【完結】範馬勇一郎vs宮沢尊鷹【挿絵有り】 (ロウシ)
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第一話:範馬勇一郎vsエルオ・グライシー

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1.

 

 

 それは、その戦いは、範馬勇一郎がブラジルにいるときにあった。

 

 範馬勇一郎、その時三十代も半ばに差し掛かろうとしていた。常人であるならば、既にいち武道家、いち柔道家、いちアスリートとしての肉体の全盛期は過ぎている。

 柔道家としての最盛期で言うならば、範馬勇一郎のそれは第二次世界大戦の最中であっただろう。

 範馬勇一郎が戦争に駆り出されて、ミサイルや銃弾の雨を相手にしている時、アイオワの上でアメリカ兵を相手に戦っている時……本来ならば勇一郎が活躍すべきは畳の上であり、相手どるのは同じ柔道家であったはずだ。

 そして、迫る敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、範馬勇一郎は華やかなる道を歩んだことだろう。その強さは日本柔道界を牽引し、日本中の武道家たちはにわかに活気だったことだろう。

 

 しかし、そうはならなかった。

 

 第二次大戦に敗北した日本は、GHQによって武道衰退の道を余儀なくされる。

 軍隊的教育は撤廃され、大男たちが食いっぱぐれていく。日本の武道界は明治の暗黒期以来の、二度目の暗黒期に突入していた。明治に入り、武士が刀と髷を捨てさせられ消滅したように、敗戦後の昭和に入り、武道家もまた、生きる道を閉ざされつつあった。

 

 日本の裏側……ブラジルの地に範馬勇一郎がいる理由もこれに無関係ではない。

 範馬勇一郎は孤高の柔道家と謳われていた。

 圧倒的な強さを持っていた。

 ここまでの人生で、やってきたすべての喧嘩、柔道の試合、果ては一対多数の殺し合い──すなわち戦争に至るまで、範馬勇一郎は負けたことがなかった。

 生まれついて、類稀な身体を持っていた。

 身長はもちろん高い、肉が分厚い。骨が太い。

 だが何より、範馬勇一郎を特徴付けるのは、その肩幅の広さであった。

 

 肩幅が広い。横の寸尺が縦の寸尺と違わないように見えるほどである。まるで騙し絵であった。とても日本人の体格ではなかった。

 肩幅が広いということは、身体にのせられる筋肉の量が同じ身長の者に比べて、横に広いその分、多いと言うことだ。

 隆起した筋肉が山のように見える。そういう表現はよく聞くところだが、発達した大胸筋から肩までを指して「太い」や「大きい」ではなく「広い」と表現せしめるのは範馬勇一郎を置いて他にはいないだろう。

 

 範馬勇一郎がブラジルにいるのは、ずばり金のためだった。

 愛する妻の病を治すために金がいるのだ。

 しかし、こと柔道以外のことに明るくない勇一郎の懐事情は、勇一郎の金に繋がる選択肢を狭めてしまっていた。迷った挙句、彼には自分の武道を見せ物にして金に変えることしかできなかった。

 厳格で知られる師、敬愛する師を裏切ってまで、勇一郎はカネのために、ブラジルで柔道を見せ物にすることを選んだのだ。

 

 とはいえ、実のところ全てが台本のある見せ物だったわけではない。

 ブラジルでは、敗戦の余波で生活に苦しむ日系人がごまんといた。彼らは突如として日常の中で差別的な環境に放り込まれ、地元民たちどころか同じ日系人同士でいがみあい、軋轢に苦しみ、鬱屈とした日々を過ごしていたのだ。

 そんなフラストレーションの溜まった現地日系人にとって、わかりやすく「大きくて強い」日本人、範馬勇一郎の存在は輝きを放っていた。

 希望の輝きである。

 地元の新聞紙がその存在をさらに偶像的に書き立てた。もちろんこれには出版社側の発行部数を伸ばしたい意図があったのだが、範馬勇一郎の底なしの横柄さは良い意味で彼らの意図を後押ししていた。

 そういうわけで、神の如く祭り上げられるナマイキな日本人をぶちのめしてやろう、天狗の鼻をへし折ってやるぞ! と、イキのいい地元の武道者は続々と真剣勝負を勇一郎に挑んできたのだ。

 

 しかし、当の範馬勇一郎はというと、ある意味それに辟易してもいた。

 誰も彼もが相手にならないからだ。

 

 妻のための金は順調に稼げている。およそ日本では法外な給金を貰っていた。何よりブラジルの気性……土地そのものが持つおおらかな雰囲気が、勇一郎の天邪鬼な気性とよく噛み合っていたために、勇一郎は半ば休み気分、バカンス気分であった。

 

 しかし、それはそれとして、地元選手の歯ごたえのなさに辟易していたのだ。

 

 確かに範馬勇一郎は孤高の柔術家、別の異名は師と同じく「鬼」の名を冠している。

 『鬼の範馬勇一郎』。

 それの意味するところは、すなわち柔道日本一であり、それはつまり、日本武道界最強の男であると言うことだ。

 範馬勇一郎とて、そこに関しては自負している。

 自分は強い。

 「強」を持って生まれ、それを鬼の元で徹底的に磨き上げた。

 その強さは畳の上の敵選手だけではなく、リングの上の敵選手だけでなく、先の戦争で屈強なアメリカ人兵士たちにも畏怖を刻み込んだ。勇一郎は知る由もないが、あの時アイオワに乗っていた船員の中で、「オーガ」の名はタブーとされていたほどである。

 

 だからこそ、必然でもあった。

 ブラジルに来て行った戦いの多くは、範馬勇一郎にとって戦いと見なせないほどに低レベルなものだったのだ。

 もう随分トレーニングはしていない。

 毎夜毎晩というわけではないが、相応に酒を飲んでいるし、現役の頃からは考えられないほど遊び呆けている。

 それなのに、自分の強さは絶対であった。

 誰も、自分の投げを捌けない。

 誰も、自分の寝技から逃げられない。

 

 範馬勇一郎は、自分の肉の内側から、さーっと熱が引いていくのを感じていた。

 その感覚は、日を跨ぐごとにはっきりとしたものとなり、その冷たさは彼の心にまで届きかけていた。

 

 自分は、こんなところにいるべきなのだろうか?

 自分は今、何をやっているのだろうか?

 こんなことのために、自分は柔道をやってきたわけではないはずだ……

 

 苦悩が渦巻いていた。

 それは、範馬勇一郎という武道家が持って生まれた、根源的な素質ゆえの苦悩だった。心の奥底で囁く武道家の本能とでもいうべきものだった。

 強敵のいない世界では、絶対者は孤独なのだ。

 並ぶもののいない強さは、絶対者を日常の全てにおいて、他者と隔絶した空間に身を置かせる。

 

「ふふふ……」

 

 夜のホテルで、範馬勇一郎は一人ごちた。

 太い唇から、細い息が漏れる。

 自嘲の笑みが浮かんでいた。

 吹き抜けの部屋であった。生暖かい風が勇一郎の体を優しく撫でる。

 酒を注いだグラスが、手の中でからん、と鳴った。

 愚痴を吐いたところで、悩んだところで、強敵が生えてくるわけではない。

 この孤独に寂しさを訴えるのは、強者の贅沢というものだろう。

 カネは十分以上に貰っている。妻への土産は、薬どころか車をまるまる買ってやれるほどだ。

 言い訳に過ぎないそれらをその広い胸中に押し込めて、範馬勇一郎は眠りについた。

 

 

2.

 

 

 範馬勇一郎はリングの上にいた。

 リングの上で、今戦ったばかりの選手を見下ろしていた。

 その表情は、穏やかであった。

 決して相手を見下してはいない、あちらが座り込み、こちらが立っているため結果的に見下ろしている形になっているが、範馬勇一郎のその男を見る目は侮蔑の色などなかった。

 

 座り込むその男、闘志が萎えていない。

 じろりと範馬勇一郎を睨み返している。

 抱えるその腕が、肘の部分から曲がってはいけない方に捻じ曲がっていた。

 もちろん、折ったのは範馬勇一郎である。

 しかし、男の闘志は痛みに萎えるどころか、さらに燃え上がっているようだった。

 

 男──名をエルオ・グライシーと言った。

 グライシー柔術という、生粋の武道を学んだ、生粋の武道家であった。

 

 グライシー柔術というのは、コンデ・コマこと前田光世に柔術を習ったグライシー一族が開いた流派だった。

 派生流派──というか、まったく同じような経緯を持つクランシー柔術の兄弟流派である。

 この二つの柔術は、元を同じとするにもかかわらず、なんらかの理由で袂を割かった。

 そののち、グライシー柔術は締め、投げの他に当身や体捌き(フットワーク)を取り入れ、総合格闘技の様相へと変わる。

 クランシー柔術は、関節技──特に寝技に特化した純然たる柔術へと発展していくことになる。

 

 範馬勇一郎と、エルオ・グライシー。

 この二人の男が命をかけて戦い、そして、範馬勇一郎が勝ったのだった。

 

 ことの発端は、なんてことはない。

 連戦戦勝の猛者、範馬勇一郎に地元武道者が挑む、いつものこの構図だ。

 その時、範馬勇一郎への挑戦に名乗りを挙げたのが、このエルオだった。

 エルオは真剣勝負を望んでいた。

 台本のあるプロレスではなく、どちらかが倒れるまでやる、真剣勝負だ。

 エルオは無名に等しかったが、その真剣さは誰もが一目で分かった。

 範馬勇一郎の頭二つ分は小さいその身体が、まるで不釣り合いな戦闘力を秘めていることを、エルオを目にした一流の武道家たちは否応なく感じ取った。

 エルオの外観から湧き上がる熱を見れば、否応なく分かってしまった。

 そこで、先に範馬勇一郎と共にブラジルに来ていた日本人柔道家が、前哨戦ということでエルオとやることになった。

 表向きは、エルオを危険だと判断してのことだった。

 当の勇一郎はつまらんことだ、と一蹴したが、

 

「でも、待ってくださいね勇一郎さん。エルオがもし、私にも勝てないようなら、どうせ勇一郎さんには勝てるわけないじゃないっスか」

 

 と、物言いは少し物騒だがどうしてもと頼む日本柔道家の顔を立てて、渋々席を譲った。

 範馬勇一郎より弱いとはいえ、その日本柔道家もなかなかにやり手であった。

 名を、新堂卍次(しんどうまんじ)といい、新堂流柔術を収めた強者である。

 新堂流はその名の通り柔道ではなく本来は柔術であり、キレのある逆技と寝技を使うのだ。粘りつくように相手に絡み、倒し、極める力を持っていた。

 何より、新堂卍次という男は、極めた関節を躊躇いなく折れる男であった。

 その彼が、範馬勇一郎のお供としてブラジルにいる理由もまた、カネのためであった。

 柔道家を名乗っているのも、単に柔術家よりも柔道家の方が通りがいいのだ。

 実のところ、彼もまた、範馬勇一郎と同じ悩みを抱えていた。

 それはすなわち、台本のある見せ物(ショー)としての勝負ばかりやらされる現実、そうしないとカネを稼げない現実である。

 真剣勝負がしたい。

 強い相手と、ぎりぎりの勝負がしたい。

 戦いの熱を感じたい。

 その上で、勝ちたい。

 そこに共感していたからこそ、繰り返すが、範馬勇一郎は渋々席を譲ったのだった。

 

 試合までの日程が組まれると、範馬勇一郎、新堂卍次、そしてもう一人の柔道家。

 三人で、柔道着に着替えて、久しぶりに本格的にトレーニングに励んだ。掻き出された汗が身体の中から「毒」と一緒に流れ出していくのを感じるほどのトレーニングをやった。

 真剣だった。

 新堂卍次は、範馬勇一郎と乱取りを行った。

 もちろん勇一郎には何度も投げられ、極められた。

 話にならない。

 それでも、もういっぽん。

 それでも、もういっぽん。

 彼は決して折れることなく、範馬勇一郎に向かってきた。

 勇一郎も楽しくなってきていた。

 その太くて広い肉に、熱が戻り始めていた。

 

 試合が行われたのは昼。

 暑い気候の多いブラジルでも、ことさら暑い時間だ。

 リングの上で、エルオと柔道家が並び立つ。

 勇一郎はセコンドについた。リングの上のエルオを見る。

 会見上で見た時より、二回りは身体が大きくなっているように見えた。

 この短い準備期間で、相当のトレーニングを積んできたのがわかる。

 

 結論から言うと、エルオは新堂卍次を瞬殺した。

 

 勘違いしてはならないのは、エルオは決して楽勝だったわけではない。その試合は、刹那の見切りに近い。

 高い次元で、ある程度実力の拮抗した者同士であれば、何かのバランスが崩れた途端に勝負が決着することはままあることだ。

 これも、そんな試合であったのだ。

 寝技で締められで失神した新堂卍次を他所に、エルオは真っ直ぐに勇一郎を見下ろしていた。

 惚れ惚れするようないい顔をしている。

 その双眸()に、炎がやどっている。

 次はお前だ、お前と戦うんだ。

 無言にして、情熱の言葉であった。

 そして、それは勇一郎の肉の内側から、より一層強い熱を引き出した。

 勇一郎は、自身の肉が放つ匂いに気づいた。

 熟成する直前の肉が放つ、芳醇な香りがするのを感じていた。

 もう、冷たい感覚は消えていた。

 筋肉がたぎっている。血が煮えたぎっている。

 細胞が、一つ一つが唸っている。

 この男と戦いたい──と。

 

 そうして、試合が決まった。

 リングは、リオ・デ・ジャネイロ。

 マラカナン・スタジアムに構えた、立派なものだ。

 ブラジル最大のリングが用意された。

 ファイトマネーも釣り上がっている。勇一郎はもちろんのこと、先日の新堂卍次の瞬殺劇が、エルオのファイターとしての価値を青天井に高めていたために起こった現象である。

 観客は四万人を超えていた。立ち見席も満杯である。会場の熱気は否応なく上がっていた。ここに集まったものたちは、範馬勇一郎とエルオ・グライシーの真剣勝負に夢中になっていた。

 どちらが強いのか?

 その疑問を胸に秘めていた。

 

 リングに上がった勇一郎は、双手を広げて会場にアピールした。

 エルオの身長が、一七〇センチと少し。

 範馬勇一郎と比べると頭二低い。

 勇一郎の広い肉が更に横に引き伸ばされて、さながら羽を広げた鳥類のような大きさであった。そのいち動作で、会場が沸いた。

 エルオを飲み込む肉食獣──あるいは、そんなふうに見えていたのかもしれない。

 

「勇一郎さん、気をつけてくださいね。あいつ……かなりやるっスよ」

「わかってるよ新ちゃん。見てくれよ、ほら。俺の身体の、細胞がよ……震えてるんだ」

 

 悦びに。

 

 ゴングが、鳴った。

 

 

3.

 

 

「しゃあっ」

 

 エルオは気合い一閃。

 勇一郎の懐に神速の速さで飛び込んだ。

 セコンドに付いている卍次たちは驚いた。

 エルオが新堂卍次と戦った時は、組むまでじっくりと時間をかけたからだ。

 まさか、自分より体格が大きく勝る勇一郎に対して速攻を仕掛けてくるとは思わなかった。

 しかし、勇一郎に慌てた様子はない。

 エルオが勇一郎の袖を取った。

 それを確認してから、勇一郎もエルオの袖を取った。

 大外刈り、動かない。

 小内刈り、動かない。

 範馬勇一郎は味わうように、じっくりとエルオの攻撃を受け止めていた。

 攻防が入れ替わる。

 

「ふんっ」

 

 勇一郎がエルオをぶん投げた。

 見た目としては一本背負いである。しかし、それはなんとも強引で、なんとも大きく、なんとも豪快な、範馬勇一郎的な投げであった。

 エルオがマットに叩きつけられる。

 だが、勝負は決まらない。

 エルオはどういう技を使ったのか、けろりとしていた。

 アイオワの甲板に、兵士を突き刺せる範馬勇一郎の投げを、エルオはいなしたのだ。

 すかさず勇一郎が上から被さりにかかる。寝技に入るために。

 しかし、エルオはその寝技をするりと抜けた。

 なんと言う柔軟性だ。

 瞬発力も申し分ない。

 

 エルオは距離を取る。今度は、じりじりとにじり寄ってきた。

 勇一郎はずい、と体を前に出す。

 無造作な動きだった。両腕をそのまま垂らしている。隙だらけである。

 いかに勇一郎の動きが速かろうと、これでは掴みにくるエルオの腕を捌くためにワン・テンポ犠牲になってしまう。

 罠。 

 十中八九そうだ。

 勇一郎はあえてエルオを間合いに入れて、先に掴ませる気なのだ。

 掴まれた腕を、掴み返して投げる。

 持ち手は関係ない。バランスも重心も関係なく、脚力と背筋、腕力と腰の力で投げる──そういう豪放な技ができるのが、範馬勇一郎である。

 

「えしゃあっ!!」

 

 エルオは飛び込んだ。

 しかし、懐に入ったエリオは勇一郎の袖を掴まず、勇一郎の右足に綺麗な下段蹴りを入れた。

 ローキック。

 柔道で相手を投げる際に崩す蹴りではなく、それは明確に、当てた部位を破壊するための蹴りだった。

 勇一郎にダメージはない。

 エルオは勇一郎の両腕が上がり切る一瞬に、乱打する。

 勇一郎の顔に拳が突き刺せる。

 速い、そして重い、そして休まない。

 明らかに打撃を専門で学んだ者のそれである。

 

「勇一郎さんっ!!」

 

 卍次が叫ぶ。

 勇一郎の腕がようやくエルオの袖を掴む位置に着く時、エルオはスウェーでそれを躱していた。

 そのまま距離を──取れなかった。

 

「なにっ!?」

 

 勇一郎の太い足が、エルオの足を踏んでいた。

 エルオはつんのめった。

 コンマ一秒、重心が崩れる。

 そこに、勇一郎が仕掛けた。

 

「ぐううっ……!」

 

 腕絡み。

 範馬勇一郎の得意技だ。

 太い腕に力が入り、更にむりむりと太くなる。

 エルオが堪えている。

 エルオが堪えている!

 しかし、やはりパワー差は明白だ。

 徐々にだがエルオの腕が開いていく。

 関節が逆に曲がっていく。

 

 すごいやつだ……

 

 勇一郎は、心の底からそう思った。

 

 エルオ……なんてすごいやつだ。

 こいつの目をみてくれ。

 俺が腕絡みをかけると、みんな絶望した目をする。

 絶望して、タップする。

 みんな、俺の腕絡みの威力を知っているからだ。

 真っ向から抵抗しようなんてやつは、日本にはいない。

 だが、エルオはどうだ?

 力に、力で対抗してきている。

 わかっているはずだ。力じゃ、俺に勝てないことぐらい。 

 でも、俺の腕絡みは技術で外せるものじゃない。

 そんなこと、こいつはもう、とっくにわかっている。

 なのに、こいつの目を見てくれ。

 炎が揺らいでいるよ。

 心の炎が、めらめらと目の中に湧き出てる。

 闘志の塊だ。

 エルオ、歳は俺の四つ上だったか。

 尊敬するよ。俺は、あんたと戦うまで、腐りかけてたもんな。

 こいつの目を見てくれよ。

 このまま折られても、俺は戦うと言ってるよ。

 すごいやつだ。

 すごいやつだ、エルオ・グライシー……

 

 勇一郎は、エルオの腕が軋む一瞬に手を離した。

 観客が、卍次たちが驚く。

 だが、何より驚いたのはエルオだろう。

 動きが止まった。

 

 そこに、勇一郎のけたぐりが突き刺さった。

 

 エルオの左足、膝から下がぼごっと音を立てて外れた。

 そこから、流れるように腕を極め……

 

 わかってる。

 おまえさんは、これじゃあ倒せないよな。

 まだ、諦めないよな。

 

 そのまま、投げた。

 

 どんっ! と鈍い音がスタジアムに響いた。

 リングが揺れた。

 勇一郎が起き上がるまで、四万人の観客の時間が止まっていた。

 エルオの右腕が、肘から反対に曲がっていた。

 だが、エルオは悲鳴一つあげなかった。

 すぐに這いつくばった姿勢のまま、勇一郎を見上げた。

 まだ、炎があった。

 

 審判が遅れて試合を終わらせた。

 ゴングが鳴り響く。

 同時に、スタジアムが湧いた。

 観客の興奮が地鳴りとなった。

 一部の観客はエルオの無残な姿に目を背けたが、多くの者が範馬勇一郎に惜しみない拍手と称賛を注ぐ。

 その圧倒的な熱気の中で、未だに範馬勇一郎とエルオは二人の世界にいた。

 

「勇一郎さん、流石っス」

 

 新堂卍次が声をかけた。

 勇一郎はん、と短い返事をした。

 まだ、視線はエルオにあった。

 エルオの炎がある限り、まだ油断はできない。

 

 エルオが、セコンドに支えられて立ち上がり、勇一郎の元に歩み寄った。

 ようやく、炎が消えていた。

 

「強いなぁ……ユーイチロー……」

「いやぁ、紙一重さ。エルオ」

 

 勇一郎は屈託ない笑顔で言った。

 エルオの顔にも、清々しい笑みが浮かんでいる。

 

「悔しいよ。これで、日本人に負けるのは二度目だ……」

「二度目……?」

 

 勇一郎が疑問を返した。

 その目がぐりっと丸く広がってエルオを見る。

 エルオに勝った日本人が、この範馬勇一郎以外にいたのか。

 誰だ。

 勇一郎の脳裏に浮かんだのは、合気柔術の御子柴老、可愛い後輩の松尾象山、幽玄真影流の日下部丈一郎、あるいは翁九心……

 

 しかし、エルオの口から出た名前は、範馬勇一郎の知らぬ名前であった。

 

「その男は、ミヤザワ」

 

 ミヤザワ……宮沢か?

 

「ソンオウ・ミヤザワという、日本人だ」

 

 

<続>




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第二話:範馬勇一郎vs宮沢尊鷹①【挿絵追加】

1.

 

 

 範馬勇一郎が、宮沢尊鷹の元を訪ねたのは試合から丸一日をおいてのことだった。

 エルオの言葉通りなら、宮沢尊鷹という男はまだブラジルにいる可能性が高いとのことで、勇一郎はすぐにでも宮沢尊鷹に会いに行きたかったが、道案内をさせるにはエルオが傷を負いすぎている。

 しまったなぁ、と顎をかく勇一郎に、エルオは1日だけ時間をくれと言った。

 新堂万次は反対した。

 一日待て。そう言って油断させて、人を集めて襲うつもりではないかと。

 勇一郎は言った。

 

「新ちゃん。こいつはそんなつまらんことをする男じゃないよ」

 

 かくして、範馬勇一郎は一日待つことにしたのだった。

 

 

2.

 

 

 獣道を歩いていた。

 松葉杖をつくエルオに率いられ、範馬勇一郎と新堂卍次は獣道を歩いていた。

 

 街からどんどん遠ざかっていく。

 進めば進むほど、自然の趣が強くなっていく。

 人間がいるべき場所ではなくなっていく。

 不安に思った新堂卍次は言った。

 

「勇一郎さん。やっぱり罠じゃないっスかね」

「それならそれでいいじゃないか」

 

 卍次は、やはりエルオは人気のないところで多人数での闇討ち、仕返しをやろうとしているのではという懸念があった。

 振り返れば、街は草木の向こう側に隠れてしまっている。どんなに大きな声で叫ぼうとも、誰も気づかず、助けにこれない距離だ。

 もし仮に自分が闇討ちをするのなら、絶好の場所だと思える。

 

 勇一郎の手がぽん、と卍次の肩に置かれた。

 顔を向き上げる卍次に対し、勇一郎が卍次に向ける表情には、好奇心があった。

 範馬勇一郎の太い唇が三日月の形に広がっている。

 ああ、だめだ。

 卍次は観念した。

 勇一郎の鷹揚さが出てしまっている。

 向かってくる敵がいるなら、それもいいじゃないかと言っている。

 それならそれで、全員やっつけちまえばいいと。

 この大雑把なところが、実に範馬勇一郎。

 自らの好奇心を鎮めるためには、破天荒なことを平気でやらかすのが範馬勇一郎なのだ。

 だから、武道家はおろか一般人からも人気があった。

 だから、武道家はみんな勇一郎が怖かった。

 だから、新堂卍次は範馬勇一郎を慕っていた。

 

「エルオ、肩を貸してやろうか?」

「ノー……ユーイチロー。もうすぐ着くよ」

 

 そこからしばらく歩いた。

 そして、広がった場所にでた。

 円形に木々の中で、不自然なほどに円形に広がった場所だった。

 エルオが足を止めた。

 

 勇一郎の表情に、ぴりっと緊張が走った。

 

「ここは……?」

「……スゴいな」

 

 勇一郎がずかずかと、広場の中心に足を運ぶ。

 卍次も後に続いた。

 エルオの隣に並んだ勇一郎は、目を細めた。

 

「ここで、ヤったんだな」

「ああ。私はここでソンオウと戦った」

「なにっ!」

「新ちゃん。見えねェかい? 尊鷹とエルオの残気が……」

 

 卍次が勇一郎とエルオの視線に続いた。

 見える……!

 卍次の目にも、はっきりと見えた。

 謎の東洋人に頭をこづかれて、ただそれだけで失神して倒れ伏すエルオの姿が。

 

「バカなっ! 勇一郎さんの投げを捌いたエルオが……あんな軽い一撃で!?」

「それだけじゃねぇさ。見てみな、この辺……」

 

 新堂卍次は勇一郎に言われて、やっとその場の違和感に気づいた。

 

「まさかっ! こ、この広場に草木がほとんど生えていないのはっ!?」

 

 残気──尊鷹の強い『気』が広場全体に吹き溜まっている。

 その気が、動植物の成長を妨げているのか?

 

「逆だよ。新ちゃん、逆」

 

 勇一郎が言った。

 

「動植物が、尊鷹に気を遣って、ここに入って来ていないのさ……」

「…………!」

 

 まるで、気の結界だ。

 勇一郎が足元に積もっていた砂塊を拾い上げた。

 それはサラサラと勇一郎の太くて広い手からこぼれ落ちていく。

 勇一郎は笑った。

 太い、笑みだった。

 

「誰かな?」

 

 その時、三人に話しかけた者がいた。

 

 三人は振り返った。

 そこに、男がいた。

 

 東洋人だった。

 まだ、若い。

 童顔で、歳の頃は二十歳にもならないかもしれない。

 身長は勇一郎の頭二つ低い。平均的な日本人の身長ぐらいだ。勇一郎と同様に髪を後ろで纏めて結んでいる。

 服は無地の白シャツと、袴に似たゆとりのある黒ズボン。

 いい身体をしていた。

 勇一郎には一目で分かった。

 勇一郎と比べるなら枯れ木のように細く見えるその身体……しかし、実に肉が詰まっていることを範馬勇一郎は見抜いていた。

 良質な肉だ、美しい。

 鍛え込んでいる。

 ただそこに立っているだけ……だというのに、その佇まいは人界を超越した美しさを纏っていた。

 

「宮沢尊鷹くんかい?」

 

 勇一郎は聞いた。

 

「ええ、私が尊鷹です」

 

 尊鷹が応えた。

 

「私は範馬勇一郎。実は……キミに会いたかったんだ」

「…………食事でもいかがですか?」

 

 範馬勇一郎と宮沢尊鷹はこうして出会った。

 

 

3.

 

 

 尊鷹に連れられて、三人は彼が普段から過ごしているという小屋に入った。

 打ち捨てられたボロ小屋だ。壁も、床も、穴だらけ、柱には草がまとわりついている。

 元は何かの道場なのか、広さは畳6畳分ほどあり、後から備えたであろう水場と鍋掛け以外に何もなかった。

 その中で、尊鷹は鍋を振る舞った。

 雑多に肉、野菜、そして調味料を入れただけの、簡素なものだ。特別な手間はかけていない。

 しかし、これがウマい。

 

「うん、ウマいな……」

「野生の味っていうか、独特の臭みがありますね」

 

 勇一郎が先に箸をつけ、半ば呆れながら、卍次も手を伸ばした。

 

「命を……いただきます」

 

 そんな二人をよそに、尊鷹はよそった椀の前で合掌し、礼をささげた。

 それを見た勇一郎と卍次は、手を止めて、遅れて礼をした。

 

「いただきます」

「いただいてます、押忍ッ」

 

 会話はない。

 ただ、食べる。

 しかし、空気が張り詰めていた。

 エルオでさえ、何も言わない。

 

「馳走になったよ」

 

 勇一郎が椀を置いた。

 

「……日が暮れています。今夜は、泊まっていくといい」

 

 尊鷹の提案に、三人は従った。

 

 ──そして、夜。

 深夜。

 月明かりのみが頼りの時間に、勇一郎はむくりと起き上がった。

 眠れない。

 というより、眠らなかった。

 隣では新堂卍次が間抜けな顔で寝ている。

 その隣ではエルオもそうだ。

 尊鷹がいない。

 

 勇一郎はのそりと動き出した。

 

 あの広場へ勇一郎は向かった。

 

 

4.

 

 

「やはり、来ましたか」

 

 尊鷹は月を正面に捉えて座禅を組んでいた。

 瞑想中だったが、勇一郎の気配を感じるとしなやかに立ち上がった。

 

「鍋」

 

 勇一郎は言った。

 

「鍋、本当にウマかったよ……」

「…………」

 

 尊鷹はじっ、と勇一郎を見ている。

 

「それ、岩を砕いたのは、キミだろ?」

 

 勇一郎は、尊鷹の足元を指差した。

 先程、勇一郎が掬った砂塊の場所だ。

 

「スゴいね。中国拳法には素手で岩を丸くする、打岩ってトレーニングがあるそうだが……それとは違うね」

 

 勇一郎が悠然と踏み出した。

 尊鷹の、結界の中へ。

 

「止まってください。それ以上進むなら……」

 

 尊鷹の言葉に、勇一郎は足を止めた。

 にこり、と笑った。

 

「ワルいね」

 

 そして、一歩。

 いつものように踏み出した──

 

 同時に、勇一郎の右頬にガツンと衝撃がはしった。

 

「……ッッ」

 

 速い!

 

 尊鷹は一切予備動作無く、勇一郎の目の前に現れた。

 そして、右ストレートを放つともう、目の前から消えていた。

 何という体捌きか。

 どこにいった?

 

 降り注ぐ月灯りに影ができた。

 上か!

 

 勇一郎が見上げると、月と勇一郎の狭間に、尊鷹の身体がまっすぐ背を伸ばしたままいた。

 尊鷹のそれはジャンプなどではない。

 鳥が空を飛ぶように、人が足で歩くのと同じように、当たり前のように勇一郎の頭部より遥かに上に飛んでいた。

 

「──ッッ!」

 

 尊鷹がそのまま蹴りを放つ。

 勇一郎は腕を掲げてそれを防御する。

 軽く打っているようにみえる、踏ん張りの効かない空中で前に突き出す蹴りだから当然だ。

 しかし、鋭い。

 鞭のようだった。

 勇一郎は尊鷹に四発もの蹴りを許してしまった。

 受け止めた勇一郎の太い腕に、ミミズ腫れが走っている。

 

「たまらんね」

 

 ダメージはない。

 しかし、筋肉が喜びに叫んでいる。

 肉の内側から、ふつふつと熱が湧き出した。

 こぼれそうな熱が出ている。

 

「牛山先生に連れられて、色んなとこで色んなヤツとヤったし、戦争にも行ったけどよ……真上から攻撃してきたやつは、初めてだなぁ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 面白い。

 初めて見るから面白い。

 今まで戦ったことがないタイプだ。

 柔道の世界では、ちょっと見かけないだろう。

 これはもう、異種格闘技戦だ。

 真剣の……

 ならば、やることがあるだろう。

 

「柔道……範馬勇一郎」

「灘神影流、宮沢尊鷹」

 

 聞いたことがない流派だ。

 灘神影流。

 どんな技を使うのか。

 

 二人は向き合った。

 勇一郎は心の底から笑っていた。

 

 

<続く>




8/18 挿絵追加


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第三話:範馬勇一郎vs宮沢尊鷹②

三話で終わりませんでした


1.

 

 

「むん」

 

 と勇一郎が呼気とともに力を込める。

 顔を守るために上げた腕に、吸い込まれるように尊鷹の左の回し蹴りが入った。

 バシン、と音がする。

 肉が肉を叩く音としては、些か無機物めいていた。

 勇一郎がガードから顔を覗かせると、まだ尊鷹は空中にいる。

 ガードされた反動を利用して、反時計回りに回転していた。

 

「ッッ……」

 

 バシン! 今度は重たい音がした。

 尊鷹の左後ろ回し蹴り。

 これを、勇一郎はガードしなかった。

 勇一郎の頬に尊鷹の踵が食い込む。

 穿った衝撃をその太い首が受け止める。

 めち、めちと音がした。肉と、筋が伸びる音だった。

 その感触は尊鷹にも充分伝わっていた。

 尊鷹は勇一郎の肩を蹴って距離を取った。

 

 ……貫けない。

 衝撃が肉の内側まで浸透しない。

 尊鷹にとっても、勇一郎の太い肉体は未知だった。

 

「い〜ィ足技だ。だが、少し大ぶりすぎるな。おそらく……元は多人数を相手にする想定の技でしょ、それ?」

鷹鎌脚(おうれんきゃく)です」

「おう……れん……なるほど、鎌のように刈り取る蹴りか、相応しいなァ」

 

 攻めあぐねている。

 尊鷹は月明かりに照らされる、勇一郎の太い肉体を見る。

 太い、大きい、広い。

 そして、分厚い。

 かつて尊鷹が相手をした中でも、ここまで練り込まれた外功の持ち主はいないだろう。

 かと言って、それは外見だけを鍛え込んだものではないことを尊鷹は理解している。

 灘神影流の打撃は基本的に内部破壊も引き起こす。

 灘神影流は習得にあたってある段階から内功に特化した修練を課す。

 自身の内に生まれる力を練り上げ、外から発する力と合一させ、敵対者の内外の同時破壊を目的とするのだ。

 これは灘神影流の大元の一つに中国拳法の流れが組まれていることに起因する。

 八極拳でいうところの『爆発呼吸』に当たる技術である。

 そのために、灘神影流はごく普通の正拳突きでさえ、極めれば衝撃の浸透、気の浸透を促し敵の内部組織の破壊を行うようになる。

 

 そして、宮沢尊鷹という男は灘神影流を極めた男である。

 尊鷹の秘めたる力は、まだ小さい弟たちはおろか、灘神影流の先代当主らと比べても抜きん出ていた。

 エルオ・グライシーを軽い掌底で失神させられたのも、エルオの頭部に威力を浸透させ、脳内を直接揺さぶり脳震盪を引き起こさせたからである。

 

 しかし、範馬勇一郎という男は、なんとも太く、広く、分厚い男だった。

 

 肉の感触が違う、

 骨の感触が違う、

 内臓の感触が違う、

 流れる血液の、纏う皮膚の感触すら、常人とは違う。

 

「手加減なんか、しなくていいんだよ」

 

 勇一郎が言った。

 

「俺は、自分が頭がいいと思ってないし、気が効く性格だと思ってないけどね、こういうことだけは、わかっちまうんだなぁ……」

 

 勇一郎は、太い指でコリコリと悩ましげに頭をかいた。

 

「だからよォ、はっきり言えることは、ひとつだけなんだよな。お前の相手は範馬勇一郎なんだぜ? これだけさ」

 

 その言葉を放つ勇一郎の体が、気のせいか尊鷹にはふた周りは大きくなったように見えた。

 

 尊鷹が両腕を垂らした。

 脱力している。

 二人の間、距離はおよそ二メートル。

 

 それを、尊鷹は一瞬で潰してみせた。

 

「しゃあっ!!」

 

 慌てず、勇一郎がジャブを放つ。

 それは空気を重く引き裂いた。

 そう……つまり、尊鷹には当たらなかった。

 正確に言えば、尊鷹に当たったはずなのに、尊鷹が拳を、勇一郎の体をすり抜けたのだ。

 

 勇一郎は慌てない。

 すり抜けたということは、すぐ後ろにいるのだ。

 振り返り様に右フックを放つ。

 手は開いている。 

 その高さ、その位置は尊鷹の襟首の位置であった。

 指の一本でいい、どれかが引っ掛かったら、すぐさま掴み、投げられるようにするためだ。

 しかし、それも空を切った。

 範馬勇一郎の懐の内で、尊鷹が背を丸めていたからだ。

 いや、違う。腰だめに構えていた。

 

 ──塊蒐拳

 

 勇一郎の鳩尾の部分に尊鷹の諸手打ちが突き刺さった。

 尊鷹の両手から流れる発勁が、悪の気となって勇一郎の体に染み込んでいく。

 勇一郎が背を丸めた。

 その時、尊鷹の腕にじわりと熱い感触があった。

 

「ふんッッ!!」

「!!?」

 

 勇一郎が思い切り体を逸らした。

 海老反りになるように、溜め込んだ力を一気に外に解放するように。

 筋肉の爆発、大噴火のようだ。

 尊鷹の両腕は文字通り弾かれた。

 

「な──!?」

 

 尊鷹が初めて狼狽えた。 

 初めて、人間的などよめきを表皮に浮かべた。

 

 勇一郎は呼吸を整える。

 

「ふむ──今のは、日下部先生の技だね」

「知っているのですか……」

 

 両者の間が空いた。

 物理的にも、精神的にも。

 尊鷹の顔に驚きが浮かんでいる。

 その隙に、範馬勇一郎は語る。

 

「昔、牛山先生に連れられて、日下部先生の──幽玄真影流の道場に行ったことがある」

 

 師である牛山辰馬の教え、柔道とは投げだけでは終わらない。

 本当に一対一での命の取り合いになるならば、最後に雌雄を決する技は寝技である。

 しかしながら、戦いは立った状態から始まるのだ。

 投げ倒しに行くためには掴まなければならない。掴むためには相手の懐に飛び込む必要がある。当然、相手はそうさせまいと動く。

 その中で、打撃力に優れる者は(てぃ)だけで倒しに来るだろう。

 

 大東流合気柔術の開祖、武田惣角の武勇の一つに唐手家と戦った逸話がある。

 その中で、武田惣角は相手となった金城朝典(かなぐすくちょうてん)の手足を「剣」と評している。

 まともに当たれば骨を割り、かすめれば肉を裂く。唐手家の四肢を手足の長さと動きを持つ剣だと喩えたのだ。

 その戦いで金城に勝った武田惣角は、金城に誘われて沖縄へと渡り、唐手の術理を学ぶことになる。

 

 このような逸話に沿ったのか、あるいは自身が獄中生活において、かつて打撃のスペシャリストに何度か不覚をとった事実からか、牛山は勇一郎に打撃の重要性を教え、それを学ぶことを課していた。

 

 その教えの中で、牛山に連れられた範馬勇一郎が、極限究極の打撃を持つとされる日本武道家、若き日下部丈一郎に会うことになったのは必然と言える。

 入神と呼ばれる打撃、『幻突』をはじめとする幽玄真影流の技を、勇一郎はこの目で見て、体で味わっていたのだ。

 その経験には当然、幽玄の基礎技である朦朧拳が入っている。

 だから、尊鷹が繰り出した朦朧拳に対応できたのだ。

 

 だが、塊蒐拳に対応できたのはどういうことか。

 今、尊鷹の両拳は熱を持っていた。

 熱い感触がまだ残っていた。

 それは、発勁が勇一郎の体を浸透しなかったどころか、自身の勁が勇一郎の体内の『何か』に弾き返されたためのものだった。

 両拳を打ち込んだ瞬間……勇一郎の身体の中から、熱いものが盛り上がってきたのだ。

 それが、尊鷹の渾身の発勁を弾き返した。

 その正体を、尊鷹は既に察している。

 

「なるほど、あなたは身体の中に『鬼』を飼っているんですね」

 

 勇一郎がにやりと笑った。

 

 塊蒐拳とは、通称を五年殺しという。

 相手の体内に鬼を浸透させ、染み込ませる。

 その鬼は五年かけて、技を食らった者の内臓を腐らせ、骨を朽ちさせ、緩慢な死をもたらすのだ。

 しかし、その鬼が弾かれた。

 肉に弾かれたわけではない。勇一郎が発勁を行なって相殺したわけでもない。

 勇一郎の身体の内側から、形容し難い『力』そのものが膨れ上がって、尊鷹の鬼を弾いたのだ。

 

 武術には、体内に侵入した異物を排出する技がいくつかある。血中に侵入した毒物を気合いと共に押し出して解毒する技がある。

 これを古武術では『放華』という。吹き出した毒物と血が、華のように広がることからそう呼ばれている。

 灘神影流でいうところの『総身退毒印』もこの類型にあたる技である。

 

 しかし、勇一郎が尊鷹の鬼を弾き出した技は、明らかにそれらとは異なるものだった。

 いや、技と呼んでいいのかもわからない。

 だから、その力を尊鷹は勇一郎の中に眠る『鬼』と喩えたのだ。

 勇一郎の鬼が、尊鷹の鬼を弾き返したのだ。

 勇一郎の太い唇が三日月の形に広がる。

 微笑み──やはり、太かった。

 

<続>




あと1話続きます(たぶん)


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第四話:決着、そして……

1.

 

 

 エルオ・グライシーではなかった。

 

 範馬勇一郎の、その分厚い肉を叩くたびに、蹴るたびに、尊鷹は確信を深めていた。

 尊鷹が日本から離れ、その真裏のブラジルの地にいるのは、グレート・スピリットの導きだった。

 海の外に強敵がいる。

 自身の全存在を賭けるに値する強者がいる。

 あの時、グレート・スピリットは尊鷹にそう語りかけた。

 

 文字通り、臓腑を分けあった弟──宮沢鬼龍に橋から落とされ、しかし一命を取り留めた尊鷹は、なんとか意識を取り戻した時、灘の元に戻るべきか悩んでいた。

 

 灘神影流にとって、自分は異物だ。

 高潔なる鷹、そう呼べば聞こえはいい。

 しかし、その実態は龍虎並び立つ灘の宿命に入り込んだ異物に他ならない。

 疑念が絶えなかった。

 父、金時をして宮沢尊鷹という存在はずば抜けていると言う。

 そして、そのずば抜けた強さが、超越性が、鬼龍にいらぬ劣等感を抱かせ凶行に駆り立てたのではないか?

 初めから灘を継ぐものが鬼龍と静虎だけならば、例えその二人が将来命を賭して灘の次代を争ったとしても、それは灘の宿命の内に収まったのではないか?

 戻ってしまえば、再び鬼龍は尊鷹の息の根を止めにかかるだろう。

 恩着せがましく思ってはいないが、尊鷹は鬼龍に情けを欠けている。

 鬼龍はそこに漬け込んで、殺しにかかってきた。

 一線を越えてしまったものは、次なる一線を越えることに躊躇しなくなる。

 鬼龍の憎しみを止めるためには、鬼龍を殺すしかない。

 それはしたくない。 

 と、なれば、戻るべきではなかった。

 自分は死んだ人間として生きるべきだ。

 灘のしがらみから解放されるべきなのだ。

 

 その思想は、老齢の日下部丈一郎の前に座した時、自らの口から言葉となって、より具体的な思想となり形となった。

 金城剣史と共に丈一郎から幽玄真影流を学ぶ日々、ふと、風が語りかけてきた。

 

 ──尊鷹よ、尊鷹よ。

 ──海の外へ出るのだ。

 

 グレート・スピリットは尊鷹に囁いた。

 尊鷹は聞いた。

 

 ──どこへゆけばいい?

 

 グレート・スピリットは答えた。

 

 ──ブラジルの地へ。

 ──そこで、運命の敵と出会えるであろう。

 ──己の全てを受け止める相手と出会えるであろう。

 

 そして、尊鷹は旅立った。

 日下部丈一郎がこの世を去ったのは、それからすぐのことだった。

 

 大自然の導きのままにたどり着いたブラジルの大地で、尊鷹はエルオ・グライシーと果たし合うこととなった。

 夜。

 月明かりの下。

 辺り一帯に闘気が充満していた。

 尊鷹はもちろん、エルオの闘気でもある。

 並び立つ二人。

 混ざり合った二つの闘気。

 それが、彼らを中心に円状に広がって、結界のようになっていた。

 エルオは、尊鷹より二回りは歳上だ。

 これからピークを迎える尊鷹と、下り坂に差し掛かっているエルオ。

 しかし、瞑想から立ち上がった尊鷹と相対するエルオの目には、炎が宿っていた。

 範馬勇一郎が敬意を表した、闘志の具現化である。

 勝つ。

 絶対に勝ってやる。

 月明かりの妖艶な光と対照的な、ギラギラとした肉食獣の眼光であった。

 尊鷹はエルオの戦闘力を瞬時に読み取った。

 

 強い。

 

 肉体の強さもだが、心が強い。

 己の強さを信じきっている。

 信じるに足るトレーニングを積み上げた肉体だ。

 尊鷹はエルオの肉に触れた風の音を聞く。    

 風切り音が鋭く、なめらかだ。

 柔軟で、瞬発力のある肉をしている。

 打突に優れた肉であると同時に、逆技に優れた肉でもある。

 組むのは得策ではないだろう。

 灘神影流は投げ、締め、極めにおいても並の柔術とは一線を画す技術がある。

 それでもエルオを、彼ほどの男を相手の得意分野で迎え撃つのは愚策であろう。

 尊鷹の呼吸を見計らって、エルオが仕掛けた。

 それを、尊鷹は軽く突き出した掌で、額を叩いた。

 それだけで、エルオは糸の切れた人形のようにへたり込み、動かなくなった。

 見た目には軽い一打であるが、渾身の一撃であった。

 灘神影流、兜浸掌(としんしょう)

 戦国の時代、鎧兜を纏った武者を倒すために考案された技である。

 外傷を与えず内部を破壊する、浸透系の打撃である。

 この技の優れているところは、他流派の多くが持っている内部破壊とは、効果は同じでも原理が異なる点である。

 例えば、須久根流には内部破壊打撃として、衝撃を二度当てすることで浸透度を深め、これを一撃必殺とする「無寸雷神」がある。

 兜浸掌と無寸雷神の違いを述べるなら、技の効果までに二手必要となる無寸雷神と、一手で技が完結する兜浸掌というところにあるだろう。  

 原理としても、一打目で衝撃を発生させ、二打目で発生した衝撃を敵体内で重複させて内部破壊を成す無寸雷神と違い、兜浸掌は(たなごころ)に気を纏わせ、それを直接相手の体内に送り込むことで破壊する──と言った明確な違いがある。

 ただの正拳突きですら内部破壊攻撃に昇華させてしまう、灘神影流の色が濃い恐るべき奥義であると言えた。

 技として、どちらかが極端に勝り、劣っているというわけではない。

 あくまで差異である。

 同じような効果の技ですら、流派が違えば全く違う術となるのだ。

 今、ここで確かなことは、これほどの技を容易く扱える宮沢尊鷹という男が、灘神影流歴代当主と比べても、群を抜いた強さを持っているということなのだ。

 

 故に、孤独であった。

 誰と戦うにせよ、決して本気を出せない。

 戦いとはコミニュケーションである。

 己の世界と、相手の世界をぶつけ合うのだ。

 相手がその拳に何を込めているのか、なぜ負けられないのか、なぜ勝ちたいのか?

 肉体言語のみではなく、本質は魂で繋がることにあると言ってもいい。

 その瞬間、相対する二人は同じ世界を共有するのだ。

 しかし、尊鷹の戦いにはそれがない。 

 強すぎる故に、無双の強さであるが故に、ただひたすら孤独であった。

 

 エルオ・グライシー。

 確かに強い、間違いなく。

 しかし、尊鷹が戦い方を工夫すれば、難なく倒せる程度でしかなかった。

 彼はグレート・スピリットの語る強者ではなかったのだ。

 

 エルオ・グライシーではなかった。

 

 孤独の世界を生きる尊鷹に、しかし目の前の男は言った。

 

「手加減なんか、しなくていいんだよ」

 

 優しく、諭すような口調だった。

 

「俺は、自分が頭がいいと思ってないし、気が効く性格だと思ってないけどね、こういうことだけは、わかっちまうんだなぁ……」

 

 勇一郎は、太い指でコリコリと悩ましげに頭をかいた。

 

「だからよォ、はっきり言えることは、ひとつだけなんだよな。お前の相手は範馬勇一郎なんだぜ? これだけさ」

 

 尊鷹の中で、何かが弾ける音がした。

 

「お、おお……」

 

 尊鷹の目が震えていた。

 

「うおおおおおおおおおおっ!!!!」

 

 咆哮、慟哭。

 獣のそれに近かった。

 それは夜の世界を揺らした。

 尊鷹の魂を解放されていく。

 押し込めていた、有り余る力が尊鷹の肉から溢れ出す。

 

 範馬勇一郎だったのだ。

 

 勇一郎は、尊鷹の変わる様を笑って見守っていた。

 まるで、親が子の成長を見守るが如く、優しい目をしていた。

 

「しゃあっ!!」

 

 尊鷹が飛んだ。

 今までより高く、速く。

 打ち出される蹴りが、範馬勇一郎の顎を貫いた。

 

 歓喜。

 そして、解放。

 

 エルオ・グライシーではなかった。

 範馬勇一郎だったのだ。

 

 

2.

 

 

 マイったねぇ……どうも……

 

 掴もうにも、

 防御(うけ)ようにも、

 速すぎて、反応が間に合わねぇや……

 

 範馬勇一郎は打たれるがままであった。

 尊鷹の速さについていけない。

 尊鷹は、もうずっと空を飛んでいる気がする。

 それでいながら、意を決して勇一郎が掴みにかかると、その尊鷹は残像であり、虚像の奥から尊鷹の鋭い蹴りが伸びて、勇一郎の体を穿つ。

 

 これが、いてぇ。

 今までの蹴りたぁ、種類が違ぇや……

 

 ガードを固める。

 狙いを絞る。

 打たれた後に掴みに行っても虚像だ。

 だから、打たれるのと同時に掴む。

 当たり前だが、蹴りがガードに当たる瞬間は実体があるからだ。

 

 来た、速い。

 左回し蹴り。

 掴めるか? 

 来たッッ! 

 掴めるか? 

 掴んだ!

 

「ドレスだああああぁッッ!!」

 

 いつのまにか広場に来ていた新堂卍次が叫んだ。

 言われるまでない。

 ここから一気に決める。

 ただの投げではダメだろう。

 ならば、ドレスでいく。

 足首を引っこ抜くように尊鷹の状態を降り起こす。

 ドレスとは人間ヌンチャク。

 範馬勇一郎の得意とする、範馬勇一郎にしかできない技だ。

 

 ぽこん、と音がした。

 勇一郎の手の中の、尊鷹の足首からだった。

 それは、骨が外れる音だった。

 勇一郎の手から引っ掛かりを失わせた尊鷹の足が、するりと抜けた。

 勇一郎の顔が、それを驚きの顔で眺めていた。

 灘神影流の脱骨術。

 それで足首の関節を外して抜けたのだ。

 

 おいおい。

 

 勇一郎の顔が苦い笑みを浮かべる。

 その顎に、右膝が突き刺さる。

 跳ね上がる勇一郎の顔。

 

 おいおい。お前さん、逆技にも対応できるのかい?

 

 勇一郎の体が大きく揺らいだ。

 

 外から見ていた卍次が叫ぶ。

 

「尊鷹ッッ……は、速ッッ! 尊鷹の体が分身している!? な、何人いるんだッッ!!?」

 

 当の勇一郎は、己に問いかけていた。

 

 このままじゃ、受け止めきれねぇな。

 マイったなぁ、お前を受け止めてやる、なんて、カッコつけたってのによ。

 使うか? アレを。

 使うしかねェのかなァ、アレを……

 

 殴られながら、

 蹴られながら、

 勇一郎は、逡巡する。

 

 尊鷹くんなら、耐えられるかな?

 いてッ! ああ、というかよ、もうキツイねえ。

 特に、蹴りだよ。

 蹴りの刺さる音がよ、肉を叩く音じゃねェんだな。

 パン、とかボゴっ、とかじゃねぇ。

 ザクッ! ザクッ! ってぇな。

 刃物だ。

 鋭利な刃物。

 この範馬勇一郎の肉に容易に突き刺さる、一級品の刃物だ。

 尊鷹くん、強ぇなぁ。

 まだ若ぇんだぜ?

 坊やさ、俺からしたら。

 おっ! 

 今ちらっと顔が見えたが、いい顔してるぜ。

 笑ってら。

 とりすました顔より、ずっと魅力的だよ。

 抱きしめてやりたいけど、ああクソッ。

 捕まえられねぇや。

 使っちまうか。 

 使おう。

 女々しいこと言わせてもらうけどよ。

 お前さんが強すぎるのが悪いんだぜ?

 

 

3.

 

 

 もし、この世で鋼鉄より硬い筋肉を持って生まれたら?

 もし、生まれた時点でこの世のあらゆるのもより強靭な筋肉を持っていたら?

 おそらく、その人間には敵に勝つための武術などという後付けは、必要ないだろう。

 あらゆる相手を、ただ思い切りぶん殴る。

 それだけで全ての敵を倒せるだろう。

 

 

4.

 

 

 肉の感触が変わった。

 

 範馬勇一郎の、肉の感触が変わった。

 五段蹴りの、三段目からだ。

 硬くなった。

 それも、筋肉を引き締めたとか、乳酸が溜まってバンプ・アップしたとかじゃない。

 肉そのものの質が変わっていた。

 粘土が、鋼鉄に変わったような、あり得ない硬度変化だった。 

 なぜ変わったのか、尊鷹には見当がついている。

 『鬼』だ。

 尊鷹の塊蒐拳を弾き飛ばすほどの鬼が、範馬勇一郎の肉の内側を満たしているのだ。

 空気が変わる。

 張り詰めていく。

 新堂卍次と、エルオ・グライシーが、月明かりのわずかな視界の中で、確かに見た。

 

 背中に映る鬼の貌を。

 勝ったッッ 新堂卍次が思わずガッツポーズを取った瞬間。

 

「しゃあっ」

 

 尊鷹の掌底が範馬勇一郎のこめかみに突き刺さり、勇一郎は七孔噴血し、ぐらりと傾いた。

 

「ああっ、勇一郎さんッッ!!」

 

 卍次が叫ぶ。

 倒れゆく勇一郎の顔目がけで、尊鷹の右の回し蹴りが飛んだ。

 

「!!」

 

 蹴りが勇一郎の側頭部に当たるのと同時に、勇一郎は凄まじい速さで尊鷹に突撃した。

 崩れ落ちる重心を敵方向に流して加速する。

 脱力から発生した最速のダッシュ。

 流石の尊鷹も避けきれなかった。

 それでも、そこから抜け出そうと飛ぶ──飛べない!?

 

 範馬勇一郎が、超人的な握力で、尊鷹の背骨を掴んでいた。

 そのまま押し倒す。

 覆いかぶさった勇一郎が、尊鷹の頭にその太い腕を回した。

 

「関節、外せるンだもんなぁ……だから、これしかないわな」

 

 ヘッドロック。

 倒れ込んだまま。

 

「よいしょっ」

 

 血だらけの貌で、軽く、勇一郎が言った。

 その太い腕が、尊鷹の頭を締め付けた。

 

「ぐっ! がっ……」

 

 尊鷹が両脚を折り曲げて、勇一郎の腹筋に押し当てて伸ばそうとする。

 尊鷹の脚は鷹腿脚(ファルコン・フット)

 尋常の脚力ではない。

 それでもなお、勇一郎の体はびくともしなかった。

 姿勢が悪い。

 尊鷹が下から勇一郎の側筋を叩く。

 しかし、勇一郎の中の『鬼』が、尊鷹の発勁を弾き出してしまう。

 地面に弾き出された発勁が、砂埃を舞い上げた。

 

「ぐががががあっ……」

 

 尊鷹の視界が黒ずんでいく。

 酸素が足りない。

 血が脳へ向かわない。

 脳細胞が軋んでいる。

 

 そして──

 

 気づけば、尊鷹は空にいた。

 空に立っている。

 どこだ、ここは?

 

 ふふ……

 

 笑い声。

 そこに、範馬勇一郎がいた。

 同じように、空に立っている。

 尊鷹は、それでようやく理解した。

 眼下で、勇一郎に締められる自分がいる。

 

 強いなぁ。

 

 勇一郎は言った。

 

 真剣勝負の最中に、たらればは意味がねぇけどな。

 お前さんが、あと十年早く生まれてくれてりゃあな。

 あるいは、俺があと十年、遅く生まれてりゃあなぁ。

 もしかしたら、もしかしたらよ。

 日下部先生の道場なんかで、ばったり出会ってたかもしれんね。

 

 …………。

 

 約束……ってワケじゃねぇが。

 言っておくよ。

 ガキがよ、いるんだ。

 俺のガキなんだが、たぶん、強くなる。

 とんでもねぇじゃじゃ馬に、なるだろうなァ、ありゃあ。

 もう、跳ねっ返り極まっててよ。

 いずれ、たぶん、俺と喧嘩することになる……

 そしたらよ……

 

 まぁ、たぶん、そうなるわな。

 

 だからよ、尊鷹くん。

 そいつがよ。

 俺のガキがよ。

 もし暴れん坊すぎて、誰にも止められなかったらよ。

 お前さんが、止めてくれちゃくれないかい?

 

 ははは、そんな暗い顔しなさんな。

 それとは別に、よ。

 また、範馬と……灘神影流だっけ?

 また、やり合おうぜ。

 

 強かったよ、尊鷹。

 宮沢尊鷹。

 今度やる時は、俺も、もっと体をしあげてくるからよ。

 

 また、やろうや。

 

 そこで、尊鷹の意識は途切れた。

 

 尊鷹が意識を取り戻した時、全ては終わっていた。

 こちらを見下ろす範馬勇一郎。

 となりに立つ新堂卍次とエルオ・グライシー。

 

 そこで初めて、尊鷹は負けを受け入れた。

 

 

5.

 

 

 その時の様子を度々父親から聞いていた、新堂流柔術当代新堂万次はこう語る。

 

 美しかったそうっス。

 その時の、二人。

 月明かりが照らす中で、大の男が寝技で極めて、極められてる。

 そんな状態が、とてつもなく美しかったそうっス。

 

 自分の親父は、不器用を絵に描いたような人間っス。

 言えた義理じゃないんスけど、頭も良くないし、勉強だってできたわけじゃない。

 それでも、その親父が、ギリシャ彫刻だの、ダイヤモンドだのを喩えて出すほど、それは美しかったそうっス。

 

 勇一郎さんのことを語る親父は、ご馳走を前にした子供みたいに目を輝かせてました。

 あの戦いのこととなると、なおさらでしたね。

 範馬勇一郎と、宮沢尊鷹。

 二人の超天才が、誰にも知られずに戦ったんスよ。

 親父はその場に居合わせたんスから、羨ましいっス。

 え?

 キー坊のこと?

 確かに、ハイパー・バトルの予選で、自分はキー坊に負けました。

 確かに、自分はあの時キー坊に「あなたは天才じゃない」って言いましたね。

 よくご存知で。

 でも、しょうがないじゃないっスか。

 自分にとって、天才っていうのは範馬勇一郎や、宮沢尊鷹のことなんスから。

 あの時のキー坊にそう言っても、仕方ないってやつっスよ。

 まぁ、はい。おっしゃる通り。

 キー坊と尊鷹の関係に、なんとなく気づいてはいましたよ。

 だって、宮沢で、灘神影流なんですもん。

 尊鷹がバトル・キング本人だったことは知らなかったっスけど、キー坊が尊鷹の身内なことは、なんとなく察してましたね。

 ああ……そう考えると、自分、ムキになってたんでしょうね。

 今?

 今は、キー坊の才能は認めてますよ。

 上から目線に聞こえるでしょうけど、ハイパー・バトル本戦の話や、この間の親子喧嘩を観ましたもの。

 あんなの見せられたら、認めちゃいますよね。

 まぁ、今キー坊とやれ……って言われたら、やりますよ、もちろん。

 あ、そうだ。

 今度のスペシャル・マッチ。

 せっかくだし、ご一緒しませんか?

 

 

6.

 

 

 朝、皆で飯を食っていた。

 誰も、何も言わない。

 勝ったものと、負けたものが同席しているのだ。

 気まずい雰囲気の中、しかし各々の箸は進む。

 

 そのまま、お別れの時となった。

 

 尊鷹は何も言わない。

 勇一郎が、ずい、と前に出た。

 ぽりぽりと頬を掻いて、毛恥ずかしそう言った。

 

「鍋、美味かったよ。()()、一緒に食おうな」

 

 そして、片腕を差し出した。

 尊鷹は、ふっと笑った。

 微笑だ。

 さわやかだった。

 憑き物が落ちたようだった。

 

 勇一郎の分厚い手を、握り返した。

 

()()、会いましょう」

 

 勇一郎は笑った。

 熱を持った手で、強く握り返した。

 

 

 しかし、この時が二人の今生の別れとなった。

 

 範馬勇一郎は帰国後、プロレスラーとなり、大相撲関脇上がりであった力剛山と組んでプロレスで世を座冠する。

 しかし、範馬勇一郎は『昭和の巌流島』でその力剛山に、全国民の前で敗北してしまうのだ。

 『昭和の巌流島』自体が八百長であり、台本ありきのショーに過ぎないこと、あまつさえ力剛山はその台本すら破り捨てて卑劣な不意打ちを仕掛けたことは、その後にまだ若き修行者だった愚地独歩が力剛山に「制裁」を加えたことで明るみに出たものの、範馬勇一郎が「八百長を受けて試合をしたこと」と、「無惨に敗北した姿を見せたこと」、その結果として誇りある日本武道の価値を地に落としたことは、もはや動かしようのない事実となっていた。

 範馬勇一郎はこれ以降、歴史の表からも裏からも消えてしまうのだ。

 

 そして、時は流れ──

 

 

7.

 

 

 現在──東京ドーム地下闘技場。

 

 熱気に溢れていた。

 観客は、満員。立ち見するものすらいる。

 爆発的な熱は感じないが、その空間にはじわりとした熱気が溢れていた。

 爆発の時を待っていた。

 堪えきれない観客たちの談笑が絶えない。

 議題はズバリ、どちらが強いのか?

 今宵のメーンエベント。

 

 範馬刃牙vs宮沢熹一。

 

 観客の中にも、ただならぬものが多かった。

 生意気盛りの少年の隣に座る、顔に傷のある男は、実戦空手の丹波文七。

 その隣の恰幅のいい年配の男は、彼の後見人である古武道の重鎮、竹宮流の泉宗一郎。

 実戦派で括るなら、愛弟子ガイアを連れた本部以蔵の姿もあった。

 その向かいのやや右側に、岩がある。

 北辰館の松尾象山である。

 もちろん、姫川勉もいる。

 松尾象山の対角線上には、渋川剛気と愚地独歩がいた。

 その愚地独歩の隣に、今、立った男。

 分厚い生地のロングコートを羽織った男を見て、愚地独歩が天邪鬼な笑みを浮かべた。

 拳願試合の王、怪腕流の黒木玄斎であった。

 そのすぐ近くには、日本三大プロレス団体の一角、FAWのグレート巽こと、巽真。

 その隣に、あろうことかアントニオ猪狩が座っていた。

 立ち見している者も曲者揃いである。

 その中で、特に抜けた者を挙げるなら、筆頭は上から下まで黒い男、暗器の久我重明だろう。

 並び立つ美丈夫は、かつて柳龍光を破った男、葛城無門である。

 ほかに、覇生流から独立し、総合格闘技の世界で躍進を続ける風のミノルこと鈴木実がいる。

 並んで弁当を行儀よく食べている四人組は、幽玄真影流の死天王だ。

 二メートルを超える巨躯でありながら、最前列の席にジャック・ハンマーがどっしりと構えていた。

 その後方、ジャックに負けぬほど「太い」アメリカ人は、ビスケット・オリバである。

 超VIP席にも、大日本銀行総帥片原滅堂を初め、日本の「もう一人の」フィクサー、不知火検丈などを迎えている。

 この場にいる誰もがメーンエベントをこなせるほどの傑物揃いである。

 彼らが──全員ではないにせよ──思うことは、一つだ。

 

 範馬刃牙と宮沢熹一、どちらが強いのか?

 

 あの、時期をほぼ同じくしてお茶の間を釘付けにした『二大親子喧嘩』。

 範馬勇次郎vs範馬刃牙と、

 日下部覚吾vs宮沢熹一。

 どちらもが常人の理解を越えた戦いを行い、共に息子が父を超えた戦いである。

 

 もちろん、この闘技場の主であり、このマッチメイクの仕掛け人である徳川光成も、どちらが強いのか気になっている。

 

 その徳川光成は、宮沢熹一の控室にいた。

 宮沢熹一が入念に柔軟をしている横に立っていた。

 

「しかし、現金なジィちゃんやで、ホンマ」

「すまんのぉ、熹一くん」

 

 宮沢熹一──キー坊が皮肉を叩くのには理由がある。

 キー坊がヤクザのリキ丸と組んで闇試合に出る前に、徳川光成はキー坊に声をかけていた。

 しかし、これをキー坊は断っていたのだった。

 理由は、地下闘技場にはファイト・マネーがないからだ。

 宮沢鬼龍に廃人にされた父、宮沢静虎を救うために、まだ高校を卒業したばかりのキー坊にはまず大金が必要だった。

 今でこそ地下闘技場で戦うことは、それ自体が表の格闘家の間でも「ステイタス」となっているものの、それはあくまで最大トーナメント以後の話である。

 キー坊が堂々と光成をフった後、光成はこの時までキー坊に声をかけていなかった。

 

「不知火御殿での戦いの後、ようやっと建てた道場に、ゴツい車と黒服がずらりと並んだ時にゃー、また鬼龍がなんかやらかしたんかと思うたやんけ」

「ククク、ひどい言い様だな。俺だって弁えることはあるんだぜ?」

「ウソつけっ! 今まで散々めちゃくちゃやらかしとるやんけっ!!」

 

 キー坊と言い合う男こそ、宮沢鬼龍その人である。 

 その隣には、宮沢静虎がいる。

 

「なんだったら、この戦い、俺が変わってやってもいいんだぞ? もっとも、俺が殺したいのは範馬刃牙の親父の方だがな……」

「やめとけ、お前じゃ殺されるわっ。親子喧嘩はワシも観たけど、アレと戦えるんは灘やったらワシか……尊鷹ぐらいやろ」

「そう言えば、鷹兄ィは来てないんか?」

「静虎よ、尊鷹の気を感じないのか? 尊鷹なら、客席にいるぞ」

 

 闘技場──

  

「!」

 

 その気の発現に、強者たちは気づいた。

 観客席の最上段に現れた。

 

 宮沢尊鷹。

 

 闘技場を見下ろしている。

 

 範馬勇一郎のことを想っていた。

 範馬と灘で、またやろう。

 まさか、それがこんな形で叶うとは思わなかった。

 

 尊鷹が勇一郎の訃報を知ったのは、勇一郎が亡くなってからだいぶ後だった。

 同じ世界を共有できる唯一の相手を失ったと思い込んだ尊鷹は、バトル・キングとして虚無的な戦いをこなし続けていた。

 

 しかし、今となっては、知る限りでもキー坊や覚吾と言った、自分と並ぶ者たちがいる。

 それだけではない。

 この闘技場に集まる強者たちには、いかに尊鷹といえど戦って圧勝することは難しいだろう。

 

 範馬刃牙。

 

 強い名前だ。

 事実、強い。

 

 しかし、宮沢熹一も強い。

 

 どちらが強いのか──

 

 思考に耽る尊鷹の耳に、

 

 ふふふ……

 

 と低い笑い声。

 尊鷹が顔を上げた。

 心眼で見るまでもない。

 そこに、範馬勇一郎が立っていた。

 

「勇一郎さん……」

 

 尊鷹くんや。

 

 勇一郎は、太い笑みを浮かべた。

 

 刃牙ちゃんは、つえぇぞ?

 

 それだけだった。

 それだけ告げて、勇一郎は去っていった。

 

 尊鷹がそれを見送っている。

 歓声が上がった。

 

「宮沢熹一だあっ!!」

「キー坊だあっ!!!」

「ホントに強いのか!?」

「刃牙だあああッッ!」

「待ってたぞォ! チャンピオンッッ!!」

「瞬殺だぁーッ! 刃牙ィ!!」

 

 闘技場の中心で向かい合う、範馬刃牙と宮沢熹一。

 

 そこに、あの時の自分達が重なる。

 

 あの時は、まだ若かった。

 あの時は、負けてしまった。

 

 だが、熹一はあの時の私より強い。

 

 試合が始まった。

 

 範馬と灘の戦い。

 今度は勝たせてもらいますよ。

 

 

<終>




これで終わりです。
読んでいただきありがとうございました。
2/7、誤字その他の修正


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