故郷は地球 著/アラン・ビロッツ (山田甲八)
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第一部 遭難  一 生い立ち

(この物語は直後の第一文から最後の訳者あとがきに至るまですべて架空のものであり、登場する個人、団体、場所、施設などの名称はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。また、既に架空のものがあったとしても、この物語はさらに架空のものとして描かれている。さらに、この物語は、ウルトラマンの絵を描いて他人に見せる行為のように、個人的な趣味として執筆されたものであり、個人であれ法人であれ、誰かの権利を侵害する意図は元よりない。)

この星が生んだ最も勇敢で最も不運な宇宙飛行士ジャミラへ

これは架空の物語ではない。すべて科学特捜隊パリ本部に勤務していた私、アラン・ビロッツが実際に体験した真実の物語である。



 私は✕✕✕✕年✕月✕日にパリ市内の病院で生まれた。生まれた時は体重が少し足りず、ガラスの容器に入れられて父も母もとても心配したと聞いている。

 以来、私は、もちろん観光や出張で他の街や国を訪れたことはあるが、基本的に生まれてこの方、パリに住み続け、転居を伴う移動、いわゆる引っ越しを経験したのは学生時代、日本に留学した時の一回だけである。

 すなわち、私は生まれも育ちもパリであり、生まれながらのパリっ子である。

 パリは「花の都」と呼ばれ、世界中の人々が憧れている街である。毎年、何百万もの人が観光や留学で訪れている。芸術やファッションや料理を学ぶためにパリを訪れる外国人の数は知れない。それこそ全世界からやってくる。そしてフランス帰りだということが母国で何らかのステイタスを生み出すのだ。

 フランス国内、あるいはパリ市内にいるとそうは感じないが、国外に出るとそのことを強く実感する。特にアジアではフランス人でいることそれ自体が既におしゃれなことであり、パリっ子は他の民族より一段上の芸術性、ファッションセンスあるいは舌を持っていると誤解されている。

 しかし、「花の都」の名にふさわしいのはパリの一面に過ぎない。もちろん、シャンゼリゼ通りやコンコルド広場、セーヌ川の畔など、そこに何年住んでいても美しいと思える風景がパリにはある。その一方で、スラム街、貧民街があることもまた事実なのである。

 フランスは先進国の中では貧富の差が激しい方の国だと思う。なぜなら、フランスはかつて植民地を支配してきたからである。植民地を持っていたので旧植民地からの移民をフランスは受け入れる義務がある。その宗主国が担う義務は植民地支配の歴史が気の遠くなるほどの過去の話となってしまっていても解除されない。

 フランスはアメリカのような移民国家ではない。しかし、旧植民地から移り住んできた、独自の文化や宗教を持つ人々も暮らしている。彼らは都市部に集中し、また大抵が貧しい。そういう貧しい人たちはパリ市内に点在することなく、ある特定の地域に集まって暮らし、貧民街を作る。

 貧しい人たちがいるということはパリの美しさとは相対立するものである。パリは世間で思われているよりも公衆衛生は貧困であり、治安も悪い。私は良くも悪くもこの街で何十年も暮らしている。

 このようにパリは二面性を持つ街ではあるが、私はパリが大好きだ。

 私はこの街で、警察官の家系に生まれ育った。父が警察官なのはもちろんのこと、父の父も、そのまた父も、何代遡っても警察官だった。ビロッツの家系ははるか昔の代から決して良いとは言えないパリの治安を守ってきたのであり、そのことを私は小さい頃から誇りに思っていた。

 だから父も私が将来、警察官になると考えていて、私も、後述するように、少年時代、一瞬だけ宇宙飛行士になろうと思ったことはあるが、基本的には警察官以外の職業に就くことは考えていなかった。

 私はパリ市内にある警察官の家族が住む官舎で暮らしていた。もちろん、近所の人は同じく警察官の家族であり、同じ警察一家として家族同然の付き合いをしていた。

 家同士が親しくしているから、幼い私にとっては自分の家と他人の家の境界があいまいで、さらに子どもは遠慮がないから、全部自分の家のような気持ちで過ごしていた。

 後年、私が随分大人になってから、当時、隣に住んでいたマダムに聞かされたエピソードがある。

 ある夏の暑い日、そのマダムが台所でガサゴソと何やら音がするのに気が付き、ネズミにしては大き過ぎるし、警察官の官舎にまさか泥棒は入るまいと思い、忍び足で台所を覗き込んだところ、遊び疲れた私が冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを飲みながらピクルスをポリポリと食べていたそうである。そのマダムはその光景を見て吹き出してしまったという。

 官舎は古くて狭くて決して居心地の良いところではなかったが、両親の愛に包まれそれはとても安心できる時間であり空間だった。

 

 父は厳しい人だった。そして今でも厳しいままである。母は優しい人だった。そして美しい人だった。私の記憶の中ではその美しいままの姿しか残っていない。

 父は警察官だが、母は父が担当したとある事件の被害者だったと聞いている。詳しい話は知らない。どのような事件だったのか、母の口からはもう聞くことができないし、父の口からも聞いてはいない。本人もあまり語りたくない過去なのだろう。父が長い旅に出た後、父の残していったものを整理する中で知らなければ良かった真相を私は知ることになるのかもしれない。

 そしてその、なんらかの事件を通して二人は知り合い、愛し合い、結ばれ、そして私が生まれた。

 我が家はどこにでもあるフランスの中流家庭であった。父が外で働き、母は暖かい夕食を用意して帰宅を待つ。そんな当たり前の風景がそこにはあった。

 しかし、私の生活は私が生まれてから何年かすると変化を見せ始め、次第にただの中流家庭では済まなくなってくる。

 

 正確な年齢はもはや記憶してはいないが、四歳か五歳の頃から私は日本のアニメに興味を持つようになった。ケーブルテレビで観たり、母にレンタルしてもらったりして熱心に見た。母も一緒に見ていたから、本当は、好きだったのは母で、私は最初のうちは、ただ付き合わされていただけなのかもしれない。大の大人がアニメなどを見るのは気恥ずかしいが、子どもが見ると言えば言い訳になるし、厳しい父もうるさくは言わないだろう。事実、うるさくは言わなかった。

 特に、日本人の少女達が軍服に身を包み、悪を倒すアニメは母共々熱心に見たし、私の方が夢中になった。

 にわかには信じがたいかもしれないが、日本の中学生、高校生の多くは軍服に身を包んで学校に通っている。日本は第二次世界大戦に敗北、武装解除し、もはや軍事教練などは過去の遺物と化しているはずなのに、軍隊と最も遠いところにあるべき教育の場で軍人の格好があたり前の日常として存在しているのである。今でも。

 それでも男子が軍服をモチーフとした制服に身を包み、学校に通っているというのであればまだ理解できない話ではない。軍隊は歴史的に男によって支えられてきた組織だ。伝統というものはそうそうすぐには変えられるものではない。それこそ気が遠くなるような時間が求められる。

 理解が難しいのは、女子が軍服をモチーフとした制服に身を包んでいることである。男子が陸軍の軍服をモチーフとしているのに対し、女子は海軍の軍服、それも士官ではなく、下級水兵の軍服をモチーフとした制服に身を包み、学校に通っている。

 私も日本留学時代に現物を目にしたことがあるが、集団で歩く姿はなかなか圧巻である。すれ違いざまに思わず敬礼してしまいそうになる。

 もっとも近年は軍服からビジネススーツをモチーフにした制服にトレンドは移りつつあり、公立の学校ではむしろ軍服をモチーフとした制服は少なくなっていて、ネクタイを締めた中学生、高校生が増えていると聞く。日本人のマインドも軍事大国から経済大国に移行したということだろうか。

 話が随分と逸れてしまったが、日本のアニメでその軍服をモチーフとした制服に身を包み、悪と戦う女子中学生の物語があり、幼い私はそのアニメに完全にはまってしまった。

 主人公の変身シーンや悪と戦うときのポーズをとっての決めゼリフ「月の名前においてあなたを処罰します」(訳注:「月に代わってお仕置きを」の意味だと思われる)にゾクッとしたりした。

 このアニメは女子向きの作品だったようで、そんなアニメに夢中になっている私を見て同じ官舎に住む他の幼馴染は「女の子のようだ」とからかったものだった。そう言いながらも一緒に見ることは拒否しなかったが。

 そんなアニメに魅せられた私は、いつか日本に行きたいと考えるようになった。観光も良いが、できれば留学や日本勤務のように少し腰を据えてゆっくり遊びたい。どうすればそれが実現できるか、幼い頭は幼いなりに考えて、大人になった今でも良いと考えるあるアイデアを思い付いた。柔道を学び、留学を口実にすれば日本に行かれるのではないかと考えたのである。

 父は私を将来警察官にしようとしていたので、小さい頃から私の身体を鍛えようと考えていた。その際、父はどうやって身体を鍛えたいか私の意見を求めたので、私は迷うことなく「柔道」と答えた。いや、迷うことなくはいささか言い過ぎか。剣道や空手、あるいは合気道も私の頭の中では候補になってはいたが、最終的に柔道を選ぶこととなった。

 その理由の一つは国内における競技人口の大きさである。柔道はフランスではメジャーなスポーツである。競技人口はおそらく本家である日本よりも多いのではないだろうか。フランスに限らず、柔道は広くヨーロッパで親しまれているスポーツであり、だからヨーロッパ選手権も開催されているし、オリンピックの種目にもなっているのである。

 空手はオリンピックの種目になってはいるが、フランス国内では柔道ほどには普及していない。フランス人は剣道よりはフェンシングの方に興味を持っているから剣道を学ぼうとすると道場を探すのが大変である。合気道は試合がないので余程の日本マニアでなければ興味を持たないようである。

 柔道をやりたいと思った最大の理由はやはり日本のアニメの影響である。私は、随分と古い作品であったが、柔道をテーマとした、スポーツ精神論と呼ばれるジャンル(訳注:「スポーツ根性物」のことと解される)のアニメも見ていた。

 柔道で強くなり、フランス代表にでもなればそれこそ日本にも頻繁に行かれるだろう。日本文化に興味を持つことも不自然ではないし、日本のアニメを見たり、女の子向けのキャラクターグッズを身に着けていても言い訳できるかもしれない。

 道場は比較的近くにあった。私は警察官の子どもということもあり、フランス警察パリ第〇〇分署の道場で開かれていた稽古に参加する資格が与えられており、というよりも参加する義務が課されており、同じく警察官の息子である幼馴染と共に熱心に通ったものである。他の友達はいやいや参加していたが、私は結構、真剣だった。

 アニメと柔道、奇しくも同じ日本文化に私は熱中した。

 小学校に入学し、文字を覚え始めると、私は日本語も覚えるようになった。別に先生について勉強したわけではない。しかし、子供向けの、例えばネコ型ロボットが登場するアニメなどは字幕もなく、吹替もなしで理解できたものである。

 

 パリでの生活は何もかもが平和そのものに見えたが、その日は何の前触れもなく突然にやって来た。

 その日もいつもと同じ何の変哲もない日常のはずであった。もし、何か違いがあるとするならば、私が珍しく忘れ物をしたことである。

 もっともこの忘れ物が私の命を救うことになるのだが。

 いつものように学校を終えた小学一年生の私は、一度帰宅し、柔道着と汗拭き用のタオル、スポーツドリンクの入ったボトルを持ってフランス警察パリ第〇〇分署の道場に向かった。

 パリ第〇〇分署の立派な柔道場では学校が放課後となるこの時間、子ども達を対象とした柔道教室が開かれていた。警察の地域貢献活動の一環の一つであるが、この柔道教室は厳しいことで有名で、何よりも高齢の師範がとても厳しい人で、子ども達の人気は今一つだった。そのため、私のような警察官の子ども達が強制的に参加させられていたのである。

 私はその日、いつものように稽古を終え、いつものように帰宅した。

 帰宅すると私は洗濯のため柔道着をバッグごと母に預け、自分のテレビでアニメを見ようと自室に入った。しかし、次の瞬間、母の咎めるような声が聞こえ、母のところに急いで戻った。

「アラン。帯はどうしたの?」

 私が渡した洗濯物を確認しながら、普段、温厚な母が珍しく私を詰問した。

「帯?バッグの中にないの?」

「ないから聞いているのよ」

 私もバッグの中を確認したが、確かにそこには帯はなかった。ウッカリしていたが、もし、バッグの中にないのであれば道場のロッカーに置き忘れたのだろう。

 普段、私は柔道着に大変敬意を払っているので、キチンとたたみ、帯で縛ってからバッグに入れる。だから帯をどこかに置き忘れるということは通常ない。

 しかし、この日は、もう今では思い出せない理由で帰宅を急いでおり、柔道着の上下を無造作にバッグに突っ込んだ。だから帯をロッカーに忘れたのだ。

「忘れたかも。取って来る」

「なくしたのでなければ明日でも良いよ」

 優しい母は言ったが、僕はもう出かけようと玄関に向かっていた。

 確かに明日でも良かったのかもしれなかったが、もし道場に置き忘れてしまっていたら師範に怒られてしまう。師範は厳しい人で、こういう忘れ物のような失態が見つかったら長い説教を受けるのが常なのだ。

 広い道場に正座をして向かい合い、日本人の精神論などを延々と説教する。既に何回かその経験を持っていた私は、今すぐに道場に引き返し、師範に見つからないうちに帯を回収できれば師範の長い説教を避けることができる、そう考え、止める母には返事をすることもなく、家を出て再び道場に向かった。

 

 師範に見つからないように帯を回収しようという私の目論見は見事に外れた。

 師範は私の帯を既に回収し、忘れ物を取りに来る私のことを待っていたのだった。

 時間は夕方で、ちょうど子ども達の稽古が終わり、勤務を終えた警察官の稽古が始まるまでのインターミッションであり、師範と私は広い道場の端に正座して向かい合い、私は師範の長い説教にさらされることになった。

「帯を忘れるとは何事だ。帯は柔道家の魂だぞ!」

 師範はそんなことを言って私を叱責していた。師範は日本の道場で修行していたこともあるおじいさんでとにかく厳しいことで有名だった。このパリ第〇〇分署の署長もその師範の弟子であり、頭が上がらなかった。

 師範は日本人の精神論などを長々と講じていたが、私は師範の説教は上の空で、今、この時間見るはずだったアニメのことを夢想した。ただ、今思うと師範は私にとって命の恩人である。この長い説教のせいで私は命拾いしたのだから。

 どのくらい師範の説教が続いていただろうか、突然、外で爆発音が鳴り響いた。道場のガラス窓がビリビリと震えた。

 師範は突然の大音量に説教を中断し、窓に駆け寄った。私も師範につられて窓に向かった。

 二人で窓の外を見たが、爆発音の正体が何か、すぐには分からなかった。窓の外の色々な方向を見ているうちにパリの夕日に黒煙が立ち上がっている光景が見えた。私の家の方角だった。

「僕の家の方です。ちょっと見てきます」

 私がそう言うと、師範もついてきた。

 二人は夕方のパリの街を走った。その時、私には胸騒ぎとか嫌な予感はまったくなかった。むしろ師範の説教を逃れることができて助かったとすら思っていた。

 師範と私は夕日に向かって走っていた。夕焼けに黒い煙が立ち上っていて、何かとても幻想的な光景だった。美しいとすら思った。ずっとこの景色を眺めていたいと思った。

 しかし、爆発現場に辿り着いた時、私はあり得ない光景を目にすることになる。

 爆発の現場は私の住んでいる官舎であり、建物は半壊しており、私の家族の住む辺りは粉々に粉砕され、原形をとどめていなかった。周囲には油のにおいが充満していて、その臭いは今でも私の脳裏に焼き付いている。

 すぐに非常線が張られ、救急車や消防車や警察車両がやって来た。私は師範と一緒に母を探そうとしたが、がれきの山を目の前に何もすることができなかった。母が買い物かどこかに出かけていることを祈ったが、母は現れなかった。

 そのうち父がやって来て私を抱きしめ、言葉を掛けてから捜査に戻っていった。その後、その日の夜がどのように更けて行ったのか、私はもう思い出すことができない。私はその日、警察署に泊まり、それから数日はパリ市内にある父の知人の家に身を寄せていた。

 母が無事でないことは明らかだったが、遺体すら発見されなかった。他の住人は何らかの怪我を負い、市内の病院に収容されていたものの、生存は確認されていた。母の遺体が発見されたことを知ったのはさらに数日後のことである。

 私は母の遺体と対面することはできなかった。恐らく子どもには見せられないほど痛んでいたのだろう。

 振り返ると爆発は爆弾テロにしては小規模なもので、死者一名と重軽症者が数名出たに過ぎなかった。世界中で日常的に発生している爆弾テロ事件に比較すると明らかに小規模であり、マスコミの取り扱いも決して大きくはなかった。世界のどこにでもある警察関連施設を狙った無差別テロ事件として片付けられた。犯行声明もあり、犯行組織も分かっている。

 しかし、その一名の死者は私の母であり、私は小学一年生にして母を失い、私は父一人子一人の生活になってしまったのである。

 そして私の運命が狂い始める。

 



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二 出逢い

 警察関連施設を狙った無差別テロ事件の後、世間は父と私に同情した。私は小学校一年生にして母を失い、私の家は父子家庭になった。

 父は引き続きパリ勤務で、爆弾攻撃を受けて半壊した官舎は出たものの、転校することもなく、近くの空き家に借家住まいすることができた。借家にしては、そして父子二人の父子家庭にしては大き過ぎる館で、引っ越して来た当初は母にも見せてやりたかったと思ったものだ。随分と年長になってから知ったのだが、その家は悲劇の父子に同情したパリの資産家がその義侠心から貸し与えたものであった。しばらく父子はその借家に住まうことになるのであるが、恐らく家賃はただか申し訳程度のものだったのだろう。

 事件直後こそ私は父の知人の家に身を寄せていたが、それも迷惑ということになり、父子二人の生活となり、私の養育をどうするかということが問題となった。普通のサラリーマンであれば朝、保育園に私を預け、終業後、私を保育園にお迎えに行くということになるだろう。

 しかし、父は警察官であり交代勤務のため勤務時間が安定していない。特に不可解な事件を抱えてしまうと、何日も家に帰って来られないということもある。いっそのこと私に手が掛からなくなるまでは官房系など、勤務時間の安定した仕事に移り、保育園の送迎を担うということも考えられたようである。

 しかし、それは私の父もフランス警察の人事当局も望むところではなかった。当時、働き盛りの父はフランス警察のスーパーエースであり、数々の難事件を解決していた。父もそれを自認しており、勤務体系を変えることを望んではいなかった。

 ただ、ベビーシッターを頼むとなると費用が馬鹿にならず、警察官の安月給では厳しかったことも事実である。頼れる親戚も、少なくともパリ市内にはいなかった。

 父は仕事と育児の両立に悩んでおり、無料のシッターの登場を待ち望んでいた。

 一方、同じ時期に、私のまったく知らないところでX国の官費留学生がパリでの下宿先を探していた。この青年はロケット工学を専攻しており、パリにある研究機関に客員研究員として三年間の期限付きで留学して来るのであるが、家が貧しく、何より官費留学生なのでパリでの生活費をできるだけ切り詰めることを希望していた。

 もう一つ、この官費留学生は柔道家でもあった。X国ではナショナルチームに入るくらいの実力者であり、留学先のパリでも練習を続けることを希望していて、その練習場所に選ばれたのが、私が官舎の頃の仲間と通っているフランス警察パリ第〇〇分署の道場だった。

 道場の師範は当然、私が母を亡くし、父が仕事に出ている間の子守役を探していることを知っている。師範はその官費留学生が私の家に下宿し、私の面倒も見ながら研究し、柔道もやれば良いのではないかと考え、その考えを父に話した。師範は厳しい人ではあったが、世話好きでもあった。父はこの提案を受け入れ、官費留学生を私の家に受け入れることが決まった。

 官費留学生が来日した日、私は父とシャルルドゴール空港に出迎えに行った。

 現れた男はフランス人の平均よりも背が高く、またいかにも柔道家らしいがっしりした体格の持ち主だった。

 男の名前はジャミラといい、私の家の私の部屋の隣の部屋が貸し与えられ、おびただしい数の文献が運び込まれた。何の文献なのかはもちろんまるで分らない。しかし、ジャミラが何かとても難しいことを研究していることは分かった。私とは別世界の堅物だと思ったのだ。

 引っ越し荷物の整理が終わり、私が自分の部屋のテレビで日本の水兵の格好をした女子中学生達が悪と戦うアニメを一人で見ているとふとそれまで感じたことのなかった人の気配を背後に感じた。振り返るとそこにはジャミラが立っていた。

「へ~っ、アラン。君はこういうのが好きなんだ」

 ジャミラは気さくに私に話しかけた。私は特に隠し立てすることもなく「そうだね」とだけ答えた。女の子向けのアニメを見ているという恥ずかしさはなかった。

「実は僕も日本のアニメが大好きなんだ」

 ジャミラがそう言ったので僕は驚いた。ジャミラはロケット工学を勉強する堅物の科学者で唯一の趣味は柔道だと思っていたからだ。

 私が驚いた顔をしているとジャミラは両手を動かし、制服を着た女子中学生戦士のきめのポーズをとって「月の名前においてあなたを処罰します」と言ってみせた。それがジャミラのごつい身体とはあまりにも不釣り合いで私は思わず吹き出してしまった。

 ジャミラも私に合わせて笑い、それで私の心はジャミラに向かって一気に氷解してしまった。

 ジャミラは立ったままで、私もジャミラに席を勧めもしなかったが、私はジャミラと一緒にアニメの続きを見た。アニメの途中途中でジャミラは詳しい解説を入れてくれた。

 この作品は月をモチーフにした少女が主人公になっているが、本当は金星をモチーフにした少女が主人公だったこと、アニメ化する段階で金星をモチーフにした少女のコードネームが日本の万年筆メーカーの登録商標(当時はこの言葉を理解できなかった)だったため、主人公を交代させ、アニメのタイトルも変えてしまったこと等々、私の知らない日本アニメのうんちくを語って聞かせてくれた。その話、一つひとつを私は眼を輝かせながら聞いていた。

「ジャミラさん詳しいんですね」

「ジャミラでいいよ」

 ジャミラは、二回りは年下の私に気さくに言った。

「アラン、君は一人っ子だそうだね?」

「うん」

「実は僕も君と同じで一人っ子なんだ」

「そうなんだ」

「だからこういうのはどうだい。君と僕は兄弟分っていうのは。君も僕と同じ柔道家だし、日本のアニメも好きなようだ。日本文化の良き理解者として仲良くなれると思うけど」

 ジャミラはそう言って笑った。私は正直、うれしかった。母が突然いなくなってから、何かと一人ぼっちが多かったのだ。

 留学生が下宿するという話を聞いた時も、専門がロケット工学ということもあり、自分とは別世界の人だと思っていた。しかし、実際は全然違った。日本のアニメを好む、私と同じ次元の住人だったのだ。

 

 しかし、ジャミラが私の家に下宿するようになってしばらくすると、私は私の周囲が妙によそよそしくなっていることに気が付いた。友達が離れていっているような気がしたのである。学校でも、道場でも一人であることが多くなっている気がしていた。

 最初は気のせいかと思っていたが、ある日のホームルームの席でその理由が明らかになった。

「アラン、お前の家にX国のスパイがいるんだってな」

 クラスメートの悪ガキの一人がそんなことを言ったのだ。他のクラスメートもそれに同調する。

「スパイ?そんなわけないだろう?」

 そう言ってはみたものの、ジャミラがフランスに来て実際、何をしているのかは本人からも聞いていないし、難し過ぎてまだ小学一年生の私には理解できなかった。

 ただ、X国がフランスとあまり仲良くないことは子どもの私にも分かったし、スパイが歓迎されない職業であることも分かっていた。

「ロケットの研究所でフランスの技術を盗んでいるって噂を聞いたぞ」

 悪ガキは悪びれずに続ける。

「そんなことないですよね。先生」

 四面楚歌の私は先生に助けを求めるしかなかった。

「あたり前だ。アランのお父さんは警察官だぞ。そんなところでスパイ行為してみすみす捕まりに行くようなそんな間抜けなスパイはいないよ」

 先生が言うとクラスは大きな笑いに包まれた。しかし、私は笑えなかった。

 

 家に帰るとジャミラはもう帰っていて、晩ご飯を作って私のことを待っていた。ジャミラと私は晩ご飯を挟んで向き合った。父はいつも帰りが遅く、晩ご飯は大抵、ジャミラと二人きりだ。

 今、思うとこの頃のジャミラは研究職という割には規則正しい生活で、私の母親役をキチンと務めていた。きっと最初からそういう約束だったのだろう。

 この二人きりの晩ご飯が私は大好きだった。時には日本のアニメを見ながらアニメ談議に花を咲かせたものだ。もっとも談義といってもジャミラがそのうんちくを一方的に私に話して聞かせることが多かったが。

 しかし、この日の私は明らかに口数が少なく、暗い表情だった。

「アラン、どうした?」

 さすがに私の異変にジャミラは気付いていた。

「いや、別に」

 私は何となくごまかそうとしたがジャミラは許さなかった。

「何でも言ってくれないか。僕達は親友で、兄弟分じゃないか」

 ジャミラはそう言って優しく私を見た。ここに来てからジャミラは母親代わりでもあった。

「・・・実は、今日学校でジャミラがX国のスパイだって言われたんだ」

 私は言いにくかったが言った。しかし、それを聞いたジャミラは笑い出した。

「ハハハ、スパイか。これは傑作だ。いいなあ。僕はスパイ映画の主人公になってみたかったんだ」

 そんなジャミラを見て私は少し安心した。本物のスパイだったらこんな場面で笑えるはずがない。

「ジャミラはフランスの研究所で何を研究しているの?」

 私はかねてからの疑問を聞いてみた。

「その前にスパイという濡れ衣を剝いでおこう。僕はフランスのなんらかの機密を盗み出すつもりなんかさらさらない。むしろ逆だ。僕がフランス人の技術者にロケットの技術を教えているんだ」

「ジャミラが先生?」

「そう。僕が先生。僕は自分で言うのもおこがましいけれども、ロケットの分野では小さい頃から天才と言われてきた。僕の家はね、そんなに裕福な家庭ではなかった。今でも裕福ではない。家は廃品回収業をやっている。しかし、今、思うと家が廃品回収業をやっていたお蔭で今の僕があるともいえる」

「どういうこと?」

「廃品回収業者だから僕の家にも、家の周りにもガラクタが沢山あった。僕はガラクタの山の中で生まれ育ったんだ」

「うん」

「僕は小さい頃から宇宙に興味があった。僕の家はX国のものすごい田舎にあってね。パリみたいにゴミゴミした都会じゃない。街にはネオンの光もない。だから星空がとてもきれいなんだ。パリじゃ分からないけど、例えばオリオン座の枠の中にある小さな星まではっきりと見えるんだ」

「オリオン座って?」

「そうか。一年生のアランにはまだ難しいかな。とにかく、夜空が満天の星で輝いてるんだ。そんな星空の下で育ったせいか、僕は将来、星の世界に行きたいと思うようになった。つまり将来は宇宙飛行士になりたいと思ったのさ。思っただけじゃない。実際、自分の力でロケットを飛ばそうと思って、独学で勉強して、高校生の時にガラクタを集めて本物のロケットを作って、飛ばしたんだ。自分の力だけで。誰の力も借りずに」

「本物のって、おもちゃじゃなくて?」

「そう。おもちゃじゃない。本当に地球の重力を振り切った。もちろんそんなに大きな物じゃじゃなかったけど、とにかく人工衛星にしてみせたんだ。ビックリしたのは宇宙局さ。宇宙局がX国の総力を挙げて、それなりの予算もつけて、何年もかかってやってきたことを僕が独力であっという間にやってみせたんだから。それから僕は飛び級に飛び級を重ねてあっという間に博士号を取った。Ⅹ国にとっては、僕は宝物さ。フランスに来たのはフランスにスポンサーになってもらうためで、X国は、技術はあるが金がない。それでなにがしかの技術供与と資金援助をバーターすることにしたのさ。それで僕がフランスに派遣されてきた」

「そうか、それを聞いて安心したよ」

 ハッキリ言ってジャミラの話は小学一年生の私には難しかったが、悪いことをしているわけではないことは分かった。

「でも、フランス政府が僕をスパイ扱いするのは無理もない。X国とフランスは必ずしも友好な関係にはないからね。だから、アランのお父さんが警察官でむしろ助かっているよ」

 ジャミラの説明は私を納得させるものではあったが、幼い心にもう一つの疑問が湧いてきた。なぜ、ジャミラはそんなにも柔道が強いのかということだ。

 私の常識では、天は二物を与えないはずで、もしジャミラが飛び級を重ねるロケット工学の天才ならば、全力疾走も困難な青白きインテリのはずでX国の代表選手になどなれるはずはない。それは幼い心でも分かった。

「柔道も天才と言われていたんじゃないの?」

「残念ながら柔道で天才と言われたことはなかったなあ。スポーツは嫌いじゃなかったけど、ロケットほど好きにもなれなかった。そもそも、僕は陸上競技の選手だった」

「陸上競技の?」

「そう。百メートルと走り幅跳びを高校まではやっていて、それなりの成績を納めてもいた。高校生の頃は陸上部にいたんだ」

「どうして柔道に転向したの?」

「僕の通っていた高校に柔道部はあったんだけど、弱小で、部員すら十分にいなかった。でも、監督が熱い人だったんだな。それで足りない部員を外から、外からというのは柔道部以外からという意味だけど、とにかく試合の時だけ臨時の部員を集めて試合には出ていた。僕は、体格は良かったから駆り出されたのさ。そしたら思いのほか勝ってしまってね」

「既に無敵だったってこと?」

「そうともいえるかな。高校時代に負けたことはなかったからね。Ⅹ国の高校の団体戦は勝ち残り制だ。五対五で戦うんだけど、僕が先鋒に出て、まあ大将でもいいんだけど、五人勝ち抜けばチームとしては勝つ。それで僕の高校は全国優勝してしまうんだ。熱い監督はもちろん柔道への転向を勧めた。陸上では世界レベルには行かれないと言われてね。柔道はそれほど好きではなかったけど、奨学金がもらえるというので続けたよ。それで、なんとなく柔道が本職になって、以来、続けているって訳だ」

 淡々と語るジャミラを見て、私は、超人(訳注:英語原文には「ウルトラマン」と表記されている)という存在がもし実在するならば、それはジャミラにほかならず、ジャミラと時間と場所を共有できたことは私にとってとても幸運なことで、神に感謝したい気持ちで一杯になった。

 ジャミラは第〇〇分署の道場でも無敵の強さを誇り、それでいて威張ったり、人の悪口を言ったりすることは一切なかった。人間的にも申し分なかった。だからジャミラの評判は自然と上がっていった。

 そのうちジャミラがX国人であることの偏見も薄れ、誰もジャミラのことを変な目で見ることはなくなった。

 

 やがて約束の三年が過ぎ、ジャミラはX国に帰ることになった。

 私は小学四年生になっていて、身の回りのことは自分でできるようになっていたし、自分のことだけではなく、父の食事の準備とかもできるようになっていた。生活の様々なことはジャミラが教えてくれていた。

 帰国の直前、ジャミラは最後に稽古をつけたいと私に言ってきた。もちろん私はこれを受け入れた。

 それはまさにジャミラが帰国する日だった。たまたま学校は休みの日だったが、父は勤務の日で空港への見送りは私一人だった。

 シャルルドゴール空港へ向かう途中、ジャミラと私は通いなれたパリ第〇〇分署に立ち寄り、道場で向かい合った。ジャミラは青い、私は白い柔道着を着ている。時間は午前九時頃であり、道場には二人しかいない。

「た~っ」

 そんな声を掛けながら、二人は組み合った。

 私は三年前に比べれば大きくなったもののまだ小学四年生だ。一方のジャミラはX国のチャンピオン、大人と子どもの戦いだった。

「どうした。もっと積極的に技を掛けろ」

 ジャミラが言った。私もなんとか技を掛けようとするのだがうまくいかない。そのうち、大外刈りの真似をすると、ジャミラはわざと倒れてくれ、二人で青畳に横になった。

「強くなったな」

 青畳に寝そべったままジャミラが言った。

 それから二人は立ち上がり、少し距離を置いて向かい合い、お互いに礼をした。

 道場を後にしたジャミラと私は地下鉄でシャルルドゴール空港に向かい、国際線の出発ロビーで私はジャミラに別れを告げた。

「寂しくなるね」

 私はしんみりと言った。それはそうだ。母親役がいなくなってしまうのだ。しかしジャミラは笑顔だった。

「そんなにしょんぼりした顔するな。どうせまたすぐに会えるよ」

 ジャミラはそう言うと右手を軽く上げてから出発ゲートへと向かい、しばらく進んでから私を振り返って大きく手を振るとゲートの向こうへ消えていった。

 

 ジャミラは有言実行の人だった。

「どうせまたすぐに会えるよ」

 シャルルドゴール空港での別れ際の一言を私は真に受けていなかった。ただのリップサービスだと思っていた。

 しかし、その約束はそのとおり実行されたのである。

 その年、パリで開催された柔道ヨーロッパ選手権のX国代表としてジャミラはそう間を開けずに来仏したのである。

 ヨーロッパ選手権については特に書くべきことはない。それ程までにジャミラの強さは圧倒的だった。ほとんどの試合で一分とかからなかった。

 かつて見たことがある日本のスポーツ精神論と呼ばれるジャンルの柔道もののアニメで「秒の殺し屋」というキャラクターが出てきたのを見たことがあるが、その「秒の殺し屋」を彷彿させるようであった。

 試合が始まる。両者が組み付く。ジャミラが投げ飛ばす。一本それまで。

 かろうじて一本を逃れても今度は寝技に持ち込む。高校時代までは陸上の百メートルと走り幅跳びの選手でもあったジャミラの敏捷性はその巨体からは想像できないものであり、あっという間に抑え込まれた相手は身動きできるはずもなく、一本それまで。

 ジャミラはまったく危なげなく、あっという間にヨーロッパチャンピオンの表彰台に昇った。

 ヨーロッパチャンピオンとなったジャミラは凱旋帰国の後、しばらくしてまたパリに戻って来た。三か月後に同じパリで開催される柔道世界選手権の強化合宿に参加するためである。

 強化合宿はパリの郊外で行われていた。X国に限らず、何ヶ国かの代表が集まってきていて、出稽古なども行われていた。

 私は自分の休みの時はジャミラのもとを訪れ、ジャミラが休日の時はジャミラが私のもとを訪れ、あるいはパリ第〇〇分署の稽古に参加し、二人の交流は続いていた。私がジャミラの滞在している宿泊施設に泊まったこともあった。

 



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三 宇宙へ

 そんな中で世界選手権の日を迎えた。場所はヨーロッパ選手権が行われたのと同じパリの中心地にある多目的室内競技場だった。ヨーロッパでは無敵のジャミラも世界選手権で優勝できるかどうかは分からなかった。ジャミラの階級には宿敵の日本人選手がいたからである。

 その日本人選手とシードされたジャミラは決勝までは危なげなく勝ち上がった。ここでもジャミラは「秒の殺し屋」をいかんなく発揮した。

 一方、ライバルの日本人選手は準々決勝と準決勝を延長で制しており、疲れが見え始めていた。私は心の中で「行ける」と思っていた。

 その日の夜のプライムタイムに決勝戦は行われた。白の柔道着に身を包んだ日本人選手と青の柔道着に身を包んだジャミラが青畳の上に現れ、一礼した。私は一分以内に決着がつくだろうと思っていた。そしてジャミラが勝つと信じていた。

 主審の「始め!」の掛け声とともに、二人が組み合う。日本人選手もそうだったのだろうが、ジャミラもポイントを取って逃げ切るような柔道はしない選手だった。必ず一本を取りに行くタイプの柔道家だった。だから最初から技の応酬になると思った。

 ジャミラは相手の様子を伺うこともせず、ぐいぐいと押す。力が入ったところを日本人選手が巧みにかわし、勢い余ったジャミラは思わず前のめりに倒れ手をついた。しかし、日本人選手が技を掛けたわけではないのでポイントはつかない。

 ジャミラは立ち上がり、再び組み合った。もう一度、ジャミラはぐいぐい押し込み、日本人選手はじりじりと後退するが、再びジャミラの押し込みをかわした。

 ジャミラはもう一度前のめりに倒れそうになったが、今度は日本人選手を巻き込む形になって畳の上に倒れた。そして体制を入れ替えて日本人選手が下になり、マウントポジンションを取る形でジャミラがその上に乗っかった。さすがはジャミラ、寝技になればジャミラに分があると私は思っていた。

 ジャミラはそのまま両手で日本人選手の両襟をつかみ、十字締めの体制になった。ジャミラの怪力が日本人選手を締め上げる。このまま決まれば日本人選手は失神し、ジャミラは一本勝ちを収めるだろう。

「ジャミラ頑張れ!」

 私は思わず大きな声を出した。日本人選手がもがく。

 しかし、日本人選手の身体能力は想像以上だった。ジャミラに締め上げられながらもブリッジでジャミラの巨体を押し上げ、そのまま立ち上がったのだ。主審が「待て!」の声を掛ける。

 試合は中断し、二人は引き離され、もう一度正面で向き合って、主審の「始め!」の合図で試合が再開された。

 再び二人が組み合う。再びジャミラは日本人選手をぐいぐいと押す。すると、ジャミラに一瞬の隙ができたのだろう、日本人選手はそれを見逃さず、ジャミラの体制を崩すと払い腰を掛けてみせた。

 ジャミラの巨体が宙を舞い、背中が青畳にドスンと落ちた。

「一本それまで!」

 右手を挙げた主審の声が虚しく響いた。

 ジャミラが敗れるのを見るのはこれが初めてだった。一瞬のことで何が起きたのかすぐには分からなかった。

 しかし、ジャミラはすぐに起き上がり、対戦相手と向かい合い、一礼し、それから歩み寄って握手した。会場には拍手が鳴り響いた。私は手を叩くことができなかった。

 

 その日の夜、寝る準備をしていると父がやって来て不意に来客を告げた。ジャミラが来ているという。

 私はパジャマのまま玄関に出た。そこにはジャミラが立っていた。手には道着を持っている。

「やあ、アラン」

 ジャミラは先ほどの決勝戦が嘘のように、気さくに声をかけた。

「ジャミラ・・・、残念だったね」

 私は何と言ったら良いか分からず、取り敢えずそう言った。

「何が残念なものか。僕は世界で二番目に強いことが証明されたんだぞ」

 背の高いジャミラは私を見降ろして力強く言い、続けた。

「マスコミにも言われたよ。残念だったと。決勝に負けたからか?でもそれはちょっと違うんじゃないかなあ。僕はいつも思うんだけど、決勝に負けた銀メダリストよりも、三位決定戦に勝った銅メダリストの方が喜んでいるのはおかしいと思う」

 世界で二番目に強いと言われればそのとおりだ。そんなジャミラを見て私は苦笑した。

「そうだね。ジャミラの言うとおりだよ。銀メダルおめでとう」

「ありがとう。最初からそう言ってくれれば良いんだ。ところでアラン」

「うん」

「今、暇かな?」

「まあ、もう寝ようと思ったところだから暇かと聞かれれば暇だよ」

 聞いたジャミラはニヤリと笑った。

「ではアラン、眠いところ申し訳ないのだけれども、ちょっと僕に付き合ってもらえないかな?稽古をつけてやろう」

 そう言ってジャミラは持ってきていた道着を上に挙げてみせた。

「稽古って、今から?」

 私はビックリして聞いた。もう夜の遅い時間だ。

「明日、パリを発つ予定なんで今しかない」

「どこでやるの?」

「どこって、いつもの警察署の道場だよ。警察署は二十四時間営業さ。いつだって開いている。それにアランも僕もあそこの警察署はフリーパスだろ?警備の当番が誰であれ、絶対に顔見知りだし、事情を話せば開けてくれるよ」

 夜の遅い時間だったが、これが最後かもしれないということが私を動かし、私は着替えてジャミラと一緒にパリ第〇〇分署に移動した。

 

 道場でジャミラと私は向かい合い、一礼した。そして組み合った。時間はもうすぐで日付が変わるような時間だった。

「どうした、もっと技を掛けて来い」

 ジャミラが私を叱責する。しかし、ジャミラが相当手加減しているにもかかわらず、私はなかなか技を掛けることができなかった。

 ジャミラが何度かわざと隙を見せてくれ、ようやく私は背負い投げを掛けることができた。ジャミラは自分の脚力でわざと跳んでみせたようだった。

 ジャミラの巨体が私の目の前にドスンと落ちた。

「一本取られたな」

 ジャミラが笑って言った。

「取られたんじゃなくて、取らせてくれたんでしょ?」

 言うとジャミラはさらに笑った。

 ジャミラが仰向けになったままなかなか起き上がらないので、私もジャミラの隣で仰向けになり、二人で天井を見つめた。

「次はオリンピックだね。次こそは金メダル取れるんじゃないかな。今回も接戦だったんだし」

 私は新聞記者のようなことを言った。しかし、私の意に反し、ジャミラは首を横に振った。

「いや、オリンピックには行くつもりはないよ」

 聞いた私はビックリした。世界選手権準優勝のジャミラが近々開催されるオリンピック夏季大会の代表に選ばれるのに疑問の余地はない。そもそもX国の選手層は厚くはないし、出場すれば今度こそ金メダルだろう。

「なんで?」

 私は疑問を呈さずにはいられなかった。

「期待してくれるアランには悪いんだけど、残念ながら次はない」

「次はない?」

「そう。今日の試合は、実は僕の引退試合だったんだ」

「なんでまた?まだまだやれるじゃないか」

 私は驚きを隠せなかった。今さっき、世界選手権で銀メダルを取ったばかりなのだ。

「今まで黙っていたんだけど、実はX国で人間衛星を打ち上げる計画があるんだ」

「人間衛星?」

「まあ、宇宙ステーションを小さくしたようなものだ。それで、色々なことを実験したりするんだけど、その打ち上げロケットに僕の開発した技術が使われている。普通、開発者は裏方で、自らロケットに乗り込むことはあり得ないんだけど、僕は若いし、体力もあるし、宇宙の過酷な環境にも耐えられるだろうということで僕がパイロットに選ばれたのさ」

「宇宙に行くの?」

「そう。僕のもう一つの夢が実現するわけだ」

「確かに、宇宙に行くのはジャミラの大きな夢の一つなんだろうけど、オリンピックでの金メダルも夢じゃなかったのか?」

 私はジャミラに詰問するように聞いた。

「駄目か?」

 私が詰問調だったことを感じ取ったのだろう。私の質問をジャミラは否定と感じ取ったようだった。

「駄目って訳じゃないけど、ジャミラはてっきりオリンピックに行くと思ってたから」

「確かにオリンピックのメダルは夢さ。でも宇宙とは天秤にかけられない。かけるべきでないし、かけたくもない。アラン、よく考えてみろ。オリンピックのメダリストなんて世界中にどれだけいると思う?しかし、宇宙飛行士の数はそれよりはるかに少ない。その中に仲間入りできるんだ。どちらかを選べと言われればそっちを選ぶさ。だからもう次はない。再び柔道着を着ることはあるかもしれないけど、それは楽しい趣味のためであって、本気の勝負はこれで終わりさ」

「これからどうするの」

「詳しいことは秘密事項でもあるのでしゃべれないこともあるんだけど、X国の宇宙局で勤務することになる。そこで宇宙飛行士になるための訓練を受ける」

「訓練って、X国内で?」

「そう。訓練施設は首都から随分と離れたところにあるんだけど、X国自慢のロケットの発射台の近くにある」

「じゃあ、家を離れてそこに泊まり込んで訓練を受けるんだね?」

「そのとおり。発射台はX国の最南端にあるんだけど、まあ、これはX国に限らないんだけど、大抵の国でロケットの発射台はその国の一番南の場所に作られている。なんでだか分かるかな?

 私は首を捻ったが良く分からない。

「暖かい地域の方がロケットの燃料がよく燃えるとか?」

「違うなあ。全然違う」

「では、大気が薄くて抵抗が少ないとか」

「おお、近付いてきたぞ。物理的な理由があるのはその通りだ」

「物理的な理由?」

 私は再び首を捻った。

「降参かな?」

「うん」

 そんな私を見てジャミラは笑った。

「ロケットを打ち上げるためにはものすごい推進力が必要になる。とにかく地球の重力はすさまじいから、これを振り切るためにはものすごいスピードが必要になるわけだ」

「うん」

「だけどロケットに積める燃料は限られている。だから利用できる力は何でも利用しようということを技術者は考えるわけだ」

「利用できる力?」

「そうだ。地球には確かに重力が働いてはいるけど、一方、地球は自転しているから遠心力も働いている。この遠心力を最大限に利用しようとするわけだ」

 そう言われて僕はもう一度首を捻った。

「遠心力っていっても地球は一日一回転でしょ?大した力にはならないんじゃないのかなあ」

「そう思うだろ?僕も最初はそう思っていた。ところが遠心力は重力の三百六十分の一もあるんだ。三百六十分の一なんて大したことないと思うかもしれないけど、宇宙へ出発するにはこんな力でも有効活用したい。遠心力を最大に利用するためにはなるべく赤道に近いところから地球の自転の方向に向かって飛ばすということになる」

「じゃあ、しばらく会えなくなるね」

「詳細はまだ決まっていないけど、訓練期間も含めると十年は会えないかな。しばらくはフランスにも行かれないけど、帰還したらまた会おう」

 私は複雑な気持ちになっていた。ジャミラの夢が叶うのは無論うれしいはずである。しかし、ジャミラが遠いところに行ってしまうのは寂しいことだった。このままジャミラと一緒に青畳の上で眠ってしまいたかった。

 帰還したら再会する。この約束は数十年後に残酷な形で実現することになる。

 

 ジャミラがX国宇宙局の正式メンバーとなり、宇宙飛行士としての訓練を受けるようになった頃、X国とフランスの関係は友好とは言えないものとなっていた。

 それから随分と時間は流れ、私は中学生になったが、まだ少年の私がX国に旅行することは難しく、ジャミラのフランス訪問も簡単にはできなかった。

 ジャミラ自身も宇宙に行く準備のため忙しいようで、電話や手紙や他の通信手段を使っても、私と連絡を取ることは難しくなっていた。

 それでもX国が人間衛星を打ち上げるニュースはフランス国内でも比較的大きな規模で報じられていた。X国としては国の威信を賭けたプロジェクトだったのであり、積極的に情報を提供していたのだと思う。打ち上げの日や搭乗者がジャミラ一人であることはフランスのメディアでも報道されていた。

 私はもちろんジャミラの宇宙行きについては恐らく最も興味を持っているフランス人だったので、専門の雑誌なども図書館で読み、X国の人間衛星プロジェクトには注意を払っていた。

 そして私が中学校に進学した翌年の✕✕✕✕年✕月✕日にジャミラのロケットは地球を発つこととなった。

 ロケット打ち上げはX国ではビックイベントでその日は国を挙げてのお祭り騒ぎになるのだろうが、フランスにとっては他国の、しかも科学技術の小さなニュースに過ぎない。今さらロケットの打ち上げなど珍しい話でもなかった。

 私はテレビや新聞の報道に注視していたが、打ち上げの瞬間そのものをこの目で確かめることは諦めていた。

 ジャミラのロケットが発射する日の午前六時ちょうど、私の家の電話のベルが鳴った。私はちょうど朝食の支度をしているところだった。父は夜勤のため家にはいなかったので私が受話器を取るしかなかった。

「もしもし」

「アラン、僕だ。ジャミラだ」

 私はビックリした。これから宇宙に飛び立とうとする飛行士から直接、電話がかかってくるなど、ありえない話だ。

「ジャミラ!今日、打ち上げじゃなかったのか?」

私はとっさに、ロケットの打ち上げが延期になったのではないかと思ったが、そうではなかった。

「そうだ。まあ、正確にはこちらの時間で明日、打ち上げということになるけど、これから打ち上げだということは間違っていない。そして、これが僕の最後のプライベートな時間さ。最後に、アランに『行ってきます』を言っておこうと思ってね。この時間なら君は間違いなく家にいると思ったし、もう起きているはずだと思ったから」

 ジャミラは出発前の緊張を微塵も感じさせることなく、いつもと同じように言った。

「ありがとう、ジャミラ」

 私はジャミラの心遣いがうれしかった。

「ただ、こっちはそっちと違って早朝じゃない。これからひと眠りしてから最終的な打ち上げ準備にかかる」

「うん」

「ミッションは三年の予定だ。だから三年は会えないかな」

「随分長いね?」

「そうでもないよ。火星に行くにしても往復で三年くらいはかかるはずだ。月はもっと近いけどね」

「それにしても長過ぎない?三年間、宇宙船の中で一人ぼっちなんでしょ?地球上でだって三年間も一人ぼっちじゃ辛いんじゃないの?」

「まあ、それは宇宙飛行士の宿命だな。でも地球上でだって、大航海時代とかは三年くらい船の中ってのはあったんじゃないのかな。まあ、今は無線もあるし、完全に一人というわけでもないよ。むしろ、始終、宇宙局に監視されているということだ。僕のメディカルデータを含めてね」

「へえ」

「それにこれはあくまでも計画であって、もちろん宇宙に行くのだから想定外のことは必ず起こるはずで、計画通りには行かないとは思う。長くなるかもしれないし、短くなるかもしれない。でも、必ず帰還するからまたパリかどこかで乱取りしよう」

「大丈夫かな。事故とか起きなきゃいいけど」

 私はか弱い声で言った。

「ハハハ。確かに僕も事故は怖いよ。事故も色々なレベルのものがあるけど、例えば宇宙船ごと爆発してしまったら助からないよな。それは宇宙船に限らず、飛行機や自動車だってそうだ。しかし、それは心配していない。僕が設計したんだ。僕が設計したは言い過ぎだけど、僕が設計に参加したんだ。そんなへまはしないよ」

「だと良いんだけど」

「後はコンパスを失って漂流してしまう危険があるかもしれない。動力を失った船が潮に流されるようなものだ。しかし、これも実は大丈夫な仕掛けが作ってあるのさ」

「仕掛け?」

「そう。ロケットの設計は最重要機密なんだけど、ちょっとだけばらすと、遭難しても、それこそ無線や電気系統がすべてダウンしても僕を探し出せる工夫がしてあるんだ」

「へえ~、それもジャミラが作ったの?」

「僕はアイデアを出しただけで実際に作ったのは他の技術者さ。どうすると思う?すべてがダウンしても僕を探し出すって」

「レーダーとかで捕捉するとか?」

「う~ん、惜しいな。レーダーはいくら何でも遠過ぎるし、宇宙の大きさに比べて宇宙船は小さ過ぎるから無理だ。フットボールコートの上に落としたコンタクトレンズを探すよりも難しいだろう。実はね、遭難したら宇宙船からある周波数の電波を出し続けるんだ。どれだけ離れていても確実にキャッチできるような電波をね」

「電波?」

「そう、電波だ。この発信機がなかなかのモノで、鉱石ラジオは知ってるかな?」

 鉱石ラジオと言われて思い当るものはあった。科学雑誌で鉱石ラジオを作る記事を読んだことがあり、それを覚えていたのだ。鉱石ラジオは無電源でも聞くことができるラジオだ。

「雑誌で読んだことがある」

「じゃあ、話が早いな。その鉱石ラジオの原理を応用して、ある特定の周波数の電波を出し続けるんだ。規則正しく、それこそ何万年もね」

「じゃあ、遭難してもジャミラのことは絶対に探し出せるね」

「そうだね。もし地球人に見捨てられても、他の遊星人が見つけてくれるかもしれない。もっとも他の天体の生命体が僕の宇宙船を発見する頃には僕の寿命はとっくに尽きているだろうけどね。とにかく宇宙では何が起こるかは分からない。だからアランと話ができるのもこれが最後かもしれない。でも、小さい事故は起きるかもしれないけど、生存を揺るがすような大きな事故は起こらないと思うよ。なんと言ってもこのロケットは僕が作ったんだからね。作った本人が信頼しないと始まらないよ。じゃあそろそろ時間なんで。帰還したらまた連絡する」

「良い旅行を」

「ありがとう」

 ジャミラがそう言って電話は切れた。思えばこれがジャミラと私の最後の会話だった。

 次の日の朝刊にジャミラの乗ったロケットの打ち上げが成功した記事が載っていて、さらに数日後、予定の軌道に乗ったことも報道された。

 



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四 遭難

 ジャミラが出発してから三ヶ月、何もかもがうまく行っているように思え、私も安心していた。そして、その頃は自分の進路について警察官を捨て、宇宙飛行士を目指すのも悪くはないかもしれないなどと考え始めていた。すべてが平和だった。しかし、その平和な日常はもろくも崩れ去った。

 母を失った官舎での爆弾テロ事件と同じように、それはまた突然やって来た。

 私がそれを最初に知ったのは臨時ニュースを伝えるテレビのテロップだった。

 どの番組を見ていたのかはもう思い出せない。刑事もののドラマか何かだったように記憶しているのはそのときの映像が、誰かが誰かにピストルを向けているシーンだったからだ。あるいはマフィアの活躍を描いたアクション映画だったかもしれない。ただ、そのシーンは思い出せるのものの演じていた役者が誰だったかはもはや思い出せない。

 

「X国の人間衛星が宇宙空間で爆発したとX国宇宙局が発表」

 

 それを見た瞬間、私の頭の中は真っ白になった。

 それからニュース番組を見るためにチャンネルをあちこち変えたがなかなかニュース番組にはたどり着けず、たどり着いても国内の事件とかを取り扱っていて人間衛星の事故を扱ってはいなかった。ようやく人間衛星爆発のニュースにたどり着いても扱いは小さかった。一番最初の臨時ニュースのテロップ以上のことは分からなかった。

 

「X国の人間衛星が空中分解」

 

 翌日の新聞では、一面ではなかったが、国際面の割と大きな記事としてジャミラの遭難が取り扱われていた。突然、ジャミラの乗る人間衛星との通信が途絶え、レーダーでも捕捉できなくなったという。無線機の故障とかではなく、人間衛星そのものが忽然と消えてしまったのだ。

 原因は不明とされ、隕石との衝突との憶測が記事の中では書かれていた。宇宙船ごと爆発してしまったら助からないと出発前、ジャミラは言っていた。

 父ももちろんジャミラの遭難には興味を持っていて、色々な所から事実関係を確認していたが、報道以上のこと、すなわち隕石か何かに衝突してジャミラの乗った人間衛星は木っ端みじんに吹き飛んだこと、ジャミラは助からないこと、そして私はもう二度とジャミラに会うことができないこと、そういう悲しい事実しか分からなかった。

 それから何日もの間、私はパリ市内の比較的大きな図書館に通い、情報を集めたが目ぼしいものは見つけられなかった。

 ジャミラが客員研究員として通っていたパリ市内の研究所にも行ってみた。この研究所は余程の機密事項を扱っているのか、ジャミラの元上司や元同僚に会うことは元より、受付を突破することすら難しかった。結果、受付の職員とさんざんもめた上、すごすごと引き下がるしかなかった。

 研究所を出ると「ちょっと、君、君!」と後ろから誰かを呼び掛ける男の声がした。最初はその声が自分に向けられているとは思わなかったので無視していたが、どうも自分に向けられているようだったので振り返るとスーツにネクタイ姿の若い男が手を振り、小走りで近寄って来た。

「君、今、ジャミラのことを聞いていたね?」

 男は挨拶もせずにいきなり言った。私は二十代であろう若い男を睨み付けた。私の顔が怖かったのか、男は少し恐縮したような表情になった。

「ゴメンゴメン。いきなりだったかな。僕は△△△△紙のX国特派員でAというものだ」

 A記者はそう名乗ると顔写真のついた身分証明書のようなものを私に見せた。私はそのIDカードらしきものを一瞥し、さらに何度か写真の顔と実物とを見比べた。端正な顔立ちで、さぞかし女性にモテるのだろうなと思った。

 △△△△紙といえばフランスを代表する新聞社だ。

「僕は今、ジャミラの乗った人間衛星の遭難について調べているんだけど、君もジャミラのことを調べているのかな?」

 A記者が私に尋ねた。

「・・・ええ。ジャミラとは・・・、親友だったので」

「ジャミラと親友?」

 A記者は怪訝な顔をした。確かに私はフランス人の中学生で、X国の宇宙飛行士であるジャミラとは普通結びつかない。

「ジャミラは僕の家に下宿していたんです」

 私が言うとA記者は納得したようで微笑んだ。

「そうだったのか。パリに三年間留学していたことは聞いていたけど、下宿先までは知らなかったな。そっちから攻めれば良かったなあ。ねえ、ジャミラの話、聞かせてもらえないかな?」

「・・・・・・」

 私は警戒したのか何も言えなかった。

「もちろん、僕の持っている情報で提供できるものは提供するよ」

 そう言われて私もうなずいた。正直、ジャミラの情報であればどんな小さな情報でも欲しかった。というより、誰かとジャミラの話をしたかったのだ。二人は近くのカフェに移動した。

 

「一体何があったんですか?新聞は隕石にぶつかったと報じていますが」

 パリ市内のどこにでもあるようなカフェの奥の方の席でジャミラとのパリの思い出を一通り話し終えた後、私は熱心にメモを取っていたA記者に尋ねた。A記者の前にはカフェボウルが、私の目の前にはオレンジジュースの入ったグラスが置かれ、グラスにはストローが刺さっている。

「それも憶測で、実際のところは良く分からないんだ。突然、ジャミラの乗る人間衛星との通信が途絶えた。本当に、なんの前触れもなく、突然だった。宇宙船の故障とか、そうであれば爆発するにしても異常発生から爆発するまで少しは時間があるはずだ。だから宇宙局は隕石との衝突だと、・・・あるいは・・・」

「あるいは?」

「あるいは、宇宙ゴミとの衝突とか」

「宇宙ゴミ?」

「古くなって使われなくなった人工衛星とかロケットの残骸とかの破片さ。そういう宇宙ゴミはそれこそ数えきれないほどある。宇宙ゴミが宇宙ゴミと衝突してさらに大量の宇宙ゴミになることもある。もちろん広い大宇宙からしてみればちっぽけなもので、そんな宇宙ゴミと衝突する確率なんて二回連続で宝くじの一等賞を取る確率より低いのだろうけど、しかし、もしぶつかってしまったらその衝撃ははかりしれない。それこそ宇宙ゴミは弾丸よりも早いスピードで飛んでいるからね。小さなものでも当たり所が悪ければ木っ端みじんに吹き飛んでしまう。昔、第二次世界大戦中にアメリカの空母リスカム・ベイが日本の魚雷一発を受けて木っ端みじんに吹き飛んだことがあるんだけど、魚雷一発で空母が木っ端みじんってことは、普通はない。ただ、そのときはたまたま弾薬庫に命中してしまったんだな。だから豆粒ほどの宇宙ゴミでも打ち所が悪ければ木っ端みじんということはあり得ない話じゃない」

「実際のところ、隕石にせよ、宇宙ゴミにせよ宇宙船と衝突するなんて、そんなことあり得るんですか?」

「あり得るかと言われれば隕石とぶつかる可能性だってあり得ないほど低いよ。例えば今から六千万年前、ユカタン半島に隕石が衝突して恐竜が絶滅したほどの深刻な影響を地球に与えたと言われている。地球は巨大な物体だけど、その巨大な地球に隕石がぶつかって生態系に壊滅的な打撃を与えるのだって数億年に一度起こるか起こらないかだ。宇宙からしてみればジャミラの人間衛星もけし粒も大きさに大した違いはない。無限の宇宙に比べれば問題にならないほど小さいという点では同じだ。そんなものに隕石にせよ、宇宙ゴミにしろぶつかる確率なんて本当に低いのだろう。重力があって、お互いに引き合うかもしれないけど、それも宇宙規模で考えれば無視できるレベルだ。もちろん小さな塵がぶつかる可能性はもっと高いけど、それは宇宙船の生存に影響を与えるほどではないはずだ」

「ではジャミラは本当に運が悪かったと?」

「他に理由があるのかもしれない。例えば・・・」

 A記者は言い淀んだ。

「例えば?」

 私は先を促した。

「X国のやっていたことが全部、作り話だったとかね。昔、こういうアメリカ映画を観たことがあるんだ。観たのは随分と前の話だから記憶が曖昧なんだけど、NASA、・・・分かるよね?」

「ええ、アメリカ航空宇宙局ですよね?」

「そう。そのNASAが火星に有人ロケットを飛ばすんだ。いや、正確には飛ばそうとするんだけど、失敗が重なって計画どおりにことは進まない。このままではNASAの予算が削られてしまう。それでNASAは乗組員と共に火星往復の芝居を演じるんだ」

「芝居、ですか?」

「そう。芝居だ。実際には火星には行っていないのに火星に行ったことにするんだ。そして、マスコミとかには火星に到着したと発表して、その映像も特撮で作って、国民もだましていく」

「最後はどうなるんですか?」

「最後はハッピーエンドが予感されて物語は終わるんだけど、似てると思わないかい?ジャミラは人間衛星として宇宙に行ったことになっているけど、それを本当に検証できているのはX国のそれもごく一部の人間だけだ。多くの人、マスコミ関係者の僕にしたってX国の宇宙局が発表していることを信じさせられているに過ぎない。確かにロケットの発射映像は見たし、NASAとかX国以外の機関もロケットの発射を確認したけど、あのロケットに本当にジャミラが乗っていたのかどうかまでは確認できていない。X国の発表を信じているだけだ」

 A記者はそう言うと強いまなじりを私に向けた。

「・・・じゃあジャミラはまだ生きているかもしれないと」

 私が言うとA記者は首を横に振った。

「そこまでは言ってないけど、とにかく隕石に衝突する可能性は、さっきも言ったように驚くほど低い。そうすると人為的な別な何かがそこにはあって、それが案外真実なような気が僕にはするね」

 A記者はそういうとカフェボウルに手を付けカフェオレをごくりと飲んだ。

「別な何かってなんですか?」

「さあ、今はまだ分からない。本当にジャミラは宇宙に行っていて、爆発事故に遭遇したのかもしれないし、あるいはジャミラが宇宙に行ったこと自体が嘘で、X国が宇宙開発競争を有利に進めるために芝居をしているのかもしれない」

 そこまで言われて私はふとジャミラが言い残したことを思い出した。

「・・・特定の周波数の電波は受信されたんですか?」

 私は少し前かがみになってA記者に尋ねた。

「特定の周波数の電波?」

 A記者はピンと来なかったようで、カップを置きながらA記者が逆に質問した。

「人間衛星が遭難したときに発せられる特殊な電波です。ご存知ないですか?」

「それは初耳だな。詳しく聞かせてもらえるかな」

 A記者も少し前かがみになって眉をひそめた。

「ジャミラの人間衛星には無線や電気系統がすべてダウンしてもジャミラの存在が確認できるように、特定の周波数の電波を発し続ける仕組みが組み込まれています」

「どうしてそんなことを知ってるんだ?」

 驚いたA記者がさらに前かがみになった。

「ジャミラに直接聞いたんです。出発直前にジャミラが僕の家に電話を掛けてきたんですけど、その時こっそり教えてくれました。機密事項だけど少しだけばらすと言って」

「そうか。それでその装置はどんな仕組みなんだ?」

 A記者のメモを取る手が動く。

「詳しくは知りません。鉱石ラジオの原理で、無電源でも特定の周波数の電波をそれこそ何万年でも出し続けることができるそうです。地球人が見失っても他の遊星人が見つけてくれるくらい長期間に渡って」

 A記者はメモを取り終わると一つ大きく息を吐いた。

「そうか。その話は知らなかった。近いうちにX国に戻るから、戻ったら宇宙局に聞いてみよう。もちろん、君に聞いたなんてことは内緒にしておくよ」

「よろしくお願いします。それと、その他にもジャミラのことで何か分かったら教えてください」

 私が言うとA記者は笑顔でうなずいた。

「もちろんだよ。今日は貴重な話を聞かせてくれてありがとう。しばらくは△△△△紙の本社にいるのでまた何かあったら教えてね。電話でもいいから」

 そう言ってA記者は開いたメモ帳にペンを動かすとちぎって紙の切れ端を私に渡した。メモ書きには電話番号が書かれていた。

「じゃあ僕は次があるのでこれで」

 A記者は右手をさっと上げると伝票を取り、勘定を済ませて去っていった。

 結局、私はメモ書きの電話番号に電話することはなかった。

 それからしばらく私はX国からの外電に注目した。しかし、ジャミラの生存についての価値ある情報は得られなかった。

 X国ではジャミラのために国葬を執り行い、ジャミラには国家最高の名誉勲章が与えられた。ジャミラはX国の英雄となった。

 

 ジャミラがいなくなってから一年が経過しても私のジャミラの記憶は薄れることがなかった。

 そんなある休日、私が家の自分の部屋でテレビを見ていると父が入ってきて来客を告げた。私にお客さんが来ているという。

 居間に出向くとA記者がソファに座っていて、私と顔を合わせると「こんにちは」と笑顔で言った。

「Aさん!何か分かったんですか?」

 A記者が私を尋ねてくるということはジャミラのことで何か進展があったのだ。

「いや、ジャミラのお母さんからこれを預かって来てね」

 弾む私の声とは裏腹に、A記者は冷静にそう言って私の目の前にリュックを置いた。リュックには大きく、水兵をモチーフにした制服を着た女子中学生戦士の絵が描かれている。A記者が続けた

「中も見てご覧」

 言われて私は黙ってリュックを開けてみた。リュックの中にはカップとかタオルとかTシャツとか、少女達のキャラクターグッズが色々入っていた。私はそのうちの定規を手に取り、しげしげと見つめた。

「これは?」

 私は顔を上げてA記者に聞いた。

「君はこのキャラクターが好きなんだろ?」

「ええ、まあ」

 父の手前、私は少し控えめに肯定した。

「ジャミラが宇宙局に行く前に身の回りの整理をしたんだそうだ。その時、ここにあるものはもう要らないだろうとジャミラのお母さんが捨てようとしたんだけど、ジャミラがストップをかけた。自分はもう要らないけど、フランスの下宿先の少年がこのキャラクターのファンなので今度会ったときに渡したい。だから取っておくようにって言われたそうなんだ。既に知っているとおりもうジャミラはいない。しかし、ジャミラのお母さんはどうしてもその少年にこのジャミラの形見を渡したくて、取材で尋ねた時に僕がフランス人だということで託されたんだ。それで今日、こうしてやって来たというわけだ」

 言われて私はもう一度、手元の定規をしげしげと見つめた。ジャミラとの思い出が蘇ってくる。

「君はもう中学生のようだからこんなアニメにはもう興味はないかな?」

 A記者が言った。

「いいえ。そんなことありません。ありがとうございます。ジャミラのことを思い出します。本当に涙が出るくらいうれしいです」

 それは決して大袈裟ではなかった。本当に目を潤ませていた。

「それで、ジャミラの真相はどうだったのですか?こっちではあまり情報が入ってこないもので」

 隣に座っていた父がA記者に聞いた。

「X国も結構、秘密主義なところがあって、中々真実に迫るのは難しいです。爆発の原因は依然不明ですが、どんなに調査を尽くしても結局、誰も分からないのではないでしょうか。ジャミラはもうこの世にはいないわけですし、誰もその瞬間を目撃しているわけではない。動画はおろか、静止画すらない。電波のキャッチすらない。やはりここは隕石の衝突というX国の公式発表を信じるしかないのでしょう」

 私はA記者の話を静かに聞いていた。危険なことは分かっていたはずだ。それを承知でジャミラは挑んだのだ。だから、このような結果になっても仕方ないのかもしれない。

 しかし、私はこの結果を素直に受け入れることはできなかった。ただ単に子どもっぽかっただけなのかもしれない。

「それと、特定の周波数の電波のことなんだけど」

 A記者に言われ、私はハッとした。

「・・・何か分かりましたか?」

「何か分かったかと聞かれると何も分からなかったという答えになる。X国宇宙局の色んな人に聞いてみたけど、『そんなものはない』と言われただけだった」

「まさか」

「君がジャミラから聞いたというのは本当なんだね?」

「もちろんです。電話口でしたけど、確かにこの耳で聞きました。間違いありません」

 私は強い口調で訴えた。私が嘘をついていると思われてはたまらない。A記者は一つ大きく息を吐いた。

「もちろん僕は君を疑っているわけじゃない。君が嘘をついているとは思わない。もし、嘘をついているとしたらジャミラ本人だけど、ジャミラ本人が嘘をつくとも思えない」

「どういうことなんでしょう?」

 私は首を捻った。

「まあ、宇宙局が総がかりで口裏を合わせているってことかな。あくまでも推測だけどね。宇宙局で一人だけ、これは結構偉い人だったのだけど、『誰に聞いたんだ?』と難詰してくる人がいた。だからジャミラ本人から聞いたと言ってやった。そうしたらその偉い人は『そんな事実はない。ジャミラの作り話だ』と顔を真っ赤にして怒っていたけど、隠し事をしているってことが見え見えだったな」

「では、やはり装置は存在したと・・・」

「僕はそう思っているけど、なぜX国がそれを隠すのかは分からない。あるいは単に重大な宇宙開発上の機密事項でジャミラの遭難とは関係ないのかもしれない」

 A記者は静かに説明した。

 A記者の突然の来訪とプレゼントはグッドニュースではあったけれども、結局、真相は闇の中であった。

 A記者は用件だけをすませてすぐに帰り、私は自室にこもってジャミラの形見と向き合った。ペンやペンケース、下敷き、ハンカチ、弁当箱、色々なものが入っていた。

 その後、ジャミラのニュースがフランスで報道されることはほとんどなかった。まだ、国際間の緊張関係が残っていた時代だったし、実際、新しいニュースは何もなかったのだろう。

 私は、いつかはX国を訪れ、ジャミラの墓前に手を合わせたいとそう思っていた。

 



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五 科学特捜隊入隊

 ジャミラがいなくなってからの私の人生はありきたりのつまらないものだったのか、あるいは波乱万丈に満ちたものだったのか、順風満帆だったのか、逆風での航海だったのか、充実したものだったのか、空虚なものだったのか、私には分からない。恐らくそれはこの物語を読む歴史家が判断することなのだろう。

 ジャミラを失った私はどちらかというと内向的な少年になった。幼馴染とはつるんで遊びに行くこともあったが、積極的に新しい友達を作ることはなく、声を掛けられれば返事をする程度の付き合いをした。友達と呼べる存在はいたし、誘われれば遊びにも行ったが、自分からは誘うことも企画することもなかった。

 柔道をする以外は家に一人でいることが多くなり、必然的に日本のアニメを見て過ごす時間が長くなった。そのため日本語の能力は格段に向上し、高校生の頃には日本大使館主催の日本語弁論大会で優勝するまでになった。日本に行きたい気持ちはより強くなった。

 柔道の方もメキメキと力をつけたが、こちらはジャミラのようにヨーロッパチャンピオンとはいかなかった。フランス国内の大会では第三位になったこともあるのでそれなりの実力だったとは思う。しかし、それが頂点であり、フランス代表になるレベルではなかった。もっともパリの警察署の道場では無敵であり、高校生の時には既にフランス警察の屈強な警察官と互角、あるいはそれ以上のレベルだった。

 

 高校生が終わりに近づくと進路の問題に直面する。私はジャミラへのあこがれがあったのでロケット工学を専攻し、宇宙飛行士の道を進もうかと一瞬思ったが、すぐにそれは諦めて、既に敷かれているレール、すなわち警察官への道を歩むべき法社会学を専門とすることとなり、大学に進んだ。

 少年の頃、宇宙飛行士を夢見ていたのは事実である。小さい子どもに将来なりたい職業のアンケートを取ると、恐らく芸能人やプロスポーツ選手が上位を占めるのだろうが、警察官や宇宙飛行士も上位に食い込むだろう。それ程、警察官や宇宙飛行士は、特に男の子にとっては憧れの職業である。これはテレビドラマや映画、あるいは小説で警察官や宇宙飛行士が活躍する物語の影響を強く受けているのだろうと推察する。

 しかし、実際に働いている警察官と宇宙飛行士を比較するとその差は歴然である。

 宇宙飛行士を職業としている人は指を折って数えられるくらいだ。一方、警察官はそれこそフランス国内だけでも何万人といる。宇宙飛行士を職業とすることがいかに困難なことかは少し年齢を重ねれば容易に分かることだ。

 結局、宇宙飛行士をその職業とすることのできる人は明晰な頭脳と強靭な肉体を兼ね備えた一握りの人物、例えて言うならばロケット工学の博士号を持ち、柔道のヨーロッパチャンピオンでもあったジャミラのような人しかいないということだ。

 私にはもう一つ、柔道を専門とする道もあるにはあった。事実、いくつかの体育系の大学からは誘いがあったし、父からフランス警察の柔道師範になることを勧められたこともある。しかし、これはかなり早い段階でそぎ落とされた。私はそれ程柔道が好きではなかったのだ。日本に留学するためのアイテムくらいにしか考えていなかった。

 本当に柔道が好きでそればかりやっていればそれこそオリンピックのメダリストくらいにはなれたのかもしれない。特に熱心に稽古をした記憶はないのにパリでは無敵で、フランス全国大会でも三位に入ったのだから。

 このように私の日本文化に対する興味の中心はアニメであって柔道ではなかった。

 法社会学を専攻したのは単純に日本に留学するためである。テーマは日本の司法制度である。日本留学と警察官の二つを両立させるためにはこれ以外の専攻は考えられなかった。

 日本に留学するためにはもちろん日本でしか勉強のできないことをテーマにしなければならない。かといって警察官になるためには日本史や日本文学、雅楽、日本画などでは駄目なのであり、必然的に日本の司法制度を研究の拠り所とすることとなった。

 通常、留学する場合、留学は手段であって研究が目的なのだろう。しかし、私の場合は留学が目的であり、研究は手段に過ぎなかった。

 大学でも私は学業と柔道に励み、四年生が終わる前には官費留学の資格を得ることができた。日本は諸外国と異なり、学暦が四月からスタートするので私は大学を四年生の三月に繰り上げ卒業した。そして、日本の最高学府である東京大学大学院修士課程に入学することとなり、パリを離れた。

 

 日本での生活は素晴らしいものであった。異文化に触れるというのはこういうものかということを実感させられた。私が日本を訪問することにより、しかも、単なる観光のための短期間の滞在ではなく、二年間もの間どっしりと腰を据えて勉学に励んだことにより私の国際感覚は確実に研ぎ澄まされた。

 その国際感覚は後年、国際科学警察機構で勤務する際、特に対宇宙人との交渉の際にも大いに役立った。

 日本でまず驚かされたのは、国際空港から都心へ向かう電車の中での出来事だった。東京は国際空港が東京ではなく隣の県のしかも都市部からは大きく離れたところにある。そのため、空港アクセスは悪く、都心から最速でも一時間くらいかかってしまう。国際空港に降り立った私は空港アクセスの中でも便利の範疇に入れられている急行電車で都心を目指した。

 事件は私がそのアクセス急行を降りる東京駅に到着する直前に起こった。私の乗ったアクセス急行は東京駅への到着が一分遅れてしまっていたのだ。そんな一分の延着など、指摘されても気付けないものである。ところがそのアクセス急行の車掌はその一分の延着を、車内放送を通して公式に謝罪したのだ。

 私は乗り合わせたアクセス急行の車掌がたまたま奇特な人物なのだとその時は思ったものだ。しかし、同様の謝罪は他の電車でも繰り返し行われたのである。

 それだけではなかった。私はある日、東京教育大学(訳注:原文のママ。ビロッツ氏が日本に留学していた頃、既に東京教育大学は筑波大学になっているはずで、東京教育大学という表記は氏の誤解だと考えられる。)のあるつくば市に行く用事があり、秋葉原駅をターミナル駅とするつくばエクスプレスに乗車した。そしてそのつくばエクスプレスがとある駅を二十秒早く発車してしまうという事件にも遭遇したのだ。もちろん、その電車がスケジュールよりもわずかに早く出発したことを知り得たのは車掌の公式な謝罪があったからである。日本人はこんなことでも公式に謝罪する民族なのだ。

 このエピソードに限らず、日本の交通システムはバスも地下鉄もタクシーも、どれも素晴らしく、正確で、清潔で、快適なものばかりであった。ある人が日本の新幹線について、「新幹線は技術ではなく、システムだ」と話していたことがとても印象的だった。新幹線の技術はもちろんすばらしいけれども技術だけであの高速輸送システムは機能しない。何があっても列車を定時通りに動かそうとする鉄道員、短い停車時間の間に整然と乗り降りする乗客、投石などで列車の走行を妨害しない沿線住民、そういう人達の力が結集して、あの奇跡のようなメカニズムが生まれるのだ。

 私は車内での延着に対する公式謝罪の件から来日当初、日本人は世界でも屈指の不寛容な民族かと思っていた。しかし、この私の考えもすぐに否定されることになる。事実、日本人は世界でも指折りの寛容性に満ち溢れた民族だったのである。

 私はどこかに出かけて行って人に会うと必ず空腹かどうかを確認された。そして空腹だと答えると必ず食べるものが出てきたのである。もちろん正式な食事ということは少なく、大抵はスナックのような軽食であったが、どこに行っても、空腹だと言って食べるものが出てこないことはなかった。それはまるで魔法のようであった。

 東京は美しい街でもあった。パリも表向きは美しいが、一歩、裏に入るとそこはゴミや浮浪者や犬の糞、果ては人糞までもが転がっている。ところが東京はスラム街ですらゴミのない清潔な街であった。

 私は東京に滞在中、学友にスラム街を見に連れていってもらったことがある。スラム街は台東区というエリアにあった。確かにそのエリアは貧しいたたずまいではあった。しかし、そのエリアは一言で言って整然とした、清潔なエリアであった。そこで私は確信した。日本という国はありとあらゆる場所が秩序に満ちているのだ。

 その象徴ともいえるのが渋谷駅前のスクランブル交差点だ。この東京を代表するターミナル駅の前で大勢の人々が、事前の打ち合わせなく、互いにぶつかることもなく、通常の歩行スピードで行き交うことができるのだ。それは芸術のレベルといってもあながち間違いではないだろう。

 柔道は時々やった。それはこれまでのように本業に匹敵するほど熱心にというわけではなく、あくまでも趣味のレベルに過ぎなかった。

 来日早々、大学院の研究室で「趣味は柔道」と自己紹介したところ(最初、アニメは隠していた)、そうであれば柔道部にと言われて東京大学の柔道部の練習に参加したことはあるが、これは全然話にならなかった。大学の柔道部にしては弱すぎた。後で確認したのだが、東京大学は文武両道というよりも文の方に偏った大学だった。

 大学での稽古を諦めた私はフランス警察の伝手で警視庁の道場に足を運ぶようになった。これはまずまずのレベルで世界チャンピオンクラスの警察官もいた。

 私は、前の世界選手権でジャミラを破った選手に会いたかった。そしてできることならばその選手と戦い、勝ちたかった。しかし、その選手は既に現役を退いており、東京から遠く離れたところにある大学で教鞭をとっているとのことであった。

 柔道に対する熱意があれば、私はどんなに遠くであっても出稽古に行って、一回くらい投げ飛ばしてやるところであったが、既に柔道に対する熱意は失われていたので、その人とは会うこともなかった。

 

 私は東京がすぐに好きになったが、秋葉原に行くのは少し躊躇していた。秋葉原はある特定の嗜好を持つ者の集まる街であり、秋葉原に遊びに行くと揶揄されるという噂を聞いていたからだ。

 しかし、キャンパスのある本郷と秋葉原は歩いて移動できる距離にあり、秋葉原を遊び場にすることに対して時間はかからなかった。

 最初、アニメを趣味としていることは隠していたが、学友たちとの会話から気が付かれないはずはなく、また、学友の中にはアニメ好きの学生もいたので、そういう学生とは熱心に話をするようになった。もっとも黙っていてもジャミラの形見である女子中学生戦士の定規を普段使っていたので早晩気付かれたことだろう。

 秋葉原は素晴らしい街だった。アニメの専門店の充実ぶりは言うまでもなく、メイドが給仕をするカフェや和服を着た女性が膝枕で耳かきをするサービスなどもあった。

 私は官費留学生の身分ゆえ、勉学にはもちろん励んだが、遊びにも手を抜かなかった。

 その一方、東京で恋をすることはなかった。何人かの女性が近付いては来たが、深い仲になることはなかった。

 私は背が高く、日本の最高学府である東京大学大学院で学んでいたこともあり、日本の女性にとってはモテるタイプの男性だったようである。フランス人であるということも対女性関係ではプラスに働いていた。日本の女性はフランス人をおしゃれな民族と考えているようであり、フランス人と付き合うこと自体が一つのステイタスと認識されているようであった。実際、宴会の場では私の周りに女性達が多く集まることが稀ではなかった。

 そのうちの何人かとは懇意になり、二人きりでデートするということも何度かあった。私は日本語弁論大会で優勝するくらい日本語が達者なのでコミュニケーション上の問題は何もない。しかし、どの女性とも長続きすることはなかった。その原因が、私が普段使っている、水兵を模した制服に身を包んだ女子中学生の戦士が悪を倒すキャラクターの定規だということに気が付くのは随分先のことである。

 日本では、フランスでもそうなのであるが、大の大人がアニメのキャラクターなどにうつつを抜かすのは恥ずべきことだという文化がある。私は変な嗜好を持つ大人ということで女性達に愛想を尽かされてしまったのである。

 しかし、私は自分の嗜好を犠牲にしてまで女性と付き合いたいとは思わなかったので女性が去っていくことはまったく気にならなかった。何よりその定規はジャミラの形見であり、私にとっては大切な宝物なのだ。

 アニメ好きの女性と付き合っていればあるいは長続きしたのかもしれないが、そういう女性とはなぜか縁がなかった。そういう意味では下宿先と本郷のキャンパスを往復する生活の中ではアニメ好きの女性が入り込む余地はそれほどなかったのかも知れない。

 東京で日本人の女性と結ばれていれば、私の人生はまったく違ったものとなり、私は悩むことのない幸せな一生を送ったことだろう。しかし、私は修士課程の二年間が終了するとともに、フランスに帰国することになる。

 あるいは日本人と恋に落ちても日本に留まることはなかったのかもしれない。

 日本に留まるためにはこの先、日本人の男性と同じように生活しなければならない。それは自分には難しいように思われた。これは日本で生活して初めて気づいたことであるが、日本人の男性はそのビジネスキャリアの大部分を仕事に費やさなければならない。一方、日本人の女性はそのビジネスキャリアの大部分を仕事以外に費やさなければならない。

 事実、私は法社会学が専門で日本の法廷を数多く見て回ったが、裁判官も検察官も弁護士もすべて男性というケースが大変に多かった(都市部の裁判官には女性もいたがそれすらも稀であった)。一方、フランスの法廷では裁判官も検察官も弁護士もすべて女性というケースが頻繁にある。

 私は仕事を軽視するつもりはないがバカンスも普通に楽しみたい。日本人のように働き詰めの生活は、短期間ならばできるだろうが、死ぬまでやり続けたいとは思わない。

 食事の問題もあった。日本の食事はどれも豪華で充実していたが私の口には合わなかった。ただし、日本産のワインは私の口に合った。今でも日本産のワインを取り寄せて飲んでいるくらいである。

 いつまでも遊んでいられないことは分かっていた。社会人になる前の二年間、束の間の夢を見せてもらっていただけのことである。そして、再び東京の地を踏むときにもう一度夢を見ることになるが、それは残念ながら筆舌しがたいほどの悪夢だった。

 

 フランスに帰国した私は当たり前のように警察官に任官した。あたかもそれは自然現象の様であった。

 任官当初、私は他の大部分の警察官がそういう道を歩むように、制服を着て街の治安を守った。しかし、何年か制服勤務をしていると別のところから声がかかった。パリに本部を持つ国際科学警察機構に出向しないかという打診があったのだ。

 理由は簡単だった。国際科学警察機構はもちろん国際機関であり、国際感覚のある職員を常に欲している。特にアジアの専門家が手薄であった。私は日本の最高学府で学んでいた希少な警察官であり、役に立つと思われたのだ。

 そのときの私はまだ二十代であり、あまり深くは考えなかった。パリに本部を持つ国際機関であれば、地方勤務を逃れ、パリから離れないで済むのではないだろうかということくらいしか考えなかった。フランスは国土が広く、パリから遠く離れた遠隔地に勤務することもあり得ない話ではない。パリが大好きな私にとって、地方勤務は私の望むところではない。実際、携帯電話の電波が届かないようなところに派遣され、なかなか市街地に帰って来られない同僚を何人も知っていた。

 出向先で何年か勤務するうち、私は国際科学警察機構の下部組織である科学特捜隊での勤務が長くなっていた。

 科学特捜隊は一般の警察では解決困難な事件、怪獣の出現や宇宙からの侵略に対応するために作られた国際組織である。私はパリ本部を基本としながら、数年おきに海外の支部を見て回る生活をしていた。

 国際科学警察機構のキャリアを積むうちにX国支部に出張する機会があった。

 私がX国に足を踏み入れるのは初めてだった。本当はもっと早く訪問するべきだったのだが、機会に恵まれなかったのだ。私は出張中に休暇を取り、ジャミラの生まれ故郷を訪れた。

 ジャミラの故郷は首都から急行列車で四時間ほどの離れた田舎町にあった。私は急行列車に揺られ、故郷のターミナル駅に降り立った。

 故郷でジャミラは英雄だった。ターミナル駅の前にはジャミラの銅像が鎮座していた。

 ジャミラの両親にも会いに行った。フランス留学中の下宿先の少年だった私を年老いたジャミラの両親は歓待してくれた。

 私はジャミラの両親にお悔やみの言葉を述べ、形見分けしてくれたお礼を言い、お墓参りもさせてもらった。両親はジャミラのお蔭で年金をもらえ、不自由のない生活を送っていると言っていた。周囲の家よりも大きな家に住んでいた。そんな両親の姿を見て私は少し安心した。

 ジャミラの両親に会ったことで私の中にあったジャミラに対するもやもやは解決されたような、ジャミラの死を受け入れられるような、そんな気がしていた。

 私はその後、国際科学警察機構でのキャリアを確実に積み上げ、科学特捜隊パリ本部の副隊長格となった。

 



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第二部 帰還  六 国際平和会議

 それからさらに何年かがたち、東京で国際平和会議が開催されることになった。

 国際平和会議は各国の首脳が集まる一大イベントであり、この星が平和であり、一枚岩であることを象徴するものであった。かつては地球人同士が血を流し合う殺戮がこの星でも行われたが、それは本当に大昔の話で、今では、少なくとも国家間の争いは消滅している。

 私は国際平和会議とは直接の関係はなかったが、一人の地球人としてその重要な会議が懐かしの地、東京で開催されることは知っていた。マスコミも大々的に報道していた。ただ、その会議そのものには格別に大きな関心を抱いてはいなかった。

 もう一つ、この時期、世界を賑わせていたニュースとして航空機や船舶の事故の頻発というものもあった。しかし、私はこのことにもそれほど強い関心を持ってはいなかった。自動車事故は日々発生しているわけだし、乗り物の事故そのものはそれほど珍しい話ではない。

 私は航空機事故が発生する場合、それが連鎖すると言われていること、それが仮説であり、実際には連鎖するという現象はないことも知っていた。

 いずれにしても国際平和会議も乗り物の事故も私にとって重大な関心事となることはないはずであった。

 この両者が密接に結びついていることを知らされるまでは。

 ある日、私は当時の国際科学警察機構のピース長官に呼び出され、科学特捜隊パリ本部の隊長、ミッチェルと共に長官室を訪れた。ミッチェルはアメリカ人であり、家族をニュージャージに残したまま一人パリに赴任していた。身長は二メートル近い大男であり、肌は黒く、立派な口ひげを蓄えている。あまりに口ひげが立派なのでどうやってメンテナンスをしているのか聞いたことがあるが、鏡を見ながらハサミを使って自分でやっているという答えだった。この男は豪快だが手先も器用なのだ。

 ミッチェルと一緒に長官室に入ると応接に座るよう勧められ、並んで座った。対面には長官と次長のコリンズが並んで座った。

 コリンズは何か武道で鍛えたのだろうと思われる頑丈な身体を持っていたが、ピース長官は警察官にしてはやせ細っており、頭髪は後退し、遠近両用の眼鏡を掛けていた。その風貌はおよそ現場向きではなく、腕っぷしの強い悪漢に殴られたら一発でノックアウトさせられそうであった。

 恐らく現場にはほとんど出ることはなく、長い間、官房系で上司のゴマを擦って来たのだろう。ここまで出世できたのも経費削減に努めた結果かもしれない。公務員の出世などどこの国でもそんなものだ。

「やあ、アラン」

 長官は気さくに私に話しかけた。ミッチェルのことは視界に入っていなかったようなので、長官は私に話があってミッチェルと私を呼び出したのだろうと私は考えた。

「これから私が話すことは極秘にしてもらいたい」

 長官が低い声で言った。

「はい」

 私は少し緊張して言った。

「国際平和会議が東京で開催されることは知っているな?」

「はい」

「そして、最近、航空機や船舶の事故が頻発していることも」

「ええ、知っていますがそれが何か?」

 私が逆に質問すると長官は少し間を置いた。

「・・・実は事故にあった航空機や船舶には必ず国際平和会議に出席する代表団が乗っていることが分かったんだ」

「なんですって!」

 私は思わず大きな声を出した。長官が少し沈黙したので私が続けた。

「では、最近、頻発している航空機や船舶の事故は代表団を狙ったものだと?」

「・・・確証があるわけではないがそう考えるほかないだろう」

 長官が低く唸った。ミッチェルと同席の次長はさっきから黙っている。

「それで私に何をしろと?」

 私はもう一度質問した。私をこの席に呼び出し、そんな話をするのは私に何かを命じようとしているのだろう。

「その前に今回のこの事件について我々がどのように考えているかということを話しておこう」

「それは犯人の目星ということですか?」

「そうだ」

 言って長官は軽く咳払いをし、姿勢を正して少し前かがみになり続けた。

「国際科学警察機構としては今回のこの事件、三つの仮説を立てて分析している」

「はい」

「まず一つ目の仮説。どこかの国の、あるいは国際的なテロリストが犯人だということだ。昔に比べて随分と平和にはなったが、政治的な、あるいは宗教的な対立から国際平和会議を面白くないと考えるグループもいるだろう。世界は広いからな」

「それなら科学特捜隊が出てくるまでもないのでは?」

 私は疑問を呈した。人間同士の争いであれば科学特捜隊の出る幕ではない。そもそも人間同士が対立する際、科学特捜隊がどちらか一方に与するというのは科学特捜隊の本来あるべき姿ではない。

「そうだ。だから二つ目の仮説になる。二つ目の仮説は今回の事件が宇宙人の仕業ではないのかということだ。実際にそれを裏付けるような証言も寄せられている」

「証言?」

「事故に遭った航空機や船舶は何か見えない壁のようなものにぶつかったという目撃証言が寄せられているのだ。もちろんそんなことは日常では起こるはずもなく、そんな証言もあてにならないので現場の関係者は黙殺しているが、宇宙人が犯人だとすればあり得ない話ではない。科学特捜隊の出番だ」

「なるほど、それなら科学特捜隊の関与も分かりますが、日本支部に任せておけば良いではないですか。日本支部は数々の怪事件を解決し、優秀です。もちろん日本支部の活躍の裏には、あるいは表にはウルトラマンなる宇宙人の存在があることは否定できませんが」

 私が言うと長官は大きくうなずき、続けた。

「そのとおり。単に宇宙人の仕業ということであれば日本支部に任せておけば良い。それで三つ目の仮説だ。ここにパリ本部が直接この事件に介入しなければならない理由がある。そしてさらにアラン。君を日本に派遣しなければならない理由があるのだ」

「私が日本に?」

 私は少しビックリして聞き返したが、そのときはまだ日本に行ったら秋葉原で遊べるかもしれないくらいにしか考えていなかった。

「そうだ。日本に行って私の代理として直接、日本支部の指揮を執ってもらいたい」

「それでどういう仮説なのでしょうか?」

 既に前かがみだった長官はさらに前かがみになった。

「パリ本部が考えている最悪の事態だ」

「はい」

 長官の眼力に私は一瞬、たじろいだ。

「君はジャミラを知っているね?」

 長官が唐突にジャミラの名前を出した。ジャミラと言われて思いつくのは一人しかいない。それでも長官の頭の中のジャミラと私の考えているジャミラが違っているといけないので一応念を押すことにした。

「宇宙飛行士のですね?」

「そうだ」

 長官は静かに言った。

「X国の」

「そのとおりだ。君はジャミラと親しかったのかな?そういう記録があるが」

 どういう記録か思いもつかなかったが、科学特捜隊員の人事情報ファイルにはどうでも良い情報まで書き込まれているのだろう。もちろん人事ファイルは極秘中の極秘で私が直接目を通すことはできない。

「確かに親しい関係でした。もう何十年も前になります。私はまだ子どもでしたが、彼がフランスに留学していた時、ジャミラは私の家に下宿していましたから」

「親しかったのだね?」

「ジャミラがどうかしたのですか?」

 私は長官の質問の意図が分からず、少しイライラした声で言った。

 ジャミラが事故に遭ったのはもう何十年も前の話だ。

「ジャミラが事故で死んだのは知っているね?」

「はい」

「ジャミラの人間衛星には遭難した時に遭難信号を発する装置が組み込まれていた。無線も電気系統もすべてがダウンしたとしても信号だけを発することのできる装置が」

 それを聞いて私は何十年も前に交わしたジャミラとの会話を思い出した。

「それも聞いています。鉱石ラジオの原理で、無電源で特定の周波数の電波を規則正しく、それこそ何万年でも発することができると当のジャミラ本人から聞いたことがありますが、それが何か?」

「・・・先日、その特定の周波数の電波が大気圏内で確認された」

「・・・・・・」

 私は驚きのあまり言葉を失った。長官が続けた。

「そして、その日以来、原因不明の事故が多発するようになったということだ」

 私は直ちに長官の意図を把握することができなかった。

「どういうことでしょう?」

「三つ目の仮説、パリ本部が考えている最悪の事態はジャミラが帰って来たということだ」

「はあ?しかし、ジャミラは宇宙航行中に人間衛星が爆発し、死亡したのでは?」

 確かにそう報道されていたはずだ。ジャミラの葬式も行われたし、ジャミラは宇宙開発に多大な貢献をしたということによりX国で最高の勲章を受章している。英雄の家族が受け取る勲章、すなわち本人はその英雄的行為によりもうこの世にはいないので家族が受けるしかない勲章をだ。

 それだけではない。私はジャミラの両親にも会い、お悔やみの言葉も言った。墓参りもした。故郷には立派な銅像も立っていた。ジャミラはもうこの世にはいないはずでそのジャミラが今さら帰還するなどということはあり得ない。

「それは表向きだったのだよ」

 長官がかみしめるように言った。

「表向き?」

「人間衛星の爆発などなかったのだ。あれはX国の自作自演だったのだ。第一、それを検証した人は誰もいないのだ」

「なんでまたそんなことを」

「ジャミラの人間衛星は宇宙航行中にトラブルがあり、遭難した。遭難信号を発するまでもなく、ジャミラは本国に救助要請をしたのだ。しかし、ジャミラの救助には莫大な費用が掛かる。技術的には可能だったのだよ。しかし、ジャミラの救助に金を掛けては他に投ずる金がなくなり、国際間の宇宙開発競争に後れを取ってしまう。まだそういうことにしのぎを削っていた時代だったからな。一方、ジャミラの代わりはいくらでもいる。それこそ宇宙飛行士の公募をすれば何万という馬鹿が応募してくる。結果としてX国はジャミラを見捨てたのだ」

 私は長官の言葉を素直に飲み込むことはできなかった。

「しかし、人間衛星は爆発したと、そう報道されていたはずです。ジャミラの葬式も行われたし、ジャミラはX国の宇宙開発に多大な貢献をしたということでX国では最高の名誉勲章を受章しているはずです。大人になってから私はX国に行く機会があって、その時、ジャミラのお墓参りにも行っています。両親にも会い、お悔やみの言葉も申し上げました。両親はジャミラのお蔭で年金がもらえていると言っていました。ジャミラはもうこの世にはいないはずでそのジャミラが今さら帰還するなどあり得ない話です」

 言うと長官は鼻を鳴らした。明らかにイライラしているようであった。

「もう一度言う。それは表向きの話であって真実ではないのだ」

「・・・・・・X国が真実を隠蔽していたということですね?」

 しばらくの沈黙の後、私は静かに言った。

「ようやく理解できたか。そうだ。隠蔽だ。宇宙開発のために救えるはずの命を犠牲にしたとあっては、国内世論はもちろん、国際世論も黙ってはいないだろう。だからX国はすべてを美しい物語に塗り替えたということだ」

「もしそれが事実でジャミラが生きていたとしたら、ジャミラも黙ってはいないでしょうね」

 コリンズ次長が言った。長官が続けた。

「そうだ。ジャミラが生きていて帰還できたなら、自分を見捨てた地球人に報復したいと考えるだろうな」

「しかし、それなら標的はX国であるべきではないですか?なぜ、国際平和会議が標的なのでしょう?」

 私が言った。

「それは分からないが何度かの政変を経て、X国は昔の形ではもう存在していない。だから、この星の代表ということで国際平和会議が狙われているのかもしれない。いずれにせよそういう事情でパリ本部としては君を日本支部に派遣したいということだ。ジャミラの盟友である君をな」

 盟友は大袈裟だが、そういう文脈なら理解できない話ではない。

「分かりました。日本に行ってまいります」

 私は混乱していたが、そう言った。日本は大好きな国であり、行くこと自体はウェルカムだ。もし犯人がジャミラじゃなかったら秋葉原で遊んで帰ろうかと思ったくらいだ。

 実際、ジャミラが生きているなどということはあり得ない。人間衛星の爆発が嘘だったとしても遭難したのはもう何十年も前の話なのだ。生きているはずがない。

 私は今回の主犯が国際テロ組織であり、さっさと日本の公安警察に事件の解決を押し付けて戦線離脱することを夢想した。

「ムラマツを知っているか?」

 長官が唐突に話題を変えた。

 名前は聞いたことがある。きっと会ったこともあるのだろう。しかし、会えば思い出せるかもしれないというレベルだ。ただ良い印象はないからそれほど優秀ではないのだろう。

「名前には聞き覚えがありますが、よくは存じません。ただ武勇伝は聞いたことがあります」

 武勇伝を聞いたことがあるというのは嘘ではなかった。ムラマツが多々良島という怪獣無法地帯でマグラーと名付けられた怪獣を、スーパーガンやスパイダーショットのようなレーザー銃を使わずに倒したという話を聞いたことがあった。飛び道具を使わないということはそれだけ至近距離から攻撃せざるを得ないのであり、そのことが既にムラマツの勇敢さを物語っていた。

「この事件は日本支部のムラマツ班が担当することになる。君が直接、指揮を執れ」

 長官が力強く言った。

「もし三つ目の仮説に該当した場合、私はどうすれば良いのでしょうか?」

「もし、ジャミラが人間の心を失っておらず、交渉が可能であるならば説得してパリ本部まで連れてきてもらいたい。どうやって帰還できたのか聞きたいからな」

「もし交渉が不可能な場合には?」

「その時はまた別に指示する」

「分かりました」

「それと」

 長官は思い出したように付け加えた。

「日本支部には✕✕✕(訳注:活字にすることができない差別的な言葉。以下、✕✕✕にはすべて同じ言葉が入る。)が一人いる。観察すると面白いかもしれないし、君の科学特捜隊での今後のキャリアに役に立つかもしれない」

 言うと長官は隣に座ったコリンズ次長を見てから、ミッチェルを見た。二人に発言を許したような雰囲気だったが、二人が黙ったままだったのでさらに続けた。

「アラン、君を派遣するのは君が日本に留学していたことがあり、日本語がペラペラだというのが表向きの理由だ」

 私は日本語がペラペラなだけではない。短歌だって詠めるし、日本人の心も分かるのだ。

「そして本当の理由は私がジャミラを個人的に知っていて、ジャミラと交渉できるかもしれないからということですね?」

「そうだ。言葉の問題だけならジムやアンヌでも良いような案件だ」

 長官がそう言うとそれまで黙っていた隣のミッチェルが「ジムはともかく、アンヌ・モハインは先日、地底人に拉致監禁されるという大失態をやらかし、現在、謹慎中です」と言った。

「そうだったな。まあ、そのことは今回の件を考えるとむしろ好都合だった。アンヌのような吹替の女優がしゃべっているんじゃないかと思わせるくらい、訛りのない綺麗な日本語を話す隊員を差し置いてアランを派遣するんだからな」

 長官はそう言うと、机の上に置いてあった小さなケースを私に差し出した。

「それからこれを持って行け」

 長官が言った。私はそのケース状のものを手に取った。ケースの表面にはいくつかのボタンがある。一見するとエアコンのリモコンのようだ。

「なんですか、これは?」

 私は長官に聞いた。

「君は今まで使ったことがないだろうが、DNA情報を転送する装置だ」

「DNA情報?」

「そうだ。容疑者に遭遇したとき、容疑者のDNAを採取してこの装置で本部まで転送してもらいたい。これが操作マニュアルだ」

 長官はやはり机の上に置いてあった小冊子を私に渡した。

「転送したDNA情報を本部で分析するのですね?」

 私は念を押した。ジャミラ本人かどうかを確認するということなのだろう。

「そうだ。それこそあっという間に分析できる。ただ、装置の使い方は少し練習した方が良いかもしれない。どんなに動揺していても即座に使えるように。他に何か質問はあるかな?」

 長官が聞いた。

「いや、別にありません」

 私が答えた。

「では、早速出発したまえ」

 長官はそう言うと立ち上がった。長官に促され、私も立ち上がり、「失礼します」と言って長官室を出た。ミッチェルはまだ長官室に残ったままだった。

 その後、三人が何を話し合ったのか私は知らない。これは推測であるが、私が長官室を去った後、三人はこの機密をどうやって保持するかということを話し合っていたのではないかと考えている。

 私はすぐに訪日の準備をし、最も早い民間機でシャルルドゴール空港を飛び立った。

 久し振りの訪日だった。

 

 日本支部は東京の郊外にあった。

 日本支部に到着した私はまずゲストハウスに案内された。

 日本支部のゲストハウスは素晴らしかった。一流のホテルと同等あるいはそれを上回る設備とサービスであった。パリ本部にもゲストハウスはあるがそれは寝台列車の客室のようなあつらえだ。

 ゲストハウスでしばらく待っているとムラマツその人が直接、私を呼びに来て作戦室に来るように言われた。

 私は隊員服に着替えたかったが、あいにくブルーのブレザーを持ってきていなかったのでスーツのまま作戦室に向かった。

 作戦室ではまず、日本支部ムラマツ班の五人のメンバーを紹介された。

 ムラマツと会うのはやはり初めてだったのかもしれない。顔を見ても思い出すものは何もなかった。

 私は一見してムラマツがとても優秀な人物であることを感じ取った。なぜならムラマツは基地の中であるにもかかわらず、パイプをうまそうにくわえていたからである。私が上役ならば即座にムラマツを更迭することだろう。

 パイプをうまそうにくわえながらなお、ムラマツが隊長の地位を失わないのは、ムラマツにパイプをくわえることによるマイナスを補って余りあるだけの力量があるということの証明である。

 もう一つ、私はムラマツのパイプから吐き出される煙から情報システムを守る基地の空調設備にも敬意を持った。

 それから順にハヤタ、アラシ、イデ、フジの四隊員を紹介された。

 ハヤタは見るからに真面目な警察官であり、副隊長格だった。

 アラシは筋骨隆々で体力自慢という印象を受けた。

 イデは日本人にしては背が高く、どことなく明るいムードメーカーという雰囲気を醸し出していた。顔つきも日本人らしさが薄く、ハーフかクォーターのように見えた。

 フジは女性で見た目にも若く、学生と言われても違和感を覚えないほどであった。

 私は長官に言われた✕✕✕はアラシ、イデ、フジのどれかだと思ったのだが、第一印象ではその三人のうちのどれか直ちには分からなかった。それほど✕✕✕はなりを潜めていた。

 



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七 見えないロケット

 私は一同を集め、世界地図の描かれた透明なプレートの前でムラマツ以下隊員達に今回の事件について説明を始めた

「この図で分かる通り、今年に入って起こった空や海の事故は、すべて国際平和会議に出席する各国の代表団の乗った船や航空機なのです」

「ということはムッシュアラン」

 ムラマツが発言した。私は一瞬、耳を疑ったが、確かにムラマツはそう言った。

 私の姓名はアラン・ビロッツである。もちろんアランはファーストネームであり、ビロッツがファミリーネームだ。

 ムッシュは英語のミスターに相当する言葉である。ムッシュはミスターと違ってファーストネームに付けることもできるから「ムッシュアラン」と呼び掛けること自体、文法的には間違いではない。

 しかし、マナー的には大間違いだと言わざるを得ない。

 ムラマツが私にとても親近感を持っていて、私のことをファーストネームで呼びたいというのであれば、それは私にとっても好ましいことではあるかもしれない。しかし、ムラマツと私は初対面であり、さらに私はムラマツの上役なのだ。

 確かに私はパリ本部ではミッチェル班の副隊長格に過ぎない。しかし、私が所属するのはパリ本部であり、アジアの片田舎にある日本支部の隊長と比べれば私の方がはるかに格上である。実際、私はピース長官から直接、日本支部の指揮を執るようにと言われてきているのだ。

 ここは明らかに「ムッシュビロッツ」と呼びかける場面であった。私をファーストネームで呼ぶのは酒でも飲んで双方が打ち解けてからで、その席ですら私の了解なしにはできないことだ。

「今度、東京で開かれる国際平和会議を妨害しようとするやつの」

 ムラマツが続けたが、私は心のもやもやが晴れなかった。それともムラマツはファーストネームとファミリーネームの区別もつかないほど愚かなのだろうか。もっともムラマツは精密機器の並ぶ基地の中でパイプをくわえるほど非常識な男だ。

 もし、今が非常時でなければ私はムラマツの胸ぐらをつかみ、その非常識な言動を慎むようたしなめていたことだろう。

 私は「おい」と叫びたくなる気持ちを抑えて説明を続けた。

「ウィー。パリの本部でも事態を重要と考え、私を日本に派遣したのです」

 私が言うと一同は各々小さくうなずいた。

「畜生。全世界の代表が集まるというのに一体どこの国だ。隠れてこそこそ妨害しようとしている卑怯な国は」

 イデが言った。

「待ってください。それは地球上の国とは限りません」

 言って私は少し後悔した。イデが言っているのはパリ本部の一つ目の仮説だ。通常の人間なら国際テロと考えるのが常識で、わざわざ二つ目の仮説に誘導することはないのだ。

 もちろんそれなら一般の警察が担当で科学特捜隊の出る幕ではないという反論に会うかもしれないがそれに対する言い訳はなんとでもできる。

「それでは地球の平和を妨害しようとする別の星の宇宙人」

 ムラマツが言った。私はそれには明確な回答をしなかった。

 ちょうどその時、警視庁から入電があった。老人と子供をひき逃げした車が国道一号線を逃走中、何かにぶつかって大破したというものだった。

 単なるひき逃げ、逃走事件であれば一般の警察が担当であるが、追跡した警察官の証言によると車は何か見えない壁のようなものにぶつかったようだとのことであった。そのため、科学特捜隊にも連絡があったのだ。

 私は一連の航空機事故、船舶事故においても見えない壁にぶつかったとの証言があり、その証言が黙殺されていたことを思い出した。

 私は次の日、追跡した警察官を連れて現場検証をすることとし、ムラマツに命じた。

 私はゲストハウスに戻り、パリ本部に報告をしてからベッドに横たわった。しかし、なかなか寝付かれなかった。

 

 翌日、ムラマツ、ハヤタ、アラシ、昨日の事件を追跡した警察官、そして私の五人は専用車に乗って現場に向かった。イデとフジは基地で待機となった。

「見えない壁?そんな馬鹿な」

 現場に向かう専用車のリアシートで助手席に座る警察官の証言を聞いたハヤタが言った。ハヤタはムラマツと私に挟まれて座り、アラシはハンドルを握っている。

「いや、本当なんです。確かに見えない壁か何か」

 警察官が言った。私はそれを聞いてパリ本部で長官から言われたことを彼らに説明しなければならないと思った。

「ムッシュムラマツ。これは今、全世界を震撼させている事件と関係あるかもしれません」

 リアシートの左側に座った私は、右側に座ったムラマツに言った。

「というと?」とムラマツ。

「今までにパリの本部に来た資料によれば沈められた船も墜落した航空機も、すべてみんな壁みたいなものに衝突したと考えるほかないのです」

 真剣な眼差しで私の話を聞いていたハヤタがムラマツの方を向いた。

「見えない壁か」

 ムラマツがつぶやいた。

 そのうち専用車は事故現場に到着した。事故現場は市街地からは大きく離れた場所にあり、国道一号線を外れた空き地だった。

「あっ、あそこが昨夜の事故現場です」

 警察官が言った。

「よし、徐行しろ」

 ムラマツが言い、アラシは専用車を減速させた。

 次の瞬間、専用車は何かにぶつかったような激しい衝撃を受けた。もし、あのまま減速せずに進んだら専用車は大破していたかもしれない。

 アラシはアクセルを踏んでいたが専用車は前には進まなかった。

「どうした。故障か?」とムラマツ。

「おかしいんです。エンジンに故障はないのに進みません」とハンドルを握るアラシ。

「何?」

「まるで前に壁かなんかあるみたい」

 そうするうちに不気味な電子音が聞こえてきた。隊員の誰もが危険を察知していた。

「危ない」

 ハヤタが叫んだ。五人は慌てて専用車を放棄し、外に出て、全力で専用車から離れた。

 次の瞬間、専用車が爆発し、ロケットのようなものが上昇する気配を感じた。ロケットそのものは見えなかったが、噴射の炎は見えた。

「ロケットだ」とハヤタ。

「見えないロケットだ」とアラシ。

 ムラマツは胸につけている流星型トランスミッションアンドレシーバーのアンテナを立てた。

「ムラマツから本部。ムラマツから本部。見えないロケットに注意せよ。東京上空を警戒せよ」

 それからムラマツはあちこちに連絡し、人を集め、現場検証に取り掛かった。

 一方、見えないロケットの追跡を留守番のイデとフジに命じた。イデとフジは速やかにジェットビートルを出動させ、レーダーで探知し、見えないロケットを追いかけて、マルス133で攻撃したが取り逃がしたとの報告を受けた。

 現場検証の結果、見えないロケットはこの空き地を駐機場代わりに使っている可能性が高いことが分かった。ここは国際平和会議の会場からそれほど遠くないところにある。

 基地に帰還後、ムラマツは隊員達と今後の作戦を練るというのでこれを任せ、私はゲストハウスに戻ってパリ本部に報告し、指示を受けた。

 

 ゲストハウスでパリ本部から送られてきた資料を分析していると、私の部屋をムラマツが尋ねてきた。

「ムッシュアラン」

 ムラマツがまたファーストネームで私を呼んだ。私はムッとしたが、私の気持ちはムラマツには伝わらないようで、私の気持ちには構わずムラマツが続けた。

「見えないロケットは機体を高速で振動させることによって見えなくなっていると考えられる。さっき隊員達と検証もした」

 こいつはですます調で話すこともできないのか。私はそう思ったが非常時なので我慢し、普通に受け答えをすることにした。

「どうするのだ。何かアイデアがあるのか?」

 私はムッとした表情で言った。しかし、私の不機嫌さはムラマツには伝わらないようだった。

「今、イデに見えないロケットを見えるようにする方法を検討してもらっている」

 ムラマツがそう言ったので私は驚いた。

「イデに?彼は科学者なのか?」

 確かに日本には一ノ谷博士や岩本博士のような優秀な頭脳がいる。しかし、イデはどうみても三十前である。こんな若造に見えないロケットを見えるようにすることなどできるとは思えない。

「科学者というより発明狂だ。マルス133も彼が作ったのだ」

 それを聞いて私はある種の納得をした。✕✕✕とはイデのことだったのだ。マルス133を開発した隊員の存在は聞かされていたが、それがイデであることは知らなかった。

「イデが優秀なのは分かったが、猶予はない。国際平和会議はもう始まるのだ。いつまでに見えないロケットは見えるようになるのだ」

 私は不機嫌に言った。今から不眠不休で、百人体制で取り組んでも一年以上はかかると思われた。

「早ければ明朝にでも」

 ムラマツがあたり前のように言った。聞いた私はもう一度ビックリした。

「明朝?明日の朝ということか?」

「そうだ」

「いや、いくら彼が天才でもそれは無理だろう。時間がなさ過ぎる」

 私は言ったがムラマツは表情を変えなかった

「彼は天才を越えている。これまで飛び級を重ね、あの若さで工学博士号を持っているのだ。ここは彼の実力を信じましょう。では明朝、また来ます」

 ムラマツはそう言うと「失礼します」ということもなく、ゲストハウスの私の部屋を出て行った。

 

 次の日、駐機場に呼び出された私は隊員達と共に整列し、ムラマツと対峙することになった。ここでも私はなぜ、ムラマツの側ではなく、隊員の側に並ばせられるのか理解できなかった。本来ならば私がムラマツ以下隊員たちに対峙し、訓示の一つでも述べるべき場面であった。

「では、出発する」

 そんな私の気持ちは無視するようにムラマツが隊員達を前に号令をかける。

「一号機にはスペクトルアルファ線とスペクトルベータ線、二号機にはスペクトルガンマ線がそれぞれ積み込まれている・・・」

 そこまで言うとムラマツは少し沈黙した。

「イデ、・・・おい、イデ・・・」

 なんと、イデは立ったまま居眠りをしていたのである。

 私は日本に留学したこともあるから、もちろん日本を研究してきた。日本あるいは日本人に関する本もたくさん読んでいる。その中の一冊、ルース・ベネディクトの「菊と刀」という本に、日本人は立ったままはおろか、歩きながらでも眠ることができる民族だと書いてあったことを思い出した。

「イデさん!」

 イデの左隣に立っていたフジが呼びかけ、イデを起こそうと左肩を叩いた。

「・・・はっ、はっ、なんですか・・・」

 イデがようやく目覚めた。右隣に立っているアラシがムラマツの方を指さす。

「なんですかじゃない。これから出発だというのに何を寝ぼけておるんだ」

 ムラマツが叱責した。

「スミマセン。夕べ徹夜したもんでつい」

「○○な(早口過ぎてムラマツの言葉が聞き取れなかった)やつだ。お前から一応、三つの新兵器について説明してくれ」

 ムラマツがイデに命じた。

「はい。では説明します。スペクトルアルファ線は光の屈折を自由に変えることができるもの、スペクトルベータ線は光の色彩吸収力を破壊するもの、そしてスペクトルガンマ線は光の反射速度にある種の制限を加えるものです」

 ムラマツはあたり前のようにイデを叱責していたが、私はこのとき、ある種の驚きを持ってイデの話を聞いていた。たった一晩で、しかもたった一人でこれだけの装置を作ってみせたのだ。私はイデが✕✕✕と呼ばれていることが分かるような気がした。とてもではないが常人ではない。

 メンバーは二組に分かれた。ビートル一号機にはムラマツ、イデ、フジそして私が、二号機にはハヤタとアラシが搭乗し基地を飛び立った。

 見えないロケットは国際平和会議の会場周辺をさまよっており、その居場所はレーダーが探知していたので発見はたやすい。

 イデは「スペクトルアルファ線発射」と叫ぶと一号機から見えない円盤が飛んでいると思われる方向に向かってスペクトルアルファ線を発射し、次いで「スペクトルベータ線発射」と叫ぶとスペクトルベータ線をその方向に向かって発射し、無線マイクに向かって「スペクトルガンマ線発射」と叫んだ。

 次の瞬間、スペクトルガンマ線が二号機から発射された。スペクトルガンマ線はなかなか目標に命中しなかったが、次の瞬間、スペクトルアルファ線、スペクトルベータ線、スペクトルガンマ線の三つの光が一つの目標に結束した。

 見えないロケットが姿を現し、イデが歓喜の声で「見えないロケットが見えた」と叫んだ。

 見えないロケットはしばらく同じ場所にホバリング状態でとどまっていた。

「攻撃開始!」

 ムラマツが無線に向かって叫び、まず一号機からレーザーが発射され、二号機からもレーザーが発射された。しかし、レーザービームは見えないロケットには当たらず、地面を焦がすだけだった。

 これに関しては私も文句は言えない。科学特捜隊は、所詮は警察組織であり、軍隊ではない。所属する隊員も軍人ではない。なるほど、それ相応の訓練は受けている。だから、ジェット機を操り、レーザービームを放ち、ミサイルを撃ち込むことは、そこら辺を歩いている人よりは上手だろうが、熟練しているとも言い難い。

 しかも、科学特捜隊員はそれぞれが陸、海、空の武器を操らなければならない。それだけではない。軍隊では決して扱うことのないベルシダーという名の地底戦車まで隊員たちは操縦するのだ。

 レーザーの第一撃が当たらないと見るや、見えないロケットはその場を離れた。

「撃て!・・・撃て!」

 ムラマツが興奮して叫ぶ。この男はその心意気だけは警察官を離れ、軍人の域に達しているのかもしれない。

「逃がすな。撃て!」

 ムラマツが無線マイクに向かって二号機に指示を出す。

「了解」

 ハヤタと思われる冷めた声がスピーカーから聞こえた。

 二機のビートルは見えないロケットを追撃するがやはりレーザービームは当たらない。

 そのうち、見えないロケットも反撃し、光線が放たれたがこれもビートルには当たらなかった。やはりどんなに射撃の名手でもマッハで動く物体に命中させることは難しい。鳥を散弾銃で撃ち落とすことすら簡単ではないのだから。

 そのうちビートルの発したレーザービームが見えないロケットに命中した。見えないロケットはそれでもそれだけで爆発することはなく、フラフラしながら山中へと降下していった。そして地上に激突し、大爆発を起こした。科学特捜隊はついに見えないロケットを撃ち落としたのだった。

 

 日本支部の五人のメンバーと私は見えないロケットが墜落した森の中を探索していた。

 見えないロケットが降下を始めてから地上に激突し、大爆発を起こすまでに相応の時間があったことから、搭乗者が脱出することは可能だったと考えられた。そして、その搭乗者が誰かを確認することこそが私に与えられた最大の任務だった。

 得体の知れない宇宙人であればその場で爆殺してしまえば良い。しかし、そうでなかったら・・・。私の気は重かった。

 東京も西の方は山岳地帯である。その深い森の中を日本支部の五人と私は火器を抱えながら進んだ。時折、鳥の不気味な鳴き声が聞こえる。

 しばらく進むとウーという、うめくような声が聞こえ、山の谷間から白く巨大な身体が現れた。

「あっ、あれは何だ」

 ムラマツが指をさして叫ぶ。

「やっぱりジャミラ」

 その巨体を見た私は思わず叫んでいた。確かにジャミラだった。巨大化しており、身体が変形し、肩がせりあがって頭と一体化してしまっていたが、確かにその巨体はジャミラだった。フランス警察本部の道場で乱取りしたジャミラその人だった。私には分かった。

「なんだって?」

 ムラマツが聞き返した。

「ジャミラ、お前は・・・」

 私は茫然とその場に立ち尽くした。動くことも考えることもできなかった。頭の中にはジャミラと過ごしたパリでの思い出が現れては消えていった。

 ジャミラは言葉を発することができなかった。獣のように鳴くことしかできなかった。

 重火器を持った日本支部の隊員はジャミラ攻撃のため、ジャミラに向かって走っていった。それを視認したのだろう、ジャミラは逃走をはかる。しかし、ジャミラはよたよたしており、かつて青畳の上で見せたような俊敏さはなかった。久し振りの地球の重力に耐えかねているようだった。

「撃て!」

 ムラマツの声が山中に響く。ハヤタの肩からマシンガンが火を噴いた。

 丸腰のジャミラは逃げるが何発かが命中した。ジャミラはなおも逃げる。

 私は依然として身動き一つできずにいた。そんな私に気付いたフジが心配そうに私のところに寄って来た。

 フジはジャミラ攻撃に直接、参加していないようだった。恐らく、ムラマツから連絡要員として後方で待機するよう命じられたのだろう。

「ムッシュアラン。どうしたの?」

 もし私の心が平常であったならばその場でフジを撃ち殺していたかもしれない。フジは私をファーストネームで呼んだばかりでなく、友達のように、あるいは子どもに対するかのように話しかけたのだ。本来ならば「ムッシュビロッツ。どうかなさいましたか?」と話しかけるべきだったのだ。

 しかし、その瞬間はあまりの衝撃にフジに顔を向けることさえできずにいた。私の目はただただジャミラを追いかけた。

「アラン」

 フジはもう一度、友達のように私に呼び掛けた。

 イデは前方で何かを叫びながらマルス133を撃ちまくっていた。私の目には怪獣化したジャミラよりもイデの方がよっぽど怪獣に見えた。

 ジャミラはそのうち振り返ると我々に向かって火を噴いた。彼は長年の過酷な生活の中でこんなこともできるようになっていたのだ。

 隊員が一瞬怯む。

「怯むな。撃て撃て」

 ムラマツはさかんに隊員たちを煽った。

 そのうち、ジャミラの姿は見えなくなった。どこかに隠れたようだった。

 



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八 再会

 私は強いショックを受けていたがなんとか気を取り直し、隊員たちに気付かれないようにジャミラの足跡からジャミラのDNAを採取し、パリ本部を発つ前に預かった携帯情報転送装置でパリ本部にそのDNAデータを送った。

 結果を待つまでもなかった。私には分かった。彼がジャミラその人であることを。そして、今、私はパリ本部が想定していた最悪の事態と向き合っていることを。

 パリ本部からはすぐに無線が入った。あまりにも反応が早く、既にパリ本部はこの事態を知っていたのではないかと思ったくらいである。

「アラン応答せよ」

「こちらアラン」

 私は周りに日本支部の隊員がいないことを確認してからトランスミッションアンドレシーバーに答えた。

「ピースだ」

 言われなくても声だけで分かった。しかもミッチェルではなく、長官自ら無線を操るということは最悪の結果を伝えるということだ。長官が続けた。

「DNA検査の結果が出た。結果はあの生命体はジャミラか百パーセントジャミラと同じDNAをもった生命体だということだ」

 結果は分っていた。だからだろう私は冷静だった。それでも一つ大きなため息をついてから長官の無線に応えた。

「了解しました。それでどうしますか。ジャミラと交渉はとてもできそうもありませんが」

 ジャミラと交渉できないのは明らかだった。ジャミラは火を噴き、盟友であるはずの私を攻撃してきたのだ。完全に怪獣化してしまっていた。

「パリ本部からの指示を伝える。ジャミラの正体を明かすことなく、宇宙から来た一匹の怪獣として葬り去れ」

「何ですって?」

 私にジャミラを殺めろというのか。私は絶句した。

「聞き取れなかったか?ではもう一度言う。ジャミラの正体を明かすことなく、宇宙から来た一匹の怪獣として葬り去れ」

 長官の声は冷たく、冷静だった。

「私の手で、ジャミラの友人であるこの私の手でジャミラを葬り去れと?」

「それが国際平和会議を成功させるただ一つの道だ」

「・・・他に方法はないのですか?ジャミラは人間じゃありませんか?」

「他に方法はない。ジャミラは既に人間ではない。一匹の宇宙怪獣だ」

「だがしかし」

「これは命令だ。通信終了」

 そう言って無線は一方的に切れた。

 もう死んだと思っていたはずの親友との再会は言い表せないほど悲しいものだった。

 私はしばらくその場に呆然と立ち尽くし、身動きすることができなかった。

 

 そのうち日が暮れ、辺りは暗くなり、空には満天の星が光り輝き始めたが、ジャミラの探索は続けられた。

 科学特捜隊はここで野営をすることになった。臨時の作戦室が作られ、いくつかの照明が隊員たちの顔を前からあるいは後ろから照らしていた。

「この美しい星空なのに、一体どこの星から来たのかしら。どうして国際平和会議を妨害しようとするのかしら」

 五人のメンバーと円陣を組み、明日の方針を協議しているとフジがポツリと言った。

「ムッシュアラン」

 紙巻きたばこをふかしていたムラマツが言った。

 さすがに野外行動にパイプを持っては来ないだろうとは思ったが。この男はポケットに紙巻きたばこをしのばせていたのだ。そんなにもニコチンが切れるとこの男は生きていけないのだろうか。

 しかし、「吸っていいですか?」の一言もなく、当たり前のように紙巻きたばこに火をつけるムラマツに飛び掛かる元気はもはや私にはなかった。

「さっき、あなたはあの怪獣を見た時、ジャミラと言いましたね?ジャミラとは一体なんなのですか?」

 ムラマツのしゃべり口がですます調に変わっていたのには感心した。ようやく私の方が上役であることに気が付いたようだ。

 ジャミラはパリ本部の最重要機密事項だ。たとえ日本支部の隊員とはいえ、それをペラペラとしゃべることは躊躇する。

「あ~っ、ムッシュムラマツ。パリの本部で予測していた最悪の事態になりました」

 私は何とかごまかせないか次の言葉を探した。

「というと」

 ムラマツが次を促す。

「ムッシュアラン。もうここまで来たんです。あいつの正体を教えてください」

 ハヤタが立ち上がり、そう言った。

 この男は副隊長格で、日本支部のメンバーの中で一番まともかと思っていたが、やはり上役である私のことをファーストネームで呼んだ。

 それを聞いて私はある意味どうでも良くなった。こいつらに自分との格の違いを教えてやらなければならないという気分になってきた。

 私が日本に派遣されたのは、表向きは私が、日本語がペラペラであり、日本支部のメンバーとコミュニケーションが容易に図れるというものだったが、実際は違う。

 パリの本部でも一部の人間しか知らないような機密任務を負ってきているのだ。

 それをばらすのは今のタイミングしかない。彼らも全員が日本人とはいえ、科学特捜隊の隊員、機密の意味も、それを守らなければならない重要性も理解できるだろう。

 私は決心した。

「諸君、あれは怪獣ではありません。・・・あれは、いや彼は我々と同じ人間なのです」

 一同が驚いた。

「そっ、それは」

 ムラマツは何か言おうとしたが、結局、何も言えなかった。

「昔、地球上で国家間の宇宙開発競争が繰り広げられていた頃の話です。ある国の打ち上げた人間衛星がついに帰ってこないという事件がありました。その国は人間衛星が爆発し、搭乗員は死亡したと発表しました。それがジャミラでした。ジャミラは祖国の宇宙開発に貢献した英雄としてあがめられ、勲章も与えられました。しかし、死んでなどいなかったのです。人間衛星は遭難しました。そしてジャミラは母国に救助を要請したのです。しかし、救助には莫大な金がかかる。結果として、母国はジャミラを見捨てました」

 聞いた隊員たちはしばらく口をつぐんでいたが、そのうちムラマツが口を開いた。

「そうか、そしてそのジャミラの乗ったロケットは宇宙を漂流しているうちに、どこかの星に流れ着いた」

 ムラマツは立ち上がり続けた。

「しかし、その星には地球のような水も空気もない。だがジャミラはどうにかして生き延びた。しかし、その星の異常な気候風土の中で生きているうちにあんな姿に変わってしまったというわけか」

 私も立ち上がった。

「そうです。恐らく彼は何十年かかって自分の乗って来たロケットを作り替えたのでしょう。そして地球に帰って来たのです。地球の全人類に対する恨みと呪いの心だけを持って」

「俺やめた」

 私が言い終わらないうちにイデが叫んだ。

「どうしたんだ、イデ」

 イデの右隣に座っていたアラシが声を掛ける。マルス133を持ったままイデが立ち上がった。

「俺やめた。ジャミラと戦うのやめた」

「何を言ってるんだ」

 アラシも立ち上がり、イデの両腕を掴む。

「離せよ!離せよ!」

 イデが荒々しくアラシの腕を振り払う。

「よく考えてみりゃジャミラ、俺達の先輩じゃないか。その人と戦えるか?」

「しかしなあ」

 アラシがたしなめる。

「おいアラシ。俺達だってなあ、俺達だってなあ、いつジャミラと同じ運命になるか知れないんだぞ」

 言ってイデは手に持っていたマルス133を地面に叩きつけた。

「何をするんだ」

 アラシがさらにたしなめた。イデは下を向いた。

「くそ~、俺がこんなものを考え出さなければ良かったんだ」

 イデが下を向いたままつぶやいた。

「そうすりゃ、ジャミラは、ジャミラは」

 イデはブツブツとつぶやいていた。

 そんなイデのつぶやきを聞きながら隊員たちは茫然としていた。

「諸君!」

 そんな隊員達を見ながら私は改めて呼びかけた。

「改めて科学特捜隊パリ本部からの命令を伝える。ジャミラの正体を明かすことなく、秘密裏に葬り去れ。宇宙から来た一匹の怪獣として葬り去れ。それが国際平和会議を成功させるただ一つの道だ」

 私がそう言うと、いつの間にかしゃがみこんだイデの傍にフジが寄ってきて声を掛けていた。そのうちムラマツもイデの傍に立ち、その肩に手を置いた。

「イデ。お前の気持ちは分かるがジャミラは今や人類の敵になってしまってるんだ。・・・なっ」

 できればムラマツには同じ言葉をイデではなく私に掛けてほしかった。イデよりもこの非情な命令を発しなければならない私の方がはるかに傷ついているのだ。

 次の瞬間、イデは立ち上がると大声で「バカヤロー」と叫んでいた。

 それからパリ本部とも協議しつつ、ジャミラ宿滅作戦が検討された。検討の結果、現場は国際平和会議の会場に近く、レーザーやミサイルの使用はできないとの意見が強く出された。

 結果として火攻め、火攻めが功を奏さない場合には水攻めという方針が決定され、国際平和会議の会場周辺に巨大な火炎放射器と降雨弾が配備された。

 

 夜が明け、再び、ジャミラは国際平和会議場の近くに現れた。ジャミラは会議場の方に向かってくる。会議場もろとも壊滅させようとしているようだった。

 すぐに会議場前に配置された火炎放射器が火を噴く。しかし、大型火炎放射器のすさまじい炎にもジャミラはビクともしなかった。

 ここで想定外の事態が起きた。ジャミラが前進を諦め、迂回を始めたのだ。火炎放射器が功を奏さない場合には、間を開けて後方に控える高射砲から人工降雨弾が発射される予定だった。ところがジャミラはこれを回避するかのように退却を始めた。

 これは私の推測であるが、ジャミラは火炎放射器の後方に降雨弾が控えているのを察知し、前進を断念したのではないか。

 ジャミラが方向を変えたのは予想外だった。ジャミラが変えた方角には民家が点在しており、そこには低いレベルの警報しか発せられていなかった。

 直ちに科学特捜隊は一般警察と共に住民の避難誘導に従事したが、逃げ遅れた住民が何人もいた。

 科学特捜隊が住民の避難に気を取られている隙にジャミラは会議場に迫る。科学特捜隊はすぐに体勢を立て直し、ジャミラに向け降雨弾を放った。

 降雨弾はただ弾の中にこめられた水を撒き散らすものではない。大気を刺激し、大気中の水蒸気を集め、人口の雲を作り、人口の雨を降らせるのである。

 水攻めにするには例えば消防車のポンプなどを使って汲み上げた水を浴びせるという方法もあるにはある。しかし、これでは四十メートルはあろうかと思われるジャミラの頭上には届かない。

 結局、水攻めとしては降雨弾により人口の雨を降らせるのが最も効率的なのであり、高射砲はジャミラの頭上めがけて降雨弾を放った。

 降雨弾がジャミラの頭上で炸裂し、たちまち人工の雨がジャミラに降り注いだ。

 ジャミラは苦しみ、会議場の前でのたうち回った。私は思わず、心の中で「ジャミラ、頑張れ!」と叫んでいた。

 ジャミラは既に瀕死の状態だったが、なんとか立ち上がり、再び会議場の方に向かって歩いて行った。

 すると次の瞬間、森の中が光り輝いたかと思うと、空から巨人が降って来た。話には聞いていたウルトラマンだった。私が実物を見るのはこれが初めてだった。

 ウルトラマンはジャミラに体当たりし、ジャミラは崩れ落ちた。しかし、すぐに立ち上がると、次の体当たりをジャミラはかわし、寝技に持ち込んだ。柔道の元ヨーロッパチャンピオン、ジャミラは寝技の名手だった。

 ジャミラはウルトラマンの上に乗り、マウントポジンションを取った。ジャミラがウルトラマンの首を絞める。その姿に私は既視感を覚えた。

 それは昔、パリで見た柔道世界選手権の決勝戦だった。ジャミラは日本人選手の上にかぶさり、襟をつかみ、十字締めで苦しめていた。その光景が甦ったのだ。

 ウルトラマンがどれだけの超能力者かは知らないが、少なくとも肉弾戦では互角なように見えた。

 私はもう一度、心の中で「ジャミラ、頑張れ!」と叫んでいた。

 両者はしばらく寝技で戦っていたが、地力に勝るウルトラマンが首を絞められたまま立ち上がった。柔道なら審判から「待て!」の掛け声がかかり、試合が一時中断するところだが、審判はいない。そのままの体制で二者の戦いは続行された。

 立ち技に戻ったジャミラはもう一度、得意の寝技に持ち込もうとしたが、ウルトラマンは足蹴りでジャミラを弾き飛ばした。

 再び立ち技に戻り、ジャミラとウルトラマンの間に距離ができる。ジャミラの正面に立ったウルトラマンは両掌を垂直に合わせると、掌から勢いよく水が噴出した。水は容赦なくジャミラに襲い掛かる。既に瀕死の状態だったジャミラはあっという間に崩れて行き、会議場の前に飾られていた万国旗と共に崩れ落ちた。

 しばらくのたうち回っていたが、ほどなく絶命した。赤ん坊のような泣き声がいつまでも耳にこびりついて離れなかった。

 ウルトラマンがその手で直接、地球人を殺害したのは後にも先にもこの時の一回だけだったのではないだろうか。

 私はなぜウルトラマンが人類に味方するのか分からない。

 かつてアメリカではやったスペースオペラ「スーパーマン」は人類ではなく、アメリカの国益のために戦っている。それは、スーパーマンが移民国家アメリカにやって来た数多くの移民の一人に過ぎないからだ。しかし、ウルトラマンは地球上では平時、どのような生活を送っているのかも分からない。

 あるいはウルトラマンの支配する宇宙では宇宙の秩序というものが存在していて、ウルトラマンはそれを守る宇宙の警察官を自認しているのかもしれない。だからその秩序に矛盾しない人類に味方しているのかもしれない。

 しかし、この戦いは地球人同士の戦いだったのであり、ウルトラマンは干渉するべきではなかった。残念ながらウルトラマンはジャミラが人間だったことを知らなかったのだろう。

 対ジャミラ戦が終了した後、ムラマツの発案で科学特捜隊は葬式の真似事のようなものをやった。国際平和会議の会場近くに急造の墓碑が立てられ、隊員たちが集まってジャミラの冥福を祈った。

「ジャミラ。許してくれ。だけど良いだろう。こうして地球の土になれるんだから。お前の故郷、地球の土だよ」

 ムラマツはそんな弔辞めいたことをつぶやいたが、私はムラマツが何を言いたいのか理解できなかった。

 結局、それは葬式の真似事に過ぎず、墓碑もペットが死んだときに庭に立てられる手作りの墓と大差なかった。劇団の小道具係が作るような代物だった。

 会場には次々と会議の出席者が集まって来ていた。イデだけがいつまでも墓碑の近くに立ち尽くしていた。

 ジャミラは科学特捜隊パリ本部の決定通り、宇宙から来た一匹の怪獣として葬り去られた。

 

 何日かが経って、国際平和会議も無事に終わり、私もフランスに帰ることになった。

 ムラマツは律儀にも国際空港まで私を見送りに来た。

「ムッシュアラン、お元気で」

 国際空港の出発ターミナルでムラマツは私にそう言い、右手を差し出した。

 私は最後に一言言ってやらなければという気分になっていた。

「ムッシュムラマツ」

 私はムラマツのそのニコチン臭い手を握ったまま言った。

「今回のジャミラの事件は絶対的な機密事項です。ジャミラが人間であったことが外に漏れることのないよう、厳重に情報管理をお願いします」

 結局、私はムラマツのその不躾な言動をたしなめることはできなかった。

「分かっています。隊員にも厳しく言って聞かせます」

 ムラマツはそう言って握った手に力を込めた。

 ただ、その時、私の頭の中は機密保持のことではなく、それとはまた別のことが渦巻いていた。

 

 私は日本での任務を終え、パリ本部に帰任した。しかし、私には一仕事を終えた充実感はなく、虚しさばかりが心の中に渦巻いていた。

 ミッチェルに帰任を報告すると、ミッチェルに伴われ、長官室を訪問した。

 ピース長官は私の顔を見るとニッコリと微笑み、上機嫌に私を部屋に招き入れたが、出発前のようにミッチェルや私に席を勧めることはなく、自分の席に座ったままで、立ち上がって握手を求めるということもしなかった。次長のコリンズは長官の傍に召使いのように立っていた。

「命令どおり、宇宙から来た一匹の怪獣としてジャミラを葬り去りました」

 私は直立不動のまま長官に報告した。

「君の活躍は既に日本支部からも報告を受けているよ」

 私は長官がそういうのを聞いて少しムッとした。私は活躍などしていない。かつての盟友をこの手で抹殺しただけだ。

「私の活躍ではありません。ウルトラマンの活躍の間違いでは」

 私は自嘲して言った。

「間違いなく君の活躍だよ。確かにウルトラマンは登場し、水芸を披露したが、それはやつの死期を数分早めたに過ぎない。奴は君が直接指揮した降雨弾攻撃に耐えられず、早晩、絶命していただろう」

「ジャミラです!」

 私は長官に向かって叫んだ。コリンズの表情が一瞬こわばった。ミッチェルの表情は私の視界からは見えなかったが、恐らくコリンズと同じような表情を見せていただろう。私は続けた。

「奴じゃない。彼にはジャミラというれっきとした地球人としての名前があるのです」

「名前などない!一匹の宇宙怪獣だ!」

 それまでニコニコしていた長官が急に真顔になり怒鳴った。こっちの方が長官の本心だったのだろう。しかし、次の瞬間には長官は再び微笑んでいた。

「君は疲れている。少し休みたまえ」

 長官はそう言うと机の上の書類に目を落とし、それとなく退室を促した。

 私はしばらく長官を睨み付けたが、そのうちミッチェルが私の肩を叩き、退室を促した。ミッチェルと目を合わせると彼はうんうんと頷いていた。

 ミッチェルと私は「失礼します」と言って一礼し、長官室を後にした。長官は下を向いたままだった。

 作戦室に戻ると私はミッチェルから二週間の休暇を命じられた。

 



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九 除隊

 二週間後、休暇明けの私を待っていたのはミッチェルの転勤及びミッチェルの後任が決まるまでの間、私が科学特捜隊パリ本部隊長代行として指揮を執るという人事の発表だった。ミッチェルは国際科学警察機構ワシントン支部の次長に転出することになった。

 下部組織である科学特捜隊パリ本部隊長と上部組織である国際科学警察機構ワシントン支部次長では後者の方が格上なので栄転ではある。またミッチェルは元々家族の待つ母国に戻りたがっていたので人事そのものには違和感は覚えなかった。

 異動を前にミッチェルは私を柔道に誘った。パリの思い出に稽古をつけて欲しいというのだ。私に異論があろうはずはなく、私は二人の都合のつく時間を見つけ、道場のあるフランス警察パリ第〇〇分署に出かけて行った。

 パリ第〇〇分署には立派な道場があり、そこは私が少年時代、ジャミラに稽古をつけてもらった思い出の場所だ。幸い同署の警務部に知り合いがいたので事情を話し、使わせてもらった。

 ミッチェルと私は柔道着に着替え、ストレッチなど準備運動を入念に行った。まだ日の高い時間であり、道場には二人しかいない。

 二人は青畳の上で向かい合い、立って一礼した。

「た~っ!」

 二人がどちらともなく声を掛ける。そして組み付いた。

 私は小さい方ではないがミッチェルは二メートル近い大男であり、傍から見れば大人と子どものようだ。しかし、キャリアは私の方がはるかに上であり、私はがっちり引手と吊手をつかんだままミッチェルが技を掛けてくるのを待った。しかしミッチェルは技を掛けず、むしろ口を開いた。

「今日こんなことをしたのはお前に聞いてもらいたいことがあったからだ」

「・・・・・・」

 私はミッチェルの突然の告白に驚き、ミッチェルを凝視した。

「ここなら盗聴器もないし、監視も入っては来られないからな。傍目には柔道をやっているようにしか見えない」

「聞いてもらいたいこと?」

「上層部はお前を日本に派遣する前から既にジャミラの正体を知っていたのだ」

「何?」

 ミッチェルは大外刈りを掛けようと私を崩しにかかったが、技は荒く、私は軽くこれをかわした。

「長官はこの前、お前のことを上機嫌に迎えたが、本当はハラワタが煮えくり返っていたのだ。このミッションは失敗だったのだ」

「失敗ですと?私は命令どおりジャミラを宇宙怪獣として葬ったはずですが」

 ミッチェルは、今度は払い腰を掛けようとしたが、私はこれも軽くかわした。ミッチェルの息が荒くなってきた。一方、私の呼吸はまったく乱れていない。

「上層部はお前がジャミラを連れて帰ってくることを期待していたのだ。そして何十年も宇宙空間で生き延びたジャミラの生命力、見えないロケットの技術、それらのものをこれからの生命科学や宇宙開発に活かしたいと、そう思っていたのだ。しかし、それはできなかった。ジャミラはただ暴れ回るだけの怪獣になってしまっていた。だからお前にジャミラの抹殺を命じるよりほかなかったのだ」

 もう一度、ミッチェルは払い腰に入ろうとするが私は巧みにかわした。

「上層部はこの失敗を隠蔽するために秘密を知る者を異動させている。私を異動させたのもそうだが、お前を私の後任に据えるのは直接監視下に置くためだ。そして落ち着いたらどこかの閑職に飛ばすのだろう」

 ミッチェルはもうフラフラだった。可哀想になった私はミッチェルの身体を一度押してから全力で引き寄せ、背負い投げを掛けてみせた。

 ミッチェルの巨体がきれいに宙を舞い、青畳にドスンと落ちた。

 一本を取られたミッチェルはなお饒舌だった。

「私達はもう科学特捜隊員としての任務を終えたのかもしれない。完全に果たし終えたのだ。黙っていれば美味しいポストが与えられ、特に仕事らしい仕事もなく、それでいて十分な収入を保証され、のんびり過ごせるのだろう」

 聞いた私はミッチェルの道着から手を離した。

 ミッチェルは激しい息づかいのまま立ち上がり、私と向き合い、一礼した。

 数日後、ミッチェルは母国へと異動していった。

 

 それからしばらく私は隊長代行として科学特捜隊パリ本部の指揮を執っていた。しかし、今思えば、それはミッチェルが言ったとおり、私を同じくパリに本部を持つ国際科学警察機構の監視下に置くための措置に過ぎなかったのだろう。

 半年もたつと宇宙怪獣による国際平和会議妨害事件も人々の記憶から薄れていくはずであった。しかし、薄れはしなかった。それはこの頃からネットを中心にある噂が流れ始めたからである。

 順番としてはどれが最初だったのかもはや分からないのであるが、私の認識している時系列に立つと、まず某国の柔道の選手だか、審判だかが国際平和会議場の前庭で繰り広げられたウルトラマンと宇宙怪獣の肉弾戦を見て柔道ヨーロッパチャンピオンのジャミラを思い出したと述べたといった話が最初だった。

 ある人はヨーロッパ選手権に出場した柔道家の話として噂し、またある人はジャミラの試合をさばいた審判から聞いた話として噂した。

 次にX国から、ジャミラの事故は実は嘘で、それを隠蔽するためにジャミラには名誉勲章が与えられ、両親は年金でのうのうと暮らし、御殿のような家に住み、召使いを雇っているという噂が流れ始めた。御殿のような家や召使いはまるで嘘なのでこれはまさしく都市伝説に過ぎなかった。

 さらにこれは日本発ということになるが、科学特捜隊日本支部のメンバーが、例の宇宙怪獣が宇宙飛行士のジャミラであることを知っており、宿滅後、国際平和会議の会場となった建物近くに墓まで作ったとの噂が流れ始めた。その噂が流れ始めた頃、日本支部は慌ててジャミラの墓を撤去したようで、元あった場所にその墓はもうないのであるが、写真に写り込んでいる画像がネットに流れ、噂の信憑性を高めていた。ネットの中には墓があった場所に、かつてそこに何かがあったことを示すくぼみのアップ画像が流れたりしていた。

 極めつけは、日本のあるテレビ局が都市伝説の特集番組でジャミラの噂を取り上げたことだった。この番組の中で司会者は「信じるか信じないかはあなた次第です」と力強く語っていた。

 いつしか国際平和会議を妨害した宇宙怪獣の名は「ジャミラ」と呼称されるようになり、それまで、他の怪獣たちと異なり、あえて宇宙怪獣303号と番号で登録されていた国際科学警察機構の公式レジストリにもジャミラで登録すべきとの意見が多数を占めるようになっていた。

 当事国のX国はこの動きに抵抗を見せなかった。私は当時、抵抗するとかえって隠蔽を剥がされるとの判断があったのではないかと考えていたが、真実はまた別のところにあった。X国の報道官は祖国の英雄ジャミラの名を後世に残すために同意したとのコメントを発表した。

 宇宙怪獣の名は正式にジャミラとなった。

 こうしてジャミラは正式に本名で呼ばれるようになったのだが、それは世間がジャミラの事実を認めたのではなく、得体の知れない宇宙怪獣を名付けるにあたりジャミラにあやかったのに過ぎなかった。事実、この星の良識の多くはあの宇宙怪獣が本当にジャミラその人であるとは思ってはいなかった。

 それは冷静にならなくとも理解できることである。第一に、ジャミラは何年も前に死亡している。宇宙空間でそんなにも長い期間生きていられるはずはない。第二に、国際平和会議の会場に現れたジャミラは、人間と呼ぶにはあまりにも巨大過ぎた。どんな突然変異があったにせよ、現代の生物学ではあの巨大化を説明することは不可能である。そして何より、X国も他の国際機関も都市伝説に関わらず、宇宙怪獣ジャミラと人間ジャミラとの同一性を認めていなかった。

 

 それからさらに何年かが経過し、人々がジャミラの都市伝説にも飽き始めた頃、国際科学警察機構はもう大丈夫だろうと判断したのか、私を科学特捜隊パリ本部隊長代行から国際科学警察機構パリ本部主任監察官に栄転させた。

 監察官は国際科学警察機構及びその下部組織に勤務する職員の非行を監督するポジションであり、その地位は高いもののハッキリ言って閑職である。国際科学警察機構のメンバーたるもの、それだけ品行方正な者が多いということである。

 私が主任監察官に異動したのは定期人事異動の時だった。私の他にも異動するメンバーがいて、私の隣の席にはX国から派遣されてきたミハエル・パノフという男が座った。

 私はこのパノフという男が気に入らなかった。それは多分にX国の人間だということが原因だったのだろう。しかし、そんな私の心を知ってか知らずか、異動してきたその日に私はこの男に飲みに誘われた。

 国際科学警察機構の入る建物の中には食堂などの厚生施設もあり、小さなショットバーもある。職員限定なので酒を酌み交わしながら機密事項に属する話もできる。

「アランと呼んでも良いか?」

 カウンター席に座り、飲み物を注文するとパノフは軽い口調で言った。

「・・・ご自由に」

 私は冷たく言った。事実、私はこの男と酒を酌み交わすことが愉快ではなかった。しかし、パノフは笑顔で続けた。

「俺のことはミーシャと呼んでもらって構わない」

 言ったがその言葉を私は無視した。

「何か話があるのだろう?」

 私は不機嫌な声で言った。パノフは不敵に微笑んだ。

「ジャミラの話だ」

「ジャミラの話?」

「ジャミラの件、もう許してはもらえないだろうか?」

 私は話の筋が分からず、首を捻った。

「許す?誰を、何を許すというのだ?」

「ジャミラの件、お前は憤っているのだろう?何に対して、誰に対して憤っているのかは俺には分からない。国際科学警察機構に対してか、ピース長官に対してか、あるいはX国に対してか、ジャミラを見捨てたことを怒っているのか、あるいは隠蔽工作を怒っているのか」

「・・・・・・」

「もう良いではないか。ジャミラの事故があってからもう何十年もたっている。国際平和会議の事件からも数年がたっている。多くの人がそのことを忘れ、過去のこととして今の生活を送っているのだ」

 聞いて私は首を振った。

「・・・許すことはできない。何年たってもだ。ジャミラは私の親友だったんだ。その親友が無残にも殺されたんだ」

「しかし、実際に殺したのはお前だ」

 それまで上機嫌だったパノフは突然私を睨んで言った。

「・・・そうだ。ジャミラを直接、殺したのは私だ。私がやったことは、一人の人間であるジャミラを降雨弾で攻撃し、死に至らしめた私の行為は特別公務員暴行陵虐罪の構成要件に該当する。だから日本政府は私を逮捕し、起訴すれば良い。逮捕状が出れば私は喜んで出頭する。まだ時効ではないはずだ」

 私もパノフを睨み付けて言うとしばらく私を睨んでいたパノフは軽く微笑んだ。

「だからそういうことはやめにしようというのだ。関係者はみんなジャミラの件は過去のこととして幸せに暮らしている。ジャミラが遭難した時の関係者の多くはもう年金生活に入っている。ジャミラのご両親もだ。墓の中に入っている者も少なくない。お前はその墓を掘り返して、死体に鞭打つというのか?」

「許せないものは許せない」

 私はそう言ってオンザロックを一気に飲み干すとショットバーを後にした。

 確かにパノフの言うとおりかもしれない。このまま何もしなければ誰も不幸にはならない。私はこのままジャミラとのことを墓場まで持って行かなければならないのだろうかと考え始めていた。

 

 しかし、運命というのは不思議なもので、私が主任監察官に異動した数日後、このジャミラ事件は劇的な展開を見せる。

 国際科学警察機構に長年君臨してきたスイス人のピース長官が死亡したのだ。

 死因は脳溢血による病死だったが、それは突然の出来事で事故死と言えるレベルのものであった。長官は執務中に突然倒れ、二度と目を覚まさなかった。

 そして、長官の死から一ヶ月くらいが経過し、報告があるといって私の部下の一人が私のところにやって来た。その部下は長官の死後、長官の周辺にある奇妙な出来事を調査していた。その調査結果を見て私は驚いた。長官の懐にX国の中央銀行から少なくない金が振り込まれていたのである。

 私はさらに詳細に調査するよう部下に命じ、フランス検察庁の特別捜査部ともコンタクトを取った。

 しかし、その翌日、パノフが私の前に立ちふさがった。

「アラン、話がある」

 パノフはそう言って監察官室の中の面接ブースに私を誘導した。ブースの中で二人は向かいあった。

「長官の件だが、俺が担当することになった」

「何?」

 私はパノフを睨み付けた。

「これは首席監察官の決定なのだ。悪く思わないでくれ」

「闇に葬るつもりか?」

「結果的にそうなるだろう。長官がX国を脅していたのか、X国が長官に忖度していたのか、今は分からない。しかし、懲戒処分にするべき長官はもうこの世にいないのだから書類を整理して終了ということになる」

「公表すべきだ。ジャミラの件も含めて」

「ジャミラ事件と関係性があるかまでは分からない」

「それ以外に考えられない。長官はジャミラ事件の真相を知っていた。X国はこれを隠蔽したかった。そこに金の授受が生まれた。十分じゃないか」

「それは仮説だ。それにジャミラ事件の証拠はすべて散逸している。証明はできないよ」

「なぜ国際科学警察機構はそこまでしてX国をかばうんだ?」

「なぜって、それはX国が国際科学警察機構の大切な資金提供者だからさ。国際科学警察機構に限った話じゃない。国際機関はどこも似たようなものさ。ユニセフや国連難民高等弁務官事務所ですらそうだ」

 私はジャミラのことは墓場まで持って行かなければならないかもしれないと考え始めていたが、長官が黒幕だったのであれば話は別だ。中央銀行が直接、関与しているというのであれば国家ぐるみの隠蔽工作なのだろう。公表しなければならないと思った。

 しかし、公表するためにはもう私は国際科学警察機構にはいられないだろう。

 私は国際科学警察機構を去ることを決心し、翌年の定期人事異動を待った。

 

 長官の不正は闇から闇に葬られたようで、同じ監察官室の中にいる私にさえ、その結果がどうなったのかを知ることはできなかった。

 私は次の定期異動までは猫をかぶることとし、退屈に監察官室での一年を過ごし、一年後に晴れてフランス警察本部に戻る辞令をもらった。

 フランス警察本部に戻るといってもパリからパリへの異動であり、両方のオフィスもそれ程離れてはいなかったので転勤という感覚も薄いものであった。

 私が最終日に荷物をまとめて執務室を出て行こうとすると、隣の席のパノフが握手を求めてきた。しかし、私はその手を握ることはなかった。最後までこの男を好きになることはできなかった。

「最後にもう一つだけ教えてやろう」

 右手をひっこめたパノフは静かに言った。

「まだ何かあるのか?」

「以前、ジャミラのレジストコードを303号からジャミラに変更したとき、X国は反対しなかったよな?」

「ああ。覚えているよ」

「X国はジャミラの名を残したいというようなことを言っていたが、あれは嘘だったのだ。本当はX国の中に宇宙怪獣303号をついうっかりジャミラと呼んでしまう輩が何人もいて、それならいっそのことジャミラを公式コードにした方が良いという話になったのだ。ちょうどその話が出ていた頃だったのでこれ幸いと乗ったのだな」

「X国ではジャミラのことは周知の事実だったと?」

「知っている人は知っていたということだ」

 言ってパノフはニヤリと笑った。

 私はそのまま何も言わずパノフに背を向け、その場を去った。

 

 フランス警察本部に戻った私は本部長付となった。本部長付とはどこかの署長クラスのポストが空くまでの待機ポストであり、特に仕事はなかった。私はこの自由な時間を利用してジャミラ事件の真相を公表する準備を始めていた。

 手始めに私は旧知で△△△△紙のA記者に会った。

 かつてX国特派員だったA記者は、その後、地方勤務やその他の国の特派員としての海外勤務も経験していたが、この頃はパリの本社勤務に戻っていたので時々顔を合わせては酒を飲んだりしていた。

 パリにある行きつけの小さな居酒屋で私はA記者にジャミラ事件の真相を語った。A記者は驚くこともせず、冷静に、真剣に私の話を聞いていた。

「で、どうしたいのだ?」と一通り話を聞き終えたA記者。

「世間にこの事実を公表したいです」と私。

「しかし、内容が膨大過ぎて事件記事として紙面を飾ることは不可能だ。週刊誌や月刊誌の記事にするにもボリュームがあり過ぎる」

「ではどうすれば良いですか?私は専門家のアドバイスをもらいたいのです」

 私が言うとA記者は少し考えていたが、やがて口を開いた。

「手記を書いたらいいんじゃないか」

「手記?」

「あるいはルポと言っても良い。要するに単行本を出すんだ。そして、アランがこういうセンセーショナルな本を出したという記事なら新聞にも出せる。内容によってはうちの新聞社からその本を出すことだってできるだろう」

「分かりました。それならすぐに執筆にとりかかりましょう」

「原稿ができたら読ませてくれ。それから今後のことを考える」

 A記者は笑顔で言った。私は正直、うれしかった。これまで胸の内に秘めたものを白日の下にさらけ出すことができるのだ。犯罪を自白する犯人の気持ちが分るような気がした。

 その日から私はフランス警察本部の私のデスクでパソコンを打ち続けた。そして今日、ようやく最後の段落に入ることができたのである。

 この原稿を印刷し、A記者に渡せば私の長かった任務は終了する。本当は原稿データをメールでA記者に送ることができれば良いのだが、残念ながら警察の情報システムは堅牢で、外部への送信が著しく制限されている。外部記録媒体にデータを移すことも、可能ではあるが手続きが厳しく、おいそれとはできない。結果として紙の形で渡すという原始的な方法を取らざるを得ない。

 最後にこの物語を読んでくださった皆さんに心より感謝申し上げたい。そして二度とジャミラの悲劇が繰り返されることのないよう心から祈って筆を置く。

 



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十 脱出

 私はこの前の章でこの物語を脱稿したつもりでいた。しかし、この物語はそこでは終わらなかった。

 私はこの物語にもう一つの章を作り、A記者にこの原稿を預けた後の出来事を付け加えなければならなくなったことをとても残念に思う。ただ、これがこの物語の最後の章となることは私にとってハッピーなことだ。

 この物語の原稿をA記者に預け、一月くらいがたった頃、A記者から連絡が入り、私はA記者が勤務する新聞社の彼のデスクに呼び出された。呼び出されたその時はゲラが刷り上がったので校正を依頼するのだろうと信じて疑わなかった。実際、そのくらいのタイミングだった。

 私はパリ市の中心部にある新聞社のA記者のオフィスを尋ねた。A記者は狭いながらも個室を持っていて、大きめの机の前には面会者用の椅子が置かれていた。

 A記者は私に椅子を勧めたので私は座った。A記者は明らかに不機嫌だった。

 A記者は私の目の前に原稿を投げ出し、「これは駄目だ」と言った。

「駄目?」

 私は思わず復唱した。A記者の意味するところが分からなかった。

「どういうことです?」

 私はA記者を睨んだ。A記者は困惑した表情を見せた。

「こんな内容では駄目だということだ。ここに書いてあることはでたらめばかりじゃないか」

 私は耳を疑った。A記者の口からそんな言葉が出るとは思わなかったからだ。

「でたらめですと。でたらめなもんですか。全部真実です。ここに書いてあることは私が実際に経験した本当のことなんです」

「証拠はあるのか?ここに書いてあることの。証拠なんかないだろう?裏付けが一つも取れないじゃないか」

「あたり前です。これは告発本なのです。国際科学警察機構やX国が隠蔽していたことを白日の下にさらそうとするものです。証拠なんて国際科学警察機構やX国が隠滅しているに決まっているじゃないですか」

 私は声を荒げていった。聞いたA記者は深くため息をついた。

「だから駄目なのだ」

 A記者は静かに言った。

「裏付けが取れないと駄目なのだ。もちろん世の中には裏付けも取らず、無責任な報道をするブラックジャーナリズムも存在する。でもそれは噂話のレベルでうちの新聞社のような立派なマスメディアができることじゃない」

 なるほど証拠がなければ大新聞では受け付けられないというのはその通りかもしれない。しかし、私はそんなことでは諦められなかった。

「これは真実です。本当のことです。どうか私を信じてください」

 私は懇願するように言った。

「うちも新聞社だから情報提供があった場合には裏付けを取らなければならない。デマを報道するわけにはいかないからね。僕は国際科学警察機構の幹部に面会を求め、コリンズ次長に会った。科学特捜隊元隊長のミッチェル氏には会えなかったが、監察官室で君と席を並べていたパノフ主任にも会った。取材としてね」

 聞いて私は嫌な予感がした。

「それでなんと?」

「二人とも君が重度の精神病だと言っていた。入院しなければならないほど重度の。だから国際科学警察機構を去ったのだと」

「それは嘘です。私は病気なんかじゃない」

「それだけじゃない。僕は君のお父さんにも会ったんだ」

「えっ、パパに?」

「君のお父さんも同じことを言っていた。君が重度の精神病におかされていて今はリハビリ中だと。今は職務を外れているが、いずれは現場に復帰できるだろうと。そう言っていた」

 なるほど、私は知らされていなかったが、国際科学警察機構は私の父をも懐柔していたのだ。

「Aさん。私を信じてください。この話は本当なんです」

 聞いたA記者は首を振った。

「もちろんアラン、君のことは友達だと思っているし、君のことは信じたい。しかし、君の友達ではない新聞社の幹部を理解させることはできないだろう。もしこの物語が真実であれば、世間に与える影響は計り知れないものがある。しかし、逆にコリンズ次長やパノフ主任、あるいは君のお父さんが言っていることが真実であって、この物語が病魔に侵された君の幻想の産物であるとしたら我が社に計り知れない打撃を与えることになる。もはや新聞社としては存在できないだろう」

「本当なんです。真実なんです。信じてください」

 私はいつの間にか涙を流していた。

「アラン。本当に申し訳ないが、君の力にはなれない。ただ、友達として一つだけ役に立つことはしてやろう。君はこの物語を世に出したいと思っているのだな?」

 A記者が引き続き冷静な表情で言った。

「・・・もちろんです」

 泣いていた私も少し冷静になってA記者を見据えて言った。

「それなら自費出版という方法があるのだがどうだろう?」

「自費出版?」

「大手ではない中小の、中小ではあるが本の販売会社とつながりがあって、本屋に本を卸してもらえる、そんな出版社に出版してもらうんだ。もちろん、この場合、君が出版社に出版をお願いするわけだから、君が出版社にお金を払うことになる。だから自費出版だ。でも、後は契約の内容次第だが、本が売れて増刷されれば君の下にも印税が入るだろう。もっとも君は印税などには興味はないのかもしれないが」

 聞いて私は少し考えた。A記者の新聞社から出版できればセンセーショナルではあるだろう。だが、センセーショナルだからこそ出版できないという理屈も理解できるような気がした。私がお金を払うということにはもちろん躊躇はない。

「分かりました。あなたのアドバイスに従いましょう。それで、その出版社は紹介してもらえるのですか?」

 私は涙を拭って言った。

「知り合いに出版社を経営しているやつがいるからそいつを紹介する。紹介状はもう書いてある」

 言ってA記者は私に一枚の紙を渡した。紹介状で左上に出版社の住所も書いてある。私の家からそう遠くないところだった。私が紹介状に目を通しているとA記者が続けた。

「すまないな。こんなことしかできなくて。でも、どうかこれを僕の最大の誠意だと思ってほしい」

「ありがとうございます。早速行ってみます。じゃあ私はこれで」

 私はそう言って席を立ち、A記者の部屋を出て行こうとしたところで

「アラン!」

 A記者の声が聞こえ、私は振り返った。

「頑張れよ」

 A記者が言ったその目を見て、私はA記者が本当は私のことを信じていることを感じ取った。真の友情を感じた。

 

 私はその足ですぐに紹介された出版社に行った。

 出版社の看板には有限会社の枕詞が付されていたが、個人経営といっても良いようなこじんまりとしたたたずまいだった。

 呼び鈴を押し、インターホンで来意を告げると私より二回りは上と思われる男が出てきて私を事務所の中に招き入れ、応接の席を勧めた。男はこの出版社の主人だった。

 話は既にA記者から聞いているようで、すぐに契約の話になった。

「で、契約はどうしますか?」

 どうしますか?と聞かれても出版自体が初めてだし、何が標準なのかも私には分からない。

「私は初めてなんだ。何がどうなのかということも分からないのだが。できれば細かいことは勘弁してもらいたい」

 私は素直に言った。正直、金さえ払えば良いのだろうという思いはあった。

「そうですか。まあ、決めなければならないことは、基本的には二つあります。一つは印税をどうするかということ。もう一つは売り方をどうするかということです」

 主人は真面目に商売をしようとしているのだろう。その表情からは誠意が感じられた。

「うん」

「まず印税ですが、初版本は買い取ってもらいます。初版は何部にしますか?」

 何部にしますか?と言われても見当もつかない。

「普通は何部なのだ?」

「通常は千部です。自費出版が千部も売れれば上出来です」

「じゃあ、それで行こう」

「それで増刷した場合には印税十%を支払うというのが基本になります」

「それで良い」

 主人はテキパキとパソコンを打ち込む。

「次に売り方ですが、例えば私どもが本屋さんに売り込みを掛けるとなるとそれだけプロモーション費がかかることになります。新聞広告を打つとかももちろんお金はかかりますが、ご要望があれば引き受けます」

「なるほど」

 新聞広告など考えてもいなかったが、新聞に広告が出れば、内容が内容だけに注目も浴びるだろう。何より私の目的は金儲けではない。一人でも多くの人に真実を知ってもらうことだ。店主の説明するプロモーションには十分な意味があるように思われた。

「本屋さんに売り込みを掛ければ平積みで売ってくれたりします。もちろんただではありませんが、一定の効果はあります。新聞広告は、例えば全国紙の一面に広告を載せると必ず買ってくれる図書館もあるので、これも一定の効果が望めます」

「分かった。プロモーション費用には金を掛けてくれ」

「原稿は既にAさんから受け取っているコピーがありますが、それで良いですか?」

「それで良い」

 もたもたしていると潰されてしまうかもしれない。

「では、契約書にサインをお願いします」

 主人は契約書を二枚印刷し、お互いにサインした。

「では、早速、印刷にかかります。一週間以内にゲラができますので、ゲラができたら連絡しますので、校正をお願いします。連絡先はここでよろしいですね?」

 主人は契約書に記載されている電話番号を指さして言った。私はうなずいた。

 

 その二日後、A記者からメールが来た。「君は最近、世間に疎くなっているようだが、新聞はキチンと読めよ」という内容だった。

 なんだかよく分からず、新聞を開くと家の近くで火事があり、老人が一人死亡したという記事が出ていた。場所は私が二日前に訪れた出版社の近くだった。私は胸騒ぎがして、二日前に訪れた出版社に急いで行ってみた。

 出版社のはるか手前に非常線が張られ、中に入ろうとすると制服の警官に通せんぼされた。私はその警官に身分証明書を見せた。

「フランス警察本部のビロッツ警視正だ」

 言うと制服の警官は急に慇懃になった。

「失礼しました。お顔を存じなかったので」

「まあ良い。何が起こったのだ?」

「この先の出版社が全焼し、主人が焼死しました」

 言われて奥を見ると、二日前に訪問した事務所はものの無残に焼失していた。

 私はそれ以上、事実確認することを諦め、自宅に引き返した。私が託した原稿も、契約書も灰塵と化してしまったことは明らかだった。

 

 自宅に戻ると珍しく、老いた父が声を掛けてきた。話があるという。二人は自宅の居間の応接椅子に腰かけた。

 私は父と本当に久し振りに向き合った。こんな時間はここ何十年もなかったような気がする。父の老いを素直に感じた。

 父は自ら紅茶を入れ、私と自分の前に置いた。

「アラン。実はな、監察室がお前に興味を示しているという話を聞いたんだ」

「監察室が。なぜ?」

「お前、何か重大な機密を国際科学警察機構から持ってきたりはしていないか?」

 そう言われて思い当ることはある。最後の一年はジャミラ事件の告発の準備をしていたので、持ち出した機密情報もあった。

「私に窃盗の容疑でもかかっているのか?」

「もちろん、私はお前を信じているよ。しかし、お前が重大な機密と思っていなくても、国際科学警察機構がとても重大な機密だと考えている情報もあるかもしれない。見解の相違ってやつだ」

「それはあるかもしれない」

 私はため息をつきながら言った。

「お前は疲れているんだ。だから休んだ方が良い。監察に呼び出されて言いたくないことを言わされるのもつらいだろう?だから考えてみてくれないか。これからのことを」

 父は純粋に私のことを心配しているのだろう。親として。私は父にこれ以上、心配を掛けてはならないと思った。

「どうすれば良い?」

「パパとしては二つのことを考えている。一つは入院。もう一つは留学だ」

「入院?」

「一流の心療内科を紹介する。そこでしばらく静養すると良い」

 国際科学警察機構に吹き込まれ、私のことを病気と信じ込んでいるのだろう。私はもう一度深いため息をついた。

「もう一つの留学は?」

「日本でもう一度、柔道を勉強するのはどうだ」

「柔道を?」

「そしてフランス警察の師範代にでもなれば良い」

 入院か、留学か、どちらかを選べと言われればもちろん留学だ。

 ジャミラ事件はあったが、日本は大好きな国だ。パリにいても周りの人を不幸にするばかりのようだ。出版社の主人は私と出会わなければ早死にすることもなかったのかもしれない。

「分かった。少し考えさせてくれ」

 私は入れてくれた紅茶には手を付けず、外に出た。心配してくれる父の顔を見るのはつらかったし、自分の部屋に引き籠もるのもつらかったからである。

 

 私はセーヌ川の畔をブラブラと歩いた。そしてベンチに腰掛け、これまでのことを回想し、これからのことを考えた。

 やっぱり、日本に行くのが良いのだろうと思った。日本に行けばまたやり直せそうな気がした。告発も、日本ででもできるかもしれない。

「アラン・ビロッツさんですね」

 ベンチに腰掛け、ぼ~っとしていると隣に座り、新聞を読んでいた一人の男が声を掛けてきた。私が男の方を見ようとすると、「こっちを見ないで。正面を向いていてください」とその男が言った。

 私は横目で隣の人物を確認した。痩せて髪は長く、チャラチャラした感じの男だ。ストリートミュージシャンかと思った。

「突然、話しかけてスミマセン。でも妖しい人間じゃありませんよ」

 男は新聞を読むふりをしながら私に話しかける。

「君は誰だ?」

 私は男に言われた通り、正面を見ながら独り言のように言った。

「私は敵じゃありません。今は他人ですが、できればビロッツさんの力になりたいんです」

 そう言って男は読んでいたタブロイド紙を私の方に向けた。そのタブロイド紙は私も知っていた。真贋のはっきりしない噂話を平気で載せる、A記者の言っていたブラックジャーナリズムの見本のようなものだと私は認識していた。

「私はね、この新聞の記者をしているピエールってもんです」

 ピエールは新聞に目を落としたまま続けた。

「ブラックジャーナリズムがなんの用だ」

 私は正面を見たまま不機嫌に言った。

「ブラックジャーナリズムですか?それでも良いですよ。でも、あなたのことはAさんに紹介されたんですよ」

「Aさんに?」

「ええ。あなたが面白い情報を持っていて、それを白日の下にさらしたいのだがなかなかできないと」

 出版社の焼失はA記者も知っているはずだ。それを承知でこの男に話をしたのであればA記者との友情に感謝しなければならないのかもしれない。私は刹那に全てを理解した。

「分かった。それでどうするというのだ?」

 私は引き続き前を向きながら言った。

「原稿を私に任せてくれませんか?」

「原稿は知っているのだな?」

「Aさんにコピーを見せてもらいました。面白い話ですね。あっという間に読破しましたよ」

「出版してくれるのか?」

「うちはAさんのところとは違って真贋はどうでも良いです。あなたさえ承知してくれたなら」

 世に問うことができるのであればその手段はもうどうでも良かった。

「分かった。お任せしよう。だけど、大丈夫なのだな?君の命も狙われるかもしれないんだぞ」

「人の恨みを買うのはしょっちゅうです。大丈夫ですよ。センセーショナルに売り出してみせます」

 ピエールの表情は見えなかったが、不敵に微笑んだようだった。

「ただ、付け加えたいことがある」

「付け加えたいこと?」

「Aさんにボツを言い渡されてからこれまでのことを最終章として付け加えたいんだ」

「分かりました。では、できたらAさんに渡してください。私はAさんから受取りますので」

「分かった」

 二人が顔を合わせないまま、ピエールはその場を去っていった。

 

 セーヌ川の畔での交渉は一分もかからなかった。そして、私は日本に行くことを決めた。面倒な手続きはすべて父がやってくれた。出発は三週間後と決まった。

 私はその三週間の間にこの最後の章を書き上げ、A記者に原稿を渡し、日本へ脱出することになった。生まれてここまで、本当に色々なことがあった。日本への飛行機の中でそのことは噛みしめたい。

 今度こそ、最後までこの物語を読んでくれた読者に感謝したい。

 さようならパリ。

 

(了)

 




 訳者あとがき

 この訳文は完訳ではなく、ビロッツ氏の英語版をもとに日本人向けの物語を紡いだと言った方が正確かもしれない。但し、私が自分の意思で新たに付け加えたものはない。
 この物語に初めて出会ったのがいつかは正確には記憶していない。ただ、出会ったその時には、英訳はもちろん、オリジナルのフランス語版も既に絶版されていて、再販の予定もないと聞いていた。たまにネットの中古市場に出品されるがものすごいプレミアムがつき、それでも一晩で誰かに買い取られるのが常だ。図書館からも既に撤去されていると聞く。予定されていた日本語版も結局、発刊されていない。この物語はいわば幻の作品となってしまっているのだ。
 この事実を私はとても残念に思っていた。ことの真偽はともかくとして、この物語は読む価値のあるヒューマンストーリーだ。
 そこで私は自ら日本語版の作成に踏み切った。あくまでも個人の趣味としてやるのであれば、なんの見返りも求めないのであれば、著作権という問題も生じないだろう。また、今はインターネットの投稿サイトもあるので、それを使えば世間に問うこともできる。
 ビロッツ氏の物語は日本へ出発する直前で終わっているが、この日本語版の読者のために、その後、ビロッツ氏がどのような時間を過ごしたのか、私が知っている若干を記述しておく。
 この物語のフランス語オリジナル版は発売前から世間の注目を集めていた。物語の中にも出てくるタブロイド紙が大きなキャンペーンを展開し、実際に発売直後、わずか四時間で初版本は売り切れてしまったと聞く。
 しかし、その後、ビロッツ氏にとっては不遇の時間が流れる。X国はビロッツ氏を訴え、国際科学警察機構もこの物語がでたらめであるとの声明を発表した。事実、ビロッツ氏の提示した事実を証明する証拠は何も見つからなかった。その上、国際科学警察機構はビロッツ氏を在職中の微罪で告訴したのだ。ビロッツ氏は民事と刑事、二つの裁判で被告となり、いずれも敗北した。このためビロッツ氏とこの物語の信用は失墜し、この物語は絶版に追い込まれた。
 ビロッツ氏は現在どこで、どのような生活をしているのか、その消息は不明である。ただ、もしご健在であるならばかなりの高齢となっているはずである。
 最後にこの翻訳文を作成中の八月二十一日、この物語にも登場する伊手光弘博士が誤嚥性肺炎のため帰天され、その八十年の生涯を閉じられた。博士の長年に渡るこの星への比類なき貢献に感謝するとともに、心よりご冥福をお祈りする。

山 田 甲 八


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