ストロベリーとジレンマ (千味区沖)
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ストロベリーとジレンマ
おおよその子供がそうであるように僕もかつてヒーローに憧れていた。
ジャスティスホークという極彩色の鳥をモチーフにしたコミックヒーローに心酔していた幼い僕は自分も彼のような正義の味方になる方法を本気で考えていた。週末になると二人の友人と共にジャスティスホークの非公式グッズであるプラスチック製の安い仮面をつけ街に繰り出していた。初めのうちは道のゴミ拾いや迷子のエスコートなど非暴力的な活動ばかりだったが、次第に近所の悪ガキや、観光客相手にぼったくりを繰り返す屋台の親父を懲らしめたりと過激なものとなってしまう。当時の自分はそれを世直しと信じていたのだ。今思えばあまりに危険なごっこ遊びではあったが良い思い出だったと言い切れる。
時が経ち、そんな僕もあの頃憧れていたヒーローとは程遠い大人になってしまった。毎朝義務のように髭を剃り、ネクタイを巻き、心に蓋をしながら仕事に向かう。チームワークという曖昧な冠を被らされ、YesとNoの間の言葉をいつでも探している毎日。そのザマをそれでも恥とすら感じなくなるほどに僕の心は鈍化していた。
ある日曜日の午後である。近所でのジョギングを終えて帰宅すると我が家の郵便受けに小さな手紙が挟まっていた。薄汚れた再生紙を雑に四つ折りにしてある紙を開くとただ簡潔にこれだけ書いてあった。
あの場所で
待っている
古い友人より
宛名も差出人の名もない。おそらく直接投函されたであろうこれは、もはや手紙というより怪文書と呼ぶべきかもしれない。本来であればこんな怪しげな紙切れなど子供のイタズラか何かと決めつけ、破り捨てて終いにするだけだろうが、この鋭角を強調した独特の筆跡を目にしてしまったからには無下にすることはできない。
はぁ、とため息をひとつついた後、軽くシャワーを浴び、カーキの外套を羽織りながら妻と4歳の娘の頬にキスをして再び家を出た。
再開発の工事が続く立派な商業ビル街のメインロードの途中、カラースプレーで落書きされた灰色の壁を目印に路地に入る。腐りかけの木柵の向こうに霧のかかったオフィスビルが見える。路地を進みかつて新聞屋だった廃屋を目標に左折し、大人二人分ほどの幅の道をしばらく進む。錆びついた背の低い消火栓が見えてきたあたりで僕の後ろのほうでもうひとつ足音が聞こえることに気づいた。その足音は僕のものよりやや早く、段々近づいてくるのを背中で感じる。そして追跡者に完全に背後を取られた瞬間、僕の後頭部に向けて低くかすれた男の声がささやいた。
「手をあげろ」
僕はその声の指示に従い、ゆっくりと両方の手をポケットから出し、天に向けて伸ばしながらこう返答する。
「久しぶりだね、アート」
短くボサボサのブロンドヘアと無精髭の男が僕の顔に向けて指で銃を撃つ真似をし笑みを浮かべる。
「ミドル・スクール以来か。お前はあの頃のままだ」
「見つけやすかっただろう?背丈もそれほど伸びてないんだ。」
二人ともが同じタイミングで歯を見せ笑い、固く握手を交わす。目の前にいる男は僕の知っている顔から随分彫りが深くやつれていたが、僕の知っている頃と何も変わらない。
ストロベリーとジレンマという少し変わった名前のバーに入る。店内は狭く暗い。蛍光灯のひとつが不規則に点滅している。聞こえるか聞こえないかの声量で店主が僕らに挨拶する。もしかしたら挨拶ではなく嫌味だったのかもしれない。一番奥のカウンター席に隣り合って二人は座りバーボン二杯注文した。高級銘柄のラベルが貼ってある偽物だ。
「お互い酒を飲める歳になってから会うのは初めてか」
「何言ってやがる。ニッカ、お前は当時も堂々と飲んでたじゃねぇか」
「優等生だな、お前は。そこが気に入ってたのだけど」
僕の言葉にアートは機嫌を良くしたのか、グラスを軽く回し氷の音を立てながらこう言った。
「あぁ、良いチームだったよな俺ら。あとはここにラッド・ボーイがいてくれれば……」
「ラッドなら死んだよ」
「えっ」
アートは細い目を見開いて驚いていた。
「薬物中毒(オーヴァー・ドーズ)だ」
無論、この街ではありふれた話で特別なニュースとして報じられることはないが、正直言えば僕の居場所を知っていた彼がこの訃報を知らなかったというのは予想外であった。
「あぁ……もうアイツの歌う下手くそなボブ・ディランは聴けないのか」
アートは壁の向こうの遠くを見つめながら呟き、沈黙の後持っていたグラスを頭より高く掲げる。
僕も同じように哀悼の意を表した。
ここらではすっかり明るいニュースを聞くことはなくなった。まるで灰色だ。毎週末、廃材と火炎瓶を手に持った低所得層の若者たちが街中を闊歩している。格差是正と人種差別を訴えるメッセージプラカードを抱えた彼らは商業ビルや高所得層の住宅街の窓ガラスを壊して回り、金品を強奪し火を付ける。何人もの罪のない市民や警官隊に負傷者が出ようがデモはやまない。暴力と共に正義を叫ぶ若者達の顔は僕の良く知る鳥の仮面で覆われていた。
「煙草、吸っても?」
僕がそう聞くとアートは手のひらを天井に向け肯定のジェスチャーをする。薄暗い店内をゆらゆらと登る一筋の煙を眺めながら僕は二人の空白の期間に起こった出来事や小太りで常にはにかみ顔をしていたラッドのことを考えていた。どうしてこうなってしまったのだろう。答えなど出るはずもない。
「なぁニッカ。今の仕事はどうだ。満足しているか」
「勿論、順風満帆とはいかないけどね。満足はしているつもりだよ」
他愛もない質問に僕は無気力で返す。嘘ではないがそれほど本音でもない。
「本当か?本当にお前の理想の姿なのか、その仕事は」
「どういう意味だアート」
彼の妙な言い回しについ苛立ち混じりに言葉を発してしまった。アートは僕の横顔をじっと見つめながら続けた。
「帰ってくるつもりはないか?今からでも遅くない。やっぱり俺たちにはお前が必要なんだ」
アートは眉を吊り上げて言った。蛍光灯が激しく点滅する。
「それは無理だよ。今の僕の立場を知っているんだろう?」
「何故だ。元はと言えばお前が始めた活動じゃないか。ニッカ、これはお前のチームなんだ」
僕は煙草の火を消し彼の顔を睨みつけながら言う。
「だからこそさ。いいかアート、僕が今日ここに来たのはすべてのけじめをつけるためだ。他のアンサーはない。お前の頼みは聞けない」
僕は再び彼から目を反らす。言うべきことは言った。
「そうかよ」
沈黙が3分ほど続いた後、アートが自らのジャケットのポケットに右手を突っ込んだのを横目で感じた。そうして僕に気づかれないように斜に隠しながら手を引き抜く。ポケットから出た彼の右手には鈍く銀色に輝く金属製の小物が握られているのを確認した。一本のナイフ。アートがそれを素早く振りかざした瞬間、甲高い一発の破裂音が店内に響いた。
アートは血が溢れ出る右手を抑えながらうずくまる。ナイフは店の奥のほうへ弾け飛んでいった。僕の右手に握られた回転式拳銃の銃口から薄らと煙が一筋立ち上り、6つある弾倉のひとつが空いている。店主は厨房の隅でしゃがみこんでいた。銃を向けたまま僕はアートに2歩近づく。
「ジャスティスホークなんていない!!まだ分からないのか⁉あれは子供の遊びなんだよ!!」
アートはうぅ、と唸るばかりで何も言い返してこない。点滅していた蛍光灯は息絶えるように消えた。
「警部補!!大丈夫ですか⁉」
部下達が銃を構えながら店内へと突入し、床に伏せた男を手際よく確保していく。僕はアートに背を向けるように立ち、左手に巻いた腕時計を確認する。
「アート、お前を公務執行妨害と組織的暴力犯罪首謀の容疑で逮捕する」
彼は僕の名前を何度も叫びながら連行されていった。部下のひとりが店主を保護している間、アートが座っていた座席の下に隠れていたプラスチックの塊を手に取る。ボロボロになった極彩色の鳥の仮面を。
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