「あけましておめでとうございますっ!」
六人の明るい声がワンルームに響き、乾杯の音頭で二つのカップが控えめに触れ合う。
「待って待って。歌鈴ちゃんたちなに飲んでるの」
下ろした髪を左右に揺すり、のぞけるはずもないものを藤居朋がのぞこうとする。道明寺歌鈴と高森藍子はティーカップをスマートフォンのほうへ傾けた。ここは女子寮の歌鈴の部屋。電気ケトルにお湯をたっぷり沸かし、親が持たせた“それなりな代物”のティーセットをテーブルに広げている。みたらし団子やかぼちゃのプリンなどのちょっとしたスイーツ類がお茶請けだ。
「一杯めはジャスミン茶です。藍子ちゃんが持ってきてくれました」
「ハーブティーのギフト、お歳暮ですけどせっかくだからと思って」
「あーそっか。お歳暮かあ。あたしも肉貰った気がするな……出してこよ」
歌鈴のスマートフォンの画面から朋が消える。画面のなかから三組、外から二組、空席に苦笑の視線が注ぐ。
「ことしも朋さんは自由でしてー」
左右に煎餅のタワーをそびえさせる依田芳乃が、そういって湯呑を傾けた。急須から新たに緑茶を継ぎ足すのを見守り、白菊ほたるがおずおずと口を開いた。
「芳乃さんもけっこう自由ですよ……?」
「ほたるちゃんと私だけ真剣に新年会の準備しすぎちゃいましたね」
鷹富士茄子がわざとらしく虚空に溜息をついてみせる。歌鈴たちからは、彼女の前に広がるこたつテーブルに焼いた伊勢海老やお作り、天ぷらが堂々と居並ぶのが見える。そしてほたるがときどき画面の頭越しに手を伸ばすのは、寄せ鍋をかき混ぜているらしかった。
「お団子は和だし、プリンもかぼちゃなら和食みたいなものですって! ハーブティーも華やかでいいじゃないですか」
ほたると歌鈴の反論になにか思うところがあったらしい。芳乃の煎餅を食べる音がばりぼりとスピーカーから部屋を侵略する。
「いえいえ、歌鈴ちゃんは女の子を部屋に連れこんじゃってますから。一番やらかしてます」
「つれっ!?」
「いきなりいなくなった朋さんよりヤバいんですか……?」
「えっなに? 貰った肉食べきってたの思い出してガッカリしてもどってきたらほたるちゃんに罵られてるんだけどあたし」
「歌鈴さんが隅に置けないという話なのでしてー」
無言の抗議を一枚終えた芳乃は、熱い緑茶の息とともに小針を宙に吐き出した。歌鈴がすがって藍子に顔を向ければ、肩をすぼめて怯えた表情を作っている。それが悪ふざけなのはわかっているものの、やめさせる方法まではわからない歌鈴である。触れるでもなく手を伸ばせば待ってましたとばかり藍子は悲鳴をあげて転げ、つられて歌鈴も倒れこむ。
「あらあらお盛ん」
「若いかたがたはお元気ですことー」
親指の爪ほどに割った煎餅を口のなかでふやかしながら芳乃が老人ぶる。朋は正月の残りの伊達巻と一緒に、状況をなんとなく呑みこんだ。歌鈴が藍子を呼んだのを画面越しに知った数分前には自分もだれか誘えばよかったとぼんやり思ったものだが、むしろこれで正解だったのかもしれない。塞翁が馬とはこういうものかと、炭酸水をペットボトルからじかに飲む。
「そーいうことだったら芳乃ちゃんだってだれか誘ってなかった?」
「……岡山は大雪で立ち往生だそうですー」
ばりんと煎餅を噛み砕く。焼き餅の八つ当たりの犠牲者へ、朋は“かわいそう”と“面白い”の視線を送った。床で揉みあっていた歌鈴と藍子はそろりそろりと身を起こした。中身の残ったティーセットの無事を確かめて胸をなでおろしたのも束の間、歌鈴の部屋着は大きくはだけていた。下着の色を芳乃が淡々という。藍子はほとんど覆いかぶさるようにして歌鈴とスマートフォンの間に割りこむと、脱げかけた袖を直し、襟を整える。その手つきがいささか乱暴で歌鈴は苦笑いをすると、二人を純粋に気づかってほたるが声をかける。……それを追って茄子が親爺じみた言葉をかぶせる。
「一杯めからおっ……。……まだやめておきますね」
「うん、ずっとやめとけ?」
口許だけ半笑いにして朋がこの場で唯一の大人をたしなめる。その大人、ずっと手酌でぬる燗をすすっていたことに、歌鈴と藍子と朋はようやく気がついた。
「ていうか最年少の隣でなにガチ飲みしてんの最年長!」
「あら、知らないんですか」
「な、なにを」
悪びれもせぬ調子に追及の手をつきかねると、茄子は白いお猪口を空にして言葉をつづけた。
「ほたるちゃんを見ながら飲むお酒は美味しいんです」
「ほたるちゃん、そいつどついていいわよ」
煎餅の音をBGMに、リモートどつき漫才がはじまった。奈良県、関西の出身とはいえ歌鈴は、こうした荒波に飛びこんでいって全員どつき倒す舌鋒を備えてはいない。スピーカーの振動でクレードルにカタカタ音を立てるスマートフォンの音量をそっと下げ、藍子の顔をちらりと見上げた。
「ご、ごめんなさい、藍子ちゃん。こんなことになるとは思わなくて」
「私もそれはちょっと驚いてます。けど、楽しいですよ。こういう賑やかさ、……前もあった気がするけど……不思議と楽しいです」
二杯めのホットジャスミン茶でもういちど乾杯をする。こんどは音がしない程度にそっと、思わずたがいに笑いを洩らすほど長く。歌鈴と藍子がスイーツを交換しながらティーポットを空にし、ラベンダーティーのパックをいれ、電気ケトルにふたたび満タンのお湯が湧く。芳乃の煎餅タワーは一本に減り、朋はしゃべる以外に口の使い道をなくしていた。茄子とほたるの料理はさほど減っていない。それはほたるの遠慮がちに食べるのを茄子が見てばかりだったせいである。
「じゃあそろそろ隠し芸大会をはじめますよー!」
「えっ」
心底困った声を出したのは歌鈴である。そんなものをやるなんて聞いていたなら藍子は呼ばなかった。愛する親友を新年早々ダダ滑りの氷の舞台へ送りこまずに済んだことを、芳乃は大雪に感謝して手を合わせる。朋は食事を奮発してでもだれか巻きこみたかったなあと借家の古い天井を仰いだ。
「優勝賞品はほたるちゃん!」
「かわいそ……」
優勝しなければ人権を失う隠し芸大会。酔っ払いの言葉にそんな効力のあろうはずもないが、いわれたほたる当人の心には、それぞれがそれぞれの態度で寄り添った。
「参加者! 私一人!」
「はあ!? なんで!?」
隠し芸をやりたいひとに朋が思わずなってしまっていたことに、気がつくものはなかった。
「みなさんにはこれから私がイヤというほど披露させてもらえなかった隠し芸を見たり途中で逃げ出すことは許しません!」
「見ちゃダメみたいになってない?」
「修飾節と被修飾節はくっつけるのがわかりやすさの第一歩でしてー」
「うふふ、そうでした。くっついていないとね……歌鈴ちゃんと藍子ちゃんのように」
得意げに眉をそびやかし指をさす茄子だが、スマートフォンの真上の虚空にそれは向いていた。酔いが回っていることを、隣で眉を下げるほたるならずとも実感した。
「こんなところで振ってくるんですか……」
「ひょっとしてもう始まってます? 漫談とか」
「インディゴ・ベルですからね。インディゴ……藍色の、が修飾語。ベル、鈴が被修飾語」
「あ、やっぱり始まってたんですね。黙って聞いてればたぶん大丈夫ですよ藍子ちゃん」
「漫談って隠し芸なんですか……?」
「つまり藍子ちゃんが攻めで、歌鈴ちゃんが受け」
「おいコラ」
声を荒げたのは朋である。
「これがやらせてもらえない芸の一つ、艶漫談です。いい訳ですけど久しぶりなのとお酒のせいで、舌がうまく回らなくってすみません」
「隠し芸というよりは隠され芸ー」
「つうか隠したまんま忘れろ芸」
では次、と茄子が仕切りなおしたときになってようやく、歌鈴と藍子は言葉の意味を咀嚼し、呑みこんで、茄子よりも顔を赤くした。画面越しに二人の耳の赤いのを見て朋は呆れようとしたが、立ち上がった茄子がそれを許さなかった。部屋着の裾をまくり上げ、大筆の代わりに水性ペンを腹に走らせる。マジックでないのが日和ったのか理性なのか、見守るしかない三人にはわからない。だが一つだけわかることがある。
「ほたるーッ! 止めろーッ!! 隠され芸が腹踊りで済むわけない! 次の犠牲者になる前に殴ってでも止めろ!!」
朋は叫ぶが、ほたるはスマートフォンをクレードルから取り上げて茄子の姿が映るように手で構えなおした。
「はーい、ふつうの腹踊りですとお腹に描いた顔をくねらせて面白おかしくするわけですがこの芸では」
「ああーなにするかわかった! やめて! 見たくない!」
朋が頭を抱える間に芳乃も察して顔を逸らした。歌鈴と藍子はスマートフォンに顔を近づけて、頬の産毛の触れ合う感触に息を呑んで姿勢を正した。
「お髭がちょっとリアルです」
「スカートを下げようとするな! ほたる! 止めろ! 茄子を止めろ! ヤツを止められるのはあんただけなんだ!!」
「と、朋さん、大丈夫ですよ私は……」
「いやほたるちゃんだけの話じゃなくてね!?」
「見慣れてますし……」
朋がつづけようとした言葉は形にならず、擦り切れた音になって消えた。
「それに茄子さん、ちゃんとやさしくしてくれますから」
「藍子ちゃん、きょうはほんとうごめんなさい……」
すっかり静かになったワンルーム。シングルベッドで歌鈴はきょう何度となく口にした言葉を繰り返した。それはたしかに藍子への罪悪感ではあるのだが、茄子とほたるの暴走を見せつけてしまったことよりも、友情の形が揺らいだことが根底にあった。ティーセットを片づけるときにどれがどちらの使ったものか悩んでしまったり、藍子のシャワーの音を気にしてしまったり、おなじ化粧水を使うことにどぎまぎしてしまったり。……そしていまも、おなじベッドで、縁から落ちそうなほど距離をとっていたり。
「いいんですよ、歌鈴ちゃん」
いわれるたび、藍子もやさしい声でおなじ返事をする。いいといわれても、しかし、歌鈴としては困るのだ。しっかりしてとか気にしすぎとか、そんな言葉があればもう重ねて謝ることはないのだろう。藍子がそうしないのは謝りかたが悪いせいだとはわかっている。次はちゃんとと思っても、やはり、おなじようなあいまいな言葉になってしまっていた。
明かりを消す。アイドルの寮の遮光カーテンは厚く、月光も街灯もすっかり遮って、歌鈴の部屋に静かな暗闇をもたらす。聴こえるのは暖房の音。そして背中に藍子の息。藍子が部屋に泊まりに来ることは幾度もあり、聞き慣れた静かな呼吸のはずだった。それがきょうにかぎって妙に甘く聴こえるのは、きっと茄子たちのせいなのだろう。
藍子の呼吸が浅く、規則的になっていく。眠りの淵から一足先に、深く潜っていったのだ。歌鈴はえいと心に叫んで寝返りを打った。いつも泊まりに来たときとおなじように、藍子は歌鈴に顔を向けて眠っている。その背中に布団も毛布もかかっていない。歌鈴が巻き取りすぎたのだ。起こしてしまわないよう注意をはらいながら藍子の背中をあたたかくくるむ。二人の間の掛け布団が減った。ジャスミン、ラベンダー、ローズヒップにトケイソウ。清涼で甘いハーブが香る。それは藍子の吐いた息であり、歌鈴の吐く息でもあった。
鼻先の触れる距離で香気を交換しあううち、歌鈴は静かに寝息を立てていた。自動運転の暖房も風を抑えた。静かな暗闇に一つ、自嘲に似た吐息が立った。
「……もう」
片目を開けた藍子はそうつぶやくと、歌鈴の額に額を押し当てて、眠りの淵に歌鈴を追いかけていった。
(了)
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