ソードアート・オンライン Youth in Aincrad (ユーカリの木)
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第一章
こうして、二人はコンビになる 1


 かぐわしい紅茶の香り漂う、あの部屋を壊したのは俺だ。

 

 由比ヶ浜のクッキーから始まり、戸部の一方通行な恋の修学旅行まで、短くも濃密で、されど出来損ないの青春が燻る部屋だった。

 

 発端は、表層を取り繕う欺瞞をなにより嫌っていた筈の俺が、葉山と海老名さんの願いに共感してしまったことだろう。

 

 同く欺瞞を嫌う雪ノ下には糾弾され、優しい由比ヶ浜には涙ながらに人の気持ちを斟酌しないことを怒られた。

 

 返す言葉は無かった。

 

 彼女たちは正しいのだろう。青春的な意味でも。善悪の観点でも。感情論でも。

 

 そして、俺は間違えたのだろう。取り返しがつかない失敗をし、かけがえのないと思いたかったものを壊してしまったのだろう。

 

 諸行無常の中で、変わらないものは無い。大切なものも、失ってしまう時はどうしようもなく訪れる。

 

 人間関係などその最もたるものだ。人と人の繋がりなど簡単に断ち切られる。小学校も中学校も、いままで続いた関係など皆無だ。ズッ友なんて、走れメロスの中だけなのだ。

 

 物事には、なんであれ終わりがある。何十年と連載した漫画も、何百年と続いた帝国も、何千年と生きた大樹も、いつかは終幕の向こうに沈んでしまう。

 

 だから、そんな世界が間違っている。

 

 終わらなくていいものを容易く終わらせる世界は、きっと違う。

 

 それでも、終わることにもやはり意味はあるのだ。終わりの先にあるものにも、きっと意味はある。

 

 そうやって、信じてもいない詭弁を並べ、実態の見えないものに責任をなすり付けなければならない程度に、俺は疲れている。

 

 昔から言うではないか。

 

 三十六計逃げるに如かず、とか、逃げるが勝ち、とか。

 

 だから、俺は逃げ出したのだ。

 

 紅茶の香り漂うあの部屋に、俺の居場所など無いのだから。

 

 

 

 人生は苦いから、コーヒーくらいは甘くていい。

 

 常々言い続けてきた言葉だが、予想以上に人生は苦いらしい。

 

「どうしてこうなった」

 

 俺のつぶやきは、何に届くこともなく、広場のあちこちから弾丸のように飛び交う怒号や悲鳴の中に消える。

 

 彼の有名なVRMMORPG——《ソード・アート・オンライン》に俺はいた。

 

 広大な石畳に、周囲を囲む街路樹。空から零れ落ちる黄昏に濡れ、どこか現実離れした中世の街並み。遠くに見える黒光りする巨大な宮殿は、心の奥底を撫でるように哀愁が漂う。ここは、《はじまりの街》の中央広場だ。 

 

 周囲には、茅場晶彦による突然の宣告に心慌意乱する、一万人近い囚人諸君。

 

「マジでどうしてこうなった……」

 

 宣告の内容はこうだ

 

 曰く、百層の城を攻略するまで自発的ログアウトできない。

 

 曰く、外部からの救出はなく、実行すれば死ぬ。

 

 曰く、ゲームで死ねば実際に死ぬ。

 

 ちなみに、顔はゲームアバターじゃなくてリアルの顔だからよろしくね。

 

 以上、ゲームマスター茅場晶彦さんによる説明より抜粋。

 

 なんで顔リアルにしちゃうの。俺の目だけ腐っちゃってるんだけど。あらやだ、魚? DHA豊富そう!

 

 もはやため息しか出ない。

 

 本当に。

 

 ちょっとした現実からの逃避行のつもりだったのだが、本当に現実に帰れなくなるとは……。これじゃあ現実逃避じゃなくて現実逃亡だ。

 

 神様、俺のこと嫌いなの?

 

 しかし、まあ、周りがうるせえ。

 

 現実からゲーム内に捕らわれた彼らは、頭を抱えうずくまり、或いは泣き叫び、もしくは怒りに任せて怒鳴り散らしていたり等、天地創造以前の混沌並にみな混乱しているのだ。

 

 まあ、この状況下で、少なくともこの場で錯乱する他人を頼りにするのは愚策だろう。何をするにせよ、無駄に回転するこの頭で考えるしかないらしい。他人はアテにならず自分だけが頼り。つまりは、ぼっち最強。

 

 だってほら、邪魔しちゃ悪いし。話しかけて「うっせぇ! って目が死んでるキモッ!」とか急に正気になられても困るし。言ってて泣きたくなってきたんですけど……。

 

 まずは、荒れ狂うこの場から抜け、今後の方針を練る必要がある。ぼっち御用達の気配遮断スキル、ステルスヒッキーを駆使して歩き出す。付随効果で喧騒が自然とシャットアウトされ、ぼっち思考が急速に回り始める。

 

 直近の問題は、この城の攻略に乗り出すか、この街でゲームが攻略されるのを待つかの二択をどうするかだ。前者を取れば命掛けの戦いが始まるだろう。限られたリソースを奪い合うMMORPGでは、敵はMobだけではないのだ。

 

 ならば、後者であればどうだ。安全面では当分の心配ない。最低限度の生活であればこの街でも問題はないだろう。動かざること山のごとし、働いたら負け、将来の夢は専業主夫の俺としては、後者に魅力を感じる。働きたくねえ。

 

 だが、この街が安全というのも所詮はルール内のことだ。ルールを作る者が敵となれば、最低限度の保障など露ほどの安心も持てない。いざ外界に出ざるを得なくなったとき、結局は戦わなければならないのだ。なんの覚悟も、技術も、レベルすらないままに。

 

 それに、現実への帰還という最終目標を他人に託すということになる。自分の命の掛かったゲームで他人を頼るなど論外だ。それは、ぼっちの思考じゃない。

 

 いや、前提条件が間違っている。

 

 なぜ現実に戻ることが目標になっている。どうしてあの世界に戻りたい。あの部屋に俺の居場所はなく、周囲は悪意に満ち溢れ、最愛の妹とは喧嘩したままだ。そんな世界へ、命まで賭けて帰る必要がどこにある?

 

 ここで問うべきは、比企谷八幡が現実に戻りたいか否かだ。

 

 考える。

 

 分からない。

 

 急に周囲の喧騒が戻り、思考にノイズが混じる。

 

 やはり、静かな場所で答えを探した方がいいだろうか。

 

 一体幾重、幾百の人を避けただろうか。思考の波間を縫うように、ふと見知った顔と目が合ったような気がした。足を止めて振り返る。すらっとした女子が背を丸めて、呆然としたようにこちらを見ていた。

 

 長く背中にまで垂れた青みがかった黒髪。ぼんやりと遠くを見つめるような覇気の無い瞳。濃紺色の初心者装備。そのスカートから伸びる、蹴りが鋭そうな長くしなやかな脚。そして、印象的な泣きぼくろ。

 

 震える彼女の唇が、この場の誰も知らぬはずの俺の苗字を口にする。

 

「……ひ、比企谷?」

 

 え、なに? なんでこの人がここにいるの?

 

 川……なんとか、確か川口さん……? 川内さんだっけ? 夜戦しちゃうのかよ。あー、確かこいつ、小町にたかるハエ……じゃなくて、同級生のシスコン姉貴だっけ。あのクソ野郎、思い出したら腹立ってきた。川崎大志め、今度小町に近づいたら裁きを与えてやる。あ、思い出した。

 

「かわ、さき……か?」

 

 同じく彼女の苗字を漏らした途端、川崎沙希の端正な顔が、くしゃりと歪んだ。じわりと目の端に涙が滲み、泣きぼくろを伝って顎に滴る。

 

 それを見て俺は言葉を失った。

 

 ぶっきらぼうで怖くて、それなのに家族思いで家事が得意、俺と同じぼっちで孤高の川崎が、いまや表情を壊して泣いている。

 

 こういうとき、なんと声を掛ければいいのだろう。意外性ばかりが目の前で展開されて、場違いな感想しか出てこない。

 

 名前を呼んで固まったままの俺を見て、川崎が一歩踏み出す。俺の胸にそっと両手を当てて、そのまま額を押し付けた。

 

「あ、あたし、どうすればいい……?」

 

 止まったはずの問いが戻ってきた。

 

 川崎は聡い子だ。だから、現実に帰る術がゲームの攻略しかないことをきっと理解している。理解した上で、どうするべきか分からないのだろう。なぜならここは現実ではないから。現実とは異なるルールで動いているゲームだから。

 

 勝手な推測だが、川崎はゲームなどろくにやったことがないのだろう。だからこうも狼狽し、偶然見つけた俺に縋り付いた。きっと、俺がそういうのが得意のだと思って、生きる為に動いた。

 

 かける言葉を探して、頭をがしがしと掻く。

 

 悪い気はしない。川崎のような美人に頼られるのは悪くないのだ。でも勘違いしてはいけない。単に頼るべき相手が俺しかいないだけだ。

 

 ならば俺はどうする。

 

「まあ、なんだ。戻りたいか?」

 

 胸の中で川崎がこくりと頷く。鼻先に長い髪が触れてくすぐったい。

 

「助けて欲しいか?」

 

 これは最悪だ。自分では答えの出ない問いを川崎になすり付けようとしている。

 

「……助けて、比企ヶ谷」

 

 帰るべき理由はまだ見つからない。だが、もし帰ることを依頼とするならば、俺が動く理由足り得るのではないか。依頼の道程の中で、あの世界へ帰る意味を見つけられるのではないか。

 

 なんだこれは。ひどく歪で気持ち悪い。

 

 それでも、鬱々とあの現実を考えるくらいならば、いっそすべてを捨て去り、川崎の依頼に集中することで心の安寧を得てしまいたい。

 

 なんて独善的な思考だろう。気持ち悪くて吐き気すら覚える。

 

「分かった。その依頼、奉仕部として受ける」

 

 奉仕部の名が、いまだ心内に燻って冷めやらぬ感情を波立たせた。

 

 俺の承諾を受けて川崎が身体を離す。そして、俺の顔をしばし眺め、涙の残る顔で微笑んだ。

 

「あんた、こんなときでも部活やってるんだ」

 

 川崎の笑みを見ていると、さっき触れられた場所が罪悪感で軋んだ。

 

 すぐには答えず空を見上げる。

 

 頭上に覆いかぶさるように見える第二層の先には、数えるのも馬鹿馬鹿しい程の層が、未だ見ぬ艱難辛苦と共に伸びている。

 

 これを攻略しなければならないのだと思うと正直心が折れそうだ。

 

 ならば目的を設定しよう。なにが起きようと心が折れないだけの目的を。

 

「川崎」

 

「ん」

 

「俺は、お前を現実に帰す」

 

 目的がなければ、今は動けそうにない。

 

 川崎に目を戻す。急に視線をきょろきょろとさせた川崎が、頬を赤らめオロオロしていた。忙しい奴だな。まったく、いつもメンチ切ってる癖に可愛いじゃねえか。昔の俺だったら勘違いして告白して振られるまである。振られちゃうのかよ。

 

「まあ、色々あるんだよ」

 

 醜い思考を一言でまとめた。色々とは実に便利な言葉だ。

 

 ともあれ。仕事を始めようか。

 

 兵は拙速を尊ぶとも言うし。働きたくねえなあ……。

 

 



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こうして、二人はコンビになる 2

 川崎を連れ立って中央広場から抜けた俺が真っ先に向かったのは、宿屋だ。できればさっさと攻略を先に進めたいところだが、彼女を連れて見知らぬ場所へ行くのは高リスク過ぎる。

 

 しばらく歩いてINNの看板を見つけると、一宿分のコルを支払って川崎を部屋に入れる。川崎は終始無言だった。無理に会話をしようとしない辺り、やはりこいつもぼっちか。楽でいい。

 

 川崎用に取った宿は広くもないワンルームだ。ベッドとテーブルが一つずつ置かれただけで、あとは空虚さを助長させるようにぽっかりと空いた窓だけだ。

 

 俺は部屋の隅っこで壁に背を預けた。

 

 川崎はおずおずとした様子でベッドに腰掛けると、あちこちへと視線を迷わせている。窓から差し込む黄昏を受けて光るポニーテールは、ゆらゆらと揺れて、狩人に怯える小動物の危うさがあった。

 

 そろそろ今後の話し合いをすべきなのだが、密室に二人きりの女子相手にどう声をかけて良いのやら。まさか、こんなところでお互いぼっちであることが裏目に出るとは……。

 

 参った。まったく分からん。

 

 よし、腹を括ろう。

 

「川崎、お前、名前はなんだ?」

 

「は?」

 

 お願い、ガン飛ばさないで!

 

 ……やだなあ、怖いなあ。

 

 なんで名前聞いただけでここまで睨まれるのかね。キャラクターネーム聞いただけなのに。

 

 ふと、気づく。

 

 こいつゲームやったことないよな、多分。

 

「あー、本名の方じゃない。キャラクターネームの方だ。ほれ、最初に決めたはずだろ?」

 

 ああ、とようやく川崎が表情を和らげる。やっぱり知らなかったのかよ。

 

「サキ」

 

「は? それ本名だろ?」

 

 急に恥ずかしそうに川崎が視線を逸らす。なんなの一体?

 

「こういうの初めてだし……分かんなくて……」

 

 あー、そゆこと。こいつ、ネットリテラシーとか知らなそうだからなあ。ツイッターとか本名でやってセルフ指名手配とかされちゃうタイプだ。

 

「そういうアンタは? なんて名前?」

 

「ふっ、俺はハチマンだ」

 

「あんたも本名じゃん……」

 

 川崎がはぁと呆れたようにため息する。

 

 待って、話を聞いて。

 

「俺は良いんだよ。八幡大菩薩とか八幡宮とか、神々しくて本名っぽくないからな。ついでに名前負けしてるまである」

 

「あ、そ……」

 

 今度は虫でも見るような蔑んだ目で川崎が見てくる。ほんとやめて、トラウマ刺激しちゃうから。

 

「で、その、きゃらくたーねーむ? っていうのがどうかしたの?」

 

「なんで若干片言なんだよ。お前、由比ヶ浜なの?」

 

「あんた……」

 

 一瞬、目を細めた川崎が短い息を吐く。

 

「いちいち話を逸らさないと説明できないわけ?」

 

「わりぃ……」

 

 面と向かって注意されると、途端に情けない気分になる。自覚はあるのだ。急なことで若干混乱しているから、普段通りを装って必死に動揺を隠そうとしているのだと。周囲の環境に感情を左右されるなど、ぼっちとしてあるまじきことだ。

 

「ご、ごめん。怒ったとか、そんなつもりじゃなくて。色々、今回のことも、ちゃんと感謝してるからさ……」

 

 答える川崎の声は弱々しい。肩を落として見上げる川崎の瞳は、広場で会ったときと同じように少し濡れていた。そういう仕草をされると小町を思い出すからやめてほしい。

 

 そろそろ話題を戻そう。

 

「まあ、なんだ。こういうネットゲームじゃ本名で呼ぶのはタブーなんだよ。だから、キャラクターネームで呼び合うのが常識だ」

 

「じゃあ、あんたのことは……」

 

「ハチマンとでも呼んでくれ。俺も川崎のことはサキサキって呼ぶ」

 

「殴るよ」

 

 川崎の視線が氷点直下の絶対零度まで下がる。よく見れば、右手が拳に握られてわなわなと震えている。そのままちょいと叩けば凍った俺は粉々に砕けるだろう。

 

 怖えぇ……。

 

 確かに、サキサキ呼びはなかった。それないわー。っべーわ、っべー。戸部語まで出てきちゃったよ。

 

 落ち着くためにひとつ咳払いする。

 

「で、あー、さ、しゃき」

 

 噛んだ。死にたい……。

 

 川崎は俯いて笑ってやがるし……。

 

 よりによって、なんで本名を名前にしやがるんだ。こちとら女子を名前で呼んだことなんてないから恥ずかしいんだよ。

 

「で、さ……サキ、お前はここについて何か知ってるか?」

 

 笑いの温度を治めた川崎が答える。

 

「えっと、ピコピコの中でしょ? その、は、ハチマン……」

 

 なんで最後に名前を呼ぶんですかこの人は。

 

 それにピコピコって、オカンかよ。早速頭が痛くなってきた。まさか頭の中まで由比ヶ浜と同レベルじゃないだろうな。

 

「言い方はともかく、状況は合ってる。で、どうしたい?」

 

「ピコピコを終わらせないといけないんでしょ。現実に戻りたいし。受験もあるし、やっぱり、家族に会いたい……」

 

 家族を思い出しているのか、川崎――サキの目には幾度目かの涙が滲み出す。

 

 妹もいて家事全般をやっているようだから、家のことが心配なのだろう。うなぎ大好きのけーちゃんだったか。大志は、まあいい。

 

 僅かに生まれた憐憫が、小町のことを思い出させる。

 

 窓の外を見ると、黄金色だった空も、いまや半分程が藍色に侵食され始めている。

 

 幸い、サキも最低限の状況を理解している。スカラシップを取るくらいだ、元々頭もいいのだろう。ならば、示す先はある。

 

「サキ、これから俺が知りうる情報を伝える。その後どうするか結論を出してくれ」

 

「結論って?」

 

「全百層を突破しゲームを攻略するか。それとも、どこぞの誰かが攻略してくれるまで生き残るか。もしくは、別の方向でゲーム攻略を目指すか」

 

 しばし瞑目したサキが、目を開いてまっすぐに俺を見て頷いた。

 

「ん、分かった。あんたの情報、教えて」

 

 

 

 すべてを話し終えると、サキは疲れたように項垂れた。気持ちは分かる。百層攻略なんぞ、さすがに冗談だと思いたい。ベータテスト時でも二ヶ月で攻略できたのは僅か六層なのだから。

 

 これ以上追い討ちをかけるのは酷だが、方針は早めに決めておきたい。小さく唸るサキに、俺は少し躊躇して声をかける。

 

「で、どうしたい?」

 

「ん、十秒待って……決めるから」

 

 答えたサキは、両手で頭を抱えて俯く。きっかり十秒後、顔を上げたサキの表情は、はっきりとした決意が秘められている強いものだった。

 

「やるよ。百層登ってやる」

 

「最前線で戦い続ける、そういうことでいいか?」

 

「ああ。あたしが現実に戻るために、他の誰でもない、あたしがやる」

 

 眩しいな。その決意を打ち立てるまでに、たった十秒しか掛けていない。俺は未だ決意なんてものはどこかに落したままで、羅針盤は狂いに狂っていて、サキに相乗りすることでしか何も決められない。

 

 本当に情けない。

 

 俺は、この期に及んでまだ帰る理由が見つからないのだ。

 

「は、ハチマン? どしたの?」

 

 何も言わない俺に少し顔を近づけたサキが問う。

 

 なんでもないと手を振って、軽く息を吸った。

 

「サキの結論は分かった。俺もバックアップする。だけどもう時間も時間だ。今日はここで解散にしよう。明日、九時になったらここに来るから、そのとき実地訓練でもするか」

 

「う、うん」

 

「飯はどっかで買ってこいよ。あと、大丈夫だと思うけど、金は無駄遣いするなよ。まともな飯はちと高いからな」

 

「分かったよ」

 

「んじゃ、また明日な」

 

 片手を上げてドアを開くと、サキに服の裾を掴まれた。振り返ると、彼女は俯いてぼそぼそと口を開いた。

 

「その、ほんとに、ありがと。助けてくれて、嬉しかった」

 

 真正直に感謝を述べられることなど、正直殆どない。いつも悪罵や疑いの声ばかり掛けられていたのだ。だから、なんといって良いか分からず、頭をガシガシと掻いた。

 

「気にすんな。それに、依頼はまだ終わってねえ」

 

内実、やっていることは、理由を他人へぶん投げ、そ知らぬ顔をして投げられた当人へ手を差し伸べただけだ。人を助ける理由としては下の下だ。

 

 そんな薄ら寒い考えを知らない彼女は、それでも言うのだ。

 

「ん、それでも、ありがと」

 

 いま、心に芽を出したものは一体なんだ。ズキンと痛くて、ヘドロが渦巻いたように胸がムカムカするこの感情は一体何だ。

 

 きっと、それは罪悪感と呼ぶものだ。

 

 俺は、決定的に間違えたのだ。修学旅行のときも、そして、いまこのときも。嫌った欺瞞をこうして両手に握り締めて、もう離せない。

 

 だから、何をしていても罪悪感がついて回る。それこそ影法師のように。

 

「お、おう。んじゃ、行くわ。またな」

 

 手を離したサキが柔らかく微笑む。

 

「またね、ハチマン」

 

 後ろ手に扉を閉じる。歩こうとしても、足が一歩も動かない。そのままずるずると座り込んでしまいそうになるのを必死に堪える。

 

 吐きそうで、頭がガンガンと痛い。

 

 いままでの俺だったらどうしたのだろうと考える。馴れ合いの関係を嫌い、欺瞞を憎み、ぼっちであることこそが至高であると本当に考えていた、少し前の俺であったのなら。

 

 はっ、と笑う。

 

 身体に力が入り、足を踏み出す。

 

 たられば、などらしくない。俺はいまもぼっちだ。馴れ合いの関係は嫌いだ。欺瞞だって、嫌いだ。だから、過去の自分もいまの自分も、取りうるルートはただひとつだ。

 

 ならば、考えても悩んでも悔やんでも仕方ない。

 

 いまはこの世界の攻略を、サキを現実に帰還させることだけ考えればいい。他は時間があるときに考えればいい。

 

 ◇◆◇

 

 

 

「はあ――ッ!」

 

 腹の底を震わせる怒号と共に、サキの背丈よりも長い槍が青色に輝く。すぅっと静かに大気を割るような鋭さで出された突きが、青イノシシに急所に見事に命中した。満タン近かった青イノシシのHPバーを一気に吹き飛ばす。聴くも悲しい断末魔を青イノシシが吐き出しながら、硝子のように砕け散った。

 

 恐らく目の前に現れたであろう、紫のフォントで描かれた加算経験値の数値をしげしげと見つめていたサキは、ほっと息をついた。手馴れた手つきでくるくると槍を弄び、石鎚を草むらに落す。 

 

「どう?」

 

 短く吐かれた言葉の割りに、どんなもんよ、とでも言うようにサキは大きく胸を張った。

 

 大きい胸をそんなに強調しないで! 目のやり場に困っちゃうだろうが!

 

 俺たちはいま、巨大浮遊城《アインクラッド》第一層の南端、《はじまりの街》の西側に広がる草原に来ている。昨日の約束通り、九時にサキを迎えに行き、必要な装備を購入してここにMob狩りを教えていたのだが……。

 

「いや、なんつーか……お前本当に初心者? それともカンフー少女なの?」

 

 おっし、オラ教えちゃうぞ! てな感じで、サキにソードスキルを教えてみれば、僅か十分でこの有様だ。俺なんか一時間かかってやっとできたのに。なにこの格差。

 

「……別に、空手やってたから、その応用みたいなもんだよ」

 

「HPが無くなったらリアルに死ぬっつーのに、その胆力はすげえよ。マジで感心するわ」

 

「だ、だって……あんたがいるし」

 

 槍を抱えてもじもじとサキが言う。

 

 そういうことされると勘違いしちゃうだろうが。あとちょっと、イケナイことしてるように見えるから、その格好やめてね。

 

「まあ、いまみたいな感じで敵を倒す。レベルを上げる、を繰り返して百層進んで行けばいい」

 

「えらくざっくりな説明だねえ」

 

「実際RPGなんてそんなもんだしな。あとは街のNPCに片っ端から話しかけて情報を得たりする」

 

「話し……掛ける……だって?」

 

 なん……だと、とでも言いたげにサキが唖然とした表情をする。気持ちは分かる。だってぼっちだもの。

 

「情報については俺がなんとかする。まずはこれに慣れろ。最低限自分の身を守れるようにしてくれれば、なんとかする」

 

「なんとかって?」

 

「守ってやるってことだ」

 

 言わせんな、恥ずかしい。

 

 どこの少女漫画だこれ。小町が見てる偏差値二十五くらいの雑誌に載ってそうだ。

 

 やっちまった。

 

 恐る恐るサキの方を見ると、顔を真っ赤にして更に際どい感じで槍を抱きしめていた。具体的には、胸の間と股間に槍を挟んでモジモジしている。豊満な胸がもにゅもにゅするわ、膝丈スカートがサキが身動ぐせいで太ももまで露わになるわ、それ以上はR指定になりそうだからホントやめて!

 

 身軽の方が良いと言って、ろくに防具を買わないサキを止めなかったツケが、まさかここで来るとは……。

 

 あの時の俺マジナイス! いまなら神信じちゃう!

 

 ようやく自分のあられもない姿に気づいたか、ハッとしたサキが身体から槍を離した。罵倒が来るか、と俺は条件反射で身構える。だが、そんなことも無く、サキがワザとらしく咳払いをすると、続きをしようと言って、近くに寄って来ていた青イノシシに向けて槍を構えた。

 

「お、おう。そうだな。見ててやるからさっきみたいにやってみ」

 

「ん、行くよ」

 

 二匹目もサキがあっという間に片付ける。俺の出番はない。まさに皆無。

 

 あれ、俺ここにいる意味ある?

 

 おいおい、ちょっとこれはマズイ。何がまずいって、依頼主が働いているのに、請負人の俺が働いてないことだ。働きたくないのは当然だが、さすがに立つ瀬が無い。

 

 短剣を構え、少し大声でサキに声を掛ける。

 

「サキ、しばらく二人で狩るぞ。レベル上げでもするか」

 

「あいよ」

 

 サキが向かったMobとは別にリポップしたMobへ俺は照準を合わせる。俊敏にほぼ全振りしたステータスは、現実の全力疾走より早くイノシシの真正面まで俺の身体を容易に運んだ。斜め前方にステップしながらイノシシの鼻面を切りつけ、身体を反転しながら短剣を逆手に持ち替える。昔練習しておいて良かった。後ろ向きにMobの側面に短剣を深々と刺し込む。

 

 黒の死神なら電撃ぶち込んで終わりなんだけどな「お前らの顔を見てると……反吐が出そうだ」とか呟けば超格好いい。などと、材木座みたいな益体のないことを考えつつ、力を入れて短剣を横滑りさせ両断する。一連の流れでHPバーが尽きたか、Mobが横倒れになりポリゴンが弾けた。

 

 サキの方を見ると、ちょうど一体倒し終えたようだった。

 

 こうしてサキの成長を見ると感慨深いものがある。弟子に抜かれる師匠の気持ちとはこんなものなのだろうか。一時間と経たず抜かれる師匠ってありえないよね。

 

 それから正午過ぎまで二人で狩り続けていると、いままでぽつぽつと居ただけだった人影が増えているのを感じた。一日経って状況整理が終わり、表に出てきたのだろう。それに加え、あちこちから妙に視線を感じる。

 

 やだ、遠くからでも分かる目の腐り具合なの俺……。

 

 勘違いだった。

 

 視線の先をそれとなく追うと、おっと、おっきな胸が……サキだった。鬼気迫る勢いで槍をぶん回し、Mobをばっさばっさ切り殺していく様は、まさに呂布そのもの。だが、いかんせんサキは女子だ。しかも結構な美女ともなれば、目も行くのも分からなくは無い。

 

 ただし、こんな生きるか死ぬかのゲーム中で無ければの話だ。

 

 目に付く敵を倒し終えたサキが、やっと視線に気づいたのか、居心地の悪そうな表情で俺に近づいてきた。視線もサキを追って俺へと向かうと、それはもう虫でも見るかのようなものに変わる。

 

 な、なにゆえ。何ゆえこうも殺人的な視線に晒されなければならないんだ! 隣にサキがいるだけじゃないか! 美人だけど見た目ヤンキーで、でも家族思いで家事もできて、バイトをするくらい家庭の経済状況を考えていて、しかも頭がいいだけだぞ!

 

 あ、確かになるわ。俺もあいつらの立場なら、けっ、リア充爆発しろ! くらいは思うわ。しまいには呪うまである。実際は全然そんなことないのに……!

 

「あんた、なに一人で落ち込んでるのさ」

 

 集まる視線に不快感を露わにしたサキが、肩を落としている俺に話しかけてきた。

 

「気にするな、ちょっと悲しくなっただけだ」

 

「意味分かんないんだけど。まあいいや。それより、人が集まって来たし、他いかない? 妙に視線も感じるし……」

 

「さすがボッチ、視線には敏感だな」

 

「あんたにだけは言われたくないね」

 

「ご、ごめんなさい」

 

 超ドスの利いた声とメデューサもびっくりな凶眼で言われたので、思わず謝ってしまった。こいつの目、宝石級なの?

 

 何が面白いのか、サキがふっと笑う。

 

「別に本気で怒ってないよ。あんた、いつもそんな感じだし。で、他いかない?」

 

 昨日からやけにこいつの笑う顔をよく見るけど、こんなに笑うやつだったか。

 

 石化した身体を無理やり解いて、頭をガシガシと掻く。

 

 どの道、次の方針は決めてある。

 

「んじゃ、修練場に行くか。レベル上げもそうだが、できれば技術も磨いておきたい」

 

「そうなのかい? レベル上げだけじゃ駄目なんだ?」

 

 いい加減視線が鬱陶しくなってきたので、サキを促して街へ歩みを進める。

 

「プレイヤーキラー。略してPKっていうんだがな、それを念頭に入れておきたいんだよ」

 

 ぷれいやーきらー? とサキが案の定、胡乱気に訊いて来る。

 

「他のプレイヤーに対して攻撃してくる奴のことだ。ネットゲームじゃよくある行為だな」

 

「は? それなんの意味があるのさ」

 

 最もな意見だ。通常のゲームではマナー上の問題で済むが、ことSAOの中ではその限りではない。一本のHPバーはそのまま命の量だ。これを失うのは、現実での死に他ならない。つまり、ここでのPK行為はそのまま殺人行為に置き換わる。

 

「意味ならある。楽しいからだ」

 

「はあ?」

 

「ここには茅場が敷いたルールはあるが、法律は存在しない。ルールの上にあるのは、人の倫理観だ。そんなものは環境で容易に変わる。ただでさえ、ここじゃ殺人のハードルは現実より著しく低い、と俺は考える。何せ現実を見ることのできない俺たちに、実際に死んだか判断する材料はない。早晩、人を殺したいって奴が出て来るだろ。俺たちはそんな場所に放り込まれたんだよ。だから、対人戦を鍛えておく必要がある」

 

 俺の長い説明を噛み砕いているのか、サキは少しの間俯いていた。たぶん、真の意味で状況を理解したのだろう。

 

「分かった。あんたの言うとおりにするよ」

 

「そうしてくれるのは助かるが、何か思うことがあったら言ってくれ。なるべく善処する」

 

「ん、了解。あと……あ、ありがと」

 

 礼の意味が分からず、「お、おう」と適当に濁す。

 

 フィールドを抜け、《はじまりの街》へ戻ると、そのまま修練場へと向かう。仰々しい門扉を抜け、中世さながらの建造物に入ると、ウインドウが現れ手続きをする。

 

 俺とサキは、鮮やかなブルーの光に包まれ、その青いベールの向こうに見える修練場の室内が薄れる様を見つめる。

 

 すぐに身体を覆う光が胎動し、俺の視界を一瞬にして奪った。

 

 光が薄れると同時、現れた風景は四方を壁に囲まれた場所だった。空は四角にくり貫かれ、地面はやや硬い土。広さは対人戦を行える程度で、端には訓練用の案山子がふたつ置かれている。

 

 遠くを見ると、やはりこんなところでも巨大な塔がうっすらと見えた。

 

 サキは突然変わった景色に驚いているのか、辺りをきょろきょろと見渡し、自分の身体のあちこちを触っていた。

 

 やがて、自分の身体に異常がないと悟った様子のサキが、それでも忙しなく視線を彷徨わせながら訊いてくる。

 

「ここが、修練場?」

 

「ああ、ここで出来れば毎日試合をしておきたい。ここならインスタントマップだし、誰かとカチ会う心配はない。HPも減らないから死ぬこともないしな」

 

「ん、そうだね。それより、いまからやるの?」

 

「そのつもりだが、なにか問題あるのか?」

 

 腹部を押さえたサキが、言いづらそうな表情で俺を見てくる。あ、忘れてた。もう昼じゃねえか。そういや確かに腹減ったな。やばいなあ、昼食忘れて女子を連れまわしてたなんて小町にバレたら、ポイント下がっちゃう!

 

「め、飯、食いに行くか」

 

「う、うん。行く」

 

 

 

 飯と言っても、あまり美味くもない一コルの黒パンをもそもそ食べるだけなんですけどね。だって装備買って金ないんだもの。宿代だって馬鹿にならないし、ゲームの中でも金金金って、世知が無さ過ぎだろ茅場晶彦さんよお……。

 

 あれから修練場を出て昼食を買いに行ったはいいものの、やはりどこも高く、結局黒パンになったのだ。それを二人して後生大事に抱え、中央広場のベンチで横並びになって無言で食べている。

 

 あれ、おかしいな。女子との食事は楽しいってハチマン聞いたことあるよ。残念、お互いぼっちでした!

 

 横目でサキの方を盗み見ると、こちらをちらちらと見ながら黒パンをもふっていた。あまり集中していないのか、両頬が膨らみリスみたいで何それ可愛いんですけど。

 

「なんだよ。何かあるのか?」

 

 もぐもぐごくん、とパンを飲み下したサキが、小声で言った。

 

「あのさ、あんた……どうしてここにいるの?」

 

「なんだって?」

 

 びっくりして真顔で聞いたよ。ここにいちゃ駄目なの? 同じ空気吸っちゃ駄目? さすがに凹むからやめて。お願いだからこれ以上トラウマ作らないで!

 

 あからさまに俺の目が腐っていたのだろう、慌ててサキが言い直す。

 

「そ、そういうことじゃなくて。あんたがなんでこのゲームやってるのかなって……」

 

「ああ、そゆこと。うっかり自殺しちゃうところだったぞ」

 

「あんた、卑屈すぎるでしょ……。確かに聞き方は悪かったけど。ご、ごめん」

 

「気にすんな。俺に取っちゃ罵倒がデフォだしな」

 

 サキの瞳が揺れる。それは、哀憐の情のように思えた。

 

「あたしは、別に、あんたを罵倒なんかしないからさ……。ちょっと力、抜いたら?」

 

 力など入れていない。普段通り、卑屈に過ごしているだけなのだ。これが通常なのだから、下手に変化を許容すれば容易く崩れてしまう。それが、何かは分からないのだが。

 

 もう触れるなと首を振る。

 

 サキも強くは言ってこなかった。

 

「それで、なんだっけか。俺がここに来た理由だったか。単純な話だ。俺は結構ゲーマーだからな。面白そうだったからやっただけだ」

 

「ほんとに……?」

 

 あの瞳が怖くてサキを見ずに答える。

 

「嘘つく必要ないだろ」

 

「ん、そっか」

 

 言葉と共に一体何を呑み込んだのだろう。サキは俺がやった事の顛末を知らない。精々が噂に聞いている程度だろう。過程は何も知らないはずだ。だから、彼女にとって、俺は生徒たちが言うように、相模を罵倒した極悪人で、戸部の告白の邪魔をした最低野郎。そのはずだ。

 

 本当に、どうしてこいつは俺になんて助けを求めたんだろう。ただ、知っている奴がいたからなのだろうとは思う。

 

 思わず出そうになったため息を飲み込む。最近は考えていると後ろ向きなことばかり思い浮かぶ。

 

「そういうお前はどうなんだよ」

 

「あたしは……大志が千葉でやったくじ引きが当たってさ。これがウチに届けられたんだけど。大志が用事でできないって言うから、あたしにやってみろって、そんな感じ」

 

 大志の名を出したとき、サキが僅かに目を伏せた。地雷踏んだか。ふたりして家族が大好きだから、家族の名を出せばどちらかが自爆する。そこら中に地雷原が仕組まれているようなものだ。そろそろ何とかした方が良いだろう。

 

 まあ、なんだ……と会話のつぎ帆を探しながら、慎重に言葉を選んでいく。

 

「あいつなら大丈夫だろ。意外としっかりしてるし。けーちゃんだって大志がなんとかするんじゃねえの?」

 

 うっかり、小町に近づいたら殺す、と言うのだけは最大限の自制心で抑えた。危ない危ない。あと少しで爆発するところだった。

 

 サキは、ぱちりと目を開くと、今度は細めて微笑んだ。

 

「あんた、やっぱり優しいよね」

 

「そんなんじゃねえよ」

 

 急に恥ずかしくなって、そっぽを向いた。たぶん、俺の顔は壮絶に赤くなってるに違いない。やだ、マジで恥ずかしい。

 

 なんだこの空気。うっかり惚れて告白して振られちゃうまである。やっぱり振られちゃうのかよ。

 

 それより、とサキが急に小声になって、俺の耳に顔を近づける。ちょっとやめて。マジで惚れそうになっちゃうから。

 

「さっきから、なんか視線が……」

 

 なに、俺は感じなかったぞ! いつの間にぼっちの必須スキル、視線索敵が使えなくなったのだ。惚れた腫れたなど一瞬でどうでもよくなり、さり気なく周囲を見渡す。めぼしい人影は見当たらない。

 

 気のせいじゃないか、と言おうとしたところで、背後から思い切り肩を掴まれた。

 

「ひぃっ!」

 

「きゃっ!」

 

 おい、なんだよ。びっくりして気持ち悪い声だしちゃったじゃねえか。ベンチから飛び上がり警戒度MAXで振り返ると、鼠を彷彿とさせるフード姿の小柄な人影が、「なっはっハー」と可愛らしい声で笑いながら、エロ親父よろしく両手をわきわきとさせていた。

 

 キモい……。

 

 怪訝の眼差しを飄々と受け流した小柄なフードは、ひょいっと、ベンチを乗り越え座ると、両サイドをぽんぽんと叩く。

 

「ほラ、おふたりさん、座りなっテ」

 

 知らない人に話しかけられた俺とサキは、当然のようにこう返す。

 

「あ、お構いなく」

 

 じゃ、そゆことで。シュたっと片手を上げて去ろうとするも、今度は手を掴まれる。サキも同じか歩きのポーズで止まり、困ったように俺を見ていた。

 

 なんだこいつ。めんどくせえのに絡まれた。

 

「まアまア、オレっちと仲良くなると後々いいことあるっテ」

 

 ニシシ、と笑うそいつをまじまじと見つめる。声で分かっていたが、やはり女のようだ。気でも狂ったか両の頬におヒゲのペイントが施されており、まさしく鼠そのものだ。

 

「絵は買わないぞ」

 

 この手の女性には近づくなと、親父から英才教育されているのだ。若干身長と身体の凹凸、あと言葉遣いとおヒゲが邪魔しているが。

 

「生憎と、絵には手を出してないなア」

 

 それト、と言って、フードが爪先立ちでぐっと顔を近づけてくる。

 

「なーんカ、失礼なことを考えてないカ?」

 

 なにこいつ、エスパー?

 

 心臓が嫌な調子で脈打ち、背筋に緊張の汗が垂れる。勘の鋭い女子は苦手だ。嫌なことを思い出す。

 

 影が落ちる。サキが俺とフードの間に割って入ったのだ。

 

「で、何か用? あたしら、これから用あるんだけど」

 

 最大級の不機嫌度を孕ませたドス黒い声で、サキが言い放つ。対するフードは、これでも柳に風のように、ニシシと笑って、両手を上げて無害だと示した。

 

「悪乗りしすぎたみたいだネ。ごめんネ。悪いようにはしないヨ。ただ、面通ししたかっただけだヨ。オレっちはアルゴ。こう見えても情報屋をやっていてネ。めぼしいプレイヤーに粉をかけてるんだヨ」

 

 情報屋の一言に俺は反応する。それを目ざとく拾ったか、アルゴと名乗ったフードが俺に目をやり、ニヤりと意味深に笑った。

 

「よかったら名前教えてくれないカ? あと、フレンド登録もよろしくナ!」

 

 サキが俺を見る。互いにぼっち生活が長いから、こうグイグイ押されるとどうするのが正解なのか分からないのだろう。

 

 少しだけ考える。ここは理由が欲しい。

 

 アルゴは情報屋と言った。真実なのかは判断しかねるが、もし事実であった場合、今後情報面でこいつを頼ることができるだろう。これは非常に有益だ。逆に、情報屋を騙った詐欺師であった場合、金を奪われるだけならまだしも、誤情報を掴まされて嵌められる可能性もある。

 

 ふたつを天秤に乗せ、どちらを取るのが正解か……。後者の危険はいかんともしがたい、しがたいが、やはり前者か。情報の確度は裏を取って上げていくしかない。情報なんてそんなもんだ。

 

 ならば、ここで取るべき選択肢はひとつ。 

 

「答えは決まったカ?」

 

 ニシシと笑うアルゴに、俺は頷いて答える。

 

「ああ、俺はハチマン、こっちはサキだ。お前の申し出を受ける」

 

「ハー坊にサーちゃんか」

 

「俺はハー坊かよ……」

 

 でもヒッキーよりはマシか。もしかしたら俺のあだ名黒歴史の中で、一番まともな名前な気がする。ハチマンちょっと泣きそう。

 

 サキはどうかと横目で見ると、何も無いところに視線を彷徨わせ、頬が強張っていた。サーちゃんに何か問題あるのか?

 

 ああ……。

 

「アルゴ、サーちゃんはやめてやれ。本人嫌そうだし」

 

「そうカ? ならサキちゃんにするカ」

 

 にこり、と初めて普通に笑ったアルゴがサキに顔を寄せる。

 

「お得意さんになってもらいたいシ、サキちゃんにはタダでいいコト教えてあげるヨ」

 

 アルゴがサキに耳打ちする。何事かを聞いたサキが急に顔を真っ赤にした。

 

 ニシシ、とアルゴは再びいやらしく笑う。

 

「それじゃおふたりさん、よろしくナ!」

 

 手馴れた手つきでフレンド登録を済ませられると、嵐もかくやとアルゴは走り去っていった。

 

 あの子ヒューマノイド・タイフーンなの? 捕まえたら六百億$$貰えちゃうの? 駄目だ、ここの通貨はコルだった……。

 

 というか、ハチマンには何も教えてくれないの?

 

 仲間外れイクナイ!

 

 しかし、サキの奴、一体何を聞いたんだ。さっきから首をブンブンと振ったり、急に槍を抱いてモジモジしたり、挙句唸りながら空を仰ぎ出したりと、実に落ち着きがない。悪ガキ小学生か、こいつは。

 

「で、何教えてもらったんだ?」

 

「ひぃっ!」

 

 気になって何気なく聞くと、軽く悲鳴を上げてサキが大きく飛び退いた。割と本気で傷つくからやめてね。周りから向けられる俺への視線がストーカーを見る目になってきてるから。待て、俺は悪くない。アルゴが悪い。

 

 どうにも居心地が悪くてサキを無表情で見る。視線を大海に泳がせたサキが、ボソボソと口にする。

 

「な、なんでもない……です」

 

「なぜ敬語?」

 

「き、気にしないで!」

 

 片腕で槍を抱いて、サキは袖口を弄り始める。よく分からん。

 

 互いの間に沈黙が生まれる。変にきっかけがあると、やっぱり会話が止まるなあ。普段は周りがうるさい連中ばかりだったから、勝手に会話が始まるし、気づいたら声かけられるし、よく考えると会話するには楽な環境だった。

 

 とりあえず、飯食おう。まだ一個残ってるし。

 

 もぞもぞとベンチに戻ってパンを噛み千切る。サキも俺の動きを真似たか、隣に座ってパンを食べ始めた。

 

 でもやっぱり無言。

 

 なんなのこの空気。

 

 やっぱりあのアルゴ、タイフーンだわ。会話の空気まで吹っ飛ばされたわ。おのれ、アルゴめ。

 

 広場は幾ばくかの賑やかさと切迫さがひしめいているが、俺たちのベンチだけは沈黙が膜を張っている。ここだけATフィールドなの?

 

 参ったなあ、と最後の一口を放り込み嚥下する。サキを見ると、同じく丁度パンを食べ終わったところだった。

 

 目が会う。

 

 逸らされる。

 

 しまいには泣くぞ。いや、分かるけどね。隣にいるのが俺だなんて、嫌だよね。大丈夫、さっきのことで勘違いなんかしてないんだからね!

 

 あまり時間も無駄にしていられないので、わざとらしく膝を叩いて腰を上げる。

 

「んじゃ、行くか」

 

「……ん」

 

 広場を抜けて修練場に戻る。道中、やはりというか、男どもの視線がやたら目に付く。サキが美人なのは認めるが、そこまで露骨に見るものか?

 

 脈絡のないことを考えながら転送を終え、本日二度目の修練場に立つ。

 

 槍を肩に乗せたサキが、やや緊張の面持ちで訊く。

 

「で、どうすんの?」

 

「あー、とりあえず適当に戦ってみるか。一発クリーンヒット当てた方が勝ちってのを何回か繰り返すか」

 

「ん、了解」

 

 互いに約十メートルほどの距離を取る。サキは槍を右に持ち穂先を真っ直ぐ向けた、いかにもな構え。俺は短剣を順手で持ち、左手を後ろに隠して半身にする。こういうとき漫画を読んでおいてよかったなあと思う。やっぱりケンイチって面白いよね!

 

「んじゃ、始めるか。来ていいぞ」

 

「あいよ――!」

 

 気の抜けた俺の掛け声と共に、サキが突進して来る。

 

 速い。

 

 やはり身のこなしが素人じゃない。俺は素人だけど。

 

「はああッ!」

 

 掛け声と共に突き出された渾身の突きを軸線をずらすことで避ける。というか、速すぎてパリィとか無理。そのまま槍の穂先に短剣を乗せて斬りかかりたかったが、戻すのが速い。槍って柄を抑えられたら負けじゃないの? 違うの?

 

 槍を戻したサキが左足を軸に反転。今度は石鎚が横からすっ飛んで来る。ぎりぎりで頭を下げる。髪の毛がぶわっと吹っ飛ばされた感触。

 

 そうこうしている内に、槍を長めに持ったサキが、腰を入れた一撃を頭上に落す。体勢的に動けなかった俺は、それを短剣でまともに受けた。耳を震わす金属音と共に、受けた右腕がじわりと痺れ出す。

 

 長物をまともに受けるんじゃねえな……。下手すりゃ防御ごと持ってかれるぞこれ。

 

 だが、一度競り合いになれば力のある男の方が……あれ、押されてね? そういや俺、俊敏特化だった。やべえ。

 

 首筋まで落ちかかった槍を、寸での判断で受け流す。全力を込めていたのか、サキの体勢が一瞬崩れた。その隙を逃さず一足飛びでサキの下まで肉薄し、無防備の首に一撃を食らわせた。

 

 《圏内戦闘》ではHBバーは減ることはないが、僅かながらノックバックが発生する。初めての衝撃に目を剥いたサキが、大きく仰け反った。

 

「……っ、負けたよ」

 

 石鎚と共に膝を落したサキが、肩で息をして敗北を宣言する。俺も身体のしんどさに負けて、どしんと腰を落した。

 

「いや、お前やっぱすげえわ。負けるかと思った」

 

 俺の発言に気を良くしたのか、広場での沈黙が嘘の様に、サキが楽しそうに笑った。

 

「あんた、一応私の師匠なんだからさ。もっと自信持ちなよ」

 

「ソードスキル教えただけだけどな」

 

「まったく、卑屈だねえ」

 

 ふぅっと息をついてサキが立ち上がる。くるくると演舞のように槍を回し、先ほど同じように構えた。

 

「さ、もう一度やるよ。付き合ってくれるんだろう?」

 

「やる気満々だな、サキサキ」

 

「サキサキ言うな! 少しでも強くなんないと、帰れないんでしょ」

 

「ま、そうだな」

 

 膝に力を入れて俺も立ち上がって構える。依頼人にやる気があるのはいいことだ。ならば、請負人の俺も、全力で答えるべきだろう。

 

 

 

 



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こうして、二人はコンビになる 3

 一ヶ月が経った。その間、死んだプレイヤーは二千に昇った。

 

 そして、新規プレイヤーたちはこのやり場のない怒りを、ベータテスターへと向けた。

 

 ――やつらが俺たちを見捨てたのだ……と。

 

 腐った根性だ。海老名さんの腐り方の方が百万倍マシというものだろう。

 

 あれから俺とサキは、拠点を何度か変え、いまは最北端の迷宮区から程近い谷あいの町《トールバーナ》へと移していた。朝から夕方までレベル上げやクエストに勤しみ、夕食後は圏内で対人戦の訓練を行う毎日を過ごしている。

 

 信じられない速度で上達していったサキは、レベルこそ俺より少し低いが、武器捌きや体術は俺を上回るのではないかと思うほどになっていった。情報面でも持ち前の頭の良さで理解を深めていったか、俺から教えることは殆どなくなっていた。

 

 そんな折、数少ない知人であるアルゴに呼び出され、夕刻に一度サキと別れた俺は、NPCレストランに入った。影のある最奥部に陣取ったアルゴが俺に気づき片手を上げる。俺はそれをスルーしてアルゴの前に座った。

 

「ハー坊、恥ずかしがり屋なのは分かるケド、手を上げたら上げ返して欲しいナ」

 

「気安いんだよ。友達だとおもっちゃうじゃねえか」

 

「ハー坊とは友達だと思ってるんだけどなア」

 

 寂しそうに言うアルゴ。まともに見ると、ちょっとキュンとしてしまうのだが、ここは待って欲しい。口元を良く見ると、にやりといやらしく笑っているのだ。

 

 まったく、この鼠はやはりぼっちのなんたるかを分かっていない。折角だ、ここでしっかりと教えておくべきだろう。

 

「これは俺の友達の友達、H君の話しなんだが」

 

「またそれかヨ」

 

「学校に登校していた日のことだ。後ろからおーい、と気安く呼ぶ声がしてな。多感だったあの頃のH君は、それが好きな子の声だとすぐに気づき、声を掛けてくれたのだと思った。内心ワクワクして振り返り、おはよう、と言うと、その子はH君を通り過ぎ、前を歩いていた女子に話しかけに行ったんだ。分かるか? ぼっちは声を掛けられない。これは常識だ」

 

 あれは恥ずかしかった。あまりにも悲しくて、登校した瞬間机を抱きしめたまである。その後、プークスクス、ヒキガエルまた寝てるふりしてるー、と追い討ちを掛けられたのは秘密だ。

 

「それハー坊の話だロ」

 

「なぜ分かった……」

 

「ぼっちに友達はいないんだロ?」

 

 くそ! 墓穴を掘った!

 

 悔しくて拳を握っていると、まアまア、とアルゴが続ける。

 

「今日はサキちゃんとは食べてきたのカ? まだなら一緒に食べようゼ」

 

「今日は別だ。用事があるって抜けてきたから、あいつはあいつで食べてるはずだ」

 

「浮気する男の言い訳みたいだナ」

 

「ばっか、そんなんじゃねえよ」

 

 まだ何か言っているアルゴを無視し、ウインドウを開いて適当に注文する。なんでミラノ風ドリアがないんだよここ。サイゼが恋しい……。

 

 注文を終えた俺はアルゴに向き直る。

 

「で、俺を呼んだってことは、ある程度絞れたか?」

 

 初の邂逅から何度かアルゴと情報をやり取りした俺は、情報屋としての彼女をある程度信用することにしていた。最初こそ片っ端から情報の裏取りをやっていたのだが、存外に面倒なのだ。だからある程度は情報を鵜呑みにすることにしたのだ。ただし、《鼠》と五分雑談すると、知らないうちに百コル分のネタを抜かれているぞ。気をつけろ! なんて話もある。初対面からして面倒な奴だとは思ったが、面倒を通りこして厄介な奴だ。

 

「オレっちを舐めないで欲しいナ。あんなの朝飯前だヨ」

 

 そう言って差し出された情報に目を落とす。その中身は、第一層のボス攻略に参加する可能性の高いメンバー一覧だ。俺としてはあまり参加する気がしないのだが、サキが攻略に乗り気な以上、それに水を差すわけにはいかない。ならば俺も当然行く他ない。であれば、情報を集めるのが先決だ。何も知らない奴らに背中なんぞ預けられない。

 

 一覧として出されたのは、アルゴが可能性が高いとして選出された五十人の名前と特徴だ。この鼠、プライバシーって言葉知ってるのかな? 知ってて高い金出して依頼した俺も俺だが……。

 

 一覧を見ていて、あるところに目が留まる。

 

「おい、アルゴ」

 

 情報を眺めている間に出されていたのだろう、もきゅもきゅとパスタもどきを食べていたアルゴが反応する。

 

「ん、なんだいハー坊」

 

「この目が腐ったぼっち野郎ってのはなんだ。性格は根暗で陰険ってひでえなおい。これは俺のことか? あ? しかもなんだこれ。相棒は超スタイル抜群で美人なサキ。ぼっちの癖にリア充とはこれいかに! ってなんだよ。喧嘩売ってんのか?」

 

「なにか違ってるカ?」

 

「前半はいい。事実だ。だが後半は捏造だろ」

 

 前半はいいのかヨ、とアルゴが呆れたように言う。

 

「まア、いいじゃないカ。いまのところハー坊以外からはこんな依頼されてないしナ。誰も見ないヨ」

 

「おいテメエ、今のところって言っただろ。いずれ金積めば誰かに見せるってことじゃねーか」

 

「さあテ、どうだろうネー。ニシシ」

 

 こんの鼠が。あとで口止め料払わないと!

 

「それデ、目ぼしい情報はあったカ?」

 

 くるくるとパスタもどきを巻きながらアルゴがまだ笑っている。これ以上追求すると無駄に口止め料が高くなりそうな予感がするので、黙って一覧を眺めるていると、青髪ウェーブ男に目が留まった。

 

「アルゴ、このディアベルってやつが、首魁になりそうなのは間違いないか?」

 

「まず間違いないだろーナ。人望も厚いようだしネ。たぶん、彼らのパーティがもうすぐボス部屋を見つけるヨ。三日か四日かナ、そしたらすぐに攻略会議をやるんじゃないカ?」

 

「ひとつ訊く。こいつ、ベータテスターか?」

 

 不意に、アルゴの雰囲気が変わったように見えた。それも瞬き一回ほどの間だけで、すぐにいつもの調子でヘラヘラと笑っていた。動揺は見えない。だが、ほの暗い怒りが全身からゆらゆらと湯気のように立ち昇っているようにも見える。

 

 当然だ。

 

 昨今の状況下で、ベータテスターとバレれたものは、下手をすればPKされかねないのだ。そのくらい、現状は逼迫しているのだ。

 

「なんでそう思ったんダ?」

 

 口元は笑みを形作ったまま、アルゴが静かに問う。

 

 この情報屋とあまり敵対したくはないな。誤解は解いておくか。

 

「先に言っておく。俺はどいつがベータテスターだろうが新規プレイヤーだろうがどうでもいい。ただ今後攻略をする上で、必要な情報を把握しておきたいから聞いているだけだ」

 

 長い間、アルゴとにらみ合う。よく見れば可愛らしい顔をしているが、彼女の顔は真剣そのものだった。

 

 やがて、アルゴの険が取れ、普段のものになる。

 

「わかったヨ。信じるサ。それで、さっきの答えを教えておくれヨ」

 

「髪が青い」

 

「ハ?」

 

「俺たちの顔はいま、アバターじゃなく現実の顔になっている。髪色だって同じだ。元から青く染めていたか、サキみたいに地毛なら分からんでもないが、そんな奴はそうそういないだろ。ならゲーム内で変えたってことだ。だが、生憎と俺はそんな情報は知らない。正確には、出回っていない。そこらで配布されているガイドブックでも、恐らくは現状需要がないから載っていなかった。なら、答えはひとつだ」

 

「それで、ベータテスターだト?」

 

「ま、ただの推論だ。穴だらけだしな」

 

 だから、これはただのカマかけだ。十中八九、ディアベルはベータテスターだろう。そして、アルゴもまた、ベータテスターだ。だから何があるわけでもない。何も分からないパンピーの俺にとって、情報は死活問題だ。些細な情報も見逃すつもりはない。

 

「まあ、問題はそこじゃない。こいつだな」

 

 アルゴにも見えるようにデータ資料に指を挿す。そこにはモヤットボールがあった。IQサプリじゃないよ! キバオウとかいう髪型がモヤットしまくっている男のことだ。

 

「こいつは厄介だな。ベータテスター嫌いで頑固者。こいつ、できれば攻略会議からは排除したいな」

 

「そうは言ってモ、ひとりだけ除け者にするのは難しいだロ? パーティー組んでるみたいだしシ、他から情報が行くヨ」

 

「分かってる」

 

 最悪なのは、何かしらの理由でベータテスターへ敵意を向けたキバオウに、周りが同調することだ。ベータテスター排斥の流れができれば、烏合の民衆などすぐさまそれに乗る。こういうときの集団がどう動くかなど、俺はよく知っている。あるときは青春を隠れ蓑に、ある時は民意の体現者として、偽りの正義を純白なそれに見せつけ、少数派を排除する。

 

 それはまずい。いまベータテスターを排除することが、攻略に掛かるカレンダーの枚数をいくら増やすことになるのか、恐らくそのときの彼らは分からない。

 

 いや、考えすぎか?

 

 だが、もしこの想像が真実であったとしたとき、眼前に座るアルゴは窮地に立たされる。高い評価を受けている情報屋として名を馳せている彼女が、表立って行動できずに地下に潜らなくてはならなくなる。必然、俺の情報源も絞られる。それは困る。

 

 ならば俺はどうする。

 

 比企谷八幡は、どうする?

 

 手はある。いつものように、陰湿に、悪辣に、最低辺らしく動けばいい。

 

 だが、いまの俺はそれを躊躇してしまう。足踏みしてしまう。

 

 いつだったか言われた言葉が、まるでいままさに耳元で囁かれているかのように聞こえるのだ。

 

 あの二人の言葉は、いつだって俺の心を突き刺して離さない。

 

 俺のやり方は駄目出しされ、人の気持ちを考えなければならない。そんなもの、両手両足を失ったも同然ではないか。そんな俺に一体何ができる……?

 

「答えはすぐには出ないカ?」

 

 思考の海に沈んでいた俺を引きずり上げたのは、パスタもどきを食べ終えたアルゴだった。

 

「まあ、な。すぐには無理そうだ」

 

「なラ、じっくり考えてみるんだナ。サキちゃんにも相談してみなヨ。ひとりで考えるヨリ、ふたりで考えたほーが建設的だヨ。オレッちも考えておくからサ」

 

「おう……サンキューな」

 

 礼を言うと、ぱちくりとアルゴが目を瞬かせる。

 

「ハー坊が素直にお礼を言うナンテ……明日は槍が降るナ」

 

「アホか。で、もうひとつ聞きたいことがある」

 

「内容によるナ」

 

「ボス戦でプレイヤー同士に争いになる可能性のあるものを知りたい」

 

「千コル」

 

 ちゃっかり手を出したアルゴに、俺は無言でウインドウを出し金を支払う。高いなおい。

 

「まいどアリ~!」

 

「で、内容は?」

 

 う~ん、と先とは異なり、もったいぶった様にアルゴは唸り声を上げる。なんだ、言いにくいことか? 金返せよ。黒パン千個買える値段だぞ。それに俺の散財相手の殆どがこいつなんだから、たまには安くしてほしいところだ。

 

「可能性としてだけド、というか、ほぼこれくらいしかないケド」

 

 前置きしてアルゴが続ける。なんだよ、考えてただけかよ。

 

「たぶん、ラストアタックボーナスだナ」

 

「LAボーナス。ボスに最後にダメージを与えた奴、つまり倒した奴がボーナスアイテムを得るシステムってことか?」

 

「その通り。やっぱりハー坊は賢いナ」

 

 にゃはハ、とアルゴが愉しそうに笑う。

 

 俺は内心気が気ではなかった。

 

 最悪なシステムじゃねえか。恨むぞ茅場晶彦。

 

「知ってる奴はどれくらいいる? 金ならいい値でいい」

 

「いーよ。ハー坊はお得意さんだし。はっきりとした数は分からないからネ。予想でいいかイ?」

 

「かまわん」

 

「ベータテスターの約半数かナ」

 

 つまり、ベータテスト選考に漏れたプレイヤー、所謂ニュービーはそのことを知らない。

 

 頭を巡らせる。まだ足りない。もう一押し、現時点で情報が欲しい。

 

「アルゴ、もうふたついいか?」

 

 いいヨ、と柳眉を吊り上げアルゴが返す。

 

「現時点で最強のプレイヤーは誰だ? それから、ディアベル、もしくはキバオウ絡みで何かそいつとの取引はないか?」

 

 ただの勘だ。ベータテスターとディアベルの人望、LAボーナスを繋ぐと、何かが見えた気がした。

 

 アルゴが腕を組んで唸る。今度は先ほどのものとは意味合いが異なる声音だ。

 

「最強のプレイヤー、というと、恐らくはキー坊だな」

 

 一覧に目を落とす。該当する人物はキリト。中性的な少年だ。ディアベルと同じソードマンだが、軽装で盾は装備していない。よく見れば、年下か。小町と同じかひとつ下くらいか?

 

「で、後者は?」

 

 アルゴが無表情になる。わざとだ。

 

「言えない」

 

 期待していた通りの答えだ。

 

「問題ない。助かった」

 

 長く、長く息を吐く。カードはある程度出揃った。いまあるカードだけで勝負できないこともないが、もう数枚カードが欲しい。折角情報屋がいるんだ、存分に活用させてもらおう。

 

「アルゴ、今日最後の依頼だ」

 

「今度はお金取るよ」

 

「言い値でいい。キリトと渡りを繋いでくれ」

 

 

 

 アルゴが連絡を取っている間、俺は急いで飯をかき込んだ。しかし、アルゴから返って来た返事は、キリトがここに来るというまさかの回答だった。なんだよ、ならもっとゆっくり食えばよかったじゃねえか。失敗した……。

 

 しばらく二人で水の入ったグラスを傾けていると、背に剣を挿した小柄の少年が来店した。きょろきょろと辺りを見渡したそいつは、アルゴのフードを見つけるや、そろそろとこっちに向かってくる。

 

「よう、アルゴ。相変わらずいきなりだな」

 

「オレっちとキー坊の仲じゃないカ。気にするなヨ」

 

 軽い挨拶を交し合った二人だったが、キリトが俺へ視線を投げる。一瞬びくっとしたぞこいつ。やっぱり目が怖いの? 傷ついちゃうからそういう反応やめてねホント。

 

 こ、この人は……? とか恐る恐る聞かれるのも嫌なので、先に口火を開く。

 

「ハチマンだ。アルゴ経由であんたを呼んだのが俺だ」

 

「そ、そうか……知ってるだろうけど、キリトだ。よろしく」

 

「おう」

 

 生まれる沈黙。

 

 あ、あっれー? 何もしゃべらないよこの人。おかしいな。中学生ってもっと喋るんじゃないの? 人の悪口とか、陰口とか。

 

 おっと、どうすればいいんだ。忘れていたが、俺も口が上手くない。伊達にサキとぼっち同士一ヶ月一緒にいたわけではなく、多少話せるような気になっていたんだが、勘違いだったか。

 

 助けを求めるようにアルゴを見ると、フードを目深に被って笑い転げてやがった。こんちくしょう!

 

 約二分、会話もなく水を飲みあう不毛な雰囲気を壊したのは、やはり笑いを治めたアルゴだった。

 

「ふ、ふたりともダンマリはないだロ。ハー坊もそうだけど、キー坊の人見知りも大概だナ」

 

「失礼な奴だな。俺は確かにぼっちで口数は多くないが、そのぶん頭の中で超会話してるし。つまり俺は会話上手だと言えるな」

 

 俺が軽口を返すと、ようやく緊張の糸が解けたのか、キリトも乗ってくる。

 

「それ、頭の中だけじゃないか……」

 

「うっせえ、ぼっちは会話上手。以上、Q.E.D. 証明終了」

 

「あ、でもハー坊はキー坊と違ってぼっちじゃないゾ。彼女いるしナ?」

 

 アルゴの爆弾に、ぶっと水を噴出したのは俺とキリトだ。って、なんでキリトまで吹くの?

 

「え、え? マジ?」

 

 若干身を乗り出してキリトが聞いてくる。なにこいつ。ぼっちなのに彼女欲しいの? にわかかよ。

 

「ち、ちげえよ。サキはそんなんじゃねえし。コンビ組んでるようなもんだし。それだけだし」

 

 我ながら“し”が多すぎる。何ヶ浜さんだよ全く。

 

 サキ、とキリトが思い出したように口を開く。まだこの話題続くのかよ。そろそろ変えようぜ。

 

「サキって、あのサキさんか? 尋常じゃない槍捌きで敵を薙ぎ倒していく、あの女槍使いのサキさんか?」

 

「何それ、どこのランサーだよ。冬木市かよここは」

 

 ネットゲーマーって奴は、いちいち仰々しい奴らが多い。この分だとあいつ、気づいたらアイルランドの光の御子ならぬ、《アインクラッドの光の巫女》とか言われるんじゃねえの。同じ槍使いだし。あいつのことだから、ゲイボルグとか自力で出来ちゃいそう。

 

 ニシシと笑うアルゴがキリトの話に付け加える。

 

「ハー坊は知らないかもしれないケド、サキちゃんは有名なんだヨ。強いし綺麗だし、しかもハー坊の前だと可愛いし、あのギャップが堪らないよネ」

 

「ときどき超怖いけどな」

 

 ガン睨みされるし。メンチ切り出すと怖いんだよなあ。最近は少ないけど。

 

「マジか……。アルゴから同じぼっち仲間を紹介してくれるって言われて来たのに」

 

 項垂れたキリトの本音が切なすぎる。

 

 やはりぼっちとしてはまだまだ修行が足りないらしい。

 

 それよりもアルゴの奴め、変な呼び方しやがったな。

 

「まあ、なんだ。俺の場合は事情があってあいつといるだけだ。あいつが拒否ったら、まあ俺もぼっちに戻る」

 

 言っていて、それもそう近くない未来なんじゃないかと思った。あんなできた女が俺と一緒に行動するメリットなどない。ただの依頼主と請負人の関係をずるずると続けているだけなのだ。そして、その理由が吐き気を覚えるほど気持ち悪い感情だから、きっとすぐにでも離れた方が良い。

 

 それが出来ないのは、あの時の約束があるからだ。

 

 サキを現実に帰す。

 

 その為に手を結んでいるに過ぎない。だから、アルゴの言うようなことは無い。絶対にありえないのだ。

 

「そんなこと無いと思うけどナ。ハー坊は捻くれてるなア」

 

 アルゴがしみじみと言った。

 

「というか、さっきの冗談だったんだけど……」

 

 恐る恐るというように、片手を上げてキリトが言った。言いやがった。

 

「分かりにくいわお前の冗談は!」

 

「ご、ごめん」

 

 なんだ、ぼっちは冗談が下手なのか?

 

「もういい。本題に入るぞ。キリト、聞きたいことがある」

 

 言いながら、店内に人気がなくなったのを確認しておく。夜ももう遅い時間だ。さすがに一層攻略直前に長居するような馬鹿がいなくて助かる。

 

「お前、その《アニールブレード》の取引を持ちかけられてるだろ?」

 

 はっとキリトがアルゴを見るが、彼女は首を振る。そう、彼女は何も言っていない。そしてキリト、そんなに行動に出したらYESと言っているようなものだぞ。

 

「安心しろ。アルゴは何も言っていない。別口で耳に入れただけだ」

 

 今度はアルゴがじとーっと俺の方を見ている。嘘ばっかり言って、とかそんなことだろう。理由などなんでもいいのだ。要は聞きたいことが聞ければどうでもよい。

 

「で、取引相手は誰だ?」

 

 キリトは、じっと俺の顔を見る。その目には困惑と逡巡。あとは若干の安心感か?

 

「俺があんたにそれを答える理由は?」

 

「まあ、ないな。言いたくなきゃ言わなくても構わない。ただの確認みたいなもんだよ。大方知らないんだろ?」

 

「うっ……まあね」

 

「おー、ハー坊探偵みたいだヨ。すごイすごイ」

 

 アルゴが感心したように、無邪気に手を叩いた。

 

「違う。こいつが顔に出しすぎなだけだ」

 

 ガシガシと頭を掻く。予想はしていたが、ちと面倒だ。

 

 三四日にでもディアベルはボス部屋を見つける状況。遅くて翌日、早ければ当日には攻略会議が開かれるだろう。その前には、いや、最低でもその後でも構わないが、ある程度仕込みは入れておきたい。駄目ならばぶっつけ本番になるが、それは最悪の手段になりそうだから始末に悪い。

 

「アルゴ、依頼だ」

 

「だんだん遠慮なくなってきたよナ、ハー坊。さっきのが今日最後じゃなかったのかヨ」

 

「大目に見てくれ。取引相手の口止め料はいくらだ?」

 

「千コルだナ」

 

「最悪は倍出す。交渉してくれ」

 

「はぁ? 倍だって?」

 

 突然キリトが声を上げる。最近のキレる若者なの君?

 

「キリトは気にするな。情報は横流ししてやる」

 

「いや、それは別に……というか、そんなことしてハチマンにメリットあるのか?」

 

「まあ、色々あるんだよ」

 

 ひっさつ いろいろ が さくれつした! キリトは だまりこくった!

 

 キリトからすれば、いきなり呼び出されたと思ったら目が濁りまくった男に合わされ、意味分からないやり取りをしたかと思えば、昨今の取引状況を抑えられている。しかも相手が分からないと知るや否や、要求額の倍額払うと言いだしたのだ。どこのサクセスストーリーだって感じだろう。どこら辺がサクセスなんだ。

 

 アルゴへ依頼して二分は経ったか、戻ってきた返事を見たアルゴが、短息して肩をすくめた。

 

「千五百コルで手を打った。教えても構わないそーダ」

 

 俺は無言でウインドウを開き、必要なコルをオブジェクト化してアルゴへ渡す。受け取ったアルゴはコルを手品のようにくるくると回しながらストレージに納めていく。

 

「キバオウだヨ」

 

「……そっちか。横のつながりは調べられそうか?」

 

「やってみるヨ。期限は?」

 

「できれば明日中が良い」

 

「了解。そんじゃ、オレっちはこれで失礼するよ! 今日は面白い話も聞けたし、キー坊の分も代金置いておくから適当に頼みなヨ」

 

 音もなく立ち上がり、疾風の速さでアルゴは店から出て行った。むう、最初に会ったときよりも去り方が洗練化してやがる。やつめ、一体あと何段階進化するんだ……。

 

 で、残されたのは、途中から放置されていたキリトだ。水の入ったグラスを持ったまま固まっている彼が、少しだけ哀れに思えた。折角アルゴから選別をもらったのだ。少し色をつけて驕ってやろう。

 

 

 

 思いのほかキリトとの会話が弾んだせいで、部屋に戻ると時間は夜九時を超えたところだった。あいつ、ゲームの事になると眼の色変わるのな……。

 

 今日は慣れない会話ばかりをして少し疲れた。やっぱりぼっちは初対面の人間と会話するもんじゃねえなあと思いつつ、いそいそと装備を外してベッドに飛び込む。

 

 少し休憩したら迷宮区へ行くつもりだった。少しでも敵の情報は集めておいた方が良い。それが取り巻きであろうと、サキへ共有できる情報は多いに越したことは無い。

 

 そんなことを考えつつウトウトしていると、ふいに、ドアが叩かれた。控えめな音の後、女の声が続く。

 

「ハチマン、いる? あたし、サキだよ」

 

「ん、あ、ああ、サキか。どうした?」

 

 ある時から、俺とサキは泊まる部屋を隣同士にするようになった。誘って来たのはサキだ。お互いに朝が弱いのだから、集合するのに近い方がいいという理由だ。反論する理由もなかったので、俺はそのとき頷いた。

 

 それ以来だ、こうしてサキはちょくちょく夜になると俺の部屋に顔を出す。たぶん、家族と一緒に夜を過ごして来た期間が長すぎるから、寂しいのだろう。ちなみに俺も小町に会いたくて何度か枕を濡らした。マジで小町恋しい。

 

「入っていい?」

 

「お、おう」

 

 がちゃり、と静かに音を立てて開いた扉の向こうに、足首まで伸びた青いワンピース姿のサキが立っていた。いつものポニーテールは解いて髪を下ろした姿も、この一ヶ月で見慣れたものだ。ホントはドキドキなんてしてないよ! ハチマンウソつかない!

 

 ふんっ、と腹筋に力を入れて身体を起こす。

 

「ごめん、寝るとこだった……?」

 

「いや、ちょっと横になってただけだ。まだ起きてるつもりだし」

 

「マンガもゲームもないのに?」

 

「ま、色々あるんだよ」

 

 くすくすと笑ったサキは、少し距離を置いて俺の隣に腰を落ち着ける。

 

 最近は、自分でも驚くほどサキに対して警戒感を覚えていない。それどころか落ち着いているのではないかと思うことすらある。あの、紅茶の香り漂う奉仕部のように。

 

 俺も、きっとサキもぼっちだ。孤高であることは、すべてをひとりでやらなければならないことでもある。俺も彼女も、ぼっちになれる程度には優秀で、相応の理由でこうなっている。それも、この極限状況の中では、孤高の強さに陰りが出てきている。だから、同じ性質同士引き合うのか、それともぼっちの空気が読めて楽なのかは分からないが、隣にサキがいることが自然だった。

 

 参ったな、と思う。これ以上を考えると碌なことにならない。中学のあの時、俺は一方的な願望を押し付け、相手が期待を大きく裏切る行動に出たことで、自分に失望した。あれと同じことは当然嫌だし、あのときほど自惚れても他人に期待してもいない。ただ、こうして二人でいるのは、依頼人と請負人という利害関係ゆえだ。

 

「あんたさ」

 

 ぽつりと、サキが口を開く。いつも、サキは部屋に来ても多くを語ろうとしない。ぼっち同士ゆえに、言葉を交わさなくても沈黙だけでいいのだろう。ただ、そこが心地よければ……。

 

 駄目だ。どうしても思考がそっちへ向かってしまう。アルゴのせいだ。この野郎め。今度機会があったら沈めよう。

 

「めんどくさいこと考えてるでしょ?」

 

「な、なんのことでしゅか……」

 

 ふぇぇ、噛んじゃったよ。死にたい……。

 

 ふふふ、と口元を押さえてサキが笑う。大和撫子みたいなやつだな。白粉でも塗っちゃうのかよ。

 

「あんたは、変わらないよね。そうやってふざけてるのか真面目なのか、よく分かんないところとかさ」

 

「そうでもねえよ」

 

「だろうね。内心はどう思ってるかは分からない。でも、あたしは違う……」

 

 サキが目を伏せる。この先は言わせてはいけない。踏み込ませようとする、その言葉を続けさせてはならない。なのに、俺の口は逃げることができず閉口してしまう。

 

「毎日、いつも家族のことを考えてる。大志はちゃんと受験勉強できてるのかな。けーちゃんは泣いてないかな。わっくんはしっかりしてるかな。お母さんもお父さんも、心配ばかりかけちゃってるな。本当に色々考えちゃって、眠れないときばっかりなんだ」

 

「そんなの……」

 

 サキの心の丈を聞いていられなくて、俺も心の表層を掬ってしまう。思わず目頭が熱くなるから、くっっと目に力を入れて無理やり涙を引っ込める。

 

「俺だって同じだ。俺もシスコンだが、小町のやつも大概ブラコンだからな。あいつ、きっと泣いてる。あいつが泣いてるって分かってるのに、一番に傍にいられないのはつらい」

 

「あんたも家族のこと考えて眠れなくなったりする?」

 

「たりめーだろ。小町と離れ離れだぞ? あの天使の笑顔と声が見られず聴けないなんて、なんてこの世は地獄なんだ! とか考えてると朝になってるまである」

 

 はは、と愉しそうにサキが笑う。笑っているのに、頬には涙が流れていた。

 

 そして、止まらない。

 

 サキの表情が歪む。柳眉が下がり、声に嗚咽が混じる。

 

 そっとサキが近づく。肩と肩が触れ合う距離で、サキの声音が遂に壊れた。

 

「ハチマン……ごめん、寂しいの。胸、ちょっとだけ、貸して……。すぐ、すぐに収まるから」

 

 初めてここで出会ったあの日のように、サキが俺の胸に顔を押し付け、さめざめと静かに泣く。

 

 普段大人ぶっていても、こいつも俺も、まだ高校生だ。自立もまだできていないのに、放り込まれた先は、残酷にも弱肉強食で生き死にが掛かった世界だ。そんな中で、一ヶ月もひとり心の内で不安と戦い続け、いまになってそれに負けてしまうのを責めることはできない。

 

 俺はそんな言葉を持っていない。

 

 弱いと、ここでなじれる奴は、きっと崇高で強いのだろう。なんの不安もなく、感情の触れ幅などなく、あらゆる問題の最適解を見つけ、ただひたすらに強く孤高。

 

 そんな完璧な存在はいない。

 

 いるのならば、それは悲しい存在だ。

 

 理解もされず、他人を真の意味で理解することもできない。

 

 集団を遠巻きに見て、必死に手を伸ばしても崇高ゆえに届かない。

 

 なぜなら、そいつはあまりにも天高いところにいるから。

 

 俺はそんな人間じゃない。

 

 集団の中にあって、集団から弾かれる者だ。サキのつらさが、少しだけ分かるのだ。

 

 だからいま、サキになんの言葉をかけてやる事もできない自分が、いまだ渦巻くドス黒い身勝手さを押し付けているこの心の惰弱さが、俺は、嫌いになりそうだ。

 

 ぽんっと胸を叩かれる。顔をあげたサキの目じりには、もう涙はなかった。

 

「いつもごめん、それと、ありがと……」

 

「気にすんな。小町もたまにこういうときあるしな」

 

 表情を和らげたサキが、からかうように言う。

 

「シスコンめ」

 

「お前だってブラコンにシスコンだろ」

 

「両親も好きだから、あたしの場合はファミコンだね」

 

「なんなの、お前んち八ビットなの?」

 

「専門用語言われてもわかんないよ」

 

 サキが相好を崩す。

 

「あんたと話してると、楽だよ。変に気負わなくていいし、安心できる」

 

 あたし何言ってんだろ、とサキがおろおろとし始める。やっぱり可愛いな、こいつ。

 

 だから俺は、自然と手を伸ばしていた。艶やかな青みを帯びた黒髪に手を乗せて、妹にいつもしているように、ゆっくりと撫でる。

 

「は、ハチマン?」

 

 少しだけ、考える事をやめた。こっちに来てからと言うものの、頭はいつだってパンクする寸前で、いつ爆発するか分からない状態だ。なら、少しは何も考えずに行動しても良いだろう。

 

 こいつは依頼人だ。ならば、依頼人の不安を取り除いてやるのも、請負人の仕事の一部だろう。

 

 ん…っ、とサキがくすぐったそうにする。

 

 いまはこれでいい。いずれ答えを出すその日まで、できれば、サキには隣でいてほしいと思った。

 

 肩に温かい感触が当たる。頰にサキの髪が流れ、寄りかかられていることに気づく。

 

「んなっ、さ、サキさん……?」

 

 突然のことに焦る。あげく俺の掛け声に返事がない。まるで屍のようだ……ではなく、かすかにすぅすぅと寝息が聞こえた。寝やがったよこいつ……。

 

 寝顔があまりにも安らかだったから、これ以上声を掛けることが躊躇われた。あまり寝れてないって言ってたしな。寝かせておくか。

 

 といっても、この体勢どうすっかなあ。俺、これから迷宮区に行きたいんだけど……。

 

 まあいいや、俺も寝よう。

 

 ……寝れるかボケ!

 

 セルフ突っ込みする程度には動揺しているらしい。起こさないようにゆっくりとサキの頭を引き剥がし、俺の枕の上に乗せる。足もちゃんとベッドに上げて、毛布を掛けてやる。女子にベッドを占領されれば男は出て行くしかない。いいもん、元々迷宮区行く予定だったし!

 

 ウインドウを開いて装備をし直し、ドアを開く。閉じる途中、振り返ってサキを見た。

 

「……おやすみ」

 

 当然、返事は帰って来なかった。

 

 

 

 



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こうして、二人はコンビになる 4

 迷宮区で敵の攻撃パターンと弱点部位を確認し、経験値を稼ぎ終えた俺が宿に帰ったのは、朝の八時を超えたところだった。さすがにぶっ続けで起きていると、ゲームの中とはいえ頭の中に鈍い痛みのようなものを感じる。

 

 頭を抑えながら部屋に戻ると、サキがベッドに腰掛けてなにやら頭を抱えているところに遭遇する。

 

「……どした?」

 

「は、ハチマン? ちが、わた、え? ちょ、待って! 落ち着く! いま落ち着くから!」

 

 サキは頭を上げるやいなや、両手を前に突き出しわさわさと振りまくり、立ち上がったと思えば今度はベッドにダイブする。布団を被ると足をバタバタとさせて思い切り唸り出す。

 

 おうおう、面白い慌てっぷりだ。黒歴史を思い出した夜の俺みたいじゃないか。

 

「あー、とりあえず外出てるわ。落ち着いたら呼んでくれ」

 

 こういうときはそっとしておくに限る。下手に突かれるとダメージでかいんだよなあ、アレ。

 

 返事も聞かずに外に出て、廊下に寄りかかって腕を組む。思わず俯きそうになって、寸でのところで顔を上げた。目を閉じたら確実に寝るな、これ。

 

 おかしい。現実だと少しくらい徹夜してもどうってことなかったんだが。

 

 最近何かしたっけかなと、昨今の基本スケジュールを頭の中で思い出す。

 

 午前八時――起床。

 

 同時間――サキと共に朝食。

 

 午前九時――レベル上げ。

 

 正午――昼食。

 

 午後一時――レベル上げ。

 

 午後六時――夕食。

 

 午後七時――対人訓練。

 

 午後十時――サキを宿へ送り、気づかれないように外へ出る。

 

 午前五時――旨そうなクエストやら狩場やら、なんやかんや色々情報を得た末、宿に戻り就寝。

 

 ……あれ、あんま俺寝てなくね? というか何、この社畜もびっくりのブラック労働。

 

 働きたくないでござる。絶対に働きたくないでござる!

 

 まあ、一日くらいはなんとかなるだろ。昨日のは不可抗力だし。つまり、俺のせいじゃない。社会が悪い。

 

 二十分くらい経っただろうか、俺の部屋の扉がようやく開いた。装備を整えたいつもの格好になったサキが、顔を真っ赤にしながら出てくる。

 

「お、おはよう。な、なんかあった?」

 

 おう、こいつさっきのことを丸ごと何もなかったかのようにしてやがるぞ。ふてぶてしい奴め。気持ちはわかる。だって同類だもの。

 

 ここは乗ってやるのが男の甲斐性だろう。そうだよね、小町? え、ちがう?

 

「いや、俺もいま起きたところだ。なんもなかったぞ」

 

 うっ……と、サキが胸を押さえる。罪悪感にやられたか? 負けるなサキサキ!

 

「やっぱ、ごめん。部屋とっちゃって……それに、昨日は色々ありがと、ホントに」

 

 サキが思い切り頭を下げる。

 

 負けちゃったのかよ。折角乗ってやったのに。まあいいか。

 

「気にすんなよ。俺も小町が恋しくて泣くとかあるしな」

 

「ほんとごめん。ちゃんと寝た? 目の濁りがいつもよりすごいよ?」

 

 さり気なく俺の目ディスるのやめてね。

 

「濁ってるのはデフォだっつーの」

 

「大丈夫ならいいけど……」

 

 そういいつつ心配そうに俺の顔を覗きながら、サキがもう手馴れた手つきでパーティ申請をしてくる。現れたウインドウ上の承認ボタンを押して、パーティを組む。

 

 宿の一階に行き、大量に買い込んでいた黒パンをふたりして、もしゃもしゃモグモグする。あまり時間を掛けずに食べ終わり、宿屋の外へ出た。

 

「今日はどうする? ハチマン、なんかしんどそうだし、特に目が……。今日は軽めにしない?」

 

「俺のことは気にすんな。それと、さり気なく目をディスるのやめてね。泣いちゃうぞ俺」

 

「ご、ごめん。心配だったから……」

 

「わ、わりい。ま、気にすんなよ」

 

「……ん」

 

 どうにもやりづらい。

 

 それにしても最近こいつの発言や態度から険が取れてきたな。前は顔が合うたび睨まれてた気がするんだが。いまはお互い相手に慣れてきたのだろうか。なんにせよ、罵倒されないのはいいことだ。優しい世界万歳!

 

 しばらく歩いていると、妙に視線が集まっているのを感じる。やばい、あふれ出る俺の男気オーラが視線を吸い寄せてしまうのか……なんてわけがない。ステルスヒッキーは常時発動しているのだ。

 

 視線の先にあるのはサキだ。サキはサキで、何も気づいた風もなく俺の横を風でも切るように颯爽と歩いている。ヤンキーなの?

 

 ぼんやりと遠くを見ながら歩いていると、前方から二人組の男どもがこちらに向かって歩いてくる。片方は茶髪のロン毛男。もうひとりは金髪の爽やかイケメンだ。ふたりとも片手剣を腰にひっさげ、ゆっさゆっさと揺らしている。

 

 ちっ、と内心で舌打ち。葉山と戸部を思い出しちまったじゃねーか。

 

 まあ、ただすれ違うだけだと、ステルスヒッキーを発動したままサキと通り過ぎようとしたところで、ロン毛に呼び止められる。もちろん俺じゃない。サキだ。

 

「ねえ、キミぃ~。良ければ俺らとパーティー組まな~い?」

 

 なんで声が間延びしちゃってるんだよ。伸びるのは髪だけでいいんだよ。 

 

 で、当のサキはというと……。

 

 MU☆SHI。

 

 見事なまでのガン無視。

 

 ここまで来るといっそ潔いな。相手が哀れとすら感じる。

 

 ロン毛が慌ててサキの前に滑り込んで両手を広げる。

 

 しまった、まわりこまれてしまった! にげられない!

 

「ちょっとちょっと~、無視しないでよ~」

 

「あ? 邪魔なんだけど」

 

 今度はサキの睨みつけるが炸裂。ロン毛の防御力が下がった! というかしつこいなこいつ。

 

 怯んだロン毛に変わり、今度は金髪が現れる。動きと共にさらっと髪が空気に流れ、きらきらと星でも流れそうだ。イラっとくるよね♪

 

「おい、そんな強引に誘うなよ。ごめんね、サキさん」

 

 金髪が名前を呼んだ途端、サキの眉が上がる。確実に怒ってらっしゃるな。というか、こいつら、間近にいる俺の存在にまだ気づいていないのか。《隠蔽》スキルじゃなくて、ステルスヒッキーだよ? すげえなステルスヒッキー。スキル顔負けじゃん。

 

「なんで名前知ってるワケ?」

 

 失言に気づいたか、金髪が両手を上げて首を振った。

 

「サキさんは有名だからね。凄腕の槍使いだって。だから色々教えて欲しいんだよ。なんなら報酬も出すからさ」

 

「他をあたりな。こっちにはツレがいるんでね」

 

 悪・即・斬! 並みに即座に斬り捨てると、サキが隣にいる俺を見る。そこでようやく俺の存在に気づいたふたりが、俺の目を見た瞬間、うっと怯んだ。どいつもこいつも酷くねえか?

 

「いやいや、ないわ~。この人ないわ~」

 

 ロン毛があからさまに馬鹿にした戸部語で言う。金髪も同じく、俺を見てクスクスと笑っている。あれだ、プークスクス、みたいな笑いだ。いつものことだ。ここはさらりと受け流してさっさと行こう。時間の無駄だし。

 

 と思った瞬間、風が走った。

 

「あんたら……なにあたしのツレをバカにしてんの? 殺すよ?」

 

 サキが槍を抜いていた。穂先は一番近いロン毛に向いている。さすがに早すぎて俺の目にも動きが見えなかった。徐々に人外と化してるだろこいつ。

 

 ロン毛はびっくりしすぎたのか、「べ、っべー……」とか言っちゃってるし。

 

「このっ!」

 

 ややあって、金髪が唐突に抜剣し、サキの槍へ刃を向けようとする。やっぱりこいつらエセ戸部と葉山もいいところだ。人間としてなっちゃいない。女性からの罵倒は素直に受け取っとけ。それが理不尽であれ急所を突かれることがあってもな。叩かれる男は強くなるぞ。ソースは雪ノ下から日々罵倒を受けている俺。悲しくなってきたな……。

 

 さて、依頼主への暴挙を俺が許すはずも無く、即座に抜剣した俺は金髪の片手剣を弾き、その隙を付いて背後へ回る。俺の姿が消えたように見えた奴の動揺を突いて、後ろから顔面を鷲づかみにして首筋に刃を当てた。そのまま引いたところで圏内である以上意味は無い。この状況の方が恐怖を与えられる。

 

「……テメエら」

 

 地獄の門が開いた。一切の希望を捨てさせる、そんな声だ。

 

 おっと、これは誰の声だ? こんな怖い声知らないんだけど。

 

「俺のサキになにしてんだ? マジで殺すぞ?」

 

 俺だった。なにこれ、俺こんな声出せるの? 自分でもびっくりなんだけど。

 

 金髪がうわ言のように、謝ろうとするが顔面への力を強くして黙らせる。

 

「ヒィッ!」

 

「誰がしゃべって良いつった? 五秒で去れ。でなきゃ次は殺す。圏外で必ず殺す」

 

 手と短剣を外すと、男たちは脱皮のごとく走り去っていった。まったく、逃げるくらいなら最初からやらなきゃいいのに。

 

 ほっと息をついて短剣を鞘へ修めると周囲の唖然とした視線が集まっているのを感じた。

 

「あー、サキ、とりあえずさっさと行こうぜ」

 

 声を掛けるが返事が無い。まるで屍のようだ……って昨日もこんなことあったな。まさか街中で立ったまま寝てるの? と思いつつサキの顔を覗く。

 

 そこには、綺麗に真っ赤に染まったリンゴがあった。

 

 え? これ人の顔なの? 超赤いんだけど。

 

 待て、思い出せ。俺さっき何か言ったか?

 

 ひとまずサキの袖口を掴んで歩きながら一連のやり取りを思い出す。思い出してしまった。一個やばいこと言ってた……。

 

 ――俺のサキになにしてんだ?

 

 これだな。うん、確実にこれだ。人を物扱いしたらそりゃあ怒るよね……。

 

 さり気なくサキを見る。多少は顔色が戻ったようだが、俯いたままモジモジしている。まだ怒ってるか。そうだよなあ……。

 

「その、サキ……」

 

「ひゃいっ!」

 

 俺の声に驚いたのか、短い悲鳴を上げたサキが、両手をわちゃわちゃと動かして数歩バックステップした。驚きすぎだからね。

 

 声を掛けたものの、何と釈明してよいのやら。考えるために頭を何度か掻く。

 

「あー……あれだ、さっきはすまんかった。サキを物みたいに言っちまって。あれだ、言葉の綾ってやつだ。許してくれると助かる」

 

 素直に謝罪を選択した俺の先で、サキはきょとんとする。すると、はあ、と項垂れてぷいっと顔を逸らした。

 

「べ、別に、大丈夫。それと、助けてくれて、ありがと」

 

 答えたきり、枝毛のない綺麗な髪をくるくると弄り始め、視線を更に明後日の方に飛ばした。

 

 許してくれたのか?

 

 ならこれで一件落着とばかりに、俺はサキを促して迷宮区へ向かう道を歩み出す。直後、背後でワっと歓声が上がった気がしたが、気にしたら敗北する自信があったので無視する。

 

 今日も元気にレベル上げをしないとな……。やだなあ。ホント働きたくないんだけど。

 

 

 

 目を開くと、そこは普段使用している宿屋の天上ではなかった。知らない天井だ、と言いたいところだったが、生憎と見えるのは果ての無い青々とした蒼穹だけ。周囲は迷宮区から少し外れた草むら。だから俺はこう言う事にした。

 

「知らない空だ……」

 

「ん、起きた?」

 

 にゅ、と頭上にサキの顔が現れる。あまりの近さに目をぱちくりしていると、頭の後ろが実に幸せな感触を感受していることに気づく。視線を少し上にずらせば、大きな丘がふたつ。下から見上げる胸は最高だと思います、まる。

 

 考えるまでも無い。

 

「膝枕されてんのか……」

 

「ん、あんた覚えてないの?」

 

 言われて考えるも、心当たりが無さすぎる。迷宮区へ向かったはずがいつの間にかサキに膝枕されている。ザ・ワールドでも食らったワケ?

 

「全く分からん」

 

 はあ、とサキが呆れの含んだ息を漏らす。だが、俺を見下ろす目つきは柔らかい。

 

「あんた、迷宮区へ行く途中で、眠い、寝させてくれ、って言っていきなり倒れたんだよ。さすがにあたしも焦ったよ」

 

 記憶にまったく無い。さすがに徹夜明けで戦いに行くのは間違ってたか。

 

「マジか、なんかすまん」

 

「いいよ。あんたには世話になりっぱなしだし」

 

 この体勢は気持ち良いが、このままでいるわけにはいかない。幸い頭の鈍痛も和らいだことだし、このまま迷宮区へ入ってレベル上げしても問題ないだろう。

 

 身体を上げようとしたところで、サキの手がそれを止める。

 

「まだ寝ときなよ」

 

「いや、もう目が覚めたから大丈夫なんだが……」

 

「いいから、もうちょっとだけ」

 

 そう言われてしまうと、甘えたい気持ちが強くなってしまう。きっぱりと断るべきなのは分かっているが、こうも面と向かって優しくされると、どうしていいか分からなくなってしまう。サキと過ごしている中で、こういうことだけはやはり慣れない。ただ自分が捻くれているだけなのだろう。

 

 後頭部に柔らかさを感じながら、ぼけーっと空を見る。気温は熱すぎず寒すぎず、ぽかぽかと眠気を誘う陽気だ。時折吹く風も頬をやんわりと撫でる程度で、目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうだ。周囲にはMobが発生する前兆も無く、安全地帯なのだろう。悪意ある第三者さえなければ、このまま再び眠りこけてしまいたい。

 

「いい天気だね……」

 

 風になびくポニーテールを軽く押さえたサキが、遠くを見ながら言った。その視線の先には、ぽつりと寂しげに浮かんだひとつの雲。

 

 時間がゆったりと流れるこの瞬間が、どうしてか愛おしく感じた。

 

 以前読んだ本の一説を思い出す。

 

 ――時よ止まれ。汝はいかにも美しい。

 

 ゲーテのファウストだったか。

 

 心地の良い天気の下で、気負う必要の無い相手にこうしてのんびりと膝枕をされている。何者も縛るものはなく、悪意のない空間でゆったりとした時間を享受する。

 

 平和だ。

 

 この一瞬だけを切り取れば、過去の人生すべての中で、一番心安らいでいると思う。思わず泣きたくなるほどに。

 

 だから俺はこう思う。

 

 時よ止まれ。汝はいかにも美しいから。

 

 たぶん、ファウストはもっと壮絶な体験から、その理想とする国家を夢想し、様々なことを感じた瞬間へ、万感の思いを込め、言ったのだろう。一読しかしていないから間違っているだろうが、確かに俺も言葉通りの意味を感じてしまった。

 

 本当に止まってくれないだろうか、と。

 

「サキ」

 

「うん?」

 

「……ありがとな」

 

「……いいよ」

 

 サキの声音を耳に響かせると、そのまま意識を沈ませていく。もうしばらくだけは、時を止まらせておきたかった。

 

 

 

 結局、レベル上げも訓練もすることなく、ふたりして草むらでのんびりし続け、夕日を眺めてから帰路に着いた。

 

 さすがに恥ずかしくなってサキの顔を見ることができず、彼女も彼女で似たような心情だったか、互いに無言だ。俺は約束があるといってサキと別れ、昨日と同じ食事処の奥まった席へ直行し、テーブルに突っ伏した。

 

 なんであんなことしちまったんだ……。

 

 一時の気の迷いだと思いたい、思いたいんだが……。

 

 うあああああ! 死にたい! 超死にたい! 誰かさっさと俺を殺してくれえええええ! やだよお、明日サキに会うのが怖いよおお! なんて顔して会えばいいんだよ! 死ね! 死ね俺! 死んでしまええええええ!

 

 心中で叫び、しかし、宿屋のベッドの上ではないからジタバタできず、ぬおぉぉと唸り声を上げてテーブルに額を押し付けまくる。店内は、味がそこそこだからか、人入りもそこそこだ。きっと視線は奇行を繰り返す俺に釘付けだろう。

 

 知ったことか! いまはクライシスしたアイデンティティをどうにかしなきゃならんのだ!

 

ハートがブロークンだ! ルー語で悪かったなこの野郎!

 

 そのまま床をぶち抜く勢いで踏み叩き、テーブルかち割るように頭突きをし……。

 

 やがて、力なく倒れこんだ。

 

「……死にたい」

 

 切実なつぶやきだった。

 

 また新たなトラウマを作ってしまった。どうしよう、超憂鬱だ。

 

 嫌だったわけではない。超よかった。超うれしかった。だからこそ、余計に恥ずかしい。俺はこんな軟派ではなかったはずなのに……!

 

「なにやってんだよハチ……」

 

 ドン引きした声が聞こえた。むくっと起き上がると、そこにはあーら不思議、頬を引きつらせたキリト君がいらっしゃるじゃないか。

 

 ハチ、か。随分昨日で仲良くなっちまったじゃねーか。半ば現実逃避を開始しようとするが、それでもあのときの光景がフラッシュバックしてのた打ち回りたくなる。

 

「いま危険がデンジャーだから。ブロークンがハートだから……」

 

「いや、意味わかんないから」

 

 前いいか? と言ったキリトは、俺の返事を待たずに対面に座る。いい根性してるじゃないか。ぼっちの癖に。一度距離が縮まると意外と遠慮ない奴だな、こいつ。

 

「で、どうしたんだよ? 話なら聞くぞ?」

 

 なんだかんだいっても人がいいのだろう、心配そうにキリトが聞いてくる。だが、間が悪い。いまの俺はトラウマの初期症状と壮絶な格闘戦を繰り広げている最中なのだ。いくらセコンドがタオルを投げようが、始まってしまった戦いはやめられない止まらないのだ。

 

「言えん。つーか触れるな。触れないで下さいお願いします」

 

「そ、そうか……」

 

 キリトがまたしても引いてらっしゃる。すまんなキリト。戦いが終わったら、ちゃんと相手するから。

 

 そういえばと、何気ない風を装ってキリトが口火を開く。

 

「朝大騒ぎだったらしいな。お前がサキさんを盛大に守ったとかなんとか――」

 

「やめて――! 話題あんま変わってないから! これ以上やったら俺トラウマ死するからホントマジお願いやめてくださいお願いします!」

 

 土下座でもなんでもするからやめて下さい!

 

「わ、分かった。その話題は金輪際口にしないから!」

 

 俺の必死の訴えが通じたか、キリトも無自覚な矛を収めてくれた。分かる奴で助かった。

 

 こほん、とキリトが咳払いをする。話題を変えてくれるのね。助かるよ。

 

 よし、と腹に力を込めたキリトが慎重に口を開く。

 

「今日迷宮区へ向かったんだけどさ。まあいつものことだけど。ハチ、お前サキさんに膝枕――」

 

「さっきから殺されてえのかテメエ! 無自覚に人のトラウマ抉ってんじゃねえよ! 表出ろこんちくしょうが!」

 

「す、すまん! そんなつもりじゃ! 決してそんなつもりじゃないから! だからタバスコ投げるのはやめてくれ! おい、フォークは凶器だからこっち向けんな刺そうとすんな!」

 

「避けんじゃねえ! その真っ黒くろすけを真っ赤に染めてやるから大人しく食らいやがれ!」

 

 ……。

 

 五分にも渡る決死の格闘の末、ようやく落ち着いた俺とキリトは、はあはあと肩で息をしながら腰を落ち着けた。周囲はもはや静かも静か。なぜなら俺たちの言い争いに恐れをなしたか、店内はもぬけの殻になっているのだ。

 

 よく出禁にならねえな俺たち。ごめんねNPCの店員さん。

 

「は、ハチ……落ち着いたか?」

 

「すまん。ここの代金は俺が持つわ」

 

「ああ、サンキュ。じゃあなんか頼もうぜ。腹減った」

 

「……だな」

 

 ウインドウを操作してメニューを呼び出す。とりあえず肉が食いたい。トラウマ抉られて疲れたから精力を付けたい。

 

 それっぽいメニューを見繕ってオーダーを依頼する。

 

「で、ハチ。もう聞いたか?」

 

 キリトの言葉に一瞬身構える。右手にはフォーク、左手にはタバスコを完備しておく。キリトの額に脂汗が滲んでいた。

 

「い、言い方が悪かった。アルゴから明日攻略会議だって聞いてるか?」

 

「なに?」

 

 慌ててメッセージを検索。アルゴから三件メッセージが来ていた。ちょうどサキと……ごにょごにょしていたときだ。

 

 中身をざっと見ると、確かに最初の一件はキリトの言った通りのことが書いてあった。

 

 クソ! 半日時間を無駄に……無駄ではないけど、無いんだけど、なんて言えばいいのこういうとき。国語三位の筈なのに語彙が乏し過ぎんだろ。まだトラウマから抜けきれてないのかよ。

 

 料理が届くが、そんなことにうつつを抜かしている状況では無い。

 

 二件目を見る。昨夜の依頼に対する回答であり、一つ目の保険だ。

 

「黒か……」

 

「なんだ? 呼んだか?」

 

 お前じゃねえよ。なんで黒で反応しちゃうんだよ。

 

 既に料理を頬張っていたキリトに違うと手で振って返し、三通目を開く。

 

 途端、トラウマがフラッシュバックする。

 

 ――サキちゃんの膝枕は気持ちよかったカ? このことを知ってるのはオレッちと偶然居合わせたキー坊だけだかラ、安心しろヨ。

 

 無言で立ち上がる。

 

 オラ、もうキレチマッタヨ――

 

 俺の目は、もはや宇宙起源よりもなお混沌として、黒々としているだろう。闇よりもなお昏いに違いない。いまならギガ・スレイブも放てちゃう。

 

 右手にはフォークを四本、左手にはタバスコを二本を携え、いざ行かん。

 

「《鼠》め。貴様は沈めるのではなく藁のように殺してやる――!」

 

「またかよ! アルゴのやつ地雷踏んだのか! ていうか言ってる意味が分からない!」

 

 危険な雄叫びを上げる俺と、必死で食い止めるキリトの戦いは、今度は十分間に渡って続けられた。

 

 ……十分後。

 

 もうなんで出禁にならないのか分からない程に暴れ終え、キリトと俺は終戦協定を締結した。やっぱり平和は大事だと思います。ハチマン、スイスになりたい。

 

「ハチ、俺レベル上げより疲れた……」

 

「奇遇だなキリト、俺も疲れた……」

 

「とりあえず、飯食おうぜ。いい加減完食したいんだ」

 

「おう、なんかホントすまんな……」

 

 すっかりと冷め、きっと耐久値がほとんどなくなりかけたハンバーグもどきにナイフを入れる。

 

 キリトと適当に会話をしつつ食事を終える頃になると、ようやく踏ん切りがついた。どうせ宿に帰ってベッドに入るときにも、明日サキと会う直前にも、今日のことを思い出して無様に盛大に転げまわるのだ。

 

 だが、それがなんだというのだ。いつだって俺はトラウマや黒歴史と共に生き続け、こうしてゲームの中でもなんとか生活できている。

 

 そんな俺が、わりと好きなんだと思う。ただ、思うように指針が定まってくれないだけなのだと信じたい。

 

 だから欺瞞よ、もう少し、夢を見させて欲しい。

 

 

 

 



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こうして、二人はコンビになる 5

 

 キリトと別れたあと、ガムシャラに迷宮区へ行くでもディアベルの動向を探るのでもなく、ちゃんと身体を休めるために宿屋に戻った翌日。

 

 当たり前のようにフラッシュバックに悶えまくってベッドから落ちまくりながらも、なんとか眠れて時刻は朝の七時四五分。ほんと、昨日サキが来なくて良かった。

 

 さあ、サキよ。来るなら来い。いまの俺は、トラウマを超越した!

 

 なんて勇気もなく、俺は部屋の中を右往左往とせわしなく歩いている。挙句、床に膝を付き、窓の外へ向かって祈りを捧げる始末だ。

 

 時よ止まって! マジ土下座するから止めてくれませんか!

 

 そのとき、がちゃり、と聞こえてはならない音が聞こえた。

 

 ノックの音聞こえなかったヨ?

 

「は、ハチマン……お、おは――なにやってんのあんた」

 

 最初は瑞々しくも薄紅色の睡蓮のように、後半は毛虫でも見るような表情で俺を見下ろしていたのは、誰でもない、サキだ。

 

「ちょっと神に感謝を……な」

 

 はあ~とサキが盛大にため息する。呆れられてしまったらしい。

 

 当たり前だ。俺だってこんな俺に呆れちゃうよ。好きだけど。

 

「なにバカやってんのさ……。覚悟して入ったあたしがバカじゃない……あ」

 

 墓穴を掘ったサキが今度は盛大に赤くなる。

 

 あかん、これアカンパターンや。

 

 両手で顔を隠したサキが、くるっと半回転し、そのままドアへ激突。閉めたことを忘れていたらしい。うぅ~と額を押さえると、ドアを開け退出して一分。コンコン、と響くノックの音。

 

 間違いなく、なかったことにしようとしている。ここはやはり男として乗るべきだろう。だよね、小町!

 

「ど、どうぞ」

 

 中に入ってきたサキが、わざとらしく大きな咳払いをふたつ。

 

「は、ハチマン、おはよう。もう準備はできてりゅ?」

 

 惜しい。最後に噛みやがった……。

 

 悔しそうに目を潤ませ唇を噛んで唸るサキ。可愛いからその表情はやめて欲しい。お持ち帰りぃ~って、したくなっちゃう。

 

 仕方ねえなあ、ここは俺が手を差し伸べてやるか。なに、こんだけサキがやらかしてくれたんだ。

 

 大丈夫だ、問題ない。

 

「お、おう、だいじょーびゅでゃ」

 

 もういっそ誰か介錯してくれねえかな!

 

「ぷっ……」

 

 噴出す声が聞こえた。蹲っていた俺がサキを見上げると、彼女が腹を抱えて苦しそうに笑っているではないか。ふたりのやりとりがあまりにも馬鹿馬鹿しいから、俺も自然と笑みが漏れた。

 

「ふふふ、あんた、ようやく笑ったね」

 

「そうか?」

 

 サキは頷く。

 

「あんた、なかなか笑ったりしないからさ。あたしのせいで色々大変なのかな、とか、あたしといるの嫌なのかなって思ってたりしてたから……」

 

 最後になるにつれて、サキの声が細っていく。

 

 一ヶ月経って、家族の他に出てきたサキの本音だろう。サキは他人のことを考えられるが自分のことは後回しにしてしまう。誰かに寄りかかることに慣れてないのだろう。それは、大志から依頼されたバイトの件ではっきりしている。

 

 サキは、少しだけ視野が狭い。

 

 想像でしかないが、俺に対して心苦しい思いをさせてしまったのかもしれない。

 

 少し考えれば分かりそうなことだというのに、自分のことばかりにかまけてサキのことを考えていなかった。

 

 なら、ここははっきりと告げるべきだろう。

 

「……んなことねえよ。お前には、感謝してる。俺もしんどいときとかは、やっぱりある。だけどな、お前がいるから、サキがいるから、なんつーか……なんとかなってる。だから、サンキューな」

 

 胸を押さえたサキが、柔らかく、アルカイックに微笑む。

 

「ん……そっか。なら、嬉しいよ」

 

 ああ、俺は。

 

 俺は、この見ているだけで安らげるような優しい笑顔を、いつか失ってしまうんじゃないだろうか。

 

 行き場の無い怒りを瞳に湛えた雪ノ下のように。

 

 辛そうに、ひどく痛々しく微笑んだ由比ヶ浜のように。

 

 いつかサキの綺麗な瞳を曇らせてしまうのではないだろうか。

 

 酷く落ち込ませ、失望させてしまうのではないだろうか。そうなってしまったら、そのとき俺は、耐えられるのだろうか。あのふたりのときでさえ、俺はこうして逃げた。現実から逃避をはかった。そんな中で、サキにすらその目を向けられてしまったとき、果たして俺は俺でいられるのか。

 

 その疑念だけが、どうしても拭えない。

 

 

 

 サキとの恥ずかしい挨拶を終えた俺は、すぐに移動はせずに、アルゴから得た情報と、俺が集めたものを共有することにした。

 

 さすがの頭の良さですぐに理解すると、ひとつ頷いて俺に訊く。

 

「ディアベルにカマかけるのかい?」

 

「ま、それもあるが、会話の流れ次第だな。ある程度理由は推測できるが、人となりが分からない。会議のときに接触できれば御の字ってところだろう」

 

「んじゃ、問題はキバオウって奴だね。ベータテスターを憎んでるんなら、何かしら仕掛けてきそうだけど。潰す?」

 

「おい、おっかねえことをさらりと言うな。それは最悪の手段だ。話が進めばそれでいい。一応保険は用意しておく」

 

 保険? とサキがオウム返しに訊いて来る。

 

 一度息を吐いて、サキへ保険の内容を伝える。ふたつある内のひとつだけだが。

 

 基本的に俺のやり方はすぐに変えられるものじゃない。ならば、少しだけ、方向性をずらせばいい。それでもダメなら、仕方ない。覚悟を決めるだけだ。

 

「なるほどね。確かに効果的なのかな? どっちにせよ、先手を打っておいた方がいいかもね」

 

「ま、そういうことだな……ん?」

 

 ポーン、と軽快な音と共に、メッセージの受信が知らされる。ウィンドウを操作すると、最近やり取りをするようになったキリトだった。

 

 妙になつかれてるんだよなあ、と思いつつ中身を見る。

 

「女の子を拾っちゃった? 助けてくれ? なんだそりゃ」

 

「どゆこと?」

 

 サキも気になったのか覗いてきたため、ウインドウを彼女にも見えるようにずらしてやる。肩を寄せ合う形になるため、どうしてもサキを意識してしまう。もうちょっと離れてくれませんかねえ……。

 

「キリトって、さっき話に上がった最強のプレイヤーさん? にしても、よく分からないメッセージだねえ」

 

 まったくだ。ウインドウを閉じて立ち上がる。変な内容だが、昨日のこともあるし無視もできまい。

 

 友達を作ると人間強度が下がるとは、まったく至言だ。まあ、キリトとは友達じゃなくて知り合いだけど。

 

「とりあえず迷宮区の入口付近にいるようだし、行ってやるか」

 

「じゃあ、朝食は現地だね」

 

 サキが駆け出したため、俺もそれに追従して部屋を出る。ふたりで全速力で向かえば、キリトがいるところまではさして時間は掛からない。俺たちが拠点としているのは、迷宮区から程近い街《トールバーナ》なのだ。

 

 街を抜けて森の中へ入り、同時に《索敵》スキルを走らせる。人の気配が敏感な俺にとっては、その力を最大限高めてくれる便利なスキルだ。その力をフル活用してMobを避けつつ走っていると、ようやくふたつの気配がアンテナに引っかかる。

 

 念のためサキを後ろに控えさせ、ステルスヒッキーと《隠蔽》スキルの多重稼動で近づく。横になったフードを被った人物の傍に、キリトが所在無く立っている姿を腐った目が捉える。とりあえずキリトが伝えてきた異常以外に変なことはなさそうであったため、サキを呼んでキリトに近づいていく。彼も彼で《索敵》をしていたのか、俺の姿を認め、片手を上げた。

 

「いきなり悪いな、ハチ。あと……サキさん……?」

 

「ん。あたしは、サキ、です……」

 

「は、はじめ、まして……キリトです」

 

 ぼっちらしいやりとりだなあ。サキは若干顔引きつってて怖いし、キリトは人見知りらしくまごついている。

 

 子どもを見る母親の気分でふたりのやりとりを眺めていると、ふたりがおろおろとし始め、すぐに俺に視線で助けを求めてくる。

 

「おう、とりあえずふたりとも落ち着けな。キリト。サキは初対面の人間にはちっと怖いけど、悪気があるわけじゃねえんだ。あんま気にしてやるな。それとサキ、こいつ一応年下だから、弟に接するみたいにすれば楽だろ」

 

「そ、そう? なら、キリト、とりあえず状況を教えて。あと敬語も面倒だからやめて」

 

 さっきよりもサキの口調が随分と柔らかいものになる。大志と重ねたのだろうか。

 

「分かった。さっきまで迷宮区の最前線でマッピングしてたんだけど、精神的に殆ど満身創痍って感じな奴がいてさ。三日、いや、四日は篭ってるって言ってたか……。そんなことを話しているうちに突然倒れたから、ここまで引っ張ってきたんだよ」

 

「で、ハチマンを呼んだって事だね?」

 

「そういうこと」

 

 いきなり会話がスムーズになったな。やっぱキリトはエセぼっちだ。

 

「ハチ、この子のこと、何か知ってるか?」

 

「生憎だが俺は他人に興味がない。興味をもたれてないまであるからな。知らん」

 

 少なくとも、遠目で見てもアルゴから提供された一覧にはいなかった顔だ。というか、女子の絶対数が少ないから、一覧の中にサキ以外の女子が殆どいなかっただけだが……。

 

「ん……っ」

 

 小さく女の声がした。サキではない、間違いなくフードの少女の声だ。起きたところで目が濁った男が近づくのはヤバかろうと、サキを促して行かせる。決して、ひっ、とか驚かれて傷つきたくないからではない。

 

「あんた、大丈夫かい?」

 

 サキが少女の背を持って起き上がらせる。幾ばくかの後、三人に囲まれていることを悟った少女は、ぽつりと漏らした。

 

「余計な……」

 

 キリトが夜色の瞳をそっと伏せる。その動きに若干の違和感を覚えながらも、俺は黙っておく。

 

 こういうのは日ごろ年下を相手にしているサキの方が上手いに決まっている。

 

「あんた、どうして迷宮区に長居なんかしてたんだい?」

 

 少女は胡乱な目をサキへ向ける。

 

「どうして? ……どうせみんな死ぬのよ。一ヶ月で二千人も死んだ。それなのにこの一層すら攻略されてない」

 

 少女の声に悲痛な力が篭っていく。いや、投げやりと言ってもいい。

 

「どうせクリアなんてできない。なら、どこでどんなふうに死のうと、早いか遅いか、それだけの違いしかないのよ……」

 

 ああ、こいつは諦めたのだ。現実への帰還という目標を諦め、ただ死ぬため、まるで殉教者のように死地へ向かっているのだ。いま、この瞬間も。

 

 立ち上がろうとした少女の膝が崩れる。その華奢な身体を受け止めたサキが、唇をかみ締めると、思い切り少女を抱きしめた。突然抱かれたことに驚愕したのか、少女が目を白黒とさせる。

 

「な、なに……?」

 

「うちの妹がね、よくぐずったときにこうしてあげるんだよ。こうしてると安心するのか、いつも最後には、にっこり笑ったもんさ」

 

 たぶん、京香のことだろう。あいつ、けーちゃんのこと大好きだったからな。

 

 抱きしめたまま、サキが少女の頭をフード越しにやんわりと撫でる。最初こそ抵抗していた少女だったが、いつの間にか静かに涙を流し始めた。

 

「大丈夫。必ずクリアできるよ。私も、そこにいるハチマンもそのために毎日頑張ってる。そこのキリトなんて、最強のプレイヤーらしいよ。大丈夫、きっときっと、大丈夫だよ」

 

 嗚咽を我慢しながら、それでも止められない涙をなんとかするように、少女がサキの胸にしがみつく。

 

 俺とキリトはそこまで見届け、少し離れた場所へ向かった。これ以上、女同士の話を訊いてはいけない気がした。

 

 ぎりぎり二人の姿が捉えられる距離まで離れた俺は、生い茂る樹木のひとつを選んで背を預けた。キリトも同様に、隣に立つ木に寄りかかる。

 

「なんつーか、あれだ。サキを連れてきて正解だったわ」

 

 なんとなく、キリトのさっきの反応が気に掛かった俺は、さりげない会話を装って反応を見る。キリトは何も答えず、苦悶の表情を浮かべて地面を見つめていた。

 

 絶対何かある反応だなこれ。聞いて欲しくは無いけど悟って欲しいっていう、ガキの態度だ。まあ中学生なのだろうから年相応だろう。小町もそういうところあるし、もし弟ができたとしたら、こんなもんだろう。

 

 柄にも無く声を掛けそうになって、やめる。

 

 らしくない。

 

 他人などどうでもいいではないか。他人へ割けるリソースなど、元から持ってなどいない。サキとの間柄は、前提として同級生で顔見知りであったからこそ、依頼主と請負人の関係が構築できているようなものだ。

 

 対してキリトはどうだ。会ってまだ三日目だ。深追いする理由もないし、されるのも嫌だろう。分かった気になられるのは、俺なら嫌だ。

 

 だから何も言うまい。言うまいと、思うのだが……。

 

 存外こいつのことが気に入ってしまっているのだ。あんな風に喚き散らしてバカな喧嘩をしたのは、生まれて初めてだ。

 

 どことなく影があり、同じようでちょっと違うぼっちで、どこか後ろ暗いことを隠している少年。

 

 客観的に見て、少しは似ていると思う。

 

 雪ノ下のときも、いまと同じように同類だと感じたが、結局は違った。表層だけ見て、内側を見ることが出来ていなかった。

 

 当然だ。あのときも、過ごした期間は短かったのだから。そもそもだ、人の中身なんて簡単に分からない。開けたら中身が出る卵とは違う。

 

 今回だってそうだ。これは俺の勝手な押し付けでしかない。だが、それでももし一歩を踏み出したら。あのとき踏み込めなかったことを、いまできたのなら。

 

 何かが変わるのだろうか。

 

 雪ノ下のあの瞳を、由比ヶ浜のあの表情を。

 

 未来のこいつらから剥ぎ取ることができるのだろうか。

 

 だったら、俺は――

 

「キリト。もし、もしもだ。お前が何か抱えていて、自分でどうしようもないと思ったんなら」

 

 俺の言葉に反応したキリトが顔を上げる。その瞳の中に、わずかな怯えと悔恨の色が見て取れた。

 

 キリトの動きを聞いている反応だとし、俺は続ける。

 

「俺に言え」

 

 らしくもない言葉を。

 

「ぼっちだから漏らす相手もいないし、当然サキやアルゴにも言わない。ベーターだの新規だの、心底どうだっていい。お前が話せるときが来たら、話してみろ。それだけで、楽になることもあるんじゃねえの?」

 

 キリトの夜色の瞳が、大きく揺れる。何かを口にしようとして、しかし閉じて、それでも開こうとして閉じる。

 

 ああ、こいつは小船に乗っている子どもだ。大海原の中、突如来た嵐が吹き荒び、転覆寸前の小船に必死にしがみつく子どもだ。助けを求めていながらも、きっと自分でなんとかしなければならない、自分が悪いんだと駄々を捏ねる子どもがこいつだ。

 

 理由も、大体は予想が付く。だがこちらからカードは切らない。これは、キリトが俺に打ち明けることにこそ意味があるのだから。

 

 俺は、じっと黙って言葉を待った。

 

 今日聞けなくてもいい。明日聞けなくてもいい。あるいは、一生聞けなくても構わない。ただ逃げ場所があると知っているだけで、人は救われる。

 

 逃げることは悪いことだと、多くの人は言う。

 

 しかし、それは違う。それは強者の理論だ。無関係な人間の戯言だ。当事者しか、戦うことのつらさは分からない。だから逃げ場はあったっていい。逃げたって構わない。

 

 兵法にだって載ってるじゃねえか。三十六計逃げるにしかず、と。ことわざにだってある。逃げるが勝ち、と。だから逃げればいいのだ。戦うことだけがすべてではない。

 

 逃避先を知ることが、なによりの特効薬であったって良いじゃないか。

 

「ハチ……ありがとな」

 

 いまはその言葉だけで十分だ。

 

「おう、何かあれば、言ってくれ」

 

「ああ、サンキュー」

 

 男同士の言葉は、いつもこんなにも短く、濃密だ。

 

 かさり、と葉擦れの音が届く。

 

 サキが少女を連れだって歩いてきた。話が済んだのだろう。サキの脇に隠れるようにしていた少女は、ややあってキリトの前に立つと、潔く頭を下げた。

 

「変なこと言ってごめんなさい。それと、助けてくれてありがとう」

 

 最初こそおろおろしていたキリトだったが、サキに睨まれて直立すると、数秒後、シニカルな笑みを口元に浮かべる。

 

「あんたを助けたわけじゃない。だから、気にするなよ」

 

 呆れたようにサキが長息する。少女はぎょっと目を剥くも、口許に手を当ててくすくすと笑う。

 

 ほんと、捻くれてるなこいつ。

 

 だが、その裏に見え隠れするのは不器用な優しさだ。悪い奴ではないのだ。

 

「サキさんから聞いてるかもしれないが、俺はキリト。あんたは?」

 

「キリト君ね。よろしく」

 

 キリトの名乗りに挨拶を返した少女は、被ったフードを取る。中から現れたのは、梢から漏れ零れる光を一身に浴びて輝く、艶やかな栗色のロングヘアだ。可愛らしくも美しい顔立ちをした少女が、胸に手を当てて名乗りを上げる。

 

「私はアスナ。結城明日奈」

 

「おい、お前それ本名じゃねえだろうな?」

 

 思わず突っ込んでしまった。

 

 なに、最近のMMORPGは本名でやるのが流行ってるの? ネットリテラシーはどこ行ったの?

 

 アスナが俺の言葉に、えっ、と首を傾げる。

 

「ダメなの?」

 

 キリトと俺が同時にため息する。どうやら彼女はかなりの初心者らしい。

 

「サキ、説明してやってくれ」

 

「……昔の自分を見てるみたいだね」

 

 妹を見つめる笑みを浮かべたサキが、いまだきょとん顔をするアスナに説明を始める。

 

 しばらくして、ネットリテラシーの何たるかを知ったアスナが頭を抱えて蹲った。

 

「う、迂闊だったわ……学校で勉強したはずなのに、忘れてたなんて」

 

 このうっかりさんめ。

 

 どうも俺の知人はどこか抜けたりおかしいやつが多いらしい。もちろん、筆頭は俺だ。

 

「気にすんな。本名でやってるのはアスナだけじゃないだろ、たぶん……」

 

 途中、サキから鋭い視線が走り、声が萎んでしまう。いや、お前だってそうじゃん。俺もだけどさ……。

 

「あー、で、どうすんのこれから」

 

 もうみんな名乗ったよね。だから話を進めようぜ。

 

 こちとらあまりのんびりしていられない身なのだ。

 

 そんなことを考えていると、今度はキリトから肘鉄を脇にぶち込まれる。なんなの? 思春期なの?

 

「おい、ハチ。お前も名前くらい言えよ。アスナ困ってるぞ?」

 

 アスナに視線を飛ばすと、彼女は俺のほうをちらちらと見ていた。視線が合った瞬間、びくっと肩を震わせてサキの袖口を掴む。これ、泣いていいよね俺。

 

「ハチマンだ。目が腐ってるのは仕様だ。ゾンビじゃないぞ」

 

「あ、うん。ちょっと驚いただけだから。気を悪くしたならごめんなさい。ハチ君でいい?」

 

 おお、またもまともなあだ名をつけられたぞ。たぶんキリトの真似だとは思うけど。感動の涙が出そうだ。俺、そろそろヒキガエルから脱皮してもいいんじゃないかな?

 

「お、おう。好きに呼んでくれ……」

 

「分かった。じゃあハチ君で」

 

 一先ず全員が名乗り終わった。ならば解散でいいだろう。軽く伸びをしてサキを見る。サキも俺を見て一瞬頷きかけるが、首を振った。言いたいことは分かる。アスナが心配なのだろう。

 

 正直な話、俺も心配ではあった。恐らく初心者でろくに経験もなく、なのに最前線で何日も篭る程度に追い詰められていた少女を放っておくのは、まともな感性をしていればできないだろう。

 

 つまり、サキは面倒を見たいのだ。アスナに何を重ねているかは知らない。あるいは本心からの可能性だってある。俺としては、後者だと信じたいし、たぶん真実だ。

 

 依頼主がやりたいと言うのならば、俺としては断ることはできない。

 

 徐々に時間が無くなっていく。焦りもある。だが、一番はサキが思うようにやって、現実に帰ることが優先だ。俺の事情はそこに介在しない。

 

 口の中でため息する。

 

 状況が変わったのならば、計画を後回しにするしかない。

 

「んじゃ、戻るか。アスナも一旦休みたいだろ。もし気が向くのなら、今日の夕方から行われる攻略会議に出てもいいだろ」

 

 攻略会議? とアスナが訊く。

 

 答えたのはキリトだ。

 

「第一層のボス攻略のための会議が開かれるんだよ。だから、絶望するのはまだ早い。だから、君も……アスナも出てみたらどうだ?」

 

 アスナが顎に手をやって、少しの間考え込む。やがて、大きく頷いたアスナが口を開いた。

 

「私も出るわ。その攻略会議に」

 

 決意を込めた一言に、サキが微笑む。

 

「なら決まりだね。まずは身体を休めようか。ハチマン、あんたもだよ?」

 

 急に話が降って来た。なぜに?

 

 困惑しながらサキに視線で訴えると、文句ある? とドスの利いた眼力で黙らされる。

 

「あんたが最近無理してるって、あたしが知らないとでも思った?」

 

「め、めっそうもございません!」

 

 怖い。サキサキ怖い! やっぱり険取れてないよ。絶好調だよサキサキ。

 

 でも昨日はちゃんと寝たよ! 膝枕とか、膝枕とか!

 

 不穏な空気を察したか、キリトがそろりそろりとその場を離れようとする。だが、ヤンキーに戻ったサキにそんな生半可な隠蔽は通じない。

 

「キリト。あんた、どこ行く気だい?」

 

「いや~、ちょっと、ボス戦までに戦力増強するべく、レベルを上げようかと……」

 

「あんた、さっき会ったとき思ったけど、すこしやつれて見えるよ。どうせバカみたいに睡眠削ってレベル上げしてんでしょ」

 

「アバターだからやつれることなんてない――」

 

「黙りな」

 

「はい、休まさせていただきます……」

 

 サキの一喝により、四人全員宿で休むことが決定してしまった。その後ろで、アスナがくすくすと愉しそうに笑っているのを、俺の引きつった目が捉えていた。

 

 まあ、楽しそうでなによりだ。

 

さて、俺はアルゴに渡りでもつけてもらうか。

 

 ……サキが見てないうちにやらないと!

 

 

 

 



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こうして、二人はコンビになる 6

 日も落ちかかった夕暮れ時。ほのかに活気付いたトールバーナの噴水広場には、実に四十四人の命知らずの戦士達が集まっていた。残念ながらそこには俺の姿もある。働きたくねえし死にたくないよお。

 

 俺の隣にはキリトとサキ、そしてサキを挟んでアスナが横並びになって座っている。

 

 キリトが眉間に皺を寄せ、小さく「少ないな……」と呟いたのは印象的だった。

 

 俺は逆に、こうもアホが集まったことに若干の感心すら覚えているのだ。誰だって死ぬのは嫌だ。初めてのボス戦で、ガイドブックに情報はあれど、役に立つかはやはり分からない。きっと新規が多いこの状況の中、ボスという未知のMobと真正面から戦いを挑むことに恐怖のないものはいないだろう。

 

 だからこそ、俺はキリトとは逆に多いと感じた。

 

 しかし、こうも思うのだ。

 

 あるいは、これがネットゲーマーの業なのかと。誰よりも先に何よりも速く進みたい。追い抜かれたくない。追いつきたい。そうしたゲーマー特有の不安に駆り立てられているのではないのかとも感じてしまう。

 

 きっと、雪ノ下なら理由は違えど後者だろうな。あいつ負けず嫌いだし。胸の痛くなる名前を、こんなときに頭の中で出してしまう。それなのに、いくばくかの安心感と、続いてふんわりと香るあの紅茶の匂いに安らぎを感じさせられる。

 

 心の整理がついたわけではない。ただ、もう少し、あと少しと結論を先延ばしにする中で、確かな指針が僅かながらに生まれ始めているのだと思う。

 

 手を叩く音が大きく響き、よく通る声が広場に木霊する。

 

「はーい! それじゃ、そろそろ始めさせてもらいます!」

 

 長身を金属防具で固めた片手件使い。見栄えする青髪をひらめかせ、広場中央の噴水の淵にひらりと飛び乗ると、振り向いてイケメン面を晒す。

 

 俺はこの男を知っている。

 

「あれがディアベル?」

 

 サキが小声で聞いてくる。俺はそれに頷いて答えた。

 

「今日は、オレの呼びかけに応じてくれてありがとう! 知ってる人もいると思うけど、改めて自己紹介しとくな! 俺は《ディアベル》、職業は気持ち的に《ナイト》やってます!」

 

 どっかんどっかんだ。何が面白いのか、噴水近くの一団の連中が、口笛や拍手をしながらはやし立てている。まるでどこぞの地下アイドルグループのファンみたいじゃねえか。

 

 ハハハ、と快活に笑ったディアベルが演説を続ける。

 

「ここに集ってくれた最前線で活動しているみんなの時間をもらったのは、言わずもがなだと思うけど……」

 

 ディアベルが言葉を切る。さっと右手を街の彼方にそびえる巨塔――第一層迷宮区を指す。全員の視線がその塔へと向かう。ある者は憎しみを込めて、ある者はやる気に溢れ、またある者は

 

若干の恐れを滲ませながら、三者三様の感情でそれを見つめている。

 

 どうにも、なかなかに演説が上手いようだ。確実に俺ではできない芸当だ。柄じゃなさ過ぎるからやりはしないが。

 

「昨日、オレたちのパーティが、あの塔の最上階へ続く階段を発見した。つまり、明日か、遅くとも明後日には、ついに辿り着くってことだ。第一層のボス部屋に!」

 

 なるほど、とディアベルの演説を聞きながら俺は納得した。アルゴからの情報と比べ一日二日早いと思ったら、正確にはまだボス部屋は見つかってないということだったのだ。

 

 あぶね、アルゴの奴を沈めなくてよかった。ごめんねアルゴ、と心の中で謝っておく。

 

「一ヶ月、ここまで一ヶ月掛かったけど、それでもオレたちは示さなきゃならない。このデスゲームはいつかきっとクリアできるんだって!」

 

 ディアベルの言葉に熱が篭る。集った者達の視線も熱を帯びていく。まるで心がひとつにでもなったかのように、ある共通意識がはっきりと浮かんでいるように見えた。

 

 必ずクリアをするんだ、と――

 

「待っているみんなに伝えなきゃならない! それが俺たち、トッププレイヤーの義務なんだ! そうだろ!」

 

 喝采。素直に今度は賞賛を覚えた。隣のサキも、頬杖をつきながら「へぇー、やるじゃん」と言いながらどこか愉しそうだ。キリトもアスナも、控えめだが拍手をしていた。

 

 考えすぎだったか。やはり俺は物事を悪く考えすぎだったんだろう。

 

 そんな風に考えていたときだった。

 

「ちょお待ってんか、ナイトはん」

 

 場の一体感を崩したのは、やはり予想通りのモヤットボールだった。

 

 モーゼの十戒よろしく、人垣がまっぷたつに割れたその間隙をオッスオッスと進むのは、がっちりとした体格のキバオウだ。片手剣を背負った姿でのっしのっしと歩いてディアベルと対峙するように立つと、濁流のような声で続ける。

 

「そん前に、こいつだけは言わせてもらわんと、仲間ごっこはできへんな」

 

 異議あり! と俺がもう少し正義感たっぷりな葉山あたりだったのなら、こう言っただだろう。

 

やっぱなし。異議ありとかあいつ絶対に言わない。

 

 マズイ。予想がばっちし的中しやがった。なんなの。悪い勘はあたるんだ、とかよく漫画とかアニメであるけど、リアルに遭遇するとは思わなかった……。

 

 いや、よくあるよね。俺なんか予想の殆どが悪いことばかりし、よく当たるし、こんな人生もうやだ……!

 

「どういうことかな? 何にせよ、意見は大歓迎さ」

 

 余裕あふれるディアベルの言葉にキバオウがふん、と鼻を鳴らした。

 

 ――やはりか。

 

 一見してディアベルがよく出来たやつに見えるが。こいつら、確実に繋がっている。

 

 いきなりこんなことを言われてディアベルのように軽く流せる奴が、一体どれだけいる。普通は大小かならず表情が変わるはずだ。それを、ディアベルの奴は顔色ひとつ変えず、むしろ喜んでさえいるかのようだ。それも意見は歓迎という言葉を隠れ蓑にしてしまえば、聴衆は勝手に納得する。

 

 つまり、嘘臭いのだ。芝居臭い、とも言える。

 

「まったく……大した役者だな」

 

「だね」

 

 思わず呟いた言葉に、サキから同意が返ってきた。どうやらサキも同様の結論に至ったようだ。

 

 続く流れはもう分かっている。

 

 どうせベータテスターへの理不尽な要求だろう。

 

「わいは《キバオウ》ってもんや。こん中に、ワビぃ入れなあかん奴らがおるはずや」

 

 おい、頼むから予想のひとつでも裏切ってくれよ。あまりにも予想通りであくびがでそうなんだけど。

 

「詫び? 誰にだい?」

 

 ディアベルが、両手を大きく広げる。キバオウはそれを一瞬見やって、続ける。

 

「はっ、決まっとるやろ。いままでに死んでった二千人に、や。奴らが、ベータテスターが何もかんも独り占めしたから、一ヶ月で二千人も死んでももうたんや! せやろが!」

 

 場が水を打ったように静寂に支配される。そして、空気が質量でも持ったように、この場にいる者たちの身体に重く圧し掛かる。

 

「ベータ上がりの連中は、こんクソゲームが始まった日にダッシュで消えよった。ビギナーみんな見捨ててな。奴らはウマい狩場やらボロいクエストやらぎょーさん独り占めして、ジブンらだけ強うなりおった」

 

 キバオウの言葉に憎しみが滲んでいく。集まった者達の中にも、キバオウに同調するように拳を硬く握る者が多くいた。

 

 そして、隣に座るキリトは、震える右手を左手で抑えて項垂れている。

 

 胸糞悪い。

 

「どーせこん中にもおるはずや。ベータ上がりを隠して、ボス攻略に入れてもらおう考えとる小狡い奴らが!」

 

「で、土下座でもさせて金品すべて吐き出させる……。それがお前の要求か?」

 

 突如キバオウの発言を遮ったド低い声。その主に広場から視線が集中する。

 

 誰だと思った? 残念、俺でした!

 

 いきなり横合いから殴りつけられた形になったキバオウが、顔を真っ赤にして憤慨する。

 

「いきなりなんやジブン?」

 

 めんどくさいなあ。目立ちたくないなあ。でも仕方が無い、と立ち上がる。

 

 すると、サキも一緒に立ち上がった。横目で見ると、ん、とウインクを返された。やばい惚れちゃいそう。告白して玉砕して自殺するまである。自殺しちゃうのかよ……。

 

「ハチマンだ」

 

「あたしはサキだよ。こいつのツレ」

 

 サキが発言した途端、周囲の色が急に変わる。そういえば、こいつ有名だったんだっけ。こういう風に利用するのは正直なところ嫌なのだが、本人が出てくれるのならば本音はありがたい。だって視線が分散どころかサキに釘付けになってくれるし。だからサキ、ちょっと身をよじるのはやめて下さい。

 

「で、どうなんだ? 図星か?」

 

 場の空気は半々か、もしくはこちらが上回る。仕掛けるなら今だ。

 

「そ、そうや! 当たり前のことやないか!」

 

「ほお、そうか。当たり前か。じゃあこっちも当たり前のことを言わせてくれ」

 

 一度言葉を切る。次の言葉を明確に発するために。

 

「お前、アホだろ」

 

 あン?

 

 おお、超怖ええ。でもサキサキの眼力をいつも受けている俺にとってはそよ風みたいなもんだぜ。

 

 ほれ、サキ、お前の力を見せてやれ。

 

「あン! あんた、あたしのツレに文句あるわけ?」

 

 ちょっと! サキサキ! 余計な言葉つけちゃだめだから! それだとなんか誤解されちゃうから!

 

 だが、予想以上にサキのガン飛ばしが聞いたのか、ざわついていた聴衆も、キバオウも、ディアベルですら恐怖に顔を引きつらせていた。

 

 ひとつ咳払いをする。

 

 ちょっと行き過ぎた場を修正だ。

 

「つまりだ。ここでそんなことをするメリットははっきりいって欠片もない。ベータテスターは新規の連中よりはるかに情報や技術を持っている。ここで金品剥いでボス戦攻略から弾いてみろ。残りの連中でボスを倒せるか? お前にその保障ができるのか? それで人が死んで、お前はその全責任を負えるのか? 戻った後、家族に釈明できるのか? できねえだろ。そんなもん」

 

 反論を許さぬように言葉の弾丸を発射していく。

 

 まだだ、まだ続ける。今度はサキを見る。殆ど打ち合わせなどできていなかったが、サキならば悟ってくれるはずだ。

 

 サキが力強く頷く。そして、今度は先とは違って、柔らかい声で、訴えかけるように話の続きを引き取る。

 

「それとね。ベータテスターにあたしらを助ける義理も義務もないよ。あんな状況で誰かを助けるなんて、そんな崇高なことができるやつが一体何人いる? 勝手も分からないここで、一歩でも外に出れば死ぬかもしれない。ヘマをして格下の敵にやられちゃうかもしれない。怖いことだらけだ。

 

 だったら、持ちうる情報を駆使して保身に走ったっていいじゃないか。あんたはそれを責めるのかい?

 

 あんた、背格好から見るにいい大人なんだろ? ベータテスターがもし年端もいかない子どもだったとして、あんたはその子どもから恫喝して金や装備を巻き上げるのかい? そんなの、よしてくれよ。

 

 あたしはそんな世界を見たくない」

 

 空気が柔らかくなる。誰もがサキの言葉を全身で聞き、少なくない者たちは頷いて同意を示していた。

 

「発言いいか」

 

 会話の継ぎ目を縫うように、張りのある豊かなバリトンが、夕暮れの噴水広場に響き渡る。

 

 人垣の中からぬっ、っと現れたのは、身長百九十はある長身の大男だった。両手用戦斧を背につるした男の頭は、みるも爽やかなツルッツルのスキンヘッドで、肌はおいしそうなチョコレート色だった。

 

「オレの名前はエギル。まずは、サキさんと言ったか。ブラボーと言わせて頂きたい。そしてキバオウさん、オレからもあんたに言わせてもらいたい。金やアイテムはともかくとして、情報はあったと思うぞ」

 

 エギルが腰につけたポーチから、洋紙皮を綴じた簡易の本アイテムを取り出す。あれは、俺も大分お世話になったアルゴ特製のガイドブックだ。

 

「このガイドブック、あんただって貰っただろう。道具屋で無料配布してるんだからな。

 

「……む、無料配布だと?」

 

 隣のキリトが小さな声を漏らした。どうせベータテスターだから、とかそういうオチだろうな。アルゴならやりかねん。

 

「……もろうたで。それが何や」

 

 もはや負け犬に近い立場に追い込まれたキバオウが、それでも必死に噛み付くように言う。対するエギルは、大人の落ち着きでガイドブックをポーチに戻すと、大きく腕を組んだ。

 

「このガイドブックは、オレが新しい村や町に着くと必ず置いてあった。情報が早すぎると思わないか? つまり、ここに載っている情報を提供したのは、元ベータテスターだ」

 

 民衆がざわめく。当然だ。てめえらが嫌っていた連中に助けられていた事実にようやく気づいたのだから。ていうか今更気付くなんて、バカなの? 死ぬの?

 

 本当ならひとりひとりベータテスターに土下座でもすればいいのにとすら思う。

 

 なんだか思考が物騒になってきたな。落ち着こう。どうにもベータテスターに入れ込んでる節がある。知り合いに多いからだろうと思うことにした。

 

「いいか、情報はあった。なのにたくさんのプレイヤーが死んだ理由は、彼らがベテランのMMORPGプレイヤーだったからだとオレは考える。その経験ゆえに過信し、引き際を間違えた。だが今は、その責任を追及している場合じゃない。俺たち自身がこれからどうするか、どうしたいか、それがこの会議で論じられると思っていたんだがな」

 

 エギルの追撃に、ついにキバオウが折れた。いや、本音はまだ怒りが燻り続けているのだろう。大方、いま発言した連中はベータテスターだったんだとでも思っているのか。

 

 だが状況が許さない。多くの人間が、サキとエギルの声を支持した。俺はまあ、どうでもいい。がんばったんだけどなあ……。

 

 そこでようやくディアベルが動いた。

 

「キバオウさん。君の言うことも理解はできる。だけどサキさんやエギルさんの言うとおり、今は前を見るべきだろう。ベータテスターの人たちの戦力は絶対に必要だ。彼らを排除して失敗なんてしたら、なんの意味も無いじゃないか」

 

 な、そうだろう。とディアベルが聴衆に向かう。あちこちから同意の声が上がり、キバオウも大人しく下がっていった。

 

 というか、ディアベル。ナチュラルに俺をハブるのやめてね……。確かに俺がやったのは殆ど罵倒だけど。

 

「みんな、それぞれ思うところはあるだろうけど、今だけはこの第一層を突破するために力を合わせて欲しい!」

 

 喝采が上がり、こうして攻略会議はひとまず終わることとなった。

 

 実際中身のない内容ではあったが、士気だけは高まったのだろう。ただ、いちいちサキに言い寄ろうとするのはやめて欲しい。さっきから男どもが、これを好機と見てサキへ殺到しているのだ。あからさまに嫌な顔をしたサキだったが、五人ほど手酷くあしらったあたりから疲れたのか、俺の袖口を掴んで背中に隠れやがった。服のびちゃうだろうが。

 

 ひとりならステルスヒッキーで逃げられるのだが、残念ながらサキはステルスサキサキができないのだ。今度教える必要があるな。

 

 ああもうめんどくさい。

 

 サキの手を掴んで全力疾走。必死の覚悟で宿屋に逃げ込む。なぜかついて来たキリトとアスナも一緒に、ひとつのひとり部屋に四人が集まる結果となった。

 

「あはは、サキさん大人気だね」

 

 あれからサキに懐いたアスナは、サキとの距離が大分縮んだようだ。対するサキはいまだにグロッキーの様子で、俺のベッドに背を預けてぜえはあ言っている。

 

「勘弁して欲しいね。リアルじゃあんなことなかったんだけど、なんでなわけ……」

 

 おいおい、こっちが勘弁して欲しいぜ。と俺とキリトは顔を見合わせる。キリトは苦笑いしていた。

 

「お前、もちっと自覚しろ」

 

「なにをさ」

 

 サキが睨む。随分とご機嫌斜めですねえ……。

 

「サキさん美人だしね。ね、ハチ君」

 

 おおう、アスナさん。その話題を俺に振らないで。リア充じゃないからうまく返せないよ。

 

「お、おう。まあ……美人なんじゃね?」

 

「え?」

 

 ボンッと音がしたような錯覚と共に、サキの顔が熟れた苺みたいになる。

 

 その様を見たキリトが、納得したようにポンと手を叩いた。

 

「アルゴが言ってた通りだな。サキさんがハチの前だと可愛くなるっていうの」

 

「え、ちょ、やだ、顔、見ないで……!」

 

 もはや涙目になったサキが両手で顔を覆い、明後日の方向を向く。

 

 お願い、火に油を注がないで! 勘違いしちゃうから!

 

 

 

 四人で賑やかな夕食を終えた後、俺はひとり街から離れ、迷宮区へ向かっていた。目的はディアベルに遭遇できればラッキーかな、といったところだ。本来ならあの攻略会議で話したかったのだが、サキに群がる虫がうるさすぎて叶わなかったのだ。

 

 抜けるとき、サキが少し寂しそうにしてたのはちょっと意外だった。さすがに三日連続で対人訓練をやらないのはまずかっただろうか。きっとうずうずしているに違いない。今度相手するときボッコボコにされそうだなあ……。

 

 森の小道をひとり歩きながら、たびたび現れるMobを軽くあしらう。迷宮区で出現するMobでさえなければ、この程度の敵は欠伸をしていてでも倒せる程度に俺は強くなった。

 

 対人戦の技術もそうだ。サキとほぼ毎日繰り返すお陰で、もちろん俺の実力も高水準を保っていると自負している。

 

 それでも、ふと思うのだ。

 

 本当の強さとはなんだと。

 

 ステータスか? 装備の強さか? それとも敵を前にしても怯まない胆力か? 未知へと向かう勇気か? それとも、根本の心の強さなのか?

 

 そうだとしたら、俺は、最後のひとつが決定的に掛けている。

 

 小町に会いたい。戸塚に会いたい。本当は、雪ノ下や由比ヶ浜と再会して和解したい。あの尊い部屋に戻りたい。心の深層では渇望しているのはわかっている。

 

 それでも、表層が言うことを聞かないのだ。サキの物言わぬ優しさに寄りかかり、理由を預けたままのうのうと請負人面をして横に立っている。

 

 一ヶ月経っても、なにも変わらない。変わったのはサキとの表向きの関係と、ステータスや技術といったゲーム上のものだけだ。それ以外は、ゲーム開始前からなにも変わっていない。やりかたも変えられない。

 

 知らず、道を逸れて立ち止まっていた。梢の隙間から漏れ入る月の光を浴びながら、空を見上げる。生い茂る木々からは、月明かりの眩しさと木が邪魔をして星が見えない。何も見えないのだ。

 

 かさり、と葉擦れの音が届く。条件反射でステルヒッキーと《隠蔽》、そして《索敵》を走らせる。Mobが出現する場所でなにを呆けていたのだと、自身の迂闊さを呪う。

 

 短剣を抜いて構えたとき、背後から風を切断するかすかな音を耳が拾った。足を踏み出し反転気味に、勘と経験をもとに短剣を滑りこませる。重なったのは片手剣。受け流すように攻撃をパリィし、バックステップで距離を取る。

 

 殆ど影しか見えないが、どちらにせよ顔を拝むことは無理だっただろう。中肉中背のその影は、アスナと同じように全身をフードで覆っていたからだ。

 

 まさか闇討ちか? 攻略会議でちょっと調子に乗りすぎたからか? やだなあ、最近の若者は沸点低すぎだろ。

 

 再び影が迫る。俺はその様をじっくりと見据え、そのまま後ろへ飛んだ。フードの中で影がかすかに笑った気がした。愚策だと思ったのだろう。なにせ後ろには大きな樹木がそびえたっていたからだ。

 

 残念、知ってるよ。

 

 状況把握は戦闘の基本だろうが。

 

 俺は樹木を蹴って影の頭上高く飛び上がる。すぐさま背後に下りた俺は、振り向きざまに、人体の急所である腎臓を狙った。だが空を斬るのみ。軸線をずらしてかわされたのだ。

 

 ちっ、と舌打ちしてすぐさま構え直すが、距離を取った影は何もしない。

 

 てか、あっぶねえ。

 

 俺が先に攻撃したらオレンジになっちゃうじゃねえか。そしたら街に入れないし。マジ危なかった。戦闘狂になりつつあるサキサキに影響されつつあるんじゃねえの俺。

 

 影が俺を見たままゆっくりと後ずさる。俺も追うことはしない。正直いまになって心臓がバクバク言っているのだ。こんなにも早くPKと遭遇するなんて考えてもいなかった。

 

 殆ど姿が見えなくなる寸前、影がぎりぎり俺に届く声で言った。

 

「余計なことはするな。さもなくば、次は女を狙う」

 

 えらく低い声だ。まるで、声で正体がバレたくないかのような、作った声。

 

 一瞬で血がのぼる。

 

「サキに手を出すな、殺すぞ」

 

 返事はない。気配もなくなり、普段の森の装いが戻る。力を抜いて、近くの木の幹に寄りかかった。

 

 ヤバかった。あのまま再び攻撃を仕掛けられてたら、動揺してろくに何もできなかっただろう。

 

 何が技術は高くなっただ。アホか俺は。こんなんじゃ、また襲われたとき何もできない。しかも、下手をすればサキが狙われる。サキが殺されると思うとゾッとする。

 

 目的を設定しなければ動けなかったんだろう?

 

 だからサキを現実へ帰すと決めたんだろう?

 

 なのに、この体たらくはなんだ。

 

 強くならなければならない。強く、なにより強く、ステータスも技術も心も何もかも。

 

 俺には、サキ以外に縋るものが無いのだ。小町も、戸塚も、雪ノ下も由比ヶ浜も、動くだけの理由にはできない。拒絶されるのが怖くて恐ろしくて、羅針盤に据えることができない。

 

 本当に、サキしかいないのだ。なんて歪で身勝手で、心底嫌になるくらい気持ち悪い感情だ。

 

 俺は自分が好きだ。それだけは貫いてきたつもりだ。なのに、それなのに、いま、それが揺らごうとしている。

 

 俺は、自分のことが嫌いになりそうだ。

 

 

 

 しばらく惚けていた俺だったが、急にサキの安否が気になった。奴の言葉通りならいますぐ何かがあることは無いだろうが、俺を襲ってきた男の言葉を信じるほど人を信用していない。

 

 そも、すぐに動くべきだったのだ。

 

 身体の内から炎のように焦燥感が溢れ出す。

 

 バカか俺は。なに放心してやがったんだ……! 

 

 思い切り頬を叩いて走り出す。俊敏を生かした全力疾走で森を抜け町へ入る。馴染みの宿屋に飛び入り、宿になっている二階へ駆け上がった。サキの部屋の前で一度立ち止まり、猛る息を無理やり整える。

 

 頼むから居てくれよと、願うようにノックもせず扉を開けた。

 

 扉を開けると、ベッドに腰掛けていたサキが跳ね起きて攻撃的な視線を向けた。それも俺の姿に気づくと眼力を和らげ、驚いたように目を瞬かせた。

 

「ハチマン? いきなりどうしたのさ? ノックもしないなんて珍しいね」

 

 サキの言葉は聞こえなかった。

 

 サキがいる。生きている。良かった。本当に良かった。

 

 張り裂けそうなほど脈動していた心臓がキュッと縮んだように痛くなって、途端に安心したように力が抜けた。

 

 倒れそうになった俺を、慌ててサキが駆け寄って抱きとめる。

 

 普段なら、こんなときでも俺はサキを抱き返したりしない。いつも、おうおうと言葉を濁してサキが離れるのを待つのだ。

 

「……ハチマン?」

 

 今日はいつもと違った。俺の腕が勝手に動き、サキの背に回る。殆ど無意識に力を込めてサキの豊満な身体を抱きしめた。

 

 やましい気持ちはない。

 

 ただ、安堵したのだ。

 

 こうでもしないと身体を支えられないくらい、ほっとして力が抜けて、サキに寄りかかるようにして、まわした手に力を入れる。

 

 サキは何も言わず、そのまま俺を抱きしめてくれた。触れ合ったサキの体温が暖かくて、これが本当にポリゴンにテクスチャを張っただけのアバターなのかと疑うくらい、心地よかった。

 

 泣きそうになって歯を食いしばった。男が女の前で泣くわけにはいかない。親父から言われた言葉のひとつだ。いまも律儀に守っているそれを――いや、学校で泣いたこと一度だけあるがノーカンだ――いまも必死で堰き止め続ける。

 

 ふわりと、頭に気持ちい感触。サキが頭を撫でているのだ。かつて、俺がサキにしたように。サキがアスナにしたように。相手を安心させる温もりが頭にじんわりと灯る。

 

「なにか、あったの?」

 

 サキが、静かに言った。

 

 俺は何も言えず、ただ首を振る。言えない。言えるわけがない。お前が狙われそうになるなど、口が裂けても言えやしない。かつて放った言葉が現実となり、俺が怖気づいてしまったなどと。呆れられるのが怖い。お前なんかいらないと突き放されるのが恐ろしい。

 

 どうしてこんなに弱くなってしまったのだ。

 

 孤高のぼっちで、集団に属することを、人との触れあいをあそこまで拒絶し、信頼など辞書から消したこの俺が、一体どうして……。

 

 答えはある。

 

 たったひとつの、間違いのない解は、胸の奥で蓋をして眠っている。

 

 それは起こせない。起こしてはいけない。

 

 気づいてしまえば動けなくなるから。ずっと昔から感じているそれを表に出してしまえば、すべてをかなぐり捨てて縋ってしまうに違いないから。

 

 だから俺は――

 

「すまん、なんでもない……迷惑かけた」

 

 そう言って、サキから離れた。

 

 一瞬だけ瞳があって、見ていられなくてすぐに逸らす。僅かに視界に入ったサキは、心配に溢れた顔で俺をまっすぐと見つめていた。

 

 俺は、窓の外に見える月明かりを、何も考えないように息を止めて、ただ眺めていた。

 

 

 

 



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こうして、二人はコンビになる 7

 夕刻、再びトールバーナーの噴水広場に四十四の戦士達が集まったのは、翌日のことだった。今度こそボス部屋を見つけたことで、本格的な攻略会議が始まったのだ。

 

 昨夜から、サキとの関係に変化はない。きっと気を使っていつも通りを装ってくれているのだろう。なら、俺もかくあるべきだと、いつもの調子で行くことにした。

 

 オッス、オラ頑張るぞ! おう、この方向性はなんか違うな。

 

 さて、以前と同じ場所に腰を下ろした俺たちは、噴水の前に現れるであろうディアベルの姿を待っていた。辺りを見ると、モヤットボールの姿も見受けられる。

 

 目が合うとモヤっと威嚇された。

 

 嫌われてるなあ……。

 

 今度は、サキに続いて援護射撃をしてくれたエギルとばっちり目があった。外国人らしい嫌味の無いウインクをされた。やだ、惚れちゃいそう……。海老名さんにエギ×ハチとか言われちゃう! 勘弁してくれ……。

 

 目の保養のために隣のサキを見る。気だるげに頬杖をつくサキの顔に、緊張感はあまりない。すらりと伸びた鼻梁が夕日を受けて影のコントラストを生み、まるで稀代の彫刻でも見ている気がした。

 

 ふいに、サキと目が会う。

 

 会議が始まりそうだから声には出さず、「どしたの?」口だけで言う。

 

 見惚れていた、などと言えるわけも無く、俺は首を横に振り、なんでもないと答える。

 

 サキの奥にいるアスナにはばっちり見られていたのか、座れば牡丹といった様子で可憐に笑われた。恥ずかしい……。

 

 逆に、左隣のキリトはというと、やや緊張した面持ちで前方を睨みつけるように見ていた。まだわだかまりは解消できていないのだろう。待つと決めた以上、やはり俺からは無理に聞き出さないが、あまりにも遅い場合はあれだな。泣かぬなら、泣かせてしまおうホトトギスだな。殺しちゃまずいしな、うん。

 

 そこで、ようやくディアベルが現れた。先日と同様に噴水の淵に飛び上がり、振り返ってイケメンスマイルを解き放つ。イラッ☆

 

「みんな、今日も忙しいなか来てくれてありがとう! ひとりも欠けずに集まってくれて、俺嬉しいよ! さあ、今日は本格的な会議をしよう!」

 

 ティアベルの会議開催宣言が下される。昨日よろしく、やはり前方の集団がどっかんどっかんしていた。やっぱり地下アイドルのファンなんじゃねえかなあ。あのノリにはついて行けん。

 

「今日、遂に、遂にボス部屋を見つけた! 今日はその情報の共有と、パーティ作成、そしてそれぞれの役割を決めようと思う!」

 

 その後、新たに配布されたガイドブックを片手に、ディアベルが直に拝んできたというボスの容貌と名前を誇らしげに語っていく。英雄っていうより吟遊詩人みたいなやつだな。

 

 ともあれ、ボスは身の丈二メートルにもなる巨大コボルドで。名前は《イルファング・ザ・コボルドロード》と言うらしい。武器は曲刀。取り巻きは、人間と同じように鎧を着て、ハルバードを得物とした《ルインコボルド・センチネル》が三匹いるらしい。更にその取り巻きの《センチネル》とかいうやつがたくさんいるらしい。

 

 聞くからに逃げたい相手だ。やっぱ働きたくねえなあ、と思いつつガイドブックをパラパラと捲る。

 

 やはりアルゴの情報収集能力と信頼性は確からしい。問題は、ベータテスト時代といまこの時代がまったく同じものかということだ。ベータテストと本稼動で内容が変わることがままある。テストを踏まえ、改善した上で本格稼動をするのだから、当然と言えば当然だ。

 

 そして、茅場を考えるに、こういう急所染みたところで調整を変えている可能性は非常に高い。安易に情報を鵜呑みにすると足を掬われるだろう。

 

「キリト、この情報になにか問題ありそうか?」

 

 誰にも聞かれないよう、そっとキリトへ耳打ちする。

 

 キリトは一瞬逡巡するも、一度目を伏せて囁き返して来た。

 

「いや、大丈夫だと思う。面倒な偵察もしなくてよさそうだし。この通りなら死人ゼロで倒せるんじゃないか?」

 

「そうか。分かった」

 

 全員がガイドブックに目を通したのだろう。偵察の件もそうだが、情報の信憑性をどうするか、すべての視線がディアベルに集まる。これは重圧だろうな……。

 

 ディアベルは顎に手をやり、十秒程度考え込むと、一度大きく頷いて再び声を張った。

 

「みんな、今はこの情報に感謝しよう! それじゃあ早速だけど、パーティーを作ろう! まずは仲間や近くにいる人とパーティを組んでくれ!」

 

 なん……だと。

 

 ハチマンは、パーティこうげきをくらった。こうかはばつぐんだ!

 

 まさかここで、はーい二人組み作ってー、という学校の黒歴史が炸裂されるとは。やばい、ここは体育でいつもやっていた、「あ、俺体調悪いんで迷惑掛けるんで、ひとりで壁打ちしてます」作戦で行こう。壁と戦ってなんになるの……。

 

 頭を抱えるか否か考えているところで、パーティ申請が来る。申請主はサキだった。

 

 そうじゃないかか、俺にはサキがいるじゃないか。

 

 麗しき依頼主と雇用主の関係だ。

 

 サンキュー、愛してるぜサキサキ!

 

 なるべく無表情を作って承諾すると、パーティになると見えるHPバーが続々と増えていく。キリトとアスナだ。ひとまず四人パーティになったらしい。

 

 総勢四十四人であるから、四人パーティがふたつあれば、これ以上増やす必要も特にないだろう。

 

 よかった、これで「だれかーあまった比企谷と組んでやってくれないかー?」「えーやだー」とか一連のトラウマが回避できた!

 

 五分程度して、すべてのパーティができあがったようだ。ディアベルはそれらをパーティ同士で固まるように告げ、広場の中に六人パーティが六組、四人パーティが二組できあがったのが見て取れた。

 

 うわー、周りからの視線がヤバイ。何がヤバイって、今日に限ってアスナもフードを取っているから、明らかに冴えない俺と結構な美男子のキリトが、綺麗どころを二人占めしているように見えるのだ。

 

 ふたりにフード被れって言えばよかった……。

 

 フードと言えば、さっきから昨日の奴を探しているのだが、さすがに姿形、輪郭が曖昧であった以上、それらしき姿は見つけられない。殺気を辿ろうにもどこぞの漫画の主人公でもないので分かりはしない。でも……奴の霊圧が……消えた……? とか言ってみたい。是非叩きのめした後で言いたい。

 

 その後、ディアベルが各パーティに対して役割を割り振っていく。途中キバオウの介入があってか、俺らには取り巻きを狩るパーティのサポート役を受けることになった。つまり、対して働かなくていい。なんだよ、キバオウ最高じゃねえか! モヤットボールって言ってごめんね!

 

 そんなキバオウに感謝の祈りを捧げていると、オッスオッスと当人がやってきた。

 

「ええか、明日はワイらの影に引っ込んどれよ。ジブンらは、わいのパーティのサポなんやからな。でしゃばんなや?」

 

「おう、頼んだぞキバオウ。期待してるぞ!」

 

 元気に嫌味なく返答すると、あからさまにキバオウが嫌な顔をする。なぜだろう。感謝の気持ちを伝えたはずなのに。やっぱり目か? 目が濁っているからなのか?

 

「な、なんやジブン……意味分からへんわ……」

 

 ふん、と憎らしげに頬を歪めた顔を突き出し、キバオウがまたオッスオッスとパーティの元に戻っていく。しかし、このオッスオッスって擬音も多用するとつまらないな。次は変えてみようか。

 

 なんて、下らないことを考えていると、

 

「……何、あれ」

 

 アスナが剣先よりも鋭い物騒な視線をキバオウの背中へ向けていた。

 

「ま、あんなもんじゃないの?」

 

 涼しげに言ったのはサキだ。さすが分かってらっしゃる。あの手の人間はそう簡単に自分の意見を曲げないのだ。ましてや、昨日コテンパンにやられたのだから、俺の爽やか笑顔程度では態度を緩和してはくれまい。

 

 ところで、とキリトが話題を変える。思うところがあるのか、口調が少し上ずっている。

 

「ハチたちの実力を見たいんだが、これからどこかでMob狩りしないか? サキさんも実際には見たことないし、アスナも迷宮区で少ししか見てないから、全員の実力を把握しておきたいんだ」

 

 えーめんどい、と条件反射で答えようとするのをぎりぎりで止めた。やはり働きたくない精神は常時発動しているらしい。

 

 キリトの言うことは一理どころ二里くらいはある。こうしてパーティになった以上、サキはともかく二人の実力は把握しておきたい。切れるカードは多いに越したことはないのだ。

 

「あたしは賛成だけど、どこでやるんだい?」

 

「迷宮区周辺の森でいいんじゃないか?」

 

 サキの問いにキリトが返す。

 

「森か……」

 

 昨日のことがあったためか、ため息と共に俺は呟く。それを拾ったアスナが、身を乗り出して訊いて来た。

 

「ハチ君、森になにかあるの?」

 

「いや、なんでもない。気にすんな。森へひと狩り行こうぜ」

 

 三者三様に頷き、森での実力確認を行うことになった。

 

 さすがに行動の早い三人は、スローライフを自称する俺を引き連れてさくっと森へ向かう。お願いだから引っ張らないで! ふ、服……服がのびちゃうから!

 

 

 

 四人がそれぞれMob相手の戦闘を終える頃になると、夜の帳もすっかり下りて、月が爛々と輝く時間になった。

 

「サキさんはやっぱりすごかったけど、ハチ、お前あれなんだよ」

 

 キリトが半ば呆れた表情をする。なに? 俺的に真面目にやったんだけど、やっぱりダメだった?

 

「あれってなんだよ、あれって。言葉はちゃんと使えよ。だから最近の若者はって言われるんだぞ」

 

「変なところで細かいな、ハチは……。あれっていうのは、クリティカルのことだよ。なんであんなクリティカルを連発できるんだよ」

 

「あ、それ私も思った」

 

 アスナも乗ってくる。俺としては普段通りにやっているだけだから何のことやらといったところだ。なにせサキだってクリティカルを連発しているのだ。正直、そういうゲームだと思ってたんだが……。なに? 違うの?

 

 頭を掻く。

 

「あー、あれだ。まず相手の弱点部位を探す。それっぽいところに刃を通す。クリティカルが発生する。以上、ハチマン講義終わり」

 

「それができたら苦労しないからな!」

 

 大声でキリトに突っ込まれる。とりあえず、俺とサキの戦闘方法は効率的だということがよくわかった。やはり対人戦の訓練が効果を上げているのだろうか。もっと続けよう。でも最近サキに負け越してるんだよなあ。やっぱ長物相手に短剣とか不利すぎんだろ。

 

「そういうお前だってなんだよあの反応速度は」

 

 キリトも俺から言わせれば十分化物だ。俺やサキのような技術はなく荒削りだが、稀に見る反応速度で敵の攻撃を寸前で読み、最高のタイミングでカウンターをぶち込むのだ。絶対に戦いたくない。

 

「それにアスナもだね。あんたのソードスキル、《リニアー》だっけ? 速すぎるよ」

 

 サキが感嘆の声を上げる。

 

「そ、そんなこと……」

 

 アスナが謙遜してもじもじしているが、サキの言葉には俺も同意だ。あれは光だった。超光速。こいつとも絶対戦いたくない。

 

 なんだよ、ここにいる連中全員敵に回したくねえやつらばっかじゃん。 

 

 さて、周りはまだ、やんややんやと騒いでいるが、俺もそろそろ動かなければならない。

 

「サキ」

 

「うん?」

 

「なにも訊かず、このまま宿に戻ってくれ。誰が来ても絶対に開けるな。何かあれば俺を呼べ。すぐに行く」

 

「……ん、分かったよ。行ってらっしゃい」

 

 サキが不安げに、それでもすぐに笑顔になって俺の背を叩いた。発破を掛けてくれたようだ。お陰で気合が入る。

 

「んじゃ、キリト、アスナ。悪いが俺は先に戻るわ。お前らも今日は早く帰れよ」

 

 返事も聞かずに全力疾走。ちょうどタイミングよく、アルゴからのメッセージが届く。中身を読んで腹の奥に力を入れる。

 

 最近あいつを酷使しすぎてる気がするな。今度労わってやるか。それまでは使い倒させてもらうがな!

 

 すぐに町にたどり着くと、街の外れにある小さなパブに入る。ここのパブは、酒は出ない、店内の内装は微妙、飲み物は不味いと最悪な場所だが、パブのくせに個室があるのだ。逆に言えば密談するには格好の場所なのだ。

 

 場所を指定してきたのはアルゴだ。ある人物と渡りを繋いでもらっていたのだ。

 

 あの野郎、金を要求しないで「今度デートしてくれヨ」なんて言ってきやがった。意味分からん。ぼっちとデートなんぞしても楽しくないぞ。もちろん拒否したんだが、「アー、手が滑ってあの一覧がハー坊のところだけ漏れちゃいそうダー」とか言いやがった。速攻でオーケイした。あの鼠、いつか絶対沈めてやる……!

 

 アルゴから指定された個室へ入ると、目的の人物がひとり、下座に座っていた。俺は気にせず上座へどかっと腰を下ろす。

 

「急に呼び出して悪いな。ディアベル」

 

 そう、俺が呼び出したのは他でもない、攻略会議の首魁であるディアベルだ。

 

 色々なことがありすぎて時間が取れなかったが、今日やっと接触することができたのだ。

 

「ハチマン君、だったよね? 気にしないでくれよ。攻略のことで話したいことがあるんだろう? 大歓迎さ」

 

 相変わらず爽やかな笑みを浮かべたディアベルが、テーブル越しに手を差し出した。握手したい、ということだろう。一応礼儀として手を合わせておく。筋力値が高いのか、思いの他ぎゅっと握られる。

 

 手を離すと、

 

「どうする? まず何か頼むかい? ここあんまり美味しくないけどね」

 

 ディアベルが悪戯っぽい笑みを浮かべてウインクする。最近ウインクをよく受けるな……。

 

「適当でいい。できれば本題に入りたいんだ」

 

「了解、適当にこっちで頼むよ」

 

 メニューを開いたディアベルが慣れた手つきで注文を終える。こいつ、意外とここに入り浸ってるのか?

 

 すぐにNPC店員がやってきて、グラスを俺とディアベルの前に置く。中身は透明な液体だ。どうみても水にしか見えない。

 

 いぶかしんでディアベルを見ると、彼は苦笑いを浮かべてこう言った。

 

「ここ、水が一番まともなんだよ……」

 

「ひでえ店だなおい」

 

「ははは、一緒に来た知り合いは、こんなんで金とるんかい、って怒ってたよ」

 

 メニューを見ると、確かに水の文字があるのが見えた。しかも金取んのかよこれ。ディアベルにコルを渡そうとするも、彼はそれを固辞した。

 

 曰く、ボス戦の同士なんだから、これくらい驕らせてくれとのことだ。

 

 水だけど。

 

 気前がいい奴だ。これから話すことを考えると、申し訳ないくらいだ。だが、話さなければ最悪の結末を迎える可能性もある。

 

「本題に入るぞ。ディアベル、お前、キバオウと通じてるな?」

 

 ディアベルの表情は変わらない。これくらいで変わるようなやわい男じゃないだろう。予想済みだ。

 

「俺がキバオウさんと通じてる? よく分からないんだが、どういうことだい?」

 

「LAボーナスってシステムがあるのは知ってるか?」

 

 ここで初めてディアベルの眉が揺れた。おうおう、すぐに動揺しやがったな。答えはイエスかい?

 

「知ってはいるけど。それはこのSAOでシステムとして組み込まれている、ということかな?」

 

 ほお、そう来たか。面白い。

 

「その通りだ。MMOに詳しそうだからLAボーナスの説明は省くが、SAOのボスにはこのボーナスがある」

 

「なるほど、初耳だな。情報ありがとう。それで、キバオウさんとの関係に何か繋がるのかい?」

 

「キリトというプレイヤーを知っているか?」

 

 ディアベルの頬が引きつる。少しは表情隠せよ。そんなんじゃ交渉の場で負けるぞ。

 

「いや、知らないな……」

 

「キバオウがキリトの武器、強化したアニールブレードを買い取ろうと交渉をしている。いや、いたというのが正解か。キリトがそれを蹴ったからな。なんでだろうな」

 

「さあ、分からないな」

 

「キリトは、今日直に見たが確かに最強プレイヤーの一角だ。そいつの武器を買い取ろうとするのは、はっきり言ってボス戦攻略の観点からすればアホの所業だ。分かるよな?」

 

「そうだろうね。君の言うとおりの実力ならば、ぜひともその強化した武器を持って前線で戦って欲しいくらいだ」

 

「そうだろうな。だが実際は違う」

 

 ディアベルが短く息を吸う。

 

「キバオウはキリトパーティを取り巻き狩りパーティのサポートにした。これがどういうことか分かるか?」

 

 人は息を吸うときもっとも無防備になる。これもあるサイバーパンク小説から仕入れた情報だ。やはり読書は人の知識を豊かにするね! 

 

 案の定、ディアベルは慌てた。

 

「な、何がいいたいんだい?」

 

 おいおい、と俺は馬鹿にした笑みを浮かべる。

 

「LAボーナス。最強プレイヤー。そして、そいつから剣を奪おうとし、できなかったらボスに直接触れないパーティへ配置する。これがどういうことなのか、本当に分からないのか?」

 

 苦悶の表情を浮かべたディアベルは、数秒間黙りこくり、ようやく口を開いた。

 

「LAボーナスを取らせないため、だろうね」

 

「その通り。このくらい即答して欲しいもんだな」

 

「それで、オレとキバオウさんがどう繋がるというんだい……?」

 

「おいおい、忘れるなよ。LAボーナスは一般には知られていない情報だぞ。知っているとしたらベータテスターくらいだ。そして、キバオウはベータテスターではない。可能性はあるが、あれだけ煽って実は自分もそうでした、ってなったときのことを考えればまずあり得ない。するとどうだ。キバオウにLAボーナスを教えたやつがいる。そして、どうしてもキリトには取らせたくなかった。さあ、なんでだろうなあ」

 

「だから、オレと通じてるっていうことにはならないんじゃ」

 

 あくまでシラを切るなら、こちらも切り札を切ろう。

 

「お前、数日前キバオウと一緒にいたな? しかも、随分と長く話し込んでたそうじゃないか。いまこの場所でな」

 

 今度こそ、ディアベルの顔が真っ青になった。

 

「いや、それでも、オレとキバオウさんがそんなことを話した証拠には……」

 

「そうだな。証拠はない。だが、キバオウがあの場でやったことがまずかった。会議以前。お前とキバオウが通じていることを公表すれば、一体どうなるだろうな?」

 

 最悪、四十四名の攻略集団が空中分解する。そして、ディアベルとキバオウはその責を負わされるだろう。逆恨みで処刑にあうのか、それとも地下に潜って暮らす羽目になるのか、それは分からない。ここには司法も警察機関も存在しない。民意ひとつで人の処遇など簡単に変わる。それは恐ろしいことだ。ディアベルもバカではない。これくらいは簡単に理解できるから、いま眼前でワナワナと身体を震わせているのだ。

 

 さて、随分と脅してしまったし、ここら辺でフォローでもしておこう。

 

「別にな、俺はお前がLAアタックを取ろうが取るまいが、はっきり言ってどうでもいい。別に責められることじゃないとも思ってる」

 

 顔を上げたディアベルが俺を見る。その表情には悔恨が表に出ていた。きっとどうしようもない理由があったのだろう。

 

「だが手段が良くなかった。他人を利用し、あまつさえ陥れようとする方法は、間違っている」

 

 どの口が言うのだ。俺が一番言ってはいけない台詞だ。だが、いまは言わなければならない。

 

「ディアベル、お前は間違っている。だが、これは俺の主観だ。お前の言葉で理由を聞きたい。聞かせてくれないか? 他言はしない」

 

 ディアベルが黙る。

 

 俺も黙って言葉を待つ。

 

 キリトのときとは違う。今日はこの場で吐かせなければならない。納得しなければならない。私利私欲で動いていたとしたら、非常に厄介なことになりかねないのだ。ベータテスターとニュービーの対立行動が起こり得る芽だけは、絶対に潰さなければならない。

 

 ようやく、ディアベルが口を開き、ぽつぽつと語りだした。

 

「俺は……みんなで攻略したかったんだ。ベータテストのとき、LAボーナスを巡って醜い争いがあった。こぞってボスを倒そうとし、そのせいで死んでボスを倒せなかったことだってあったんだ。普通のゲームだったらいい。でもこのゲームは、この世界は、人の命が掛かっているんだ! だから、俺がやらなきゃいけないと思った。俺の知識と技術のすべてをみんなのために、集団の先頭に立つ騎士として、あらゆる手段を講じてもやらなければならないと思ったんだ。

 

 必ず、みんなで現実に戻るために!」

 

 最後の言葉を、ディアベルは拳を握って、涙交じりの目で語った。

 

 こいつの言葉に、その瞳に、その表情に、嘘は感じられない。きっと本心だ。

 

 ああ……。

 

 俺は項垂れる。

 

 まったく、なんてやつだ。

 

 手段は褒められない。はっきり言って悪辣だ。だが、それでも、こいつはみんなのためというお題目を守るために、すべてを賭けて望んでいたのだ。

 

「そうか……」

 

 それしか言えなかった。

 

 欺瞞と断じ、しかし何かを感じずにはいられなかった葉山の想い。それが今、問い直されるように目の前に展開される。

 

 人は、誤ったとされる問いを何度でも繰り返される。まるで悪夢のように。

 

 俺はどうする。

 

 手法こそ最悪だが、その想いを、その情熱を、勇気を笑うことなど、ましてや両断することなどできない。

 

 俺とて、サキのためになるのであれば、あらゆる手段を講じるだろう。それがどんな悪事であれ、染める覚悟はある。

 

 だからまたしても、共感してしまったのだ。

 

 こいつは――すごい奴だ。

 

「悪かったな、ディアベル。責めるような言い方をして。お前の気持ちは、痛いほど分かった……」

 

「すまない、本当にすまない……」

 

 ディアベルがテーブルに届かんとするように、深々と頭を下げる。男がなけなしのプライドを捨てて、この俺に頭を下げているのだ。何も感じないはずがない。

 

 謝るなよ。

 

 俺も身勝手を押し付けようとしているだけだ。さも正義を貫いているように、真実をベルベッドで隠しているだけだ。

 

 これは一方的な糾弾劇なのではない。

 

 ただ、お互いの主張をぶつけ合う会話だ。ただ、その投げあい方が、ドッヂボールのように、当たると痛いだけだ。

 

「俺があんたに会った理由はただひとつだ」

 

 ならば、俺も応えなければならない。ここで何も言わなければ、きっと俺は男を名乗れない。こんなこと、ここに来るまで一度だって感じたことがあっただろうか。

 

「俺は、ある人を現実に返すためにここにいる。だけどいま、ベータテスターと新規プレイヤーの仲は、はっきり言って最悪だ。ベータテスターが闇討ちにあったって噂すらある。俺は、ベータテスターは希望だと思ってる。俺たちは何も知らないニュービーだが、情報を持っているベータテスターが先頭を切って戦ってくれている。情報を提供してくれている。そうした積み重ねで、俺はここに座っている。俺はそれを忘れていないし、他のプレイヤーも忘れてはいけない。

 

 俺は、ふたつの対立を無くしたい。俺は、あいつを早く現実に戻したいんだよ。あいつが、家族に会いたがってるんだ。寂しいと、涙を流しているんだよ。そんな姿、俺は見たくない。あいつの笑顔を、本当に笑った顔だけを俺は見たいんだ……」

 

 長く、語ってしまった。恥ずかしいことも言ってしまった。それでも、語れて良かったと思った。頭を下げさせてしまった相手になら、これくらいの恥はかいていい。

 

 ディアベルが顔を上げる。俺の言葉に感ずるものがあったように、男泣きをしていた。

 

「ハチマン君、君って奴は……本当に、すまない。そして、ありがとう。すまない……すまない……!」

 

 ディアベルは謝り続ける。

 

 違和感はあった。何か、何かが抜けているのではないかと。だが、それを言及することができなかった。ここまで言わせ、謝らせてしまった相手に、俺はこれ以上追及する言葉を持たなかった。

 

 三十分ほど経ってディアベルと別れた。彼は対立構造だけは生まないと、そして、LAボーナスも無理に狙わないと誓ってくれた。いまはこれだけで良しとするしかないだろう。

 

 違和感は拭えない。ディアベルは、本当にあんな行為に手を染めるような奴なのか。性根がいい奴などいないと分かっている。だが、ディアベルに限ってそんなことは無いと、テレビの街頭インタビューでよく聞く言葉が、頭の中でリピートするCDのように聞こえて仕方が無いのだ。

 

「あのフード野郎がキーマンなのか……?」

 

 どう考えてもそれしかない。だが、構図がよく見えない。ディアベルはキバオウとの関係と裏を認めたが、第三者の関与は口にしなかった。

 

 ディアベルは知らなかった? それとも、何かしら口封じされていた?

 

 材料が足りない気がする。

 

 いや、足りているのに気づいていないだけな気がする。

 

 一体なんだ……。

 

 思考の渦に巻き込まれていると、ポーンとシステム音が響く。サキからだった。中身を開き、思考が吹っ飛ぶ。

 

 ――たす

 

 二文字。たった二文字。続く言葉も二文字でしかあり得ない。

 

 たすけて。

 

 ――失敗した。失敗した失敗した失敗した失敗した!

 

 俺は失敗した!

 

 なぜサキをちゃんと宿まで送り届けなかったんだ! キリトとアスナがいるから安心していたのか! どこまでアホなんだ俺は! お前が守らず誰が守るっていうんだ!

 

「が――アアアあああッ!」

 

 街中で思い切り咆哮する。驚いた視線がいくつも飛んでくるが知ったことか。こうでもしないと頭おかしくなりそうなんだよ!

 

 急いでサキの居場所を検索。ストーカーみたいで今まで一度も使っていなかった機能だが、今回は躊躇なく使う。

 

 居場所は町の南方。なぜそんなところにいるのか分からなかったが、居場所がわかった以上、進む以外にない。

 

 ステルスヒッキーも《隠蔽》も《索敵》も忘れ、身体の思うがまま走る。草原を駆ける。パーティを組んだままだからこそ見えるサキのHPバーが、僅かに削れた。

 

 急げ、急げ。

 

 また少し減る。

 

 焦るな、落ち着け。

 

 足を速めた先、月明かりに浮かぶふたつの人影を見つける。ひとつは光の映えるサキの青い髪。もうひとつは、昨夜と同じフード野郎。

 

 接近されたサキが、フード男の乱舞に押されている。槍の柄を回転させながら受けているが、要所要所で身体に傷を負っている。

 

 サキはオレンジになっていない。やはり先に手を出され、一撃わざともらったのだろう。オレンジ相手であれば攻撃してもオレンジにならない。やはり、あいつは俺と違って優秀だ。

 

 分かっているのに。

 

 頭が沸騰した。

 

 何も考えず、ソードスキルのモーションを取る。突進系単発スキルを無心でぶちかます。サキとフードの間に割って入った俺は、サキを背に庇う形でフード野郎に対峙する。

 

「は、ハチマン……」

 

 息切れするサキの声。

 

 生きていて嬉しいと感じるも、すぐに思考から排除。

 

 フード野郎を渾身の呪いを込めて睨みつける。本気の殺意が全身にみなぎる。

 

 月光でフードの中身が晒される。髪は白々しいほどの純白。目元は影って見えないが、顔の下半分を見る限り恐らくは男。しかし、あまりにも中性的で性別を感じさせない。

 

 冷静に観察をするが、怒りは爆発寸前だった。

 

「サキに手ぇ出したら殺すつったよな。あ? 今殺す。すぐ殺す。ここで惨めに死ね!」

 

 俺が飛び出す寸前、男が身を翻した。すぐさま逃走に切り替えたのだ。そんなもの許すはずがないだろうが!

 

「待ちやがれクソ野郎――」

 

 足を踏み出したところで、腕を掴まれる。振り向くと、サキが泣きそうな表情で俺の腕を両手で握っていた。

 

「ハチマン……ハチマン!」

 

 サキが身体ごと抱きついてくる。サキを受け止め、俺も彼女をかき抱いた。互いの頬が触れる。暖かい身体が、彼女を生きていると痛感させられる。

 

「すまん……遅くなった……」

 

「ごめん、約束破って……」

 

「いいんだ。ろくに説明しなかった俺が悪い」

 

 悪いのは俺だ。ディアベルにあれだけ語り、なんとかしたいと言った傍からこれだ。本当に呆れるほど頭が回っていない。

 

 いつもの頭脳はどうした。俺はここまで考えなしだったのか。奴の警告を冗談だと思っていたのか。ふつふつと内側へ怒りが向かうも、サキの鼓動が聞こえてゆっくりと収まっていく。アバター越しにも心臓の音が聞こえる。規則的に鳴るそれがあまりにも心地良くて、赤ん坊のように喚きたくなってしまう。

 

 サキの傍にいるとおかしくなってしまう。

 

 恥ずかしくなったり慌てたり笑ったり、そして、いつも最後は心底安心するのだ。

 

 ああ俺は、本当は――。

 

 ダメだ、その先は考えるな。

 

 思考がぐちゃぐちゃだ。

 

 万物は流転し世界の何もかもが変わったとしても、それでも俺は変わらない。かつてそう思ったはずなのに、この世界に来ての俺は、どうにもちぐはぐだ。継ぎはぎだらけで居心地が悪い。

 

 ペットボトルのキャップを斜めに嵌めてしまったような、シャツの表裏を間違えて着てしまったような、そんな居心地の悪さを感じている。

 

 依存。

 

 やはり、そうなのだろうか。俺は、川崎沙希に依存しているのではあるまいか。

 

 まさか。

 

 俺はいつだってひとりで立ってきた。なぜならぼっちは誰の助けも借りられないから。誰かに依存することなど決して無い。ありえない。

 

 思考を止める。これ以上は、さすがに不毛だ。時間ばかり無駄に掛けて、結論が墓穴の中なんて冗談じゃない。

 

 深い、深いため息をはいた。

 

 深く抱き合ったまま、サキが囁く。

 

「ハチマン」

 

「おう、どうした」

 

「あたしは大丈夫だから。あんたは、思いつめなくていいんだよ」

 

 瞠目した。

 

 心を読まれたのかと、身体を離してサキを見る。

 

 薄紅色に染めた頬を、綺麗な唇を緩ませる。

 

「あんたのこと、なんとなく分かるよ。わたしも、あんた曰く、ぼっちだからね」

 

「同士かよ……」

 

 軽口を言おうとして、口が回らない。回復は時間が掛かりそうだ。

 

「そうやって、もっと軽口をいいなよ。そして、疲れたらあたしのところに来て。慰めるし、優しくだってしたげる。いつもあんたばかりに面倒かけてるんだ。あたしも、あたしがしたいように、あんたのために動きたいんだよ」

 

「そりゃいいな。小町だってそこまで優しくしてくれないぞ」

 

「ん、あたしも弟にはここまではしてあげないかもね」

 

「ブラコンのくせに」

 

「いいんだよ。そんなときだって、あるんだから」

 

 頭が上がらない。

 

 そんなに優しくされたら、惚れちまうじゃねえか。

 

 夜の草原に、虫の音が響く。一陣の風が吹き、草原が波を打つ。夜空に瞬く星がひとつ流れて落ち、夜が深まっていく。

 

 



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こうして、二人はコンビになる 8

「みんな、いきなりだけど――来てくれて本当にありがとう! たった今、全パーティ四十四人が一人も欠けずに集まった!」

 

 二回目の攻略会議翌日の正午、迷宮区最上階のボス部屋の前に、遂にボス攻略戦のメンバーが集まった。

 

 さすがにみな最初は緊張している様子だったが、ディアベルの声で全員の士気が一気に高まり、大きな歓声が迷宮区最上階を揺らした。すげえなディアベル。地球規模でやったら地震が起きるんじゃねえか? ぜひとも大統領にならないで下さい。地震怖い……。

 

 一同を一段と爽やかな笑顔で見渡してから、ディアベルが力強く右拳を空へと突き上げる。

 

「ニュービーも、元テスターもこのときにはもう関係ない! みんなで力を合わせてボスを倒す! そして待っているみんなに見せつけよう! 俺たちは、絶対に百層クリアできるんだって! 俺たちは、いつもひとつだってことを!」

 

 更なる歓声があがる。口笛が吹かれ、まるでお祭り騒ぎだ。

 

 ディアベルの宣言の中身に、俺は密かに笑みを零した。まったく昨日の今日で律儀な奴だ。彼と目が合う。満面の笑みでウインクされた。その行為に周りは何事かと騒ぎ始め、視線の先にいる俺――では当然なく、その隣にいるサキへと集中した。

 

 ディアベルとサキの関係を疑ったのか、ひゅーひゅーと多くの者がはやし立てる。サキは当然の不機嫌面で、「なんなの一体?」と身に覚えのないことに苛立っている様子。ディアベルもやらかした自覚があるのか、「違うからな、そういうんじゃ全然ないんだからな!」ともはや分かっていてやっているのかと疑いたくなるような下手な否定をしている。

 

 そんなどうでもいい青春劇を眺めていると、モヤットした頭が目に入る。キバオウが苦々しい顔をし、拳を握ってひとり虚空を睨みつけていた。

 

 窮鼠猫を噛む、窮余の策といった言葉が頭に浮かぶ。

 

 何もなければいいんだがな……。

 

 ――おほん。

 

 ディアベルが大きく咳払いをする。そろそろ閉めにはいるのだろう。

 

「みんな……もう俺から言うことはたったひとつだ!」

 

 右手を腰に走らせ、銀色の剣を抜き放ち、その輝きを見せ付ける。

 

「勝とうぜ!」

 

 鬨の声。俺たちを待ち受けるボスの先に、きっと勝利を刻めることを、いまは信じるのみだ。

 

「いくぞ!」

 

 号令と共に、総勢四十四人がボス部屋へと走っていく。

 

 殆どの者にとって、ボス部屋に入るのは初めてだ。当然俺もだ。

 

 空間は広い。かなり広い。見た目長方形の空間は、幅およそ二十メートル、入口から最奥部までは百はあるだろうか。ここだとテニスコート何面作れるんだよ、というくらい広い。だから、戸塚がなんかのサプライズでラケット振りながら現れてくれないかな。あと叶うのなら、

 

 ――八幡、がんばって!

 

 とか天使の微笑みで言ってくれないかなあ。

 

 そしたらハチマン、がんばっちゃう!

 

 右手に左手に何かが触れる。見ると、先が俺の指先を掴んでいた。そっと顔に視線を向けると、強張った顔のサキがまっすぐと前を見ている。いつもの気だるさは一切なく、怯えのような雰囲気が感じられた。

 

「大丈夫だ」

 

 そっと声をかけて、少し、ほんの少しだけ、サキの右手を握った。サキは変わらず前を見続けたまま、口許だけで笑ってみせた。

 

「お熱いな」

 

 反対側にいたキリトが気配で悟ったか、やはりあまり表情がすぐれないが、それでも冷やかすように囁く。

 

 それには応えず、代わりに短剣の柄で真っ黒の頭を殴ってやった。

 

 いてえ、と言いつつも、キリトは笑っていた。

 

 サキを挟んで向こう側にいたアスナも暗闇の中で聞いていたのか、過度な緊張が解けたような雰囲気を感じた。

 

 まるで遠足だな。

 

 突如、ぼっと背後から音が聞こえた。目をやると、漆黒に満ちていたボス部屋の左右で、松明が奥へと順々に燃え上がっていくではないか。

 

 粋な演出だ。

 

 これで天から羽を生やした天使トツカエルが出てくれば完璧だな。

 

 いや、それはマズイ。

 

 むくつけき男共にトツカエルがタコ殴りにされるなんて許せない、許さない。

 

 ……緊張を解す妄想はこの辺にしよう。

 

 そろそろ動き出す頃合だ。

 

 部屋中に明かりが蔓延すると、部屋の最奥部に巨大な玉座が見えた。趣味の悪いそれに鎮座しているのは、《イルファング・ザ・コボルドロード》だろう。

 

 戦闘に立つディアベルが、剣を高く掲げる。まるで古から伝わる勇者の物語ように。

 

 剣がさっと前に振り下ろされる。

 

 それが合図だった。集ったつわものどもが、ボスに怒声をあびせながら雪崩れ込んでいく。俺たちもそれに遅れないよう、続いていった。

 

 さて、俺たちも仕事を始めよう。

 

 雑魚狩りのサポートだけど……。

 

 

 

 マジで暇だな。

 

 そう思ったのは内緒だ。

 

 だってやることないんだもん。

 

 最前列で戦う、六人パーティABCD隊と遊撃隊となったE隊をよそに、俺たちF隊四人衆は、取り巻きの更に取り巻きのセンチネルをひたすらに狩っていくだけだ。幸いなことにサキもキリトもアスナも手だれどころの実力ではないので、俺も適度にクリティカルを食らわし下がる頃には一体が屠られているのだ。

 

 ほんと、楽な仕事だ。キバオウ様、ありがとう!

 

 いま、二部隊が取り巻きの《ルインコボルト・センチネル》のタゲを取りつつ必死になって戦っている。それを外巻きににのんびりと雑魚を狩りながら観戦。なんという優越感。いいぞ、もっとやれ!

 

 ほけーっとしていた俺の背後からセンチネルが飛び掛る。視線に敏感なぼっちがそれに気づかぬはずがない。俺にも分かるような、雑魚を見つけた笑みを浮かべるセンチネルの腹部に、振り向きざま防具の隙間をついて逆手に短剣をぶち込む。タルワールを振られるまえにすぐに抜いて順手で首筋、背後に流れ左袈裟斬り。短剣を翻し、更に反対の首筋へ思い切り突き刺す。

 

「貴様らに笑みなど似合わない――」

 

 やべえ、思わず口に出しちゃったよ。だってかっこいいじゃんヘイさん。材木座を笑えねえよ……。でもいいよね! ここゲームの中だし!

 

「なに言ってるの……さ!」

 

 見る見るうちにHPバーが減ったセンチネルをよそに、一度バックステップで下がった俺に、サキの声が掛かる。俺と入れ替わりにサキが現れ、スキルでもないのに見事な三段突きを放ち、下段中段上段と突き刺していく。センチネルが堪らず顎を上げる。サキが上半身を逸らつつ槍を長く持ち、渾身の力を込めて振り下ろした。まさに神の雷とでも言えるその一撃で、センチネルのHPバーが一気に削られ、ゼロになった。

 

 ガラスとなって砕け散ったセンチネルからすぐに視線を戻し、俺とサキが武器を構え直して敵を待つ。

 

「あんた、さっきぼけーってしてたでしょ。そんなんじゃ死ぬよ」

 

「サキがいるから心配ないだろ」

 

 やべえ、変なこと言ったか……? こんな最中にも関わらずちょっと焦る。だが、サキは平然としたように返してきた。

 

「そうだね、あたしもあんたがいるから安心だよ」

 

 ふっと俺も笑う。

 

 戦闘の状況を見る。

 

 《ルインコボルト》の相手は問題なく対応できている様子。ボスである《イルファング》に関しても、HPこそ四段あるが、順調に減らしている。一見すると問題はなさそうだ。

 

 キリトはボスと直接戦えないことに悔しさこそ見え隠れしているが、さして問題がありそうな表情はしていない。アスナもキリトの指示通りきっちり動いている。

 

 何も問題はない。

 

 もちろん、現状は……だ。

 

 いまは斧と盾で戦っているボスだが、HPが残り一本になると、武器が変化するらしい。得物はベータ時点でタルワール。そこから攻撃パターンが一気に変わるため、要注意とガイドブックにも載っていた。

 

 だが、今回もそうであるとは限らない。

 

 他の武器である想定はしておいた方がいいだろう。

 

 

 

 どうやら戦線は順調なようだ。

 

 ボスのHPゲージは二本目を割り、ついに三本目もあと少しといった具合だ。コボルト狩りを終えた俺たちが取り巻き狩りに加わると、俺たちだけで相手ができることが判明し、取り巻きに関わっていた隊がボス戦へと向かって行った。

 

 こいつらを始末したら俺たちもボスに向かわねばならない。

 

 やだなあ。でも手は抜けないよなあ。働きたくねえなあ。

 

 そんなやる気の見えない俺とは逆に、キリトがソードスキルで《ルインコボルト》の長柄斧を跳ね上げる。既に疾走を開始していたアスナが、閃光のように喉元一点を正確無比に貫く。怯んだ《ルインコボルト》がアスナに敵意を向けるが、すぐさま俺が肉薄して背後に踊り、首狩り一閃。さすがに首を落せなかったが、ヘイトは完全に俺に向いた。

 

 以前サキの前で何度かこれをやって実際に敵の首を飛ばしたんだが、あまりにもホラー過ぎて禁止令が出ていたのだ。

 

 今度は俺に向かって《ルインコボルト》がソードスキルを発動する寸前、サキが穂先で思い切り長柄斧を横に弾く。《ルインコボルト》が驚愕と共に身体を開く。それを読んでいたキリトが、二連撃ソードスキル《バーチカルアーク》を炸裂。縦に二重に斬られた《ルインコボルト》はあっけなく消滅した。

 

 これで《ルインコボルト》は完全に狩り尽くした。あとはボスの魔の四本目を凌いで倒すだけ

 

だ。他の隊は既にボスを取り囲んで逃げ場はない。

 

 そのとき、コボルト王が咆哮した。部屋全体の大気を震わせる声を放った王は、斧と盾を捨て、腰に挿した得物を抜き放った。その美しい姿は、人を斬るのに最適な反りを持ち、波紋も見事な――

 

 あん? 

 

 あれ、刀じゃないのか? いや、長さからして野太刀か? どっちでもいい。

 

 キリトを見る。引きつった顔に、額は汗にまみれている。

 

 マズイ!

 

「ディアベル! そいつはタルワールじゃねえ! 下がらせろ!」

 

 俺の言葉にディアベルがいち早く反応し、全隊を下がらせたそのとき。ひとつの影が前に出た。剣にソードスキル特有の光を蓄えたその男は、キバオウだった。

 

「覚悟せえやあ――!」

 

 コボルト王のHPはまだ四本目に差し掛かって半分も減っていない。はっきり言って無謀の他ない。なぜだ、無理やりにでもLAボーナスを取りに行こうとしているのか? よりにもよってディアベルにそれをさせようとしていたお前が?

 

 狼にも似た獰猛な王の口が、にやりと鋭い牙を見せて笑った。

 

 一瞬だった。野太刀の刀身を赤いエフェクトで染めたコボルト王が、地面すれすれの軌道から大きく切り上げた。格ゲーでいうところのエリアルコンボの始動技か?

 

 更に上下と鋭い追撃が加えられる。圧倒的な筋力から繰り出された連撃技に、衝撃波が室内を荒れ狂う。八つ裂きにされたキバオウが高く放りだされ、地面に激突する。

 

 ヤバイ。

 

 突然のことに誰も動かない。動けない。

 

 そのとき、動いたのは俺とキリトだけだった。

 

 滑り込むようにキバオウの下にたどり着き、俺がキバオウの背を持ち上げ、キリトが用意していたポットをキバオウに飲ませようとして拒絶される。

 

 見る見るうちにキバオウのHPゲージが黄色く染まり、レッドゾーンに差し掛かる。既に回復の意味はない。そういうことだろう。

 

「なぜ……」

 

 訊いたのはキリトだ。

 

 キバオウが喉奥で奇妙な声を漏らしながら、憎しみの滾る声で息も絶え絶えに、言った。

 

「こんの、裏切りもんが……。ディアベルがやらな、ワイが、やるしか……ホーリィ、はん……」

 

 キバオウは最後まで言い終えることはなかった。倒した敵と同じく、キバオウの身体がガラスの割れる音と共に、ポリゴンの破片となって宙を舞ったのだ。命の輝きのように七色に光るそれを、俺たちは呆然としながら眺めていた。

 

 いま、俺たちは目の前で人が死ぬ様をみたのだ。

 

 恐慌が走った。

 

 レイドのほぼ全員が、メンバーの死の衝撃に堪えられなかった。自分の「死」が明確に眼前にあることでうろたえた彼らには、《イルファング・ザ・コボルドロード》の相手は無理だ。

 

 王は、腹心の配下を殺された無念を晴らんごとくに唸りを上げ、固まった集団に突進して来る。

 

 マズイマズイマズイ!

 

 俺とキリトは遠い。サキもアスナも動いているが間に合わない。

 

 どうする。

 

 どうする!

 

 ライトエフェクト。

 

 そして衝撃音。

 

 ディアベルが王の浮き上げ攻撃をそのあまりある集中力で持って、ソードスキルで弾いたのだ。

 

「ヒヨるなみんな! スイッチ!」

 

 ディアベルの怒声が走る。レイドメンバーの動揺が見る見るうちに収まっていく。

 

 まだ遅い。

 

 コボルト王の次の攻撃が来る。ディアベルもパリィをしようと体勢を戻すも間に合わない。

 

「はああ――ッ!」

 

 戦乙女サキによる全力の突進系スキルがコボルト王の喉下を貫く。王が初めてたたらを踏んだ。俺とキリトはもう動いている。アスナも追撃を加えている。

 

 俺は叫ぶ。

 

「ディアベル! 五人で行けるか!」

 

「ハチマン! よし、行くぞ!」

 

 動揺しているだろう心を必死に押し殺したディアベルが叫び返す。

 

「みんな、手順はセンチネルと同じだ! 行くぞ!」

 

 キリトも同様に声を張り上げる。

 

 コボルト王が両手で握る野太刀から左手を離し、まるで抜刀術のような体勢を取る。

 

「……ッ! 俺が弾く!」

 

 キリトがソードスキルを発動させる。地面に倒れ込むように前傾姿勢になったキリトが弾丸もかくやと瞬時に駆け抜ける。

 

「おおぉぉ――!」

 

 咆哮と共に繰り出されたキリトのソードスキルは、もはやボスの視認不能な速度で繰り出された攻撃を見事に弾き返した。

 

 強烈なノックバックに襲われた両者が距離を広げ、隙だらけになる。

 

 追いついたアスナが加わり、併走するサキが同時に喉下を貫いた。一気にHPバーが減る。追いついた俺も飛び上がり、今度は首を真っ二つにする勢いでソードスキルと共に喉下に横一閃。まだHPバーは削りきれない、落ちながら前転して立ち上がる。目ざとく反応したコボルト王をディアベルの長剣が注意を引く。

 

 即席パーティでありながらも、なんとかボスの攻撃を凌ぎ、順調とはいえないがじりじりとHPを減らしていく。

 

 不意に、コボルト王の眼光が瞬いた。横に伸ばした野立ちに、赤いライトエフェクトが宿る。瞬時にモーションを推測。横一線の横薙ぎか? それはまずい。いま全員が王の周囲を囲んでいる。

 

 紅一閃。

 

 五人全員が吹き飛ばされ、更に悪いことに一定時間ろくに動けないスタン状態に陥る。おいおいそりゃないだろうが。

 

 更に血のように赤いライトエフェクトが発光する。その先には俺。

 

「ハチマン!」

 

 サキの慟哭も空しく、野太刀が振り下ろされようとし――

 

「ぬあぁ――らぁッ!」

 

 俺の頭上に届く寸前、巨大な塊が野太刀と激突した。髪がたなびくほどの衝撃。そして降り立って俺の前に仁王立ちしたのは、チョコレート色のスキンヘッドの男。

 

「エギルだったか……」

 

「すまない、俺としたことがビビっちまった。あんたらだけに任せはしない。俺たちがここで支える! あんたらは下がって回復しろ! いくぞ!」

 

 エギルが声を上げると、パーティーメンバーもそれに応じるようにコボルト王へ向かっていく。野太刀を盾で受け、受け流し、猛攻を必死に防いでいく。

 

 五人が五人、その熱い想いと共に回復ポーションを飲み下し、立ち上がった。ボスから一旦離れて集まる。

 

 俺は、知らず手が震えていた。胸から込み上げる言葉にできない感情が、身体を震わせていた。サキが何も言わず手を握ってくれる。それだけで身体の異常は止まり、平時の落ち着きを取り戻す。

 

 サキを見る。サキも俺を見る。互いに頷き、武器を構える。

 

 キリトも、アスナも、ディアベルも、全員が同じく武器を構え、スイッチの瞬間をいまかいまかと待ち構える。

 

「ハチマン、ラスト頼むよ」とディアベル。

 

「LAアタックは譲ってやるよ。決めて来い」とキリト。

 

「絶対、ハチ君の攻撃は届かせるから」とアスナ。

 

 そして、サキが俺をじっと見つめて、最高の笑顔で言った。

 

「ハチマン、あんたのかっこいいところ……あたしに見せて」

 

 ま、そこまで言われちゃ、しょうがねえ。働きますか。

 

「おう」

 

 俺が短く返すと、

 

「スイッチだ! あとは頼んだ!」

 

 エギルが最後のパスを投げる。

 

 そして、ディアベルが最後の指令を出す。

 

「キリト君と俺はボスのスキルを弾く! 女性陣はハチマンの援護! そしてハチマンは盛大に決めろ! 散会!」

 

 キリトとディアベルが最前に、次にサキにアスナ、最後尾に俺が追従する。

 

 コボルト王が再び抜刀術に似た構え。キリトとディアベルもそれぞれライトエフェクトを発光させる。

 

 両者が激突。キリトがボスのソードスキルを弾き、ティアベルが防具を吹き飛ばす。

 

 二人が同時に叫ぶ。

 

「スイッチ!」

 

 アスナが王の喉下に突進し細剣を直撃、サキが威嚇するように槍を振り回して首筋を一閃。そして両者が飛び退く。

 

「ハチ君!」

 

「ハチマン」

 

 わあってるよ。

 

「テメエの顔も見飽きたぜ」

 

 飛び上がった俺は、ソードスキルの動きに任せるまま、《イルファング・ザ・コボルドロード》の首を跳ね飛ばした。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 You god the Last Attack!!

 

紫色のシステムメッセージが、俺がLAボーナスを獲得したことを音も無く知らせる。そして何より、ようやくボスを倒したのだという実感を湧かせた。

 

 四人が集まってくる。ディアベルが俺に飛び掛るように抱きつき、キリトは、にやりと笑って俺の肩を叩く。アスナも「お疲れ様」と可憐な笑顔で健闘を湛えてくれる。

 

 サキが隣に立つ。睡蓮の微笑みで耳元に唇を近づけ、

 

「かっこよかったよ、ハチマン」

 

 俺にだけ聞こえるように、小さく囁いた。一瞬で顔が熱くなった。

 

 だからそういうのやめてって。好きになって告白して玉砕して崖から落ちちゃうだろうが。今度は崖なのかよ……。

 

 新たなメッセージが視界に現れる。獲得経験値、分配されたコルの額、そして獲得アイテム。

 

 同様のものを受け取った全員が、ようやく勝利を認識したのか、一気に表情が変わる。

 

 どっと地鳴りのような歓声があがり、近くにいるものと抱き合ったり、拳を天に突き上げたりと、三者三様の喜びを全身で表現する。

 

 そんな中、ゆっくりとした力強い歩みで近づいてくるものがひとり。両手斧使いのエギルが、笑顔と拍手をしながら俺の下まで歩いてきた。

 

「五人とも、見事な勝利だ。Congratulations! あんたの勝利に祝福だ」

 

 男らしい、嫌味の無い深い笑みだ。柄にも無く、俺も嬉しくなってしまう。

 

「あんたのお陰だ。助かった」

 

「なに、俺たちは俺たちの役割を果たしただけだ。今回は本当にあんた等のお陰さ」

 

 まったくいい男じゃないか。女なら惚れてるまである。

 

 ぞくっと背筋に腐のオーラが撫でられたように感じた。まさか、海老名さんのやつ、ゲーム越しにでも感じ取りやがったのか……。なんて恐ろしい子……!

 

 なんて、馬鹿馬鹿しいことを考えながら、ディアベルをどかせていると、

 

「――なんでだよ」

 

 突然、搾り出したような声が、俺たちの背後で響いた。鎮魂の儀に木霊す泣き声のようなその響きに、広間の歓声が消え失せ、水を打ったような静寂が支配する。

 

「なんで、キバオウさんを見殺しにしたんだ!」

 

 声の主は、軽装姿シミター使いの男だった。視線の先にはディアベル。さっぱり記憶にない。ろくに関係が無かったから顔を覚えていないのだ。

 

 ディアベルを見る。眉間にしわ寄せ、眉を下げて苦しんでもいるような後悔を浮かべている。

 

 やはりキバオウと何かあったのか。

 

 不穏な空気を感じ取り、まずいな、と俺は思う。やはり起こるのか……。

 

「何が言いたい?」

 

 俺は若干目つきを悪くしながら返す。折角の勝利のときに何を言い出しやがる、という風を装って。

 

「俺は知ってるんだ。こいつ、ディアベルがLAボーナスって奴を取るためにキバオウさんを利用していたことに!」

 

 俺の目が細まる。

 

 こいつ、何を言ってやがる?

 

 言い方はどうあれ、このシミター使いが言っていることは事実だ。だが、肝心なことはそこではない。なぜこいつが知っているかだ。

 

「そ……それは……」

 

 ディアベルがすべてを告白すべきか迷ったように、視線をうろうろとさせている。動揺している。たぶん、自分からすべてを打ち明けるつもりだったのだろう。ベーターテスターだと。LAボーナスが取りたかったのだと。そうして、自分から懺悔をするつもりだったのだ、この男は。

 

 あの日、ディアベルと話した日に、彼はこう言った。

 

 ――これは、俺が負うべき責なんだ。

 

 なんて高潔な奴だ。まったく頭が下がる。だから、こんな風に誰かに糾弾されて打ち明けるものではないはずだ。

 

 ディアベルのうろたえにレイドメンバーたちがざわめく。最前列で的確な指示をしたリーダーディアベルから、いまこの瞬間、卑怯なディアベルへと評価が暴落しようとしているのだ。

 

「どういうことだ……?」「ディアベルさんがそんなことするのか?」「だけどキバオウさんが最後突っ込んだのって、やっぱりLAボーナスが目的だったんじゃないのか……?」

 

 疑問は次の疑問を呼び、やがては疑いへと変わる。

 

「俺は知ってるぞ! こいつ、こいつはベータテスターだ! だからキバオウさんに嘘を吹き込んだんだ! あのガイドブックを作ったやつだってきっとグルだ! ふたりしてキバオウさんを嵌めたんだ!」

 

 シミター使いが、最後の一線を越えた。

 

 俺は、やるせないため息を吐いた。頭が痛くなって、なつかしくもない、昔の嫌な記憶を思い出しそうになって、頭を振った。

 

 ――知っている。

 

 俺はこの光景を良く知っている。

 

 小学生の頃、ある女子のリコーダーが無くなったことがあった。クラスメートはまっさきに俺を疑い、周りははやしたてた。教師はクラスメートの言葉を鵜呑みにして、俺に全責任をおっかぶせた。悔しかった。悔しくて、情けなくて、人はこんなものなのかと、ひとり家のベッドで俺は泣いたのだ。

 

 やっぱり、人は変わらない。

 

 どこまで行っても腐ってやがる。

 

 どいつもこいつもそ知らぬ顔で生きている癖に、なにかひとつ落ち度があるとよってたかって石を投げる。

 

 これが民意だ。これが民主主義だと大きく旗を掲げ、正義面をするのだ。

 

 クソ食らえ。

 

 そんなもの許せるか。

 

 たしかにディアベルは悪いことをした。裁かれなければならないのかもしれない。だが、それには深い理由があった。熱い理想があった。このゲームに捕らわれた全員を救うという、高潔な目的があった。

 

 それだけは、何者にも汚すことは許されない。

 

 許せない。

 

 サキを見た。反論しようとしているのか言葉がでず、どうしていいのか分からないように俺を見ている。

 

 アスナを見る。人の業を見慣れているのか、苛立った様子で俯瞰している。

 

 キリトを見る。俯きこぶしを握り悔しそうにしながらも、何かを決心したように顔を上げた。

 

 ……こいつ。

 

 やらせてはいけない。こいつにだけは、やらせてはならないと、俺は思った。

 

 理由を見つけた。

 

 決心はした。

 

 ただ、サキだけが心配だった。

 

 キリト、と本人以外に聞こえぬよう、声をかける。キリトは、はっとしたように首だけで反応した。

 

「サキを……頼む」

 

 この場を納めるにはどうすればいい。

 

 ディアベルを正当な形で謝罪させ、ベータテスターを理不尽な糾弾から守る方法はなんだ。

 

 俺は、できればこの方法を取りたくなかった。

 

 これが最後の保険だ。

 

 サキにも話していない、絶対に反対される踏んで伏せていた最後の切り札。

 

 現実に帰るそのときまで、できればサキの隣にいたい。

 

 でもそれは過ぎた願望だ。

 

 うたかたの夢だ。

 

 ならば、そろそろ夢から覚めてもいいだろう。

 

 俺にはこの方法しかないのだから。

 

 さあ、ワンマンショーの開催だ。

 

「ちっ、やっぱり役に立たねえなあディアベル」

 

 どす黒い一言を放つ。

 

 その声が、その内容が、ざわめきと全員の視線を俺に釘付けにする。

 

 あのときを思い出す。文化祭の、あの顛末を。

 

 かつての観客は四人だった。今回は、総勢四十二名だ。

 

 随分出世したものだな俺も。

 

「あーあ、バレちまったんならしょうがない。俺だよ俺。ディアベルの野郎がベータテスターだって秘密を握って、脅したところまでは良かったんだが。抱き込んだのがキバオウってのは問題だった。まさか俺を裏切ってLAボーナスを取りに行くなんてな。まったく、バカを仲間にするもんじゃねえな」

 

「は、はちま……」

 

 サキの声が途中で止まる。

 

 キリトの囁き声が続く。

 

「ダメだ、止めたらダメなんだ……! あいつは、あいつは……!」

 

 きっと、キリトが口を塞いだのだ。あいつは、俺の頼みを忠実に守ってくれている。あいつも似たようなことをしようとしたのだ。俺の考えが読めている。さすがぼっちだ。今度飯驕ってやるから行こうぜ。

 

 ……俺が、行けたらな。

 

「まさかお前みたいなカスに見破られるとは思わなかったぜ、シミター君? まっ、いいや。雑魚どもともこれでおさらばだ。俺は好きにやらせてもらうぜ。まずはそうだな。役立たずのアルゴでも殺しに行くか。そしたら、次はお前だ、ディアベル」

 

 ダメ押しとばかりに、ボスからドロップしたばかりの品《コート・オブ・ミッドナイト》なるアイテムを装備する。丈の長い艶のある漆黒のコートが俺の身体を包み込む。

 

「じゃあな。もし俺に文句があるなら追って来い。ただし、そのときは決死の覚悟を抱いて来い」

 

 こういうとき、某ランサーさんの言葉はかっこよく響くよな。そんな場違いなことを考えながら、ひとり俺は二層へと繋がる扉を押し開けた。

 

 呆然とするサキを置いて――

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 狭い螺旋階段をしばらく上ると、再び扉が現れた。

 

 それを苛立ちぎみに開けると、とてつもない絶景がいきなり目に飛び込んだ。急角度の断崖の中腹に扉の出口があったのだ。

 

 そこから道なりに少しあるいて、俺は岩陰に力なく崩れ落ちた。

 

「あーあ、やっちまった。もう戻れねえな、こりゃ」

 

 自戒の言葉が胸に刺さった。

 

 もうサキには会えない。

 

 アスナにも会えない。

 

 キリトは分かってくれるのだろうが、迷惑はかけられない。

 

 ディアベルには酷いこと言っちまったな。キバオウにも、他の連中にも。

 

 だが、これが俺だ。

 

 真正面から卑屈に、最低に、陰湿に。これが俺の本質だ。誰にも知られることのなかったそれが、いまやっと周知の事実に変わっただけだ。現実と何も変わりない。

 

「今日から本格的にぼっちに戻ったな。ああ、懐かしいな、この感覚」

 

 ふと、足音が聞こえた。俺の後から第二層に向かってきた連中だろうか。早すぎる。あのあとディアベルが謝罪会見でも開くとでも思ったんだが、うまくいかなかったんだろうか。そうだとしたら、悪いことをしたな。だが、生憎そこまでは面倒見切れない。これが俺の精一杯だ。

 

 何かを探しているように、足音が近づく。俺は岩陰に隠れたままなので、一見してすぐにはバレない位置にいる。

 

 少し静かにしていてくれ。いまは一人でいたいんだよ。

 

 少し、疲れた。

 

 久しぶりに本気を出したものだから、手が震えてたまらないんだよ。

 

「やっと、見つけた……」

 

 なのに、どうして。どうしてお前が来るんだよ……。

 

「サキ……」

 

 顔を真っ赤にして眉を吊り上げたサキが、肩で息をして俺を見下ろしている。その顔は怒ってるな。やっぱり呆れたのだろうか。

 

 あのとき俺が恐怖したように。

 

 やはりサキも、あの二人のように俺に絶望しているのだろう。

 

 俺は項垂れる。

 

 断罪の言葉を訊くために。

 

 関係を断ち切るために。

 

 言葉を……待つ。

 

 ……。

 

 …………。

 

 ……………………。

 

 待っても言葉が来ない。

 

 怖くなって見上げる。声すら掛けられなかったのだと思って。

 

 なのに、まだサキはいた。

 

 その吊り目に大きな涙をいっぱいに蓄えて。心配そうに、心苦しそうに顔を歪めて立っている。そして、俺の目線に合わせるように膝をつくと、あろうことか俺を抱きしめた。

 

「あんた、いつもあんなことやってたんだね。ようやく、分かったよ」

 

「なんの……ことだ……?」

 

 掠れた声で返す。本当に、なんのことだ?

 

「ずっと、あんたを見てた。あんたに助けられたあの日から、あんたにちゃんとお礼を言いたくて、ずっと見てた。文化祭のときも、修学旅行のあとも、あんたがどんどん小さくなっていくような気がして、何があったんだって、なんであんなに言いたい放題言われなきゃならなかったんだって、ずっと思ってた。それが今日、ようやく分かった」

 

 ぎゅっと、サキが俺を強く抱きしめる。

 

「あんた、ずっと頑張ってたんだね。ひとりで、周りから白い目で見られても、言い訳ひとつしないで、ずっと頑張ってきたんだね。偉かったね。辛かったね。あんなやり方しかできなくて、それでもなんとかしなきゃって、ずっと頑張ってたんだね。気づいてやれなくて、ごめんね」

 

「サキ……」

 

 込み上げるものがあった。嬉しさがあった。驚きがあった。

 

 なにより、ずっと見られていたことが、どうしようもなく、愛おしく感じた。

 

 サキが身体を離す。

 

「ハチマン。だけど、もうこんなことはやめて。あんたが傷つくとあたしも痛い。あんたが辛いと、わたしも辛い。でも、あんたが笑うと、私も楽しいんだ。だから、あんたにはずっと、笑っていて欲しい……」

 

 だから、とサキが続ける。

 

「ちゃんと、私たちはコンビになろう。痛いも苦しいも、楽しいも嬉しいも、みんなみんな二人で共有して、このゲームをクリアしよう。ふたりで頑張ろう? ふたりで戦えば、きっときっと、大丈夫だから……!」

 

 涙が、遂に涙が零れた。

 

 決して流すまいとしてきた滴が頬を伝い、顎に滴り、サキの胸に落ちる。

 

 これは、悲しみからの涙ではない。生まれて初めて、嬉しくて泣いたのだ。

 

 こんなに幸福なことが、いままであっただろうか。

 

 分かったなんて勝手なことを言われたくない。

 

 いままでずっとそう思ってきた。そうやって壁を作ってきた。

 

 だが、いま、サキが言ってくれたことがすべてを吹き飛ばした。

 

 本当に、幸せとはこういうことだろうか。

 

 瞬間を切り取りたいとは、こういうことだろうか。

 

 だから、俺は再び願う。

 

 ――時よ止まれ、汝はいかにも美しいから……。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二章(前)
いつだって、川崎沙希は心配している 1


 限界だった。

 

 もう本当に限界だった。

 

 いっそ死んでしまいたいと思うほどにそれを欲していて。

 

 それ欲しさに幻覚すら感じてしまうほど、喉がそれを求めていた。

 

「マッ缶が飲みたい……」

 

 俺の心からの呟きに、サキから返ってきた言葉は辛辣だ。

 

「ないよ、そんなの」

 

「サキ、作ってくれ! 頼むから!」

 

 第一層攻略からさらに四ヶ月程度経ったこのとき、俺はマジで限界に達していたのだ。

 

 マッ缶を、マッ缶をくれ……。そのためなら命なんて惜しくない!

 

「あのコーヒーに練乳入れたみたいなやつだろう? よくあんな甘ったるいの飲めるねえ。胸焼けしそうだよ」

 

「エセ千葉県民め! 逆だ逆! 練乳にコーヒーを入れてるに違いない美味さなんだよ! あの甘ったるさが喉に染みるんじゃねえか!」

 

 はいはい、と軽く俺の話を聞き流しながら、サキが台所でふんふんと鼻歌を歌いながら料理をしている。

 

 マジ、ほんとマジでマッ缶作ってください! と土下座をする。

 

 男のプライド? マッ缶のためならそんなものドブにでも捨てちまえ!

 

 もちろんサキは無視。ガン無視。

 

 見事なまでのMU☆SHIだ。

 

 突如鼻歌をやめたサキが振り返る。やばい、怒らせたか……。

 

 しかし、表情は気だるげさは残っているものの、どこかもじと恥ずかしそうだ。

 

「こ、コーヒーの豆が売り出されてるって聞いたんだけど、買ってきてくれたら……その、がんばってみるけど」

 

「マジか! 買ってくる! 今すぐ買ってくる!」

 

 ダッシュで俺はサキの家を出る。サキに何か声を掛けられた気がしたが聞こえない。

 

 マッ缶様、ついにそのご尊顔を拝ませていただきます! 

 

 やっほい! っと飛び上がって俺は天に拳を捧げる。

 

 うん、冷静になるとさすがに引くわ。また新たな黒歴史を作ってしまったかとすぐにテンションダウン。サキにプレゼントされた紺のマフラーに顔を埋め、サキに選んでもらった臙脂のロングコートの襟を立たせてステルスヒッキーを全開にする。ついでに《隠蔽》もプラスすればあら不思議、透明人間の出来上がりだ。

 

 ひっそりと街を歩きながら雑貨屋を目指す。

 

 第一層のボス攻略から四ヶ月が経った。最前線は三十層を超え、いまや三十三層に達している。

 

 あれから俺の評価はもう、急転直下のナイアガラもいいところで、道を歩けば野次を飛ばされ、外に出れば自称自警団たちに追い回される始末だ。まったくどこの指名手配犯だよ。

 

 そんな中でも傍にいてくれるのはサキだ。彼女は周りの目をまったくと言っていいほど気にせず、いつでも俺の傍にいる。レベル上げも、食事も鍛錬も、以前とまったく同じようにこなしていた。

 

 正直、心苦しい。あのときの選択は間違っていたとは思っていない。

 

 あれ以外に方法はなかった。仕込みは万全だったとは言えないが、俺なりに違った方法で試してみたのだ。それでダメだったのだから、もはや俺はあの方法を取るしかなかった。

 

 サキは蔑みも絶望もしなかった。ただ、傍に寄り添ってくれた。俺はそれを嬉しく思う。

 

 ここ三十三層の主街区《ラーヴィン》は渓谷の隣にある湖畔の町だ。背後にある山なみと、透明な湖畔、三角屋根の木造建築が織り成す風景が美しい場所だ……と、サキが言っていた。山の中には古城もあり、たしかに雰囲気はファンタジーだ。

 

 ただし、山に面しているからか、坂道が多く、正直疲れる。俺にとっては若干面倒な街でもあった。

 

 ステルス全開で《ラーヴィン》一のプレイヤーメイド雑貨屋に辿りつき、入荷したばかりというコーヒー豆を大量に購入する。ここまでバレないと俺って存在を認識されていないんじゃないかと思ってしまう。まさか、さっきの店員は透明人間に買われたとか思っているんじゃあるまいか。

 

 そのまま帰るのではなく、路地へと入っていく。迷いそうになりながらも何度か丁字路や十字路を曲がって行く。湖上から吹き抜ける風が俺の背を急がせる。

 

 奥まった場所にあるのは、かつてディアベルとの会談場所と同じような、ひっそりとした喫茶店だ。住人の殆どがその存在を知らない、知る人ぞ知るコーヒーの名店だ。NPCの店ではあるが、なかなかにうまい。しかし悲しいかな、マックスコーヒーは置いていない。なぜだ……。

 

 東ヨーロッパの雰囲気をした深い臙脂の扉を開けると、からんからんと鐘がなる。入口から死角になっている最奥部の席へ行くと、既に俺を呼んだ人物が集まっていた。

 

「よう、ディアベル、アルゴ。今日も殺されに来たのか?」

 

 本気ではない、軽い挨拶のようなものだ。

 

 ディアベルが苦笑しつつ手を上げた。

 

「久しぶりだね、ハチマン。無事でなによりだよ」

 

「ハー坊、一体いつになったらお姉さんとデートしてくれるんだヨ」

 

 アルゴはぶすっとした表情で俺を見上げていた。

 

「なんとかな。あとアルゴ、お前俺より年上なのか年下なのかそろそろはっきりしたらどうだ?」

 

 さらりとアルゴのデートの催促をかわしつつ、俺も軽口を返す。アルゴの頬がむっと膨れる。なに? こいついつの間に鼠からリスに変身したの?

 

「どっちでもいいだロ。それより、早くデートしろヨ。ずっと待ってるんだからナ!」

 

 おっと、どうやら話題は変えてくれないらしい。相変わらずめんどくせえ奴だな。どうせ本気じゃないくせに。

 

 まあまあ、とディアベルが間に入って取り成す。

 

 この三人で集まり時は、大抵ディアベルが仲裁役になるのだ。うむ、大義である。

 

「アルゴさんも分かってるだろ。いまのハチマンが下手に俺たちと近しいことが周囲にばれると、俺たちに被害が来る。ハチマンはそれを分かっていてこう言っているんだ。ここはいじけるところじゃなくて、感謝するところだよ」

 

 そう面と向かって言われると面映い。俺はそういうつもりであんなことをした訳じゃないのだ。

 

「でモ……。ハー坊ばかりあんな目にあっテ、オレっち達だけのうのうと暮らしてるなんてサ……」

 

 しゅん、としたアルゴがぽつりぽつりと言う。

 

 空気が湿っぽくなる。

 

「あー、あれは別にお前らのためじゃねえよ。俺がやりたいからやったんだ。だから責任は俺のものだし、誰にも渡すつもりもねえよ。だからそうやって、罪悪感を俺から奪うなよ。それも俺んだぞ」

 

 はあ、とアルゴがため息する。その頬は少し赤くなっていた。風邪なの?

 

「ハー坊には適わないよ。分かっタ、こういうのはこれっきりにするヨ。だからハー坊、デートしてくれヨ!」

 

「話が変わってませんねえ!」

 

 ははは、と笑ったのはディアベルだ。実に楽しそうな笑顔で頬杖をつき、俺とアルゴを眺めている。

 

「さあ、そろそろ注文しようか。折角美味しい甘味処なんだ。頼もう頼もう!」

 

 ディアベルに促され、俺もアルゴもウインドウを開いてメニューを眺める。俺は当然コーヒーだ。練乳は無いが、砂糖を大量にぶち込めばひとまず満足はできる。なにより、サキの下へ行けばもしかしたらマッ缶が飲めるかもしれないのだ。俄然、テンションは上がる。

 

「ハー坊ハー坊」

 

「ん、なんだよ」

 

「こレ、頼んでいいカ?」

 

 アルゴがウインドウを滑らせながら、ある一点を指差しながら訊いてくる。ディアベルはニコニコとアルゴを眺めつつ、メニューを選んでいるようだ。

 

「あん? んなの自由に選べば……なんぞこれ」

 

 適当に答えようとした瞬間、目に飛び込んできたのは、

 

 ――ラブラブ☆カップルのトキメキジュース、と脳内お花畑でハッピーな女どもが好きそうな名前と、添付されている写真データだ。

 

 大きなグラスに注がれたソーダっぽい飲み物に、淵に挿されたオレンジ。そこまではいい。まだ許せる。だが、次が許せない。

 

 このジュース、ストローがふたつあるのだ。まるで、というか、確実に恋人同士がきゃっきゃウフフと飲むためのものだ。ぐぬぬ、リア充メニューめ、許せん!

 

 しかしなんでアルゴの奴、そんなのを頼みたいんだ?

 

 もしかして、俺と飲みたいの?

 

 罰ゲーム?

 

 いや、まさか……そうか、そうだったのか! ハチマン分かったヨ!

 

「ディアベルと飲みたいのか? 頼めばいいんじゃね? なあ、ディアベル?」

 

 そう、ディアベルは結構なイケメン様なのだ。しかも、爽やかで誠実。かつては後ろ暗いところがあったにせよ、いまはもう真っ白も真っ白、漂白剤も負けるほどだ。こうして三人で会う機会が増えた以上、アルゴも女の子だ。彼に惚れるのも分からんではない。 

 

 と、思っていったのだが、ディアベルがずっこけていた。なに? バナナでもあったの?

 

「き、君は……それはワザとかい?」

 

 はて、なんのことかな?

 

 アルゴを見る。ぐぬぬ、と口を強く結んだアルゴが、若干涙目になって俺を睨んでいた。

 

「うぅぅ……ハチマンのいぢわる」

 

 完全に普段の片言語が取れている。やっぱあれキャラ付けだったんだな、というか、しれっとハー坊って言ってないし。たぶん、マジ泣きなんだろう。

 

 あー、と頭をガシガシと掻く。

 

 はっきり言って、俺は鈍感ではない。というか、敏感系男子だ。

 

 ちょっとしたことで、あれ? この子俺のこと好きなんじゃね? と思うくらいには純情だ。

 

 中学での一件以来、類稀なる自制心でそれを抑えてはいるが、こうも好意を全面的に出され、あまつさえ本人の前でそれを避けてみせるのは、いかがなものか。

 

 さすがに今回は俺が悪い。

 

「すまん、冗談が過ぎた……」

 

 うぅぅ、とアルゴが涙目のまま見上げてくる。くっ、破壊力が高い。

 

「じゃあ、一緒に飲んでくれる……?」

 

 ぐっ、しかし、要求ハードルが高すぎる……。

 

「い、いや、しかし、なあ……?」

 

 ディアベル、助けてくれ!

 

 ディアベルは俺の顔を見ると、ぐっとガッツポーズをした。勇者は俺を見放したようだ。

 

 こういうとき、どうすればいいのかマジで分からねえよ。恋愛経験値をもっと稼いでおくんだった。フラれる経験値ならもうMAXなんですけどね……。

 

「わ、分かった。今回だけだぞ。今回だけだからな」

 

「ほんと? ほんとに?」

 

 アルゴが目を爛々と輝かせると、ぐっと身を乗り出す。近い、近いから……。

 

「ああ、ほんとだ。だから今回だけだぞ」

 

「分かったよ。ありがとう、ハチマン!」

 

 心底嬉しそうに、乙女の笑顔で礼を言われる。そう喜ばれると、男としても悪い気はしない。というか、こいつもう俺の呼び方ハチマンに固定しやがったな……。別にいいんだけどさ。

 

 苦渋の注文を終え、さて、とディアベルが手を叩いた。

 

「そろそろ本題に入ろうか」

 

 ここの店は雰囲気を楽しませるためか、現実の喫茶店並に注文が届くのが遅いのだ。だから、ここではいつも注文後に会議をし、届いたら一時中断、その後再会するという流れが定番だった。

 

「おう、じゃあアルゴから頼む」

 

 はいヨ、口調が片言語に戻ったアルゴが、表情も普段のそれに戻る。

 

「相変わらズ、ホーリィって奴の居所は判明しなかったヨ。あちこちで色々やらかした後は見受けられるんだケド、決定的な瞬間でいつもいなくなるから尻尾もつかめないヨ」

 

 ホーリィ。キバオウが最後に言った言葉だ。

 

 そして、ディアベルとキバオウの架け橋となり、すべてを裏で操っていた人物の名でもあった。

 

 あの事件の真相はこうだ。

 

 まずホーリィがディアベルと接触し打ち解け真意を聞き出すと、キリトの情報を伝える。どうやらベータ時代にはLAボーナスを取りまくって、結構有名だったらしい。やんちゃすぎんだろ。

 

 その後、ディアベルとベータテスター嫌いのキバオウを接触させた。キバオウはディアベルの真意に感銘を受け、キリトの武器の買取役を担った。

 

 その後の会議での騒動、実はこれはディアベルも想定外であったらしい。真意を知る今ならば理解できる。あれは、確かにない。

 

 会議後、ディアベルはホーリィに詰め寄ったそうだ。しかし、逆に脅されることとなった。ベータテスターのことをみなにバラすぞ、と。

 

 これがディアベルの身に起きた一連の騒動の裏側だ。

 

 ボス戦後の騒動発端であるシミター使いは、おそらくそのホーリィの仲間か懐柔された者だろう。たぶん後者じゃないだろうか。チョロそうだし……。

 

 こうしてみると、ホーリィがかなり重要な役を担っていたことが分かる。キバオウの暴走も、おおかたホーリィが吹き込んだのだろう。

 

 俺としては、裏側などどうでもよく、サキに危害を加えた奴がいまものうのうとこのゲームでうろついているのが許せないだけだ。他は知らん。

 

「別件だケド、《軍》の方が内部ですこしゴタゴタしているらしいよ。一応探りを入れてはおこうカ?」

 

 軍、とはギルド《アインクラッド解放軍》のことだ。大手MMOニュースサイトの管理者シンカーがギルド長を務めている。活動内容は、いわゆる相互扶助組織だ。下層での治安維持を目的としており、SAOの中では最大人数を誇るギルドだ。拠点は第一層の《はじまりの街》である。

 

「一応頼む」

 

「了解したヨ」

 

 今度はディアベルへ視線を移す。

 

「ディアベルのほうはどうだ?」

 

「こっちも特に進展はないね。ギルドのみんなにもそれとなく話を聞いてみたけど、やっぱり所在までは分からないそうだ」

 

ギルドというのは、ディアベルが立ち上げた《ブレイブ・ウォーリア(Brave warrior)》のことだ。なぜ複数形のSが付かないのかはまったくの不明だ。英語が苦手なのかな?

 

 ともあれ、実は第一層でやらかした後、ディアベルはホーリィの部分を除いてすべてを打ち明けたようだ。批判あり共感ありと、かなりしっちゃかめっちゃかな様相を呈したらしい。だが、それでもついてきた仲間達と共に、立ち上げたギルドが、《ブレイブ・ウォーリア》だ。

 

 実は俺も何度か入団を勧められている。というか、団長になってくれと頼まれているのだ。当の団長であるディアベル本人から。

 

 群れるのを嫌うぼっちがそんなものを承諾できるわけもなく、約一ヶ月にも渡る熱烈なラブコールを跳ね除け続け、ようやく表立って誘われることがなくなったのだ。

 

 それで終わればよかったのだが、厄介なことに、ディアベルがギルドの信頼できるメンバーへ、極内密に第一層の事件のことを話したから、その連中からもラブコールがまだ来ている始末だ。もう勘弁して欲しい。

 

 こいつら、ストーカーの気質あるんじゃねえのかな……。やばい、また具腐腐とかいう海老名さんの声が聞こえてきた気がする……。超怖い。

 

「ハチマンの方はどうだい? なにか分かったかい?」

 

 ディアベルが訊いてくるも、俺は力なく首を振る。

 

「ないな。まったく無い。というか、情報のアルゴ、組織力のディアベルで見つけられなかったら、どっちもない俺に分かるわけないだろうが」

 

「それもそうだナ。ハチマンはぼっちだもんナ!」

 

 妙にうれしそうに言うアルゴ。そう言われると少し悔しい。

 

 お、俺にはサキがいるもん!

 

 でも最近、サキはアスナと仲良くてたまに一緒にレベル上げとかできないんだよな。アスナの評判もあるから着いていけないし、女子会のあのウフフなところに突っ込めるわけもないし、ハチマン寂しい……。

 

 そんなことをやっていると、ようやくNPCの店員が現れ、注文が届けられる。ディアベルにはコーヒーとチーズケーキ。アルゴの前にはチョコレートケーキ。俺の前にはピーナッツケーキ。

 

千葉県民としてはピーナッツは外せない。

 

 そして、俺とアルゴの中央に鎮座ましますのは――

 

 ラブラブ☆カップルのトキメキジュース。

 

 なにこれ、実物の違和感が半端ないんだけど……。

 

 しかもおかしいな。写真データ上だと真っ直ぐなストローが二本刺さっていただけなのに、いま眼前にあるのは、くるくるっと洒落た形に曲がった、即ち、ハート型に曲がった二本のストローだ。しかも店員の粋な計らいか、ちゃんと俺とアルゴに向けられている。

 

「うぅぅ!」

 

 アルゴが嬉しそうにしながらも、どこか恥ずかしそうに頬を染めている。

 

 ディアベルは、「青春だなあ」とか言いながら、爽やかスマイルでコーヒーにミルクを注いでいた。そして俺は、見事に固まっていた。

 

 なにこれ。これを飲むの? アルゴと? ふたりで?

 

 超恥ずかしいぞ!

 

「は、ハチマン。の、飲もっか?」

 

 おずおずと言って、アルゴが潤ませた瞳で俺を見上げる。だからその仕草やめて! そういうの男の子弱いんだから!

 

「ぐ、わ、分かった……」

 

 ええい、覚悟を決めろ男ハチマン!

 

 こ、これくらい、告白してフられて翌日クラス中に知れ渡っていたときの羞恥心に比べれば、なんぼのもんじゃい!

 

 俺とアルゴは、緊張の面持ちのままストローに口をつける。そのままちゅーと二人して中身を吸い込む。口に入ると爽やかな酸味と炭酸のしゅわしゅわ感が広がる。

 

 お、これ以外と美味いぞ。

 

「ん……っ」

 

 色っぽい吐息を零したアルゴもどこか満足そうだ。というか、そういうのやめてって言ってるでしょ! 男の子はそういうの弱いって言ってるじゃない! って、口に出して言ってなかった……。

 

 しばらく無言でちゅーちゅーする。

 

 美味い。恥ずかしい。美味い。恥ずかしい。美味い。恥ずかしい。

 

 これをひたすらに繰り返す。

 

 ディアベルは俺たちの姿を肴に、暢気にチーズケーキを食べていらっしゃる。「やっぱり美味しいな! 新しいものを探求するのもいいけど、食べなれているものもいいなあ」とかどうでも良いことをおっしゃりやがる。

 

「ん、ん……っ」

 

 またも艶っぽい声を出して、アルゴが唇をストローから外した。あ、そうだよね、途中でやめてもいいんだよねこれ。なんだかポッキーゲームみたいに離したら負けみたいな雰囲気だから、ずっと飲んじゃってたよ俺。

 

「おいしいナ、ハチマン」

 

 特大の笑顔で言われた。あまりにも可愛くて柄にも無く赤面してしまいそうだ。

 

「アハハ、ハチマン顔まっかだゾ」

 

 していたらしい……。

 

 まさか~、といやらしい顔をしてアルゴが再び身を乗り出す。殆ど唇と唇が触れ合う距離。途端、蠱惑的な微笑を浮かべ、

 

「お姉さんにホレたか? ハチマンなら大歓迎だゾ」

 

 思い切り吐き出しそうになるのを寸前で止める。というか、仰け反って口を押さえた。

 

 やばい。やばすぎる。いまのは本気で惚れそうになった。おかしいな。惚れっぽいのは自覚しているが、予防線を一気に超えてくるとは思わなかった。っべーよ。っべー。俺じゃなかったら完全に惚れてた。告白して付き合って結婚まである。結婚しちゃうのかよ。

 

「ぐ、ぐ、ぐぬぬ」

 

 もうこうなると俺は唸るしかできない。気分は犬だ。

 

「アハハ。ハチマン可愛いナ~」

 

 くすくすと、乙女のように口許を押さえてアルゴが笑う。

 

 ディアベルは終始チーズケーキに首っ丈だ。

 

 あまりにも恥ずかしくて、俺はそっぽを向いてピーナッツケーキを口に入れた。

 

 うん、味がまったく分からないぜ☆

 

 うー、と口の中で唸りながら、ラブラブ☆カップルのトキメキジュースを見る。まだ半分も減っていない。これをまたアルゴと何回か吸い合わないといけないのか。

 

 俺の心臓、持つかな……。

 

 そのとき、思考に一瞬空白が滑り込んだ。

 

 額に違和感。周囲で慌てる声。聴覚がおかしく、ぐわんぐわんと耳元で鐘が叩くような音。頭が宙に浮いているようにふわふわとし、何が起きてる分からない。

 

 ふと、思考が戻り冷静に分析を開始する。

 

 額が痛い。どうやら思い切り頭をテーブルに打ち付けたようだ。周りがうるさいのは、アルゴとディアベルが声を掛けているからだろう。ゆっくりと、身体を起こす。

 

 目の前にアルゴとディアベルの心配顔が揃って俺を見ていた。

 

 聴覚も戻り。頭の浮つきも戻る。

 

「ハチマン! ハチマンってバ! だいじょうぶカ?」

 

 アルゴの声がようやく届く。

 

「あー、大丈夫だ。なんかぼけっとしてたらしい」

 

「そんな風に見えなかったよ。疲れているんじゃないか? 最近無理してるんだろう?」

 

 水を注文したディアベルが俺の顔色を伺う。彼を見る限り、俺の顔色はあまりよくないのだろう。アバターの癖に結構細かいなあ……。

 

 よし、無駄な思考が戻ってきた。どうやら俺は一瞬意識を失ったらしい。無理している自覚はないんだが……。

 

「ハチマン、今日はもう帰った方がいいヨ? でないと心配だヨ」

 

 アルゴの気遣いの篭った声に、俺は頷いた。

 

「悪いな、今日は帰る。ちっと寝るわ」

 

「うん、それがいいね。ひとりで帰れるか?」

 

「そこまでガキじゃねえよ。ただ、サキに連絡入れてくれるか? ちっと用事があって寄れないって。正直、メッセージ打つのがしんどい……」

 

 昼食を作ってくれているサキには申し訳ないが、ふたりのどちらかに言付けを預けて立ち上がる。まだ少しふらつくが、宿までは自分の足で帰れそうだった。

 

「ハチマン、無理しないでネ」

 

「ああ、専業主夫が俺の夢だからな。家でごろごろして外に出たくないまである。んじゃ、今日は悪いな」

 

 軽口を言うだけいって、俺はそのまま店を出た。

 

 まったく、働きたくねえなあ。

 

 



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いつだって、川崎沙希は心配している 2

 料理を作り終えたあたしは、ハチマンが来るのを今か今かと待っていた。

 

 ここをあたしの家にしたのは、料理ができるからだ。この家に越してきてからというものの、取得した《料理》スキルの熟練度を上げるために、毎日毎日作りまくったものだ。現実とは勝手が違い手順は簡略化してはいるものの、家事であると同時に趣味である料理を作れるのは、大分気分転換にもなった。

 

 最近ではその効果もあってか、料理のことを作りながら、家族のことを思い出しても胸が痛まないようになった。以前は夜になるたび家族のこと思い出し、自分の未来のことが怖くてひとり涙することもあった。

 

 堪えられないときはハチマンの部屋まで行き、彼に泣きついたこともあった。ハチマンは、俺も妹のことで泣くと言ってあたしを慰めてくれたものだ。

 

 ああ、早く来ないかなあ、と思う。

 

 早くハチマンに来て、あたしの料理を食べて欲しい。

 

 今日は結構美味く行ったのだ。さすがに現実の料理を完全再現できないが、魚の煮付けに肉ジャガ。お米はあまり美味しいものが出回っていないから、パンになってちぐはぐとしているけれど、洋食はあまり得意じゃない。あと、お味噌汁があればいいのに、味噌がまだ再現できていないのだ。まだまだ研究が必要だ。

 

 待っている間、ハチマンのことを考えてみる。

 

 初めてここで会ったときから、彼はどこか無理をしているように見えた。ふっとした瞬間に、あたしに対して済まなそうな表情をすることがある。そしてなにより、自身を憎んでさえいるのではないかとも思える、その苦悶の表情を見るたび、あたしは苦しくてたまらなかった。

 

 あたしと彼は、一蓮托生だ。彼は知らないが、あたしはそう思っている。

 

 もし何かを抱えているのなら話して欲しい。なにか苦しんでいるのならそれを分けて欲しい。ふたりでいれば大丈夫だと言ったのは、他ならぬあたしなのだから。

 

 なにより、彼は無理をし過ぎなのだ。

 

 初めて行く場所のはずなのに、いつも彼は勝手知るかのようにあたしを連れ、初めてのはずの敵もさりげなく行動パターンを教えてくれる。

 

 あたし好みの場所や店も教えてくれることもある。

 

 きっと、ハチマンはあたしの知らないところで、実際に行き、戦って、調査しているのだ。

 

 嬉しくて、愛おしくなってしまうけど、もっと自分を大事にしてほしい。労ってほしい。

 

 ポーンとシステム音がなる。アルゴからのメッセージだった。内容を見て、ため息する。

 

 どうやら彼は用事ができたらしく、伝言を頼まれたそうだ。

 

 できれば本人から送って欲しかったのだが、忙しいのなら仕方が無い。こうやって甘えてばかりいるから、彼が苦労ばかり背負い込むんだと、あたしは自分を叱咤する。

 

 せめて、ハチマンにメッセージだけ送っておこう。彼が無理し過ぎないように。あたしが心配していることが分かるように。

 

 ウインドウからまだ慣れないキーボードを呼び出し、文面を打ち込む。悩みながらも送信し、あたしはほっと一息ついた。

 

 さて、コーヒー豆でも買いに行こう。今度ハチマンが来たときに、マックスコーヒーを飲ませてあげられるように、今の内から練習しておこう。

 

 やることができたらすっと身体が軽くなったような気がする。あたしは服装を余所行きのものへと変え、家を出る。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 家に戻ってベッドに横になっても、習慣のせいか寝付くことができない。

 

 むくっと起き上がった俺は、軽く伸びをして身体が動くことを確認する。よし、大分まともになった。

 

 意識を失ったのはあれだ、きっとアルゴのせいだ。

 

 いきなり好意を全面に押し付けられたから、高感度パラメーターがトチ狂って頭がパンクしたに違いない。俺の頭はバグってんのかよ……。

 

 よし、そこそこに調子がいい。理由も分かったことだし、行動を開始しよう。

 

 さすがに今日は人と付き合うほど気力も残っていないし、最前線のマッピングくらいにしておくか。ぼっちで行動するときって緊張感があるようで、人を気にしなくていいから楽なんだよな。まあ、サキは別だが。ならサキと一緒でいいじゃん、と思うかもしれないが、実は違う。

 

 たまにマジで緊張するのだ。戦闘中でこそそんなことは絶対にないが、休憩しているふとした瞬間に身体が動かなくなるときがあって、マジで俺病気なんじゃね? とか思うことがある。

 

 段々と自覚は芽生えている。だが、きっとそれは表には出してはいけないものだ。

 

 クソ、また変な考えに嵌ってきた。

 

 さっさと行こう。

 

システム音がなった。サキからのメッセージだった。すぐに開くと、自然と口許が緩んだ。

 

 ――あまり無理しないでね。もし早く帰ってこれそうだったら言ってね。あんたが好きなごはん作っておくから。だから、ちゃんと帰ってきてね。

 

 ああ、と頷いて。部屋を出る。

 

 そのまま街を出て渓谷地帯へ入る。緑溢れる森を分断するように川が勢いよく流れ、その両脇に木造の道が入り組みながら伸びている。川もあみだクジのようにいくつも別れており、川の中には明らかに足場になり得る大きな岩が、無数に水しぶきを受けながらも、確かな意思でもってそこに存在している。

 

 マイナスイオンに溢れるような場所で、観光に来るには悪くない。ただし、それ相応に覚悟をしなければならないが。

 

 前方、ここからだと輪郭すら曖昧だが、川上の飛び石ならぬ飛び岩を跳んでいる灰色の物体が見えた。ここに来て以来何度も剣を交えたワーウルフ――つまりは人狼、雑な言い方をすると二本足行動をする胴長狼だ。迷宮区に救う《ライカンスロープ》に比べれば楽な相手だが、ここは足場が悪すぎてなかなかに厄介なのだ。だから身軽なプレイヤーが相手をすることが殆どだ。

 

 早速右手で短剣を抜き、左手で投げナイフを装備する。

 

 あれから俺は、この擬似双剣スタイルになった。左のナイフはスキルは投擲系しか使用できないが、ある程度の牽制や防御は可能なのだ。これを思いついたときは思わず、俺って頭いい~とか思ったが、実は周知の事実だったらしい。ハチマンショック……。

 

 ワーウルフが雄叫びを上げ、器用に飛び岩の上を飛びながら近づいてくる。というかなぜ渓谷に人狼がいるんだよ。設定が分からん……。

 

 遂にワーウルフが俺の頭上に跳び踊り、頑強な爪を両手でふるって来る。俺は冷静に前転での回避を選択し、起き上がりざまナイフをワーウルフの背に滑らせる。殆ど皮膚を切り裂かないが、敵の注意を無理やりひきつけることに成功。

 

 一拍の間をおいて振り向いたワーウルフの左目に、勢いよく短剣を突き立てた。

 

 絶叫。

 

 空を仰ぎながらワーウルフが痛みにうろたえる。

 

 こういう皮膚が固そうな相手は顔面、それも眼球を狙うに限る。我ながらえげつねえ。

 

 そのまま飛びずさり着地する。ワーウルフの明らかな隙を逃すことなく、顔を覆う手首へナイフを投擲。うまくクリティカルが入ったか、ワーウルフのHPゲージがたった二撃で大幅に減る。ここぞとばかりに六連撃スキル叩き込むと、ワーウルフの身体がポリゴンの残滓となって宙を舞った。

 

「あ、やべ……ナイフ川に落ちた……」

 

 ワーウルフの手首を抉ったナイフは、そのまま放物線を描き川へ落ちて流れてしまったのだ。手痛い出費だ。そこそこ高いのに……。

 

 いつもなら犯さないミスだ。やはり、疲れているのだろうか。

 

 もう一匹ワーウルフがやって来る。今日はやけに多いな……。

 

 ああ、めんどくせえ。

 

 無理やり二匹目も同様の手順で倒し、続く三匹、四匹と倒した辺りで面倒になる。

 

 ステルスヒッキーと《隠蔽》を全開にして全力疾走。迷宮区まで一気に到達する。

 

 迷宮区の入口まで来たところでほっと息をつき、入口の脇、誰もこなさそうな場所まで進む。ちょうど大樹の木陰になっている場所があった。ああいうところで寝るの、俺夢だったんだ……とか適当なことを考え、休もうとしたところで――身体が崩れた。

 

「……は?」

 

 訳が分からず身体を動かそうとし、動かない。視界が明滅し、全身の感覚が痺れたように聴覚が失せ、嗅覚すらなくなっていく。

 

 ああ……これ、やべええ。

 

 かすかに見えたワーウルフの影が、俺の死が近づいていることを如実に感じさせた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 午後三時。ちょうどコーヒーブレイクの時間帯。意気揚々とコーヒー豆を買い、自作練乳と掛け合わせ、いくつもの試作品を作ったところで、あたしは決定的な事実に気がついた。

 

 あたし、マックスコーヒーの味覚えてないじゃん。

 

 なんてこと……あたしは千葉県民失格なの? じゃあ何県民なの?

 

「少し思考がハチマンに影響されたかな……」

 

 ふふ、っと微笑んで、そしてすぐに落ち込む。

 

 一体どうすれば良いというのか。味が分からない、つまりハチマンの理想とするところの味に近づけないどころか遠ざかっていくようだ。

 

 これは良くない。大変良くない。

 

 ハチマンを元気にするつもりが、がっかりさせてしまう気がする。

 

「あ、ハチマンに試飲してもらえばいいんじゃ……」

 

 そうすれば、よほどのことがない限り落ち込ませることはないはず。それどころか、徐々に味に近づけば、ハチマンの笑顔をもっと見ることができる。

 

「今度来たとき、味見してもらう」

 

 そうしよう。

 

 方針が固まると、急にやる気が出てきてしまう。

 

 そんな折、システム音と共にメッセージが現れた。相手はアルゴだった。一日に二度も珍しい。また食事の誘いかとメッセージを開くと、全身から血の気が引いた。膝から落ちそうになって、テーブルに手をついて必死で堪えた。

 

 こんなことをしている場合ではない。すぐに行かなくては……!

 

 ウインドウも開くのがもどかしく、部屋着のままで部屋を出る。

 

 メッセージの中身はこうだった。

 

 ――ハチマンが倒れた。迷宮区の前に来て。

 

 普段の片言が一切排除された、簡潔な文面が事態が逼迫していることを否応なく知らせる。

 

 《ラーヴィン》を出て渓谷に入る。川の飛び岩を飛んで最短距離で迷宮区へと飛ぶ。

 

 案の定ワーウルフが現れる。しかも二体。普通なら引くところでも、

 

「あたしの、邪魔を、するなあ――ッ!」

 

 跳びながら槍を思い切り振り下ろし、穂先を次の着地点である飛び岩へ突き刺す。そのまま棒高跳びの要領で迫り来るワーウルフよりも高く跳びあがり、その背に乗る。

 

 いまは相手にしている時間すら惜しい。ワーウルフの逞しい背を思い切り蹴って先へ進む。

 

 早く。より早く。何より早く。ハチマンの元へ――!

 

 迷宮区が見える。いない。ハチマンがいない! アルゴも、誰もいない――!

 

 迷宮区の前にたどり着く。周囲を見渡す。

 

 いない、いないよハチマン……。

 

 泣きそうになる。

 

 そんな惰弱な自分を奮い立たせ、叫ぶ。

 

「ハチマン! アルゴ! どこにいるんだい!」

 

 かすかに声が聞こえた。

 

 東側の大樹の方から、確かに聞こえた。

 

「サキちゃん! こっちだよ!」

 

 右からアルゴが大きく手を振っている姿が目に入る。すぐにアルゴの元までいき、思い切り両肩を掴んで揺らす。

 

「ハチマンはどこ? 無事なの?」

 

「サキちゃん落ち着いて! 大丈夫だよ。あの木の下に横になってるから」

 

 アルゴの指差す先に視線を向けると、ハチマンがぐったりと大樹の根を枕に横たわっていた。たまに見る寝顔とは違う。まるでうなされるように時折顔をしかめている。

 

 すぐにハチマンに駆け寄る。額に手を当てて、熱がないか確認する。分からない。普段はリアルな癖に、こんなときだけ温度を感じないから、現実感を失わせる。

 

「サキちゃん。回廊結晶を持ってるかい? ごめんよ、オレっちが持ってればすぐに戻れたんだけれど、慌ててたから切らしちゃってて……」

 

 よく見れば、アルゴはトレードマークのひとつであるローブを羽織っていなかった。もしかしたら、ハチマンを守るためにワーウルフと戦ってくれたのかもしれない。

 

 思わず抱きしめて感謝をしたかったが、いまはハチマンをつれて帰ることがサキだ。ストレージから、回廊結晶を探す。あった。以前たまたまレアモンスターを狩って手に入れたまま使わずに取っておいたものだ。転移先は常に更新していたから問題ない。オブジェクト化すると、通常のものより一回り大きい濃紺のクリスタルを取り出す。

 

 高価なものだが関係ない。ハチマンのためなら全財産を投げ打ったって構わない。

 

「コリドー・オープン」

 

 眼前の空間が歪み、青白く渦巻く。アルゴとふたりでハチマンを抱え、その中に入っていく。

 

 転移先は《ラーヴィン》にある私が間借りしている家のすぐ前だ。ハチマンを部屋に運んで、ベッドに横たわらせる。

 

 投げ出されたハチマンの手を握り、必死に祈った。

 

 早く起きて。お願いだから、私に声を聞かせて――!

 

 傍らのアルゴもベッドに付しながら祈るように両手を組んでいた。

 

 数時間、彼は起きなかった。

 

 朝日も昇ろうかという時間、ようやくハチマンは目を覚ました。

 

「ん……あ――」

 

 ハチマンの声を聞いた瞬間、あたしは胸が張り裂けそうになって思い切り飛びついた。病人にすることじゃないと分かっているのに、そうせずにはいられなかった。

 

「バカ!」

 

「うお、起き抜けにいきなり罵倒かよ。起きる世界間違えちゃったの? というか、知らない天井だって言わせろよ。頼むから」

 

 いつもの軽口に安心する。でも足りない。

 

「バカ! アホ! ボケナス! ハチマン!」

 

「サキさん? ハチマンは悪口じゃないからね」

 

 お願いだから、もっと聞かせて欲しい。あなたの声を……。

 

「バカァ……あほぉ……なんで、なんで倒れるまで、無理するの……。約束したじゃない。痛いも苦しいも、楽しいも嬉しいも……ぜんぶ二人で共有しようって……!」

 

 ハチマンがたじろぐ。あー……と、唸ったと思ったら、彼の手があたしの頭に伸びて、やさしく撫でられた。

 

「すまん。心配掛けたな。ホント、すまん……」

 

 じわりと涙が滲んだ。もう――限界だ……。

 

 ハチマンの胸の中で、久しぶりに子どものように、わたしは泣いた。泣き終わるまで、彼はあたしの頭を撫でて続けてくれた。気持ちよかった。心底安心できた。

 

 アルゴは何も言わず隣にい続けてくれていたが、あたしが泣き終わったタイミングで、わざとらしく喉を鳴らした。

 

「ハチマン、眠いカ? 眠いなら寝た方がいいゾ?」

 

 くわっとハチマンは欠伸を漏らした。

 

「すまん、そうさせてくれ。アルゴも、ありがとな。礼はまた今度必ずするから……」

 

「今度はあのジュース全部飲もうネ!」

 

 ハチマンが苦笑する。あのジュースとはなんだろう?

 

「できればそれ以外で頼むわ……悪い、落ちるわ」

 

 その言葉を最後に、ハチマンが再び意識を手放した。

 

 しん、とした静寂が部屋に戻る。

 

 ふと、アルゴがあたしの肩を叩いて隣の部屋を指差した。話があるということだろう。立ち上がってアルゴを隣のリビングへ案内する。寝室の扉を閉め、アルゴをソファへ腰掛るよう促した。

 

「すごいネ。綺麗にしてるヨ」

 

 アルゴが首を回して部屋をじっくりと眺める。恥ずかしいからやめて欲しい。

 

「たくさん家具とか調度品があるネ。お金はどうしたんダ?」

 

「買い替え時期の女の子から格安で譲ってもらったんだよ」

 

「サキちゃん女の子にも人気だもんネ。気持ちはすごい分かるヨ」

 

 よく分からない。あたしはあたしであるように生きているだけだ。

 

 それよりも、アルゴはどこか落ち着かないように両手を揉んだり、袖口を弄ったりしている。普段の快活で意地の悪い姿からは懸け離れている。まるで恋する乙女のようじゃないか。

 

「いいから本題を話しなよ。なにかあるんだろう?」

 

 鋭く指摘してやると、タハハ、とアルゴがごまかすように笑う。

 

「やっぱり分かっちゃうカ?」

 

「アンタとはほぼ初期からの仲だからね。なんとなく分かるよ」

 

 うぅ……とアルゴが恥ずかしそうに唸る。それでも、ふん、と両頬を叩いたアルゴが、真正面からあたしを見据えた。まるで、戦いに行く戦士のような瞳だ。全身からある種のオーラすら感じられるほどに。

 

「サキちゃん。オレっち、ハチマンが好きだよ」

 

 ……はい?

 

 ハチマンガスキダヨ。

 

 隙だらけってことかい? たしかに今寝てるから隙だらけだけど。闇討ちしたいってこと? なんのために? あれ、この思考の方向は本当に合ってる? 絶対間違ってる気がするよ。

 

 額に手を当て、一生懸命意味を考えながらも、アルゴに問う。

 

「ご、ごめん、よく聞こえなかった……。もう一度言ってくれないかい?」

 

 アルゴの表情が憮然とする。しかしすぐに怒りの混じった瞳であたしを見ると、はあーっと長息する。

 

「私はハチマンが好き。異性として、男性として、私はハチマンが好き。大好き」

 

 ようやく理解する。アルゴは女として、男のハチマンに好意を持った。そういうことだろう。なんだ、そんなことならもっとはっきり言って欲しい。最初の言い方じゃ誤解しちゃうじゃないか。いや、あの誤解はさすがにないね……。

 

「ん……そう。さ、参考までに、ど、どうして?」

 

「惚れない方がおかしいだろ」

 

 自慢げにアルゴが言う。

 

「第一層のボス戦後のアレだよ。実は私も心配で見に行ってたんだ。遠巻きにだけどね。そこで、ベータテスター排斥の流れができそうなところに、ハチマンのあの悪魔の演説だよ。同じベータテスターの女の子だったら、きっと自分のためにやってくれたんだって勝手に思って、きっと好きになる。なっちゃうよ……」

 

 恋する乙女の顔でアルゴがハチマンを好きになった経緯を語った。

 

 気づかなかった。まったくと言っていいほど気づかなかった。あたしはいつだってハチマンとコンビを組んで、誰よりも近くにいるのに、そんな風にハチマンが思われていただなんて思わなかった。あたしだけが、きっと誰よりも彼の理解者だと思っていた。

 

 きっと、あたしは、家族への想い、そして郷愁にも似た想いを彼へ寄せていたのだろう。

 

 誰も彼の良さには気づいてくれない。あたししか知らない。それが、ちょっとした優越感となっていたのかもしれない。

 

 だけど、それもいま崩れた。

 

 あたしの前に、いまここに、アルゴという一人の女性が、ハチマンを好きと言う。

 

 あたしはそれでいいのだろうか。

 

 もしハチマンが彼女の想いに答えたとしたらどうだろう。

 

 この四ヶ月、彼の黒歴史とやらを幾度と無く聞いた。そして、彼が異性に対し一線どころか二線三線と引いていることが理解できた。だから、なぜか安心していた。彼はわたしの下から去ったりはしないと、勝手に安堵して、独占できると思っていた。

 

 崩れようとしている。あたしの世界が……。

 

「サキちゃんは?」

 

「……え?」

 

 アルゴが真摯に問う。あなたはどうなのかと。

 

「サキちゃんは好きなの? ハチマンのこと」

 

 好き、なのだろうか。特別なのは間違いない。家族と同列に、彼は大切だ。だけど、あたしは恋を知らない。初恋だって、まだだ。

 

 ただ、あのとき。

 

 文化祭できっと相模を捜していたであろうハチマンから掛けられた言葉に、あたしは揺らされた。

 

 ――サンキュー、愛してるぜ川崎!

 

 その一言で絶叫したあたしは、それでもすぐに悟ったのだ。

 

 ああ、こいつはただあたしに感謝しただけなんだって。勘違いする言葉じゃないんだと。だからすぐに冷めた。そのはずだ。

 

 分からない。

 

 あたしの気持ちは一体どこにある? どこに向かっている?

 

 頭が痛くなるほど考えても、答えが見つからない。心の海をさらえば出てくるはずの答えが、水面に映る月を掬って零れ落ちてしまうように、分からない。

 

「……分からない」

 

 搾り出した答えは、アルゴを満足させるものではなかっただろう。ただ、彼女はそっと息を吐き、残念そうに言った。

 

「そっか、サキちゃんは……そうなんだね」

 

 遠くを見るように、アルゴが天井を見上げる。やがて、またまっすぐとあたしを見る。

 

「じゃあ、あたしがハチマンをもらうよ。絶対に絶対に、ハチマンを振り向かせて見せる。そのためだったら、サキちゃんだって蹴落としてみせる」

 

 強い口調。

 

 アルゴが立ち上がり、不敵に笑う。

 

「だからサキちゃん、これはね。宣戦布告だよ。もしこの戦いに名乗りをあげるんだったら言ってね。強敵が増えちゃうけど、私は大歓迎だよ」

 

 そう言って、アルゴは無邪気に笑った。

 

 呆然とするあたしだけが、この空間からずれているように感じた。



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いつだって、川崎沙希は心配している 3

 目が覚めると夕方だった。

 

 天井を見上げた俺は、だいぶすっきりとした頭を少し抑えながら、上半身を起こした。やわらかなベッドから足を下ろし、両腕を膝に落す。

 

 部屋を見渡し、ここがサキの寝室であることに気づいた。

 

「あー、やらかしちまった……」

 

 迷宮区前へ行ったところまでは覚えている、あとは気を失う寸前に襲い掛かってきたワーウルフのことも。他はあまり覚えていない。

 

 ただ、夢うつつに一度起きたことは覚えている。サキに散々罵倒されたことも、サキを泣かせてしまったことも、しっかりと現実として認識している。そして、アルゴにも迷惑を掛けてしまった。よくよく思い出すとどんなときも被っていたフード姿ではなかった。きっと俺を守って戦い、フードを破損してしまったのだろう。今度弁償しないと……。

 

「ん……っ」

 

 ふと、背後から声が聞こえた。柔らかい声だ。しかし、違和感を感じる。

 

 オーケイ、考えよう。

 

 俺はベッドにいて、椅子代わりにして座っている。

 

 そして背後から女の子の声。

 

 つまり、声の主はベッドで寝ている。

 

 ということは、俺はそいつと一緒に寝ていた。

 

 ――これなんてギャルゲ?

 

 いやいや、待て待て! 違和感はそれだけじゃない。

 

 声がサキじゃない。

 

 え? 待って? ここサキの部屋だよね? サキの寝室だよね? なのになんでサキの声じゃない声が聞こえるの?

 

 そもそもだ。

 

 なぜ俺は起きるときに気づかねえんだよ! どんだけモヤットしてんだよ!

 

「んんぅ……」

 

 男を惑わすような、可愛らしくも艶っぽい声。どこかで聞いたことのある声だ。しかもつい最近。

 

 恐る恐る振り返る。きっとそんなことはあり得ないと思いながら……。

 

「やっぱりテメエかアルゴ! しかも起きてるじゃねえか!」

 

「あハ! バレたカ?」

 

 悪戯大成功! といったように満面の笑顔のアルゴが、ベッドの上で丸くなっていた。その容貌から、まるで昔流行った猫鍋を想起させる。なんだこの生物、超可愛い。お持ち帰りしたい。

 

 にっこりとアルゴが顔を近づける。近い近い近い。ハチマンのA.T.フィールドが破られちゃう! この使徒、ツヲイ……。

 

「ハチマン、おねーさんの添い寝で元気になったカ?」

 

 じりじりと近寄ってくるアルゴから、俺は必死になって離れようとする。

 

「全然気づかなかったんだけどな! てかなんでアルゴが一緒に寝てるんだよ。なんなの? この世界、ゲームなの?」

 

「ゲームだゾ? ギャルゲーじゃないけどナ」

 

「そうでしたね! 死んじまえよ茅場晶彦め!」

 

 叫びながらアルゴの接近をかわす。飛び退いて床に頭を打ち付ける。超痛い。

 

「まったク、病み上がりなのにハッスルするからだゾ。気をつけろヨ」

 

 なに誤解されそうなこと言ってやがるんですかねこいつは!

 

「で、サキはどこいったんだ? リビングか?」

 

「ああ、サキちゃんならいないよ」

 

「は?」

 

 目を見開く。意味が分からない。

 

「ココ、アイツノイエ、ナゼ、イナイ?」

 

「宇宙人みたいなしゃべり方だナ」

 

 確かに……。我ながらまるで深夜テンションのノリだ。少し落ち着こう。

 

 アルゴはまだ笑っている。ツボにでも入ったのだろうか。

 

「で、サキはどうしたんだ?」

 

「だから、家にいないヨ」

 

 だからなぜと聞いているんだけどね? 話通じないのかこの鼠娘め。

 

「どうして」

 

「ちょっとアレがアレでこうなっテ、こうなったんだヨ!」

 

「こいつ、俺の言い訳を真似てやがる……いつ聞きやがった」

 

「ハチマンが言いそうなことを適当に言ってみただけだヨ。ワーオ、以心伝心だネ。相性バッチしだヨ」

 

 ぱちぱちぱちーと胸の前で小さく手を叩いたアルゴがにっこりとキュートな笑顔。

 

 あざとい。こういうことをやれば大抵男どもは落ちるんだと、裏で量子計算機並みの速さで計算している女の強かさを感じられるような仕草。だが、それにあからさまな好意が混じると性質が変わる。例えばリトマス試験紙につける液体の性質を変化すれば、現れる現象は変わる。BTBでもいいけど。

 

 つまり、言いたいことはひとつ。

 

 可愛い。超可愛い。

 

 お持ち帰りしたい。

 

「あー、邪魔していい?」

 

 コンコン、と開け放たれた寝室のドアを叩く音と、不機嫌そうなサキの声。なんだよ、いるじゃんサキ。

 

 嘘つきめ、とアルゴを睨む。彼女はてへっと舌を出して頭を拳で小突く。うわ、リアルでやった奴初めてみたよ。以前俺がやってましたね……。

 

「もういいのかい?」

 

 表情を戻したサキが近づいてくる。俺は頷いて立ち上がる。

 

「大丈夫だ。その……すまんな、昨日から色々と……。それと、サンキューな」

 

 サキが目を伏せる。わなわなと唇を震わせ、顔を上げてキッっと柳眉を吊り上げる。

 

「……許さない」

 

 無音。

 

 言うべき言葉はない。心配に心配をさせ、挙句ごめんなさいで済むとは思っていない。しかるべき叱責を負うべきだと理解している。

 

 だから、俺は目を閉じてじっと俯いた。

 

 きっと来るであろう衝撃を待ち構える。

 

 だが、代わりに来たのは、別の衝撃だった。

 

「あんた、今日からここに住んで」

 

「は?」

 

「にゃんだっテ?」

 

 おいアルゴ、お前はいつからネコになったんだ? 雪ノ下が喜んじゃうじゃねえか。

 

 ……じゃねえ! サキのやつ、今なんつった?

 

 俺は決して難聴系主人公では決して無い。決して無いのだが。あまりに脈絡がなさ過ぎて、聞いた言葉をそっくりそのまま飲み下せない。喉下につかえたままだ。これがこんにゃくとかなら死んじゃうまである。

 

「さ、サキ……聞き違えたきがするから、もう一度言ってくれ」

 

「デジャブを感じるヨ……」

 

 何事かをアルゴが言っているが無視だ。

 

 こほん、と咳払いをしてサキがもう一度言う。

 

「ハチマン。あんたはしばらくあたしの家に住んで。あんた、放っておくとまた無理やらかすでしょ」

 

 サキの表情は真剣そのものといった様子で、冗談は微塵も無い。

 

 ここまで来れば誤解も聞き違いも何も無い。冗談抜きで、サキがルームシェアしようと言っているのだ。

 

 確かに、ここはひとりで住むには広すぎる2DKだし、俺なんかいまだに宿屋住まいだからベッドを買えばすぐにでも住めるくらいだ。

 

 しかし、理由がいまいち納得できない。

 

「無理っつっても、別に無理なんてしてないぞ」

 

「じゃああんたのスケジュールを言ってみな」

 

 なんだよ。以前とあまり変わってないぞ、と思いつつサキとアルゴへ俺のスケジュールを告げる。

 

 午前八時――起床。

 

 同時間――朝食。

 

 午前九時――レベル上げ兼情報収集。

 

 正午――昼食。

 

 午後一時――レベル上げ兼情報収集。

 

 午後六時――夕食。

 

 午後七時――対人訓練。サキがいない場合はレベル上げ。

 

 午後十時――情報収集。

 

 翌午前五時――就寝。

 

 全然変わってない。それどころか、俺ってば、周囲から目の仇にされているくせに、真昼間からレベル上げしてるっておかしくないか?

 

 うん、知ってる。ステルスヒッキーと高熟練度の《隠蔽》で、俺の存在を正確に認識していないと看破されないんだよね。ヒッキーまじインビジブル。

 

 なにか問題でも? と国会答弁する官僚様のような慇懃な態度でサキとアルゴを睥睨する。

 

「あんた……」

 

「これは酷いネ……」

 

 なぜか呆れられている。

 

 サキなんか頭を抱えてうずくまりやがった。

 

 え? だってこれゲームだよ? たくさん遊びたいじゃん?

 

「あんたの将来の夢、専業主夫だよね?」

 

 唐突な質問。俺はこれに胸を張って答える。俺の座右の銘と言ってもいいからだ。

 

「当然だ。絶対に働きたくない!」

 

「そんなこといいつつ、あんた絶対将来働いてるよ。毎日働きたくないって言いながらね……」

 

 なんという絶望的な未来を予想してくれやがるのだ。しかし、よくよく考えてみよう。

 

 理不尽な上司を上に持ち、上司から「分からないことがあったら聞いてって言ったよね?」とか「チッ、それくらい自分で考えろよ……」とか、ミスしたら「ねえ、なんで俺に聞かないで勝手にやっちゃうの」とか無限ループを言われながらも、きっと俺は死んだ魚のような目をしながら毎日終電で帰るまで働くのだ。平塚先生の愚痴のまんまじゃねえかよ……。

 

 そして、私の年収低すぎ! とか思いながらも働き続け、いつか限界が来てやめるのだ。そして病院のお世話になりながら家族のスネをかじってニートするのだ。

 

 最悪な未来だ。最高なのはニートの部分だけじゃねえか。

 

「サキ、俺はいま猛烈に働きたくなくなった。ニートになりたい」

 

 あまりの俺の落ち込み様に見かねたサキが苦笑した。

 

「あたしはできれば働いては欲しいけどね。もちろん、ちゃんと働いて、でも身体を壊さない程度に、かな」

 

「嫁の言い分みたいだナ」

 

 アルゴが混ぜっ返すも、サキが鋭い眼光をぶちかます。

 

「黙りな。いまは真面目に話してるんだよ」

 

「う、うーん、発端の台詞は真面目だケド、な~んか違うんだよナア」

 

 ぶつくさと言うアルゴ。こういうときのサキには言い訳は通用しないから黙っていた方がいいぞ。ほれ、俺みたいに。なんなら年中黙って部屋の隅っこで暮らしてるまである。ほら、すみっこぐらしって可愛いよね!

 

 サキが一歩踏み出す。両頬を掴まれて、顔を近づかれる。まるでキスでもするかのような距離感で、サキがまなじりを下げた。

 

「あんたが心配なんだよ。今回だって、すごい心配した。あんた、さっきのを聞く限り自己管理なんて全然できていないんだからさ。お願いだから……あたしの家に来て。これ以上、心配させないで……」

 

 真摯な言葉だった。サキにどれだけ心労をかけていたのだろうか。いまにも泣きそうなサキを抱きしめそうになった腕を下ろす。それでも、すぐには答えられず、言葉が出てこない。

 

 いまだに変わらない。

 

 俺はずっと、サキに引け目を感じている。

 

 最初に会ったあの日からずっと、理由を預けて重荷を課し続けていることが、罪悪感となって胸に刺さったままなのだ。それから逃れるために、時間があればサキのために動き続けた。こうすることが贖罪になるのだと、勝手な理由を押し付けて、あまつさえ、心を痛めさせた。

 

 サキに甘えるのが嫌ではない。だが、ある一線を越えてしまえばいまよりももっと自覚してしまう。どれだけ自分が最低なのかと。

 

 サキと再会してから五ヶ月。ずっと抱えてきたものを吐き出してしまいたい願望と、いつも戦っていた。

 

 弱い心だ。かつては、強くある必要があった。それがいまや、ぼっちを自称しても、本当はそうではない。俺に関わりを持とうとしてくる人が多くなった。

 

 ずっとぼっちと自称していたのは、きっと怖かったからだ。誰かにこの邪な気持ちを暴かれてしまうのではないかと、ずっと怯えていた。

 

「ハチマン? やっぱり、嫌? 嫌ならちゃんと言葉にして。どんな形であれ、あたしはあんたの意思はちゃんと尊重したいから」

 

 ひっ、と喉の奥で悲鳴が漏れた。

 

 サキはいつもそうだ。俺の意見を聞いてくれる。俺の意見など無視が普通でだった。それなのに、彼女はそれを許さない。俺の言葉を聞きたいと言う。俺は、それに誠実でいられているのだろうか。いや、できていない。

 

 なぜなら俺は、最初から彼女に本心を話していないのだ。

 

「少し……考えさせてくれないか……? 色々、疲れてるのかもしれない」

 

「ん、そうだね。ごめんね、急にこんなこと言って……」

 

「気にすんなよ。俺が悪いんだからな……」

 

 サキがアルゴを見る。視線で会話をしているのか、アルゴがふっと頷いた。

 

「今日はもう帰るヨ。ハチマンもサキちゃんの言うように無理するなヨ?」

 

「ああ、色々助かった。サンキューな、アルゴ」

 

 いいヨ、と言って扉を開こうとしたアルゴの手が止まる。

 

「サキちゃん。あの話の答え、本当にそうなのかナ?」

 

 それだけ言って、サキの返事も待たずにアルゴは出て行った。

 

 サキは、窓の外をじっと眺めながら、小さく息を吐き出した。

 

 俺が寝ている間、女同士話し合いでもして何かあったのだろうか? あまり言及するのも野暮だろう。俺もそこまで余裕がある状態じゃない。

 

 ねえ、とサキに呼ばれる。

 

「ん? どうした?」

 

 サキがもじもじとお腹の前で腕をいじる。

 

「明日、ちょっとふたりで外にでない? いつもの予定全部やめてさ」

 

「遊びに行くってことか?」

 

「うん、デート」

 

 飲み物を口に含んでいなくてよかった。水飲んでたら絶対噴出してきた。いきなりなに言い出しちゃってるのこの人。

 

「お、おう、別にいい、けど……」

 

 ひさしぶりにサキ相手にどもってしまう。でも許して。男の子だもの。

 

 サキが薄紅色の睡蓮のように微笑み、ほっと息を吐いた。

 

「ほんとかい? じゃあ、お弁当作っていくよ。二十二層でのんびりしよう?」

 

 二十二層――頭の中で検索し、ぼんやりと思い出す。確か自然の豊かな、のどかな田舎のような場所だったはずだ。確かに、荒んだ俺の心も癒してくれそうだ。

 

「わ、分かった。明日何時だ?」

 

「ちょっと遅く、十時にしよっか」

 

「了解」

 

 あと、とサキが思い出したように言う。

 

「ごはん作ったけど、食べてく?」

 

 俺は無言で大きく頷いた。

 

 

 

 天気は快晴。空気も湿っぽくなく乾燥しすぎてもいない。風は適度に吹いて気持ちのいい。つまりは絶好のデート日和というやつだ。

 

 時刻はちょうど九時半。サキの家に行く時間を考えてもまだ少し余裕のある時間帯。

 

 宿に取った自室のベッドの上で、俺はひとり座禅を組んでいた。

 

 なぜかって?

 

 緊張してるから心を落ち着けているのだよ。

 

 実は九時ごろから必死になって瞑想をしているのだが、無駄に元気な心臓はばくばくとうるさいままで、どうやっても落ち着けそうに無い。

 

 なぜだ。

 

 サキとは今まで何度も行動を共にしている。泣きつかれるだの抱きしめあうだの恥ずかしいことをした仲でもある。いや、マジでどんな仲だよ。

 

 だが、デートと意識してふたりで出かけたことなどないのだ。

 

 俺だって現実でデータのひとつやふたつ……雪ノ下と由比ヶ浜のあれをカウントして良いのなら、の話だが、あるにはある。なのに心はあの時など比較にならないほどに浮ついている。

 

「同棲しよう、みたいなこと言ってきたやがるからだ」

 

 恨むように呟く。

 

 到底落ち着ける雰囲気でもなくなり、システムウインドウを開いて時間を見る。そろそろいい時間だった。

 

 早く行ってサキに会いに行こう。そうすればきっと、いつもの調子に戻るはずだ。

 

 ……そんなことを考えていた時期もありました。

 

 サキと対面した途端、赤面した。完膚なきまでのリンゴっぷりだった。

 

 可愛美し過ぎるんだよ……なんだよ、気合入れすぎじゃねーの?

 

 普段の濃紺色の装いから一点、髪はいつものポニーテールではなく、ゆるく流して胸元まで伸ばしている。白のカーディガンに緑のワンピース。胸の下あたりで巻かれているのは、最近流行りのサッシュベルトとかいうやつか。首下には翡翠色のネックレス。

 

 正直ファッションのことなど分からん。分からんが、これは……かなり来る。なにせ、サキのおっきなお胸がここぞとばかりに存在を主張しているのだ。昨今はロングスカートばかりで足首まで見せないサキも、今日はワンピースから元気な太股がこんにちわしている。

 

 うん、さっきからどんだけサキを見てるんだ俺。ちょっとは自嘲しろよ。

 

 サキもサキで、両腕をお腹の前でモジモジと腕を抱きしめているものだから、ただでさえ主張の激しい胸が盛り上がってしょうがない。胸ばっかじゃねえかさっきから。

 

 そろそろやばい気分になりそうで、思い切り首を振る。

 

 小町、お兄ちゃん、こういうときどうすればいいんだよ。

 

 そのとき、小町の声が耳元で聞こえた気がした。

 

 ――お兄ちゃん、そういうときは愛してるでいいんだよ!

 

 よくねえよ! ド直球どころかデッドボールだよ! 他にねえのかよ?

 

 内心で思い切り突っ込むと、小町がゴミいちゃんめ、と大きくため息をついた。なんで想像上の小町にまでゴミ呼ばわりされてるんだよ俺。

 

 ――お兄ちゃん、まずは服を褒めなさい。あと、可愛いよっていうと小町的に超々ポイント高い!

 

 わ、分かったよ小町。俺がんばる!

 

「お、おう。サキ、今日は、その……なんだ、いつもと服違うんだな。綺麗だぞ」

 

「うん……ありがと。選んだ甲斐あったよ」

 

 そう言って、サキが柔らかく微笑む。

 

 心臓が高鳴る。不整脈かな……。

 

「さっ、行こうか」

 

 そう言って、俺の腕を取る。そのままの流れで俺の肘を取って腕を組んできた。身体を密着させ、大きな胸を押し付けられる。当たってる、当たってるからサキさん……!

 

「な、なんで腕を組んでらっしゃるので?」

 

「ん、デートだから」

 

 おかしい、サキの回答の意味が分からない。

 

 第一まわりを見てくれ。サキに密着されたことでステルスヒッキーが解除されてしまい、さっきから俺への視線がもう殺意や憎しみといった負のオーラしか混ざっていないのだ。あ、これはいつも通りでしたね。しかし、嫉妬まで入っているのだ。俺、今日背後から刺されないかな……。

 

「さすがに周りの視線が痛いんですけど……」

 

「あんな奴らのことなんか知らないよ。気になるなら、あたしだけ見てなよ」

 

 微笑しながらもかっよくサキが言う。

 

 マジで何がどうしてこうなった?

 

 たった一日でサキに何が起こったというんだ!

 

 サキに全身もたれかかれながら歩いていく。相変わらず周りからの視線は痛い。だから、サキの言うとおり、彼女だけを意識することにした。見るのはいまの格好を再認識させられるから恥ずかしい。

 

 《ラーヴィン》の転移門の前に着くと、サキが転移先を指定する。もはや馴染み深くなった光と共に、視界が薄くなっていく。

 

 転移が終わると、そこは長閑な景色が広がっていた。主街区の《コラルの村》だ。

 

 転移門の周囲には木造りの民家があちこちにあり、ゲームであることを忘れさせるような光景だ。

 

「ハチマン、今日はゆっくりしようね」

 

 笑ったサキが俺の腕をぎゅっと抱きしめた。

 

「あ、ああ……」

 

 やはり慣れない。ただ、ここには居住しているプレイヤーがあまりいないのか、時折見受けられるのはNPCくらいのものだ。

 

 大きくない田舎村を南へゆっくりと歩いていく。

 

 しばらくすると、緑に溢れた光景が現れる。一面緑色に染められたそこは、薄い緑色の草原と遠くに浮かぶ森の深い緑が見事なコントラストを描いている。風が吹けば草花が波を描く。少し視線をずらすと、神が穴を掘ったかのように空いた湖畔が、陽光の光を反射し、淡い水色が光り輝いていた。空は蒼穹、というより柔らかい水色で澄み渡り、あちこちに優しく雲が伸びている。

 

 白や赤、青に黄色といった野花も点々と咲いており、どこを見ても飽きることのない色彩を俺たちに見せていた。

 

 色に恋するポーランド。

 

 確かそんな言葉をどこかで聞いたことがある。

 

 ここは、まさにそんな言葉にぴったりの場所だった。普段渦巻いている考えもここにいれば多少はすっきりするものだろう。

 

 ん、と腕から離れたサキが深呼吸をしながら大きく伸びをする。自然溢れる空気をいっぱいに吸ったサキの顔色は、いつもよりもすっきりしたものだ。

 

「気持ちいいね。もし引っ越すならここがいいな」

 

「だな。俺も金が溜まったらここに来たい。そしてあの草原で一日中寝転ぶことにする。働きたくない!」

 

 んふふ、とサキは眉を下げる。

 

「あんた、こんなところでもそんななんだね」

 

「当たり前だ。俺は初志貫徹の男だからな」

 

「あはは、それとハチマン。実はマックスコーヒーの試作品を作って来たんだよ。もしよかったら、後で飲んで感想を聞かせてくれない?」

 

 マジか! 俄然テンションが上がるぜ!

 

「ようやく、ようやくマッ缶様に会えるのか……。ありがとう、ありがとうサキ」

 

「大げさだねえ」

 

 他愛も無い話をしながらふたりで田舎道を歩く。

 

 ふと、向こう側から歩いてくる人影が見えた。一見して、長い黒髪をした同い年くらいの少女だ。互いにゆっくりと近づいていく。

 

 不意に、前を歩く少女と見覚えのある顔が重なった。少女もこちらを見ていぶかしんだように顎に手をやる。しばらくして、少女は早歩きでこちらに近づいてきた。

 

「ハチマン……もしかして……」

 

 サキも分かったのだろう。

 

 俺は、声が出せなかった。

 

 なぜ、こいつがここにいる。それよりも、どうして俺に近づいて来るんだ。

 

 そんな、悲しそうな顔をして。

 

 黒髪の少女が俺たちの前で立ち止まる。精巧な人形のような顔立ちをした美しい少女が、肩で息をしながら、俺の名を呼ぶ。サキ以外、決してここでは知らないはずの、俺の名を。

 

「比企谷くん……久しぶりね」

 

「雪ノ下……」

 

 運命か、それとも悪魔か。

 

 なんにせよ、あまりにも悪戯が過ぎる。俺は意識を失いそうなほどに動揺しながら、それだけを思った。

 

 サキに向いた雪ノ下が、こんな顔を見たことがないほど淡い微笑で口を開く。

 

「川崎さんも、変わりないようでよかったわ」

 

「あ、ああ……あんたも、元気みたいだね」

 

 サキも驚いているのか、生返事を返す。

 

 俺に向き直った雪ノ下は、一歩、足を踏み出す。

 

 やめろ、来ないでくれ。

 

 まるで幽霊に襲われる夢を見る子どものように、俺は怯えた。ただ、恐ろしい。なぜなら、俺は逃げたからだ。雪ノ下から、由比ヶ浜から、あの部室から、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。居場所がないとして、背を向けた。そんな俺に、雪ノ下が罵倒するでもなく虫けらへ向ける視線を投げるでもなく、ただ微笑んで俺の前に立っている。

 

 別人じゃないかとも思う。それでも、約一年近く同じ部室で過ごしてきた期間が、これは間違いなく雪ノ下雪乃であると明言していた。

 

「比企谷くん……いえ、ここではハチマンくんだったわね。噂は聞いているわ」

 

「……そうか」

 

 雪ノ下が目を伏せる。何かを堪えるように、苦しんでいるように胸を掴んで、それからまた俺に視線を戻す。

 

「あなたに、言いたいことがあったの。今日会えたのは偶然だけど。それでも、きっと私があなたに告げるべき日が来たということなのだと思うから」

 

「な、にを……」

 

 やめてくれ。もう否定の言葉は聞きたくない。お前の口から、もうあの言葉は聞きたくないんだ。俺は弱くなった。あの時までの強い俺とは、もう違う。欺瞞だらけで、偽善を振りかざし、そしてなにより、現実へ帰る理由すらサキへ預けてしまっている俺には、お前の言葉に堪えるだけの力は、もうないんだ。

 

「あなたに――」

 

 言葉が始まった瞬間、俺は足を動かしていた。

 

「ハチマン!」

 

 サキが驚いて上げた声が聞こえる。それでも足が止まらない。

 

 俺は逃げ出した。

 

 雪ノ下の前から逃げ出したのだ。

 

 どんどん、自分が酷くなっていく。

 

 俺は……俺は……

 

「こんな自分、大ッ嫌いだ……!」

 

 



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いつだって、川崎沙希は心配している 4

「比企谷くん! 待って! お願い!」

 

 雪ノ下が叫ぶ。なのに、その足が動かせないのか、手を伸ばした不恰好のままその場に崩れ落ちる。

 

 あたしは、ただ一言だけが頭の中で回っていた。

 

 ハチマンが、逃げた。

 

 あり得ないと思った。普段面倒臭そうに何事にもやる気が感じられず、働きたくないと明言しているハチマン。なのに、困った人がいれば放っておけず、自分を犠牲にして助け出す。方法はあまりいいとは言えないが、どんな形であれ、逃げずにいつも困難に立ち向かっていた。

 

 その彼が逃げた。逃げたのだ。

 

 一体、どれだけ彼は追い詰められていたのだろう。どれだけ苦しかったのだろう。

 

 予想でしかなかったことが、いま確信を持って言える。

 

 ああ、ハチマンはやっぱりSAOに逃避しに来たんだね。

 

 当然だ。当時の彼の立場からすれば、学校に来るほうがおかしい。まともな神経をしていれば精神をやられてしまうに違いない。そんなことがなかったのは、彼が強く、そして孤独に慣れすぎていたからだ。そしてきっと、自身への責任を強く痛感していたから逃げることはなかった。

 

 だけど、人はそこまで頑強ではない。最初は小さな傷だったものが、徐々に大きく広がり、取り返しがつかない傷になることがある。

 

 いまのハチマンは、きっとそれすら超えている。

 

 あたしはバカだ。大馬鹿者だ。

 

 アルゴに恋愛を焚き付けられて分からなくなって、それで余計に焦り、デートに来て浮かれていた。そんな場合じゃなかった。彼の話を聞くべきだった。もっともっとたくさん話して、彼の痛みを肩代わりできるくらい、信頼を勝ち取らなきゃいけなかったんだ。

 

 雪ノ下が立ち上がる。目じりには涙が浮かんでいた。

 

「あんたは……、ハチマンをこれ以上傷つけたいのかい? それとも、別の何かをしたいのかい?」

 

 雪ノ下は涙を拭うと、弱々しい目であたしを見た。あの、すべてを見透かす様な眼光はなりを潜めている。彼女は、変わったのだろうか。

 

「謝罪したいの。彼に、謝りたいの」

 

「一体なにをだい?」

 

「彼へ理想を押し付けてしまったことを。彼に言ってしまった言葉を」

 

 意味は分からない。ただ、一瞬であたしの頭は沸騰した。

 

 気づいたら、手が動いていた。

 

 パン――と乾いた音が響き、ようやく、あたしは雪ノ下の頬を平手で叩いたのだと知った。

 

 雪ノ下は叩かれた状態のまま顔を動かさず、何かが晴れたかのように、口許を少しだけ緩めた。

 

「きっと、もっと痛かったのよね……」

 

「ハチマンのことかい?」

 

 ええ、と雪ノ下が言う。

 

「ここでの生活で、私がどれだけ子どもだったかを知ったわ。そして、考えたの。彼がしたことを、私がしたことを。どれをとっても、私は彼に酷いことをした。彼の優しさに甘えていた。そんなことでは、彼に逃げられてもしょうがないわよね……」

 

 雪ノ下も、思うところがあったのだろう。そして、やはり変わったのだ。このゲームに飛び込んだことにより、角が取れたように見えた。

 

「雪ノ下、さっきあたしたちがこのゲームにいることを知っているようなことを言ってたね? 実際知ってたのかい? もしそうなら、どうして会いに来なかったんだい?」

 

「ええ、第一層の攻略後に知ったわ。ある悪魔のようなプレイヤーの話を、プレイヤーネームと一緒にね。そのとき、すぐに悟ったわ。彼だって。そして、彼と行動を共にするプレイヤー名を聞いて、あなたのことはもしやと思ったの」

 

 思い出すように雪ノ下が言い、そして続ける。表情がどんどん暗くなっていく。

 

「私は、姉さんから無理やりこのゲームをやらされたのよ。それで、閉じ込められた。最初は恐ろしくてたまらなかったわ。敵と戦うどころか、《はじまりの街》から出ることすらできなかった。生きていることが苦痛でしょうがなかったし、自殺も何度考えたか分からないほどよ。でも死ねなかった。私には考えなければならないことがあったから」

 

 そこで、雪ノ下は一旦言葉を切った。

 

「考えること?」とあたしが聞く。

 

「ええ、彼のこと。彼がしたこと。その意味。その後の彼の態度。そのときまで、私は悪くないと思っていたのよ。まあ、今はその話は置いておくわ。

 

 私がようやく動けるようになったのは、彼の噂を聞いてからよ。彼がここにいる。でも一ヶ月の間で先に話したことに満足な結論がでなかったの。彼と話すのは、私がちゃんと自活して、そしてちゃんとした答えと言葉を用意できたときにしようって決めたのよ。

 

 ただ、実際に会いに行こうとすると怖くて、なかなか会いにいけなかったのだけれどね」

 

 本当に今日はびっくりしたわ、と雪ノ下は曖昧に笑った。

 

 あんたは、とあたしは自然と口にしていた。

 

「あんたは、ハチマンと話したいかい? あのハチマンが雪ノ下を避けた。それでも、話したいかい?」

 

 凛とした眼差しになった雪ノ下が、まっすぐに私を見て頷いた。

 

「ええ、話したい。ずっと、そのときを待っていたのだから」

 

「あいつがそれでも嫌だと言ったら」

 

「せめて一言、謝罪だけでも。そうなったら、もはやそれ以上は望まないわ。彼の前から姿を消すだけよ」

 

 そうかい、とあたしは考える。

 

 雪ノ下とハチマンを会わせて良いものかと。

 

 これは、ある意味でチャンスなのかもしれないと思った。現実の奉仕部に不和を抱え凍てついたハチマンの心を、もしかしたら溶かせるかもしれない。あたしではできなくても、雪ノ下ならそれができるかもしれない。

 

 ズキン、と胸が針で刺されたように痛んだ。

 

 本当は、きっと気づいていた。

 

 表に出せなかったのは、雪ノ下がいるから、由比ヶ浜がいるからなのだ。

 

「分かったよ。ハチマンと話してみる。雪ノ下、フレンド登録を」

 

「いいの? こう言ってはあれだけど、あなたからしたら、私は彼を傷つけた人間で、敵なのに……」

 

 あたしは首を振って答える。

 

「あたしはあいつが思うままにしてくれればいいよ。傷ついたのなら、あいつが許す限り、あたしが隣で寄り添うよ」

 

「そう……あなたは、そうなのね……」

 

 フレンド申請をした際、雪ノ下のプレイヤーネームが表示される。

 

「あんた、ユキノっていうんだね」

 

「ええ、残念ながら私もこういうことは疎くて。やっぱりあなたも?」

 

「これが人生初のゲームだからね」

 

「それは、災難ね」

 

 ふたりして、ようやく笑う。ユキノが表情を戻す。

 

「サキさん、お願いしていいかしら。私はいつでもいいから。彼が会っていいというなら、連絡を頂戴。待っているから」

 

「ああ、確証は持てないから絶対とは言えないけれど、努力はするよ」

 

「その言葉だけで十分よ」

 

 ユキノが深々と頭を下げる。黒髪がユキノの肩を流れて滑り落ちる。

 

「どうか、お願いします」

 

 本当に、こいつは変わったね。見違えるようだ。

 

 人は変わっていく。大人になることは、何かを無くしていくことだと聞いたことがある。それは無邪気さだったり、好奇心だったり、発想力だったりと、決していいものばかりではない。だけど、あたしはこう思う。

 

 人が持っている悪い部分を昇華して、よりよい人間になっていくこともまた、大人になることなのだと。ユキノはきっと良い成長をしたのだろう。

 

 なら、あたしは彼女の想いをきちんと受け止め、あたしの仕事をしよう。仕事なんて言ったら、まるで奉仕部みたいだけれど。相手がユキノとハチマンなら、丁度いいのかもしれない。

 

「その依頼、受けたよ」

 

 くすり、とユキノが笑った。

 

「まるで奉仕部ね」

 

 かつて雪ノ下が作った理念からはずれているかもしれない。だけど、これがあたしのハチマンへの恩返しだ。

 

 

 

 ユキノと別れたあたしは、その足で《ラーヴィン》へ戻った。居場所検索をしなくても、ハチマンがいるところなんて大体想像がつく。曲がりくねった路地に入り、ひっそりとしたNPC民家に入る。人の目を気にしなければならない彼は、このひっそりとした家に一部屋間借りしているのだ。

 

 中に入り、ハチマンの部屋の前でノックする。

 

 返事はない。

 

 それでも彼の荒い息遣いが中から聞こえてきた気がした。

 

「サキだよ。入るからね」

 

 一声かけて、扉を開ける。

 

 ベッドしかないこざっぱりとしたワンルームの中、ハチマンが部屋の隅で蹲っていた。はじめて見る弱々しい姿だった。自分の殻に閉じこもったように膝を抱え、頭を落している。何かひとつ間違えれば壊れてしまいそうな姿に、あたしの胸は酷く軋んだ。

 

「ハチマン、あたしだよ。近寄って、いい?」

 

 ハチマンがようやく顔を上げる。酷い顔だった。いつも濁っている目は一段とドス黒さを増し、顔色は悪く、頭は掻き毟ったようにボサボサだった。

 

「……なんだよ」

 

 あたしに向けたことがないような、低い声だった。あたしは慎重に言葉を選ぶ。

 

「つらい?」

 

「つらくねえ」

 

「苦しい?」

 

「苦しくねえ」

 

「自分が嫌い?」

 

 ハチマンの言葉が止まった。ぐっと堪えるような苦悶の表情を浮かべ、片膝をだらりと落す。シャツが皺になるくらいに胸を掴み、息も絶え絶え、彼は言った。

 

「嫌いだ……消えちまいたいくらい、俺は俺が嫌いだ」

 

 あの、自分が大好きだと公言していたハチマンが、遂に言ってしまった。自分が嫌いだと。

 

 誰だって、自分が嫌いだと思うときはある。彼にだって、そんな日はあるのだ。ただ、それが今であるだけだ。特別なことじゃ、きっとない。

 

「なにが嫌いなの?」

 

「なんでサキに言わなきゃなんねえんだよ」

 

 初めての拒絶に、わたしは一瞬だけ躊躇しそうになった。だが、いま一歩踏み込まなければ、きっとあたしとハチマンとの距離も、ずっと離れてしまう。二度と隣にいられなくなる。

 

 あたしは、一歩足を踏み出す。ハチマンが怖れるように、後ずさろうとして、壁際にいることに気づいたか、急に怯えるように眉を下げる。

 

「あたしはね……あんたのことをもっと知りたい」

 

 さらに足を踏み出す。ハチマンは限界だというように目を閉じて、叫ぶ。

 

「これは俺の問題だ。俺だけの問題だ。俺が解決しなきゃなんねえんだから、サキは関係ねえだろ!」

 

「あるよ、関係」

 

 ハチマンの前まで来て、あたしは膝を落す。手を伸ばし、そっと彼の頬に触れた。

 

「やめろ!」

 

 手を叩かれる。もう、あたしは驚かない。今度は抱きしめる。二度と離さないように。

 

「あんたの隣にいたいから、あんたを理解したい。まえ言ったよね? 痛いも苦しいも、楽しいも嬉しいも、みんなみんな二人で共有しようって。ふたりで戦えば、きっときっと大丈夫って。だからあたしを信じて。あんたが何を思っていても、何を考えていても、何を言っても、あたしは絶対にあんたを嫌ってなんかやらない。ずっと傍にいる。だから、言って」

 

 胸の奥に冷たさが触れた。後から嗚咽が耳に届く。

 

 ハチマンが泣いている。声を押し殺して、苦しみに涙を流している。

 

「お、俺は……俺は……」

 

 ぽつりぽつりと、彼は語った。奉仕部で過ごしてきた毎日、そして、奉仕部が解決してきたすべての事件の真相。そして――

 

「俺は、ここに来て、茅場のあの宣告を受けても、帰る理由が分からなかった。あそこに俺の居場所はない、だったらどうすればいいんだって思った。

 

 そんなときだ、お前と再会したのは。お前は現実に帰りたいって言った。俺は丁度良く来たその依頼に飛びついた。その依頼をこなすうちに、俺も現実に帰る理由が見つかるんじゃないかって、お前に帰る理由を押し付けたんだ。

 

 ずっと黙ってたんだ。嫌われたくなかった。拒絶されるのはもう嫌だった。ずっと、誰かに傍にいて欲しかった。

 

 サキ……俺、こんな弱くなっちまったよ。もう、ぼっちじゃいられねえよ。

 

 どうすりゃいいんだよ。雪ノ下と会ったとき、怖かった。また何か言われるんじゃないかと、あのときの続きがまた繰り返されるんじゃねえかって。

 

 だから、逃げちまった。あいつの言葉を無視したんだ。

 

 最低だ。

 

 俺は、本当に、本当に……最低で、

 

 俺は俺が、大嫌いだ……!」

 

 ああ、あんたの表情の理由が分かったよ。

 

「あんたは、あたしに罪悪感を感じていたのかい?」

 

「そうだ。行動の理由を人に預けたんだ。そんなもん、褒められたもんじゃねえだろ」

 

 なんて潔癖なんだろう。理由を人に預けるなどよくあることだ。そうしなければ動けない人だって、きっといる。だから――

 

「そんなことであたしは嫌いになってなんてあげない」

 

 は? とハチマンが顔を上げる。びっくりした表情を浮かべて、そして混乱したように目をきょろきょろと動かす。

 

「なんでだよ。こんなの、欺瞞だろ」

 

「あんたは小難しく考えすぎなんだよ。まだ高校生のくせに、どうしてそんなことに頭を使うんだよ。もっと楽しいことに思考を割いたらどうだい?」

 

「俺の思考にまでケチつけんなよ……」

 

「いいや、つけるね。あんたはちょっと頭が回るくせに、どうでもいいことばかり悩んで、同じところをぐるぐる回る犬みたいなもんだ」

 

「ひでえ言い草だな。泣くぞ」

 

 はん、と笑ってあたしは言う。

 

「泣いてんじゃん」

 

「痛いところばっかついてくるな……」

 

 ハチマンが苦笑する。さっきよりも、表情は固くない。

 

「あたしは優しくするとは言ったけど、厳しくしないとも言ってないよ」

 

「詐欺じゃねえか」

 

「だからさ、おあいこ」

 

 そう、これであいこだ。ハチマンは欺瞞であたしを助けた。あたしはハチマンばかりに苦労を背負わせ、その重さに気づけなかった。過去に気づけなかった。だから、これであいこだ。

 

 あとは、たくさん甘やかそう。

 

 ハチマンの頭を抱えて胸に押し付ける。強く、強く抱きしめる。悩みよ晴れろというように、頭をやんわりと撫でる。

 

「いいよ、あんたを許す」

 

 ハチマンが求めているものは、まだ私には理解できない。でも、口にしなければ何も変わらない。

 

「あたしはあんたの隣にいるよ。だから、欺瞞だのなんだの、そんな小難しいことであたしを避けようだなんて思わないで。仮にね、あんたがどっかいっても、あたしがすっ飛んでくよ」

 

「呪いの人形みたいじゃねえか。こええよ」

 

「あんたも言うじゃないか。でも、元気でた?」

 

 胸からハチマンの頭を離す。

 

「たぶん、な」

 

「無理してない?」

 

「まあ……な?」

 

「そっか、じゃあ」

 

 そっと、顔を近づける。恥ずかしくて堪らない。嫌かもしれない。こんなこと、やっちゃダメなのかもしれない。でも、いまなら理由はある。

 

 ――あなたの悩みを全部吹き飛ばすほどの衝撃を与えてあげる。

 

 ほら、ハチマン。人はこんな簡単に何かに理由を預けるくらい、弱いんだよ。だから、あたしも人のこと言えないよ。

 

 そして、唇を合わせた。

 

 アバター越しでも、ハチマンの唇は柔らかい。

 

 ん、と吐息が混じる。

 

 目を剥いたハチマンの姿が面白くて、にやりと笑って唇を離す。

 

 ばっと擬音がつきそうな速さで、ハチマンが口許を覆う。

 

「な、な、な、な……」

 

「ナシゴレン食べたいの? 作ろうか?」

 

「なんでナシゴレンなんだよ。ちげえよ、それじゃねえよ、さっきのだよ!」

 

「もっかいしたいの?」

 

「ぐ……」

 

 ハチマンが答えを窮したように押し黙る。先ほどの感触を思い出してくれたのか、顔は真っ赤だ。たぶん、あたしも真っ赤だ。

 

 ああ、よかった。嫌だって言われたらさすがに落ち込むところだ。この反応なら、まあ、嫌われてはいないだろう。

 

「なんで、こんなことしたんだよ……」

 

 ハチマンがやっと口を開く。心底疑問だというように。

 

「びっくりしたでしょ?」

 

「は?」

 

「頭の中、全部ふっとんだでしょ?」

 

「かなりな」

 

 良かった。思った通りの効果が得られたようだ。ならあたしは、飛びっきりの笑顔でこういえばいい。

 

「そんだけだよ」

 

 いまは封印しておこう。ようやく気づいたこの想いを。ハチマンが想いを振り払って問題を解決して、あたしの整理がついたら、そのときは動こう。

 

 たったひとつの初恋のために。

 

 ハチマン、と呼んでまた抱きしめる。

 

 今度は優しく、子どもをあやすように背中を撫でながら。

 

「疲れてたんだね」

 

「そんなつもりはねえけど、そうかもしれん」

 

「吐き出したかった?」

 

「そうだな。ずっと誰かに言いたかったな」

 

「そう、それならよかった」

 

「色々、すまん。泣いたりしちまったし。かっこわりいとこばっか見せたな」

 

 ううん、とあたしは首を振った。

 

「いつも格好いいところばかり見せてもらったし。いいさ。それに、あんたの珍しい姿も見れたしね」

 

「誰にも言うんじゃねえぞ」

 

「言わないよ。もったいないし」

 

「サキ……」

 

 さっきよりいくらか暗い言葉で、ハチマンがあたしの名を呼んだ。怖がっているような、そんな声だった。

 

「何も、言わないのか? 現実でのこと」

 

「言って欲しいのかい? あんた、どうせ分かった気になられるの、嫌な性質でしょ?」

 

 言っていて、支離滅裂になっている気がした。あんなに言っておいて今さらだろう。

 

「サキなら構わねえよ。コンビ組んでるしな」

 

「そうだね。あたしなら、たぶん、やっぱり怒るんじゃないかな」

 

 ぐっとハチマンの身体の力が入ったかと思うと、そうか、と言って急に力が抜けた。

 

「でも、ちゃんとあんたの話を聞きたいって思う。どうしてそうなったのか聞いて、やっぱり、各方面に怒りに行っちゃうかな。あたしだし」

 

「最後の一言の説得力がすげえな」

 

 ふたりで笑う。

 

「言えるとしたら、そんなところかな。あたしはあんたのやり方は否定できないし」

 

「どうしてだ?」

 

「あたしもぼっちだしね。自分のやり方には、結構自信あるし、あんたもでしょ?」

 

「まあな」

 

「あんたの場合、なまじ結果出してるしね。ただ、もう少しやり方を変えて欲しい、とは思うな。なるべく、あんたが傷つかないように。嫌な思いをしないように」

 

 それは難しいな。くぐもった声でハチマンが言った。

 

 分かっている。あなたのそれは、すぐに変えることができないほど、ハチマンの中に根ざしている。いままで生きてきた結果で作られた行動なのだ。

 

「そうだね、あたしが手伝ってあげる。それに、ユキノは変わったよ」

 

 雪ノ下の名を告げると、ハチマンの身体がびくんと動いた。

 

「あの子、柔らかくなってたよ。以前とは別人みたいになってた。だからさ、もう一度、ちゃんとした形で会ってみない?」

 

「会えないだろ。逃げちまったし……。あいつ、そういうの嫌いだろ」

 

 首を振る。違うんだよ、ハチマン。

 

「あんたに会いたがってた。どうしても会いたくて、あたしに頭を下げたんだよ、あの子」

 

「マジかよ……」

 

 ハチマンが絶句する。気持ちは分かる。だから、それだけ本気ということなのだ。

 

「だから、もしあんたが心の整理をつけて、ちゃんと会えるようになったら。会おうよ。ひとりじゃ怖いなら、あたしも一緒にいくから」

 

 ハチマンはしばらくの間黙っていた。たっぷり時間をかけて、彼が出した結論は、やっぱり彼らしく前に進むものだ。

 

「しょうがねえな。部長が頭下げたんなら、下っ端も行かざるをえないか」

 

 まったく、捻デレだなあ。



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いつだって、川崎沙希は心配している 5

 雪ノ下と話をすることになったのは、あれから二日後になった。

 

 《はじまりの街》に訪れた俺とサキは、雪ノ下が指定して来た彼女の家に招待された。礼譲とは思えない、一件すると貧相な家だった。

 

「ごめんなさい。本来なら私が行くべきところなのに……」

 

「あんたも《軍》で忙しいんだろう? 構わないよ。こっちは休暇してる最中だから」

 

 サキが軽く返す。まるで十年来の友人みたいだ。かつてメンチ切りあってましたよねえあなたたち……。一体なにがこいつらになにがあったのん?

 

 と、いうかだ。雪ノ下から頭を下げられた。マジで信じられねえ。あの雪ノ下が―いや、ここではユキノだが――が頭を下げている……!

 

 宇宙人にでも会ったような面持ちでユキノを眺めていると、ぴくっとユキノが眉を動かした。

 

「変、かしら?」

 

「ああ、変だな。大分変だ。開始早々罵倒するのがお前のデフォだったはずだが……」

 

 途端、ユキノがばつの悪そうな顔をする。隣でサキは「あんたってやつは……」と俺に対して呆れた目を向けていた。あれ、何か悪いこと言ったの? 折角場を和まそうとしたのに……!

 

「それを含めて謝罪させてほしいの。でも、まずは座って。紅茶を用意するから」

 

 勧められたのは、貧相な木造りの丸テーブルと椅子だった。二脚分しか用意されておらず、代わりに木箱が置かれていた。

 

 俺はそのまま木箱に座り、サキは隣に座った。

 

 戻ってきたユキノが、テーブルに紅茶を置くと、ふぅっとため息を吐いた。

 

「言葉にしなかったからかしら、ごめんなさいハチマンくん。あなたの席はそっちよ。お客様に対してそんな酷い椅子を出すわけがないでしょう?」

 

 唖然とした。ユキノが謙虚だ……!

 

 お、おう……といって、もう片方の椅子に座る。

 

「あたしはどうする? いたほうがいい?」

 

 俺の反応が怪しすぎることに気づいたか、サキが一応、という体で訊く。

 

「頼む、いてくれ」と俺。

 

「お願いしていいかしら」とユキノ。

 

「あいよ、じゃあ、あたしはなるべく口を出さないから。もし聞かせられないないようになったら言ってよ。一度外に出るからさ」

 

「ありがとう。本当に感謝しているわ、サキさん」

 

 またも深々と頭を下げる。ほんとにどうしちゃったのユキノさん!

 

 さて、とばかりにユキノがまっすぐと俺を見る。普段は凛とした瞳も、いまは不安に波立っている。表情もわずかに強張っているように見え、全体的に緊張している印象だ。

 

「ハチマンくん、いえ、ここではあえて比企谷くんと呼ばせてちょうだい。構わないかしら?」

 

「ああ、構わん。俺もここじゃ雪ノ下って呼ばせてもらうぞ?」

 

「もちろん、こちらとしてもいまはその方がいいわ」

 

 雪ノ下が軽く息を吸った。

 

「まずは、いままでの私の態度を謝罪します。本当にごめんなさい。あなたの優しさに甘えて、いつも会うたびに暴言を吐いてしまっていたことを、いまは後悔しているの。本当に、ごめんなさい」

 

 そう言って、またも頭を垂れようとする。ここまで来ると雪ノ下らしくないと、さすがに俺が止める。

 

「いいから、もう頭は下げなくていい。別にお前の暴言なんか別に気にしちゃいない。あれは俺にとっちゃデフォみたいなもんだからな。あれがないと落ち着かないまである」

 

 でも、と反論しようとする雪ノ下の言葉を遮る。これに関しては謝られる必要なんてない。

 

「それに、あれが本気だったら俺は奉仕部をやめてる。お前が俺を本当に嫌って出してるわけじゃないって分かってたから、俺は問題ない。それに、結構楽しかったしな」

 

「そう、そうなの……でも、ごめんなさい。これからはこんな風に普通に接するけど、いいかしら?」

 

「ま、少し残念だが、雪ノ下がそうしたいなら構わない」

 

「ありがとう」

 

 そう言って微笑んだ雪ノ下は、やはり綺麗だった。この女に陰りなど似合わない。

 

「それと、奉仕部の依頼の件、いつもあなたが解決してくれたわね。ありがとう。ずっと、まずはこのお礼を言いたかったの」

 

「最悪な解決手段ばっかりだったがな」

 

「それは……わたしたちはまだ、子どもだったのよ。だから、正しいことばかりが正しいと思っていたの。あなたの解決方法でも、確かに救われた人はいた。それを否定することはできないわ」

 

「そうか……」

 

 雪ノ下が、瞑目する。目を開いて、再び瞳をゆらがせる。

 

「修学旅行のことは、本当にごめんなさい。あなたに任せると言って、あんな言葉を掛けてしまったのは、私に完全に非があるわ。ごめんなさい」

 

 あの、京都でのできごとが蘇る。

 

 竹林で行われようとしていた戸部の告白の直前に、俺がやらかしたことを。

 

 その後、雪ノ下に凍える声で言われたことを。

 

 そして、由比ヶ浜に痛々しい微笑みで言われたことを。

 

「サキさん……いいかしら」

 

 雪ノ下が弱々しく言った。

 

 サキは何も言わず、外へと出て行った。扉がやさしく閉まる音だけが、室内にむなしく響く。

 

 たぶん、ここからは奉仕部同士だけの会話だ。

 

 あなたは、と雪ノ下が続けた。

 

「あなたは欺瞞の関係を嫌っていた。それなのに、解決方法は先延ばしだった。私は、それが嫌だったの。私とあなたが嫌っていたはずのそれを、よりによってあなたが行ったことが、私は許せなかった。そして何より、私が好きなあなたが、依頼解決のためとはいえあんな方法を取ったことが、つらかった」

 

 知らず、俯いていた顔を上げる。

 

 いま、こいつはなんて言った?

 

 触れれば散る桜のような笑顔で、雪ノ下が告げる。

 

「比企谷くん、私は、あなたが好きだからあのときあんなことを言ってしまったの」

 

 時が止まった。

 

 あの雪ノ下が……俺を、好きだと?

 

 俺の疑問に気づいたか、雪ノ下はゆっくりと首を横に振った。

 

「嘘ではない。本当のことよ。でもいまはそれは置いておきましょう。本質は、そこではないもの」

 

 そんな物を置くように軽く言われても困る。

 

 嘘ではない本当の告白など、生まれて初めてなのだから。いつかされるんだと夢見ていた頃のように、すぐに答えが出てこない。何を言ったらいいのか。どうしたらいいのか。話が急すぎて、どうすればいいのか皆目見当もつかない。

 

 雪ノ下がやんわりと微笑んだ。

 

「ごめんなさい。これを言わないと、先に進めなくて……。でも本当に気にしないでちょうだい。いま答えが欲しいわけじゃないの。だから、話を先にすすめましょう」

 

「あ、ああ……」

 

 たどたどしく返事をする。

 

「あのとき、あなたが受けていた依頼を教えて。辻褄が合わないのよ。あなたがあんなことをする理由が、戸部くんが振られるだけだとは、思えない。確かに戸部くんは振られることはなかった。だけれど、他に、きっと他になにかあるのだと私は思っているの。これは、ただの私の願望かしら?」

 

 言わなければならないだろう。彼女が不本意な告白までして聞きたかっていることを。あの修学旅行の一件のすべてを、彼女に話す日がようやく来たのだ。

 

「分かった……」

 

 俺はすべてを話した。海老名さんからの迂遠な依頼を、直前での葉山からの願いを、そして、どうしようもなくてやってしまったあの告白までを、すべて、すべて――。

 

「そう……人間関係って不思議ね。たった数年過ごしたはずの中で、色々なことが起こるんだもの。いまとなっては、海老名さんや、葉山くんの気持ちも分かる。だけど、これだけは言いたい。私が言える立場じゃないと分かっているけれど……」

 

 雪ノ下が拳を握る。悔しそうに顔を歪ませ、涙を滲ませている。

 

「どうして、あなたを利用したの。どうして、自分達で解決しなかったの。どうして、色恋沙汰の依頼を私は受けてしまったの。どうして、あなたにすべての責任を押し付けてしまったの。すべてが、私は許せない」

 

「責められるべきは俺だ。安易な方法に飛びついた俺が悪い。お前らに相談できればよかった」

 

 俺の釈明に、雪ノ下はやはり首を振る。

 

「比企谷くんに責はないわ。そんな時間はなかったのでしょう? それに、あなたは、由比ヶ浜さんのことも考えていたんでしょう? 彼女のグループで依頼に失敗すれば、結果として彼女がつらい目に合うことを予想していたんでしょう?」

 

 そこまで言って、雪ノ下は嗚咽をする。

 

 ――あなたは、優しすぎるわ。

 

 そんなんじゃねえよ。俺は、ただあの願いに共感しただけだ。多くの嘘が重なって作られたあの場で、俺が一番の大嘘つきだった。そして、つい最近まで、いや、いまも欺瞞を抱いている俺に、彼らを糾弾などできない。

 

 きっと、時間を巻き戻しても、俺はあれをやっただろう。あれしかないと信じて。そして、ぬるま湯に浸かっていたいと願っても構わないと、いまも俺はそう思う。

 

 そんなことを、滔々と語ったと思う。納得してくれたかは分からない。それでも、雪ノ下は何度も頷いて、最後に、

 

「話してくれてありがとう。ずっと早くにこうしていればよかったわ」

 

 そう、言った。

 

それからも、色々な話をした。ひとつひとつの依頼のとき、何を思ったか、何を感じたか、ひとつ残らず、嘘もつかず、遠慮もせずに、ふたりで長い間話し合った。

 

 このとき、俺たちはようやく奉仕部員になれたような気がした。だから、この場に由比ヶ浜がいないことが、不謹慎かもしれないが、残念だった。

 

「ありがとう、今日は来てくれて、たくさん話せて嬉しかったわ」

 

「俺も、色々話せてよかったわ。サンキューな」

 

 それで、と雪ノ下がもじもじしながら言った。

 

「答えは、いつでもいいから。もうあなたの返事は分かっているのだし」

 

「お、おう……」

 

「でもできれば早くして欲しいわ。希望は、あまり長く持っていたくはないもの」

 

 雪ノ下は泣きそうだった。

 

 いま、ここで答えるべきだと思った。

 

 俺は他人の言葉の裏を読む癖がある。だが、彼女の言葉の真摯に疑いなど持てない。それは、サキの言葉に通ずるものがあった。たった短い時間だが、すべての嘘を取り払い、互いに言葉を尽くした関係だ。いまさらそれを疑うことなどできはしない。

 

「雪ノ下。返事はいまする」

 

「そう……お願いするわ」

 

 雪ノ下が目を伏せる。覚悟するように。

 

 俺は、短く息を吸った。答えは決まっていた。確かに、初めは憧れだったのかもしれない。その孤高さに。その強さに。

 

 しかし、いつしか惹かれていたこともあったのだろう。だがそれは過去形だ。現在進行形ではない。ならば、答えはひとつだ。

 

「雪ノ下、俺はお前とは付き合えない」

 

 目を開いた雪ノ下が、ゆっくりと笑みを作った。悲しい笑みだ。

 

「分かっていたわ。あなたとここで再会したときから。だからありがとう。ちゃんと振ってくれて。これで、私も前に進めるわ」

 

 さあ、と雪ノ下が立ち上がる。

 

「サキさんを呼びに行ってくるわ。散々待たせてしまったんだもの。謝罪しないとね」

 

 まるで何もなかったかのように振舞う。きっと、サキに何も悟らせないようにと、零れ落ちそうな感情を落ちそうになる端からすべて掴んでいるのだ。

 

 ああ、やはり雪ノ下は強い。だが、それでも泣きたいときはあるのだろう。

 

 俺がこんなことを考えていいのかは分からない。

 

 しかし、いつの日か、彼女が心底愛する人が、彼女の感情を掬ってくれる人であることを、いまは願わずにはいられない。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ユキノが《軍》の仕事に戻るからと言って、俺とサキは帰ることになった。サキも言っていたが、どうやらユキノは《軍》で財務担当になっているらしい。まさかゲームで経理をするなんて思ってもみなかったわ、という彼女の苦笑が新鮮だった。

 

 去り際、気になっていたことを俺は告げる。

 

「ある情報筋から、《軍》内部でゴタゴタしてるって聞いたんだが。大丈夫か?」

 

 ユキノの表情が、すこしだけ曇った。

 

「ええ、事実よ。でも大丈夫よ。あなたは気にしないで」

 

「気になるから聞いてるんだよ」

 

 ユキノがくすくすと笑う。

 

「そうね、そうだったわね。今度時間があるとき、ゆっくり話させてもらうわ。そのときはサキさんもまた一緒にお願いね」

 

 サキも微笑んで頷いた。

 

「いいよ。あんたと話すのは、楽しいからね」

 

「ありがとう。ふたりとも、また……ね」

 

 胸の前で手を振って、ユキノが別れの挨拶を口にする。俺とサキもそれに返して、《ラーヴィン》へ戻った。

 

 道中、サキが探るように声を掛けてくる。

 

「どうだった? 少しは過去に整理がついた?」

 

 少し思案気味に俺は答える。

 

「そうだな。色々話せて、たぶん、互いにすれ違っていた部分が明確になって、ちゃんとお互いに理解できるようになったと思う」

 

 そして、自分の気持ちに気がついた。

 

 いや、素直になって良いと感じたのだ。

 

 俺は、川崎沙希が好きなのだと。

 

 だからといって、ユキノのようにすぐに告白する勇気はない。まずは、彼女を現実へ帰し、そこからだ。恥ずかしいからとかじゃないぞ、絶対。情けねえ。

 

 湖畔から風が吹いた。サキのポニーテールが揺れ、彼女が髪を押さえる。時刻は正午を過ぎたところで、まばゆかんばかりの陽光がサキの姿を明るく照らす。

 

 思わず、見蕩れた。

 

 サキも俺を見て、二人無言になる。

 

 このファンタジーの世界で、俺はサキと再会した。一言では尽くせない冒険やあらゆるできごとを経て、ふたりはコンビになった。

 

 そして、ようやく俺は、サキへの想いを自覚した。

 

 やがて気づく。

 

 こんな状態で同棲は、ちょっとまずいんじゃないでしょうか……。

 

 んっ……んん、と咳払いする。

 

 なに、とサキが目線だけで答えた。

 

 こんな些細な以心伝心も嬉しく感じてしまうのだから、恋とは不思議だ。小町、お兄ちゃん恋しちゃったよ。どうしよう。

 

「俺がサキの家に住むって話なんだが」

 

「あ、うん……」

 

 サキも微笑から表情を戻す。

 

「やっぱ、やめないか?」

 

「理由、聞いていい?」

 

「たぶん、もう大丈夫だからさ」

 

「ん、そっか。なら仕方ないね」

 

 そう言って、サキは微笑んだ。もう、心配などしていないというように。

 

「あんたいま良い顔してるよ。やっぱり、ユキノと話したことは大きかった?」

 

「それだけじゃねえよ。お前がいたから会えたんだ。サキが一番でかい」

 

 サキが頬を染めて顔を逸らす。そんな仕草も、いまは愛おしい。

 

 恋というやつは厄介だ。気持ちひとつで、相手の言葉も仕草も、すべてが違って見える。世界が総じて翻り、眩しく感じるのだ。世の中のカップル諸君がすべてが楽しいと感じているあの様が、ようやく理解できたような気がした。想いを交し合い、大好きな人と過ごす一瞬一瞬は、きっとなによりも大切で貴重なものだろう。

 

 さあ昼飯にでも行くか、とサキの手を引っ張って歩き出す。

 

 これくらいは、頑張ってもいいだろう?

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 《軍》の施設は、《はじまりの街》の中でも一際目立つ建物だ。かつてはこじんまりとした組織であったが、徐々に組織内容が変更していき、実質軍隊の様相を呈するようになった。

 

 私――ユキノはその最初期メンバーのひとりだ。

 

 そんな私は、《軍》の施設へ向かいながら、今日あったできごとを思い出す。

 

 本当に、彼と再会できてよかった。そしてなにより、すべてのわだかまりが解消できたことは嬉しかった。ただ唯一残念なのは、彼に振られてしまったことだけだ。

 

 二十二層で出会ったときから、そんな気はしていたから。覚悟していた。だから、いまだって心はそこまで痛くはない。

 

 施設に戻ると、私は財務部の執務室へ入る。私は責任者なのだ。そのくせ、家の中は質素倹約にしているのだから面白い。実はああいう質素なくらしが少し夢だったのだ。贅沢することなく、唯一の楽しみである紅茶を糧に生きる。そんな生活が気に入っている。

 

「本当に、まったく、どうしてゲームでまで財務なんてあるのかしら」

 

 ゆったりとした椅子に腰掛けシステムウインドウを開く。各部署から出されてきた電子メールの内容をチェックしていく。どれもこれもお金のことばかりだ。財務部なのだから当然だが、これがゲームの中だと意識すると、いよいよ気が滅入ってくる。

 

 昔は単に相互扶助を目的とした組織だったのだ。ギルド長のシンカーに、副官ユリエールのふたりには、本当によくしてもらった。この世界で生きるのだと誓ったあの日に、あのふたりに拾われたのは幸運だったのだ。

 

 それもしばらくしてから様相が一変した。ある人物が参入してから、相互扶助組織はアインクラッドに捕らわれる人々を開放するための軍へと変わった。最初はそれも良いと思った。自力でこの世界から脱出する。最前線に身を置くハチマンと同じように戦いたいと願ったこともあったから、私はそれを受け入れた。

 

 だが、それも長くは続かなかった。人の良いシンカーはそのものを制御できず、徐々に実権を奪われてしまった。ユリエールも閑職へと飛ばされ、当時のメンバーで私だけが重要ポストに残っている。

 

 はあ、とため息する。つまらないことを考えてしまった。少なくとも、現実へ帰ろうという趣旨は問題ないのだ。だから、これは私のただの感傷に過ぎない。

 

 組織は変わる。変わらないものはないのだ。私のように、彼のように。

 

 ただ、組織内に不穏な空気が流れているのだ。気づかぬうちに蜘蛛の巣に絡めとられているような錯覚を覚えることがある。これは、気のせいなのだろうか。

 

 不意に、執務室のドアがけたたましい音を立てて開いた。私の秘書官アイシアだった。

 

「どうしたの? 入るときはノックをしてちょうだい。あと、静かにね」

 

「ごめんなさい、ユキノさん。でもそんな悠長なことをしている場合じゃないんです。何も訊かずすぐに逃げて下さい!」

 

 秘書官の表情は決死の覚悟を抱いてるかのようだった。自然と、私も真剣なものになる。

 

「何があったか端的に答えて」

 

 わ、分かりましたと秘書官が答える。

 

「ユキノさんが《軍》の資金を横領していたという事実が発覚したとして、近く、ユキノさんが処刑されることが決まってしまったんです!」

 

 ……なんですって?

 

 



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第二章(後)
これが、比企谷八幡なりの冴えたやりかた 1


俺がその情報を知ったのは、午後十二時、サキと昼食をとっているときに来た、アルゴからのメッセージだった。《ラーヴィン》の中でも比較的高級店である海鮮料理屋《湖畔店》に、かねてからサキが来たいと言っていたのだ。サキにはこれまでもそうだが、今回は特に大きな世話をかけてしまったから、俺が驕ると言って無理やり連れてきたのだ。

 

 常識的なサキは驕られることは嫌うが、理由を言うとしぶしぶながらついてきてくれた。美食を堪能しているところで来たメッセージに、俺は嫌な予感がしてウインドウから開いたのだ。

 

 アルゴが言っていた《軍》内部の問題、そして先ほどユキノが見せた憂いの表情が、結ばれたような気がして、俺はメッセージを開く。

 

 目を剥いた。

 

 衝撃的であり、信じられなかった。

 

 ――《軍》内部で事件が発生したようだよ。財務部のユキノという女プレイヤーが明日処刑されることに決まったようダ。少し、いや、かなりきな臭いよコレ。どうするハチマン? 動くカ?

 

 思わず立ち上がりかけ、すぐに冷静さを取り戻そうとし、取りこぼす。どうにかして落ち着かないとと思っているところで、サキから水を渡された。表情はさっきまでの緩んだ顔ではなく、真剣なものに変貌していた。

 

「なにがあったの?」

 

 水を受け取って、俺は無言でメッセージウインドウを滑らせる。それを見たサキが絶句した。

 

「あいつだと思うか?」

 

 サキにもホーリィなる人物については話してある。あの会合には、サキも参加することがあるからだ。

 

「分からないけど、そんなことはどうでもいいよ。助けに行こう」

 

「分かってる。待ってくれ。まず考える」

 

「なにを――」

 

 声を上げようとしたサキを手で遮る。

 

 問題は逼迫どころの話じゃない。なぜいきなり処刑なのだ。これは、下手をすればこのSAO内で死刑がまかり通る前例を作ることになる。

 

 冗談じゃない。現実の司法は、その碩学たる司法をおさめた裁判官が、判決の責を負うのだ。裁判員制度になっても、裁判官が関わることに変わりない。断じて一般人だけが人の生死を決めてよいほど、命は軽くない。

 

 ならば邪魔をする。徹底的に邪魔をして、ユキノを助け出す。だがどうやって?

 

 一体なにが起こっている?

 

 《圏内》だからといって、俺とサキのふたりで助けだせるのか?

 

 よく考えろ、比企谷八幡。これだけは、もう失敗できないぞ。

 

「ディアベル、キリト、アスナ、クラインに救援を要請する。四の五も言ってられない。時間惜しい。俺の頭だけじゃ時間がかかりそうだ。知恵が欲しい」

 

 早速サキが全員に緊急メッセージを投げる。俺もアルゴへ動く旨のメッセージを投げ、考える。

 

 考えろ。

 

 お前にはこの小ざかしい頭があるだろう。

 

 光のように最短路で解を探し当てろ。

 

 そういうのは得意なんだろう?

 

「返事が来たよ。全員了承してくれたよ。あたしの家に集まることになった」

 

「分かった、すぐに行こう」

 

 食事も途中に、俺たちはサキの家へ向かう。道中思考が回っていたが、解決策が思い浮かばない。動揺しているのか、同じことがぐるぐると思い浮かぶのだ。

 

 あの、ユキノの姿が、いまも映像で写されているように、目の前でいるようにちらついている。

 

 サキの部屋に戻り、仲間を待つ。

 

 しばらくしてディアベルとアルゴが、キリトとクライン、最後にアスナがやってきた。

 

 バンダナ姿のヒゲ面クラインが一歩前に俺に歩み寄る。

 

「久しぶりだなハチ。元気してたか?」

 

 クラインとはキリトを通じて面識できた口だ。本来ならば軽口のひとつも返したいところだが、いまは本当に時間がない。

 

「悪いクライン、挨拶は抜きだ。事態は想定以上にヤバイ。俺の同級生が、部活仲間が処刑されそうになってる」

 

全員の表情が固まる。

 

「君達の知り合い、しかもリアルの同級生ということかい?」

 

 ディアベルが恐る恐る聞いてくる。

 

「ああ、しかもさっき会って来たばっかりなんだよ……」

 

 悔しそうにサキが言う。もっと早く情報が分かっていれば、事前に助けることができたかもしれない。悔やんでも悔やみきれない。

 

「ごめんヨ……もっと早くに深く調査していればよかったヨ」

 

 情報を扱うアルゴが、俺の表情をどう受け取ったか、責任の所在を自分にしようとしている。

 

「いや、それは違う。悪いのはお前じゃない。奴らだ。いまはどうにかしたい。どうか助けてくれ」

 

 俺は頭を下げる。初めての態度に全員が息を呑んだ。土下座の安い男と自称はしているが、実際にこうして真面目に頭を下げたのは初めてかもしれない。

 

 たったひとりでは、どうにもならないのだ。相手は《軍》そのもので、SOA一の巨大ギルド。これが組織として決定したことである以上、数の理論で俺とサキではまったく歯が立たない。

 

 だからこうして頭を下げる。他人に頼るなど、以前の俺では考えもしなかっただろう。だが、俺にはサキがいた。サキに頼ってよいと思えた。なら、こうして俺を信じてくれる奴等になら、頼ったっていい。頼りたい。

 

「頭を上げろよハチ」

 

 キリトが言った。

 

「こうやって俺みたいなベータテスターがなんとかやってこれてるのは、ハチのお陰なんだからさ。それと、《コート・オブ・ミッドナイト》をぶん投げて来た礼もまだだしな」

 

 今度はアスナが笑って言う。

 

「ハチ君が自分から頼んでくるなんて珍しいもの。いつもお世話になってるし、わたしも助けになるわ」

 

 ディアベルが騎士のように自分の胸に手を当てる。

 

「君は恩人だ。オレがオレでいられるのは、君が贈ってくれた言葉と君の献身のお陰だ。だからオレは、君が窮地だというのなら、喜んで手を貸すよ」

 

 アルゴがさして無い胸をはってポンっと叩く。

 

「ハチマンの頼みならなんでも聞くゾ! 今回は特別にタダで請け負ってやるヨ!」

 

 最後にクラインが……。

 

「まあ、クラインは別にいいや」と俺が省く。

 

「おい! ひでえじゃねえかよハチ。オレにもなんか言わせろよお」

 

「なんか言うことあるのか?」

 

 俺が言うと、え、とクラインが押し黙る。ねえじゃねえか。

 

「ありがとう、みんな……」とサキもナチュラルにクラインを省く。

 

 クラインは、「そりゃねえよサキさん……」と男泣きをしていた。

 

 ちょっとクラインが可哀相だと思ってしまったが、後でたっぷり礼でもすればいい。まずは情報を知りたい。

 

「先に進めるぞ。正直状況が正確につかめてない。アルゴ、進展は?」

 

 訊くと、アルゴはしゅんとした顔をして俯いた。

 

「ごめんヨ、さすがにすぐには無理だヨ。内部の人間から直接話は聞いた方が早いと思うヨ」

 

 確かに。

 

「確かギルド長はシンカーさんだったね。フレンド登録しているから、俺から渡りをつけてみよう」

 

 名乗り出たディアベルがウインドウ操作を始める。

 

「ユリエールさんだったら、前に登録したことあるから、連絡してみる」

 

 アスナも行動を開始。

 

 アルゴは他の情報屋を当たるといって、仮想キーボードを尋常ではない速度で叩き始める。

 

 残った俺とサキ、キリトとクラインが方策を練っていく。

 

「処刑っていっても圏内だろ? そもそもどうやるんだ?」

 

 キリトの疑問に俺が答える。

 

「外に連れ出して大々的にやるか、秘密裏に処刑だろう。内容が内容だから、前者の可能性はあるが、リスクを考えるとやはり後者か……」

 

「でもよう。助けるっつったって、圏内にいるんだろう? 片っ端から斬っていけばいいんじゃねえかなあ?」

 

 クラインの言葉にキリトが納得しかけるが、サキがそれを止める。

 

「あんたら、数の暴力って知ってる? いくら手だれがこれだけいようが、相手の数が数だよ。映画じゃないんだから、すぐに捕まるのがオチじゃないかい?」

 

 サキの言うことは最もだ。ならば、囮を利用した少数精鋭での高速突破か、こちらも大所帯で戦いに行くしかない。後者になれば、SAO史上初めてのギルド戦争が勃発する。こうなればSAOの治安は著しく下がるだろう。できればこの案はどうしても避けたい。

 

 だが、前者も内部にいるユキノの正確な位置を掴めなければ難しい。拘束されているとすれば黒鉄宮か? いや、ギルド人数が最大なことを利用すれば、人為的に人を閉じ込めることは可能だ。

 

 シンカーとユリエール、アルゴからの情報に期待したいところだが、難しいだろう。

 

「ハチマン」

 

「ハチ」

 

 三人の視線が俺に集中する。

 

「考えさせろ」

 

 言って、俺は思考の海、いや、深海に沈む。

 

 考えろ。

 

 何かないのか、起死回生の一手は?

 

 たったひとつでもいい、冴えたやり方があればいいんだ。

 

 いまある情報は、《軍》内部で事件が発生。元々は相互扶助組織だったのが、ある時期に治安維持組織へ変貌。ユキノは内部にいて、何かしらの理由で犠牲者リストに載った。

 

 待て、なぜユキノなんだ? 目的はユキノか? どうして?

 

 いや、それは関係ない。思考を戻せ。

 

「ハチマン、シンカーさんと連絡が取れない!」

 

 ディアベルが大声で言う。

 

「ユリエールさんも同じよ」

 

 今度はアスナの悲痛な声。

 

 アルゴはまだキーボードを叩き続けている。成果はないか……。

 

 まずい。状況は最悪だ。手詰まりもいいところじゃないか。

 

 まだだ、まだ俺は全力を尽くしていない。

 

 考えろ。必ず方法はある。折角得たユキノを、仲間を失ってたまるか。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 第一層《軍》本拠地、本会議室。

 

 財務部部長付秘書官であるレイシアは、声を荒げていた。

 

「なぜ、ユキノさんを処刑するんですか! たとえ横領をしていたとしても、それは私たちがすることから外れています!」

 

 円卓には、各部門の長たちが勢ぞろいしている。その最奥部、アインクラッド解放軍の軍旗の下には、白髪の人物アポストルがゆったりとした姿勢で座している。窓から差し込む陽光は彼の後光となり、中性的な美貌も合わさり、世に降りてきた天使とも見間違う美男子にも見える。表情は絵画にでもなりそうな微笑。海を掬って固めたような蒼い瞳は、すべてを見通すように澄んで、見る者に空恐ろしさを感じさせた。

 

 アポストルがゆっくりとした動作で言う。目を閉じれば、男とも女とも取れる声で。

 

「これは会議で決まったことです。私としても非常に残念ですが、これはみなさんの総意なんですよ」

 

 さも痛々しいとでも言いたげにアポストルは眉を落とし、目を伏せる。

 

 レイシアは信じられなかった。

 

 レイシアは、ユキノと同じ最初期のメンバーだ。ユキノは正義感の強い人だ。絶対に横領などするはずがない。

 

 視界すら炎で霞むのではないかというほどの怒りで瞳を滾らせ、レイシアは思い出す。この男が加わってから、すべてが変わった。アインクラッドに住まう住人を解放するために立ち上がるべきだとし、彼は組織の在り様を一変させた。

 

 その頃はまだよかった。だが、裏で彼の動きを知っていたのは、一体どれほどだろうか。彼は、その類稀なる人身掌握術で、有力者をその手中に治めていったのだ。気がつけば、ギルド長であったシンカーは追放され、ユリエールは閑職へと移動させられた。だが、ユキノだけは彼と対立を保ったまま、財務職へ居続けた。アポストルもそれを無言で了承した。

 

 そう、最初から嵌められていたのだ私たちは。

 

 レイシアは思う。彼は遊んでいるのだ。この《軍》で、遊びに興じているのだ。人を駒とし、まるでチェスでもするかのように駒を進め、そしていま、ユキノを嵌めようとしている。

 

 レイシアを野放しにしていたのは、あまりにも簡単に掌握できすぎてつまらなかったから、せめて相手が一手を打つのを待つためか。はたまた、ただの気まぐれか。想像もつかない。

 

「みなさん、本当に処刑してもいいとお考えですか! 処刑という分かりにくい言葉だから、本当はどういうことかわかっていないんじゃないんですか?」

 

 アイシアは激怒する。誰もまともに取り合おうとしていない。

 

 アイシアが声を震わせ、大喝した。

 

「人を殺すんですよ!」

 

 答えたのは他でもない、アポストルだった。

 

「そうです。私たちは人を殺めようとしています。それは厭われるべきことではありません。我々すべてに、罪はあります。ですが、彼女の罪もまた、それに類するほどのものであると知らなければならないのです」

 

「どういうことですか」

 

 アポストルが微笑する。精巧に出来た人形のような笑みだった。

 

「彼女は、私たちが解放すべき人たちのために使用する資金を横領した。これは、彼女が我々が解放すべき犠牲者を死んでも構わないと思ったからに違いありません。ならば、私たちはこれに断固として抗議しなければなりません。あなたは間違っていると。あなたに正義はないと。そして、ここには正義などないのだと」

 

 言っている意味は分かる。分かるが、途中から分からなくなっていく。

 

 蒼と紅の指輪の嵌った手をアポストルが広げる。

 

「私たちは皆正しいありかたを思考し、努力し、世の中が綺麗になることを目指していくべきなのです。人はみな善ではありえない。ですが、善にあろうとすることこそ、本物の善よりも尊いのだと思いませんか?」

 

 話が飛んでいる。論点がずれている。だが、アポストルの独白が止まらない。周りは心酔したように話に聞き入っている。まるで新興宗教の教祖と信徒のように。訳が分からない。

 

「ですが、逆に悪に染まっていくものも確かにいるのです。それを導くことは当然の義務。しかし、それでも取り返しのつかない罪というものは存在します。それが今回の件です。我々は大きな額を失った。取り戻すことも叶わない。彼女は、懺悔の機会を自ら奪ったのです。ならば、我々は断じて悪を野放しにしてはいけない。裁かなければならないのです。今後、このようなことが決して起きないように。我々がそれを起こさせないように」

 

 彼の言葉の真意が捉えられない。空気を掴むようにもアイシアは感じた。

 

 ここでは意見が通らないとアイシアは思い、項垂れた。自分では、救えないのだと心の底から嘆いた。

 

「分かりました……」

 

 アポストルの微笑は絶えない。まるで作り物のように。

 

「分かっていただけましたか。あなたも苦しいでしょう。我々も苦しいのです。ですが、悪を裁くために、今回はこの痛みを耐えましょう」

 

 くっ……と拳を握る。握りすぎて、現実ならば血でも出ただろう。

 

 話しても、埒があかない。思うように埒をあけられるほどの力も無い。

 

 アイシアは顔を上げて宣言する。

 

「本日を持って、私アイシアは《アインクラッド解放軍》を抜けさせて頂きます。ギルド条項上なんの問題もないはずです。よろしいですか?」

 

 大きく頷いたアポストルの口許には、僅かな悲しみと、やはり微笑が湛えられている。

 

「ええ、ええ、残念ではありますが、仕方がありません。我々は救いを求めるものは拒まず、去るものは福音を願いその旅路へ祝福を捧げます。さあ、行きなさい、アイシア。あなたに、実り多い幸あらんことを」

 

 考えつく悪罵すべてを投げつけたかったが、我慢に我慢を重ね、アイシアは頭を下げる。

 

「いままで、お世話になりました」

 

 円卓に背を向けて本会議室を出る。そのまま《軍》本拠地を出て、転移門へ行く。行く宛てもなく、アイシアはどうすれば良いのか分からなくなったとき、ユキノが言っていた最後の言葉を思い出した。

 

 ――私は、私でなんとかするから安心なさい。ただ、もしもあなたの身に何かがあったときは、ハチマンとサキを頼りなさい。彼らなら、きっとあなたを匿ってくれるわ。

 

 ハチマンにサキ。このアインクラッドでは《黒の剣士》キリトに《閃光》のアスナ、《勇者》

 

ディアベルと並ぶ有名人だった。

 

 サキの場合は、曰く、とてつもない美人であるがその言葉には容赦がなく、また、敵へ先陣をきって狩りに行く姿はまさに《戦乙女》だと。もしくは、《アインクラッドの光の巫女》。

 

 ハチマンの場合、曰く、悪魔のように狡猾な男で、最悪にして最低な屑野郎。しかし、その実力は確かで、まるで魔眼を駆使して敵を結い止めたかのような流れる連続攻撃で敵を殺す、《魔眼使い》だと。あるいは《暗殺者》。

 

 もちろん、面識のないアイシアに二人の連絡先は知らない。どこに住んでいるのかも、どこを拠点にしているのかも分からない。

 

 だから、アイシアは途方に暮れた。

 

 何かをしなければならないのに、何から手を付けてよいのか分からない。

 

 しばらくして、アイシアは最前線へ向かうことにした。《ラーヴィン》であれば、誰かしら知っている人がいるであろうことを信じて。

 

 

 

 



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これが、比企谷八幡なりの冴えたやりかた 2

、アスナが要点をまとめる。

 

「やることが決まったつうか、増えてンなあ」

 

 クラインがぼやくが、その瞳に負の感情は無い。ただし、あるのは怒りだ。彼もまた、怒ってくれているのだ。

 

 まあまあ、とキリトがクラインの肩を叩く。以前は何かがあった様子だったが、いまは相変わらず仲がいい。

 

「アルゴ、なにか続報は?」

 

「ごめン。これ以上は情報が出てこないヨ」

 

 アルゴが力ない声で答える。《軍》のトップにいながらここまで情報が出てこないというのは、そうとう情報操作に特化しているということか。いちいちやりづらい相手だ。面倒だからナイフエッジ・デスマッチしようぜ。こっちはクライン出すからさあ。あいつ喧嘩強そうだし。

 

「それよりも、処刑の時間はいつなの? それを知っていないとタイムリミットも分からないよ?」

 

 首をかしげたアスナの言葉に反応したのは、アイシアだ。

 

「明日の十時です」 決定的に情報が足りない。

 

 俺は苛立ちを込めて机を叩き、額に手を当てる。

 

「落ち着きな」

 

 しんと静まりきった室内に、サキが言う。

 

「ハチマン、あんたひとりで考えすぎ。折角頼ることにしたんだからさ、もうちょっと色々話そうよ」

 

 確かに、俺はなぜひとりで考えていたのだろう。まるですべて背負った気になっていたように。サキには本当に頭が上がらない。今度デートに誘ってやろう。断られたらどうしよう……。

 

 よし、無駄口が思考に混じってきた。

 

「うっし、俺の結論を言おう」

 

 みなが一様に俺を見る。キーボードを連打するアルゴも、視線は俺の方を向いている。

 

 いい? 言うよ? 呆れないでね?

 

「分からん!」

 

 全員が同時に項垂れた。サキだけが腹を抱えて笑っている。足をバタバタとさせながら笑っていやがる。いっそ清々しいんですけど、そこまで笑うのやめてくれる? ハチマン頑張って考えたんだよ……。

 

「いや、まて、俺は悪くない! 社会が悪い!」

 

「ハチ、そこでその発言はどうなんだよ……」

 

 キリトが呆れ顔で突っ込む。

 

「まあまあキリトくん、確かに現時点で対応策を検討するのはなかなかに難しいと思うよ?」

 

 キリトの肩に手を軽く手を乗せたディアベルが俺を擁護する。

 

 実はそうではない。

 

「いや、案なら六通りほど考えた。ただ、どれも具体性に欠けてな……」

 

「六通りも!?」

 

 突如全員の声が揃う。なんなの君達、なんかの戦隊ヒーローなの? まだ日曜朝じゃないぞ?

 

 折角だ、案を話して精査していこう。

 

「案一、処刑場へ乗り込んでの救出。当然殺し合いになるから却下」

 

 キリトは採用したそうにうずうずしていたが、そんなものは却下だ却下。お前さん、実はそういう逆境好きだろ。対してディアベルは渋い顔だ。さすがに大人だ。

 

「案二、先にも話題に上がったように、圏内にいる間に救出。これも陽動作戦込みでも本拠地へ乗り込むのは現時点で地図もないし却下」

 

「確かにね。さすがに数千対五ってのは無理でしょ」

 

 当然なサキの結論。

 

「案三、ユキノの冤罪を晴らす。時間がないし無理」

 

「そもそもよお、事件の内容が分からなきゃ冤罪もなにも分かんねえよなあ」

 

 クラインの言うことは最もだ。だから一番無い案だろう。

 

「案四、ユキノの身柄を金で買う。人身売買みたいだが、できないことは無いとは思う。これは結構いい案だとは個人的に思う」

 

 倫理観はどうあれ、金でユキノの命が買えるのなら安いものだ。でもみなの反応はいまいちだ。

 

 あれ? 結構いい案だと思ったんだけどなあ……。やっぱり、女を買うっていうニュアンスに聞こえるのかな? 下衆いなこの案。無しだ無し。

 

 気を取り直して続ける。

 

「案五、他ギルドを巻き込んでアインクラッドに政府を作る。そして奴らの違法性を糾弾する。が、これも時間がない。実際問題、作ってもいいとは思うがな」

 

「作るなら長はハチマンだナ」

 

 アルゴがまぜっかえす。やりたくねえよ。俺は働きたくねえんだよ。将来の夢は専業主夫だしな。でも、サキと……ごにょごにょ、な関係になれたら、家事スキルあいつの方が断然上だし、やっぱり働こう。

 

 こほん、とおかしくなった思考を戻して俺は続ける。

 

「案六、各ギルド連中の長に情報を連携し、本案件に関してSAO代表者を募り、処刑に関する投票採決へ流れを持っていく。現実的にやれるのはこれくらいだが、最後にふと思いついただけだから、正直微妙かもしれん。以上をもとに、なんか意見くれ」

 

 目を丸くしたアスナが胸の前で手を組んでいた。

 

「ハチ君、たったあれだけの時間でそこまで考えたの……? すごい……」

 

 なんか拝むようなことされてるけど、何も出ないよ? 名前は大菩薩っぽいけど、ハチマン人間だよ。

 

 そのときだった。絶えずキーボードを叩いていたアルゴの手が止まった。

 

「ハチマン! 有力な手がかりが出そうダヨ! この街に財務部の秘書官が逃げてきたそうダ。ハチマンとサキちゃんを捜してるみたいダ。場所をここに指定したケド、サキちゃん大丈夫?」

 

「構わないよ。迎えに行った方がいい?」

 

「本人は大丈夫だと言ってるそうだヨ。すぐ来るみたいダ」

 

 よし、っと俺は手の平を拳で叩いた。これで少しは状況が変わるかもしれない。

 

 十分後、息も絶え絶えにひとりの少女がサキの部屋に現れた。淡い銀色の髪をした少女が、息を切らして部屋を見渡し、その場で膝をつき頭を下げた。

 

「ここに、ハチマンさんと、サキさんという方がいらっしゃると伺いました。お願いです。ユキノさんを助けてください!」

 

 サキが前に出て膝を落とす。土下座体勢の少女の肩にやさしい手を置いた。

 

「顔をあげな。ユキノはあたしとハチマンが必ず助ける」

 

 少女が顔を上げる。瞳には堪えていたのだろう、大粒の涙が溢れんばかりに溜まっていた。

 

「ただ情報が足りないんだよ。だから、あんたの情報をあたしたちに教えてほしい。安心しな、ここにいるみんな、あんたの味方だから」

 

 少女が見渡した先には、アインクラッドの最前線で戦う一級の戦士達だ。少女の瞳が驚愕に揺れる。

 

「ま、まさか……。ディアベルさんに、キリトさん、アスナさんまで……」

 

 さらっとクラインが抜かれてる……。あいつ、地味だけど強いんよなあ。可哀相に。

 

 クラインも空気を読んだか、泣きそうになる顔だけでリアクションは取らなかった。

 

 まあ、一応俺も挨拶くらいしておくか。

 

「俺がハチマンだ。ユキノの、リアルの同級生で同じ部活仲間だ。あいつは絶対に救う。だから、こいつが言ったように情報を教えてくれ。まずはそれからだ」

 

 あと、と俺が続ける。

 

「名前、教えてくれねえか?」

 

 あっと驚いたように少女は立ち上がる。

 

「申し送れました。私、アイシアと申します。元は《軍》の財務部でユキノさん専属の秘書官をやっておりました。ここに来たのは他でもありません。《軍》の資金横領で処刑されることになったユキノさんを助けてほしいんです」

 

 俺は自然と眉が上がるのを感じた。

 

 横領とは、ゲームらしからぬ言葉が出てきたではないか。ニュースや小説の中でのみ聞く言葉で、まさか身近でそんな話題を耳にするとは思わなかった。

 

 なにより、あの高潔なユキノがそんなことをするはずはない。

 

 そういえば、由比ヶ浜も金にはうるさかったなあ……。

 

「経緯は分かる? あたしもユキノがそんなことするようには思えないんだけど」

 

 頬に手を当てたサキがアイシアへ問いを投げる。しかし、アイシアは首を振った。

 

「私も分からないんです。ただ部門長会議でそのような議題があがると同僚から情報を横流ししてもらいまして、だからユキノさんへ逃げるように進言したんですが……」

 

「あいつはどうした」

 

 今度は俺が問う。大体答えは分かっている。どうせ、

 

「戦うと。証拠をすべて揃えて私の無実を勝ち取ってみせると。だから、私の心配はしないで良いと言っていました」

 

 やはり、ユキノらしい言葉だ。根本のところは、やはり変わっていなかったらしい。

 

 思わず笑みが零れる。

 

「だけど、この様子じゃ失敗したワケだね? しかもさっきの今なんて、大所帯の組織にしちゃあ判断が早すぎるじゃないか」

 

 サキの疑問は最もだ。逮捕して翌日処刑とか、いつの時代だよ。野蛮人かよ。裁判やれよ裁判。ここ法治国家だろ。あ、ゲームの中でしたね……。

 

 その疑問にアイシアが震える声で答える。怒りを抑えるような声だ。

 

「まるですべてが仕組まれていたみたいに、その後、内部監査室がやってきました。罪状を言い渡されたユキノさんは、女性監査官にそのまま連れ去られました。すぐ後にひとり残った私に、監査官がこう告げたんです。彼女は明日処刑されると」

 

 なに? 内部監査室まであるの? どこの企業だよ。

 

 それより、アイシアの登場を受けてからもやもやしていた疑問が、ようやく形になった気がした。

 

 手際が良いのにアイシアを野放しにしている。

 

 その後、アイシアが会議室へ殴りこみに行き、現団長のアポストルの言葉に勝てずギルドを辞め、ユキノの最後の言葉を思い出してここに来たところまでが語られる。

 

 なかなかどうして、

 

「最悪な相手だな。アルゴ、調べろ。たぶんそいつがビンゴだ」

 

 アルゴが再びキーボードを叩き始める。

 

「だろうネ。単純な罠に引っかかっていたわけダ。情報屋としては面目躍如させてもらうヨ」

 

「ハチ、どういうことだ?」

 

「ハチよお、俺にも分かるように教えてくンねえか?」

 

 キリトとクラインが同時に聞いてくる。分かってるから、説明するから同時にしゃべるんじゃねえ。俺は聖徳太子じゃねえんだから。

 

 一応アスナを見る。アスナは既にピンと来たのか納得顔をしていた。俺と目が合い、ひとつ頷く。どうやら彼女が説明してくれるらしい。

 

「つまりね、第一層のあの事件の黒幕ホーリィの本当の名前がアポストルだったってわけ。私たちはキバオウさんの一言やディアベルさんの言葉でそれを本当の名だと思いこんでいたけれど、実際は違った。で、合ってるかなハチくん?」

 

「満点だ」

 

 アハ、とアスナが笑う。初めてあった頃よりも随分と明るくなったようだ。サキのお陰だな。

 

「ハチマン、すまない。俺としたことがそんなことにも気づけなかったなんて……」

 

 ディアベルが頭を下げてくる。こいつは、いちいち細かいところを気にする奴だ。一体何ガヤ何マンなんだ。この前までの俺だよ……。

 

「気にすんな。俺もアルゴも見事にやられた口だ。ディアベルが悪いんじゃねえ」

 

 そのとき、アルゴが「参ったネ」と口を開いた。みなの視線がアルゴへ集中する。

 

「情報によると、《軍》に入ってから約二ヶ月足らずで副官まで上り詰めたようだヨ。しかも、かなりの人身掌握術の使い手らしいネ。毎日会話をしているだけで、徐々に彼に信仰心を持ち始める者が多いみたいダ。恐らくそれで上まで行ったんだネ」

 

「確かにその通りです」

 

 アイシアが話題を引き取る。

 

「彫像みたいな美青年で神々しくて、声は耳障りがよくて、聞いているだけですーっと心に入ってくるようなんです」

 

 一見すると褒めちぎっているようにも見えるが、アイシアの声には例えようの無い怒りが孕んでいる。

 

「最初は分かりやすく話し、気づけば変な理論に持ってかれるんです。だけど、どう言えばいいんでしょう。逆らえないんですよあの言葉に。ふと気を抜くと丸め込まれてしまうというか、そんな感じなんです」

 

「身に覚えがあるだけあって、ますます本人な気がしてきたよ」

 

 ディアベルが苦い表情をする。彼もまた、第一層で利用された口だ。

 

「大体人物像が見えてきたな。あと目的もこれである程度推察できる」

 

 全員の視線が集まる。みな真剣だ。

 

「アポストルってやつは、外見がよくて内面はぐちゃぐちゃだ。アイシアを逃がした一手が如実にそれを示している。ようは誘ってんだよ。こいつを助けたければ来いとな。俺を誘い出しているのか、それとも人を操って神様気取りの遊戯でもやっているつもりになっているのかは知らんがな。アイシア、《軍》内部に俺とサキをユキノと繋いで考えられる奴がいるか?」

 

 アイシアは首を振る。

 

「たぶん無いと思います。ユキノさんは、他の方もそうですけれど、リアルの話は一切しなかったので。ハチマンさんたちのことだって、たぶんあのときだから教えてくれたんだと思います」

 

 当然だ。一昨日の今日でそこまで準備されたら人間業じゃない。予め犠牲者としてユキノは選ばれていたのだ。

 

「なら俺の線は消えたな。くそったれの後者の確率が上がっただけか」

 

 なあ、とクラインが口を開く。

 

「そのユキノさんって美人なのか?」

 

 は? とこの場にいる全員から非難の眼差しを受けるクライン。泣きそうになってんじゃねえか。少しは生暖かい温度にしてやれよ。三十六度設定くらいに。

 

「ち、ちがうって。思ったンだけどよお。もしそのユキノさんが美人ってことになれば、傍から見たらそりゃあもう、話題性抜群だよなあ?」

 

「ま、絵面的にはジャンヌダルクかもな」

 

 適当に俺が返す。

 

「それって理由になンねえの?」

 

 全員が疑問顔。だが、俺は思案する。こういうとき、クラインのバカ発言はたまに的を射ている。だから呼んだのだ。

 

「待て、考える」

 

 アイシアから聞いた、まるで聖職者のような語り口。ホーリィという名前。訳せば聖なる、もしくは聖なるかな。アポストルは……なんだ、思い出せない。

 

「アポストルの日本語、誰か知ってるか?」

 

「使徒だよ、ハチくん」

 

 ノータイムでアスナが答える。こいつ、頭いいのな。

 

 思考を戻す。まるですべてが宗教に関している用語が集まっている。まるで意図でもしたように。それにジャンヌダルク。あれも確か、宗教関係だったか。

 

 再現しようとしているのか? だが、話した限りユキノはそこまで表に出てきていない。出てきたらもっと前に俺たちが気づく。伊達に最前線を張り、情報屋のアルゴと仲良くしているわけではない。

 

 ならば、意図的に隠していた? 初めから狙いを定めて、表に出ないように情報を操作していた?

 

 確かに、ユキノは強い女性だ。ゲームはともかく、事務処理系ならば相当な辣腕を振るっていただろう。そして角も取れたとなれば、人望も厚くなったに違いない。

 

 邪魔だった?

 

 いや、それはない。そんな考えで動くような奴じゃないと俺の勘が言っている。

 

 ここでクラインの言葉から発想した言葉を思い出す。

 

 ジャンヌダルク。たしか罪状は不服従と異端の嫌疑。不服従とは、俺と接触したことか? 見られていたのか? 待て、その可能性は排除したはずだ。

 

 いや、まさか……待っていたのか? 俺か、それに類するアインクラッドの罪人と接触するその瞬間を。

 

 奴が描いたシナリオを沿わせるためだけに、ただ面白がりたいがために。

 

 辻褄は……合うのか?

 

 そこまで考えて、サキにそっと背を叩かれる。

 

「ハチマン、話して」

 

 俺は頷く。ある程度思考は整理された。あとは、こいつらに判断してもらおう。

 

 

 

 俺の意見を話すと、ある者は呆れたように、ある者は驚愕したように、またある者は感心したように、三者三様の態度を示していた。

 

 つまり、どうなの?

 

 俺は全員を見渡す。

 

 最初に発言したのはキリトだ。

 

「ジャンヌダルクの末路を模そうと考えているかもしれない、ということは分かったけどさ。結局どうすればいいんだ? 俺たちは相手の目的を知っていてもいいけれど、とにかくはユキノさん救出が主題だろ?」

 

 分かっている。だが、目的が分かれば何かしら活路が見出せるかもしれない。回り道かもしれないが、考えておいて損はない。なぜなら手詰まりに近い状況なのだから。

 

「キリトくんの言うことはもっともだ。だが、相手の目的が分かればそこを突くことはできる。ハチマンが考える限り、今回は相手が罠を張っている可能性が高いということは分かっているんだ。これは大きな情報だよ」

 

 腕を組んだディアベルが言った。

 

「そうだね、だから救出計画は前提に何かを想定しておいたほうがいい。時間の許す限り、できるだけ多く、ね」

 

 サキの言葉に、キリトも頷いた。

 

「乱暴な手段を取るなら、要所はふたつだな」

 

 ふと、俺は思いついたことを口にする。

 

「ひとつはユキノの救出。もうひとつは、奴らの首魁アポストルの拘束。奴は洗脳に近い形で《軍》を従えている。ここで抑えなければ早晩また何かが起こる。というか俺が殺してえ」

 

 サキに刃を向けたことを忘れたとは言わせない。俺はきっちりと覚えている。落とし前をつけさせなければ、未だ上がったままの溜飲は下げられない。

 

「殺すはともかくね、ユキノさん救出。アポストルの拘束。このふたつを達成できればいい、ということ?」

 

 無駄な言葉の入った俺とは異なり

 

 現在時刻は回りに回って午後十五時過ぎ。残り時間は十九時間。さすがに時間がなさ過ぎる。選択肢を削って正面対決をするのが腹か……。

 

「参ったな。俺の案の三つはこれで潰れたな……」

 

「案四五六だね。確かに、時間的余裕は無いね」とサキ。

 

「因みに、横領額はいくらなんだい?」

 

 ディアベルが純粋な疑問という形でアイシアへ訊く。

 

「額は……すみません、分かりません。ただ、会議での発言を聞く限り、億は超えるかと」

 

「案三も潰れたね」

 

 サキが疲れたように言う。

 

「実質残ったのは案一、二か」

 

 キリトも先ほどのようなうずうずとしたものではない、焦燥感が溢れる顔で言う。

 

 ディアベルが思案顔でウインドウを開き、キーボードを叩き始めた。俺は咄嗟にその手を取って無理やり止める。

 

「てめえ、何するつもりだ」

 

「ギルドメンバーへ協力を要請する」

 

「それはありがたい。だが、それは《軍》と《ブレイブ・ウォーリア》が全面衝突することになるぞ。SAOでギルド対ギルドの抗争状態に入る。そうすれば他のギルドでも同様のことが起きかねない。言ってみりゃ、第一次SAO大戦なんてことにもなるぞ」

 

 ディアベルの頬が引きつる。だが、瞳の中に宿る意思は強い。ディアベルだってそれくらいの危険性は考えている。それでも、ユキノを助ける一心でこうして動こうとしてくれている。それは、俺だって分かっているのだ。

 

「だけど、手段が限られている以上、こちらも数を増やすしかないだろう?」

 

 ディアベルはギルドメンバーを参加させ、率いるつもりだろう。傍から見れば難癖をつけ、ギルドで総攻撃をしかける――ギルドで総攻撃を仕掛ける?

 

「いや、待て、ちょっと考えさせろ」

 

 いけるか? 一、二の案より確実か? 考えろ。理詰めしていけ。

 

 約五分間考え続け、考えが纏まった。

 

「ディアベル、助かった。お前の行動がなけりゃ思い浮かばなかった」

 

「え、まさか起死回生の一手を思い浮かんだのかい?」

 

 ディアベルの反応に、俺はこう返す。一度は言ってみたかった言葉だ。

 

「それを言うならこうだ」

 

 ――たったひとつの冴えたやりかた



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これが、比企谷八幡なりの冴えたやりかた 3

 主街区の中央広場に面している大きな宮殿、黒鉄宮に連れて行かれた私は、監査官に監獄エリアに私専用に割り当てられた鉄格子の監獄へ入れられた。石壁で三方を固められた監獄の中には、四角く開けられた窓があった。窓から寂しそうに見える空の蒼穹からは、太陽が見えない。それが、私の現実を教えてくれていた。

 

「光が無い、つまりは処刑ということね……」

 

 予感めいたことを呟いてみても、私の気分は晴れなかった。

 

 アイシアには格好の良いことを言ってしまったのだけれど、本当にどうしようかしら。入って十分かそこら、私は牢獄内に蔓延る闇に飲み込まれそうになっていた。

 

 だから、大切な思い出を思い出すことにした。

 

 現実での奉仕部でのできごと。

 

 この世界で出会った、ハチマンとサキのこと。

 

 本当に仲直りができてよかった。とても、幸せだった。もっともっと、仲良くなって、遊びにでも出かけたかった。そして現実に戻って、もう一度現実の姿で出会いたかった。

 

 それすら、いまはもう適わない。

 

 明日の十時、私は処刑される。

 

 泣いても喚いても、地球が回るように、宇宙がそこにあるように変わらない事実だ。

 

 そう考えると、幾ばくか落ち着きを取り戻していくような感覚がした。

 

「きっと、彼のお陰ね」

 

 ハチマンと仲直りできたから、もう心残りはない。ずっとしこりのように残っていたそれが切除されてしまえば、私にとってはもういいのだ。

 

 ぽたりと、何かが落ちる音が聞こえた。ぽつぽつと数を増やしていくそれは、まるで室内に雨が降っているかのように連続して響いていて。

 

 私は自分が泣いていることにようやく気がついた。

 

「……たくない」

 

 死にたくない。

 

 こんなことで死にたくない。横領なんてしていない。こんな嵌められるような真似をされて死にたくない。なにもせず、抗いもせずに死にたくない。ハチマンに会いたい。サキに会いたい。由比ヶ浜さんに会いたい。

 

 ここで終わりになんて――なりたくない!

 

「誰か! 誰かいないの!」

 

 思わず叫ぶ。誰も声を返してくれなどないと知りながらも、私は声を張り上げる。

 

「誰か! お願い! 返事をして!」

 

「その声、ユキノさんかい!」

 

 声が返って来る。聞き覚えのある声。かつて、私を導いてくれた声だった。

 

 まさか、そんな、まさか――

 

「シンカーさん、なぜここに……」

 

「僕はアポストルに実権を奪われたとき、しばらくしてから投獄されたんだ。在任中に不正があったと言われてね」

 

 そんなこと知らなかった。ユリエールさんは彼と連絡が取れないことをいつも心配していた。私も何度も連絡を取ったことがある。

 

 ここ監獄エリアは、外との連絡が一切取れない仕様なのだ。であれば、彼と連絡が取れないのは当然のことだった。

 

「それより、君までここに来るなんて、一体どういうことだい?」

 

 ぽつりぽつりと私は語る。

 

「《軍》内部の資金横領の嫌疑を掛けられました。明日……処刑される身です」

 

「そんな馬鹿な! 処刑だって? ここSAOでか?」

 

「恐らく、その通りでしょう。これで当時のメンバーはもういません。名実共に彼が支配者です」

 

 シンカーが息を呑む気配。

 

「まさか、アイシア君も?」

 

「いえ、アイシアはなんとか私が逃がすよう説得しておきました。たぶん、大丈夫でしょう」

 

「そうか、まさかあの男……ここまでやるとは。すまない、君がこんな目に合っているのは僕のせいだ」

 

 謝罪するシンカーに対し、ユキノは首を振った。

 

「悪いのはあなたではありません。彼、アポストルです。謝らないで下さい」

 

「君は……強いな」

 

「私は強くありませんよ」

 

 ただ、力を貰っただけだ。ハチマンとサキに、なによりも勝る力を。

 

「ここから脱出に出来ることはありますか?」

 

「残念ながらそれは無理だ。《軍》の連中が張っているから外からの救出も見込めない。内部からはシステム的に無理だ。よければ試してみるといい。ユキノさん、武器は?」

 

「取られました。護身用の刀が一本あるだけです」

 

 そう言って、システムウインドウから刀を選び装備する。一面に嵌った鉄格子へ向け攻撃を放つが、システムメッセージが現れる。

 

 ――Immortal Object

 

 即ち、システム的に破壊されないのだ。

 

 当然だ。でなければ牢獄など成立しない。

 

 私はもう、どうしていいか分からない。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 午後二十二時、第三十三層ラーヴィン、サキの部屋リビング。

 

「ディアベル、どうだ」と俺

 

「こっちは問題ないよ。いつでも行ける」ディアベルがガッツポーズを返した。

 

 俺はクラインへ視線を飛ばす。

 

「そっちはいけそうか?」

 

「任せろ。俺のギルドだかンな」

 

 頼りにしてる、と言葉を投げ、アスナを見る。

 

「交渉はできたか?」

 

「たぶん大丈夫だと思う。サキさんと一緒に頭下げたから」

 

「渋ったから槍ぶん回したけどね」

 

 おっかねえよサキさん。でもよくやった。

 

 そして、最後にキリトへ向ける。

 

「キリト……暇だった?」

 

「さんざんっぱら動かしておいて言うことがそれか!」

 

 え、だって交渉ごととか不得意でしょ君? サキは圧力的外交得意だからいいけど。

 

「キー坊、せっかくハチマンが振ってくれたんだかラ、ボケないとダメだヨ……」

 

 アルゴの残念そうな声。まったくだ。これだから最近の若者は……って、俺も最近の若者でした。

 

 ぐぬぬ、という苦悶の顔をしたキリトが、遂にそっぽを向いた。どうやら怒らせてしまったらしい。仕方ない、最終兵器を使うか。

 

「アスナ、キリトへこう言ってやれ。大丈夫、キミはやれば出来る子だよ! って」

 

「それ余計にダメージでかいからな!」

 

 おっと、キリトが復活した。どうやらアスナが弱点のようだ。

 

 アスナはというと、何がツボにはまったのか、先ほどからお腹と口許を抱えて身をくの字に折り曲げていた。ちょっと、その格好スカートからちらちらと見えてはいけないものが見えそうで見えなくて、男として断固として抗議させて欲しいんですけど!

 

「で、これで行けると思うかい?」

 

 緩んだ空気をディアベルが締める。さすがギルドマスターだけはある。

 

 頭脳の半分がギャグに費やされていた俺は、思考を一気に戻す。

 

「分からん。だが、ただ直行するよりはマシだろう。それより俺が聞きたい、これ大丈夫?」

 

 笑いを治めたアスナが座り直る。表情は真剣だ。

 

「ハチ君が考えて、私たちがそれを支持した。絶対失敗しない。大丈夫だよ」

 

「言いたいことを言われちゃったね」

 

 サキが苦笑して、俺の背後に回ると両肩に手を置いた。暖かい感触が内心焦っていた俺の心を落ち着けてくれる。

 

「あたしたちは、必ずあんたの期待に応える。見てみな、ここにいるメンバーを」

 

 その後をクラインが引き継ぐ。

 

「《勇者》ディアベルに《黒の剣士》のキリト、《閃光》のアスナさんに、《戦乙女》のサキさん、そして《暗殺者》ハチマンだぜ。最前線最強のメンバーがいれば負けることはねえだろ?」

 

クラインさん、それ言ってて恥ずかしくない?

 

 それになんだよその大仰な名前。俺は暗殺者かよ。うわ、やだ似合う。目の腐ってるところとか特に。それにクラインはないのかよ。スキルに抜刀術とかあれば、《抜刀斎》とかつけてやりたい。小さい頃、傘で飛天御剣流の真似をしたことは男の子なら誰でもあるはずだ。

 

 さて、と俺は結論をまとめる。

 

「決戦は明日の午前八時。やつらがユキノを処刑場へ移送する時間をやらず、本作戦で助け出す。ディアベル、クライン。お前らの役どころに掛かってる。何としても奴の違法性を引き出せ」

 

 ディアベルが大きく頷き拳を握る。

 

「分かっている。任せてくれ!」

 

「これでも一応会社員だかンな。任せてくれ」

 

 真面目にクラインが返した。頼りにしてる。

 

「キリト、アスナ、お前らは遊撃隊だ。状況に応じて動いてくれ。特に最悪の場合は、即座に俺を呼べ。その場合は……分かってるな?」

 

「分かった、任せてくれハチ」

 

「大丈夫、みんなで決めたんだもん。きっと上手くいくよ、ハチ君」

 

 キリト、アスナが自信をもった顔で言ってくれる。

 

「そして、サキは俺と隙を見てユキノを救出する」

 

 いまだウインドウと戦い続けるアルゴへ向く。

 

「アルゴ、各隊の情報統制を頼む。これはお前にしかできない」

 

「了解だヨ。うまくやって見せるネ」

 

 ウインドウに目を向けたまま、笑って言った。

 

 いい仲間を持ったと思う。サキと再会し、アルゴと出会ってから、俺のぼっち生活は一変した。サキは当然だが、アルゴにも感謝している。

 

 サキへの想いがあるからあのジュースは勘弁だが、アルゴには今度何か高いものでも驕ってやろう。

 

「アイシア」

 

 そして、最後の依頼をする。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 翌午前八時、《ブレイブ・ウォーリア》を従えたディアベル、そして《風林火山》を率いたクラインは、第一層《はじまりの街》に現れた。

 

 もはや下層には来ることのなくなったディアベルにとっては、故郷に久しぶりに戻ったような感覚を覚えさせた。だが、一時の感傷を振り払い、仲間に声を掛けて《軍》の本拠地へ向かう。街の住人は、最前線で戦うトップギルド、しかもそのふたつが現れたことに驚いたように、あちこちからディアベルらを見ていた。

 

 ディアベルは、そんな彼らに何でもないという風に笑顔を振り撒きながらも、内心は緊張で荒れ狂っていた。なぜならば、かつて自身を陥れた男と面会するのだ。あるいは、また奴の術中に嵌ってしまうかもしれない。

 

 だからこそ、ハチマンからこの大役を任されたときは尻込みしたのだ。オレには無理だと、言ってしまいたかった。だが、彼の信頼しきった瞳を見たとき、ディアベルは首を横に振ることなどできなかった。

 

 ハチマンとの交流は長い。その中で、彼の性質の中で最も厄介なものは、人を信頼しないことだ。いつも隣にいるサキや情報屋のアルゴ、キリトやアスナを除き、彼は徹底的に人を避け、人を疑う。そして人を頼らない。すべてを自分で片付けようとするきらいすらある。

 

 そんなハチマンが、本当の意味で初めて頼ってくれた。

 

 ディアベルは、ハチマンのことを友人だと思っている。

 

 ハチマンが、昨夜初めて友人だと認めてくれたような気がしたのだ。

 

 だからこそ、その信頼に応えなければならないとディアベルは胸に誓ったのだ。

 

 そうこうしている内に《軍》本拠地前に着く。警備をしていた《軍》のメンバーが何事かというようにディアベルの前まで駆け寄ってきた。

 

「失礼ですが、何用ですか?」

 

 クラインと目が合う。彼は頷き、一歩後ろに下がった。

 

 ディアベルは短く息を吸う。覚悟は決めてきた。すべては、ハチマンのために。

 

 ディアベルはストレージから書類を取り出し、彼らに見えるように掲げる。それは、ギルドマスターらがサインしたある同意書だ。

 

 声を張り上げる。

 

「我々《ブレイブ・ウォーリア》ならびに《風林火山》は、本日、午前十時に行われるという処刑について、意義を申し立てるためにここに参った。本件については、最前線で戦う全ギルド合意の下、行っている。団長のアポストルと話をしたい」

 

 これが、ハチマンが計画した、たったひとつの冴えたやりかた。

 

 案六とディアベルがやろうとしたことの合成だ。即ち、最前線ギルドに事情を説明し、処刑の反対に関する同意を得る。そして、その代表として《ブレイブ・ウォーリア》と《風林火山》がこうして《軍》へ申し立てをしに行く。

 

 戦うのでもなく、投票という曖昧さを行うでもない、徹底的に安全を考慮した作戦だ。これを考え付いたハチマンは心底すごいと、ディアベルは思う。

 

 あの逼迫した状況下、同級生が処刑されんという心理的重圧の中で、彼は思考に思考を重ね、この結論に辿りついた。

 

 まったく、尊敬に尊敬を重ねさせてくれるよ、ハチマン。

 

 クラインが引き取る。

 

「本件は、SAOであって然るべきではないものであるオレ達は考えている。即刻ギルドマスターのアポストルを召喚しろ!」

 

「おやおや、これは一体何の騒ぎですか?」

 

 突然、本拠地の入口から声が届く。男か女か、聞いているだけでは分からない、曖昧な声質。されど、聞けばすんなりと胸に染みるような、不思議な声だ。

 

 入口から一人の人影が現れる。簡素の白いローブに身を包んだ人物。この世の汚らわしさの一切を排除したような純白の髪、深海を押し固めて作ったような、深く蒼い瞳。中性的で人間味の欠けた顔は、稀代の天才彫刻家が生涯に一度作れるか作れないかの珠玉の一品のよう。蒼と紅の指輪を嵌めた手を翼のように広げて、一歩一歩、空を滑るように歩いてくる。

 

 知らず、ディアベルは喉を鳴らした。初めて会ったときはフード越しで会った故、彼の顔をこうも明確に見たことはなかった。こうして見ると分かる。その美貌もそうだが、外見と雰囲気が一致していない。なにかが、どこかがずれている。

 

 ハチマンは彼をこう称した。

 

 外見は良くても中身はぐちゃぐちゃだと。まさにその通りだと思った。

 

 クラインも隣で圧倒されたように、小さく唸った。

 

 物腰の柔らかに、アポストルが言う。

 

「それで、ギルド《ブレイブ・ウォーリア》のディアベルさんと、《風林火山》のクラインさん、一体大勢のギルドメンバーをお連れして一体何の御用でしょうか。差し出がましいようですが、礼儀が良いとは言えない時間帯ですが」

 

 腹の底まで浸透するような声に、ディアベルは一歩足を退きそうになった。しかし、それをぐっと堪えて逆に一歩を踏み出す。ここで退くようであれば、ハチマンから信頼を与えられるに値しない。

 

 クラインも同様に前に行く。

 

 腹に力を入れ、決して飲み込まれまいとディアベルが告げる。

 

「失礼は承知。しかし、事は急を要します」

 

「急とは?」

 

 滑り込むようにアポストルに遮られる。

 

「残念ながらこちらにも用事がございましてね。ああ、内容はさすがにお答えできかねますが。そうですね、午後でしたらお時間を作ることも可能ですよ。ええ、ええ、存じておりますとも。皆様方は最前線で果敢にも戦い、アインクラッドの民を現実へと導くお方々。そんな方々に大変恐縮ではありますが、こちらにも都合というものがあるのです」

 

「待て、こちらから話をさせて欲しい」

 

 ディアベルが遮る。話の主導権を握らせてはならない。

 

「ええ、ええ、あなたの意見は尊重したいと考えております。しかし先に申しあげたとおり、こちらも時間がないのですよ。曰く、時は金なりと申します。おっと、ここではコルですかね?」

 

「そんなことはどうでもいい。まずは話を聞けよ!」

 

 遂にクラインの堪忍袋の緒が切れた。迂遠にもほどがあるのだ、この男は。こちらの会話を封殺しようとしている。

 

「乱暴な口調はいけませんよ、クラインさん。言葉とはその者の品位が現れるというものです。あなたのような勇猛果敢な方であっても、人と接するときはそこを考える必要がありますよ?」

 

「そんな敬語だの言葉遣いだの話は結構だってンだよ! いいか、俺たちはあんたらがユキノという女性を処刑しようとしていることを掴んでいるンだ! 即刻処刑を取りやめ、身柄を俺たちに移せ!」

 

 アポストルの端正な顎に指が添えられる。まるで彫像のような姿に、一瞬男でありながらディアベルは見惚れてしまった。

 

「はて、色々と疑問があるのですが、まずはひとつ。なぜこちらのことで外部のあなた方に感傷されなければならないのでしょう? 基本、ギルド外部に悪影響を及ぼさない限り、不干渉が不文律では?」

 

 今度はディアベルが会話を引き取る。予定と違ったが、クラインがこじ開けた穴はなんとしても死守する必要がある。

 

「処刑がこのSAOに合っていいはずがない。我々に人を裁く権利など、ましてや、死刑にする権利などあるはずがない! 先も申し上げた通り、これは我々最前線を戦うギルドの総意だ!」

 

 なるほど、とアポストルはディアベルがかざす同意書を眺める。

 

「あなたがたは、ではあなたがたが彼女を裁くというのですね。ならば、彼女が横領した資金、全額我々に返して頂きたい」

 

 くっ、やはりこう来たか。ディアベルは内心で焦る。ハチマンから言われていた選択肢の中に、アポストルが告げたことがあったのだ。はっきり言って、これも最悪な選択肢の中のひとつだ。

 

 冤罪を主張しようにも証拠がない。ならば、処刑を違法として連れ出すしか方策がない。しかし、ならば《軍》が横領されたと主張するものをどうにかしなければ、敵は梃子でも動かないだろうというのがハチマンの見解のひとつだ。

 

 ハチマンはこれに同意をしろと言った。その間に横領の冤罪証拠が見つかればよし、見つからなければ俺が払うと。何年掛けても俺が払いきってやると。

 

「分かった、同意しよう。我ら《ブレイブ・ウォーリア》の名に掛けて、全額支払うと誓おう」

 

「《風林火山》も同意すっぜ」

 

 クラインも同じように同意を示す。

 

 アポストルが両手を翼のように広げた。

 

「素晴らしきかな。彼女には彼女の罪を償わんとする者たちがかのように大勢いらっしゃるのですね。なんと素晴らしきかな。ええ、ええ、あなたがたの誠意、しかと受け取りました。であれば、すぐにでも契約を致しましょう。横領額――」

 

 二十億コルを。

 

 なん……だと。

 

 このとき、ディアベルは想像の予想外を超えた額に驚きを隠せなかった。ハチマンは予想は億単位と言った。だが、いくらなんでもそれは……。

 

「分かった、払うぜ」

 

 呆けたディアベルに代わり、クラインが引き継ぐ。

 

「で、まさか一括とは言わねえよな。さすがにそんだけの額になると、こっちだって早々出せねえンでね。悪ぃが分割にしてくれ」

 

 はて?

 

 そのとき、アポストルが不思議そうな顔をした。

 

「なぜそのような台詞が出てくるのでしょう? 一括で払うのは当然ではありませんか?」

 

「なにィ?」と眉をひそめたクライン。

 

「大方、返済の間に冤罪の証拠でも捏造して借金を無くす腹でしょう? いけませんねえ。いけませんいけません。それは悪です。罰せられるべき悪徳です。仮にもひとりの罪人を救おうとするあなたがたが悪に染まるなどと、断じて許されるべきものではありません」

 

 蒼と真紅の指輪を嵌めたアポストルの両手が、空を仰ぐように広げられる。

 

「ああ、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、神よ、悪しき者に神の裁きを」

 

 そのとき、ディアベルの視界に光が踊った。ディアベルも、クラインも、この場に集ったギルドの面々すべての身体が、強力なノックバックで吹き飛ばされたのだ。何が起きたのか分からなかった。

 

 まさに神の御業。刀剣でのソードスキルなどではない、システムにありなどしない魔法を見た気がした。

 

「い、いまのは一体何なンだよ……!」

 

 すぐに起き上がったクラインが抜刀。圏内戦争が始まろうとしている。

 

 まずい。最悪の事態だ。

 

 ディアベルは声を震わせ、大喝する。

 

「やめろクライン! 刀を引け!」

 

 アポストルの視線が、いまだ立ち上がるクラインへ視線を向ける。そして、両腕を下ろしたと同時、一瞬垣間見えた閃光と共に再びクラインが吹っ飛んだ。

 

 呻き声を上げながらもクラインがノックバックに堪える。

 

 なんだこれは、一体何が起きている。ディアベルの焦燥が頂点に達する。

 

 

 

「見えたか、サキ」

 

 黒鉄宮を張っていた俺とサキは、ディアベル達の同行を観察していたのだが、話の流れがマズイ方向になった途端、全員が吹っ飛んだのだ。遠くから見ても瞬時には理解し難い攻撃。

 

 まるで、光が雨となって横殴りに降って来たようなものだ。

 

「まあね、あんたは? 分かってるんだろう」

 

 だが、奥義というものは何度も見せるものではない。なにせ、大魔王の必殺の構えすら見破られたのだ。人間に見えぬ道理はない。

 

「あれは針だ。投擲スキルの派生スキル――エクストラスキルってやつか? それにしちゃ聞いたことないな」

 

「あれ、避けれるかい?」

 

 もはや対決姿勢を崩そうとしないサキが言う。正直、この流れになってしまえばお終いだ。どちらにせよ、あの取引が成立しなければ、黒鉄宮の監獄の鍵が手に入らない。

 

 どこのだれだよ、たったひとつの冴えたやりかたとか言ったやつ。ばっかじゃねーの。バーカバーカ! 俺だよ……。恥ずかしいなあ。あのときの自分を殴りたい。

 

 と、頭の中でコントをやっている場合ではない。

 

「俺のステータス知ってるだろ。俊敏特化だ。速さこそ正義だ」

 

「つまりは避けられるってことだね」

 

「まあ、たぶんな。半分くらいサキに任せたいんだが」

 

「捌けるかいあんなの。できて一割程度だよ」

 

 そんだけできるだけでも十分化物ですよ、サキさん。

 

 仕方なく懐から結晶を取り出す。これはアルゴと俺が開発した通信機だ。ファンタジーなのに通信機というのも時代錯誤な気がしてならないが、あって困るものではないから気合で作ったのだ。その代わり、えらく材料費が高く量産できなかったが、なんとか人数分をそろえられた。材料集めてくれたキリトには感謝だ。ちなみに、原理は結晶同士を回廊結晶の要領で互いに繋いで声を届けるというもの、だと思う。たぶん。きっと。恐らく……。だって偶然できたんだもん。

 

「アルゴ、状況が変わった。これより戦闘に入る。そっちの状況はどうだ?」

 

 結晶からアルゴの声が届く。

 

「こっちも全力でやってるけど、まだ少し時間がかかりそうだヨ。そっちの方が早いかもしれない」

 

「頼むぞ。なんとか奴をボコっても鍵をストレージから出させなきゃ意味ねえんだ。結局は冤罪を晴らすか奴の要望を叶えるしか方法がない」

 

「了解だヨ」

 

 通信結晶を仕舞い、俺はぼやく。

 

「キリトとアスナ好みの方法論になっちまったな」

 

「いいじゃないか。ゲームらしくて。たまには小難しい理論なんて忘れちまいな」

 

「たったひとつの冴えたやりかた! とか格好つけちまったのにこれじゃなあ」

 

 くすくすとサキが笑う。

 

「黒歴史追加だね」

 

「まったくだ」

 

 サキが槍を取り出して言う。

 

「狙いはアポストルでいいかい?」

 

「問題ない。積年の恨みをここで晴らす」

 

「じゃ」

 

「行くぞ!」

 

 そう言って俺たちは飛び出す。俊敏をフル活用した速度であっと言う間にアポストルを射程に捕らえる。周囲を圧倒していたアポストルが視界に俺を捕らえる。アポストルが腕を動かした瞬間、閃光が走る。首を逸らすことでそれを避ける。速ええ。アスナの《リニアー》並だな。卑怯だろそれ。

 

 俺は突進系単発スキルをアポストルへ向けるが、跳躍してそれを避けた。

 

「一体なんの真似ですか? 《魔眼使い》」

 

 着地と同時、アポストルが感情のない声で言う。

 

 その隙を逃すことなく、サキが踊り出る。アポストルの手から無数の光。槍を回していくつか弾くが、すべては捌ききれない。ノックバックでサキが吹っ飛ぶ。俺はその横を走ってアポストルの足元を大きく短剣で払う。読んでいたアポストルが片足を上げるだけでそれを避ける。

 

 無数の閃光。

 

 攻撃直後であるため全弾頂き、俺の身体も思い切り吹っ飛ぶ。だが、HPバーは減らない。これは単なる戦いではないのだ。

 

「ハチマン! サキさん!」

 

 ディアベルが叫ぶ。状況の移り変わりに精神が対応しきっていないのだ。やっぱ真面目だな。

 

クラインと《風林火山》は既に戦闘態勢に入り、周囲を囲んでいた衛兵達に斬りかかる。

 

「ディアベル、クライン、案二だ! 状況開始!」

 

 叫んで俺が疾走。彼らは意識から除外する。

 

 針が乱舞。俺の前に躍り出たサキが今度はすべてを捌ききった。ちょっと、どんどん人外染みてきてるんですけどこの人。こんな人好きになっちゃって、将来尻に敷かれないかな俺。

 

 初めて瞠目したアポストルが大喝した。

 

「皆よ、いまこそ聖戦のときです!」

 

 全体に染み渡るような声。だが、誰も来ない。アポストルの顔に初めての表情。

 

 焦燥だ。

 

 懇切丁寧に説明してやる必要もない。これがキリトとアスナ、そしてサキにやらせた役目だ。だれが俺たちだけだっつったよアホが。全ギルドの有力者を既に集めてんだよアホが。今ごろそいつらに軒並み邪魔されてんだから、来るわけねえだろアホが。

 

 よし、こんだけ心の中でアホって言えば少しは溜飲が……。

 

「下がるわけねえだろうが!」

 

 俊敏特化をフル活用した俊足。またしてもアポストルの針がきらめく。

 

 なめんなよ。

 

 もう軌道は見えてんだよ。

 

 針の軌道外に左右に避け、あるいは飛んでかわしていく。

 

 一瞬にして間合いを詰め、アポストルの腹部へ投げナイフを突き立てる。軽すぎるノックバック。だがそのまま身体を右に流して首筋を短剣で切り裂き、右回転しながら奴の背を逆袈裟に斬る。更に腰の捻りを利用して奴の右首筋に背後からナイフを突きたて、最後は回転して跳びあがり、両目に短剣と投げナイフを突きたて――

 

 失敗。奴が頭を下げる。

 

 視界の下部からきらめきが走る。

 

 大量の針軍が俺を打ちのめし、大量のノックバックで高く飛ばされる。

 

 だが――

 

「まだ終わりじゃねえんだよ!」

 

 飛ばされながらも、俺の左手が閃く。投擲スキルによって投げられた投げナイフがアポストルの右手に直撃。ノックバックにより針を取り落としたアポストルの瞳に懊悩。

 

 そして、遂にサキの出番が来る。

 

 サキが回転しながら遠心力を増大し、渾身の振り下ろしをぶちかます!

 

 左の針で受け止めようとしたアポストルだったが、針が弾かれ、しかし軸線のずらされたにサキの一撃が肩へ直撃。

 

「アホが。長物を針なんぞで受け止めきれるわけねえだろーが」

 

 強烈なノックバックにより膝をついた白髪に、サキが下段中段上段とソードスキルかと思わせる得意の三段突き。

 

 死ね、白髪! と俺は心の中で叫ぶ。アニメで見た連続攻撃をちょっとアレンジして教えたらマジで覚えやがったサキのお得意技だ!

 

 跳ね上がった白髪へ向け、上がった槍の握りを右だけ逆手にする。体重の込めた強烈な振り落としに、白髪が脳天から地面に叩きつけられる。更に回転したサキの二度目の振り下ろしを背中に受け、遂にアポストルの意識が消失した。

 

 槍を手の中でもてあそんだサキは、石鎚を地面についてほっと息をついた。

 

「えっと、この一撃、手向けと……なんだっけ、ハチマン?」

 

 サキがうろ覚えの台詞を言おうとして、途中で止まる。ていうか違うからそれ。心臓狙ってないでしょ。

 

 しかし――

 

 やべぇ、こいつマジでランサーになりやがった……。

 

 

 

 鬨の声があがる。

 

 ギルド《ブレイブ・ウォーリア》と《風林火山》の面々が取り巻きを抑えている間に俺たちがアポストルを倒したお陰か、取り巻き連中はすぐに白旗を上げたのだ。根性ねえなあ。いまどきの若者は銃剣もった神父さんレベルの狂信者はいないのか? まさか本当に洗脳されていたわけでもあるまいし。

 

「お疲れ、ハチマン。結局君たちにお株を奪われてしまったね」

 

 俺の肩を叩いたディアベルが、爽やか笑顔を浮かべた。集まっていた住人のいくらかの女性は、その笑みを見た途端キャーキャー騒ぎ始める。イケメンめ。羨ましくなんてないんだからね!

 

「んなことねえよ。それより、出てきちまって悪かったな。しかも結局冴えない作戦だし」

 

「つーかおめえもサキさんも、対人戦はマジですげえのな。俺ぁびっくりしたぞ」

 

 絡んできたクラインを引き剥がしながら、俺は答える。

 

「そりゃ鍛えてるからな」

 

「マジか! 俺も鍛えくれよ! こう、男ならバシッと決めてえンだよなあ」

 

 ひとり思案に明け暮れているクラインは放っておく。なんならディアベルに任せよう。

 

 さて、とアポストルの襟首を掴んで、なんとか持ち上げる。筋力パラメーターぎりぎりでよかった。これで持ち上がらなかったらかっこわるい……。

 

「こいつと強制デュエルして殺せばいいんだよな」

 

 フフフ、と不適な笑みを浮かべて、俺はアポストルに手を伸ばす。その手を呆れ顔のサキが掴んだ。

 

「冗談が過ぎるよ、ハチマン。あたしのことはいいからさ」

 

「ちぇ、まあ冗談だよ冗談」

 

 ホントだよ? サキに傷を負わせたことなんて覚えてないよ。ハチマン嘘つかない。

 

 さすがに悪乗りが過ぎたか、サキが割りと本気で怒っているのを見て取って、アポストルを床に下ろす。

 

 再度回線結晶を取り出し、アルゴに連絡を取る。

 

「キリトとアスナの方はどうだ?」

 

「大丈夫みたいだね。あっちもすぐに白旗を上げたみたいだネ。これで一件落着かナ?」

 

「気が早いぞ。まだユキノを助けてない」

 

 回線を繋いだままクラインを呼ぶ。

 

「ユキノさんだろ。行ってくるわ」

 

 話が早くて助かる。クラインはその足で黒鉄宮へ向かっていった。しばらくサキ、ディアベルとどうやってこいつから鍵を奪おうかと思案しているところで、アルゴから緊急連絡が入った。

 

「大変だヨ! ユキノがいないみたいダ!」

 

 張り上げた声が、サキとディアベルにも通じる。

 

「なんで! 処刑は十時のはずじゃ!」サキが嘆くように叫ぶ。

 

「一体どうしてなんだ! 早くこいつを起こそう、ハチマン!」驚愕のままディアベルが俺をゆすった。

 

「あ、ああ……」

 

 俺はただ焦燥感に突き動かされていた。

 

 アポストルの頭を思い切り蹴飛ばしてたたき起こす。アポストルは頭をさすりながら上半身を上げ、海色の瞳を俺へと向ける。寒々しくもむなしい、空虚な眼だ。

 

「……随分と乱暴な起こし方ですね」

 

「んなことはどうでもいい。ユキノをどこへやった?」

 

 そのとき、アポストルの口許が微笑ではなく、ニタニタと気持ちの悪い笑みになった。まるで、これが本性だとでもいうように。

 

「ふふ、くふっ! いい顔になりましたねぇ、ハチマン。まるであの時のようじゃないですか!」

 

 かつて二度戦ったフードの男は、やはりこいつだ。一度は俺を、二度目はサキに手をかけた、憎むべき相手。そして、ディアベルとキバオウ、シミター使いを掌握し、結果としてキバオウを殺した極悪人。

 

「ああ、貴様を殺したくてしょうがねえが、いまは置いておく」

 

 怒り心頭の声を出して、アポストルの襟首を掴んで持ち上げる。アポストルは変わらずニタニタとした下品な笑みを湛えている。気持ちわりぃんだよ。変質者かよ。

 

「あなたが網に掛かったのは僥倖でした。あのときの屈辱を晴らさずにはいられなかったのでね。ユキノは美しい女性です。是非とも手に掛けて絶望をこの目で見てみたかったのですよ。ああ、それも今回は叶わぬうたかたの夢。儚いものですねえ」

 

 話がすり替わり始める。アイシアが言っていたのはやはりこういうことか。

 

 いらつくままに腹を殴る。ノックバックで吹き飛ばされる寸前に、襟首を持った手に力を入れて引き寄せる。

 

「さっさと言え。ユキノはどこにいる?」

 

 今度こそアポストルが告げる。まるで、変えられることのできない、預言のように。

 

「私は確かに十時に処刑するとアイシアさんに伝えるようにしました。ですが、それが誤報であったのかと、なぜあなたは疑わなかったのですか?」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 十九層、主街区《ラーンベルグ》から西へ数分歩いたところにある、小さな丘。ユリエールに助け出された私は、そこへ連れて行かれた。曰く、そこならば安全だという言葉を信じて。

 

 そして、私たちは囲まれていた。異様な姿の男たちに。

 

 その内の一人、膝上までを包む黒ポンチョに、目深に伏せられたフード姿の男が、流暢な英語で「Good morning」と言って私に近づいてくる。殺意しか見受けられないその姿から伸びているのは、巨大なダガー。まるで血を吸って生きているかのような真紅を私に見せ、そして、ユリエールに向けた。

 

 ユリエールが震えながら言った。

 

「や、約束通りつれてきました。だから、お願いですからシンカーを、シンカーを助けてください!」

 

「Good jobだ。ユリエールさん。あんたには資金繰りから何まで世話になったな」

 

 さて、とポンチョの男が私へ再びダガーを向ける。恐ろしくて足が震えそうだった。

 

「まずはようこそ、とでも言えばいいのかな。俺たちはこれよりギルドを立ち上げる。《笑う棺桶》――ラフィンコフィン。つまりは、殺人ギルドだ」

 

「なん、ですって……?」

 

 言っている意味が分からず、私は聞き返す。内容もそうだが、それに私が関わらんとしているのは一体どんな意味がある?

 

「ホーリィのやつに、結成時にドでかい花火を上げようってンで、この場を用意させてもらった。俺たちは、あんたの処刑を打ち上げて、ギルドの結成式とする」

 

 意味分からない。

 

 逃げていたはずが、処刑される?

 

 ユリエールを見る。震えた表情で両手を胸の前に握っている。信じていたのに、裏切られた?

 

 いや、シンカーを人質に取られていた? まったく思考が回らない。恐怖で頭と身体が言うことを利かない。

 

「さて、とはいってもハイそうですかってあんたも死にたくなねえだろ? ってなわけだ」

 

 ポンチョの男が不適に笑う。

 

「俺と戦おう。俺に一撃でも当てられれば、逃がしてやるよ」

 

 誰か……。

 

 ポンチョの男がダガーを構える。周囲には、決して逃がすまいと私たちを取り囲む彼の配下らしき者たち。

 

「さあ、剣を構えろ。It's show time!!」

 

 助けて……。

 

 



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これが、比企谷八幡なりの冴えたやりかた 4

 アポストルの絶望的な宣告。それを受けた俺は、

 

「は――は、ははは、あ――はっはっはっはっはっは!」

 

 それはもう大笑い。びっくりするほどの大笑い。いままでこれほど笑ったことなんてないほどの大笑い。周囲はドン引き。サキですら顔を引きつらせている。そうだよ、だって言ってねえもん。

 

 いっぱい食わされた、とでも言ってやればいいのか?

 

「ふざけんな」

 

 ドスの利いた声で言って、アポストルの左頬を思い切り殴りつけた。ノックバックによって吹き飛ばされたアポストルが、自分の頬を撫でる。むかつくからもう一発殴りたいが、予想以上に時間がない。

 

 通信結晶に声を掛ける。

 

「アルゴ、状況は?」

 

「問題ないヨ。場所は十九層。西にある丘だヨ。アイシアに感謝しないとネ」

 

「よし、こっちは最短で向かう。キリトとアスナを現地召集。それと、サンキューな」

 

「お礼はアイシアにネ」

 

「あいよ」

 

 通信を切った俺は振り返る。誰も彼もが放心状態だ。なにせ、アポストルですらぽかんとしている。そうだよ、お前のそんな顔を見たかったんだよ。だが生憎俺は優しくなくてな。てめえなんかに裏を教えるわけねえだろうが。

 

「サキ、クライン。何呆けてやがる。場所はわかった。さっさと助けに行くぞ」

 

 まだ動かない。衝撃でわれを忘れているのか。サキだけがややあって俺のところにやってくる。

 

なに? 俺が笑ったのがそんなに意外なの? いいから動けって。ハリーハリーハリー……!

 

「さっさと動けっつってんだよウスノロ! ユキノを殺してえのかテメエら!」

 

 俺の恫喝で、ようやく目を覚ましたか、ディアベルとクラインが己を取り戻す。

 

「ディアベルはここで指揮しろ! 話は後だ。十九層、西の丘にユキノがいる! それとやつらに今真っ最中で襲われてるところだ!」

 

 それだけ言って俺は転移門へ駆け出す。サキは一瞬遅れて、クラインはやや遅れて走り出す。

 

 転移門から《ラーベルグ》へ転移する。どこもかしこも暗いゴーストタウンを西へ走りぬけていく。

 

 そう、俺は端から信じていなかったのだ。処刑が十時に行われるなど。

 

 やつらにとって、邪魔する存在は不可欠だ。だからあるひとつの罠を仕込んだ。それが時間だ。それさえ読みきれば、あとは簡単。黒鉄宮に夜中から張っていればいいだけだ。あとは都合よくユキノが逃げていくところさえ見つけられれば、可能であれば身柄を押さえる。無理ならば後をつけてアルゴに情報を提供する。

 

 いわば、俺たちも、アポストルも、互いに陽動だったのだ。やつの目的がなんであるか分からないが、ここまであからさまに動いて邪魔されないとは思っていなかっただろう。頭の切れそうな奴がやる、クソッタレな罠だ。

 

 だがそれも見破った。本当ならばユキノが連れ去られたときに確保したかったが、状況がそれを許さなかった。下手に俺たちが動けばこちらの動きがバレ、相手側の動きが変わる可能性があった。つまり、状況を可能な限りコントロールするには、今回のような不恰好な方式を取るしかなかったのだ。

 

 しかもだ、正直言って、これも俺はあり得なくはない程度の保険だったのだ。まさかそれが功を奏したのだから、人生たまにはいいことあるものだ。

 

 だからユキノ、頼むから、そっちも頑張って耐えてくれ……! 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 振りぬかれたダガーをすんでのところで避け、刀を振る。黒ポンチョがそれを軽々とかわし、回転しながら一閃。それを刀で受け、刀身を滑らせながら小手を狙う。ダガーを上に放り投げた黒ポンチョが腕を上げてそれをかわす。僅かにそれた注意の隙間を縫って、腹部に鈍い衝撃が走る。レベルの差か、HPバーが大きく減って後ろへ下がる。宙から落ちるダガーを取った黒ポンチョが、口笛を吹いた。

 

 周囲でははやし立てる声。ユリエールの悲痛な叫び。

 

 私は、あれから無理やりこの男と戦わされている。幼少時、剣道もならったことのある私にとって有利とも言える戦いではあった。だが、実戦は違った。命掛けの戦い。こちらの意思を読んでいるかのように動く男。そしてなにより、先のやり取りのように、予想外の動きをするトリッキーさ。すべてが恐れを助長させるものでしかない。

 

「やるね。あんた。これは名前を名乗らないのは失礼かもな」

 

 ダガーを肩に乗せた黒ポンチョが名前を告げる。

 

「俺はPohだ。あんたの処刑人だ。精々覚えておいてくれ。さて、Show timeの続きと行こうか!」

 

 Pohと名乗った黒ポンチョが一気に近づいてくる。こちらの左小手を狙うダガーを、手を抜いて交わす。すぐに閃いたダガーが首筋、胴、喉へと連続で流れていく。それを紙一重で、いや、すべてをぎりぎりでかすり傷にしながら猛攻を耐えていく。

 

 HPバーはどんどんと削られ、いまやイエローゾーンへ突入している。

 

 僅かに視線がそれたのがまずかった。

 

 鈍い金属音と共に、私の愛刀がダガーに弾かれ、宙を舞った。

 

 ドス、と音と共に地面に刀が突き刺さる。

 

 咄嗟に、私は身を翻して逃げようとした。だが、それもすぐにPohに捕まえられる。

 

「Catch me if you canってか? 鬼ごっこって年齢でもないだろうが」

 

 歌うような台詞と共にPohに無理やりひっぱられ、今度は首筋を掴まれる。

 

 ハラスメントコードに引っかかりそうになったところで、思い切り突き飛ばされた。

 

 地面に転がった私の眼前に影が落ちる。

 

「さて、そろそろCurtain call。幕引きといこうか」

 

 黒ポンチョPohのダガーが、高く、高く掲げられる。

 

 怖い。怖い。恐ろしい。負けたくない。なのに、怖くて手が震える。こんな恐ろしいことはいまだかつてなかった。いやだ。死にたくない。比企谷くん……。

 

 助けて、比企谷くん……!

 

 

 

速く速く。もっと速く。

 

 やがて街を抜け、丘が見える。その先、まだ霞のようにしか見えないが、人影の集団が見える。

 

 頭の中の回路が切れ、ソードスキルの構えを取る。もやはなじみとなったそのスキルは、突進系単発スキル。

 

 人が囲った簡易コロシアムの中で、黒ポンチョ姿の男にいままさに殺されんとしているユキノの姿。

 

 絶叫する。

 

「ユキノ――!」

 

 人垣を吹き飛ばし、間一髪、黒ポンチョの攻撃を短剣で受け止めた。次いで、サキが外側からやりを振り回す。応戦を開始した人垣の集団に、遅れてやってきたキリトとアスナが参入する。

 

「比企谷くん!」

 

「間に合った。なんとか間に合った」

 

 ダガーを受け止めたまま、俺はなんとかそれだけを言ってみせた。ダガーが思い。相当筋力パラメータに差があるな、こいつ。

 

 黒ポンチョが短剣を弾いて後ろに下がる。

 

「Bad Timing。こいつが奴の言っていた男か。なるほど、目が腐ってやがる」

 

 うるせえよ。

 

 こちとら頭ぶち切れ寸前なんだ。

 

「殺すぞてめぇ!」

 

 俊敏特化した俊足で短剣を斬りつける。ダガーで受け止めた黒ポンチョが受け流して横薙ぎ。それを跳躍でかわし、逆手に切り替え脳天に突き落とす。その刃先を受け止めた黒ポンチョが引く。

 

 逃がすか!

 

 更に追撃。黒ポンチョへ肉薄して短剣とナイフの連撃を見舞う。純粋に昇華した体術は実に十二連撃を黒ポンチョへ殺到させる。何発か受け止められるも、確実にやつのHPバーを削る。

 

 実に愉快というように、黒ポンチョがその獰猛な口を開いた。

 

「Good! すげえなお前。お前とはもっとじっくり殺しあいたい」

 

 黒ポンチョが懐から何かを取り出す。瞬時にナイフを投げるも間に合わない。ナイフが黒ポンチョの胸に刺さる寸前、地面に奴がなにかを叩きつけた。瞬時に広がる煙。灰に染まる視界。

 

 黒ポンチョの声。

 

「撤退するぞ!」

 

「煙幕弾か!」

 

「Good bye、《暗殺者(Assassin)》! 次は愉しもうぜ!」

 

 直後、転移結晶の輝きがあちこちから放たれる。サキやキリト、アスナの声が響く。

 

 煙が晴れた頃、そこには奴らの姿はなかった。全員転移したのだ。

 

「逃げやがったか……クソッたれが」

 

 膝を落して地面を叩く。だが、すぐに頭を切り替える。ユキノは無事なのか?

 

 振り返ってユキノを見る。身体のあちこちに傷のエフェクトがあるが、彼女は無事だった。生きていた。それだけで、いままで張り詰めていたものが一気に解けたのを感じた。

 

 やべえ、疲れたか……。

 

 ユキノが近づいてくる。サキが俺の背に手を当てる。キリトが、アスナが何事かと走り寄ってくる。

 

「サキ、すまん。落ちる……」

 

 それだけ言って、俺の意識は沈んでいく。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 目が覚めると、そこはサキの部屋だった。起きた瞬間に後頭部に感じる柔らかくも暖かい、幸せな感触。頭上には、ふたつの双丘がそびえていた。俺の身じろぎに気づいたか、頭上からサキが顔を落す。

 

「起きた?」

 

「わりぃ、寝てたみたいだな」

 

 サキが頭を撫でてくれる。相当疲れていたのが、それだけで嘘のように身体が快調になっていくのを感じた。まったく、現金な身体だ。しょうがないじゃない、だって男の子だもの。

 

 さすがにこのままというわけにもいかず、俺は身体を起こす。

 

 ベッドの上で、振り向いてサキと対面にすわり直す。

 

「で、あれからどうなったんだ?」

 

「ユキノは救出したよ。いまはアルゴが匿ってくれてる」

 

 そうか、と頷く。アルゴが力を貸してくれるのなら安心だ。

 

「アポストルは逃がしてしまったみたいだよ。どうやらあの後、やつらが第一層へ向かったらしくてね、乱戦中にアポストルが逃げたみたいだ。あとでディアベルが謝罪に来ると思うけど、許してやって」

 

「そりゃしょうがないだろ。あいつらはやば過ぎる」

 

 俺の言葉に感ずるものがあったか。サキも身体を抱きしめながら頷く。

 

「そうだね。人を殺すのに躊躇してなかった、そんな感じがするよ」

 

「悪いな、連れてったりして……」

 

 咄嗟の判断で俺はサキを連れて行った。しかし、あのとき、黒ポンチョの男がすんなり引かなければ、多勢に無勢でサキが死んでいたかもしれない。その発想に至ったとき、俺は震えた。

 

 俺は何を考えてたんだ。ユキノが窮地に陥ったとはいえ、サキをその窮地に蹴飛ばしたらなんの意味もねえじゃねえか……。

 

 ふいに、サキの体温が身体全体に広がった。彼女に抱きしめられたのだ。

 

「あんたの考えてること、当ててあげようか?」

 

 何が言いたいのか分からず、俺は首を傾げる。首元でくすくすとサキが笑った。

 

「あんた、あたしを連れてったこと後悔してるんだろう?」

 

「エスパーかよ」

 

「あんた限定のね」

 

 そう言って身体を離したサキが微笑む。

 

「今回あんたは頑張ったよ。なるべく全うな方法でね。多少は奇策があったし、あたしにも黙っていたのはちょっと怒ったけど、それでも、ユキノを助けてくれた。ありがとう。あんたは頑張ったよ」

 

 それにね、とサキが続ける。優しい笑顔で。

 

「あんたの隣に居続けるってあたしは誓った。だから、あんたがあの場に連れて行かなくても、あたしは勝手について行ったよ。だから、あんたが責任を感じることじゃない」

 

 サキの言葉があまりにも愛しくて、自分勝手な責任を感じていたことが愚かしく感じた。

 

 思わず、俺はサキを抱きしめた。もしかしたら、本当の意味で俺からは初めてかもしれない。

 

「んっ……あんたにされるのは初めてだね」

 

 恥ずかしくなってすぐに話す。女の人の身体ってやっぱり柔らかいよね、とか考えてないと頭が羞恥心で沸騰しそうだった。

 

「まあ、あれだ、サンキューな」

 

「ん、どういたしまして」

 

 それから、ユキノにアルゴ、キリトにアスナ、ディアベルとクライン、そしてアイシアがやってきた。ディアベルは地面に額をこすりつける勢いで頭を下げたが、俺はそれを笑って許した。俺とて奴らを取り逃がしたのだ。ディアベルを怒る筋合いなの欠片もない。

 

 それから、ユリエールのことが話された。

 

 彼女はシンカーを人質にとられ、《軍》の資金をPohとやらに横流しをしていたそうだ。当然、それを黙認していたのはアポストルだ。アポストルは元から奴らの仲間で、資金源として《軍》を利用していたというのがことの発端だ。

 

 ユキノ曰く、Pohというあの黒ポンチョは、殺人ギルド《ラフィンコフィン》を立ち上げるための一種の祭りとしてあれを行ったという。それも、アポストルの入れ知恵によってだ。

 

 ともあれ、ユキノは救われた。結局、あれだけの事件を起こした《軍》は解散されることとなり、在籍していたメンバーは他のギルドへ引き抜かれたり、独自にギルドを興したりすることとなった。ユリエールは事情も鑑みて無罪放免となったが、本人の責任感から孤児院ギルドを作ることになった。まだ小さい子ども達が《はじまりの街》にたくさんいるそうだ。救出されたシンカーもユリエールに付き合うこととなり、ギルドに参入した。先の圏内騒動も、シンカーらの言葉によりギルド間の抗争にまでならずにすんだ。マジでよかった。あれ下手したら俺が言ってたSAO大戦になってたよね。

 

 とにかく、これでひとまずユキノの横領冤罪事件は終止符を打った。

 

 小さな祝勝会を開き、みなが帰ったあと、俺とアルゴはサキの部屋に残っていた。まだ話しておきたいことがあるからだ。

 

「やつら、《ラフィンコフィン》って言ったな。アルゴ、やつらの情報を集めておいてくれ。なんか妙に気に入られちまったみたいでな。また殺りあうことになりそうだ」

 

「了解だヨ。まったく、ハチマンも面倒事ばっかりふっかかるねえ」

 

「んなことねえよ。俺の人生は平々凡々だ。そして将来の夢は――」

 

「専業主夫」

 

 サキとアルゴの声が揃う。だが、俺は不敵に笑って言ってやった。

 

「公務員だ」

 

 そのとき、世界が止まった気がしたね。サキとアルゴが氷ついてやがるんだもん。超面白い。というか、さっきから「ハチマンが、働こうとしている」だの「ついに頭がおかしくなったんだヨ」とかこそこそ言い合うのやめてね! これでもちょっと真剣に考えたんだから!

 

 もしも、もしもである。

 

 この事件がなかったら、俺はサキとこうした関係を築くことができたのであろうか。

 

 かつて、ifなど考えても仕方がないことだと思っていたことがある。

 

 だが、いまは少しだけ違う。

 

 かつての選択を悔やみ、あのときこうしていたらどうなっていたかと考えることがある。

 

 だから、もしこのゲームに捕らわれなかったのなら、サキとこうして仲良く話すことはなかっただろう。そして他の者たちも、きっと一生出会うことはなかったのだろう。

 

 たったひとり、孤独に生きていくことになったかもしれない。

 

 だから俺はこう思うのだ。

 

 いまだけ、ほんの少しだけは、このゲームを作り、こうして閉じ込めた憎き茅場晶彦へ、僅かばかりの感謝の意を示そうと――

 

 

 

 



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第三章
聖夜の煌きに、夢見るアルゴ 1


 三十三層のサキの部屋で、暖かいマッ缶を飲んで一息つく。隣では裁縫スキルで編み物をしているサキの姿があった。窓の外を見ると、空は澄み渡るような快晴。街路樹の葉はすべて枯れ落ち、乾いた風が寂しげな枝を揺らす。きっと、山なみも茶色くなり、山頂は白く雪化粧が施されているに違いない。

 

 そんな冬の季節。一週間後にはクリスマスが控えていた。巷ではクリスマスイベントでの蘇生アイテムがどうとか、異性といかにして過ごすかが話題の焦点になっている。

 

 俺はさっきからどう切り出そうかと迷い、甘ったるくも濃厚で痺れるドリンク、マッ缶を飲み続けている。サキの努力によって生み出されたそれは、俺のソウルドリンクとして、彼女がストックをし続けてくれている。ほんと、サキがいなかったら俺はマッ缶欠乏症で死んでいたかもしれん。

 

 がたがたと風の音がする。さっさとしろとはやし立てられているようで、気が気ではない。

 

 そう、クリスマスに一緒に過ごそう。ただそれだけを言えばいいのだ。文字におこせばなんてことはない一言。ただ、それを好きな人に言葉にするだけで、一体どれだけの気力が消費されるというのか。具体的にはマッ缶五本分くらいは消費する。

 

 さて、そろそろ切り出そう。俺も男だ。

 

 声を掛けようとして、やはり止まる。

 

 裁縫を続けるサキの姿があまりにも様になっていて、ただただひたすらに優しいその光景に、声をかけて止めてしまうのがあまりにももったいない。そのまま眺めていたいのだ。

 

 やがて、視線に気づいたサキが振り返る。ん、と吐息と共に首を傾げる。可愛い。そして自覚するとそんなことでも顔が赤くなるのを感じる。一体この数ヶ月間俺は何をやっていたんだろうか。以前とサキの関係が逆転しているかのようだ。

 

「い、いや、なんでもねえよ」

 

 まごつきながら答える。動揺がまるで隠せていない。

 

 サキはくすくすと笑って、「そうかい」と言って、また裁縫に戻る。

 

 長閑な時間だった。永遠に続けばいいと思うほどに。

 

 かつて、俺は一瞬を切り取って時が止まれば良いと感じたことがあった。

 

 だが、それもいまでは考えを変えていた。

 

 止めるのではなく、サキと共に歩んで生きたい。同じ歳を重ね、ずっとずっと一緒にいたいと思うようになった。

 

 なにこれ、乙女なの? ちょっと、小町ちゃん。お兄ちゃんどうすればいい? 乙女みたいになっちゃったよ。

 

 そのとき、再び脳裏に小町が降り立った。

 

 ――お兄ちゃん、そういうときは、愛してるでいいんだよ。

 

 だからなんで毎回それなんだよ! それが言えたら苦労しないんだよ! だって帰還してからって決めちゃったんだもん! でも好きなんだもん! しょうがないじゃん!

 

 ――お、お兄ちゃんがデれた! お兄ちゃんのいまの反応、小町的に超々ポイント高いよ!

 

 だめだ、脳内小町も役に立たねえ……。

 

 もうあれだ、気分転換しよう。ちっとばっか外の空気を吸えばなにか変わるだろ。

 

 立ち上がって部屋のドアへ手を掛ける。

 

「帰るのかい? 悪いね、あまり相手できなくて」

 

「かまわねえよ。サキ見てるだけで満足だしな」

 

 ……。

 

 いま、俺は何をいいやがりましたか?

 

 サキを見る。サキの顔が久しぶりに真っ赤になっている。おおう、お久しぶりです。元気してましたか?

 

 じゃない! やばい、恋について考えていたら感情がストレートに出ちゃったよ。

 

 ここは、逃げるが勝ちだ!

 

「じゃ、じゃあな! また後でな!」

 

 俺はそれだけ言って、サキの部屋から出る。途端、凍てついた風が吹き荒ぶが、そんなことは構わず俺は走る。

 

 青春は走ることだと、そんな言葉があったような気がする。だったら俺はいま、青春をしているのだろう。これは初めての青春だ。

 

 現在、最前線は四十層を超え、ついに四十九層にまで迫った。

 

 俺は最前線で狩りをすることに決め、四十九層の主街区《ミュージェン》まで足を伸ばすことに決める。

 

 《ラーヴィン》の転移門から《ミュージェン》へ飛ぶと、石造りのにぎやかな街が視界に入ってくる。よく見れば知った顔――《ブレイブ・ウォーリア》の面々もいくらか見受けられ、俺は速攻でステルスヒッキーを使用した。

 

 だってあいつら、いまだに勧誘してくるんだもん。こええよ。ストーカーの域超えちゃってるからね。

 

 っべーよ、っべー、と戸部語を駆使しながら俺はひっそりと街を進む。そのとき、アルゴが向こう側から歩いてくる姿が目に入った。さすがにスルーするのも悪く感じ、片手を上げて軽く挨拶をしてやる。まったく、他人に挨拶するなんて俺も変わったもんだ。現実に帰ってお兄ちゃんの成長を見せたら小町に泣かれるかもしれない。やだ、なんて感動的なシーン。

 

 俺の姿に気づいたアルゴが、ぱっと華やぐ笑顔を見せてとてとてと俺の元に寄ってくる。

 

「ハチマン、会いたかったヨ。どうしたんだこんなところデ?」

 

「や、特に理由はない」

 

 しばし思案顔をしていたアルゴが、はっとして俺を見る。

 

「オレっち、んんっ、私に会いに来てくれたの?」

 

 途中で言い直しても聞こえてますからね。こいつ、乙女モードに入ると一人称から口調まで変えやがるから、かなりドキリとするんだよね。しかも、最近は遂にトレードマークのペイントも取ったからか、鼠じゃなくてネコのように見えてきているのだ。あだ名も《鼠》ではなく《猫》になったようだ。俺も家にカマクラもいるし、猫はわりと好きだ。懐かれてないんだけどね……。

 

「ホントに適当にぶらついてただけだよ。最前線にでも潜るかって感じで」

 

 アポストルの一件依頼、俺の評価はそれなりに持ち直したそうだ。少なくとも、アルゴらと共にいても彼女達の評価が下がることがない程度ではあるが……。どうせ日陰者ですからね。

 

 へえーと何か悪巧みでもするような顔をしたアルゴが言う。

 

「ハチマン、お姉さんとの約束覚えてる?」

 

 ん? 約束? なにかあったか……? 普段世話になっている分はこの前返したし、そもそも情報屋だから金取るしこいつ。そもそもそんな話あったっけか?

 

 はて、といった様子の俺を見て、アルゴはそっと俺の耳元へ顔を寄せた。

 

「私とデートしてくれるって約束、覚えてないの?」

 

 しゅんと、心を痛めるようで、どこか甘い声でアルゴが囁く。

 

 うっ、これはなかなか、破壊力がある。悪い気はしないな、うん。

 

 昨今、《猫》のアルゴとなってからというものの、彼女の人気は俺とは違ってうなぎ上りだ。しかもいまはクリスマス一週間と相まってか、彼女と一夜を過ごそうとする男どもが多く、辟易としているそうなのだ。

 

 それを、なに? 俺? なんで? なんでじゃないよね。こいつあからさまに俺へ好意向けてるよね……。

 

 ああ違う違う、とアルゴが顔の前で手を振る。

 

「今日暇なのかなって。だからデートしよう?」

 

 胸の前で手をもじもじとさせ、頬を赤らめ、目を伏せつつ時折上目遣いで俺を見る。

 

 ハチマンに あざとい こうげき が あたった

 

 こうかは ばつぐんだ!

 

 冗談はさておき、正直暇を持て余していたのは事実だ。ユキノとの邂逅以降、無理なスケジュールを立てることがなくなった俺は、基本週休二日で休んでいるのだ。つまり、土曜と日曜だ。今日は土曜日だから、今日明日はまるっきりスケジュールが空いている。現実なら家でごろごろしたり漫画やラノベ読んだり、ゲームしたりアニメみたりと色々あるのだが、ここでは何もやりようがなくて困っているのだ。

 

 ならば、休日にアルゴと遊んでもいいだろう。何を遊ぶのかは分からないが……。だってここ、ゲームだし。一般的に見れば遊んでる真っ最中のはずだし……。

 

「ま、確かに以前約束してたしな。いい加減約束を果たすか……」

 

 俺のまさかの返答に、アルゴが驚いたように目を丸くする。

 

「ほ、ほんとに? 嘘じゃなくて? からかったりしてない?」

 

「マジもマジ、大マジ。今日は付き合うぞ。なにせ俺は暇だからな!」

 

 サキを誘う勇気もないし……。ハチマン情けない……。

 

 うぅーとアルゴが身体を縮めると、身体を大の字にして飛び上がった。

 

「やった! 遂に念願かなったよ。じゃ、じゃあ、今日は恋人同士ね! ハチマン、いいよね?」

 

 おっと、こいつ調子に乗りやがったぞ。

 

「ねーよ。とりあえず友達デート的なアレだ。そんなんが小町の雑誌に書いてあったような気がするから、アレだ。それにしよう」

 

 うう……とアルゴは項垂れるも、すぐに持ち直したように満面の笑みで俺に迫る。

 

「でも、デートだもんね。デート的な感じでいいんだよね?」

 

「お、おう? いいんじゃねえの? デートでデート的な感じってなんだよそれ」

 

 するりとアルゴが動いた。俺の左側に立ったアルゴが、俺の腕をとってそのまま抱え込んだ。つまり、腕組だ。アルゴさんのそこそこ主張しているお胸様がぎゅっと俺の腕に当てられる。その柔らかな感触が腕いっぱいに広がり、背の差もあってかアルゴの頭が肩に乗せられ、これもなかなかにイイ。

 

 や、やばい。サキのもいいが、アルゴのもなかなか……。

 

 こ、小町! お兄ちゃんこういうときどうすればいいの! 助けて!

 

 もはや恒例となった小町への助けを俺は求める。そして、脳内小町が現れ、蔑んだ視線で俺にこう言った。

 

 ――所詮胸なんだ……小町的に超々ポイント低い。

 

 こ、小町に嫌われちまったよ。死にたくなってきた……。

 

 徐々に優柔不断男になってるんじゃないかと思い始めてきながらも、せめて今日はアルゴとのんびりとしようと予定を話す。

 

「で、どうすんだ?」

 

「ハチマンはどうしたい?」

 

「家」

 

 はぅ……とアルゴが顔を伏せる。やば、昔の癖で家に帰りたい衝動にかられてついつい言ってしまった。だが、この反応は一体なんぞや?

 

「い、家デートはもう少し色々重ねてからが、いいかな……」

 

 つまりはあれだ、家であれしてあれする、ということだと勘違いをしたのだろう。ハチマンうっかり! というかゲームじゃできないでしょアルゴさん……。

 

「ちげーから。とりあえず、どっかアルゴの行きたいところに行こうぜ。俺はひとりで出かけるときはワクワクしながら綿密に計画を立てるが、誰かと行くときは誰かに着いて行くスタイルだ」

 

 ふふ、とアルゴが笑う。心をくすぐるような笑い方だった。

 

「ハチマンらしいね」

 

 腕に篭められていた力が増し、アルゴがより近く密着する。

 

「お、おい……」

 

「私も恥ずかしいから、ハチマンも耐えて。だから、私を見て」

 

 心臓がきゅっとするような声で、アルゴが言った。本当に、惚れそうになった。俺はサキが好きだというのに、アルゴに惹かれそうになった自分がいる。

 

 恋愛感情など数年持っていないせいで、節操がなくなったのだろうか。

 

「ハチマン……いこ?」

 

 アルゴに促され、歩みを進める。仕草ひとつ、声ひとつが可愛らしくて仕方がない。このまま狂ってしまいそうだ。恋愛経験のなさをこれほど恨んだことはない。

 

「で、ど、どこ行くんだ?」

 

 どもった……。

 

 アルゴが笑っている。とても嬉しそうに。

 

「ハチマン、もしかして緊張してる?」

 

「うっせえ」

 

「ハチマンはモテなかったの?」

 

「ぼっちだぞ。推してはかるべきだろ」

 

 ふーん、とアルゴが思案気味に言う。

 

「みんなハチマンのいいところ、知らないんだね」

 

 俺にいいところなんかあるのか? アルゴの言葉に俺は首を傾げる。その姿をまたくすくすと笑って、アルゴは「教えてあげない」と言った。

 

 そんな悩ましい感情を抱えながら、アルゴとふたり街へ繰り出す。ゲームの仕様か、あたり一面完全にクリスマス仕様になり、昼間なのにも関わらずキラキラとイルミネーションが輝いている。街の中央広場など、まだ明かりは灯っていないものの、中央にもみの木がそびえ立ち、天辺には夜空から盗ってきたんじゃないかと思われるほどの大きな星の飾りが鎮座しているのだ。そこからイルミネーション用の配線が各建物に伸ばされていた。どんだけ気合いれてんだよこれ。

 

 周囲は赤と緑に満ち溢れ、街を歩く人々もどこか浮き足立っている。プレイヤーメイドの店では、サンタの衣装を着た売り子がチラシを配っている。何枚か受け取ると、クリスマスパーティに関するチラシだった。どうやら何名かで集めて合コンをするらしい。ケッ、リア充イベントに俺が行くわけねえだろうが。

 

 アルゴを見ると、彼女もそわそわしたようにあたりを見て、時折感嘆の息を漏らしている。見てきてもいいんですよ? そろそろ周りの視線も厳しくなってきたし。

 

 そもそも、ここSAO内には女性が極端に少ない。だからこそ、男女でのカップルなど数は少ないし、こうしてふたり腕を組んで歩けば、常に嫉妬と恨みと呪いの視線をこれでもかと浴びるのだ。しかも今回、相手は人気沸騰中のアルゴだ。男としては居た堪れない。なぜなら俺も本当ならそちら側の住人なのだ。

 

 意識をずらして視線に耐えていると、ぎゅっとアルゴがさっきよりも密着する。

 

「あ、アルゴ、なにがどうしてこれでそうなった?」

 

 台詞がしっちゃかめっちゃかになった俺に、アルゴは頬を俺の肩にこすりつける。

 

「見せ付けてるの」

 

 やめて! 俺の心臓が、心臓が死んじゃうから!

 

 なんでこう、男心の中心を的確に捉えてくるかなこの猫は。これ以上一緒にいたら俺、心不全になるんじゃないかな。やだなあ、ゲーム中で心不全だなんて。死ぬならせめて戦って死にたいぞ。俺もそろそろゲームに毒されつつあるのかもしれないな。

 

「あ、喫茶店に入ろうよ。あそこ美味しいって評判なんだよ」

 

 アルゴが指差したのは、こじゃれた喫茶店だ。店に掛けられた看板には、なにやらフランス語らしき名前が書かれている。ぐぬぬ、読めん。

 

 行こ、と言ってアルゴに腕を引かれて店内に入る。カランカランと鐘が鳴り、NPCに案内されて席に対面で座る。アルゴはぷくーっと膨れ面。どうやら隣同士に座りたかったらしい。やめてくれ。俺の心臓が持たないから。

 

 互いにウインドウを開いてメニューを選ぶ。さっきマッ缶を飲んだから、他のでも飲もうかとメニューに目を走らせていると――なぜだ。なぜここにもあるんだ……!

 

 ハチマン、とアルゴから控えめな声が届く。

 

 分かってる。分かっているとも。それ頼むっていうんだろ?

 

 メニューはこうだ。

 

 ――ふたりのトキメキ胸キュンジュース。

 

 前と何が違うんだよ。ちょっと名前変えただけじゃねーかよ。なんでここにもあるんだよ。店長呼べ店長をさあ!

 

「ハチマン。二人で飲みたい。飲みたいよ……」

 

 お願い口調などではなく、直接的にアルゴが言ってきた。上目遣いに、ちょっと目元は潤んでいて、口許は恥ずかしそうに力が少し入っていて。頬はやっぱり赤らんでおり、胸の前で指同士をちょんちょん突いている。

 

 あざとさの役満である。しかもこれをアルゴがやればW役満か。点数いくらだっけっかなぁ、と思考をあさっての方向に飛ばそうとして、アルゴの瞳の吸引力には逆らえない。ダイソンなの?

 

「ぐ、こ、これで最後だぞ」

 

「……うん、ありがとう」

 

 俺の反応は前と似たり寄ったりなのに、アルゴだけ反応が違う。本当に、心底うれしそうで、でも俺に迷惑をかけているんじゃないかという不安が見え隠れしている。

 

 注文を終えると、アルゴは懐かしそうに俺を見ていた。その表情はどこか感慨深く、過去を振り返るようでもあった。

 

「ハチマンとの仲も、もう一年は過ぎたんだね」

 

「そうだな。あの登場はねえだろ、さすがに」

 

 俺も思い返す。確か、二日目の朝、こいつがいきなり背後から肩に手を置いてきたのだ。最初は面倒なやつに絡まれたものだと思ったはずが、今ではこうして一緒にお茶を飲む仲となった。共に死線を潜り抜けたこともあるし、絶対に言うことはないが命を救ってくれたこともあった。

 

 仲間なんて言葉を吐くようになってから、俺はこいつを仲間の枠に入れていたのだ。ぼっちを自称していた俺がこうまで変わった原因の一旦には、サキを筆頭に確実にこいつもいるのだろう。

 

「あのとき、何となくふたり共落ち着いているように見えてね。思わず声をかけたんだよ。私もここまで長く付き合いが継続するなんて思ってもみなかった」

 

「ああ、お互い今までよく生きてこれたな」

 

 くすくすとアルゴが笑う。楽しそうな微笑だ。

 

「それ、なんだか死亡フラグみたいだよ」

 

「マジか。俺死なねえよなあ……」

 

 ふいに、アルゴが表情を真剣なものにして、言った。

 

「死なせないよ。私が絶対にあなたを守るから」

 

 思わず目を見開く。

 

 アルゴは直球だ。変化球など一切投げず、好意をそのままストレートに投げてくる。だから、俺のような敏感系男子の癖してA.T.フィールドを分厚くはっていても、簡単に突破されてしまう。何使徒なのこいつ? ちょっと強すぎませんか。

 

「サンキューな。お前にはいつも助けられてばかりだ」

 

 こうやって言葉をかわす。まだこのままでいたいと思うのは、きっと俺のエゴだ。きっと、想いを言葉にすれば関係性は壊れてしまう。

 

 ――ああ、そういうことか。

 

 こうして実際に立場になって、海老名さんの想いが理解できてしまった。決して嫌いなわけじゃない。ただ、関係が変わるのが怖い。だが、それでも、いつかは変わらなければならないときが来る。ただ単に無理やり引き伸ばすのは欺瞞だ。

 

 欺瞞もいいことだとは思う。それでもひとりの人間が全力でだした想いを、その願いを、欺瞞でぶち壊しにしてしまうのもまた、間違っている。俺は、答えを出さなければならないだろう。

 

 いつかその日が来るそのときまでに。

 

 しばらくの間アルゴと雑談をしていると、遂に奴がやってきた。

 

 俺とアルゴの間に置かれたそれは、前回のものより多少小ぶりには見えたが、器が豪華で中身もスペシャルな感じだった。つまり、どういうことかというと――

 

 なんで器が細くてストローとストローの間隔が短いんですかねえ。これじゃあ顔近づいちゃうじゃないか。

 

「ハチマン」

 

 期待の篭った目でアルゴが見つめてくる。決めた以上、先に進むのは間違っているのだろうか。だが、僅かばかりに見てきた恋愛事情、小町の言葉、偏差値の低そうな雑誌を見る限り、いまは他のことを考えず、アルゴのことだけを考えていたい。これは、きっと間違っているのだろう。

 

 それでも――

 

「あいよ」

 

 ふたりで顔を近づけ合わせ、ふたりのトキメキ胸キュンジュースを飲む。

 

 その味は、マッ缶よりも甘く切なく、なのにコーヒーよりも苦かった。

 

 



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聖夜の煌きに、夢見るアルゴ 2

「やっと終わった」

 

 あたしは裁縫を終えると、大きく伸びをした。

 

「喜んでくれるといいんだけどね」

 

 最近はハチマンとの距離が徐々に近づいてきている気がする。かつてはどこか遠慮があった彼も、最近はよく家に来るようになった。まるで通い夫みたいだ。特に何をするでもなく、会話をしたり、ただ黙って一緒にいたりという風に、熟年夫婦のような生活をしている。

 

 デートはたまにする。私だけが意識しているのかもしれないが、きっと、彼も意識してくれているんじゃないかと期待している。

 

「クリスマスか……」

 

 あたしはぼやく。誘わないといけない。ふたりで一緒に過ごそうと。でも勇気が出なくて、いつものように時間ばかりが過ぎていく。その点、やっぱりユキノはすごいと思う。

 

 ユキノと言えば、彼のことは完全に吹っ切ったようで、よくあたしの相談に乗ってくれる。普通なら振られた男に関する相談など受けたくはないだろうに、ユキノはあたしを気遣っていつも話を聞いてくれ、時にはアドバイスをしてくれたりもする。まあ、そのアドバイスがたまにずれていたりするのは愛嬌だろう。

 

「さて、今日はやることもないし、街でもぶらつこうか」

 

 もしかしたらハチマンに出会えるかもしれないし。そのときはクリスマスのことを誘おう。

 

 それが主目的なくせに、理由をつけてみる。

 

 ハチマン風に言えばあれだろう、理由を他に預ける、という奴だ。

 

 まったく、彼はいちいち細かくて潔癖なのだ。いいじゃないか。それくらい。潔癖も過ぎれば、心が壊れてしまう。だから、こうやって何かしら理由を作って人は動くのだ。

 

 行こうか。ひとり呟いてあたしは外へ出る。場所はそうだな、最前線の街にでも出かけよう。フィールドや迷宮区へはよく行くが、主街区を探索したことはあまりないのだ。

 

 ユキノも誘おうかと思ったが、いまのいまでは彼女も難しいだろう。なにせ、やんちゃな子ども達を相手に日々格闘しているとのことだから。また別の機会にお茶をするでもしよう。そのときは驕らせてもらおう。

 

 街の転移門から《ミュージェン》へ行き、街を散策する。

 

 街はクリスマス一色になっていて、あたりを見渡すたびに必死になって現実を思い出そうとする姿が随所に見受けられた。

 

 みな、この世界に慣れてきてしまっている。現実を忘れてしまうほどに。だから、こうして現実のイベントを必死で盛り上げ、現実へ帰還する夢を思い出すのだ。

 

 だが、いまはそんなことはどうでもいい。どうやったらハチマンを誘えるのかを考えなければならない。これは難しい問題だ。実に実に難しい問題だ。

 

 ふと、喫茶店が目に入った。ひとりで入ることになんの抵抗もない私は、外から店内を見てよければ入ろうかと、窓の内側に目をやる。そして、見てはいけないものを見てしまった気がした。

 

 ハチマンとアルゴが、ふたりで同じジュースを飲んでいる。

 

 まるで、恋人同士のように。

 

 アルゴは乙女の顔をしている。ハチマンを好きと言った彼女は、全力で彼を奪うと言った。あたしはそれにまともに答えられず、後になってようやく彼女に想いを伝えた。

 

 だから、彼女のいまの行動は問題などない。

 

 ハチマンも、恥ずかしそうにしながらも、少し嬉しそうにストローを口にしている。

 

 あたしはハチマンと付き合っていない。事実、そうしたことを外から言われることはあるが、想いを交し合ったわけではない。男と女ではあるが、抱き合ったりキスをしたこともあるが、所詮はそれだけ。好きと言いあったこともない。友人以上、恋人未満の関係だ。

 

 だからこれは、何の問題もない。

 

 問題なのは、あたしの心だけだ。

 

 ふらつく。

 

 ショックなのだろうか。

 

 ショックに決まっている。

 

 あたしは、初めてアルゴに嫉妬した。

 

 前に言っていたジュースとは、このことなのだろう。

 

 なら、こうしたことは今回だけではないのだ。きっと、何回もあった。

 

 じゃあ、あたしは一体、なんなのさ。

 

 汚い感情が渦巻いてしまう。必死で推し留めようとして、泣きそうになる。

 

 あたしはハチマンが好き。でも、ハチマンはアルゴが好き……?

 

 あたしは走りだす。無我夢中で走って、走って――

 

 一体どこへ行けばいいの?

 

 身体に衝撃。地面に尻餅をつく。

 

「いたた、大丈夫かい? って、サキさんじゃないか」

 

 遠くにディアベルの声が聞こえる。ああ、彼とぶつかったのか。そんなことはどうでもいい。

 

 あたしはゆっくりと立ち上がる。声をかけるのも忘れてそのまま行こうとし、先へ進めない。腕が何かに引っ張られている。強く引いても動かない。

 

 そこであたしはようやく後ろを見た。

 

 ディアベルが心配顔であたしの腕を握っていた。

 

「サキさん、サキさん? 聞こえてるかい?」

 

「あ……ああ」

 

「よかった。全然返事をしないからびっくりしたよ。それより、一体どうしたんだい? オレでよかった話を聞くよ?」

 

 ああ、そうだね。聞いてもらおうかな。もう、なんでもいいや。聞いてくれるなら、この苦しみを吐き出せるのならば。なんだっていいや。

 

 一瞬見たディアベルの顔は、悲痛そのものといったようだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 時間はあっという間に過ぎていく。開始は昼前だったというのに、もう夕食を食べ終える時間となったところだった。

 

 食事を終えた俺とアルゴは、その足で街の中央広場へ来ていた。夜になってのイルミネーションを二人でみたいのだそうだ。

 

 少なくない人の中で、俺とアルゴは隣同士並んでクリスマスツリーを見る。イルミネーションが灯る。星から放射線上に光が現れる。夜空に七色の星が瞬くようなその光景に、俺は思わず息を呑んで感動した。

 

「きれい……」

 

 アルゴの心からの声が、耳に馴染む。

 

 寒空の下、ふたりでしばらくの間、イルミネーションを見ていた。

 

 お互いに無言だった。

 

 きっとなにかがあると、このとき俺は思っていた。

 

 だからアルゴが誘ってきたのだと思った。

 

 そして、そのときは来た。

 

「ハチマン」

 

 アルゴが俺を見上げる。顔は緊張で少し強張っていて、何かを怖れているように瞳が左右に揺れていた。

 

 俺は軽く息を吸った。

 

「なんだ?」

 

 アルゴが言う。言の葉にすべての想いを載せて、欺瞞さえ乗り越えて想いを告げられる。

 

「好き」

 

 大好き、とアルゴが続ける。

 

「私はハチマンのことが好き。大好きだよ」

 

 そう言って、アルゴが俺の胸に飛び込んでくる。俺はそれに応えることができず、ただ腕をだらりと下げていた。

 

 私を見て、とアルゴが小さく叫ぶ。

 

「サキちゃんじゃなく、私を見て。私だけを見てほしいの。好きだから……大好きだから」

 

 アルゴが離れ、涙に濡れた顔を俺に見せる。そして、再び飛び込んできた。今度は、唇を重ねられる。避けられなかった。言葉の想いがあまりも強くて、何も言えなかった。

 

 顔を離そうとして、アルゴに頭を押さえつけられる。

 

 たっぷり十秒はキスをしていた。

 

 アルゴが離れる。

 

 やがて、その瞳が驚愕に開かれる。

 

「う……あ……っ」

 

 俺の顔を見ているのか、それとも別の何かを見ているのか、アルゴの唇が震えた。

 

「ちが……私は……そんな、つもりじゃ……」

 

 アルゴがわなわなと震える。そんなつもりじゃないんだと、うわ言のように呟きながら。

 

「アルゴ?」

 

 そして、アルゴが身を翻した。

 

「おい! アルゴ!」

 

 追いかけようとするも足が動かない。先の衝撃が足にまで響いていて、一歩も動くことができない。いま追いかけなければならない気がして、一体そして何を言うんだと思った。

 

 欺瞞を壊そうと思った。

 

 来るべき日になったら、ちゃんと俺の想いも伝えようと思った。

 

 俺の勘違いならばそれでいい。

 

 だが、勘違いでないのならば、ちゃんと応える必要がある。

 

 そう、覚悟していたはずなのに、俺の身体はぴくりとも動かない。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ディアベルに連れ添われ、連れて行かれた食事処で、ぽつぽつとあたしは会ったできごとを話した。ディアベルは余計なことはなにも言わず、ただあたしの思いの丈を聞いてくれていた。

 

 そして帰り道、ディアベルはイルミネーションでも見に行こうとあたしを誘った。きっと気を使ってくれているのだろう。綺麗なものを見て忘れてしまえば、きっと明日からまたハチマンといつも通りになれる。そう信じて、あたしは彼の案に乗っかった。

 

 イルミネーションが灯り、ディアベルが子どものように歓声を上げる。こういうとき、彼は少し子どもになる。彼と第一層の頃からの長い付き合いなのだ。

 

 ふふふ、とわたしは笑う。

 

 隣で、ディアベルが快活に笑った。

 

「ようやく笑ったね。やっぱりサキさんは笑った方が素敵だよ。明日ハチマンとちゃんと話しなよ。きっと理由があるはずだからね!」

 

 そういって、彼は大きくぐっと親指を上げた。彼のこういうところは好ましいと思う。誰にでもこうして元気付けてくれるところは、私もハチマンも大いにお世話になっているのだ。

 

 長い間イルミネーションを見て、「そろそろ帰ろうか」とディアベルが言った。

 

「そうだね、もう遅いしね」

 

「あんまり遅くなるとハチマンが心配するよ。彼は君に関しては特に心配性だからね」

 

 ふふふ、と笑う。ディアベルに会えてよかった。あのときひとりだったら、一人部屋の中で閉じこもって鬱々と嫌な想いをしていたに違いない。彼には本当に感謝だ。

 

「さ、行こうか! 帰り道もイルミネーションがきっと見ごろだよ」

 

 ディアベルに促されあたしも後ろからついていく。

 

 そのとき、あたしは見た。

 

 ……見てしまった。

 

 ハチマンとアルゴがキスをしていた。

 

 長い、長いキスだった。

 

 まるで恋人同士がするような濃厚なキス。

 

 アルゴが離れ、彼女の視線が一瞬あたしと交錯する。

 

 アルゴは何かを言っていた。

 

 聞こえない。

 

 なにも聞こえない。

 

 アルゴが去っていく。

 

 あたしの何かが崩れ去っていく。

 

 倒れそうになったあたしを誰かが支える。

 

 ディアベルだ。抱きかかえられるようにされて、彼は何事かを言っている。だけど聞こえない。私はある言葉が頭の中で壊れたCDのように永遠とリフレインしていたから。

 

 ――ハチマン。

 

 ねえ、ハチマン。

 

 あなたは、一体だれが好きなの……?



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聖夜の煌きに、夢見るアルゴ 3

 翌日、俺は同じく四十九層の喫茶店にいた。対面に座るのは、ユリエールらが作った孤児員儀ギルド《子どもたちの夢》に入ったユキノだ。

 

 ユリエールとも仲がもどったようで、毎日が忙しいとよく零している。そんな中、時間を割いて来てくれたのだ。

 

 なるほどね、とユキノは紅茶を一口飲んでソーサーへ置くと、指を組んで俺を見た。

 

「それで、私を呼んだと。そういうことね」

 

 はあ、とユキノが額を押さえる。馬鹿な子どものやんちゃを見る先生のような仕草だった。自覚があるので何も言えない。

 

 俺はあのあと、アルゴの後も追えず、自分の気持ちに整理すらつけられなくなり、一人自分の宿に帰った。その後、サキと会う勇気も持てず、ユキノに助けを求めたのだ。ここでユキノに連絡する俺、マジで屑なんじゃないだろうか。

 

「あなた、自分が何をやったか分かっているのかしら? 正直に言わせて頂戴」

 

 ユキノが一言で俺をぶった斬る。

 

「あなたバカ?」

 

 以前に比べれば単純な一言だが、俺の心は容易に抉られた。

 

「わ、分かってる。俺が悪い。全面的に俺が悪い」

 

「ええ。サキに気があるのにアルゴさんからの好意を否定しなかったあなたに責任があるわ。まったくこの男は……あと、もうひとつ悪いことがあるわ」

 

「それはなんでしょう」

 

 思わず敬語になる。もうユキノ様と呼んでも構わない。なにせ、俺は恋愛経験値など皆無なのだ。頼る先も考えつかず、同じ部活仲間で友人となった彼女に頼るほかなかない。

 

「あなた、私を振ったのよ? よくそんな相談持ちかけられるわね。神経を疑うわ」

 

 今度こそ正真正銘心臓にグさりときた。脳内の小町も、さっきから「クズ」としか言ってくれない。「ゴミいちゃん」の方がまだいいよ小町ぃ。

 

 思い切り落ち込んでいると、ユキノがふっと笑みを浮かべた。

 

「いまのは冗談よ。ちょっとからかいたくなっただけ。私はもう吹っ切れたし、あなたはちゃんと振ってくれた。そこに関してあなたが負い目を感じる必要はないわ」

 

「すまん」

 

「謝らなくていいの。ちょっと私が言いすぎたわね。ごめんなさい」

 

 そう言って、ユキノが軽く頭を下げる。

 

 ユキノは本当に丸くなった。以前のやりとりも個人的には気に入っていたが、今の方がやっぱりいい。話しやすいのだ。

 

「で、どうすればいい?」

 

「逆に聞きたいの。どうしたい?」

 

 聞かれて言葉が出ない。一体どうしたら良いのか。俺はサキが女性として好きだ。アルゴは友人として好きだ。だから想いには応えられない。でもこの関係を壊したくない。

 

 そんなことをぽつぽつと語る。かつての修学旅行を思わせる、欺瞞の答え。

 

「だけど、んなことはダメなことは分かってる。だから、アルゴにちゃんと答えを伝えたい」

 

「よくできました」

 

 ユキノが微笑む。

 

「私もあなたの立場なら、やっぱり悩むと思う。アルゴさんとはすごく良い仲なんでしょう? それがもしダメになってしまうとしたら、保留したくなる気持ちは分かるわ。でも、あなたは答えを告げることを選んだのでしょう。私はあなたのその答え、否定しないわ」

 

 ユキノに肯定されると、重かった心が随分と軽くなった。やはり部長の言葉は軽くない。伊達に世界を変えるだなんて言っていなかったんだな、と思う。なにせ、こいつは少なからず俺を変えているのだから。

 

「そう言ってくれると助かる。昨日から頭の中で最低男だな愚図野郎だの、そんな言葉ばかり回っててな。思わず首吊りたくなるまであったんだわ」

 

「恋は悩ましいわね」

 

 ユキノが頬に手を当てて窓の外を見る。俺も視線を外へ飛ばす。

 

 木々から零れた枯れ葉が、風にのってどこまでもどこまでも遠くへ運ばれていく。まるで、人生なるようにしかならないとでも言うように。

 

 でも、とユキノが続ける。

 

「あなた、私を振ったのにこうして仲良く友人として接していられているじゃない。なら、アルゴさんともきっとちゃんと友人同士になれると思うわ」

 

 あなたはそれだけの器を持った立派な男の人よ。そうユキノは最後に付け加えた。

 

ユキノの言う通り、彼女との関係は今も続いている。告白を断ったとき、多くの人はその闇の中に関係性の崩壊を見る。だが、もう既に俺は見たではないか。告白を断った先にあるものは、きっと闇だけなどではない。

 

 知らず、俺は苦笑していた。こんなことを忘れるくらい、頭が回っていなかったのだ。このこざかしい頭は、やはりこと恋愛が絡むとポンコツ以下になるらしい。

 

「なんか、サンキューな。それに、時間作ってもらって悪かった」

 

「構わないわ。部員のためなら、いいえ、友人のためならこれくらいさせて頂戴。だから、今度私が恋に悩んだときは相談に乗ってね」

 

「おう、任せろ」

 

 いつかユキノの前に現れた男性に彼女が恋を寄せたときに想いを馳せる。一体どんな男なんだろうか。きっと雪ノ下さんとの面談が待っているだろうな、と未来の男性に同情的な気分になる。

 

「じゃあ、方策を練りましょうか」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ハチマンが好きだった。あの日からずっと、彼の隣にあり続けることを願った。

 

 でも隣にはいつだってサキがいた。まるで母親のような包容力を持つ彼女に、私が適うところなどひとつもないと思っていた。

 

 私は自宅の部屋の片隅に、あれからずっと蹲っていた。ろくに食べ物もたべず、飲み物も口に含まず、ずっとずっと、後悔の船旅をしていたのだ。

 

 なぜあんなことをしてしまったのだろう。私は思う。

 

 告白だけでよかった。抱きつくだけでよかった。

 

 でも、キスまではしなくてよかった。

 

 あの日、キスをした後のあの瞬間、サキと目があった。彼女は我を忘れたように呆けていた。

 

「私は間違ってない」

 

 私は一人つぶやく。間違ってなどいない。だって、ハチマンとサキは付き合ってなどいないのだから。だから、あの行動は間違っていなかった。

 

 ならばどうして?

 

 どうして私は逃げたのだろう、と私は思う。

 

 サキに悪いと思ったから?

 

 キスをしたのが恥ずかしかったから?

 

 違う。

 

 答えなど簡単だった。

 

「私は、ハチマンにサキが見ているのがバレるのが恐かったんだ……」

 

 ハチマンはきっと、サキのことが好きだ。だから、何かしなければならないと焦りに焦り、私はあんなことをした。それをサキに見られたと彼が知ったらどうするのか、想像がつかなかった。だから逃げた。すべてを放り出し、逃げ出したのだ。

 

 いままでこんなことはなかった。

 

 ベータテスト時代から情報屋を生業とし、最前線を単身で走り回ってきた。命の危険があったことなど、両手で数え切れないほどだ。だが、それも経験と情報で潜り抜けてきたのだ。だけど、今回はそれがない。私には恋愛経験があまりないのだ。恋人だっていたことがない。だからこそ、いまこんなにも混乱している。

 

 ふと、さびしいと思った。

 

 いま私はひとりだ。

 

 当然だ。家にひとりっきりで、部屋の隅っこで猫のように丸くなっているのだから。こんなときにハチマンがいたらどうなっただろうか。しょうがねえなあ、とか、しかたねえなあ、とかそんな言葉を吐きながらも隣にいてくれるのだろうか。

 

 泣きたくなった。それを壊してしまいそうで、私はぼろぼろと涙を流していた。

 

 そのときだった、部屋のノックが鳴ったのは。

 

「……アルゴさん? いるかしら? 私、ユキノよ」

 

「……ユキノちゃん? どうして?」

 

 ハチマンの前では被らない、しかし、他人の前では被るべきフードがいまはない。失ってしまったそれを必死で取り戻そうとして、でも取り戻せない。

 

「あなたに会いにきたの。伝えたいことがあって。開けてくれないかしら」

 

「――待って。お願い……」

 

 時間を下さい。お願いだから、時間を下さい。私が元に戻るだけの時間を下さい。願うように声を振り絞る。

 

 ユキノはそれ以上中に入ってこようとはしなかった。

 

「クリスマスイヴの日、私とハチマンが主催でささやかなパーティをするわ。あなたにも来てほしいの。詳細はメッセージを送るから、それで確認して頂戴」

 

 それと、とユキノが続ける。

 

「お願いだから、何か食べて頂戴。あなた、ずっとそんな状態なんでしょう。彼ならきっと、そう言うはずよ。それじゃあ、またね」

 

 ユキノの声が途絶える。私は動けない。もう少し、あと少しだけ。

 

 そうしたら、きっといつものアルゴに戻るから。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ユキノと別れたあと、俺はクラインと共に第一層の修練場に来ていた。殆どがサキとばかりやっていた対人戦闘。だが、やはり他の武器や人ともやったほうが良いとのことで、たまにキリトやアスナ、ディアベルともやっていたのだ。今回は、クラインきっての依頼でこうして来た訳だ。

 

 まったく、クリスマスも控えているのに何をやっているのやら。ただ、いまは身体を動かしておきたかった。完全に頭をすっきりとさせるために。

 

「んじゃ、はじめようぜ!」

 

 クラインが刀を抜いて正眼に構える。

 

 対する俺は、右手に短剣、左手に投げナイフ。身体を横にして右を前にし、左を背後に隠すいつものスタイルだ。

 

「やりますかね」

 

 やる気のないいつもの掛け声で、戦闘が開始する。

 

 早速足を踏み出したのはクライン、何も考えていない渾身の突きを繰り出す。俺はそれを半身でかわし、背後から思い切り首を斬りつけた。こんな技、たしか飛天御剣流にもあった気がするな。

 

 ノックバックで吹っ飛ばされたクラインが顔面から地面に突っ込む。おお、痛そうだ。しばらくして起き上がったクラインが、顔を抑えながら立ち上がる。

 

「いってぇ……なにがどうなったンだよ」

 

「こっちが聞きてえよ。なにがどうしていきなりあんなことしたんだ?」

 

「そりゃあおめえ、突きは男の浪漫だろーが」

 

 バカだ。心底バカがいる。あんな隙だらけの突きを浪漫とかいうな。斎藤さんが怒っちゃうだろうが。

 

「少しは流れを考えろ。相手も考えてるんだから、こっちも考えて攻撃しろ。でないと当たらんどころかさっきみたいにモロのカウンターもらうぞ」

 

 こうしてみると、相手によって戦い方は違うものだ。

 

 サキは天性の感性と突き詰めるほどの努力、そして俺と似たように理詰めで対処をしていく。そして回転運動を利用し、単純な力ではなく円運動を上手く活用している。あと、俺のアニメの知識をふんだんに盛り込んでいるお陰か、リアルランサーと化している。

 

 キリトは荒削りの独自剣術だが、持ち前の反射神経を利用したカウンターが強力。そしてとにかく手数重視の戦術だ。

 

 アスナは早い。とにかく早い。早すぎて全然捌けないし、気づいたら喉を串刺しにされるのは恐すぎる。あいつはきっといつか光になるな、うん。

 

 対してディアベルは正統派と言えば良いのだろう。剣と盾をたくみにつかった戦術には舌を巻く。何度か負けそうになった。あと、盾を攻撃に使うあのスタイルには驚かされた。なに、盾って武器になるのん?

 

 で、当のクラインだが。まだ分からない。知り合ってそれなりに経つが、こうして剣を混じり合わせたことは初めてなのだ。徐々に把握していけばいいだろう。

 

「さっさと来いよ。時間もったいねえだろ」

 

 俺は構えたままだ。クラインも慌てて構え直す。今度は切っ先を俺へ向けた八双の構えか。剣術って詳しくないんだよなあ。ユキノつれてくればよかったか……。

 

 クラインが肉薄する。見えていた俺はすぐに反応。クラインの右袈裟を短剣で捌く。空いた左の胴を狙おうとするも、今度は柄が俺の腕を襲う。急な反応に驚いて俺はバックステップ。クラインは何を思ったか刀を鞘へ納めつつ前進。

 

 おいおい。刀スキルに抜刀術なんぞ聞いたことねえぞ。

 

 閃光。

 

 クラインの抜刀術をぎりぎりで短剣で受け止めるが、力が足りない。身体を引きつつ捌くも、またしてもクラインが納刀。くそ、こいつ人斬り抜刀斎かよ! そうとう無理な練習しやがったなこいつ! さっきとは段違いの攻撃だぞ。

 

 俺は抜刀術を警戒しつつも一気に懐に攻め入る。俊敏特化を舐めるなよ。だが、短剣が空をかく。クラインが跳躍して俺を見下ろしている。

 

 まずい……!

 

 天からの抜刀。俺の身体を真っ二つに斬り裂く赤いエフェクトが、敗北を知らせてくれていた。 クラインが刀を納めて笑う。

 

「いまのどうよ! すっげーだろ!」

 

 まったくだ。最初の突きはなんだよ。遊びかよ。

 

「マジで抜刀斎かと思ったぞ。なんだよあれ。エクストラスキルとかってやつか?」

 

 首を振ったクラインが応える。

 

「違う違う。気合で練習して覚えた!」

 

 ありえねえ。システム的にありなの? まあ、鞘もあるし、できなくはないか……。

 

 その後、一時間程度をクラインとの対人戦闘訓練に当てた。

 

 ふぃ~と大きく息を吐いたクラインが、どさりと地面に腰を落す。俺も同様に座り込んだ。神経を削るこの訓練は適度に休憩を入れないと疲れるのだ。

 

 クラインが話題を切り出す。

 

「ハチマンよお、クリスマス会の話は聞いたぞ。俺も出ていいんだよな」

 

「でなきゃ話されねえだろ。来いよ」

 

 クリスマス当日、俺とユキノはクリスマス会を計画したのだ。ゲームの中でやれることなど多くはないから、店を貸しきって飲み食いするだけの、ただの学生のノリみたいなものだ。俺とユキノからは縁遠いはずのそれをやることになったのは、一重に俺のせいだ。

 

 あのとき、ユキノはこういったのだ。

 

 ――どうせふたりで話すのも難しいでしょう。場を設けるから、なんとか二人になりなさい。私も行くから、何とかフォローするわ

 

 なんとも頼もしい女である。このゲームでは人望もあるようなので、ますます完璧人間に磨きが掛かってきている。雪ノ下建設もこれなら安泰ではないだろうか。

 

「《風林火山》の連中も連れて行っていいんだよな。実はアスナさんにサキさん、ユキノさんにに会いたいって奴らが多くてな」

 

「出会い系じゃねえぞ。節度持つなら構わねえけど、あんま俺らの知らない奴は連れてくんなよ。一応仲間内だけでやるんだからよ」

 

 俺が言うべき台詞でもない気がしたが、一応釘は刺しておく。

 

「わぁーってるって! 楽しみだよなあ」

 

 鼻の下を伸ばしながらクラインが言う。こいつ、うちの女性陣目的じゃあるまいな。サキに手を出したら殺すぞゴルラァ。

 

 そんな表情は露と出さず、俺は気になっていたことを訊いてみる。

 

「ただ飲み食いするだけだぞ? 何がいいんだ?」

 

「主催者がそれ言うなよ……」

 

 思いっきり突っ込まれる。確かに俺が主催者だった。一体いつこんなリア充イベントを主催するようになってしまったんだ……。俺は悪くねえ。社会が悪い。

 

 困ったように頭を掻いたクラインが、「やっぱハチマンは捻くれてンなあ」と言いながら、俺の頭を叩いた。

 

「こういうもンはな。ツリー見て、美味いチキン食って、ケーキ食って、シャンメリー飲んで、朝まで騒ぐ! それでいいンだよ。そうすりゃみんな楽しいし、また来年も会いたくなるってもんよ」

 

「そんなもんか」

 

「そんなもんだ」

 

 空を見上げる。今日は鈍色の曇り空だ。そろそろ雪でも降るかもしれない。さっきから足元から冷えてきて寒いのだ。

 

 はあ、と白く煙る息を不安と共に吐き出す。

 

 クリスマスイヴまであと六日。俺はそのとき、アルゴにちゃんと答えを伝えることができるのだろうか。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 夜の帳が下りていた。外はもう真っ暗で、今日は雪が降っている。最前線の宿を居住としていた私は、窓の外に煌くイルミネーションをぼうっと見つめ、知らず、唇に触れていた。

 

 あのときの感触を思い出すと、どんな状態であっても赤面してしまう。なのに、次の瞬間にはどんな顔をして会えばいいのか分からず、頭を抱える嵌めになる。

 

 私はようやく起き上がり、遅めの夕食を取る。実に一日ぶりの食事だ。いい加減この変な空腹感もつらくなってきていたのだ。いかに感情が落ちようとも、食事の意欲はあるのだから、人間の身体は不思議なものだ。

 

 そのとき、今日二度目のドアが鳴った。ここを知っている人は多くはない。またユキノだろうかと思って私は返事をする。今度は、フードを被った声で。

 

「なんだイ?」

 

「私……サキだよ」

 

 一瞬にしてフードが吹き飛んだ。

 

 なんで、どうしてサキがここに来るの?

 

 ハチマンと何かあったの?

 

 それとも、私を責めに来た?

 

 様々な思考が嵐のように荒れ狂い、私は混乱する。それでも、ノックはもう一度鳴る。

 

「遅くにごめん。開けてくれないかな。話したいことがあるんだ」

 

 深呼吸をする。覚悟を決めろ、アルゴ。女は度胸だ!

 

「わかった」

 

 アルゴが扉を開けると、サキがひとり立っていた。表情は一見して普通だが、少しだけ眉が下がっていた。長い間接してきたからこそ分かるのだ。サキは悲しんでいる。

 

 きっと、あのせいだ。

 

「ありがとう。ごめんよ、こんな時間に」

 

「いいよ。私とサキちゃんの仲だよ」

 

 サキを部屋に案内し、席に座らせる。コーヒーを置いて、私も座った。先は指を組んで瞑目している。やはりあのことを思い出しているのだろう。眉は下がったままで、奥歯をかみ締めているようにも見えた。

 

 やがて、サキが目を開く。

 

「ごめん。あのときは……邪魔をしたね」

 

「え?」

 

 サキが謝る理由が分からなかった。本当のところを言えば、邪魔をしたのは私の方なのだ。謝られる必要などなく、逆に罵倒されたっていいと思っていた。なのに、彼女は謝った。どういうことだろう。

 

「あんた、あのとき決死の覚悟で挑んだんだろう? あたしがいなければ、上手くいっていたかもしれない。あたしがいたから、あんたはあたしに遠慮して、きっとハチマンの返事も聞かずに飛び出していった。だから、本当にごめんよ」

 

 サキが頭を下げる。真摯に、心から下げて私に許しを請う。

 

 本当に、これだから困るなあ、と思った。

 

 素敵だな。こんな素敵な人になら、少しだけ、ほんの少しだけは、負けてもいいと思ってしまう。でも、譲れない戦いだって、あるのだ。

 

 だから、私は負けない。

 

「ほんとだよ。あのままもう一度ぶちゅーって言って、ハチマンをメロメロにするつもりだったのに。サキサキのお邪魔虫!」

 

 ぶーぶーと唸りながら言ってやった。

 

 これくらいからかってもいいだろう。だって、サキは恋敵だけど、大切な友人なのだ。

 

「ぶちゅーって……さすがに場所は選びなよ」

 

「見せ付けてやればいいんだよ。あのハチマンだよ? 周りが囃し立てたら余計に意識するに決まってるって。だから外堀を攻めるようにしていけば、きっと私の下に来てくれるんだよ」

 

 サキがやっと笑う。苦笑だった。

 

「あんた、すごいね」

 

「サキはしたことないの?」

 

 なにがだい? とサキが首を傾げる。

 

「キス」

 

「んなっ!」

 

 サキの顔が熟れたトマトのように赤く染まる。急にもじもじとしだし、視線を上下左右へ彷徨わせ、最後に唇に指を這わせた。

 

 ああ、可愛いなあ。それに、きっとしてるなあ、この反応。

 

 ハチマンは幸せものだなあ。

 

 でも、負けないよ。

 

「へーしたんだ。でも私みたいに長くはないよね?」

 

「う、うぅ……時間じゃないんだよ、時間じゃ」

 

「やっぱりしたんだ」

 

 サキが今度こそ項垂れる。カマを掛けられたと思ったらしいが、バレバレだ。やっぱりサキは、ハチマンがらみになると一気に可愛くなる。ハチマン限定のデレっぷりは、やっぱり周囲から見るとギャップがすごい。人気なのも頷けるというものだ。

 

「サキちゃん。私は告白したよ。サキちゃんはどうする?」

 

「あたしは……」

 

 言葉を詰まらせたサキの瞳が揺れる。何かを迷っているかのように。

 

「ハチマンが幸せな選択をして欲しい。だから、あんたの告白の結末が分かってから、あたしはするよ……」

 

「私に奪われてもいいの?」

 

「それはあいつの選択の結果だよ。あたしが何を言っても変わらない。あいつの幸せはあいつが決めるんだから」

 

 はあ、とため息した。この人はまったく。すべてをハチマンを最優先にしているからだろうか、時にこうした考えに至ることがある。どうも、ハチマンとサキは似ている気がする。

 

 いっそ放っておこうかとも思ったが、サキは恋敵だ。腑抜けられては困る。だって、全力で戦って勝ち取らないと、私にとっては意味がないのだ。

 

 だから、私はサキの頬を叩いた。全力で。

 

 サキが呆然としたように私を見る。当然だろう、いきなりビンタされれば。

 

 だけど、私も怒っている。私はこんな人と恋敵だなんて思いたくない。もっとちゃんと戦いたい。

 

 私は叫ぶ。喉が千切れんばかりに私は叫ぶ。

 

「サキのそれは自己犠牲ってやつだよ。なにがハチマンの幸せだよ! あたしが幸せにするからあんたは引っ込んでなくらい言ってみなよ!

 

 私は言えるよ。サキよりも絶対にハチマンを幸せにする。メロメロにする。絶対絶対、誰にも渡さない! それくらいサキも私に言ってよ!」

 

 はっとしたサキが俯く。何かを考えるように視線を横へやる。組んだ手が解かれ、拳をぎゅっと握っていた。

 

 視線を戻したサキが私を見る。その表情は、まるで敵へ向かう戦乙女のように力強いものだった。

 

「そうだね、アルゴ。私はあんたなんかに負けてやらない。ハチマンの幸せは私が作る! あんたじゃ無理だから引っ込んでな!」

 

 ふたりして睨みあう。

 

 そして、ぷっと吹き出した。

 

 あまりにも面白くて大笑いする。

 

 ああ、やっと本当の意味での友人になれた気がする。きっと、この日のことは生涯忘れないだろう。

 

「サキちゃん、もしどちらかが恋人になって、どちらかが振られても、友人同士でいようね」

 

 サキが頷く。口許には優しい微笑みが滲んでいた。

 

「そうだね、あんたとはもっと仲良くなりたいよ」

 

 さあ、ハチマン。勝負はクリスマス。絶対に逃がしてやらないから、覚悟してにゃん。

 

 



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聖夜の煌きに、夢見るアルゴ 4

 あれから時は流れ、いよいよクリスマスがやってきた。まだ昼間だというのに街中にイルミネーションや飾りが灯り、いまや全アインクラッド人口が集まっているのではないかと思われるほどの《ミュージェン》に人だかりができていた。どこからかクリスマスソングが流れ、街の雰囲気を一気にクリスマス気分に盛り上げていく。

 

 空は曇天。だから、今日はきっとホワイトクリスマスになるだろう。

 

 街中を歩いていた俺も柄にもなく浮かれてしまう。たぶん、こんな風に人と集まって行うクリスマスは人生で初めてだろう。

 

 ふと、小町のことが気にかかった。小町はチキンを買っているだろうか。楽しんでいるだろうか。受験はちゃんと合格して、総武高校に通っているだろうか。すべては現実に戻らなければ分からない。死亡フラグっぽいことを立ててしまったからか、ちょっとばかり気になってしまう。

 

 右隣で歩くサキは、先ほどから辺りを見回して口許を緩めていた。あれから、アルゴとは会っていない。サキとも少し微妙な間柄になってしまったが、今日は特別だ。

 

 折角だから楽しみたいと思った。本当に柄じゃない。

 

 人は変わっていく。

 

 諸行無常とはよく言ったもので、不変だと思っていた俺のぼっち体質は改善された。帰ったら仲間を連れて平塚先生のところに会いに行こう。そして冒険の話を聞かせるのだ。きっと泣くぞ。素敵な先生だからな。なんであの人結婚できないんだよ……。

 

 途中、キリトとあって一緒に会場に向かう。今日はアルゴと行った喫茶店を貸切にしたのだ。さすがユキノ、NPC相手にどうやって交渉したのか今でも謎だ。きっと明かさない方が良い謎だろう。

 

 キリトもどこか浮き足立ちになっていて、時折鼻歌を口ずさんでいる。最近はこいつもぼっちが改善されているのか、アスナやクラインといることが多い。いい傾向だ。

 

 ふと、気になってキリトに小さく声をかける。当然サキには聞こえないようにだ。

 

「なんだよハチ」

 

「アスナとはどうなんだ?」

 

「な、な、ななな!」

 

「なんだ、ナシゴレンが食べたいのか? サキに作ってもらえるぞ?」

 

「違うから! なんでナシゴレンなんだよ!」

 

 どこかで聞いた流れだな。おっと、これ以上思い出すと俺が憤死するからやめよう。

 

 さすがにキリトの声が大きかったか、サキも聞き耳をたててクスクスと笑っている。

 

 キリトは焦って言い返す。

 

「違うからな! そんなんじゃないからな! 違うぞハチ! 誤解だ!」

 

 ものすごい否定である。これ、マジの否定じゃない? こんなに言われたらさすがに気がなかったとしてもアスナ可哀相だろう。

 

 む、それともあれか?

 

 若干蔑んだ目でキリトを見る。

 

「そっちの気があるのか?」

 

 具腐腐、と海老名さんの声が聞こえる。だからどんだけ地獄耳なんだよあんた。怖いよ。

 

「なんだよその気って?」

 

 かくいうキリトは首をかしげている。おや、ネットゲーマーだからこういう情報はすぐに分かると思ったんだが、意外とそうでもないらしい。それともただの初心か?

 

「いや、男色趣味があるのかと」

 

「ねえよ!」

 

 すごい否定だった。街中に聞こえるほどの怒声だった。どうどう、悪かったから怒るなよ。

 

「あんたらも仲いいねえ」

 

 サキがお腹を押さえながら笑っている。意外とサキは笑い上戸だ。このゲームの中で知った彼女のひとつだ。

 

「くっ、ハチにはいつもからかわれてばっかだな」

 

「お前って結構チョロいからな。街中で突然綺麗な美女に誘われてもホイホイついていくなよ。それは罠だ。気づいたら高額な絵画を買わされる羽目になる。ソースは俺の親父」

 

「……悲しすぎるからやめて」

 

 本気でキリトが俺の親父を哀れんでいた。親父、中学生に哀れまれるってどんな気分?

 

 すると、今度はアスナがやってきた。遭遇率高すぎだろおい。途端、キリトがうろたえ始める。だからどっちなんだよお前。

 

「サキさん、キリトくん、ハチくん、こんにちは。一緒していい?」

 

「当然だよ。こっちに来な」

 

 男前なサキがアスナを隣に誘導する。キリトのいまの反応を考えてのことだろう。さすがサキ、カッコいい。惚れちゃいそう。告白して玉砕して一週間鬱になるまである。玉砕したくねえ……。

 

「今回はハチくん主催なんだよね。珍しいよね」

 

「自覚あるからやめてね。ハチマン傷ついちゃうから」

 

「そうかなあ。でも昔みたいに人を拒絶しなくなったよね。最初の頃なんか、あからさまに私のこと避けてたから、嫌われたと思ってたよ」

 

 ああ、そんな時代もあったなあと思う。理由は単純だ。女の子怖い。

 

「初心な男をからかうんじゃねえよ。そういうのはキリトだけにしとけ」

 

「キリトくん、やっぱり初心なんだ? 戦ってる姿はカッコいいのに」

 

 アスナが楽しそうに言う。雰囲気にあてられているのだろう。

 

 対するキリトはまたも慌てる。

 

「う、しょうがないだろ。そういう経験ないし」

 

 どういう経験だよ。女の子と会話した経験のこと? 昔の俺じゃねえか。奉仕部で雪ノ下と話すまで、同級生の女子とどんだけ会話してこなかったと思ってんだよ。こういうことなら俺の右に出る奴はいねえ。出直して来い。

 

「あんまりキリトをからかうんじゃないよ、ハチマン」

 

 頭に手を置かれてサキにやんわりとたしなめられる。やばい、一旦意識してこういうことされると結構くるものがある。無心だ。無心になれ。ただでさえちょっと気まずいのに……って、なんでいまそれを思い出すかな俺は!

 

「お、おう」

 

 アスナが笑う。

 

「あはは、ハチくんも初心だ!」

 

 キリトも、ざまあみろとでも言うように鼻を鳴らす。ちくしょう。

 

 四人で話している内に、ようやく目的の喫茶店につく。店の外ではユキノが待っていた。

 

 流した黒髪を風にたなびかせ、凛とした瞳で空を眺める姿は世を儚げに見る美女のそれだ。ややあって、ユキノがこちらに気づき、にっこりと微笑む。

 

「みんな、今日は来てくれてありがとう。是非楽しんでいってくれると嬉しいわ」

 

「ユキノ、他の奴らはもう中にいるのか?」と俺が訊く。

 

「ええ、ディアベルさんと《ブレイブ・ウォーリア》、クラインさんと《風林火山》の方々がもう来ているわ」

 

 そこで言葉を切ったユキノが、俺だけに聞こえるように、そっと耳打ちする。

 

「アルゴさんも来ているわ。普段の様子に戻っているから、何かあったのかもしれないわね」

 

「おう、今回はサンキューな」

 

「気にしないで。友人でしょ」

 

 微笑んだユキノが離れる。一瞬サキを見て、小さく首を振った。なんのことだろうか。

 

 中に入ると、ユキノが言っていた大勢の人が既に集まっていた。店内はクリスマス一色というように飾り付けがされ、中央にはツリーまであった。洒落た音楽が流れ、まさにリア充のイベントになっていた。

 

 早速クラインが近づいてくる。手には既にチキンがあった。こいつ、もう食ってんのかよ。

 

「遅かったじゃねえか。もう始めちまうところだったぜ」

 

「まだ五分まえじゃねえか。お前どんだけ楽しみにしてたんだよ」

 

 俺が呆れながら返す。向こうで《ブレイブ・ウォーリア》や《風林火山》の面々と話していたディアベルもこちらを見つけ、やってくる。

 

「やあ、みんな。今日は楽しもうじゃないか」

 

 手に持ったシャンメリーのグラスがやけに様になっている。

 

 今度はアルゴがとてとてとやってきた。少し恥ずかしそうにして、でも嬉しそうに瞳を光らせて見上げてくる。

 

「ちょっと久しぶりだね、ハチマン」

 

「お、おう」

 

 いつもの装いに戻ったアルゴだが、俺の方がまだ慌てふためいている。そんな姿を見てアルゴが笑った。背伸びして俺の耳元に顔を近づける。隣にいるサキの雰囲気に険を持った気がした。

 

 ――また、今度の続きをしようね。

 

 顔が熱くなった。

 

 にゃはは、と完全に猫のように笑ったアルゴが奥へと進んでいく。その後ろ姿を呆けて見ていた俺の頬に指が当てられれる。

 

「デレてる。かっこわるい」

 

 サキの低い声が囁かれる。今度は一気に心臓が縮まる。なんなの君たち、ホントに不整脈で俺を殺したいの?

 

 キリトもアスナは笑いながら奥に入っていく。背後にいたユキノは、疲れたようにため息していた。え、なに? やっぱ俺が悪いの?

 

 ユキノもディアベルとクラインに連れられ店の奥に行く。隣にいるのはサキのみ。

 

 でも、とサキが小さく言う。

 

 頬に柔らかく暖かい感触。はっとしてみると、サキが悪戯が成功したような笑みを浮かべて俺を見ている。ほんのりと染まった頬がにやけていた。

 

「あんたも男なんだね。安心したよ」

 

 さあ行こうかと、サキに腕を取られて俺たちも奥へ行く。

 

 ツリーを囲むように四つのテーブル置かれ、それらには、さまざまな料理や飲み物が置かれていた。既に全員がグラスを持って、俺を見ている。え、なに? なにか一発芸でもしたほうがいいの? よーし、ハチマンがんばっちゃうぞ! 必殺、昔の雪ノ下の真似をやってやる!

 

 こほん、とひとつ咳払いをしてやろうとすると――

 

「ハチマンくん、変なことはやらなくていいから、乾杯の音頭をお願いね」

 

 俺の考えを察したか、雪ノ下が先手を打つ。

 

 エスパーめ。

 

 サキからグラスを手渡され、軽く掲げてみせる。

 

「えーと、乾杯」

 

「おい! なんか言えよ!」

 

 えー。なんで全員同じこと言うんだよ。以心伝心じゃねえか。

 

 しかたねえなあ、と言って咳払い。

 

「全員、今日は集まってくれてサンキューな。まあ、なんだ。みんなここまで生きてこれてよかった。でも死んだ奴もいる。俺たちは、現実に帰るためにここまで上ってきた。あと半分くらいだ。現実を夢に抱いて亡くなった奴らのためにも、俺たちはこのまま先へ進もう。そんだけだ。

 

 じゃあ、メリークリスマス。

 

 乾杯」

 

 乾杯! と全員がそれぞれにグラスをあわせる。そこからはもうお祭り騒ぎだ。こいつら酒入れてんじゃねえのってくらいにノリノリになりやがっている。こういうときの俺のポジションは決まっている。隅っこでのんびりとグラスを傾けるのだ。ハードボイルドっぽくて格好いい。

 

 ってわけにも行かず、早々にディアベルに捕まる。

 

「やあ、楽しんでるかい?」

 

「その台詞はやめろ。ある嫌いな奴を思い出すから。で、どうした?」

 

 ははは、とディアベルが笑う。

 

「ようやくここまで来たなっていうのと、ハチマンとの仲も長いなってね」

 

「だな。お前みたいな爽やかイケメン野郎とここまでつるむとは思わなかったわ」

 

「最初に君との会談を思いだす限り、そんなことないと思うけどな」

 

 思い出す。俺が好き勝手に言いたい放題言った奴だろう。確か、結構恥ずかしいことを言った気がする。視線でサキを捜すと、ユキノやアルゴ、アイシアたち女性陣と仲良く会話をしていた。

 

「俺の意見をゴリ押ししただけだ。褒められたもんじゃねえだろ」

 

「そんなことない。オレはあのとき、君の言葉に心を動かされた。君には人の心を動かす力があるんだ。それは信じても良いことだと思うよ」

 

「んな大層なもんじゃねえよ。だけど……」

 

 ツリーを見る。あの華やかなツリーに飾られているプレゼント箱に、きっと中身は無い。俺がかつて所属していた奉仕部には、一体何があったのだろう。でも、いまここには、きっと例えようのない何かが、宝石箱のようにたくさん詰まっているのだろう。

 

「そうであればいいなと思う」

 

「ハチマンがデレたね」

 

「デレてねえよ。いつでも捻くれてんだよ」

 

 笑いながらディアベルは、「また話そう」と言って仲間たちの下へ戻っていく。

 

 今度はキリトがやってきた。

 

「ハチ、今日は誘ってくれてありがとうな」

 

「お前を呼ばないわけにはいかんだろ、《黒の剣士》様」

 

「言ってくれるな。《魔眼使い》」

 

「マジで恥ずかしいからやめてくんない? まだ《暗殺者》の方がマシだわ」

 

 ったく、ネットゲーマーってのはどうして二つ名とか好きなのかねえ。大体、魔眼ってなんだよ。ちょっと腐ってるだけだろうが。

 

 ひとり不貞腐れている俺の隣で、キリトが小さく言った。

 

「ありがとな」

 

「あんだよ」

 

「一層のことだよ。ハチの言葉のお陰で、俺は助かった。救われたよ。何かあればハチマンを頼ろうって思えたんだ」

 

 一層でアスナと初めて出会った日のことだ。懐かしいものだ。

 

「そう言いつつ、ろくに頼ってこねえじゃねえか」

 

「ハチマンは忙しいからな。自分のことは自分でやらないと、友達って言えない気がしたんだよ。だから俺も頑張ることにしてたんだ」

 

「……そうか」

 

 少し、泣きたくなった。こうして言葉にされると胸に込み上げるものがあった。

 

 いつも何かを手伝ってもらってばかりな気がしたが、俺にもこいつらに出来たことがあるのだ。それが今日、分かった気がした。

 

「アスナはどうだ。最近、無理してないか?」

 

「たぶん、大丈夫だと思う」

 

 一時期、アスナは狂ったように最前線に向かっていたときがあった。たぶん、いつまでたっても先が見えない現状に焦燥感が募ったのだろう。だから俺とサキもディアベルも、そしてキリトもあいつを心配していた。何が彼女を変えたのか分からない。だが、きっとキリトがうまくやったのだろう。いまのアスナを見ていると、チラチラとこちらを見ているのだ。視線は俺なんかではなくキリトだ。

 

 俺はキリトの背を叩き、顎で促す。

 

「行って来い。アスナ、待ってるぞ」

 

 あ、ああ、と返してキリトがアスナの下へ向かう。彼女は途端に嬉しそうにし、彼を向かえた。青春だな。

 

 いつの間にか、ユキノが隣にいた。グラスを持って軽く俺に傾ける。俺もそれにグラスを合わせた。

 

「メリークリスマス」

 

 互いに言って、笑い合う。

 

「アルゴさんはもう大丈夫よ。あなたと話したいって言っていたわ」

 

「そうか……」

 

「あなたの方はどうする? サキに伝える?」

 

 グラスの中身を見ながら答える。ユキノには以前話し合ったときに、サキへの想いを伝えていた。そして、すべてが終わったら想いを告げることも伝えている。

 

 だから問うているのだ。この雰囲気を利用するのか、そのまま意思を貫き通すのか。

 

「一週間考えてたんだ」

 

 ええ、とユキノが相槌する。喧騒が、いまはどこか遠い。

 

「ここの俺はハチマンだ。だが、現実の俺は比企谷八幡なんだよ。同じようで、きっとどこか違う、そんな気がするときがあるんだ。あっちに戻ったら、実はすべてが元通りに戻っちまって、サキとの関係も以前のようになっちまう。そんな馬鹿馬鹿しいことも考えたこともある」

 

「ええ。分かるわ、その気持ち」

 

「この世界は、現実よりも死に近い。その更に死に近い最前線に俺もサキもいる。あいつの帰りたい願いを叶えるために、あいつの意思を尊重し、俺はそれに応え様と必死になった」

 

「ええ、私も怖いくらいに感じている。あなたたちよりも安全なところにいるから、心配なの」

 

「すまん。俺もいつ死んだっておかしくない。だから、いま、俺は……」

 

 唇が震えた。

 

 きっと、こんな簡単なことを口にするのに、一体どれだけ時間がかかったのだろうか。

 

「いま、幸せになりたい」

 

 そう、とユキノが微笑む。

 

「だったら、ちゃんとアルゴさんに答えを告げなさい。そして、サキにあなたの思いの丈をぶつけなさい。きっと、あなたは幸せになれるわ」

 

 だって、とユキノが言う。

 

「あなたは私が惚れた男だもの」

 

 ぽんっと優しく背中を叩かれる。

 

「さあ、かっこよく決めてきなさい。これは、部長命令よ」

 

 ユキノが笑う。俺も笑う。こんなときにそんなこと言うなよ。泣きそうになるだろうが。

 

「ああ、了解。部長」

 

 俺は歩く。まずはアルゴに言おう。そして、サキに想いを告げよう。

 

 ――そのとき、俺の足が止まった。

 

 ある会話が聞こえてきたからだ。それは、《ブレイブ・ウォーリア》のメンバーがディアベルに話している内容だった。

 

「ディアベルさんってサキさんと付き合っているんですか?」とギルドメンバー。

 

 その発言内容に驚いたように、ディアベルが返す。

 

「なんでそんな話になるんだ?」

 

「え、だって、この前、中央広場で抱き合っていたじゃないですか」

 

「な、なんでそれを――」

 

 ディアベルが俺を見る。驚愕に染まる彼の顔。たぶん、俺の目は大分腐った目をしていたのだろう。

 

 止まった俺の足を怪訝に感じたのか、ユキノがやってきて俺の顔を見る。

 

「こっちに来なさい。早く!」

 

 ユキノに連れられ、俺は店を出る。ただ呆然としていたと思う。

 

 サキが、ディアベルと? なに? なんの冗談? ハチマンびっくりして笑えないよ?

 

 広場のベンチの前まで連れて行かれ、そこでユキノが止まった。俺も促されるままに立ち止まる。

 

 一陣の風が吹き、ユキノの髪が流れる。俺は何も言わず、ユキノの前で棒立ちしていた。そんな俺を叱咤するように、ユキノが両肩を揺さぶる。

 

「どうしたの? なにを聞いたの? 黙ってないで言いなさい」

 

「あ、あー……」

 

 え、なにこれ、しゃべれないんですけど。そんなにショックなの俺? アホじゃないの。たかが恋愛じゃねえか。想いが一方通行なんて漫画とかアニメとか小説とかでよくあるじゃねえか。なに被害者ぶってんだよ俺は。俺だってしてることは同じじゃねえか。こんなことで傷ついていい道理がない。

 

 ほら笑え。笑えよハチマン。

 

「ハチマンくん!」

 

 ユキノの平手打ちが俺の頬を叩く。

 

 一瞬空白が滑り込んで、ようやく思考が回り始める。

 

「叩いてごめんなさい。でも教えて。一体なにを聞いたの?」

 

 ああ、と呟いて俺はぽつぽつと語る。

 

「サキが、ディアベルに抱きしめられてただの、付き合ってるだの、なんか、そんな話だ。あー……まあ、あれだ。あいつイケメンだしな。俺じゃ太刀打ちできねえし。まあ、そんなこともあるだろ」

 

 ユキノが再び俺を揺さぶる。必死の表情で。

 

「違うわ。そんなはずはない。それは嘘よ」

 

「ディアベルは否定してなかったし、そうなんじゃねえの?」

 

 まあよかった。失敗するとか怖くて考えてなかったから、言わなくてよかったかもしれない。そういや、この前なんか編んでたし、奴にやるのかもな。あいついい奴だし、祝福しないと。結婚式は呼んでくれるかなあ。あれ、早いかそれは。

 

 あーやばい。泣きそうかも。

 

 ユキノも泣きそうになっている。目じりに涙を浮かべている。

 

「お願いだから私の話を聞いて! ほんとに世話が焼けるんだから!」

 

 悪いな。俺は結構ポンコツっぽいわ。

 

 背後から足音。ユキノが息を呑む。

 

「ハチマン、ユキノちゃん、どうしたの?」

 

 声の主はアルゴだった。

 

 俺の前に回ったアルゴの表情が変わる。

 

「なにがあったの?」

 

「そ、それは……」

 

 アルゴの言葉にユキノが口ごもる。彼女にしては珍しい光景だ。そして、たぶん俺も珍しい顔をしているのだろう。もう何も言えない。

 

 あー、やべえな。本気で恋して失恋すると人ってこうなるのか。

 

 ハチマン、とアルゴに呼ばれ、抱きしめられた。

 

 垣間見えたユキノの表情は、もう泣いていた。

 

「どうして……なんで……」

 

 ユキノが悔しそうに呟く。

 

「なにがあったのかは知らないよ。だけど、ハチマンが苦しそうなのは嫌だよ」

 

 アルゴの声が染みる。涙が溢れそうになるのを必死で堪える。ここで泣くのは最低だ。だから俺は歯を食いしばった。

 

「悪い、少し一人にさせてくれ……」

 

「うん……」

 

 アルゴが俺を離す。

 

「でも、何かあったら言ってね。すぐに、必ず駆けつけるから」

 

「わりぃな。それとユキノも、色々サンキューな。あと、台無しにしてすまん」

 

 俺はふらふらとした足取りで転移門の方へ向かう。いや、いつもの宿は面倒だ。もう、ここのどっかでいいや。なんかなんも考えたくねえ。

 

 雪が降る。恋に破れた俺に、しんしんと雪が降る。寒くて、冷たくて、痛くて染みる雪が降る。

 

 ああ、しんどいなあ。

 

 



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聖夜の煌きに、夢見るアルゴ 5

 私はアルゴと何も話さず店に戻った。ただあんまりな出来事に言葉を失っていたのかもしれない。

 

 彼は足を踏み出そうとした。欺瞞の壁を越え、闇の向こう側へ、なにがあるかも分からない恋の山道を登ったろうとしたのだ。なのに、結果がこれではあまりに報われない。

 

 ふたりで店の扉を開けた瞬間、唖然とした。《ブレイブ・ウォーリア》と《風林火山》が内部で乱闘騒ぎを起こしているのだ。ディアベルもクラインも仲裁しようとしているが、まったく止まる気配がない。アスナも参加しようとしているがキリトに止められている。当の本人は、いまにも剣を抜きそうな気配だ。アイシアは訳が分からずにおろおろとしていた。

 

 そしてサキは、呆然としたように床に崩れていた。

 

 一体なにが起こったというの?

 

 我を忘れそうになる寸前、アルゴが動いた。

 

「なにやってんのサ!」

 

 部屋を響かせる大音量の金切り声。

 

 全員の注目がアルゴに集まる。

 

 私も動く。折角の彼の決意の場が踏みにじられてしまったこの場所を、何としても元に戻さなければならない。

 

「全員、動くのをやめなさい!」

 

 室内の動きが止まる。まるで凍てついた凍土のように。

 

「これは一体どういうこと? ディアベルさん、クラインさん来なさい。この事態の説明をしなさい。私の納得のゆくように」

 

 ディアベルとクラインが前にでる。ふたりとも何も言いたがろうとしない。いや、言えないのだろう。

 

「分かったわ。奥に行きましょう。そこで話しましょう」

 

 それと、とふたりの背後にいる者たちへ、絶対零度の視線を浴びせて告げる。

 

「少しでも動いたら、殺すわよ」

 

 アルゴと共にふたりを連れて行く。

 

 奥まった小部屋の中で、私は詰問する。

 

「一体何があったのかいいなさい。生半可な答えで許されるとは思わないことね」

 

 クラインが奥歯をかみ締めながら、ディアベルを指差し言う。

 

「こいつのギルドの連中が、ディアベルとサキが付き合ってるだのなんだのってはやし立てやがって。そんでよ、んなわけねえし、ハチとユキノさんはどっか行っちまうし、こいつは顔青くしてるし、絶対マズイって思ってよ。うちの連中と止めようとしたんだよ。そしたらまあ、あのありさまだ」

 

 私は頭を抱えた。彼の気を少しでも紛らわせようと、多くの人を関わらせすぎたことが仇となった。付き合う云々についてはディアベルに聞かなければ分からない。

 

「ディアベルさん、その話について意見を」

 

 あ、ああ……とディアベルが答える。

 

「付き合っている事実は無いよ。オレがサキさんとなんて、彼女に失礼だ。たぶん、あの日のときを見られて誤解されたんだと思う。ギルドの仲間はサキさんをとても好きだったからね」

 

「あの日、何があったの?」

 

 ディアベルが顔を曇らせる。アルゴも同様だ。

 

 なるほど、そういうことか。

 

「なにかは分からない。ただ、サキさんはすごくショックを受けたようで、倒れそうになったところをオレが支えんだ。ただそれだけだよ。誓って本当だ」

 

 ああ、と私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。ディアベルとクラインが心配そうに声をかけてくるが、無視した。

 

 本当に、下らないすれ違いだ。それが重なって、ただタイミングが悪かっただけでこうなった。言ってみれば、誰も悪くない。悪いとすれば、それは恋愛の神様だ。

 

 だから、いまからする行為は私のエゴだ。こうしてやらなければ気が済まない、ただの自己満足。わがままだ。

 

「ふたりとも、悪いけれど、歯を食いしばりなさい」

 

 そして、私はふたりの頬を順に叩いた。ふたりは文句を言わず、受けて当然だというような顔をしていた。

 

 すぐ隣で足を踏み出す音がした。

 

 今度はアルゴが店に戻ろうとしているのだ。慌ててとめる。

 

「なにをする気?」

 

「サキちゃんを殴りに行く」

 

 振り向いた彼女の表情は、憤怒に燃えていた。彼女はサキが何も言わなかったであろうことを怒っているのだ。違うと、そんなことは無いと否定しなかったことを怒っているのだ。私もそうだ。だが、いまの彼女にそんなことはできない。

 

「やめなさい!」

 

「やめない! ハチマンにあんな顔をさせたんだよ! ディアベルも、サキちゃんも、他のみんなも絶対に許さない!」

 

 アルゴが叫ぶ。

 

「ハチマンは私が守る!」

 

 彼に対する彼女の強い思いが伝わるようだった。だけど、それでもこの手は離せない。行かせるわけにはいかない。こんな結末で、彼が乗り越えようとしたものを台無しになんてできない。

 

「お願いよ。私にやらせてちょうだい。お願いだから」

 

 アルゴの顔は涙でくしゃくしゃになっていた。本当に彼が好きなのだろう。心の底から、きっと愛している。

 

 でもね、私は彼の味方なの。彼が思うように動いてほしいの。だから、いま彼女を動かすわけにはいかない。最低な気分だ。

 

 だけど、アルゴは私の手を振り切って店内へ飛び込んでいった。最前線で飛びまわる情報屋に筋力値で適うわけが無い。

 

 慌てて追うも、既にアルゴはサキに詰め寄っていた。

 

「立って! 来て!」

 

 サキはただ放心していて、アルゴの声に答えない。

 

 乾いた音。

 

 アルゴがサキをひっぱたいて思い切り腕を引く。

 

「いいから来て! でないと私が奪うよ! それでいいの!?」

 

 私は、自分の愚かさに驚かされた。アルゴはただサキを叱るだけじゃない。きっと諭すつもりなのだ。誤解を解けと。そして進めと。

 

 のろのろとサキが立ち上がる。あんなサキを初めて見る。顔は虚ろで全身に力が入っていない。艶やかな青みがかった黒髪が、いまや死んでいるようにも見えた。

 

 そして、アルゴはサキを引いて店内を出て行く。

 

 誰も何も言わない。

 

 なにかが決定的に間違った場を、必死に元に戻そうとするように。

 

 いつの間にか、隣にクラインが立っていた。

 

「ユキノさん。ハチのことはオレに任せてくれねえかな。こういうときは男同士の方がいいだろ?」

 

「え、ええ……ありがとう。頼めるかしら」

 

「了解だ。おい、お前ら。ちゃんとみんなに謝罪しとけよ!」

 

 クラインも店内を出る。

 

 キリトとアスナも近づいてくる。

 

「ユキノさん、ハチは大丈夫か?」

 

「サキさん、本当につらそうだったよ。一体何があったの?」

 

 こんな場では答えられず、私は黙って首を振る。それだけで通じたように、ふたりは小さく頷いた。

 

 私は、店内を見渡してから天井を仰いだ。

 

 そして、一筋の涙が零れ落ちる。まるで、流れよ涙と言わんばかりに。

 

 比企谷くん。

 

 ……ごめんなさい。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 あたしは何もできなかった。

 

 ディアベルとその仲間が会話しているのを、丁度私は聞いていたのだ。そこで、こちらに向かっているハチマンの顔が変わったのを見て、気が動転した。

 

 違う、そうじゃないと言いたかった。あれは誤解だから、彼とはなんでもないから。

 

 言えなかった。

 

 本当にパニックになったとき、人はまともな声を出せないのだろう。喉の奥で悲鳴を上げて立ち竦む私の前で、アルゴが彼とユキノを追った。

 

 あたしにはできなかった。感情を処理することでやっとだった。

 

 そして、あたしはいまアルゴに手を引かれて街中を歩いている。時刻はまだ午後三時を回ったところで、大勢の人だかりがあちこちにできている。それらを完全に無視して、あたしたちは歩いた。

 

 雪が降っていた。凍えるように冷たい雪だ。

 

 ホワイトクリスマスなんて、そんなロマンチックなことは考えていられない。

 

 ただ、なにをどうしていいのか分からない。

 

 気づいたらあたしはアルゴの部屋の中にいた。考えごとをしている間に連れられたのだろう。この前と同じように椅子に座らされ、対面にアルゴが座る。

 

 アルゴは怒っていた。瞳も、口も、表情も身体も、なにもかもすべてが怒っていた。

 

「サキちゃん。あれはどういうことなの? どうして否定しなかったの?」

 

 声に出せない。言葉がでない。ハチマンに誤解させてしまったことが、もうお前なんていらないと言われてしまいそうで、身体を抱きしめるようにする。震えが止まらない。そんなこと、彼が言うはず無いのに、最悪な想像ばかりが浮かんでしまう。怖くてたまらない。

 

「サキちゃん!」

 

 アルゴが大声を出す。

 

「……怖かった」

 

「なにがさ!」

 

「ハチマンに嫌われたと思って、怖かった。なにも言えなかった。身体が、言う事を利かなかった……」

 

 はあ、とため息したアルゴが額を押さえる。呆れられたのだろうか。まったくだよ。あたしもあたしに呆れている。こんなことでこんな風になるなんて、以前のあたしじゃ考えられない。昔ならむかついて殴って罵倒して、それで終わりだ。なのにいまは、ハチマンが関わるだけで感情が大きく揺れ動く。どれだけハチマンが好きなんだろう。きっと、簡単な尺度ではもうはかれない。

 

 彼が幸せになってほしい。でも、わたしも彼の隣で幸せになりたい。アルゴと話したときからずっとその思いがあったのに、土台が崩れ出すと途端に何も動けなくなる。

 

 あたしは弱くなった。

 

「サキちゃん、この前言ったよね。あたしがハチマンを幸せにするって。あんたじゃ無理だから引っ込んでろって。あれはウソ?」

 

 そんなことない。あれは心からの言葉だ。

 

「違うよね? だってサキちゃんは、ハチマンを愛してるもんね」

 

 え? と顔を上げる。アルゴは、泣きそうな顔で笑っていた。

 

「サキちゃんの好きは、きっともう愛なんだよ。すごく強いけど、だけどずっとずっと続くもの。私のは激しい炎って感じかな。もちろん冷める気はないけどね!」

 

「そう、なのかな?」

 

「ハチマンと熟年夫婦みたいなやりとりしてて、なに言ってるの」

 

 アルゴが苦笑する。

 

「そうだよ。だからきっとだいじょう……ぶ、とは言いたくないんだけどなあ」

 

 途中で尻すぼみになるアルゴの言葉に、私は笑った。

 

 ああ、本当に彼女が友人でよかった。きっと、ひとりでは落ち込んだままだった。だから、もう大丈夫だ。

 

「アルゴ、ありがと。あんたのことは好きだよ」

 

 驚いたアルゴは、ややあって、ニシシ、と久しぶりにあの笑いをする。

 

「オレっちもだよ、サキちゃん」

 

 でも、

 

「あんただけには負けない」

 

「サキちゃんにだけは負けないよ」

 

 さあ、ハチマン。遅くなったけど、随分と遅くなっちゃったけど。あたしは腹を括ったよ。あんたに想いを告げる。だから、どんな答えでもいいからあんたの言葉を聞かせて欲しい。

 

 でも、できれば。

 

 想いが通じたってほしいと思う。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 適当に宿を取り、俺はベッドに死んだように倒れこんだ。

 

 そして布団に包まって頭を抱える。足をバタバタと全身でもだえる。

 

 ああ、俺はなんであんな反応を……。

 

 ありえねえだろ。どこの悲劇のヒロインだよ。いくら本気で好きだからってあそこまで落ち込む男がいるか! アホじゃねえの。バカじゃねえの。

 

「バーカバーカ! アホ! クズ! オタンコナス! ハチマン! ってハチマンは悪口じゃねえ!」

 

 がばっと起き上がる。頭はもう冴えている。どれだけ自分が身勝手だったかも分かった。ようはあれだ、嫉妬したのだ。嫉妬して、呆然として、勝手に想像を膨らませて自爆したのだ。どこの思春期少年だよ。純情にも程がある。

 

 くそ、やはり恋愛経験値が低すぎたか……。

 

 なあ小町、俺どうしたらいい?

 

 脳内小町が現れる。しかし、その姿はいつもとは異なり、背には翼が生え、頭には光の輪。さらには後光すら背負っている。どこの天使だこいつは。

 

 天使小町が、厳かに告げる。

 

 ――お兄ちゃん。こういうときはね、愛してるでいいんだよ。

 

 なんでいつもそればっかなんだよ。すっごい登場してきたんだからもう少しまともなこと言ってくれよ。お兄ちゃん小町の将来が心配だよ!

 

 ――めんどくさいなあ、ゴミいちゃんは。小町的にスーパーウルトラ超ポイント低い!

 

 その台詞がハチマン的に超ポイント低いな……。ほんとこいつ受験合格したのか? さすがに浪人は困るぞ。

 

 ふんっだ、と不貞腐れた小町は、羽をはばたかせて天へと消える。段々脳内小町がおかしくなっていく。ま、俺がおかしいだけですけどね。ハチマン知ってた。

 

 しばらくの間、ひとりうんうんと唸っていると、ドアがノックされた。

 

「おい、ハチ、いるか? 俺だ、クラインだ。入れてくれ」

 

 なんだよ。クラインかよ。いま俺アイデンティティクライシスなんだよ。まったくめんどくせえなあ。どうせあれだろ、心配して来てくれたんだろ。まったく、いい奴だな。今度飯驕ってやろう。

 

 布団を蹴飛ばして立ち上がる。ドアを開くと、おなじみのヒゲ面が立っていた。

 

 よっ! と片手を上げたクラインは、まじまじと俺の顔を見つめている。

 

「落ち込んでると思ったのに、意外と普通だなハチ。でも相変わらず目は腐ってンなあ」

 

「いますぐ帰るか斬られるかどっちか選べ」

 

 短剣の柄を掴んだ俺に、クラインが慌てて両手を上げる。

 

「うそうそ、うそだって。ちっと中に入れてくれよ。男同士で話そうぜ!」

 

 言って、俺の許しも得ずにクラインがどかどかと部屋の中に入り、テーブルの前にどかりと座った。ストレージからなにやらチキンやらケーキやらシャンメリーやらを大量に取り出し、テーブルにおいていく。

 

 なんなのこいつ。パクってきたの?

 

「さあ、二次会の開始だ! つっても、普通はまだ一次会も始まってない時間だけどな!」

 

 窓の外を見る。まだ時刻は三時を過ぎたといったところだろう。雪が降っているせいで暗ぼったいが、一次会の始まる時間でもない。まあ、ゲームなんだから別にいいだろう。

 

 俺もクラインの前に座る。

 

「適当に持ってきたンだよ。おめえ、ろくになにも食ってないだろ? 感謝してくれよな」

 

「おう、感謝する。このチキンとケーキとシャンメリーを作ってくれた人にはな」

 

「言ってくれるねえ。死にそうな顔してた癖に」

 

「うっせえ。経験値少ないんだよ。仕方ねえじゃねえか」

 

 クラインが笑う。大笑いだ。このヒゲ面め。ヒゲ削ぎ落とすぞ。

 

「いいよなあ。青春じゃねえか。そういうもんは学生のときしかできねえもンだ。かくいう俺も学生の頃はなあ……」

 

 長々とクラインの恋愛話を聞かされる。まったく、こいつは一体何しに来たんだ。まあいいや。チキン食べよう。クリスマスはやっぱりチキンだ。美味いんだよなあ。ケンタのチキン食いてえなあ。

 

「ってな具合だ。だからま、落ち込むんじゃねえよ」

 

「え? なに? いま俺チキンに首っ丈なんだけど」

 

「こいつ……」

 

 項垂れて落ち込むクライン。まあ、感謝くらいはしてやろう。

 

「その、なんだ……ありがとな」

 

 クラインが目を丸くする。

 

「ハチが……デレた」

 

「ちげえよ。なんでみんなして俺をデレさせようとすんだよ。なに? 俺のこと好きなの? ちげえよ、俺は捻くれてんだよ」

 

「デレたデレた。ハチが遂にデレやがった!」

 

 もうクラインは大はしゃぎだ。シャンメリーを持ってやっほっほーいと踊ってやがる。騒がしい奴だ。

 

 すると、またノックが鳴る。

 

 今度は誰だと扉を開けると、今度はキリトだった。

 

「ハチ、だいじょう……ぶ、そうだな。なんだよ、心配したんだぞ」

 

「まあ、アレがいるから落ち込んでらんねえよ」

 

 顎で背後を示すと、踊り狂うクラインの姿がキリトの瞳に映る。キリトも事情を察したようだ。ため息したキリトもテーブルを囲む。

 

「お、キリトじゃねえか。おめえも男同士の会話に混じれ混じれ!」

 

「酔っ払ってるのかよクライン。一応ハチの部屋だぞここ」

 

「いいんだよ。こまけぇこと気にすんなよキリの字。二次会だ二次会!」

 

 今度はキリトに絡んでやがる。めんどくせえなあと思いながらも、俺もテーブルを囲む中に加わる。

 

「で、キリトよぉ、アスナさんとはどうなんだよ」

 

 クラインがいきなり核弾頭をぶちかます。キリトは顔を真っ赤にして俯いた。

 

 ほほー、こいつ、アレだな。やっぱ惚れてんだな。

 

 俺とクラインの視線に耐え切れなくなったか、遂にキリトががばっと立ち上がり、言った。

 

「そうだよ好きだよ! 悪いか!」

 

 おお、言った。言い切りやがった。オラ、さっきのクラインの踊った気持ちが少し分かるぞ。これはちょっと楽しい。

 

「よ! キリの字! 認めたな!」

 

「そうだよ。可愛いんだよ! 笑った顔とか、頬を膨らませて怒った顔とか! たまに優しいとことか! 好きなんだよ! いいじゃないか!」

 

 絶叫しつつ言いまくってる。いい感じに混乱してやがるな。いいぞ、もっとやれ。

 

 今度はキリトがクラインを指差して言う。

 

「クラインはどうなんだよ。この前、ユキノさんがいいとか言ってただろうが」

 

 ほお、と俺は呟きクラインを見る。たぶん、俺の目は品定めをしている職人さながらの目つきになっていただろう。

 

「黙れクライン、お前にユキノを救えるか!」

 

 おっと、これは娘を思う山犬の台詞だった。ハチマンうっかり!

 

「お、ノリノリじゃねえかハチよぉ。で、ユキノさんって実際どうなんだ。同級生なんだろ?」

 

 学生時代を思い出す。まあ、言うなればこうだろう。

 

「眉目秀麗。才色兼備。文武両道。とりあえず思いつく四字熟語が当てはまる完璧超人だな。人付き合いに難があったが、ここに来て柔らかくなったし、元々高い競争率がよけい高くなってるだろ。クライン、諦めろ。お前じゃ無理だ」

 

 俺はクラインの肩を叩いてやる。お前じゃあの雪ノ下さんに気に入られる様がまったく思い浮かばない。その時点で無理だ。

 

 悔しそうにクラインが唸る。

 

「くそぉ、無理かあ。それにしても、サキさんもやっぱ綺麗だよなあ。普段はヤンキーみたいなのに、ハチの前だとデレるし。見てると胸が熱くなンだよなあ」

 

「あー、それ分かる」

 

 同調したのはキリトだ。

 

「最初に初めて会ったときは美人で驚いたよ。しかもハチと強い信頼関係で結ばれてる感じがしてさ。いい仲だなって羨ましかったよ」

 

「ま、同級生だしな。そんなもんだろ」

 

 言って、俺はクラインへ向く。

 

「てかてめえ、サキに向かってヤンキーとはなんだ。確かにメンチきられると怖えぇけど、あいつは頭良くて家事が得意で、妹の送り迎えもしてて、優しくてスタイル良くて、家族に迷惑かけないためにバイトするくらい良い女なんだよ!」

 

「ベタ惚れじゃねえか!」とクライン。

 

「完璧超人だな」とキリトが苦笑い。

 

 そうだ、サキは完璧なのだ。あとちょっと人間関係が不器用なだけだけど、黙っておく。

 

 三度のノック。今度は誰だ。もういいよ。誰でも来ちまえよ。

 

 扉を開けると、すまなそうな顔をしたディアベルだった。ディアベルは俺の顔を見るやいなや、

 

「すまない! すべて俺の責任だ! サキさんとは何も無い! 信じてくれ!」

 

 と頭を下げやがった。

 

 気にすんな。いまはそんな空気じゃないのだ。

 

「んなこといいからこっちこい」

 

 言って、俺はディアベルを連れて行く。

 

「よっ! ある意味今日の主役じゃねえか。こっち来いこっち来い! 男同士の恋愛談義でもしようぜぇ」

 

 バカみたいにはしゃぐクライン。キリトも笑ってディアベルを迎える。

 

「俺も恥かいたんだからディアベルも吐けよな」

 

 え? え? え? とディアベルが混乱顔。気持ちは分かるがいまは悩みなんぞほっぽっておけ。

 

「食え、飲め、はしゃげ、そしててめえも恥をかけ!」

 

 思い切り突き飛ばして、俺はディアベルもテーブル囲みに巻き込む。クラインが横から思いっきりディアベルの肩を抱く。

 

「さあ吐け! きりきり吐け! おめえは誰が好きなんだ!」

 

「よ、酔ってるのかクライン? シャンメリーだよこれ。ハチマン、これは一体……」

 

 ディアベルはまだ困惑顔。だが、そんなのは許さない。

 

「まどろっこしいんだよおめえ。さっさと吐けっつってんだろーが」と俺。

 

「そーだそーだ!」とキリトにしては珍しいはしゃぎっぷり。

 

「え、ええー……」

 

 ディアベルが急に恥ずかしそうにする。こいつ、いやがるな!

 

 クラインもキリトも気づいたのだろう。急にニヤニヤと笑い出し、手をわきわきとし始める。

 

「さあ、言ってもらおうか。ちなみに俺はサキが好きだ。愛しているといってもいい」

 

 俺もいっそのことぶっちゃける。

 

「俺はアスナが好きだ。もう今度告白する!」

 

 キリトの大胆告白。

 

「俺は……いねえよぉ」

 

 クラインはマジ泣き。

 

 同情するようにディアベルがクラインの肩を叩く。クラインはディアベルになきついた。なんだこれ。超楽しい。ぼっち最強とか言ってた頃がほんと懐かしいな。こんな風景がいつまでも続けばいいと心底思う。

 

「で、ディアベルはどうなんだよ」

 

 普段物静かのキリトはもうノリノリだ。ある種、恥の壁を乗り越えたのだろう。後は進むだけだと、ばくしん中だ。

 

 頭を掻いたディアベルがもう降参だと片手を上げる。

 

「わかったよ。言うよ言う。本当はサキさんが好きなんだよ」

 

「ンだとゴルラァ!」

 

 俺の怒声にディアベルが苦笑。くそう、イケメン面め。余裕の表情しやがってからに。殴るぞこんちくしょうめ。

 

「分かってるって。君とサキさんの仲は俺が良く知ってる。オレが好きなのは、君と一緒にいるサキさんなんだよ。だから、横から奪うなんてことは絶対にしないから!」

 

 爽やかスマイルでサムズアップするディアベル。やだ、素敵! 抱いて!

 

 でもよぉ、とクラインも泣き止んだのか話に参加してくる。

 

「最近アルゴも可愛いよなあ。ペイント取りやがったし、なんか猫みたいで愛くるしいっていうか、可愛がりたいっつーかよお。いいよなあ」

 

「《鼠》のアルゴからは想像つかないよな。俺もたまにドキッとする」

 

 うんうんとキリトも頷く。確かにアルゴは可愛くなった。一人称や口調が乙女バージョンになったときなど悶え死にそうになるまである。

 

「アルゴさんもハチマン一筋だからね。クライン、君じゃ適わないよ」

 

 ディアベルの突っ込みにクラインが再び泣く。ディアベルさん、クラインに当たり強くないっすか?

 

「そういえば、俺たちの仲も長いよな」

 

 ふと、言ってみる。こんなことを俺が言うなんて思ってもみなかったのか、みな真顔で俺を見つめている。照れるからやめてくんない?

 

「ハチが、デレた……」半笑いでキリトが言う。

 

「ハチマン……今日はデレ過ぎじゃないか? 捻デレかい?」驚いた顔はディアベルだ。

 

「ハチは今日はずっとデレデレだぜ!」

 

 意味不明なのはクライン。なんでこいつシャンメリーで酔えるんだよ。アルコール入ってないぞ。

 

「ディアベル。捻デレとか言うな。小町のことを思い出して泣くぞ。大泣きするぞ!」

 

「ハチは相変わらずシスコンだなあ」

 

 苦笑するキリト。

 

 笑うディアベル。

 

 妹を紹介してくれと懇願するクラインにはボディーブローを食らわせてやる。

 

 俺はずいぶんと良い仲間を持ったようだ。

 

 時間が過ぎていく。夕方を超え、夜の帳が下りてもなお、会話は尽きない。長い年月をかけて培ってきた友情の間では、話題などたくさんあるからだ。こんな風に話すことができるようになった俺は、やっぱり成長したんだろうか。

 

 そうであればいいなと思う。

 

 明日はクリスマスだ。

 

 昔から欲しいものがあった。手を伸ばしても得られなかったそれを、いまここで手に入れた。だからこれはきっと、ちょっと早いクリスマスプレゼントだ。

 

 



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聖夜の煌きに、夢見るアルゴ 6

 クリスマス当日になった。一夜を男どもと過ごした俺は、雑魚寝状態のまま起き上がった。隣ではクラインがぐーすか眠っている。キリトは剣を抱えたまま夢の中だ。こいつ、いつの時代の人間だよ。お侍さん? ディアベルだけが起きていて、ひとり窓の枠に腰掛け外を眺めていた。

 

 俺もディアベルの横に立って同じように視線を外へ向ける。

 

 昨日と同じく、今日も朝から街は煌びやかに瞬いている。どこもかしこも、今日が本番とばかりに朝からみんな活動的に動いている姿が見えた。

 

「やるのかい?」

 

 静かにディアベルが問うてくる。俺は無言でそれに答えた。

 

 メッセージは昨日送ってある。一時間後には、アルゴと会う約束をしている。そこであの告白の答えをする。そしてその後、サキと出会い想いを告げる。

 

 どちらかを選ばなければならないとき、人は選択を迫られる。俺の場合は、アルゴかサキだった。あるいは、どちらも選べない場合もある。そして、どちらも選択肢から消えてしまうことだってある。

 

 俺の選択で一体何が起こるのか。いまは分からない。

 

 それでも、一週間悩み、ユキノに相談し、男同士で語り合った末、俺は本当に決めたのだ。

 

「そうか。じゃあ、幸運を」

 

 ディアベルが手を差し出してくる。俺も自然とそれを握り返した。男同士の握手だ。

 

「失敗したら慰め会でも開いてくれ」

 

 ディアベルが苦笑し首を振る。

 

「祝勝会にしよう。絶対に」

 

「キリトも含めてな」

 

 視線をキリトへ向けて、ディアベルが薄く微笑む。

 

「そうだね。そうしよう」

 

 しばらく、ふたり無言で窓の外を眺めていた。沈黙は苦ではなかった。昨日の語らいで、こいつともより一層分かり合えた。キリトやクラインとの仲も深まった。多くのものを手に入れた俺は、いま幸せなのだろう。だから、またひとつ幸せを手に入れるためにがんばることにする。

 

 それでも、アルゴに告げる言葉を考えると気が思い。一体、彼女はどれほどの想いを篭めていたのだろうと想像すると、胸が痛くなった。

 

 キリトも起きる。剣を背負ったいつものスタイルで、俺たちの傍に立つ。

 

「よう、うまくやれよ」

 

 今日は互いに勝負の日だ。キリトも分かっているように頷く。

 

「ハチもな」

 

 俺は拳を突き出す。キリトも拳を出す。互いの拳をぶつけ合い、更にディアベルものってくる。

 

「オレは特にないんだけど、ふたりとも、がんばれ! 次は絶対にふたりの祝勝会をするからな!」

 

 三人で拳を突き上げる。こういうのも、仲の良いやつらとやると良いもんだ。

 

 クラインはまあ、まだ寝てる。

 

 そうこうしている内に時間となり、俺とキリトは宿を出た。クラインはディアベルが介抱してくれるらしい。別に酔ってないよねあいつ。

 

 途中まで俺とキリトは一緒に歩く。街並みなど見ている余裕はない。いっそ暗闇の中を歩いている感覚すらある。地面すら曖昧で、隣にキリトがいなければ正直に言って回れ右したくなるくらいだ。

 

 ちらりとキリトを見る。こいつもまた、頬に汗を垂らせて顔を引きつらせていた。なぜかぴくぴくと手が動き、その挙動がどうも背の剣に向かおうとしているのだ。

 

 こいつ、恋と戦うときも剣に手が行くって、一体何と戦おうとしているんだ?

 

 なんだおかしくなって、ぷはっと声に出して笑った。良い感じに緊張が解れてきた。キリトも自分の挙動不審さ加減に気づいたか、バツの悪そうな顔をしつつも、同じように噴出した。

 

 Y字路にぶつかり、俺とキリトは立ち止まる。待ち合わせ場所はそれぞれに別だ。

 

「んじゃ、いってきますか」と軽く俺が言う。

 

「ああ、帰ってくるときはお互い良い報告しようぜ」キリトが格好良く言って見せた。

 

 互いに手を叩いて、俺はキリトと別れる。まっすぐ、ただまっすぐに歩き、アルゴと待ち合わせの場所へ行く。

 

 場所はあの中央広場だ。告白をされた場所で、俺は彼女に返事をする。

 

 アルゴの姿が見えてきた。ベージュのポンチョにチェックのスカート。頭にはキャスケットを被った姿で、アルゴはひとりツリーの前で立っている。両手で持っているのは白のバッグか。

 

 いつもの装いではなく、たぶんプレイヤーメイドの服なのだろう。正直心が揺れ動きそうになる。だが、そんなために来たのではないと、表情をなるべく無にして足を動かす。

 

 アルゴが俺に気づく。ぱっと花咲くように笑顔になったアルゴが、とてとてと可愛らしく小走りにやって来る。愛玩動物のような心温まる笑みを俺に向けた。

 

「ハチマン、呼んでくれてありがとう」

 

 全身で喜びを表現しているように、彼女は華やいで見えた。

 

 女の子は、お砂糖とスパイス、そして素敵な何かでできている。

 

 マザーグースの言葉だったか。

 

 アルゴもこの例に漏れないだろう。蕩けそうに甘く、金にがめつく、でも素敵ななにかが人を惹きつける。

 

 だから、アルゴは素敵な女の子だ。

 

 ちなみに、男の子は、カエルとカタツムリ、そして子犬の尻尾でできているらしい。

 

 なんなの、男に何か恨みでもあるの?

 

「悪いな、昨日の今日で呼び出しちまって」

 

 ううん。アルゴが首をふるふると振る。

 

「ハチマンのためならどこへだって駆けつけるよ」

 

 素敵な笑顔でアルゴが言う。いまから俺は、この顔を曇らせる。

 

「アルゴ、あのな……」

 

「ね、行こうよ。今日はクリスマスだよ!」

 

 そう言って俺の手を掴んで前に進もうとする。だが、俺は動かない。アルゴはなおも引っ張る。

 

「お願い、行こうよ。ずっと、ずっと、クリスマスにハチマンと過ごすのが楽しみだった。待ってたの。お願い、行こうよ。ハチマン」

 

 喧騒を背景に、俺は首肯しない。

 

「ダメだ」

 

「やだ」

 

 嫌だと、アルゴは駄々を捏ねる。

 

「大好きだよハチマン」

 

「ありがとう。そう言ってくれて、嬉しく思ってる」

 

 素直に、想いは嬉しい。

 

「愛してるよ、ハチマン」

 

「でも受け取れない」

 

 周りの喧騒が消えた。まるで、この世界にふたりきりになったように。

 

 世界が凍てつく。

 

 アルゴの表情が凍った。目を大きく見開いて、目じりにはじわりと光を滲ませる。

 

「ハチマンの為なんだったら、なんだってする。嫌がることは絶対にしない。私を見て。ハチマン、私を見てよ」

 

「無理だ」

 

 心が痛い。でも、アルゴの方がもっと引き裂かれるように痛い。

 

 だから俺は、なんでもない。

 

 表情を作るな。哀れむな。ただ想いを伝えろ。

 

 そう、決めたんだろう?

 

「俺はサキが好きだ」

 

「聞きたくない」

 

 アルゴが両耳を塞ぐ。バッグが地面に落ちる。

 

「アルゴ、俺が好きなのはサキなんだ」

 

「いやだ、聞きたくないよ」

 

 両手を取ろうとして、触れることだけはするまいと上げた手を下ろす。アルゴが聞いてくれるのをじっと待つ。

 

 アルゴはいやいやと首を振る。

 

「私は、ハチマンが好きだよ。あの一層のあのときから。私たちベータテスターを守ってくれたあのときから、ずっとあなたのことが好きだったんだよ。一緒に色々なことが出来て楽しかった。一緒にジュースを飲めて嬉しかった。ずっと、隣にいたかった……」

 

 両手を下ろしたアルゴが、再び俺を見る。まっすぐに、涙を流しながら俺を見る。

 

「でも、私じゃダメなんだね……」

 

 沈黙が二人の間に降り積もる。

 

 アルゴが、震えながら願った。

 

「ハチマン……私を振って」

 

 ああ、分かった。

 

「アルゴ。俺はお前とは付き合えない」

 

 アルゴは、ゆっくりと、強張った顔のまま微笑んだ。

 

「うん、分かった。ありがとう、ハチマン。ちゃんと振ってくれたね」

 

「けじめだからな」

 

 ニシシ、とアルゴが笑う。ウインドウを開いていつものフード姿になってそれを被る。頬にペイントをし、乙女ではない、普通のアルゴに戻った。

 

「絶対に後悔させてやるからナ! そのとき告白してきても、絶対に振ってやるからナ!」

 

 だから……震える声でアルゴが言う。

 

「ずっとトモダチでいようね」

 

 答えるべき言葉はひとつだ。

 

「ああ、これからもよろしくな。アルゴ」

 

 俺も、それを望んでいた。だから、喜ばしいことなのに、胸は釘が刺さったように痛くて堪らない。ひとつの恋を壊すとはこういうことだ。欺瞞のぬるま湯に浸かっていた俺には相応しい罰だろう。

 

「こっちこそよろしくナ。ハー坊!」

 

 軽く跳んだアルゴが翻り、てくてくと歩いていく。俺も振り返って歩き出す。

 

 さあ、サキ。

 

 俺の心の準備は終わったぞ。

 

 覚悟しろよ。絶対に告白してやるから待ってやがれよ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 あーあ、と私は呟く。

 

 フラれちゃったなぁ。

 

 元々望み薄であることは分かっていた。ハチマンは誰が見てもサキが好きなのだ。分かってないのは本人たちばかりだ。

 

 それでも好きだったから頑張ってみたのだけれど、どうやら私では彼を振り向かせることは叶わなかった。

 

 イルミネーションの煌く街をひとり歩く。もう乙女の私ではなく、《鼠》のアルゴとして行くことを決めた。もう、恋する乙女はやめるのだ。

 

 聖夜にハチマンとふたりっきり。そんな夢は、もう見られない。

 

 だけれど、今日は、今日くらいはいいのではないだろうか。

 

「ひっぐ……」

 

 喉の奥から悲鳴のような嗚咽が漏れた。視界が曇っていく。それが七色に輝きだして、私は泣いているのだと自覚した。

 

 宿に帰るまで我慢するって決めてたんだけどなあ。

 

 ぐっと歯を食いしばって堪えようとするも、これがなかなか難しい。悲しみは間欠泉みたく溢れていて、私がいくら防波堤を築いてもいつまでもいつまでも零れていくのだ。

 

 なんとか足に力を入れていつものように走る。

 

 宿までもう少し。

 

 私も頑張る。

 

 だからハチマン、あなたも頑張って。あなたの恋を叶えてね。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 サキとの待ち合わせ場所は、《ミュージェン》の南側にある公園にしていた。そこは石造りの小さな公園で、広場とベンチ、あとは枯れた樹木しかない面白みのない場所だ。だから、人は多くない。

 

 俺が公園に辿り着くと、サキが既に公園のベンチで座って待っていた。予定より三十分以上も早い。

 

 サキは今日もいつかのデートのときのように、髪を下ろしていた。首下には白のファーのマフラー。同色のコートを羽織り、中には黒のワンピース。長い足は同じく黒のストッキングに包まれている。肩にかけているのは茶色のバッグか。

 

 まじまじと眺めて、やはり好きだなと思う。

 

本当はもっとずっと眺めていたいが、俺はそれを抑えてサキに近づく。

 

 一歩足を踏み出すたびに、心臓が痛いほど鼓動する。頭がガンガンとなって、嫌な未来ばかりが巡る。唇が乾き、喉が痛くて堪らない。

 

 ああ、こんな想いをしてアルゴは告白をしてくれたのか。

 

 本当に、あいつはすごい。

 

 だが、俺もいまからそれをしなければならない。伝えなければならない。俺が、俺自身がそうすると誓ったからだ。

 

 サキが俺に気づく。ほんのりと寒さにあてられた紅色の頬を緩めて、胸の前で手を振る。でもすぐに恥ずかしがって、顔を背ける。でも目はちらちらとこちらを見ていて、やっぱり手を振ってはにかんだ。

 

 仕草ひとつひとつが愛おしい。許されるのなら、いますぐに抱きしめてしまいたいくらいだ。

 

 我慢しろ、比企谷八幡。いくらなんでもそれはない。

 

 まずい、脳内独り言に軽口がまざらない。

 

 余裕がない。

 

 あまりにのろのろと歩いているからか、サキの方から近寄ってきた。その瞳は少しだけ揺れていた。それが心配によるものだと、いまの俺には分かる。サキと過ごしてきたこの一年近くで、彼女の感情が分かるようになった。

 

「ハチマン、あんたも早いね。どしたの?」

 

「や、あー……早く起きただけだ」

 

 言葉を引き出すだけで一苦労だ。サキが困ったように首を傾ける。

 

「珍しいね。あんたにしちゃあ」

 

 ねえ覚えてる、とサキが昔を懐かしむように言った。

 

「あんたとあたしで、二人で遅刻の回数を争ってた時期があるよね」

 

 確かに、俺もサキも、あの頃は遅刻ばかりしていた。特に俺は人生で何回遅刻ができるのかと真剣に考えたものだ。

 

「屋上であんたと会って、大志からの依頼であんたに助けられて……」

 

 サキが昔を回想していく。たぶん、最初にあったときの印象は最悪だっただろう。なにせ下着を見たのだから。それから大志の依頼を小町経由で受けて、スカラシップのことをサキへ教えた。

 

 俺がサキにやったのはそれくらいだ。大したことじゃない。

 

 だが、サキはそれを嬉しそうに語った。

 

「あんたのお陰で、あたしは取り返しがつかないことにならなくて済んだ。ありがとね」

 

「礼を言われることじゃねえよ。余裕なかったんだろ? ならしょうがねえよ。普通のサキならあれくらい気づく」

 

「でも、あのとき教えてくれたのはあんただった。それと、文化祭のときも……」

 

 文化祭?

 

 今度は俺が首を傾げる番だった。文化祭実行委員で死にそうな目にあった俺には、サキと絡んだ記憶は皆無だ。あるとしたら、相模を捜したときに屋上について聞いたくらいか。

 

「あんたはきっと忘れていると思うけど、あんた、あたしにこう言ったんだよ」

 

 サキが微笑む。

 

「サンキュー、愛してるぜ川崎――ってね」

 

 なん……だと……。

 

 待て。ちょっと待って。待て待て待て。

 

 なにか? 俺は気づかぬうちにサキに告白してたのか? そんな簡単なノリで?

 

 ぐ……。

 

 死にたくなってきた……。

 

「ハチマン」

 

 告白の前に、実は下らない告白をしていた残念な事実を知って落ち込む俺。そんな俺に、サキが声をかけてくる。手を伸ばし、俺の頬に触れた。暖かい手が顎へと動く。

 

「好きだよ」

 

 そう言って、サキの唇が触れた。まるで、アルゴとの再現のようなキスだった。

 

 唇越しに、サキの体温が伝わるようだった。心臓が高鳴り、いまにも張り裂けそうだ。それなのに、ずっとこのままでいたかった。

 

 永遠にこうしていたいと思えるほど、至福の瞬間がいま、ここにある。

 

 サキが顔を離す。薄紅色の睡蓮の微笑みを浮かべ、サキがもう一度言う。

 

「愛してるよ」

 

 そのまま俺に飛び込んできた。背中に手を這わせ、胸を押し付けるように密着される。サキの吐息が、俺の首筋を優しく撫でた。

 

「あんたはどうだい? あたしのこと、好き? それとも嫌い?」

 

「決まってんだろ。好きだよ」

 

 あーあ、言っちまった。というか、言われちまった。先に言おうと思ったのに、まさか向こうから告白されるとは思わなかった。

 

 離れたサキは、驚いたように目を丸くしている。

 

「えっと、それは友達として、とかじゃなくて?」

 

 なんでここでこいつは、こういう勘違いをするかなあ。

 

 ふっ、と笑って俺はサキの顔を見る。サキは不安げに俺を見つめていた。まるで、友達としてのことを言われているのではないかと、本気で思っているように。

 

「俺はサキが好きだ。女として好きだ」

 

 は、へ、と意味不明な言語を呟いたサキが、よろよろと後ずさる。

 

 え、なに? どしたの? なんか悪いもんでも食ったのか?

 

 ちょっと困るぜ。折角の告白なのに、なんでこんな不恰好になっちまうんだ。

 

「おい、サキ」

 

 どうにも信じていないサキがもどかしくて、俺は彼女の手を無理やり引いて、俺の方から唇を奪ってやった。

 

 互いに目を開けているから、サキがどんな顔をしているか分かる。サキも俺の顔を見ている。サキの顔がどんどん真っ赤になって、やがて、目を閉じた。

 

「ん……っ」

 

 しばらくそのままでいて、ようやくサキを離す。サキは蕩けるように目の焦点があってなく、口は幸せそうに微笑んでいる。

 

「うそみたい……」

 

「そう思うなら何回でも言ってやる。俺はお前が好きだ。青みがかった髪が好きだ。ちょっとこええ目が好きだ。お前の優しいところも、家族思いのところも、ぜんぶ好きだ」

 

 サキの目が潤む。目じりが光、一筋、二筋と涙が流れる。

 

 だから――

 

「俺と付き合ってくれ」

 

 なあ、サキ。ずっと傍にいてくれてありがとう。理由を預けてしまった俺を許してくれてありがとう。ぼっちの俺に仲間を作ってくれてありがとう。

 

 だから、ずっとお前と一緒にいたいんだ。

 

 ああ……サキが口許を両手で覆う。嗚咽を隠すようにしながらも、でも零れて止まらない。

 

「うん、うん……はい。あたしも、ずっとあなたの傍にいたい……」

 

 嬉しくて、嬉しすぎて、心がどうにかなってしまいそうな自分を抑えるために、サキの身体をかき抱いた。胸の中で泣くサキの髪を撫でながら空を仰ぐ。

 

 今日も変わらずの曇天空。そして、ぽつぽつと白い何かが見え始めた。

 

 雪だ。

 

 今日もホワイトクリスマスだ。

 

 そして、なによりも素敵なプレゼントが、いまここにある。

 

「サキ、愛してる」

 

「うん、あたしもハチマンを愛してる」

 

 きっと生涯忘れることはないだろう。

 

 この恋が、愛に変わったとしても、永遠に続くように。

 

 俺は雪に願った。

 

 



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第四章
そして、囚人は邪竜と戯れる 1


 幸せな朝だった。起きた俺は寝ぼけ眼で窓の外を見る。まだ早朝だった。

 

 愛しい寝息が隣から聞こえてくる。サキが俺のすぐ隣でぐっすりと眠っていた。昨日遅くまで色々と語り合っていたから夜更かししてしまったのだ。

 

 ふたりとも本来は寝坊気味だから、いつもは先に起きているサキも今日は夢の中。美しくも可愛らしい寝顔をずっと眺めていたいが、そうするといつまでも時間が過ぎてしまうので我慢する。

 

 ベッドからゆっくりと起き上がって、起きぬけに一杯のマッ缶。

 

 うん、ウマイ。

 

 注文してあった新聞をウインドウから取り出して開く。一面には、「攻略組、遂に五十層に到達!」という一面の見出しが踊っていた。クリスマス、大晦日に正月を挟んだため、攻略が少し遅い。

 

 クリスマスから約二週間。

 

 サキと告白し合い、恋人同士になった俺たちは、かつて彼女が提案したとおり、一緒に住むことになった。まだ場所は三十三層の《ラーヴィン》で間借りしている部屋だ。いつかコルを貯めたら、ふたりの家を買って引っ越そうとサキと約束している。

 

 幸せな二週間だった。人生で初めて女の子とイチャイチャした。それはもう、たくさん。

 

 正直思い出すと悶絶したくなる。こういうところは、やっぱり変わってないな、うん。慣れるかな。慣れるといいな。でも慣れるのも嫌だなあ。

 

 そしてあの日、キリトもアスナに告白をしたそうだ。やっぱり成功し、ふたりは付き合うことになった。ふたりは同棲などしていないが、いつも磁石のようにくっついては周りからはやしたてられていた。クラインはまるで父親のようにうれし泣きし、ディアベルすら貰い泣きしていた。

 

 ユキノも、アルゴも俺たちを友人として祝福してくれた。

 

 アルゴとは、まだわだかまりは少しある。

 

 それでもお互いに歩み寄って、よりよい友人同士になっていきたい。

 

 新聞を読み終わったところで、時刻は七時半。いい時間になっていた。そろそろサキを起こすことにする。普通、眠れる美女は王子様のキスで目を覚ますものだが、生憎俺は王子様なんぞではない。ふつうに起こす。

 

 し、したいんだけどね。まだ慣れてないんだよ。ドキドキするし。

 

「おい、サキ。起きろ、朝だぞ」

 

 身体をゆすってやると、サキが「んん……っ」と悩ましい声を出す。こいつ、無自覚にこういう声だすから困るんだよなあ。男の子としてはちょっと反応しちゃう。やだ、ハチマンのえっち!

 

「はちまん?」

 

 寝ぼけたサキが、ふわふわした言葉で俺の名を呼ぶ。

 

「おう、起きろ。朝だぞ」

 

「はちまん~大好き~」

 

 いまだ夢の中にいるのか、サキが俺に抱きついてくる。子どものように間延びした声を出しながら、俺の胸に頬を何度もこすりつけてくる。

 

「う~はちまん~。すき~大好き~」

 

 う、うぐっ! やばい、破壊力がありすぎる。普段の姉御口調ではなく、恋人に甘える女の子の喋り方は、普段のギャップもあいまって心臓に直撃してくる。

 

 そう、サキは寝起きが酷いのだ。主に、甘えてくる方向ですごい。

 

 むくっと顔を上げたサキが俺を見上げてくる。にへら、という擬音が似合う、にやけた表情だ。

 

「ね~はちまん。ちゅーして~」

 

 朝っぱらから、なんちゅうこと言いやがる。俺だって超したいよ。でもやったらすげえことになるぞ。

 

「お前正気に戻ったらどうなるか分かってるだろうが。ほれ、起きろって」

 

 身体をゆすってやるが、まだサキは寝ぼけている。

 

「ちゅーしたいよ~。はちまん、はちまん~」

 

 もうやめて! ホントに我慢できなくなるから!

 

 よし、これが最後だ。これで無理ならもうやってやる。あとで悶えてもしらねえからな!

 

「これが最後だサキ。正気に戻るならいまだぞ。起きるんだ!」

 

 サキの表情が変わる。今度は子どもが泣くような顔だ。

 

「うぅ……はちまん、あたしのこと嫌いになっちゃったの? やだ~。やだやだ。はちまん~嫌いにならないでよぉ~」

 

 あ、これダメだ。完全にダメなやつだ。キスするまで戻らねえやつだ。

 

 仕方ねえなあ、と心の中で呟きながら、内心でひゃっほいと思う。俺も俺で朝からしっちゃかめっちゃかだ。

 

 サキの頬に手を添えて、触れるだけのキス。

 

 ん、と声を漏らしたサキの目に光が宿る。

 

「……もしかして、これ、現実?」

 

 サキがひきつった声で言ってくる。俺は無言で頷いてやった。もちろん、すっげーにやけた面を見せてやる。

 

「いやあああああああ!」

 

 絶叫したサキが布団を被った。布団から出た足をバタバタとさせて、うーうー唸っている。

 

 実はこれが俺たちのたまに起こる日常だ。主に、三日に一回くらいの割合で。つまりはこれで四回目だ。そう、起き抜けに寝ぼけたサキから催促されてキスをして、サキがこうして布団で悶絶する。

 

 まったく可愛いやつだぜ。

 

 俺もバタバタしたいけど、布団取られちまったしなあ。心の中だけでバタバタしよう。

 

 やっちまった! 今日もやっちまったよ! 可愛かったなあ。すっげえ可愛かったなあ。お持ち帰りしてえなあ。あ、もうお持ち帰りしてた。ハチマンうっかり!

 

 サキが布団の中から這い出して、むくりと起き上がる。顔を逸らして頬を染めて、

 

「でも……大好きだよ」

 

 嬉しそうにサキが言った。

 

 こっちも赤面する。ああもう、これだからこいつは可愛いんだよ。こんな顔、誰にも見せたくねえなあ。

 

 サキがいそいそと支度を始める。いつもサキが朝食を作ってくれているのだ。どうやら料理スキルはカンストしたらしい。彼女の美味い料理が毎日食べられるのだから、本当に俺は幸せだ。

 

 うまいうまいと言いながら俺は朝食を食べ終え、ふたりで外に出る。転移門から五十層の《アルゲート》へ向かった。

 

 そこには馴染みのメンバーが既に待っていた。

 

「やあ、おはようハチマン、サキさん。今日も頑張ろう!」

 

 ディアベルが朝に似合う笑みで挨拶を告げる。

 

「よぉハチ、サキさん。いつも仲いいよなあ。羨ましい……」

 

 ぼやくのはクラインだ。こいついい奴なんだよなあ。誰か紹介できねえかなあ。

 

「ハチ、サキさん。おはよう」

 

 簡素な挨拶なのは剣を背負ったキリト。左手はしっかりとアスナの手が握られている。

 

「ハチくん、サキさん。おはよう。今日も一緒にがんばろうね!」

 

 見る者を幸せにする微笑みを湛えるのはアスナ。

 

「うん、おはよう、みんな」

 

 サキが左で手を振って挨拶を返す。右は俺の左と握られているからだ。

 

「おう、おはようさん。んじゃ、今日もきりきり働くか」

 

 適当な声で俺が先導していく。なんか最近俺が一番前を歩いてるんだよなあ。昔は集団で歩くときは必ず一歩後ろにいたのに。変われば変わるもんだ。

 

「てか、お前らギルドはいいのかよ。最近俺らとばっかつるんでるけど」

 

 後ろのアスナ、クライン、ディアベルに聞く。俺とサキとキリトはソロだから良いが、あいつらはギルドに入っているのだ。特にクラインとディアベルはギルドマスターだ。ちっとばかしマズイんじゃないかと心配になる。

 

「ああ、副官が結構優秀でね。いまは結構楽させてもらってるよ」とディアベル。

 

「俺ぁ明日は戻るわ。こっちも楽しいけど、あいつらを放っておけないしな」とクライン。

 

「私は大丈夫。団長を脅し……じゃなくて、説得したから」

 

 ちょっと、聞こえちゃいけない言葉が聞こえてきたよ、アスナさん。こいつ怒ると怖そうだな。

 

 隣のキリトがひきつった笑いを浮かべている。こいつ既に尻に敷かれているのか……。

 

 そんな風に話をしながら街を抜け、フィールドへ出る。

 

 ここ五十層のフィールドは山岳地帯だ。木々も生えていない禿山に、小さな竜がうじゃうじゃと生息している危険な場所だ。通称《竜の巣》とNPCからは言われているらしい。

 

 しかもだ。小さな、と言っても優に三メートルは超える。でけぇよ。もう雑魚がボスじゃねえかよ。どんだけ俺らを殺したいんだよ茅場の野郎。

 

 赤に青、緑に黄と、さまざまな竜が生息している。それぞれ炎、氷、風、雷と、強力なブレスを吐く強敵どもだ。はっきり言って強い。安全マージンを取ってはいるが、油断ならない敵だ。

 

 まだフィールドはすべて制覇していないため、他の色の竜もいる可能性がある。

 

「来たぞ! 三時の方向に二体! 赤と黄だ!」

 

 ディアベルの怒声。土埃を巻き起こしながら、ふたつの巨大なMobが現れる。全身を硬質な鱗で守られた全長約三メートルの赤竜と雷竜が、鼻を大きく鳴らしながら、巨体に似合わぬ速さで駆け抜けてくる。凶悪なトカゲを想起させる頭には、見る者を震え上がらせる狂眼。口腔には骨まで砕きそうな牙が並んでいる。赤竜は炎を、雷竜は紫電をその巨体に纏わせていた。

 

 俺たちは即座に武器を構える。

 

 さあ、働きますか――

 

 

 

 午後三時を回ったところか。

 

 二度目の新たな安全地帯を発見した俺たちは、休憩を挟むことになった。

 

 あの二体の竜を倒し、さらに奥へ奥へと進んだところで、途端に恐ろしいほどに次から次へと竜が現れ襲い掛かって来たのだ。しかも紫の毒竜、銀の鋼竜、更には白竜と黒竜の四体の新種まで現れたので、対処に困ったのだ。

 

 特に白と黒は凶悪だった。白は無駄に速度が早く、逆に黒はブレスに触れたプレイヤーを鈍足状態にするのだ。マジ最悪。何度死ぬかと思ったか分からない。二体揃ったえげつなさといったら、どこぞのアインファウスト・フィナーレ級だ。

 

 本当に休む暇もなかった。というかなにこの初見殺し。フィールドでマジで殺しに掛かってんじゃねえか。なにか俺たちに恨みでもあるの?

 

 やっぱ働きたくねえ。

 

 そうそう人間は変わるものではないんだな、と考えていると、肩に何かが圧し掛かった。サキの頭だった。相当神経をすり潰したのか、完全に寝入っていた。

 

 視線を逸らすと、みな一応に疲れた表情をしていた。アスナも殆ど眠りそうになっており、キリトが肩を支えていた。クラインは完全に寝そべっており、ぜいはあと荒い息を吐いている。ディアベルも手近な岩に座ってしんどそうにしている。

 

「こりゃねえだろぉ。あんなの俺たち以外にどう対処するってンだ」

 

 クラインが嘆く。もっともだ。SAOでほぼ最強プレイヤー軍に匹敵する俺たち六人でこの有様だ。普通に考えたら全滅だ。レベルは安全マージンを取っていてなおこの状況。やはり闇雲に突っ込んでも攻略は難しいだろう。

 

 ディアベルも同じ結論に至ったのか、俺を見て呟いた。

 

「一旦転移結晶で戻ろう。これは普通でのフィールド攻略すら不可能なレベルだよ」

 

「そうだな。このままだと下手すると全滅だ。このまま即戻った方がいいだろ。アルゴに情報がないか聞いてみるか」

 

 ディアベルが首肯する。他の皆も反対意見はないようだ。

 

 サキを軽くゆすって起こし、全員で《アルゲート》へ戻る。各自情報収集を行うとのことで、一度解散することとなる。

 

 しんどそうなサキの腕を持って、《アルゲート》の転移門まで行く。今回はかなり活躍していたから、かなりハードだったのだろう。サキが三体の竜を相手に互角以上に戦っていたのはさすがに目を疑った。

 

 ぐったりとしているサキが俺を見上げる。

 

「ごめんね、ハチマン」

 

「気にすんな。さすがにアレはねえよ。俺だって死にかけた。まずは情報だな」

 

 フィールドの中に、モンスターがカーニバってるところがあるとは思わなかった。情報収集を怠ったツケだ。これは情報戦術を得意とする俺の失態だ。

 

「飯、食べれるか?」

 

 サキが力なく首を振る。

 

「んーん、夜までいらない。傍にいて」

 

「あいよ」 

 

 俺は答えてサキをつれて街を進む。転移門から《ラーヴィン》へ戻り、サキとの家に帰る。ベッドまで連れて行き、横たわらせる。サキはすぐに寝入ってしまったようで、すぅすぅと寝息が耳に届く。俺はサキの寝顔を五分ほど眺めたあと、ウインドウを開いた。

 

 アルゴへのメッセージを仮想キーボードで叩く。今日分かった情報と、攻略組全員に対しフィールド深部まで行かないよう警告するよう依頼。合わせて、情報があれば購入も依頼。まだ五十層に到達して二日目だ。さして分かることは無いだろうが、アルゴのことだから何かしら仕入れているかもしれない。

 

 あとは返信を待つだけだ。

 

 一時間後、システム音と共に返信が来た。ウインドウを操作して中身を開く。

 

 情報提供への謝辞、既に各ギルド長への注意喚起を促した旨が記載されていた。そして、肝心の情報に目を見張った。どうやらアルゴが既に情報を得ていたようだ。

 

「なーるほどね。確かに少し気にはなっていたが、そゆことか」

 

 これでフィールドを回るのは多少は安全になるだろう。カーニバってるところへ誤って足を踏み入れなければの話であるが。今日遭遇したほかにも同じ竜の巣窟があれば、できればすべて把握しておきたいところだ。

 

 しばらくはフィールドの探索か。

 

 時間をかけて今後の戦略を練っていると、近くで毛布が動く音が聞こえた。振り向くと、サキが目を覚まして起き上がったところだった。

 

「よう、疲れは取れたか?」

 

 ん、と軽く伸びをしたサキが口許を緩める。

 

「だいぶね。あんたが近くにいたお陰だよ。ありがとう」

 

「お、おう」

 

 直球の好意にはまだ慣れない。だって初めての彼女だし……。

 

 ベッドから降りたサキが近づいて来て、そのまま抱きつかれる。急な動きにびっくりして、俺はそのまま倒れこんだ。傍から見るとサキに押し倒されたような格好だ。なんかこの体勢、男として情けなくねえか?

 

 頬を染めたサキが顔を近づけてくる。

 

 まさか、寝ぼけてらっしゃる? 朝の続きなの? ハチマン心臓もたないよ?

 

 サキが小さく口を開いて、言った。

 

「ちゃんと起きてる。したいだけ」

 

 サキの色香に息を呑んだ途端、口を塞がれた。甘い吐息が間近に感じ、それだけで心が満たされるようだ。

 

 顔を離してサキがはにかむ。

 

「ん、満足した」

 

「俺は心臓が破裂しそうなんだけど。助けてくんない?」

 

「あたしとするの、嫌?」

 

 んなわけねえだろ。毎日しちゃいたいくらいだぜ。ぼっちも十七年こじらせると欲求がすごいんだぞ。

 

 ただ色々と、初めてなのにいきなりこういうことしまくると後が怖い。理性に歯止めが利かなくなりそうなのだ。雪ノ下さんがいまの俺を見たら失望しそうだな。やだ、なにそれ超嬉しい!

 

「ねえよ。いまもしたいまである。ただ慣れないだけだ。だからその、なんだ……いきなりはやめてくれ」

 

「ん、あたしも恥ずかしいけど、したいならすればいいんだよ。だって、その……」

 

 恋人同士だし、とサキがもじもじしながら言う。押し倒した状態でもじもじされても困る。まるで襲われてるんだぞ俺。

 

「ま、とにかく離れてくれ。理性が限界に近い」

 

「興奮した?」

 

 いたずらっぽくサキが笑う。

 

「したんでもうやめて下さい。俺死んじゃう!」

 

 それは大変、とサキが楽しそうに離れる。そのまま「着替えてくる」と言って、リビングへ向かっていった。ドアを閉める寸前、

 

「あ、覗いていいよ」

 

 そんな爆弾発言を落してサキがドアを閉めた。

 

 俺は額を押さえる。もう、ハチマン限界だよ。理性ちゃん、よくがんばったね。ありがとう!

 

限界になった俺はベッドに飛び込み布団を被る。そのまま、朝のサキのように全身で悶えた。

 

 

 

 



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そして、囚人は邪竜と戯れる 2

 枯れ果てた大地に火球が迸る。俺とサキは両サイドへ跳んだ。大地に触れた火球が弾け、爆炎が広がる。熱波を浴びながら俺は疾走。サキも逆サイドから併走する。

 

 敵は二体の火竜。三時と九時に一体ずつだ。俺は三時へ疾走し、サキは九時へと走る。

 

 三時方向の火竜が唸り声をあげ、近づく俺へ狙いを定める。もはや短剣のそれと同等の爪を俺へと振りぬく。直前、上体を下げた俺は、すぐさまバク宙の要領で火竜の腕に飛びのり、さらに跳躍。弱点のひとつである両目に短剣とナイフを突き刺した。

 

 火竜が苦悶の咆哮。俺はすぐさま体重を乗せて竜の両目を切り裂き落下。同時、もうひとつの弱点である鱗のない腹に短剣による振り下ろしを加える。

 

 ゴォ、と炎が収斂する音を耳が拾う。火竜が炎の息吹を吐く前兆だ。顔を上げると、竜が禍々しい形相で、俺を睨んでいた。眼はもうないけどね。

 

 口腔が開かれる寸前、俺は開かれた火竜の腕へ飛ぶ。腕を踏み台にして火竜の背後に飛び乗り、最後の弱点である頭上へ八連撃スキルをぶちかます! これで死ね! さっさと死ね!

 

 HPバーを削りきり、火竜の身体が硝子となって霧散。すぐさまサキの援護へ向かおうとし、既にサキがこちらに来ていることに気づく。

 

「もう終わってたのか。早いな」

 

 サキは構えていた槍を器用に回し、石鎚を地面に突く。相変わらず様になっている槍捌きだ。

 

「伊達にあんたに鍛えられちゃいないよ」

 

 でも、とサキが呟く。

 

 遠くから足音。数は恐らく二体。目を向けると見えるのは黄竜か。

 

「ビンゴだね」

 

 俺も頷く。

 

「まったくだ。アルゴさまさまだな」

 

 今回はサキと二人でのパーティだが、あることを試していたのだ。

 

 サキがストレージに仕舞っていた匂い袋を取り出す。人間には分からないが、竜の苦手な匂いを放つ薬草の入った布袋だ。これを首にかけると、聞こえてきた足音が遠ざかっていくのが分かる。

 

 さっきからこれを付けたり外したりをして、本当に情報が正しいのか裏取りをしていたのだ。朝から夕方まで、知っているだけの全種類に試してみたが、すべてが逃げるように去っていくのを確認できた。

 

 間違いない。これでこのフィールドは楽に攻略できる。

 

「そうだね。竜狩りも結構楽しいけど」

 

 さらりと怖い台詞を吐くサキ。この子、知らない間に戦闘狂になっちゃったりしてるのかな。やだ怖い。絶対に怒らせないようにしよう。

 

「さて、帰ろうか。さすがに奥まできちゃったし、今日も結晶を使わない? 万が一ってこともあるし」

 

 一応万が一は警戒しておいたほうがいい。マップを開くと、大体フィールドの最南端付近まで来ている。

 

「そうだな。そうしよう」

 

 サキの提案に俺も乗る。

 

 ふたりして転移結晶を取り出そうとした瞬間、頭上に影。

 

 空を見上げると、崖の上から蛇のように長い赤い何かが猛然襲い掛かってくる。俺もサキも瞬時に飛び退く。同時、先ほどまで俺たちがいた場所が、爆炎に包まれた。

 

 現れたのは、赤く長い蛇のような竜。いや、龍か! ワニのような凶悪な頭。その頭部から伸びる二本のツノ。鼻の両側から細長いヒゲが風になびく。竜とは異なる短い両手両足が、砕いた地面を握っていた。

 

 そしてなにより、三メートルほどであるが宙に浮いている。

 

「サキ、行けるか?」

 

 冷や汗を流しながら俺は問う。

 

「やってみないと分からないね」

 

 サキも既に戦闘態勢に入っている。

 

 クソ! 確かに匂い袋は竜に効果があった。だが、龍には利かなかった。そういうことか!

 

 いい情報を得たから早速逃げ帰りたいが、赤龍がそれを許さない。

 

 蛇のように身体をしならせた突進。俺とサキは両サイドにそれを避ける。しかし、俺の前に赤い壁。咄嗟に短剣とナイフを交差させる。

 

 衝撃!

 

 ナイフが砕けるも、なんとか短剣で防ぎきる。しかし、HPバーは僅かに削れ、俺の身体もふっ飛ばされる。

 

 何がおきた? 尾を叩きつけられたのか?

 

 赤龍の突進を避けたサキだったが、今度は火炎ブレスに手を焼いている。低空だが宙を自在に移動しながら飛びまわる赤龍のブレスに、サキは避けるしかない。

 

 マズイ。こいつは最悪だ。

 

 すぐさまナイフを装備し直し疾走を開始。

 

 ひとまず注意を逸らそうと投擲スキルでナイフを投げる。龍の身体に命中するも弾かれる。おいおい、固いな。もちっと柔らかくなろうぜ。二本しかないヒゲがはげるぞ!

 

 すぐにナイフを再装備。サキを襲う龍を追う。俊敏特化の速度が龍に追いつき、すぐさま跳躍。龍の身体に乗って走る。龍もそれに気づいたか上昇を開始。まるでジェットコースターのように宙で一回転し、俺を振り落とす。逆さになった俺の目の前に開かれた龍の口腔。アホみたいに凶悪の牙が並ぶ口で俺を噛み千切ろうとしてくる。

 

 よけらんねえ!

 

 寸前、跳躍していたサキが俺を掴んで龍の噛み砕き攻撃から救った。ふたりで地面に転がり落ちると同時に併走。止まったら殺られる!

 

 背後からは依然として殺意に満ちた龍の威圧。超怖い。逃げたくて仕方が無いが、このまま追われ続けたらいずれ捕まる。

 

 俺はサキを見る。サキも俺を見る。俺が視線を上下させる。サキは頷く。恋人同士だから可能なアイコンタクト。こんなときじゃなきゃ抱きしめたい。

 

 瞬時に俺たちは反転。サキが走り高跳びの要領で、迫り来る赤龍の頭に着地。再び上昇をしようとした赤龍の顎下から、俺が短剣を無理やり突き刺して疾走する!

 

 サキも頭上で槍を振り回しながら上下で愛の併走!

 

 赤龍が苦痛の咆哮を上げ、今度は左右に身体を捻らせる。腕が持ってかれ、俺の身体が横殴りに吹っ飛ばされる。吹っ飛ばされてばっかじゃねえか俺。サキは前宙してこれを回避。三度サキとともに走る、走る!

 

 赤龍のHPバーは三分の一を削っている。龍の狂眼に怒りの炎が灯る。口腔に光。さすがにヤバイと感じ、急速に進行方向を曲げる。憤怒の息吹が大地を駆け抜ける。燃え続ける炎の中から現れるのは赤龍。

 

 学習しやがったのか、蛇行しながらの赤龍の前進。火球を何発も飛ばしながら来る威容は、怖すぎる。俺もサキも逃げるのをやめ前進。超絶な集中力で火球を避るも何発かもらう。意識がHPバーへ行きかけるが無視。暇がねえ。

 

 赤龍が巨大な口を開く。再び火炎ブレスの前兆。今度は俺が飛び上がる。赤龍の注意が俺に向く。行け、サキ!

 

 サキがスライディングするように顎下に回り、そこから槍で思い切り顎下から頭までを貫く!

 

 赤龍の瞳に苦悶と混乱。ナイフを捨てた俺が、圧し掛かるように飛び乗り短剣を両手で赤龍の頭を貫いた!

 

 強制的に赤龍の口を塞ぐ。

 

 赤龍の口中に残っているのは火炎ブレス。それが弾け、赤龍の体内から炎が吹き出す!

 

 サキが槍を振り抜く。

 

 爆発に巻き込まれる寸前、俺は短剣を抜けないと判断。握る手を離してその場から飛び退く。

 

 燃える龍となった赤龍の口腔が爆散!

 

 赤龍のHPバーがゼロになり、硝子となって砕け散った。

 

 俺は地面に転がり落ち、なんとか立ち上がった。こちらのHPゲージも、気づけばイエローゾーンまで減っていた。

 

 サキも、よたよたと槍を杖代わりにしてやって来る。

 

 俺は手を掲げる。サキも手を上げる。ふたりして手を叩きあい、互いの健闘を湛えあう。

 

「死ぬかと思った。死んだと思った。俺帰る。おうち帰りたい」

 

「あはは……さすがに急だったから、しんどいねえ」

 

 それより、とサキが心配そうに見つめてくる。

 

「短剣はどうしたの?」

 

 あー……と頭を掻く。さっき思いっきり爆発に巻き込まれてたんだが、大丈夫だろうか。

 

「分からん。ちょっと見てくる」

 

 赤龍が消えた場所を見ると、短剣の残骸が消えていくところだった。やべぇ、結構お世話になってたのにお亡くなりになっちまった……どうしよう。

 

 サキが隣に来る。俺の顔を見て、やはり察したようだ。

 

「もしかして、壊れた?」

 

「おう、壊れちまった。まあ、生きてるだけマシなんだが……」

 

「じゃあ丁度いいね」

 

 うん? どういうこと?

 

 意味が分からずサキを見ていると、サキがウインドウを開いて俺に見せてくる。それはあの赤龍がドロップした短剣だった。LAボーナスはサキになったのか。システムが良く分からん。

 

 よく見てみると、銘は《デスブリンガー》と記載されている。あの赤龍の鱗で鍛えられたか、禍々しい紅の刀身が特徴的な短剣だ。ステータスを見る限り、俺が使っていた短剣より二周り以上性能がいい。しかも素晴らしいことに要求ステータスが俊敏特化。なんという俺得武器。こんな幸運あるんだろうか!

 

「く、くれるのか?」

 

 サキが笑う。

 

「当然じゃないか。売ってどうすんのさ」

 

「おおう、サンキュー愛してるぜサキ!」

 

「はいはい、あたしも愛してるよ」

 

 サキに抱きつく。笑いながら抱き返され、しばらくふたりで抱擁。だがすぐに新手が現れるかもしれないと考え、俺たちは今度こそ転移結晶で《アルゲート》へ戻った。

 

 

 

 《アルゲート》に戻ると、心配顔のアルゴが転移門の前で俺たちを待っていた。俺たちの姿を見ると、一気に駆け寄ってくる。一体どうしたんだ?

 

「よかっタ、無事だったんだネ! よかったよォ……!」

 

 殆ど泣きかけているアルゴをサキが慰める。嗚咽するアルゴから話を聞く限り、どうやら俺たちが遭遇した赤龍はフィールドボスの一体だったらしい。だからあんな凶悪だったのかよ。よくふたりで倒せたな。

 

 よく見ると、アルゴから何件もメッセージが届いていた。よほど心配していたのだろう。

 

「調べた限りフィールドボスは四体いてネ、それぞれ特定の場所で匂い袋を使って竜を排除すると、出現するみたいなんダ」

 

 アルゴの言葉にピンと来る。

 

「あー、もしかしてそれが俺たちが昨日死にそうな目に合った竜の巣窟か?」

 

「たぶんそうだヨ」

 

「あと、迷宮区前を守っているやつも別でいるみたいだヨ。この情報を知ったときは心配でしかたなかったヨ……」

 

 アルゴがシュンと項垂れる。アルゴは自分の情報に絶対的な自信を持っている。だから、今回のように不完全な情報を渡し、俺たちを危険に晒したことを悔いているのだ。こうして駆けつけてくれるなんて、いい奴だなあ。ほんと友人として嬉しい限りだ。ハチマン喜んじゃう!

 

 サキもそれは同じのようで、微笑んでアルゴを撫でる。

 

「大丈夫だよ、ちゃんと生きてるし。あたしらがそうそう負けるわけないの、知ってるだろ?」

 

「うん、でもゴメンねえ二人共」

 

 ひとしきり慰め終わったあと、俺たちはアルゴへ今日の情報を提供して別れた。サキもさすがに疲れたと言っていたから、今日は外食をすることにする。

 

 適当に店を見繕って入る。ちょっとした洋食店だった。肉の香りが漂ってきて食欲が湧く。疲れたから腹減った。ついでにサキ成分も足りない。あとでイチャイチャして補充しないと!

 

 店内で空き席を捜していると、キリトとアスナがこちらに気づいた。

 

「あ、ハチくん、それにサキさん! こっちこっち」

 

 アスナが大きく手を振って呼びかけてくる。俺たちもそれに答え、ふたりの席まで行く。男と女に分かれて座ると、キリトが心配そうに声をかけてきた。

 

「アルゴから聞いたぞ、大丈夫だったんだな」

 

「おう、死ぬかと思った。二人でフィールドボスとは戦いたくねえな。さすがに死ぬかと思った」

 

 アスナが苦笑する。

 

「でも生きて戻ってきて良かったよ。ハチくんたちなら大丈夫だとは思っていたけどね。それで、どんなボスだった? 次そのボスに戦いに行くときの参考にしたいんだけど」

 

「ん? 倒したぞ?」

 

 俺の言葉に二人が固まる。え、なに? フリーズしたの? おいおい、回線大丈夫かこのゲーム。

 

 キリトが額に手をあて、搾り出すように声を出す。

 

「は、ハチ。一応もう一度訊かせてくれ。倒したのか? ふたりで? フィールドボスの龍を?」

 

「しんどかったけどね」

 

 俺の代わりにサキが答える。

 

 キリトとアスナは唖然としたように、再び固まる。だからラグってんのかよ。インフラ大丈夫かこのゲーム。ネットワーク障害は死活問題だぞ。

 

「す、すごい! すごいよふたりとも!」

 

 アスナが大はしゃぎで俺とサキの手を取ると、ぶんぶんと上下に振った。お、おう。まだサキ以外の女の子に触られると恥ずかしいから、そゆことするのやめてね。ほら、キリトちょっと拗ねちゃったじゃん。

 

 手を離したアスナは、すごいすごいと連発する。まあまあとキリトがそれを制して訊いてくる。

 

「で、どんなボスだったんだ? あと三体と迷宮区前に一体いるんだろ? 参考にしたいんだ。龍とか言われても、竜と何が違うのか良く分からないんだよ」

 

 俺とサキは、互いに見合わせる。ふたり目で語り合う。言うなればこれだろう。

 

「日本昔話のオープニングに出てくるような奴だ。空飛びやがるし速いし、しつこいほど追いかけてくるし、ブレスはレーザーだし、乗ったら乗ったで振り落としてくるし、食おうとしてくるし、とりあえず最悪。二度と戦いたくねえ」

 

 うわあ、とキリトとアスナが嫌そうな顔をする。そりゃそうだ。あんなもん初見殺しとかいうもんじゃねえ。次戦っても確実に勝てるとは思えん。

 

「で、どうやって倒したんだ?」とキリト。

 

「ブレス発動直前に、あたしとハチマンが上下から槍と短剣ぶっさして口を閉じさせたのさ。で、ブレスが龍の体内で炸裂して爆発」

 

 サキが疲れたように言う。確かに、あれは咄嗟の判断で、しかも二人して同じことを考えていたから出来た芸当だ。でなきゃ無理だった。恋人万歳!

 

「すげー……よく思いついたなそんなの」

 

 キリトは純粋に感動したようだ。

 

 確かに、あれは奇跡という他ない。気づいたら身体が勝手に動いていたのだ。上手くいったときは正直痺れた。だが、もう一度やれと言われても怖すぎてやりたくない。下手したらブレス直撃だからね。いま超幸せだから絶対に死にたくない。

 

「次はお前らでやってくれ。俺たちはしばらく龍と戦いたくない」

 

「おい、そんな話聞いたら絶対ふたりじゃ戦いたくないって。絶対ハチたちを連れてくからな!」

 

 キリトが真顔で言う。アスナもそれに頷く。

 

「ぜんぶは大変だろうけど、私たちもちゃんと手伝うし、他のギルドの人たちも参加してくれるだろうから、頑張ろう!」

 

 やー、でもなー。あれ大勢で行くと逃げ場なくなってブレスで全滅な気がするんだよなあ。少人数で突破するのが賢い戦略だと思う。

 

 そんなことを言うと、キリトとアスナも思案顔だ。

 

 それに、とサキが続ける。

 

「ドロップ品がかなりの化物性能でね。たぶん他の龍も似たりよったりだと思うよ。《聖龍連合》あたりにバレると多分面倒なことになるよ」

 

 《聖龍連合》は攻略組に位置するギルドで、かなり強力なメンバーが揃っているが、結構危ない奴らなのだ。レアアイテムのためならば他者を邪魔する。下手をすれば斬りつけてくることまである。

 

 今回のドロップ品、《デスブリンガー》の能力を見ると、サキの言うとおり性能は化物だ。攻撃力もそうだが、俊敏が無駄に上がり、クリティカル確率が大幅アップするのだ。しかもドラゴン属性に対する防御力も上がり、かつ同属性に対してダメージアップ機能までついている。しかも禍々しく赤いというか紅いから、俺の深みのある臙脂のコートと合っていて、形状も超かっこいい。

 

 なにこれ。ホント色々な意味でバランスブレイカーだよね。もうこれをくれたサキ大好き。超愛してる。だから今度いい槍を仕入れたら絶対にプレゼントする。

 

「ま、それでも情報はアルゴに提供したし、すぐに出回るだろ。ドロップのことも含めてな。どうするかは会議でもするんじゃね? 俺はそれに任せるつもりだ」

 

 そのつもりでアルゴにすべて情報を提供したのだ。正直もう戦いたくない。サキも同感のようだ。

 

 キリトとアスナは戦いたがっているようだが、あんなの一生に一度でいい。ここのフロアボスとも戦いたくないなあ。

 

 そろそろ腹減ったと俺が嘆き、四人でそれぞれ料理を注文することとなった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 翌日、フィールドボス攻略会議が《アルゲート》の中央にある会議場で開かれることとなった。すり鉢状の会議室には、全攻略組のトップギルドの面々。それに俺やサキ、キリトといったソロプレイヤーも座している。

 

 会議の中心には、いつものように我らがディアベルだ。その手には、アルゴから購入した最新版ガイドブックがもたれている。会議に参加している面々も、机の上にそれを置いていた。かくいう俺も持っている。

 

 中身を見ると、既に俺が昨日伝えた情報が詳細に記載されていた。もちろん、ドロップ内容も含めてだ。あの野郎、徹夜しやがったな。今度みんなで労わってやろう。

 

 ディアベルが大声を出す。

 

「みんな、今日も集まってくれてありがとう! フィールドボスの攻略会議を始めたいと思います!」

 

 本を掲げてディアベルが続ける。

 

「ガイドブックにあるように、今回のボスはかなり強敵のようだ。あるふたりのプレイヤーが奇跡的に倒せたといって良いほどの難敵だ」

 

 会議室内がざわめく。倒したプレイヤー名と数は記載されていないから、初めての情報に驚いているのだろう。あちこちから「二人でとかマジかよ」「誰だよそいつら、すごくねーか?」「いや、ふたりで倒したんだから案外雑魚なんじゃねーか? なら楽勝だろ」とざわざわと勝手に騒いじゃっている。雑魚じゃねーよ。難敵だよ難敵。マジで舐めて掛かると死ぬぞ。

 

 パンパンと音が鳴る。ディアベルが両手を叩いて注目を集める。

 

「断っておくけれど、決して弱いボスじゃない。詳細は記載されている通り、はっきり言って並のフィールドボスじゃない。下手をすればフロアボスに匹敵するほどの強さだ。HPだけはフロアボスよりも少ないようだが、決して油断してはいけない!」

 

 ディアベルが声を張る。

 

「しかもこのブレスが厄介だ。レーザーのように横一線を殲滅するほどと記載されている。また、火球攻撃もかなり乱射してきたそうだ。他の龍も似たり寄ったりだろう。下手に大勢で行くと全滅しかねない」

 

 そこでディアベルが言葉を切る。

 

「ここで、俺は少数精鋭による選抜隊を組むことを提案する!」

 

 一瞬、会議室が静寂に満ちる。だが、次の瞬間、さきほどよりも大きい喧騒が発生した。

 

 当然だ。誰だってあんな凶悪ドロップ品は欲しいに決まっている。だからこそ会議は荒れる。ディアベルも分かっていたのだろう。その表情に焦りはない。ただ疲れたような色が伺えた。やっぱ毎回司会をやるのは大変だよな。今度飯驕ってやろう。

 

 ディアベルが俺とサキを見る。あれ? なに? どしたの?

 

「みんな、注目!」

 

 怒声を発したディアベルに、喧騒が止む。

 

「ここである二人に来てもらおう!」

 

 あ、このパターン嫌な予感がする。サキを見る。どことなく表情が強張っている。俺も口許がひくついている。おい、ディアベル。やめろ、やめてくださいお願いします。

 

「ハチマン、サキさん! 来てくれないか!」

 

 やっぱりかよこんちくしょう! お前、元ぼっちを人前に出させるとか正気かよ! もう飯驕ってやんねえからな!

 

 キリトとアスナに促され、俺たちは仕方なく中央まで歩いていく。視線が痛いよ。サキ、恥ずかしいのは分かるから俺の指を掴まないで。視線に殺意が混じってきてるから。

 

 俺たちがディアベルの隣に立つと、彼は俺たちを見て言った。

 

「彼らがその龍を倒したふたりだ! みんな、ふたりの実力は知っているだろう! この彼らが死にそうだったと言うほどの相手だということをまずは認識してほしい!」

 

 やめて、みんな見ないで! ハチマン恥ずかしくて死んじゃう!

 

 隣のサキなんか、もう赤面状態で顔を覆いそうになっている。やばい、可愛いけど俺もいまはつらい。

 

 さあ、話してくれよ、とディアベルが俺を促す。

 

 仕方ない、適当にだけど話してやるか。俺は一歩前に出る。

 

「あー、ハチマンだ。とりあえず言っておく。あれはヤバイ。正直ガイドブックに書かれてる戦法で倒せたが、失敗すれば俺は死んでた。だから言っておく。あれは絶対に真似をするな。真似したら死ぬぞお前ら。それと、少数精鋭ってのは俺も賛成だ。大部隊で討伐しに行くとブレス避けられなくて確実に何人か死ぬ。あと言っておくけど、俺は絶対に参加したくないぞ。あんなんと二度と戦いたくないからな」

 

 これで良いか? とディアベルを見る。ディアベルは乾いた笑いを浮かべていた。いいじゃねえか。いきなり前に出されてもなんも準備してねえんだから、これくらいしか言えねえよ。

 

 だが、会議室は、しん、としたままだった。誰もが声を失ったように俺を見ている。

 

 え、なに? 引いちゃったの? ちょっと悲しいぞ。まあ別にいいけど。

 

 ディアベルが引き継ぐ。

 

「彼が話してくれた通りだ。あの《暗殺者》がこうまで言っているんだ。サキさん――あの《戦乙女》の彼女も同意見と聞いている。どういうことかはみんな、分かるよな?」

 

 会議室のあちこちから、同意する声が聞こえてくる。ねえ、その暗殺者って二つ名やめない? 恥ずかしいんだけど。

 

「オレはなにもドロップを独り占めなんて考えていない。討伐隊は公平に選抜していいと思う。だが、今回は本当に命掛けであることだけは分かっておいてほしい!」

 

「ちょっと待ってくれないか?」

 

 全員がディアベルの提案に同意しかけたところで、ひとつの声が止めに入る。立ち上がったのは、元ドラゴンナイツ・ブリゲード――通称DKBの団長であり、現在は《聖龍連合》に所属しているリンドだ。

 

 しかめっ面をしたリンドが立ち上がって発言をする。

 

「我々《聖龍連合》は、選抜部隊からは辞退させてもらう」

 

 会場にざわめきが波立つ。ディアベルは苦笑顔。どうせ予想していたのだろう。

 

「その代わり、我々は自由にフィールドボスを狩らせてもらう。ハチマンくんにサキさん、それにアルゴには情報提供頂き感謝する。以上だ」

 

 それだけ言うと、いつも一緒にいるシヴァタとハフナーと共に会場を出て行った。

 

 俺は隣を見る。ディアベルは気づかれないよう、小さくため息をしていたが、すぐに声を張り上げる。

 

「では、ここに残ったみんなで選抜部隊を組もう! もし《聖龍連合》とかち合ったとしても、決して争わないよう誓ってくれ! なにかあれば、オレたち《ブレイブ・ウォーリア》へ言ってくれ。必ず仲裁するさ!」

 

 ディアベルは快活に笑ってサムズアップしてみせる。遠くからは見えないが、頬にはじんわりと汗が滲んでいた。やはり、分かってはいても動揺はしているようだ。やっぱり飯驕ってやろう。大変そうだ。

 

 こうして、ディアベルを中心として、選抜部隊編成会議が始まった。

 

 現在分かっている《竜の巣窟》はふたつ。うちひとつは赤龍が出現したため、分かっていないカ所は残りはふたつ。それの捜索も必要になってくる。

 

 フィールドボスの前に更なる情報収集が必要ということとなり、これはアルゴを中心に行われることとなった。そして、残る三体の龍に関しては、各ギルドから精鋭選出することで合意。さすがにギルド混合になるため連携が必須となり、まずは練習に時間を割くこととなった。

 

 その間、俺とサキはふたりでぼけーっと眺めていた。ふたりして「疲れたねえ」とか「帰ったら抱きしめていいか? サキ成分が足りない」とか「いいよ、あたしもしたいし……。あ、アスナがキリトの指握ってる」とか「おーキリトとクラインがはしゃいでる。部隊に入ったのか?」とか適当に会話をする。

 

 そんな風に適当に時間を過ごしていると、ディアベルから声を掛けられた。

 

「ハチマン、サキさん、君たちが担当する場所が決まったよ」

 

「あ、お構いなく」

 

 二人して即座に首を振る。ディアベルが呆れ顔。戦いたくねえんだよ。さっき言ったじゃねえか。

 

「困るよふたりとも。ふたりは最強プレイヤーの一角なんだから。もっとちゃんとしてくれないと!」

 

 ディアベルに叱られて、俺とサキがしゅんとする。さすがにぐうの音も出ない。

 

 サキと顔を見合わせる。互いに思いは同じだ。

 

 仕方ねえ、やってやるか。

 

「わーったよ。やってやる」

 

「あたしも同じ。面倒かけるねディアベル」

 

 よし! とディアベルが手の平に拳を打ち付ける。

 

 俺たちの同意でようやく選抜部隊が決まったようだ。このまま一斉に解散かと思いきや、雑談の流れになる。なに、みんな暇なの? もう帰っていい? そろそろマジでサキ成分が枯渇しそうで限界なんだけど。ねえ、ここでキスとかしていい? うん、無理だ。恥ずかしくて憤死する。

 

 サキを見ると、どうやらこっちもこっちで俺を見ながらそわそわしている。サキのやつ、ハチマン成分が欠けているらしい。こういうのを感じるとき、幸せだなと思う。

 

 よし、ここは帰ることにしよう。そうしよう!

 

 サキの手を取って久々にステルスヒッキーを発動。サキもいるため精度は格段に落ちるが、この際逃げられれば構わない。

 

 そろりそろりと立ち去ろうとするも、当然見つかる。

 

「よ、おふたりさん」

 

 現れたのは大柄のスキンヘッドのおっさん。エギルだ。攻略会議で何回か顔合わせしてそこそこの仲となったいまでは、時々こうして声をかけてくるのだ。

 

「ようエギル。相変わらずあったまテッカテーカだな」

 

 俺がいつもの軽口。

 

「あんた……すまないね、うちのハチマンが」

 

 サキの発言はもはや嫁だ。是非とも嫁にほしい。

 

 俺たちの発言にエギルが大笑いする。

 

「いいさいいさ。元気な証拠だからな。それより聞いたぞ。付き合うことになったんだってな。実にHappyだ!」

 

「おう、サンキュー。だからもう帰らせてくれ。イチャイチャしたい」

 

 もうストレートに言う。サキ成分が枯渇しちまったんだ。我慢できん。

 

「ははは、すまんすまん。足止めはこの辺にしておくよ。そろそろ帰りな。お疲れさん」

 

 エギルが言いながら、さり気なくとサキを顎でさす。サキがもう我慢たまらんというようにモジモジしていた。可愛すぎて死にそうだ。

 

「おう、すまんな。んじゃ、またな」

 

 返事も聞かずに俺たちは回れ右をして会議場を出る。即座に転移門まで言って《ラーヴィン》へ直行する。よーし、今日はずっと二人でいるぞー、と以前なら絶対考えないことを思いながらふたりで家路に着く。

 

 

 

 



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そして、囚人は邪竜と戯れる 3

 午後一時。

 

 第一層修練場に集まった四人から、俺とサキは視線を向けられていた。いるのはクライン、エギル、《風林火山》の二名だ。

 

 彼らは、ディアベルにより選別されたパーティだ。人づきあいを苦手とする俺たちを考慮し、知り合いばかりのメンバーにしてくれたらしい。感謝感激雨あられだ。絶対飯驕ってやろう。

 

 俺は、ひとまず全員の力量を正確に判断したいとして、対人戦を行うためにいつもの修練場に来たのだ。クラインとは一回やっているが、何度もやることでその者の戦法が分かるのだ。

 

 とりあえず、攻略の技量を上げるにはこれを徹底的にやるのが近道だ。そこで集まってもらったのだ。

 

「とりあえず、来てくれてサンキューな。まずは俺とサキが手本を見せる。そのあとサキが全員と相手するから、まずは見ててくれな」

 

 俺とサキが距離を開けて対峙する。いつものように、互いに互いの得物を構えた。

 

「クライン、なんでもいいから合図してくれ」

 

「あいよ!」

 

 気の良い返事をしてくれたクラインが、しばらくの静寂の後、

 

「始め!」

 

 瞬間、俺が動いた。耳が捕らえたのは、集まったメンバーの驚愕の声。恐らく、消えたように見えたのだろう。サキはしっかりと反応している。

 

 背後に回っていた俺の斬撃をサキが振り向きながら槍の柄で受ける。短剣を大きく振って槍の隙間を縫うように攻撃。すべて槍で捌かれ、回転を利用した一撃を短剣にもらい、俺の身体が吹き飛ぶ。力を利用して俺も即時離脱をはかるが、サキがそれを許さない。

 

 挑発的な笑みを浮かべ、サキが突進。アスナの《リニアー》を想起させる鋭い突きが、俺の喉下に迫る! 狙い場所に気づいていた俺は短剣でそれを受け、思い切り槍を払い下げる。

 

 槍の穂先から柄にそって短剣をすべらせ、サキの首筋を狙う。自称槍殺しの一撃も、予想していたサキが全身を逸らして回避。おいおい、簡単に避けられたら槍殺しじゃなくなっちゃうじゃねえか。

 

 俺が振り返った瞬間に、サキお得意の三段突き。下段、中段、上段とほぼ同時に繰り出される連続攻撃を必死になって避けるが、上段攻撃を短剣で受けてしまう。跳ね上がる短剣。マズイ! この流れはアポストルのときと同じだ!

 

 サキが愉しそうに笑う。

 

 右手を逆手にしたサキが、振りあがった槍と共に全身を浮き上がらせながら、思い切り振り下ろし攻撃! 避けられるはずもなく、すぐさま下ろした短剣にナイフを交わらせて受ける。重い一撃! ナイフ砕けちまうよ!

 

 さらにサキが回転し、もう一撃! これも受けるが強烈なノックバック。俺の身体が一気に後ろに持ってかれる。

 

 攻撃を予測させないよう、サキが回転と共に槍を振り回しながら高速で肉薄。

 

 俺は刹那の逡巡。

 

 もはや勘で飛び上がると、足払いが俺の足元を掠めた。あぶねえ、いまの完全に読めなかった。超偶然だよ。

 

 重力の力を利用し、俺はサキへ向かって短剣を振り下ろす!

 

 サキも槍を戻してそれを受ける!

 

 衝撃波を生み出すような強烈な一撃に、サキも苦悶の表情。このまま一気に勝負をつけたい俺は、更なる力を加える。しかし、サキが槍を斜めにし、俺の短剣の力を横に流す。

 

 しまっ……!

 

 上体を崩した俺の脇腹に、サキの石鎚が突き刺さった。ノックバックによって吹っ飛ぶ俺。数メートルは地面を転がり、ようやく止まる。

 

 やべえ、負けた。サキ強い。最近めっきり勝てなくなったなあ……ハチマン情けない。

 

 そんなことを考えていたところで、クラインがようやく終了の合図を出した。

 

「終了!」

 

 サキが得意げに槍を回し、石鎚を地面に突ける。俺は疲れた顔で短剣を仕舞って立ち上がる。疲れた。サキとの勝負は楽しいが、やっぱり神経使うんだよなあ。

 

 まあ、とりあえずは、

 

「こんな感じでやってくれ。大丈夫だ。俺らも最初は酷かったが、きっとなんとかなるだろ」

 

 全員を見回すが、みながみな唖然としている。なに? そんな鳩がライフルぶっ放された顔して。

 

 一番最初に立ち直ったエギルが一言。

 

「そりゃ無理だろハチマン」

 

 えー……俺そんな無理言ったか? これくらいは普通だと思うんだがなあ。

 

 苦笑したクラインが説明する。

 

「俺たちゃ基本Mobと戦う前提でレベル上げばっかやってンだよ。技術も磨いてるハチたちの動きなんざ、早々真似できねえンだよ」

 

 おいおい、ここに嘘つき野郎がいるぞ。

 

「お前だってこの前俺に勝ったじゃねえか。なに言っちゃってんの?」

 

 すると、それが意外だったのか、他のメンバーがクラインを見る。

 

 バツが悪いのか、クラインが頬を掻いた。

 

「ありゃあおめえの意表をついたからだろ。その後全部負け越したじゃねえか」

 

「それでも勝ちは勝ちだろ。つまり、クラインが出来るなら誰でもできる。Q.E.D.証明終了だ」

 

 完璧な理論に、他の者たちも納得顔だ。なぜかクラインが落ち込んでいるか知るか。普段の行いだ、普段の。

 

「んじゃ始めようか」

 

 サキがノリノリの表情で槍を構えた。

 

「さっ、最初は誰が相手だい? たっぷり可愛がってあげるよ」

 

 やべえ、笑ってるのに怖い。サキ超怖い。みんなドン引きしてるよ。

 

 そして、地獄の時間が始まった。主に、俺とサキ以外に……。

 

 まあ、なんだ。がんばれ! 俺は内心で苦笑しつつ、彼らの健闘を祈っておいた。

 

 

 

 その後、たっぷりとサキにしごかれた彼らは床に伸びてヒイヒイ言っていた。エギルは片膝をついてなんとか堪えている。やっぱ見た目通り頑強だな。

 

 ちなみに、サキは心底楽しかったとでもいうように立っていた。マジでリアルランサーだなこいつ。

 

 その場で解散となり、俺とサキはそのまま家路に着く。途中、サキの下にメッセージが飛び込んできた。どうやらユキノからのようで、できればいまから会いたいとのことだった。

 

 特に問題がなかったため俺も了承し、俺たちは《ラーヴィン》の家へ向かった。

 

 しばらくしてユキノが来る。表情は普通だが、目には負の感情に揺れていた。

 

「ごめんなさい、急に来てしまって」

 

「いや、構わないよ。でも突然どうしたのさ」

 

 料理中のサキが問うと、ユキノが安堵したように息を吐く。

 

「いえ、ただ心配だったのよ。ここ五十層はクォーターポイントで、しかもあなたたちがふたりでフィールドボスと戦ったなんて聞いたから、いてもたってもいられなくなって……その、ごめんなさい」

 

 ユキノが頭を下げる。どうやら心配してくれていたらしい。俺たちは良い友人を持ったものだ。

 

「気にすんな。心配させたみたいで悪かったな。ほれ、飯食おうぜ」

 

 俺に促されるままユキノがサキ専用席の隣に座り、サキの料理を待つ。

 

「それで、今回は大丈夫そうなの?」とユキノ。

 

 俺はなんと言ってよいのやら思案していると、サキが返した。

 

「なんとかしてみせるさ。みんながあたしらを支えてくれてるからね。あたしらはそれに応えないと」

 

 俺なんかよりもよっぽど男前な回答じゃねえか。格好良すぎだろサキ。

 

 それでも、ユキノは心配そうだった。ユキノは最前線におらず、下層で孤児院で子どもたちのために動いている。本来の彼女の性格からすれば、攻略組にいてもおかしくはないのだ。だからこそ、不安なのだろう。そして友人の俺たちの安否が、他ならぬ俺たちと他の者たちに掛かっている。そこに自分が関われないのが怖いのかもしれない。

 

「まあ、なんだ。いまもこうして生き残ってるし、大丈夫だ。それに、また学校に戻って奉仕部やりてえしな。なあ、サキ」

 

「そうだね。そのときはあたしも入部させてもらうよ」

 

 ええ、とユキノがようやく微笑んだ。

 

「そうね。サキ、あなたにも是非入部してほしいわ。由比ヶ浜さんはもう大学生になってしまうだろうし。この三人でなら大抵は解決できそうね」

 

「まあね。半分はそうだけど、半分はハチマンと一緒にいたいだけ」

 

 さらりと赤面物の台詞を言うサキ。ユキノは苦笑している。

 

「そうね。あなたたちのそんな姿を見ているのも、いいかもしれないわね。きっと、いまからすればそんな光景は、とても平和なんでしょうね」

 

 未来を羨望するように、ユキノの瞳が遠く眺める。

 

 それよりもだ、と俺が言う。なによりも重要なことがある。

 

「小町と同級生になれるかもしれねえ。それだけで俺は胸が熱くなる。小町も絶対に奉仕部に入れる。これは決定事項だ!」

 

「あなた……どんなときでも小町さんのことは忘れないわね」

 

 額に手を当てたユキノが、呆れながらも笑っていた。

 

「シスコン」

 

 サキも笑って言ってくる。

 

「当然だ、小町は天使だからな! あと戸塚にも会いたい。大学生になった戸塚がどれほど可愛くなったか気になるしな。だから絶対に死ねん!」

 

「やはり戸塚くんもなのね。一応彼、男の子なのだから、可愛いは失礼だと思うのだけれど」

 

 今度こそ呆れ顔のユキノが俺をたしなめる。知ったことか! あいつは俺にとって天使なんだ!

 

「じゃあ、ハチマンにユキノ、あたしに小町、ついでに大志も入れようか」

 

 サキの言葉に俺は却下を言い渡してやろうとし、止める。

 

 あいつ悪い奴じゃないしな。それに、将来はきっと俺の義弟になるから、まあ、仲良くしてやるか。

 

 すると、料理中のサキが振り返って不思議そうに俺の顔を見る。 

 

「あれ? 絶対拒否すると思ったんだけど? どしたの?」

 

 さすが俺の恋人、そこまで読んでらっしゃったか。だが悲しいかな、一手足りんよ。

 

「将来の義弟だ。ここは俺も大人になろうと思ったのさ」

 

 突如サキの顔が爆発。もう真っ赤になる。

 

 あら、とユキノにしては珍しいにやけ顔になる。

 

「いまのはプロポーズかしらね?」

 

 当然だ、と言いたいところだが、プロポーズはちゃんとする。しかるべき年齢になり安定した収入を得てからだ。

 

 あ、あうぅとサキは呻くだけで、まともに言葉を発せていない。

 

 楽しそうにユキノが続ける。こいつ、表情が豊かになったな。

 

「現実は年齢のことや生活があるからともかく、この中でならいいんじゃないかしら?」

 

 ん? どういうことだ?

 

「結婚システムがあるじゃない。どうかしら?」

 

「け、けけ、結婚!?」

 

 サキがまたしても爆発してらっしゃる。今日は爆弾投下が多いようだ。

 

 かく言う俺は、

 

「そういやあったなそんなシステム。なんだっけ、ストレージが全部一緒になるんだっけか?」

 

「そう聞いているわ。実際にしているのは現実で夫婦の人だったり、付き合っている方が多いそうなのだけれど。ふたりならいいんじゃないかと思うわよ?」

 

 ふふふ、と口許に手をあてたユキノが笑う。

 

 おー。その発想はなかった。ストレージの中身なんざいつも見せ合ってるし、特に困ることなどない。してしまおう。五十層をクリアしたら盛大に結婚式とかやりたい。

 

「よし、決めた。サキ、今度プロポーズするからな。覚悟しておいてくれ」

 

「う、うぅー……うん」

 

 恥ずかしそうにしながらも、サキが嬉しそうに頷く。

 

「式をするなら私も呼んでね。かならず駆けつけるわ」

 

「当然だ。呼ばねえわけねえだろ。そうだ、キリトとアスナたちも一緒にやってもいいかもな」

 

「あら、それは楽しそうね。ふたりの花嫁姿が見られるなんて、素敵だわ」

 

 そんなところで、サキが料理を運んでくる。俺もユキノも配膳を手伝い、テーブルにサキの手料理を並べていく。さて、冷めないうちに頂くとしよう。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 一週間かけて対人戦闘訓練、対竜戦闘訓練を行ったところで、ようやく偵察を行うこととなった。ディアベルにはその旨をメッセージで送り、「気をつけてくれよ」と返事を受ける。

 

 《アルゲート》の転移門に六名全員が集まり、どれも緊張した面持ちで挨拶をする。かくいう俺とサキだけは、げんなりとした顔なのだが……。だってまたアレだよアレ。やだなあ、帰りたいなあ。

 

 そんな顔をしていると、クラインが絡んでくる。

 

「ま、おめえらのその顔を見ると安心するわ。今日もしっかり頼むぜえ!」

 

 エギルもこれに加わる。

 

「そうだな。ふたりで龍を倒したんだ。俺たち全員なら大丈夫だろう」

 

 他二名も頷き、俺とサキも仕方なしに頷いてみせる。経験者は俺たち二人だけなのだ。今日は精々先導してやろう。

 

 全員匂い袋を装備し、いざフィールドへ。

 

 竜に遭遇することもなく、担当である最北端の竜の巣窟へ向かう。どうやらこの巣窟は、迷宮区を中心として東西南北に置かれているようだ。一回アルゴらが迷宮区へ偵察へ向かったらしいが、結界らしきものが張られていて踏み込めないのだそうだ。

 

 この話をユキノにしたとき、どうも四聖獣みたいねと言っていたことを思い出す。

 

 ユキペディアさん曰く、「東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武」だそうだ。

 

 実際南は赤龍であるから関係ないかもしれないが、一応色はあっている。とすると、玄武だから黒? それとも亀っぽいから緑かな?

 

 まあ、今日は偵察任務だから出現したら速攻で逃げればいい、あとは遠巻きに眺めるだけだ。逃げれるかな? 逃げれるよね……。やだなあ、帰りたいなあ。

 

 迷宮区を迂回しながら、ごつごつとした山岳地帯を歩いていく。何回か休憩を挟むと、盆地のように崖に囲まれた広いフィールドが見えてくる。

 

 そこで、ふと違和感を感じた。他の面々も同じようで、どやどやと騒ぎ始めている。

 

 遠くで何かが渦巻いているのだ。そう、まるでそれは竜巻のようで……。

 

「くっそ、《聖龍連合》か!」

 

 俺が呟く。マジで行きやがったようだ。でも待てよ? 《聖龍連合》が戦ってくれるなら俺ら何もしなくていいんじゃね? やった、ありがとうリンド!

 

「一応様子見だけでもしとこうぜ。さすがにここで帰って翌日死んでました、じゃ目覚めわりぃだろ」

 

 クラインの発言により俺の計画がおじゃんになる。おのれクライン……。

 

 だが、クラインの言も一理ある。なんだかんだ言ってあそこも巨大ギルドだ。サキをいち早く現実へ帰還させるためにも、有力ギルドの主力を失うわけにはいかない。

 

「んじゃ、見に行きますか」

 

 俺の掛け声と共に全員が走り出す。

 

 戦線状況を確認するためだったのだが、状況は最悪の一言に尽きた。フィールド内には竜巻が四本荒れ狂い、あちこちで岩の破裂音が聞こえる。フィールド内は阿鼻叫喚の地獄絵図といったところで、《聖龍連合》のメンバーが逃げ回っている。

 

 敵を見る。やはり予想通りの緑龍で、姿形はほぼ赤龍と同じ。ただ、赤龍は地面と平行するように浮いていたが、緑龍は地面と垂直に、まるで天へと昇るように浮いている。その狂眼が光るたび、姿を消した竜巻が再び現れる。巨大な口を僅かに開き、大きく息を吸った途端、岩の破裂音。空気の圧縮弾か! 透明だから見えねえぞ!

 

 しかたねえな、と口の中で呟いて俺が足を進める。サキもそれに続き、遅れてクラインらが続く。

 

「やつらを救出するぞ。逃げられれば御の字。無理なら緑龍を殺る。いいな?」

 

 俺の声に、全員が答える。

 

「おう!」

 

 その言葉と共に全員が疾走。俺は真っ直ぐにリンドの下へ、サキとエギルは緑龍へタゲ取りに、クラインらは他のメンバーの下へ向かった。

 

 土埃を上げながら荒れ狂う竜巻を迂回し、透明な空気弾を音で予測して避ける。リンドが殆どHPバーを失った状態で逃げまわっている姿を発見。懐から回復結晶を取り出しリンドへ投げる。

 

「使え!」

 

 リンドが俺に気づき、結晶を受け取り回復する。リンドの前に俺がたどり着く。

 

「引け! お前らに勝てる相手じゃない!」

 

「ふざけるな! まだ戦える!」

 

 リンドの怒声。こいつは現実を前にしてまだ分からないのか? 死に掛けてんだぞ。夢見てんじゃねえよ。

 

「いいから仲間引き連れて引け! 俺たちがタゲ取りしてるからさっさと消えろ!」

 

「うるさい! お前は黙っていろ!」

 

 叫ぶように言って、リンドが緑龍へと走り出す。クソ。だから嫌なんだよ頑固者は。

 

 クラインらの姿を捜す。クラインと他二名は、一人一人説得しているようだ。ひとりは逃がせたようだが、まだ見えるだけでリンドを含め五人残っている。六名編成で来ているのであれば、まだ誰も死んではいない。それだけが救いだ。

 

 俺も走り出す。サキとエギルだけではタゲ取りが不安だ。攻撃タイプが赤龍と違うせいでこの前の方法は使えない、というか使いたくもない。

 

 俺はサキの下へ行く。救出はクラインたちに任せる。

 

 空気弾が連発して向かってくる。殆ど見えないも同然だが、空気を圧縮しているせいか風景がやや歪んで見えるのだ。これならば十分避けられる。そのまま風となって疾走し、サキの下へたどり着く。サキとエギルは、起立したままの龍の尾に向かって必死に攻撃を当てている。だが、タゲが移らない。一体なぜ……。

 

 しかし、リンドがたどり着いた途端、緑龍の視線がこちらに向く。再び大口が開く。口腔に収束した風。この位置はヤバイ。

 

 咄嗟に回避を選択するが間に合わない。

 

 豪風が吹き荒れる。俺とサキ、エギルにリンドがフィールドの端まで一気に吹っ飛ばされる。カマイタチが紛れ込んでいるのか、全身に赤い傷エフェクトが無数に走る。HPバーが一気に削れ、レッドゾーンすれすれまで割り込む。《デスブリンガー》の能力によりダメージを緩和しているはずがこの威力。装備前なら確実にいまので死んでいた。

 

 起き上がってすぐさま全員の安否を確認。皆HPバーが赤くなっていたが生きている。すぐさま回復結晶で全快。皆も同じように回復する。だが、リンドだけが膝をついたままだった。こいつのアイテムは既に使いきられているのだ。

 

 俺は叫ぶ。

 

「リンド、いいから引け! 死にたいのか!」

 

 フィールドではまだ《聖龍連合》が逃げ回っている。クラインたちも必死になっているが、なかなか仲間を連れ出せない。説得にも時間が掛かっているようだ。

 

 まずい、早く折れろ! 折れてくれ!

 

 だが、リンドもまた叫ぶ。

 

「こいつは俺たちの獲物だ! 横から殴っておいて何を言いやがる!」

 

「助けてやったのにその台詞はないねえ」

 

 ドスの利いたサキの声。そのご尊顔を拝めると、やはり怒っていらっしゃる。しかしリンドも引かない。

 

「救助など求めてはいない!」

 

「あ、そ」

 

 サキがつまらなそうに告げる。構えた槍を回して肩に担ぎ、緑龍を指差す。

 

「じゃ、やれば? で、死ねばいいんじゃない? 仲間たちと一緒に」

 

「お、おい!」

 

 エギルが止めようとするが、俺が抑える。サキは現実を教えているのだ。ここでリンドを甘やかすのは間違っている。

 

 みな忘れている。ここでは人が本当に死ぬのだ。ドロップアイテム目当てで死ぬなんざクソ食らえだ。

 

「さあ、早くいきなよ? ブルってんの? 情けない。早く行きなって。仲間たちが泣いてるよ? ほら、どうしたの? 早く、早く、早く!」

 

 サキが煽る。

 

 リンドの顔面が蒼白になる。

 

 サキが皮肉をこめて笑う。

 

「行けって言ってんでしょ。あたしらは帰るよ。あんたらが自分らでやるって言ったんだしね。あーあ、明日の新聞が楽しみだねえ。一面はこうかな? 《聖龍連合》緑龍へ挑み全滅。独りよがりの成れの果てってね。ああ、愉快愉快。明日が楽しみだ。期待してるよ。だから――」

 

 最後にサキがダメ押しの一言。

 

「死んでこい」

 

 遂に、リンドが両手を地面につけた。地面にはぽたぽたと涙が落ちている。

 

 女にここまで言われ、何も言い返せない自分が情けないのか、それとも龍に太刀打ちできなかったことが悔しいのかは分からない。だが、遂にリンドは折れた。サキが折ったのだ。

 

「わ、悪かった……助けてくれ!」

 

 身を絞るようにリンドが言う。

 

 サキがようやく普通に笑う。槍を回し、構え直す。

 

「その言葉が聞きたかったんだよ。素直になりな」

 

 ……怖えぇ、サキ怖えぇよ! 怒らせるとああなるの? 俺だったら自殺もんだぞ。絶対怒らせるのやめよう。

 

 エギルを見ると、同じようにドン引きしていた。俺のカミさんより怖ぇとか言ってるし。

 

 だが、リンドから謝罪と救助の言葉を引き出したのは満点だ。やっぱり愛してるぜサキ。お前は最高の女だ!

 

「よし、行くぞ!」

 

 俺の掛け声で三人が進む。まずはクラインの下へ。

 

「クライン! リンドが撤退を呑んだ! 逃げるぞ!」

 

「おう! 分かった任せろ! タゲを頼む!」

 

 クラインの返事。俺たちはまっすぐに緑龍へ再び挑む。

 

 俺たちが緑龍の攻撃圏内に入ると、竜巻が消え、攻撃が止む。

 

 緑龍が突然の咆哮。蛇のようにとぐろを巻くと、一気に俺たちに向かって突進。三人はそれをそれぞれ回避。俺はひげ面に短剣を斬りつける。さすがに龍だけあってHPバーの削りは短い。だが、以前より遥かに威力は高い。

 

 俺とサキが両脇で併走して龍に連撃を食らわせていく。遅れてエギルも戦斧を手に龍に一撃を加える。

 

 緑龍の憤怒の咆哮。再び上昇すると共に、その狂眼を俺たちへ向ける。タゲが完全に俺たちに移ったのだ。

 

 狂眼が光る。竜巻の合図。

 

 周囲に風が集まり轟音と共に回転を開始。神の指とも称される竜巻が四本発生。俺たちは巻き込まれまいと必死になって逃げ回る。

 

 緑龍の口が開く。空気弾が弾雨となって俺たちを襲う。

 

「うらぁぁぁ!」

 

 怒声と共にエギルが戦斧を振り回し空気弾を弾く!

 

 霧散した空気が荒れ狂うが、ダメージは皆無。すげえエギル、そんなことできるのかよ。

 

「サキ! 空気弾はエギルに任せるぞ!」俺が叫ぶ。

 

「あいよ!」サキの返事。

 

「任せろ!」エギルの力強い声。

 

 三人が前進。先頭をエギル、次に俺、しんがりはサキ。連打される空気弾をエギルがすべてぶった斬っていく。まさに鬼神のごとき活躍だ。今度飯食おうぜ!

 

 サキの射程圏内に入る。サキが構えてソードスキルを発動。神域にまで昇華させた単発系突進スキルをぶちかまし、龍の足に命中!

 

 しかしHPが削れない。

 

 俺も圏内に入り四連撃ソードスキルを見舞うが、全撃入れてもHPが減らない。これはおかしい。絶対にからくりがある。

 

 緑龍を見る。龍の角が鈍く緑色に光っている。緑龍の全身にうっすらとした空気の膜が見えた。

 

おいおい、結界かよ。そんなんあり?

 

「風が守ってやがる! たぶん角が鍵だ! だれか折れるか!?」

 

 言っていることがあまりにも無茶なのは自覚している。なにせ全長十メートルを超える龍が真っ直ぐに起立している状態なのだ。どうやってそこまで行けばいい。

 

 サキもエギルも苦悶の表情。サキの槍を見る。ダメだ、全然届かない。エギルを見る。視線が戦斧に移り、はっとする。

 

「エギル、俺をそいつで飛ばせ、三秒後だ!」

 

「なにぃ!?」

 

 エギルが混乱しているが知らん。俺は一秒後にエギルに向かって跳躍。ようやくエギルが悟ったか、戦斧を振りかぶり、平らな部分を思い切り俺の足に叩きつける!

 

 大跳躍。緑龍の頭部を超えて俺が飛翔する。

 

 緑龍の狂眼に驚愕。驚け、これが人間様の力だ!

 

 落下と共にソードスキルを発動! 強烈な二連撃スキルが緑龍の二本の角に命中!

 

 が、折れない。まだ足りないか。俺は宙で反転し、絶叫。

 

「エギル――!」

 

「任せっろおおおおおお!」

 

 エギルが再び戦斧を振りかぶり、落ちてきた俺を再度ぶち飛ばす。今度はさっきよりも高い。すれ違いざま緑龍と眼が合う。

 

「よう、また会ったな緑龍」

 

 ソードスキルを発動! 今度は四連撃をぶち込んでやる! 折れろ! 折れちまえ!

 

 鈍い破壊音と共に、遂に緑龍の角を叩き割る!

 

 俺は再度宙で反転して地面に降り立つ。緑龍を纏っていた風の膜が消えている。

 

「いまだ、ぶちかませ!」

 

 サキが獰猛に笑った。ソードスキルではない、純粋な槍技で眼にも留まらぬ連続攻撃を見舞う。円運動によって生み出された強大な力が、緑龍のHPバーを一気に削っていく。俺もそれに加わる。伊達に暗殺者と言われちゃいねえんだよ。サキに続いて短剣とナイフで緑龍を削っていく。エギルも加わり、三人で緑龍を取り囲んでフルボッコだ!

 

 しかし、これで緑龍も終わるわけではない。HPバーがレッドゾーンに入ったところで、緑龍が一気に上昇。もはや手のつけられない距離まで飛ばれてしまう。おい、卑怯だぞ! 降りて来い!

 

 轟! と今までで一番強大な緑龍の咆哮。

 

 フィールド全体に直径二メートルほどの半透明の球体が無数に生まれる。なんだ、なにが起きてる?

 

 俺もサキも反射的にさけるが、エギルが間に合わない。左手が球体に巻き込まれると同時、エギルの腕が内側から弾ける。

 

「What’s!?」

 

 エギルが驚愕。俺もサキも訳が分からない。

 

 球体は五秒ほどで消えていくが、次々と現れる。緑龍はまだ空にいる。いまは逃げ続けるしかない。原理は分からないが、あの球に触れると強制的に部位破壊されるらしい。直撃したら即死じゃねえか。だからなんでこんな難易度高けぇんだよここはよお!

 

「クライン! 絶対に球体に触れるな! はじけ飛ぶぞ!」

 

 付近に近づいてきていたクラインに警告。クラインも生まれた球体から飛びずさって回避。

 

 逃げる逃げる。球体から逃げ回る。

 

「エギル! HPは!?」

 

「まだ大丈夫だ!」

 

 くそ、どうせ大気のなんちゃら現象だろ。もうちょっと理系勉強しとけばよかった!

 

 五分、されど長い五分の間、俺たちは逃げ続けた。俺もサキもクラインも、かわしきれず腕を何回か破壊されたが、なんとか生きている。エギルは一度足をやられたが、瞬時に回復結晶を使い、足が再生するまでの間転がってこれを避けた。

 

 緑龍の狂眼から光が消え、ゆっくりと降りてくる。

 

 おい、いい加減覚悟はできてるだろうな。こっちは死ぬ思いして待ってたんだからな。さっさと死ね、今すぐ死ね、骨まで残さず殺してやるよ!

 

 遂に、緑龍が俺たちの眼前に降り立つ。

 

「行くぞ!」俺が叫ぶ。

 

「おう!」エギルとクラインの返事。

 

「あいよ!」愛しいサキの声。

 

 四人が一斉に緑龍へと畳み掛ける。エギルが空気弾を弾き、俺とサキとクラインが緑龍の僅かなHPを削っていく。

 

 緑龍の大口が巨大に開く。ブレスの前触れだ。やらせるかよ!

 

「サキ! エギル! ぶちかませ!」

 

「あいよ!」

 

 俺の言葉を受け、サキがエギルへ跳躍。エギルが今度はサキを吹き飛ばす。もう二度とやるかと思ったが、仕方がねえ。こっちもHPが限界なんだよ! ブレスなんぞ受けてらんねぇ!

 

 サキが急上昇しながら槍を緑龍の顎下から頭までを貫通! 更にそのままの勢いで突進したことで緑龍の口が強制的に閉じられる。

 

 さあ、これで終わりだ。

 

 サキが槍から手を離す。

 

 緑龍の全身から亀裂が走る。緑龍の眼には驚愕と混乱。

 

 膨大な気圧に耐え切れず、緑龍の頭が破裂! 連鎖的に頭から尾までが破裂していき、最後は硝子の結晶となって砕け散った。

 

 これを見るのも二度目だな。今度はサキにやらせる羽目になるとは……。

 

 降りてきたサキを俺が受け止める。サキが生きていることが嬉しくて、思わずふたりが見ているのにも関わらずキスしてしまった。

 

「すまんサキ。危ないことやらせちまった」

 

 サキが首を振る。

 

「あの状態じゃ槍の私じゃなきゃ間に合わなかった。当然の判断だよ。それに、この前はあんたがやったし、今度はあたしだよ」

 

 そう言って、サキがキスしてくる。俺も受け止め、しばらくそのままに。

 

 お、おっほん、とクラインの咳払いが聞こえ、俺たちは顔を離す。やべぇ、超恥ずかしい。エギルは大人だからか、微笑ましいものを見たかのような表情。

 

「倒したな。さすがだふたりとも」

 

 エギルが俺たちの肩を叩く。クラインも「へっ!」と鼻をすすりながら笑った。

 

「実際エギルがいなかったらヤバかった。助かったぜホント」

 

「気にするな。あれだけ活躍できれば十分だ! お前達には負けるよ」

 

 大人らしい控えめな対応。さすがだぜエギル。やだ、格好いい。

 

 さて、と俺とサキが立ち上がる。サキが緑龍が消えた場所を見る。槍は無残にも中心がぽっきりと折れ、穂先は無残にも消えていた。やっぱりか……。

 

「サキ、LAボーナスは槍か?」

 

「ん、見てみるよ」

 

 あまり落ち込んだ様子もなくサキがウインドウを操作する。サキがウインドウを滑らせ、俺たちにも見えるようにしてくれる。

 

「こ、これは……」とクライン。

 

「すごいな。まさにサキさんにぴったりだ」エギルが驚き顔。

 

 そこに表示されていたのは、翡翠色の美しい槍。銘は《ヴァルキュリヤ》で、ステータスはやはり、尋常じゃない。まさに戦乙女に相応しい槍だ。

 

 しかし、当の本人は平然とした顔で、

 

「どうする? 売る?」

 

 とか言い出す始末だ。全員唖然とする。

 

 サキも困惑したように言う。

 

「え、だって四人で倒したんだし、分配しないと」

 

 いやいやいや、と俺たちは顔を横に振る。なんなのこの子、いい人過ぎでしょ。さっきのリンドへの煽り具合とのギャップがすごい。

 

「ぜひサキさんが使ってください! というか俺今回たいして何もしてないんで!」

 

 クラインが頭を下げる。

 

「オレはいい経験ができた。鍛錬もしてもらった。経験値もコルも得た。これだけで十分だ」

 

 エギルが男気溢れる笑顔でサムズアップ。

 

「サキが使え。みんなこう言ってくれてるし」

 

 俺は当然サキに使ってほしい。絶対似合う。

 

 そう、とサキが言ってストレージから《ヴァルキュリヤ》を取り出す。陽光に輝く翡翠の槍の感触を確かめるように何度か回し、石鎚を地面に突きたてる。その姿は、まるで戦乙女そのものだった。

 

 その後、サキは滅多に見せない薄紅色をした睡蓮の笑顔を俺たちへ向けた。

 

「ありがと」

 

 ぐはっ、という声がふたつ。クラインとエギルだ。俺はもう慣れている。

 

 嘘だ。ホントは悶えたい。

 

「こ、これは……ハチが惚れるのも分かる」

 

「いい子を彼女にしたな、ハチマン」

 

 クラインとエギルがそれぞれ感慨深そうに俺の肩を叩く。当たり前だろ。サキは最高の女だ。

 

 さあ、凱旋をしよう。ディアベルが報告を待っている。俺たちは三度転移結晶を使って《アルゲート》へ戻った。

 

 最近転移結晶使い過ぎだな。金持つかな……。

 

 

 

 



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そして、囚人は邪竜と戯れる 4

 緑龍討伐から五日経った。四体すべての龍が討伐され、遂に迷宮区を守る結界が破壊された。

 

 俺たちは再び《アルゲート》の会議場へ集まっていた。

 

 すり鉢上の中央には、今回もやはりディアベルが立っている。俺たちとは反対側には、《聖龍連合》の面々が座しており、俺たちの姿を見つけてバツの悪そうな顔をしている。シヴァタの方は、男らしい笑みを浮かべて目礼してくれた。俺も軽く手を上げて返す。

 

 あれからリンドの側近であるシヴァタが直接お礼と謝罪に来た。しかし、リンドはついぞ来ることはなかった。別にいいんだけどね。

 

 俺の隣には当然サキ、左にはキリトとアスナ。この前の討伐後の祝勝会で完全に心を許したエギルも俺の後ろに座っている。クラインはギルド長としての立場もあるため、少し離れたところにギルドメンバーと座していた。

 

 ディアベルが声を張り上げる。

 

「みんな、今日も集まってくれてありがとう! 早速最後のフィールドボス攻略会議に移りたいと思う! その前に、まずは四体のフィールドボスの討伐お疲れ様! みな誰一人欠けることなく討伐することができて俺は嬉しい! これも協力の結果かな?」

 

 さらりと嫌味を付け加えるディアベル。この辺は俺の癖が移ったか?

 

 リンドの表情が軽く歪む。いい気味だ。

 

 さて、とディアベルが本題に入る。もちろん手にはアルゴお手製のガイドブックだ。

 

「今回のフィールドボスは茶色の龍という情報が記載されている。言いにくいから地龍としようか。この地龍だが、やはり情報が少ない。約五十メートルの幅で高い崖に囲まれた場所で待ち構えているということだけが分かっている。恐らく、いや、間違いなく四体のフィールドボスとは一線を画する力を持っているだろう!」

 

 茶色の竜はフィールドでは見かけていない。色からして地面系の攻撃をしてくるタイプだとは思うが、実際に目にしないと分からないだろう。やはり偵察が必須か。俺がそこまで考えていると、ディアベルも同じことを口にする。

 

「地龍の特性がフィールドの竜から推測できない以上、今回も偵察隊を組もう! 場合によっては大部隊で当たる必要があるかもしれない。では、偵察隊のメンバー選別会議に入る!」

 

 各ギルドの長達がディアベルの下に集まり、メンバー選定を行っていく。俺とサキ、キリトやエギルはソロ組なため、本来は一応出向くべきだがいつもディアベルが代行してくれている。マジでディアベルいい人。

 

「ハチマン、今回はどんな奴だと思う?」

 

 後ろからエギルが訊いてくる。俺は思案気味に答える。

 

「そうだな。地震とか発生させるんじゃねえか? あとは溶岩とかブレスで吐いてきそうだな。もしくは土砂か? まあ、面倒な相手には違いないだろうな」

 

「でも地龍ならさすがに空は飛んでないよな」

 

 青龍を倒したキリトが会話に加わる。今回はどうやらLAボーナスは逃したそうで、討伐後に話したときは悔しそうにしていた。

 

「さあな。あまり先入観を持たないで行った方がいいかもな。でないと死ぬぞ?」

 

 特に緑龍の球体攻撃とか未だに謎だし。あれなんだよ。未知のブラックホールかよ。黒くなかったけど。

 

 同じく青龍討伐に参加していたアスナも入ってくる。

 

「でもハチくんもサキさんもすごいよね。結局二体も倒しちゃうんだから」

 

「死にそうだったけどね……」

 

 サキが心底うんざりした顔で言う。同感だ。二度と戦いたくない。できれば今回も討伐隊から辞退したい。ディアベルに怒られるから言わないけど……。

 

「ふたりともLAボーナスの武器持ってるんだろ。羨ましい」

 

 さすが武器大好きフリスキーのキリト。目的はそっちか。

 

「なら地龍のときはLA頑張ってくれ。後ろから応援してるからよ」

 

「おいおい、今度はオレに取らせてくれよ」

 

 エギルが笑いながら混ぜっ返す。

 

「私も欲しいな~。キリト君、レイピアなら頂戴ね」

 

 アスナはキリトにおねだり。キリトは後ろと左から攻撃され、うぅと小さく唸る。おうおう、可哀相に。

 

「で、サキ。あの槍の感触はつかめたか?」

 

 サキに聞いてみる。

 

 あれから毎日サキと対人戦闘訓練を行っていたが、使い慣れていないのか、ここ最近は俺が勝ち越している。サキは随分と悔しがっていたのだ。

 

「次は勝つよ」

 

 当然だと言わんばかりにサキが豊満な胸を張る。目が行っちゃうからそういうのやめてね。

 

「あ、訓練するの? 私も行きたい!」

 

 アスナが会話に加わってくる。

 

「オレも頼めないか? さすがにあそこまで技量に差があると大人として情けなくてな」

 

 エギルも依頼してくる。となれば、

 

「俺もいいか? 久しぶりにハチとサキさんと全力でやりあいたいし」

 

 やはりキリトもか。まあ、向上心があることはいいことだ。隣ではサキが声には出していないがにやついている。やはり戦闘狂になっちまった……。元は対PK戦を考慮した訓練なのに、いつのまにかサキの楽しみと化しているようだ。やだなあ、怖いなあ。でもサキのこと好きだからいいや。

 

「とりあえず地龍を倒してからだ。最近戦ってばっかで疲れてるんだよ。休みたい」

 

 俺の発言に、「確かに」と全員が頷く。五十層に来てから戦闘続きなのだ。そろそろ家でゴロゴロしたい。あとデートとかしたい。まだ付き合ってないのに毎日刃を混じり合わせてるとか、どんだけ怖い彼氏彼女の関係なんだよ俺たち。

 

 そうこうしている内に偵察隊選抜が終わったのか、ディアベルがこちらへ来る。

 

「や、みんな。みんなは疲れてるだろうから偵察隊からは外しておいたよ。しばらくはゆっくりしてくれよ」

 

 爽やかな笑みとサムズアップと共に、ディアベルが告げる。やべえ、ディアベル超いい人。

 

「マジか、サンキューなディアベル。今度絶対に飯驕ってやるぞ」

 

「え? ホントかいハチマン? それは嬉しいな! ありがとう、今度声かけるよ!」

 

 心底喜んでディアベルが去っていく。中央でまたディアベルが会議を開始し、偵察隊メンバーの名を告げていく。偵察は万全を期すとのことで、二日後に行われるようだ。その後、偵察が終わってから攻略会議を行うこととし、会議は解散となった。

 

 そこで皆と別れ、俺たちは家へ向かう。三十三層の《ラーヴィン》の転移門から家までの帰り道、俺の腕を抱きしめていたサキがぼそりと呟いた。

 

「デートしたい……」

 

「お、おう」

 

 いきなりの言葉に動揺し、アシカのような返事をしてしまう。サキが俺を見る。何かを求めるような甘い瞳。さすがに街中だから我慢しているようだ。

 

「ハチマン、明日デートしない? ふたりで、ランチバスケットを持って」

 

 直球の言葉に、俺の顔が熱くなる。きっと赤面しているだろう。それより、船着場で額ぶち抜かれそうな台詞だな、サキ……。あの双子編は泣いたなあ。作者には是非続刊を出してほしい。

 

「ああ、そいつは素敵だな」

 

「あのとき、ちゃんと見きれなかったあの場所にまた行こうよ」

 

 二十二層のことを言っているのだろう。確かに、あれ以来足を伸ばしてなかったな。たまにはいいだろう。

 

「おう、しようぜデート」

 

 うん、と素敵な笑顔でサキが笑う。俺はその笑顔を見て、明日を迎えるのが楽しくなった。

 

 そして向かったのは――

 

「なぜここなんだ……」

 

 当然修練場だ。今日は何するかと問えば、サキが甘えた声で「戦いたい」と言うのだ。ちょっと顔と台詞の中身が合ってませんよねえ? やだ、この子やっぱり戦闘狂?

 

 翡翠の槍《ヴァルキュリヤ》をぶん回し、瞳で「早く早く」と俺をせかす。おかしいな、俺の彼女、こんなんだっけ?

 

 仕方なしに俺は《デスブリンガー》を抜いて構える。まあ、俺も結構楽しいし。今日も勝つぞーと勝負を始める。

 

 そして――

 

 負け越した……。もうやだ……。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 翌日、朝から俺たちは二十二層《コラルの村》を抜けて、ゆっくりと南へ向かって歩いていた。以前と同じように、サキは俺の腕を抱きしめている。異なるところは、今回は恋人同士としてこの道を歩いているということだ。

 

 冬だというのに様々色彩を見せる風景を楽しみながら、俺たちは歩いていく。目的地は特にない。ふたりでいられればただそれだけで良い。

 

 ふいに、サキに名前を呼ばれる。

 

 顔だけ振り向くと、微笑するサキの顔が俺の瞳に映る。

 

「あたし、幸せだよ。あんたと一緒になれて、こうしてふたりで歩けて」

 

 言葉が出なかった。

 

 サキにはいつも優しい言葉をかけてもらっている。隣にいたいと、恋人になる前から言われたこともあった。だが、こうして幸せだと言われて、俺は言葉を失った。

 

 自分のことが好きで、最近は仲間に溢れているのだとしても、俺の本質はそうそう変わるものではない。根っこの部分はやはり人の言葉の裏を読み取ろうとしてしまう。キリトも、アスナも、ディアベルも、クライン、エギルも、皆いい奴らだ。だから心底信じている。

 

 でも怖い。過去を振り返るたびに俺を見つめてくるあの瞳たちが、仲間たちからいつか向けられるのではないかという恐怖がある。サキもそうだ。近い将来、俺に失望して去ってしまうのではないかと思うときがある。

 

 いまが幸せだから。一瞬一瞬すべてを切り取って保存しておきたいと思うほどに、幸せだから。俺は、怖いのだろう。

 

 よく、持たざる者は強いと言う台詞がある。俺が好きなはずの台詞だ。きっと、いまの俺は過去の俺よりも弱くなった。孤高から外れ、人の輪に入ったことで弱くなった。人間強度はだだ下がりだ。

 

 そう、だから。

 

「ありがとな。そう言われて、俺は……すごく嬉しい」

 

 嬉しかった。きっとサキは俺を裏切らないと心底思えた。性根の部分からそう感じられた。

 

 再び、サキが俺の名を呼び、頬に手を添えた。

 

「泣いてるよ」

 

 言われて気づいた。視界が七色に煌いている。喉の奥が幸せで熱い。

 

 これは嬉し泣きだ。

 

「うれしいんだよ。だから泣くんだ」

 

「あたしの前じゃ、素直になったね」

 

 サキが指でやさしく涙を拭ってくれる。俺は精一杯笑う。相変わらず不恰好な笑いだが、この場面ではそれがきっとよく似合う。

 

「どうせ全部見られてるしな。素直になることにしたんだ」

 

「ん、そんなあんたも好きだよ」

 

 サキが俺の胸に頭を置いた。首筋に艶のある髪が触れる。自然とサキの頭を撫でる。透き通るような柔らかな髪は、触れているだけで気持ちよかった。

 

 んっ、とサキが気持ち良さそうに声を出す。

 

「あんた、撫でるのうまいよね。妹にしてたの?」

 

「まあな。小さい頃、よくぐずったときにこうしてた」

 

「お兄ちゃんは大変だね」

 

「お姉ちゃんも大変だろ」

 

 サキがくすくすと笑う。

 

「あんたもさ、わがままいいなよ。いつもあたしばかりだからさ。なんでもいいんだよ。言ってごらん」

 

「なら、抱きしめてくれ」

 

「うん、いいよ」

 

 ぎゅっとサキが俺の身体を抱きしめる。女性特有の柔らかさが全身に広がって、心地よかった。

 

俺も抱き返すと、サキが吐息を漏らす。

 

 幸せだった。なによりも、今までで一番を更新し続けるほどに。

 

「あんた、やっぱり頑張り過ぎだよ。あたしにもっと甘えて」

 

そんなつもりは無い。ユキノと仲直りしてから、俺は週休二日の超ホワイトな仕事の仕方をしているのだから。だが、サキが言うのだから甘えてみたかった。

 

「そうするわ」

 

 じゃあ、とサキが小さく呟く。恥ずかしそうなかすれ声。

 

「する?」

 

「なにをだ?」

 

「その……えっちぃこと」

 

 はい?

 

 突然真顔になる俺。身体を離したサキが頬を赤くして俺を見上げている。え、なに言ってるの? これゲームだよ? 無理アルよ? 口調がエセ中国人ぽくなってるじゃねえか。思いっきり動揺しちゃったよ。

 

「や、ゲームだろこれ。んな十八禁なことできねえだろ」

 

 ふるふるとサキが首を振る。え、できんの? 知らなかった。ハチマンびっくり!

 

 茅場め、こんな事件起こしておいてそんな機能まで入れるとか、まじで最低のエロ魔人じゃねえか! いまなら神様と崇めてやってもいいぞ!

 

「アルゴが、あたしたちと出会った最初の日に教えてくれたんだよ」

 

 記憶を辿る。たしかにそんなことがあった。俺には教えてくれなかったが、そういうことだったのか。アルゴのやつ、マジ天使!

 

 だから、とサキが目を潤ませて俺を見つめる。瞳には期待と不安が入り混じっている。

 

「する?」

 

 究極の逡巡。俺も男だ。そりゃあしたい。もう行けるところまで行ってしまいたい。

 

 だけど、

 

「いや、やめとく」

 

 俺は首を振って断った。

 

「どうして? あたしに魅力が無い?」

 

 サキの不安顔。ああ、そういう顔をさせたくはないんだ。

 

「そういうことじゃない。ただ、あれだ。やるなら現実がいい。それに、まだ高校生だからな。責任とか色々あるだろ。軽々しくするもんじゃねえよ。あと、歯止め利かなくなるからな」

 

「あたしを大事にしてくれてるんだ」

 

「当たり前だろ。好きだからな」

 

「じゃあ、抱き合ったり、キスしたり、いっぱいしようね」

 

 そう言って唇を重ねてくる。まったく、これだからサキは可愛いのだ。さすがにもう慣れてきて赤面することはなくなったが、それでも心臓の音は痛いほどだ。

 

 しばらくそうしていて、どちらともなく離す。

 

 サキが嬉しそうにはにかむ。

 

「あんた学校に戻ってみんなに会ったら、驚かれるんじゃない?」

 

「言うほど知り合いいないけどな。ぼっちだし。でもまあ、美人な彼女できたし、多少ぼっち体質改善できたし、友達もまあ、いるしな」

 

 頬を掻く。言って見てまだ違和感はある。だが実感としては心の奥底に根付いている。

 

「デレたね。デレハチマンだ」

 

「いつも捻くれてねえよ。デレるときもある」

 

 あはは、とサキが笑い、手をつなぎあう。

 

 さあ行こうとふたりで再び歩く。長閑な風景を全身に浴びながら、俺は今日も幸せだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「偵察部隊が、半壊した……だと?」

 

 その一報を受けたのは、デートの翌日、午後過ぎのことであった。アルゴからメッセージが届き、緊急と名打たれたそれを開いてみれば、そんなことが書いてあったのだ。

 

 おいおい、フィールドボスだぞ。フロアボスと違うんだぜ? なんで半壊すんだよ。

 

 隣でサキも渋い顔をしている。ディアベルからメッセージ。本日の午後一時に緊急作戦会議を行うと記載されている。

 

 動揺していたらしい。知らず、サキの手を握った。握り返され、少し落ち着きを取り戻す。

 

 午後六時まで、特になにをすることもなく、サキと一緒に時間を過ごした。少しでも長くいたかった。

 

 午後六時。

 

 三度《アルゲート》のすり鉢状の会議場に有力ギルドが集まる。その面々は、みな厳しい表情をしており、困難な状況であることが手に取るようにわかる。

 

 中央のディアベルが昨日よりも小さい声を出す。

 

「みんな、今日集まってもらった理由はメッセージを送ったとおりだ。フィールドボス偵察任務で被害が出た」

 

 沈鬱な会議場。まさに通夜のそれだ。間違っていない。実際に人が死んだのだ。

 

「オレは悲しいし悔しい。でも、ここで立ち止まっていたら、折角情報を持ち帰ってくれた彼らに示しがつかない。だからこそ、オレたちは前へ進む! それがここに集うオレたちの責務だ! そうだろうみんな!」

 

 ディアベルの熱くなった言葉に、全員が同意する。あのリンドたちですらだ。会議場がある意味初めてひとつになる。

 

「情報はガイドブックに既に記載されている。全員入手したはずだが、整理しよう! 敵は想定通り地龍だった。だが、地面じゃない、空を飛んでいたそうだ!」

 

 会場にざわめき。だが、それもすぐに静まる。

 

「高さは目測になるが、二十メートルほどの高さだったらしい。ハチマンたちが緑龍でやった方法は高すぎて使えない」

 

 舌打ちする。今回はさすがに無理か。考えられてやがる。背後のエギルもため息していた。

 

「攻撃種類を説明する。基本的に最初は近づいての突進攻撃が主のようだ。ある程度HPを削ると跳びあがるそうだ」

 

 そこで言葉を切る。

 

 つまり、今度の龍には翼があるのだ。竜と龍が合わさった奴みてえだな。めんどくさい、どっちかに絞れよ。

 

「両翼を大きく羽ばたかせての地震攻撃。これに攻撃力は無いが、揺れて移動しにくくなる。機動力を殺がれると考えてくれ。次にブレス系だが、やはり二種類ある。多用するのは、細い円錐状の岩を飛ばしてくる攻撃だ。石英――つまりクリスタルを吐いてきて若干見づらいそうだ。注意してくれ。そして次に溶岩のブレスを吐いたそうだ。範囲はかなり広い。フィールドの広さを考えると、精々が十二人、つまり二パーティといったところだろう。そして厄介なのが次だ」

 

 誰もがディアベルの言葉を待つ。ガイドブックで知っている。だが、いまは彼の言葉から聞きたいのだ。

 

「落石攻撃が厄介らしい。空から大量の岩が降ってくるそうだ。今回はそれで全滅しかけた。飛んでからは、こちらからの攻撃は一切届かなかったらしい。以上が情報だ」

 

 会議場が静まりかえる。空を飛ぶというのは、このゲームでは一種の反則だ。なぜなら攻撃が届かないから。唯一それを塗り替えるのが飛び道具だが、俺の短剣もそこまでの高さではダメージは望めないだろう。つまり、ここまでの情報だけを統合すると万策尽きた。

 

「ディアベル、ひとつ聞きたい」

 

 俺が会議で発言するとは思わなかったのか、ディアベルは驚いたように俺をみる。が、すぐに表情を戻して発言を許可してくれる。

 

「その落石ってのは、どれくらいの大きさの岩が落ちてくる? 速度はどれくらいだ? 速いか? 遅いか?」

 

 辺りからざわめきが聞こえる。意味があるのか的なやつだ。何言ってんだ、ガイドブックにも載ってねえんだし、重要なことじゃねえか。

 

「すぐに確認する!」

 

 ディアベルがウインドウを開き、キーボードを叩き始めた。ここにいない偵察隊のやつらに聞いているのだろう。おそらく昨日のことがショックで出てこられなかったのだ。そういうことは、結構ある。

 

「よし、ハチマンの質問に答えよう! 大きさは約一メートルから二メートル。速度は、よくよく思い出すとそこまで速くなかったそうだ」

 

「了解。サンキュー」

 

「なにか案が浮かんだのか?」

 

「まあ、できるかどうかは分からんがな」

 

 よし! とディベルが両手を打ちつける。

 

「こっちに来て話してくれ!」

 

 あ、やっぱりそうなりますよねー。隣にいるサキがにやにやしている。自分がいかないからってそれはズルくない?

 

 仕方ねえなあ、と俺は前に出て考えを述べる。全員が驚愕の後に思案顔。誰もが俺の突飛な考えに可能かどうか検討しているのだろう。

 

 ディアベルも顎に手を当てて考えている。俺的にはできると思う。だって漫画とかでよくあるじゃん!

 

 一度頷いたディアベルが声を張り上げる。

 

「よし! ハチマンの案を採用しよう!」

 

 ディアベルが言うなら、と全員が納得したように首肯する。あの《聖龍連合》リンドですら異論は挟まなかった。

 

 よーし、オラもう戻るぞ、とサキの下へ帰ろうとする俺をディアベルが呼び止める。俺にしか聞こえないくらいの小さい声だ。つまり、密談をしたいのだろう。

 

「ハチマン、これはかなり難度の高い作戦だ。参考までにハチマンが考える人選を教えてくれないか?」

 

 俺は少しだけ考え、答える。

 

「俺、サキ、キリト、アスナ、ディアベル、クライン、エギル。こいつらは入れろ。他は対空用に軽装系、対地上用に重装系だな。こんなもんでどうだ?」

 

「なるほど、それで考慮してみるよ。やっぱりハチマンも参加してくれるんだね、ありがとう」

 

「仕方ねえだろ。被害が出た以上、嫌だとか言ってられんねえよ。できればサキは連れていきたくねえが、本人は拒否するだろうしな。俺もサキがいたほうがやりやすい」

 

「分かった。ありがとう」

 

 俺は手を上げるだけで返して席へ戻る。サキの隣に座り手を握ると、握り返される。口許が緩むのを感じた。

 

 ディアベルが再度司会を進行する。

 

「じゃあ、さっそくパーティ選定会議を行おう!」

 

 ギルド長たちがぞろぞろと集まっていく。そういえば、と俺は仲間に聞こえるように少し大きめの声で言う。

 

「お前ら強制参加な。ディアベルに推しておいた」

 

「マジか! ありがとうハチ!」

 

 一番に喜んだのはキリトだ。そんなに武器欲しいの……? 怖いとかないのかなこの子。

 

 アスナも嬉しそうに跳ね上がり、エギルはLAボーナスを獲得すると意気込んでいる。サキは表情を変えなかったが、どうも口許がにやついている。あれ、やっぱりこの人……いや、やめよう。彼女のこと悪く言うのいくない!

 

 そんなサキもやっぱり好きだからだ。

 

 さて、と俺は会議の様子を見つつ未来を思う。

 

 次は地龍戦。一体どうなることやら。

 

 やっぱり戦いたくないなあ……。

 

 

 

 地龍討伐は翌日の午前十時から行われることとなり、会議は解散となった。パーティはやはり俺の意見が採用されたようで、先にあげた七名が参加することが決まった。

 

 しかしパーティは六名までということで、クラインが泣く泣く別のパーティへ所属することとなった。哀れクライン……。

 

 そんなこんなで、やけになったクラインに連れられ、俺ら全員は真昼間から俺とサキの家に集まっていた。全員が持ち寄った食料や飲料をテーブルに並べ、前夜祭ならぬ前昼祭を行うこととなった。

 

 アルゴも駆けつけ、心配していたユキノもサキが呼び寄せる。ユキノと初対面であるエギルがだらしない顔をして挨拶をしていた。こいつ、カミさん持ちなのに女にだらしないのか……。嫌だなあ。でもいい男だからいいか。

 

 さて、とディアベルが杯を持ち上げる。

 

「ハチマン、よろしく!」

 

「また俺かよ。もうお前でいいじゃん」

 

 同じ杯を持った俺はぶーたれる。だってこの前のこと思い出しちゃうし。あの日のこと、結構トラウマなんだからな。

 

「いいからハチくん! 早く早く!」

 

 アスナに急かされる。

 

「男なんだからしっかりしな」

 

 笑いながらサキに背中を押される。彼女にこうまで言われちゃ仕方ない。

 

 全員が俺を見ている。まあ、気の利いた台詞は出ないが、多少はしゃべるか。

 

「明日は地龍討伐戦だ。どうせまたぞろ厄介になるだろうが、全員死なずにまたこうして集まろうぜ。んじゃ、乾杯」

 

 乾杯、と全員が杯を合わせる。

 

 よーし、俺はいつも通りすみっこぐらしするぞーと、そろそろと部屋の隅へ陣取る。当然サキも着いて来て、俺の隣に座った。

 

「やっぱりなかなか慣れないね」

 

 サキの呟きに俺も頷く。ふたりとも元はぼっちなのだ。こういうお祭り騒ぎは性に合っていない。

 

 でも、とサキが続ける。

 

「楽しいね」

 

「ああ、そうだな。案外こういうのもいいもんだ」

 

 ふたりで笑いあう。そんな折、俺の視界に影が落ちる。

 

 クラインだ。ま、そうだよねー。

 

「おい、ふたりともいい雰囲気作ってンな! こっち来い! 今度は男女混合でなんでも談義だ!」

 

 そして一気に杯をあおるクライン。その顔は微妙に赤い。おい、それ酒じゃないぞ。こいつ雰囲気で酔えるやつなの?

 

 俺とサキがクラインに引っ張られ、会場の真ん中まで連れて行かれる。ここ俺たちのうちだぞ、好きにしていいじゃんかーとか思いながらも、まんざらでもない。

 

 ユキノと会話していたディアベルが俺たちの姿に反応する。

 

「ハチマン、やっと来たか。やっぱり君の屁理屈会話がないとしまらないよ」

 

 ディアベルが面白いことを言ってやがる。おうおう、言ってくれるじゃねえか。いいのか? 本気出すぞ?

 

「おう、この爽やかイケメン野郎。いい人ぶってるといつか痛い目見るぞ」

 

「い、いきなり辛口すぎるなあ」

 

 ディアベルが苦笑。横でユキノがくすくすと笑っている。毒舌には一家言あるユキノだ。これくらいじゃ満足しないだろう。

 

「ほれ、ユキノ、お前の本気を見せてやれ!」

 

 笑いながらユキノが首を振る。

 

「嫌よ。言ったでしょう。私はこの私で行くと。そんなこと言っていると、サキさんにあることないこと吹き込むわよ」

 

 俺の顔がひきつる。

 

「やり方は相変わらずえげつないなお前……」

 

 あら心外ね、とユキノが口端を上げる。

 

「あなたが自分が好きなように、私も自分が好きだもの。そうそう全部が全部は変えられないわ」

 

 ふたりして噴出す。こんな風にユキノとちょっと攻撃し合うのも懐かしい。

 

 楽しい、本当に。

 

「で、ディアベルはうちの部長様に何粉かけてんだよ。どこの誰に許可とってんだ、ああん?」

 

 俺がそのままの勢いでディアベルに絡む。ディアベルは苦笑顔だ。

 

「ゆ、ユキノさんは一体君の何なんだい……?」

 

「あん? 友人だよ友人。姉弟にでも見えんのか? 眼科行けよ」と俺がねめつけるように言ってやる。

 

「そうよ、友人よ。そんなことも分からないのかしら」とユキノが皮肉交じりの微笑みを浮かべる。

 

「ふ、ふたり合わさると怖いな君たち」

 

 顔を引きつらせるディアベルに、サキが笑う。

 

「現実でのこいつらのやりとりはすごかったからね。これでもまだ優しいほうだよ」

 

「これでかい!?」

 

 驚愕するディアベル。そこにアルゴが乗り込んでくる。

 

「オレっちも混ぜろー! ディアベルはどけヨ!」

 

「君たちはオレに対してなんの恨みがあるんだ!」

 

 全員が首を傾げる。答えはひとつだ。

 

「爽やかイケメンすぎてなんかムカつく」

 

「ひどすぎる!」

 

 ディアベルが嘆く。やべえ、こいつからかうと超面白い。

 

「おい、さすがにディアベルが可哀相だからその辺でやめてやれよ」

 

 おっと、王子様がいらっしゃったぞ。キリト様のご到着だ。次の犠牲者はてめえだ。

 

「おい真っ黒くろすけ。お前はディアベルみたいにもっと白くなれよ。漂白剤いるか?」と俺。

 

「今度は俺を攻撃するのかよ!?」キリトが早速泣きそうだ。

 

「そうね、アスナさんに服装を見てもらったらどうかしら? センスが無いわよあなた」段々とノリノリになってきたユキノさん。やばい、俺たち最強!

 

「キー坊はやればできる子だヨ! ただ出来ないだけなんだヨ!」止めを刺すはアルゴ。

 

 さすがにサキもこれには苦笑いだ。

 

「ひ、ひどい……お、俺だって頑張ってるのに……」

 

 遂にキリトも落ち込んだ。アスナは苦笑しつつも俺たちを止めようとしない。どうやらアスナもそう思っているようだ。哀れなキリト……。

 

 さあ、次はどいつだと辺りを見回す。エギルが笑いながら近づいてくる。さすがにエギルには言えねえなと矛を引っ込める。

 

「お前たち、やっぱり仲がいいな。オレも混ぜてもらってもいいか?」

 

「おう、来いよ。ついでにクラインも来い、なにそんなすみっこにいるんだよ」

 

 すみっこぐらしとなったディアベルとキリトの傍にいたクラインに俺が声をかける。クラインも笑いながら返してくる。

 

「お前らのせいでこいつらがこうなってンだろが。オレが相手するわ」

 

 さすがクライン。ヒゲ面の癖して超優しい!

 

「じゃあ、キリト君はお任せするね、クラインさん!」

 

 アスナがにっこり笑顔でキリトを捨てる。哀れすぎるぞキリト……。今度飯驕るから許してね。

 

「久しぶりね、アスナさん。元気してたかしら?」

 

 ユキノが表情を戻して笑顔で言った。

 

「うん、久しぶりだね、ユキノさん。元気だったよ! 最近はちょっと大変だったけどね」

 

「次は地龍だしねえ」サキがどこか楽しそうに言う。

 

「サキさん、アンタは戦うの好きなのか……?」

 

 エギル! その質問はしちゃだめなやつだよ!

 

 サキがニヤり、と笑う。

 

「さてね。でもエギル、あんたともまた戦いたいよ。暇なときは相手してもらうよ」

 

 エギルの顔が引きつる。この前の惨劇を思い出しているのだろう。やだ、うちの女性陣みんな怖いよ!

 

「おー、サキちゃんはやっぱ強いナー。オレっちもハー坊とサキちゃんが戦うとこ見てみたいナ。すごいんだロ?」

 

 アルゴがエギルに訊く。渋い顔をしたエギルが搾り出すようにして、言った。

 

「地獄だった……」

 

 ちょっと、それ違うよ! それ君たちの訓練の方だからね! 俺とサキの戦いは地獄じゃないよ!

 

 サキが「ほう」と微笑む。優しい笑みではない。怖い方の笑みだ。

 

「エギル、地龍終わったら一週間相手してやるよ。もちろん、地獄以上にしごいてやるよ」

 

「申し訳ありませんでしたあ! 許して下さい!」

 

 速攻エギルが頭を下げた。

 

 へえ、とサキの笑みが深まる。やばい、これはリンドを滅したときと同じ雰囲気をしていらっしゃる。怖い、サキ超怖い。だって大の男のエギルが震えてるんだもん。俺だって震えてるよ!

 

「それは何に対しての謝罪だい? ん? 言ってごらんよ? ほら、優しくしてあげるから。さあ、男ならしゃっきりしな! ほら、早く、早く、早く!」

 

「ひぃっ! ハチマン! 助けてくれ!」

 

 遂にエギルが俺に泣きつく。おい、こっちくんな。俺も怖いんだよ!

 

 仲裁に入ったのはユキノだ。笑いながらサキの両肩を叩く。

 

「さすがにエギルさんが可哀相よ。もうやめてあげなさい」

 

「仕方ないねえ。これくらいで勘弁してあげるよエギル」

 

 サキが仕方なし、というように言った。俺の後ろでエギルがほっとしている。

 

「うちの女性陣怖すぎるだろ。なんでことごとく男を葬ってんだよ」

 

 油断していたからか、つい、言ってしまった。思ったことを口にしてしまった。ヤバイ、超ヤバイ。何がヤバイって、女性陣全員が俺を見ているのだ。しかも、殺意にまみれた暗黒の視線で! やだ、ハチマンちびりそう!

 

 俺とエギルが抱き合う。男同士でもこの際構わない。お願いだからこの状況をなんとかして!

 

 最初に動いたのはユキノだ。

 

「あらハチマンくん。それは私に対する挑戦と受け取って良いのかしら。久しぶりに、本気を出して良いという許可と受け取るわよ」

 

 やめて! こう見えていまの俺豆腐メンタルだから!

 

 必死に俺は首を振る。エギルも振っている。超必死だ。

 

 次はアスナだ。

 

「ハチく~ん。あたし、ハチくんにと~っても言いたいことがあったんだ~」

 

 やばい、今日のアスナ超怖い。さっきから超ばっかり言ってるけど、それくらい怖い。だって目も口も笑っているのに雰囲気が殺意満々なんだもん。なんなのこの雰囲気。サキに匹敵するんだけど!

 

 キリト! キリトはいないか! いねえ! さっき俺たちがフルボッコにしたんじゃん!

 

 とてとてとアルゴが俺の前にやってくる。ああ、アルゴ、お前だけは俺の味方なんだな。じんわりと涙が浮かんだ瞬間、アルゴが言い放つ。

 

「オレっち、ハー坊にこっぴどく振られた恨みがあるなー」

 

 そんなことねえよ! ちゃんと普通に振ったよ!

 

 サキの目がギラリと光る。龍より怖いよ。さっきから怖い怖い言ってるけど、他に言いようが無いんだよ。ていうかエギル反応しろよ! って気絶してるじゃねえか!

 

 俺は両手を前に突き出して必死に距離を取る。だからエギル、オレを掴んだまま気絶してんな! 助けろ!

 

「ま、まて、落ち着けみんな! 俺は悪くねえ! 社会が悪い!」

 

「そこでその発言をするとは、あなた、社会的に抹殺されたいのかしら」

 

 ユキノが遂にその本領を発揮し始める。

 

「それって無責任じゃないかな~?」

 

 アスナ、やめろ。やめてくれ。なんか俺が悪者に聞こえちゃうから!

 

「ハー坊とはキスもしたのになあ」

 

 さらっと傷口えぐるのやめてねアルゴ!

 

「あ、それ私が結構傷ついた奴だ……」

 

 今度はサキが落ち込みだした。なんだここ。まるで戦場じゃねえか。言葉の弾雨が飛び交って誰に被弾してもおかしくねえ状態だぞ!

 

 もうやめて! 争わないで!

 

「あら、小町さんのお兄さん。それ私がかなりあなたに色々してあげた件よね。ねえ、小町さんのお兄さん。私をもっと労わってくれてもいいんじゃないかしら。ね、小町さんのお兄さん」

 

 お願い! その呼び方はやめて! 俺が傷ついたあだ名ベストスリーに入ってるやつだから!

 

 そして、俺たち男は全滅した。ついでにサキも死んだ。

 

 女性陣は仲良く中央で会話している。

 

 言葉の戦場って怖いね。ごめんな、ディアベル、キリト。もう俺、あんなこと絶対にしないよ。あとクライン、慰めてくれてありがとう。もう絶対ヒゲ面バカにしないからね。

 

 心に刺さった言葉の弾丸をひとつひとつ抜きながら、俺はこんなことは絶対にしないと胸に誓う。

 

 



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そして、囚人は邪竜と戯れる 5

 遂にこの日がやってきた。

 

 午前九時半、俺は部屋の中で武器の最終点検を行っていた。投げナイフの残量を確認し、《デスブリンガー》の耐久値が最大になっていることも目視しておく。回復ポーションに結晶の数もストレージに入るだけ納めた。

 

 あとは気合を入れるだけだ。リビングにいたサキが入ってくる。同じく点検をしていたのだろう、青を基調とした完全武装の格好で俺の傍による。

 

「キスして」

 

 サキが瞼を閉じてねだる。俺は無言で唇を重ねた。

 

「もう一度して」

 

 再びのキス。

 

「ん、ありがと」

 

 サキが俺の手を取る。俺もサキの柔らかい手をぎゅっと握った。温もりと共に僅かな震えが伝わってくる。

 

「まああれだ、なんだかんだ言ってもフロアボスじゃねえんだ。死にはしないだろ」

 

「そうだね」

 

 サキが俯く。やはり緊張しているのだろう。肩に頭を預けてサキが言う。

 

「ねえ、一応さ。願い事しない?」

 

「願い事?」

 

「そう、ちゃんと無事に帰ってこれたら、お互いに相手に好きなことをする」

 

 言葉の意味が捉えられず、俺は問い返してしまう。

 

「あー、どゆこと?」

 

 だから、とサキがもじもじとする。あ、これ聞かないほうがいいんじゃないかな俺。嫌な予感がするぞ。

 

「えっちぃこと」

 

 やっぱそれかー。俺気づいてたわー。なんか似たようなやりとりこの前したもんなー。

 

「その問いに対する解は言った気がするんだけど?」

 

 一応理性全開で答える。俺の理性ちゃん、がんばれ! もうひと踏ん張りだよ!

 

「そういう、ことじゃなくてさ」

 

 真っ赤にした顔でサキが続ける。やはりもじもじと、だけど真剣に。

 

「この身体、好きにして……いいとか、そういう、あれ……」

 

 頭がぷっつんした。俺いま、理性ちゃんがノックアウトされた音が聞こえたよ。

 

 思わずサキを抱きしめる。思い切り抱きしめる。

 

 サキの慌てる声。

 

「ちょ、いまじゃ、なくて……」

 

 ああちくしょう。可愛いな。絶対死なせたくない。それだけもう一度確認できれば、俺はきっと頑張れる。

 

「サキ、お前は俺が守る。絶対に死なせない」

 

 俺の真剣な声にサキの動揺が止まる。背に腕が回される、互いに抱きしめ合う。

 

「ん、あんたもあたしが守るよ。だから大丈夫だね」

 

 互いに離れる。ふたりで噴出す。フィールドボスでこれでなら、フロアボスのときは一体どうなることやら。

 

「それじゃ、行こうか」

 

 サキが手を差し出す。俺はそれを掴み、二人で家を出る。

 

 五十層主街区《アルゲート》の前には、地龍討伐隊の面々が集まっていた。俺たちの姿を見つけて声をかけてきたのはキリトだ。

 

「よう、朝から腐った目してるなハチ。眼球取り替えて水晶玉にしたらどうだ?」

 

 酷い言い草だ。まるでキリトじゃなく、かつてのユキノを相手にしているようだ。絶対にこいつ昨日の俺とユキノの影響を受けてやがる。

 

「お前……昨日のこと根に持ってるだろ」

 

 当たり前だ! とキリトが怒る。しかしすぐに表情を普段の装いに戻す。

 

「まあ、これくらいやらないとちょっとさ」

 

 キリトも緊張しているのだろう。かつてない強さを誇った四体のフィールドボス。その主である最後のフィールドボスがどれだけ強いかは、想像もつかない。フロアボスのことは知らん。後で考える。

 

「ハチくん、サキさん、おはよう」

 

 キリトの影から出てきたアスナが笑いかけてくる。笑みはやはりどこかぎこちない。サキも気づいたのだろう。一歩足を踏み出す。

 

「おはようアスナ。こっちきな」

 

 サキが手招きしてアスナを呼ぶ。近寄ってきたアスナをサキが抱きしめる。まるで妹にでもするように頭を撫でた。

 

「大丈夫、あたしたちなら大丈夫」

 

「うん、ありがとう、サキさん」

 

 離れたアスナがいつものように微笑んだ。

 

「よう、結構そろってるな」

 

 この野太い声はエギルだった。まったく、朝から頭が眩しいぜ。

 

「エギルか、今日は頼むな」

 

 キリトがエギルに声をかける。

 

「おう、お前も頼むぜ《黒の剣士》様」

 

「なっ、だからやめろってそういうの!」

 

 あれれー、おっかしいぞー。俺がニヤニヤと笑う。

 

 前はそういうのノリノリだったくせに。俺がさんざん馬鹿にしたからだろう、軽度の厨二病から抜け出したようだ。実にいい傾向だ。俺も昔の俺を殴りたいときがあるしな。

 

 そうこうしている内に、ディアベルとクラインもやって来る。

 

 これでうちのパーティは全員揃ったことになる。クラインは別だけど。

 

 クライン側のパーティはというと、どうやら血盟騎士団団長が出てきたようだ。

 

 二十代半ばの学者然とした、細面の顔立ち。額の上には鉄灰色の前髪が流れている。長身で痩せ気味の身体。ゆったりとした真紅のローブに包まれており、まるで魔術師のような装いだ。これが防御力抜群と言われる剣士様なのだから驚きだ。

 

 アスナから話は聞いてはいたものの、実際に目にするのはボス戦くらいだから、直接言葉をかわしたことはない。

 

 そんな団長ヒースクリフが、俺のもとにやってくる。なぜに?

 

「やあ、ハチマン君。こうして君と話すのは初めてかな?」

 

「ああ、そうだろうな。俺は基本人見知りなんでな」

 

 ふっ、とヒースクリフの口許が緩む。

 

「なるほど、アスナ君に聞いていた通りだ。君は信頼に足る人物以外は一線を引いているようだね」

 

「普通そうなんじゃねえの? 誰だって話したことないやつと腹割って話さねえだろ」

 

 確かに、と頷いたヒースクリフだったが、

 

「まあ、そんな話をしにきたわけではないよ。こちらのパーティは私がリーダーを勤めさせて頂くこととなった。そちらは君かな?」

 

「やるわけねえだろ。そういうのはディアベルの仕事だ」

 

「そうかな? 私には君にも適正があると思うのだがね?」

 

「さてな。俺はお前やディアベルみたいにカリスマ性はなくてな。基本集団の中じゃ一歩後ろを歩く性質なんだよ」

 

「ふふ、そうかい? 君と会話ができて楽しかったよ、では」

 

 軽く微笑んだヒースクリフがディアベルの下へ行く。なんなんだあいつは。苦手なタイプだな。人を透かしてみるような奴は好きではない。

 

 嫌な目にあったと思っていると、丁度リンドと目があった。相変わらず俺を見るとしかめっ面をしやがる嫌な野郎だ。

 

 けっ、と思いながら視線を逸らす。サキが手を握ってきた。どうやら顔に出ていたらしい。俺も握り返す。暖かい感触が心を落ち着かせる。

 

 ようやくあちらのパーティも全員が集まったようだ。

 

 ヒースクリフが一歩前に出る。今回は彼が仕切るようだ。ディアベルでいいじゃねえか。まあ、アスナがいるギルドだから許すか。

 

「諸君。地龍討伐協力に感謝する。今回の敵はフィールドボスだが、諸君も察している通り並のフロアボス並、もしくはそれ以上に厄介な相手であろう。しかし、我々ならば勝利できると信じている。では参ろう」

 

 固い挨拶だ。やっぱディアベルの方がいいじゃねえか。あれ、俺こんなにディアベル好きだったっけ? おかしいな。

 

 ヒースクリフたちに続き、俺たちも歩み始める。

 

 山岳地帯を抜け、結界が施されていた中央地帯へ向かう。匂い袋のお陰だろう、敵と遭遇することもなく、難なくフィールドを抜けていく。

 

 道中、あちらのパーティに会話はない。誰も彼もが緊張しているのだ。

 

 もちろん、こちらのパーティは関係ない。適当に雑談させてもらう。

 

「キリト、LAボーナスは任せる。だからブレスに突っ込んでいけよ」

 

「おいハチ。それは俺を殺したいのか?」

 

 キリトが突っかかってくる。おいおい、昨今問題のキレる若者かね君は。

 

「そんなこと考えてるわけねーだろ。俺とサキがやりたくねえんだ。消去法でお前しかいねえだろ。だから頑張って死んでこい《黒の剣士》様」

 

「言ってることが酷い認識ないだろお前!」

 

 もうキリトは激オコぷんぷん丸だ。いまからそんなに気力使って大丈夫? お兄さん心配だよ。

 

「あはは、向こうはあんなに緊張してるのに、こっちはハチくんがいるから賑やかだね」

 

 アスナも笑いながら会話に加わってくる。

 

「あれだけ昨日騒いだのにまだ足りないのか? まったく、若さってのはいいねえ」

 

 エギルが苦笑している。だが、今朝に見えた緊張は見受けられない。馬鹿会話も馬鹿にしたものじゃない。

 

「ハチマンは相変わらずだね。口から生まれてきたんじゃないかい?」

 

 ディアベルも参加してくる。おおう、俺に喧嘩を売る気か? いい度胸じゃねえか。

 

「おうディアベル。お前いつも洗濯されてるのか? 相変わらず性格真っ白だな。羨ましいぜ」

 

「今日もハチマン節は冴えてるな。ユキノさんがいなくてよかった」

 

 昨日を思い出しているのか、ディアベルの目が遠くを見ている。あまり思い出すのはやめよう。俺も胸が痛い。そういや、昨日なにかを誓った気がするな。なんだろう。忘れた。

 

「ハチマン、もしかして緊張してる?」

 

 サキが顔を寄せて耳打ちしてくる。やはり気づかれていたらしい。脳内会話を表に出している今日は、結構やばい。

 

 少しな、と返す。

 

 サキは少しだけ歩む速度を緩め、最後尾まで俺を導いていく。アスナが何かを悟ったのか、ぷりぷりしているキリトの背を押す。ごめんねキリト、ちょっと当たっちゃったよ。

 

「サキ、どうしたんだよ」

 

「キスしよ」

 

 言ったと同時に口を塞がれる。蕩けそうな感触に脳が痺れた。一気に緊張が溶ける。やはりサキには適わない。

 

「ん、まだする?」

 

「したいところだけど、クラインがちらちら見てるからやめとく」

 

 大分距離離れてるはずなのによく気づくなクライン。いい奴だからきっと彼女できるよ。

 

「それじゃ戻ろっか」

 

 再びサキが俺の手を引いて集団の中心へ行く。

 

「サキさんにいいことされたか?」

 

 キリトがにやつきながら言ってくる。バレてたか。隣を見るとアスナが微笑んでいる。

 

「まあな。さっきはすまんな」

 

「いいさ、慣れてる。いつも通りだろ?」

 

 そう言ってキリトは笑った。

 

「まえもあんな風にやりあったよな」

 

 思い出す。確かサキ絡みで俺のアイデンティティが破壊されていたときだ。タバスコとフォークを持ってキリトと戦ったのは面白い思い出だ。なにやってんのあのときの俺……。

 

「その節は迷惑かけたな」

 

「いいさ。面白かったしな」

 

「キリト、お前は緊張とかしねえの?」

 

「ハチがいるからな。大丈夫だよ」

 

 おっと、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。

 

「キリトがデレたか。デレトって呼んでいい?」

 

「今日は妙にハイテンションだなハチ。またサキさんにいいことされて来たらどうだ?」

 

 苦笑ぎみにキリトが言う。確かに、今日はちょっとおかしいかもしれない。さすがに三体目の龍となるとかなりげんなりしているのだ。

 

 サキをちらりと見る。サキはアスナと会話に花を咲かせているようだ。ディアベルもエギルとなにやら話をしている。

 

 向こうとは大違いだな。だからクライン、あんまりこっちを見るなよ。リンドがちょっと不貞腐れてるぞ。

 

「哀れだなクラインの奴……」

 

 キリトが心底可哀相な人を見る目でクラインを眺める。

 

「それは分かるが、言ってやるな。どうせ耐えられなくてすぐこっちに来る」

 

 それはすぐに現実となった。クラインが徐々に歩みを遅らせているのだ。おい、ちょっと露骨過ぎない?

 

 遂に俺たちがクラインに追いつく。どんだけ鈍足なんだよお前。

 

「ハチぃ、キリトぉ、向こう無言でつれえよぉ」クラインの嘆き声。

 

「しょうがないだろ。恨むならディアベルを恨め」と俺がディアベルに投げる。

 

「し、仕方なかったんだ。パーティの都合上、うちは軽装備多いんだからさ」

 

 ディアベルがクラインへ釈明している。その内ただの会話となり、六人パーティが七人パーティになってしまった。おいおい、いいのかよこれ。

 

 ふいに、視線を感じた。ヒースクリフがこちらを見ているのだ。俺を一瞥すると、口許に笑みを浮かべていた。

 

 なんだよ、と思いを込めて睨み返すが、笑みしか返って来ない。以心伝心をする仲じゃないからか、何がしたいのか良くわからない。

 

 まあいいや、無視だ無視。

 

 しばらく歩いていると、迷宮区を囲うように崖が切り立っている場所が見えてくる。幅約五十メートルで、奥行きは大体二百メートルくらいか? まあ、アホみたいな広範囲攻撃を仕掛けてきそうだから、部隊としては精々二パーティが限度か。

 

 ヒースクリフを先頭にし、俺たちは崖と崖の間へと入っていく。中腹まで差し掛かったところで、迷宮区の上空から何かが落ちてきた。

 

 咆哮。

 

 焦茶色をした地龍が遂にその姿を現した。やはり見た目はほぼ他の龍と同じだが、背にはコウモリのような翼が一対生えている。そして何より、その巨大さは圧巻だ。他の龍の二倍以上はある。早速帰りたくなってきた……。

 

「総員、戦闘準備!」

 

 ヒースクリフの鋭い叫びが全員の動揺をぶち破る。俺の右手に構えた《デスブリンガー》が煌々と輝いている。どうだ、奴の血が欲しいか? とか言っている場合ではない。

 

 地龍が竜巻のようにうねり上がり、急降下。俺たちに向かって飛翔してくる。

 

 即座にパーティごとに散会。巨体が俺たちのすぐ傍を通り抜ける。それだけで尋常ではない風が吹き荒れ、俺たちの身体を吹き飛ばす!

 

 地龍はそのまま方向転換。地面に足を落ち着けたかと思うと、俺たちに向かって再度憤怒の咆哮!

 

「かかれ――!」

 

 ヒースクリフの声が響く。怒声を上げて全員が地龍に殺到する。俺たちも地龍へ向けて疾走を開始。俺は圧倒的な俊敏力で先頭へと抜け出し、地龍へ突進系単発スキルをぶち込む! 奴のHPバーは三本。全然削れていない!

 

 単発スキルで削れない以上、下手な隙ができる大技は避けたい。

 

 舌打ちしつつ自力での連続攻撃に切り替える。遅れてサキが到着し、俺の姿を見てスキル攻撃から通常攻撃に変更。遠心力を乗せた鋭い槍の一撃が地龍を斬り裂く。さすがにこれには堪らず地龍が大口を開ける。

 

 ようやくキリトとアスナが到着し、他の者も続々とやって来る。

 

 さあ、本格的な戦闘開始だ!

 

 遂に憤怒の炎が地龍の瞳に着火。地龍の口が開かれ、光が迸る。情報にあった水晶の円錐攻撃! 朝空に煌きながら襲い掛かるその様はまさに流星群に相応しい。

 

 俺は完全に見切ってかわしまくる。サキも同様に避けながらも、槍を回して弾いていく。全員が龍のただの一撃で逃げ惑っている。ヒースクリフはただ盾を掲げているだけだ。なんつー防御力だよ。

 

 水晶の攻撃が止む。龍の上体が捻り始める。

 

 マズイ! あの巨体で尾での横薙ぎをするつもりだ!

 

「全員跳べ!」

 

 俺が叫ぶ。全員が瞬時に反応。高速で振りぬかれた尾を全員が完璧なタイミングで跳んで避ける。さすが攻略組の精鋭。やるじゃねえか。

 

 巨体が身体を戻す間に、全員が一斉に攻撃を再開。徐々に地龍のHPを削っていく。

 

 しかし、一本も削れぬまま地龍が上昇を開始。あっという間に崖の頂点まで浮き上がると、大気を震わせるような雄叫びを上げた。

 

 翼が広がる。情報にあった地震を発生させる羽ばたきが大きく行われる。直後、地面に震動。下から突き上げるような衝撃に俺たちがその場でうずくまる。

 

 再びの龍の口が開き、羽ばたいたまま円錐攻撃。おいおい、これは即死コンボじゃねえか!

 

 サキが地面を転がりながら俺の下へ来て、空へ向けて槍を回しまくる。円錐の殆どを捌くが、何本かが身体に突き刺さる。他の者たちも武器を振り回すが、俺たちのHPバーが容赦なく削られていく。

 

 一分もない、たかが三十秒程度の攻撃で、俺たちほぼ全員が瀕死状態。即座に結晶で回復。俺もサキのお陰でHPは問題ないが、POTで回復。

 

 羽ばたきが止む。地龍の口腔に赤い輝き。

 

「ブレス攻撃! 散会!」

 

 ヒースクリフによる叫びで全員が左右に逃げる。直後、俺たちが居た場所へ向け、猛烈な熱波と共に溶岩が勢いよく噴射!

 

 真っ赤に燃える熔けたマグマが荒れ狂う!

 

 俺たちは必死になって逃げ回る。ダメージは無いが輻射熱により身体が燃えるように熱い。周囲は灼熱地獄と化し、もはやマップの三分の一以上はブレス攻撃の範囲となっていた。あまりにも厄介だ。

 

 地龍は依然として降りてこない。チキン野郎め、さっさと降りて来いよ。

 

 マップを分断するブレス攻撃の後、今度は地龍が甲高い声を張り上げる。まるで超音波のようなそれに全員が耳を塞ぐ。俺とサキも耳を傷める苦痛に喘ぐ。直後、視界に違和感を感じた。崖に何かが走っている。

 

 亀裂だ。

 

 おい、こんなの情報にねえぞ。なに偵察してんだ!

 

 崖に入った亀裂が縦横無尽に駆け巡り、俺たちの頭上に岩を降らす。大きさは確かに一メートルか二メートルほどだが、超音波攻撃で落ちてくるとは聞いてねえ。

 

 だが、動くならば今しかない!

 

 超音波が止むと同時に俺が叫ぶ!

 

「お前ら行くぞ!」

 

 俺はそのまま全力で跳躍、エギルとディアベル以外が俺と同じように跳ぶ。俺は岩の側面に足をつけ、更に次の岩へ向けて跳んでいく!

 

 そう、よく漫画であるあれだ。落ちてくる岩を跳んで登っていくアレだ。それを実践しようというのだ。まじ狂ってる。誰だよ考えたの。俺だよちくしょうが!

 

 俺とサキ、キリトにアスナが跳んでいく。ぶっつけ本番なのに全員が空を駆けていく!

 

 岩を跳ぶごとに無駄に緊張が走り、しかしやめるわけにもいかず無我夢中で駆け抜ける! 

 

 そして俺たちは遂に崖まで登りきった。

 

 四人全員だ。

 

 逆に向こうのパーティは全員が失敗したようで、逃げ惑っている。

 

 というか、よくできたなこれ。マジで死ぬかと思った。二度とやりたくねえ。

 

 地龍が俺たちの存在を捕捉。瞬時に俺たちへ向けて突進を繰り出す!

 

「飛び乗るぞ!」

 

 もはやこれしか方法は無い、というか瞬時に考え付くか!

 

 掛け声もなく全員同時に跳躍。鱗に覆われた地龍に着地すると同時にしがみつく。急に俺たちを見失った地龍が空を高速移動しているのだ。全員が必死に鱗にしがみつき遠心力と慣性に耐え続ける。

 

 やがて、地龍がフィールドの真ん中で止まる。俺たちを探すのを諦めたか、地上へ向けて円錐攻撃を開始した。よし、今が好機!

 

 全員無言で見合わせ頷く。俺とサキが右翼、キリトとアスナが左翼へ向けて風となって走る!

 

 思い思いに全力のソードスキルを翼の根元へ叩き込む! 叩き込む! これでもかとぶち込んでやる!

 

 地龍のHPバーが削れると同時、奴の翼の耐久値も減っていく。ようやく地龍が俺たちの存在を察知。すぐさま高速移動を開始!

 

 急な動きについていけず、俺たちはそのまま空に放り出される。くそ! 間に合わなかったか!

 

 宙でサキと目が合う。サキの瞳は死んでいない!

 

 サキが《ヴァルキュリヤ》振りかぶる。俺との距離は約槍一本分。

 

 心の中で全力でサキへ叫ぶ。

 

 ――やれ!

 

 ――あいよ!

 

 サキの声が聞こえた気がして、靴底に衝撃!

 

 エギルがやったように、サキが槍の穂先を俺へぶち当てる! 

 

 俺は弾丸となって飛翔。再び地龍と邂逅する。思わず「無様」と笑いながら飛び乗り、地龍の背を走る、走る!

 

 両翼の中央で回転しながら斬りまくる。

 

 堕ちろ! 堕ちろ! 堕ちろ! 堕ちて亡びろ!

 

 遂に翼の耐久値が限界を超える。翼が結晶となって霧散。龍が苦痛の雄たけびを上げながら地面へと落下を開始。俺は地面へ激突寸前で地龍から跳び降りる。

 

 轟音!

 

 遂に地龍を地面に落としたのだ。土埃の中、全員が喜びの絶叫。

 

 俺は地面に転がりながらサキを探す。すぐ傍にはサキがいて俺の腕を掴む。抱きしめてキスしたくなるが我慢。

 

 一拍の静寂。

 

 土埃が晴れ、地に落ちた龍と俺たちが再び対峙する。

 

 地龍が咆哮! 俺たちも吠えながら地龍へと殺到。

 

 やりたい放題やりやがって、さっさと殺してやる!

 

俺たちによる猛攻が地龍のHPバーを削っていく。地龍も水晶攻撃で応戦。しかし、伊達に俺たちも何度も受けてはいない。地に落ちた場所からの攻撃なんぞ、空からに比べれば幾分避けやすい。放射上に広がるそれらを、横に思い切り逃げて避ける。

 

 斬って斬って斬りまくる。

 

 地龍の口腔に鈍い光が混じる。さすがにこれは皆逃走を選択!

 

 地龍による溶岩ブレスがフィールドの三分の一を灼熱地獄に変える。ひとり逃げ遅れたが、HPバーがレッドゾーンに割り込んだだけで死んでいない。行ける、行けるぞ!

 

 俺とサキ、キリトにアスナが先頭で連続攻撃をぶちかます!

 

 さあ、さっさと堕ちろ! 堕ちて死ね!

 

 突如、地龍の角が白く輝く。周囲に鈍い音が響く。

 

 くそ、今度も結界か!?

 

 否、水晶だ。水晶が地面から生えてくる。鋭利な円錐形をした水晶が、俺たちの足元から次々と成長していく。初見攻撃はさすがに逃げる。逃走だ。

 

 地龍を中心として半径二十メートル圏内が水晶フィールドに変化。今回は突然の出来事に何人かが水晶の攻撃をもろに受けていた。だがまだ死んでいない。

 

 再び地龍による円錐型水晶攻撃。だが、水晶フィールドのお陰で壁ができた俺たちは、水晶の影に隠れる。それだけで攻撃が回避できるのだからありがたい。なに、こいつ馬鹿なの?

 

 なんて、思っていられたのは今だけだった。

 

 突如横倒れになっていた地龍が立ち上がり、壮絶な咆哮!

 

 地龍の前足が開き、何かを圧縮するように閉じられた。

 

 約十メートル上空になにやら黒い物体が都合四つ現れる。俺たちを囲むようにだ。

 

 また新しい攻撃だ。周囲の風景が歪んで見える。まるで空気が集まっているかのように収束を始める。嫌な予感。壮絶な嫌な予感。こういう予感は当たると昔から相場が決まっている。

 

「全員! 地面に武器を突きたてしゃがみ込め!」

 

 ヒースクリフの怒声が走る。やはり奴も同意見か。

 

 黒球が一気に拡大。直径一メートルほどの大きさになると、遂にその攻撃が開始される。武器にしがみ付いたはずの俺たちの身体が浮かび上がる。大気が、いや、空間が歪み、黒球に引き込まれていく。

 

 重力だ。まさにブラックホールが眼前にできている。

 

 重力波の地獄が産声をあげた。凄まじい力で俺たちを引っ張ろうとしてくる。俺たちは必死になって武器にしがみ付く。足が完全に浮かびあがり、全員が逆立ちのような状態になる。誰も彼もSAOで初めて見る攻撃に驚愕しながらも、だが手は離さない!

 

 HPバーを見る。僅かだが減少を開始している。近くにいるだけでこれか! 悪魔かよこの攻撃。巻き込まれたら終わりだ。

 

 確か、重力は……くそ、だから理系は苦手だっつってんだろ。なんでいつも俺の苦手分野で攻撃してくるんだよ。もっと国語とかで来いよ!

 

 隣でサキが俺を見ながら呻く。

 

「重力は、距離の、二乗に……反比例……して、力が、弱まるんだよ!」

 

「こんな、ときに……よく解説できる、な!」

 

「あんたが、知りたそうな……顔してたから、ね!」

 

 俺とサキが軽口を叩きあう。そんなことをしてないと死にそうだ。身体が引き千切られそうで痛すぎる。おい、SAOってあんま痛くないんじゃないの! 茅場の嘘つき!

 

 HPバーがイエローゾーンに突入、そろそろ止まってくれねえの? このままだと死ぬんだけど……!

 

 全員の顔に焦燥。だが武器は放さない、死んでも離さない。あのヒースクリフすら俺たちと同じように苦悶の表情を浮かべている。

 

 遂に重力波が止まる。俺たちの身体が地に落ちる。やっぱり地面っていいよね。地面大好き。思わずキスしたくなっちまう。

 

 全員が即座に回復、地獄の重力攻撃を食らう前に速攻で片をつけてやる!

 

 地龍へ全員で一斉攻撃。

 

 HPバーが一気に削られていき、奴もレッドゾーンへ突入。

 

 地龍が力尽きるように倒れ込む。

 

 これ以上新しい攻撃はやめてくれよと願いつつ、俺とサキが地龍の両サイドへ肉薄。遅れてキリトとアスナ、ヒースクリフもこれに続く。俺とサキが自前の連続攻撃をぶちかましながら攻撃を開始。ヒースクリフが地龍の顔面に盾を叩きつける! 

 

 アスナは顔面に連続攻撃をぶちこみ、キリトが飛翔。地龍の背に剣を突き刺す!

 

「うおおおおおぉぉぉぉぉ!」

 

 普段上げない雄叫びを発し、キリトがそのまま疾走。奴を両断する勢いで走る走る。俺もサキも両サイドを滅多斬りにしていく!

 

 俺たちが尾までたどり着き振り向いたところで、地龍が前足を力なく上げ、再び重力攻撃の構え。もう勘弁してくれ!

 

「キリト! 男ならなんとかしろ!」俺の絶叫

 

「なんとかしてやる!」キリトの頼もしい返事。

 

 キリトが反転して疾走。再び雄叫びを上げて一瞬で地龍の頭まで到達。地龍が腕を握るその寸前、キリトが回転しながら地龍の両腕を切断!

 

 そのままキリトとアスナが渾身の一撃を地龍の鼻面へ向け叩き込む!

 

 地龍が苦悶の表情を浮かべて、遂にその身体が硝子となって砕け散った!

 

 しばしの静寂。

 

 そして、鬨の声が上がった。



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そして、囚人は邪竜と戯れる 6

「それじゃあ、地龍討伐を祝して、乾杯!」

 

 ディアベルの音頭と共に、全員が杯を合わせる。

 

 地龍討伐の後、《アルゲート》に戻った後、一度解散になった。その後、俺たち仲間内だけで集まり、祝勝会を開いたのだ。当然、ユキノも参加している。アルゴも当然参加だ。

 

 集まった場所は当然サキと俺の家だ。もうここなんかの会場になっちゃったの? 俺たちの愛の巣なんだけど。参ったなあ、でもちょっと嬉しい。

 

 早速赤ら顔になったクラインがキリトに絡む。こいつ空気に酔うの本当に早いな。びっくりするわ。

 

「で、キリトよぉ、LAボーナスはどうだったンだよ。仲間内だったら言っても構わねぇだろお?」

 

 キリトが引きつった笑い。どうやらアホほど凶悪な武器らしい。確かに気になる。俺も絡みに行こう。

 

「おう、キリト。キリキリ吐けよ」

 

「そうだよキリト君。絶対に私が貰ったと思ったのに! ずるいよ!」

 

 アスナもぷんぷんと頬を膨らませてる。可愛いじゃねえか。まあ、俺はサキに首っ丈だけどな!

 

 おそるおそる、と言うようにキリトがウインドウを開き、俺たちの前まで滑らせる。全員がそれを見て驚愕。おお、俺の《デスブリンガー》やサキの《ヴァルキュリヤ》まで超えるか。すげえなこれ。

 

 銘は《エリュシデータ》であり、ブラックオパールもかくやの美しい漆黒の剣だった。やはりなかなかの化物性能だ。

 

「ごめんアスナ。レイピアじゃなかった」

 

 キリトが頭を下げる。どうやらレイピアじゃなかったのが相当気になっているらしい。それは仕方がないだろう。

 

 アスナも怒ってはいないようで、微笑みながらキリトの手に自分のそれを重ねていた。愛いねえ愛いねえと、クラインがはやし立てる。

 

「それにしても、ハチマンの計画が見事に嵌ったね。四人が駆け上っていくのはさすがに圧巻だったよ」

 

 今回地味ながらも実は活躍していたらしいディアベルが、俺の肩を叩く。実際俺も余裕がなくてサキたち三人以外を殆ど意識できていなかったのだ。

 

「まあな、二度とやりたくねえ。あれはフィクションだから出来ることだと実感したわ。現実でやる奴はいねえよ」

 

「実際やってたじゃないか」

 

 ディアベルが笑う。うるせえ。今度お前がやってみろよ、と思うがやめておく。口は災いの元だ。

 

「でも良かったわ。あなたたちが全員無事で」

 

 ユキノがやって来る。ディアベルの口が一瞬ひくついた。大丈夫だから、もうあんなことしねえよ。

 

「ディアベルさんも、無事でよかった」

 

 美しい微笑みを湛えてユキノがディアベルに向く。一瞬面食らったディアベルの頬が次第に赤くなっていく。あれ? この反応は……あれかな?

 

 俺はそっとディアベルに近づき耳打ちする。

 

「ユキノは難攻不落だぞ。好きになるなら相当な覚悟をしておけ。だがもし本気なら、相談に乗ってやる」

 

 ディアベルは目だけで頷く。

 

 おいユキノ。お前にももしかしたら春が来るかもしれないぞ。ディアベルはいい奴だ。きっと気が合うと思う。

 

 それから、ディアベルとユキノが仲良く会話を始める。俺はそろそろと抜け出す。邪魔しちゃ悪いしな。

 

 雰囲気にあてられたのか、急にサキに触れたくなって探すと、部屋の隅っこでのんびりと腰を落ち着けている。少し疲れたのだろうか。

 

「サキ、大丈夫か?」

 

「ん、大丈夫。ちょっとここからみんなを眺めていたくてね」

 

 優しい眼差しでリビングを見渡している。

 

 ディアベルとユキノが楽しそうに会話をし、キリトとアスナ、アルゴにクライン、エギルが馬鹿馬鹿しい会話を繰り広げている。

 

 賑やかで、楽しい空気が部屋の中に広がっている。まるで楽しさが身体に満ち溢れるようで、幸せだった。

 

「仲間っていいね」

 

 サキが愛おしそうに言う。俺もそれに頷いて返す。

 

 かつてぼっちだった俺たちが、こうして多くの仲間と一緒に杯を交し合っている。何度行ってもこの幸せは慣れそうにない。心が浮ついて、サキの手を握る。サキも握り返してきて、我慢できずに触れるだけのキスをした。

 

 ちゃっかりと見ていたユキノが、微笑んでウインクしてくる。俺たちも軽く手を振ってやる。あいつも楽しそうだ。ディアベルを気に入ったのだろうか。もしそうなら、俺は嬉しく思う。

 

 俺たちが好きなやつらが好き同士になるのは、とても喜ばしいことだ。

 

「ユキノ、ディアベルに惚れるかな?」

 

 サキが俺の肩に頭を預けて言う。

 

「さてな。分からんけど、そうなれば良いと思う」

 

「そうだね。ディアベルもユキノも、あたしは好きだな」

 

「俺もだ」

 

 サキもこうやって感情を表に出すことが多くなった。たぶん、俺もだろう。

 

 ふと、俺たちの前に影がさした。

 

「おう、二人きりのところ悪いが邪魔させてくれ」

 

 エギルが疲れた顔でやってきた。どうしたんだと訊くと、

 

「あいつら若すぎる。あのノリはちっとばっか疲れたよ」

 

 俺の隣にどさりと座ったエギルが、大人らしい苦笑を浮かべて言う。

 

 俺もサキも笑った。エギルなら邪魔じゃない。

 

「気にすんな。俺もサキもお前となら話したいしな」

 

「悪いな。お前達は普段大人らしい対応してくれるから、オレも結構楽に話せるんだよ」

 

「たまにハチマンがまぜっかえすけどね」

 

 サキも会話に加わり笑いを誘う。

 

「にしても、ようやくここまで来たな」とエギル。

 

「あとはフロアボスだ。さすがに出ないわけにはいかないが、戦いたくねえ」俺がぼやく。

 

「ほんとにね。きっとあいつらより強いんだろ」サキも少しげんなり顔だ。

 

 三人でため息が揃う。面白くて三人で笑う。なんか大人の雰囲気だ。エギルが混じるだけでこんな感じになるんだな。

 

 お、とエギルがあることに気づく。どうやらディアベルとユキノを見ているようだ。相変わらずユキノは楽しそうにしていて、ディアベルは時折顔が赤くなっているが、やはりこちらも嬉しそうだ。

 

「あいつら、良い雰囲気だな。青春を感じるよ」

 

 エギルが昔を思い出すように言う。

 

「俺からすれば、姉を嫁に出す気分だがな」

 

「あたしも、姉を嫁に出す気分だよ」

 

 俺たちの言葉にエギルが笑う。

 

「おまえらはユキノさんの姉弟かよ」

 

 まったくだ。なんだか最近そんな感じなのだから仕方がない。友人、というよりは親友を飛び越えている気がする。なんなら姉弟でも良い。ユキノも丸くなったし、良い奴だしな。

 

「なあ、お前らは絶対に生き残れよ。いや、ここにいる全員もそうだ」

 

 エギルが真面目な顔をして言う。

 

「本当はオレたち大人が前に出てやらなきゃならないことを、お前達に押し付けている。オレもなんとか食らいついてはいるが、いつか限界が来るかもしれない。そうしたら、お前たちと肩を並べて戦うことができなくなるかもしれない」

 

 エギルがつらそうに言う。俺もサキもエギルの言葉を聞き、少し泣きそうになる。

 

 お前が責任を感じるなんて必要は無い。これは出来る者がやればいい。大人だから、子どもだからではないのだ。そう言いたいのに、エギルの声がそれを止める。

 

「だから、お願いだ。無茶をするな。決して死んだりするな。俺も生きる。だからお前達も生きて、生きて……」

 

 嗚咽するようにエギルが願いを口にする。

 

「どうか、現実で会おう。オレはお前たちと出会えたこの奇跡に感謝する」

 

 俺は頷く。サキは泣いていた。

 

「ああ、必ず。現実で会おう、エギル」

 

「あたしも……エギルと会うために死なないよ」

 

 ああ、ああ、とエギルが泣いて俺たちを抱きしめる。大人の力強い抱擁が俺たちを包み込む。やっぱり、エギルが居ると安心する。こいつと知り合いになれてよかった。

 

 だからここに集う全員と出会えた奇跡に、いまは感謝を捧げよう。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 地龍討伐から、攻略組は勢いを増して火山地帯である迷宮区を攻略していった。まさかの僅か二日という期間で五十層という難所を進めていき、遂にボス部屋の前まで到達した。

 

 さすがに偵察もすぐには行わず、会議に会議を重ねて行われることとなる。その間、アルゴ率いる情報部隊がフィールドへ展開し、再度情報を収集。他の攻略組の面々は、己の力を高めるためにひたすらレベル上げに邁進していった。

 

 皆が皆、二度目のクォーターポイントでのボス戦攻略のために動き出している中、俺たちは……。

 

「ハチぃぃいいい!」

 

 キリトの怒号が響く。黒剣《エリュシデータ》が勢いよく縦に振りぬかれた。俺はそれを真正面に受けずに斜めに受け、攻撃を流す。流れたキリトの身体に《デスブリンガー》を滑りこませるが、驚異的な反射神経でキリトがこれを避ける。

 

 左からの横薙ぎ。両の首筋へと流れた三連撃をすべて流し、俺は一度体勢を立て直す。こいつもできるようになってきたなあ。

 

 そんなことを思いつつ、案の定突進してきたキリトの突きを半身で避ける。遠心力を加えた一撃を首筋へぶち込むが、それをキリトが背に回した剣で受け止めやがる。あっれー、クラインには通用したんだけどなあ。だめじゃねえか龍巻閃。

 

 筋力パラメータを全開にしたキリトが短剣を弾き、振り向きざま剣で足を払う。予想していた俺は攻撃を悠々と跳んでかわし、頭上からキリトの頭部を狙う!

 

 と見せかけて屈んでからの腹部への突きへと移行。

 

 さすがにキリトもそれは読めなかったか、剣を上段に備えた状態で止まっていた。

 

 俺の短剣が既にキリトの腹に刺さっていたのだ。

 

「よし、これで俺の十連勝だな」

 

 短剣を抜いて軽く投げる。くるくると回って落ちるそれを俺は掴んだ。

 

 キリトが剣を地面に刺して膝を着く。悔しそうに地面に拳を打ちつけていた。

 

 そう、今日俺たちは対人戦闘の訓練を朝から行っていたのだ。俺たちだけではない、背後ではサキとエギルが互いに武器を打ちつけ合っている。以前は一方的だった試合も、今日はエギルもそこそこ頑張っているようだ。特に、サキの三連突きの初撃を避けたのは驚いた。まあ、二撃目は貰ってたけど。頑張れエギル!

 

 更に端ではディアベルとクラインが次の出番を待っていた。アスナはギルドの用事があると言って、残念なことに来ていない。最近あいつも急がしそうだな。やっぱソロ最強だな。なにも縛りがないから楽だし。

 

「な、なんで勝てないんだ……」

 

 キリトが呟くように嘆く。さすがに十連敗は応えたのだろう。俺もそろそろアドバイスくらいしても良さそうか。

 

「お前は反射神経に頼りすぎなんだよ。だから奇策で来られるとすぐにつまずく。もちっと考えろ」

 

「考えるって、何を?」

 

「相手の動きだ。ここはゲームだが、基本的に物理法則を反していない。なら、人間の身体の動きもこれに縛られるわけだ。関節の稼動域、体勢とか。あとは敵の心理状態だな。どう動こうとしているのか、何をしようとしているのか。これらは必ず身体の初動に出るから、見極めて反応する。ここら辺を考えて、あとはひたすら肉体の詰め将棋だ」

 

 どこかで読んだ漫画の知識をひけらかす。あの剣鬼格好良いよなあ。単分子刀とか俺も欲しい。超斬れそう。

 

 なるほど、とキリトは呟いている。なまじ剣道をかじり、反射神経が良すぎるため思考するということがなかったのだろう。いい機会だ。よく考えるといい。

 

 そろそろ交代だとキリトへ伝え、俺は修練場の隅へ行く。なぜだろう、すみっこにいるとすごく安心できるんだ。ぼっちの名残かな。

 

 代わりにディアベルとクラインが出てきて二人が対峙する。

 

 キリトと並んでふたりの対決を観戦。俺は途中から疲れてきて、空をぼんやりと眺めていた。

 

 対決が終わったのか、隣にサキがやって来る。エギルは死にそうな顔をしているが、その顔はどこか晴れやかだった。良い成果があったのだろう。

 

「そっちはどうだった?」

 

 サキが俺とキリトに訊いてくる。息がまったく上がっていない。さすがだなサキ。

 

「俺の十連敗……」

 

 俺の代わりにキリトが答える。声は落ち込んでいたが、未来に通じるような声でもあった。サキが口許に笑みを浮かべる。

 

「収穫はあったみたいだね」

 

「まあね。ハチの説教で俺が考え無しだってことがよくわかった」

 

 あれ説教なのか……。諭してたつもりなんだけどなあ。最近の若者はよく分からん。

 

「あんたも随分と立派になったねえ」

 

 サキが俺の脇腹を指で突いてくる。ちょ、そこくすぐったいからやめて!

 

「ここに来て二日目からほぼ毎日お前とやってるからな。そりゃ色々考えるだろ。負けたくねえし」

 

「それもそうだね」

 

 サキが昔を想起するように表情を和らげる。

 

 で、と俺はエギルを見る。

 

「そっちはどうだ?」

 

「多少進歩したぜ」

 

 エギルがサムズアップ。そいつはよかった。下手に落ち込まなきゃなんでもいい。技術もそうだが、要は自信がつけられればいいのだ。

 

 五十層のボスなんぞ軽く捻ってやるという自信が、きっとなによりも必要だ。それにはレベルだけでは足りない。自分にはこんなことができるんだという、圧倒的な過去の経験と自信が必要だと俺は考えている。

 

 まあ、それでここまで生きてきてるしなあ。

 

 剣戟の音が止む。どうやら一回目の決着が着いたようだ。

 

 そろりと目をやると、ディアベルが項垂れていた。おっと、今回はクラインが勝ったのか。あいつも成長速度速いなあ。やっぱ自力抜刀術がかなり強いらしい。初見で反応できたのは俺とサキとキリト。そして防御できたのは俺だけだったようだ。

 

 よし、俺強い! 自信持っちゃうぞー! 

 

 サキにはフルボッコにされるんだけどね……。

 

「んじゃ、キリト。あたしとやろうか?」

 

 サキがキリトを誘う。キリトは力強く頷いて、ふたりで歩いていく。キリト、頑張れよと心の中で応援しておく。本当は彼女を応援したいが、たまには男同士の友情を優先してもいいだろう。

 

「昨日は変なこと言っちまったな」

 

 エギルが恥ずかしそうに頭を掻いていった。俺は頭を振る。

 

「構わねえよ。あれだ、仲間だしな」

 

 そうか……とエギルが感慨深く呟く。

 

「あのハチマンにそこまで言われるほど、俺も信頼されたってことか?」

 

 ちょっと、そういうこと真顔で言うのやめてくれる! まだそういうの慣れてないの! ハチマン恥ずかしい!

 

「命預けりゃそうなるだろ」

 

 なるべく平然を装って答える。口許は少しにやついてるかもしれない。

 

「ハチマン、何かあったらオレにも相談してくれ。こう見えても大人だからな」

 

 エギルがその厚い胸板に拳を打ち付けて男らしい笑みを浮かべた。

 

 おう、と俺は頷き、ふたりでサキとキリトの試合を見る。ディアベルとクラインは終わったようで、こちらに戻ってきていた。

 

 ふたりも声は出さずにサキとキリトの戦いを見ている。

 

 キリトもどうやら戦闘に思考を混じらせたようだ。いままでのような感覚から出される攻撃はまだあるが、随所に思考を費やした跡が見受けられる。サキもちょっと苦戦しているようだ。長い間打ち合っていたが、結局サキの虚実を交えた連撃によってキリトは敗れた。

 

 しかし、落ち込んではおらず、何かを垣間見たような男らしい笑みを浮かべていた。

 

 さて、俺も随分と休んだし、誰かとやるかね。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 一体幾度目というのか、《アルゲート》会議場で、攻略会議が行われることとなった。当然議題は五十層フロアボスについてだ。

 

 もはや恒例となったディアベルの挨拶の後、ガイドブックに沿って議題を進めていく。

 

「情報部隊と偵察隊からの情報から、今回のフロアボスは邪龍《フイヤン・ロン》であることが判明した。地龍を越えるほどの巨大な龍で、見た目は八つの目が特徴のようだ。基本的に炎による攻撃が主体なようだが、あまりにも強力な攻撃すぎて、殆ど偵察が出来ていない状態だ!」

 

 会議場がざわめく。偵察部隊がろくに偵察できない。それ程に今回のフロアボスが強力であるということだ。俺もさすがに動揺を隠せない。

 

「分かっている情報を整理しよう。まずフロアは火山フィールドで、あちこちに巨大な岩石が転がっている。また、フィールドの端はマグマで囲まれており、恐らくだが落ちると一発でHPがゼロになるはずだ。気をつけよう!

 

 次に《フイヤン・ロン》の攻撃特徴だが、先に話したとおり火炎放射のようなブレスを連射してくるようだ。それだけで殆どHPを削られたようで、これ以上は不明だ」

 

 つまり、当たればほぼ即死の攻撃を連発してくるようだ。マジ行きたくねえ。帰りたいよお。

 

 俺の懊悩など露と知らず、ディアベルが続けていく。

 

「次は情報部隊からの情報だ。やはりブレスは二種類あるようで、ひとつは先に話した通りだ。ふたつめは、ハチマンらが倒した赤龍すらも圧倒するブレスの可能性が高い。情報の詳細はガイドブックを熟読してくれ!」

 

 既に全員ガイドブックを読んでいるのだろう、無言でディアベルに続きを促す。

 

「恐らく、他にも強力な攻撃を仕掛けてくる可能性が高い。HPがレッドゾーンになってからの厄介さは、他の龍で皆経験しているはずだ! みんな、気を引き締めよう!」

 

 ディアベルの一括するような大声で、全員の表情により一層濃い真剣さが灯る。こいつもいい加減慣れてきたよな、こういうの。

 

「では最後に、攻略部隊の編成を行う!」

 

 またぞろいつものように各ギルド長が集まって会議を行う。その間、俺たちにしては珍しく無言を貫いていた。

 

 三十分ほどで編成が終わり、会議は解散となった。

 

 俺は、サキ、キリト、アスナ、エギル、クラインと組むこととなった。ディアベルは《ブレイブ・ウォーリア》を、《風林火山》は副長がそれぞれ率いることになっている。KOBはもちろんヒースクリフだ。

 

 会議も終わり、いつものようにクラインが俺たちの家で飲み会だと騒いでいるところで、ディアベルがやって来た。

 

「ハチマン、ちょっといいかい?」

 

 なんだよ、と言ってふたりで集団から離れる。ちらりとサキを見ると、心配で駆けつけていたユキノから真面目な表情で話しかけられている姿を見つける。

 

 しばらく歩いたところで、ディアベルが立ち止まる。俺は不思議に思って訊く。

 

「で、改まってなんだよ」

 

「今日、少し時間をくれないかい? 大事な相談があるんだ」

 

 いままでに見たことの無い、緊張混じりの固い表情で言われ、俺は頷くことしかできない。一体どうしたというのか。なんか嫌な予感しかしないぞ。

 

 どうやらサキもユキノから時間を作って欲しいと言われたようで、今回の祭りはそれぞれで行うこととなった。キリトとアスナも今日はふたりで消えるようだ。悲しそうなクラインをエギルとアルゴが慰めている。悪いな、たまにはこういうのもいいだろう。

 

 ディアベルと一緒に《アルゲート》を歩く。どこに行くのかと思いきや、そのままディアベルが住んでいる部屋まで連れて行かれた。え、なに? まさか俺、襲われる? やだ、海老名さんが喜んじゃう!

 

 という展開になるはずもなく、リビングに通された俺はテーブルを挟んでディアベルと向かい合う。

 

 ウインドウを開いたディアベルが訊いてくる。

 

「なにか飲むかい?」

 

「いや、自前のマッ缶があるからそれにするわ。真剣な話なら、糖分が欲しいし」

 

 これゲームだろ、とディアベルがようやく表情を和らげる。が、すぐに表情が硬くなる。どうやらよほど言いにくいことなのか、会話の切り口を探しているようだ。さっきから口を開いたり閉じたりとなかなかに忙しい。

 

 俺は何も言わず、ストレージからマッ缶を取り出してじっくりと待つ。焦る必要もないだろう。

 

 やがて、ディアベルが口を開いた。

 

「俺は、ユキノさんが好きだ……」

 

 だろうな。予感はしていた。そんな話だろうと。告白の手伝いでもして欲しいとか、なにかユキノが好みそうなものを教えて欲しいだとか、そういうものかと思っていたのだ。

 

 だがこの展開、何かがよくない。大変よろしくない。非常に嫌な予感がする。こういうときの予感は外れないってハチマン知ってる!

 

「おい、ディアベル。その先を言うな。どうせアレなんだろ。だから言ってくれるな」

 

 俺の動揺をよそに、ディアベルが口を開く。

 

「いいから聞いてくれ。真剣なんだ。だから、俺……」

 

 やめろ。お願いだから言わないでくれ。

 

「俺、五十層のフロアボスを倒したら、ユキノさんに告白する!」

 

 言って……しまった。

 

 死亡フラグが立ってしまった。

 

 項垂れそうになる。本気で俯きそうになる。だって、ディアベル死ぬとか考えたくない。

 

 しかし、こいつも本気だ。

 

 恥ずかしそうにしながらも目は凛と光り、表情には真摯が篭っている。ならば、俺もそれ相応に応える必要はある。

 

 まあ、いちいち細かいことを気にしていてもしょうがない。

 

 一度小さく息を吐く。

 

「それで、俺にどうしてほしい?」

 

 ディアベルが首を振る。そうじゃないんだと言って。

 

「ただ、決意表明をしたかったんだ。君にだけには言っておきたかった。男女なのに親友という間柄である君にだけには、絶対に言っておきたかったんだ」

 

 それに、と付け加える。

 

「オレもハチマンとこういう会話をしたかったんだ。オレは君のことを親友だと思っているからね」

 

 ディアベルの言葉が胸を突いた。奥歯を強く噛んで、熱くなった目をそらす。こいつ……嬉しいことを言ってくれやがるな。まったく、泣いちゃうぞ俺。

 

「まあ、あれだ、俺も……そんな感じだ」

 

 あはは、とディアベルが笑う。緊張の解けた自然な笑みだ。

 

「まったく、ハチマンは捻デレだなあ」

 

「だからそれ言うなって。小町思い出して泣くぞ!」

 

 ったく、調子に乗りやがって。まあ、話を戻そう。ユキノのことだったな。

 

「本気だってのは分かった。だが、あいつはまあ……ちと家庭が特殊でな。結構難しい」

 

 ディアベルが首肯する。

 

「聞いているよ。雪ノ下建設の令嬢なんだってね。聞いたときは驚いたよ」

 

 ユキノのやつ、そこまで話したのか。随分と心を許しているな。これは意外と脈ありかもしれないな。

 

「それもあるが、もうひとつ。上に姉がいてな、これがなかなかの厄介な妹好きで、よく俺にちょっかいかけてきたんだよ。それも攻略しなきゃならんぞ?」

 

「なんとかする。俺は本気だ」

 

 そうか、と俺は呟く。あの人、敵に回したくないなあ。でもディアベルが本気だというなら、俺も全力を尽くそう。

 

「わかったよ。何かあれば言ってくれ、俺も力になる」

 

「ありがとう、ハチマン。ところで、彼女は何が好きなんだい? そこだけは恥ずかしがってなかなか教えてくれなくてね。できれば知っておきたいんだ」

 

 ああ、あいつの好きなものね。ふたつしかないじゃん。

 

「猫」

 

「猫?」

 

「そうだ、あいつは猫大好きフリスキーだ。だから猫に関するグッズをプレゼントすれば喜ぶぞ。あとはパンさんだな。あいつパンさんグッズに情熱を傾けてるからな」

 

「ディスティニーのやつだね。俺も結構好きだよあれ。原作も読んだし」

 

 お、こいつあいつと話合いそうじゃんか。

 

「ならそれを切り口にしろ。まあ、いきなり告白なら関係ないかもしれんが」

 

「いや、参考になったよ。ありがとう」

 

 ディアベルが頭を下げる。こいつは、本当に真っ白な奴だな。もうホワイトとか名乗っちゃっていいんじゃないの?

 

「まあ、サキのときは迷惑かけたみたいだしな。それ込みで、相談にでも話にでも付き合ってやるよ」

 

 ディアベルと俺との会話は一時間以上続いた。俺とユキノの関係を語り、いらないことまで話した気がする。他言はしないと言ってくれてはいたが、ユキノにバレたら俺が殺されそうだ。まあ、いまのあいつならそんなことはしないだろうが。

 

 さて、そろそろ夕食時だ。俺は席を立ち上がる。

 

「俺はそろそろ帰って飯食うが、お前もどうだ?」

 

「いや、止めておくよ。さすがに決戦前夜にお邪魔したくないからね。だからオレは誘ってみるよ」

 

 そうか。格好いいよお前。俺にはなかなか出来なかったことを、こいつはいとも簡単にやろうとしている。いや、違う。少しだが、表情が強張っている。きっと明日のこともユキノのことも、不安で仕方が無いのだろう。誰だって未知は怖い。知らないということは怖いことだから。誰もが未知を探求し、既知へと変えていく。そして世界はできあがっていくのだ。

 

「お前なら大丈夫だ。俺が保障する。ディアベル、お前はいい男だよ」

 

 自然と口にできた。以前の俺なら決して言えない言葉をすんなりと声に出せた。これは俺自身驚いた。だが、ディアベルはもっと驚いたようで、少し目じりに涙が浮かんでいた。

 

「ありがとう。ハチマンにそんな風に言ってもらえて、オレすげえ嬉しい!」

 

 泣くなよ。まだ勝負前なんだから。お前、これから難攻不落の壁にぶち当たるんだぞ。これくらいで泣いてどうする。

 

「んじゃ、俺は行くよ。結果がどうあれ、何かあったら連絡してこい。何もなくても構わないから、またこうして話そう」

 

 それだけ言って、俺はディアベルの家を出た。

 

 夜になった《アルゲート》の街を一人歩く。のんびりと、ディアベルとの会話を思い出しながら。

 

 いつも人と話すたびに思う。俺は成長しているのだろうかと。恋人ができた。孤独体質は改善された。親友ができた。そいつらとなら、心の内を話すこともできるようになった。

 

 ときどき恩師を思い出す。あの国語教師を。あの人に今であったのなら、一体なんと言ってくれるだろうか。

 

 由比ヶ浜のことも思い出す。あいつともユキノのように仲直りをしたい。叶うのなら、彼女が許してくれるのなら、親友となりたい。

 

 なあ小町。お兄ちゃん、頑張ってるぜ。これでも結構成長したんだ。だから、いつまでも泣くのはやめろ。苦しむのはやめろ。ひとりにさせちまうのは申し訳ないが、お前も前を向いて頑張ってくれ。

 

 夜の街を一人で歩く。転移門まであと少しというところで、ユキノと出会った。

 

「あ、あらハチマンくん。ど、どうしたの? こんなところで」

 

 微妙に声が上ずっている。きっと、ディアベルが頑張った結果がここにある。俺は薄く微笑む。ユキノにばれないように。

 

「散歩だよ。ちっと色々と考えたいことあってな。いまから帰るところだ」

 

 そう、とユキノは安心したように息を吐く。緊張しているのだろうか。もしそれがディアベルを意識してのものなら、好意を抱いてのものなら、俺は心からその恋を応援する。

 

 だけど、まだ声には出さない。きっとこいつはサキに相談したのだろう。決戦を明日に控え、もしかしたら死んでしまうかもしれない彼と、もしかしたら何かを伝えるために。

 

 俺もユキノも、かつては孤独で孤高だった。ここに来てから、人間的には弱くなった。人と人との繋がりが強固になったからだ。

 

 でも、それでいい。

 

 人は独りでは生きていけないのだから。

 

「んじゃ、俺は帰るな。お前も気をつけろよ」

 

「ええ、それじゃあ、おやすみなさい」

 

「おう、おやすみ」

 

 ユキノと別れ、俺はそのままの足で転移門から《ラーヴィン》へ移動し、家に帰る。扉を開けるとサキが待っていた。その顔はどうやら心配顔で、家の中を右往左往と動いていた。俺に気づかないほど考え込んでいるようだ。

 

「よう、どうしたよ」

 

「あ、ハチマン、おかえり」

 

「おう、ただいま。ユキノと話してたのか?」

 

 ちょっと困ったように笑って、ややあってサキが頷く。

 

「うん、まあね」

 

「俺もディアベルに呼ばれた」

 

 え? とサキの目が見開く。

 

「もしかして……」

 

「ま、そういうことだな」

 

 俺はソファーにどかりと腰を下ろす。サキも隣に腰掛け、俺の肩に頭を預けてくる。

 

「そっか、そうなんだね」

 

 具体的な言葉はかわさない。ただ、曖昧な言葉の中でも通じるものはある。

 

 恋はすごい。世界をこんなにも色鮮やかにしてくれる。人を感情を昂ぶらせ、幸せに導いてくれている。それを教えてくれたサキには感謝をしている。

 

 さあ、明日は決戦だ。だから今日はずっと、サキと触れ合っていたいと思う。

 

 なあ、ディアベル。お前の恋も、きっと実ると思う。だから勇気をだせ。すべてを振り絞ってユキノに想いを告げろ。そうすれば明るい未来がきっと待っている。



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そして、囚人は邪竜と戯れる 7

 邪龍《フイヤン・ロン》攻略当日朝。

 

 俺とサキは同じベッドの中で抱き合って寝ていた。胸の中ですやすやと眠る愛しいサキの髪を撫でながら、今日のことに想いを馳せる。やましいことはしていない。ただいつもよりちょっとイチャイチャして寝てただけだ。

 

 五十層に来てから長かった。四体の龍に迷宮区を守る地龍。そして、遂にフロアボスたる《フイヤン・ロン》との対決だ。

 

 怖れはある。正直言って逃げ出したい。サキを連れ、誰もいないところでふたりのんびりと過ごしたい。

 

 だが、それだけはできない。現実に帰らなければならない。帰る理由は見つけた。仲間もいる。彼らだけでやらせる訳にはいかない。俺も攻略組のひとりとして、仲間と共にここアインクラッドに住まう人々を助ける責務がある。自覚のあり無しに、きっとそういうものだ。

 

 サキが身じろぐ。

 

 ぼんやりとした瞳が俺を見つめてくる。寝ぼけているのかと思えば、そうではなく、ただ言い知れない不安感に襲われているような瞳だった。

 

「ぎゅってして」

 

 言われるがまま、俺はサキを抱きしめる。柔らかな肢体を壊さないよう、大事に、大切に。

 

「もっと、強く」

 

 少しだけ力を込める。

 

 本当に、サキがいてよかった。サキがいなければ俺はここまでやってこれなかった。理由を見つけられず、ただひとり何かを探すように彷徨っていただけかもしれない。そう思うと、感謝が溢れて止まらない。

 

 せめて、せめてこいつだけでも……。

 

 口に出してしまいそうになって、でも、サキの指がそれを止めた。

 

「言わないで」

 

 サキが薄紅色の睡蓮の笑みを浮かべる。俺の心を捉えて離さない、美しい微笑だ。

 

「あたしはあなたの隣にいる。どんなときも、どこであっても、それが、死ぬときであっても。だからその先は、決して、決して言わないで」

 

 声に出そうとした言葉を飲み込む。サキの決意の重さを知っているから、俺だってそうだから。だから言葉の変わりに唇を重ねた。

 

 サキの甘い吐息。脳が蕩けそうで、長く、長く続ける。

 

「甘えて」

 

 サキの声。耳に馴染む、幸せな音色。

 

「もっと甘えて。あたしに溺れて。あたしもあんたに溺れてるから。だから、ずっと一緒にいよう?」

 

 愛しくてたまらない。ずっとこうしていたい。だけど、時間は誰にでも平等に降り注ぐから、時計の針は無情にも進んでいく。

 

 集合時間一時間前になって、ようやく俺たちはベッドを出た。それぞれに装備を整え、家を出るまでソファーでくっつきあう。

 

 怖れよ去れとばかりに。福音よ来たれりというように。

 

「時間だ」

 

 俺が告げ、手を取る。二人並んで家を出る。

 

 転移門から《アルゲート》へ行き、集合地点である場所へ向かう。

 

 仲間は既に集まっていた。

 

 キリトとアスナが俺たちを見て手を振った。

 

 ディアベルが俺にガッツポーズを向ける。

 

 クラインとエギルがふたりしてサムズアップ。

 

 アルゴも待っていて、ジャンプして笑顔を振り撒く。

 

 ユキノも駆けつけてくれていて、優しく微笑んでくれた。

 

 さあ、覚悟はできた。まだ正直怖くてたまらねえけど、それでもできることはやった。自信だって持っている。なら、あとはすべてをぶつけるだけだ。

 

 俺たちも仲間の下へ向かう。この世界で出来た、大事な宝物のところへ。

 

「ハチ、サキさん、今日はやるぞ!」キリトの力強い言葉。

 

「ハチくん、サキさん、今日もがんばろう!」アスナの元気な声。

 

「ハチマン、昨日はありがとう。サキさんも、今日は必ず勝とう!」ディアベルの本気の言葉。

 

「ハチ、サキさん、今日はお前らだけに頼ンねえからな! 絶対に俺も役に立つからな!」クラインの聞いていて楽しい声。

 

「生きよう! 生きて帰ろう!」エギルの大人らしい笑み。

 

「ハー坊、サキちゃん。みんななら大丈夫だヨ」アルゴの眩しい笑顔。

 

「ふたりとも、どうか無事で。あなたたちの帰還を祈っているわ」ユキノが俺たち二人を抱きしめる。

 

 それぞれの言葉をすべて受け止め、俺は、サキは、仲間たちに向かう。

 

「おう、全員死ぬなよ。勝つぞ」俺が珍しく強い声で言う。

 

「あんたらは死なせないよ。あたしが全力で守ってみせるさ」サキが愛しくも凛々しく言った。

 

 続々と他のギルドメンバーが集まってくる。《聖龍連合》のリンド、《血盟騎士団》ヒースクリフと部隊長の面々、確かマンダトリーと言ったか、そいつも現れる。《風林火山》も来てクラインの下へ集う。《ブレイブ・ウォーリア》が鎧の音を鳴らしながら歩いてくる。

 

 ふいに、俺とサキはユキノに視線を移した。ディアベルの前まで歩いていったユキノが、軽く背伸びした。

 

 そして、淡いキス。

 

「え?」

 

 俺とサキがふたりして真顔で驚く。え、なに? いまそういう雰囲気だっけ? ちょっと結構真面目だったんだけど。なにぶち壊しにしてくれてるのっていうか……

 

 超おめでたいんだけど!

 

「おいサキ、俺いまなら超恥ずかしいこと言えそう」

 

「ハチマンもかい? あたしもいまなら普通の女みたいにキャーキャー言えそうだよ」

 

 当然、他の面子も気づく。キリトとアスナは笑っているし、クラインだって嬉しそうだ。エギルも大人の微笑みを浮かべていて、アルゴもはしゃいでいた。

 

 仲間全員が祝福している中、ディアベルだけが慌てていた。

 

「え? え? あれ? なにがどうなって……?」

 

 ユキノが微笑む。

 

「あなたの帰りを待っているわ。だから、そのときは言葉にしてちょうだい。そのとき、私も声に出して必ず言うから」

 

 だから……。

 

「生きて。生きて帰ってきてディアベル」

 

 一瞬の静寂。

 

 そして、空気が破裂せんばかりの祝福の声が上がる。

 

 おいおい、一応これ決戦前だぜ。なんでわざわざ死亡フラグ立てるのかねえ。なんて思いながらも俺も嬉しくてはしゃぎたくて仕方がない。

 

 だってあのユキノだぜ? あの雪女もかくやと思われたあのユキノが、まさか人前でキスとか考えられねえだろ。しかも昨日相談に乗ったあのディアベルとだ。

 

 まじで昨日なにがあったんだよ。くっそー気になる。気になるなあ。絶対に聞き出してやる。そのためには今日を生き残って、みんなで祝勝会をやる!

 

 よし、腹は括った。楽しいことが待っていると思えば人間頑張れるものだ。

 

 今回のレイドリーダーであるヒースクリフも空気を読んでか何も言わず、ユキノとディアベルたちを微笑ましく眺めていた。あのリンドですら、口許が緩んでいる。そうだ、全員緊張していたのだ。だから、こんな祝福すべき出来事が目の前で起きて、本当はほっとしているのだ。

 

 やっぱすごいなユキノ。おまえ、いま俺たちの世界を変えたんだぜ。

 

 祝福も止む。

 

 ヒースクリフが一歩前に出る。

 

「さあ、諸君。これから我々は邪龍フイヤン・ロンと呼ばれる今までで最大の難敵と相対することになる。戦いは苛烈なものとなるだろう。だが、我々には待っている人々がいる。そのためにもこの勝負、負けるわけにはいかない……!」

 

 ヒースクリフにしては深く、感情の篭った強い口調で皆を鼓舞する。

 

 俺も黙ってヒースクリフの言葉に耳を傾ける。

 

「さあ勇者達よ。参ろうではないか。共にアインクラッドに暮らす皆を解放するために!」

 

 全員が腕を突き上げ怒号する。

 

 俺も口端を吊り上げる。なんだ、なかなか面白いことも言えるじゃねえか。見直したぞヒースクリフ。

 

 ヒースクリフと目があう。やつも意味深な笑みを湛えた。背後には、なんたら部隊のマンダトリーがヒースクリフを見ていた。

 

 ヒースクリフが歩き出す。俺たちもだ。

 

 今回はレイド上限最大まで集めた大人数だ。もはや集団と言ってもいいその威容は、街に住まう住人達や、NPCたちの注目を集める。

 

 プレイヤー達は思い思いに声をかけ、俺たちを応援してくれている。わざわざ下層から来たのであろう奴らまでいた。

 

 サキが手を握ってくる。

 

 俺も握り返す。

 

 そうだ。俺たちは負けるわけにはいかない。

 

 とまあ、そろそろ真面目ぶるのもいいだろう。いい加減無駄口叩いてないと疲れちまうよ。

 

「よしキリト、今日もLAボーナス狙ってブレスへGOだ! 骨はセルフ火葬だ、やったな!」

 

「ハチ、お前は龍の口の中入って体内から攻撃してこいよ。胃酸で溶かされる前にな」

 

 俺とキリトの軽口。もはやこれも恒例か。なんのかんの言って、こういう会話は気分が楽になる。

 

「ふたりとも相変わらずだね。やっぱりふたりはこうでないとね」

 

「これがあたしらの男だよ。まったく参ったもんだよ」

 

 アスナが笑い、サキが呆れている。

 

「まあ、男なんてこんなもンだ。少しは大目にみてやってくンねえか?」

 

「前線を張っているとはいえ、ふたりともまだ年齢的に子どもだからな」

 

 クラインにエギルも会話に加わってくる。

 

 ディアベルはというと、先ほどのことを思い出しているのか、口許がにやついて上の空だ。うわ、こいつ大丈夫か? マジで死ぬぞこのままじゃ。

 

 俺とキリトの目が合う。もはやこいつとも以心伝心だ。俺が顎をディアベルへやり、キリトが頷く。さあ、やっちまおうぜ!

 

「ディアベル、俺の親友たぶらかしたんだ。一発殴らせろ!」

 

 俺が言いがかりをつけながらディアベルへ向かう。キリトは、あろうことか剣抜きやがった! 何考えてんだこいつ! しかも笑ってやがるよ!

 

 しかし、ディアベルは即座に反応。俺のこぶしを首を傾けるだけでかわし、キリトの剣を盾で受け止めた。おおう、どうやら浮かれて動けなくなっているわけではなさそうだ。

 

「おいおい、いきなりすぎだよ二人とも。大丈夫だって。やる気に満ち溢れてるからさ!」

 

 ディアベルが爽やかに笑う。いや、ここ普通は怒るところなんだけどね。やっぱりいい奴だなあ。というか、俺たちが非常識なだけですね……。

 

 俺は拳を下ろし、キリトも剣を鞘に戻す。

 

「あんたたちは……まったく、街中で何やってんのさ」

 

 サキが額に手を当てて疲れたように言う。アスナは苦笑していた。だが、エギルもクラインも分かっているというように強く頷いている。

 

 まあ、所詮男なんざこんなもんだ。

 

 街を越え、フィールドを歩き、迷宮区を登っていく。安全地帯で何度か休憩を挟み、遂に五十層フロアボス――邪龍フイヤン・ロンの部屋の前までたどり着く。

 

 ヒースクリフが前に出て、攻略集団を睥睨する。

 

 全員表情は引き締まり、ヒースクリフの掛け声を待っている。

 

 俺とサキも、手を繋ぎ合って声を待つ。

 

 ヒースクリフが大きく息を吸う。

 

「諸君、時が来た!

 

 戦友諸君!

 

 我々にとっての決戦の時が遂にやって来た!

 

 さあ、我々の力を見せてやろう!

 

 邪龍に我々人間の意地を見せてやろう!

 

 我々の矛は、奴らの鱗を貫くのだと教えてやろう!」

 

 剣を音高く抜いたヒースクリフが、高く掲げて叫んだ。

 

「さあ、諸君、勝利を掴みに行くぞ!」

 

 ヒースクリフが身を翻しボス部屋へ突っ込む。俺たちも声を上げながらそれに続いていく。

 

 内部に入った瞬間、壮絶な熱気が俺たちを襲った。フィールドは岩石地帯。ごつごつとした足場の悪い岩場のうえに、巨大な岩石がゴロゴロと転がっている。遠くではぐつぐつと煮えたぎった何かの音。視界に見え隠れするのは、ゆらゆらと揺れ動く大気と、時折噴水のように噴出するマグマ。

 

 全体としてはおよそ半径五百メートルの円形状のフィールドか。広い。あまりに広い。一体どれだけ敵は巨大だというのだ。

 

 誰もが場に恐れをなしたように動きが止まる。だが、俺たちは行かなければならない。

 

 それぞれの目的のため。

 

 アインクラッドを解放するために……!

 

 全員が足を止めたのは一瞬、されどその刹那に一体どれだけの感情を巡らせたのか。全員が皆硬く引き締まった表情をして突っ込んでいく。

 

「来たぞ!」

 

 誰かが鋭く叫んだ。

 

 視界の遠くに、巨大な影が現れた。

 

 巨体。あまりにも巨大な禍々しい紅の龍。大きさはいかばかりか。身の丈は不明。胴回りはおよそ五メートルはありそうか。

 

 顔面は凶悪の一言。この世すべての邪悪さを詰め込んだような、八つの瞳が四対に並び、鼻からは絶えず炎が漏れている。その巨大な口腔から生える牙はもはや短剣のそれに等しい。角は瞳と同様に八本並び、うねるように曲がっている。全身を硬質な紅い鱗で覆われ背には炎が燃え盛っていた。

 

 くそが、これじゃあ背に乗ってやりたい放題できねえじゃねえか。

 

 視線を集中。

 

 ――《邪龍フイヤン・ロン》

 

その名と共に、HPバーが三本一気に並んだ。

 

 全員が息を呑む。そのあまりの異様さに。そのあまりの威容さに。

 

 その刹那、視界に紅が走った。

 

 なんだ、なにが起こった!?

 

 瞬間後、絶叫がフィールドに響き渡る。

 

「う、わああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 身を引き絞って出されるような慟哭。現代日本社会ではとても聞かないような、壮絶な叫び声。全員の視線が声に集中する。

 

 《聖龍連合》のひとりが、眼前に踊ったフイヤン・ロンの顎に捕らわれていた。HPバーがあり得ない速さで減っていく。

 

 そして、フイヤン・ロンがとても、とても嬉しそうに噛み砕いた。

 

 硝子の結晶が霧散する。

 

 時が止まる。全員の時が凍てつく。

 

 開幕瞬間に――ひとり食われただと――……!

 

 捕食される。ただそれだけの事実に全員が固まった。食われるという原始的な恐怖に、遺伝子に刻み込まれた怖れにただただ固まったのだ。

 

 しかし、その間俺とサキは動いていた。止まれば食われる。仲間たちも動いている。ヒースクリフも続いている。

 

 そうだ、俺たちはあれだけやった。自信がある。絶対に食われてなどやらない!

 

「お前ら動けええええええ!」

 

 エギルの咆哮。

 

「死にてえのかテメエら! いいから動けええええええ!」

 

 クラインの絶叫。

 

「全員――戦闘開始!」

 

 ヒースクリフが通る鋭い声で叫んだ。

 

 全員の時が動く。フイヤン・ロンへ向け殺到を開始。

 

 そうだ、俺たち人間を舐めるんじゃねえ。いまからその鱗に嫌というほど分からせてやるから覚悟しろよこの野郎!

 

 俺とサキが先頭に踊り出る。剣士の癖してそれに併走するヒースクリフ。キリトもアスナも、クラインもディアベルもエギルも、皆続いていく。

 

 初撃。ヒースクリフがフイヤン・ロンの顔面に盾を思い切りぶち込む!

 

 まったく動じないフイヤン・ロン。構いやしねえ。舐めてるならいまの内にぶち込めるだけぶち込んでやる!

 

 俺とサキが一緒に胴体側へ回り連続攻撃。皆が皆胴体へ攻撃をぶち込んでいく。じりじりと削られていくHPバー。

 

 そこで、ようやくフイヤン・ロンの巨体が動いた。

 

 一度身をよじらせると、とぐろを巻くように上半身を上昇。遥か高みから俺たちを見下し、大気を震わす咆哮!

 

 まるでここからが本番だとばかりに、その口腔に炎が灯る。

 

「全員――退避――!」

 

 ヒースクリフの声と共に全員が逃走。岩が邪魔で思うように全員が逃げられない。俺とサキは咄嗟に岩を飛び越えることを選択。

 

 圧倒的な炎が噴出した。炎の帯がフイヤン・ロンの一帯に放射状に広がっていく。その輻射熱だけで身体が焼け焦げそうだ。

 

 あちこちから絶叫が聞こえる。硝子が砕ける音がひとつ。

 

 ――またひとり死んだ……!

 

 もはや心に動じる隙間などなく、俺とサキが岩の上を跳んで炎を迂回していく。止まったらやられる。ここでの静止はもはや死と同義だ。

 

 俺とサキがフイヤン・ロンの下半身側に斬りかかる。もはやスキルなど使っていられない。隙を見せたら殺られる!

 

 フイヤン・ロンの首が曲がり、八つ目が俺たちを視界に捕らえる。

 

 マズイ!

 

 前足が動く。

 

 俺とサキは瞬時に逃亡を選択。瞬間後、俺たちの居た場所に凶悪な前足が墜ちて来た。

 

 強烈な破砕音と共に地面が大きく抉られ、結晶となって砕け散る。フィールドまで壊すのかよ。めちゃくちゃじゃねえかこいつ。

 

 全員が動き回りながら攻撃を再開。もはや他人の動きなど考えていられない。自分達のことだけで精一杯だ。

 

 たかが奴の三撃だけでこの状態だ。ここから奴が本気を出したら一体どうなるというのか。

 

 巨体が動く。もはや龍の常識を覆すように、その巨大な前足を何度も何度も振り下ろされる。俺たちはただただ逃げ惑う。止まれない。止まったら死ぬことが運命付けられているように。

 

 そして斬りかかる。逃げているだけでは勝てない!

 

 口腔に炎が灯る。

 

 火炎ブレスが吐かれる。

 

 視界の半分が炎に覆われる。

 

 悲鳴が轟く。

 

 阿鼻叫喚の地獄絵図が展開される。

 

 またひとり死んだ。

 

 巨体の首がありえない速度で襲い掛かる。

 

 またひとり食われた。

 

 これで四人目だ……!

 

「くそったれがあああああああああああああああああ」

 

 俺は叫びながら斬りかかる。《デスブリンガー》とナイフによる連続攻撃で少しでも奴のHPを削る。サキも甲高い声を上げて《ヴァルキュリヤ》を振り回す。もはや形振りなど構っていられない。

 

 キリトとアスナが視界に現れる。まだあいつらは生きてる!

 

 ふたりが同時に後ろ足を連続して攻撃。

 

 ディアベルもクラインもエギルも見えた!

 

 全員が集い、奴に攻撃を加えていく。

 

 その間、俺たちなど雑魚同然だというように、フイヤン・ロンは前方にいる集団へ向けて攻撃を加え続ける。

 

 いまだ。いましかない。

 

「全員、ソードスキルだ!」

 

 俺の掛け声で、全員が最大威力のソードスキルを発動。エフェクトが七人分発光し、奴の巨体に傷をつけていく。HPバーを削っていく。

 

 奴の頭が俺たちへ向く。

 

「散開!」

 

 即座にディアベルが撤退を指示。

 

 俺たちは思い思いに即時に逃亡。フイヤン・ロンの火炎ブレスが背後から迫る。

 

 くそ、くそ、くそ!

 

 HPバーが恐ろしい速度で削られる。逃げる、逃げる、逃げる。

 

 レッドゾーンまで割り込んだところでようやく攻撃範囲から逃れる。サキも荒い息を吐きながらもまだ隣にいる!

 

 即座に回復結晶で全開。

 

 フイヤン・ロンへと振り返る。奴はもはや俺たちに興味などないように、他の者たちへと攻撃を加えている。

 

 舐めやがって……!

 

 怒りで身体が震える。かつて無いほど俺は怒っている。こんなクソッたれな奴がいままでいたか?

 

 あの野郎、俺たち人間を馬鹿にしやがった!

 

 ふざけんな!

 

 こっちは必死で生きてんだよ!

 

「行くぞサキいいいい!」

 

 疾走。

 

 サキも俺に併走してくれる。

 

 すぐさま奴の巨体まで肉薄。注意が薄れているところへソードスキルを叩き込む。通常攻撃じゃ奴のHPを殆ど削れない。時間をかければ俺たちの集中力が切れ、殺される。

 

 もはや生と死の狭間で、ソードスキルに身を任せ踊るしかない!

 

 攻撃と逃亡。もはや何をやっているのか分からないほど繰り返していく。フイヤン・ロンのただ一発でひとり、またひとりと死んでいく。

 

 仲間たちの姿が見えない。不安でしょうがない。でも少しでも意識を奴から逸らしたら殺される!

 

 ただその恐怖が俺を突き動かす。

 

 そのとき、俺は足の置き場を誤り、コの字型に岩が重った場所に降り立ってしまった。まるで仕組まれたように岩がでかすぎて飛び越えられない。罠に誘い込まれたようにフイヤン・ロンの八つ目が俺を捕らえ、瞬時に俺の前まで首を伸ばす。

 

 俺の眼前でその悪魔の間口を開く。

 

 口腔には見たこともない熱の輝き。白く発光する、二つ目のブレス。

 

 瞬時に視界を走らせる。サキはいない。どこかではぐれた。左右に避けられない。前には邪龍フイヤン・ロン。

 

 逃げ場は……無い。



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そして、囚人は邪竜と戯れる 8

 死を間近にして意識が加速する。奉仕部に入ったあの瞬間から今この時までを一気に映像が駆け巡る。

 

 そうか、俺は走馬灯を見ているのか。

 

 あらゆるすべてがいま、遅く見えている。

 

 まるで俺だけが加速して、すべての時の流れがゆるやかになっているように。

 

 おいおい、なんの魔法だよこれ。

 

 いつから魔法使いになっちゃったんだ?

 

 厨二病は卒業したと思ったんだけどなあ……。

 

 システム音が鳴っていた気がした。

 

 おいおいこのタイミングかよ。

 

 あと数秒で死ぬぞ俺。

 

 ウィンドウの端には、あるスキルが表示されており、習得するかどうかの選択を迫られている。

 

 そのスキルは――《暗殺者》

 

 あのね、こんなタイミングで出されても困るんですよ。分かる? 俺、いま、死ぬの。オーケイ? ていうかまんま俺のあだ名じゃねえか。嫌味かこれ!?

 

 そんなことを考えていてもシステムは勝手に習得させている。たぶん、俺が無意識にYes選択したのだろう。やだ、俺夢遊病?

 

 次々に現れるウインドウ。その透けた背後には、瞬間後には噴射されそうなフイヤン・ロンの白いブレス。

 

 折角の走馬灯中だ。きっといまなら少しくらい内容を見れるだろう。

 

 System message――パッシヴスキル、《サバイバル・ヘイスト》を習得、起動。

 

 System message――アクティブスキル、《インビジブルアサルト》を習得。

 

 何でもいい、この状況を切り抜けられるなら使ってやる!

 

 ウインドウの描かれた動作の通りに俺も身体を動かす。エフェクトが輝き、初めて使用するスキルが発動する。

 

 《インビジブルアサルト》

 

 同時、フイヤン・ロンのブレスが始動。

 

 俺の視界が白く染まる。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「ハチマン!」

 

 あたしは叫んでいた。

 

 あと数十跳躍は離れた場所で、今まさにハチマンが未だ見ぬフイヤン・ロンのブレスの直撃を受けようとしている。

 

 あのハチマンも固まっている。

 

 フイヤン・ロンの両脇には、事態を察知したディアベルとエギルが向かっているが間に合わない。あたしも全力疾走しているのに届かない。

 

 ハチマン、ハチマンハチマンハチマン!

 

 システム音が鳴る。

 

 うるさい! 邪魔だ!

 

 なのにウインドウがあたしの視界を塞ぐ。

 

 邪魔だって言ってんでしょ!

 

 怒りに震えているのに目線が移ってしまい「《戦乙女》のスキルを習得しますか」というメッセージであることを知る。

 

 あたしは無意識に習得を望み、ボタンを押した。

 

 ウインドウが再び現れる。

 

 System message――パッシヴスキル、《神々の威光》を習得、起動。

 

 System message――アクティブスキル、《エインヘリャル》を習得。

 

 ウィンドウに記された動きに導かれるまま、あたしは槍を構えた。

 

 そして――フイヤン・ロンのブレスが放たれる。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 そのとき、ディアベルもエギルも目を疑った。

 

 フイヤン・ロンのブレスは放たれた。まるでレーザーのようなその一撃は周囲を焦土と化し、ふたりを十メートルは吹き飛ばした。輻射熱と衝撃波だけで満タンだったHPが半分は減るほどの威力。ハチマンはその直撃を受けたはずだった。

 

 ハチマンの死を覚悟した。もう彼は帰ってこないのだと、信じたくも無い事実を実感してしまった。

 

 だというのになぜ。

 

 なぜハチマンはフイヤン・ロンの傍に立っているのだ。

 

 馴染みのマフラーをたなびかせ、真紅の短剣を握って悠然と立っている。

 

 そしてなぜ、ハチマンを守るように無数の光り輝く翡翠の槍が浮いているのだ。

 

 槍の一撃を受けた邪龍フイヤン・ロンが、僅かだが硬直している。

 

 一体、何が起きている?

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 あぶねえ。なぜか生きてるよ俺!

 

 超ラッキーだ。なにいまのスキル。一瞬過ぎて殆ど実感が湧かないんだけど。

 

 とりあえずまずは逃走の一手だ。

 

 すぐさま周囲に視線を走らせ、再び異常を察知。フイヤン・ロンへ向かって無数の翡翠の槍が殺到しているのだ。まるで魔法だ。というかあんなんありかよ。卑怯じゃねえか。ソードスキルちゃうやん、と思わずキバオウ語になるほど驚愕。

 

 まあいい、いまの俺も多分似たようなもんだ。

 

 とりあえず槍に注意を向けている間に俺は逃げる。人生逃げるが勝ちというではないか。マジで怖かった。ちょっとちびったかもしれない。ハチマンお家帰りたい!

 

 フイヤン・ロンから離れて近くの岩場へと跳躍。そこでサキが苦悶の表情を浮かべ膝を折っている姿を見つける。

 

「サキ!」

 

 俺の声にサキがすぐさま反応。泣きそうになりながらも自制したか、すぐさま俺に並ぶ。ともかく今は状況把握のためにフイヤン・ロンから少しでも離れたい。

 

「何が起きた」

 

「新しいスキルを習得したみたいだよ!」

 

「偶然だな。俺もだ。それで生きてるっぽい!」

 

 ようやくフイヤン・ロンから大分離れ、岩場の影に隠れる。俺とサキは情報を共有することにする。まずは俺だ。

 

「《暗殺者》のスキルを獲得したらしい。とりあえず、《インビジブルアサルト》っていう瞬間移動を二回しながら攻撃するスキルらしい。しかもその最中無敵らしいな」

 

 超厨二性能だ。さすがに笑っちまうわ。誰だよこんな壊れスキル作ったやつ。茅場じゃねえか!

 

 サキが苦笑い。

 

「呆れた性能だね、あたしのもそうだけど……」

 

 サキが周囲に目をやりながら続ける。

 

「あたしのは《戦乙女》。さっきのは《エインヘリャル》で、ストレージにある槍の数だけ、現在装備している槍を実体化して周囲に展開できるらしいよ。で、さっきみたいに動かせるみたい。かなり思考力使うから頭おかしくなりそうだったけどね」

 

 なるほど、それで膝をついてたのか。そっちもそっちで狂った性能どころか、ソードスキルのなんたるかを超越してやがる。これ作った奴やっぱ馬鹿じゃねえの?

 

 なにはともあれひとまずは。

 

「お互い生きててよかった……」

 

 触れ合うだけのキス。

 

 すぐさま離れて戦線を確認。

 

 未だにフイヤン・ロンは暴れ狂っている。

 

 さっきのレーザーブレスを一分間隔で連射してやがるのだ。ありえねえ。凶悪すぎるだろ。

 

 サキと顔を見合わせる。互いに頷きあい、移動を開始する。

 

 俺のパッシヴスキル《サバイバル・ヘイスト》が勝手に起動。一秒ごとに速力と跳躍力が上がり、十秒後に最大値二.五倍になる狂ったスキルだ。敵から一撃をもらうと効力は初期値に戻るが、それまでは持続するなんともサバイバルなスキル。

 

 さすがに全力を出すとサキを置いていってしまうため、意図的に速度を抑えてサキと併走。

 

 フイヤン・ロンの下半身へと到達。そこにはディアベルとエギル、クラインにキリトとアスナが武器を振るっていた。

 

「悪い! 待たせた!」

 

 一言だけ言って俺も攻撃を開始。ひとまずさっきのスキルは使い勝手がよく分からないから一時封印。使い慣れたスキルを使用する。

 

「心配させやがって!」

 

 エギルが泣きそうになりながらもスキルをぶち込む。

 

「話は後だ! 来るぞ!」

 

 ディアベルが叫ぶ。

 

 フイヤン・ロンが、まるで探していたかのように八つ目の狂眼を俺へと向ける。奴の首が急激に伸びる。さすがに俺も反応できない速度。

 

 巨大な大顎が開き、俺をまさに噛み砕かんと襲い掛かる!

 

「やらせるかあああああああああああああ!」

 

 寸前、ディアベルがフイヤン・ロンと俺との間に踊りでる。

 

 おい、なにやってやがる!

 

 フイヤン・ロンがディアベルを大顎に捕らえ攫っていく。

 

 おい、ふざけんな! なんでディアベルを食いやがる! 

 

 待て、待て、待て待て待て待て待ちやがれ!

 

「うるうううおおおおおおおおおおおおお!」

 

 ディアベルの怒号。

 

 死ぬな、死ぬな、死ぬな死ぬな死ぬな!

 

 お前にはユキノがいるんだよ!

 

 あいつを泣かせるな!

 

 俺たちを悲しませるな!

 

 泣きそうになりながら視線を集中させてディアベルのHPバーを見る。

 

 減っている。

 

 じりじりとあいつの命が減っていく……!

 

 頼むよ神様。

 

 あいつだけは殺さないでくれ――!

 

 

 

 ……。

 

 

 

 ふいに、違和感に気づく。

 

 HPの減少が遅い。初見で見たときよりも遥かに遅い。

 

 なぜだ?

 

 俺は動揺を殺してフイヤン・ロンの頭を追う。サキも併走。全員もこれに続く。

 

 フイヤン・ロンの頭部を正面に捉えるところまで行く。驚いた。ディアベルが両手両足でフイヤン・ロンの噛み砕きを阻止しているではないか。

 

 あの野郎!

 

「ぐおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 ディアベルの怒声が響く。フイヤン・ロンの大顎が閉じていくのを全力で凌いでいるのだ。

 

 早くなんとかしないとディアベルが持たない……!

 

「サキ!」

 

 すぐさまサキが俺の意図を察知。その場に立ち止まり意識を集中するかのように石鎚を地面に叩きつける。

 

 フイヤン・ロンの頭部はもはや俺たちが届く距離ではないほどの高さまで上昇している。ならば、もはや頼れるのはサキの新たなスキル《エンヘリャル》だけだ。

 

 サキの周囲に都合十二本の翡翠の槍が具現化される。それらすべてが一糸乱れぬ統率を取って、フイヤン・ロンの狂眼へと殺到!

 

 フイヤン・ロンもこれには堪らずディアベルを吐き出し首を逸らす。ディアベルの身体が宙に放り投げられる。現在のHPを見てもこのまま激突するだけでディアベルが死ぬ!

 

 速度MAXの《サバイバル・ヘイスト》の力を受け、俺が風となって疾走!

 

 尋常ではない速さで岩場を駆け抜け、ディアベルの身体を受け止める。ディアベルと共に地面を数メートル転がる。止まると同時、用意していた回復結晶を使用する。

 

「この馬鹿野郎! なにやってんだよテメエ!」

 

 起き上がったディアベルに怒声を浴びせる。

 

「ユキノを泣かせる気か!? テメエ何様のつもりだ!」

 

 ディアベルが苦笑する。本当に、こんな戦場で俺たちは何をやっているのだと自分でも思う。なのに感情が止まらない。止められないのだ。

 

「死ぬと思ったぞ。マジで死ぬかと思って怖かったぞ。頼むからやめてくれよ!」

 

「おいおい、言いたい放題だな。オレだってさっきそう思ったんだから、おあいこにしてくれよ」

 

 ディアベルが言う。さっきの攻防で気力をかなり使ったのか、ディアベルは剣を支えにして立ち上がる。

 

「……悪い」

 

 俺もそろそろ限界だ。

 

 いくら新しいスキルを手に入れようが、こうも死を間近にして戦い続けていると神経が限界を迎えてくる。

 

 憎き邪龍フイヤン・ロンのHPバーを見る。

 

 遂にHPバーは三本目に到達。レッドゾーンまであと僅か。

 

「ここがふんばりどころだね」

 

 ディアベルが拳を突き出す。意図を悟って俺も拳を突き出して叩きつける。

 

「倒すぞ。生きて帰る」

 

「だな、ユキノさんに告白しないといけないし」

 

 だからそうやって死亡フラグ乱立させるのやめてね! ホント心配したんだからね!

 

 俺とディアベルが奴に向かって走る。

 

 俺は《サバイバル・ヘイスト》を全開にして全力疾走。もはや使い勝手がどうのなど言っていられない。もう全力で殺す。生き返っても殺す。地獄の果てまで殺し続けてやる!

 

 ブレスを吐いた直後、フイヤン・ロンが俺に気づく。どうも俺を意識してやがるのか、再び大顎を開いて俺に襲い掛かってくる。

 

 しかし、二度目の攻撃だ。そんなものは――

 

「読めてんだよ蛇野郎!」

 

 《インビジブルアサルト》を発動。視界が白く染まり、フイヤン・ロンの大顎を斜めに斬り裂く!

 

 一撃目。

 

 瞬時に方向転換し、首を真っ二つにする向きへ切り変え、更に二撃目!

 

 フイヤン・ロンが苦痛の雄叫びを上げる。

 

 HPバーがレッドゾーンに割り込む。

 

 全員が警戒する。

 

 フイヤン・ロンが上体を起こし咆哮。やはり今回も八本の角が紅色に発光。ちったあ変えろよ。他に思いつかねえのかよ!

 

 突如、視界に赤が混じり始めた。まるで小さな炎が横殴りの雨となったような、そんな錯覚。フィールド全体に焔の霧が吹き荒れ狂う。

 

 反射的にHPバーを見る。見る見るうちにHPが減っていく。目算で約二分後にはHPゼロだ。

 

 おいおいおい、ふざけんなよ!

 

 超絶範囲攻撃かよ!

 

 しかも逃げ場無しとか馬鹿にしてんのか!

 

 手持ち結晶はもう無い。高いんだよあれ!

 

 残りPOTを飲みつつフイヤン・ロンへ向かう。

 

 キリトとクライン、アスナもこれに加わる。ディアベルはさすがに力尽きたか、剣を地面に刺して膝をついたまま。エギルも疲労困憊というように座り込んでいる。サキは《エインヘリャル》により神経をすり減らしすぎたか、肩で息をしながら岩に背を預けてこちらを見ている。

 

 ――あとは任せたよ。

 

 そんな声が聞こえた気がした。

 

 ――任せろ。

 

 そう心で返して進む。残り一分三十秒。他の連中も似たりよったりだろう。

 

 ならば進むしか未来は無い!

 

 フイヤン・ロンが俺たちに気づく。大顎を開いて急速接近しつつ口腔に炎。

 

 全員が驚愕。俺だけなら逃げられるが、後ろの三人は確実に食らう。

 

 やばい、やばいやばいやばい。

 

 一瞬の逡巡の間、割り込んできたのはヒースクリフだ。盾を思い切りフイヤン・ロンへ叩きつけ、大顎を塞ぐ。さすがにすぐには止まらないが、土埃を上げながらヒースクリフがフイヤン・ロンに押されながらも、遂に動きが奴の止まる。まさか人ひとりで龍の突進を止めやがるとは、ふざけた防御力だ。

 

「こちらは任せろ! 君たちは攻撃を!」

 

 ヒースクリフが俺たちにすべてを託す。

 

「全力攻撃だ!」

 

 俺が叫ぶ!

 

 俺が、キリトが、アスナが、クラインが、最強のソードスキルをフイヤン・ロンへぶち込む。そして遂に、フイヤン・ロンのHPバーがゼロになった。

 

 壮絶な断末魔を上げて、フイヤン・ロンの身体に亀裂が走る。

 

 焔の霧が止んだ。

 

 終わった……と思った刹那――

 

 フイヤン・ロンが死力を尽くした最後の炎を俺に向かって吐き出さんと動く。

 

 俺のHPはあと僅か。

 

 かすりでもすれば殺される。

 

 気が緩んで足が動かない。

 

 終わってしまう――

 

 

 

「ハチは殺させねえよ」

 

 

 

 クラインの抜刀。神速にまで達した抜刀術が、龍の顎を真っ二つに切断する!

 

 邪龍フイヤン・ロンの最後の攻撃はクラインに阻まれ、その巨体が硝子となって砕け散った。

 

 終わった……のか?

 

 俺は呆然と立ち竦む。

 

「終わったンだな……」

 

 クラインがどさりと地面に座り込んだ。

 

「終わったな」

 

 俺の肩を叩いたのはキリトだった。さすがにキリトも疲労で立っているのもやっとな状態のようだ。

 

 その傍に、アスナが座り込んで声も出せない様子だ。

 

 疲れた。本当に、疲れた。何度死ぬかと思ったか分からない。ディアベルにも、クラインにも命を救われた。幾度仲間を失う羽目になるかと想像したか分からない。

 

 だがようやく、俺たちの仲間は全員生き残って《邪龍フイヤン・ロン》を攻略した。それでも、一体何人死んだ……?

 

 ヒースクリフが近づいてくる。さすがに奴も表情には疲労感が滲み出ていた。

 

「被害数は十二人だ」

 

 喉の奥で唸った。そんなに死んだのか……。

 

 被害は主に《聖龍連合》に多かったようだ。なんとか《ブレイブ・ウォーリア》、《風林火山》は奇跡的に犠牲者はゼロ。

 

 だからといって、素直に喜ぶ気は起きない。

 

 まだ半分だ。あと五十層ある。

 

 これを幾度繰り返せばいい。何度人の死に耐えればいい。いつ、仲間が死ぬか分からない。気が狂いそうだ。

 

 ふと、俺の背中に柔らかい温もりが触れる。

 

「ハチマン、大丈夫だよ」

 

 サキだった。重い身体を起こして俺のために来てくれたのだ。

 

「大丈夫、ハチマンは頑張ったよ。あんたの責任じゃない」

 

「別に、俺の責任とかそんなんじゃねえよ。ただ、これがあと五十回も続くと思うとな……」

 

 クォーターポイントだから強い、というのも正直俺は信用していない。実は五十階以上はすべて鬼畜難易度でした~とか言われても納得してしまう。

 

 でもまあ、いまは考えるのをやめる。

 

 せめていまだけは、サキの温もりだけを感じていたい。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 俺たちは帰ってきた。再び俺とサキの家に。

 

 こうして帰ってこられることが不思議なくらい凶悪なボスだった。被害者も多かった。なにより、精神的な疲労感が半端ではなかった。誰も彼も祝勝会という雰囲気にはならず、《アルゲート》まで戻ったあと、すぐさま解散となった。

 

 俺とサキは、帰った途端にすぐにベッドに倒れこみ、ふたりして泥のように眠った。

 

 翌日、一時間あまり二人で抱き合ってたのは、さすがに友人たちにも秘密だ。

 

 さて、時刻は午後一時。

 

 世間様は昼食を終えただろう時間に、俺たちは集まっていた。場所は当然俺とサキの家だ。うん、まあ、いいよもう。慣れたし。

 

 いつものメンバーが杯を持ち、なぜか全員俺を見ている。だからなんでいつも俺を見るの? いいじゃんかディアベルでさあ。

 

 まあ、今回の主賓はある意味でディアベルなのだから、見逃してやろう。

 

「とりあえず、フロアボス戦お疲れ様。かなり死ぬ思いっていうか、何回かマジで死に掛けたけど、みんな生きて戻ってこれてよかった。んじゃ、乾杯」

 

 全員が杯を合わせる。思い思いに雑談を開始するかと思いきや、今度は視線がディアベルとユキノへ向けられる。あれだ、昨日はそんな雰囲気ではなかったし、こうして場を設けてやったのだ。というより、ユキノからの依頼だった。

 

「ほれ、ディアベル前に出ろ」

 

 クラインがディアベルの背を押す。

 

「ユキノちゃんも出ろヨ」

 

 アルゴもユキノを前に押し出す。

 

 ふたりに全員の視線が集まる。ディアベルが赤くなる。ユキノもほんのりと頬を染めているが、彼女らしく瞳は凛としている。

 

「昨日の続きをしましょう」

 

 ユキノが言った。

 

「それなりに覚悟をしてああしたのだから。男らしいところを見せてちょうだい」

 

 ディアベルが一瞬面食らい、だがすぐに彼らしい表情に戻る。

 

 軽く息を吸ったディアベルが、想いを言の葉に込めて、告げる。

 

「ユキノさん。オレは君が好きだ」

 

 ユキノが微笑んだ。今まで見てきた何よりも美しいと感じる微笑。

 

「ええ、ありがとう。私もあなたが好きよ、ディアベル」

 

 だから、とユキノが続けた。

 

「あなたもしてちょうだい。昨日、私があなたにしたように」

 

 そう言って、ユキノが瞳を閉じる。ディアベルが硬直し、でもすぐにそれを解いて一歩前に出た。彼女の両肩を掴んでゆっくりと顔を近づけていく。

 

 そして、見るものを幸せにするような、淡い口付け。

 

 ふたりが離れ、恥ずかしそうに笑う。

 

 ややあって――

 

「いよっしゃああああああ!」

 

 切り裂くようなクラインの声。俺も人知れず「うっし」と拳を握っていた。サキはアスナやアルゴと一緒にきゃーきゃー言っている。エギルも嬉しそうに拍手している。キリトも珍しいにやけ面を晒していた。

 

 しかしあれだ、まじで姉を嫁に出す弟みたいな気分だ。ハチマンちょっと泣いちゃうよ。

 

 そろそろと隅っこへ行く。サキはどうやら興奮が続いているようで、珍しく女性陣とはしゃいでいる。そんなときもいいだろう。

 

 クラインはキリトと一緒にディアベルに絡んでいる。ユキノはずっと幸せそうだ。

 

「よかったな」

 

 エギルが俺の隣に腰を下ろす。

 

「おう、結婚式の時はディアベルを殴りに行かないとな」

 

「だからお前はユキノさんの父親か兄か弟かはっきりしろ」

 

 呆れ顔をしながらも、エギルの口許は緩んでいる。

 

「それより、昨日はサンキューな。なんか助けに来ようとしてくれたみたいでよ。色々と、なんだ、心配かけた……すまん」

 

「生きていればなんでもいいさ。大人が何を言っても、子どもは無茶をするものだしな」

 

 俺の頭にエギルの手が乗る。大きい、まるで父親のような手だ。

 

 ところで、とエギルが話を変える。

 

「結局、ハチマンはどうやってあのブレスを避けたんだ? あれだけは未だに分からない」

 

「あれだ、あとでみんなに話すが……新しいスキルを獲得した」

 

「というと、サキさんもか?」

 

「だな。俺が《暗殺者》、サキが《戦乙女》だ」

 

 エギルが考えこんでいるように一度黙る。

 

「ふたつ名と一緒だな」

 

「まったく恥ずかしい限りだ」

 

 ようやくあらかた祝いが終わったか、今度は俺とサキへと視線が向く。みな考えていることはエギルと同じだろう。

 

 俺が立ち上がり、サキが傍に寄ってくる。

 

「まあ、なんだ。あれだろ。聞きたいのは俺たちのスキルだろ?」

 

 俺の言葉に皆が一斉に頷く。ユキノとアルゴは、実際に見ていないから首を傾げていた。

 

「なんか面倒だから秘密にしておいてくれると助かるが、《暗殺者》のスキルを発現したらしい。で、昨日使ったのが《インビジブルアサルト》っつーやつだ。二回瞬間移動しながらぶった斬るスキルらしい。しかもその間は無敵付きのアホ性能だ」

 

 全員が驚く。そりゃそうだ。俺も驚いている。なんだよこの性能。朝起きて夢だったのかなーとスキルウインドウを開いたときはそりゃ驚いた。なんで暗殺者なんだよ。ちょっと格好いいとか思っちまったじゃねえか。厨二病は卒業したはずなのに!

 

 サキも俺の発言に続ける。

 

「あたしのは《戦乙女》。で、あの槍は《エインヘリャル》っていうらしいよ。ストレージにある槍の数だけ装備している槍を出して、自在に動かせるみたい。あと、《神々の威光》ってパッシブスキルもあるかな。全ソードスキルに確率的に発生させるスタン機能が追加されるみたい」

 

 おっと、後半は俺も聞いていない。それやべえな。下手すれば一方的に敵をたこ殴りにできるじゃねえか。俺、今後サキに勝てる自信が無くなってきたよ。

 

 そういや、《サバイバル・ヘイスト》のことは話してないな。面倒だからいっか!

 

「おめえら、やっぱすげえじゃねえか!」

 

 クラインが自分のことのように歓喜に震えている。キリトもアスナも驚いたようだ。アルゴは情報屋らしく目が輝いてウインドウを開いていた。ちょっと、その情報お願いだからバラさないでね! かなり面倒なことになりそうだから!

 

 それよりも、俺もクラインには言いたいことがある。

 

「クライン、昨日は疲れて言えなかったが。最後サンキューな。マジで死ぬかと思ったわ。やっぱすげえよお前の自前抜刀術」

 

 へっ、とクラインが恥ずかしそうに鼻を鳴らす。その表情は緩んでいる。

 

「おめえらが鍛えてくれたお陰さ。あれくらいは当然だ!」

 

 それと、と俺はディアベルを見る。

 

「ディアベルもありがとな。助かったよ。あの時は怒鳴ったりして悪かった」

 

 幸せいっぱいのディアベルが片手を上げて、頭を下げかけた俺の謝罪を止める。

 

「謝らないでくれよ。俺もあのときは無我夢中だったからね。それに、ハチマンでもきっと同じことするだろう? だからおあいこって奴だよ」

 

 んなことねえって。みんな俺を買いかぶり過ぎだっての。でもまあ、こいつらが死にそうにな目にあったそのときは、確かに身体が勝手に動くかもしれねえな。

 

 ふいに、アルゴが発言を差し込む。

 

「やっぱりスキル名鑑には載って無いネ。ハチマンとサキだけのスキルだヨ! まさにユニークスキルだナ!」

 

 おお、とキリトの眼が爛々と輝く。やっぱそういうの好きだよねお前。

 

「は、発動条件はなんだ?」

 

 キリトが俺とサキに迫る。ちょっと君、顔が怖いよ。というかアスナも迫ってくるし。お前らやっぱ息ぴったりだな。

 

「し、知らねえよ。死ぬ寸前にいきなりシステムメッセージが出てきやがったから、身に覚えがなさ過ぎる。あれだ、臨死体験をするとか、そんなんじゃねえの? だからキリト、お前も死んで来い!」

 

「やっぱりその結論かよ! お前いつか俺を本気で殺す気だよな!」

 

 キリトが剣でも抜くように手を背に這わせ、しかし装備していないことに気づく。あぶねえ、こいつやたら抜剣しようとしてきてないか。

 

「割とマジでキリト抹殺計画を考えた方がいい気がしてきた。俺の命のために。いつか斬られそうだ」

 

 キリトも含め、全員が笑う。まあ、これもいつものやり取りの延長だ。

 

 で、とキリトがクラインへ向く。

 

「LAボーナスはなんだよ。教えてくれ」

 

 突如自分へ向いた好機の視線に耐えられなかったのか、クラインが頬をひとつ掻いた。無言でウインドウを操作し、俺達へ見えるように動かす。

 

 どらどらと俺達が集合してそれを見る。

 

 驚愕。

 

 おおう、こいつはなかなか、クラインに合ってるじゃねえか。

 

 銘は《炎刀カグツチ》で、禍々しい黒ずんだ紅色の刀身をした刀だ。言うまでもなく、性能は狂っている。

 

「まあ、あれだ。よかったなクライン」

 

 俺の言葉にクラインがようやく顔をほころばせた。

 

 そこからめいめいが雑談を開始。俺はいつも通り隅っこ暮らしを再開。やっぱ隅っこって落ちつくよねー。

 

 そんなことを考えていると、杯を片手にユキノが近づいてきた。おっと、今日二人目の主賓様じゃないか。

 

 ユキノが杯を傾け、俺も持っていた杯をそれに合わせる。

 

「とりあえず、おめっとさん」

 

「ええ、ありがとう。あなたとサキさんのお陰かしらね」

 

「で、予想はしてたがあまりに突然でびっくりなんだけど。この前の夜なんかあったわけ?」

 

 サキがそろそろと近づいてきていた。どうやら聞き耳をたてているようだ。いいからこっち来いよ、と手招きする。ユキノも気づいたか、俺とサキに聞こえるだけの小さな声で言う。

 

「趣味が、合ったのよ……パンさん好きの男の人なんて初めてだったから……」

 

 唖然。

 

 マジであのアドバイスが利いたの? ホントに? こいつチョロくね?

 

 恥ずかしそうにしていたユキノだったが、突然微笑する。

 

「嘘よ。まあ、それもあるけれど。そこまで私もチョロくはないわよ」

 

 ユキノが俺にウインクする。

 

 俺の内心を読まれていた……。やはりこいつ、エスパーか。

 

 ユキノが続ける。

 

「まあ、色々話したのよ。なぜかあなた達のように自然と話せて。彼も誠実だから、すぐに気があってしまってね。気づけば好きになっていたわ。私自身、まさかこんなにすぐに人を好きになれるなんて思っていなかったから、驚いたのだけれどね」

 

「で、あれなわけだね」

 

 サキが昨日のことを思い出したのだろう。

 

 確かにあれには俺も驚いた。ユキノらしからぬ行動だったからだ。

 

 ユキノがおろおろとし始める。

 

「あ、あれはその……感情が昂ぶったというか、戦地へ向かう男の人へのなんというか……その、いいじゃない! あなたたちだってしてるでしょう! 私がしてはいけない理由はないわ!」

 

 最終的にキレやがったぞこいつ。大丈夫かなディアベル。絶対尻に敷かれるぞ。

 

 それから、ユキノとサキが会話を始める。

 

 俺も適度に会話に参加しながら、先のことに想いを馳せる。

 

 ようやく半分まで来た。

 

 あと残り半分。

 

 どうせまたぞろ鬼畜ボスやら何やらが俺達の前に立ちはだかるだろう。

 

 ひとりだった頃の俺ならば、いまどう感じていただろうか。もはや精神は磨耗し、もしかしたら既に死んでいたかもしれない。

 

 だがいまはサキがいる。ユキノがいる。そしてキリトにアスナ、クラインにエギル、アルゴもいる。

 

 なによりも信頼に値する仲間たちが、俺と一緒に戦い、前へと進んでくれる。

 

 ならば大丈夫だろう。

 

 あらゆる艱難辛苦も、こいつらとなら乗り越えられる。

 

 いまやぼっちではなくなった俺は、そんなことを思いながら窓の外を眺める。俺たちの明るい未来を示すように、午後の陽光が室内を眩く照らしていた。

 

 

 

 



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第五章
いつの世も、地獄を作るのは人である 1


「……結婚したい」

 

 いつの日のある教師のように、俺は切実に呟いた。

 

 場所は五十層《アルゲート》のエギルが開いた店の二階。

 

 時刻は睡魔を誘うような午後二時。窓から舞い込む陽光が、程よい明かりと温もりを大気に孕ませている。思考していなければ寝てしまいそうな陽気。

 

 春も近い。

 

 聞くはふたりの友人。ひとりは頭から靴まですべてが真っ黒くろすけの少年キリト。もうひとりは誠実そうな顔立ちをし、中身まで誠実で真っ白な青年ディアベル。

 

 ふたりが、さも不思議そうな顔をして俺を見ている。一体何を言っているんだと言わんばかりの目つきだ。

 

 それも当然だ。俺たち三人の左薬指には装飾用の指輪が嵌っている。何のステータス向上能力も持たない、本当に結婚していることを示すだけの銀色の指輪。

 

「結婚したいって……そもそもハチはしてるだろ」

 

 当たり前なキリトの言葉にディアベルも同意する。

 

「一体何が言いたいんだい? どうせハチマンのことだから、何か別のことなんだろう?」

 

 少し興味があるような好機の視線をふたりが向けてくる。だから、こいつらはなんで俺のことを普通の少年としてみてくれないのだ。俺だってふつうの高校生なんだぜ。元ぼっちで学校一の嫌われ者だったけど。なんだその過去。切な過ぎる……。

 

 ともあれ、俺は再度呟く。今度はもっと切なさをと逼迫感を込めて。

 

「結婚式がしたい……」

 

 ああ、とふたりがようやく意味を悟ってくれた。

 

 そう、五十層地龍討伐前、ユキノが心配して俺たちの家にやって来たときのことだ。そのときに結婚式の話題が挙がった。俺はしたいと言い、ユキノは式に呼んでと言った。サキだってきっと期待してくれている。

 

 なのに、ここには結婚式イベントがない。なんで無いんだよ。普通あるだろ。結婚システム作るんなら式まで用意しろよ。だから使えねえんだよ茅場はよお。

 

 そんなこんなで、俺は日々頭を悩ませている。まさか式のシステムそのものが本当にないとは考えていないが、いま手元の情報に無いのだ。アルゴにだって恥を承知で訊いたが、ろくな情報は出てこなかった。

 

 手詰まり。

 

 結婚式したい。超したい。ウエディングドレス姿のサキを見たい。喜ぶ顔が見たい。

 

 ゆえ、俺は頭を抱えていた。あんなシステムウインドウでYesを押すくらいで満足できる安っぽい男じゃねえんだよ。惚れた女と結婚できたんだぜ? 式くらいさせろよ。

 

「なんの話をしてるんだ?」

 

 エギルが荷物を取りにきたのか、一階から上がってくる。

 

「ハチが式あげたいんだってさ」

 

 キリトの返事に、エギルがほほーと感嘆の声を漏らす。

 

「確かにそのシステムは聞いたことないが、教会を探してやってみたらどうだ? 牧師役ならオレが喜んでやるぞ」

 

 なに?

 

 いま、思考に一筋の光が差し込んだ。

 

 そうだ、なぜ俺は茅場の作ったシステムなんぞに頼ろうとしていたのだ。これだから人間強度が下がるとだめなんだ。すぐに人に頼ろうとする。ぼっちの思考に戻れ。あのときの孤高だったときの思考に。

 

「つまり、俺が式を作ればいいんだな」

 

 結論はこれだ。ないのなら作ってしまえばいい。なにせここはある程度の自由が利くゲームだ。教会で牧師を呼んで、バージンロードとか花嫁衣裳とか何から何まで作って、結婚式を開けばいい。素晴らしいじゃないか!

 

 俺は立ち上がる。

 

「よし、結婚式に俺はなる!」

 

「なんか違うからなそれ」

 

 キリトが速攻で突っ込みを入れてくる。意味が分かればいいんだよ。意味が分かれば。

 

 でも確かに、とディアベルが俺に同意してくる。

 

「式は挙げたいよね。形として何か思い出を作っておきたいと思うよ。キリトはどうなんだい?」

 

 話を振られてキリトが唸る。

 

「俺はそんなこと考えたことないな。俺はまだ中学生だ。結婚なんて考えたこともなかったし」

 

 まあ、そんなもんだろう。俺だってそうだし、ディアベルも多分同じだ。

 

 このゲームの中で俺たちは形式的とは言え、結婚した。現実ではない、所詮ゲームの中だけのお遊びの結婚だ。だが、そこには本物の愛がある。ならば、それを形にしてもいいではないか。たとえ現実では恋人同士ですらなかったとしても、俺たちの精神はいまここにある。ならば、いま俺たちの現実はここでもある。

 

 というか、あれだ。花嫁衣裳がすげえ見たいのが主な理由だ。きっと胸元ぱっくりな大胆衣装を着てくれるはずだ。ていうか絶対そうする!

 

 だってサキは露出の多い服あまり着てくれないし。頼めば絶対着てくれるだろうけど、言うのが恥ずかしい。やだ、ハチマンなんて初心なの!

 

 思考が狂いに狂ってきたところで、エギルが声を上げる。

 

「んじゃ、計画でもするか? それならいまから店じまいするぞ」

 

「いいのかよ。ただでさえ儲かってないゴミ溜めなのに」

 

 キリトが呆れ顔で言う。俺の影響か、キリトの口の攻撃力が段々と増している。やだ、俺の影響力強すぎ!

 

 エギルの顔がひきつる。

 

「酷い言い草じゃねえか。まあ、確かに儲かってないしゴミ溜めだけどさ」

 

 おいおい認めちまうのかよ。もっと粘れよ。もっと熱くなれ! お米食べろ!

 

 ディアベルが俺を見て苦笑していた。変な思考していることがバレているのだ。いい加減こいつとも付き合いが長すぎる部類になってきたな。

 

「で、そろそろ真面目に考えようか。オレはハチマンの意見に大賛成だ。是非一緒にやりたい!」

 

 ディアベルの力強い声に、キリトが俯く。考えているのだろう。

 

 ディアベルと俺の視線が合う。互いに頷きあう。

 

「おいキリト。アスナの花嫁衣裳姿、見たくないのか?」

 

 キリトの耳がぴくりと動く。お、反応しやがった。

 

「アスナさんにもいい思い出になると思うよ」

 

 ディアベルの追撃。ぐぬぬ、とキリトが唸る。

 

「女性にとって結婚式は大事なもんだぞ? やってみたらどうだキリト」

 

 エギルの言葉がダメ押しになった。落としていた顔を上げたキリトが、頬を染めながらも頷く。

 

「分かった。やる、やるよ。アスナのためだしな」

 

 俺とディアベル、エギルが目と目で通じ合う。チョロいなキリト。

 

「んじゃ、とりあえず経験者から聞くか」

 

 俺たちの視線がエギルに集中する。エギルは笑いながら「まあ待て」と言い、店仕舞いの準備に向かう。その間、俺はサキにどんな衣装を着せてやろうかと思考の海に沈んでいった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 同刻。

 

 三十三層《ラーヴィン》にある行きつけの喫茶店で、あたしはコーヒーを飲んでいた。一緒に座っているのは、ユキノとアスナだ。共に結婚した者同士でのいわゆる女子会という奴だ。

 

 いつもならアルゴも一緒に来るところだが、今日は情報屋稼業が忙しいと言って急遽欠席となったのだ。実に残念。

 

 この女子会、主催者はなんとあたしだ。自分どころかハチマンすらびっくりしている。まさか元ぼっちのあたしがこんなことを積極的にするようになるなんて、SAOに囚われる前までは考えもしなかった。

 

 きっとあたしもいい方向に変わっているのだと思う。それもこれも、ハチマンやみんなのお陰だ。

 

 さて。カップをソーサーにおいてあたしはユキノを見る。ユキノはディアベルと付き合ってから、その美しさにより一層磨きが掛かった。並の男じゃ、もはや近づくことすらおこがましいと感じてしまうほどだろう。

 

 かくいうあたしも、よく綺麗になったと言われる。実感はない。鏡を見ても大抵気だるい顔をした自分しか映らないからだ。ホント、なんでハチマンはあたしに惚れたんだろうか?

 

「ディアベルとは最近どうだい? 仲良くやってる?」

 

 あたしの問いにユキノは微笑んで答える。

 

「ええ、彼はいつも優しいわ。どこかの捻くれてる人とは大違いよ」

 

「痛いところを突いて来るね。まあ、最近は多少マシになってきたよ」

 

 ユキノも、極々たまには棘のある言葉を投げてくることがある。きっと、心の底から信頼してくれているからだろう。あたしも同じだ。

 

「アスナの方はどうだい?」

 

「キリトくんはまあ、いつも通りかなあ」

 

 歳相応に童顔のアスナではあるが、やはり彼女も結婚を期に綺麗になった。よほどキリトのことが好きなのだろう。彼のことを考えているときの彼女はとても嬉しそうに微笑んでいる。

 

 いいなあ、と思う。

 

 そんなことを考えていると、あたしもハチマンに会いたくなってくる。ハチマンは必ず一線を引いているから、まあ……ごにょごにょ……なことはできていない。

 

 曰く、ここですると現実でもしまくるから絶対にダメだ、とのことだ。

 

 あたしも確実にそうなると思うから我慢している。だけれど、たまに求めてやまないときがあるから、そういうときは磁石のようにぴったりとくっついている。彼の傍にいるのはいつまでたっても飽きない。

 

 ただ、やっぱり恥ずかしいからふたりにはそういうことは訊けていない。よくある女子高生とかとの会話で出てくるような、露骨な会話はあたしたちはしないのだ。

 

 そう思っていた。いまこの瞬間までは。

 

 口火を開いたのはまさかのユキノだった。頬を染めて指同士を突きながら、恥ずかしそうに言った。

 

「あなたたちは、その……したの?」

 

 一瞬、あたしは何のことか分からなかった。アスナは察したらしく、顔をリンゴのようにしている。

 

 首を傾げるあたしに対し、ユキノが直接的な言葉を使った。

 

「だから、その……性行為よ」

 

「は?」

 

 あたしは真顔で言った。アスナは喉の奥で悲鳴をあげて、両手で顔を隠している。ユキノもなんだか居心地が悪そうだ。

 

 えっと……とユキノが会話の継ぎ帆を探すように言葉を選ぶ。

 

「ごめんなさい。その……してないのよ、私」

 

 あたしもしてないわ! そう突っ込んでやりたいが、ここは大人な対応が必要だ。うん、よし、落ち着けあたし。

 

 ユキノが続ける。

 

「抱擁も、口付けも、全部私からなのよ。だからその、魅力が無いのかと思って……どうすればいいのか悩んでいるの。だから参考にしたいのよ」

 

 な、なるほど……。でもあたしも言いたい。やったことないのに分かるわけないだろうが、と。

 

「サキ、訊いてもいいかしら?」

 

 あ、あたしに振るの!? 確かに年齢的にはユキノとあたしが上だけど……。

 

「あ、えー……」

 

 言葉を濁そうとして、ユキノの表情が目に入る。瞳が潤んでいる。彼女は真剣に悩んでいた。なら、こちらもそれ相応に返さなければならない。

 

 短く息を吐く。

 

「あたしはしてないよ」

 

「え?」

 

 ユキノとアスナの声が揃った。なんで驚かれるのさ。そんなに不順異性交遊しているように見えるのかいあたし達は!?

 

「してないの? あんなに口付けや抱擁をしてるのに?」とユキノの純粋な疑問。

 

「でも、ハチくんならありえるかも……」妙に納得顔をしているのはアスナだ。

 

 正解はアスナだ。意外とよくハチマンを見ている。

 

「つまりは理性の保険だよ」

 

 あたしが答える。

 

「どういうことかしら?」

 

 珍しくユキノの頭の回転が鈍い。大分悩みに思考を割いているのかもしれない。

 

「もしここですれば、現実でもその……ってこと。そういうのを怖がってるんだよ、あいつは」

 

 責任感が強いとも言えるし、あたしのことを大事にしてくれているとも言える。あたしとしてはどちらも純粋に嬉しい。

 

「なるほど……ではディアベルもそうなのかしら」

 

「ディアベルさんは真面目そうだもんね。あり得るかもしれないよ」

 

 アスナの言葉にあたしも頷く。元々誠実なディアベルだが、ことユキノに関してはそれすら通り越しているように見える。漂白剤とは言えて妙だ。さすがハチマン。

 

「まあ、あんたたちのペースでいいんじゃない? あたしらは今みたいな考えをしてるし、アスナは分からないけれど、人を参考にする必要はないよ」

 

 ただ……とあたし続ける。

 

「もしディアベルが無理やり襲ってきたらあたしに言いな。……殺す」

 

 ユキノが苦笑する。

 

「それは無いわよ」

 

 んっん……とアスナが咳払い。え、なに? まさかアスナ……。

 

「この話、やめよう!」

 

 あ、そういうことですか。やだ、びっくりした。中学生、違う、年齢的にはもう高校生だっけ? それなのにしてるなんて言われたら、ちょっと日本の将来が怖くなってきちゃう。

 

「そうね。ごめんなさい。話を戻しましょう。この前――」

 

 ユキノが話題を変える。あたしたちもそれに乗り、時間がゆったりと流れていく。

 

 ゲームに囚われていても。

 

 現実への帰還を夢見ていても。

 

 あたしたちはいま、幸せだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 八歳になる少年カイルは、孤児院ギルド《子どもたちの夢》に所属している。いつもシンカーやユリエール、ユキノから世話をされ、不自由を感じることなくこのゲームの中で現実のように暮らしていた。

 

 カイルはある日思い至った。

 

 彼らにお礼を言おう。プレゼントも用意して、お礼と一緒に渡すのだ。

 

 いつも食事を用意してくれ、遊びに付き合ってくれ、勉強も教えてくれる。そんな素敵な人たちに何かお礼をしたいとカイルは思った。

 

 この年頃にはなかなか考えにくい、人に感謝を示せる素敵な少年だった。

 

 カイルは《はじまりの街》からフィールドへは出たことがない。三人からフィールドへ出ることを固く禁じられているからだ。

 

 曰く、フィールドにはモンスターがいて危ないから出てはいけない。

 

 カイルも意味は分かっていた。ゲームが好きでこのSAOに囚われたのだから。だけれど、実際に身体を動かして戦うことはできなかった。そういう子ども達が、ギルドには大勢いる。

 

 だからカイルは、少ない小遣いを握り締めて《はじまりの街》へと繰り出した。何かを買おうと思った。ほんの些細なものであっても、彼ら三人が喜んでくれるのならばと。

 

 誰もいない路地裏に入ってそんなことを考えていたカイルに影が落ちた。

 

 カイルは思わず見上げる。

 

 フードを被った人がいた。その人はカイルの姿を認めると、被っていたフードを外して姿を晒した。

 

 カイルは天使様が現れたのかと思った。

 

 その人が、あまりにも美しかったからだ。

 

 混じりけのない純白の白髪に、海を掬ったような深い群青の瞳。顔は中性的で性別がすぐには判別できず、口許にはこの世のすべてを愛するような微笑が湛えられていた。

 

 服装はベージュのフードの下に、黒を基調とした尼僧姿。右手には蒼と紅の指輪が嵌められている。

 

 その人はカイルと目が合うと、優しく微笑んでから目線を合わせるために足を折り曲げる。

 

「どうしました? なにか困りごとでも?」

 

 カイルは思った。思い切ってこの人に訊いてみよう。きっとこの人は大人だ。大人なら、あの人たちが喜ぶものをきっと知っていると思った。

 

 カイルはその人にすべてを語ることにした。

 

「いつも助けてくれる人にお礼をしたいんだ」

 

「お礼ですか。小さいのに素晴らしいですね。どんな方にお礼をしたいのですか?」

 

 優しい口調だった。心の隙間にするりと入り込むような声だった。

 

 褒められたことが嬉しくて、カイルはつい名前を口にしてしまう。

 

「シンカーさん、ユリエールさん、ユキノさんの三人だよ。とても良くしてくれるんだ。だからお礼がしたくてここまでひとりで来たんだよ」

 

 その人の目が大きく見開かれる。とても素敵な何かを見つけたとでもいうように。やがて、まなじりを下げて柔らかく微笑んだ。

 

「それは良いことです。感謝を示すことは大事なことですからね」

 

 その人が大きく頷く。カイルの行為をとても大切だとかみ締めるように。カイルは嬉しくなって、その人のことをすぐに好きになってしまった。

 

「分かりました。では、いい場所があります。案内しましょう」

 

 その人が再びフードを被ると、手を差し伸べる。カイルは手を取り、その人と一緒に歩き出す。

 

 



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いつの世も、地獄を作るのは人である 2

「まったく、あんなことを訊くなんて、私もどうかしてたわね」

 

 夕日も沈もうとする黄昏時、《ラーヴィン》からの帰り道で私はひとり呟いた。いつもは感じる周りからの視線など、一切気づかないほど恥ずかしい思いだ。

 

 あれでは、まるで抱いてほしいと公言しているようなものではないか。実際そうなのだけれど……。

 

「嫌だわホント……これが恋というものなのね」

 

 思うように心が制御できない。突如荒波にもまれたかと思うと、ふとした瞬間柔らかなシルクに包まれているような心地よさを感じる。愛しいと、永遠に隣にいたいと願ってしまう。そんなこと、少し前までは彼以外に感じるとは思わなかったのに。

 

 まだまだ心が未熟ということなのかしらね。

 

 ふと、システム音が鳴った。ユリエールからのメッセージだった。《ラーヴィン》の転移門の前で立ち止まり、私はメッセージを開いて目を通す。心がざわついた。一気に焦燥感が押しあがり、勝手に手が震えた。

 

 メッセージの内容は端的だった。

 

 ――カイルが帰ってこないの。

 

 頭に空白が滑り込む。

 

 あの、心優しい少年の笑顔が視界に現れる。誰よりも優しく、きっと私たちに感謝してくれているんだろうと思われる、あの素敵な少年の姿が目に浮かぶ。

 

 しっかりしなさい!

 

 自分を叱咤し、私はすぐさまウインドウを開き、フレンドリストからカイルの名前を見つけ、検索を開始。

 

 ――検索不可

 

 検索を拒絶されている? なぜ!?

 

 考えている場合などではない。私は転移門から第一層《はじまりの街》へ転移する。すぐさまギルド本部へと全速力で駆け抜けると、本部前にユリエールの姿があった。

 

「ユキノ、カイルが、カイルが戻ってこないの……!」

 

 ユリエールが泣きそうな声で言う。ギルドで作ったお約束事では、十七時前には必ずギルド本部に戻ることにしている。カイルは今までそれを破ったことがない。

 

「分かってる。知っていることを話して! いますぐに!」

 

 瞳を上下左右に動かしながら、おろおろとユリエールが話す。

 

「午後二時くらいかしら。買い物に行くと言って出て行ったの。なかなか帰ってこなかったから心配してたんだけれど、どこかで遊んでいると思っていままで待ってたんだけど……」

 

 こんなことならすぐにでも探しに行けば良かった、とユリエールが嘆く。

 

 気持ちは分かる。私はその間、暢気に女子会などしていたのだから。だけれど、後悔するのは後でいい。いまはカイルの捜索が先だ。

 

「シンカーさんは?」

 

「いま探しに行っているわ。付近の人たちにも捜してもらっているんだけれど、見つからないの……!」

 

 とすれば、考えられるのはあとひとつ。最も考えたくない可能性だ。

 

「ユリエールはここでみんなをお願い。私も捜索に加わるわ」

 

「わ、分かったわ……! カイルをお願い!」

 

 ユリエールが本部の中に入っていく。私はすぐさまウインドウを開き、ディアベルへメッセージを投げる。こういうときに頼れる人がいるというのはとても嬉しい。あとは、ハチマンとサキにも同様に連絡する。

 

 ディアベルからすぐに返信が来た。動けるギルドメンバーを総動員して来てくれるらしい。愛しさが零れそうだ。でも、そんな場合じゃないと気を引き締める。すぐにハチマンとサキからも返信がある。内容は同じだ。

 

 私が転移門の前まで行くと、丁度彼らがやって来たところだった。本当に行動が早い。

 

「ユキノ、とにかく状況を教えてくれないかい?」

 

 ギルドメンバーを引き連れたディアベルが、硬い表情で訊いてくる。ハチマンとサキも同じだ。

 

「ええ、そうね。午後二時頃、私たちが預かっている子ども、カイルというのだけれど、その子が買い物に出かけたそうよ。その後、姿を見た人がいないの」

 

「検索はかけたか?」とハチマン。

 

「ええ、でも検索が拒否されているようなの」

 

「目撃者はどうだ?」と続けてハチマン。

 

 私は首を振る。

 

「分からないわ。私も知ったのがついさっきだから」

 

「街は探したかい?」サキが不安顔で訊いてくる。

 

「ええ、付近の方も協力してくれているそうよ。でも見つからないらしいの」

 

 なるほど、とハチマンが顎に手を添えて続ける。

 

「考えられるのは三つだ。ひとつ、転移門から別階層へ行った。ふたつ、フィールドへ出て行った、みっつ、誰かに連れ去られた」

 

 ハチマンが状況を整理していく。

 

「性格上、ひとつ目とふたつ目は考えられるか?」

 

「いいえ、それはないわ。とても素直で良い子なの。ギルドのお約束事は絶対に守る子よ」

 

「ならふたつは排除していい。可能性は最後のひとつだ。検索拒否も第三者によるものの可能性が高い」

 

 つまり……。

 

「ゆう……かい……?」

 

 私の声に、ハチマンが渋い顔をする。ディアベルも、サキもハチマンを見ている。

 

「フレンドリストにはまだ名前がある。間違いないな?」

 

 最悪の可能性が頭を巡る。

 

 急いでウインドウからフレンドリストを開き、カイルの名前を探す。あった! まだある!

 

「あるわ。まだあるわ!」

 

 ハチマンが手で顔を覆う。思考を巡らせているのだろう。やがて、手を下ろして私を見る。すぐ首を振って、ウインドウを開き、仮想キーボードを叩き始める。じっとウインドウを見つめているが、なにやらイライラした様子で今度はストレージから回線結晶を取り出した。

 

「アルゴ、俺だ。頼むから応答してくれ。大至急だ」

 

 ハチマンが繋がっているはずであろうアルゴへ連絡を取っている。

 

 しかし――

 

「くそっ! なんで今日に限って繋がんねえんだ。おいサキ、なんか知ってるか?」

 

「情報屋の仕事で動くから、しばらくは連絡取れないって訊いてるよ」

 

「……分かった。キリトとアスナ、クラインにエギルも呼ぶ。人手は多い方が良いだろ」

 

 ハチマンがキーボードを連打していく。私はふらふらと倒れそうになる。後ろから優しく受け止められる。ディアベルだった。

 

「大丈夫、大丈夫だよ。カイル君は絶対にオレたちが見つけ出す!」

 

 ディアベルの力強い声に、私は勇気づけられ、小さく頷く。

 

 ややあって、ハチマンが更に渋い顔。

 

「キリトとアスナ、エギルはすぐ来る。だがクラインと連絡がつかねえ。なにやってんだあいつ……」

 

 ハチマンの視線がサキへ行くが、彼女は力なく首を振った。

 

「そこまでは分からないよ。でももしかしたらクラインと一緒に動いているのかも」

 

「まあいい。いないなら仕方ねえ。いまいるメンバーで捜索を始める」

 

 そのとき、転移門からキリト、アスナ、エギルが転送されて来た。三人とも焦ったように私たちの下に駆け寄ってくる。

 

「ハチから話は訊いた。俺たちも手伝う」

 

 キリトが三人を代表して協力を申し出てくれる。

 

 ハチマンが頷く。

 

「助かる」

 

 ハチマンの視線が私に向いた。

 

「ユキノ、お前はここで待ってろ。捜索は俺たちで行く。ひとつ心当たりがあるんでな」

 

 私は驚く。本当にこういうときの彼の頭の回転速度は驚嘆に値する。私よりもよっぽど頭が良い。

 

「ほ、本当に?」

 

「ああ、だから安心しとけ。必ずなんとかしてやるよ」

 

 行くぞ、と言って、ハチマンが全員を先導してフィールドへ向かう。私はひとり、その場でただ帰りを待つことしかできない。

 

 ああ、神様。

 

 どうかお願いします。

 

 カイルを、カイルを助けてください……!

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「なぜユキノを残したりしたんだい?」

 

 街中を走っている最中、ディアベルから話しかけられる。俺の顔はますます渋くなっただろう。あいつに言えるわけねえだろ。

 

「ラフィンコフィンが近々動くっつー噂が流れてるのを前にアルゴから聞いた。あいつが動いているのは、たぶんそれ絡みだろ」

 

 ラフィンコフィンの名を言った瞬間、この場全員の雰囲気が急にピリピリしたものとなる。

 

《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》――かつて俺たちが辛酸を舐めさせられた相手だ。

 

 レッド集団とも称される、殺人をも厭わない最悪の人殺し集団。ここを単なるゲームと位置付け、殺人を快楽行為へと変換している狂った連中だ。

 

 拠点不明、構成員数不明。

 

 分かっているのは、以前戦った相手Pohがギルドマスターを勤め、その側近にあのアポストルがいること。その他に幹部が数名、名前と姿がわかっているだけだ。

 

 そんな連中が、近々でかいことをやろうとしている。アルゴから聞いた噂はそれだ。たぶん、アルゴはそれの情報収集に動いているのだろう。クラインと《風林火山》は恐らくはその護衛か?

 

 いまはカイル少年のことに思考を費やす。

 

 第三者に連れ去られたとして、誘拐目的はなんだ? 奴らは関わっているのか? 誘拐ならば身代金要求でもする気か? この広くも狭いSAOの世界で、そんなことをするメリットなど無い。それに、あのギルドにそこまでの資金はない。そう、金銭的な面で誘拐を行う理由など本来は無い。ならば、考えられる可能性はひとつ。

 

 嫌な予感がする。

 

 嫌な、嫌な予感がする。

 

 こういう予感がしたとき、いつも外れていない。

 

「ハチマン」

 

 サキに呼ばれる。心配に揺れる瞳が俺を見つめている。俺はなんでもないとアイコンタクトを返すことしかできない。

 

 分からない。何が起きているのか、まったく分からない。

 

 ただ、何か恐ろしいことが起きようとしているのではないかという、漠然とした不安が身体に圧し掛かっていた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 第一層。フィールド東南東の森林エリアの一角に、ひっそりと隠れるように建てられた小さな小屋。周りは樹木に覆われ、その姿は傍から探してもすぐには見つからない、ある種隠れ家のような場所だった。

 

 カイル少年は、そこで三人の人物に囲まれていた。

 

 ひとりは、カイルをここに連れてきた天使のような人。周りの人からは笑うようにホーリィと呼ばれていた。

 

 もうひとりは、頭陀袋のような黒いマスクを被った、少年らしき人物。全身をぴったりとした黒の衣装で包み、右手には緑に濡れた刀身が怪しい、細身のナイフが握られている。

 

 さらに、髑髏を模したマスクをつけ、眼窩の奥を赤く光らせた男が、エストックをカイルへ向けていた。

 

 カイルは怖かった。どうしてこんなことになったのか、わけが分からなかった。

 

 ただ、あの三人へのプレゼントを買いにきただけだというのに。

 

「では皆さん、手はず通りにお願いしますね」

 

 ホーリィが透き通る声で言う。頭陀袋の男がケラケラと笑っていた。カイルを心底怯えさせるような、無邪気だが狂気を含んだ笑い声だった。

 

「あいよ、ホーリィ! それよりさ、それよりさ、こいつの腕、斬って良い? いいよね? いいじゃんかよ~」

 

「おやおや、いけませんねえ」

 

 ナイフを振り上げた頭陀袋を止めたのはホーリィだ。

 

「私はホーリィではありません。ちゃんとアポストルという名前があります。まったく、昔からあなた達は偽名で呼んで……少し悲しいですよ」

 

 止めたのはただの呼び名のことだった。少年など、まるで眼中にでも無いというように。

 

 応えたのは髑髏の男だ。しゅうしゅうと、擦過音の混じった声だ。

 

「今さら、だろ。お前は、ホーリィで、いい。アポストルは、名前が、長い」

 

 残念な理由ですね、とアポストルは薄く微笑んだ。

 

「まあ、いまはそれで良しとしておきます。ではお願いしますよ。特にジョニー。やりすぎないようにして下さいね」

 

「は~い、ホーリィ!」

 

 ジョニーと呼ばれた頭陀袋の少年が、まるで軍人のように敬礼をした。すぐにケラケラと笑い、ナイフを宙に飛ばして遊び始める。まるで残酷さなど知らない無邪気な子どもだ。

 

「お前は、どうする? あれで、上手く、いくのか?」

 

 髑髏の男がアポストルに訊く。赤い目がぼうっと疑惑に光っている。

 

 アポストルはただ微笑んでいた。その表情以外など知らないというように。

 

「ザザ、ひとつ良いことを教えてあげましょう」

 

 まるで教師のような口調でアポストルが髑髏の男ザザを見つめる。

 

「事実などより、人は恐怖にこそ踊らされるのです」

 

 ザザが呵々と笑う。愉悦でも感じているように。

 

「さすが、副長。考えることが、悪魔、染みている」

 

「残虐性は、人の性質のひとつですよ。誰しもが持っている」

 

 薄く笑むアポストルが言う。

 

「お前の、口上は、長くなる。さっさと、行け」

 

 ザザがうんざりしたように言った。アポストルがまなじりを下げる。

 

「まったく。Pohは喜んで聞いてくれますよ。あなたたちも少しは私の話を聞いてほしいものです」

 

 アポストルが懐から書物を取り出す。血色の装丁をした、不気味な古い書物だった。それを見たジョニーがざわめく。

 

「やった! またアレが見れるんだよね! だよね! オレあれがいいな! この前狩った奴!」

 

「オレたちの、仕事は、こいつを、アジトへ、送り届ける、ことだ。奴の、活躍は、見られない」

 

 え~、とジョニーが心底残念そうな声を上げる。だが、すぐに声の調子が戻る。視線をカイルへ向けてケラケラと笑う。

 

「ま、いっか! おもちゃがあるもんね!」

 

 びくっとカイルが一歩下がる。だが、すぐ後ろにはアポストルがいた。両肩にアポストルの手が置かれる。ようやくカイルの存在に気づいたかというように、よろこび、笑った。

 

「ああ、カイル。大丈夫ですよ。彼らはとても良い方々です。たまに我を忘れてしまいますけどね。ですが、きっとあなたにとっても素敵なことが起こりますよ。そう、あなたの大切なユキノさんに、とても素敵なプレゼントを与えてあげることができますよ」

 

 そう、だから……とアポストルがカイルの左腕を取る。ジョニーが動く。

 

「私たちも、精々楽しみましょう」

 

 ジョニーが辛抱堪らんというように、振り上げたナイフを落とした。カイルの左腕が切断される。HPバーが一気にレッドゾーンまで減る。初めての経験に、カイルは呆然とし、すぐにぽろぽろと涙を流し始めた。

 

 怖くて、怖くて怖くて怖くて、どうしようもなく怖くてたまらなかった。

 

「ひゃっはっはっはっは! 斬ったよ~斬っちゃったよ~。ひっさしぶりだな~! 子どもの腕を斬るのは初めてだ! たっのしっいな~」

 

 ジョニーが短剣を抱きしめながらうっとりと笑う。

 

 ザザの赤目に喜びの光が灯る。

 

「ああ、怖いですねえ。恐ろしいですねえ。それが恐怖というものです。カイル君、あなたは今日、初めて死の恐怖を感じるのです。これが私があなたに与えられるプレゼントです」

 

 アポストルが笑う。笑う。笑う。

 

 狂気に任せて初めて笑う。

 

「さあ、祝祭の始まりです! 皆、快楽のまま殺しに殺し、私を楽しませてください!」

 

 ひゃっほーい、とジョニーがジャンプする。

 

 ザザもエストックを高く掲げ呵々と笑う。

 

 カイルだけがこの場から決定的に取り残されている。

 

 



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いつの世も、地獄を作るのは人である 3

 第一層《はじまりの街》転移門。

 

 私はただ待っていることしかできない。胸の前で手を組み、祈るように待っていた。

 

 お願い、カイル、無事でいて……。

 

 そのとき、システム音が鳴った。メッセージはカイルからのものだった。

 

 私は慌ててシステム画面を操作してメッセージを開く。中身はこうだった。

 

 ――南南東の森エリアにある小屋で待っています。

 

 ――親愛なるユキノへ

 

 ――アポストルより愛を込めて。

 

 怖気が走る。

 

 あまりにも不吉なその名に、私の身体が勝手に震えた。かつて私を罠に嵌め、ラフィンコフィンのギルド結成式のためだけに処刑しようとしたアポストル。その悪魔染みた男が、カイルのメッセージに記されている。

 

「ま……さか」

 

 いやいや、と頭を抱えて頭を振る。信じたくない。あの男が、あのギルドが関わっているなど信じたくない。

 

 なぜ、なぜカイルなのだと。なぜ私たちなのだと。

 

 震える手が仮想キーボードを呼び出す。

 

 早く……。

 

 早く彼にこれを知らせないと……。

 

 きっと大変なことになってしまう……!

 

 

 

 ――ユキノは気づいていない。

 

 彼女がウインドウに視線を移したその瞬間。

 

 かのアポストルが転移門の傍に転送され、天使の笑みを浮かべながら悠然と街の中へと歩いていく姿を。

 

 決して入れてはならない悪魔を止められなかったことを。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 万が一の状況を考えふたり一組で俺たちはカイルの捜索にあたっていた。俺とサキは大声で少年の名を呼びながら辺りを見渡すが、あるのは森とポップするモンスターだけ。向かってくる雑魚を片手間に処理しながら、俺はカイルの名を叫ぶ。

 

 かつて、小町が家出したときのことを思い出す。

 

 あのときの焦燥感を俺はいま感じている。

 

 カイルとは面識は無い。だが、ここSAOで少年が殺されたとあれば、きっと事態が更に悪くなる。そんな予感がしてならないのだ。

 

 なにより、ユキノが携わるギルドのメンバーを、彼女がいつも守る子どもを殺させるわけにはいかない。

 

「ハチマン、見つかったかい!?」

 

 サキの声に俺は目線だけで応える。サキはすぐに身体を翻して捜索に戻る。俺も声を張り上げる。

 

 時間が過ぎていく。

 

 焦りが積もっていく。

 

 システム音。

 

 俺は反射的にメッセージを開いた。そして、最悪の事実を知る。脳内で軽口すら出ない。

 

 サキが俺の異常を察知して隣に来る。首を伸ばしてウインドウを覗き込み、サキも唖然。

 

 数瞬の間の後、俺たちは即座に駆け出す。

 

 いまは俺たちが一番近い――!!

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 旧《アインクラッド解放軍》本部の屋上にその男は悠然と立っていた。

 

 黄昏時ももうじき終わり、天空が藍色に染まらんとしている時刻。一陣の風が男の被っていたフードを大きくはためかせ、取り払う。

 

 現れたのは白々しいほどの純白の髪。海を掬ったような群青色の瞳は、見るものを透かすような光を蓄えていた。恐ろしく整った中性的な顔は男女の区別がつきにくく、唇は永遠を象徴するように優しい微笑みが湛えられている。右手の指には紅と蒼の指輪が嵌められていた。

 

 男――ギルド《ラフィンコフィン》の副団長アポストルが、藍色の空の下、両手を翼のように広げる。眼下には、少年を探す優しき街の住人達。この世界で戦うことを諦め、しかし、それでも生に執着する強き人々。

 

 ああ、なんと美しきかな。

 

 いまから私は、この光景を地獄へ変える。

 

「さあ、惨劇の幕を開けましょう」

 

 広げた右手でストレージを開く。青いエフェクトと共に表れたのは、血色の装丁をした古い書物。それの表紙を愛おしそうに撫でてから、アポストルは書を開く。

 

 記されているのは赤き鱗に覆われた、一頭の竜。地獄の五十層とまで呼ばれたあの竜の巣に住まう、凶悪なモンスター。

 

 男がシステム画面を操作すると、頁が眩いばかりに光を放った。

 

 そして、絶対的な平和であるはずの《はじまりの街》に、一体の竜が召喚された。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ユキノから連絡を受けて約五分後。俺とサキは指定された場所にたどり着いた。

 

 場所はフィールド南南東にある森エリア。太く力強く伸びる樹木の隙間に、一軒の小さな小屋がひっそりと建っている。俺とサキは無言で小屋のドアの両脇に立つ。

 

 ここは圏外だ。もし中に奴がいるとすれば、即座に命掛けの殺し合いが始まる。

 

 俺とサキの目が合う。たがいに唇だけを動かし、タイミングを合わせる。

 

 一、二、三――!

 

 蹴破るように扉を開き、突進しようとしたところで俺は気づく。中に誰もいない。埃が被ったような小さな部屋の中には、何一つ物が置かれていない。ゆっくりと辺りを見渡し、隠れ部屋などがないことを確認する。

 

 サキも同様に確認していく。

 

 ふと俺が気づく。部屋の中央に一枚の紙が落ちていた。爆発しないよな、と一応警戒しながら紙を拾う。紙には文字が書かれていた。目を通して驚愕、そしてあまりの自分の馬鹿さ加減を呪いたくなった。

 

 サキも覗き、同じく苦い表情を浮かべている。

 

 

 

 ――鬼さんこちら♪ 手のなるほうへ♪

 

 

 

 怒りのままに紙を握り潰す。耐久値が切れたか、俺の拳の中で硝子片となって砕け散った。炎となって燃えるがままの怒りに震え、俺は壁に寄りかかる。

 

 俺たちをここに集めた目的はなんだ?

 

 馬鹿にしているのか?

 

 それとも明確な意味がある?

 

 駄目だ、無駄に焦って思考が回らない。

 

「陽動……」

 

 ぽつりと、サキが呟く。

 

 はっとして俺は顔を上げた。

 

 アホか俺は。なんでそんな簡単なことに気がつかなかった!?

 

 そもそも、あのアポストルが関わっていると、メッセージに書かれていたときになぜもっと思考しなかった!?

 

 壁を思い切り叩きつける。

 

 これは俺の甘い思考力が招いたことが原因だ。この時間ロスの最中、奴らは既に次の段階に動いている。急がなければならない。

 

 時間が惜しい。

 

 転移結晶をストレージから取り出そうとした瞬間、サキが鋭く叫んだ。

 

「来るよ!」

 

 俺は咄嗟に愛用の紅色の短剣《デスブリンガー》とナイフを構える。サキが槍を突きの構えのまま突っ込んだ。

 

 部屋の外から剣戟の音が連続して鳴り響く。

 

 即座に俺も向かうと、九時方向から殺意を感じ、咄嗟にナイフを掲げる。

 

 左手に衝撃と同時、敵の姿が視界に入る。短髪で軽装の男が俺に短剣を向けていた。さほど特徴的ではないと思われたが、額から顎にかけて、なぜか目と口以外覆うように包帯が巻かれている。まるでどこぞの厨二病患者のようではないか。くそったれ、嫌なこと思い出した。

 

 そのままナイフで敵の得物を左に受け流す。崩れた敵の体勢に真紅の短剣を滑り込ませた。一撃を加えると、包帯男が軽業師のようにバク転を何度も繰り返す。

 

 さっと俺は自分のHPバーを見るが、オレンジになっていない。既に敵がオレンジなのだ。

 

 すぐさま敵に注意を戻すと、包帯男が短剣を構えたままニヤニヤと笑っていた。生理的嫌悪感を催すような表情だ。

 

 敵を注視すると、包帯男のむき出しの肩に、刺繍のようなものが刻まれていることに気づく。

 

 重なったふたつの黒い棺桶に、にやりと笑う気色悪い笑みを浮かべた顔。骨だけの左腕。

 

「ラフィンコフィンか……」

 

 背後では剣戟音が続いている。サキがもうひとりとやりあっているのだろう。そちらは特に心配せず、俺は包帯男へと意識を集中させる。サキは大丈夫だ。きっとすぐに片が付く。あいつ、俺より強いんだからな。

 

 包帯男はニヤついたまま動かない。

 

 意図を察し、俺は再び怒りに燃えそうになった。こいつ、時間稼ぎが目的か!

 

 瞬時にソードスキルを発動。絶対不可避の《インビジブルアサルト》を選択。人間の限界を超えた光の速度で俺が包帯男へ斬撃を見舞う。

 

 一撃目!

 

 包帯男が驚愕の表情を示し、ノックバックにより身体が後退。

 

 俺はすぐさま方向転換し、包帯男の背後に止まる位置へ移動を修正。二撃目は食らわせず、首筋に短剣が止まる位置で俺はソードスキルを止めた。

 

「動いたら殺す」

 

 腹の底からドス黒い声を出す。

 

 包帯男のHPは既にレッドゾーンに割り込んでいた。当然だ。この《暗殺者》のスキルは総じて攻撃力が異常に高い。まともにプレイヤーに当てれば確実に殺せる、まさに暗殺スキルなのだ。

 

 だから、早く降参しろ……!

 

 が、包帯男が動く。虚を付かれて俺の動きが固まる。反転した包帯男が俺の腹部に短剣を突き刺す。たまらず俺は下がる。HPバーが僅かに削られるが、致命傷ではない。現実だったらヤバかった。

 

 包帯男が再度後退する。しかし、すぐに俺へと斬りかかれる距離だ。奴のHPバーは更に減って、あと数ドットといったところだ。奴も動いたときに俺の短剣に触れてダメージを受けたからだ。まるで正気じゃない。気が狂っているとしか言いようが無い。

 

 包帯男が、ゆらゆらと、俺を馬鹿にするように動く。その表情に死への恐怖は微塵もない。なんだこいつら。死んでもいいって言うのか!?

 

 マズイ。呑まれている。思考を戻せ。最適解を探し出せ!

 

 殺さずにこいつをどうやって止める……!?

 

「ハチマン!」

 

 包帯男の背後から声。ディアベルがギルドメンバーを率いてやってきたのだ。さすがに包帯男の表情に懊悩が滲む。すぐさま奴がストレージから転移結晶を取り出し、一層主街区の名を告げて転送される。俺はその間、動けなかった。人を殺すことを躊躇した。だがこれでいい。人が人を殺して良い訳が無い。俺は奴らと同じ土俵には立ってなどやらない。

 

「ハチマン! 一体何があった!」

 

 ディアベルが俺のすぐ傍で立ち止まる。思わず背後を見ると、サキが悔しそうな表情で槍を持って俺の下まで走ってくる姿があった。

 

「ハチマン、あいつに逃げられたよ……!」

 

「俺もだ。クソ……!」

 

 俺たちの言葉に、ディアベルが混乱したように首を傾げる。

 

「一体何があったんだい? 説明してくれないか!?」

 

 俺がそれを手で制する。そうだ、いまは嘆く時間すら惜しい。

 

「嵌められた。ここに来てもカイルはいなかった。どこか別の場所に転送させられたんだ。たぶん今、はじまりの街がやばい!」

 

「街が? なにを言って……圏内だぞ?」

 

 ディアベルが分からないといったように言う。まったくだ。俺も分からない。だが、アポストルだけは何をするのかまったく想像がつかない。

 

「まずは戻るぞ! ユキノが心配だ」

 

 ユキノの名前を出すと、全員の表情が強張る。ユキノは今まさに《はじまりの街》にいるのだ。もしかしたら、アポストルに何かされている可能性が高い。マジで俺なにやってんだよ!

 

「時間が惜しい。転移結晶で戻るぞ!」

 

 俺の声と共に、全員が転移結晶を取り出し使用する。

 

 転送の瞬間、俺は祈った。

 

 過去のなによりも切実に祈った。

 

 ――ユキノ、頼むから無事でいてくれ……!

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 一体何が起きているか分からなかった。

 

 突如街に赤竜が現れたかと思うと、街中に竜の咆哮が轟いたのだ。転移門にいた私も訳が分からずその場に固まってしまったほどだ。

 

「逃げろ逃げろ! 殺されるぞ!」

 

 どこからか声が聞こえる。

 

「早く逃げるんだ! 街に竜が攻めて来やがったんだ!」

 

 聞き馴染みの無い声が、あちこちから聞こえてくる。住民を逃がそうと必死だというように。

 

 住人は声を聞き家から飛び出し赤竜の姿を見ると、途端に混乱に陥った。そこへ更に声が重なってくる。

 

「フィールドへ逃げろ! そこなら街よりまだ安全だ!」

 

 その瞬間、住人達が一斉にフィールドへ駆け出していく。安全な圏内である《はじまりの街》から、危険なモンスターが生息するフィールドへ我先にと逃げ惑う。

 

 待って。待って待って待って……!

 

 何かがおかしい。

 

 絶対に、何かが決定的に間違っている!

 

 転移門にいた私は頭がおかしくなりそうになりながらも、必死になって考える。

 

「考えなさい、雪ノ下雪乃。あなた、これでも学年一位なんでしょ!」

 

 口に出して己を叱咤する。

 

 この街は圏内だ。システム的にプレイヤーへ絶対にダメージが当たらない安全な場所だ。例外はデュエルによる殺害のみ。であれば、もし、たとえもし、なんらかの理由でモンスターが発生したと仮定しても、それはなんら問題ないのではないだろうか?

 

 仮に。仮にこれが罠だとしたら?

 

 いま街中から聞こえてくる「逃げろ」という声が、この竜の存在が、すべてが巧妙に仕組まれた罠であったとしたら?

 

 一体、フィールドに向かう住人の前に、何が待ち受けているのだというのだろうか……?

 

 地面が震動する。竜が転移門へ向けて走ってくる。大量の住人が私を通り過ぎてフィールドへ逃げていく。

 

 私は竜越しに、何か白いものを見たような気がした。

 

 旧《アインクラッド解放軍》本部の屋上に、誰かが立っている。それは、白髪の人物だった。記憶を辿る。そんな人物、私はひとりしか知らない……!

 

「アポストル! やっぱりあなたの仕業なのね!」

 

 竜が眼前まで迫る。悪魔の五十層のフィールドに存在し、ディアベルらを苦しめたといわれる赤竜が私の目と鼻の先までやって来る。

 

 恐怖を押し殺し、私は動かない。

 

 やがて、竜の前足が私の身体を薙ぎ払った。

 

 未だかつて無いほどの衝撃。

 

 十メートルは吹き飛ばされ、私の身体が建物に思い切り身体を叩きつけられる。呻き声を上げながらも、すぐさまHPバーを見る。減っていない。かけらも、微塵も、HPは減っていない……!

 

 やっぱりここでは人を攻撃しても死なない。殺せない! なら、いま逃げる選択は絶対に間違っている!!

 

「戻って! みんな! お願いだからいますぐに街に戻って!」

 

 声を張り上げる。しかし、その声も竜の咆哮にかき消されてしまう。

 

 それでもやめない。ここで止めたら、絶対に最悪なことが起こってしまう。その予感に促されるまま、いままで出したことのない怒声すら発して呼びかける。

 

 だというのに、届かない。

 

 竜が、圧倒的な恐怖が、常識を超えて人を突き動かしている。

 

 恐怖の前では、事実など無意味だった。

 

 ――無力。

 

 その一言が、私の身体を動けなくした。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

そこは青白い巨大な水晶が多数浮かぶ、不思議な場所だった。視界のあちこちに光輝く水晶がふわりふわりと上下に揺れ、僅かに背後が透けて見えていた。

 

 大多層の迷宮区とは異なり、そのフィールドは足場がずっと続いているわけではなく、巨大な水晶を綺麗に割ったその表面が足場となっている。

 

 だから、フィールドを移動するためには浮いた水晶を都度飛び移らなければならず、足を踏み外せば底の見えぬ深遠に捕らわれシステム的死に陥ってしまう。

 

 そんな、危険な場所だった。

 

 カイルは、ジョニーとザザに連れられてフィールドをずっと歩いていた。水晶を飛び移るときはザザに抱えられる。着地と同時に乱暴に下ろされ、水晶の端までまた歩かされる。モンスターが現れればジョニーが率先して倒し、数が多ければザザもこれに加わる。

 

 幾度かそれを繰り返したところで、巨大な壁にぽっかりと空いた穴に辿りついた。ジョニーが鼻歌を歌いながら穴へと先導し、ザザがカイルの右腕を掴んでそれに着いていく。

 

 中は鈍く青い輝きに満ち溢れ、きらきらと星が瞬くような一見すると、とても綺麗な場所だった。カイルは、状況の酷さも忘れ、思わず見入ってしまう。あの三人と一緒に来たい場所だと思わず思った。

 

 ジョニーの足が止まる。大きく腕を振って声を張り上げる。

 

「お~いヘッド~! 連れてきたよ~!」

 

 声の向こうから、人影がゆっくりと歩いてくる。水晶の光に当てられ姿を見せたのは、黒いポンチョに目深に伏せられたフード姿の男だった。

 

 だらりと力なく下げられたその右腕には、中華包丁もかくやの巨大な肉厚ダガー。表面は血に濡れた様に黒ずんだ赤に塗れ、見る者を恐怖に陥れるような威容さをかもし出していた。

 

 カイルは思わず喉の奥で悲鳴を上げた。まるで、その男が死神のように思えたからだ。

 

「Poh、連れて、来た」

 

 ザザが掠れた声で、黒ポンチョへ重ねて告げた。

 

「Good job! 良い仕事だふたりとも」

 

 Pohが張りのある艶やかな声でふたりに応える。Pohの視線がふたりからカイルへ移る。まるで食品を値踏みするかのような視線で見られ、カイルは恐怖で身体が震えた。

 

「Welcome to our home! ここに足を踏み入れたのは俺たち以外にはお前が初めてだろう。なに、遠慮することはない。くつろいでくれ」

 

 言葉とは裏腹に、その声には言いようのない異質さが含まれている。例えるなら、家に入ってきた虫に対して言っているかのような、そんな声だ。いつでも殺せる者に対して告げるような、そんな軽々しい声。

 

 カイルは敏感にその声に反応した。身体の震えがより一層大きくなる。ジョニーも、ザザも恐ろしかった。それでも、この目の前にいる男Pohに比べればまだまともな方だ。この男は、あまりにも狂っている。

 

 どこまでカイルがそれを正確に頭の中で思い浮かべられたのかはわからない。だが、カイルの本能がPohを怖れた。この世のなによりも恐ろしいと認めた。

 

 突然、Pohがジョニーを見た。

 

「おいおい、左腕はどうした? まさか斬っちまったのか? あ?」

 

 部下をたしなめる上司のような声を投げられ、ジョニーが小さくなる。

 

「ごめんよ~ヘッドぉ。我慢できなくてさぁ」

 

「大切なゲスト様だ。丁重におもてなしをしろ」

 

 しゅん、としたジョニーがすぐさまPohに頭を下げる。次にPohの視線がザザへと向かう。

 

「ザザ、お前はこいつのストッパーだ。何をしていた?」

 

 Pohの静かな怒りに、ザザの眼光が弱くなる。

 

「すまない……Poh。ホーリィと、ジョニーを、止められなかったのは、オレの、責任だ」

 

 Oh! とPohが手を額に当てると、芝居がかった仕草で天井を仰ぐ。

 

「またホーリィの野郎か。あいつ、粋なことを思いつきはするが、たまにタガを外しやがる」

 

 しばらくそうしていたPohだったが、すぐにHAHAHAと愉しそうに笑った。

 

「まあ、大して問題はないな。首尾は上々、餌はまいた。あとは釣竿に魚がかかるのを待つだけだ。奴には脚本賞でもやりたいね」

 

「まったく、だ」

 

 ザザもPohに同意する。

 

「だよね! だよね! オレ超楽しみ!」

 

 ジョニーは終始嬉しそうに跳びはねている。

 

 Pohが一歩足を踏み出し、馴染んだように台詞を口にする。

 

「さて、It's show time――!!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 街の住人達は、死に物狂いで竜から逃げた。背後からは竜の走る轟音。時折吐かれるのは地獄から舞い上がったような獄炎。誰しも死を覚悟し、それでも生に執着するべく必死に逃げた。

 

 やっとの思いでフィールドに出たとき、彼らはあることに気がついた。

 

 大勢の人影がフィールドにいる。

 

 そのとき、彼らは攻略組が自分達を助けるために駆けつけてきてくれたのだと思った。そして喜んだ。これで自分達は助かるのだと。ある者は安堵し、またある者たちはその場で抱き合った。

 

 だが、それもうたかたの夢だった。

 

 すぐに夢の泡ははじける。

 

 まず、先頭にいた青年の首が、なんの前触れもなく飛んだ。やったのは、フィールドにいた人影の一人だった。そこから、地獄が始まった。

 

「ひゃっは――――! カーニバルの始まりだ! 野郎ども! 殺せ殺せ殺せ殺せ――!」

 

 フィールドで待ち構えていたやつらが狂った叫びを上げる。

 

 訳も分からない住人は、そこで足を止めた。背後からは竜が追ってきて、前からは自分達を殺さんと殺到するレッドプレイヤー達。

 

 そして、すぐにパニックが生まれた

 

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 

 最初に叫んだのはひとりの若い娘。そこから次々と慟哭の輪唱がはじまった。

 

「だれか助けて!」「逃げろ! 街へ戻るんだ!」「竜がいる! どうすればいいんだ!」「なんでフィールドなんかに逃げたんだよ! 街は圏内だろうが!」「そんなこと言ってる場合じゃないよ!」「やめて! 殺さないで! 助けて! 誰か――」「殺される殺される殺される殺される……!」「お願いだから殺さないで!」

 

「殺せ殺せ!」「ホーリィが創り上げた舞台だ。盛り上がろうぜ!」「あひゃひゃ! これで三人目~♪」「はい残念、オレ五人目だぜ」「逃げろ逃げろ雑魚ども! 俺たちと竜に殺される前になあ!」「腕を斬って足を斬ってワン・ツー♪ ワン・ツー♪ 休まないで殺せ~♪」

 

 

 

 人の世の業がそこにはあった。

 

 待ち構えていたラフィンコフィンは、圏外へと誘き出された住人たちへと一斉に斬りかかり、次々と殺していった。最後尾で難を逃れる寸前であった住民も、背後に迫っていた竜の息吹によって焼かれて死んだ。逃げ惑う住人かと思われた者の中にも、ラフィンコフィンのメンバーは紛れていた。集団の前後、そして中から次々と殺されていく住人たち。

 

 阿鼻叫喚とは、まさにこのことかと言わんばかりの悲惨な光景が繰り広げられていく。

 

 誰もがこの日のことをこう振り返る。

 

 あれは虐殺の祝祭だったと。

 

 いつの世も、地獄を作るのは人なのだと――

 

 



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いつの世も、地獄を作るのは人である 4

 転移結晶で《はじまりの街》に戻った俺たちは、即座に辺りを見回した。誰もいない。普段はいかばかりかいるはずの人の気配がまったく無い。

 

 だが、俺の視界がひとりの少女を捉えた。ユキノだ。彼女が建物に寄りかかるようにして座り込んでいる……!

 

 すぐさま俺とサキ、ディアベルがユキノへ駆け寄る。ユキノは俺たちに気づいてもいないかのように、目を見開き、身体を震わせ、放心状態になっていた。ディアベルがユキノの両肩を掴んで揺さぶる。

 

「ユキノ! ユキノ! オレだ、ディアベルだ! 一体何があった?」

 

 ユキノの瞳に僅かながら光が宿る。視線がディアベルを捉えると、その美しい瞳に涙が溢れた。

 

「ディアベル……。街が、街が……」

 

 両手で顔を覆ったユキノが嗚咽する。こんなユキノの姿、俺は見たことが無い。彼女がここまで動揺、狼狽する姿が、事態の酷さを物語っているようだ。嫌な予感しかしない。訊きたくなどない。だが、訊かなければならない。

 

「ユキノ、俺だ。ハチマンだ」

 

 ユキノの瞳が俺を移す。ああ、ああ……と涙を零しながら俺を見る。

 

「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」

 

 ユキノが謝罪ばかりを口にする。俺はユキノのあまりの精神状態の酷さに唖然としそうだった。

 

こいつをここまで壊したのはなんだ? 俺がちんたらやっている間に、この街に一体なにが起きた?

 

 サキが俺の腕を抱く。サキもユキノの状態を不安がっているのだ。

 

 喉の奥で悲鳴が上がりそうになる。落ち着け。冷静になれ。お前がこの状況を把握しないで誰がする?

 

 俺は膝をついてユキノと視線の高さを合わせる。ディアベルには悪いが、いまは俺が話させてもらう。

 

「謝るな。お前は悪くない。なにもだ。教えてくれ、この街に何が起きた?」

 

 ユキノが手を下ろす。しばらく嗚咽していた彼女は、やがて、つっかえつっかえ言葉を口にする。

 

「竜が、街に現れて……。誰かが、逃げろって扇動して……。みんな、フィールドへ逃げて。アポストルが、元《軍》の屋上に居て。でも、ここは圏内だから、攻撃されても、大丈夫で……。私、必死に叫んで、なのに、誰も訊いてくれなくて……私、私がもっと、もっとしっかりしていれば……!」

 

 ユキノには珍しく、脈絡のない喋り方。だが、俺はいま言葉だけで状況をすべて察した。状況は最悪の一言に尽きた。奴が描いたシナリオも、おおよそ想像がつく。想像などはしたくないが、情報が揃えばできてしまうこの頭がいまは憎い。

 

 無言で俺が立つ。

 

「ユキノ、みんなはどっちへ向かって行った」

 

 ユキノが指を指す。

 

 指し示した方向へ、俺は何も言わず全力で駆け出した。背後からディアベルとサキの声が聞こえる。いまはそれすら振り切ってただ走った。

 

 俺が予想したシナリオはこうだ。

 

 アポストルは何らかの理由でカイルがユキノと関わりを持つ少年であることを知った。以前のことでユキノと俺に執着していただろう奴は、カイルを誘拐し、あの小屋へ連れて行った。恐らくそこにラフィンコフィンの仲間がいたのだろう。

 

 そしてカイルのシステムウインドウからユキノへメッセージを投げ、俺たちをそこへ導いた。奴らはその間にカイルを転移結晶で連れ去り、アポストルは《はじまりの街》へ戻った。

 

 奴は、アポストルは、俺やサキと同じなんらかのユニークスキルを持って、街の中に竜を放った。圏内であるから、本来プレイヤーは殺せない。殺せるのはデュエルのみのはずだ。だが、恐らく街中にはラフィンコフィンの連中が紛れ込んでいた。そして扇動した。逃げろと。逃げなければ殺されると。街中は初めての光景にパニックに陥り、促されるままフィールドへ逃げた。

 

 そこで待ち受けているものは何だ?

 

 奴らがやりそうなこととは一体なんだ?

 

 ――ひとつしかありえねえだろうが……!

 

 虐殺。

 

 やつらはこのSAOで初めての人殺し集団。レッドプレイヤー。

 

 ならば、やることは虐殺ただひとつ。

 

 俺はこのとき、自身の甘さを呪った。かつて、三度もこの状況を覆せるだけのチャンスがあった。

 

 ひとつ、アポストルと対峙したとき。奴を捕らえられなかったのは俺の責任だ。

 

 ふたつ、初めてPohと対峙したとき。奴を野放しにしたは俺の責任だ。

 

 みっつ、包帯男と対峙したとき。奴をすぐさま殺して戻ってくれば、あるいは街を救えたかもしれない。

 

 すべてだ。すべてが俺の甘さに繋がっている。過去の過ちがいまの現状を引き起こしている。

 

 たった数時間だ。

 

 数時間前まで、俺は仲間と結婚式について語り合っていた。未来の幸せに、今の幸福に酔っていた。それが、ただの数時間で地獄へ突き落とされた。

 

 これが、本当のSAOなのだと言わんばかりに。これこそが、このゲームの本質なのだと訴えかけられているかのように。

 

 狂いそうだ。

 

 狂ってしまいそうだ。 

 

「うがあああああアアアア――――!!」

 

 走りながら咆哮する。

 

 何か叫ばないとおかしくなりそうなんだよ!

 

 転移門から数十秒。サバイバルヘイストの恩恵を受けた俺の疾走は、瞬く間に俺の身体をフィールドと圏内の境界へと運んだ。

 

 そして――

 

 きっと見てはならないものを見てしまった――

 

「これは、なんだ……?」

 

 呆然と呟く。

 

 眼前で繰り広げられている光景が、あまりにも非現実的すぎて、俺は我を失いそうになった。

 

 人が死んでいた。

 

 人が人を殺していた。

 

 赤竜が人を殺していた。

 

 人が硝子片となって宙を舞う。

 

 人が死んでいく。次々に死んでいく。叫び声が、慟哭が、助けを求める声が、辺りに響いて轟いて、そして人が殺されていく。無残に、残酷に、残忍に、情け容赦なく、ラフィンコフィンのメンバーが、赤竜が、街の住人を殺し尽していく。

 

 地獄だ。

 

 これは地獄だ。

 

 これを地獄と言わず、なんと呼ぶ……?

 

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああ――――――」

 

 身を引き千切るような絶叫が、俺の口から迸った。

 

 身体が自然と動いていた。《デスブリンガー》が血を欲しているかのように、怪しく、紅く光った。

 

 まずは竜を殺す。単なる短剣ソードスキルで容易く殺す。

 

 そのまま、俺は無意識にソードスキルを発動。もはや何も考えず、この場をただ止めるためだけに、決して人に向けてはならないソードスキルを連続使用する。

 

 インビジブルアサルト――瞬間移動をしながらの二連撃。

 

 ふたりの首が飛ぶ。

 

 シャドーエッジ――目にも留まらぬ速さで繰り出される十二連撃。

 

 三人を八つ裂きにする。

 

 オクトアサルト――インビジブルアサルトの倍近い距離を瞬時に移動し、その間に居るすべてに対して凶悪な八連続攻撃を叩き込む必殺技。

 

 四人を死の嵐に巻き込む。

 

 そこで、ようやくラフィンコフィンのメンバーが俺に気づく。だが、すぐに彼らの視界から俺の姿が消える。

 

 インビジブル――完全に透明となり、敵から姿を認識されなくなる。

 

 ラフィンコフィンの背後に回り、俺は狂ったようにソードスキルを放つ。

 

 アサシネイション――インビジブル状態時に使用可能な凶悪な四連攻撃。最初の三連斬りで一気に四人を斬り刻む。最後の一撃、防御不可の特性を付与された突きで、ひとりを完全に貫き殺す。

 

 ラフィンコフィンの残りメンバーが俺に殺到する。周囲を囲まれ、普通であれば絶対絶命の状態。だが、俺は更にスキルを重ねる。

 

 フローズン・ファウスト――サバイバル・ヘイストの熟練度を最大まで上げたときに現れたスキル。スキル起動と共に、十メートル圏内にその効力が適用される。

 

 その効力は加速と減速。サバイバル・ヘイストの真逆の効力を強制的に敵へ適用させる。その効果、数値にして通常時の〇.四倍まで速度と跳躍力を落す。逆に、俺は二.五倍まで上昇。

 

まるで映像をスローモーションにしたように動きが鈍くなった連中の首に、俺は《デスブリンガー》を通していく。

 

 いとも簡単に首が飛ぶ。首が飛ぶ。首が飛ぶ。

 

 次々と死んでいくラフィンコフィンのメンバー。

 

 死の舞踏――トーテンタンツ。

 

 ……。

 

 後に、総勢二十五名いたとされるラフィンコフィンのメンバーを、このとき俺は――

 

 殺し尽した。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「ハチマン!」

 

 ユキノから話を聞いたハチマンが、あたしの声を振り切ってひとりで走っていった。あたしとディアベルはすぐさま彼を追う。だけど、俊敏に特化したステータス、そして《サバイバル・ヘイスト》による恩恵によって、見る見るうちに距離が離され、ハチマンの姿が見えなくなってしまう。

 

 彼をひとりにしてはいけない。あたしの本能が狂ったように叫んでいる。

 

 早く、早く、なにより早く、彼の傍に駆けつけなければならない。

 

 ハチマンの叫びが聞こえる。

 

 早く、もっと早く!

 

 なんでこの身体はこんなにも遅いの! ハチマンが苦しんでいる。決して行っては行けない場所にひとり行こうとしている! なのに、あたしはどうしていま、ハチマンの隣にいないの!?

 

 フィールドまではあと半分。

 

 そこで、未だかつて無いハチマンの慟哭があたしの身体を震わせた。

 

 ああ、ああ、ああ、ああ、ああ……!

 

 駄目だ、駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!

 

 彼をひとりにしては駄目だ!

 

 あたしが走る。ディアベルが必死についてくる。

 

 やっとの思いでフィールドと圏内の境にたどり着く。

 

 そして、あたしは見てしまった。

 

 もはや藍色に染まった空の下、白のマフラーが縦横無尽に走っている。紅の斬閃が荒れ狂い、次々とプレイヤーが結晶となって淡い光を撒き散らしている。怯える住人。ラフィンコフィンに囲まれるハチマン。

 

 そして、ラフィンコフィンらの動きが急に鈍くなる。そして、加速したハチマンが暴れて狂う。一気にラフィンコフィンが霧散して消える。

 

 あたしは動けない。ディアベルも隣で固まっている。

 

 ハチマンが、紅の短剣とナイフを握り、あたしがクリスマスにプレゼントしたマフラーを風になびかせて立っている。

 

 やがて、ハチマンによる二度目の慟哭がフィールドに響いた。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「アアアアアアアアアアアアあああああああああっ――――! アアアアアアアアアア――――! ああああああああああああああああああああああああ――――!」

 

 聞いたこともない悲しい声が聞こえた。心を苦しみと悔恨で揺さぶるような、切ない声だ。

 

 それが、自分の口から出ているものだと、俺は気づかなかった。

 

 心が痛い。胸が苦しい。俺はやってはならないことをした。人を殺した。殺意のまま、身体の動くまま、殺して、殺して、殺して殺して殺して殺して、殺し尽した――!

 

「あああああああああああああああああっ――――――! ひいいいいいいいあああああああああああああああ――――!」

 

 俺は泣いていた。俺がいた世界は、こんなにも悲しいものなのかと。絶望のまま狂ったように叫んで、慟哭して、喚きながら泣いた。

 

 頭を抱える。うずくまる。誰かが近づいてくる。分からない。誰の声だ。分からない。聞こえない。俺の声ですべてがかき消される。真っ暗な闇の底に落ちてしまったかのようだ。

 

 誰でもいい。誰でもいいから、俺をこの闇から救い出してくれ――!

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ハチマンが泣いている。あのハチマンが、苦しみに喘いで泣き叫んでいる。聞くものを苦しみに喘がせるような声で泣いている。

 

 あたしは居てもたってもいられずに、ハチマンへ駆け寄って抱きしめた。ディアベルも続いて彼を抱きしめる。

 

「ハチマン! ハチマン! あんたの所為じゃない! あんたは悪くない! だから大丈夫! 大丈夫だよ!」

 

 ハチマンは聞こえていないというように首を振り、声を振り絞っている。あまりの光景にあたしも泣いていた。ディアベルすら涙している。

 

「ハチマン! 落ち着くんだ! オレだ、ディアベルだ! 君の大事なサキさんもいる! 君の傍にいるんだ! 落ち着いて、落ち着いてくれ!」

 

 ハチマンの慟哭が止まらない。何も見えていないように、助けを求めるように手を伸ばしてもがいている。あたしは必死になってその手を掴んで握った。

 

「ハチマン、もう大丈夫だから。みんな助かったから。あんたが助けたんだよ。ねえ、ハチマン。あんたがみんなを救ったんだよ」

 

 ディアベルが声を震わせながらあたしの言葉に続く。

 

「そうだ! 君が救ったんだ! あの悪魔どもから君が人々を救ったんだよ! 誇らしいことじゃないか! 君は悪くない! 悪くなんてないんだ!」

 

 届かない……!

 

 あたしたちの声がハチマンに届いてくれない!

 

 一体どれだけの絶望をその身に宿してしまったんだろう。どうしてあたしはそのとき隣に寄り添うことができなかったんだろう。どうして! どうして!!

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 そのとき、この場にそぐわない拍手の音が聞こえた。

 

 あまりに場違いなその音に、俺は声を止めて顔を上げた。

 

 奴がいた。

 

 あの、すべてを企んだ奴がいた。

 

 憎らしいほど白々しい純白の髪。海を掬ったような群青色の瞳は、悪魔のような光を湛えて怪しく揺れている。恐ろしく整った中性的な顔はもはや人のそれではなく、唇は快楽に浸るように吊りあがっていた。

 

「あ――――アポストルうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――!!」

 

 叫ぶ。喉がかれるほどに叫んだ。

 

 アポストルが笑う。笑う。これほど愉快なことは無いとばかりに。

 

「すばらしい虐殺劇でした! これほど美しい劇は見たことがありません! やはり演者が素晴らしければ、物語はかように素敵なものになるのですね。ああ、自分が憎い。この感情を余さず伝えられる語彙がない自分がもどかしい。ああ、感謝しますハチマン」

 

 祈りを捧げるように、アポストルが俺を見る。

 

 

 

「あなたに出会えて、本当に良かった――」

 

 

 

 殆ど壊れかかっていた理性の糸が、このとき、本当に切れた気がした。

 

「貴様だけは殺してやる……!」

 

 即座に殺しに掛かろうとして、俺の身体が止まる。なんでだ、なんで止まるんだよ。殺させろよ! あいつならいいだろ! あんな邪悪な奴、殺したっていいだろうが! なんで止めるんだよ! 誰だよ邪魔をするのは! もう誰でもいいから殺してやるよ! いいから離せよ!

 

 暴れても暴れても、身体が動かない。何かに邪魔をされて動かない。

 

 その間、アポストルが素晴らしいものでも見るように、口角を吊り上げて嗤っている。

 

「ああ、ハチマン。あなたはなんて素敵な役者だ。フィナーレまであと少しです。私は待っています。この場所で待っています。制限時間はあと十分です。急ぐことです。疾く、行くことです。カイル君が、あなたのことを待っています。Pohと共に、あなたを待っています」

 

 アポストルが転移結晶で消える。残されたのは、アポストルが落とした一枚の紙。

 

 俺は無我夢中でフローズン・ファウストを展開。無理やり拘束を振りほどき、紙を拾って綴られた内容を見る。

 

 場所が書かれていた。

 

 かつて攻略した、危険なフィールドの場所が書かれていた。

 

 俺はすぐさま転移結晶を使う。

 

 もう、なにもかも終わらせてやろう。ただそれだけの誓いを握り締めて。

 

 



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いつの世も、地獄を作るのは人である 5

 ああ、ああ、ハチマンが行ってしまう。

 

 フローズン・ファウストによる強制縛鎖によって、あたしとディアベルの動きを鈍らされ、ハチマンが振り切った。垣間見えたその瞳は、いつも以上に混沌とした濁りに満ちていた。

 

 転移結晶によってハチマンの姿が掻き消える。あたしは手を伸ばしたままの体勢で固まる。ディアベルも動けない。

 

 貴重な数瞬を動揺で費やしてしまう。

 

「サキさん! ディアベル!」

 

 キリトの声が聞こえた。はっとして街の方を向くと、キリトにアスナ、エギルが駆けつけてくるところだった。

 

「なにがあった! ふたりとも、一体なにがあった!?」

 

 エギルがあたし達のそばにしゃがみ込み、普段出さない大声で問う。あたしもディアベルも、すぐには声が出せない。ハチマンのあんな姿を見てしまって、なにも考えられなくなってしまう。

 

「ハチはどうした? 一緒じゃないのか?」

 

 キリトの言葉に、あたしとディアベルの身体がびくんと動く。キリトの眉が上がる。エギルと同じようにあたし達と目線の高さを合わせ、静かに問う。

 

「なにがあった?」

 

 ようやく、唇が動かせるようになった。

 

 ぽつぽつと、起こったことを話す。言葉を重ねるごとに、三人の表情が苦くなっていく。そして最後に、ハチマンのことを伝えた。そこで、全員の表情が固まった。

 

「おい、おい、おいおいおい!」

 

 エギルが目を剥く。いつも落ち着いているエギルが、身体をわなわなと震わせている。

 

「マズイ、マズイぞ! ハチマンのあの性格だと、あいつ……! おい、急いで追うぞ!」

 

 そう、そうなのだ。あのハチマンが、すべてを背負おうとしてしまう彼が――

 

 壊れてしまう――!!

 

 あたしは立ち上がる。少し遅れてディアベルも立ち上がる。全員の表情はもう崩壊寸前だ。

 

「場所はどこだ!」キリトが声を張り上げる。

 

「検索する、待って!」焦燥の声でアスナが答える。

 

「まだかアスナ!」キリトが吠える。

 

 アスナが苦悶の表情でウインドウを操作していく。

 

「出た! ここよ!」

 

 アスナが全員に見せるように検索画面を滑らせた。視線が画面に集中する。

 

 場所は分かった。かつて攻略を終えた階層だ。画面の中で、ハチマンの位置を示す光点がものすごいスピードで動いている。俊敏に特化したステータスとサバイバル・ヘイストを全開にした全力疾走で、ハチマンがあたし達には分からない目的地へ向かって猛スピードで向かっている。

 

 追いつけない。この場にいる誰もがきっと思った。

 

 それでも、それでも……。

 

「行くよ、みんな!」

 

 あたしはそんなもの信じない。絶対に追いついてみせる。

 

 全員が頷き、転移結晶を取り出す。

 

 ああ、神様。

 

 今までろくに祈ったことがないけど、どうかお願いします。

 

 どうか、どうかハチマンを……私に助けてさせて下さい。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 そこではある歌が歌われていた。艶やかな声で、まるで心底愉しいとでも言うように、ある歌が歌われていた。

 

「Eeny, meeny, miny, moe」

 

 地面にしゃがみ込んだPohが、まるで指揮棒でも振るように初期装備のダガーを左右に揺らしながら歌っている。

 

「Catch a tiger by the toe」

 

 それは英語圏で歌われる歌だった。だが、他のメンバーは皆知っているかのように一様に口許を歪めて笑っている。

 

「If he hollers, let him go」

 

 これは、ラフィンコフィンで行われる遊びのひとつだった。

 

 歌の意味は単純だ。

 

 子どもの数え歌。

 

 ――どちらにしようかな、天の神様の言うとおり……

 

「Eeny, meeny, miny, moe」

 

 ダガーの動きが止まる。指し示している先は、カイルの右腕だった。

 

「ひゃっひゃっひゃ! じゃーん! 今回は、右腕~!」

 

 ジョニーが嗤う。ザザも口許が緩んでいる。

 

「んじゃ、今回はこっちだ」

 

 Pohがダガーを一閃する。カイルの右腕を斬り飛ばした。

 

 少年の悲痛な絶叫。

 

 Pohが嗤う。ジョニーが喜ぶ。ザザが赤目を怪しく光らせる。

 

 ただ、カイルだけが泣いていた。

 

「は~い! ヘッド! 次はオレがやる! いいだろ!」

 

 回復POTをカイルへ無理やり飲ませていたジョニーが無邪気に言う。Pohは肩をすくめて立ち上がった。

 

「やりすぎるなよ? Boyは大切なゲスト様だからな。俺たちはホストとして、失礼の無いようおもてなしをしなきゃならねえ」

 

「分かってるって!」

 

 頭陀袋に空いた穴から覗くジョニーの目が、舐めまわすような視線をカイルへ向ける。カイルは思わず逃げようとして、逃げられなかった。瞬時に背後に回ったザザによって身体を押さえられたからだ。

 

 ジョニーが近づく。手にはPohから渡された初期装備のダガー。決して殺さぬよう、生きたまま四肢を切断するラフィンコフィンの残酷な遊戯。

 

 それが、僅か八歳の子どもに対して行われていた。

 

 煉獄すら生温い地獄の光景が、この美しい洞窟の中でただひたすらに行われていた。

 

 唯一の救いは、これがゲームだということだ。少年が感じる痛みは殆どなく、切断された四肢は回復POTによって時間こそ掛かるが元通りになる。

 

 だが、それだけだ。

 

 恐怖が刻まれる。どうしようもないほど、心の奥底にまで絶望が浸透していく。少年の心を悪戯に壊していく。

 

 ジョニーが歌う。無邪気に、残酷に、愉快に、日本語で歌い始める。

 

 PohはそれをBGMに自前のダガーを装備しなおし、宙でまわして唇に笑みを浮かべる。

 

 やがて、歌が終わる。

 

「は~い! 今度は左足だ!」

 

 切断音。カイルの泣き叫ぶ声。ジョニーがケラケラと嗤い、ザザも実に愉快そうに感嘆の声を上げる。

 

 ここに救いはなかった。ただ悪意だけがあった。

 

 ふと、Pohの視界に青色に歪んだ光が生まれた。中から這い出てきたのは、純白の髪を持つ、中性的な容貌の男だった。

 

 Pohはダガーで遊ぶのをやめて男、アポストルに声を投げる。

 

「よう、ホーリィ。回廊結晶とは、随分と高いもん使ったな」

 

「ああ、当然ですよPoh。これからが最高のフィナーレです。最前列で鑑賞したいに決まっているじゃありませんか」

 

 唇に美しい微笑を湛えたアポストルが、実に実に喜びに満ちた声でPohへ返した。

 

 それで、とアポストルの視線がカイルへと移る。HPこそグリーンであるが、いまは左足が無くなっている。

 

「実に愉しそうなことをしていますね」

 

 ああ、とPohが頷く。

 

「これがオレたちのおもてなしってやつだ。他じゃ味わえないフルコースを堪能してもらってる」

 

 お前が教えてくれたお遊戯だよ、とPohが付け加えた。アポストルがアルカイックに微笑む。

 

「刻限までまだ少しあります。楽しんでいただきましょう」

 

「だ、そうだ。副長からの指示だぜ。お前ら、Boyにもっとおもてなしをしてやれ」

 

 Pohが口角を吊り上げてふたりに命じる。

 

「オッケー!」

 

 ジョニーが元気よく答える。

 

「じゃあ、次は、二本ずつ、行くか」

 

 ザザが赤目を怪しく光らせる。

 

 歌が始まる。残酷な未来しかない、愉快な曲調の歌が始まる。

 

 Pohはそれを満足げに聞きながら、目線をシステム端へと移す。

 

「あと八分ってとこか。奴は来ると思うか?」

 

「ええ、来るでしょう。それがあなたの希望なのでしょう?」

 

 ああ、とPohが答える。ダガーを握る手が歓喜に震えていた。

 

「奴と殺り合いたくて仕方がねえ。それでずっとウズウズしてたんだからよ。だから、この脚本を書いてくれたお前には礼を言うぜ、ホーリィ」

 

 カイルが泣き叫ぶ。

 

 そんなことなど関係ないとでもいうように、アポストルがうんざりとしたようにPohへ言った。

 

「でしたら、そのホーリィというのはやめていただきたいのですが。皆が私のことをそう呼ぶんですよ」

 

「白々しくていいじゃねえか。お前みたいな奴が、聖なるかな、なんてな」

 

「まあ、割と気に入っている偽名ではありますがね」

 

 不意に、雑談に興じていたふたりの耳に、足音が届いた。しゃがみ込んでいたPohが立ち上がり、アポストルが両手に針を装備した。

 

「奴か? 随分と速過ぎる気がするが……?」

 

 Pohの瞳に疑惑の色が混じる。アポストルも同様に、表情には疑問。

 

 やがて、ふたりの前に足音の主が姿を現した。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「テメエら、何やってやがる……!」

 

 クラインが怒りを押し殺した声で言った。その後ろに隠れるように、フードを被ったアルゴがいる。

 

 クラインの眼前には、Pohとアポストル。その背後には幹部であるジョニーとザザがいた。幹部ふたり間に挟まれるように、手足を失った少年が泣きながら転がされている。

 

「クライン、それにアルゴか……」

 

 Pohがクラインと後ろに隠れるアルゴの姿を見て、残念そうに言った。アポストルも額に手をあてて嘆いている。

 

「おい、脚本と違うぞ? どうなってんだ?」

 

 Pohの視線がクラインからアポストルへ向かう。アポストルはただ微笑みながら首を振る。

 

「どうしたものやら。筋書きとは異なることが起きているようです」

 

「何やってやがるって訊いてンだよ!」

 

 一向に返事の無い二人に対して、クラインが怒声を浴びせた。

 

 舌打ちしたPohが肉厚ダガー、メイトチョッパーを肩に担ぐ。

 

「脚本に従って招いたゲスト様をおもてなししてるのさ」

 

 さも当たり前だというように、Pohが答えた。クラインの右手が勝手に刀の柄に触れた。あまりの怒りに手が震え、刀がこれに呼応しカタカタと音を鳴らす。

 

「で? 何しに来たんだクラインさんよお? 情報屋までいやがるし」

 

「テメエらを探してたンだよ」

 

 ほぉ、とPohが面白そうに唇を歪める。

 

 クライン、アルゴの両名は、この一週間ラフィンコフィンを追い続けていた。

 

 ことの発端はアルゴが掴んだ情報だ。ラフィンコフィンが近々盛大に動く。確かな筋から得られたこの情報を受けたアルゴは、まずクラインへと情報を流した。なぜなら、アポストルやPohと因縁があるハチマンを極力関わらせたくなかったからだ。クラインはこれを呑み、一部ギルドメンバーを動員してアルゴの情報収集に協力した。

 

 そして、必死の情報収集の結果、今日何かが行われることが判明した。それを阻止するべく、クラインとアルゴはたったふたりで敵の本拠地まで向かったのだ。判明したときには、既に時間がなく、決死の覚悟でふたりは来た。ただ、仲間を、標的にされていたハチマンとユキノを助ける一心でここに来た。

 

 だというのに、目の前で起きている光景はなんだと、ふたりは思った。

 

 大勢が集まっていると思われた場所には、四人とひとりの少年しかいない。なにより、少年に対し明らかな拷問行為が行われている。平然と、歌でもうたいながら、遊びに興じるように。

 

 狂っている。

 

 クラインの眉間に皺が寄る。アルゴですら、怒りに震えていた。

 

 そんなふたりを見て、Pohはひゅーと口笛を吹いて答えた。

 

「ジョニー、ザザ、遊んでさしあげろ」

 

 その瞬間、拷問で遊んでいたふたりが、クラインらに向けて走り出した。クラインが叫ぶ。

 

「下がれアルゴ! オレがやる!」

 

 クラインが右足を前にした前傾姿勢。アルゴが言うとおりにその背後に回る。ジョニーとザザが嗤い声を上げながらクラインへと殺到する。

 

 その瞬間、クラインが動いた。刀を納刀したまま前方へ突進。ふたりとすれ違う寸前で螺旋回転をし、抜刀。瞬時にふたりの身体を斬り裂いた。

 

 ジョニーとザザの表情に驚愕。三分の一ほど削られるHPバー。その致命的な間に、クラインは動いていた。背後からの刀での袈裟斬り、そして刀を切り返しての斬り上げ。V字型に引かれた斬閃が、ふたりのHPを更に削り、レッドゾーンまで追い込む。

 

 圧倒的な強さ。その様を見て再びPohが口笛を吹く。

 

「すげえな、これが抜刀術とやらか。初めて見る」

 

「ええ、とても美しい」

 

 アポストルもこれに同意する。

 

 クラインがジョニーとザザの首の間に差し込むように刀を伸ばし、Pohへ視線を投げる。

 

「こいつらを退かせろ。テメエとサシでケリをつけてやる」

 

 Pohが肩をすくめる。まるで心底残念だというように。

 

「誠に恐縮だが、先約があるんでな。アポストルとそいつらと遊んでくれ」

 

 アポストルが微笑む。ジョニーとザザも笑った。

 

 クラインだけが意味が分からないというように眉をひそめる。

 

「ダメだクライン!」

 

 アルゴが叫んだ。クラインは咄嗟にその場にしゃがむ。首のあった場所へ針と、そしてジョニーとザザによる斬撃が走った。クラインは心底驚いた。ふたりを確実に殺せる状態にしていたにも関わらず、躊躇なく動いた。まるで、死など怖れていないかというように。

 

 クラインが舌打ちして、上体を下げたまま紅色の刀身を横一閃。ジョニーとザザの足首を切断! 急所を外したことでHPバーが死亡ぎりぎりまで割り込むが、ふたりの動きは止まらない。

 

「クソッ!」

 

 悪態をついたクラインの後頭部に針が刺さる。僅かな痛みと共に身体が前方に吹っ飛ばされる。即座にクラインは左手を地につけて回転し、地面に降り立つ。すぐ傍にはアルゴが武器を構えている。

 

「おいおいおい、テメエら命が惜しくねえのか?」

 

 クラインの声に、Pohが呆れたように答えた。

 

「なに言ってやがる? 死を与える者が死を怖れてどうすんだ?」

 

 アポストルが微笑む。まさにその通りだと言う様に。

 

 訳が分からずクラインが叫ぶ。

 

「あンだって!?」

 

 アポストルが告げる。

 

「我々がただ快楽のため、殺戮に興じているとお思いで? 確かにそれもありますが、我々はあなた方を救っているのですよ。この狭く苦しい世界の中で、救いを与えているのですよ」

 

 Pohが首を振った。

 

「そりゃ見解の相違だな。それが本音か疑わしいが、オレは別だ。どっちにしろ一緒にしてもらっちゃ困る」

 

「寂しいこと言いますねえ。同士だというのに」

 

 ふたりのやりとりの意味がクラインには分からない。アルゴも固まっている。ジョニーとザザが這うように近づいてくる。HPバーは依然として数ドットしか残っていない状態だ。だというのに、まるで水を得た魚のように、目を爛々と輝かせている。狂気の光だ。

 

「オレは死に肉薄するほど感じる快楽を得られりゃいい。なら、死を怖れる必要はない。それだけだ」

 

 メイトチョッパーで肩を叩きながら、Pohが当たり前のことでも告げるように言う。

 

「狂ってるヨ。あんたラ」

 

 アルゴが震える声を出す。クラインも同じ気持ちだった。

 

 さて、とPohが言う。

 

「そろそろ時間だ。ホーリィ、新たなゲスト様を迎える必要がある。こいつらを掃除しろ」

 

「承知」

 

 アポストルがストレージから血色の装丁をした古い書物を取り出す。

 

 ユニークスキル《魔獣使い》を習得したときに得た、Mobを収納する書物だった。ここSAOには、ビーストテイマーと呼ばれる、Mobを従える一部のプレイヤーが存在する。それを極限まで発展させたのがこのスキルだった。

 

 所有者が倒したMobを書の頁に封じるのだ。その数、全二百。一度に召喚できる数はMobの強さと熟練度に応じて変動するが、敵の虚をつくには最高のスキルだった。

 

 書物がアポストルの意思に呼応するように怪しく光る。

 

 クラインとアルゴの背筋に怖気が走った。

 

「さあ、フィナーレと行きましょう」

 

 書物から光が溢れる。

 

 

 

 その瞬間、アポストルの首が、何の前触れもなく飛んだ。

 

 

 

「な……に……?」

 

 宙を舞うアポストルの顔に驚愕が生まれる。その掠れ始めた視界が捉えたのは、どす黒く混沌に揺れた腐った瞳。白いマフラーに深い臙脂のコート、黒のボトム姿の少年。右手に握られているのは、もはや血色にしか見えない短剣《デスブリンガー》。

 

「死ね。すぐ死ね。さっさと死ね。地獄に堕ちろ」

 

 そして、アポストルの身体が斬り刻まれる。いままでの恨みをすべて晴らすかのような、圧倒的な斬撃量。

 

 これにはさすがのPohも驚いていた。

 

「おい! こいつどっから現れやがった!?」

 

 Pohの言葉に、クラインとアルゴだけが答えを知っていた。

 

 インビジブル。そしてアサシネイション。加えてのシャドーエッジ。《暗殺者》のスキルをこれでもかと駆使した、殺意に溢れた連続攻撃だった。

 

「は、ハチ……なのか?」

 

 クラインが怯えるように言う。アルゴも信じられないと首を振った。

 

 いま眼前に立っているのは、見知ったハチマンなどではない。やる気がなく、夢は専業主夫だと声高に叫び、口癖は働きたくねえ。それでも何かがあればすぐに行動して誰かを助ける。そんな愛すべき友人の面影がどこにも見つからない。

 

 いまここにいるのは、すべてを狂気にゆだね、全身から殺意を迸らせたひとりの悪鬼だ。

 

 そこに、回復を済ませたジョニーとザザが殺到した。ハチマンの汚れた眼光がそれを捉えていた。ジョニーが細身の短剣を、ザザがエストックをハチマンへ向ける。

 

 勝負は一瞬で決まった。

 

 クラインの目には、ふたつの線が見えた。ハチマンの身体が白く発光し、紅の線が二度走ったのだ。

 

「い、インビジブルアサルト……」

 

 アルゴが呆然と呟く。

 

 ジョニーとザザの身体が真っ二つになる。HPバーが一瞬にしてゼロとなり、結晶となって砕け散る。

 

 あっけない幕切れだった。アポストル、ジョニー、ザザが一瞬にして殺された。

 

 誰もがハチマンの殺意に言葉を失う中、ただひとりだけが笑っていた。

 

「待ってたぞハチマン! テメエと殺りあうのが心底楽しみだったんだ! さあ、殺ろうぜ!」

 

 Pohが狂気の笑みを浮かべ、メイトチョッパーを構える。

 

「It's show time!!」

 

 Pohがハチマンへ走る。だが、すぐにその歩みが遅くなる。Pohの瞳に驚愕。

 

「フローズン・ファウスト……カ」

 

 再びのアルゴの呟き。

 

「さっさと死ね」

 

 ハチマンの投げやりな声。

 

 そして、ハチマンの姿が掻き消える。瞬間後、ハチマンの身体が、十メートルは移動した場所に何事もなかったように、マフラーを揺らして立っている。

 

 八本の斬閃が荒れ狂う。その光に、Pohの身体が八つ裂きにされた。

 

「オクトアサルト……!」

 

 もうやめてくれと言うように、震えた声でアルゴが言った。

 

「Oh、強すぎるじゃねえか……」

 

 PohのHPバーが急速にゼロになる。身体にヒビが入る。硝子の結晶に舞い散る寸前、Pohが呪うように口にする。

 

「俺たちを、殺し尽しやがったテメエも、立派な、殺人鬼だ」

 

 そして、Pohの身体が消えた。

 

 ハチマンが振り返る。よく見れば、その濁った瞳からは溢れんばかりの涙が流れている。クラインは動けない。アルゴも動けない。

 

 ハチマンだけが動くことを許されているように、ゆらゆらと身体を揺らし、その場に崩れ落ちた。

 

「ハー坊!」

 

「ハチ!」

 

 アルゴとクラインが駆け寄る。ハチマンは頭を抱えてしゃがみ込んでいた。

 

 やがて、この世すべてを一心に呪うかのような慟哭が、洞窟の中に響き渡った。

 

 



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いつの世も、地獄を作るのは人である 6

「以上が、今回の事件の顛末になります」

 

 血盟騎士団本部、団長の執務室。椅子に座したヒースクリフの前でアスナがそう言って説明を締めくくった。その両隣には、証人としてクライン、そしてディアベルが立っている。

 

 窓から差し込む柔らかな春の日差しが、ヒースクリフが珍しく浮かべた陰鬱な表情を照らしている。

 

「何人死んだのかね?」

 

 アスナが事務的に答える。そうしないと、叫んでしまうかというように。

 

「第一層で暮らす住人のおよそ二百名余りがラフィンコフィンによって殺されました。こちらはまだ調査が完了していないので、正確な人数は不明です。そして当のラフィンコフィンは、先に話した通り、Pohやアポストル、幹部含めこちらが把握できる構成員二十九名の死亡を確認しています」

 

「これでも悲惨だが、これだけで済んだのは、ハチマン君の功績だな……」

 

 ヒースクリフが嘆くように言った。

 

 その言葉に反応したのはクラインだ。

 

「功績? 功績だと? ふざけんな! あいつが、あいつがどんな思いでやったのか、テメエは分かってンのか!」

 

 クラインの怒号が執務室に激しく響く。

 

「奴らを野放しにしたのはオレたちだ! オレたち攻略組が、やつらを全うに探して処罰することをしなかったから、こンな胸糞悪い事件が起きた! あいつは、あいつはそれを一人で解決した! しちまった! できるだけの力を持っちまってた!」

 

 クラインが捲し立てる。

 

「あいつの叫びを聞いたか? あいつの嘆きを全身で聞いたか? 聞いてねえだろ!!」

 

 ヒースクリフが顔をひきつらせる。

 

「そんなに、酷いのかね?」

 

「当たり前でしょ!」

 

 アスナが叫んだ。わなわなと全身を震わせ、自身の身体を抱きしめる。

 

「もう私たちの声すら届かない……! 起きるたびに泣き叫ぶの……。寝ているときも悪夢にうなされているみたいに苦しそうで、起きればサキさんの名前を呼んで狂ったように泣いている。あんなハチくんの姿を見て……見て、もうこんな世界は嫌だ!」

 

 遂にアスナが泣き出した。ディアベルがアスナの身体を支える。ここにキリトはいない。エギルと共にサキとハチマンの元にいるのだ。

 

「大丈夫、必ずハチマンは元に戻る。きっとすぐに、働きたくねえ、って言いながら戻ってくるさ。いや、戻してみせる!」

 

 ディアベルが言う。まるで自分でも信じられないかのように、白々しく響く言葉だった。

 

 怒りを無理やり静めるように、クラインが長い、長い息を吐いた。

 

「オレからひとつ要求をしたい」

 

「……なんだね?」

 

 ヒースクリフが額を押さえて返す。

 

「あいつら、ハチとサキさんを前線から外せ」

 

「期間は?」

 

 ヒースクリフの言葉に、再びクラインの怒りが着火する。

 

「テメエは状況分かってンのか!?」

 

「伝聞での限り、彼が酷く精神的に落ち込んでいるのは分かる」

 

「だったらっ! だったらもういいじゃねえか! あいつらに休ませてやってもいいだろうが! これ以上あいつ等を酷使するのか? もう擦り切れちまってンだよ! ハチも、サキさんだって!」

 

 息も絶え絶えにクラインが叫ぶ。

 

「あいつら、現実じゃまだ高校生だぞ! 子どもなんだぞ! 大人の責任をこれ以上おっかぶせんなよ!!」

 

「分かっている。分かっているとも……そんなことは百も承知だ」

 

「だったら……!!」

 

 ヒースクリフも退かない。退くことができない理由があった。

 

「彼らが前線を退いてから一ヶ月。事件の後処理を鑑みても、明らかに攻略スピードが落ちている。ボス戦攻略もそうだ。いつも先頭をきって戦い、類稀なる洞察力で道を切り開いていった彼らがいない。それが何を示すかも、クラインくん、分かっているだろう?」

 

「下手すりゃ、通常のフロアボスでも死人が出るって言いたいンだろ」

 

 ヒースクリフが首肯する。

 

「彼らの存在はあまりに大きかった。誰もが知らず知らずの内に依存してしまっていた。彼らがいれば大丈夫だと。その責任は当然我々にもある」

 

「ならオレがなる」

 

 クラインが一歩前に出る。ヒースクリフの表情に疑問。

 

「なに?」

 

「オレがなるっつってんだよ。テメエら臆病者どものために先頭きって戦ってやるよ。どんなことだってやってやる。それなら構わねえンだろ?」

 

 そこで、アスナを慰めていたディアベルの声が重なる。

 

「オレもなるよ。オレだって彼らに甘えていた。地龍戦の時だって無理強いさせてしまったんだ。これはオレの責任でもある。だから、今度はオレたちの番だ! オレ達が攻略組の希望になる!!」

 

「私もよ……」

 

 しゃがみこんでいたアスナが立ち上がる。服の袖で涙を拭い、決意を新たにした表情で足を進める。

 

「私もなる。ハチ君とサキさんの代わりになる! キリト君だって、きっと同じ気持ちのはずだよ!」

 

 クラインがふたりの言葉に目を潤ませながら、ヒースクリフに告げる。

 

「もう一度だけ言う。ふたりを前線メンバーから外せ! もう、休ませてやってくれ!」

 

 普段欠片も動じることのなかったヒースクリフの瞳に極限の懊悩が走る。やがて、息を吐いて彼らに言った。

 

「……よかろう。各ギルドには私から通達しておく。本日より、ハチマン、サキの両名に対し、本人の許可なく前線メンバーに加えることを禁ずる。これで良いかね?」

 

「ああ、問題ねえ」

 

 クラインが頷く。

 

「そうか、では解散しよう。私もこれから忙しくなる」

 

 会議の終わりを告げたヒースクリフが立ち上がる。

 

 それぞれが、それぞれの思いへ向けて足を動かしていく。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 同刻――三十三層主街区《ラーヴィン》にあるハチマンとサキの部屋。

 

 歌が歌われていた。聴くものを眠りに誘う、やさしい歌が歌われていた。

 

 ――ねんねんころりよ おころりよ

 

 聞こえてくるのは春の陽光で明るい寝室。歌っているのはサキだった。ベッドに横たわるハチマンの傍で、彼の頭を撫でながら、ゆっくりと歌っている。

 

 ――ぼうやはよい子だ ねんねしな

 

 ハチマンは時折うなされるように腕を宙に突き出すも、サキがその手を握ると安心したように再び夢の世界へと戻っていく。

 

 ――ぼうやのお守りは どこへ行った

 

 サキが歌う。ハチマンの悪夢よ去れとばかりに。

 

 ――あの山こえて 里へ行った

 

 目じりには時折涙を浮かべながら、それでも拭って声を震わせずに歌う。決してハチマンを起こさないように。現実の悪夢を見せないように。

 

 そして、リビングにはキリト、エギル、アルゴがいた。三人は沈鬱とした表情でその歌を聴いている。

 

 つい先ほどまで、彼らは暴れるハチマンを抑えていた。ハチマンが起きたとき、丁度視界にサキがいなかった。恐ろしい勢いでサキの名を呼んで荒れ狂うハチマンを、三人がかりで押さえ込んだ。そして、サキの必死の呼びかけでようやく眠りにつかせたのだ。

 

 こんな生活が、もう一ヶ月近く続いている。

 

 あの日、ハチマンは壊れてしまった。

 

 ラフィンコフィン総勢二十九名を殺害したハチマンは、罪悪に耐え切れずその場で発狂。クラインとアルゴ、そして遅れて駆けつけたサキたちは、この世の終わりを見たように感じた。

 

「ハチは、俺たちの英雄だ」

 

 キリトが小さく呟く。ハチマンの眠りの邪魔をしないように。

 

「ハチが全部解決した。俺たち攻略組が全員でやるべきことを、ひとりでやらざるを得ない状況に追い込まれて、それでも解決した」

 

 キリトの表情には苦悩があった。アルゴが一筋の涙を流す。

 

「オレッちがもう少し早く情報を集めることができたラ……」

 

「責任の所在なんていいんだ」

 

 エギルが静かに、しかし聞く者の心に深く染みる声で言う。

 

「いまは、あいつを元に戻す。それだけを考えよう」

 

 歌が響く。

 

 眠りに誘う、やさしい歌がうたわれる。

 

 たったひとりの少年と、それを支える少女のために、出来ることはなにがあるのか。

 

 それがアインクラッド攻略に新たに加わった問題だった。

 

 

 

 

 

 



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幕間
事件の影で、家族も一緒に戦っている


 鏡に映った私の姿は、控えめに見ても綺麗な方だと思う。以前は可愛らしいと近所で評判だった小町ちゃんだけど、いまは大和撫子もかくやのお淑やかな娘に変身したのだ。きっと兄が知れば驚愕に腐った目を落とすはずだ。うちの兄はゾンビか……。

 

 さて。

 

 頬をぴしゃりと叩き、私は大丈夫だと気合を入れて、女子トイレから出た。だけど、すぐに目元が熱くなる。一月に一回は、必ずこういう日がある。だから私はそういうとき、必ず女子トイレに篭るのだ。泣かないように、決して悲劇のヒロインを気取らないように。

 

 茜色に染まる放課後の廊下を進んでいく。こつこつと、リノリウムの床を叩く音が静かに響く。既に部活動が始まる時間はとっくに過ぎていて、どこの教室を覗いても人の姿は見当たらない。季節はもう一月半ばを越えた冬だ。窓の隙間からすうるりと入り込む冷気が寒くてかなわない。

 

 廊下から階段を下りていくと、踊り場でひとりの女子生徒と出会った。

 

「あ、やっはろー小町ちゃん。探したよー」

 

 結衣さんだ。桃色がかった茶髪をお団子にした、お胸がとってもビックな女子生徒だ。ぐぬぬ、結局私はそこまで成長できなかった。遺伝子を恨みたい。

 

「結衣さん、こんにちは。どうしたんです?」

 

 結衣さんの表情が少しだけ落ち込んだように見えた。かつての私を思い出しているのかもしれない。そんな顔をしないでほしい。私は望んでこうなったんだから。

 

「あ、うん。ヒッキーたちのお見舞いに行こうと思って。だから小町ちゃんのこと、探してたの」

 

 私の顔が一瞬だけ強張る。結衣さんは目ざとくそれを見つけて、控えめに切り出した。

 

「急にごめんね、ひとりの方がいい?」

 

 一拍。

 

「すみません。今日は私ひとりで行かせて下さい」

 

 事情を察した結衣さんが、ひとつ頷いて魅力的な微笑みを浮かべた。

 

「ごめんね。じゃあ、私はまた今度行くね! じゃあね小町ちゃん。また明日」

 

「はい、また明日」

 

 元気よく手を振りながら結衣さんが去っていく。私は、何か取り残されたように、しばらくの間その場に立っていることしかできなかった。

 

 殆ど放心状態にいた私が動き出すことができたのは、いかほどの時が経ってからだろう。

 

 私は階段を下りて昇降口から校外へ出る。校門を抜けて、兄が眠る病院へと向かう。

 

 あの日のことを私は決して忘れない。

 

ソードアート・オンラインのサービスが開始する前から、当時の私は兄と喧嘩をしていた。私は普段怒りの感情を表に出すことはないけれど、一度着火すると長く持続するタイプだった。だから、兄が歩みよるのをただひたすらに待っていた。

 

 でも、そんな日が来ることはなかった。

 

 結局、兄と言葉を交わすことは叶わなかった。

 

 ソードアート・オンラインのサービス開始と同時、兄は仮想空間の虜囚となった。当時のことは覚えているが、実は詳細な記憶があまり無い。ニュースを見て兄の部屋へ駆けつけたところまでは覚えている。けれど、そのあとの記憶がぽっかりと空いているのだ。

 

 まるで、たったひとつだけ欠けたジグソーパズルのように。

 

 なんて言ったら、詩的な表現だろうか。兄からダメ出しを食らいそうだ。

 

 だけど、間違いなく私は泣いていた。兄は帰ってこないかもしれないと恐れ、泣き喚いていた。

 

 一日、一週間、一ヶ月と月日は無情に過ぎていき、私は遂に兄への甘えを捨てた。大人になることを決意した。一人称を小町から私へ変え、髪も伸ばし、天真爛漫な私を捨てた。せめて、兄が戻ってきたときに成長した姿を見てもらおうと、それだけに縋ってこうして新たな私を創り上げた。

 

 そして、今日までそれは続いている。兄はあれから一年以上経ってなお、仮想空間から抜け出すことができていない。

 

 そして、私も悲しみの虜囚となったまま、変わらずいまを生きている。

 

 考え事をしている内に、兄が眠る病院へ着く。ロビーへ入り、もはや馴染みとなった看護師さんへ挨拶をし、兄の部屋へと向かう。兄が知ったらきっと喜ぶであろう、たったひとりだけの部屋、つまりは個室だ。

 

 当然、うちはさして裕福な家庭ではない。両親共、兄曰く社畜ではあるけれど、子どもをふたり抱え、家まで建っている以上、金銭的な面では他の家庭と変わりないはずだ。だから、これは政府が出してくれたお金だ。被害者に対する給付金、賠償諸々で現状が成り立っている。

 

 それくらいは分かる程度に、私は賢くなった。やっぱり、昔の私は少しアホだったんだろうか。そうではないと信じたい。

 

 形式的にノックをし、誰もいないことを確認して部屋に入る。兄に似合いそうも無い白で埋め尽くされた病室の中に、ベッドがひとつだけ置かれている。その上に、兄がひとり横たわっていた。腕には点滴が刺されていて、ぽたぽたと栄養が流れ落ちている。兄の命綱だ。頭部には兄を仮想世界の虜囚とした忌まわしき装置がすっぽりと覆っている。

 

 兄の姿は変わった。日々やせ細っていて、そのまま地面から這い出てきたら、目の腐り具合も相まってリアルなゾンビと間違われてしまうだろう。冗談だ。ちょっとした小町的ジョーク。

 

 でも、そんなことを考えていないと、胸が痛くて堪らない。

 

 兄の姿は、今にも死んでしまいそうなほどだ。その姿を見るたび、私は目頭が熱くなる。

 

 いつもは耐えられるそれも、今日だけはもう限界だった。

 

 静かにドアを閉める。そして、鞄を投げ出して兄の下へ駆け寄った。

 

「お兄ちゃん――!!」

 

 大声で泣いた。隣の部屋にも聞こえるほどの大声で、私は叫ぶように泣いた。これを私は毎月繰り返している。

 

 兄がいないのが寂しかった。兄に甘えられないのがつらかった。家に帰っても誰もいない。食事を作っても兄が食べてくれない。兄がいない。ただそれだけで家に言いようのない静けさとやるせなさが溜まっていく。私は日々それを浴びながら生活していて、一月に一度は限界が来る。そんなときは、兄の下でこうして泣く。

 

 泣いて、叫んで、喚いて、そうすればきっともう一月は頑張れる。

 

 それをただひたすらに繰り返している。まるで終わりのない円環を回るようだ。ハムスターの気持ちがいまなら分かるかもしれない。

 

 馬鹿馬鹿しい想像が浮かんで、やっといつもの私に戻ることが出来た。その代わり、兄が眠るベッドのシーツは涙でびしゃびしゃだ。参った。今日は泣きすぎてしまったみたいだ。

 

 どうしたものかと思案しているとき、部屋のドアからノックが聞こえた。

 

 一拍。

 

「はい、どちら様ですか?」

 

 平然とした声を作って答える。

 

「オレっす。大志っす」

 

 以前よりも幾分低くなった声が届く。馴染み深くなった声で安心した。

 

「ああ、大志くんか。どうぞ」

 

 失礼します、と言って大志くんが花を携えて入ってくる。

 

 大志くんも、お姉さんの沙希さんがソードアート・オンラインに囚われている被害者家族だ。初めて病院で遭遇したときは驚いたものだ。まさか、家の兄以外の被害者家族に知り合いがいるなど思いもしなかったからだ。

 

 大志くんが花瓶から萎れかけた花を取り出し、水を入れ替え、持ってきた花に挿しかえる。忘れていた。今日は花を持ってこようと思ったのに、すっかりと頭から抜けていた。

 

 私の視線を感じたのだろう、大志くんが少し疲れた表情で苦笑した。

 

「これくらい構わないっすよ」

 

「ごめんね。ありがとう」

 

 大志くんも、私と同じようにあの事件から変わった。雰囲気から幼さが消え、随分と大人らしい空気を出すようになった。変わらないのは私に対する口調くらいか。

 

 他にも、大志くんは沙希さんが行っていた家事をすべてこなすようになったのだ。勉強と家事の両立は大変だ。ましてや、今までろくにやってこなかった男の子であればなお更に。だけれど、大志くんはくじけずに、ただひたむきに頑張った。私も料理を何度か教えたこともあった。

 

 すごいな、と思う。本当に。心の底から。

 

「小町さんは最近どうっすか?」

 

 泣きはらしたのに気づいているはずなのに、大志くんはそれに言及せず世間話を投げてくれた。彼の優しさだ。私もそれに乗る。

 

「まあまあかな。テストの点数も良かったし。それに、また家族会やるんでしょ?」

 

「もちろんっす。うちの家族も小町さんたちとの家族会を楽しみにしてるんで」

 

 あの事件から、川崎家と比企谷家は家族ぐるみの付き合いをするようになった。共に被害者家族だからだ。そして――

 

 ノックが響く。私はどうぞと言って、来客者を招く。

 

「こんにちは、ふたりとも。やっぱり来てたんだね」

 

 現れたのは、陽乃さんだ。元々大学生で大人びた容貌だった彼女も、随分と雰囲気が変わった。まるで自分を見せなかった彼女も、いまでは私たちに対して心を開いている。事件によって変わった人のひとりだ。

 

「はい」

 

「もちろんっすよ」

 

 薄く微笑んで、陽乃さんが近づいてくる。

 

「三人ともまだ無事でよかった。比企谷くんも沙希ちゃんも、前線で頑張ってるそうだよ」

 

 こうして、陽乃さんは私たちにSAO内部の情報を教えてくれることがある。情報源は相変わらず不明だが、ありとあらゆる手段を用いて得ているらしい。そこは陽乃さんらしいな。

 

「そうですか。家族としては、安全な場所でいてもらいたいですけど。兄らしいかな」

 

「そうっすね。うちも、姉貴らしいっす」

 

 陽乃さんはその答えに安心したように、窓の外を見た。日はもう沈んでいた。そろそろ面会終了の時間が近づいてきている。

 

「折角だから、夕食一緒しない? 家族会のことも、色々話したいから」

 

 陽乃さんの提案に、私と大志くんは頷いた。

 

 雪ノ下家とも、もう家族ぐるみの付き合いだ。

 

「じゃあ、うちに来ますか? チビたちもおふたりに会いたがってますよ」

 

「そっか。けーちゃんやわっくんに会いに行こうかな」

 

 陽乃さんの表情が僅かに暗くなった。

 

 きっと、未だに罪悪感を感じているのだ。

 

 雪乃さんがSAO未帰還者になったのは、陽乃さんが原因だと聞いている。なぜそんなことをしたのか、陽乃さんは語ろうとはしなかったが、いつだったか語ってくれたことがあった。

 

 ――比企谷くんと仲直りしてほしい。

 

 ただそれだけだったそうだ。当時、すれ違いをしていたふたりの仲をなんとか戻そうとしていた陽乃さんは、兄がSAOをやろうとしていることを知った。それで、無理やり機材を揃えて雪乃さんへ送ったそうなのだ。

 

 現実では無理でも、仮想世界ならばあるいは、ということだ。

 

 当時の陽乃さんの荒れっぷりは酷かった。私も大志くんもそうだが、とりわけ彼女は一番酷かった。病院内で泣き叫び、室内で自傷行為にも及んだほどだ。あまりの状況に自殺してしまうかと思うほどだった。

 

 だけれど、いまはこうして持ち直している。三人が生きて帰ってくると信じているからだ。

 

「結衣ヶ浜ちゃんは今日来てないんだ。今日は……ああ、ごめんね小町ちゃん」

 

 陽乃さんが途中で気づいたように、謝罪をする。

 

 そう、私は今日、結衣さんの誘いを断った。理由は単純だ。泣きたかったから。ただそれだけだ。きっと大志くんは私の叫びを聞いていた。聞いていて、落ち着いたところを見計らって入ってきたのだ。

 

 本当に気遣いができるようになったな。思わず好きになって告白して玉砕するまである。玉砕はやだなあ。

 

 結衣さんは、たまに家族会に参加してくれる。私と陽乃さんがお願いしたのだ。最初の家族会の時は酷かった。まるで通夜のありさまで、結衣さんがいてくれなければ一体どんな状況になっていただろう。本当に、彼女には感謝している。兄のことを慕っていてくれ、私たちのことも心配してくれている。素敵な人だ。

 

 さて。陽乃さんが手を叩く。

 

「ふたりとも歩きでしょう? 送っていくよ」

 

 陽乃さんの気遣いに乗りかかって私たちは病室を出る。三人で歩いていると、ふと、兄の声が聞こえた気がした。

 

 ――なあ小町。お兄ちゃん、頑張ってるぜ。これでも結構成長したんだ。だから、いつまでも泣くのはやめろ。苦しむのはやめろ。ひとりにさせちまうのは申し訳ないが、お前も前を向いて頑張ってくれ。

 

 思わず、涙が零れた。いまのは、兄からのメッセージだ。俺は成長したから大丈夫、お前もちゃんと前へ進め……と。

 

「小町ちゃん?」

 

 陽乃さんが振り返る。大志くんも心配したように私を見ている。

 

 違うんです、と私は首を振る。

 

「兄の、兄の言葉が聞こえたんです……。俺は大丈夫だって。お前は前に進めって……」

 

 ああ、お兄ちゃん。

 

 ありがとう。

 

 その言葉で、私は救われたよ。

 

 私も頑張る。

 

 だからお兄ちゃん、早く帰ってきてね。

 

 

 

 



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第六章
ただひたすらに、彼ら彼女らは支えあう 1


 かくして、あたしの日常は地獄へ堕ちた。

 

 最愛の人を狂わせてしまった、罪悪感の牢獄に。

 

 幸せの日々は茫漠とした闇に消え去り、未来が見えない道に迷いこんだ。

 

 部屋にはそれが広がっていた。それは彼の慟哭であったり、あたしの涙であったり、仲間たちの後悔であったりと、目に見えない空気が滞留して、あたしは日々それを身体に取り込んで生きている。

 

 ――引っ越そう。

 

 仲間の誰かがそんなことを言った。ここはあまりにもつらすぎる。もっと緑のある場所へ行こうと。

 

 きっとキリトだったと思う。彼とアスナは、二十二層のログハウスを買ったそうだ。その近くにあるログハウスを買ってみてはどうかと。お金なら工面すると。何も心配する必要はないと。

 

 あたしはそれに何と答えただろう。肯定したのか、否定したのかすら覚えていない。あたしがいつも考えているのはただひとつだ。

 

 愛する人を戻したい。

 

 そのために、あたしができることは、彼が眼を覚ましたときに視界に入るようにする。泣いたら全力で抱きしめる。眠りに付くまで手を握っている。それだけだ。たったそれだけのことしかできない。

 

 いつだったか、クラインとディアベルが来たような気がする。彼らはこう言っていたと思う。

 

 ――もう戦わなくていい。オレたちがすべて片付ける。だから、ゆっくりしてくれ。

 

 殆ど聞き流していたけれど、ただ想いだけは伝わって涙を流したことは覚えている。

 

 アルゴはいつも私の隣にいてくれている。エギルも、殆どの時間をあたしたちのために割いてくれる。最初こそ酷い様だったというユキノも、最近は持ち直して時間を見つけてはあたしたちの下に来てくれている。

 

 ああ、ハチマン。

 

 ねえ、ハチマン。

 

 あたしたちは、みんなに囲まれているよ。

 

 何も見えない真っ暗な場所に迷い込んでしまったけれど。

 

 みんなの声だけは聞こえるよ。

 

 だから戻ってきて。

 

 その声であたしの名をもう一度呼んで。

 

 あたしを抱きしめて。

 

 あなたをずっとずっと、愛しているよ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 SAOに囚われてから、約一年と半年の月日が流れた。現在、最前線は第五十四層である。

 

 その主街区、《ハーレーン》の会議場に、主要攻略組メンバーらが終結していた。今回の首魁はディアベルでもヒースクリフでもなく、《風林火山》のクラインだった。

 

 クラインはいつもの緩んだ表情ではなく、死を覚悟したまさしく漢の顔で全員を見渡している。皆は普段とは違う彼の雰囲気に動揺したように、口々に不安や混乱を声に出していた。

 

 やがて、クラインが静かに言葉を発する。腹の底から出したような、深みのある声だ。

 

「今回集まってもらったのは、オレが言いたいことがあったからだ」

 

 クラインが拳を握る。その手は大きく震えていた。

 

「事件のことは覚えてンな? それを誰が解決したか。どうやって終わったかも」

 

 全員が沈黙する。

 

 ――残虐の祝祭。

 

 誰がそう言ったか、あの悲劇をそうやって呼ぶようになった。誰もがその悲惨さに心を痛めた。SAO開始以来、初めての虐殺だ。そしてことの顛末は、アルゴによってしかるべき手順、内容に纏められて流された。

 

 黙っておくことはできた。だが、世論がそれを許さない。いらぬ噂を流されハチマンとサキが傷つくくらいならばと、決死の覚悟でアルゴがすべてをひとりで纏めたのだ。

 

「事件の一旦に関わった者として、誤解のないようもう一度言う。あれは事実だ」

 

 全員が息を呑んだ。誰もが嘘だと思っていたかのように。だが、あのクラインが、いつもふざけているようで、それでも仲間のために命をはれる男の中の男が、こうして真剣な眼差しで言ったのだ。誰もが信じざるを得なかった。

 

「アイツに対して言いたいことはあるだろ。色々とな。だが、それを聞いてやる気はねえし、言わせる気もねえ。どういうことか分かってンだろうなテメエら」

 

 静かな炎がクラインの身体から発せられる。

 

「アイツは、ハチはひとりで解決した。解決せざるを得ない最悪の状況に嵌められて、それでもなお解決した。行為は人として最低だったかもしれねえ。だけど、オレはそれ間違ってたなンて口が裂けても言えねえ。あいつは正しいことをした。大勢の人を助けた。あいつが動かなきゃ、倍以上の住人が殺されてた。それは分かるな?」

 

 沈黙。誰もが口を開かない。誰も、言葉を発せない。

 

「いま、アイツはサキさんと一緒に休んでいる。場所は教えるつもりはねえ。そっとしておきたいからな。でだ、オレが本当に言いたいのはここからだ」

 

 クラインが一度言葉を切る。全員の視線がクラインへと集まる。

 

 クラインが長く、長く、息を吸った。

 

「この体たらくは何だテメエら!?」

 

 会場を震わせる怒声が響いた。

 

「あのふたりがいなくなった途端、急に攻略ペースが落ちた。どういうことだ? あんだけ貶してきたハチマンがいなきゃテメエらなんもできねえのか? 戦乙女のサキさんがいなきゃやる気が出ねえってか? ふざけんな! ふざけんなよテメエら!! そんな腐った根性でこの場に立つんじゃねえ!! 攻略組を名乗るんじゃねえ!!」

 

 全員が項垂れる。誰も異論を差し込まない。誰しもが無意識に自覚していた。攻略速度が遅い。なぜだ。あのふたりがいないからだ。なぜいないと遅くなる。ふたりに頼っていたからだ。

 

「情けねえとは思わねえのか? あんな働きたくねえ働きたくねえ言ってた奴が一番働いて、テメエらがそいつに全部おっかぶせてのうのうとこの場に座っている。おかしいと思わねえのか!?」

 

 ある者は頷き、ある者は額に手を当て苦悶する。全員がきっと正しく理解していた。

 

 情けないと。

 

「少しでもそう思うなら根性見せろ! もし、仮にあいつが戻ってきたときにいまの俺たちを見たらどう思う? どう感じる? そのちっぽけな脳みそで少しでも考えてみろ!? 失望すると思うか? 呆れると思うか? 違うンだよ! あいつは責任を感じるんだよ! 自分の所為だと、そうやってまた抱え込んじまうんだよ! そういう、良い奴なんだ!!」

 

 クラインが握った拳を胸の前に持ってくる。

 

「テメエら、これ以上あいつに責任を感じさせるな。帰ってきたとき、あいつが安心するくらい、俺たちはこんなにやったんだぜって言えるくらいの活躍を見せてみろ! それが出来ねえなら攻略組なんぞやめちまえ! ここから今すぐ立ち去れ!!」

 

 そのとき、会場の中でひとりの男が立ち上がった。

 

 誰もが驚いた。あの《聖龍連合》のリンドだったからだ。

 

「オレは行くぞクライン。あいつらに借りがある。オレはまだその借りを返せてはいない。攻略組の意地を、矜持を見せてやる。クライン、オレはやるぞ! お前らと共に、この悪魔の塔を駆け抜けてやる!」

 

 そして、次々に攻略組の面々が立ち上がり、決意を口にしていく。誰もが再び、帰還への夢に火をつけたのだ。

 

 クラインは満足げに頷く。目じりには涙が浮かんでいた。

 

「おう、それでこそ攻略組だ。これから俺たちは、全速力で攻略を進める。テメエら、着いてくる用意はできてンな?」

 

 全員がそれに答える。

 

「よし、攻略会議に入ろうぜ!」

 

 こうして、未だかつて無いほどの一体感と共に、攻略会議が開始された。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 私にとって、事件から一ヶ月は地獄の日々だった。カイルは精神不安定の状態で戻り、ハチマンは完全に壊れて帰ってきた。幸せから一転、奈落の底へ落とされた気分だった。

 

 すべてが私の所為だと思った。男女交際に浮かれ、女子会などにうつつを抜かしていなければ。住人たちを止められていれば、きっと何もかも問題なかったはず。何をしていても、その考えが抜けず、気づけば身体の力すら抜けて、起き上がることすらできなくなった。

 

 思考は絶えず紡がれているのに、身体だけが言うことを聞かない。感情は悲しみばかりが溢れ出て、他の感情が生まれる余地などなかった。きっと私はそのとき壊れる寸前だった。崩壊への扉をノックしていた。ノブを捻って開ける寸前だった。

 

 引き戻してくれたのは、他でもない、仲間たちだった。

 

 最愛のディアベルだった。

 

 そして、ギルドの子ども達だった。

 

 彼らは、何もしていない無力な私を責めることはなかった。大丈夫だと、なにも問題ないと、あなたの所為じゃないと。動かない心の手に暖かさを添えて、壊れそうな心の欠片をひとつずつ拾うのを手伝ってくれた。子ども達は私にできることがないかと一生懸命考え、花束をくれた。永久凍土となっていた心が、じんわりと溶け出していくのを感じた。

 

 そうして、深遠を覗いていた私は元の自分に戻ることができた。

 

 これはきっと幸いだ。

 

 ひとりではダメだった。誰かがいなければ、こうして元の生活を送ることなどできなかった。孤高など、何の役にも立たないのだと改めて思い知らされた一ヶ月だった。

 

 だからいま、私はここにいる。

 

 三十三層《ラーヴィン》のふたりの部屋の前に立っている。

 

 ハチマンを起こさぬよう、控えめなノックをする。静かな音と共に、扉が開いた。

 

 そこに立っていたのは、青ざめた表情のアルゴだった。目じりには涙があふれていた。そして、私を見ると、嗚咽もなく涙を滂沱と流し始めた。無言で私の胸に飛び込み、私の胸にさまざまな負の感情を宿した涙を染みさせていく。

 

 私はアルゴをぎゅっと抱きしめ、背中をさすった。

 

 嫌な予感がした。

 

 すごく、すごく嫌な予感がした。

 

 決定的に、なにか起こってはいけないことが起きてしまったような気がした。

 

 アルゴをなだめたあと、私はそろりそろりとしのび足で、ハチマンの寝室に入る。

 

 入って、私は倒れそうになった。

 

 椅子に座ったエギルが頭を抱えている。ベッドには悪夢にうなされるハチマン。いつも隣にいるはずのサキがいない。涙を滲ませながらも、決して声を上げて泣かず、ハチマンに寄り添い続けたサキの姿がそこにはない。

 

 なぜなら――

 

 サキが倒れていた。

 

 まるで死んでいるかのように。

 

 シュシュが解け、長く綺麗な髪を広げて。

 

 寝室の真ん中でサキが横たわっている。

 

 顔は疲れ切ったように青くやつれ、頬にはどれだけ流したか、涙の線が色濃く滲んでいる。

 

 血の気が引いた。

 

 わなわなと、唇が、手が、足が、全身が、ネジが外れたように震え出す。

 

「なにが……起きたの……?」

 

 呟くように言ったのに、世の無常を嘆くように部屋に響く。世の終わりを告げる喇叭のように。

 

 エギルが顔を上げて振り返る。彼もまた、泣いていた。

 

「……サキさんに限界が来た」

 

 ああ、ああ、ああ……。

 

 崩れそうな身体をなんとか立ち上がらせて。私はこの“訪れ”を作った居もしない神を呪うように、胸の前に両手を組んだ。

 

 神様、ああ神様……。

 

 なぜあなたはこの世に地獄を作るのです。

 

 ――たとい死の影の谷を歩もうとも、わたしは災いを怖れません。あなたが私と共におられるから。

 

 そう、聖書に書いてあるではありませんか。

 

 これがあなたが寄り添った結果ですか?

 

 ああ、なんて、ひどい世界だ。

 

 私はふらふらと壁に寄りかかる。そうでもしていないと、大事な何かを失った身体が立っていることすらできそうにない。

 

 嘆く。ただ嘆く。そして憎悪が浮かびあがり、やがて彼らを助けなければと心が動く。

 

 ゆっくりと、壁から背を離して、自分の力で立ち上がる。これくらいで動じてはならない。彼らを捕えた闇の方が、ずっとずっと濃くて悪辣だ。

 

「エギルさん。みんなを集めてちょうだい」

 

「あ、ああ……分かった」

 

 動揺から立ち直れないように、エギルが鈍く頷く。

 

「アルゴさん、ふたりをお願い」

 

「うん、分かった」

 

 アルゴがエギルの代わりにふたりを診る。それを見届けて、私はエギルの後に続き、寝室のドアを閉めてリビングへ入る。

 

 エギルがメッセージを打っている間、私はぼんやりと寝室を見ていた。

 

 ハチマンの部屋の寝室の壁は、特別製だった。少しでも彼に安らかに眠ってほしいと、決して外から騒音が聞こえない材質で作り変えた。これを探したのは他ならぬキリトだ。あらゆる階層を探しに探し、殆ど寝ずに駈けずりまわり、ようやく納得できるだけの材質を集めた。それを基に街の職人に作ってもらい、こうして防音の寝室ができあがった。

 

 ディアベル、クライン、アスナは、ふたりの代わりに攻略組の先陣を切ることとなった。オレたちが希望になるんだと、強く、強く、心に訴えかけるように言っていた。後にキリトもこれに加わり、四人と攻略組が全速力でこの悪夢の塔を駆け抜けている。

 

 エギルは商売を、アルゴは情報屋をそれぞれ行いながらも、殆どの時間をここに通いつめている。このふたりは、全力でハチマンとサキに寄り添っている。これに最近私が加わった形だ。

 

 皆がふたりを心配している。皆がふたりを愛している。

 

 それでも、徐々にサキの様子がおかしくなっていたのは感じていた。

 

 何を言っても、何を訴えても、訊いているのか定かではない。ただ、時折聞こえているように涙を流し、ただ壊れてしまったハチマンの傍に居続ける。そんなサキが……。

 

 ああ……。

 

 ついに、限界が訪れてしまったのだろうか。

 

 事件からもう二ヶ月近く経つ。サキは、ハチマンと自分を悪戯に苦しめる闇の中で、必死に彼に呼びかけていた。それが、彼女の心にもじわじわとと侵食し、取り込んでしまったかのようだ。

 

 きっと、エギルも、アルゴも、その瞬間を見てしまった。

 

 サキが倒れるそのさまを見て、絶望を重ねてしまった。だから、あんなにも大人なエギルですら頭を抱え呆然とした。

 

 ここは駄目だ。もう駄目だ。生きた闇が這い回り、生者の精神を貪っている。かつてあんなにも楽しい空気で充満していた家が、いまや絶望の住処となった。

 

 ここはもう限界だ。

 

「ユキノ」

 

 ディアベルの声が聞こえた。思考を紡いでいた間に、全員が集まっていた。

 

 ディアベルが、キリトが、アスナが、クラインが、エギルが、全員が私を見ている。エギルは俯き苦悩の顔で、震える拳を握っている。きっと大人だからこそ言えないのだ。彼は、その年齢から一番責任を感じている。

 

 だから、これは私が告げるべきことだ。

 

 現実での交友を持ち、そして親友である私が、彼らに告げるべきだ。

 

 全員が黙って私を見ている。

 

 なにか、悪魔の坩堝でも覗くような怯えを含んだ瞳で。

 

 小さく息を吸う。

 

「サキが倒れたわ」

 

 全員が喉の奥で悲鳴を上げた。決して声は出さず、けれど、あまりの現実の過酷さを呪うような、悲嘆の貌で。

 

「家を変えましょう。ここはもう、ふたりにとって良い場所じゃない」

 

 キリトが目を伏せた。

 

「二十二層にしよう。俺とアスナが住んでいる場所の近くのログハウスを予約してあるんだ」

 

 二十二層。あの、私とふたりが再会した場所。色彩豊かな、自然に溢れた静かな場所だ。きっとあそこならふたりも癒えるのではないかと思えた。

 

 でも、すぐに現実的な観点が思考に滑り込む。家を買う。資金はどうする。彼らをどう運ぶ。こんなときだって、私の頭はそればかりだ。

 

「資金は、いかほどかしら……?」

 

 アスナが首を振る。大丈夫だというように、痛々しい微笑みを浮かべる。

 

「もう貯めてあるの。あとはふたりの意思を確認するだけだったから」

 

 驚いた。

 

「一体、いつの間に……」

 

「寄付を募ったんだよ。攻略会議の場でね。みんな快く寄付してくれたよ」

 

 ディアベルが答えた。視線はクラインへ向いているが、彼は何も言わなかった。クラインが攻略会議で発破をかけたことは聞いていた。そんな彼だからこそ、寄付を募ったのだと思う。本当に彼には頭が上がらない。

 

 家の問題が解決したのなら、次へ移ろう。

 

「移動方法はどうしましょう。できれば、彼らを表に出して好奇の視線に晒したくないの」

 

「回廊結晶を持ってる。それを使おう」

 

 顔を上げたエギルが答える。

 

「いいの……? 高価なものと聞いているけれど」

 

「いいに決まってる。あいつらのためなら全財産だって投げ打つさ」

 

 エギルが大人らしい微笑みで、胸を叩いた。

 

 胸が熱くなった。自然と涙が流れてしまう。膝が笑って、その場にしゃがみ込む。慌てて傍に寄ってきたディアベルに支えられながら、私は深く、深く頭を下げる。

 

「ありがとう……みんな」

 

 ハチマン。

 

 サキ。

 

 あなたたちの仲間は、こんなにもあなたたちを愛してくれているわ。幸せものよ、あなたたちは。

 

 だから早く、お願いだから早く戻ってきて。

 

 

 

 ――かちゃり。

 

 

 

 ヒイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――――――――!! イイイイイイイイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 どこだあああああああああああああサキィィィィィィィィィ―――――!!

 

 

 

 奈落の底から響くような、悲痛の慟哭。

 

 ハチマンが目を覚ましたのだ。頼るべきサキは、もう倒れてしまった。

 

 だからアルゴが泣きながらドアを開けてリビングへやってきた。どうすれば良いかも分からずに。

 

 ディアベル、クライン、キリト、エギルが動く。寝室に入って暴れるハチマンに取り付き、ベッドに押さえつける。

 

 仲間たちが次々に訴える。大丈夫だと、安心していいと、サキはここにいると。

 

 それでも絶望の音は止まらない。

 

 アスナはその場にしゃがみ込み、アルゴは頭を抱えている。私はただ、寝室への扉の前で呆然としていた。

 

 考える。思考する。ただひたすらに。

 

 この状況をどうすれば解決できるか。

 

 ハチマンを一時的にでも眠りに付かせることができるのか。

 

 彼ならどうする。

 

 いつも奇策で難題を解いてきた彼であれば……。

 

 私はゆっくりと立ち上がった。

 

 寝室に入る寸前、ある一節を思い出した。

 

 ――この門をくぐるもの、一切の希望を捨てよ

 

 ダンテの神曲だったか。

 

 ああ、本当だ。まさにその通りだ。一切の希望を捨てねば、この門はくぐれない。それほどに酷く胸を掻き毟りたくなるような絶叫だ。

 

 それでも、私は強い覚悟を胸に秘めて一歩を踏み出す。システムウインドウを呼び出し、ストレージからあるアイテムをオブジェクト化。すぐさま使用する。

 

 誰も私の変化に気づいていない。男性陣はハチマンを抑えるのに必死で、女性陣は悲嘆にくれるのに忙しい。

 

 ただ私だけが、たったひとつの冴えたやり方を思いついた。

 

 最初にディアベルが気づく。目を剥いて、しかし瞬時に私の思考を理解する。次にキリト、エギル、クラインが察する。

 

 暴れるハチマンを取り押さえながらも、私が傍に寄れる場所を開けてくれる。

 

 そっとハチマンの傍に近づき、彼が突き出した手に触れ、抱きしめた。

 

「ハチマン。あたしはここにいるよ。大丈夫、ここにいる」

 

 まるでサキのように私は振舞う。口調を真似、声を真似、髪色を彼女の色と同じにした。即席で作った、サキの模造品。それがいまの私だ。

 

「大丈夫。あたしはここだよ。ここにいる。だからもうおやすみ。愛してるよ」

 

 サキが言った言葉をなぞる。私はサキなのだと自身を騙しながら彼へと告げる。もう、これしか思いつかなかった。これ以外に方法などなかった。

 

 ハチマンの様子が変わる。動きが止まり、声が細まり、やがて、私を見て悲しみに涙を流しながら、瞳を揺らして唇を動かした。

 

 ――すまん、ユキノ……。

 

 人形の操り糸が切れたように、ハチマンの意識が消えた。夢の世界に誘われ、規則的な寝息が届く。

 

 全員が言葉を失っていた。

 

 私の行動に。その効果に。

 

 私はディアベルを見る。彼は首を振ってから、肩に手を置いてくれた。

 

「ごめんなさい……これしか、方法が思いつかなかったの」

 

 ディアベルに謝る。愛する男性の前で、他の男に愛を語ってしまった。たとえそれが演技であったとしても、許されることではない。

 

「いい。気にしないでくれ。ユキノは精一杯やった。ありがとう。ありがとう」

 

 私の身体が抱きしめられる。

 

 暖かく、力強くディアベルに抱きしめられて、私は涙が止まらなかった。

 

 



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ただひたすらに、彼ら彼女らは支えあう 2

 ふたりの引越しは、その日の内に行われた。目を覚ます気配のないサキの代わりに私が引越しを独断で決定し、キリトが即座に二十二層に行きログハウスを購入した。エギルの回廊結晶で、寝室からログハウスへと直接ふたりを運んだ。

 

 ログハウスは、木造りが暖かい場所だった。窓から差し込む春の日差しは部屋にぬくもりを与え、ふたりを捕えて離さない闇を振り払うかのようだ。間取りは広く、二LDKだ。また全員が集まれそうな広さのリビングだ。きっと、楽しくなる。

 

 ふたりを寝室へ寝かせ、全員がリビングに集まる。

 

「みんな、本当にありがとう。ふたりに代わり感謝します」

 

 私はここまでしてくれた皆に深く頭を下げる。感謝してもしたりない。彼らがいなければ、もう本当にこの世の終わりだった。黙示録のごとくに天使が七の喇叭を吹いていた。

 

 クラインが一歩足を踏み出した。

 

「気にすンなよユキノさん。むしろオレらのが謝りたい。ふたりを酷使してすまなかった。あのとき、間に合わなくてすまんかった……!」

 

 クラインが頭を下げる。ぽたぽたと、床に染みが生まれる。そしてエギルもそれに続く。

 

「申し訳ない。大人のオレが不甲斐ない所為で、あいつらに酷な目にあわせてしまった。本当に申し訳ない」

 

 ああ、やめてちょうだい。この家に後悔を持ち込まないで。あの家と同じ空気にしないで……。

 

「おい、ふたりともやめろ」

 

 キリトが鋭く言った。クラインとエギルの顔が上がる。全員の視線がキリトへ集中する。

 

「なんのために引っ越してきたんだよ。もう湿っぽいのはやめようぜ。なんだろ、アレだよアレ、アレがこれしてアレして、良い感じにしようぜ!」

 

 どこかで聞いたような台詞だ。

 

 ああ……思い出した。

 

 キリトの適当すぎる言葉に、アスナが噴出す。

 

「それハチくんのお断り常套文句だよ。やっぱハチくんの癖、キリトくんにも移ってるね」

 

 恥ずかしそうにキリトは頭をがりがりと掻いた。その癖も彼と同じね。本当に、無駄なところばかり影響を与えるんだから、本当に彼は性質が悪い。

 

「しょうがないじゃないか。一層からの付き合いなんだからさ」

 

「オレっちが、ぼっちのキー坊に友達がほしいって言われたから紹介したんだよナ!」

 

 アルゴがまぜっかえす。キリトは慌てて両手を前に突き出した。

 

「ち、ちがうぞ! そんなんじゃないからな!」

 

 へえ、とアスナが笑う。

 

「キリトくん、やっぱり最初の頃から人見知りすごかったんだ」

 

「なんだよ、悪いかよ……」

 

 キリトがしょんぼりとしゃがみ込むと、床にのの字を書き始めた。いつもは勇猛果敢に前線を駆け抜けているようだけれど、こうしてみると、やっぱり歳相応ね。思わず私も微笑する。

 

「そんなに虐めないであげて。かくいう私も彼と出会うまではひとりだったから」

 

「え?」

 

 全員が驚愕。

 

 なにかしら。私、変なことでも言ったの? 

 

「ゆ、ユキノさんが、ぼっち……だっただと?」

 

 クラインがあんぐりと口を開いてつぶやく。そうよ、ぼっちよ。いけないの?

 

「そんな馬鹿な……同士がここにいたなんて」

 

 キリトが潤んだ目で私を見つめてくる。なんだろう、すごく切ないのだけれど。彼、結構いいところあると思ったのだけれど、本当にひとりだったのね。

 

 アスナは相変わらずくすくすと笑っている。彼女、友達多そうだものね。羨ましいわ。

 

「ハー坊の現実の友達はぼっちが多いナ!」

 

 アルゴが楽しそうに言う。あのね、楽しくないから。悲しいから。もうやめて! 私の心をまた砕きたいの!?

 

 ぱちん、と手を鳴らす音。

 

「ま、昔は昔だ。いまは違う。それでいいだろう?」

 

 私が落ち込んでいることに気づいたか、エギルが助け舟を出してくれた。とてもありがたい。ちなみに、ディアベルは隣で笑っている。腹を抱えて笑っている。あとで折檻が必要ね。フルコースを堪能して差し上げるわ。覚えておきなさい。

 

「ま、なンだ。これからは楽しくやるか。サキさん起きたらびっくりするだろうなあ」

 

 クラインが快活に笑って言う。

 

「ひとまず鉄拳のひとつは覚悟しておくわ。勝手に引っ越してしまったんだもの」

 

「怒ると怖いからな……」

 

 エギルはなにかトラウマでも思い出したように、遠い目をしていた。一体何があったんだろうか。少し気になる。

 

「緑龍のときだろ? リンドに死んで来いって言ってたらしいな。実はちっとだけ聞こえてたンだよなああのとき」

 

 くつくつとクラインが笑い出す。確かに、状況によっては彼女なら言いそうな台詞だ。

 

 なんだったかなあ、とクラインがぽつぽつと当時の状況を語る。

 

「ぷっ……それはトラウマになるのは分かるぞエギル」

 

 キリトが笑いを堪えながらエギルの肩を叩く。アスナも苦笑している。

 

「あ、アホがいるヨ! アホがいたヨ!」

 

 アルゴは床を転げまわって笑っている。当時の状況を考えるとそこまでは笑えないが、楽しい雰囲気を作り出すには最高だ。

 

 ディアベルはもうしゃがみ込んで腹を押さえている。彼、意外と笑い上戸なのね。でもさっきのは許さないわよ。覚えてなさい。

 

「面白い話ならまだあるぞ」

 

 キリトが実に皮肉めいた笑みを唇に刻んで話を始める。

 

「アルゴも覚えてるだろ。一層のとき、ハチがサキさんをしつこい奴から助けた話。それからハチがサキさんに膝枕されてたときのこと」

 

 アルゴの転げ周りが更に速度を増す。

 

「も、もうやめてくれヨ! おなか、おなか痛いヨ!」

 

 キリトはやめない。止まらない。

 

「あのあと、あいつと飯屋で会ってさ。うんうん唸ってたから、心配して話かけたんだよ。で、さっきの話をしたらあいつ、どうしたと思う?」

 

 全員がキリトの話に集中する。かくいう私も気になってしまう。

 

 にやり、とキリトがいやらしく笑った。

 

「あいつ、いきなりフォークとタバスコを手に俺に向かって襲い掛かったんだよ。無自覚にトラウマ抉るんじゃねえって。俺もそれに応戦して、店内大騒ぎだったぜ」

 

 爆笑だ。

 

 もうどっかんどっかんだ。

 

 なにやってるんだ彼は。

 

「バカだ、バカがいる! あいつマジモンのバカだ!!」

 

 クラインも遂にアルゴに加わった。アスナですら腹を抱えてひぃひぃ言っている。エギルは微笑んでいる、ように見せかけてさっと後ろを向いたかとおもうと、急に肩を震わせ始めた。

 

 しかもだ、とキリトが続ける。もはや彼の顔は崩壊していた。完全なにやけ面だ。

 

「アルゴから同じようなメッセージが届いたんだろうな。藁のように殺してやる! とか意味不明なこと言い出して、また俺と大暴れ。よく出禁にならなかったよなあ俺たち」

 

「どこの狂信者の神父様だよ! 台詞微妙にちげえし! しかも銃剣じゃなくてフォークにタバスコって、アホ過ぎる……!!」

 

 クラインが喘ぐように言う。もう彼の息は絶え絶えだ。

 

 そ、そういえば……とアスナもネタを出す。あの人、本当にトラウマ製造機なのね。

 

「一層のボス戦だったかな。取り巻きを倒してたときに聞こえちゃったの。貴様らに笑みなど似合わない……ってキメ顔で言ってるハチくんを……。私、笑いを堪えるのに必死で必死で――!」

 

 ああ、と私は頭を抱える。

 

 あの人、どれだけバカなのだろう。なんで惚れたのかしら。気の迷い? 錯乱してたのかしら?

 

 それにしても――

 

「も、もうやめて……わ、わたし、死んじゃうから……!」

 

 かくいう私もお腹が痛くなるほど笑っていた。転げまわってはいないけれど。

 

 リビングは笑いで溢れていた。多幸感が私たちの周りを子どものように駆け回っていた。

 

 うるさかっただろう。騒がしかっただろう。なのに、寝室からふたりが起きる様子などない。それどころかドア越しにふたりの安堵の寝息すら聞こえてきそうな、ふんわりとした優しい空気が流れていた。

 

 あの、誰もが音をたてず、息を殺し、なにもかもが凍てついていた部屋とは違う。

 

 もっと早くこうしていればよかった。

 

 二ヶ月近くの月日を費やし、私たちはようやくひとつ目の正解を引いたのだろう。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 引越しから一週間が経った。ハチマンはあれから驚くほど暴れることがなくなり、悪夢にうなされることもなくなった。時折サキの名を呼ぶことはあれど、サキの模造品となった私が駆け寄ると、いかばかりかの悲しみを瞳に蓄えながらも眠りに付く。

 

 サキはというと、今までの分を取り返すように眠り続けている。胸を上下させて、規則的な寝息と共に、やはりハチマンの名を時折小さく呟いていた。きっと何もかもに疲れていたのだろう。せめて、もう少しはゆっくりと眠らせていてあげたい。

 

 そんな日々を毎日繰り返していたある日のことだ。

 

「ユキノちゃん。こんなの作ってもらったヨ」

 

 アルゴがあるものを持ってログハウスにやって来た。私はそれを見て、この世界は本当に何でもできるのだと驚いた。

 

「これは……車椅子ね」

 

 私の声に、アルゴがえっへん、と胸をそった。うぅ、私より胸がある……。

 

「随分苦労したんだゾ。あっちこっちのNPCとか職人プレイヤーとかに頼んで、ついさっきようやく出来上がったんだヨ」

 

 ハチマンが好んで着ていたコートと同じ、深い臙脂色の車椅子を私は優しく撫でる。これなら、外の空気を吸わせてあげられる。

 

「ありがとう、アルゴさん」

 

「ハー坊とサキちゃんのためサ。これくらいなんともないヨ」

 

 ぴょん、と跳ねたアルゴが胸の前で両の手をやわく握って見せる。

 

 そのさまは鼠というよりは猫のようで……。

 

 ね、猫?

 

 ちょっと、ここにカメラないの? いますぐアルゴさんを写真に収めたいのだけれど。なんで私のストレージに記録結晶が無いの? ディアベルもなんで持ってないのよ。ああ、せめてこの目に刻んでおかないと。だからお願いだからそのままの姿でいてちょうだい。たった一時間、いいえ、二時間ほどでいいわ。それと撫でてもいいかしら。もふもふしたくてしょうがないわ。

 

「ユキノちゃん……顔が怖いヨ……」

 

 知らずうちに、アルゴを凝視していた。待って。分かってるわ。いまの私は冷静じゃない。でも仕方ないの。

 

「アルゴさん、ひとつお願いがあるの」

 

「な、なんだイ?」

 

 アルゴが猫ポーズで固まったまま顔をひきつらせて答える。

 

「記録結晶を持っていないかしら? 良い値で結構よ。それから、またそのポーズをしてくれないかしら。ぜひ写真や映像に残しておきたいの」

 

「なんか愛玩動物の気分がわかった気がするヨ……」

 

 そう言いつつ、アルゴは記録結晶をストレージから出し、私に渡してくれた。

 

「ありがとう。では、さあ、やってちょうだい」

 

「真顔で言われるとやりずらいなア……」

 

 それじゃ失礼して、と一度咳払いしたアルゴがキュートな満面笑顔で猫ポーズ。

 

「よろしくにゃん♪」

 

 ぐふっ!

 

 私は胸を押さえる。いまなら死んでも構わない気がしてきたわ。ああ、ハチマンくん。あなたが戸塚くんへ向けた好意が少しわかった気がするわ。彼女は天使だわ。猫天使よ。アルネコエルよ。語呂が悪いわね。

 

「ああ、いいわ。とても素敵よ」

 

 うっとりとしながらアルゴの姿を撮りまくる。撮りまくる。撮りまくる。

 

 一時間ほどだろうか。存分に写真と映像を撮った私は、ひとしきりアルゴを愛でててようやく満足した。アルゴはというと、いまは床が友達だといわんばかりに疲労困憊の様子だ。非常に申し訳ない……。

 

「貸し一にしとくヨ。いつか存分に返してもらうからネ」

 

 アルゴが恨めしそうに言う。そして、まるで取立て屋のように、にやりと笑った。

 

「ええ、分かったわ。だから毎週お願いしていいかしら。毎日でもいいのだけれど」

 

「ま、またアレをやるのかヨ……」

 

 私の科白に、アルゴは再び床とお友達になる。私はそれを肯定と受け取った。アルゴさん、なんていい人なんでしょう。いえ、良い猫かしら?

 

「ありがとう、またお願いするわ」

 

 そう言って、私は床に寝転んだアルゴの頭を優しく撫でた。びくっとしたアルゴが可愛い。この子、本当に猫みたいね。

 

 今日はこのぐらいにして立ち上がる。

 

 さあ、本題に戻るとしよう。ハチマンを外に連れ出す準備をしないと。

 

 

 

 皆と相談した結果、ハチマンを外へ連れ出すのは、彼が目を覚まして落ち着いてからにすることとなった。いまの彼なら、きっと大丈夫だと皆口々に言っていた。以前ならば考えられないくらい、皆は明るくなった。場や空気というものはそれほどに重要なのだろう。

 

 車椅子が届けられてから二日後、その機会が訪れた。

 

 私はいつものように髪をシュシュで纏めた模造サキとなり、ハチマンの脇に座っていた。丁度攻略の休暇日であったディアベルも傍にいる。

 

 そんな折、彼がふと目を覚ましたのだ。視線は相変わらず宙を彷徨ったままだが、その口から慟哭を吐き出すことはない。ただサキを探すように瞳を動かしている。

 

 私はハチマンの手を優しく取り、なるべく声を作って言葉を注いだ。

 

「ハチマン。おはよう。大丈夫?」

 

 ハチマンは声に反応したように瞳を私へと移し、瞳を少しだけ揺らした。

 

 ああ、と声なく唇だけで反応する。

 

 ようやくだ。ここまで来るのに二ヶ月以上掛かった。それでも、彼が少しだけ現実に戻ってきた。闇の中から手を伸ばした。その事実が嬉しくて涙が零れそうだった。

 

「外に出てみない? 景色が綺麗だよ」

 

 ハチマンの瞳が窓へ向く。記憶を辿っているのだろうか。何かを思い出したように、僅かだがその唇が笑みを作った。

 

 ああ、と再び声無き反応。

 

 私は思わずディアベルと顔を見合わせた。彼もまた驚いたように、でも嬉しそうに微笑んだ。すぐさま車椅子を取りに行き、ハチマンの脇へと寄せる。

 

「じゃあ、車椅子があるから外にでよ? きっと風が気持ちいいよ」

 

 そう言って、私はディアベルと共にハチマンの身体を慎重に車椅子へ乗せる。彼は一切抵抗をしなかった。以前では考えられない反応だった。

 

「それじゃ、行くよ」

 

 そっと車椅子を押して外へ向かう。ディアベルは私の一歩後ろを歩いてくれる。

 

 やがて、ようやくハチマンが外気に触れた。一面の緑が視界に飛び込み、一陣の風が私たちの身体をやんわりと撫でる。鮮やかな色彩を見せるフィールドを眺めながら、ゆっくりと歩を進める。

 

 何もかもが暖かく、柔らかい雰囲気で私たちを包んでくれる。ここには幸いしかない。絶望などないよと言ってくれているようだ。自然と私も笑みが生まれる。ちらりと背後を見ると、ディアベルもどこか楽しそうだった。

 

 いつだったか、ハチマンとサキのふたりに再会した場所にたどり着く。少し苦いけれど、嬉しい出来事のきっかけとなった、彼と彼女との邂逅。

 

 脳裏にふたりと出会ってからの思い出が蘇る。サキと話せたこと。ハチマンと仲直りできたこと。事件に巻き込まれ、それでも彼が助けてくれたこと。ふたりの仲をなんとか取り成そうと必死になったこと。ふたりの仲間との何度も行った食事会。そしてディアベルとの出会い。たった一度ふたりで食事を共にしただけだけれど、心に染みる彼の真摯さが、素直さが、愚直さが、私を一瞬で捉えたあの夢のひと時。思い出していまでも恥ずかしくなる、公衆での私の行動。

 

 よいことばかりじゃなかったけれど、蓋を開ければいつだって宝石のように輝く思い出たちが、私の胸を熱く叩く。

 

 ふと、彼の身体がぴくりと震えた。

 

 ぎょっとしてハチマンの顔を覗き込む。

 

 彼は泣いていた。声はなく、唇には笑みすら浮かべて、ただひたすらに涙を流していた。

 

 彼の唇が動く。懸命に、まるで赤子が初めて自分の足で立つかのように。

 

「あ……り、が……と。……ゆ、き……の……」

 

 ああ、ああ、ああ、ああ、ああ……。

 

 その場に崩れる。彼の前で涙など見せてはならないのに。泣いてしまう。心の底から噴水のようにあふれ出る。ディアベルが私の肩に手を添えてくれる。彼の体温が肩越しに伝わり、泣けとばかりに心を震わせる。

 

 やっぱりバレていたのね。そうよね、あなたがサキさんを間違えるわけないもの。でも、そんなことはどうでもいい。

 

 ただ、嬉しかった。

 

 彼が言葉を発した。それはとてもつたなく、耳を澄ませなければ聞こえないほどの小さな声だったけれど。確かに彼は言葉を発した。意味のある、とても感情を乗せた声を届けてくれた。

 

 それだけで、私は心の底から喜んだ。

 

 サキ。

 

 ねえ、サキ。

 

 あなたの愛が、ようやくハチマンへ届いたわよ。

 

 だからお願い。

 

 あなたも、夢から覚めて現実に戻ってきて。

 

 ――

 

 ――――

 

 ――――――――――――――――

 

「ユキノちゃん! ユキノちゃん! サキちゃんが……サキちゃんが!」

 

 はっと、私は現実に戻る。

 

 声のした方向に顔を向ける。

 

 アルゴが駆け寄ってくる。その表情には先ほどまでの緩さは欠片もない。まるで、いつかの日を再現するかのように。

 

 幸せの空気が崩れ落ちる。ようやく張れた薄氷が、気まぐれに投げられた石によって崩壊するように。封じた闇が、その鎌首をもたげるように。

 

 知らず、声が掠れる。

 

「落ち着いて、どう、したの?」

 

 私たちの前で荒い息を吐き出したアルゴが、瞳を盛大に揺らして、言った。

 

「今度はサキちゃんが……サキちゃんが……! ハチマンみたいになっちゃった――」

 

 ……。

 

 ――神よ。

 

 ――ああ神よ。

 

 涙の色が変わる。歓喜のそれから、再び奈落へと突き落とされる絶望の色へと豹変する。

 

 ――聞こえていますか?

 

 ――聞こえていますか?

 

 悪戯に希望を持たせ、あと少し、あと少しと、未来へと歩む人の道の先に。まるで嘲笑うように穴を掘り、まんまと人はそれに嵌る。人は、希望の山を登ったあとほど、絶望の海に沈むほうがはるかに痛い。

 

 神など信じていない。信仰などなかった。それでも、人はいつも困難を前に縋るように神へと祈りを捧げる。寄る辺無きこの世に、最後に頼れるのは神しかいないからだ。

 

 だからこそ、いまこのとき……。

 

 ――私は、あなたを、

 

 

 

 ――絶対に許さない……。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

私たちは、心へ激震を走らせる衝撃に、一体何度耐えればよいのだろう。いくど幸せを崩されれば満足されるのだろう。

 

 このとき、私はひとつの真理にたどり着いた気がした。あまりにも馬鹿馬鹿しく、誰も信じてはくれないような、下らない与太話。

 

 そも、この世界が地獄なのだ。罪人を焼く煉獄であり、裁かれる地獄なのだ。

 

 だって、そうではないか。ここが地獄ではなければ、一体なんだというのだ。これが試練だと、神が与えた試練だと? そんな横暴な神などいらない。こんなふざけた運命などいらない。これはただの虐待だ。

 

 私にはもう、人々の背から伸びた糸をたくみに操る忌まわしき神が、高笑いを上げている姿が目に浮かぶ。気まぐれに幸福の光を与え、すぐさま罠を張ってそれに嵌るのを今か今かと眺めている、憎らしい存在――

 

 意識を取りこぼしそうになりながら、私は必死に思考を紡ぐ。それがなんであっても、思考がある限りは意識を掴んでいられる。

 

 アルゴの訴えを受け、私はハチマンをディアベルとアルゴに任せ、すぐさまログハウスに戻った。ログハウスには既にエギルとアスナが駆けつけていた。

 

 寝室には、再びぽっかりと穴が空いていた気がした。門が生まれていた気がした。地獄の門がまた開いたのだと思った。

 

 ……。

 

 どこ、どこなのハチマン!

 

 ハチマンハチマンハチマンハチマン!

 

 あたしを置いていかないで!

 

 ハチマンどこなの、どこにいったの!?

 

 お願いだからあたしの傍にいて……!

 

 それだけでいいから……。

 

 それ以外はもう望まないから……!

 

 ハチマン、ハチマンハチマンハチマンハチマンハチマンハチマンハチマンハチマン!!

 

 ああ、いや、いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!

 

 あなたがいない世界なんて嫌だ!

 

 こんな世界、無くなってしまえええええええええええええええええええええええええええええええ!!

 

 ……呪いだ。呪詛だ。おぞましいまでに世を恨む声が、あのサキの口から止まることのない濁流となって流れ出してゆく。

 

 暴れるサキをアスナが必死で抱きしめる。エギルが拳を震わせながら、サキに訴えかけている。ふたりとも泣きそうに顔を歪めて、それでも空気だけは壊すまいと、崩れそうな顔を笑顔にしてサキへ言葉の雨を降らせる。

 

「大丈夫。ハチくんはいるよ」「問題ない。ちょっと散歩に行っただけだ、すぐ帰ってくる」「ハチくん、サキさんのお陰で良くなったよ」「そうだ、また話せる。話せるんだぞ」「だから大丈夫、大丈夫だよサキさん」「なにも心配することはないぞ。ほら、働きたくねえって言いながらすぐ帰ってくるさ!」「この前、キリトくんからハチくんの面白い話を訊いたよ。きっとサキさんも聞いたら笑っちゃうよ」「おう、オレたちも爆笑したんだ。楽しいぞ。きっと楽しくなる」

 

 サキは訊いていない。もう何も世を感じたくないというかのように、耳を塞ぎ、頭を左右に大きく振って、そして、ただただ慟哭する。

 

 私は、握った拳を額に強く押し付ける。

 

 回れよ頭。策を紡げ。冴えたやり方を創りなさい。

 

 頭脳明晰なんでしょう。だったら解決策のひとつでもさっさと作りなさい。できないの? 彼ならやったでしょう? それが奇策であり正当派でなかったとしても、どんな難題だって片付けたでしょう?

 

 雪ノ下雪乃、あなたはそれをやらなければならないのよ……!

 

 ……できるわけないでしょ。そんなポンポン奇策なんて生まれるわけないじゃない。私は彼じゃない。私は彼女でもない。私は私なのだから。

 

 なら、もういい。

 

 私は私らしく、本来の雪ノ下雪乃のままに動く。

 

 かつかつと足音を鳴らして部屋に入る。昔のように、世界の中心軸を体現するかのように背筋をぴんと伸ばして。アスナとエギルが私に気づく。私の表情を見て、ふたりの顔に僅かな恐れ。

 

「ふたりとも、どきなさい」

 

 静かに言った。それだけで、ふたりが何か言い知れない力学でも働いたかのように、さっとサキの下から離れた。

 

 拘束を逃れた暴れるサキの前に、私は立つ。

 

 そして、そのままの勢いで彼女の頬に思い切り右で平手打ちをした。

 

 衝撃に首を右に振ったサキが、目を剥いて私を見た。

 

 そうよ、私を見なさい。私だけを見なさい。いま、あなたを現実へ無理やりにでも連れ戻す私を見なさい!

 

「ふざけないでちょうだいよ。なにが世界なんて無くなれよ。私たちまでそれに巻き込まないでくれるかしら? 迷惑だわ。心底イラつくわ。なに、あなた? そんなに悲劇のヒロインが好きなの? 似合わないわよ。あなた、ハチマンがいないと何もできないの? そんな情けない女なの?」

 

 場が凍る。絶対零度が生まれたように、アスナが、エギルが、空気が、寝室が、ログハウスが、そして、サキすら動きを止める。

 

「ふざけないで。ふざけないでちょうだい! かつて彼を好いた私が、アルゴさんが! あなたみたいなこんな下らない女にあの人を任せられると思う? 思うわけないでしょうが! いいからさっさと現実を見なさい!」

 

 もう一度、今度は左で頬を打つ。

 

「あなたしかいないのよ! 彼の瞳にはあなたしか映ってないのよ! だったら、しゃんとしなさい! あなたは私たちよりずっと素敵な女性なのだから、彼の心を射止めたとても素敵な女の子なのだから、彼に相応しい振る舞いをなさい! 川崎沙希! 駄々を捏ねてないでさっさとも戻ってきなさい!!」

 

 更にもう一度、全力を込めた右を振りかぶる。

 

 が、

 

 

 

「……言いたい放題いってくれるね、雪ノ下」

 

 

 

 サキがその手を左手で掴んでいた。

 

 視線が合う。サキの瞳は、ちゃんと私の姿を捉えていた。しっかりとした意識を持って、私を見つめていた。

 

 しばらく見つめ合っていた。やがて、サキがまなじりを下げて、言った。

 

「でも、ありがと……」

 

 思わずサキを抱きしめた。やや遅れて、サキが私を抱きしめ返す。

 

「叩いてしまってごめんなさい。酷いことを言ってごめんなさい。もう、私には冴えた方法なんて出てこなくて、私らしいやり方しかできなかったの……」

 

「昔のあんたを思い出したよ。だから、あたしも昔のあたしを思い出した。一発叩いてやらなきゃって。気づいたらあんたが目の前にいたよ。さすがに三発目は嫌だったからね、受け止めさせてもらったけど」

 

「あと二回くらい叩きたかったわ」

 

「勘弁してよ。でも、随分心配かけたみたいだし、しょうがないか」

 

「冗談よ。本気にしないで」

 

「あんた、自分が冗談を言う奴じゃないって知ってるでしょ?」

 

「私が変わったこと、知ってるでしょう? あなたも変わったことを私は知っているわ」

 

「ん、そうだね……そうだったね」

 

 どちらともなく身体を離す。サキが、あの薄紅色の睡蓮の微笑みを浮かべた。彼を捕えて離さない、見る者を魅了する魅力的な微笑を。

 

「ありがと。ちゃんと正気に戻ったよ」

 

 ああ、よかった。

 

 安堵のまま私はその場に膝をつく。慌てたアスナが私に寄り添い、身体を支えてくれる。

 

 サキの視線がエギルとアスナへ向けられる。

 

「随分と心配かけたね。ありがとう。あんたたちの声は、ちゃんと聞こえていたよ。ありがとう、ありがとう……」

 

 サキが深々と頭を下げる。エギルも、アスナも、涙を浮かべながらも、必死に笑みを作って答えた。

 

「なに、問題ない。みんなあんたらが好きでやったんだ。戻ってきてくれてよかった」

 

「大丈夫だよ。ようやく、サキさんに恩返しができた気がするよ。おかえりなさい、サキさん」

 

 空気が戻る。暖かな春の陽気が舞い降りてくる。そして、門が閉じる。役目を終えたとばかりに、絶望ばかりを撒き散らした地獄の門が閉じる。

 

 ノックの音。

 

 返事を返すと、そっとドアを開けたディアベルが部屋の中を覗いていた。目が合った私は、ひとつ頷くと、彼はすべてを悟ったように爽やかに微笑んだ。

 

 がちゃりとドアが開く。ディアベルが入ってきて、サキに声をかける。

 

「やあ、おかえり。サキさん」

 

「ただいま、でいいのかな。あんたにも迷惑かけたね。ごめん、それとありがとう」

 

 ディアベルが首を振る。

 

「いいさ。君たちには恩がたくさんあるからね。それを返していっただけだよ。それに、親友だろう?」

 

 くすくすとサキが笑う。

 

「親友か。いい響きだね」

 

 そこで、ようやくアルゴが入ってきた。ハチマンを車椅子に乗せて、ゆっくりと歩を進めて部屋へと入る。いまだ視点が定まっていない彼だったが、それでも顔はサキへと向いている。

 

 ああ、とサキが口許を押さえた。彼女の泣きぼくろに一筋の涙が落ちる。

 

 いまなら分かる。彼女が流す涙が、切なさから歓喜の輝きへ変化したことを。

 

「ハチマン……」

 

 サキがベッドから降りる。足をふらつかせながら、ゆっくりと車椅子に座すハチマンの下へと向かう。そして、その美しい相貌を喜びに崩して、まるで慈母のように彼の手を胸に抱いた。

 

「ああ、ハチマン……あたしだよ。サキだよ……」

 

 ハチマンの唇が動く。ようやく、サキのことを認識できたように。彼の世界に、サキの姿が現れたように。

 

「……さ、き……あ、……い、し……て……る――」

 

「う…あぁ、あ、あたしも、あたしもだよ。あんたを、心の底から愛しているよ」

 

 嗚咽しながらサキが泣く。悲しみでも、悔恨でも、慟哭でもなく。ただ幸福をめいいっぱい胸に取り込んで、そして吐き出した幸せの音色が部屋に響く。

 

 己を壊してまで愛した男性が、いま彼女の名を呼んでいる。

 

 絶望の淵から舞い戻って、ようやくふたりは現実で再会した。

 

 



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ただひたすらに、彼ら彼女らは支えあう 3

 サキが落ち着いた頃合を見計らって、私は彼女を連れてリビングへ向かった。ハチマンはアルゴとアスナに任せ、私はキリトとクラインを呼び出した。リビングに集まったみんなが、サキの回復を喜んでいた。サキはといえば、落ち着かないのかきょろきょろと辺りを見渡し、ようやく自身の部屋でないことに気づいたように首を傾げている。

 

「ところで訊きたいんだけど、ここどこ?」

 

 サキの当然な疑問に私が答える。

 

「二十二層のログハウスよ。キリトくんとアスナさんが近くに住んでいるわ」

 

「そうなんだ。誰の家なの? 迷惑かけ通しで感謝の言葉しか出ないくらいだけど」

 

「あなたの家よ」

 

「はい?」

 

 サキが目を丸くする。当然だ。

 

「だから、あなたとハチマンくんの家」

 

 きょとんとした表情でサキの時が止まる。ややあって、額に手を当てた彼女が何事かを呟いている。

 

「気絶して起きたら違う場所にいて、実はそれがあたしたちの家。一体どんな状況なんだい?」

 

「ロトセブンで当たったのよ。運が良かったわね」

 

「いや、ないから。ここゲームだよ?」

 

 慣れないボケをしたせいだろうか、サキのツッコミが胸に刺さる。どうしようかと視線を左右に動かす。皆が視線を逸らした。誰も言いたがらないのだ。こういうときばかり私を表に出すのだから、まったくこの人たちは……。

 

 仕方が無い。どの道いつかはバレることなのだから。

 

「サキ、怒らないで訊いてちょうだい。あの家は、私の判断で引き払わせてもらったわ。空気がとても悪かったから。その代わり、この家をあなたたちへ贈るわ。これはみんなからの贈り物よ」

 

 え、とサキがまた目を丸くする。

 

「どっきり?」

 

「いいえ、本当のことよ。わたしたちから、あなたたちへの感謝の気持ちよ」

 

 え? え? え? とサキがおろおろし始める。こういう表情もハチマンだけでなくみんなに見せられるようになったのだから、本当に彼女は可愛らしい。

 

「つまり、ここは……」

 

「そう、あなたたちの新居よ。愛の巣、とでも言いましょうか」

 

 今度は、あ、あ、あ、と言葉を細切れに刻んでいる。混乱するとこの人、結構面白いわね。

 

「お、お金は?」

 

「さあ? クラインさんにでも訊いてちょうだい」

 

「ここでオレに振るのかよユキノさん!?」

 

 今度はクラインが慌てる。彼が言うべきだろう。なにせ一番の功労者なのだから。影に隠れようとしても無駄よ。こういうのは表に出すのがいまの私の性分なのだから。

 

 え、あーっとクラインが天井を仰ぎながら声を伸ばす。

 

「ま、なンだ。ふたりには色々世話ンなったしな。攻略も先頭突っ走ってもらったし、訓練にも付き合ってくれたし。その、あれだよアレ。アレがコレしてこうなったンだ!」

 

 ごまかした。ごまかしたわこの男。決めるときは決めるのに、どうして肝心なところでこうなるのかしら。

 

 キリトが呆れ顔でクラインの脇腹を突いている。ディアベルは苦笑していた。

 

「ちょ、ハチの常套文句だろうが。別にオレが使ってもいいだろ!?」

 

「時と場合を考えなさいな……サキが混乱してるわよ」

 

 私の言葉に全員の視線がサキへ向く。サキはさっきから訳が分からないというように、首を捻ってばかりだ。愛らしい反応だわ。でも、首を痛めるからやめなさい。ああ、ここゲームだから問題ないわね。

 

 遂に観念したのか、クラインがひとつ咳払いをする。

 

「まあ、寄付募った。あと、オレたちもちっとばっか出させてもらった。あー、感謝の気持ちだ。いままでありがとうな。感謝してるぜ」

 

 そう言って、クラインが頭を下げた。

 

「俺も、ふたりに感謝するよ。ありがとう、サキさん」

 

 キリトも腰を折る。

 

「オレもあんたらに最大限の感謝を。いつか言ったように、現実で会おう」

 

 エギルが男らしく親指を立てる。

 

「ま、そういうことだよ。是非ともここで幸せになってくれ! いままで本当にありがとう!」

 

 ディアベルが締めくくって、彼女へ感謝を捧げた。

 

 サキが口許を両手で押さえる。感極まったように、目じりに光を蓄える。

 

「ほんとに、こんな……ありがとう。本当に、ありがとう。あたしは、みんなと出会えたこの奇跡に感謝するよ。ありがとう……ありがとう」

 

 私は涙するサキの傍に寄って、背中をさする。いつも悲しみを呼び起こしていた嗚咽が、いまはこんなにも幸せの音を奏でている。

 

 本当に、いままでお疲れ様。これからはずっと幸せでいて。

 

 声に出すのはやっぱり恥ずかしくて、私は心の中でそっと呟く。それでも声が届いたのか、サキは私を見て抱きしめた。

 

「ユキノ、ありがとう。あんたにも感謝してるよ」

 

「いいのよ。あなたには私も感謝してるの。あのときのこと、ハチマンくんと仲を取り持ってくれてありがとう。彼の理解者になってくれてありがとう」

 

 サキの身体が温もりを感じる。生きている証拠がいまここにある。

 

 私たちはここにいる。いまをこうして生きている。決して神の操り人形などではなく、確固たる意思をもってここにいる。

 

 よしっ、とキリトが声を上げる。

 

「湿っぽいのはやめにしようぜ。俺飯食いたいんだ。腹減ったよ」

 

 私とサキがその場でずっこける。

 

 なにこの子。いきなり空気を台無しにしてくれたわ。ちょっとアスナさん、この子殴っていいかしら。

 

「ま、まあユキノ。許してやってくれ。いいじゃないか、こういうのも」

 

 若干険を雰囲気に滲ませていたのがバレたか、ディアベルが私に寄り添ってなだめてくる。

 

 仕方ないわね。今日くらいは我慢してあげましょう。

 

「さあ、三人を呼んでこよう。ハチマンもいまなら大丈夫だろ」

 

 エギルが微笑んで寝室へ向かう。

 

「なら私は料理の準備をするわ。サキは座っていて。まだつらいでしょう?」

 

「悪いね。お願いするよ」

 

 私はキッチンへ向かう。

 

 寝室からアスナとアルゴがハチマンを車椅子に連れてリビングに入ってくる。また、あのときの賑やかな空気が充満していく。

 

 私とアスナが料理を作り、ほかの皆が会話をしている。キリトが以前話したハチマンの黒歴史をサキへと教える。彼女は当時を思い出したか頬を染め、それでもやっぱり笑っていた。

 

 やがて、料理が出来上がりテーブルに載せる。皆が思い思いに料理を頬張り、空気が弛緩していく。

 

「お、そうだサキさん。俺たちも遂にユニークスキルを手にいれたぜ!」

 

 クラインが突然思いだしたように言う。

 

「へえ、よかったじゃないか。なんなんだったんだい?」

 

 サキの返しにクラインが答える。

 

「オレは《抜刀術》だ!」

 

 サキの顔に疑問。

 

「スキルなんか無くても元からできるじゃないのさ」

 

 クラインが頭をテーブルに落す。

 

「それを言わンでくれ。散々みんなに馬鹿にされたンだ」

 

「あれは大爆笑だったな。今さらかよ! ってな」

 

 エギルが思い出し笑いをする。

 

「わ、悪かったよ。よかったじゃないか」

 

 慌ててサキがクラインを慰める。

 

 今度はキリトが名乗りを上げた。

 

「俺は《二刀流》だ。これならふたりにも負けないぜ?」

 

 キリトが子どものように胸を張って言った。ディアベルから訊く限りでは、キリトの二刀流はそれはもう異次元の強さらしい。頼もしい限りだ。

 

「じゃあ、今度また試合しよっか」

 

 サキが嬉しそうに微笑む。キリトが「望むところだ!」とにやりと笑う。

 

 次はディアベルだ。少し照れながらサキへと告げる。

 

「オレは《英雄剣士》だよ。ちょっと名前がアレだけどね」

 

「へえ、似合ってるじゃないか。頼むよ英雄様」

 

「頼むから英雄とか言うのやめてくれないかな……。さすがにこの歳になると恥ずかしいよ」

 

 最後はアスナだ。たぶん、アスナが一番恥ずかしそうにしている。

 

「わ、私は……《流星剣》だよ……」

 

 サキが口をあんぐりと空ける。

 

「それ、なに?」

 

 確かに、ディアベルもそうだが、アスナはもっと分からない。名前だけでは想像がつかないのだ。アスナがもじもじとしているのを見て、キリトが続けた。

 

「あれは確かに流星の名の通りだったよ。なんだっけ、《スパークル・メテオラ》だったっけ。フィールド中を超高速で縦横無尽に駆け回るんだ。宙だって跳ぶんだぜ? 卑怯だよなあアレ」

 

 アスナとは戦いたくないなあ、とキリトがぼやくように言う。

 

「あ、あれ、使ってる側からするとすごい怖いんだからね! 調子に乗って飛び続けて墜落死するかと思ったんだから!」

 

 ぷりぷりとアスナが怒る。怖いって言いながら調子に乗ったのね……。確かに、空を飛ぶのは楽しそうだわ。

 

 キリトの隣でクラインが苦笑する。

 

「ま、最大で十五秒間、最大射程百メートルの突進突きを、方向自在で連打できる。確かにおっかねえよなあ。つーかよ、ありゃあ勝てる気がしねえよ。ハチとサキさんも大概だったけど、アスナさんはそれを超えてるよなあ」

 

「ちょ、ちょっとみんな! 私を化物呼ばわりしないでよ! あれ制御大変なんだからね! 地面にぶつかると痛いんだから!」

 

 結局墜落したのね……。

 

「よし、アーちゃんのあだ名は《流星天使》だナ! それとも《メテオリック・プリンセス》がいいカ? よーし、どっちも早速みんなに広めてくるヨ!」

 

 ずっとうずうずしていたのか、アルゴがはしゃいで仮想キーボードを叩き始める。アスナが慌てた様子でそれを止める。

 

「でもまあ、こと対人戦ならハチとサキさんが最強だろうな。ハチなんかは技術とスキルが徹底的に対人に特化してるし」

 

 キリトが唸るように言う。そこら辺の話になると、さすがに私は分からない。

 

「で、でもクラインさんもすごいと思うけど。たぶん五分五分くらいじゃないかなあ。って、アルゴさん、お願いだからそれだけはやめて!」

 

 アルゴとひと悶着しているアスナの言葉に、クラインが首を振る。

 

「インビジブルからアサシネイションで一発KOだな。ありゃ卑怯だ。それによぉ、サキさんにぁ勝てる構図がまったく思い浮かばねえよ」

 

「逆に対Mobならキリトとアスナさんが最強だろうね。アスナさんは場所を選ぶけど、広い場所なら確実に彼女が最強だよ」

 

 ディアベルがふたりの姿を思い出すように言う。

 

「そういうディアベルはバランスが良いから、あまり尖ってなくて安定してるよな。この前負けたし……」

 

 悔しそうにキリトが言う。ふふ、うちの夫もたまにはやるのよ。ちょっと誇らしいわ。

 

「みんな強くなったんだね」

 

 隣にいるハチマンの手を握りながら、サキが微笑んで皆を眺める。

 

「ああ、だから安心して休んでいてくれや。この塔の攻略はオレ達に任せてくれ!」

 

 クラインが胸を叩く。キリトも、アスナも、ディアベルも、攻略組を引っ張っていく四人がサキに任せてくれと言う。

 

「ああ、そうだね。安心したよ。ね、ハチマン」

 

 サキがまなじりを下げ、隣に座るハチマンへ顔を向ける。彼はただただ瞳を開いていて何も反応を返さない。それでも、口許には安堵の笑みがあった。彼女はそれを愛おしそうに眺め、彼の頬を優しく撫でる。

 

 この幸福が、いつまでも続きますようにと。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 あたしが目を覚ましてから、二週間が経った。日々かわりがわりに来てくれるみんなには本当に感謝だ。なにしろ、こんな素敵な家まで贈ってくれたのだから、頭が上がらないどころか足すら向けて寝られない。

 

 ベッドの脇に置いた椅子に座って、あたしは愛しいハチマンの寝息を聞いている。

 

 まだ時間は早朝で、窓から入り込む風は少し冷たい。季節は現実では五月に差し掛かり、もう少しすれば太陽が頑張り出すだろう。この世界でも梅雨みたいなものは存在するから、更に時がを経たなら、残念ながら少し湿っぽくなる。この世界では洗濯がいらないから、苦労がひとつ減って楽なものだ。

 

 あたしは横たわるハチマンの頬をそっと撫でる。彼は、どんどんと回復していっている。言葉はまだちゃんと喋れないけれど、ちゃんとあたしを認識して、あたしを見つめてくれる。あたしの声にも反応し、何かしら行動で示そうとしてくれる。彼はちゃんと夢の中でも戦っている。二十九人の殺人鬼を殺めた苦悩と罪悪と、必死になって戦っている。

 

 ハチマンは目覚めたとき、一体どんな答えを出すのだろう。きっと、彼の性格からして表面的には平然としながらも、心の中では色々なことを考える。なら、答えは簡単だ。あたしは彼に寄り添う。永遠に彼の傍にいる。彼の心の闇を掬い、痛いも悲しいも、嬉しいも楽しいも、ぜんぶぜんぶ分かち合えばいい。そうすれば、未来はきっと明るくなる。

 

 ハチマンが身じろぐ。目を瞬かせて夢から覚める。もはや暴れることもなく、すぐにベッドの脇にいるあたしへ視線を注ぐ。表情はぎこちない笑み。そういえば、彼は笑うことが苦手だっけ。

 

 あたしは布団から出てきた彼の手を握って胸に抱く。

 

「おはよう、ハチマン。調子はどう?」

 

 彼は必死に声を出そうと喘ぐ。

 

「だ、い……じょうぶ、だ」

 

「そっか。まだ横になっていていいよ。それとも、朝食食べる?」

 

「もう、少し……こ、のまま、が、いい」

 

「ん、分かった。いいよ」

 

 ハチマンがじっとあたしを見る。視線があたしの目ではなく、少し下に下がっている。

 

「お、ま……む、ね……」

 

 ああ、胸が当たってるのが恥ずかしいのかい? やっぱりあんた初心だねえ。あたしもだけど。

 

「当ててんのよ」

 

「……し、ってん、のかよ」

 

「大志の部屋にあるんだよ。ちょっとかじったくらいだけれどね」

 

「あ、の……野郎、ほ、めて……つか、わす……」

 

 あたしはくすくすと笑う。

 

「そんなにあたしの胸がいいのかい?」

 

「お、とこの……よく、ぼう……な、めんな、よ」

 

 まったく、結局あたしを襲いもしなかったのに何を言っているんだか。きっとたびたび呟いている理性ちゃんとやらが戦っていたのだろう。あたしの彼氏は一体なんなんだ……。

 

 ハチマンのまぶたが落ちそうになる。しゃべり過ぎて疲れたのだろう。

 

「いいよ。おやすみ。ゆっくり寝な」

 

「わ、る……い」

 

 ハチマンのまぶたが落ちる。再び規則的な寝息が聞こえてくる。あたしはそっと彼の手を布団の中に入れて、また彼の寝顔を眺める。できればずっとこうしていたいけど、昔のようになってしまっては元も子もないから、名残惜しくも彼の寝室を出る。リビングでさっと部屋着に着替えて、朝食の準備をする。

 

 そんなことをしていると、玄関のドアがノックされた。ああ、またかい。

 

 あたしは苦笑しながら扉を開けると、そこに立っていたのはキリトとアスナだった。邂逅一番、キリトが一言、

 

「腹減った……サキさん、朝食くれないか? 和食がいい」

 

 アスナがキリトにふくれっ面を向けながらも、申し訳なさそうにあたしに頭を下げる。

 

「ごめんね、サキさん。キリトくん、どうしてもサキさんの食事が食べたいってうるさくて」

 

 しょうがないねえ、とあたしは苦笑い。

 

 どうやら一週間ほど前にやった食事会で出したあたしの料理が、キリトの琴線に触れたようだ。アスナにも教えてはいるものの、まだ完全習得はできていないらしい。洋食のアスナと違って、あたしは和食ばっか作ってたからね。あたしも洋食を教えてもらっている。

 

 今日の朝食はブリ……らしきものの塩焼きに、苦労して編み出した味噌汁、そしてこれもまた艱難辛苦の末に手に入れたご飯だ。

 

 テーブルに朝食を並べた途端、キリトの瞳が爛々と光る。この子、意外と料理に目が無いんだよねえ。アスナも苦労するだろうな。

 

「いただきます!」

 

 一声言って、キリトが朝食をかき込み、美味い美味いとご満悦のご様子。こうして見ていると、弟ができたようで少し嬉しい気分になる。隣に座るアスナはやっぱりぶすっとしているものの、味噌汁を口にした途端、顔が緩む。まるで家族の団欒のようだ。

 

「うちのキリトくんが本当にごめんね」

 

「いいよ。いつでも来なよ」

 

 ふたりには世話になりっぱなしなのだから、これくらい問題などない。

 

 でも、とあたしはキリトへ鋭い眼光を向ける。

 

「キリト、さすがに他の女のご飯を自分の女の前で、美味い美味い言うのはどうかと思うよ?」

 

 う、とキリトが唸る。隣でアスナがうんうんと頷いている。

 

「しょうがないだろ。美味いもんは美味いんだ。俺は悪くない。美味い料理が悪い!」

 

 キリトの開き直りにアスナが長息する。

 

「最近キリトくんがハチくん化してるの。どうしたらいいんだろう……」

 

 アスナが額に手を当てて、嘆くように言った。あたしもため息しかでない。本当に、あのハチマンは無駄にキリトへの影響力が強い。いつか専業主夫になるとか言い出さなきゃいいんだけれど。

 

「あ、そうだサキさん。醤油できたから持ってきたよ。一本置いてくね」

 

 そう言ったアスナがストレージから一本の瓶を取り出し、テーブルに置く。アスナが苦心の末に作り出した醤油だ。

 

「いつも悪いね。今度味噌を持ってくよ」

 

 アスナが喜ぶ。キリトは食事に首っ丈だ。

 

「ほんと? やった! あれはまだ再現できてないんだよね」

 

「アスナ、今度味噌汁作ってくれよ」

 

「はいはい」

 

 突然会話に加わってきたキリトにアスナは苦笑顔だ。食べ物のことになると彼は結構がめつくなる。

 

「ところで、今日はどうするんだい?」

 

 なんとはなしに訊いてみる。前線を退いてからかなり時間が経つ。こうしてゆるやかな時間を過ごすのも好きだが、長い間戦ってきたせいか、たまに身体が疼くときがある。あたし、もしかして戦闘狂? やだ、ハチマンが復帰したら物理的にイチャイチャしないと!

 

「迷宮区のマッピングかな。もうすぐフロアボスの部屋が見つかりそうだから」

 

 最前線は現在七十層。ハチマンとあたしが前線を退いて約二ヶ月と二週間あまり。その頃の最前線は五十四層だったから、考えてみれば異様なスピードだ。かつてクラインから訊いたように、まさしく全速力であの塔を駆け上がっているらしい。でも、少し心配になる。

 

「無理してないかい? ちゃんと休むんだよ?」

 

「大丈夫だって、大抵アスナが暴れてるだけだから」

 

 ちょ、とアスナが目をむいた。

 

「ひどいよキリトくん! キリトくんだって水を得た魚みたいに剣振り回してるくせに!」

 

「アスナの場合は飛びまわってるじゃないか。サキさん、こいつ最近じゃみんなから空飛ぶプリン――」

 

「やめて! 絶対に言わないで! 言ったらいくらキリトくんでも怒るからね!」

 

 悲鳴のような声を上げて、アスナがキリトの口を塞ぐ。もごもごと続きを言おうとするキリトの口を必死の形相で止めている。まあ、殆ど聞こえてたから意味ないんだけれどね。空飛ぶプリンセスか……。あたしだったら恥ずかしくて外に出られないだろうね。

 

「いいじゃないかアスナ。あたしなんて昔、《アインクラッドの光の巫女》とか呼ばれてたんだよ。一週間くらいは夜のベッドで悶えたんだからね」

 

 もはや羞恥で顔を紅くしたアスナが訴えるように言う。

 

「サキさんの方が十分まともだよ! 私なんて、私なんて! 天使だのプリンセスだの、もうそんな歳じゃないだよ! ひどいときなんて、魔法少女とか言われるときあるんだから!」

 

 確かに、年齢からして高校生になるアスナには魔法少女は酷だろう。哀れアスナ。

 

 口を押さえるアスナの手から逃れたキリトが、にやにやといやらしい笑みを浮かべていた。

 

「おい、俺を止めたアスナが全部自分で言ってるじゃないか」

 

 はっとしたアスナの動きが固まる。勢い余って言ってはいけないことまで言ってしまったことを悟ったのだろう。もはや顔色が赤から青へと変貌していく。やがて、力尽きるように崩れ落ちたアスナが、両手両膝を床につけて項垂れた。

 

「……おうち帰りたい」

 

 その一言にキリトが笑う。もう割れんばかりの声で笑う。ちなみにあたしも口許を緩める。聞き覚えがある言葉だったからだ。

 

「は、ハチと同じこと言ってる!」

 

 キリトの言葉を受け、アスナがゆっくりと顔を上げる。その顔はもはや何と言ってよいのやら、表情が消えていた。

 

「あたしもハチくん化してる……」

 

「あいつ、無駄にあんたらに影響力強いんだねえ」

 

「一層からの付き合いだからなあ。なんだかんだ言っても一番仲良かったし」

 

 キリトが感慨深く言う。

 

 そうだね、とあたしも当時を振り返りながら思う。

 

 人はひとりでは生きていけないから、誰かと関係を結んで生活する。人と人を繋ぐ糸は、きっと一種の回路みたいなもので、お互いに情報を交換しあう。そして影響しあうのだ。だから時を重ねるごとに自分という殻に他人の性質が混じってくる。そうやって、人は年月を経て変わっていくのだ。

 

 あたしがハチマンに変えられたように。

 

 ハチマンがあたしに変えられたように。

 

 あたしたちも、みんなと交わって、きっと全員が変わった。それは良い方向だったり、悪いものだったりするのかもしれない。それでも、人と関わっていくうえで、ある程度の変化は許容していきたい。

 

 なんの変化もない世界なんて、つまらないじゃないか。

 

 そうこうしている内に時間も過ぎたのか、アスナとキリトが謝辞を述べて攻略へと向かう。

 

 さて、今日もハチマンを連れて外に出よう。今日は少しだけ足を伸ばしてみるのも良いかもしれない。

 

 



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ただひたすらに、彼ら彼女らは支えあう 4

 キリトとアスナは、最前線に向かう前に一度五十五層にある主街区《グランザム》へ立ち寄ることにした。

 

 無数の鋼鉄の尖塔で立ち並ぶこの都市は、《鉄の都市》とも呼ばれており、緑が少なく少し寒々しい印象を人々に与えている。そんな寂しい街中をふたりは歩く。アスナが所属するギルド《血盟騎士団》の本拠地がここにあるからだ。殆どの時間をキリトに当てているアスナだったが、ボス戦も近く、さすがに顔を出さないとということでこの街に来たのだ。

 

 しばらく歩いていると、ふたりの眼前に一際高い塔が現れた。巨大な塔の上部からは、まるで見る者を威嚇するかのような銀の槍が突き出していた。その先に、白地に赤い十字が描かれた旗が風に乗ってはためいている。これがギルド血盟騎士団の本部だ。

 

 ふたりはそのままの足で階段を登り、本部入口である大扉へと歩みを進める。門扉の両脇には重装甲の衛兵が控えていたが、アスナに敬礼をするだけでふたりの侵入を邪魔することはなかった。こう見えても、アスナはこのギルドの副団長を拝命されているのだ。

 

 一階の吹き抜けのロビーを歩いているところで、ふたりは副団長補佐のマンダトリーとゴドフリーがなにやら眉間に皺を寄せ合って話しているところに遭遇した。

 

 アスナがいぶかしんで声をかける。

 

「ふたりとも、どうしたの?」

 

「ああ、アスナさん。今日は来て下さったんですね」

 

 最初に反応したのはマンダトリーだった。一見すると優男といった風貌の彼であるが、ギルド内部でも指折りの槍使いだ。ただ悲しいかな、ギルドマスターたるヒースクリフもそうなのだが、彼もたまにふらりと数日間いなくなることがあるのだ。帰ってくると、やら旅行に行ってただの、山篭りしていただの話をはぐらかすので、アスナもあまり追求はできていない。もっとも、アスナも人のことは言えない。なんとも上位陣がふらふらしているギルドである。

 

「おお、副団長殿! 本部にいらっしゃるなんて珍しいですなあ!」

 

 もじゃもじゃとした巻き毛の大男、ゴドフリーが快活に笑って言った。そこに若干の皮肉が篭っていることにアスナは気づいたが、にっこり微笑んで受け流す。上司がアレなのだから別にいいではないか。

 

「それより、ふたりともどうしたの? 難しい顔をして」

 

 ああ、とマンダトリーが答える。

 

「クラディールを探していましてね。今日の迷宮区攻略パーティに参加する予定だったのですが、朝から姿が見当たらなくて困っていたのですよ」

 

 まったく参ったものだ、と嘆くようにマンダトリーが言う。人のことを言えるのか、とアスナは言いたかったが、自分も同じなので口にチャックをしておく。

 

「え、誰?」

 

 キリトがアスナにだけ聞こえるように呟く。それにアスナはぶすっとした表情で答えた。

 

「元私の護衛。あまりにもしつこいから副団長権限で切ったけど」

 

「いまはキリトくんがアスナさんの護衛みたいなものですからね」

 

 マンダトリーが苦笑する。

 

「それに最近もよく遠出してるようでなあ。まあ、ちゃんと訓練と攻略に参加してくれれば構わないんだが」

 

 ゴドフリーが後頭部を掻きながら苦々しく言う。ついこの前までは規律にうるさかった彼だ。クラインの発破により攻略組内に充満していたある種の逼迫感がなくなり、彼も元の豪放磊落で気さくな中年男に戻った。が、それでも思うところがあるのだろう。

 

「検索は当然したのよね? どこいったんだろ」

 

「さあ、やはり山篭りですかね」

 

「あなたの言い訳と一緒にしないで……」

 

 これは一本取られました、とマンダトリーが悪気なく笑う。相も変わらず適当な男だ。

 

「で、ものはご相談なのですが……」

 

 マンダトリーがぐっとアスナとキリトへ顔を近づける。

 

「迷宮区攻略におふたりも参加してくれませんか?」

 

 アスナとキリトは顔を見合わせる。

 

「別に元々攻略しに行くつもりだったからいいけど。俺たちについて来れるか?」

 

 キリトが挑発気味に言う。ちょっと待って、とアスナが止めようとするも、マンダトリーがにやりと口端を吊り上げ、ゴドフリーは快活に笑う。

 

「小僧め、抜かしおる! 面白い! 久々に本気を出すぞ!」

 

「あなたはいつも本気でしょうが。まあいいでしょう。私もたまには働きます」

 

 なあ、キリトがアスナへ耳打ちする。

 

「このマンダトリーってやつ、もしかしてハチじゃないか? ほら、働きたくないって部分が特に似てる」

 

 ぶっ、とアスナが噴出す。

 

「ちょ、やめて、そんなこと言ったからそう見えちゃうから……!」

 

「なんだか失礼なことを言われている気がしますが、構わないでしょう。さあ、皆さん行きますよ!」

 

 マンダトリーが外へ向かう。ゴドフリーがそれに続くが、キリトは笑い転げそうになるアスナを介抱するのに必死だった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 朝の十時を過ぎ、もうすぐ十一時になろうという時間。あたしはハチマンを車椅子に乗せて、のんびりと二十二層の中を歩いていた。肩にはランチバスケットを持ってのピクニックのようなものだ。低層だからMobも弱く、アスナたちから安全地帯も教えてもらったため、たまにはこうして外でふたりで食事をしたかった。

 

 一陣の風があたしのポニーテールを揺らす。それをそっと左手で抑えながら空を見上げた。太陽は以前見たときよりも少しだけ高く上っている。日差しは徐々に鋭さを増してきていて、きっと暑くなるだろう。昼前に木陰に行かないとなあ、と思いながらあたしは歩を進める。

 

 時折ハチマンがあたしに触れたそうに指を動かすから、そんなときは歩みを止めて、そっと彼の手を握る。すると、ハチマンは安心したように手を離して景色を眺めていた。

 

 あたしとハチマンの間に会話はない。それでも、元々ぼっちだったから、会話なんて必要なくて、一緒にいられればそれで良い。

 

 圏内を越えて、念のためすぐに愛槍《ヴァルキュリヤ》を取れるように装備しておく。まあ、元々平和な場所だ。何もない。

 

 しばらく歩いていると、草原の先に森が見えてきた。安全地帯まであと少し。歩いていても殆どMobなんて現れないから、本当にここは平和で素敵な場所だ。ここに住まいを置いてくれた友人たちには感謝しかない。

 

 ふと、足音が聞こえた。

 

 きっと誰かも散歩しているのだろう。ここにはキリトやアスナだけでなく、釣りを趣味とした中年男性たちも住んでいるらしい。まだ顔を合わせたことはないが、気さくでとても良い人のようだ。人見知りだから急に顔合わせしないといいなあ、と思いつつ歩いていると――

 

 背中に衝撃が走った。

 

 咄嗟の判断で地面に手を付いて身体を反転。即座に《ヴァルキュリヤ》を構えて背後へ向く。そこには、ひとりの男が立っていた。長髪を後ろで束ねた男が、分厚い重装備姿で剣を振り抜いた体勢で私たちをねめつけるような視線で見つめている。見知った顔ではない。行きがかりのプレイヤーキラーか。

 

 ちらりとHPバーを見る。HPがかなり削られている。やはり二ヶ月以上のブランクは大きい。ハチマンの壁になるよう、すぐさま槍を敵へと突く。男はそれを見てすぐさまバックステップし、あたしとの距離を置く。私はハチマンを守るべく、車椅子の前に立って男へ槍を向け直す。

 

「一体なんのつもりだい?」

 

 くひっ、と男が狂ったような笑みを浮かべた。

 

「お前ら、ラフコフを壊滅させたんだってなあ」

 

 あたしの顔に生まれた険が更に強まる。ハチマンの前で奴らの名前を出すな!

 

「だからなんだってんだい」

 

「なら、お前らを殺せば、俺がまた殺人ギルドを作れるだろうなあ!」

 

 そう叫んで、男があたしへ剣を振りかぶる。遅い。遅すぎる。あたしを舐めんじゃないよ!

 

 槍を回し男の剣を受け流す。そのまま身体を反転させ、石鎚を男の脇腹へ打ち付ける。男が驚いたように後退する。

 

 たった一合打ち合っただけで技術の差が決定的であることが分かる。こいつは強くない。

 

「やめときな。あんた程度じゃあたしに適わないよ」

 

「おお、怖えぇな。やっぱさすが、腐っても《戦乙女》って呼ばれてただけはあるか」

 

 男が気色悪く笑って、腰に下げた巾着袋から一回り大きい結晶を取り出す。あたしはその輝きに思わず目を疑った。

 

「お前ら相手にひとりでやるわけねえだろぉが! コリドォ・オォプン」

 

 男が手に持っていたのは回廊結晶。このSAO内でも特級に高価な結晶アイテム。

 

 いやらしく響く呪文と共に生まれた青い渦の中から、我先にとプレイヤーがまろび出てくる。あたしが呆然としている間に周囲を取り囲まれる。殆どが男たちで、ただひとり赤毛の妖艶な女が混じっている。

 

 あたしたちを殺すためだけに、回廊結晶と、これだけの人数を集めたのかい……?

 

「お前らが潰したラフコフの下位組織のひとつ、《タイタンズハンド》だぜえ。お前らを殺して、俺たちは第二の殺人ギルドとして名乗りを上げてやるよ」

 

 へへへ、と嫌悪感を催す下卑た笑いをして、長髪の男が言う。

 

 あたしはそんな言葉に耳など貸さず状況把握に努める。ざっと見て十五人以上。全員が高レベルには見えないけど、数の暴力で押されると厳しい。ひとりなら問題なくても、ハチマンだけは守らなきゃならない。あたしだけ逃げることなどあたしが許さない!

 

 女が毒々しい笑みで頬を歪ませ、長髪の男へ言う。

 

「クラディール。リーダーの件、分かってるわよねぇ?」

 

 クラディールと呼ばれた最初に襲ってきた長髪の男が、鬱陶しそうに答える。

 

「わぁってるつってんだろロザリア。リーダーはおめえでいい」

 

 ならいいの、とロザリアと呼ばれた女が笑みを私へ向ける。

 

「じゃあ、殺っちゃいなさい」

 

 ロザリアの言葉で、全員が一斉にあたしたちに襲い掛かってくる。

 

 瞬時に《エインヘリャル》を発動しようとするも、ストレージに予備の槍一本しか入れていないことを思い出す。戦闘など行うつもりがなかったからエギルに預けていたのだ。いまやストレージを圧迫しているのは日々の食材と衣服だけ。

 

 舌打ちしながら、威嚇のために大きく槍を回す。ハチマンには指一本触れさせぬよう、全方位に神経を集中する。

 

 敵が怯んだ隙を縫うように、あたしは手近にいた長剣使いの横腹に薙ぎを一閃。それを皮切りに、再度全員が刃を向けてくる。

 

 即座に全部は捌ききれないと判断。ソードスキルも技後硬直中の隙にハチマンに手を出される可能性を考え、即座に選択肢から捨てる。いままでハチマンや仲間たちと培ってきた己の技術のみで凌ぎきる!

 

 ひとり目の短剣を柄で払う。直後、二人目の刀の横薙ぎを空いた胴に受けながらも、戻した穂先で刀野郎の肩を深々と斬り裂く。三人目、四人目があたしに殺到するが、即座に反転。ハチマンへと向かう奴に向かって槍を突き出し牽制。背中に二回斬撃をもらうが構うもんか!

 

 再び二撃食らうが完全無視し、ハチマンへ襲い掛かる奴らを根こそぎ刈り取るように、大きく振りかぶっての足払い! ひとりの足首を両断するが、動きが大きすぎて殆どの奴らに避けられてしまう。

 

 そこで、ロザリアが男たちに指令を告げる。

 

「男が弱点だ。そいつを狙いな!」

 

 あたしの眉が引きつる。

 

 こいつ、絶対に殺してやる……!

 

 男達が次々にハチマンへ向かう。あたしは槍を振り回しながら必死で庇うが、それでも三百六十度すべてを守れない……!

 

 幾重にも重なる悪魔の斬撃を受けながらも、あたしは死力を尽くしてハチマンを守る。

 

 僅かな隙をつかれ、クラディールがあたしの脇を通り過ぎる。瞬時に石鎚を後ろへ伸ばすが、眼前に肉薄していた男に槍を払い上げられて制御を失う。

 

 クラディールがハチマンの座る車椅子を叩きつけるよう乱暴に蹴る。ハチマンの身体が地面に転がる。

 

 待って! 待って! お願いだからそれだけはやめて!

 

 力なく横たわるハチマンの首の根を掴んだクラディールが、これ見よがしに掲げてあたしに見せる。あたしはすぐに槍を叩きつけてやろうと振りかぶるが、クラディールの剣がハチマンの首に添えられる。あたしの動きが止まる。

 

 時が凍ったように、全員が静止する。

 

 気づけば、あたしのHPバーはレッドゾーンにまで割り込んでいた。

 

 クラディールがいやらしく笑う。

 

「さぁて、戦乙女のサキさんよぉ。こいつを殺されたくなかったら言うこと訊けや」

 

 奥歯を強く噛む。血が滲みそうになるほど拳を握る。

 

 我慢しろ、川崎沙希。ここは言うことを訊け。でないとあんたの愛するハチマンが殺される!

 

 槍を下ろしたあたしに、クラディールが命令する。

 

「まず槍を捨てろ」

 

 あたしは奴に言われるがまま、翡翠の槍《ヴァルキュリヤ》を地面に落す。脇に立っていた男が嬉しそうにそれを拾うのを横目で見る。あたしたちの思い出が詰まった槍が、こんなやつらに奪われた。それだけで喪失感が胸に生まれる。

 

 クラディールが重ねて告げる。これこそが本当の狙いだとでも言うように。

 

「んじゃ、脱げ」

 

「……は?」

 

 頬が引きつる。こいつは一体何を言っている?

 

 クラディールが苛立ったように重ねる。

 

「だから脱げっつってんだよ。てめえ女だろ? 倫理コードも解除しろや」

 

 ああ……。

 

 あたしは力なく項垂れる。

 

 そうか、そういうことか。

 

 あたしはこれから犯されるわけだ。ハチマンを盾に取られて。なぶられ、陵辱されるわけだ。ああ、そういう運命なのか。本当に、あたしたちに何の恨みがあるのだ。ユキノに怒られたけれど、いまこの瞬間あたしは再び思う。

 

 この世界は、本当に狂っている。

 

 こんな狂った世界、無くなってしまえばいい。

 

「脱いだら、ハチマンは助けてくれるのかい……?」

 

 力無いあたしの返答に、クラディールが愉悦で顔を歪め言った。

 

「てめえの態度次第だなあ」

 

 ああ……本当にもう嫌だ。

 

 こんなことなら、ハチマンとふたりで身を投げればよかった。心中でもすればよかった。そして、あの世でずっとふたりで平和に暮らしたかった。こんな、あたしたちをもてあそぶ酷い世界じゃなくて、どこか遠い天国で一緒に過ごしたかった。

 

 それでも、あたしの心はハチマンを殺すことなど許せなくて。こんな奴らの言うことを信じるしか道がない。

 

 そっとハチマンを見る。彼は気を失っているのか、身じろぎひとつせずクラディールに掴み上げられている。

 

 ああ、ハチマン。

 

 そういえば、結局あんたにあたしの脱いだ姿、見せたことなかったね。

 

 ごめんね。

 

 本当はあんたが初めてがよかったけれど、あんたが目の前で死ぬくらいなら、あたしはあたしを捧げるよ。

 

 たとえそれが、万に一つであったとしても。億か、兆か、或いは京にひとつであったとしても。那由他の果てにハチマンを助けられるのなら、あたしは――

 

 あたしは、装備全解除のボタンへ指を伸ばす……。

 

 

 

 ……。

 

 …………。

 

 ………………………………。

 

 

 

 地獄の門が開いた。

 

 血色渦巻く地獄の門から、訊くものすべてを死へと誘う声が聞こえた。

 

 

 

 ――テメエら、俺のサキに何してやがる。

 

 

 

 あたしの視界に、紅い斬閃がふたつ踊った。それがなんであるか、あたしはすぐには分からなかった。

 

 ふらり、とクラディールの両腕が飛ぶ。これから起こる虐殺劇を告げる鐘の音のように、腕が落ちて霧散する。

 

 ああ……ああ、ああ……。

 

 あたしの目から涙が溢れる。

 

 彼がいた。

 

 彼が、立っていた。

 

 もう春も過ぎているというのに、掴んで離さなかった白のマフラーを風になびかせて。深い臙脂のコートに黒のボトム。その瞳に憤怒の炎を従え、紅の《デスブリンガー》を握ったハチマンが、己の足で立っている。

 

 全員が唖然としていた。腕を斬られたクラディールですら、身体を固めている。地獄の底から死を呼ぶ声に、全員の身体が絡め取られたのだ。

 

 そして、悪魔の領域が展開される。

 

 フローズン・ファウスト。

 

 パーティメンバーを除く半径十メートル圏内を、足を引く死者の縛鎖で捕える、《暗殺者》ハチマンによる絶対領域。

 

 緑溢れるフィールドに、再び紅の斬閃が咲き誇る。まるで桜の花びらでも散るように、全員の両腕が次々と宙を舞う。宙を舞う。宙を舞う。

 

 翡翠の槍が地面に転がる。

 

 全員の両腕が地面に落ち、音を立てて硝子片となって砕け散る。

 

 そして、ハチマンが、唯一手を腕を斬らなかったロザリオの首筋に、死をもたらす紅の短剣を突きつけた。

 

「いま死ぬか、今後一切俺たちから身を引くか、どちらか選べ」

 

 静かで、しかし訊くものを震え上がらせるハチマンの死の旋律。

 

 ロザリオがうろたえる。

 

「お、お前にアタシを殺せるの? グリーンアタシを殺したら、アンタはオレンジになる。殺人者になるよ!」

 

 へぇ、とハチマンがとても面白そうに笑う。ロザリオの浅慮を馬鹿にした、皮肉染みた笑み。ハチマンがロザリオの耳元に口を寄せる。

 

「俺が何人殺したか知ってるだろ? ラフィンコフィンを殺し尽した男に何言ってんだ?」

 

 ロザリオが悲鳴を上げる。

 

 全員が動けない。動けば即座に殺されると本能で理解しているから。人は、圧倒的な恐怖を前に動くことなどできない。

 

「あと五秒だけやる。去るか、死ぬか。どちらか選べ」

 

 ロザリオの瞳に懊悩。そして、

 

「撤退! 撤退するよ!」

 

 即座に全員の止まった時が動き出し、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。全員が逃げるさまを眺めていたハチマンが、ようやくあたしの姿をその瞳に捉える。

 

 瞳はいつもの腐った色に戻り、表情は少し照れくさそうにしていた。もじもじと短剣を握る肘を掻いて、気づいたように短剣を鞘に収める。

 

 ゆっくりとハチマンが歩を進める。

 

 あたしも足を踏み出す。

 

 たった数メートルが永遠にも感じるように、時間がゆっくりと流れる。

 

 涙が止まらない。

 

 嬉しくて。

 

 嬉しすぎて。

 

 ずっとこのときを待っていたから。

 

 あたしの手がハチマンの身体に触れる。暖かく、確固たる意識を持った彼の身体に触れる。

 

「ハチマン、ああ……ハチマン……!」

 

「すまん、心配かけたな……サキ」

 

 どちらともなく抱き合う。力強く、いままでの不幸をすべて吹き飛ばせとばかりに彼を抱きしめる。彼の手があたしの背を這う。

 

「ずっと、ずっと待ってた……! あなたが戻って来るのを、あたしはずっと待ってた!」

 

「面倒かけたな」

 

「ううん。ハチマンのためなら、なんだってするから」

 

「ありがとうな」

 

「いいよ。愛してるから」

 

「おう、まあ、俺もだ」

 

 あたしは顔を上げる。ハチマンと瞳が合う。

 

 彼が困ったようにぎこちなく笑う。

 

 あたしはただ欲しくて、ねだる様にまぶたを閉じる。

 

 星々が引力で引き合うように、あたしはハチマンと口付けを交わした。

 

 



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ただひたすらに、彼ら彼女らは支えあう 5

 あれから、疲れたと言って寄りかかってきたハチマンを支えて、あたしたちはログハウスに戻った。寝室へ彼を連れて行くと、まるで恋しいものでも見つけたようにベッドにダイブした。行動は以前のままだ。相変わらずこういうところは変わっていない。

 

「ああ、俺は布団ちゃんと枕ちゃんと結婚したい……」

 

 枕に顔を押し付けたハチマンが、布団と枕を愛おしそう愛撫しながら感慨深げに言う。どうしてそれをあたしにできないんだろうか……。

 

「一応、あんたの嫁がここにいるんだけど」

 

「そうだった……。いっそサキが布団になってくれると最高だな」

 

 まどろみ掛けているのだろう。普段なら言わないような科白をハチマンが言う。あたしはにやりと笑った。

 

「する?」

 

「抱き枕になってくれるのか?」

 

 くわ、っと欠伸を漏らしたハチマンがあたしを見る。あたしはなるべく妖艶な笑みを浮かべて首を振る。

 

「ん、裸で抱き合うの」

 

 ハチマンが目を剥いた。まるで眠気などいっぺんに吹き飛んだように。

 

「……え? なに? なんつったの?」

 

「あのね、あたしこれでも女だよ。女だって、したいときあるんだよ?」

 

 もうたまらなくて、いっそ全部脱いでしまえとシステム画面から装備ウインドウを呼び出す。ハチマンが慌てる。

 

「ちょ! 待て待て待って! 俺復活したばっか! いきなりえっちぃこととかやめて! 混乱しちゃうから! ていうかもう既にいっぱいいっぱいだから!」

 

「やだ」

 

 一言だけ言って、装備一斉解除ボタンを押す。あたしらしからぬ、躊躇ない行動。服を脱ぎ捨てたあたしはそのままハチマンへと歩み寄る。ばっ、と乙女のように両手で目を隠したハチマンが声を上げる。

 

「ちょ、待って! 心の準備とか色々あるから! ていうか前言ったよね? 覚えてないの?」

 

「覚えてない」

 

「俺の彼女の記憶力が残念すぎる!」

 

 ハチマンが叫んだ。知らない。知ったことか。

 

 あたしはベッドに乗ってハチマンに馬乗りになる。なんだか襲ってるみたいで興奮する。あたし、実は変態なの?

 

 顔を覆ったハチマンが、それでも指の隙間からあたしの身体を見ている。特に胸が気になるらしい。やっぱそういうとこは男だね。目を丸くしたハチマンが、それでもあたしから視線を離さない。

 

 頑張って理性ちゃん! あとちょっとだけで良いから頑張って!

 

 ハチマンが必死に呟いている。だから理性ちゃんって誰よ。いまはあたしだけを見て欲しいんだけど。

 

 そっとハチマンの身体に覆いかぶさるよう、あたしの胸を押し付ける。ハチマンが喉の奥で唸る。指からはみ出た彼の顔はもう真っ赤だ。

 

「ちょ、無理、限界! 俺いま理性が吹っ飛ぶ寸前!」

 

 まったく、面倒な男だよ。

 

 そっと、ハチマンの耳に顔を寄せて囁く。

 

「もうごちゃごちゃ色んなこと考えないで。あたしを見て。あたしだけを感じて。あんたもあたしに溺れて。あたしはあんたにいつだって溺れてるから」

 

 ハチマンが喉を鳴らした。

 

 だから、と精一杯の気持ちと色気を込めて言葉を贈る。

 

「あたしを抱いて」

 

 ぷつん、と何か糸が切れた音が聞こえたような気がした。

 

 手を離したハチマンがあたしを見る。あたしもハチマンを見つめる。そのまま吸い込まれるように口付けをしようとして――

 

 

 

「やっほ~! 今日もアルゴちゃんが来たヨ~!」

 

 

 

 うん、そのとき空気が止まった気がしたね。

 

 振り向くと、寝室の扉を開けたアルゴが、顔面を笑顔にした状態で固まっている。あたしたちも同じだ。

 

 客観的に見てみよう。

 

 寝室のベッドで、裸のあたしがハチマンの上に覆いかぶさっている。いまやもう唇は触れる寸前。どう考えても……ごにょごにょしそうな雰囲気だ。というか絶対する感じだ。

 

 つまり……

 

「し、失礼しましたああああああああ!!」

 

 アルゴが反転。脱兎のごとくに部屋から逃げ出した。

 

 あたしとハチマンは沈黙。

 

 空気を壊されたどころではない。冷静になって、どれだけすごいことをしていたのか改めて気づいた。あれ、やだ、あたし、なんて大胆なことしてたの!?

 

 急に恥ずかしくなって、あたしは服を着直す。ハチマンもうんうんと唸りながら布団を被る。そして、足をバタバタしながら悶え始めた。

 

「見られた、見られた見られた見られた見られた見られた! もうハチマンお嫁に行けない! 行けないよおおおおおおお!」

 

 ちょっと、嫁に行くのはあたしだよ。あんたは女なの?

 

 しばらく暴れていたハチマンだったが、ようやく落ち着いたか布団から顔を出して一言。

 

「……おうち帰りたい」

 

 あたしは思わず項垂れる。

 

「ここがあたしたちの家だよ」

 

 そこで、ようやくいつもの部屋と違うことに気づいたか、ハチマンの視線がきょろきょろと動く。

 

「え、なにここ? どこの富豪の別荘だよ。なに? ロトセブンにでも当たったの?」

 

 発想がユキノと同じなんだね。さすが奉仕部員。それを喜べばいいのか嘆けばいいのやら、もう何がなんだか分からなくて、あたしは額に手を置いた。

 

「みんながあたし達に贈ってくれたんだよ。経緯はあとでちゃんと話すから。とりあえず、みんな呼ぼうか?」

 

「お、おう。え? アルゴも来るの? あの子絶対みんなに言っちゃうよ? 俺の黒歴史がまた増えるよ?」

 

 ふぇぇ嫌だよぉと、きっといつも脳内で繰り広げられている会話が今日は駄々漏れだ。さすがにかなり混乱しているらしい。

 

 はあ、とため息してあたしは再びハチマンの傍に寄る。

 

「あんた、あたしと抱き合うのが黒歴史だって言いたいの?」

 

 あたしの言葉にハチマンが即座に返答。

 

「いや、四六時中抱き合っていちゃいちゃしたい。できればもう最後までしたい。やりまくりたいまである。俺の理性ちゃんはいつだって欲望くんにフルボッコされてる」

 

 とりあえず、理性ちゃんとやらは女の子で、欲望くんとやらが男の子。ふたりは日々壮絶な戦いを繰り広げているらしい。非常にどうでもいい情報だ。さっさと負けなよ理性ちゃん。頑張れ欲望くん!

 

「ならいいじゃない。みんなそんなもんだよ」

 

 そっと頬にキスをする。

 

 ぽおっと幸せそうに顔を赤くしたハチマンは、無言で頷いた。

 

「それじゃ、夕方になったらみんなを呼ぼうか。みんなハチマンが戻って来るのを待ってたんだよ」

 

「お、おう、そうか……色々迷惑かけたみたいだな」

 

 ハチマンの顔が少し強張る。どうせまたぞろ面倒なことを考えているのだろう。なら、こういうときは一発かましてあげればいい。

 

「ちゃんとお礼を言いなよ。それと」

 

 

 

 ――夜になったら、さっきの続きをしようね?

 

 

 

 ハチマンの顔が爆発した。寝室を出て扉を閉めると、中から絶叫が届いてきた。

 

 あたしはくつくつと喉の奥で笑ってウインドウを呼び出し、みんなにメッセージを送る。アルゴからは、邪魔したことを謝る旨の返信が即座に届く。まったく、あの子はいつだってあたしの邪魔をするんだから。困ったものだ。でも親友だから許す。

 

 ハチマンが休んでいる間、あたしは指定した時間までにと全員分の夕食の準備に取り掛かる。そういえば昼食を食べ損ねたな、と思い出して寝室をノックするが、当のハチマンは、

 

「いま理性ちゃんを全力で応援中だから勘弁してくれ!」

 

 とのことだった。思わず笑みを零しながら夕食の準備を再開する。早く負けないかなあ理性ちゃん。あたしは欲望くんを応援しよう。頑張れ、欲望くん!

 

 そして、夕刻前になるとリビングへ全員が集まった。迷宮区攻略をしていたはずのキリトとアスナまで揃っているのだから、どれだけみんながハチマンを心配していたかが分かる。全員がいまかいまかという表情で、寝室にいるハチマンが出てくるのを待っている。アルゴだけが、恥ずかしげに頬そめて、ちらちらとあたしを見ていた。

 

 あたしは唇だけ動かして、黙っていて、とアルゴへ伝える。彼女は勢いよく首を縦にぶんぶんと振った。

 

 やがて、ハチマンがいつもの姿で寝室から出てくる。全員の視線がハチマンへ集まり、

 

「おかえり!」

 

 全員がハチマンに声を掛ける。彼は恥ずかしそうにしながら頭をがりがりと掻いて、小さく答えた。

 

「おう。その、なんだ……ただいま」

 

 クラインが感極まったようにハチマンへ飛びつく。

 

「よかったぜぇ、本当によかったぜえ!」

 

 キリトとアスナ、アルゴにディアベルがそれに続く。エギルが包み込むように、大きな両腕で全員をその腕に抱く。

 

「おい、苦しい! ちょ、キリト! 脇腹突くな! アスナもくすぐったいから腹に頭こりつけるのやめてね! あ、アルゴ! さっきの耳元で言うんじゃねえよ、みんなに聞こえちゃうだろ! おい、さっきからさり気なく頭叩いてんじゃねえよディアベル! クライン! 頬にヒゲ面こすり付けんな! 痛えんだよ! てめえらエギルを見習え! 復活したばっかで俺を殺す気か!」

 

 ハチマンが呻く。だけど、その声はやっぱり嬉しそうだ。

 

 抱擁の環に加わらなかったユキノが、あたしの傍に寄ってくる。そして両腕を広げてあたしを抱きしめた。

 

「良かったわね。本当に、よかった」

 

「うん、うん、ありがとうユキノ」

 

 そこには歓喜だけがあった。すべてがようやく元通りになったかのように、抜け落ちた最後のピースがいま嵌る。

 

 これで全員が揃ったのだ。

 

 ようやく抱擁が終わったか、全員が思い思いにテーブルに着く。当然中心はハチマンで、隣にはあたし。

 

 全員の視線がハチマンへ集中する。彼はうっ、と小さく呻いてあたしを見るが、微笑みを返すだけにしておく。ぬぅ、と唸りながらも、ハチマンが口を開く。

 

「まあ、あれだ、心配かけてすまんかった。この通り、とりあえずは復活だ。いままで迷惑かけて悪かった。それと、色々とサンキューな」

 

 ハチマンの言葉に代表してクラインが答えた。

 

「なあに、構わねえよ。サキさんにも言ったけど、お前らには感謝してんだぜ。だからこれは俺たちからお前らへの感謝の気持ちだ。気にすんなよ、な?」

 

 そっとハチマンを見る。いつもは濁っている瞳が、珍しく澄んで光っているように見えた。彼が俯く。

 

「おう、サンキューな」

 

 そこから、いつものように作っておいた夕食をテーブルに広げ、食事会が始まる。みなハチマンに話したいことがたくさんあったんだろう、口々に彼が意識を失ってからのことを話していく。彼はそれに対し、いつものように適当な相槌を打ちながらも、情報を整理しているかのように時折瞑目していた。

 

 そして、あらかた話も終えたところで、クラインが控えめに口を開いた。

 

「ハチ、これからどうしたいンだ? オレらとしちゃあ、ふたりにはここでゆっくりして貰いたいんだがよお」

 

 全員が頷く。あたしはハチマンを見る。彼は少しだけ黙ってそれを受け止め、時間を置いてからゆっくりと首を横に振った。

 

「俺は前線に戻る」

 

 ああ、やっぱりそうだろうね。そんな目をしてたから。

 

「ハチ、いいのか? また戦うことになるぞ?」

 

 キリトが心配そうに言う。だが、ハチマンはそれに対しても首肯する。やがて、ぽつりぽつりと語り出す。彼が考えて考えて、そして達した結論を。

 

「あれから考えてた。奴らを皆殺しにしてから、まどろんだ夢の中で、絶えず考えてた。俺は奴らを皆殺しにした。ひとり残さず、徹底的に、殺意を持って首を落とした。どんな理由があれ、俺は人殺しだ」

 

 全員が声を揃え、違うと、ハチマンはみなを救ったと言う。しかし、ハチマンはそれを片手で制する。

 

「確かに、俺は住人を助けることができた。でもな、あの行為は厭われるもんじゃねえ。償いはすべきだ。だから俺は、俺は……」

 

 その瞳に涙を蓄え、ハチマンが己の決意を口にする。

 

 

 

「アインクラッドを攻略する。ここで死んでいった奴らのためにも。ここで生きて現実を夢見る奴らのためにも。なにより、サキのために。俺はこの塔を攻略して現実に戻る。それがいまできる俺の償いだ」

 

 

 

 全員がその決意の強さに言葉を失う。ハチマンがあたしを見る。彼は済まなそうに目を細めて言った。

 

「すまん、サキ。勝手ばっか言っちまって。着いて来てくれるか?」

 

 答えなど、当の昔に決まっている。

 

「あんたの隣があたしの居場所だよ。あんたが行くなら、あたしも行くよ」

 

「おう、ありがとな」

 

 くっそ、とクラインが男泣きをする。

 

「こんにゃろう。いちいち俺を泣かせやがって! ふたりが戻ってきてくれりゃ、こんな塔すぐにでも攻略できンぜ!」

 

「悪いな。お前の行動無駄にしちまって」

 

「気にすンなよ。ダチだろオレたち!」

 

 ハチマンがまぶたを閉じ、自然に微笑む。

 

「そうだな、そうだったな」

 

 よしっ! とキリトが手の平にこぶしを叩き付ける。

 

 アスナは、すぐに団長に連絡しないと、と仮想キーボードを叩き始める。

 

 ディアベルもエギルと一緒に喜んでいた。

 

 ユキノとアルゴは、やっぱり心配そうにしていたけれど、ハチマンの意思の強さは知っているから、何も言わず、応援するようにその相貌を崩す。

 

 あたしはハチマンの手を握る。彼も握り返してくれる。

 

 さあ、あたしたちはようやく戻ってきた。この現実に。この悪夢の塔へと続く扉の前に。

 

 覚悟しなよアインクラッド。

 

 あたしたちが、あんたを全力で攻略してやる……!

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 それから二日間、あたしたちは、ひたすらにレベル上げをしていた。そして朝早い時間に三人の人物がログハウスを訪れた。ひとりはアスナ、そしてもう一人は血盟騎士団団長ヒースクリフ、最後は副団長補佐のマンダトリーだ。

 

 先頭に立っていたヒースクリフが玄関の扉を開けたあたしに、まず頭を下げる。

 

「朝早くに申し訳ない。君たちのことはアスナ君から訊いていてね。いまの時分にしか話をする時間が作れそうにない故、この時間にさせてもらったのだが、構わないかね?」

 

 あたしはそれに首を振って答える。

 

「アスナから訊いてるから大丈夫だよ。それより悪いね、こんなとこに来てもらって」

 

 では失礼して、と中に入る三人をリビングへ通す。テーブルには既にハチマンが座って待っていた。三人を席に促し、あたしもハチマンの隣に座る。

 

「よう、ヒースクリフ。久しぶりだな。それと、マンダトリーだっけ? 初めましてか。アスナは……まあいいや」

 

「ちょ、ハチくん酷い!」

 

 適当な扱いをされたアスナが、リスのように頬を膨らませて怒る。

 

「別にいいだろ。隣近所なんだし」

 

「そうだけど、なんかもうちょっとあるでしょ!」

 

 ぷりぷりと怒るアスナと欠伸をするハチマンの間に入ったのは、マンダトリーだ。

 

「まあまあ、今日はそんな話をしに来たんではないんですから」

 

 ヒースクリフが立ち上がり、一歩後ろに下がる。マンダトリーとアスナも同じくヒースクリフに習う。

 

「まずは謝罪を。我々血盟騎士団のギルド員が君たちに多大なるご迷惑をお掛けしたことを心より謝罪する。申し訳ない」

 

 三人が頭を下げる。

 

 先日襲ってきたあの憎らしい長髪の男、クラディールはどうやら血盟騎士団のメンバーだったらしい。その話を訊いたアスナは、即座にヒースクリフに連絡を取り、オレンジギルドである《タイタンズハンド》と共に即座に指名手配。現在、全力で身柄確保に動いているらしい。

 

「まったくだよ。危うく犯されかけたんだからね」

 

 女として最悪の経験をされかけたあたしとしては、皮肉のひとつも言いたくなるものだ。

 

 あたしの言葉に三人が再び頭を下げる。

 

「本当にごめんなさい、サキさん。これはあたしたちの責任でもあるから」

 

 アスナの謝罪に、ハチマンは複雑な表情をする。彼も別に彼女に対して怒っているわけではない。

 

「まあ、あれだ。正直奴は八つ裂きにしてやりたいところだが、奴の処理についてはひとまず置いておく。とりあえず今回の件を交換条件に、ひとつこっちの要求を呑んでくれりゃ不問にしてやるよ」

 

 ヒースクリフが顔を上げる。

 

「構わない。何なりと言ってほしい。我々にできることであれば全力で応えよう」

 

 んじゃ遠慮なく、とハチマンが告げる。

 

「俺たちを前線に戻してくれ」

 

 ヒースクリフとマンダトリーの表情に驚愕。普段表情を変えないヒースクリフの驚き顔を見られて、あたしとしては溜飲が下がった気分だ。実におもしろい。

 

「い、いいんですか? いや、こちらとしては大変ありがたいと言いますか、むしろお願いしたいくらいだったんですけど……」

 

 マンダトリーが慌てたように言う。ハチマンはそれに難しい表情を浮かべる。悔恨の念でも抱いているのだろう。一度あたしを見て小さく息を吐くと、彼は三人に宣言する。

 

「俺の償う場所をくれ。いまの俺には攻略に貢献するくらいしか、俺が殺した罪を償う術を知らなくてな。だから前線に戻してくれ」

 

 ヒースクリフが、再度問う。

 

「確かにアスナ君から訊いてはいるが、本当に良いのだね? 前線に戻るということで」

 

 ああ、とハチマンが答える。

 

「俺とサキは攻略に戻る。レベル的にはまだちとキツイけどな。これは俺にとっての償いだ。だから俺は最前線に戻る」

 

 ヒースクリフがひとつ頷き、今度はあたしを見る。

 

「あたしも同じだよ。夫の隣があたしの居場所だからね。ハチマンが行くなら、あたしも行く。現実に戻るよ」

 

 そうか、とヒースクリフが息を吐き出した。何か思案するように一度瞑目すると、まぶたを開いてあたしたちを見据える。

 

 ヒースクリフが厳かに告げる。

 

「よかろう。現刻をもって、ハチマン、サキ、両名の最前線復帰を血盟騎士団団長ヒースクリフの名の下に承認する。各ギルド長には私から伝えておこう」

 

 あたしとハチマンが頷く。

 

「なんか、わがまま言っちまって悪いな」

 

 ハチマンの自戒の言葉に、ヒースクリフが首を振った。

 

「クライン君の宣言以来、誰もが君たちに追いつこうとしていた。ばらばらだった攻略組がひとつとなり、決死の覚悟で塔を駆け上った。未だかつて無い速度でね。しかし、皆心のどこかで君たちを待っていた。その君たちが戻ると言うのだ。感謝以外の言葉など我々は持たないよ」

 

 アスナとマンダトリーが、ヒースクリフの言葉に肯定を示す。

 

「すまん、そう言ってもらえると助かる」

 

 話は終わった。なら、あたしたちがすべきことは攻略ただひとつ。

 

「もうじき、七十層のフロアボス攻略会議が行われる。そこで君たちの帰還を正式な発表としよう。それでいいかね?」

 

「ああ、それでいい」

 

「あたしもいいよ」

 

 あたしたちの返答に満足げに頷いたヒースクリフが、そっと窓の外を見上げた。

 

 視線の先には、二十二層の美しい景色と、青々とした空がある。遥か蒼穹を貫くアインクラッドでも幻視しているのか。ただ、彼の瞳に一瞬映った彩光の中に、歓喜と呼ばれる色が現れていたような気がした。

 

 そして、同じく感慨深げに視線を飛ばしたマンダトリーの瞳にも、ヒースクリフと同じ色が宿っていた。



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第七章
かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 1


 俺たちはあの日、予想もしない出来事に遭遇した。

 

 誰もが目を疑い、耳を疑い、あらゆるすべてに困惑を抱いた。

 

 ただひとつ確実に言えることは、俺たちは百層すべてを攻略しなければならない。

 

 それだけは徹頭徹尾、最初からなにひとつ変わっていない。

 

 

 

 第七十五層迷宮区、フロアボス部屋。

 

 全員が精魂尽き果てた様子で床に尻をついている。かくいう俺も同じ有様で、隣で荒い息を吐くサキの肩を抱きながら、酷い脱力感に襲われていた。

 

 第三クォーターポイントフロアボス、スカルリーパー――骸骨の狩り手。

 

 無数の脚をうごめかせる骨の百足たるフロアボスとの戦闘は、まさに五十層の邪龍フイヤン・ロンすら越える悪夢だった。

 

 まず結晶が使えない。転移結晶の離脱も使えず、瞬間回復も不可。POTによるゆるやかな回復しか許されない、結晶無効化エリア。

 

 開始早々、凶悪な鎌による一撃で三人が殺された。そこからはもう、死屍累々の地獄絵図が展開されていった。ヒースクリフとクライン両名による、スカルリーパーの大鎌を防御。その間、その他全員による一斉攻撃を永遠とも呼べる時間を続け、ようやくつい先ほど悪夢の敵を打倒したのだ。

 

 犠牲者は十名。すべてがみな、最前線を踏破する歴戦の勇士達だ。それが十名死んだ。これを多いと憤れば良いのか、少なかったと安堵すれば良いのか分からない。

 

 まじで死ぬかと思った。ホントマジで。

 

 ふぇぇぇ、おうち帰りたいよぉぉ。

 

 そんなことを脳内で言って無いと気絶しそうなくらい俺も消耗していた。サキはいまにも気を失いそうで、俺の肩に頭を預けている。ほんと、ふたり生き残れてよかった。見渡せば、俺たちの仲間も皆生きている。

 

 特に今回はクラインの活躍がすごかった。《抜刀術》であの大鎌をすべて捌ききりやがった。もうリアル抜刀斎だ。ヒースクリフの《神聖剣》の防御能力も凄まじいの一言だ。一体ユニークスキルってなんなの? 全部バランスブレイカーじゃねえか。茅場の野郎、ゲームバランスの調整能力ねえの?

 

 そのとき、近くにいたキリトの雰囲気に険が灯った。それは僅かな疑惑と、確かな直感を基に生み出したような殺気。

 

 一条の光が走った。

 

 キリトがヒースクリフへ向けて突きを放ったのだ。即座にヒースクリフが盾を構えるも、それを読んでいたキリトによって剣の軌道が鋭角に変化する。盾の縁を掠め、キリトの黒剣がヒースクリフの胸に突き立つ。

 

 紫の閃光と共に、決して現れるはずの無いシステムメッセージが表示される。

 

 ――Immortal Object

 

 即ち、システム的不死。

 

 さすがに俺も驚愕した。誰もがみな目を疑った。誰もが動きを止め、息を止め、眼前の出来事に言葉を失った。

 

 そのしじまを切り裂くように、キリトが口を開く。

 

「これがあんたの伝説の正体か。不死属性を持つプレイヤーなんて、ゲーム管理者以外に考えられない。ただ一人を除いて」

 

 キリトが言葉を切る。全員がキリトへ注目する。

 

「ヒースクリフ。あんたがそうなんだろ?」

 

 ――茅場晶彦。

 

 再び静寂が場を支配する。俺も、いや、大人達ですら到達し得なかった真理に、元中学生であったキリトの手がそれに触れた。呆れるくらいの洞察力だ。

 

 ヒースクリフは無表情のまま、じっとキリトを見つめていた。誰もかもが瞠目する。驚嘆する。信じられなどしない。

 

 攻略組を率いていたのはディアベルとクライン。しかしその実、指揮を取っていたのは血盟騎士団団長たるヒースクリフ。その彼がこの、この悪夢のゲームの幕を開けた茅場晶彦だったというのだから。

 

 ヒースクリフがちらりと俺を見て、視線をキリトへ戻す。

 

「まさか君が気づくとはね。私の予想では、気づくとすればハチマン君かと思ったんだが」

 

 おいおい、よく分からんねえ事情に俺を巻き込むな。俺は文系が超得意で文章の行間まで読んじゃう男だが、そんなことまで頭を回す余裕はなかったんだよ。三ヶ月近いブランク舐めんなよ!

 

「ハチからは大切なことを教わった。いついかなるときでも思考することがいかに大事かってな。だから俺はずっと考えていた。HPバーがイエローにならない伝説のからくり、そして何より、茅場晶彦が一体どこから俺たちを眺めているのか。そうしてたどり着いた結果が、あんただ」

 

 キリトが黒剣をヒースクリフへと向ける。

 

 それを合図に、全員が立ち上がり得物を構える。いままさに、すべてを終わらせられる存在がここにいる。ならば、こいつを倒せば、この夢の狭間に俺たちを追いやった茅場晶彦を倒せば、現実に還ることができる。

 

 だが、全員が動き出すよりも、ヒースクリフの手の閃きの方が遥かに速かった。左手を振り、出現したウインドウを操作したかと思うと、全員の身体が言うことを利かなくなったように停止しする。条件反射でHPバーを確認すると、グリーンの枠が点滅している。

 

 ――麻痺状態。

 

 キリトを除く全員がその場に膝を付く。地面に崩れたアスナの元に駆けつけたキリトが、睨みつけるように茅場へ視線を注ぐ。

 

「……この場で全員殺して隠蔽する気か?」

 

「まさか、そんな理不尽なことはしないさ」

 

 紅衣の男は微笑を浮かべ、首を左右に振る。そんな結末はつまらないとでも言うように。

 

「仕方ない。私は最上層の《紅玉宮》にて君たちを待つことにするよ。すべては九十層以上の強力なモンスター軍に対向し得る力とし育ててきた血盟騎士団、そして君たち攻略組プレイヤー諸君をここで放り出してしまうのは、誠に遺憾ではあるがね。なに、心配することはない。君たちならば辿り着けるだろうさ」

 

 他人事のように言った茅場が、その双眸でキリトを見据えた。右の剣を黒曜石の床へと付き立て、澄んだ音を響かせる。終末を告げる喇叭のように。

 

「さて、キリト君。君には選択権を与えよう。私の正体を暴いたせめてもの報酬としよう。このまま私と一対一で戦い、勝利すればゲームクリア。当然不死属性は解除しよう。どうかな?」

 

 その言葉を訊いた途端、アスナが、そして俺が声を絞り出す。

 

「だめよキリト君……! あなたを、排除する気よ……」

 

「引け、キリト……! そんな一か八かの博打を受けるな。お前には、俺たちがいる……! 俺が、俺たちが、意地でも現実に連れ戻してやる……。だから、剣を引いてくれ……!」

 

 そうだ、引け。いまは引くんだキリト! こんな奴の言うことを真に受けるな!

 

 だが、キリトの双眸に憤怒の光が灯る。

 

 やめろ。やめてくれ!

 

「ふざけるな……」

 

 かすかなキリトの呟き。

 

 あいつはいま、心に煮えたぎる怒りのマグマを噴火させようとしている。全身から怒気が揺らめいている。

 

 待て、待て、頼むから待ってくれ!

 

「いいだろう。決着をつけよう」

 

 キリトがゆっくりと頷く。アスナが悲痛な叫びを上げる。キリトとアスナが何か会話をしている。聞こえない。

 

 お願いだ。そんなことはするな。

 

 そいつは死亡フラグって言うんだよ!

 

 それを覆した奴なんて、俺が知る奴の中じゃディアベルただ一人なんだよ!

 

 みなが、仲間たちがそれぞれ必死になって身体を動かし、キリトの名を叫ぶ。俺も、サキだって叫んでいる。

 

 なのにキリトは止まらない。止められない。

 

 すべてが茅場の思惑通りというように。俺には、いまのキリトが、茅場によって予め張り巡らされた蜘蛛の巣に絡まる蝶のように見えた。

 

 最期の言葉を告げるように、キリトが仲間たちに声を掛けていく。おい、やめろ。マジで戦場に死にに行く戦士みたいじゃねえか。なにやってんだよ。格好悪くてもいいから今すぐ戻って来い!

 

 やがて、キリトが俺とサキに向く。

 

「ハチ……お前と出会えて嬉しかったよ。最初に喧嘩したことも、ハチが言ってくれたことも、全部俺は覚えてる」

 

「やめろ……キリトぉ!」

 

 視界が七色にきらめく。俺は泣いている。泣いているのだ。初めて親友と呼べる少年を、俺はこのまま見殺しにしなければならない。そんな理不尽あるか? ふざけんなよ!

 

「サキさん。いつも叱ってくれてありがとう。見守っててくれてありがとう。それと、朝飯ありがとう、美味かったよ」

 

「あんたは、いつだって……ご飯のことばっかなんだから……!」

 

 サキの言葉にキリトが苦笑する。

 

 俺たちの必死の呼びかけもむなしく、遂にキリトがヒースクリフと対峙する。ふたりの間の緊張感が高まっていく。針を刺すような殺気が両者から放たれる。

 

 そして――

 

 

 

「その結末はつまらないですよ、茅場さん」

 

 

 

 動き出そうとしたキリトが止まる。全員が再び瞠目する。あの茅場晶彦ですら、その瞳に動揺の色を滲ませていた。

 

 茅場の胸から突き出した一本の槍。奴の背後からその一撃を食らわせたのは――

 

 

 

「マンダトリー。なぜ君が動ける……?」

 

 

 

 血盟騎士団副団長補佐にしてギルド随一の槍使い。優男の風貌に似合わず、あのサキとすら互角とは言えずも肉薄し得る槍技を持つ男。アスナから訊く限り、指揮能力や腕は立つくせに業務をサボり、あまつさえよく失踪する。そんなことからついた不名誉なあだ名は《働かない男》。まさに、かつての俺の理想系とも呼べる男だ。

 

 そんなマンダトリーが、茅場とキリトを除きただ一人、麻痺などまるで関係ないとでものたまうように。茅場の胸に槍を突き刺して微笑んでいる。

 

 忘れてもらっちゃ困りますよ、とマンダトリーが茅場に声を投げる。

 

「あなたの部下ですよ。初日に内部管理者としてログインしていたでしょう?」

 

 茅場の表情に困惑。

 

「稼動初日のあの宣言には驚きましたよ。でも心底嬉しかったですねえ。なにせ、現実のように常識や法といった拘束に縛られない、人が良心と呼ぶひどく異質で曖昧なものに縋るだけの、この自由で広大な世界を謳歌できることになったのですから。私にとっては夢のようでした」

 

 マンダトリーが笑う。その笑みを、俺はどこかで見たような気がした。なぜ、あの男が浮かぶ。なぜ、髪の色も顔立ちも、何もかもが違うあの男を想起してしまう?

 

「一体、どうやってRoot権限を得た……カーディナルの目をいかにして搔い潜った?」

 

「ああ、実はSAO実装時に、かねてから秘密裏に作っていたカーディナルへの干渉用アプリケーションを仕込んでいたんですよ。最初はただのお遊びのつもりだったんですが、まさかこれが功を奏することになるとは」

 

 人生なにがあるか分かりませんね、と言ってマンダトリーが微笑する。

 

「システムって、外部からの攻撃に対するセキュリティは呆れるくらいガチガチのくせに、内部からの攻撃にはめっぽう弱いんですよね。ホント呆れるくらい簡単でしたよ。ネットワーク系もかじっていて正解でした」

 

 それより、とマンダトリーが言葉を続ける。俺の姿をその双眸に捉えながら。

 

「《軍》のときは楽しかったなあ。さすがにそこまで話術に自信があるわけじゃなかったんで、カーディナルシステムを介してちょちょっとメンバーの感情の方向性、つまりは脳の報酬系に働きかけて洗脳まがいなことをしましたけど。あれは本当に愉快だったなあ」

 

 マンダトリーが、愉悦の鈍い光を湛えた瞳を爛々と輝かせる。

 

 こいつ……こいつは……。

 

 思い返せば、確かにあの《軍》はおかしかった。いくらなんでも、そう簡単に大量の人間を洗脳できるはずがない。いかなカリスマであったとしても、あんな短期間でそれを成し遂げられるはずがない。奴を倒してすぐに彼らが抵抗を止めたのも、その脳への働きかけとやらを解いたからか? すべて手の平の上だったからか?

 

「あの虐殺劇も最高でした! あんな結末に導いてくれたハチマンくんには感謝してもし足りません! 本当に心の底から思いますよ。あなたに出会えて、本当によかったと」

 

 カタカタと身体が震える。それが怒りなのか、驚きなのか、悲しみなのか、あらゆる感情が入り混じって混沌として、俺の身体が震えで止まらない。

 

 おい、嘘だろ。そもそも、あのとき殺したじゃねえか。首を飛ばした感触だっていまも忘れてない。夢にだって見る。なのに、なんであの男がここにいる……!?

 

「お、お前まさか……」

 

 俺の呟きを拾ったマンダトリーが、愉快な声で「ビンゴ!」と言う。当たっても嬉しくなどないゲームに当たる。景品は最悪な結論だ。

 

「私がアポストルですよ。ハチマンくん」

 

「そんな、バカな……」

 

 サキも呻く。

 

 俺たちを地獄の底に叩き込んだ男が、そして俺が地獄へ突き落とした男が、再び現世に舞い戻ってここにいる。平然と両の足で立っている。あり得ない。まったくもって有り得ねえ!

 

「なぜ、という顔をしていますねハチマンくん。それはそうですよ! だってキャラクター自体が違うんですから。私は複数のキャラクターを持っていましてね。アポストルはその内の一体ですよ。ちょっと狂信者を演じてみたくて作ったキャラクターですが、存外楽しくてノリノリで演じちゃいました。ちなみに、第一層で場を煽ったシミター使いも私ですよ? あのときのあなたの演説は最高でした。まさに感動の一幕。キリトくんの懊悩を察し、即座にすべての悪役をひとりで担うその覚悟たるや、もはや英雄と名乗るに相応しい! 一体どれだけのプレイヤーがあなたの決意に気づいていたのか。告白しましょう。私はあのときあなたに一目惚れをしましたよ。あなたこそこの演目の主演に相応しいと」

 

 マンダトリーが饒舌に続ける。

 

「あなたは孤独を装い孤高を気取りながらもその実、心の奥底では他者を求めてやまない。そして一度でも身内と判断したものは自身よりも大事にする。まるで金庫にでも保管するかのように。あなたはあのときこう思ったはずだ。キリトくんにやらせてはならないと。それくらいなら俺が被ると。違いますか? 当たらずとも遠からずと言ったところでしょう?」

 

 うるせえ。俺をお前が語るんじゃねえ。

 

「あなたはきっと絡め手が得意だったはずだ。だというのに、初手からそれを逸した。理由は分かりませんが、正攻法で解決しようとした。しかしそれを私が許さなかった。最後に残ったのはあなたが最も得意とする手段しかない。そして隣には同じ結論に達した己よりも年下の少年。あなたが動くには理由が必要だ。あなたの隣にいるサキさんがその最もたるところでしょう。これだけの要素を揃えたのならば、あなたの方法論ではひとつしかない。それがあの結末です。違いますか?」

 

「うるせえ。お前が俺を語るな」

 

「一応はこの二年間、秘密裏にあなたを観察して導きだした結論なんですから、イエスノーくらいは言って欲しかったんですけどね」

 

 マンダトリーが朗らかに笑った。

 

 はっ、と俺は皮肉めいた笑みが漏れた。

 

 いくど殺しても殺し足りないほどに憎い相手に俺を語られている。しかも大体合っているのだから気持ち悪くてしかたがない。なにより、俺がこの世界で巻き込まれた事件の殆どが、こいつの手の内だった。まさにお釈迦様の手の平で踊ってたわけだ。さぞ愉快だったろう。さぞ面白かったろう。俺はもう笑えない。下らなすぎて表情すら作りたくない。

 

「あれだけのことを仕出かして、お前は一体何が目的だ……」

 

 絞り出した俺の問いに、マンダトリーが答える。実に単純明快な目的を告げる。

 

「楽しければいいんですよ。ただそれだけのために私はここに立っているんですから」

 

 誰もが声を喪う。特に、あの虐殺事件を体験した俺たちは、感情すら失せる。あの地獄を生み出した理由が、楽しい? 楽しいとのたまったのか、こいつは……!

 

「君のような思想を持った者が、部下にいたことに気づけなかった私の愚かさを呪うよ」

 

 茅場の呪詛にマンダトリーがアポストルのように微笑で応える。

 

「精神鑑定テストなんて、自分が異常だと分かっていれば正常のフリをしていくらでも誤魔化せますよ」

 

 さて、とマンダトリーが左手を振る。茅場と同じようにシステムウインドウを動かす。

 

「茅場さんには、ここでご退場頂きましょう。こんなにも楽しい劇をここで終わらせられるかもしれないなんて、私にとっては拷問に等しい苦痛ですから」

 

 茅場の身体に亀裂が入る。腕が落ち、脚が崩れ、そして身体が崩壊していく。

 

「さあ、あなたも当然虜囚たちと同じ結末を辿ります。そう、レンジで脳をチン♪ って奴です。愉快ですね~楽しいですね~」

 

 その身体を硝子に霧散させる寸前、茅場がマンダトリーを睨み、息を吐いた。

 

「これも運命か」

 

「ええ、あなたの死をもって最終劇が幕を開きます。あの世でゆっくりとご観覧あれ」

 

 茅場の体が硝子片と散る。

 

 全員の身体が動かない。キリトもいつの間にか膝をついていた。麻痺を施されたのだ。

 

 マンダトリーが攻略組を睥睨する。とても楽しそうに微笑みながら。

 

「盛り上がっていたところ申し訳ありませんが、何かが変わったわけでもありません。アインクラッド百層攻略という目標は変わりありません。さあ、残り二十五層がんばりましょう。最後の劇を盛り上げてください。そして、みなで愉しみましょう!」

 

 ひとり、マンダトリーが次の階層へと続く階段へ歩を進める。そのさまは、帰りを喜ぶ子どものようでいて。なのに、神々しく輝いて見える。

 

 そう、このとき神が変わった。

 

 茅場晶彦というアインクラッドの神は失墜し、代わりにマンダトリーがその座についた。

 

 ただアインクラッドだけは変わらずここにあって、俺たちが最上階まで登るさまをじっと見つめている。

 

 全員が一様に黙りこくる。静寂がフロア全体に蔓延る。誰もが口を開けない。麻痺など関係なく、何が起こったか完全に理解できていない。俺も混乱していた。頭がおかしくなりそうで、傍にいるサキを、痺れる手でぎゅっと握る。その触れた彼女の暖かさだけが、俺がこの悪夢の中で唯一正気を保つ手段だった。

 

 



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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 2

 放心状態の真っ只中、唯一動いたのはディアベルだった。彼の発破により立ち上がった攻略組は、七十六層へと足を踏み入れ、街へ向かい門のアクティベートを行った。みな疲れていた。体力的にも精神的にも参っていた。だからその場ですぐに解散となり、俺とサキもすぐさま二十二層へ戻りベッドに潜り込んで眠った。すべてが夢であれば良いと願いながら。

 

 だが現実は残酷だった。血盟騎士団は団長と副団長補佐を失い、多くのギルドが主力を失った。マンダトリーは姿をくらまし、またいつどこで誰になっているのか疑心暗鬼となり、さらには洗脳を怖れて攻略組の空気は悲壮感と恐怖に満ち溢れていた。それでも攻略組の矜持を見せろと、あのリンドが必死に訴えかけ、みな恐れを握り潰してひたすらに塔を駆け上がっていった。

 

 そして遂に、俺たちは九十層へ到達した。

 

 ソードアート・オンラインに囚われてから約二年。カレンダーは十一月を示していた。

 

 そこは、神の領域だった。

 

 まさしく天界。

 

 周囲は神々しい金色の光に溢れ、床は全面翡翠色に輝いていて、太古ヨーロッパ文明を彷彿とさせる石造りの建造物が立ち並んでいた。空はたびたび色を変え、七色に瞬いている。街に住まうNPCはすべて半透明の色彩豊かな翼を生やした天使達であり、人の影はどこにも見当たらなかった。

 

 第九十層主街区《ティマイオス》――これが俺たちが到達した、茅場の言う凶悪なモンスター軍が住まう始まりの階層の街だった。

 

 

 

 昼も過ぎ、太陽が徐々に傾きかけた頃合。次第に影が伸びていき、空に金色が混じり始めてきた午後三時。

 

 俺とアスナが、各々の得物握り締めて対峙している。

 

 俺の手に握られているのは黄金色に輝く一振りの短剣と一本のナイフ。八十九層のフロアボスのLAボーナスによって得たこの武器の銘は、

 

《二人は一緒》

 

 一風変わった武器名だ。

 

 神の武器とも言えるべき性能を誇るこの武器の特徴は、まさしく名前の通り。ナイフを投擲し着弾しようがしまいが、すぐさま手元に戻ってくることだ。これで俺のナイフによるお財布事情と再装備の手間がなくなり、投擲を連打できる超性能を与えられることとなった。

 

 アスナが持つ武器もまた一新されている。青と黄色が瞬く細身の剣は《メテオリック・シャワー》。彼女のスキルに合った珠玉の一振りだ。

 

 互いに相手を殺さんばかりの殺気を込めて睨みつけている。

 

 場所は第一層、修練場。もはや馴染みとなった対人戦闘訓練だ。両者の間に立っているのはバンダナにヒゲ面のクライン。奴が片腕を上げ、振り下ろすと同時に叫ぶ。

 

「初め!」

 

 先に動いたのはアスナだ。細剣をやや高めに構え、俺へ向けて突きを放つ。その速度はもはや仲間たちの中でも最速を誇る。それを俺は経験と勘を頼りに捌くが、すぐさま二段三段四段と、凄まじい速度で突きを繰り出される。すべてを完璧に受け流すことはできず、腕に細剣が掠るがクリーンヒットではない。

 

 俺はアスナの攻撃の隙を捉え、しゃがみ込んで足払いを仕掛ける。アスナが後退したタイミングで戦闘の流れを変えるべく距離を取る。アスナが口許に微笑。くそ、これを狙ってやがったか!

 

 アスナが細剣を構えると同時、ソードスキルを発動するエフェクトが煌く。やべえ、これあれじゃん。空飛ぶ魔法少女のやつじゃん! 別名メテオリック・プリンセス。本人に言ったら殺されるあだ名だ。

 

 スパークル・メテオラが発動。

 

 アスナが文字通り閃光となって光速の突進突きを放つ。条件反射でサイドに身を投げて避けるも、背後でアスナが反転する音が届く。即座にインビジブルを発動! 数瞬の動揺の隙間をついて俺はすぐさま疾走を開始。アスナが軌道を変えて直角に空へ上昇。まるで空飛ぶ流星のように鋭角軌道を取りながらアスナが俺の姿を探す。

 

 スパークル・メテオラの終了まで残り九秒。

 

 俺は息を潜めてやり過ごそうとするが、アスナも最前線で戦い続ける猛者のひとり。一瞬の緩みの気配を読み取られ、姿が見えないはずの俺の元へ急降下!

 

 今度こそ、俺が笑う。

 

 それを待っていた。場所が分からなきゃ空から探すしかねえよな?

 

 フローズン・ファウストを起動。

 

 もはや熟練度MAXとなったことで最大二十メートルまで広がった領域が、即座にアスナの全身の動きを時の縛鎖に捕える。アスナの瞳に動揺。すぐさま軌道を変えようとするも、その隙を逃さず俺はインビジブルを解除。

 

 インビジブル・アサルトを発動。二度の瞬間移動による斬撃でもって、宙を舞うアスナの身体を真っ二つにする。このスキルとて、簡易版スパークル・メテオラみたいなもんだ。ちょっとした距離なら宙すら斬る。

 

 腹部と背中にひとつずつ斬撃エフェクトを刻まれたアスナが地面に降り立つ。俺も地面に足をつけ、マフラーをなびかせて力なく息を吐いた。

 

「終了!」

 

 クラインの声で、試合終了が告げられた。

 

 しばしの沈黙。

 

「あーもう! 悔しい悔しい悔しい悔しい! ぜ~ったいに勝てると思ったのに!」

 

 アスナが地面に両手両膝を付いて、幼子のように喚き散らす。俺は数十秒の攻防で疲れ果てたから、勝ち誇る気力なんぞない。早くサキのお胸の中で眠りたい。あいつ、最近俺に対して羞恥心を吹っ飛ばしたのか、ログハウスに戻るとやたら胸を触らそうとしてくるからハチマン困っちゃう。何度揉みしだこうと思ったか分からん。

 

「ハチくんのフローズン・ファウスト卑怯! ぜ~ったい卑怯技だよ!」

 

 泣きそうになりながらアスナが罵倒してくる。いや、そんなこと俺に言わないでくれ。美少女に罵倒されるなんて、昔の雪ノ下を思い出して泣くぞ。思い返すとやっぱあれ地味に痛かったんだからな。文句なら茅場に言ってくれ。

 

「アスナの奴よりはこっちのがマシだろ。あれ勘で避けたようなもんだぞ」

 

 俺の言葉に、アスナが涙目になりながら犬のようにう~っと唸る。なにそれ超可愛い。お持ち帰りしたい。でもサキがいるからアスナはキリトに任せる。サキは美人だけど可愛いし、何より身体つきがエロい。超エロい。サキの誘惑に一体何度理性ちゃんがノックアウト寸前まで追い込まれたことか……。

 

 これからも頑張れ理性ちゃん! ハチマンはいつだって君を応援してるよ! でも男だから本当は欲望くんを応援したい……。だれか分かってくれねえかなあ、この複雑な男心。俺の考えが面倒なだけですね……。知ってたよ。

 

 なんて、下らないことを考えながらサキの下へ戻る。薄紅色の睡蓮の微笑みを浮かべたサキが、俺の腕に抱きつく。むぎゅっとした柔らかい感触が腕に広がる。ちょっと、明らかに胸押し付けてるよね!? 公衆の面前だからやめてね!

 

 俺の思考が表情に出ていたのか、サキが少し目を細め、耳打ちする。

 

「あんたが抱いてくれるまでやめない」

 

 どうしよう。俺の彼女えっちくなっちゃったよ……。

 

 ふぇぇぇ、耐えられないよぉぉ。

 

 下らないことを考えている間に、次の試合が始まっている。

 

 今度はキリトとクラインだ。

 

 恐ろしい量の剣戟が修練場に鳴り響く。あの二刀流による大量斬撃をクラインがすべて受け流している。隙を見つけては下がって納刀し、ある時はそのままの体勢かと思いきや鞘を駆使した連撃に、ある時は螺旋回転をしながら、またある時は前転しながらと、様々な体勢から居合い抜き放つ。というかほぼ飛天御剣流を正確に模倣してやがる。さすがのキリトも変幻自在なクラインの攻撃に苦労している様子だ。すげえ、あいつ冗談抜きで抜刀斎になっちゃったよ。

 

ふと、サキの身体が強張ったような気がした。ちらりとサキの横顔を見ると、相変わらず微笑んでふたりの試合を見ていた。ただ、ほんのかすかに何かが瞳に過ぎっているように思えた。

 

 きっとサキは不安になっているのだ。明日から本格的九十層フィールドへの攻略へ乗り出すことになっている。誰も彼もがどこかで不安を感じていて、それを噛み砕き、飲み下して、それでも消すことができないから、こうして普段を装っていないと崩れ落ちてしまいそうになる。

 

 でも、仲間がいることは幸いだ。

 

 信頼すべき仲間がいつだって隣にいるから、俺たちはなんとかここまでやってこれている。今日の夜も、いつものように俺たちの家で食事会だ。ここにはいないユキノにアルゴ、エギルもやって来る。きっと楽しくなる。

 

 俺はサキに耳に口を近づける。

 

「夜、少し話すか」

 

 サキの視線がちらりと俺に向けられる。瞳が揺れて、こくんと頷いた。頭を俺の肩に乗せて来る。俺はそれに何も言わず、彼女のポニーテールを優しく梳いた。

 

 夕方まで続いた戦闘訓練を終え、俺たちは二十二層のログハウスへ向かった。

 

 玄関前にはユキノたちが俺たちを待っていた。今日は、全員が思い思いの食材を持ち寄っての鍋パーティだ。俺はとりあえず長靴を入れようと思ったのだが、当然のごとくサキにバレて怒られた。だって、闇鍋っていったら長靴が定番でしょ? と目で訴えかけたんだが、いつかのようにメンチを切られて即座に土下座した。やだ、俺の土下座すごく安い……。

 

 鍋はとりあえず、キリトが持ってきたラグーラビットと、エギルが仕入れた高級カニの二種類となった。おいキリト、とりあえず涎を拭け。さっきから駄々漏れじゃねえか。どんだけ食い意地張ってんだよ。アスナがそのさまを見て嘆いてるぞ。やっぱキリトの器にだけ長靴仕込んでやろうかな。いまかいまかと頬張った瞬間、ゴムの感触と味がして絶望に染まるキリトの表情を見てみたい。

 

 そっとストレージを呼び出したところで、俺の腕がサキによって掴まれる。恐る恐るサキを見ると、無表情で俺を見つめていた。サキって心底怒ると表情消えるんだよね。料理関係の冗談だけは決して許してくれないのだ。反省したからその表情やめて! マジで怖いから!

 

 やがて準備を終え、あとはいつものように音頭を取るだけ。俺は気づかれないようにステルスヒッキーを発動。もうあれやりたくない。なんでいっつも俺がやってんだよ。柄じゃねえんだよ。いいからディアベルとかキリトとかクラインあたりがやれよ。

 

 だというのに、なぜみんな俺を見る。杯を掲げたまま俺を射殺すように見てやがる。なんで存在バレんだよ。ステルスヒッキーだぞ? 巷じゃ完全ステルス迷彩で有名なんだぞ? メタマテリアルもびっくりの、アメリカ国防総省だってきっと喉から手が出るほど欲しがる逸材を、なぜにこいつらは即看破しやがるんだ。

 

 仲間だからだよねー。ハチマン知ってた。

 

 ひとつ咳払い。生憎言葉なんぞ思い浮かんでないから適当だ。

 

「とりあえず、明日から九十層フィールド攻略の開始だ。まあ、あれだ、いつものように生きて帰ろうぜ。あんま長くなるとキリトが俺に向かって剣を抜くだろうから、これくらいにしとくわ。んじゃ乾杯」

 

 全員が杯を合わせる、と同時にキリトがラグーラビットへ向かって瞬時に手を伸ばす。こいつ、肉ばっか食いやがる。なにひとり大食い選手権してるのこいつ。ますます食い意地に磨きがかかってやがる。

 

「アスナ、こいつが夫で食費大丈夫なのか」

 

 なんとなしに訊いた俺だったが、突如アスナの表情が虚ろになった。あれ、訊いちゃまずかった?

 

「……うち、火の車になりそう」

 

 キリト以外の全員が、アスナの返答に言葉を失う。

 

 おいおい、大丈夫かよこいつら。うちなんて俺はトマトがなければ文句は言わないし、サキだって安い食材で美味い料理を作るから、食費なんぞ大して掛かって無いぞ。キリトの野郎、さては高級食材を買い漁ってやがるな。

 

 空気の違和感に気づいたか、キリトがラグーラビットを口からはみ出した状態で顔を上げる。ぺろりと肉を飲み込んでから口を開く。

 

「どうした? みんな変な顔で俺を見て」

 

 やはりこういうときは大人の出番だろう。エギルが一言。

 

「お前、明日から食材買うの禁止だ。すべてアスナさんに任せるんだ」

 

「え? なんで?」

 

 キリトが疑問顔。おい、こいつ財布事情知らねえのかよ。ストレージ一緒なんだろ。

 

 クラインが友人のアホ面に苦悶の表情を滲ませる。

 

「金ねえンだよ。夫なら散財すんじゃなくて稼いで来い」

 

「え? マジかアスナ!?」

 

 いまさらの疑問に、アスナがゆっくりと首を縦に振る。キリトの表情に悲壮感が漂い、そして一気に項垂れた。

 

「やっぱ週に二回ラグーラビットはまずかったか……。あれ美味いんだけどなあ……。なあアスナ、やっぱ我慢しなきゃダメか?」

 

 あんな高級食材週二回も食ってんのかよ。どこのブルジョワ貴族だよ。

 

 アスナが息を吐く。とても長い長いため息だ。

 

「金輪際うちでは高級食材は使用しません!」

 

 アスナの宣言に、キリトが胸を切り裂かれたように椅子から崩れ落ちる。おい、そこまでショックってどんだけ高価な料理食いまくってたんだよ。アスナもアスナだろ。一個年上なんだから叱ってやれよ。やっぱあれか。好きだとそうなっちゃうのかなあ。うちは俺が適当でサキが優秀でよかった。なぜか金ばっか貯まってくから、いつかログハウスのお返しをしたいと思ってるところだ。

 

 さておき、いまだショックから立ち直れていないキリトは放っておいて、俺も飯だ飯とばかりにラグーラビットの鍋へ箸を伸ばす。実のところ、あの肉ここに来てから一回しか食べていない。以前、偶然見つけて反射的にナイフを投げたら奇跡的に倒せたのだ。あれ以来になるのだから、俺も内心ワクワクだ、と鍋を見た瞬間唖然。

 

「おい、なんでラグーラビットの肉がもう殆どねえんだよ」

 

 俺の恨み節に全員が鍋へ注目。そして全員の顔に驚愕が走る。鍋にあったのは、一塊だけ浮かんだラグーラビットの肉。その他の野菜諸々には何一つ手がついていない。おい、これどうなっちゃってんの? 持ってきた肉の九割以上食いやがったぞこいつ。

 

「た、確かに殆ど残ってねえぞ!?」クラインの悲痛な叫び。

 

「カニは全然あるな。まあ、食べにくいしな」エギルも悲しそうにしている。理由がちょっと違う気がするぞ……。

 

「私、ラグーラビットって食べたことないのよ」ユキノの表情には珍しく嘆きがあった。

 

「なにひとつ擁護できないよキリト……」ディアベルまさかの白旗宣言。こいつが放り出すって相当だぞ。

 

「まあ、キー坊だしなア。これはお仕置きだナ!」なぜかアルゴだけが楽しそうに笑っている。

 

「アスナ、あとで駄目男のしつけ方を教えてあげるよ。いつも弟にやってたから、効果は保障するよ」サキがさらっと怖いことを言う。なんだよしつけ方って。俺もしつけられちゃうの? やだ、なにそれ怖い。

 

 キリトくん、とアスナが静かに呼ぶ。表情は無。まじで無。キャンパスに何も塗ってない真っ白なままみたいな顔してる。アスナみたいな美少女がやると超怖い。いますぐ逃げ出したいまである。

 

 顔を上げたキリトがアスナの顔を見る。恐怖に顔を引きつらせたかと思うと、脱兎の勢いで逃げようとし――

 

「なっはっハ~! キー坊の考えなんてお姉さんお見通しだゾ~!」

 

 アルゴに横合いからタックルをぶちかまされ、ふたりして床に転がる。ちょっと、家のリビングで暴れないで! サキの片眉が引きつってるから!

 

 ぬらり、と身体をゆらすようにアスナが立ち上がる。違う。あまりの怒気に空気が揺らいでるのだ。こつこつと、まるで死刑囚が十三階段を昇る音のように靴底を鳴らしながら、アスナがキリトの下へ近づいていく。

 

 必死の形相で逃げ出そうとするキリトであったが、アルゴがそれを許さない。にゃっはは~と超楽しそうに笑いながらキリトの胴を両手両足で鷲づかみにしている。

 

 というか、いつの間にかクラインすら立ち上がって刀の鍔に指を掛けてる。ちょっと刀身見えちゃってるからね? 本気なのクラインさん!?

 

 おい、お前ら飯ごときに大げさすぎるだろ。大人げねえなあ。もちっと落ち着けよ。とか思いつつ、俺も気づけば《二人は一緒》を両手に持ってた。あれ、俺夢遊病? おかしいな、記憶にないよ。

 

 俺の動きに同調したサキも、リビングだというのにストレージから武器を取り出している。紅色の美しいその槍を右に持ってサキも立ち上がる。おい、それ《ゲイボルグ》じゃねえか。こいつも本気かよ。てか、だからなんでこいつはどんどんランサーに近づいてるんだよ。仕舞いには兄貴って呼んじまうぞ!

 

 そこで立ち上がったのはディアベルだ。さすがだ。この殺気渦巻くリビングで皆を抑えるかのように……あれ? こいつも剣握ってね? なんでこいつもキリトを殺す勢いで睨んでるんだよ。

 

 エギルも不適な笑みを浮かべつつ斧を取り出している。大人なんだから飯くらいでそんな顔するなよ。

 

 ユキノがゆっくりと、まるで女王が君臨するように立ち上がり、リビングを絶対零度の空間に創りかえる。そして、凍てついた吐息と共に命じた。

 

「みんな、やってしまいなさい」

 

 全員がキリトに殺到した。

 

 ……。

 

 結末は、まあ、キリトは八つ裂きになった……。

 

 とりあえず庭に吊るしたキリトは放っておいて、残り全員で食事会を再開する。ラグーラビットの最後の肉は、みながユキノに譲った。さすがに初だというなら食べて欲しい。

 

 ユキノはそれを大切に口へと運び、後に一言。

 

「至高の一品ね……生きてきた甲斐があったわ」

 

 現実では令嬢であり、高級料理を食べてきたあのユキノですら、恍惚とした表情を浮かべているのだ。いかにキリトが贅沢三昧していたか分かるだろう。あの野郎……まだあと三発はオクトアサルトをぶち込んでやりたい。

 

 サキは既に溜飲を下げたのか、黙々と野菜を食べている。かと思いきや、鍋の横になぜか置かれている小皿に手を伸ばす。

 

 ……おい、まて、なんでプチトマト持ってんだよ。ちらりと俺を見るな。食べないぞ! 絶対に食べないからな!

 

「ハチマン、これ食べる?」

 

「いらん。トマトだけは絶対にいらん!」

 

 サキが一瞬思案顔。すぐに、にへら、と笑って俺を見る。嫌な予感がする。過去の膨大なサキとの経験則から、こういうときのサキは俺の予想の数段上を行く。

 

「じゃあ、これなら食べる?」

 

 そう言って、サキが自分の唇にプチトマトを挟み、顔を俺に向かって突き出した。

 

 え? それ、もう、あ~んどころの話じゃないよね?

 

 口移しじゃねえか。何考えてんの俺の彼女!?

 

 全員が会話をしつつもさり気なくこちらを見ている。アスナとかもうガン見してる。ユキノは笑ってるけどプチトマトを探している。おい、お前もやる気かよ。ディアベルの顔が固まってんぞ。クラインは悔しそうにしつつも、にやにやと笑っている。妻子持ちのエギルは平然としていた。おい、大人ならどうにかしろ。

 

 ちなみにアルゴはというと、「なんか何かを殴りたい気分になってきたヨ。キー坊をサンドバックにしに行ってくるネ☆」と言って飛び出していった。直後、キリトのうめき声が聞こえてきた。そろそろキリトが可哀相になってきた。

 

「んーんーっ!」

 

 早くー、とサキが催促してくる。周りの目があるんだからそういうことやめてよね!

 

 俺は食わん、とぷいっと顔を背けてやると、サキが悲しそうな声を上げる。そろり、とサキを見ると、目じりに涙が滲んでいた。ちょ、これで泣くの!? さすがに予想外すぎるぞ!

 

 こつこつ、とテーブルを指で叩く音が聞こえた。ちらりと見ると、クラインが顎をくいっとサキへ向ける。

 

 ――おいクライン、公衆の面前でこれをやれと!?

 

 ――男ならかましてみせろや!

 

 ――お前ならできんのか!?

 

 ――彼女いねえンだよ、察しろよ!

 

 目と目で語り合う。やだ、俺たち以心伝心!

 

 とか言ってる場合じゃない。そろそろサキがマジ泣きしそうだ。瞳はうるみに潤んで眉がハの字になっている。もう泣く寸前だ。

 

 しかたねえなあ。

 

 覚悟を決めてサキの両肩に手を置く。キスでもするように顔を近づけ、トマトに唇を触れさせた。くっそ、超恥ずかしい! アスナさん、お願いだからそんなガン見しないで!

 

 そのままプチトマトを奪おうとした寸前、サキに頭を掴まれた。あれ? おかしくね? 俺の想像してたのより、もっとすごいことが起ころうとしている気がするんだけど?

 

「んぐっ!」

 

 呻いた。こいつ、プチトマトを押し込みながら舌まで入れやがった。なんなのこの子。可愛すぎてお持ち帰りしたくなっちゃう! 俺の嫁だった! もう最高!

 

 たっぷり一分、口内をサキの舌に蹂躙されて、ようやく唇を離された。俺の顔はもう茹ダコ状態だ。サキも、ぽわーっと気持ち良さそうな乙女の顔をしている。

 

 アスナはキャーキャー言ってる。エギルは、悔し泣きしているクラインをなだめていた。ユキノは早速自分もとばかりにプチトマトに手を伸ばそうとしているが、ディアベルが必死にそれを止めている。

 

 サキがぽつりと呟く。

 

「もっかいしたい……」

 

 おい。

 

 サキがプチトマトを再び唇に挟んで俺を見つめる。熱っぽい視線が男の欲求を刺激してやまない。やばい、理性ちゃんが押されてる……!

 

 サキが俺の胸に手を置いて近づいてくる。というかマジで誰か止めてください!

 

「や~満足したヨ~。キー坊って殴りがいあるよネ」

 

 唐突に扉を開いてアルゴが楽しそうに言った。おい、そろそろ誰かキリトを下ろしてやれ。というか誰か俺を助けろ!

 

 誰か、誰かいないかと視線をきょろきょろさせると、アルゴと目が合った。アルゴはひとつ頷き、こう言った。

 

「もっかいキー坊殴りたくなってきたヨ。またサンドバックにしてくるネ♪」

 

 スキップしながら家を出るアルゴ。外から聞こえるキリトの断末魔。

 

 哀れすぎるぞキリト……。そしてアスナ、お前キリトの嫁ならそろそろ助けてやれよ。

 

 逃げるように思考を紡いでいる間にもサキが近づいてくる。距離はあと五ミリばかりか。

 

 ぐぬぬ、もう致し方あるまい。

 

 俺も男だ、やってやる!

 

 今度はこっちから攻撃してやるとばかりにプチトマトを奪いに掛かる。サキがひょいっとそれをかわし、俺の胸に巨乳を押し付けてきやがった。張りのある柔らかな感触にこの上ない幸せを感じる。ちょ、それ反則でしょ! おい審判しっかりしろ! って審判なんぞいねえよ!

 

 虚をつかれて固まる俺に、サキが襲い掛かる。いや、襲い掛かるって戦闘じゃねえよ。なにやってんだよ俺たち。プチトマトの争奪戦でもやってんのか。

 

 思考に逃げてる間にまたプチトマトを押し込まれる。再び口腔を犯されて俺は思考がぶっ飛ぶ。もう、このままでいいかな~なんて思った頃には、さすがにサキが恥ずかしくなったようで、顔を離していた。

 

 そんな丁度いいタイミングで上機嫌なアルゴが帰ってきた。るんるん、と鼻歌をうたって席に着くと、凄まじい発言を繰り出す。

 

「ボディーを入れたときの呻き声が最高だったヨ! アーちゃんもやるといいヨ!」

 

 おい、アルゴがなんか変な性癖に目覚めようとしてるぞ。だれか止めろ。

 

 さしものアスナも顔を青くしてキリト救出へ向かう。遅すぎる……。

 

 こんな風に、しっちゃかめっちゃかになりながらも時は過ぎていく。食事も終わり、良い時間になって全員が解散した。次々に挨拶をして帰っていく仲間たちを見送り、俺とサキはそのまま寝室へ向かう。

 

 九十層に来てからというものの、ちょっとサキの様子がおかしい。昼間も感じたが、さっきのあれは看過できない。嫌じゃないんだけど、恥ずかしがり屋のサキらしくない行動だ。絶対なにかある。

 

 無言でベッドに隣同士で腰掛ける。

 

 とはいえ、一体なんて訊いたら良いのやら。

 

 おまえ、欲求不満なの? とか口が裂けても言えない。元凶がまさに俺なのだから絶対言えん。そも、そういうのとは種類が違う気がする。

 

 頭をがりがりと掻く。分からないものは分からない。黙っていて何もかも悟れる関係なんて、たぶんこの世には無い。いくら付き合っていようが心を通わせようが、すべてがすべて分かるわけじゃない。幾ばくかの言葉はどうしたって必要だ。

 

 サキと眼が合う。相変わらず頬を染め、潤んだ瞳を俺に注いでいて。そのまま俺の手に触れようとするが、先に口火を開く。

 

「どした? なにか考えてるのか?」

 

 サキの指が止まる。瞳が左右に揺れる。震え出した手を胸に抱いて、サキが言った。

 

「怖い」

 

 一言。ただ一言そう言った。

 

「なにがだ?」

 

 俺の問いにサキがまなじりを下げる。いまにも泣きそうなくらい、目じりに涙を蓄えて。

 

「茅場の言う、強い敵がいるっていう九十層まで来ちゃった。ここまで来ちゃった。もしかしたらあたしもハチマンも死んじゃうかもしれない。ハチマンだけ死んじゃって、あたしだけ生き残っちゃうことだってあるかもしれない。だから怖い。怖くて、不安で、どうしようもなく……」

 

 

 

 ――あなたが欲しい。

 

 

 

 何も言えない俺にサキが訴える。

 

「だって、きっと後悔する! ここは現実じゃない、でもいまのあたしたちにとっては現実なの! 身体も、心も、なにもかも全部がいまここにある! だから、あなたを愛した証が、あなたがあたしを愛した証が、どうしても欲しい。実感として、記憶として、経験として、ぜんぶぜんぶ欲しいの……!」

 

 涙ながらにサキが俺の胸を叩く。何度も何度も、力なく俺を叩く。そして、俺を見上げた。

 

「ねえ……これはあたしのわがままかなぁ……?」

 

 違う。

 

 ただ俺が怖れていただけだ。俺はきっとどこか疑っていたのだ。いつの日だったか、ユキノに語ったように。仮想世界にある俺と、現実の俺は違うのではないかと。同様に、サキもまた違うサキなのではないかと。

 

 そんなこと、決してあるはずないのに。

 

 だから躊躇した。ここで溺れて、現実を見て愕然とするくらいならば、いっそ理性の怪物にでもなってしまえば傷つくことなんてないのだと。必死に俺は俺を守って、結論がこれだ。

 

 サキを泣かせている。

 

 馬鹿だ。俺は本物の馬鹿だ。あのとき信じたじゃないか。サキだけは決して裏切らないと。仮想世界も現実も関係ないと。今さらなにを躊躇する必要がある。倫理を盾に理論武装をして拒む理由がどこにある。

 

 俺もサキも、もう十九歳だ。本当なら、大学生活を送っている頃だ。結局、すべては俺の恐怖が元凶なだけだ。

 

「……悪かった。そこまで思いつめてるとは思わなかった」

 

 サキを抱きしめる。なんだかもう、色々考えることがアホらしくなった。結局、理性ばかりじゃ世の中回っていかないのだから。欲求があって、初めて人は動けるのだ。

 

 腕の中でサキが身じろぐ。

 

「あんたの理性ちゃん、強すぎるよ」

 

「毎日鍛えられてたからな。そりゃ強くもなる」

 

「いまはどう?」

 

「欲望くんに負けた。完敗だな」

 

「ん、そっか……」

 

 サキを抱きながらベッドに倒れ込む。サキを横たわらせ、その上に俺が覆いかぶさる。サキはただ幸せそうに顔を緩ませて、濡れたまぶたを閉じる。

 

 ああ、きっと、今日のことは永遠に忘れないだろう。

 

 二十二層の夜空に星が流れる。月もあまりに綺麗だから、何もかもが素敵な思い出となって、心の宝箱にそっと仕舞われるはずだ。

 

 

 

 



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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 3

 幸せな朝だ。

 

 澄み切った雲ひとつない晴天に、窓から差し込む冬の柔らかな日差しが寝室を照らし、ほのかに温もりを与えている。室内のどこかしこにも福音の輝きが見て取れる。

 

 本当に、幸せな朝だ。

 

 隣には毛布に包まり夢の中にいる愛しい女性。青みがかった黒髪をシーツに散らして、すやすやと胸を上下させている。

 

 朝は基本的に憂鬱な気分にさせられる。どうにも身体の動きは鈍いし、いつだってやることは満載だ。働きたくない精神がまだどこかに残っている俺としては、朝というのはどうにも苦手だ。

 

 だが、今日は違う。

 

 下らない最後の防壁を取っ払った所為か、どこか身体は軽やかで、心も気分も気持ちが良い。

 

 まあ、俺も男になったということだろう。色々な意味で。

 

「ん……っ」

 

 サキが身じろぎ、目を瞬かせる。俺を見上げ恥ずかしそうに、にへらと笑った。

 

「おはよ」

 

「おう、おはようさん」

 

 毛布から抜け出したサキが俺に抱きつく。当然のようにお互い何も着ていないから、ちょっとマズイ部分がダイレクトに俺の腕に当たっている。

 

 おい、待て。朝っぽらから何しやがる。もう欲望くんが理性ちゃんをフルボッコし始めたぞ。どうしてくれるんだ。

 

「サキ、できれば服着てくれ」

 

「やだ。このままぎゅってして」

 

「俺の彼女が欲望に忠実すぎる……」

 

 思わず嘆いた俺に、サキが笑って言う。

 

「欲望くん応援してたから、賭けはあたしの勝ちだよね?」

 

「え、いつ賭けなんてしてたんだ? 俺知らないんだけど」

 

「あたしが勝手にしてた。いま決めた。だからあたしの勝ち。ぎゅってして?」

 

 ふふふ、と嬉しそうに笑って俺の肩に頭をこすり付ける。あらやだ、俺の彼女の頭がおかしくなってる。そうだった、こいつ朝弱いんだった……。

 

 まあいいや。どうせ何もかもサキには知られちまったし、いまさら恥ずかしがることもない。

 

 俺は身体をサキに向けて腕を回す。好きな女と裸で抱き合う。実に幸せな時間だ。なのだが、そろそろやることがある。正直早めに動いておきたいから、そろそろ幸福から抜け出す時間だ。

 

 終わりにしようと告げるために、サキの背中を軽く叩く。一度だけ力を篭めたサキが、俺から離れる。頬を染めながら毛布で身体を隠してウインドウを開き始める。俺も服を着つつ、メッセージウインドウを開いた。宛先はアルゴだ。

 

 服を着終えたサキが、横から俺のウインドウを覗く。

 

「アルゴに何か用?」

 

「ちっとばかし面倒事を依頼するつもりだ。できればログに残したくない類のな」

 

 サキの表情が真面目なものに変わる。

 

「あたしは訊かない方がいい?」

 

 そこら辺をすぐに察してくれるのはありがたい。俺は頷いて答える。

 

「できれば知っている奴は可能な限り少なくしたい。正直に言えばアルゴにも訊きたくないんだが、残り十一層。そこまで時間があるとは言いがたいからな。アルゴ以外に宛がない。そもそも俺自身が攻略に掛かりきりで時間が取れない」

 

 サキの瞳に不安の光。

 

「結構まずかったりする?」

 

 問題ない、と言おうとしてやめる。サキにだけは嘘をつきたくない。なるべく平静を込めて言う。

 

「これに失敗すると、俺の予想だとほぼ間違いなく詰む」

 

 サキが息を呑む。無言で頭を俺の肩に預けてきた。自然と俺の手が伸び、サキの美しい髪を梳く。サキは気持ち良さそうに吐息を漏らして力を抜いた。

 

「じゃあ訊かない。あんたを信じる」

 

「秘密事するみたいで悪いな」

 

「気にしないで。あんたを愛してるし、あんたも愛してくれてるから大丈夫」

 

「ん、そうだな。愛してるしな」

 

 きょとんと、サキが俺を見て目を丸くする。珍しいものでも見たみたいに、俺の頬をつんつんと突く。

 

「あんた、そういうの恥ずかしくなくなったんだね。ちょっと前まで照れてたのに」

 

「そりゃアレがコレでそうなったら羞恥もなくなるだろ」

 

「ん、じゃあもう恋じゃないね」

 

 サキの言葉に呆然。なに言っちゃってんのこいつ。俺はいつでもサキに首っ丈だぞ。え、いつの間にか嫌われちゃったの? ハチマンショック!

 

「俺たちもう別れちゃうのかよ。泣くぞ。大声で泣き喚くぞ。俺が泣くとしつこいんだぞ?」

 

 んーん、とサキが首をゆっくりと左右に振る。

 

「恋が愛に変わったんだなーって。言葉じゃなくて、感情からそうなったんだって思って、嬉しい」

 

 ふふふ、と笑ったサキが俺の首筋に口付けする。髪の感触が頬に触れてくすぐったい。もうしばらく寄り添っていたいが、攻略のための時間も無駄にはできない。

 

「準備しよっか」

 

「おう」

 

 サキと立ち上がって俺たちはリビングへ入る。軽い朝食を済ませてアルゴを待っていると、しばらくして彼女がやって来た。

 

「おっはヨ~! 今日もアルゴちゃんがやってきたゾ~。にゃんにゃん♪」

 

「段々お前のキャラが分からなくなってきたわ。いいから何かひとつに統一してくれ」

 

 俺の問いにアルゴが顎に人差し指を当て、軽く天井を仰ぐ。

 

「鼠と猫と暴力娘、どれがいい?」

 

 新しい選択肢が増えたな。三番目は昨日開花した奴か……。

 

「個人的には猫がいい。うちもネコ飼ってたしな。だけど普通にしてくれ。慣れん」

 

「分かったヨ」

 

 サキは隣で苦笑していた。

 

 とてとてとアルゴがテーブルに付く。

 

「で、なんの用ダ? メッセージじゃなくて面と向かって話したいなんテ」

 

「ログに残したくねえんだよ。会話するのもできれば避けたい」

 

 それだけでアルゴは悟ったようだ。ひとつ頷くと、俺の隣にやって来る。俺は横目でサキを見る。サキも頷いて、リビングから寝室へ行く。

 

「あれ、サキちゃんは?」

 

「サキにも訊かせられん。可能な限り知る奴は少なくしたい」

 

 途端にアルゴの表情に影が走る。

 

「……嫌な予感しかしないヨ。帰っちゃ駄目?」

 

「アルゴに帰られると俺が詰む」

 

 はぁ、とアルゴの長息。

 

「分かったヨ。ハー坊の依頼ならノーとは言えないよ」

 

「ヤバイと思ったらすぐに手を引け。お前が殺られたらそれも俺にとっちゃ詰みと同じだ」

 

「これでも情報屋だよ。引き際は弁えてるヨ」

 

 アルゴの心強い返事を受け取り、俺はウインドウを操作する。

 

「決して言葉にするな。少しでも察知される可能性は徹底的に排除する。いまから指す言葉を記憶して、探し出してくれ」

 

 そして、俺はアルゴに依頼を告げる。

 

 アルゴの表情には苦悩と諦観。

 

「ハー坊……これは望み薄だゾ」

 

「わーってる。でもこれしか希望が無い」

 

「……分かったヨ。情報屋の名に掛けて必ず探し出す」

 

「なるべく直前が良い。すまんが上手い事やってくれ」

 

「了解」

 

 しゅたっと小町のように敬礼したアルゴがにっこりと笑う。

 

「悪い。面倒な役割任せちまって」

 

「気にするなヨ。オレっちもみんなが好きだしナ。誰か一人でも欠けるのは絶対に嫌だヨ」

 

「頼む」

 

 微笑んでアルゴが頷いた。

 

 さて、話は終わったことだし、サキを戻そう。寝室をノックすると、しばらくしてサキがリビングに入ってくる。

 

「終わった?」

 

「ああ、アルゴに何とかしてもらう」

 

「ん、そっか。頼んだよ、アルゴ」

 

「オレっちに任せナ!」

 

 アルゴが胸を張って応えてくれる。

 

「それじゃあ、すぐにでも行動を開始するヨ。今日の攻略は気をつけてナ!」

 

 それだけ言って、アルゴは家を出て行った。俺は急に疲れが出たように額を押さえる。この想像に至ったのはつい最近だ。攻略に必死で思考がまともに紡げなかった。キリトに言ったことが全然実践できていなかったのだから情けない。

 

 知らずため息していると、サキが隣で俺の肩を支えてくれた。

 

「言えないのはつらいね」

 

「仕方ねえよ。相手はシステム管理者だ。ぜんぶ見られてると思っておくくらいが丁度いい」

 

「ん、じゃあ時間が来るまでめいいっぱい甘えて」

 

「悪いな」

 

 サキの胸に顔を埋める。頭に腕を回したサキが優しく抱きしめてくれる。あと少し、あと少しだけは、こうして愛する女性の胸の中で抱かれていたかった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 色彩を七色に変化させる空の下、九十層主街区《ティマイオス》に仲間たちが集まっていた。最前線の中でも最も過酷な急先鋒を担うのは、俺たちだ。

 

 俺とサキの前には、キリト、アスナ、ディアベル、クラインが集っている。全員がユニークスキル持ちである、考え得る現行最強パーティだ。

 

 全員が表情を強張らせ、しかし、決死の覚悟を抱いてこの地に立っている。向かうは百層の紅玉宮ただひとつ。ならば所詮ここは通過点に過ぎない。

 

「んじゃ、いつもどおり適当に行きますか」

 

 普段通り、俺は適当に声をかける。どうせいきり立ったところで力が強まるわけでもない。普段通りにやればいい。

 

 短剣をくるくるともてあそびながら、俺は皆を先導する。その横ではサキが紅槍を肩に担いでいる。後ろではキリトとアスナが笑って武器を握り、ディアベルとクラインも気合を入れて付いてくる。

 

 主街区とフィールドの境界には巨大な門があった。神と天使が彫られ、見る者を魅了する金色に染め抜かれた門扉を潜り、俺たちはフィールドへと歩みを進める。

 

 眼前に広がったのは、七色に瞬く空と、半透明に透ける翡翠の道。約二十メートルほどの幅を持ち、その両端には何かを象徴するような、これまた金色の樹木が等間隔に連なっている。金色ばっか詰め込めば神々しく見えるとか悪趣味すぎるだろ。空もいちいち色を変えやがるから目が痛いんだよ。やっぱ茅場の野郎センスがなさ過ぎる。

 

 なんて下らないことを考えながら先へ進む。どうにもいままでの層とは趣が違いすぎて落ち着かない。人の領域ではなく、神の領域に誤って足を踏み入れてしまったような、言い知れぬ畏れのようなものを感じてしまう。神社とかの雰囲気にちょっと似てるかもしれない。

 

 ふいに、前方に十字の煌き。

 

「来るよ!」

 

 サキが紅槍を回して構える。全員が即座に散らばり戦闘態勢に入る。全員が定位置に陣取る。

 

 前衛はサキとディアベル、中衛をアスナと俺、後衛はキリトとクラインだ。特に中衛には速力が高く、臨機応変に対応し得るスキルを持つ俺とアスナが中核となっている。

 

 直後、閃光が走った。ディアベルとサキの呻き声。危険度は最大級と判断。即座にフローズン・ファウストを展開。

 

 再びの十字の光。第二射が掃射される。時の縛鎖となった領域に入った瞬間、俺たちはその姿を捉えた。ただの弓矢だ。しかし、恐ろしく早く鋭い。フローズン・ファウストを展開していてなお避け切れず、ディアベルの盾に激しい火花が散る。

 

 第三射が掃射。ディアベルが咆哮を上げながらスキルを発動。《アブソリュート・シールド》と呼ばれる青白く輝く半透明の巨大な盾が、ディアベルの眼前に出現。敵の矢を寸前で遮る。さすが、あらゆる攻撃を三十秒間徹底的に防ぐ最強の盾。待機時間が恐ろしく長いが、こういうときは役に立つ。

 

 俺はアスナを見る。アスナも頷き、即座に細剣をソードスキルの構えに動く。

 

 俺が叫ぶ。

 

「俺とアスナが出る! ほかはディアベルの背後で待機だ!」

 

 フローズン・ファウスト終了まで残り十秒。それだけあれば俺ならば肉薄できる。

 

 アスナがスパークル・メテオラを発動。流星となって空を駆ける。俺もサバイバル・ヘイストを駆使して疾走。十字の光が煌くが、もう四度目だ。光った直後に動けば避けられる。

 

 極限の集中力の中、俺は最小限の動きで光の矢を避ける。避ける。避けまくる。二百メートルは踏破したところで見えたのは、十字路の中央に浮遊する二体の天使。一対の翼を羽ばたかせながら、弓兵となった天使が俺たちに向けて弓を引く姿が見える。敵まで目算で二十メートル。あと数歩足りない。

 

 天使が俺に弓を引く。即座に一体へ向けナイフを投げるが、もう一体の攻撃がさすがに近すぎて避けられない。

 

 瞬間、空から流星が降って来た。大気を切り裂く高音と共に、アスナが一体の天使を頭から足までを一気に貫く。もう一体の天使の胸にナイフが突き刺さり、動きを僅かに止める。その隙間を縫って、俺が三歩進める。

 

 すぐさまオクトアサルトを発動し、最後の一体へ向けて死の嵐を殺到させる。八本の斬閃が天使の身体を微塵に砕く!

 

 HPバーが一瞬にしてゼロになり、二体の天使が硝子となって霧散した。

 

 息を吐いたアスナと共に手を合わせる。

 

「いまのは助かったわ。サンキューなアスナ」

 

「ちゃんとハチくんのタイミングを見計らってたから、あれくらい出来なきゃ私はここにいられないよ」

 

 魅力的な笑顔でアスナが言う。まったく、良い嫁さん持ったなキリト。

 

 というか、インビジブル発動しとけば良かったんじゃないかと今さらながらに気づく。でもあれ、発動すると他のスキル強制解除されるしなあ。しかも発動中は普通に斬るかアサシネイションしか使えないし。使いどころがマジで難しい。

 

 背後から複数の足音。仲間たちがようやくやって来たのだ。

 

「やったみたいだね、ふたりとも」

 

 ディアベルが声を掛けてくる。

 

「HP自体は大したことないな。とりあえず遠距離狙撃だけ厄介だ」

 

 そう返した俺は、サキへと視線を投げる。出来ないよね、でもきっと出来ちゃうんだろうなあ、とか思いながら訊いてみる。

 

「サキ、あれ弾けるか?」

 

「たぶん次からなら出来るよ。タイミングも分かったし」

 

 さらっと当然のようにサキが言う。

 

 やっぱそうかー。さすがリアルランサーサキ。矢避けの加護もしっかりお持ちらしい。

 

「んじゃ、弓兵天使の場合は俺とアスナが前衛、ディアベルとサキが防御担当だな」

 

「オレらは役目なさそうだなあ」

 

 クラインが笑いながら、残念そうにしているキリトの肩に手を置いた。まあ適材適所って奴だ。むしろ近接戦用の天使が現れたときは是非とも活躍してほしい。俺は後ろでぺちぺちとナイフ投げながら応援してるから。

 

 そんな、一瞬の油断。

 

 前後左右から眩い煌き。反応できたのは俺とサキ、そしてキリトだった。サキが前と左を、俺が右を、キリトが背後から撃たれた矢へ反射神経全開で動く。サキが四本捌ききり、俺は間に合わず両肩に被弾、キリトが剣でひとつ受け止めるももう一本を脇腹に受ける。

 

「ハチとアスナは右をやれ! ディアベルとサキさんは後衛に回って防御! 俺とクラインは気合で右の矢を何とかする!」

 

 キリトの怒声と同時に全員が動き出す。フローズン・ファウストは待機時間で使用できない。状況的にインビジブルは味方の負担が大きすぎる。ならば、サバイバル・ヘイストと己の反射神経のみで行くしかない。

 

 背後でアスナが空へと飛び立つ飛翔音。ディアベルとサキが背後から連打される矢を必死で防ぐ声。俺はもはや無心となって前へと進む。さすがに何発か被弾。緩やかなカーブを描く右の先に、再び二体の天使たち。姿を見るやいなやナイフを投擲。

 

 右の天使の胸に着弾し、動きが固まる。先ほどと同じタイミングでアスナが急降下。俺も同時にオクトアサルトをぶっ放す。ふたつの炸裂音が響き、二体の天使が結晶となって霧散。

 

 僅かな技後硬直の間。

 

 道の先から再び複数の天使の姿。今度は剣と盾を持ち、鎧姿の武装天使たちが宙を滑りながら向かってくる。数は四体。

 

 まずい、初見Mobをアスナとふたりで相手にするのは厳しすぎる。

 

 撤退か、先へ進むか。

 

 一瞬の逡巡。

 

 すぐさま叫ぶ。

 

「キリトだ!」

 

 アスナが俺の真意を悟り、すぐさまスパークル・メテオラを発動。アスナの姿が一瞬にして後方へ光速飛翔する。

 

 キリトが来るまで約十秒といったところか。フローズン・ファウストは、まだ使用できない。それまで耐えてやるよ。楽勝じゃねえか。

 

 インビジブルを選択し、完全に透明と化す。これでうろちょろしてれば十秒程度などすぐに……。

 

 が、天使はまるで見えているかというように、四体全員が俺に向かって剣を振りかぶってくる。

 

俺は移動しているにも関わらず、完全に位置を捕捉されている。四本の剣が、それぞれ別角度から、光となって襲い掛かってくる。

 

 速い!

 

 選択肢はもはやアサシネイションしかない。現世に姿を現した俺は、向かい来る剣撃に黄金色の斬閃を高速で三度。敵の三撃を弾くも、一撃を左肩に受ける。思わず声が出るが、ソードスキルは止めず、最後の防御不可の一撃で一体を屠る。

 

 咄嗟にHPバーを見る。おいおい、レッドにまで割り込んでやがるぞ。あと一発もらうと確実に死んじまう。

 

 選択のミス。

 

 かすかな後悔が脳裏を過ぎる。

 

 致命的な隙を天使たちが逃すはずがない。意識を戻したときには、三体の天使が俺を取り囲んでいた。反射的に身をよじろうとするも身体がぴくりとも動かない。

 

 技後硬直。

 

 ……死を感じた。

 

 サキが言っていたのは、こういうことか。死の寸前、愛しい彼女の姿が脳裏をよぎる。ここで俺が死んだら、サキはきっと悲しむ。そして嘆くのだ。昨夜がなかったとしたら、誠の愛を交わせなかったことを後悔し、悲嘆にくれる。なぜ愛の証すらなく逝ってしまったのかと。

 

 そういうことか……。

 

 

 

「待たせたハチ!」

 

 

 

 空から頼もしい声が届く。アスナがキリトを連れてきたのだ。アスナが一体の兜を貫き、キリトが二体に応戦する。ふたりが三体を相手にしている内に、俺は回復結晶で即座に回復。

 

「俺はいい! アスナを頼む!」

 

 キリトの呼びかけに応え、俺はアスナが相手をする天使へと向かう。アスナは既にスパークル・メテオラの活動限界が来たか、地面に転がり落ちて固まっている。技後硬直だ。そのアスナへと襲い掛かる天使の剣を、俺は俊敏全開で突っ走って受け止める。

 

 一体相手なら負ける気はしねえ。

 

 短剣を斜めにして剣を受け流す。身体を反転。空いた脇腹へ短剣を突き立てる。たまらず天使が後方へ下がる瞬間を見計らい、一気に勝負を決めにかかる。

 

 オクトアサルトによる八閃が天使の鎧を完全に砕き、HPバーを急速に削る。残るHPは僅か一ドット。見誤った。

 

 今度は俺が動けない。

 

 しかし、

 

「はああああ――!」

 

 アスナの高速突きが天使の喉下へ命中。HPが完全に消失し、天使が硝子片となって砕け散った。

 

 残りは二体。すぐさまキリトの応援に駆けつけようとするが、俺とアスナの足が止まる。

 

 キリトがもう終えたとばかりにこちらに歩いて来ていたのだ。いるべきはずの天使の姿はどこにもない。

 

 欠伸でもするようにキリトが一言。

 

「楽勝だったな」

 

 おいおい、俺死にかけたんだぞ? こいつ、やっぱ対Mob戦じゃ最強じゃねえか。

 

「さすがキリトくんだね」

 

 俺は呆れてものも言えない。一気に脱力しかけるが、気力で踏ん張る。ここは完全に敵地だ。しかも遠距離狙撃から近接戦闘型までムカつくほど揃っていやがる。これで中距離用天使まで現れたら最悪だ。

 

 うん、絶対いるなこれ。

 

 俺たちはすぐさま敵が出現しても応戦できるよう前後に構える。しかし、敵からの攻撃気配はなく、ようやく仲間たちがやって来る。サキの姿を見て思わず抱きつきたくなるが我慢。いまは戦闘に神経を集中だ。

 

 俺たちはこのまま、ゆっくりと周囲を警戒しながらフィールドを踏破していく。

 

 



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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 4

 結局、その日はフィールドの三割近くを踏破して家路に着いた。やはり中距離専用天使がいやがり、なんとそいつらは魔法を使って攻撃してくるのだ。卑怯にも程がある。どこがソードアートなんだよ。ここだけマジックアートじゃねえか。

 

 その後、情報をアルゴに流したお陰か、続々と他のパーティもフィールド攻略へと乗り出し、瞬く間にフィールドを制覇した。フィールドボスも確かにいままで以上の強敵だったが、士気の高まった攻略組が全力で撃破した。

 

 ここまでで約五日。怖れていたほどではないと、攻略組にはある種の余裕めいた空気が生まれ始めていた。俺たちなら百層目指せると、この腐った世界を攻略して現実に戻れるのだと、誰もがその夢を再認識し、希望を胸に光らせていた。

 

 そして更に五日を経て、遂に迷宮区最上階の九十層フロアボス部屋の前まで辿り着いた。その門扉はいままでのものとは異なり、かなり異質であった。門の左には、十戒が刻まれた石版を収めた箱――ユキノ曰く契約の箱と呼ばれ、別名は聖櫃というものらしい――があり、その上には四つの翼を持つ天使を模した金細工が置かれている。

 

 右にはゆっくりと回転し、炎を纏った剣が配置されている。あまりにも奇妙すぎる門だ。これもユキノ曰く、命の木への道を守らせるべくエデンの園の東に配置された智天使を参考にしているのではないかとのことだ。どうにも宗教染みている。

 

 俺たちはすぐさま転移結晶で主街区《ティマイオス》へ戻り、情報をアルゴへ連携。翌日には攻略会議を開くこととなった。

 

 翌日、《ティマイオス》にある円形状の開かれた会議場に、攻略組が集まった。首魁はもうお馴染のディアベルとクラインだ。

 

「そんじゃま、攻略会議を始めるか」

 

 クラインの掛け声と共に、全員がアルゴお手製ガイドブックを開く。俺も事前に目を通しているが、確認するために再度ぱらぱらと頁をめくる。

 

「今回のボスはやはり天使、しかも智天使と呼ばれる上位天使らしいね。ボス名は《ケルビム》だ」

 

 ガイドブックに目を落としたディアベルが皆に告げる。これもユキノ情報だが、全九階級ある内の第二位、それが智天使ケルビムだ。あいつ宗教関係詳しすぎるだろ。ていうかなんでいきなり二位が出てきちゃってるんだよ。普通最下位から出すだろ。出し惜しみしろよ……。

 

 更に続けると、詩篇によれば、ケルビムは神の乗り物であり、王座でもあるとのことだ。まったくどんな攻撃してくるか想像がつかん。

 

「残念だが、NPCからは有力な情報が出てこない。皆が口を閉ざしていて情報収集が難航しているようだ。ということで、今回は俺の妻であるユキノからの情報を提供させてもらうよ」

 

 今日は事情が事情なため会議に参加していたユキノが、ディアベルの科白に頬を染める。ふっ、初心な奴め。俺はそんな領域とっくに越えちまったぜ。

 

「旧約聖書、つまりは宗教の話になってしまうんだけれど。ケルビムというのは、命の木を守るため、エデンの園の東に神より配置されたある種の守護者らしいんだ。門の前に回転する炎の剣があったのは耳にしているだろう? たぶんそれがケルビムの武器なんじゃないかというのがユキノの予想だ。次にケルビムの特徴だけど、四方にそれぞれ顔を持ち、たぶん死角と言うものは存在しない。移動速度もかなり速いだろう」

 

 全員が難解な表情でディアベルの言葉を訊いている。抽象的過ぎてよく分からないのだ。誰も彼もが聖書に通じているわけではない。

 

 ただ訊く限りの情報を整理すると、今回の敵は天使だから空を飛び、死角が無く、きっと超速く動き、しかもやたらファンタジックな剣で攻撃してくるといったところか。実に意味が分からん。ただ一部だけ切り出すなら、今回はアスナが貢献しそうな案件だな。

 

 近くに座るアスナに、俺はそろっと声を投げる。

 

「《流星の魔法少女》の活躍時だ。頼むぞアスナ」

 

「それ言わないでって言ったよねハチくん……」

 

 濃縮した殺意の目で睨まれた。超怖い。間にキリトが挟まっていなかったら多分殴られてた。ボッコボコにされてた。右にいるサキのため息が聞こえた。いいじゃん。みんな神妙にしてるんだから空気を和ませただけだ。方法が俺らしさに溢れてるだろ。

 

 それから、と今度はクラインが口を出す。

 

「そのケルビムって奴なんだが、たぶん《シェキナーの弓》を持ってる。RPGやってりゃ訊いたことくらいあるだろ?」

 

 攻略組の何人かが頷く。かくいう俺も知っている。大抵超強い弓だ。

 

 ディアベルが暗い表情で告げる。

 

「それなんだけど、ユキノ曰く、太陽の三六万五千倍明るい聖なる光輝な弓らしい」

 

 なんだって?

 

 ちょっと、桁がおかしくないですかユキノさん!?

 

 クラインが疲労と諦観の混じった様子で頬を掻く。やだなあ、訊きたくないなあ。

 

「あーなンだ。多分当たったら即死とか、そンな攻撃だろなぁ。しかも直視したらしばらく視界が眩むとか、そンな感じ?」

 

 全員が一斉に項垂れる。なんだよそれ。いや、以前のクォーターポイントでも即死攻撃系はあったけど、なんだよ三六万五千倍って。目が眩むどころじゃない。網膜焼けちまうよ。まさか茅場め、これも再現してるとか言うんじゃねえだろうな。

 

 沈鬱な空気となった場を払拭するように、ディアベルが両手を叩く。

 

「ま、いまから悩んでも仕方ない。もう少し情報部隊には頑張ってもらう予定だから。攻略まで期間を置こう。今回もクオーターポイントと同レベル、いや、それ以上の難所だと思って立ち向かおう!」

 

 全員がそれに答え、ひとまず会議は解散となる。

 

 嫌だなあ。帰りたいなあ。

 

 やっぱり働きたくない精神が表に出てきてしまう。だって死にたくねえんだもん。サキと離れ離れになるのは嫌だなあ。

 

 さて、このあとどうするか。このまま帰宅するか、それともレベル上げか、あるいは対人戦闘訓練を行うか。考えながらサキと並んで歩いていると、背後から肩を叩かれた。

 

「ハチマン、たまには男同士でどうだい?」

 

 ディアベルが親指で背後をくいっとやりながら、爽やか笑顔で言ってきた。指した先にはキリトにクライン、エギルがいる。ちらりとサキを見ると、微笑んで頷いてくれた。

 

「そだな、行くわ。サキ、悪いけど先帰っててくれ」

 

「ん、いいよ。行ってらっしゃい」

 

 俺の頬に口付けしたサキが手を振ってくれる。それに片手で返して歩を進めた。隣に並んだディアベルが不思議そうに訊いてくる。

 

「サキさんとはどこまで行ったんだい?」

 

「いきなり下衆なこと訊いてくるなお前……」

 

 濁った目で見てやると、ディアベルがごめんごめんと謝りつつも続ける。

 

「さっきの流れがあまりにも自然で、ハチマンも慌ててなかったからね。ちょっと気になったんだ」

 

「まあ、やるとこまでやった感じだ」

 

 ぶっ、とクラインが噴出す。訊いてたのかよ。

 

「おま、ここゲームだぞ!?」

 

 クラインが慌てた様子で言う。あれ、こいつ知らないの?

 

「倫理解除コードっていうのがあるんだよ。それでまあ、アレがコレでそうなるんだ」

 

 キリトの声が最後になるにつれて萎んでいく。元中学生だしな。そんなもんだろ。というか、こいつもこいつでなんで知ってるんですかねえ。アスナにでも訊いたか?

 

「で、どうだったんだい?」

 

 やけにディアベルがしつこく絡んでくる。エギルは苦笑しつつも聞き耳を立てていた。

 

「や、どうもなにも、なんで話さなきゃなんねえんだよ」

 

「まあいいじゃないか。親友だろう?」

 

 肩に腕を回したディアベルがとてもしつこい。酒を飲んだ親父くらいしつこい。こいつ、さては……。

 

「お前、まだなのか」

 

 ディアベルがそっぽ向きやがった。

 

「ここだと、と前置きさせてもらうけど。そういうこと」

 

「ユキノ泣かせたら殴るからな! 右の頬を殴って左の頬も差し出せよ!? あと結婚式も絶対殴るからな!」

 

「だからお前さんは、ユキノさんの父親なのか兄なのか弟なのか親友なのかはっきりしてくれ」

 

 エギルがいつかの会話を繰り出してくる。

 

「もう全部だ全部」

 

「節操ないなお前さん……」

 

 呆れ顔でエギルが言った。同級生かつ部活仲間で親友ならこれくらい当然だろ。え、違うの?

 

「まあまあ、で、どこ行くんだ? 俺あんまこの階層好きじゃないんだけど」

 

 キリトが無理やり話題を変える。答えたのはクラインだ。

 

「ここによお、神様行き着けっていう設定の飲み屋があンだよ。そこ行ってみようぜ」

 

 ほう、神様行き着けとかあるのかよ。それ北欧神話とかギリシャ神話とか、そこら辺の設定じゃないのか? 茅場の方がよっぽど節操ねえじゃねえか。

 

 クラインに案内されつつ、相変わらず目に優しく無い街を歩く。空もチカチカするしあたりは金ぴかが多いし、床は翡翠に輝いてるし、神って趣味悪いのか?

 

 着いた先は、一見すると教会のような建物だった。さすがに尖塔に十字架は飾られていなかったが、ちらちらと金が混じっていることを我慢すれば、ここではまともな部類だ。

 

 中に入ると、床全面が紅の絨毯で敷き詰められた内部が姿を現す。部屋の奥には神を象ったこれまた金の像が鎮座されており、その両脇を守るように天使が置かれている。それらを神の威光の如き光が、ステンドグラスから舞い降り七色に照らしていた。

 

 ……。

 

 ひとつ言わせろ。偶像崇拝禁止はどこいった。どこまで節操ねえんだよ茅場の野郎。ユキノがこれ見たら卒倒すんぞ。

 

 軽く頭を抱えている俺をよそに、クラインが進んでいく。俺たちも後を着いて店内に目をやる。

 

 驚愕。

 

 明らかにどこぞの神話の神様っぽい風貌をした豪気な男どもが、どんちゃん騒ぎをあちこちで繰り広げているのだ。もはや唯一神どころの話じゃねえ。多神なのか唯一神なのかはっきりしろ。滅茶苦茶じゃねえか。茅場の野郎、絶対分かっててこれやってるだろ。なにか神に恨みでもあんのか?

 

 クラインがどんどんと進んでいき、明らかにビップルーム的な部屋に案内される。個室もあるのかよここ。

 

 当然ここも豪華絢爛であちらこちらに輝く像やら絵画やらなにやらが置かれていたが、もう見たくない。目も頭も痛くなりそうだ。

 

 中央のテーブルを囲むように並ぶ紅のソファーに、俺たちはそれぞれ腰を落ち着ける。高級店だからか、沈む感触といい良い感じの反発感といい、なかなかに良い椅子だ。だが二度と来たくねえ。

 

 クラインが扉を閉め、それぞれがウインドウからメニューを注文する。おい、ここコーヒーが無いじゃねえか。なに頼めばいいんだよ。

 

「おいキリト。コーヒーねえぞ。なに頼めばいいんだよ」

 

「ジンジャエールでいいんじゃないか?」

 

「それはあるのかよ。ならマッ缶があったっていいじゃねえか」

 

「相変わらずあの甘ったるいコーヒー好きなんだな……」

 

 キリトがげんなりしたように言った。おい、こいついま千葉県民全員を敵に回したぞ。現実に帰ったら覚えてろよ。県民全員でボコりに行くからな。

 

 全員が注文を終え、適当に会話をしているところでそれぞれの品が届く。とりあえずとばかりにディアベルが乾杯の音頭を取り、俺はジンジャエールを飲む。マッ缶の方が絶対美味い。

 

 一拍。

 

 切り出したのはキリトだ。神妙な顔をして、俺を眺めながら言った。

 

「ハチ、なに隠してるんだ?」

 

「なんのことだ?」

 

 俺は平然と返す。が、全員がいぶかしんだ目で俺を見ていた。やだ、そんな熱い視線で見つめられるとハチマン照れちゃう。

 

 一度吐息したクラインが、キリトの後を引き継ぐ。

 

「どうせまたぞろ面倒事抱えてンだろ? オレらにも話せって」

 

 エギルとディアベルが無言で頷く。全員が、訊くまで絶対に帰さないという雰囲気をかもし出していた。

 

 ああ……そういうことか。

 

 こいつら、俺が何か抱えてると察してこの場を設けたのか。一応平静を装っていたつもりだったんだがなあ。やっぱ人間強度が下がると近しい奴にはバレちまうのか。

 

 軽く俯く。ちょっと泣きそうだった。

 

 だが、言えないことだってある。近しいからこそ、大事だからこそ、そっと金庫に入れてしまいたいくらい大切だから、俺は言葉にすることができない。

 

「訊くな」

 

「それは俺たちじゃ頼りないってことか?」

 

 キリトが不安気に訊いてくる。違う。そうじゃない。そういうことじゃないんだよ。

 

「言えねえんだ……察してくれ」

 

 俺の返答に、皆が息を呑んだ。

 

「つまり……状況は相当に悪いと考えていいのかい?」

 

 少し掠れた声でディアベルが言った。俺は頷きも否定もせず、ただこう返す。

 

「分からん」

 

 沈黙。

 

「あー、なんとなく分かった」

 

 しじまの中で、ひとりクラインが天井を仰いでぽつりと言った。

 

「おめえら、相手を考えてみろ。そういうことだろハチ?」

 

 ぎくりとした。まさにその通りだったからだ。こいつ、やっぱこういうときは鋭いな。

 

 俺の一瞬の挙動を読み取ったか、エギルが俺の傍まで来て両肩に大きな手を乗せた。父親のような暖かく力強い手だ。

 

「分かった。もう何も訊かんよ。ただこれだけは覚えておいてほしい。オレたちはいつだってお前さんの味方だ。何があろうとだ。だから、もしなにか話せるときが来たら、あるいはどうしようもなくなったら、オレたちに話してくれ。必ずお前さんを支える。仲間ってもんはそういうものだろう?」

 

 力なく頭を落す。頬を伝い顎から滴るものは、きっと涙だ。こんなことを言ってくれるやつらがいるんだから、本当に世界も捨てたものじゃないらしい。

 

 ここは地獄だ。誰もがきっと口を揃えて言うだろう。だけど、現実よりも過酷な世界に落ちてなお、俺は幾度も幸福を経験している。現実ではきっと見つけられなかったものを見つけることができた。だからきっと、ここは現実よりちょっときついだけの、俺には少しだけ優しい世界なのだと思う。

 

「……おう、あんがとな」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 第九十層フロアボス《ケルビム》討伐の日がやって来た。その日は、どこの階層も嵐が吹き荒れ、雷が迸る壮絶な空模様だった。まるで、主に楯突く愚か者への《ケルビム》の怒りが具現化したように。きっと誰も彼もが神の怒りを畏れていた。

 

 第九十層主街区《ティマイオス》は、下界の天気など関係ないように、いつもと同じ七色に瞬く空が広がっている。

 

 攻略組全員は、街の中央にある広場に集まっていた。全員が緊張の面持ちで黙りこくった様子で並んでいる。異質な街の雰囲気も相まってか、クォーターポイントの時ですらなかった胸を締め付けるような空気になっていた。

 

「みんな、準備はいいか!?」

 

 そんな中でも、ディアベルが訊く者の勇気を奮い立たせる声音を張る。いつの間にか俯いていた攻略組も、すぐに顔を上げてディアベルを見て力強く頷く。俺はサキと手を繋いで互いを見合う。目と目で通じ合って、額をあわせた。

 

「死ぬなよ」

 

「あんたもね」

 

 触れるだけの軽いキス。

 

「さあ、出陣だ!」

 

 声を張り上げたディアベルが、回廊結晶を使用する。もはや、九十層から先、回廊結晶無しにボス部屋まで全員が無事に辿り着くのは困難だ。

 

 全員が青白い渦巻きの中へ足を進めていく。俺もサキと共に歩き出した。

 

 転送された先は、かつて見た異様な門。回転する炎の剣、そして聖櫃が両脇に鎮座した、いと高き聖域へと続く境界門。隙間から染み出した空気は驚くほど澄み切っていて、しかし冷たくも感じる。

 

 これから俺たちは、神が座す智天使へと殴りこみに行く。まさに神への謀反の始まりだ。

 

 翡翠の床へ、ディアベルが剣を打ち立てる。鐘を叩いたような不思議な音が響き渡る。

 

「オレから言えるのはこれだけだ。全員、死ぬな! 行くぞ!!」

 

 門を開いて出陣するディアベルに、攻略組が続く。ボス部屋に入った途端、扉が閉まり空気が一変した。

 

 そこは広大な花園だった。見渡す地平線すべてに色彩豊かな花々が咲き乱れ、ひとつひとつが神の奇跡で出来ているかのように、眩いばかりに輝いている。空はこれほど神々しい色は無いと思われるほどの金色。大気は重くもなく軽くもなく、ただただ静謐に満ちていて。どこかしこにも神の威容が感じられ、身体の芯が震えるように畏れを感じる。

 

 ここが神の領域の一歩手前。

 

 全員の動きが止まる。誰もがきっと、神意を感じた。人の身で、この聖域に存在することが不遜であると感じるほどに。

 

 ただただ沈黙する俺たちの前に、金色の空から一筋の光が花園に落ちた。溢れる光の中からゆっくりと回転して現れたのは、異形の天使。

 

 頭は四つに分かれ、それぞれが絶世の美女、雄雄しい獅子、力強い雄牛、鋭い眼光の鷲が四方を向いている。両肩には高貴な光を湛える巨大な弓。背からは二対の翼が生え、ふたつの翼で身体を覆っている。

 

 神意の篭る澄んだ音がひとつ響いた。直後、俺たちの上空から環を描いて回る炎の剣が落ち、異形の天使の脇で静止する。

 

 ラハット・ハヘレヴ・ハミトゥ・ハペヘット。これが剣の名だ。まったくユキペディア様々だ。

 

 視線を凝らす。

 

 五本のHPバーと共に《智天使ケルビム》の名が現れる。

 

 全員が得物を構える。しかし動けない。俺も動こうとしているのに、身体が何かに絡みつかれているかのように、まったくもって動けない。

 

 かつてないほどの焦燥。なんだ、何が起こっている!?

 

 ケルビムは微動だにしない。しかし、美女の艶やかな唇が開いた。

 

 歌だ。

 

 歌をうたっている。

 

 男でも女でもなく。大人でも子どもでもなく。この世の清らかさをかき集めたように澄んだ声音。聴く者の心を神への崇拝へと導く聖歌。

 

 ――我ら奥密にしてヘルヴィムを像り、聖三の歌を生命を施す三者に歌いて、この世の慮りをことごとく退くべし

 

 ――神使の軍の見えずして担い奉る万有の王を戴かんとするためなり

 

 ――アリルイヤ

 

 ――アリルイヤ

 

 ――アリルイヤ

 

 ユキノがいればこれが一体なんの歌なのか分かっただろう。だが、内容などどうでもいい。歌が終わった瞬間、俺たちの身体に自由が帰ってくる。全員が再度武器を構え直す。

 

「てめえら、戦闘開始だ!」

 

 クラインが敵を殺さんばかりに声を張り上げた。 

 

 神域の花園を荒しながら、俺たち攻略組は人類代表として神の御使いへと戦争を吹っかける。ケルビムがそれを女の顔でじっと睥睨している。

 

 まずはディフェンダー部隊が先行。今回は情報が少なすぎて攻撃が分からない。即死攻撃を即座に脱することが出来る訓練を全員が受け、徹底的に業を磨き上げた攻略組が進軍する。

 

 ケルビムまで約五十メートルを切ったそのとき、奴の開かれた上部の翼が大きく羽ばたいた。

 

 ――聴け、神罰の音色を

 

 歌うような声音と共に、花園から約一.五メートル上方に数え切れないほどの十字の輝きが現れた。それは夜空に瞬く星のように無数。ケルビムを中心として、約二メートルの間隔で同心円を広げるように十字が配置されている。

 

「十字から離れろ! 頭を下げて絶対に触れるな!」

 

 ディアベルが叫ぶ。俺たちは十字の間に身を寄せる。

 

 直後、天空から無数の光が十字へ向かって降り注いできた。光が十字に着弾すると同時、大気を破裂されるような轟音が鳴り響く。光と音が絶叫する中で、俺はこの技の全貌を垣間見た。

 

 最初の十字は狙点だ。これに目掛けて空から雷を放ち、さらには上下左右に雷を反射させている。一辺を二メートルとする正方形に高さ一.五メートルをかけた、体積にして六立法メートルのみが安全地帯となる凶悪な超範囲攻撃だ。

 

 だが、一度見てしまえば怖れることはない。光を見たら十字の間に入ってしゃがめばいいのだから。サキを見る限り、幸い雷に触れた紅槍は無傷のようだ。

 

 開幕の一撃は凌いだ。ならば進軍するのみ。

 

 ディフェンダーが怒号を上げて急速全身。俺とサキはケルビムの挙動一切に神経を集中しながら足を進める。

 

 ディベンダー部隊がケルビムへ刃を振り下ろす。身じろぎひとつせず、ケルビムは攻撃を受けるがままだ。じりじりと減っていく敵のHPバー。

 

 何もしてこないのか?

 

 ある種、九十層という区切りにもなる層で、なにより第二位の天使との戦闘が楽なはずがない。

 

 単調な戦闘に動きが現れる。脇に静止した剣をケルビムの手が掴んだ。瞬時にディフェンダー部隊が後退し、盾を突き立てる。ケルビムが回転を始め、俺たちに鷲の頭を向けた。その鋭い眼光が鈍く光る。

 

 ケルビムが騎士のように剣を構える。剣が聖なる炎で揺らめく。

 

 背筋に氷柱が突き刺さったような、壮絶に嫌な予感。

 

「散れ!」

 

 思わず俺が叫ぶ。全員が一斉にケルビムの前方から逃げると同時、奴の姿が消えた。ソニックブームでも発生したか、俺たちの身体が吹き飛ばされる。咄嗟に見たHPに減少は無い。だが、ケルビムの姿が見えない。

 

「後ろよ!」

 

 アスナの鋭い声。

 

 ケルビムは背後にいた。高速の突進突きを繰り出したのだ。さらにケルビムが反転。再び剣を構えて姿を消す。

 

 一人のディフェンダーが直撃をもらい、宙を舞った。一気に削れるHPバーは、イエローまで割り込んでいた。防御で固めた超高レベルのディフェンダーですらこのダメージ。俺が受ければ即死だ。それになにより、速すぎる! 視認すらできねえのかよ!

 

「アスナ! なんとかしろ!」

 

 キリトの呼び声にアスナがソードスキルを持って応える。スパークル・メテオラが発動。ケルビムの速度にも劣らぬ速度でアスナが空を飛翔。ケルビムへ向けて急降下する。ケルビムもすぐさま反応し、炎の剣を振りかぶるも、アスナが鋭角軌道を取ってこれを避け、ケルビムに一撃を加える。すぐさま反転。二撃、三撃、四撃、五撃とまるで五芒星を描くようにケルビムを斬り裂いていく。

 

 僅かに固まった隙を付いて、俺たちダメージディーラー部隊が動き出す。

 

 アスナのスキル終了まで残り八秒。俊足でもって俺とキリトがケルビムに肉薄。俺は即座にオクトアサルトを発動。死の嵐が吹き荒び、ケルビムのHPバーを一気に削る。キリトも二刀流最上位スキル《ジ・イクリプス》による全二十七連撃という、SAO最大数の斬撃を見舞う。アスナが後方へ飛翔し花園へ降り立つ。ケルビムのヘイト、即ち標的が完全に俺たちへ向く。技硬直で動けぬ間に、ケルビムが再び剣を構えようとし――

 

「うらああああああ!」

 

 クラインの抜刀術がケルビムの身体を横一閃。更にサキが身体をしならせた円運動による見事な槍捌きを見せ、自前の連続攻撃をケルビムに殺到させる。ケルビムの標的がふたりに移る。更に他の部隊もケルビムへ向かう。技後硬直の解けた俺とキリトもすぐさまこれに加わり、ケルビムに間も与えぬ連撃を与えていく。

 

 ケルビムが剣を構える。それを見てすぐさま前方から俺たちが退く。アスナが飛翔し、星を描きながらケルビムにダメージを与え、俺とキリトがすぐさまこれに参加。遅れてクラインとサキが絶妙なるヘイト管理をし、ディアベル率いる全軍が奴を取り囲む。

 

 完璧な連携によりケルビムのHPバーを削り、ようやく二本まで無くなる。

 

 残りHPは三本。

 

 先はまだ永い……。

 

 



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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 5

 羽が舞った。

 

 天界の空を想起させる七の色彩を持つ無数の羽が、突然宙に現れてゆらゆらと舞っている。金色の空から舞い降りる光を反射しきらきらと輝き、瞬間、その美しい光景にみな見惚れる。

 

 致命的な隙。

 

 ――我が怒りを知れ

 

 ケルビムの顔のひとつが声を発した。いままでのものとは異なる、訊く者を萎縮させる荒々しい声音。顔が変わっていた。今度は獅子だった。

 

 羽が俺たちの身長の高さまで舞い落ちる。初見攻撃。しかも一切の隙間なく繰り広げられる圧倒的光景。もはやどうするかが正解かも分からない。

 

 ひとつひとつの羽に十字の輝き。

 

 サキを見る。サキが頷く。

 

 ――あんただけでも避けて!

 

 瞬時にインビジブルアサルト起動。

 

 直後、視界に雷の嵐が吹き荒れた。羽ひとつひとつが雷の爆弾となって周囲全体に吹き荒れたのだ。全員のHPバーが急速に減っていき、見る限り全員のHPが僅か一ドットを残すのみ。強制的にHPを一にする、通常であれば回避不可否の全体攻撃。

 

 俺がソードスキルを終えた直後、全員が花園に膝を着いていた。サキを見る。槍を花園に突き立てた膝を落としたサキが、回復POTを呑んでいる姿が瞳に映る。全員が似たり寄ったりだ。いまは俺しか動けるものがいない。

 

 腹を括る。

 

「俺がヘイトを持つ、その間に回復しろ!」

 

 叫んで俺が疾走を開始。俊敏とサバイバル・ヘイスト全開で、獅子となったケルビムの眼前に踊る。

 

 炎の剣が閃く。俺は《二人は一緒》を交差してそれを受け止める。重すぎる!

 

 即時受け流しを判断。短剣を傾けナイフで流す。ただそれだけでHPバーが削られる。炎に炙られたのだ。

 

 そこから、荒々しい炎の剣が乱舞を始める。戦線が後退し、周囲十メートルはもはや無人の空間となっている。ならばいまはこれしかない。

 

 フローズン・ファウストを限定解放。時の縛鎖の領域が十メートルに渡って展開。いかな天使であろうと、この絶対領域の圧力に屈しないはずが無い。明らかに動きが鈍った斬撃を避ける、避ける、避ける。その間に短剣とナイフをケルビムの身体に打ち込みまくる。

 

 ケルビムの周囲を舞いながら俺はかつてないほどの集中の領域にいた。一撃でももらえば死。だからこそ到達しうる領域にいまの俺はいる。

 

 炎が俺を炙る。徐々に減っていくHPバー。攻撃を避け続けても、もうじきイエローにまで割り込む。フローズン・ファウスト終了まで残り五秒。焦燥はある、だがそれを微塵たりとも心の表層出さない。心の奥底に無理やり封じ込める。

 

 遂に、時の領域が終わりを告げる。速度が元に戻る。ケルビムの剣閃が速さが上がる。炎が掠める所為で、サバイバル・ヘイストは解除されている。

 

 だが退けない。俺が退けば全滅は必至。

 

 サキを思い出せ。キリトを思い出せ。アスナを、クラインを、ディアベルを、すべての戦いを思いだせ。そうだ、そいつらよりこいつの方が弱いだろう?

 

 ただ剣速が速いだけじゃねえか。

 

 思考を完全に回避だけに切り替える。一分か、二分か、それとも五分か。俺は永遠にも思える時間、ケルビムの攻撃を避け続ける。HPバーはレッドを割った。残り数ドット。

 

 もう俺も限界だ。あとは一撃を加えてやるのみ。やっぱこういうときはカッコいい技で決めるべきだよな。

 

 当然、俺は最も好んでいるソードスキル《オクトアサルト》を発動。

 

 ケルビムの眼前から俺の姿が瞬時に消え、直後背後に立つ。まるで遅れて斬撃が現れるように、八本の悪魔の鎌がケルビムを襲う。

 

「あとは頼んだわ」

 

 呟くように言う。技後硬直でもう動けん。だれか動いてくれなきゃ死ぬぞ俺。

 

 素早い足音。

 

「待たせたね!」

 

 愛しい声と共に、サキがケルビムに槍を振りかぶる姿が見えた。直後、俺の身体が吹っ飛ばされる。否、スパークル・メテオラによって飛翔してきたアスナに身体を抱えられたのだ。

 

「ありがとうハチくん! 格好良かったよ!」

 

「ありがとよ。でもキリト以外にそういうのは言ってやるな」

 

 アスナに抱えられたまま空を飛ぶ。景色が一瞬にして後方に過ぎ去っていくさまは圧巻だ。そして、怖い。超怖い。こんなのいつもやってんのかよアスナ。そりゃ地面にぶつかるわ。頼むから追突しないでね。それだけでいまの俺死んじゃうからね!

 

 当然アスナも手馴れたもので、ケルビムから遠く離れた地点に俺を優しく下ろしてくれる。俺は回復POTを飲み干し、HPの完全回復を待つ。アスナはそれまで俺の傍にいてくれていた。一応の護衛だろう。

 

「あれから何分経った」

 

「五分くらいかな。みんな驚いてたよ。あれがハチくんの本気なんだって」

 

「俺はやればできる男なんだ。いつもやらないだけだ。もう一生分働いた。働きたくねえ」

 

 俺の科白にアスナがくすくす笑う。

 

「嘘言っちゃって。いつも頑張ってるの、みんな知ってるよ」

 

 俺たちの視線の先では、サキにキリト、ディアベルにクラインが猛然とケルビムの剣舞に立ち向かっている姿が見える。

 

 HPバーを見る。まだ半分までしか回復していない。時間が惜しい。すぐさま攻撃に加わりたいが、その欲求をじっと堪える。

 

「もう一度羽攻撃が来るとやばいな。もう二度とあんなことできねえ」

 

「ひとつだけ方法があるよ」

 

 俺の苦悩にアスナが微笑みで応え、回答を告げる。なるほど、納得だ。さすが魔法少女。そこに痺れはするけど憧れは……しねえな。俺男だし。

 

「やれんのか?」

 

「やってみせるよ」

 

「んじゃ、そんときは頼むわ」

 

 HPが完全に回復しきる。武器の状態を確かめ、つま先をとんと花園に叩き付ける。

 

「いくか」

 

「じゃ、やるよ!」

 

「ちょ、アスナさああああああああああん」

 

 アスナが再びスパークル・メテオラを発動。そのまま飛ぶかと思いきや、また俺の身体を抱えやがった。ちょ、またそれで行くの? もう勘弁して欲しいんだけど!

 

 怖い、超怖い。ハチマン、女の子の腕の中でちびりそうだよおぉぉぉ。

 

 ひぇぇぇと、景色がぶっ飛んでいく様を眺めていると、アスナが急に俺の身体を離す。ケルビムの後方に投げ捨てられた俺は、そのまま花園で受身を取り、背後に回る。そこにはサキの姿があった。

 

「アスナとの愛の逃避行の感想は?」

 

 サキが笑って訊いて来る。俺も攻撃に加わりつつ応える。

 

「超怖い。二度とやりたくねえ。俺もうジェットコースターにも乗れなくなっちまったよ」

 

「今度はあたしにやってもらうかな、っと!」

 

 ヘイトを向けられたサキが、さすがの槍捌きで炎の剣を受け流す。ケルビムのHPバーは残り二本。

 

 ――我が怒りを知れ

 

 再びの荒々しく響く声音と共に、羽が舞い散る。全員の顔に絶望。だが、アスナが即座に動く。スパークル・メテオラを再発動。俺たちの周囲に存在する羽を片っ端から貫いていく。俺たちもそれに加わる。全員も瞬時に行動の意味を悟り、周りの羽へ攻撃していく。そしてダメ押しとばかりにディアベルが頭上に《アブソリュート・シールド》を展開。入れるだけの攻略組がその中に入る。俺はサキを無理やり押し込み、タイミングを見計らう。

 

「来い! アスナ!」

 

 キリトの声。

 

 アスナが爆雷直前にシールドの中に滑り込む。俺は再びのインビジブル・アサルトを始動。数を減らした羽が、それでも雷撃を放つ。

 

 俺がソードスキルを終えて見た光景は、攻略組の半数がHPを完全に残したまま立っている兵たちの姿だ。残り半数はさすがにHPをイエローにまで減らしているが、初見のときより状況は好転している。

 

「一気に削れ!」

 

 クラインが声を張り上げケルビムへ前進。羽攻撃の難を逃れた攻略組が必死の攻撃を繰り出していく。ケルビムもそれに応戦するが、数の暴力で押されていく。

 

 そして、遂にケルビムの最後の顔が現れる。

 

 雄牛だ。

 

 獰猛な雄叫びを上げたケルビムが、その手から炎の剣を投げる。翼をはためかせ前傾姿勢になった途端、花園を抉りながら突進を開始した。速度は鷲の時よりも数段遅い。全員が瞬時に飛び退く。

 

 だが、今度は直進ではなかった。明らかに狙いを定めて、進行方向を曲げながら突進を繰り返す。止まる隙など無く、攻撃の間すら与えない突進の連打。そして、宙を舞っていたはずの炎の剣が閃く。ケルビムを守護がごとく意思をもった剣舞を初め、飛び退いたプレイヤー達を斬り刻んでいく。

 

 超めんどくせえよ! なんだよこいつ!

 

 突進回避後に俺へ襲い掛かってきた炎の剣をサキが弾く。紅の槍を回しながらサキが俺の脇に立つ。

 

「おい、これどうすりゃいいんだ」

 

 もう俺の吐息に疲労が混じっている。サキも肩で息をしていた。

 

「奇策ある?」

 

「避けると同時にインビジブル・アサルトくらいしか思い浮かばねえよ。そのあと炎の剣で殺されるまである」

 

「参ったね。その案はあたしの心が死ぬから不採用だね」

 

 ふたりして苦笑いだ。

 

 前方ではアスナがスパークル・メテオラを駆使してなんとか攻撃を加えようとしているが、炎の剣が絶妙にこれを防いでおり、攻めあぐねているようだ。キリトもクラインも回避に必死で攻撃などできそうにない。

 

 いや、ディアベルだけが猛然と襲い来るケルビムを前に棒立ちしていた。おい、なにやってんだ。さっさと避けろ!

 

 ディアベルに不適な笑み。盾を花園に付き立て、前傾姿勢でケルビムの到来を待つ。

 

「おい、そういうことか! あの野郎、ケルビムを真っ向から受け止めるつもりだ!」

 

 俺が叫びながら走る。次いでサキが気づき後に続く。キリトもクラインもすぐさまケルビムの背後へ疾走する。

 

「うるおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 人にあるまじき野獣の咆哮を上げたディアベルがケルビムと激突!

 

 土埃と花びらを散らしながら十メートルは身体を後退させられるが、それでも決死の表情でこれを受け止め続ける。

 

 やがて、ディアベルとケルビムの動きが止まる。完全なる静止。力と力が拮抗し合う。

 

「いまだ、やれええええええええええええええええええええええええええええええ!!」

 

 ディアベルが再度咆哮。

 

 全員が持ちうる最強ソードスキルをケルビムの背後から畳み掛ける。サキは舞ってきた炎の剣を縦横無尽に駆け回って捌き続ける。《アインクラッドの巫女》の再誕だ。やべえ、超かっこいい! 兄貴と呼ばせてください! でも俺の嫁だ! 超最高!

 

 無防備なケルビムの身体を滅多斬りにし、HPバーが急速に減っていく。

 

 ケルビムのHPバーが残り一本となった。 

 

 不意に、ケルビムが空高く飛び上がったかと思うと、身体を覆っていた翼を広げ、その全貌を露わにする。

 

 全員がその光景に驚愕する。

 

 前面に向けているのは人の顔。上半身は美女の裸のそれだが、扇情さなど微塵も感じない。下半身が異様すぎる。人、獅子、雄牛、鷲が交じり合って渦巻き、下に行くにつれすぼまっていく。もはや生物の範疇を超えている。

 

 これが天使というのだから、天界はさぞかし化物の巣窟なのだろう。絶対に行きたくねえ!

 

 そして、ケルビムの両腕が肩に輝く弓を取って構えた。

 

 いよいよ、桁外れな光輝を持つ《シェキナーの弓》の使用が解禁される。

 

「おい、どうすンだ! 目でもつぶりゃあ良いのか!?」

 

 クラインが叫ぶ。

 

「アホか! んなことしたら一方的に殺られるぞ!」

 

 俺が叫び返す。

 

 というか、遠い。空高く飛びすぎだ。

 

 遥か上空からケルビムが眼下にいる俺たちに向かって弓を構えている。そしてその中心に急速に光が集まり、巨大な矢が形成されていく。

 

 まずい。まずいまずいまずい。最大級の危機だ。

 

 どうすりゃいいのかまったく分からねえ!

 

 極限の逡巡、そして懊悩。

 

 刹那、サキが動いた。

 

「やあああああああああああああああああああああああああああ――――!!」

 

 青白い光に包まれたサキの身体が、あり得ない速度で飛翔。重力などものともせず、ケルビムの眼前まで肉薄すると、ソードスキルのエフェクトと共に凄まじい速度で三連撃を食らわせる。ケルビムの表情に初めて驚愕が生まれる。サキが身体を反転。全力の横薙ぎによってケルビムを花園へと叩き落す。

 

 凄まじい衝撃音!

 

 ケルビムが花びらを散らしながら、地面を抉り転がる。

 

 宙に浮いたままのサキが、これが最後だとばかりに槍投げの構えを取る。

 

 レギンレイブ・ヴァルキュリア――これが《戦乙女》による最上位ソードスキル。

 

 己のHPが三割を切ったときのみ発動可能。敵へと超高速で肉薄し、三連撃を加えた後、四撃目で吹き飛ばす。直後、全身全霊の込めた投擲で敵を貫くソードスキル。最使用時間が二十四時間とあまりに長く、かつ技後硬直が五分と長すぎるため、ラストアタックにしか使用できない、まさしく死を賭けた最終奥義。

 

「これで、おわりだああああああああああああああああああああ――――!!」

 

 サキが怒声と共に槍を投擲。真紅の閃光となった《ゲイボルグ》が、ケルビムの身体を一気に貫き、腹部に大穴を空ける。HPバーが驚くべき速度で削られていく。

 

 止まらない、止まるはずがない。サキの最強奥義を食らってHPバー一本で耐えられるなら耐えて見せろ!

 

 遂に、ケルビムのHPバーがゼロになる。

 

 力尽きたサキが上空から落ちてくる。走り出した俺はサキの身体を全力で受け止め、花園の上を転がった。

 

 落下の衝撃でサキのHPはあと僅か数ドットだ。すぐに回復POTをサキの口に入れる。動くことのできないサキは、されるがまま俺の腕の中でPOTを飲み下す。

 

 その様を見てから、俺はケルビムへと視線を戻す。

 

 ケルビムの全身に皹が入っていた。花びらが散るようにケルビムの身体が剥がれ、神意の輝きとなって空へと舞っていく。

 

 ――汝ら、神を畏れよ、神を讃えよ、己が罪を悔い改めるがいい

 

 断末の声音を響かせ、ケルビムの身体が完全に消え去った。

 

 攻略組の全員が呆然とする。

 

 やがて、いつものように鬨の声を上げた。近いもの同士で互いの健闘を讃えるように抱き合っている。俺もサキの身体を力強く抱きしめる。まだ動けない彼女は、甘い吐息で俺に返事をする。

 

「誰も死んでない! 被害者ゼロで倒したぞ!」

 

 ディアベルが喜びの声を上げる。

 

 喝采が上がる。めいめいが最後のサキのすごさを語っている。おい、見たかお前ら。俺の嫁は最強なんだぞ。だから近寄るな! 触れようとすんな! サキは俺のもんだから半径十メートル以内に近づくんじゃねえ!

 

 あらゆる殺気をかき集めた腐った眼光をあちこちに飛ばす。浮かれた彼らも俺の目にびびったか、本当に半径十メートル以内には近づいてこなかった。初めて腐った目が役に立ったかもしれん。

 

 ともかく勝った。俺の嫁の勝利だ。

 

「お前のお陰だ。さすがサキだ。愛してるぜ」

 

 ようやく技後硬直が解けたサキが、薄紅の睡蓮の微笑で応えた。

 

「ん、あたしも愛してる」

 

 自然と口付けを交わす。周囲からはやし立てる声や口笛が鳴り響く。

 

 俺はそれに答えず、サキから顔を離して金色の空を仰いだ。もうすぐ先にいるはずの奴の姿を幻視しながら。

 

 マンダトリー、俺たちは第九十層のフロアボスを撃破したぞ。ここからあと十層。全力で駆け上がってやる。

 

 だから膝を震わせて待っていろマンダトリー。

 

 必ず貴様の首を狩りに行ってやる……!

 

 



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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 6

 LAボーナスは、やはり《ラハット・ハヘレヴ・ハミトゥ・ハペヘット》だった。名前長いわ。どうにか略せよ。

 

 片手剣ということでサキが即効でいらない発言をかます。贈与候補としてディアベルとキリトが挙がるが、今回はディアベルが辞退。どうやらキリトのエリュシデータもこの階層となると限界が近づいており、神装級の剣が必要だったのだ。

 

 新たに剣を手に入れたキリトはサキに何度も礼をし、すぐさま装備して感触を確かめていた。何度か振ったキリトの表情に満面の笑み。ご満悦の様子でなによりだ。

 

 それから更に半年の月日が流れた。

 

 場所は九十九層フロアボス部屋。

 

 フロアボス《主神オーディン》をやっとの思いで倒した俺たちは、ようやく百層へ王手をかけた。

 

 このとき、全員にシステム管理者からメッセージが送られた。内容はこうだ。

 

 ――一週間後の午前九時、百層の紅玉宮にて最終決戦を執り行います。それまで平和なひと時を味わって下さい。百層紅玉宮へのアクティベートは自動で行われますのでご安心を。

 

 すぐさまメッセージを握り潰したくなった俺だが、ひとまずここまで来れた。仲間は誰一人欠けることなく俺の傍にいて、隣には愛しいサキもちゃんといる。

 

 きっと大丈夫だと、藁にも縋る思いで踏破してきた甲斐があった。

 

 

 

 二日後、俺は八十層の主街区《カルヴァリア》の聖堂教会の小部屋にいた。教会が数多く並び建つこの都市は、別名《宗教都市》とも呼ばれている。

 

 そんなところで、俺は椅子に座ってある瞬間が来るのを今か今かと待ちわびている。まだかなあ。早く来ないかなあ。

 

 珍しく時間が過ぎるのが永遠にも感じる。室内にある壁時計の秒針がうるさい。お前はお呼びじゃねえから黙ってろ。

 

 ふいに、部屋のドアが開いた。

 

 美女だ。絶世の美女が立っている。まるで絵画の世界から現れたような、目にする者すべてを魅了する女性が俺を見てはにかんだ。

 

「どうかな?」

 

 ひらりとスカートを浮かせてサキがくるりと回る。

 

 ウエディングドレス姿のサキが、俺の前に立っていた。

 

 綺麗で、あまりにも美しくて、思わず言葉を失う。

 

 いつも結っている青み掛かった黒髪は今日は下ろし、ティアラにも似た何かをかぶり、そこから背後にベールが流れていた。装いは一般的なチューブトップのウエディングドレスだが、表面には睡蓮の刺繍が編みこまれていてとても似合っている。サキにしては珍しく大胆になったか、左足に大きくスリットが開かれていた。そこから覗く太股と、それを覆う白いレースのストッキングが艶かしくて、俺は思わずこくんと喉を鳴らした。おい、式前に俺は何考えてる。何か気の利いた一言でも言えよ。

 

「ハチマン?」

 

 サキがヒールを鳴らしながら近づいてくる。顔が熱い。心臓の音がうるさい。

 

「どうしたの?」

 

 俺の目の前で、サキがレースに包まれた手を軽く振った。意識が戻る。戻るのだが、あまりに綺麗過ぎてろくな言葉が出てこない。

 

「お、おう」

 

「なんだ、ちゃんと生きてるじゃん」

 

「死んでねえよ」

 

「突っ立ったまま死んでたかと思った」

 

 目が腐ってるし、と言って、口許に手を当ててサキがくすくすと笑う。ひとつひとつの仕草があまりにも現実味が無くて、やっぱり何も言えない。

 

「いま何考えてるか当ててあげよっか?」

 

 いたずらっ子の笑みを浮かべて、サキが顔を近づける。桜色の口紅で艶やかに彩られたサキの唇が開く。

 

「見惚れて言葉も無いんでしょ?」

 

 おいおい、言い当てられちゃったよ。こいつエスパーか。

 

「あんた限定のね」

 

 やべえ、完全に思考が読まれてる。

 

 それと、と言ったサキがスリットに手を添える。

 

「中も見たい?」

 

「おい、それはねえよ。式前に何言っちゃってんだよこいつは」

 

「そう?」

 

 悪びれもせずサキが口端を吊り上げる。

 

「さっき熱っぽい視線向けてたのに?」

 

「はい、見たいです。超見たいです。だから許して下さい」

 

 全力で頭を下げた。もはやサキ相手に隠し事はできないと悟った瞬間だ。

 

 あはは、と笑ったサキが隣に寄って腕を取った。そのまま頭を俺の肩に乗せる。

 

「とりあえず、言ってほしい言葉があるんだけど」

 

 サキが上目遣いに俺を見る。その視線があまりに熱っぽいから、俺は頬を赤くしてそっぽを向いた。

 

「き、綺麗だ。すごく」

 

「ん、あんたが直視できないくらいってことだね。嬉しいよ」

 

 俺の頬に軽く口付けしたサキが離れる。俺の前に立ったサキが、後ろに回した手を組んで前かがみになる。

 

「あんたもかっこいいよ」

 

「そ、そうか? いつもと変わんねえぞ?」

 

 俺は自分の姿を見下ろす。普段の臙脂のコートは純白のそれになり。インナーはまんま黒。ボトムは白に変えている。正直それだけだ。タキシードを一度着てみたのだが、サキがあまりに腹を抱えて笑うので、結局いつもの装いの色彩を変化させただけにしたのだ。

 

「マフラーはしないの?」

 

「さすがに式でそれはねえだろ」

 

「あんたに似合ってたよ。今日なら、黒にしたら?」

 

「おい、そんなことしたら余計に囚人服みたいになっちゃうじゃねえか」

 

 なんだって良いんだよ、とサキが微笑む。

 

「あんたなら、なんだっていい。あんたが隣にいるだけであたしは幸せだから」

 

 ぱふっ、とサキが俺の胸に飛び込んでくる。俺の頭に手を回して爪先立ちになると、淡い口付けをした。喜びに満ちた表情でサキが相好を崩す。

 

「今日、やっと結婚式するんだよね」

 

「おう。話をしてから長かったけどな」

 

 俺たちは今日、結婚式をする。キリトとアスナ、ディアベルとユキノたちと共に、ここ聖都カルヴァリアで結婚式を挙げるのだ。

 

 本当に長かった。あの悪夢の虐殺劇さえなければ、もっと早く式を挙げられていたというのに。マンダトリーの野郎、必ず首を狩ってやる……。

 

「怖い顔してる。もっと笑って」

 

 思考が表情に出ていたか、俺の頬を撫でたサキが口許を緩めて言う。

 

「まえ言ったこと、覚えてる?」

 

 覚えている。覚えているとも。生まれて初めて嬉しさで泣いたあの言葉を、俺は一瞬たりとも忘れたことはない。

 

 きっとあのとき、俺は心底サキに惚れた。こいつしか目に入らなくなった。それから色々なことがあって想いを交し、そしていまここにふたりで立っている。

 

「痛いも苦しいも、楽しいも嬉しいも、みんなみんな二人で共有しよう。ふたりで戦えば、きっときっと、大丈夫だから。あたしはあのときそう言ったよ」

 

「覚えてる」

 

「だから笑って。もっと微笑んで。あたしも笑うから。あんたも笑って。これは嬉しい出来事だよ?」

 

「ああ、そうだな」

 

 俺を見つめるサキの瞳が、喜びに潤む。

 

「ハチマンが好きだよ」

 

 知っている。俺も同じだから。

 

「ハチマンを愛してるよ」

 

 分かっている。どうしようもなく俺もそうだから。

 

「あんたの言葉で教えて。あたしをどう思ってる?」

 

「サキが好きだ」

 

「うん」

 

「サキを愛してる」

 

「ありがとう」

 

 サキが抱きついてくる。俺はその背にそっと手を回した。愛しくて、とても大切だから、力を込めずに柔らかく抱きしめる。サキが甘い声で鳴く。それだけで胸が高鳴る。

 

「この世界は最低だったけど、あんたとこうして一緒になれたことは何より幸せだよ」

 

「そうだな。俺もそう思う」

 

「現実に戻ったら、あたしと付き合ってくれる?」

 

「それだけで満足できるほど人間できてねえよ。どんな手を使ってでも結婚する」

 

「気が早いね。でも嬉しい」

 

「できれば式にも出たくない。いまのサキを衆目に晒したくない。俺が独占したいまである」

 

 ふふふ、とサキが笑った。

 

「素敵な口説き文句だね。でも大丈夫。あたしはあんたのものだよ。あんただけのものだから。誰があたしを見てようと、あたしはあんたしか見てないよ」

 

「可愛い過ぎてこのままお持ち帰りしたい」

 

「あんたも欲望に忠実になってきたね」

 

「理性ちゃんは旅に出たよ。もう面倒みきれねえってさ」

 

「そっか、あんたの目はあたしに釘付けだね」

 

 サキが身体を離す。一歩二歩と後ろ向きに進んで、柔らかく、あの薄紅色の睡蓮の微笑みを浮かべて、俺に手を差し出した。

 

「さあ、行こう? みんな待ってるよ」

 

「ああ、行くか」

 

 その手を取って、俺たちは歩き出す。

 

 扉を開き、真紅の絨毯が敷かれた廊下をふたりでゆっくりと進む。幸せをかみ締めるように、一瞬一瞬を切り取り心に刻み付けるように。視界のすべてが華やいで見えて、どこもかしこも俺たちを祝福しているかのように思えた。こんなこと、現実で感じたことなど一切なかった。

 

 この世界はとても過酷で、俺は奈落の底に一度叩き落された。

 

 それでも、仲間たちが、サキがいたから俺はこうして這い上がり、いま、幸せの絶頂にいる。この二年半が無駄だったと、すべてが絶望に満ち闇に覆われていたなどと、決して言えない。なぜなら二年半の宝をすべてかき集めた存在が、すぐ隣に寄り添ってくれているのだから。

 

 歩む先に、正装をしたクラインとアルゴが扉の両脇に立っている姿があった。ふたり共に笑顔で俺たちを眺めている。

 

「お二人さん、いよいよだな!」

 

 クラインが満面の笑みで俺たちに声をかける。

 

「サキちゃん、すっごく綺麗だヨ! ハー坊もなかなか決まってるゾ!」

 

 アルゴが胸の前でぱちぱちーと小さく拍手してくれる。

 

 感謝で胸に熱いものが込み上げる。このふたり、そして神父役を買って出たエギルが、僅か一日という短い期間ですべてを整えてくれたのだ。

 

「おう、色々サンキューな。何から何までやってもらって」

 

 クラインが首を左右に振る。

 

「気にすンなよ。ダチ同士が結婚すンだぜ? これくらいは当然だ」

 

 アルゴは、ふふん、と胸を反らす。

 

「ちゃ~んと感謝するんだゾ! そして幸せになれヨ!」

 

 おう、と俺が答え、サキが目じりに涙を溜めて頷いた。

 

「そんじゃま、行ってこい!」

 

 クラインの掛け声と共に、ふたりが扉を開ける。

 

 瞬間、教会が震えるほどの拍手が俺たちを待ち構えていた。参列者の中には、攻略組の面々、第一層で俺が助けた住人たち、うわさを訊きつけ駆けつけてきたプレイヤー達が、溢れんばかりの拍手で俺たちを祝福している。

 

 照れくさくなって俯きそうになるが、一度瞑目して背筋をぴんと伸ばす。折角の晴れ舞台だ。それなりに格好良く決めておきたい。

 

 バージンロードをふたりで歩く。ここには両親はいないから、正式な手順なんて無茶苦茶だ。それでも、ふたりでこの道をゆっくりと歩いていく。

 

 ステンドグラスに照らされた祭壇の前に、神父姿をしたエギルが立っている。なかなか様になってるぞ、と口だけを動かして言ってやる。いいから黙って歩け、とエギルに返された。

 

 両脇には、キリトとアスナ、ユキノとディアベルが俺たちを待っていた。

 

 ディアベルと目が合う。とりあえずこれだけは伝えておかなきゃならん。

 

 ――とりあえず一発殴らせろディアベル。

 

 ――だから君はユキノのなんなんだよ……。

 

 ――親友だっつってんだろ。俺みたく目でも腐ったか?

 

 ――こんなところで何言ってるんだよ。いいからさっさと来てくれ。

 

 言葉もなく、読唇もなく、目だけで通じ合う。仲間同士、もはや以心伝心だ。

 

 ディアベルを殴る瞬間をワクワクと待ちながら歩いていると、サキに脇腹をこづかれる。

 

「お願いだからちゃんとやってね。でないと嫌っちゃうよ」

 

「分かった。ちゃんとする。だから嫌わないでくれ」

 

「ん、なら愛してる」

 

「おう」

 

 ふたり、歩を進める。

 

 ここに来てから、いつも足場が不確かだった。確かなはずの地面はいつも砂上の楼閣で、目の前は暗闇に満ち、心は後悔と罪悪に溢れて崩れ落ちそうだった。

 

 それを取り払ったのはサキだ。

 

 足場を強固なものにし、一筋の光を与えてくれ、心の闇を取り払ってくれた彼女を、俺は永遠に愛しく思う。

 

 二組の隣に並ぶ。エギルが潤んだ目でしっかりと眺めてくれている。

 

 ここから先の手順だって、作法に則っていない。ただ牧師が誓いをそれぞれに問い、俺たちがそれに答える。そして外に出て女性陣が受け取ったブーケを投げる。ただそれだけの式。それでも、ここには仲間たちの想いがあり、アインクラッドに満ちた希望があり、そして俺たちの愛がある。

 

 歓喜に胸が震える。

 

 なあ、小町。

 

 お兄ちゃんな、ゲームだけど結婚式してるぞ。

 

 ちゃんと幸せだ。

 

 お前はどうだ、小町。

 

 あれから前に進めているか?

 

 立ち止まってないか?

 

 幸せに暮らしているか?

 

 せめて、些細でもいいから、その胸に確かな希望と幸福を込めて歩んでいってくれ。

 

 そうしたら、俺はいつだってお前を支えていってやる。

 

 いつの日か、俺にとってのサキのように、最愛の人が現れるまで、必ず見守っていてやる。

 

 エギルが問う。

 

 ――健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?

 

 サキたち女性陣が誓う。その後の問いに、俺たち男性陣も誓う。

 

 エギルが泣きそうになりながら告げる。

 

 ――では、誓いのキスを。

 

 それぞれが向き合う。俺はサキを見つめ、サキも俺を見つめる。他の誰でもない、視界にはサキしか映らない。仲間を除くその他万物すべてが、俺にとっては無意味だというように、俺にはサキしか見えない。

 

 サキがそっと目を伏せ顔を近づける。俺はその唇に、自らのそれを重ねた。

 

 再びの歓声。

 

 顔を離したサキの頬は羞恥で真っ赤になっているけれど、やっぱり嬉しそうに俺に微笑んだ。俺も多分、似たようなものだと思う。

 

 エギルが三組の新郎新婦の手に己の手を重ね、結婚が成立したことを宣言する。

 

 参列席からの祝福が鳴り響く。

 

 無情の喜びに目が潤む。視界が七色に瞬いて、まるで夢でも見ているような気になる。それでも、俺の腕にそっと自らの手を添えたサキの存在が、これが夢でなく現実であると教えてくれる。

 

 アルゴがそっとやってきて、女性陣にブーケを渡す。

 

 再び、俺たちはバージンロードを歩く。俺とサキが先頭に、次にキリトとアスナが、最後にディアベルとユキノが外へとゆっくりと進んでいく。参列席から、次々に「おめでとう」と声をかけられる。生憎人前に姿を現すことのなかった俺の見知った人はいなかったが、他メンバーは有名人だからか、知人友人らから声をかけられていた。

 

 まあ、俺はサキがいればそれでいい。

 

 教会を出て、青空の下に立つ。外には大勢の人たちが集まってきていた。アインクラッド初の盛大な結婚式を見ようと訪れたプレイヤー達だ。

 

 サキ、アスナ、ユキノがそれぞれ前に立ち、集まった人たちの前でブーケを投げた。

 

 蒼穹の下、風に揺られながらブーケが宙を舞う。

 

 いつか、時よ止まれと思ったことがあった。幸せの一瞬を切り取り永遠に味わっていたいとこいねがった。

 

 それは、いつしかサキとの未来を歩む望みへと変化し、幸せを増やしていけたらいいと思った。

 

 いまはどうだろうか。

 

 時は止まってほしくない。

 

 でもいま感じる幸福は永遠に味わっていたい。

 

 矛盾だらけだ。

 

 いつだって人は矛盾を抱えて生きている。

 

 ここに来てからの俺だってそうだ。

 

 指針を失い、目的を取りこぼし、ただ理由を預け、どうしようもなく同じところをぐるぐると回っていた。

 

 それでも、いまは少しだけ違うと思いたい。

 

 サキと共に歩みたい。現実に帰りたい。すべては俺の中に理由があって、少しずつでも、きっと前に進んでいる。

 

「サキ」

 

 思わず顔を見たくなって、俺は声をかける。すぐに振り向いたサキが、薄紅色の睡蓮の微笑みで応えた。

 

「ハチマン。いま、あたし、幸せだよ」

 

「ああ、俺も幸せだ」

 

「ハチマン、愛してるよ」

 

「サキ、愛してる」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 二次会は仲間内だけで行われることになった。場所は当然にように二十二層の俺たちの家だ。リビングに集まった全員が杯を掲げ、やっぱり俺を見ている。だからなんで俺を前に立たせようとするんだよ。大人がやれよこういうのは。

 

 とはいえ、まあ慣れたものだ。

 

「今日は色々とありがとよ。いい思い出が作れた。まずはアルゴ、クライン、エギルに最大限の感謝を捧げる。それと全員結婚おめでとさん。んじゃ、乾杯」

 

 全員が歓喜に満ちた顔で杯を合わせる。さっそく俺の隣を陣取ったサキは、服装は変えずウエディングドレスのままだ。スリットから見えそうで見えないもどかしさが堪らない。

 

 じっと見ていたからだろうか、頬を染めたサキが俺に顔を寄せて囁くように言う。

 

「この格好でする?」

 

「おまっ……時と場所を考えろよ」

 

「だめなの?」

 

 上目遣いで涙まじりに言われたら欲望くんがフル稼働しちゃうだろ。帰ってきてくれねえかなあ理性ちゃん。

 

 俺は力なく息を吐いて了承の意を示した。すぐさまサキが俺の肩に頭を乗せる。

 

「結婚おめでとよ!」

 

 早速クラインが俺に絡んでくる。だからなんでこいつは酒飲んでないのに雰囲気で酔えるんだよ。まあ、今日は許す。こいつには色々世話になったな。

 

「それよりサキさん、こいつの面白い話を訊きたくねえか?」

 

「ん? なんだい?」

 

 反応したサキにクラインがにやけ面を晒す。おい、ちょっと待て。嫌な予感がするぞ。視線の向こうでキリトがにやついている。こういうときのこいつらはろくなこと喋らないってハチマン知ってるよ!

 

「まえ、フェイクアイテム事件があったの覚えてるだろ?」

 

 おい、やっぱりそれかよ。ちょっと黙れクライン。それマジで恥ずかしい奴だから。

 

 俺が腐った目を向けるもクラインは止まらない。逆に、サキの表情に憂鬱さが現れる。

 

 ――フェイクアイテム事件。これは偽造アイテムを使用し、あるアイテムを別のアイテムに見せかけるある種の詐欺事件だ。サキはある日、大量の米を仕入れたようだったが、実際に使用した途端、単なるクズアイテムへと変化し、大いに嘆いていたことを覚えている。そう、この場の誰よりも、俺とアルゴが一番よく覚えている。

 

 助けてくれ、とアルゴに目をやるが、ニシシと笑うだけで何も言ってくれない。

 

 クラインが俺をにやにやと眺めながら話し始める。

 

「こいつ、サキさんがそれに騙されたと知るや否や、アルゴと結託して一週間で詐欺組織を全滅させたらしいぜ」

 

 ちょっと、やめて! それサキに内緒にしてた話だから!

 

 俺の心中など関係なしとばかりに、キリトが続きを話す。

 

「ある日喫茶店に行ったらハチとアルゴが神妙な表情で顔つき合わせててさ。声かけようと思ったんだけど、すごい剣呑な雰囲気だから近くに座って話を訊いてたんだよ」

 

 おい、あのときいたのかお前! 気づかなかったぞ。いつステルスヒッキーを習得しやがったんだよ!

 

「で、話してる内容を訊いたら驚いたぜ。ハチが、「やつらを潰す。サキを泣かせた罪は万死に値する。協力しろアルゴ」って言って、アルゴもアルゴで「親友を騙したツケは百万倍にして返してやるヨ。是非協力させてくレ」なんて言っててさ。訊いてる俺がビビッたよ」

 

「で、気づけば詐欺集団は消えちまい、事件は解決。ありゃあ圧巻だったよなあ」

 

 クラインが当時を思い出したように言う。おい、その言い方だと殺したみたいに思われちゃうだろうが。ちゃんと黒鉄宮の牢獄にぶちこんだだけだぞ。ちょっと仲良く話したら簡単に入ってくれたぞ。回廊結晶高かったんだからな!

 

「ハチマン……」

 

 サキが妙に色気のある瞳で俺を見つめてくる。なに、どうしちゃったの? いまの話全然面白くないよ?

 

「好き、大好き!」

 

 殆ど泣きながらサキが抱きついてくる。周りがヒューヒューとはやし立ててきた。おい、お前ら後で地獄に落すから覚えてやがれ。こういうのは黙ってるのが格好いいんだよ!

 

「でもあのときのハー坊怖かったなア」

 

 アルゴが当時を思い出すようにしみじみと言う。

 

 おい、アルゴまで追い討ちかけるつもりか。この裏切り者め!

 

 アルゴが二度咳払いをして、俺の声真似をする。

 

「おいテメエら、俺の女をよくも騙してくれたな。この罪は重いぞ? テメエらの死で贖えると思うなよ! 今すぐ牢獄に入るか一生斬り刻まれる拷問にかけられるか五秒以内に選べ! ってネ。オレっち後ろにいたけど思わずビビっちゃったヨ♪」

 

 抱きついているサキが思い切り頬を寄せてくる。ちょ、胸が、胸がですね、とてもいい感じに当たって柔らかくて幸せでもう何も考えられないよぉぉ。

 

「愛してる、愛してるハチマン!」

 

 ちょっと、もうやめて! 恥ずかしくて俺死んじゃうから!

 

 そんな想いが通じたか、サキが身体を離す。いや、なぜか腕を俺の首に絡めている。おい、待て。嫌な予感しかしない。

 

「する。もうしたい。我慢できない」

 

 おい。

 

 俺が答える間もなく唇を奪われる。こいつ、また舌を入れてきやがった。みんな見てるから勘弁して!

 

 一分どころか五分以上濃厚な口付けを交わしたサキが、上気した顔で俺の手を取って立ち上がる。待って、俺をどこに連れて行こうとしてるの!?

 

「みんな、いまからちょっとうるさくなるけど、気にしないで」

 

 サキが俺を寝室に連れて行こうとしながら仲間たちに言う。

 

 どーぞどーぞ、と全員が手の平を上にして両手を前に出す。

 

「おまえら! ちょっと待て! なんでこいつらにサキの嬌声を聞かれなきゃなんねえんだよ。俺以外に聞かせるか! 超エロいんだからなこいつの声!」

 

「ハー坊、自爆してるゾ……」

 

 アルゴが、やれやれと首を左右に振って言う。ぐぬぬ……。

 

 何も言えない間に俺は無理やりサキに寝室へと連れ込まれる。その間、アルゴは我関せずというように、ユキノに耳打ちをしたかと思うと、ふたりでそのまま外へ出て行った。ちょっと! 誰か助けて! こんな公衆の面前でするのハチマン恥ずかしい!

 

「じゃあ、二次会は私たちの家で続きをしよっか!」

 

 顔を真っ赤にしたアスナが大きく手を叩く。全員がそれに神妙な顔で頷き立ち上がると、めいめいが玄関へ向かって歩き出す。

 

 ナイスだアスナ! もう魔法少女って言ってからかったりしないからね!

 

 寝室のドアの縁にしがみ付きながら、俺はアスナに全力でお礼を込めた視線を投げる。それを受け取ったアスナが、ぶいっ! とVサインをしてきた。超可愛い。でもなんか期待している目をするのやめてね。実は外に行ったと見せかけて壁に耳を当ててたりしたら、いくらアスナでも怒るからな!

 

「ハチマン、早く早く……」

 

 サキが全力で俺を引っ張る。

 

「分かった! 分かったから胸押し付けるな! 太腿で俺の足を挟むな! 欲望くんがさっきからフル稼働してんだよ!」

 

 嘆きむなしく、俺はサキによって寝室のベッドに放り込まれた。その上にサキが跨り、俺の胸に手を置いた。

 

「ごめんね、無理やりみたいにしちゃって……」

 

 ぽおっと女の貌をしながらも、サキが謝ってきた。思わずため息が出かかったが、寸でのところで無理やり飲み込んだ。なんというか、以前指摘したことが現実になってきている。お互いまだ若いもんね。しょうがないよね。とか思ってないと欲望が暴発しそうだ。

 

「んなこと気にするな。まあ、あれだ。そんなサキも好きだしな」

 

 かあ、と顔を赤くしたサキが微笑んだ。その笑顔が、この先ずっと見られればいいと俺は思う。

 

 

 

 



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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 7

 紙吹雪が散っている。《はじまりの街》に住まう住人達が、あちこちの建物の屋上から紙吹雪きを撒いているからだ。第一層の主街区には全プレイヤーが集い、明日の決戦へ向けた最後の祭りを楽しんでいる。

 

 かつて茅場晶彦が宣言した中央広場では多くの出店が並び、その中心ではプレイヤー達が楽器を持って音楽を奏でている。道路では見世物の行軍が行われ、奇抜な衣装をしたプレイヤー達が大道芸を行っている。ある者は見物し、ある者は踊り、ある者は食べ歩きをし、ある者は涙して明日を祈っている。

 

 プレイヤーは街中にごった返していて、あちこちから響く喧騒で耳が痛いくらいだ。

 

「賑やかだね。こんなお祭りは初めてかも」

 

 艶やかな髪に紙吹雪き散らしたサキが、俺の腕に身体を押し付けながら言った。

 

「そりゃあ最後の日だからな。騒ぎたくもなるだろ」

 

 人の波濤を避けながら先導する俺が応える。それにしても人が多い、というか多すぎる。よく見るとNPCまで混ざっているのだ。昨今のAI技術はやはりすごいらしい。シンギュラリティも近いかなあ、なんてどうでもいいことを考えながらサキとふたりで歩いていく。

 

 時折露店に顔を出して食べ物を買い、ふたりで食べ歩きをする。頬についた生クリームをサキがぺろりと舌で舐め取る。サキがはにかんで爪先立ちして口付けしてきた。祭りで気分が高揚しているせいだろう、街中だというのにサキと何度もキスをした。

 

 本当は仲間たちと来ていたというのに、気づけばみんないなくなっていた。だからこれはもうデートだ。結婚後の初デート。だから胸がはち切れんばかりに甘酸っぱいくらいが丁度いい。

 

 時刻はまだ正午を回っていない。なのに、街中の喧騒は途絶えることがなく、夜中までこれを続けるのかと疑問を投げたくなるくらいのはしゃぎっぷりだ。俺も心が浮ついてしょうがない。

 

「いまごろアスナとユキノもこんなことやってるのかな」

 

「だろうな。クラインとエギルとアルゴは三人で露店冷やかしてるんじゃねえか? 特にアルゴとかならやりそうだ」

 

 サキが笑う。

 

「かもね。クラインもきっと似たりよったりだから、エギルが大変そう」

 

「あいつ、完全に俺たちの父親役になってたからな。迷惑かけ通しだ。現実に戻ったらまた礼言わないとな」

 

 俺の腕を力強く胸に押し付けたサキが、願うように言う。

 

「あとちょっとで帰れるよ」

 

「だな。あとはアルゴがなんとかしてくれれば完璧、と思いたい」

 

 たどり着いた最悪の想像に俺は顔をしかめる。すぐさまそれを察知したサキが頬にキスをする。勝手に顔が緩む。

 

「あれからアルゴからは?」

 

「特には。相当慎重に動いてるんだろ。今日中には連絡くれると思うけど、なかったら正直明日を迎えるのが怖い」

 

 少し、声が震えていた。いつだって最悪の状況は想定している。命の掛かったこの世界では、臆病くらいが丁度いい。だけど、その場面をいざ明日に控えると、やっぱり恐ろしくて身がすくむ思いがした。

 

「ハチマン、あっち行こう?」

 

 サキに連れられ、人気の無い路地に行く。俺の腕から離れたサキが、両手を広げて抱きしめてきた。そのまま俺の頭を抑えて胸に柔らかく押し付ける。幸せな感触が顔に広がっていく。

 

「大丈夫だよ。あんたにはあたしがいるから。あたしがいる限り、絶対にあんたを幸せにしてみせる。だから心配しないで。あたしはここにいる。ここにいるよ」

 

 サキの声音と共に、心臓の音が訊こえてくる。波立った心を落ち着かせるその音に抱かれて、俺は全身の力を抜いてサキにもたれかかった。

 

「ああ、サキがいるなら、きっと大丈夫だ」

 

 サキの背に腕を回す。泣きそうになるのを必死でこらえた。あと一日。それだけ頑張ればすべてが終わる。だからもう少し、もう少しと足を進めるだけだ。

 

「元気でた?」

 

「ん、もう少しほしい」

 

 顔を上げてサキを見つめる。たぶん、俺から初めてねだるように目を閉じた。サキの唇が触れる。ずっとこうしていたいくらい気持ちよくて、すべての悩みが吹き飛ぶようだ。

 

「つらいの無くなった?」

 

「ああ、もう大丈夫だ」

 

「そう、よかった」

 

 サキが俺の腕を引く。大通りに戻ってデートの続きをしよう。

 

 

 

 ――そのとき、俺の腰に引っさげた巾着袋から、幸福を壊す音が鳴った。

 

 

 

 回線結晶による通信音だ。サキに断って俺は結晶を取り出し耳に当てる。

 

「アルゴか? どうした?」

 

「ハー坊……ごめん。私、もう駄目かも……」

 

 怖気がした。

 

「おい、おい! いまどこにいる! すぐに行くから場所を教えろ!」

 

 アルゴが笑った。諦観が滲んだ笑い声だった。

 

「無理だよ。だって目の前にいるんだもん……」

 

「いいからすぐに逃げろ! 大通りに出て奴を撒け! 頼むから死ぬな! お願いだから俺たちの前からいなくなるな!」

 

「ごめん、ごめんね……ちょっと、今回は無理みたい。失敗しちゃった……」

 

 おい、おい、おいおいおい!

 

「アルゴ! 泣き言はいいからさっさと逃げろ!」

 

「ハー坊……いままで、楽しかったよ。ありがと――」

 

 ぷつん、と通信が切れる。目の前が真っ暗になる。アルゴが、アルゴが、奴に殺された……。

 

 そんな馬鹿な話があるか!

 

 すぐさま意識を掴み取ってウインドウを開き、フレンドリストからアルゴの名前を探し出して居場所を検索。

 

 ――検索拒否。

 

 頭がおかしくなりそうで、今度は別画面を開いてアルゴへメッセージを送る。即座に返信が返って来る。安堵してメッセージを開き、また視界が眩む。

 

 ――プレイヤー名“アルゴ”は存在しません。

 

 やめろ。やめてくれ……。

 

 なんでフレンドリストに名前があるのにメッセージが送れねえんだよ!

 

 もう何かしていないと気が狂いそうで、俺はサキを引っ張って黒鉄宮へ向かう。サキは何も言わないで着いてきてくれる。

 

 やっとの思いで黒鉄宮にたどり着く。すぐさま中に入って巨大な石碑からアルゴの名前を探す。見つからない。どこだ、どこにある!?

 

「あ……」

 

 見つかった。

 

「ああ……」

 

 否、見つけてしまった……。

 

 足が崩れる。その場に膝をつき、額を床に打ち付ける。もう何も見えない。涙で視界が完全に消えた。

 

 

 

 ――石碑にあったアルゴの名前には、死亡したプレイヤーと同じく、横線が刻まれていた。

 

 

 

「あ、あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――!!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 どうやって二十二層のログハウスに帰ったか覚えていない。ただ、サキがずっと声を掛けていてくれたことだけは耳にしっかりと残っている。

 

 俺は椅子に座り項垂れていた。街中が祭りで祝福ムードの中、ただここだけが御通夜のように沈鬱とした重い空気が蔓延している。

 

 サキが呼んだのだろう。次々と仲間たちがログハウスに入ってくる。そして力尽きたように座る俺の姿を見て、みなが俺に呼びかけてくる。それでも、俺は返事をする気力が出ない。

 

 アルゴが死んだ。

 

 俺のせいでアルゴが死んだ。

 

 その言葉だけが、頭の中でずっと流れ続けている。

 

「ハチ!」

 

 部屋の空気すら切り裂く大音量の怒声が響く。クラインだ。

 

 俺はゆっくりと顔を上げた。怒りに顔を歪ませたクラインが、俺の顔を見て今度は泣きそうに顔を壊した。きっと、俺の顔が涙でぐしゃぐしゃになっていたからだろう。

 

「どうしたんだ。何があった? なんでアルゴがいねえ?」

 

 クラインの声音が静かに響く。俺はそれに答える言葉など持たない。だけど、声を発しようとしない俺の言葉を待って、全員が静かに俺を見つめている。隣に座るサキが立ち上がり、俺の後ろに回って両肩を抱く。もう、言う他なかった。

 

「アルゴが死んだ」

 

「は?」

 

 一番に声を上げたのはキリトだった。全員が同じように、俺の言葉の意味が理解できないのか不思議そうに首を傾げている。

 

「おいおい、冗談はやめてくれよ。アルゴだぜ? あんな殺しても死ななそうな奴が、そうそう死ぬわけないだろ」

 

 キリトが苦笑しながら続ける。

 

「なあ、どうせどっかに隠れてるんだろ。さすがに悪趣味な冗談だぜハチ」

 

 キリトの表情に影が差す。俺が何も答えないからだ。

 

「おい、ハチ。冗談って言えよ。ハチ、頼むから冗談だって言ってくれ」

 

 俺は返す言葉を持たない。これ以上、何も語るべきことがないからだ。キリトが近づいてくる。いまにも背に挿した剣を抜きそうな形相で俺の前に立つ。

 

「なんで死んだ。なんでアルゴが死んだんだ! 何があった! まえハチが言ってたやつか? そうなのか! いいから答えろハチ!!」

 

 俺の唇にかすかな笑み。自戒の笑みだ。それを何と受け取ったか分からない。目を剥いたキリトが俺の胸倉を掴んで無理やり立ち上がらせた。

 

「なんとか答えろ!!」

 

「……俺のせいでアルゴが死んだ。それ以外に言える言葉がひとつも無い」

 

「このッ……!」

 

 怒りに顔を歪めたキリトが、手を背に回して剣を抜き放つ。

 

「やめてキリトくん!」

 

 アスナの声と共にキリトが金色の剣を俺の首筋に突きつけた。その剣に、俺の顎から滴る涙がぽつぽつと落ちる。そしてそのすべてが熱によって蒸発していく。

 

「なんでだよ。なんで何も言ってくれないんだよ。俺たち仲間だろ。親友じゃないか。第一層からずっと一緒だったじゃないか!」

 

 キリトが泣きながら訴えてくる。

 

「ハチがいたからずっと走ってこれたんだぞ? お前がいなかったら、俺はずっとひとりだった。ベータテスターって闇に囚われて、きっと罪悪感を永遠感じながら、それでも最前線でひとり戦ってたはずだ。クラインとだってこんな風に仲良くなれなかった。アスナとだって結ばれなかったかもしれない! それなのに、いまじゃこんなに仲間がいる。全部ハチのお陰なんだよ!」

 

 俺は黙ってそれを訊き続ける。そうだ、俺だってそう思っている。こいつが一番の親友だって、俺も思ってる。だから言えない。言うことが出来ない。万策尽きてなお、俺はこいつらを金庫の中に大事に仕舞っておきたいからだ。

 

「頼むから……なんとか言ってくれよハチ……!」

 

 物言わぬ俺に耐えられなくなったか、キリトが剣を落としてその場に膝を付いた。遂に、キリトが身体を抱えて泣き出した。俺は力が抜けてその場に倒れそうになるも、サキが俺の背中を受け止める。アスナがキリトの傍に駆け寄って彼の背をさする。

 

 ああ、本当にこの世界は意地が悪すぎる。

 

 よくもまあ、何度も幸せから地獄へ突き落としてくれるものだ。

 

 心底意地悪で、胸糞悪い。

 

 キリトの泣き声とアスナの慰める声が響いて、みなが動けずにいる。そんな中、ただひとりが冷静な声音で言葉を紡いだ。

 

「サキ、少しの間、彼とふたりで話したいの。いいかしら?」

 

 ユキノだった。凛とした瞳をまっすぐに俺へと注いでる。

 

「あ、うん、分かったよ。寝室を使って」

 

「ありがとう。すぐに戻るわ。ディアベルも、悪いけれどここにいて」

 

 俺の隣まで近づいてきたユキノに引っ張られて、寝室に連れて行かれる。ユキノが扉を閉め、俺をベッドに座らせた。俺の前に立ったユキノが、目線を合わせるように膝をついて俺を見る。

 

 そして、そっと俺の右手をとって、その上に指を走らせた。

 

「なにも言わないでちょうだい。あなたは大事なものを守ろうとした。精一杯努力して、きっと頭が痛くなるほど考え、そしてこうした結果になってしまったけれど、私はあなたを否定しないわ。きっとサキもそうよ。あなたを支えてくれる。それだけは覚えておきなさい」

 

 ユキノが立ち上がり、俺の手を持って立ち上がらせる。ぽんと俺の背を叩き、寝室の扉を開けた。

 

「さあ、行きなさい。まだやるべきことがあるでしょう?」

 

 ああ……そうだな。

 

 俺はユキノに促されるまま寝室を出てリビングに入る。全員が俺を見る。サキが震える瞳で俺を見つめる。だけど何も言わず、俺は玄関へ向かう。

 

「ハチ!」

 

 キリトが俺を呼び止める。俺は立ち止まって振り返る。

 

「キリトくん。彼を止めないであげて。どうか、どうか進ませてあげて」

 

 ユキノがいまにも駆け寄ってきそうなキリトの前に立ちはだかって告げる。そして今度はサキを見る。

 

「サキも、お願いだから何も訊かないであげて。彼の決意を無駄にしないで」

 

「分かってる。でもユキノ……あんたはなにか知ってるのかい?」

 

 ユキノが左右に首を振る。

 

「なにも。なにひとつ知らない。でも、きっとそういうものでしょう?」

 

 サキが涙を流しながら、それでも微笑んだ。

 

「そうだね。きっとそういうものだね」

 

 ひとつ頷いたサキが俺に視線を注ぐ。

 

「行っといで。そして必ず帰ってきて。あんたが帰る場所は、あたしの隣だよ」

 

「ああ……すぐ戻る」

 

 俺はログハウスを出て歩き出す。

 

 せめて、一筋の希望さえ見つかれば良いと願いながら。

 

 



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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 8

 最後の日がやって来た。

 

 朝の日差しが窓から差し込んで目が痛い。頭はガンガンと鳴り響いて、正直体調は最悪だ。再三に渡っていまも訊こえる、アルゴとの最後の会話を思い出すと、喉の奥から悲鳴が漏れそうだった。

 

 吐きそうな感情を何とか飲み下して、俺はベッドから身体を起こした。既に起きてベッドに腰掛けていたサキが俺に気づき、頬に手を添えた。

 

「今日が最後だね」

 

「ああ、もう遊びも終わりだ」

 

 顔を近づけたサキが囁くように言う。

 

「キスして」

 

 求められるままに口付けをする。

 

「もっと長く」

 

 再度重ね合わせる。互いに互いの頭を抱えて、不幸なんて吹き飛べばいいとばかりに、長い、長い口付けを交わす。

 

 名残惜しくも時間がなくて、顔を離した俺の額にサキが自分のそれを当てた。

 

「大丈夫。みんなで帰ろう」

 

「ああ、そうだな」

 

 ふたりでベッドから降りて身支度をする。いつもの戦いに赴く装備をし、武器の状態も確認する。なにひとつ問題ない。今日の戦いですべてが決する。

 

 サキが手を差し出す。俺も手を伸ばして絡ませ、ふたりで家を出た。転移門までの道をゆっくりと歩く。

 

 道の最中、キリトとアスナが並んで歩いているところに遭遇した。キリトはバツの悪そうな顔をしてひとつ頬を掻くと、まっすぐと俺を見た。

 

「昨日は悪かった。感情的になっちゃってさ……」

 

「気にすんな。誰だってあんなの訊けばそうなる」

 

「なんとかなりそうなのか?」

 

 怯えるようなキリトの問いに、俺は頭を振った。

 

「分からん……俺にとっちゃアルゴがいなくなった時点で詰んだようなもんだ」

 

「そうか、そうだな……」

 

 俺とキリトの間の空気が重くなる。誰だって、近しい者が亡くなれば悲しむ。悲嘆にくれて泣き叫びたくなる。それでも、無情にも世界は回っているから、生者は前に歩き続けなければならない。なにより、再三に渡って己が問うのだ。今日この日を迎えるために、ここまで走り続けたのだと。いまさら退くわけにはいかない。

 

「いくか」

 

 どちらともなく呟く。

 

 サキもアスナも、何言わずに着いてきてくれる。

 

 二十二層の転移門にたどり着き、一層へ向かう。今回攻略組は、一層に集って全員で百層へ向かうことになっている。

 

 《はじまりの街》に着くと、すでに仲間たちは集まっていた。クラインが無言で俺に頷いてくる。近寄ってきたエギルが、そっと俺の肩を叩いた。ディアベルもユキノも、もう何も言うまいと俺を眺めている。

 

 次々と攻略組が転移されてくる。

 

 ただ、その中にアルゴの姿がないことだけが無性につらかった。あるべき存在がいなくなっただけで、世界はするりとその容貌を変える。一層からの仲だった彼女の死を、俺は背負う必要がある。すべての責任が俺にあるからだ。あんなこと依頼しなければよかったと、何度も過去の自分を責めた。いっそそれをマンダトリーへの怒りに変換できればよかった。だというのに、勝手に回ってしまう思考はいつだって原因を辿ってしまい、それをすれば結局たどり着くのは俺のエゴだ。

 

 背中に暖かい温もりと柔らかい感触が広がる。腕を回したサキが俺を抱きしめていた。

 

「つらいなら言って。すべて吹き飛ばしてあげるから」

 

 俺は蒼穹を仰ぐ。この遥か先に、すべての元凶のひとりであるマンダトリーがいる。奴を倒すまでは、泣き言ひとつ言えない。だから俺は首を左右に振った。

 

「いまさらつらいなんて言ってらんねえよ」

 

 サキが俺の頬に自分のそれを寄せた。人の体温を感じているだけで、もうしばらくは立っていられそうだった。

 

 攻略組全員が集まる。

 

 ディアベルが先頭に立って、全員を鼓舞して士気を高める。俺はただサキに抱きしめられながらそれを訊き、言いようの無い感情を潰すように、拳を強く握った。

 

 ディアベルの掛け声と共に、攻略組の面々が百層へ転送していく。俺とサキも、手を繋いでそれに続いた。

 

 青白い転送の光と共に、俺たちは遂に第百層《紅玉宮》にやって来た。それも、宮殿の外ではなく中へと直接転送されていた。

 

 あたりを見渡す。壁一面は名の示す通り紅一色で、床は磨きぬかれた大理石が敷き詰められている。恐らくは一階のロビーのような場所なのか、視線の先には巨大な階段があり、その両脇から一階を見渡せるように欄干で仕切られた廊下がコの字型に伸びていた。一体どういう原理か、無数にある窓から差し込む光が室内を明るい紅に照らしている。

 

 そして、階段の最上部に奴がいた。

 

 憎らしいほど白々しい純白の髪。海を掬ったような群青色の瞳は、悪魔のような光を湛えて怪しく揺れている。恐ろしく整った中性的な顔はには微笑が浮かび、神のように俺たちを睥睨している。服装は馬鹿馬鹿しいほど似合っていない尼僧。首から引っさげた十字架が神の権威を失墜させているように思えた。

 

 攻略組の集団の中、俺が一歩足を踏み出し前へと進める。サキが、キリトが、アスナが、クラインが、ディアベルがそれに続く。

 

「なんて呼んだらいいんだ? 神サマさんよ」

 

 最大限の皮肉を込めた俺の問いに、奴は楽しそうに微笑んだ。

 

「マンダトリーでいいですよ。今日はこっちの姿の方がいい気がしたんでアバターをこれにしただけです。中身は何も変わっていませんよ」

 

 アポストルような気持ち悪い話し方ではなく、マンダトリーの口調で奴はそう言った。

 

 そうか、と俺は呟く。

 

「じゃあ、いまからテメエをボコるから覚悟しろ」

 

 俺は《二人は一緒》を抜き放つ。全員がそれぞれに武器を構え、マンダトリーを睨んだ。

 

 そんな中でもマンダトリーは相変わらずの微笑だ。ゆっくりと、じれったいくらい遅い歩みで階段を下りながら俺たちに声を投げる。

 

「なにか勘違いされているようですが、ここでのボスは私ではありませんよ?」

 

 奴の言葉に俺が眉を吊り上げる。

 

「テメエがアインクラッドの神なんだろ。神を殺すのは大抵人だって決まってんだろ」

 

「それはそれ、これはこれ、という奴です」

 

 マンダトリーが微笑む。奴の顔を一分一秒でも眺めているのが苛立つ。さっさとその面貌に短剣を叩きつけたくて仕方が無い。

 

「正直言って、ここまであなた方が来れたのは驚嘆に値します。なにせ、私が想定していた最後のボスは、九十九層の《主神オーディン》ですから。あれも北欧神話では最高位の神ですよ? さすがに私がそれに勝るとは思っていませんよ。神の自覚もないですしね」

 

 初めて、マンダトリーが声を上げて笑った。楽しみが増えて嬉しくなった子どものように。

 

「だから、これはボス戦ではなく、ただのクエストです。最後にシステム管理者からあなたたちへ与える最後の試練」

 

 マンダトリーが階段を下り切る。ゆっくりと歩を進めながら、指をぱちんと鳴らした。

 

 そのとき、宙に何かが現れ、ゆっくりと俺たちの上部に降りてくる。その姿を見て、俺は泣きそうになった。

 

「アルゴ……!」

 

 黄金色に輝く鳥篭の中に、アルゴが意識を失った状態で無理やり立たされているように閉じ込められていた。

 

「システム管理者となった私が無闇にプレイヤーを殺すわけないでしょう?」

 

 マンダトリーが俺に向けて微笑む。

 

「ただ、演出を盛り上げるために少し身柄をお借りしただけです。ちゃんとフレンドリストには名前が残っていたでしょう? 黒鉄宮とメッセージについては私の権限で死亡扱いにさせてらいました。それもこれも、すべてはただこのときのためです」

 

 悪びれる様子もなくマンダトリーが続ける。

 

「最後の試練を突破できれば、彼女はあなたたちへ返します」

 

「交換条件。そう言いたいのか?」

 

 首を振ったマンダトリーが応える。

 

「いいえ。報酬です。たったひとりを除き、あなたたちはこの試練を突破すれば現実に帰還できます。そして、それを突破するのはあまりに容易です。だからご安心を。これはここまで来たあなたたちに対する私から贈る唯一の誠意と思って下さい」

 

「その試練とやらはなんだ?」

 

 マンダトリーの表情が変わる。いままで見たことが無いような、満面の笑みで俺たちを見据えて声高に言った。

 

「一対一の対決をして下さい。私が指名した二人が互いを賭けて殺し合いをして下さい」

 

「あンだと!?」

 

 いままで黙っていたクラインが声をあげた。

 

「そりゃどういうことだ? 味方同士で殺しあえってのか!?」

 

 いえいえ、とマンダトリが何度も頭を左右に振る。

 

「ルールは単純明快です。私が指名した二人が一対一で戦う。勝者には死を、敗者には生を与えられます」

 

 場に動揺の波が生まれた。誰もマンダトリーの言葉をすぐに嚥下できずに戸惑っているのだろう。だが、俺は正確に理解していた。

 

「勝ったらそいつのHPはゼロになる。負けたらHPは一になる。つまり互いを生かすために戦う。そういうことか?」

 

 すばらしい、とマンダトリーが手を叩く。

 

「その通りです。さすがハチマンくん。理解が早くて助かります」

 

「ならさっさと指名しろ。すぐに終わらせて俺たちは現実に帰る」

 

 おやおや、とマンダトリーが困ったように微笑む。

 

「もう少し場を盛り上げたいのですが、これもまた乙なものでしょう。では、フィナーレと行きましょう!」

 

 マンダトリーが再び指を鳴らす。途端、この場に集った者達が青白い光に包まれた。転移の光だ。気づけば、俺はロビーの真ん中に立っていた。すぐ先には、サキの姿がある。周囲を見る。その他攻略組全員が、欄干に縋りつくように俺たちを二階から見下ろしていた。

 

 ああ、そういうことか……。

 

 俺とサキの間に立ったマンダトリーが厳かに告げる。

 

「ハチマンくん、サキさん、あなたたちが私の指名です。以前言いましたよねハチマンくん。あなたこそ、この演目の主演に相応しいと。そして、その妻となった彼女もまた、主演女優に相応しい」

 

 サキが動揺しているように俺を見る。俺は何も言わず、サキにだけ分かるように頷いて見せた。それだけでサキの不安が吹き飛んだか、愛の眼差しで俺を見つめてくる。

 

 マンダトリの身体が宙に浮く。まるで、特等席で終劇を見守る観客のように、俺たちを見下ろして言った。

 

「さあ、折角のフィナーレです。五分の時間を与えます。五分後に開始しましょう」

 

 そして、と続ける。

 

「あなたが欲したアイテムはここにあります。アインクラッドにひとつしかないアイテムはここにあります」

 

 マンダトリーの手の中にあったのは、俺とアルゴが死ぬ物狂いで欲していたアイテム。

 

 蘇生アイテムだった。

 

 マンダトリーはすべて知っていた。知っていて俺たちを踊らせ、最後の最後でアルゴからそのアイテムを奪った。俺を絶望の底へ突き落とすために。

 

「さあ、せめてそれまでの間、盛大に場を盛り上げて下さい!」

 

 俺の視界でカウントが始まる。サキが俺を見る。俺もサキを見る。万策尽きたとばかりに俺は首を振った。

 

 二階から怒声が飛び交う。

 

「おい! ふざけんな! ふざけんなよ! オレを出せ! こいつらにやらせんな! なんでいっつもこいつらに押し付けンだよ! いいからオレを出させろ!」

 

 クラインだ。まったく、最後までうるさい奴だ。少しは静かに観覧してくれ。だけど痛いくらいお前の想いは伝わったよ。ありがとう。

 

「ハチ! おいハチ! ぜんぶこれだったのか! これを読んでたのか! ふざけるなよ! なんでこんな残酷なことひとりで抱えてたんだよ!」

 

 キリトが泣いて叫ぶ。悪いな。お前らに降りかかる可能性を少しでも無くしたかったんだ。親友だからな。悪いな、キリト。

 

「ハチくん! サキさん! 嫌だよ! ふたりがこんな目に合うなんて、私は嫌だよ! なんでこんな酷いことするの! どうして……どうして!」

 

 アスナも叫ぶ。しょうがねえだろ。システム管理者が作ったルールには従わなきゃならねえんだから。物語の主人公じゃあるまいし、そうそうルールなんか覆せるかよ。でもお前の優しさは嬉しいよ、アスナ。

 

「ハチマン! サキさん! 君たち結婚式を挙げたばかりじゃないか! どうしてこんなことになるんだ! マンダトリー! いいからルールを変えてくれ! こんな結末は許せない!」

 

 ディアベルが怒声を上げる。まったく、最後まで真っ白けっけな奴だ。そういや、殴り忘れてたな。もうそれもできないかもしれねえから、ユキノと仲良くやってくれ。ユキノを泣かせたら物理法則捻じ曲げても殴りにいくからな。あいつを頼むぞ、ディアベル。

 

 次々と攻略組が声を投げてくる。こんな結末は嫌だと。こいつらが殺しあうのは見たくないと。みんなが声を張り上げてマンダトリーへ罵声を浴びせる。

 

 おいおい、そろそろ勘弁してくれ。サキとの最後の時間だ。ちと黙っててくれ。

 

 俺はマンダトリーを見上げる。

 

「あいつらの声、届かないようにしてくれ。サキと話したい。最後くらいいいだろ?」

 

 マンダトリーが鷹揚に頷く。

 

「もちろんです。主人公とヒロインの最後の逢瀬です。邪魔はさせません」

 

 途端、二階からの声が途絶える。静寂が場を支配し、俺とサキだけの世界になる。

 

 サキが俺に近づいてくる。俺もサキに近づく。互いの距離がゼロになって、強く、強く抱きしめあった。

 

「これまた盛大な演目だね。あんたが隠してたのって、これだったんだ」

 

「あいつの性格考えりゃこうなるだろ。俺が主演とか言ってたしな。こうなると踏んで蘇生アイテムを探してたんだが、失敗しちまったわ」

 

「もう、お別れなの?」

 

「ここじゃルールは絶対だからな。システム的に規定された以上、もう覆せねえよ。切り札は……無い」

 

 サキが身体を離してつま先立ちになる。

 

「じゃあ、最後にキスを」

 

「そうだな。最後だな……」

 

 サキとの距離が近づく。これまでで一番長くて、濃厚な口付けをサキとする。誰に見られても構いやしない。どうせ最後なのだからと、貪るようにサキを求めた。

 

 やがて、時間が来る。俺もサキも涙を流し、互いに距離を取って得物を構えた。

 

 俺は皮肉にも《二人は一緒》を。

 

 サキは真紅の槍《ゲイボルグ》を。

 

 愛する者へと向け、互いの命を守るために戦いの準備をする。

 

「サキ。悪いがこれだけは負けるわけにはいかなくてな。勝たせてもらうぞ」

 

「ハチマン。生憎だけど、あんたを殺す勇気なんてあたしにはなくてね。あたしが勝つよ」

 

 遂にカウントがゼロになる。

 

「さあ、フィナーレの始まりです!」

 

 マンダトリーの宣言と共に、最後の戦いが始まる。

 

 

 

カウントがゼロになった瞬間、ハチマンの姿が消えた。速度でもなく、虚をついたわけでもなく、単純に姿が消えた。

 

 インビジブル――彼を認識する存在から彼に関する視覚、聴覚の一切を排除する隠形の技。

 

 しかし、サキの表情に驚愕は無い。彼女もまた、彼と長年の間刃を交え続けてきたからこそ、動揺など微塵も出さずただ槍を構えて立っている。

 

 すぐに戦闘が動いた。サキの背後に突如現れたハチマンが、金色の短剣を首狩り一閃。だが、読んでいたサキが反転しつつ槍の柄で受け、これを横に受け流す。空いた胴に石鎚を滑り込ませるも、ハチマンがこれをナイフで受け止める。反動を受けて横に流れた彼の身体へ向け、サキが渾身の突きを放つ。これをハチマンは反射神経全開で避ける。すぐさま槍を戻したサキが連続で突きを放つ。紅の驟雨となった突きの連打を、ハチマンが短剣とナイフですべてを捌ききる。

 

 ハチマンが一歩足を踏み出す。槍は、間合いこそ長いが内側に入れば入るほど死角が大きくなる。だから今度はサキが槍を短く持ちながら後退を始める。

 

 金色の短剣とナイフが空間を切り裂くほどの鋭さで無数の斬閃を生み出す。サキも槍を回しこれをすべて受け流す。

 

 一進一退の攻防。

 

 SAO至上最高の戦いに、状況の残酷さを知りながらも、みな見惚れた。これほどの戦いは未だかつてなかったと思うほどに。

 

 槍による超高速の足払い。ハチマンは跳躍ではなく後退を選択。突如、サキが全力で後ろに飛んだ。

 

 時の領域が広がる。

 

 フローズン・ファウスト――半径二十メートル圏内に存在するあらゆるものの速度を〇.四倍まで落とし、自身の速度と跳躍力を二.五倍にまであげる、絶対領域。

 

 サキが必死の形相で後退。領域から逃れるための全力疾走だ。

 

 フローズン・ファウストの効果時間は三十秒。それを凌ぐための戦略的撤退だった。だが、ハチマンがそれを許すはずがない。即座に疾走を開始し、すぐさま足が止まる。

 

 領域外にいるサキが、真紅の槍の石鎚を地面に突きたてている。直後、総数二十四本にもなる真紅の槍がサキの周囲に具現した。

 

 エインヘリャル――ストレージに存在する槍の数だけ、使用者が装備している槍を具現化し自在に操る妙技。

 

 槍の大群が空気を裂きながら次々と射出される。すぐさま時の鎖に縛られるも、あまりにも数は膨大。ハチマンの額に汗が光る。

 

 ハチマンの周囲三百六十度に展開された槍が、中心にいる彼へと目掛けて次々と殺到。逃げ場もなく、ハチマンの表情には決死の覚悟が現れる。

 

 金色の斬閃が無数の球を描いた。宙を舞いながら、ありとあらゆる角度から襲い掛かる槍をハチマンがすべて弾いているのだ。直撃は免れても、槍はハチマンの身体を掠める。僅かにだがHPが減っていく。それでも動きを止めることなく短剣とナイフを振り回し、身体を回転し続ける。

 

 絶対領域が消える。同時、槍の速度が急速に上がる。ハチマンの表情には焦燥。しかし、サキの額にも皺が寄り、膨大な汗が滲む。二十四本すべてを操ることに全神経を集中しており、もはや限界が来ていた。

 

 三百六十度を支配していた槍の領域に、僅かな隙が生まれる。その間隙を逃すことなく、ハチマンは即座に撤退を選択。四本の槍が彼を追うが、残りの槍が霧散する。

 

 一本目を上半身の捻りを加えた逆袈裟で払う。

 

 二本目をナイフで横薙ぎに弾く。

 

 三本目を翻したナイフで斬り落す。

 

 四本目を短剣が下から天井へと弾き飛ばした。

 

 エインヘリャルの効力が消える。

 

 ハチマンが息を整える間もなく疾走を開始。

 

 膝をついたサキが立ち上がる。槍を持つ手は震えている。エインヘリャルにより精神力を消耗したからだ。

 

 百メートル近くに開いた距離を、僅か二秒で踏破したハチマンがサキへと肉薄。

 

 再び短剣と槍による剣舞が始まる。

 

 お互いに疲労困憊。

 

 槍がハチマンの身体をかすめ、短剣がサキの腕を斬る。幾重にも重なる攻防に、ふたりの疲労が滲んでいる。

 

 ふたりのHPバーは遂にイエローを突破し、レッドへと割り込もうとしている。勝負も後半戦になっていた。

 

 誰もが声を失い二人の戦いに見入っていた。それでも、涙だけは滂沱と流し、この時間が永遠に続けばいいと願った。

 

 槍に弾き飛ばされ、ハチマンの身体が宙に浮く。降りた途端、サキが下段、中段、上段と流れるような三連突きを放つ。ハチマンはそれを捌くも、最後の上段に短剣が浮き上がる。

 

 サキが前にした右手を逆手に握りかえる。ハチマンの表情に再び氷の焦燥。

 

 サキが全体重と遠心力を乗せた槍を全身全霊で振り下ろす。ハチマンは即座に下ろした短剣とナイフを交差させてこれを受け止める。

 

 凄まじい衝撃音。

 

 それでも攻撃は終わらない。流れるように反転したサキが二度目の振り下ろし。動くことのできないハチマンはこれを受ける以外にない。

 

 再度の金属音がロビー内に澄んだ音を響かせる。

 

 ハチマンの身体が衝撃によって後退。直後跳躍を加えて距離を離そうとするも、サキが高速前身。突如サキが槍を床に突き刺すと、棒高跳びの要領で高く飛翔する。ハチマンが咄嗟に短剣とナイフを十字に構える。直後、サキの渾身の一撃が宙からハチマンへ向かって振り下ろされる。

 

 落雷に等しい衝撃が火花を散らす。

 

 筋力値が遥かに劣るハチマンの膝が地面に落ちる。すぐさま受け流そうとするも、サキが遠心力を利用してハチマンの後方へ飛ぶ。宙を舞いながら槍を振り回し、ハチマンの背へ穂先を向ける。即座に意図を悟ったハチマンがすぐさま前転。紙一重の差で槍を避ける。

 

 僅かに生まれた距離を縮めるように、サキが渾身の力を込めた突進突きをハチマンの頭部へ向けて放つ。これをハチマンが絶妙なタイミングで短剣を使って受け、逆U字を描くように槍を地面に落す。

 

 柄の上に短剣を走らせ、致命であるサキの首筋へ短剣を滑り込ませる。身体をそらしたサキの首筋に、僅かだが傷のエフェクトが走る。サキのHPが遂にレッドへ突入。同時、サキの身体から青白い光が揺らぎ始めた。

 

 神々の怒り――HPが三割を切ったときに発動。全ステータスが三割上昇する、まさに神の怒りの名に相応しいスキル。

 

 反転したハチマンが即座にソードスキルを発動。

 

 オクトアサルト――瞬時に移動し、その間にいるすべてに八本の斬撃を見舞う、SAOでも最速のソードスキルであり、ハチマンが最も好む技。

 

 ハチマンの姿が消える。サキの背後にハチマンがマフラーを揺らして立っていた。

 

 すべてがこれで終わった――はずだった。

 

 顔だけで振り返ったハチマンに極大の衝撃。

 

 誰もが一度も捌くことのできなかった《暗殺者》最上位ソードスキルを、サキがすべて捌ききったのだ。

 

 ヴァルキュリア――右翼左翼を描くように繰り出される左右へ向けた各五連撃、最後に斬り上げからの斬り落としの全十二連撃である《戦乙女》上位スキル。

 

 これをもって、あの死神の鎌による死の嵐を捌ききった。

 

 まさに神業。

 

 互いに技後硬直により動けない。

 

 先に動いたのはハチマン。直後、サキが動く。

 

 いよいよ、最後の幕が閉じる。

 

 

 

 まったく、何やってんだろうな。

 

 サキと相手を賭けた殺し合いなんざ、やりたかねえってのに。サキとの戦いが勝手に染み付いているから、いまもこうしてサキへ最後の一撃を向けようとしている。

 

 サキも槍を携えて俺に向かってくる。

 

 互いにさっきから泣いている。涙を流しながらも、それを振り切って。相手を生かすため、勝利を掴むために必死になって戦っている。

 

 馬鹿げた話だ。

 

 下らない物語だ。

 

 あまりに悲劇だ。

 

 それでも動かなければならないなら、俺はサキを倒してサキを生かす。

 

 ナイフを投げる。サキは避けずに横腹に受ける。表情に微塵の動揺も見つけられない。やっぱ弾かないか。隙できちゃうもんな。即座に戻ってきたナイフを投げようとして、やめる。やっぱり最後は格好よく短剣で決めたい。

 

 サキとの距離はもう五メートルを切った。もうソードスキルは必要ない。使う気力なんてない。あとはお互いに激突するだけだ。

 

 もう、疲れたしな。

 

 色々頑張った。

 

 ここらでいいだろ。

 

 あとはサキに勝って、サキを現実に戻して、これで俺の仕事は完了だ。

 

 本当にここまで長かった。

 

 二年半だぜ?

 

 まったく、サキには報酬を貰いたいくらいだぜ。

 

 でも、まあいいか。

 

 付き合ってくれたし、結婚だってしてくれたし、俺にサキの全部を捧げてもらったし。

 

 結構満足だ。

 

 生きてきて良かった。

 

 サキがいてくれて嬉しかった。

 

 さあ、サキ。

 

 すべてを終わらせよう――。

 

 

 

 そして、二人が交差する。

 

 

 

 決定打は無い。互いに武器を弾いただけ。

 

 即座に俺は反転し、一歩を踏み出す。

 

 だが、サキの方が遥かに速かった。そして、武器の不利をこれほど痛感したことは無かった。

 

 俺の胸に、サキの槍が突き刺さっていた。

 

 急速にHPバーが削られていく。

 

 ――止まれ……。

 

 止まらない。

 

 ――止まれよ!

 

 止まらない。

 

 ――頼むから止まってくれ! お願いだから……!

 

 俺の願いもむなしく、HPバーが一ドットを残して止まる。

 

 ――おい、頼むよ。こんなの嘘だろ。嘘だと言ってくれ!

 

 サキが薄紅色の睡蓮の微笑みを浮かべる。

 

 サキのHPバーが瞬く間に減っていく。恐ろしいほどの速度で削られていき……。

 

 

 

 遂に、ゼロになった。

 

 

 

「サキ! サキ! 待て、待ってくれ! 逝くな! 俺を残して逝かないでくれ!」

 

 倒れたサキの身体に、俺は必死になってすがりつく。サキは力なく俺の頬に手を当て、末期の言葉を口にする。

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!

 

「ハチマン、愛してるよ」

 

 この世すべてを引き裂く俺の慟哭が、アインクラッドに響き渡った。

 

 

 

 



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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 9

 笑い声が訊こえた。この世すべての快楽を貪る笑い声が訊こえた。

 

「すばらしい! なんとすばらしい終幕でしょうか! かようなまでに素敵な劇を私は見たことがありません! いいですとも。アルゴさんをお返ししましょう。そして皆さんの帰還をお約束しましょう! これですべての演目が終わり、幕が下ります。さあ、カーテン・フォールです!」

 

 俺はサキの身体を抱いている。抱いたまま、サキの頬に顔を寄せている。硝子となって砕け散るはずの身体がまだ残ったままだからだ。

 

 やがて、マンダトリーが異変に気づく。

 

 閉じられたサキのまぶたが開く。事態に困惑しているのか、瞳を上下左右に動かしている。それでも、俺に抱かれていることを知ると、安心したように力を抜いた。

 

 マンダトリーの声が震える。

 

「……なぜサキさんの身体がまだここにあるのです? 蘇生薬はアルゴさんから奪ったはずだというのに。一体……なぜ?」

 

 そのとき、俺はようやく笑った。これでもかというくらい、悪魔のような笑みを浮かべてマンダトリーの姿を仰ぐ。

 

 俺の手には、決してあるはずのない蘇生アイテムが握られている。そして効力を使いきったそれが、光の粒となって虚空に消えた。

 

 マンダトリーの表情に驚愕と感嘆が生まれた。

 

「まさか! そういうことですか!」

 

 ああ、そういうことだ。

 

 お前は俺とアルゴの手の平で転がされていたんだよ。

 

 今度こそ、俺たちはお前を操った。完璧に、完全に、今度こそ俺たちの勝ちだ。

 

 

 

 ――

 

 ――――

 

 ――――――――――――

 

 

 

 俺がアルゴに依頼したのは、蘇生アイテムの捜索だ。一年以上前、サキと想いを交わしたクリスマスの前日、聖夜に行われた限定イベント。その報酬である蘇生アイテムの捜索をアルゴへと依頼した。

 

 アルゴはそれを望み薄だと言った。

 

 当然だ。もう使用されている可能性の方が高い。だが、それでも俺は一途の望みを掛けてそれに縋った。

 

 アルゴは俺に何も託さずに消えてしまった。

 

 しかし、アルゴはあの日、結婚式の二次会のあの日、ユキノに伝言を残していた。きっと自身の最期を感じて、サキでも、キリトでも、アスナでも、クラインでも、エギルでもなく、ユキノへすべてを託した。きっと、マンダトリーの死角であると読んでいたのだろう。

 

 ユキノから手の平伝いに託されたメッセージはただひとつ。

 

 ――リンドが持っている。

 

 そして、俺はリンドへ会いに言った。リンドは聖龍連合の本部で俺を待っていた。

 

 リンドから渡されたのは、蘇生アイテムではなく、ただの回復結晶だった。怪訝に思った俺がリンドに問うと、彼はこう言った。

 

「フェイクアイテム事件を覚えているか? これが本物の蘇生アイテム《還魂の聖晶石》だ。アルゴは偽者を持っている。すべてアルゴが考えた替え玉だよ。あいつは、自らを囮にしてでも、これを君に託そうとしていた」

 

 そのとき、俺は何も言えなかった。俺はそこまで考えていなかった。その僅かな隙を埋めるように、アルゴは最後の欠片を生み出しはめ込んだのだ。

 

 身じろぎすらしない俺にリンドが続けた。

 

「俺はこれを使えなかった。HPがゼロになってから僅か十秒の間に使用しなければいけない。仲間の死を前にして、俺はすぐに動くことができなかった。だからこそ、俺は君にこれを託す。君なら、これまで俺たちを支えてきてくれた君なら、きっとちゃんと使ってくれると信じてこれを託す。だから頼む。この世界の人々を救ってくれ」

 

 

 

 ――

 

 ――――

 

 ――――――――――――

 

 

 

 そしていまこのとき、マンダトリーの劇を完膚なきまでに破壊し、俺は呆然と起き上がったサキと共に並んで立っている。

 

 俺は再びマンダトリーを仰いで告げる。

 

「カーテン・フォールだ。アンコールはないぜ?」

 

 マンダトリーの面貌にこれ以上ない歓喜が浮かぶ。両手を翼のように広げ、身体をそらし、満面の笑みでもってマンダトリーが宣言する。

 

「素晴らしい! なんて素敵だ! よくぞこの私を欺いた! 心から喝采しよう! 誇りに思うよハチマンくん。この想いを後世に書き綴り永遠に残したいと、こいねがうほどに。いまこのとき、私は君に最大の賛辞を贈ろう!」

 

 

 

 ――君に出会えて、本当によかった

 

 

 

「くそったれが。俺にとっちゃこれ以上ない最悪の出会いだ。二度と俺に顔見せるんじゃねえ」

 

 吐き捨てる俺の言葉など訊いていないのか、マンダトリーは全身を震わせ天井を仰ぐ。

 

「さあ、終劇です。幕を下ろしましょう。私の敗北です。これ以上無いほど、完璧なまでの私の敗北です。私はあなたたちに負けました。認めましょう。アインクラッドに生き残る全プレイヤーの帰還を。そして、このソードアート・オンラインという世界の終焉を始めましょう!」

 

 そのとき、世界が激震した。二階にいる攻略組の全員の身体が光に包まれ、そして光と共に消えていく。

 

 世界が崩壊を始める。あらゆる場所に音を立てながら亀裂が走り、轟音と共に紅玉宮の端から崩れ落ちていく。金色の鳥篭がゆっくりと下りてくる。俺とサキが鳥篭を受け止めると、用は済んだとばかりに星の輝きを瞬かせながら宙に消えた。倒れてきたアルゴをふたりで受け止める。アルゴが身じろぎ、目を瞬かせた。

 

「ん……終わったのカ?」

 

 俺とサキが、まだまどろみかけているアルゴの手を握る。

 

「俺たちの勝ちだ。最後のお前の機転が最高に嵌った。奴は負けを認めた」

 

「あたしたち、現実に帰れるよ。あんたのお陰だよ、アルゴ」

 

 アルゴがきょとんとする。状況を整理しているのだろう。あたりをきょろきょろと見渡した後、魅力的な可愛い笑みを浮かべた。

 

「どうだ、惚れたかハチマン?」

 

「サキがいなきゃ全力で惚れてたな」

 

「それは残念だにゃ~」

 

 三人で笑う。

 

「あんたもキャラ定めなって。もうすぐ現実に帰るんだから、そんなんじゃ苦労するよ?」

 

 サキの言葉にアルゴが苦笑した。

 

「これで慣れちゃったからナ。元に戻すには時間がかかりそうだヨ」

 

 ふいに、背後から足音が訊こえた。反射的に振り返ると、マンダトリーが地面に降り立ち近づいてくる姿が目に映った。思わず武器に手をかけると、マンダトリーが悪意が無いことを示すように、開いた手を上げて微笑んだ。

 

「今さら何もしませんよ。ただ少しだけ会話をしたかっただけです」

 

 世界の崩壊は続いている。紅玉宮もいまや半分以上が崩れており、大地へその身を撒き散らしている。ここもそう長くは持たない。

 

「お前とは金輪際会話をしたくないんだがな」

 

 ため息しながら言った俺に、マンダトリーが苦笑した。

 

「ひどい言い草ですね。まあ、仕方ありませんけど。ただ、ひとつだけ最後に渡すべきものがあったのでこうして会話を交わしたかったんですよ」

 

「一体なんだい?」

 

 警戒心をむき出しにしたサキが問う。乾いた微笑のまま、マンダトリーがウインドウを開いた。

 

「大したことじゃありません。あなたがたとその友人たち、九名それぞれに、各連絡先をお送りするだけですよ」

 

 一瞬、耳を疑った。

 

「おい、個人情報保護法って知ってるか?」

 

「ああ、最近廃止された法律ですよね?」

 

「廃止されてねえよ。いまも元気に施行中だボケ!」

 

 おやおや、困ったものですねえ、とマンダトリーがからからと笑う。

 

「昨今の情勢では、あなた方の情報は厳密に管理されていますからね。連絡を取ろうと思っても、連絡先を知らないと会うことすら困難ですよ?」

 

「おい、その昨今の情勢とやらはどうやって知ったんだ? お前、一応このゲームに囚われてる身だろうが」

 

 俺の質問に、今度は不敵な笑みを唇に滲ませ、マンダトリーが答える。

 

「私、こう見えてもエンジニアでして。仕様もIDもPWもすべて把握しているんです。あとはちょちょっとセキュリティを突破してやればあら不思議。現実世界のニュースが見れるんですよ」

 

 まったく、昨今のセキュリティ機器は無駄に能力高すぎるんですよねえ、超めんどくさかったですよ、とマンダトリーが疲労の混じったため息を吐き出した。

 

 もはや俺たちは唖然とする他無い。こいつ、思いのほか無茶苦茶やっていたらしい。

 

 俺とサキが同時に言う。

 

「こいつ最低だ」

 

「ここはお礼を言うところでは!?」

 

 マンダトリーが大げさに頭を抱えるが、知ったことか。今すぐ殺したいくらい憎い相手なのだから。

 

「もういいだろ。用が済んだらさっさと現実に戻せ。そして死ね。いますぐ死ね。ここで消えろ!」

 

 そーダそーダ、と拉致監禁されたアルゴが俺に続く。サキも視線で射殺す勢いで睨みつけていた。

 

 マンダトリーが首を振って苦笑する。その瞳には、かつてあった快楽と愉悦の鈍い光はなく、哀愁にも似た何かがあった。

 

「もともとそのつもりですよ。現実に戻ったとして、私は結局のところ無罪放免です。なにせ茅場晶彦という犯罪者がすべての責任を被りますからね。それはそれでいいんですが、私も後始末はきっちり行う主義ですから。このゲームと共に私も現世から消えますよ」

 

 ほう、それはいいことを訊いた。是非このまま死んでほしい。

 

 俺の考えを悟ったか、マンダトリーの苦笑がより濃いものになる。だが、すぐに微笑みに戻すと、もはや俺たちの周囲以外が崩れ去ったアインクラッドから望む世界へと視線を注いだ。

 

 その先には、ひたすらに続く蒼穹が広がっていた。いつも見上げていた空が、いまや俺たちの眼下に果てなく伸びている。どこまでも、どこまでも遠くに。

 

「私にとって、現実は退屈なものでしたよ。楽しいと思うことを実行しようとすれば、いつだって倫理や道徳、常識や法律といったものが私を阻む。だからこそ、このアインクラッドという世界は私にとっては理想郷でした。ゆえに、私のあるべき場所はここなんです。そして、死に行くべき場所もまたここです」

 

 変わらず狂った思考を披露するマンダトリーに、もはや呆れる以外に言葉がない。

 

「誰だって楽しいことはしたいものです。ただ、それを行うためのハードルが高いとき、人は飛び越えることを躊躇する。私の場合、それを躊躇しなかった。あなた方と私の違いはその程度のものですよ。いつの時代も、こんな人間はどこにだって存在します」

 

「嫌な世界だな。すぐにでもそんな人種は絶滅してくれ」

 

「それでもそんな輩を縛り付けるものが、倫理であり道徳であり、常識や法律です。或いは宗教であったりもします。そして警察を筆頭とした治安維持組織が、善良な市民を私のような輩から守るために存在します」

 

「で、何が言いたいんだ?」

 

 マンダトリーが俺を見つめる。その瞳には、この脚本を記述した演出家の最期の輝きがあった。

 

「いえ、なにも。ただ話したかっただけですよ。なにしろあなたがたは、私が書いた脚本の主演男優、主演女優、そして助演女優なのですから」

 

 足場に亀裂が入った。遂にアインクラッドが最期を迎える。落ち行く足場に立つ俺たち三人は、それぞれに抱き合って、その場に浮き続けるマンダトリーの姿を見上げる。

 

「さあ、お別れです。現実に戻っても、どうかご達者で」

 

 最期の言葉とともに、マンダトリーの身体が無数の光となって蒼穹を舞った。まるで、集まった蛍が次の居場所へ旅立つように。

 

「最後の最後まで面倒な奴だったな」ぽつりと俺が呟く。

 

「ま、悪役も悪役なりに考えがあるってことなんじゃない?」サキが俺の首筋に頬を押し当てて言った。

 

「とりあえず帰ろうヨ。現実でみんなと会うのが楽しみなんだヨ」アルゴの楽しそうな声が耳元に響く。

 

 足場が崩れ去り、俺たち三人も虚空に舞う。

 

 やがて、俺たちの意識も、ソードアート・オンラインから解放された。

 

 

 このとき、ソードアート・オンラインの虜囚となった全一万人の内、生存していた五二一九名のログアウトが完全に完了した。

 



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終章
やはり俺と沙希の青春はアインクラッドから始まった。


 あの日、すべてが終わった日、現実世界で目を覚ました俺を待っていたのは、髪を長く伸ばした美少女だった。大きな目に涙をいっぱいに蓄えた彼女は、あろうことか俺に抱きつき大声で泣き出したのだ。おいおい、現実に戻った瞬間に浮気しちゃってるよ、沙希に殺されちまう! と焦った俺だったが、すぐに気づく。

 

 妹の小町だった。

 

 雰囲気は大分大人びていたが、声や仕草は三年前と変わらず妹のそれだった。叫ぶように無く小町の頭を撫でてやりたかったが、長年寝たきり生活をしていたせいか身じろぎひとつできず、声をかけてやることもできそうになかった。

 

 やがて、駆けつけてきた看護師や医者らに身体中をまさぐられるという公開羞恥プレイをさせられることとなる。あのときの恨みは一生忘れねえぞ!

 

 俺たちの現実復帰を知った由比ヶ浜、戸塚、材木座、平塚先生、葉山たちが次々と見舞いに来たときは驚いたものだ。特に俺を驚かせたのは、リハビリの中で多少は動けるようになった沙希が、いつでも隣にいることだった。目が覚めた途端に沙希が同じベッドに寝ていたときの衝撃といったらもう、いっそこのまま襲ってしまいたいと叫ぶ欲望くんを叩きのめすのにどれだけ苦労したか。仮想空間では去ってしまった理性ちゃんも、現実世界ではパワーアップしてフル稼働中だ。やっぱり居てよかった理性ちゃん! 君の帰りを待っていたよ!

 

 沙希や雪乃とは同じ病院であったため、中庭のベンチでよく会話をしたものだ。由比ヶ浜も今では立派な大学生となっているようで、あのアホさ加減も現在ではなりを潜めている、ような気がする。たぶん。きっとそうだと思うよ……。八幡、嘘つかない!

 

 戸塚は相変わらず天使だった。大学生になって更に可愛さに磨きがかかったようで、まさしく天使トツカエルになっていた。いつか拝みたい。

 

 材木座はまあ、あまり変わり無い。

 

 それから半年近い苦行とも呼べるリハビリの果て、虜囚となって三年後の十一月には日常生活に復帰することができるようになっていた。

 

 年齢的にはいつの間にか成人式を迎え、あと九ヶ月後には二十一になろうという時期だ。唐突に眼前に現れたのは、進路という巨大な壁だ。正直戻ってきてからのことを総武高校に通えばいいや程度にしか考えていなかった俺は、途端に本当にそれで良いのか悩むようになった。だって、三歳年上の同級生とか嫌だろ普通。確実にぼっちになっちまうじゃねえか。もうぼっちは嫌だ!

 

 そんな折、尋ねてきたのは、総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二分室職員というやたら長ったらしい肩書きを持った男、菊岡誠二郎だった。とりあえず、略称は仮想課というらしい。

 

 菊岡が告げて来たことは、絶賛悩み中の進路のことだった。

 

 曰く、中学、高校時代に巻き込まれたプレイヤー達のカウンセリング及び経過観察を行う目的で、専用の学校が設立された。

 

 端的に述べれば、SAOにより人生の一部を切り取られた俺に、この学校へ入学してはどうかという話を持ってきたのだ。

 

 俺はそれに即座に返答は返さず、保留とした。義務でもなければ東京なんぞに行く気はなかった。その代わり、SAO内部で見聞きしたことを話すことを迫られ、俺はそれに応えることとなった。さすがに官僚様には逆らえませんとも。情けない……。

 

 長い時間を掛け、明け透けなくすべてを話した。二十九人を殺したこともすべて。菊岡は、俺は犯罪者にはならないと言った。すべての責は茅場晶彦が引き起こしたものであり、ひとりの人間としてという前置きはあったものの、俺の行動は間違っていなかったと言われた。正直、納得はできなかった。二十九の贄の果てにいま俺はこうして立っている。だからこそ、お詫び行脚のひとつでもしなければと考えていたのだが、むしろやってくれるなと言われてしまった。いま生きろと、それこそが贖罪だと言われ、俺はそれを呑み込むことが精一杯だった。

 

 菊岡から追加情報として、アーガスからSAOの維持管理を引き継いだレクト、その主任研究員である須郷という奴が、なんちゃら罪で逮捕されたと教えられた。どうやらマンダトリーが何かしら工作していたらしい。このお陰で、仮想現実に未だ囚われているはずであった何千名かも無事現実に帰還を果たしたとのことだ。どうにもよく分からない。

 

 俺が何に悩もうとも、時は流れ季節は巡る。

 

 二年半も勉学から遠ざかっていた俺は、沙希と雪乃と三人で勉学に励んだ。平塚先生もたびたびやってきては勉強を教えてくれた。相変わらず俺は国語だけは得意だったから、あまり意味はなかったのだが、それを言うと衝撃のファーストブリッドを食らわせられるため黙っておいた。

 

 そしてこの頃になると、俺たち三人の進路も決まっていた。やはり総武高校に通うことになったのだ。それも、二年ではなく三年生としてだ。平塚先生が兼ねてより色々動いていてくれたそうだ。やはりあの素敵な先生が結婚できないのは間違っている。

 

ソードアート・オンラインに囚われてから三年と四ヶ月。季節は寒さの残る三月に入った。

 

 鈍い日差しと冷たい空気が交じり合う、なんとも言えない室内の雰囲気の中で、俺は目を覚ました。ベッド脇に置いた時計を見ると、午前八時をさしていた。どんな遅くまで起きていようが早く寝ようが、SAO時代の慣習というものはなかなか抜けてくれないもので、どんなに頑張ってもこの時間にならないと目が覚めない。俺、ちゃんと学校生活できるのかと若干憂鬱になっていると、突然部屋の扉が開いた。

 

「おっはよーお兄ちゃん」

 

 廊下から飛び出してきたのはなんと! プリティからビューティフルに変化した、比企谷家自慢の長女、小町だった。まあ、ただの妹だ。

 

 どうやら俺が虜囚となってから心の変化があったようで、大分大人びた喋り方をしていたが、昨今では俺の前だけは昔のように接するようになっている。やはり甘えたいのだろう。

 

 格好は総武高校の制服だ。無事に合格できたと知ったときには涙を滝のように流して喜んだものだ。直後キモい、超キモいゴミいちゃんと言われたときは更に泣いた。超泣いた。ひどすぎるだろ俺の妹。

 

「おう、おはよーさん。どした?」

 

 いや~と両手をもみもみとしながら、小町がニヤニヤと近づいてくる。気持ち悪い。

 

「マジでどうした。お前はどこぞの商売人か?」

 

「実はこま……じゃない、わた……いやいや、小町、月に一度はお兄ちゃんに抱きつかなければ死んでしまう病にかかってしまいまして~」

 

 二度言い変えやがったぞこいつ。もう一人称統一してくれよ。それになんだ、その奇怪すぎる病は。完全に俺得じゃねえか。

 

 とはいえ、

 

「病院行くか?」

 

 とりあえず突っ込みを入れておく。俺はいま沙希ルートを驀進中なのだ。禁断の小町ルートなんぞ選ばん!

 

 すると、突然小町がもみ手をやめ、けろっと表情を普段のものに変える。

 

「ま、それは冗談なんだけど」

 

 分かりづらいんだよお前の冗談……。

 

「今日、小町も行くから」

 

「は? なんだって?」

 

 はあ、と小町が疲労の混じったため息を吐く。これだからゴミいちゃんは。いつから難聴系主人公になったんだろう、とかぶつぶつと呟いている。訊こえてるからね小町ちゃん。俺難聴じゃないよ?

 

「いやいや、なんで小町が来るんだよ。お前、今日の会なんも関係ねえだろ」

 

「え? だって大志くんも行くって言ってたよ? あと陽乃さんも」

 

 きょとんとした様子で小町に言われる。

 

 待て、あの毒虫……じゃない、愛しい沙希の弟君は、いまだに小町の周りをうろちょろ、じゃない、寄り添ってくれているのか……。そうなんだよなあ、こいつら遂に付き合いやがったんだよなあ。駄目だ、現実に戻り事実を直視してしまうと、どうしても奴に対する拒絶反応が起こってしまう。これは遺伝子のなせる業か……。などと適当なことを考えていると、小町がるんるん、と鼻歌を歌いながら、

 

「だって、お兄ちゃんと一緒に戦った人たちとお話してみたいし。お兄ちゃんに出来たっていう初めての親友さんとも会ってみたい!」

 

 爛々と瞳を輝かせた小町が俺に顔を近づける。あのゴミいちゃんに親友ができたなんて奇跡だよ! 彼女ができたことはもはや神技だよ! とか目で語っている。こいつ、俺を一体なんだと思ってるんだ。友達や彼女のひとつやふたつ誰だっているだろ。はい、いままでいなかった俺が言えるわけないですよね。八幡知ってた。

 

 ここで断ると明日から俺の食事がすべてトマト祭りになるから、しかたなく頷いてやった。

 

「やっほーい! じゃあ今日は学校休む! 今日の小町は風邪になる!」

 

 かなり頭が残念なことを言いながら小町が部屋を出て行く。どうしよう、小町の頭が良くなったのか悪くなったのか全然分からん。お兄ちゃんどうしたらいいんだろう。

 

 そんなことを考えながら、スマホからSNSを起動。今回のSAOオフ会の主催者であるディアベルとエギルへ三名追加の旨の連絡を入れておく。

 

 こいつも、昔は暇つぶし兼目覚まし時計だったのになあ。いまじゃ結構な量の連絡先が入っているのだから困ったものだ。毎日誰かから連絡が掛かってきやがる。面倒だから放って置きたいのだが、一度それをやったら鬼のように連絡を掛けてきた奴がいたから速攻で返信をするようにしたのだ。その相手は誰であろうキリトだ。あの野郎、ストーカー気質があるんじゃねえか?

 

 曰く、どうせ暇なんだから遊ぼうぜ、だの。

 

 曰く、どうせ暇なんだから東京来いよ、だの。

 

 曰く、どうせ暇なんだから勉強教えてくれよ、だの。

 

 曰く、どうせ暇なんだからダブルデートしようぜ、だの。

 

 おい、なんでこいつは俺がいつも暇だって思ってんだよ。「どうせ暇なんだから」は枕詞じゃねえぞ。

 

 最近の俺は結構忙しいんだよ。三年間も手を着けていなかった勉強をしたり、貯まったラノベや漫画を読んだりアニメを消化したり、沙希とデートしたり沙希と散歩したり沙希と食事したり沙希といちゃいちゃしたり……まあ、大半が沙希だな。だから暇じゃない。超忙しい。

 

 そしてもうひとり、厄介な写真を毎日送ってくる奴がいる。

 

 当然のごとくアルゴだ。なぜか「今日のアルゴ」とかいう意味不明な題名で自撮写真を送ってくるのだ。あまりにもお持ち帰りしたい可愛さだったので即保存していたら、沙希と雪乃にバレた。怒られると思いきや、転送してくれと言われる始末だ。特に雪乃の剣幕はすごかった。さすがネコ大好きフリスキー。まったく、アルゴの可愛さは性別を超えるらしい。

 

 そんなことを考えていると、ディアベルとエギルから返信が帰ってきた。問題ないようだ。返信でお礼を述べてスマホを閉じる。

 

 ベッドから這い出すように立ち上がって、適当に服を着た。どうやら虜囚となっている間に幾分か背が伸びたようで、いままでの服がすべて着られなくなったのだ。最初こそ小町が買ってきた服を着ていたのだが、沙希と出歩くようになってからは、彼女が服を見繕ってくれるようになり、そこそこ見られる姿になった。

 

 やっぱ顔だけはいいんだよな、俺。あとは目さえもうちっとまともになってさえくれれば、イケメンと名乗っても問題なかろう。でも悲しいかな、相変わらず腐っている。現実に戻ってきて初めて鏡を見たときの形相といったらもう、ゾンビもかくやの有様だった。いまでも夢に見る。超怖かった。自分の顔がゾンビってなんだよ……。しまいには泣くぞ俺。

 

 とりあえず、最近はムカついたことがあれば全部マンダトリーのせいにすることにしている。そうすると少し気分が落ち着く。マンダトリーのサンドバッグって売れないかな? 販売したら絶対買う。そして毎日顔がボッコボコになるまで殴る。最高のストレス発散器具だ。

 

「お~いお兄ちゃ~ん。そろそろ行くから支度して~。沙希さんと大志くん来ちゃうよ~」

 

 階下から小町の声が響く。おっと、マンダトリーを脳内でボコっている間に三十分も時間が過ぎちゃったじゃねえか。やっぱ害悪だなあいつ。即座に抹殺しなければ、とか考えながら一階の洗面所まで下り、身支度を整える。急いで朝食を食べていると、玄関からインターホンの音が来客の到来を告げる。

 

 は~い、と小町がぱたぱたとスリッパを鳴らしながら玄関へ向かう。俺は残りのサラダを無理やりマッ缶で飲み下し、小町に続く。

 

 小町が扉を開けると、愛しい沙希と、毒虫……じゃない、小町のかれ……ぐっ、彼氏であるような気がしないでもない大志が並んで立っていた。

 

 駄目だ、まだ心の整理がつかない。どうしてだ。小町を愛しすぎたからか。

 

 三人とも朝の挨拶を繰り広げているなか、俺だけが大志を睨みながら、ぐぬぬ、と心の中で葛藤をしている。そんな俺に気づいたか、沙希が俺に視線を移した。

 

「八幡、また変なこと考えてる?」

 

 大人びた容貌となった沙希が、微笑みながら俺に近づいてくる。以前と変わらぬまま、青み掛かった髪をシュシュで纏めてポニーテールにしている。今日の装いは春らしくドット柄のワンピースに、黒のロングブーツを履いている。ベルトをしているからか、やはりおっきなお胸が強調されている。やばい、万乳引力に視線が吸い込まれる。いかん、乳トン先生、俺この引力からは逃れられないよ。

 

 あまりにも馬鹿げたことを考え胸を凝視していたら、突然沙希に頭を両手で掴まれた。そのまま顔を胸に埋めさせられる。顔が幸せだ。超柔らかい。小町がきゃー、と楽しそうな声を上げ、大志が「姉ちゃん……」と疲労の混じった声を出している。外野は知ったことか、いまはこの乳神様に俺の人生を捧げたい。

 

「あんた、どうしてこういうときだけは欲望に忠実なんだろうねえ」

 

「理性ちゃんもこれは許してくれる。だがキスをすると準備運動を始めるんだ。帰ってきた理性ちゃんは強いぞ」

 

 厄介だねえ、と沙希が笑う。

 

「うちに兄が馬鹿ですみません……」

 

 小町がなぜか謝っている。

 

「うちの姉が大胆ですみませんっす……」

 

 大志もなぜか謝っている。

 

 名残惜しくも胸から顔を離して、沙希と見詰め合う。互いに考えていることは一緒なのだろう。ふたりで頷き、妹と弟へ視線を投げる。

 

「これくらい普通じゃないの?」と沙希。

 

「まあ、当然だろ。付き合ってりゃ」と俺。

 

 小町と大志の顔に驚愕。まあ、ふたりのまえじゃ特にいちゃついた姿見せてねえしな。小町が無駄に喜んで写真とか撮り始めそうだし。

 

 ぱちん、と小町が両手を合わせる。

 

「とりあえず行きましょうか! 遅れちゃうとマズイので」

 

 それもそうだな、とまたぞろ全員が玄関を出る。そして気づく。

 

「おい、小町、大志。お前らなんで制服着てんだよ」

 

「え?」と二人の声が揃う。ぐぬぬ、こういうところで付き合ってる感出すのやめてくれないかな。思わず大志を沈めたくなるから。と思っていると、沙希に脇腹を小突かれる。

 

「いい加減慣れなよ。あんたがシスコンなのは知ってるけど、限度ってもんがあるでしょ?」

 

「実際事実を知ってこうして見ると凹むんだよ。なぜ小町が……」

 

「お兄さん、結構酷いこと言ってるっすよね!?」

 

 大志が突っ込みを入れてくる。まあ、そんなことはどうでもいい。

 

「で、なぜに制服?」

 

 や~、と答えたのは小町だ。

 

「お兄ちゃんと未来の義姉ちゃんに制服姿を見せたくて着てきちゃった。てへ☆」

 

 あざとい。そしてそんな理由で外に出たら補導されちゃうだろ。やっぱり小町、頭大丈夫なのか? お兄ちゃんちょっと心配になってきたよ。そして大志、小町の暴走を止められないなら別れろ。いますぐ別れてしまえ!

 

 仕方ない、と俺が額を押さえてスマホを取り出す。

 

「金掛かるがタクシー使うか」

 

「それには及ばないわ」

 

 突然、新たに声が訊こえた。家の前に止まった一台の黒塗りのハイヤー。その後部座席に開いた窓から、ひとりの女性がこちらに声を掛けてきたのだ。

 

「雪乃か。来るなら来るって言ってくれ。危うくタクシー呼んじまうとこだっただろうが」

 

「ごめんなさい。小町さんには連絡しておいたんだけれど」

 

 小町を見る。小町はひゅーひゅーと気の抜けた口笛を吹きながら、そっぽを向いていた。

 

「お前、忘れてたろ」

 

 小町がぱちんとウインクをする。

 

「てへ☆」

 

 うぜえ……。

 

「すまん、雪乃。こいつは存外馬鹿だ。次からは普通に俺に連絡してきてくれ」

 

「と、彼は言っているのだけれど、沙希はいいの?」

 

 雪乃の視線が俺から沙希へ移る。

 

「構わないよ。別に浮気なんか疑っちゃいないって」

 

「そう、分かったわ。次からは八幡くんへ直接連絡を入れるわ。返信のときは必ずカマクラさんの写真添付をお願いね。あと今日のアルゴさんも転送してくれないかしら」

 

 相変わらずネコ好きさんめ。

 

「面倒だからやっぱ連絡してくんな」

 

「あら酷い。沙希、あなたの彼氏が冷たいわ。なんとかしてくれないかしら?」

 

「いいから乗せてくれ……」

 

 はいはい、と苦笑した雪乃がドアを開いて俺たちを招いてくれる。おいおい、四人全員が後部座席に乗れるってどういうことよ。でっかい車さんめ。俺が飛び込んだせいで無駄に傷つけてごめんね。

 

「やっはろー比企谷くん、沙希ちゃん」

 

 いきなり声をかけてきたのは、助手席に座っていた陽乃さんだった。以前と比べて表情が柔らかくなった彼女は、もうあの強化外骨格をつけていないらしい。事件を経て思うところがあったのだろう。

 

「うす」

 

「色々お世話になってます」

 

 俺と沙希が返事をすると、陽乃さんは実に楽しそうに笑う。

 

「相変わらず比企谷くんは適当だねえ。沙希ちゃんは真面目だし」

 

「俺から適当を抜かしたら辞書に残る文字がなくなりますよ」

 

「やっぱりSAOで色々あったんだろうね。大分君も変わったね」

 

「まあ、友人と彼女ができる程度には」

 

「あの比企谷くんに友達と彼女がねえ……」

 

 昔を思い出しているのか、陽乃さんが遠い目をした。俺としては、あの魔王がここまで弱体化していることに驚いているくらいだ。うそ、そんなこと考えてません。だから怖い目で見るのやめて陽乃さん! なんで俺の周りはエスパーばっかなんだよ!

 

 ともあれ、ハイヤーが出発する。

 

 相変わらず車内は騒がしい。特に小町と陽乃さんがしゃべり場のごとく話まくってる。大志は慣れているのか、上手いタイミングで会話に加わっている。かくいう俺はとりあえず沙希の胸に頭を置いている。側頭部が幸せだ。ついでに、沙希が頭を撫でてくれるからもう天国だ。これくらいは許容してくれる理性ちゃんに感謝だ。でも調子に乗ると最近は内部から俺をもボコボコにしてくるから注意が必要だ。旅を経て戻ってきた理性ちゃんは、超凶暴なのだ。

 

 対面に座る雪乃は、そんな姿に見慣れているからか特に顔色を変えずに催促してきた。

 

「今日のアルゴさんをくれないかしら?」

 

「おい、その話題まだ終わってないのかよ」

 

「あれが毎日の楽しみなのよ」

 

「お前もそういうところは変わらないよな……」

 

 苦笑しつつもスマホを操作して雪乃へ転送してやる。ついでに沙希にも送っておく。というかアルゴめ、どうして俺に毎日写真なんぞ送ってきやがるんだ。以前そんなことを訊いたら、帰ってきた答えが凄まじかった。

 

 ――当然、沙希ちゃんから全力で八幡を奪うためだよ!

 

 こいつ、諦めが悪い……。そのときは沙希も苦笑いしていたものだ。とりあえず、沙希の許可は得ているから写真は受け取っているが、徐々に過激にならないことを祈るばかりだ。あと、いい加減他の恋をしてくれ。

 

「ディアベルとは連絡取ってんのか?」

 

 思わず気になったことを口にしてみる。雪乃は微笑みながら頷いた。

 

「ええ、何度かもうこちらで会っているわ。既に姉さんにも紹介済みよ」

 

「で、なんて?」

 

「意外と気に入ったみたい。時折私をそっちのけで会話していることがあるわ」

 

 そりゃすごい……。あの野郎、いつの間に陽乃さんを懐柔したんだ。さすが天然漂白剤。

 

「へえ、良かったじゃないか」

 

 沙希が相変わらず俺の頭を撫でながら話に加わる。ああ、頭が幸せだ。

 

「ひとつ悩みが晴れた気分ね。みんなも順調にやっているようだし。災い転じて福となす、といったところかしら?」

 

「災いが大きすぎた気がするけどねえ」

 

 車内に穏やかな会話が流れる。

 

 こうして幾ばくかの時間が過ぎ、ようやく目的地である東京都台東区御徒町にたどり着く。そこからしばらくハイヤーを走らせ、裏通りにある煤けたような黒い木造の店の前で停車した。俺たちはハイヤーを出て、《Dicey Cafe》と看板に刻まれた店のドアを開く。乾いたベルを響かせて店内に入ると、カウンターの向こうで頭てっかてーかの巨漢が顔を上げ、にやりと笑った。店内にはぽつぽつと人がおり、こちらを見るとやはり同じように笑った。

 

「よう、エギル、ディアベル、あとキリトとアスナもいるのか。早いなお前ら」

 

「元気そうで何よりだハチマン、サキさん、ユキノさん。後ろの三人は家族だったか?」

 

 エギルが笑いながら俺たちの背後を見やる。俺は小町を前に押し出して紹介してやる。

 

「おう、こいつが俺の超可愛くて超美人の妹、小町だ。絶対手を出すなよ? 手を出したら殺すからな?」

 

「相変わらずシスコンだな、ハチ……」

 

 苦笑しながら返してきたのはキリトだ。俺はキリトを指差して小町に教えてやる。

 

「あれが俺の自称親友くんのキリトだ。最近俺のストーカーと化している奴だから気をつけろ」

 

「お前紹介の仕方が雑すぎるだろ!?」

 

 立ち上がったキリトがずんずんと俺に近づいてくる。おう、やんのかこら?

 

 当然殴り合いなど始まるわけもなく、間に仲裁に入ったのはアスナだ。

 

「まったく、ふたりともいつもこんななんだから。あたしはアスナ。よろしくね小町ちゃん。ハチくんからは訊いていたけど、話していた通り可愛い妹さんだね」

 

 小町から返答がない。どうした、人見知りする奴じゃないのに、と思って顔を覗くと、大きな目を盛大に潤ませ身体を震わせていた。

 

「お、お兄ちゃんにお友達がいっぱいいる……! お友達がいるって本当だったんだ……!」

 

 ああ、そこに感動してたのね。お前、俺の言葉を嘘だと思ってたのか。お兄ちゃんショックだよ。

 

 そこから、大志と陽乃さんの紹介が始まった。全員が名乗り終えた頃になって、ようやくクラインとアルゴがやってきた。

 

「よおハチ。それとサキさんにユキノさんも。こっちで会うのは初めてだよなあ」

 

「今日のアルゴは堪能したか? 明日からちょっと過激に行こうと思うんだけど、いいか?」

 

 おい、ひとりだけおかしいことを言っている奴がいるぞ。

 

 とりあえずクラインはいつものごとくスルーして、まずはアルゴだ。こいついまなんて言った?

 

「おい、そろそろ今日のアルゴはやめろ。やるなら雪乃にしとけ」

 

 えー、とアルゴが頬を膨らませる。超可愛い。とりあえず、俺は無視かよ、とかいうクラインは放っておく。エギルとかディアベルに相手してもらえ。いまはこの難題を片付ける方が先だ。

 

「沙希ちゃん、だめ?」

 

 目を潤ませながら沙希を見上げるアルゴ。沙希もうんうん唸っているようだが、

 

「できれば過激なのはちょっと……というか、あたしの彼氏だからホント勘弁して。あんた可愛いから、八幡を奪われないか気が気じゃないんだよ」

 

 さすが沙希、言い切った!

 

 アルゴがしゅんと項垂れるが、そこで反論したのはこともあろうか雪乃だった。アルゴの両肩を掴むと大きく揺さぶって叫ぶように言う。

 

「駄目よ! 絶対に続けなさい! 私が許可するわ! だからお願いアルゴさん、私だけでもいいから今日のアルゴを続けてちょうだい!」

 

 こいつ、欲望に忠実になったな……。理由は写真がほしいだけだろ……。

 

 雪乃ちゃんだけっていうのはちょっと……とアルゴも引いちゃってるじゃねえか。

 

 そこでツンツン、と俺の裾を引いたのは小町だ。つま先立ちになって俺の耳元で囁く。

 

「この人が例の人?」

 

 とりあえず頷いておく。

 

 にんまり笑った小町がアルゴの隣に立つ。

 

「やっはろーです。兄の妹の小町です! 兄がお世話になってます」

 

「んん、これがうわさの八幡の妹か。確かに可愛い……」

 

 アルゴがふんふんと頷きながら小町を舐めまわす様に見ている。小町は何を思ったか、モデル立ちみたいなポーズをとりながらアルゴの視線を受け入れている。小町、お前は一体何になろうとしているんだ……。

 

 小町が俺に向かってウインクをする。どうやらアルゴを引き付けてくれるらしい。いや、何一つ解決してないからね。あんま意味ないよその行動。

 

 まあ、そろそろクラインがうるさくなってきたから相手でもしてやるか。

 

「よう、クライン。いつ来たんだ?」

 

「さっき挨拶したよなあ!? ナチュラルに無視するなよお、ダチだろお!?」

 

「おお悪い悪い。アルゴの挨拶があまりにぶっ飛んでたんでな。影薄かったんだよ。すまんな」

 

 落ち込むクラインを適当に慰める。

 

「オレもその今日のクラインとやらをやってやろうか……」

 

「やめろ。気色悪い」

 

「ハチ、オレぁこう見えても結構傷つくから、辛辣な返しはやめてくれよぉ」

 

「まあなんだ。俺の最愛な妹である小町を三十秒見つめることを許可する。それで元気だせ」

 

「おう、そうするわ!」

 

 急に元気になりやがった。こいつまだ彼女できないのか。いい奴なのに……。

 

 スマホの写真のシャッターを切りまくるアルゴにクラインが並ぶ。おい、誰が写真撮っていいっつった!? 小町は写真じゃなくて肉眼で見ることによってその可愛さと美しさが栄えるんだぞ! あんな二次元データなんぞで愛らしさが伝わるわけがないだろ! だからそのデータ全部俺に寄越せ!

 

「あんた、頭の中暴走しすぎでしょ。ほら、落ち着きなって」

 

 苦笑い気味の沙希に抱きしめられる。ああ、やばい。急に思考回路がのんびりになる。沙希にこうして抱かれていると、身体のやわっこさとか温かさとか、心臓のゆっくりとした音とかで何も考えられなくなる。やばい、これぞ惚れた弱みか。

 

「おい、お前さんら。いいからさっさとこっちに来い。いつまで入口前に居座るつもりだ」

 

 カウンターをコンコン叩いてエギルに催促される。確かに、さっさと席に着こう。沙希の手を引いて俺は隅っこに陣取る。やっぱ隅っこって落ち着くよねー。

 

 大志は歳も近いということでキリトとアスナに連れ去られ、小町は相変わらずアルゴとクラインの視線を鷲づかみにしていた。雪乃と陽乃さんは、やはりディアベルと同じ席だ。

 

「じゃあ、ハチマン、サキさん、前に出てきてくれ」

 

「あ、お構いなく」

 

 エギルの言葉に俺と沙希が同時に答える。額を抱えたエギルが呻くように言った。

 

「だからお前さんらはどうして前に出るのを嫌がるんだ……」

 

「おいエギル。元ぼっちを舐めんなよ? 人前に出るとか恥ずかしいじゃねえか」

 

 そうそう、と沙希が続ける。

 

「人には向き不向きがあるんだよ」

 

「あのな、お前さんらが前に出てくれないと話が進まないんだよ。頼むから出てきてくれ」

 

 エギルの悲痛な訴えに、仕方なく俺と沙希が立ち上がる。カウンターの前に二人して陣取った瞬間、店内の照明が落ちて一面が暗くなる。こういうのが苦手な沙希が速攻で俺の手を握ってきた。超可愛い。

 

 唐突にスポットライトが俺たちに当たる。そして、

 

「ふたりとも、SAOクリアおめでとう!」

 

 パンパンとクラッカーの音が鳴り響く。おい、なんで小町も大志も陽乃さんも持ってんだよ。こいつら、裏でエギルたちと繋がってやがったな。

 

 隣では沙希が目を潤ませていた。まあ、俺としても満更ではないが、別に俺たちだけで攻略した訳じゃないんだけどなあ。

 

 そのままエギルが乾杯の音頭を取り、本格的にオフ会が始まった。

 

「ハチ、最後のふたりの戦いはもう伝説だよな。見てて感動したぜ」

 

 近寄ってきたのはキリトだ。相変わらず戦闘好きな奴め。

 

「あんたねえ。こちとら必死だったんだからね……」

 

 沙希があの戦いを思い出したか、憂鬱そうに言った。俺も似たような表情をしてたのだろう、アスナが慌てて間に入った。

 

「ごめんね、キリトくん、こういうのに目が無くて。でもふたりともすごかったよ!」

 

「おい、それ結局同じこと言ってんじゃねえか。こちとら蘇生アイテム持っててもバレないように必死にやってたんだぞ。マジな話、勝ちに行ってたしな。ありゃ無我の境地だった……」

 

 俺も遠い目をする。正直あれほど得物の長さの不利を痛感するとは思わなかった。やっぱ槍相手に短剣はねえな。というか、オクトアサルトぶっ放した時点で勝ったと思ったくらいだし。あれを捌ききった沙希すごい。超すごい。いますぐお持ち帰りしていちゃいちゃしたい。

 

「俺、お兄さんと姉ちゃんの活躍を是非とも訊きたいっす!」

 

 大志も会話に加わってくる。キリトとアスナがまるで自分のことのように俺たちの話をしている。恥ずかしいからやめて!

 

 よく見れば、いつの間にかこちらに来ていた小町がふんふんと二人の話を訊いている。おいおい、陽乃さんまでいやがるよ。ディアベルと雪乃がふたりでいちゃついてるぞ、いいのか陽乃さん!

 

 ひとまず羞恥の真っ只中にいるのが居た堪れなくて、俺と沙希が逃げ出す。カウンターに座ると、エギルがコーヒーを出してくれた。なんとマッ缶様だ。さすが分かってらっしゃる。

 

「さすがエギル。マッ缶まで常備してるのか。毎日通うぞ」

 

「それはありがとうよ。でもさすがに常備はしてないぞ。お前さんが来るから用意しておいただけさ」

 

「エギル、いい奴だな……」

 

 とりあえず俺はエギルを拝んでおく。禿頭だからご利益ありそうだ。

 

「マッ缶ひとつでそこまで態度を変える奴はお前さんくらいだろうよ」

 

 エギルが苦笑する。

 

「オレにはバーボンくれ」クラインが隣にどかりと座った。

 

「オレッち……じゃなくて、私にもマッ缶ちょーだい」沙希の隣にアルゴが座る。こいつ、一人称がまだ直ってないな……。

 

 あいよ、とエギルが気持ちのいい返事をして準備をする。

 

「とりあえずお疲れさんだな。結局、おめえらには世話になりっぱなしだったな」

 

 クラインの言葉に俺と沙希は首を振る。

 

「んなことねえよ。こっちも迷惑掛けまくったからな」

 

「あんたらには感謝してるよ」

 

「おめえらにそう言ってもらえると、こっちも助かるわ」

 

 出されたバーボンをクラインが煽る。

 

「それよりいいのかクライン。会社抜け出してきてるんじゃないか?」

 

 アルゴがクラインに問う。クラインが、へっ、と笑った。

 

「いいんだよ。こんな日くれぇ飲ませてくれよ。やっとこいつらに会えたんだからよお」

 

「んじゃ私も飲もっかなー。エギル、バーボンくれよ」

 

 おいおい、とエギルがアルゴの頭をぽんぽん叩く。

 

「お前さん未成年だろ。酒はまだ早い」

 

「私は今年で十九だぞ! いいじゃないか!」

 

 写真に妙な色気があるから年齢が分かりづらかったが、やっぱこいつ年下だったか……。

 

 やんややんやと騒いでいる三人はともかく、ディアベルにも一応顔を出しておくか。俺が席を立つと、やっぱり沙希も着いてきてくれる。

 

「よう、ディアベル。お前を殴りに来たぞ」

 

「まだそれ言ってるのかいハチマン」

 

 半笑いのディアベルが俺に振り返る。

 

「殴るって約束しただろ? もう忘れたのか?」

 

「約束した覚えはないんだけどなあ」

 

 まあ、俺なりの冗談だ。一応断りを入れて俺と沙希がふたりのテーブルに着く。

 

「で、どこまで行ったんだディアベル?」

 

「下衆なこと訊いてくるねハチマン……」

 

「お前が訊いてきたことをそのまま返しただけだ。どうだ、どれだけ下衆いかわかっただろう?」

 

「この人は、まったく……」

 

 雪乃が頭を抑えて呻くように言った。沙希も呆れて俺を見ている。そんな怒らないで。八幡ジョークだから!

 

「ま、それはさておき、上手くやってるみたいだな。安心したぞ」

 

「最初は緊張したけどね。なんとか上手くやれてるよ」

 

 俺が差し出した杯にディアベルが持った杯を合わせる。からん、とグラスと氷が澄んだ音を響かせる。

 

「ま、なんかあったら言ってくれ。いつでも殴りに駆けつける」

 

「やっぱそれになるんだな……」

 

 でも、と沙希が俺の後を引き継ぐ。

 

「雪乃を泣かせたらホントに殴りに行くよ。覚悟しときなディアベル」

 

「おいおい、沙希さんまで……分かったよ。絶対泣かせないから勘弁してくれないか」

 

「あら、嬉し泣きをしても殴られるのかしら。だったら永遠に結婚できないわね、私たち」

 

 雪乃が心底楽しそうに言う。こいつ、やっぱ根本は変わってねえな。人をいたぶることに嗜虐心を煽られてやがる。

 

「ちょっと、雪乃。それはあんまりだろう!?」

 

 ディアベルが慌てたように言う。俺たちが一斉に笑う。

 

「まあ、嬉し泣きなら半殺しで許してやる」と俺。

 

「そうだね、それくらいで勘弁してあげようか」と沙希。

 

「よかったわね。命までは取られないそうよ。せいぜい私が泣かない程度のプロポーズをしてちょうだい。でもその程度のプロポーズじゃ私は納得しないけれど」と雪乃が止めをさす。

 

 なあディアベル。本当にこいつでいいのか……? 早速尻に敷かれてるじゃねえか。

 

 慌てるディアベルは思考の隅っこに飛ばして、俺はふたりに背を向けて店内を見渡す。

 

 SAOに囚われて随分時間が経った。あの時間を経て、いま俺たちは現実に生きている。きっと得ることのできなかった仲間や愛しい彼女と共に、こうした時間を過ごすことに無情の喜びを感じている。そのことに、いかばかりか驚きの気持ちが浮かぶ。

 

 経験は人を変える。

 

 ならば、俺もやはり変わったのだろう。

 

 アインクラッドで始まったのは、死を賭けたゲームだけじゃない。

 

 きっとそれは、俺と沙希の青春なのだろう。

 

 沙希が俺を見る。俺も沙希を見つめる。自然と顔が近づいて、淡い口付けをした。小町とアルゴに気づかれて、店内がキャーキャーと大騒ぎになる。途端、恥ずかしくなって俺と沙希が俯くが、周りははやし立てまくっている。

 

 まったく、最後までうるさい奴らだ。

 

 それでも俺は思うのだ。

 

 隣に沙希がいる。

 

 周りには仲間がいる。

 

 そして、現実での知人たちとも友人になれた。

 

 ならば、こんな世界も、悪いものじゃない。

 

「沙希、俺結構幸せだ」

 

「うん、あたしも幸せだよ」

 

 手と手を握って、互いのぬくもりを伝え合う。

 

 ――沙希、痛いも苦しいも、楽しいも嬉しいも、みんなみんな二人で共有して生きていこう。

 

 ――ふたり一緒なら、きっときっと、大丈夫だから……。

 

 

 

 

 



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番外
こうしてアルゴは動き出す


 第一層フロアボス部屋。

 

 悪魔の演説が行われていた。そこでは新規もベータテスターもなく、ただプレイヤーと悪意のハチマンという対立構造だけがあった。

 

 私はそれをフロアボス部屋の外から訊いていた。初のボス戦ということもあって、心配になって駆けつけた私の前で、ボスはひとりの犠牲者の上で倒された。その後、ハチマンが危惧したとおりベータテスターが槍玉に上げられた。

 

 私はそれをただ眺めていることしかできなかった。私も所詮はベータテスターだ。いまさら何を言ってもベータテスター排斥の流れになった現状を変えることができない。それが、いかに自分たちの首を絞めることになったとしても、表立って言えるほど私も強くはない。

 

 そんな中、否と立ち上がったのがハチマンだ。ありとあらゆる悪意をかき集めて発した言葉は、用意にプレイヤー達の心を掴んだ。生み出したのはひとつの憎悪だ。ベータテスターとの遺恨は吹き飛び、ただひとりのプレイヤーに対する怒りのみが生まれた。

 

 すべてがハチマンの手の平で転がされていた。ベータテスターにとってはまさに九死に一生を得た瞬間だった。ただひとつ、当の本人の目があまりに濁り、いまにも倒れそうなほど憔悴していることを除けば。

 

「じゃあな。もし俺に文句があるなら追って来い。ただし、そのときは決死の覚悟を抱いて来い」

 

 ハチマンがLAボーナスで獲得したであろう漆黒のコートを身に纏い、二層への扉を開いて足を進める。誰も動かない。動けない。あのサキですら呆然としたままだ。

 

 だから、私が動いた。

 

 この結末で、私たちはハチマンによって守られた。

 

 なら、ハチマンは一体だれが守る……?

 

 ボスフロアを俊敏に特化した足で踏破する。《隠蔽》を駆使していたからだろう、誰も私の姿には気づかない。開けられた扉に滑り込むように入って、螺旋階段をただひたすらに駆け上がる。

 

 光の見える方へと進んでいくと、ようやく第二層の姿が目に飛び込んできた。急角度の断崖絶壁の中腹に設けられた入口を抜ける。絶景が視界いっぱいに広がるが、そんなことは無視して周囲を見渡す。ハチマンの姿が無い。

 

 嫌な予感がして探す。

 

 岩肌の山には、ごつごつと大きい岩が群れとなって転がっている。その影のどこかにきっといるはずだと信じて私は探す。

 

 たっぷり五分かけて、ようやく目的の人物を探しだした。まさに目を凝らして探さないと分からないような、コの字型に囲まれた岩の影に、ハチマンは膝を抱えて座っていた。

 

「随分はしゃいだみたいだナ」

 

「……アルゴか」

 

 岩に立つ私を見上げてハチマンが呟くように言った。私は岩から降りて彼の前に立つ。

 

「迷惑掛けたナ。まさかあんな行動に出るとは思わなかったヨ」

 

「俺は意外性ナンバーワンの男なんだよ。誰も予想しないことをするのが生きがいでな……」

 

「どこの忍者だヨ」

 

 フードを脱いで私は膝を着く。ハチマンと目線の高さが合う。彼の目には、どこか怯えの光が孕んでいるように見えた。

 

 そっと、慈しむようにハチマンの頬に手を添えた。彼は拒絶しなかった。

 

「そんな顔するくらいなら、やらなきゃいいのにナ。あれはただの気まぐれかイ?」

 

「気まぐれであんなことやるほど人間腐っちゃいない……つもりだ」

 

「そうだナ」

 

 泣きそうなハチマンの表情を見ているのが堪らなく辛くなって、私は彼の身体を抱きしめた。きっと慌てふためくと思ったのに、彼はされるがまま私の胸の中にいる。

 

「現実でもこんなことばっかしてきたのカ?」

 

「まあ、そうかもしれん」

 

「それは、疲れるナ」

 

 ぐっとハチマンの身体に力が入ったかと思うと、私の背に彼の腕が伸びた。

 

「疲れたカ?」

 

「割とな」

 

「泣きたいカ?」

 

「珍しく優しいじゃねえか」

 

「頑張った男の子にはご褒美が必要かと思ってナ」

 

「……そうか」

 

 誰もいない二層の中で、ふたり抱き合う。決して涙を流そうとしないハチマンの頭を、私はゆっくりと撫でた。

 

「頑張る理由、聞いてもいい?」

 

 気づけば、いつもの片言が取れていた。きっと悪意のすべてを晒したであろう彼に対し、フードを被って見せるのは理不尽な気がしたからかもしれない。

 

「サキを現実に戻すためだ」

 

「結局他人のため?」

 

 胸の中でハチマンが首を振る。そうじゃないと、全力を振り絞るように。

 

「結局は俺のエゴだ」

 

「どういうこと?」

 

 ハチマンの言葉が止まる。喘ぐように息をして、私の背に回っていた腕を解いて、自分自身の胸を鷲づかみにする。そうでもしないと、壊れてしまうとでも言うように。

 

 やがて、搾り出すようにして、ハチマンが言った。

 

「俺は、現実に帰る理由がない。だから、帰りたいと願ったあいつに理由を預けた。そうすれば、帰る理由が俺の中に見つかるかもしれないと思ったんだ」

 

 今度は私が目を剥いた。

 

 ああ、なんて人だ……。

 

 ハチマンは、たぶん高校生だろう。私と同じか、きっとひとつ上。多感な時期に教室という牢獄に閉じ込められた子どもの世界は、きっとどこの社会よりもある意味過酷だ。あれほど弱肉強食という言葉が似合う世界もないだろう。その中で、あんな方法を取るような彼があるべき立ち位置など、簡単に想像がつく。

 

「現実は辛かった?」

 

「逃げ出すくらいには、面倒だったな」

 

「帰る理由がほしい?」

 

「いつまでも現実逃避できるほど腐りたくはないんだよ」

 

 私はハチマンの身体を離す。彼は涙ひとつ流さず、相変わらず腐った瞳で私を見つめていた。

 

「なら、理由をあげるよ」

 

「……なんだよ」

 

「私と現実で会おう。私はそれを理由にこれから頑張るよ。だから、ハチマンもそれを理由に前に進まない?」

 

 ハチマンの目が更に濁っていく。

 

「どうせお前もああなる。あんな風に冷たい眼で、あるいは、あんな痛々しい笑みで俺を見ることになるんだ。そんなの、もうまっぴらだ」

 

 何を言っているか分からない。それでも、いまの言葉が彼の本音であり、彼の心を最も抉った出来事であることはわかった。だから、ここで引けば彼の心は更に滅多刺しにされる。人の心は、いとも容易く壊れる。なら、じっくりと寄り添って治していけば良い。

 

「ならないよ。私はハチマンの傍を離れない。ずっと傍にいるよ」

 

「得することねえぞ。害ばっかだ」

 

 吐き捨てるようにハチマンが言った。たぶん、現実的に考えればそうなのだろう。ベータテスターへ向けられた悪意をひとり一心に背負った彼の隣にいることは、普通に考えるよりずっと過酷だ。

 

 でも、そんな理由すら捨て置いてでも彼の隣にいる価値は、いまの私にはある。

 

「得ならあるよ。だって、あなたのことが好きになったから」

 

「は?」

 

 ハチマンが目を丸くする。そして、今度は憎悪にも似た腐った瞳で私を見据える。

 

「冗談も休み休みにしろ。俺はその手の冗談が腹の底から嫌いだ」

 

 どうにも、ハチマンは人の好意というものに恐怖を覚えているらしい。なら、徹底的に分からせてあげればいい。どれだけ私があなたを好きなのかと。

 

 ハチマンの両頬に手を添えて、私はゆっくりと顔を近づける。

 

「嫌なら逃げて? 嫌じゃないなら受け入れてよ」

 

 ハチマンの瞳に懊悩が走る。だから、考えられるだけの間を置くように、じれったいほどの速度で顔を近づける。

 

「嘘じゃないのか? からかったりしてないのか?」

 

 捲し立てるようにハチマンが言う。私はまぶたを落として言った。

 

「私の唇は嘘や冗談であげるほど安くない」

 

 やがて、唇が重なった。途中で目を開くと、ハチマンが目を剥いて涙を流していた。見ているだけで胸を掻き毟りたくなるような、切なく光る涙だった。私はそれを舌の先で掬って、再び唇を合わせる。ハチマンは拒絶しなかった。ただ、涙を滂沱と流していた。

 

 顔を離して私は訊く。

 

「嫌だった?」

 

「分かんねえ」

 

「私は嬉しかったよ」

 

 言いながら、私はハチマンを抱きしめる。彼が私の背を掴んで、おいおいと泣き始めた。今度は嗚咽すら零しながら、世を恨むように泣き出した。

 

「いいよ。私はここにいる。ずっと傍にいる」

 

「もう、疲れちまった……」

 

「大丈夫。疲れたら私の胸で泣いていいよ」

 

「……それなら、もう少しだけ、頑張れるかもな」

 

 私は空を仰ぐ。悠久にも続くアインクラッドの果てを見上げながら、私は告げる。

 

「ねえ、ふたりで色んなことしようよ。ここのことなら、誰よりも詳しく知ってるんだよ」

 

 ハチマンが笑った。

 

「ゲームの中でゲームするってか。なかなか乙なもんだな」

 

 んーん、と私は首を左右に振って、囁くように言う。

 

「私たち、男と女だよ?」

 

 ハチマンがばっと私の唇から顔を離す。表情には僅かな怪訝と、頬に赤らみがあった。

 

「こいつ……なに言っちゃってんの?」

 

「そこはほら、アレがコレしてああなって、やっちゃうんだよ!」

 

「なにこいつは俺の言い訳パクってんだろうな。しかも何だよ、やっちゃうって。ちょっとワクワクしちゃうじゃねえか」

 

「こういうときは、男と女がドロドロと絡み合うのが常識なんだよ。昼ドラで見た!」

 

「良い子が決して見ちゃいけない番組を参考にするな」

 

 ハチマンが顔を覆って嘆く。これだから最近の若い奴らは、などとぶつぶつと呟き始める。

 

 元気になったかな、と思ってもう少しだけ続けてみる。

 

「倫理解除コードっていうのがあってね、それをするとあら不思議。ここでもできちゃうんだよ!」

 

「具体的なやり方なんていつ訊いたんですかねえ? てかマジかよ……茅場の野郎、エロ魔人じゃねえか」

 

「そうそう、ふたりでエロエロになろう!」

 

「最悪な高校生だな。退学もんじゃねえか」

 

 そろそろ冗談もいいだろう。私はまたハチマンを抱きしめる。

 

「ね、もしハチマンが求めるならいいよ。なんだってしてあげる。だから、なんでもいいから希望を持とうよ」

 

「俺に得がありすぎるな……」

 

「これが惚れた弱みってやつだよ」

 

 身体を離して、ハチマンと見詰め合う。彼は、困ったように頬を掻いて、しばらくして真面目な表情で私を見つめた。

 

「アルゴ……俺は」

 

 その唇を私は指で押さえた。いまは先に続く言葉を訊くのが怖い。

 

「返事はまた今度にして欲しいな。さっきのは、ちょっと私もフライング気味だったし。ちゃんとした形で告白するから、そのときに返事をして」

 

「……分かった」

 

 それと、と私は続ける。

 

「サキちゃんには何も言わないでいっちゃうの?」

 

 ハチマンの顔が今度こそ大きく歪んだ。

 

「きっと心配してるよ? サキちゃんは良い子だよ?」

 

「分かってる。分かってるんだ……」

 

 いやいやと、駄々を捏ねる子どものようにハチマンが頭を振って、両手で抱えた。

 

「いまはあいつの顔を見るのが怖い。あいつも、またあんな風に俺を見るんじゃねえかと思うと、恐ろしくてたまらねえ。俺はぼっちだ。ぼっちは強くなきゃならねえ。それなのに、ここに来てからというものの、俺は強くあることができてねえ。どうすりゃいいんだ」

 

 きっと、このゲームに囚われて初めて、ハチマンは弱音ばかりを零している。それが私である事実に、少し心が躍った。こんなにも信頼を寄せてくれているのだと思うと、愛しさが溢れた。でも、そんなことは露にも出さないように注意して、私は声を掛ける。

 

「勇気が出ない?」

 

「そうだな、そうかもしれん」

 

「なら勇気をあげるよ」

 

 なにを、と顔を上げたハチマンに思い切り口づけする。舌まで入れて、念入りに私の存在をねじ込む。ハチマンは瞠目していたけれど、決して逃げることもなく、私を受け入れてくれた。それが嬉しくて、ただただ彼の口内を舌でかき回した。ずっとこんな時間が続けばいいと願いながら――

 

「あんたら、なにやってんの?」

 

 声を掛けられて、その幸せも終わった。すぐに振り返って見上げると、岩の上にサキが私たちを見下ろしていた。陽光の影になって表情は見えないが、声はどこか冷たかった。

 

 サキが岩から降りる。表情がそこでようやく姿を現し、瞳が悲しみに揺れていることを知った。

 

 私は慌てる。ふたりの仲を切り裂いてしまったようで、そんなことになれば余計にハチマンが苦しむから、なんとかしなければならないと、無駄に頭を回転させて、言った。

 

「えっと、さっきの演説で惚れたからハー坊を襲ってたんだヨ!」

 

 直球にも程があった。私は実は馬鹿なんじゃないかとその場で項垂れたくなった。サキが呆れたようにため息する。

 

「そう、それはいいんだけど……」

 

 一言で斬って捨てられて、私は今度こそ本当に項垂れた。そこはもう少し動揺してほしかったよ……。

 

 サキが一歩足を踏み出す。途端、ハチマンが怖い幽霊でも見たように、身体をすくませた。その姿を見たサキの表情に、再び悲しみが生まれた。それも一瞬のことで、すぐさま微笑みを浮かべてもう一歩踏み出し、膝を落として彼の目線に合わせる。

 

「あんた、いつもあんなことやってたんだね。ようやく、分かったよ」

 

「なにを……」

 

 ハチマンが掠れた声を出す。

 

「ずっと、あんたを見てた。あんたに助けられたあの日から、あんたにちゃんとお礼を言いたくて、ずっと見てた。文化祭のときも、修学旅行のあとも、あんたがどんどん小さくなっていくような気がして、何があったんだって、なんであんなに言いたい放題言われなきゃならなかったんだって、ずっと思ってた。それが今日、ようやく分かった」

 

 それは、現実で関係を持っていたからこそ出る言葉だった。私には決して知り得ない、現実での彼の姿。だからこそ、私は悔しくなって拳を握った。知らない私は、そんな言葉を掛けてあげられないから。

 

「あんた、ずっと頑張ってたんだね。ひとりで、周りから白い目で見られても、言い訳ひとつしないで、ずっと頑張ってきたんだね。偉かったね。辛かったね。あんなやり方しかできなくて、それでもなんとかしなきゃって、ずっと頑張ってたんだね。気づいてやれなくて、ごめんね」

 

 たぶん、ハチマンへ投げる言葉の正解はこれだ。私が絶対に辿りつけない先にある言葉がこれだ。悔しくて、本当にただ悔しくて、それでも、ハチマンがこれで自分を取り戻せるならばと、歯を食いしばるようにしてふたりを見守ることしかできない。

 

 サキが続ける。慈愛の篭った微笑みのまま、ハチマンをじっと見つめて。

 

「ハチマン。だけど、もうこんなことはやめて。あんたが傷つくとあたしも痛い。あんたが辛いと、わたしも辛い。でも、あんたが笑うと、私も楽しいんだ。だから、あんたにはずっと、笑っていて欲しい……」

 

 これは最後通告だ。ここで何かをしないと、私は決定的に何かを失う。サキにハチマンを取られてしまう。彼の心を掴まれてしまう。それは嫌だ。だってこの恋もう、全身を熱く滾らせるほどに強くなってしまったのだから。いまさら取り上げられたら、向ける先なんてないし、冷ます方法だって知らない。

 

 だからこれが唯一のチャンスだ。

 

「ハチマン」

 

 サキの言葉の隙を縫うように、私は声を投げた。ふたりが私を見る。サキの表情は微笑のままだ。

 

 私はサキに笑ってから、ハチマンを見る。彼は瞳を震わせて私を見ていた。

 

 短く息を吸う。

 

「私がずっと隣にいるよ。つらいときも、苦しいときも、楽しいときも、嬉しいときも、ずっと私が傍にいる。そしたら、少しは楽にならない?」

 

 先に言われちゃったね、とサキが苦笑した。どうやら最後の最後で正解を引き当てたらしい。私はハチマンの様子を伺う。彼は、困ったように笑って言った。

 

「そうか、それもそうだな……」

 

 ハチマンの中で、一体私はどれだけの存在になったんだろう。サキを凌駕したんだろうか。それとも同じくらいの存在になれただろうか。

 

 人の内面はゲームのステータス画面みたいに見ることができないから、いま彼がなにを考えているか、知る術を私は持たない。

 



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いつだってアルゴは心配している 1

 第一層のボス攻略から四ヶ月が経った。最前線は三十層を超え、いまや三十三層に達している。

 

 あれから、私はサキと一緒にハチマンの傍に寄り添い続けた。だから私の評価はガタ落ちしたと思いきや、存外そうでもないらしい。なにせ、SAO初の情報屋でもあり、その確度も高く、なによりディアベルがあの後すべてを話したお陰で、私は悪意を向けられることがなかった。だというのに、いまだにハチマンへ投げられる憎悪は変わり無い。彼が道を歩けばこそこそと嫌味を言い、自称自警団と名乗る連中が追い回す。大きくなった民意の波は、理不尽に彼を追い詰めていく。

 

 あまりにも耐えがたかったから、私はすぐさま真実を記して翌日の新聞に載せてやろうと何度も画策したのだけれど、ハチマンがそれを止め続けた。

 

 曰く、ここですべてを告げればまたベータテスターへ憎悪が向けられる。そうすると攻略が遅れる。サキを現実に帰すのが遅くなる。それだけは駄目だ。

 

 そう言われてしまえば、言い返す言葉も無い。

 

 サキはあくまで自然体でハチマンと向き合うことにしたらしく、普段通りに彼と接している。それが羨ましくて、気持ちばかりがはやる私とは格の違いを見せ付けられているようで、心の奥底に焦りが積もっていった。

 

 そんなある日、三十三層主街区《ラーヴィン》の複雑に絡み合う路地裏にある喫茶店で、私とディアベルはハチマンを待っていた。そわそわとしている私をよそに、ディアベルは店内のインテリアをのんびりと眺めている。

 

 そんな時間をたっぷり十分は過ごしていただろうか、ようやく店内にからんからんと来客を告げる鐘の音が響いた。ぴょんと立ち上がって来客を見ると、そこには待ち望んでいたハチマンの姿があった。

 

「よう、ディアベル、アルゴ。今日も殺されに来たのか?」

 

 あんまりな挨拶の仕方に私もディアベルも苦笑する。一層のときの科白をもじったのだろう。

 

「久しぶりだね、ハチマン。無事でなによりだよ」

 

「ハチマン、待ってたよ」

 

 私は、ハチマンの前で《鼠》のアルゴをするのをやめた。私はもう、彼に恋する乙女だから、鼠なんてそんな動物になる必要はない。頬のペイントも取った。だからだろうか、以前より男が私に言い寄ることが多くなってきた。彼以外の男などどうでもいい。

 

 すぐにでも抱きつきたくなる欲望をなんとか抑えて、ハチマンが座ると同時に私も腰を下ろす。

 

「とりあえず注文しようか。美味しい甘味処なんだ」

 

 ディアベルに促され、私とハチマンがウインドウを開いてメニューを眺める。何気なく見ていた一覧の中に、一際目を引くメニューがあった。メニューの名と、その添付された写真データに私の目は釘付けになった。

 

 ――ラブラブ☆カップルのトキメキジュース

 

 なんと甘美な響きだろうか。大きなグラスに注がれたソーダ風の飲み物に、淵に挿されたオレンジ。なにより、グラスに刺さったふたつのストローが心の敏感な部分を刺激してならない。飲みたい。是非ハチマンとふたりで飲みたい。ディアベルが横にいるけれど、きっと笑って許してくれるはずだ。一層では色々やらかしたけれど、結構いい男なんだから。

 

 でも、絶対にハチマンが嫌いなメニューだ。

 

 だけど、私は飲みたい。ふたりでちゅーちゅーとストローで甘美な蜜をすすりたい。

 

 ならば、ちょっと責め方を変えてみよう。

 

「ハー坊ハー坊」

 

 いつもと違う呼び方に違和感を覚えたか、ハチマンの視線が私に飛ぶ。その表情には警戒。それを解かんと、私は瞳をしっとりと潤ませ、上目遣いに彼を見て言う。

 

「これ、頼んでいい?」

 

 ウインドウを滑らせて、ある一点を指差す。ハチマンの顔が引きつった。

 

「あざといな……。なんだ、この脳内お花畑でハッピーな女子が好みそうなメニューは……。リア充め、許せん」とかなんとかどこか憎しみの混じった小さな声で言っている。脳内会話がだだ漏れだ。

 

 つまり、私はあざとくて脳内お花畑でハッピーな女子ということか。なんだそれ。泣きたくなってきたよ……。

 

 ともあれ、湧き上がった欲求を抑えるには、少しばかり私には我慢が足りない。だからひたすら押すだけだ。にっこりキュートな笑顔を作って再度押してみる。

 

「ハチマン、飲もうよ!」

 

「断る!」

 

 即決で斬り捨てられた。心が形を持っていたら、その場で砕け散るほどの衝撃だった。思わず項垂れる。わざとじゃなくて本当に泣きそうだ。

 

 それを見ていたか、ハチマンが慌てたように言葉を出す。

 

「いや、あれだ、ほれ、恥ずかしいだろ? な?」

 

「私は恥ずかしくないもん」

 

「もんって……いやな、俺が恥ずかしいんだよ」

 

「私は恥ずかしくないもん」

 

「こいつ、俺の話を訊いてねえ……」

 

 私は身を乗り出して、ハチマンを上目遣いに見る。彼がこくんと喉を鳴らした。

 

「私のこと、嫌いになっちゃった?」

 

 この一言がダメ押しだったらしい。降参したように両手をあげたハチマンは、無言でメニューの注文ボタンを押した。にやり、と笑いたくなったが、ここは我慢だ。もう少しお淑やかにしておこう。と思ったのだが、バレていたらしい。

 

「にやついてるのバレてるからな」

 

「なっはっは~」

 

 乾いた笑いでごまかす。ハチマンは長いため息を吐いてソファーに寄りかかった。ディアベルは相変わらずニコニコしながら私たちを眺めつつメニューを選んでいた。

 

「無理強いしたのは謝るよ。ごめんね、ハチマン」

 

「気にすんな。慣れてる」

 

 憮然とした様子で言いながらも、ハチマンの頬はどこか緩んでいるように思えた。

 

 全員の注文を終えたところで、ディアベルがぽんと両手を叩く。

 

「じゃあ、本題に入ろうか」

 

 今日の議題はホーリィについての議題だ。第一層で暗躍していた人物の情報共有が、今回の集まりの目的だった。

 

 話を進めるも、結局私もディアベルも然したる情報は無く、ホーリィに関する情報はまったく集まらない。最後の期待を込めてハチマンを見るも、彼は胸を張ってこう言った。

 

「ないな。まったく無い。というか、情報のアルゴ、組織力のディアベルで見つけられなかったら、どっちもない俺に分かるわけないだろうが」

 

 まるで、自分がぼっちなんだから情報が集まるわけないだろうといわんばかりの科白。胸が痛くなる言葉だった。

 

 私は、テーブルに置かれたハチマンの手に自分の手を重ねる。彼は一瞬びくっと手を動かしたが、私の手がそれを逃がさない。指の間に絡めてしっかりと握る。

 

「ハチマンには私がいるよ。サキちゃんだっている。だからそんな悲しいこと言わないでよ」

 

 ハチマンが顔を背ける。

 

「う……まあ、あれだ。言葉の綾だ。ちゃんと感謝してる」

 

 恥ずかしそうに、けれど、頬を染めてハチマンが言った。なんだか嬉しくなって、もう片方の手も重ねた。

 

 そんな中、ディアベルが妙に悲しそうな顔をしていた。

 

「なぜオレがナチュラルに抜かれてるんだろう」

 

 私とハチマンがディアベルを見て同時に言う。

 

「おいイケメン、空気読めよ」

 

「ひどいな君たち!?」

 

 そんなことをやっていると、ようやくNPCの店員が現れ、注文の品がテーブルに広げられる。私の前にはチョコレートケーキ、ハチマンの前にはピーナッツケーキだ。ディアベルは……どうでもいいよ。

 

 そして、期待を込めて見つめた先には、私とハチマンの間に置かれた一際大きなグラス。写真データ通りかと思いきや、ストローだけがくるりと洒落て曲がり、ハート型を描いている。なんて素敵な! これでハチマンのハートもがっちりだよ!

 

 なんて訳もなく、ハチマンはそれを見て顔面を盛大に引きつらせていた。うん、分かってた。そういう反応すると思ったよ。

 

 さあアルゴ。ここは余裕の微笑みでハチマンをリードするんだ。なあに、簡単じゃないか。飲もうと一言声を掛けるだけじゃないか。行け、アルゴ。女の意地を見せるんだ!

 

「は、ハチマン……の、飲もっか?」

 

 なぜどもるの私……。

 

 急に恥ずかしくなって、かっと顔が熱くなる。それでもふたりで飲みたいのは本当だから、そろっとハチマンを見上げる。

 

「ぐ、わ、分かった……」

 

 ふたりで緊張しながらストローに口をつける。そのままちゅーっと二人して中身を吸い込む。口の中に爽やかな酸味と炭酸のしゅわしゅわとした感触が広がる。美味しい。目線を上げれば、愛しい人が同じものを飲んでいる。本当に、心の底から幸せだ。

 

「んっ……」

 

 思わず吐息が漏れる。どういう訳か、ハチマンの頬が赤みを増す。

 

 私もハチマンも言葉を発さない。ただちゅーちゅーと同じジュースを飲んでいる。美味しくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて幸せな味がする。

 

 ディアベルはひとりチーズケーキ祭りをしていた。どうでもいいよ。

 

「ん、ん……っ」

 

 幸せが口と喉を通って体内に入り、私の敏感な部分に触れているようで、自分でも思ってもみないような艶のある声が出てしまう。これ以上飲んでいたら本当にどうにかなってしまいそうで、私は慌ててストローから口を離した。同時に、ハチマンもストローから離れる。

 

 互いに顔を見合う。湯気が出そうなほど顔を赤くしたハチマンがあまりにも可愛いから、自然と身体を乗り出してしまう。そっと彼の頬に手を添える。びくっとした彼の唇がジュースで少し濡れている。そう、ちょっとそれを拭うだけだ。だって手元にティッシュがないんだからしょうがないじゃないか。そう言い訳をして唇を重ねようとして――

 

「はい、ストップ」

 

 ディアベルに思いっきり止められた。

 

 なんだよ、と睨みつけてやると、若干身体を引いたディアベルが困ったように笑った。

 

「それ以上やると、ハチマン死にそうだよ?」

 

 そんな馬鹿な、と思いながらハチマンを見て、絶句。本当に死にかけていた。真っ赤な顔のまま、ソファーの上でぐったりとしながら天井を仰いでいた。

 

 私は慌てて声を掛ける。

 

「は、ハチマン?」

 

「あ、アルゴ……公衆の面前でそういうのやめてくれ。恥ずかしくて死ぬ」

 

 きょとん、と私は首を傾げる。つまりは、

 

「誰もいなければいいの?」

 

「そういうことじゃねえよ」

 

 やっぱ駄目か……。やっぱりハチマンはガードが硬い。一体彼は何と戦ってそんな結界を身に付けたんだろう。是非とも教えてもらいたい。

 

 しばらく天井を見ていたハチマンが、ピーナッツケーキに手を伸ばす。私もチョコレートケーキを食べようとして、途端、彼の頭がテーブルに落ちた。続いて食器が転がる金属音。彼が突然意識を失ったように、テーブルに伏したのだ。私は慌ててテーブル越しに彼の名を叫ぶ。

 

「ハチマン? ハチマン!」

 

 ディアベルも声を掛けながらハチマンの身体を揺する。彼は起きない。

 

 背筋に氷柱でも刺さったように、私の身体が一瞬にして強張った。

 

 なんで? どうして?

 

 そればかりが頭の中で回っていて、ハチマンの名を呼びながら私は泣きそうになった。

 

 やがて、ハチマンが額を押さえて起き上がる。その顔は、アバターだというのに病人のように青白く見えた。そこに滲んでいた疲労に、私はすぐさま理由が思い至る。

 

 ――サキちゃんのために寝る間も惜しんで動いている。

 

 きっとろくに寝てもいないのだろう。なにせ、ハチマンから来るメッセージの時間で、酷いときには夜中の三時に来ていたこともある。起きて時間を見たときにはびっくりしたものだ。間違いなく、彼はそれを毎日続けている。罪悪感と共にそれを飲み下し、理由を見つけるために必死になって動いている。

 

 なら、私にできることはなんだろう。私はハチマンに何をしてあげられるだろう。

 

「あー、大丈夫だ。なんかぼけっとしてたらしい」

 

 ハチマンが疲れたように言う。ディアベルがそんな彼に水を差し出した。

 

「そんな風に見えなかったよ。疲れているんじゃないか? 最近無理してるんだろう?」

 

 無理どころの話じゃない。社畜もびっくりの労働をしているに違いないのだから。私は胸に手を当てて息を吸い込む。失敗してもいい。拒否されても構わない。心配なんだから、これくらいしてもいいんだと自身を騙すように何度も心の中で唱えて、口を開く。

 

「ハチマン、うちに来ない?」

 

「は?」

 

 呆けた声でハチマンが答えた。

 

「だから、うちに来て」

 

「おい、疑問系から若干命令形に変わったぞ? なに? 強制なの?」

 

「うん、強制。うちに来てよ。そして休んで」

 

「別に俺は疲れてなんて――」

 

 その先を言わせるつもりはない。引っ張ってでも連れて行く。

 

「疲れてるでしょ? 精根尽き果ててるでしょ? うちに来てよ。お願いだから。心配なんだよ」

 

「おい、こう見えても俺の夢は専業主夫だぞ。んな疲れるまで働くかっつーの」

 

 あくまで平然を装うハチマンの手を握る。彼はすぐに振りほどこうとするも、力が出ないのか殆ど動きもしなかった。

 

「こんなザマで疲れてないって言える?」

 

 ハチマンが黙る。それをいいことに、私は畳み掛ける。

 

「お願い。心配なの。どうしようもなく心配なの。それが理由じゃ、ダメ?」

 

 これは、善意の弾丸だ。ハチマンにとっては迷惑なだけかもしれない。私のエゴを満たすためだけかもしれない。だけど、このまま彼の手を離したら、きっと遠いところへ行ってしまう。

 

 ハチマンが私の手をやんわりと握り返してきた。

 

「悪い。少し甘えさせてもらうわ」

 

「うん、そうしてくれると私も嬉しい」

 

 一度手を離して、私は席を離れる。ハチマンの隣に寄り添うようにして、彼の手を再び握った。彼がディアベルを見る。

 

「ディアベル、悪いがサキに伝言頼む。用事があって寄れそうにねえって」

 

「ああ、分かった。ゆっくりするといいよ」

 

 ディアベルが頷く。私はそれを見届けると、ハチマンの身体を支えるようにして足を踏み出した。小さな声でハチマンが言う。

 

「アルゴ……悪い」

 

「いいよ。ハチマンの為なら、私はなんだってするから」

 

 

 

 主街区《ラーヴィン》の宿の一室に、私が間借りしている部屋はある。中央に置かれたベッドに、私はハチマンを横たわらせた。彼は店内で言葉を発して以来、口を開くことはなかった。相当疲れていたのだろう、横になった途端、規則的な寝息が私の耳に届いてきた。

 

 ベッドの脇に座って、ハチマンの髪を撫でる。

 

「なんでそんなに働くかなあ」

 

 ひとりぼやく。ハチマンは、はっきり言って面倒で複雑な性格と思考体系をしている。だから内面を読み取ろうとしても分からないし、表層から感じ取ることもできない。でも、唯一分かるのは、サキを大事に思っていることだ。彼女のためならば、彼は疲れを無理やり捨ててでも働いてしまう。それが恋なのか別の感情なのかは分からない。だけど、それが私にとってはどうしても悔しくて、醜い嫉妬で胸が焦げそうだ。

 

「我ながら最低だなあ」

 

 天井を仰いで、ぽつりと言う。

 

 恋は素敵なものだという言葉を訊いたことがある。そんなことを言う連中にいまの私の心を見せてあげたい。どれだけ嫉妬に狂っているか、どれほどおぞましい感情を押し殺しているか分かるはずだ。恋なんて、こんなにも醜くて汚らしい。

 

 だけど、それを向けるべき相手があのサキだから。美人で素敵で可愛くて、思わず甘えたくなってしまう包容力を持つ彼女だから、負けても仕方ないかと諦観にも似た気持ちも生まれてしまう。

 

 黙ってはいられないかな。

 

 一度嘆息して、私はメッセージウインドウを開いた。サキに対し、ハチマンが倒れたから自分の宿で休ませている旨を伝えておく。返信はすぐに来た。

 

 ――すぐ行く。

 

 まったく、サキもハチマンのこととなると、普段見せている気だるさがいとも簡単に吹き飛ぶ。どうせ五分以内に来るだろうな、なんて思っていると、僅か二分後に玄関のドアをノックする音が響いた。

 

「アルゴ、あたし。サキだよ」

 

「ん、すぐ開けるヨ。でもハチマンが寝てるから、静かにネ」

 

 ドアを開くと、肩で息をしたサキが部屋着姿で立っていた。もう、取るものとりあえず駆けつけてきたといった様子だ。背後で眠っているハチマンの姿を見て、サキがほっとしたように壁に身体を預けて、ずるずると床に腰を落とした。

 

「安心していいヨ。放って置いたらまたどこか行きそうだったから、無理やり連れてきたヨ」

 

 私が差し出した手をサキが弱々しく掴む。

 

「ありがとう。迷惑掛けたね」

 

「なんカ、夫を助けられた妻の科白みたいだネ」

 

「そういう冗談を訊けるほど余裕はないよ。でも、大事になる前にあいつを助けてくれてありがとう」

 

 私の手に縋るように両手で掴んだサキが、頭を下げて感謝を捧げた。さっきまでの嫉妬が簡単に消えてしまうくらい、本当に素敵な女の人だ。

 

 ぽん、とサキの肩を叩く。親指でくいっと奥の空き部屋を指差すと、彼女はすぐに悟ったかひとつ頷いた。私はサキを連れて空き部屋に入り、静かに扉を閉める。

 

 本当に何もおいて無い、四畳程度の小さな部屋だ。椅子も無いから床にじかに座ると、サキも私の前で腰を落とした。

 

「なにか話でもあるのかい?」

 

 私は無言で頷く。これからするのは、いまの中途半端な関係を崩す儀式だ。一種の決意表明でもあり、彼女と争う覚悟を決めるための言葉だ。

 

 私は大きく息を吸った。

 

「サキちゃん。私はハチマンが好きだよ」

 

 サキが穏やかに微笑む。

 

「知ってるよ。一層で言ってたじゃない」

 

「いいの? このままだと私、ハチマンを取っちゃうよ?」

 

 平静だったサキの瞳が、左右に揺れた。

 

「それは……あたしが決めることじゃないよ。ハチマンが自分の心で決めることだよ」

 

「もう一度訊くけど、本当にいいの? 私、これでもかってくらい積極的になるよ? もしこれでハチマンが私のことを好きになったら、もうサキちゃんと今みたいにコンビを組めなくなるかもしれないよ? 本当にただの依頼人と請負人、それだけの関係になっちゃうよ? それでもいい?」

 

 サキの表情が強張る。身体のネジが緩んだように、彼女の身体がゆらゆらと揺れる。きっと、未来予想図を想像して震えているのだと思う。

 

 腕を抱いたサキが、搾り出すようにして、言った。

 

「それは……嫌だね……」

 

「私はクリスマスに告白する。そう決めてる。サキちゃんはどうする?」

 

 困ったようにサキが眉を下げる。

 

「私は、自分の感情もよく分かってないんだよ。恋なんて、したことないから」

 

 まったく、ハチマンと同じくらい、サキも面倒な性格をしている。お腹の底から這い出てくる深いため息を吐いて、私は彼女に問う。

 

「ハチマンを取られるのは嫌?」

 

「嫌……かな」

 

「ハチマンの隣にずっといたい?」

 

「できれば、そうありたいかな」

 

「例えば、サキちゃんの前で私とハチマンがすっごく濃厚なキスをしてたら、どう思う?」

 

「それは、あまり想像したくないかな……」

 

 私は、にんまりと笑って見せる。

 

「サキちゃん、それって恋となにが違うの?」

 

「どうなんだろう?」

 

 思わずずっこけそうになる。この女は、どうして変なところで鈍感なんだ。いや、いいんだよ? そんなことで悩んでいる間に私はハチマンを取っちゃうから。でも、それはきっとダメだ。サキとは、正々堂々真正面からぶつかる必要がある。だって、彼が一番に信頼を寄せているのは、彼女なのだから。

 

「サキちゃん、それはもう恋だよ。もうなんか面倒だから恋にして。さっさと恋しちゃって。あたしはハチマンに恋してる。はい、復唱!」

 

 え? え? え? とサキが首を左右に傾げる。可愛い。でも生半可な態度は許さない。

 

「あたしはハチマンに恋してる。はい、復唱!」

 

 私の声に、サキの背筋がぴんと伸びる。

 

「あ、あたしは、ハチマンに……こ、恋してます」

 

「ワーオ、じゃあ私たちはこれでライバルだね」

 

 とりあえずとばかりに、私は胸の前でぱちぱちぱちーと拍手をしておく。対してサキは額を抱えて力が抜けたように項垂れている。

 

「なんだろう、すごい騙された感があるんだけど……」

 

「まあ、いいじゃん! これで晴れて私もハチマンに積極的になれるよ!」

 

「あんたは一層のボス戦後から積極的じゃないか……」

 

 そうだったっけ、とうそぶいてみせると、サキが呆れてものも言えないように首を振った。

 

「あんた、なにかとつけてハチマンに抱きつくし、腕を抱えるし、見ててハラハラしてたんだからね」

 

「そういうサキちゃんは何もしなかったね。この臆病者め!」

 

「あんたね……」

 

 もう何も言いたく無いとばかりに、サキは片手で頭を抱えた。偏頭痛持ちだろうか。大変だ。頭痛の原因はきっと私だから、少しは申し訳なく感じる。

 

「まあ、お互い気持ちも確認できたし、これからは正々堂々戦おう!」

 

 私がサキちゃんに拳を突き出す。彼女はそれを見て苦笑すると、同じく手を握って私の拳に優しく触れた。

 

「なんだかね、あんたの思惑通りに進んでる気がするよ」

 

「当然だよ。ハチマンを手に入れるためなら私はなんでもするから」

 

 そう言って、私はとびっきりの笑顔でサキに向けた。

 

 

 

翌朝、長い眠りについていたハチマンが目を覚ました。彼はまぶたを開いた瞬間、なぜか「知らない天井だ」と呟いた。昨日見ているはずなんだけどなあ、と思いながら、私はその姿をすぐ傍で観察している。昨日サキが帰った後、情報屋の仕事を終えた私は、ベッドを彼に占領されているならいっそ一緒に寝てしまえとばかりに、布団の中にもぐり込んだのだ。

 

 ハチマンはまだ私に気づかない。ぼけーっと天井を仰いでこちらに寝返りを打つ。ばっちし私と目が合った。途端、彼の身体がバネみたいに大きく弾んだ。

 

「うおっ! おまっ、なんでいるんだ!?」

 

 んーと背を伸ばしながら私も起きる。

 

「なんでとは酷いなあ。昨日ハチマンをここに連れてきたのは私なのに」

 

 はっとしたようにハチマンが目を見開き、やがて、身体のあちこちを触り始めた。

 

「俺、何もされてないよな……」

 

「まるで酒に呑まれて男にホテルに連れ込まれた翌日の女みたいな科白だね」

 

「具体的すぎる比喩はやめてね」

 

 げっそりとした表情でハチマンが言い、私はころころと笑う。

 

「寝込みを襲うほど変態じゃないから安心していいよ」

 

「寝込みじゃなきゃ襲うような奴の科白だな」

 

 にやり、と私は笑う。

 

「それはもう、当然」

 

 ハチマンの表情が固まる。天敵を前にした小動物のような怯えた顔だった。その様を見ているのはとても面白いが、納得はいかない。この男、私に好かれているという自覚がないんじゃないだろうか。とりあえず、釈明だけはしておこう。でないとこの男、本当に私に変態の烙印を押しかねない。

 

「冗談だよ」

 

「本当か?」

 

「冗談だよ」

 

「それはどっちの意味だ……」

 

「冗談だよ」

 

「話が通じませんね……」

 

 下らないやりとりが楽しくて、思わず噴出す。ハチマンも面倒そうな顔をしながらも、口許には笑みがあった。頭をガシガシと掻いた彼が、そっぽを向いてぽつりと呟く。

 

「まあ、あんがとな」

 

 おお、と思わず口を開く。ハチマンがお礼を口にすることなど滅多にないのだ。つまり、レアものだ。早速気分がよくなった私は、思わず無茶振りをしてしまう。

 

「ハチマン、明日デート行こう!」

 

「え? 明日? 明日はちょっと、アレがコレでほら、暇じゃないし」

 

「ハチマン、明日デート行こう!」

 

「その手が何度も通じると勘違いしてねえかこいつ……」

 

 まあ、助けてくれた礼もあるか、とハチマンがひとりごちて、仕方が無いといった風にため息した。

 

「分かった。じゃあ任せる」

 

 ぶっきらぼうな言葉に、わたしはにんまりと口角を吊り上げる。

 

「いいの? あんなことやこんなことをするデートプランにするぞ?」

 

 ぎょっとしたハチマンが私を見て両手を前に突き出す。

 

「待て! 分かった。俺も計画を練ろう! 俺は基本的に遊びに行くときはワクワクしながら綿密な計画を立てるタイプだ!」

 

「それはひとりのときだろ?」

 

「なんでこいつは俺の生態を把握してるんですかね? ハチマン検定何級だよ」

 

「いま一級に挑戦中だな」

 

「あるのかハチマン検定。ホント誰得だよ……」

 

 私はひとつ笑って、ごちゃごちゃとぼやいているハチマンの腕を伸ばした手で掴んで無理やり引っ張る。あわよくば、このままベッドに引きずりこんでしまいたい。

 

「ちょ、おま、なんなの? 昼間は襲わないんじゃなかったの?」

 

 驚いたハチマンが逆に腕を引いてその場で踏ん張った。互いに俊敏特化な所為か、男と女だというのに力が拮抗しあう。

 

「襲わないけど、イチャつきたい」

 

「なぜ俺はお前とイチャつかなきゃならないんだ」

 

「訂正、添い寝したい」

 

「ほとんど同じ意味だからね、それ」

 

 ぐぬぬ、と力を込めるが、ハチマンの身体はなかなか動かない。互いに全力を出しているからか、額に汗が滲んでいる。致し方ない、ここは裏技を使おう。

 

 眉を下げて瞳を潤ませ、ちょっと上目遣いにハチマンの顔を覗く。

 

「私と、添い寝したくないの?」

 

「あざとい」

 

 一撃で撃沈した。力を失った私の拘束からハチマンが逃れる。彼はふーふーと自分の腕に息を吹きかけていた。

 

 どうしてだろう。ティーン向け女性雑誌には、こうすれば男はイチコロだと書いてあったというのに、なぜ利かないのだろう。あれか、女の魅力が足りないのか。

 

 落ち込む私にハチマンが恐る恐るといった声で話しかけてきた。

 

「お前、キャラに合ってねえだろ。お前はなんつーか、もっと自然体な方がいいんじゃねーの? あれだ、一般男子の視点からの一般論だ」

 

 当然ぼっちの俺には当てはまらん、と胸を張ってハチマンが言う。それ自慢するところか、と突っ込みたくなるのを無理やり飲み下した。いまかなり良いヒントを貰った気がする。

 

「つまり、いつも通りに行けばハチマンは落ちる、そういうことカ?」

 

「お前、ホント俺の話を訊かないよな」

 

 とりあえずハチマンのぼやきは無視する。

 

 ふむ。今までの話を統合すると、どうやら私の責め方は間違っていたらしい。つまるところ、キャピキャピしたりあざとい演出は、ハチマンにとっては逆効果ということだ。なんだこの男、超めんどくさい。

 

「つまり、乙女っぽい女子は苦手と、そういうことだナ?」

 

「ああ、もうそれでいいよ」

 

 ハチマンが諦めきった声で言う。確かに、多少無理して乙女ぶっていた感はあるから、男らしい言葉遣いの方が私にとってははっきり言って楽だ。こちらがいいというなら、多少お姉さんぶるのもありだろう。

 

「なら呼び方はハー坊とハチマン、どっちがいいんダ?」

 

「やけに今日は責めるなお前。もうハチマンにしてくれ。坊やって歳じゃねえし」

 

「よし、決まりだナ。なら私の一人称はどっちがいいんダ?」

 

「昔に戻せ。どうにも慣れん」

 

「つまり、昔のオレっちが好みのタイプ、そういうことだナ?」

 

「もうなんでもいいです……」

 

 遂にハチマンが項垂れた。つまるところ、これで私は本来の私のまま戦うことができるわけだ。いいことだ。何事も自然体が一番だ。

 

 私はそのままベッドに寝転んで毛布を被る。ハチマンをちらりと見ながら、蠱惑的な微笑みを湛えて布団をめくってみせた。

 

「一緒に寝るカ?」

 

「結局そうなるのかよ」

 

「そうじゃなくて、冗談抜きでまだ眠いんだヨ。遅くまで情報屋稼業で忙しかったからナ、殆ど寝てないんダ。できれば抱き枕としていてくれると結構助かるんだヨ」

 

 自然に欠伸をしながら私は言った。すべて事実なのだから、嘘は無い。多少、というか大半は欲求が混じっているのだけれど、それをハチマンが見抜けるかどうかは、さて、いかがなものか。

 

「何もしないか?」

 

「乙女かヨ。乙女はオレっちの方だゾ」

 

「まあ、今のお前なら何もしなさそうだし、俺もまだ寝たりんし……いいか」

 

 観念したのか、素直になったのか、はたまた新たに生まれた疲労と眠気に負けてしまったのか、ハチマンも欠伸をしながらもぞもぞと布団の中に入ってくる。やはり羞恥はあるのか、私に背を向けた状態だ。

 

 さすがにすぐに手を出すのも悪いから、私は天井を仰いでぼけっとする。たっぷり五分ほどそうやっていると、隣からシーツの擦れる音が聞こえる。寝付けないのだろうか、ハチマンはさっきからなにやらもそもそと忙しい。ふむ、まさか……。

 

「ハチマン、いくらオネーサンと添い寝してるからって、ひとり発情して自家発電シてるんじゃないだろうナ?」

 

「してねえよ。それにここじゃできねえからな?」

 

「そうカ、ナラ、オネーサンからひとつプレゼントしてあげよう」

 

 ハチマンの背中に私は身体を押し付ける。それなりの大きさの胸が、彼の背に押されムギュッと楕円になる。彼が思いっきり背を逸らした。そのままベッドから逃げようとするが、そうは問屋が卸さない。左腕でハチマンの胸をがっちし掴み、左足で彼の足を絡め取る。びくっと浮き上がった間を利用して右腕を即座に滑り込ませ、そのまま両手でハチマンの上半身をぎゅっと抱いた。我ながら惚れ惚れとする早業だ。

 

「なにやってんだお前」

 

「抱き枕にするっていったロ? このまま寝させてくれヨ」

 

 ぴとっとハチマンの肩に頬をくっつける。これはなかなか、抱き心地が良い。本当に眠れそうだ。

 

「俺はどうすりゃいいんだよ」

 

「そのまま寝ろヨ。オネーサンの抱き枕だゾ。天国見させてあげてるんだから感謝して寝ろヨ」

 

「いきなり横暴になりやがったなこいつ……」

 

「これがハチマンの好みダロ?」

 

 あざといよりはいいけどな、とハチマンが小さく言った。方向性はやはり合っているらしい。

 

 くわっと欠伸が零れる。そろそろ本格的に眠くなってきた。身体の前面に広がる男性の逞しさと温もりに抱かれて、意識がまどろんでいく。

 

「じゃ、オレっちは寝るヨ。抱き枕くんヨロシク……」

 

「はあ……おやすみ」

 

 



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いつだってアルゴは心配している 2

「ワーオ」

 

 目を覚まして出した最初の言葉がそれだ。寝たのはたぶん、朝の六時頃だったと思う。問題は起きた時間だ。

 

 いまの時刻は朝の五時。一時間巻き戻ったのかと思いきや、日付を見るとどうも一日おかしい。つまり、ほぼ丸一日寝ていたわけだ。決して捕えて離さなかったハチマンと共に。

 

「起きたかアルゴ。いいから俺を解放してくれ……」

 

 二十三時間も抱き枕にされていたハチマンが呻いた。私は慌てて彼を離す。のっそりと起き上がった彼は、全身の凝りを解すように首やら肩やらを回し始める。

 

「もしかして、随分前に起きてたのカ?」

 

 私の問いに、ハチマンが一度天井を仰いで「なんだったかなあ」と呟いたかと思うと、こう答えた。

 

「いま起きたところだ」

 

「デートに遅れて来た彼女に対する彼氏の科白みたいだナ」

 

「いやに具体的だな……」

 

 つまりだ、なかなか起きない私を気遣って、起きながらもずっと抱き枕に徹し続けてくれていたわけだ。これはなかなか、胸がキュンとする。身体の奥底から熱いものが込み上げる。好きが溢れるとは、たぶんこういうことなのだろう。

 

 思わず抱きつきたくなったけど、あざといと一蹴されそうだから止めておく。それよりウインドウを開いてメッセージのチェックが必要だ。今日一日の時間を捻出するために、一昨日から仕事仲間に諸々の依頼をしていたのだ。まさか丸一日も寝ることになるとは思ってもみなかったから、状況がどうなっているか見るのが少し恐ろしい。

 

 ウインドウを開き、大量に受信していたメッセージを確認していく。これも手馴れたもので、最初の頃こそ頭が痛くなるような分量であっても、最近では特に頭痛も感じない。慣れとは恐ろしいものだ。すべてのメッセージに目を通し終え、特別問題が起きていないことを知る。

 

 気になるのは軍の動きだ。どうにもはたから見ても少し活発気味らしい。仲間にもう少し深く探るよう依頼を投げておく。

 

 そこまで約三十分。わき目も振らずウインドウと睨めっこをしていた私は、まだハチマンが部屋にいることに気が付いた。てっきり隙をついて逃げると思っていたのだが……。

 

「まだいたのかハチマン?」

 

「帰っていいなら帰りたいんだが」

 

 その答えの意味を察し、私はにんまりと笑う。

 

「つまり、オネーサンとのデートが楽しみで逃げられないと、そういうことカ?」

 

「ああ、そうそう、世界一可愛いよ」

 

 ものすごい適当で平坦な声が返って来た。まるでいつも妹に言っているような科白だ。

 

「ハチマン、そういう言葉はもっと情感たっぷり込めて言わないと意味がないゾ?」

 

「裏の意味を読み取ってくれ」

 

「好き好き大好き超愛してるアルゴ?」

 

「お前、行間を読めないタイプだな」

 

 長くため息したハチマンが頭をガリガリと掻く。

 

「で、どこ行くんだ?」

 

「オレっちに決めさせていいのか?」

 

「まあ、あれだ。迷惑掛けたしな。色々と、礼とか、ほれ、そんなんだ」

 

 そっぽを向きながらハチマンが言う。少し照れているのか、頬がほんのりと朱に染まっていた。思わず笑いそうになって、必死になってそれを堪えた。

 

「それじゃ、とりあえず着替えたいんだけど、外出てもらって良いカ? すぐ終わるヨ」

 

 あいよ、とだけ言ってハチマンが部屋を出る。ひとりになって、急に部屋に静寂が戻って来る。部屋で過ごすのはいつだってひとりだったから、こういう空気を感じると、やっぱり少し寂しくなる。

 

 あまり待たせても悪いから、ウインドウから適当な服を引っ張り出して装備をして、やっぱり指が止まる。デートなのに服が適当とはこれいかに。自分の姿を客観視すると、いつものフードにいつものインナー。そしていつものダボったいパンツ姿だ。これはなかなか、色気がなさ過ぎる。

 

 でも、あまりに女女した服装にすると今度はハチマンが嫌がりそうだ。悩ましい。悩ましいが、ここはいつものスタイルで行こう。今のままでも十分意識させられているようだし、あまり急激に責めると今度は逃げていってしまいそうだ。ジャストな感覚が掴めるまでは、のんびり行こう。

 

 ひとまず服装は変えずに部屋を出ると、部屋のまん前の廊下に背を預けたハチマンが待っていた。

 

 じっと私の姿を下から上まで眺めたハチマンが一言。

 

「ん、いつもの格好だな」

 

「お洒落した方がよかったカ?」

 

「気合入れられても困る。俺はこれくらいしか服持ってねえしな」

 

 深い臙脂のコートに紺のマフラー、黒のインナーに同色のボトム。全くもっていつも通りのハチマンだ。なら隣にいる私もいつも通りがきっといい。

 

「それじゃあ、行こうカ」

 

 手を引こうと思って、やっぱりやめて先導するように前を歩く。数歩後ろをついてくるハチマンを肩越しに見て、にんまりと笑いながら宿を出る。

 

 《ラーヴィン》の街路に出てると、朝早いからか人の気配はまばらだ。見受けられるのは、朝早くから攻略する面々くらいか。それを眺めていると、ハチマンが声を投げて来た。

 

「で、どこいくんだ?」

 

 私は振り返って後ろ向きに歩く。

 

「朝ゴハンまだダロ? まずはゴハン食べようカ」

 

「おう、それは賛成だ」

 

「この前の喫茶店に行こうゼ。あそこ朝食メニューもイけるんダヨ」

 

「ま、俺は着いていくから好きにしてくれ」

 

 ハチマンを連れて路地裏に入る。何度か角を曲がって、一昨日訪れた喫茶店に入る。NPCの店は二十四時間営業だから、こういうときは非常に便利だ。来客を告げる鐘を訊きながら、奥まった席へ向かう。ハチマンと対面で座って、さっそくとばかりにメニューウインドウを開く。どうしても目線があのジュースに向かってしまうが、昨日から自然体で行くと決めた以上、普段通りの振る舞いを心がける。まあ、いつものコーヒーとBLTサンドのセットでいいかと適当に注文をしておく。彼は既に注文を終えていたか、頬杖を付いて窓の外を眺めていた。

 

「サキちゃんが心配してたゾ」

 

「ん、ああ……」

 

 ハチマンがちらりと私を見るが、すぐに視線を外へ飛ばした。朝日に照らされた彼の横顔には、迷いと罪悪感めいたものが滲んでいるように見えた。

 

「だろうな……」

 

「まだ、あのことは話せてないのカ?」

 

 瞑目したハチマンが静かに頷いた。私もほっと息を吐く。

 

「そんなことでハチマンを嫌うほどサキちゃんは狭量じゃないゾ? もう話してもいいんじゃないカ?」

 

「分かってるよ」

 

「タイミングが掴めないカ」

 

「ま、そんなとこだ」

 

「相変わらず面倒な性格ダナ」

 

「いいだろうが、こういう俺が案外好きなんだよ」

 

「そうダナ……」

 

 出した話題が悪かったか、湿っぽい雰囲気になる。会話の継ぎ穂を探そうにも取っ掛かりが無くて、私もなんとなく窓の外を見る。人通りのない路地裏を見ても、特に面白いものはない。一分程度沈黙を積もらせていると、ハチマンが口を開いた。

 

「なあ、アルゴ」

 

「なんだイ?」

 

「理由を人に預けるのは、人としてどうなんだろうな」

 

 ハチマンの視線は窓へ向いたままだったけど、その声は真剣さを固めて塗りこんだように、硬かった。

 

「別にいいダロ。それくらいのことで悩んでたら、人類の大半は悩みに潰されるゾ」

 

「それは嫌な世界だな」

 

「ハチマンは妙なところで潔癖だからナ。動く理由が自分の中に無いのは卑怯だって思うんダロ?」

 

「まあな」

 

「まあ、オレっちはいつも好奇心で動いてるし、情報屋もその延長ダ。でもそんなプレイヤーばかりじゃナイ。なにかしら、誰かしらに理由を預けて戦っているプレイヤーだってイル。ひとりだけで理由を抱えて戦えるほど、人は強くないダロ」

 

 ハチマンの目が細まり、唇が震えた。

 

「ぼっちは強くなきゃなんねえんだよ。誰も助けてくれないから、ひとりで何でもやんなきゃならなねえ。そうやって俺は生きてきた。いまさら変えられねえよ」

 

「いつも思うんだけどナ、ハチマンのどこがぼっちなんだ? いまハチマンの前にいるのは誰ダ? まさか、イマジナリーフレンドとか言わないヨナ?」

 

 ハチマンの視線が私に向く。その瞳はどこか驚愕したようで、瞳孔が開いていた。

 

「自覚ないのカ? ハチマンの周りには、サキちゃんがいるし、オレっちもいる。キー坊やアーちゃん、ディアベルもイル。それだけ友人を持ってぼっちを自称するのはどうなんダ?」

 

 何も言わず、ハチマンは私を見つめている。

 

「あまりオレっちを悲しくさせないでくれよ。そうぼっちぼっち言われると、友人にさえ見られてないと思って泣きたくナル」

 

「悪い……そんなつもりじゃない」

 

「分かってル。一種の自己防衛みたいなものダロ? 他人に期待しなければ裏切られることはナイ。他人を好きにならなければ、失望することもナイ。そうやってがっちがち壁を作って固めたのがいまのハチマン、違うカ?」

 

「まるで見てきたかのように言うんだな」

 

「見てれば分かるヨ。サキちゃんだって、似たようなこと思ってるんじゃないカ?」

 

 途端、ハチマンの表情に苦悶が生まれ、掻き毟るように胸を掴んだ。

 

「別に否定はしないヨ。ハチマンの生き方だからナ。ただ、そこにオレっちがいないのは、少し寂しいだけダヨ」

 

「そんなつもりはない、と思う」

 

 私は笑う。たぶん、これ以上ないくらい泣きそうな顔で。

 

「ハチマンはいつも自分ひとりで完結してル。だから自己犠牲を自己犠牲と思わないし、一層でやったみたいなことが平気で出来ル。だから傍にいる私は悲しイ。少しは信用してくれヨ。裏切らないって言ったダロ?」

 

 ハチマンが頭を落とした。前髪が垂れ下がり、表情がよく見えない。言いすぎてしまっただろうかと思って、少し慌てる。

 

「ごめん、ちょっと変なこと言っちゃったナ。折角のデートだし、楽しく行こウ」

 

 無理やり声音を上げて、元気付けるように言う。ハチマンはただ、おう、とだけ返して来た。

 

 失敗した。ハチマンは、内面に土足で入られることをたぶん嫌っている。それをいま、私は無理やりやってしまった。失敗だ。最悪だ。

 

 NPCが注文を届けに来る。テーブルに広げられたのは、ふたりの温度より遥かに落差のある、暖かい食事だった。

 

 

 

 重い沈黙のまま食事を終え、私たちは店を出た。入るときはあんなに楽しかったのに、出るときはこんなにも気分が重たい。私がハチマンへ踏み込みすぎた所為だ。彼はなんでもない風を装っているが、いつもより目の濁りが深くなっている気がする。きっと傷つけた。間違ったことを言ったつもりはない。彼だって、自覚はしている。だけど、入ってはいけない領域に足を入れる理由にはならない。

 

 後ろを歩くハチマンに振り返る。

 

「ハチマン、ごめんナ」

 

「気にすんな。ただ……小町とのことを思い出した」

 

「妹さんのことカ?」

 

 マフラーに顔を埋めてハチマンが頷く。その瞳は遠いどこかを見ているようで、少し虚ろだった。

 

「ここに来る前、あいつと喧嘩した。あんまりしつこく訊いてくるもんだから、キレちまってな。結局、仲直りできずそのままだ」

 

「心残りのひとつカ?」

 

「そうだな……というか、まだ俺死んでないからね?」

 

「すぐにでも死にそうな生活送ってる奴が言う言葉カヨ」

 

「まったく、働きたくねえ」

 

 いつもの口癖も、いまのハチマンが言えば説得力は皆無だ。夢は専業主夫、口癖は働きたくねえ。その実体は、寝る間も惜しんでサキのために動き回るSAOきっての働き者。まったく、どこの戦隊ヒーローだ。

 

「で、次はどこいくんだ?」

 

「ちょっと行きたいところがあるんダヨ。最前線に潜り続けてると、たまにゆっくりしたくなってナ。丁度良いところを知ってるンダ」

 

「なら転移門だな」

 

 ひとつ頷いて、少し歩幅を小さくする。なんとなく、ハチマンの隣に並びたくなった。それなのに、やっぱり彼も同じく足を緩めるから、距離は永遠と縮まらない。まったく、面倒な男だ。

 

 ふと、背後の足音が止まった。私も足を止めて背後に向けていた注意を前方へ投げると、見知った顔がこちらに歩いてくる姿があった。

 

「サキちゃん……」

 

 私たちに気づいたサキが、曖昧な表情で笑った。近づこうか離れようか、そんな葛藤を瞳に宿らせて、結局歩み寄ることを選択したように歩を進める。

 

 私の前で止まったサキが柔らかく微笑む。

 

「おはよ。それに、ハチマンも、元気そうで良かったよ」

 

 背後にいるハチマンが、詰まった声で返答する。

 

「お、おう……心配かけたな」

 

 サキがゆっくりと頭を振る。

 

「あんたが無事ならいいよ。ただ、無理はやめてくれると私は嬉しい」

 

「善処するわ」

 

「政治家みたいな言い方するね、あんた」

 

「俺が政治家になったら働き方改革で働かなくていい日本を作る」

 

「日本が崩壊するね……。あんたには投票するのはやめておくよ」

 

 なんだか、熟年夫婦みたいなやり取りをされて、私はひとり取り残される。やっぱり、サキには適わないんじゃないかという負の感情が刺激されて、大きくなっていく。

 

 だけど、サキは素敵な女性だから、すぐに察して口を開く。

 

「じゃ、あたしは行くよ。今日は最前線にでも潜ってくるよ」

 

「ひとりで大丈夫か?」

 

「あんたに鍛えられたんだから、大丈夫だよ。どうせアスナとも会うだろうしね。何かあったら連絡するから」

 

 ひらひらと手を振ってサキが歩き出す。その背中に私は思わず声をかけた。

 

「サキちゃん!」

 

 顔だけで振り返ったサキが私を見る。

 

「うん?」

 

「あの、オレっち……」

 

 言いたいことはあった。だけど、それを言語化しようとすると、なにを言ったらいいのか分からなくなってしまう。もごもごと口だけを動かして、それに付随するはずの声が何も出てこない。喉に蓋でもされてしまったように、言葉が全然出てこない。

 

 サキが優しく微笑む。

 

「いいよ。ハチマンをよろしくね」

 

 このとき、サキは何を悟ったのだろう。なにを想ったのだろう。私自身、言葉にできなかった感情の波濤を、彼女は一体なんと感じたのだろう。

 

 サキが行く。私はその後ろ姿を呆然と眺めている。ハチマンは何も言わなかった。ただ、私の隣に立っていた。

 

 私は間違えたのだろうか。決定的に、壊滅的に、何かとんでもないことをしてしまったのではないか。

 

 ハチマンはサキのために動く。その中で、理由を探している。サキはハチマンを大切に思っている。そのふたりの間で、私は異分子だ。がっちりと噛み合ったこのコンビを破壊する、まるで病魔にも似た存在。

 

 私はハチマンが好きだ。そして、サキも好きだ。だからこそ、いま私が立っている場所は本当にここで良いのか。言いようのない不安が足から忍び寄ってきて、私を絡め取ったように、身体が動かない。

 

 行くか、とハチマンが言った。声音はいつもと変わらずやる気の感じられないそれ。でも、その中に少しだけ寂しさがあった。切なさがあった。それを生み出したのが私だと思うと、泣きたくてしょうがない。

 

 アルゴ、と再び声を掛けられる。緩みそうになった涙腺にぐっと力を入れて、普段の表情でハチマンを見る。彼は微塵も覇気の無いいつもの表情で私を見ていた。

 

 ひとつ頷いて見せて、私は歩く。一歩後ろをハチマンが着いてくる。これがいまの私たちの距離感だ。これを縮めれば縮めるほど、大切なものをひとつひとつ取りこぼしていく。

 

 大人になることは、失うことだと訊いたことがある。

 

 もしかしたら、恋も同じなのだろうか。

 

 大切なものを無くしていって、それでも欲しいと手を伸ばして掴まざるを得ない、そんな強迫観念染みた思いが恋なのだろうか。

 

 なんて、おぞましい……。

 

 考え事をしている内に転移門までたどり着き、転移先を告げる。もはや馴染み深くなった光と共に、視界が薄くなっていく。

 

 転移が終わると、そこには長閑で緑溢れる光景が広がっていた。第二十二層主街区《コラルの村》だ。田舎を彷彿とさせる木造りの民家が立ち並ぶこの村を眺めつつ、私たちはのんびりと南へ歩を進める。人影は無い。ただ、時折NPCがいるくらいで、静かで、自然の音だけが耳朶を打つ。

 

「ここが来たかったところか?」

 

 一歩後ろからハチマンが口を開いた。私は振り向かずに蒼穹を仰いで答える。

 

「平和なとこダロ? たまにはこういうとこに来たくてナ」

 

「まあ、毎日生きるか死ぬかの瀬戸際を歩いてりゃそんな気分にもなるわな」

 

 多様な色に溢れた道を歩く。どこを見ても色が綺麗だから、渦巻く汚い心が洗濯されていくようで、心が躍った。

 

 いままでの嫌な気分を吹き飛ばすように、私は大きく伸びをして深呼吸した。体内に入る綺麗な空気に心まで洗浄されて澄み切っていくようだ。

 

「今度、もう一度来ないカ? ランチバスケットを持って」

 

「船着場でドタマぶち抜かれる奴の科白に似てるな……」

 

 私はくすくすと笑う。

 

「生憎オレっちの生まれは日本でネ。東欧じゃないよ」

 

「知ってるのかよ……」

 

 隣を歩きたくなって、私は歩みを遅くする。ハチマンは風景を見ていて気づいていないのか、速度を落さず歩いているから、私はそっと彼の隣に寄る。

 

「なあ、ハチマン。なにかして欲しいことはあるカ?」

 

 視線を外に飛ばしたままハチマンが即答する。

 

「ねえな。される理由もねえし」

 

「まあまあ、オネーサンからの優しさだと思って言ってごらんヨ」

 

 ふむ、とハチマンが空を仰いで思案顔をする。何か思いついたように前を向いて、私がいないことに気づいたか、隣を見てぎょっとして飛び退いた。

 

「え、なに? いつの間にそこにいたの? 瞬間移動できるのお前?」

 

「フフフ、オレっちはまだあと二回は変身できるゾ?」

 

「お前何人だよ……」

 

「冗談はともかく、決まったカ?」

 

 ハチマンの足が止まる。私も二歩歩いて振り返る。一陣の風が吹く。彼のマフラーが風にたなびく。草原が波立つ。

 

 ハチマンが緊張するように僅かに唇を開く。その動きに、私の心臓が跳ねる。いつもと気配が違う彼の姿に、自然と胸が痛くなる。鼓動は狂ったように脈打ち、全身に血液を送り込んだように身体が熱くなる。

 

 短く息を吸ったハチマンが、遂に言った。

 

 

 

「マッ缶が飲みたい」

 

 

 

 がくん、と私は頭を落す。え、なに、マッ缶?

 

 告白かと思ったじゃないか。

 

「あの甘ったるいやつカ?」

 

 切実な表情でハチマンが言う。

 

「マッ缶欠乏症なんだ。そろそろ飲まないと俺は死ぬ。禁断症状で死ぬ。だから飲みたい。作ってくれ!」

 

 最後の方は私に詰め寄って両肩を抑えてぶんぶんと振る始末だ。どんだけ飲みたいんだ、そのマッ缶を……。

 

「料理スキル取らないとなあ……。まあ、気が向いたらやってみるヨ」

 

 と言いつつも、私は頭の中でいらないスキルが無いか検索を開始する。とりあえず、適当に候補を挙げてすぐさまスキルスロットを弄る。気づけばニヤニヤしながら料理スキルを習得していた。やだ、恋って恐ろしい。

 

 そんな私の様子など露知らず、ハチマンがぼけっと景色を眺めて立っていた。おいおい、もう少し私を見てくれたっていいじゃないか。なんだか悔しくなってコートの裾を引っ張るも、彼は気づいた様子もただ前を見ていた。

 

 訝しんで私もハチマンの視線の先を見ると、ひとりの女性が歩いてきている姿があった。

 

 ハチマンを見る。彼の表情には明らかに見て取れる恐怖、そして後悔。

 

 視線を戻す。女性が立ち止まり、何か考え込むように顎に手をやったかと思うと、早足でこちらにやって来る。

 

「どうしタ? ハチマン?」

 

 声を掛けても反応がない。僅かだが、ハチマンの指が震えていた。もう一度彼の顔を見て、前方の女性を見る。女性はどんどん近づいてくる。ハチマンの異常もそれに比例して大きくなっていく。

 

 やがて、女性が私たちの前で立ち止まる。切らした息を整えるように肩を上下させて、それでも凛とした瞳はハチマンへ注がれている。

 

 一瞬、私は作り物の彫刻か人形が意思を持って動いたのだと思った。それほどまでに、綺麗な女性だった。私と比べるのすらおこがましいほど、美しい女性だった。

 

 ややあって、女性が言った。

 

「比企谷くん……久しぶりね」

 

 ハチマンが震えた声で返す。

 

「雪ノ下……」

 

 雪ノ下という女性は、ハチマンを知らない名で呼んだ。きっと、現実での彼の苗字だろう。つまり、彼女は現実での知り合いということだ。サキと同じ、私の知らない彼を知っている人物。

 

 雪ノ下が私に視線を向けた。サキにも通じる、淡い微笑だった。

 

「あなたは……?」

 

「私はアルゴ」

 

 短く答える。このまま言葉を続ければ、なにを言ってしまうか分からなかったから。雪ノ下ははっとしたようにまぶたを広げる。

 

「あなたが情報屋のアルゴさんね。私は、ユキノよ。よろしくね」

 

 ユキノが私からハチマンへ身体を向ける。

 

「比企谷くん……いえ、ここではハチマンくんだったわね。噂は聞いているわ」

 

「……そうか」

 

 ハチマンの声のトーンがどんどん落ちていく。まるで奈落の底へ転がっていくかのように。

 

 ユキノが目を伏せる。何かを堪えるように、苦しんでいるように胸を掴んで、それからまたハチマンへ視線を戻す。彼の顔が強張っていく。

 

「あなたに、言いたいことがあったの。今日会えたのは偶然だけど。それでも、きっと私があなたに告げるべき日が来たということなのだと思うから」

 

「な、にを……」

 

 掠れたハチマンの声は、私には悲鳴のように訊こえた。もう何も訊きたくないんだという、幼子が必死に耳を塞いで泣き叫ぶ声に訊こえた。

 

 ユキノという子にこれ以上喋らせてはいけない。本能で分かっていたのに、そこには現実での繋がりと仮想現実だけでの繋がりという壁があって、私は前に踏み出すことを躊躇した。

 

 ユキノが言葉を続ける。きっと、ハチマンにとっては耐え難い声で。

 

「あなたに――」

 

 言葉が始まった瞬間、臙脂が動いた。ハチマンが身体を翻して走り出した。まるで、怖いものから必死に逃げる子どものように。

 

 私は動けない。ただ、呆然と彼の逃げる後ろ姿を見ているだけしかできない。彼の姿がどんどん小さくなっていく。

 

「比企谷くん! 待って! お願い!」

 

 ユキノが叫ぶ。手を伸ばしたままの姿で、彼女がその場に崩れ落ちる。

 

 ああ、これが原因の一端か。

 

 静かに泣くユキノの姿を見て、私は一層でハチマンが言っていた言葉を思い出していた。

 

 ――どうせお前もああなる。あんな風に冷たい眼で、あるいは、あんな痛々しい笑みで俺を見ることになるんだ。そんなの、もうまっぴらだ……。

 

 理由は分からない。きっと、私には計り知れない何かがあって、結果としてユキノはハチマンの心を抉った。どちらが正しくて、どちらが悪いかなど知らない。だけど、私はハチマンの隣にいると言ったから。裏切らないと心に誓っているから。いまこそ、あのとき言った言葉を実践しよう。

 

「ユキノちゃん。なにがあったか、訊いてもいい?」

 

 ユキノが立ち上がる。目じりに堪った涙を拭って私を見る。弱々しい目だった。

 

「あなたは……彼のなに?」

 

「友人。それと、私の大切な人」

 

 そう、とユキノが目を伏せた。

 

「これは、私たちのことなの。あなたに教えることは……」

 

「関係無イ。言えヨ」

 

 声に怒気を滲ませて、私はユキノを見る。私たちのこと? 現実のことだから私は関係ない?

 

 ふざけるな!

 

 そんな理由でハチマンの心を抉って、私がそれで納得すると思ったか?

 

 でも、とユキノが顔を背ける。その姿を見ているのがあまりにもイラついて、私は彼女の胸倉を掴んで声を張り上げた。

 

「言えって言ってるダロ! いまのハチマンを知ってるのカ!? 知らないダロ! どれだけ帰る理由を欲しているか、どれだけ一生懸命探しているのか分からないダロ!!」

 

 ユキノが私を見る。その表情には極大の驚愕があった。

 

「サキちゃんに全部理由を丸投げするくらい、ハチマンには現実に帰る理由が無い! それがアンタだって言うなら、私は絶対に許さない!! だから言エ! いいから早く言エ――!!」

 

 ああ、とユキノが顔を覆った。再びその場に崩れ落ち、嗚咽しながら泣き始めた。その姿を私は見下ろしている。拳を握って、いまにも殴りかかりそうになるのを理性で何とか押さえつけている。

 

 ユキノの嗚咽が収まる。私を見上げる。私はただ、無表情で彼女を見下ろす。彼女は無言で立ち上がった。弱々しい瞳を向けて、言った。

 

「分かったわ……あなたに話す」

 

 そして私は、現実でのハチマンの姿を知った。

 

 すべてを訊いた。ユキノが知り得る事実を訊いて、私はすぐさま二十二層の転移門へ向かった。

 

 ハチマンの世界は、きっとひとりと身内だけで完結している。その中にあって、ふたりの人物が加わろうとしていた。それがユキノともうひとりの女の子。たぶん、彼は期待していたんだろう。彼女らは信頼に値すると思っていたのだろう。

 

 だけど、直接的な言葉を交わさず、迂遠なやり取りばかりしている間柄で、決定的な出来事が起きてしまった。そうだ、単なるコミュニケーション不足が原因だ。それでも彼の世界にヒビを入れるには十分すぎた。

 

 だから、ハチマンは帰る理由が見つけられなくなった。

 

 いまになってなお、ぼっちを自称しているのはそれが原因か。少しでも自分の世界に他人を入れてしまえば、また同じことが起こるかもしれないから。また壊れてしまうかもしれないから。そうやって予防線を張り巡らせて、人を近づけようとしない。下手に信頼を寄せれば今度こそ自分を見失ってしまうから。

 

 この予想が合っているのだろうか。人から訊いた話と、私が感じたハチマンの人柄を照らし合わせて出したこの結論は、間違っているだろうか。

 

 どちらでもいい。いま、ハチマンをひとりにしてはおけない。

 

 転移門から三十三層の《ラーヴィン》へ飛ぶ。その足でハチマンが借りているNPCの民家へ向かう。人目を気にしなければならない彼は、普通の宿に泊まることができない。だから人目を縫うようにして誰も知らないNPC民家を住み家とした。紹介したのは私だから、場所は知っている。

 

 目的の民家に入り、ハチマンが借りている二階へ上がる。上がった息を整えて、私はドアをノックした。

 

 返事が無い。

 

 もう一度ノックする。

 

 なにも訊こえない。

 

 怖くなった。ハチマンがいなくなってしまったように思えて、ウインドウからフレンドリストを開いてハチマンの居場所を検索する。彼の居場所を示す光点はここにあった。だから、彼はいまもここにいる。

 

 これが最後だと、ノックをする。

 

 声はない。物音ひとつしない。それでも、かすかに息が訊こえた気がした。

 

 この部屋はパーティさえ組んでいれば出入りは自由だ。でも、私とハチマンはパーティを組んでいない。だから私はこの部屋の中に入れない。

 

 ウィンドウを開き、ハチマンに宛てたメッセージを送る。

 

 ――ここを開けて。

 

 ただ一言にすべての感情を乗せた。返事はない。それでも、それ以上メッセージは送らずにじっと待つ。

 

 一時間か、二時間か。時刻はもう夕方になっていた。

 

 やがて、軋む音をたてながら、古びたドアが開いた。顔を上げると、普段より数段目を濁らせたハチマンが私を見下ろしていた。

 

「まだいたのか……」

 

「入っていいカ?」

 

「……勝手にしてくれ」

 

 ドアを開けたままハチマンが部屋の中に入っていく。私は恐る恐る部屋の中に入った。室内にはベッドと小さなテーブルしか置かれていない。その中で、ハチマンがベッドにも行かず、部屋の隅に腰を落としたかと思うと、膝を抱えて頭を落とした。まるで、自分の殻に篭るように。

 

 私は慎重に言葉を選ぶ。きっと、ひとつでも間違えればハチマンがどうにかなってしまう。

 

「ごめん、ユキノちゃんから全部訊いたヨ」

 

「そうか」

 

 短い返答。沈黙を壊すように私は言葉を続ける。

 

「ハチマン、現実でもあんななんだナ。まったく、想像した通りだったヨ」

 

「だろうな」

 

「でも、ハチマンらしいナ」

 

「俺らしいってなんだよ」

 

「なんだってひとりで解決してしまうところダヨ。ひとりで抱え込んで、誰にも言わずに自滅するところダナ」

 

「褒められてるのか貶されてるのか微妙なところだな」

 

「褒めてはないヨ。けど、貶してもナイ」

 

「俺は、間違ってたか?」

 

「そうだナ。間違ってたナ。ハチマンだけじゃない、みんな間違ってタ」

 

 ハチマンが顔を上げて、じっと私を見る。でも、と私は笑って言った。

 

「間違えたっていいじゃないカ。オレっちたち、子どもなんだし、間違えたことに気づいて、前に進んでいけばいいダロ? そんな深刻に捉えるナヨ」

 

「取り返しのつかない間違いもあるだろ」

 

「そうだナ。でも、ひとつだけ確かなことはあるゾ?」

 

「なんだよ」

 

 私は笑う。これ以上ない、自分で一番の魅力的な笑顔を浮かべて言う。

 

「オレっちは絶対にハチマンを裏切らないし、離れたりしないゾ? それだけは誓って本当ダ」

 

「無茶苦茶だな……」

 

「おいおい、忘れたのカ? これでもオレっち、ハチマンが大好きなんだゾ? 恋なんて盲目なんだから、理論なんてめっちゃめちゃだゾ?」

 

 ハチマンが乾いた笑い声をあげて顔を覆った。

 

「ここでお前に寄りかかったら、俺は最低だな」

 

「そうカ? 誰だってそんなときもあるダロ? というか、是非寄りかかって来いヨ! こっちは準備万端だゾ!」

 

 さあさあ、といやらしく笑いながら私はハチマンに近づく。目の前まで来ると、さすがに彼もぎこちなく笑みを浮かべて顔から手を下ろした。

 

「なんか、アルゴといると悩んでるのがバカらしくなってくるわ」

 

「そうダロ? オレっちといると特典が多いゾ?」

 

「どっかのセールスウーマンかよ」

 

「そうダナ、ハチマン選任のセールスウーマンだ。売り物はオレっちだゾ」

 

 そう言って、ハチマンを抱きしめた。彼は震える腕を私の背に回してきた。

 

「ほラ、オネーサンの胸の中なら泣いていいゾ」

 

「そうそう泣かねえよ」

 

「そうカ、ならオネーサンの胸をたっぷり堪能するがいいサ」

 

 うりうりうり~とハチマンの顔を胸に埋めさせる。ばたばたと彼が私の背中を叩いているが、気にしない。満足するまでやると、私は手の動きを止めて彼の頭に顎を乗せた。

 

「ほら、もうぼっちじゃないゾ? 寂しくないダロ?」

 

「……そだな」

 

「サキちゃんにも話せそうカ?」

 

「いい加減、話さないとな」

 

「ユキノちゃんとも話せるカ?」

 

 ハチマンの身体が強張る。彼があまりに子どものように縮こまっているから、私は赤子をあやす様に背と頭を撫でた。

 

「そんな怖がるなヨ。オネーサンも着いて行くカラ」

 

 ハチマンが私の背を掴む。自分から胸に顔を埋めてきたハチマンが、くぐもった声で言う。

 

「お前には情けねえとこばっか見せてるな」

 

「未来の妻相手なら大したことないじゃないカ」

 

 ハチマンが笑った。

 

「決定事項かよ」

 

「でも、正直惚れたダロ?」

 

「どうだろうな」

 

「オレっちはハチマンの情けないとこ見ても変わらないゾ。むしろ可愛いと思うくらいダ。惚れた弱みだナ」

 

「……アルゴ」

 

 ハチマンが腕を解いて顔を上げた。私と見詰め合う。距離は殆どなくて、吐息さえ触れそうな距離。彼の瞳が波立つ。色々な感情がない交ぜになって、混乱しているような色だった。

 

 だから私は、そっとその唇を塞いだ。

 

 すぐに離すと、ハチマンが顔を真っ赤にして私を見つめていた。

 

「答えはクリスマスの時に訊くヨ。まだ半年以上あるカラ、オレっちとしては、ゆっくり考えてくれると嬉しいナ」

 

「随分間を持たせるな……」

 

「どうせハチマンのことだから、ここまでされたらオレっちに責任取らないと~とか思うんダロ?」

 

 図星を刺されたようにハチマンが呻く。それも悪くない。とても良いんだけれど、きっと彼が良くない。きっと、今日のことをいつまでも引きずってしまう。そんな結末を私は求めていない。

 

「それはそれで嬉しいケド、ちゃんと考えて答えは出して欲しいヨ」

 

 ぽんぽん、と私は頭を叩く。ハチマンは恥ずかしそうにマフラーに顔を埋めた。

 

「今日も添い寝するカ?」

 

「間を持たせる癖に妙に積極的だなこいつ」

 

「それはそれ、これはこれって奴だヨ」

 

 私の言葉に苦笑したハチマンが、首を振った。

 

「いい。今日はひとりで考えるわ」

 

「何かあったら必ず呼んでくれヨ? つらいとか、苦しいとか、寂しいとか、些細なことでもいいからナ?」

 

「SAO一の情報屋の癖に、サービスいいなお前」

 

「ハチマン限定のアフターフォローって奴サ。特別サービスだから受けとくが吉だゾ」

 

 ひとつ笑って、私は立ち上がる。さあ、そろそろひとりにしても大丈夫だろう。

 

「じゃあ、オレっちは帰るよ。本当に、何かあったら呼んでくれよナ?」

 

「分かった。そんときゃ呼ぶわ」

 

 返事を受け取って満足した私は、名残惜しくも部屋を出た。

 

 そして時の流れは早いもので、諜報屋の仕事に忙殺されている内に二日が経った。

 

 朝の日課のメッセージ確認を行っていた私の視界に、とんでもない内容が飛び込んできた。その送り主はハチマンだっだ。その内容を見て、私は思わず声を上げた。

 

「サキちゃんが帰って来ない……?」

 



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いつだってアルゴは心配している 3

 サキの家の前まで行くと、ハチマンが私を待っていた。マフラーに埋もれた顔からは、表情はあまり読み取れない。ただ、彼の目が、いままで見たものよりも遥かにどす黒く濁っていた。

 

「どういうことダ?」

 

「昨日から連絡が取れない。たまにこういうこともあるから放っておいたんだが、今日来てもいない。キリトやアスナにも確認を取ったが、特に今日予定もないらしい」

 

 それだけを一気に言って、ハチマンが額を押さえる。

 

「検索も拒絶されてる。居場所が分からん……」

 

 私も即座に検索を掛けるが、検索を拒否されている。昨日から、ということを訊いて、もしかしたら一昨日に会ったときから家に戻っていないのではないかと考える。だから、きっとその原因はあのときにある。それが分かっているから、ハチマンも私を呼び出したのだろう。

 

「すまん、正直もう宛がない。アルゴの情報網で目撃情報を集めてくれないか?」

 

 分かっタ、と答えてウインドウを開き、情報屋仲間にメッセージを飛ばす。いくつも返答が返ってくるも、目撃情報はゼロ。焦燥が身体の奥底から突き上げてきて、私からもキリトとアスナへ連絡を取る。返ってきた内容はハチマンのときと同じ。ただ、アスナから一言妙な文言が入っていることだけが気になった。

 

 ――安全エリアを見つけたことを妙に喜んでいた、と。

 

 まさか、とは思う。ただ、それ以外に有力な情報は無し。

 

「ハチマン、迷宮区へ行こウ。安全エリアに、もしかしたら居るかもしれなイ」

 

「ここのか? まさか一昨日から篭ってやがるのか……」

 

「他に宛ても無イ。行くゾ」

 

「分かった」

 

 それだけ言って、私とハチマンが迷宮区へ向かって疾走。互いに俊敏特化型でもあり、最前線を駆けるだけのレベルもあってか、あっという間に街を抜けて渓谷に入る。隠蔽スキルを駆使し、ワーウルフを避けて迷宮区前まで到達。あとはもう、しらみつぶしに安全エリアを探すだけだ。

 

 私が保有しているマップの踏破率は、キリトから提供されたものを含めても六十二パーセント。その中にある安全エリアは都合四つ。全部回るにも時間が掛かる。

 

 私はマップウインドウをハチマンへ滑らせる。すぐさま意図を悟ったハチマンが思考を開始。

 

 約三十秒後、ハチマンが現状分かっている中で最奥部の安全エリアを指差した。

 

「根拠ハ?」

 

「レベル上げを目的とするなら、ここが一番楽だろ。近くにソロで狩りやすいポイントがある。それにアスナからの内容がダメ押しだな」

 

 私は頷き、ハチマンと共に迷宮区へ入る。途端、むっとするような獣臭い匂いが鼻腔を強く刺激した。フィールドの延長のように、渓谷状にそびえる壁に、左脇に流れる凍てついた小川。床のあちこちに氷柱が伸びており、ところどころが凍りついている。

 

 すぐさま一体のワーウルフが勢いよく現れる。私たちの姿を捉えた途端、猛スピードで駆け抜けてくる。私たちが動くのは速かった。瞬時に私が陽動としてワーウルフの眼前に踊る。その隙間を縫ってハチマンが敵の背後に回る。ワーウルフの拳を私が紙一重で避けたところで、彼の短剣が敵の首筋に一閃。バックアタックボーナスとクリティカル、そして弱点を的確に狙ったことにより、ワーウルフの首がただの一撃で飛んだ。鮮やかな攻撃だった。確か、裏で《首切り男》とか言われてたこともあったな、と場違いなことを思い出す。

 

「行くぞ」

 

 倒した感慨もなく、ただ一言だけ告げてハチマンが走る。私もすぐさま後を追う。敵に発見されるたびに先の手順を行い、迷宮区を踏破していく。宝箱があろうが脇目もふらずにただ目的の場所へ向かって突き進む。

 

 約一時間かけて目的の安全エリアに到達。だが、サキの姿がない。焦燥がせり上がる。ハチマンを見ると、依然として顔の半分をマフラーに埋めたままだが、目の濁りが強くなっている。

 

 私はマップウインドウを開く。隣でハチマンも覗き込み活路を探す。

 

「マッピング率はまだ六十二パーセント。まだ先に行けば安全エリアはある」

 

「普通ソロでそこまでもぐるカ?」

 

「キリトっつーバカな前例がある。ついでに俺もな」

 

 一度短剣をまわしたハチマンが柄を掴み直し、私に視線を向ける。

 

「ここから先は未踏破エリアだ。なにがあるか分からん。お前は戻ってろ」

 

「ハチマンを残してオレっちだけが帰れるわけないダロ」

 

 ハチマンの瞳に逡巡らしき色が混じる。マフラーの中でため息。

 

「なら、せめて転移結晶だけは握りしめててくれ」

 

「了解」

 

 返答と同時にふたりで走る。先の見えない、本当の最前線を最大級のスピードで駆け抜けていく。敵はなるべく回避し、無理ならば押し通る。半ば死への旅路のような感覚で迷宮区を疾走していく。マッピング率があり得ないスピードで上がっていき、遂に七十を突破。それでも安全エリアが見つからない。

 

 十字路にぶつかりハチマンが止まる。四つの渓谷同士がぶつかったこの場所は、十字を象るように橋が渡されている。眼下には前後左右からは轟々とうるさい滝が流れ、橋の下を覗けば大きな滝つぼが見えるだろう。

 

「こういうとき、大抵人っつーのは左に行くんだよな、確か」

 

「そうだったカ? そんな話を訊いた覚えは確かにある気がするけど」

 

「もう宛てもない。左に行く」

 

 すぐさま方針を決めたハチマンが先行。少し遅れて私が追う。橋を抜けて再びの渓谷地帯に入る。眼前に二体のライカンスロープが現れる。ワーウルフよりも一回り大きい、上半身が白い体毛に覆われた巨大な人狼。

 

「下がれ、俺が殺る」

 

 言った瞬間、ハチマンの姿が消える。既に左のライカンスロープに肉薄していたハチマンが、筋肉が隆起した足へ飛び乗って首筋にナイフを突き刺す。その勢いに任せて背後に回り、敵の首に両足で跨ぐと、頚椎に短剣を二閃する。雄叫びを上げた敵がすぐさま腕をハチマンへ伸ばす。しかし、彼の行動は既に一手早い。いつの間にか跳躍していた彼は、地面に降り立つと同時に既に装備を終えていたナイフを足首の腱に投擲、命中。敵が堪らず膝を落とす。

 

 二体目のライカンスロープが、腰の入った凶悪な一撃でハチマンを引き裂かんとする。彼は腰を落としてそれを避けると、膝のバネを使って後方宙返り。振りぬかれた敵の手の甲へ足を叩きつけ、そのまま敵の顔面へ向かって短剣とナイフを突き出した。両目を抉られた二体目の敵が咆哮。重力に身を任せて落ちると同時に更に顔面を斬り裂き、地面に降りると敵の両足の腱を的確に斬りつける。二体目も地面に膝を落とした。

 

 ライトエフェクトが輝く。一体目に駆けたハチマンがソードスキルを発動。立ち上がらんとした敵の首を完璧なタイミングで斬り飛ばした。

 

 僅かな技後硬直。それが解けるとすぐさま身を翻して二体目へ向かう。視力が無くなったライカンスロープが両手を滅茶苦茶に振り回して暴れる。その挙動を完全に見切って懐に入ったハチマンが、ナイフで金的を抉るように斬り取る。再度敵による苦悶の咆哮。その極大の隙を彼が逃すはずもなく、股を潜り抜けて背にナイフを突き刺し、それを足場として跳躍。再びのライトエフェクト。二体目の首が、無残にも宙を舞った。

 

 地面に降り立ったハチマンが短い息を吐く。

 

 この間、僅か二十秒足らず。敵の挙動と弱点を完璧に知り尽くしているからこそできる行動。僅か一手でもミスすれば軽装のハチマンは一気にHPバーを削られ、ジリ貧になるしかない。命すら軽がると捨てられるほどの境地に至ってこそできる戦闘方法を前に、私の胸の奥が盛大に軋む音をたてた。

 

「行くぞ」

 

「待ってクレ!」

 

 何事もなかったかのように足を踏み出そうとしたハチマンを呼び止める。振り向こうとする彼の背後から思い切り抱きしめた。

 

「おい、なにやって……」

 

「いいから少し黙ってロ!」

 

「いや、ここ迷宮区だぞ。危ないから離せって……」

 

 私を振りほどこうとハチマンが身じろぐ。でも離さない。絶対に離すものか。

 

「ずっとこんなことしてたのカ?」

 

「なにがだよ」

 

「ずっとこんな無茶してたのカ? ひとりのときは、ずっとこんな感じだったのカ?」

 

「まあ、大体はな」

 

「馬鹿ダロ。こんなことしてたら死ぬゾ!」

 

「いや、生きてるぞ?」

 

「屁理屈は訊きたくナイ! 死んじゃうゾ! ホントにホントに、こんなことばっかしてたラ、いつか死んじゃうゾ!」

 

 本当に、迷宮区だというのに、私はなにをやっているんだろう。なんで涙が止まらないんだろう。

 

 ……だって、しょうがないじゃないか。この人は、ただひとりのため、そして帰る理由なんてもののために、こんな風になってしまったんだから。私はそれが悲しくて仕方がない。苦しくて、痛くて、どうしようもなく守りたいと思ってしまったんだから。

 

 なのに、この男はこんなことを言うのだ。

 

「そしたら、仕方ないな……。サキの依頼を途中で投げ出しちまうのは申し訳ねえが……」

 

 かっ、と頭に血が上った。腕を解いてハチマンのマフラーを掴んで思い切り引っ張る。

 

「おまっ! さっきから何なん――」

 

 ハチマンの頬をひっぱたいた。呆然としたハチマンを力の限り押して壁に叩き付ける。

 

「仕方ないで済ますナヨ! どこまで馬鹿なんダヨ! 隣にいるっていったダロ! ずっと一緒にいるって言ったダロ! もう忘れたのかこの馬鹿頭ハ!」

 

 マフラーを掴む手を前後に揺らす。ハチマンの頭がゆらゆらと揺さぶられる。

 

「好きだって言ったロ! 忘れるナヨ! ハチマンが死んだらオレっちが泣くゾ! 泣き喚いて一生忘れられないゾ! そしたらきっとずっと独身ダ! 責任取れヨ!」

 

 言っていて滅茶苦茶だ。もうヒステリックだ。自分でも、何が言いたいのか分からない。それでも言わなきゃ心が絞られるように痛くて適わない。

 

「なア、オレっちの言葉は届いてるカ? ちゃんと、ハチマンの心に響いてるカ? オレっちはハチマンが大切だゾ。ハチマンが痛かったり苦しかったりすると、オレっちも同じだけ痛いし苦しい。ハチマンが楽しかったり嬉しかったりすると、オレっちだって同じだけ楽しいし嬉しい。それはオレっちだけか? ハチマンは、本当はオレっちなんかいてもいなくても関係ないカ?」

 

「そんなことねえよ」

 

「なら生きろヨ! 生きてくれヨ! なんでそんな無茶な生き方するんダヨ!」

 

 ハチマンの腕が動いた。私の背と後頭部に回され、強く抱きしめられる。突然の出来事に私の声が止まった。

 

「もう黙れって。あまり俺の心をフルボッコにしてくれるな。痛いほど届いてる」

 

 ハチマンの心臓の音が届く。狂ったように高鳴るそれは、彼が平常ではない証。

 

「冷静じゃないんだよ。俺にとってはお前もサキも大事だ。だからいまは、焦ってるんだよ。分かってくれ……」

 

「ごめんヨ」

 

「いい、悪いのは俺だ」

 

 ハチマンが私の身体を離す。

 

 そこからは無言だった。ただ新たな安全地帯を探して、どこにも見当たらないサキの足跡を追い続けた。

 

 更に一時間が過ぎた。戦闘に戸惑っても、マッピング率は七十五を超えた。ようやく、第五の安全エリアを見つけた。円錐状の氷柱が地面と天井から伸びる、神秘的な場所にサキはいた。壁に寄りかかるように背を預け、しゃがみ込んで槍を抱えたまま眠っていた。

 

「サキ!」

 

 ハチマンが駆け寄る。私もすぐに後を追ってサキの傍まで近づいた。彼がサキの肩を揺さぶる。しばらくして、目を瞬かせた彼女が、にへら、と笑って言った。

 

「ハチマンがいる」

 

 心底嬉しそうに笑って、しかし、その表情がすぐに曇った。きっと私を見たからだ。目を剥いたサキが、恐ろしいものでも見たように瞳を揺らし、身体を縮こまらせる。ハチマンを見上げて、低い声で言った。

 

「なにしに来たのさ」

 

「なにしにって、二日も迷宮区にこもってる馬鹿を探しに来たんだよ。ほれ、もう帰るぞ」

 

 腕を引こうとするハチマンの手を、サキが振りほどく。

 

「別にいいじゃないか。あんただって似たようなことしてるんだろ?」

 

「さすがに二日はないぞ?」

 

「うるさい!」

 

 サキの怒声。ハチマンと私が固まる。彼女が涙を蓄えた目で彼を睨む。

 

「うるさいうるさいうるさい! あんたはいつだって勝手だ! 頼んでもないのに前線に篭って、頼んでもないのに色々なこと教えて来て! 頼んでもないのに無理ばっかして! だったらあたしだって好き勝手やっていいじゃないか!」

 

 ハチマンの顔が強張る。サキの追求は止まらない。

 

「倒れるまで動いている理由があたしだなんて、あたしがいつそこまでやってくれって言ったのさ! 言ってないだろ! あんたは、そうやって何もかも自分ひとりで抱え込んで、ひとり悦に浸ってさぞいい気分だろうさ! でもあたしは、そんなのはまっぴらだ!」

 

 嗚咽するように、サキが息を吸う。ハチマンは呼吸すら忘れている。

 

 ダメだ。この先は絶対に言わせちゃいけない。きっと何もかも壊す言葉を言おうとしている……!

 

「サキちゃ――」

 

 

 

 ――あたしは、あんたなんか、大ッ嫌いだ!!

 

 

 

 サキの絶叫が迷宮区に残響する。ハチマンの表情が消えた。マフラーに口許を埋めて、俯いたことで前髪で目元が消える。静かな息遣いだけが聞こえる彼から、覇気そのものが消えた。

 

「……悪かった」

 

 ハチマンが震えた声音で言った。サキの身体がぴくんと跳ねる。彼がベルトに括りつけた巾着袋から、転移結晶を取り出して、サキの傍に置いた。

 

「これで戻ってくれ……」

 

 身を翻したハチマンがすぐさまストレージから黒い外套を取り出す。被ると同時に、彼は気配すら消してこの場を去った。

 

 沈黙が降り積もる。

 

 やがて、サキが転移結晶を両手で祈るように持って、すすり泣いた。全身から、悲しみの涙を流すようにして、サキが泣く。鈴の音を転がすような泣き声は、聴く者の心を切なさで縛るようだった。

 

「サキちゃん……なんであんなこと言ったんダヨ」

 

 サキの頭を撫でながら私は訊いた。彼女は首を振って泣くばかりで、何も言わない。きっと、言わせてしまったのは私だ。だから、私は彼女の頭を抱いて涙が止まるのを待った。

 

 五分、十分とサキの涙は止まらなかった。

 

 やがて、二十分が過ぎて、サキがぽつりと言った。

 

「重荷になるのが嫌だった……」

 

「ハチマンのかイ?」

 

 サキが頷く。

 

「あたしがいるとハチマンが無理をする。あいつは、あんたに惹かれてる。なのにあたしがいるからいまの歪な関係を解消できない。だったら、あたしだけでも大丈夫ってところを見せなきゃって、そう思った」

 

 サキが転移結晶を眺める。それを握る両手が震えて止まらない。

 

「なのに、あいつはここに来た。馬鹿みたいにここに来た。だったら、だったら、あたしから切るしかないじゃないか……。あいつが一番嫌な方法で、きっと、絶対に許さない言葉で切ってやるしか、あたしから離れる理由をあげられないじゃないか……!」

 

 サキが大粒の涙を流す。

 

「ホントは嫌だよぉ」

 

 顔はもう、涙でぐしゃぐしゃだ。視界もきっと無いはずなのに、最後にもらった転移結晶が自分のすべてだというように、見つめて捕らわれて、そして離さない。

 

「一緒にいられないのは寂しいよぉ」

 

 ――痛い。

 

「もうきっと、ハチマンの姿は見られない。絶対にあたしの前に姿を見せてくれない。そんなの嫌だよぉ。嫌だよぉアルゴ……」

 

 ――痛い。痛い。

 

「どうしてこんななっちゃったんだろ。ちょっと前まで、うまくいってたのに。あたしが鈍感だったから? 勇気が出なかったから? もっと早く気づいてればよかったのかなぁ……?」

 

 ――痛い。痛い。痛い。

 

「嫌われちゃったよ。もう嫌われちゃったよぉ……。嫌だよ、嫌われたくなんてないよぉ……」

 

 サキの言葉ひとつひとつがナイフとなって私の心に突き刺さる。心が慟哭の血を流す。

 

 全部、私が悪いから。なにもかも、私の“好き”に繋がっている。

 

 サキが私を見る。見ているだけで、胸が壊れそうなほどにその面貌を崩したサキが、願うように言った。

 

「ハチマンをお願い。もう、あたしじゃだめだから……」

 

 息が引きつった。わなわなと頬が震えた。

 

 サキが縋るように声を絞る。

 

「お願いだよ。ハチマンを頼むよ……。死なせたくないよぉ」

 

 ――ああ、これがあの日、サキが思い、感じ、悟った答え……。たったひとつの微笑の中に、これほどの想いを詰め込んでいた。

 

「好きだから、大好きだから。もうこれ以上苦しめたくないよ」

 

 胸が潰れたかと思った。感情の爆発で身体がひしゃげたかと思った。天地が逆さまになって、どこまでも堕ちていくような気分になった。それなのに、私はこの場で泣く権利すら持っていない。

 

 だって私がサキから奪ったから。彼女の支えを横から掠め取ったから。ふたりだけしかいないこの場所で、善悪の天秤は彼女に傾く。

 

 これが恋だと言えればよかった。私は悪くない、後悔するくらいならもっと早く動けばよかっただろう。そう言えれば楽だった。恋の方程式なら、きっとそれが正しい。でも、大好きなサキにそんな惨いことなんて言えなくて、ただひたすらに涙を滂沱と流す彼女を傷つけてしまった自分が許せない。

 

「好きだって言いたかった。大好きだって、伝えたかった。でももうできない。できなくしちゃった。ぜんぶぜんぶあたしが悪いんだ。もう嫌だよぉ。胸が痛くて、苦しくて、辛くて、情けなくて、こんなの、疲れたよぉ……!」

 

 サキが泣く。あの優しくも強い彼女が、これ以上ないくらい本心をさらけ出して私の胸で泣く。

 

 私はこれを望んでいたのか? サキを傷つけ、ハチマンを再び同じ目に合わせ、私だけが無傷でいる。こんな結末を望んでいた?

 

「は――はは……」

 

 乾いた笑い声が零れた。なにか口にしていないと、もう感情がはち切れて身体が爆ぜてしまいそうだ。

 

 流れよ我が涙とばかりに、滴が頬を伝って床に落ちる。

 

 場違いなシステム音。

 

 情報仲間からのメッセージ。

 

 震える指でそれを開く私。

 

 ――《軍》財務部のユキノという女性が早晩処刑されるようだ。

 

 ……もう、私も動けなくなった。

 

 

 

 



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アルゴは必死になって比企谷八幡に呼びかける 1

 サキを家に連れ戻すことができたのは、もう日も暮れた午後五時のことだった。彼女にユキノのことを告げることもできず、私は今度こそ途方に暮れた。ハチマンにメッセージを投げても返信が無い。検索をするも拒否。《ラーヴィン》の街中で私は頭を抱えた。絶望とはこのことかと思った。

 

「おい、アルゴじゃないか。どうしたんだよ」

 

 視界に影が差した。顔を上げると、私を心配そうに見ているキリトが立っていた。

 

「なんかあったのか?」

 

 ぐにゃりと、視界が歪んだ。泣きそうになるのを必死で堪えた。

 

「オレっちの所為でサキちゃんが追い詰められタ。ハチマンがいなくなっタ。ふたりの現実での友人ユキノちゃんが、このままだと処刑されル……」

 

 キリトの眉間が、必死に言葉を噛み砕こうとするように皺が寄った。

 

「特大の緊急事態が重なってるってことか?」

 

「有体にいうと、そうだナ。ヤバイどころの話じゃなイ。最悪ダ」

 

 キリトが一度瞑目し、数瞬の後、まぶたを開いた。

 

「分かった。アスナにクライン、ディアベルを呼ぶ。緊急性が高いやつから片付けていこう。まずはその処刑ってやつが一番まずいよな。アルゴは情報筋を洗ってくれ」

 

「……わかっタ」

 

「道端じゃあれだし、場所を変えようぜ」

 

 仮想キーボードを叩きながらキリトが進む。私もそれに付いていく。頭はいまだにごちゃごちゃしているけれど、いざ仕事となると身体が勝手に動いていて、ものすごい勢いでキーボードを叩いていた。

 

「全員から返信が来た。手伝ってくれるってさ。拠点はアスナの部屋にしようぜ。提供してくれるらしい」

 

「そうカ」

 

「大丈夫か?」

 

 ウィンドウから目を離してキリトを見上げる。夜色の瞳が、心配そうに私を覗き込んでいた。どうやら、年下の少年に心配されるほど、私は参っているらしい。無理やり笑って答える。

 

「キー坊、オネーサンの心配するなんて、百年早いゾ」

 

 こんなになっても空元気はあるらしい。

 

 サキを寂寥の檻に叩き込み、ハチマンを過去の怨嗟に襲わせ、ふたりの仲を切り裂いてなお私は私を演じられている。

 

 これが恋か?

 

 これが愛か?

 

 こんなものが世で重宝されているのなら、あまりにもおぞましくて吐き気がする。

 

 なにが甘酸っぱい恋だ。

 

 なにが永遠の愛だ。

 

 こんなもの、ほの暗い井戸の底に叩き込んで永遠に蓋をしておけばいい。私がこんなものを抱いたばっかりに、二人に煉獄の苦しみを与えたのだ。

 

 なら私は一体なんだ? 魔女か? 悪魔か?

 

 違う。

 

 単なる横恋慕した悪女だ。ふたりが付き合っていないなんて、そんな事実は関係ない。ただふたりに与えた衝撃の強さが、私を悪女たらしめている。

 

 ウインドウの処理と並列して思考の深淵に沈んでいく。足はキリトの足音を辿って勝手に進んでいく。

 

 アイシアという女性が《ラーヴィン》で助けを求めている情報を得る。即座にアスナの家へ向かうよう指示を出す。気づけば、私はアスナの家のソファーに座っていた。

 

 キリトが、アスナが、クラインが、ディアベルが、私を食い入るように見つめている。思わず頭を抱えそうになって、寸でのところでそれを止めた。

 

 先にユキノに関する情報を伝える。全員がそれぞれ憤りを感じているような表情を出す。しばらくしてアイシアが訪れる。アイシアから齎された情報を全員が整理していく。

 

 だというのに、手法が全然出てこない。ユキノを助ける策が浮かばない。なぜなら、こういうことが得意な人がいないから。そして、その人を御し得る人もいないから。

 

 ハチマンとサキ、このふたりがいないだけで、私たちはこんなにも無力だ。

 

 時刻は、もう午後七時。

 

 処刑の刻限まで、残り十四時間――

 

「そいや、なんでハチがいねえ? 呼んでないのか?」

 

 クラインの何気ない言葉に、私が瞠目する。

 

「確かに、気が動転していたね。それにサキさんもいないじゃないか。一体どうしたんだい?」

 

 ディアベルがクラインに続く。事情の一端を知るキリトが慌てる。アスナがそれを敏感に察したか、難しい顔をした。アイシアは全く分からないといった様子だ。

 

「……サキちゃんは動ける状態じゃナイ。ハチマンは……たぶん、失踪しタ」

 

「あンだって?」

 

 クラインが怪訝な顔で私を見る。

 

「おい、そりゃどういうことだよ。処刑のこともヤベエけど、そっちも十分ヤベエだろ」

 

 知ってる。そんなこと言われなくても分かってる……。

 

「おい、アルゴ。なにか知ってるンなら話せって」

 

 クラインが私を問い詰める。それが善意だと分かっている。だけど、やめてくれ。

 

「うるさイ……」

 

「アルゴ? 一体どうしたんだい?」

 

 ディアベルが私の異変に気づく。

 

 もう遅い。

 

 涙が流れた。今日一日で溜め込んだ負の感情が一気に溢れた。

 

「うるさイ、うるさイうるさイうるさイ! オレっちだって訳わかんないんだヨ! どうしたらいいかわかんないんだヨ! サキちゃんが泣き叫んで、ハチマンが傷ついて失踪して、全部オレっちの責任で、今度はユキノちゃんの処刑?」

 

 それが一体何に対しての罵倒か分からない。たぶん、全部自分へ向けた罵声で、なのに行き場がないから口から言葉の弾丸となって外に出てきただけ。

 

 込めた炸薬は私へ憎悪。撃ち出す先は私の心。だから、声を出せば出すほど私の心が穴だらけになっていく。

 

「ふざけるなヨ! もういっぱいいっぱいなんだヨ! なんで今日一斉に起こるんダヨ! こんなはずじゃなかったンダ!」

 

 頭を抱えてうずくまる。涙が止まらない。嗚咽ばかりで言葉もしっちゃかめっちゃかになる。

 

「オレっちが悪いんダ! 全部、全部オレっちのせいだ! サキちゃんを苦しめたのも、ハチマンを傷つけたのも、全部オレっちが悪いんダ!」

 

 あとはもう、意味のない泣き声だけが口からまろび出る。アスナに抱きしめられた。彼女の胸で赤子のように泣いた。こんなことしている場合じゃないと頭の片隅では分かっているけれど、もう我慢ができなかった。

 

 心が悲鳴を上げていた。

 

 ――ハチマン。

 

 ――なあ、ハチマン。

 

 ――こんな無様で汚いオレっちを好きになれるカ?

 

 

 ◇◆◇

 

 

 翌午前八時。

 

 十九層、NPCすら出歩かないそんなゴーストタウンである主街区《ラーベルグ》で、ふたりの女性が走っていた。ひとりは元軍の副官ユリエール。そしてもうひとりは、黒鉄宮に閉じ込められていたはずのユキノだった。

 

 ユキノはユリエールに手を引かれてゴーストタウンを足早に駆けている。その人形もかくやと美しい面貌に浮かぶのは僅かな混乱と安堵。黒鉄宮に入れられ、処刑を待つ身であった彼女にとって、ユリエールの存在は眼前に垂らされた蜘蛛の糸同然だった。

 

 朝も早く、街の暗い雰囲気も相まってか、人影はない。ただ、朝日に照らされた建物とふたりの影だけが伸びている。ふたりは終始無言だった。

 

 そんなふたりを、建物の屋上から眺めている人物がひとり。紺のマフラーに顔を埋め、臙脂のコートをはためかせた、ひとりの男。目はもはやどす黒いを通り越して混沌と化し、人を殺めたと言われても軽く信じてしまいそうなほど濃密な殺気を漂わせていた。

 

 その男が、ふたりが自分が立つ建物に近づくやいなや、躊躇なくその場から跳躍し、宙を舞った。やがて、静か過ぎる着地音と共に、ふたりの傍に足を落す。すぐさまその身体が動いたかと思うと、ユリエールの首筋に短剣を突きつけた。

 

「止まれ」

 

 訊くものを震え上がらせる黒い声。ふたりの動きが突然止まる。ユリエールが男を見て怯える。ユキノが目を剥く。

 

「ひ、比企谷くん……」

 

 ユキノの声を無視したハチマンが、ユリエールに再度告げる。

 

「こいつを置いて消えろ。五秒だけ待つ」

 

 ユリエールが震える。瞳には、色濃く浮かぶほどの恐怖があった。それがハチマンに対してのものなのか、それとも先にある未来に対するものなのか、この場にいるものには分からない。

 

「そ、んなこと、できな……」

 

「消えろと言ったんだが?」

 

「は、話を、お願いですから、訊いて下さい」

 

 ユリエールが懇願する。ハチマンが鼻で笑った。一切人を寄せ付けない、皮肉めいた笑いだった。

 

「他人の事情なんざ知るか」

 

 ハチマンの手が閃く。

 

 衝撃音。

 

 ユリエールがノックバックにより吹き飛ぶ。ハチマンがユキノの腕を掴んだ。

 

「ひ、比企谷くん、一体何を……」

 

「黙ってろ。何も喋るな口を開くな」

 

 捲し立てるように言って、ハチマンがユキノの腕を引いて主街区の転移門へ向けて走り出した。彼女はされるがまま足を進める。その背後からユリエールの悲痛な訴え。それをすべて置き去りにして、彼は進む。

 

 転移門へ着くと、ハチマンが口を開いた。

 

「三十三層主街区《ラーヴィン》に俺の……いや、攻略組が待ってる。川崎沙希もそこに住んでる。匿ってもらえ」

 

「あなたは、どうするの……?」

 

 ハチマンがマフラーに顔を埋め、俯く。表情を見えなくした彼が、笑うように言った。

 

「どうにも、俺は人付き合いがダメらしい。ここで長く一緒にいたサキから嫌われちまったよ。現実からここまで、俺のやり方はもう間違いだらけらしい。もう理由も無くなっちまったし、適当に過ごすさ」

 

 ユキノの表情に極大の悲しみが生まれた。

 

「待って! お願い、少しでいいから私の話を訊いて!」

 

「もう何も訊きたくないし、もう誰とも話す気もない」

 

 ハチマンが身を翻して、ただ、それでも立ち止まって空を仰いだ。

 

 ああでも、と殆ど掠れた声を出す。

 

「……あいつには会いたいな」

 

 表情を隠したハチマンがユキノを見る。彼女は全身を震わせていた。

 

「行け。二度と俺は姿を見せない。清々するだろ? だからさっさと行け」

 

「訊いて、お願いだから私の話を少しだけでも……」

 

 光が走った。声を止めたユキノの喉元に、ハチマンが短剣を添えていた。これは明確な拒絶だ。

 

「訊く気はないって言ったよな。お前でも斬るぞ?」

 

 ユキノは動かない。石像にでもなったように、指ひとつ動かさない。ハチマンが焦れたように言う。

 

「行け。行けよ。早く俺の前から失せろ」

 

 瞳に懊悩を宿したユキノが首を振る。ハチマンの瞳がより一層濁っていく。もう、色などという単純なものでは表せない、人の道を外れたような腐った瞳だった。

 

「行けって言っただろ。これ以上、俺をいたぶって何が楽しいんだ?」

 

 決定的な言葉だった。ユキノの表情に諦観が生まれた。それは絶望と紙一重の感情だった。

 

 ユキノの唇が震えるまま、転移先を口にする。

 

 ユキノの身体が光に包まれて消える。残されたハチマンは、疲労の混じった息を長く、長く吐き出した。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 なにがなんだか分からなかった。気づいたらユキノが救出されて、三十三層の《ラーヴィン》の転移門にいたのだ。

 

 私たちは結局ろくな案が浮かばず、《軍》へ申し立てに行くというずさんな計画しか建てられなかった。そして集まった全員と《ラーヴィン》の転移門へ向かったときには、もう救出すべき当人が立っていたのだ。本当に、訳が分からない。過程がすっとんで結果だけを目の前に出されても、何と言えばいいのだろう。

 

 表情に色を失ったユキノが、私の姿を見つける。

 

「……アルゴさん」

 

 私はユキノの下に駆け寄る。

 

「何があったんダ? それより、どうしてここに……?」

 

 ユキノの表情が大きく歪んだ。目からは涙が流れ、嗚咽が混じる。

 

「比企谷くんが……私を助けてくれた……」

 

 驚愕。

 

 私はハチマンにその情報を伝えていない。一体、どこでその情報を知り得たのだろう。もしかしたら、他にも情報屋の伝があったのかもしれない。でも、いまはそんなことなどどうでもよくて。

 

「ハチマンは? ハチマンはどこに行ったんダ!?」

 

 私はユキノを揺さぶる。彼女は力尽きたように、か細い声で言った。

 

「十九層の、《ラーベルク》の転移門で別れたわ。もう、誰とも会わないって言って……」

 

 息が詰まった。視界が揺らぐ。確かな地面が不確かなものとなって、足元がおぼつかずにその場にしゃがみ込む。アスナが私の両肩を掴んだ。

 

「アルゴさん、ねえ、一体何があったの? ハチくんとサキさんに何があったの?」

 

 言うな。

 

「ハチマンは……」

 

 言うな。お前がそれを口にするな。

 

「サキちゃんに……」

 

 黙れ。口を開くな。楽になりたいだけだろう? 罪悪感から逃げ出したいだけだろう? そんな理由で、あのふたりの破局をお前が語る資格なんてない。

 

「拒絶されタ……」

 

 ああ、言ってしまった。なにもかもが、もうお終いだという気分になった。

 

「ンな、アホな」

 

 クラインが絶句。

 

「そんな、あり得ないよ。あのふたりだよ? 何かすれ違いがあったんだろう? でなきゃ、サキさんがそんなことするはずないさ」

 

 ディアベルが、勤めて明るい声で言う。

 

 その通り。理由がある。原因は、すぐそこで座っている私だ。私の醜い感情が生んだ醜悪な結果だ。墓穴を掘ってそこに叩き込み、永遠に日の目を見ないようにしておくべき、下らない感情が発露した結末だ。

 

 私の顔に影が伸びた。キリトが私の前にしゃがみ込んで目線を合わせた。彼の顔には少年の優しさがあった。

 

「アルゴ、つらいかもしれないけど話してくれないか? ハチは、俺の親友なんだよ。あいつがどうにかなりそうなときに、なにもしてやれないのは嫌なんだ」

 

 キリトの言葉が胸に染みた。

 

 ひとつ、嗚咽が落ちた。

 

 ハチマン。もう、私はひとりで抱えられないよ。こんなつらい思いを、ハチマンはずっとしてたのかなあ。

 

「……わかっタ」

 

 私の返答にひとつ頷いたキリトが立ち上がる。

 

「これからアスナの家に行こう。とりあえず、アイシアさんとユキノさんのふたりも来てくれ。《軍》の連中にバレるのはマズイだろうし。ひとまず居場所検索も拒否にしておいてくれよ」

 

 ユキノとアイシアがそれに答え、キリトが先導する。私はアスナに手を引かれながら足を動かした。

 

 もう何も考えていたくない。

 

 アスナの部屋に全員が集まる。私は、もうどうにでもなれという気分で、すべてを話した。一から十まで、私が知り得る限りと私の感情も、ぜんぶぜんぶ話した。誰かに断罪してほしかった。お前が全部悪いんだと、名指しで批判してほしかった。

 

「あのよぉ」

 

 最初に口を開いたのはクラインだった。

 

「とりあえず、経緯がややっこしくて整理したいんだけどよ。ハチは現実でまあ、結構しんどいことがあったと。で、現実に帰る理由がなくて、知り合いだったサキさんに助けを求められてそいつを理由とやらにした。ハチはそれにずっと罪悪感を抱いていたと」

 

 これでも十分意味分かんねえんだけどよ、とクラインはぼやきながら続ける。

 

「で、一層のことがあって、アルゴがハチに惚れた。で、そこからつい最近までは、ハチもサキさんも特に問題なく仲がよかった。でだ、ある日ハチが倒れたと。原因は、サキさんを現実に帰すためと理由探しで脇目も振らずに動き回っていたため。ここまでは合ってンのか?」

 

 私は頷く。クラインが眉間に指を押さえながら続ける。

 

「アルゴはハチを部屋に連れていって、サキさんを呼んだ。んで、サキさんとコイバナしたと。まったく、青春だよなあ。で、まあなんだ、翌々日か? ハチマンとデートに行く途中で、サキさんと会ったときは、一見すると普通だったけど、どこかおかしい気がしたと」

 

「勘みたいなものダヨ」

 

「そいつはなんでもいいわ。おめえらは二十二層に行って、ハチが現実で無くした理由の元凶つっていいのか分かんねえけど、ユキノさんに会っちまったと」

 

「ええ……そうね」

 

 ユキノが俯く。クラインの眉間に皺が生まれる。

 

「まあ、ハチマンは逃げて、アルゴはユキノさんに詰め寄って現実の話を訊いたと。で、ハチマンを追って、慰めて、二日後にサキさんが消えたことを知った。おめえらはそれで最前線に篭っていると思って向かってみたら、ハチがサキさんから拒絶された。理由はハチに苦労をさせたくなくて、きっとハチが惚れてるだろうアルゴとの仲をなんとかするために、自分との縁を無理やり切ったと。まあ、なんやかんやでいまに至る。こういうことか?」

 

「そうだナ」

 

 重い沈黙。

 

 クラインが長息した。肺の何もかもを吐き出すような、長い長い息だった。そして、言った。

 

「めんどくせえ。超めんどくせえ。なんだこれ。おい、ディアベル、キリト、アスナさんよぉ、これどう思うよ」

 

「なんというか、恋もここまでこじれると頭が痛いね」とディアベル。

 

「俺にはそういうのはよく分からない。ただ、ハチとサキさんが心配だ」とキリト。

 

「ハチくん。どうにも私にだけ妙に距離感を置いていたように感じてたんだけど、そんな理由があったんだ……」とアスナ。

 

「たぶん、ハチは異性に予防線張りまくってンだろ。そんだけ色々ありゃああもなるだろ。つーか、俺だったら発狂すンな」クラインが天井を仰いで言った。

 

 ユキノは黙ったままだ。唯一接点のないアイシアだけが、ここにいないハチマンを思ってか瞑目していた。

 

 クラインが静かに話す。

 

「まあ、オレもすげえ深い仲ってわけじゃねえけどよお。ハチにはそれなりに世話ンなってるし、そこそこ会話もしたことあるから、なんとなく分かるンだけどな。あいつ、基本人を避けてるだろ。おめえらだって覚えはあるだろ?」

 

 キリトが思い出すように俯く。アスナが頷き、ディアベルは苦い顔をした。

 

「ハチは基本人の言葉を疑う。もうすげえ勢いで疑ってやがる。でも、その例外がサキさんだったンだよ。たぶん、サキさんの言葉だけは無条件で信じてンだよ。自覚ある無しに関わらずな」

 

 ハチマンはサキに絶対的な信頼を置いている。同じぼっち同士だからなのか、好きだったからなのか、あるいは理由を預けた負い目なのかは分からない。でも、彼にしては珍しいほどの信頼を彼女へ寄せていた。

 

「ハチにも色々言いたいことはあンだけどよ、サキさんの言葉のチョイスがミスったな。マジでハチの急所ど真ん中に当てちまった。しかもそれを言ったのが信じてたサキさんその人だから、ダメージも倍増だ」

 

 そこまで言って、クラインが息を吐いた。言葉にするだけで疲労が積もったように、額に汗を流していた。

 

 でも、とアスナが静かに言う。

 

「サキさんの気持ちも分かるよ。好きで好きでたまらなくて、でも自分が重荷になるって分かってて、好きな人が別な人を好きだって分っちゃったら、どうしていいか分かんなくなっちゃうよ」

 

 つまり、とキリトがのっそりと口を開く。

 

「コミュニケーション不足ってやつか?」

 

 クラインとアスナ、ディアベルが物珍しいものでも見たような視線をキリトへ向ける。

 

「キリの字が一番言わなそうなこと言いやがった……」とクライン。

 

「キリトくんの言葉とは思えない」とアスナ。

 

「ふたりに同意だよ」とディアベル。

 

 おい、とキリトが憤慨した。

 

「俺だって色々考えてるんだぞ?」

 

 三人が笑う。なんとかこの凝り固まった空気を弛緩させようとする、苦い笑いだ。

 

 ディアベルが笑いをおさめて、ほっと息を吐き出した。

 

「人間、ほどほどっていうのが難しいからね。感情の触れ幅が大きいと、どっちかに極端になるんだよ。ハチマンにとって、感情を揺らすことがちょっと多く起こり過ぎた。それをどうにか元の形に戻さないとね」

 

 そのとき、アイシアが恐る恐るというように声を上げた。

 

「あの、私は全然無関係なんですけど、一応話していいですか?」

 

 クラインが頷く。

 

「構わねえよ。つーか、内輪の話に巻き込んですまねえな」

 

「いいえ、それはまったく。ユキノさんを助けて頂いたので、感謝こそすれ謝られることなどありません。それより、三人でもう一度お話してはいかがですか? ハチマンさんと、サキさんと、アルゴさんの三人で、もう一度、ちゃんとお話してみたら、別の結果になるんじゃないんですか?」

 

 たぶん、それが唯一の活路だ。この亀裂は、私の恋と、そして悲しいくらいのすれ違いを発端にしている。だけど、それができない。

 

 ディアベルが左右に首を振る。

 

「肝心のハチマンが消えちゃったからね。どうしようもないよ」

 

「あいつが本気で姿くらましたら、たぶんオレらじゃ見つけられねえぞ」とクライン。

 

「ただでさえ、ステルスヒッキーとかいうシステム外スキル使うからな」キリトがなぜか羨ましそうに言った。

 

「いっそ何かで釣ってみたらどうかな? ほら、ハチくんだって好きなもののひとつくらいあるでしょ?」

 

 アスナが名案を閃いたように言うが、クラインから胡乱な目を向けられる。

 

「アスナさん……そりゃさすがにハチを馬鹿にしすぎだ……あいつは魚か何かかよ」

 

 だが、それを否定する声がひとつ。ユキノだ。

 

「いいえ、ひとつだけあるわ。たぶん、彼がどんな手を使ってでも手に入れたいものが、この世界にただひとつだけある」

 

 ここまで黙っていたユキノが告げる。

 

「マックスコーヒーよ」

 

 はっと私が顔を上げる。

 

 ユキノと私以外の全員が呆然とした顔を見せ、やがて、気づく。

 

「そうか。あいつアレが好きだっつってたよな」クラインが指を鳴らす。

 

「そうと分かれば決まりだね。誰か料理スキルを上げている人はいるかい?」

 

 ディアベルが仲間を見渡す。全員が俯いた。どうやら誰も取っていないらしい。たぶん、この中で取っているのは私だけだろう。でも、それでもダメだ。

 

「オレっちもつい最近取ったばっかで、熟練度はゼロだよ」

 

「なら、サキさんに作ってもらえばいいんじゃないか? サキさん、料理スキル取ってるだろ?」

 

 キリトが何気なく発した言葉で方針が一気に固まる。

 

「ンじゃま、サキさんを説得だな。いまどうしてンだ?」

 

 クラインが私を見る。私は当時のことを思い出し、奥歯を強く噛んだ。

 

「たぶん、まだ家にいると思う。当分出てこなそうなくらい、落ち込んでたから」

 

 そうか、とクラインが頭を掻く。

 

 ディアベルが手を叩いた。

 

「とにもかくにも行動だ。サキさんのところへ行こう」

 

 

 

 時刻は正午を過ぎていた。誰もが疲労を表情の奥底に隠して、サキが住む部屋の前に並ぶ。私の後ろに、キリト、クライン、ディアベルが並んでいる。アスナはユキノとアイシアを匿うよう、キリトが依頼した。

 

 私が強張った手を解いて、玄関の扉をノックする。返事はない。もう一度ノックしても、返答はなかった。

 

 キリトが一歩踏み出す。

 

「サキさん。俺だ、キリトだ。ちょっと昼飯食いたくてさ。料理作ってくれないか?」

 

 おい、とクラインが呆れたように言うが、キリトが口許に指を一本立てた。

 

 キリトがノックする。

 

「サキさん、俺腹減ったよ。このままじゃ死んじゃうって。頼むよサキさん、この通りだ」

 

 依然として応えはない。だが、部屋の中で気配が動いたような気がした。キリトが最後とばかりにダメ押しする。

 

「サキさんが飯作ってくれないと、一層のときのこと口走っちゃうぞ。迷宮区前でサキさんがハチに膝枕を――」

 

 バン、っと壊すような力強さで扉が開いた。悪鬼の形相をしたサキが、キリトを殺すような視線でにらみつける。

 

「キリト……あんた殺されたいんだね?」

 

「やあ!」

 

 視界に入るように私たちがサキに片手を上げて挨拶する。瞬間、サキが無言で扉を閉めようと手を引いた。が、当然そこは攻略組、全員が全力で隙間に手と足を滑り込ませる。力と力が拮抗する。というか、一対四なのに、どうして扉が開かないのか納得いかない。どんだけ力が強いんだサキちゃん……。

 

「なんなんだい? いまのあたしは機嫌が最高に悪くてね。五秒以内に手をどかさないと圏外で殺すよ?」

 

 全員が、こくん、と喉を鳴らす。あまりにも迫力がありすぎて、本気で殺されると思ったからだ。ただし、ディアベルを除いて。

 

「その機嫌が良くなる方法があるんだ。入れてくれないかな?」

 

 ディアベルが爽やかイケメンスマイルをサキへ向けた。彼女の表情に怪訝。ちらりと私に目をやって、彼女がため息した。

 

「全部吐いたのかい……?」

 

 私は無言で頷く。サキが脱力したようにその場に崩れた。扉が開く。私が彼女の身体を抱く。

 

「なんなんだい? ハチマンを無理やり捨てて泣いてるあたしを馬鹿にしに来たのかい? それとも嘲笑いに来た? 罵倒したい? なんでもいいから、ほっといてよ……」

 

 怒りの表情が一転、涙を流したサキが蚊の鳴くような声で言う。キリトがばつが悪そうな顔をして彼女の前で膝を付く。

 

「入り方が酷かったのは謝るさ。でもハチに会いたいんだ。協力してくれないか?」

 

 サキがさめざめと泣く。

 

「もう会えない……来てくれない」

 

「会えるさ。俺たち、いいことを思いついたんだぜ? まるでハチみたいな奇策さ」

 

「一体なにを……」

 

 キリトがにんまりと笑う。まるでそれがすべてを覆す魔法の言葉だというように、彼は言った。

 

「マッ缶さ」

 

 サキが真顔になる。いや、訊こえた言葉があまりにも突拍子もないから、悲しみすら吹き飛んだのかもしれない。

 

「はあ?」

 

「だから、マッ缶。作ってくれよ。で、それでハチを誘き出すんだ。絶対来るぜ?」

 

 サキが顔を覆う。馬鹿馬鹿しいとでもいうように首を振った。

 

「ハチマンは蟻か何かかい……。そんな単純な男じゃ……」

 

 だというのに、サキが言葉をとめる。彼女の頭の中で、きっとこのSAOに囚われて彼と過ごした期間、そして現実で見てきた彼の姿が思い描かれている。やがて、彼女はぽつりと結論を出した。

 

「……あるかも」

 

 だろ? とキリトが笑う。

 

「だからさ、作ってみようぜ。で、ハチにメッセージを送るんだ。マッ缶があるから飲みに来ないかってさ。どうせこのままじゃ会えなくなるんだ。だったら、少しくらい足掻いたっていいんじゃないか?」

 

 ああ、とサキが笑う。泣き笑いだ。

 

「もし、もう一度会えるなら……。もし、もう一度声を訊けるなら……。やってみても、いいかなあ」

 

 



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アルゴは必死になって比企谷八幡に呼びかける 2

 マッ缶が完成したのは、あれから二日経ってのことだった。あの甘ったるく喉に絡みつくようなコーヒーのように、私はサキと色々な話をした。その殆どがハチマンのことで、彼がいかにバカでアホで、どれだけ優しくて格好いいか、ガールズトークで盛り上がった。彼女には何度も謝った。彼女は首を振るだけで、私を断罪しようとなど欠片も言わなかった。それを喜べばいいのか、悲しめばいいのかは分からないけれど、やっとできたこれを使って、きっと彼に会えることだけを考えればいいのだと思う。

 

 キリトがハチマンを、人気のない二十二層の広場へ呼び出すメッセージを投げる。まさかとは思ったが、返信は即座に来た。やはり、彼もマッ缶が絡むと単純になるらしい。

 

 私たちはすぐに広場へ向かった。ハチマンが来るのを待つように、私とサキはじっと息を潜ませて草むらの陰に隠れた。キリトが広場で彼を待っている。

 

 やがて、ハチマンが現れた。頭から外套を被り、首元に巻いたマフラーでフードのようにしている。見え隠れするのは馴染み深い臙脂のコート。殆ど裏稼業の人間のような容貌をした彼が、キリトの姿を見るや否や、外套を剥ぎ取って足早に近づいてくる。

 

「マッ缶はどこだ? というかどこで手に入れた? すぐにくれ。言い値でいい」

 

 ハチマンにしては珍しいほどの勢いで捲し立てる。キリトが両手を掲げて笑う。

 

「まあ、とりあえず一本どうだ?」

 

 キリトがマッ缶を差し出す。ハチマンはそれを御神体でも扱うように、恭しい動作で受け取ると、まるで祈るようにそれを額に押し当てた。

 

「おお、マッ缶様がついに俺の手に……ありがたやありがたや……」

 

 その姿を見て、私はサキへ耳打ちする。

 

「あれの何がハチマンをあそこまで惹き付けるんダ……?」

 

「さあね。とりあえず崇めるほど好きなんじゃない?」

 

 意気揚々とハチマンがマッ缶を一口。これ以上の至福はないというように、彼が恍惚を浮かべた。当人の眼が腐っていることと格好も相まってか、絵面的にかなり怪しい。不審者そのものだ。でも、こんな男に惚れたのだから仕方がない。

 

 私は、ハチマンが生み出した隙をついて背後に回る。サキがゆっくりと立ち上がる。

 

「で、これはどこで売ってたんだ? 探してもなかったんだが……」

 

 ハチマンの問いにキリトがにやり、と笑う。親指を後ろに指して言った。

 

「あそこにいる人が全力で作った。製作期間は僅か二日。神業だよな」

 

 ハチマンの視線がキリトの背後へ向かい、固まる。サキがぎこちない笑みを浮かべて立っている。即座に彼が反転しようとしたところで、私が背後から思い切り彼の身体を抱きしめた。

 

「逃げるナ!」

 

「おまっ! アルゴか!? キリト……嵌めやがったな?」

 

 ははは、とキリトが苦笑い。

 

「提案はアスナだぞ。文句ならアスナに言ってくれ」

 

「あいつ、意外と下衆いこと考えるな。というか、引っかかる俺も俺か……」

 

 ハチマンがマッ缶を握り締めたまま苦笑する。私は全力でハチマンを羽交い絞めにする。

 

「逃げるなヨ。折角舞台を用意してやったんダ。絶対に逃がさないからナ!」

 

 サキが近づいてくる。泣きそうな顔をしてハチマンに歩み寄る。彼の身体が震える。恐怖よ吹き飛べとばかりに私は胸を押し付ける。

 

 ハチマン、とサキが柔らかい声で呼んだ。彼は反応しない。顔を俯かせて何も訊きたくないというように、片手で外套を目深に被ろうとする。それを私が無理やり引っぺがす。

 

「訊いてくれヨ! ちゃんと向き合エ! もう、逃げる必要なんてないんだからナ!」

 

「……なんだよ、これ以上責められる趣味はないぞ。俺意外とブロークンハートなんだからな。アイデンティティクライシス中だぞ」

 

 軽口言えるくらい余裕があるのかよ。そう思って顔だけを向いたハチマンを見上げる。彼の目は、もう言葉に表せないくらい真っ黒だった。希望の光なんてないほどに、森の深い夜よりもなお暗かった。

 

 息を呑む。

 

「いいから訊いてあげてヨ。絶対に訊いて後悔しないカラ!」

 

 ハチマンが項垂れる。逃げる気力もないのか、私の身体にもたれかかった。

 

 サキがハチマンの前に立ち止まる。投げ捨てられたように落とされた彼の両手を掴んで、胸に抱きしめた。

 

「ごめん、ごめんね。あんな酷いこと言ってごめんね。もっと早く、ちゃんと話し合っていればよかったね」

 

「……なにをだよ。もう言いたいこと、あのとき言っただろ」

 

 サキが首を左右に振る。

 

「違う、違うんだよ。言葉が足りなかった。ううん、言えなかった。きっとあんたを縛るって勝手に思って、あたしが弱かったから言えなかった」

 

「何が言いたいんだよ……」

 

 ハチマンの声音が怯えに波立つ。サキが短く息を吸った。

 

「好きだよ、ハチマン」

 

 ハチマンが顔を上げた。後ろから抱きしめている私には、彼の表情は分からない。けれど、サキの言葉が彼の心のどこかに触れた。それだけは分かった。

 

「大好きだよ、ハチマン。あんたの重荷になりたくなくて、あんたがアルゴに惹かれているのが分かってたから、きっとあたしは邪魔だと思って、あんなことしちゃった。もっと、ちゃんと、話せればよかったのにね」

 

 サキがハチマンの手を離す。だらりと落ちた彼の手が、何かを探すように彷徨った。私はその手を掴んで、また抱きしめる。

 

「訊いてもいい? あんたは、どうしたい?」

 

 ハチマンは答えない。ただ、彷徨う指が必要なものを見つけたように何かを掴んだ。私の手だった。

 

「さすがに、少し疲れたな……」

 

「休みたい?」

 

「かもしれねえ」

 

「あたしは、あんたの近くにいてもいい?」

 

「……真っ暗だった」

 

 うん、とサキが頷く。私は左腕でハチマンの身体を抱きしめ、右で彼の手を握ったまま独白を訊く。

 

「サキに拒絶されたとき、何も見えなくなった。俺がやってきたこと全部が間違いだと思った。もう人と関わるのは駄目だと思った。結局、現実もここも俺は何も変わっちゃいない。何をやろうがどう正そうが、元の木阿弥。どうやったってあんな顔を見せられるなら、俺がいる意味はなんだ?」

 

 ハチマンの言葉が静かに響く。

 

「ひとりでいられるだけの強さがある頃ならよかった。孤高を気取れるだけの気力があればよかった。でもいまは、それがない。もうひとりぼっちはこりごりだ。もう寂しいのは嫌だ。なのに誰に寄りかかることもできないなら、俺が消えるしかないだろ。そう、思った」

 

 もう限界だというように、ハチマンの身体が崩れ落ちた。甘ったるいコーヒーが入った瓶が、中身を零しながら地面に転がる。腰を落とした彼の身体を私が必死になって抱く。

 

「やることが欲しかった。理由が必要だった。サキのために必要だと思って用意してたバックアップ用の情報屋から、雪ノ下のことを訊いた。俺はまたそれに飛びついた。俺はひとりだから、最短路で解決する方法しかなかった。たぶん、あれは失敗だ。雪ノ下を助けるかわりに誰かを捨てた。でも、どうでもよかった。誰も俺を必要としないなら、俺だって誰も必要としない。そうやってまた自己完結してれば何も考えずに済むと思った」

 

 ハチマンが、私の手を握る力を強める。

 

「でも、会いたい人がいた。わがままを通してでも会いたい人がいた。でも、そいつまでサキみたいになっちまうかと思うと、怖くてやっぱり会う勇気もなかった」

 

 サキが問う。

 

「それはだれ?」

 

 ハチマンの顔が動く。彼が、背後から抱きしめる私を見て、不恰好に笑った。

 

「アルゴに会いたかった」

 

 ハチマンの濁った目から一筋、涙が流れた。押し流されるように、彼の瞳の濁りが徐々に取れていく。

 

「疑えなかったこいつの言葉の結末を知りたかった」

 

「知りたいカ?」

 

 私の言葉に、ハチマンが頷いた。

 

「もう、それしか縋るもんがねえ」

 

 胸郭が破裂したと思った。

 

 人は程々を知らない。感情の針が左右に振り切れれば、間を取れずに極端に走る。ハチマンを揺らした数々の出来事は、普段冷静な彼をここまで負の感情へと舵取りした。

 

「ハチマンを追い詰めたのは、オレっちだぞ?」

 

「もとを辿れば全部俺の責だ」

 

「まだ好きって言っていいカ?」

 

「嫌いって言われると死にたくなる」

 

「じゃあ、クリスマスには早いけど言うヨ」

 

 身体を離した私は、ハチマンの前に回って膝を付く。目線が合う。彼の表情は無だった。それでも、いまだ濁って混沌とした瞳には、僅かな希望があった。

 

 私は告げる。

 

「好きだゾ、ハチマン」

 

「……おう」

 

「愛してるゾ、ハチマン」

 

「……おう」

 

「オットセイみたいな返事はやめろヨ。好きか愛してるかのどっちかにしろヨ」

 

「実質一択じゃねえか」

 

「だってハチマンもオレっちのこと好きダロ?」

 

「まあな」

 

「じゃあいいじゃないカ」

 

「そんなもんか」

 

「そんなもんだヨ。ハチマンは難しく考えすぎだゾ。もっと単純でいいんだヨ」

 

 あれだけ悩んでいてどの口が言うのだろう。それでも、いまはこの言葉が、きっといい。

 

「これで晴れて恋人同士だゾ。もう絶対に離さないからナ」

 

 私はハチマンの身体を抱きしめる。闇夜を行く旅人のように彷徨っていた彼の手が、私の背中に回って掴んだ。

 

「サキ……すまん」

 

「いいよ。それがあんたの選んで道で、あたしの選択の結末だから」

 

 でも、とサキが続けた。

 

「あんたの友達には、なれるかなあ?」

 

 ハチマンが小さく笑った。

 

「ああ、そうだな。友達か。そいつは、いいな」

 

 サキの雰囲気が柔らかくなる。

 

「それじゃあ、あたしは行くよ。キリト、行こうか」

 

 サキがキリトに声をかける。私はその間、ずっとハチマンを抱きしめていた。ふたりの足音が遠ざかる。風が草葉を揺らす。

 

 ここには誰もいない。世界にふたりきり。そんな感覚を覚えた。

 

「なあ、ハチマン」

 

「ん?」

 

「キスしてくれヨ」

 

「……お前はいつもいきなり剛速球投げてくるな」

 

「恋人同士だゾ。いーだロ」

 

 とりあえず、とハチマンが身体を離す。どこか虚ろの目は、それでも私を見つめて離さない。ただ、頭がゆらゆらと揺りかごみたいに左右に動いていた。

 

「真面目にひとつ言っていいか?」

 

「なんダ?」

 

「超眠い」

 

「ハ?」

 

 あっけに取られて見たハチマンのまぶたが、確かに何度も落ちそうになっている。

 

「あれから寝てねえんだよ。正直、いまにも落ちそうだ……」

 

「抱き枕してやろうカ?」

 

「今日はお願いするわ」

 

 じゃあ、と私は立ち上がってハチマンを引き上げる。のっそりと立ち上がった彼が、私に身体を預けてきた。

 

「恋人記念ダ。アルゴフルコースを堪能させてやるヨ」

 

「頼むから寝させてね? 超眠いんだわ」

 

 最後までしまらないなあ、と思いながらも、この先のことを考えるとうれしくてはしゃぎたくて仕方がない。

 

 間違いだらけだった恋は、いま、正しい道を歩んでいるのだろうか。それはきっと誰にも分からないし、いま知り得ることでもない。膨大な未来を歩んで、振り返ったときに正否が分かるのだろう。後悔先に立たずというように、いまの選択は、遥か先から遡ってみないと正しかったのか、間違っていたのか判断できない。

 

 ならばいまは歩こう。隣に大好きな人がいてくれるのだから。

 

 

 

 

 



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