季節の中のアスカとシンジ (しゅとるむ)
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Geburtstag

「シンジ、そろそろ行くわよ」

「行くって、どこに」

 

 放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。

 

「あんたばか?エヴァの起動試験でしょう、今日は」

「え、そうなの?」

 

 シンジはスマホのスケジュール帳を見たが、そんな予定は入っていない。ネルフ側で入力したものを共有している形だから漏れはないだろうし、アスカも同じものを見ている筈なのだが……

 

「でもそんな予定、入ってないよ?」

「いいからとっとと来る!遅れるとまたミサトに愚痴られるわよ、ネチネチとね」

 

 アスカはシンジの学生服のネクタイを引っ張って、同行を促す。シンジたちは高校に上がり、二人の制服も新しいブレザー型のものになっていた。男女ともに濃いベージュ色のブレザーで、男子はネクタイ、女子はリボンタイになっている。

 

「ちょ、ちょっと。首が締まるからやめてよ」

 

 すると、アスカはシンジの耳許に口を寄せ、ドキッとするような事を言った。

 

「首締めはあたしじゃなく、あんたの得意技でしょ」

「うう……」

「いいネタを貰ったものよね、これで一生あんたを虐めて、たかれるわ」

 

 アスカはそう言ってニヤリと笑った。シンジは一生という言葉に、償い切れない重さを感じる。

 

 

「アスカ……あのさ」

「うん?」

「なんで、手を繋いでるのかな、僕たち……」

 

 まだ学校内なのに、アスカが手を差し出して、シンジはその手を握ることを余儀なくされた。それで、廊下の同級生たちのひそひそ話の対象になっている。

 

「虫除け」

 

 アスカはシンジと繋いでいない方の手でつまらなそうにスマホを眺めながら、簡潔にそう言った。電車の乗り換え案内を検索する画面がシンジの横目にも入った。

 

「高校に入っても相変わらず、下足箱のラブレターが減らない。一件ずつ断る式の対処療法にも限界がある」

「……僕をだしにするってこと?」

「あたしの為なら、何でもするんでしょ?」

 

 それから、アスカはスマホをしまい、シンジにしか見えない角度でその表情に怒りを閃かせる。

 

「あんたにはあたしの都合のいい男になってもらう。あんたはそれを拒めない。あんたの心も身体も全部あたしのものだ。あたしの望むタイミングで関係もステップアップしてもらう。言っておくけど、愛情とかそんなものは期待しないで。期待できない理由は重々承知だと思うケド」

「……僕に拒否権がないのは分かるけど、そんなの自暴自棄になってるだけじゃないか、傷付くのはアスカじゃないか……」

「捨て鉢になって、何が悪いのよ。あたしはあんたに守ってももらえず、ただの性の捌け口になっていた。あたしがどれだけ傷付いたと思ってるんだ。だからやり返す。傷付けられたプライドは十倍にして返す」

「もう僕ら、そんな風に生きていくしかないの?」

 

 そんな風に傷つけ合うなら、もう手なんか握らない方がいい、とシンジは思う。

 

「……とっとと行くわよ」 

 

 きびすを返そうとするアスカはシンジの手を握ったまま、離さない。シンジはアスカに合わせて動こうとは、しなかった。

 

「アスカ、真剣に話してるんだよ」

「あの時の浜辺で、あんたに犯された方がマシだった。人をとことん侮辱して。ズリネタには出来るけど、抱くことは出来ない……そういうあんたの心底はよく分かったわ」

「……なに言ってるん……だよ、アスカ」

「一生、この恨みは忘れない。一生あんたに付きまとってやる。お互いに心も身体も傷つけあって生きていくんだ」

「……一生って……僕なんかになんで拘るんだよ。自由に好きな相手を探せばいいじゃないか。それで僕に見せ付ければいい。そうしたら僕が一番傷つく。アスカにとっては一番の復讐になる」

「悪いけど、そんなの趣味じゃない。あんたにはあたしの大事なものを全部捧げてやる。でも、あんたは傷付き続ける。あたしに愛されているという実感がないから。これが一番の復讐よ」

 

 それから、アスカはシンジの腕に自分の腕を絡める。

 

「さ、行きましょ。学校での見せ付けプレイもいいものよ」

「こんなの……」

「あんたはあたしの全部をいずれ手に入れる。あんたが一番欲しいものはあげないけどね」

 

 アスカの復讐は、きっと彼女自身にとっても、つらすぎる事になるだろう。

 

 

 駅のプラットホームはいつもと反対側だった。

 

「アスカ、ネルフに行くなら、反対のホームだけど」

「今日は何の予定も入ってないわよ。あれはウソだ」

「……なんで」

「海でも見に行こう。あんたがあたしの首を絞めた海に」

「どうして」

「なんでとかどうしてとか、一々、五月蠅いのよ。そんな事を説明されないと分からないバカだから、あたしたち苦しんでるんじゃないか」

「海って、冬の海だよ。もう一年中夏じゃないんだ」

 

 季節はもう十二月だった。

 

「教えてくれてありがとう。あたしがそんな事を知らないとでも?」

「……アスカの気持ちがよく分からないんだ、僕には」

「あたしは毎日だって、あの海に行きたい。学校なんか辞めて、あんたと二人、あの海を眺めながら、あんたを憎んで暮らしたい。世界なんか終われば良かった。あんたと二人ぼっちの世界になれば良かった」

「……そんな事、無理だよ。僕らはそんな風には生きられない」

 

 電車が来た。ドアが開いても、アスカは乗り込もうとしない。

 

「電車来てるけど」

「口を開けば、常識的で詰まらないことしか言えないのよね」

「でも……」

 

 電車のドアが狭まるタイミングで、アスカは素早くシンジの腕を掴み、ともどもに車内に滑り込んだ。

 

「ホント、くだらない男」

「……ごめん」

「あたしが一生付きまとうと決めた、凡庸極まりない男」

「そんな事やめた方が」

「それはあんたが決めることじゃない」

 

 電車の中では二人は座らなかった。ドアの脇に立って、アスカは外の冬景色を見ている。しばらく押し黙っていたが、アスカはやがて口を開いた。

 

「……コートをさ」

「うん……」

「買ったんだよね」

「今、着てるやつ?」

「そう」

 

 アスカが今制服の上に着ているのは、チャコールグレーのピーコートだった。シンジもアスカのによく似た色のダッフルコートを着ていた。

 

「冬になるとコートを買う。それは当たり前の事だけど」

「……今までとは……違うよね」

 

 常夏の世界が終わり、冬のやってくる世界になった。季節が、人生が、回り始めている。

 

「あたしたちも、今までとは違う」

「……」

「だけど、それは当たり前の事なんだ。もう中学生じゃないんだから」

「アスカは……怖くないの。変わる、知らない世界が」

「怖いと思ったら負けよ。世界は敵ばかりだ」

「でも僕はそんな風には立ち向かえない」

「知ってるわよ、あんたは世界で一番の弱虫だ」

 

 アスカはシンジの腕を掴んだままだったが、その腕を更に自分の側に引き寄せた。

 

「アスカ……」

「高校生カップルなら、このぐらいの親密さは不思議じゃない」

「……なんだか、僕にはアスカが色々と無理してるみたいで、つらいよ」

 

 アスカをそんな風にさせたのは自分であると、シンジは知っていた。でも、アスカには何もしてあげられない。そんな力は何もない。

 

「自惚れだよ、それは。あたしが本当はシンジを好きで、シンジと本当はイチャイチャしたくて、こんな事をやっている……そんな風に思ってるんだろうけど、そんなのあんたの完全な妄想だ。あたしは無理なんかしていない」

「そこまでは言っていないけど……」

 

 車窓の外の景色はひたすらに寒々しく、寂寥感を漂わせている。

 

「こんな風に寂しい景色があるとは思わなかったな」

 

 シンジが思わず口にすると、アスカが睨み付けた。

 

「あの浜辺での景色をもう忘れてしまったの」

「いや、それは」

「薄情者」

 

 あの風景は別格で、シンジにとっては永遠に残るものだ。だけど、アスカはシンジの台詞を誤解したようだった。

 

「あの時、二人だけであの海を見ていた。あたしはあの寂しさを忘れたりはしない、一生」

「ごめん……」

「同じものを見ていても、心が重ならないと苛々する。絶望する。泣きたくなる。どうして男にはそういう当たり前の気持ちが分からないのよ」

「僕が悪かったよ」

「そんな事は知ってる。あたしとあんたの間の事は、最初から最後まで、みんな全部シンジが悪いんだ!」

「……うん、分かってるよ」

「分からなくていい!……別にあんたに甘えてる訳じゃないから、勘違いしないで。甘えさせて欲しい訳じゃない」

 

 シンジは、少し呆れてしまった。アスカはさっきから全部本音を自分自身で言っているのではないか。

 

「……甘えてくれてもいいよ」

「いやよ。シンジになんか甘えてなんかやるもんか」

「一生付きまとうってのも、甘えみたいなものじゃない?」

「どうしてよ」

「だって僕が誰かと結婚するかも知れないし、アスカに他に好きな男が出来るかも知れない」

「……あたしは別にシンジなんか好きじゃない。でも、シンジに結婚なんかさせないし、あたしも他の男なんか好きにならない」

「やっぱり、アスカは甘えたいんだと思うよ」

 

 シンジが首を横に振ると、アスカが力なく溜め息をついて俯いた。

 

「……まあ、今日はGeburtstagだから……」

 

 アスカはシンジの分からないドイツ語風の単語を呟いた。

 

 

 あの浜辺は、もうあの時と様子が違っていた。海の色は赤から青に変わり、沖にあった巨大な綾波レイや量産型エヴァも撤去されている。それがシンジには何だか寂しかった。まるであの時視た風景が単なる夢だったように感じられる。

 

「何も残ってない」

 

 アスカが茫然として、言った。

 

「確かに、あの時はあったんだ!」

 

 焦りを隠すこともなく、アスカはシンジに掴みかかった。

 

「量産型が磔刑に処されるように並んでいて、大きな綾波レイがいて、海はどこまでも赤くて。あれは嘘じゃないんだ!」

「うん……嘘なんかじゃないよ。僕も覚えている」

 

 その言葉に少しだけ安堵するが、アスカはそれでもシンジの襟を掴んで、視線はシンジのコートの裾に落としている。

 

「あたしとシンジがいた浜辺なんだ。二人だけの浜辺で、世界にはあたしとシンジが二人っきりで。だから、誰にも奪われたくなかったんだ……!あの光景はあたしとシンジだけのものなんだ!」

 

 シンジはアスカが自分を掴んでいる腕を握った。

 

「大丈夫。記憶は誰にも奪えないよ。僕はアスカと同じ事を覚えている。同じ光景をちゃんと見ている。僕がアスカにしたこと……ううん、ハッキリ言うよ、僕がアスカの首を絞めて殺そうとしたことも、アスカに気持ち悪いと言われて、頬を撫でられたこともみんな全部、ちゃんと覚えている」

「そんな記憶……もう忘れたいと思ったりはしないの?」

「うん。つらくても覚えている。忘れることはない。それこそ一生」

 

 アスカはきっとそれをシンジに覚えていて欲しかったのだ。だからシンジに一生付きまとうと言っていた。アスカはあの場面を無かったことにはしたくなかった。

 

「僕はこの場所に来るのがずっと怖かった。だけど、来てみたらすっきりした。僕はここで全てを終わりにしてもいいと思うよ」

「全てを終わり?」

「うん、アスカが僕を絞め殺してもいいし、もう二度と会わないと約束してもいい。アスカの好きなようにしてくれれば……」

「何を言っているんだよ……また、そうやって逃げるのか!選択肢を全部あたしに委ねて、責任を全部おっかぶせて、あんたはどこまでも楽をしてるだけじゃないか!」 

 

 男のくせに、女に決断させて、選ばせて、とことん情けないとは思わないのか!そう、アスカの心は叫んでいた。

 

「あたしに嫌われるにしても、拒絶されるにしても、シンジ自身がどうしたいかを言って欲しい。そうでなくちゃ何も始まらないし、それがあたしを傷付けたシンジの責任だよ。自分が傷付く可能性から逃げないでよ」

「……アスカ」

 

 アスカはシンジからそっと手を離した。冬のカモメが飛んでいる。アスカの長い金髪が海風に掻き乱された。

 

「ごめん、確かにアスカの言うとおりで男らしくなかったよね……僕は本当にダメな人間なんだ。アスカもよく分かってると思う。アスカの気持ち悪いって言葉の意味もずっとずっと考えてる。それは、もしかしたら、これからも一生考え続けるのかも知れない。何より僕のしたことは永遠に許されないことだから」

 

 シンジは少しだけ視線をアスカから逸らし、記憶の中で浜辺に横たわるアスカと、その首を絞める自分を幻視した。

 

「だけど、正直な気持ちを言えば、僕はアスカに惹かれている。身体だけじゃなくて、その心に。もしももう一度だけチャンスが貰えるなら、僕はこの場所からアスカとやり直したい。アスカと男女として付き合いたい……アスカは僕を受け入れてくれるかな?」

 

「……あんたとだけは死んでもイヤ」

 

 シンジはその言葉に雷に撃たれたようによろけ、俯いた。同時にああ……それはそうだよな、と納得も行く。アスカの複雑な心の反応を無理矢理に自分への好意と解釈して、自分を誤魔化してきたのだ。誰だって、自分を殺そうとした男と一緒になりたいなどとは思わない。一生付きまとうというのは、純粋な復讐の意志であって、それ以上の特別な意味は無かった。全てはシンジの一方的な想いで、勘違いだったのだ。

 

 砂浜にポツリポツリと黒い砂の点が広がった。

 シンジは失恋の痛みに、知らず涙を流していた。

 

「だけど、あんたは」

 

 アスカがその黒い砂を見ながら言った。

 

「ここで一度死んで、生まれ変わったと言えるかも知れない」

「……」

「もしそうであるなら、あたしはソイツとなら、やり直して見てもいいかも知れない」

「アスカ……」

 

 シンジはアスカの言葉に救われたように、右腕で自分の涙を乱暴に拭った。

 

「……今のは痛かったよ」

「あんたのその失恋の痛みは、あたしがすでにあんたに味あわされたものだったのよ?つらいでしょう、苦しいでしょう?あたしはずっとシンジに助けに来て貰いたかったんだ」

「うん……よく分かったよ。本当にごめん」

 

 シンジの言葉にアスカはよしと頷いた。

 

「でもどうして、今日ここに?」

 

 シンジが尋ねると、アスカは先程の単語を繰り返した。

 

「だからGeburtstagだからだよ……、それを新たな区切りにしたかったんだ。って、シンジには分からないか」

「もしかして、それって誕生日のこと?」

「ん、知ってたの、あんた?」

 

 今日、十二月四日はアスカの誕生日だった。

 

 アスカが反応すると、シンジはコートのポケットから、ベルベットのアクセサリーケースを取り出して、おずおずと差し出した。

 

「これ……」

「用意してくれてんだ。開けてもいいの?」

「うん、誕生日おめでとう、アスカ」

 

 アスカはベルベットのケースをゆっくりと開く。

 

 それは、7℃とかいうブランドのネックレスだった。銀色に光る輪の中に、アスカの瞳の色のような青い宝石が埋め込まれていた。ただ、捻れた輪の形など、正直、ブランドもデザインもアスカの好みではなかったが、シンジが悩んだ末に選んだのだろうなという想いは彼の真剣な顔に滲んでいた。

 

「今まで、彼氏のくれたプレゼントにダメ出しする女子って、人としてどうかと思ってた。でも、今はその気持ちが少し分かる」

「えっ、駄目だった?」

 

 アスカは首を横に振った。

 

「正直好みではない……でもきっと好きになれるよ。彼氏からの最初のプレゼントだし、そもそもあたしはその彼氏だって、最初は好みではなかったんだから。……だからきっとコレも好きになれる」

 

 アスカがシンジに初めて会ったとき、その顔を見て、アスカは冴えない顔だと思ったのだ。だから、第一印象は全てではない。それどころか、首を絞められたって、その最悪の底辺から再出発さえ出来るのだから。

 

 シンジは彼氏彼氏と連呼されて感慨深いようだった。

 

「僕、アスカの彼氏なの?」

「そうよ。でも一生ストーキングされるのより、格は下がったかも知れないから、これから精々気合いを入れて頑張ることね」

「ああ、うん……頑張るよ」

 

 アスカはそれからツッとシンジに近づいた。そして、さっと自分から、シンジの唇に自分の唇を重ねた。

 

「デザインが気に入らない分は、彼氏から直接取り立てたわ」

 

 シンジは思わず目を白黒させた。

 

「あ、アスカ……」

 

 すぐに距離を置いたアスカは悪戯っぽい目で、頬を少し上気させて、シンジを見つめている。

 

「明日から、ラブレター撲滅作戦を徹底的にやるからね。学校でいちゃつきまくって、バカップルの称号をゲットするわよ、いいわね?」

「いや、アスカ。バカップルは要らないんじゃないかな……」

 

 生まれ変わったシンジの苦労は終わりそうもない。



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Weihnachten

「シンジ、そろそろ行くわよ」

「行くって、どこに」

 

 放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。

 

「あんたばか?エヴァのハーモニクステストでしょう、今日は」

「あ、そうだったっけ」

 

 シンジはスマホのスケジューラーを見て、予定を確認した。確かにエヴァの試験の予定が、ネルフの担当者の手で入れられている。アスカがその確認行動を見咎めた。

 

「……あんた、自分の彼女の言うことが信用出来ないの?」

「か、彼女って……」

「彼女でしょうが。実際、この前みんなの前で堂々と宣言したものね」

 

 シンジはまだ馴れないのだが、二十日ほど前のアスカの誕生日の日、想いを伝え合い、あの赤い浜辺に至るサードインパクト絡みの恨みつらみを一応は乗り越えて、二人は彼氏彼女になったのだった。

 

 もちろん、乗り越えた事柄の重さは二人の中では一生残る。二人ともそれを忘れることはないだろう。だが、アスカとシンジはそれでも一緒に居続ける事を選んだのだ。

 

 その翌朝、アスカはホームルーム前に、無理やりシンジを引っ張って、一緒に教壇の上に上がると、高らかに宣言した。

 

「Guten Morgen、皆の衆、今日はみんなに知って貰いたい事があるのよ。ほらみんな、こいつ……碇シンジくんに注目ぅ~」

「あ、あの、アスカ……」

 

 何事かと、ざわめくクラスメートたちを前にアスカは、腕を絡められて顔を真っ赤にしているシンジに注目を集める。

 

「……シンジのこと、みんな冴えない根暗なボンクラ男子だと思ってるだろうけど、昨日からこいつあたしの彼氏になったから。だからサードインパクトの件で色々と遺恨もあるだろうけど、今後はこいつへの悪口はあたしへの悪口と同じ。よく覚えておいて」

 

 そう宣言するアスカの顔はいつの間にかシンジ以上に紅潮していた。耳の先まで真っ赤になっている。

 

「あと男子たち、あたしへのラブレターも禁止! こいつが焼き餅妬くからね」

 

 どよめき騒然とし、女子は突然降って湧いた恋バナに黄色い歓声を上げる。そんなクラスメートを前に、アスカがふんぞり返って教壇を下りると、シンジはむしろ冷静になって、腕を絡められたままアスカの耳元で囁いた。

 

「アスカでもやっぱり恥ずかしがるんだ、こういうの」

「……当たり前よ。平然としてたら、あんたへの気持ちなんてそんな程度のものだったのかって事になる。だから、あんたはあたしの赤面に感謝すべきなのよ!」

 

 熱の引かない顔で柳眉を逆立てアスカが言うのは殆ど照れ隠しだというのは、シンジにもよく分かっていた。

 

「うん、そうだね……ありがとう、アスカ」

 

 赤面に感謝しろというのはアスカらしいムチャな口振りだったけれど、シンジはそれになぜだか安心していた。

 

 アスカはこうでなくっちゃ。

 

 なぜかそんな風に、シンジには思えるのだ。

 

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「だって、こないだもアスカはそう言ったけど、本当はエヴァの試験なんかなかったじゃないか……」  

 アスカの誕生日のあの日のやりとりを色々と思い出しながら、シンジは言った。確か、あの日はネルフに行くと言って連れ出され、実際には赤い海のあの浜辺に連れて行かれたのだった。

 

「あれはあたしがあんたの彼女になる前の話。でも今はもう違う。あたしは彼氏になったシンジには嘘をつかないよ」

「か、彼氏とか彼女とか、さっきから声が大きいよ、アスカ……」

 

 目許を紅く染めたシンジがボソボソと呟く。確かにアスカとシンジのやりとりは周囲のクラスメイトたちから注目を集めていた。普段なら早々に撤退を始める放課後の教室に、妙に多くの生徒が残っているのはそのせいだろう。

 

 学校で一番の美少女に、そこそこ整った顔立ちで密かに女子ファンがいなくもない少年。エヴァパイロットとかサードインパクトにまつわる劇的な前歴もあって、この高校で一番注目を集める二人の色恋沙汰だけに、周囲はまるで物語の主人公とヒロインを見守るような関心を注いでいた。一つにはサードインパクトでは物的な被害が大きい代わりに、比較的、人的被害は軽微だったということもあるだろう。

 

「あんたは他人の視線を気にしすぎ。どうせ他人なんて一時の関係で、今は仲が良かったり、そこでの関係や立場が重大事に思えても、いずれ時の経過で否応なく関わり合いがなくなる。それを寂しくないとは言わないよ、でもそれはしょうがないんだよ。……だけど、あんたとあたしの関係はそうじゃない」

 

 そこでようやく声を低めて、アスカはシンジの耳に口を寄せて囁く。

 

「あんたとあたしはまだキス止まりだけど、いずれは少しずつステップアップしていく。絆を深めていく。他人ではなくなっていくのよ。嬉しいでしょ?」

「うん……そりゃ嬉しいよ……でも」

「でも?」

 

 アスカはかたちの良い細い眉を顰めて、シンジの言葉を待つ。

 

「……でも、少しだけ怖い」

「あのねぇ、あんたは乙女か!……行き着く所まで行ったとしても、あんたに何か痛みでもあるの?行為の結果として、お腹が膨らんだりするのかな?ん?」

 

 アスカは言いながら、シンジのシャツの上から、椅子と机の僅かな隙間に収まっているペタンコの腹をペシペシと叩く。

 

「ご、ごめん。そういう物理的な話じゃなくて、メンタル的な話だったんだけど……でも確かにアスカは余計に不安だよね。メンタルに加えて、女の子は身体の事があるんだから」

「そうだよ。怖いなんてシンジじゃなくてあたしの台詞だよ……だって女の子はひとたび男の子とそういうことをしたら、きっと物理的にも色々痛いし、キズモノになってしまうんだ。今時そんなの、気にしなくてもっていう子もいるけれど、あたしは気にする。あたしは古風な女なんだ。だから、そうなったらシンジに絶対に貰ってもらわないと困る」

 

 男と較べて、少しだけ女の子は割れ物(フラジャイル)だ。大切に扱ってほしいのよとアスカはシンジに向かって言った。

 

「……僕、そこまでは考えてなかった」

「だったら、よく考えて。時間はまだたっぷりあるんだから」

 

 そういうことをじっくり考える時間が、思春期であるに違いない。大人になったらもうそんな事を考えている時間はないのだから。

 

 

 ネルフへと向かう街路の木々はすっかり葉を落として見るからに寒々しい。

 

 ピーコートを着たアスカは、ダッフルコートの中で冬の寒さに身をこごめるシンジが自分から少し離れて歩いていて、よそよそしいのにすぐ気が付いた。

 

「さっきの教室でのやり取り……ちょっとクスリが効き過ぎた?あたしはシンジにあたしとのこと、将来のこと、真剣に考えてほしいと思ってるだけだよ。シンジに避けられたいと思ってる訳じゃない」

「うん、それはそうなんだろうけど……」

「だったら、手ぐらい繋ごうとか、そういう積極性は見せてもいいんじゃない?男なんだから」

「……うん、でも」

 

 シンジは毛糸の紫色の手袋をした自分の手を立ち止まって見つめていた。アスカの首を絞めた手がその手袋の下にはある。

 

「手、繋ごうよ」

 

 アスカが再び促した。シンジの考えている事が何か伝わったのだろうか、溜め息を付きながら、続ける。

 

「過去よりも明日だよ。あたしの名前はアスカ、明日の香りでアスカだ。亡くなったママが子供の頃に、そういう意味だって教えてくれた。だから迷っても前を向いて歩けって言われてる気がしてる」

「明日香か。ホントにいい名前だよね……」

「ありがと」

 

 シンジはアスカにそっと近付いた。手袋をしたままの片手を差し出す、おそるおそる……。赤い手袋をしたアスカは何も言わずにそっとその手を握った。

 

 しばらく、二人並んで手を繋いだまま無言で歩いていた。アスカはまるで明日の予定を相談するかのように、気負いのない声で言った。

 

「あのさ、シンジ。初体験……高校のうちにしようよ」

「アスカ……」

「焦らなくてもいい、だけどあたしはシンジと二人で関係をステップアップしていきたい。一歩ずつ、でも着実に、昨日や今日と違う明日に進まなくちゃ。ね?」

 

 シンジの顔は少し未知の事象に対する怯えの色を映す。それを見て、アスカも片眉を上げる。

 

「怖い?あたしとそういう事をするのが」

「……そうだね。やっぱり少し怖い。アスカより怖がってたら、また怒られるだろうけど」

 

 アスカを己のマスターベーションの対象にしていたのに、いざとなるとシンジはアスカと向き合うのが不安だった。

 

 だって、それがアスカとの関係を決定的に変えてしまう確信がある。キスをしたり、手を繋いだりするのとは違う。

 

 シンジがかつて誰とも結んだことのない、二人だけで閉じた、重い関係の行く末をシンジはまだ上手く想像出来ない。

 

「ま、男もしんどいわよね。大して強くもない癖に、強がって生きていかなくちゃ行けないんだから。責任だって重い。だけど、女はそういう男の生き方をちゃんと見てる。少なくともあたしのようにいい女はね。……だから、せいぜい頑張りなさいよ」

 

 突き放すようなアスカの態度はだがしかし、シンジに自ら一歩踏み出す事を求めている。そうであるに違いなかった。

 

 

 エヴァ模擬体内に収められたエントリープラグの中で、シンジとアスカは映像通信で会話していた。プラグ内に満たされたLCLの中に完全に浸かりながら、苦もなく会話出来ている。

 

 ハーモニクステストの間は特に何もする事がない場合が多く、二人は会話で時間を潰すしかない。そういう意味では慣れっこになっている時間ではあった。人との会話が基本的には苦手なシンジだが、アスカとの会話は苦痛ではなかった。厳密にはシンジが苦手なのは人との会話ではなく、むしろ会話が途切れる空白の沈黙で、お互いに話題を探して、それが見当たらなかった場合の気まずさなどが特に苦しいのだ。

 

 だが、シンジのどんな言葉にも、当意即妙の反応を返してくるアスカは、空白の沈黙を殆ど作らない。たまに沈黙を返す場合もあからさまに不機嫌な態度だったりして、彼女が無言でも必ず何らかの返事をしてくれている事が分かるのだ。だからアスカは一緒に話をしていて楽しい異性だった。クラスメイトの男子たちが、アスカを気位が高く、話しかけるハードルも高そうな相手だと思うのは完全な誤解だとシンジは思っている。みんな、アスカと友達になればきっと楽しいのに……と思うのだ。でも、そうなったらシンジは自分が焼き餅を妬くに違いないとも自覚していた。

 

「はぁ、今日もハーモニクステストかぁ。データ収集の為とはいえ、ここ一週間ずっとこれじゃない。退屈なのよね、あんたもいい加減飽きてきたでしょ?」

「そうだね……」

 

 エヴァに纏わる日々のテストや訓練は、もちろん巨大な汎用人型兵器などと無縁に生きる人々にとっては非日常であるのだが、シンジたちにとってはどちらかと言えば日常側に属する。その退屈と緊張感の弛緩は、これまでは、都度、使徒の襲来という非日常の極北的な事象によって打ち破られてきた。だが、シンジにはそれがもはや到来しないのではないかという平凡な予測と期待があった。命を賭けた戦いが二度と訪れないのならそれは無論のこと歓迎すべきだと思う。しかしもしその予測が正しいのならば、僕とアスカはこの先、どうすればいいのだろう。そして、どうなっていくのだろう。

 

「ねぇアスカ。僕たち、いつまでエヴァに乗り続けなくちゃいけないんだろう。もう補完計画は発動しないし、使徒だってもう出現しないんじゃないのかな?」

「さあね。でも、治に居て乱を忘れず、汝平和を欲さば戦への備えをせよ……昔から洋の東西を問わず、くどいほど言われてる事じゃない。いくら使徒がいなくなったって、これだけの巨大武装組織をいきなり解体して、力の真空状態を作り出す訳にはいかないわよ」

 

 ネルフ本部への戦自による侵攻という先の本部決戦は言うに及ばず、米国や欧州、中国といった各国のネルフ支部も本部と一枚岩ではない。極端な話、エヴァを巡っての争乱だってこの先、巻き起こる恐れが無いわけではなかった。まさに人間の敵は人間というわけだ。

 

「エヴァは十四歳でないと乗れないと最初は思っていた。でも、なんだか関係ないみたいだよね」

 

と、シンジは小首を傾げた。シンジもアスカももう十六歳なのだ。すると、アスカはぶんぶんと首を横に振った。

 

「それは適性年齢だから、一応関係はあるのよ。あたしたちが年を重ねるとどんどんエヴァとのシンクロ率が下がっていく。今、マヤがシンクロナイザーっていう補正装置を開発してるらしいし、十代の間はなんとか乗れるらしいけどね」

 

 技術開発部で故赤木リツコ博士の衣鉢を継いだ伊吹マヤ曰く、シンクロナイザーはダミープラグの並列意識ポンピング技術の応用ということで、それ以上の詳しい説明を聞いたわけではないが、アスカには何となくその動作原理が理解できた。要するにダミープラグの技術を応用し、操縦者の意識をコピーして並列化して走らせれば、その中で最もエヴァとのシンクロに適した意識を随時、選ぶことが出来る。

 

 つまり、サイコロを振って6が出る確率は六分の一に過ぎないが、複数のサイコロを振って、その中から最適な結果を拾うようにすれば、飛躍的にシンクロ率は安定する、大ざっぱにはそういう事だろう。

 

「でも、その後はどうするんだろう……」

 

 シンジもアスカもいずれは十代を超えて、大人になっていく。永遠に少年少女ではいられるはずもなかった。

 

「噂では、綾波タイプのクローンの四体目以降を製造するっていう話らしいわよ。あたしはマヤから聞いたんだけど、あんたのお父さんの代わりに司令に繰り上がったミサトが決めたみたい。コードネームでカトル、サンク、シスだったかな。三体は作るって話らしいから、そうしたらあたしたちもようやくお役御免かもね」

「綾波をまた?……それも三人も」

「しかも一人はロリらしい」

「えっ」

 

 アスカは悪戯っぽい顔で、シンジの反応を探る。想像通りに当惑している顔に、それ以外の感情が含まれていないと感じ取って、アスカは安心する。シンジのやつが、マザコンの上にロリコンだったら、目も当てられないもの……。

 

「成長途上で培養漕から取り出して、あえて他の綾波レイとシンクロ率のピークを迎える時期をずらすんだってさ。ほんっとえげつないこと考えるわよね、ミサトは……人類の明るい未来の為には、児童虐待なんて構ってられないというわけよね」

 

 本部決戦時に、エヴァ搭乗前の碇シンジを銃撃から庇って重傷を負ったミサトだったが、生死の境をさ迷った末に一命を取り留めた。碇ゲンドウが死に、冬月コウゾウが隠退した今、ナンバー3だった葛城ミサトはネルフの司令に成りおおせていた。

 

「ミサトさん、家にいるときも笑わなくなった」

「権道、覇道、修羅の道を歩むと決めたとき、ミサトはもう昔のミサトではなくなったのかもね……」

 

 この会話がモニターされており、司令のミサトにもしっかり聞かれているだろうと知りながら、アスカはあえてそう話している。アスカは今のミサトの事が好きではない。しかし以前のミサトに対してはそうでもなかった。

 

「でもさ、綾波レイが復活したら、シンジはまた会えるのが嬉しい?あんたのお母さんなんだもんね」

「……あ、綾波は母さんとは違うよ。綾波が僕を産んだんじゃないんだし……でも、もう以前とは同じような気持ちでは向き合えないと思う。今の気持ちは、親戚の女の子みたいな感じだよ」

 

 アスカの挑発性豊かな質問に、シンジは首を振った。それで嫉妬混じりの気持ちが醒めたのか、アスカもぽつりと呟いた。

 

「あたしはクローンでも何でもいいから、ママにまた会いたいな」

「アスカ……」

 

 それは偽り無いアスカの本音の一つだったが、シンジにも何と返して良いのか分からないほど、寂しげな本音だった。とはいえ、アスカも湿っぽい話をしたいわけではない。涙混じりのLCLなど、口にしたくもないのだ。だから、アスカは気分を変え、冗談めかして、シンジにifの質問をする。

 

「ねぇシンジ。もしも綾波レイみたいにあたしもクローンだったらどうする?それか、あたしを元にして、クローンが作られたりしたらさ……あんたはどんな風に思うんだろう?」

 

 シンジはちょっと考え込んでいたが、やがて微笑んで言った。

 

「クローンとかはどうでもいいな、人間に違いはないんだから。綾波レイは僕に大切なことを教えてくれた人だ。絶対に何かの部品とかじゃない……でも、アスカはアスカだけだよ。僕にとってアスカは、今話してる惣流・アスカ・ラングレーだけだ。代わりなんて居ないし、誰にも代われないよ。もしそんな子たちがいたとしても、その子たちはアスカとはやっぱり違う子だと思う。……きっとその子たちもいい子で、可愛いとは思うけど」

 

「ばか……」

 

 シンジの回答はアスカにとって満点だった。クローンをどこまでも人間として扱う。だけれどもクローンでは決してオリジナルである本人の代わりにはなれない。それぞれがどこまでも別人なのだ。そういうまともな人間として当たり前の感覚が、シンジにはあって、その父、碇ゲンドウにはなかった。そしてそれこそが──その人間的感覚の相違ないし欠如こそが、全ての世界的悲劇の原因だったのだ。だから、親子というのも不思議なものだ。これもまた遺伝子の半分を受け継ぎながら、明らかに別人、他者なのだから。

 

 それから程なくして、ハーモニクステストは終わった。作戦室から強化ガラス越しに模擬体を見下ろす冷たい視線は、ネルフ司令葛城ミサトのものだったが、もちろん、シンジとアスカにはその視線に気付く由もなかった。

 

 

 ネルフから帰るとき、アスカは行きとは違う街中を通って帰ろうと言い出した。夕方の街の通りはすっかりクリスマスムードだった。帰路で出会う商店街の木々は、今度は葉を落とした寒そうな街路樹ではなく、プラスチック製の常緑樹だった。

 

 青々とした作り物のもみの木に、白い綿で出来た溶けない雪で飾り付けられたツリーは、サードインパクトによる地軸再転倒で四季が戻ってきた日本では特に若者の間で、ちょっとしたブームになっていた。何しろセカンドインパクト後の世代は、一昨年まで常夏のクリスマスしか知らなかったのだ。だから、柄物の流行の意匠がホワイトクリスマス柄だったりする、どこかチグハグなブームまで起こっている。

 

「そっか、明日はWeihnachtenだものね」

「ヴァイナハテン?それってクリスマスの事?」

 

 今日は十二月二十四日。だからシンジにもすぐに思い当たった。

 

「そう、ドイツ語ではそう言うの。Frohe Weihnachtenでメリークリスマスよ」

「フローエ ヴァイナハテンか……なんだか難しいね」

「まあ、慣れよ慣れ」

「でも、アスカと出逢わなかったら、こんな単語一生知らなかったかも知れないや」

「人と人の出逢いは、世界を広げるのよね。だからサードインパクトの後、世界が元に戻ってあたしは良かった。シンジもそうでしょ?」

「……うん」

 

 店頭などに飾られているツリーはセカンドインパクト前から倉庫にでもしまい込んでいたのかと思われるような古いものがチラホラ目に付く。きっと常夏の世界には似合わないクリスマスツリーを、しかし、いつかは季節が戻ってくる事を切なくも信じて大切にしまい込んできたのだろう。二十億人もの人々が亡くなったとされるセカンドインパクトだ。きっと古びたツリーを捨てられなかった理由の多くは、そのツリーに笑顔を見せた、今はもう帰らない愛しい人たちの思い出が染み付いているからなのかも知れなかった。

 しかし、それら古びたツリーが目立つのも今冬ぐらいまでの現象かも知れない。復興景気が本格化し、来年の今頃は成長意欲旺盛な商魂逞しい人々によって新品のツリーが盛んに売りに出され、やがては毎年のように繰り返されるある意味では平凡な年中行事に変わっていくのだろう。セカンドインパクトの傷跡や記憶が世代交代もあって既に風化しつつあるように、サードインパクトだって、いずれ確実にそうなっていく。

 

「コートを初めて買ってはしゃいだり、ホワイトクリスマスに感激したり、……でもそんなのも今だけの事だわ」

「うん……」

「中学生がキスに大騒ぎしたり、高校生が初体験を焦ったりも同じ。その時、騒いでも後から振り返ったら、そんな事で……という思い出になるわよ、きっと」

 

 セカンドインパクトの結果、地軸の傾きのなくなった世界で、シンジとアスカは出逢って最初の数ヶ月を過ごした。日本ではずっと夏で、アスカが来日したのは9月だったから、そんなに違和感もなかったけれど、今はサードインパクトを経て地軸の傾きは戻り、ようやく冬らしい冬になっている。だからアスカはあのシンジと共に過ごした僅かな常夏の季節が、今では何となく夢の中の出来事のようにも感じられていた。

 

「みんな、思い出になるのかな」

「うん。……だって考えても見なさいよ。あたしたちの親もそのまた親も、みんな何とか異性の相手を見つけてヤることヤったから、あたしたちが今ここに存在している。あたしたちはまだ子供だから、異性とのこと、すごく高い壁があるように感じて不安でいっぱいだけど、大人になって振り返ってみたら、何であんな事で焦ったり、憎しみあったり、悩んだりしたのか、きっと分からないぐらい当たり前の事になってしまうんだと思う。キスも……その先にする事も、何もかも。あたしたちにとっての恋や愛の一大イベントが──悩んで苦しんで一歩ずつおずおずと進んだ事が、大人にとってはありふれた日常に変わる。キスもセックスもきっと未来のあたしたちにとっては、当たり前に毎日のようにする事になるんだ」

 

 だからといって、そのありふれた日常がつまらなくなるわけではないだろう。毎日ご飯を食べられるのが幸せなら、きっと欲しいものが毎日のように傍にある日常もまた幸せであるに違いない。

 

 だけど、今この瞬間の感覚や感性は今だけのものだ。大人になったら永遠に喪われてしまう瑞々しい喜びと哀しみ。アスカは今この時だけに感じられる若々しい気持ちでそういう事に向き合いたい。

 

「セ……。女の子がその言葉を言うの、初めて聞いた」

 

 シンジは驚きながらもなぜか感動したように呟いて、赤面した。それもまた、世界を知るという事なのだろう。綺麗事だけでない世界の有りようだ。

 

「女子だって、女子同士の間では普通にセックスと言うわよ。もちろん、経験したことのある女子はまだ少数派。でも、いずれはあたしもその子たちもみんな大人になっていく。男の子たちのこと、みんな気になってるんだ。……あたしもシンジの事をずっと気にしている」

 

 そして、アスカはちょうど差しかかった狭い脇に入る路地を指差した。

 

「今夜は聖夜だ。この国ではなぜか男と女がつがう晩になっているみたいよね?」

 

 アスカは挑発するようにシンジを見て口の端を吊り上げる。彼女が指差した路地の先にいくつもあるのは、そういう目的の為のホテルだ。宿泊だけでなく休憩という料金表示のあるプレートが淫靡で生々しい。

 

「アスカ……」

「ふふん、まあお子ちゃまのシンジには、そこまで求めないわよ。じっくりゆっくりやって行けばいい……」

 

 鼻で笑って、シンジの意気地の無さに安心するようにアスカはきびすを返そうとする。

 

 初体験は高校のうちに、シンジにそうは言ってみたものの、それはあくまでもこの三年間のうちのいつかにということだ。もちろん、それは今日ではなかった。

 

「……っ」

 

 しかし、アスカは自分の身体が腕を組んだシンジに引きずられ、勝手に路地の奥に進んでいるのに気付いた。

 

「シ、シンジ……」

「アスカはいつもいつも、僕のことを子供扱いする。でも僕だって男なんだよ」

「ちょ、ちょっと。目が恐いんだけど」

「挑発したのは、アスカだろ!」

 

 シンジが大きな声で怒鳴り、アスカはビクッとする。その顔に明確な怯えがあった。

 

「こ、こんなのは、イヤだ……イヤだよ、シンジ」

 

 そのアスカの拒否の言葉と、その言葉に湿った響きが明確に交じっているのを聞き取って、ようやくシンジも正気に戻った。アスカは泣きそうになっている。慌てて、腕をほどいた。

 

「ご、ごめん……」

「女の子は割れ物だから、大切に扱って欲しいって言ったじゃないか!あたしはこんなに綺麗で、大人になったら美人になるの確定なんだから、ちゃんと我が儘を聞いて、褒めて、優しくして、頭を撫でて、ずっと一生、お姫様みたいに扱ってくれなくちゃイヤだよ、シンジ!」

 

 蒼い瞳を潤ませて、アスカはシンジに叫ぶように言った。

 

「……あたしが女を武器にして一方的な主張してシンジを振り回しているの、もちろん分かってるよ。でも、あたしは女だから、やっぱり女扱いされたいんだ!それじゃ男は損してると思うかも知れないし、不公平だとか自分勝手だと腹も立つかも知れないけど、でもいつか、あたしはあたしを全部シンジにあげるんだよ!だから、そうしてくれたっていいじゃないか。お姫様扱いしてくれるのは、王子様の役目なんだよ!」

「アスカ……」

 

 シンジは先ほど腕から放したアスカの手を、もう一度今度はそっと羽毛を掴むように、指の先で握った。

 

「ごめん、アスカのこと、ちゃんと割れ物として扱う。傷つけるような事はしない。さっきは頭に血が上っちゃったんだ……本当にごめん」

 

 それで、アスカも落ち着きを取り戻す。さっきまでのシンジはアスカの知らないシンジだった。知りたくもないシンジだった。でも、今ここにいて謝ってくれているシンジはいつものアスカのよく知っているシンジだった。その事にアスカは安心する。

 

「……ううん、あたしもシンジのことを散々に煽ったり、先に進めと言ったりしてたのに。でもね、シンジに前に進んで欲しいけど、強引なのはイヤなの。あくまでも二人で一緒に前に進みたいの。よく相談しながら、ね。こういう気持ち、分かるかな。勢いじゃイヤなんだ。こんなのあたしがシンジに求めてる男らしさじゃないよ。そんなのじゃ、結ばれたって却って不安になる」

「……分かるよ、僕がバカだった。またアスカに酷いことをしてしまうかも知れなかった」

 

 シンジは自分の不甲斐なさと弱さに俯き、ほぞを噛んだ。

 

「でも煽ったのはあたしだから。ホテルが恐いなら、まだそんな気持ちにはなれないのなら、あんな事を言わなければ良かった。あたしはまだまだ子供で、きっといつだってシンジに甘えてるんだ。……ほんと面倒くさい女でしょ、あたし」

「面倒くさいかも知れないけど、でもそこが可愛いよ。アスカを大切にしたい。今日みたいな事はもうしない。アスカは僕の宝物だから毎日愛でて、磨いて、声を掛けて、割れ物のように大事にする」

「シンジ……それじゃあたし、陶磁器だよ」

 

 アスカは呆れて苦笑した。しかし、シンジはあくまでも真剣で、アスカへの言葉をまるで誓いに変えて捧げるように空を見上げた。

 

 いつの間にか日が落ちて、夜空に一番星が輝いている。西の夜空に輝くその明るい星をアスカも見上げて、感心するように言った。

 

「あれはきっと、ベツレヘムの星ね」

「ベツレヘム?」

「イエス様がお生まれになった場所。東方の三賢者が西の空に輝く見慣れない明るい星を見つけて、救世主の誕生を知ったの。クリスマスツリーのてっぺんにある星はそれを模したものなのよ」

 

 アスカはシンジに手を差し出した。

 

「あたしたちもあの星を見上げながら、帰ろう。まだここに来るのは早すぎた。でもあたしを欲しがってくれてありがとう、シンジ。シンジはやっぱり男だったんだね」

「うん……僕は男だよ」

 

 シンジはアスカの手を握った。白く柔らかい手と、淡黄色のそれなりに固さを感じさせる手が繋がり、結ばれる。手の色や柔らかさのように、男と女は何から何まで違う。きっとそんなにも余りにも違うから、愛おしいのだ。

 

「シンジが男だってこと、いつか、あたしはそれをちゃんと知る事になる。あたしはそのいつかを楽しみにしているから、シンジももう少しだけ待っててね」

「わかった……僕はちゃんと待つ。アスカの事を守りながら待つから」

「うんありがとう、シンジ」

 

 路地を離れて、アスカとシンジは再び家路を辿り始める。いまだ葛城ミサトを保護者として住む三人の家、コンフォート17に向かって。

 

 シンジは思った。──日付が変わったら、すぐにアスカに「フローエ ヴァイナハテン」と言おう。僕のドイツ語の発音はどこまでも拙くて、それでも、そんな拙さの中に宿る僕の気持ちを伝えたかった。アスカといつまでも一緒にいられて、一つ屋根の下で暮らせて、そんな環境だから、日付が変わったらすぐにでも記念日のお祝いの言葉を投げかけられる。ずっとずっとアスカとそんな関係で居られる事の方が、今すぐに男と女の関係になろうとしてすべてを壊してしまうより、遥かに大切なんだ、その事がようやく分かったのだ、と。

 

 そして、きっと、アスカはシンジの言葉に、綺麗な声と発音でこう応えてくれることだろう。

 

 ──Frohe Weihnachten!



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Neujahr

「シンジ、そろそろ行くわよ」

「行くって、どこに」

 

 シンジが作ったそばのつゆを最後の一滴まで飲み干した後(「ああもう、そんな風におつゆまで飲み干したら塩分過多だって!」)、同居人の少女が声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。

 

「あんたばか?ニネンマイリに行く日なんでしょ、今日は」

「二年参り?……よく知ってるね、アスカ」

 

 むろん言うまでもなく、大晦日の深夜に寺社にお参りして、そのまま元日を迎え、新旧の年をまたぐ初詣が二年参りだ。

 

「でも、まだ九時過ぎだから少し早いかな。アスカだって、三時間も寒空の下で時間を潰せないでしょう?」

「それはそうだけど……」

「でも準備はしようか。ここからだと、何処がいいかな?」

 

 二年前の大晦日はまさにサードインパクトが発動したその日だった。一年経っても、復興は途上で、シンジもアスカも初詣どころではなかった。だから今年はサードインパクト後、初めての初詣だ。近隣の寺社を調べるところか始めなくては、とシンジがスマホに手を伸ばすとアスカが言った。

 

「それはもちろん箱根神社よ!」

 

 妙に気合いの入ったアスカの勢いに、シンジは気圧されるように頷いた。スマホでアクセスを検索して読み上げる。

 

「……箱根神社だね。えっと……湯本駅からバスに乗れば行けるね、バス停から十分ぐらい歩かないといけないけど」

「うん、あったかくして出かけましょ」

 

 まあ割合、近いからいいか。アスカの下調べに感謝して、シンジは何気なく言った。

 

「ミサトさんも一緒に行けたらいいのに……大晦日まで仕事か……」

「御用納めは二十八日だってのにね……案外、家に帰りたくないのかもね」

「帰りたくない……?」

「そうよ。ミサトはあたしたちに顔を合わせづらいんだと思うわよ」

「ど、どうして?」

「あたしたち子供に一生背負わなくちゃいけないような重荷を背負わせたから」

 

 サードインパクトのトリガーとなって、シンジは意図せずとはいえ、世界の破壊と再生を担った。そして、アスカと赤い海の浜辺で横たわり、愛憎劇を演じる事になった。シンジがアスカの首を絞め、殺そうとした事は永遠に忘れられないだろう二人の記憶だ。むろん、二人はそれをなかった事にしてしまうつもりはない。

 

 ミサトがその細部までを承知しているとは思わない。しかし、二人が一カ月ほどして、LCLから人の形を取り戻したネルフクルーたちに保護された頃には、アスカもシンジも黙りこくって、互いの顔を見ようともしなかった。ミサトにはまだ幼い十四歳の二人が過酷な運命に直面し、心を傷付けられた事に動揺したのだろうか。

 

「でも僕らは仲直りできた。ちゃんと和解して……その……彼氏彼女になれたんだ。ミサトさんにそれを伝えれば」

 

 それをシンジが赤面しながら口にすると、アスカは首を左右に振った。

 

「どうだろうね、それ。出発点はそこだとしても、ミサトもそろそろこの家族ごっこ、限界だと思ってるんじゃないの?ミサトは結局、サードインパクトを防げなかった。加持さんもリツコも失った。もうミサトには何もないのよ」

 

 そして、やがてはあたしとシンジという偽りの家族も失っていく──アスカはミサトの生き方を哀れに、哀しく思った。報われることのない人生だ。どんどん出世ばかりしても、あんなのつらいだけじゃないか。

 

「だったら尚更、僕らがミサトさんの力に……」

「シンジ、いつまでもこの葛城家には居られないわよ。あたしたちだってもう十六だ。高校にいる間は居候をさせてもらえるかも知れないけど、どの道あと数年でこの家を出なくちゃいけない」

「そんな……」

 

 本当はシンジにも分かっている事だった。いつまでも子供では居られない。でも、シンジたちが本当に子供で居られた時期は短かった。シンジで言えばこの街に来るまで「先生」に預けられていた時期は、子供では居られない、大人のように振る舞うことを意識せずとも強いられた時期だった。「先生」が冷たかったのではない。立派な教育者で、だからこそ父はシンジを託したのだろう。シンジはだから当たり前の分別はつく最低限人間と呼べる存在には育った。でも、彼「先生」に家族を感じたことはなかった。 

 

 だからシンジはこの新しい共同生活では、保護者代わりのミサトにどこか甘えていたのかもしれない。ミサトは多忙を極める仕事の中で、いつでも明るく気さくに振る舞い、実の姉のように接してくれた。しかし考えてみればそんな事をする必要などなかったのだ。だから、ミサトの振る舞いはきっと、僕たち子供を戦場に立たせることへのせめてもの贖罪だったに違いない。シンジにはようやくその事を──他人の置かれた立場や気持ちを考える余裕が生まれていた。だから、いつかはミサトとの関係も終わる。僕らがエヴァに乗れなくなるその時には。アスカの言ってるのはきっとそういう事だった。

 

「前にも言ったでしょ、人間関係なんて所詮は一過性のものだって、ミサトとあたしたちは本当の家族じゃない。家族が欲しければ、あたしとシンジが自前でどうにかするしかないんだ。意味、分かるわよね?」

 

 その言葉の意味することはもちろん、少し考えればシンジにだって分かることだ。シンジもアスカも十六歳だ。あと二年で二人はその資格を得る。

 

「う、それって」

「そう、あんたとあたしは男と女だ。だから新しい家族を作ることが出来る。今度こそ疑似じゃない本当の家族をね」

「……僕とアスカが本当の家族に」

「当たり前の事じゃない。家族を作れるのは赤の他人だけなんだから」

 

 それはどこか逆説めいていて、しかし、世界のどこでもそうである筈のルールだった。家族と呼ぶには遠い血縁関係であってこそ、ようやく男女が結ばれ、新たな家族になることが許される。シンジがその当たり前だが、改めて考えてみるとなぜそうなっているのかと首を傾げたくなる、その仕組みの不思議さに少し戸惑うような目をしたのを見て取ったのか、アスカは説明してやることにした。大学時代に社会人類学の授業で勉強したレヴィ=ストロースの学説のことだ。

 

「どうしてそうなっているのかというのは構造主義という学問で研究されている」

「構造主義?」

「要するに、女や財物を交換して、人々の集団は交わり生きていく、そういう構造なのよ」

「え……そんな、女性は財産や物じゃないよ」

 

 シンジが慌てるように、アスカに抗議した。そう説明したアスカ自身が女性であるのに、まるでアスカの代わりに文句を言うみたいに。

 

「違う違う、そんな事を言ってるんじゃないの、人間は誰しも自分が生まれた家族の中で自足して、その家族の中だけで暮らしてはいけないってこと。一人前の男になったらその時、女を家族の中から調達してはいけないのよ……たとえば母親とか姉とか妹とかからは。だから男は誰でも自分の女を余所から見つけなければならないの。結果として、人類は婚姻を通して複数集団間で女を交換している事になる」

 

 アスカはいわゆるインセストタブーについて説明している。近親相姦の禁忌のことだ。

 

「それは血が濃い相手だと遺伝的に良くないから?」

 

 シンジの頭の中に瞬間、綾波レイの姿が思い浮かぶ。僕はある時までは確かに綾波のことが好きだったのだ。もしかしたら、アスカのことよりもずっと……。

 

「そうじゃないのよ、一般的にはそういう誤解がまかり通ってるけどね。インセストタブーはそういう遺伝学的な問題の回避のためにあるんじゃない、もっと大きな目的──人類社会を成り立たせる為にあるんだよ。家族や一族だけで閉じない、他の集団との女や財物の交換、人と人との広範な交わりを維持するための仕組みだ。そうでなけりゃ、人類は山奥とかに家族単位で孤立して、いつかは滅んでしまう。……そりゃ、知らない家に来て、お嫁さんは最初は苦労するでしょう。でも、自分の生家の慣習や文化や料理を持ち込み、家族以外の世界を持ち込み、そうやってより広い世界を成り立たせるの。女の役割はだから重要だったんだよ。家族はむしろその広い社会を成り立たせるためのインセストタブーの単位として生まれた」

 

 アスカの長広舌にシンジは頭を掻いた。一介の高校生であるシンジにはアスカの主張の主旨はぼんやりとしか伝わらない。

 

「なんだか難しい話だね……」

「難しい話をしたいわけじゃないの。でも、二年前のちょうど今日十二月三十一日に起こったサードインパクトを経て、シンジとあたしは、あたしたち二人だけで閉じるのではない世界を願った。社会と世界の復活を願った。だから、今ここにこうしているシンジとあたしはいつか、この家を出て、新しい家族を作らなくちゃいけない。本当の家族ではない赤の他人だからこそ、今度こそ本当の家族にならなくちゃいけないんだ」

 

 シンジは頷いた。

 

「世界のコウゾウというのがそうなら、しょうがないね」

 

 よく分からないながらも、つまらない冗談のつもりで軽くそう言ったら、アスカはシンジの頭を近くに有ったファッション雑誌で思い切りはたいた。

 

「あ痛っ!」

「世界の構造も冬月コウゾウも関係ない!あんたとあたしにとって重要なのは気持ちだ!……お互いの気持ちだけなんだよ……!」

「そ、それはその通りだと思うけど……」

 

 だったらさっきまでの説明は何だったんだよと言いたくなる気持ちをシンジは必死に抑える。

 

「世界の構造はあたしとシンジが家族になることを求めている。でも、あたしとシンジは世界が求めていなくたって、一緒になるんだ。……文句ある?」

 

 そのアスカの昂然とした態度はシンジに対してというよりも、まるで世界に牙を剥くみたいな勢いに、シンジには見えた。

 

「も、文句なんてあるはずないよ。嬉しいと思ってる。でも僕とアスカは一歩ずつ関係を進めるんでしょ、まだまだ先のことのように思えるな……」

「二年なんてあっという間じゃない、高校の間に初体験をして、それからすぐ入籍すればいい。そして二人で一緒に同じ大学に通おうよ。やっぱりシンジも大学は出ておいた方がいいよ」

 

 とするとアスカは二度目の大学生ということになる。学士入学というやつになるのだろうか?シンジは少しだけ調べ始めている大学入試の知識で考えてみた。いや、それよりも高校生で入籍したら、学生結婚になるのではないか。シンジは夫婦として同じ大学に通う自分とアスカを想像してドキドキしてきた。でも恥ずかしいので、嬉しさを隠すように、ことさらに難しい顔をしてみせる。

 

「なんだか考えることが一杯で、大変だね……」

「でもそれが人生なのよ。誰も代わりに考えてあげることは出来ない。あたしもアドバイスは出来るけど、最後にはあんたの進路はあんたが自分で決めなくちゃね」

「うん」

「大変だけど、頑張ろうよ。頑張れば、あたしたちはちゃんと幸せになれるんだから」

 

 アスカはそう言って、シンジの手を握った。だから、シンジも頷いて、「出掛ける支度、そろそろしようか」と言った。

 

 

 箱根湯本駅からバスに乗り換えて、目的のバス停を降りると、粉雪の薄く積もった道を、家族連れやアベックなど沢山の人たちが歩いていた。まだ、雪はチラチラと舞っている。

 人々の流れは概ね一方向で、みな箱根神社に向かうのだろう。

 

「こんなに沢山の人たちが……」

 

 シンジは胸が詰まる気持ちで言った。サードインパクト前と同じ光景だ。人が大勢生きている。シンジの感動と安堵をアスカは手に取るように理解できた。シンジの感じていた罪悪感が人々の命にまで及ぶものだったのなら、シンジはこの先、十年も二十年も悩まなくてはいけなかったかも知れないのだから。

 

「うん、ほとんど皆がLCLの海から戻って来れた。無論、混乱の中、事故死や戦死がない訳じゃないけど、みんなシンジが見限らなかったから戻って来れたんだよ」

 

 手袋の上から手を繋いでいる二人は歩きながら、ゆっくりと言葉を交わし、その度に吐く息が白く染まった。

 

「……僕は何もしてないよ」

「ううん、そんな事はない。シンジはサードインパクトの依代になった。世界はそれで物理的に破壊された。でも皆が補完計画を烏滸の沙汰だと思って、LCLに溶け込もうとしなかったのは、シンジ自身がそう思ってたから。みんなシンジの意思と意識に共感したんだよ。他人と一つになっても意味なんてない。人は別々の人間だからこそ意味がある、別々の人間が助けあって生きていく事に意味があるって」

 

 シンジはそう思ってたんでしょ?とアスカに水を向けられて、シンジは空いている方の手で、寒さに赤くなった鼻の頭を照れたように擦る。

 

「僕には人類全体の事なんて分からない。あの時、僕が考えてたのはアスカの事だけなんだ。アスカが僕なんかと一つになってしまったら可哀想だと思った。それに……」

「それに?」

「恥ずかしいと思ったんだ。僕の気持ちを全部アスカに知られてしまうのは。アスカの事が好きだって事。それなのに勇気が持てないでいる事。綾波のことももしかしたら好きだったかも知れない事。エッチなことばかり考えている事。卑怯で無責任で情けなくて弱虫な事。そんなのアスカにだけは知られたくなかったんだ」

「……同じだね、それなら」

 

 フフッと笑いながら、アスカは言った。二人のブーツの足跡が白い雪の上、二人の後ろに連なっていく。しかしその足跡もすぐに消えてしまうだろう。降り積もる粉雪と後ろから来る人々の足跡で。

 

「……同じって?」

「そのままの意味だよ。あたしも恥ずかしいと思ったのよ。あたしの気持ちを全部シンジに知られてしまうのは。シンジの事が好きだって事。それなのに勇気が持てないでいる事。加持さんのことももしかしたら好きだったかも知れない事。エッチなことばかり考えている事。傲慢で利己的で嫉妬深くて弱虫な事。そんなのシンジにだけは知られたくなかったんだ。だから……全く同じだよ」 

 

 それからアスカはまっすぐ前を見て言った。

 

「気持ち悪いって言ったでしょ、あたし」

 

 その言葉にシンジはズキリと胸を疼かせる。今でもそれはシンジの胸の古傷に響く強い力を持った言葉だった。シンジは苦しみに耐えるように表情を固くし、しかし勇気を奮って頷く。

 

「うん……」

「あれは、そんな風に、全く同じ事を考えていたあたしたちなのに、それでも、気持ちが上手く重ねられない事が、気持ち悪かったのかも知れない。分かるでしょ、パズルとかをやってて最後のピースがハマらないとか、見つからないとか、そもそも計算が全部違っててやり直さないといけないとか、そういう感じ。そんなのって何だか気持ち悪いと思わない?すっきりしないというか、出題自体を疑いたくなって。あたしはあの時、人間はなんで簡単に分かり合えないんだろう、その仕組みが──人間の構造が気持ち悪かったのかも知れないんだ」

「アスカ……」

 

 シンジはアスカを見殺しにし、彼女の首まで締めた己の罪が消えるわけではないにせよ──アスカの言葉に少しだけ気持ちが軽くなり救われる思いがした。アスカの表情は真剣で、だからそれはアスカがシンジを免罪しようとして取り繕っている話ではないようだった。

 

「でも、一足飛びに理解を求めるなら、行き着く先はやっぱり補完計画になってしまう。だから人類はどんなに気持ち悪くても、居心地が悪くても、このヘタッピなコミュニケーション能力で何とか他人を理解していくしかない。そりゃ喧嘩もするでしょうよ、憎んだり嫉妬したり、場合によっては別れてしまうことだって哀しいけどあるかも知れない。でもそういう可能性を向こう側に置いておくから、苦労して分かり合えた時の喜びは何よりも勝るんじゃないかな。結ばれた喜びはきっと無限に高まるのよ。構造主義の話と同じだよ。自家受粉で楽をしたらいけないんだ。手近な血族で安易に間に合わせたらいけないんだ。どんなに遠くて違うものでも、苦労して理解しあわなくちゃいけないんだよ、きっと……そうしたらあたしとシンジみたいに実は全く同じだって気付ける事もあるのかも知れない」

 

 そして、ずっと前を向いていたアスカがシンジの方に向き直った時、アスカは蒼い瞳を潤ませて泣いていた。

 

「──だって、あたしはシンジが好きなんだもの。そのぐらいの苦労は買ってでもするよ。補完計画で楽チンポンに分かり合ったって意味がないよ。皆と一緒じゃなくて、二人だけで繋がらなくちゃ意味がないよ!それは否定されるべき閉じた世界ではないんだ。そうじゃなくて、その二人は広がっていく世界のまさに始まりになるんだから!」

「アスカっ……」

 

 シンジは繋いでいた手はそのままに歩道の脇に逸れるように、か細いアスカを抱き寄せ、腰が折れそうな程に強く抱きしめた。アスカの事が本当に愛おしい。健気にシンジへの想いを抱き続け、間違いをし続けたシンジを許して、共に人生を歩もうとしてくれる彼女の愛が、本当に嬉しかった。

 

 シンジの両目にも涙が溢れて視界をぼやけさせていく。しかし後続の歩行者は驚きながらも、器用に二人を避けていく。冷やかすものなど誰も居ない。LCLから戻ってきた人類たちは何故だか少しだけ他人の気持ちに敏感に、優しくなり、そのせいなのか、あらゆる犯罪指標に統計上有意な低下が見られていた。きっと、誰もが他の人の心の中を覗いたからだろう。そして、知った秘密は驚くべきものだった。──「他の人たちも、自分と全く同じだった」

 

 老いも若きも男も女も、賢愚貧富民族宗教を問わず、皆、人類の心の中は同じだった。それを知って、世界は明らかに優しくなったのだ。だから、今、歩道の脇に寄って涙を流し合いながら抱き合う二人を、嘲笑うものは誰も居ない。みな、ずっとすれ違っていた己の恋人とようやく分かり合えた時のように、我が事のような温かい気持ちになりながら、微笑みを投げかけて、無言ですれ違っていく。でも、みんな心の中ではこう言っている。──おめでとう、おめでとう、と。

 

 それはアスカが厭うた、人類補完計画がもたらした人間関係のチートなのかも知れない。人類の中で、LCLに溶け込んだ事のないアスカとシンジだけが、終生享受することのない近道なのかも知れない。でも、それはそれで良いのだろう。人類は別に他人の心を全て知ったわけではない。さわりだけ知って、他人と自分に本質的な違いがないと知って、それで少し優しくなっただけの事なのだから。そして、それはアスカとシンジが自力でたどり着きつつある相互理解と同じだった。

 

「シンジ、シンジ……」

「アスカ……」

 

 除夜の鐘が一つ突かれる度に、その低い音が、涙を流しながら抱き合う二人の魂を浄化していくようだった。

 

 

 境内に入ると、もう人でいっぱいで、ひしめく人たちの列の最後尾に並びながら、アスカたちはカウントダウンを待った。散々に泣き腫らした二人の顔には、涙の線が乾いた跡が残っていて、それをお互いの顔の中に見いだすのが気恥ずかしかった。でも、これもまたやがては、いい思い出になるはずだ。

 

「……箱根神社の祭神は、箱根大神こと瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)三柱(みはしら)の神様でね。それに九頭竜神社も隣接してるの。そのおやしろが縁結びに御利益があるって言われてて」

 

 アスカが二人の間に漂う照れくささを隠そうとしてか、淡々としかし流れるように、下調べの成果を説明する。

 

「縁結びって、僕らには、もう必要ないんじゃ?」

「違うの。……初詣に合わせて、お礼に来ようと思って」

「お礼?」

「ヒカリが中学の時にここの神社にお参りして、恋愛成就の御守りを買ってね。あたしにも一つ分けてくれたのよ」

 

 アスカはそっと、ポケットから古びた御守りを取り出す。洞木ヒカリは鈴原トウジへの想いを込めてお守りを手に入れたのだろう。そして、アスカにもシンジへの想いが叶って欲しいという友情でお守りを分けてくれたのに違いなかった。ヒカリもトウジも学校が変わってしまったから、なかなか会えないが、サードインパクト後も家族全員元気にしているという。ヒカリとトウジの仲は良くも悪くも相変わらずのようだ。第3新東京市から転居してしまった相田ケンスケもやはり元気だという連絡をシンジは聞いている。まだ自分から連絡をとる気にはなれないが、そういった報告はシンジの気持ちを明るくする。アスカは御守りの表面を粉雪から守るように優しく撫でながら言った。

 

「一年経っても二年経っても叶わないから、返そうかと思った。でも、ちゃんとあたしの願いを神様は叶えてくれた。だから御礼に来たかったのよ」

 

 御守りは一年ごとに返すものという考えもあるが、願いが叶うまで手元に置いても良いという考えもあるらしい。要するに気持ちの問題だから、それは身につける人が考えれば良いのだろう。

 

「……アスカは、いい子だね」

 

 たぶん、アスカはキリスト教で教育を受けたのだろうが、日本の神様への敬意も感謝も忘れていない。バカバカしい迷信だなんて思ったりはしない。きっと人間の大切な想いが込められた風習を馬鹿にすれば、自分の想いに跳ね返ってくると理解しているのだろう。

 

「義理堅いのよ、あたしは」

 

 アスカはそう言って、名残惜しそうに御守りをさすった。その御守りはアスカのシンジへの想いが二年間も込められていたもので、だからその御守りをそんなにも大切にしてくれていたアスカの事がシンジには余計に愛おしくなった。

 

「……それ、返さない訳にはいかないの?」

 

 その御守りを大切にし続けているアスカがなんだか可哀想でシンジは思わずそう言った。しかしアスカは首を横に振る。

 

「願い事、叶っちゃったからね。返さなくちゃ……少し寂しいけどいいのよ。あたしには本物のシンジがいるんだから」

 

 そう言って、アスカはシンジの腕を手繰り寄せた。

 

「そろそろ年が明けるよ!」

「あ、うん……」

 

 アスカが境内に臨時でしつえられた大きなカウントダウン用の時計を指差して、シンジの注目を促す。やがて、どよめくように人々の数字の読み上げが起こった。

 

『5、4、3、2、1……』

 

 アスカとシンジもまるでゲームにでも参加するように、周囲の声に唱和する。一度は一つに溶け合って、それからふたたび自我を取り戻した人々の声は、何だか自信と優しさに溢れているようだった。シンジにはそれが何だか嬉しい。

 

 そして歓声が一斉に上がる。すぐ近くの芦ノ湖岸から花火が上がる。新年奉祝の花火大会ということだ。

 

──2018年の元日だ。シンジとアスカが十七歳になる年の始まりだ。

 

「あけましておめでとう、アスカ!」

 

 夜闇の中、断続的に打ち上げられる花火の光に照らし出されながら、シンジにはもちろん分かっていた。アスカがどんな風に返事を返してくれるかってことが。

 

「Frohes Neujahr, Shinji!」

 

 フローエス ノイヤール、シンジ!

 

 そう。アスカの綺麗な発音と声が、新しい年のシンジを早速、笑顔にしてくれるのだ。



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Valentinstag

「シンジ、そろそろ行くわよ」

「行くって、どこに」

 

 放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。

 

「あんたばか? ヒカリと待ち合わせだって言ってたでしょう、今日は」

「あ、そうだったね……」

 

 確かに一昨日の夜、そんな事を言われていた。

 

 それで二人連れ立って下校し、街に出ると、店先にチラホラと明るい色の装飾が表れている。

 

 ──二月十四日、愛と平和のバレンタイン

 

 そんな惹句が二人の目を惹いた。今日はバレンタインの四日前、二月十日金曜日だ。

 

「しかし、この国の連中って、つくづく脳天気よねえ。……何が愛と平和よ」

「でもあれって平和って言ってるのは、やっぱりバレンタイン休戦臨時条約の事があるからなんでしょ?」

 

 大質量隕石の落下と公式には欺瞞されているセカンドインパクトが起こったのが二〇〇〇年の九月十三日、南極大陸のマーカム山の大爆発による津波と氷の溶解、急激な海面上昇で北半球諸国が大きく被害を蒙る中、二日後の九月十五日、インドとパキスタンの国境での難民同士の衝突を皮切りに、世界各地で軍事衝突が始まった。

 

 それがようやく収束したのが、翌二〇〇一年の二月十四日。シンジが生まれる四か月前、アスカが生まれる十か月前になるが、バレンタイン休戦臨時条約が結ばれ、世界的紛争は一段落したのだった。この辺りの歴史は、現在の世界の状況に直結する話だけに、シンジたちも中学の授業で細かく教わっている。

 

「勿論そんなのは分かってるわよ。でも、あのセカンドインパクト後の紛争でどれだけの人間が死んだと思ってるんだか。日本だって、東京に新型爆弾を落とされて五十万人も死んだんでしょ? よくもまあバレンタインとか浮かれてられるわよね」

「でも亡くなったのは戦争中だし、バレンタイン条約で平和を取り戻したんだから。お祭り気分も、少しは分かるよ……」

「ふん。そういう理屈なら、サードインパクトだって、一連のシト関係の騒動の終戦記念日みたいなものじゃない。なんだって、あんたがいつまでもいつまでも責められるんだか」

 

 そうか。シンジはようやくアスカの反応に納得した。アスカはシンジの為に、世の「不公平」にプリプリしてくれているのだ。

 

「ありがとう、僕のために……怒ってくれて」

「あんただけの問題じゃないのよ、だって、将来的にはあんたの妻や子供の問題にもなるんだから」

「……それは」

 

 確かにそうだけど。

 シンジはそこまでには考えが至らなかった。想像するのさえ、まだ難しい。でも、アスカはシンジより先を見通して色々考えているようだった。

 

「だから、あたしには切実かつリアルな問題よ。この国の人間が忘れっぽくて、した事もされた事も割とすぐに忘れてしまうのは知っている。それは本当は良くないのだとしても、この際、美質かも知れない……いずれはあたしたちにとっての救いになるのかも知れない」

 

 アスカがそう言ったので、シンジは応じるように呟いた。

 

「忘れて欲しい訳じゃないんだ。みんなにはちゃんと覚えていて欲しい。僕のした事、しなかった事。もちろんアスカにも。僕はそこから逃げたい訳じゃないんだ」

「……少し、大人になったみたいね」

 

 LCLに一時溶け込み、そして帰還した人類には少しだけど、しかし確実に他者への思いやりが芽生えていた。犯罪や国際紛争が目に見えて減っていた。セカンドインパクトの後のような大戦争はサードインパクト後には起こっていない。だが、そのお互いを束の間、融合の中で知り得て、巨視的な和解を知った人類の環から世界で唯一排除されているのがサードインパクトでLCLに溶け込まなかったシンジとアスカだった。世界の人々がコミュニケーション能力においては新人類へと進化している中で、そこから取り残された旧人類が二人だった。

 

 だから、アスカはシンジの心を昔ながらのやり方で察するしかない。世界の人々も、サードインパクトでシンジが果たした受動的な役割を知りながら、そこに至ったシンジの内面を好奇心と幾ばくかの不信で見守るしかない。世界の誰もシンジの内面は知らないのだから、少しばかりの優しさが世界に満ちるようになっても、世界にとって碇シンジ──このサードインパクトのトリガーになった少年は依然として謎だった。

 

 そして、それはアスカにとっても同じだ。だけど、アスカもシンジもお互いの気持ちと内面を察し、おずおずとだが、近付こうとすることは出来る。

 

「大人に成れているとは思わないけど、アスカの為に少しずつでもそうなりたい。アスカにもう哀しい想いはさせたくないんだ」

「うん……」

 

 それで二人はどちらからともなく、手を繋いだ。手袋を重ねて、それでも伝わってくるお互いの手の冷たさを実感する。

 

「ごめん、もっと手を早く繋げば良かった。そしたら、アスカの手を温めてあげられた」

「それ、サードインパクト前の事を考えながら、ずっとあたしが思ってたことなんだよ。……もっと手を早く繋げば良かった。もっと手を早く繋ぎたかった、って」

 

 アスカの言ってる意味は、シンジの言葉よりも、もっと抽象的で広い意味だった。アスカはそれから微笑んだ。

 

「でも今は手を繋げるようになって……良かった」

 

 もうすぐヒカリと待ち合わせのショッピングモールだ。でも、二人はもう手を離そうとはしなかった。

 

 

 アスカとシンジが手を繋いで現れたので、ヒカリは目を丸くした。

 

 しかし、その次の瞬間には彼女は顔を綻ばせた。

 

「アスカ、久しぶり! 碇くんも。二人とも元気そうだね。そして……おめでとう!」

 

 高校生になった洞木ヒカリは少しだけ大人びて、しかし相変わらずの快活な笑みを見せた。おとなしさが目立つ少女だが、しかしそれだけではない。芯のしっかりした堅実なものをその心中に持っている少女なのだ。

 

「ヒカリも元気そうね!」

 

 女子二人はお互いの健康を寿いで、それからやはりヒカリの視線は、アスカとシンジのしっかりと繋がれた手に引き寄せられる。

 

「……本当に良かった。たぶん、あなたたちを知ってる人はみんなそう思えるわよ」

 

 ヒカリはしみじみと呟く。

 

「ありがとう、委員長。いや、洞木さん……」

「うん。今の学校では副委員長なんだ。委員長は誰だと思う?」

「さあ……」

 

 見当もつかないやとシンジが早々に降参すると、ヒカリはアスカと顔を見合わせて笑った。どうやらアスカには既知の事実らしかった。

 

「鈴原トウジ。それがヒカリのクラスの委員長の名前よ」

 

 ニヤニヤと笑いながら、アスカはシンジに教えてくれた。

 

「トウジが……それは驚いたな。でもそんなに違和感ないね」

「うん、鈴原は面倒見いいし、人と人との間に入って、調整したりするのが案外好きみたい。最初は誰も立候補者がいなくて、見かねた私が手を上げようとしたら、それを察して、名乗り出てくれたの」

「それは、すごくトウジらしいね……」

 

 一本気で、義侠心に富んでいて、女の子が困っている時には黙って見過ごせない。それが鈴原トウジだと、シンジは知っていた。

 

「だから、私も悪いと思って副委員長になったの……」

「とかなんとか言っちゃって、本当は委員長である鈴原と一緒に居られるからなんでしょ?」

 

 アスカが混ぜっ返すと、ヒカリも満更ではないという表情で頷く。

 

「でも、最初はやむにやまれずでも、私と一緒に仕事をするうちに、自分に案外向いているって分かったみたいでね。今は結構張り切ってる」

 

 そうか……みんな昔とは少しずつ変わっているんだ。でもその変わりようは好ましい変わり方で。シンジにはそれが嬉しかった。

 

 それから、三人は目的の店に向かってゆっくり歩き始める。

 

「それにしても、碇くんとアスカが明城に行くなんて思わなかった。てっきり、あたしたちと同じで、地元の仙石原に行くのかと思ってたから」

「それは……僕が……誰も僕のことを知らない高校に行きたがったからなんだ。まあ、すぐに僕とサードインパクトの事は高校に知れ渡っちゃったから意味は無かったんだけどね。……逃げようと思っても、自分がしたことからは逃れられないんだとよく分かった」

「そう……」

「それに僕は最近まで、アスカが僕と同じ学校に通ってるのは、ネルフの警備上の都合とかなのかと思ってた」

「……んな訳ないでしょ。あたしはもう大学を出てるんだから、わざわざ遠くの明城になんぞ通う意味はなかったのよ……あんたが通わない限りはね」

「そうだね。アスカは僕の事が心配で同じ高校にしてくれたんだ。僕はいつも人の優しさとか気持ちに鈍感なんだ……」

 

 アスカとシンジはずっと手を繋いだままで、三人横に並んで歩く訳にも行かず、ヒカリは後ろからついて行く形だ。二人の固く握られた手を後ろから見ていると、ヒカリには様々な思いが去来する。

 

「アスカから碇くんとの事、聞いていたけど、本当は実際に会ってみるまで不安だったの」

 

 そのヒカリの言葉にシンジは少し俯いて、地面を見つめる。

 

「サードインパクトで、僕は世界の皆に償い切れない程の迷惑を掛けた……洞木さんがそう思うのも無理ないと思う」

 

 人的被害こそ最小限だったが、インフラの破壊や経済的損失が、多くの人の運命に影響を及ぼしたのは間違いない。そんな事態を引き押した男が親友と付き合い始めた……それが不安にならない方がおかしいだろう。シンジはそう思った。しかし、ヒカリは首を横に振る。

 

「サードインパクトの事は関係ないの。そんなに大きな話は私には分からないもの。私が気になっていたのはもっとそれより前の様子」

「サードインパクトより前?」

 

 シンジが訊ね返すと、ヒカリはこくりと頭を上下に振った。

 

「アスカがエヴァンゲリオンの事で落ち込んでしまって私の家に入り浸って、テレビゲームとかに逃げ込んでる時、碇くんがどうして迎えに来てくれないんだろう、って私はずっと思ってた」

「……ごめん」

 

 確かにあの時、外泊を続けていたアスカの不在とそれによる空白に、シンジは何も出来なかった。

 

「アスカと碇くんが最初は仲良くしてたのを見てたから。だから……愉しい時だけ、女の子を気にかける男の子たちって何なんだろうと不信感さえ持ってしまったの」

 

 ヒカリの見るところ、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの恋愛はずっと純愛で、だからアスカにラブレターを寄越した無数の男子たちのように、シンジの中で、彼女の容姿や身体への欲望が先行しているとは思わなかった。だけど、いくら純愛でも愉しい時だけ近づいて、苦しんでる時や哀しんでいる時には避けるのなら、あまりにもそれは身勝手ではないだろうか?

 

「……ま、あの時のあたしとシンジは、自分のことで手一杯だったのよ」

 

 ヒカリの非難からシンジを庇うようにアスカは言った。

 

「あたしたちは、やっぱり只の中坊で、お互いに届く手の長さが足りなかった。だから、あたしたちの想いは叶わない初恋として終わってもおかしくはなかった。でも、あたしはそれが惜しいと思ったの。この後、どんな恋をしてもここまで思い詰める事はないと思った。だって、世界中の人間を巻き込んだような初恋なんだもの」

 

 アスカは自分の加持に対しての想いは、初恋とは少し違うものだったと今では理解していた。アスカの理想の男性像を勝手に当てはめて、加持に投影して、年上の男性に恋が出来る自分はもう大人なんだと思い込もうとしていた。飛び級で大学を卒業した自分は、メンタル面でも大人なんだと、そう信じる為の擬似恋愛だったのだと思う。

 

 しかしシンジへの想いは違う。シンジの駄目な所、情けない所、全てを知って、それでもシンジがいいと思った。一生、シンジと言い合いをしていたいと思った。楽しくて、煩わしくて、苦しくて、切なくて。でもシンジとなら、負の感情も含めて、応酬と交流自体が心の空虚を満たしてくれるようで、たとえ傷付け合ったとしても、そんな風にずっと、やり合って行きたかった。

 

「サードが起こって、しばらくアスカとの連絡も途絶えてたの。でも去年の夏頃に連絡がようやくついて。真っ先に訊ねたのが、碇くんとのこと」

「僕とのこと……?」

「うん、だって。私も恋をしていたから。だから男の子が信じられるものだっていう、確証が欲しかった。勝手な話だけど、アスカと碇くんに男女の理想を投影していた。二人が上手く行くのなら、自分の恋も上手く行く、碇くんがちゃんとしてくれるのなら、私の好きな人もきっと私に誠実に向き合ってくれる、って」

「……それで、あたしとシンジのことをしょっちゅう聞いてきたのね」

 

 ようやくヒカリの行動に得心が言ったとばかりにアスカがヒカリの方に振り返って頷いた。

 

「ごめんね、アスカ。でも二人は本当にお似合いのカップルだと思ったから。二人ともお人形さんみたいに可愛らしくて、アスカの気持ちも見え見えだった。しかも同じ家に住んで、一緒に戦ったりしているのよ? だからこの二人が結ばれないなら、おかしいとさえ思っていた。それなのに二人は段々とギクシャクし出すし、サードインパクトみたいなことがあってからは音信さえ不通になって、気が気でなかったの」

「こぉんなのと、お似合いと言われてもあたしとしては素直に喜べないんですけど!」

 

 アスカはそう言いながら、シンジと繋いだ手をぎゅっと握る。

 

「ほらアスカ。そういうの、照れ隠しでも止めないとダメだよ。碇くんがどう反応していいか戸惑ってる」

 

 熱っぽく握る手の暖かさと、一見冷淡な突き放すような言葉。確かに、シンジはアスカのどちらを信じれば良いのか。

 

 しかし、シンジはけっきょく若干のぎこちなさを残しつつ微笑んだ。

 

「こぉんなのと言われないように頑張る……」

 

 シンジもアスカと繋いだ手を離しはしなかった。

 

「……ごめん」

 

 アスカはヒカリに対してなのか、シンジに対してなのか、不分明な謝り方をした。

 

「でも、十二月のアスカの誕生日に連絡したら、アスカから、ポツリと返事が返ってきた」

 

 ──シンジとのこと、上手く行った。

 

 たった、それだけのメッセージだ。

 

「私、その返事に思わず泣けちゃったんだ。アスカが想いを叶えられて、全てが上手く行って、何もかもが報われる気がした。この世の全ての物が色付いて、輝いて、そんな風に価値があるように思えたの」

 

 大袈裟な──とはアスカもシンジも思わない。だって二人にとっても、想いを叶えた後は、ずっとそんな心持ちがしたのだから。そんな筈もないのに、世界が二人の為だけに存在しているような気分だった。自分が生まれてきた全ての理由が、今この時、相手と一緒に存在する為だと思えてきた。そんな気持ちをヒカリも共有してくれていたことは本当に嬉しい。

 

「だから、自分の恋も前に進めてみよう、そんな気になったの。アスカに相談したら、碇くんなら適任だって言うから」

「……やっぱりチョコレート、トウジにあげるんだ?」

 

 相談というのはチョコレート作りのことだ。だから残念ながら、この場にトウジも呼んで旧交を温めることが出来なかった。

 

「うん、鈴原が甘いもの好きかは分からないけど──」

「嫌いじゃないと思うよ。チョコアイスとか一緒によく食べていたし」

 

 シンジの答えに、ヒカリはほっと安堵の顔を見せる。

 

「甘いものが嫌いでも、ヒカリからなら喜んで受け取るわよ。こういうものは心なんだから」

 

 アスカもそう、援護射撃を送る。

 

「そうだと嬉しいな」

 

 ヒカリの笑顔が何だか眩しい。それを向けられるであろう鈴原トウジの事を考えて、シンジも嬉しくなった。

 

「チョコレート自体は、業務用スーパーで買うのがいいと思うんだ。ドイツ製やベルギー製のチョコが安く買えると思う。食べ物だから、高校生の予算でもそこは妥協しない方がいいと思うんだ」

「ありがとう、碇くん」

「少し大目に買った方がいいかな。ミスしても、リカバーしやすいし、余ったら自分や家族で食べたりすればいいから」

「うん」

 

 シンジが日頃、行きつけている業務用スーパーに案内し、後は買い物中、シンジの独壇場だった。

 スーパーを周りながら、ヒカリの質問に答えていく。

 

「湯煎のやり方が心配で」

「温度が大事かな。風味が飛んじゃうから高温を避けて、50度から55度で……ってこういうのは調べればすぐ分かるけどね」

「微妙な温度だね。どうやってその温度のお湯にすればいいのかな」

「大抵の電気ポットに哺乳瓶のマークが付いてると思うんだけど、それがミルク用の温度で60度か70度の設定になってる。湯量にも依るけど、60度なら五分放置して冷ませば55度に、70度ならさらに十分って所かな。あっ、ちゃんとキッチン用の温度計で計ってね」

「うわ、そういう実用的なアドバイス、助かる」

 

 さらにヒカリの質問は続く。

 

「型はどうしたらいいのかな?」

「今なら百円均一のお店でも色々買えるよ。でもオリジナリティに拘るなら、自分で作ってみてもいいかな」

「自分で? 何だか難しそうだわ」

「そうでもないよ。牛乳パックを切って、それにアルミホイルを巻く。ハートの形に曲げて、底はセロテープで貼り付けて……」

「ああ、なるほど。アイデアね! それなら出来そうだわ」

「うん、頑張って」

「鈴原、喜んでくれるといいな……」

 

 そんな風に、シンジがヒカリの相手ばかりしているものだから、アスカは段々退屈してくるし、面白くもない。

 

 ショッピングカートを片手で押して、もう片方の手でアスカと手を繋いだままのシンジは、突然左足の踵に与えられた痛みに悲鳴を上げる。

 

「……っ痛てっ! な、何するんだよ、アスカっ!」

「べっつにぃ」

 

 学生靴のつま先をトントンとしながら知らんぷりをするアスカに、シンジが抗議をする様子を見て、ヒカリは苦笑した。

 

「アスカの彼氏さんを借りっぱなしでごめんね。怒った?」

「……別にそんなんじゃないけど」

「私もしばらく独りでチョコを見比べたいの。アスカと碇くんは少し休んでてくれるかな?」

 

 気を遣ってくれたヒカリに促され、二人はカートをヒカリに預けて、同じフロアの休憩スペースのベンチに腰掛けた。買い物に付き合わされた雰囲気のカップルの片割れやら親やらが数人ベンチで所在なげに休んでいた。アスカとシンジもその端っこに腰掛けた。

 

「……ごめん、痛かった?」

「いや、もう痛みなら引いたよ」

「何故か、自分でも怒りが押さえられなかった。緑色の目をした怪物は厄介ね」

 

 緑色の目をした怪物──green-eyed monsterとは、嫉妬のことだ。シェイクスピアが「オセロー」の中で使っている。確かに嫉妬は厄介だ。何せ、オセローはデズデモーナをそれで殺してしまうのだから……と、そこまで連想してアスカはぎょっとする。有色人種で異教徒のオセローが、愛する白人の──白皙の肌に金髪も麗しい──まるでアスカ自身のような──最愛の妻デズデモーナを、「正直者イアーゴー」の策略により、事実無根の不貞の疑いで殺めてしまう。その人種や、殺害の手段──そう、「絞殺」が、アスカに無意識のうちにオセロー夫妻に、シンジと自分を重ね合わさせてしまったのか、とギクリとさせたのだった。

 

 それはきっと少し考え過ぎだったのだけれど、しかし愛する者の信頼が崩れた時に訪れる悲劇の予感にアスカの背筋は少しだけ寒くなる。シンジにはそんな比喩の意味やアスカの広げた連想は勿論、分からなかったけど、根源となったアスカの怒りの意味は正しく理解していた。

 

「アスカが僕にヤキモチ妬いてくれるなんて、初めてかな。新鮮で……痛かったけど、嬉しかったよ」

 

 アスカは嫉妬の怖さを改めて自覚しつつ、自分の過去の行動を振り返る。

 

「……そうでもないわよ。あんたの見てない所で、あたしは結構あんたの事で嫉妬していた。例えば、綾波レイに対しても」

「綾波に?」

「うん。あんたが綾波レイの事ばかり見ている気がしたから。だけど、あの子は、あんたのお母さんの……そしてあんな境遇だなんて知っていたら……。あたし、あの子に随分と酷い事をしてしまった」

 

 綾波レイの正体も分からず、シンジとの距離感の近さも気に入らず、手を上げたり、暴言を吐いた事をアスカは今更ながらに後ろめたく思う。そのレイが無事ならば、今からでも謝罪するところだが、サードインパクトで彼女の存在はなくなってしまった。

 

「でも、それは僕の事で妬いてくれたから、なんでしょう?」

「それはそうなんだけど……」

「だったら嬉しいよ。それに、嫁と姑は折り合いが悪いのが普通でしょ」

「嫁……」

「そうだよ。アスカは僕のところにお嫁さんに来てくれるんでしょ?」

「うん」

 

 アスカはシンジの言葉に微かに頬を染め、素直に肯いた。

 

 好きな人の所に、嫁ぐ。

 

 それはアスカも人並みに憧れる、女子としての平凡な夢だった。

 

「そうだよ……あたしはいずれ、あんたに嫁ぐ。シンジのお嫁さんになるんだ」

 

 昔のエリート志向の自分だったら、そんな言葉にどう思うだろう。碇シンジはエヴァのエースパイロットとはいえ、ごく平凡な男の子だ。顔も頭も悪くはないと思うが、むしろアスカはその平凡さに惹かれている気がする。ありふれた優しさ。ありふれた居心地の良さ。そこには、気張らなくていい、自然体の気安さが溢れている。

 

 シンジも頷いた。

 

「だったら僕は……きっと母さんみたいな存在だった綾波……母親ではなく、お嫁さんの側に立つよ。いつだって、お嫁さんの味方になる。だから綾波の事はもう気にしなくていい。アスカの罪は僕が全部引き受けるから」

「シンジ……」

 

 アスカが肩に背負ってきた重荷を肩代わりするとシンジが言うと、アスカには先ほどのオセローの悲劇と自分たちの境遇を重ね合わせた妄想が急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。確かにシンジは一度はあの赤い海の浜辺であたしの首を絞めた。でも、デズデモーナが如何に哀願しようと、その首を絞める手をオセローが緩めなかったのと違って、シンジは言葉一つ、アスカが頬に当てた掌一つでその手を緩めたのだから。

 

「本当は……母さんのことも、アスカのお母さんの事も、綾波のことも、アスカのことも、みんな父さんが悪いんだ。でも、僕だってそれを見過ごした。子供だから何も出来ないと手をつかねていた。──本当は生きている間に僕が父さんを殴ってやるべきだった。母さんはもう居ないんだ、大人になれよ、と殴ってやれば良かったんだ」

 

 でももうその父は居ない。シンジにはやり場のない怒りと哀しみが堆積している。

 

 父さん、どうして僕が大人になるまで、生きていてくれなかったんだ。

 

 僕は父さんに言いたい文句や不満が沢山あったんだよ──

 

 殴ってやりたかったし、話もしたかったんだよ……

 

 目を瞑って過去を悔やむシンジの横顔をアスカは気遣わしげに見つめている。

 

 

 買い物を済ませ、シンジお手製のレシピを書いたメモも手渡されたヒカリは、それで安心したような顔で帰って行った。

 

 土日を挟んで、ヒカリのお手製チョコレートは無事完成したという報告がアスカ経由でシンジの耳にも入った。

 

 二月十四日の朝を迎え、後は、ヒカリが首尾良く渡せるか、いやむしろ心配なのは、トウジがそれにどう反応するかだな、とシンジは思案顔で、自分同様に朴念仁の色が濃い旧友を気遣って見せる。

 

 いずれその結果も、アスカを通して知ることが出来るだろう。

 

 登校する為の身支度を整えながら、シンジがテーブルの上を見ると、ミサトからの素っ気ないメモが目に入った。

 

「仕事なので、先に行きます。戸締まりをよろしくお願いします」

 

 それだけの内容だ。しかも丁寧語で書かれていて、隔意を感じさせる文体だった。サードインパクト後、父ゲンドウが座っていたネルフ司令の座を襲った葛城ミサトは、人が変わったようにシンジたちに冷淡で、アスカが以前に言ったとおり、まるで同居人二人との接触を努めて避けているかのようだった。

 

「ミサトさん……」

 

 そのシンジの背中に、いつものピーコートを着込んで、赤いマフラーをして、登校準備を整えたアスカが言った。

 

「シンジ、これ……」

 

 そう言って差し出された綺麗にラッピングされた赤いハート型に、シンジの玄関に向かいかけていた足も止まる。アスカはシンジから少し顔を背け、気恥ずかしげにソレを差し出していた。

 

 危うく出掛かる「僕に?」という不要な確認をすんでの所で呑み込み──そんな事をすればアスカの癇に触わることは確実だ──シンジはアスカの方にきちんと向き直り、両手で大切そうに受け取った。

 

「……アスカも用意してくれてたの?」

 

 そんな用意の気配は欠片も感じなかっただけにシンジは虚を突かれた思いだった。でも、アスカと自分は恋人同士になったのだ。むしろ期待しないのがおかしかった。シンジは無意識のうちに、貰えない最悪の可能性を考えて、あえて期待をしないようにしていたのかも知れないな……と思う。

 

「手作りとかじゃないけど。それなりに高級な奴よ。……でも、ヒカリみたいに手作りで頑張るべきだったかな」

「いや、嬉しいよっ」

「色々考えたんだ。失敗したらどうしよう、って。シンジとは恋人として初めてのバレンタインだし。最初で失敗したら格好が付かないじゃない? どうせシンジの方が上手く作れるんだと思ったら、余計に心理的ハードルが上がってしまって」

「そんなこと……」

「でも、ヒカリの買い物に付き合って、こういう事で失敗を恐れるってのは少し違うのかなと思った」

「失敗してもいい、頑張ったんだからってこと?」

 

 努力やそこに込めた想いそのものに価値があるとするならば、多少の失敗があっても、男子はそのチョコを有り難く頂く事だろう。シンジだってもちろん、そうするつもりだ。

 

「いや、ちょっと違うかな。あの子、失敗する事なんて、ちっとも考えてもいないようだった」

「……うん、確かにそうかも知れない」

「ただ相手の喜ぶ顔だけを想像して、そのために前に進もうとしていた。そこには体裁も、見栄も、失敗したら格好が付かないとかの不安もなさそうだった」

 

 ヒカリは自分の事ではなく、トウジの事だけを考えていた。彼が一番喜ぶものを作ってあげたい、と。だったら、失敗したら恥ずかしいとか、これはアスカ特有の心配だろうが──相手より作るのが下手くそだったらどうしようなんて考える心の隙間はない。

 

「そんなヒカリを見て、あたしもまだまだ勉強だなって思ったわけ。あたしは飛び級で大学を出て、他人とは違うエリートだからって思い上がってた。でも、好きになった女の子も男の子も普通の子だった。そういう人たちから学ぶ事は何もないなんて大間違いだった。あたしはテープを早送りして、音楽を聴いた気になっていただけだったの」

「……アスカが誰にも言われる前にそれに気付けるから、僕はアスカが好きなんだ」

「これからはシンジと一緒に、あのS-DATで──早送りをせずに音楽を聴きたい」

「うん、ありがとう。僕もずっとそうしていたい」

 

 早速、今日の通学電車の中で、イヤホンを片耳ずつ分け合って、アスカと一緒に音楽を聞こうかな。シンジはそんな風に思った。

 

「……そのチョコ、本命だからね」

「うん」

 

 アスカは言わずもがなの事を言った。しかし、それはシンジには、ちゃんと言って欲しい言葉だった。聞かされて嬉しい言葉だった。

 

「本当の本気でシンジが本命」

「ありがとう」

「だから手作り出来なかった事は悔しい」

 

 アスカは本当に悔しそうに唇を噛む。

 

「来年は手作りで作ってみせる。シンジに勝ちたいとかじゃなくて、シンジをもっと喜ばせたいから」

 

 そこにあるのは混じりっ気なしのシンジに対するアスカの想いだ。

 

 シンジはその気持ちが嬉しくて。──だからニッコリ微笑むのだった。

 

「来年が楽しみだよ、アスカ」

 

 アスカももちろん、その言葉に満面の笑みを返してくれる。



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Pfirsichfest

「シンジ、そろそろ行くわよ」

「行くって、どこに」

 

 放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。

 

「葛城司令からの特別召集。ネルフに顔出せってさ」

「ミサトさんから? 用件は?」

 

 アスカがスマホの画面を見せた。シンジは自分の方にも、同じ連絡が入っているのにすぐ気付く。

 

「わかんない。至急って訳でも無さそうだけど、でもあんまりいい予感しないわね」

 

 サードインパクトが起こり、碇ゲンドウが亡くなった後のネルフを率いているのが、アスカとシンジの同居人にして保護者の葛城ミサトだ。

 

 ミサトはネルフ司令の地位に昇って以来、シンジにもアスカにも冷淡で、まるで人が変わったかのようだった。それに応じるようにアスカもまた突き放したような態度をミサトに返すことが増えている。葛城司令などという他人行儀な呼び方もそれだった。

 

 アスカ曰く、ミサトが今進んでいるのは「権道、覇道、修羅の道」だそうだ。あらゆる個人的犠牲を顧みず、人類全体を守る。今のミサトにとってはアスカやシンジもまた状況に応じて、犠牲とし得る駒なのかも知れなかった。

 

 だからアスカはミサトに会う事自体、なんとなく気が重い。朝は二人が起き出すよりも早く出て、夜は二人が寝静まった頃に帰ってくる、そんなミサトの毎日のスケジュールが、アスカやシンジを避ける為のものではないかとアスカは疑っていたが、それが今ではお互いにとって助かるようにも感じていたのだ。

 

「ミサトさんに会うの、アスカはしんどいの?」

「へぇ、分かるんだ」

「うん。人の気持ちが分からない──それでアスカや皆を傷付けてきた僕だけど、人に会うのがしんどいって気持ちや表情はよく分かるんだ。僕はいつもそんな感じだったから」

「と言っても、ミサトのことが苦手だったわけでもないでしょ」

「うん。ミサトさんとアスカ、それに綾波にはそんな苦手意識を感じた事はないよ。不思議だけど」

「それって、要するにその三人があんたにとっては家族、だったのよね」

 

 と言われて、シンジははたと納得が行った。

 

「そうか。ミサトさんと綾波は母さんみたいなもので。だから苦手に感じなかったのかな」

「そして、あたしはお父さん?」

「ちょっとアスカ」

 

 アスカが茶化そうとするので、シンジは思わず突っ込んだ。それから真顔になって。

 

「加持さんには遠慮なく話せたから、父親を感じてたのかも知れない。本当の父さんには……」

 

 シンジは口を噤む。碇ゲンドウとはけっきょく何だったのだろう。実の息子を拒み続け、妻のみを求める姿から、シンジは何を学べば良かったのだろう。

 

「まあ、本当の家族ってそんなものかも知れないわよ。血のつながりがあったって、心が通わないのなら……」

 

 アスカだって父や義母とは未だに隔意がある。表面上、波風を立てないように取り繕ってはいるが、生前の実母を裏切っていた今の両親にはわだかまりがあるのだ。シンジの気持ちは痛いほど分かる。自分とシンジが置かれた境遇が余りにも近いから、傷をなめ合うようにして二人は惹かれ合ってきたのだから。

 

「で、話戻すと、あたしもあんたにとって家族だとして、どんな役割なのかな?」

 

 アスカがからかうような調子でシンジを弄る。

 

「アスカは──」

 

 シンジはそこで周囲を窺うようにして、声を細めた。

 

「やっぱり……お嫁さん、かな」

「……ばか」

 

 シンジもアスカも頬を紅潮させて見つめ合う。それは単なる比定ではなく、かなり確実な未来予想図なのだ。

 

「彼女からお嫁さんになるまでには、まだまだ色んな事をしなくちゃいけないのよ」

「うん」

「花嫁修行はシンジに手伝って欲しい」

「ああ、料理とか……うん、教えるよ」

「それもだけど、それだけじゃない。二人でないと出来ないこと、あるでしょ」

 

 シンジがぽかんとしていると、アスカは艶めいた表情になって耳元で囁いた。

 

「わかるでしょ、エッチな花嫁修行とかも必要なんだから」

「う、それは……」

 

 ──まだ早い、焦らず一歩ずつといつも言ってるのはアスカじゃないか。確かに僕とアスカの間には高校生の間に初体験を済ませるという約束がある。でも、まだ二人ともなかなかそこまでは踏み込めない気がするのだ。

 

 口元をアヒルみたいに緩めて、座ったシンジを面白そうに見下ろすアスカに、シンジは平素から抱いてる気持ちを吐露する。

 

「僕、からかわれたんだね。アスカのイジワル……」

 

 アスカは不平顔に膨らませられたシンジの頬を白く長い指でツンツンとつつく。

 

「ふふ。あたしは一生バカシンジにイジワルするんだ。だって、あんたが可愛くて仕方がないんだから」

「もう……僕は男なのに」

 

 そんな風に二人がやり取りを交わし、共に日々を過ごすだけで、アスカとシンジは過去の痛みを癒やす事が出来る。償いもあがないもそこには不要だった。お互いの優しさ以外に何も要らなかった。

 

「……さてと。ミサトのお小言も御免蒙りたいから、そろそろネルフに行きますか」

 

 アスカが気合いを入れ直すようにポンポンとスカートをはたき、シンジのカバンを机の横から取る。

 

「うん、それにしてもミサトさん本当に何だろうね」

「用事があるなら家で言ってくれれば、わざわざ非番の日にまでネルフに行かなくて済むのにね」

 

 アスカはシンジに向かって、やれやれと肩を竦めてみせる。シンジも席から立ち上がって、アスカからカバンを受け取ると、彼女に肩を並べた。

 

「アスカ、碇クン、さよならぁ。また明日」

 

 教室を出ようとすると、複数の女子にそんな風に声を掛けられる。アスカは手を上げると表情を瞬時に緩めてにこやかにそれに応じ、シンジも曖昧に頷いてさよならと女子たちに微笑を返す。それに対して何故か黄色い声が上がった。

 

「なんか、セットで呼ばれるとまだ緊張する」

「そろそろ完全にカップル認定されたからね。シンジもこれまで頑張って恥ずかしさに堪えた。えらいえらい」

 

 アスカはそう言って、廊下に出るなりシンジの頭を撫でてやる。最近シンジの背が伸びてきたから、二人が立っている時は、出逢った頃のように額にデコピンをしたりするのも少し大変なのだ。まして頭を撫でてやる時は、アスカは踵を上げ、背伸びをしなくてはならない。

 

 もともと、カップル扱いされるのは恥でも何でもないし、堂々とできないシンジにアスカは最初は多少イライラとさせられたのだった。しかし今ではシンジのそういう自信の無さも含めて、愛すべき個性なのだと思っている。

 

「あの、頭撫でられるのとかちょっと恥ずかしいよ……人目に付くかも知れないし」

「もう付き合い始めてから、三か月なんだからいい加減そのぐらい馴れなさいって」

「それはそうなんだけど」

「シンジはあたしよりも、女の子みたいよねぇ。ま、そこが可愛いんだけど」

 

 そんな風にアスカはため息をついて。

 

 シンジの性格や外見がやや中性的なのは、元々アスカが持っていた男性の理想像とは少し違うのかも知れない。アスカは元々は大人の包容力で完全に自分を引っ張ってくれそうな男性、加持リョウジに憧れていた。

 しかし今は、異性についてよく知らないままに一方的に抱いていた理想よりも、初めて一番近くに触れた異性を見ながら、そこから本当に好きな異性のカタチが修正されていくのがむしろ正しい在り方なのだという気がしている。

 

 季節は春、暦は三月に入ったばかりだ。アスカの誕生日に付き合い始めたから、二人の恋人としての期間は覚えやすい。

 廊下を進みながら、二人は自然な感じで手を繋いだ。

 

「こうして学校でも手を繋げるようになったんだしね、少しは自信、持つものよ」

「うん……」

 

 シンジにも分かっているのだ。アスカが示してくれる混じり気のない好意に照れているばかりでは駄目なのだ、と。ちゃんとリードすべきはリードして、対等な関係を作って行かなくては。そう決意はしているのだが。なかなか実践は思った通りには捗らない。

 

「でも……うちの学校が、男女交際に五月蠅くなくて良かったよ」

「高校生にもなって、男女交際禁止とか言ってる方が有り得ないでしょ。日本のガッコーの大半は遅れているのよ」

 

 まだシンジとの間ではキス止まりなのに、アスカは何故か意気軒昂だった。

 

「子供のうちは性的に抑圧しておいて、いきなり大人になったらくっつけと言われても出来るかっつーの。それで少子化とか騒いだってしょうがないでしょ」

「まあそうかも知れないけど」

 

 と言われても、シンジもまだ子供の作り方とかは漠然としか分からない。アレコレ考えると、昼日中には示しては行けないような反応を示してしまいそうな恐れもある。

 

「シンジ。今ちょっとえっちな事を考えてたんでしょ」

「いや、そんな事は……」

「何となく雰囲気や表情で分かるのよ。隠しても無駄よ」

「ゴメン」

「焦らなくても、いずれ必ずあたしと出来るから」

「う、うん……」

「だから今はガマン」

「そだね……」

 

 今はまだ、この手と手を繋いで伝わる温もりだけで十分だ。それだけだって、サードインパクト前の二人には決して届かないものだったのだから。だから今はその指先から伝わる幸せを噛みしめたい。

 

 

 学校を出ていつもの通り、商店街経由で駅に向かう。通り過ぎる幾つもの店の前にはピンクの花びらが装飾されたディスプレイが目に付いた。

 

「あれは桜の花びら?」

「いや、あれは桃だよ。もうすぐ雛祭りだから」

「ヒナマツリ……?」

「桃の節句と言って、女の子のお祭りだよ。ほら、あんな風に雛人形ってのを飾るんだよ」

 

 アスカと手を繋いだままのシンジが、空いている方の手で近くにあった日本人形店のショーウィンドウを指差した。段飾りの美しい雛人形が飾られている。去年はサードインパクト直後だったから、とてもそれどころではなかった。だから今、アスカが季節の中で味わう日本の風景は初めてのものばかりだ。

 

「うわ。段々に……綺麗な人形がいっぱい……七段もある」

「うん、階段みたいでしょ」

「何の人形なの?」

「えっと……確か、日本の宮廷を模したもの、だったかな。たぶん女性が幸せな結婚をして、豊かに楽しく暮らせますように、みたいな願いがあるんだと思う」

「ああ、日本にはまだKaiserとKaiserinが居るんだったわね。ふーん、意外と日本人もロマンティックなのね」

 

 アスカは感心したように言った。アスカの故国ドイツではKaiserとかは百年近く前に居なくなっていて、歴史上の存在という感じだ。だから、彼女は自分のルーツの一つでもあるこの国に少しミステリアスな印象を抱く。

 

「アスカもそういうの、憧れる?」

「うーん、まあ。Prinzessinとかは子供の頃、少し憧れたかな」

「プリンツェシン?」

「英語で言うと、プリンセス。分かるでしょ、お姫様よ……!」

 

 頬を染めて、照れくさそうにアスカはそっぽを向く。

 

「そうか。女の子はみんなそういうの好きだよね。どうしてなのかな」

「まあ、綺麗なドレスやティアラとかが身に付けられるからね。華やかでしょ? それと……」

「それと?」

 

 シンジが小首を傾げると、アスカは俯いて、小声で囁くように言った。

 

「王子様と結婚できるから……」

「なるほど……」

 

 シンジは微笑した。アスカも可愛いところあるなぁ、と。──いや、基本的には全部が可愛いんだけど。僕の彼女はね。

 

「なるほどじゃないっての。今はあんたが……あたしの王子様なんだからね……」

 

 アスカの言葉に虚を突かれて、シンジは絶句する。

 

「あ、あの、その……」

 

 アスカは耳まで赤くして、もじもじと、しかし、ぎゅっとシンジと結んだ手の指先に力を入れる。

 

「あんたとはまだ結ばれる為の事は何もしてない。でも、あたしは心で絆を感じてる。シンジはあたしの王子様だ」

「えっと」

 

 シンジは頬を掻いて、照れを誤魔化した。

 

「あの、アスカの王子様として相応しくなれるように頑張るね」

「別に頑張らなくてもいい」

「でも」

「シンジはシンジのままでいい。焦らなくてもいい。あたしたちはお互いにあんまり多くを求めない方がいいのよ。だってお互いが必要な存在だって事はもうハッキリしているんだから。それ以上はあんまり望み過ぎず、少しずつ進めばいいんだ」

 

 相手に多くを求め過ぎれば、けっきょくはサードインパクト前の愛憎劇の二の舞になる。アスカはそんなのはイヤだった。アスカは、子供の頃から望んで来た愛情が得られた試しがない。今ようやくシンジという運命の伴侶と巡り会い、結ばれようとしているが、アスカは欲張って、全てをぶち壊すのが怖いと思い始めている。

 

「あたしたちは互いに脆い。ひ弱な葦なんだ」

 

 確かそう表現したのは、パスカルだ。「人間は自然の中で最も弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」と有名な句に続くのだが、ひ弱な葦というフレーズは考える葦と較べると、あまり人口に膾炙していないかも知れない。葦を弱いものの比喩とする表現自体は聖書に何回も出てくるが、それを人間の喩えに使ったのはパスカルの独創だろう。最も卑小だが最も偉大──弱くて、だけど内面は底知れなくて、それ故に愛すべき存在──その人間観に、アスカは深く共感する。

 

「葦だから相手にもたれかかれば倒れてしまう。そうやって共倒れになるぐらいなら、まず独りで立つことを覚えなくちゃ」

「でも……」

 

 シンジは複雑な顔をした。アスカの言葉を聞くと、まるで自分が男として頼られていない気がしてしまう。頼って欲しい気持ち、頼られるほど自分が男らしく成長出来ていないという事実への不安や焦り。だから、シンジの顔はつい曇ってしまう。

 

「そんな顔しないの。シンジが頼りないと言ってるんじゃないんだから。あたしだって、シンジに頼りたい、甘えたい時はあるよ。いよいよ我慢できない時は遠慮なく甘えるから」

「うん……」

 

 アスカが歩道に立ち止まって、手を放し、シンジの背中に頭をもたせかけた。

 

「アスカ……」

「あたしがシンジに求めるのは、早く一緒になろうという、ただそれだけ……」

 

 しかし、お互いが遠慮なく甘えられるようになる為には、アスカが言うように、まずはそれぞれが自分の足で立てるようにならなければならない。お互いを傷付けてしまったり、相手を自分の重荷で倒れさせてしまわないように。

 

 だから、アスカとシンジは一歩ずつ、ゆっくりと前に進むしかない。

 

 

 ネルフ本部に着くなり、まっすぐ向かったミサトの広々とした司令室──室内の調度は部屋の持ち主が碇ゲンドウだった時と全く変わらない──で、二人は唖然とした。

 

 いきなり、子供用の白いキャミソールに身を包んだ幼女が二人、頭には羽根飾りを模した画用紙の被り物を被って、シンジとアスカの周りを取り囲んだからだ。二人とも、同じくらいの背丈で、五、六歳児といったところだろう。

 

群狼(ウルフパック)は獲物を見つけた!」

「……シスも見つけた!」

「白人の女だっ! 捕まえろ、酋長への貢ぎ物にするのだっ」

「ちょ、ちょっと!」

「アワワワワワワ!」

「アワワワワワワ!」

 

 幼女たちは自分の口に手を当てて叩きながら、可愛らしい雄叫びを上げる。そして、シンジとアスカの周りを回り始めた。どうやらこの二人の幼女は、昔の西部劇風にアメリカの原住民ごっこをしているようだった。

 

「あ、あんたたち、何なのよ……」

「アワワワワワワ!」

「アワワワワワワ!」

 

 やがて二人の幼女はぐるぐる回るのを止めて、アスカとシンジの周りにまとわりつき、彼女たちにとっての獲物を矯めつ眇めつし始めた。

 

「男の子の方はクンクン……わんこクンみたいだ!忠犬の匂いがする!」

「わんこクン!? わんこならシスも飼ってる! ワンワン!!」

「あの、キミたちは……」

 

 そこに、バイザーでその目を隠した軍服姿の葛城ミサトが執務机を離れて、近付いてきた。

 

「ミサトさん……この子たちは一体……」

 

 予想もしていなかった状況に当惑を隠せないアスカとシンジにミサトは感情を欠片も込めない声で、事実だけを淡々と伝える。

 

「あなたたちの同僚です。エヴァパイロットとしての」

「パイロット!? だって、まだ子供じゃないのよッ」

 

 ミサトはその抗議に取り合わない。事務的に伝達事項を伝えるだけだ。幼女の一人、まず栗色のお下げ髪の方──の肩に手をやって、その名前と素性を紹介した。

 

「この子はマリ。米国支部から本日付で転籍になった。USエヴァビースト/ウルフパックのパイロットよ」

 

 名前はマリと紹介されたきりで、名字も何も伝えられない。麻里なのかMaryなのかもよく分からない。

 

 シンジがよくよく見ると、少女の頭部には猫の耳のようなものが生えていて、はじめはエヴァパイロット用のヘッドセットかと思えたが、シンジの視線に反応するようにピクリと動いたのだ。だとすれば、それは生身の耳なのか?まさか──

 

「にゃあ~」

 

 緊張を破るようにマリが猫のように鳴いた。

 

 後で伊吹マヤから受けた説明では、USエヴァビースト/ウルフパックは米国ネルフが開発した四足歩行型のエヴァンゲリオンだという。しかしこの時にはミサトからは何の補足説明もなかった。

 

 幼女の耳のようなものについての説明もミサトからは一切ない。しかしよく見ると、人間の耳の位置にも普通の耳があるから、単純に耳というわけでもなさそうだった。

 

 マリと呼ばれる少女はそんな風に観察するシンジを意に介さず、今度は注意をアスカへと向けた。物語の中の酋長に捧げる白人女ではなく、今度はアスカ自身への関心のようだった。

 

「ねぇあなたがアスカちゃんなの!?」

 

 マリはいきなり甲高い声で尋ねる。アスカは気圧されるように肯いた。

 

「う、そ、そうだけど?」

「ステキステキ! アスカちゃんはステキ!」

「は、はぁ?」

 

 またも、ぐるぐるアスカの周りを回り始める幼女に、アスカは面食らう。

 

「あ、アスカの何がステキなの?」

 

 シンジが思わずそう尋ねると、マリは軽蔑するような顔をして、尋ね返した。

 

「アスカちゃんはステキじゃないって言うつもり?」

「い、いや、そういう意味じゃないよっ!」

「……」

 

 確かに受け取りようによっては「アスカの何がステキ?」とは彼氏にあるまじき酷い言い草だ。アスカは醒めた表情でシンジを見た。

 

「ま、何がステキなのか分からないぐらいの女よ、所詮あたしはね。フンッ」

「ち、違うって! 誤解を招く言い方をしちゃったけどッ」

 

 そんな他愛のない痴話に気を取られていたから、アスカとシンジの視線が、もう一人の幼女にようやく向かうまでに随分と時間がかかった。

 

 そして、二人とも視線が向いた途端にそれは釘付けになった。ショートのシャギーカットにした青髪の幼女。シンジもアスカも、その髪色や髪型、顔立ちに強烈な既視感があった。

 

「あんたは……この子は……まさか」

 

 アスカの猜疑心に満ちた確認に、ミサトは静かに応じた。隠す事、後ろめたい事など、そこには何もないとでもいうような平静な態度だった。

 

「綾波レイ№シス。綾波タイプの六体めに当たる。彼女にはまた、零号機に乗ってもらうわ」

「ろ、六人めって、本当なんですか……」

 

 アスカから既に噂として聞いていても、シンジにはショックだった。あの綾波のクローン、それもシンジが自分の母親、碇ユイのクローンなのだと知ってから初めてまみえる新しい複製体なのだから。

 シンジは無意識にミサトの台詞を微修正して、六人めと呟いていた。どうしても、六体めなどと呼ぶ気にはなれない。彼女は、綾波レイは──、疑いなく人間なのだ。

 それにしても、六人めとはどういうことだろうか。シンジの知っている最後に会った綾波は三人めだったと聞いている。その疑問に応じるようにアスカは訊ねる。

 

「四人め、五人めはどうしたのよ? コードネーム、カトルとサンクってのがいるはずでしょ」

「その二人はまだ培養漕の中よ。この子は早く目覚めさせたかったから、先に出した」

 

 幼女のまま取り出せば、シンクロ率のピークである肉体年齢十四歳までの時間が稼げる。そうやってカトルとサンクと呼ばれる個体とあえてそのピークをずらす。それがミサトの検討している方針だと噂にも聞いていた。まさにその既定方針の通りにしたわけだ。

 

「そう。もう、なりふり構ってられないってワケ? でも、ミサトはその子がシンジにとってどんな存在なのか知ってるでしょ! それでもそういう事をするわけなのッ」

 

 しかし、批判しつつもアスカの合理的精神はそのミサトの判断を正しいと告げている。一方、アスカの人間的な感情はミサトの冷たさに納得しきれない。特に、綾波レイはシンジの母親を素体とするだけに、シンジの心を傷つけかねないのが、アスカにはつらかった。だから、シンジが現実にいきなり直面して傷付かないように、あえて先回りして情報を与えてはいたのだが、それでも今この場でのシンジは黙りこくっている。現実として目の当たりにしたショックは事前の情報程度では軽減しきれていないのだ。

 

「……シンジ君、私を憎んでくれて構いません。でも私たちはあなたのお母さんの遺伝子でさえも利用して生き延びなくてはならない。人類全体の運命に関わる大義を前に、それが許されない非道だとは思いません。だから、謝罪はできません」

「そうしないと、僕らも含めて人類全てが滅ぶからですか……」

「その通りです」

 

 ミサトはシンジの保護者なのに、奇妙に敬語を使い続けた。それがこの場であえて距離感を保つための敬語なのだとアスカにも分かった。

 

「はん。そんな調子ならあたしたちが死んだ時に備えて、あたしやシンジのクローンだって準備しかねないわね」

「……」

 

 奇妙な沈黙が、だだっ広い司令室の間に漂う。

 

「……まさか。本当に?」

 

 アスカがおぞましいものでも見るようにミサトを見た。

 

「そういう計画があったのは事実よ。アスカやシンジ君のクローン化は当然、検討に上がっていた」

 

 間髪入れず、アスカがぱんとミサトの頬を張った。

 

「ふざけんじゃないわよッ……!」

「……」

 

 ミサトはアスカの手のひらを避けようともしなかった。張られた頬に、手を当てたりする事もなく、衝撃で僅かばかりに傾けられた顔をゆっくりとアスカの方に戻した。

 

「……ごめんなさい、アスカ。その計画はペーパープラン段階で打ち切られた。でもあなたたちの類い希なエヴァのシンクロ・操縦能力が私たちに悪魔の囁きを聞かせた。いつかまた、私たちはその囁きを聞くかも知れないけど、今は白紙に戻っている」

「悪魔の囁きを振り切ったって、その代わりにこんなガキたちをパイロットにするんでしょっ! 外道に変わりはしないわよっ。ミサト、あんたおかしいのよ! 昔のミサトとは全然違うじゃないのっ」

 

 アスカの難詰には何処か悔しさが滲み出てしまう。別に元々ミサトとすごく仲が良かったわけではない。シンジなどには分からないだろうが、女同士だからお互いの嫌な所も目に付くし、アスカはミサトのだらしなくてがさつな所が嫌いだった。万年床の私室など、女としてあり得ないとさえ思う。彼女の豪放磊落な態度が全てわざとらしい作り物の仮面だともアスカは思っていて、それがアスカを苛つかせる。まるで自分そっくりだと──。

 

 アスカとミサトは間に加持やシンジといった異性の存在を挟んで、微妙な緊張関係を維持してきた。だから最初からミサトには何も期待してはいなかったし、それだけに、幻滅などは無いはずだ。それなのに、この悔しさは何なのだろう。

 

「確かにこの子たちは本来は保護されて然るべき児童よ」

 

 アスカの打擲で朱色に染まった頬をそのままに、ミサトは言った。

 

「でもあなたたちだって、まだ子供なのよ。あなたたちに対して行っている事と、この子たちに対して行う事との間に倫理的な違いは存在しない」

 

 ミサトはそう言ってみるものの、アスカの怒りはアスカ自身の境遇や任務に向けられているのではないと承知している。クローンとして弄ばれる、命の尊厳や自分より幼い存在にアスカの想いは向けられている。己やシンジのクローン化プランへの嫌悪感は当然だとして、それを除いては自分自身の危険や苦しみは度外視しているアスカの怒りは、それだけに純粋で真っ直ぐだった。だから、そこに隠された無言の前置きである「あたしの事はさておき」というアスカの高潔さがミサトの倫理的退路を塞ぐ。

 

 ──まだ子供のアスカが「自分の事はさておき」と、まず、自分より更に子供であるこの子たちの為に怒っているのだ。

 

 これではどちらが大人なのか分からないとミサトは心中、自嘲する。だが、ミサトには今行っている以外の方法が思い付けない。必要ならば外道な選択を進んで行う事が、世界と人類に対して果たすべきネルフ司令としての役割であり責務なのだと信じている。サードインパクトを防げなかった自分には──、加持もリツコも遂に守れなかった自分にはそういう生き方しかもう残されてはいない──

 

「……ね、お兄ちゃんとあっちで遊ぼうよ。西部劇ごっこをしてたんでしょ?」

 

 その時、沈黙を破るように二人の幼女に対してそう言ったのは、シンジだった。

 

 シンジはアスカとミサトのやり取りにずっと口を挟もうとはしなかった。しかし、ただ呆然として聞いている訳ではなかった。ミサトに対するアスカの表情がみるみる険しくなるのを見て、途中から慌てて、子供たちを部屋の反対側へと連れて行こうと決意する。話が理解できるかどうかはともかく、子供たちにクローンにまつわるミサトからの説明や、それに対するアスカの非難をもうこれ以上、聞かせる訳にはいかなかった。

 

「いいの!? お兄ちゃんは何役をやってくれる?」

 

 応じたのは、マリの方だった。きっとミサトとアスカの話がよく理解できず、退屈していたのだろう、シンジの提案に表情が明るくなった。

 

「え、よく分からないけど、何でもいいよ」

「騎兵隊はダメよ。部族を攻撃する悪い連中だから」

 

 あれ? とシンジは首を捻る。西部劇の知識は殆どなかったが、騎兵隊は乱暴なインディアンから、人々を守る正義の味方ではなかったっけ?

 

 すると、シンジの怪訝な顔に気付いたのか、ケモミミ幼女、マリはニヤリと笑って、急に大人びた口調でこう言うのだ。

 

「──天使の名前を持つ敵が攻めてくる世界で、旧来の善を善、旧来の悪を悪だと無邪気に規定できるの?」

「えっ?」

 

 シンジにはよく分からない話だ。幼女の口から突然飛び出した警句めいた発言に、二の句を継げずに戸惑っていると、幼い彼女はあっさり告げた。

 

「うん、そうだね……お兄ちゃんには、リンゴ・キッド役をやらせてあげる」

「あの……り、林檎って?」

「『駅馬車』の主人公だよ。他にも色んな映画に出てるね。ある時は善玉、ある時は悪漢……神と悪魔の間にあって、そのどちらでもないヒト。だから、お兄ちゃんと同じだ。お兄ちゃんはヒトの代表なんだからね」

 

 全てを俯瞰して見通すような幼女の台詞。シンジは息を飲み込む。この獣の耳を持つ、マリという彼女は一体何者なのか──。

 

 

「シスにマリか……今日はこの子たちとの顔合わせに呼び出されたってワケ?」

「いや、それだけではない」

 

 ミサトはそこで初めて、冷たい仮面の下から鉄面皮とは違う表情を覗かせた。

 

「……二人の入る宿舎の手配が手違いで遅れてしまった。一週間ほど、この子たちを私の家で預かります。今日も私は遅くなるから二人で連れて帰って、食事とお風呂はお願いするわ」

 

 ミサトはそう言って、端末を操作した。

 

 アスカのスマホが反応し、ミサトから送金された万円単位の金額を確認する。

 

「……ベビーシッターになった積もりはないんだけど」

「それはバイト代ではなく、食費その他の必要経費です。余ったらちゃんと返しなさい」

 

 ミサトがそう言ったので、シンジはあれっと思った。その感覚はアスカも同様だったようだ。冷たい口調は変わらずとも、そこには昔と変わらないミサトの片鱗が窺えた。お金を無造作に与えて、それで何とかさせようとしているのなら、二人はガッカリしていただろう。それで、ミサトはもう完全に変わってしまったのだと諦めていたかも知れない。しかし、ミサトの言いようはそうではなかった。

 

「ミサトさん……」

「ミサト……」

 

 そこにしんみりとした空気が漂い始める前に、二人の幼女が姦しく割って入る。

 

「ベビーシッター? マリはbabyではない!」

「シスもbabyではない!」

「あー、ハイハイ。ったく、面倒な話ねぇ」

 

 騒ぐ幼女たちを適当にあしらいながら、アスカは不満を隠さない。でも、先ほどのミサトの反応に、少しだけ明るい気持ちが自分の心の中に生まれたのを感じていた。

 

「あの、部屋はどうするんですか?」

 

 シンジはアスカとは違い、ミサトの被保護者として彼女の指示に逆らう積もりは全くない。けれど、どこに寝せたらいいのかなど、具体的な問題はむしろ細かく気になってしまう。

 

「シスとマリは私の部屋に寝せておいて。アスカも当面はそちらで寝てくれると助かる。私はアスカの部屋を使わせてもらう」

「あたしも、あの汚部屋に……?」

 

 アスカが露骨にいやな顔をした。

 

「片付けは少ししてあります。本日の要件は以上」

 

 そう言って、ミサトは半ば強引に話を打ち切った。冷たい表情の仮面は元通りに覆われていた。




(後編に続く)


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Pfirsichfest 2

「お兄ちゃんとお姉ちゃんは恋人同士なの?」

 

 二人の童女を伴いながら帰路に就いたアスカとシンジの二人に、マリは道々、訊ねた。まだジオフロントにあるネルフの構内だ。

 

「そ、それは……」

「……ふん」

「ねぇねぇ、教えてよー」

 

 質問に露骨に動揺するシンジと違い、アスカはそっけなく、別に照れるでもない。しばらく幼女を無視して無言だったが、マリがしつこく質問を続けるので、シンジの顔を見て、顎をしゃくった。

 

「あんたから答えなさいよ、シンジ」

「ぼ、僕から……?」

「こういうの、男が仕切るべきよ」

 

 アスカが鼻を鳴らして指図した。

 

「……仕切ろと言われて仕切るのって、仕切ってる事になるのかな」

「勿論、ならないわよ。なるわけないじゃないの」

「えっと……」

 

 アスカの発言に矛盾を感じて、シンジは戸惑う。アスカは少し苛立ちながらも、このカンの鈍い少年に教え諭すように補足した。

 

「……それでも外に対しては男が仕切ってるように見せるのが当然でしょ。内では女が仕切る。だけど外に対しては男を立てる。こんなの世界中、どこでもそうだよ。それで上手く行くんだ」

「そうなのかな……」

 

 シンジとしてはやや不得要領ながらも、しかし、アスカがシンジを内、それ以外を外と考えてくれているのは嬉しい。それは二人の未来予想図を象徴するようにも思えるからだ。

 

「いいからあたしの言うとおりにしなさい」

「はい……」

 

 嬶天下そのものにアスカは宣言して、その迫力にシンジは思わず肯いた。もしかしたら、やっぱり二人の未来においてもこんな風な力関係になってしまうのだろうか。しかし、それは別にいいと思った。別に尻に敷かれたい訳じゃない。男としての反撥心だって当然にある。シンジはこれまでもアスカの言いなりになってきた訳ではなかった。それなりに反抗し、言い返しもしてきた。でも、アスカと二人でいつまでも居られるのなら、それは大きな問題ではないのだ。

 

 シンジはすっと大きく息を吸い込んでから、どこか宣言するように言った。

 

「その……僕とアスカは付き合ってるよ。だから恋人だと思う」

「やっぱりそうなのね!」

 

 ネルフアメリカ支部からやって来たというマリという幼女は目を輝かせる。やっぱり日本の子より大人びているのかな、とシンジは頭の片隅で考えている。大抵の場合、女子は男子よりませているものだ。とはいえ、ふつうなら五、六歳程度ではそこまで男女の事など分からないし、気にもしないのではないか。このマリという女の子には年齢不相応に、どこか普通ではない超然とした所がある……

 

「……そうしたら、二人はケッコンするの?」

 

 そうポツリと呟いたのは、それまで黙ってトボトボと先頭を歩いていた綾波レイ№シスだった。

 

 シンジは思わず、この小さな綾波レイの言葉に絶句する。彼女はシンジの母親と同じ遺伝子を持つはずだが、それを意識すると、シンジはその質問に率直には答え難いものを感じてしまうのだ。まるで、実家に結婚相手を連れてきて、母親と対面した時のような緊張感で──

 

「う、それは──。アスカ、なんとか言ってよ……」

 

 アスカは顎を上げて、白い首を見せた。

 

「結婚の意味もろくに分からない癖に……ガキたちがませたことばかり言ってるわね」

 

 とはいえ、アスカもまだやっと十六歳の少女に過ぎないのだが。それでも、アスカはその結婚という事象を夢みたいな遠い未来のものではなく、ごく近くに迫っている現実のものとして捉えている。

 

「分からないから聞いてる。ネルフで見せられたニュースでお付き合いをした後、ケッコンするというのは知った。ケッコンって何をするの?」

 

 純粋に未知の事柄についてシスは訊ねている。クローンであるシスには親がいない。だから、家族を作るための結婚というシステムも理解できていないのだろうか。

 

「な、何をって。……そりゃ、一緒に暮らすのよ」

 

 一緒に暮らして、何をするのだろうか。言葉に出しながら、アスカは続けて声に出さずに自問自答する。結婚したら、毎日シンジとご飯を一緒に食べて、家事を一緒にして、毎晩のようにいっぱいお喋りをして、お風呂に一緒に入って、寝るときも一緒。とにかく、何をするのも一緒で──あれやこれやという大人の関係まで──

 

 アスカは自然に顔が熱くなるのを感じた。

 

「シスやマリもこれからお姉ちゃんたちと一緒に住む。ケッコンと同じか?」

「そ、それは違う。ふつうは結婚ってのは、男と女が二人だけですることよ」

 

 むろん、世の中には色々な形態の婚姻があるだろうが、アスカは一番プレーンな解釈を示した。

 

「男の子と女の子で? どうして?」

 

 シスは首を捻っている。マリはませているから何となく理解しているようだが、シスはそれよりも──年齢相応に幼く、まだ恋を知らないからだろう。

 

「ふつう男は女を、女は男を好きになる──どうしてそうなるのか、理由なんて分からない。神様にでも聞いてよ。でもあたしはシンジが好きなんだ。だからいつまでも一緒にいる。一緒にいたいと思うんだ」

 

 それはアスカにとって誓いであり、願いである。一度きりの人生なのに、これまで何度となく、いや何千回と繰り返してきた、尊い願いのようにさえ感じられる。──いったい、それは、何故なのだろうか?

 

「──女のうちの最も美しい者よ、あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、なんのまさるところがあるか。あなたの愛する者は、ほかの人の愛する者に、なんのまさるところがあって、そのように、わたしたちに誓い、願うのか」

 

 マリが大人びた顔をして歌うように突然呟いた。アスカは一瞬、息を呑み、それからその詩の出典をすぐ理解する。

 

雅歌(がか)五章九節──」

 

 旧約聖書の一編だ。男女の恋を歌う詩編で、なぜ聖書に収められているのか少し違和感もあるから、神学的には神と人、神と民族との契約を結婚になぞらえたもの、あるいは神の子と教会との関係になぞらえたものなどと解釈されるようだ。しかし、本当にそうなのだろうか? アスカはそれを初めて聞かされたとき、様々な若い男女の当たり前の恋の詩だと思った。ある民族が、その基層となるアイデンティティを初めて確立する時、恋を歌うのは自然ではなかろうか。以前、ミサトが休日によく読んでいた万葉集の相聞歌のように、それは祖父と祖母の──父と母の──夫と妻の──人間の基本的関係を寿ぐものなのだから。

 

 アスカにとって、聖書は母であるキョウコにドイツ語のみならず、日本語でも繰り返し読み聞かせられ、暗唱しているので、口や体が覚えている。アスカはマリに続いて、十節以降を(そら)んじる。

 

「──わが愛する者は白く輝き、かつ赤く、万人に抜きんで、その頭は純金の様に、その髪の毛はうねっていて、烏のように黒い。その目は泉のほとりの鳩の様に、乳で洗われて、良く落ち着いている」

 

 アスカはシンジの黒髪に手を伸ばす。──烏か鳩に似ているかしら?

 

 それから、穏やかで猛らない焦げ茶色の瞳を見る。シンジは突然の展開に不思議そうにしているが、あたしの言葉に込められた気持ちは理解してくれているようだ──とアスカは思う。

 

「でも──ほかの人の愛する者と較べたってしょうがない。あたしはシンジが万人に抜きんでて、他にまさるから好きな訳じゃない」

 

 シンジは顔はまあ可愛いが──そう言ってやるとシンジは嫌がるのだが、男の子に対する可愛いは別に女の子の可愛さと必ずしもイコールではない。やっぱりどこか違うものなのだ──ごく普通の男の子だ。料理は得意で家事もそつなくこなすが、プロ級の腕前という訳ではない。天賦の才能という訳でもなく、他人の家に預けられて厄介になるという肩身の狭い生育環境が、彼にそれを強いてきただけ、それだけの事だ。

 

 エヴァンゲリオンの操縦に関してはもちろん、他に較べるものとていない──「無敵のシンジさま」だったが、それは当時はアスカの反撥心を誘っただけだった。それだけの力があるのに、アスカの命を救ってくれた事もあれば、救おうとさえしなかった事もある。今に至っても、良くも悪くも只の高校生男子で、でもそれでいいのだとアスカは思っている。冷静に考えれば自分だって、意地っ張りでひねくれ者で素直さに欠けていて傲慢で我が儘で利己的でお天気屋で──性格的な欠陥は、枚挙に暇がない。それでも、シンジはああやって告白してくれたのだから、たしょうの可愛げは感じてくれているのだろう。

 

 だから、他の男と比較しての優秀さとか、そんなものがシンジに拘り続けてきた本質的な理由ではなくて、アスカにも高望みする積もりはなく、むしろシンジの弱さが──自分と同質のものだから──惹かれたのだ。お互いの痛みを理解して、優しくしたいし、優しくされたいのだ。

 

 加持リョウジのような大人の男に包容され、そうした大きな父性に満たされる、そんな事を夢見た時期もあったが、それではけっきょくは何の成長も望めないだろう。お互い、父や母のような大人の男女に甘えさせてもらうのでは意味がない。同じ歩幅で、同じ目線で足らざるを補い合いながら、ふたり歩いて行ける相手でなくては──そういう対等な異性でなければ──シンジとでなければ──と思うのは、多分に後付けの理由なのだけど、でも人を好きになるのに明確な理由はないのだから、恋愛感情を分析的に腑分けすれば、どうしても理では情を説明し尽くせない部分が残ってしまうのだ。

 

 アスカは気持ちを確かめるように、シンジの横に並んで手を繋ぐ。

 

「ア、アスカ」

 

 シンジにとって差し伸べられたアスカの指先はひんやりと冷たい。男女の体温差がそう感じさせるのだろうか。

 

「一緒に歩こ」

「う、うん」

 

 二人して一行の一番前に出た。シンジは少し顔を赤らめて俯いている。あたしを意識しているのね、とアスカは少し優越感を感じた。付き合い始める前とは違う。──シンジはあたしを女としてどんどん強く意識するようになっている。二人はまだ十六歳だが、結婚を前提として交際している。一生を共にするための現在は助走期間なのだと思っている。

 

 後ろを歩くシスはまだ疑問を感じているのか、シンジの背中をじっと見つめている。マリは鼻歌交じりに言った。

 

「アスカちゃんは綺麗なだけでなく、賢いのね──やっぱりステキ」

「……あんたみたいな餓鬼が、旧約を覚えてる方が凄いじゃないの」

 

 アスカ自身も、既に飛び級で大学を卒業している天才児だ。だから、その異能とさえ言えるほどの早熟な知性には既視感がある。端から見ていて大人が薄気味悪く思うほどの知力──それはアスカに必ずしも幸福をもたらした訳ではなかった。それは大人をも含めた周囲の嫉妬を招き、壁を作り──それはあたかも『アルジャーノンに花束を』で超知性を獲得したチャーリィがやがて周囲との間に知性の壁を感じたように──、だからこそ周囲の理解を得たくて飽くなき自己の存在証明に走らせ、アスカをひたすらに孤独にした。このマリという幼女も同じなのだろうか。

 

「本は好きだから。それに、覚えてるわけじゃない。一度読んだ本は()()()()()()()()()()()()()()()

 

 容易ならざることを言って、マリは笑う。

 

「本の中身が……忘れられない?」

 

 アスカは片眉を上げて、その言葉を聞き咎める。流石にアスカにはそんな特異な能力はない。サヴァン症候群の人などにしばしば見られる写真記憶とかは聞いたことがあるが、そのような異能なのだろうか?

 

「うん、そういう体質なのよ」

 

 尋常ならざる異能を単なる体質とマリは軽く流してしまう。そこに、シンジが前を向いて足を止めないままに話に加わった。

 

「……マリちゃんだっけ──忘れられないってどういう──その、気持ちなのかな」

「マリでいいよ。どういう気持ちって、別にどんな気持ちでもない。忘れられないのは事実だから。あたしにとってはそういう物だというだけ」

「……そう」

「お兄ちゃんにも、忘れたいことがあるんだね」

 

 そのマリの言葉は、シンジの肺腑を刺す。幼児とは思えない鋭さで、シンジの隠している部分を抉っていく。

 

「いや、忘れたい訳じゃない──忘れちゃいけないと思ってる。でもどうしようもなく、つらいんだ。だから時々は──」

 

 アスカはシンジの手をぎゅっと握った。シンジの気持ちを理解して、励ますように、慰めるように力を込めて。

 

「シンジ……あたしにした事やしなかった事の記憶で、つらくなったら、覚えておいて。あたしはいつだってあんたの味方だ。あんたを非難する側に回る積もりは金輪際ない。あたしはシンジの妻になる──妻はいつだって、夫の味方なのよ」

「アスカ──アスカはどうしてそこまで──」

 

 シンジはずっと心細かった。エヴァに乗っていた時、やることの全てが裏目となり、人間関係も破壊されて、一時はもうお仕舞いだとさえ思った。でもアスカが支えてくれるという。あんなにアスカに対して酷いことをした僕なのに。だから申し訳ない気持ちと共に、アスカとならば何処までも一緒に進めるという気持ちが湧いてくる。

 

「どうしてなのかしらね。でもこれ、愛なのよ」

「愛……」

「そう。シンジのことを愛する気持ち。愛おしく思う気持ち。お互いに許し合いたいと思う気持ち。優しくしたいと思う気持ち。優しくされたいと思う気持ち。愛は人間の中でいちばん貴い感情だから、恨みや憎しみに勝る。シンジがした事、しなかった事を知っていて、それであんたには幸せになる資格がないと非難して、あたしとシンジの未来を否定しようとする連中は、きっと、恨みや憎しみが愛より強いと思っている寂しい人たちなのよ。この世に愛に勝てるものなんか、有りはしないのにね」

 

 そこで、不意にアスカは頓悟に至る。頓悟、それは突然の真理への目覚めのことだ。

 

 そうか──雅歌が聖書に含まれている理由がアスカには急に理解できるようになった。神と民族との契約やキリストと教会との関係を結婚に喩えたとか様々に言われるし、民族や祖先の基層の記憶だからともアスカは解釈していたが、そういう小難しい話よりも前に、それはきっと、もっと素朴に純粋に男女の「愛」を歌う詩だから──。愛こそがこの世でもっとも大切なものだから、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書といった預言書より前に置かれたのだろう、とアスカは悟る。それは、おそらくは聖書を歴史学的、文献学的に批評する、近代聖書学の「高等批評」の立場などからは一笑に付される見方なのに違いなかったが、アスカはそうだと思った。そうであって欲しいと思ったのだ──。

 

「……あの、アスカ。僕はもう、アスカの事を一番に考えるよ」

「……うん」

「どうしたらいいかをちゃんと考える。アスカの為に、アスカの事を思って考えるから」

「信じてる」

 

 シンジには、それがアスカに唯一返せる「愛」だと思うから。アスカから貰い続けている「愛」に報いるにはそれしかないのだと思っている。

 

 長大なエスカレーターで、延々と時間を掛けて、ジオフロントから地上へと上がっていく。ようやくエスカレーターから降りた所で、手を繋いだままのシンジは、アスカの手を引いて注意を促した。

 

「ん?」

「アスカ、ネルフの構外に出るから、この子たちと手を繋いであげないと」

 

 シンジは空いている手の指先で、構外の道路を走る車を指差した。

 

「ああそうね──」

 

 確かに幼児たちがいきなり車道に飛び出したりしたら危ない。あたしたちが手を引いてあげないと。シンジはそういう事にはよく気が付く。いい父親になれそう──

 

 アスカはそう思ってから、シンジとの手を離す。

 

 今度は、めいめい幼児たちと手を繋ごうとするが、その組み合わせは何故か自然に決まった。シンジが綾波レイ№シスを、アスカがマリの手を引くことになったのだ。何故その組み合わせになったかはよく分からない。しかし、それがピッタリ、しっくりとくる組み合わせに思えた。

 

「アスカちゃんと一緒だ、ステキステキ!」

「ふん……転ばないでよね。そうしたらあたしも転けるんだから。ちゃんと足下を見て歩くの」

 

 アスカがそんな風にマリに世話を焼くのを見ながら、シンジは綾波レイ№シスに問い掛ける。

 

「あの……キミのこと、何て呼べばいいのかな」

 

 この小さな子を綾波と呼んだり、レイと呼んだりするのには少し躊躇いがある。シンジの知っている二番目の綾波と三番目の綾波はもういない。その名で呼ぶと、どうしても彼女たちの事を思い出してしまいそうで。

 

「シスでいい。それが私だけの名前だから──姉妹とは違う私だけの名前」

 

 そう言ったシスの顔は少し誇らしげだった。

 

「うんわかったよ、シス。いい名前だね。僕はシンジだよ」

「別に……シスは単なる数字、フランス語で6という意味。でも、私だけの数字。シンジはどんな数字なの?」

「……あの、ごめん。僕の名前は数字じゃないんだ」

 

 それが何故かシンジには後ろめたくて。彼女にも綾波レイという名前は無論あるのだが、通称としては数字しか与えられていない幼女に、申し訳なくて。でも、幼女はその数字こそ、自分だけの名前だと感じている。彼女にはシンジの申し訳なさは理解されない。

 

「数字じゃないのに、お兄ちゃん一人だけの名前? そういうのもあるのね。シンジって、誰が付けてくれた名前?」

「父さんだって聞いた。男ならシンジ、女ならレイにするって決めていたらしい」

「レイ?……シスの名前も同じ」

「うん、そうだね……」

 

 二人の複雑な関係を想起すれば、もちろんそれは偶然ではない。綾波レイは母碇ユイのクローンだから、父ゲンドウは娘に付けるはずだったレイという名前を付けた。そして使い捨ての道具だったとしても、シンジに対しては与えてくれなかった親としての愛情を綾波レイには注いでいた。シンジが綾波に惹かれたのは、彼女に母親を求めるような気持ちと、得たくても得られない父の愛情を得ている彼女に対する羨望のような気持ちの両方があった。

 

「おとうさんがいるのってどんな気持ち?」

「……わからない、僕もそんなに父さんと過ごしたことはないから。でも父さんが僕の名前と命を呉れたのは確かだ。父さんがしてくれたのは只それだけだけど、それは小さな事じゃない。でも、僕は本当は父さんとはもっと……」

 

 シスはシンジの独白に不思議そうな顔をした。

 

「どうしてそんなに寂しそう? シンジにはおとうさんもおかあさんも居た。最初からいないのとは違う。……シスには家族は初めからいない。おとうさんもおかあさんもいない。葛城司令に呼び出されて、しばらく一緒に暮らせると聞いた。葛城司令がおかあさんになってくれるのかと思った。でも違った」

 

 シンジもアスカもその言葉に息を呑み込んだ。

 

「シスには家族はいないの。最初から。最後まで」

 

 シンジやアスカのように親子の関係に思い煩うこと自体がシスにはない。シンジが過去を悔やみ、もし父との関係がこうだったら──と思い悩むような事さえシスには出来ない。シスにはifも後悔も思い出もない。命さえも、親から与えられたのではない、いわばまがい物だった。

 

 だからだろうか、シンジの言葉は、ふいに口を突いて出てしまったものに違いなかった。充分な思案の後に出て来た言葉ではない。迸るような感情が、普段は大人しいシンジの心の猛りが──そう言わせたのだろう。

 

「違うよ。……シスと僕は親子だ」

「え? それ、本当なの?」

 

 確かに遺伝的には綾波レイ№シスはシンジの母親と同じだ。だから親子だと言ってもまんざらの嘘ではない。そこにはシスを慰めようとする気持ちだけではなく、シンジ自身の孤独に対して自ら慰めるような気持ちもあった筈だ。

 

 シンジはシスの確認に無言で肯いた。

 

「シンジがシスのおとうさんだったの?」

 

 しかし、シンジの言葉は誤解を生んだようだった。年齢的な上下関係からは幼いシスがそう考えるのも無理はなかった。それに、子が親の半分の遺伝子を受け継いでいるのなら、親も子の遺伝子の半分を共有しているわけで、少なくとも遺伝的な関係で言えば、親と子は入れ替えても大きくは変わらないのかも知れなかった。

 

 シンジが言葉を継いでシスに補足の説明をする前に、早くも幼女の心は弾んだ。だからシンジは説明をする機会を喪った。

 

「シスにもおとうさんがいるんだ! シンジがシスのおとうさんだったんだ! シスにも家族がいるんだよ!」

 

 世界に向かって大きな声で宣言するように、愉しげな声でシスは歌う。シスは独りではない。シスにも親がいる。今まで知らなかっただけなのだ、と。

 

「……シス」

 

 シンジがちゃんと手を繋いでさえいなかったら、そのままクルクルと踊り出し、車道に飛び出しそうな勢いだった。

 

 ネルフの大人たちは、シスに親はいないと言った。死んでしまったのではなく、初めから家族はいないのだと言った。理由はよく分からないが、それは大人たちのイジワルなウソだったのだ! もしかしたらシスを驚かせて喜ばせようと思って、わざと隠していたのかもしれなかった。うん、きっとそうに違いない! だって大人の人たちは悪いことなんて絶対にしないはずなんだから!

 

「……っ!」

 

 アスカは絶句した。親のないクローンのシスは、今、自分の親がシンジなのだと誤解して──本当は父親ではなく息子に相当する存在なのに──無邪気に喜んでいる。満面の笑みを浮かべて、この心から祝福されるべき家族の発見という幸福に浸りきっている。余りにも哀れだった。人間の生命の尊厳を弄んだ結果が、この複雑な、普通では有り得ないような誤解なのだとしたら、誰も救われないとさえ思った。

 

「何なんだよ、これ……こんなのあんまりじゃないか。この子たちがどんな悪いことをしたって言うんだよ」

 

 気が付くと、アスカの両目から涙がポロポロと零れ落ちていた。

 

 不用意な事を言ってしまったシンジが悪いのではない。確かに二人は遺伝的には親子なのだ。だけど、このシスの喜びようは、あまりにも、あまりにも……だった。万感胸に迫る想いに、アスカの普段の理性を守る堤防が決壊する。

 

 アスカ自身が、親子の問題を抱えているという点でシスへの共感もある。しかし、そもそもアスカは感受性豊かな少女だった。自身の存在証明の為だけではなく、つらい思いをしながらたゆまぬ努力を己に課して、世界と人類──顔も名前も知らない誰かの笑顔の為に──誰にもそんな本音は明かさないけれど──戦ってきた少女だった。自分の承認欲求を満たす為だけなら、エヴァに乗るよりも、もっと安全で平和的、利己的な道が幾らでもある筈だったのに、アスカはそんな道を決して取ろうとはしなかった。

 

 何よりもシンジの言葉一つに無邪気に喜べるシスに、彼女のクローンとして生み出された境遇の哀しみが滲むのが、アスカにはつらかった。一番の不幸は、本人が自分は不幸だと気付いていない種類の不幸なのだ。アスカはむろん、クローンではない。しかし普通の人間であっても、むしろ普通の人間だからこそ、クローンの痛みが分かるべきではないのか。その痛みに共感できる存在こそが本当の人間と呼べるのではないか。

 

「あたし、ミサトを許せない──」

「……アスカ」

「人間の気持ちを弄び過ぎだ──あたしたちは世界を救う為の道具じゃない。人間なんだ」

 

 クローンであろうと、オリジナルであろうと、エヴァンゲリオンの適合者であろうと、なかろうと、みな人間だ。断じて他者の道具ではない。

 

 アスカの才能で世界を救ってくれと言われたから救ってやっている。戦い続けてやっている。しかし、大を活かすための小の贄になった積もりは一切ない。あたしたちが単なる道具で、人間として扱われないのなら、そんな風にエヴァのパイロットを扱わないと滅んでしまうようならば、そんな人類は滅んでしまえばいいんだ──

 

 そんなアスカの心の針の振り切れ方がシンジにはよく分かった。そして、シンジはそれを危ういと思う。自分の事ではなく、他人の事だから、優しいアスカは怒ってしまう。自分に対する過酷な扱いは自分の精神や肉体が壊れるまで我慢し続けてきた彼女でも、他人の事だから、幼い少女たちの事だから、素直に怒れてしまう。それはアスカの疑いようのない美質だった。美し過ぎる魂の在り方だった。でも、シンジはアスカの為にそれを心配する。脆すぎるアスカが他者とぶつかって壊れてしまわないかと心配でたまらない。だから、あえてアスカを制止する。

 

「ミサトさんも苦しんでいると思う──今日のミサトさん、少しだけ昔のミサトさんみたいだった。アスカの気持ち分かるけど──分かってる積もりだけど──」

「あの女を庇うの!? 苦悩や懊悩が非道の免罪符になるとでも! 信じられない、あんたはお人好し過ぎる。分かってなんかいない! 何も分かっていないんだ!」

 

 アスカは舌鋒鋭くシンジを非難する。自分の気持ちを分かってくれないと非難しつつ、アスカの方もシンジの考えが分からない。シスの為に怒っているのは、シンジの為に怒っているのと同じだ。シンジの母親なのだ。シンジの家族なのだ。天涯孤独になったシンジにまた家族のような存在が現れて、それがあるいは良い兆候になるかもと思えたのに、またこうしてシンジの心を傷つけかねない非道がまかり通っている。だから許せないのに、なぜシンジはあたしの気持ちを分かろうとしてくれないのだ。

 

 先ほどまで手を繋ぎ、心をあんなにも優しく通い合わせた筈のシンジによる無理解を感じて、アスカの心を絶望が満たす。

 

 繋いでいたマリの手を振りほどいて、アスカは自宅に向かう駅の方角に駆け出して行く。

 

「アスカっ!」

 

 しかし、シンジには追いかけられない。二人の幼女の命を預かっているのだ。二人を置いてけぼりにして、アスカを追いかける訳にはいかない。段々と小さくなるアスカの背中に向かって、声を張り上げる事しか出来ない。

 

「アスカっ、待ってよ、止まってよ!」

 

 シンジはアスカの為に、アスカの事を第一に考えると誓ったばかりなのに、アスカを怒らせてしまった。これでは、アスカに貰った愛を返すどころではない。後悔は尽きない。でも彼女のミサトへの怒りをそのままに肯定する事はアスカ自身の為にも出来ないと思ったのだ。シンジはどうすれば良かったのだろう。何が正しい対応だったのだろうか。

 

 マリもアスカの背中を目で追いかけながら、小さな声で呟いた。旧約聖書続編シラ書22章19節からの暗誦だ。

 

──目を突くと、涙が流れ、

心を突き刺すと、感情が表れる。

石を投げると、鳥は飛び去り、

友をののしると、友情は壊れる。

友に向かって剣を抜いたとしても、

望みを捨てるな。まだ和解の道はある。

友と口論をしたとしても、

心配するな。まだ仲直りの道はある──

 



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Pfirsichfest 3

 シンジたちを振り切って独り帰宅したアスカは、コンフォート17マンションに戻るなり自室に閉じこもった。ベッドに顔を伏せて外界から自分を遮断した。

 

(どうして、シンジはあの女を庇うんだよ!)

 

 アスカとシンジは、米国から来た新エヴァパイロット、マリと綾波レイの六人目のクローン体、№シスの世話をミサトに命じられて、葛城家に連れてくる所だった。途中でシスがシンジの言葉を誤解して、彼を父親だと──天涯孤独な自分にも家族がいるのだと──無邪気に喜び始めたから、アスカは見ていられなくなったのだ。クローンを兵器の生体パーツとして利用するミサトの非道がその時、幼児の身の上に降りかかる現実の不幸として意識されてしまい、どうしても許せなくなってしまっていた。

 

 だから気が付いたら、ミサトに対する怒りをぶちまけて、義憤のままに駆け出していた。

 

 もちろん、アスカも理性ではミサトの冷酷な決断の理由は分かっている。アスカは一介のパイロットに過ぎないが、小隊以上単位に匹敵する戦力足りうる航空機パイロットが基本的には士官であるのと同じように、エヴァのパイロットも士官待遇の軍属だ。仮初めながらも士官として速成教育で身に付けた軍事的合理性が彼女の中にも根付いている。士官が学ぶのは、自分の掌握する隷下の部隊全体に対する視点だ。

 

 個人として愛すべき兵士がいたとしても、士官は時に部隊全体のために彼に危険な任務を命じなければならない。単なる員数では決してあり得ない個人を、単なる員数として冷徹に計量するのが士官の任務だ。暴走するトロッコの分岐器をより少ない犠牲者の方へと切り替えるのが士官の仕事だ。──倒した分岐の先にある個人の顔はその時は見ないようにするしかない。見えているのに、見えていない振りをするしかない。

 

 高級指揮官ともなればなおさらだ。掌握する部隊が──引いては責任を負うべき国民が──級数的に増大し、その分、兵士個人の命の重みは鴻毛よりも軽くなる。そして、ミサトがネルフ司令として背負っているのは人類全ての運命なのだ。

 

 だから、ミサトが幼児であるマリや、クローンであるシスまでをも軍事利用する理由は分かる。

 

 そうしなければ人類が滅ぶから──

 

 使徒の再来寇や再度の人類補完計画発動による危険、あるいは人類を脅かす更なる未知のリスクは未だに払拭されていないのだ。

 

 だからその至上の大義の前に、全ての人道は閑却される。

 

 ミサトは軍人として正しい。

 人間としては間違っている。

 

 ミサトは元々、それが分からない程に酷薄な大人ではない。

 

 人として間違っている事と理解した上で、ミサトはそれを覚悟の上で行っている。誰かがやらねばならない事だから。人類を救うためには、誰かが悪魔にならなくてはいけないから。

 

 まだ子供であるアスカは、それに対して何も言うべき言葉を持たない。

 だから口惜しいのだ。

 

 空疎な正論を自らの手を汚さない立場から言うしかない、無力で傲慢なだけの自分に憤るしかないから悔しいのだ。

 

 

 息せき切って、家に駆け込んできたシンジは肩で荒く息をしている。アスカが鍵を掛けずにいたから不用心だと不安に思いつつも、鍵開けに手間取るもどかしさを感じずに済んで良かった──そのぐらい気が急いていた。

 

「はぁはぁ……あ、アスカ……」

 

 アスカの部屋のふすまの前で、シンジは遠慮がちに声を掛ける。

 

 アスカの返事はない。

 

 玄関先でドタドタと家に上がり込む子供たちの足音が聞こえる。

 

「ここがミサトのうちなのか!?」

「よし、シス! 全部の部屋を探検だ!」

 

 そんな子供たちのはしゃぐ声をBGMに、シンジは閉まったままのふすまに向かってゆっくりと声を掛ける。

 

「あの……ごめん。アスカが怒った気持ち、分かると思う。分かってあげなくちゃいけなかった。でも、さっきは僕の中でミサトさんをアスカの上に置いた訳じゃない──あの時、僕はただアスカの言うとおりにだけ肯いててはいけないと思ったんだ。僕には僕の考えがあって、ちゃんとそれをアスカにぶつけて、きちんと話をする。どうしても、そうしないと……って」

「……あんたは自分の考えが正しいと思ってるの?」

 

 アスカの返事がか細いながらも返ってきてその事に少しだけ安堵しつつ、シンジはふすまの外で首を横に振った。

 

「ううん、僕はバカだから間違ってるかも知れない。でも正しいとか、そういうのは多分どうでもいいんだ。人間、正しさにこだわるとあんまり良くない気がする。それは人間を正しい側とそうでない側に二つに分断してしまうだけで、でも……人間ってそんな風に二つに分けてしまっていいものではないんだよ、きっと。僕はそんな風にアスカと分断されたくない──ミサトさんとも」

 

 世の中には正論と正義が大手を振って罷り通る風潮が強まっている。それだけ、人々が世の理不尽に怒りを感じているのだと分かってはいるが、しかしその単純明快な世界観に対して、シンジは少しだけ異議を申し立てて、留保をしたかった。

 

「たとえ、ミサトさんが間違っているとしても、僕はミサトさんをただ非難はしたくないんだ──ミサトさんは今まで僕らに本当によくしてくれたし、ミサトさんだって今はつらいのかなってそう思ってあげたい。そういう気持ちをアスカとも共有したいと思うんだ」

「あんた、少し変わったわね──」

「そ、そうかな……」

「少し大人になった」

 

 アスカはいつの間にかベッドから起き上がって、ふすまを背中にして座り込んでいた。シンジもその気配を察して、ふすまに背を向けて廊下に座り込む。今、アスカとシンジはふすまを僅かに挟んで背中合わせになって会話をしていた。

 

 ふすまを開けて顔を見て話せばいいのに、互いの声だけを聞いて会話する。距離感が少しだけある会話で、お互いの気持ちのすれ違いを修復しようとする──なぜかそうするのが少しだけ心地よかったのだ。

 

「そうかな。僕にはよく分からないや」

「自分のことだけで一杯だったあんたが、保護者であるミサトの立場を考えて思いやっている。あたしは二年前にはあんたに傷付けられて、あたしも同じくらいあんたを憎んで傷付けて、そんな風にあたしたちは子供だったけど、もしあんたがそんな風に大人になれるのなら、あたしだって、きっとそうしなくちゃいけないんだよね」

「──アスカは僕よりもずっと大人だよ」

 

 女子は少しだけ男子に先んじていて、それは女の子の言語能力やらコミュニケーション能力の高さに起因するのかも知れない。そして、やがて女子は己の胎内に別の生命を宿すことにもなる。だからこそ、他者と必然的に触れ合う性として、誰かと共に生きていく術を先んじて模索し始めるのかも知れない。

 

 それがシンジには眩しくて、いつまでも遠くて、だからこそ憧れて、でも、それをずっとずっと追い続けて生きていきたいとも思うのだ。

 

「あたし……こんなに怒りん坊なのに?」

「うん──そんなに怒りん坊でも。アスカは大人だし、素敵だ」

「やになるなあ……」

 

 そんな風にシンジが優しくて、少しだけ大人に見えて、アスカには悔しい。でもシンジの言うとおりにミサトを許す気にはまだなれていなかった。自分はそんなに柔軟でもないし、人間として丸くもない。正論だけで世界を切り取るのが稚拙で、いかにも年頃の少女らしい潔癖さと傲慢さだとしても、ただひたすらに冷淡な覇道を突き進むミサトの立場に対してどんな風に寄り添ってやればいいのか、アスカには分からなかった。

 

「……」

 

 だからそこから暫し、アスカはシンジとの会話に行き詰まりと気詰まりを感じて、リビングの更に奥の辺りから、マリとシスとが突如として上げた大きな驚きの声に、救われた気持ちさえ感じたのだ。

 

「なんだこれ!? 凄いものがある!」

「Japanese roomにて、マリシス探検隊は秘宝を発見せり!!」

 

 一体、二人は何を見つけたというのか。シンジがすっくと立ち上がった。

 

「アスカ……行ってみよう!」

「うんっ」

 

 シンジの言葉にアスカも立ち上がって、ふすまを開ける。互いに頷きあって、二人ですぐにリビングルームの奥まで駆けつけた。

 

 ──まさか、ミサトの汚部屋に卒倒したわけでもあるまいが?

 

 などと思いながら、その部屋に飛び込んだから、別の意味でアスカは驚かされた。あんぐり口を開けて、シンジの顔を見やったら、シンジも参ったなと言わんばかりの表情で頭を掻いている。

 

 そこで見たのは、塵一つ無い、掃き清められた和室。間違いなくミサトの私室だが、いわゆる汚部屋だった形跡など何処にも見当たらなかった。清々しく、清涼な空間。そこに微かに桃の花の香りが漂う。床の間に置かれた花瓶に──花屋でこの時期になると並ぶ枝ものの──桃の花が一枝生けられているからだった。

 

「ミサトのやつ、一体いつの間に──」

 

 アスカが唖然とし、シンジが頷く。

 

「全く気が付かなかったよ。最近はミサトさんの部屋を覗かないようにしていたから、ずっと散らかったままかと思っていた……いつ片付けてたんだろうね」

 

 多分、深夜でなければ、シンジたちが学校に行っている間、昼休みなどに戻っては少しずつ片付け、また仕事に蜻蛉返りなどしていたのだろう。多忙を極めている筈の司令の仕事の合間に。

 

 それはミサトの如何なる心境によるものなのだろうか。

 

 部屋には三つの雛人形が飾られていた。いずれもシンプルな一段飾りだ。二つは新しく、動物が──それぞれウサギとオオカミが──擬人化された児童用のカラフルな雛人形だった。

 

 ウサギの方には「綾波レイさんへ」

 オオカミの方には「マリさんへ」と。

 

 雛壇の前に並べられたそれぞれを収めるとおぼしい化粧箱の上には、そうミサトの字で書いたメモが置いてあり、マリの方には一応英語も添えてあった。それぞれの宛名には子供宛てながら、ちゃんと「さん」付けの敬称が付されている。

 

「これは何!?」

 

 目を輝かせて尋ねる綾波レイ№シスに対して、シンジは説明する。

 

「雛人形だよ。もうすぐ三月三日、ひな祭りだから──女の子のお祭りで、こうやって男の子と女の子の人形を並べてお祝いをする。無事に育ってくれてありがとう。将来、幸せになれますようにって」

 

 そこまで言って、シンジは言葉を切る。そこに込められたミサトの想いに気付いたのだ。

 

 無事に育ってくれてありがとう──

 将来、幸せになれますように──

 

 ──そうか。そうだったのか。

 

 シンジは急に目頭が熱くなった。わっと叫び出したくなる気持ちを押さえ込む。

 

 やっぱり、ミサトさんはミサトさんだった。

 

 僕らの知っているミサトさんなんだ。そういう、温かくじんわりとした想いがこみ上げてくる。

 

「──シスが、このウサギさんの雛人形を貰ってもいいのか!?」

「うん。これはミサトさんが、君たちに呉れたものだよ。そちらのオオカミの雛人形はマリのものだ」

「マリのエヴァはウルフパック──群狼だ。──だからこれはマリにぴったりのプレゼントだね! Commander Katsuragiはステキ! ステキ!」

 

 はしゃぐ子供たちのそんな喧騒をよそに、アスカはもう一つの雛人形の前に膝を折って静かに座った。

 

 それはやや古びてはいるが、丁寧に、大切に保管されてきた事が分かる人形だった。白磁のような透明感のある女雛の顔は、古風だがどこか葛城ミサトにも似ている。普段はあまり意識させられる事はないが、ミサトは典型的な日本美人だった。その事をアスカは改めて思い起こす。

 

 他の二人宛てのものと同様にやはり人形の前に置かれた化粧箱の上に、「惣流・アスカ・ラングレー様へ」と書かれた手紙がきちんと箱の外周と平行にして置いてある。アスカは手紙を開き、シンジにも聞こえるように、静かに読み上げ始めた。

 

「『古い雛人形でごめんなさい、亡き母から受け継いだものですが、ぜひ受け取ってください。これを次に誰かに引き継ぐのはアスカからであってほしい』──ミサトのやつ……」

 

 ミサトは加持を失って、もはや伴侶、配偶を新たに得るという望みを棄てたのかも知れなかった。

 

 だから雛人形を受け継がせるべき娘は二度とミサトには現れない。いやしかし、私には既にちゃんと娘というべき存在がいるではないか──。

 

 ミサトは或いはそう思ったのだろうか。

 

 必ずしもアスカが、ミサトに好意的でないことを彼女も知っていた筈だし、互いの間には女同士の反撥心もある。難しい年頃の少女だ。かつてアスカはミサトの元恋人である加持に対する露骨な好意を示していた事もあったのだ。そして加持とミサトは焼け木杭(ぼっくい)に火が付いたように寄りを戻し──。

 

 だけど、その加持はもうこの世界の何処にもいない。

 

 曲折を経てその後、アスカは加持ではなくシンジに向き合い、年齢相応の相手を得て収まるべき場所に収まった。それはとても自然で健全なことだ。

 

 アスカの反撥心は、ミサトに対して別の理由で尚もぶつけられているが、それはもはやミサトにとっては黙して甘受すべきことになっていたのかも知れない。少なくともミサトがサードインパクト後に露骨にアスカを叱正したりしたことはなかった。

 

 箱の上にあるのは手紙だけではなかった。

 一首が短冊の形で添えられている。

 

──()しきやし 吾が家の毛桃 もと繁み 花のみ咲きて 成らざらめやも

 

 意外にも流麗達者な女の筆で、薄桃色の短冊にその和歌は書かれていた。

 

 それは、葛城ミサトが最近愛読している万葉集からの歌だった。

 

 万葉集は、他国で言えば、丁度きょう帰路にてマリが引用し、アスカが後を継いで諳らんじた旧約聖書の「雅歌」に相当するものだろう。あるいは、アメリカ文学で言えばホイットマンの「草の葉」に匹敵するだろうか。どちらも題名に「葉」が入っているのが偶然とはいえ、質朴な日米両国の民族性を表しているようだった。国籍上はアメリカ人であるアスカも草の葉所収の「アメリカの歌声が聞こえる」という詩に打ち震えるような感動を覚えた記憶がある。すなわち民族の古層にあって、その国の人々の魂を震わせ、むせび泣かせる「最も古い記憶」だ。

 

 かつて、第二次世界大戦で出征した学徒出陣の学生たちは様々な書籍を戦地に持ち込んだ。その中で一番持ち込まれたのが、この万葉集だったという。それは日本の最古の歌集であり、尚武軍国の世にあって表向きはその中に含まれる僅かな勇ましい歌を言い訳として、実際には、兵士たちは前線で、男女の相聞や望郷の歌に落涙したものと聞く。

 

 それは戦争という暴風のただ中に僅かに文化の香りを溶かし込むものだったろう。反戦というには弱々しく、しかし好戦というには明らかに程遠く。学び舎から望まずして引き剥がされた学徒たちは暮夜、陣中でこの書を読む時に、きっと、上代の祖先の穏やかで素朴な歌風にしばし戦という直面する現実を忘れた。とっくの昔に亡くなっている遠い祖父や祖母たちが、天皇から無名の庶民まで身分の差を問わずに歌った歌がそこには収められている。それを読む時、時間と空間を超えて、日本の若者たちは、きっと故国に帰っていた。

 

 その戦をもはや勝機を逸し異国を征せんとしただけの無名の師と信じる者にも、祖国の御盾として殉ずることを儚く願望する者にも、等しくその古代の歌は、彼らを故国と繋ぐものとして、末期(まつご)の救いとなった筈だ。

 

 軍人としてネルフの司令として、ミサトはだから、この歌集に惹かれている。いつか誰かを死地に追いやり、あるいは本部決戦で辛くも拾った己の命をどこかで散らせるものと思えばこそ、かつて多くの還らざる戦士たちとともにあったこの歌を手元に置いている。

 

 その万葉集の中から撰び、ミサトがアスカに書き置いた歌──

 

──()しきやし 吾が家の毛桃 もと繁み 花のみ咲きて 成らざらめやも

 

 その歌意はこうだ。

 

 愛おしい私の家の桃はこんなに繁っているのだから 花だけ咲いて 実が成らない……果たして、そんなことがあるだろうか。

 

 ──私の好きなアスカ、あなたは桃の花のように美しい娘になった。だからきっとあなたの恋も必ず実る。そうならないはずがないよ──。

 

「ミサトっ」

 

 アスカの視界がぼんやりと滲んで曖昧になった。

 アスカは肩を震わせて嗚咽する。

 

「こんなのずるい、ずるいわよっ。これじゃ、あたし、聞き分けの悪いわがまま娘みたいじゃないかっ」

 

 だけどシンジがそっとその背中に手のひらを乗せた。

 

「アスカ……」

「っ……ミサトのやつ、不器用すぎるんだよ。……でも、それに気付けないあたしは大馬鹿者だ」

 

 シンジがぽんぽんと優しくアスカの背中を叩いた。

 

「僕は──アスカがシスたちの事に本気で怒ってくれて、嬉しかったよ」

 

 肩と同じく語尾を震わせるアスカに対するシンジの言葉は、あくまでも静かで優しい。

 

 シンジはミサトの立場も分かってやりたいと思った。だからアスカの怒りに素直に従うことは出来なかった。そこに危うさを感じてもいて、アスカの為にそれを憂えた。でも、一方で──矛盾するようだが、アスカの純粋な怒りの在り様を、少女の混じり気のない真っ直ぐな魂を美しいと思ってもしまったのだ。

 

「……うん」

 

 だから、アスカはその賛美には素直に頷く。シンジとアスカ、二人の魂が直に触れ合って、シンジがアスカにこんなにも惹かれていると伝わったから、率直に受け入れられる。

 

「みんなが皆、答えのない、正解のないこの世界で戸惑い、悩みながら戦っている。僕は小さな綾波たちを戦わせるのにはアスカと同じように反対だよ。……でも、そういう酷いことをしなくちゃいけないぐらい僕ら人類は追い込まれていて、そんな戦いの中で、僕はミサトさんやアスカや綾波……そして今日、マリやシスにも出逢うことが出来た。人類の生き残るためのみっともない足掻きが、僕を一生巡り逢えなかったかも知れない遠くの国のアスカに出逢わせてくれた。それは本当に奇跡みたいな事だと思う。僕やアスカの扱われ方に誰かの冷たさがあったとしても、途中でどれほどの苦しみがあったとしても──僕はこの奇跡を生み出した運命を喜びたい」

 

 人の命を失わせる戦いを決して肯定出来なくても、それでも何かを守るための戦いは否定したくない。そしてそうした戦いの中で、抗う人々の間に初めて結ばれる絆もある。だから、シンジは怒りや憎しみや憤慨よりも、前を向いて進みたい。

 

「──世界が哀しみに満ちていても、もう僕の周りの人たちには決して近付かせない」

 

 それはシンジの決意だ。あの日、アスカを手酷く傷付けたシンジが、人間として一度は底辺に堕ちたからこそ、初めて言える台詞だった。

 

「今度こそ必ず守るから。僕が、アスカも、シスも、マリもみんな守る──アスカを二度と泣かせたりはしないから、ね?」

「シ……ンジ」

 

 アスカの見やるシンジの顔は、精悍な男の顔だった。いつか、きっとと夢見ていた物語の王子様のようだった。だからアスカは殊更に、ふんと鼻を鳴らす。

 

「かっこつけちゃってさ──バカシンジの癖に」

 

 でもアスカのその顔は照れくさそうな、それでいて、ボーイフレンドであるシンジを見つめる表情は、思い切り誇らしげで。シンジもそんなアスカの顔を見て、鼻の下を擦る。 

 

「ま、たまには僕だって、ね──」

 

 シンジの態度はその言葉とは裏腹に、気負いの無いものだった。自然体でさり気なく、等身大の格好良さが感じられた。かつて、シンジが「戦いは男の仕事!」などとうそぶいて、陥穽に嵌まったのとは違う、落ち着きがあった。

 

 そんなシンジの言葉に、幼女たちも思うところがあったのだろうか。

 

「あっしも、シンジを守る!」

「シスも、お父さんを守るよ!」

 

 口々に、マリやシスが言って、それからマリは短い少女の腕を精一杯に広げた。ぐるぐるとその場で回転しながら、雛人形や桃の花のピンク色に囲まれて、宣言する。

 

「桃、桃、桃の空間で、誓うことと言えば一つ!」

 

 ささ、みんな手を出して!といきなり促すこましゃくれた幼女マリに導かれるままに、一体何を始めるのかと首を捻りながらもアスカもシンジもシスも彼女の手の甲の上に掌を重ねた。

 

「同年同月同日に生まれるを求めざるが、只、同年同月同日に死するを願う!」

 

 シンジもアスカもシスもきょとんとしていた。

 

「あれ、知らない? 桃園の誓いだよ。三国志の──」

 

 マリは頭を掻いて、説明する。

 

「いや、ここ桃園じゃないし。大体なんであんたらと一緒に死ななくちゃいけないのよ」

「うーん、アスカちゃん。ノリが悪い! こういうのイキオイなんだから!」

「うるさいっ。あたしが同年同月同日に死するを願うのは……」

 

 アスカは重ねた手を放して、シンジの腕に手を回して組んだ。

 

「只ひとり、バカシンジだけだ──」

「アスカ……」

 

 シンジの顔をそっと見上げる。──既にシンジの背は、あたしよりも大きくなりつつある。出会った頃には同じ背丈だったのに──。でも、それはきっと良い変化なのだ。いつまでも同じではいられない。でも二人が共に進むのなら、形は少し変わっても、変わることを愛おしむ事がアスカには出来る。なぜならアスカも大人になりつつあるから。

 

「世界が滅ぶのなら、シンジと一緒に同じ日に逝きたい。でも世界を救えるのなら、ちゃんと誰も彼もを救った上で、うんと長生きして、お爺ちゃんお婆ちゃんになってから、幸せのど真ん中で──同じ日に亡くなりたい。だって、お雛様って、そういう願いが込められてるんでしょ? 好きな人と一緒になって一生幸せに暮らす。そんな女の子なら誰でも夢見る幸せを──ミサトはそれをあたしたち三人の女の子の為に願ってくれたんでしょ?」

「うん、ミサトさんはミサトさんだから──」

 

 どんなに冷たく装っても、その奥にある温かい心は隠せない。葛城ミサトはいつだって、シンジやアスカの良き保護者だった。そして、これからはきっと、マリやシスにとっても──

 

 シンジは、それから苦笑するように言った。

 

「だけどね。せっかく綺麗になったこの部屋が元の散らかしぶりに戻らないよう、そして、アスカの部屋がミサトさんに使われている間に汚されたりしないよう、ちゃんと僕らで監視しなくちゃね。だってミサトさんは『あの』ミサトさんなんだから──」

「そうだった、あたしの部屋がミサトに占拠される! 汚部屋にされる!」

 

 げっという顔をしてアスカは顔をしかめ、それから噴き出すようにシンジと顔を見合わせて笑う。

 

 家族が一気に増えたコンフォート17マンション葛城家の汚部屋クライシスは始まったばかり──。



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Geburt von Shinji 1

「シンジ、そろそろ行くわよ」

「行くって、どこに」

 

 放課後、同居人の少女が机に寄って声を掛けてきたので、シンジは首を捻った。金髪の長い髪に、蒼い瞳。一目で他人の目を引くとびきりの美少女だった。

 

 最近、妙に既視感を感じるこのアスカとのやり取りだったが、そこから先のアスカの返事がシンジの予想と少し違っていた。

 

「……うーん、あんたはどこに行きたい?」

 

 自分でシンジを誘っておきながら、アスカは戸惑っているようだった。いつもの果断即決の彼女の自信が、遅疑逡巡の不安に取って代わられている。

 

「へ?」

「シンジはどこに行きたいんだろ。考えても分からない。だから、決めて欲しい」

「えっと、どういうことなのかな──」

 

 シンジが首を捻ると、アスカは形の良い顎をしゃくって、教室の前にある黒板の右下の日直の記載欄、いや、その上へとシンジの視線を誘導する。

 

 そこには今日の日付が──2018年6月5日(火曜日)と──そう書いてあった。

 

「分かるかな、分からないなら折檻だけど──」

「そりゃ流石に分かるよ。僕らが付き合ってから丁度半年なんだから。正確にはきのうがその日だけど」

 

 慌てて早口で言ったのは、日付を改めて見るまですっかり忘れていたからだが、アスカが鼻で笑ったところを見ると、そんなシンジの取り繕いはとっくに見透かされていたようだ。

 

「半年間、お疲れ様だったわね──あたしに付き合わせて振り回したり……」

「なんだか不吉な物言いだね。まさか半年のお試し交際期間が終わったから、もう別れるとか言い出さないよね?」

「は。情けないわね。シンジってば、まだそんな風に自信が持てないの」

「だって、さ──アスカはやっぱり、モテるし……その」

 

 シンジは頭を掻く。シンジとの交際を学校で公言した後も、アスカは未だ隠然とした明城学院のアイドルで、少なからぬ男子が未だに彼女への憧れや未練を断ち切れないでいるようだ。

 

「あんたは、その話では、嫉妬する方じゃなくて、思い切り嫉妬される方じゃないの。……阿呆か」

「……うん、まあそうなのかも知れないけどね。でもさ、アスカと付き合う人はみんなそういう不安に陥るんじゃないかな?」

「仮定でもそんな人間が複数いるような妄想はやめてよ。あんたしかいないし、あんたはバカシンジだからそんな風に不安になるのよ──」

「うん」

 

 それはそうだろう。原因はシンジの外ではなく中にある。いつだってそうだ。

 

「つまりは──これから、付き合って半年記念のデートだってこと?」

 

 放課後の教室。周囲はまだ帰宅を先延ばしにする生徒たちが多数残っている。シンジの席の周りの彼らは自分の用事を処理するような素振りをしながら、それとなく、しかし好奇心いっぱいにアスカとシンジのやりとりに耳をそばだてている。

 

「これだけヒントをあげてようやくそこに辿り着く。シンジはやっぱりおばかさんだね──」

 

 とアスカは笑った。

 

「そんなの当日に言わなくても……って一応抗議したらいけないのかな」

「だって、ちびすけたちの予定がギリギリまで見えないんだもの」

 

 当初一週間だけ預かるという予定だったマリと綾波レイ№シスの葛城家における同居は三か月経ってもまだ続いていた。

 

 何故かといえば、予定通りならば一週間後に用意された宿舎での孤独な暮らしへとそれぞれ戻される少女たちの運命に、アスカとシンジが待ったを掛けて、同居継続を葛城ミサトに懇願したのだ。

 

 だから、平日の日中はネルフ構内の託児施設に預けられている二人を、アスカとシンジが放課後に迎えに行ったりもしていた。マリとシスを引き留めた時に、「自分たちも出来ることをするから! だから二人をこの家に居させてあげて!」と懇願して、約束したからだった。

 

 ミサトは相変わらず冷たい無表情の仮面を被ったままだったが、やがてぼそりと言った。

 

「あなたたちに大人の気持ちで、子供みたいな我が儘を言われると、私は子供の気持ちで、大人のように却下をしなくてはならなくなる。でも、そこまで見苦しい事は出来ないわね」

「ミサトさん……」

 

 ミサトの説明はよく分からなかったが、それでも以前とは何かが変わったようにシンジは感じた。

 

 いくらネルフの司令として高禄を食む身であろうとも、多忙を極める仕事をしながら子供四人を養うのは容易なことではない。まだ結婚もしていないミサトが母親代わりのような事をするだけの経験も義務もない。

 

 だからシンジとアスカはミサトを助けるために出来るだけの事をしなければならない。「いい子にする、何でもお手伝いをするから!」などと、子供がクリスマス前にプレゼントをねだるためだけにするような、プレゼントを貰ったら直ぐに忘れてしまうような──いい加減な約束であってはいけないのだ──

 

 だからアスカとシンジ、二人の日々はそれから幼女二人を半ば中心にして動いている。

 

「まあ分かるけど。……今日はマリとシスは夜まで起動試験だっけ。ミサトさんと一緒に帰るって連絡来てたね」

「そう、チャンスなのよ。たまのコブナシの日なんだから、おデートしましょ」

 

 アスカはシンジの前の誰かの席の椅子を勝手に拝借し、後ろ向きに座って、シンジと机を挟んで向かい合わせになる。

 

「さてと。あたし一人じゃやっぱり決められない」

 

 シンジにはそれが何故だか分からない。

 

「アスカにも行きたい所ぐらいあるでしょう? いつもなら、強引にでも僕を引っ張っていくのに。どうしたの?」

「──こないだの、ひな祭りの一騒動でさ」

「うん」

「シンジは──何だかあたしより先に羽ばたいたような気がしているんだ」

「えっ」

「あんたはあの時、大人になってた。瞬間風速的なものかも知れないけど。でもそれがあたしには少し眩しくて……」

 

 シンジには全くそんな自覚はなかったが、だが、アスカの主観的にはどうやらそういうものらしい。瞬間風速的な成長というのには、素直に喜んでいいものか戸惑うのだが……

 

「だから、何でもあたしが仕切るというのも違うのかな、と思った訳よ。あんたの自主性もちったあ重んじて……」

「良かった」

 

 シンジは破顔した。ついアスカをからかう様な軽口が出てしまう。

 

「これで、もう──アスカの(かかあ)天下は無くなるんだね。僕の未来は明るいんだ」

「はあ? 調子に乗んな」

 

 アスカはシンジの額に軽くデコピンをする。

 

「っ……痛てっ」

「まだまだ尻に敷くわよ、当たり前じゃないの……あんただって、あたしの尻に敷かれるの嬉しいくせに」

「それはまあ……」

 

 シンジは痛むおでこをさすりながら、苦笑する。確かに、他愛のないアスカの「威張りんぼう」っぷりには愛おしさや可愛らしさを感じることもある。もちろん、シンジだって、アスカがやいのやいのと偉そうに指図をするとムキになって反論することもあるのだけれど。

 

 だけど最近はアスカがそんな風にするのは、ある種の不安もあるのだろうなと感じていて。──自分からシンジが離れていくのではないかという不安。シンジが何かを間違えてしまうのではないかという心配。そうした懸念を完全にぬぐい去るのは多分不可能なのだろう。

 

 何しろシンジには一度はアスカを見捨てた前科がある。本部決戦では量産機の魔手からアスカを救おうとせず、自分だけの殻に閉じこもっていた。だから先手を打って、アスカがシンジを束縛、拘束したいという気持ちも分からないではない。

 

「あたしがちゃんと方向性を示して、リードしてやらなくちゃ、バカシンジなんかどこに行くのか分からない」

「……羽ばたいたんじゃなかったの?」

「その後もどこかフラフラしてんのよ」

 

 アスカはシンジを睨み付けるが、しかし、ふっとその表情を緩めた。

 

「でもま、デートの行き先ぐらいは決めさせてやってもいい。そういう所から訓練して行かなくちゃ。いい男になれるようにね」

「うん……」

 

 照れくさそうなアスカの表情を、シンジも同じような顔をして見つめながら頷いた。

 

 仕切り直して、二人は机の上で見つめ合い、掌をそっと机の上で重ねる。そうだ、大切なのは過去じゃなくて、未来だ。

 

「どこ行こうか、シンジ」

「……うーん。もう放課後だからなあ。あまり遅くなる訳には行かないし」

 

 どうせ、黒服の保安部員が気付かれないようにアスカとシンジを尾行しているのだろうが、それでも帰宅が遅くなったことで騒ぎになるのはイヤだった。

 

 シンジにも行きたい所はある。この間、放課後にアスカと寄ったショッピングモールで、アスカが服を見ている間に、隣のRADIOなんちゃらという名前のスポーツ用品店で見かけたFILAのスニーカー。カラーリングがパープルをキーカラーにしていて何処か初号機みたいで、だからだろうか、隣のレッドをキーカラーにした同じモデルのスニーカーと合わせてアスカと二人で履いたらお揃いだよな、なんて思ったりもして。限定モデルだからちょっと欲しいなと年相応の高校生男子として思うのだが、まあ僕のお小遣いじゃ足りないか──

 

 頭の中に浮かんだ自分の行きたい所をすぐに振り払って、シンジは口に出しては次善の案を提案する。そうだ、僕だけが楽しくたってしょうがないじゃないか──。二人で楽しめなくっちゃ。やっぱりそうなると観光地みたいな所が一番だけど……。

 

「そうだ、大涌谷(おおわくだに)でも行こうか。アスカ、行ったことある?」

「聞いたことはあるけど無いわね……、観光に来日したわけじゃなかったから、ね」

「実は僕もないんだ。近所では、かなり有名な観光地なのにね」

 

 学校から行くとなると、箱根ロープウェイの姥子(うばこ)駅まで出て、そこからロープウェイでひと駅。確かにこれまで行かなかったのが不思議なぐらい近くの名所だった。

 

「でもシンジ。あたしとデートだってのに、最近は随分落ち着いてるのね」

「そうかな?」

「うん、ちょっとはドキマギしてくれるのかな、と思ったけど。……もうあたしに飽きちゃった?」

「そんな事は」

 

 ある筈がない──と、シンジは心の中で堅く否定する。

 

「アスカと付き合い始めてからまだ半年だけど、アスカとは知り合ってもうそろそろ二年だし。それに……」

「それに?」

「ヘンな話だけど、アスカとは最初に出逢ったときから別に緊張しなかったんだ。なんだか初めて会った感じではなくて、昔からの知り合いや幼なじみみたいで……」

「何をナンパ師の口説き文句みたいな事を」

 

 でも不思議とシンジの説明には納得できるものがある。こんなにもアスカがシンジ以外の男を眼中の外に置いているというのに、それでも嫉妬して不安になるシンジが、しかしアスカとの会話では出逢った最初の時から特に気後れすることなく話せている。他のアスカに告白してくるような男子たちは、面と向かって話せなかったり、勇気を出しても話が続かなかったりするのが殆どなのに。

 

 シンジは他の男子に対しては嫉妬もするし自信を持てない所もあるが、アスカに対しては引け目を感じている訳ではない。それは奇妙に矛盾している気もするが、アスカにはむしろ自然に思える事実だった。

 

「でも、分からないでもない、あたしも同じように感じてた。古い馴染みのようにしっくりくる感覚。あたしも同い年の男子となんか話したこと無かったのに、あんたとは別に構えることなく話せてた」

 

 そうだね──とシンジも肯いた。

 

「これは単なる妄想だけど──あんたとあたしは別の世界でも何度も何度も巡り逢っていて、そこでもきっといつも幼なじみとか恋人とか夫婦とか、そんな近しい間柄になっていて、だからそんな風に思えるのかも──」

 

 何の根拠もないが、アスカにはそんな風になぜか思えたのだ。

 

「アスカは乙女だね」

「悪い? バカにしているの?」

「違うよ。ロマンティックだな、って──とても可愛いと思うよ」

「ばか」

 

 一時期、日本では転生ものの恋愛漫画などが一大ブームを巻き起こした事があったし、それは極東の島国ばかりではなく、世界的流行にさえ広がったことがあった。以後、定期的にその手のブームは再燃する。

 

 女の子はいつだって、運命に定められた世紀の大恋愛が大好きだ。だからアスカも、シンジとの間がそうであることを念願する。運命に邪魔をされ、引き裂かれたとしても、きっといつかは巡り逢って結ばれる。今はそのきっといつかに当たるのだ、と。

 

「ね。アスカ行こうよ、大涌谷」

「うん、シンジが連れて行ってくれるのなら──地獄だって、どこだって、あたしは行く」

 

 大涌谷は別に地獄じゃないよとシンジは苦笑するのだが──。

 

 あの赤い海の浜辺をくぐり抜けた以上は、もうどこにだって行けるのだ。たとえ、そこが苦しみばかりの世界だったとしても、運命で結ばれているシンジと二人で一緒ならば。アスカはそう堅く決めているのだ。

 

 

 姥子駅から大涌谷駅まではロープウェイでたったのひと駅。時間にしたら八分ほどに過ぎない。平日の夕方近く、観光客でそこまで混んでいる訳でもないのだが、それでもロープウェイに乗っている時間の倍以上を乗る順番待ちに使わされて。

 

「わあ──こんなの初めてよ」

「うん、アスカ。確かにこれは凄いよね……」

 

 しかし、待たされただけの甲斐はあった。これは確かに絶景だ──とシンジとアスカはガラスに顔を引っ付けるようにして景色を眺め、互いの顔を見合わせては、息を呑む。全面ガラス張りのゴンドラの四囲からはどちらを見下ろしても谷、また、谷。ロープウェイの高度から見下ろす大涌谷は、まさしく大渓谷と呼ぶに相応しい雄大さで、実のところを言えば、水蒸気爆発や火砕流による崩壊地形としての斜面であるにも関わらず、まるで造化の神がわざわざ下から斜面を段々と積み上げて拵えたような偉大さを醸し出していた。

 

 八分間の絶景はあっという間に終わり、アスカとシンジはロープウェイを降りて、駅を出る。

 

 駅前の売店施設くろたまご館の前にある、黒いたまご型のモニュメントの前でちょっとだけ順番待ちをしてツーショットの写真を──親切そうな女子大生風のお姉さん二人連れに取って貰ってから、大涌谷一番の目玉を購入しようとする人だかりにアスカとシンジは加わった。

 

「これが名物の黒たまごかぁ」

 

 大涌谷に湧き出す温泉池に浸して茹でたそのゆでたまごは、鉄分と硫化水素が反応して、殻が硫化鉄の黒色に見事に染まる。これが名物黒たまごだ。

 

 黒い紙の包みに温泉たまごが五つ入って、五百円。たまごにまぶす塩付きだ。小腹も空いていた二人は早速一包みを買った。

 

 殻は確かに真っ黒で、少し硫黄の臭いもするけれど、殻を剥けば中は、白い至って普通のゆでたまごだ。

 

 アスカとシンジは近くのベンチに腰掛けて、綺麗に剥いたたまごを一つずつ、それぞれ大きく開いた──自分ではなく相手の──口の中にちょんと放り込んだ。つるんとしたたまごが恋人の手により、相手の口腔の中に呑み込まれるのは、何故かしら、ちょっとだけエロティックな光景だ。

 

「よく噛むんだよ、アスカ」

「ううむっ……はむはむ……んぐ……ごくっん……んまぁ、普通のたまごよね……」

 

 アスカが口の中一杯にゆでたまごを頬張って、咀嚼した後で、素直な感想を呟いた。

 

 シンジももぐもぐとしていたが、綺麗に食べ終わるまで待ってから口を開いた。

 

「……うん、でも一個食べると寿命が七年伸びるらしいよ」

 

 口の中が少しパサパサする。それでも二人は相手が食べ終わったのを確認してから、お互いの口の中に二個目を放り込む。まるで親鳥が雛に食餌を与えるみたいに。甲斐甲斐しく相手の世話をして。相手の口の中にたまごが入ったのを見届けると、膨らんだほっぺたを指先でつついて、からかってみたりもする。

 

「えひっ。ひんじ。こいふめ、こいふめ!」

「ひょっと……もが……ひゃめてよ、あふか。たべにふいから!」

 

 それでも妨害や茶々入れにもめげずにようやく二個目を胃の中に収め込むと、アスカもシンジも些かこのたまごにうんざりし始めていた。

 

「はん。一個で七年? ……バカバカしい、迷信でしょ。でも本当だとしたら……残り一つは半分こしないとあたしとシンジの寿命にバラつきが出るわね」

「もともと女の人の方が長生きだけどね」

「男は暴飲暴食、タバコ、大酒……どうせそういう生活習慣で寿命を縮めてるだけでしょ。でもいいわ。三つ目はシンジが食べなさい。それで男女差トントンよ」

「ええーっ。夕食前にゆでたまごを三つも食べたくないなぁ……」

「駄目よ。あたしはもう一人で残されるのはイヤなんだから……」

 

 アスカが差し出した黒たまごの包みをシンジは受け取って、そっぽを向いて見えないアスカの視線を想像する。多分、それは恥じらいを含んでいて、それでも真剣で。だからそんな顔でアスカは、シンジの顔を直接見れない。

 

「うん、ありがとう……」

 

 別に黒たまごの効果をそこまで信じた訳じゃない。でも、アスカがずっとシンジと──それこそ共白髪になるまででも──いつまでも一緒に居たいと願っているからシンジに余分にたまごを寄越したのなら、シンジは喜んで三つ目を口に運ぶに決まっている。

 

 ──しょうがないな。夕食は、二品減らそう。

 

 たまごをなんとか食べ終わったシンジが決意すると、アスカは思い出したように声を上げた。

 

「あ、そうだ。ちびすけたちやミサトにももう一個買って帰ろう。お土産にね」

「アスカ、帰りでいいじゃない。荷物になるし……」

「帰りじゃ売り切れちゃうかも知れないでしょ、だって七年寿命が延びるんだし! ここで動かず待ってなさいよ、すぐ戻るッ」

 

 シンジが止めるのも聞かず、アスカは駅前の売店にとって返す。シンジは目尻を下げて、それを見送った。

 

「そんなにすぐ売り切れる訳がないじゃないか。……七年とかすっかり信じちゃってるし」

 

 賢いようで、アスカもどこか抜けている。おまじないのような物を前にしては、飛び級で大学を卒業していても、全く年相応の少女に過ぎない。欠点や短所が目立つ程に沢山ある。だから、シンジもアスカを色々補ってあげられる。それは多分嬉しいことなのであって──。

 

「しかし、凄い景色だな……」

 

 ベンチから立ち上がって、奥に広がる大涌谷の園路を眺める。もうもうと立ち上る噴煙や鼻を突く硫黄の臭いが、そして火山ガスの影響で立ち枯れた今にも折れそうな木々が、奥手にある雄大な山嶺との対比を成して、遠近感を強調している。

 

 冠ヶ岳の北側に位置し、今なお地熱で活発な噴気を上げる斜面が、大涌谷だ。先ほどまでロープウェイで天の高みから見下ろしていた高低差のある地形を、今度はその底の方から見上げていると、自然の雄大さを思わずには居られない。二年ほど前は、こんな巨大な自然の中を自分やアスカや綾波レイが紫や赤や青色の巨人を繰って、天人のように駆け抜けていたのだから、夢みたいな話でもあった。

 

「昔は地獄谷とか大地獄とか呼ばれていたらしいよ。とっても偉い人がここを訪れたから、その時に名前を変えたんだって──」

 

 シンジの独り言に対して振り返って声を掛けたのは、前に立っていた白いワンピース、白いつば広の帽子──そんなフェミニンな格好をした、シンジと同じ高校生くらいの少女だった。

 

「へぇ、そうなの。アスカが地獄と言ってたのも、まんざら的外れじゃなかったのかな──」

 

 と思わず知らない女の子に返事を返してしまったシンジの脳裏に、同じように白いワンピース、白いつば広の帽子をかぶった母親──碇ユイのイメージが瞬間、蘇る。

 

 未だ幼いシンジの前に、目線を合わせるためにかがみ込み、何かを話している。見たことなどない、覚えているはずなどないのに──そんな夢か幻のような記憶だ。

 

 息子であるシンジの名を呼びかけるまだ年若い女性、その姿が目の前の同い年くらいの少女の面影に重なった。

 

 だから思わず──シンジは──

 

「母さん……?」

 

 シンジは慌てて、突いて出てしまった言葉を押し戻すように口を手のひらで押さえた。

 

 なぜ少女のことを母のように感じたのだろうか。

 

 声だろうか──少女の声は今はもう居ない綾波レイの二人め、三人めに少し似ていた。綾波レイ№シスの声にも似ているかも知れない。つまりはシンジの記憶にはっきりと残っている部分では聞いたことは勿論ないのだが、──母に似た声質とも言えるのかも知れなかった。

 

「……あたし、あなたのお母さんに似ているの?」

「い、いや、そういう訳じゃないけれど」

 

 シンジはそもそも母親の顔を知らない。写真も父親が全部処分してしまった。多分、母の顔立ちは綾波レイに似ているのだろうと思うけど。

 

 この子の顔は、当たり前だけど──綾波とは違う。でも雰囲気にはどこか似通った所があって。

 

「知らないんだ、母さんの顔。子供の頃に亡くなってるし」

「ふうん」

 

 いきなり母親の事など──客観的に見れば変なことを言い出したシンジの事を、しかし、軽蔑したり、薄気味悪がるでもなく、少女はむしろ興を催したようだった。でもシンジの母が亡くなってると知っても、安易な同情などは見せなかった。淡々としていて、それがシンジにはかえって心安かった。

 

「あたしにも親は居ないよ」

 

 突然の少女の告白。初めて逢ったばかりで互いに名前さえも知らないのに、そんなに明け透けに個人的な事情を少女は知らせてきて。でも、それは不幸を嘆くでもなく、誇るでもなく──事実を告げているだけのことで。

 

 ──なんでキミはそんな風に笑えるの?

 

 そんなシンジの無言の問いかけに。

 

 ──だって最初から知らない親のことでは嘆けないよね、彼女はそう笑いかけているようで。

 

「そうなんだ──」

 

 シンジは哀しい告白であるのに、自分と同じだねと微笑みながら、頷く。そして、少女とこんな風に言葉を交わしたのは初めてではないと、強烈なデジャヴを感じる。

 

 無限に繰り返すループの中、僅かずつ違う分岐を一万通りもなぞるように同じ時間を繰り返して、その中にその出逢いもまた確かにあったのだ。アスカとの出逢いと同じように──。

 

「キミは一体──」

「あのね、あたしの名前は──」

 

 しかし、シンジはその続きを聞けなかった。

 

「何をしているのよ、あんた」

 

 へ? とシンジが振り向くと、黒たまごの包みを結わえた紐を片手にぶら下げたアスカが立っていた。

 

「いや、今そこの子が──」

 

 そう言って、アスカにも少女を紹介しようとするがそこには誰も居なかった。

 

 雲のようにかき消えて──幻のように白い少女はいなくなっていた。

 

 夢? まさか──。

 

 でも世の中には白昼夢というのがあるとも聞いたことがある。

 

「はぁん? 誰もいないじゃないの」

 

 呆然と立ち尽くすシンジの目の前で、彼の視線を確かめるように前に回り込んだアスカは手を振ってみせる。更にはそのまま、シンジの額にひんやりする掌を当てて。

 

「熱はないみたいね──」

「そうなのかな」

「何を言ってるのよ、あんた」

 

 あの子が幻なら、僕はむしろ夢を見ていたようなもので。熱ぐらいはあっても、不思議でない。

 

「さあ、大涌谷を探検しましょ。あんたがあたしを連れてきたんでしょ」

 

 それはその通りなのに、シンジはどこかあの少女の事で気を取られていて。

 

 せっかくのデートなのに、アスカにその気持ちをすべて注ぎ込む事が出来ないでいる──。



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