした。

 

「……宗意軒、何するの?」

 

 ご馳走を目の前におあずけを食らって、犬千代は目に見えて不機嫌になった。一方で森宗意軒は織田家中で一二を争う使い手である彼女に睨まれてもどこ吹く風。半兵衛のそれよりも尚細い線のような目も、仮面の如き笑みも変わらない。

 

「……宗意軒?」

 

 主から疑惑の視線を向けられても宗意軒は涼しい顔であったが、流石に説明する義務はあると感じたらしい。半兵衛に向き直る。

 

「竹中半兵衛殿、些か、悪戯が過ぎるのではないかね?」

 

「……ほう?」

 

 そう言われた半兵衛は楽しんでいるように、白羽扇で口元を隠した。

 

「宗意軒、悪戯とはどういう事? 説明して」

 

「ええ、勿論……」

 

 主からそう言われた宗意軒は立ち上がると、まずは大皿に山盛りになっている団子を指差して「喝っ!!」と一声。すると、団子に塗られて先程までは香ばしい匂いを放っていた八丁味噌は一転、顔を顰める悪臭を放つ馬糞へと変わった。

 

 犬千代は顔を真っ青にして、座ったまま床を滑るように後ずさった。そんな彼女を、宗意軒は楽しんでいるように覗き込む。

 

「もし俺が止めなかったら」

 

「う……ありがと……」

 

 宗意軒は次に目の前の湯飲みに注がれた茶を指差して再び一喝。すると、先程の団子と同じ事が起こった。玉露と思われた物はその実、馬の尿であった。

 

「げげっ!! 何を飲ませようとしてやがったですか!!」

 

「半兵衛殿、これは……」

 

「これだけならいざ知らず」

 

 抗議の声を上げかける深鈴だったが、しかし続く宗意軒の言葉がそれを遮った。

 

「ま、まだ何かあるのか?」

 

 目の前で次々起こる怪現象を見て、防衛本能か思わず刀に手を掛けていた長政が尋ねる。平静を装おうとはしているが、微妙に声が上擦っているのは隠せていなかった。

 

「いつまでも影武者に俺達の相手をさせるのも気に入らんね」

 

 ぱん、と手を打つ宗意軒。この仕草によって神通力を阻害されたのだろうか。半兵衛の姿が一瞬だけ揺らいで、木綿筒服を着込んだ狐に変わる。否、元に戻ったと言うべきか。半兵衛が狐姿になったのは一瞬、すぐに再び美丈夫へと変わったが、しかし一時であろうとこの者が人外の存在であると他の者に教えるには十分だった。

 

「宗意軒、彼は……」

 

「さっきの後鬼と同じ、式神だよ。こいつも」

 

 そう言われて、場の全員の視線が半兵衛へと集中する。

 

「半兵衛殿、これは一体……どういうことでしょうか」

 

 尋ねる深鈴の口調は穏やかだが、流石に僅かな怒気が滲み出ている。さもありなん、宗意軒が居なければ糞団子を食わされる所だったのだ。悪戯にしても、ちと度が過ぎているだろう。

 

 問い詰められた半兵衛、否、半兵衛になりすましていた式神は「ふむ」と扇を弄んでいたが、ややあって観念したように笑みを見せた。

 

「流石は噂に名高い銀の鈴……部下にも粒が揃っているようだな……まぁ、堪え性もあるようだし……よろしい。我が主にお引き合わせしよう」

 

 式神にそう言われて「おおっ」と声が上がる。目の前に現れたのが影武者とは驚いたが、今度こそ本物にお目通りが叶うという訳か。

 

 深鈴にしてみれば、栗原山中七度通いや三顧の礼に学んで、六回ぐらいは門前払いを食らわされる覚悟を先に決めてあった事が幸いした。事前にそうした心構えを持っていなければ、宗意軒がこの悪戯を見抜いた時点で怒って帰ってしまうか、悪くすれば金的蹴りの一発ぐらいはお見舞いしていたかも知れない。

 

 芸は身を助く。歴史の知識は、間接的にではあるが彼女を救っていた。

 

 と、式神が一言「ただし!!」と一言。浮つきかけていた場の空気が再び緊張に包まれる。

 

「線目の男。お前だけは席を外していただこうか」

 

「ほう? 俺が居ては気に食わんかね?」

 

 感情を感じさせない笑みはそのままに、宗意軒が挑発的な口調で返す。それを受けて式神もまた「あぁ、気に食わんね」と一歩も引かずに応じる。

 

「その全身に染み付いた屍人(しびと)の臭いを、どうにかしてから出直していただきたいな」

 

「……ほぉ?」

 

 この時初めて宗意軒の顔から笑みが消え、同時に両目がかっと見開かれた。鋭く尖った三白眼が、式神を睨み据える。

 

 先程の深鈴と長政の間にあったものとはまた違う、一触即発の空気が両者の間に立ち込める。それを危ぶんでか「はいはいそこまで」と深鈴が割って入った。

 

「式神さん、宗意軒は私の大切な客人です。私は彼をとても信頼していますし、それに今回、彼は私の力になろうと同行を申し出てくれました。私に半兵衛殿へのお目通りが叶うのなら、彼も一緒です」

 

 そう、毅然と言い放つ。それを見た光秀と犬千代は笑みと共に頷き、長政も「ほう」という顔つきになった。

 

「そいつに席を外させないなら、主への目通りは遠慮願う事になるが」

 

 式神が、試すように言う。ここで退席させられては当初の目的である半兵衛に会う事も出来なくなる。そうなれば長政だけが調略の機会を得る事となってしまう。だが、ここは深鈴も退かない。

 

「そこを何とか曲げていただきたい。宗意軒が何か無礼を働いたと言うなら兎も角、あなたが気に入らないというだけで出て行ってくれなどと彼に言う事は、私にはとても出来ません」

 

「ふむ」

 

 少し考えていた風の式神だったがこれ以上は深鈴も譲らぬと見たか、

 

「尾張の銀鈴は来客を誰であろうと大切にすると聞いていたが、成る程な。では、ここはお前さんに免じて俺から退くとしよう。ただし先程の悪戯の件は、これで無しだぞ」

 

 と、条件付きながらここは彼が折れる事となった。

 

「深鈴様、ご厚情、感謝致します」

 

 宗意軒は山高帽を胸に当てると、主人へと慇懃に頭を下げる。この時の彼の顔には、既にいつもの線目と笑みが戻っていた。

 

「では……」

 

 式神が部屋の掛け軸をめくると、そこは忍者屋敷などで良く見られるように空洞になっていた。その空間から、

 

「きゃあっ!!」

 

 ころり、と木綿筒服を着た小柄な女の子が転がり出て来た。

 

「……いじめないで……くすん、くすん」

 

 ちょうど一同に囲まれる位置で止まったその少女は涙目になって、すっかり縮こまってしまう。その庇護欲と嗜虐の願望を一緒に掻き立てるような仕草を見て、深鈴が何気なく手を伸ばす。するとその少女は、

 

「えいっ」

 

 腰の刀を抜き放ってブンと投げ付ける。白刃は深鈴の顔の横数センチの空間を飛んでいって、背後の壁にスコンと突き刺さった。

 

「……な」

 

 床に灰銀の髪が幾本か、ぱらりと落ちる。数秒の間を置いてだらだらと汗が出て来て、そして視線は今さっき刃が通った空間から、眼前の少女へ動く。

 

「あぅぅ……や、やっぱりいじめるんですね……いじめたくなったでしょう……くすん、くすん」

 

 少女が後ずさると、その背中がどんと何かにぶつかって止まった。

 

「ふぇ?」

 

 気の抜けた声で振り返ったそこには、宗意軒の鉄面皮の笑み。

 

「ひ、ひぃぃぃっっ!?」

 

 少女は手足をばたつかせて逃げ出すと今度は周りに誰も居ない事を確かめて、ますます縮こまってしまった。

 

 宗意軒は懐から手鏡を取り出すと「俺の顔はそんなに怖いか?」とぶつぶつ呟き始めた。

 

 光秀と長政は「これは一体?」と顔を見合わせる。

 

 犬千代はどうにも話が進まないので焦れたように動き、壁に突き刺さった刀を引き抜いて検分していたが、ややあって彼女は「これは」と声を上げると深鈴の袖を引いた。

 

「銀鈴、この刀は音に聞こえし名刀「虎御前」」

 

「……と、いう事は……」

 

「……この女の子が……」

 

「……噂に聞く……」

 

「……天才軍師の……」

 

 一同の言葉を継ぐようにして、未だ「くすんくすん」とぐずっている少女が、やっと少しは落ち着いたのか泣きながらも自己紹介する。

 

「竹中……半兵衛です」

 



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第14話 銀鈴の恩返し

 

「くすん、くすん……あの、いじめないで下さい」

 

 やっと出て来た本物の半兵衛は泣き止みこそしたものの未だ涙目でぐずっていて、深鈴と長政の顔色を窺っている。様々な奇計によって織田勢を翻弄してきた希代の智将の威厳は、この姿からは微塵も感じ取れない。

 

 先程まで半兵衛として振る舞っていた式神”前鬼”の方が「天才軍師」という言葉から思い描く半兵衛像には余程ぴったりである。

 

「尊敬していた半兵衛殿が、こんな小娘だったなんて……信じられないです」

 

 光秀もおでこをこすりながら「はあ」と溜息を一つ。

 

「我が主はその才気故にいじめられっ子でな。俺が成り代わっていた次第よ。おまけに大の人見知り。相手を怒らせ、自分をいじめる人間かどうか、試してしまう癖があるのだ」

 

「そういう事するから余計いじめられるんじゃないのかね?」

 

 前鬼の説明を受け、楽しんでいるようにくっくっと喉を鳴らしつつ、森宗意軒が皮肉っぽく言う。

 

「ああっ……すいません……いじめたくなったでしょう……すいません、くすんくすん」

 

 言われた半兵衛は前鬼の陰に隠れてしまい、前鬼は彼をじろりと睨む。深鈴もここは「宗意軒!!」と少し強い口調で咎めた。彼は「失礼」と一言詫び、変わらぬ笑みのままぺこりと頭を下げた。

 

「……いじめる?」

 

 やっと頭半分だけ前鬼の陰から出して、上目遣いの半兵衛が尋ねる。

 

「いじめませんよ。だから半兵衛殿も私の目をしっかりと見て話をして下さい」

 

「……は、はい……」

 

 真摯な態度を受け、半兵衛は漸くながら少しばかり警戒心を解いたらしい。前鬼の隣、深鈴・長政の二人と向き合うようにして座る。

 

 これで、やっとこさ交渉の場が整った事になる。後は、どうやって話を切り出すかだが……

 

 今まで幾人もの女性を口説き落としてきた長政をして、これはちと難問である。義に篤いと噂の彼女を、いかにして斎藤家から切り離す、つまり、裏切りを決断させるか。このような慎ましやかで臆病な少女には「この私がいじめる者から生涯お守りしよう」と言ってやるのが良いか。

 

 ……と、そう考えている長政よりも早く、銀鈴が切り出した。

 

「竹中半兵衛殿」

 

「は、はいぃ……!!」

 

 真剣な目と表情で向き合われて、半兵衛もぴんと背筋を伸ばした。長政は先んじられた事に「しまった」とばかり顔を顰める。

 

「単刀直入に申し上げます。斎藤家を裏切って、織田家に仕官していただきたい」

 

「なっ……!!」

 

 身も蓋も無い深鈴の言葉は、彼女の失敗を望む長政をして信じられないと絶句させた。この女は最初からこの交渉を成立させる気など無かったのではと、そんな疑念さえ生まれさせた。

 

 後ろに座ってそれを聞く三人の内、光秀は突然の頭痛におでこを押さえ、溜息をもう一つ。言うとは思っていたがこの先輩、本当に言いやがった。

 

『そりゃあ噂で聞く長政みたいに歯の浮くような美辞麗句ばかり並べ立てるのもどうかとは思うですが、それにしても単刀直入過ぎるです』

 

 犬千代も同じように「いくら何でもいきなりすぎ」と呆れ顔。宗意軒はいつも通りの笑みのままで、良く分からない。

 

「そ、それは出来ません……義龍さんを裏切る事は、義に反します……」

 

 半兵衛の回答を聞いて長政は「それ見た事か」とでも言いそうな顔になった。あんな風に言えばこうなる事は火を見るより明らかだったろうに。尾張の銀鈴は人材集めが得意と聞いたが、調子に乗って最悪の札を切ってくれた。これで半兵衛が織田に与する事はあるまい。後は如何に浅井に引き込むか……そんな算段を頭の中で組み立てていた時だった。

 

 突然、庵の襖が開いて黒ずくめの少女、五右衛門が飛び込んできた。

 

「銀鏡氏、一大事でござる!!」

 

 彼女が持ってきた情報は、ここに集った者達に雷が落ちたような衝撃を与えるに十分だった。

 

 登城した安藤守就が「半兵衛に謀反の疑いあり」と幽閉されてしまい「釈明の為に半兵衛が登城せねば処刑する」と言っているらしい。

 

「斎藤義龍は何を考えているのか。半兵衛あってこその美濃だろう!!」

 

 長政が毒突く。これまで織田の侵攻を幾度となく退けた天才軍師を、重臣として礼を尽くして迎えるならいざ知らず、身内を人質に取るなど。これでは自分の首を自分で絞めているようなものではないか。

 

「ここまでやるという事は……」

 

「……行けば下手すれば殺される」

 

 予想もしなかった事態に、深鈴も犬千代も難しい顔だ。

 

 とは言え、これは織田陣営にとっては願ってもない僥倖であると、深鈴の冷徹な部分が言っている。

 

『いかにして斎藤家から離反させるかを考えていたけど……まさか、あちらから半兵衛を切ってくれるとは……』

 

 こんな事があっては、半兵衛の心は斎藤家より離れるばかり。調略にはまたとない機会である。最悪味方に出来なくても、半兵衛と斎藤家を切り離せば目的の半分は達成出来る。恐らくは、隣に座る長政も内心では同じように考えているだろう。いみじくもこの座敷で出会った時に長政が言った通り「考える事は同じ」なのだ。

 

「切れる刀は必要だけど、切れすぎる刀は自分も危ない。義龍の奴はビビリやがったです」

 

 光秀は「道三様の息子の癖にその程度の度量も無い君主でしたか」と呆れたように言い捨て、

 

「斎藤道三は土岐家より美濃を奪い、義龍は父道三から。そうして得た国主の座を今度は半兵衛に奪われるのではないかと疑心暗鬼になっているのさ。まるで希臘(ギリシャ)神話の、天空の神・宇等濡巣を殺して大神となった黒之巣。そして黒之巣を殺してその椅子に座った是宇巣の、父殺しの連鎖のようにな。下克上を為した者が最も恐れるのは結局、自分より才ある者による下克上という訳さ」

 

 宗意軒は何やら異国の例え話を出して、この状況すらも楽しんでいるように肩を揺らしている。

 

「銀鏡氏」

 

 とんとんと肩を叩かれた深鈴が振り返ると、五右衛門が何やら耳打ちしてきた。彼女は半兵衛に聞かれないよう小声で、一つの策を献じる。

 

「このまま理屈をこねて時を稼ぎ、安藤氏を捨て置かれよ」

 

「……ふむ」

 

 それだけ聞けば、彼女の言わんとする事は理解出来る。

 

 このまま安藤守就が殺されれば半兵衛は義龍に恨みを抱き、稲葉山城を攻め落とすだろう。そうすればそれは即ち深鈴の功績となり、今後の出世にも繋がる。

 

 だがその案は、深鈴の中では一度思い至ったものの既に却下されていた。

 

「五右衛門、私が半兵衛殿を味方に付けようと考えたのはたかだか美濃一国を手にする為ではなく、信奈様の天下統一の為。回り道を嫌って大きな物を捨て、目の前の小さな物に飛び付いて、でも、それが結局回り道をしていた……なんて愚を、私に犯させるつもり?」

 

「……そう言うと思ったでござる」

 

 五右衛門も、深鈴の言いたい事は理解していた。

 

 確かに、その策通りに動けば美濃は手に入るだろう。だが、それで終わりだ。竹中半兵衛の目的である「叔父の仇討ち」はそこで達成されてしまい、後は引き籠もって故郷の菩提山の土となる道を選ぶ……なんて未来予想図が簡単に描けてしまう。それでは困るのだ。半兵衛の知略は、この先の日本の為に役立ててもらわねば。

 

「それに、半兵衛殿には借りているものがあるからね……それを返す良い機会が巡ってきたわ……段蔵!!」

 

 呼ぶと、数秒の間も置かずに五右衛門と同じく深鈴直属の忍びである段蔵が、姿を現した。「ここに」と書かれた紙を差し出してくる。

 

「十兵衛殿と犬千代は段蔵と協力して、安藤殿を救出して下さい」

 

「それは構わないですが……」

 

「銀鈴は?」

 

「私と宗意軒は半兵衛殿と一緒に登城して、時間を稼ぐわ」

 

「俺が行くのは決定事項なのかね? まぁ構わないが」

 

「ま、まさか連れて行くですか?」

 

 宗意軒は相変わらず飄々と了解の返事を返し、光秀はまるで飢えた豹の檻にウサギを放り込むような暴挙だと、窘めるように言う……が、少しの間を置いて深鈴の言葉の真意を察する事が出来た。そう、斎藤家にとっての”竹中半兵衛”は……

 

「また、前鬼さんに化けてもらい……」

 

「駄目です!!」

 

 中々の名案だと思われたその策は、しかし半兵衛によって却下されてしまった。

 

「義龍さんを欺くのは、義に反します」

 

「……しかし、それでは……」

 

「私が行きます。謀反の意志など無いと誠心誠意訴えれば、分かってくれる筈です」

 

 ぶるぶると体を震わせながらも、半兵衛は精一杯気丈に振る舞ってそう言う。が、

 

「おめでたい頭だな。私はそのような危険なバクチには付き合えんよ」

 

 長政はそう言って帰ってしまった。叔父を人質に取るような手を使ったのだ。今後斎藤義龍が半兵衛を重く用いる事は無いと見て良い。自軍に引き入れる事は出来なかったが、斎藤家からは引き離せたも同然。最低限の目的は達成出来た事だし、危ない橋を渡る必要は無いという判断からだろう。引き際の見極めとしては、悪くはない。

 

「そこまで世の中甘くない」

 

 犬千代も厳しい顔。

 

「信じてもらえないに百貫」

 

 宗意軒は笑顔のまま、茶化すように言う。そして深鈴も、

 

「半兵衛殿……臣たる者、一度主君に疑われてはその命を全うする事は出来ません。仮に今回は分かってもらえたとしても、いずれは……その程度の事、あなたなら分かっている筈でしょう?」

 

 諭すように半兵衛にそう言う。この状況で彼女が自ら出向くのは危険過ぎるのだ。そもそも影武者とは主を危険から遠ざける為のもの。故に今こそが前鬼の出番だと言えるのだが……

 

「きっと、分かってくれます……」

 

 顔は俯いて声も震えているが、しかし半兵衛は頑固なまでに意見を変えない。

 

『無理も無い、か……』

 

 聞いた話では半兵衛の両親は早世し、安藤守就が親代わりとして育てたという。父親でありたった一人の家族が人質に取られているのだ。頭で分かっていても、いてもたってもいられないのが人間というもの。まして、義に篤い彼女ならば尚の事。

 

『……仕方無い。こうなったら、私も覚悟を決めますか』

 

 気を引き締める意味で、深鈴は自分の顔をぱんと叩いた。そして自信を感じさせる表情を作ると、どんと胸を叩く。

 

「分かりました、半兵衛殿。では……斎藤義龍との話がどうなろうとあなたと安藤殿の命は、私が請け負いましょう。無論、これは織田への仕官とは別の話です」

 

「銀鈴さん……」

 

 半兵衛の体の震えは、少しだけ治まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 天然の要害である金華山に建てられた稲葉山城は難攻不落と謳われる名城で、城下の井ノ口の町と合わせてまさに背山臨水の理に叶った作りとなっている。

 

 天下を望む信奈がここを拠点として求めるのも分かろうというもの。

 

『だからこそ”轟天雷”は使えないのだけど……』

 

 深鈴がそんな事を考えている間に一行は城に到着し、城の上層にある広間へと案内された。本来なら部外者の二人は半兵衛の小姓という事になっている。

 

 が、そうして通された広間の空気は最悪と言って良かった。正面には斎藤義龍が威圧感たっぷりの六尺五寸の巨体でどっしりと構え、美濃三人衆が二人・氏家卜全と稲葉一鉄を含む斎藤家の家臣達が半兵衛、深鈴、宗意軒ら3名のぐるりを固めている。態度の一つでも誤れば即座にこの場の全員が抜刀して斬り掛かってきそうだ。

 

「竹中半兵衛、参りました……」

 

「お、お主が?」

 

「馬鹿な、半兵衛は男であったぞ!!」

 

 当然と言えば当然の反応だが、家臣達から疑問や戸惑いの声が上がる。一方で義龍は「流石は天才軍師と言うべきか」と、このどこか儚げな少女こそが真の半兵衛であると見切っているらしかった。この辺りの慧眼は、流石に一国の当主と言うべきか。

 

「あ、あの……叔父上は……」

 

「謀反の疑いが晴れれば返してやる」

 

「謀反などしません!!」

 

 震える声で訴えかける半兵衛であったが「口では何とでも言えるわ!!」と一喝されてしまう。

 

「すいません、すいません……」

 

 怯えたように顔を伏せて、半兵衛は謝罪の言葉をただ連ねるばかり。一方で深鈴と宗意軒の二人は「やっぱりね」と視線を交わし合う。

 

 心配していた事態が発生した。自分達とて義龍の立場であれば言葉だけで半兵衛を信用などしないだろう。だからと言って叛意無き証拠を出せと言われても、半兵衛には無理だろうし……

 

『落とし所としては、安藤殿を人質として拘束したまま、半兵衛殿を軍師として使う、というのが妥当でしょうが……』

 

「まこと、謀反の意思は無いのだな?」

 

「……ございません!!」

 

「では、織田を幾度も追い詰め全滅させる機会を得ながら見逃したのは何故か?」

 

「無用な犠牲は……」

 

「敵を殺し尽くして、滅ぼすのが軍師の仕事だ!!」

 

「ひっ……すいません、すいません……」

 

 再び一喝され、半兵衛はまたしても顔を伏せて謝罪の言葉を重ねる。先程と全く同じパターンだ。それを見て、再び目線を交わし合う深鈴と宗意軒。このままでは「謀反の意思はございません」「いやある」「ありません」の問答がテニスや卓球でのラリーの応酬の如く果てしなく続くだけだ。そして最終的には、深鈴の予想と当たらずしも遠からずな結論へと落ち着くだろう。

 

 深鈴、宗意軒共に同じ結論に至った。このやり取りの終着点は既に見えた。後は、自分達がどう動くかだが……

 

 両名とも同じように考えて、先に動いたのは宗意軒の方だった。立ち上がり、ずんずんと義龍の眼前にまで近寄っていって彼を見下ろす。その態度があまりにも堂々としているので、家臣達も呆気に取られて誰も止め立てせずに、彼の接近を許してしまった。

 

「いつまでズレた所で堂々巡りの話を続けているつもりかね? 聞いていて眠くなってくるぞ」

 

「何だと!?」

 

 一国の君主をも全く恐れぬ宗意軒の図抜けた態度を見て、ある意味半兵衛が少女であった事が分かった時よりも大きな衝撃が場の全員に走る。

 

「半兵衛が美濃に残れば有利、他国に走れば不利。こんな簡単な事がいつまでも決まらないのは一体全体どういう訳ですかな?」

 

「何者か?」

 

「わ、私の供の者です……」

 

「今は詰問の最中だ、下郎の出る幕ではない、下がっておれ!!」

 

 仁王のような義龍の怒りを受けても宗意軒は柳に風とばかり、笑みを浮かべたままリラックスした自然体を崩さない。一方で半兵衛は自分が叱責されている訳でもないのに「すいません、すいません」と平謝りしてしまう。

 

「謀反の意思が有ろうが無かろうが、そんな事は問題ではなかろう? 寧ろ謀反の意思があろうと軍師として有能だから使うと、それぐらい言える度量も無いとは」

 

 「そんなだから」と続けた所で、宗意軒は一度言葉を切ると目を見開き、三白眼によって酷薄な印象を受けるものへと変わった笑みを浮かべつつ、言った。

 

「父親から「倅はうつけ姫の馬の轡を取る事になるであろう」なんて言われるのだ」

 

「「「!!!!」」」

 

 宗意軒の口から飛び出た暴言に、場の全員が固まった。特に半兵衛と深鈴の頭脳派二人は表情を引き攣らせる。この男、地雷を踏むどころかピンポイントで踏み抜きやがった。

 

 義龍の巨体がぷるぷると震えて、頭には血管がぴくぴくと浮き出てきている。十秒程の時間を置いて、

 

「斬れっ!! こやつらを斬れっ!!」

 

 大爆発。激昂した主君の命を受け、侍達が一斉に白刃を抜き放った。半兵衛はそれを見てびくりと体を竦ませ、宗意軒は愛用の山高帽をポンと被る。深鈴は、表情を引き締めるがしかしこの事態は想像の範疇であった為に、慌てる事はない。

 

 最早これまで。懐から持病の薬と偽って持ってきた粉末が入った紙包みを取り出し、竹筒に入っていた水を垂らす。すると一瞬にして発生した煙が広間中に立ち込めて、一寸先も見えなくなった。五右衛門から持たされていた忍び道具の一つだ。

 

 他の者は突然の煙幕に慌てていたが、深鈴と宗意軒の二人だけは落ち着いたもので、深鈴がさっと半兵衛の体を抱き上げると、襖を蹴破って広間から飛び出した。

 

「すいませんね、深鈴様に半兵衛殿。俺のせいでこんな事になってしまって」

 

 城内を走りながら宗意軒がそう言って詫びてくるが、しかし相変わらずの鉄面皮からは全く罪悪感が読み取れない。見開かれていた目は、いつの間にか普段の線目に戻っていた。

 

 この男……絶対にこうなる事を見越してああ言ったに違いない。

 

「良いのよ。どう転んでも多分最後にはこうなってただろうし」

 

 半兵衛をおんぶして走りながら、しかし深鈴は咎める事はしない。背負われている半兵衛も同じで、宗意軒を責めなかった。二人とも、彼の暴言は結末を早めただけで変える事はしなかったと分かっていた。

 

 叛意を持たぬ証として半兵衛が差し出せるものとしては、やはり唯一の身内と言える安藤守就の身柄であろう。だが現状、既に段蔵率いる別働隊が彼の救出に動いている。この稲葉山城から彼の姿が消えてしまっていては、謀反の疑いは決定的なものとなる。

 

 広間での会話から判断して、義龍が謀反の意思無しと信じる目はほぼ絶無だった。これは、なるべくしてなった結果なのだ。

 

 そうして走っていると、前方から数名の男女が駆けてくるのが見えた。先頭を走るのがボロ布で全身をくるんだ忍者・段蔵で、続いて犬千代、光秀、それに守就の姿が見える。

 

「叔父上!!」

 

 深鈴の背中で、半兵衛が弾んだ声を上げる。救出作戦は見事に成功したのだ。後は、脱出するだけだが……

 

「しかし、今となってはそれこそが至難ですよ」

 

 言いつつ光秀が近くの階段を見れば、大勢の足軽がぞろぞろと上がってきている。如何に彼女や犬千代といった手練れが揃っているとは言え、あの数を突破するのは……

 

「みんな、上へ逃げるわよ」

 

 深鈴はそう言うと、背負った半兵衛と一緒に階段を駆け上がっていく。これに慌てたのは他の面々である。

 

「ぎ、銀鈴さん!! 上に逃げたら追い詰められてしまいます!!」

 

 真っ先に半兵衛が抗議の声を上げ、他の者も似たり寄ったりな事を言う。だが、後ろから追い立てられている以上止まっている訳にも行かず、また敵陣真っ直中で離れ離れになる訳にも行かないから結局、深鈴に付いていく他は無かった。

 

「勿論、分かってるわ!! でも、向こうもそう思うからこそ守りも薄い筈!!」

 

 深鈴の言う通り、上へ行く分には数名の足軽達が守っているだけだった。兵の殆どは追っ手と、城門や出口、及びそこへ繋がる通路に振り分けられ配置されているのだろう。そして数名程度なら、この面子であれば蹴散らすのに問題は無かった。

 

「大丈夫、私が逃げる手段も確保せずに、敵陣に乗り込むとでも思っていたの?」

 

 と、深鈴。そう聞いて普段の彼女を知る犬千代や光秀は「確かに」という表情を見せる。いつもの彼女なら、保険も無く死地に飛び込むような事はすまい。ならば今回も……?

 

「じゃあ、その逃げる手段と言うのは……」

 

「銀鏡氏!! こちらへ!!」

 

 半兵衛が尋ねるのと、再び聞き慣れた声が掛かるのはほぼ同時だった。見れば、姿を消していた五右衛門が一室の前で待っていた。

 

「よし、みんな早くその部屋の中へ!!」

 

「そ、そんな事したら袋の鼠になっちまうですよ!?」

 

 光秀が抗議するが、しかしドタドタと足軽達の足音が背中から迫ってくるのを聞くと、議論している場合でないという判断が先に立った。

 

 ええい……ままよ!!

 

 こうなったら、深鈴の言う逃げる手段を信じる以外に道は無い。

 

「もし死んじまったら、化けて出てやるですからね!!」

 

 そう言って光秀が部屋の中に飛び込んだのを皮切りに犬千代、段蔵、守就、宗意軒もそれぞれ部屋に入っていく。最後に深鈴と半兵衛が入って、部屋の襖は閉じられた。

 

「それじゃあまずは、部屋にある物なんでも入り口の前に置いて、簡単には入ってこられないようにして」

 

 指示を受け、守就や犬千代が襖につっかい棒を立て、箪笥を移動させて入り口を塞ぐ。

 

「五右衛門、頼んでいた物は?」

 

「これにござる」

 

 少女忍者が深鈴に渡したのは、一本の細い糸だった。部屋の唯一の窓から伸びてきている。

 

「その糸は……何です? 先輩」

 

「まぁ……見ていて下さいよ、十兵衛殿」

 

 深鈴が糸をどんどんと手繰り寄せていくと、その糸の先には少し太い紐が結わえ付けられていて、更にその紐をどんどん引いていくと、その紐の先にはもっと太い縄が括り付けられていた。

 

 そうしてその縄をも引っ張っていくと、やがて長さの限界に達したのかぴんと張り詰める。深鈴は綱を適当な長さで切断して、部屋の壁に打ち込まれていた鉤(フック)に引っかけた。

 

「ま、まさか……」

 

 深鈴が何をするつもりか、何となく分かってきた半兵衛が青い顔で窓から外を見ると、綱はこの部屋から金華山の森の中へと伸びている。五右衛門の話によると、山の中でがっしりとした太い樹を見繕って括り付けてきたらしい。

 

「では、皆さん。今から私がやるのと同じように動いて下さい」

 

 深鈴は五右衛門から鞘に入ったままの忍刀を渡されるとそれをぴんと張った綱の上に引っかけ、右手で鍔元を、左手で鞘の先端を握って、腕と刀で輪を作った。

 

「ぎ、銀鈴さん……」

 

 何をするのかハッキリと分かって、元々あまり血色の良くない半兵衛の顔が真っ青になった。だが、脱出する為にはこの手しか残されていない。

 

「半兵衛殿。私に、しっかりと掴まっていて下さい」

 

 「下を見ない方が良いですよ」と、そう言うと同時に深鈴は部屋の窓から足場一つ無い空中へ、その身を躍らせた。

 

 突然、二人の体を風が打つ。

 

 深鈴と半兵衛の体は張り詰められたロープをレール代わりとして、軽く100メートル以上はある高低差によってかなりのスピードで、ロープウェイのように空中を走っていた。

 

 半兵衛は身を切るような風の冷たさに、目を閉じて必死に耐えていた。

 

「きゃっ!!」

 

 一分もその状態が続いただろうか。闇の中の半兵衛に、覚悟していたものよりはずっと柔らかい衝撃が走る。恐る恐る目を開けてみれば、彼女と深鈴がぶつかったのはロープが括り付けられていた大木ではなく、そのすぐ前に張り巡らされていた縄で編まれた網であった。これも、五右衛門が用意したものだ。

 

「半兵衛殿、急いで下りましょう。他の人達も脱出してきています」

 

 見れば、犬千代は朱槍、光秀は愛刀、宗意軒はなまくら刀、幽閉状態で刀を取り上げられていた守就は木の棒を縄に引っかけて空中を滑走しつつこっちに向かってきていて、五右衛門と段蔵はなんと軽業師のように綱の上に立って走りながらこちらへ来る。

 

「道無き所に道を作る……見事な策です」

 

 まさかこんな逃走手段を用意していたとは。今孔明と呼ばれる天才軍師をして、これには感心する他無かった。

 

 こうして、稲葉山城から脱出した深鈴達はそのまま金華山を下り、尾張へと逃れた。

 

 

 

 

 

 

 

「すいません……私の為に、こんな事になってしまって……」

 

 尾張の旅籠、その一室で、漸く人心地付いた一行。

 

 そうして一息を入れた所で半兵衛は正座し、指を付いて頭を下げる。結果的に斎藤家から離反する事になってしまったが、しかし元々彼女が義龍に肩入れしていたのは親代わりとして育ててくれた安藤守就に恩義を返す為だった。深鈴達が叔父を助ける為に動いてくれた事を、半兵衛は忘れてはいなかった。

 

「いえ……それで半兵衛殿、これからの話ですが……」

 

 自分も正座して、半兵衛に向き合う深鈴がそう尋ねる。彼女等が美濃を訪れた本来の目的は、竹中半兵衛を味方に引き入れる事。

 

 途中、色々あって世紀の大脱出劇を演じる羽目になったが、その甲斐もあってようやく落ち着いてそれを話し合える段となった。

 

「半兵衛殿、信奈様は百年続いたこの乱世を終結させる為に戦っておられます。ですが、天下は未だ麻の如く乱れ、民の安寧の日は遠い……今の織田家は優秀な人材を一人でも多く必要としています。どうか……力をお貸し下さい」

 

「でも……天下を一つにする為には、今以上の血が……」

 

「流れるでしょうね」

 

 深鈴は認めた。

 

「半兵衛殿。私は、幸せは犠牲無しには掴めないし、時代は不幸無しには越えられないと思っています。何かを得ようとすれば、何かを失う……かく言う私自身、今こうして生きている為に、少なくとも一人の命を犠牲にしています」

 

 それを聞いて、五右衛門は悼むように目を伏せた。そう、深鈴が生きているのはこの時代に来てすぐの濃尾平野で、木下藤吉郎が身を以て彼女を庇った為だ。

 

「彼だけではなく……信奈様が、私達が理想の為に戦い続ける事で明日もまた多くの血が流れるでしょう。ですが……明日の先にある、戦無き世の為に……喪われた命が無駄ではなかったのだと胸を張って言える未来の為に……どうか、力を貸して下さい」

 

「……銀鈴さん、頭を上げて下さい」

 

 深鈴の言葉は、半兵衛としても頷ける部分は多くあった。我欲の薄い彼女は義を行動原理とするが、同時に忠孝の道にも通じていた。

 

 半兵衛には、客観的に見て自分の力がその才知も陰陽道も、非凡なものであるという自覚はある。大陸では、国が乱れて民が安らかならぬ時には、かの孔子でさえ民衆の中に立って諸国に教えを広めた。今の日の本は、孔子の時代の中国よりももっと乱れている。なのに力のある自分が山野に引き籠もって、一身の安寧だけを求めていて本当に良いのだろうかという疑問と後ろめたさは、これまでも彼女の中にずっとつきまとっていた。

 

 それは忠孝の道に背くのではないか、と。

 

 そして今聞かされた、深鈴の覚悟と徹頭徹尾変わらぬ真摯な態度を受け、彼女に力を貸す事もやぶさかではないと、半兵衛は思い始めていた。

 

 だが……一つだけ、聞いておかなければならない事が残っている。

 

「お断りします!! ……と、私が言ったら、どうしますか?」

 

 半兵衛のその言葉を聞いて、彼女の背後の前鬼と安藤守就、深鈴の背後の光秀や犬千代に緊張が走る。

 

 もし織田家に仕官しないとなれば、武田・毛利・上杉……いずこかの勢力に半兵衛が付く可能性がある。そうなれば、後の巨大な脅威となる。

 

 光秀は愛刀の柄に手を伸ばしかけ、犬千代は思わず愛槍を握り直すが、しかし深鈴がばっと手を上げて二人の動きを制した。

 

「その時は、仕方ありません。他の大名に仕官するとあらば、路銀は工面しましょう。安藤殿と共に尾張に居を構えて隠遁されるのであれば、信奈様と私の名に於いて安全を保証します」

 

「なっ……先輩、それは……!!」

 

「十兵衛殿、今回の半兵衛殿の一件では、私は信奈様から全権を預かっています……私に、任せて下さい。もし、今日の事が原因で今後半兵衛殿が敵となったその日には、私が責任を持って討ち果たします」

 

「むう……」

 

 「どうなっても知らないですよ!!」と、そう言って光秀はどっかりと座り直した。そうして、深鈴は半兵衛との話を再開する。

 

「……どうして、そこまでしてくれるんです?」

 

 元々、深鈴には危険を冒して安藤守就を助ける義理も、半兵衛を義龍から助ける義務も無かった筈。なのにそれをしてくれただけではなく、何故にここまで便宜を図ってくれるのか。

 

 半兵衛の軍師・陰陽師としての力を欲していて恩を売ろうとしているとしても、これでは危険と実入りが釣り合っていない。賢い者ならば、長政のように斉藤家と半兵衛を引き離せた時点で身を引いて然るべきだ。

 

 なのに何故? そう問われ、深鈴の答えは、

 

「半兵衛殿には、何度も信奈様の命を救っていただいた恩義があります。恩義には、恩義で返さねばなりません」

 

「……!! それは……」

 

 義龍が稲葉山城の広間で言ったように、半兵衛は今まで幾度も、織田軍を滅ぼそうと思えば滅ぼす事は出来た。

 

 それをしなかったのは無用な犠牲を好まない彼女の性情もあるが、それ以上に合理に則った計算によるものだった。

 

 敵の一部を殺せば、残った敵は死に物狂いとなる。必死の敵ほど恐ろしいものはない。重要なのは敵をそういう状態にさせぬ事であり、故に圧倒的な技量の差を見せ付けて戦闘意欲を奪う。だから無用な犠牲は出さない。彼我の損害が最小であるならば、これ以上の勝利はないのだと。

 

「……如何なる事情があれ、我等の主が半兵衛殿のお陰で助かった事は事実。私はあなたに、大きな借りがありましたから。それを、返さなくてはなりません」

 

 そう自分に言う深鈴の顔を見て、半兵衛は確信した。彼女は、織田勢を見逃した裏にある思惑など全て見抜いている。見抜いた上で尚、それを恩義として自分に返そうとしている。

 

 過日の長良川で道三の心を全て読み取りながら、それでも尚彼を救った信奈のように。

 

『かないません、ね……』

 

 生き死にを越えた、大きく、そして厳しい「義の心」。それを捧げられて、受け取ってしまった。

 

 これほどまでの鉄壁の信義。主殺しが当たり前のこの時代には、愚かと笑われるだろう。

 

「銀鈴さんは、大馬鹿です」

 

「……そうかも、知れませんね」

 

 苦笑して言った半兵衛に、深鈴も苦笑して応じる。

 

「そして私は、お馬鹿さんは嫌いです」

 

「ではこの話は……縁が無かったという事で……」

 

 遠回しな断りの返事にも聞こえるその言葉を受けて、しかし深鈴は表情を変えず、泰然と受け止めていた。

 

 光秀と犬千代が思わず「そんな……」と口走って。

 

 宗意軒が変わらぬ笑顔のままに「いや」と、呟き。

 

 五右衛門と段蔵は無言のまま。

 

 安藤守就が、溜息を一つ吐いて。

 

 そして前鬼が微笑と共に、

 

「この勝負、銀鈴殿の勝ちだな」

 

 そう言った。つまり、

 

「お馬鹿さんは嫌いですが……大馬鹿となればもう、放っておけないです」

 

 半兵衛は居住まいを正し、そして深々と、深鈴に頭を下げた。

 

「この竹中半兵衛……未だ非才の身なれど、全力を挙げて銀鈴さんを支えていくと誓います……よろしく、我が殿」

 



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第15話 銀鈴の旗

 

 稲葉山城攻略の最重要事項とも言える半兵衛調略が成り、これで信奈の機嫌も治る……と見ていた深鈴は、しかしながら自分の見通しの甘さを思い知らされる羽目になった。

 

 自室の上座に腰掛け、なごやこーちんのてばさきを囓る信奈は先日とちっとも変わらない不機嫌顔だ。

 

 どうしてこうなった? 話は一週間ほど前に遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 半兵衛を味方に引き入れた深鈴達一行が清洲城へ戻ってみると、思いも寄らぬ変化があった。城内に侍達の姿がない。もぬけの殻、完全に空城となっていた。

 

 何事かと思い一旦屋敷に戻ってみると、留守番をしていたねねが信奈から預かっていた手紙を見せてくれた。文面を要約すると、以下のようになった。

 

 

 

<あんた達が半兵衛を調略しに行く期間を利用して、私は居城を清洲から小牧山へ引っ越す事にしたわ。戻ってきてこの手紙を読んだなら、すぐに小牧山に移ってきなさい。ぐずぐずしてるとあんたの屋敷に火を付けるわよ!!>

 

 

 

 信奈も、深鈴達が動いている期間をただのんびりと過ごしている訳ではなかった。彼女も彼女なりのやり方で、美濃攻略の為に動いていたのだ。

 

 ちなみに屋敷に火を付けるというのは脅し文句でも何でもなく、実際に信奈の命を受けた勝家が焼き討ちの指揮を執っていた。

 

 主君に従わぬ家臣には、何らかの罰を下す。それ自体は家中の規律を保つ為に絶対必要な事なのだ……が、それにしてもいきなり家に放火とは……やる事が派手と言うか、短気にも程があると言うか……

 

 勝家によれば、

 

「頭の固い老臣達からは『本城を移転するなど聞いた事がありません』『せめて一年はご猶予を!!』と猛反対の声が上がったけど、姫様は即断即決でその日の内に小牧山へ。で、引っ越しを渋る家臣の家は焼いちゃえと、あたしにご下知を。銀鈴、お前みたいに任務で尾張を離れてる奴らの家は、除外するように言われたけどな」

 

 との事だった。

 

 しかし、本拠を小牧山に移すという信奈の戦略は美濃攻略を狙う織田勢としては、全く理に叶ったものである。

 

 尾張のほぼ中央に位置している清洲城に対して、小牧山は尾張の北端にある低い山である。ここに拠点を移す事によって信奈は美濃への距離をぐっと縮めた事になる。つまり有事の際には、これまでよりもずっと短い時間で戦場に急行する事が出来るのだ。

 

「兵は神速を尊ぶ。見事な策です」

 

 半兵衛も絶賛。戦場に在って時間とは、何にも代えがたい黄金に勝る宝物。本城を移転するという大胆さは他に類を見ないが、しかし戦場に到着するまでの時間を縮めようとする試み自体は、他国の戦国大名もあの手この手で行っている。例を挙げると、戦国最強兵団を率いる姫大名「甲斐の虎」武田信玄。彼女は宿敵である「越後の龍」上杉謙信との決戦に備えて様々な策を実行しているが、その中でも「甲斐の棒道」は有名だ。

 

 棒道とはつまり軍用道路である。越後・春日山城を拠点とする謙信と、甲斐・躑躅ヶ崎を拠点とする信玄が両者の決戦の場と目される北信・川中島へ向けて同時に出陣した場合、先に到着するのは明らかに謙信である。そこで信玄は到着までに要する時間を短縮する為に山を切り開き、古府中から北信へと鉄砲玉のように真っ直ぐ走る軍用道路を建設したのだ。

 

 美濃への距離を縮めた信奈の本城移転は、同じ目的ながら対極の発想だと言える。

 

 焼き討ちを済ませた勝家に案内されて小牧山へと到着した深鈴は、半兵衛調略の結果報告も兼ねて開かれた軍議に出席する運びとなった。

 

 これまで尾張勢を釈迦の掌の上の孫悟空のように弄んだ天才軍師が味方になったという朗報を受け、信奈は上機嫌となって美濃攻略作戦を次の段階へ進める事を決断した。

 

 信奈の次の狙いは、ずばり「墨俣」である。

 

 墨俣は長良川と他の河川が交わる戦略上の要衝。ここに城を築く事が出来れば美濃攻略は成ったも同じ。だが、墨俣は稲葉山城からは目と鼻の先。故にこう言うのだ。

 

 

 

 「墨俣は死地、死地はまた生地なり」

 

 

 

 美濃を生かすも殺すも墨俣次第。だが領内に城を建てようとして、斎藤義龍が黙って見ている訳がない。道三に説得出来ないかと信奈が尋ねてみるが、

 

「ありえんな」

 

 の、一言で却下された。食うか食われるか。蝮とは子が親殺しをせねば、親が子殺しをする生き物なのだ。となれば、強引に城を建てるしかない。

 

「墨俣を制する者、美濃を制す。不可能を成し遂げてこそ、天下人の器かと」

 

 半兵衛のこの意見もあり、信奈は勝家に築城を命じた。

 

 織田家最強の猛将は「お任せあれ!!」と豊満な胸をどんと叩き、深鈴は彼女に以前信澄が謀反した際、名塚に一夜にして砦を築いた建築技術が記された巻物を餞別代わりに渡している。それを見た勝家は、

 

「成る程、これが一夜砦の手品のタネか!! これなら千人力だ!! 必ずや墨俣に城を建ててご覧に入れましょう!!」

 

 そう言って勇んで出陣した……までは、良かった。

 

 結論から言うと、勝家は失敗した。

 

 織田軍が築城に取り掛かったと見るや、美濃勢は夜襲を仕掛けてきたのである。

 

 義龍とて墨俣が美濃防衛の為にどれだけ重要な地点かは百も承知であり、織田の兵は一人も見逃すまいと昼夜を徹して見張らせていたのだ。勝家率いる築城部隊は、美濃領内に入った時点でその動きを察知されてしまっていた。

 

 それでも流石は音に聞こえし鬼柴田。最初に夜襲を掛けてきた部隊相手には何とか持ち堪えていたものの、船によって川から攻めてきた別働隊に挟撃を受け、現場は大混乱に陥った。

 

 しかも築城という任務の性質上部隊の大半は人足であり、夥しい数のかがり火を見て恐怖に駆られて逃げ出してしまったのである。群集心理の効果は恐ろしく、連鎖的に兵の中にまで武器を捨てて逃げる者が現れる始末。こうなると「逃げるな!! 逃げる者はあたしが斬るぞ!!」といくら勝家が叫び立てた所で最早収拾は付かず、泣く泣く小牧山まで逃げ帰る羽目になってしまった。彼女が陣頭指揮を執った事で被害を抑えられたのは不幸中の幸いだった。

 

「あたし、責任とって腹を切ります~!!」

 

「あんたが腹を切ったら、美濃を落とすどころか尾張を守る事すらおぼつかなくなるでしょ!! 今後は切腹禁止よ!!」

 

「姫様……なんとお優しい……!! この勝家、生涯姫様の為にご奉公仕ります!!」

 

 帰ってきた勝家と信奈の間に、こんなやりとりがあったのはご愛敬。

 

 その後も城普請を得意とする長秀や佐久間右衛門が築城に当たったが悉く失敗。美濃攻略作戦は再び暗礁に乗り上げてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「で、銀鈴。あんたはこれまでの失敗をどう思うの?」

 

 時は現在に戻り、深鈴は小牧山の信奈の自室へと呼ばれていた。

 

「やはり築城の為の人足と、城と彼等を守る為の兵。それに大量の木材。これらを尾張から運び込むのが原因かと」

 

 そんな大所帯が美濃勢の目に付かない筈がない。信奈とて逆の立場であったとすれば、策を講じて待ち構えるだろう。

 

 とは言え、天下統一の為にはいつまでも美濃一国に手こずっていられないのも事実である。

 

「そこまで分かってるなら、あんたには何か策は無いの? 墨俣に城を築く以外で」

 

「……一つ。無いでは無いですが……」

 

 深鈴がためらいがちに口にしたその言葉を聞き、信奈は思わず笑顔になって身を乗り出した。しかし、すぐにその笑みは消えてしまう。

 

「私の食客が造っているカラクリで”轟天雷”というものがあり……それを使えば恐らく、稲葉山城を一日で瓦礫の山と化す事が可能です」

 

「!! それは駄目よ」

 

 まだそのカラクリがどんな物かも説明せぬ内にあっさりと信奈に却下されて、しかし深鈴の表情に落胆の色は見えない。寧ろこの案については、却下されて安心した。逆に、万一ゴーサインを出されていたらどうしようかと思っていた所だ。

 

 今後、美濃を足がかりに上洛を果たす為には稲葉山城は重要な拠点。織田勢としては可能な限り無傷で手に入れたい。

 

 それに……

 

「これは出来ればだけど、私は蝮をもう一度あの城に戻してあげたいの。銀鈴……あんたも気付いてるんじゃない?」

 

「はい……」

 

 深鈴と道三は、時々屋敷に道三が尋ねてきて碁を打ったりする仲である(ちなみに戦績は、道三が無敗記録更新中)。そうして話す機会が多い事もあって、深鈴も最近の道三は変わったと感じていた。

 

 今の道三は美濃の国主であった頃の覇気はすっかり失せ、市井の好々爺のように老け込んでしまっている。しかも彼はもう六十三才。深鈴の生まれた時代ならば元気バリバリで第二の人生を歩み出そうという「若い」とさえ言われる年齢だが、この時代では明日死んでもちっとも不思議ではない高齢である。

 

「人生の全てを美濃盗りに捧げた蝮に、このまま亡命先の尾張でひっそりと死んで欲しくないのよ。私こそが、蝮の夢を託すに相応しい者だったと、証明してあげたいの。蝮の選択は間違っていなかったと、安心させてあげたいのよ」

 

 信奈が美濃攻略を焦るのは東国の脅威もあったが、義父へのその想いも間違いなく一因ではあった。

 

「……ならばやはり、墨俣に城を建てる他はないでしょう」

 

 結局、ぐるぐると廻り巡って結論はそこに戻ってきてしまった。ふうと一息吐いて、ジト目になった信奈が深鈴を睨む。

 

「……出来るの? 今の墨俣は一夜で城を築く事すら不可能なまさに死地、地獄の一丁目よ?」

 

「自信と勝算はあります。お許しさえ頂ければ、必ずや」

 

 答える深鈴の声と目と、そして表情から静かな自信を感じ取って、信奈は半ば諦めたように頷いた。これまでの経緯から、彼女が勝ち目の無い戦いをする人間ではない事は知っている。ならばここは、主君として臣下を信じてみよう。

 

「デアルカ」

 

 立ち上がった信奈は部屋の片隅に置いてあった箱を手にすると「開けてみなさい、私からの餞別よ」と、深鈴に渡した。

 

「これは……」

 

 蓋を開けたそこにあったのはバスケットボールほどの大きさの、銀作りの鈴だった。鈴は深鈴の手の中で、ガランと乾いた音を立てる。

 

「腕利きの鍛冶に造らせた、あんたの旗印よ。銀の鈴……あんたにはぴったりでしょ? 銀鈴」

 

「感謝いたします、信奈様……」

 

 深々と頭を下げ、受け取った旗印を手に退室しようとする深鈴だったが、襖の前で呼び止められた。

 

「命令よ。作戦の成否に関わらず、必ず生きて帰還しなさい」

 

「……御意!!」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして墨俣築城の命を受けた深鈴は、しかしすぐには動かずにまずは小牧山に建てた仮の住居に五右衛門や犬千代、光秀に半兵衛、それにおもだった食客達を集めて作戦会議を開いた。

 

 桶狭間の戦いの前に開かれた会議では一人一人の前に料理の載った膳を並べて酒を用意し、食べながら話していたが、今回は急な引っ越しによってそこまでの大広間がある屋敷が用意出来なかったので、全員で一つの大鍋を囲んでいた。

 

 鍋の中には、おでんが煮込まれている。

 

 未来人である深鈴にとっては何も疑問は無いが、しかし他の面々はこの料理を見て当惑した様子である。それも当然、この時代におでんと言えば、焼いたコンニャクや豆腐に味噌を塗りたくって食べる料理であり、断じて卵・大根・ジャガイモ・ちくわなど各種の種を入れて煮込むものではないのだ。

 

 これは、深鈴が料理上手な食客に特注で作らせた言わば創作料理だ。ご丁寧な事に羊・山羊肉の腸詰め、つまりウインナーまで入っている。

 

「……と、いう訳で信奈様から墨俣への築城を命じられました。大まかな計画は既に考えていますが、みんなも何か気付いた事があれば、遠慮無く言ってください。そうして様々な意見を取り入れて、より万全を期したいと思っていますので……」

 

 大好物の厚切り大根に味噌を塗って食べながら、深鈴が言う。大根は火の通りが完璧であり、箸がすっと通った。

 

「先輩、それならまず、どうやって見張っている美濃兵の目を誤魔化すかですよ」

 

 八丁味噌をたっぷり塗ったコンニャクを箸でつまみながら、光秀が言う。彼女の言う通り、どうにかして美濃勢が敷いている警戒網をくぐり抜けなければ、城を建てる建てないの前に墨俣に部隊が到着した時点で攻撃を受けてしまう。

 

「はふ、はふ……それに、城を建てるだけじゃなくて守る為の兵も連れて行かなければ駄目……もぐ……もぐ……」

 

 丸ごと茹でられていたタコの足を咥えながら、犬千代が発言する。これも正論。

 

 確かに今の尾張勢は源内の開発したツーバイフォー工法によって一日で城を建てる事が可能だが、しかしそれで出来上がるのは所詮は一日作りのハリボテ、急拵えの砦モドキでしかない。

 

 今回求められているのは名塚の時のような敵の目を引き付けるだけの案山子砦ではなく、そこを足がかりとして信奈軍が美濃へ攻め込む為の軍事拠点。一夜作りの砦に、曲がりなりにも城と呼べるだけの防御力を持たせるまで、義龍軍から守り抜けるだけの兵が必要となる。どんなに少なくとも三千、欲を言えば五千は欲しい。

 

「いっそのこと城を建てるのに拘らずに、稲葉山城を直接攻撃したらどうです? 轟天雷の実戦試験の的として、あの城はうってつけです。私に任せていただければ、あんな山城は一日で瓦礫の山に変えてみせますが……あ、半兵衛ちゃん、これどうぞ。この腸詰めは絶品ですよ」

 

 ゆで卵を食べながら、右隣に座る半兵衛にウインナーを渡しつつそう発言するのは源内だ。彼女の発明品の一つである”轟天雷”は既に各種試験が終了しており、量産体制に移行している。後は実戦投入を残すのみで、彼女はその機会を欲しがっていた。

 

 しかしその案は既に信奈に提案して却下された事を深鈴が伝えると「仕方無いですね」と肩を落として引き下がった。

 

「それに、墨俣に城を築かれる事の危険性は美濃勢も百も承知でしょう。一度気付かれたら最後、西から東から集まってきて、包囲されてしまいます……きゃっ」

 

 半兵衛も別の問題点を指摘する。囓ったウインナーがぱきっと気持ちのいい音を立てて割れて、弾けた肉汁が彼女の顔に飛び散った。

 

「そうなったら勝家殿の時と同じく、現場は大混乱に陥るでござりゅ。にんそきゅはちゅれていけにゃいでごじゃりゅじょ」

 

「親分が噛んだ!!」

 

「このおでんも美味いし、今日は最高だぜ!!」

 

「しかし嬢ちゃん、親分の言う通りだ。俺達は親分と一緒ならたとえ火の中水の中。義龍軍など恐れねぇが、どいつもこいつも同じようには行かねぇ。よっぽど腹の据わった奴等を集めなきゃあ……」

 

 巾着を食べて、中に入っていた餅を伸ばしながらの五右衛門の発言はいつも通り噛み噛みだったが、しかし内容は川並衆の一人が言うように的を射ている。

 

 築城の為には人足が必要だが、しかしあまりに人足が多いと兵士でない彼等は、大軍に攻められると恐怖に駆られて逃げ出してしまうだろう。そうなれば、兵士でも気の弱い者は釣られて逃げてしまい、指揮系統が成り立たなくなる。勝家はそれで失敗したと言っても良い。

 

 こうして挙げられた墨俣築城の問題点を整理していくと……

 

 

 

 一、警戒している義龍軍の目をどうにか抜けなければ待ち伏せされる。

 

 二、十分な防御力を持たせるまで城を守る為に、相当数の兵が必要。

 

 三、墨俣への築城を気付かれれば、あちこちから美濃勢が集まってくる。

 

 四、人足を連れて行けば、彼等は大軍を前には気圧されて逃げてしまう。

 

 

 

 見事なまでに悪条件ばかり揃っている。これまでの失敗も、頷けるというものだ。

 

 しかもこれらは所謂「あちらを立てればこちらが立たず」といった関係になっており、ただ問題点を一つ一つ解消していけば良いという話ではない。

 

 例えば一の条件、義龍軍に発見されないよう少人数で行動すれば、十分な兵力を動員出来ないから二の条件を満たせない。逆に二の条件を満たそうとすれば、相当数の人数での行動になるから美濃勢に気取られて一の問題に引っ掛かってしまう。また、城作りの為に必要な木材を尾張から運んでもやはり目立ってしまうだろう。

 

 四の条件に至ってはもっと深刻だ。城作りには人数が必要だが、人足は使えないから兵にその役目を兼ねさせる事になるだろうが、深鈴は未だそれほどの数の兵を動かす事が出来ない。仮に出来たとしても、それをやればやはり一の問題に引っ掛かる。

 

 そして三の条件は、ただでさえ注目度の高い墨俣に城なんて目立つ物を建てようとすれば否が応でも人目に付くというもの。不可避だと言っても良い。

 

 つまり墨俣への築城の為には『兵士ばかり数千人を動員しつつ、鵜の目鷹の目で見張っている義龍軍の警戒網をすり抜けて、しかも建築途中の城を見ても美濃勢が集まってこないように』しなければならない。

 

 考えれば考えるほど、事の無理難題さが浮き彫りとなってくる。信奈が「墨俣は死地、地獄の一丁目」と言ったのは大袈裟でもなんでもなく全くの事実だった。

 

「こりゃあ、にっちもさっちもならねーですよ、先輩……今からでも信奈様に無理ですと言ってきた方が良いのでは……」

 

 流石の光秀も、匙を投げた物言いである。

 

 深鈴としては彼女なりの勝算はあったが、皆と討論してやっぱり無理だと判断したなら退くつもりだった。死ぬと分かっている場所に意地だけで突っ込むのは馬鹿げている。だが、殆どの者が無理だと考えている中で、彼女だけは違っていた。

 

『……出来る。墨俣に城は建てられる』

 

 深鈴はすくっと立ち上がり、ここに集った全員を見渡して、言った。

 

「まぁ……私とて失敗すると分かってる作戦を強行したりはしないから……皆は、私が合図を下すまでは待機していてください」

 

 その言葉を最後に本日の作戦会議は終了となり、後はいつも通り、皆で騒ぎつつおでん鍋をつつく宴会の様相を呈した。

 

 

 

 

 

 

 

 その後、深鈴は五右衛門と半兵衛を連れたまま何処かへと姿を消し、光秀や犬千代、食客達は手持ち無沙汰のまま、二週間が過ぎた。

 

 信奈は未だ深鈴が築城に取り掛からない事に対して沈黙を保ったままであったが、家臣団の中には「銀鏡の小娘め、大きな事を言っておきながら自信が無いので逃げ出したのだ」などと噂する者まで出る始末。石段を駆け上るように出世した彼女は、やはり嫉妬ややっかみの対象でもあった。

 

 しかもこの間、どこから洩れたのか美濃には「尾張勢が性懲りもなく墨俣に城を築こうとしている」という噂が流れ、義龍軍の警戒はより厳重なものとなってしまっていた。

 

 だがそんなある日、唐突に深鈴からの招集が掛かった。既に季節は六月に入って梅雨時であり、前日からの雨が未だ降り続いている蒸し暑い日だった。

 

 集まるように伝えられた場所は墨俣ではなく、ずっと上流に位置する瑞龍寺山の裏手の密林であった。そこに、最低限の人数で来いと言う。

 

「先輩は何を考えてやがるですか?」

 

 光秀は首を捻る。対岸から墨俣を見張っている美濃の兵を警戒するのは分かるが、そんな所へ行ったとしても何の役に立つと言うのか?

 

「銀鈴のやる事だから……きっと、何かある」

 

 犬千代は彼女も疑問を感じてはいたものの、しかし今まで深鈴が思いも寄らぬ奇策を用いて多大な成果を挙げる所を幾度も見ているので、その信頼感もあって言われた通りの場所へと向かう。

 

 食客達の中からは源内や城大工達と、戦闘に長けた者達が随行した。その中には鉄砲の名手である子市の姿もあった。

 

 そうして瑞龍寺山の密林に到着した一行は、一人残らず驚きの声を上げる事となる。

 

 そこに居るとすれば精々川並衆の百余名だろうと思っていたがとんでもない。五千を数える野武士の大集団が、ずぶ濡れになりながら鋸を挽き、斧を振るって木材を切り出していた。彼等の顔は一様に真剣であり、目は爛々と燃えている。相当な決意でこの作業に臨んでいるのが一目で分かった。そして半兵衛と五右衛門が、伐採の指揮を執っている。

 

「待ってたわよ、みんな」

 

 光秀と犬千代、それに食客達の到着に気付くと、作業を監督していた深鈴が近付いてきた。

 

「……これは一体……どうやってこんな人数を集めやがったです?」

 

 と、光秀。「美濃勢には見付からなかったですか?」とは聞かなかった。もし気付かれていればこれだけの人数だ。尾張勢でなくとも義龍は警戒して、すぐさま兵を差し向けていただろう。

 

「銀鈴、この野武士達は一体……?」

 

 犬千代も、同じ疑問を口にする。答えるのは、半兵衛と五右衛門の二人。

 

「ここに集まっているのは、尾張からは秦川の日比野さん、篠木の河口さん、科野の長江さん、小幡の松原さん、稲田の大炊助さん、柏井の青山さん……」

 

「美濃からは鵜沼の春田、鷺山の杉村、井ノ口の森崎、川津の為井、柳津の梁津……他にもくにでゅうのにょびゅしがあちゅまっちぇりゅでござりゅ」

 

 後半はやはりと言うべきか噛み噛みだったが、要するに尾張と美濃の野武士達がここへ集まっているという事だ。

 

 これだけの人数をどうやって集めたかだが、ここに空白の二週間の秘密があった。深鈴は五右衛門が持つ忍びのネットワークを利用して、彼等に檄文を送り付けていたのだ。

 

「今回、墨俣に城を築く事に協力し、もし成功すれば一人残らず織田家への仕官と名誉の回復を約束する。それともこのまま一生、嫌われ者で日陰者の野武士のままで終わるのか、とね。勿論、信奈様には既に話を通してありますよ」

 

 ここに集まった面々は野武士は野武士でも、そこんじょそこらの山賊や盗賊まがいの輩ではなく、相手によっては生涯仕官せずに野にあって士道を貫く覚悟と誇りを持った侍である。しかし、武士は食わねど高楊枝とは言うがやはり霞を食って生きている訳でなく、日々の糧を得るには汚れ仕事に手を染めなければならない事も多い。必然、人々からは野盗と同一視されて厄介者と見なされてしまう。

 

 そんな所に舞い込んだ、立派な武士に返り咲けるという話。危険が伴うと聞かされても、立ち上がる者は少なくなかった。

 

 無論、いくら侍とて死にたくはない。これだけの大人数を集める為に、深鈴は三万貫近い金を使っている。流石にちと懐に響いたが、墨俣を買う事を思えば安いものである。それに美濃攻略が成れば銀蜂会は美濃への進出が叶い、莫大な利潤を生む事が出来るだろう。言わばこれは先行投資。深鈴は、ここが金の使い所だと見ていた。

 

「……どうして織田の兵じゃなくて野武士を使うの?」

 

 首を傾げる犬千代だったが、この疑問には彼女のすぐ隣で「そうか」と声を上げた光秀が答えた。

 

「確かにこれなら、義龍軍の警戒網を無力化出来るです」

 

「? どういう事?」

 

「美濃勢が見張っているのはあくまで織田の兵です。よっぽど大人数がひとかたまりになって動かない限り、野武士には注意が向かないです」

 

 素晴らしい解答に、深鈴は頷く。

 

「流石は十兵衛殿。この二週間という時間を使って、尾張の者は少しずつこっそり美濃領へ。美濃の者はそのままここに集まってもらっていました」

 

 補足するならしばらく前に美濃に流れた噂。あれは半兵衛の指示を受け、五右衛門と段蔵率いる諜報部隊が流したものだ。織田が再度築城するという噂を聞けば、そうはさせまいと見張りは織田の兵にばかり注目するようになり、それ以外の者への注意が疎かになる。この策は見事に当たり、野武士達は殆ど何の妨害も受けずに、この密林へと辿り着く事が出来た。

 

 そして、彼等が行っている木樵仕事。これは尾張から木材を運んで敵の目に付く事を避ける為、美濃領から木材を頂戴するという発想であった。見れば既に、柵や櫓といった城の部品としての組み立ても行われている。また、別の班では多数のイカダの組み立ても行われていた。準備が整えば、このまま水路によって一気に川を下り、墨俣へと向かうのだ。

 

「とんでもない事を考えやがるですね。流石は銀鏡先輩です」

 

 光秀は圧倒されたように思わず天を仰ぐと、深く息を吐いた。これで、墨俣築城への第一・第二・第四の問題は一気に解消された訳だ。

 

 既に全ての人員が美濃領に入っており、木材も調達がほぼ完了している。第一の問題である義龍軍の警戒網は、完全にすり抜けている。

 

 更に第二の問題、一夜作りの城が十分な防御力を持つまで支えるだけの兵力だが、ここには五千の荒くれ者達が揃っている。全く問題は無い。

 

 人足が使えない第四の問題も、野武士達が作業を行う事で解消される。彼等にとっては志を通して立派な武士に返り咲くか、さもなくば一生厄介者の野武士のままで通すかの瀬戸際である。その真剣さは並々ならぬものがあり、士気は天を衝くほどに高い。これならばちょっとやそっとの攻撃では引き下がらないだろう。

 

「後は、城が建てられてるのを見て集まってくる美濃勢をどうするかですが……」

 

「それも、問題無いわ」

 

「この雨が、私達を助けてくれます」

 

 自信の笑みを浮かべる深鈴の言葉を、背後に控えていた半兵衛が継ぐ。

 

「今は出水時であり、恐らく美濃勢は梅雨の間だけは信奈軍も川を渡れまいと油断しているでしょう。それに、この雨であちこちの洲は水びたし。思い通りに兵を動かす事は出来ません……くしゅん」

 

 つまりこれで、第三の問題も解消された訳だ。

 

「桶狭間の時にも、雨は我々を助けてくれました……我等尾張勢は、雨を味方に付けているのかも知れませんね?」

 

 深鈴が、光秀のすぐ後ろにいた源内へと言う。カラクリ技士はそれを受け、くすりと笑って返した。

 

 

 

 

 

 

 

 そして遂に全ての準備が終了し、墨俣へと出航する段となる。

 

 だがここへ来て、この作戦の最大の問題点がクローズアップされる事となった。荒れ狂う濁流を見て、命知らずの野武士達も、川を知り尽くした川並衆もごくりと唾を呑んだ。

 

 木曽川はただでさえ名うての急流。しかも今は梅雨で増水していて、濁流が渦を巻いて岩を噛む勢いとなっていた。

 

 この流れの中に漕ぎ出すなど自殺行為としか思えない。だが、自殺行為であるからこそやる価値がある。

 

「川が渡れそうな時は、美濃勢は警戒しています!! 渡れそうもない時だからこそ、敵も油断しています!!」

 

 白羽扇を川に向けた半兵衛が、雨と川の音に負けないよう精一杯声を張り上げた。

 

「では、まずは私から征きます。イカダを出してください!!」

 

「応!!」

 

 深鈴の指示に従い、用意してあったイカダは次々と川へ出され、濁流の中を笹舟のように弄ばれる。しかし彼女は怯まず、旗印である銀の鈴を括り付けた槍片手に、イカダへと飛び乗った。

 

 だがやはり豪流が更に激流・濁流となっているのである。いきなり振り落とされそうになるが、川へ落ちそうになる彼女の手をぐいっと引いて、イカダの上に引き戻した者がいた。光秀だ。

 

「こんな所で先輩に死なれたら、出世競争に張り合いがなくなっちまうですからね!!」

 

 と、同時に今までは流れに翻弄されるだけだったイカダの動きが、僅かにだが安定する。見れば、五右衛門が櫂を握っていた。

 

「我等は銀鏡氏と一蓮托生!! 拙者、二度も主を喪うのは御免でござる!!」

 

 だが川賊の頭領である彼女も、流石にこれほどの濁流の中で船を操った経験は無い。イカダはすぐに五右衛門の手を離れ、ちょうど川の中の岩へと真っ直ぐ向かっていってしまう。このままでは激突して木っ端微塵に……

 

「犬千代も一緒!!」

 

 は、ならなかった。

 

 壇ノ浦の合戦に語られる義経八艘飛びの如く、イカダからイカダへと飛び移って追い付いてきた犬千代が、愛槍の石突きを岩にぶつけて、イカダの軌道を変えた。五右衛門も少しずつこの激流に慣れてきたのか、次第にイカダの制御を取り戻していく。

 

「総員、銀鈴さん達に続いてください!!」

 

 前鬼に伴われ、半兵衛もまたイカダの一つに飛び乗った。続いて、

 

「嬢ちゃん達にだけ良いカッコさせるな!!」

 

「そうだ!! 親分達を死なせるな!!」

 

「死ぬ時は親分と一緒だぜ!!」

 

 頭領やその主が真っ先に飛び出したのに触発され、恐れを忘れた川並衆も次々にイカダへ飛び乗り、濁流へと挑んでいく。

 

 野武士達は最初は呆然とそれを見守っているだけだったが、彼等の中の一人が言った。

 

「あんな娘っ子達が命張ってるのに、俺達は何をしてるんだ」

 

 また一人が言った。

 

「そうだ、俺達は命を懸ける覚悟で、ここに集まったんじゃなかったのか」

 

 また一人が言った。

 

「恥ずかしくないのか。南北朝の時代、義に殉じた我等が祖先に。恥ずかしくないのか。俺達の子孫に」

 

「そうだ!! 生涯日陰で暮らすか、子々孫々に陽の目を見せるか!! 全ては今に懸かってるんだ!!」

 

「俺は征くぞ!! これは他人の為じゃねえ!! 俺自身と俺の子ら、その子らの為の戦いだ!!」

 

 遂に彼等の一人が第二波のイカダを出して、そのまま乗り込んだ。

 

「俺も征くぞ!!」

 

「俺もだ!! どうせ死ぬなら這って悔いて死ぬより、奔って夢見て死んでやるぜ!!」

 

「命を惜しむな、名こそ惜しめよ!!」

 

 一人、また一人と、怯まず飛び込んでいく。

 

 彼等にここまでさせたのは、深鈴がまず最初に飛び込んだからだ。最前線に立って命を張っている大将と、主戦場から遠く離れた安全な所に座っていて命令を出しているだけの大将。どちらが率いる兵の士気を高めるかなど、自明の理。戦う力を持たない彼女だが、しかしここは命の懸け時、軍団の一番手となる時だと頭で理解し、恐怖を越えて実行に移した。その覚悟が、五右衛門や光秀、犬千代らは勿論、川並衆や野武士達にも伝播したのだ。

 

 ほんの5分ほどで、川岸には段蔵以下十数名が残るだけとなった。

 

<では、我等も手筈通りに動く>

 

 段蔵が纏うボロ布の袖口からそう書かれた紙面が出て、命令を伝える。その指示を受け、彼あるいは彼女とその配下は森の中へと消えていった。

 

 死地を生地とすべく。

 

 失敗しても成功しても、恐らくはこれが最後となるであろう墨俣築城作戦が、始まる。

 



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第16話 墨俣、燃ゆ

 

 深鈴達が木曽川の激流へと挑んだ翌朝。昨日までの豪雨が嘘のように晴れ渡ったこの日、偵察に出ていた物見からの報告を受け、稲葉山城は騒然となった。

 

「な、何っ!! 墨俣に一夜にして城が出来たと!!」

 

「はい、まだ内部は造っているようですが、外部の柵は出来上がっておりました」

 

「しかも、遠目から見た所、作業を行う兵の数は五千は下るまいかと」

 

 広間に集った斎藤家臣下達はそれを聞き、目に見えて動揺した。織田が墨俣に城を築きたがっているのは百も承知だったが、今回は分からぬ事が多過ぎる。

 

「馬鹿を申せ、たった一夜で城が建つ訳がない」

 

「それよりも兵だ。一体どこからそれだけの兵が集まったと言うのじゃ。いくら昨日が大雨だったとは言え、五千もの兵が墨俣にやって来るのを、見張りが見逃す訳があるまい」

 

「見間違いではないのか?」

 

「しかし確かに……」

 

「馬鹿者ども、静まれ!!」

 

 家臣達がめいめい勝手に騒ぎ立てるのを、義龍はまさしく鶴の一声で黙らせた。身の丈およそ六尺五寸、力士を思わせる巨体を誇る義龍はその体型に比例するように声も大きく、十名からの声をたった一人で掻き消してしまった。

 

 そこから微妙に間を置いて彼等の心もそれなりに落ち着いた所を見計らって、彼は続く言葉を口にした。

 

「織田がどのような方法で城を建てたか、どうやって兵を集めたかなど、今はどうでも良いわ!! 実際に城が建って兵が集まっているのだ。それを如何にして追い払うかを、この場で論ずるべきであろう。その程度の事が分からんのか!!」

 

 声を上げる者は一人としていない。代わりに皆一様に顔を赤らめた。主君の言葉は全く以て正論であり、今まで騒ぎ立てていた自分達が急に情けなく思えたのだ。

 

「では殿、どうなされますか?」

 

 家臣の一人にそう尋ねられ、義龍は打てば響く早さで答えを返す。

 

「無論、これまで来た者達と同じ運命にしてやるまでよ。すぐさま出陣だ!! 一隊は城の背後に回って、柴田の時と同じに川から挟み撃ちにしてやるのだ!! 城外の者達にも指示を出せ!!」

 

 言葉が終わらぬ内にすっくと立ち上がる義龍だったが、これには家臣達が慌てた。

 

「それが、先日までの雨であちこちの洲は水びたし、用兵も思うに任せませぬ」

 

「ならばまずはこの稲葉山城の兵だけでも行くのだ。他の者達にもすぐに墨俣へ向かうよう、使者を送れ!! 斎藤飛騨守、三分の一の兵を残していく故、そなたはワシの留守を守れ!!」

 

「殿、しかし川は今、水かさが増えて危険でございます。船を出すのは……」

 

「自らの領地に城を建てられて、危険も何もあるか!!」

 

 小姓に持ってこさせた鎧を身に付けながら、義龍は吹き出してくる反対意見を悉く封殺していく。

 

「墨俣を拠点として尾張勢になだれこまれたら、それこそ取り返しの付かぬ事になるわ!! どれほどの犠牲を払ってでも落とさねばならん!!」

 

 義龍は決して愚昧でも凡庸でもない。仮にそういった人物なら老いたりとは言え蝮と呼ばれた乱世の梟雄たる父への下克上など、成功する訳がない。半兵衛の一件では「この小娘も自分がやったように下克上を企んでいるのでは」という猜疑心が判断力を曇らせていたが、本来の能力を発揮すれば間違いなく名将と言える器であった。

 

 そもそも墨俣に城を築かれる事を誰よりも危険視し、また逆に織田はどうしても城を築こうとするであろうと読み、見張りを立てて昼夜の区別無き厳戒態勢を敷かせたのは他ならぬ義龍である。それが功を奏し、一夜での築城技術を持つ信奈軍でさえ、これまで城を築けなかった。

 

 しかし今、どのような手を使ったかまでは分からないがこちらの読みを越えて尾張勢は墨俣に城を建てた。かくなる上は、城の防備が完全ではない内に攻め落とさねばならない。

 

「ぐずぐずするな!! ここで織田に時を与えれば、その代価は我等の首で支払う事となるぞ!!」

 

 家臣達はその一喝を受け、戦支度を整える為に慌ただしく動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

「うふふ……城がにわかに騒がしくなってきやがったです」

 

 墨俣城の物見櫓。望遠鏡によって稲葉山城の様子を探っていた光秀は、人の動きが急に活発になったのを目聡く見て取って、意地の悪い笑みを見せた。

 

 どうやら敵さん、一夜で城が建てられたのに肝を潰して、慌てて攻める準備を整えているらしい。

 

「稲葉山城の連中は今頃、一ノ谷の城を守ってた平氏の気分を味わってやがるんじゃないでしょうか」

 

「……? 何それ?」

 

 光秀の言を受け、可愛らしく首を傾げた犬千代が尋ねる。答えるのは深鈴だ。

 

「源平時代の合戦の話ですね」

 

 彼女の言葉を、半兵衛が継ぐ。

 

「源義経公は精鋭七十騎を率いて、鉄拐山から到底馬では下りられないと思われた急斜面を駆け下り、城の背後より平氏を奇襲したと言います。今回の私達も、美濃勢が出来る訳がないと油断していた増水時の木曽川下りをやり遂げて、こうして墨俣に城を築く事が出来ました」

 

「しかも私達は七十人どころか五千人。向こうは天から兵が降ってきたのではと思ってるですよ」

 

 敵城の喧噪を眺めながらにやにや笑う光秀だったが、それも望遠鏡を目から離すまでだった。笑みは消え、半刻(一時間)も置かずに始まるであろう戦を見据えた厳しい表情が取って代わる。

 

「では銀鏡先輩、私はこれからもう一度、兵士達の様子を確認してくるです」

 

「犬千代も行く」

 

 物見櫓から下りていく二人を見送った後、深鈴は傍らの半兵衛を振り返って、

 

「半兵衛……私達はこの任務、やり遂げられると思う?」

 

 そう尋ねた。声と表情と目から、主が求めているのが忌憚の無い意見、正確な分析であると悟って、半兵衛も真剣な表情になる。

 

「築城を見た美濃勢が全て集まった場合、その数はおよそ八千。ですが前日までの雨であちこちに水が出ていますから実際に集まれる数はもっと少なく、集まりにもバラつきが生じるでしょう。対して私達の数は五千。千人を築城に専念させるとして、四千の兵で迎え撃つ事になります」

 

「ふむ……」

 

 深鈴はそれを聞いて彼女なりの作戦を頭の中で組み立てていたが、まだ口には出さない。半兵衛の考えを全て聞いてからだ。

 

「急作りの城ですが、それでも守りに徹すれば数日は何とか持ち堪えられると思います。その間に作業を進め、同時に尾張へ使者を出して信奈さんに援軍を送ってもらうよう頼めば万全でしょう」

 

 半兵衛の意見は理路整然としていて「成る程」と頷きたくなるものだったが、深鈴はしなかった。一番聞いておかなければならない事が、残っている。

 

「じゃあ半兵衛、この城が落ちるとしたらどういう場合が考えられる?」

 

 天才軍師は少しの間沈黙し「そうですね……」と前置きして、答える。

 

「この城の弱点は、守る兵が……言い方は悪いですが寄せ集めの寄り合い所帯な点です。今は皆さん武士への返り咲きを願っていて士気も高いですが……形勢が不利になれば、我が身可愛さで逃げ出してしまう可能性があります。誰だって死にたくはありませんから……」

 

「成る程……」

 

 深鈴は頷く。半兵衛が指摘した墨俣城の弱点は、全く自分が考えていたものと同じだった。これが信奈から預かった正規の織田の兵であれば話も違うのだが、今の彼女の主戦力は野武士。成功すれば仕官を約束しているとは言え今の時点では彼等は主を持たない野良侍だ。いよいよもって追い詰められた場合には、半兵衛の言う通り逃げ出してしまう公算が高い。

 

 逆に言うと、その点を何とか克服出来ればこの任を全うする事が出来る、という事だ。

 

「その為にも、緒戦が重要ね……」

 

「……!! はい」

 

 深鈴も流石に読みが鋭いと感心した表情になって、半兵衛は頷く。

 

 義龍軍は、間違いなく城がまだ一夜作りで防御力の低い今を狙ってくる。この城が落ちるとしたらまず、今日の戦いでだろう。

 

 逆に今日の攻撃を凌げば一度は退けたと兵の心に自信が生まれるし、次の攻撃までに築城作業が進んで城の防御力が高くなり、しかも援軍も駆け付けてくると知らせれば励みになり、士気も高い状態を維持出来るだろう。

 

 詰まる所この任務の成否は、今日の戦いで決まる。

 

 無論、義龍もそれは承知の上で何としてでもこの一戦で勝負を決めようと、遮二無二攻めてくる。楽観出来る相手ではない。

 

 既に策はいくつか用意しているが、何かもう一つぐらい考えなければなるまい。義龍が仕掛けてくる猛攻を、どうやって凌ぐか……

 

「……そうだ……半兵衛、あなたさっき、美濃勢は集まりにばらつきが生じると言ったわね」

 

「はい、あちこちに水が出て、川も増水しているでしょうから……」

 

「なら、集まってくる順に次々各個撃破、あるいは撃退出来れば、私達が有利になるわね」

 

 深鈴の意見は正しい。半兵衛は認めて、しかし難しい顔で頷く。それ自体は、確かに正しいが……だが問題は、どうやって各個撃破するかだ。集まってくる一隊だけが相手なら野武士達は互角以上に戦えようが、その後でまた現れた次の隊を、そのまた次を……などとやっていては勝ち目が無い。彼女がそれを伝えると、深鈴も首肯する。

 

「集まってくる部隊の、指揮が乱れていれば話は別ですが……」

 

 半兵衛にしてみれば例え話のつもりで何気なく言ったその台詞だったが、実はかなり的を射た発言だった。我が意を得たりと、深鈴は会心の笑みを見せる。

 

「うん……だから、”それ”をやるのよ。誰か!! 子市を呼んできて!!」

 

 深鈴は櫓の下へ大声で叫び、続いて半兵衛と対称の位置に立っていた五右衛門へと振り返った。

 

「五右衛門、あなたは信奈様に築城が成った事を伝え、援軍を要請して。こっちは援軍が来るまでは、何としても持たせるから」

 

「承知!!」

 

 命令を受けた五右衛門は櫓から飛び降りると、疾風の如く駆けていく。その姿が見えなくなった所で、深鈴は半兵衛に策の詳細を説明し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、義龍軍の攻撃が始まった。まずは歩兵と騎馬の混成部隊が向かってくる。

 

「来た!! 来やがったです!!」

 

 既に外周の柵近くでいつ来るかと身構えていた光秀は、種子島を握る手にぐっと力を込めた。周りの野武士達も、それぞれ得物を強く握る。

 

「半兵衛……」

 

 深鈴とて間違いなく覚悟を決めてこの場に居る身ではあるが、しかしこうして軍団の指揮を執って戦をするのは初めての経験。傍らの軍師へ掛ける声には、流石に緊張と不安が滲み出ていた。

 

 敵が向かってくるが、迎え撃たなくて良いのかと。

 

 しかし、半兵衛は落ち着いたものだ。軍師たる者が為すべきは自らの才に驕らず、学んだ知識に従い、応用し、勝利する為の流れを引き寄せる事のみ。普段は気弱な彼女だが、今は戦場に立つ身としてそれのみを考え、他の感情を全て排除していた。

 

「まだです。孫子の兵法曰く、敵の半ばを渡らせてから討つべし」

 

 確かにこうして高所から見れば、押し寄せてくる美濃勢は未だ川を渡り初めてすらいない。それにここからではまだ距離がありすぎる。種子島を撃っても届かない。

 

 確かにそうだ。

 

 普通の種子島なら。

 

 普通の鉄砲撃ちなら。

 

「では、私は一足先に始めさせてもらうよ」

 

 そう言ったのは子市だ。床几に腰掛けた彼女は種子島を構えると、ほんの二秒ほどの時間を照準(サイティング)に当て、無造作に引き金を引く。

 

 だぁん。

 

「頭に当たりました。落馬」

 

 望遠鏡を持った足軽が狙撃の成果を報告し、

 

「次を」

 

 子市は背後に控えさせていた数名の内の一人に今撃った種子島を渡し、代わりに弾込めを済ませて火縄にも着火した物を受け取る。

 

「目標、長い槍を持って川に入った騎馬武者。胴を狙って」

 

 望遠鏡持ちの指示を受け、子市はやはりほんの二秒ほどを照準の為に使っただけであっさりと引き金を引くと、銃声が響き、

 

「命中。倒れて、馬に寄りかかる」

 

「次」

 

 先程と同じく、撃ち終わった種子島をすぐ撃てる状態の物と交換する子市。望遠鏡持ちが目標と狙う部位を指示し、彼女は間違いなくその目標の指示された場所を撃ち抜いていく。

 

 しかも背後に控えた足軽達は弾込めと火縄への着火をそれぞれ分業しており、三挺の種子島が彼等と子市が作る輪をぐるぐると回り、間断無く狙撃を続けていく。一連の動作は精巧なカラクリ仕掛けのようで、全く澱みが無かった。

 

 この攻撃に驚いたのは義龍軍である。

 

「そ、そんな馬鹿な!! この距離で鉄砲が届く訳がない!!」

 

「南蛮の新兵器だ!! 織田は新しい鉄砲を使っているんだぁ!!」

 

 まだ墨俣城から彼等の距離は、三丁(約300メートル)はある。名手である光秀でさえ、その射程距離は二十五間(約45メートル)が精々だ。到底種子島が届く距離ではないと勇んで進んでいただけに、衝撃も大きかった。

 

 しかも、撃たれて倒れるのは騎馬して指揮を執っている侍大将ばかり。これはこの銃撃がまぐれ当たりでないと教えるだけでなく、指揮官が倒される事で兵が算を乱す事も計算に入れての効率的な攻撃であった。更に弓も鉄砲も、この距離で反撃出来る手段を美濃勢は有していない。こちらは攻撃出来ないのに向こうからの攻撃に一方的に晒されるというこの状況は、侍大将にも足軽達にも覚悟していた以上の恐怖を与えていた。

 

 そうして恐怖を感じれば足が鈍る。足が鈍れば、それだけ子市の狙撃によって倒される大将が増える。そうなれば足軽達はますます動揺して、余計に軍団の足が鈍る。義龍にとっては悪夢のような連鎖が続いていく。

 

「見事です、子市さん」

 

「ん」

 

 半兵衛の賞賛を受け、しかし子市はこの程度は当然と言うかのように無表情のまま次の種子島を受け取り、狙いを合わせ、発射。望遠鏡持ちが命中を報告する。

 

「凄いのは私じゃないさ。深鈴様の考えた三段撃ちと観測手。それに源内が作ったこの”鳴門”だ」

 

 弾込め役、着火役、射手を分業制として通常の数倍の早さでの連射を可能とする三段撃ち。これは長篠の戦いで、馬防柵との組み合わせによって無敵を誇った武田騎馬軍を破った戦術として有名だ。

 

 今回、深鈴は本人曰く日本二の鉄砲の名手である子市に侍大将のみを絞って次々に狙撃させ、押し寄せる敵の出鼻を挫く策としてこれを採用したのである。それだけでなく、狙撃の正確性を高める為に観測手を付けた。

 

 そして何より子市の得物。源内の発明品が一つ、”鳴門”。一見すれば何の変哲も無い普通の種子島だが、中身が違う。

 

 この種子島は銃身内部に螺旋状の溝が彫り込まれ、発射された弾に回転が掛かるように造られている。深鈴の生まれた時代で言うライフリング加工が施された特注品だったのだ。これによって従来の物よりも、射程距離と精度は飛躍的に向上していた。

 

 弾丸の回転を渦潮に見立て、故に”鳴門”。

 

「いえ、やはりあなたの腕ですよ。子市殿」

 

 と、源内。今回、彼女は築城に用いるカラクリの運用主任として随行していた。

 

「いくら鳴門を使ったとしても、私は射程距離は精々一丁そこらと思ってましたから。それを三丁も先の相手に当てるなんて……」

 

 カラクリ技士の賛辞に、深鈴も頷く。軍事に詳しい訳ではないが、未来の狙撃銃でさえも300メートル先のしかも動いている目標に当てるのは相当な名手だと聞いた事がある。それをいくら改良が施されているとは言え火縄銃で、スコープも無しに百発百中。神業を通り越して奇跡とさえ言える腕前だ。

 

 だがそれを受けても子市はどこか自嘲するように、どこか誇らしげにくすりと笑うだけだった。

 

「私は”孫市”になれなかった二番手……だが二番手でもこれぐらいは出来るという事さ。孫市がこの”鳴門”を持てばもっと上手くやる」

 

「……そうか、子市。あなたは雑賀衆だったわね」

 

「元、な」

 

 紀伊の傭兵集団「雑賀衆」。その頭領の名を雑賀孫市。

 

 正史では当時の日本最大最強と呼ばれた鉄砲集団で、孫市は本願寺に与して織田信長を最も苦しめた武将の一人として有名である。だが歴史上では孫市が活躍した期間には開きがあり、そこから雑賀衆の長は代々「孫市」を襲名していたという説がある。

 

 そしてその説が、少なくともこの戦国時代では正しかった。子市は、孫市候補生の一人だったのだ。ならばあの鉄砲の業にも納得というものだ。

 

「子市」

 

「ん?」

 

「戦場で武器の差はつまり実力の差……今の戦は一騎打ちで技比べするような源平時代のものと違って、軍団と軍団の戦い。そして私達も一つの軍団……分かるわね?」

 

 抽象的な深鈴の物言いだが、しかしこの鉄砲撃ちにはちゃんと伝わったらしい。微笑と共に「感謝する」と雇い主に返して、狙撃を続けていく。

 

 一方美濃勢も、いつまでも川の中で尻込みしてはいられなかった。

 

「退くな!! 逃げてくる者はワシが斬り捨てる!! 貴様等の生ける道は前にしか開かれぬと知れ!!」

 

 本陣に陣取る義龍は槍を水車のように振り回し、鬼の形相で自軍を駆り立てる。これを受けた兵達に、最早後退はありえなかった。背後にあるのは100パーセント確実な死。ならば万に一つの可能性であろうとも、前進して生きる可能性に懸ける他は無かった。

 

 子市の狙撃は次々に侍大将を、侍大将を撃ち尽くしたと見れば今度は足軽大将を倒していくが、それにも怯まずに遂に義龍軍の半数が渡川して墨俣城に向かってくる。だがこの瞬間こそ、半兵衛の狙っていた機。

 

「鉄砲隊!! 撃て!!」

 

 白羽扇を振り、号令を掛ける。僅かな時間を置いて無数の銃声が響き、銃弾の雨が義龍軍に襲い掛かった。バタバタと倒れていく足軽達。更に、

 

「弓隊、川に残った兵を狙い撃て!!」

 

 今度はひゅんひゅんという風切り音が鳴って、矢が雨の如く未だ渡川中の兵へと降り注ぐ。水に足を取られて動きが鈍っていた事もあり、かわす事もままならず足軽達は倒れ、流されていく。

 

 この連続攻撃によって、背水ならぬ背義龍の覚悟で挑む美濃勢の勢いが、僅かに削がれた。そしてその僅かな変化を、天才軍師は見逃さない。

 

「光秀さん、お願いします!!」

 

「合点承知!! 皆、私に付いて来やがれです!!」

 

 すかさず城門を開き、戦闘に参加する兵の半数である二千を引き連れた光秀が、敵陣へと切り込んだ。

 

 ただでさえ将を数多く失って算を乱し、鉄砲と弓で足を止められていた所に、ダメ押しの如く襲い掛かられたのである。義龍軍は一方的に押しまくられ、斬られる者は勿論、川に落ちて溺れ死ぬ者が続出した。

 

 だが光秀率いる部隊は深入りせず、敵を蹴散らすだけ蹴散らした後は素早く城内に引き上げてしまった。この引き際の見極めは、半兵衛だけではなく光秀の実力が占める部分も大きい。今日の戦いはまだまだ続く。ここで消耗しすぎる訳には行かないと、心得ていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 木曽川上流。

 

 深鈴率いる築城部隊が濁流へと漕ぎ出した時、イカダには乗り込まずにそこに残った者達は、下流・墨俣の方向から断続的に響いてきた銃声を聞くとにわかに色めき立った。

 

「とうとう始まりましたね」

 

「………」

 

 部下の一人の言葉に段蔵はいつも通り無言で頷き、そしてやはりいつも通り懐から紙を取り出す。そこに書かれていた文面は、

 

<では、指図通りに>

 

 それを見た部下達はすぐ傍に置かれていた胸元ぐらいまでの大きさがある壺を一つにつき二人掛かりで持ち上げ、中身を次々川に流していく。

 

 独特の刺激臭が鼻を付き、水面に黒い色が広がっていく。油だ。

 

 

 

 

 

 

 

「……来た」

 

 城の裏手の守りを任されていた犬千代は、川を遡ってやって来る無数の船の姿を捉えた。勝家が失敗した時と同じ、義龍軍の別働隊だ。

 

 それ以上の激流を下ってきた自分達が言えた事ではないが、昨日までの雨で川は滝のようになっている。そこに船を漕ぎ出すとは……余程、城を建てられたのが頭に来たらしい。

 

「じゃあ、手筈通りやって」

 

 朱槍を振って合図すると、足軽達は手にした松明を次々川に投げ込んでいく。本来ならばそれらは水に入って消えるだけだったろうが、今回は違った。

 

 突然、川面から火が上がる。段蔵達が上流で流した油が、下流であるこちらに流れてきていたのだ。そして炎は、流れに乗って下流にいる美濃勢へと襲い掛かった。

 

「わああっ、か、川が燃えるぞ」

 

「消せ、消せ!!」

 

 侍大将ががなり立てるが、しかし川が燃えているのである。どうやって消すのかと、足軽達は混乱の渦中に叩き込まれた。

 

「次!! 火船!!」

 

 犬千代の指示を受け、今度はあらかじめ用意していた船を、たっぷりと積んでおいた干し草に火を付けて流れの中に放す。漕ぎ手は必要無い。こちらが上流だから、流れに乗って下流の美濃勢へと船は突き進んでいく。

 

 果たして燃え盛る無人船は美濃勢の船とぶつかり、衝撃によって兵は川に投げ出され、鎧の重さ故泳ぐ事も叶わずに沈んでいく。火船も転覆して火が水面を漂う油に燃え移り、川一面を一層激しく燃え盛った炎が包み込んだ。

 

 墨俣城の危険性を正しく評価し、激流であろうと川から襲う部隊を出撃させた義龍の判断は間違っていなかったが、しかし今回はそれが裏目に出た。激流故に美濃勢は船を上手く操れず、ある者は船の衝突に巻き込まれ、ある者は自ら川へと飛び込み、ある者は船上で火だるまになり、流されていく。

 

「……ここはもう良い。別の所を助けに行く」

 

 犬千代は川からの攻め手が壊滅したのを見て取ると、手勢を率いて動き出した。これから、恐らくは時間を置いて次々に美濃衆が襲ってくる。彼等を迎え撃つにはこちらも配置を次々に変え、一つの手勢を効率良く相手せねばならない。そうして次の部隊がやって来る前に今来た部隊を撃退していけば、結果的に義龍軍は戦力の逐次投入という最低の戦術を執っているのと同じになる。

 

「急いで!!」

 

 言わばこの戦いは、美濃勢の集結が早いか、その前に尾張勢が集まってきた美濃勢を各個に倒していくのが早いか。スピードの戦いだとも言えた。

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか太陽は空高く上り、時刻は昼八つ(14時頃)となっていた。

 

 深鈴率いる尾張勢は半兵衛の的確な指示により防衛線をフレキシブルに変化させ、見事に攻撃を凌いでいたが、朝から戦い通しで流石に疲れが見えてきた。

 

 義龍軍も条件は同じだが、しかし義龍はその怒気と執念で兵に疲れを忘れさせていた。

 

 それに、深鈴達は矢や弾薬も残り少なくなってきている。が、だからと言って出し惜しみするという選択肢は有り得ない。もし攻撃が控え目となれば義龍とてそれを悟るだろう。そうなればここが勝機と、最後の力を振り絞って攻め込んでくるは必定。

 

「ここが踏ん張り所ですね……!!」

 

 額に玉の汗を浮かべた半兵衛が呟く。

 

 美濃勢が義龍の恐怖によって疲れを補っているなら、尾張勢は半兵衛の指揮で補っている。後はどちらが先に息切れするか……

 

 その時だった。

 

「また新手が来た」

 

 物見櫓に、犬千代と光秀が上がってくる。懐から取り出した望遠鏡で今度は何者の軍かと偵察していた光秀は、先頭を走ってくる屈強な武者を見て「げっ」と顔を引き攣らせた。

 

「あ、あれは大沢正秀(おおさわまさひで)殿!!」

 

 大沢正秀、またの名を大沢次郎左衛門(おおさわじろざえもん)。美濃と尾張の国境近くにある鵜沼城の城主であり、「鵜沼の虎」の異名で美濃三人衆と並び称されるほどの猛将である。ここへ来てあんな強敵が出て来るとは……

 

「先輩、ここは撤退も視野に……」

 

 光秀がそう言い掛けた時だった。戦場中に、敵にも味方にも衝撃が走る。

 

 大沢正秀率いる一団は、墨俣城とそこに立て籠もる信奈軍ではなく、攻め手である義龍軍に襲い掛かったのである。

 

 美濃勢は、まさか援軍と思っていた彼等に攻撃を受けるとは思わず、大混乱に陥った。

 

「銀鏡殿!! この大沢正秀、先の約定に従い、貴殿にお味方致す!!」

 

 陣頭に立つ彼がまさしく虎のような大声でそう叫んだのを聞いて、思わぬ援軍の到来に尾張勢の士気は高まり、逆に美濃勢は、

 

「織田軍だけでも手こずってるのに大沢殿が敵に!!」

 

「だ、駄目だ、強すぎるみゃあ!!」

 

 と、大混乱が更に大混乱となり、遂に義龍の恫喝じみた鼓舞でも戦線を維持出来なくなってきた。元々、兵が疲弊している所を何とかそれを上回る恐怖で誤魔化していたのである。その分のツケがここへ来て一気に出た形となり、目に見えて動きが鈍くなった。

 

「銀鈴、これは……」

 

「信奈様から命令を受けてから実際に築城に当たるまでの二週間で、私は大沢殿にも調略に行っていたのよ。半兵衛の時と同じに」

 

 五右衛門達に探らせた情報によれば、義龍が美濃の新領主となってから正秀は病気に掛かって鵜沼城を動けないとの事だった。出仕もままならぬという事だから、この病が”余程の重病”と見た深鈴は半兵衛と安藤守就を伴い、彼の元を訪れていたのである。

 

 大沢正秀も、義龍とは上手く行ってなかったのが一つ。それに美濃三人衆の筆頭と「今孔明」とまで呼ばれる天才軍師が力を貸す織田信奈は、あるいはこの乱世を終息させ得る器かも知れぬと見込み、協力を約束。そして今、この戦場へと馳せ参じたのである。

 

 援軍の中には、安藤守就の姿もあった。

 

「稲葉一鉄に氏家卜全!! 織田勢はいたずらに美濃を侵そうとしているに非ず!! この百年続いた乱世を終わらせる為には美濃が不可欠であり、それを大義として戦っておるのじゃ!! もし、織田信奈がただ我欲の為だけに美濃を欲するような輩ならば、どうして半兵衛や道三様、光秀や銀鏡殿といった英傑がその下に集まると言うのか!! そこを良く考えよ!!」

 

 美濃三人衆と呼ばれた彼等は、形勢が不利になったからと言って敵に寝返るような節操無しでは断じてない。だが、叔父である安藤守就は勿論の事、揃って半兵衛の崇拝者である。同時に日の本に生きる一人の人間として、この乱世がいつまで続くのかと憂いていたのも確かだった。彼等はその役目を、半兵衛と彼女(尤も、女性と知ったのはつい最近だが)を使いこなす相応しい主君に求めたのである。

 

 だが、半兵衛は義龍の元を去って織田家中・銀鏡深鈴の下に就いた。義に篤い彼女は、ただ助けられただけで主家を裏切るような者ではあるまい。そこには何か、余程の事情があるのだろうと思っていたが……

 

 成る程。半兵衛を口説き落とした銀鏡深鈴も、安藤守就も、だからこそ……!!

 

「……安藤殿の言う通りかも知れぬ。義龍殿に弓引くのは信義に反するであろうが……」

 

「だが、今日の味方が明日の敵となるようなこの戦国乱世。それを終わらせる事が大義であり、それでこそ信義を世に問えるのかも知れぬ」

 

 決まった。二人はそれぞれの軍勢を反転させ、美濃勢の中へと突進した。

 

「稲葉伊予守一鉄良道、銀鏡殿にお味方致す!!」

 

「氏家卜全直元も、お味方致す!!」

 

 ただでさえ戦線が崩壊しかけていた所に、宿将二人の離反。これを受けて美濃勢の士気は完全に喪失。背後の義龍の恐怖も忘れ、めいめい勝手に逃げ出していく。

 

「おのれっ……謀反人共が……!!」

 

 義龍はぎりぎりと奥歯を噛み締め、軍配をへし折ってしまった。親父殿に続き、半兵衛、美濃三人衆、大沢正秀まで……

 

 どいつもこいつも……!!

 

 しかし、ここで感情のままに動いては負けだと、彼の冷静な部分が教える。

 

『ここは退くのだ。半兵衛抜きとは言え稲葉山城は難攻不落。籠城に徹すれば数ヶ月は持つ。信奈はこの機会に攻め寄せて来るだろうが、いつまでも尾張を留守には出来ぬ筈……そうして事態の好転を待つのだ……!!』

 

 ともすれば敵陣に飛び込んで行きそうな内なる衝動を必死に抑えると、義龍は残った兵を纏めて引き上げて行った。

 

 深鈴達は追い打ちを掛ける事はしなかった。彼女達もかなり消耗している。色々と策を打ってはいたが、何か一つでも歯車が違っていれば危なかった。やはり戦は皆が死に物狂いで戦うもの。どこで何が起きるか分からない。深鈴は今回の戦いで、それが理屈ではなく身に染みて分かった気がした。

 

「勝った……ですか?」

 

「うん、勝った」

 

 血と汗と泥まみれになって、力を使い果たした光秀と犬千代が力無くそう呟いた。

 

「これで……築城は成りますね」

 

 半兵衛は全身の力が抜けたように、ぺたんと床几の上に座り込んでしまった。

 

「銀鏡氏、信奈殿は築城の報を聞くや援軍を率いて小牧山を出立、明日には到着するでごじゃる!!」

 

「親分が噛んだ!!」

 

「ごじゃるが出た!!」

 

「疲れが吹っ飛んだぜ!!」

 

 戻ってきた五右衛門がもたらした朗報を受け、野武士達と川並衆が鬨の声を上げる。

 

「皆……ご苦労でした」

 

 深鈴は何とかそう言うと、彼女も緊張の糸が切れてその場にぶっ倒れた。すると、ぐきゅるると腹の虫が鳴き、周囲から一斉に笑い声が上がる。仰向けになって見た空は、既にオレンジ色に染まっていた。

 



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第17話 美濃平定

 

 尾張からの援軍が墨俣城に入ったのは、やっと未明を過ぎたぐらいの早朝だった。この到着の早さには深鈴、犬千代、光秀といった面々は勿論の事、野武士達の一人に至るまで等しく驚き、してやられたという顔になった。

 

 皆、いくら信奈が本拠地を小牧山に移して美濃への距離が近付いたとは言え、到着はてっきり昼頃になるとばかり思っていた。それがここまで早く着くという事は、夜を徹して行軍してきたとしか考えられない。これは信奈がこの墨俣への築城をどれほど戦略的に重く見ているかの証でもあった。

 

 白馬に跨り、紅い外套を翻して南蛮風の甲冑を身に着けた姫大名の麗容を目の当たりにした野武士達はまず言葉を失い、何拍か遅れて歓声を上げた。姿もそうだが、雰囲気がうつけ姫のそれではない。その凛々しさ。この姫が戦場に立つ限り自分達に負けは無い。そんな幻想を抱かせるに十分な神々しささえ、今の信奈は纏っていた。

 

 彼女に続き、勝家や長秀といった織田家のおもだった武将達もそれぞれ入城してくる。

 

「お待ちしておりました、信奈様……お早いお着き、恐縮であります」

 

「堅苦しい挨拶は良いわ。立ちなさい、銀鈴」

 

 膝を付いて自分を迎えた深鈴に信奈はそう言って返すと、自分もさっと下馬した。深鈴のすぐ後ろに居た犬千代や光秀も、その言葉を受けて立ち上がる。

 

 そうした所で、昨日の掘っ立て小屋のような状態からは見違えるようになったこの城を、信奈達は見渡す。

 

「しかし、多少時間が掛かったとは言え、本当にこの墨俣に城を築くなんてね……」

 

「それに、これだけの兵を集めるなんて……」

 

「期待以上の戦果ですね……流石は今信陵君。百二十点です」

 

 他の者達がどれだけ多くの兵や人足を投入しても蹴散らされ、多数の死者を出して持ち込んだ木材を奪われるだけだったのに、深鈴は一人の兵も使わないどころか逆に五千の野武士達を兵として集めて織田家への仕官話を取り付け、大幅な戦力増強まで行ったのである。信奈達の絶賛も頷けるものがあった。

 

「いえ……私だけの力ではなく、十兵衛殿や犬千代、五右衛門や川並衆の協力や、この三寸の舌先を信じて命を懸けてくれた野武士の皆があってこそです」

 

 と、深鈴。これは彼女の本心だった。彼女は自分自身が無力である事は百も承知。だからその非力を補う為に商売を初めて金を手にし、多くの食客を集めた。今回の墨俣築城に限らず、今まで立ててきた手柄は周りの者の力添えがあってこそだ。

 

「ですから信奈様、失礼かとは存じますが……皆への十分な報酬と、野武士達には仕官話に間違いは無いと、この場で確約していただけないでしょうか」

 

「ん、良いわよ。勿論銀鈴、あんたもだけど。十兵衛に犬千代。稲葉山城攻略、ひいては美濃制圧が成った暁には、相応の恩賞を約束するわ。そして……」

 

 信奈はずらりと揃った野武士達を見渡す。

 

「あんた達、私の父が昔、御所に四千貫を奉じた話は知ってるわね? それはこの乱世を天朝の御世に返そうという志があったからよ。私もまた、その志を継いでる。この美濃を平定し、それを足掛かりに百年続いたこの乱世を終わらせる。民が幸せに暮らせる国を作る、それが私の目的よ!! そう聞いたらあんた達、私が頼まずとも協力せずには居られないでしょう!? 野武士の主君は朝廷の他に無いと言うけど、口先ばかりの輩を私は野武士とは認めないわ!! それはただの野盗、ごろつきの類よ、分かった? 分かったらこれからは、織田の家臣としてその力を使いなさい!!」

 

 熱田神宮の戦勝祈願を思い出させる火の玉のような信奈たった一人の迫力によって、五千の野武士達は圧倒されて一人も声を出せずにいたが、ややあって、信奈のすぐ前に立っていた一人が、傅いて臣下の礼を取る。

 

 それに続くようにして一人、また一人と膝を付いていき、やがてこの場の全員が彼女への臣従を示した。この時を境に彼等はもう野武士ではなくなり、織田家に仕える歴とした侍へと生まれ変わったのだ。

 

 これを見た勝家はあんぐりと口を開いたまま呆然としていて、長秀は苦笑しつつ「元気は十二分、百点です」と採点した。深鈴と光秀もまた、苦笑と共に顔を見合わせた。

 

「ところで……今信陵君って、何?」

 

 長秀の袖を引いて、犬千代がそう尋ねる。

 

「あら、ご存じなかったですか? 最近の尾張では、深鈴殿がそう呼ばれています。半兵衛殿の知略が三国時代の諸葛亮孔明の如しなら、人の才を見抜き、客人を大切にする深鈴殿は春秋戦国の信陵君の如しであると」

 

「……誰?」

 

 犬千代は首を傾げる。彼女の疑問には、半兵衛が答えた。

 

「唐国での春秋戦国時代、魏王の腹違いの弟で戦国四公子の一人だった人物ですね。身分を問わず人を大切にしたので人望があり、食客は三千人を数えたそうです」

 

「大勢の食客を抱えた人物なら他にも鶏鳴狗盗の孟嘗君や、秦の相国を務めた呂不韋が居るですが……信陵君は各国に優れた情報網を持っていたという逸話もあるですからね。同じように諜報部隊を持っている先輩のあだ名には、相応しいかもです」

 

 光秀が補足する。一方で深鈴は「私には分不相応な名前ですね」と照れた様子だ。信陵君と言えば、当時強国である秦は常々魏を侵略しようと狙っていたが、彼が居たからこそ十数年間手を出せなかったと言われるほどの人物だ。それほどの大物に、自分が比べられるとは……気恥ずかしくもあり、恐れ多くもある。

 

「あんたの実力は、私だけじゃなくここに居る皆が認めてるわ。それに噂は噂、あんたはあんたでしょ? 気にしすぎない事ね。私は魏王と違って、あんたを恐れはしないし」

 

 信奈がそう言って話を締め括り、城内で軍議を行う運びとなった。

 

 

 

 

 

 

 

「墨俣に築城成るの報を受けて、美濃の国人衆は続々織田に寝返ってきています。今や稲葉山城は孤立無援。落とすにはまたとない好機かと……」

 

「長秀の言う通りです、姫様。今こそ全軍で攻め上り、稲葉山城を落とすべきです!!」

 

 一際大きな声でそう言うのは勝家だ。確かに、今が攻め時である事には議論の余地は無いが、しかし正面からぶつかっていくのは考えものだ。

 

「織田の兵は野戦に強いが、城攻めは不得手と聞き及んでいます。ならばここは私の出番。山間における浅井兵の強さを、ご覧に入れましょう」

 

 発言したのはこの席では完全に浮いてしまっている、浅井長政だ。この近江の若大名は、軍議が開かれるか開かれないかというタイミングで「夫として信奈様に加勢いたします」と、手勢を率いてやって来たのである。とは言え、今回は腹の底にある本音など知れたものだ。

 

 墨俣築城、そして信奈出陣による稲葉山城攻略の報を受け、このまま織田軍の独力で美濃が制圧されては、婚姻話は尾張側に結婚によるうま味が少なくなって破談、同盟を結ぶにしても対等な関係が良い所で自分の立場がなくなると見て、押っ取り刀で駆け付けてきたに違いない。

 

『何としてもコイツには今回、只の無駄飯食らいで居てもらいたいな』

 

 という空気が満座に充満した。

 

 ……とは言え、長政の意見にも一理ある。孤立無援・寡兵とは言え稲葉山城は天下の名城であり、義龍も城を枕に討ち死にの覚悟である。真正面から攻めたのでは「窮鼠猫を噛む」の例え通り、尾張勢にもかなりの被害が出る事を覚悟せねばなるまい。それでも、落とせる事は落とせるだろうが、この戦は既に勝った戦。ならば出来る限り犠牲は抑えたい所である。

 

「半兵衛、あんたには何か良い城攻めの策は無いの?」

 

 信奈が尋ねるが、しかし流石の天才軍師も、今回は難しい顔だ。

 

「向こうから出て来ない敵には、策の仕掛けようがありません。城攻めよりも、何とか義龍軍を城の外へ誘き出す手を考えるべきかと」

 

 今孔明と呼ばれる彼女だが、奇しくもこの状況はかつての諸葛亮孔明が陥った状況に似ている。

 

 孔明の行った幾度かの北伐にあって、魏の司馬懿仲達はまともに戦っては敵わないと見て、蜀軍の連日の挑発を受けても陣からは出ずに守りに徹して持久戦に持ち込み、結果として蜀の侵攻から魏を守り通したという。攻撃側にとって持久戦は不利。食糧の補給が追い付かなくなるとか、他国が手薄な本国を襲うとか色々と問題が生じてくる。

 

「兵糧攻めを行うにしても、何ヶ月もかかってしまうわね」

 

 むすっとした顔で渋々ながら頷く信奈。いくら東は元康が頑張っているからと言ってそんな長期間尾張を空にしている訳にも行かないし、しかも秋になれば足軽兵には田畑の刈り取りの仕事がある。そうなれば陣払いして尾張に帰還せねばならない。義龍もただ意地になっての徹底抗戦ではなく、そこまで計算しての籠城であろう。

 

「ではやはり、力尽くで攻め破りますか?」

 

 と、勝家。しかし信奈は「それには及ばないわ」と、彼女を制した。

 

「今の半兵衛の言葉を聞いたでしょう? 要は、義龍を城から引きずり出せば良いのよ」

 

「確かにそうですが……姫様に、何か妙案が?」

 

 尋ねる長秀に信奈は頷き、

 

「銀鈴、あなたお金持ってる?」

 

「はっ?」

 

「お金よ、お金」

 

 そう言われて、深鈴は慌てて懐から切り餅四つ、つまり百両を差し出した。「少し借りておくわね」と受け取る信奈。この程度を惜しいと思う尾張一の金持ちではないが、しかし自分の懐から出すからには使途は聞いておきたい所である。尋ねられた彼女の主は、

 

「これで稲葉山城から義龍を引きずり出すのよ」

 

 そう答えたのみだった。

 

 結局、この日の軍議は稲葉山城を隙間無く包囲する事が決定されただけでお開きとなった。

 

 

 

 

 

 

 

「何だと!?」

 

 翌朝、報告を受けた義龍の怒声が城中に響き渡った。「もう一度申してみよ」と言われ、報告に来た斎藤飛騨守は主に喰い殺されるのではという危惧を真剣に覚えつつ、声を震わせて復唱する。

 

「は……はい、それが……兵が五百名ほど姿を消しましてございます。恐らくは逃げ出したのかと……」

 

「ぬうっ……」

 

 義龍は歯噛みする。恐れていた事態が、遂に起こってしまった。

 

 そもそも半兵衛が寝返ったという報が入った時点で、

 

「俺達はこれから今孔明と戦うのか」

 

「半兵衛殿の指揮ではとても敵わにゃあ」

 

 と、厭戦気分が蔓延していたのだ。次には墨俣に城を建てられて、今はダメ押しとばかりに城を包囲されている。兵士達が敗色濃厚と見て逃げ出すのも、無理からぬ所であった。

 

 国人衆も次々信奈に付き、援軍が来る当ても無い。この時点で義龍軍は九割方”詰み”であると言える。

 

 籠城とはそもそも、援軍が駆け付けてくる事を前提とした戦術である。古来より援軍無しの籠城戦で勝った試しは無い。守ってばかりではどんな鉄壁の防御もいつかは崩される。支援の無い籠城は、落城を先送りにする意味しかないのだ。

 

 それでも秋の刈り入れ時まで何とか頑張っていれば尾張勢は撤退するだろうと義龍は見ていたが、しかし兵がこの有様ではそれまで持ち堪える事も不可能だろう。

 

「致し方あるまい。打って出るぞ」

 

「なっ……?」

 

 義龍の決断を受け、飛騨守は主の正気を疑うような愕然とした表情となった。

 

「殿、今何と?」

 

「打って出ると言ったのだ。かくなる上は信奈と最後の決戦だ!!」

 

 今日五百の逃亡兵が出たという事は、明日にはそれ以上の兵が逃げ出すと見なければならない。この調子で兵が次々逃げていったら、戦力低下もさる事ながらただでさえ低い士気が更に低下し、難攻不落を誇る稲葉山城とていとも容易く落とされてしまうだろう。

 

 残る勝機があるとすれば、こちらから打って出て信奈の首を挙げる事、それ一つ。

 

 成功率はまさしく万に一つ、あるいはそれ以下の賭けだが、今の義龍にはそれ以外に選択肢が無かった。

 

「織田信奈は城の正面に本陣を構えているのだったな」

 

「は、両翼をそれぞれ柴田勝家と丹羽長秀が率いる部隊が固めております」

 

「では我等は本陣へと、まっしぐらに突撃する。狙うは信奈の首、ただ一つだ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、義龍軍は城から出た。いや「出た」という表現は正確ではない。これはまさしく「引きずり出された」と言うべきだった。

 

「陳腐な手だったけど、上手く行ったようね」

 

 開かれた大手門から真っ直ぐこの本陣向けて突撃してくる義龍軍を見て、信奈は自嘲するように笑う。

 

 城兵が逃げ出したのは確かに士気の低下もあったが、それだけではない。信奈が、そうなるように仕向けたのだ。

 

 具体的には、五右衛門や段蔵ら乱波を使った調略である。彼女達に深鈴から受け取った金を持たせて城内に侵入させ、「何人かを連れて城を逃げ出せばこの金をやる」と足軽達にばらまいたのだ。

 

 尾張勢もそうだが、この時代の雑兵は首一つ取っていくらの出稼ぎ兵士である。彼等は究極的には信奈が勝とうが義龍が勝とうがどちらでも良く、命あっての物種であった。しかしこのままでは彼等はいずれ落ちる城と運命を共にするしかない。

 

 そこへ舞い込んだ「命は助かるし、金にもなる」という話。彼等は渡りに船とばかり飛び付いて、仲間を引き連れて城を逃げ出したのだ。

 

 そして、この状況で義龍が未だ信奈に勝とうと考えているならば、彼女の首級を狙って出てくる他は無い。籠城したままでは他の兵士達は、脱走者が出たのなら自分達も、と考えるだろう。

 

 出陣すれば信奈軍の絶対的有利、籠城したままでも兵がどんどん居なくなる。信奈はどちらを選んでも不利にしかならない選択肢を義龍に与えたのである。

 

 彼女自信が陳腐な手と言ったように簡単な策だったが、それが当たった。城から出してしまえば、もうこちらのものだ。

 

「半兵衛、あんたの出番よ」

 

「はい」

 

 半兵衛は墨俣城防衛戦の時と同じく、すぐには迎え撃たなかった。そうしてどんどん近付いてくる義龍軍を見た諸将が「まだ迎え撃たないのか」と不安を抱いた時だった。天才軍師の慧眼が、機を見抜く。

 

「右翼・柴田隊を突入させてください!!」

 

 白羽扇の動きに合わせるように、赤い旗が振られる。

 

「突っ込め!! 敵陣ど真ん中に突っ込んで、敵を分散させろ!!」

 

 その合図を見て、本陣の右に陣取っていた勝家が部隊を率いて突入した。当然、義龍も一隊を迎撃に向かわせる。最後の決戦の火ぶたが、切って落とされた。

 

 両軍入り乱れての戦いとなったが、その中で勝家の働きは一際目立った。愛槍を振り回して美濃勢を当たるを幸い薙ぎ倒していく。彼女の実力が最大に活かされるのは、やはりこうした真っ向勝負であった。しかも今日の勝家は「みんな、今こそ築城失敗の汚名を挽回するんだ!!」と、微妙に間違ってもいるが兎にも角にも気合いの入れ様が違った。まさしく異名の「鬼」を思わせる戦い振りに美濃勢は気圧され、腰が引ける。

 

 更に、それを見た半兵衛が次の手を打った。

 

「次は左翼・丹羽隊を突入させてください!!」

 

 今度は青い旗が、大きく振られた。

 

「我が隊も突撃します!! かかれ!!」

 

 本陣の左に陣取っていた長秀もまた、兵を率いて義龍軍に襲い掛かった。この動きを見て、義龍は指揮を執っているのが半兵衛であると悟り、同時に彼女の狙いも看破した。

 

「半兵衛め……!! 我が軍をズタズタに分断する気か……!!」

 

「殿、どうなされます、引き上げますか?」

 

 飛騨守がそう尋ねてくるが、義龍は「馬鹿者!!」の一言によって切って捨ててしまった。

 

「今更引き上げられるか!! 左から分散されて今また右から突入されているのだぞ!! もう手遅れだわ!!」

 

 仮に後ろを見せて退こうとすれば、それこそ半兵衛の思う壺だ。信奈軍はそれに付け入って、城内に雪崩れ込んでくるだろう。

 

「し、しかし……」

 

「兵の半数を貴様に預ける故、右から来る部隊に当たれ。ワシは残りを率いてこのまま本陣へと突入する!!」

 

 義龍はそう言い捨てると愛馬に鞭打って、再び信奈めがけて突進する。

 

「信奈殿、またしても義龍軍が突っ込んで来ますぞ」

 

 それを見た長政が不安げな声を上げるが、信奈は落ち着いたものである。

 

「飛んで火に入る夏の虫ね……鉄砲隊、弓隊、構えて!! たっぷり引き付けて狙い撃ちにするのよ!!」

 

 常日頃から種子島を担いでいる信奈は、その射程距離を体で知っている。義龍軍が生死を分かつ境界線を越えた瞬間を正確に見て取ると、

 

「よし、今よ!! 鉄砲隊、撃てっ!!」

 

 数百挺の鉄砲が一斉に火を噴き、無慈悲な銃弾によって侍大将も足軽も区別無く、打ち倒されていく。間髪入れず、

 

「次、弓隊!! 放て!!」

 

 辛うじて弾雨から逃れた者達も、幸運は二度も続かなかった。矢の雨が降り終わった時、無傷の者は殆ど居なかった。義龍も左肩に矢を受け、落馬してしまっていた。

 

「よし!! 今度は私達が突っ込む番よ!!」

 

 ひらりと愛馬に飛び乗ると、愛刀を抜き放って切っ先をすぐ手前の義龍軍に向ける。

 

「全軍、突撃!!」

 

 この攻撃が、決め手となった。

 

 総大将である信奈が陣頭指揮を執る事によって士気を最大にまで高めた尾張勢と、三方から攻められている上に元より士気が低下していた美濃勢。元より勝負になどなりようがなかった。

 

 刃を交えたのさえ僅かな時間で、背中を向けて逃げ出す者や武器を捨てて投降する者が続出した。「踏み留まって戦え!!」と義龍が吼えても、もうその声は誰の耳にも届いてはおらず、彼もまた捕らわれてしまった。

 

 この戦いに浅井勢は殆ど参加させてもらえず、信奈軍の見事な戦い振りを見せ付けられ、長政と兵は「敵わぬのでは……」という不安を植え付けられただけで終わってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 かくして稲葉山城攻略は成った。信奈は父の代からの悲願であった美濃制圧を遂に成し遂げたのである。

 

 入城後に行われた論功行賞では、半兵衛・美濃三人衆・大沢長秀の調略、墨俣への築城、五千人の野武士達の仕官斡旋による戦力の大幅増強といった数々の手柄を立てた深鈴が文句無しの勲功第一となった。

 

 信奈は美濃攻略一番手柄の者には恩賞自由の約束をしており、深鈴は褒美として大勢の食客を養う為の大屋敷を受け取っている。今後「銀蜂会」は尾張だけでなく美濃でも商売を行う事となり、より多くの利潤を生み出す事が出来るだろう。そうすれば今よりずっと多くの一芸の士を抱える事が可能となる。その時、彼等を住まわせる場所が無くては話にならない。と、そこまで見越した上でのおねだりだった。

 

 信奈はそれを快諾。他の者は「銀鈴らしいな」と苦笑い。そうして勝家には唐国伝来の由緒正しい茶器(実際は二束三文の安物)や「味噌煮込みうどんの店を城下町に出店する権利」、長秀にはういろう一年分など次々と恩賞が決まっていった。

 

 長政については、信奈は「今は美濃を制圧したばかりで人心の安定に努めねばならない忙しい時期だから」とのらりくらり。婚姻の返事はまたしても先延ばしにされてしまい、すごすごと近江へ引き上げていった。

 

 そして、その夜。

 

 眼下に今は岐阜の町と名を改められた井ノ口の町を一望でき、見上げれば金華山にそびえる岐阜城と改名された名城の威容を仰ぐ事が出来る小高い丘に、深鈴は居た。そこには彼女の他にも、半兵衛と犬千代が集まっていた。

 

 見下ろす町は、他国の軍によって占領されたばかりとは思えないほどに落ち着いていた。信奈が町人に無礼を働いた者は打ち首にすると布告したので兵は乱取りを行わず、また美濃三人衆や大沢正秀といった有力な国人を彼女が抱え込んでいた事も、人心を安堵させるのに一役買っていたのは間違いない。

 

 そこに、光秀がやって来た。

 

「十兵衛殿。どうでした? 道三殿の様子は……」

 

「それが……山頂の草庵でお酒片手に落ち込まれてるです……やはりワシは長良川であの時、討たれておるべきじゃったか、と……」

 

 元小姓という立場からそれとなく道三の様子を見に行った光秀だったが……彼の様子は、深鈴や半兵衛、それに彼女自身が予想した通りであった。

 

 道三をそうさせている原因は、はっきりしている。

 

 岐阜城では論功行賞の前に捕らえた敵将の処置を決める会議も開かれたが、そこで義龍に下された処分は斬首でも切腹でも出家でもなく、放逐。最後まで抵抗して捕まった敵将に対する処置としては、寛大を通り越して愚かとさえ言える異例の沙汰であった。

 

 当然、家臣団や道三からも反対の声が上がった。「今逃せば虎視眈々とそなたを狙うであろう」と。しかしそれらの声を押し切って、信奈は義龍を許した。許された義龍の方も「命ある限り、ワシはお前と戦い続ける。必ず後悔するぞ」と、礼も言わずに立ち去っていった。

 

「信奈様は義父である道三殿に息子殺しの罪を背負わせたくなかったのでしょう……」

 

 確かに、それは一国の君主としては甘い。甘すぎると言われて仕方無い感情であろうが……

 

「それを補うのが、臣下たる私達の務めでしょう? 違う? みんな」

 

 その問いを受け、犬千代、光秀、半兵衛はそれぞれ会心の笑みを浮かべる。

 

「……義龍が姫様に百回刃向かってきても、百一回捕まえる」

 

「同感ですね。七縱七禽。今孔明である半兵衛殿、今信陵君である先輩に続いて、義龍の奴には今孟獲のあだ名を付けてやるですよ」

 

「孫子の兵法曰く、心を攻めるは上策、城を攻めるは下策。義龍さんが負けを認めるまで、私も才知を尽くして何度でもお相手します」

 

 四者とも、意見は素晴らしく一致。そこに、今度は五右衛門がやって来た。

 

「銀鏡氏、申し付け通り野武士達には酒を振る舞い、新しい屋敷ではちゅでにえんきゃいがはじみゃってごじゃる」

 

「ん、ご苦労様」

 

 墨俣築城が成ったのは、無論犬千代や光秀、五右衛門らの力添えもあるが野武士達、否、元野武士達の協力も大きい。その彼等に報いる為、深鈴は信奈より賜った屋敷を開放し、今日は飲み放題の無礼講として尾張より五十石もの酒を運び込んでいた。

 

 今頃新しい屋敷では、尾張でもよくやっていた乱痴気騒ぎが繰り広げられている事だろう。

 

「さて……それで今日はとっておきの酒肴を用意していたのだけど……」

 

 そう言った深鈴がきょろきょろ見回すと、馬の嘶く声とガラガラと何かを引っ張るような音が聞こえてくる。全員がそちらを振り向くと、今度は源内が歩いてきていた。後ろには二頭の馬に牽引させ、布を覆い被せた大荷物が付いて来ている。

 

「遅いわよ、源内」

 

「申し訳ありません、深鈴様……調整に、万全を期したかったので。ですが、遅れた分は完成度の高さで補わせていただきます」

 

 そんなやり取りを交わす二人だったが、蚊帳の外に置かれた五右衛門達は「何を言っているのだ?」と首を捻る。このカラクリ技士は一体、何をしにここに現れたのだ?

 

 そう問われて源内は「よくぞ聞いてくれました」とニンマリ笑うと、馬が牽いていた物に掛かっていた布を、勢い良く取っ払った。

 

「おおっ……」

 

「こ、これは……」

 

「……何?」

 

 布の下から現れたのは、一見しただけではその使途を測りかねる物体だった。

 

 長さは約10メートル近く、穴の大きさは60センチメートルはあろうかという巨大な金属筒を丸太を組み合わせた台座で固定し、移動させる事も可能なように半兵衛の背丈ほどもあろうかという大きさの車輪が取り付けられている。

 

「これが”轟天雷”ですよ、皆さん」

 

 源内は誇らしげに言う。それを聞いても犬千代や光秀、五右衛門は怪訝な表情だったが……しかしいくらかの間を置いて、半兵衛が「あっ」と声を上げた。

 

「何度かその名を聞いて、どこかで耳にした事があると思っていましたが……思い出しました。轟天雷と言えば唐国の……」

 

「ええ、そうね。半兵衛」

 

 遡る事、およそ四百と五十年。

 

 まだ大陸を治めていた国家が宋であった時代。中国には英雄豪傑が集まる自然の大要塞が存在した。その名を梁山泊。そこに集まった百八人の頭領は、やがて朝廷に帰順して外敵や反乱軍を相手に戦い、その悉くに勝利して大宋国を平定したという。

 

 彼等が無敵を誇った理由には、大陸中に名の知れた将軍や仙術の使い手を擁していた事もあるが、抜群の破壊力を持った大砲隊も強さの一因として挙げられる。

 

 大砲を作り、運用出来たのは大宋国広しと言えど唯一人、百八人の好漢の第五十二位・地軸星の凌振。彼の死後は大砲の製造技術も運用法も全て失われてしまい、書物の中に活躍が残るのみとなってしまった。恐らくは彼も源内と同じぐらい、あるいはそれ以上の天才であったに違いない。

 

 源内は深鈴の下で潤沢な研究資金と恵まれた実験環境を得て、僅かな資料からその大砲を再現したのだ。

 

「確かその凌振さんの異名が、轟天雷……」

 

「はあ……つまりは、大筒や石火矢のお化けですか……」

 

 ぽかんとした表情で、光秀が言う。火薬を使った飛び道具は種子島が最も有名だが、何もそれだけではない。数十匁(100グラム前後)の弾丸を発射する大筒や、弾丸の代わりに石を発射する石火矢が知名度としては遥かに低いが存在する。

 

 この大砲も、それを遥かに大きくした物という認識で概ね正しかった。

 

 今回、源内がこれを運んできた理由は……

 

「では深鈴様、既に装弾は済んでいるので、打ち合わせ通りに……」

 

「ん……では源内、頼むわね」

 

「承りました」

 

 源内はそう言うと、着火した松明を大砲の尾部に点火した。ほぼ同時に、

 

「では皆さん、耳を塞いで口を開けてください」

 

「え?」

 

 しかし素早く言われた通りにしたのは深鈴だけで、他の四人は怪訝な顔だ。この反応に苛立って、声を荒げてもう一度、

 

「早く!! 耳を塞ぐ!! 口を開ける!!」

 

「わ、分かったですよ。あー」

 

「「「あー」」」

 

 良く分からないながらも兎に角全員が同じようにしたのを確認すると、源内は大砲に取り付けられていた取っ手を、上から下へと倒す。

 

 瞬間、犬千代達はこの大砲が轟天雷という呼称を持つ理由を理解した。

 

 まさに天より雷が落ちたかと錯覚するような轟音が響く。もし耳を塞いでなかったら、鼓膜が破けていただろう。栓をした手越しに、尚頭に響く程の大音量。

 

 だが、一つ疑問がある。この大砲が突き詰めれば種子島や大筒と同じ飛び道具なら、今の砲撃はどこを狙って、何を撃ったのだ?

 

 その疑問にも、すぐに答えは出た。

 

 ひゅるるるると尾を引くような風切り音の後、再び轟音。

 

 そして空の一点から無数の火が飛び散って、その火は空中に一つの形を描いていく。

 

「これは……!!」

 

「綺麗……!!」

 

「成る程、これは確かに極上の酒肴でござるな」

 

 それは、蛇だった。恐ろしげなものではなく、「鳥獣戯画」に出て来そうな滑稽な顔をした、かわいい蝮。深鈴が花火師の食客に命じて作らせた特注品。恐らくは史上初のキャラクター花火だ。

 

 ぎふのしろとぎふのまちの、どこからも同じものが見えている。

 

 蝮が空に居たのはほんの短い時間だったが、それを見た誰もが忘れないだろう。

 

「さあ、源内!! 玉はまだまだ沢山あるわ!! ちょっと花火の季節には早いかも知れないけど、ジャンジャン打ち上げるわよ!!」

 

「承知しました!! 砲身が焼け爛れるまで、撃ちまくりますよ!!!!」

 

 自慢の発明品を遂に思う存分使える機会が訪れ、若干ハイになっている源内によって、その後も花火は打ち上げられ。

 

 美濃の空を色とりどりの火が彩る、見事な夜は更けていった。

 



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第18話 上洛に向けて

 

「八角伝兵衛殿……特技は風車流の棒術ですか……まぁ、ゆっくりしていってください」

 

「よければ、私の所に来ないですか? 先輩の所と同じぐらいの待遇は保証するですよ」

 

 美濃に建てられた新しい屋敷。その広間で、この日も深鈴は家を訪れる客人の応対に忙しかった。

 

 信奈によって美濃が制圧されてから、尾張と同じく敷かれた楽市楽座や関所の撤廃といった改革によって各国からどんどん人が入ってくるようになり、一芸に秀でてさえいればどんな者でも食客として招くという彼女の屋敷の扉を、我こそはと叩く者が後を絶たなかった。

 

 美濃で銀蜂会が商売を始めてからというもの、深鈴の懐には尾張一国のみの時とは比べ物にならない大金が転がり込むようになっており、褒美として信奈から賜った屋敷の広さもあって、今や彼女が囲っている食客の数は千にも達しようかという勢いだった。

 

 面接を行うのは勿論屋敷の主である深鈴本人と五右衛門、それに犬千代と光秀が加わっている。

 

 犬千代と五右衛門は、面接官と言うよりは深鈴の安全を守る為に列席しているという性格が強い。家を訪れる者は誰でも拒まず食客として受け入れるという彼女の方針の最大の問題点は、本人も自覚してはいるが客人に紛れて諸大名から放たれた乱波が諜報や暗殺を目的として入り込んでくる可能性である。犬千代は刺客から深鈴を守る為、五右衛門は客人の振りをした間者を見抜くのが役目だった。

 

 一方で光秀は、これはと目に留まるような者が客人の中にいた場合には、そのまま自分の食客として引き抜こうと考えてこの場にいた。

 

 織田家臣団入りして信奈から過分なまでの禄をもらっている彼女であるが、直属の家来と言えるのは今は鉄砲隊五十名ばかり。今後の出世の為にも、優秀な人材は是非手元に置いておきたい。優れた人物を使いこなす事が時として大局すら変化させる事は、深鈴の例を見ても明らかである。二番煎じのようで良い気はしないが、しかしそれは非難されるべきものではなく寧ろ逆に、優れた手段だからこそ真似するのだと光秀は自分を納得させる。

 

「では、伝兵衛殿は十兵衛殿の屋敷に逗留なされると良いでしょう」

 

 と、たった今面接していた客人は光秀が預かる事となった。

 

 最近、このようなやり取りは連日のように繰り返されている。深鈴達がここまで大勢の人材を急激に集めるのには、理由があった。

 

 信奈が美濃を制圧し、天下への第一の扉を開いたのと時を前後して、京では一大政変が起こっていた。

 

 時の将軍・足利義輝が畿内に勢力を広げる松永久秀と三好三人衆の軍勢に襲われ、「他日を期す」と義昭姫ら妹姫達を連れて大陸の明国へと亡命したのだ。この為、室町幕府の将軍職を代々務めていた足利家は事実上断絶。関東公方を務める足利分家の一族も北条家の台頭ですっかり落ちぶれてしまい、将軍家のなり手が見付からず……これでは日の本の戦乱は未来永劫続くのでないかと誰もが危惧する事態となっていた。

 

 それ以上に、信奈にとってこれは一大事だった。

 

「もー、最悪!! 将軍を奉じて上洛する計画が台無しじゃない!!」

 

 一方で深鈴としても、勿論顔や態度には出さなかったがこれは衝撃の事態と言って良かった。

 

 足利義輝は逃げられずに三十才の若さで自刃して果て、更に三好三人衆と松永弾正は仏門に入っている義輝の弟、覚慶(義昭の法名)と周暠の命をも狙い、周暠は殺されてしまうが覚慶は命からがら逃げ出して南近江の六角承禎の元へと身を寄せたが、六角が三好・松永と通じた為に今度は朝倉家へと逃げ込む。これが彼女の知っている歴史の流れだったのだが……

 

『私が色々動いたせいで変化が生じたのか……それとも、何もせずともこの世界ではこうなる流れだったのか……?』

 

 いずれにしてもこのままでは織田家が上洛する大義名分が無くなってしまう所だったが……そこで、格式事に詳しい光秀が妙案を打ち出した。

 

「織田家でとっ捕まえている今川義元は足利の血を引き、将軍家を継ぐ資格を持っていやがるです。今川義元を次期将軍に担いで、上洛すりゃあ良いんです」

 

 昔から「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われており、足利家は先に述べたような有様で吉良家は今川家によって滅ぼされている現状、残っているのは義元一人。

 

 信奈としては戦に負けた姫大名は助命の代わりに髪を下ろすという習わしなどどこ吹く風で、駿河に居た時と同じで豪華な十二単を纏って毎日毎晩、昨日はお茶、今日は連歌と遊興三昧の暮らしを続けている「駿河の金食い虫姫」は気に喰わないが(ちなみにその費用は助命を嘆願した立場上、全て深鈴が負担)、

 

「今川義元将軍を擁立して、京を荒らす不忠の松永と三好一党を成敗するという名目で上洛すれば武田や上杉も迂闊には手出し出来ないわね」

 

 と、光秀の案を採用する事にした。

 

 こうして信奈が近日中の上洛を決めたので、深鈴達は今後は優れた食客が一人でも多く必要になるであろうと人材発掘をより精力的に行っていた。

 

「ふう……」

 

 すぐ傍の皿に置かれた菓子を囓りながら、深鈴はやれやれと溜息一つ。光秀もその一枚に手を伸ばし、犬千代も「もぐもぐ」と食べて、五右衛門もぬっと手を伸ばしてその菓子を取っていく。

 

 その菓子は『歩帝都秩布酢』といって、煮込みおでんと同じく深鈴が料理人の食客に作らせた創作料理だ。南蛮渡来の作物である馬鈴薯(ばれいしょ)を紙の如く薄く切り、箸が使えない程に油でバリバリに揚げる。そこに塩を振り掛けて食べるとその味たるや麻薬的で、最初の一枚を食べたが最後、もう一枚、もう一枚と食べたくなり……試食した者達からも大好評であった。深鈴は近々調理法を確立して、銀蜂会の目玉商品として売り出そうかなどと考えている。

 

 来客の波も途絶えた所で一息入れる一同。ずずーっと茶をすすって喉を潤した所で、

 

「しかし十兵衛殿、義元殿を将軍に担ぐというのは確かに名案でしたが……私は大変だったんですよ……」

 

 ふと、深鈴の口からそんな愚痴が零れた。

 

 

 

 

 

 

 

 義元を将軍に担ぎ上げる事が決まったその日の晩。どたどたと騒がしく廊下を駆けてくる足音に深鈴が何事かと寝室の襖を開けると、

 

「銀鈴さーん!!」

 

 涙目になった義元が元康を伴って飛び込んできた。これには深鈴も面食らったが、まずは落ち着かせると話を聞く事にする。

 

 義元は尾張にいた時から「いつまでも城の中では息が詰まりますわ」と、命を助けてもらった縁からか深鈴の屋敷に遊びに来る事が度々あり、深鈴も今は人質とは言え駿遠三の太守だった一廉の人物としてそれなりには敬意を持って接していたので、二人の仲はまずまず良好と言って良かった。

 

 取り敢えず一番茶を出して接待すると、義元はいかにも芝居がかった仕草で「よよよ……」と、袖で涙を拭い、せつせつと話し始めた。

 

「寛大な私は、将軍になった暁には管領でも副将軍でも信奈さんには好きな位を与えようと言ったのですが……そしたら信奈さんは無体にも、このようなものを……」

 

 ちらっと義元に目線で合図されて、元康が懐から取り出した紙切れを深鈴に渡す。「拝見いたします」とそれに目を通していくと……

 

「第一条・あんたの将軍職なんてただのお飾りなんだから、御内書にはいちいちこの信奈様の副状を付ける事……第二条・天下人はこの信奈様よ、私の一任で誰彼無く成敗するからね!! あんたも逆らったら成敗よ!! ……第三条……」

 

 そこにはこの調子で第五条まで、信奈の直筆で傍若無人な内容が記されていた。深鈴は「信奈様らしいと言うか……」と、苦笑いだ。

 

「明日の将軍様に向かって、何と無礼な……!! 何とかして下さいまし!!」

 

「さっきからずっとこの調子なんです~。何か良い知恵出して下さい~」

 

 と、義元と元康。しかしこれには深鈴も困り顔を見せた。

 

 義元の立場を見れば戦に負けたのに出家もせずに贅沢三昧の暮らしを続けていられるだけでも破格の待遇である。そこにお飾りとは言え将軍職に就ける機会に恵まれるのである。これ以上はちと望み過ぎだとも言えるし、深鈴とて織田家の家臣という立場上、主の決定に口を差し挟む事は出来ない。

 

 だが、心情的には彼女の気持ちも分かる。仮にも征夷大将軍となって今川幕府を開くのだ。それが信奈の副書も無ければ手紙も出せないとはどういう事だと文句の一つも言いたくなるだろう。

 

 とは言え信奈としては「余計な考えを起こさぬように」という目論見もあるだろうし、妙な仏心を出して結果寝首を掻かれるような事になっては後悔してもし切れない。降将である義元を実質的な権力から切り離しておくのは当然の措置と言えるだろう。

 

 そういった点を踏まえた上での妥協案としては……

 

「では、義元殿が何か信奈様の役に立つ働きなどされてはいかがでしょう」

 

「私が……ですか?」

 

「はい、そうやって赤心を示せば信奈様だって鬼ではありません。すぐには無理でも、その内に便宜を図ってくれるようになるのでは……」

 

「それは良い考えです~。吉姉様は誰の提案であろうと良い考えは使う度量のあるお方ですから~」

 

 笑顔の元康がぽんと手を叩いて、深鈴の案に賛成票を投じる。しかし腹黒と言われる彼女は深鈴が「必ず信奈様が待遇を改善してくれます」など、はっきりした事は一言も口にしていないのに気付いていた。

 

 こう言っておいて義元が何の案も出せなければお飾り将軍に留めておく口実が出来るし、良い案を出せたら出せたで、第四条の「甲高い笑い声はやめてよね」とか第五条の「慈悲深い信奈様を母とも姉とも敬い云々」のくだり辺りを廃止すれば良いだけだ。失うものは皆無に等しく、手柄だけは信奈のものになる。

 

 深鈴としては勿論そういう計算もあったが、しかし完全に非情に徹するという訳でもなく、何の功も無い相手の待遇を改善しろなどとは流石に進言出来ないので、まずは手柄を立てさせてから……という風に順序に沿っての考えだった。

 

 取り敢えずそうして妥協案が出たのだが、義元は難しい顔のままだ。

 

「手柄ですか……」

 

「別にそこまで難しい話でもないでしょう? 義元殿は大名時代には積極的領地拡大や武田・北条との三国同盟締結、今川仮名目録の制定による領地経営とかで軍事・外交・内政全て上手くやっておられたではないですか。その才能を以てすれば妙案の一つや二つは……」

 

「……実は大名だった頃は、難しい事は全て太原崇孚(たいげんそうふ)に任せてましたの」

 

「……あ、そう……」

 

「ですが雪斎禅師(せっさいぜんじ)は先年の秋、武田・上杉の仲裁に行って、その成果を義元さんに報告中、急に体調を崩して倒れられてしまい、そのままお亡くなりに……」

 

「川中島で両軍睨み合ったまま二百日が過ぎて、武田側が旭山城取り壊しの一条を呑んで、後は現状のまま双方退く事を決めた、あれですか……」

 

 深鈴はその頃にはまだ居なかったが、歴史知識を活かして二人に話を合わせておく。

 

 怪僧・太原崇孚は僧でありながら義元の右腕として軍師を務めていた重臣であり、現代では「もし彼が生きていれば桶狭間での敗戦は無かった」「今川の衰退は彼の死を切っ掛けで始まった」と評されるような、中国で言うと曹操にとっての郭嘉、梁山泊にとっての公孫勝・一清道人的ポジションの人物である。

 

 深鈴はもし彼が生きていたら……と想像して、思わず背中に冷や汗が伝うのを感じた。その辺りは自分が知る正史の通りで、命拾いした。何かが違っていればと考えると、ゾッとする。

 

 結局その日は「まぁ、機会はその内巡ってくるでしょう。将軍になろうという人がそのぐらいの我慢が出来なくてどうしますか」と、何とか元康と二人掛かりで義元をなだめて、お帰り願う次第となった。

 

 

 

 

 

 

 

「……そんな事がありまして……」

 

「……銀鈴、元気出す」

 

「まぁ、義元殿もその内諦めるでござろう」

 

 なだめるようにぽんぽんと肩を叩く犬千代と五右衛門。一方で光秀は、

 

「信奈様に助命を乞うたのは先輩ですからね。それぐらいは仕方無いと諦めるです。大体、源氏の血を引く将軍候補なら他にも沢山居たのによりによってあんなわがまま姫を……」

 

 そう、呆れたような表情で正論を並べてくる。深鈴としては桶狭間で丸腰・孤立無援・命乞いと三拍子揃ってまさに王手詰み(チェックメイト)状態となった彼女を殺すのは忍びないと思っての助命嘆願だったが、それがここへ来ておかしな事になってきた。

 

 果たして、最後には吉と出るのか凶と出るのか……

 

 そんな風に話していると係の者に連れられ、次の客人がやって来た。四人とも居住まいを正して出迎える。

 

「ようこそいらっしゃいました」

 

 ぺこり、と頭を下げる深鈴。倣うように他の三名と、客人の方も一礼する。

 

「さて、我が家を訪れる方は誰も拒みませんが、あなた様は何か、人より自慢出来る特技がおありでしょうか?」

 

「はい、私は奥飛騨の出身であり、栃餅作りには自信があります」

 

「ほう、栃餅を」

 

 成る程、と笑みと共に頷く深鈴とは対照的に五右衛門と犬千代はあからさまに表情を曇らせて、光秀に至っては「げげっ」とでも言いそうな顔になった。この反応の差は、深鈴が未来人である事が関係している。

 

 深鈴の居た時代で栃餅と言えば灰汁を抜いた物が当たり前なのだが、この時代では灰汁抜きされていない物が大多数なのである。その為、栃餅は世間一般的には「不味い餅」であり、その認識の差がそのまま五右衛門達とのリアクションの大きな差となって現れていた。

 

「織田信奈様がこの度美濃を平定されたので、お祝いとして栃餅を作って参りました」

 

 客人の話によると奥飛騨に於いては栃餅は大変縁起の良い食べ物であり、出陣の門出は勿論の事、祝言や床入りの際にもこれを食べるらしい。彼は持参していた風呂敷包みを開くと、そこに入っていた栃餅を切り分けて皿に乗せ、更に別の小瓶に入っていた黄色をした半透明の液体を垂らしていく。

 

「それは?」

 

「奥飛騨の栃餅はここらの物と違って灰汁を抜いてございます。そこにこうして蜂蜜を付けて食べれば、それはそれは美味な物にございます」

 

 その客はそう説明し、「まず私が毒味いたしましょう」と、皿に載った一切れを摘んでぱくりと口にする。当然ながら何も変化は無い。四人はそれを見て目線で頷き合うと、それぞれ一切れずつ餅を手掴みで口に運ぶ。深鈴は無造作に、五右衛門達は目を閉じて「ええい、ままよ」とばかりに口に放り込んで、咀嚼し、嚥下する。

 

 果たして、

 

「これは……美味しいわね」

 

「確かに……いけるです」

 

「今まで食べた事の無い味わいにござる」

 

 深鈴、光秀、五右衛門の評価は上々。犬千代だけは無言で、

 

「ぱく、ぱく…………もぐ、もぐ……」

 

 と、試食した一切れだけでは飽き足らず、両手で食べ始めていた。この反応を見れば、彼女の感想など問わず語りである。

 

「栃餅とは蜂蜜を付けて食べる物だったでござるきゃ」

 

「これは病人にも良い食べ物です」

 

「「!! 病人に効く……!!」」

 

 客人のその一言に、深鈴と光秀は鋭い反応を見せた。

 

「詳しく聞かせるです」

 

「はい、蜂蜜で煮揚げた栃餅を食べて、にわかに元気が出て病気が治ったという例は良く聞く事です。栃餅は目出度い餅であると同時に、厄除けの餅でもあるのです」

 

「ほほう、それはそれは……」

 

 喜色満面となる光秀。一方で深鈴は、一つの事を思い出していた。

 

『思い出した。確か奥飛騨の栃餅と言えば武田信玄が……』

 

 正史に於いても甲斐の武田信玄は「戦国の巨獣」の異名で各国の大名から恐れられていた。五十三才まで生きた彼であったが、二十代の頃から労咳、つまり肺結核に悩まされ続けており、特に晩年は喀血する事も多かったらしい。

 

 そうして病床に伏していた信玄であったが、ある時奥飛騨は神岡城の城主、江馬時盛(えまときもり)から送られた栃餅を食べると奇跡的な回復を見せたという。三方原の合戦の後、彼が死んだのは冬の寒さもあるが、その時は武田家臣団が手配していた栃餅が山賊に襲われて届かなかったからという説もあるぐらいだ。

 

「では、是非我が家の客としてゆっくりして行ってください」

 

「奥飛騨の栃餅の作り方を、尾張や美濃にも伝えていって欲しいです」

 

 ここは、どちらの客人として迎え入れるかでケンカしている場合ではない。この客には是非とも、長く腰を据えてもらわなくては。深鈴と光秀の見解が一致した。

 

 ここに列席した面々は皆、健康そのものといった連中であるが、彼女達の周りには病人が少なくない。

 

 例えば半兵衛だ。彼女は先日、雨の中で墨俣築城の為の木材切り出しの指揮を執ったのが原因だろう。今は風邪を引いて寝込んでしまっている。たかが風邪と侮るなかれ、「風邪は万病の元」という言葉もあるが、こじらせればそれだけでも十分に死病と成り得る。この時代から二百五十年ほど後、古今十傑の一人に数えられ名横綱と謳われた谷風梶之助の死因となったのも、風邪だ。

 

 次には道三。彼は隠そうとはしているものの最近、特に午後になると妙な咳をするのを目端の利く深鈴や光秀は見逃していない。彼には信奈の義父として、彼女の天下取りを見届けるまで長生きしてもらわねば……

 

 食客の中には医術の心得がある者も居るが、「医食同源」という言葉もある。突き詰めれば病を治すのは薬ではなく、滋養と休息である。

 

 先程思い出した武田信玄の主治医であった御宿友綱(みしゅくともつな)は信玄に、「あいつは名医には違いないが賄いに関してはとんと無知だ。不味い物ばかり選って食わせようとする」などと嘆かれていた、なんて話もある。未来では管理栄養士という職業もある事だし、皆の健康の為にも今後は優秀な料理人をキープしておくべきかも知れない。

 

「では、ゆったりとくつろいでいって下さい」

 

 深鈴はそう言って、係の者を呼び出して奥飛騨からの客人を案内させていく。余った栃餅はそれぞれ半兵衛と道三に届けるよう手配するのも忘れない。名残惜しそうに運ばれていく皿を見送る犬千代。

 

「はい、次の方」

 

 そうして案内されてやって来たのは……

 

「おや……」

 

「あなたは……」

 

「浅井長政……」

 

 風雅という言葉を絵に描いたらこうなるというような黒髪の美少年侍が、ぽーっとした様子の係に連れられてやって来た。

 

「どうも、ご無沙汰しているな。お歴々……」

 

「それで、今日は何の用で来やがったです?」

 

「そろそろ昼七つ(16時頃)、小腹が空く頃ですね。何かご馳走せねば……誰か、お茶漬けを作ってきて下さい」

 

 流石に初めての客人ではなく、今までどうにも打算が前面に出た腹黒い印象が先に立っていたので深鈴達の反応も皮肉を利かせたものだ。尤も、犬千代には京風の皮肉(京都で茶漬けを勧めるのは「さっさと帰れ!!」の意味)などは分からず、「鮭茶漬けが良い」と注文する。

 

「……と、冗談はこれぐらいにして、浅井長政殿。今日の御用向きは?」

 

 真顔に戻って、用件を聞く姿勢となる。長政に出されたのは勿論茶漬けではなく、ちゃんとした緑茶と茶菓子だ。犬千代だけは運ばれてきた鮭茶漬けを「はふ、はふ」と食べている。

 

「実は、今度こそ織田家との同盟を結びたくこうして参ったのだが……」

 

「はぁ、それならさっさと信奈様に会ってくれば良いじゃないですか?」

 

 と、光秀。しかし長政によると、事態は中々難しくなっているらしい。

 

「それが、朝倉家からこの縁談に横槍が入ったのだ」

 

「朝倉が……」

 

「確かにそれだと同盟にせよ縁談にせよ、この話を成立させるのは難しくなってきますね……」

 

「そう、私としてはかつての名門よりも新進気鋭の織田家と組むべきだと思っているが、我が父、久政がそれでは納得せぬのだ。父は隠居した身とは言え未だ家中にはそれなりの人望があり、私としてもその意を無視しては、中々……」

 

 深鈴、光秀、長政と三人揃って難しい顔を突き合わせる。

 

 その昔、浅井は六角・京極氏に挟まれて手も足も出なかった。そこで朝倉家が後ろ盾となって援軍を送り、六角・京極の勢力を駆逐した。北近江に今の浅井家があるのは朝倉家のお陰だ。故に、武人の義というものを見せねばならぬ。

 

「……と、これが父の言い分で……」

 

 時勢が見えているとは言いがたいが、しかし筋はそれなりに通っているだけに、長政としても反論に困るのだ。

 

 しかも横槍を入れてきたのが朝倉家となると、話はより複雑となってくる。何を隠そう、織田と朝倉は仲が悪い。

 

 元々織田家の主家は越前・若狭・尾張・遠江の守護職であった斯波(しば)氏であり、織田家は尾張の守護代であった。一方で朝倉家は但馬国(たじまのくに)からやって来て斯波家の家臣になり、斯波家が衰えたと見るや越前の守護職を奪い取ったのだ。

 

「織田は斯波家の家老、朝倉は他国者のくせに主家を横領した家柄。理屈で言うなら織田家の下に付く筈です」

 

「勿論、朝倉家がそんな申し出を受け入れる筈も無く……」

 

「……それ以来、両家は犬猿の仲」

 

「で、ござる」

 

 だが、長政としては何とか織田家と縁故を結んでおきたい。同盟にせよ縁談にせよ兎に角渡りを付けておかない事には、信奈上洛の際には北近江も、南近江の六角と同じに踏み潰される事になりかねない。

 

 仮に織田家と戦い勝利したとしても、その時は浅井とて無傷では済むまい。そうして疲弊した所を他国に付け込まれたら……久政にはそれが見えていない。

 

「織田としても、浅井と戦って良い事は無い筈。銀鈴殿、光秀殿、何か名案を出しては頂けぬだろうか」

 

「……また、名案を出せ、ですか……」

 

 最近はこんな風に頼まれる事が多いなと、溜息を吐く深鈴。光秀もううんと唸りながら色々と考えていたが……

 

 しかし、今回も中々難題である。織田、浅井、朝倉。三家のいざこざを、どうやって処理するか……

 

 そうして考えて数分程の時間が過ぎ、不意に「そうだ!!」と二人は声を揃えて手を叩く。

 

「何か妙案が?」

 

「八方丸く収まる案があるです!!」

 

「早速、信奈様に提案に行きましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 岐阜城の大広間では、床一面に地図を広げた信奈が「ううん」と唸っていた。

 

 最近の彼女は毎日こうして、地図と睨めっこである。美濃と京を隔てるのは近江。どうにかして、近江に上洛路を開かねばならない。ちなみに、今日の信奈は大好物の「なごやこーちんのてばさき」ではなく深鈴より献上された「歩帝都秩布酢」を囓っている。未来で大人気のジャンクフードは、彼女にも好評であった。

 

 そうして勝家や長秀らも難しい顔を付き合わせていたその席に、深鈴と光秀が長政を伴ってやって来た。その顔を一目見た途端、信奈は「あんたも懲りないわね」と呆れ顔。他の者達の反応も似たり寄ったりだ。しかし事情を聞かされると、主を含め一同はそれぞれ先程にも増して難しい顔となる。

 

「しかし、朝倉がねぇ……これは難しい問題よね」

 

 信奈としても結婚云々は兎も角として、浅井家を同盟相手として考えていたのは本当だ。だから長政の申し出を無碍にも出来ないのだが、しかし彼女の言う通り事態は中々難しいものとなっている。

 

 どうやってこの同盟を成立させるか……

 

「浅井も六角も、両方攻め滅ぼしてしまえば良いでしょう」

 

 これは勝家の発言である。しかし、ここにその浅井家当主が居ると言うのにこの発言は空気が読めてないと言うか何と言うか……長政は笑顔を引き攣らせた複雑な表情になった。

 

「如何に我が軍と言えど、浅井と六角の双方が相手となればかなりの損耗を覚悟せねばならないでしょう……四十三点です」

 

 長秀が付けた点数も、ちょっと低い。今の織田家なら両家を相手取っても勝てない事はないだろうが、そうなれば一大決戦となり、被害も相当なものとなる。例え勝って上洛出来たとしてもその先が続かない。

 

 長秀が指摘するまでもなく、信奈もその考えには至っている。論ずるべきは、どうやってこの問題を解決するか、だ。

 

「……で、銀鈴と十兵衛。あんた達がこうして来たって事は、何か名案があるって事でしょ? 言ってみなさい」

 

 そう言われて深鈴と光秀は視線を合わせて頷き合うと、まずは光秀が発言する。

 

「されば、同盟話を義元の奴に纏めさせれば良いです」

 

「「「!!」」」

 

 この提案を聞いた場の全員が「その手があったか!!」という顔になった。義元は京の不忠者共を成敗する為に織田家が征夷大将軍として担ぎ上げる、つまり公方(予定)である。正式ではないとは言え公方の言葉なのだ。古風な浅井久政への効果は絶大であろう。

 

「それに例え公方としての立場が無くても、あの方は押し出しは立派ですし……多分、相手が何を言ってきても「おーっほほほ」だけで、押し切ると思います」

 

「た、確かに……」

 

 深鈴の補足説明を聞いた信奈にはその光景がありありと想像出来て、冷や汗を垂らしつつ塩が付いた指をぺろりと舐めた。

 

「分かったわ。長政、あんたには私の妹のお市をお嫁にあげる。義元と一緒に近江に行かせるから、話を纏めなさい」

 

「……妹? しかし信奈殿に妹君がおられるとは聞いて……」

 

「この話、受けるの? 受けないの?」

 

 疑問を差し挟む長政の声を切って捨てて、信奈が凄む。これは長政としては万一にも信奈に臍を曲げさせてはならないと承知しているからこその強気であった。

 

 朝倉からの横槍が入る以前から長政は既に「織田家の姫と結婚する」とあちこちに触れ回っており、今更「結婚出来ませんでした」などと言おうものなら面目丸潰れである。

 

 いわば今の彼は結婚すれば父との関係がこじれて家中が混乱し、結婚しなければ天下の笑い者。八方塞がりを体現したかのような状況だったのである。かくなる上は垂らされた蜘蛛の糸に、縋り付く他は無かった。

 

「あ、ありがたく妹君を頂戴いたします……!!」

 

 こうして長政が帰っていったのを見送った後で、信奈は表情を引き締めると深鈴と光秀、二人に向き直った。

 

「で? 二人とも、あんた達の話には続きがあるんでしょう? それを聞こうじゃないの」

 

 話の続きいうのは、北近江・浅井家との同盟が成った後の事だ。

 

「浅井を味方にしたのなら南近江の六角を征伐し、義元を奉じて都入りを果たせば良いです」

 

「朝倉は?」

 

「京に入って義元殿の将軍宣下を認めさせ、三好・松永を成敗した後に、将軍の名において上洛を命ずればよろしいかと……」

 

「越前から素直に出てくると思う?」

 

 と、興味深げに笑いながら信奈が尋ねる。とは言えこれは聞くまでもない質問である。朝倉義景は、恐らくは出ては来ないだろう。上洛の命令は、出て来ないと承知の上で出すのだ。そうして彼が出て来なければ……

 

「織田家による、朝倉討伐の口実ができます」

 

「良く考えられています。九十点」

 

「話は分かったわ。やっぱりあんた達、どっちも曲者ね」

 

 ぱっと扇子を広げた長秀が笑みを見せ、不敵に笑った信奈はひねくれた褒め言葉を口にする。やはり織田家中随一の知恵者とされる深鈴と、秀才の誉れも高い光秀。抜かりは無かった。

 

 しかしこの時点で未来人である深鈴はその知識を活かし、光秀の考えが及ばない領域にまで思い至っていた。

 

『朝倉家の横槍があったのは史実通り……だが今回のこの横槍、ただ織田家憎しだけでのものなのかしら……?』

 

 もし違うとしたら?

 

 他に何か思惑が働いているとしたら?

 

 この状況で織田と浅井の同盟を阻んで得する者が居るとすれば、それはつまり……

 

『朝倉が、裏で三好・松永と通じている……? まさか……?』

 

 だから信奈を上洛させまいと浅井に圧力を掛けてきた。しかも浅井の同盟先が相手が自分とは仲の悪さで有名な織田家とあれば、そこまで不審にも思われない。それを承知の上で仕掛けてきた……?

 

 ……一応、辻褄は合う。とすれば実際はどうあれ、備えておかなければなるまい。しかしこれは全て自分の頭の中だけである空想・想像・憶測でしかない。今はまだ信奈達に言う段階ではあるまい。

 

『……確たる証拠を掴むのが先、か……』

 

 五右衛門や段蔵達、諜報部隊にはまた働いてもらう事になるだろう。そして、自分にもやらねばならない事がある。

 

 今回の件で、やはり浅井と朝倉との関係は未だ根深いものである事がはっきりした。つまり自分と光秀の策に乗った信奈が朝倉攻めを行えば……!!

 

『金ヶ崎の退き口が起こる可能性が高い、という事ね……』

 

 日本史上最大の撤退戦である金ヶ崎の退き口。正史では織田・徳川連合軍が金ヶ崎・疋田の両城を落城させてすぐ後に「長政裏切る!!」の急報が入り、織田軍は山路で朝倉・浅井両軍に挟撃される形となり、信長は命からがら京へと引き上げた。と、されている。その時殿軍を務めたのが木下藤吉郎、つまり、今の深鈴の立場にある者だ。

 

 深鈴の知る歴史では藤吉郎も九死に一生を得て京に辿り着いたとされているが、だからと言って自分も助かるだろう、などというお気楽な思考回路を彼女は持っていない。

 

 この世界で信奈が朝倉攻めを行うとしたらそれは光秀と自分の献策によるものだから、見ようによっては自分で自分の首を絞めた形になったとも見れるが、しかし朝倉への対応としてあの案が恐らくはベストだろうと彼女は考える。そういう意味では金ヶ崎の退き口は誰が何をしようと起こるべくして起こる歴史の必然、不可避の流れと言えるのかも知れない。

 

『何か策を考えなくては……』

 

 金ヶ崎での殿軍とは本隊を逃がす為に押し寄せる朝倉軍の前に出された、死に残りの軍。無策でそんな場所にのこのこ行く程、深鈴は自信過剰でも楽天的でもない。

 

 幸いな事にまだ時間はあるし、それに情勢の変化もあって浅井の裏切り自体無くなるかも知れない。あくまでも可能性だ。少なくとも今の時点では。

 

 一つの可能性、その石に躓いて転ばぬよう、杖として打てる手は全て打っておく。

 

 それがこの時代にやって来てからずっと続けてきた、深鈴の戦い方だった。そして恐らくは、これからも。

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、義元の働きによって織田・浅井の縁組みが決まった。後で聞いた話だが、やはり彼女は何を言われようが困り顔の久政が何を訴えようが全て「おーっほほほほほ!!」の高笑いでゴリ押しして、半ば以上力業で話を取り纏めたという。交渉のイロハも知らないだろうに、しかし中々どうして彼女も一種のタフ・ネゴシエイターである。

 

 信奈はこの成果に喜び、五箇条の条文の内、第四条の「甲高い笑い声は禁止」を取り下げる旨を義元に伝える。図らずもと言うべきか図られてと言うべきか……いずれにせよ、深鈴の言った通り信奈の為に働く事で義元の待遇改善は(微妙にせよ)成ったのである。これで少しは彼女の機嫌も治るだろう。

 

 浅井へ嫁入りする「お市」役には、信澄が選ばれた。哀れ、命を受けた五右衛門と段蔵によって拉致同然に岐阜城へと連行された彼は、事情の説明もそこそこに白無垢を着せられて籠に詰め込まれ、近江へと送り出されてしまった。ちなみに深鈴の食客の中には”チョッキン”の名人も居るのだが……流石に信澄を不憫に思って、信奈に紹介する事はなかったのを追記しておく。

 

 半兵衛の体調も、栃餅の蜂蜜煮を食べる事によってすっかり回復。道三もここ最近老け込んでいたのが嘘のように、信奈の毎朝の日課である遠乗りに付き合う程に体力を充実させていた。

 

 そうして全ての準備が整った事を見て取った信奈は、遂に命令を下す。

 

「これより織田軍は、上洛するわよ!!」

 



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第19話 観音寺城の戦い

 

「全軍、京へ!!」

 

 今が機と見た信奈の号令が下り、そこからの織田軍団の動きはまさしく電光石火。尾張、美濃、そして同盟国である三河からの援軍も加わって総勢四万もの大軍が上洛路を進んでいく。

 

 南蛮風の鎧兜に赤いマントを羽織って、白馬に跨った信奈以下、長秀、勝家、光秀らがそれぞれの兵と共に進んでいくが、中でも異彩を放つのは深鈴率いる一団である。

 

 織田家中では新参に分類される彼女が率いる兵はさほど多くはなく、寧ろ個人で抱えている食客達の方が目立っている。彼等は鎧兜で武装しているという訳ではなく、皆思い思いの格好をしていた。剣達者、泥棒、琵琶法師、商人、歌人、芸人、相撲取り、花魁、拳法家、鷹匠、エトセトラエトセトラ……

 

 ありとあらゆる分野の専門家達によって成るその行列は、軍団と言うより雑伎団の様相を呈していた。普段通り朱槍を担いだ犬千代やロバのような子馬に揺られる半兵衛、往年の如く鎧兜で完全武装し若駒に跨る道三といった面々も流石にちょっと引いていて、微妙に距離を取っている。

 

 食客達の中でも特に目立っているのは……

 

「……何で気付かなかったのかしら……」

 

 行列から少し離れた場所、車輪や管が色々とくっついた馬の居ない馬車のような四角い金属製オブジェの前で、腕組みした源内がうんうんと唸っている。

 

「燃料が油一升(約1.8リットル)で十丁(約1キロメートル)しか走らないなんて……無理じゃない、京まで行くのは……」

 

 発明家であり、科学の発展の為に多額の研究費を必要とするので金食い虫として有名な彼女であるが、しかし同じくその異名で呼ばれている義元と違って、出した金の分だけ色々と働くので文句や揶揄する声はそう多くない。

 

 眼前のカラクリは新しい発明品の一つで、草案を深鈴に提出するやいなや「いくらでも研究・開発費を使って良いわよ。明細をいちいち報告する必要も無いわ。これに関してはね」と、破格の環境を与えられた事で一念発起し、軽く一週間は完徹してこの形に仕上げた自信作である。

 

 源内としては、

 

「これで京まで乗り付ける!! 馬の時代が終わった事を、私自らが日本中に知らしめてやるわ!!」

 

 と、息巻いて美濃を出発したのは良かったが……京どころか近江に辿り着く前に燃料が尽きて、動きが止まってしまうとは……彼女が馬の時代を終わらせるには、まだ時間が必要らしい。やはり十分な試験期間を設けるべきだったか。「試験走行は上洛路でやるわ」なんて考えてたのが失敗だった。

 

「もう少し、動力に改造が必要かしら……水を沸かした蒸気でカラクリを動かすのでは、出力や燃費に限界が……それと車体全体の軽量化を……鉄ではどうしても重く……新素材の開発が急務……」

 

 ブツブツと呟きながら手にした帳面に色々と書き込んでいく源内。深鈴は、馬上からそんな彼女を見て微笑みながら進んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 尾張から京へは東海道と中山道の二つのルートが選択肢としてあるが、今回の信奈軍は中山道を行く道を選択していた。中山道は北近江を通るルートであり、お市を嫁がせて同盟関係を結んだ浅井長政の援軍一万と合流する為である。

 

 もし市の正体がバレていたら六角や三好・松永の前に浅井勢と一戦交える事になるやもと事情を知る者達は警戒していたが、しかし軍勢を引き連れて現れた長政は恭しく「義姉上」と信奈に一礼。しかも以前のどこか芝居がかっていた風な態度ではなく、赤心からのものだと、少なくとも誰の目にもそう見える。

 

 この急変の裏にはやはり輿入れさせたお市=信澄の存在がある事は疑いようもないが、しかし、浅井家で一体何が……?

 

 最悪の場合、騙された事で怒り心頭の長政を弓矢でお迎えする事も想定していただけに、これには信奈達の方が気味悪がった。

 

「ねぇ、銀鈴……もしかして長政って……男が好きなのかしら……」

 

「ま、まさか……?」

 

 そう、まさか……である。だがしかし、この時代には男色などは別段不思議な事でも恥じる事でもない。春画職人の食客(ちなみに女性)などは「そういうのもあるのね!!」と、先程の源内よろしく懐から出した帳面に何やら書き綴っていた。……どうも、こうした文化は伝統的かつ不変であり普遍らしい。平安の昔も、この戦国乱世でも、そして400年経った未来でも。多分、更に何百年から何千年かが過ぎて人類が衰退しても続いている気がする。

 

「あー、色々気になってきちゃった……考えない事にしよっと」

 

「の、信奈様……実の弟の身が、色んな意味で危険なのですよ? ……最早手遅れかも知れませんけど……もう少しは気に懸けて……」

 

「やーだ!!」

 

 と、一部の者達の間で様々な憶測が飛び交ったものの真相は分からず、浅井の援軍を加えて五万の大軍へと膨れ上がった信奈軍は北近江を抜け、南近江へと差し掛かった。

 

 今や、京への道を阻む勢力は南近江の六角承禎唯一人。六角家は佐々木源氏の流れを汲む名門守護大名。三好や松永とは同盟関係にあり、信奈には徹底抗戦する構えである。

 

 殆どの者はこのまま一気に六角攻めを行うと考えていたが、信奈は南近江と北近江の国境に差し掛かった所で行軍を一時止め、光秀を呼び出した。

 

「お呼びでしょうか」

 

「十兵衛、あんたにはこれから六角承禎の所に、使者として行ってもらうわ」

 

「使者……ですか」

 

 光秀は意外そうに返す。

 

「そうよ。織田・松平・浅井は今川義元を新公方に立てて上洛し、三好・松永を討つわ。六角家も昔の行きがかりを捨て、新公方に味方するように。戦わずに済むのならそれに越した事はないしね」

 

「承知しましたです」

 

 こうして、軍使として観音寺城へと向かった光秀は城の大広間へと通された。出立前に長政から「六角承禎は女好き、年頃の娘は勿論幼女も大好物という好色漢だ。十分に注意されよ」と聞かされていたが……成る程、その話に間違いは無かったと、面と向かって相対して彼女は確信する。

 

 全身を舐め回すようないやらしい視線を向けられて、光秀は生理的な不快感をもよおした。ツルンツルンに頭を丸めている癖にと、心中で毒突く。戒律の第一は、淫らな行いを禁じる、ではなかったのか?

 

『大方、”淫らな行い”とはまだ日の高い内から同衾したり、悪い女に手を出したりする事だとか都合の良い解釈をしてるに違いないです。こういう奴こそ、三日坊主とか生臭坊主とか言うです。ここが戦場ならば問答無用で斬り捨ててやるところですが……』

 

 頭の中でそんな思考が走ったが、しかし今の自分は使者としての役目を全うしなければならない。自分にそう言い聞かせて雑念を全て心の奥底に押し込めると、光秀は頭の中に用意しておいた通りの口上を述べ立てる。

 

「されば此度の織田の上洛は、三好三人衆や松永弾正といった叛徒を除き、今川義元を新将軍に擁立して、この永き戦国の世を終息させるのが目的。浅井も松平も、信奈様のその悲願に同意なされてのお供です」

 

 故に六角もその意に賛同して織田に援軍を出すか、それが駄目なら三好・松永勢と手を切って織田軍の南近江通過を認めるだけでも良いと伝えるが、しかし六角承禎は「はっはっはっ」と豪快な笑い声で以て彼女の言葉を掻き消してしまった。

 

「駿河の我が儘姫を将軍と認めるのは、精々織田のうつけ姫ぐらいだろうて」

 

「!!」

 

 義元を将軍にすると信奈に献策したのは光秀であり、そして今の六角承禎の物言い。自分と主君を両方同時に侮辱されたような気がして、彼女の瞼がぴくぴくと動いた。

 

「しかし入道殿が認めずとも、新公方は既に旗揚げをして京に向けて進撃中なのですよ?」

 

「ほう? では新公方の命により信奈が動き出したというのか?」

 

 流石にこう言われては笑い飛ばしてばかりいられないのか、六角入道が身を乗り出す。この反応を見て、光秀は僅かな手応えを感じた。やはりこういうタイプには道理を諭して正義を説くよりも、脅しを交える方が効果的なようだ。交渉の仕方を変えてみるか。

 

「いかにも、です。既に総勢五万の大軍が、国境付近に布陣して……」

 

「はっはっはっ」

 

 だが、彼女の言葉はまたしても豪快な笑い声に遮られてしまった。

 

「織田信奈が五万の軍勢じゃと? うつけ姫の大ボラは最早この南近江では通じぬよ。田楽狭間の時も精々三千程の兵力だったと言うではないか」

 

 そう言われて光秀は「ぐっ」と言葉に詰まる。彼女もあの場に居てそれが事実だと知っているので、咄嗟には言い返せない。そうして光秀が怯んだのを見て取って、承禎が反撃に転じる。

 

「大体してそなたはこの南近江にいくつ城があるかご存じか? 十八じゃ。仮に信奈が五万の兵を動員したとしても、十八の城に分ければ一城に割ける兵は精々二千五百から三千。それで城を落とそうとすればかなりの日数が必要であろう」

 

『……その間に同盟を結んでいる三好・松永が援軍を寄越す。そうすれば兵力は十万にもなり、それで勝てる、ですか……』

 

「さあ、話が分かったら早々に立ち去られよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして会談は決裂。調略に失敗した光秀が引き返すと、本陣では既に軍議が開かれていた。

 

「遅かったわね、十兵衛」

 

 肩を落として戻ってきた彼女を、しかし信奈は笑顔で迎えて席に着かせる。

 

「申し訳ありません、信奈様……この明智十兵衛光秀、受けた任を果たせず……」

 

「いくらか話が分かる奴も居るかと思ったけど、やっぱり無駄だったわね」

 

「……と、仰いますと……?」

 

「気に病む事はありませんよ、光秀殿……今回の任務、姫様は失敗して元々、成功すれば僥倖のつもりだったのですから」

 

「恐らくは、誰がやっても結果は変わらなかったでしょうね」

 

 長秀と深鈴のその説明を受け、漸く事態が呑み込めた光秀は顔を上げて「成る程」と頷いた。つまりこれは信奈にとっては交渉ではなく、六角への最後通告だったのだ。

 

「十兵衛、六角は南近江に十八の城がある事を鼻に掛けたでしょう?」

 

「……それが、分かるですか?」

 

「今、それについて話していた所よ」

 

 そう言った信奈は広げられた地図をとんと叩き、「半兵衛、もう一度最初から説明して」と指図する。それを受けてちょこんと控えていた彼女は一歩進み出ると、白羽扇で地図をさっとなぞっていく。

 

「織田軍の兵力五万を十八の城に分けて引き受けるとすれば、一城に振り分けられる兵は二千五百から三千……その程度の数ならば各城それぞれで引き受けてもそれなりには保つ。その間に三好や松永の援軍がやって来るので、それで勝てる……と、そう計算していると思われます」

 

 半兵衛のその分析に、光秀は唖然とした表情になる。彼女はこの本陣から一歩も動いてはいないのに、観音寺城大広間での六角承禎の言葉をその場にいて全て聞いていたかのように、寸分違わず奴の狙いを言い当てていた。

 

 やはり、天才軍師の呼び名に偽りは無し、という事だろうか。

 

 ならばと、長政が献策する。

 

「義姉上、六角の兵自体はさほど強くはないですが観音寺城はかの稲葉山城にも匹敵する堅城。ここは野陣を構築し戦力の分散を避け、支城を一つずつ落としていくのが上策かと思われますが」

 

 確かに、大軍をこちらからわざわざ十八分割するなど”たわけ”という言葉の由来をそのままなぞるかのような愚行である。それを考えれば長政の案は確かに順当なものだと言える。

 

 「しかし」と、その策には光秀が異を述べる。

 

「あちらさんも、それを読んでいるのでは……」

 

 彼女の指摘を受け、長政は「うむ……」と難しい顔で頷いた。と言うか「読んでいるのでは……」ではなく、読んでいるに決まっている。

 

 でなければ、わざわざ自分達の勝算を教えた光秀を、そのまま無事に帰す訳がない。より正確に言えば信奈軍が戦力を一点集中させるのを読んでいる、ではなく……

 

「そうするように仕向けているのでしょう」

 

 と、半兵衛。

 

「ただ……六角勢も守ってばかりでは城が一つずつ落とされていくのを待つばかりだと分かっている筈です。十八の城とは言え、三つか四つまで落ちれば次は自分達の所かもと、残った城の兵の士気は低下します。そうならないように、動いてくるかと」

 

「つまり……向こうも立て籠もっているばかりじゃなくて、戦を長引かせつつこちらに打撃を与えるように、何かやってくるって事?」

 

 信奈にそう聞かれ、頷いた半兵衛は説明を続けていく。

 

「恐らく、こちらが兵力を集中して支城から一つずつ落としていく策を執った場合には、掎角(きかく)の計を仕掛けてくると思います」

 

「掎角の計を!! ……って、何だ? それ」

 

 勝家のその疑問を受け、本陣は爆笑の渦に包まれた。半兵衛も苦笑しながら、更に続けて説明する。

 

「鹿を捕らえるが如き作戦を言います。鹿を生け捕る際には角と後ろ足を同時に捕らえます。「掎」は足を捕る、「角」は角を捕るの意味です」

 

「……うーん。で、具体的にはどうすんだ?」

 

「まず、籠城側の一隊が城の外へ出ます。そうすれば攻め手は必ずその部隊へと兵を向けます。その時に城の兵が打って出て、城から兵を繰り出して攻め手の背後を衝きます」

 

「逆に城が攻められた場合には、城外に出た部隊が攻め手を背後から脅かす訳ですね……」

 

「……つまり、挟み撃ち」

 

 長秀と犬千代の補足を受け、勝家も「成る程」と何度も頷く。確かに、単純ながら効果的な戦法だ。

 

 武田信玄も先年、上杉謙信と川中島を挟んで戦った際には、緒戦では負けたと見せ掛けて上杉軍後方の旭山城に長期戦の為の兵糧を運び込み、川を挟んだ武田本陣を攻めようとすれば城から出た兵に背後を衝かれ、城を攻めようとすれば本陣に背後を衝かれるという状況を作り上げ、二百日対陣へと持ち込んだという。

 

「今回、六角方が仕掛けてくるのはその応用……つまり、どこかの一城にこちらが戦力を集中させれば別の城から兵が打って出て、我が軍の背後を衝いてきます。別の城へと兵を向ければ、また攻めていた城の兵が打って出て……と、いう要領で我が軍に打撃を与えて戦を長引かせようと考えているのでは……と思います」

 

 十八の城を擁する六角勢とて、兵数では織田・松平・浅井の連合軍には圧倒的に劣る。彼等もまさか、自分達だけで信奈軍を撃退しようなどとは考えていまい。

 

 籠城戦の勝ち目はあくまでも外部からの支援。彼等の狙いは戦を長引かせた所でやって来る援軍である。それまではじっくりと頑張っていて、援軍が来れば一気に内と外から信奈軍を攻め滅ぼすつもりだ。

 

「兵を分散させる策は二十三点、一点集中でも三十二点。戦を長引かせるのは六点……いかがなされますか、姫様?」

 

 長秀の採点も、辛い。どちらの策を執ってもこの南近江攻めは、信奈軍の有利には働かない。六角承禎はそこまで読み切って、あそこまで自信ありげに啖呵を切ったのだろうと、光秀も困り顔となる。

 

 だが、信奈の表情に焦りは無い。

 

「要するに!! 他の支城なんかには目もくれず、観音寺城を速攻で攻め落としてしまえば良いのよ!! そうすれば他の城なんか、後からキノコ狩りでもするつもりでゆっくり落としていけばいいわ!!」

 

 彼女のその提案を受け「おおっ」と声が上がった。確かに本城である観音寺城さえ落としてしまえば、後の支城など次々に落とせる。それが出来るのなら他のどんな策よりも効果的だろうが……

 

「義姉上、しかしそれは現実的には……稲葉山城を拠点として使われていたのなら、それに匹敵するともされる観音寺城の堅牢さはお分かりになる筈……」

 

 長政の懸念も尤もだ。

 

 六角承禎の居城でもある観音寺城には最も多くの兵が立て籠もっているだろうし、あの堅城だ。がむしゃらに攻めるだけでは、いくらこの兵力とて簡単に落とせるとは思えない。そうしている内に支城からも兵士が出撃して掎角の計を仕掛けてくるだろうし、それでいたずらに長引かせては敵の援軍が到着し、本末転倒となってしまう。

 

 だからと言ってこんな所で手こずっているようでは、上洛など出来ないし、天下の人々からも「そんな弱小大名に三好や松永が追い払える訳がない」と侮られてしまうだろう。

 

 となれば、速攻で勝負を決めるべきという信奈の方針自体には問題は無い。論ずべきは、その為の方法だ。だがそれも、既に彼女の中にある。

 

「銀鈴!!」

 

「はっ……」

 

「あんたの食客と乱波達、使わせてもらうわよ!! それと長政、稲葉山城なんて城はもう無いわ!! 岐阜城、よ」

 

 

 

 

 

 

 

 そして、明朝。

 

 日が昇るとほぼ同時に、織田の全軍は支城など眼中に無いとでも言うかのように観音寺城へと殺到していた。しかし四万の大軍勢を見ても城兵達は怯むどころか、

 

「うわーっははは!! 織田信奈、やはり噂通りのうつけ姫よ!!」

 

「まこと、何の策も無くただ全軍でこの城に押し寄せるのみとは!!」

 

「支城の兵に背後を衝かれる事にすら頭が回らぬとは!! 口程にもない愚将よ!!」

 

 この愚策を笑い、俄然士気を向上させていた。よりによって、最も愚かな手を打ってくるとは。これで自分達の勝ちは決まったようなものだと。

 

 姿は見えずともそうした雰囲気を感じ取って、馬上の信奈は不愉快そうに体を揺する。

 

「そんな風に構えていられるのも……今の内よ」

 

 敵軍に降伏の意思は無し。

 

「よし、攻撃開始!!」

 

 大声で「兵は後ろに下がって!!」と指示を出す。その命に従い、勝家や長秀の一糸乱れぬ指揮の下、信奈軍は後方へと退いていく。それを見た六角勢は、

 

「尾張の兵の弱さは東海一と聞いていたが、一合も交えずに逃げ出すとは!!」

 

「聞きしに勝る腰抜け揃いだ!!」

 

 と、城中が大笑いしているようだったが、しかしそれも後退した兵の代わりに、前方へと出て来た物を見るまでだった。

 

 巨大な金属筒を、丸太を組み合わせた車輪付き台座によって固定した物体を、後方の小荷駄隊が運んできた。轟天雷。美濃を平定したその晩に、岐阜城上空に花火を打ち上げた巨大火砲が、ずらり十基も一列に並ぶ。いよいよこの兵器が、本来の用途で使われる時が来たのだ。

 

 見た事も無いカラクリ仕掛けを目の当たりにして、流石に城の兵士達にも動揺が伺える。それを見て取って、火砲部隊の陣頭に立つ源内はにやりと口角を上げた。

 

「さあ……この轟天雷の威力、とくと見せてあげるわ……思いっきりブチ込むわよ……砲撃準備!!」

 

 彼女の指示を受け、砲兵隊はそれぞれ手にした松明を砲身尾部の導火線に着火。そして、

 

「撃てぇっ!!」

 

 源内の最後の指示を受け、一斉に取っ手を倒す。

 

 瞬間、まさしく轟天雷の名の通り、雷が落ちたかと錯覚するような、空気の揺らぎをはっきりと肌で知覚できる程の轟音が走った。深鈴や光秀、犬千代らは一度経験しているからさほどではなかったが、信奈軍の足軽達は驚いて赤子のように身を屈め、興奮した馬に振り落とされる侍大将が続出した。

 

 だが、狙われた観音寺城はこんなものでは済まない。

 

 堀も、塀も、城壁も、まるで役に立たない。

 

 風切り音と共に影が走り、恐ろしい速さで飛来する鉄球が当たった物を何もかも押し潰し、粉と砕いていく。

 

「な、何だ!? あの化け物は!?」

 

「南蛮の新兵器だ!! 織田軍はとんでもない兵器を仕入れていたんだ!!」

 

 城兵達の一人も、未だかつてこのような方法で城が攻められる経験など無い。見た事も聞いた事も無い攻城兵器を前に、兵士達はあっという間に恐慌状態に陥った。

 

 更に一発ごとに鳴り響く爆音。種子島の銃声がまるで手拍子のように聞こえるその大音響によって、先程尾張勢をなじった城兵達こそまだ一合も信奈軍と刃を交えていないのに、逃げ腰になって身を隠す場所を求め、城中を走り回った。

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、城内では昨夜の内に侵入を果たしていた五右衛門と段蔵が率いる諜報部隊が動き出していた。

 

 聞こえてくるこの轟音と、城兵の混乱振り。間違いない、作戦開始の合図だ。

 

「お味方の攻撃が始まり申した!!」

 

<では、我等も手筈通りに>

 

 彼等はそれぞれ、五右衛門と段蔵率いる二班に分かれて城内へと入り込んでいく。

 

「我々は城のめぼしい所に火を付けるでござる!!」

 

 五右衛門が先導する部隊は手にした松明を、食料庫や弾薬庫に次々投げ込んでいく。特に弾薬庫は次々に引火して、中で花火でもやっているかのような気持ちのいい音が響き、遂には小屋が内側から吹き飛んでしまった。

 

<我々は城の裏門を開く>

 

 段蔵に率いられた部隊は、裏門付近を守っていた数人の兵士を声も上げさせずに始末すると手際良く門を開き、その後はすぐに五右衛門の班へと合流する。

 

 恐怖に駆られ、混乱の渦中にある兵達が、開かれた門を見る。そして信奈軍は裏手には布陣していない。これらの要素から導き出される答えは、一つだ。

 

 最初の一人が門をくぐると、後はイモヅル式であった。

 

「ま、待てーっ!! 逃げる者は斬るぞ!」

 

「おのれっ、この期に及んで逃げ出すとは卑怯千万!! 叩っ斬ってくれるぞーっ!!」

 

 足軽ばかりか、部将達まで逃げ出した。抜き放った白刃を手に、追うと見せ掛けて次々に。

 

 六角承禎は援軍を待って信奈軍を内と外から攻め滅ぼすつもりだったが、そうは問屋が卸さなかった。内と外から攻められたのは、観音寺城の方だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「大分城内が混乱してきたわね……」

 

 轟天雷の乱射によって城が城の体を成さなくなっていくのを見ながら、信奈が傍らの深鈴に満足げな笑みを向ける。過日に彼女は「轟天雷を使えば稲葉山城など一日で瓦礫の山と化してみせる」と豪語したが、その言葉に嘘は無かったのだ。

 

 観音寺城が城塞としての機能を失うまで、後一押し。

 

「源内!! トドメよ!!」

 

「承知しました!! 母子砲(おやこづつ)、前へ!!」

 

 源内がさっと手を振って合図すると、小荷駄隊に牽かれて、新手の火砲が姿を現した。

 

 基本的な構造は他の火砲と同じだが、大きさが倍以上も違う。中央の母筒の周囲を四十九の子筒が取り囲み、前から見れば無数の砲口が蜂の巣の断面のようになった特製大砲。故に母子砲。別名連環砲ともいう。源内曰くその威力は通常の大砲の数倍ともされる、超火器であった。

 

「目標、観音寺城大手門!! 射角調整!!」

 

 火砲隊は彼女の指示に従い、てきぱきと作業をこなしていく。彼等は実戦こそ今回が初めてだが、しかし実戦に耐え得る物をという深鈴の注文に応えるべく、源内の指揮の下、呆れる程の砲撃試験をこなしてきたのである。迷いの無い手付きで、僅かな時間で照準調整を終え、導火線に着火。

 

「撃てぇっ!!!!」

 

 瞬間、先程の火砲連射の爆音が小川のせせらぎに思えるような、天が割れたかと錯覚するような閃光と音が続け様に走り、僅かな時間だが視覚と聴覚がまるで役に立たなくなる。

 

 ほんの数秒程の間を置いて、源内の言う並の大砲に数倍する威力という触れ込みに偽りの無い事が証明された。大手門が吹っ飛ぶ。

 

 これで、観音寺城は最早難攻不落の名城ではなくなった。信奈軍が待っていたのは、まさにこの時。

 

「今だ、突っ込め!!!!」

 

 勝家を先頭に、部隊が一斉に突入していく。長秀や犬千代もその中に加わっており、まさに総攻撃であった。こうなっては数で劣る城兵達は為す術が無かった。中には最後の足掻きとばかりに種子島を構える者も居たが、

 

「うわっ!!」

 

 陣頭に立って大暴れする勝家に狙いを定めて引き金を引こうとしたその瞬間、衝撃が走り、銃身が八つに引き裂かれてひん曲がり、花が咲いたようになる。

 

 一体、何が起こったのか? しかし彼等はそれを考える前に、続けて襲ってきた鉄砲玉の雨に襲われ、全身穴だらけになって倒れていく。

 

 最初に銃身が破裂したのは、子市の仕業だ。改良型種子島”鳴門”と日本二位の使い手である彼女の狙撃術。この二つの組み合わせは、二十間(約36メートル)ほどの間合いでは視認する事すら困難な点でしかない銃口を正確に狙って撃ち抜き、暴発させたのだ。

 

 そして光秀が率いる鉄砲隊五十名が彼女に続き、突入部隊を的確に援護していく。

 

 これほどの波状攻撃を受けては最早勝ち目などある訳もなく、六角承禎は城を捨てて命からがら逃げ出し、甲賀の里へ逐電。

 

 源頼朝以来の名門である六角家は、事実上滅亡したのである。

 

 このような城攻めなど、古今東西のどんな兵法にも無い。まさか難攻不落を誇る筈の観音寺城が、半日と保たずに蹂躙されるとは。

 

「……時代は変わったのだな……」

 

 浅井家三代の宿敵が打ち破られる様を目の当たりにした長政は感動と共に、体中に鳥肌を立ててそう呟くのが精一杯だった。

 

 感動と畏怖に肌を粟立たせているのは、信奈も同じだった。まさか”轟天雷”の威力がこれほどのものとは……!!

 

「こんな物が四百年以上も昔に作られているなんて……大陸の技術力は、私達の想像以上に進んでいるのね……」

 

 南蛮がいつか大船団で日本に攻めてくるかもと危惧していた彼女だったが、しかし源内のこの発明品を見て一刻も早く日本を統一せねばと、危機感を強くする。まさか、こっちが弓矢しか飛び道具を持たなかった時代に、中国ではこれほどの兵器が作られていたなんて。いつまでも狭い日本の中で、争っている場合ではない。

 

 同じ驚きは、深鈴も感じていた。源内から提出された報告書で火砲のカタログスペックは把握していたが、聞くと見るとでは大違いである。

 

「射程距離約7~8キロメートル。この時代の物と比べても、オーパーツとしか言い様の無い性能ね……!! こんなのを運用していたのだから……梁山泊軍が大宋国を平定出来たのが、物凄く納得出来たわ」

 

 中華ガジェット恐るべし。いや、真に恐るべきは何百年も前にこれを開発した地軸星の凌振と、僅かな資料から今に再現した源内であろう。

 

 正史に於いては前者は架空の人物だからやむを得ないとして、もし源内の理論が誰かに認められていたとしたら……断言出来る。歴史は、絶対に変わっていた。この今と、同じように。

 

「ははっ。この程度で驚いているようではまだまだですな。深鈴様」

 

「……宗意軒」

 

 からかうようなその声に振り返ると、風に飛ばされないようトレードマークの山高帽を押さえながら、線目をして貼り付いたかのような笑みを浮かべた男。森宗意軒が歩み寄ってきていた。

 

「大砲どころではない。俺は南蛮で様々な物を見たが……希臘(ギリシャ)では、無数の小鏡で日輪の光を集めて大鏡へと収束・増幅させ、比類無き灼熱によって形ある万物を影も残さずに融かし尽くす恐るべき兵器が、二千年も前に実用化されていたと聞きましたぞ? それで敵軍の船団を焼き払ったとか」

 

「そ、そんな……南蛮の科学は、昔からそこまで進んでるの……? じゃあ今は一体、どんな風になって……」

 

 日ノ本では最新兵器である種子島でさえ彼等にとってはオモチャのような物なのかと、愕然とした顔の信奈はそう呟くのがやっとであり、一方でそれを聞きつけた源内が興味深そうな顔で近付いてきた。

 

「へえ? 宗意軒殿。しかし、そんな昔にそんな物を造るとは……造ったのはどんな方かご存じですか?」

 

「ああ、それは……」

 

「お風呂場で自分の発見に感動して、服も着ないで町中を全力疾走する人でしょ?」

 

 深鈴が冗談めかして言うのを受け、信奈と源内は「なっ……」と赤面してあからさまに引いて、一方で宗意軒は「ほう」と感心した表情になり、

 

「しかし深鈴様、間違ってはいませんがそれでは世紀の科学者が只の変態にしか聞こえませんな?」

 

 そう言ってくっくっと喉を鳴らす。一方で源内もショックから立ち直ると「深鈴様。是非、その兵器を再現する為に予算のご一考を……」と研究費をせがんできた。そんな彼女を適当にあしらう深鈴の視線が、信奈と合った。

 

 二人は、無言のままに頷き合う。

 

「さあ!! 後は支城を落としていくわよ!!」

 

 しかし、主城が落とされては他の城の運命など決まったようなものである。攻め寄せるまでもなく、我先にと次々に降伏してきた。

 

 こうして、南近江の攻略は僅か一日で成り、上洛への道が開かれたのである。

 



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第20話 王城の地にて

 

 信奈軍上洛!!

 

 岐阜を出発してから二十日足らずという、まさに神速と形容すべきその速度に、松永久秀は書状を差し出して降伏すると、大和(奈良)へと退去。三好一党も「六角承禎が一日で滅ぼされた」「織田軍はとんでもない化け物を従えている」「その化け物で観音寺城が瓦礫の山にされた」との噂を聞いてすっかり戦意喪失、摂津(大阪)へと兵を退いている。

 

 一方、この報を聞くやいなや、京の都は騒然となった。誰もがまたしても侍達による専横が始まると思ったのだ。

 

 これまでの京は足利幕府が崩壊した事によって三好・松永の兵が我が物顔に振る舞うのは勿論、盗賊達の巣窟となり、大通りから少し離れた竹藪には殺された人間や飢えて捨てられた人間の死体が山と重なって無数のハエがたかり悪臭を放つという、「王城変じて狐狸の巣となる」という言葉を具現化したかの様な状況だったのである。

 

 こんな有様だったから町人達は誰もが大名というもの、引いては侍という生き物にアレルギーじみた嫌悪感を持っており、財産や食料、それに娘を奪われてはたまらないと我先に避難準備を始めたのである。

 

 ……と、そうした先入観があっただけに、京入りした信奈の対応は彼等を驚かせた。

 

「私が来たからには、兵の乱暴狼藉は許さないわ!! 民に乱暴した者、町に火を付けた者、奪略を行った者が居たら、その場で斬りなさい!!」

 

 信奈のその命は諸将を通じて末端の一人にまで行き渡り、派手に傾いた織田の兵達は、民に一切の乱暴を働かなかった。

 

 更には町中に散らばった屍骸を片付けると近隣の寺社にて、丁重に弔った。中には僧が殺され、仏像すら盗まれてあばら屋同然となっている寺もあったが、深鈴の食客には旅の僧侶もおり、彼等が寺僧を代行する形で供養を行う運びとなった。

 

 戦国の世が始まって百年。これほどまでに民の味方となってくれる軍勢は存在しなかった。

 

 これで漸く、新しい世が開ける。

 

 南蛮風の紅い外套を翻し、威風堂々の言葉を体現したかのように進む信奈を見て、ある者はそれを確かな実感として、またある者は無意識の内に、しかし誰もがその予感を覚えていた。

 

 さて、上洛した信奈がまず深鈴に下した命令は、二つ。一つは京の町の清掃作業指揮、もう一つは山科言継(やましなときつぐ)卿への挨拶である。

 

 山科言継と言えば信奈の父である織田信秀や教育係であった平手正秀とも親交のあった公卿で、二人から信奈に受け継がれている勤王の志は、彼によって啓発されたものと言って良い。しかも彼は世間一般に於ける公卿のイメージとは異なる気さくな人柄であり、優れた医療知識によって公家達のみならず庶民にも治療を行いしかも無理に治療費を取り立てる事がなかったので、民からも人気があった。

 

 本来なら信奈自らが出向くのが筋なのだが、彼女は彼女で連日のように押し掛けてくる「礼の者」への対応に追われていたので動くに動けず、名代として深鈴を向かわせたのだ。

 

 果たして対面した山科卿は聞いていた通りの温厚な人物であり、信奈が自ら来なかった事に怒るどころか、彼女の上洛とその後の行動を受け、

 

「これで漸く日ノ本に朝が来たように思えまする。信奈殿にもよろしくお伝えの程を……」

 

 と、涙ながらに語り、自分の力の及ぶ限り信奈に協力する事を約束してくれた。深鈴としても役目の一つが無事に終わった事に胸を撫で下ろして、逗留先である九条の東寺への帰路に就いていた、その時だった。

 

「んっ?」

 

 前方から、物凄い地響きと砂埃を立てて、何かがこっちにやってくる。

 

「銀鏡氏、お気を付けあれ」

 

「下がって、銀鈴」

 

 護衛役として付いてきた五右衛門と犬千代が、それぞれ苦無と朱槍を構えて前に出るが……

 

「あれは……」

 

「……蝮?」

 

 物凄いスピードで一団の先頭を走ってくるのは、信奈達と共に上洛を果たした斎藤道三であった。

 

 この老人、もう六十を越える高齢であり一時期は年相応にすっかり老け込んでしまっていたものだが、深鈴の食客料理人が拵えた江馬の栃餅を一日三回食すようになってからは往年の気力体力が蘇ったかのように元気を出し、先の観音寺城の戦いでも一番槍の勝家に続くようにして突入部隊に参加しており、彼女や犬千代にも引けを取らぬ槍の腕前を見せ付け、「老いて益々盛んとは道三殿の事だみゃあ」と謳われたものである。

 

 今も、下駄履きでありながら100メートル走で11秒切りそうな猛スピードでこっちに向かってくる。その後ろからは数え切れない程の老婆達が、これも彼に負けない程の脚力で押し掛けてきていた。

 

「お久し振りですのう、庄九郎殿!!」

 

 彼女達は口々に道三を「庄九郎」と呼んで、鬼気迫る面持ちで追い駆けっこを演じている。これは一体全体何の騒ぎかと、間に割って入った深鈴が尋ねてみると……

 

「この人は今でこそ斎藤道三などと名乗っておりまするが」

 

「若い頃には西村勘九郎、長井新九郎など次々名前を改められ」

 

「『この○○○○○、いずれ美濃から京に参ってそなたを迎えに来るから、三千貫ほど貸してくれい』などと口説いてワシらを口説いてまんまと軍資金を調達し」

 

「そのまま二度と京へ戻って来なかった」

 

「うん、良いわ。五右衛門、犬千代。斎藤殿を皆さんの中に放り込んで」

 

 深鈴とて女である。主の義父であり信奈と同じぐらいに尊敬していた彼がその実、こんな女たらしだったとは。

 

 不実の輩にはお灸を据えてやらねばと指示し、

 

「合点承知」

 

「……最低」

 

 二人も同じ感想を抱いていたのか、実行に躊躇いが全く無い。ひょいと、道三を抱え上げて運んでいく。

 

「ちょ、お嬢ちゃん!! そこを何とか!! 助けてくれ!!」

 

 結局、涙ながらに道三がそう訴えるのでお仕置きは適当な所で止めておいて老婆達の訴えは深鈴が聞いておき、道三はその隙に半兵衛が安全な所まで連れて行く事となった。

 

 老婆達は次々かつ口々に「金を返せ」「若さを返せ」と自分の事情を訴えてきて、深鈴はこの時、聖徳太子がどれほど凄かったのかを身を以て理解する事が出来た。

 

 一方、半兵衛と共に猛ダッシュして郊外まで逃げ延びた道三。栃餅パワーは偉大であり、半兵衛もまた少し前とは見違えるように体力を充実させていた。以前の彼女では長距離の全力疾走など、考えもしなかった。

 

「ふう、ふう……やれやれ、身から出た錆とは言えエライ目に遭ったわい……こりゃあワシは、一足先に岐阜城に引き返した方が良さそうじゃな……元々その予定じゃったし……」

 

「はあ、はあ……あれは道三様が悪いです。せめて戻ったら、謝罪の手紙ぐらいは……」

 

 こんなやり取りを交わしていた二人であったが、息が整うと同時に半兵衛は真剣な表情となり、懐から口を縛った袋を取り出し、道三へと差し出した。

 

「半兵衛、これは……?」

 

「もしこの先、事態に急変あった時には……この袋を開けて下さい」

 

 

 

 

 

 

 

 こんな一悶着があったものの、翌日には織田の武将達は三好の残党達を掃討して畿内を平定すべく、四方八方へと散った。

 

 深鈴には、京の中心部に位置する「やまと御所」の警備が割り当てられた。個人で抱える千余の食客達によって様々な局面に対応出来る彼女であるが、配下にいる織田家正規の兵自体はそう多くなく、本人にも武力は皆無、食客達も戦闘が得意な者は二百名足らずといった所。そうした事情から仰せつかったこの役目であった。

 

 だが留守番役など退屈な役目、と馬鹿にしたものではなく、松永弾正は大和へ帰国したが三好一党が未だ信奈に抵抗している不安定なこの現状、御所の警備は重大任務だと言える。

 

「しかし、これが噂に聞いたやまと御所とはね……化け物屋敷の間違いではないのかね?」

 

 公卿の連中に聞かれたら打ち首にされても文句が言えないようなこの暴言。そんな怖いもの知らずは食客どころか織田家中全て見渡しても一人しか居ない。

 

 森宗意軒。この説客は宣教師の服にボロの外套、頭には山高帽といったいつも通りの装いで、観光旅行のような足取りで深鈴に付いて、御所を見て回っていた。

 

 繰り返される戦乱によって京は荒れ果てており、やまと朝廷の頂点に立つ姫巫女様がおわすやまと御所さえ、あちこちの壁が崩れて、その隙間から京童が物珍しげに覗き込んでくるという有様であった。

 

「宗意軒……!!」

 

 歯に衣着せぬ彼の物言いに「もし聞かれていたら」と深鈴は頭を抱えるが、しかし少しばかり考えてそれは無いなと胸を撫で下ろす。このどうにも掴み所の無い強かな男が、そんな初歩的なミスを犯す訳がない。

 

 暗躍する五右衛門や段蔵達が盗賊を捕まえる以外には目立った出来事も無く、昼過ぎになって今日は平和に終わるのかと思われた頃だった。

 

「おや?」

 

 何やら御所の一角が、ざわざわと騒がしくなっている。悲鳴が聞こえない事から刃傷沙汰の類ではなさそうだが……

 

 とは言えこれは、警備役として放っておく訳には行かない。

 

「子市、何人か連れてきて。行くわよ」

 

「はい、深鈴様」

 

「俺も行こう」

 

 そうして騒ぎの中心へと足を運ぶと、どうやら二組が言い争っているようだった。

 

 一方の団体は牛車の前に立つ平安貴族風の衣装や白塗りの顔、お歯黒、丸眉と公家・麻呂というイメージそのままの男を筆頭にして、その取り巻き達も身なりの良い者ばかりだ。

 

「異国の女は香水臭くてかなわんでおじゃる。そんな臭いをぷんぷんさせながら、御所の周りをうろつくなと言うておる!!」

 

「その通り!! 分を弁えよ!!」

 

「これだから奥州の粗忽者はいかんな!! 京の礼儀を知らん!!」

 

 もう一方は、二人。真っ直ぐに公家風の男と向き合う金髪に眼帯をした黒ずくめの少女と、

 

「何を!! 仮にも我等は公式の使節!! 如何に関白であろうとこれ以上の無体を働くなら、我が必殺剣・”十二使徒再臨魔界全殺”(ボンテンマルモカクアリタイスゴイソード)で……」

 

「いけません!!」

 

 進み出て彼女を窘めるのは、修道服に身を包んだ金髪の女性だ。深鈴にしてみれば、この時代にやって来て初めて見る西洋人である。相当な美女だが、しかし目線が行くのはその胸元……大きい。深鈴とて十分に恵まれたプロポーションでありそれなりに自信を持ってもいたが、そんなちっぽけな自負は風の前の砂塵の如く吹き飛ばされた。

 

「ま、負けた……!!」

 

「おいおい……」

 

 いきなりがっくりと両手を地面に付いてしまった深鈴だったが、しかし彼女の再起動は早かった。すぐさま己の本分を思い出し、ぱんぱんと手を叩いて双方を制止する。

 

「双方そこまで!! ここは仮にも姫巫女様のおわす御所の前。喧嘩狼藉は御法度ですよ」

 

 割って入った事で、両陣営の注意は彼女に向いた。しかし、反応は全く違う。眼帯の少女侍は渋々といった様子で柄から手を離し、修道女(シスター)はにっこりと笑みを向けてくる。

 

 逆に麻呂とその取り巻きは見るからに不機嫌となり、「余計な事を」と口走る者さえ居る始末であった。

 

「ふん、野卑な奥州人と南蛮娘の次は尾張の田舎者とは。今日はつくづく下詮の者に縁がある日でおじゃる」

 

 典型的を通り越して古典的な程の上から目線の物言いに、深鈴は不快を覚える。が、御所警護の自分がまさか公家を害する訳にも行かないと心を落ち着かせ、まずは問う事にした。

 

「……失礼ですが、お名前をお聞かせ願えますでしょうか?」

 

 そう言われてしかし、麻呂の取り巻き達は「この方を知らぬとは!!」「これだから田舎者は!!」と、ますます声高になった。数分程もめいめいが言いたいだけ言って漸く満足した所で、麻呂はふんぞり返るように胸を張ると、

 

「麻呂は藤原家の氏の長者にして関白、近衛前久でおじゃる!!」

 

「!!」

 

 それを聞いて、流石の深鈴も表情を変えた。確かに関白と言えば雲上人。腹立たしくはあるがこの居丈高な態度にも頷けるというものだ。

 

「……成る程。しかし理由は兎も角、先程も申し上げた通りここは御所の真ん前であり、私は信奈様よりここの警備を任された身。関白であろうと揉め事の類は、ご遠慮願います」

 

 深鈴がそう自分の立場を説明すると、前久はにやりと笑い、「成る程、貴様が噂の今信陵君、銀の鈴でおじゃるか」と、矛先が金髪二人組から彼女へと向いた。

 

「帰って信奈に伝えよ!! 尾張のうつけ姫に負けた今川の幕府なぞ認めぬでおじゃる!!」

 

 それを皮切りとして、足利幕府が堕落していたが故に京が戦火に包まれた、お陰で自分の荘園は悪党に奪われ御所は荒れ放題、故に武家に日本の統治は任せておけないから、これからは関白である自分が姫巫女の下で新たな政治を始めると、全部一息で言い切ってしまった。

 

 流石に疲れたのか一度息継ぎすると、前久は更に続ける。

 

「しかも恐れ多くも御所の警備に、こんなどこの馬の骨とも分からぬ者を寄越すとは!! 流石はうつけ姫よの!!」

 

「「何だと!?」」

 

 主である深鈴と、その主である信奈を同時に侮辱され、腕自慢の食客達や足軽は一斉に表情を険しくさせた。子市も、思わず種子島の引き金に指を掛けようとして、すんでの所で思い留まる。

 

 前久の罵倒は終わらない。

 

「さっさと去ぬがよい、いつまでもそのような品の無い姿でうろつかれておっては、御所が穢れるであろう!!」

 

 続け様に飛び出た悪口雑言に、思わず刀の柄に手を掛けた者や拳を握ってずんずんと進み出る者が現れたが、しかし深鈴はばっと手を翻して、彼等を制した。

 

 関白ブン殴ったら織田家はたちまち朝敵、自分も信奈も一巻の終わりだ。深鈴はそれが分かっているから堪えているし、逆に前久はそれが分かっているからこうもあからさまに、挑発してくるのだ。

 

 前久は楽しんでいるかのように、いや事実楽しんでいるのだろう。よくもこれほど舌が回るものだと、感心する程に挑発を重ねていく。

 

「ほれほれどうした? そこの者、握り締めた拳を振り上げ、高貴な麻呂を殴ってはどうじゃ? それだけの覚悟があればの話でおじゃるが。そなたらと麻呂では天と地ほど身分が違うでおじゃる。礼も法も知らぬ田舎者は、さっさと京より失せるでおじゃる」

 

「近衛殿、礼を知らぬはどちらだ!!」

 

 自分の事でないとは言え、見てはおれぬと金髪の少女が進み出るが、しかし前久の前にずいと出たのは彼女ではなく深鈴でもなく、宗意軒であった。

 

「何じゃ、こんどは南蛮かぶれか?」

 

「近衛殿……」

 

 宗意軒は親指でくいっと帽子のつばを持ち上げると普段通りの笑みのまま、話し始めた。

 

「確かに我等は礼も法も知らぬ蛮人……」

 

 相手の罵倒を自ら認めるその言葉に、足軽の数人は思わず「なっ」と口走り、この卑屈な態度を受けて麻呂はご満悦とばかり唇を歪める。だがその笑みは、すぐに凍り付く事となった。「故に」と前置きして、宗意軒の目が見開かれる。

 

「頭に血が上れば後先考えずに何をしでかすやら、自分でも分かりませぬ……貴殿も我が身が可愛ければ、気を付けられたがよろしかろう」

 

 怜悧な三白眼と冷笑を向けられ、前久は思わず怯んだ。そして同時に、この場に居る全員が一つの事に気付く。

 

 確かに近衛前久は関白であり自分達と身分の違いは天地の差だ。しかし今の彼は見る限り丸腰であり、取り巻き達も公家風衣装で佩刀しているのが数人いるだけ。一方で、もし御所を荒らすような不届き者が現れた時に備えて織田兵達は鎧兜で武装し、槍刀を手にしている。子市の種子島もあるし、何より人数が多い。万一戦う事になればどちらが勝つかなど、火を見るよりも明らかだ。

 

 まさか、と前久は思うが、同時に「いやひょっとして」という可能性も頭をよぎる。もしそんな事をすれば織田家は何もかもお終いであろうが、それでも構わないと言うのならこの者達は自分の命だけは確実に奪う事が出来る。

 

『そ、そんな事が、で、出来る訳が……』

 

 実際にやるやらないは問題ではない。可能性が示唆されただけで十分。権力という万能の暴力を持つ者が最も恐れるのは、それに物言わせた脅しが通じない者と相対する事なのだ。

 

 前久が頼みとしていたものは、今吹っ飛んだ。主の動揺を敏感に感じ取って、取り巻き達も戸惑ったように互いに顔を見合わせる。不安から来る所作だ。

 

 宗意軒の三寸の舌は、関白相手に追い込まれていた状態を、ほんの二言三言で五分にまで戻してしまっていた。

 

 結局、この後は互いに無言のまま一分ばかり睨み合った後、「げ、下詮の者にこれ以上関わってはいられないでおじゃる」と捨て台詞を残して、御所の中に入っていってしまった。

 

 彼等の姿が見えなくなると、眼帯の少女と食客&足軽達。それに深鈴の表情がすっきりとした爽やかなものへと変わる。

 

「森の兄ちゃん!! 嫌なヤツだと思ってたが、見直したぜ!!」

 

「やるにゃあ、あんさん!!」

 

「麻呂のあの逃げっ振りったらなかったにゃあ!!」

 

 彼等を適当に相手しつつ、宗意軒は深鈴の前で山高帽を取ると、ぺこりと一礼する。この時、彼の目は既に普段通りの線目に戻っていた。

 

「深鈴様、出過ぎた真似をしてしまい……申し訳ありません」

 

「良いのですよ、宗意軒……私達の為に動いてくれたのですから……」

 

 と、深鈴のその声を聞いたシスターが「えっ?」と良く通る高い声を上げた。

 

「まさか……宗意軒さん、ですか……?」

 

 少年の方もその声を受けて振り返ると、軽い驚きに僅かながら笑みが崩れる。

 

「ほお……誰かと思えばルイズか。久し振りだな」

 

 

 

 

 

 

 

 ちょうど警備交代の時間が近かった事もあり、引き継ぎの者に後を任せた深鈴達とシスターに眼帯の少女は、近くの旅籠の一室を借りて話す事にした。

 

「へえ、では宗意軒とフロイスさんはお知り合いだったのですか」

 

「はい、もう十年も前になるでしょうか……船が難破して身一つでポルトガルにやって来られた宗意軒さんは教会の庇護の下、主の教えについて学ぶ事となり……私とは同期だったのです」

 

 彼が身に付けている宣教師の服は、その時の名残という訳だ。

 

「そして五年程前に俺は大陸回りで帰国する事にして、ルイズとは別れたのだが……まさかこんな所で再び会うとはな」

 

「これも主のお導きです」

 

 と、その西洋人シスター、ルイズ・フロイスは微笑と共に語る。いつもは鉄のような宗意軒の冷たい笑みにも、今は少しだけ暖かみが宿っているように見える。

 

「昔の宗意軒さんは主の教えに限らず、西洋の文化を学ぶ事にとても一生懸命でした」

 

「ま……昔の事だ。それでルイズ、あんたは何で日本に居るんだ?」

 

 少しだけ照れたように、居心地悪そうに体を揺すった宗意軒が言う。尋ねられたフロイスはやはり慈母のような笑みを崩さずに応じた。

 

「はい、宗意軒さんも知っての通りドミヌス会は伝統あるカトリックの修道会組織であり、海を越えて世界中の人々に主の教えを広げる為に活動しており……」

 

「で、この日本にも布教活動に来たという訳か」

 

 成る程、と宗意軒は頷くと目の前に置かれた紅茶を一息で飲み干してしまった。

 

「しかし、日本では色々と大変でしょう。自分の生まれた国を悪く言いたくはありませんが……この国は昔から封建的かつ閉鎖的な国民性で、寺社勢力が強いですし……」

 

 深鈴の指摘にフロイスは頷き、少しだけ目を伏せて紅茶を一口飲むと、ふうと一息吐いた。

 

「はい、京での布教活動をお認め願おうと、堺の南蛮寺から御所まで来たのですが……」

 

 そこで近衛前久の一団と遭遇して、あの騒ぎになったという訳だ。しかも話を聞くと事前に手続きしていた公式の使者であったにも関わらず、何やかんやと言い掛かりをつけられて御所に入る入れないで押し問答のすったもんだが始まったらしい。

 

「成る程……それで……」

 

 ちらり、と深鈴の視線は南蛮菓子をぱくついている金髪の眼帯少女へと移る。帯刀しているからいずこかの武家の出だとは分かるが、しかしこの衣装はどうだ。全身黒ずくめで南蛮羽織、首からは逆十字のロザリオ、腰には巻いた鎖がじゃらじゃらと音を鳴らし、履き物は革ブーツ。一言で言うのなら南蛮かぶれの少女侍といった所か。

 

「我こそは日ノ本転覆を図る破壊の大魔王、”黙示録のびぃすと”こと梵天丸なるぞ!!」

 

「梵天丸ちゃんはイエスさまよりの教えよりもその……”よはねの黙示録”という恐ろしい物語がお気に入りのようで、黙示録のびぃすとに夢中なんですよ」

 

 との、フロイスの説明を受け、深鈴は「ああ」と頷く。

 

「梵ちゃん、私にも昔、似たような経験があるわ」

 

「梵ちゃんと言うでない!! して、銀鈴とやら、似たような経験とは? まさか貴様もかつては、黙示録のびぃすとをその身に棲まわせていた事があるのか?」

 

 興味津々とばかりに片目を輝かせ、身を乗り出して梵天丸が尋ねてくる。深鈴はそんな彼女に、少しだけ自分の過去を話してやる事にした。

 

「私は高校生になってからは陸上部所属だけど、昔から運動もそこそこは出来た方だったから……中学の頃は一時期、人数の足りない剣道部に助っ人に入っていた事もあったのよ」

 

「孝行? 宙額? つまりは寺子屋のようなものか? ふむ、続けるが良い」

 

「で、仮にも試合に参加するからには負けたくはなくてね……でも練習量や場数ではどうやったって正規の剣道部員には勝てないでしょ? じゃあどうしたら強くなれるかと色々と考えて行き着いたのが……」

 

 「これよ」と、すうっと深鈴の指が小さく「666」(なんばーおぶざびーすと)が刻まれた梵天丸の眼帯へと動き、二三度軽く突っつく。

 

「利き目の左目に敢えて眼帯を付けて封じ、死角を増やして距離感が掴めない状態で普段からの生活は勿論、練習もこのまま行う事で、より密度の濃い鍛錬を行おうと、そーいう狙いがあったのよ」

 

 ちなみにこの練習法、歴史マニアの深鈴だからこそ辿り着いた境地だと言える。隻眼の剣豪と言えば柳生十兵衛が有名だが、しかしその十兵衛も実は両眼の剣士で、修錬の為に敢えて片目を封じていたのではないか、という説が存在するのだ。

 

「そしていざ試合の時には眼帯を外して……」

 

「おおっ!! 両眼となったその時、封じられていた真の力が解放されるのだな!!」

 

「うん、まぁ……そこまで派手なものじゃないけど……それでも相手の剣が良く見えるようになって、優勝は出来なかったけど毎年一回戦落ちだった我が部がベスト8にまで残ったのよ」

 

 話がそこで終わっていれば「こんな事もあった」というだけの青春の一幕だったのだが……しかし、なまじ良い成績を残せたのが災いした。

 

 過去に思いを馳せて少しだけ、深鈴の頬が紅くなる。

 

「それから、私の左目には恐ろしい魔力が宿っていて、この眼帯はそれを封印する為の物だと、色々と設定を考えては付け加え……」

 

 未来の深鈴の自室の壁には、中学時代に集めた百本はあろうかというナイフや模造刀(完全に銃刀法違反な物もちらほら)が、ずらりと掛けれている。高校生となったのを機に捨てるかオークションに出そうかとも思ったが、貧乏性な所のある彼女は大金つぎ込んで手に入れた物を、どうしても手放せなかった。

 

 アクションゲームでは使いこなせもしないのに「固い・重い・遅い」の三拍子揃ったキャラや、剣士や槍使いは敢えて外して斧や棍棒使いを好むようになったり。

 

 イケメンばかり出てくる最近のアニメは駄目だ!! もっとオヤジを活躍させろ!! と訳知り顔で語るようになったり。

 

 一番酷かった時など、眼帯が医療用の物から通販で購入した本革製の物に変わった時があった。流石に僅か三日で、担当教師に没収される羽目になったが。思うにそれが、厨二病邪気眼から脱却する切っ掛けだったのだ。

 

 高校に上がる頃には眼帯は外して、練習も止めた。部活も陸上部に転向した。腕は今ではすっかりなまってしまって、背丈は幾分大きくなったがあの頃の自分と剣道の試合をすれば、恐らく完敗を喫するだろう。

 

「……と、まぁ……私も昔は色々あったのよ」

 

 ある意味人生の恥部ではあるが、同時に笑い話でもある。元不良の会社員が宴席で行うワル自慢のように、茶菓子をかじりながら深鈴は苦笑しつつ話していく。

 

「成る程、ならば銀鈴は魔眼使いの先達という事か!! だが、我が力は貴様の上を行くぞ!! 聞くが良い、我が名は……!!」

 

「あ、そろそろ帰らないと」

 

 昼七つ(16時頃)の鐘が突かれる音を聞いて、深鈴や宗意軒、それに子市達はすっくと立ち上がった。そろそろ戻って、信奈に今日の出来事を報告せねばならない。

 

 今まさに大見栄切って名乗ろうとしていたタイミングだっただけに梵天丸はカクッと体勢を崩し、盛大にずっこけてしまった。

 

「こらっ!! ちょっと待て!!」

 

「会えて楽しかったですよ。フロイスさん、それに……」

 

 くしゃっと、深鈴の手が梵天丸の頭を撫でた。

 

「……独眼竜……いやこっちでは寧ろ邪気眼竜かな……? 伊達政宗ちゃん」

 

「貴様……知って……?」

 

 目を丸くする梵天丸へにっこり笑いかけて、ひらひら手を振りつつ深鈴は退室していく。

 

「こらっ、ちゃん付けするでない!!」

 

 何テンポか遅れてぷんぷんと怒り出した梵天丸は彼女の後を追って階下へと降りていき、そして宗意軒もフロイスへと頭を下げると、山高帽を被る。

 

「ではまたな、ルイズ」

 

「また会う時まで、お達者で」

 

 優しい笑みに見送られ、彼もまた帰路に就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 この後、数日間は何事もなく過ぎ、それぞれの任務を終えた織田の武将達は清水寺に集結。報告と今後に向けての軍議が行われる事となった。

 

 勝家によって摂津の三好勢は掃討され、長秀によるやまと御所の修復作業も順調に進んでいる。

 

 盗賊達も犬千代や五右衛門達の活躍によって次々捕らえられ、京の治安は回復に向かっている。

 

 長政は道三が昔借金した老婆達への利子を付けての支払いと、ついでに愚痴を聞く係を割り当てられ、げっそりとしていた。

 

 ここまでは良い報告と言えるが、しかし問題が一つ。

 

「関白近衛前久様が仰るには、今川義元の将軍宣下を認めるには、今月の内に銭十二万貫を納めよとの事です」

 

「今月中……後、一週間しかない」

 

 まさしく、無理難題である。

 

「公家衆にしてみれば、今川義元をお飾りの将軍として実権を握ろうとする姫様はさぞや目障りに映る事でしょう……二十五点です」

 

 長秀の採点も辛口だったが、しかしすぐ隣に座っている勝家の表情には不安は無い。

 

「しかし、金で済むのなら問題無いだろう。銀鈴、お前ならそれぐらい、すぐに出せるだろ?」

 

 期待の眼差しを向けられて、しかし深鈴は申し訳なさげに視線を伏せる。

 

「それが……勝家殿。今の銀蜂会では、それだけの大金はちと……出せて五万貫が、やっとという所ですね」

 

 今回の上洛に当たって、数万の兵の武器弾薬、それなりの長期戦を行えるだけの兵糧。これらを揃えるだけの資金は、殆どが深鈴の懐から出ていた。お陰で民に臨時徴税などの負担を強いることなく、信奈軍は装備を調える事が出来た。

 

 しかしそれほど大量の出費は如何に尾張・美濃一の金持ちである彼女でも馬鹿に出来ないものがあり、普段ならポンと出せる金額も今はちと苦しい。勿論、いずれ取り戻して……とは算段しているが一週間では難しい。

 

「はいはい!! 私に名案があるです!!」

 

 今度は光秀が元気良く挙手する。

 

「前に元康殿をもてなす時に用意して、結局使わなかった壺があった筈です。あれは世に二つと無い逸品。売って金にすれば……」

 

「……十兵衛殿、実はアレ……接待が終わった後すぐに競売を開いて、売り払ってしまい……ちなみに、大和から来た客が十五万貫で落札して行きました」

 

 名案をばっさりと切り捨てられ、「ええっ」と上擦った声を上げる光秀。

 

「何でそんな勿体ない事を!!」

 

「いや、他の国だったら税金対策で手元に残しておいたと思いますけど、尾張は楽市楽座が敷かれてますから……売り払って業容拡大した方が良いと思ったんですよ」

 

 実際、それで銀蜂会が上げる利益はより大きくなった。だがもしこうなるとあらかじめ分かっていたらと思うと、あの壺を手放したのはいかにも惜しくなってきた。

 

 とは言え実際問題、あの時点ではこんな事になるとは誰にも分からなかったのだ。それで深鈴を責めるのは酷というもの。光秀もそれが分かっているのと、いつまでも不毛な言い合いをしていても仕方無いと考えたのもあって適当な所で文句を切り上げた。

 

 その後も勝家が「あたしの俸禄を十年間タダに!!」とか「なら家臣全員が十年間タダ働きを!!」とか発言したが、悉く却下されてしまった。

 

「父上が昔、四千貫を御所に奉じて他国の大名を驚かせた事があったけど、いくらなんでも十二万貫なんて法外だわ」

 

「公家衆からすれば、金が欲しいという訳ではないのでしょう」

 

 深鈴のその発言を聞いて信奈、長秀、光秀、半兵衛の四名は「やっぱりね」「同感です」「ですよね」「私も同意見です」とそれぞれ呆れつつも難しい顔で頷く。

 

「先程長秀殿が発言された通り、彼等はどうあっても義元殿が将軍になる事を……引いては、織田信奈が天下人となる事を認めたくないのですよ」

 

 ただ、叛臣を討ち新将軍を擁立して日ノ本に平和をもたらすという大義名分を掲げて上洛してきた織田相手に、何の理由も無しに問答無用で宣下を認めぬと言うのは流石に通らないし、世間の聞こえも良くない。

 

 故に、一週間で十二万貫を揃えろなどと無理難題を突き付けてきた。

 

「じゃあ、どうするんだ? 金を借りるにしても当てが無いし……こうなったら斬り込み強盗でもするしか……」

 

 物騒な事を言いつつ、頭を抱える勝家。

 

「しかし皆さん、ここは逆に考えるべきです」

 

「逆に?」

 

「どういう事? 続けなさい、銀鈴」

 

「確かに近衛前久が突き付けてきた条件は無理難題……しかしここは達成出来る訳がないと考えるのではなく、もしこの無理難題を達成したのなら誰もが信奈様を天下人と認めると、そう考えるべきです」

 

「な、成る程!! 確かにそうだな!!」

 

 半兵衛もいつか言っていた。「不可能を成し遂げてこそ、天下人の器」だと。

 

 勝家はぱぁっと明るい顔になるが、しかし他の面々はそこまで楽観的にはなれない。

 

 確かに考え方を変えれば思考それ自体も前向きなものにはなるだろうが、未だ十二万貫を稼ぐ為の具体案は一つも浮かんではいないのだ。だが……一つの希望もある。

 

 織田家随一の知恵者である彼女がここまで言うのだ。つまりは……

 

「何か、考えがあるのね?」

 

「はい、信奈様……」

 

「はいはいはい!! 考えなら、私にもあるです」

 

 言い掛けた深鈴を遮り、再び光秀が挙手する。信奈は二人を交互に見て「まずは十兵衛から言ってみなさい」と発言を許可した。

 

「堺では現在、豪商・今井宗久がタコ焼きの独占権で大儲けしていて、会合衆は新しい名物料理を欲しがってるです。故に彼等に織田の名物料理を売り込んで、その権利を十二万貫で買わせるです」

 

 「おおっ」と歓声が上がる。確かにそれは名案だ。しかし、名物料理となると……と、そこまで考えが至った時、全員の視線が「あっ」と一人の人物に集中する。誰あろう深鈴に。

 

「先輩にも、少し協力してもらう事になるですが……」

 

 と、光秀。ここまで言えば彼女が何を考えているかは勝家以外には読めた。信奈も「うんうん」としきりに頷いている。

 

「十兵衛の案は分かったわ。で、銀鈴、あんたの案は?」

 

「先程申し上げた通り、今の銀蜂会でも五万貫なら出せるので……私はこの元手を増やす事を考えています。無論、期間が限られているので多少博打にはなりますが……」

 

「デアルカ」

 

 信奈は再び頷く。確かに全くの無から始めるのと元手があるのとでは、利益を上げる為の難易度は天と地だ。これは順当な方法と言えるだろう。

 

「しかし、五万貫を不確実な賭けに使うのは考えものでは」

 

「そうです。手元に置いておけば、それだけ光秀の負担が軽くなります」

 

 長秀や勝家のその意見もまた正論。信奈はしばらく考えた後、決断を下した。

 

「じゃあ、私は両方の案を採用する事にするわ!! 私は堺へ行くから十兵衛、あなたが供をしなさい!!」

 

「承知しましたです!!」

 

 確かに長秀達の意見も正論だが、しかしこれは先程の深鈴の台詞ではないが、信奈なりに逆に考えての判断だった。どちらかの案を取って確実を期す事の逆で、二案を同時進行させる事で一方が失敗した場合に備えるのだ。

 

「銀鈴、あんたの案で、何か入り用なものは?」

 

「……では、織田家奉行職の席を二つ程作り、私にその任命権を下さい。それと、信奈様の影武者を使う事のご許可を……」

 

「……? まぁ、それぐらいは良いけど……」

 

 何とも妙なものを要求されたが、しかし深鈴にはこれまでも奇抜な手段で多大な成果を挙げてきた実績がある。信奈は、それも手伝って彼女を信じる事にした。

 

「竹千代と長政はそれぞれ自分の居城へ。他の者は、引き続き京の守りを!!」

 

「「「御意!!」」」

 

 こうして、織田軍団の次の動きが決まった。

 

 信奈は光秀を伴って堺へ。深鈴の食客数名も一緒に連れて行った。

 

 深鈴は長秀・勝家・犬千代らと共に京に残り、彼女のやり方での金策に走る事となる。

 

 援軍であった元康と長政は、あまり長期間本国を空にしている訳にも行かないので、一時帰還する。

 

 上洛は成り、信奈が天下人となる第一の壁は破られた。しかし、眼前には第二の壁がもう迫ってきている。

 

 その壁を打ち破る為の、次なる戦いはもう始まっている。武器を持たぬ戦いが。

 



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第21話 金策興行

 

 堺、開口神社の境内。

 

 堺の商売を取り仕切る会合衆三十六名が一同に会していた。信奈とは父の代からの旧知である会合衆代表・今井宗久の声掛けによって集まったのである。

 

 この会合の目的については未だ明らかにはされていなかったが、しかし機密情報とは往々にしてどこからか漏れ出すもの。

 

「大名の織田様が名物料理を披露やて?」

 

「商いの道は厳しいで。果たしてお武家さんに名物が作れるものやろか」

 

「お手並み拝見といきまひょか」

 

 豪商達の間には、既にそうした噂が飛び交っていた。堺の町では今井宗久がタコ焼きの独占権によって巨万の富を得ており、他の商人達はタコ焼きに対抗出来る新しい名物を欲している。代表たる今井宗久の顔を立てる意味もあったが、三十五名の商人達が一人も欠けずに集まったのにはそうした事情があった。

 

 境内のど真ん中には屋台が一つ置かれていて、そこには深鈴から借り受けてきた食客達を従えた料理人姿の光秀が、自信ありげな表情で構えている。

 

「それでは皆さん、手筈通りに」

 

「「「ははっ!!」」」

 

 一体いかなる料理が出てくるのかと会合衆がざわざわ騒いでいるのを尻目に光秀が指揮する料理人達は手際良く料理を作っていき、四半時(30分)程でその料理は完成した。

 

 彼等の前に出されたのは、出汁を醤油などで味付けしたつゆに、大根やちくわ、ジャガイモ、餅入りの巾着、がんも、コンニャク、タコ、ウインナーなど様々な具材をブチ込んだ煮物料理。かつて墨俣築城計画会議の折に振る舞われ、光秀も食した事のある創作料理である。

 

「銀鏡先輩が開発した、煮込みおでん!! さあさあ、感動の涙を流して食いやがれです!!」

 

 鬼気迫る表情でわきわきと十指を動かす光秀に凄まれ、海千山千の商人達も圧倒されたかのように試食に移っていく。箸で具をつまみ口に入れた後に、沈黙。数秒間もそれが続いた後、果たして彼等の反応は。

 

「こ、これは!! 大根は良く煮込まれていて、つゆの味が染み通ってますな!!」

 

「他の具材も、今まで食べた事の無い不思議な食感ですぞ!!」

 

「我々の知るおでんとは全く違いますな。これは酒にも合いそうやね」

 

「これ食ってると体が温まるわ!! これからは寒うなるからな……これは売れるで!!」

 

 まず、上々と言える。信奈も「うん、正直奇をてらっただけの料理だと思ってたけど、美味しいわね」と笑顔で頷いていた。

 

 今井宗久と津田宗及。水面からでは色々と噂のあるこの二人も今この時ばかりは「これは確かに全く新しいおでん、新しい名物料理と言えまんな」「しかし、一体どのような発想をすればこんな料理を作ろうと思い付くのか……」と、同じように感心した表情でちくわとがんもを頬張っていた。

 

 光秀は彼等の反応を見て、「いける!!」という確信を抱く。

 

 名物料理を売り込む為に、深鈴からもいくらかの協力が必要だという言葉の意味は、こういう事だったのだ。事情を話すと、彼女は快く調理法を知る食客達を貸してくれた。

 

『ここまでは、銀鏡先輩の手柄……私の手柄は、ここからです』

 

 全員が箸を置いた頃合いを見計らい、光秀は大仰に手を振って、会合衆等の視線を引き寄せる。そして絶妙の間を取って全員の眼が自分に注がれている事を確かめると、本題を切り出した。

 

「さて、煮込みおでんの味は皆さん良く分かったと思います!! そこで、織田家としてはこの調理法と商売の独占権を売り出したいと思うです!! 我こそはと思われる方は是非、いくらで買い取るかお値段をご提示願うです!! それでは、三万貫から!!」

 

 大きく全員を見渡して光秀がそう言った後、しばらくは無言のまま戸惑ったように隣に座る相手を見やったりもしていたが、やがて一人が戸惑いがちに手を上げつつ、

 

「では……三万一千貫」

 

 そう言った。光秀は殆ど反射的に彼を振り向くと会心の笑みと共に、

 

「はい!! 三万一千貫出ました!! 他にありませんか!?」

 

 観音寺城の戦いの際、開かれた裏門から城兵が逃げ出した時もそうだったが、最初の一人が出れば後はイモヅル式である。商人達は我先に、そして我こそはと次々に手を挙げて声を上げる。

 

「三万三千貫!!」「三万八千貫!!」「三万八千百!!」

 

「三万八千百が出ました!! さあさあさあ!! 他にありませんか?」

 

「四万三千!!」

 

「四万四千!!」

 

 競売の流れは事前に光秀が予想した通りに進んでいる。

 

『理想的です……!!』

 

 心中、にやりとほくそ笑む。

 

 値の上がり幅が百貫単位など小さくなってくれば、泥仕合となるのを阻止しようと必ず、直前の者が提示した金額よりもずっと巨額を提示してくる者が出る。それを狙って、出来るだけ会合衆を煽って落札金額を高める。ここが彼女の腕の見せ所だった。

 

 狙い通りの競売は進み、煮込みおでんに付いた値段はどんどんと高まっていき、とうとう五万貫を越えた。

 

『そろそろ売り時ですかね……』

 

 欲を出していつまでも値を釣り上げようとするのも、最初から売る気が無かったのではと思われて逆効果だ。売る時はきっぱり売る、それも商売の鉄則である。

 

「では、五万五千貫でらくさ……」

 

「七万貫!!」

 

 決まりかけた所で、待ったを掛けたのは津田宗及の一声だった。直前の者を更に大きく上回る巨額に歓声が上がり、今井宗久も「ほう」と感心したように頷く。その後しばらく待ってみたが、結局この額以上を出そうという者は現れず、煮込みおでんの製法と商売の独占権は津田宗及のものとなった。

 

 必要とする額には届かないまでもかなりの巨額を捻出できた。これは煮込みおでんの素晴らしさもあったが、的確に競売を進行させて落札価格を高めた光秀の腕も大きい。

 

『これで、京に残してきた銀鈴が稼ぐ額と合わせれば十二万貫も……』

 

 夢ではない。そう思った信奈が期待に眼を輝かせていた、その時だった。光秀は屋台の裏から取り出した皿を、どんと置く。その上に乗っているのは……

 

「あ、あれは……!!」

 

「煮込みおでんの落札を逃してがっかりしている皆さん、しかしご安心下さい!! 織田が名物料理として用意していたのはあれだけではありません!!」

 

 それを聞いて会合衆達から「おおっ」と、驚愕と期待が入り混ざった声が上がった。

 

「今や尾張では大人気のお菓子「歩帝都秩布酢」!! 一口食べれば病み付きになるこの味!! この製法と商売の独占権を五万貫から売りに出したいと思うです!!」

 

 

 

 

 

 

 

 数時間後、堺の茶屋では。

 

「煮込みおでんは津田宗及が七万貫、歩帝都秩布酢は今井宗久が八万貫で落札……計十五万貫!! やったわね、十兵衛」

 

 ご満悦と一目で分かる表情の信奈がタコ焼きをパクつきつつ、少しばかり遠慮しがちに隣に座る光秀へと笑いかけていた。

 

「料理を考えた銀鏡先輩の手柄もあるですが……」

 

「確かに名物を出せたのは銀鈴の手柄だけど、あれだけの値段が付いたのは間違いなくあんたの手柄。誇っていいわよ、十兵衛」

 

「恐縮です、信奈様……」

 

 光秀は弾かれたように縁台から立ち上がるとすぐそこに跪き、臣下の礼を取る。そんなどこまでも生真面目な家臣に、信奈は苦笑を浮かべる。

 

「これで、仮に銀鈴が失敗してても……」

 

「失敗しないですよ、先輩は」

 

 呟きかけた信奈の声を遮って、光秀が立ち上がる。

 

「十兵衛……」

 

「こんな所でしくじるような相手ならこの明智十兵衛光秀、出世競争の一番手の強敵として認定してないです。どんな手を使うかまでは分かりかねますが……銀鏡先輩はきっと思いも寄らぬ手段で、大金を稼ぎ出すに違いないです!!」

 

 不敵に笑む光秀の目は、好敵手だからこそ抱く事の出来る確信に燃えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 京、清水寺。

 

 上洛を果たした織田軍団の拠点として使われているそこは、今は数えきれぬ程大勢の人間が詰め掛けていた。人が多く居る事を「芋を洗うような」と形容するが、今日この寺に押し寄せてきているのは「芋も洗いようが無い」程の大人数である。それほど多い。

 

「我もともと員(かず)を知らず馳せ集まる……と、いうヤツですね」

 

 群衆の隙間を縫うように歩きながら、深鈴が言う。その言葉は誰ともなく呟かれたものではなく、彼女のすぐ後ろを歩く二人へと向けられたものだ。

 

「確かに、凄い人数ですが……」

 

「これがどうやって、金策に繋がるんだ? 入場料も取っていないって聞いたが……」

 

 長秀と勝家が、きょろきょろと周囲を見渡しつつそう返してくる。これほどの人数が集まったのは入場料無料であったからこそである。

 

「なあ、銀鈴。相撲大会で本当に十二万貫も稼げるのか?」

 

 と、勝家。そう、本日この清水寺で行われる催し物は、相撲の大試合である。上位入賞者には織田家への仕官の道もあるという触れ込みも手伝って、近隣各国から相撲自慢が集まっていた。

 

 客入りもまさに満員御礼。元来、相撲は日本の伝統行事として根強い人気があり、しかも上洛した信奈軍によって京の治安は回復しており、そこに降って湧いた一大興行。戦乱に疲れ、娯楽を求める人々の足がそこへ向くのは必然と言えた。

 

 「本当なら近江の常楽寺辺りで開催したかったのですが」とは深鈴の弁。

 

「ですが……」

 

 そう、「ですが」なのだ。この大会の出場選手などが書かれたパンフレット(これも無料配布)に目を通しながら、長秀が言う。

 

「有名所だけでも百済寺(はくさいじ)から鹿と小鹿。たいとうに、はし小僧、青地与右衛門に鯰江又一郎……そうそうたる面々ですね……」

 

「尾張にも名が届くような相撲自慢ばかりだぞ!! 集めるのにいくら使ったんだ、お前!! 五万貫を増やすどころか減らしちまって……!!」

 

「まぁまぁ勝家殿、落ち着いて下さいよ。それでこれを見て下さい。長秀殿も……」

 

 そう言って深鈴が差し出した紙を、二人は「んん?」と覗き込む。そこには予選が行われる広場の土俵数カ所や、勝ち残った者によって行われる本選の場となる檜舞台を囲むようにずらりと「甲」「乙」「丙」の文字が書き込まれている。

 

 それらの文字はちょうど同じ文字で円を描くように書かれていて「甲」は中心に近く、「丙」は遠い。三文字の漢字で、三重の輪が作られている。

 

「……? なんだこりゃ?」

 

「もしかして……座席表ですか? これ」

 

「はい、長秀殿……確かに入場は無料ですが、自由席以外の指定席は全て有料となっており……より迫力のある相撲が楽しめる「甲」席が最も値段が高く設定してます。これが価格表です」

 

 次の紙を懐から取り出し、二人に渡す深鈴。先程の紙に記されていたのは席の配置。この紙に書かれているのは各席の価格だ。「甲」席には、家老でありいくら信奈が吝嗇家とは言えそれなりには高給取りである勝家ですら「げっ!!」と声を上げる程には高額が付けられていた。

 

「ちなみに、どの席も売り出してすぐに完売しました。流石は我が国の国技。凄い人気ですね。購買層は公家の方々の他に、名主さんも多かったですよ」

 

 この時代に農家と言うと一般的には貧しいというイメージが強いが、名主クラスともなれば下手な公家よりずっと金持ちであったりする。相撲好きの公家や彼等を主なターゲットにしていた深鈴だったが、狙いは見事に当たったと言える。

 

 彼女の考えを長秀も読み取ったのだろう。多少は合点が行ったのか「成る程」と頷く。だが、すぐに難しい顔へと戻ってしまった。

 

「ですがそれだけでは、十分なお金を稼ぐ事は出来ないでしょう?」

 

 的確な指摘を受け、だが深鈴もそれぐらいは想定内とばかりに落ち着いたものだ。「勿論、他にも手は考えてありますよ」と、またしても懐から紙を取り出して、二人に渡す。

 

 流石に三枚目ともなるともう慣れたもので、長秀が広げたそれを勝家が肩越しに覗き込んだ。

 

 今度の紙に記されていたのは清水寺全体の地図であり、そこにもやはり「甲」「乙」「丙」とあちこちに書かれている。

 

「これは、何だ?」

 

「勝家殿、実際のお寺とその地図とを見比べてみて下さい」

 

「んっ?」

 

 長秀にそう言われた勝家が視線を上げると、寺のあちこちに屋台が出ているのが見える。

 

「んんっ?」

 

 もう一度地図に目を戻すと、「甲」やら「乙」やら書かれた場所と、焼き鳥やあんみつ、弁当の屋台が出ている場所は、どこもぴたりと一致している。つまりこれは……

 

「屋台を出す場所が書かれているのか? しかし、この「甲」とか「乙」とかっていうのは……?」

 

「それはそれぞれの場所ごとの格付けですね。人が集まりやすく商売に適した場所ほど高い値段が付いています」

 

 懐から取り出した四枚目の紙、場所代の価格表を渡す深鈴。それを見て勝家は再び「げげっ」と上擦った声を上げた。莫大な金額を動かすであろう出店場所の料金ならば当然かも知れないが、相撲観戦の指定席と比べてかなり高い金額が設定されている。場所を見繕って価格設定したのは深鈴が抱える食客の一人、商人経験者である。見る者が見れば、どこが人の集まりやすい場所かは割とすぐ分かるのだ。

 

「ですが、これほどの数の屋台を出店するなんて……一体どうやって?」

 

「京中の商人に声を掛けました。今度清水寺で相撲大会を開催するので、振るってご出店下さいと。ただし、出店した店は場所代の他に売り上げの一割を織田家に引き渡すようにと条件も付けましたが……」

 

 成る程、指定席代や場所代の他にそうした所から金を捻出する訳だ。だが、それを聞いた勝家が疑問の声を上げた。

 

「そんな条件を付けたら、商人達は出店しなくなるんじゃないのか?」

 

 根っからの武人である勝家は商売に詳しい訳ではないが、それでも売り上げの一割と言えば相当な金額だという事ぐらいは分かる。それを差し出せと言われたら、普通なら出店を断るのではないか?

 

 しかし実際には、地図に記された場所にはくまなく屋台が立ち並んでいる。一体どうして?

 

「いえ、勝家殿……逆です。そういう条件を付けたからこそ、こうして商人達が集まったのですよ」

 

 と、長秀。

 

「?? どういう事だ? 長秀」

 

 頭の上に浮かべた疑問符が目視出来そうな程に首を傾げた勝家に、長秀は苦笑いを浮かべつつ説明していく。

 

「上洛を果たした姫様が、今川義元を次期将軍に擁立して天下人になろうとしている事、そして御所の修理に大金を必要としている事は今や周知の事実。ここで織田家に大金を上納する事は、それだけ未来の天下人に対して自分の名を売る事になり、また織田家を通して間接的にですがやまと御所へ貢献する事になります。先行投資という意味で、これ以上の相手はそうはありませんよ」

 

「な、成る程……そこまで考えてやるものなのか、商売ってのは……」

 

 今は損しても、未来にそれ以上の利益を上げる事を計算して動く。武人として、戦場で今日を生き残る事だけに全霊を傾ける勝家には持ち得なかった視野の広さ、新鮮な物の見方である。彼女は純粋に感心した表情で何度も何度も頷く。

 

 そんな勝家を見て、長秀と深鈴は苦笑しあった。鬼柴田のこんな一面が見られるとは、中々あるものではない。と、気付いた彼女が「むっ」と睨んでくるのを見た二人は申し合わせたように「コホン」と咳払いを一つ。そうやって誤魔化すと、深鈴は説明を続けていく。

 

「他にも、私の食客達にも色々と店を出させています」

 

 深鈴は歩きながら、並んでいる屋台を紹介していく。まずは「木彫り屋」と書かれた屋台の前に来た。

 

「これは……」

 

 店先に並んでいた木彫り細工を、勝家がひょいと手に取る。小さいながらも見事な作りで、今にも動き出しそうな相撲取りの像だ。

 

「この屋台では、出場する力士そっくりの木彫り像を売り出しています。何分、値段が高いのと作るのに手間が掛かるので完全受注生産制。この帳面に住所と名前を記入してもらって代金の半分を支払ってもらい、残り半分は後日に現物を届ける時に受け取るという形式を取っています」

 

 受け取った帳面を長秀がめくっていくと、この時点でも名だたる公家の名前がずらりと書かれていた。「好きなのですね、皆さん」と彼女も呆れ顔だ。

 

「この店は何だ?」

 

 と、勝家。「腐屋」と書かれたその屋台の前には、本が山のように積まれている。屋台の番をしていた女性の食客は「どうぞ、手に取って見てもらって結構ですよ」と差し出してくる。手にした勝家が中身を見ていくと……

 

「こ、これは……!! 信澄と、長政が……そ、そんな……!!」

 

 顔を真っ赤にしながらも、勝家は次のページ、また次のページをとめくる手を止めない。全く新しい世界を目の当たりにして、思いっきりカルチャーショック受けてる。

 

 一方で、そうした分野にもそれなりに造詣のある長秀はまたしても呆れ顔になった。

 

「春画、ですか……」

 

「ええ、何やらこの前の上洛路の途中で急に想像力が湧いてきて新刊が出来上がったという事なので……折角ですからこの機会に便乗して、売り出す事にしたのです」

 

「しかし、春画と相撲に何の関係が……?」

 

「何の関係もありませんね」

 

 深鈴は言い切った。

 

「折角のお祭り騒ぎですから、どさくさに紛れて色々売ってしまおうと思ったんですよ」

 

 見れば春画売買の「腐屋」の他にも盆栽や歌集など、相撲と関係無い商品を売っている屋台がちらほらと見える。それらは全て、深鈴が食客達に出させた店舗だ。

 

「お祭りとなれば、皆さん財布の紐も少しは緩んで、普段は買わない物でも今日ぐらいは……と思うものですからね……特にお金を貯め込んでいる公家の方々が狙い目。この期に、搾り取れるだけ搾り取ります」

 

「悪魔みたいな奴だな……」

 

 そう言いながら、勝家が戻ってきた。顔は深鈴の一面を垣間見た事でどん引きしていて、手には先程の春画を一冊ちゃっかりと抱えている。買ったらしい。

 

 そんな風に話している内に開始の時刻となった。VIP席として用意されたその場所に、太刀持ちの小姓を従えた信奈が姿を現した。

 

 光秀と共に堺に居る筈の彼女の姿を認めて長秀と勝家は思わず「えっ」と声を上げたが、しかしすぐに納得した顔になる。やはり主催者が今をときめく織田の姫大名本人であるのと、その一家臣とでは集客率に圧倒的な差が出る。深鈴が信奈に影武者の使用許可を求めていたのは、こういう事だったのだ。とすれば、彼女になりすましているのは……

 

「前鬼さんは、上手くやってくれています」

 

「今の所、怪しい者も見当たらないでござる」

 

「ぱくぱく……右に同じ……もぐもぐ……」

 

 考えていると今度は半兵衛、五右衛門、犬千代の三人がやってきた。犬千代はどこかの屋台で買ったのだろうイカ焼きを咥えている。

 

 五右衛門と犬千代は、会場の警備役であった。五右衛門は人目に付かないように影ながら、犬千代は要所要所に配置された警備の侍達を指揮する役目を任されていた。

 

 と、彼女達の会話は湧き上がった歓声によって掻き消される。前鬼扮する信奈が「始めなさい」と声を掛けたのを合図として、いよいよ相撲大会が始まったのだ。

 

「さて……じゃあ私も適当に見て回るので……皆さんも楽しんでいって下さい」

 

 深鈴はそう言うと、ふらりと人混みの中に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 相撲大会はつつがなく進み、いよいよ檜舞台で本選が執り行われる運びとなる。ここまで来る中でも様々な名勝負が見れて、観客達のテンションはピークと言って良い。決勝に進んだ力士達を見ただけで歓声が上がる。

 

 自由席の観客達の間でも、誰が勝つかは議論の的であった。特に、長秀が挙げた有名所は全てが予選を勝ち残り、本選に駒を進めている。

 

「鹿に小鹿、たいとう、はし小僧、青地に鯰江……誰が勝ち残ってもおかしくないな……」

 

 町人達に紛れながら観戦する深鈴のすぐ傍に座っている中年男の観客も、そんな一人だった。とそこに、幼い声がかかる。

 

「それほどにかれらはつよいのか?」

 

 その観客と同時に、深鈴の視線もそちらへ向く。そこに居たのは声から受けた印象に違わない、小さな少女だった。禿にした髪に、白と赤の巫女装束を纏った日本人形のような、可愛い女の子だ。

 

「うん? 何だい? お嬢ちゃん」

 

 尋ねられたその観客は、気の良い声でそう返す。「親からはぐれたのかな?」と思った深鈴も、その少女へと近付いていく。

 

「かちのこったものたちは、そんなにつよいのか?」

 

 もう一度、その少女は尋ねてくる。それを受けて中年の観客は、「嬢ちゃんは相撲が好きなようじゃな」と笑いながら解説していく。

 

「そりゃあ強いとも。畿内でも五本の指に入る連中だぞ」

 

「はずれるのはだれぞ?」

 

「えっ?」

 

 そう聞き返されて観客だけでなく深鈴も不意を衝かれたという表情になった。

 

「さきほどろくにんのなまえがあがった。ならばごほんのゆびから、ひとりがはずれよう」

 

 屁理屈と言えなくもないが、しかし中々的確な指摘である。観客と深鈴は、答えに詰まって少女から逸らした目線が、ぴったりと合う。

 

「「うーん……」」

 

 と、難しい顔を二人が突き合わせたその時、またしても横合いから声が掛かった。

 

「外れるのは百済寺の小鹿だ」

 

 観客と深鈴と少女と。三者の視線がそちらへ向く。そこに立っていたのは、道着姿の少年だった。

 

 年の頃は深鈴と同じか僅かに上ぐらいだろう。二十歳には届かないように見える。背丈は大きくないが、しかし体付きは筋骨隆々ではないがしっかりと鍛えられて引き締まっていて、何かまでは分からないが武術の心得がある事が伺える。

 

 何より、後ろ腰に差している刀。鍔無しで金具だけの簡素な作りの短刀だが、身なりと合わせて彼が兵法者であると教えるには十分であった。

 

「では、かちのこるのはだれぞ?」

 

「それは……」

 

 少年が答えようとして「ぐう」という音がその言葉を遮る。他三者の視線が、今度は彼の腹へと集中した。

 

「……あー、こんな物しかありませんが……」

 

 深鈴がややあって懐から取り出したのは、竹の皮の包みであった。紐を解くとそこからは白と黒のコントラスト、握り飯が二つ、姿を現す。昼食用に持ってきたお弁当だ。

 

「良ければどうぞ」

 

 一つを差し出されて少年は「ありがとな」と受け取る。それなりの大きさもあった握り飯は、しかしものの十秒で彼の口中に消えてしまった。その見事な食いっ振りには深鈴も観客も「おおっ」と感心の声を上げるばかりである。

 

「あなたも、良かったら……」

 

 残ったもう一つを、深鈴は少女へと差し出す。彼女は「かたじけない」と丁寧にお辞儀をして両手で受け取ると、ぱくりとかぶりついた。しかしやはり彼女が食べるには少し大きいようで、食べ切るには時間が掛かる。

 

 そうしてやっと少女が握り飯を全て食べ終えたその時だった。檜舞台から歓声が上がる。見れば、小鹿が深尾又次郎という相手に投げられた所だった。

 

「ほう、本当に小鹿が最初に負けたわ。坊主、若いのに大した眼力じゃの」

 

 観客は感嘆の声を上げる。

 

「それで、勝ち残るのは誰になるのかしら?」

 

 深鈴のその問いに少年は「そうだな」と一つ前置きして、しかしさほど考えた素振りも無くすぐに答える。

 

「青地と、鯰江辺りかな」

 

「そのふたりはつよいのか?」

 

「離れて青地、組んで鯰江……かな」

 

 と、少年が予想を語っている間にも試合は進み、先程小鹿を破った深尾が、今度は鹿を投げ飛ばしていた。名前は聞かなかったが、強い。

 

 次の試合はたいとうとはし小僧の対決となり、はし小僧が名前通りの素早さでたいとうを翻弄し、巨体を誇るたいとうを投げていた。

 

 これによって残ったのは深尾と鯰江、青地にはし小僧の四名となった。続けて準決勝が行われるが、この試合は対照的な展開となった。

 

 まず深尾・鯰江戦は互いの巌のような筋肉が震えるのがはっきり分かる程の力相撲となり、がっぷり四つに組んでどちらが勝つか観客達は残らず手に汗握る展開となったが、最後には鯰江が投げて勝利。

 

 一方で青地・はし小僧戦は、たいとう戦と同じく素早さを活かしたはし小僧が青地の膝に蹴たぐりを食らわせたが、しかし青地はびくともせずに張り手ではし小僧を吹き飛ばして勝利した。

 

 これで、残ったのは青地と鯰江の二人。

 

「流石ね……あなたの言った通りになったわよ」

 

 笑いながら言う深鈴に、少年の方もにっと笑って返す。

 

「それで、あの二人で大一番をやったらどっちが……」

 

 言い掛けた深鈴の声は、遮られてしまった。今度は腹の虫ではなく、もっと大きな鐘の音にだ。八回、鐘の打ち鳴らされる音が響いてくる。昼八つ(14時頃)を知らせるものだ。

 

 少女はそれを聞いて、すくっと立ち上がる。

 

「ん? どうしたの?」

 

「そろそろもどらねばならん。きょうはこっそりぬけだしてきたから、かえるのがおそくなればみながしんぱいする」

 

 それを聞いて深鈴は「ああなるほど」と頷く。道理で、両親の姿が見当たらなかった訳だ。しかしだとするなら、いくら治安が回復したとは言え女の子一人で今日の町を帰らせるのは……

 

「…………」

 

 ちらり、と檜舞台に目をやる。大一番を見れないのは心残りだが……仕方無いか。

 

「じゃあ、私が送っていくわ。皆さんはこの後も、楽しんで行ってね」

 

 そう言って深鈴は、少女の手を取る。そうして檜舞台から去っていく二人に少年は「握り飯ありがとな」と手を振って、観客の方は「ここからが良い所なのにな」と、惜しむように言って見送った。

 

 深鈴と少女、二人が歩く京の町は、三好や松永の兵が支配していた頃の無法地帯振りが嘘であったかのように治安の回復を見せていた。

 

「お嬢ちゃん、相撲大会はどうだった? 楽しかった?」

 

 いくらかの期待を込めて、手を繋いで隣を歩く少女に深鈴が尋ねる。彼女としては自分が立案した企画であるだけに、五右衛門や半兵衛といったどうしても贔屓目の入る身内ではなく、こうした第三者の意見は是非聞いておきたかった。

 

「たのしかったが、いちばんみたかったものがみれなかったのはこころのこりだ」

 

 そう言われて深鈴はさもありなんと苦笑する。

 

「そうね……もう少しで大一番だったのに帰る時間が来てしまうなんて」

 

 が、少女はそう言われて首を横に振って返した。

 

「あら……相撲を見に来たんじゃないの?」

 

 少女は、もう一度首を横に振る。

 

「きょうは、おだのぶなをみにきよみずでらにあしをはこんだが、るすであったのはざんねんだ」

 

「……!!」

 

 そう言われて、深鈴は表情には出さないが心中で少なくない驚きを感じていた。前鬼の変装、否、変身はどんな熟練の乱波でも裸足で逃げ出すようなもの。現に数え切れない程詰め掛けた観客の中で誰も気付いた者は居なかったのに、それをこの少女は見抜いている。

 

『一体……? 巫女服を着ている事だし、半兵衛のような陰陽道の心得があるとか?』

 

 それならば説明も付くが……と、考えている内に少女の足が止まった。家に着いたのかと顔を上げて、深鈴は思わず「えっ」と口走ってしまう。そこはやまと御所。つい先日まで、自分が警備を任されていた場所なのだ。間違える筈がない。

 

 御所の正門まで来た所で、少女は繋いでいた手を離した。

 

「ここで良いの?」

 

「せわになった」

 

 少女はそう言って、御所の中に消えていく。「住み込みの巫女さんだったのかしら?」と考えつつ、手を振って見送る深鈴。と、しばらく御所内部に進んだ所で、少女が振り返った。

 

「たのしかった、ぎんれい。ちんはこころよりれいをもうすぞ」

 

 その言葉を最後に、今度こそ少女は御所の中へと消えていった。一方で正門の所に残された深鈴は、ぽかんと口を開けたままにしている。

 

 彼女は自分を指して「朕」と言った。この国で、一人称としてその言葉を使う者は、唯一人。

 

『まさか……姫巫女……様? けど……いくら何でも姫巫女様が護衛も付けずに一人で出歩くかしら? まさか、いやひょっとして? それに名乗った覚えも無いのに私を”銀鈴”と呼んだし……い、一体?』

 

 ……などと狐につままれたような思いで清水寺に引き返すと、そこでも思いも寄らぬ事が起こっていた。

 

「銀鏡氏、待っていたでござる!!」

 

「……やっと帰ってきた」

 

「お前が居ない間に、凄い事になっていたぞ!!」

 

 集まっていた五右衛門や犬千代、勝家達が出迎えてくれた。どうも、様子がおかしい。

 

「……何か、あったんですか?」

 

 尋ねると、「それには俺が答えよう」と、いつも通りの木綿筒服に戻った前鬼がやって来た。

 

「あの後、勝ち残った青地と鯰江で大一番を行う前に、座興として誰かこの二人と仕合いたい者は居らぬかと挑戦者を募ったのだがな」

 

 勿論、前鬼としてもそれはあくまで戯れ。直前まで繰り広げられていた激戦を見て、挑戦しようという者など居らぬだろうと考えていた。

 

 だが、事実は常に想像の上を行くもの。名乗り出た者が一人、居たのだ。

 

「道着を着た、まだ二十歳にもならぬであろう小僧でな」

 

「……道着を着た……?」

 

 そう聞いて深鈴の頭に浮かぶのは、少し前まで一緒に試合観戦をしていた、あの少年の姿だ。しかしすぐに「まさかね」と思い直す。道着を着た少年なんて、探せばいくらでも見付かるだろう。

 

「……続けて下さい、それで……どうなったんです?」

 

「どうもこうもない!! 凄かったぞ!!」

 

 興奮気味に前に出たのは、勝家だ。長秀や犬千代も続く。

 

「五尺そこそこしかない体なのに、青地や鯰江に一歩も引かなかった……どころか」

 

「……二人を手玉に取って、勝った」

 

 少年が、畿内でも恐らくは最強の相撲取りを、しかも二人も相手にして?

 

 何かの冗談かとも思ったが、しかし流石にこれだけの人数が集まって、共謀して冗談を言うとも思えない。それに、とも深鈴は思う。

 

『彼のあの眼力……もしや……?』

 

 相撲大会本選の成り行きは、全てあの少年が言った通りに進んだ。あそこまで見立てが優れていたのだ。体は多少小さいが相当に腕が立ったとしても、何の不思議も無い。腰に差していた短刀から、彼は恐らくは小太刀の使い手。富田流、名人越後辺りの流れに違いない。

 

「そ、それで、その少年は?」

 

 多少興奮気味に尋ねる。そんな深鈴を見て犬千代は「……また始まった」と溜息を一つ。

 

「それがな。褒美に何が欲しいかと聞いたら握り飯を一人前と答えて、受け取ったらさっさと帰ってしまったぞ」

 

 前鬼のその言葉を受けて「そうですか」と、力の抜けた声で返した深鈴は肩を落とす。しかし、それも僅かな間だった。すぐに顔を叩いて気持ちを切り替えた。彼とはもっと話して、あわよくば食客として迎え入れたかったが、今回は諦めよう。縁があればまた、逢う事もある筈だ。その時に敵同士でない事を祈るとしよう。

 

「では前鬼さん、勝ち残った青地さんと鯰江さんは、二人とも織田家の相撲奉行として召し抱えると伝えて下さい。勿論、信奈様に変身した上で」

 

「あいわかった」

 

「五右衛門と犬千代は、引き続き会場の警備を。大会が終わって、全ての人が帰るまで何の問題も起こらないようにして」

 

「承知」

 

「分かった」

 

「半兵衛、あなたは私と一緒に、この大会の収支を計算する手伝いをしてくれる?」

 

「分かりました」

 

 深鈴のてきぱきとした指示を受け、祭りの後始末が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、清水寺で開かれた相撲大会は終わった。

 

 指定席の代金、屋台を出店していた京の商人達から集まった金、食客達が上げた利益。これらを総合して各方面への支払い等を済ませた後、深鈴の手元に残った純利益はざっと十三万五千貫。興行的には大成功と言って良い。

 

 数日後、信奈と光秀も京に戻ってきた。

 

 光秀と深鈴は、共に近衛前久から出された将軍宣下の為に御所に納めるべき十二万貫を大きく上回る大金を稼ぎ出した。稼いだ金額では光秀が上回っていたが、しかし彼女は信奈に対して今回の手柄比べは引き分けだと語っている。

 

「確かに私の方が多く稼ぎましたが、銀鏡先輩に助けられた部分もあるです。故に結果は引き分け、私達の勝負はまだついてないです」

 

 これを聞いた信奈は、

 

「デアルカ」

 

 と、破顔一笑。二人には平等に恩賞を与え、他の織田家臣団も納得した様子であった。

 

 その翌日、光秀によってやまと御所に二十五万貫が届けられた。無理難題として出した倍以上の金額を納められて、近衛前久は腰を抜かしていたらしい。

 



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第22話 清水寺の戦い

 

 先日は相撲大会で大いに賑わった清水寺も、祭りが終わった今となっては寺という場所が持つイメージに違わず静かなもの……では、なく。

 

「おーっほほほ!! 遂に念願の今川幕府を開く時が来ましたわ!! ご苦労でしたわね、信奈さん!!」

 

 征夷大将軍と言っても名ばかりのお飾り、人質として織田家に飼われているというのが偽らざる現状ながら、全く以てそれを理解していない義元の甲高い笑い声をバックミュージックに、信奈と深鈴は碁に興じていた。

 

 形勢はほぼ五分五分であろうか。信奈の方が純粋な棋力では上回っているだろうが、尾張にいた頃は道三と三日と空けず打ち合っていた深鈴は中々に粘る。未だ見えない勝敗に、傍らで勝敗を見守っていた長秀や半兵衛、光秀も思わず固唾を呑んだ。

 

「どっちが勝ってるんだ?」

 

「……分かんない」

 

 蚊帳の外に置かれたのは勝家と犬千代の二人。織田家中でも取りわけ武に秀でた両名であるが、しかし武の道に特化しているが故に、こうしたものには疎かった。

 

 と、何の前触れも無く、そんな盤上の勝敗への懸念など吹っ飛ぶような報告を持った小姓が駆け込んでくる。

 

「川中島で睨み合っていた武田と上杉が、電撃的に和睦致しました!!」

 

「!! 何ですって!?」

 

 思わず立ち上がる信奈であったが、しかし二の手三の手と、続け様に報告が入ってくる。それも選ったかのように悪いものばかりが。

 

「同盟を組んだ武田・上杉はそのまま連合軍を編成して、尾張へ向けて動きました!!」

 

「連合軍の規模は、総勢五万!!」

 

 次々舞い込んできた大変な報告を受け、先程まではのんびり碁の趨勢を見守っていた面々も表情を険しくして、場はにわかに色めき立った。

 

「三ヶ月は睨み合ったままだと思っていたのに、早過ぎるわね」

 

「信奈様の上洛強行を受け、これ以上争っている場合ではないと、両者の意見が一致したのでしょう」

 

 半兵衛の考察は理に叶ったもので「成る程」「確かに」と声が上がる。

 

「た、大変だ!! すぐ、尾張に引き返さなくちゃ……!!」

 

「情勢は三点……しかし、今は姫様が天下人になれるか否かの瀬戸際……京を空にする訳には……」

 

「ですが京を確保出来ても、尾張・美濃を獲られては本末転倒です」

 

 この情勢下でどう動くべきか、家臣団は激論を交わしていくが、深鈴はその喧噪からやや離れた所で別の事に思いを馳せていた。

 

『……来るべきものが来た、という事かしら……?』

 

 覚悟はしていたが、思ったより早かった。

 

 武田・上杉連合軍による尾張への侵攻。これは深鈴の知る正史には、無かった流れだ。

 

 どうしてこうなったのか?

 

 それは決まっている。自分だ。現代よりの来訪者、”異物”である自分がこの時代に在って生き残る為に行った様々な行動。その蝶の羽ばたきが巡り巡って大竜巻となって、歴史を異なった方向に導いている。

 

『……とは言え私とて、歴史が変わる事、それ自体は元より承知の上』

 

 だから、変わっても自分の優位性が消滅しないように色々と手を打っていた。

 

 しかし、今回の報告は事が事だ。戦国最強兵団を率いる「戦国の巨獣」とそれに唯一対抗出来る「越後の軍神」の連合軍五万となれば、それに勝てる戦力はまず今の日ノ本には存在すまい。

 

 尾張の防波堤的役割を担っている元康の三河など、この大津波の前にはひとたまりもなく水没するだろう。織田・松平・浅井が束になっても勝ち目は乏しい。

 

 つまりこの状況は織田にとっては九割方詰み、と言えるのだが……

 

『ただし、報告が全て本当ならば、の話だけど』

 

 心中でそう呟いて考えを整理すると、深鈴は手にした扇子で膝を叩いて「段蔵!!」と叫ぶ。数秒の間を置いて彼女の影が質量を持ったかのように盛り上がり、やがて一人の忍者へと姿を変えた。「飛び加藤」こと加藤段蔵。五右衛門と並んで深鈴付きの乱波である。

 

<ここに推参>

 

「段蔵、私はそんな話を聞いてないけど、あなた達諜報部隊も、そんな情報を掴んでいた?」

 

 天才忍者は、しかしふるふると首を振ると懐から紙片を取り出して寄越した。そこに書かれていた内容を読み上げていくと……

 

「武田・上杉の和睦は確定事項なれど、連合軍の結成及び尾張へ侵攻したという事実は確認されず……だ、そうですが……」

 

 しかしその報告を聞いても、信奈は浮かない顔だ。

 

「けど、万一って事があるでしょ? それに、あんたの情報網が間違ってるって事も……」

 

 自慢の諜報部隊を揶揄されるような物言いだが、しかし深鈴は落ち着いたものだ。自分の配下を信用していない訳ではない。しかし、特に武田信玄は乱波を多く用いる事でも有名だ。そうした水面下での諜報合戦によって、正確な情報が掴めていないケースが有り得るという話だ。

 

 それを考えると深鈴の意見は、

 

「確かに、万一の事態を考えると、兵を尾張に戻さなくてはならないでしょう」

 

 妥当と言えば妥当な所に落ち着いた。信奈もそれを聞いて我が意を得たりとばかりに笑みを見せるが、しかし深鈴は「ただし」と一言を加える。

 

「万全の備えをしてからでないと、危ないと思います」

 

「万全の備え……と言うと?」

 

「もし武田・上杉連合軍が尾張に迫っているのが本当なら話は単純ですが……仮にそれが誤報だった場合、そんな噂がどこから出て来たのか、という話です」

 

「どこから……って……あっ……!!」

 

 聡い信奈はそれだけの説明で全てを察し、はっとした表情になった。火の無い所にも煙は立つ。もし連合軍なんて存在しないのにそんな情報が入ってきたとすれば、誰かが作為的にその情報をでっち上げて流したという事だ。

 

「私自身、同じ事をやった経験がありますからね」

 

 しかも全く同じネタで。

 

 あの時は武田・上杉が同盟して、義元が上洛して留守の駿府を脅かそうとしていると流言を広め、尾張の国境から今川軍を撤退させたのだ。

 

『同じ手を仕掛けられたのは屈辱だけど……』

 

 しかしそれ故にこの発想に至る事が出来た。今回のも同じように何者かの流言だとしたら、その”何者か”が誰かなのかはこの際さて置くとして、何の目的でそんな偽情報を流したのか?

 

 そんなのは、決まっている。

 

「織田軍を、京から引き上げさせる為の罠……!!」

 

 長秀が厳しい顔でそう言った。そして、もしそれに乗って本当に京から引き上げたとしたら……!!

 

「この京が、攻められますね。その、流言を仕掛けた何者かに」

 

 半兵衛が言葉を継ぐ。つまり、京の守りを固めずに動くのは危険なのだ。

 

「銀鈴、それなら観音寺城を粉々にした轟天雷を使えば良いだろ。あの威力ならちょっとくらい兵力が少なくても……」

 

 敵軍を吹き飛ばせる、とそう発言する勝家だったが、しかし深鈴の「それは無理です」の一言であっさり却下されてしまった。

 

「ど、どうしてだ?」

 

「火砲部隊は決して無敵ではありません。寧ろ、欠点だらけと言えます」

 

 大砲と言っても基本は鉄砲と同じで、城のような動かない目標相手ならば兎も角、軍団相手には数を揃えて運用しない限り有効な武器とはならない。

 

 しかも、威力に比例するように弾込めの為の時間は鉄砲とは比較にならない程に掛かる。大部隊による護衛が無ければ、一発撃った後に敵に近付かれて、砲兵達は皆殺しにされてしまう。

 

「更に、そうした武器としての特性以外の問題点として……火砲部隊は、一箇所しか守れません」

 

「それは……どうしてだ?」

 

「轟天雷、母子筒。それらの大砲を扱える者が源内しか居ないからですよ。他の者では大砲を撃ってもまともに目標に当たらないし、最悪自壊させてしまうでしょうね。ですから……敵がどこからやって来るか分からないこの状況では、配置すべき場所が分からないので使えません」

 

 あるいは、その”何者か”の兵は既に京の町中に潜んでいるのかも知れない。もしそうだとすれば、事はもっと深刻だ。まさか町中へ向けて大砲を撃ち込む訳には行かない。

 

「うーむ……成る程……凄い兵器だと思っていたが、色々と制約も多いんだな」

 

 腕組みした勝家が唸る。この今は思っていたよりもかなり難しい状況のようだ。

 

 しかし、希望もある。銀鈴がここまで状況を正確に分析しているという事は……

 

「あんたに、何か考えがあるって事よね? 銀鈴」

 

 期待を滲ませた声で、信奈がそう尋ねる。この状況、織田軍は万一の事も考えてどうしても尾張に撤退せねばならず、京は手薄となってしまうが……しかし、彼女ならば何か事態を打開する為の妙手を打ち出すのではないかという期待が、信奈は勿論織田家臣団全員から向けられている。

 

 深鈴としてはその期待が、正直重くもあるが……だが、問題は無い。

 

「差し当たっては……援軍を手配しようと思います」

 

「援軍……? でも、どこから連れてくるつもり? 松平も浅井も、京にまで兵を出せる余裕は……」

 

「当ては、あります。お任せ頂ければ必ずや……」

 

 詳しく聞こうと思った信奈だが、止めておいた。深鈴は、自分達には無い方法論と発想を持っている。彼女はそれを使って、今までどんな不可能とも思える難事をも成し遂げてきた。

 

 彼女はやる。ああ言ったからには必ずやる。根拠は無いが、しかしその想いをこの場の誰もが確信として抱いていた。

 

「分かったわ。銀鈴、全てあなたに任せる。必ずや援軍を連れて戻ってきなさい」

 

「承りました」

 

 深鈴はそう言って信奈に一礼すると、清水寺から退出していった。残された面々はその後も、今後どう動くべきかの討議を続ける事になる。

 

 武田・上杉連合軍の来襲が真実だった場合には一刻も早く尾張へ帰還するだけだが、問題はこれが何者かの謀略であった場合だ。どのように対応すべきか……

 

 と、挙手した半兵衛が発言する。

 

「信奈様、もし銀鈴さんの心配していた通りだとすると、これは偽撃転殺(ぎげきてんさつ)の計です」

 

「……何それ?」

 

 首を傾げた犬千代の質問を受け、半兵衛が説明を始める。

 

「本来は城攻めの際、東西南北の一方向から攻撃を加えて敵兵力をそちらに集中させ、手薄になった他の方角から本隊を攻め込ませる計ですが……」

 

 今回織田軍に仕掛けられているのはその応用。偽情報によって兵を尾張に向けさせて、敵はその隙に手薄になった京に攻め込んでくる。

 

「成る程……で、半兵衛。そこまで分かっているなら、その策を更に破る策もあるんでしょうね?」

 

 先程の深鈴へのものと似た信奈の問いに、半兵衛は頷いて返す。

 

「敵が偽撃転殺の計を仕掛けてくるなら、こちらは虚誘掩殺(きょゆうえんさつ)の計で迎え撃ちます」

 

 

 

 

 

 

 

 援軍を引き連れてくると信奈達に約束した深鈴であったが、しかしすぐに動き出すという訳ではなく、まずは貸し切りにして食客達を滞在させている旅籠へと戻っていた。

 

 さて、この旅籠の中庭では。

 

「ああ、深鈴様。注文の品、出来上がっています」

 

 戻ってきた主人の姿を認めた源内が、仕上がった作品を差し出してくる。

 

 それは丈夫な和紙を重ねて作った、漏斗(じょうご)のような物だった。深鈴はそれを手にとって、丈夫さを確かめるように少し力を入れて握ってみたり引っ張ったりしている。

 

「しかし深鈴様……こんな物作って、一体どうするおつもりで?」

 

 源内の疑問も尤もである。漏斗のような物と言ったが、これはまさに”ような物”なのだ。彼女とて研究の為に漏斗を使う事はあるが、しかしこの漏斗は両手で持つぐらいに大きく、しかも「足」と呼ばれる管状の部分が異様に短く、しかも太い。これでは器具としての役目も果たせそうにないと思えるのだが……

 

 しかし、そんなからくり技士の疑問を深鈴は適当にはぐらかすと、次の注文を言い渡す。

 

「源内、もっと数を揃えて。三百個は欲しいわね」

 

「はあ……そんなに?」

 

「ちゃんと仕上げてくれたら、特別予算を振り分けるけど……」

 

「必ずや、期日通りに仕上げます!!」

 

 目の前にぶら下げられた予算(ニンジン)に食い付いた源内(ロバ)は俄然張り切って生産作業に取り掛かる。深鈴はくすくす笑いながらその後ろ姿を見送った。

 

『あの漏斗……今は役に立たないけど、この先には必要になる……可能性があるのよね』

 

 これもまた、転ばぬ先の杖の一つ。無駄になったらなったで構わない。だが、必要になった時にありませんでした、では困るのだ。

 

「さて……では私も仕事に取り掛かるとしますか。誰か、宗意軒を呼んできて!!」

 

 食客の一人にそう言って呼びに行かせた、その時だった。

 

「銀鏡氏!!」

 

 音も無く天井から、五右衛門が下りてきた。既に彼女のこうした登場に慣れっこになってしまった深鈴は、動じた様子もなく「どうしたの?」と尋ねる。

 

「それが、飛び加藤殿と子市殿から緊急報告が……」

 

「? 二人から? 何かしら……」

 

 あの二人にも重要な任務を申し付けていたのだが……

 

 

 

 

 

 

 

 織田軍は、まず勝家と長秀率いる部隊を第一陣として尾張に帰還させ、次に信奈率いる本陣が続くという形を取った。

 

 京には将軍宣下を控えた義元と僅かな守備隊が残るのみとなり、その指揮は光秀へと委ねられた。

 

 何としても信奈が戻るまで京を死守しようと気合いを入れてその任に当たる光秀であったが、しかし信奈の出立とほぼ前後して、大変な報告が入った。

 

「松永弾正久秀が三千の兵を率いて、奇襲して来ました!! 恐らく、狙いは義元公かと……!!」

 

 その報告を聞き、光秀は思わず拳を作る手に力を込めた。

 

「……先輩の危惧していた通りになったですか……!!」

 

 覚悟はしていたが、やはり現実のものとなれば言い様のない緊張感が総身を襲ってくる。この事態に対する策は既に半兵衛が講じているが、要となるのは自分達守備部隊。何としても策が成るまでの時間を稼がなければならない。

 

「全ての山門を閉じ、守りに徹するです!!」

 

 兵力差は三倍以上。しかも立て籠もるのが城砦ならば兎も角、寺社である。計画通りとは言え、厳しい戦いを強いられる事は覚悟せねばなるまい。

 

 光秀率いる守備隊は皆、清水寺を死地とする覚悟であった。中には「ここは寺だ!! 手間が省けてちょうどいいにゃあ!!」などと笑えない冗談を口にする者まで居る始末。

 

「まあまあ、すっかり囲まれてしまいましたわね。光秀さん、頼みましたわよ」

 

 寺の外はすっかり松永の旗に囲まれているのに、義元だけは普段とは変わらずに十二単を着込んで和歌を詠んでいる。武力・政治力共に優秀とはお世辞にも言えない彼女だが、しかし肝の太さだけはあるいは本当に征夷大将軍の器かも知れなかった。

 

「御意。お任せあれ。全て半兵衛殿の立てた策の内。この明智十兵衛光秀、命に代えましても義元様をお守りいたします」

 

 そう言い残すと、光秀は自身も庭に降り立ち守備部隊に加わった。

 

 火縄銃を撃ちまくり、陣頭に立って必死の防衛戦を展開するが、しかし兵力差は如何ともし難く遂に山門が破られて敵兵の侵入を許してしまう。

 

 雪崩れ込む兵の先頭に立つのは、浅黒い肌をして異国風の衣装を纏った妖艶な美女。

 

「うふ。我が名は、大和は多聞山城城主、松永弾正久秀。以後、お見知り置きを。すぐに末期の別れとなりますけど」

 

 名乗りを受け、光秀は少し戸惑った様子だった。松永弾正と言えば、かつての自分の主である斎藤道三に並ぶ戦国の梟雄。何と言うか、もっと煮ても焼いても食えないような曲者じみた姿を思い描いていたのだが……

 

 しかしそんな風に戸惑っていたのも束の間、光秀はすぐに雑念を頭から追い出すと、不敵な笑みを弾正に向けた。

 

「来やがったですか。待っていたですよ」

 

「えっ?」

 

 この反応には、弾正も些か意表を衝かれた。てっきり、斬り死に覚悟で向かってくるものだとばかり思っていたが……

 

 良く見れば光秀の背後の兵達も覚悟を決めた表情ではあるが、同時に何か、希望を持っているようにも見える。この絶体絶命の状況で、それでも何か生き残る芽があると確信しているかのような……

 

「お前達の浅知恵など、半兵衛殿は全てお見通し!! わざと京を手薄にして誘き出す手に、まんまと引っ掛かりやがったです!!」

 

「なっ……それでは……あなた達は……」

 

「私達はお前達をここで足止めしておくのが任務。今頃は信奈様率いる本隊がこの報を聞き、すぐに引き返してくる筈です。早く逃げないと、挟み撃ちの憂き目に遭うですよ」

 

 意地悪な笑みを浮かべ、光秀が挑発的に言い放つ。

 

 「武田・上杉連合軍が尾張に迫る!!」の報を受け、信奈軍が全軍を一挙に撤退させるのではなく先発隊と本隊の二部隊に分けたのは、これを狙っての事だった。

 

 もし深鈴や半兵衛の読んだ通りあの情報が何処かの勢力による流言だとすれば、信奈が京を離れたと見るやその勢力は、間髪入れずに京へ侵攻する筈だった。あまり長引かせては、情報が偽りであったと露見して信奈達が引き返してくるからだ。そして、まさにその通りになった。

 

 勿論、情報が事実である場合も考えられる。故に勝家・長秀隊は全速にて尾張への帰路に就いていた。そうして帰国して情報が真実と確かめられたのなら、すぐに信奈の居る本陣に連絡を取って本国の守りを固める手筈だった。

 

 果たして事実は、偽報と組み合わせた松永による偽撃転殺の計であった訳だが、しかしそれに対抗する為に半兵衛が打ったのがこの虚誘掩殺の計。

 

 偽撃転殺の計に嵌ったと見せ掛けて敵を引き寄せて、その実迎撃準備を整えておいて殲滅する。光秀の言った通り松永勢は見事に引っ掛かった訳だ。

 

 しかし妖しい色気を放つ姫武将はこの状況にあっても取り乱しはせず、手にした十文字槍をくるくると回して嫣然とした笑みを見せる。

 

「ならば本陣が引き返してくる前にあなたを討ち取り、義元公の首を挙げるまでですわね」

 

 久秀は水車のように回転していた槍を止めると、切っ先を光秀に向けた。

 

「槍は宝蔵院流にございます」

 

 光秀はそれを聞き、警戒心を強くする。本来槍は突き出す事に特化した武器であるが、宝蔵院流のそれは「突けば槍、薙げば薙刀、引かば鎌」と謳われる程に変幻自在に動くと耳にした事がある。

 

「宝蔵院流の使い手……なれば松永殿は興福寺の出身でしょうか」

 

「ええ、その通りですわ」

 

「その信心深きお方が何故に奈良の大仏を焼き、百年続いた乱世を終わらせんとする信奈様の天下布武に立ち塞がるのですか。仏の道を見失いましたか!!」

 

「見失ったのは人の道ですわ。我が主・三好長慶様を失って以来、私(わたくし)、自分が夢うつつの世界に迷い込んだように何も分からなくなりましたの。今の私はただ、織田信奈様が真に我が新たな主君として相応しいか否かを、見極めたいだけ。人は追い詰められた時にこそ、真の姿を晒け出すものですから」

 

 一騎打ちが所望か、兵を後方に控えさせてじりじりと近付いてくる久秀を見て、光秀も一つの決断をした。種子島を捨て、腰の刀を抜く。名刀・明智近景。備前長船長光門下、近景の作である。

 

「織田信奈の臣下、明智十兵衛光秀。剣は鹿島新当流、免許皆伝」

 

 名乗り終えると同時に、素早く踏み込むと愛刀を振るう。弾正はひらりと後ろに跳んで、すんでの所でその一撃をかわした。

 

 本来、長槍と刀では「槍に七分の利あり」と言われる程に刀が不利だが、光秀の技量はそんな差を完全に埋めてしまっていた。

 

 これには弾正も「ほう」と目を見開いて穏やかな驚きを見せる。種子島の名手であるのみならず、これほどの剣技を身に付けているとは。

 

 松永は「全く、天下は広いですわね。これほどの英傑がいるなんて」と微笑し、

 

「あなたのような素晴らしい英傑に出会うと……私、どうしても殺したくなってしまいますの!! あなたが夢破れ、散っていく刹那に見せる絶望の表情を、見てみたい!!」

 

「戯れ言を!!」

 

 惑わすような弾正の言霊を振り切るように突進した光秀が振り下ろした刃と弾正の突き出した穂先とがぶつかり合い、火花が見える。

 

「あなたほどの人物ならば天下も狙えましょうに。何故織田信奈の家臣に?」

 

「信奈様こそ天下に相応しいお方!! 私は信奈様に、自分の夢を懸けたです!!」

 

「人の夢と書いて、儚いと読むのですよ?」

 

「お前と禅問答する気は……」

 

 無いと、そう言って槍ごと真っ二つにしてくれんと光秀が刀を握る手に力を込めた、その時だった。

 

「でも……そこまでして尽くす信奈様が、既にこの世の人ではないとしたら、どうでしょう?」

 

「えっ……?」

 

「甲賀の杉谷善住坊が、尾張への帰路に就く織田信奈様を待ち伏せして撃つ手筈になっております。あの方は百発百中の殺し屋ですから、信奈様はもうお亡くなりになったんじゃないかしら?」

 

「な、なんですと……?」

 

 動揺を誘う為の見え透いた手ではあったが。しかしほんの一瞬ながら隙が生まれた。彼女の中で、信奈がそれほどまでに大きな存在であったが故に。

 

 そして弾正程の手練れが、ただ一瞬であろうと生じた隙を見逃す筈が無く。突き出された十文字槍の先端が光秀の喉めがけて伸びて、貫いた。

 

 殺った。と、勝利を確信どころか確認した弾正であったが、だがしかし。

 

「なっ!?」

 

 確かに光秀の喉を貫いた筈の槍は、何故か光秀の髪型に似せたウィッグと同じ着物を着せた、ただの丸太に突き刺さってしまっていた。顔に当たる部分にはご丁寧にも「外れ」と貼り紙されている。

 

 見ればすぐそこに立っていた筈の光秀の姿すら、何処かに掻き消えてしまっていた。

 

「これは……空蝉の術!! どこへ……」

 

 きょろきょろと辺りを見回すと、光秀は見付からなかったが、先程までそこに居なかった筈の者が目に入った。

 

 全身を隙間無くボロボロの黒い布で覆い、両眼だけをぎらぎらと輝かせ、白い狐面を髪飾りのように付けた小柄な人物。加藤段蔵。

 

「…………」

 

 当代最高の忍者が無言のまま纏ったボロ布をマントのように翻すと、その中から手品のように二人の人間、光秀と深鈴が転がり出て来た。

 

「思ったより際どかったが、間に合ったみたいですね」

 

 光秀は一瞬、何が起こったか分からず呆けた表情を見せていたが、それも本当に一瞬だけの事だった。すぐに我に返ると、深鈴の肩を掴んで食って掛かる。

 

「銀鏡先輩!! こんな所に来てる場合じゃ……!! 信奈様が、信奈様が……!!」

 

「甲賀者の杉谷善住坊に、狙撃されたとでも?」

 

「「なっ!?」」

 

 動揺を全く見せない深鈴のその言葉を受け、これには敵味方という立場を超え、光秀と松永は声を揃えて頓狂な声を上げる。

 

「松永弾正久秀殿……あなたがどこからその情報を得たかは知りませんが……残念ながら狙撃手は、私の手の者が捕縛しました」

 

「馬鹿な……!! どうやって……」

 

 流石の姫武将も動揺した声を上げる。百発百中と名高い杉谷善住坊の狙撃から逃れるだけでも至難なのに、逆に彼を捕縛するなど、どうすればそんな事が出来るのだ?

 

 ハッタリか、とも考えたが、しかしそこに一挺の火縄銃が投げ入れられて、その考えも否定される。各所に特殊な改造が施されたそれは、紛れもなく杉谷善住坊の得物だった。

 

「私が居るのに、狙撃による暗殺を試みたのは……愚か、と言いたいな」

 

 そう言いつつ、ぬっと姿を現したのは子市だった。たった今、火縄銃をこの場に投げ込んだのも彼女だ。

 

 子市と段蔵。この二人は、信奈が尾張に戻ろうとする際、先行して狙撃手が潜んでいそうな場所をチェックし、見付けた場合にはその者を捕縛もしくは排除するよう深鈴から命ぜられていた。

 

 京から尾張への広く長い道の中には、狙撃可能な場所などいくらでもある。その全てを完全に把握するなど不可能だ。と、そう考えるのが普通だが、実際は少し違っている。

 

 この時代の銃は子市が持つ”鳴門”でもない限りはどんな名手が使おうと、有効射程は50メートルを越えるか越えないかといった所。100メートル以遠から狙ってくる事はありえない。

 

 そして狙撃場所だが、一流の狙撃手であればあるほど、狙撃を成功させる事ではなく成功させた後に確実に逃げられる事を念頭に置いて動くようになる。ましてや鉄砲という、一発撃てばすぐに存在もおおよその位置も知れる武器を使うのである。杉谷善住坊は場所選びこそ入念に行っていた。

 

 つまり、信奈が帰路に通る道から100メートル以内で、かつ織田軍が狙撃手に気付いたとしても確実に逃げ切れる場所。この条件で線を引けば残るシューティングポイントは思いの外少なくなる。そしてその一つに、杉谷善住坊は居た。今か今かと信奈が照準に入るのを見計らっていた彼であったが、引き金を引くより早く後ろから忍び寄ってきた二人に組み伏せられ、あっという間に制圧されてしまったという訳だ。

 

 これは忍び者の手口を知り尽くした段蔵と、鉄砲の長所も短所も知り尽くした子市あってこそ為し得た手段だったが……二人は、見事にやり遂げたという訳だ。

 

「そういう事よ!! 遅くなったわね、十兵衛!!」

 

 清水寺本堂の屋根の上から、声が降ってくる。弾かれたように顔を上げた光秀の目に入ったのは、種子島を担いで紅い南蛮風マントを翻した威風堂々たる信奈の姿。

 

 続くようにして犬千代、五右衛門、半兵衛達もそれぞれ姿を見せる。

 

「今は先行してきた私達七人だけだけど、すぐに本隊も引き返してくるわ!! 十兵衛、あんたの後ろは私達が守ってあげるから、思う存分戦ってみなさい!! 明智の桔梗紋、今こそ天下に翻させる時よ!!」

 

 光秀を仕留め損ねた久秀はさっと手を振ると兵に合図して、本堂に火矢を射かけさせた。信奈がここに現れたという事は、後続の織田本隊が駆け付けてくるまでそう間が無いと悟り、短期決着を目指して総攻撃を仕掛けるつもりだ。

 

 炎に包まれ、数の上では七人が加わっただけで未だ不利な織田勢だが、しかし総大将である信奈自身が前線に立った事と援軍がすぐそこまで迫っている事を聞かされ、兵の士気は天を衝かんばかりに高まった。

 

「ああ……織田信奈様、よくぞ善住坊の暗殺を逃れられました。今こそ、あなたの本物の姿を見極めさせて頂きますわ。我が生涯の主に相応しい御方かどうかを」

 

「この私を値踏みしようなんて、良い度胸じゃない!! 松永弾正久秀!!」

 

 信奈が屋根から飛び降りて庭に降り立ち、続いて五右衛門と犬千代も飛び降りて戦列に加わる。段蔵と子市も忍刀と火縄銃をそれぞれ手に取って、押し寄せる松永勢に応戦を開始。大乱闘が更に大乱闘となった。子市から渡された反動の少ない馬上筒をめくらめっぽう撃ちまくる深鈴の耳を、弾丸が掠めて飛んでいってすぐ後ろの柱に穴を穿った。

 

 半兵衛だけは頼りない足取りで柱を伝って下りようとして、廊下へと転がり落ちた。

 

「あぅぅ……前鬼さん、後鬼さん、よろしくお願いします!!」

 

 少女陰陽師は涙目になりつつも式神達を繰り出し、彼等は長たる立ち位置にある前鬼に率いられ、持ち前の妖力で以て庭のあちこちに五芒星状の亀裂を走らせ、地下水を噴出させて本堂の消火作業に当たっていく。

 

「まぁ、あなたが我等の策を見破った天才軍師さんですか。それも陰陽師とは……ならば、私もあやかしの術の遣い手として、振る舞わねばなりませんね」

 

 そう言うや久秀はふわりと渡り廊下へと跳躍して上って、半兵衛と相対する位置に立った。彼女の全身から立ち上る妖気を受け、半兵衛も警戒心を高めて前鬼と後鬼を呼び寄せる。

 

「あなたは……只の侍ではないのですね……」

 

「ええ。仏の道なども学び今は松永久秀などと名乗っておりますが、私の出自は流浪の幻術遣い。陰陽師にとっては不倶戴天の敵ですわ」

 

「幻術なら、段蔵さんも使いますが……」

 

 加藤段蔵は希代の忍者であると同時に幻術の遣い手でもある。半兵衛もその業を見た事はあるが……しかし、彼あるいは彼女はあくまで忍びの業を主体として幻術はその補助的な位置付けとして習得しているに過ぎない(それでもかなりの腕前だが)。対して久秀は肌の色からも分かる通りその身に流れる異国の血と共に、その業を受け継いだ生粋の術者である。習熟度としては比較にならない。

 

 久秀が指を鳴らすと、日も暮れてすっかり黒くなってしまった天より遊女のような紅い着物を纏った若く美しい女達が、数十人も降ってきた。しかし、彼女等の一人としてその瞳に意思の光は宿っていない。

 

「……傀儡(くぐつ)……?」

 

「うふふ。お分かりですか? 可愛い陰陽師さん。幻術遣いの本分は偽りの目眩ましを見せるだけに非ず、幻術の奥義は波斯(ペルシャ)より伝わりし傀儡遣いの業」

 

 ここへ来て、半兵衛の表情に動揺が走った。久秀の術者としての技量それ自体も恐るべきものがあるが、それ以上に彼女に対して不利に働いているのが、幻術がどのような術理によるあやかしの業なのか。それが分からない一点である。

 

 半兵衛の使う陰陽道とは全く異なった体系の術。密教でも奇門遁甲でもない。全く未知の、異国の術。

 

「あなたの式神と私の傀儡、いずれが勝っているか、勝負しましょう」

 

 言葉の終わりを合図として殺到する傀儡達。式神達も迎撃すべく突進する。

 

 術者としての技量は互角か、あるいは半兵衛の方が上回っているかも知れない。しかし、やはり未知の技術体系を相手としている事の不利が、対決の流れを久秀の方に傾けていた。式神達は次々、傀儡に倒されて消滅していく。

 

「我が主、ここは我等が防ぐ。お逃げ下さい」

 

 傀儡と戦いながら前鬼がそう言うが、しかし半兵衛としてはここで何とか久秀を食い止めている自分が逃げ出して、彼女の恐るべき力を信奈や深鈴達に向けさせる訳には行かないと、一つの覚悟を決めた。

 

「こほっ、こほっ……!!」

 

 しかし乾坤一擲、残った力を全て注ぎ込んだ護符を投げ付けようとした所で、半兵衛の体に限界が来た。激しく咳き込み、胸を押さえてうずくまってしまう。

 

「これでお終いとは……興醒めですわね。ならば、皆殺しにしてしまいましょう…」

 

 そう言った久秀が艶めかしく指を動かすと、残った数十の傀儡共が半兵衛に殺到する。前鬼にも式神達にもこの攻勢を防ぐ力は残っていない。万事休す。

 

 そう、思われたが。

 

 不意に、傀儡達の動きが止まり、文字通り糸が切れた操り人形のように次々、その場に崩れ落ちていく。

 

「これは……」

 

 久秀は二度三度、傀儡達を再び動かそうと試みたが、しかし彼女の人形達は見えざる操り糸を断ち切られたかのようで、床に転がったままぴくりとも反応しない。

 

 彼女程の術者が、術を仕損じるなど有り得ない。つまりこれは……

 

「そこに隠れている御方。出て来られてはいかがです?」

 

 漸く何が起こっているかを理解した久秀は、半兵衛のすぐ後ろ、渡り廊下の先にある暗がりに向けてそう言い放った。釣られて、半兵衛の視線もそちらへと向く。

 

「ふん、見破られてしまったかね」

 

 進み出てきたのは、この炎に包まれた寺であっても汗一つ掻かず、戦場に在っても能面の如き笑みを崩さぬ男。南蛮帰りの説客、森宗意軒であった。

 

「あなたは……何者かは存じ上げませんが、私の幻術を封じるとは……成る程、あなたも異国の術の遣い手なのですね」

 

 新手の術者の登場に、久秀の興味は彼へと移ったようだ。

 

「幻術は聞きかじった程度だがね? だが、俺が得意とする術の奥義もまた、命を持たぬ者の使役にある。その応用で、木偶人形共の動きを封じるぐらいは出来るのさ」

 

 くいっと親指で山高帽を上げ、糸のような細い眼で久秀を挑発する宗意軒。それを受けて妖艶なる姫武将が大きく腕を振ると、動きを止めていた傀儡達が再び動き出した。

 

 これを受けても、宗意軒は別段驚いた様子を見せない。元々、幻術の腕それ自体では勝負にならないのだ。少し足止め出来ただけで、久秀が本気になって人形達を操れば、自分の妨害が破られる事など至極当然。

 

「半兵衛殿は体調が優れぬようなので……代わって、あなたに術比べを申し込みたいと思いますわ」

 

 主のその意思に呼応するが如く、再起動した傀儡達は一斉に槍を構えて宗意軒に向き直る。果たして彼の返答は、

 

「折角のお誘いだが、遠慮申し上げるよ」

 

「おい」

 

 お前何しに来たんだと半兵衛を抱えた前鬼が詰め寄るが、しかし宗意軒の仮面のような笑みは、未だ崩れない。

 

「引っ込んでいろよ、半兵衛の犬。俺の術はこんな敵味方入り乱れた場所で使って良いものではないのさ。地獄絵図が見たいなら、話は別だがね」

 

 そこで一度言葉を切り、「それに」と続ける。

 

「今回、俺が深鈴様から受けた仕事は、戦う事とは違うのでね」

 

 そうして彼の言葉が言い終えられた、その瞬間だった。

 

「”十二使徒再臨魔界全殺”(ボンテンマルモカクアリタイスゴイソード)!!!!」

 

 何とも気の抜けるような無邪気な声と共に、襲ってきた凄まじい衝撃が傀儡達を木っ端のように吹き飛ばす。

 

「何奴!?」

 

 炎と煙を切り裂いて現れたのは、全身黒ずくめで左目を眼帯で封じた金髪の少女。京に着いてすぐに深鈴達が出会った、奥州の邪気眼竜。

 

「黙示録のびぃすと、梵天丸見参!!!!」

 

 傀儡達を前に、大見栄切って登場した。

 

「梵ちゃん、まさかあなたまで来てくれるなんて!!」

 

 これは、深鈴にとっては嬉しい誤算と言える。

 

「梵ちゃんと言うでない!! ま、それはさておき……我だけではないぞ、見ろ!!」

 

 跳躍し、屋根の上に昇った梵天丸が愛刀の切っ先で指し示すその先には、清水寺に向かってくる夥しい数のかがり火。

 

 遅れてやって来た信奈の本隊だが、彼等だけではない。援軍の先頭に立つのは、南蛮甲冑を纏った金髪碧眼の少女ルイズ・フロイス。

 

「来てくれましたか!!」

 

 勿論、教会の一修道女でしかない彼女が兵など持っている訳はない。しかし、フロイスは一人ではなかった。

 

「高山ドン・ジェスト!! お味方致す!!」

 

「同じく小西ジョウチン!! 参る!!」

 

 彼等だけではなく、武器を持たぬ宣教師や果ては農民に至るまでが、その援軍には加わっていた。

 

「馬鹿な……私と同じく、この国では疎まれ居場所も無い者達が……どうやってこれほどの数を……」

 

 そこまで呟いた所で、久秀は「はっ」と宗意軒に目を向ける。彼はやはり笑みを浮かべたまま、「正解」と告げた。

 

「昔の縁でね。俺はこれでも、ドミヌス会やキリシタンの連中には、ちょっと顔が利くのだよ」

 

 宗意軒のそのコネクションによって、フロイスを通じて畿内のキリシタンを結集させる。これが深鈴の考えていた援軍の当てであった。

 

 これは全く深鈴らしい戦法と言える。墨俣築城作戦の折も、彼女は野武士達に檄文を配る事で五千の兵を糾合した。今回はそれを、キリシタン達に置き換えて行ったのだ。

 

「皆、新しい時代を作る信奈さんの味方ですわ!!」

 

 馬上でそう叫ぶフロイスの声を聞き、久秀はその胸につっかえていた何かが外れたような気がした。

 

 日ノ本は日ノ本。南蛮は南蛮。波斯は波斯。異なる文化、異なる神。それらを信じる者達は未来永劫分かり合う事はない。少なくとも久秀は今までそう信じてきた。何故ならそれぞれの間には、高く厚い壁があるからだ。

 

 だが今、そんな壁など遥か高みで飛び越えるようにして、フロイスの下に集った者達が信奈の援軍として馳せ参じて来ている。

 

 皆が、信奈の作る未来を信じて。

 

『……違う』

 

 織田信奈は違う。長慶様とも、この国に現れて消えていった、幾多の英傑の誰とも違う。

 

『この御方ならば……きっと……』

 

 その確信と共に、久秀は腕を一振りする。梵天丸が当たるを幸い薙ぎ倒していた傀儡達は、先程宗意軒にされた時のように再び全ての力を失って床に転がった。

 

 そして久秀は愛槍を床に置き、信奈の前に跪いた。今度こそ完全敗北を認め、臣従を誓って。

 

「松永弾正久秀、降伏致します……!!」

 

 主の投降を受け、松永兵達も次々に武器を捨てていく。

 

「大・勝・利!!!! 見たか!! これが破壊の大魔王の力だ!!」

 

 ご丁寧に積み上げた傀儡達の山の上で、梵天丸が勝ち鬨を上げ。

 

「おーっほほほ!! 皆さん、ご苦労様でしたわね!!」

 

 寺に火が付いていると言うのに、呑気に茶菓子を食べていた義元が扇子を振って舞いながら労いの言葉を掛け。

 

「……お腹空いた」

 

「何とかなったでござるな」

 

 猛戦していた犬千代と五右衛門は背中合わせに座り込んで。

 

「お疲れ様」

 

「…………」

 

 銃口から出ている硝煙をふっと吹きながらそう語り掛けてくる子市に、段蔵は相変わらず無言のまま。しかし、懐から果物を取り出して彼女に渡した。

 

「宗意軒さん、ご助勢、ありがとうございました……こほっ、こほっ」

 

「何、俺は殆ど何もしてないさ。礼の言葉は深鈴様に言いたまえよ」

 

 前鬼に抱えられた半兵衛の礼の言葉を受け、宗意軒はぶっきらぼうにそう返して山高帽を目深に被るだけだった。

 

「十兵衛殿、囮役、お疲れ様でした」

 

「先輩も刺客の排除と援軍の手配、お見事でした」

 

 深鈴と光秀は互いを見やって、二人ともほぼ同時に親指をぐっと立てる。

 

 そして最後に、自信と勝利の笑みを浮かべて一同を睥睨する信奈が、やはりこの一言で場を締め括った。

 

「デアルカ!!」

 



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第23話 戦の前の宴

 

「な、何と!? 松永弾正久秀も杉谷善住坊も、織田信奈を討ち損じたでおじゃるか!? 畿内のキリシタンバテレンまで織田勢に与したとな!?」

 

 やまと御所。

 

 次々と入ってきた報告を受け、近衛前久は太陽が西から昇ったのを見たかのような狼狽振りを見せた。

 

 まず一週間以内に十二万貫を納めよという無理難題を突き付けはしたが、信奈はそれに倍する二十五万貫を奉納してきた。これだけでも正直度肝を抜かれる思いであったが、しかし前久はこれに怯まず二重三重に陰謀の糸を張り巡らせた。

 

 上杉謙信と武田信玄を同盟させ、然る後に連合軍が尾張に迫るという偽情報を流して織田軍を京から撤兵させようとした事。

 

 甲賀の杉谷善住坊を雇い、信奈を狙撃しようとした事。

 

 京が手薄になった隙を衝き、信奈が新将軍として擁立せんとしている今川義元の首を取らんと、松永弾正久秀が動いた事。

 

 その全てが、この希代の謀略家の差し金であった。

 

 だが、仕掛けた策はその悉くが破られた。

 

 連合軍の偽情報は、当初から深鈴自慢の諜報部隊の報告と食い違っていた事から信奈も半信半疑、謀略の可能性も挙げられ、その後、三河の服部党との追跡調査によって完全に見破られてしまった。

 

 杉谷善住坊は、一発の弾丸も放たぬ内から捕縛されてしまった。

 

 松永弾正久秀は、再び信奈に寝返った。

 

 最早近衛前久には、信奈を阻止する大義名分は無い。

 

 そしてこの日、織田信奈は遂にやまと御所へ参内してきた。

 

 御所側からは関白である前久は勿論、太政大臣や御簾越しとは言え、姫巫女までもが参加している。

 

 一方で織田側は、勿論信奈。そして光秀と深鈴の三人が、勿論全員正装で列席していた。深鈴としては信奈の正装は初めて見るが、女である彼女をして見惚れる程に、今の信奈は美しい。いつもこうならうつけ姫呼ばわりする者など一人も居らぬだろうにと、頭の片隅で思う。

 

「織田弾正大弼信奈、参内仕りました」

 

 信奈に倣うようにして、一礼する光秀と深鈴。

 

 「正四位下・弾正大弼」とは急遽信奈に与えられた官位である。近衛前久にとっては「どうせ参内など叶わぬのだから、官位など与えても同じ事でおじゃる」と楽観視していたのだが、しかし信奈は全ての試練を乗り越えてここまでやって来た。こうなると、まさか無位無冠の者を参内させる訳には行かず、慌てて官位を……と、こういう経緯であった。また、深鈴には「筑前守」という官位、光秀には「惟任日向守」という新しい姓と官位が、信奈の根回しによってそれぞれ与えられていた。

 

 紆余曲折あったが、兎に角義元の将軍宣下は認められ、前久が関白として渋々ながらお褒めの言葉を掛けようとした、その時だった。

 

「おだだんじょう、たいぎであった」

 

 静謐な御所の空気に、幼い声が響く。御簾の向こうからのもの。つまり……姫巫女自らの声に思わず場がざわめくが、その中で特に顕著に表情を変えたのが一人。深鈴だ。

 

『この声は……』

 

 どこか幼さを残してたどたどしくはあるが、しかし確かな知性を感じさせる風鈴のように涼やかな声。確かにあの時、印象に残って覚えていたのと同じものだ。

 

『やはり……彼女が姫巫女様……?』

 

「ひ、姫巫女様、この場はこの関白、近衛前久が……」

 

「なぜじゃ、このえ」

 

「これらの者は先日まで血に塗れ戦をしておった者共。姫巫女様が穢れるでおじゃる」

 

「このえ、だまっておれ」

 

 まさに鶴の一声。そう言われては前久は従うしかない。そうして姦し者の口を塞いだ所で、御簾越しにではあるが姫巫女は信奈に言葉を掛ける。

 

「おだのぶなはへいしときいておる。ゆえにそなたをだじょうだいじんににんじ、このくにをまかせたいとおもう。このくにはよきものがまとめてこそ、ただしきみらいへとすすむであろう」

 

 出し抜けに姫巫女の口から出たその言葉に、前久は卒倒しそうになった。南蛮かぶれのうつけ者を太政大臣になど、彼にとっては悪夢としか思えぬような提案である。

 

 だが、武家としてあらゆる者が望むであろうその地位を提示されて、しかし信奈の答えは。

 

「恐れながらこの織田信奈は、官位など望みません。弾正の位を授かったのは、ただ姫巫女様の御前に参内する資格を頂く為」

 

「これっ!! 恐れ多くも姫巫女様のお言葉に逆らうでおじゃるか!!」

 

「あら近衛、だったら私が太政大臣になっても良いって言うの?」

 

「よ、良くないでおじゃる……しかし、姫巫女様のお言葉に逆らうのも……だが太政大臣にならせるのも……しかし姫巫女様の仰せとあらば……」

 

 グルグル回る思考の迷路に陥りかけた前久であったが、流石に頭の回転は速い。すぐに姫巫女の方に向き直った。

 

「姫巫女様、信奈は戦好きな田舎大名。何を考えているか分からぬでおじゃる」

 

「たしかにおだのぶなのこころはわからぬが、そこにはべる”ぎんれい”はよきもの」

 

「……私、ですか?」

 

 意外な形であだ名を呼ばれて、深鈴がいくらかの驚きを滲ませた声を上げた。その隣に座る光秀も同じようにきょとんとした表情を見せる。

 

「ぎんれいは、はらぐろいところもあるがそのほんしつはよきもの。はるかかなた、ずっとずっととおきところより、きたりしもの。てんが、このくにのなげきをききいれ、つかわされたもの」

 

「!!」

 

 姫巫女のその言葉はどこまでも抽象的な預言のようで、他の者達は意味する所が今一つ分からずに首を傾げていたが、当の本人である深鈴だけは違った。

 

 知っている。姫巫女様は、私が未来から来た人間だと知っている。この時代に来てから誰にも、五右衛門にも半兵衛にも信奈にも明かした事の無い秘密を、どういう訳か知っている。でなければあんな言葉は出て来ない。

 

 だが、一体どうやって? その疑問には、前久が答えてくれた。

 

「ま、まさか姫巫女様、この者に触れられたでおじゃるか?」

 

「どういう事よ、近衛」

 

「姫巫女様は相手に触れただけで、その者の心を読み取れるでおじゃる」

 

 それを聞いて思い出すのは、過日の相撲大会の帰りだ。小さな女の子一人だけでは危ないと帰り道を御所まで送っていったあの時、手を繋いで一緒に歩いた。あの時に……?

 

「ぎんれいがおだだんじょうによせるおもいはくもりなきもの。ならばちんは、うつしよのまつりごとをおだだんじょうにまかせたい」

 

「お言葉、しかと承りました」

 

 笑みと共に、平伏する信奈。

 

「いまがわよしもとをしょうぐんに。ばてれんのみやこでのふきょうをみとめる。また、ごしょのしゅうりにはにじゅうごまんがんもいらぬ。ごまんがんをごしょのしゅうりひにあてるゆえ、のこりにじゅうまんがんはおだだんじょうにかえす。てんかへいていのしごとに、つかうように」

 

「ありがたき幸せ」

 

 深鈴と光秀も、互いを見やってにっと笑む。二人で稼ぎ出した合わせて二十八万五千貫の内、今は二十三万五千貫が手元に。今後しばらくは軍資金に悩む事は無さそうだ。

 

 特に深鈴にとっては、これで銀蜂会の負担が軽減出来る。会の態勢を立て直す事が急務である現在にあっては、願ったり叶ったりの展開だと言えた。

 

「だが、おだだんじょう。そのかわりにひとつだけきかせてもらいたい」

 

「何なりと」

 

「ちんはてっきり、そなたがせいきゅうにだじょうだいじんやふくしょうぐん、かんれいといったちいをほっするものだとばかりおもっていた。なにゆえにのぞまぬのか? あまたのえいけつがほっした、そのざを」

 

「姫巫女様、それは織田信奈が御所の権威を認めておらず、日ノ本に南蛮の教えを広め、この国を南蛮異狄に売り飛ばそうとしているからでごじゃる!! 官位を頂き、御所に縛られるを嫌う事が、不忠の証拠!!」

 

 ここぞとばかりに熱弁する前久であったが「で、どうなのだ、おだだんじょう?」と、見事なまでにスルーされてしまった。

 

「私の戦いは我が身一つの栄達を望んでのものではなく、この国をあるべき未来に導く為のものですから」

 

 御簾に遮られてはっきりとは見えない姫巫女の瞳を、だがしっかりと見据えて信奈が答える。

 

「あるべき、みらい……?」

 

 鸚鵡返しで戻ってきた姫巫女の言葉に、頷く信奈。

 

「私は既に尾張で、その未来を見ました。私の国では、いかなる身分の生まれであろうとその者に確かな才と能力さえあれば、重く取り立てる道が示されています。私はこの考えを、遍く天下に広めたいと思っています。身分を無くし、万人に力を活かす機会が与えられる世。古き慣習に縛られるのではなく、才ある者が変えていく生きた天下。身分の低い者をそのまま力無き者としているこの天下を覆し、次の段階に進め、二度とこのような戦乱が起こらぬように……私はその道を、自分の生き様を以て天下に広めたいのです!!」

 

「おおおぉ……この罰当たりめが!! 血筋を、身分を認めぬじゃと? いずれは姫巫女様をも滅ぼすというのでおじゃるか、この謀反人が……!!」

 

 などと、口角に泡を浮かべて捲し立てる前久の訴えは姫巫女の「よくわかった」の一言でばっさりと切り捨てられた。

 

「ちんもいのろう。そなたらふたりのねがいが、このくにをよりよきみらいへみちびくことを」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして信奈達の御所への参内、姫巫女への謁見、義元の将軍宣下は全て完了し、取り敢えず彼女等がやまと御所にて行うべき事は”殆ど”終わったと言って良い。

 

「よろしかったですか? 信奈様」

 

 清水寺への帰り道、信奈のすぐ後ろを歩く光秀が尋ねる。信奈は「何を?」などと間の抜けた問いを返したりはせず「良いのよ」と、一言。

 

「ですが、先日信奈様を狙った忍びを雇ったのは、あの近衛前久です。放っておいては……」

 

 一応、周囲に人目が無い事を確かめてから光秀がそう言った。

 

 これは降伏してきた久秀の証言のみならず、捕縛した杉谷善住坊から聞き出した情報である。当初は忍び者の常として黙して語らずを貫いていた彼であったが、段蔵が”伊賀者も甲賀者も裸足で逃げ出す特殊な事情聴取”を行うと、ものの四半時(30分)で全て素直に話してくれた。そうして吐かせた情報が、久秀のそれとぴたり一致したのである。疑う余地は無かった。

 

 ちなみに、善住坊は全ての情報を聞き出した後、段蔵の手で始末された。捕らえられた忍びの末路など、昔からそれ一つと決まっている。

 

「久秀も言ってたでしょ? 只の戯れ言だと、一笑に付されるだけよ。確かな証拠が無ければね……」

 

 そう、御所にてしなかった事はそれ一つ。近衛前久の告発である。確かに信奈の言う通り、証拠が無ければ決定打には欠けるが……

 

「ですが……証拠を突き付けられずとも、こちらが確証を握っている事をほのめかせば、迂闊な真似をしてこないように牽制するぐらいの事は出来たのでは……」

 

 これは深鈴の発言である。光秀も頷く。だが信奈はにやりと悪そうに口角を上げ、二人に振り返った。

 

「銀鈴も十兵衛も、まだ考えが甘いわね」

 

「「は……」」

 

「銀鈴、あんたの言う通り、証拠は無いけどそれを持っている振りをすれば、近衛の動きを抑える事は出来るでしょうね。けど、それじゃあいつか、ほとぼりが冷めた時に今度はもっと慎重な手段で仕掛けてくるだけの事でしょ? だから……」

 

「「あっ……」」

 

 そこまで言われれば、聡明な二人には信奈の狙いがもう見えた。

 

 信奈の言う通り、ここで気付いている事を伝えれば近衛前久はしばらく下手な手出しはしてこなくなるだろう。が、同時に次に仕掛けてくる時にはもっと手練手管を凝らしてくるだろう。

 

 ならば逆に、今は泳がせる事で次に何かしてきた時にこそ確実な証拠を掴むのだ。

 

「そこまでお考えでしたか……」

 

 大将たる自身を囮にする、危険な策とも言えるが……信奈がそんな手に踏み切るのは、自分は殺られはしないと信じているからに他ならない。だがそれはただ楽観的に何の根拠も無く、戦場で自分だけには矢弾が当たらないと思っている訳ではない。

 

「私の事は、あんた達が守ってくれるでしょ?」

 

 にかっと笑う信奈。そこまでの信頼を受けては、深鈴も光秀も答えは一つである。

 

「はい、必ずや」

 

「この身に代えても、お守り致しますです!!」

 

 ほぼ同時に返ってきたその答えを受けた信奈は満面の笑みと共に満足げに頷き、そして次の命令を下す。

 

「さて……銀鈴、あんたにはもう一仕事してもらうわよ」

 

「承りました。して、その仕事とは……?」

 

「あんたが良くやってる事、よ」

 

 

 

 

 

 

 

「さあさあ、もっと食べて、もっと飲んで」

 

「いやいや、十分頂いておりますよ」

 

「これも信奈様の威光の賜物ですな」

 

 二週間後。清水寺近くの庭園では、畿内の諸大名を招いての宴会が開かれていた。幹事役を任されているのが深鈴。確かに、食客達を労う為に彼女が日頃からよくやっている事だ。

 

 宴会場を歩き回っていた深鈴だが、ふと心ここにあらずという風に空を仰いで、溜息を一つ。

 

「あらあら~? どうなされたんですか、銀鈴さん~」

 

 背後からの聞き覚えのある声に振り返ると、目に入ってきたのはタヌキ耳の髪飾り。三河より信奈の招待に応じてやって来た、松平元康がそこにいた。

 

「元康殿、京見物は楽しんでおられますか?」

 

「それはもう~。すっかり楽しませていただいてます~。義元さんもあの通りで~」

 

 元康が指差したその先を見ると、義元は集まった諸大名達に囲まれながら優雅に歌会を開いている。この宴会は名目上は、今川幕府発足を祝うものである。彼女の喜びようも一入であり、三秒に一度は「おーっほほほほ!!」とご機嫌な笑い声が聞こえてくる。

 

「そうですか……どうか、心行くまで楽しんでいって下さい」

 

「はい~。ありがとうございます~」

 

 そうして適当に挨拶した所で、元康は先程吐いていた溜息の訳を尋ねてきた。深鈴は少しばかり表情を曇らせる。

 

「半兵衛の事です……」

 

 竹中半兵衛は先日の清水寺での戦いからこっち、久秀との術比べで力を使いすぎたのが原因だろう。熱を出して伏せってしまっていた。当然、この宴席にも来ていない。

 

 だが尾張の時と同じく三食に栃餅の蜂蜜煮を付け合わせて食べているせいだろうか、今は容態も安定しており、もうしばらくすれば体調も戻るだろうとは、「神医」曲直瀬ベルショールの見立てである。

 

 そのお墨付きもあって、看護を尾張からいつの間にやらやって来たねねに任せ、深鈴はこうして幹事役をこなしているのだ。

 

「ところで、若狭と越前・朝倉は、この宴会に来られてないようです~」

 

 飲めや歌えで騒いでいる面々を見渡して、元康が言う。信奈からは畿内隣国二十一ヶ国の諸大名・諸将へ、この宴会への招待状という形で上洛を命じる手紙が送られている。彼等はこれを断っては攻められても文句は言えないので一も二もなくやって来ている。ちなみに近江の浅井長政からは来られない事への詫びの書状が祝いの品と共に届いているが、若狭と越前からはそれも無かった。

 

「来ない筈ですよ。どうやら、裏でコソコソと色目を使うネズミが動いているようですからね」

 

 誰とは言わぬが、白塗りの顔に眉を丸く書いて、お歯黒をした大ネズミが。

 

 とは言え、信奈や深鈴、光秀らにとって朝倉が上洛の命令に応じぬ事などは、京に入る前から計算済みの予定調和。これで、攻めるには絶好の口実が出来た事になる。

 

「しかし、老婆心ながら元康殿もお気を付けになられた方がよろしかろうと思いますよ」

 

「? そのネズミさんにですか~?」

 

「いえ、武田信玄にです」

 

 戦国最強兵団を擁するその大名の名を聞いて、元康の表情も厳しくなった。

 

「朝倉に色目を使うと言う事は、武田にも同じようにしている可能性がありますから……あるいは先日の上杉謙信との電撃和睦も、その者の差し金かも知れません」

 

「ははあ~。成る程、そういう事ですか~。すると朝倉・武田連合が織田・松平・浅井同盟を討伐するという話になるかも知れませんね~」

 

 元康の口調はいつも通りだが、口にする内容は恐ろしい。

 

「……そうは、ならないと思いますが」

 

 頬に伝った冷や汗を拭くと僅かに言い淀み、深鈴はそう答える。即答出来なかったのは、彼女が未来を知っているが故だ。勿論、この今が自分の知る歴史に繋がるとは限らないのだが……しかし、一抹の不安がある。そうなった時に対応する手段も打ってはいるが、どんなに綿密な計画を立てた所で、未来は往々にして思いも寄らぬ方向に、そして決まって悪い形に進むものである。詰まる所、実際なってみなければ分からないのだ。

 

 ならば、今はこれ以上気にしても仕方無いなとその件については一時脳内から追い出すと、元康に笑いかける。

 

「まぁ、堅苦しい話はこれぐらいにして……元康殿はこの先も宴会を楽しんでいって下さい。私の食客達に言って、美味しい料理も沢山作らせてありますので……」

 

「そうさせてもらいます~」

 

 笑ってそう言うと、たぬき大名は再び宴席へと戻っていった。彼女を見送った深鈴が視線を動かすと、普段通りのうつけ姫の装いをした信奈の姿が目に入った。誰かと話しているようだが……そう思って近付いてみると、意外な者の姿が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

「おおっ、銀鈴!! 探したぞ。もう一度会っておきたいと思っていたのだ!!」

 

 信奈と話していたのは黒ずくめの衣装に眼帯をした金髪の少女。独眼竜ならぬ邪気眼竜・伊達政宗。梵天丸であった。彼女は奥州からの遊学先である堺に腰を据えていて、先の清水寺への援軍に駆け付けてきた縁もあり、信奈から招待状が送られていたのである。

 

「ちょうど良い所にきたわね」

 

 と、信奈も笑顔で深鈴を迎える。

 

「伊達政宗殿……先だっての援軍には、改めて感謝の程を……」

 

 礼儀正しくぺこりと頭を下げる深鈴に、梵天丸は「堅苦しい挨拶は良いぞ」と笑いながら言ってきた。

 

「同じ魔眼使いとして、先達を助けるのは当然の事だ!!」

 

 本人には悪気は全く無いのであろうが……しかし主君の前でこう言われた深鈴は瞼をピクリと動かし、信奈は怪訝な顔で臣下を見やる。

 

「魔眼使い……? 何の事、銀鈴?」

 

「あ、いや……信奈様……その……ま、まぁ良いじゃないですか。それより正宗ど……」

 

「梵天丸で良いぞ」

 

「では梵ちゃん、私に……」

 

「梵ちゃんと呼ぶでない!!」

 

 どうにも会話が進まないので信奈が「ああ、もう!!」と無理矢理に会話の流れを変える。何故に梵天丸が深鈴を探していたのかだが……

 

「そろそろ遊学期間も終わるのでな。この京にも、帰り際に立ち寄ったのだ」

 

「では、奥州に……?」

 

「うむ!! 我はこの邪気眼を武器に、奥州を撫で斬りにしてやるのだ!! 帰ったらまずは家督を継ぎ、”黙示録のびぃすと”と化して南蛮船団を味方に付け、この国に滅びを……」

 

「銀鈴、この子は何を言ってるの?」

 

 珍しく真面目くさった顔で信奈が尋ねてくる。厨二病患者と一般人の間には、広くて深い川があった。幸いなのはここに元厨二病患者の深鈴が居る事であろうか。彼女が渡し船、通訳になれる。とは言えどのように説明したものか「むむむ」と首を捻っていると梵天丸に「何がむむむだ!!」などと言われもしたが、しかし不意に、端的に彼女を表現出来る言葉が脳裏によぎった。

 

「つまり……傾(かぶ)いているのですよ」

 

 一言だったがその説明を受け、信奈も「ああ、成る程ね」と頷く。

 

 歌舞伎は少し前から京で行われている演劇で、徐々にファンを増やしてきている。そこから転じて派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、世間に正対しないような行動を取る事、要するに格好付けるのを「傾く」と言うのだが……厨二病患者の表現としてはまさにドンピシャリと言えた。

 

 梵天丸としてはそんな風に言われるのは些か心外なようだったが、しかしこのままでは全く話が進まないと判断したのか、取り敢えずは「傾き者」という認識で良しとしておく。

 

「ま……それで話は戻るが銀鈴は色々面白い話を聞かせてくれたのでな。一言別れの挨拶をと思って、探していたのだ」

 

「そうですか……事前に一言教えていただけていれば、何かお土産でも用意したのですが……」

 

 そんな風に話していると、ふと深鈴の頭の中で今渡せる”土産”が一つ、思い浮かんだ。彼女の知っている歴史でも伊達政宗はへそ曲がりの悪戯好きだったという話もあるし、ここは一つ、厨二病の先達として機先を制しておくか。

 

 むらむらと沸き上がった悪戯心に背中を押され、梵天丸から死角になっている顔半面にニヤリと笑みを浮かべた深鈴は、懐から包帯を取り出す。

 

 稲葉山城攻略の時に信奈に差し出した百両もそうだが、織田家に仕官する以前、五右衛門や川並衆と共に商売を始めたばかりの頃は、何度も山賊や野武士に襲われ、いつ死んでもおかしくないような日々の連続だった。その経験から彼女は、金の他に乾飯といった非常食に竹筒一本分の水、包帯や針や糸の縫合セットといった簡単な医療器具などは常に持ち歩くようにしている。

 

 自分や五右衛門を守る為に負傷した川並衆を治療した経験も手伝って、梵天丸の右前腕に手際良く包帯が巻かれていく。

 

「???」

 

 それを見た信奈は怪訝な顔だ。別に梵天丸が怪我をしているようには見えないが……

 

 梵天丸の方も、イマイチ深鈴の意図を図りかねているようだ。きょとんとした表情で、首を傾げている。

 

「銀鈴、これは……?」

 

「これは、梵ちゃんの体内に封印された七つの大罪を司る七柱の魔王達が普段表に出ないよう、封印するおまじないです。私の故郷には、そうした慣習が伝わってるんですよ」

 

 嘘は言っていない。

 

「おおっ!! 成る程、確かにここ数日の戦いを通して、我が内なる力は我自身の制御をも超えつつあるのを感じていたのだ……!! 銀鈴、感謝するぞ」

 

 きらきらと目を輝かせて礼の言葉を述べてくる梵天丸を見て、しかし深鈴の心中では悪戯が成功したカタルシスは束の間、急激に罪悪感が芽生えてきた。こうも純真な瞳を向けられると……ただの悪戯、ほんのわずかな茶目っ気だったのが、何故だかとても悪い事をしたような気がしてきた。

 

 とは言え覆水盆に返らず。今更只の悪戯でしたなどとは、言い出せる空気ではない。それはアミューズメントパークに行ってマスコットの着ぐるみと一緒に写真を撮っている子供の耳に「あの中には人が入ってるんだぞ」と囁くような暴挙だ。とは言えこのまま嘘の上塗りをするのも良くない。

 

『ならばせめて……今度こそ何か真心からの贈り物を……』

 

 そう思ったが、今は手元に何も無い。どうしようかと首を捻りつつ「そうだ!!」と、ある事を思い付いた。”これ”なら良いお土産になる。

 

「信奈様……」

 

「ん?」

 

「失礼ですが、手を叩いていただけますか?」

 

 突然そんな事を言われて首を捻る信奈であったが「まぁそれぐらいなら良いか」と、手拍子を一つ。パン、と乾いた気持ちの良い音が鳴る。

 

「では梵ちゃん、私から問題です。今、信奈様の右手が鳴ったでしょうか、それとも左手が鳴ったのでしょうか?」

 

「右? 左? おかしな事を聞くな?」

 

 質問の意図が掴めず、顎に手をやって首を捻る梵天丸。信奈も同じように「?」という顔だ。しかし問いかける深鈴の表情は真剣そのものであり、これがただの意地悪な問答ではない事を二人に教えている。

 

「いつか……その答えが分かったら、私に教えに来てください。二年先でも、三年先でも」

 

 梵天丸はその後もしばらくは怪訝な表情のままだったが、しかし唐突にニヤリと不敵な笑みを浮かべた顔に変わった。

 

「ふふん……魔眼使いの先達として、この我への問い掛けという訳か……よかろう!! その難問、いつか必ず解いてみせるぞ!!」

 

 深鈴にそう言い放った梵天丸は、次には信奈に向き直った。

 

「そして織田信奈、第六天より来たりし魔王よ!! この国を変えるのはそなたか、それともこの”黙示録のびぃすと”、邪気眼竜正宗か!! 次に会う時は、天下分け目の大戦ぞ!!」

 

 殆ど宣戦布告のような物騒な捨て台詞を残し、梵天丸は走り去っていった。右手には、包帯を巻き付けたまま。

 

 後に残された二人はぽかんと立ち尽くしていたが、やがてどちらからともなく、隣に立つ者へと視線を向ける。

 

「結局……あの子は何だったの?」

 

「ま、まぁ……あの年頃の子供はああいうのが好きですから……」

 

 と、深鈴。まぁここで織田家が遥か北の奥州相手に戦をするメリットも無いし、史実でもそうだったが時が過ぎれば正宗の考えが変わるかも知れない。それを考えれば今は様子見、という対応でも良いだろう。

 

 信奈も同様の考えなのか「ふうん」と一応の納得を示してはくれた。

 

「ところで……銀鈴」

 

「は……」

 

「それで……さっきのは私の右手が鳴ったの? 左手が鳴ったの?」

 

 尋ねてくる己が主に、深鈴は少しだけ意地悪な風に微笑して、

 

「それは……信奈様にも宿題ですね。いつか答えが分かったのなら、私に教えてくださいませ」

 

 そう返す。臣下である立場上、深鈴はこれ以上強引に「言え」と言われれば答えざるを得ない所があるが、しかし信奈とてそんな立場に物を言わせたカンニングの様な行為は、主としての、大名としての矜持が許さないらしい。「面白いじゃない」と、先程の梵天丸よろしく不敵な笑みを浮かべる。

 

「見てなさい。そんな問題ぐらい、すぐに解いてあげるわ!!」

 

 ビッ!! と深鈴を指差してそう言ってくる。その後の彼女は何度も手を耳元で鳴らしたりして「右……いや左が……やっぱり右が……?」などと、ブツブツ呟いていた。

 

 

 

 

 

 

 

「ヒック……銀鈴、この微意留というのは効くなぁ……普通の酒とは違った苦みがクセになりそうだぞ。南蛮渡来の葡萄酒も旨いなぁ……」

 

「あら、銀鏡殿。これ見て下さいな。先日手に入れた逸品ですわ」

 

 その後も深鈴は会場を見て回っていたが、顔を真っ赤にした勝家に絡まれたり、煙管をプカプカと吹かせた久秀の、先日手に入れたという壺自慢に付き合わされたり(その壺は、先の元康接待の折に光秀が最初に目を付けた物だった)と、まぁ色々あったが喧嘩狼藉などは無く、宴会はつつがなく進んでいく。

 

 そうこうしている間に昼八つ(14時頃)を過ぎて、少し小腹が空いたなと思い何かつまむ物でもないかなと探していたが……そうしていると食客の一人が、膳の上に数枚の小皿を乗せて運んでいく場面に出くわした。小皿の上には、黄色や桃色、緑色など様々な色の付いた粉末が少量ずつ乗っていた。

 

「あの、これは?」

 

「ああ、深鈴様。これは変わり塩です」

 

 と、その食客が説明していく。

 

「この桃色のが梅味、黄色の物は柚味、緑色のは抹茶味と……普通の塩に様々な風味付けを施してあります。良ければご賞味されますか?」

 

「うん」

 

 桃色の塩を摘んで舌の上に乗せてみると、塩独特のシンプルな辛みの他に、確かに梅干しのような味が感じられた。

 

「成る程、美味しいわね……ところで、これをどこに運ぶ途中だったの?」

 

「はい、先程作った天ぷらを、つゆの他にもこういう味付けで楽しんでいただければと……」

 

「……天ぷら……?」

 

 訝しむようにそう聞き返しながら深鈴は、そう言えば煮込みおでんやポテトチップスの権利は光秀が金策の為に売ってしまったので、新しい創作料理の開発を調理班に命じていて、その中に天ぷらもあった事を思い出していた。

 

 勝家が飲んでいたビールのように、この宴会にはそれらの料理のいくつかを発表するように言ってあったが……

 

「……それをもう、誰かに出したの?」

 

 イヤな予感がして、表情を硬くして問う。

 

「はい、先程……あちらの席におられる丹羽様や松平様にお出ししていますが……」

 

 何故に深鈴がそんな深刻な声と表情で尋ねてくるのか理解出来ないのだろう。のんびりとした調子で、その料理人の食客は答える。だがそれを聞き、深鈴の表情は一変した。

 

「バカ、何でそれを早く言わないのよ!!」

 

 理不尽な怒りであったが、しかし未来を知る身としてはこれは一大事である。脱兎の如く走り出した。後には呆然と立ち尽くしたままの食客だけが残される。

 

 宴会に興じる客人達を縫うように、泳ぐようにして掻き分けて進んでいくと、長秀らと食事しながら談笑している元康の姿が見えた。彼女の手にした箸にはまさに今、天ぷらが摘まれている。

 

「ああっ!! 元康殿、それは……」

 

 叫ぶが、その声は宴会の喧噪に掻き消されて届かない。

 

 こうなれば腕ずくで止めるまでだと、気が付けば深鈴は走っていた。今こそが陸上部(高跳び選手だけど)の足の見せ所だと。

 

 全ての景色がゆっくり、スローモーションのように見えた。脳内でアドレナリンやらドーパミンやらが分泌されて一瞬が何秒にも何分にも思えるという話は本当だったのだと、頭の片隅で思う。

 

 それは瞬きしていたら見逃してしまうような僅かな時間の出来事であり……それ故に、当然の如く間に合わなかった。

 

 パクリ、と元康の口に天ぷらが消える。

 

「あっ……!!」

 

 そこで、深鈴の時間は正常なものへと戻った。

 

 もぐもぐと咀嚼し、ごっくんと嚥下。

 

 程無くして、

 

「うっ!!」

 

 元康は苦しそうに顔を青くし、胸を押さえてうずくまってしまう。

 

「た、大変だ!! 天ぷらに当たったんですよ、誰か!! 早く医者を……!!」

 

 泡食って人を呼ぼうとする深鈴であったが、しかし周囲の反応は冷めたもの。それどころか元康自身も、数秒後には何事も無かったかのようにむっくりと起き上がってきた。

 

「鯛の小骨が喉に引っ掛かっただけですよ~」

 

 と、元康は苦笑しながらお茶をぐいっと飲み干しながら「でもご心配ありがとうございます~」と笑顔で言い、長秀も、

 

「まぁ幹事ですから些細な事でも気になるのは分かりますが、ちょっと気負いすぎですね……五十五点です」

 

 笑う口元を扇で隠しながらそう採点してくる。どうやら彼女達には、この宴会の幹事である深鈴が僅かな間違いでもあってはならないと、些末事にも神経質になっているのだと受け取られたらしい。深鈴も調子を合わせて頭の後ろに手をやり「あはは……」と照れ隠しの笑いを浮かべる。

 

「拙者達も見回っておりますが、今の所異常は無いでごじゃる…………銀鏡氏、どうかご安心を……」

 

「ぱく、ぱく……天ぷら美味しい……もぐ、もぐ……」

 

 先日の相撲大会の時と同じく、警備に当たっていた五右衛門と犬千代も、今度ばかりは少し呆れた表情である。

 

 皆からのそんな視線を受け、深鈴も苦笑した後に肩を竦めると、宴会の見回りに戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 少しばかり離れた所でこの騒ぎを見物する者が一人。森宗意軒である。南蛮・唐国を巡り、日本に戻ってからは高野山で色々と学んできたこの説客は、今はワインの瓶片手に縁台に腰掛け、トレードマークの山高帽も傍らに置いている。

 

「未来を知る身としては、気苦労が尽きぬな……我が主は……心配せずとも”徳川家康”の星は落ちぬよ。少なくとも今しばらくはな」

 

 そう、ぼそりと呟く。未だ誰も知る筈の無い、後に元康が名乗る事となるその名を。

 

「尤も……あんたの頭に詰まった”正しい歴史”が役立たずになる日は、そう遠くはなかろうがね。あんたが好き勝手するお陰で天命はもう滅茶苦茶……とうの昔に消えている筈だった星の光は未だ強く我々に届き、この時代に輝く筈の無い星達まで煌々としている……かく言う俺自身の星もな。天命には本来そうあるべきものと違う流れに入った場合、正しい流れに戻そうとする力が働くが……俺が見た所、それも限界が近いな。未来の分岐点は、思いの外近くにあるかも知れん……」

 

 くっくっと喉を鳴らし、ワインをラッパ飲みする。きゅぽんと音を鳴らして口を離した彼の目は見開かれて、三白眼が深鈴を見据え、光る。

 

「ならば、俺も俺が望む未来の為……あんたには精々役に立ってもらうとするかね」

 

 言い終えた時には、見開かれていた三白眼は既にいつもの線目に戻っていて、彼は再びワインを呷った。

 

 

 

 

 

 

 

 この一週間後、信奈は三万の兵を引き連れ、若狭へと出兵する。

 



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第24話 信ずべきもの、護るべきもの

 

「こほっ、こほっ……ご心配おかけして、申し訳ありません……」

 

 京、妙覚寺。斎藤道三が子供の頃に修行したというこの寺は、その時の縁もあって上洛した信奈達に何かと親切にしてくれている。全軍を率いて若狭に出兵した信奈に留守番を命ぜられた深鈴は、この寺にて久し振りに骨休めをしていた。

 

 普段の彼女は織田家臣としての職務だけでなく、銀蜂会会長としての仕事をもこなしている。毎日朝早くから夜遅くまで働いている彼女の仕事振りを見て、前野某や食客達がこんな生活を続けていてはその内体を壊すと心配して、数日間の休暇を作ってくれたのである。

 

 決してワーカーホリックでない深鈴は体調管理も重大な仕事の一つであると理解しており、半兵衛の看病がてらこの好意に甘えておく事にした。そっと、寝ている彼女の額に手を当てる。

 

「うん……大分、熱は下がってきたみたいね」

 

 曲直瀬ベルショールからもこの分なら後数日もすれば体調もすっかり戻るだろうとお墨付きを貰っているし、深鈴はこれで一安心と、犬千代と一緒に今や大好物になった栃餅の蜂蜜煮をパクつき始めた。

 

「こ、これは……今まで食べた事の無い味わいですぞ!!」

 

 いつの間にか尾張からやって来ていたねねもまた、栃餅の妙味にはすっかり虜となってしまったようだ。三人で皿を囲み、我先にと手に取っては口に入れていく。

 

 と……あっという間に皿上の餅が最後の一切れになってしまった。

 

「「「あ……」」」

 

 顔を見合わせる三人。

 

「銀姉さま、どうぞ……ねねは小さいですし、もう十分頂きましたですぞ!!」

 

「いえ、私も十分食べてるし……犬千代、あなたに譲るわ」

 

「……いい、流石に犬千代も食べ過ぎ。ねねが食べる」

 

 こんな調子でグルグル譲り合っていると、五右衛門が横から「では拙者が」と手を伸ばしてパクリと食べてしまった。

 

「「「あ……」」」

 

 唖然、と口を開けっ放しにする三人。それを尻目に五右衛門はご満悦の表情だ。

 

 布団の中からそんな四人を見ながら、半兵衛は微笑する。この寺は今が戦乱の時代とは思えぬ程に静かで、平和だ。

 

 しかしこんな穏やかな時間は、長くは続かなかった。

 

 昼八つ(14時頃)を知らせる鐘の音が鳴り終わったぐらいの頃だった。どすどすと足音が響いてきて襖が開き、宗意軒が入ってくる。

 

「宗意け……」

 

 声も掛けずにいきなり入室してきた無礼を咎めようとした深鈴であったが、だが彼が手にしている鳥籠を見ると、思わずその言葉を飲み込んだ。

 

 鳥籠の中には一羽の鳩が入っていて、その右足には小さな鉄製の棒が括り付けられている。籠の扉を開けた宗意軒は手際良くその棒を取り外すと、深鈴に渡した。

 

 深鈴が鉄棒を指で摘んで九十度ばかり捻ると、かちりという音がして棒は二つに割れる。中は空洞になっていて、小さな紙片が丸められて入っていた。これを見て、半兵衛や五右衛門は「おおっ」と驚いた声を上げる。情報伝達に鳩を使うのは忍者の中にそういう者が少数名居るぐらいで、この時代では未だ一般的でない手法なのだ。

 

 取り出したその紙を広げ、書かれていた文面に目を通していた深鈴だったが……読み進めていくにつれて彼女の表情はみるみる険しく曇っていき、そして読み終えると同時に、顔を真っ赤にして紙を引き破いてしまった。

 

「ど、どうされたのでござる? 銀鏡氏」

 

「何か……あったのですか?」

 

 深鈴がここまで激情を表に出すなど、中々無い事だ。実際に読まずとも、鳩が届けてきた手紙の内容が良くないものであったと教えるには十分だった。

 

「……何があったの?」

 

 犬千代に尋ねられ、深鈴はやっと気持ちを落ち着けると大きく息を吐いて、話し始める。

 

「浅井が……裏切ったわ」

 

「!!」

 

「どういう事でござる? 何故、浅井が……?」

 

「我が軍の若狭攻めは偽装です!!」

 

 五右衛門のその疑問には、半兵衛が答える。

 

「信奈様は老大国である朝倉家は新政権に協力しないと最初から見切っていて、畿内を早期統一する為に奇襲作戦で越前を平定するおつもりだったのです!!」

 

 だが、浅井と朝倉の縁は深い。

 

「ですから、前もって相談すれば長政さんが織田と朝倉の間で板挟みになりますから、元康さんの援軍も含めた織田の全軍で、早急に越前攻めを終わらせるおつもりだったのです」

 

「私も、確証があった訳ではなかったのだけど……」

 

 浅井が長政主導で動き、かつ長政が理性的な判断を下すのなら、信奈の天下布武の為には上杉謙信よりも先に北陸を固めておく以外無いと考え、越前攻めも見て見ぬ振りを決め込む可能性もあった。深鈴としては寧ろその可能性の方が高いと見ていたぐらいだ。最近の彼はどういう訳かめっきり人柄も穏やかになり、どういう訳か信澄とも仲良くやっているようだったから。

 

 しかしここで思い出さねばならないのは、上洛前に美濃へやって来た時の長政の言葉だ。あの時彼は『父、久政は隠居した身とは言え未だ家中にはそれなりの人望があり、現当主である自分とてその意を無碍にする事は出来ない』と、そう言っていた。そしてその父が、朝倉に義理立てして織田との縁談に反対していたとも。

 

 つまり息子の嫁(男だけど)の首を切ってでも、浅井が朝倉に味方するよう仕向ける可能性があったのだ。

 

 それを懸念していたからこそ深鈴は段蔵率いる諜報部隊を近江に派遣し、何か変わった動きがあればすぐに知らせるように命じていた。更に先日、近衛前久によって武田・上杉同盟軍が尾張を急襲するという誤報を仕掛けられた反省を活かし、他の勢力の乱波による妨害工作を受けず、最速にて情報を伝達する為に伝書鳩を用いた。

 

「段蔵からの報告には『小谷城に出陣の気配あり、織田への援軍とは思えず』とあったわ。十中八九、間違い無いわね」

 

「だとすればこれは一大事にござるぞ!!」

 

「背後を任せた浅井に裏切られれば、織田軍は袋の鼠ですぞ!!」

 

「いけない……!!」

 

 ほんの数分前までの和やかな空気は、もうどこにもなかった。

 

「若狭から反転した織田軍は、今頃は木ノ芽峠へと差し掛かっている頃合いでしょう……信奈様は敵地に深入りし過ぎです……もし長政さんが、更にその配下で西近江を治める朽木家までが今、信奈様を裏切れば……」

 

「前からは朝倉勢、後ろからは浅井勢。しかも慣れぬ山路。我が軍は行くに行かれず戻るに戻れず、九分九厘まで谷底で壊滅するだろうな」

 

 自軍の危機をまるで他人事のような口振りで宗意軒が言う。彼の手には、いつの間にやら手紙を運んできた鳩が乗っていた。

 

「それにしても、浅井久政も血迷ったものだな。信奈様の力で漸く平和が蘇ろうとしていると言うのに……今この時に信奈様を殺して、後の戦乱を誰が終息させると考えているのだろうね? ま、大方、「後の事は武田でも朝倉でもやる。今は武人の義とは如何なるものか天下に示さねばならぬ」……と、こんな風に考えているのだろうが。あるいは、我が子を天下人にしたいと欲が出たのか……」

 

 宗意軒の楽しんでいるかのような口振りは気に入らないが、言っている内容それ自体は正論だ。今、信奈が死ねば天下は更に乱れ、疲弊した日ノ本は諸外国に対抗する事も叶わなくなるだろう。この天下しか見ていない久政には、天下の先が見えていない。

 

 こうなる可能性を見越していた深鈴は、最終手段として段蔵に「万一の場合には久政・長政の親子を暗殺する事は可能か?」と尋ねた事がある。返ってきた答えは「否」。

 

 それを責めはしなかった。そもそも忍者がそんな簡単に大将首を取れるなら、世の大名達は首がいくつあっても足りないだろう。八岐大蛇やヘカトンケイルじゃあるまいに。それが証拠に百発百中と謳われる杉谷善住坊ですら、信奈の命を奪う事は出来なかった。当代最高の忍者の一人である段蔵であろうと、同じ事だ。

 

「で、どうするね? 大将」

 

 宗意軒が尋ねる。彼のその手には、湯気を放つ卵が乗っていた。鳩を手の上に乗せたまま、産ませた物だ。

 

「半兵衛、今から信奈様に知らせに行って、間に合うと思う?」

 

 問いを受け、天才軍師の頭脳はほんの一瞬程の間を置いただけで結論を弾き出す。

 

「……何とか。浅井の兵は山間では無類の強さを発揮しますが、神速ではありません。早馬で今すぐ信奈様の本陣へ駆け付け、全部隊が間髪入れずそのまま引き返せば、浅井が布陣を終える前に危機を脱する事は、可能だと思います。浅井勢は恐らく琵琶湖の東、木之本街道を北上してくるでしょうから、我が軍は琵琶湖の西に出て、朽木谷を突破するのが最善の脱出路かと」

 

「だったら今すぐに!!」

 

 犬千代が立ち上がり、深鈴もそれに続くように腰を上げた。

 

「私も行くわ」

 

「わ、私も一緒に……」

 

 布団から体を起こそうとする半兵衛であったが、深鈴に止められた。

 

「あなたは今が一番大事な時。しっかりと体を休めて体調を回復させなくては、全て元の木阿弥でしょう?」

 

「でも、私は銀鈴さんの軍師……」

 

 半兵衛は食い下がり、無理を押して起き上がろうとするが、しかしそんな彼女を深鈴はさっと手を差し出して制すると、

 

「大丈夫……前もって段蔵達に探らせていた事から、分かるでしょう? この事態も私の掌の内、想定内の出来事よ。当然、対応する為の策も用意してあるわ」

 

 自信の笑みと共にそう言ってみせる。この言葉は嘘ではない。尤も、想定内の最悪だが。

 

「色々準備もしてあったからね……」

 

 役立って欲しいとは思わなかったが、この時の為に用意しておいた転ばぬ先の杖の一本。それを使う時が来た。

 

「犬千代、既に私の食客の中で武芸に秀でた者と信奈様から預かった京守備隊の中で腕利きの者、合わせて五百名を選りすぐった隊の編成が済んでいるわ。あなたはその指揮を執って!!」

 

「分かった!!」

 

「五右衛門、あなたは源内の所に行って用意しておいた漏斗(じょうご)三百個をすぐに持ってこさせて!! そのまま犬千代の部隊に持たせるのよ!! それと火砲部隊で京の北東を固めるように言って!!」

 

「承知!!」

 

 にわかに慌ただしく動き出した深鈴達を見たねねは戸惑ったように視線を彷徨わせていたが、そんな彼女の頭を、深鈴の手がくしゃっと撫でた。

 

「ねね、あなたには半兵衛の看病を頼むわ。半兵衛にはまだまだ働いてもらわねばならないから……だから、頼むわ。私が戻るまで」

 

「おう、承知致しましたですぞ。銀姉さま!! 半兵衛殿の事はこのねねが、責任を持って看病致しますぞ!!」

 

「では、私の代わりに前鬼さんを付けます」

 

 そう言った半兵衛が重ねた護符に念を送るとそこからむくむくと煙が立ち上り、その煙はやがて収束して実体の重みを持つと、木綿筒服を纏った細面の青年へと姿を変えて顕現した。半兵衛の式神達の中でも筆頭格にある前鬼だ。

 

「それで……近江の信澄や長政の事はどうするかね?」

 

 鳩に産ませた卵を器用に片手で割ると中身をごくんと丸呑みにして、宗意軒が聞いてくる。

 

「……万一の時の事は、段蔵に任せてあるわ。私達は一刻も早く信奈様の元へ馳せ参じる事が肝要……今は……信じる他無いわね……」

 

「冷たいね? まぁ、正しい判断だが」

 

 憎まれ口もそこそこに聞き流すと、深鈴もまた出立の準備に取り掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 同刻、美濃・岐阜城。

 

「何という事じゃ……」

 

 広間にて、「浅井勢が小谷城より打って出る」の報を受けた道三は、顔を顰めて地図を睨んでいた。まさかとは思っていたが、この局面で浅井が裏切るとは。これでは織田は袋の鼠。残された道は全滅、その一つしかない。この難局にあって、自分はどう動くべきか……

 

 思案するが、蝮と呼ばれた戦国の梟雄をして、この事態は捌き難い。

 

「せめて今ここに、半兵衛が居れば……!!」

 

 そう呟いた瞬間、「はっ」と気付く。慌てて懐をまさぐって取り出したのは、口を縛った袋であった。京から美濃へ引き返す際、半兵衛に持たされた物だ。事態に急変あった際にはこの袋を開けよと。

 

 藁にも縋る思いで糸を解くと、嚢中には一枚の手紙が入っていた。それを開き、中に書かれていた文面に目を走らせる。そして読み終えたその時には、彼はにやりと口角を上げていた。

 

「そういう事か……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 越前へと進路を変えた織田徳川連合軍はまさに連戦連勝、破竹の勢いで進撃を続けていた。金ヶ崎城を落城させ、このまま進めば一城ヶ谷を陥落させるには三日もあれば十分であろうと誰もが思っていた。だが。

 

 木ノ芽峠に差し掛かったその時、陣中へと早馬を飛ばし、深鈴率いる精兵五百騎が駆け込んできた。その中には五右衛門は勿論、半兵衛の影武者である前鬼や鉄砲の名手である子市、宗意軒の姿もあった。

 

「銀鈴……!! どうしてここに……」

 

 京の守りを任せていたのにと、咎める事はしなかった。深鈴が受けた命令を放棄してまでこの場に現れるとなれば、何か分からないが兎に角余程の事情があっての事であろうと、信奈はそこまで察していた。

 

 全身に玉の汗を浮かべ、息を切らしていた深鈴は竹筒に入っていた水を飲んで人心地を付けると、まだ荒々しい息遣いながらも、報告を始める。

 

「の、信奈様……はあ……浅井家が、はあ……離反しました……!!」

 

「な、何言ってるのよ、銀鈴……!! 浅井には勘十郎を遣ってるし、それに……」

 

 夢物語でも聞いているような顔で、信奈が言い返してくる。確かに長政は今や信奈の身内。それが叛旗を翻すなどにわかには信じられまい。

 

「ですが、それがまことなのです……私の諜報部隊が掴んだ情報です。それとも信奈様は今回もまた、間違いがあったと思われますか?」

 

 僅かに怒気を孕んだ声で、深鈴が言う。先日の前久の謀略による偽情報が入った時にも、深鈴が掴んだ情報は結局正しかった。あの時の信奈は万一の事も考えて完全には信じなかったが、今回はそうも行かない。

 

「けど……それでも……」

 

 頭ではそう分かっているが、感情は別物。未だ完全に信じるには踏ん切りが付かないといった表情を信奈が見せる。すると空間から湧き出るようにして、闇が固まったかのような黒いボロ布で全身を包んだ忍び、加藤段蔵が姿を現した。

 

「段蔵!! 信澄殿は……!?」

 

「…………」

 

 希代の忍者は無言のまま首を横に振り、そして懐から小豆袋を取り出して、手渡す。

 

「これは……」

 

 小豆袋は、前後の口がきつく縛って閉じれていた。それを見て、深鈴は全てが理解出来た。何故に、段蔵がこれを持ってきたのか。そしてこの小豆袋が、何を意味しているのか。

 

「信奈様……これは、信澄殿からの伝言に他なりません。恐らく信澄殿は小谷から逃げられず、書をしたためる時間も無く、やむを得ず段蔵にこれを託したものと……」

 

<相違無い。浅井長政は幽閉され、我等は信澄殿だけでも連れ出そうとしたが、長政を置いては行けぬと拒まれ、その袋を預かった>

 

「今の織田勢はこの小豆袋に同じ。前の進路も後ろの退路も断たれ、全滅します」

 

 そう言われて信奈は初めて今現在、織田全軍が窮地に陥っている事実を、はっきりと受け止められたようだった。

 

「信奈様……どうか、撤退のご下知を……」

 

「そうだったわね……」

 

 頷き、床几より立ち上がる信奈。

 

「私自身が殿軍を務めて囮になるから、その間に……」

 

「なりません!!」

 

 長秀が、今まで聞いた事も無いような強い口調で制止する。

 

「この退却戦の殿軍は、全軍玉砕するしかありません!!」

 

 彼女の言う通り、ここでの殿軍は本隊を少しでも遠くに逃がす為に、押し寄せる浅井勢の前に出された死に残りの兵。総大将がそれを指揮するなど、馬鹿げている。

 

 言われるまでもなく、信奈自身もそれが愚挙だとは分かっている。分かってはいるのだ。だがしかし、それでも。譲れないものが、譲りたくない一線が彼女にもあった。

 

「誰にそんな役目を命じれば良いの!? 私にはみんなが必要なのよ!! じゃあ、降伏よ……姫大名は、出家すれば殺されないし……」

 

「降伏すれば、必ず殺されますわ」

 

 だが信奈の甘い希望は、久秀の一言で切って捨てられた。

 

「これだけの裏切り行為をやってのけた以上、浅井は報復を恐れ、決して信奈様を助命致しますまい。出家した姫大名は殺してはならじという戦国の倣いを無視し、問答無用で命を奪うでしょう。不慮の事故、家臣の暴走、毒殺……闇に葬る手段はいくらでもありますわ」

 

「織田家は……いえ、これからの日本は姫様無しには立ち行きません!! 家臣の一人に……その配下の手勢達に、殿軍の役目を……死を、賜りますよう。天下布武の大号令を発した以上、犠牲は出ます。お覚悟を!!」

 

 例えその役を命ぜられるのが己であろうと構わぬと覚悟を決め、長秀が詰め寄る。それを受けて信奈の表情が、悲痛に歪んだ。

 

「そんな命令……出来る訳が……」

 

 一斉に、その役目を自分にと、家臣達が名乗り出ようとした。信奈に、自らの家臣に死を命じたという負い目を背負わせない為に。だがこの場の誰よりも、

 

「その役目、どうかこの私に賜りますよう」

 

 深鈴が、そう口にするのが早かった。

 

「銀鈴、あんたは……」

 

「私は元よりそのつもりで、ここまで来ました」

 

 浅井の離反を伝えるだけなら身一つでここへ来るか、五右衛門を走らせればそれで事は済んだ。なのに何故、合理的な彼女が配下の精鋭五百騎を連れてきたのか。全てはこの為だった。

 

「死ぬわよ? 死んじゃうわよ!? それで良いの!? 姫巫女様が言ってたじゃない、あんたは遠い所から来たって!! それが……こんな所で死んでも良いって言うの!? そこまでして護るものが、あんたにはあるって言うの!?」

 

 全てを悟った信奈は深鈴の襟をぐっと掴んで、涙ながらにそう訴える。彼女の言葉は理という筋道の通ったものではなく、ただ自分の胸中の、深鈴の心を変えさせようとする感情を並べ立てただけのものだった。仮に殿軍を申し出たのが他の者だったとしても、同じだったろう。信奈は家臣達を真の家族のように、強く想っていた。

 

 その想いを全て理解して、全て受け止めて。深鈴はそれでも、

 

「あります」

 

 迷い無く、そう答えた。

 

「信奈様……確かに私はここではない、遠き地の生まれです……ですが……例え私が尾張の生まれだったとしても、だから命を懸けるのではありません」

 

 今はもう、遠い昔のように思える織田家に仕官したあの時。その時はまだ、織田信奈に対して特別な感情を抱いているという訳ではなく、ただ前途有望な大名の下に就く事で身の安全を確保して食い扶持を得ようとしただけだった。

 

 だがそうして、織田の家臣として働く中で。

 

 勝家、長秀、犬千代、光秀、五右衛門、半兵衛、そして信奈。

 

「信ずべきものあってこその未来。護るべきものあってこその世界。無二の主と、同じ未来を望んで想いを分かち合う仲間を。この命を賭してでも護るべきものを……見付けたのです」

 

 何もかも全て覚悟した上で、深鈴はここに来たのだ。彼女の声が、目が、そう語っている。この強い意思は崩せないと理解して、信奈は諦めたように襟から手を離した。そこでもう一度、「死んじゃうわよ」と、俯きながら言う。

 

 深鈴はそんな主の顔をそっと撫でて、怖い夢を見た子供を安心させようとする母親のように、優しく言葉を掛けた。

 

「信奈様……私は、死にません」

 

「……ぇ?」

 

 消え入りそうな声と共に、信奈が顔を上げる。それを確かめると、深鈴は自分の胸にそっと手を当てた。指先に血の脈動が、命の鼓動が感じられる。

 

「今この時も、私の中にはあの濃尾平野で……ある方から頂いた命が息づいています」

 

 それが誰なのかをこの中で唯一人知っている五右衛門が、目を伏せる。

 

「命はたった一つ。喪ったらそれきり……でも、命の中に在るものは残ります」

 

「命の、中に在るもの?」

 

「そう……宝石のように光って輝く、想いが」

 

 人の為に何かをした。誰かの為に命を懸けた、その者の想いは消える事など決して無い。深鈴の中に今も、藤吉郎が今際の際に残した「お主は生きろ」という想いが、生き続けているように。

 

「命は奪い合うものではなく、繋がるものだと、私は思っています。逝ってしまった命の中に在った想いを受け継ぎ、自分が逝く時にはその想いをまた誰かに託して」

 

 命の中で育まれた強い想いは決して消えず、喪われずに、永久に残っていく。その想いが在る限り、人は死なない。

 

「そうした強い想いが紡がれ続けていく事が、本当の命なのだと……私は信じています」

 

「銀、鈴……」

 

 全ての言葉を聞き終えた時、信奈の涙は止まっていた。もう、数分前までの泣いていた少女の目はしていない。何かを決意して、何かを乗り越えた光を、今の彼女の瞳は宿していた。

 

 頬に伝っていた涙を拭い、己が臣下にしっかりと向き合う。

 

「あなたは……約束が、出来る?」

 

 「何を?」などと間の抜けた質問はしない。信奈の求めるものが無理である事は、深鈴にも分かっている。だが、彼女とて何の勝算も無しにここへ来た訳ではない。その無理を成し遂げる目は、少なからず残されている。ならば自分は、自分の勝ちにベットするのみ。

 

「約束します。必ず、生きて戻ると」

 

 その言葉を聞いた信奈はやっと、必死に絞り出した笑みを見せた。

 

「約束よ、銀鈴!! 命に代えての足止めなんか、許さないわよ!! 死んだら、許さないんだから!!」

 

 笑っていられるのは、そこまでが限界だったのだろう。臣下に泣き顔を見せまいと信奈は振り返り、久秀に肩を抱かれ、付き添われて去っていった。

 

 その後に残された諸将で、最初に深鈴の前に進み出たのは、勝家だった。

 

「死ぬなよ、銀鈴……」

 

 流石のバカ力で手を握られて、深鈴は苦笑いしつつ思わず顔を歪めてしまう。勝家は涙をぼろぼろと流して何度も詰まりながら、別れの言葉を紡いでいく。

 

「あたし達の手勢から、殿軍を志願した奴を残していく。餞別だ」

 

「……感謝します」

 

「もう一度言うぞ、死ぬなよ!! 絶対だぞ!!」

 

 鼻を啜りつつ勝家は陣払いの指揮を開始し、次に深鈴の前に出たのは長秀だった。普段は穏やかな笑みを絶やさない彼女は、今は押し殺したように沈痛な表情であった。

 

「銀鏡殿……御武運を……」

 

「京で、お会いしましょう」

 

 互いにぺこりと頭を下げあって、長秀もまた撤退の指揮に入る。その次は、犬千代の番だった。無言のままの彼女へ、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ所で、ぎゅっと抱き締められる。流石に織田家中で一二を争う槍の遣い手。先程の勝家にも劣らぬ剛力であり、深鈴は思わず手足をばたつかせた。

 

「ちょ……!! 犬千代、痛いわよ!!」

 

「……犬千代も、ここに残る」

 

「……果たすべき義務を、間違えないように」

 

 その言葉を受け、犬千代がはっと顔を上げる。深鈴の義務は本隊を逃がす為に、朝倉勢を足止めする事。そして犬千代の義務は、小姓として信奈を守る事だ。

 

 織田の家臣という分を離れて我が儘を言っているのがどちらか。新参の深鈴に教えられたようで、犬千代は一度頷いた後に無言のまま体を離す。その時、彼女の頬に光るものが伝っていたのを、深鈴は見逃していなかった。

 

「……さよなら。またね。ばいばい」

 

「……!! はい、また」

 

 犬千代もまた、その言葉を最後に陣を後にしていく。残ったのは、

 

「弱っちい銀鏡先輩一人で殿軍なんて、一瞬で全滅確定じゃないですか。こんな所で死なれたら、私は先輩に負けっ放しで終わっちまうですからね。だから渋々ながら、援護してやるです」

 

「私もです~。三河が独立出来たのも、銀鈴さんが吉姉さまに進言して下さったお陰だと~。ご恩返しさせていただきます~」

 

 二人のその想い、嬉しくないと言えば嘘になるが、だが……それに甘える訳には行かない。如何に策を用意しているとは言え、これから赴くのが死地である事には、変わりないのだから。

 

「お気持ちだけを、受け取っておきます。あなた達の命の懸け時は、今ではない筈ですよ?」

 

 元康には信奈の天下統一の後、平和になった日ノ本を治める仕事が、光秀にはいずれ信奈が七つの海に漕ぎ出す時、共に世界に繰り出す役目が待っている。

 

 そして深鈴の命の懸け時は今、この時。

 

 それを伝えられては、光秀も元康もこれ以上食い下がる事はしなかった。今惜しまれるのは時間。ここで残る残らないの押し問答を続けていては、深鈴の決意が無駄になってしまう。どちらも一廉の将である二人には、それが分かっていた。だから、その代わりに。

 

「この十兵衛が虎の子の鉄砲五十挺、貸してあげます!! 必ず生きて帰って、利子付けて返しに来やがれです!!」

 

「私からは、半蔵を残していきます~。本人も希望していますから~」

 

 元康は微笑みながら去っていき、光秀もまた、ここを発つ時が来た事を悟る。

 

「いいですか!! ここで死ぬようなら、所詮はこの明智十兵衛光秀の好敵手ではなかったと、笑ってやりますからね!!」

 

「それは……困りますね……では、笑われないように、是が非でも戻らねばなりませんね」

 

 互いに軽口を叩き合って、光秀もまたこの陣を去っていった。これで本当に、深鈴を除く全ての将が引き上げた事になる。

 

 後に残ったのは、深鈴が連れてきた五百騎と殿軍を志願した五百名。合わせて千名。押し寄せる二万の朝倉勢を相手にするには、あまりにも矮小な戦力と言える。だが、

 

「銀鏡氏の事は、拙者が必ずお守り致すでごじゃる!!」

 

 この時代に来てから最も長い時間を共有してきた五右衛門が居る。

 

「親分が噛んだ!!」

 

「ごじゃるが出た!!」

 

「この戦い、勝てるぞ!!」

 

 同じだけの時間を共に在った、川並衆の面々が居る。

 

「全く……人間共は涙もろくて面倒だが、そこが面白い。この俺も仕え甲斐があるというものよ」

 

 半兵衛より遣わされた上級式神、前鬼が居る。

 

「お初にお目に掛かる。我等服部党、主の命を受け、これより銀鏡殿の指揮下に入る」

 

 伊賀の忍び部隊を率いる頭領、服部半蔵が居る。

 

<貰った金の分は、働かせてもらう>

 

 その半蔵に並ぶ程の腕を持つ当世最高の忍者の一人、『飛び加藤』こと、加藤段蔵が居る。

 

「ま、私も孫市と決着を付けるまでは死ぬつもりは無いしね」

 

 日本二の鉄砲撃ち、子市が居る。

 

 そして残った足軽達も、

 

「ワシ等皆、銀鏡殿の為に死ぬ覚悟を決めてますみゃあ!!」

 

「銀鏡殿が、俺達を侍にしてくれたんだみゃあ!!」

 

「たとえ俺達の最後の一人が殺られても、銀鏡様は無事に京へと帰してみせまするぞ!!」

 

 彼等の多くは深鈴が抱えていた食客や墨俣築城の折に集めた元野武士であり、皆深鈴に恩がある。こんな時に働かねばいつ恩返しが出来ようかと、士気は高かった。

 

 ここに居る何名が生き残れるのかと思うと、深鈴は思わず鳥肌が立つのを自覚したが、しかし彼女は頭を振ると、そのような後ろ向きな考えを吹き飛ばした。

 

 半兵衛から聞いた事がある。将たる者が事を為さんとする時、留意せねばならぬ事が三つある。天の時、地の利、人の和だ。

 

 人の和については、皆運命を共にする覚悟。既に条件を満たしている。

 

 次にここは山中。彼女の策に欠かせぬ、地の利もまた織田勢にある。

 

「後は……」

 

 空を見上げる。夕焼け空は徐々に暗くなりつつあり、半刻(約一時間)もすれば、陽が沈むだろう。

 

「天の時も……私達の味方をしている。これなら……!!」

 

 いける。これで、やれる。

 

 確信めいた予感を胸に、深鈴はぐっと手を握った。

 

「では皆さん、この私は戦って死ねなどと甘い事は言いません。必ず生きて帰りましょう。しかも朝倉勢に目に物見せた上で、ね」

 

「「「おおーっ!!!!」」」

 

 一斉に槍刀が掲げられ、歓声が上がる。

 

「我等は先だって信奈様が落とした金ヶ崎城まで後退。そこを、防衛線とします」

 

 

 

 

 

 

 

 馬上の深鈴を先頭とする千人の動きを木の枝に座って見下ろしていた宗意軒は、「やれやれ」と苦笑と共に一息吐いて、軽やかに飛び降りた。

 

「ま、俺も美味い飯を食わせて貰ってる手前、働かねばならんか」

 

 言いつつ、親指で山高帽のつばを上げ、先程の深鈴がそうしたように天を仰ぐ。まだ太陽の光が僅かに残っているが、それでも天空にはちらほらと光が見え始めている。

 

「星が速い……今夜辺り、未来が変わるかもな」

 



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第25話 幻の大軍

 

 防衛拠点として金ヶ崎城に入った深鈴達がまず行った事は、城の至る所に旗指物を立てる事だった。これは所謂「見せ勢」、つまりこの城には兵が多く残っていると、迫り来る朝倉勢に思わせる為のものである。

 

 もしこちらの寡兵を見破られれば、朝倉勢は鶏を割くのに牛刀を用いはすまい。彼等の狙いは殿軍を務める少数の兵ではなく、あくまで信奈の本隊。あちらも少数の手勢にこの城を任せ、大多数は城を素通りして本隊に追撃を掛けるだろう。

 

「……可能な限り多くの兵を受け止め、本隊が逃げ切るまでの時を稼ぐ……か。確かに、撤退戦の定石だが……」

 

 作業を進めつつ、どこか奥歯に物が挟まったような口調の半蔵が言う。

 

「しかし銀鏡様、それではとても持たないみゃあ!! 我等はたった千人だぎゃ!!」

 

 彼の言いたかった事は、足軽の一人が代弁してくれた。

 

 確かに、この金ヶ崎城に僅かな兵しか残っていないと朝倉方が判断したのなら、敵方の多くはここを無視して本隊の追撃に移るだろう。それでは殿軍の意味が無い。しかし逆に、彼等がここに兵が多く残っていると判断するという事はつまり、二万の大軍がこの城に一斉に襲い掛かってくるという事なのだ。いくら城の利があると言っても兵力差は圧倒的。押しまくられて守りを破られ、千名悉く撫で斬りの根切り(要するに皆殺し)にされるのは火を見るよりも明らかな未来だ。

 

「それに……」

 

 足軽は深鈴を見て、その先を言い淀んだ。贔屓目抜きにしても彼女は若く、美しい。捕らえられたが最後、死ぬより惨い目に遭う事は想像に難くない。

 

 ……という、彼の気遣いを深鈴は読み取っていた。「ありがとう」と微笑して返す。そんな風に話していると、今度は別の足軽が手を挙げた。

 

「薩摩の島津家には、”捨て奸”(すてがまり)ちゅう戦法があるでごわす。今からでも作戦を変えるべきでは……」

 

 九州生まれの足軽が説明したその戦法は、分かり易く言うなら「トカゲの尻尾切り作戦」。殿軍の中で更に少数の部隊を留まらせて死ぬまで敵軍を足止めし、その部隊が全滅した後はまた別の部隊を残し……と、これを繰り返す事で本隊を逃がす事を最優先とする戦術だった。その性質上、足止めに残った部隊が生存出来る可能性は万に一つも無い、文字通り捨て身の戦法である。

 

「その提案は却下するわ」

 

 深鈴がそう言うと、しかし足軽達からは一斉に抗議の声が上がった。

 

「何故だみゃあ、大将!!」

 

「俺達の事を哀れに思うのなら、それは無用の事。ここの者達は皆、あんたからは既に命を差し出しても惜しくない程の恩を頂いておる」

 

「甘えは捨てなされ!!」

 

「そうでごわすぞ。深鈴様一人が京に帰り着ければ、おい等千名皆死んでも、この戦はおい等の勝ちでごわす!!」

 

 彼等の覚悟と想いを受け、深鈴は思わず目頭が熱くなったが……しかし同時に申し訳なくもなった。彼女としてはそこまでセンチメンタルな理由だけで、捨て奸を却下した訳ではない。この策にはもっと根本的な問題があるのだ。

 

「……捨て奸はそれを行うのが薩摩の強兵である事を前提とした戦術。いくら腕利きを揃えたとは言え、ここに居る者の多くは日本最弱の尾張兵。十分な効果を挙げられるとは思えないわ」

 

「う……」

 

 四半刻(約三十分)もせぬ内に朝倉勢が押し寄せようと言うのに憎らしいほど冷静な深鈴にそう言われ、九州者の足軽が言葉に詰まってしまう。すると今度は、手にした鎖鎌をじゃらじゃら鳴らしながら武芸者が進み出た。彼の名は刃金甚五郎(はがねじんごろう)。山田流の鎖鎌術を納めた腕自慢の食客である。

 

「では、やはりこの城にて命を……」

 

「捨てないわ」

 

 きっぱりと、深鈴は言い切った。

 

「信奈様が許してくれないし、十兵衛殿に笑われたくないからね」

 

「甘いぞ銀鏡深鈴!! 捨て奸もせぬ、城を枕に討ち死にもせぬ。それでは貴様はどうやって、雲霞の如きあの大軍を食い止めるつもりだ!!」

 

 半蔵がそう怒鳴るのも、当然と言えば当然である。今までのやり取りを聞く限り、この殿軍の大将は全くの無策で戦おうと言っているようなものではないか。

 

「まぁ、落ち着いて下さいよ半蔵殿」

 

 明日の夕食の献立について話すかのような口調の深鈴は、「まずは状況を整理してみましょう」と返す。

 

 捨て奸を実行しても、十分に敵を足止めする事は出来ない。

 

 この城に立て籠もっても、二万の兵に一気に攻められて終わり。

 

 冷静に考えれば考える程、自分達が今、絶体絶命の状況下に置かれているのがはっきりと分かるようになった。

 

「要するに……常識的な戦法で戦う限り、どうあっても私達は全滅するという事ね」

 

「なっ……」

 

 深鈴の口から出た言葉に、半蔵は絶句する。兵達の前でこんな事を言うなど……死に残りのこの軍は士気だけが頼りだと言うのに、これではその士気も萎えてしまう。自分で自分の首を絞めて、ついでに墓穴まで掘るとは。織田家中随一の知恵者と評判の彼女が、そんな事すら分からないのか!?

 

 深鈴を殺し、指揮権を奪い取る事すら真剣に考えた半蔵であったが……懐に隠した苦無を掴んだその時に「ですから」と彼女が言葉を続けた事で、一旦手を止めた。

 

「常識的な戦法で駄目なら非常識な戦法で戦うだけ。当たり前の、簡単な理論でしょう?」

 

「……能書きは素晴らしいが……」

 

 言いながら、半蔵は懐中の苦無から手を離した。

 

「具体的な策はあるのだろうな?」

 

 疑念混じりにそう尋ねられ、深鈴は「勿論」と即答する。

 

「まずは……」

 

「銀鏡氏!!」

 

 言い掛けたそこに、五右衛門が走ってきた。

 

「朝倉軍が来たでござる!!」

 

 その報告を受け、全員に緊張が走る。覚悟していた瞬間が、遂にやってきた。しかし未だ深鈴は落ち着いたものである。慌てて事態が好転するならいくらでも慌てふためくが、兵の上に立つ者はこうした時こそ逆に冷静になって、どっしり構えておかねばならない。三つの心得と共に半兵衛から教えられていた将帥の心構えを、彼女は忠実に実践していた。

 

「五右衛門、子市は?」

 

 尋ねられて、少女忍者はさっと物見櫓を指差す。

 

「お指図通り、観測手・弾込め役・着火役と共に櫓の上に待機しているでござりゅ」

 

「結構」

 

 報告を受け、満足げに頷く深鈴。このやり取りを聞き、自分達の大将が全くの無策ではなかった事に足軽達はほっと胸を撫で下ろした。そうだ、思い返してみればこの人はいつも突拍子も無い行動を取ってきたが、そういう時に限って素晴らしい成果を挙げてきたではないか。今回もきっとそうだ。

 

 ……と、安心したのも束の間、次にその頼れる大将の口から飛び出た言葉に、彼等はまたしても度肝を抜かれる事になる。

 

「では……旗指物を片付けて」

 

「「「はっ?!」」」

 

 足軽達も、半蔵達も、前鬼ですらもが自分の耳を疑った。兵の数を多く見せる為の旗を片付けたら、こちらの寡兵がバレる。そうしたら朝倉勢はここを素通りして本隊を追撃する。それでは何の為に自分達がここに残っているやら分からなくなる。大体して、多くの旗指物を立てるように指示したのは少し前の深鈴本人ではないか。これは朝令暮改どころの話ではない。

 

 聞き間違いだ。何かの聞き間違いに決まっている。誰もがそう思った。だが、

 

「聞こえなかったの? 指物を片付けろと言ったのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 押し寄せる朝倉勢二万の先頭に立つのは真柄直隆(まがらなおたか)と真柄直澄(まがらなおずみ)。共に大剣の遣い手であり、剛勇を以て名高い猛将姉妹であった。

 

 撤退する織田軍追撃の命を受けていた彼女達であったが、木ノ芽峠に差し掛かるまでは抵抗らしい抵抗を受けるどころか、尾張兵の一人も見付けられなかった。

 

「これは……恐らくは、金ヶ崎城に殿軍が残っているのだろうな」

 

 直隆の予想通り、夕陽に照らされる城には木瓜紋の旗が至る所に翻っていた。

 

「ふん、じゃあ手始めにそいつらから血祭りに上げてやるか!!」

 

 直澄が舌なめずりしながら言った、その時だった。立て掛けられた旗指物が急激に倒れ、減っていき、五分もしない内に一本もなくなってしまった。

 

「何だ……?」

 

 降伏するのか、それとも何かの策があるのか。そんな思考と共に一時軍の足を止める真柄姉妹。すると今度は城から「だぁん」という聞き慣れた乾いた音が二度三度と鳴った。種子島の銃声だ。

 

 しかし、撃ち出された銃弾は猛将姉妹は勿論、足軽の一人にも当たらなかった。それも当然で、城から朝倉軍までにはまだ五丁(約500メートル)もの距離がある。これほどの間合いでは当たるとか当たらないとかそういう話ではない。届きさえしない。空気抵抗によって勢いを失った弾は、情けない音を立てて地面に小さな穴を穿つだけだった。

 

「はん、この距離で鉄砲が届くか」

 

 嘲笑しつつそう言う直澄に対して、直隆は「読めた」と、そう言ってこちらはにやりと笑う。

 

「あの城には僅かな兵しか残っていない」

 

「……と言うと?」

 

「もし本当に大軍を隠しているなら敢えて少数に見せ掛け、我等の油断を誘う為に旗指物は立てぬ」

 

 だが、それならば最初から立てなければ良い。ならば何故、一度は立てた旗指物をわざわざ片付けるのか? 答えは、一つだ。

 

「最初は旗を立てて我等を引き付けようとした……が、いざこの大軍を前に意気が挫けた。そこで慌てて隠して実はこの城には大軍が潜んでいるぞと、そう見せ掛けて我等の攻撃を慎重にさせる腹づもりだ」

 

 その証拠に、届かないと分かっていて種子島を撃ってきた。

 

「我等に近付かれたくないからだ」

 

 

 

 

 

 

 

「……と、朝倉勢が上手くこちらの寡兵を見破ってくれれば良いのだけど……」

 

 利き目の左で望遠鏡を覗き、城の手前で動きを止めた朝倉勢の動きを観察していた深鈴だったが、彼女がそう呟き終わったとほぼ同時に、押し寄せてきた軍勢に動きがあった。

 

 兵が、二つに割れた。

 

 真柄姉妹率いる主力部隊は城を素通りし、信奈達本隊の追撃に。残りの二千ほどが、こちらに向かってきている。つまり、金ヶ崎城を攻め落とすにはこれぐらいの手勢で十分と判断しての事だろう。小勢を、見破られた。

 

「さて銀鏡……ここまでは全て、お前の思惑通りに進んだ訳だが……次はどうするのだ?」

 

 優秀な生徒へ、見事な解答を期待して課題を与える教師のような口調で前鬼が尋ねる。尤も、この場合は教師役の彼でさえ課題の答えが何であるのか知らないのだが。

 

 深鈴は、ちらりと兵士達に視線を送る。城に押し寄せてくるのはほんの一部とは言え、それでもこちらに倍する大軍である。武者震いしている者がちらほら見られ、槍や刀の柄を後で筋が固まりそうな程に強く握り込んでいる者も多い。

 

 深鈴は大将として、そんな彼等に掛ける言葉の内容は選ばなければならなかった。こうした場合には無責任な激励などではなく、自信の裏付けとなる具体的な事例を挙げるのが良いだろう。

 

 ならばと、彼女はうってつけの言葉を選んだ。

 

「皆、慌てないで!! 墨俣を思い出して!!」

 

 良く通る声を張り上げると、兵士達の緊張が僅かに治まったようだった。

 

「言われてみれば……」

 

「この状況は……」

 

「あの時に……」

 

「そっくりだみゃあ……」

 

 遡る事数ヶ月、深鈴の手勢が墨俣に一夜で城を築いた時、驚いた美濃勢はすわ一大事とその城に攻め寄せてきた。最初に攻め寄せてきたのは斉藤義龍自らが率いる稲葉山城の軍勢だった。

 

「確か、あの時は……」

 

 一人の足軽がそう呟き、同時に彼の頭上から「だぁん」という音が降ってくる。

 

 銃声。撃ったのは、どこよりも高い物見櫓から迫り来る朝倉軍を睥睨する日本二位の鉄砲撃ち・子市。足軽達が櫓から城外へと視線を移すと、侍大将の一人が落馬する所だった。鐙に足が引っ掛かって、空馬に引き摺られてまだこちらへ向かってくる。

 

 僅かな間を置いて再び銃声が響き、侍大将がまた一人落馬する。そう、遠距離からの一方的な連続攻撃によって押し寄せる敵軍の出鼻を挫くのは、あの時も子市の仕事だった。

 

 天才カラクリ技士・源内が作った改造火縄銃”鳴門”と、「雑賀孫市」の候補生であった元雑賀衆・子市の業。この二つの組み合わせはおよそ種子島の常識を越えた三丁(約300メートル)もの射程距離を実現していた。しかも恐るべきはそれだけではなく、観測手を付けた事による命中精度の更なる向上と、長篠の戦いで有名な三段撃ちの応用による驚異的な連射速度。

 

 子市は、撃ち終わった種子島を助手に渡して新しい物を受け取るのに3秒、受け取った銃を構えるのに1.5秒、照準(サイティング)に2.5秒、およそ7秒に一度の割合で引き金を引いていた。即ち7秒に一人ずつ、朝倉勢の侍大将が撃ち殺されている計算になる。

 

 その威力は勝ち戦と高を括って攻めてきた朝倉勢を驚かせ、迫り来る足を鈍らせるには十分な効果があった。

 

「そ、そんな!! こんな遠くから種子島が届く訳がない!!」

 

「しかも連続で撃ってきているぞ!!」

 

「連発銃だ!! 織田軍は、南蛮の新兵器を使ってるんだ!!」

 

 城から最も距離が近い先鋒が、崩れかける。しかし、

 

「怯むな!! いくら連発出来ようと一度に撃ってくるのは一発ずつ、我が軍勢全てを撃つ事は出来ぬ!! 進め!! 退く者はワシが斬り捨てるぞ!!」

 

 勇猛な一人の大将の鼓舞が、完全なる崩壊を押し留めた。彼の指摘は正しい。いくら”鳴門”が高性能な鉄砲であろうと三丁先から百発百中の狙撃が可能なのは、遣い手が子市であるからこそ。他の者が使っても到底、これほどの命中精度・射程距離にはならない。そして相手は二千の兵である。指揮官を狙って勢いを削ぐ事は出来ても、彼女一人で軍団それ自体を止める事は出来ない。

 

 更に数人の侍大将が斃されたが朝倉勢は構わず前進し、城の大手門まで二十間(約36メートル)の距離にまで接近する。刹那、今度は「だだだだだぁぁん」と、連続した銃声が響く。その大轟音に朝倉勢は怯む、暇も無かった。

 

 再び、同じように連続した銃声が響く。数秒の感覚を挟んで、もう一度。

 

 この距離は、通常の種子島でも十分に射程内。深鈴は光秀から預かった五十挺と彼女が率いてきた兵があらかじめ持っていた五十挺。合わせて百挺を射手・弾込め役・着火役に分けた五百人に使わせる事で矢継ぎ早の連射を実現していた。

 

 乱射を受けた朝倉勢は、たまらずバタバタと倒れていく。これも墨俣の時と同じだった。どこまで敵を引き付けてから撃てば良いのかはあの時既に、半兵衛が教えてくれていた。墨俣で鉄砲隊に号令を掛けたタイミングを、その瞬間の美濃勢と自軍との間合いを、深鈴は見逃してはいなかった。病床に伏せって京に残っていても、それでも半兵衛は一緒に戦ってくれている。

 

「こ、今度は一杯撃ってきたぞ!!」

 

「む、無理だ!! あんな中に突っ込むなんて!!」

 

「死にに行くようなもんだ!!」

 

 今度は何人の侍大将が怒鳴っても立て直す事は出来ず、これで朝倉勢は完全に崩れた。

 

「銀鏡氏!!」

 

 五右衛門のその声に深鈴は頷き、

 

「今よ!! 門開け!! 全軍突撃!!」

 

「「「おおおーーーっ!!!!」」」

 

 ばっと腕を振ると同時に大手門が開き、出撃の時を待ちわびていた五百名が一斉に打って出る。数は四分の一、本来ならば衆寡敵せずという教えを無視した愚挙、自殺行為であろうが、敵が算を乱しているこの瞬間ならば話は別。しかも彼等は全員が殿軍を志願した決死隊、死ぬ気の軍勢である。一人が十人を倒す勢いで、朝倉勢に襲い掛かった。

 

 それだけではない。

 

「服部党、参るぞ」

 

 半蔵に率いられた伊賀忍者達が朝倉軍の中へと突貫、手裏剣を投じ、苦無で切り裂き、マキビシを撒き散らし、焙烙玉を投げ込んで大爆発を起こす。

 

「…………」

 

 段蔵もまた黒塗りの忍刀で、ある者は喉笛を掻っ切り、ある者は鎧の隙間に刃先を通して、更には小柄な体からは到底想像出来ない剛力によって首を軽く400度は捻転させ、次々屠り去っていく。

 

 しかもこの大攻勢の中にあって流石に百挺の種子島による三段撃ちは止まっていたが、子市の狙撃は間断無く続いていた。彼女が放つ銃弾はその一発も味方へは当たらず、すり抜けるようにして朝倉方だけに命中していく。

 

「う、うわあああっ!!!!」

 

 観音寺城攻めの時もそうだったが、恐怖の臨界点を超えた最初の一人が逃げ出すと、後はもうイモヅル式であった。足軽達は我先にと背中を見せて逃走していく。彼等は首一つ取っていくらの出稼ぎ兵士である。命あっての物種であった。

 

「あ、こら!! 逃げるな!! 逃げる者は……ぎゃっ!!」

 

 そう叫びかけた大将は、言い終わらない内に両眼の間にもう一つ穴を増やして、落馬した。

 

「よーし、そこまで!!」

 

 五百名の鉄砲隊を引き連れ、護衛役の五右衛門を背負うようにして騎馬した深鈴が出て来た時には大方事は済んでいた。短い時間で五百近い死者を出した朝倉勢は総崩れとなり、敗走していった。倍近い兵を退けたこの戦果だけでも賞賛に値すべきものがあるが……しかし本来ならば勝ち鬨を上げて然るべき千人の表情は、暗い。

 

 確かに城に攻め寄せてきた二千人は蹴散らした。だが残り一万八千の主力部隊が、本隊の追撃に掛かっているのだ。自分達は、役目に失敗したのではないかと。

 

 だが違う、違うのだ。失敗などしていない。寧ろ、ここからなのだ。

 

「みんな、まずはご苦労様。これで私の策は……完全に成ったわ」

 

 深鈴はそう、自信たっぷりに言ってみせる。

 

「銀鏡深鈴……ここまで全て、本当に、貴様の計算通りだと言うのだな?」

 

 訝しむように、半蔵が尋ねてくる。この問いに、深鈴は間髪入れず頷いた。尤も、これは半分嘘だ。この状況に至るまでには運・博打の側面も多分にあった。特に朝倉方が「多くの兵が残っているから、敢えて旗指物を片付けているのだ」と読んだ場合には、それこそ籠城して矢弾が尽きて槍刀が折れるまで、最後の一人に至るまで死ぬまで戦い、時間を稼ぐしかないと考えていた。賽の目が丁と出るか半と出るか、そこはもう賭けだったが……彼女はそれに勝ったのだ。

 

「寧ろ、嬉しい誤算が混じってすらいたぐらいですね。思ったより早く、この城に振り分けられた分隊を蹴散らせましたから」

 

「……良いだろう。貴様の思う通りにやってみるがいい」

 

 一応の納得を示し、半蔵が引き下がる。それを見て取った深鈴は、足軽達に指示を出した。

 

「ではみんな、漏斗(じょうご)を持って」

 

 そう言われ、漏斗三百個が足軽達に配られる。しかし、それを手にした彼等は戸惑った顔だ。ウチの大将はこんな物で、一体全体どうしようと言うのだ?

 

 ……などとは思いつつも、先程もそうだったが深鈴は今まで、余人の想像を超えた奇策を使って成果を挙げてきた身。そうして築き上げてきた信頼が、今回も何か考えがある筈だと不満と不審の感情を抑えていた。そうして三百名が漏斗を手にしたのを確かめると、深鈴はまずは前鬼に向き直った。

 

「前鬼さん、霧を出して下さい」

 

「……ん、まぁ、それは構わぬが……」

 

 上級式神もまた足軽達と同じような半信半疑の心境なのだろうが、しかし今は懐疑の念よりも信頼が上回ったようだ。それともいちいち問答している場合ではないという判断か。いずれにせよ言われた通りに呪を唱え、山道に霧を張り巡らせていく。

 

 天を仰ぐ深鈴。既に陽は没し、黒に染まった空には星々が輝いている。「良し」と呟いて拳を握る。これで全ての条件はクリアされ、準備は万端整った。それを確かめるとここに集った千人へ、彼女は再び声を張り上げた。

 

「みんな、私達はこれより、本隊の追撃に入った朝倉軍主力へ、追い討ちを掛けるわ!!」

 

 それを聞いた兵達からざわめきが洩れる。中には「あの大軍に真っ向から!?」「自殺行為だ!!」などという声も聞こえるが、しかしこれは深鈴にとって予想出来た反応。慌てず、話を続けていく。

 

「大丈夫!! 今の朝倉方にとって、追う事は頭にあっても追われる事など全くの想定外!! これは完全な奇襲になる!!」

 

 力強くそう言い放った事で、不安げな声は少し治まったようだった。僅かにだが「やれるかも」という空気が漂い始める。深鈴はそれを見逃さなかった。畳み掛けるように声を大きく、口調を少し早くする。

 

「そして夜の闇とこの霧が、私達の姿を隠してくれる!! 皆、力の限り鬨の声を上げ、この千人を大軍に見せるのよ!!」

 

「おおっ」

 

「成る程、大将はこれを狙っていたのか」

 

「更に漏斗を持った者は、穴が小さい方を口に当て、大声を出して!!」

 

 源内に作らせた三百個の漏斗は両手を使って持つ程に大きく、「足」が短くしかも太い作りになっている。これでは到底漏斗としての用途など果たせないであろうが、深鈴としてはそれで良かった。彼女はこれを漏斗として使う気など最初から無かった。大きな声を出す為の道具、つまり彼女が生まれた未来で”メガホン”と呼ばれた道具の代わりとして使うつもりだったのだ。

 

 これは源内独自の発明品という訳ではなく、正史に於いても武田軍が使った記録が残されている。

 

 三増峠の合戦にて武田軍は同じような漏斗もどきをメガホンとして使い、北条氏に駆り出されて戦に参加した千葉衆へ「千葉氏にとって北条は仇敵の筈、何故北条を攻めようとする武田に槍を向けるのか」と訴え、戦意を無くさせたという。この奇策は北条側からは「槍刀での勝負を厭い、声で勝負を挑むとは卑怯千万!!」と酷評されたらしいが、しかし逆に言えば「声」もまた、戦場に於いては立派な武器になり得るという事を証明している。

 

 深鈴はそこから学び、この道具と「声」を自らの作戦に組み入れたのだ。

 

「そうか、この漏斗もどきはその為に……!!」

 

「そこまで考えの内だったとは……!!」

 

「流石は深鈴様だみゃあ!! こんな手を思い付くとは!!」

 

「やれる……やれるぞ!!」

 

「そうだ!! これなら行けるぞ!!」

 

 下がりかけていた士気が再び最高潮にまで蘇ったのを確かめると深鈴は手にしていた槍を振り、先程真柄姉妹に率いられた朝倉勢が進んでいったその先へ、穂先を向ける。括り付けられた銀の鈴、彼女の旗印が、気持ちの良い音を立てた。

 

「ようし!! 総員、駆け足!! 持てる最大速度で朝倉軍に突入するわよ!!!!」

 

「「「おおおおおおおおおおっ!!!!!!!!」」」

 

 

 

 

 

 

 

「ん?」

 

 最初に異常に気付いたのは、真柄直澄だった。

 

「どうした?」

 

 直隆が尋ねる。

 

「いや……何か……声が聞こえたような……」

 

「そう言えば……鬨の声のような……?」

 

 きょろきょろと視線を動かしてみると、いつの間にか自分達の周囲に深い霧が立ち込めているのに気付いた。山の天気は変わりやすいが、それにしても数分前まではこんな霧は出ていなかったように思うが……

 

 そんな風に考えていた、その時だった。

 

 オオオオオオオオオオオ……ッ!!!!

 

 聞こえた。今度は気のせいなどではなく、はっきりと。「まさか!!」と振り返ると霧の中に、駆けてくる軍勢の影が見えた。分隊がもう金ヶ崎城を落として合流してきたのかと思ったが、そうではない。

 

 鬨の声は、明らかに迫ってくる軍団から発せられている。味方が合流してくるのに、雄叫びを上げる訳がない。つまり……

 

「なっ……!!」

 

「そんな、まさか……!!」

 

 そう、まさかだ。真柄姉妹だけでなく朝倉方一万八千の誰もがそう思い、戸惑いの感情を抱いた時だった。信じられない程に大きな声が、山中に響き渡る。

 

「策は成ったわ!! このまま大軍で以て押し潰せぇっ!!!!」

 

「何ぃっ!?」

 

「馬鹿な……!!」

 

 戸惑いが、動揺に変わる。同時に一つの確信も生まれた。今まさに自軍に突っ込んでくる謎の軍団は、織田勢であると。

 

「それもこの声の大きさは……これは、千や二千の兵ではないぞ!!」

 

「しまったぁっ、やられた!! 織田信奈は、金ヶ崎城に大軍を隠していたのか!!」

 

「敵は後ろだ!! 備えろ!!」

 

 だが間に合わなかった。朝倉軍が陣立てを変えるよりも早く、深鈴を先頭に織田軍団が突入した。

 

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うが、人間は恐怖や先入観を持っていると何でもない小さな物が、恐ろしくて大きな物に見えたりする。たった一人で慣れない山道を歩いていると、岩の模様や木に空いた穴が怪物の顔に見えるように。今の朝倉勢はまさにそれであった。

 

 もし少数の手勢しか城に残っていなかったのなら、この大軍相手に打って出られる筈がないという思い込みがあった。

 

 それだけではない。

 

 天の時。夜の闇が前鬼が作り出した霧と共に兵の実数を隠し。

 

 地の利。山間という地形がただでさえ大きな声を反響させ、更に大きくし。

 

 人の和。千の兵が一丸となった事で鬨の声は共振し合い、鼓膜を破らんばかりの大轟音と化す。

 

「まさかこんな手があったとはな……流石の俺も、撤退戦で追い討ちを掛けるのは初めての経験だ」

 

 これが織田家中随一の知恵者・銀鏡深鈴の知略かと、脱帽したという顔の半蔵が朝倉勢に手裏剣を投げ付けながら、呟く。百戦錬磨の彼をして、いやなまじ経験豊富であるからこそ、撤退戦は逃げながら戦うものだという常識があった。この追い討ちはまさしく深鈴が言っていた通りの”非常識な戦い方”だ。

 

 しかし、全くの常識破りな戦法という訳ではない。そもそも奇襲とは、敵の思いも寄らぬ所を衝いて襲う事。朝倉方が「少数ならば打って出てくる訳がない」と思っているからこそ、打って出た。そういう意味では非常識どころか、寧ろ兵法の基本を忠実に守っての一手であるとも言えた。

 

 朝倉方にとっては、逃げる織田軍を追う筈の自分達が逆に織田軍に追われるというこの状況は完全にまさかの、思考の外の出来事。

 

 あらゆる要素が重なり合い彼等の目には、たった千人の兵が一万にも二万にも見えていた。その混乱に乗じ、突入した織田軍は最後尾から先頭へと、全員が一本の槍となったかのように突き抜けて、敵陣真っ直中を突破していった。如何に奇襲とは言え、一度混乱を収束されてしまえば寡兵の織田勢は退路を断たれた死兵となり確実に全滅する。故に、最速にて朝倉勢を抜かねばならなかった。圧倒的に見えてその実は針の穴を通すようなギリギリの奇策であったが……だが、やり遂げた。

 

 この奇襲によって朝倉軍は多くの将兵を討たれてしかも大混乱に陥った訳だが、深鈴達が残していった被害は、それだけに留まらなかった。

 

 たった千人で奇襲されるとは夢にも思わなかった朝倉勢は、何が何やら分からずに人影を見れば敵と勘違いし、闇の中で同士討ちが始まったのだ。こうまで混乱の極致に達すれば如何なる名将であろうと、事態を収拾する事は容易ではない。真柄姉妹も例に漏れず軍団を立て直す為に相当な時間を要し、深鈴達に逃げる時間を与える事となったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 ペース配分など全く考えない全力疾走によって朝倉勢を突破した深鈴達であったが、後方の敵から十分な距離を空けた事を確認すると小休止を取った。

 

「深鈴様、俺達はまだ走れますにゃあ!! 少しでも遠くへ逃げた方が……」

 

 元気をアピールする足軽達から抗議の声が上がりもしたが、その反対を押し切って彼女は兵を休息させた。今の彼等は極度の興奮状態であり、体がどんな疲労困憊であろうと頭が疲れていると思っていないだけなのだ。

 

 この手の疲れはじわじわと蓄積するものではなく、緊張の糸が切れた時にどっと襲ってくるものなのである。深鈴はそれを知っているからこそ、無理はさせなかった。

 

 ふと兵達を見回してみると、兵の数が少なく見えた。実際に数えた訳ではないが、目算で五十人から八十人ぐらい足りないように見える。

 

「…………」

 

 分かっていた事だ。どんなに策が図に当たったとしても、どんな最良の戦であろうと、犠牲者は出る。彼等を死に追いやったのが自分だと思うと深鈴は胸が痛んだが……しかし今の自分が為すべき事は悲しむ事ではないと、心痛を意識から切り離す。

 

 十分ほどの休息の後、深鈴は出発の号令を下したが、再び駆け出す前に足軽達の中で十名程を班にして呼び出した。

 

「深鈴様、何か?」

 

「あなた達はこれから、旗指物をこの辺りに立てて、朝倉方が来たらさっきの漏斗を使って大声を出して」

 

「成る程、偽兵の計か」

 

 感心した表情で「やるな」と前鬼が頷く。

 

「大声を聞いた朝倉軍は、少数の手勢を繰り出して本当に伏兵が居るのかどうか調べようとする筈よ。そうしたらすぐに逃げて。旗だけが立っているのを確かめたら、敵はあなた達を追うのではなく私達の追撃に戻るだろうから、逃げ切るのは難しくないと思うわ」

 

 半蔵も「恐らく朝倉勢は銀鏡深鈴の言った通りに動くだろう」と、その策に賛成票を投じる。

 

 先程の奇襲によって大被害を受けた事で、朝倉勢は追い討ちの一気呵成ムードから一転、慎重になっていると想像出来る。万一伏兵が居ては今度は壊滅させられるかも知れぬと、大声を聞けば一度軍を止め、伏兵の有無を確かめようとするだろう。

 

 つまり、彼等が捜索に費やす分だけ時間が稼げるのだ。

 

 だが、追っ手の速度を殺す為に深鈴が打っていた手はこれだけではない。

 

「銀鏡氏!!」

 

 木から木へと飛び移って、五右衛門と段蔵がやって来た。

 

「お指図通り、朝倉方が進んでくると思われる道に、鋼線を張り巡らしゃちぇおいちゃでごじゃる!!」

 

<高さは三段階。足下と、立った人間の首の高さ、騎乗した人間の首の高さ>

 

 五右衛門はこんな時でも噛み噛みで、段蔵はこんな時でも紙面を寄越すだけだ。特に後者は、月と星の明かりだけが頼りなので深鈴は読み取るのに苦労した。

 

 乱波が使う鋼線は細さと強度を兼ね備え、しかも研がれた刃物のような鋭さをも併せ持っている。

 

 ただでさえ肉眼では見えにくい細い鋼線に、この暗闇である。何も知らずに走ってきた朝倉軍がトラップゾーンに突っ込んだら……まぁ、下手なスプラッタムービーが真っ青になるような惨劇が起こるだろう。そして一度でも、文字通り引っ掛かってくれればしめたものだ。彼等は同じようなトラップがあちこちに仕掛けられているのではと疑心暗鬼になり、全速での追撃が出来なくなる。

 

「……貴様のように悪辣な手を使う輩は、初めて見たぞ」

 

 呆れ顔で、半蔵が言う。「褒め言葉と受け取っておきますよ」と深鈴は返して、行軍を再開した。彼女の策が当たったのか後方から追い立てられる事も無く、殿部隊は若狭にまで入った。これなら逃げ切れるかも……と、誰かが呟いたその時だった。

 

「待て!!」

 

 低空を飛んで進んでいた前鬼がさっと手を上げて、部隊の動きを止める。

 

「どうしたんです? 前鬼さん」

 

「銀鏡深鈴、拙い事になった。若狭の土御門が、朝倉に付いたようだ」

 

「……土御門、と言うと……」

 

「日ノ本の陰陽師の頭領だ。かつては安倍家を名乗っていた者共で、今は土御門家と称して戦乱の京を避け、若狭に隠棲していた筈だったのだが」

 

「その陰陽師が私達を討つ為に動いた、と?」

 

「どうもそうらしい。この先に結界を張り巡らせ、我等を待ち伏せているぞ」

 

 前鬼が指差すが、しかし異能の力を持たない深鈴の目には、彼の指の先にはただただ山が広がっているだけにしか映らない。しかし前鬼の金色の目には、土御門の結界が放つ眩い光が確かに見えているようだった。威嚇するように牙を剥き出しにしている。

 

 しかしだとすればこれは由々しき事態である。高位の陰陽師が使う式神の力の恐ろしさは、前鬼が証明済み。今度はそれが敵に回って襲ってくるのである。

 

『ここへ来て、大変な強敵が現れたわね……』

 

 深鈴にとってもこれは完全に計算外の出来事であった。何か策を考えなければと思考を巡らせるが、どうやら敵はそんな暇を許してはくれないようだった。

 

「見ろ。どうやら、向こうから来たようだぞ」

 

 再び前鬼が指差すと今度は目に見えない結界などではなく、実体を持った人間が姿を現した。しかし、只の人間でない事は一目で分かる。前鬼と同じく足を使わず重力に従わず、ふわふわと空中に浮いて山頂へとせり上がってきていた。

 

「この子が、土御門……?」

 

「そう、僕が土御門家当主・土御門久脩(つちみかどひさなが)。そろそろ京に戻ろうかな、と思ってね。そうなれば新たに京の支配者となるであろう浅井さん朝倉さんへの手土産が必要でしょ? そこでこれより、織田の今信陵君、銀鈴の首をもらおうと決めたんだ」

 

 現れたのは十歳程の幼い子供だった。こんな子供が……とも思ったが、しかし彼が纏いて放つ異様なオーラは、この少年が下手な軍勢よりも恐るべき敵であると教えるには十分だった。

 

 半蔵が手裏剣を投げたが、久脩の周囲には見えない壁が力場としてあるようで、それに弾かれてしまった。

 

「な、何だ、あの子供は……」

 

「拙いんじゃあなかろうか……」

 

 人は理解出来ないものを恐れる。十倍以上もの大軍に突っ込んでも一歩も退かずに戦い抜いた勇者達が、恐れに身を震わせ始めていた。

 

「久脩とやら、何を血迷って今更京に戻るなどと言い出した? これは子供の遊びではないぞ」

 

 警戒態勢を崩さず、前鬼が尋ねる。少年陰陽師は完全な人間の姿になれる上級式神を見て少しだけ驚いたようだったが、絶対強者としての余裕は崩さなかった。

 

「竹中なんとかとかいう田舎陰陽師が、こともあろうに織田信奈に仕えて京に来た。この国の陰陽師の頭領たる僕を差し置いて、今孔明なんてもてはやされているらしい。実に不愉快だよ。だから面倒っちいけど京へ上って、身の程知らずの陰陽師を誅しなくちゃ。僕と竹中なんとかの、どちらが最強の陰陽師かを決める戦いをしなくちゃと思ったのさ」

 

 「だから」と前置きした久脩が手を上げると、彼の背後に数十体の異形が姿を現した。あらかじめ喚んでいたのだろう式神達だ。身構える前鬼だが「止めておいた方が良いよ」と、敵である久脩に制されてしまう。

 

「君ぐらい上等な式神なら、分かってるだろ? 式神同士の戦いは質より量。君がどれほど強くても、この数には勝てないよ」

 

 その言葉と共に振り下ろされた久脩の小さな手が、ギロチンのロープを切る斧だった。空中から血に飢えた数十体の式神が牙を剥き出して爪を振るい、殿軍へと殺到してきた。

 

「よ、妖怪変化だにゃあ!!」

 

「あんなのにどうやって勝つんだみゃあ!!」

 

「助けてくれぇっ!!」

 

 ここへ来て殿軍最大の武器であった、士気が崩れた。さしもの命知らず共も、人智を超えた魔性の者共が相手では悲鳴を上げるしかなかった。戦列が、崩れる。

 

 万事休すか。

 

 しかしただでは殺られはしないと深鈴が馬上筒を構え、「銀鏡氏、逃げるでござる!!」と五右衛門がせめて盾になろうと前に出る。その時!!

 

「喝っ!!」

 

 裂帛の気合いと共に一瞬だけ光が走り、それが治まった時には式神達の姿は無く、無数の護符が宙に舞っているだけだった。

 

「これは……!!」

 

 久脩の余裕が、初めて崩れた。「誰だ!! 僕の術を破ったのは!!」とヒステリックに叫ぶ。深鈴は「前鬼さん?」とすぐ傍の式神を振り向くが、彼も「俺ではない」と首を横に振る。

 

「出て来い!! 誰だ!!」

 

「俺だよ」

 

 取り乱した久脩の声に応じて、進み出たのは。

 

「ふん、何もお前さんの虚仮威しにビビリ上がる腰抜けばかりではないという事さ。理解したかね? クソガキ」

 

 目深に被った山高帽、宣教師の衣装の上から羽織った薄汚れた外套、糸のような線目。戦場に在っても崩れない、鉄のような笑顔。南蛮帰りの森宗意軒であった。

 

「お前か……巫山戯た真似をしてくれるね……」

 

「巫山戯た真似はお前だろう? 半兵衛の犬も言っていたが、ここはクソガキの遊び場じゃあない。とっとと若狭に帰って、クソして寝な」

 

 ここで言葉を終えていれば、久脩にしても敵に恐るべき術者が居ると警戒して、まだ事態は穏便に収束したかも知れなかった。しかし、

 

「そうすれば命だけは助けてやる」

 

 宗意軒は一言多かった。

 

 半兵衛の供をして稲葉山城に行った時もそうだったが、この男は人様の地雷を踏み抜くクセがあった。いや、実際には意図して踏みに行って相手の反応を楽しんでいるのかも知れない。

 

 当然、ここまで煽られては童子の身でありながら一門の当主の座に就き、始祖・安倍晴明の再来とも謳われた少年陰陽師の腹の虫は治まらない。人形のような美しい顔が、憤怒に歪んだ。

 

「……決めたよ」

 

 羽のように重さを感じさせない動きで、地に降り立つ久脩。木綿筒服の袖口から数十の護符が飛び出し、彼の手に納まった。

 

「銀鈴の首は後回しだ。まずはお前から、殺してくれと懇願するような痛みの中で嬲ってあげるよ」

 

 子供の戯れ言と笑うには、先程繰り出した式神達は説得力があり過ぎた。彼にとってそれは脅しでも何でもなく、単なる通告に過ぎないのだろう。

 

 しかし、それを受けても宗意軒はいつもの笑みを崩さず、すぐ後ろの深鈴を振り返る。

 

「聞いての通りだ、大将。このクソガキは俺を術比べの相手にご指名のようだ。あんたらは先に行くといい。俺もコイツの尻を百回ばかり叩いて、すぐに後を追うからさ」

 

「宗意軒……」

 

 仲間をたった一人で敵地に残していく事に深鈴は躊躇いを見せたが、しかし自分達が残った所で人ならざる魔物相手にやれる事は無い。それどころか彼の足手纏いになるだけだと、合理的な判断が先に立つ。

 

「頼むわ!! 無事に戻って!!」

 

 久脩の脇を通り抜けるようにして、深鈴は馬を走らせる。大将が敵のすぐ傍を走る事に兵士達は警戒心を見せたが、しかし少年陰陽師の関心はもう完全に深鈴から宗意軒に移っていたようだ。彼は飽きて箱の底に仕舞われるオモチャのように、深鈴に一瞥さえもくれずに見逃した。

 

「私達も、今の内に!!」

 

 子市に指揮され、足軽達も久脩の横を通って先に進んでいく。最後に前鬼が宗意軒を振り返ったが「さっさと行けよ、半兵衛の犬」と憎まれ口に背中を押されて、送り出された。そうしてこの場にはたった二人、土御門久脩と森宗意軒だけが残される。

 

「ふん、中々どうして優しいみたいじゃないか。仲間を先に行かせる為に、自分は捨て石になるなんてさ」

 

 手にした護符に念を送り、式神達を次々と召喚していく少年陰陽師は「まぁ、お前を生殺しにした後はすぐに追い付いて殺すけどね」と挑発するが、表情が笑顔一つしかない宗意軒はまるで爬虫類のようで、顔から感情の変化を読み取るのが難しかった。

 

「まぁ……色々と言いたい事はあるが、俺が優しい男だという一点だけには同意しておくかな」

 

 言いつつ、トレードマークを脱いだ。

 

「へぇ? それはどういう意味だい?」

 

「簡単な事さ。ウチの大将は色々と覚悟を決めてるけど、それでも所詮は十代の女の子だからな。ちょいと刺激が強すぎると思ったのさ」

 

 そう言った宗意軒は手にした山高帽を放り捨て、髪を掻き上げる。

 

「これからお前さんの身に起こる惨劇は、な。地獄を見せた後で、比良坂へと放り込んでやるよ」

 

 線目が見開かれ、久脩のそれよりも尚冷たい輝きを放つ三白眼が露わになった。

 



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第26話 陰陽道VS魔界転生

 

「姫様、朽木谷に入りました!! ここを通り抜ければ後は一直線、京は目の前です!!」

 

「……デアルカ」

 

 勝家の報告を受け、信奈は頷く。殿軍を引き受けた深鈴に送り出され、疾風の如く陣払いをして引き上げた彼女達であったが、ここに辿り着くまでも決して平坦な道のりではなかった。

 

 戦に於いて引き上げる時ほど難しいものは無い。一方が勝ったと聞かされると、その土地の土豪や野武士、百姓に至るまでもが一斉に勝者の元へと馳せ参じ、激流のように敗者に当たってくるからである。

 

 ここまで逃げてくる中で落ち武者狩り達が口にしていた言葉によると、信奈を生け捕りにした者には百貫、殺して首を差し出しても五十貫の懸賞金が掛けられているらしい。民百姓にとっては夢のような大金である。彼等が目の色変えて襲ってくるのも無理からぬ所であった。

 

 彼等の魔の手から信奈を守る為、勝家も犬千代も全身傷だらけであった。彼女等が居なければ、信奈は到底ここまで逃げてくる事は出来なかったろう。いや、二人だけではない。琵琶湖の西を若狭へ抜け、朽木谷を突破するこの退却ルートは、半兵衛の提示したものである。信奈はそれを、深鈴より伝えられていたのだ。

 

 何よりも速度を重視し、追従して来れない者はそのまま置いていくような神速の退却だったが、しかしそれが功を奏した。もしすぐに撤退に移らずに様子でも見ていたならば、あるいは半兵衛が言った通りの道を通らなかったら、後ろから迫ってくる網の中へと飛び込むザリガニのように、浅井が陣を敷いているそこへ真っ向から突っ込む羽目となっていただろう。

 

「万千代達は?」

 

「後続の長秀は、銀鈴達が無事に逃げてこられるよう、山道を出来るだけ整備しながら退却しています。光秀と元康も一緒です!!」

 

「……そう」

 

「……もう一息。京の北東は、源内の火砲部隊が守ってる」

 

 と、犬千代。この配置も深鈴の指示だった。そこまで逃げれば追っ手の連中に、目の醒めるような大砲の乱射を食らわせて追い払える。そうすれば信奈達は軍を再編して反転させ、浅井・朝倉連合軍に対して反撃に転じる事も可能。ここが正念場だと言える。

 

 だが問題が一つ。朽木谷は歴代足利将軍の避難場所に使われていた特別な土地であり、何人たりとも無断では通れない。それでも無理に押し通ろうとするのなら、ここを支配する国人である朽木信濃守も問答無用で襲い掛かってくるだろう。故に何とか交渉・説得して、味方に付けねばだが……

 

「誰がその役をやるんだ? あたしは面識無いよっ!!」

 

「……犬千代も」

 

 ここに長秀や光秀が居ればとも思うが、しかし彼女等の到着を待つ訳にも行かない。朽木信濃守は浅井家に従属しておりいつ攻撃してくるか分からない。事は全て迅速に進めなければならないが、かと言って無理に勝家や犬千代が交渉の席に着いても、話を余計にこじらせるだけで終わるだろう。

 

「うふ。ならばこの私が参りましょう」

 

 進み出たのは十文字槍を携えた褐色の麗人、松永弾正久秀であった。

 

「幸いにして相手は小僧。お任せあれ」

 

 幻術の応用であろうか、その体を夜闇に溶け込ませるようにして、久秀は姿を消した。残された勝家が「良いのですか、姫様!! あんなのに任せて!!」と、詰め寄る。相手は信奈の義父で「蝮」と呼ばれる道三に勝るとも劣らぬ戦国の梟雄、謀反常習犯にして「蠍」のあだ名で知られる魔女である。この状況で動くとすれば信奈を裏切るつもりかもと、彼女が疑うのも無理からぬ所だった。

 

「分かってるわ。けど、今は信じる他無いでしょう? 他にやれる人がいないんだし」

 

 今惜しまれるのは時間。ここでぐずぐずしていては何の為に電光石火で引き返してきたのか、何の為に深鈴が死地に残ったのか、分からなくなる。ならばもう賭け、久秀が裏切ったなら彼女を行かせた自分が間違っていたと、信奈がベットしたのは伸るか反るかの丁半博打であった。チップは自分と兵の命だ。

 

 久秀の帰りを待つ間、ふと信奈は今まで脇目も振らずに駆けてきた道を振り返った。彼女が何を想っているのかは、勝家にも犬千代にも痛いほど分かった。

 

「ねえ、六……」

 

「はい……」

 

「銀鈴は、生きて帰れると思う?」

 

 予想出来た問いだったが、しかしそれでも勝家は言い淀んだ。何と言えば良いのだろう。「大丈夫です、きっと生きています」と返せば良いのか? そんな、無責任に?

 

 言えない。言える訳がない。それでも、言える事があるとすれば、それは。

 

「あそこに残ったのがあたしだったら、正直、生きて帰れる自信は無いですが……」

 

「けど、銀鈴なら……」

 

 犬千代のその言葉に、勝家も頷く。そう、それだ。信奈も含め彼女達の中に奇妙な、そして密かな期待感はある。自分では無理だが深鈴ならばあるいは、と。これまでも彼女は、自分達の思いも寄らぬ奇策で不可能と思える成果を上げてきた。それなら今回も、何か起死回生の一手を用意しているのではと。

 

 そう思わせる要素は、二つ。一つは勿論、深鈴のこれまでの実績。もう一つは。

 

「……銀鈴は、一人じゃない」

 

 

 

 

 

 

 

 若狭の山中では朝倉方に与した陰陽師、土御門久脩と、深鈴の食客の一人である森宗意軒とが対峙していた。

 

「さあ、まずは僕から行くぞ!!」

 

 久脩が手にした護符に念を送り、ばっと空中に放り投げるとただの紙切れでしかなかったそれは奇妙な動きをする煙を発し、その煙は拡散せずに形を持って、およそこの世のどんな生物とも違った特徴を持った異形へと姿を変えていく。彼の式神だ。

 

 現れた怪物はただの一匹でも対峙すれば歴戦の勇者であろうと、得物を放り捨て背中を見せて逃走してもおかしくないような恐ろしげな姿をしていたが、真に恐るべきは久脩の背後に控えるその数。軽く数十体は居る。彼等が一斉に襲い掛かればひょろりとした宗意軒の体など骨も残さずに消えてしまいそうだが、しかし式神達は召喚者である久脩の意思の下に統率され、完璧に訓練された軍用犬のように主の命を待っていた。

 

 この動きに、宗意軒は少し意外そうな表情を見せた。彼としてはてっきり、この生意気なクソガキが一気に式神達をけしかけてくるとばかり思っていたのだ。

 

「ふん、そんなすぐに勝負を決めてはつまらないだろ?」

 

 鷹揚に言ってみせる久脩。彼にとってはこれは戦いではなく、”お仕置き”だった。若いを通り越して幼いと言えるこの年にして日ノ本の陰陽師を統べる土御門家の当主にまでなったこの少年にとって、他者は等しく自分の前に怯え平伏すべき弱者であり、逆らう事は当然、牙を向ける事など言語道断だという認識があった。それは太陽が東から昇って西に沈むような、あるいは水が高い所から低い所へと流れるような、常識以前の摂理とさえ言うべきものだった。

 

 だが今、眼前に立つこの男はその摂理に反し、生意気にも一度は僕の術を封じて、怯えるどころか自信に漲り不遜ささえ孕んだ眼光を向けている。

 

 許せない。こんな奴は生きていてはならない。ただ殺すのは簡単だがそれでは僕の気が治まらない。こいつに全力を出させた後に完膚無きまでに叩き潰して、始祖・安倍晴明公の再来とまで呼ばれた僕の力の強さ、偉大さを思い知らせてやって、その上で生まれてきた事を後悔するような目に遭わせて殺してやらなくっちゃ。

 

「そら、お前もさっさと自分の術を使いなよ」

 

 「どんな術であろうと、真っ向から破ってやるからさ」との自信たっぷりな言葉を受け、しかし宗意軒は表情筋がその形で固まっているのではと疑うような笑みのまま、

 

「そうかね? では、お言葉に甘えるとしよう」

 

 と、こちらも自信たっぷりに返す。この態度はまたしても久脩のカンに障るものがあったが、しかし決して堪え性があるとは言えぬ少年も「どうせこいつの強気も今の内だけだ」と内心では思っていたので喚き散らす事は無かった。

 

 そんなやり取りの後、宗意軒が動いた。両手を動かし、印を結んでいく。高慢な久脩だが、術者としての力量は超一流だ。じっと集中して視線を送り、敵の術が如何なる体系の物か、見極めようとする。自分と同じ陰陽道かそれとも真言密教か、はたまた修験道か。

 

「……?」

 

 天才陰陽師が違和感を覚えるのに、大した時間は掛からなかった。半兵衛が燃える清水寺で久秀と対峙した際、この国の呪術とは全く体系を異にする幻術を相手に苦戦した事があったが、今久脩が感じているのはその時の半兵衛とは、全く違った戸惑いであった。

 

 何か、妙だ。

 

 強いて言うなれば真言密教のそれが近いが、何かが違う。この国の呪術の特徴を残しながらも、何か全く別の体系の理が組み込まれているような……見た事もない魔術を、この男は使う。

 

「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム……我は求め訴えたり……闇の静寂に棲む者よ、灰の中より立ち出でよ。汝の住処を捨て、新たな肉体を持って姿を現せ。ここへと来たりて、我が望みの器を満たし給え」

 

 詠唱した呪文もまた、久脩が聞いた事も無い怪しげなものだった。しかし、宗意軒が詠唱を終えた瞬間、確実に場の空気が変わった事を、陰陽師として異能の感覚を持つは久脩は敏感に把握していた。何が起こるのかと警戒して身構える。

 

 果たして異変は、下から来た。

 

 宗意軒の足下の土がもこもこと盛り上がったのを見て、最初は土竜かと思ったが、しかし違っていた。土を破って現れたのは尖った鼻先ではなく、右手だった。夜に浮かび上がるような真っ白い、人骨の右手。

 

「なっ……!!」

 

 流石の天才陰陽師も、これには驚きを見せた。右手の次は左手が、そして両手が踏ん張るように土を掴んだかと思うと、今度は胴体が這い出でてきた。久脩の式神と同じく、この世のいかなる生物とも違う姿が。

 

 久脩が使役する式神は異形ながら生物としての特徴を持っていたが、たった今宗意軒が喚び出したものは、生き物ですらない。死者だ。如何なる妖術によるものか、肉は朽ちて白骨化した人間の死体が、土の中から出てきたのだ。しかも、一体ではない。十、二十、いや百体近く。宗意軒の周囲の地面から無数の死者が蘇り、立ち上がってきていた。

 

「これは……」

 

 久脩の驚愕を見て取って、宗意軒は「ふん」と嘲笑して「驚いたようだな」と、挑発するように言ってみせる。

 

「魔界転生(まかいてんしょう)……この森宗意軒のみが操る秘術だ」

 

「魔界……転生だって……? そんな術は、聞いた事も……」

 

「ある訳が無いな。言っただろう? これは俺のみが操る秘術だと。師から弟子へと伝えられてきたものではなく、俺が一代で独自に編み出した術なのだよ」

 

「何だと……!?」

 

「この術の真髄は西洋に伝わる死霊術「根黒万死(ネクロマンシー)」を基本として、大陸の道術、高野山の真言密教を組み合わせた死者の使役。俺がこの手で殺した者、術を発動した時に近くにいる死者、そいつらに仮初めの命を与えて亡者と為し、俺の手足として現世に呼び戻す」

 

 そう言って、人差し指でとんとんと頭をつつく宗意軒。

 

「亡者共は簡単な命令しか理解出来ないし、整然とした隊伍を組むとか精緻な集団行動などはまるで取れん。ただ俺以外の生ある者全てを自分達と同じ”死”に引きずり込もうと襲い掛かるだけ……故に味方が大勢居る時には使えないが……周りが敵だらけの今は、思う存分使ってやれるぞ」

 

 敢えて自らの手の内を明かす宗意軒。それはつまり、目の前の陰陽師はここで死ぬから明かした所で構わないという事なのだ。この挑発を受け、久脩もプライドを刺激されたらしい。同時に、相手の術の全貌が見えた事で落ち着きを取り戻した部分もあったかも知れない。先程まで些か取り乱していた彼の顔には、既に強者の余裕が戻っていた。

 

「ふん……何かと思えば死人を操るだけとはね……そんな見かけ倒しの術で、僕に勝てるとでも思っているのかい?」

 

「思っているさ。お前さんこそ陰陽道などというカビの生えた古くさい術で、俺に勝てるとでも思っているのかい?」

 

 互いに負けじと毒舌の応酬が続くが、だが期せずして二人とも、このまま口喧嘩を続けていても仕方が無いという結論に達したらしい。久脩は式神を、宗意軒は亡者を繰り出して、二つの異形の軍勢が若狭山中でぶつかり合った。

 

 

 

 

 

 

 

 宗意軒によって送り出された深鈴達は水坂峠、つまり若狭と近江の国境にまで差し掛かっていた。久脩から逃れた時にはまだ九百人以上は居た殿部隊は、今は七百人ほどにまで数を減らしている。

 

 あの後、本来ならば京目指してまっしぐらに撤退する筈の殿軍は、今度は浅井軍へと向かっていったのだ。足軽達もこの采配を聞いた時には深鈴の正気を疑ったものだが、しかしそれ以上に驚いたのは浅井勢であった。挟撃を恐れた信奈が尻尾を巻いて逃げ出したと聞いていた彼等もまた、朝倉勢と同じく逃げる織田軍を追う事しか頭に無かった。

 

 そんな彼等の意表を、深鈴は衝いた。予想される進路に兵を潜ませ、浅井の先鋒が通り掛かった所で一斉に襲い掛かったのである。この伏兵は効果覿面だった。如何に数の差があろうと、既に半ば勝ったものと油断していた兵と、命などとうに捨てたと決死の覚悟を固めた兵の対決である。不意打ちによって多数の死者を出した浅井の先鋒隊は、たまらず後退した。

 

 深鈴はそれを確かめると、部隊に後退を指示した。確かに精鋭揃いで士気も高いこの殿軍だが、所詮は千名に満たない手勢でしかない。総勢一万五千の浅井軍が混乱を収拾して指揮を回復すれば、押しまくられるのは目に見えている。その前に素早く離脱し、可能な限り距離を稼がなければならなかった。

 

 この戦闘による死者がおよそ二百。選り抜きの精鋭揃いとは言え、十八倍もの大軍に突入した後、先鋒のみとは言えそれでもおよそ数千の軍勢と戦ったのである。兵の体力・精神力をどれだけ削る作業であったのかは想像に難くなく、寧ろ被害は少な過ぎるとさえ言えた。

 

 朝倉勢は後方からの奇襲によって受けた被害が余程大きかったのか、それとも仕掛けておいたブービートラップに足を止められたのか、未だに後方から襲ってくる様子は無かった。逆に浅井勢は伏兵によって出鼻を挫かれたのが余程頭に来たのか、後方の偵察から戻った段蔵の報告によると追撃を諦める気配は無いらしい。

 

「まだ京は遠いわね……」

 

 馬上の深鈴が、ぎりっと歯噛みする。自分の足で走っていないとは言え彼女にも相当の疲労が蓄積していたが、しかしそれを表に出す事はしない。周りの兵士達はただ襲い掛かる敵と戦うだけではなく、戦えない自分を守る為に余計な労力を使っているのだ。守られている自分が弱音など、吐ける道理が無かった。

 

 とそこに、ずいと前鬼が進み出た。

 

「銀鏡、このままでは追い付かれて全員が殺られる。兵を百名ばかり、俺に預けよ」

 

「……前鬼さん?」

 

「それからお前はこれを被って、顔を隠すのだ」

 

 そう言ってボロ布を差し出してくる。言われるがままに受け取った深鈴は、しかし体は疲労困憊の中にあっても頭の回転は未だ鈍ってはいない。前鬼が何をするつもりなのかは、すぐに察しが付いた。

 

「あなたは……!!」

 

 式神の姿が水鏡に石を投げ入れたように揺らいで一瞬の時が過ぎると、そこに立っていたのは既に木綿筒服姿の青年ではなかった。突如として眼前に姿見が出現したのと錯覚するような、背丈と言い目鼻立ちと言い、深鈴と寸分変わらぬ少女がそこに立っていた。深鈴が二人。つまりは……影武者。

 

 前鬼扮する偽深鈴は流石に大将が徒歩では格好が付かぬと見たか、一人が乗っていた馬を借り受けると、さっと飛び乗った。

 

 そこまで動いても深鈴から制止の命令は下らない。その沈黙を策の容認と受け取ったらしい。もう一人の大将はさっと手を振り上げ、

 

「一隊は俺に付いてこい!!」

 

 そう号令すると、今まで進んできた道を引き返し始めた。百名ばかりの足軽達も彼の意図を理解したのだろう。出来るだけ敵の目を引き付けるべく、残された力を振り絞って声を上げ、前鬼に続いていく。

 

 追い掛けてくる”死”そのものである浅井勢に、逃げるどころか自ら向かって進んでいく彼等を目にして、深鈴は初めて動揺を表に出した。思わず手を差し出して止めようとしたが、その手を五右衛門が掴んで止めていた。乱波の少女は何も言わずに目を伏せ、首を振るだけだったが、そこに含まれた意図は確かに主へと伝わっていた。

 

 藤吉郎だけではない。この時代に来てから、幾多の合戦にて死んでいった者達。敵も味方も。朝倉勢を突破する時に死んだ八十名も、ここへ来るまでに死んでいった二百余名も、今前鬼に伴われていった百名も。皆、深鈴が殺した。そこに彼等の意思が介在したか否かは問題ではない。彼女は自分が生きる為に、彼等を冥府に送ったのだ。

 

 そんな自分が最もしてはならない事。それは自分が死ぬ事。彼等の犠牲、その全てが無駄になる。

 

 それを理解して、命の重みの全てを受け止めて、深鈴は再び決意を固め直した。前鬼から渡されたボロ布をフードのように被ると、残った六百名に再度行軍を命じようとする、その時だった。

 

「きゃっ!?」

 

「飛び加藤殿!?」

 

 加藤段蔵が深鈴に飛び掛かったかと思うと、蹴りを放って馬上から突き落とした。咄嗟に割って入った五右衛門に抱えられたので地面に叩き付けられる事はなかったが、何をするのかと抗議の声を上げようとして、だが出来なかった。

 

 闇の中に火花が散り、金属音が鳴り響く。五右衛門に抱えられた深鈴が視線を下ろすと、地面にはいくつもの手裏剣が突き刺さっていた。今、深鈴が乗っていた馬の鐙に、忍び特有の身の軽さにて軽業師のように立つ段蔵が、手にした黒塗りの忍者刀で叩き落とした物だ。もし彼あるいは彼女が動かなければ飛来したそれらは全てが地面ではなく、深鈴の体に突き刺さっていただろう。

 

「段蔵……」

 

「…………」

 

 希代の忍者は無言のまま、忍刀の切っ先を樹上へと向ける。

 

「甲賀者だな」

 

 臨戦態勢の服部党を従え、苦無を手にした半蔵がそう呟く。木の上にはいつの間にか、黒ずくめの一団が陣取っていた。

 

「忍者、か……」

 

 ちっ、と深鈴は舌打ちする。杉谷善住坊が雇われていたから事から分かるように、信奈を排斥しようとする動きの中心・黒幕である近衛前久は甲賀と繋がりを持っている。雇われていたのが狙撃手一人だけとは思わなかったが、ここで襲ってくるとは。だが土御門久脩の襲来とは違って、これはまだ予想していた事態である。

 

 目には目、歯には歯、ならば忍者には忍者で対抗するのが定石。

 

「段蔵」

 

「…………」

 

 深鈴に言われ、天才忍者はやはり無言のまま頷く。これは事前の打ち合わせ通り。敵の忍者が現れた場合には、彼あるいは彼女が迎撃する手筈だった。しかも今は段蔵に並ぶほどの実力者である半蔵と、彼率いる服部党が居る。

 

「半蔵殿、申し訳ないですが……」

 

「忍びが相手なら、我々の出番だな。ここは、任せてもらおう」

 

「飛び加藤殿、服部半蔵殿、この場はお任せするでごじゃる!!」

 

 忍者と言うならば五右衛門もだが、彼女の第一の役目は深鈴を守る事だ。五右衛門にまで離れられたら、深鈴は命がいくつあっても足りなくなる。

 

「行くわよ」

 

 段蔵から返してもらった馬に騎乗すると、深鈴と足軽達は再び京への道を進み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 若狭の山中では式神と亡者、人ならざる者の軍団による百鬼夜行のぶつかり合いが続いていた。

 

「どうした屍人(しびと)使い、押されているぞ!!」

 

 式神達を操りながら久脩が無邪気な笑い声を上げる。この少年にとってやはりこれは”遊び”でしかないらしい。戦場に在ると言うのに自分が死する可能性など、欠片ほども思い浮かべてはいないようだ。だがそれも、彼が振るう絶大な力を目の当たりとすれば単なる慢心の一語で片付ける事は出来ない。

 

 久脩が言う通り、宗意軒が従える亡者の軍勢は旗色が良くない。亡者に比べて式神達は、強かった。

 

 彼等がその言葉を知る訳が無いが撃墜対被撃墜比率(キルレシオ)に照らし合わせれば、亡者の式神に対するそれは1対3。つまり亡者が一体の式神を倒す間に、式神達は三体の亡者を倒しているという事だ。倍ほどの数を揃えているとは言え、このままでは押し切られてしまう。

 

「確かに式神同士の戦いは質より量と言ったのは僕だけど、それでも最低限の質は伴っていないと、話にならないな!!」

 

 勝ち誇った久脩が笑う。最初に妙な術を使われた時には少しびっくりしたが、実際に戦い始めてみればどうって事はない。このまま続けていればこの戦いは、間違いなく自分の勝利に終わる。

 

 だが気に入らないのは、宗意軒の顔だ。彼は今は亡者達の骨で輿を組み上げそこにあぐらを掻いて座っており、その輿を亡者達に担がせて指揮を執っている。

 

 自分の兵隊が次々倒されていくのを目の当たりにしていると言うのに、宗意軒の笑みは未だ崩れない。慌てふためく様を想像し、期待していた久脩は、苛立ちを抑えきれなかった。何としてもこの男の澄まし顔を、ゲドゲドの恐怖面に変えてから殺してやらねば気が済まない。

 

「その屍人ども、後何体出せる!? 十体か!? 二十体か!? いずれにせよ、それが尽きた時がお前の死ぬ時だ!!」

 

 痩せ我慢を崩してやろうと挑発するが、しかし宗意軒は暖簾に腕押し、冷笑を浮かべたままだ。彼はそれを見てますます怒りを募らせる久脩に、こう返す。

 

「クソガキ、お前は将棋を指した事は無いのか?」

 

「何だと?」

 

 久脩もむきになって言い返す。卓越した能力はあっても、その精神はやはり子供だった。

 

「最初は歩から。将棋の定石だろうが?」

 

「……ほう? ではお前はまだ本気ではないと言いたいのかい?」

 

「ああそうだ……が、このままでは俺の方が不利なのも確かだな」

 

 既に亡者達は最初の半分ぐらいにまで数を減らしている。まだ交戦を維持出来るだけの数は残しているが、このままの状況が続けば式神達の爪牙が宗意軒に届くのも時間の問題に思える。

 

「切り札は敵より先に切らないのが鉄則だが……まぁ、良いか。使わせてもらう事にしよう」

 

 輿の上でぱちん、と指を鳴らす宗意軒。すると間髪入れず、だぁん、という轟音が鳴り響いた。種子島の銃声だ。その音を聞いた途端、久脩が使役する式神達の戦列が、乱れた。式神達はどういう訳か、南蛮渡来の種子島を嫌う。前鬼のような上級式神であれば理性でその恐怖を抑えられるが、久脩の操る低級式神達はその本能的恐怖に耐えられないのだ。

 

 一方で、宗意軒が従える亡者達は銃声を聞いてもまるで影響を受けてはいないようだった。それも当然かも知れない。恐怖とは、危険を察知してそれから離れる事で死を回避する為の感情。死者に恐怖を感じる感情がある訳も無いし、仮にあったとしても根の国の住人である彼等にとって言わば”死”とは第二の故郷。別段恐れる事もないのだ。

 

「くそっ、どこから種子島なんて……!!」

 

 毒突きながら久脩が見れば、亡者達の中に一体、火縄銃を手にしている者が居るのが分かった。他の亡者達は全身が白骨化しているが、その亡者は腐って蛆が湧いているものの未だに肉をその体に纏っており、死んでからさほど時間が経っていないように見えた。

 

「こいつは甲賀忍者の杉谷善住坊。信奈様を狙おうとしていた所を俺の同僚達に取り押さえられて、たっぷりと可愛がられた後に殺されたらしいな。これほどの腕を持った奴をただ死なせておくのも勿体無いから、転生させて俺の屍兵共に組み込ませてもらったのさ」

 

「バカが!! 種子島のたった一挺で勝ったつもりかい!?」

 

 毒突く久脩は算を乱しつつあった式神達に指令を与え、統率を取り戻していく。いくら式神が種子島を嫌うと言っても、十挺も二十挺も数を揃えて一斉射するのならばまた話は違うだろうが、亡者達の中で種子島を持つのは元杉谷善住坊たった一体のみ。単発では、精々式神達を怯ませるほどの効果しか持たず、その混乱もすぐに天才陰陽師の指揮によって回復されてしまう。

 

 しかし、僅かに怯ませるだけで十分だった。宗意軒の指が再び、ぱちんと気持ちの良い音を立てる。すると再び地面が盛り上がり、新手の亡者が姿を現した。同時に式神達が三体、一瞬にして斬り捨てられる。

 

「何っ!?」

 

 久脩が驚愕を見せる。たった今現れた新手の亡者は、明らかに他の者達とは違うようだった。まず姿が違う。纏う衣服は僧兵のものだが、全身至る所に矢が突き刺さって、ハリネズミのようになっている。

 

 そしてこの重装備はどうだ。他の亡者は丸腰か、精々槍刀の一本を持っているだけだが、この新手の亡者は巨大な薙刀を手にしているだけではなく、右腰に二本、左腰にも二本、後腰に交差させるようにして二本の刀を差し、更に背中に二本の野太刀を背負い、計八本もの刀を身に付けて、それ以外にも熊手や大槌、大鋸に刺又、突棒、袖搦といった道具まで携えている。

 

 しかもそれほどの超重装備でありながら、その亡者の動きは、軽い。空を舞うような動きで疾駆すると、あっという間にまた一体、式神を真っ二つにしてしまう。斬られた式神は、粒子状になった体を大気中に霧散させるようにして、消えていく。この亡者の強さには、流石の天才陰陽師も一目置いたようだった。「ほう」という表情になる。

 

「それがお前の切り札かい?」

 

「その通り。流石に、一つの時代で無双を誇っただけの事はある。深鈴様の食客になる以前……わざわざ奥州くんだりまで足を運んで、墓を暴いて転生させた甲斐があったというものだ」

 

 恐ろしい事を平然と言ってのける宗意軒に久脩も少しばかり圧倒されていたようだったが、しかしすぐに平静さを取り戻した。状況は未だ、自分の有利には違いないのだから。

 

「何度も言っているだろう? 式神同士の戦いは質より量!! いくらお前のその屍人一体が強くても、僕が操るこの数には勝てないよ!!」

 

「分かっているさ。これはあくまで時間稼ぎに過ぎん」

 

「何だと!?」

 

 苛立ちを声に滲ませて、久脩は思わず体を乗り出した。宗意軒はやはり笑顔のまま、続ける。

 

「兵力の拡充が終わるまでの、な」

 

 

 

 

 

 

 

「私が織田の銀鈴よ、討ち取って手柄になさい」

 

 異形の軍団が激突している戦場からほど近い山中では、追撃する浅井の兵を前に前鬼扮する偽深鈴が追い詰められていた。付き従ってきた百名の足軽達は悉く討ち死にして、残るのは彼一人。

 

 だがこれで、彼と百名の兵士達は十分に役目を果たしたと言える。彼等は道幅が細くなって大軍では押し通れない所に陣取り、そこを死に場所と心得て猛戦したのである。人間、死ぬ気になればその力は五倍にも十倍にもなる。なんと三度まで浅井方の攻撃を退け、四度目の戦いでは既に二十余名まで数を減らしていたが、それでも全滅までに百人近くの浅井兵を討ち取っていた。深鈴の姿と名前を借りる事で敵の目を引き付け、彼女達が逃げる時間も十分に稼げた。この戦いは死んだ百名と、前鬼の勝ちだ。

 

「お命頂戴!! 御免!!」

 

 浅井兵の一人がそう言って斬り掛かる。前鬼は振り下ろされるその太刀を避けようとさえしなかったが……不意に、その兵士は攻撃動作を中断して、それどこか怯えた表情で軽く十歩は後ずさった。彼だけではない。他の三百名ほどの兵士達も先程までの手柄首を挙げて与えられるであろう恩賞を想像してにやけていた表情から一転、一様に怯えた顔になっている。

 

 彼等の視線は、前鬼ではなくその後ろに向いている。「何かあるのか?」と思った彼が振り返ると、そこには想像を越えた光景が広がっていた。

 

「なっ……!!」

 

 その有様には上級式神をして、圧倒されるものがあった。たった今まで誰一人として後ろを見せず、勇敢に戦って倒れていった足軽達が、次々と立ち上がってきていたのだ。死んでいなかったのか、あるいは息を吹き返したのかとも思ったが、しかし百人の中の一人にそういう事があるというならいざ知らず、百人全員にそんな事がしかも同時に起こるなど、有り得るのだろうか。見れば彼等がこれまでの戦いで討ち取った浅井の兵までもが、むくりと立ち上がってきている。

 

 注意深く見てみると、やはり彼等は”死んでいる”という事が分かった。白濁した眼球からは意思の光が感じられず、だらしなく半開きになった口からはだらだらと涎が垂れ流しになっていて、中には腹が割けて臓物を引き摺りながら歩いている者すら居る。

 

 蘇った死者は眼前の生者達に向けて一斉に襲い掛かり、ある者は手にした得物を振り、ある者は獣さながらに食らい付いて、彼等を次々自分達と同じ”死”に引き込んでいく。

 

「ひ、ひぃぃぃぃいいっ!!」

 

「く、来るな!! 来るなぁっ!!」

 

 殺した筈の者が生き返るという想像を越えた事態に浅井兵は恐慌状態となり、ある者は逃走してある者は滅茶苦茶に刀を振り回して抵抗するが、だが亡者達は心臓に槍が突き刺さっても、刀で腕を飛ばされても、ほんの僅かな痛痒すらも感じてはいないようだった。それも当然かも知れない。死人が痛みを感じる訳が無いし、一度死んだ者をこれ以上殺す事など、出来よう筈もない。

 

 次々に亡者の手に掛かっていく浅井兵。しかし、本当の恐怖はそこからだった。殺された者達が、先程までの殿軍の足軽達と同じように立ち上がり、生ける屍(リビングデッド)として動き始めたのだ。

 

 殺した筈の者が蘇り、蘇った死者が仲間を殺し、殺された仲間が亡者として蘇る。

 

「う、うわあああっ!!」

 

「こ、これは夢だ!! 悪い夢なんだぁっ!!」

 

 浅井兵達がそう思うのも当然だった。そしてとびきりの悪夢の中に居るとしか思えないようなこの状況で、戦意を保てる訳がなかった。辛うじて応戦していた者も次々に武器を捨て、倒けつ転びつ逃げ惑う。倒れた者は亡者の餌食となって亡者となり、三百名は居た中で逃げ延びられたのはほんの二、三十名だけだろう。

 

 そんな狂乱の地獄絵図を前鬼はやや離れた所から眺めていたが、屍兵達は彼も生者として認識したようだった。数体が襲い掛かってくる。

 

「ぬっ!!」

 

 深鈴の姿からいつもの青年陰陽師のそれへと戻った彼は白羽扇を振るい、不可視の拳を繰り出した。向かってきた死者はその攻撃によって打ち砕かれ、今度は立ち上がる事はなかった。どうやら亡者達は只の武器では斬られても突かれても平気だが、自分のような霊的な存在ならば攻撃は通るらしい。この点は久秀が操る傀儡に近いものがあるのかも知れない。

 

 他の屍兵達も襲ってくるかと身構える前鬼であったが、しかし亡者の群れは唐突に彼への興味を失ったかのように一度動きを止めると、全員が何者かの意思に導かれるように一つの方角へと進んでいく。

 

 この異常事態が誰の手によるものかなど、前鬼にはすぐ分かった。

 

「森宗意軒め……始めおったか……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 浅井の兵は深鈴率いる殿軍を追撃する主力以外に、部隊からはぐれたり急速な撤退に付いて行けずに脱落した尾張兵を掃討すべく、若狭の山中に広く展開していた。

 

 その中の一隊が、前方に十数人の死体が転がっているのを見付けた。

 

「これは、朝倉方の死体か」

 

 朝倉兵は首を斬り飛ばされており、しかしここで戦闘があったにしては不思議な事に、尾張兵の死体は一人も見当たらなかった。

 

「一体何が……?」

 

 注意深く調べようとした彼等は、次の瞬間から地獄に叩き込まれる事になった。

 

 朝倉兵の首無し死体がむくりと起き上がって、右手には抜き放った白刃を、左手には転がっていた自分の頭を拾い、盾のように振りかざして向かってきたのだ。

 

「な、何だ!?」

 

「死体が、生き返った!?」

 

 有り得ない事態に混乱の渦中に陥った浅井勢が、亡者の餌食となって自分達も亡者になるのに、大した時間は掛からなかった。三十人ほどの中で、残ったのはあっという間に三名ほどになった。

 

「ば、化け物……!!」

 

「く、来るな!! だ、誰かぁっ!! た、助けてくれえっ!!」

 

 腰を抜かした彼等は最早、迫る屍人の生け贄になるしかないと思われたが……しかし、その祈りが天に通じたのか、はたまた死者達にも気紛れのような揺らぎはまだ残っていたのか。いずれにせよ、それまでは生肉を放り込まれた飢狼の如き勢いで死を振り撒いていた亡者達は突如として彼等に興味を無くしたように、何処かへと歩み去っていった。

 

「た、助かった……のか?」

 

 股間から湯気を立てながら三十人の中の三人、文字通り九死に一生を得た中の一人は、呆然と呟くばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

「おう、ここにもあったぞ」

 

「この鎧や着物も洗えばまだ使えるな」

 

 山中のまた別の場所では、この地の農民達が戦死者から身の回りの物を剥ぎ取って売り捌くべく、徘徊していた。これもまた、落ち武者狩りの一形態である。

 

「ひひひ、朝倉様のお陰でえらい儲けじゃ」

 

 だが、喜んでいられたのもそこまでだった。服を脱がせようと近付いた所で、織田兵の死体がバネ仕掛けに弾かれたように起き上がって、首筋に噛み付いてきたのである。

 

「ぎ、ぎゃああああああっ!?」

 

「な、何だ!? 一体、何が起きた!?」

 

 食い破られた頸動脈から吹き出た血で黒い闇夜が赤く染まり、謝肉祭が始まった。あっという間に十人はいた落ち武者狩りは九人までが亡者に襲われ亡者になって、残った一人は命からがら逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 術比べの主戦場を中心としたあちこちで、このような光景が繰り広げられた。魔界転生の秘術によって蘇った死者達は周囲に居る生者達に襲い掛かり、彼等をも同じ死者に変えて葬列に加え、爆発的に数を増やしていく。

 

 そうして増えた屍兵はその都度、宗意軒が率いる軍勢へと組み入れられた。

 

 死者が生者を殺し、殺された生者は死者となって更なる死を振り撒いていく。その連鎖はさながら終末的な思想に取り憑かれた者共による、邪教の儀式のようだった。

 

「いいぞ!! もっとだ!! もっと殺せ!! もっと殺して増えるがいい!! 俺の可愛い亡者共!!」

 

 人骨製の輿の上でどんどんと増えていく屍兵達を見下ろし、その儀式を取り仕切る邪教の祭祀・森宗意軒は高笑いしつつ指揮を執っていく。対照的に、ほんの僅かな時間で減らした筈の兵数を補充され、倒しても倒しても減る気配を見せない亡者の軍勢に、土御門久脩はこれまでで最も大きな動揺を見せた。

 

「お、お前っ……これは一体……!?」

 

「敵の問いに答える義務は無いが、まぁいいだろう。教えてやるよ」

 

 と、宗意軒。どうやら山高帽が無い時はそれがクセとして出るらしい。再び長髪を掻き上げる。

 

「先程も言っただろう? 魔界転生は俺が殺した者を俺の手足として使役すると。そして手足である亡者達が殺した者もまた、亡者になって俺の支配下に入るのさ」

 

 そして宗意軒が術を発動した際、近くにあった死体もまた亡者になる。亡者が亡者を生み、増え続けるその早さはネズミ算。1が2に、2が4に、4が8に、8が16に、16が32に、32が64に、64が128に、128が256に、256が512に、512が1024に、増えて増え続ける。しかもここは戦場。亡者となる死体も、餌食となる生者もいくらでもいる。式神達に倒された分を補充して更なる大軍と化す事など、造作も無かった。

 

「惨い真似をする……それで自分が優しい人間だなんて、よくも言えたものだね?」

 

 子供特有の残虐性によって、遊びで虫の手足を引き千切る感覚で人を殺す少年陰陽師をして宗意軒のこの外法の術は、残酷であると断じるに十分なものがあった。

 

 しかしこの批判を受けて宗意軒は「何を言っているのか?」と、鉄の笑みを僅かに頓狂に変える。

 

「俺はとても慈悲深い人間だよ? それが証拠に、今回亡者共にはこう命令している。”出会った人間十人につき九人までは殺して良いが、残る一人は見逃せ”とな」

 

「何だと……何の為に、そんな事を……!!」

 

「来るべき新しき世の為さ」

 

 何の迷いも見せず、即答して返す宗意軒。

 

「生き残った一人には、語り部になってもらう。敵も味方も落ち武者狩りも。如何なる形であれ戦に関わった者は亡者に食われて亡者になり、冥府を永劫彷徨うのだと!! 戦とはこれほどまでに惨いもの、これほどまでに苦しいもの、これほどまでに醜いものだと!! それ故に二度と起こしてはならぬと骨に……いや、骨の髄にまで刻み込んでやるのさ!!」

 

 眉根に皺を寄せ、三白眼と相まって凶悪な笑みを浮かべながら、宗意軒は語る。

 

「それにこうでもせねば、お前のような奴が戦を玩具にして、何回でも何十回でも、民に難儀を掛けてその都度、この国を疲弊させていくだろう? もう、沈没しそうな同じ船の中で揉めていて良い時期は、とうの昔に過ぎていると言うのにな!!」

 

「そんな事の為に、お前は織田信奈に仕えているのか!? その術があれば、この国など三日で手中に出来るだろうに!! そんな、くだらない事の為に!?」

 

 信じられないという顔で、久脩が叫ぶ。理解出来ない。何故これほどの力を持ちながら、この男は天下を望まぬのだ? 自分に同じ力があったのなら、京に土御門家を再興して日ノ本の流れ陰陽師を全て始祖・安倍晴明公直系の子孫である自分が束ねるなどと面倒臭い事はせずに、この国の全てを支配してやるのに。何故だ!?

 

 そう聞かれて、しかしこの問いは「そんな事も分からないのか」と、宗意軒を失望させたようだった。彼は「はあ」と溜息を吐く。

 

「支配などという俗事に興味は無い。俺の望みは諸外国の侵略によって日ノ本が亡国とならぬ為に、だが海外への門戸を閉じて時に取り残された国にもならぬ為に、天下が新しい、次の段階へと進む事!! 俺はその為に新しい世を創らんとする織田信奈と、天命を動かす者・銀鏡深鈴に懸けた!! そして、旧き天下を旧きままにかざそうとする……とどのつまりは、お前のような者は!! この俺が全て殺して殺して殺し尽くすのだ!!」

 

 話の最中にも、死者の群れは集結を続けていた。今や亡者の軍勢は百の単位では数え切る事は叶わず、千にも二千にも達している。

 

 ぞるっと、夥しい数の”死”が、流れる河のように。むせ返るような腐臭を放つ激流と化して、久脩が従える式神達へと襲い掛かった。

 

「式神の戦いは質より量、だったよな?」

 

 まさに今のこの状況は、それを体現していた。切り札として宗意軒が投入した一体を除けば、亡者達は式神の三分の一程度の力しか持ってはいない。だが三体の亡者を倒す度に、十体が補充されて葬列に組み入れられていく。久脩も次々に護符に念を送って新しい式神を喚び出していくが、倒しても倒しても現れる屍兵の大攻勢によって、徐々に総数が減り始めている。

 

「どうした陰陽師、押されているぞ?」

 

 屍人の群れが河だとするなら、久脩の式神共は中州に例える事が出来た。押し寄せる死の急流によって削られ、徐々にその面積を小さくしていく。

 

「その護符、後何枚残っている? 十枚か? 百枚か? いずれにせよそれが尽きた時が、お前の死ぬ時だな」

 



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第27話 鬼神の恩返し

 

 若狭と西近江の国境、水坂峠では闇の中を無数の影が飛び回り、ひっきりなしに刃のぶつかり合う金属音が鳴り響いている。

 

 ここでは深鈴の命を狙って現れた甲賀者と、半蔵率いる服部党プラス加藤段蔵による忍者対決が繰り広げられていた。

 

 形勢は、服部党有利に傾いていた。服部半蔵は後世に於いて忍者の代名詞とさえ呼ばれる事となる希代の忍びであり、彼を中心としたまとまりのある戦力は、明らかに甲賀忍者達よりも一枚上手であった。しかもその半蔵と互角の実力を持つ段蔵が、中忍(甲賀には上忍という身分は無く、最高位は中忍)を自分が引き受けて敵部隊と指揮官を引き離した事も、戦闘を有利に進めた一因であった。

 

「ひゅーっ」

 

 音も無く甲賀忍者の背後に回った半蔵は、すかさず手にした苦無で喉を引き裂いた。吹き出る血と共に空気が漏れるような音がして、その乱波はがっくりと倒れる。

 

「残りは!!」

 

「こちらも全て、殺りました!!」

 

「後は、飛び加藤殿が引き付けていった中忍だけです!!」

 

 服部党を集め、段蔵はどうなったかと彼あるいは彼女が中忍と共に消えた方向へと、木々を飛び移って進んでいく半蔵。50メートルも進むと急に視界が開けて、広場のようになった場所に出た。そこで、段蔵と甲賀中忍は数メートルほどの間合いを取って対峙していた。

 

 中忍が右手を上げると、段蔵は全く同じタイミング・角度で左手を上げた。同じように中忍が左手を上げると、段蔵は今度は右手を上げる。その様はまるで鏡映しのようだ。

 

 この事態が如何に危険なものなのか、服部党の面々には一目で分かった。

 

「い、いかん!! 飛び加藤殿は催眠術に掛かってしまったのだ!!」

 

「あの中忍と同じように手足を動かしているぞ!!」

 

 忍者達は助太刀しようと進み出るが、半蔵に制された。

 

「頭領!! どうして……」

 

「まあ、見ていろ」

 

 そう言っていると、事態に動きがあった。段蔵が袖口より、黒塗りの忍刀を取り出す。中忍に動きは無い。天才忍者はそのまま無造作に刀を突き出して、中忍の心臓を貫いた。そのまま、どさりと倒れる中忍。間違いなく即死、苦しむ暇も無かっただろう。

 

「おおっ!!」

 

 ひとまず全ての敵を排除した事を確認した段蔵はボロ布の内部へ忍刀を収納すると、服部党へと近付いていく。彼等は段蔵が催眠術に掛かって中忍と同じように手足を動かしていたと思っていたが、事実は全くの逆であった。中忍が段蔵の催眠術に掛かって、彼あるいは彼女と同じように手足を動かしていたのだ。

 

「流石だな」

 

「…………」

 

 半蔵だけがそれを見抜いていたのは、好敵手ならではと言うべきか。

 

「これで、片付いたな」

 

<任務完了せり。これよりは深鈴様達に合流し、護衛の任を再開すべき>

 

 いつも通り喋らず、紙面に書いた文章で会話する段蔵だが、半蔵以下服部党は皆忍者であり夜目が利く。意思の疎通に苦労は無かった。

 

「うむ。では、行くぞ」

 

「「「承知!!」」」

 

 半蔵の命令に声を揃えて返すと、忍者集団はその身を影と為し、闇から闇へと駆けた。

 

 

 

 

 

 

 

「はあ、はあ……」

 

 手頃な木を背もたれにした深鈴の呼吸は、浅く速い。

 

 前鬼率いる百名の決死隊による浅井勢足止めはどうやら成功したらしく、これまで後方から追い立てられる事は無かった。落ち武者狩りの一揆衆とは何度か鉢合わせたが、彼等はあくまで負け戦によって算を乱して逃走する中で逸れた少数名を討取る事を目的とした集団であり、曲がりなりにも部隊の体を為した六百名を相手に出来るものではない。前方に居た十名ばかりを蹴散らすと、後は蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

 

 そうして何とか逃避行を続けてきた殿軍であったが水坂峠を越えて朽木谷の手前に差し掛かる頃には、流石の強者共にも疲れが見えてきた。それも当然、自分達より遥かに数の多い軍団へ二度までも突っ込み、その後も大軍に背後から追い掛けられるというプレッシャーの下、冬の山道を走り続けてきたのである。体力・精神力共に平時の何倍も削られていた。

 

 時刻はもうすぐ日の出の筈だが、冬の夜は長く夜明け前が一番暗い。闇の帳は、まだしばらくは上がりそうになかった。

 

「銀鏡氏、そしてみんな、もう少しでござりゅ!!」

 

 と、五右衛門。

 

「この先の朽木谷を越えれば、京は目の前!! 後一息でごじゃる!!」

 

「通れるかどうかが心配だったが……この分なら問題は無さそうだな」

 

 種子島を点検しながら、子市が呟く。

 

 仮に本隊が朽木谷で立ち往生しているとしたら、ここまで来れば押し通ろうとする織田軍とさせまいとする朽木信濃守の軍勢とがぶつかり合う合戦の声が聞こえてきても良さそうなものだが、実際には恐ろしいほどに静かだ。恐らくだが交渉に成功し、通行許可を得たのだろう。となれば、自分達も同じようにフリーパスで通れると見て良い。

 

 そして辺りを見回してみると、道が通りやすいように整備されている。先にここを通っていった本隊の仕事だろう。道々には替え馬や食料も、駅伝制のように随所に用意されていた。

 

 この僅かな助けが、今はどれほど励みになる事か。一度は死んでもいいと覚悟を決めていた者達も、ここまで逃げてきたのだから、こうなったら京まで逃げ延びてやろうと生きようとする執念・希望の方が強くなってきた。

 

「銀鏡氏、そろそろ出発を……」

 

 そう言い掛けた五右衛門であったが、突如として「はっ」と表情を変えるとその場にしゃがみ込んで、耳を地面に当てる。

 

「五右衛門、何が……」

 

「しっ!!」

 

 強い口調で制されて、押し黙る一同。しばらく這い蹲った姿勢のままでいた少女忍者であったが、やがて厳しい表情になって顔を上げた。

 

「凄い速さで兵馬が近付いてくるでござる!! 数はおよそ千!! 恐らくは浅井のおっちぇかと」

 

「追っ手……では、前鬼さんの決死隊が突破されたの?」

 

「いや、これは馬が潰れる事を考えてないような速さでござる。遅れた分を取り戻そうと、にゃりふりかみゃわず、われりゃをおってきちぇるでごじゃる」

 

「……と、いう事は本隊の撤退は成功したと見て良いわね」

 

「と、言うと?」

 

「もしまだ本隊が撤退を終えていないのなら、浅井勢は私達を討った後にまだ信奈様達を追わなければならないから、馬の足を温存しておかなければならない筈。逆にこうして後先考えず全速力で追い掛けてくるという事は、信奈様の首を取る事はもう不可能になったから、こうなったら私達の命だけでも貰っておこうと、目標を変えたのよ」

 

 この土壇場に来ても、深鈴の頭脳はまだ冴えている。冷静な現状分析を行ってみせた事への驚愕と、そして推測ながら自分達の役目の一つが果たされた事への達成感が、一同を包んだ。

 

 本隊が逃げるまでの時間を稼ぐという任務は完了した。後は、生きて京に辿り着く事だけを考えれば良い。

 

 だがどうするか。背後の浅井勢は、先程までよりずっと速く追い掛けてくる。このままではこちらが京に到着する前に、追い付かれる事は必至。

 

「どうするもこうするもないだろう?」

 

 整備の終わった”鳴門”を、子市が構える。

 

「前鬼がそうしたようにまた百名ばかりここに残って、浅井の兵を足止めすれば良い。指揮は、私が執る。深鈴様はその間に残り五百名と共に、京へ逃げ込まれよ」

 

「おう、ワシもここに残りまするぞ」

 

「俺もだみゃあ!! 浅井兵共、ここで立ち往生させてやるにゃ!!」

 

「俺もだ!! 子市の姐さんにお供致しますぜ!!」

 

「子市……みんな……」

 

 深鈴の表情が泣き出しそうに歪む。前鬼が率いていた百名は、恐らく全滅したのだろう。そして今、子市と他の百名にも同じ運命を辿らせようとしている。

 

「そんな顔をなさいますな」

 

 ”鳴門”を担ぎ、子市は微笑する。

 

「もし金ヶ崎城で籠城していたら私達は間違いなく全滅していた。また、普通に撤退戦をやっていたのなら京まで辿り着く事は出来たかも知れんが、それまでに五百名も生き残っていられたかは、大いに疑問が残るな。あんたの指揮が適切だったからここまで犠牲は最小限に、これだけの人数が生きて来れたのだ。誇りに思って良いと思うぞ」

 

 鉄砲撃ちの分析は的確であった。確かに理詰めで考えればそうなる事は深鈴にも理解出来るが、しかし感情は納得しない。それでも少しだけ、彼女は胸にのしかかっていた重しが軽くなったような気がした。

 

 だが、事態はそのような感傷に浸っている事を許してはくれないようだった。まだ遠いが、馬蹄の響きが今度は五右衛門のように地面に耳を当てずとも聞こえるようになった。

 

「金ヶ崎城で誰かが言っていただろう? 私達が皆死んでも、あなた一人が京に戻れたのなら、この戦は私達の勝ちだ……とな」

 

 子市はそう言って、火縄に着火する。

 

「五右衛門、お前は深鈴様を京までしっかりと守……!?」

 

 そう言い掛けて先程の五右衛門と同じように、急に表情を変えると、いつでも撃てるようになった”鳴門”の銃口を闇の中へと向けた。「何を?」と深鈴が聞きかけるが、五右衛門もまた腰の忍刀を抜き、それなりに付き合いの長い深鈴が見た事も無いような緊迫した表情で、子市が狙っているのと同じ闇の中を睨む。

 

「どうしたの、五右衛門?」

 

「銀鏡氏……今すぐ馬に乗って、出来る限りここから離れられよ!!」

 

 口調も噛み噛みではなくなっている。それほどに今の状況が切迫しているという事だ。

 

「一体何が……」

 

 尋ねる深鈴だが、忍者も鉄砲撃ちもこの反応の鈍さには苛立ったようだった。

 

 確かに突然の事だし、時間を掛けて説明している暇も無いし、本格的な武術の心得が無い深鈴には分からないのも仕方無いが、それにしても自分達は今がどれだけ危険な状況なのか分かっているのに、護衛対象がそれを理解していないというのは腹立たしく思えるものがあった。

 

「急げ!! 恐ろしい奴が来てる!!」

 

「拙者と子市殿で何とか五分は持たせる故、その間に出来る限り遠くまで逃げるでござる!! 決して振り返らずに、全速力で!! 皆は、銀鏡氏を守るでござるぞ!!」

 

「へ、へい。親分!! さぁ、嬢ちゃんは早く馬に……」

 

「親分、俺も一緒に戦いますぜ!!」

 

「姐さん!! 種子島は四挺、準備出来てるみゃあ!!」

 

 先程までは戦場とは言え、休息中という事もあってそれなりに弛緩した雰囲気であったが、しかしそんな空気はものの十秒で吹っ飛んだ。五右衛門と子市。共にこの場の六百名の中では最強の使い手であろう二人が、ここまで最大警戒を示すのである。これは闇の中から迫ってくる”何者か”が、後方から追い縋ってくる浅井勢を上回る脅威である事を示している。

 

 漸く事態の深刻さを理解し、足軽達に京への道を急ぐように指示しようとした深鈴だったが、遅かった。

 

 闇を切り裂いてその恐るべき気配の主が、姿を現した。

 

 

 

 

 

 

 

 若狭の山中、熊川の辺りでは、凄絶な景色が広がっていた。

 

 森宗意軒の秘術・魔界転生によって蘇った亡者達は、近付く生者を次々自分達に仲間入りさせ倍々ゲームで増え続け、今やその総数は数千にも達していた。葬列を為す屍兵が狙うのは、たった一人……!!

 

「こ……の……っ!! ふざけやがってぇっ……!!」

 

 少年陰陽師・土御門久脩は式神達が一匹消滅する毎に表情に皺を増やして、その度に分かり易い焦りの色を表に出していた。彼の命綱とも言える、式神召喚に用いる護符は、たった今最後の一枚となった所だ。つまりそれを使ってしまえば、もう彼には為す術が無くなるのだ。

 

 久脩とは対照的に宗意軒は、亡者達が担ぐ輿の上でゆったりとあぐらを掻き、落ち着いたものだ。朝倉・浅井の兵や落ち武者狩りの連中は、最初の内は次々押し寄せてきてその都度葬列に組み込まれていたが、流石に具体的に何が起こっているのかは理解出来なくとも、兎に角”ヤバイ”事が起こっているというのは分かったのだろう。彼等はこの一帯は避けて動いているらしく、亡者達が増えるペースは少し前に比べて随分ゆったりとしたものになっているが、それでも彼は既に、十分過ぎる兵力を手にしていた。

 

 倒されても倒されても亡者達は次々現れ、少年陰陽師が自分の周囲に何重にも、円陣のように配置した式神達はもう、最後の一列が残っているだけだった。これでは、槍や薙刀といった長柄の武器を持った亡者が、式神達が守る隙間から久脩へと致命打を突き入れる事も可能かも知れない。

 

「お前みたいな奴に、これ以上付き合ってられるか!! 僕は、帰らせてもらうよ!!」

 

 真剣に、これ以上は命の危険を感じたのだろう。久脩は捨て台詞を吐くと、手元に残った最後の護符を使い、翼竜のような式神を喚び出した。素早く、その背中に跨る。宗意軒が従える亡者の軍勢は人間の死者を操っているものなので、空中に逃げれば安全と見たのだろう。

 

「ははっ」

 

 顔を引き攣らせながらも、眼下の葬列を見下ろす久脩には強者の余裕と笑みが戻っていた。

 

 そして再びそれが失われるのに、十秒も掛からなかった。

 

 ガクンと、空飛ぶ式神の体が揺れる。

 

「な、何が……ひっ!!」

 

 一体何が起こっているのかと視線を下げた少年陰陽師は、目に入った光景に怯えた声を上げる。そこには無数の亡者達が、群がっていた。

 

 式神が飛び上がった瞬間、彼等の中の一体がその足を掴んでいたのだろう。そしてその一体の体を他の亡者が掴み、その亡者の体をまたの他の亡者が掴み……と、その繰り返しによって死者達は、まるで下ろされた蜘蛛の糸を上って極楽へと至ろうとする地獄の罪人のように仲間の体を掴んで、式神を頑丈なロープのように係留してしまっていた。取り付かれている式神には彼等を振り解くほどのパワーは無く、同じ高度で小さな円を描いてグルグルと回るだけだった。

 

「逃がすとでも、思っているのかね?」

 

 久脩の怯えた目と、宗意軒の冷たい三白眼が交差する。

 

「く、くそっ!! お前等!! 離せっ!! 下りろ!!」

 

 幼い陰陽師が唾を撒き散らしながら、叫んだ瞬間だった。無数の亡者に群がられ、引っ張られた式神がバランスを崩す。

 

「う、うわああああああああっ!?」

 

 ドップラー効果を引くような悲鳴と共に、久脩の小さな体は弧の軌道を描いて落下する式神ごと地面に叩き付けられた。

 

「う、うぐ……」

 

 墜落した時に打った右肩を押さえながら立ち上がった久脩が見回すと、そこには”死”が広がっていた。前も後ろも、右も左も。隙間無く、亡者達が押し寄せてきている。

 

 咄嗟にいつもの習慣で護符を取り出そうと懐をまさぐって、指先に何の感触も当たらない事に気付いた。何時間か前には千の兵士を天上から見下ろして絶対強者として振る舞った安倍晴明公の再来は、今は年相応の無力な子供でしかなかった。

 

「た、助け……」

 

「駄目だね」

 

 昨日までは考えもしなかった自分の死を突き付けられ、あろう事か敵の仏心に縋るようにして求めた救いは、にべもなく撥ね付けられた。

 

「お前は陰陽道という武器を手に、俺達を殺しにここまで来たんだ。だったら同じだけの危険を背負わねばならん。逆に俺達に殺されても文句を言えないのが道理ではないか。仮に同じ台詞を逃げていった奴等が言ったとしたら、お前は何と答える? ならば、俺がお前に返す答えもまた同じさ」

 

 パチンと、宗意軒が指を鳴らす。その音が、ギロチンのロープを切る斧だった。四方を囲んでいた亡者達が、また一人の生者を自分達の側に引きずり込むべく、殺到する。

 

「あ、あああ……ああああああああああああああああっ!!!!」

 

 数里先まで響き渡るような甲高い悲鳴も、やがて数多の屍兵が覆い尽くして、そして聞こえなくなった。

 

 人骨によって組み上げられた輿に座る宗意軒は、眉一つ動かさずにその一部始終を見下ろしていた。幾千もの死者を統括する彼にとってこれはもう、ありふれた場面でしかない。先程まで浅井や朝倉の兵を散々殺して軍団の兵力を拡充していたのと同じで、何千分の一でしかない。彼が統べる死者の葬列にまた一体、陰陽道を使える亡者が組み込まれただけに過ぎないのだ。

 

「さて……覗き見とは、些か趣味が良くないのではないかね?」

 

 宗意軒が睨み据えるのは、亡者達が群がっているのとはまるで別方向だった。彼の声が聞こえたのか、闇の中より「コーン」という独特の声と共にその者が姿を現す。木綿筒服を纏い、白羽扇を手にした細面の青年、前鬼だ。

 

「随分と派手に暴れたものだな」

 

 居並ぶ死者を見渡して言う上級式神のその声は、挑発しているようであり呆れているようでもあった。

 

「そうかね?」

 

 前鬼を襲わないよう亡者達に指示する宗意軒。彼の目は見開かれた三白眼から、既にいつもの線目に戻っていた。

 

「……で、俺に何の用かね? 半兵衛の犬」

 

 

 

 

 

 

 

 一夜明け、京の都は蜂の巣を突いたような騒ぎとなっていた。

 

「織田軍、越前から敗走。総崩れに」

 

「殿軍を率いる銀鏡深鈴は、未だ帰還せず」

 

 様々な噂が飛び交う中で、ねねは本能寺へと駆け込んでいた。「織田信奈はまだ無事で本能寺に居るらしい」という噂を聞き付けたからである。彼女の髪が少し水気を帯びているのは、先程まで深鈴の無事を祈って水垢離を行っていたからだ。頼みの綱の半兵衛は曲直瀬ベルショールが処方した薬が効いたのか、眠り続けており、彼女が縋るのはもうここしかなかった。

 

 門前にて警備の兵につまみ出されそうになったものの、運良く騒ぎを聞き付けてやって来た長秀に見付けられ、特別に境内へと通してもらえた。

 

「丹羽様。銀姉さまは、まだお戻りになられませぬか?」

 

「まだ知らせは入っておりません、ねねどの」

 

 ねねはそれを聞いて不安を強くしたようだったが、長秀の見方は少し違っていた。確かに深鈴の無事を知らせる報告は入っていないが……それは同時に、彼女が死んだという知らせも入っていないという事なのだ。長秀は思う。自分ならば少しでも姫様の本隊を遠くに逃がそうと、最後の一兵まで戦って間違いなく死ぬだろうと。

 

『でも……』

 

 そう。でも、だ。今や千にも上る食客達を集めた時も。国境から今川勢を撤退させて道三への援軍を出せる状況を作った時も。目の前にいるねねやうこぎ長屋の住人達の助力を得て今川本陣を田楽狭間に誘導した時も。墨俣に城を築いた時も。将軍宣下に必要な金を揃えようとした時も。

 

 どんな時も深鈴は、想像を越えた手練手管を弄してきた。もし自分が彼女だったとして、あそこまで出来ただろうか。

 

『……銀鏡殿なら今回も、何とか戻ってこれるような起死回生の一手を持っているやも……』

 

 そこまで考えた所で長秀は、死地に置き去りにしておいてなんと無責任な思考だと「零点以下ですね」と心中で自分を嗤った。

 

「ですが丹羽様達のご活躍で、織田軍は無事京に退却出来たのでしょう? ならば今すぐ銀姉さまを救出に向かわねば、ですぞ!!」

 

「それが……厄介な事態になっているのです。一点です」

 

 織田軍敗戦の報を聞き付けたのか、四国へ逃げた筈の三好一党が再び畿内を窺っており、甲賀に隠れていた六角承禎も再び南近江に姿を現した。更に、深鈴の殿軍による足止めが成功していようがいまいが、いずれ浅井・朝倉の連合軍も京に迫ってくるだろう。

 

「でも、銀姉さまを放っておく訳には……姫様に会わせてくだされ、ですぞ!! 姫様に直接お願いすれば、きっと……」

 

 そう言ってねねは力強く襖を開き、そして思わず言葉に詰まった。

 

 張り詰めた空気が充満したその部屋の中では未だ鎧姿の信奈が、ぎらぎらした目で広げた地図を睨んでいた。すぐ手前には正座した勝家が、沈痛な表情で命令を待っている。

 

「恐らく、浅井・朝倉連合との決戦の地は、坂本になるわ」

 

「姫様!! 銀姉さまを……」

 

 信奈はねねの言葉を、聞いていないようだった。

 

「六、あなたは先陣として一万五千の兵を率いて出陣、そこに防衛の為の陣を築きなさい。私もすぐに、第二陣として一万の兵を連れて行くわ。既に源内の火砲部隊もそこへ移動させる手筈になってるから……いい? 浅井と朝倉の兵の一人も、絶対にそこから先へは進ませないで。坂本を抜かれたら後は京まで一直線、私達の負けよ」

 

「はい、あたしの命に代えても、守り通してみせます!!」

 

 そう返して第一陣となる兵を編成すべく退出していく勝家は、長秀とねねと目が合い……だが何も言わずに立ち去るだけだった。

 

 入れ違いに部屋に入ったねねは顔を真っ赤にしてずんずんと信奈に詰め寄ると何も言わずに手を振り上げ、そしてぱしん、と、乾いた音が響いた。

 

 思わず、長秀が息を呑む。もしここに先程出て行った勝家が居たのなら泡食って卒倒していたか、悪くすれば腰の刀を抜いていたかも知れない暴挙だった。

 

「よくも……よくも……!! 銀姉さまを見捨てられましたな!! あれほど姫様に尽くされた銀姉さまを!! あれほど銀姉さまに目をかけて下さっていた姫様が!! 見損ないまし……た…………ぞ……」

 

 怒り心頭で信奈を罵倒するねねであったが、しかし左頬を赤くした信奈がゆっくりと自分の方を振り向いたのを見て、思わず息を呑んだ。

 

 爛々と光る両眼は、涙が涸れるまで泣いたのだろう。真っ赤に腫れていた。そして一睡もしていないのだろう、目の下はくっきりと生じた隈で、黒ずんでいた。

 

 ねねの中に燃えていた怒りは、もうどこかに消えてしまっていた。決して信奈は平然と深鈴を死地に置き去りにしたのではないと、分かったからだ。

 

「これで……少しは気が済んだ? ねね……」

 

 立ち上がった信奈は全ての感情を押し殺した表情で、くしゃっとねねの頭を撫でた。

 

「罪滅ぼしにもう少し殴られてあげたいけど……今は時間が無いの。一段落付けて戻ったら……その時は、好きなだけ私を殴りなさい」

 

 そんな事は何の解決にも罪滅ぼしにもならない、ただの偽善だと、信奈にはも分かっていた。分かっていたが……しかしこれぐらいしか、彼女はねねにしてやれなかった。

 

「万千代、後は任せるわ」

 

「……承知いたしました」

 

 紅い南蛮外套を翻し、撤退してきた兵を纏めて第二陣を編成する為に本能寺を去る信奈を見送って、残されたねねは胸を押さえて泣き崩れる事しか出来なかった。長秀はそんな彼女の背中をさすっていたが……不意に、背後に気配を感じて振り返った。

 

 ずらりとそこに並んでいたのは光秀、犬千代、元康の三名。

 

「この状況では大軍を動かす事は出来ないですが……ならばこの明智十兵衛光秀が近江に潜入して、銀鏡先輩を救出して来るです!!」

 

「……犬千代も、行く」

 

「わわわ、私も参ります~」

 

 これは仮にも一廉の武将である彼女達の仕事ではない。本来ならば乱波を送って行うべき任務だが、虎の子の諜報部隊を指揮する五右衛門と段蔵は深鈴の護衛として同行し、半蔵以下服部党もまた殿軍に同行している。繰り出せる乱波は、もう居ない。

 

 そして光秀の言う通り、浅井・朝倉連合に対する為の主力以外に三好や六角に備える為にも兵は必要であり、これ以上戦力を割く事は出来ない相談だ。だからこその、この三名であった。

 

「銀鏡先輩が簡単に死ぬとは思わないですが……万一の事があって張り合いのある競争相手に居なくなられてはたまらないですからね!! さっさと助けて、連れ戻してやるです!!」

 

「……犬千代は、とにかく、行く。止めても無駄。止めたら、斬る」

 

「私も銀鈴さんには大恩ある身ですから~」

 

 長秀は、引き留める事をしなかった。この三人の誰一人とて、言って止まるような生半な覚悟でここにいる訳ではないと、悟っていたからだ。これは下手をすれば深鈴に続いて彼女達までも失いかねない危険な賭けであるが……ならばその責は、全て自分が負う。彼女も腹を括った。自分にはそれぐらいしか出来ないと思ったから、せめてそれだけを。

 

 だが、ただ行かせる訳ではない。一つだけ、条件があった。

 

「生きて帰ると約束出来るなら」

 

「「「承知!!」」」

 

 こうして三名は深鈴捜索の為、休息もそこそこに逃げてきた道を、再び引き返していた。

 

 朽木谷に差し掛かり、朽木信濃守に聞いてみたが「誰も通っていない」と、返された。撤退時に久秀が交渉していたという彼の様子はどうにもおかしく、心ここにあらずという風でけたけたと笑っている。

 

 妙な男です、と訝しむ光秀であったが、今は詮索している暇は無い。地図を受け取り、更に先の水坂峠へと進もうとした時だった。前方から、数百名の軍団が駆けてくる。

 

「浅井勢ですか!!」

 

「……こんな時に……!!」

 

 愛刀と朱槍を構える光秀と犬千代だったが、「待ってください~」と元康に制された。

 

「十兵衛殿!?」

 

 フードのように被っていたボロ布を取って、その軍団の先頭を進んでいた騎馬武者の顔が、見えるようになる。現れたのは度の強い眼鏡に灰銀の長髪。三人が探していた顔だった。

 

「先輩!!」

 

 間に合った。それを確信した光秀は思わず涙を浮かべ、

 

「銀鈴!!」

 

「わっ!!」

 

 犬千代は思わず、その胸に飛び込んでいた。

 

「良かったです~」

 

 深く安堵の息を吐いた元康が気配を感じて振り返ると、そこには服部半蔵と服部党が勢揃いしていた。彼等もまた自分達の任務を成し遂げ、合流してきていたのだ。

 

 見れば段蔵もまた、深鈴のすぐそばで影のように佇んでいた。

 

「銀鏡氏、ここはまだ敵地にござるぞ。後ろは子市殿らが防がれているとは言え、ゆじゃんはにゃりもうしゃにゅ」

 

 深鈴の背中に掴まる五右衛門に咎めるようにそう言われて、一同は一度は緩みかけた気を引き締め直した。確かに、休息も気を緩めるのも、京に到着してからいくらでも出来る。

 

「私達が来たからには、もう安心ですよ!! このまま京まで一直線です!!」

 

「……急ぐ」

 

「それでは、行きましょう~。回れ右です~」

 

「みんな、もう少し!! 後一踏ん張りよ!!」

 

 深鈴の激励を受け、五百五十名はいる兵士達は歓声を上げる。既に気力体力は限界に達していた彼等であったが、朽木谷まで来ていて目的地である京はもう間近だという実感。それにたった三名とは言え、迎えが来てくれた事の心強さは、一時的にせよ疲れを忘れさせるに十分だった。全員、ここまで来たからには絶対に生き延びてやると気合いを入れ、最後の力を振り絞って坂道を駆けていく。

 

「それにしても先輩、後ろは子市さん達が防いでるって……一体、何があったですか?」

 

 殿軍を先導する光秀は、すぐ後ろを付いてくる深鈴に背中越しに言った。後ろから返ってきた声は、流石に疲れているのかちと弱々しかった。

 

「それは……」

 

 

 

 

 

 

 

「困ってるか?」

 

 闇の中から現れたのは身の丈七尺もある筋骨隆々の鎧武者……でもなく、先回りしていた浅井の伏兵数百人……でもなく。

 

 たった一人の少年だった。この戦場に在って具足も付けずに胴着姿で、持っている武器と言えば後腰に差した簡素な拵えの短刀のみ。どう見ても侍ではなく、と言って落ち武者狩りの農民にも見えない。

 

 鬼が出るか蛇が出るかと思っていただけに、警戒して身構えていた足軽達は拍子抜けしたようだった。何割か武器を下ろす者さえ居たが、五右衛門と子市はそれぞれ得物を構えたまま、目付きは鋭く警戒態勢を崩さない。

 

「銀鏡氏!! 早く逃げて……!!」

 

「待って」

 

 少年が指一本でも動かしたら即座に飛び掛かりそうな様子の五右衛門を制して、深鈴が前に出る。

 

「あなたは……」

 

「久し振りだな」

 

 どこかで見覚えがあるとは思っていたが、思い出した。彼は清水寺で相撲大会を開催した時、お忍びでやって来ていた姫巫女と一緒に本選を観戦した少年だ。あの時はその眼力で、試合の行方を百発百中に言い当てた事で印象に残っていた。

 

「困ってるなら、急ぐと良い。浅井の兵は、俺が止めといてやるから」

 

「え……いや、どうしてここに……そうじゃなくて、あなた一人で何が……」

 

 予期せぬ場所で予期せぬ者に出会って、何と言えば良いのか言葉に詰まった様子の深鈴であったが、すぐに今はそのような場合ではないと思い知らされる出来事が起きた。

 

 ひゅん、と風切り音が鳴って、少年は同時に手を深鈴の顔面向けて突き出した。思わず五右衛門と子市が動こうとするが、しかし突き出された彼の手は深鈴の鼻先で拳を作って止まっており、そこには一本の矢が握られていた。深鈴の顔面目掛けて飛来してきたそれを、少年が掴んで止めたのだ。矢は彼の手の中でじたばたと暴れて、びぃぃんという音色を立てた。

 

 どのような動体視力と反射神経を以てすればこのような離れ業が出来るのかと驚きの声が上がるが、しかしはっきりした事が一つ。この少年は、少なくとも深鈴を害する目的でここに現れた訳ではない。もし彼が敵であるのなら、矢を止めて彼女を助ける必要など無い。そのまま放置しておけば、間違いなく深鈴は死んでいたのだから。

 

 同じ結論に至ったらしい。五右衛門と子市は、まだ完全には警戒を解いてはいないようだったが、それぞれ忍刀と種子島を下ろした。

 

 と、その時。

 

「居たぞ!! 織田の殿軍だ!!」

 

「斬れっ!! 斬れっ!!」

 

 今度は少年が来たのとは反対方向から、武者達が大勢現れた。浅井の追っ手だ。数は、五右衛門が言った通りおよそ千。彼等は先鋒であろうが、遂に追い付かれた。

 

「銀鏡殿、逃げるみゃあっ!!」

 

 足軽達が武器を構えて迎撃しようとして、

 

「ちっ!!」

 

 子市が”鳴門”の銃口を彼等に向けて、

 

「銀鏡氏、逃げるでござる!!」

 

 五右衛門が手裏剣を投げようとして、

 

 しかしその誰よりも早く、風のように。

 

 瞬きしていたら見失ってしまいそうな一瞬の間に、信じられない距離と高さを信じられない速度で跳躍した少年の蹴りが、浅井勢の先頭に立っていた武者の顔面に炸裂して、落馬させる方が早かった。

 

 到底人のものとは思えぬ速度と威力を目の当たりにして、一瞬、敵も味方も。誰もが目を奪われる。

 

 少年は空馬になった鐙の上に降り立つと、ちらりと深鈴を振り返った。その強い意思の輝きに光る目が、己が力への絶対の自信を漲らせた薄い笑みが、語っている。「ここは、任せろ」と。

 

「頼むわね……みんな、行くわよ!!」

 

 騎馬した深鈴の指示を受け、足軽達も戸惑い、また浅井勢をじりじりと牽制するようにゆっくりと後退していたが、やがて背中を見せると一目散に駆けている。

 

 五右衛門は、まだ浅井の兵と少年の双方を警戒していたようだったが、しかし彼女もすぐに自分の役目を思い出すと、木々を飛び移って深鈴の後を追っていた。

 

「あ……逃げたぞ!!」

 

「追え!! 逃がす……」

 

 そう言い掛けた浅井の侍大将は、先程の一人と同じように襲ってきた足裏に顔面を潰されて、馬から落ちた。少年は再び、鐙の上に”着地”する。

 

「なっ……!!」

 

 先程と同じような離れ業に浅井軍は圧倒されたようだったが、しかし未だ戦意は萎えていない。「何をしている、相手は一人だぞ!! 押し包め!!」と、この敵を斃して深鈴の首を挙げんと、向かってくる。

 

 少年はたった一人で軍勢を前に恐れた様子も見せず、悠然たる態度を崩さず、

 

「退け」

 

 静かに、言い放つ。

 

「我は鬼(しゅら)。命の要らぬ者だけ」

 

 彼の端正な顔が、獣のような獰猛さを見せた。

 

「かかってまいれ」

 

 再び、鐙より跳躍。そうして飛び掛かってくる彼を浅井武者は串刺しにしてやろうと槍を突き出すが次の瞬間、思いも寄らぬ事が起きた。

 

 少年は目にも止まらぬ速さで突き出された槍を掴むと、自分に刺さらぬように払い退けて、そのまま鉄兜が足の形に変形するような蹴りを見舞った。

 

 そして再び鐙に立つと間髪入れずに再び跳躍し、立木の幹に垂直に”着地”すると、そのまま三角飛びの要領で再び跳躍し、恐ろしい勢いで襲い掛かると、また一人侍大将を蹴り殺した。

 

 今度はそのまま足軽達の中に降り立って、拳、蹴り、突き。次々襲い掛かる兵士達を、当たるべからざる勢いで薙ぎ倒していく。槍刀を手にして、鎧を纏った者共を無手で相手取り、しかも寄せ付けぬその戦い振りは、到底人とは思えない。あるいは彼の言葉通り、この者は本物の修羅やも知れぬと、誰もが頭の片隅に思い浮かべる。

 

「ひっ……」

 

 たった一人の敵に浅井勢が腰を退かせた、その時だった。

 

 だぁん。

 

 種子島の、大轟音が響き渡る。

 

「…………」

 

 少年がゆっくりと振り返ると、ちょうど後ろから彼に斬り掛かろうとしていた浅井の足軽が倒れる所だった。そうして硝煙越しに姿を見せたのは、子市。たった今の銃声は彼女の手にした、”鳴門”から発したものだ。

 

「逃げなくて良いのか?」

 

 意外そうな表情を見せる少年に対して、日本二の鉄砲撃ちはにやりと、不敵に口角を上げる。

 

「応ともさ。あんたはまるで……いや、まさに鬼神のようだが。だからと言ってあんただけ戦わせる訳には行かんよ。何、邪魔にはならないからさ」

 

 ぽいと、手にしていた一挺を背後に控える足軽達に投げ渡した子市は、背後を振り返りもせずに投げ渡された二挺を手にすると、流れるように滑らかな動作で銃口を浅井兵へと向け、引き金を引く。

 

 だだぁぁん。

 

「うわぁっ!!」

 

「ぎゃあっ!!」

 

 銃声が重なって鳴り響き、侍大将と足軽が倒れる。子市が一度の射撃に要する時間は、およそ7秒。しかしそれは三丁(約300メートル)も先の敵に命中させる際のものである。

 

 今、敵との距離はほんの数間。この距離では照準を行う時間は必要無い。動かした銃口の先が敵と重なる瞬間に引き金を引くタイミングだけが、全て。しかも二刀流よろしく両手に持った種子島での、同時射撃。更に、

 

「お前達!! 弾をバンバン込めろ!! ケチるな!!」

 

「へい、姐さん!!」

 

「弾込め、終わったみゃあ!!」

 

「こっちも!! 行きましたぜ!!」

 

 背後の足軽達50名は狙撃の際にも行っていた三段撃ちの要領で、数挺の”鳴門”も含む十数挺の種子島に次々弾を込めては火縄に着火し、撃てる状態となった物を子市に投げ渡し、更に撃ち終わった物を受け取ってはまた弾込めに移っていく。子市と彼等の間で種子島が次々行き来する様を、ここには居ない深鈴が見ればジャグリングのようだ、と感想を抱いたかも知れない。

 

 曲芸じみた連携によるその連射は、およそこの時代の射撃術の常識から逸脱した戦法だった。尤も、これは射撃手が子市ほどの達人である事を前提とした普遍性の無い技法ではある。もし他の者が真似すれば取り落とした種子島が暴発したり、狙いを付けるのに戸惑ったりまともに命中しなかったりで、自分で自分の首を絞める結果となったろう。

 

 しかし浅井勢に生じている被害を見れば、子市ほどの達人が使う限りに於いて、これは有効な戦法であると認めざるを得なかった。連続で響く数十発もの銃声は、長い一発分のそれに思えた。今の子市の連射速度はそれ程に速く、滅茶苦茶に撃ちまくっているとしか思えない乱射乱撃振りだが、その実一発も外さずに命中させていく。

 

 恐るべき直接火力支援を受けて、少年の動きはより精彩を増したようだった。まかり間違えば自分の背中を鉄砲玉が撃ち抜くかも知れぬと言うのに、そんな恐怖をまるで感じていないかのように浅井勢の間を飛び回り、次々蹴散らしていく。

 

 そして遂に、

 

「こ、こやつら……人ではない……鬼じゃ!!」

 

「逃げろ!! 刃向こうては、死ぬるぞ!!」

 

「一時退いて、隊を整えるのじゃ!!」

 

「援軍だ!! 援軍を呼びに戻るのだ!!」

 

 千の兵が、崩れる。

 

 凶器と化した五体と銃弾。その二つの猛威に晒されていた前列の侍大将達が後ろを見せると、後は糸を抜かれた着物の如しであった。この時代、兵の多くは金目当ての傭兵か、駆り出されて来た農民。指揮官が逃げ出したのに自分達だけ戦う訳が無かった。命に過ぎたる宝無しと、我先に逃げ出していく。

 

 無論、これで完全に撃退したという訳ではない。彼等はすぐに後続の本隊と合流して、先程に倍するほどの数を集めて戻ってくるだろう。

 

 子市とて、のんびりとそれを待っているほどマヌケでもお人好しでもない。その間にさっさとこの場を引き払い、京へと逃げ込む所存だった。居残り部隊総員に退却の指示を出す。

 

 と、指揮官として足軽達がそれぞれ朽木谷へと進んでいくのを見守る彼女は、少年が横道に逸れて山の中へと入っていくのを見咎めた。

 

「一緒には、来ないのか?」

 

「ああ」

 

 問われて少年は、ほんの数分前までの戦い振りが嘘のような、飄々とした笑みを返した。そのまま数歩ばかり進むと、「ああそうだと」呟いて振り返る。

 

「あんたの大将に伝言、頼めるか?」

 

「構わないが……何と?」

 

「また腹が減ったら、握り飯を食わせてもらいに行く」

 



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第28話 戻らなかった男

 

「銀姉さま!! ねねは、ねねはずっと、お帰りを待っていたのですぞ!!」

 

 京、妙覚寺。

 

 六百名の足軽達と共に帰還を果たした深鈴は目を涙で一杯にした信奈を初め、感極まったという風な織田家臣団に出迎えを受けた後(何人かには幽霊ではないかと本気で疑われたが)、本来の役目であった京の留守番役に戻されていた。

 

 この寺を発つ前はのんびりとした仕事と思われたこの役目も、六角承禎や三好三人衆らが隙あらば京に攻め入ろうとしている今では、責任重大な要職である。

 

 とは言え、信奈は浅井・朝倉連合軍を坂本の地にて迎撃する為に出陣する際、深鈴の麾下にあったものとは別の守備隊を新たに編成して配置しており(勿論、現在彼等への指揮権は守備隊長である深鈴にあるが)、これは差し当たっての第一線から深鈴達を遠ざけ、休養して疲れを癒せという配慮である事は明らかだった。

 

 深鈴としては未だ織田家への危機が去っていない現状で自分達だけ休む事には抵抗があったが、しかし金ヶ崎から京まで不眠不休の逃走劇を演じてきて、体力的にも限界が来ているのも自覚していた。撤退戦の最中は極限の緊張状態故、脳内でアドレナリンやらドーパミンやらがドピュドピュ分泌されていたせいか感じなかったが、生きて逃げ延びた事で気が緩んで、急にその疲れが噴き出てきている。

 

 この疲労困憊では頭の回転も鈍くなって役には立てないだろう。京をしっかり固めるにせよ、改めて信奈の元に馳せ参じるにせよ、まずは体力を回復させるのが急務であると見た深鈴は宿として部屋を借りているこの寺へと戻っていた。

 

 そうして寺の門をくぐり、草鞋を脱ぐ頃にはいよいよ気が緩んで、鉛製の外套を羽織っているように体が重くなっているのを自覚するようになった。

 

『疲れた……早く布団の中に入りたい……泥のように眠りたい……』

 

 と、寺の襖を開けた深鈴は、飛び出してきたねねにむぎゅ~っ、と抱き付かれていた。

 

 疲労困憊の深鈴の中には早く解放されたい、わずらわしいと思う気持ちも確かにあったが、しかしそれよりも泣き腫らして真っ赤になった目で、嬉し涙を流しながら抱き付いてくるねねを見て、ここまで自分を想ってくれる事を嬉しく思う気持ちの方が遥かに強かった。

 

 怖い夢を見て寝所に飛び込んできた時にそうするように、そっと背中を撫でてやる。十分もそうしていただろうか。漸く落ち着いたねねが満面の笑みを向けてくるのを見て、疲れは隠せないが、それでも今の自分に出来る精一杯の笑みを返す深鈴。

 

『……この笑顔を見れただけでも、帰ってきて良かった……』

 

「よくぞ、ご無事で……」

 

 二人の間に在る素晴らしい空気を乱してはと思ったのか、それまで無言でいた半兵衛が進み出てきた。

 

「半兵衛、もう体調は良いの?」

 

「はい、先生のお薬とねねさんの看病のお陰で熱も下がって、もうすっかり良くなりました」

 

 後もう一つ付け加えるとしたら、栃餅であろうか。究極的に病を治すのは医者でも薬でもなく、肉体そのものである。十分な休息と滋養のある食事こそ何よりの薬だ。

 

 奥飛騨出身の食客によってもたらされた江馬の栃餅は、最初は病人食として半兵衛や道三に出されたものだが、今や深鈴に近しい者達の間では静かな栃餅ブームが到来していた。

 

 しかし、その効果たるや絶大。曲直瀬ベルショールは半兵衛の体調が戻って起き上がれるようになるまで後一週間はかかるであろうと見立てていたらしい。こうまでめきめきとした回復を見せた裏には、三食に合わせて食べていた栃餅の蜂蜜煮の効果があった事は想像に難くない。栃餅パワー恐るべし。

 

「……申し訳ないけど半兵衛、私はそろそろ体力の限界なので……一眠りするわ。その間、京守備隊の指揮権をあなたに一時委譲したいのだけど。お願い出来る?」

 

「お任せ下さい。銀鈴さんは何も心配せず、ゆっくり休んで疲れを癒してください」

 

 軍師という立場にありながら金ヶ崎の撤退戦に同道出来なかった事を負い目としている半兵衛は、今こそが汚名返上の時であると自信の笑みを見せる。今孔明と呼ばれる天才軍師の指揮とあれば、京の守りはまず大丈夫だろう。深鈴も安心した笑みで頷く。唯一の懸念は代理として遣わした前鬼が未だ帰還しない事だが……半兵衛によると前鬼はまだ無事でいるらしい。それに、京を流れる龍脈がある限り、彼は実体を保てなくなる事はあっても半兵衛が再度護符に念を込めればまた喚び出されてくる。今しばらくは様子見の構え、消えてもいないのにいつまでも帰還しない場合には、別途で強制的に呼び戻す術を使う、との事だった。

 

 取り敢えずはこれで、良し。一通りの状況確認と指示を出して安心した事で、深鈴は自分を襲う眠気がより強くなったように思えた。だが……何もかも忘れて眠りに落ちるには、まだ一つ問題が残っている。

 

「銀姉さま~。銀姉さま~」

 

 ねねが、ぴったりとくっついて離れない。半兵衛は「ねねさん、銀鈴さんは疲れてるんですから……」と、言いそうになって思い留まった。幼子の屈託の無い笑みを無為に曇らせるのは、憚られた。同じ理由で深鈴も、何と言って良いやら迷う。ここで無理に引き剥がすのは、あまりにも無情というもの。

 

 とは言え、眠気も限界。眠い眠い眠い。流石の織田家随一の知恵者も、今は一秒でも早く寝る事しか頭になくなっている。かくなる上は……

 

「ねね……私と一緒に、お昼寝する?」

 

「!! おう、ですぞ!! 銀姉さま!!」

 

 普段の深鈴なら起きた時に寝小便で服を濡らされるのではと懸念する所であるが、今の彼女からはそんな思考力すらも失せていた。眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠い。脳梁はもうその二文字で埋め尽くされている。

 

 抱き付くねねを引き摺ったまま、深鈴は寝所の襖を閉じてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 一方、坂本の地では勝家率いる第一陣一万五千と、信奈自らが指揮する第二陣一万、合わせて二万五千の織田軍と、浅井朝倉勢一万八千とが相対していた。

 

 浅井朝倉連合の内訳は、浅井勢一万三千、朝倉勢五千である。これを受けて、

 

「義景殿、これはどういう事か!!」

 

 と、不満げな声を上げるのは、実子である長政を幽閉して浅井家当主の座に返り咲いた浅井久政である。

 

 久政にしてみればこの戦は、様々な思惑が絡み合って参戦を決めたものだった。

 

 まず、我が子長政を天下人にしたいという親心が一つ。もう一つには、恐れ多くも姫巫女様の御前で「この国から身分を無くす」と放言し、やまと御所を滅ぼさんとする信奈の叛心を見抜いた関白・近衛前久よりの密書を受け、謀反人を成敗して朝廷への忠義心を見せんと一念発起した事。この二つはいずれも彼個人の感情によるものなので、誰に文句を言われたり、また言ったりするものではないと彼自身良く理解している。

 

 だがもう一つ。そもそも婚姻による同盟関係を反故にする(尤も、織田から嫁いできたお市の方は男だったが)という非常手段を以て兵を動かした切っ掛けは、大恩ある朝倉家が攻められたが故である。今日の浅井家が在るのは朝倉家あったればこそ。ならばその恩に報いてこそ武人と、良くも悪くも旧い人物である久政は朝倉を助けようと出陣したのだ。

 

 つまりこの戦の主体となっているのは攻めた織田と、攻められた朝倉。浅井はあくまで朝倉方への援軍という立ち位置である。

 

 なのに主軍たる朝倉勢が浅井の三分の一の兵しか出さないのは、一体どういう了見か。よもや義景殿は、武人の義に従って馳せ参じた我等と織田軍とをぶつけ合い、互いが消耗した所を漁夫の利を得る気なのではあるまいな。と、いくら戦下手と言われる久政でも、そう疑いたくもなるのは道理であった。

 

「今の余には、これだけの兵を出すのが精一杯だわ」

 

 答えるのは年の頃三十ほどに見える、公家衣装を着た美形の男。名門朝倉家十一代目当主・朝倉義景である。

 

「まず久政、先の金ヶ崎の戦いの折、我が軍が後背より、織田勢の奇襲を受けた事は聞いているな?」

 

「う、うむ……しかし、相手は結局千ほどの兵だったのであろう? そやつらを逃がしたにせよ、義景殿の兵は二万。大きな被害が生じるとは思えぬが……」

 

 そう返されて、義景は少し失望したようだった。

 

「それが、そうでもないのだ」

 

 今度は軍略の才に乏しい久政にも分かるように、一からこの状況の説明を始める。

 

「真柄姉妹の報告によれば、我が軍二万の内、金ヶ崎城攻めに残した二千を除く一万八千の軍は、織田信奈本隊を追撃する事のみに専心して後方からの攻撃など全く考えていない所に、背後から追い討ちを受けた。当然、攻撃に気付いた直隆・直澄以下部将達は兵を反転させて迎撃しようとするが、踏み留まろうとする者、先に進もうとする者、最後尾で真っ先に奇襲に気付いて逃げようとする者らが折り重なって将棋倒しのようになった所に突っ込まれ、しかも追撃の為に長蛇陣を取っていた事が仇になり、兵のほぼ全てが戦闘に巻き込まれた。更には織田軍が中央突破した後では同士討ちが起こり、最終的な死者は五千に上ろうかという有様だった」

 

「し、しかし……それでもまだ一万以上の兵が義景殿には……」

 

「話は最後まで聞け。兵の損害も重大だが、合戦の最中で侍大将・足軽大将は勿論、部将が討たれ、采配を取る者が居なくなって戦闘力を失った部隊が少なくなかったのだ。そして更に重要なのが、兵の士気だ」

 

「士気……と?」

 

 「そう」と義景は頷く。

 

「まず五千もの兵が行軍中に、たった一度の戦で、しかも一方的に、夜闇に紛れて敵の姿も見えずに討ち取られたのだ。それだけでも士気は底辺にまで落ちるが、それ以上に問題なのが、攻撃を受けた方向だ」

 

「方向……と言うと?」

 

 鸚鵡返しされて、流石に義景もやれやれという表情になった。戦下手とは聞いていたが、ここまでとは。これは余程、しっかりと噛み含めて説明してやらねばなるまい。

 

「我が軍は後方からの攻撃を受けた。後方とはつまり、我が領地である越前の方向だな。これは、織田軍に自国への侵入を許したのと同義なのだ」

 

 ここまで言えば、流石の久政にも分かったらしい。「あっ」と声を上げる。

 

 戦の最中に、敵が自領へ侵入するほど拙い事は無い。領地が焼き討ちに遭ったり、最悪の場合居城を占拠させるという事態すら有り得る。

 

「同じ懸念を、我が軍の諸将も抱いてな。真柄姉妹が「後方に残っていた織田勢は、あくまで本隊の撤退を支援する為の少数部隊だ」と説いても、焼け石に水であったわ。残った一万三千全体に、万一の場合に備えて引き返すべきだと、厭戦気分が蔓延したのだ」

 

 こうした事情から義景は兵を二つに分け、負傷者を含む部隊を本国の守備に帰還させ、残り五千の兵を浅井勢に合流させたのである。

 

「しかも、斥候として放っていた者の中には山中に怪物が出たと叫ぶ者もおり……これは何かの祟りではないかと兵が不安がって、その点でも士気が落ちている」

 

 それを聞いて久政は内心「ぎくり」とする。彼もまた、若狭の山中に先陣を広く展開して尾張勢の捜索を行わせていたが、戻ってきた者達は恐怖のあまり顔をぐしゃぐしゃにして、涙ながらにこう訴えたのだ。

 

「山中で化け物を見た」

 

「死人が生き返って歩いていた」

 

「地獄の亡者が現世に彷徨い出てきた」

 

 中には余程怖い目に遭ったのか髪を真っ白にして涙ながらに訴える者も居たが、久政は「何を戯れ言を」と取り合わず、数名を手打ちにして残った者は「こんな腰抜けにある事ない事吹き込まれては、兵全体の士気が鈍るわ」と、隔離してしまったのだ。そうして流言の蔓延を防いだは良いが、昔から人の口に戸は立てられずと言う。一人二人ならいざ知らず何十人もが口を揃えて言っているのだ。如何に荒唐無稽な話とは言え迷信深いこの時代である。浅井勢は不安がって、何となく士気が振るわなかった。

 

「更に言うなら久政、そなたも織田勢の奇襲によって、いくらかの兵を失っておろう?」

 

 指摘されて、久政はぐっと言葉に詰まる。その通り、浅井勢の先鋒は進路に待ち伏せしていた織田殿軍の奇襲を受け、思わぬ被害を受けて後退。二百名ほどの尾張兵を討ち取ったものの、信奈追撃の速度が大幅に鈍る結果となってしまった。

 

「殿軍となれば、逃げながら戦うものと決めてかかっておった故に、意表を衝かれた……まさか向こうから何倍もの敵に突っ込んでくるとは……」

 

「そう、それよ」

 

 味方に多大な被害が出た話なのに、それを語る義景の口調はどこか楽しそうですらあった。

 

「誰もが、そんな事をする筈がない。そう思い込んでいるからこそ、敢えてそれを実行してくる。仮に頭でそうする事が最善と考えたにせよ、実際に僅かな兵で二万近い大軍の中に突入し、数倍の兵に向かって行ける者などどれほど居るか……恐るべきは織田の今信陵君、と言うべきか」

 

「銀の、鈴……!!」

 

 「おのれっ……」という言葉と共に、久政の口元から噛み締めた奥歯がぎりりと軋む音が鳴った。

 

「本来、朝倉と浅井が合体すればその兵力は三万五千にもなる計算であった。しかし今、実際にここに在るのは一万八千。およそ半数だな。どこまでが奴の計算であったかは余にも分からぬが、結果的に銀の鈴はたった千の兵で、一万七千の軍勢を無力化した事になる……」

 

 義景の声には畏敬の念すらもが宿っているようだった。

 

「春秋戦国の昔、唐国の信陵君は魏王の弟であった。当時、魏の国は強国・秦の宰相である范雎(はんしょ)から恨みを買っており、いつ攻められてもおかしくないような状況であったが、政治家としても兵法家としても優れた信陵君が居るからこそ、迂闊に手を出せなかったという……銀の鈴の才知。成る程、戦国四公子が一角に喩えられるに相応しい。織田信奈共々、余の物としたいものだ」

 

「義景殿……今は我が軍がどう動くかを決める時で……」

 

 気弱な声と共に縋るような目を向けられ、義景は哀れむような目を向けた。この男はその程度の覚悟も無く、身内を裏切るという一か八かの賭けに踏み切ったのか?

 

「あれほどの裏切りをやってのけた以上、今更和睦など、受け入れる訳があるまい?」

 

 久政は「その裏切りはそもそもあなたを助ける為で……」と言いたかったが、思い留まった。愚痴よりも、今は次にどう動くかを決める事が先決である。

 

「かと言って退けば、追い討ちを受けるは必定。加えて朝倉勢・浅井勢共に銀の鈴には完全にしてやられて、兵の間には不満が蓄積している。初手で決戦を避けて消極的な策に出ては、鬱憤の捌け口を失って略奪や乱暴狼藉に走る者が出てきて統制が取れなくなる危険もある。最終的に攻め切るにせよ退くにせよ、どのみち一度は矛を交えねばなるまい」

 

「勝てるでしょうか?」

 

「数の上では我等が不利なれど、尾張兵は日ノ本最弱。対して我が軍には真柄姉妹もおり、浅井勢も名のある戦巧者が揃っていると聞く。後はそなたが前線に近い場所で指揮を執れば、兵の士気も戻るであろう。なれば勝算は、十分にある」

 

「……それでも、万一負けた場合は?」

 

「その時は、叡山に逃げ込めば良い。叡山は女人禁制の霊山、姫武将ばかりの織田勢では攻めあぐねるだろうよ。僧兵を統率する正覚院豪盛とは、既に話も付いている」

 

 負けた時の保険も打たれている。それを聞いて、やっと一安心したように久政の顔色は明るくなったが、すぐに先程までの不安げなものに戻ってしまう。義景はそれを見て溜息を一つ吐くと、「まだ何か?」と尋ねた。

 

「織田軍は南蛮の新兵器を備えているという。ワシも実際に見た訳ではないが、難攻不落を誇った南近江の観音寺城が、一時(二時間)と保たずに瓦礫の山に変えられたとか。もしそんな恐ろしい兵器を持ち出されたら、なんとしたものだろう?」

 

 この懸念は尤もなものであり、義景も真剣な表情になった。「余も見た訳ではないが……」と前置きする。

 

「乱波などからの報告を総合すれば恐らくそれは大筒を何倍にも大きくしたような攻城兵器であろう。破壊力がある分、一発撃てば弾込めに要する時間は種子島などとは比較にならぬであろうし、城や砦のように大きく動かぬ物を狙い撃つ事を前提として造られている筈。肉迫すれば逆に近すぎて狙い撃つ事も出来ず、また敵味方が入り乱れればそこに撃ち込む訳にも行くまい。被害を受けるとしても最初の一射のみ。大きな脅威とは、なり得ぬだろう」

 

 彼の分析は実物を見た訳でもないのに、恐ろしく的確であった。久政は感心する他無いという表情である。

 

「それより問題は、この地での敗北した場合に叡山に籠城する際の策だが……これは、籠城戦の定石として織田軍が崩れるのを待つ事になるな」

 

「しかし義景殿、十二月になればあなたの領国・越前への道は雪で閉ざされまするぞ?」

 

「その前に、勝利は我等の手に転がり込んで来よう」

 

 浅井・朝倉勢が叡山に籠城となれば、当然の事ながら織田勢は山を囲むようにして包囲網を敷くだろう。つまり、京が手薄になる。その隙を見計らって、四国の三好一党が畿内へ再上陸し、空き家同然の京を衝くまでの時間は……

 

「二週間。二週間も籠城戦を続ければ、勝利は我等のものとなろう」

 

 そこまで言った所で義景は何かを思い出したような顔になって「そうそう、空き家を衝くと言えば」と口にする。

 

「そなたの居城である小谷の守りはどうなっているかな? 浅井の主力は殆どここにある筈。美濃の斎藤道三は甲賀の六角承禎と東の武田信玄に挟まれて迂闊には動けぬだろうが、銀の鈴の例もある。この状況で打って出てくる訳が無いと我等も、六角も、武田信玄ですらもが決めてかかっているからこそ、敢えて打って出て手薄な小谷を攻めるという事態も考えられるが?」

 

 試されるようにそう言われて、しかしこれには戦下手と呼ばれる事に慣れている久政でも、自尊心を傷付けられたらしい。顔が紅くなってむっとした表情になる。

 

「如何にワシが戦は不得手と言っても、本拠地をがら空きにする程、愚かではない。小谷には、留守の守りとして十分な数の兵は残しておるよ。仮に斎藤道三が攻め寄せたとしても、城が落ちるよりも義景殿の策の通りに織田軍が瓦解する方が、余程早いだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、織田軍の本陣でも軍議は行われていた。

 

「我が軍は二万五千、浅井・朝倉連合は一万八千。兵力的にはこちらが有利ですが……朝倉勢は真柄姉妹が率いられる精鋭。浅井勢も強兵揃いであり、楽観して良い相手ではありません。まともにぶつかり合えば良くて互角、下手をすれば我々が敗北を喫する可能性も決して少なくはないかと……」

 

 中央の大机に広げられた周辺地図に描かれた両軍の陣立てを扇子で叩き、長秀が状況を説明していく。

 

「更に甲賀の六角承禎、四国の三好三人衆など、隙あらば京に攻め入ろうと我等の隙を虎視眈々と狙っており、時間を掛ければ掛ける程、我々は不利となります」

 

「つまりは突撃して、一気にやっつければ良いんだな!!」

 

 ばしっと、拳で掌を打つ勝家。普段なら皆が苦笑いして、辞書には「突撃」の二文字しかない彼女は照れたように返す所だが……しかし、この度は場の全員が「うんうん」と頷いていた。予想と違っていた反応に、鬼柴田は戸惑ってしまう。

 

「その通り、今回は可能な限り短期決戦で決めるのが上策。勝家殿、九十点です」

 

「長秀がそんな高得点をくれるなら、間違いないな!! よしっ、ならばあたしが一番槍を……」

 

「まぁ、六、待ちなさいよ。軍議はまだ途中よ」

 

 今すぐ飛び出して行きそうだった勝家を、信奈が窘める。確かに長秀の採点通り、短期決戦を狙うのは戦闘方針として悪くない。ならば次は、どのようにして短期決戦に持ち込むかを考える段だ。今回の敵は強い。数的優位にあるとは言え、油断は禁物である。

 

「つまり……何か策を使って戦うべきという事ですね」

 

 これは光秀の発言である。だが、一言に「策」と言っても色々ある。どのような策を以て決戦に望むのが良いだろうか。

 

「それならば……向こうが持たずにこちらだけが持っている武器を、最大限に活用するのがよろしいかと」

 

 と、久秀。確かにこれは正論だ。自軍独自の優位性を最大限に活かすのは、戦術の基本。この発言を受け、場の視線が一人へと集中する。源内へと。織田家中での身分は持たずあくまで深鈴個人が囲っている食客である彼女だが、火砲部隊の責任者としての立場からこの軍議の席に呼ばれていた。

 

「ご期待に背くようで申し訳ありませんが……」

 

 天才カラクリ技士は、困ったように自慢の赤毛を撫でる。

 

「轟天雷・母子砲といった大砲は、あくまで攻城兵器。兵士や騎馬のように小さくて素早く動くものに命中させる事は出来ませんし、火砲部隊は目立って敵の標的になりやすい上、近付かれたら抵抗出来ずに撫で切りにされます。かと言って護衛の為に部隊を割けばその分、白兵戦を戦う兵の数が減りますし……乱戦になって敵味方が入り交じれば、そこに撃ち込む訳にも行きません」

 

「つまり、どういう事なんだ?」

 

「城攻めの戦以外では最初の一発を敵軍に撃ち込むぐらいしか使い様が無い、という事です。一発撃ったら次弾の発射準備を整える間に、自軍も敵軍も動くでしょうから。重量があって動きも鈍い大砲は、その動きに対応する事は出来ません」

 

 勝家の質問に、源内はざっくりと答える。その後、「これは戦は素人の私でも気付く事なので、恐らくは敵方も同じ結論に辿り着いていると思います」と、付け加えた。観音寺城での戦いでは凄まじい破壊力を見せ付け、無敵にも思えた火砲部隊であったが、以前に深鈴が指摘した通り弱点も多かった。すると今度は、光秀が挙手する。

 

「墨俣防衛戦の時に子市さんがしていたように、発射する砲を何組かに分けて、連射する事は出来ないですか?」

 

「……結論から言うと、難しいです。大砲は一発撃ったら弾込めには種子島よりずっと長い時間が必要となりますし、何より轟天雷・母子砲は合わせて十一基しかありません。もし軍団相手に使う場合は種子島と同じで数を揃えて一斉に撃たねば効果は薄いので、そのような運用は現実的ではありません」

 

 技術屋らしく、源内は曖昧な事は言わなかった。

 

「要するに、大砲は軍団相手には実質的に最初の一発しか撃てないんでしょ? だったら、その一発を如何に効果的に使うかを考えるべきね!!」

 

 落胆の空気が漂い始めた軍議の空気は、信奈がその鶴の一声にて切り裂いた。この辺りの切り替えの早さは、やはり非凡なものがある。

 

「聞くけど源内、あんたの大砲って、城みたいな大きな目標じゃなくても、例えば特定の地点を狙って正確に当てる事って、出来る?」

 

「可能です。轟天雷の射程距離はおよそ二里(約8キロメートル)。その範囲内であり、尚かつ目標地点までの正確な距離や風向き・気温などといった情報が揃っていれば、弾着を五間(約9メートル)四方に集める事は、私なら出来ます」

 

 明瞭な返答を聞き、信奈はにんまりと笑う。

 

「それだけの精度があれば、十分よ。あんたの大砲、この戦の趨勢を左右するものになるわ!!」

 

 そう言い放つと、信奈は自ら立案した作戦を述べていく。そして十分程が過ぎて説明が終わった後には、

 

「凄いです、姫様!! それなら勝てます!!」

 

「……面白い」

 

「その策が図に当たれば、いくら浅井・朝倉兵が強くても関係無いです!!」

 

「その発想はありませんでした。源内殿の射撃が言葉通りの正確さを持っている事が前提条件となりますが……九十七点です」

 

 大絶賛。久秀だけは、

 

「一歩間違えれば味方を吹き飛ばす事になる危険な賭けですが……しかしだからこそ、得る物も大きい。そういった大博打は私、好きですわ」

 

 と、どこか皮肉げにくすくす笑っていた。

 

 ともあれ作戦が決まった事で、武将達は慌ただしく動き始める。

 

「みんな!! 銀鈴はたった千人の部隊で生き延びるだけでも至難の所を、浅井・朝倉連合軍の半数を削ったわ!! ここまでしてくれたアイツの為にもこの戦、絶対に勝つわよ!!」

 

「「「承知!!!!」」」

 

 

 

 

 

 

 

 決戦が始まったのは、翌日の未明であった。昨夜は織田軍も浅井・朝倉連合軍も、敵軍が夜を徹して動き回って物々しい気配を発していたので「明日は決戦か」と予感していたのだが、見事に的中した。

 

「一の手!! 進め!!」

 

 まず動いたのは、織田軍だった。最前列に鉄砲隊を揃えた浅井・朝倉勢に対して、先鋒隊数千を前進させる。

 

 連続しては撃てないという種子島の性質上、一般的な運用法としては最初に一斉射を加えて敵軍の足を止め、その後は騎馬隊なり槍隊なりが出鼻を挫いた敵軍へと突入するというものだ。今回の浅井・朝倉勢もその定石に則り、織田軍先陣へと銃撃を加える。

 

 しかし次の瞬間、思いも寄らぬ事が起きた。

 

 迫り来る織田の第一陣は銃弾の雨を受けても、全く進軍速度を緩めなかったのだ。

 

「……流石、源内。腕は確か」

 

 先鋒隊を率いているのは犬千代だった。彼女と彼女の兵は、大盾の陰にその身を隠してただ真っ直ぐに進んでいく。

 

 その盾は、鉄砲の弾避けの為によく使われる竹束のようだった。しかし、形状は随分と変わっている。通常の竹束はその名の通り何本かの竹を円形に束ねただけの物だが、その竹束は青竹をV字形に並べて作られていた。

 

 しかも竹の表面には分厚い布を何重にも巻いて膠(にかわ)で固め、その上から蝋を分厚く塗って補強し、更に要所要所に鉄を使う事で補強してある。

 

 これも源内の発明品だった。

 

 西洋から伝来した火縄銃は、戦に革命をもたらした。道三や信奈のように先見の明を持った大名達は「天気でさえあれば鉄砲に勝る武器は無い」と、あの手この手で数を揃えようとしたし、並行して手探りながらも効率的な運用法を確立しようとしている。深鈴が採用している三段撃ちなどは、その一つの完成形と言えるだろう。

 

 同時に、鉄砲を封じる為の技術も研究が進んでいる。が、現在使われている通常の竹束程度では十分な防御力とはならない。源内はそこに改良を加えたのだ。

 

 V字に並べられた竹束は鎧を撃ち抜く程の威力を持った銃弾を受け止める為の物ではなく、進行方向にVの字の先端を向け、角度を付けて受ける事で、軌道を”逸らす”為の物であった。更に布や膠、蝋に鉄といった各種素材を組み込む事で強度を高め、防弾性能を向上させていた。

 

 この盾が鉄砲相手にどれほど有効なのかはたった今、犬千代率いる先鋒隊が弾雨に怯まず前進を続けられている事から、明らかである。

 

 そして三段撃ち等の戦法を持たない浅井・朝倉勢は、一発撃ったその後にはもう撃つ事は出来ない。

 

「……開け!!」

 

 朱槍を振って犬千代が合図し、それを受けた先鋒隊は左右に分かれた。すると当然、中央に”道”が生まれる。

 

「二の手!! 六!!」

 

「承知!! みんな、あたしに付いて来い!! 突撃だ!!」

 

 もう撃たれる心配は無いと、織田家中最強を誇る勝家の部隊がその”道”を、彼女を先頭に突入していく。

 

 無論、浅井・朝倉連合軍もこの間にぼんやりしていた訳ではない。弾を撃ち尽くした鉄砲隊は後方へ下がり、代わりに槍を持った部隊が前面に出る。

 

 柴田隊の速度は、速い。みるみる内に両軍の距離が縮まっていき、このままでは数十秒後にはぶつかり合う事となるだろう。その瞬間こそが分水嶺。この戦の勝者がどちらになるかが、決定付けられる。そうして先頭を切る勝家がとある一線を越えた瞬間、それを見て取った信奈が動いた。

 

「今よ三の手!! 火矢、放て!!」

 

 彼女の手がさっと振り下ろされ、同時に傍らに待機していた射手が、天空に向けて一本の火矢を放つ。

 

「源内様!! 信奈様よりの合図です!!」

 

「良し、撃てぇっ!!」

 

 主戦場の遥か後方に待機していた源内率いる火砲部隊がそのサインを認めると、間髪入れず十一基の大砲が一斉に火を噴いた。

 

 天地を揺るがすような大轟音の後、数秒間のタイムラグを置いて異様な風切り音が響き、恐ろしい速度で飛来した鉄球は今まさに勝家の部隊が突入しようとしていた浅井・朝倉勢が敷く陣の、前列の一角へと連続で着弾し、大地を抉って数百の兵を吹き飛ばす。

 

「今だ!! 突っ込め!!」

 

 未だ晴れぬ爆煙を切り裂くようにして、勝家率いる突撃部隊はたった今の砲撃によって浅井・朝倉勢に生じた隙間、兵士が吹っ飛んだ事によって生じた陣立ての綻びへと、突入した。彼女等が飛び込んだそこは、言わば千里の堤に生じた蟻の一穴。そこめがけて鉄砲水の如く突っ込んだ事で堤、つまり陣立て全体にまで亀裂が走る。当たるを幸い敵を薙ぎ倒す鬼柴田の槍働きに圧倒され、動揺は人から人へと広く、瞬く間に伝播して一万八千の兵の動きが、乱れる。

 

 ほんの僅かでも信奈が発射を指示するタイミングがズレていれば、あるいは源内の狙いがちょっぴりでも狂っていれば、吹っ飛んでいたのは浅井・朝倉連合軍ではなく勝家達の方だったろう。また、柴田隊への被弾を恐れてあまり早い内に発射を指示すれば、浅井・朝倉勢とて馬鹿ではない。すぐに狙いに気付いて、兵を動かして陣形に空いた”穴”を塞いだだろう。

 

 早すぎても遅すぎてもいけない、刹那の見極めを要する、久秀の言葉通りまさに一か八かの博打の如き戦法。しかし、ハイリスクにはハイリターンが付いてくる。信奈の見極めと勝家の勇気と源内の技量は、織田を賭けに勝たせたのだ。

 

「四の手!! 犬千代!!」

 

「承知!! 我等も突っ込む!!」

 

 たった今勝家達に道を空けた犬千代達も盾の陰から飛び出すと、柴田隊に後れを取るなとばかり浅井・朝倉勢へと斬り込んだ。

 

 兵に動揺が走って陣形が乱れていた所へ続け様に第二波攻撃を受け、浅井・朝倉勢の動揺と混乱はますます大きくなった。犬千代もまた、槍を振るえば織田家中随一の使い手との評判に違わず一振りで数人を吹き飛ばし、勝家に勝るとも劣らぬ働きを見せていた。

 

 だがこれで終わりではない。とどめとばかり、信奈は決め手を打つ。

 

「五の手!! 全軍突撃!! 者共、かかれ!!」

 

 総大将を先頭とした織田の全軍が、浅井・朝倉勢へと襲い掛かった。この時点で、大方勝負は決したと言える。

 

 混乱の極致と言える所に、数で勝る相手の一斉攻撃。こうなると如何に浅井勢が強くてもその能力を十分の一も発揮出来ず、手の施し様が無かった。連合軍は押しに押しまくられ、数千の死者を出して敗走。這々の体で叡山へと逃げ込んだ。

 

 すると織田軍は、当然の流れながら叡山を包囲する事となる。だがこれこそ朝倉義景の狙い通りであった。

 

 彼の地は女人禁制の霊山。姫武将ばかりの織田軍は攻め入るどころか踏み入る事すら許されない。そうしてこのまま睨み合いが続いていれば、手薄の京を三好勢が攻める。かと言って山の包囲を解けば、待ってましたとばかり背後から浅井朝倉勢に襲われる。

 

 圧倒的勝利を収めた筈の織田軍であったが今ここに退くもならず進むもならず、一転して進退窮まれりの状況へと陥ったのである。

 

 とは言え、総兵力の三分の一近い打撃を受けた浅井・朝倉連合とて打って出てくる事は出来ない。互いに身動きが取れず、戦局は膠着状態となってしまった。

 

 どうしたものかと軍議を開く織田軍だったが、今回は誰も妙案が浮かばない。唯一久秀だけが「山門そっくり焼き払えば良いのですわ」と提言したが、総反対を受けて却下された。

 

 この状況を受け、信奈は京へと馬を飛ばす。

 

「銀鈴と半兵衛を呼んできなさい!! あの二人なら、何か良い手を思い付くわ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 再び妙覚寺。

 

 その一室で深鈴がもぞもぞと布団から這い出た時には、既に日が傾いていた。眠ったのは昨日の昼頃だったから、丸一日以上眠っていた事になる。

 

 やはり心身共に相当疲れていたのだな、と、深鈴は自嘲するように笑う。

 

 しかしたっぷり三十時間近くも睡眠を取った事でひっきりなしに走っていた頭痛は吹っ飛び、今までに無い程の爽快感が取って代わっている。これほど体調が良いのも、久し振りだ。

 

 ……と、彼女は何やら布団の中に温かい湿り気がある事に気付いた。

 

『……こ、これは……!!』

 

 まさか、と思い、恐る恐る視線を下げていくと……

 

「ああっ!! ねね!! あなた、またおねしょしたわね!? 冬場は汗が出なくなるから気を付けてって、あれほど言っているのに!!」

 

「ふ、え……?」

 

 この時、ようやくねねは寝ぼけ眼をこすりながら体を起こした。

 

「ふ、え、じゃない!! 全く、あなたもうすぐ八歳でしょ!! いつまでもおねしょ癖が治らないと、お嫁に行けなくなるわよ!! 今日という今日は、みっちりとお説教を……!!」

 

「……う゛……」

 

 ねねの言葉にならない声が耳に入り、深鈴は「はっ」と言葉を切る。この流れは、イヤな予感が……

 

「……う゛……う゛う゛……」

 

「……ちょっ、ねね、待って……!!」

 

 慌てて態度を急変させ、何とかねねをなだめようとする深鈴であるが、時既に遅し、であった。

 

「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~!!!!」

 

 一瞬の沈黙の後、大・号・泣!!

 

 鼓膜を破り、頭の芯に響くような甲高い声の直撃を受けて深鈴はたまらず、転げ出すように寝所から脱出した。

 

「……これではおちおち眠れないでござる、銀鏡氏」

 

 隣の部屋の天井で眠っていた五右衛門が、紅い目で睨み付けてくる。一旦休眠モードに入った忍者は枕元で大砲が轟こうが法螺貝が鳴り響こうが、事前に設定した刻限までは容易には目を覚まさぬものと言われているが、その忍者が叩き起こされる程の大音響であった。まさに音波兵器。

 

 二人が超音波の発生源であるねねから少しでも遠ざかろうと寺の廊下にまで逃げ出すと、ちょうど泣き声を聞き付けてやってきた半兵衛と出くわした。

 

「銀鈴さん、お目覚めでしたか」

 

 何があったのかとは聞かない。深鈴と一緒に寝所に入ったねねと、妙覚寺全体がビリビリと震えているかのようなこの泣き声。答えは一つだ。

 

「あの、それで……よろしいですか?」

 

 躊躇いがちに尋ねられ、深鈴は「ええ、大丈夫」と返す。ねねは……ああなったらしばらくは手が付けられない。今は落ち着くのを待つのが最善手であろう。

 

「で、何かあったの?」

 

「信奈様からの書状が届いています」

 

 そうして半兵衛の差し出した手紙に目を通していた深鈴だったが……読み終える頃には「やれやれ」と大きく溜息を吐いた。

 

「『泣く子と地頭には勝てぬ』の次は『加茂川の水と山法師と双六の賽は意のままにならぬ』か」

 

「……それで、どうなさいますか?」

 

 半兵衛が尋ねてくるが、返事は決まっている。

 

「是非も無し。信奈様の要請とあらば、応えない訳には行かないでしょう」

 

 先程まではまだ寝起きでぼんやりとしていた部分もあったが、ねねの大泣きで脳細胞をシェイクされ、今また信奈が窮地にあるという知らせを受けて、すぐに頭脳の回転速度はフルスロットルにまで引き上げられる。

 

「半兵衛、あなたは私達が留守でもしばらくは持ち堪えられるよう作戦を考えて、京に残していく守備隊のみんなに伝えて。私はすぐに、出発の準備に取り掛かるわ」

 

「分かりました。では早速……」

 

「五右衛門、あなたは私の供をして」

 

「承知!!」

 

 こうして深鈴と五右衛門はねねを落ち着かせるのと着替えの為に一度部屋に戻ろうとして、半兵衛は守備隊への指示の為にこの場を離れようとした所に、

 

「主よ、待たせたな。今戻ったぞ」

 

「前鬼さん!!」

 

 青年の姿をした上級式神が、空間から湧き出るように姿を現した。

 

「前鬼さん……あなたと一緒に行った百名は……?」

 

 尋ねる深鈴だが、何の答えも返さないその沈黙が、何よりも雄弁な返事だった。「……そうですか」と、諦めたように肩を落とす。

 

「それと、これを。山中で拾った物だ」

 

「これは……」

 

 前鬼が懐から取り出したのは、この時代には珍しい形状の帽子。見覚えのある山高帽だ。これを前鬼が持ってくるという事は、若狭で土御門久脩の足止めに残った宗意軒は、もう……だが、お陰で殿軍は後方から式神の追撃を受ける事はなかった。彼は自らの命を賭して、自分達を逃がしてくれたのだ。

 

 宗意軒だけではない。金ヶ崎の退き口では撤退した信奈の本隊と、殿軍で生還を果たした六百名を生かす為に、四百名が犠牲になった。それを悲しく思わないと言えば、嘘になる。だが。

 

 悲しむのも良い。胸を痛めるのも良い。だが今を生きる者には、まだやるべき事がある。ここで足を止める訳には、行かない。

 

 深鈴は受け取った山高帽を、目許を隠すように深く被ると、出立の準備に戻った。彼女のその姿を見ては、半兵衛も何も言葉を掛ける事が出来ず、自分もまた守備隊に指示を出すべく、前鬼と共に寺を出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 同刻、叡山麓。

 

 今は周囲を織田軍に包囲され、山中には浅井と朝倉の軍勢が立て籠もり、数千の僧兵達も殺気立って剣呑とした空気となっている山道を、一人の男が歩いていた。

 

 宣教師の服の上からボロボロの外套を羽織った線目の男。若狭山中で土御門久脩と壮絶な術比べを演じた南蛮帰りの屍人使い、森宗意軒である。トレードマークの山高帽は無くしてしまって、今は長い黒髪が風に薙いでいた。

 

「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム……我は求め訴えたり……闇の静寂に棲む者よ、灰の中より立ち出でよ。汝の住処を捨て、新たな肉体を持って姿を現せ。ここへと来たりて、我が望みの器を満たし給え」

 

 彼が印を結び、そして呪文を唱えると足下の土が盛り上がり、無数の白骨化した死体、魔界転生の秘術によって仮初めの命を与えられ、宗意軒の意のままに操られる尖兵と化した亡者達が次々に立ち上がってきて、葬列を組んでいく。ものの数分の間に、喚び出された亡者の数は数千にまで達した。

 

 死者の中の唯一人の生者、宗意軒は死者達の骨で組み上げられた輿の上に座し、それを亡者達に担がせると、高らかに命令を下す。謳うように。

 

「我が亡者共よ、叡山へと攻め上れ!! 聖地の名を借りた腐敗の殿堂を焼き払い、乱世に荷担した生臭坊主共一人残らず、お前達と同じ”死”に引き摺り込んでやるが良い!!」

 

 道を示され、死臭を放つ魔界の兵団はゆっくりと、山頂目指して動き出した。

 



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第29話 聖地の末世

 

 半兵衛を伴った深鈴が雲母坂(きららざか)に敷かれた織田軍本陣へと辿り着く頃には、既に夜が明けていた。召喚を命ずる手紙を受け取った時点で京を発っていればもっと早くに着けたろうが、彼女は信奈より京防衛を命ぜられた身。重要拠点の守りを疎かにする訳には行かず、指揮官たる自分や半兵衛が不在でもしばらくは持ち堪えられるであろう備えを整えていたが故の遅参であった。

 

 信奈も何の報告も受けずとも、そうした事情を察していたのだろう。遅くなった事を咎めはしない。代わりに、

 

「疲れてる所、呼び立ててすまないわね、銀鈴」

 

 そう、気遣う言葉を掛ける。深鈴はそれを受けて、

 

「いえ、ご用命とあらばいつ何時であろうと」

 

 と、膝を折ると極めて模範的な臣下の礼を取った。そうした後に立ち上がって、半兵衛と共に軍議の席に着く深鈴。既にここには勝家や長秀、犬千代、光秀、久秀を初めとして織田家の主立った武将達が勢揃いしていた。彼女達は約一名を除いて一様に、深鈴へと気遣わしげな視線を送っている。

 

 深鈴の方もそれに気付いており、一同を見渡すとペコリと一礼して、それから本題を切り出す。

 

「信奈様、頂いた手紙から大体の状況は把握しておりますが……早馬を出してから私達がここに来るまでの間に何が起こったのか、最新の状況がどうなっているのかを、ご説明願えますか?」

 

 敵も知らずに戦は出来ない。まずは状況の把握から。定石通りだが正しい選択が出来ている事を見て取って、長秀や光秀は「うんうん」と頷く。どうやら深鈴は未だ疲れは残していようが、十分な判断力は戻っているらしい。死地から帰還したばかりだと心配していたが、これなら大丈夫だろう。

 

 同じ事を信奈も思ったのか彼女は少し微笑んで、しかしすぐに難しい顔になった。この表情の変化だけで、深鈴は大体の状況を読み取る事が出来た。そもそも情勢が良いのなら自分や半兵衛が呼ばれはしないだろう。

 

「良くないわね……浅井・朝倉連合を破った後、奴等が逃げ込んだ叡山を包囲したは良いけど、知っての通り叡山は女人禁制の霊山。姫武将ばかりの織田勢は攻めあぐねてるわ」

 

 深鈴は頷く。そこまでは手紙にも書いてあった事だ。

 

「で、あの後すぐ叡山に浅井・朝倉勢を追い出すように使者を送ったのだけど……」

 

「返事は、僧兵達の奇襲でした」

 

「しかもあいつら、反撃にあって形勢が不利になったと見るや、女であるあたし達が踏み込めない叡山の安全地帯に逃げ込んだんだ!! とんだ卑怯者だよ!!」

 

 信奈の説明を、長秀と勝家が継ぐ。更に、

 

「うふ。ですから山門丸ごと焼き払うべきだと、献策しているのですわ」

 

 どこか楽しんでいるかのような口調で、久秀が言った。しかし叡山を取り囲んですぐの時には総反対を受けた彼女の過激案にも、今は少数ながら賛同する者が出始めている。

 

 そもそもこの戦は攻めた織田と攻められた朝倉、そして朝倉に援軍を出した浅井だけのもの。それを、本来は何の関係も無い叡山が窮地に陥った浅井・朝倉連合軍を山に匿うだけでも筋違いだと言うのに、彼等はそれに飽き足らずに兵を出して織田軍に被害さえ与えたのである。本来は絶対中立の筈の法城が、これは明確な敵対行為。将兵の感情が好戦に傾くのも、当然と言えた。

 

 ここに集まった者の一人も、叡山に良い感情を抱いている者は居ない。しかしだからと言って、久秀の発案のままに焼き討ちを決行して良いものではない。

 

「反対です!! 叡山はこの国の古き権威と仏教界の象徴。それを焼けばありとあらゆる宗派が信奈様を仏敵として、叛旗を翻すでしょう!!」

 

 普段は気弱な半兵衛が、この時ばかりは声高に反論する。彼女の声の大きさは、事態の重大さとそのまま比例しているようだった。しかし、天才軍師からの反対を受けても「蠍」の名で呼ばれる乱世の魔女は嫣然たる笑みを崩さない。

 

「うふ。まだ子供(ねんね)な半兵衛殿はご存じないようですわね、今の叡山がどれほど腐り切っているのか……”女は不浄”などと呪文のように唱えている坊主達の方が、余程どうしようもないですわ」

 

 久秀は一度言葉を切ると一同に視線を送って注目を集め、見事に間を取って、語り始める。

 

「信奈様、坂本の町の旅籠に入れば、女将がまず何と言ってくるか……ご存じですか?」

 

「……いえ、知らないわね。何と言うの?」

 

「『お客様、般若湯(はんにゃとう)は何本程お付けすればよろしいでしょうか』と、こう尋ねてくるのですわ」

 

「……般若湯? 何それ?」

 

 犬千代の疑問を受け久秀は「叡山の坊主達が用いる符牒で、酒の事ですわ」と説明する。しかしこの説明一つ聞いても、信奈や長秀、光秀など察しの良い者はその意味する所を正確に読み取れていた。

 

 そんな合い言葉がまかり通っているという事はつまり、叡山の僧達は一度や二度の出来心だったり魔が差したりという訳ではなく、常に旅籠や居酒屋に出入りして、戒律で禁止されている酒を飲んでいるという事なのだ。

 

 これだけでもとんでもない生臭坊主共だと呆れ返るに十分なものだが、しかし久秀の話はまだ始まったばかりだった。

 

「その次には『蓮の葉の御用はございませんか? それとも思い切って蓮の花になさりますか? お客様、蓮の蕾(つぼみ)が居るのですよ、本当の蕾ですよ』と、こんな具合で尋ねてきますわ」

 

「何なんだ? その、蓮の葉だとか花ってのは?」

 

「つまり、遊女を取れと薦めているのですわ」

 

「ゆ、遊女?」

 

 素っ頓狂な声を上げる勝家を見て、久秀はくすくす笑いながら説明を続けていく。

 

「”蓮の葉”とは普通の遊女の事、”蓮の花”なら高級な遊女、そして”蓮の蕾”とは、まだ客を取った事の無い少女の事を指すのですわ」

 

「……何故、蓮と言うですか?」

 

 今度は苦り切った顔の光秀が尋ねた。

 

「酒は般若湯、女は蓮、遊女は蓮っ葉。全て、叡山の坊主共が作り出した隠語ですわ。坂本の町では遊女を連れ込んでの乱痴気騒ぎは当たり前、叡山に登ればもっと凄いものが見られますわ」

 

「……墜ちる所まで、墜ちたものですね……」

 

 長秀が呆れとも落胆とも付かない溜息と共に、そうこぼした。久秀の焼き討ち策には彼女も反対票を投じる立場だが、だが今の叡山が腐敗しているという一点に於いては同意見だった。尾張に居た頃から聞きしに及んではいたが、まさかそれほどとは。

 

「本来、叡山の天台宗一派はこの上も無く戒律の厳しい宗教でしたが、いつの間にやら風紀は乱れに乱れ、現在では肉を食い、酒を飲み、妾を蓄えているのが当たり前だと思っている生臭坊主ばかりになっておりますわ」

 

「……本当に、どうしようもないわね」

 

 信奈が吐き捨てる。主君のその感想を受け、久秀も「私も、曲がりなりにも仏の道を学んだ者として、初めて今の叡山の姿を見た時にはまず酷く驚き、次には腹が立ちましたわ」と語る。彼女の話によれば僧兵達を統率する正覚院豪盛は、彼と並ぶ高僧である満盛院亮信(まんせいいんりょうしん)共々、口では『罰当たりな女人共』などと宣ってはいるがその実、裏では平気で妾と同衾し、供物や寄進をふんだくって莫大な金品を溜め込んでいる悪僧達の親玉のような男だという。

 

「上がこの調子ですから下も下で、町へ出て脅しやたかりは当たり前、最近では押し込み強盗まで働く者がおりますわ」

 

 妖将の口から語られた事実に、一同はもう誰も言葉を発しなかった。現実は、想像していたよりもずっとおぞましかった。

 

 信奈以下諸将が狙い通りの感情を抱いた事を読み取って久秀は少し口角を上げると、もう一押しとばかりに話を続ける。

 

「……いずれ誰かの手で、大掃除を行わねばならないでしょうね」

 

「……だから、叡山を攻めて良いと言うのですか?」

 

 厳しい口調で半兵衛が追求するが、しかしやはり暖簾に腕押し。久秀の笑みは僅かも揺らがない。

 

「良いとか悪いとかいう次元の話ではなく、言うなれば仏罰のようなものがあるのなら、それがいつかは叡山に落ちて当然だと言っているのですわ」

 

 仮に今回、信奈が焼き討ちを行わずともいつかは誰かが同じような事をするだろう。これは言うなれば歴史の必然、たまたまこの時代にそれを行う役が信奈であるだけなのだと、それが久秀の言い分だった。確かに一面の真理かも知れないが、しかしこれは同時に彼女の詭弁という側面もある。あくまで人の手によって代行される仏罰であり、信奈が自らの意志で行う訳ではないという免罪符を持たせ、限度を超えた暴挙に踏み切る事を容認させようとしているのだ。

 

 その目論見を見抜いて、次に久秀の案を批判したのは光秀だった。

 

「しかし、叡山には僧としての戒律を守って一生懸命に修行している僧や名僧智識と呼ばれる方も居る筈です。彼等をも巻き込んで焼き討ちを行うのは……」

 

 この意見を受けて、しかし久秀はむきになって反論するどころか呆れたように、あるいは光秀を哀れむように溜息を一つ吐いた。

 

「……では明智殿。今現在叡山にはどれほどの僧が居るかご存じですか?」

 

「……三千から四千くらいですか?」

 

「それぐらいですわね」

 

 久秀は頷く。

 

「その中で名僧智識と呼ばれる方は僅かに三十余名。他には仏の道を一心不乱に歩んでいる若い僧が百名ほど居るだけですわ。後は全て破戒坊主ばかり」

 

「なっ……!!」

 

 これにはさしもの光秀も絶句してしまう。今の叡山はそれほどまでに酷い有様なのか?

 

「その彼等とて、他の者が横暴を行うのを止めなかったのです。同罪として処断されて当然ですわ」

 

「だからと言って王城鎮護の霊域、これまで何人も侵した事の無い聖地を焼くなど魔王の所行!! 織田信奈は神仏を尊ばない残虐非道な第六天魔王であると民の心はたちまち離れ、しかも叡山の天台座主は今は不在とは言え御所の姫巫女様の兄君に当たられる方です。叡山に火を掛ければ御所の信頼も失い、日本中が姫様の敵になる!! 天下取りは十年遅れます!! 零点です!!」

 

「ならば丹羽殿、あなたはこの事態をどのように収拾されるおつもりですか? 先の軍議で、この戦いは短期決戦としなければならないと仰ったのは、他ならぬあなたではないですか」

 

 「まさか指を咥えて見ている、と言うのではないでしょうね?」と返されて、長秀は「ぐっ」と言葉に詰まってしまう。

 

「私の意見に反対だと仰るのであれば、何か対案を提示していただきたいですね。私とてそれがより優れた案だと思ったのなら、協力を惜しみはしませんわ」

 

 久秀の意見もまた正論である。これを受けて、これまでは聞いているばかりであった諸将からも、事情が分かった事も手伝って様々な意見が噴出した。

 

「そうだ!! 四国の三好がいつ京に押し寄せてくるか分からない!! 今日を生き延びなければ十年後どころか明日も来ん!! この際、非常手段を以てしてでも早急に浅井と朝倉を叩くべきだ!!」

 

「馬鹿な!! 利用した者を憎むあまり本邦教学発祥の聖地を侵しては、我等が姫様が末代まで悪評を受ける事になるのだぞ!!」

 

「聖地だと!? 叡山が中立を守って平和祈願でもやっているというなら分かるが、実際には七百年の治外法権を良い事に学問は怠り、兵は養い、酒は飲み、女を山に引き上げる。そんな場所が聖地であってたまるか!!」

 

「しかしそれでも叡山が我が国の仏教の故郷である事に変わりはあるまい!! それを焼き払う事は日ノ本の徳義道義を不明に致させ、信奈様に極悪無道の烙印を押す事になってしまうのだぞ、分かっているのか!?」

 

「最早叡山は法城ではない!! 乱世を終息させんとする姫様の悲願の前に立ちはだかる悪の山塞、山賊の住処だ!!」

 

「だが叡山には日ノ本の宝である貴重な書も山とある。それを焼き払うのは大きな損失となるのでは……」

 

「それがどうした!? どんなに素晴らしい学問でも、それを活かすのは人間だ!! 逆に言えば今は人間が堕落してしまっているから、折角の学問も活かせずに、戦無き世の訪れを邪魔するのではないか!!」

 

 この調子で、今の叡山がどれほど酷い有様なのかを知った事と、現在の織田家の状況が切迫している事を受けて久秀の意見に総反対だった当初の空気から一転、焼き討ちを行う行わないで軍議の席は真っ二つ割れて、白熱した議論はしかし平行線を辿った。

 

 家臣達の激論を、床几に腰掛けた信奈は頬杖付いて冷めた目で眺めていた。

 

 彼女にしてみれば、叡山を焼き討ちしてしまっても構わないと思っている部分があった。

 

 思い出すのは昔、父信秀が死去する前夜の事だ。

 

 尾張の僧達がやって来て、信秀の快癒祈願の祈祷を行うと言ってきたのだ。その時の信奈にしてみれば、いくら神仏の加護があろうと祈ったぐらいで死の床にある父上を救えるのかと半信半疑であったが、しかしそれでも彼女は縋った。たった一人の父、誰よりも自分を理解し、深く愛してくれた肉親なのだ。どんな方法であろうと、どれほど頼りない藁のような希望であろうとそれを掴み、信じ、頼ろうとする事を誰が責められるだろう。

 

 僧達は揃いも揃って偉そうな態度で病を治せると自信満々に言い張って、実際には経文を唱えるばかりで結局、信秀を死なせてしまった。この時点で彼等は織田家の先代当主であった信秀と、彼の死によって当代当主となった信奈の二人を謀った事になる。見逃せない事だ。

 

 それでも信奈はこの時、僧達が少しでも申し訳なさそうだったり、悼むような態度を取っていれば彼等を許すだけではなく、謝礼まで与えて帰すつもりだった。

 

 何にも縋らずに生きていける程、人は強いものではない。例え神や仏が存在しなくとも、祈りに何の効き目も無くても、その弱さを救う為のものならば寺社や僧はこの世になくてはならぬものだと、聡明な彼女にはそれが分かっていたからだ。

 

 だが違っていた。彼等は悪びれた様子も無く、一筋の涙も流さず、ぬけぬけとこう言いくさったのだ。

 

 

 

「お父上は幾多の戦で大勢の人を殺し過ぎた。これも因果応報というもの」

 

「信心が足りなかったのですよ」

 

「それより、早く供物を渡して頂きたいな」

 

 

 

 ……そこから先の事は記憶が曖昧になっている。はっきりと覚えているのはその僧達をお堂に閉じ込めて、火を付けた所からだ。

 

 勝家は「あの時の姫様の怒りは凄まじかった。まるで本物の第六天魔王のように……」と語っているが、信奈にしてみればそのような評価は心外というものだった。寧ろ、あの時の自分は仏ほどではないにせよ慈悲深いと思っている。何しろ、僧達に最後の機会を与えたのだから。

 

 もし彼等の信仰心や御仏の加護が本物ならば、仏に「助けてくれ」と叫べば必ずや助けがある筈ではないか。成る程、戦国武将であった父の信心が足りなかったというのは百歩譲って理解も出来る。だが、まさか仏に仕える彼等に信心が足りぬなどとは言わせない。信心が足りないから父が助からなかったと言うなら、信心が十分な僧達は助からなければおかしい道理ではないか。

 

 結局、あの時は平手のじいが僧達を助け出して有耶無耶になってしまったが……

 

 ならば今回は良い機会だと、信奈は考える。本当に叡山が聖域だと言うのなら、織田軍に滅ぼされる訳が無い。

 

 そう、頭の中で理屈を付けて焼き討ちの命を下そうとして……しかし、思い留まった。

 

 このまま命令を下しても構わない筈なのに何か、喉に引っ掛かった小骨のように、決断を思い留まらせるものがある。不意に泳いだ彼女の視線が、ある一人に向いた所で止まった。深鈴に。

 

 それに気付いた信奈は「ああ、そうか」と頷く。そうして立ち上がると、皆に聞こえるように言い放った。

 

「議論が行き詰まったようだけど……この辺りではっきりさせたいと思うわ。銀鈴、あなたの意見を聞かせて!!」

 

 ただ知恵者というだけでなく、深鈴の言葉は信じ、頼る事が出来る。例えどのような意見であろうと、彼女の言葉はきっと支えになる。そうした確信が、信奈の中に在った。

 

 主君より名指しで発言を求められ、場の全員の視線が深鈴へと集中する。それを受けてしかしたじろぐ事なく、深鈴は場の全員を見渡し、発言を開始する。

 

「叡山への対応について、我々は常に強気の姿勢でいるべきだと思います。今回、我が軍が断固たる力と意思を示す事には、大きな意義があります」

 

 理路整然とした発言を受け、ざわめきが少しずつ消えていき、諸将が発言する態勢から聞く態勢へと移行していく。

 

 深鈴にしてみれば、叡山を攻められないから軍を退くという選択肢は有り得なかった。そんな事をすれば聖地を利用した浅井・朝倉の行為を認めた事になり、今後の戦に於いても少し形勢が不利になれば近くの寺社に逃げ込めば良い、そうすれば織田勢は手出しはしない、いや出来はしないのだと、悪しき前例を作ってしまう。

 

 詰まる所、取り得る選択肢は山から出て来た浅井・朝倉連合軍を迎え撃つか、こちらから山に攻め上るか、二つに一つだ。と、なると……

 

「かと言って、問答無用で焼き討ちを行うのでは、皆様の言う通り世間の非難囂々となるは必定。それでも最終的に実行せねばならないのなら、世論の悪化を最小限に抑える手段を採らねばなりません」

 

「確かに先輩の言う通りですが……具体的には?」

 

「第一に、我々から譲歩する姿勢を見せる事。第二に叡山に侵攻する日時を指定し、戦に巻き込まれて死にたくない者が脱出するには十分な猶予を与える事。第三に、我々がこうした条件を出しているのだと、世間に広く公表する事」

 

 成る程、そこまですればこちらの譲歩や警告を無視してまで浅井・朝倉に肩入れした叡山側の責任も大きいと、大義名分も立つ。最悪でもそう訴える事で十の批判を七に抑える効果はあるだろう。諸将の間から納得の声もちらほらと上がった。

 

「デアルカ……じゃあ、叡山が浅井・朝倉勢を山から追い出し、また僧兵達全ての武装を解除して今後織田も含む他のどんな大名が匿ってくれと申し出てきても決して応じず、中立を保って乱世に与しないと誓うなら、織田領内にある叡山の領地は全て返す。こちらが与える猶予は三日間。もし期日を過ぎても返答が無かった場合には、織田勢は聖地を自分達の都合で戦の為に利用した浅井・朝倉勢を討つべく、叡山に侵攻する。……というのでどう?」

 

「戦う事が我々の本意でないという事を示すには、十分かと」

 

「交渉事の基本であり王道は飴と鞭……それなら少ないですが、叡山が応じる望みもあるとは思いますわ」

 

 久秀も深鈴のアイディアと信奈の条件に賛成票を投じる。だが、深鈴の案はこれで終わりではなかった。

 

「それともう一通、こちらは秘密裏に叡山に使者を出されるのがよろしいかと」

 

「もう一通? ……内容は?」

 

「叡山を焼くなどすれば、織田信奈は日ノ本全土の仏徒の反感を買って自滅する。故にそんな馬鹿な事をするものかと、高を括る者も多いかと思います」

 

「確かに、今までそのような事をした方はおられませんものね」

 

「はい、弾正殿。そこで信奈様はやると言ったら必ずやる御方だと言うのです。『聖地があるからそこへ逃げ込もうとする卑怯者が出てくる。乱世の収束の障害になるのが聖地だなんて、そんな馬鹿な話は無いわ』と、仰っていたと……」

 

「成る程、そこで信心の篤い者がみすみす叡山が焼かれるのを見るは忍びないので、内々でお知らせするという事ですね。確かに、そこまで言われれば中には考え直す者も出てくるでしょう。七十点です」

 

 長秀が及第点を付け、その評価には信奈も頷く。

 

「万千代の言う通り、それなら効果もあるかも知れないわね。で……叡山に知らせる役は……」

 

 誰からともなく、場の視線が一人へと集まる。彼女もまた、自分が適任であると自覚していたらしい。さっと立ち上がる。

 

 この場の面々で最も信心深く、各宗派の高僧とも親交があり、かつそれを世間が知っている人物と言えば……

 

「私ですね!! 精々叡山の連中がビビリ上がるような手紙を送ってやるです!!」

 

「任せるわね、十兵衛。では、私もさっき言った条件の手紙を叡山へと送るわ。万千代、あなたは近隣の町に同じ内容が書かれた立て札を立てて、情報を広く公開して。六と犬千代は引き続き部隊の指揮を執って、再度の襲撃に備えて!! 銀鈴は坂本方面の陣を任せている竹千代に、別命あるまで絶対に動かないよう指示を出して!!」

 

「「「承知!!」」」

 

 てきぱきとした信奈の指示を受け、緊張と共に各将が動き出したが……その時だった。

 

「おーほっほっほっほっほ!! 信奈さん、随分とお困りのご様子ですわね。こういう時には征夷大将軍であるこのわ・ら・わにお頼りなさい!!」

 

 張り詰めた空気を一瞬にして木っ端微塵に打ち砕くタイミングで現れたのは、征夷大将軍・今川義元であった。巫女達に担がせた輿で、颯爽可憐とこの本陣に乗り付けてきた。

 

「何よ。お呼びじゃないわよ、帰りなさいよ。私達は忙しいの」

 

 全く空気を読まない登場に不機嫌さを隠そうともせずに応じる信奈であったが、滝を上る鯉のように面の皮の厚い義元は、悪態を受けても少しも応えた様子を見せなかった。

 

「まぁまぁ信奈さん、世は持ちつ持たれつと申しますわ。この度は、征夷大将軍たるわらわがやまと御所の姫巫女様と直談判させて頂き、和睦の話を纏めてみせますわ!!」

 

 敬語の使い方が滅茶苦茶なのは突っ込み所ではあるが、しかし義元の発言には無視出来ない一節があった。それには信奈は勿論、長秀や光秀、深鈴もそれぞれ反応する。

 

「和睦か……確かに、その手はあるわね」

 

「使者の人選が微妙ですが、八十点。先程の銀鏡殿の手と並行して進めるのなら、八十八点です」

 

「今は四の五の言っていられる状況ではないです。今川義元というよれよれの藁でも、掴まなければならないです」

 

「我々にとって山門を攻めるのはあくまで最終手段。和睦でも叡山を戦場としなくて済むのなら、それに越した事はないでしょう。信奈様が出された条件ではどのみち三日の猶予があるのですし……三日あれば、和睦の話を切り出し、浅井・朝倉がそれを検討する期間としては、十分かと。攻めるのはその話を向こうが蹴ってからでも遅くはないでしょう」

 

 条件付きの者も居るが各人の賛成を受け、信奈も「仕方無いわね」と明らかに渋々といった様子ながら義元の案を採用する事にした。

 

「大船に乗ったつもりでお待ちあそばせ!! わらわの神がかった外交能力を駆使しまして、早急に話を取り纏めて戻ってきますわ!! おーほっほっほっほっほ!!」

 

 そう言い残すと義元はとんぼ返りで京へと引き返していった。深鈴が『大船は大船でも、タイタニック号な気がする』なんて失礼な事を考えていたのは内緒だ。しかし、実際にはそう捨てたものではない。彼女は以前にも近江に出向いて、浅井久政に掛け合ってお市(信澄)と長政の縁談を成立させた事がある。

 

 そうした実績を鑑みて、望みは全くの零ではない、か……? というのが、織田諸将の感想だった。

 

 このような経緯を経て、信奈は当初想定していた条件に義元の案を組み込んで和睦の一文を加えた書状を、叡山に送り付けた。

 

 深鈴もまた信奈の指示通り坂本の陣に居る元康へと使者を送り、その後で傍らに立つ彼女の軍師を振り返る。

 

「半兵衛……あなたは浅井・朝倉が和睦に応じる可能性はどれほどだと思う?」

 

 この問いに対し、天才軍師は白羽扇で口元を隠して少し難しい顔になった。これは彼女ほどの英才をして、即答を控える問題である。

 

「焼き討ちを行うという言葉を、どれだけ真剣に受け取るかが問題ですね……そんな事が出来る訳がないと一笑に付すか、それともまさかと思うか……その点が鍵になるとは思います」

 

 半兵衛にしては珍しく頼りない発言だったが、しかし致し方ないか、と深鈴は思う。現状は織田陣営が圧倒的に不利なのだ。飛車角持ちの相手に歩だけで王手を掛けるのは、難しい。義元の和睦案とて「何故有利な立場の我々が、和睦などせねばならぬのか」と、撥ね付けられる可能性も十分にある。

 

「ですが……」

 

「ん?」

 

「朝倉勢は兎も角……浅井勢を少なくとも動揺させられるであろう一手は、既に打ってあります。ですから……望みはあるかと」

 

 

 

 

 

 

 

 信奈から叡山に送られた書状の内容は、以下のようなものだった。

 

『もし叡山が乱世に関わる事を止め、僧兵を武装解除して浅井・朝倉の兵を山から出せば、織田の分国内にある山門領は全て返してあげる。また、こちらは浅井・朝倉の両国とひとまずの和睦を行う用意もあるわ!! 回答期限は三日間、もしこの間に何の返事も無い場合は、叡山そっくり焼き払うわよ!!』

 

 これと前後して、光秀からの密書も送られてきた。

 

『信奈様はやると言ったら必ず実行される御方です。このまま叡山が丸焼けの禿げ山になるのを見るのはあまりに忍びないので、こうしてお知らせするです。命が惜しければすぐさま要求に従って浅井と朝倉の兵を追い出すか、身一つで逃げ出すです』

 

 名門の出身であり、各派の名僧智識とも繋がりのある明智十兵衛光秀の言葉とあって、僧兵達も信奈の言葉もただの脅しだと鼻で笑う事は出来なくなる。

 

 果たして、叡山は騒然となった。

 

「信奈が攻めてくるだと!? 馬鹿な、たかが尾張のうつけ姫如きにこの叡山が攻められようか!! 叡山を攻める事はやまと御所に、ひいては姫巫女様に刃向かう事になる!!」

 

「来るなら来てみよ!! 何万の兵が来ようと、簡単に落ちる叡山ではないわ!!」

 

「もし信奈の軍勢が来ると言うのなら、戦おうではないか!!」

 

「そうじゃ、だがそれにはそれだけの準備が要る!!」

 

「まず武器を整えねばならない、兵糧も買い込まねばならぬ、上の方でその事は考えておられるのか!!」

 

「そうだ軍資金が要る!! 何の手当も無くてただで戦えと言われても戦えぬ!!」

 

 これを目の当たりにして衝撃を受けたのは、浅井久政である。

 

 女人禁制の聖地が女子供で溢れており、妾や遊女の為の住居が勝手に建て増しされているのにも驚いたが、今のやり取りを行っていた僧兵達は自分達が攻められると言うのに、あれではそれを口実として上を強請っている事になる。

 

 騒然となっているのは叡山だけではなく、麓にある坂本の町も同じだった。

 

 悪僧達がゆすりたかりを始めたのである。僧兵姿の彼等は適当に裕福そうな家屋を見繕うとそこに押し入り、

 

「よっく聞け!! 明日になれば信奈が叡山に攻め寄せてくる!! 我等は聖地守護の為、命を掛けて戦うつもりじゃ!! この家は今まで叡山のお陰で繁栄した!! この際、喜捨するのが当然であろう!!」

 

「この目録に書いてある物を出せ!! 出さぬとこの家は信奈に通じたものとして焼き払うぞ!!」

 

 この剣幕で押し出して家財をあらかた運び出してしまうのである。あちこちでこのような光景が見られた。

 

 さて久政であるが、彼にとって信奈の通告は俄には信じられないものだった。

 

「この叡山を焼き討ちにする、だと!? 比叡山は日ノ本仏教界の最高峰に於ける霊地であるぞ!! いやいや、更に遡れば仏教伝来以前の遥か昔より日ノ本古来の神々がおわす霊山ではないか!!」

 

 最初にその聖地に立て籠もり、戦の為に利用しているのが自分達である事は、すっかり棚上げしている。

 

「織田信奈は乱心したのか!! 女の身で叡山へ攻め込もうとするだけでも非常識だと言うのに、全山焼き討ちとは!!」

 

 一方でこの状況にあってものんびりと源氏物語の巻物を広げていた朝倉義景はそれを聞くと、面白そうに手を叩いた。

 

「感服したぞ、織田信奈。流石に天下布武を宣言するだけの事はある。現世の女人とは思えぬな」

 

 他人事のようなその口調を受け、久政が「流石とは何だ!!」と声を荒げた。

 

 しかし、これで叡山の女人禁制の掟を前提とした義景の策は根底から覆された事になる。叡山は険阻な山ではあるが城塞ではなく、そもそも聖地であって戦場となる事など想定していない。拠点としては下の下と言える。

 

「織田信奈が日ノ本の何万という仏徒を敵に回すのを承知の上で尚焼き討ちを決行するのか……あの者は真の魔王なのか、それともただ常識を知らない田舎の小娘か……いや、是非一乗谷の我が館に連れ帰ってみたいものだな……」

 

 と、義景。笑っている場合ではないと蒼白な表情で訴える久政であるが、するとそこに伝令の兵が走ってきた。

 

「申し上げます!! 美濃の斎藤道三が出陣、近江へと攻め寄せました!!」

 

「来おったか!! しかし、小谷には十分な守備兵を置いてある。何とか持ち堪える事は出来るだろう」

 

 この報告を受け、だがこれは予想出来た事であると久政は少し自信を回復させて応じる。

 

 その自信が波に晒された砂の城が如く崩れ去るのに要した時間は、ほんの数秒だった。

 

「いえ、斎藤道三率いる軍の目標は小谷ではなく、横山城です!!」

 

「なっ、何だと!?」

 

 上擦った声を上げる久政とは対照的に、義景は「ほう」と感嘆の声を漏らす。

 

「横山城は近江から越前に通じる要地。そこが落ちれば我が朝倉と浅井は連絡が取れなくなる。そればかりか浅井は近江南方の諸城との連絡も絶たれ、小谷城は孤立するであろうな」

 

 義景の分析は流石に的確であり、「久政よ、横山城にはどれほどの守備兵を残しておる?」と尋ねるが……真っ青な彼の表情を見れば、聞かずとも分かるというものだった。久政にとっては我が子を天下人とする為の千載一遇のこの機会に懸けていたのだろう。浅井の主力は殆どここにある。主城である小谷にはそれなりの守備隊を残しているのだろうが、他の城は今や空き家同然なのだろう。

 

 だが、恐るべき事はもう一つある。

 

 京と美濃を繋ぐ北近江の道は、今は浅井の離反によって織田の兵は通れなくなっている。つまりこの状況になってから織田信奈が斎藤道三に、出陣を要請する事は不可能なのだ。

 

 ……と、いう事はこれは斎藤道三の独断か、さもなくばどの段階でかは不明だが、まだ織田と浅井が同盟関係にあった時点で『万一浅井が織田を裏切って出陣した場合には、横山城を攻めよ』という指示が道三に出ていたとしか考えられない。

 

 確かに朝倉と浅井の縁は深く、織田が越前を攻めれば同盟が決裂する可能性はあったが……しかし、織田信奈は妹のお市を浅井長政に嫁がせており、織田と浅井は身内だったのだ。その身内が背信するなど……そこまで想定出来る者が居ると言うのか?

 

 そして、横山城を攻めるという狙い。

 

 主力が出陣して手薄になっている本拠地を攻める事は戦国の定石。戦下手と言われる久政も流石に警戒して、最低限の守備隊を残していたのだが……織田軍はそこまで読み取って、ガラ空きの横山城へと攻め寄せた。

 

 如何に斎藤道三が「蝮」と呼ばれ恐れられる戦国の梟雄であろうと、ここまで読み切れるものだろうか……? 否、これほどの深謀遠慮、知略洞察を巡らせる事が出来る者は織田陣営には、恐らく一人。

 

「今孔明……竹中半兵衛だな」

 

 そう呟く義景の声には、畏敬の念が込められているようだった。

 

「成る程、噂に違わぬ知謀よ。織田信奈、銀の鈴共々、我が館に連れ帰って飾りたいな」

 

 からからと義景が笑うが、小心者の久政はもう気が気でない。

 

「わ、わ、笑っている場合ではないぞ、義景殿!! 元はと言えばこの叡山籠城は、あなたの打ち出した策ではないか!! 何とかしてくだされ!!」

 

「全く……風流を解さぬ御仁だな」

 

 やれやれと嘆息して、義景は久政を睨み付ける。

 

「策は三つある。まず上の策は先手必勝、山に火を放たれる前に全軍で麓の織田軍へと逆落としを掛け、乾坤一擲の勝負を挑むというものだが……これは、実行不可能であろうな」

 

 籠城する前から、特に朝倉勢はただでさえ厭戦気分が蔓延して士気が低かった所に、先の坂本での大敗を受けて今や士気はどん底。無事な兵は両軍合わせても一万居るかどうかという有様で、叡山の僧兵を全て合わせても織田軍との兵力差は圧倒的である。第一、坂本での真っ向勝負で敗れたからこそ、こうして籠城しているのだ。今更もう一度戦った所で、結果は見えている。

 

 それに、織田軍は焼き討ちの脅しに慌てた浅井・朝倉連合が慌てて山から飛び出してくるのを待ち構えている可能性もあるのだ。危険が大きすぎる。

 

 久政のその意見にも一理はあると、義景は上策を却下した。

 

「中の策は叡山の僧侶を使者に立てて和睦をする事。これは織田信奈の側からも申し出が出ている以上、九分九厘成功するであろう。この策を採れば我等はこれ以上の被害を出さずに本国まで帰還出来ようが、窮地に陥っている織田勢もまた息を吹き返し、戦局は膠着するであろう。また、先の戦いで我等は一敗地にまみれておる。武将の何人かが主家を見限り織田に走る事は、覚悟せねばならぬだろうな」

 

「だ、だが確かに、安全な策ではあるな。しかして義景殿、下の策は?」

 

「勝ち目無しと見て、さっさと降伏するのよ。そなたはさっさと出家し、家督を幽閉した長政に返せ。そうして織田信奈の妹を娶っている長政共々平身低頭詫びれば、浅井家は滅ぼされずに済むであろう……恐らくだが」

 

「こ、降伏など出来ぬ!!」

 

 かっとなって立ち上がった久政だったが、手が震えている。

 

「わ、わしは我が子長政を天下人とする為に敢えて織田と手を切ったのじゃ、それだけはならんぞ、義景殿!! ここは中の策を採ろう!! 我等に加勢してくれた叡山を焼き討ちなどに巻き込んではならん!! ここは一旦和睦し、織田信奈との決着はいずれ堂々と付けよう!!」

 

 様々な理由付けをしているものの、詰まる所は死にたくないだけであるという久政の本音を、義景は見抜いていた。優柔不断な上に臆病とは。市井の民ならそれでも良かろうが、戦国武将としては正直救いようがない。彼が戦下手と言われるのは能力の優劣以上に、こうした気性の影響が強いのかも知れなかった。

 

 と、これまでは無言のままで両者のやり取りを聞いていた正覚院豪盛が立ち上がった。

 

「では拙僧が、織田の陣へ使者として参り申そう」

 

 破戒僧は自信ありげに、どんと胸を叩く。

 

「がははは!! 不浄の女共が叡山を焼き尽くすなどという暴挙、この豪盛、決してやらせはせぬ!! じゃが、対等な同盟とは片腹痛し!! 女共、たくましき男共に平伏せと、降伏を勧告してきてくれるわ!!」

 

 そこまで言った所で、「むっ?」と何かに気付いたように豪盛は堂の外へと視線を動かした。

 

「しかし……先程から、いやに山が騒がしいな? 織田勢は全て、麓で立ち往生しておる筈だが……」

 

 そう言われて久政も義景も初めて気付いたが、確かに何やら外から声が聞こえてきている。てっきり、織田軍の侵攻に備えて僧兵達が戦の準備を整えているのだと思っていたが……それにしてももう日が暮れていると言うのに、随分と五月蠅い気がする。それに、時折悲鳴のような声まで混じっているような……

 

「どれ、様子を見てこよう」

 

 豪盛はそう言うと、愛用の金棒片手に出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、雲母坂の織田軍本陣。

 

 信奈はもう深夜だと言うのに、床几に腰掛けてまんじりともせずに叡山を睨んでいた。とそこに、深鈴がやってくる。

 

「信奈様、お客人が来られました」

 

「客?」

 

 この戦陣に一体誰が? と、首を傾げつつもその客を通すように信奈は言い、そうして案内されてきたのは、

 

「おひぃさま、早まってはいけまへん!! 成る程、坊主でありながら武具を手にして織田家に戦を挑んだ叡山の僧兵共は自業自得なれど、おひぃさまの天下布武の大事業にとって今回の叡山焼き討ちは致命的な愚行!!」

 

 堺の豪商・今井宗久と、

 

「エイザンはジバングに於いて最も伝統ある最高学府と聞きます。古の叡智を集結したこの国の学府を燃やしてはいけません。エイザンの方が宗教者の使命を忘れて武器を持っているのは良くない事ですが、彼等を武装解除させれば済む事です」

 

 南蛮寺建設の為、京に滞在しているルイズ・フロイスだった。

 

 二人とも、長秀の手の者が立てた「要求に従わない場合は山門そっくり焼き払う」という旨が記された立て札を読んで、これは一大事、何としてでも信奈を思い留まらせねばならぬと駆け付けてきたのだ。

 

 そんな二人を見た信奈は深鈴と視線を合わせ、そして苦笑し合う。

 

「二人とも、あれは駆け引きよ。焼き討ちは本当にどうにもならなくなった時の最後の手段。義元も和睦の話を纏めにやまと御所に行っているし……私も最後まで穏便に済ませられるように、力を尽くす所存よ」

 

「「ほ、本当でっか(ですか)!?」」

 

「……本当よ」

 

 深刻な顔の二人に詰め寄られ、少し圧倒されつつも信奈がそう返した事で、宗久もフロイスも胸を撫で下ろしたようだ。ほっ、と大きく深く息を吐いた。

 

 信奈が焼き討ちをしないと言った訳ではないが、だが優先してそれを行う訳ではないと聞いた事で、ひとまずは安心、という所か。

 

 そうして話が一段落したのを見て取って、深鈴がフロイスの前に進み出た。彼女にしてみれば言い出しにくい話であったが……だが、いつかは話さなければならない事だ。いつまでも先送りにしておく訳にも行かない。

 

「どうかされたのですか? ギンレイさん」

 

 深鈴の様子がおかしいのを読み取ったルイズが尋ねてくる。

 

「あの、フロイスさん……これを……」

 

 そう言って差し出したのは、日に焼けた山高帽だった。それを見たフロイスはぎょっと表情を変える。見間違える訳もない、この山高帽は……

 

「宗意軒さんの……」

 

 彼の愛用の品が深鈴の手から渡される事の、その意味をフロイスは悟ったのだろう。胸の十字架を、ぎゅっと握る。

 

「何と言って良いのか、私には言葉が見付かりませんが……でもこの品は、彼と親交のあったフロイスさんが持つのが良いと思います……」

 

 消え入りそうな声でそう言う深鈴を受けて、フロイスは今にも泣きそうな顔をしながら、しかし精一杯の笑みを浮かべていた。

 

「宗意軒さんは、ギンレイさんの事を恨んだりはしてないと思います。彼は、そんな人ではありませんよ。長い間一緒に居た私には分かります」

 

「……そうですか……」

 

 深鈴は、ぺこりと頭を下げる。

 

 宗意軒の言葉を聞く事はもう出来ないが……だがフロイスがそう言ってくれた事で、少しだけ胸が軽くなったように思えた。

 

 そんな二人を見た信奈と宗久はこちらもふっと笑みをこぼし、陣中にも関わらず穏やかで和やかな空気が流れる。

 

 だがそれも、長くは続かなかった。

 

 ドン!! と、何かが爆発したかのような音が響く。

 

「な、何!?」

 

「何や、今の音は!?」

 

「ノブナさま!! ギンレイさん!! あれを……!!」

 

 フロイスがそう言って指差す先を見て、そして全員が表情を凍らせた。

 

「叡山が……!!」

 

 燃えている。山に、火の手が上がっていた。

 

 冥界の鬼火のような、蒼白い炎が。

 



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第30話 未来のために

 

「ひ、ひぃぃぃっっ!! ば、化け物だああっ!!」

 

「た、た、た、助けてくれぇぇぇっ!!」

 

「く、来るな!! 来るな!! 来るなあああああっ!!」

 

 冬の叡山はまさに狂乱の渦中、地獄絵図と化していた。攻撃が始まった訳ではない。姫武将ばかりの織田軍は女人禁制の掟を盾に取った朝倉義景の策によって、麓に立ち往生している。

 

 代わりに叡山へ攻め寄せてきたのはこの世ならざる者共。白濁した瞳、あるいは白骨化しがらんどうになって落ち窪んだ眼窩に何の光も宿さぬ意思無き兵隊。刀で上半身と下半身を泣き別れにされても、槍で胸を貫かれても何事も無かったように前進を止めない不死の兵団。墓場から蘇ったとしか思えぬ亡者の群れが、どこから現れて集まったのか数千という数で以て押し寄せてきたのだ。

 

 訳も分からず応戦する浅井・朝倉の連合軍と僧兵達に向けて屍兵共は手にした武器を振るい、あるいは本能のままに食らい付いて、誰彼構わず命を奪っていく。そうして殺された者は、ほんの少しの間だけ死の沈黙に落ちたかと思うと無造作に立ち上がって新しい亡者となって動き出し、そうして増えた亡者は更に周りの生者へと襲い掛かり、指数関数的な早さで数を増やしていく。

 

 この有様はまるで、否、まさに地獄であった。この比叡山は、かつて極楽浄土を説いた大勢の名僧智識が居た聖地であった。数百年もの間、治外法権の夢を貪り続けて栄耀栄華を極めた場所が今、地獄に堕ちたのだ。

 

 群れて迫る無数の亡者。想像出来るどんな悪夢をも超えた現実を前に、浅井と朝倉の兵、そして叡山の僧兵達から正常な思考力・判断力などはとうの昔に失われ、めいめい勝手に様々な行動を取り始める。闇雲に亡者達へ打ちかかる者、逃げ惑う者、訳も分からず仲間へと斬り掛かる者、自分だけは助けてくれと御仏に祈りを捧げる者、数珠を鳴らして悪霊退散と唱える者、死者がこの仏法の聖地を侵す事の罪深さを声高に説く者。

 

 そんな彼等には、平等に一つの末路が用意されていた。亡者に殺されて亡者になるという結末が。

 

 断末魔の悲鳴、怒号、絶叫がひっきりなしに鳴り響く中で、一つだけ浮いた声があった。高笑いだ。

 

「ははははははははは!! 壊せ殺せ!! 俺の可愛い亡者共よ!! 目に付いた物は片端から壊せ!! 目に付いた者は片端から殺せ!! この現世に、お前達の手で地獄を顕現させるのだ!!」

 

 人骨によって組み上げた輿の上にどっかりと座し、それを亡者達に担がせて山を登ってきた森宗意軒は、大笑いしつつこの光景を見下ろしていた。

 

 彼にしてみれば如何に戦場となる事を想定していないとは言え、叡山がこうまで容易く自らが従える魔界の屍兵によって侵攻されるに任せた事は、拍子抜けを通り越して意外とさえ言えるものだった。この山は八百年の歴史を誇る日ノ本仏教界最高の聖地であるだけでなく、大陸から仏教が伝わるより遥か以前より古の神々の加護を受けた霊山である。本来ならば、その聖域を魔界の屍兵が侵す事など、出来よう筈が無い。しかも仮にも一宗教の信仰の中心であり、対して宗意軒は只の一個人。相手にさえなろう筈がない。そう、本来ならば。

 

 だが実際には亡者達は殆ど何の影響も受けてはいないように動き回り、自分達に仮初めの命を与えてくれた宗意軒以外の生きとし生ける者悉くに死を与えようと、動く者全てを目標としてただひたすらに襲い掛かる。

 

「とうの昔に……この山からはそうした神々の加護は失せていたのか」

 

 笑いを止め、どこか悲しんでさえいるかのような口調で、宗意軒が呟く。さもありなん、叡山が今も仏の教えを体現している真の聖地であるのなら、立ち込めた聖なる霊気は、外法の術によって操られる死者の兵団など一歩たりとて進ませる事はなかったであろう。

 

 だが今の叡山は学問は怠り酒を飲み、魚肉を食らって貴族の如く暮らし、掟を破って女を山に引き上げる腐敗の殿堂、山賊の住処と変わらない。違う所と言えば、鎧の代わりに袈裟を纏っている事ぐらいか。京の大龍脈から流れ込む”気”こそ充ち満ちているが、最早聖なる力などは、その僅かな残滓すらも感じ取れなかった。

 

「さて……いつまでも亡者の数を増やしているだけでも芸が無い。祭りは、これからなのだからな」

 

 顔に再び笑みを取り戻した宗意軒はそう言うと、ぱちんと指を鳴らす。すると唐突に、最前列で浅井・朝倉兵、そして僧兵達を殺戮していた亡者数十体が全身を蒼い炎に包まれて、松明の如く燃え上がった。

 

 生ける屍とは言え体を燃やされては流石にたまらないのか、全身火の玉と化した亡者は凄い速さで敵兵の中に突っ込み、その火は兵士達に燃え移っては焼き殺し、殺された兵は燃えながらにして亡者となり、生者目掛けて駆け出しては襲い掛かり……と、この連鎖によって先程までとは比べ物にならない勢いで破壊は拡散していった。

 

 全身を炎に包まれ、狂奔する亡者達はさながら火牛計に使われて暴走する牛のようだった。とすればそれを指揮する宗意軒はさしずめ木曾義仲の役か。

 

 死者が撒き散らす蒼炎は人だけではなく伽藍や堂にも次々燃え移り、焼け落ちさせていく。

 

「こうでなくてはな!! 燃えろ!! 血も肉も!! 灰すら残さず、全て燃え尽きろ!! ここからが地獄祭りの本番だ!!」

 

 宗意軒が死者達へ着火している蒼い炎は、ただの炎ではない。これは現世に存在しない炎。中国では積尸気(せきしき)と呼ばれるもので、屍体の山より立ち上る燐気であり魂を糧に燃える鬼火。生きとし生ける全ての者が最期に行く事になる冥界の炎だった。死霊術の使い手たる彼はこれを現世に喚び出し、操る事が出来る。その性質上、召喚された亡者達は絶好の燃料だと言えた。

 

「さあ次だ!! その次も!! どんどん行け!!」

 

 葬列から繰り出された燃える亡者が兵士達へと次々突っ込み、死者を、鬼火にくべられる薪を増やしては炎を大きくしていく。大きくなった炎はそれ自体が渦を巻いて堂塔を焼き人を飲み込み、魂という油を注がれて更に勢いを強めていった。流石にこのような特攻を繰り返していては率いる亡者の数も減り始めているが、宗意軒は全く気にした素振りも見せなかった。

 

 煉獄のような炎に追われ、兵も、僧も、遊女も。若者も年寄りも女子供も。一切の区別無く逃げ惑う阿鼻叫喚の中に、哄笑が響いていく。

 

「あははははははは!! どいつもこいつも皆殺しだ!! 燃えろ、燃えろ、燃えろーーー!! 殺せ、殺せ、殺せーーー!! もっとだ!! もっと生者共を殺しまくれーーー!!」

 

 

 

 

 

 

 

 坂本の町からも、炎に包まれる叡山ははっきりと見えた。山全体が不気味な蒼い炎に包まれて、燃え上がっている。

 

「な、何だ? あの青い火は……」

 

「あんな火は今まで見た事がないぞ……」

 

「何か良くない事の、前触れでは……」

 

 人々は口々に、胸中の不安を呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 琵琶湖に浮かぶ孤島、竹生島。

 

 夜の闇も手伝って、叡山それ自体を一個の巨大な松明としたかのような鬼火は、遠く離れたこの地に幽閉されている「お市」こと浅井長政と、元「お市」の津田勘十郎信澄の目からも見る事が出来た。

 

「勘十郎、あれは……」

 

「僕にも分からないよ。あんな気味の悪い炎は、初めて見る」

 

「……義姉上は、大丈夫でしょうか……」

 

 久政が浅井の家督を奪い取ったと同時に始まった幽閉生活の牢屋暮らしはそれなりの長期間に渡っており、徐々に気が滅入ってきているのは、伴侶を不安にさせないよう口には出さねど二人とも自覚している事だった。そこへ来て、何かの凶兆としか思えぬ蒼炎が京の方角に上がったのである。長政ならずとも、悪い想像ばかりが浮かんでくる。

 

 それは信澄も同じだったが……しかし彼の中には説明出来ない”何か”が、しかし信じられる予感があった。

 

「姉上は簡単に死ぬ人じゃない。それに……姉上には銀鈴が付いてる。彼女なら、きっと上手くやる」

 

 

 

 

 

 

 

 坂本の町民や長政、信澄が見ているのと同じものが、信奈達の本陣からも見えていた。それも遥かに近距離で。冬闇を妖しく照らす蒼い鬼火を目の当たりにして、信奈も深鈴もしばしの間圧倒されたかのように呆然と立ち尽くしていたが、しかしそれも一時の事。すぐに正気に立ち返ると、信奈が指示を出した。

 

「銀鈴!! すぐにみんなを集めて!!」

 

「は、はい!! 直ちに!!」

 

 そうして走り去っていく深鈴だったが、諸将も叡山から聞こえてきた爆発音と鬼火を見て、ただならぬ危機感を抱いていたのだろう。勝家、長秀、犬千代、光秀、半兵衛、久秀といった主だった者達が五分と経たぬ間に駆け付けてきた。

 

「姫様、これは……」

 

 流石の長秀も、予想もしなかったこの状況にあっては声が震えていた。

 

「見ての通りよ、万千代。叡山が、燃えているわ」

 

 上に立つ者として可能な限り動揺を抑えた声で、信奈が言う。それを聞いて慌てたのは、勝家だった。

 

「た、大変だ!! じゃあすぐに火を消しにいかなくちゃ……」

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!!」

 

 泡食って駆け出そうとする彼女であったが、半兵衛に止められた。

 

「この状況で迂闊に叡山に立ち入っては、後で火を放ったのが織田軍であると言い掛かりを付けられても、釈明出来なくなってしまいます!!」

 

「ですが半兵衛殿、このまま放っておく訳にも……」

 

「放っておけば良いではないですか」

 

 「うふ」と笑いながら、久秀が言う。

 

「消火・救助活動を行おうにも、彼の地は女人禁制の霊山。姫武将ばかりの我等では山に立ち入る事もままならず。哀しい事ですが見殺しにする以外の選択肢はありませんわ」

 

 口ではそう言っているが、しかしこの妖艶なる魔女がほんの僅かな心痛さえ感じていないのは、浮かべている冷笑からも明らかであった。だが「放っておけ」という彼女の意見にも一理はある。これまでは聖地である事を盾にとって織田軍の侵攻を阻んでいたのに、原因は分からないが出火して困った時だけ助けてもらおうなど虫が良すぎるというものだ。

 

「しかし、何もしないという訳にも……!! 何の救助活動も行わなければ、それこそこれを行ったのが我々であるから動かないのだと、世間は見るです!!」

 

 光秀の意見もまた正論である。詰まる所現状、織田軍はかなり厳しい立場にあると言える。救助活動を行う為に叡山へと侵入すれば女人禁制の掟を無視するだけでなく、火を放ったのが織田軍であるという疑惑を掛けられる。動かなくても同じ結果になる。

 

 ならば、どうするか。思案に行き詰まり、僅かな時間だけ沈黙が場を支配する。

 

「皆、落ち着いてください!!」

 

 それを破るようにしてずいと進み出た深鈴に、全員の視線が集まった。

 

「まずは我が軍全ての部将に連絡を取って、我々の中で勝手に動いた者が居ないか、居たとすればそれが誰なのかをはっきりさせるべきです!! 混乱のままに慌ただしく動いて誰が誰やら分からないような状態になってしまえば、それこそ秘密裏に叡山へ火を放った部隊が居たのではないかという疑惑を晴らす事が、不可能となってしまいます!!」

 

「拙者達も銀鏡氏の意見に賛成でござる」

 

「…………」

 

 その言葉と共に姿を見せたのは五右衛門と段蔵、深鈴付きの二人の忍者だった。と、今度は段蔵の袖口から紙が飛び出す。皮肉な事に山を包む炎のおかげで、夜中でもそこに記された文字の判読に不自由はなかった。

 

<現在、比叡山には浅井・朝倉・僧兵全て合わせれば一万数千もの兵が駐留している。どんなに優れた乱波であろうと、それほどの数を相手に数十名までの人員ではあれほど広範囲・大規模に火を放つ事は不可能。最低でも数百名規模の部隊の動きが、絶対にある筈>

 

 当代最高の忍者の一人であり、乱波について知り尽くしている加藤段蔵の言葉とあれば間違いはない。すぐ隣に立つ五右衛門も、彼あるいは彼女の意見に異存は無いようだ。

 

 つまり雲母坂・坂本に布陣している織田軍の中に数百名以上の欠員がなければ、この叡山への出火について織田陣営は無関係であると証明されるのだ。少なくとも記録の上では。

 

「兎に角、我が軍の中に欠員が生じていないのを明らかとし、その記録を残しておく事が重要です。そしてそれを確認するのは、織田家の者でない第三者が望ましいかと」

 

 幸い、と言うべきであろうか。この場には、その役目に適任な人物が二人も居る。今井宗久と、ルイズ・フロイスが。とは言っても宗久は織田家とは先代信秀の時代から親交があり、フロイスは宣教師という立場上、ドミヌス会の布教に対して寛容な態度を取る信奈よりの立場であるが……それでも、二人の言葉は織田家中の者よりは遥かに信憑性の高いものとして受け取られるだろう。

 

「……銀鏡殿の意見は現状、我々が採るべき手段としては、第一かと。まずはこの叡山からの出火に織田軍が無関係であると記録し、証拠を作っておく事……五十点です」

 

 と、長秀。彼女の分析を受けて信奈や半兵衛、光秀に久秀もそれぞれ頷く。

 

 無論、如何に宗久やフロイスの言葉があろうと、反織田の立場に在る者はそんな証拠は捏造だ、宗久もフロイスも織田家とグルだと、そう叫ぶであろうが……それでも、たとえお題目であろうが建前であろうが、証拠を作る事には意味がある。少なくとも、二人が証言してくれると宣言するだけでも自信のほどを示す事ぐらいは出来るだろう。この出火に関して、織田家そして信奈に何ら恥じる所は無いとアピールするのだ。

 

「……確かに、銀鈴の言う通りだ。あたし達が火を付けた訳じゃないんだからビクビクする必要は無いな!!」

 

「……賛成」

 

 勝家と犬千代からの意見も受け、信奈はにっと笑みを見せた。確かにここで慌てて動けば、それこそ「織田家が犯人です」と言っているようなもの。自分にも軍全体にも、こうした時にこそ落ち着いた対応が求められるのだ。

 

「分かったわ。では皆、それぞれの部隊に確認を取って欠員が出ていないか、勝手に動いた部将は居ないかを確かめて!! いい? しっかりとした確認を取りなさい。「思います」とか「ようです」とか曖昧な報告は受け付けないわよ!! 坂本の陣に居る竹千代にも伝えて!!」

 

「「「承知!!」」」

 

 信奈よりの指示を受け、各将がそれぞれ散っていく。そうして全員が戻ってくるまでに四半時(30分)程の時間を要した。その間にも叡山に上がった鬼火はますます大きくなって、その勢いを強くしていた。

 

「あたしの部下で、勝手に動いた者は居ません!!」

 

「……犬千代の部下も」

 

「丹羽隊もです」

 

「明智隊も同じです!!」

 

「私の部下もですわ」

 

「私の配下、及び従軍している食客・諜報部隊もです、間違いありません。元康殿からも、同じ報告が来ています。待機命令を、遵守していると」

 

 各将から次々入る報告は、まずは信奈を満足させるものだった。もしこれで欠員が確認されていた場合には、どうしようかと思っていた所だ。彼女が視線を送られて、宗久とフロイスは頷く。これで二人はいざという時には、織田軍が動いていない事を証言する役目を請け負った事になる。

 

 第一にやるべき事は終了した。問題は次にどうするかである。救助活動を行うか、傍観者に徹するか、それ以外か……

 

 と、信奈が思案しているそこに美濃三人衆の一人、安藤守就がやって来た。縄でグルグル巻きにされた正覚院豪盛も一緒だ。

 

「そいつは……どうしたの?」

 

「山から逃げ出してきた所を捕らえました」

 

 しかし、引き立てられた豪盛の様子はただごとではない。

 

 衣服はあちこちがボロボロに破れ、体中傷だらけ、熱病に掛かったように全身をぶるぶると震わせている。表情は恐怖に歪んでくしゃくしゃになっており、武蔵坊弁慶を思わせるような巨体は、今は二回りも小さくなったように見える。何かは分からないが、兎に角尋常ならざる事態が叡山で起こったのだと、言葉にして語らずとも場の一同に教えるには十分だった。

 

「話しなさい。何があったの?」

 

「亡者だ……!!」

 

 信奈に尋ねられて、僧兵は震える声で絞り出すようにそう言った。

 

「叡山に、亡者の群れが押し寄せた。殺される……浅井も、朝倉も、僧も……皆、殺される……!!」

 

 豪盛の言葉は要領を得ないが、しかし一つだけ、はっきりとした事がある。叡山に攻め寄せ、火を放ったのはその亡者達だ。

 

「これは……仏罰じゃ……叡山は、乱世に荷担せよと言われても頑と首を横に振り続けるべきであった。仏の道を外れた我等に、仏罰が下ったのじゃ……」

 

 ぶつぶつとそう繰り返す破戒僧の前で信奈はさっと立ち上がると、勢揃いした諸将を見渡す。

 

「はん、仏罰? 確かに叡山は堕落していたかも知れない。けど、私達が生きるこの世界は人が治める人の世!! 人を裁くのも人を救うのも、全ては人の手で行われなくてはならないわ!! この先の日ノ本の未来を創っていくのは神仏でもなければ歴史の必然でもない、唯一人の意思よ!! 私が、私達が!! それを証明する!!」

 

 信奈のその手が、ばっと振られる。

 

「全軍に指示を出しなさい!! これより織田軍は叡山へと突入、浅井・朝倉・僧・遊女、未だ山中に取り残されている全て者の救助及び消火活動に入る!! 私も、陣頭で指揮を執るわ!!」

 

「……よろしいのですか? 姫巫女様の許可も得ずに叡山に立ち入る事は、女人禁制の掟を破る事になりますが」

 

 久秀が尋ねる。しかし今の彼女は普段の楽しんでいるような笑みは影を潜めて真剣な表情となっており、口調も信奈を試しているようでもあった。

 

「今は非常時よ。山に火が付いて生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、掟どころじゃないでしょ!! それに、許可なら義元が取るわ!!」

 

「……あの、お飾り公方が、ですか?」

 

 「そう」と頷く信奈。浅井・朝倉との和睦の儀式を執り行う場所は叡山の根本中堂にするよう義元に言い渡してある。つまり、和睦の話が決まる事と姫巫女様より叡山に立ち入る許可が出る事はイコールなのである。許可が出るのは全てが終わった後になるが、それでも非難の声を抑える事は出来るだろう。以前、浅井久政相手にお市(信澄)の縁談話を取り纏めた交渉能力を、信奈は信じる事にしたのだ。

 

「これは戦ではないわ。和睦相手を助ける為の緊急措置よ!! 六、犬千代、万千代、十兵衛、弾正は私と共に叡山へ突入!! 銀鈴は半兵衛と共にここに残って、後方の指揮に当たりなさい!!」

 

「「「承知!!」」」

 

 信奈の命を受けた武将達はそれぞれ慌ただしく動き始め、一方で本陣の留守を任された深鈴は腕組みすると、難しい顔で一息吐く。

 

「……これではまるで、ローマ大火ね。厄介な事になってきたわ……」

 

 誰にも気付かれないように、そう呟いた。

 

 西暦64年7月19日。ローマのチルコ・マッシモから起こった火災は市内の殆どを焼き尽くし、多くの被災者・死傷者を出した。これに対し当時のローマ帝国を治めていた5代皇帝ネロ・クラウディウスは陣頭指揮を執って消火活動に当たり、その際の対処は後世に於いて彼に批判的な歴史家をして「人知の限りを尽くした有効な施策である」と高く評価される程のものであった。

 

 しかしその一方でこういう説がある。そもそもローマに火を放ったのは他ならぬネロ皇帝で、その後の消火作業はいわば自作自演だったのではないかと。

 

 その根拠となるのはネロ皇帝が火災後に行ったローマ再建に於いて市中心部に黄金劇場(ドムス・アウレア)を建設した事であり、彼の暴君はこの劇場建設を初めとしてローマを自分の好きなように造り直す為に、町に火を放ったのでは……と言われている。

 

 また、放火の犯人として処刑されたのはキリスト教徒達だったのだが、そもそも当時のローマ帝国内では伝統的な多神教を否定するキリスト教に否定的な感情を抱いている者が大多数であり、ネロ自身も弾圧を行った事で有名だ。そうした事情から、処刑されたキリスト教徒達は冤罪であったのでは……? という説が存在するのだ。

 

 今回の信奈も、似たような立場に在るが……だが、違う所もある。

 

「私が、ここに居る」

 

 こうなった以上は肝っ玉というヤツを据えて事に臨まねばなるまい。

 

「私が居る限り……決して信奈様を放火犯にはしないわよ……!!」

 

 深鈴は腹を括った。

 

 一方で突入準備を進めている信奈の前には、前鬼が進み出ていた。

 

「今回、最前線には俺が立とう。大龍脈からの”気”が満ちた叡山では、俺の力は普段の一千倍にもなる故な。主からも許可は頂いておる」

 

「そう……じゃあ、頼むわ」

 

 紅マントを翻して去っていく信奈の背中を見送った式神は鬼火に包まれる叡山を見て、小さく口を動かした。

 

「ここまで全て……お前の望み通りか。森宗意軒」

 

 

 

 

 

 

 

「……で? 俺に何の用かね、半兵衛の犬」

 

 若狭の山中、自らが率いる死者の葬列に陰陽師・土御門久脩を加えた森宗意軒は、現れた上級式神・前鬼をいつもの悪態で迎えた。

 

 無数の亡者達は今は宗意軒の指示によって動きを止めているが、しかし彼の指示一つで再び動き出し、腐臭を放つ死の濁流と化して式神を呑み込むであろう事は明らかだった。

 

 前鬼としては返答一つを間違える事が即刻消滅に繋がる綱渡りの状況に立たされている訳だが……しかし、式神である彼は倒されても一時消えるだけで完全に死ぬ訳ではない。その気安さかあるいは生前からの肝の太さか、式神は堂々とした態度を崩さずに死者を統べる邪教の祭祀と相対していた。

 

「聞いておかねばならぬ事があってな」

 

「ほう?」

 

 挑発的に応じる宗意軒。

 

「もし気に入らぬ答えなら……この俺の首でも取ろうという剣幕だな?」

 

「場合によっては、な……」

 

「!! ふむ……?」

 

 どこかおどけた口調を通していた宗意軒だったが、しかし前鬼の表情に並々ならぬ真剣さがある事を確かめると、彼もまた真剣になった。亡者に担がせた輿からひらりと飛び降りると、前鬼と同じ目線の高さに立つ。

 

「なあ、半兵衛の……いや、前鬼だったな……お前には全てを教えても良い」

 

 表情からはいつも浮かべていた仮面のような笑みが消えていて、視線や顔全体から尖った鋭い印象を受ける。あるいはこれが森宗意軒の本来の表情なのかも知れぬと、上級式神は思った。

 

 死霊術師はそうした上で「ただし」と付け加える。

 

「聞くからには覚悟を決めてもらうぞ。これから俺がする話は、聞かなかった方が良かったと後悔するかも知れん。それでも……聞きたいか?」

 

 脅すようなその文句を受けて、だが前鬼の答えは決まっていた。宗意軒は頷くと、両手を大きく広げるように動かした。「いいだろう、何でも聞け」という意思表示だ。それを受け取っての前鬼の問いは、

 

「単刀直入に聞こう。お前の目的は、何だ?」

 

 いきなり核心を突かれて、言い辛い事なのか宗意軒は沈黙したままだった。この態度に前鬼は少しだけ苛立ったように語気を強める。

 

「陰陽道も真言密教も修験道も超えた魔界転生の秘術。それを以てお前は為すものは何なのか、と聞いているのだ」

 

 上級式神はそう言うと、ずらりと居並ぶ死者達を見渡す。今は死者達の仲間入りした土御門久脩も言っていたが、この秘術はやりようによってはこの国を容易く手中に収める事すら可能とする恐るべき力だ。それを行使する森宗意軒の真の目的が何なのか、前鬼は確かめておかねばならなかった。

 

 もし、邪な目的の為にその力が振るわれるのなら、刺し違えてでも止めなければならない。宗意軒が言ったものとは違うかも知れないが、前鬼はそういう意味で覚悟を決めて、ここに来ていた。

 

 果たして、宗意軒の答えは。

 

「未来の為だ。正確には、未来を変える為だな」

 

「未来を……だと?」

 

 意外そうに、しかし警戒を解かずに鸚鵡返しする前鬼。宗意軒は普段の彼からは想像も付かないような厳しい表情のままで頷き、話を続けていく。

 

「喜べよ、式神。この先の未来に、お前や半兵衛の目的は、達成される。そういう未来を、俺は見たからな」

 

 前鬼は表情は変えなかったが、少なからず衝撃を受けたようだった。

 

 彼とその主の目的とは、陰陽師の時代を終わらせる事。永い間この国を覆っていた闇を払い、光の時代を迎える事。以前、半兵衛は言っていた。

 

 

 

「これ以上、私達は薄暗い闇の秘術を利用してこの国を乱してはならないんです。もう、民を守れる力など残ってはいないのですから。あやかしの者は眩い日輪の光の中に静かに消えるべき時が来ているのですよ」

 

 

 

 そんな未来が、訪れると言うのか?

 

「……まだ話は途中だが、一つだけ教えてくれぬか?」

 

「……何だね?」

 

「未来を見たと言ったが、それはどうやったのだ?」

 

「珍しいものではないさ。そういう術を使ったに過ぎん」

 

「術、だと……?」

 

 訝しむように前鬼が呟く。未来を知る為の術、それ自体は彼もいくつか知っている。陰陽道にも近い未来を占う術は伝わっているし、星々の運行から人の天命を読み取る宿曜道という術も、この国には存在する。

 

「だが……如何なる術も万能ではない。占う事の出来る未来には、限度がある」

 

 その証拠に半兵衛は以前に未来を占った事があるが、結局彼女の目指すような未来が訪れるのかどうかは、分からぬままだった。如何に優れた術者であろうと、それが”術”の限界なのだ。

 

「そうだな」

 

 宗意軒は認めた。

 

「それらの術、単体ではな」

 

 思わせぶりな口調だが、前鬼も愚かではない。すぐに、宗意軒の言わんとする事が理解出来た。

 

「そうか、お前は……」

 

 頷く宗意軒。

 

「ああ、俺は東洋と西洋の様々な術を習得しているからな。それらの術を組み合わせ、単一の術の限界を超えた効果を生み出す事が出来るのさ」

 

 魔界転生が良い例だ。西洋の死霊術(ネクロマンシー)も大陸の道術も日本の修験道にも、この術のようにムチャクチャな真似は出来ない。それらを組み合わせて編み出した独自の術であるからこそ、ここまでの効果を得られるのだ。

 

 未来を見る手段として、西洋にも占星術がある。宗意軒は易や宿曜道とそれらの術を組み合わせて、そして、

 

「俺は見たのだ。この国の、未来の姿を」

 

 荒唐無稽な作り話にも聞こえるが……しかし、前鬼はそう一言で片付ける事をしなかった。出来なかったと言っても良い。一笑に付してしまうには、それを語る宗意軒の表情はあまりにも真剣だったから。

 

「では問おう。その未来とは、どんなものだったのだ?」

 

「……歴史の転機となるのは、今から十数年の後だ。日ノ本を東と西に二分した天下分け目の大戦が起こり、それが終わった後には三百年続く戦無き太平の時代が来る。そしてその時代に、陰陽師が現れる事はない」

 

 「尤も、陰陽道など使えないのに使える振りをして、馬鹿なヤツから金を巻き上げようとする大馬鹿野郎はいつの時代も絶えないがね」と、茶化すように宗意軒は笑う。前鬼はその説明を受けて、しかし腑に落ちないという顔だ。太平の時代が訪れるのなら、それで結構ではないか。この男は、何が不満だと言うのだ?

 

 その疑問を読み取ったのだろう。宗意軒はぱちんと、指を鳴らす。

 

 すると二人の周囲の空間が陽炎のように揺らぎ、別の景色へと移り変わっていく。思わぬ出来事に身構える前鬼であったが、「危険は無い」と宗意軒が告げる。

 

 そうして完全に世界が姿を変えて現れたその景色は、まさしく地獄であった。

 

「これは……」

 

 式神が、思わず息を呑む。

 

 そこは、合戦跡のようだった。戦に勝った側の軍がそうしたのだろうか、無数の首が晒されている。その数は千や二千ではきかない。視界の果てまで続き、万にも届くであろう。しかも異様なのは、晒された首は殆どが脳天から唐竹割りにされたように二つに割られている事だった。

 

「これは俺が見た未来……今から数十年後の未来、肥前の国、島原の情景だ」

 

「これが……未来の光景だと?」

 

 信じられないという風に、前鬼が呟く。第一、これでは話が違うではないか。この先三百年には、太平の世が訪れるのだと、宗意軒は今し方言ったばかりではないか。

 

 先程と同じく前鬼の表情からその疑問を読み取って、宗意軒はこう言う。

 

「これも……いつの世も絶えた事の無い問題だ」

 

 やはりはぐらかすような物言いだったが、それだけでも前鬼にはピンと来るものがあった。

 

「……一揆か」

 

「ああ」

 

 宗意軒は頷いた。

 

「続く飢饉、容赦の無い重税。そんな苦しみの中で神に縋る事すら禁ぜられ、家畜同然に虐げられる日々……一揆が起こらなかったら不思議なぐらいだ」

 

「だが、所詮彼等は農民……侍に敵う筈が無い」

 

 表情を押し殺した前鬼の厳しい指摘に、同じように無表情の宗意軒は首肯した。

 

「時の幕府は十二万の軍を出動させ、百日にも渡る無惨な戦いの末に一揆勢三万七千を全て殺し、しかもその戦果を誇大に伝える為に一つの首を二つに断ち割り、四万五千の首を得たと称して、勝利の酒に酔うのだ」

 

「……惨い話だな」

 

「見せしめの為の殺戮。支配の鎖から逃れようとした者の末路。人は飼い犬となる為に生まれるのでは断じてない……!! 分かるか、式神」

 

 語る宗意軒の口調は、いつになく熱を帯びていた。

 

「太平の時代と呼ばれようと、その陰では常に血が流され続けるのだ」

 

「むう……」

 

 死霊術師の言葉は、前鬼もまた常々感じていた事だった。思い出すのは数百年も昔、自分がまだ人間であった頃。

 

 世は「平安」という名とは似ても似つかぬ鬼哭啾々の時代であった。民は飢え、貴族達は権力闘争にのみ明け暮れ、京の都では鴨川に処理出来ぬ屍体が打ち捨てられ、糞尿は垂れ流し、それによって疫病が蔓延して町中にまで屍体が溢れ、病人は家から追い出されて野垂れ死ぬ。しかもそれが当然となってしまってまさに世も末という有様だった。

 

 その末世を生きた者として前鬼は、あの暗黒の時代の再来だけは是が非でもさせる訳には行かなかった。その為にはこの国を覆う古き闇を払い、陰陽師の時代を終わらせなければならない。彼はそう思って、半兵衛と共に戦ってきた。

 

 そして、宗意軒は。

 

「お前は……」

 

 式神が何事か言い掛けた、その時だった。

 

『おおっ、四郎様!! 何というお姿に!!』

 

 不意に、声が上がった。反射的に二人が視線を向けた記憶の映像の中では一人の老人が、晒されていた中で生きていた時はさぞや眉目秀麗な青年だったであろう首を抱え、泣き叫んでいた。

 

「あれは……」

 

 思わず、前鬼は言葉に詰まる。宗意軒は無言のままだ。

 

 青年の首を抱えて泣き続ける老人は、髪は真っ白になって、顔は年輪のように無数の皺が刻まれ、これまでに彼が忍んできた数々の苦労が垣間見え得るかのようにやつれている。前鬼は、初めて見る筈の彼に見覚えがあった。

 

 思わず、宗意軒を振り返る。あれは……

 

「ああ、数十年後の俺だ」

 

 ネクロマンサーはあっさりと認めた。そうこうしていると、未来の記憶の中でひとしきり泣き終えた老人は大きく天を仰ぎ、しわがれた声で叫んだ。

 

『神よ!! 全能にして万物の創造主よ!! 見よ!! あなたのしもべ達の屍を!! 何故あなたは応えなかったのです!? 彼等の血みどろの祈り、彼等の惨たる戦いの中で、何故あなたは沈黙を守ったのですか!?』

 

 年老いた宗意軒のその言葉は、嘆きのようでもあり呪詛のようでもあった。

 

『思えばこの九十余日、我等は神の国と神の義を求めて戦い、ひたすらあなたの御名を称えてきた!! 老若男女、幼子の端々に至るまで、骨を噛む苦しみに耐えながら、絶え絶えの声で祈りを唱え続けてきた!! 何故、我等を見捨てたもうたのです!! これが、あなたを信じ縋った者への仕打ちだと言うのですか!!』

 

 老人の目からは、既に涙は涸れていた。代わりに血が、両目の涙腺を破り裂いて止め処なく流れ続けていた。

 

「……お前の望みは、この未来を変える事か」

 

 前鬼の問いに神妙な顔の宗意軒は無言のまま、深く頷いた。

 

 成る程、と前鬼は頷いて返す。確かにこのような未来を見たのなら、それを変えようと動いたとしても不思議ではない。一つの疑問に対して示された答えには、納得が行った。だがまだ、問わねばならない事が残っている。

 

「未来を変えると言ったが……どのようにして変えると言うのだ?」

 

 その問いを受け、宗意軒はすっと二本の指を立てた。

 

「鍵を握るのは二人……織田信奈と、銀鏡深鈴だ」

 

「あの二人が……? どういう事だ、詳しく話せ」

 

 式神の求めに頷き、死霊術師は話を続けていく。

 

「先程俺が言った未来に、織田信奈は居ないのだ」

 

「……死んだのか?」

 

「そうだ。正確には、殺された。京は本能寺で、明智光秀に叛かれて、な」

 

「バカな、何かの間違いであろう」

 

 宗意軒の話自体は真剣に聞いていた前鬼であったが、しかし今の話は一笑に付してしまった。あの生真面目で一途な明智十兵衛光秀が、織田信奈を弑逆するだと? 明日の日の出が西から出ると言う方が、まだ信じられるというものだ。

 

 これは予想出来た反応であり、宗意軒は怒らなかった。代わりに苦笑する。

 

「だが間違いはないのだ、俺の見た未来ではな」

 

「ふむ……まぁ、良かろう」

 

 そんな事で自分を騙しても意味は無かろうと結論付けて、前鬼は話の続きを促す。

 

「織田信奈は、希代の革命児だった。彼女が生き続けて天下人となれば、未来は姿を変えた筈なのだ。だが、その為には条件がある」

 

「条件だと?」

 

「そうだ。これは俺の予想だが……恐らくは俺が見た未来で、仮に明智光秀が暗殺に動かなかったとしても、織田信奈が天下人になる事はなかったと思うのだ」

 

 何故だと、当然ながら前鬼が尋ねる。その問いに対する宗意軒の答えは、簡潔だった。

 

「彼女が、第六天魔王であったからさ」

 

「何だと……!?」

 

「俺が見た未来での織田信奈とは母親に憎まれ、弟を斬り、斎藤家を奪い取り、叡山を焼いて空前絶後の殺戮を行い、破壊の限りを尽くした魔王であったのだ」

 

 前鬼は首を傾げる。そのような魔王は、到底自分や半兵衛が知る織田信奈像とは結び付かない。しかし仮に信奈が宗意軒の言うような第六天魔王の化身のような女であったとするなら、確かに天下人にはなれぬというのも道理に思える。

 

 産み落とされた母の御前に命を狙われ、血肉を分けた舎弟を斬らねばならぬとあれば、人間が信じられず人柄が強く冷たくなり過ぎてしまうのは容易に想像出来る。人間、母から命を狙われるようではこれ即ち天地の憎まれっ子。仮に明智光秀が背かずとも、運命的に必ず誰かの叛乱で命を落とす事になる。この世は人間が集まり住む衆生界なのだ。人間不信の者に治められる訳がない。必ず中途で挫折したであろう。

 

 しかしだとするなら、現実の織田信奈をたった今宗意軒が語った魔王とは似ても似付かない女の子で居させている要素とは、一体何だ?

 

 そこまで考えた所で、前鬼は一つの結論に思い至った。

 

「まさかそれが……!!」

 

「そう、銀鏡深鈴だ。俺の見た未来に居なかった彼女が天命を動かして、織田信奈を魔王にはさせずにいる」

 

「銀鈴が……」

 

「ああ。だが、それで良いのだ。人の上に立つ者は清廉潔白で良い。いや、そうでなくてはならない」

 

 この意見には前鬼も同意だった。英雄と魔王、人々にこの二者の内どちらに上に立って欲しいかと問えば、返ってくる答えなど自明の理だ。

 

「だが……英雄であるからこそ出来ない事もあるだろう。逆に言うと、魔王であるからこそ出来る事がある」

 

「……それは……」

 

「……確かに、俺の見た未来で織田信奈は魔王だったが、しかし彼女の為した事には意味があった。彼女が起こした戦はあまりにも惨く、苦しく、故に二度と起こしてはならぬと人々の骨身に刻まれ……また、叡山への焼き討ちは確かに限度を超えた暴挙ではあったが、いずれ誰かがやらねばならぬ事でもあったのだ。たとえ、魔王と呼ばれようともな」

 

 神仏や寺社それ自体には何の罪も無い。だが宗教がそもそも人の弱さを救う為のものであるならば、断じて武力に手を染めてはならない。それは単純に敵も味方も多くの命を失わせるという事だけではなく、信仰すべきものの為に彼等に血を流させる、神仏を悪魔に変えてしまう最大の背教なのだと、宗意軒は考えていた。彼が見た未来で、だから叡山は滅びたのだ。

 

「そして織田信奈が魔王にならぬのなら……誰か他の者がその役目を担い、魔王とならねばならないだろう? この天下が次の段階に進み、真に太平の時代を迎える為には”誰か”の手によって何万斗という血が流される事が、必要不可欠なのだ」

 

 その血を流させる者が、織田信奈であってはならない。”誰か”、他の者の手によって為されねばならぬのだ。

 

 平和の為に人を殺す。矛盾と皮肉に満ちた結論だと言える。それを実行した者は未曾有の大罪人となるであろうが、しかし、もしその犠牲が後世の平和に繋がったならば、一転して必要悪であったと評価される事だろう。流された血は、大いなる成果の為の致し方のない犠牲だったのだと。絵巻物のように未来を見る事が出来る宗意軒がこの答えに至ったのは、そうした理由からだった。彼は落ちていた山高帽を拾うと、ぽいと前鬼に投げ渡す。

 

「それを、深鈴様に渡してくれ。俺の形見だ」

 

「宗意軒、お前は……」

 

「この国に溜まった”膿”は、全て俺が吸い出して持って行く。もう……あの人達の所には、戻らない」

 

 前鬼は、まだこの時ならば宗意軒を腕ずくで止める事も出来た。だがしなかった。歴史の変わり目には必ず血が流れる事。新しい時代を迎える為には誰かが泥を被り、業を背負わねばならない事。これは歴史が証明している。そして織田信奈が魔王となってはならぬ事もまた、同じように彼が感じていた事でもあったからだ。

 

 式神はもうそれ以上は何も言わずに背を向けると、現れた時と同じ「コーン」という独特の声と共に姿を消してしまった。後には宗意軒だけが、彼の記憶の情景の中に残される。

 

「伝えるべき事は、伝えた」

 

 誰にともなく、そう呟く。

 

 宗意軒が前鬼に語った言葉、それらは全て嘘偽りの無い真実だが……語っていない事が、二つだけある。

 

 一つには、深鈴が未来から来た者であるという事。彼は以前に一度、彼女の天命を読み取ろうと試みて、そして驚いたのを覚えている。深鈴の宿星は、本来ならばその光が自分達の元へ届くには、後数百年の歳月を要する筈の星であったからだ。驚きはしたが……しかしだからこそ、納得もした。何故に彼女に天命を、未来を変える力を持っているのか。

 

 それは、彼女がこの時代の人間ではない故ではなかろうか。本来、運命とはどう足掻こうとそうなるように定められて、変える事の叶わぬものだが……この時代の者ではない深鈴だけは、その因果に縛られないのだとしたら……?

 

 未来予知以上に突拍子も無い話で、確たる事ではない故に前鬼には話さなかった。

 

 そして、もう一つ。自分の目的について。

 

 これは前鬼に話した通り、未来を変えてこの国を真の太平に導く事で偽りは無いが……他に一つ、取るに足りない小さなものだが、動機となるものがある。

 

 不意に、空間に投影された記憶の中で、老人になった宗意軒が叫んだ。

 

『主よ!! お答え下さい!! あいつが……ルイズが!! 恐怖と恥辱に塗れながら、それでも最期まで説き続けたあなたの教えは、こんな結末を迎える為のものだったのですか!?』

 



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第31話 それぞれの戦場

 

 やまと御所の一角に、「おーっほっほっほっほっ」と甲高い笑い声が響いている。何事かと近衛前久が広間に入ってみると、そこでは彼の頭の中に描かれていた最悪のシナリオが、寸分違わず具現化されていた。

 

 御簾越しに姫巫女と語り合うのは人呼んで駿河のお飾り公方、征夷大将軍・今川義元である。織田と浅井・朝倉との和睦話を纏める為に参内した彼女は、八つ橋をパクつきながら黄金作りの扇子をパタパタ扇いでいる。

 

 恐れ多くも姫巫女様を相手に何と無礼な態度かと、前久は目眩を覚えて体をぐらつかせた。

 

「おーっほっほっほっほっほっ!! それでは早速和睦の御綸旨を頂けるのですわね。流石は姫巫女様ですわ!!」

 

「えいざんのてんだいざすをつとめるあにには、ちんじきじきにはなしをしよう」

 

「まあまあ。恐れ多くも姫巫女様にそこまでしていただけるなんて!! この征夷大将軍・今川義元、ありがたき幸せですわ!!」

 

「ま、待つでおじゃる!!」

 

 口を挟んだ前久であったが彼を前にしても義元は、

 

「あらあら、関白さんでしたっけ? まあまあ、白塗りに描き眉にお歯黒、見事な麻呂っ振りですこと。流石に本場は違いますわね、おーっほっほっほっほっほっ!!」

 

 こんな調子である。前久としては「この駿河のバカ娘め!! 関白よりも将軍の方が偉いとでも思っているでおじゃるか!!」と叫びたかったが、しかしその関白である自分を前にほんのちょっぴりの物怖じも緊張も見せない物腰を見ると、「下手をすれば本当に姫巫女様と将軍が同格だと勘違いしているのでは……」とさえ、思えてきた。

 

 このお飾り将軍が相手では、何を言おうが全て「おーっほっほっほっほっほっ!!」で聞き流されて笑い飛ばされる事は確実であった。前久は知らない事だが朝倉からの横槍によってこじれかけた信澄と長政の縁談話を纏めた時も義元は、朝倉家に義理立てする久政がいくら筋の通った正論を並べ立て、武人の義を説いても結局全部「おーっほっほっほっほっほっ」と笑うだけで、横車を押し切って話を纏めてしまったというタフ・ネゴシエイター振りを発揮している。

 

 全く、これほどまでに押し出しが立派な人間も珍しい。器の大きさだけは本当に天下一なのかそれとも何事にも無感覚な突き抜けた大バカモノなのか。いずれにせよ彼女もまた一個の大人物である事は確かだった。

 

 とんでもない使者を送り付けてきたものだと脳内で信奈へ悪罵の嵐を浴びせる前久であったが、今は現実の問題を処理する方が先決である。和睦話が纏まってしまうのはこの際諦めるとしても、その締結の為に織田軍が叡山に立ち入る許可を出すというのは彼としては絶対に認める事は出来なかった。そんな事をすれば日ノ本の神事を司ってきたやまと御所、引いては姫巫女の権威を失墜させる事にもなりかねぬからだ。

 

 その旨を伝えようと彼が口を開いた、その時だ。

 

「た、大変です!!」

 

 広間に、一人の巫女が駆け込んでくる。

 

「下がれ、姫巫女様の御前でおじゃるぞ!! 騒々しい!!」

 

 咎める声を上げる前久であったが、その巫女は止まらない。顔を真っ青にして「ですが兎に角見て下さい!! 叡山が!! 叡山が!!」と、外を指差して訴えている。

 

 何事かと一同が表に出て、そして一様に言葉を失った。

 

 叡山が燃えている。山全体が、この世に有り得ざる蒼い炎に包まれて。

 

「あ、あれは一体……」

 

 呆然とした前久がそう口走る。彼にしてみればこの状況は、半分までは予想の範疇であった。浅井・朝倉勢が叡山に籠城した事を受けて彼は六角や三好に「織田軍がてこずっている今の内に所領を取り戻すでおじゃる」と指示していたし、長秀の手の者が近隣各地に配置した立て札を呼んで、万一織田軍が叡山焼き討ちを結構などすればこの時とばかり信奈を魔王に仕立て上げ、日本中を織田家の敵とする腹づもりだったのである。だから叡山が燃えているこの状況はある意味では彼の望んだものだったのが……

 

 しかし、予想していなかったもう半分は。これは希代の謀臣をして、言葉を失うのに十分なものがあった。叡山を燃やす蒼い鬼火。織田信奈が叡山に火を放っただけならば「叡山は信奈を追い詰める為の生け贄でおじゃる」と片付けるだけだったろうが、ただでさえ迷信深いこの時代である。前久や公家、それに住み込みの巫女達は姫巫女や陰陽師といった超常の力を振るう者の存在を知っている分、まだ平常心を保てた方だったが、それでも「これは何かの祟りなのでは」と、胸中の不安を吐露し始める。

 

 何が起こっているのかは分からないが……少なくとも織田信奈による焼き討ちなどよりも、もっと尋常ならざる事態が叡山で起きている。それだけは立場を越え、この場の全員が共通して持つ認識となった。

 

 ぱちん、と義元が扇子を畳む音が鳴る。そうして御所の中を振り返った義元の表情からは、炎に包まれる清水寺の中でさえ変わらずに浮かべていた笑みが消えていた。彼女は畳んだ扇子で、ぱんと掌を打った。

 

「これより織田軍は、和睦相手である浅井・朝倉、並びに大勢のお坊様達を救出する為、叡山に入りますわ」

 

 遠く離れた雲母坂の陣の動きを知る筈もないが、奇しくもこれは信奈の決定と同じだった。そして義元の言葉は既に、交渉でも駆け引きでもない。

 

「姫巫女様に関白さん? 確かに、お伝えしましたわよ」

 

 これは、単なる決定事項の通達でしかなかった。

 

「ば、馬鹿も休み休み言うでおじゃる!!」

 

 たまらず抗議の声を上げる前久だったが、義元はもう彼の言葉を聞いていないようだった。足早に御所から立ち去ろうとする。彼女の動きを止められる者は、ここには一人。

 

「まて、よしもとこう」

 

 背後から涼やかな声を受けて、征夷大将軍が足を止める。前久としては「姫巫女様が鶴の一声でこのバカ公方を止めてくれるでおじゃる!!」と、期待を込めて振り向いて、そしてぎょっとした表情になった。

 

 姫巫女は上座から下りて、御簾を越えてすぐそこに立っていたのだ。

 

「おだだんじょうにつたえてほしい。えいざんへのたちいりは、ちんがゆるす。おだぐんはなににきがねすることなく、ぞんぶんにきゅうじょかつどうにうつるように」

 

「ひ、姫巫女様!! そんな前例を作っては京の鬼門を守る叡山の面目が丸潰れ……」

 

「このえ」

 

 咎めるようにほんの少しだけ、姫巫女の語気が強くなった。

 

「いまはひじょうじである。このままえいざんがやけるにまかせればがらんやどう、しょもつだけではない。もっとたいせつなめいそうちしきとよばれるものたちやわかくまじめなそうたちまでうしなってしまう。それはわがくににとってじゅうだいなそんしつである。だんじてかんかできぬ。よいな、このえ」

 

「は、ははあっ……!!」

 

 幼く、たどたどしい口調ながら反論は許さないと強い口調で告げられて、前久は思わず平伏してしまう。鶴の一声を受けたのは彼の方だった。

 

「では、よしもとこう。おねがいしたぞ」

 

「承知致しましたわ。姫巫女様」

 

 義元は優雅に一礼すると、十二単を着込んだ出で立ちからは信じられないような速さで退出していった。一方でまだ平伏したままの前久は、床を睨んだままで頭脳をフル回転させていた。

 

 事ここに至っては、「織田信奈はこの国から身分制度を無くし、やまと御所も姫巫女様も滅ぼしてしまわんと麻呂を脅してきたでおじゃる」という誇大・誇張表現を使えるだけ使った手紙を浅井久政に送り付け、浅井家を織田から離反させる事に端を発した策が全て破れた事を、彼は認めるしかなかった。

 

 だが、これで終わりではない。前久の中では既に、次の悪謀の絵図面が引かれ始めていた。

 

『かくなる上は、更なる強敵を召喚するしかないでおじゃる……!!』

 

 

 

 

 

 

 

 一方、雲母坂の織田軍本陣。

 

 ここでは上の将も下の兵も、かつてない程に慌ただしく動いて出陣準備を整えていた。これから行う消火・救助作業は、ある意味今までのどんな戦よりも重要な任務であると言えた。

 

「急げ!! こうしている間にも火は広がっているぞ!!」

 

 突入部隊を編成する勝家の表情も、普段の戦に向かう時とは違った緊張を纏っている。

 

「じゃあ銀鈴、後の事は任せたわよ!!」

 

「信奈様、方針の指示を……」

 

 と、深鈴。主君不在の間、後方の指揮を任された彼女にはある程度の自由裁量権が認められるが、それでも大まかな戦略的指針は確かめておかねばならなかった。これを聞かないままにしておいては、信奈が望むものと全く違った指示を出してしまう事になりかねない。

 

 こうした事情から最終確認を取っておくのは当然の行為と言えるのだが、しかしこの非常事態にあってもしっかりとその基本を守れている深鈴を見て、半兵衛は「慎重ですね」と頷いた。

 

 だがこの問いを受けて、信奈からの返答は予想を超えたものだった。

 

「無いわよ、そんなもの」

 

「はっ……?」

 

 出すべき指示が無いと言われ、深鈴も半兵衛も戸惑い動揺した表情となるが……しかし、信奈の言葉には続きがあった。

 

「後の事は全部、あなたに任せる。あなたの好きにやりなさい」

 

「は……しかしそれでは……」

 

「銀鈴、あんたもっと自分に自信を持ちなさいよ。あんたのやる事が一度でも、私や織田家の為にならなかった事があった? もう一度言うわ。後の事は、任せたわよ!!」

 

 言い終えると同時に信奈は愛馬を走らせ、燃える叡山へと駆け出していった。そしてその後を、

 

「あたしと違ってお前は頭が良いんだ。大丈夫、きっと上手く行くさ!!」

 

 勝家が、

 

「銀鏡殿の実力は姫様だけでなく、今や家中の誰もが知っています。気負わず、普段通りの能力を発揮すれば良いのですよ」

 

 長秀が、

 

「信奈様の事は、私が責任持って守るです!! 先輩の仕事は信奈様や私達が戻ってくる場所を守る事。お任せしたですよ!!」

 

 光秀が、

 

「……頑張ってくる」

 

 犬千代が、

 

「うふ。織田家中随一の知恵者と呼ばれる貴女の実力。存分に拝見させていただきますわ」

 

 久秀が、他にも織田家諸将が後れを取るなとばかり続いていき、兵卒達もそれに続いていく。後には深鈴と半兵衛と五右衛門、それに留守番役の僅かな兵だけが残される。

 

「……よし!!」

 

 ぐっと拳を握り締める深鈴。

 

 全てを任せるという信奈の言葉。あれは全幅の信頼の表明に他ならない。臣下として、これほどの幸福があるだろうか。

 

 ここで信頼に応えずして何の臣か、何の忠か。

 

 ぱん、と頬を叩いて気合いを入れる。

 

「戦闘開始よ!!」

 

 深鈴はまず、すぐ傍に立っている今井宗久に向き直った。

 

「今井殿、あなたには十分な物資とその流通経路の確保をお願いします」

 

「わいが、でっか?」

 

 頷く深鈴。この大火災の被災者は浅井・朝倉・僧兵合わせて相当な数に上るだろう。彼等への食料、薬や包帯など医療品、冬の寒さに耐える為の衣服・燃料。必要な物はいくらでもある。そうした品物を確保するのに会合衆を束ねる豪商である宗久は、まさにうってつけと言える。

 

「勿論これはお願いや命令ではなく、歴とした商取引です。掛かった経費は後で私に請求して下さい」

 

「よし、承りましたで。早速、堺に早馬を飛ばして……」

 

「宗久さん、私からもお願いが」

 

「半兵衛はん?」

 

「私の陰陽道で雨を呼び、消火作業を手助けします。その為に必要な物をここに記したので、それも一緒に揃えてもらえますか?」

 

 半兵衛はかつて斉藤義龍に仕えていた時も、陰陽道によって濃霧を発生させ、織田軍の侵攻を防いだ事がある。今回もその術を使おうと考えているが、しかし天候を変化させるような大規模な術にはそれなりの前準備が必要となる。あり合わせになるが、術式起動の為に必要な道具を揃えなければならなかった。

 

「よろしおま。それでは!!」

 

「では銀鈴さん、私も」

 

 そう言って宗久は陣から走り去り、半兵衛も術の準備に取り掛かっていく。深鈴はそれを見届けると、第二の指示に移った。

 

「次は衛生班を組織せねば……ちょっと、そこの方!!」

 

「はっ!!」

 

「京に戻って、私の食客達の中で医術の心得のある者を呼んできて下さい。それと、京に残してきた守備隊にも協力してもらって、近隣の医者という医者を全て掻き集めて連れてきて!! 妙覚寺に逗留されている曲直瀬ベルショール先生にも連絡を。先生には衛生班の指揮を執ってもらいます」

 

「はい!!」

 

 その足軽は馬に跨ると、風を追い越す勢いで京へと駆けていく。彼を見送った深鈴は、今度はすぐ傍に立っているルイズ・フロイスへと向き直った。

 

「フロイスさん、あなたにも協力を頼みたいのですが……」

 

 これは命令や商売ではなく、純粋に人道的見地からのお願いだった。フロイスは織田家の家臣でも深鈴の食客でもなく、織田家の為に働く義務は無い。しかしその願いを受け、宣教師は反射的な速さで了解の返事を返してきた。

 

「喜んで協力させてもらいます。傷付いた方を助ける事もまた、神のしもべとして大切な役目ですから。それでギンレイさん。私は何をすれば?」

 

「衛生班の一部には、今井殿が集めてきた食料を調理して被災者の方に食事を用意させます。フロイスさんは彼等の指揮に当たって下さい」

 

「分かりました。では被害に遭われた方々が救助後すぐに暖を取れるよう、ただちに準備に掛かりますね」

 

「お願いします」

 

 役目を与えられたフロイスもまたその場を離れ、深鈴は今度は前野某を呼び出した。

 

「嬢ちゃん、俺に御用ですかい?」

 

「ええ、質問だけど、今の銀蜂会ですぐに用意出来るお金はどれほどになるかしら?」

 

 この問いを受けた前野某は懐から帳簿を取り出し、読み上げていく。

 

「えっと……ざっと、五十万貫ってところかと」

 

「よろしい」

 

 提示された数字に、深鈴は満足げな笑みを見せる。以前、彼女と光秀が義元の将軍宣下の為に集めた金は合計で二十八万五千貫。内二十五万貫を御所に奉納したが姫巫女の意向で二十万貫が返却されており、二十三万五千貫の資金は深鈴に預けられ、銀蜂会によって運用されていた。

 

 元々京はこの国の中心であり、織田軍によって治安が回復した現在の市場規模は尾張や美濃を凌ぐものがあった。更に上洛以前から銀蜂会は尾張・美濃の商売の元締めとして有名だったが、京への進出に当たって深鈴が開催した相撲興行の大成功を受け、京の富豪・商人・民衆の間では彼女の名前と銀蜂会の存在が浸透しており、このネームバリューもまた商売を行うに当たって絶大な威力を発揮した。

 

 元金が二十万貫を越える大金であった事もあり、今や銀蜂会が挙げる利益は想像を超えた巨額に達している。たった今前野某が言った五十万貫ですら、いざという時の為に右から左へ動かせるようプールされていた金に過ぎないのだ。そしてそのいざという時が、今だ。

 

「では織田家はその五十万貫そっくり、今回の火災発生を受け、叡山の再建費用として寄付すると発表して下さい」

 

「ええっ!? 全部、ですかい?」

 

 何とも剛毅な話だが、しかしこれを聞いた前野某は腰を抜かしそうになった。失礼とは思うがそれでも、眼前の少女の正気を疑ってしまう。浅井・朝倉に与し、織田に敵対した叡山の救助活動を行うという信奈の判断だけでも過分に過ぎる処置だと思っていたのに、この上そんな大金を寄付しようとは?

 

 ……という、前野某の反応は自然なものである。そして銀蜂会の№3、副会長補佐である彼ですらこれほど驚くのである。他の者がこの話を聞いたらもっと驚くだろう。それこそが深鈴の狙いだった。

 

 この叡山大火はただでさえ信奈軍による攻囲中に、しかも猶予期間としてこちらから提示した三日間の内に起こったのである。織田勢の不利になる要素が一杯、と言うよりその要素しかない。特に「叡山が回答期限を過ぎても何も言ってこないようなら焼き払う」と公表してしまっているから、遅かれ早かれ世間には「山に火を放ったのは織田軍ではないか」という疑惑が確実に浮上するだろう。

 

 この疑惑を払拭もしくは少なくとも世間の目を逸らす為には、叡山が燃えるというビッグニュースに匹敵する程の強烈なインパクトが必要となる。そこで、この巨額の寄付である。かつて信奈の父・織田信秀がやまと御所に四千貫を奉納した時でさえ、各国の大名達は驚いたのである。今回は実にその百二十五倍!! 話題性としては十二分、上手く行けば信奈の信心深さをアピールして、日本中の仏徒の感情を味方に付ける事すら可能かも知れない。

 

 それでも今回の救助活動について、信奈の自作自演だと主張する者は少なからず居るだろうが、しかし彼等に対してもこの五十万貫寄付は大きな衝撃を与える事が出来る。いくら浅井・朝倉を討つ為とは言え、それほどまでの巨額を払ってしまって果たして割に合うのかと。

 

 とにかく、今現在最も避けなければならないのは「この火災の黒幕が織田家である」という疑惑が、大勢の人の間で共通の認識として固定化されてしまう事態である。それこそ日ノ本全土の仏徒を敵に回し、天下取りを十年遅らせる事になる。逆に「もし織田信奈が犯人なら、これほどまでの大金を寄付する訳がない」という評判が買えるのなら、五十万貫が百万貫でも安いものだと深鈴の算盤は弾き出していた。

 

「しかし、良いんですかい? いくら織田家とは直接関係の無い銀蜂会の金とは言え、勝手にそんな事して」

 

「私に全て任せると、信奈様からはお言葉を頂いてるわ」

 

 言質は取っている。それに結果的にであるがこの状況は、当初の目的を達成しているとも言える。

 

 信奈が叡山に求めた条件は浅井・朝倉連合軍を山から出す事と僧兵全ての武装解除である。この火災によって浅井勢も朝倉勢も山からは焼け出され、僧兵達もまず間違いなく壊滅に近い被害を被るだろう。かなり乱暴な過程を踏むが、条件を呑んだのと同じ状況になると予想出来る。そうなれば織田勢には、彼等を保護する用意があった。ならばこの対応は、信奈の意向に沿っている。

 

 また深鈴とて、この寄付によって損をするつもりは無い。

 

 生き残った僧達に五十万貫の元手があるとは言え、この国の仏法の聖地を再建しようというのである。その為に動く人と物、それらがもたらす経済効果たるやどれほどになるか。それを銀蜂会が取り仕切る。これは言わば先行投資、いずれ三倍にして取り戻してみせる。

 

 最大の問題点は、寄付金を軍資金として叡山が再度軍備を整えて一大武装勢力となってしまう危険だが……その可能性も低いと、深鈴は見ている。五十万貫もの大金を寄付するのである。如何に表面上は中立を謳った所で、再建される叡山には織田家が多大な影響力を持つ事が可能となる筈だ。その時に、武力の永久放棄を約束させれば良い。

 

 こうした点を前野某に説明すると、彼も漸く納得が行ったようだった。「分かりやした!!」と気持ちの良い返事を返すと、寄付金の用意とその情報を派手にぶち上げる為の準備へと移っていく。

 

 深鈴は次には、待機している五右衛門へと向き直った。

 

「五右衛門、あなたは諜報部隊の半数を率いて、現在の状況と織田家の対応を流言として伝えて。今回は、脚色は一切無しで」

 

「分かり申した。やはり近隣から話を広めていくでごじゃるか?」

 

「いや、今回は京から離れた場所、東は尾張や美濃、西は堺方面に流言を広めて」

 

「……と、言うと?」

 

「叡山があの蒼い炎に焼かれているのは、近隣の人達からは見えてるわ。つまりは彼等には、この状況が只事ではないとは十分に伝わっている筈。逆にこれを見ていない遠い地の人達は、人から人へと伝わる中で尾鰭が付いた噂や意図的に改竄された情報を耳にして、織田家が犯人だと誤認する可能性がかなり高いわ。状況から考えてもね……」

 

「成る程、故に我等が先手を打って、正確な情報を伝えるでござるにゃ」

 

「そういう事。お願いするわね」

 

「承知!!」

 

 明瞭な返事と共に、五右衛門は姿を消していた。

 

 いつの世も最も恐るべきは、無知とそれに伴う混乱である。

 

 情報が無い、あるいは錯綜して何が事実か分からないような事態になると、必然的に声が大きい者や人を煽り立てるのが上手い者の意見ばかりが通るようになり、それは往々にして事態を悪化させる。だからこそ深鈴は混乱を抑える為に、正しい情報を発信する手を考えたのだ。これは未来の、情報時代に生まれた彼女ならではの発想だと言える。

 

「山科卿に使者を送って!! 事態が収束した後、信奈様の名代として私が会談を望んでいると!!」

 

「はい!!」

 

「京に残してきた守備隊にも動揺するなと指示を出して!! 織田軍が慌てふためけば民にも混乱が波及するわよ!!」

 

「分かりました!!」

 

「もう一度、各隊に連絡を!! どんな些細な報告も全て私に回るよう徹底して!!」

 

「はい!!」

 

 矢継ぎ早の指示を受けて本日何度目かの早馬が陣を飛び出していくのを見送ると、深鈴は意識の大半を思考の海へと沈め始めた。

 

『これだけやれば織田に対する世間の非難・疑惑をかなり抑える事は出来る筈……』

 

 現在、各国が織田に抱いている感情を友好・中立・敵視の三段階だとして、少なくとも友好から中立までの感情を持った勢力はこの対応を見て、織田家黒幕説の疑惑を薄れさせるだろう。

 

『問題は、明確に織田を敵視している勢力よね……』

 

 彼等にとってはこの大火が織田の手によるものだろうが浅井・朝倉・叡山連合の仲間割れによるものであろうが事の真偽などどうでも良く、意図的に織田家を犯人に仕立て上げるよう情報操作を行った上で、各国にリークするに違いない。これから始まるのは彼等と深鈴の間で交わされる虚実を使い分けた、イメージの銃撃戦だ。

 

『今現在で最も信奈様を危険視し、かつ各国に対する影響力が強い人物は……!!』

 

 数秒ばかりその条件で頭脳に詰まった情報を検索し、やがて一人の人物の姿が浮き上がってくる。深鈴は意識を表層へと浮上させ、今度は彼女の影の中に潜んでいたもう一人の忍者、加藤段蔵へと声を掛けた。

 

「段蔵、あなたは諜報部隊の残り半数を率いてやまと御所を監視し、もし東へ向けて使者が出た場合には構わない、人気の無い所でその使者を捕らえなさい」

 

<……よろしいのですか?>

 

 段蔵が纏う黒いボロ布の袖口から、そう書かれた紙が飛び出した。

 

 飛び加藤こと加藤段蔵と他の忍者、つまり服部半蔵や蜂須賀五右衛門らとの決定的な相違点は、彼あるいは彼女が金で雇われた傭兵であるという事だ。時には主君である元康や深鈴に助言を与えて補佐する事もある二人とは異なり、段蔵は雇い主が契約違反を犯さぬ限りはどんなムチャ振りであろうと、何も考えず命令を確実に遂行するだけの精密機械のような男あるいは女なのである。その彼あるいは彼女が尋ね返してくるのだ。今回の深鈴の命令がどれほどヤバいものなのかは、推して知るべしであった。

 

 御所から出た使者を襲うなど、もしこの事が明らかになれば、それこそ織田家は逆賊としての汚名を晴らせなくなる。そこまでの危険を犯してまでやる事なのかと段蔵は確認するが、深鈴の答えは変わらなかった。

 

「誰かに見られても織田家の仕業と気取られないよう、山賊を装って襲うのよ。大丈夫、万一の時は全て私が責任を取るわ。あなたは、任務を果たす事だけ考えて」

 

<承知>

 

 返答が書かれた紙を渡すと、段蔵もまた姿を消す。そうして残された深鈴は、ふうっと大きく息を吐いた。

 

「これで……思い付く限りの手は打ったけど……」

 

 己の人知の限りを動員し、人事を尽くした。その、筈なのだが。しかし他にやるべき事は無かったか、本当に全てをやり尽くしたのかと、千に一つの手抜かりも見逃すまいと深鈴の頭脳はフル回転を続けていた。

 

 次の一手は……

 

「源内!! 火砲部隊の準備は!?」

 

「全て整っております、深鈴様」

 

 カラクリ技士の報告に、深鈴は頷く。

 

「よし。では、全ての砲を叡山に向けなさい。突入部隊を援護するわよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 燃える叡山へと突入した信奈達は、前鬼を先頭として山道を進んでいた。こんな時でもなければ高所から見下ろす京の景観を楽しめていたのだろうが、今は全員、前しか見ていない。

 

 すると前方から、亡者の群れが現れて向かってきた。数は、ざっと五十体ほどか。

 

「下がれ、織田信奈よ」

 

 先頭に立っていた前鬼はそう言って前方に躍り出ると、

 

 オン、バサラ、ダルマ、キリ、ソワカ。

 

 千手観音よ、来たれ。

 

 呪文を唱え、式神が繰り出した不可視の拳は、一瞬にして亡者達を覆滅していた。槍刀では斬っても突いてもびくともしない屍兵共も、式神のような霊的な力ならば有効打となり得る。打ち砕かれた屍体は、二度と再び動き出す事はなかった。

 

「これが、亡者……」

 

 正覚院豪盛から話は聞いていたが、成る程こんなのが大挙して押し寄せてきたというなら、彼が悪夢を見た童子のように怯えていたのにも頷けるというもの。

 

「良いか、ここから先は亡者共で溢れておる。十分に注意して進むのだ」

 

「みんな、聞いての通りよ!! 絶対に本隊から離れず、固まって行動するのよ!!」

 

 信奈が指示を飛ばしていると、再び亡者が現れた。

 

「ここはあたし達が!! 合わせろ、犬千代!!」

 

「……分かった。せ、え、の……っ!!」

 

「「うりゃあああああっ!!」」

 

 前に出た勝家と犬千代が愛槍を交差させて思い切り振りかぶると、異様な風切り音を伴うほどの速さで振り下ろした。火薬も使わないのに何かが爆発したような轟音が響き、亡者達が木っ端のように吹き飛ばされる。

 

「どうだ!!」

 

 柄を伝わってきた感触から、今の一撃が完全に入った事を確信してにっと笑みを見せる勝家。人間相手ならこれでも十分以上なのだが……

 

「……って、まだ動くのか?」

 

 百戦錬磨の彼女も初めての敵を目の当たりにして、流石に戸惑いが見える。

 

 魔界の死兵達は、特に損傷の大きい数体こそ動きを止めてはいるが、大多数は四肢の一部が欠損するなど確かにダメージは見て取れるものの何の痛痒も感じてはいないかのように立ち上がって、再び向かってくる。

 

「鬼柴田よ、注意しろ。この亡者達は霊的な攻撃以外では首を落とされようが動き続ける。そなたらの武器は不利だ」

 

「話に聞いてはいたが、一度見てみるまでは信じられなかったよ……だがそれなら、手はあるぞ」

 

「……壁隊、前へ!!」

 

 犬千代が朱槍を振るのを合図として、銃弾避けに使われる竹束を盾のように構えた部隊が横一線に並んで前進し、竹束を壁のように使って亡者達にぶつかっていく。

 

「ようし!! 次は槍隊、前に出るです!!」

 

 今度は光秀の指示を受け、三間槍を構えた部隊が二列目として前進し、得物の長さを活かして壁となっている竹束と竹束の隙間から槍を突き出した。

 

 この戦法は、亡者共を倒せはしないまでも進行を防ぐのに一定の効果を発揮してはいた。これまでは思うさま暴れていた不死の兵団が、密集隊形を取った織田軍に阻まれて進めなくなった。前鬼も「やるではないか」と感心した表情になる。

 

「だが、守っているだけでは芸が無い。こちらからも仕掛けるとしよう」

 

 そう言って進み出たのは、子市だった。

 

「焙烙火矢隊、出番だ!!」

 

 彼女がさっと手を上げると、通常の種子島よりも銃身が太い大筒を手にした一団が進み出た。彼等は横一線に並ぶと武器を構え、前方に狙いを定める。

 

 数秒程の間を置いて、炎の中から再び亡者達が姿を現した。生者である織田勢を自分達の同胞に加えんと、襲い掛かってくる。

 

 悪夢の中にいるようなこの状況を受けて、訓練を重ねた兵達にも怯えが見えた。表情を強張らせて今にも引き金を引きそうになるが、

 

「まだだ!!」

 

 子市の一喝が、それを止める。

 

「まだまだ……十分引き付けろ」

 

 亡者の群れがどんどんと近付いてくるが、子市は動じない。そうして葬列が目に見えぬ一線を越えてきた瞬間を正確に見極めると、上げていた手を振り下ろした。

 

「今だ、撃てぇっ!!」

 

 その合図と同時に十数挺はあった大筒の引き金が一斉に引かれ、轟音。そして一瞬の間を置いて更なる大轟音が発生して、同時に起こる大爆発!! 閃光と爆煙で、何も見えなくなる。

 

 そうして十数秒が過ぎて立ち込める爆煙が晴れた時には既に、亡者達の姿はこの世から失せていた。

 

「ふん……文字通り往生際の悪い連中だが……跡形も無くなれば大人しく成仏するだろ」

 

 と、子市。たった今使ったのは焙烙火矢といって、乱波などが使う焙烙玉を発射し、着弾と同時に爆発させる新兵器だった。雑賀衆でも少数ながら使われている物を、子市の話から源内が再現して鉄砲隊に配備していたのだ。叡山を襲う亡者達は粉々にでもしない限りは前進を止めない不死の軍団。ならば粉々にしてしまえば良いと、単純な方法論だった。

 

「姫様、ここはあたし達が!!」

 

 槍を風車の如く回して景気良く亡者を吹っ飛ばしながら、勝家が叫ぶ。聖地を舞台とした生者と亡者の戦いはほぼ五分、否、僅かだが織田勢が押しつつあった。

 

 魔界転生によって喚び出された亡者の軍勢の最大の強みは数、物量である。屍兵一体一体は一般的な足軽と比べても高い能力を持っている訳ではない。だが、今回のように一定以上の頭数を揃えて軍団として運用した場合、亡者が殺した人間も亡者になるという性質上、特に軍団同士の戦いでは敵が多ければ多いほどネズミ算の要領で数を増やしていき、手が付けられなくなる。そうして増えた亡者達によって押し切って勝つ事が、この術の単純ながら最も効果的な戦法だった。

 

 しかし今、叡山に満ちる気を受けて普段とは比べ物にならぬ力を得た前鬼や、現世の依り代となっている肉体を木っ端微塵に破壊する威力を持った焙烙火矢によって亡者達は倒されている。また、頑丈な竹束を前面に押し出した織田軍に近付く事は容易ではなく、数を増やす事も封じられていた。

 

 こうして徐々にではあるが、だが確実に死霊の軍団はその総数を減じつつあった。

 

 指揮官である信奈は馬上よりこの様子を見て取ると、この場は勝家達に任せて先へ進もうと手綱を握るが……その時だった。

 

 どどどんと、先程の焙烙火矢の一斉射が虫の羽音に聞こえるような轟音が、麓から聞こえてくる。この音に、織田家の諸将は聞き覚えがあった。

 

「これは……源内殿の轟天雷です!!」

 

「……って事は、銀鈴の指示か? 何考えてんだ!! あたし達をぶっ飛ばすつもりか!?」

 

 毒突く勝家だったが、間髪入れず「違うわ!!」と信奈が一喝した。

 

「弾の風切り音もしなければ、着弾音も衝撃も襲ってこない。つまり、今のは空砲よ!! 全軍に炎には近付くなと指示しなさい!! 源内の大砲は燃えている所と燃えていない所の、その境目を正確に狙ってくるわ!! ぐずぐずしないで!! 二射目からは実弾が飛んでくるわよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「深鈴様、信奈様達は、空砲の意味にお気付きになるでしょうか?」

 

 どこか不安げな視線を向ける源内に対して、深鈴はこちらは自信たっぷりに頷いてみせる。

 

「信奈様なら、分かるわ。第二射の準備を」

 

「……承知しました」

 

 源内の指示を受け、火砲部隊は手際良く轟天雷に砲弾を装填、発射準備の整った砲から射角を僅かに修正して、

 

「撃てぇっ!!」

 

 叡山めがけて次々発射。耳を塞いでも尚鼓膜を破りそうな大轟音が続け様に響いていく。

 

 撃ち出された鉄球の着弾点は信奈が言った通り山中の、燃えている場所と燃えていない場所の、その境界線だった。この砲撃は信奈への裏切り行為や奇策などでは断じてない。寧ろ、実にオーソドックスな消火作業だと言える。

 

 この時代の建築物は殆どが木製であり、いざ火事が起こった場合には、特にそれが住宅が密集した市街地であった場合には延焼を防ぐ為、燃えている建物に隣り合った建物も打ち壊してしまう。町中ではそれを火消し達の手による人力で行うが、今回は大砲を使用する。つまり、砲撃によって燃える物を根こそぎ吹き飛ばしてしまって、火の広がりを止めるのだ。あたかもドミノ倒しを、間のブロックを抜いてしまって止めるように。無論、これは源内の正確無比な射撃術あってこその策だが。

 

 懸念すべきはこのダイナミック消火作業に信奈達が巻き込まれる事だったが……それを避ける為の、最初の空砲だった。空撃ちの轟音は、信奈達へ宛てた警告メッセージだったのだ。山中の信奈はまさに以心伝心、正確に深鈴の意図を読み取って、部隊に適切な指示を出していた。

 

 そしてこの砲撃は、単なる消火作業に留まらずしっかりと突入部隊の援護にもなっていた。

 

 信奈の指示を受けた織田軍は火を避けて安全地帯に退避しているが、本能が命ずるままにただ生者に襲い掛かるだけの亡者達はそんな動きを取る事は出来ない。雨霰の如く降り注ぐ砲弾は屍兵だけを吹き飛ばし、その数を大きく削っていた。

 

 更にこの砲撃は亡者だけではなく、山を燃やす鬼火すらも爆風によって吹き飛ばし、そこには”道”が生まれていた。拓かれたその”道”を、信奈率いる部隊は駆け上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

「う……ぬう……」

 

 浅井久政は鬼火に包まれる庫裡にて、手にした脇差しの光る刃を睨んでいた。

 

 既に侵攻してきた亡者の群れによって、浅井・朝倉・叡山連合はほぼ壊滅状態。彼に残された道は、三つしかない。

 

 一つは亡者に殺されて亡者になる道。

 

 一つはこのまま山を下って、織田の縄目を受ける道。

 

 そして最後の一つは……蒼い炎を映して妖しく光る白刃を見て、久政はごくりと唾を呑んだ。

 

「何故、このような事に……」

 

 朝廷への忠義を全うして叛臣を成敗し、我が子を天下人の座に据えようとしただけなのに、どこで間違ってしまったのか。

 

 やはり、この仏法の聖地を戦に利用した事が過ちだったのだろうか。これは自分や義景殿へと下された仏罰なのであろうか。押し寄せてきた腐臭を放つ葬列の姿が、久政の脳裏によぎった。

 

「あんな姿になるぐらいなら……」

 

 彼は震える手で、脇差しを逆手に持ち替える。今更何を迷うと言うのか。確かに戦下手だの臆病者だのと揶揄される自分だが、ここまで卑怯未練に命を惜しむ根性無しだったのか? 否だ。どうせ助からない命を惜しんで亡者になるなど、生き恥を通り越して死に恥を晒し続ける愚挙。かくなる上は武人として最後の意地を、通さねばならぬ。

 

 久政は震える手で振りかぶって、そうして自分の腹めがけて脇差しを突き出して、

 

 ぎぃん。

 

 庫裡に響いたのは気持ちの良い金属音であった。いきなり横合いから襲ってきた衝撃によって弾かれた脇差しは空中でくるくると舞って、床に落ちた。勿論、久政の体には一寸の傷すら刻まれてはいない。

 

「なっ……」

 

 呆然と顔を上げる久政。そこに立っていたのは、炎の中に在っても凛とした佇まいを崩さぬ美しき姫武将だった。脇差しを叩き落としたのは、彼女が手にする名刀「左文字」であった。

 

「何やってんのよ!!」

 

「お、織田信奈……!!」

 

「助けに来たわ、さっさとこんな場所からはおさらばするわよ!!」

 

 少しの間、久政は信奈が何を言っているのか分からなかったが、しかしはっと正気に戻ると落ちている脇差しへと手を伸ばそうとする。事ここに至って信奈を害そうとする目論見ではない。ただただ彼が、武人としての最期を遂げる為だった。

 

 しかし、久政の手より信奈の足が早かった。脇差しは彼の手が届かない所まで蹴り転がされてしまう。

 

「織田信奈……貴様はワシに、生き恥を晒させる気か……!!」

 

 信奈を睨む久政。この謀反人は長政を天下人にというワシの夢を潰しただけでは飽き足らず、武士としての死に場所すら奪おうと言うのか?

 

 そんな久政の恨み言を受けて、だが信奈は、

 

「馬っ鹿じゃないの?」

 

 そう、言い捨てた。そのまま久政の胸ぐらを掴むと、ぐいっと引き寄せて無理矢理立たせる。

 

「人は死なない方が良いに決まってるでしょうが!! 精一杯生き抜く事もしないで、何が死に場所よ!! 生きて、生きて、生き抜くの!! 死に場所なんて棺桶に入ってから考えればいい!! 繰り言なんか、墓穴に入ってから蛆に聞かせれば良いのよ!! 分かった!?」

 

 怒気と共にそう言い放つ今の信奈には、一瞬ながら久政から死の決意を忘れさせる程の迫力があった。

 

「こ、この状況で生き残る当てがあると言うのか……?」

 

「勿論よ」

 

 信奈は、死地に在るとは思えぬほどに不敵に笑ってみせる。次の瞬間、庫裡の壁が吹っ飛んだ。亡者が入ってくると想像した久政は思わずびくっと体を竦ませたが、しかし予想に反して現れたのは木綿筒服姿の青年式神・前鬼と、長秀によって率いられた兵士達だった。

 

「姫様、お急ぎ下さい!! 退路は確保していますが、長くは持ちません!!」

 

「……と、こういう訳ね。行くわよ!! 前鬼、あんたが久政を担いで」

 

「なっ、織田信奈、貴様、何を勝手に……!! うわっ!!」

 

 抗議する久政だったが、彼の言葉は式神によってひょいと担ぎ上げられた所で遮られてしまった。

 

「あんたが死んだら、長政が悲しんで、そしたらお市……信澄まで悲しむでしょ!! 私はあんたを捕らえた、故にあんたを煮ようが焼こうが私の勝手!! よって久政、あんたには生きてもらうわよ!!」

 

 一方的にそう言い渡すと、信奈は再び愛馬に跨り、丹羽隊が確保していた退路を駆けて下山していく。久政を抱えた前鬼も、その後に続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 朝倉義景の方も状況は似たようなものだった。彼が座すお堂の壁一面には源氏物語に登場する美しい女性達の姿が描かれていたが、その姿も炎に焼かれて、消滅しつつあった。

 

「余は、こんな所で死ぬのか……この現世には所詮、余の居場所など何処にも無かったという事なのか……」

 

 ほんの数分後には火に捲かれるかそれとも酸欠で死ぬかという命の瀬戸際なのに、彼の口調はまるで第三者の視点から演劇でも見ていて、その感想を述べているようだった。

 

「それも良いか……現世とはいつもこうだ。本当に欲しい物は、何一つとて手に入らぬ……」

 

 ぶつぶつと呟きながら、手にした絵巻物を広げようとした、その時だった。

 

「何を仰っているのですか?」

 

「ぬっ?」

 

 背後から聞こえてきた声に義景は振り返って、そして思わず言葉を失った。

 

「織田……信奈か……」

 

 辛うじて、そう絞り出すのが精一杯だった。

 

「助けに参りましたわ、朝倉義景殿」

 

 信奈はそう言って、さっと手を差し出してくる。この瞬間、義景の頭の中からはこの堂が火に包まれている事も、”何故に織田信奈が供の一人も連れずにこんな場所に現れるのか”という疑問すら、綺麗さっぱり消えて無くなってしまっていた。今の彼の心は、そんな些事よりも遥かに重要な事が占めている。

 

「何と美しい……織田信奈よ、そなたは余が思い描いていた通りの美しき姫君であるな。美しい。臓腑を全て抜き取ってそのまま剥製にしてしまいたい程に美しいぞ」

 

「光栄ですわ」

 

 艶めかしい口調で信奈はそう返事して、義景が伸ばしてきた手を取ってそのまま自分の方に引き寄せると、勢いに任せて唇を重ねた。

 

 義景は驚いたが、しかしそれも一瞬の事でしかなかった。この美しき姫大名の唇を自分の物と出来るのである。彼は他の全てを忘れて己が身を焦がす快楽に耽溺した。

 

 信奈は一度唇を離すと、間髪入れずもう一度唇を重ねてきた。先程の接吻は初めてだったのか唇を重ね合わせるだけだったが今度のは情熱的で、舌を入れて絡ませてきた。義景もまた少しも拒まずにそれに応じた、その時だった。

 

 不意ににゅるっとした感覚が口の中に走り、何かが彼の喉奥へと流れ込んでくる。信奈の唾液かとも思ったが、しかし彼の舌には今まで口にしたどんな酒や茶とも違う不可思議な味が広がっていた。

 

 何かがおかしい。そう思った時には、もう全てが遅かった。

 

 目を開けてみるとそこに立っていたのは亡き母の面影を重ね合わせる美姫ではなかった。代わりに褐色の肌をした、妖艶な魔女が義景を見下ろしていた。

 

「貴様は……松永……!!」

 

 全てを悟った義景は久秀の体を突き飛ばすと口に指をやるが、示指と中指が前歯に引っ掛かった所で彼の動きは止まってしまった。口端からは涎が垂れて、目からは意思の光が消え失せている。口移しで飲まされた薬が、覿面に効果を発揮したのだ。

 

「くすっ。これであなたさまは、私の傀儡。現世がお嫌なれば、いつまでも終わらぬ夢の世界へ旅立ちなさいませ」

 

 先程まで義景が見ていた信奈の姿は、久秀が仕掛けた幻術だった。彼は術の効果も手伝って、自身の願望を久秀に投影していたのだ。

 

 久秀としては幻術に落としてしまった時点で義景を殺してしまう事も簡単だったが、それはしないでおいた。今回の救出作戦を成功させる絶対条件として、浅井・朝倉・叡山それぞれの代表者である浅井久政、朝倉義景、正覚院豪盛の三名には少なくとも生き残ってもらわねばならない。もし三名の内一人でも死んでしまえば、この叡山大火のどさくさに紛れて織田家が暗殺したのではという疑惑を拭い去る事が不可能となるからだ。その疑惑はそのまま、この大火が織田の手によるものではという疑惑に直結する。

 

 信奈を実の娘のように想っている久秀としては、彼女の望みは出来る限り尊重してやりたかったが……しかしだからと言って朝倉義景をただ助けるという選択肢も有り得なかった。

 

 浅井久政は戦下手の無能故、放っておいてもいずれ自滅する。

 

 正覚院豪盛は押し寄せた亡者達によって恐怖を潜在意識にまで刷り込まれ、闘争本能を完膚無きまでに破壊されている。今後織田家に敵対するどころか、二度と武器を手に取る事すら出来はしない。

 

 だが朝倉義景はだけは拙い。彼の武将としての器量を久秀は知っている。野放しにしておくのはあまりに危険過ぎるし、傀儡達によって掴んだ情報によればこいつは常々「織田信奈を我が館に連れ帰りたい」と口走っていたという。許せない、こんな奴は生かしておく訳には行かない。……と、言いたい所だが先の理由から彼には生きていてもらわなければならない。少なくとも今しばらくは。

 

 そう、”生きてさえいれば良い”のだ。誰が見ても様子がおかしい事は、正覚院豪盛がそうであるように亡者に襲われて精神の均衡を崩したなどいくらでも言い抜けの道がある。

 

 付け加えるなら、今回の火災で浅井家は保有していた戦力の殆どを失い、久政が生き残ろうが長政が跡を継ごうが、最早織田の脅威には成り得ない。だが朝倉は、未だ本国に一万の兵を残している。久秀としては絶対に、ただで帰す訳には行かなかった。

 

「では義景殿、ここは危険ですわ。私共々、織田の陣までおいでなさいませ」

 

「……あいわかった」

 

 蠍の毒にやられた新しい犠牲者を伴いながら、久秀も叡山を下りていった。後には燃えるお堂と、そのすぐ外に倒れた真柄姉妹以下十数名の朝倉兵だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……そろそろ、潮時か」

 

 燃える根本中堂を背にしながら、宗意軒は呟いた。

 

 織田軍による救助活動は順調に進んでおり、麓からは霊力の集中が感じられる。恐らくは竹中半兵衛が大規模な術を発動する前触れであろう。

 

 信奈が滅ぼす為ではなく救う為に叡山に兵を進めた事は、嬉しい誤算だった。これでは彼女はその身も顧みず燃える叡山から敵をも助けようとした英雄になる。宗意軒が、望んだ通りに。この場所で彼がやる事は、後は二つだけだった。

 

 指を鳴らす。ぱちんというその音を合図とし、彼の周りに護衛として置いていた亡者達に鬼火が着火し、彼等がその身が果てるまで焼かれて、消えていく。同じ事が、この山中に展開した全ての屍兵に起こっている筈だ。まずこれで、亡者達の始末は完了した。

 

「では、最後の後始末に掛かるとするか……」

 

 もしこの叡山大火で主犯である自分と織田家との関係が明らかとなれば、当然ながら救出活動は織田家の自作自演であったと見なされ、信奈の評価は英雄から一転、魔王より尚悪い鬼畜外道の烙印が押される事だろう。宗意軒としては、それだけはやってはならなかった。ここまで積み重ねてきた事、自分が殺した何千という命、全てが無駄になる。

 

 露見するのが万に一つの可能性であろうと、全ての証拠は消さねばならない。

 

 思い残す事は無い。織田信奈と銀鏡深鈴。あの二人ならきっと、自分が望む天下を築いてくれる。未来を見る術など使わずとも今の彼にはそれが無根拠の直感で、だが確信として分かっていた。

 

「ではな。織田信奈、深鈴様……そしてルイズ……おさらばだ」

 

 呟いた宗意軒は振り返ると、蒼い鬼火が燃え盛る根本中堂へと歩き出して。

 

 そして彼の姿は炎の中へと、消えていった。

 

 半兵衛の陰陽術によって作り出された雲から雨が降り注ぎ、火を消していくのはこのすぐ後の事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 これが後の世に語られる「叡山大火」の顛末である。一万数千は居たとされる浅井・朝倉・叡山連合の中で、生き残った者は二千余りであったという。

 



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最終話 新たなる戦いへ

 

 東北地方、出羽国にそびえる米沢城。奥州に割拠する大名の一人、伊達輝宗の居城である。

 

 その米沢城の一角には鬱蒼と茂る森があり、木々に隠れるようにして漆黒の南蛮教会が建っている。良く見ると屋根に掲げられている十字架は、何故か上下逆さまになっていた。

 

 そんなアンチクライストな南蛮教会の礼拝堂では、ひっきりなしにパン、パンという乾いた音が響いている。

 

「姫ぇ……もう勘弁して下さいよぉ……」

 

 涙目になってそう訴える男装の麗人は片倉小十郎。梵天丸こと伊達政宗の第一のお供であり、彼女が生まれた時からずっと甲斐甲斐しく仕えてきた側近である。

 

 そんな小十郎の最近の悩みは、堺から返ってきた梵天丸が一つの謎を解くのに夢中になっている事だった。

 

 帰ってきて早々、梵天丸は小十郎を呼び付けるとこう言った。「パンパンと、出来るだけ大きく手を鳴らしてみよ」と。妙な命令に首を捻った小十郎であったが、取り敢えずは言われた通りに手拍子を打ってみる。するとやはりパンパンと、気持ちのいい音が鳴った。

 

 それを聞いた梵天丸は「うーむ」と首を捻る。

 

「なあ小十郎。今、そなたの右手が鳴ったのであろうか、それとも左手が鳴ったのであろうか?」

 

 そう尋ねられて、この妙な質問には小十郎も難しい顔になった。果たして右手が鳴ったのか、左手が鳴ったのか?

 

 堺から帰ってきてからと言うもの、梵天丸と小十郎はこの難問を解く為に朝から晩まで教会に籠もりっきり、食事も摂らずにぶっ通しで手拍子ばかり打っている(勿論、手を叩くのは小十郎で、梵天丸は考える役)毎日だった。

 

 だが連日連夜の手拍子で小十郎にも疲れが見えてきている。彼女は涙目になって、真っ赤になった掌を見せた。これを見ては流石の梵天丸も罪悪感を覚えたのか「ううっ」と呻いて、少しアプローチを変えてみる事にした。

 

「では小十郎、今度は片手で素振りしてみよ。右か左か、手を振る速さの違いが関係しているのかも知れん」

 

「は、はい。それでは……」

 

 言われた通り、まずは右手をぶんと振る小十郎。彼女は続いて左手を振ろうとするが、「待て!!」と梵天丸に制された。

 

「…………」

 

 梵天丸はきょとんとした表情になっていたが、ややあって「もう一度右手を振ってみよ」と命令する。小十郎が同じようにすると、再び彼女の右手が空を切った。その後、しばらくは沈黙が続いて「あ、あの姫……?」と小十郎が心配そうに覗き込んだ、その時であった。

 

「ふ……ふふふ……」

 

「ひ、姫……?」

 

「ふはははははははは!! 分かった、分かったぞ銀鈴!! そなたが我に掛けた謎の答え!! その教えの意味がな!!」

 

 突然の高笑い、そして急激にテンションを高めた梵天丸。この落差には小十郎も圧倒されっ放しであったが、しかし続いて出て来た言葉は更に衝撃的なものだった。

 

「ようし、では我は早速元服して伊達家の当主になるぞ!! 父上には楽隠居してもらうのだ!!」

 

「ええ~? 姫はまだ幼すぎます~。そんなの無理です~」

 

「つべこべ言うでない!! 我は必殺の邪気眼で以て奥州を席巻し、やがては京へと攻め上るのだ!! 我が望みは天下覆滅、世界大乱!! 聖書に預言されておる”黙示録のびぃすと”として大暴れしてくれるわ!! 付いてこい小十郎!!」

 

「あああ~ん。姫が、姫が~!! 元気になられたのは良いのですが、堺でどんな影響を受けられたのかすっかり変になってしまいました~!! 僕はどうすれば良いんでしょう~?」

 

 ばぁん、と蹴破る勢いで教会の扉を開け放ち、城へと駆けていく梵天丸のすぐ後ろを、涙目になった小十郎が付いていく。どうやら彼女の苦労は、まだまだ絶えそうになかった。

 

「待っておれよ銀鈴!! この邪気眼竜政宗!! すぐにそなたに会いに行くぞ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 東国、甲斐国。

 

 その躑躅ヶ崎の館で茶会に興じるは戦国最強の呼び名も高い「甲斐の虎」武田信玄。接待されているのは姫巫女の実兄であり叡山の天台座主を務める高僧・覚恕(かくじょ)である。そこに、関白・近衛前久からの手紙が届けられてきた。

 

「関白からは何と言ってきたんだ?」

 

「それが、浅井・朝倉を受け入れて乱世に与した叡山は仏罰を受け魔界の亡者共に焼かれるも、織田信奈が陣頭に立って救助・消火作業を行い、また再建費用として五十万貫を寄付。全く信奈の信心深さは日ノ本一でおじゃると……」

 

「ふぅん……? ちょっと見せてくれるか?」

 

 そう言って手紙を受け取った信玄は、文面に目を通していく。彼女が手紙を読んでいる間、覚恕は「信奈殿は噂通りの功労者、拙僧も帰ったら丁重に礼を述べねば……」などと呟いていた。既にこの甲斐にも叡山が鬼火に焼かれ、織田軍が敵味方の立場を越えた救助活動を行いしかも再建の為の資金まで寄付したという噂は流れてきている。手紙の内容とも一致するし、彼はすっかりその気だったのだが……

 

 信玄は手紙を読み終えると、

 

「これは偽手紙だな」

 

 そう言い切ってぽいと捨ててしまった。覚恕は慌ててそれを拾うと「ええっ?」と上擦った声を上げる。

 

「考えてもみろよ。川中島で睨み合っていた謙信ちゃんとあたしを和睦させたのは他ならぬ近衛前久だぞ? それは奴が、東に脅威を作って織田を京から撤退させようとさせようとしたからだ。この事からも関白が織田信奈を疎んじているのは明々白々。なのに今回はその功を歯が浮くほど褒め称えるような手紙を送ってくるなんて、おかしいじゃないか。あたしが関白でもこの状況なら織田信奈に濡れ衣を着せる内容の手紙を書いて寄越すぞ?」

 

 という、信玄の言葉は成る程道理である。だが、これを受けても覚恕は腑に落ちないという表情であった。

 

「しかし、この手紙の字は間違いなく前久殿のものですぞ? 使われている印鑑も紛れもなく彼の物ですし……」

 

「だから、それら全部偽物なんだよ。紙も、墨も、朱肉も、恐らくは筆も。全部関白が使っているのと同じ物を揃えて、印鑑も全く同じ物を新しく彫って拵えて、寸分違わぬ筆跡で真逆の内容を記して、偽物……いや、本物の手紙をもう一つ作って、それを送り付けてきたんだ」

 

「まさか……そんな事が?」

 

 信じられないという表情を見せる覚恕。信玄のその言葉はあまりにも論理が飛躍した暴論である。第一そんな事を言い出したら、今後武田に届く手紙は何一つ信用できない事になるではないか?

 

 覚恕にそう言われて、「それなら心配要らないさ」と信玄はからからと笑った。

 

「こんな事が出来るのは、恐らくは今の日ノ本には一人だけだろうからな」

 

「……それは、一体?」

 

「織田の、今信陵君だよ」

 

「銀の……鈴……」

 

 覚恕は息を呑み、そして畏敬の念が籠もっているような声で呟いた。この甲斐にも、深鈴の噂は届いている。墨俣に一夜で城を築いた美濃攻略の立役者であり、先の金ヶ崎の撤退戦ではたった千人の兵を率いて三万五千の浅井・朝倉勢をキリキリ舞いさせた知勇兼備の将だと。

 

「奴が一芸の士を千人以上も、食客として囲っているのは有名だろ?」

 

「ええ……」

 

「つまりこれは、唐土で言う鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の喩えだ」

 

「……孟嘗君(もうしょうくん)、ですか?」

 

 そう返してきた覚恕に、信玄は「流石は叡山の天台座主、博識だな」と感心したように笑う。

 

 信陵君と並ぶ戦国四公子の一人、斉の孟嘗君は三千人もの食客を抱え、当代一流の人物として有名だった。ある時彼を招待した秦の昭王は、斉にそんな人物が居る事は秦にとって脅威であると考え、秦に居る内に彼を殺してしまおうと兵を出して逗留先である迎賓館を包囲した。

 

 とても警備とは思えぬ物々しさに身の危険を感じた孟嘗君は、昭王が溺愛している側室の幸姫に屋敷の包囲を解くよう口添えを頼んだのだが、幸姫はその対価として狐白裘(こはくきゅう)という宝物を求めてきた。これは狐の脇毛の白い部分だけで作られた毛皮のコートで、一着を作るのに数万匹の狐を必要とするまさに天下一品の品物である。

 

 この要求を受けて孟嘗君は頭を抱えた。確かに狐白裘は彼の持ち物だったが、既に昭王に献上してしまってもう手元には無かったのだ。その時名乗りを上げたのが彼の食客の中で、盗みの名人であった。「学問は分からないが盗みの腕なら誰にも負けない」と豪語した彼は、その言葉通り見事城の宝物庫に忍び込み、目当ての狐白裘を盗み出すと孟嘗君の元へ持ち帰った。

 

 こうして狐白裘を献上された幸姫の口添えもあって迎賓館の包囲は解かれ、孟嘗君一行は慌ただしく秦を出発したのだが、昭王はすぐに気が変わって追っ手を差し向けてきた。

 

 この時、孟嘗君一行は関所に差し掛かったのだがまだ真夜中であり、夜が明けるまで門は開かない。モタモタしていては追っ手に捕まってしまう。そこで今度名乗りを上げたのは、物真似の名人であった。彼が鶏の鳴き真似をすると、途端に周りの鶏達が鳴き始めた。当時は鶏が”とき”を告げたら門を開くというのがしきたりであった。そうして門を開いた関所を、孟嘗君一行は通行手形を見せて通り、追っ手から逃れたという。勿論この通行手形も、食客の中に居た偽造名人が作った物であった。

 

 孟嘗君が彼等を屋敷に招いた時、他の食客達は「自分達食客は学問を学び政治を語り、良いと思う事を進言するのが役目であり、盗人や物真似芸人と一緒にされるのは心外です」と、嫌悪感を露わにしたが孟嘗君は「気持ちは分かりますが彼等も一芸に秀でた者達、必ずや役に立つ日も来るでしょう」と取り合わなかったという。彼の先見の明が正しかった事が、この時証明された訳だ。

 

 ……と、こうした故事から転じて、つまらない事しか出来ない人でも何かの役に立つ事を「鶏鳴狗盗」と言うのだ。

 

「それと同じさ。多分、奴が囲っている千人の中に筆跡模倣や彫り物の達人が居たんだろ。筆跡は、本物の手紙を持って御所を出た使者を捕まえて手紙を見てしまえば分かるからな」

 

 証拠は何一つとて無いが、しかし信玄の推測は全く完全に事実と一致していた。深鈴は段蔵率いる諜報部隊にやまと御所から出た使者を襲わせるとその手紙を奪い、近衛前久の筆跡を手に入れ、そうして食客達に偽造させた手紙を覚恕へと送り付けてきたのである。

 

「それにしてもこの手際の良さは、見事としか言い様が無いな」

 

 そう言うと、戦国の巨獣は感心した表情になった。

 

「既に、世間では織田信奈は燃える叡山で救助活動を行い、更に復興の為に多額の寄付を行った事になっているが……いや、それは事実だろうが、日数から計算すれば噂の回りが早過ぎる。多分、乱波とかを使って意図的に情報を広めたんだろ」

 

 近衛前久にしてみれば覚恕に送った手紙だけではなく甲賀忍者も使って噂を流し、信奈を叡山焼き討ちの黒幕に仕立て上げるつもりだったのだろうが、深鈴が五右衛門達に命じてそれに先んずる形で正確な情報を発信した事で、それも不可能になった。

 

「浅井を離反させ、朝倉との山路での挟撃によって織田軍を壊滅させようとする目論見は破られ、織田信奈を仏敵に仕立て上げる手も封じられた。銀の鈴は武将としてだけではなく政治家として、関白の策を完全に打ち砕いたって訳だ」

 

 語る信玄は笑顔のままだが、しかしその笑みから肉食獣のような獰猛さを感じ取って、覚恕は思わず後ずさった。

 

「それに、実にしたたかだ」

 

 そう言って覚恕の手から偽手紙を奪い取ると、ひらひらと動かしてみせる。

 

「多分、銀の鈴はバレても良し、バレなければ尚良しというつもりでこの偽手紙を送ってきたんだろう。世間では織田は燃える叡山から浅井・朝倉・僧兵問わず多くの人間を救出した英雄という事になってるし、この手紙にしたって筆跡から印鑑から何から何まで全て本物と同じの偽物で、だから武田が公文書を偽造・改竄した逆賊を成敗する為に上洛……なんて主張は、流石に通らないだろうからな。証拠は何一つ無いし。奴はそこまで全て承知の上で、この情報操作を仕掛けたに違いない」

 

 更に言うなれば、どちらの場合でも織田家の実力と存在感をアピールする効果はあった。にやり、と信玄が口角を上げる。

 

「話に聞いていた通り、大胆で沈着な奴だ……謙信ちゃん以外に、ここまであたしをワクワクさせる奴が、まだ日ノ本に居たとはな……流石に、今信陵君なんて呼ばれるだけの事はある。部下に欲しいぐらいだ」

 

 中国に於ける春秋戦国の時代には多くの英雄が現れたが、その中でも魏の信陵君は各国から一目置かれた人物であった。その影響力を現す逸話は枚挙に暇が無い。

 

 信陵君が故あって趙の国に滞在していた時であった。彼や孟嘗君と同じ戦国四公子の一人であった平原君は信陵君が市井の賢者と交遊を持っていると聞いて、「信陵君は天下に二人といない人物と聞いていたが、身分の低い者と交際するなど本当はだらしのない人間なのではないか」と言った。この無礼に怒った信陵君は国を出ようとしたが、これに驚いたのは他ならぬ平原君である。信陵君が居るからこそ、大国である秦は趙に攻め込んでこないのだ。平原君は慌てて冠を外し、信陵君に詫びた。これを聞いた平原君の食客の半分は、平原君を見捨てて信陵君の元に身を寄せたという。

 

 また、信陵君が居なくなった魏の国は度々秦に攻められるようになった。魏王はこの事態を重く見て信陵君を趙から呼び戻し、上将軍に任じた。彼が将軍となった事を聞くと、楚・趙・韓・燕が続々と援軍を送ってきて、信陵君はその連合軍の総帥として秦軍を打ち破った。

 

 その後、秦は謀略によって魏王を動かし、信陵君を将軍から解任・政治の席からも外させてしまうのだが……やがて大陸を統一する事になる強国がそこまでした事からも、信陵君の実力が並外れたものだった事を窺い知る事が出来る。そして今信陵君の名前で呼ばれる深鈴も、また。

 

「面白いじゃあないか」

 

 そう言った信玄が、

 

「勘助!! 勘助はまだ生きてるかぁ!?」

 

 と、床を踏むと覚恕の背後に音も無く、頭髪を剃り上げた僧形隻眼の男が姿を現した。武田の軍師・山本勘助である。

 

「は。ここに……」

 

「かねてからの懸案だった花沢城攻め、実行に移すぞ!! ただちに四天王を招集しろ!! 伊丹康直(いたみやすなお)を味方に付ける!! 武田に水軍衆を組み込むのだ!!」

 

 命を受けて「ははぁっ!!」と足早に退出していった勘助を見送り、覚恕は驚いた表情になった。

 

 無敵の騎馬軍団を擁する武田が水軍を得れば、その騎馬隊を海に囲まれたこの国のどこにでも運ぶ事が可能となり、採り得る戦術・戦略の幅は飛躍的に広まるだろう。

 

 これはかなり以前より武田諸将から挙がっていた案であった。だが実行されてこなかったのは、上杉謙信との戦いや拡大した領土での内政など優先される事項が多く、先送りにされてきたからである。信玄が今それを実行に移すという事はつまり、百戦不敗の武田軍がそこまでせねば織田には勝てないと見ている証拠だった。

 

 これは信玄の、敵に対する最大級の評価と言って良い。これまで常勝の王者として戦国に君臨してきた信玄が目の前に現れた壁を前に、挑戦者として挑もうとしている。だが彼女はこれを屈辱に覚えるどころか、歓びすら感じていた。覇王の血を熱く滾らせ、燃やす者を見付けた歓びだ。

 

 襖を開き、縁側に出た信玄は抜けるような蒼穹を睨み、不敵に笑った。

 

「いつの日にか見えるだろう織田信奈、そして今信陵君・銀の鈴……この武田信玄、お前達に会えるその日を、楽しみとする事にしたぞ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「お市、気をしっかり持つんだ。助けは必ず来る」

 

「はい、勘十郎こそ」

 

 琵琶湖の孤島、竹生島。この島に幽閉された長政と信澄は互いを励まし合って耐えてきたが、やはり疲労の色は隠せない。特に信澄の方は、食事と言えば一日一杯の薄い粥が差し入れられるだけで、身を起こせないほど天井が低い岩牢に入れられている事もあって肉体的・精神的にも消耗が激しい。

 

「勘十郎、私はこの牢から出たら、浅井の家督を父から奪い返します。ほとんど近江から出た事がなかった父には、何も分かっておられないのです。この国の内で争っていて良い時期は、とうに過ぎていると言うのに……」

 

「決心してくれたかい。さぞ、辛いだろうが……」

 

 二人がそんな言葉を交わしながら、僅かな光が差し込む洞窟の出口を祈るような心持ちで眺めていると……ぎぎぎ、と何かが軋むような音がして、入ってくる光が強くなった。

 

 助けが来た!! 二人ともその確信と共に、光の方に目を向ける。

 

「浅井氏、津田氏、お待たせしたでござる!! 泣く子も黙るはちちゅかぎょえみょん、ただいみゃさんぢょう!!」

 

 まず洞窟の中に入ってきたのは、五右衛門以下川並衆だった。副長である前野某は不在であり、本来であれば五右衛門の主として彼等を率いる深鈴に代わって、光秀が指揮を執っていた。

 

 牢から助け出された夫婦は互いに走り寄って固く抱き合った。

 

 しばらくの間そうしていた二人だったが、やがて光秀がわざとらしく「オホン!!」と咳払いすると、真っ赤になって体を離した。そうして相手方に話を聞く準備が整った事を見て取ると、光秀は長政の前に膝を折った。

 

「明智十兵衛光秀、我が主君・織田信奈の名代としてお迎えに上がりましたです。同盟国浅井家当主・姫大名、浅井長政様並びにその伴侶・津田信澄様」

 

「同盟国……? 浅井が……? それに私が、当主はともかく姫大名……?」

 

「い、一体……何がどうなってるんだい?」

 

 戸惑う二人であったが話は船の上でと、光秀と川並衆に護衛されて洞窟を出た。そして天空と湖面、二つの月に挟まれながら両者へと伝えられた話からは、二人とも琵琶湖へ転落しそうになるぐらいの衝撃を受けた。

 

「織田と浅井が再び同盟!?」

 

「はい、鬼火によって燃える叡山から浅井久政殿を救出し、事後処理も一段落付いた所で、信奈様から切り出されました。再度、織田は浅井と友好不戦同盟を結ぶ事を望んでいると」

 

 ただし、これは提案・要望の形を取ってはいるが実質的には”命令”と言って良かった。

 

 朝倉への援軍として小谷を出た一万五千の浅井兵の内、坂本での大敗と叡山大火によって生き残ったのは僅か八百余名。しかも久政が頼みの綱としていた朝倉義景は煙を吸ったのか迫り来る炎と亡者を目の当たりにて精神の均衡を崩したのか前後不覚となってしまい、真柄姉妹に伴われて一乗谷へと帰還。これで朝倉から援軍が来る望みも絶たれた。今の浅井の戦力は生き残ったは良いが戦の恐怖で武器を取る事にすら強烈な拒否反応を見せる八百余名と、守備隊として小谷に残してきた僅かな兵しかない。

 

 つまり同盟を断った場合、和睦の期間が切れると同時に織田は北近江へと攻め入り、浅井家は確実に滅亡するのだ。いやこの状況では生き残った将兵が我が身可愛さで他国へ走って、戦国大名としての体を保てなくなって自然消滅する方が早いかも知れない。この大きな流れは、長政が当主に返り咲いたとしても最早変える事も止める事も叶わぬだろう。

 

 これを説明された久政はしかし最初は、「ならば最後の一兵まで戦って散る事こそ武家の誉れ!!」と食い下がったが、だがそれを聞いた信奈が激昂して、

 

 

 

『叡山で私が言った事、もう忘れたの!? 良いわよ、そこまで死にたいなら是非に及ばず!! こっちも堂々受けて立ってやるわ!! 言っておくけど、いくら小谷城が堅牢な城塞だろうと、織田軍相手に役に立つと思わない事ね!! 轟天雷の乱射で、観音寺城と同じく瓦礫の山に変えてやるわ!! そしたら後はもう、一族郎党皆殺しよ? 成る程あんた一人なら討ち死にしようが腹を切ろうが好きにすれば良いだろうけど、家来にはお嫁さんも子供も両親も居るでしょう!? あんたの言う武家の誉れとは、彼等全員と引き替えにしても通す価値のあるものなの!?』

 

 

 

 と、脅しを交えて説得したのが効いたらしい。同盟条約の締結に応じた。

 

 尤も、信奈とて本当に実行しようなどとは思ってはいない。交渉事にブラフは付き物。特に久政のようなカタブツの考えを変えるには、これぐらいかまさなければならなかったろう。久秀が言っていたように「交渉の基本は飴と鞭」なのだ。

 

 とは言え、最早消滅寸前の浅井に対等な同盟関係など望むべくもない。当然ながら条件が出された。

 

「その条件は、浅井久政が家督を長政殿に返して隠居し、身柄を織田家の監視下に置く事です」

 

「それは……」

 

「人質、か……」

 

 信澄と長政の表情が曇る。だが、二人とも浅井が文句を言える立場ではない事も理解していた。この戦国乱世、戦に敗れれば姫大名が髪を下ろして出家せぬ限りは殺されても文句は言えない。ましてや婚姻を結んだ織田を裏切った浅井は、問答無用で撫で斬りにされても仕方無い所なのだ。

 

 それを久政一人が人質となる事で長政を当主とした自治を許し、また十分な国力が回復するまでは復興を支援し、外敵の襲来に際しては織田から援軍の派遣を約束するなど、光秀から説明されたのは異例・破格を通り越して、「織田信奈は甘過ぎる」と笑われても仕方無いほどの好条件だった。

 

「光秀殿にお尋ね申す。義姉上……あ、いや、信奈殿は父上のお命を奪うような事は……?」

 

 裏切りを止められなかった立場故か、長政はかつてのように信奈を義姉と呼ぶ事を躊躇った。

 

「はい、それは万が一にも。それに人質ではなく、賓客としてお招きしているです。仮にも信奈様の弟君の義父上。粗略には扱わないです。それにこれは、信奈様が織田家の一部の将を納得させる為の、一時的な措置だとお考え下さい」

 

「と、言うと……」

 

「……申し上げにくいのですが……今回の同盟締結に当たり、諸将から反対の声が上がったです。浅井・朝倉連合に圧勝した我等が、何が悲しくて裏切り者と今更対等な同盟関係など結ばねばならないのか、と。同盟を結ぶにしても条件として、北近江の半分を織田の領地にさせろとか毎年の貢ぎ物を約束させろとかいう意見も出たです。この処置は、信奈様が家臣の不満を抑えられるギリギリの一線なのです」

 

「……姉上も、難しい立場なのだね……」

 

 信澄の言葉に光秀は頷き、

 

「ですが先程も言った通りこれは家臣達の不満をかわす為の一時的な措置であり……いずれ折を見て、親子水入らずで暮らせるよう取り計らうとお言葉を頂いてるです。織田家は今後とも浅井家とは親しい付き合いを望んでいる、とも」

 

「……お市、いや……長政殿……」

 

 聡い長政は信澄からの視線の意味を悟り、頷く。これは信奈が姫大名としての自分の分を越えずに、だが弟である信澄と伴侶である自分を守ろうと配慮してくれた最大限の妥協点なのだと。また彼女としても、これ以上は望み過ぎだと理解してもいた。

 

「光秀殿、信……義姉上は、今何処に?」

 

「現在は安土の常楽寺に逗留されてるです。そこで、お二人の到着を待っておられるですよ」

 

「では、到着次第お取り次ぎ願いたい。会って、お伝えせねばならない。感謝と、お詫びの気持ちを」

 

「承知しましたです」

 

 光秀から合図を送られた五右衛門は頷くと、船の櫂を操る動きを早くした。そうして速度を高めた船に揺られながら、光秀や五右衛門は少しだけの後ろめたさを感じていた。

 

 この浅井との同盟には二人には語られない、一部の者にしか知らされていない、全く別の狙いがあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 浅井久政へと同盟話が切り出される前夜。勝家や長秀、犬千代や光秀、久秀といった側近達が信奈から密やかに招集を受け、会議が開かれた。集められた中には勿論、五右衛門や半兵衛を伴った深鈴の姿もあった。

 

 議題は当然、その時点では織田家に捕らえられたも同然だった浅井久政、引いては浅井家に対して織田家が採るべきオプションについてだった。

 

 武人気質の勝家は一旦和睦した後に堂々と決着を付けようと主張し、過激派の久秀などは叡山大火によってやまと御所からの和睦調停は有耶無耶になってしまっているので、話が再び纏まる前に久政を見せしめとして処刑し、そのまま北近江を織田が支配してしまうべきだと提案した。

 

 そうして深鈴は、こう提案したのだ。

 

「浅井と同盟を結び、織田から北近江へ、産業を輸出してはいかがでしょう」

 

 いつもながら彼女の案は奇抜であり、それ故に集まった全員の興味を惹いた。「詳しく言ってみなさい」と信奈に促されて、深鈴は説明を始めていく。

 

「まず大前提となるのは、浅井が先の坂本の戦いの大敗、そして今回の叡山大火によって多数の兵と、兵糧など軍需物資を大量に失ったという事です。浅井久政は今回の出陣を浅井家の命運を懸けた決戦と見ていたでしょう。それがこの大惨敗。元通りの国力を取り戻そうとすれば、長い年月を必要とするでしょう」

 

「確かにね……続けて」

 

「ですから、織田家が浅井の復興を手助けするのです。既に銀蜂会では紙、漆、蝋燭、木綿、牧畜、養蚕など様々な産業の研究が進んでおり……他に治水技術についても諸国の堤防の長所だけを参考とし、新しい理論が確立されております」

 

「……つまり浅井の復興にかこつけてそれらの技術の有効性を、実験するという事ですか」

 

 光秀の指摘に、深鈴は頷く。言い方はキツイが、キツイ言葉ほど当たっている場合が多い。今回もその例外ではなく、深鈴も自分の案の本質がそういう事だとは理解しているので、反論しなかった。

 

「勿論、その為の資金は全て銀蜂会から出します。そしてもう一つ強調しておきたい事は、この辺りで織田家は戦の方法を変える、あるいは新しい戦い方を取り入れる必要があるのではないか、という事です」

 

「戦の方法?」

 

「新しい戦い方?」

 

「はい、これまでの戦国大名は他国へ武力で侵攻し、制圧した場合は主に降将らが指導するその土地での反乱を防ぐ為、見せしめ目的の殺戮や、要人を人質に取るという手段を採ってきましたが……そうした従来の威圧侵略に代わる、あるいは並行して行うものとして経済的侵略を提案します」

 

「経済的侵略?」

 

「……何それ?」

 

 耳慣れない言葉に勝家と犬千代がぽかんとするのを見て、深鈴は説明に移っていく。

 

「つまり、平定した国や交易を行っている国に対して産業や技術を輸出し、大名や侍ではなくその国の民の支持を取り付けるのです。その後その土地を治める大名や土豪が敵対しようとしても、それは民衆を敵に回す事になります」

 

「自分達の生活を豊かにしてくれる相手に刃を向ける指導者など、民が支持する訳がありませんからね」

 

 長秀が補足する。分かり易いその説明を受けて、難しい言葉の羅列に頭を捻っていた勝家と犬千代は「成る程!!」と、手を叩いた。

 

「首に縄を掛ける事を免じて相手が安心した所で、手も足も縛ってしまおうという事ですか。中々、いやらしい手を使いますわね」

 

 これは、妖しく笑いながら言う久秀の意見である。これも深鈴の案が持つ側面を的確に捉えた表現である為、彼女は頷いて返した。

 

 そうして各将からの意見が出た所で、信奈が「その経済的侵略に、他の利点はあるの?」と、続きを促した。

 

「最も重要な事は、これから先の天下に於ける戦の火種を消していく事です」

 

 深鈴がそこまで言った所で、彼女の補佐として付いてきた半兵衛が発言した。

 

「これまで各国の大名が行ってきた対応は、医学で言う対症療法と言えます」

 

 つまり症状に合わせて手術や投薬を行い、症状を緩和・排除しようというものである。その為根本的な治癒は難しく、治療が治療を生む連鎖反応や副作用の恐れもある。

 

「この日ノ本には百年前から……平安の昔から……いえそれ以前から戦の絶えた時代はありません。”戦”とは、ずっと長い間この国を蝕んできた悪性の病だとも言えます」

 

「……それで?」

 

「我々はこれまで見せしめという劇薬の投与や、人質という困難な手術によって対応しようとしてきましたが……」

 

 それらが有効な手段であったとは、今の日ノ本を見る限りとても言えない。残虐行為による見せしめは限りなくその土地の人々から恨みを買い、叛かせ、土地の者悉く叛いて死んでも尚、草木が恨む程の遺恨を残し。

 

 人質にしても、決して確実な手段とは言えない。例を挙げるならかつて甲斐が武田信玄の父・信虎の統治下にあった時代。同盟関係にあった諏訪家当主・諏訪頼重(すわよりしげ)へは信玄の実妹であった禰々御料人(ねねごりょうにん)が輿入れし、信虎はその代わりとして頼重の長女で勝頼の姉である湖衣姫(こいひめ)を信玄の妹に迎えた。要するに人質交換である。だがその結果はどうだったか。

 

 諏訪家は武田家に攻め入り、内政開発を行う領土を欲していた信玄にそれを口実としてあべこべに攻め込まれ、勝頼一人を残して滅ぼされてしまったではないか(湖衣姫は労咳によって病死)。

 

「対して、銀鈴さんの手段は体質療法と言えます」

 

 これは病人の体質そのものに原因を求め、体質改善をゆっくりと行う事で人体が持つ本来の治癒能力を引き出そうとするものだ。その為、病気になりにくい体を作り、副作用も最小限に抑える事が出来る。

 

「織田に叛旗を翻し、新たに戦を始めようとすれば自国の民の手によって倒される……」

 

「……戦に向かおうとする国の体質そのものを改善し、治す事が出来たのなら……あるいは本当にこの国から戦を根絶する事も、可能になるかも知れないですね」

 

「新領土で内政を積極的に行い、民の支持を得る事は既に武田信玄が実行していますが……」

 

 ただ、信玄はあくまで内政マニアである彼女の嗜好が先に立って行っているだけで、戦の根絶などといった超長期的な視点を持っている訳ではない。深鈴の案はそれを最終目標として念頭に置いた上で、計画的に行うというものだ。

 

「実に面白い案だと思います。八十点」

 

 と、長秀。まだ計画段階で実行もされていない策に対する評価としては、破格の高得点と言えるだろう。彼女のお墨付きを受けても、信奈は難しい顔だ。

 

「銀鈴、あんたの望みはその策が有効かどうかを見極める為に、北近江丸ごと使って実験がしたいって事よね?」

 

「はい、信奈様。それに遺恨だけではなく、貧困もまた戦の火種と成り得るものです。私の案がどこまでその対策と成り得るのか……今後の北近江がどれだけ豊かな土地となるかで、見極めてみたいのです」

 

「……長政や信澄には、言えないわね」

 

 いくら裏切り行為を働いたとは言え、「あなたの国の不幸を私達の実験に利用させてもらいます」などとは言える訳がない。だがそこで、光秀が発言した。

 

「信奈様、それは考え方の違いです。先輩の銀蜂会、引いては織田家が北近江の復興を手助けする事には何の変わりも無いです。ただその過程で、様々な可能性を確認・検証するだけです」

 

「そうです。それに、信奈様が天下を取った時、銀鈴さんの言う方法で戦の無い世が訪れたのなら、その平和の流れは北近江から始まった事になります。つまり織田は新しい時代に一番乗りした名誉を、浅井家に与えるとも言えるのです。そう考えれば、信奈様や銀鈴さんに非はありません」

 

 続くように半兵衛が言う。二人のこの言葉を受けて信奈も深鈴もどこか胸につっかえていた物が外れたような心地になった。そして彼女達からこのような意見が出るのは、この秘密会議の意見も大方纏まりかけているという事でもあった。

 

「決まったわね。明日、久政には再度の同盟締結を持ち掛けるわ。銀鈴、あんたは数日中に復興支援計画の草案を書き上げて、私に提出しなさい!! 他の者は、南近江に陣取った六角承禎との戦の仕度を!! 美濃と京の往復の為にも、近江の道は絶対に確保しておかねばならないわ!! すぐに準備を整えなさい!!」

 

「「「承知!!」」」

 

 声を揃えて返事した諸将が次々退室していき、一人だけになった信奈が、ふと呟いた。

 

「戦の無い天下……か。戦い方だけではなく、戦う相手も変える時が、来ているのかも知れないわね……」

 

 

 

 

 

 

 

 京に建てられた南蛮寺。

 

 その裏手では、ルイズ・フロイスがひっそりと建てられた墓の前に膝を折って祈りを捧げていた。

 

「……天にまします我等の父よ……御名をあがめさせたまえ……御国を来たらせたまえ……御心が天にありますように……」

 

 真新しいその墓には、この冬の季節に集められる精一杯の花が手向けられていた。

 

「宗意軒さん……」

 

 祈りを終えたフロイスは立ち上がると、その墓へと語り掛ける。そこに遺体は無いが、それでも母国の土に還ってここに葬られている彼の魂に、彼女は話していた。

 

「あなたと最初に会って、もう十年にもなるんですね……あなたと会えなかったら、今の私はなかったと思います。忘れません、一生……」

 

 傍らに置いてあった山高帽を墓へと捧げるフロイス。これは彼女にとっては預かり物という認識だった。それが今、本来の持ち主へと返されたのだ。

 

「……どうか、安らかに眠って下さい。雪は、払いに来ますから」

 

 フロイスはそう言い残して、教会へと入っていった。今日も救いを求める人達が、彼女を待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 やまと御所では、近衛前久が荒れていた。

 

「うぬぬ……武田信玄は何をしているでおじゃる……!! 麻呂の手紙はとっくに届いている筈でおじゃるぞ……!!」

 

 仕掛けた策を破られた前久は次の策として、「信奈が叡山をまるっと焼いたでおじゃる」という手紙を、甲斐を訪ねている覚恕へと送り付けていた。仮にも天台座主である彼がそのような手紙を受け取れば、武田信玄が上洛の軍を起こす口実としては十分である。

 

 ……にも関わらず、武田軍に上洛の気配は一向に見られない。一体全体、これはどうなっているのか。

 

「おのれおのれ、どいつもこいつも麻呂を軽んじおって……!!」

 

 こんな調子で頭から湯気を出す勢いで怒りまくっている前久を尻目に、姫巫女は御簾越しに空を見据えて微笑み、呟く。

 

「てんはのぶなをえらんだか。ゆめは、ただひとりでみるものではない。ぎんれいをたいせつにな」

 

 

 

 

 

 

 

 近江・安土の地。

 

「で……できた……」

 

 その旅籠の一室の襖が音も無く開いて、中から目の下に真っ黒い隈をこしらえ髪はぼさぼさ、げっそりとやつれた深鈴が這いずるように出て来た。彼女はこれで徹夜三日目であった。

 

 深鈴の手には「北近江復興計画」と大きく表紙に書かれた書類が抱えられている。まだ草案だがこの三日間で知恵を絞って書き上げた力作である。

 

 久政に浅井との再同盟を取り付けた後、信奈はすぐに本拠地である美濃との連絡路を確保すべく南近江に侵攻。折しも半兵衛の策に従い横山城を攻めていた斎藤道三もこの動きに呼応して転進し、挟み撃ちを受ける形となった六角勢はひとたまりもなく敗走した。観音寺城を粉々にされたトラウマから織田軍に恐怖心を持っている六角承禎は足早に戦場から離脱し、命からがら甲賀へと逃げ込んだので討ち果たす事は叶わなかったが、これで再び京と美濃が結ばれた事になる。

 

 まだ問題は多いが、取り敢えずは一安心。越前への進撃からこっち戦い通しだった事もあって信奈はこの安土で一度軍を止めて全員に休養を命じた。のだが……

 

 深鈴に休息は無かった。彼女には同盟を結んだ北近江へ産業を輸出し、その復興・発展を手助けするプランを出す仕事が待っていた。計画の言い出しっぺでもあるし、この仕事は自分にしか出来ないとも理解していたが故に気合いを入れて取り組んだのだが……叡山大火にあっては後方指揮で膨大な仕事を捌き切り、その後も事後処理に奔走し、そこから休む間も無く三日間の完徹である。いくら若いとは言え流石に体力の限界が見えてきた。

 

「ぎ、銀姉さま……大丈夫でございますか?」

 

 お茶を持ってきたねねも心配そうだ。

 

 そんな彼女の頭を「大丈夫よ」と笑って撫でてやると、別の部屋から顔中に無精ヒゲをたくわえた前野某が出て来た。彼もまた目の下にくっきりと隈が出来ている。

 

「じょ、嬢ちゃん……よ、予算の見積もりが、終わりました……ぜ」

 

 銀蜂会の副会長補佐であり、実質的な№2である彼もまた「北近江復興計画」に於ける予算の捻出、それに伴う膨大な書類仕事に追われていた。本来なら五右衛門や川並衆を率いて信澄・長政を救出する深鈴の役目を光秀が代行し、前野某が随行しなかったのもこうした事情からだった。

 

「しっかし、叡山に五十万貫寄進してすぐに北近江への産業の輸出とは……えらい出費ですぜ」

 

「あはは……」

 

 苦笑いする前野某に、深鈴もまた苦笑して応じる。

 

「まぁ、もっと先を見ましょうよ。同盟国の発展は必ずや我々に莫大な報酬、巨大な生産需要をもたらすわ。金は天下の回りもの。止めるのではなく、取引される物と一緒にブンブン回すのが人の道であり商道というものよ」

 

「へえ」

 

「ああ、深鈴様。ここにおられましたか」

 

 話していると、今度は源内がやって来た。のっそりとした足取りで、手には丸めた紙を持っている。彼女の姿を見て、深鈴も前野某もねねも一様に絶句した。これで、目の下を真っ黒にした人間が三人も揃った。

 

「ど、どうしたの? 源内」

 

「新しい城の設計図が完成しました。私がこれまで培ったカラクリ技術の集大成とも言うべき傑作です。是非ご覧になって、予算についてご一考の程を……」

 

 深鈴は最初は徹夜明けという事もあって目を通すのは自分の計画書を信奈に提出した後に一眠りしてから、と思っていたが……源内も何日かの徹夜を経てテンションがおかしな事になっているせいか、異様な鬼気を纏っている気がする。深鈴はその迫力に圧倒されるように思わず設計図を開き、そうして彼女と左右から覗き込むようにして見る前野某とねねは「おおっ」と声を上げた。

 

 その設計図に書かれていたのは地上七層・地下二層と都合九層構造にもなる巨大な建築物だった。しかもこれは城そのものだけではなく、建てる事になる周囲の土地にまでカラクリ細工を組み込んだ改造を施すという技術の粋を凝らした物であった。

 

 武装についても充実している。副砲として轟天雷だけで三十門を備え、主砲にはこれまでの轟天雷の運用によって蓄積されたデータから新しく開発した口径十一尺(約330センチ)の大筒を二門も搭載。

 

「いかがでしょうか?」

 

 尻尾を振る子犬のように目を輝かせて源内が尋ねてくるが……この設計図を見た深鈴としては、いくつか確認しておかねばならない事があった。

 

「源内、質問良いかしら?」

 

「はい、何なりと」

 

「まず、この城の外周部分に付けられた無数の鏡と、天守の部分に付けられた大鏡は、何?」

 

「ああそれは、百を越える小鏡で太陽光を反射・増幅、大鏡へと収束して放つ光学兵器です。その性質上日中、しかも晴れの日にしか使えませんが、威力は十一尺の大筒をして比較になりません。勿論、十分な試験を経て既に理論は確立しております」

 

 観音寺城攻めの時、今は亡き森宗意軒は希臘(ギリシャ)には二千年も前から太陽光を用いた兵器が実用化されていると言っていたが……源内はそれについても研究を行っていたという訳だ。

 

「じゃあ、この城の最下層部には無数の車輪を組み込む事になっているようだけど……何でこんな物が必要なの?」

 

「はあ」

 

 尋ねられた源内は、何故にそんな当たり前の事を聞くのかという顔だ。

 

「車輪が無いと城が動かないじゃないですか」

 

 太陽が東から出て西へと沈む事を話す調子でカラクリ技士の口から飛び出たこの言葉には、ねねや前野某は勿論の事、未来人の深鈴ですらもが固まった。

 

「攻められて寄せ付けない城は、北条家が所有する小田原城が既に一つの完成形として存在します。我々が新しく築く城はその思想を更に推し進め、こちらから攻めて押し潰す城としたいのです」

 

「げ、源内殿、少しお疲れなのでは……」

 

「そ、そうだぜ……ちょっと休んだ方がいいんじゃ……」

 

「二人とも、黙って」

 

 遠巻きに話を切り上げようとしたねねと前野某は、深鈴によって制された。

 

「この満載時排水量一億三千三百万斤(約8万トン)というのは?」

 

「排水量というのは船舶が水上に浮かべられた時に押し退けられる水の重量を現したもので、この場合……」

 

「……つまり、この城は船のように水の上も進むという事?」

 

 上目遣いでじろりと睨むような深鈴の視線に、「はい、その通りです!!」と源内は目を輝かせて答えた。

 

「以前に、深鈴様は聞かせてくださったではないですか。信奈様がこの国を制した暁には、日本を飛び出して七つの海へと漕ぎ出されると。この城は単なる城塞ではなく、その世界を巡る冒険に於いて、信奈様が率いられるであろう船団の旗艦としての役目も果たすよう、設計しました」

 

 カラクリ技士の目は爛々と燃えていて、どこまでも本気だ。言葉や仕草の一つ一つからも、熱が伝わってくる。

 

「旗艦(フラッグ・シップ)……」

 

 ぼそりと呟いて、深鈴は頭に最後のフル回転を掛ける。良く考えれば自分の時代に存在する空母や戦艦、あるいは豪華客船などは、それこそ巨大な船の上に城が乗っかっているようなものだ。それを思えば源内のこの城の設計図も時代を先取りした結果と言えるかも知れない。彼女の頭の中の時差を見くびっていた。百年どころか、四百年近くも進んでいる。

 

 断言出来る。もし正史に於いてどこの戦国大名でも彼女の才能を認めていたのなら確実に日本、いや世界の歴史は変わっていた。

 

 敵にしなくて本当に良かったと胸を撫で下ろしながら、深鈴は質問を再開する。

 

「……仮に信奈様から築城の許可が下りたとして、あなたとしてはどの地に築くのが良いと思っているの?」

 

「されば、この安土の地がよろしいかと。京にも岐阜にも尾張にも近く、北は越前にも目が届く要所ですし」

 

 尋ねられて、源内は思いの外すらすらと回答した。やはり彼女としてはこのとんでもない城の設計は、どこまでも本気であるらしい。

 

「それに何より琵琶湖に面していますから、水の便が良い以上にこの城の試験航行にも適しているかと」

 

 「成る程」と深鈴は頷く。単純に技術を追求するだけではなく、立地条件についても源内なりに良く考えている。

 

「……建造にどれぐらい掛かると思う?」

 

「私の試算ではざっと二百万貫ほど必要になるかと」

 

「に、二百万貫……」

 

 ねねは思わずくらっと倒れそうになった。

 

 実感が湧かない程にとんでもない大金である。小国では破産しかねないが……

 

「今の尾張・美濃・京は堺を凌ぐ規模で人が集まり、どんどんと金が落ちていく日本一豊かな土地です。それらの土地での商売を取り仕切る銀蜂会ならば、出せない額ではないかと」

 

 金食い虫の技術者ながら源内の分析は中々に正確だった。勿論、出せると言っても相当無理をして、だが。前野某がとんとんと肩を叩くと、深鈴に耳打ちした。

 

「……嬢ちゃん、源内さんの技術力は認めるけど、今後の織田家にはまだまだ金が入り用になるんですぜ? 天下の行方が未だ定まらない現在、二百万貫もあれば軍費など、他にいくらでも使い道が……」

 

 彼の意見も尤もだが……しかし深鈴の考えは少し違っていた。

 

 天下が定まらぬからこそ、それほどの巨額を投入した城が必要なのだと。

 

 まずその城に腰を据える事で、織田信奈が天下人なのだと全国に示し、諸大名に威厳を見せ付ける事。それに今これだけの城を建てておけば、後世にこれ以上の城を建てる必要は無い。そうした長期的な視野で見れば、結果的にこの築城は節約だったと言えるかも知れない。

 

 それに深鈴としては今後の織田家は威圧侵略と経済的侵略の二本柱で天下布武を進めていくのがベストだと考えている。そして経済的侵略の切り札として銀蜂会があるようにこの新兵器は、威圧侵略の切り札としても期待出来る。

 

「無論、つぎ込んだ金に見合うだけの性能は保証します。完成すれば武田の騎馬軍も毛利の水軍も北条の小田原城も、思うまま悉く打ち破ってご覧に入れますよ」

 

 源内のその言葉が決め手であった。

 

「よろしい、信奈様に提案してみます」

 

 深鈴がそう頷いて、そうして源内へ顔を向けたまま彼女の手がにゅっと伸びて、そろりそろりと抜き足差し足でこの場から離れようとしていた前野某の襟首を掴んだ。彼が寝室に逃げ込むよりも、深鈴の魔手の方が早かった。

 

「じょ、嬢ちゃん……?」

 

 油が切れたロボットのようにぎこちない動きで振り返った前野某の肩に深鈴の手が置かれて、

 

「予算の確保、お願いするわね」

 

 無慈悲に、デスマーチの行軍命令が下された。涙目になりながら自室へと引っ込んでいく前野某。その後ろ姿を見送りつつ、深鈴はふと呟く。

 

「安土城の建設……また、大仕事になるわね」

 

 彼女の中には既に確信があった。信奈は築城にゴーサインを出す。この事業は北近江の復興と合わせて天文学的な経済効果を生むだろうが……

 

「でも、銀蜂会を軍産複合体にする訳には行かない……戦の無い世こそが巨大な利潤を生むのだと、全国はおろか海外の商人にまで知らしめねばならない……腕の見せ所ね」

 

 溜息を吐きつつ、だが深鈴は不敵に笑う。全く、商売の世界もまた戦場だ。

 

「む、難しい話ばかりで……ねねは頭が割れそうですぞ……」

 

 むすっとした表情のねねが見上げているのに気付いて、深鈴は今度は優しく微笑むとくしゃっと彼女の頭を撫でた。

 

「まぁ……要するにねね、あなたが私ぐらいになる頃には、この国が平和になっているように……私達はそれぞれ出来る分野で、信奈様をお手伝いするという話よ」

 

「私の技術も今は戦に使われていますが、いずれこの国の平和と発展に貢献するものでありたいと、そう思っています」

 

 と、源内。深鈴は我が意を得たりと頷き、北近江復興計画書と予算の見積書、それに城の設計図を持って旅籠を出て行った。

 

 すると、今度は子市と段蔵がやって来た。

 

「あれ、深鈴様は居ないのか? 先の叡山での焙烙火矢隊の実地運用について、報告書を纏めてきたんだが……」

 

<私も、報告に>

 

 段蔵はいつも通り深鈴の指示を受けて諜報部隊を率い、各国を飛び回って情報を発信してきた。今度広めてきた流言は、「織田が再度浅井と同盟を結び、北近江の復興を援助する」というものである。

 

 これは信奈の仁徳を広める効果もあるが、それ以上に保険としての意味合いがあった。これで万一浅井がもう一度裏切った場合、彼等は「我々は恩人に平気で刃を向ける忘恩の徒です」と日本中に喧伝する事になる。その報告にやって来たのだが……入れ違いになってしまった。

 

 子市が「深鈴様は何処に……」と聞こうとしたその時、旅籠の入り口が再び開いた。そうして入ってきた人物を見て、彼女はきょとんとした表情を見せる。

 

「……お前は……」

 

「腹減ったぁ……握り飯でも、食わせてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 深鈴が常楽寺の広間に入ってみると、そこにはそうそうたる面々が勢揃いしていた。

 

 上座に座る信奈を初めとして勝家、長秀、犬千代、半兵衛、道三、久秀は勿論、京から信奈にくっついてきた義元、昨日織田軍に合流した元康、それに別任務に就いていた光秀と五右衛門、そして信奈に向かい合うようにして、女物の衣装を纏った長政と彼女の隣に、輿入れする前と同じで男物の服を着た信澄が並んでいた。

 

「皆様、既にお揃いでしたか……」

 

 深鈴の姿を認めると、長政・信澄夫婦は彼女の方にも向き直って頭を下げてきた。

 

「銀鏡殿、この度は銀蜂会が北近江復興の陣頭に立って下さると義姉上から聞かされました。この浅井長政、何とお礼を言って良いか……」

 

「銀鈴、僕からもお礼を言わせてもらうよ」

 

 長政が女性である事には、既に久政から説明があったので驚きは無い。

 

「で、銀鈴!! ちょうど良い所にやって来たわね!!」

 

「は、信奈様……各種書類が仕上がったので確認をお願いしたいのですが……それと新しい城の設計図を……」

 

「それは後回しで良いわ!! それより銀鈴、この場であんたに伝えたい事があるの」

 

「は……」

 

 それを聞いた深鈴は抱えていた書類を置くと、末席に座った。

 

「あんた、前に畿内の大名を集めて開いた宴会で私に手を打たせて、右手が鳴ったのか左手が鳴ったのかって聞いたわよね」

 

「はい……あれは梵ちゃんと一緒に、信奈様に出した宿題でもありましたが……」

 

「あれは『孤掌は鳴り難し』って事でしょ」

 

 にやりと笑いながらそう言う信奈に、深鈴はぴくりと眉を動かした。

 

「右手だけでも左手だけでも手を打ち鳴らす事は出来ない。人間、一人だけでは生きてはいけない、夢を成し遂げる事も出来ないという教えでしょう?」

 

 信奈の答えはまさに満点。深鈴は居住まいを正すと、深く頭を下げた。

 

「その答えをお聞き出来ただけでも、今日までお仕えしてきた甲斐がありました」

 

 微笑みつつ顔を上げた深鈴と目を合わせた信奈もまた笑い、そして立ち上がる。

 

「みんなもよ。これからの私達の戦いは敵国の大名や軍団だけではなく、”戦”という、日ノ本に生きる全ての者に共通する真の敵を相手としたものになるわ!! 私にはみんなが必要なの!! これからもあなた達の力を、私に貸してくれる?」

 

 この問いを受け、勢揃いした織田家武将達も一斉に立ち上がった。

 

「あたしには難しい事は分かりませんが、姫様の為ならたとえ火の中水の中!! 粉骨砕身、ご奉公致します!!」

 

 勝家が立派な胸をどんと叩き。

 

「流石は姫様。百二十点です」

 

 にっこりと笑った長秀は過去最高点を付け。

 

「……ん、頑張る」

 

 犬千代はガッツポーズを決めて。

 

「私もバリバリ働かせてもらうですよ!! 信奈様の第一の家臣の座は、誰にも譲らないです!!」

 

 光秀が自信満々にそう宣言し。

 

「ワシも、老骨に鞭入れるには良い機会かの」

 

 禿頭を撫でつつ道三は「ふぉっふぉっふぉっ」と豪快に笑い。

 

「うふ。これからも私達の行く手には現世で最も美しい紅い華が咲き乱れる事でしょう」

 

 久秀は未だ毒の抜けぬ蠍を思わせる、妖艶でありどこか危険な笑みを浮かべ。

 

「おーっほっほっほっほっ!! 今川幕府の天下統一が成った暁には、皆様の苦労にはきっと報いさせていただきますわ!!」

 

 義元は相変わらずご機嫌で。

 

「私も精一杯お手伝いさせてもらいます~」

 

 元康は信奈のぶち上げた新しい戦いのスケールの大きさに圧倒されて身を小刻みに震わせつつも、しっかりと付いていく意思を示し。

 

「父の行動は、今後の働きで償わせていただきます」

 

「僕も、一緒にね」

 

 長政と信澄はぴったりと息の合ったおしどり夫婦っ振りを見せ付けて。

 

「拙者以下川並衆も銀鏡氏の下、いにょちをとしてはたりゃきゃしぇていただきゅでごじゃりゅ」

 

 五右衛門は相変わらず噛み噛みで。

 

「私も、その戦いに勝利する日が訪れるまで持てる才智の限りを尽くし、生きて戦い続ける事を誓います。銀鈴さんの義に応える為、この国の未来の為にも」

 

 今やすっかり丈夫な体になった半兵衛は、力強くそう言い放って。

 

「尾張にて騎士の叙勲を頂いた時以来、私の命は信奈様にお預けしております。信奈様が創る新しき世の為に……今後とも、一命を懸けて尽くす所存であります」

 

 最後に深鈴が穏やかだが、しかしより良き未来を信じた瞳を輝かせて。

 

 そうして家臣団の心意気を受け取った信奈は会心の笑みを見せて、こう言うのだ。

 

「デアルカ!!」

 



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登場人物紹介

 

◆銀鏡深鈴(しろみみれい)

 

年齢:17歳

性別:女性

身長:155cm/体重:44kg

スリーサイズ:B83/W56/H84

血液型:O

あだ名:銀鈴(ぎんれい)・今信陵君

 

・容姿

灰銀の長髪に度の強い眼鏡を掛けた少女。

 

・備考

本作の主人公。

戦国時代の濃尾平野にタイムスリップし、木下藤吉郎に命を救われる。

それを切っ掛けにこの時代で生き抜く為、利殖によって得た金で大量の鉄砲と絵図面を買い揃え、更に鉄砲鍛冶を雇用してそれを手土産に織田家に仕官、鉄砲奉行に抜擢される。

未来を知る自分の行動によって歴史が変わった場合を懸念し、その為の備えとして大勢の一芸の士を食客として雇用、同時に尾張の商売の元締めとして「銀蜂会」を立ち上げ、その会長に就任する。ちなみに銀蜂会の副会長は五右衛門で、前野某はその補佐役。

個人としては尾張で最も多くの金を動かせる人物で、織田家の金庫番と呼ばれるまでになる。

本人に戦闘力は皆無であり、陸上部なので逃げ足が速い程度。

歴史に明るく、特に日本・中国史などに詳しい。

元厨二病患者。

 

 

 

 

◆森宗意軒(もりそういけん)

 

年齢:不詳(外見的に19歳ぐらい?)

性別:男性

身長:176cm/体重:55kg

血液型:?

 

 

・容姿

一本の糸のような線目に、能面の如き笑みを貼り付かせたひょろ長く見える少年。

 

・服装

宣教師の服の上からボロボロの外套を羽織り、頭には山高帽。

 

・備考

深鈴の行った人材募集によって集まった食客の一人。

乗っていた船が難破して南蛮船に救助された事を切っ掛けで南蛮へ渡り、そこで死霊術”根黒万死(ネクロマンシー)”の他色々と学び、その後は中国で老師から道術を学び、日本に帰ってからは高野山で呪術を学び、更にその後に深鈴の元を訪れた。

食客として採用された理由は諸外国を遍歴した経験から言語に堪能な事であり、待遇は中位。

ルイズ・フロイスとは教会で同期だった。

正史では、日本史上最大の農民一揆である島原の乱を指導した浪人であり、一揆軍・目付兼兵糧奉行の一人。

独自に編み出した秘術・魔界転生の使い手。

 

 

※魔界転生

 

西洋の死霊を操る黒魔術・ネクロマンシーをベースとして中国の道術や日本の真言密教の要素を組み合わせ、森宗意軒が独自に編み出した秘術。

宗意軒が殺した人間に仮初めの命を与えて亡者として召喚し、彼の手足として使役する。また、術の発動時に彼の近くにあった死体に対しても同じ効果が発生する。

この術によって喚び出された亡者には自分の意思などは存在せず、術者である宗意軒以外の生きとし生ける者全てを自分と同じ”死”に引きずり込もうという本能のみで動く為、あまり複雑な命令に従わせる事は出来ない。よって、味方が周りに居る状況下で使用すると同士討ちが発生してしまう欠点がある。

平均的な亡者の能力は陰陽師が喚び出す式神や幻術師の操る傀儡には遥かに劣る。その為、魔術的な攻撃以外では粉々にでもしない限り動き続けるとは言え一体や二体では大きな脅威とはならない。しかし、亡者に殺された人間は新たなる亡者として宗意軒の支配下に入るという性質を持つ為、数を揃えて運用した場合にはネズミ算の要領で戦力を拡充していく。この性質は軍団同士の戦いに於いて圧倒的である。

また、宗意軒は魂に燃え移る冥界の鬼火を操る事が可能であり、これを亡者達の体に点火して火牛計のように暴走させ、延焼によって破壊範囲を飛躍的に広げる事が出来る。

 

 

 

 

◆源内(げんない)

 

年齢:18歳

性別:女性

身長:160cm/体重:45kg

スリーサイズ:B79/W56/H83

血液型:A

 

・容姿

長いストレートの赤毛をした、すらりとした女性。

 

・服装

動きやすい女物の着物の上に、白衣を思わせる白羽織。

 

・備考

深鈴によって集められた食客の一人であり、からくり技士。

出身は佐久で、当初は武田家に自分の技術を売り込もうと仕官したが、内容があまりに先進的であった為に理解されず、失敗。その後は家を出て、各国の大名に仕官を願うが同じように失敗。一縷の望みをかけて深鈴の人材募集に応募し、未来の知識を持つ彼女に才能を認められ、最高の待遇で迎えられる。

正史では時代がまるで彼女に追い付いておらず、その技術や知識は歴史の闇に埋もれ、誰にも理解されず無名のままその生涯を閉じる。

深鈴は彼女が平賀源内の先祖ではないかと考えており、実家を出奔する際に研究成果を記した巻物か何かを残していて、百余年後に子孫がそれを見た事で才能を開花させるのではないかと推測している。

紛れもない天才であるが、多額の研究費を必要とする金食い虫でもある。

作中最大のチート。代表的な発明品には以下のような物がある。

 

 

※”素炭愚零寧怒(スタングレネード)”

焙烙玉の一種。

従来の物に比べて殺傷能力は低いが、爆発する事によって凄まじい閃光と轟音を発し、相手の視力・聴力・思考力を奪う。

命名は深鈴によるもの。

 

 

※”鳴門(なると)”

改良型火縄銃。

銃身内部にはライフリングが施されており、従来の物に比べて精度・射程距離が大幅に向上している。

射手の技量によっては300メートル先の人間に対しても、致命傷を与える事が可能。

 

 

※”轟天雷(ごうてんらい)”

大砲。

オリジナルは約450年前、北宋時代の中国で使用されていた大筒。現在の明国では現物や製法は失われており、書物に僅かに記録が残るのみだったのを源内が再現した。

有効射程はおよそ7~8キロメートル。これは戦国時代の大砲としては驚異的を通り越して、オーパーツとしか言い様の無い性能である。

バリエーションとして中央の母筒の周りを49の子筒が取り囲み、一斉に火を噴く事で破壊力を数倍にまで高めた母子砲(おやこづつ)が存在する。

非常に強力な兵器だが扱いが特殊な為、源内にしか運用出来ない(他の者が扱ってもまともに目標に当てられないか、最悪自爆させてしまう)。また、攻城兵器である為、敵の軍団などを標的とする場合には部隊の配置や運用に工夫が必要となる。

 

 

※安土城(仮)

現段階では設計図が完成しているに留まっている。

源内のカラクリ技術の集大成にして一つの到達点である城塞。

城部分だけでなくその周囲の地盤にまでカラクリ細工が組み込まれており、副砲として三十門の轟天雷、主砲には口径十一尺(約330センチ)の大筒二門、他にも無数の鏡で太陽光を反射・収束・増幅した熱によって如何なる物質をも融解させてしまう光学兵器など、無数の兵器が搭載されている。

最大の特徴は戦車や船のように地上・水上を動く機能を持っている事であり、「攻めては押し潰し、攻められても寄せ付けない」を体現する移動要塞である。

源内にとってこの城は単なる軍事拠点ではなく、天下が統一された後に七つの海へと漕ぎ出して世界へ進出する際、信奈が率いるであろう船団の旗艦としての運用を想定しており、織田信奈の野望の縮図と言える。

 

 

 

 

◆加藤段蔵(かとうだんぞう)

 

年齢:?

性別:?

身長:150cmぐらい/体重:?

血液型:?

あだ名:飛び加藤(とびかとう)

 

・容姿

ボロ布の隙間から覗く、ぎらぎらとした金色の目。

 

・服装

全身をくまなく包む黒のボロ布。髪飾りのように頭に付けた白い狐面。

 

・備考

深鈴によって集められた食客の一人であり、彼女専属の忍者。

忍びの世界では知らぬ者の居ない程の天才忍者であり、服部半蔵とは宿命のライバル。

傭兵として金で主を変え、上杉から離れた後に深鈴に雇われ、以後五右衛門と並んで彼女の目となる。もし人材募集が無かった場合には、武田に仕官するつもりだったらしい。

忍者として影働きに徹する為に食客としての身分は持たないが、待遇・報酬は最上位の食客に相当。

一言も喋らず、意思疎通は全て会話内容を書いた紙を懐から取り出しての筆談(?)で行う。

正史では最初は上杉に仕えていたが後に武田に鞍替えし、その能力を危険視した武田信玄(またはその命を受けた山本勘助)に殺される。殺害の理由は織田と内通していたからだとも言われている。

 

 

 

 

 

◆子市(こいち)

 

年齢:17歳

性別:女性

身長:158cm/体重:41kg

スリーサイズ:B74/W55/H77

血液型:A

 

・容姿

黒髪をリボンで束ねてポニーテールにした、日に焼けた女性。

 

・服装

飾り気の無い質素な着物。

 

・備考

深鈴によって集められた食客の一人であり、鉄砲の名手。そもそも深鈴が人材募集を行ったのは鉄砲隊を調練出来る名手を登用するついでであり、優先して求められた人材である。食客としての待遇は上位。

鉄砲の腕は本人曰く日本二位。空中へと放り投げられた複数の小石を、次々に種子島で撃ち落とす程の腕前を持つ。

現在は鉄砲奉行である深鈴から織田鉄砲隊の調練を一任され、源内からは”鳴門”の試験を依頼される。

正史にその名は無い。源内と同じく優れた能力を持ちながら歴史に埋もれた語られぬ者。

その正体は元雑賀衆であり、孫市の名を継ぐ候補として名前の挙がっていた二番手。

 



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