喫茶店『マンハッタン・カフェ』 (fell@かぶとがに)
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アナタと一緒に、あの頃の夢の続きを

今日も雨が降っている。
私の心を窓ガラスに映すように。
けれど今日は少し、何かが違う気がした。


「雨、止まないね」

 

洗った珈琲カップを拭きながら、窓に張り付いて外を眺めるお友だちに話しかけます。

お友だちはこちらへ振り向くと、こくんと頭を一度縦に振り、再び窓の外へと視線を戻しました。

 

ここは喫茶店『マンハッタン・カフェ』。

引退後、溜まっていた賞金でひっそりと始めた私のお店です。

 

郊外の、駅から徒歩十五分ほどの小さな商店街。

その中でも端の方の細道を少し入ったところにある、簡単な軽食と、世界中の様々な珈琲をお出ししている純喫茶。

 

店員は私一人。

時々、お友だちに手伝ってもらうこともありますが。

お客さんの大半は地元の方々で、ジャズやブルースを日替わりで流す中、ゆったりと過ごしていただいています。

 

稀にレース現役のウマ娘たちが来ることもありますが、殆どの子は悩みを抱えていて、迷い込むようにここへ訪れます。

そんな子たちはカウンター席に案内し、甘い飲み物をサービスしながら話を聞いてあげています。

相談に乗ってあげた子が大きなレースで結果を出している様子をみたりすると、小さな喜びが生まれるんです。

 

そんな、一人で過ごす日々。

かれこれ何年でしょうか。

すっかり当たり前になってしまいました。

 

「珈琲、飲む?」

 

お友だちは窓の外を見たまま、頭を小さく横に振りました。

 

窓の外側を、雨水が垂れて落ちていきます。

今はお客さんはいません。

雨の日はあまり来ないので、そろそろお店を閉めてお休みにしてしまってもいいでしょうか。

 

そんなことを考えていたとき。

からんころんと音が鳴り、入り口が開きました。

 

「いらっしゃいま――」

「や、久しぶり」

 

傘の雨水を落としながら声をかけてきたのは、現役時代の、私のトレーナーさんでした。

 

「戻ってらっしゃったんですか。連絡をくれてもよかったのに……」

「驚かせたくてね。サプライズだよ」

 

そう言ってトレーナーさんは悪戯っぽく笑いました。

 

私の卒業後、トレーナーさんは欧州へ研修に旅立ちました。

私をG1ウマ娘へ導いた能力を見初められ、理事長たっての願いで数年間の修行へと赴いたのです。

 

それ以来、帰国は今回が初めてです。

数年ぶりの再会でした。

 

「お店の調子はどうだい」

「のんびりやらせていただいてます。地元の方からも親切にしていただいて」

 

トレーナーさんは私の正面のカウンター席に腰掛けました。

 

「そりゃよかった。ブレンドをもらえるかな」

「はい、お任せを……」

 

手紙でのやり取りはたまにありましたが。

電話もめったにしないので、声を聞くのは本当に久しぶりです。

 

「どうぞ、このお店は喫煙可なので」

「悪いね、わざわざ」

 

灰皿をお出しすると、トレーナーさんはジャケットの内ポケットから煙草を取り出しました。

その仕草はトレセン時代から変わっていません。

 

サイフォンの水が沸騰するのを待つ間に。

私もポケットから煙草を取り出し、マッチで火をつけました。

 

「カフェ、吸うようになったのか」

「ええ……誰かさんのおかげで」

 

軽く息を吸い、天井に向けてふぅ、と吐きます。

薄い煙が環を作り、立ち昇ってすぐにかき消えました。

 

「あれ、ライターどこにやったかな……カフェ、そのマッチ一本もらってもいい?」

「いえ……こちらで……」

 

私は煙草を咥え、カウンターから少し身を乗り出します。

意図に気付いたトレーナーさんは小さく笑い、同じように煙草を咥えて顔を突き出しました。

 

煙草の先端が触れ合います。

互いの顔が目の前に近付いて。

煙草を咥えていなければ、そのまま唇を重ねられそうな距離で。

 

私が息を吸うと、先端が赤く灯って。

それに合わせてトレーナーさんが息を吸うと、仄かな火がふわりとトレーナーさんの煙草にも灯りました。

 

互いに顔を離し、息を吐きます。

煙が薄く、私たちの周りに広がりました。

 

「カフェとシガーキス、なんてね……トレセン時代は考えもしなかった」

「思春期の少女は想い人に染まりやすいものですよ」

「……まさか、当時隠れて吸ってなかっただろうな?」

「さぁ……ご想像にお任せします」

 

窓に張り付いていたお友だちはいつの間にかトレーナーさんの隣りに座っていて。

私のはぐらかすような言葉を聞いて、クスクスと笑いました。

 

「お友だちの反応を見ると怪しいな……ま、今となっては過去の話だけど……」

「吸ってたとしても時効ですよ。勿論、アスリートとして自己管理は徹底していましたけど、ね」

 

サイフォンの水が沸騰し、ロートの珈琲粉まで駆け上って。

煙草を咥えながら混ぜると、立ち昇る煙と珈琲の香りが混ざり、一昔前は純喫茶でありふれていたであろう、なんとも言えない大人の香りが漂います。

 

そのあと私は煙草の火を消し、入り口のドアへ向かいました。

ドアを開け、外の看板をひっくり返し、OPENからCLOSEに変えます。

 

「今日はもう店じまいかい」

「雨の日はお客さん、あまり来ませんから。それに……」

 

私はお友だちとは反対側の、トレーナーさんの右隣に腰掛けます。

 

「今日はゆっくり、過ごしたいんです」

 

落ちきった珈琲を出しておいたカップに注ぎ、トレーナーさんの前にお出しします。

珈琲を口に運び、こくりと一口。

 

「ああ……懐かしい。あの頃毎日飲んでた、カフェの珈琲だ……」

「そのブレンド、アナタにしかお出ししてないんですよ。数年ぶりに淹れました……」

 

静かにトレーナーさんの肩に身体を預けると、トレーナーさんも煙草の火を消し、私の頭を優しく抱いて呟きました。

 

「まだ俺のことを想ってくれてるのか」

「卒業のとき、言ったはずですよ……私はきっと、ずっと慕い続けていると」

 

欧州行きが決まり、数年は帰ってこれないと告げられて。

私の想いを知っていたトレーナーさんは、私に新しい恋を見つけるように言いました。

けれど、私はそれを聞き入れず。

 

『欧州から帰ってきたとき、まだカフェの想いが変わっていなければ、そのときは』

 

空港での別れ際、ずっと悩み続けていたトレーナーさんはその言葉を絞り出して、飛び立っていきました。

 

「アナタこそ、どうなんですか……? あの約束は、まだ……」

 

少し不安になった私が、身体を起こして顔を隣へ向けると。

静かに、唇を奪われました。

 

「んっ……」

 

一瞬驚きましたが、私はすぐに受け入れて。

目を瞑って、トレーナーさんを味わいました。

 

そして名残惜しくも、唇は離れて。

 

「先月ようやく向こうの先生からお墨付きをいただけて、今日帰ってこれてね」

 

珈琲を飲む姿も、煙草を咥える姿も当時のまま。

私の中の少女がその姿にときめくのを感じます。

 

「この一月くらいはずっとカフェと一緒になることばかり考えてたよ。心変わりしてないか怖かったのはこっちの方さ」

「……なら連絡の一つくらいくれてもいいじゃないですか」

「サプライズの方が感動的じゃないかい?」

 

そう口にした直後、トレーナーさんの頭をお友だちが思いっきりはたきました。

 

「いってぇ……なんか久しぶりだな、この感じ……」

「トレセン時代はアナタがクソボケを発揮するたび、ひっぱたかれてましたからね」

 

くすりと笑うと、お友だちも釣られるようにクスクスと笑いました。

今このときだけは、まるでトレセン時代に戻ったかのようで……。

 

そんなことを考えていると。

当時の恋心が……トレーナーさんへの熱が再燃するかのように、にわかに湧き上がってきました。

 

「トレーナーさん、住むところは決まってるんですか?」

「まだ決めてなくてね。決まるまではトレーナー寮に入ってもいいとは言われてるんだけど、外で暮らしたいかな」

「なら……郊外の喫茶店で、なんてどうでしょうか」

 

そう言って私は、トレーナーさんの手を握ります。

その指に私の指を艶めかしく絡めると、トレーナーさんも握り返してきました。

 

「いいね。俺も好きなんだ、純喫茶の雰囲気や空気がさ」

「でしたら……今日はもう、帰らなくても大丈夫ですね」

 

いつの間にか、カウンターにお友だちの姿はありません。

入り口の方から、ひとりでに鍵が閉まる音が聞こえました。

 

「お疲れでしょうから寝室の場所、ご案内します……こちらですよ」

 

立ち上がり、私が軽く手を引くと。

 

「……確かに、疲れてるな」

「ふふ……しっかり休んでくださいね」

 

休めるならば、ですけど。

小さな声で付け加えると、トレーナーさんは少し困ったように苦笑しながらも。

繋いだ私たちの手は、互いに熱を帯びていて。

 

そこから先の私たちの声は、雨音にかき消されました。




ベッタベタなカフェもいいけどしっとりオトナなカフェも良いと思う学会の者です。
こちらが論文となります、ご査収下さい。


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行きつけのお店で、アナタを待つ

いつものお店、いつもの空気。
紫煙を燻らせながら、いつもとは違う一杯を。
そうしている内に、きっとアナタは来るから。


駅前の、行きつけの喫茶店。

今日もいつものブレンドを頼みましょうか。

……いえ、たまにはアイスコーヒーを。

確かここは、水出しコーヒーも美味しいと評判だったはず。

 

カウンターに座り、水出しコーヒーとアップルパイを頼みます。

ここのアップルパイは、僅かに香るシナモンがお気に入り。

香りが強すぎるとちょっとくどいのですが、このお店は穏やかでちょうどいい。

 

路地を入った雑居ビルの二階。

老齢の寡黙なマスターとの対面は、週に数度の憩いの時間。

 

オーダーのやり取り以外には一度も話したことはありませんが。

時折お店の近くですれ違うと、目線で挨拶をする程度には顔見知り。

そんな距離感が、このお店の居心地の良さに繋がっているのかもしれません。

 

私も喫茶店をやっていますが、人のお店で飲むコーヒーもまた、乙なものです。

 

コーヒー豆の種類は有限。

淹れ方も決して種類は多くありません。

 

けれど、何故でしょうか。

店によって、淹れる人によって、コーヒーは如何様にも表情を変える。

まるで淹れる人のこれまでの生涯を映した鏡のよう。

 

窓から外を眺めると、ビルの下を忙しなく歩く営業マン達。

その姿を見ていると、こんなところで呑気にコーヒーを待っている自分が少し後ろめたくも覚えて。

しかし同時に、平日の昼間から気ままに過ごせる我が身に、ちょっとした優越感も覚えていて。

 

不定休を名乗る私のお店は巷で最近、ちょっとした都市伝説となっているようです。

地元の方々にはマイペースにご贔屓いただいているのですが。

 

ことり、とカウンターに物音。

窓から視線を戻すと、置かれていたのはアップルパイと灰皿、マッチ。

マスターはコーヒーを氷の入ったグラスに注いでいるところでした。

 

懐から煙草を取り出し、頂いたマッチで火をつけます。

他にお客さんはいません。

一呼吸してから息を吐くと、想い人に感化された煙が漂い、数年前の少女の頃に戻った心持ちになりました。

 

「今日はお一人でお待ちですか」

 

マスターが口を開きました。

私的な会話は初めてだったので、少し驚きましたが。

 

けれど嫌な気持ちはなく、自然な距離感で。

私もまるで、いつも駅前で顔を合わせる度に世間話をしていたような気になっていました。

 

「いつも……二人で待っているように見えますか……?」

「現役時代から、よくお二人でいらっしゃいましたから」

 

またまた、私は驚きました。

現役時代の私を知っている、というのはままありますが……それだけでなく、私と一緒にいる……。

 

「今日も二人、ですよ」

「でしたら、よろしければどうぞ。用意しているときに崩れてしまいまして」

 

そう呟くと、マスターが小さくカットされたアップルパイを私の隣に置きました。

通常の三角ピースが崩れてしまったらしく、スクエア状に小さく整えられています。

 

「ありがとうございます……良かったね」

 

マスターにお礼を告げてから隣に声をかけます。

隣の席に、嬉しそうにマスターへ笑顔を向けるお友だちの姿が現れました。

 

「以前からお気付きだったんですね……」

「商売柄、などというほど大層な仕事ではありませんが。時々いらっしゃるんですよ、不思議な方々が」

 

あなたの待ち人もその一人ですよ、とマスターは笑いました。

 

水出しコーヒーのストローに口をつけます。

一口吸うと、すっきりと穏やかな味わいが口いっぱいに広がって。

水でゆっくりゆっくりと淹れる水出しは、優しい滋味に溢れていました。

 

隣で美味しそうにアップルパイを頬張るお友だちに釣られて、私もフォークを口に運びます。

 

「……相変わらず美味しいです、アップルパイ」

「亡くなった妻が遺してくれたレシピでして」

 

再び、煙草をゆっくりと吸います。

煙が胸の中を巡り、外へとふんわりと流れていく。

 

間違いなく身体には悪いのでしょうけれど。

あの人と同じ営みを繰り返していると思うと、心が落ち着くんです。

良くない悪癖だとは、我ながら思ってはいるのですが。

 

そんなことを考えていたとき。

カランカランと、喫茶店のドアが開きました。

 

「ごめん、カフェ。遅くなった」

「大丈夫です、私もさっき来たところですから」

 

入ってきたのは、私の最愛の伴侶。

数年間の別離を経て想いを遂げた、愛しい元トレーナーさんです。

 

にこやかな表情で見上げたお友だちの頭をぽんぽんと撫でると。

お友だちとは反対側の、私の隣に腰掛けました。

 

「珍しいね、アイスコーヒーなんだ」

「ここの水出し、美味しいですよ」

「それじゃあ俺も彼女と同じで。アップルパイも」

「かしこまりました」

「……と、その前に……お願いね」

 

お友だちにちらりと目線を遣ります。

頷いたお友だちは立ち上がると、元トレーナーさんの頭上を手刀で軽く薙ぎ払いました。

肩から上に纏わりついていた薄い影が、私の煙草の煙と共に霧散していきます。

 

「……また憑いてた?」

「ええ、それなりの数が……確かに、アナタも不思議な人の一人ですね……」

「何の話だい?」

 

クスクスと笑う私とお友だち。

納得したように小さく頷くマスター。

一人だけ話を分かっていない元トレーナーさんは、何度も首を傾げていました。

 

灰皿を元トレーナーさんへと差し出します。

目でお礼を言って彼が煙草を咥えたところで、私は彼の手元のライターを静止しました。

 

「折角頂いたので……たまには、どうぞ」

 

手元のマッチを擦り、火をつけて。

消えないように手の平で守りながら、彼が咥えた煙草の先端へと火をあてがいます。

薄暗い店内で私たちだけがにわかに照らされ、ぽうっと二人の顔が浮かび上がりました。

 

マッチの火を消して、互いに見つめ合ったまま息を吸って。

火薬の仄かな香りは香ばしい吸い心地で。

私はやはり、マッチが好きです。

 

緩やかに、静かに煙を吐くと。

まるで私たちの絡み合った人生のように、煙も混ざり合っていきました。

 

「どうぞ、水出しコーヒーとアップルパイです」

「ありがとうございます。ここのアップルパイ、好きなんだよなあ」

 

この人は時々、本当に子供っぽい。

好物を前にした少年のように、嬉しそうにフォークを手に取りました。

 

そんな夫を愛おしく思いながら眺めていると。

こっそりとマスターが耳打ちしてきました。

 

「よろしければ今度、アップルパイのレシピをお教えしますよ」

「いいんですか……?」

「大切なレシピですから、どなたかにはお教えしようと思っておりまして」

 

マスターはそう言って、私たち二人を優しげな目で見遣って。

 

「お気に召すようであれば彼に作ってあげてください、末永く。嬉しいものですよ、最愛の人に好物を作ってもらうのは」

「……ぁ……ぅ……はい……」

 

つい、学生の頃のように顔を赤らめてしまいました。

私ももうすっかり大人になったものと思っていたのですが。

 

まだ心の何処かに、愛しい人との夢を見る乙女の気持ちが残っていたようで。

隣に座るお友だちも、どこか懐かしそうに、口を押さえて笑いを堪えているようでした。

 

そんな状況が恥ずかしく、煙草の火を消して俯いていると。

 

「ん、どうしたんだ、顔真っ赤にして」

「……なんでも……ないです……」

 

久しぶりに恋する乙女に戻ってしまった私は、それ以上のことは言えませんでした。

 

横目で愛しい人の横顔を覗き見ます。

あの日恋した、アナタの横顔。

 

するとなんとも言えず胸の奥が暖かくなってきて。

改めてこの人と生涯を共にしたいと、ただただ思いました。

 

ふとアップルパイを頬張っていた彼の口元を見ると、たくさんのパイくずを付けています。

本当に子供のようです。

 

「ああもう……口の周り、汚いですよ……」

「えっ、悪い。俺、食べるの下手くそだな……」

「ふふ……動かないでくださいね」

 

カウンターに置かれていたおしぼりをお友だちに取ってもらって。

最愛の夫の口元を拭ってあげます。

 

そんな私たちのやり取りを眺めながら。

マスターは昔を懐かしむように、満足そうに微笑んでいました。




しっとりオトナなカフェも良いけど、時々はふと乙女に戻って欲しいと思う学会の者です。
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マンハッタンカフェの純情

あの頃の私はまだ、今ほどアナタを知らなくて。
あの頃のアナタはまだ、今ほど私を知らなくて。
それでも私は、アナタは、どうしてか気持ちを逸らすことができなかった。


「どうしたんだ、ボーッとこっちを見たりして」

「あ……いえ、別になんでも……」

 

放課後いつものように、トレーニング後に空き教室でトレーナーさんに珈琲を振る舞っていました。

 

カップを温め、サイフォンで淹れて、渾身の一杯をトレーナーさんにお出しする。

それが日々のルーティーンです。

 

それは決して、ただトレーナーさんを労っているだけではなく。

 

「このところ、時々上の空みたいに見えるよ。何かあった?」

「ん……あったといえばありましたし……けれど別に大層なことでは……」

「困り事ならすぐ言ってくれよ、いくらでも助けになるから」

 

アナタはすぐにそういうことを言う。

だから私は困っているんです。

 

自分の分の珈琲を口に運びます。

けれどアナタの隣だと、味なんて全然分からない。

折角淹れた渾身のブラックも、アナタの横ではすっかり甘くなってしまって。

 

会話が途切れ、再び私はこっそりとトレーナーさんを見ます。

美味しそうにカップを口に運ぶ姿を見ていると、それだけで心が満たされていきます。

 

カップを置いて笑顔で息を吐くアナタは、世界のどんな絵画よりも美しくて。

その姿が見たいばかりに、私は毎日珈琲を振る舞っていて。

 

不埒でしょうか。

イケナイでしょうか。

でも私は、これ以上は望みません。

 

私は不浄の身。

人ならざる者に取り憑かれている身。

私がずっとお傍にいては、トレーナーさんにもご迷惑をかけてしまいます。

 

だから……私はいいんです。

指導していただくこの数年間、隣に座って、こうして珈琲を淹れてあげられれば……。

その後はこの想い出を抱いて、どこかで静かに過ごしていられれば……。

 

「カフェ、寂しそうな顔してるよ」

「え……?」

 

トレーナーさんが私の長い前髪を掻き分けながら言いました。

そんなつもりはなかったのですが……私も大概、未練がましい女のようです。

 

「やっぱり。また何か考え込んでるだろう」

「……それは、私も思春期ですから色々と思うこともあります」

 

私は想いに気付いたとき、心に決めました。

この切ない想いは隠したまま、いずれアナタの元を去ろうと。

 

「そっか、ごめんな。変に踏み込もうとして」

「いえ……お気遣いいただけるのは、嬉しいです」

 

また、会話が途切れます。

少し気まずい空気に困り果てて、窓の外へ目を遣ると。

 

「あ……雪……」

 

白い結晶たちが、ふわりふわりと舞い降りていました。

もう今は年の瀬の十二月も後半に入り、恋人たちが心を躍らせる時期です。

 

クリスマス。

私にはあまり縁のないイベントですが。

 

ですがどうしても気になってしまって。

つい、口に出して聞いてしまいました。

 

「トレーナーさんは……クリスマスはどう過ごされるんですか……?」

 

聞いてから、しまったと思いました。

どうせ自分から何か言い出すつもりもないのに、聞くだけ聞いてどうするつもりなんでしょうか、私は。

 

これでトレーナーさんが言葉を濁したり、いい人との予定を楽しそうに話したりしたら……。

 

「クリスマスなあ……スーパーのチキンの売れ残りでも買って、一人で晩酌でもするかな」

「……よかった……」

「え? 酷くないか?」

「あっ、いえっ、その……」

 

安堵が口から出てしまって。

それを聞いたトレーナーさんは、少し悲しそうな顔をしています。

ごめんなさい、そんな意図はなかったんです。

 

慌てふためいて私は、取り繕うようにとんでもないことを呟いてしまいました。

 

「その……でしたらクリスマスの夜、私が何かお作りしましょうか……?」

「えっ、うちで?」

「……あっ……!」

 

クリスマス当日、トレセンではパーティが開かれます。

そのためキッチンなどを借りることはできません。

そうなるとご馳走するなら必然的に、トレーナーさんの部屋に……。

 

言ってからその状況に思い当たり、私は真っ赤な顔を伏せました。

 

「いえ、ご迷惑ですよね……忘れてくださ――」

 

私はいつものように、想いを内に閉じ込めて話を終わらせようとしたのですが。

トレーナーさんは目を輝かせて、私の手を取りました。

 

「迷惑なんかじゃないよ。カフェさえ良かったら、お願いしてもいいかな」

「あの……いいんですか……? 私なんかとクリスマスを過ごして……」

 

トレーナーさんの予想外の食いつき具合に、私は戸惑いました。

トレーナーさん自身も自分の行動が恥ずかしくなったのか、表情を少し赤くして手を放しました。

 

「わ、悪い、がっつくみたいに……これだからモテない独身男性は……」

 

トレーナーさんは必死に釈明していましたが、私の胸中はそれどころではありませんでした。

 

想い人に喜ばれ、手を取られ。

頬は火傷しそうなほどに赤熱し、生まれてこれまで経験したことのないような激しい動悸に、胸を押さえることしかできませんでした。

 

「そしたら……カフェ、クリスマスの夜……いいかな……?」

「……は、はい……」

 

恐る恐る訊ねるトレーナーさん。

恐る恐る答える私。

 

「……好物とか、ありますか……?」

「ムール貝とかタコとか、魚介は好きだな……」

「ふふ……ターキーとかではないんですね」

「それはそれで食べたいな。あと、ブッシュ・ド・ノエルとか……」

「ならお休みを申請して……朝から一生懸命準備しないと、ですね」

 

そんなことを話しているうちに、お互いに少しずつ照れや緊張も解れてきて。

二人で顔を見合わせて、小さく笑いました。

 

「あー、でも俺の部屋、煙草臭いかも。女の子は苦手だよな」

「いえ、私は気にしませんよ。喫茶店で漂っている煙の香りも嫌いではありませんから」

「そう?」

「トレーナーさんが吸ってるところ、どうせなら見てみたいです」

 

クスリと笑うと、トレーナーさんは少し困ったように。

学生、しかもアスリートの前で煙草はなあ……と頭を掻きました。

想い人の姿は、どんなものであっても見つめていたいんです。

 

「外泊許可を出しておかないと……」

「泊まってくつもりなのか?」

「……あっ……!?」

 

自然と、泊まるつもりになってしまっていました。

でも、仕方ないじゃないですか……。

 

聖夜に想い人の家へ招待されて、沢山の手料理を作ってご馳走して、食後は珈琲を淹れてゆっくりと団欒を……。

そんなの……そんなの、そのまま一緒に夜を過ごすと、思ってしまうじゃないですか……。

 

「えっと、その、ですね」

「でも確かに準備も大変だろうし、そのまま夕食食べたらハイさようなら、ってのも悪いな……綺麗な布団用意しておくから泊まっていくかい?」

「え? あ、はい……」

 

何故かすんなりと受け入れられてしまいました。

ただ口ぶりからすると、気になる異性に向けるような言葉ではなさそうで……。

 

安心すればいいのか、残念がればいいのか。

なんとも形容しがたい思いです。

 

ですが、それはそれで。

元より想いの成就を願っているわけでもないですから。

こんな幸せな偶然が訪れただけでも、私は感謝しなければいけませんでした。

 

「……うん、自制しろよ俺。変なことするなよ……」

「え、変なことって……?」

「い、いや何でもない! 安心してくれカフェ!」

 

慌てて取り繕うトレーナーさんを見て、私は少しだけ、期待を抱いてしまいました。

……もしかしたら……私の想いも、もう少しだけ夢を見てもいいのかもしれない、と。

 

そのとき、見えない隣人からトンと肩を押されました。

油断していた私は押されるままに、トレーナーさんに寄りかかってしまって。

 

慌てて姿勢を戻そうとしたのですが、トレーナーさんは何も言わず、静かに肩を抱いてくれました。

 

その労りが、ただの優しさなのか、私への想いなのかは分かりません。

けれども私の心はそれだけで静かに穏やかに、幸せで満たされていって。

 

「……楽しみです、トレーナーさん」

「うん、今年は暖かいクリスマスになりそうだ」

 

飲みかけの珈琲は冷めていましたが、一口飲むと。

砂糖もミルクも入れていないのに、温かく甘い味がしました。




学生時代の前日譚。
しっとりオトナなカフェも、学生時代は純情な乙女だといいなと思う学会の者です。
こちらが論文となります、ご査収下さい。


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朝は目覚めの一杯を、アナタと

この身を少し火照らせる、朝から軽いアルコール。
渡されたライターに詰まった、重い香りの火つけオイル。
歳を重ねた私なら、きっとアナタの想いも受け止められるから。


窓から差し込む光を眩しく思いながら目を覚ましました。

毛布から出ると、やけに寒い。それが最初の感想。

 

「……そのまま寝ちゃったんだった」

 

全身の気だるさに気づくと、夜の熱が思い出されて。

改めて自分の姿を見てみると、それは寒いわけです。

 

ベッドの中には疲れた表情で毛布に包まり、寝息を立てている夫の姿がありました。

 

「ハードなトレーナー業で疲れてるのに、昨夜は無理をさせちゃいましたね……」

 

頬を撫でると寝言で名前を呼ばれながら手を握られ、少し引っ張られました。

全く、甘えん坊な旦那様。

 

そんな元トレーナーさんが愛おしくなって、ちょっと頬が緩んで。

けれどもここでまたベッドに潜り込んでしまってはお昼まで起きれないかもしれません。

心を鬼にして、優しくその手を解きます。

 

落ちていた夫のワイシャツを借りつつ最低限の衣類を着て。

二階の居住区から一階の喫茶店フロアへと階段を降りると、足元がみしりと軋んで。

木製の階段が鳴らす音は、この建物の年季を思わせます。

 

お店を始めるときに決めていました。

営むのは、その土地と人々と共に生きて、見守り続けてきた場所にしようと。

 

私の名声をご存知の不動産店からは好立地の新しい物件を強く勧められましたが。

静かに思いをお伝えすると、秘密の場所だったここをこっそりと教えてくれました。

 

朝の目覚めは、穏やかな一杯から。

お店に降りると、お友だちがカウンターに突っ伏してうたた寝をしていました。

 

「おはよう。何か飲む?」

 

軽く揺すって声をかけると、お友だちは片目だけ開けてこちらを見て。

そして眠そうに首を左右に振ると、再び目を瞑って微睡んでいきました。

 

夫もお友だちも、どちらかというと朝に弱い二人。

朝、一人でのんびりと一杯を嗜むのも日常の光景です。

 

サイフォンに水を入れ、アルコールランプに火をつけます。

沸騰するのを待つ間に、お店の換気をしようと窓を開けました。

 

窓際の低木の葉に朝露が煌めきます。

少し湿った冷たい空気が朝の訪れを告げるとともに、未だ少しぼやけていた私の意識を刺し覚醒させていって。

 

ふと店内の柱時計に目を向けると。

時刻は七時を回るか回らないか、といったところでした。

 

「少し寝坊しちゃった……飲んだらシャワーを浴びて、早くお店の準備をしないと……」

 

けれども、自分の時間も忘れずに。

開けた窓の枠上にカウンターから持ってきた灰皿を置き、煙草を咥えて火をつけます。

朝はマッチではなく、普通のガスライターで。

 

切れかけのライターはかちり、かちりと火を出し渋りましたが。

手のひらで風を遮り祈るように横車を回し押すと、小さな小さな灯火が点きました。

 

その僅かな火を受けて、煙草の先端が微かに赤くなります。

その小さな火を育てるように、大きく一息。

 

窓から少し身を乗り出して無味の煙を朝の空気とともに吸い込むと。

土が混ざった水や葉の香り、近隣の古い建物から漂うモルタルや錆の匂いなど、この住宅街の一角が私の胸の中へと入り込んできます。

 

私は、この穏やかで少し古い住宅街が好きです。

華やかさは時に煩さも感じますが、ここは喧騒とは隔絶されていて。

しかしところどころから伝わる人々の息遣いが、寂しさは感じさせなくて。

 

それらと、この朝の一服を通して一体になるのが私の毎日のルーティーン。

そうすることで夜を終えて、今日も私は私でいられる。

 

そんなことを考えていると、背後からみしり、みしりと階段を降りる音が聞こえました。

降りてきたのは部屋着を身に着けた夫。

 

「ふあ……おはよう、カフェ」

「おはようございます。今日は起きるの、お早いんですね……お休みなんだから寝てていいのに……」

「カフェが起きる気配がして目が覚めちゃってね。二度寝しようかとも思ったんだけど……」

「……さっき、起きてたんですか?」

「手を解かれちゃって少し寂しかった」

 

小さく笑って、夫はカウンターのサイフォンに目をやります。

釣られて見てみると、そろそろ沸騰しそうな様子でした。

 

「今淹れますね」

「ああ、まだ吸い終わってないんだろう? のんびりしてなよ」

 

そう言って夫はサイフォンのロートに、カウンター裏に置かれた缶から珈琲粉を入れました。

自分たち用に常備している深煎りのオリジナルブレンドです。

 

流石に何年も生業にしている私ほどではありませんが。

現役時代から私と珈琲を嗜んでいた彼が淹れる珈琲の味もなかなかのものです。

 

気遣いを嬉しく思いながら再び窓の外に目をやり、煙草と町の空気を吸いました。

徐々に陽も登り始め、窓を開けた頃に比べて少し眩しくて。

 

今日は快晴。私は少し苦手な天気。

けれど、嫌いではありません。

 

喫茶店が薄暗く落ち着ける空間なのは、外が照らされ輝いているからこそ。

漆黒の摩天楼が影たり得たのは、照らしてくれる光があったからこそ。

 

その光は今、眠そうな顔で、登ってきたお湯と珈琲粉をのんびりと混ぜていました。

 

「もう一杯分沸かそうか」

「いえ……それで足りるから大丈夫ですよ」

「俺も飲むけど、二人分には少なくないか?」

「まあまあ……」

 

短くなった煙草の火を消して。

カウンターへ戻りフラスコに珈琲が下がり切るのを待って、二杯のカップに珈琲を分けます。

 

冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、ブランデーとラム酒と砂糖も少し加えて。

 

「どうぞ、コーディアルです」

「朝からアルコールかい?」

「ほんの少しですよ……たまにはこんな休日もいいでしょう?」

 

窓の傍の席にカップを運び、灰皿をテーブルに移してからトントンと指で卓上を叩きます。

少し悪戯っぽく笑うと、夫も苦笑いしつつ向かい側の席につき、カップを口に運びました。

 

「はあ、甘いな……疲れが少し落ちた気がするよ」

「もっと欲しければおかわり、ご用意しますけど……」

「いや、のんびり飲むよ。開店時間は大丈夫?」

「昼からの営業にします……常連さんには申し訳ありませんが、モーニングはお休みです」

「なら安心だね」

 

私も一口、こくんと飲みます。

爽やかなオレンジの甘みの中に、ほろ苦いブランデーとラムの香り。

煙草の先のように、頬が微かに赤く灯るのを感じます。

 

夫が再びカップを口に運んだとき。

部屋着の袖がめくれ、腕が露わになりました。

 

そこには赤黒くくっきりと残る、複数の噛み跡。私が自分を律しきれず、本能のままに荒れた結果が刻まれていて。

 

痛々しいそれを見て、私はバツが悪くなりました。

 

「……昨夜はすみませんでした。腕、まだ痛みますか……?」

「少しだけね。ここのところ忙しくてなかなか帰れてなかったし、寂しかったんだろう?」

「一人で何年も過ごしていたときに比べれば、その程度は……」

 

カップを両手で包んで耳を伏せる私の頭を、夫は昔のようにぽんぽんと撫でてくれました。

 

「俺は素直なカフェが好きだよ」

「……正直、大切にされている担当の子に少し嫉妬してしまいました」

「よく言えました。荒っぽいカフェも嫌いじゃないよ。今日は店も手伝うから、一緒にゆっくりしようか」

「ええ……」

 

私ももういい大人なのに、この人の前ではどうしても幼くなってしまうときがあります。

きっと十年経っても何年経っても、子ども扱いされてしまう気がして、少し悔しくて。

 

伏し目がちに二本目の煙草に火をつけようとしているのは、僅かばかりの反抗心かもしれませんでした。

 

ですが、今度はいつものマッチでつけようとしたとき。

 

「ああ、ちょっと待ってくれ」

「なんでしょうか……?」

 

擦ろうとした手を止め、マッチをテーブルに置くと。

 

「これ、貰ってくれるかい」

 

彼のポケットから目の前に差し出されたのは、錆びた古いオイルライターでした。

蓋や外装のない、クラシカルな見た目のワンタッチ式。

発火部に少し迫り出すように刻印されているのは、鈍く黒光りする摩天楼。

 

「これは……」

「親父の形見で愛用してたんだ。昔、マンハッタンで買ったんだと。最近はあまり使ってなかったんだけど」

 

持ってみると、不思議と手のひらに馴染みました。

大きさのせいなのか、刻印されているシルエットのせいなのか……。

 

「でも、そんな大切なものを貰うわけには……」

「もう結婚もしてるのに今更何言ってるのさ」

 

笑われて思い出しました。

子ども扱いされて、つい現役時代の気分に戻っていましたが。

 

私はこの人の伴侶。

生涯、いつまでも隣を歩いていく相手。

だからこそ、こんなに大切なものを私にくれる。

胸の奥がぽかぽかと暖かくなっていくのを感じました。

 

「お袋ともそこで出会ったそうだ。カフェの名前といい、不思議な縁を感じないか」

「そうですね……このライターを私が持つのにも、何か意味があるような気がしてきました」

「だろう?」

 

また寂しくなったらこれで一服してくれ、と。

そんな夫の言葉に、そんなことしたら尚更寂しくなるじゃないですか、と内心思いました。

 

……ですが恐らく近い未来、私はその言葉の通りになってしまいそうで。

ライターの手入れをしながら彼を想う、自分の姿が脳裏をよぎります。

 

「今日は点けてもらっても良いですか……?」

「貸してごらん」

 

差し出した手から、夫がライターを取りました。

煙草を咥えて顔を突き出すと彼も上半身を乗り出し、火を灯します。

薄暗く少し埃臭い店内の一角が、にわかに明るくなりました。

 

鼻孔をくすぐるように漂うオイルの匂い。

小さくも激しい炎に混ざった新しい気配を感じながら、オイルライターの火と最愛の人の顔を重ねて見つめます。

 

私の視線に気付くと、彼は煙が立ち始めたのを確認して。

すぐにふいと目を逸らしてしまいました。

 

「くすくす……どうしたんですか、アナタ」

「すっかり大人なんだな、カフェも……表情にどきりとした」

 

最近はアナタも素直ですね。

そんなアナタが、私も大好きです。

 

何十年もの月日と愛しい人の想いが入り交ざった重い香りを、口から静かに吐きます。

それが伝播したのでしょうか。

 

見つめ合う互いの顔は、熟れ始めた果実のように少しだけ紅潮していて。

 

「……やっぱり今日はお店、お休みにすることにします」

「吸ったら二階に戻ろうか」

「ええ……そうですね……」

 

それはきっと、先程のアルカホールのせいだけではありませんでした。




しっとりオトナなカフェは、儚くも強いと思う学会の者です。
こちらが論文となります、ご査収下さい。


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迷うアナタに、一杯のエスプレッソを

閉店間際に現れた、可愛い来訪者。
その姿は、私に懐かしい光景を思い出させて。
たまには火を消して、甘いひとくちと共に、ゆっくりと語らいを。


郊外の住宅地にある、小さな商店街の隅の隅。

そこに佇む年季の入った木造建築で私が営んでいるのが、喫茶店『マンハッタン・カフェ』。

地元の常連さんを中心に、のんびりと不定休の営業をさせていただいています。

 

「今日はもう……お客さんは来なさそうかな……」

 

通常の閉店時間よりは少し早い時間。

お客さんがはけたこともあり、閉めてしまうことにしました。

お友だちにドアの看板をぱたんとCLOSEに変えてもらいます。

 

自分の珈琲を淹れるためにコンロに火を点け、懐から一本の煙草を。

夫から貰ったライターで火を灯すと、オイル特有の重厚な煙が口内と肺を満たします。

 

仕事終わりに深くリラックスするときは、少し重めのひと口を。

たまにはシガーを試してみてもいいかもしれません。

葉巻は、少し重すぎるかな……。

 

などと思っていたとき。

カランコロンと音がしてドアが開き、制服姿の少女がおずおずと入ってきました。

 

「ええっと……お邪魔しまーす……?」

 

右目を前髪で隠し、短髪に後ろ髪だけが長い、見覚えのある少女。

確か、この子は……。

 

「って、CLOSEになってるじゃねーか!? スンマセン、俺帰ります!」

 

私とCLOSE看板を交互に見比べながら、早口でまくし立てて帰ろうとする少女。

つい、くすりと笑いが漏れてしまいました。

 

「大丈夫ですよ……どうぞ、こちらへ」

「いやでも、もう片付けとかしてるじゃないっすか」

「お一人くらい構いませんよ……折角ですから、今日最後のお客さんに」

「そ、そう言ってもらえるなら……」

 

学生さんに煙を吸わせるわけにもいかないので、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けます。

 

少女は店内をキョロキョロと見回しながら、如何にもこういったお店には慣れてない風で。

そんな若い様子に、再び笑みが溢れました。

 

私に促されてカウンター席に座ると、少女はそわそわと落ち着かない様子でした。なので……。

 

「甘いものはお好きですか?」

「へ? 嫌いじゃないっすけど……」

「ならこちらをどうぞ……残り物ですみませんが……」

 

差し出したのはアップルパイ。

行きつけの喫茶店のマスターに教えていただいたレシピで作りました。

 

「いや、えっと……実は俺、あんまお金が……」

「気にしないでください、今日はお代は結構ですから」

 

そして、私もカウンター内の椅子に腰掛けて、目線を同じ高さにして。

 

「……悩み事、よかったら聞きますよ」

「……スゲーっすね……なんで顔見ただけで、俺が悩んでるって分かったんすか……」

 

少女は頬をぽりぽりと掻きながら、驚いたように私を見ました。

そしてどう切り出そうかと暫く逡巡してから、ため息をつきながら言葉を続けました。

 

「俺、トレセン生なんすけど……相棒……あ、トレーナーと喧嘩しちまって」

「喧嘩……ですか」

「そうなんです、ダービーに出るか、オークスに出るかで……」

 

少女はひと口、アップルパイを口へ運びます。

ですが心ここにあらず、といった様子で、無言、無表情で噛み締めていました。

 

「俺はダービーに出たいって言ったんすけど、相棒はオークスの方が適正も勝率もあるって言って、互いに譲れなくなって」

 

少女はフォークを置き、再びため息をつきました。

 

「相棒が言ってる方が理に適ってるのは分かってるんです。俺がダービー出たいって言ってるのも、ただ単にそっちの方がカッケーって思っただけで。ファンのみんなとか応援してくれてる人のことも考えると、少しでも勝ちが狙える方に出るべきじゃねーかとは俺も思ってて」

 

ぽつぽつと語る少女の表情に、現役時代を思い出していました。

 

私は幸いにも適正と目標がそれなりに一致していたため、当時トレーナーさんと揉めたことはありません。

ですが、間に合わずに諦めた春のクラシック戦線のことを思うと、少女が抱える理想と現実の揺らぎが、どうにも他人事には思えなくて。

 

「ダービーで勝った先輩とかダービーを夢見てる後輩とか見て、俺もああなりてー!とか思ったけど……俺にはさ、そんな信念っつーか、覚悟みたいなものが本当にあるのかなって……相棒と喧嘩してからずっと、夜も頭から離れなくて……」

 

そう言いながら天井を仰ぐ少女。

目を瞑り、思いあぐねるように眉間にしわが寄っています。

 

ダービーに出るか、オークスに出るか。

それだけ聞くと唯一つのレースの選択に過ぎませんが。

彼女は今きっと、今後の自身のレース観にも直結する、重要な、大切な考えを巡らせていました。

 

そんな少女を見ていると、お節介かもしれませんが、どうしても、力になってあげたい気持ちが沸々と湧いてきました。

 

「……やっぱ俺、オークスに出るべきなのかな。ライバルみてーなヤツもいるし、やっぱりファンには少しでも高確率で夢を見せてやりてーし……」

 

そう言葉を続けながら、少女は諦めの色を浮かべました。

夢を追いかける若人が、最もしてはいけない表情。

私はそれを見て、どうにも放っておけませんでした。

 

「ちょっと待ってもらえますか……?」

 

帰ろうとしているのか、慌ててアップルパイに伸ばされた手を、そっと止めて。

 

疑問符を浮かべる少女の前で席を立ち、コンロで火にかけていたマキネッタを手に取りました。

ぽこぽこと音が鳴っており、丁度いい時間を迎えたことを教えてくれます。

 

火を止め、抽出された深く濃い色をした珈琲を、デミタスカップに注ぎました。

 

「どうぞ……エスプレッソです」

 

少量が注がれたカップを差し出すと、少女は少し渋い表情をしました。

 

「エスプレッソって滅茶苦茶苦いヤツっすよね? 飲めたらカッケーけど……」

「苦手でしたら……こんな風に」

 

傍らの小瓶から角砂糖を取り出します。

それをデミタスカップに、一つ、二つ、三つ……。

 

「ちょちょちょちょっとマスター!? そんなに入れたら甘くなっちまう!」

「ふふ……イタリアではこうして飲む方も多いんですよ」

「え?」

「さぁ……どうぞ……」

 

戸惑いつつも私に促され、まだ角砂糖が溶け残っているカップを手に取り、少女はひと口、こくり。

 

「……苦いけど、甘いっす」

 

一度カップをカウンターに置き、少女はしみじみと呟きました。

深い色をした液面に落ちた自身の影をぼうっと見つめています。

 

「格好良いですよね……深く濃いエスプレッソをくいっと飲む姿は」

 

私も、もう一つのデミタスカップに自分の分のエスプレッソを注ぎます。

私の角砂糖は一つ。スプーンで混ぜて軽く溶かし、溶け残りをすくって口へと運びました。

 

少女にもスプーンを渡し、目線で促します。

スプーンを受け取った少女も溶け残った砂糖を恐る恐る舐めると、僅かにですが表情が緩みました。

 

「……私はいいと思いますよ、『カッケー』でダービーに出ても」

 

少女が目を見開き、唖然とした表情で私を見ました。

 

「確かに私たちウマ娘の走りは、世間や記録に向けたものでもあります。ですがアナタの先輩や後輩もそうであるように、一番はアナタ自身のためなんですよ」

「でも、俺は先輩たちみたいに、ダービーに全てを懸けようと思ってるわけじゃ……」

「そこまでの信念が、いつも必要になるわけではありません……」

 

もうひと口、エスプレッソを口に含みます。

殆どの角砂糖が溶け入り、その味は熟年の大人の苦味から、若いファッショナブルな苦味へと変わっていました。

 

「勝てるとは限りません。勝率は下がるかもしれません。負けて失望されるかもしれません。アナタ自身、選択を後悔するかもしれません」

 

私はかつての現役時代、G1のゴールを駆け抜けたときを思い出しながら。

勝ったとき、負けたとき。喜びや悔しさを思い出しながら。

 

「ですがそんなことはダービーに限らず、これからアナタにずっとつきまとうんですよ……天皇賞だろうがジャパンカップだろうが有マ記念だろうが、展開を誤って負ければ批判されますし、走者自身もあのときこうしていれば、の繰り返しです」

 

つい、懐の煙草に手を伸ばしそうになってしまいました。

流石に学生の前で吸うわけにはいかず、自分を諫めて手を引きます。

 

「けれど、クラシックは一生に一度です。ダービーで負けようがオークスに出なかろうが、死んだり引退させられたりするわけじゃないんですから。それくらい、アナタの思いつきの我を通していいんです」

 

私たちは、傀儡ではないんですから。

私たちは、それぞれの想いを目指す、ただ一人のウマ娘なんですから。

 

「それに……『カッケー』というのは案外、他者に大きな夢を与えるものですよ……エスプレッソをスタイリッシュに飲む姿も、単車を颯爽と駆る姿も、憧れるでしょう……?」

「ッおぉっ!? そうだよな! 大型でバルバル排気音鳴らしながら走ってんのマジでカッケーし俺もぜってーいつか……!」

 

と、少女は興奮気味に声を上げてしまったのが恥ずかしかったのか、勢いよく立ち上がったものの、そのまますぐに赤面して腰を下ろしました。

 

「……ふふ……きっと、それがアナタの魅力ですよ」

「俺の魅力?」

「ええ……小賢しい駆け引きを抜きに、溌剌たる姿で走り抜ける……そんな真っ直ぐなダービー勝利を見せられて、魅せられない人はいませんよ、ウオッカさん」

「えっ、なんで俺の名前を知って……」

 

私が笑いかけると少女は返答しかけて、すぐに何かを察したように表情が変わりました。

私の顔とカウンター奥に架けられた店名看板を何度も見比べながら、あわあわと口を押さえます。

 

「『相棒さん』にはよく言っておきますから……私が走れなかったダービー、きっと取ってくださいね……?」

 

くすりと笑うと、少女は狐につままれたような表情で、再び顔を真っ赤にして俯いてしまいました。

 

「さぁ……アップルパイと珈琲、よく合いますよ……」

「……本当に、美味いっすね……」

 

改めて噛み締めたアップルパイは、今度はきちんと甘かったみたいです。

少女は複雑な表情をしつつも、次第に美味しそうな笑みを浮かべました。

 

「ありがとうございます……俺、やっぱりダービーに行くって、相棒に言います」

「ええ……頑張ってくださいね」

 

納得し、覚悟を決めた少女の表情を見て、私は安堵しました。

 

どんな星の下のめぐり合わせか、私のところへは時折、このような悩める子たちが訪れます。

そのたびに可能な限りの手助けをしてあげたいとは思うのですが、必ずしも思うようになるばかりではなくて。

 

今日はきちんと向き合えたようで、私は静かに息を吐きました。

 

「また悩むことがあると思います。そのときは、今日のエスプレッソを思い出してください」

「エスプレッソを?」

「イタリアのお洒落で格好良く見える人々も、苦いものばかり飲んでいるのではなく、実は甘い砂糖が大好きだ、ということを」

 

見かけと中身が伴わなければならないわけではない。

その人その人ごとに歩むペースがあり、それは何者にも侵される謂れはないこと。

そして大義名分は物事の本当の価値ではなく、アナタの思うように進んでいいこと。

 

言葉にはしませんでしたが、少女が嬉しそうにカップを眺める姿を見て、きっと伝わっていると確信できました。

 

「色々とありがとうございます。でも奢られるだけもなんだし、何かお礼とかしたいんすけど……」

「なら、そうですね……」

 

何がいいでしょうか。

どうせなら彼女のダービー出走を後押しできるような……。

あまり深く考えず、私はぽろっと口にしました。

 

「私に子どもが産まれたら……『カッケー』ダービーウマ娘として、ヒーローになってもらいましょうか」

 

すると少女は笑みを輝かせ、胸を張って叫びました。

 

「お、おおお……おおお!! ソレ、最高にカッケーじゃないっすか!! 俺、絶対勝ちますから!!!」

 

私が思った以上に、彼女の心に響いたようです。

そんな初々しい姿を見て、私も少し、胸が熱くなってきました。

 

この少女は、見る人を惹きつける。

あの人が担当しようと思った理由も分かる気がします。

 

「今度は金持ってまた来ます! それじゃあ!」

「ええ……またのお越しを……」

 

自前の満面の明るい笑顔を浮かべ、少女は外へ飛び出していきました。

 

それと同時に、背後からこそこそと忍び寄る足音。

私は呆れが混ざった息を吐きながら、振り向かずに声をかけました。

 

「……ちょっと大人げないんじゃないですか……『相棒さん』」

「うん……俺が悪かったな……」

 

申し訳無さげに現れたのは、トレセン学園でトレーナーを勤める夫。

私の元トレーナーさんでもあります。

 

「トレーナーとして実益に頭が行ってしまうのも分からないではないですが……彼女の想いをきちんと汲み取ってあげてください……」

「はい……はい……反省してます……」

 

しょぼくれた顔で俯く夫。

ですが、私の小さな怒りはそれだけではありません。

 

「それと……ちょっとこっちに来て、袖をまくってください」

「ん? 袖?」

 

歩み寄ってきた夫が、袖をまくって腕を私に差し出します。

私は一瞬夫の顔を睨むと、その腕を掴んで少し強めに噛みつきました。

 

「痛っ! か、カフェ!?」

 

いきなりの襲撃に驚いた表情。

しっかりと所有物の証である痕を残してから、私はもう一度恨めしく睨み、そっぽを向きました。

 

「……家に担当の子との痴話喧嘩を持ち帰るなんて……私がどんな気分だと思ってるんですか……」

「あ……」

 

やっちまった、といった表情で固まる夫。

許してあげません。

私はそれなりに嫉妬深いんですから。

 

そんな態度を露骨に見せると、夫は顔を青くして平謝りをしてきました。

 

「ごめん……ほんとごめん……」

 

そんな情けない姿を見ていたら、仄かな怒りもふっと消えてしまって。

代わりに、少しだけ意地悪な私がこっそりと現れました。

 

「なら、今日はいっぱい我儘を聞いてください」

「はい」

「美味しい夕食作ってください」

「はい」

「優しく甘やかしてください」

「はい」

「私以外の人の話をもうしないでください」

「はい」

「それと……」

 

私は、先程の少女の姿を思い出して。

少し羨ましく、あの頃が懐かしくなって……。

 

「……今日は寝るまで、私のトレーナーさんでいてください……」

「っ……」

 

服の裾を引き、まだ初心な少女だった頃を想いながら。

トレーナーさんのことを考え、日々動悸が収まらなかった頃を想いながら。

黄色い瞳で、愛しいトレーナーさんを見上げました。

 

トレーナーさんは堪りかね、照れを隠すように私を抱きしめて。

 

「……なら、今日はもう禁煙、アルコールもなしだね」

「ふふ……はい……」

 

流石にもう、制服や勝負服には袖を通せませんが。

当時の私服は、もしかしたらまだ着られるかもしれません。

 

そんな甘い想いを抱えてトレーナーさんと寄り添っていると、背後からドアが軋む音がして。

二人してそちらへ目をやると、鼻を押さえた先程の少女と、にやにやしているお友だちがこちらを見ていました。

 

「あ、えっと……マスターの妹さんが、忘れ物あったって教えてくれたんで……」

「お、おお……よお、ウオッカ……」

「相棒がフラフラしてたから追いかけてみたんだけど……ここ、相棒の家だったんだな……」

「こ、今後ともご贔屓に……」

「話に聞いてた通りいい人だな……相棒、奥さん大事にしろよ……」

「うん……忘れもんは明日渡すから帰っていいぞ……」

「おう……じゃ、また明日……」

 

少女は言葉少なに、再び去っていきました。

そんな姿を見送って、私は。

 

「いい子じゃないですか」

「うん……すごくいいヤツだよ……」

 

まだ距離感が掴めずドギマギしていたあの頃のように恥ずかしそうなトレーナーさんを、懐かしくも愛おしく見つめながら。

心の中でこっそり、少女に感謝していました。




アドバイスしつつも内心嫉妬もしちゃうカフェは可愛いな、と思う学会の者です。
こちらが論文となります、ご査収下さい。


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