ハイゴ様 (欺瞞)
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痛定思痛

 

 

 茹だるような熱と風。耐え難いそれに萎えるのは何も自分だけではなかった。天高く闇に腰掛ける月もまた、その身を細く窶れさせている。

 不平不満など意味はない。何も考えず歩みを進めることこそ最善である。しかし理解はしていてもできはしない。

 大口を閉ざすシャッターの群れ、頼りなくも縋るしかない街頭、デコボコと靴底を擦り減らすアスファルト。そのどれもが心を苛み、昂せたからだ。

 

 …否。それだけであるはずもない。成績への不安、学友への不安、進学への不安、自身そのものへの不安…これらすらも一例に過ぎない。

 思春期特有の不安。そう言われてしまえばそれまでだが、こちらとしてはそう一言に切り捨てるわけにはいかなかった。

 なにしろ当人だ。身に危険が迫れば不安になるのは必然。解決する知恵も胆力もない現状に頭を抱えて何が悪いのか。

 

 意味のない思考で脳漿を満たし、焼ける足場で己を押し出す。なんの事はない、塾帰りの日常風景だった。

 いつも通りの最悪の普通。それに待ったをかけたのは、時分に似つかわしくない涼やかな声だった。

 

「こんばんは」

 

「…こんばんは」

 

 横手の路地裏から声をかけてきたのはいわゆる美少女という奴だった。月明かりに冷たく照らされ、平均より白いであろう肌を一層輝かせるその姿はどこか遠い冬を想わせる。長く伸ばされた髪は肌とは対照的な濡羽色。闇に溶けて見えない瞳は、それにしても黒すぎる様に思えた。

 

「…なにか御用ですか?」

 

 正直、これほどまでに美しい人は初めて見た。緊張に口調は硬くなり、声もどこか低くなる。親しくなることもないだろうに、俺はなにをやっているのか。

 

「…うーん」

 

 やはりいつも通りの希死念慮を弄ぶ己を他所に、彼女は何やら悩んでいるようだった。

 こちらとしては当然用もない。叶うならばすぐにでも別れ、放射熱のない自室に帰りたかった。しかしながら口を開く様子はなく、ただただ何かを悩んでいる。

 足を止めたが故の無風と纏わり付く熱気に焦れ始めた頃。その艶やかな口はようやく言葉を吐いた。

 

「…あのさ。ストーカーに悩まされてない?」

 

「…はぁ?」

 

 何言ってんだこいつ、そんなセリフが理性と奥歯に噛まれて消えた。唐突ではあったがそれは間違いではなかったからだ。何故知っているのか、こいつもなんだか怪しいのではないか、一瞬のうちに逡巡し──

 

「…はい、そうですね」

 

 頷く事にした。やっぱりね、彼女もまた頷いた。

 

「教えてください。ひょっとして後ろにいましたか?」

 

「んー?…まぁ、いるっちゃいるかな」

 

 煮えきらない態度。しかし勿体ぶっている訳ではなく、説明をしてくれようとしている気配があった。言葉に困っているのだろうか。…迷っているところ申し訳ないのだが、こちらはとにかく情報がほしい。

 

「あの…どんな人でした?俺が見ようとするとすぐ消えてしまって…ほら、性別とか年齢とか…背丈とか服装とか!」

 

「へぇ、姿を見せないんだ。珍しい手合だね」

 

「…何が!」

 

 噛み合わない会話に声を荒げる。ストーカーが姿を見せないのが何がおかしいのか。だいたいそういうものじゃないのか?

 当然納得がいかない。更に追求しようとするが、その唇に細く長い指が翳された。

 

「中川くん、提案があるんだけどさ」

 

 名前を、把握されている。初対面のはずなのに、どこまでも正確にこちらを把握されている。恐怖を覚え一歩下がる。震える唇で、どうにか一言だけ絞り出した。

 

「………なんなんですか、貴方は」

 

 ぷっ、と彼女は吹き出した。何がおかしいのかくすくすと笑い、俺の胸を指差す。

 指先では学校指定のネームバッジが月光を鈍く照り返していた。外すのを忘れていたのだ。思わず顔が赤くなる。ストーカーがいるからと過敏になり過ぎた。

 

「ごめんなさい…疑ってしまいました」

 

「いやいいよ。そういう状況なんだし無理ないって。それより話を戻すけどさ…」

 

 親切心で声をかけてくれたにも関わらずかなりの失礼を働いてしまったが、いたずらっぽく微笑むだけで許してくれるようだった。なんと優しい人だろう。罪悪感に包まれつつ言葉を待つ。

 

「家まで一緒に帰ったげよっか?」

 

「え」

 

 …驚きはしたが、正直願ってもない事だった。アレがどんな人間なのかは知らないが、少なくとも人数不利の状況で妙な真似はしないだろう。それにこんな美少女と同道なんて役得…とまで考えてまた死にたくなった。恩人相手に失礼があってはならない。

 

「その、お願いしても…いいですかね…?」

 

「そのつもりで声かけたしね。もちろんだよ」

 

 にこり、そんな擬音が聞こえてきそうな笑顔だった。

 

 

 

 

 

 自分が先導する形で歩き始めて数分後、あの涼やかな声が再び耳に入った。

 

「中川くんはさ、坂高だよね?」

 

 県立坂崎高校。歴史ある進学校であり、田舎特有のライバル校の不在から学力の低下が叫ばれる。端的に換言すると俺の在籍する高校である。

 

「はい、そうですね。………えーと、貴女も?」

 

「え?ああ、自己紹介してなかったっけ」

 

 既に話していたつもりだったのか動揺した表情が見える。そしてそれを誤魔化すように立ち止まり、真面目な表情で敬礼してみせた。

 

「坂崎高校一年!三枝 深雪(さえぐさ みゆき)であります!…なんてね」

 

 可愛らしく微笑み、姿勢を崩す。怜悧なルックスとは違ってお茶目な性格のようだ。

 

「一年なんですか?同じです、俺も」

 

「お、そうなんだ。じゃあ1組かな?普段見ないし2組でも見たことないし」

 

 言語が圧縮されているが、読み解くに三枝さんは3組所属で2組によく立ち寄るということだろうか。我が母校は少子化の煽りを受け、一学年を通常学級の1、2組、特進学級の3組、合計たったの3クラスで活動している。つまり消去法は可能だが…いささか会話が飛躍している。やはり頭がいい環境にいると推察が前提の高度な会話になるのだろうか?

 

「正解です。流石は3組ってことですかね?」

 

 聞くや否や彼女は顔を歪めた。…褒めたつもりだったのだが、言い方が嫌味っぽかっただろうか。

 

「…そういえば、住んでる部屋までどれくらいなの?」

 

「あと2分くらいです。もうちょっとお付き合いください」

 

 露骨に話題を逸らされた。不快な思いをさせるのは本意ではないので大人しくそれに乗る。

 しかしここで沈黙が続くと心が痛い。どうにか次の話題を探すうちにある疑問が浮かんだ。本当なら最初に考えつくべきだったそれを、実際に聞いてみることにした。

 

「…あの、三枝さんはどこにお住まいなんですか?冷静に考えたら俺が帰ったあと一人になるのでは…」

 

 真夏の深夜0時。幼少期からこの土地でそういう輩を見かけたことはないが、それでもああいう手合いは湧いてくるものだ。可憐な少女一人で歩くには不安を感じないはずがなかった。

 その可憐な少女は虚をつかれた様な表情をしたあと、けたけたと笑う。

 

「あはは、いまさらなの?…やっぱ中川くんって面白いね」

 

「す、すいません…テンパってて思いつきませんでした…」

 

 本当に今更である。自分の身を危ぶむ余りに恩人のリスクを考えていなかった。彼女は男ではなく見麗しい女性なのだ。夜半を出歩くリスクは桁違いである。最近の俺では、どっこいかもしれないが。

 

「大丈夫。私、これでも強いから」

 

 そう戯けて何かを投げる真似をする三枝さん。俺も武道に心得がある訳ではないが、その動きは素人にしか見えなかった。

 

「やっぱ俺が送ったほうがいいんじゃ…」

 

 困った様に、しかし笑みを崩さない彼女はやはり戯ける。

 

「それじゃ送った意味がないでしょ。…それとも、私の住所が知りたいの?」

 

 瞬間、背筋が凍った。内臓が強張り、自然と足が震える。フラッシュバックに意識を奪われ、視界が赤に染まる。俺はきっと、酷い顔をしている。

 例え善意で申し出ていようと今日が初対面では分かるはずもない。送り狼を狙っていると想定するのが自然だろう。…するべき事など決まりきっていた。

 

「…配慮が足らず申し訳ないです。…あの、ありがとうございました。もう着いたので失礼します」

 

「あっ…」

 

 ちょうどよく自室のあるアパートについた。絞り出すように声を出し、礼もそこそこにその場を離れる。

 

 彼女の瞳に自分がどう映っているか、考えるだけで恐ろしかった。



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譎詭不経

 

 

 寝具に潜り夜を乗り越えた翌日。俺は昼休憩の食堂にいた。熱と騒音に塗れたここは、まるで活性化した火山だ。

 

「暑いな…」

 

 クーラーの効く中央席はグループ客に取られている。俺のような席取りが物理的に不可能な独り身は、ギラギラとお天道様に照らされる窓際の席に座るしかない。

 そして頼んだメニューはラーメン。昨日は色々とあったので胃を大きく満たして気を紛らわせようとしたのだが…今となっては失敗だったと言える。

 直射日光と臓腑からの熱のダブルパンチに朦朧とする中、彼女は唐突に現れた。

 

「や」

 

 昨日とは違い、制服に袖を通した三枝さんだった。手にはトレー。そしてその上にはラーメンが湯気を立ち昇らせていた。

 

「…こんにちは。昨日はお世話になりました」

 

「気にしないで。それとここ、空いてる?」

 

 無言で頷けば彼女はどうも、と椅子に腰掛けた。

 

「…暑いね」

 

「ええ、まあ」

 

 毒にも薬にもならない会話。お互いにどう話しかけるべきか迷い、そして牽制しあっていた。

 俺としては昨夜の非礼を詫びたいが女子との会話の仕方が分からず、彼女としては…俺の昨日の様子が探りたいが話の入り方が分からない、といった所だろうか。

 当たり障りのない言葉を一言二言交わしながらラーメンに手を付ける。かいた冷や汗を誤魔化すようにスープを飲んだ。そして麺の量も減ってきた頃、彼女は心なしか大きな声で呼びかけた。

 

「結局さ!ストーカーの姿、伝えてないよね?」

 

 …そう言えばそうだった。彼女のペースに乗ってうやむやになっていたが、それが最初の目的だったのだ。

 

「そうですね…教えて頂けるんですか?」

 

「うん、その為に来たんだしね」

 

 話せてすっきりしたのか満足気な表情。俺の非礼は気にしていないようだった。…あの態度を受けてまだ助けようとは器の大きな人だ。己の事情で大人気ない行為を取った自分と比べて、少し気分が落ち込んだ。

 

「その前に確認なんだけど、中川くんはあれの姿を見てないんだよね?」

 

「はい、見ていません」

 

 ずっと背後から視線を感じはするのだが、しかしてその下手人を見たことはない。そもそも視線を感じる、というのも妙な話な気がするが、実際に背後からなにか圧のようなものを感じるのだ。

 

「じゃあ視線はいつから?それと、付き纏われる心当たりは?」

 

「視線は…入学してからかな。あ、俺は進学を期にこっちに引っ越して来ててですね。それからって事になります」

 

「知ってるよ?中学校の時見なかったもん」

 

 …つまり三枝さんはこの地域の産まれということか?この地域に中学校は確か一つしかなかったはずだ。そこの出身であるならば整合性は取れるか。

 そうなんですね、と返して次の返事を練る。

 

「えーと、心当たりは…」

 

 ない。顔、成績、性格、財力。特に秀でた所はない。今の所女性とそれらしい雰囲気になった事は一度もないしそれどころか…いや、やめよう。

 

「ないですね」

 

「そっかそっか。参考になったよ、ありがとう」

 

 うんうん、と頭を振る三枝さん。何らかの確信が持てたのだろうか。

 

「いえ、お礼を言うべきなのはこちらの方で…」

 

「中川くんはさ、幽霊って信じる?」

 

 

 遮るような質問。俺はその言葉の真意を掴めなかった。

 

 

「あー…その、信じてないですね?」

 

「ふうん…そっか」

 

 それだけ言うと三枝さんは食事に戻ってしまった。上品にも音を立てず、麺はするすると彼女の口に消えていく。

 いつの間にか冷えきった頭で必死に考える。なぜこのタイミングであんな質問を?それではまるで、まるで───

 

「──ストーカーではなく、幽霊だと?」

 

「まぁね」

 

 内容に反して随分とあっさりとした答えだった。そこに嘲りや気負いはなく、当たり前の常識を説くような、そんな様子だった。彼女が言うのならそうなのだろう、そんな感覚すらしてくる。

 

「…いや、なわけ…ない…ですよね…からかってます?」

 

「なんで?メリットなくない?」

 

 そう言われては言葉に詰まる。詰まるが…仮にも21世紀に生きる人間として、そうやすやすとオカルトの実在は信じられない。

 

「人は…理由もなく誰かを騙せるでしょう。ほら、原田くんだって…」

 

 いじめっ子で有名な原田くん。彼に限らず、人は『ノリ』や『その方が面白いから』という理由で簡単に嘘を吐く。三枝さんがそんな人には見えなかったが、それでも幽霊の実在よりは信憑性があった。

 

「まぁ、そうかも。でも私は嘘つくの好きじゃないんだよね」

 

 自己申告の性格では信用できない。それすらも嘘である可能性がある訳だし…しかし、彼女がそういった連中とつるんでいないのも事実だった。

 はっきりとしない現状に悩んでいると、彼女は箸を置いて口を開いた。

 

「戸惑うのも分かるよ。でも付きまとわれてる理由も姿を見せない方法もわからないんだよね?」

 

「それは…」

 

 幽霊のせい。そう考えれば確かに説明はつく。幽霊や妖怪は説明できない謎を擬人化したものなのだから当然ではあるのだが。

 

「一回さ、私の話を聞いてみない?それから結論を出しても遅くはないでしょ」

 

「そう…ですね。お願いします」

 

 話を聞いて損をすることもない。どうせ解決策もないのだし、それもありかもしれない。

 よしきた、袖を捲りながら戯ける三枝さん。こういった事に慣れているのだろうか。

 

「ここら辺は知ってるだろうからさくっといくけどさ。幽霊って生者を羨んでて、それが理由で近づくんだよね」

 

 小説とかゲームでもよく聞く話だ。死者は喪った生命の温かみに飢えていて、それを欲して襲ってくるのだと。

 

「そんでもって幽霊は霊感が強い人以外の視界には入らない。つまり中川くんが霊能力者じゃないなら見えないね」

 

「それが付きまとわれてる理由と姿を見せない方法…ってことですよね?」

 

「そういうこと」

 

 笑顔で肯定する彼女。ここまでは自分も理解できていた。問題はここから先だ。

 

「それじゃあ本題。そうだなぁ…3つに分けて証明していこっか」

 

 ピンと人差し指を立て、俺の眼前に掲げる。白く、細い指だった。

 

「一つめ。ストーカーって昼に来たことある?」

 

「ない…ですね。でもそれは学校にいるからじゃ…」

 

「じゃあ土日は?お出かけ中に気配を感じたこと、ある?」

 

 休日となれば人通りは多い。紛れる人混みのない夜間よりかはよっぽどストーキングはしやすいはずだ。しかしながら、気配を感じたことはない。

 

「思い当たる節、あるみたいだね」

 

 得意げな笑みに頷くことしかできない。確かに彼女の言う通りなのだから。

 

「じゃあ二つめ。単純に熱に耐えられない」

 

 …なるほど。ここT県は特に気温が高い事で知られている。コンクリートからの反射熱も強いこの真夏に、毎日毎日いつ塾から出てくるか分からない俺を待ち続けるのは簡単なことではないだろう。

 クーラーでもあれば話は別だが、近くにはちょうどいい店舗はないし車で尾行していたら流石に気が付く。

 

「うんうん。中川くんは物分りがよくて本当に助かるよ」

 

 俺の様子を見て察したのか、彼女は薬指を立てた。

 

「三つめ。警察に相談した?」

 

 

 

 

 

「──────あれ」

 

 していない。確かに。普通、ストーカーに悩まされたのなら警察に相談をする。よな。なんで。思考が混乱する。俺は…まさか…

 

「そ。怪異に誘導されてるんだよ」

 

「………」

 

 思考の誘導。それが事実なら、もうどうしようもないのではないか。対策を打とうにもその思考を刈り取られたのでは元の木阿弥だ。詰み、その二文字が脳裏で瞬いた。

 

 

「…ふふ。ねーえ」

 

 

 いつのまにか、三枝さんが隣に座っていた。

 

 

「私ならなんとかできるんだけどさぁ…」

 

 

 ゆらりと揺蕩う端正な指が、そっと俺の首筋をなぞる。普段の自分なら間違いなく悲鳴をあげて飛び退いていた。けれど、体がピクリとも動かない。いや、動いてはいけないような。

 

 

「助けて、ほしい?」

 

 

 妖艶にして、魔性。明らかに色を含んだ声が外耳道に染み込んでいく。何か返事をしなくてはいけない。首にほんの少し力を入れて頷くだけでいいのに。彼女の指が這った皮膚から、力がどんどんと抜けていく。

 それでも。それでもなんとか意思をかき集めて。どうにか声を絞り出す。

 

「…っ。お願いします…助けて…ください」

 

 三枝さんの表情は見えない。何を考えているのか、返事もすぐには帰ってこない。焦れに焦れ、一時間は過ぎたんじゃないかと思う頃に、やっと答えは帰ってきた。

 

「…ま、いっか。うん、助けたげる」

 

 先程までの雰囲気はどこへやら。一転していつもの雰囲気に戻った彼女は立ち上がり、トレーを持って返却口へと歩いて行った。

 重圧からは解放されたものの、今度は疲労で動けないでいる俺は、ただただ項垂れるしかなかった。

 

「あと、これ」

 

 帰ってきてそうそうに彼女は一枚の付箋を机に貼った。

 

「私のLINEのIDだからさ。登録、しといてね?」

 

 それだけ言うと、彼女の足音は遠ざかっていった。

 

 …どっと汗が吹き出してくる。その汗は、間違いなく熱によるものではなかった。



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嚆矢濫觴

 

 

 ラップ音。

 原因の分からない音が発生する怪奇現象である。多く寒暖差による壁の膨張や収縮を正体とされるそれは、数々のホラー作品や怪談において場を盛り上げる名脇役と言える。

 …しかし、実際に体験してみれば印象は変わるものだ。例えただうるさいだけで物理的な損傷を受けないとしても、それは十分に恐怖の主役足り得る。

 

 そう、体験しているのだ。現代人ですら寝静まる夜遅く。丑三つ時に、最も安心できるはずの自室で。

 ドンドンドン。扉の向こうで乱暴に来訪を知らせる"誰か"は、俺の視界に映る存在ではなかった。

 

 

 

 

 

 憩いの時間となるはずだった昼食を終え、胡乱のままに授業をこなした俺は塾に休みの連絡を入れると早々に帰宅した。超自然的存在、異様な気配を纏う彼女、差し出された妖しげな白い手、考えるべき事が多すぎたからだ。

 洗濯物を取り囲み、見せかけ程度に掃除を行い、ふやけたカップ麺を胃に流し込む。歯をブラシで磨き上げたらトドメにシャワーをたっぷりと。やるべき事をやった俺は、迷うことなくベットに飛び込んだ。

 

「ふー…」

 

 予定や不足は考えを曇らせる。将来どころか明日すら左右しかねない程の問題ならそれだけに取り組みたい。マルチタスクなぞできた試しがなかった。

 だが万全の状態で挑めたとてそもそも俺は頭が良くない。全てを解決する自信はないので予め一つの問題…「今後の身の振り方」について考えるつもりだった。これならば具体的な解がない代わりにベターな選択肢が無限にあるからだ。

 

 まず欠かせないのは警察に駆け込むことだ。俺が相談しないよう思考を誘導されているのが真実ならば、つまりそれは相談すれば相手方にとって望ましくない展開になるということである。

 どういう理屈で超自然的存在が警察を嫌うのかは分からないが、数少ない対抗手段なのだから利用しない手はない。それにストーカーが人間であるという可能性もまだ捨てていない。どう転んでも有効に働く一手だと思う。 

 

 そして次。三枝さんをどこまで信用するかという問題だ。昼は怒涛の展開に考えが追いつかなかったが、彼女はあまりに詳しすぎる。幽霊の実在を知り、あまつさえ対処は容易であるという態度さえ見せた。創作などではその正体は霊媒師である!となるのだろう。しかしここは現実である。一連の事件はすべて彼女の手引であり、自分はマッチポンプにかかろうとしている、というのが自然か。

 

「…自然、か?」

 

 ストーカーが自分を狙う理由がわからない、というのと同じ問題が帰ってくる。自分は学生の独り暮らし、特にバイトなどは行っていないので仕送りは生活費に消える。つまり搾り取れるだけのリソースを持たない。ストーカーや大がかりな霊媒商法の対象に選ぶには魅力に欠ける、というわけだ。頭の悪い感想だが、現実的に考えると現実的にあり得ない。やはり彼女は俺を陥れようとしている訳ではないのだろう。

 では幽霊は実在し、三枝さんは純粋な善意で俺を助けようとしてくれているのだろうか。前者は半ば認めざるを得ない。しかし後者は疑問が残る。そう考えさせる原因は彼女が放った強烈な圧だった。あの蛙を睨む蛇のような呼吸すら忘れさせる気迫。善意で人を助けようとする人間が相手を威圧するような真似をするだろうか。根拠と呼ぶには確証に欠けるただの所感だが、言いがかりではないはずだ。

 しかし先ほど結論付けた通り、自覚している範囲で魅力的な返礼は不可能だ。聡明な彼女がそれを察していないはずもない。では自覚していない範囲では?幽霊を知る彼女に自覚できて俺に自覚できないなにか。それを返礼に引き出そうとしているのならどうだろうか。例えば…なんらかの特異体質?強大な魔力?エネルギー量の多い魂?

 

「わかんねぇ…」

 

 うつ伏せになって枕に顔を埋め、零れ落ちた声もまた埋めていく。

 わかるわけがない。というかこれが分かるなら幽霊関連もわかる気がする。そもそも仮定と推論が多すぎる。ここからどう指標を導きだせというのだろう。いや、導こうとしているのは自分なのだが。体をぐるぐると回転させながらうだうだと時間を浪費する。ふと時刻を確認すれば、午前一時を回るところだった。あほくさ、寝るか。

 

 起き上がり、電灯を切る。1R故にスイッチ類は玄関横に集中しており、それまでの道のりにけだるく熱された空気をかきまぜた。

 電気代を案じながらも扇風機をつけ、足にだけ風がかかるように調整する。顔にかかって呼吸器が乾燥しては事だ。頭寒足熱については努めて無視する。

 最後にベットに身を投げ出せば寝る準備は完了だ。頭蓋に詰まった低スぺPCをシャットダウンし、暗闇に身を任せる。十分もすれば眠れるだろう。

 

 …しかし予想に反して中々寝付けない。さっきまであれほど暑かったというのに肌寒い気すらする。ベットの隅に追いやっていたタオルケットを足で手繰り寄せ、羽織る。放射冷却だろうか?日が出ればまた熱くなることを予想して、扇風機はそのままにしておく。なんせ明日は土曜、午後までぐっすり眠るつもりだ。

 

 ふと、なにか聞こえた。例えるなら、硬質な物体同士がぶつかる音。発生源は外の廊下と思われる。隣人が帰ってきてふらついたのだろうか?時間を考えるに飲みにでも行っていたのかもしれない。

 先より冷えた空気が首を伝う。思わず身震いした時、ドンという更に大きな音が鳴った。発生源はまさかのうちの玄関扉である。こんな夜更けに来客だろうか。そんな気やすい関係を築いた友人はいないので、夜遊びの誘いということはない。

 今は○○時ですよ、そう文句をつける為にデジタル時計を見る。AM2:16。想定通りの時刻だ。しかしもう一つの文字列は、信じ難いものだった。

 

 "気温 29°"

 

 熱帯夜の基準、摂氏25度を四つ超える室温。新生活に合わせて買ったこの時計はまだ新品。乱暴に扱った記憶はないので壊れているとは考えにくい。ではこの寒風はいったいなんだ?

 粟立つ鳥肌を咎めるように再度金属音が鳴る。向こう側で扉を叩くそれは、果たしてニンゲンなのだろうか。

 

 できるだけ音を立てないようにそっと足を床に滑らせる。今はとてつもないピンチだが、逆に考えればまとないチャンスとも言えた。扉を叩く以上、外にいるナニカは内部に侵入する手段を持たない。ならばドアスコープを覗けば安全に姿を確認できるという訳だ。

 

(今まで一方的に観察しやがって…正体を暴いてやる…!)

 

 音も気配も努めて消し、覆いかぶさるようにしてドアにもたれかかる。指でそっと体重を支え、限界まで開いた片目をレンズにかざせば───

 

 

(誰も…いない?)

 

 広がるのは既知の光景。暗く、シルエットだけを見せる大きな山。鈍くくすんだ手摺。古い蛍光灯から放たれる不健康な黄色。隠れた物音もなかったというのに、その中に人影はなかった。

 

(じゃあ…じゃあ…!)

 

 立ったはずの鳥肌が更に粟立ち、体が恐怖に震えだす。吹き出す冷えきった汗が彼女の言葉を思い出させる。認めたはずだった。受け入れたはずだった。でも。ずっと気になっていた視線は。扉を叩いていたのは。そこにいるのは。やはり、やはり

 

 

ガン!

 

 一際強い衝撃が金属越しに顔を殴る。見られている。見えないのに。あちらは、確実にこちらを捉えている。

 

 音を殺すことも忘れ、弾ける様に駆け出した。ベットまで戻り、充電プラグを強引に剝ぎ取ってスマートフォンを、LINEを起動する。三枝の名前を見つけると、迷惑など考えもせず通話ボタンを押した。

 調子のいいコール音が酷く耳障りで、端末を握る手に力がこもる。

 

「かかれかかれかかれ…!」

 

 その間も扉を叩く音は止まない。むしろこちらの恐怖を煽るように強く叩き始める。

 

『中川君!無事!?現在地教えて!』

 

 こんな時間帯の電話だというのに、もしくはこんな時間帯の電話だからか。三枝さんは文句もなく、何も言わずとも察してくれた。その声は怜悧で鋭く、こちらに頼もしさを感じさせてくれる。

 

「い、いえで、そと、そとに」

 

 急に舌がもつれて上手く話せない。とにかく状況を伝えたくいのに、意思ばかり先行して行動が追い付かない。

 

『分かった!すぐ行くから絶対に部屋を出ないで!』

 

 それだけ言うと彼女は通話を切ってしまった。

 再び激しい金属音だけが空間を満たす。少しずつ音の間隔は狭まり、その大きさも増していた。音は幾度も鼓膜から脳を貫くように通り抜け、精神だけでなく肉体までも追い詰めていく。

 恐怖に凝り固まる思考の中で、根拠のない確信があった。あれは入れないから扉を叩いているのではない。きっと入ろうと思えばすぐにでも入れる。ただ俺を追い詰める為。それだけの為にあの場で扉を叩き続けているのだ。

 あれが満足すれば、この音が止んでしまえば。きっとその時、俺は死ぬ。不可視の怪物に抵抗も許されず殺される。簡単な事実がどこまでも脳に染み込み、恐怖という名のインクを広げていく。

 

 肺が暴れ、過呼吸を起こした頃。一切の音が止んだ。辺りに響くのは浅く歪な自分の呼吸音ばかりで、あれほど震えていた扉も何事もなかったかのように静止している。

 

「───聞こえなかった?」

 

 高く、夜闇に響き渡る澄んだ声。

 

「消えろって言ったのよ」

 

 彼女が、来た。

 

「…そう、それでいいのよ」

 

 壁越しでまるで見えないが、確かに声が聞こえる。彼女が、三枝深雪が助けに来てくれたのだ。争う様な音は聞こえない。言葉から察するに、上手くあれを追い払ってくれたのだろうか。

 

「こんばんは。中川くん、助けに来たよ」

 

 今度は声が扉の前から聞こえた。あれがまだいるならそこから声がするのはありえない。そして異様な寒風も消えた。つまり本当に追い払ってくれたのだ。

 

「中川くん?おーい」

 

 なのに。だというのに。

 

「私だよー。三枝深雪ー」

 

 声が出ない。

 

「…え、もしかして意識ない!?」

 

 不味い。勘違いされている。せっかく助けてもらったのにお礼も言えずこのままなどありえない。ありえないが、声が出ない。先程までの過呼吸は何処へやら、今度は呼吸がままならなかった。

 原因は覚えのある強烈な圧だった。食堂で体験したあの気迫。しかも前回の比ではない。更に力を増したくびきがこの身を苛み、無慈悲に気力を奪っていく。筋肉が無理な緊張を続けている為か、強く痛む。だが、それは言い訳だ。

 震える体に鞭を打ってどうにか右足を地面に突き立てる。そのまま両手で支え、つんのめる様にして扉へ張り付いた。最後の力を振り絞って鍵を開け、体重をかける。

 

「ちょっと!大丈夫!?」

 

 ふわりと華やかな香りと共に、柔らかな何かに受け止められた。恐らく三枝さんに抱きとめられている。申し訳ない、申し訳ない、申し訳ない。早く離れないといけない。だが体は更に固まっていく。圧の大元に接しているのだから当たり前か。

 

「あっやべ。ごめん、しまうね」

 

 罰が悪そうな謝罪の後に、体を押し固めていた圧が消えていく。そして同時に、視界の端に舞う白が黒へと変わっていく。

 

「…び…ぇ…」

 

 すみません。そのつもりで送り出した声が、意味をなさない音となって消えた。恩を受けておきながら礼すら返せぬ、なんと情けないことか。

 抱きかかえられ、そっとベットに寝かされる。彼女はそのまま横たわる俺の横へ座った。

 

「ん、よしよし。私が来るまでよく耐えたね。偉いぞ〜」

 

 そして俺の頭を撫で始めた。恐慌状態にあるこの身を案じて慰めてくれているのだろう。スキンシップがリラックス効果を産むというのは有名な話だ。もうそんな年齢ではないと思っていたが、精神がゆっくりと安らいでいく。命の危機から一転した落差がそうさせるのか、尋常ではない多幸感が脳髄を満たした。心が解れ、身体が解れ、暖かな気持ちが血液に乗って全身を巡っていく。

 ふわふわとした熱に浮かされる中で、おやすみ、という声が聞こえた気がした。

 

 

 



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