盤の向こう側。誰もいなくなった座布団に視線を落とすと、零は人知れず…少し深い溜息をついた。
…パチリ………パチリ……
直ぐ隣では、まだ静かな戦いが繰り広げられている。その駒音を聴きながら窓に目を向けると、外は薄暗くなりかけていた。
昼と夜の境目。不明瞭な色の空。赤色を残しつつも姿を隠そうとしている夕日に、零は今朝見た夢を思い出す。
とても暖かい…けれどもう二度と訪れる事のないその光景が、脳裏に残っている。ズキリ…と胸の奥が疼いた。
どうもこの時期はいけない…。世の中の雰囲気も、夏から秋に変わろうとする季節も、何もかも…何処か少し暗い影を持っている。
帰ろう。
零は膝を立ててゆっくり立ち上がる。その途中で、頭から血の気が引いていく感覚がした。
あ…また……。
最近よく起こる立ち眩みの様なもの。しかし、特に気にしなければ…それは静かに去っていく事を零は知っていた。立ち上がってすぐ、視界の端からがジワジワと黒色が迫る。
少しの息苦しさと、目の奥に感じる圧迫感。一瞬だけフワリと平衡感覚が鈍るが、数秒待つか、二、三歩…進むかすると、直ぐに何事も無かったかのように元に戻っていくそれを、特に気にせず、零は歩こうとした。
…あれ……
戻らない視界…黒に包まれた景色がぐにゃりと捻れた。周囲の音がフッと聴こえなくなり、ある一定の音だけが危険を告げる警告音のように脳内に響く。そこで初めて歩きだした筈の体がバランスを保てていない事に気がついた。
…あ…やば……
パチリ…小さな駒と盤が触れ合う音が聞こえる程、静寂に包まれているその部屋で、ドサッ..と、似つかわしくない音が響いた。
ざわり…
聴覚が正常に戻り、周囲の音を拾い出す…それに続き、じわじわと目の前を覆っていた黒色が晴れ、視覚が元に戻った。最初に目に入って来たのは濃い緑色の畳の縁と誰かの靴下。そして、零は自分の体が畳の上にあるのだと理解した。
「!…おい!」
「え…どうした…?」
「桐山!」
「大丈夫か?桐山…」
周囲のざわめき…この空間で、明らかに零は注目を集めてしまっている。
ヤバイ…まだ対局中の人もいるのに…
立たなきゃ…
零は畳に腕を突っ張り、何とか体を起こした。しかし、俯いたまま動くことが出来ない。起こした体が重たい。自分の鼓動がやけに大きく感じる。髪の毛に隠れた額にジワリと汗をかいているのが分かった。サラサラとした、まるで水の様な汗…。ポタ…ポタ…と、それは重力に従うまま、畳へと落下していく。
あれ…なんか…
なんか…おかしい…
「桐山…汗が…」
「大丈夫か?無理に起きない方が……」
「なに…どしたの?貧血?」
「誰か呼んで来て…早く!」
少し足がもつれただけ…
少しバランスを崩しただけ…
あぁ…何か言わないと…
大丈夫だと伝えないと…
いろんな言葉が頭の中をめぐるが、どれも口からは出てこない。それは荒い呼吸に変換されてしまう。
なんだ…コレ……
またジワリと視界がおかしくなりだしてきている。畳に突っ張っている腕がだんだんと怠くなってきた。
…ヤバイ……気持ち悪い……
「桐山、一旦ここに横になろう…な?」
誰かが近くでそう言葉を発した。落ち着いた低音の声…。そっと肩を触れられると、優しくその場に横になる様に促される。零は抗う気力もなく、促されるまま…その場にぐたりと横になった。
冷や汗をびっしょりとかいた額。蒼白な顔色。少し苦しそうな呼吸…。その場に居た誰もが、零の体が正常な状態ではない事が分かった。
「ヤバイ…顔が真っ青だ…」
「足を上げよう。座布団持ってきて」
「汗が…誰かタオル…」
零は胸のあたりにグルグルと渦巻く気持ちの悪さに耐えられず、そっと目を閉じた。生唾が口腔内に広がっていく。それらを堪える事で精一杯だった。
自分の身に起こった事を、まだ把握しきれないまま、零は周囲の言葉をぼんやりと聴いていた。
□◇□◇□◇
「桐山が倒れたって?」
「あ、会長!」
「対局中にか?」
「いえ、対局が終わった後です。今、救護室に…。熱があったみたいで」
「さすがに一人で帰す訳にはいかんな。迎えに来てもらわんと…幸田に連絡したか?」
「いえ…あの…、私もそう勧めたのですが、本人が拒否していて…」
「……そうか…どうするかな…」
「俺が面倒みますよ。」
「おぉ!島田!」
「島田八段…いいんですか?」
「桐山には獅子王戦の時、世話になりましたし。」
「任せてもいいか?一応、幸田には連絡入れておくが…」
「はい。」
「でも…お前、看病疲れして自分が倒れちゃいそうだな!はっはっはっ!」
「ちょっ…会長!そんな事言っちゃ……」
「……そこまで柔じゃないです…。」
□◇□◇□◇
零は救護室のベッドにぐたりと体を横たえていた。体は気怠く、頭が重たい。自分が発熱している事には、倒れてから気がついた。
人前で倒れたなんて…川本家の人々には知られたくない。絶対に…。零は両腕で顔を覆うと、はぁ…と溜息をついた。
きつい…
眠りたい…
…でも、眠ってしまったら…
きっとまた…あの夢を見る…
零は最近、昔の夢をよく見ていた。まるで、幼い頃の記憶の蓋が開いてしまったみたいだ。
もう治ったと思っていた傷が、ズキリと疼いて主張する。後を引くように余韻を残していくその痛みは… 酷く寂しくて…辛い……。
「きついのか?」
不意に声が聞こえた。落ち着いた低音の声…。零は、ハッとして、顔を覆っていた腕をずらすと、島田が零の顔を覗き込んでいた。
島田がここに居る事に、少々驚きつつ「…いえ、だいぶ…マシです…」と答える。島田は「心配したぞ。まったく…」と言いながら、溜息をついた。
「今日は俺ん家で泊まりだ。会長命令だから。」
「え…そんな、大丈夫です…帰れます。」
「何言ってんだお前、結構熱あるぞ。」
島田は零の額に触れながら、溜息交じりに「ほら…」と呟いた。
「体調でも崩してたのか?」
「あ…いえ、特にそう言う訳では…。なんて言うか…さっき気がついた……って言うか…」
零はごにょごにょと言葉を濁した。
「もうちょいで俺の用事が終わるから、それまで少し寝てろ…。」
そう言い残すと、島田は踵を返して救護室を出て行った。
零は島田の背中を見送ると、唇から「はぁ…」と少し熱を持った息が漏れでた。そっと目を閉じる。
体がきつい…
少しだけ…休もう…
□◇□◇□◇
「桐山~…大丈夫か?」
三角が顔を覗かせる。島田は三角の方に顔を向けると、唇の前に人差し指を立てた。
「あ、寝てます?」
三角は部屋に入りながら小声でそう言うと、島田に缶珈琲を渡した。「さんきゅ…」と言いつつ、島田は缶珈琲を開ける。
三角は零の為に買って来たであろうポカリを机の上にコトリと置くと、島田の隣に腰掛けた。
「桐山、体調でも崩してたんですか?」
「倒れてから体調が悪いのに気がついたんだと…」
そう答えると島田は缶珈琲を一口飲んだ。そして「でも…」と言葉を続ける。
「目の下の隈見る限り、あんまり眠れてなかったのかもな…。」
そう言うと、まだ顔色の悪い零を見つめた。
「倒れた時はマジでビビりましたよ…」
三角ははぁ~…と溜息をつきながらダラリと椅子の背もたれに寄りかかると、缶珈琲を開けた。
「よく寝てるから起こしたくないんだけど…そろそろタクシー来ちゃうかな…」
「お!島田さん…お持ち帰りで?」
「あぁ。病院経由の、お持ち帰りだな…」
「島田さん…看病疲れして、倒れないで下さいよ!」
「そこまで柔じゃねーよ…。」
アレ…これさっきも言わなかったっけ……と思いつつ、島田は缶珈琲をグッと飲み干した。
□◇□◇□◇
夜中。島田は零の寝ている部屋をそっと覗いた。零の目から、静かに…静かに…涙が溢れては零れ落ちていく。
驚いた島田は零の顔を覗き込むが、どうやらまだ眠っているようだ。起こすかどうか、少し悩むが…一先ず零の額に手を当てる。
掌に伝わる熱。さっきから、熱が上がったまま下がらない。体が辛くて泣いているのか…それとも…泣きたくなるほどの夢を見ているのか…。どちらにしても零を起こして、解熱剤を飲ませた方が良さそうだ。
「桐山………」
「……………ん…」
「大丈夫か?…どうした?きついか?」
「……ぇ……ぁ…。」
涙が頬を伝っている。零は自分が泣いていたことに気がついた。ゴシゴシと手の甲で涙を拭い、消え入るような声で「すみません…」と呟いた。
「熱がさっきから下がってない。病院で出してもらった解熱剤飲もう…体起こせるか?」
「……はい…」
キツそうな表情、緩慢な動作。島田は零が体を起こすのを手伝う。
零はなんとか起き上がると、島田から薬と水の入ったコップを受け取った。錠剤を口に入れると、水で喉の奥へと押し込む。
「怖い夢でも見たか?」
島田は零に涙の理由をそれとなく聞いてみた。
「………いえ…怖くはないです……でも……」
…と言いかけて、零は口をつぐんだ。先ほどの夢が鮮明に零の脳裏に残っている。
家族で、特別でも何でもない時間を一緒に過ごしている夢。夢の途中で、零は「あぁ…これは夢だ」と気がつく。そしてもう二度と、この大好きだった家族が…この優しい時間が……戻らないという事に気がつくのだ。
島田はぼんやりと一点を見つめて動かなくなった零に、「桐山?」と声を掛ける。
零はハッとして「すみません。ちょっと懐かしい夢だったので…」とポツリと呟いた。
「懐かしい」という単語と先ほどの涙。それが一体何を意味するのか…島田はある程度察する事が出来た。零の生い立ちはそれとなく知っている。
「温かい茶でも飲むか?」
島田は立ち上がりながら言う。零は島田を見上げて「ぁ…はい…」と答えた。
島田が淹れた温かいお茶を、ゆっくり時間をかけて飲んだ零は、また布団に横になっていた。
薬も効いてきたのか、いささか体が楽になっている様な気がした。そっと目を閉じると、すぐにまた睡魔が襲ってきた。
□◇□◇□◇
明け方。島田が零の様子を見にいくと、また目尻に涙が溜まっていた。また夢を見ているのだろうか……泣くほど辛く、悲しい夢を…。
島田はその眠りから零を引き上げようとして…やめた。「……違う。」そう思った。
もう戻る事のない時間を、景色を、その大切な人達の温もりを…夢の中で感じているのだろう。だから、こんなにも静かに泣いている。
「せめて…夢の中だけでも…。」
島田はそっと零の髪を撫でた。
□◇□◇□◇
朝。
「桐山ー!やっと起きたか!心配したぞ!」
「二階堂⁈なんで…」
「あ〜…すまん桐山。今日、坊呼んでるの忘れてた…。坊、桐山はまだ熱あんだから、あんま…」
刺激するなよ…と続けたかった言葉は、二人の大声でかき消された。
二階堂と言い合う零の姿を見て、島田は「あぁ…もう大丈夫だ…」と、そう思った。
きっと今までも、どうにかこうにか…自分の過去と、折り合いをつけて来たのだろう。しかし、人の心を救えるのは、やはり同じ人の心だ。
島田は胃のあたりを手でさすると、一人…ふっと笑みをこぼした。
終
この作品は、pixivにも投稿した物です。
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最後まで読んでくださってありがとうございました。
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