アビス・プレデター 〜深淵に凄む終末の獣、無自覚な異世界転生者につき〜 (春風駘蕩)
しおりを挟む

Ⅰ 暴食の竜、異界にて目覚める
プロローグ


 それは、深い深い闇の中でじっと息を潜めていた。

 光も、音も、匂いも、何も感じられない完全なる黒の世界。上下左右、そして前後もはっきりとしない、〝無〟としか表現しようがない異様な空間。

 そこがそれの縄張りであり、何者も侵すことのできない領域であった。

 

 そんな世界を、それは悠々と泳ぐ。

 自我を得た時から持っていた鰭を動かし、己にとっての『前』へ向かって突き進んでいく。

 ガチガチと噛み合わせた牙が口の奥で音を鳴らし、ゴリゴリと全身を覆う鱗が軋む音を立て、何も無い闇の先を二つの目が見据え、実際に進んでいるかどうかも曖昧なまま泳ぎ続ける。

 

 それを突き動かす本能はただ一つ―――「腹が減った」という原始的な意思のみであった。

 

 ふと、闇の世界を当てもなく進んでいたそれが、ピクリと反応する。

 目で姿を捉えたわけでも、音を捉えたわけでも、匂いを捉えたわけでもない。

 気付いた時には習得していた、生物の気配を捉える能力により、それは自分の欲を満たしうる獲物の存在を知覚する。

 

 ぐっ、と全身に力を込め、気配を感じる方へと浮上しながら、それは一層強くなる欲に牙を剥き出しにして、嗤った。

 

           ▼△▼△▼△▼

 

「ぎゃははは! お~っと、そこの馬車止まりなぁ!」

 

 オルトリーア子爵令嬢オリヴィア・オルトリーアは現在、人生最大の窮地に陥っていた。

 友人であるワラビア伯爵家の一人娘、アイリス・ワラビアの婚約披露パーティーに出席し、無事に役目を終えて領地に帰還する途中、突如野盗に囲まれてしまったのである。

 

「痛い目に遭いたくなかったらぁ……大人しく黙って死んでくれやぁ!」

「そこにいるオジョウサマだけ置いてな! ぎゃはは!」

「くそっ…! なんでこんな場所に野盗など…!?」

「お嬢様を守れ! 命に替えてもだぞ!」

 

 オルトーリア領は子爵の手腕が優れ、何より身分差など気にせず気さくに接するような好人物で、領民からの不満も滅多に上がらないことで有名な土地だった。

 隣り合った領との交流も良好で、もし落魄れるような者がいるとすれば、それは余程運に恵まれていないか、根っからのどうしようもない屑であるかと言われるほどである。

 故にここで狼藉を働いている彼らは、そのどうしようもない屑である。そしてそれはこの領地だけではない、周りの領地であぶれたどうしようもない連中が集まってできた集団なのである。

 

 両親に愛され、生まれてこの方争い事とは無縁の生活を送っていたオリヴィアは、初めて向けられた他者からの悪意に晒され、すっかり怯えて縮こまってしまっていた。

 同乗していた護衛達がすかさず応戦するものの、襲撃など予想できないほど平穏が続き、若干腕が鈍ってしまった彼らではいささか分が悪い。

 そのうえ、集まってきた野盗の数は護衛の約三倍はいて、勇ましく立ち向かう暇さえなく、護衛達は次々に倒れていった。

 

「ああ…そんな」

 

 ついには、最後の護衛も苦悶の声を上げて斃れ、馬車には何の力もないオリヴィアの身が残されてしまう。

 怯えて、青い顔で震える彼女が乗る馬車を取り囲み、野盗はニタニタと下卑た笑みを浮かべた。

 

「ひゃははは! 残念だったなぁ、もうあんたを守ってくれる奴は一人もいないぜぇ!」

「わかったらさっさと出てこいよ! 身代金と一緒に、お前さんも可愛がってやるぜぇ!」

 

 涎を垂らし、血に濡れた刀剣をちらつかせる野盗がじりじりと近づいてくる光景を、オリヴィアは恐怖で固まったまま凝視する他にない。

 貴族令嬢として、自衛手段として剣を習ってはいるものの、元来争い事が苦手な彼女はそれをまともに扱えない。このような大々的な襲撃を前にしてしまった今、オリヴィアの身体は完全に言う事を聞かなくなってしまっていた。

 

「誰か……だれかぁ…!」

「ぎゃはははは! 助けを呼んだって無駄だぜ! ここに人が近づくことはほとんどないって、調べがついてるからなぁ!」

「だから今日ここで襲ったのさぁ! 可哀想になぁ!」

 

 貴族の少女が怯える姿にますます気を良くし、野盗は待ちきれないとばかりに馬車に乗り込もうとする。

 迫り来る垢塗れの男の手を前に、オリヴィアはきつく瞼を閉じると、何者にも触れさせまいとするように頭を抱えて丸くなる。

 無情にも、そのような抵抗は意味をなさず、野盗の男の手がオリヴィアの服にかけられる。

 

 その、寸前の事であった。

 ごりゴキぶちっ、と聞きなれない音が響くとともに、野盗の男の姿が掻き消えた。

 

「……あ?」

「え…」

 

 馬車を取り囲み、仲間が令嬢を引きずり出すのを待っていた他の野盗達は、目の前で突然起きた現象に目を瞬かせ、立ち尽くす。

 そんな彼らの足元に、ぼたぼたっと大量の鮮血が降り注ぎ、辺りを真っ赤に染め上げていく。そして、鉄の匂いが蔓延し始めたその中心に、べちゃっと大きな何かが落下する。

 

「……ぁ、が」

 

 それは、先ほど令嬢を引きずり出そうとしていた男の、あまりに変わり果てた姿だった。

 腰から下を失い、断面を晒した彼は、自身も何が起きたのか全く分からない様子で天を仰ぎ、大きく目を見開いて声ならぬ声を漏らしていた。

 ぴくぴくと残った体を痙攣させ、視界に映った仲間に手を伸ばすが、やがてその手も力を失い、瞳孔が開いて完全に沈黙する。

 

 野盗達は呆然となり、男の亡骸と広がっていく血溜りを凝視していたが、徐々に顔から血の気を引かせ、がたがたと震え始める。

 恐怖が頂点へと達し始めたその時。

〝それ〟は、上空から己の姿をあらわにした。

 

「―――ォオオオアアアアアアア!!」

 

 頭上から響き渡る咆哮に、野盗達は全員そろってびくっと肩を震わせ、一斉に視線を上げる。

 そして、急速な勢いで落下してくるその存在を知覚した直後、また別の仲間がその姿を消してしまう。

 

「ギッ――」「ぐべっ――」

 

 悲鳴とも思えない短すぎる声を最期に、二人が巨大な影に覆われ、その場から消失する。

 声に我に返ったほかの野盗が振り向くも、そこには赤く染まった道路があるだけで、先ほどまでそこにいたはずの仲間の姿は見当たらない。

 まるで最初から誰もいなかったかのような静寂があるだけである。

 

「なっ……何だ、何が起こって――」

 

 きょろきょろと辺りを見渡し、異変に慄く一人のすぐ後ろで、また一人の姿が消え失せる。

 慌てて振り向くも、これまでと同じく何も見あたらない。

 野盗達の顔中に汗が浮かび、過剰な呼吸が思考を乱していく。いや、すでに真面に考える事はできなくなり、微かな悲鳴が響くたびに振り向くほかにない。

 

 いつしか汗だけでなく、涙や鼻水も勝手に溢れ出て、誰もが顔をぐちゃぐちゃに歪めていく。恐怖が暴走し、生存本能さえ狂わせていく。

 姿の見えない何かを前に、彼らの肉体は勝手にそれぞれの制御から離れていた。

 

「ひっ…ひぃ!? 助け――」

「いやだ……いやだいやだいやだ! おかあちゃ――」

 

 ぶつっ、ぶつっ、と仲間の声が不自然に途切れ、とうとう一人を残して聞こえなくなる。

 周囲に残っているのは、襲いくる何かの食べ残しであろう肉片と残骸である血飛沫の痕のみ。数秒と経たないうちに、馬車の周囲は赤黒く彩られていた。

 

「ひっ、ひぃい…う、嘘だろ……なんで、こんな…」

 

 残ったたった一人は、その場にへたり込み震える事しかできない。股間の堰も決壊し、生温かい液体が地面に漏れ出すも、それを気に掛ける余裕など一切ない。

 強張った全身の筋肉のせいで、断末魔さえ上げられずにいた。

 

「っ……! あ、あれは…」

 

 固まっていた最後の一人は、不意にある事に気付く。

 次々に消えていく仲間達とは裏腹に、馬車の中の令嬢は傷ひとつついていない。まるで彼女だけを避けるように、惨劇の跡が残っていない事に。

 

 男は意を決し、馬車の中に向かって勢いよく飛び込み、急いで扉を閉じる。

 なぜそこだけ無事なのか、逃げ場のない閉じた空間に自ら入り込んで大丈夫なのか。そんなことを考える余裕さえなく男は、気を失っているのか縮こまったままの令嬢を無視し、息を殺して身を顰める。

 

 口を手で覆い、声が漏れ出ないよう必死に呼吸を押さえ、窓の外から様子を伺う。

 姿が外に見えないように気を付け、仲間と護衛の亡骸が散らばる道路を見渡し、襲ってきた何かの姿を探す。だが、一向にその姿は見当たらない。

 

「……い、ない…?」

 

 一分が過ぎ、五分が過ぎ、まるで永遠に続くような時間が流れていく。

 馬車ごと襲われるという、最悪の可能性を考えていた男だったが、どれだけ待っても何も起こらない事に、徐々に肩から力を抜き始める。

 

 音一つない周囲を見渡し、微塵も動かない令嬢を見やり、男はそこでようやく大きく安堵の息をつく。

 最初から最後まで何が起こったのか、何が襲ってきたのかわからないままであったが、兎に角知らない間に窮地は脱する事ができたようだと、男は深く深く息を吐き、脱力した。

 

「はっ…ははは、や、やった。生きてる、生きてるぞ……はは、ははははは」

 

 いまだ止まらない震えをどうにか抑えつつ、男は安堵でずるずると馬車の中の座席を滑り落ちる。

 死なずに済んだ、殺されずに済んだという安心感で、ここからいったいどうするべきなのかという思考もできないほど、彼の精神は摩耗していた。

 

 だから、天井を仰いだ自分の目に映ったそれを前に、彼は動く事ができなかった。

 

「……え?」

 

 巨大な貌が、そこにはあった。

 漆黒の鱗に覆われた皮膚に、鋭く並んだ牙。縦に裂けた瞳孔が男を写し、グルルル…と低い唸り声を響かせる、凶悪な蜥蜴の貌が、そこにあったのだ。

 

 そして、男が正気を取り戻すより先に。

 馬車の内側にできた影から抜け出てきたそれは、男の上半身を呑み込み、ぶぢりと噛み千切っていた。

 

 

 

「……ん」

 

 窓の外から差し込んできた赤い光に、オリヴィアは少しずつ意識が浮上していくのを感じる。

 体中が痛く、筋肉が固まっている事を訝しむが、それは自分が自ら身を丸くして縮こまっていたからだと思い出し、のろのろと姿勢を正し小さく呻く。

 

「あれ…私、無事で……なにもされなかったのでしょうか」

 

 ふと視線を下げ、自らの衣服が傷ひとつないままであることを不思議そうに見つめる。

 下卑た笑みを浮かべ、手を伸ばしてきた彼らの鼻息の荒さを思い出し、オリヴィアはぶるりと身を震わせる。純潔を穢され、死んだほうがましな目に遭わされていてもおかしくはなかったはずなのに、と。

 

 そこでふと、オリヴィアは視界の端で動く何かに気がつく。

 目覚めたばかりで、今一つ焦点が合わない目を動かし、馬車の外にいるそれに目を凝らしてみる。

 

「グルルル……!」

「ヒッ…!」

 

 そこにいたのは、紛う事なき龍であった。

 陽光に照らされながらもそれすら吸い込むような、夜の闇より暗い黒を身に纏い、ぎちぎちと耳障りな金属音を響かせる、長く太い体躯を持つ、珊瑚のような角と鰭を生やした龍である。

 

 何より異様だったのは、龍の身体が地面から生えていたこと―――いや、影の中からその身をあらわにしていたことであった。

 まるで水面から浮き上がっているかのように、その龍は自らが生み出した影の中に肉体の殆どを沈めていた。

 

 龍はオリヴィアの悲鳴に気付くと、鱗の鎧に覆われた体を動かし、赤い血のような目を向ける。

 生物とは思えない、生物に対する殺意や敵意に染まったようなその目に射抜かれ、オリヴィアは後退りしガタンッと馬車の壁にぶつかる。

 激しい音が辺りに響くと、竜はずぶずぶと影を泳ぎ、オリヴィアの下へと近づいていく。

 真っ赤に濡れた血が口を彩る、得体の知れない怪物が近づいてくる姿を目の当たりにした令嬢は。

 

 やがてパタリと、糸が切れた人形のように倒れ込み、再び気を失うのだった。

 

           ▼△▼△▼△▼

 

(……何も気絶することはなかったんじゃないのか? …いや、するか、普通は)

 

 それなりに膨れた腹に満足しつつ、最後に浮上した際に目にした人間の少女の反応を思い返し、影の中を泳ぐ龍は脳内でぼやいていた。

 己がこうして人外となり、通常の生物ではありえない生態を受け入れるようになってから随分経つが、やはりかつての思考が抜けきらないのは確かであった。

 

(あの子には少し、悪いことをしたか……以前の俺も、自分が異様な怪物に遭遇したら気を失うか、悲鳴をあげて逃げ出すかしていただろう。…嘆いたところで、俺の姿が変わるわけではないがな)

 

 ため息をつきそうになるも、今の自分は呼吸を必要としない存在であり、息もはけないために、内心で肩を竦めるだけに留める。

 今の姿になって数年、抜けきらない人間の頃の習慣に呆れつつ、黒龍はぐっと影の中を漕ぐ鰭に力を込めた。

 

(さて……明日はどうしたものか。とりあえず、美味い物が喰えれば現状はそれだけで十分なんだがな―――)

 

 徐々に胃袋から消え始める満足感を嘆きつつ、黒龍は―――影山禮司は先を目指す。

 

 かつて地球と呼ばれる世界で死に、知らぬ間に中世ヨーロッパのような世界の〝何か〟に生まれ変わっていた、自身の過去の記憶を遡りながら。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1.Awakening

 ゆっくりと、深く、深く沈んでいく感覚がする。

 一切の光も音もない、ただ自分がそこにある事だけがわかる奇妙な世界で、〝それ〟は目覚めた。

 

 瞼を開くものの、開かれた視界に変化はない。墨を何度も塗り重ねたような黒の世界が広がるばかりで、全く変化が見受けられない。

 そんな世界を凝視したそれは、何度も自身の正気を確かめるように目を瞬かせた。

 

(……何だ、これは?)

 

 最初に抱いた感想はそれで、続いて自身の違和感に気付く。

 腕は、ある。正確には、腕に該当する器官の感覚がある。

 しかし、足や腰といった部分の感覚が酷く曖昧になっている。さらに言えば、以前には感じなかった知らない器官が増えているような、奇妙な感覚を覚えていた。

 

(尻に何か生えている……いや、尻かこれ? 足もうまく動かないような……ん? 増えている?)

 

 違和感のある個所に集中し、動かそうとしてみるものの、なかなかいうことを聞かない。

 まるで、自分の肉体が一度ぐちゃぐちゃに溶かされて、全く異なる形状の器に押し込まれたような、そんな気持ち悪さに襲われていた。

 

(ああ、いかん……そうこうしているうちにどんどん沈んでいく。……沈むということは、ここは水中か? いやしかし、全く息苦しくないな。ん? ならばこの空間は、何だ……?)

 

 考えても考えても、自分の身体は未だに上手く動かせず、視界に映る景色も変化がない。

 状況を理解するにも、得られる情報が全くないために、それはバタバタと藻掻きながら困惑する他にない。

 

 しかしそのうち、今の身体の感覚に精神が順応し始めたのか、少しずつではあるが違和感が薄れ始める。

 視界の方は相変わらずではあるが、なぜか自分の身体が、少しずつ動いているということを認識し始めていた。腕と思わしき箇所を動かすと、その感覚は余計に強く感じられる。

 

(……動けた、いや、泳げたな。やはりここは水中か? 全く見えんが、前に進んでいるというのは何となくわかってきた。……おお、意識すると結構早く動けるな)

 

 徐々に徐々に、それは自分の肉体をものにし始める。例えて言うなら、痺れた体が少しずつ元の感覚を取り戻し、真面に動けるようになってくるような、そんな感覚である。

 

(さて……動けたはいいが、全く状況は理解できないままだな。なぜ俺は、こんな場所にいる? ここは何だ? さっきまで何が起こっていた?)

 

 それは黒の空間を泳ぎながら、悶々と考え込む。

 自分が目覚めるまでの記憶、意識が浮上するまでに起こったはずの全てが、何もかも綺麗さっぱり消失してしまっているのである。

 俗にいう記憶喪失というものであろうか。しかし、そのような大事に至る事故を経験したのだろうかと、それはより一層自分の中を探り起こそうとする。

 

 その時、それはある重要な事に気がついた。

 なぜ自分がこうなったのか以前に―――自分が何なのかという疑問にぶつかったのである。

 

(……俺は、誰だ?)

 

 ぴたっ、とそれの動きが止まる。とにかく体を動かしたいと、懸命に泳いでいたそれの肉体が、止まってしまう。

 自身の中にぽっかりとあいた、あまりに大きすぎる穴を自覚したそれは愕然と目を見開き、固まっていた。

 

(俺は……何だ? 何という名前だ? 何という生物だ? 何処に住んでいた? 何をする存在だ? 何故ここにいる?)

 

 疑問が次々に浮かび、その答えを見出せないまま積み重なっていく。頭の中に靄が無数に溜まり、それの思考は全て問いかけるだけの作業に埋もれていく。

 わからない、わからない。

 募るだけの疑問符を解き明かせず、それはまた黒の世界の奥底に沈み始める。

 

(まぁ、いいか)

 

 だがしばらくすると、それはまた何事も無かったかのように泳ぎだしていた。

 まったく見えない答えに、それは考える事を止める。自身の事であるのに、それは一切の興味を失くし、只管に泳ぎ続ける作業を再開する。

 

(別にわからなくても何も困らんし、何かが変わるとも思えん。取り敢えずは、動いてみる他にやる事もなさそうだな……)

 

 せっかくこの肉体の扱いにも慣れてきたのだから、とそれは独り言ち、黙々と身体を動かして黒の世界を泳ぎ続ける。

 ここが何なのか、自分が何なのかなど微塵も気にすることなく、気の向くままに自分の見つめる先を目指して移動し続けた。

 

 しかしそのうち、それの動きが鈍くなり始めた。

 腹部の奥、喉の奥にある一つの器官に、少しずつ隙間が空き始め、身体から力が抜け始めたのである。

 

(ああ……何にしても腹が減ってきたな。ずいぶんと泳いできたものだが、呼吸は必要なくとも食事は必要なのか? よくわからん身体だな、これは……)

 

 空腹を訴え、蠢く自分の腹の奥に目を細めると、それは辺りに目を凝らしてみる。

 次なる目標―――食事の為の獲物探しを始めるそれだが、やはり辺りは一面黒の無の世界。自分の姿も見えないほどの暗闇なのに、他の生物の存在など視認できるはずもない。

 泳いでも泳いでも、何も発見する事ができないまま、腹の危険信号は強くなるばかりだ。

 

 こうなれば、せめてもの慰めに自分の腕でもしゃぶるべきか。

 頭も機能の低下を始め、奇妙な事を考え始めた頃合だった。

 

 それは、何かを感じ取った。

 自分の頭上に、黒の世界の遥か上に何かがいて、自分に気付かぬまま移動していると察知したのである。

 

(……これは、気配か? 俺にこんな事ができたとは……)

 

 少なくとも今までできた例のない、他の存在の気配を察するという力に、それは困惑しつつもすぐさま行動に映る。

 腹の奥は未だに泣き叫び、早く獲物を捕らえここに持って来いと促している。本能的な衝動にそれも決して抗うつもりなどなく、自分の身体を懸命に動かし、獲物に向かって一直線に浮上を開始する。

 

 泳げば泳ぐほど、それは黒の世界における境界が迫っていることを知る。

 やはりここは、水中に近い何かの中であったのだと脳の片隅で認識し、しかしその発見は食欲という原始的な本能に押しのけられる。

 

(いただきます)

 

 境界が目の前に迫った瞬間、それは大きく口を開き、中に並んでいた無数の鋭い牙を剥き出しにする。

 ごっ!と自身の身体が新たな世界に飛び出すのと同時に、それは口の中に獲物が―――何故か角の生えた兎が入り込んだことを確認した。

 

「ピキィィッ―――」

 

 真下から襲い掛かられた角兎は悲鳴をあげかけるも、それが勢いよく口を閉じて強制的に黙らされる。

 口の中でバキゴキボギンッと鈍い音が鳴り響くのを感じながら、それは黒の世界の外側を目に映す。

 

 外は、夜だった。

 見たことがないくらいに大きな月が三つ、夜空を照らす幻想的な美しい光景の中、鬱蒼と茂る木々が広大な森を構成している。

 森の向こう側には高くそびえたつ山が連なっており、まるで巨大な壁が続いているような景色が広がっている。

 

 ようやく視界に映った黒以外の色彩を横目に、それは飛び出したときと同じく勢い良く、影の中へと落下していく。

 あっと、それが我に返った時には、それの視界はまた黒一面に変わっていた。

 

(今のは……影? 俺は今まで……影の中を泳いでいたのか!?)

 

 まさか、そんな馬鹿な、と。

 自分に起こった奇妙な現象に動揺するそれは、口の中でぴくぴくと痙攣する獲物を一度ゴクリと呑み込み、再び境界に向かって浮上していく。

 ゆっくりと、今度は慎重に周囲を確認しながら上がってみれば、目に映るのは先程と同じ光景。

 顔だけを浮上させ、目を真下に向けてみれば、やはり月光が生み出す影の中に、自分の半身が浸かっていることを確認する。

 

(まるで魚だ……だが、魚が影の中に入り込めるか。それにこの鰭……魚類というより爬虫類の様だな)

 

 それは顔を出したまま、自分の腕と思っていた期間を境界の外に持ってきて、まじまじと見つめてみる。

 黒の世界で、何かを掻き分け肉体を前進させていたその部分は、びっしりと鋭い鱗に覆われた蜥蜴の腕のようであった。小指が変形し、腕に生えた棘との間に皮膜が存在しているのを見るに、この部分が何かを捕まえて黒の世界を泳げていたのだろう。

 

 そこでそれはさらに気付く。普通の魚なら、首を曲げて自分の身体を見下ろすことなどできないはずだと。

 少し頑張って影の中を泳ぎ、さらに多く自分の半身を浮上させてみれば、より一層蜥蜴に似た上半身が目に映る。正体はわからずとも、爬虫類か両生類であることは何とか分かった。

 

(……どうやら、俺は普通の生物ではなくなっているようだな。何ということだ)

 

 道理で最初に違和感を感じたわけだ、とそれは自嘲気味に空を仰ぐ。

 一体どこの世界に、影というただの平面にできる現象の中に入り込める生物が存在するというのだろうか。

 そんなもの空想上の生物でもいたかどうか、その業界に詳しくないそれには判断のしようがなかった。

 

(まぁ、いいか)

 

 しかしそれは、再び空腹を訴えだした自分の腹の赴くままに、影の中に潜り込む。

 自分が何者なのか、そんなことはそれにとってはどうでもよく、ただこの本能の疼きを鎮める為に、また別の獲物を求める。

 

(俺が何者であろうとどうでも良い……とにかく今は、腹が減った)

 

 何か、重要なものが自分の中から抜け落ち、紛失していることを脳裏で自覚しながら、それは黒の世界を泳ぎ続けるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2.Interests

 かすかに肌寒い風が柔らかく吹き抜ける、早朝の草原。

 青々と広がる草地にて、大きな鹿達の群れが静かに葉を食んでいた。

 

 しなやかな体に光沢のある毛皮を纏い、水晶のようにキラキラと輝く角を持つ、どこか気品さえ感じられる風格を持つその鹿。

 朝日を受けて美しく輝く姿を持つ彼らは、穏やかな時間をのんびりと過ごす。

 

 ふと、群れの中の一体―――一回りも大きく、角も太く立派な一体が顔を上げ、辺りを見渡し始める。

 動物的な本能が、自分達に何かが近づく予感を感じ取り、危険信号を送りつけたのだ。

 

「…キュルル…」

 

 小さく鳴き、脅威の姿を捉えようと、辺り一帯をくまなく見渡す群れの長。

 しかし、確かに予感がしたはずなのに、影も形も見当たらない。それどころか、生物であれば必ず放っているはずの気配も、何一つ感じ取れない。

 姿も見えない、気配も感じない、気のせいかと思えるほどの異変の少なさだ。

 

 人間であれば、予感も無視し周囲の警戒も放置したかもしれない。しかし、群れの長はどうしても、気のせいだと自分の勘を無碍にする事ができなかった。

 

 どこかに必ず、何かがいる。

 そう確信し、群れを守るために全神経を集中させ、自分達を狙う敵の存在を探し続けていた。

 

 しかし―――

 

「―――ゴルルルル!!」

「ギュッ…!?」

 

 次の瞬間、彼の視界は真っ暗な闇に塗りつぶされ、ぶつりと意識が途切れてしまう。

 ごぎん、と耳を塞ぎたくなるほどに嫌な、骨と肉が砕かれる鈍い音が響き渡り、ドサッと地面に長の身体が倒れ込む。

 首から上を断たれ、鮮血を噴き出させた長が、哀れな亡骸を晒していた。

 

「キュィイ!」「キュゥ!」

 

 異変に気付いた他の水晶鹿達が、変わり果てた長の姿を目にし、徐々に恐怖を目に表し始める。

 何が起こったのか、何がいるのか全く分かっておらず、ただ群れを脅かす何かが現れ、その牙が自分達にも向けられている事だけを察する。

 

 動揺が群れ全体に広がると、水晶鹿達は急ぎ長の亡骸に背を向け、全速力で走り出した。

 

「グルルルル…!」

 

 ドドドドドッ…!と凄まじい足音を立て、草地から逃げ出し森に駆け込んでいく水晶鹿達の後を、地面に映った大きな影が追跡する。

 影になるような何かは、地上にいない。しかし、はっきりと地面に表れた巨大な影が、長く太い体をくねらせながら、樹々の間を走り抜ける水晶鹿達を追いかける。

 

 やがて影の速度は群れの最後尾に追いつき、一体を影の中に引きずり込む。

 足に食らいつかれた小柄な鹿は、断末魔の声すら上げられずに、影の中に消えていく。かと思えば、新たな最後尾となった個体も、影の中に呑み込まれる。

 たった数秒の間に、水晶鹿達は影を泳ぐ何かに襲われ、数を減らされていった。

 

「キュゥ…キュウウウ!!」

 

 先頭を走るのは、群れの長の子で最も長生きをしている個体。長が死んだ時、次の長となる事が決まっていた若い鹿だった。

 彼は種族の血を守るため、群れを守るために誰より速く走り、謎の敵から逃げ、生き延びようと懸命に走っていた。

 

 だが、彼は逃げる事だけに集中しすぎ、大きな失態を侵してしまった。

 

「グルル…!!」

「キュゥ!?」

 

 低木を飛び越え、開けた場所に飛び出した若鹿は、前方から響き渡ってきた咆哮に思わず停止する。

 

 不機嫌そうな声を上げたのは、見上げる程の巨体と広く分厚い剛腕、鋭く長い尖った爪を有する、赤い瞳を輝かせる熊だった。

 この森を縄張りにする、そして生態系の頂点に存在する、強力な獣の一種である。

 

 大熊は縄張りに入り込んだ若鹿を睨み、やがて牙を剥き出しにしてみせる。若鹿を見る目は、完全な捕食者が見せるものとなっていた。

 

「グォオオオオ!!」

「キュ―――」

 

 大熊は爪を振りかざし、若鹿に向けて歩き出す。

 一振りで簡単に獲物の命を奪える、大熊の剛腕と鋭爪が、ゆっくりと若鹿の命を奪うために迫っていく。

 

 思わぬ新たな窮地と、命の危機に対する恐怖で固まってしまった若鹿が、じりじりと後退り始める。

 後ろにも捕食者、前にも捕食者という、逃げ場を奪われた哀れな獣となった若鹿。鈍く輝く爪を凝視したまま、思い切って方向転換し、全身全霊で走り出そうとしたその瞬間だった。

 

「ゴルルルルルル!!」

 

 飛び出そうとした若鹿の首が、闇の中から現れた巨大な牙に挟まれ消える。そして瞬く間にブチブチと食いちぎられ、辺り一面が真っ赤に染め上げられた。

 

「グルルル…!?」

「ゴルルルルルルル!!」

 

 首を失い、倒れ込む若鹿の肢体を凝視していた大熊が、戸惑うような引き攣った唸り声を漏らす。しかし森の頂点としての矜持があってか、すぐさま臨戦態勢に入る。

 

 それを見やり、影の中から飛び出した牙の持ち主―――大熊が見上げる程の巨体を持つ黒い竜が、歓喜のような咆哮を上げる。

 倒れた若鹿の残った肉を頬張り、ボリバキと噛み砕いた黒竜は、続いて己を睨みつける大熊に視線を移す。新に表れた〝獲物〟に、怪物はにたりと口角を上げた。

 

「グルル……ゴァアアア!!」

 

 先に仕掛けたのは大熊だった。自慢の爪を振りかぶり、黒竜の喉元を切り裂こうと飛び掛かる。

 しかし、巨体に見合った鈍さの為にその一撃は届かず、簡単に躱されてしまう。外れた爪は、進行方向上にあった木を真っ二つに切り裂いて止まる。

 

 今度は黒竜が牙を剥き、四つん這いになった大熊の背中に向けて噛みつきに向かう。

 だが、大熊はそれに自分の腕をぶつけ、横に弾く。顎を殴られた黒竜は苛立たしげに目を細め、ガチン、ガチンと牙を噛み鳴らした。

 

「グルルルル……ゴルルルル!!」

「ゴァアアア!!」

 

 甲高い音を立て、大熊の剣のような爪と黒竜の鎧のような鱗が激突し、激しい火花が散る。

 まるで生物の身体が放っているとは思えない音が立て続けに起こり、同時に周囲の樹々が巻き込まれ、森は無惨な姿に変貌していく。

 

 そしてついに、黒竜の牙が大熊の喉元に届き、深々と突き立てられる。それにより、どぷっ、と大量の血が噴き出し、大熊が苦悶の声を上げて暴れ回る。

 

 苦し紛れに振るわれた爪が、がしがしと黒竜の鱗を打ち、何回かは鱗の間に刺さり、黒竜の肉に傷をつけた。同じく赤い血を流す黒竜だったが、大熊に突き立てた牙は決して離さなかった。

 

「グルルルル…!!」

「ゴァ……ガ…、ゴ……!」

 

 ばたばたと激しく暴れ、血の泡を吹く大熊。何度も何度も爪を突き立て、黒竜を引きはがそうとするものの、怪物の力は凄まじく全く通じない。

 黒竜は影の中から両腕も伸ばし、全力で大熊の動きを抑え込みにかかる。

 

 やがて大熊の動きは鈍くなり、抵抗する爪の攻撃も、徐々に力が抜けていく。

 それから数秒か、数十秒か経った頃には、大熊は白目を剥いたまま動かなくなり、だらりと首を垂らして沈黙してしまった。

 

「グルルル……ゴァァァァァ!!!」

 

 事切れた大熊の亡骸を地面に置き、黒竜が大きな咆哮を上げる。

 光沢のある漆黒の鱗に幾つも傷を刻み、痛みが走っているはずなのに、それこそが嬉しくてたまらないというような狂喜を見せる。

 

 喜びをあらわにした黒竜は、さっそく斃れた大熊の肉を食い千切り、ばりばりと咀嚼を始める。

 巨体はあっという間に黒竜の腹の中に消えていき、森には血痕だけが残される。全て食らい尽くした水晶鹿達と同じように、元からここにいなかったかのように、怪物は獲物を奇麗に平らげてしまった。

 

「グルルル……」

 

 骨一つ残すことなく腹に収めた黒竜は、やがて顔を上げて真っ赤に汚れた口周りを舐める。

 大量の餌を呑み込んだはずなのに、怪物の唸り声には不満げな響きがあり、目は新たな得物を探して辺りに向けられる。

 

 ふと、がさりと繁みが動く音がする。それにつられ、黒竜はバッと勢い良く振り向き、繁みの向こう側に目を凝らす。

 そこにいた、数本の尾を持つ狐の姿を視界に捉えた瞬間。

 

 黒竜は、にたりと牙を剥き出しにし、悍ましい形に嗤ってみせた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3.Hunting

「ゴァアアア! ガァア!!」

 

 首元に鋭い牙が突き立てられ、一匹の灰色の狼が痛みで暴れ狂う。

 辺りには同族のものと思わしき残骸―――尻尾や耳の一部などが転がる中、最後の一匹である彼は渾身の力で拘束を抜け出そうとする。

 だが、自身の影の中から顔を出し、凄まじい力で顎を閉じる〝それ〟から逃れる事は叶わなかった。

 

「ゴルルルル…!」

「ギャッ―――!?」

(活きがいいな。それでこそ喰い甲斐があるというもの……苦労をして捕らえた獲物の味は実に美味いんだ)

 

 ボギッ!と狼の首をへし折り、ぐったりと力が抜けた獲物を影の中に引きずり込みながら、それは爬虫類の顔を歪める。

 自身が自意識を覚醒させて数日、それは空腹で騒ぐ本能が赴くままに広大な影の世界を泳ぎ続け、気配を捉えた獲物を狩り続ける日々を送っていた。

 

(しかし……獣の肉ばかりではさすがに飽きて来るな。この身が肉食なら然して問題はなかろうが……果物でもなんでもいいから途中に挟んでおきたいものだ)

 

 一応味覚はあるらしく、新鮮な肉を噛み締めた際の幸福を味わえる点において、それに不満はない。

 しかし、目覚めてからこの時まで、延々と狩りと遊泳を繰り返す日々。もたらされる刺激が同じ味ばかりで、それはだんだん退屈を感じ始めていた。

 

 ふとその時、それの肩がじくりと痛みを訴える。

 目を向けると、決して浅く無い三本筋の傷跡が、それの肩から胸にかけて刻まれているのが見える。なかなか消えないその痕を見やったそれは、口を笑みの形に歪めた。

 

(ああ……そういえば、以前に狙った獲物は喰い甲斐があった。俺の奇襲に即座に対応してきただけではなく、応戦してくるとは……あの血沸き肉躍る戦いは、今も俺の記憶に焼き付いている)

 

 それまでただ一つの傷を負うことなく、ほとんど抵抗もないまま獲物を狩り続けていたそれにとって、目覚めて初めて受けた傷。

 淡々と同じ作業を繰り返すだけになっていたそれにとっては、何よりも代えがたい強い刺激に、それは思わず異形の顔を恍惚に歪めだす。

 

 戦うことに対してではなく、自分と敵の命が天秤にかけられるその緊迫感に、ひどく愉悦を感じていたのである。

 

(……そういえば、あの獲物……熊だったか。妙にでかい上に体表が赤かったな。あんな種類の熊は聞いたことがないが、新種か俺が知らない種だったのだろうか)

 

 腹が膨れたおかげで、思考が食欲以外のものに向けられたのか、それは影の世界を泳ぎながら考え込む。

 兎、狼、鹿、熊、狐、影の外にいたあらゆる生物を狙い、引きずり込んで食らってきたそれだが、食の本能が引いて冷静になるとふと疑問を抱く。

 

 果たして、兎には角など生えていたであろうか?

 狼の牙はあんなに長かっただろうか?

 鹿の角は宝石のようにキラキラと輝いていただろうか?

 熊の爪はあんなに長かっただろうか?

 狐の尾は何本も生えていただろうか?

 

 影の外に顔を出し、目にした生物・無生物を含む様々なものに、それは少しずつ違和感を抱き始めていた。

 

(そも……月とはあんなにも大きく、数がある物だっただろうか?)

 

 最初の狩りを行った夜の事が思い出されると、その違和感は一層大きくなる。

 本能に促されるまま狩りを続ける中で、ほとんど気にしてはいなかったが、月とはたった一つ、夜の空にポツンと小さく浮かんでいるものではなかっただろうか。

 

 何も覚えていないのに、自分の知っているそれとは見た物の姿が異なっているような気がする。

 あらゆるものにおいて、それの有する記憶との齟齬が生まれていた。

 

(まぁ、いいか)

 

 少し記憶を探ってみようとしたが、それはすぐに諦める。

 今泳いでいる世界と同じく、延々と広がる闇の中に断片的に浮遊している自分の記憶の欠片を一つ一つ拾う行為に、面倒臭さが勝った。

 わかってもわからなくても、それはそれで一切困る気がしなかったのである。

 

(別に急がずとも、泳ぎ続けていれば何かわかるだろう。焦らずとも、今の暮らしを繰り返していれば何かが変わるだろう……自分から何かをするなど、億劫で仕方がない)

 

 そもそもがあまり興味がないこと、とそれは半ばで思考を放棄する。空腹が治まった今、態々自分からやる事を増やすほどやる気に満ち溢れているわけでもない。

 ようやく得られた満腹感を堪能しながら、そのうち何かが起こるであろうと適当に見切りをつけ、悠々と影の世界を泳ぎ続けた。

 

 

 

 その日々が変わり始めたのは、それから少し経ってからだった。

 日課となりつつある狩りを終え、獲物の肉を残すことなく腹に収めたそれが、当てもなく先へ向かおうとした時であった。

 

(……何か、いるな。かなりたくさん。一、二、三……だいたい十五以上はある。この真上あたりか)

 

 狩りの慣れによるものか、以前よりもはっきり強く影の上の気配を捉えられるようになったそれは、いくつもの気配がまとまっている箇所に気付く。

 最初は小さな獣の群れがそこにいるのかと思ったが、よく見ると違うようだと気付く。

 

 三つ四つの気配に対し、十以上の気配が円を描くように並んでいる。

 そのまま様子を伺ってみると、多い方の気配が近づいていくと、囲まれた方の気配が一つ弱くなったことがわかった。

 弱くなった気配はやがて消え、何も感じられなくなる。その変化を、それは良く見知っていた。

 

(……これ、何か死んだな)

 

 自分が獲物を仕留めた時に感じた、生物が命を奪われた時の変化。

 まるで暗闇の中で輝いていた光が唐突に消え失せたかのような、何となく物悲しさを抱かせる感覚であった。

 

(上で何かが狩りでも行っているのか? それにしては、妙なやり方のような……気のせいか?)

 

 自分以外の生物が狩りを行う場に鉢合わせしたのは初めてだが、何故かそれは今行われている命のやり取りは、別の種類のものだと感じ取っていた。

 自分が生きる為に他者の命を奪うのではなく、別の物を奪う過程において、他者の命が奪われる結果になったような。

 影の上の光景が見えているわけでもないのに、そう感じ取っている自身に困惑しながら、それは眉間にしわを寄せ、じっと上のやり取りを見上げていた。

 

 自身の胸の奥に芽生えた苛立ちのことを自覚しながら。

 

(……何故かは知らんが、気に入らんな。さりとて、俺はどうしたものか)

 

 何処かの何かが狩りを行っていようが、縄張り争いで傷つけ合っていようが、所詮は余所者であり巻き込まれる事のないそれには関係のないこと。

 空腹も治まっている今、態々危険を冒し、介入する必要性は皆無であると自分に言い聞かせるそれだったが、己の中にある苛立ちはなかなか消えてくれない。

 

 ただ黙って事態の変化を伺っていると、囲まれていた三つの気配のうち、さらに一つが消え失せたことに気付く。

 たった二つの気配に対し、周りの沢山の気配が一斉に動き始めたその時、それは無意識のうちに自身の体をくねらせ、境界に向かって泳ぎだしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4.Monster

「くっ…! おのれ、帝国の卑怯者共め…!」

 

 切り裂かれた片腕を押さえ、それでも家宝である宝剣を手放さず、女騎士アイシアは自分と主を取り囲む醜悪な顔つきの男達を睨みつける。

 傷口から垂れた血が足元に血溜を作り、ズキズキとした痛みが意識を引きはがそうとするが、背後で怯えた表情を見せる主の姿を目にし、表情を改める。

 

「アイシア…!」

「大丈夫です、セリア様。この程度の傷……それにあのような雑兵集団、私の敵ではありません」

 

 不安げな主、セリア・ツーベルク公爵令嬢を宥めながら、アイシアは下卑た笑みで見つめてくる黒い鎧の男達を見据える。

 

 二人を取り囲む兵士達―――大陸で最も勢力を増している帝国の精鋭達は、圧倒的に不利な状況にありながら怯む様子のないアイシアと、怯えて震えるセリアを愉しげに見つめる。

 二人とも美しい容姿をしているため、下賤な思考をした兵士達には垂涎の獲物であった。

 

「へへへへ…威勢がいいなぁ、騎士様よ。だがもうどうしようもないぜ? お仲間はみ~んな死んじまったんだからなぁ?」

「そうそう、これ以上怪我したくなけりゃ、大人しく剣を捨てた方がいいぜ? その邪魔な鎧と服を剥いだら、可愛がってやるからよぉ? げひゃひゃひゃ!」

「くっ……外道が!」

 

 鎧を着ていてもわかるほど、自己主張の激しい自分や主の肉体をじろじろと不躾にみられ、嫌悪感に顔を歪めるアイシア。

 自分と彼女に課された役目の重要さは勿論、こんな悪意に満ちた連中に好き勝手されるような最悪の未来は、断固としても拒否したかった。

 

「貴様らにくれてやるものは何一つとしてない! 貴様らのような下種には特にな!」

「言ってくれるじゃねぇか……だがまぁ、お前が何と言おうと、俺達はお前らを適当に甚振って、取っ捕まえて連れていくだけだけどな!」

「その前に存分に楽しませてもらうがな!」

「隊長~、俺あっちの嬢ちゃんがいい!」

「馬鹿野郎、そこはあの澄ました顔した女の方だろ!? あの面を泣き顔にしてやるんだよ!」

 

 兵士達はもはや、美女達を我がものにしたと考えてか、全く臆することなく距離を詰めてくる。

 味方が斃れ、逃げ場もない絶体絶命の状況下を理解しているアイシアは、遠慮なく近づいてくる帝国の兵士達の前で歯を食い縛る。

 忠実な護衛にして長く時を共にしてきた友人であるアイシアに庇われたまま、セリアはきつく瞼を閉じ、震える事しかできずにいた。

 

(ごめんなさい、お父様……私は、託されたお役目を果たせないかもしれません……!)

 

 脳裏に過る、心労で痩せ細った父の顔。彼を悩ませる原因を取り払いたくて、危険を承知でここまでやってきた。

 だが、その願いがこんな道半ばで、しかもこのような受け入れがたい結末を迎えようとしているなど、覚悟をしていても信じがたかった。

 

「がははは! じゃあお前ら、お待ちかねのお楽しみの時間だぁ!!」

「うおおおおお!!」

 

 一歩も動けず、睨みつける事しかできない女騎士と令嬢に、兵士達はまるで餌を前にした飢えた犬のように殺到していく。涎を垂らし、目を血走らせたその顔は、人間とは思えないほどに醜悪だ。

 

 ここまでか、とアイシアはぎりりと歯を噛みしめ、せめて一人二人は道連れに、できるなら自分の命と引き換えに主だけでも守ってみせると剣を振り上げる。

 そう、決死の覚悟を決めた時だった。

 

 もっとも前、アイシア達に最も近い場所にまで近づいていた兵士の一人が、唐突に消え失せたのだ。

 

「…え?」

「あ?」

 

 何の前触れもなく消失した仲間に、目の前から消失した敵の姿に。

 アイシアは勿論、他の兵士達はぽかんと呆け、思わず状況も忘れてその場に立ち尽くす。

 

 そして彼らは気づいた。

 消えた仲間の代わりにそこに姿を現した、巨大な黒い何かの存在に。

 

「……何だ、こいつは」

 

 そこにいたのは、まるで闇そのものでできたように思えるほどに黒い竜だった。

 全身をびっしりと覆った鱗は、その全てが刃物のように鋭く。頭や背、いたるところから生えた角のような突起は槍のよう。口の中に並ぶ牙も、その全てが刃のごとき輝きを放つ。

 加えて肉体の大きさも人や馬を丸のみにできそうなほどで、一見しただけでは全体が把握できない。

 

 もっとも異様に見えるのは、その肉体の大半が地面の中に消えているということ。

 否、地面に広がった影の中に肉体が入っているのだと、竜の姿を凝視した者は気づき、驚愕と困惑に立ち尽くす。

 

 あまりにも異質。あまりにも異常。

 見たことも聞いたこともない異形の出現を目の当たりにし、帝国の兵士達はぽかんと口を開けて呆けてしまう。

 それが、彼らの命運を完全に決してしまった。

 

「ゴァアアアア!!」

 

 ぎろり、と赤い血のような目を向けた竜が、大気を震わせるような咆哮を上げ、大きく口を開けて帝国の兵士達に迫る。

 巨体に似合わぬ素早さで向かってくる怪物を前に、兵士達は咄嗟に動く事ができず、瞬く間に二人が大あごの中に飲み込まれ、噛み潰される。

 

 ごきばきぼきっ、と骨と肉が砕ける音が辺りに響き渡ってようやく、兵士達は我に返った。

 何もわからぬままの方が、幸せだったかもしれないのに。

 

「ぎっ―――ぎゃああああ!!」

「何だこいつ……ぐああ!!」

 

 噛み潰された仲間が、バラバラの破片にされて地面にぶちまけられる光景を目にし、他の兵士が剣や槍を構えて竜に向き直る。

 だが、その時には既に竜の姿は消え失せ、自分達の荒い呼吸だけが聞こえる静寂に包まれていた。

 

「ど…どこ行った…!?」

「ばらばらになるな! どこから出てくるかわからんぞ!」

「円陣を組めぇ!!」

 

 慌てて辺りを見渡して竜の姿を探すが、あれだけの巨体を見つける事が叶わず、焦りで顔中に汗が浮かぶ。

 目がダメならば耳で探そうと、息を殺した兵士達は辺りの音を探る。が、それでも全く痕跡すら捕らえられず、彼らの心臓は早鐘のように脈動し続けていた。

 

「ど、どこだ……どこにいる!?」

「あっ―――」

 

 きょろきょろと辺りを見渡し、目を血走らせて竜の姿を探す兵士達。

 すると、隣にいた仲間が小さな声を残して消え、ガサッと草が擦れる音だけが響く。慌てて振り向くも、そこには何も無い地面があるだけ。

 

「おい! おい! 何が起きてる!? 返事をしろ!」

「ギャッ―――」

「ガッ……」

 

 消えた仲間の姿を探しつつ、黒竜がどこにいるかを探ろうとするも、わかるのはまた別の仲間が次々に消え失せている事だけ。

 冷静さを保とうとするが、絶えず聞こえてくる断末魔の声と、一瞬聞こえる肉が裂けるような音が、兵士達の心を搔き乱す。次は誰だ、どこだ、今度こそ自分か、と恐怖感が湧きあがり、とても正気ではいられなくなる。

 

「う…うわあああ―――ギャッ」

「に、逃げ―――アッ!」

 

 とうとう我を見失い、その場からの逃走を始める者も表れたが、走り出すよりも先にその姿が消え、びちゃっと血飛沫だけが残される。

 あっという間に、十数人いたはずの兵士達は、たった一人を残して忽然と姿を消してしまっていた。

 

「ち…ちくしょう…ちくしょう…!」

 

 ガチャガチャと、身体の震えが鎧に伝わり、情けない音と声が漏れ出る。

 残った一人はあちこちを見渡し、消えてしまった仲間の姿を探して涙を流す。つい数秒前までともにいて、これまでともに言葉を交わしてきた者達がいなくなったことが信じられず、ひたすらに痕跡を探して狼狽をあらわにする。

 

 ふと、彼は気づく。

 これだけの人数が姿を消しているのに、当初の狙いであった令嬢と女騎士が、未だ無傷のまま同じ位置に生き残っていることに。

 

「て…てめぇらが…! てめぇらの仕業か、このクソアマ共がぁぁ!!」

「っ! セリア様っ…!」

「アイシア!」

 

 生き残った兵士には、もう彼女達こそがこの惨状を生み出した元凶に見えた。

 襲い来る黒竜のことなど一切考えず、憎い仇敵へと変わった二人の美女に向けて剣を振りかぶり、突進する。

 血走った目で自身らを見据え、怒号と共に向かってくる兵士に、アイシアがセリアの前に立ちはだかる。

 殺意を力に変え、尋常でない加速を見せた兵士の剣が、女騎士の掲げた剣を叩き折り、脳天に振り下ろされようとしたその時。

 

 女騎士の真下の影から顔を出し、顔を横に倒した黒竜が、兵士の上半身を剣ごと呑み込んでいた。

 

「アッ―――」

 

 暗く血生臭い、竜の咢の中へと入り込んだ兵士は、一瞬にして消えた殺意に戸惑いながら。

 意識を永遠に手放した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.Mourn

(あんまり美味くなかったな……たいして栄養状態がよくなかったのか? そこらの兎を食っていた方がよかったな…)

 

 ボリボリゴキン、と口の中に残った血肉や骨をかみ砕きつつ、それは少しばかりの不服を抱く。

 浮上してみれば、獣かと思っていた気配の持ち主達は、古臭い格好をした人間達。それも、見るからに下卑た考えを持っていそうなむさ苦しい男達に、負傷した可憐な女性達という構図。

 図らずも、何かの騒動に首を突っ込んでしまった形となっていた。

 

(黒っぽい鎧を着た連中に、白っぽい鎧を着た連中…こっちがおそらく、女性陣の仲間だな。黒っぽい方にやられたんだろう。…で、色んな意味でやられかけていたところを、俺が割って入ったと…どうしたものか)

 

 ゴクン、と食べ残しがないよう、暗い色合いの鎧の持ち主達の残骸を一つ残らず平らげてから、それはぐるりと首を回し、女性達を見やる。

 ぎろりと、爬虫類特有の冷たい視線に晒された女性達のうち、鎧を着た背の高い女性は緊張した面持ちで、彼女に守られる少女は怯えたように見つめてくる。

 助かった、などと思っていない事は、間違いなかった。

 

(完全にこちらを警戒しているな…それはそうだ。そうなる)

 

 自分の姿を改めて確認し、それは納得の唸り声をあげる。

 どこをどう見れば、同じ人間をばりばりと食い散らかした異形を味方だと認識できるだろうか。血まみれになった森の中を見れば、次は自分だと身構えてもおかしくない。いや、身構えないのならそいつはどれだけ危機感の薄い奴なのか。

 

(しかし困った…向こうに害意があるのなら別に食っても構わんのだが、単純に警戒しているだけだ。それも、あの少女を守ろうとして……実に好感が持てる。これを喰うのは流石に気が引ける)

 

 状況を見るに、圧倒的な数の差で囲まれながら、それでも諦めることなく守るべき者を守ろうとしたのだろう。自分にはできない、羨ましさを抱く行為だ。

 悪意による蹂躙を阻めたことに充足感を抱いていたそれは、この後の自身の行動に悩む。

 

 傍から見ても、十数人をあっという間に食い殺す化け物と、残った獲物でしかない。

 現に今、先ほどのように影の中に姿を隠し、襲う素振りを見せているわけでもないのに、女性は剣を構えたままこちらを睨み続けている。後ろの少女も似たようなものだ。

 

(彼女達の敵はこれで排除できたわけだが、二人だけでこの先を行かせるのは不安だ。しかし、最後まで面倒を見るにしても、こうも警戒されたままではな……)

 

 せっかく生き残れたのに、何より途中で厄介事に介入した以上、それを放置することは気持ちが悪い。

 このままついていこうとすれば、間違いなく拒絶されるだろう。気味悪がって排除しようとするだろう。そうなればそれも手を出さねばならず、食い殺した後の後味の悪さが恐ろしかった。

 

(何とかしてこちらに害意がないことを知ってほしいのだが……あ)

 

 少なくとも、膠着状態にある今の状況をどうにかしようと考えていたそれの目に、ある者が映る。

 女性と同じく、少女を守るように彼女に背を向けて倒れ伏している、血に濡れた明るい色合いの鎧の持ち主達だ。

 

 それを見て、それはようやく動き出した。

 

           ▼△▼△▼△▼

 

 アイシアは混乱していた。

 主を脅かす帝国の卑怯者たちの魔の手から逃れられたはいいものの、その窮地を救ったのは人ではなく、巨大な竜。

 それも影の中から姿を現す、明らかに生物の常識を凌駕する存在だったのだから。

 

「…何なんだ、こいつは」

「アイシア…」

「セリア様、そこにいて下さい」

 

 不安げに見つめてくる主を制しつつ、アイシアは黒竜を睨みつける。

 帝国兵達を瞬く間に屠り、食い荒らし、辺りを鮮血で染め上げた黒竜は、何故かそれ以降何もせず、じっとアイシア達を見つめている。

 まるで、自分の行いに対する自分達の反応を、確かめているかのようだ。

 

(こんな化け物に、そこまでの知能があるのか…? だが、たとえそうでも危険な存在であることには変わりない…!)

 

 痛む腕を押さえ、剣の切先を突き付ける女騎士。

 元通りの戦闘が行えそうになくとも、いや、もし万全の状態であっても敵う気がしない相手だが、それでも主を置き去りにして逃げるようなことはできない。

 

 もし主に牙を剥こうものなら、この命を代価にしてでも必ず守ってみせる。

 決死の覚悟で仁王立ちし、身動ぎ一つしていない黒竜と相対し続ける。

 

「……」

 

 だがやはり、黒竜から敵意は感じられなかった。何を考えているのかもわからない異形の顔で、女騎士と令嬢を見つめるばかりだ。

 

 すると不意に、その目がアイシアから逸らされる。

 何を見ているのか、と同じ方向に視線だけを向けたアイシアは、思わずハッと息を呑む。

 黒竜が見つめる先にあるのは、同じ主を守るためにその命を散らした、大切な仲間達だったのだ。

 

「…貴様、まさか…!」

 

 アイシアの脳裏に過った、嫌な予感。

 その可能性に気付いた時、黒竜はまるで正解だというように影を泳ぎ、斃れ伏す仲間の騎士達の元に向かい出した。

 

「やめろ! そいつらに手を出すな! もう…もうそいつらを苦しめるな!」

 

 アイシアは叫び、黒竜に向かって走り出す。主の守護を一瞬忘れるほどに、激昂し怒りをあらわにする。

 役目に殉じ、後を託していった仲間に危害を加えることなど、許せるはずもない。

 

 可笑しな部分はあっても所詮化け物は化け物かと、様子を伺う気を失くしたアイシアは黒竜の前に立ち塞がり、剣を突き付ける。

 

「去れ! もう十分に食ったはずだ! 縄張りから失せろというのなら去る……だからもう!」

 

 言葉が通じるはずもない、しかし口にせずにはいられず、アイシアは悲痛な表情で叫ぶ。

 助けられなかった仲間のために、せめて遺体だけは汚されないように。たとえ相手が怪物であっても、最後の手向けだけは果たしたいと、アイシアは必死に叫ぶ。

 セリアの目にも涙が浮かび、縋るような視線が黒竜に向けられる。

 

 その姿を前にした黒竜は、影の中から自身の上腕を抜き出し、アイシアの前に持ち上げると、自身の口の前で指を一本立ててみせた。

 まるで騒ぐ子供を、「静かに」と窘めるように。

 

「…!?」

 

 困惑するアイシアやセリアの前を、黒竜は悠々と通り過ぎ、騎士達に両腕を伸ばす。

 力なく横たわる体を転がし、仰向けにしてから、黒竜はすぐ横の地面に爪を立て、ザクザクと穴を掘り始める。

 巨体とそれが持つ腕力によって、そう時間もかからないうちに人間大の深い穴が開けられ、黒竜はその中に騎士たちの亡骸を一つずつ丁寧に入れていく。

 直立の姿勢が崩れないようにしつつ、全員が穴の中に納められる。

 

 すると黒竜は、呆然と立ち尽くすアイシアの方を向き、ちょいちょいと指を曲げて呼び寄せる仕草を見せる。

 

「…来い、というのか」

 

 困惑したまま、アイシアは恐る恐る、剣を構えたまま近付いてみる。

 その間に黒竜は、爪の先で騎士達の襟元や指を探る。そして、一人の騎士の首にかけられたネックレスを取り出すと、力尽くで引っ張り引き千切る。

 取り出したそれを、黒竜は近くに寄ったアイシアに差し出したのだ。

 

 アイシアはますます困惑する。

 亡き騎士の遺品を探り出し、生き残った者に預けるなど、まるで人間のような素振りである。

 

 半ば夢見心地で、差し出されたネックレスを受け取るアイシア。

 黒竜は満足げに頷くと、他の騎士の元にも寄り、遺体を探り遺品になりそうなものを探す。

 もう一人は指輪を持っており、黒竜は爪の先でそれを掴み、身体を傷つけないように慎重に抜き出し、またアイシアに手渡す。

 

 二人の騎士の遺品を渡してから、黒竜はアイシアに向き直り、自分の瞼を指で閉じるような動作を見せる。

 

「……そうして、やれと?」

 

 アイシアが確認するが、言葉そのものは通じていないのか、黒竜はじっと見つめるばかり。

 しばらく悩んだアイシアは、意を決して剣を鞘に納め、穴の中の仲間達の元に向かう。

 

 血に濡れた彼らの顔の近くにしゃがみ、アイシアは開かれたままの瞼に触れ、そっと閉じさせてやる。すると騎士達は、まるで安らかに眠っているかのような姿に変わった。

 

「…よく、頑張ったな。あとは、私に任せてくれ」

 

 アイシアはそう告げ、深く頭を下げてから彼らの傍を離れる。

 いつの間にか、様子を伺っていたセリアも彼女の傍により、自分を守るために死力を尽くした騎士達のために、祈る。

 

 黒竜はそのタイミングを待っていたように、永遠の眠りに就いた騎士達に掘り出した土を被せていく。

 どさどさと、遺体を慮るように優しく土に埋められ、騎士達の姿が見る見るうちに見えなくなっていく。全てが見えなくなってから、黒竜はしばし傍を離れ、どこからか摘んできた小さな花を添えてやった。

 

 出来上がった簡素な墓の前で、アイシアとセリアは静かに佇み、祈る。

 黒竜もその傍に留まり、役目に殉じた騎士達の眠る場所を見下ろし続けていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6.Interact

(うむ、良い事をしたな)

 

 ぱんぱんっ、と土で汚れた両手を払いながら、それは満足げに唸る。

 己が命を懸けて役目を果たした、名も知らぬ戦士達の埋葬。勇敢な彼らの魂がいつか報われる事を願いつつ、それはふしゅるる…と鼻を鳴らす。

 

 果たしてこの体で「土を掘る」という行為が可能なのかと不安があったが、何事もなく目的を果たせて、一安心である。

 

(どうやら、影には潜る事も踏むこともできるようだ……その気になれば、全身を引き揚げる事もできるか? いや、この身体はどう考えても水中専用、陸上ではそこまで自由には動けまい)

 

 鰭の生えた両腕を見下ろし、それはそう結論付ける。

 真面に動けなくなるリスクを負ってまで、無理に地上に上がる必要はない。むしろ、障害物が一切存在しない闇の世界を泳ぐ方がはるかに効率的で、非常に楽に移動できる。

 が、常に影の中にいなければならないという制約が無いのは、ありがたい事だった。

 

(さて……これでこちらに攻撃の意志がない事は伝わった筈だが、ここからどうしたものか。手を出した以上、ここでこいつらを放置していくのは中途半端というもの。こんな森の中、負傷した女と年端も行かぬ娘を置いていくというのも…)

 

 せめてもう一人、娘を守っていたであろう戦士が生きていればと思い、それは女性を見やる。

 自分でやったのか、衣服の端を破って作った包帯で傷を覆い、縛り付けている。出血自体はそれでどうにかなっているが、痛みはまだ相当のこっている筈である。

 血を失い、痛みがある以上本来の力は早々出せまい。その状態で少女を守る事は、厳しいに違いない。

 

 さて如何するか、と考えこむそれに、女性が気付いてハッと振り向いてくる。

 やはり人外に対し完全に信頼は寄せられないのか、若干警戒した様子のまま、女性が躊躇いがちに話しかけてくる。

 

「…――、――――――――。――、―――――、―――」

 

 が、案の定全く言語が理解できない。

 敵意は感じられず、敵と相対していた時よりも穏やかな顔をしているため、感謝かなにかを口にしているのだろうと判断できる。が、言葉そのものはどうにもならない。

 

 それは少し考えると、女性に対し困惑を示すように首を傾げる。

 それで伝わっていないことがわかったのか、女性は顔を真っ赤にすると、ぶるぶると全身を震わせて目を逸らす。

 人外に態々感謝の意を示している自分の姿が、急に恥ずかしくなったのかもしれない。

 

(ふむ…動作を使えば、こちらの意図は察してくれるか。しからば、俺の意志を伝えるなら如何すればよいか…?)

 

 身振り手振りで、どうやって彼女達との同行を望んでいるかを伝えたものか。

 意思疎通を諦めたのか、少女の元へ向かって何か話し始める女性を見つつ、それは思い悩む。

 

 二人の会話を聞いていても、自身が新たな言語能力に目覚めるという奇跡が起こるわけでもない。

 今後の事でも話し合っているのだろうか、互いに集中し、時に少女の方が女性を案じるように涙目で叫ぶ姿を眺め、ひたすら無駄に時が流れていく。

 いい加減退屈になり始めたその時、それは自身の指が、ガリガリと地面を削っていることに気付いた。

 

(……ああ、そうだ。この手があったか)

 

 ガリガリと地面を削る感触を確かめてから、それは再び動き出した。

 若干の不安を抱えながら。

 

          △▼△▼△▼△

 

 アイシアは悩んでいた。

 見るに堪えない卑劣漢共を屠ってくれ、自身と主の窮地を救ってくれたうえ、仲間の亡骸を丁寧に葬ってもらい、色々な恩を重ねている黒竜。

 しかし依然として、その意図が全く掴めないのである。

 

「…お前は、まるで人の様だな。なぜ、見ず知らずの私達を、助けた?」

 

 そう語りかけると、黒竜はどうしたのか、というようにアイシアに顔を向けてくる。

 少し焦った女騎士は、動揺を悟らせまいと謎の虚栄心を発揮させ、毅然とした態度で黒竜に向き直る。

 

「感謝するぞ、名も知らぬ黒竜よ。我が名はアイシア。こちらに座すセリア・ツーベルク公爵令嬢に仕える騎士だ。縁も何もなかったというのに、主共々救っていただいたこと、感謝の仕様がない」

 

 じっと見つめて来る黒竜に、アイシアは人に対して行うものと同じような礼をする。

 見た目はただの怪物であっても、逝った戦士達を労わり、その遺族に対する考えも持っている、人間でもそうそういない徳の高さを備えた存在であることは明らかだ。

 普段彼女達がいる、権謀術数渦巻く貴族社会ではまず期待できない相手に、アイシアは表面上は出さずとも、かなりの好感を抱いていた。

 

(これで、人の姿をしていたならば、私でも惚れていたかも……いや、人の姿をしていた場合は、むしろ裏があるかもと疑っていたやもしれんな)

 

 外見と行動の相違から、この怪物には好感を抱いているのに、反対に人が相手だったならそう思ってはいなかったなど、なんと勝手な想像をしているのか。

 アイシアは自身のことながら、自分の拗れ振りに軽く落ち込む。

 

「ひいては貴殿に問いたい……何ゆえ貴殿は、我らをお助けして下さったのか。セリア様の事情を知ってか、それとも我欲あってか。貴殿の意図をお教え願いたい」

 

 嘘偽りを許さない、真剣な表情でアイシアは黒竜に問いかける。

 人とそう変わらぬ思考を持っているのなら、何か考えを持って近付き、態々助けたのだ、とアイシアは自身の好感を横にどかし、問い質そうと試みる。

 

 もし、邪な考えがあっての事ならば、例え勝ち目がなくとも思い通りにはさせない。

 そう決意し、アイシアは黒竜の返答を待ち続ける。そして―――。

 

「……グルルル」

 

 何処か、困った様子で首を傾げる黒竜を前にし、アイシアはひくりと頬を引きつらせる。

 そして次の瞬間、毅然としていた顔を崩し、全体を真っ赤に染め上げていった。

 

「あ、アイシア…」

「セリア様っ……今の私を見ないでください…!」

 

 恥ずかしくて仕方がなく、アイシアは苦笑しながら声を掛けてくる主の顔も見られず、ぶるぶると震えながら体ごと目を逸らす。

 自分の行いが、あまりに滑稽すぎて耐えられなかったのだ。

 

(何をやっているのだ私は…!? 相手は竜だぞ!? 人ではないのだぞ!? なのにこんな……長々と語った挙句、首を傾げられて…! ああ、この記憶を消してしまいたい…!)

 

 言うなれば自分の先ほどの行動は、飼い犬に人の言葉で話しかけるようなものだろう。

 賢い犬なら多少の命令は聞くだろう。しかしそれはあくまで短い言葉、犬にとっては決まった音を指示として認識しているだけに過ぎず、会話が成り立っているわけではない。

 人と話すように話しかける者もいるが、それを飼い犬が理解しているかと言えば間違いなく否だ。

 

 つまりアイシアの行動は、端から見ればただの痛々しい独り身の女性とそう変わりないのである。

 

「ん……んんっ! こ、こちらに関しては礼儀は尽くしたとして…セリア様、今後の方針について話し合いましょうか」

「…ええ、そうね。わかったわ」

 

 苦笑したセリアは、赤い顔のまま近付いてくるアイシアに応じる。

 かなり派手にやってしまったため、無かったことにはできないが、深く言及しないでおけばいずれ羞恥も冷めるだろう。セリアは笑いを堪えながら、キリッと真剣さを取り繕うアイシアを迎える。

 

 二人向かい合ってから、セリアもアイシアも本気の表情に戻る。

 余裕ができてようやく、自身らの今の状況を顧みる事ができるようになった。

 

「護衛が私一人になってしまった今、このまま目的地であるガーランド伯爵領に進むことは危険でしょう。帝国兵がまだどこに潜んでいるかもわからない今、長距離の移動は非常に危険です」

「そうね……一度何処かで身を隠し、準備を整えてから再出発するのがいいかしら。でも…」

「ええ…、誰を信用するのか、ということですね」

 

 自身が抱えているある使命について思い出し、セリアは暗い表情で俯く。

 彼女が抱えるそれが、どれほど大きく重いものかを知っているアイシアは、きつく唇を噛み締め、主の手を強く握りしめた。

 

「セリア様…… 貴方がお望みなら、私はどんな険しい道であろうと貴方に尽くします。どうか、おひとりで苦しんだりはしないでください」

「アイシア……ありがとう」

 

 心の底から自分を案じてくれる忠臣の言葉に、セリアは思わず目を潤ませ、自身の手を包む温もりにやわらかな笑みを浮かべる。

 一人ではないのだ、という励ましが、令嬢の胸を温かくしてくれた。

 

「……グルルル」

 

 見つめ合う二人の元に、暇を持て余していたらしい黒竜が唸り声をあげる。

 忠臣とのやり取りで、危険な存在ではないと知ったセリアは、慌てて目尻に浮かんだ雫を拭い、命の恩人である黒竜に向かい合う。

 本来ならば、恩に対して感謝を述べるべきなのは主である自分なのに、と少し悔みながら、セリアは黒竜に笑顔を向けた。

 

「ごめんなさいね、あなたのおかげで助かったのに、お礼も言えないままなんて……あら?」

 

 ほったらかしにしていたことを申し訳なく思い、セリアがガリガリと地面を爪で削って遊んでいる黒竜に目を向ける。そして、その削られた地面を見下ろし、ハッと息を呑んだ。

 

 そこに刻まれていたのは、間違いなく絵だった。

 巨体と凶悪な外見からは想像もできないような、丸っこく可愛らしい印象を抱かせる柄が、黒竜の爪で描かれていたのだ。

 

「グルル…グルルル」

「これは……私達でしょうか? それにこの、えっと、蜥蜴?は、もしかして貴方?」

「ほう、なかなか上手いですね…って、これを、貴殿が!?」

 

 予想もしない行動に、アイシアもセリアも驚愕の目で黒竜を凝視し、それが描いた絵を見下ろす。

 

 アイシアとセリアらしき可愛らしい女の子の傍に、自身を表しているらしい蜥蜴の絵である。その中ではなぜか両方とも笑顔で、向かい合って握手を交わしている。

 視線を動かすと別の絵があり、黒竜の背に二人が乗っている構図となっている。

 

 怪物が絵を描いたというだけでも驚きなのに、それによって自身の意志を伝えようとしていること、さらにその内容が示す意志に、アイシアとセリアは唖然となってしまった。

 

「……ついていく、ということか? 貴殿が?」

「まぁ…」

 

 ぽかん、と目を大きく見開き、黒竜を凝視する女騎士と令嬢。

 立ち尽くしたまま動けなくなる二人に、黒竜はずぶずぶと影を泳ぐと、背を向ける。

 

 そして首だけで振り向き、自分の背中を指差す。

 「さっさと乗れ」とそう告げるように。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7.Journey

 バサバサバサ…ッ!と草木が掻き分けられる音が響き、同時に漆黒の影が森の中を疾走する。

 いや、正確に言えば黒い影―――黒竜は森の中を泳ぎ、あらゆる障害物をものともせずに、一切減速することなく突き進んでいた。

 大きな木や岩があろうと、ぬるりとすり抜けてひたすらに進む。

 

 そんな不思議な光景を、黒竜の背に乗る女騎士と令嬢が驚きの表情で凝視していた。

 

「……これは、本当に異様ですね」

「ええ、本当に……すごい力です」

 

 物体が光を受けて生じる影、それは地面にだけではなく、物体そのものにも生じる。

 黒竜は自他問わず生まれる影の中を泳ぎ、まるで障害など一つも存在していないように泳ぎ続けていた。

 

 木や岩を避けているのは、背中に乗る二人に当たらないようにするためだろうか。

 

「影の中を泳ぐ……まったくもって奇妙です。このような力、魔導士にも使える者がいるかどうか…」

「では、この方が唯一の使い手ということなのかしら?」

「そうかも知れません……最近話題に上がる〝二つ名付き(ネームド)〟なる獣は、そういった特殊な能力を持っていると聞きますが、ここまでなのでしょうか」

 

 黒竜の背に並んで腰かけるアイシアとセリアは、命を救ってくれた恩のある黒竜をまじまじと見つめ、感嘆の声を上げる。

 能力もだが、人間を助けるという野生の生物らしからぬ行動を起こす怪物など聞いたことがなく、興味が尽きない。今の道中も、二人に危害がないよう気遣われているため、人に害をなす存在とはまるで思えない。

 

「竜は総じて知能の高い存在とされていますが……気位が高く、人を格下と見ている可能性があると聞きます。やはり()が特殊なのでしょう」

「そうなのかしらね……ところで、アイシア?」

「はい、何でしょうか?」

 

 真剣な表情で、黒竜の後頭部を見つめるアイシアに、彼女の前に座るセリアが振り向く。

 訝しげに首を傾げる自身の忠臣に、セリアは不思議そうに尋ねた。

 

「あなた、どうしてこの方が男性と思うの? もし女性だったら、酷く失礼よ?」

「え? あ、いや…」

 

 セリアに指摘を受け、アイシアは思わず顔を赤らめて目を逸らす。

 セリアにアイシアを責めているつもりはない。ただ単に、確かめたわけでもないのに普通にそう呼んでいることが気になっただけであった。

 が、なぜか恥ずかしそうにしているアイシアを見て、俄然興味がわき始めたようだ。

 

「…その、何と言いますか、あのような場で他者の命を救い、そして見返りも求める様子もない者は、その……実に、紳士らしいなと、そう思いまして…」

「ああ、なるほど…アイシアの好みの男性のタイプだったから、それに重ねてしまったのね?」

「そ、そういうわけでは…!」

「冗談よ。私も、この方を人のように呼んでいるから、お互い様ね」

 

 くすくす笑うセリアに、アイシアはますます顔を赤らめて唇を尖らせる。

 人外に自分の理想の男性像と重ねて見るなど、おかしい事はわかっている。無論この竜が獣とかけ離れた存在に見えるからこその弊害だとわかっているが、それでも指摘されると恥ずかしい。

 

「い、言っておきますが、本当に彼にそういう感情を抱いているわけではありませんからね? 人と竜でそのような関係が成立するわけありません。ええ、絶対に違いますから」

「フフ……そこまで否定してほしかったわけではないのだけど」

 

 何やら必死な様子のアイシアに苦笑しつつ、セリアは前に向き直る。

 その際、黒竜の鱗を掴む力が少し強くなっていることに気付き、アイシアはスッと真顔に戻った。

 

「……ご心配ですか、御父上や領民の事が」

「ええ…一刻も早く、ガーランド伯爵の元に辿り着かなければ、民が、お父様が…」

 

 沈痛な表情で俯く主に、アイシアもきつく歯を食い縛り、ギリギリと握りしめた拳を軋ませた。

 

 

 それは、突然の事だった。

 類稀な裁量と、温厚な性格によって領民からの信頼の厚かったツーベルク公爵―――つまりはセリアの父である彼は、現在重い病に侵されていた。

 彼だけではない、ツーベルク領民の間でも広くこの病は広がり、豊かだった領地はここ最近で酷く落魄れ始めていた。

 

 原因はいまだ不明。唯一の特効薬も、材料の薬草はツーベルク領内では育ちにくいものであるため、治療はなかなか進められずにいた。

 薬を必要分手に入れる為には、他の領地に行くほかにない。しかし、貴重な薬でもあるため、どの領地でもそうやすやすと渡すわけにもいかない。

 何より自領地の民への感染を防ぐために、交流そのものを断絶する事態となっていたのである。

 

 この窮地を脱する唯一の方法は、西のガーランド伯爵に赴き助力を乞うことのみ。

 ガーランド伯爵領は高地が多く、作物を育てにくい地ではあったが、その分貴重な薬草が育つのに十分な環境が整っているため、薬学で財政を保っている国であった。

 

 だが、だからと言って話は簡単ではない。

 ツーベルク公爵とガーランド伯爵は、はっきり言って仲が非常に悪く、助力を乞うたところで応じてくれる可能性は非常に低いのである。

 

 その理由は、爵位を受け継ぐ前、学生時代に一人の女を巡って争ったためだとか、成績の上下関係でいがみ合っていたからだとか、様々な理由が語られているが、真相は明らかになっていない。

 とにかく会えば互いに皮肉をぶつけ、ギスギスと空気が荒むこと間違いなしの両者であるため、ガーランド伯爵がこれ幸いとツーベルク公爵を見殺しにする可能性もある。あるいは、足元を見て理不尽な要求をしてくることも有り得る。

 

 同じ国の領主同士と言えど、現在の国の情勢では協力も何もあったものではない。

 次の王座を巡る権謀術数だとか、その隙を狙った帝国による侵略行為だとか、その辺りの詳しい理由は今は割愛するが、他に頼れる者などいない危うい状況であることは間違いなかった。

 

 しかしセリアは、旅立った。

 敬愛する父を救うために、愛する領民達を病から守るために、()()()()()()事を決意したのだ。

 たとえ、自分がどうなろうとも。

 

 

 

「……あなたには、厄介な役目を負わせてしまいましたね」

「何の、セリア様の為であれば、私はどこまでもお伴致しまする。……たとえかの腹黒狸爺の元に、貴女を送る任務であろうとも」

「ありがとう…」

 

 心の底から自分を案じてくれる女騎士の優しさに、セリアの目尻に少し涙が滲む。

 それに見ない振りをし、アイシアは眉間にしわをよせ、肩を震わせるセリアから目を逸らす。気丈に振る舞っていても、恐ろしさで夜に啜り泣いている主を見ていられずに。

 逝った仲間達も案じていた主を、何が何でも守り抜くのだと、そう決意して。

 

 すると不意に、辺りの景色の動きが緩やかになっていく。

 気づけば、ずっと休まず影を泳いでいた黒竜が、ゆっくりと速度を落とし始めていた。

 

「どうした? 疲れたのか?」

「大丈夫ですか…?」

 

 急に動きを止めた黒竜に、アイシアとセリアは無理をさせてしまったかと心配になる。

 だが黒竜はまったく疲れた様子を見せず、代わりに小さな唸り声をあげ、西の空に目をやった。

 

「…ああ、そうか日の入りか。確かにこのまま夜の森を進むのは危険だな」

 

 黒竜の不思議さに、そしてセリアとの話に夢中で気がつかなかったと、アイシアはかなり気を抜いていた自分を恥じる。

 黒竜に指摘されなければ、このまま夜通し進み続け、主を危険に晒すだけでなく、恩義ある黒竜にも負担をかけさせるところであった、と自嘲する。

 

 アイシアは黒竜の首元を撫で、まず自分から黒竜の背を降り、続いてセリアの手を持って地面に下ろす。

 辺りを見渡すと、そこが野営に丁度良さそうな開けた場所であることに気付く。

 

「……今晩はここで休みましょう。彼のおかげでずいぶん早く進めたとはいえ、目的地までは油断ができません。帝国兵の狙いが何であれ、可能な限り万全な状態を保っておかなくては」

「ええ…そうね」

 

 忠臣の言葉に、セリアは神妙に頷く。

 自分のやろうとしていることが成功するかどうかは、まだわからない。門前払いされる可能性もある。

 しかし、やるのなら全力を持って臨むべきだと、セリアはきつく拳を握りしめる。

 

 その時、二人のすぐそばでドサドサッと大きな音が響き、慌ててアイシアがセリアを庇うように前に出る。

 だが、その音の正体を目にした瞬間、二人は思わずぽかんと目を大きく見開いて呆けてしまった。

 

「…グルル」

 

 音の正体は、何十本もの枯れ枝を口に咥えた黒竜だった。

 たき火にちょうど良さそうな太さと長さのそれを、ばらばらと足元に落とし積み上げる。少し大きい物があれば噛み砕き、アイシア達が使いやすいように形を整えていく。

 アイシアはますます黒竜のお人好しな人間臭さを気に入り、呆れた笑みをこぼした。

 

「貴殿はどれだけ紳士的なのだ。一体どれだけの恩を返せばいいのか全くわからんぞ?」

「グルルル…」

 

 肩を揺らし、困ったような顔で嗤うアイシアと、それを見て微笑ましそうに微笑むセリア。

 黒竜はそんな二人を見つめながら、集めた枯れ枝を山状に詰む作業に入っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8.Anxiety

 パチパチと音を立て、焚火が煌々と燃え上がる。

 常に新しく枯れ枝を投入し、火の勢いを保ちながら、アイシアはセリアに目を向ける。

 

「明日、早朝にここを発てば、昼頃にはガーランド伯爵領に到着できるでしょう」

「そうね……思ったよりも早く着きそう」

「そこは彼のおかげです。途中に、獣に出くわさなかったのも、彼の存在が牽制になったのでしょう」

「フフ…頼もしいわ。貴女が惹かれるのも無理はないわね」

「で、ですからそういうつもりではないと何度も…!」

 

 揶揄われ、顔を赤くする女騎士にまた笑い、セリアは焚火の火を見つめる。

 

 昼間は本当に、窮地だった。平気で領地を犯す帝国の兵達に囲まれ、生きた心地がしなかったのだから。

 あのまま彼らの手に堕ちていれば、使命を果たせないだけではない。令嬢として、大切に育てられてきたセリアでは想像もできないような、身の毛もよだつ悲惨な目に遭わされていたことは間違いない。

 彼の黒竜が助けてくれなければ、そうなっていたのは間違いないのだと、今更になって少し震えが蘇っていた。

 

「…最もガーランド伯爵を訪ねたところで、前もっての連絡をしていない時点で、すぐに門前払いされる可能性もありますが」

「そこは…着いてから考えましょう。まずはこの旅を終えてから、身の安全を確保してからです」

「そうですね…」

 

 予定よりも何日も早い、黒竜の手助けを受けた、結末に不安しかない旅。

 黒竜には悪いが、アイシアにとってもセリアにとっても、不穏な未来が予定よりも早まってしまったという印象があり、素直に喜ぶことができない。

 道半ばにして、無念を抱えたまま不埒者に凌辱される未来こそ回避できたが、眉間からしわが外れる事はない。

 

 暫く俯き、考え込んでいたアイシアが、不意に主に縋るような視線を向ける。

 

「……本当に、このような手段しかなかったのでしょうか」

「アイシア…?」

「民の為にその身を捧げようとしているセリア様の在り方は、貴族としてあるべき姿だと、ただの護衛に過ぎない私であっても誇らしく思います……ですが、いくら何もあの男の元に」

 

 これから助力を乞いに向かう、ガーランド伯爵に纏わる話を思い出し、アイシアはきつく唇を噛み締める。

 セリアも彼女が何を思い出しているのかを把握し、儚げな笑みを浮かべて目を逸らした。

 

 国内でも有名な、好色伯爵。

 有能で領地は大きく栄えているが、その原動力は女性で遊ぶという欲望であるとまで言われるほどの、色情狂。

 年端も行かない女児から熟した女性まで、性別が女であれば見境なく性欲の対象とし、他人のものであっても欲しがる姿勢を隠そうとしない。むしろ策略を巡らせて横取りすることも厭わない変態。

 下種と下品を絵に描いたような助平が、ガーランド伯爵という男なのだ。

 

 彼を憎む人の言葉を聞けば、裏で相当あくどい行為に手を染めているとも聞く。

 人身売買や違法薬物の扱い、その流通を帝国と行っているだの、昨今の帝国の侵略を莫大な金で援助しているだの、黒い噂は多岐に及ぶ。

 ただの被害妄想と断ずるには、あまりに怪しすぎる事も事実であった。

 

 これは、ただの噂ではない。

 限りなく真実に近いであろう、若しくは事実より優しい方かもしれない、伯爵に関する人伝のなのである。

 

 人の口から聞いた情報を鵜呑みにするほど、アイシアもセリアも浅はかではない。

 実際に、過去に王宮で催された貴族同士のパーティーに出席し、本人と面と向かって挨拶を交わしたことがあるからこその感想であった。

 

 厳つい顔を髭で覆い、大きく樽のように肥えた体を揺らす短足の男。

 自分より身分の低い者に対しては見下す姿勢を、上の身分の者に対しても自信満々な態度を崩さない、しかし実際に成果を残している高い能力を持つ、驕り高ぶった人物。

 その男は、パーティーで初めて相まみえたセリアと、護衛として共に出席したアイシアに対し、即座ににやにやと下卑た視線を向けていた。

 

 嫌悪感が全身を巡ったセリアであったが、どうにか表面上を取り繕い、貴族然とした態度で挨拶に応じた。

 場所をわきまえ、着慣れた甲冑ではなくドレスを纏っていたアイシアも、ぐっと歯を食い縛り、特に大きすぎる自分の胸に感じる視線に耐え続けていた。

 そういう出会いもあり、二人は巷で流れるガーランド伯爵の噂は、限りなく真実に近いものであると判断していた。

 

「……そうね、私が助力を乞いに行ったところで、応じる事はないかもしれない。応じたところで、どんな理不尽な要求が待っているかもわからない。あの方の噂を聞いた後では、その不安も大きいわ」

「…逃げる気は、ありませんか」

「どこへ? 私はツーベルク公爵令嬢、セリア・ツーベルクよ? 苦しむ民や父を放置して、どうして自分の幸せだけ求められるというの?」

 

 しかしそれを理解しながらも、セリアはこの旅を途中で投げ出すわけにはいかなかった。

 自分を待つ運命がどれだけ悲惨なものであろうと、逃げるわけにはいかない。民から税を徴収し、自分達の為だけに使うような醜い行為を働くわけにはいかない。

 それでは、民から益を搾り取り、贅を貪る事しか能がない帝国貴族と変わらないのである。

 

「私は貴族……爵位を受け継ぐ身ではありませんが、それでも民を守り抜く義務を持って生まれました。そんな私が、こんな形でも彼らの役に立てるのなら…こんなに幸せなことはないでしょう」

「セリア様…」

 

 悲痛な表情で見つめる忠臣に笑いかけ、セリアは首を横に振る。

 膝に乗せた自分の手の震えを必死に隠し、それでも大切な友人を心配させまいと、笑顔の仮面を張り付ける。

 覚悟を決めた主のその姿に、アイシアはもうかける言葉を失っていた。

 

 しんと会話が途切れ、重苦しい空気が漂い始めたその時。

 どさっ、と何かが落下する音が再び聞こえ、アイシアはやや呆れた顔で振り向く。

 

「グルル?」

「……そうやって、気配を消したまま近付かないでくれないか。気遣いはありがたいがな」

 

 事切れた角兎を地面に落とし、どうかしたのかというように首を傾げる黒竜に、アイシアがため息をつく。

 先ほどから姿が見えないと思っていたが、どうやら晩飯用に獲物を狩りに行ってくれていたらしい。

 

「ありがとう、この獲物は使わせてもらうから、貴殿は自分の腹を満たしに行くといい。……世話をかけてすまないな」

「グルルル……」

 

 アイシアが黒竜の首元を撫でると、黒竜は承知したと言うように唸り、影の中に沈んでいく。

 途中、ニコニコと手を振ってくるセリアにじっと視線を向けてから、黒竜は完全に闇の中にその巨体を消していった。

 

「…先ほどの話、彼の方も聞いていたのでしょうか」

「どうでしょう……聞いていたとしても、意味までは理解できなかったかもしれません。昼間の私のように…」

「あら、ごめんなさいね、アイシア。からかうつもりじゃなかったのよ」

「い、いえ! 私は気にしていませんので!」

 

 くすくすと笑うセリアにわたわたと手を振り、アイシアはまた赤くなる頬を誤魔化す。

 重苦しかった雰囲気が若干緩和されたことを確認し、セリアは黒竜が持ち込んでくれた角兎を見やった。

 

「では彼の方の気遣い通り、今晩のお夕食にしましょうか。野生の角兎とは、こんなに立派なのですね」

「……凄腕の猟師も時に餌食になるぐらいの、危険な動物なのですがね」

 

 巷ではめったに食うことのできない、貴重な食材を前にし、アイシアは内心ごくりとつばを呑む。

 わくわくと目を輝かせる主の為に、騎士となるために叩き込まれた知識と経験を思い出し、短剣を取り出したアイシアは、地面に転がる角兎の毛皮に慎重に刃を通す。

 

(……もし、かの竜に助けを求めたなら、彼はセリア様の為に動いてくれるだろうか)

 

 ふと思いついたそんな選択肢に、アイシアは即座に苦笑し候補から外す。

 お人好しなあの怪物にこれ以上何を望むのか、何も出来ない自分の無能さを棚に上げて、獣相手に何を考えているのか、と。

 少しだけ期待を抱いた自分を恥じながら、アイシアは角兎の肉に刃を滑らせるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9.Take over

 緑色の肌に、大人の人間の腰程度の高さの背丈を持つ、二足歩行の醜い顔をした生物がいた。

 醜鬼(ゴブリン)と呼ばれる、人間達に忌み嫌われる、森の中では遭遇率が高い、そして危険性も非常に高い害獣の一種である。

 

 その一体が、しわくちゃな老人のような顔にニタリと笑みを浮かべて小さく声を上げる。

 獲物を見つけた、と。

 

 深い森の中で、焚火を囲む二匹の人間を見つけたその醜鬼が、仲間に合図を送る。

 するとそれに応じてぞろぞろと、人間から奪った鎧や武器で武装した十数体の醜鬼達が、狙うべき獲物を見据え動き出す。

 

 獲物は二匹、それも価値の高い雌である。

 片方は小綺麗で締まりが強そうで、もう片方は大きく柔らかそうな脂肪の塊をぶらさげている。どちらも穴に逸物を突き入れれば、かなりの快楽を得られることだろう。

 体中の柔らかさも活用すれば、暇つぶしの玩具としても十分役に立つはずである。

 

 それに大きく柔らかい方は、格好から見て戦士に値する種類の人間である。

 そういう種類の雌は気が強く抵抗も強いが、その分頑丈でたくさんの子供を作らせられる。甚振り続けて心を折れば、仲間をどんどん増やしてくれるに違いない。

 柔らかい肉も、産めなくなれば食糧になる。二匹もいれば生まれた子等の食料には十分だろう。

 

 醜鬼は不思議なことに、基本的に雄しか生まれない特殊な生態である。

 他の種族の雌を攫って孕ませ、子孫を増やすことを本能的に学んでいる、雌にとっては悪魔のような存在である。もし目星をつけられれば、確実に悲惨な未来が待っている。

 

 知能は然して高くはなく、人間のように新たに自分で技術や知識を生み出すことはできない。だが、学び模倣する能力が異常に高い面を持っている。

 ナイフや弓を使って獲物を狩り、罠を作って捕らえ、群れを作って囲う。

 他者が積み上げてきたものを横から掻っ攫い、奪い取るという醜悪な生態を持った異質な種族である。

 

 本能によるものか、醜鬼達は総じて残忍な性格をしており、肉としての価値以外にない雄は即座に殺してばらばらにし、貪り食うようにしている。

 抵抗が激しい雌にいたっては、四肢を切り落とし、顔面をひたすら殴り、抗う意志をぽっきりと折る事を最初に決めている。

 あらゆる種族にとって、単独で遭遇することは絶対に避けたい存在なのである。

 

 そして今回、醜鬼達が見出した獲物というのが、今すぐ目の前で向かい合って肉を口にしている人間の雌達であった。

 ニタニタと笑みを浮かべ、醜鬼達は涎を垂らして息を殺す。

 まず四肢を切り、毒を持って動きを封じる。そして仲間全員で襲い掛かり、力の限り凌辱し甚振りまくる。

 動きがなくなったところで巣に持ち帰り、穴倉に閉じ込めてひたすら子種を仕込む作業に没頭するのだ。

 想像するだけで、醜鬼達全員の股間の逸物は膨れ、先端が湿り始める。

 

 なるべく反撃の危険性を避けるため、醜鬼の集団は音を殺し、人間の雌達の周りに展開する。

 逃げ場を失くし、そして武器を手に取らせる暇もなくしてから、襲う。これまで何度も行い、その度に成果を上げてきた唯一の策である。

 逸る気持ちを押さえつつ、研ぎ澄ました刃物を手にその瞬間を待つ。

 

 だが、その時が彼らに訪れる時は、永遠になかった。

 

「ギ―――!」

 

 人間の雌達の背後に回ろうとした仲間の一人が、突如小さく声を上げて消える。

 何だ、と振り向いた他の二体も、同じく小さな悲鳴だけを残してその場から消失してしまう。

 

「ゴギャ…!?」

「ギギャ…ギャギャギャ!」

 

 何が起こったのかと、リーダー格である他より大きい個体は辺りを見渡し、暗闇に目を凝らす。

 同じ獲物を狙う、他の獣や違う巣の同族の気配もなかった。なのに仲間の気配がいくつか消え、代わりに血の跡が木の幹や草地にこびりついているのが見つかる。

 

 突然のことに、醜鬼達は徐々に狂乱に陥り始める。

 この住み慣れた森の中において、絶対的上位にあるのは自分達である。縄張りに足を踏み入れ、狙われた獲物に許されているのは狩られる未来のみ。決して反撃することはあり得ない。

 しかし現に仲間は消えた。その事に怒るより先に、醜鬼達には恐怖が芽生え始めた。

 

 何がいる?

 何が自分達を逆に狩ろうとしている?

 

 考えている間に、またさらに数体が微かな悲鳴をあげて消える。

 一瞬目を離した間の出来事に、仲間の数が減って焦るリーダー格の醜鬼は冷や汗を流す。

 

「ゴギャ…ギャギャギ!」

 

 声を抑え、刃物を構えて辺りを警戒する醜鬼。

 一方的な奇襲が主とはいえ、全神経を集中させて身構えている今ならば、早々にやられる筈がないと、その醜鬼は自分を鼓舞する。

 どこからでもかかってくるがいい、そう虚勢を張り、姿の見えない襲撃者を探る。

 

 だが、その意識はたやすく途切れてしまった。

 知らぬ間に彼の背後に首を伸ばしていた謎の襲撃者―――影に潜む黒竜に、頭をばくりと呑み込まれ、食い千切られていたからだ。

 獲物に近づく暇もないまま、醜鬼の集団は全て、黒竜の腹に収まる事となった。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

(まっず! こいつらの肉まっず!!)

 

 ぼりぼりと咀嚼する、人間に似た小さい生物の肉から感じる味に、それは内心で悲鳴をあげていた。

 泥臭く、苦く、まるでゴミでも齧っているのではないかと思うほど酷いその味に、しかし黒竜は吐き出すことなく咀嚼を続け、ついにゴクリと呑み込む。

 そのまま呑み込んでもいいのだが、鎧だの武器だのを装備していたため、ある程度噛み砕かなければ喉に当たって気持ち悪いのである。

 

(まったく……妙に小さい人間だが、一体何を食って生きているのだ? こんなにひどい味は初めてだ。一体あの女性陣は、どれだけの人数に狙われているのやら)

 

 初めてその種族を目にしたそれ。

 醜鬼という詳しい情報を知らないそれは、見た目が多少違うだけで、自分が同行している女性達と同種だと考えていた。

 大方昼間の連中のように、彼女達を狙う勢力の一部か何かなのだろうと、そう考えていた。

 

 だが、それは少し考えて、少しだけ残した醜鬼達の装備を見下ろす。

 小汚い鎧に歪んだ武器。自分たちで作った物ではなく、誰かから奪った物という印象が強いそれらに、それは考えを少し改める。

 

(ふむ……格好も大分違うし、昼間の連中とは別の勢力か? ならばあとは……物盗りか。あの二人の荷物、あるいはあの二人自身を狙って襲おうとしたというところか)

 

 昼間の一件のように、食欲ではなく害意を持って凶器を向ける輩に対し、それは非常に憤りを覚えていた。

 生きる為に、ではなく別の目的で命を奪おうとする行為に対し、考えるより先に体が動いていた。

 子孫を残すという生物の根源的な思考ではない、打算的な思考が混じって見える行いに、それはなぜだか強い拒否感を覚えていた。

 

 しかし、今回にいたってはその括りではない。

 醜鬼達の行動は捕食の為ではなかったが、生物の本能に従った行動に違いなかった。

 ただ、狙われたのがあの二人だったために、それは醜鬼達を逆に捕食したのだ。対象が彼女達でなかったら、態々邪魔をするつもりはなかった。

 

(わざわざ介入したのに、こんなところで死なれては寝覚めが悪いから食ってしまったが……こいつらも必死だったのかもしれんな。群れの様だし、雄しかいなかったようだし、出稼ぎといったところか)

 

 なれば、巣で待つ番や子の為に獲物を探していたのかもしれない。

 だとするとそれは、自分がこの群れの生命線を一つ断ち切ってしまったのかもしれないと、少し申し訳なさを感じる。

 狩りに同行できない未熟な稚児やその番が生きていくのは、非常に困難になるだろう。

 

 それは小さく唸り、同行者である女性達を見やり、考え込む。

 そしてやがて、それはある決断を下した。

 

(よし、責任もってこいつらの巣にいる連中、まとめて食いに行くとしよう)

 

 うん、と頷くや否や、それはぞぶりと影の中に潜り、醜鬼達と同じ姿をした種族の気配が集まっている場所を探しに行く。

 腹をすかして死に至るよりも前に、父親達と同じく自分の胃の中に納めてしまおうと。

 

 

 

 こうして、当事者にそのつもりのないままに、人間や多くの種族に対し害しかなかった醜鬼の巣が全滅した。

 それも一つではない。森にいた全ての醜鬼達が、根こそぎ食い殺されてしまったのである。

 種族を一つ壊したそれであったが、生態系から見ればそれは実に肯定的であったのだが、それにそんな自覚などあるはずもなかった。

 

 ただ、腹の疼きを満たすため。

 そして心残りを消すためだけに、それは森に棲む醜鬼を絶滅させてしまったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10.Morning

「ん……」

 

 チュンチュンと、どこからか聞こえてくる小鳥の鳴き声で、セリアの意識はゆっくりと浮上し始める。

 寝ぼけ眼のまま体を起こすと、体中に鈍い痛みが走り、少し顔が険しくなってしまった。

 

「……地面で寝ると、あとでこんなに辛いのね。初めて知ったわ」

「お目覚めですか、セリア様」

 

 目を擦り、呟いたセリアに、すぐ近くで胡坐をかいていたアイシアが声をかけてくる。

 寝ずの火の番をしてくれていたのだろう、手には剣が握られ、何時でも抜けるよう備えている。しかし一晩中起きていたわりには、然して疲れた様子を見せていなかった。

 

「…あなた一人に役割を押し付けて、ごめんなさいね」

「いいえ…騎士の訓練で、三日三晩行進し続ける事もありましたし、この程度苦痛というほどでもありません」

「そう……逞しいのね、騎士とは」

「皆が皆、そうというわけではありませんがね」

 

 アイシアはそう呟き、自分の訓練時代の風景を思い出す。

 ツーベルク公爵家からもたらされた、公爵家の守護を担う騎士の募集がかかった時のことだ。

 

 女だてらに騎士になろうとするアイシアに、同期や先輩達の中にはあからさまに見下す者もいた。

 騎士の決まりに男女の区別はない。しかし女は男よりも非力で、戦いや守護においては役に立たないという意識は常識であり、男の職場という認識が強かった。

 そんな職場に足を踏み入れようとするアイシアの姿は、言っては悪いが、冷やかしのように当時の先輩や同期達には見えていたようである。

 

 陰口を叩かれたり、嫌がらせをされた経験も少なくはない。

 しかしそんな逆境の中でも、アイシアは挫けることなく訓練に望み続けた。幼い頃からの夢を、そして騎士である父兄に対する憧れを実現するため、どんな苦難にも立ち向かった。

 

 騎士の訓練は苛烈で、意志の弱い者は次々に脱落し去っていった。その中には、アイシアに対して否定的な目を向けていた者達もおり、長くなるにつれて彼女に対する悪意もなくなっていった。

 嫌がらせや、他人に構う暇などなくなっていたからだ。

 アイシアは精神的な負担から解放され、過酷な訓練によってめきめきと実力をつけていき、やがて正規の騎士の地位を手に入れた。

 そしていくつかの任務を経て、公爵からの信頼を得たのち、セリアの専属護衛騎士の座に就いたのである。

 

 正規の騎士となった者が逞しいという表現は確かに正しい。そういわれるに足る、過酷な試練を耐え抜いた実績があるのだから。

 しかし、騎士を志す者全員が清く正しい、そして諦めない根性のある人柄かと問われれば、首を傾げる他にない。

 

(……何より、ツーベルク領内ならともかく、ガーランド領の騎士にはあまり期待はできんからな)

 

 よく知った仲間達の場合は、胸を張って誇るに足る人物なのは間違いない。

 だが、領主の人柄を信用できないときは、その配下達にもあまり期待はできない。有能であるが評判の悪い領主、その元に集う気のある者の性格に、問題がないとはあまり思えない。

 見ず知らずの他人を扱き下ろすのは気分が悪いが、そうしてしまうほどの嫌悪が、アイシアの中のガーランド伯爵の印象にはあった。

 

「…さぁ、そろそろ出発しましょう。長居は無用です」

 

 胸中にある、そんな暗い考えを誤魔化すように、アイシアは笑みを湛え、セリアに手を差し伸べる。

 これからその嫌悪している相手の元に、大切な主を送り出そうとしている自分自身にも、激しい吐き気を覚えながら。

 

「そうね……あ、待って。あの方がまだ戻っていないわ」

「…そういえば、どこに」

 

 きょろきょろと辺りを見渡し、黒竜の巨体を探すセリア。

 そもそも影に潜れる時点で探しても意味はないのだが、それをこの場で指摘しても意味がないと、アイシアも辺りに目をやる。

 

「……いえ、この場で彼とは別れてもいいのではないでしょうか」

「え? でも…」

「彼は竜です。それも普通の生物ではない……彼の意向で付いて来てもらいましたが、もともと彼は人とは関わらぬ存在です。甘え続けるのもいかがでしょうか」

 

 見た目の凶悪さに反する、お人好しさと紳士振りを見せるかの怪物に、本心を言えばアイシアはついて来てほしいと思う。

 しかし、それは義務ではない。黒竜の生き方を捻じ曲げさせてまで同行し続けてもらうのは、アイシアの正義感が苦言を挟んでいた。

 

 何より、人の世界に怪物が足を踏み入れるのは、非常に危険である。

 アイシアとセリアは、黒竜が人に対してむやみやたらと危害を加える生物ではない事を知っている。しかしそれは、面と向かって行動を観察する余裕があったからである。

 アイシアのように戦う術のない領民が相対してしまえば、まず間違いなく黒竜を恐れ、排除しようとするだろう。

 黒竜はそれに反抗し、さらに人々に恐怖を齎すに違いない。

 

「彼の力は大きく、そして危険です。領内の民が知れば、きっと彼を恐れるでしょう……恩義ある彼がそのように見られるのは、私は我慢がなりません」

「アイシア…」

 

 アイシアの悲痛な表情に、セリアはくすっと微笑みを浮かべる。

 人に近い思考と態度を見せるとはいえ、間違いなく野生の獣の一体。普通なら平気で利用することを考えよう者だが、この忠臣はあまりに義理堅いというか、生真面目というか。

 所詮は獣と割り切る事の出来ないややこしい性分の彼女に、セリアもまた同じ気持ちを抱いていた。

 

「…そうね、何時までも助けてもらってばかりでは駄目ね」

「彼がいつ戻って来るかはわかりませんが、もうここを発ちましょう。我々が姿を消しているのに気づけば、さすがに驚くかもしれませんが……きっといずれは、元居た場所に戻るでしょう」

「ええ…ちゃんとしたお礼ができないのは、心苦しいですけど」

「…私もですよ」

 

 何故か、胸の奥にちくりと棘が刺さるような心地で、アイシアは姿の見えない黒竜の事を想う。

 せめて一言かけていきたかったが、元より言葉の通じない間。別れを告げたところで、それに頷いてくれる確証はない。もういいといっても、領内の街中までついてきてしまうかもしれない。

 

 下手に人の目に触れるよりは、ここで何も告げずに去った方がいいだろう、そう考えていた。

 

「では、そろそろ行きましょう……うぷ」

 

 踵を返し、歩き出そうとしたアイシア。

 しかしその直後、彼女の顔面に大きな壁がぶつかり、端を強く打ち付けたアイシアが呻き声をあげる。

 

「グルルルル…?」

「…! あら、噂をすればだわ」

「しまった…何と時機の悪い。もっと早く出ればよかったか」

 

 いつの間にか、アイシアとセリアの傍に姿を現し、じっと見下ろしていた黒竜。

 驚きの声を上げるセリアの横で、アイシアは自分の失態を嘆き、困り顔で黒竜を見上げた。

 

「…竜よ、聞いてくれ。お前とはここでお別れだ。もう私達の守護は必要ない…お前は元の暮らしに戻ってくれていい」

「……」

「お前がガーランド領内に入り、街中に姿を表せば、きっと大勢の民がお前を恐れるだろう。中にはお前を傷つけようとする者もいるかもしれない。捕えて言うことを聞かせようとする不埒な輩もいるかもしれない。私は、大恩あるお前にそんな目に遭ってほしくないんだ」

 

 真剣な表情で語りかけるアイシア。

 黒竜はそれに耳を傾けているのか、唸り声も上げることなくアイシアを見つめる。しかし反応もないため、アイシアもやや焦りながら説得を続ける。

 頼むから、ここで引いてほしい。これ以上介入しないでほしいと。

 

 だが黒竜は、アイシアの言葉に頷くことなく、彼女の言葉の途中で体を影に沈め、彼女の真下から浮上し彼女を一方的に跨らせた。

 

「だから―――うわっ!」

 

 了承もないまま女騎士を乗せ、影を泳ぎ始めた黒竜。そのまま怪物はセリアの元に向かい、さっさとしろと言わんばかりに片腕を出し、くいっと指を曲げて少女を呼んだ。

 

「…説得は失敗したようね」

「ハァ……わかってはいましたがね。以前のような事があって、素直に応じるはずがないだろうと」

「そうかも知れないけど…私が言いたいのは、言葉が通じるかどうか、なんだけど」

「うっ…」

 

 嬉々として黒竜の背に跨る主に、根本的な問題を突き付けられ、アイシアは苦虫を噛み潰したような顔でうめく。

『風に向かって説教をする』とでもいうべきか、伝えたい思いがあっても相手がそれを理解していないため、そもそも女騎士のこの気遣いは意味を成していなかった。

 

 アイシアは己の浅慮に恥じ、セリアは怪物を人扱いしているという意味で苦笑をこぼした。

 

「仕方がないわ…このまま行けるところまでお世話になっちゃいましょう。問題が起きたら……その時は、その時よ」

「セリア様…それでは」

「少なくとも、こんなに近くに居てただの獣とは思われないでしょう? 説明する時間くらいはあるはずよ」

 

 いささか楽観視しすぎではないか、と案じるアイシアに、セリアはくすくすと笑いかける。

 暢気に笑う主に、アイシアはそれ以上反論する気にもなれず、大きなため息をついて黙り込む。

 

(……セリア様も、ご自分の事で手いっぱいだろうに。私は何と、無力なのか……)

 

 黒竜が泳ぎだし、勢いよく動いていく周りの景色にまたはしゃいだ様子を見せる、幼い頃から仕え続ける主。

 その笑顔の裏にある悲痛な思いを案じながら、アイシアは縋るような目を、自分が跨る奇妙な怪物に向けていた。

 

(……なぁ、貴殿であれば、どうにかできるか? 不思議な力を持つ貴殿なら、我が主を救うことはできるか…?)

 

 そんな身勝手な願いを抱く自分自身に呆れ、しかしそれでも、そんな淡い想いを抱かずにはいられなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11.Stimulation

 丘を越え、川を越え、黒竜の背に乗って令嬢と女騎士が森の中を進み続ける。

 時に見かける獣も、黒竜の姿に恐れをなしてか近付いてくることはなく、ほとんど減速することなく、黒竜は悠々と泳ぎ続ける。

 

 それから数時間は経過し、真昼が近づいてきた頃だろうか。

 辺りに生える樹々がまばらになり、少しずつ景色が明るくなり始めた。

 

「…見えてきました」

 

 前方を見据えていたアイシアが、小さく呟く。

 するとセリアも、木々の間から覗いて見える街並みに表情を引き締め、思わずごくりと息を呑む。

 

 森が開け、それは視界に入って来た。

 見た目の印象は、酷く狭っ苦しい街、という風景だった。

 

 周囲を丘に囲まれ、擂鉢状の窪地の中にたくさんの家屋が敷き詰められている。

 地平線よりも低い位置に地面があるために、陽の光が入りにくく全体的に薄暗く見える。風の流れも歪なのか、使い古された空気が籠もっているようにも思える。

 

 だが、反対に街の造りはしっかりと、そして優れたものに見えた。

 壁に使われている漆喰は上質なものなのか、薄暗い中でもその美しさをはっきりと表し、歪み一つなく建てられている。それにより家々はパズルのように整然とした配置がなされている。

 

 人が住むには少し問題を感じる環境、しかしその分金が使われた裕福そうなそれがガーランドの街だった。

 

「あれが、ガーランドの街……」

「噂には聞いていましたが、薬品の輸出でずいぶんと発展しているようですね。…確かに、これなら特効薬も期待できるでしょう」

「…そうね」

 

 黒竜の背を降り、丘の上から街並みを眺めるアイシアの呟きに、セリアが頷くもその表情は重い。

 ぎゅっ、ときつく手を握るその姿をやったアイシアは唇を噛み締め、慰めるように彼女の肩に手を置いた。

 

「……ここまで来れば、帝国の兵も手出しはできないでしょう。あとは、領主の館を訪ねるだけです」

 

 むしろその先にこそ大きな問題があるが、今更そのことを悩んでいる暇はない。

 内心の嫌悪や恐怖を隠し、気丈に振る舞おうとする主の献身に、女騎士はひたすら自分の無力を悔やむ。胸の痛みを無視し、しびれるほどに拳を握りしめる。

 

 ふぅ、とため息を吐いたアイシアは、それまで沈黙していた背後の黒竜に目をやる。

 

「ここまで…世話になったな。もう十分だ、この先は我々だけで―――」

 

 これ以上の付き添いは必要ない、いや、ついて来てはならないと黒竜に告げるアイシア。

 その際、彼女の目がわずかに見開かれた。

 

 アイシアが言いきるよりも先に、黒竜はずぶずぶと影の中に沈んでいく。自分の役目は終わったというように、命じられることなく自ら姿を消す。

 セリアが気付き、振り向いた時には、黒竜の角が影の中に消え、そして彼の影も消え去っていた。

 

「…頼むまでもなかったか」

「どうしましょう……ちゃんとお礼を言えていませんでしたのに」

「そうですね…これでは恩を返す機会もなくなってしまいました」

「……そうね、もう、会えないかもしれないのね」

 

 無念を顔に出すアイシアに、寂しげにつぶやき、同意を示すセリア。

 

 二人はしばらくの間、影の消えた地面を見下ろし、去っていった黒竜の事を想う。

 突如現れ、獣とは思えない気遣いを見せ、護衛を買って出るように同行し身を守ってくれた、謎ばかりを持つ不思議な存在。

 この先会うことはもうないかもしれないが、きっと彼の事を忘れる事はないだろう。

 

「……行きましょう、彼の助けを無駄にするわけにはいきません」

「はっ」

 

 セリアはやがて、迷いを振り切るように踵を返し、歩き出す。

 アイシアも表情を引き締めると、今一度何もない地面に向けて首を垂れ、名も知らぬ黒竜に謝意を示す。

 

 そうして二人は、悲壮な覚悟を顔の下に隠し、街の入り口に向かって歩き出していった。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

(……ようやく歩き出したか)

 

 移動していく頭上の二つの気配に、黒竜は待っていたとばかりに泳ぎだす。

 自分が影に潜ってから数分。何やらぶつぶつと話していたが、やがて二人はどこか重い足取りで歩き出した。

 

 自分に向けられていたように思えたが、言葉のわからない彼にとってはただの独り言でしかない。

 ともに移動していた時の表情を見る限り、申し訳なさそうな、負い目を抱くようなものに感じられたため、少なくとも罵倒などではないだろう。

 危険な獣にしか見えない自分に対し、取り繕う必要などないのだから。

 

(さて、どうにもあの二人の行く末が気になる故についていくと決めたものの、これからどうするか……人ではない俺がこれ以上関わるのもどうかと思うが、中途半端に退くのもな)

 

 影の上の気配を探ると、女性と少女が向かう先には、自分が指針にしていた、多くの気配が集まった所がある。

 

 彼女達の目的地も、人里の位置を知っていたわけでもない。

 追われる身である彼女達を、安易に同族の気配を多く感じる場所に連れていくのは早まったかと思っていた。だが道中、何も言われなかったことを考えるに、行き先はあの場所で間違いなかったのだろう。

 

 だがその事以上に、それにはある懸念があった。

 

(一体あの二人は、何をあそこまで思いつめる必要があったのか……行きたくなければ行かなければよいものを)

 

 彼女達の足として森の中を移動していた際、何度も目にした表情が思い出される。

 時を経るたびに、そして森の出口が近づくたびに、彼女達の、特に女性の表情は険しいものになっていった。そしてともにいる少女に、痛々しげな視線を送り続けていた。

 

 彼女達の事情など知る由もない。

 しかし、先に進まざるを得ない何かしらの問題を抱えていることは、それにも理解できた。

 

(せっかく命を拾ったというのに、なぜああも落ち着かない顔をしているのか。あの場で命を失わずに済んだと素直に喜ぶことなく、ただ安堵する…うむ、やはりよくわからんな)

 

 もやもやとした考えを続け、それは頭上を歩く二人の後を追う。

 泳ぎながら、それは片腕で自分の腹を摩り、まだまだ余裕がある事を確認し少しばかり安堵した。

 

(昨晩たらふく獲物を喰ったおかげか、しばらく物を喰わずとも良さそうだ……流石にあれらの前で、同族を食い散らかすのは気が引けるからな)

 

 影の上の気配を見て、女性達と同族の生物の気配以外は、あまり感じられない。

 いることにはいるが、一箇所に固めて集められているのを見るに、おそらく家畜か何かだ。他人の手で大事に育てられている者を横から掻っ攫うことも、それの性格上どうにも咎められる。

 

 そして何より、もしこの地に集う生物を食らったりすれば、あとから加わったあの女性達に何らかの影響が出る事だろう。

 ただの獣であれば何の問題もない食事だが、その所為でせっかく命を拾った彼女達の今後に、大きな影響が及ぶ可能性が出てしまう。

 

 つまり、それが本能のまま捕食しに向かえる獲物が、今のところ近くに存在しないということだ。

 

(はぁ、こんな事なら好奇心であの子達に近づくんじゃなかった……自分で始めた事とはいえ、こうも制限が多くなると鬱陶しくなるな)

 

 厄介事に私情で首を突っ込んだ以上、途中で投げ出すことは咎められる。

 面倒な道を選んでしまったものだと、そして面倒な存在になってしまったものだと、それは自身に呆れる。

 

 なまじ獣らしからぬ、感情を持ってしまったがために、何も考えず行動する事ができなくなった。

 自分の前に現われた生物を本能のまま捕食するという選択が、ただの獲物ではないと認識するようになったためにとれなくなった。

 そしてその他とは違うと認識した存在の為に、腹が減っても迂闊に捕食に向かえなくなってしまった。

 

(人ならざる怪物のくせに、どうしてこうも気を遣わなくてはならぬのか……)

 

 まったくもって度し難いことだ、とそれは独り言ちる。

 自身を獣と割り切り、彼女達を切り捨て自分の欲を満たすこともできない。こんな目に遭っているのに、彼女達への興味の方が勝って、今更方針を変える気にもなれない。

 

(あの子達があの顔をしなくなるまで。取り敢えずはこの方針で行きたいが……いつまでかかることやらな。それまで俺の胃の腑が堪えられればいいのだが)

 

 少しずつ、少しずつ減っていく胃の中身を理解しつつ、それは目を細める。

 獲物を捕らえ、食らうだけの毎日に代わる新たな刺激を、獣としてではない別の本能が求めていると、感じながら。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12.Burrow

 ある一組の訪問客が現れたことで、ガーランド領ではちょっとした騒ぎが起きていた。

 

 陽も高く昇り、肌寒い中でも多少心地良い空気になり始めた頃合。

 街をぐるりと取り囲む長い塀の一部、一つしかない門の見張りを務めていた壮年の男が、欠伸交じりに暇を持て余していた。

 

 一時は潤ったものの、最近では通る者も減って、あまり使われなくなった門の守護は退屈以外の何物でもなく、多少気が緩んでいても誰も咎めはしない。

 元があまり儲かっていない領地だからか、野盗だのの襲撃を受けたことなど一度もない、平和というよりも静寂そのものの暮らしが続くと、彼は勝手に思っていた。

 

「……失礼、少し時間を貰えるだろうか」 

 

 そんな彼の前に姿を現した二人組に、見張りの中年は胡乱気に目を向け、そして目を見開いた。

 

 見目麗しい美女と美少女、男性ならば獣欲に満ちた、同性であれば羨む視線を釘付けにするような容姿を持った二人である。

 その片割れの美少女は、街の入り口に立っていた見張りの元を訪ね、開口一番にこう告げた。

 

「―――ツーベルク公爵家令嬢セリア・ツーベルクです。こちらは、私の専属護衛騎士アイシア。この度は、ガーランド伯爵に直々にお願いがあって参りました。…どうか、御目通りをお願いします」

「…は? え、あ! ちょ…ちょっと待て…いやお待ち下さい!」

 

 セリアの顔に見惚れていた見張りは、ややあってから我に返り、慌てて入り口の内側に待機していた仲間に連絡に向かう。

 少しして、大勢の兵士達が沸いて出てきて、セリア達の身分を確認するために取り囲む。

 そして彼女達の言葉が真であると知ると、即座に取り繕った笑みを見せ、二人を街中へと招き入れた。

 

「ど、どうぞ…! ()()()()()()()()()()。伯爵は屋敷でお待ちです…」

 

 ヘラヘラと、へりくだった姿勢を見せて二人に道を空ける兵士達。

 その物言いに妙な違和感を覚えたアイシアだったが、ここで指摘して相手方の機嫌を損ねるわけにもいかないと口を噤み、しかしせめてとセリアにピッタリと寄り添い、歩き出す。

 

 静か、というよりは人気の少ない街中を進み、屋敷を目指して歩く二人は、徐々に大きくなる違和感に二人して首を傾げる。

 最初の印象通り、規模の小さな街に見えたが、それでも見える部分で人の活気が感じられない。探せばそこかしこに人の姿は見えるものの、それでもやはり少ないと感じてしまう。

 

 ふと、視線を感じて振り向いてみれば、カーテンの影からこちらを覗く母娘の姿も見える。

 その表情は兵士達に向けられ、怯えているような警戒しているような、決して好意的には見えない様子に思える。

 

「…セリア様、もしもに備えて、私から決して離れませんように」

「アイシア…?」

 

 周りを囲む兵士達に悟られぬよう、主にしか聞こえないような小声でそう告げるアイシアに、セリアは訝しげに振り向き、小さく頷く。

 漠然とした不安、嫌な予感を覚えながら、令嬢と女騎士は街の中心に建てられた屋敷―――街の規模とやや釣り合っていないように見える、随分と大きな三階建ての建物の元に辿り着いた。

 

 

 

「遠路はるばる、よくぞお越しくださいました。……ツーベルクの災難は、私共の耳にも入っております。長旅でお疲れでしょう」

 

 心にもないと丸わかりな気遣いの言葉で、その男―――レギン・ガーランド伯爵がセリアを出迎える。

 背丈はアイシアどころかセリアよりも低く、樽のように肥えた腹に薄い頭髪、脂ぎった肌という、男性に嫌悪を抱く要素をこれでもかと詰め込んだ中年の男である。

 

 口調こそ丁寧なものの、予想通り彼がセリア達に向けるのは、下卑た欲望が透けて見える不気味な笑み。

 前もっての連絡などしていない、セリア達の突然の訪問という無礼を理由に、何か大きな要求をしたがっていることがまるわかりな態度であった。

 

「…いいえ、こちらこそ急な訪問、大変失礼いたしました。理由があろうとも、貴族としてあるまじき行いであると反省するよりほかにありません」

「まぁまぁ、そう固くなることなく……ささ、どうぞ今はゆっくりとお寛ぎに。話はまず落ち着いてからでも」

「はい…では、お言葉に甘えまして」

 

 伯爵の屋敷を訪ねるや否や、応接間に案内され、新品のものらしきソファに促されたセリア。

 席に着くと、すぐさま横から紅茶の淹れられたカップが置かれる。湯気が立つ、香ばしい匂いのそれは相当いい茶葉を使っているようで、緊張していたセリアは少し相好を崩す。

 

「ありが……!?」

 

 準備のいい侍女がいると感心したセリアは、礼を言おうと顔を上げ、そして即座に表情を引きつらせる。

 

 無言でカップを置いたのは、胸元が異様に広げられた給仕服を身に纏った、少女であった。

 今にも乳房がこぼれだしそうな布面積の少ない生地に、裾も短く太ももが広く露出している。男が見て喜ぶためだけに作られたような装いがそこにあったのだ。

 

 そしてそれを纏う少女の目は、死人のように虚ろで覇気がない。それを喜んできているとはとても思えない表情である。

 セリアのすぐそばに控えていたアイシアも、趣味の悪いその格好に思わず眉間にしわをよせていた。

 

「さて……では此度の訪問、どういった目的か今一度お聞かせいただけませんかな?」

「は、はい」

 

 慄くセリアとアイシアに気付いていないのか、レギンはギシッとソファを軋ませながら自分も座り、勿体ぶった口調で話しかける。

 息を呑んでいたセリアはその声で我に返り、改めて伯爵と向き直る。折角緊張がほぐれ始めた頃合だったのに、凄まじい衝撃を受けたせいで全て台なしになっていた。

 

「…ご存知の事と思いますが、我がツーベルク公爵領は今、謎の奇病の伝染によって領地としての機能が麻痺しつつあります。現状、特効薬とされている薬品の数が足らず、他領との交易も断絶され、非常に危険な状況が続いています」

「ふむ…確かに、そのような状況になっていると聞きますな。おいたわしい事です」

「他の領主の方々のお考えもわかります……他の領地よりも、自分の領民の安全の方が大事なのは確か。咎めることなど、貴族としてできるはずもありません」

 

 レギンはセリアを見つめながら、懐から葉巻を取り出し、端を切ってから咥える。

 小さく何かを唱えると、指先に小さな灯がともり、レギンはそれを葉巻の先に灯し、ふっと大きく煙を吸い込み、吐き出す。

 真剣な表情で語るセリアとは真逆の、酷く落ち着いた余裕の態度だ。

 

「…恥を忍んでお頼みします。ガーランド領で採集できる薬品を、融通していただけないでしょうか」

 

 悲痛に顔を歪め、深々とその場で頭を下げるセリアの前で、ぷかぷかと煙を浮かばせるレギンは、椅子の背もたれに体を預ける。

 

 何を考えているのかわからない、口を閉ざしたまま伯爵はセリアを見下ろし、葉巻を一度口から離す。

 アイシアはその沈黙に不気味さを覚えつつ、黙って事の成り行きを見守る事しかできない。一介の従者である自分に、主の渾身の交渉に口を挟めるわけもない。

 彼女が望む結果を得られることを望み、待つことしかできないのだ。

 

「…我が領地で採れる薬草の数々は、目立った生産物の少ないこの地の領民にとっての生命線に等しい。それを承知の上で、ツーベルク嬢はそれをお望みか?」

「はい……無礼な願いとは重々承知しております。ですが…」

「それでも自領地の民が、そして御父上の命が大事と…甘い考えだと言われる事も覚悟の上で?」

 

 ピクリ、とその一言に、アイシアの眉が震え、腰に提げた剣に手が伸びかける。

 顔をしかめ、小馬鹿にするような発言をしたレギンに鋭い目が向けられるが、それを本人に気付かれる前に、頭を下げたままの主から厳しい視線が返ってくる。

 アイシアは悔し気に唇を噛み、黙って直立の姿勢に戻る。それを機に、セリアも姿勢を正した。

 

「もちろん…何のお返しもなくこのような願いを口には致しません。私にできる事なら、何でもさせていただくつもりです」

「なんでも……ねぇ」

 

 レギンの目が、じろじろと無遠慮にセリアの身体に向けられる。

 

 艶めく髪に、宝石のような瞳、シミ一つない肌。少女らしい柔らかさとしなやかさを持つ身体は、一種の芸術品に例えられるくらいに眩しく美しい。

 まるで美術品をじっくりと鑑定するような目つきに、セリアの背筋を寒気が走る。

 

 だが、ここでそれを表に出しては全てが水の泡だ、と必死に平静を取り繕う。

 今、自分の肩には、大勢の領民達の命がかかっているのだから。

 

「…まぁ、その辺りのお話はゆっくりさせていただきましょう。まず必要なのは、お二人の旅のお疲れをゆっくり癒す事です」

 

 そう語ったレギンが、パンッと掌を打ち鳴らす。

 すると応接間の扉が開き、先ほどの少女と同じく際どい格好をした侍女達が姿を現し、テーブルの上の片づけを始める。

 そしてセリアとアイシアの傍に立ち、移動するように促し始めた。

 

「なっ…ま、待ってください! 休んでいる場合では…」

「いえいえ、こういう重要なお話は、どちらも焦ったままでは上手くいきません。ツーベルク嬢も、安易に何でもするなどと言ってはいけませんよ? 愚かな男なら、勘違いさせてしまいます」

「で、ですが、急がなければツーベルクの民が……」

 

 セリアの懇願も、アイシアの鋭い視線も気にせず、レギンは笑みを浮かべて席を立つ。その表情は決して、領地の窮地に焦る令嬢の少女を落ち着かせる穏やかなものには見えない。

 にたりと、己の欲を是が非でも押し通そうとする、醜悪なものだった。

 

「どうぞ、我が屋敷でごゆっくりお寛ぎください……なに、いずれは何日もかけて領地に帰らなければならないのです。一日や二日休んだところで、咎める者はおりませんよ」

 

 室内に集まった侍女達が、無言の圧力をかけてくる。

 光を宿していないように見える彼女達の目が、なぜかセリアやアイシアには、お願いだからこの人に従ってくれ、と言っているように思えた。

 

 交渉相手に全くその気がない以上、無力な彼女はそれに応じざるを得なかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13.Suspicion

「見事でしょう。王都で最近流行り出した画家に描かせたものです。値は張りましたが、実にいい買い物をしたと思っておりますよ」

「は、はぁ……」

 

 長い廊下を案内しながら、壁にかけられた幾つもの絵画や彫像を紹介するレギン。

 セリアはそれに曖昧に笑って返す事しかできず、伯爵の顔を伺いつつ、絵画の一つを横目で見やる。

 

 技術そのものは確かに高い、人気の画家が手掛けたものだとわかる。

 だが、描かれている内容があまりにもひど過ぎた。

 

 幾人もの裸体の女性をモデルに、一瞬本物と見間違わんばかりに緻密に描かれている。虚ろな表情で見つめ合い、肉体を絡め合う官能的な構図で、寒気が走るほどに写実的な作品である。

 それ故に、作者の技術の高さではなく描かれている女性達の生々しさばかりが目立ってしまっている。

 

 芸術品としてではない、男性の性欲ばかりを刺激する代物になっていた。

 

「あ、あの……そろそろ、薬の融通について」

「まぁまぁ、急いては事を仕損じます。あなたに必要なのは、旅の疲れを癒し、そのやつれた体を元の美しい姿に戻す事です……その間に、こちらでいろいろと準備を進めさせていただきますゆえ」

 

 沸々と膨れ上がっていく焦燥を顔に出し、急いでいる雰囲気を醸し出そうとするセリアだが、レギンは全くそれに取り合う素振りを見せない。ニタニタと不気味に嗤ったまま、次の作品へとセリアを促す。

 

 セリアは嫌悪の感情を漏らしそうになるが、必死にそれを堪え続ける。

 ここでこの男の機嫌を損ねたりすれば、それこそこれまでの苦労が全て水の泡となってしまう。

 今も尚病に苦しむ父や領民達、命懸けでここまでついて来てくれたアイシアや散っていった騎士達、その全ての命が無駄に終わってしまうのだ。

 

 故に、セリアは耐え続ける。

 愛する者達の為に、自分の心を抑え込む。

 

 傍らに控えていたアイシアはただ、そんな主の健気な姿に、自身の歯を食い縛るよりほかになかった。

 

          △▼△▼△▼△

 

(……大急ぎでここまでやって来たかと思えば、何をやっているのだ、こいつらは)

 

 闇の中を泳ぎ、それは頭上で行われている暢気なやり取りに目を細める。

 

 上にいる者達に気付かれぬよう、こっそりと天井から顔を覗かせてみたが、長時間屋敷の中に留まったまま動く気配がない。

 何か焦っている様子だったのだが、随分と話し込んでいる様子である。

 

(その割には、一方的に話しているのはあの男の方で、あの二人はむしろ辟易としている様子……今すぐ去りたいが、相手の機嫌を損なうわけにもいかず、動けないということか)

 

 ちらちらと窓の外に目をやり、手を握りしめている少女。表情を見ても、明らかに焦っていることがうかがえる。

 

 応接間らしき部屋に案内され、彼女が男に何かを懇願する姿を思い出すに、一方的な頼みごとをしている弱い立場であることがわかる。

 どういった内容かは全く分からないが、悲壮な表情で俯く姿を何度も見てきた今、相当重い使命や願いを背負っていることが察せる。

 

(むぅ……あの二人が帰る手伝いを終えてから旅立とうと思っていたのだが、これではいつまでかかるかわからんな。まったく…何を何の見返りに考えているか知らんが、面倒くさそうな男だな)

 

 それは思わず、上機嫌にでっぷりと越えた腹を揺らして話しかけている男を睨み、歯を剥く。

 煌びやかな装飾品に身を包み、丸々とした体を見せつけているその男は、見るからに成り上がりの金持ちという印象を抱く。

 

 本人だけがそのような風貌なら口を挟むことはないが、周りの人間を見るとそうとはいかない。

 やたらと肌を露出させた年端も行かない女子達が、生を諦めたような虚ろな目で奉仕を行っている姿は、どうしてもこの男の人間性を疑わざるを得ない。

 時折、女性達に邪な視線を向ける事もあり、彼女達の身の危険も感じる。

 

 現在女性達が交渉中であろう頼みごとの代価に、一体何を要求するつもりかと考えてしまう。

 

(しかし…ここで俺が彼女達に何ができるというのか。俺が表に出れば騒ぎになるし、かといって何もせぬまま無為に時間ばかりが過ぎるのも……)

 

 この地に女性達を運んでから随分経ってしまったが、その間それは一度も食事をしていない。

 到着前にたらふく食べた分は既に消化しきってしまったのか、胃の腑がぐるぐると空腹を訴えてきていて、どうも気持ちの悪さを感じる。

 

 食べられるものはないわけではない。しかし食べてもいいものと認識できず、それは歯がゆい思いをし続けていた。

 

(ああ……この身体はどれだけ空腹に耐えられるのだろうか。あまり長引くようなら俺もさすがに我慢の限界が近づきそうだ……せめて、あの女性達を喰わずに済むようにはしたいが)

 

 腹部が痛み始め、それの眉間にしわが寄り始める。

 一度この場を離れ、森に戻って適当な獲物を捕食して飢えを凌いでもいいが、今のこの屋敷の状況を考えるとそうもいかなく思える。

 

 あの女性達の態度を見るに、頼みごとをしているあの男は敵、若しくは好意的ではない相手の様だ。

 気を許して接する事ができない相手であるがゆえに、常に厳しい表情で感情を隠し、そして相手を怒らせないよう細心の注意を払っている。

 敵の懐という危険な状況下に、彼女達二人だけを残して去るのは、あまりに不安要素が大きかった。

 

(何か……何かないのか。せっかく人外の身になったのだ、生物以外でも腹を満たせるようになってはいまいか。そこらの土だの草だので空腹を抑えられればいいが……ああ、腹が減った)

 

 それは苦渋の決断で、一旦女性達の元から離れる。

 とにかく何でもいいから口に入れたい、噛み砕き胃の中に入れて、この飢えを抑えたい。そんな考えでいっぱいになる。

 

 探せば木でも岩でも、そこら中に転がっていて食事は容易い。

 が、人外となった自分の身体は生物の肉を求めていて、それら以外を口に運ぶ気になれない。

 飢えているくせに、えり好みの激しい自分の身体に、思わず呆れたため息がこぼれそうであった。

 

(…ん?)

 

 その時、それは頭上で動くいくつかの気配に気づく。

 コソコソと姿を隠すような不自然な動きで、屋敷の外のどこかに向かっていく。

 

 一度地上に顔を出し、それは気配を感じた者達の姿を捉える。

 屋敷のすぐそばにある建物の中に入り、何かを運び出している彼ら。その中と彼ら自身から漂ってくる臭いに、それは訝しげに目を細めた。

 

(んん? 何だ、妙なにおいを感じるな、あの連中…)

 

 やや鼻に刺さるような刺激臭が、彼らの手元から感じられる。

 彼らの手には、箱に詰められた液体の瓶があり、ばたばたと忙しなく走り回り、外に用意してある数台の荷車の上に乗せている。

 赤紫色をしたその瓶から、先ほど感じた匂いは強く感じられた。

 

(……毒、だな。なぜかは知らんが……いや、獣だからわかるのか? しかし、あれだけ大量の毒をどこに、何のために運び出しているのか…)

 

「―――、―――――!」

「――。―――、――」

 

 それが覗き見ている間、彼らは入れ代わり立ち代わり建物の中と外を往復し、毒物らしき瓶を運び出していく。

 時折仲間同士で声を掛け合い、その度ににやにやと歪な笑みを浮かべ、けらけらと肩を揺らしている。

 

 その雰囲気に、それは何とも言えない不快感を抱いていた。

 

 しばらくすると、建物の中にいた者達全員が外に出て、荷車に乗り込んでいく。

 一人が荷車の前部分に乗り、馬に繋がれた綱を掴み、ビシッと打ち鳴らし馬を走らせていく。

 全ての荷車が走り出し、やがて辺りはしんと静かになった。

 

(……一つ、見てみるか)

 

 それは出ていった彼らの目的より先に、彼らが出入りしていた建物の中にある者に興味を持ち、近くに誰もいない事を確認しながら近づく。

 用事の終わった建物の入り口は閉じられていたが、戸締りなど関係がないそれは全く気にせず影の中に潜り、易々と中に侵入する。

 

 窓のない室内は真っ暗だったが、元からそう言った世界で生きているそれはものともせず、微かに漏れてくる薄明かりで、建物の中をじっくりと見渡すことができた。

 

(ここは…そうか、薬品を置く場所か。妙に匂いがきついと思ったら……あれも、何かに使う為か)

 

 壁にある棚や机の上に、何の用途かよくわからない薬の瓶が幾つも置かれ、充填作業中に漏れ出たのか結構な悪臭を感じる。

 

 人の姿が一つも見えない事を確認したそれは、意を決して首から上を影の上に出し、並べられた薬の数々をじっくりと眺めた。

 

(ふむ……臭いから察するに、大半はこの一種だけか。そのほかは色々な用途の薬の様だが……よくわからんな)

 

 狭い通路を、瓶に触らないよう気をつけながら進み、置かれた同じ種類の薬の瓶を覗き込む。

 数としては、先ほど運び出された毒の瓶程ではないもののかなりの量があり、一本を抜き出して差し込む僅かな光に晒してみると、青緑色をしていることがわかった。

 

 人外の肉体の本能的なものか、個人の感覚によるものか、先ほどの毒物と対を成す代物に感じられる。

 

(素人の考えが当たっているとも思えんが……だが、あの数の毒を用意する以上、対抗手段である薬品も同じだけあってもおかしくはないか。おそらく、あれに対応する薬だろうな)

 

 チャプチャプと瓶を揺らしてみて、それは深く考え込む。

 

 何処かに運ばれていった大量の毒物、屋敷の一角に用意されていた沢山の薬。運び出していた者達の意味深な笑みに、長引く屋敷の主人らしき男の話。

 いくつもの要素が、それの脳内に大きな陰謀を想像させていた。

 

(…どうしたものかな)

 

 それは薬の瓶を持ったまま、今後の自分の行動を悩む。

 想像通りなら、この屋敷の主人が碌でもない、胸糞の悪い計画を企んでいることになり、あの女性達はそれに巻き込まれていることになる。

 女性達の身の安全を考えると、阻止しなければかなり危険な目に遭う可能性がある。

 

 だが、やはり現状ではそれにとれる手段が思いつかない。

 屋敷の人間達が何か行動を起こしていたとして、迂闊に動いても彼女達に危険が及んでしまうかもしれないのだ。

 

(そうだな……そうだ、何かあった時の為に、対抗手段は確保しておくべきか。どうせ、ここに置かれているだけの様だしな)

 

 そう脳内で独り言ちたそれは、一度室内を見渡し、建物の一角に置かれた小汚い袋を発見する。そしてしまわれている大量の薬の瓶に片っ端から手を伸ばし、見つけた袋の中に放り込んでいく。

 割らないように気をつけながら、一つたりとも取りこぼしがないよう回収する。

 そしてパンパンになった袋に、手頃にあった縄を括りつけ、自分の体に巻き付けてから、どぶんと自分の影の中に引きずり込む。

 

 ずっしりと重くなったからだ、そしてすっからかんになった建物の中を満足げに見渡し、それは再び影の中に潜るのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14.Impatience

「…こんな事をしている場合ではないのに」

 

 ギラギラと眩しい輝きをこれでもかと放ってくる、ただ高級そうなだけで機能性に劣る調度品に囲まれながら、テーブルに着いたセリアは大きなため息をつく。

 傍らにいるアイシアも同じで、輝きが目に刺さりそうな調度品を睨みつけ、眉間に深いしわを寄せていた。

 

 ガーランド領に到着し、屋敷を案内されるだけの時間が始まって早2日。

 未だに特効薬の融通に関する交渉は始まっておらず、刻一刻と過ぎていく時間に焦りが大きくなっていく。

 

「あの男……よもや学生時代の侯爵様との因縁をここに持ち出しているのではないだろうな。いくらなんでも無駄が過ぎる。何に対する時間稼ぎなんだ、この時間は…」

「…もしそうだとすれば、本当にお父様の事がお嫌いなのですね」

「いえ……きっと逆恨みにも等しい感情でしょう。侯爵様に非はないはずです」

 

 それとなく話題を持ち出そうとするが、交渉相手であるレギンはにこやかに笑ったまま、まだ大丈夫と繰り返し真面に話を聞こうともしない。こうして与えた部屋に居続ける事を求め、食事や自慢話をするときぐらいにしか出る事を許さなかった。

 旅の疲れを癒し、気持ちを落ち着けてから難しく慎重な話を行おうと何度も語られるが、こうも無駄な時間を過ごさせられては逆に落ち着けるはずがない。

 

 むしろ相手を焦らせ、冷静さを失わせてから、自分に都合のいい契約を結ばせることが目的なのではないかと、そう疑わずにはいられない。

 

「セリア様……もう猶予がありません。多少強引にでも交渉の場に着かせ、薬を手に入れるべきでは」

「ですがそれでは…あの方の機嫌を損ね、交渉そのものを放棄される可能性もあります。この状況でそんなことになれば……」

「くっ……下手に出ねばならないこちらを嘲笑って…!」

 

 最後に見た、病に苦しむ父や治療院に運ばれる領民達の顔が思い浮かび、自分の肩に乗る責任の重さを思い出す。

 

 耐えなければならない。しかし、それは一体いつまでか。

 いつまであの男の自慢話に付き合い、無駄に時間を浪費すれば、愛する者達を助けに戻ることが許されるのか。

 アイシアには制止したが、セリア自身レギンの頬をひっぱたいてでも、言うことを聞かせたくて仕方がなかった。

 

「…助けを求められない状況というのは、苦しいですね」

「申し訳ありません……私が不甲斐ないばかりに」

「そんなことないわ。貴女が傍にいてくれるだけで……私は勇気をもってあの方との時間を過ごせるの。貴女がいてくれるだけで心強いわ」

 

 悔し気に拳を握りしめるアイシアに、セリアは微笑み告げる。

 顔は平静そのものだが、膝の上に乗せた彼女の手は微かに震えている。

 

 見た目からも口調からも、そして周りに侍らせている侍女達の格好からもわかる、女性に対する欲望がまるわかりの好色漢。そんな男との対話は、若く未熟な彼女からすればひどく不安なのだろう。

 頼みごとをしている弱い立場、そして嫌っている男の娘。

 そういう立場を利用し、格上の爵位が相手でもお構いなしに、何時襲い掛かって来るかと考えてしまう様だ。

 

(…一番お辛いのはセリア様だ。私がこんな体たらくでどうする……!)

 

 気丈に振る舞おうとする主の健気な姿に、アイシアはたった一人の味方である自分が堪えねば何とすると、自分を鼓舞する。

 少しだけ苛立ちが治まった彼女は、キッと表情を検めると、廊下に繋がる扉がある方へと向かう。そして扉に耳を当て、外の様子を伺い始めた。

 

「アイシア…?」

 

 訝しげに声をかけるセリアに、アイシアは唇に人差し指を当て、首を横に振る。

 すぐに察し、口を閉ざしたセリアに頷いてから、アイシアは意識を集中させ、扉をわずかに開けて外の様子を覗く。

 

 室内と同じく、途中途中に趣味の悪い絵画や彫像が置かれた、長い廊下。

 時折掃除の為に通りがかる侍女達の姿は、今は見当たらない。おそらくは午後のティータイムや食事の準備のためにどこかへ引っ込んでいるのだろう。

 

 部屋の前に人気がないことを確認し、意を決してアイシアは自身が纏っていた騎士の制服を脱ぎ捨てた。

 体の線が露わとなる黒いシャツ姿となったアイシアに、セリアは驚きで目を瞠る。

 

「何を…!?」

「少し危険ですが……屋敷の中を探ってみようと思います。少しでもこちらに有利な情報があれば、多少なりとも向こうの腰を上げる要因にはなるでしょう。何もしないよりはマシです」

「ですが…見つかれば」

「そうなる前に引き返します。もし、私が不在の間にセリア様を尋ねてくる者がいた場合は……体調がすぐれないと誤魔化してはいただけませんか」

 

 長い髪が邪魔にならないよう、結んで団子のようにまとめるアイシア。

 彼女がこれからやろうとしている無謀な行いに、セリアは思わず悲痛な表情で息を呑む。そしてその間、自分の傍に味方が一人もいなくなってしまうということにも。

 

 だがセリアは、アイシアに伸ばしかけた手を引っ込め、きゅっと唇を噛み締める。

 何も変えられそうにないこの状況を打破するには、それくらいの不安を乗り越えられずどうするのかと、自分に言い聞かせた。

 

「…わかりました。ですが決して無理はしないでください」

「はい。その間、セリア様をお一人にしてしまうこと、お許しください」

 

 アイシアは主に深く頭を下げ、再び扉そ少し開き外の様子を伺う。

 外に目をやった丁度その時、バケツとモップを持った侍女が扉の前を通りがかり、こつこつと足音が過ぎ去っていくのを待つ。

 足音が遠く廊下の向こうに消えた時機を見計らい、アイシアは静かに扉を開け、廊下に飛び出した。

 

 制服を脱いだのは、少しでも目立つ可能性を抑えるため。そして衣擦れの音を少しでも抑える為である。

 長身の身では少し走っただけでも人目につきそうだが、その辺りは騎士として受けてきた訓練や実戦の経験を活かし、庇う。

 

 受けてきたのは戦闘の為の無駄のない体運びで、諜報の為の気配の殺し方ではない。

 しかし、より迅速に潜入し敵の全てを片付けるという目的の訓練も積んでいるため、自分一人の身を隠すことは可能なものと考えていた。

 

「探すのならばやはり……あの男の執務室か」

 

 目指すべき目的地を定め、アイシアは廊下を走る。

 まるで王都の城かといわんばかりの螺旋階段を登り、人の背丈よりも巨大な肖像画が飾られた下を駆け抜ける。

 

 途中、道具を持った侍女達が近づいてくれば物陰を利用して身を潜め、気配が遠ざかれば即座に動き出す。

 幸運なことに、屋敷の中では侍女達以外は見当たらず、屈強な男の衛兵や使用人たちは屋敷の外で働いている姿が見える。おそらくは、あの好色な男の采配であろう。

 

 貴族としてそうまでして、仕事に自分の好みを押し付ける男とは如何なものなのだろうかと嘆きつつ、それが自分の調査に役立っていることに、アイシアは思わず渋い顔になる。

 

 幾度かの発見の窮地を乗り越え、アイシアは階段を登り、最上階の中心にある大きな部屋の前に辿り着く。

 扉を少し開けて、中を覗いてみれば、予想通り伯爵の執務室のようだ。

 

「やはりな……こんな小さな町にこのような大きな屋敷。自己顕示欲の激しい男の様だから、自分の部屋も相応に大きく作っているだろうと思ったが、思った通りだ」

 

 機能や実用性を度外視し、見た目ばかりを気にする内装から察するに、実際に自分が使うことを深く考えず、自意識の高い暮らしを望んでいるだろうという考えが大当たりした。

 

(長々と美術品の展示室や客室は案内されたが、それも一階や二階だけだった……本当に近付けたくない、見せたくないものは自分の近くに纏めておく。小物の発想だな)

 

 さすがにここには見張りがいるかと思ったが、見る限り侍女の姿も見当たらない。

 とことん男は、有事の際以外は自分の傍から引き離したいのだなと呆れつつ、これ幸いと中の気配を確かめ、音を殺して入室する。

 

 そして、中に入ったアイシアは、その景色に絶句した。

 

 黄金でできた裸体の女性の像に、以前見た物よりもさらに過激な裸婦の絵画。棚に置かれた本のタイトルは官能目的のものばかり、仕事に使うようなものはほとんどない。

 セリアと共にいた客室とは比べ物にならないほど、無駄に豪奢で派手な内装が広がっていたのだ。

 

「あれでまだ抑えていたのか……あれでも十分客人は引くだろうに、こんなものを見たらもう平然としてはいられんだろうな」

 

 思わず額を押さえて天井を仰ぐアイシアの鼻にふと、強烈な汗の臭いと生臭さが突き刺さってくる。

 

 臭いの元を探ってみれば、部屋の片隅に誰かが倒れているのが見つかる。

 思わずハッとし、身構えたアイシアであったが、見つけたその人影は先程からピクリとも動かず、身じろぎもしていないことに気付く。

 

 やがてそれが人ではなく、精巧に作られた人形であることに気付いた。

 長い見事な金髪に整った顔、乳房も臀部も大きく作られた、均整の取れた身体つきの女性の人形である。

 

 だが、それにはなぜか、白い謎の液体がこびりついていた。

 頭の先から足の指先まで、その液体が付着していない箇所はほとんどない。臭いの大本はそれのようで、一歩近付けば途端にすさまじい悪臭が襲い掛かってくる。

 アイシアには嗅いだことのない臭いだったが、もう何の目的で作られた物なのか、理解できてしまった。

 

「……こんな男を相手に、私達は2日も」

 

 凄まじい虚しさに襲われながら、アイシアはいやいやと首を横に振って正気を保つ。

 交渉相手がどのような趣味を持っていようが、個人の執務室に無断で侵入しているのは自分の方。やむを得ない状況とはいえ、見なかったことにするくらいの余裕はある。

 そう自分を言い聞かせ、アイシアは人形から離れ、何か交渉の手助けになる物品はないものかと室内を見渡す。

 

 

 もし、ここにたった1枚でも鏡があったなら、彼女は気づいただろう。

 白濁液に塗れたその人形が、背丈も顔立ちも身体つきも、自分にそっくりに作られていることに。

 

 

「……―――」

「!」

 

 机の中を探ろうとしていたアイシアは、扉の外から聞こえてきた話し声に思わずびくりと肩を震わせる。

 聞き覚えのある濁声は、この部屋の主であるあの男のものだ。

 

(いかん、もう戻ってきてしまったか! 身を隠す場所は……)

 

 重要な情報が満載されているであろう机の引き出しを名残惜しく閉じ、アイシアは急いでその場を離れる。

 扉付近に置かれたクローゼットを見つけると、大急ぎで音を殺しつつ開け放ち、隙間に潜り込み閉じ籠もる。衣服に着いた男の臭いが鼻に突き刺さったが、何とか根性で堪えて声を制す。

 

 するとそのすぐ後、バンッと勢いよく扉を開け、苛立った様子のレギンが部屋に入って来た。

 

「だから急かすなと言っているだろう! もう薬は送った! そっちに届くまでに何があったとして、それはそっちの責任であろうが!」

 

 レギンは何やら淡く光る宝石に向かって怒鳴りつけていて、フーフーと荒い息をついて虚空を睨みつけている。

 耳にも何か、同じ色の方で気がついた金属の欠片が入っていて、微かにだがそこから人の声のような物が聞こえてきている。

 

(あれは……確か、帝国で出回っていると噂の、遠くにいる人間と会話ができるとかいう魔道具……だが、何故そんなものが? 帝国のものは、特に発明品などは流通が制限されているはず)

 

 技術力が高く、昨今とんでもない勢いで成長を続けているという帝国の産業。

 その中でも魔法の力を利用した技術が台頭し、生活水準が大きく跳ね上がっているというのが、帝国の繁栄ぶりに対する世の中の認識。

 

 しかし、暮らしがよくなれば資源もまた多く必要とされる。

 技術が発展したがゆえに、国内の資源が枯渇しつつある帝国は、周辺各国への侵略行為でそれを補おうとしている。

 故に周辺各国は、帝国の影響を抑えるため、流通に制限をかけ技術流入を封じる策を取っていた。

 

 アイシアに見られている事にも気づかないまま、レギンは苛立った表情のまま、魔道具に怒鳴り続けていた。

 

「ああ……わかっているわかっている。あんたがたのお陰でこっちの目的はほとんど達成できた。あとはあんたがたが動いてくれれば全部終わる。まったく……準備が大変だったぞ」

(…準備? 何の準備だ?)

 

 会話をしている相手が何者なのか、アイシアは耳をそばだてる。

 侵入者の存在に気付かないまま、レギンは不意ににやりと不気味な笑みを浮かべ、呟いた。

 

 

「これであの忌々しいツーベルクの糞野郎は死ぬ……奴の大切な領地も、そして俺をこんな僻地に追いやったくそったれなこの国も、全部あんたがた帝国が滅ぼしてくれる」

 

 

 アイシアが悲鳴をあげずに済んだのは、レギンの衣服がもたらす刺激臭で、咄嗟に鼻をふさいでいたからだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15.Conspiracy

(この国を……滅ぼす!? 帝国が!? 何だ、あの男は何を……誰と話している!?)

 

 悪臭漂うクローゼットの中で、必死に口を押さえつけながらアイシアは、執務室で騒がしく、一人で喋っている男を凝視する。

 どすどすと苛立った様子でレギンは床を踏み鳴らし、手にした宝石に怒鳴り続ける。

 

「もう相当な数の毒を川に流したんだ……真面に動ける人間が残っていたとして、それが何になる。大陸最大の勢力を誇る帝国軍が、毒で弱った一領地に後れを取るのか? あ?」

(川……毒!? 毒を川に流したのか!? あの男、どれだけ卑劣で最低な行いを……いや!)

 

 べらべらと盛大な声で、しかし隣と下の部屋には届かないよう抑えた声で話すレギン。

 アイシアはその内容に嫌悪で顔を歪め、しかし途中で気づいたある可能性に、愕然と目を見張る。

 

 ツーベルク領には、中心に一本の川が流れている。

 清らかな水質を保ち、領内にある湖に流れ込んでいるその川は、領民にとっての生活用水としても利用される、重要な資源である。

 そのために水生生物の数も種類も豊富で、各家の食卓に魚料理が並ぶことは非常に多い。ツーベルクの風物詩として他領地でも有名になるくらいには、水産物が行き渡っていた。

 他領地が飢饉に陥った時にはその生物を捕らえ、食糧として一時的に供給したこともあるほど、自然の恵みに富んだ環境を有している。

 

 そしてその川の上流は、帝国とツーベルク領の境目に流れていた。

 

「一度に生産できる毒を全て流したところで、大した効果は見られない……しかし、何度も何度も毒を摂取し続ければ、体内に蓄積しある日突然牙を剥くようになる。原因がわからなければ、誰も思わないだろうなぁ―――疫病ではなく、毒を盛られていたなどとは」

 

 ぎり、と食いしばった歯が軋みをあげ、それすらも抑えようとアイシアは自分の膝に爪を突き立てる。

 逃げ場のないクローゼットの中を見られれば一巻の終わり。レギンがどれだけ自爆しようとも、敵の懐であるこの場でそれを追及したところで、揉み消されるのが定め。

 今すぐにでも殴りかかりそうになるのを必死に堪え、アイシアは続けて耳を澄ました。

 

「まさか、あんた方が教えてくれた毒がこうも効くとはな……これに侵された人間は、長い間熱と痛みに苦しみ、なかなか死ねずに生き続けるんだろう? えげつない物を作ったものだ」

 

 書類が乱雑に置かれた、ろくに整理もされていない机に着き、レギンは魔道具越しに嗤いかける。

 引き出しの奥にしまわれていた小瓶を取り出し、チャプチャプと中の液体を揺らしながら、くつくつと喉の奥を鳴らした。

 

「これでもう、ツーベルクの防衛力は半減した。兵士だろうが平民だろうが、ほとんどの人間が毒に侵され、案山子同然……素人でも簡単に殺せる的の出来上がりだ。あとはあんた方帝国の軍勢が真っ直ぐに進軍し、途中のツーベルクを踏み潰し、王都に攻め込む。それだけでもう、この国は終わる。簡単な話だ」

 

 ぎしぎしと、凭れ掛かった椅子を鳴らし、レギンは未来の予想を上機嫌に語る。

 しかし、耳につけた方の魔道具から聞こえてくる声に、鬱陶しそうに眉間にしわを寄せ、ちっと舌打ちをこぼした。

 

「だから……もう必要な分の毒は流しただろう。現に、ツーベルクの小娘が態々やって来たように、疫病と呼ばれて領内に広まっているんだからな。たかだか一回分、毒の荷車が届かなかっただけで、何故こちらが責められねばならん……ああ、そうだともそうだとも」

 

 クローゼットの中にいるアイシアでも聞こえるほどに、魔道具の向こう側にいる何者かは苛立った声を上げている。

 レギンは渋い顔でそれを聞き流し、鼻をほじりながらそっぽを向く。

 暫く罵倒のような、責めるような声は続いていたが、唐突にそれは止み、代わりにレギンがフッと息を吐いて、何度も頷き始めた。

 

「…ああ、わかった。小娘共の事はこっちに任せておけ。奴らは薬の事がある限り、こちらに対して強く申し出られない。しばらくはここに閉じ込めておいてやる」

 

 ぎしっ、と椅子を立ち、レギンは執務室の出口に向かって歩き出す。

 その際見えた彼の目は―――筆舌しがたいほどに、悪意に満ちた醜悪な光で埋め尽くされていた。

 

「全てが終わったら……小娘はお前達にくれてやる。あの上物の従者は、私が貰って楽しませてもらうがな」

 

 くつくつと嗤い、肩を揺らし、レギンは軽い足取りで部屋を後にする。

 バタン、と扉が閉じられ、やけによく響いて聞こえる足音が徐々に遠くなっていく。

 

 そうして少し時間が経ってから、アイシアはクローゼットの中から飛び出した。

 

「はっ……はぁ、はぁ…! おのれ……ガーランド!!」

 

 声を出すのを堪えるため、もう皮膚が裂けて血が滲むほどにつねられた自分の二の腕。

 その痛みも気にならないほどに、アイシアは怒り狂っていた。

 

 王国民でありながら、帝国の人間とつながり、裏切り侵略の手助けを行う不忠儀。

 他領地の民の命を脅かし、そして他者を傷つけることに一切の躊躇いも持たない残虐な精神。

 卑劣で穢れた手段を、自分ではなく他者に行わせている最低な在り方そのもの。

 そして何より主であるセリアを帝国への手土産にしようとし、アイシアにも下劣な欲望を向ける気でいるあの男への嫌悪が、ここにきて振り切れてしまっていた。

 

「…! セリア様を、お前などに穢されてたまるものか…! 何もかも、お前の思い通りにはさせない…!」

 

 アイシアは鬼のような形相で、急ぎ執務室の出口に向かう。

 だが、取っ手に手をかける寸前で止まり、ハッと我に返った様子で踵を返し、先ほどまでレギンがついていた机の方に引き返した。

 

(せめて……あの男の思惑の証拠となるものを持っていかなければ。確固たる証拠がなければ、私一人の進言では、帝国の軍勢を止められない…!)

 

 バサバサと、あとで漁られたことが露見するほどに乱暴に書類を引っ張り出し、引き出しを片っ端から開けていくが、最早気にしている暇はない。

 今自分が行っていることが、騎士らしからぬ姿を晒していることはわかりきっている。だが罪だと罵られ、蔑まれようとも、かの不埒者の蛮行を止める為ならば、進んで汚名を被る覚悟はできていた。

 

 ふと、彼女の脳裏に主の顔が思い浮かぶ。

 領民を救う薬の為に、あの下種な最低男の為に自分自身をも捧げようとした、彼女の悲痛な姿が。

 

 もし、アイシアがこうしてレギンの部屋を探りに来なければ、ツーベルク領に帝国の軍勢が近づいていることも知らないまま、この半ば軟禁のような生活が続いていただろう。

 何も知らないまま、吐き気を催す悪意によって王国は蹂躙され、そしてすべてが終わった後に真実を突き付けられ、絶望の中で二人まとめて、下劣な欲望の慰み者にされていたに違いない。

 

 無謀な行動に出た自分の短慮さに、思わず呆れた笑みがこぼれ、そして同時に凄まじい無力感に苛まれていく。

 

「……できる事なら、あの男は私の手で殺してしまいたいものだ」

 

 悲痛な覚悟を決めたセリアがこの事実を知れば、どれだけ心を痛めるだろうか。

 ガーランドの、全ての黒幕である男の手中にのこのこと入り、数日もの時間と護衛達の命を無駄に散らせてしまったことを、どれだけ悔むのか。

 アイシアは同じく、深く考える事の出来なかった自分自身を殴り飛ばしたくて仕方がなかった。

 

 アイシアは後悔に胸を締め付けられる気分のまま、やがて机に備わった鍵付きの棚を見つけ、力尽くでこじ開ける。

 案の定、そこには厳重に箱にしまわれた何かが隠されていた。

 ためらうことなく箱を開けると、中には封の入った親書が幾つも収められている。封に刻まれているのは、これまた予想通り帝国の紋章だ。

 

 アイシアは箱をきつく抱え込み、急ぎ扉に向かおうとする。

 が、一歩を踏み出す前に少し考え、くるりと背後にある大きな窓に目を向けた。

 

「…もう、礼儀だのなんだの言っている場合ではないな」

 

 ぼそりと呟くと、また方向を変え、閉じられた窓を開けて真下を覗き込んでみる。

 巡回の衛兵は、今のところ姿は見当たらない。交替の時間か、それともサボっているのか、とにかく今ならば姿を見られる危険もまだ低い。

 アイシアは意を決し、窓枠に手と足をかけると、勢いよく飛び降りた。

 

 一刻も早く、この牢獄からセリアを連れ出し、これらの証拠を持ってツーベルクに、そして王都に向かうために。

 

          △▼△▼△▼△

 

「……どうしたのかしら、アイシア。もうだいぶ経ったのに」

 

 目に痛い輝きを放つ客室に一人残されたセリアが、不安気な表情で呟く。

 明るさだけなら、天井のランプやそれに照らされる調度品のおかげで、足りなくは思わない。

 

 不満があるのなら、窓が一つもないために若干の息苦しさがあるところだろうか。

 出入り口がたった一つしかないこの部屋にいては、まるで独房にでも入れられているような気分に陥ってしまう。

 

「まさか、誰かに見つかって捕らわれて……いえ、でしたらすぐに私に誰かが告げに」

 

 従者が何か失態を犯せば、それは主の責任として問われる。

 もし、伯爵の後ろ暗い情報について調べに行ったアイシアが見つかったのなら、すぐさまセリアに対して責任の追及が来るはずだ。そして、交渉においてより重い代価を要求されるに違いない。

 

 危ない橋を渡っていると自覚しつつ、どうか唯一の味方である彼女が無事でいる事を祈るばかりであった。

 

 そんな時だった。

 がちゃっ!と勢いよく扉が開け放たれ、息を切らせたアイシアが飛びこんできたのだ。

 

「キャッ!? ア、アイシア…!?」

「はぁ…はぁ……セ、セリア様、ご無事ですか」

「それはあなたの方でしょう…!? ど、どうしたの、そのけがは…」

「これは……少しばかり、失態を」

 

 やや頬を染め、体中に擦り傷を作ったアイシアが、頭に葉を何枚か乗せながら目を逸らす。

 しかしすぐに首を横に振り、表情を改めてからセリアに向き直った。

 

「セリア様、すぐにご出発の用意を。この屋敷を脱出します」

「脱出…!? まさか、何かとんでもないものを見つけてしまったの!?」

 

 無事で、見つかることなく戻ってきてくれればそれで十分。

 そんなことだけを考えていたセリアだったが、成果が予想を超えたものだと知り、喜びよりも不安の方が大きくなってくる。

 自分の護衛がこうも焦る程の何かがあったという事実に、背筋に震えが走っていた。

 

「おそらく…セリア様のお考えをはるかに上回るものでしょう。ですが、詳しい話は屋敷を……いいえ、ガーランド領を抜け出してからにいたしましょう。さぁ、お急ぎを」

 

 自分で脱いだ騎士の制服を纏い、その上に鎧を重ね、腰に剣を佩き、完全武装したアイシアがセリアに手を差し伸べる。

 息を呑んだセリアは即座にその手を取り、引っ張られるままに走り出す。

 バンッ、と激しい音が周りに聞かれる事も躊躇わず、二人は駆け足で客室を飛び出し、屋敷の出口を、そしてツーベルクへの帰路を目指した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16.Escape

 走る、走る、走る。

 無駄に長い廊下を、随分と遠くに感じる出口に向かってひた走る。

 

 ガーランド領に到着した時と全く同じ格好で、アイシアとセリアは脇目もふらずに走り抜ける。

 見張りや巡回を気にしている暇はない。もし遭遇したとしても、相手を弑してでも押し通る覚悟を決め、前だけを見て足を動かす。

 焦りの為か、一分一秒が異様に長く感じられが、余計な思考を全て削いでただ急ぐ。

 

 既に少し、セリアの息が上がりつつあるが、それに見ない振りをしつつアイシアは主の手を引く。

 なんとしてでも、彼女と自分の手にある確固たる証拠を持って、領地に戻るのだと心に決めて。

 

 そしてようやく、屋敷の出口に繋がる螺旋階段のある空間に辿り着いた、その時だった。

 

「どちらへ行かれるのですかな…?」

 

 唐突に響いた、ねっとりとした悪意がふんだんに込められた声が、アイシアとセリアにかけられる。

 

 ハッと目を見開き、足を止めるアイシア達。

 振り向けば、螺旋階段の上からレギンがニヤニヤと身を称えながら見下ろしている姿がある。

 

「もしや、もうお帰りになられるのですかな? まだ薬の融通についてのお話は終わっておりませんのに……せっかちな事だ。焦りは禁物とお伝えしたはずですが…?」

 

 まるでアイシア達を嘲笑うかのような、そして態と甚振るような口調で語りかけ、レギンは口角をより一層歪に上げる。

 セリアはその笑みに、悍ましいほどの嫌悪と嫌な予感を覚え、ぶるりと体を震わせる。

 青い顔で立ち尽くす主を背に庇い、アイシアがレギンに向き合う。途端に集中する視線に怖気を覚えながら、どうにか女騎士は笑みを取り繕った。

 

「…誠に勝手ながら、薬よりも優先せねばならない用事を思い出してしまいまして。願わくば、このまま失礼させていただきたく」

「困りましたなぁ……できればもう少し我が屋敷でゆっくりしていただきたかったのに」

「申し訳ない……ですが急を要する事態ゆえ、そのご厚意は受け取れそうにありません」

「…そうですか、そうですか」

 

 しらじらしい、と自分でも思いながら、アイシアはじりじりとセリアと共に後退る。

 いまだ困惑した様子で、アイシアとレギンを交互に凝視するセリアを後ろに促し、女騎士は腰に佩いた剣の柄を握り、一筋の冷や汗を流していた。

 

 すると突然、屋敷の出入り口の大扉が大きく開き、武装した衛兵達がなだれ込み、アイシア達を包囲し槍を突き付けてくる。

 その数、おおよそ30は下らない。屋敷の守護を任されていた男達全員が、この場に集結しているようだ。そしてその全員が、邪な視線を兜の中から覗かせていた。

 

「ヒヒ、ヒヒヒ……やっとかよ」

「俺ぁもう待ちくたびれちまったよ」

「あの女、乳も尻もでけぇな。街の女よりも愉しめそうだ」

「……これは、どういうおつもりか」

 

 チャキ、と握った剣を鳴らし、セリアをすっと自分の近くに寄せながら、アイシアは鋭い目で自分達を包囲する衛兵達を睨みつける。

 兜の中でもわかるほど、欲望が滲み出た醜悪な笑みを見せる衛兵たち一人一人を睥睨し、背にしたレギンに問いかける。理由を問う必要がなくとも、言葉にしておかなければ、胸中の怒りで精神が歪みそうであった。

 

 螺旋階段の上から見下ろしたまま、レギンはくつくつと笑い声をあげ、肩を揺らす。

 

「どうもこうも…貴様らが大人しくしようとしないから、多少躾けてやろうと思ったまでだ」

「ガーランド伯爵……!?」

 

 途端に口調だけでなく、苛立たしげな視線に変わったレギンに、セリアがぎょっと目を見張る。

 顔を合わせた当初から、敬う気などさらさらない傲慢な性格の持ち主であることはわかっていたが、爵位の差から言葉そのものに無礼は表していなかった。

 

 だが、今の彼にはその最低限の礼儀もない。

 セリアとアイシアを、ただの小娘達と見下し、どうにでもできる存在として扱う気でいるのがまるわかりな態度に変わっていた。

 

「大人しくここで囚われていれば、痛い目に遭わずに済んだものを。女の分際で、お綺麗な正義感を振りかざしおって……黙って股を開いて玩具になっていればいいんだ、お前達なぞ。遊び道具になるくらいしか能がない女に仕事を邪魔されるなど、癪に障って仕方がないわ」

「何を……言って」

「口を開くな、小娘。いいから黙ってそこに跪け……俺を誰だと思っている? ここの主、支配者だぞ。そしてここにいる以上、お前達も俺の所有物になってんだ。わかれ、玩具共が」

 

 チッ、と舌打ちし、心底鬱陶しそうにセリアを睨むレギンに、セリアはただ茫然と目を見開くばかり。

 アイシアはそんな彼にますます嫌悪で顔を歪め、ギリギリと剣を握る手に力を込めた。

 

「支配者…か。帝国の力を借りねば何も出来ぬ支配者とは、果たしていかほどの恐ろしさがあるだろうな」

「帝国…!? アイシア、それはどういう…」

「…まったく、まさか高潔な騎士様が人の部屋を荒らすような低俗な輩だったとはな。それともなんだ、正義を振りかざせば何をしても許されるのか、あ?」

 

 アイシアの挑発に簡単に乗り、レギンは額に血管を浮き立たせ、頬を痙攣させる。

 しかし、激情のままに殴りかかりに降りるような軽率な行為は働かない程度には冷静さがあり、そして何より度胸はないようだ。

 ぶるぶると拳を震わせていても、その場から動く素振りはない。

 

 アイシアはレギンの小心ぶりに嘆息しながら、一度も彼の方を向くことなく、衛兵達を見据える。

 彼らを見ながら気づいたある事実に冷や汗を流し、アイシアはレギンに背を向けたまま口を開く。

 

「貴殿に何を言われたところで、痛くも痒くもないな。王に爵位を戴いておきながら、己の欲望に負けて帝国に魂を売り渡し、非力と罵る女を大勢で囲み甚振ろうとする……絵に描いたような下種だ、貴様は」

「フン……こんな辺境に追いやられて何を感謝するというのだ。私の価値を真に理解している帝国に従って何が可笑しい! 所詮は恵まれた暮らしを享受している苦労知らずの馬鹿女だな!」

「憎い相手の治める土地に毒を流し込むような男に、どれだけ価値があるというのだ。自己評価が高すぎるぞ、屑め」

 

 アイシアの辛辣な言葉で、後ろにいたセリアがハッと息を呑む。

 レギンを凝視し、彼が浮かべている醜悪な表情の意味を、そして今ここで、そして愛する領民達のいる領地で起こっているすべての悲劇の真相を知る。

 あっという間に真っ青になっていく主の精神を案じながら、アイシアは辺りを見やる。

 

 正面の扉からなだれ込んできた衛兵達、近くに見当たらない他の出口。

 偶然というにはあまりにできすぎた流れ。そして、全く驚く様子もなく現れ、あらかじめ用意されていたような悪意に満ちた台詞。

 それらが示すある事実に、アイシアはさらに冷や汗を流した。

 

「…この状況、貴殿の思惑通りなのではないのか? いくらなんでも、用意が周到過ぎるぞ」

「はっ……賢しい女はやはり嫌いだな。もっと絶望しないのか、もっと愕然として、真っ青な顔で膝をつくくらいの姿は見せてほしかったんだがな。期待にも応えられんとは、使えん女だ」

「……やはり、あの会話は態と聞かせていたのか」

「あ? 会話?」

 

 ぼそりと呟いたアイシアに、レギンは急に訝し気に表情を変える。

 様子の変わったレギンに、アイシアはまさかと思い、一度だけ自分達を罠にはめた男を振り向く。

 

 眉を寄せ、女騎士の発言の意味を考えている様子のレギン。

 間抜けな姿を晒すその男に、アイシアは猛烈に呆れが湧きあがり、自分でも気づかぬうちにハッと鼻で笑ってしまっていた。

 

「何だ、私があの部屋に潜んでいたのに気づかなかったのか。あの会話で、私達が慌てて出てくる所を取り抑えに来た……ぐらいに思っていたんだが、買いかぶり過ぎたようだな」

「ぐっ…この女!」

「ただ、堪えきれず動いた私達を捕らえるために、事前に罠を張っていただけか…身構えて損をした」

 

 図星だったようで、レギンは先程とは打って変わって苦虫を噛み潰したような顔で押し黙る。

 

 小物感を増した男にアイシアはさらに呆れ、そして彼に警戒していた自分自身に呆れる。

 雰囲気に圧され、抱かなくてもいい警戒で余計に神経を摩耗させた徒労感があり、もやもやとした感情が沸く。厄介な敵が一人、要注意対象から外れただけだが、僅かにだが気分が軽くなった。

 

 しかし、後ろに控えていた主は、それどころではなかったらしい。

 

「…あなたの所為、なんですね。ガーランド伯爵…」

 

 ドレスの裾をきつく握りしめ、俯いたセリアがぼそりと呟く。

 忌々し気に歯を食い縛っていたレギンは、肩を震わせるセリアに気付き、途端に嗜虐心に溢れた笑みを復活させた。

 

「はっ…ようやく理解されたか、ずいぶん時間がかかりましたなぁ。そうですよ、私こそが……あなたの大好きな平民と貴方の御父上を苦しめている犯人です。答えはこれでいいですか?」

「なぜっ……なぜそのような! そのような下劣で卑劣な…貴族としての誇りを忘れましたか!?」

「何を言っておられる……そんなもん、最初からねぇよ」

 

 目に涙を溜め、キッと怒りに満ちた目でレギンを見上げるセリア。

 そんな義憤に狩られるセリアに、レギンは冷めた目を返し、荒い口調で吐き捨てる。

 

「っ…!」

「上に立つ者の責任だとか、高貴な家に生まれた責務とか、そんなもんどうでも良いんだよ。だがそのへん、表向きには弁えた振りでもしとかなきゃ周りがうるせぇし、取り上げられちゃこっちが困るからなぁ……窮屈で仕方なかったっつの」

 

 ぺっ、と唾を吐き、パタパタと靴を鳴らして苛立ちを示すレギン。

 もはや最低限取り繕っていた貴族らしさも消え、破落戸のような荒々しい態度の彼に、セリアはもう開いた口が塞がらない。

 

 今目の前にいるのは、自分と同じ人間なのか。

 数多の人々の期待を受け、導く者としての役目を背負って生まれ、そう在るように学び続けてきたセリアとは根本的な部分が異なる、あまりに独善的な在り方。

 怒りよりも先に、化け物でも見ているかのような恐怖に襲われ、セリアはそれ以上何も言えなくなっていた。

 

 ガタガタと震えるセリアと、彼女を庇い険しい顔を見せるアイシア。

 レギンは散々悪感情を吐き出して満足したのか、また醜悪な笑みを浮かべて二人を見下ろす。

 

「さて…もう知りたい事はわかっただろ。怪我したくなきゃ大人しく捕まれ。暴れるようなら……腕の一本や二本は保証できねぇがな」

「世迷言を……このような事実を知り、それでもなお大人しくしていられるはずがないだろうが!」

「馬鹿が! 取っ捕まんのは確定してんだよ肉人形が!」

「旦那ぁ、もういい加減やっちまいましょうよ! もう十分この女共には華持たせてやったでしょう!?」

 

 自分達の雇い主と客人たちの話が終わるのをじっと待っていた衛兵達が、アイシアが徹底抗戦の構えを取ると、我慢の限界が来たように叫び出す。

 その様はまるで、餌を前に長時間〝待て〟を強要された猛犬のように見える。

 

「ああ…その女を最初に捕らえた奴に、最初に犯す権利をくれてやる。だがそっちの小娘はだめだ、帝国への手土産にするからな。どうせなら、初物のまま送ってやった方が喜ぶだろ」

「ヒュー…旦那は鬼畜だねぇ、どっちにせよ性玩具にされるってのにな!」

「遅いか早いかの話だろ、ヒャハハハハ!」

 

〝待て〟から解放された衛兵達が、下卑た笑みと声を上げてじりじりと近づいてくる。今にも涎を垂らして殺到してきそうなほど、獣欲に満ちた眼差しでアイシア達を凝視し、槍を向ける。

 

 アイシアは無言で、剣を鞘から抜いて切先を突き付ける。

 しがみついてくるセリアの肩を叩き、宥めながら、迫り来る衛兵全員に意識を集中させる。刃の如き鋭い目で睨みながら、冷たい声で告げる。

 

「…ただでやられるだけとは思うなよ。不用意に近付けば、貴様らのその粗末な得物、全て切り落としてくれる」

「この状況で、まだまだ威勢がいいな……やれ」

「おおおおおおおお!!」

 

 雇い主からの許しを得て、衛兵達は歓喜の咆哮を上げながら、魅力あふれる女体を誇る得物に殺到していく。

 あの胸は自分が先に、あの小生意気な顔は自分の手で穢す、最初に味を堪能するのは自分だ、と。

 それぞれが自身で持て余す欲望を燃料に、四方から槍を構えて押し寄せる。その結果美女に多少の傷がつこうと、一切構わないほどの熱量だ。

 

 アイシアはひゅんっと剣を振り鳴らし、一瞬だけ自嘲気味に笑う。

 これではまるで、道中の森で帝国兵に襲われた時と全く同じ光景ではないかと、運命の悪戯というものに思わず呆れる。

 

「……せっかく救ってくれたのに、すまないな」

 

 この場にいない、大恩ある異形の事を思い浮かべ、アイシアはキッと表情を引き締める。

 せめて彼の行いが無駄にならないように、ここにいる敵の何人かを道連れに、そして憎いあの男の首を獲ってみせようと、決死の覚悟を決めて剣を振りかぶる。

 衛兵達はその姿に、無駄な抗いと皆で嘲笑いながら、まずは邪魔な両腕を潰してやろうと、周囲から一斉に槍を突き出した。

 

 しかし、彼らは知らなかった。

〝待て〟を強要されていたのは、自分達だけではなかったということを。

 

 

 

「グオルルルルルル!!!」

 

 

 

 突如、一人の衛兵の影が広がり、その中から謎の唸り声と共に巨大な咢が出現する。

 開かれたそれは瞬く間に衛兵を挟み込み、一瞬で閉じてバキバキと肉と骨を粉砕していく。溢れ出た鮮血が、となりにいた衛兵に浴びせられ、辺りが真っ赤に染められた。

 

「……え」

 

 突然の事態に、衛兵達は足を止め、槍を突き出した体勢のまま硬直する。真っ赤に汚れた衛兵は、同僚の一人が消えていることにようやく気付き、しかし何が起こったのか全くわからず瞠目する。

 

 セリアとアイシアも驚愕で目を見開き、同時になぜと疑問符で脳内を一杯にする。

 凍り付く衛兵達とレギン、絶句するアイシア達の前に、ずるずると広がった影の中からそれが―――黒竜が、凄まじき威圧感を放ちながら姿を現していく。

 見ただけでわかる、強烈な怒りと苛立ちに呑まれた黒竜が、固まる男達に向けて、ギラリと目を輝かせ、強烈な咆哮を上げた。

 

「ゴアアアアアアアアア!!!」

 

 そして、逃れようのない悪夢が、彼らに襲い掛かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17.Starvation

 腹の中が、空っぽだった。

 胃の部分が痛みを訴えていて、空いた空間がひたすら虚しさを嘆き、叫んでいる。

 

 もう少し、もう少し。

 見守ると決めたあの二人の人間がこの地を去るまで、もしくはあの二人の目が近くになくなるまで、獲物を追うことは堪えようと努めてきた。

 

 だが、もう駄目だった。

 耐えに耐えて、耐え続けて、堪えなければと自分を律し続けていたが、最早我慢の限界だった。

 

(……腹が、減った)

 

 獲物を一つ呑み込んだが、まだまだ足りない。体が次の獲物を求めている。

 見渡せば、そこらで棒立ちになっている肉がある。鎧に身を包んでいるが、然して固くもなさそうな薄っぺらい皮ばかり、噛み砕き、丸呑みにしてしまっても問題ない。

 数はたかだか数十、全て腹に納めたところで大して満足感は得られそうにない。しかし、少しでいいからこの飢えを抑えたいと、生存本能が叫んでいた。

 

(腹が減った…腹が減った……!)

 

 グルルル……と唸り声が漏れ、牙の間からだらだらと唾液が溢れ出る。

 ぼたぼたと滴り落ちる粘っこい液体が、それの真下の床にに落ち、水溜まりを作る。そして、じゅうじゅうと煙を上げて床を溶かし始める。

 焦げた鼻に刺さる匂いが漂うが、そんなこと全く気にならなかった。

 

 見下ろすと、獲物に囲まれる位置にあの二人がいることに気付く。

 女達は影から再び姿を現したそれを見て、驚愕で大きく目を見開いていた。最初に会った時と全く同じ構図であったが、今のそれがその事を思い出す余裕はない。

 剣を手に、固まって立ち尽くす二人でさえも、それには美味そうな獲物に見えてしまっていたからだ。

 

(腹が減った…! 腹が……腹が減った…! 腹が減った!)

 

「――、――――――――!?」

「―――、―――――!!」

 

 ふと、すぐ横から耳障りな音が聞こえる。

 ぎろりと目を向ければ、獲物がそれに向けて槍を構え、怯えた表情で声を上げている。槍の穂先で鱗を突き、唾を撒き散らしながら何やら叫んでいる。

 意味が分からずとも、それが罵倒を意味する言葉なのだということは、何となく察せられた。

 

 無理もない、とはそれも思う。

 今自分は、食欲に促されるままに彼らの仲間らしき一人を呑み込んだばかりなのだ。突然の凶行に警戒し、敵意を抱かない生物は一つとして存在しないだろう。

 

 だが、どうでもよかった。

 何か言われようと、敵意を向けられようと、今のそれは一つの事にのみ集中していた。

 

 

(腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った!!!)

 

 

 すなわち、己の飢えを抑えることのみに。

 

 思考の全てが塗り潰されていく。辛うじて残っていた、あの二人の動向を見届けるという目的だけは保たれていたはずなのに、それさえも一つの欲に飲み込まれていく。

 たった一本残っていた理性の鎖が、とてつもない力で引き千切られていく。

 

 すぐ近くから聞こえてくる、獲物の放つ音でより一層その欲望は膨れ上がっていく。

 活きの好い獲物、喰い甲斐のありそうな獲物、たらふく食べられそうな獲物。自身の感覚器官が飢えで研ぎ澄まされ、獲物の放つ臭いがより一層強く感じられてくる。

 

 

(―――もう、いいか。我慢しなくても)

 

 

 そしてやがて、プツリと。

 それを繋ぎとめていた理性の鎖が、千切れた。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

「グルアアアアアアアアアア!!」

 

 再び上がる、大気そのものが恐怖するかのような衝撃を放つ、黒竜の咆哮。

 まるで重い水を頭からぶっかけられたかのような圧が、その場にいる誰もの身に降りかかり、全身を縛り付けられたかのように動けなくなる。

 槍を突きつける体勢のまま、衛兵達は一人残らず固められてしまった。

 

「ひっ…ひぃいい!」

 

 何とか身動きをとれた者も、できたことといえば情けない悲鳴をあげて後退る事だけ。

 そうした彼も、次の瞬間には首を伸ばした黒竜に頭からかぶりつかれ、下半身のみを残して尻餅をつく。どぱっ!と噴き出す血が、噴水のようにあたりに撒き散らされた。

 

「何なんだこいつはぁ!?」

「こっ…殺せぇ!」

 

 あっという間に食い殺された仲間のなれの果てを見て、ようやくまた何人かが我に返り、未知の脅威を排除しようと動き出す。

 腐っても、屋敷の守護を任せられている腕利きの兵士。我を取り戻した後の動きは素早く、黒竜の身体を、生物の急所であるはずの喉元や頭蓋の裏を狙って、槍の刃先を突き出す。

 

 だが、渾身の力で突き出した槍の穂先は、ギンッと甲高い音を立てて弾かれ、あるいは刃を欠けさせる。

 火花を散らせて跳ね返る槍に目を見開き、衛兵達は唖然とした表情で固まっていた。

 

「なっ―――」

 

 信じがたいといった顔で、体勢を崩す衛兵達。

 咄嗟の反応も頭から抜け出て、無防備を晒す彼らに、今度は振り向いた黒竜が牙を剥き、大きく口を開けて飛び掛かる。

 今度は一口で一人を丸呑みにし、黒竜の口の端から鮮血が溢れ出す。容易く鎧を噛み砕き、肉と骨を両断していく。

 

 その間にも、黒竜は影の中から腕を出し、近くに居た衛兵を捕まえ、空いた口にどんどん放り込む。

 捕食と咀嚼の動きを一度も緩めることなく、自分の見える範囲にいる獲物を片っ端から捕らえ、食い千切っていく。

 

「う…うわあああ!」

「この化け物がぁ!!」

 

 中には無謀にも再び槍を突き出す者もいたが、それは黒竜が乱雑に振るった片腕の一撃で簡単に吹き飛ばされ、両手足をひしゃげさせて落下する。

 そして潰れた肉を、黒竜は腕を伸ばして摘まみ上げ、口の中に放り込み呑み込んでいく。

 

 無数の肉片を辺りに撒き散らし、黒竜は次から次へと衛兵達に食らいつき、一つ残らず平らげていく。

〝暴食〟の欲に駆られたその姿は、実に怪物と呼ぶに相応しく、地獄に等しい惨状を作り上げていった。

 

「グオオオオオオオオオオ!!」

「な……何だ、これは」

 

 レギンはその光景を、呆然と見ている事しかできなかった。

 自分を守るために雇った盾と槍が、何の前触れもなく現れた怪物によって一方的に屠られ、ただの肉片となって呑み込まれていく。幻覚か悪夢と思い込みたくとも、それができないほどに濃厚な血の匂いが蔓延している。

 

 やがてレギンの両脚から力が抜け、へなへなとその場にへたり込む。

 ただ一人、螺旋階段の上という異なる場所に立っていたために、人間が為す術なく食い殺されていく光景を、ずっと見せつけられる羽目になっていた。

 

「何なんだあの、化け物は…! て、てめぇらか!? てめぇらがあの化け物を呼んだのか、この糞女共が!!」

「……当たらずとも、遠からずというべきか」

 

 助けを求めてか、逃げ道を探してか、きょろきょろと尻餅をついたまま辺りを見渡していたレギンは、階段の下で二人で立ち尽くしている女騎士と令嬢を見つけ、目を吊り上げる。

 自分の恐怖を紛らわせる、言いがかりに等しい喚き声に、アイシアは頬を引き攣らせながら、目を逸らしていた。

 

「あの方……ずっと着いて来て下さっていたのですね」

「そのようですね…どうやらその間、何も口にできていなかったようですが」

 

 歓喜の咆哮を上げ、逃げ惑う衛兵達を捕まえ口の中に放り込んでいく黒竜。

 まるで長い間絶食でもしていたような、久しぶりの獲物に我を失っている様子の怪物に、アイシアは冷や汗を垂らす。

 

 本音を言えば、この状況で現れてくれたことは非常にありがたい。あのままでは、自分一人が衛兵達を突破することはおろか、セリアを逃がす事さえできたかどうかも怪しかった。

 数の利で囲まれるだけでなく、どこにまた伏兵がいるかもわからない四面楚歌の状況。一人でも道連れに、と意気込んだはいいが、一人も傷をつけられないまま捕らわれ、無念のまま辱めを受けていた可能性もあった。

 

(だが…あの状態の彼に近づくのは危険だ。どう見ても、今の彼に正気はない……どれだけ空腹を我慢して、私達を見守ってくれていたんだ、お人好しめ)

 

 狂い暴れる黒竜を見つめ、アイシアはきつく唇を噛み締める。

 

 かつて同じように、アイシア達に襲い掛かろうとしていた帝国兵達を屠った時は、まだ理性的でアイシア達に対する敵意の無さを示す余裕があった。

 しかし、今の黒竜はその逆。目に入ったものは何であろうと、例え知己であるアイシア達であろうと躊躇いなく食い殺しかねない迫力がある。

 

 螺旋階段の影に退き、欄干の間から様子を伺いながら、アイシアとセリアは広がる真っ赤な惨状を見ている以外にできなかった。

 

「……くそっ」

 

 ふと、頭上でそんな声が聞こえ、アイシアはハッと目を見開く。

 振り向けば、レギンが黒竜に忌々しげな視線を送りながら、惨状に背を向けて這い出す姿が確認できた。衛兵達の誰一人に振り向くことなく、脇目もふらずに。

 

「……セリア様、こちらでお待ちを。彼からは姿が見えないよう、お気をつけて」

「アイシア!?」

「あの男だけは…せめて彼ではなく、私の手で始末をつけたいのです!」

 

 顔を手で覆い、代わりに聞こえてくる肉や骨が砕ける音に肩を震わせていたセリアに一言告げて、アイシアは螺旋階段を駆け上っていく。

 まだ一度も血を吸っていない剣を振りかざし、どたどたと情けない姿を晒すレギンの後を追いかける。

 

「待て! ガーランド!」

「ぐぅ…!」

 

 剣を片手に、鬼のような形相で向かってくる女騎士に、レギンは一瞬冷えた目を向けるが、すぐさまキッと表情を改め、よたよたと覚束ない動きで立ち上がる。

 肥満体型をぶるぶる揺らし、彼は壁際に向かい、飾られた斧槍(ハルバード)を外して身構えた。

 

「くっ……来るんじゃねぇ、この魔女め! よくも、よくも俺の国を無茶苦茶にしてくれやがったな!?」

 

 レギンの身の丈を遥かに超える長さの、派手な装飾が施された見た目だけは立派な業物。

 しかし彼が使うには重すぎたようで、両手で持ってもふらふらと穂先が安定していない。重量に引っ張られ、仁王立ちしてなお身体が傾き、その都度斧槍を無理矢理構え直している。

 命を懸けて戦ったことなど一度もない、己が愉しむ事ばかり享受してきた男の、情けない反抗の姿がそこにあった。

 

「あんな化け物をよこしやがって…! もうてめぇを性玩具にするのはやめだ! ここでぶっ殺してやらぁ!!」

「…彼は私の使い魔でもなんでもない。ただのお人好しな、紳士的な怪物だ」

「ふざけんな! てめぇのせいだ! てめぇらがいなきゃ、こんな事にはならなかったんだ糞女め!!」

 

 唾を吐き、目を血走らせ、罵る声を放つレギンに、アイシアは剣を構えて嘆息する。

 

 もう、この男の言っていることは無茶苦茶だ。確かにこの地に来たのは、セリアとアイシアの独断で、この男の計画の内には入っていなかったかもしれない。

 しかし、その行為に走った根本的な原因は、この醜悪な男が建てた卑劣で恥知らずな野望によるものであると、何故忘れているのか。

 

「自分の罪を棚に上げ、他者を責め立てる……貴様のような悍ましい人間は、私は見たことがない」

「うるせぇええ!! お前らが悪いんだよぉ!! さっさと…さっさと死にやがれ糞がぁ!!」

「……救いようがないな」

 

 癇癪を起した子供のように、ぶんぶんと斧槍を振り回し喚き散らすレギン。型も何もない、力任せに刃を振るうだけのそれに、アイシアは目を細める。

 

 すると次の瞬間、アイシアは勢いよく飛び出し、レギンのすぐ目の前にまで移動する。

 大振りで、女騎士をただ近づけさせまいとしていただけだったレギンの懐に入り込み、剣を斧槍の刃に絡ませ、僅かに力を込めて払い除ける。

 たったそれだけで、レギンの手から斧槍が弾き飛ばされ、遠く階段の下の床に突き刺さった。

 

「これで終わりだ……セリア様を悲しませた報いを受けるがいい」

「ひっ…ひ、ひぃい! ひぃっ!!」

 

 至近距離で、怒り狂うアイシアの目を見てしまったレギンは、顔中から液体を噴き出させ、ずるずるとへたりこむ。

 彼の股からジワリと液体が滲み、鼻につく臭いが辺りに広がっていくが、アイシアは最初から嫌悪に満ちた目を向けるだけで、一切表情を変えない。

 

 この場で彼を、彼がセリア達に対して妄想していたように、惨たらしい形で甚振るつもりで、剣の切先を突き付けていた。

 

「うおああああ!!」

「逃げられると思うな、屑め…!」

 

 恐怖が限界にまで達したのか、レギンは喉元に向けられる刃を力尽くで払いのけ、這う這うの体でアイシアから離れようとする。

 樽のような身体が、転がるように移動する様を見下ろし、アイシアはじっくりとその後を追う。

 

 レギンに後ろを振り向く余裕はない。ひたすら女騎士の凶刃から離れる事だけを考え、そして屋敷の出口だけを目指し、螺旋階段の上から飛び降りようとした。

 

「ゴルルルル!!」

「あっ」

「ギャッ―――」

 

 だが、レギンが欄干を乗り越えた丁度その時、宙に舞った肥満の身体を、黒竜がぱくりと頬張った。

 

 牙の間からレギンの両足が覗き、しばらくバタバタと元気に振り回されていたそれが、口の中に消える。

 黒竜は頬張った肉の塊を舌で転がし、やがて眉間にしわを寄せたかと思うと、べっ!と思い切り吐き捨てた。

 

 べちゃっ、と床に転がる、白目を剥いて気を失ったレギンを睨みつけ、黒龍は苛立たしげに唾を吐くのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18.Regret

気付いたら日間ランキング載ってた!
ありがとうございます!!!


……もう片方のオリジナルも是非に。


(……やってしまった)

 

 口の周りに付いた血を舐め取り、それは自分の行いそのものに激しい後悔を抱く。

 歯の間に残った、人間の食べ残しであろう指の欠片を噛み砕きつつ、それは自分の周りに出来上がった景色を見下ろす。

 

 まるで血の海の中を泳いでいるような、真っ赤に濡れた周囲。

 我を忘れ、欲に突き動かされるままに襲い掛かったために、食った獲物の腕や足、首から上がいくつか残され、血の海の中にごろごろと転がっている。

 酷いという外にない、意地汚く行儀が悪すぎるその様に、それは影に埋まりたいほどの羞恥を覚えていた。

 

(これが、空腹を耐えかねた獣の所業か……残すことは俺の流儀に反するというのに、こうも見っともない様を晒すとは。多少の空腹は耐えられるかと思ったが、今の俺はこうも節操がなかったのか)

 

 それは恐る恐る、惨状の中の数少ない生き残りである女性達に目を向けつつ、転がっている肉の破片に腕を伸ばし、こっそり口の中に運ぶ。

 女性達はそれに背を向け、たった一人、それが吐き出した肉団子のような男を見下ろし何かを話している。その隙に、それは自分の食い散らかした痕を隠滅しにかかった。

 

(あの男だけは……なぜだか食う事ができなかったな。体臭が凄まじく飲み込む事さえできなかった……だが、残すのは俺の流儀に反する。我慢して食うか)

 

 取り敢えず周りにあった食べ残しを平らげてから、それは何やら冷淡な表情をしている女性と、やや青い顔で頷いている少女の元に向かう。

 女性達は近付いてくるそれに気付くと、パッと表情を明るいものに変えて出迎えてくる。

 

「…――、―――――――、―――。―――――」

 

 倒れ伏す男に手を伸ばしたそれだが、肥え太ったその体をつまみ上げるより先に、女性がそれの手を取り、語りかけてくる。

 ホッと安堵した様子で、血に濡れたそれの爪を親し気に撫で、どこか熱を孕んで見える眼差しを向けてくる。隣にいる少女も、慌てて引き攣っていた表情を取り繕い、それに真正面から向き直る。

 

 言葉が伝わらなくとも、彼女達の態度は感謝を示していることがわかる。

 屈託のないその笑顔を見た瞬間、それはスッと視線を横にずらした。どうしようもないほどの申し訳なさと不甲斐なさに襲われたからだ。

 

(いや、その……すまない。たぶんだが、俺は……お前達の事も食う気でいたと思うんだ)

 

 自分の限界も知らぬまま、深く考えることなく女性達への助力を決め、その結果自分の食欲が暴走し集まっていた獲物に襲い掛かった。

 もし、彼女達が獲物の人間達の近くに居たのなら、それは迷うことなく彼女達にも牙を剥いていただろう。そうならなかったのは、単にそれの食欲が周りの人間達に向いていたからに過ぎない。

 

 囲まれ、武器を突き付けられていた様子は、我を失っていた中でも確認できた。

 おそらくはそれが介入し暴れ回ったおかげで、窮地を乗り越えられ、その事を深く感謝しているのだろう。それはますます、居心地が悪くなった。

 

(一度手助けしてやろうと思った者達にまで食欲を向けかけるとは……我が肉体ながら情けない。偶然にこうも感謝する日が来るとは)

 

 それが渋い顔のまま黙り込んでいる間にも、女性はずっと語りかけている。それが激しい自己嫌悪に陥っていることなど知らないまま、熱い視線をそれに送り続ける。

 

「――――…、―――、――――――」

「――! ――――――!!」

 

 少女がそんな女性に、何やら意味深な笑みを浮かべて話しかけると、女性は急に顔を真っ赤にして振り向き、まくしたて始める。

 キャーキャーと騒がしくなる女性達。それが胡乱気に見つめている事も忘れた様子で、はしゃぐような甲高い声が交わされていた。

 

(さて、どうしたものか……獲物をたらふく確保できたことは正直嬉しく思うが、何時までこの女性達の旅は続くのか。なんだかもう…自由気儘だった頃が懐かしいな)

 

 自我を失うほどの空腹の危機は逃れたものの、これがいつまで続くかは分からない。

 このまま彼女達と旅を続け、またあのような飢餓に襲われるような事があれば、今度こそ彼女達にも牙を剥きかねない。

 

 出会って数日だが、すでに彼女達に対して多少の愛着を覚えているそれは、その未来だけは回避したいと思っていた。

 

(大勢に囲まれ、欲に満ちた視線に晒されながらも立ち向かう彼女は好ましい……その気概を踏みにじり、犯そうとする連中に嫌悪を抱いたのは確かだが、何時までも付きまとうのもどうか。俺の今後だ、いい加減しっかりと考えておきたい)

 

 女性達は人であり、それは獣にして怪物。

 そもそも誕生からして歪なそれが、当たり前のように女性達の側にいられるとはとても思えない。ただ気になるからという理由だけでは、これまでと同じ関係は続けられないだろう。

 

(ここで別れるべきか……いや、それならそもそもこの人里に入る前の段階で別れておけばよかったのか? しかし、それでは彼女達はここであの連中に……いや、待てよ?)

 

 眉間にしわを寄せ、策を講じていたそれは、ふと浮かんできた考えに目を見開く。

 いまだ赤い顔をしている女性と、悪戯を目論む子供のような顔の少女。彼女達とともにあった時間を思い出し、それは真剣に考えてみる。

 

(……このままこの女性達についていけば、彼女達を狙う敵にまた遭遇できるか? 思えばこれまで、大勢で襲ってくることが常だったのだし、多少空腹を我慢できれば、あとでたらふく食えるのではないのか…?)

 

〝損して得取れ〟

 そんな一文が脳裏に思い浮かんだ瞬間、それの目は一際強い光を発していた。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

「……やはり凄まじいな、貴殿の力は」

 

 辺り一面、真っ赤に染まった屋敷の中を見渡し、アイシアは戦慄した表情で呟く。

 数十人の人間の体内の血液、それが全て撒き散らされれば、こうも悲惨な光景が出来上がるのかと感嘆し、そしてそれを成した黒竜に驚愕する。

 

 足元には、白目を剥いたまま気を失っているレギンがいて、びくびくと痙攣を繰り返している。

 体中血で真っ赤に染まっているが、目立った外傷はない。おそらく黒竜の口の中にあった血が、頬張られた際に付着したのだろう。

 悪運の強い奴だと、アイシアはフンと冷たい表情で鼻を鳴らした。

 

「セリア様、この男はどういたしましょう。ここまでの蛮行、この場で首を刎ねても、彼に食べて貰っても、誰にも咎められることはないでしょうが…」

「……できれば、法での裁きを求めたいです。一時の感情で人の命を奪う事は、貴方にもしてほしくないですし……それにあの方も、一度吐き出したぐらいですし、食べたくはないのではないでしょうか」

「…そうですね、余計なことを申しました」

 

 転がっている男に、アイシアはもう嫌悪以外の感情を抱けない。

 悪臭を放つ虫けらのような、とにかく視界から外したくて仕方がない、主を穢しかけた下劣な男。この場で始末してやりたかったが、当の主からそれを止められては応じざるを得ない。

 

 悶々とした気分を持て余していたアイシアは、ふと背後から近づく黒竜に気付く。

 何を思ってか、アイシア達に片腕を伸ばして来る黒竜。アイシアはハッと我に返ると、伸ばされた鋭い爪を手に取り、ギュッと握りしめた。

 

「また…貴殿に救われてしまったな。どれだけ我々は恩を重ねなければならないのか、貴殿は本当にひどい奴だぞ」

 

 血に濡れた爪を撫で、そして落ち着きを取り戻した黒竜の目を見つめ、女騎士はふっと微笑む。

 何故だか頬が熱くなり、きょとんとした顔で見下ろして来る黒竜から目を離せない。こちらが何を言っているのかまるでわかっていない様子が、何故だか愛おしくて仕方がない。

 爪に触れる手に力が籠もり出すと、その様子を見つめていたセリアが、くすくすロ笑い声をあげだした。

 

「アイシア。素敵な竜の殿方に見惚れるのは結構だけど、もういい加減現実に戻ってきてくださらない?」

 

 主からの指摘に、アイシアはカッと頬を赤くする。悪戯っぽい笑みを浮かべ、意味深な雰囲気を醸し出すセリアに、アイシアはたまらず詰め寄った。

 

「セリア様…! そのように私をからかうのはおやめください! 彼は恩人、感謝を伝えることぐらい当たり前のことです! 何もおかしくはありません!」

「そんな恋する乙女のような顔で言われたって、説得力がないわよ?」

「こっ…!? んんっ……御冗談を」

 

 一度大きく咳ばらいをし、アイシアはどくどくと騒がしくなる心臓の音を誤魔化す。

 着実におかしくなっている自分の気持ちを無視し、女騎士は無理矢理黒竜から目を逸らす。あのままでは、本格的に何か妙な事をしでかしそうで、自分で自分が恐ろしかった。

 

(……それもこれも、彼が怪物らしからぬことばかりするからだ。怨むぞ…!)

「あ、貴方の言う通りですね、セリア様。こんな事をしている場合ではありません……私が見たことを、詳しく説明させていただきます」

 

 アイシアは即座に表情を引き締め、主に向き直る。

 そして、レギンの執務室で手に入れた書類と彼の語る内容―――王国の裏切り者と帝国との癒着について、それに纏わる恐るべき陰謀についてを、流行る気持ちを抑えて簡潔に語る。

 

 予想通り、全てを知ったセリアは真っ青な顔で固まり、信じられないといった様子で立ち尽くす。

 わなわなと手を震わせ、足元に転がるレギンを鋭い目で睨みつけた。

 

「…こんな男の為に、民は、お父様は…!」

「帝国が動き出す前に、一刻も早く王都へ向かいましょう。陛下にこの事実を伝えなければ、ツーベルク領は勿論、この国も危機に陥ります……ですが、御父上や領民の事は」

 

 怒りに震えるセリアに、アイシアは胸が締め付けられるような気持ちのまま告げる。

 アイシアが忠誠を誓ったのはセリア、守るべきは彼女と彼女が大事にしている全てだ。それ以外のものの優先順位は下であり、本音を言えば後回しにしたい。

 どうにかして薬を手に入れ、病で苦しむ領民達を優先的に救いたい。

 

 だが、帝国が攻めてくるかもしれないという今の状況においてはこの順位は覆る。

 レギンの語った計画通りならば、真っ先に危険なのはツーベルク領で間違いないが、薬で彼らを救ったところですくわれる事にはならない。弱り切った彼らでは、帝国の進軍を止めるどころか戦いにすらないらないだろう。

 

 故に必要なのは、一刻も早くこの事実を王国に伝え、軍を派遣してもらうことだ。

 帝国が進軍の準備段階にあるなら、今すぐに伝えればこちらも相応の用意が可能であり、王国の危機もツーベルク領も同時に救う事ができるはず。

 

「セリア様…お辛いとは思いますが、どうか」

「……そうね、そうしなければ、誰も救えないのだものね」

 

 だが、理解はできても納得はできないというのが人間というもの。

 必要な事とはいえ、セリア達が王都に向かう間、本当に救いたいツーベルクの人々を見殺しにしてしまうことが、セリアにはたまらなく苦しい事であった。

 

「…く、くくくっ。甘い連中だな、本当に…」

 

 暗い表情で俯いていたアイシア達。

 そこへ、悪意に満ちた不気味な笑い声が響き、女性達は慌てて視線を足元に落とした。

 

 気を失っていたはずのレギンが、いつの間にか目を覚まし、アイシアとセリアにニタニタと悪魔のような笑みを見せていたのだ。

 

「もう…もう遅いわ。今から王都に向かったところでな…」

「何だと? どういうことだ!?」

「言葉通りだ……もう時間の猶予はない。貴様らが今から王都に向かったところで、何の意味もない……この国も、ツーベルクも、全て帝国に食い荒らされるんだよ」

 

 厳しい目で、同時に言い表しがたい嫌な予感を覚えたアイシアがレギンを睨む。

 その直後、彼女たちはこの下劣な男の言葉の意味に気付き、蒼白な顔で絶句した。

 

「わかったようだな……そうだ、もう帝国は動いている。お前が聞いた、俺と帝国の通信……あれが行われた時点で、帝国はツーベルクに進軍を開始しているんだよ。もう十分に毒を流しきったからな…」

 

 真っ青な顔で棒立ちになる、女騎士と令嬢。

 レギンは彼女達のその絶望しきった顔が大層気に入ったのか、くつくつと肩を震わせて愉悦を表す。見る見るうちに顔を真っ赤にするアイシアに、彼はより一層悪意をあらわにした。

 

「貴様…! どれだけ私達を馬鹿にすれば!?」

「ほらほらどうした…? こんな所で時間を無駄にしていていいのか? さっさと王都に向かわなければ、何もかもが終わるぞ? まぁ、今からいったところで全部無駄だろうがな……くく、クハハハハハ!!」

 

 我慢の限界だとでも言うように、レギンは血走った目でアイシア達を見上げ、哄笑をあげる。

 

 その姿は、まさに人心など微塵も持ち合わせない悪魔のよう。

 人の不幸と苦しみを糧にする最悪の存在で、気付けばアイシアは、下卑た顔を見せつける彼の顔面を思い切り蹴りつけ、強制的に黙らせていた。

 

「この、屑め…!」

「アイシア……急がなければ、急がなければ、民が、お父様が、この国が!」

「セリア様…!」

 

 再び気を失うレギンを、何度も蹴りつけこのまま殺してしまいたくなるアイシア。

 だが、我を失った様子で縋りついてくるセリアの声で正気に戻り、キッと視線を背後に―――所在なさげに、口周りに付いた血を舐め取っていた黒竜に向ける。

 

「恥を承知で頼む…! もう一度、もう一度私達を背に乗せて運んではくれないか!? 事は一刻を争う事態なのだ! 礼はたまった分をまとめて返してみせる……だから、頼む!」

 

 アイシアは黒竜に縋りつき、鋭い鱗をきつく掴んで懇願する。

 セリアや、他に誰かの視線があろうと構わず、言葉も通じているかもわからない怪物に向けて声を張り上げる。

 滑稽に見えようが、正気に見えなくとも関係ない。

 今この場で取れる最善の行動を取れなければ、絶対に後悔すると確信し、必死に頭を下げ続ける。

 

「頼む…! 貴殿だけが頼りなのだ! 何を要求されたっていい、だから……頼む!」

「アイシア…! いいえ、代価を要求するのなら、どうか私に! 私に自由にできる者は……この身体でも、何でもお渡しします! ですからどうか…! 民を…お父様を!」

 

 訝しげに首を傾げ、見下ろして来る黒竜。

 唸る事も、吠える事もしない怪物の態度に、アイシアもセリアも悔し気に歯を食い縛る。

 

 やはり、無謀な考えだったのかと、自分達の見通しの甘さをひたすらに悔みかけた、その時。

 

「…グルルル」

 

 アイシアとセリアに背を向け、小さく唸り声をあげた黒竜が、ニヤリと口角を上げて目を向ける。

 丁度、出会ったばかりの頃に、自ら手助けを申し出た時と同じように。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19.Urgent

「……ったく、いっつもいっつも暇だねぇ」

 

 ガーランド領の境、防犯用の壁の入り口を守護する役割を担う衛兵は、そう呟いて憮然と空を仰ぐ。

 滅多に人がやってくることもない、賊が襲うほどの魅力もないこの地における守護はひたすらに退屈で、しかし代わりに非常に平穏である。

 普通によくもなく、質素に暮らす分に不足はなく、のんびりしていれば事足りる環境である。

 

 普通に過ごしていれば何の不満もないのに、彼が不貞腐れている理由はただ一つ、屋敷に手催される肉の宴に参加し損ねているからだ。

 

「…くそっ。帝国の連中と仲良くしたところで、得するのはたかだか数人ぐらいだろ。やってらんねぇよ、ちくしょうめ」

 

 ガーランド領では、すでに暗黙の了解となっている領主と帝国の癒着。国を墜とす手伝いをする代わりに、遠く離れた領地に毒を撒き、邪魔になる土地を機能不全に陥らせるという計画。

 決して豊かではない、領主の決定に逆らえる者もおらず、かといって王国に対する忠義もない民は、粛々と領主の行いを黙認してきた。

 

 そんな折に、薬を求めてやってきた別の領地の御令嬢とその従者。

 帝国への手土産とするために彼女達を足止めし、計画遂行の邪魔をさせず捕らえる事が決まった時は、両手を上げて喜んだものだ。

 今まで何の喜びもないまま生きていた自分にも、ようやく愉しみができたと。

 

 しかし、衛兵となって日が浅い彼は、先輩達に止められ宴に参加させてもらえなかった。それ故に、彼はこうして暇を持て余していたのだ。

 

「あー、くっそ……あの女たち、どっちでもいいから抱きたかったなぁ~」

 

 思わず涎が出てくるほどに魅力的な体をした二人は、今頃はこの地の領主の手で存分に堪能されている事であろう。

 逆らうことはできなくとも、一人でいるこの時だけは存分に愚痴をこぼしたかった。

 

 ぼんやりと空を見上げていたその時。

 衛兵は門の内側から、何やら叫び声のような物が聞こえてきた気がして、訝し気に顔を上げた。

 

「…何だ? 何かあったの―――」

 

 ひょっとして、あの美女達が抵抗して逃げ回っているのか。そんな想像をし、彼はふと脳裏に過った思い付きに笑みを浮かべる。

 

 もし、この場で自分が美女達を捉えてみせれば、彼女達を抱く権利を得られるのではないか。

 思わぬ得ができるのではないか、と期待した彼は立てかけてあった槍を手に、門に備わった小さな扉を少し開け、中の様子を伺おうとした。

 

 が、その行為は大きな間違いであった。

 

「ゴルルルル!!」

 

 門を開けた彼が目にしたのは、見るも恐ろしい怪物の形相。夜闇のように黒い、鋭い両目を向けて迫り来る、巨大な爬虫類の貌だった。

 迫り来る異形の姿に、衛兵は一瞬硬直するものの、慌てて扉を閉じて後退る。

 

 が、その時には既に黒竜は門の真正面から激突し、粉々に破壊して壁を突破していた。

 ご丁寧に、衛兵ごと巻き込み細切れ肉のようにしてみせてから、鬱蒼と茂る森の中へまっすぐに突っ込んでいた。

 

 

 

 

 ザザザザザッ…!

 草木が擦れ合う音が断続的に響き、巨大な影が森の中を疾走する。

 巨木が立ち並ぶ道なき道であろうが、巨石が転がる越えられぬ道であろうがお構いなしに、黒竜は二人の美女を背に乗せ、ひたすらに先を目指す。

 その背に乗る美女達も、上半身に枝や葉がバサバサと当たろうが、懸命にこらえて先を見据える。

 

 影という、どこにでもできる、そして黒竜にしか通る事の出来ない道。

 本来であれば迂回し、大きなロスを覚悟しなければならない旅も、黒竜の異能の力をもって容易く近道できる。一分一秒が惜しいアイシアとセリアにとっては、これ以上に無いほどありがたい力だ。

 

 帝国の進軍という窮地。

 国を脅かそうとしている悪魔の軍勢が、今こうしている間にも着々と迫り、愛する領民達が寝込んでいる領地に魔の手を伸ばしつつある危機。休んでいる暇などなかった。

 

「…! この先は崖だ、気を付け―――」

「グルルルル……ガァッ!!」

 

 突如、黒竜が一度影の中に深く沈み、アイシアとセリアの足も影の中に浸る。

 何事か、と思った次の瞬間、黒竜は大きく影の中から勢いよく飛び上がり、前方にあった深く広い崖を越えていた。

 

 急に襲い掛かる浮遊感に、アイシアとセリアはすかさず黒竜の背にしがみつく。

 数秒後、黒竜は向こう岸の地面にできた影の中に潜り、一切の減速をしないまま地上に浮上した。

 

「…! 本当に、彼がいなかったらと思うとぞっとする…!」

 

 アイシアはぶるりと背筋を震わせ、黒竜の背中を凝視する。

 同時に、先ほどの跳躍と潜水ならぬ潜影で気づいたある事実に、表情を引きつらせた。

 

(やはり……彼とくっついているものならば、共に影の中に潜れるのか。だがその代わりに―――影の中では息ができない…!)

 

 足が影の中に沈んだ時、全身が沈んだ時、アイシアとセリアの身体が影から弾かれる事はなかった。

 どういう原理や法則があるのかまるでわからないが、その事実に安堵しつつも、呼吸の可否という別の危険性が出てきて冷や汗が出てくる。

 

 ふと、後ろのセリアに目を向けると、激しく咳き込み涙目になっている。

 何の前触れもなく潜られ、心の準備ができないままに呼吸を阻害され、酷く恐ろしい思いをしたのだろう。血の気が引けた青い顔のまま、何度も深呼吸を繰り返していた。

 

 先ほどは数秒程度の潜航であったが、もしこれが倍以上の長さ、それも数分単位のものであったなら、間違いなく呼吸困難で死に至る。

 遺体も何も残らないまま、一瞬だけ見えた暗い闇の世界に閉じ込められてしまうのだ。

 想像するだけで恐ろしく、何も言わずとも地上を泳ぎ続けてくれている黒竜の気遣いに、心底感謝したくなる。

 

(もし、方角だけ指示をして潜り続けられたならば、何の障害物もなくさらに早い移動ができただろうに…! こんな所で、私達自身が邪魔になっているのか…!)

 

 どんな場所であろうと、どんな障害があろうと一切干渉されない、ある意味最強の回避能力を有する黒竜。その最大の利点を、アイシア達自身が潰している。

 頼んだ立場で言えないが、融通の利かない力に悪態をつきたかった。

 

「この先に小高い丘がある……それを越えれば王都はすぐだ」

「グルオオオ!」

 

 黒竜の影を泳ぐ速さに押されながら、せめて道案内ぐらいはと声を上げるアイシア。腰にしがみつくセリアの無事を時折確かめ、泳ぐ黒竜に指先で方向を指示する。

 

 女騎士の言葉はわからない黒竜。しかし指先の示す先が進みたい方角だということはわかっているようで、その方角にひたすら泳ぎ続ける。

 後は、背中に乗せた二人が振り落とされない事だけを気にし、黒竜は前だけを見据えて突き進んだ。

 

「アイシア…! 間に合うかしら…?」

「まだわかりません…! ですが、彼の異能の力ならもしかすれば…! この場で必要なのは、私達が何があっても彼にしがみつくという覚悟と根性です!」

 

 既に、草木がぶつかってできた生傷だらけのアイシアが、セリアにも同じ傷跡が残らないよう盾になり告げる。

 すでに彼女の装いも、枝に引っ掛かって制服はボロボロ、鎧も傷だらけになっている。セリアのドレスも端から裂けて、ややあられもない格好になりつつある。

 

 しかし、自分の格好にこだわっている暇はない。

 生傷の十や二十を気にしていては、迫り来る帝国の軍勢から民の命を守る事はできないのだ。

 

「問題なのは…王都に着いてからです。セリア様ならともかく、一介の騎士でしかない私の進言を陛下が聞き入れて下さるかどうか……話が通ったところで、話ができるまでどれだけの時間がかかるか」

「っ…そうね、そうよね」

 

 如何に重要な情報を持って訪れたとして、城の兵士が易々とアイシア達を通してくれるはずもない。そこまで簡単に通してしまっては、兵士の意味がない。

 少なくとも王都に着き、城に辿り着いたとして、王に話が通るまでかなりの時間を要することになる。

 事態の深刻さを考えると、たまらなくもどかしく思えてしまう。

 

 それに、とアイシアは視線を落とし、自分達が跨る黒竜に目を向ける。

 

「彼が共にいても、話がややこしくなるでしょうね……人目のつかない場所で降ろしてもらい、その後は私達で走りましょう」

「わかったわ」

 

 アイシアの決めた方針に、セリアは即座に真意を理解して頷きを見せる。

 決して短くない時間を過ごした彼女達にしてみれば、この上なく頼もしい存在。しかし、彼を知らない者達からすれば、不気味で得体の知れない化け物でしかないのだ。

 

(どこでもいい……兵舎か何処かで馬でも借りられれば、少しでも時間を短縮できる。そこから先は私達の役目だ……彼にこれ以上、負担をかける事はない)

 

 ただでさえ多くの借りを重ねている、律儀な異形。

 見た目は恐ろしく、生まれも育ちも定かではない、通常の生物とは一線を画す謎の存在だが、弱きを助け強きを挫く義侠心を持ち合わせた稀有な存在。

 そんな彼が、彼の内面を良く知らない人間達に敵意を向けられる姿は見たくない。

 

 今まさに力を借り続けている情けない状態だが、黒竜の今後を考える事しか、今のアイシアにできる恩返しは見つからなかった。

 

 背中でそう、悶々と考え込むアイシアに気付くことなく、黒竜は最初に彼女が示した通りの方向に、真っ直ぐ泳ぎ続ける。

 崖を幾度か跳び越え、大岩を通り抜け、巨木の間を素通りし、広い森の中を、広い草原を、そして沼や湖を通過する。その間一度も速度を緩めることなく、ひたすらに前だけを目指し続ける。

 

「ピュィイ!」

「ゴルルル…!」

 

 途中、角兎や爪熊、丸々と肥えた獣と遭遇することも多々あった。

 しかし、黒竜はその一切に目をくれず、完全に無視し森の中を突っ切っていく。

 

 いかに空腹が近づこうとも、アイシアとセリアの願いを果たす事のみを考えているかのようなその様に、アイシアの目頭が思わず熱くなる。

 こんなにも義理堅い心を持った存在に、どうしてもっと早く出会う事ができなかったのかと。

 

「……必ずだ。必ず、お前が満足するような返礼をしてみせるからな」

 

 感情が目から溢れ出ないよう、ぐっと瞼をきつく閉じ、そう頭を下げる女騎士。

 言葉が届いていなくても、せめてこの気持ちだけでも届くようにと願い、鋭い視線で王都の方角を見据えて唇を噛む。

 セリアも彼女の後ろで、忠臣の悩みをひしひしと感じつつ、間に合う事を、黒竜がやり遂げてくれることを願う。

 

 黒竜自身が実際にどのような事を考えているかも知らないまま、女騎士と令嬢は異形の背にしがみつき続ける。

 そして、飲まず食わずの丸一日が過ぎ、いくつもの森と丘を越えたその先で。

 

 黒竜とアイシア達は、木々が開けた先に広がる、神々しく美しい人の街―――王都とその中心にそびえ立つ王城を視界に映した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20.Royal capital

 白亜の城。

 エイベルン王国の城がそう呼ばれるようになったのは、王都全体に使われる純白の石材に由来する。

 陽の光を浴びれば白銀に、夕日を浴びれば黄金に輝くその石はエイベルンの領土から採掘され、主に建築材として重宝されてきた、周辺国家からも高い需要がある代物である。

 

 固く、それでいて比較的軽い材質であるそれは、城だけではなく王都の建物全般にも用いられ、街を囲う壁にも利用されている。故に、街全体が純白に輝いているようにも見えていた。

 豊かな山と森の間、広大な草原の中心に鎮座する王都は、はっきりとしたコントラストを生み出していた。

 

 現在の王の治世になってからは争い事に巻き込まれる事もなく、平和な暮らしを続けてきたその都。

 そこに今、異質な訪問者が現れた。

 

「…? 何だあれは…」

 

 王都を守る壁に設けられた、東西南北四つの門。王都をぐるりと囲う堀の向こう側で、橋でつなげられた巨大な入り口。

 純白の石材の中、目立つ漆黒の鋼鉄の扉が取り付けられたその門の左右に控えていた、純白の甲冑で身を包んだ兵士達が、視界に入ったそれに訝しげな目を向ける。

 

 遥か遠く、草原の向こう側に見えた、黒い影。

 信じられないような速さで向かってくる、夜闇よりも黒い巨大な生物の姿に、兵士達はすぐさま警戒態勢に入った。

 

「あれは…竜か? こっちに向かって来るぞ!?」

「竜だと!? 何故そんな化け物がこの国に向かって来るんだ!」

 

 過去にない、野生の猛獣の襲撃。

 異常気象や災害で食べるものがなくなった獣が、人里におりて被害をもたらす事件はそう珍しくもないが、それはあくまで山や森に近い田舎で起こる事。

 王都のような、自然を完全に隔てた環境ではそうそう起こる事はない、異様な事態である。

 

 しかし、兵士達が最も困惑していたのは、現れた黒竜のその在りようだった。

 見えているのは黒竜の首から上で、身体の殆どは地面の下に―――いや、自らが生み出した影の中に沈んでいる。見間違いかと目を擦り、見返すも、目に見える光景が変わる様子はない。

 明らかに異様な光景に、兵士達は顔を引き攣らせ、あちこちで驚愕の声を上げていた。

 

「何だあの竜は……影の中を、泳いでいる…!?」

「奴が何なのかなど、どうでもいい! 橋を上げろ! 壁の中に入れるな!」

 

 一瞬戸惑う兵士達だったが、厳しい訓練を経験している彼らは取り乱すことはなく、冷静に外敵が現れた場合の行動を迅速に行う。

 

 堀に渡された橋を、ギリギリと両側に備わった鎖を引いて跳ね上げていく。

 底に無数の罠が仕掛けられた、深く幅広い堀。跳び越えるには遠く、下りていけばたちまち致命傷を負う堀を回避するには橋を渡るしかなく、これでもう誰もこちら側に来ることはできない。

 防衛のために設けられたその機構が久しぶりに使われ、ガコンと道が完全に閉ざされた。

 

 

 

 それを目の当たりにし、悔し気に歯を食い縛る者がいた。

 兵士達からは見えない位置、黒竜の背に乗るアイシアとセリアである。

 

「く…やはりもう警戒されてしまったか。頼もしいと言えば頼もしい対応の速さだが、今は少しばかり腹立たしいな」

 

 黒竜の背に乗り、丸一日。彼の者の助力で、予想以上の早さで王都近くまで辿り着く事ができた。

 だが、最初に考えていたように、途中で乗り換えるための馬を手に入れられず、仕方なく王都の近くぎりぎりまで世話になるしかなかった。

 騒ぎになる事を考え、少し離れた位置で降ろしてもらうつもりでいたのに、その距離感を測り損ねてしまったのだ。

 

「アイシア、どうするの? これではもう一度橋を下ろしてもらわなければ…」

「…どうにかして、こちらの話を聞いてもらうしかありません。門の前まで行きましたら、兵士達に声をかけていただけますか。私よりも、セリア様の方が耳を傾けてくれるかもしれません」

「わ、わかったわ…!」

 

 不安げに尋ねるセリアに、アイシアは険しい顔のまま答える。

 ぐっ、と拳を握ってやる気を見せるセリアから目を逸らしてから、アイシアは自分の浅はかさに歯を食い縛った。

 

(目立つ白旗でももって来ればよかったか…こちらに私達がいる事を伝え、争いの意志がないことを教えれば、警戒を薄れさせられたかもしれないのに…!)

 

 見るからに恐ろし気な風貌をした黒竜、その背に乗る女騎士と令嬢。

 こんな連中が現れて、警戒するなという方が無理である。国を守る役目を担った兵士達ならば、間違いなくこれを排除しにかかる。いや、そうしなければ守護者の人を任せられた意味がない。

 

 焦りのせいで頭がうまく働かないのか、セリアとの旅が始まって以来上手く物事を運べないでいる。

 精神的にまだまだ未熟であることを、自分で自分に突き付けているようで、アイシアはひたすらに自分の浅慮さを恥じるばかりであった。

 

(…後悔するのは、全てをやりきってからだ)

 

 ぐっ、と唇を噛み、アイシアは自己嫌悪の感情をどうにか抑え込む。

 表情を引き締めると、丸一日影を泳ぎ続け、アイシア達を運び続けてくれた黒竜の首元に手を伸ばし、光沢のある鱗を撫でる。

 

「…よし、もうここでいいだろう。貴殿には世話になった、本当にありがとう…!」

 

 感謝を伝え、身振り手振りでここで降りる事を伝えるアイシア。

 警戒する兵士達を刺激しないよう、少しでも離れた位置に留まってもらい、進言が終わるまで待ってもらおうと、黒竜の耳元に口を寄せて告げる。

 

 だが黒竜は、首元に触れるアイシアに目を向けると、小さく唸って視線を前に戻す。そして減速するのではなく、あろうことかより一層速度を上げて泳ぎだした。

 既に馬が走るよりも速く泳いでいたのに、それまでの倍近い速さになっていった。

 

「…!? ま、待て…違う! 行くんじゃない! 止まってくれ!!」

「う、ウソ…! このまま行ったら…!」

 

 とてつもない加速で、髪が暴風に巻き込まれたように嬲られ、荒れ狂う。

 必死に制止を伝えようとするアイシアだが、あまりの速さで黒竜の注意を引くこともできず、セリアとともに吹き飛ばされないようにしがみつく事しかできない。

 

 凄まじい速度で迫り来る黒竜に、警戒し身構えていた兵士達が狼狽し出した。

 道を閉ざせば、まずその勢いを止められるだろうと考えていたのに、反対に加速するとは微塵も思っていなかった。

 

「なっ…と、止まれぇぇ!」

「それ以上近付くな、化け物ォ!!」

 

 迎撃のために、弓矢をつがえて壁の上に整列する十数人の兵士達。他の位置に控えていた兵士達も集まってきて、謎の巨大な襲撃者を止めようと、弦を引き絞る。

 その背に二人の美女達が乗っている事にも気づかないまま、次の瞬間には兵士達の手から、鋭く無数の矢が放たれる。

 

 黒竜は自身に向かってくる矢を前に、一切動じる事はなく、その全てを受け止める。鱗に当たった矢は全て弾かれ、一辺の傷をつけることなく地面に、影の中に落ちていく。

 

 迎撃が無駄に終わった光景に、兵士達は思わず手を止めて目を見開く。だがすぐに我に返り、弓を捨てると今度は槍に持ち替えて、穂先を黒竜に向けて待ち構える。

 至近距離にまで近づこうものなら、差し違えてでも止めてやる覚悟で、迫り来る怪物に闘志を昂らせる。

 

 しかしその覚悟が報われる事はなかった。

 黒竜はすさまじい速度を保ったまま突然影に潜り、兵士達の視界から消えてしまったからである。

 

「なっ…!?」

 

 槍を手にしたまま、呆然と立ち尽くす兵士達。

 簡単に隠れられるはずのない巨体を探し、壁の上から身を乗り出し、辺り一面をきょろきょろと探し回る。だが、文字通り影も形も見当たらず、徐々に不安と恐怖が芽生え始める。

 一体どこに消えた、どこから向かってくる、という不安で、兵士達の顔中に脂汗が噴き出していく。

 

 ゴクリ、と仲間の誰かが息を呑む音が妙に響く。

 まさか、今まで見ていたものは幻か何かだったのではないか、などと言う突拍子もない考えが浮かび出したその時。

 

「―――ゴルルルル!!」

 

 堀の直前から、全身を真っ直ぐに伸ばした黒竜が、矢のような鋭さで飛び出し、壁の上に並んだ兵士達の元に飛翔する。

 水中から飛び出すように激しい音がしたわけでもない、本当に静かに、風切り音のみを残し、巨大な黒竜が空中に飛び出し、兵士達を飛び越えていく。

 

 兵士達はひたすらに唖然となり、役目も忘れて呆然とその光景を凝視する。

 しん、と静まり返った彼らを悠々と越え、黒竜は壁の向こう側の地面へと潜り込んでしまった。

 

 

 

「……! はぁっ!!」

「げほっ…! ゲホッ…」

 

 視界に光が戻って来ると、アイシアとセリアは新鮮な空気を求めて大きく喘ぐ。何度も肩を上下させ、肺の中に大量の空気を吸い込ませる。

 時間にして十数秒、その間に黒竜の背から手を離さずにいられたのは、縋るものがそれしかなかったことによる、本能的な体の働きによるものだった。

 

「何だあの化け物は…!?」

「に、逃げろ! 食われちまうぞ!」

「いやぁっ! 死にたくない!!」

 

 ちかちかと白んでいた視界に、徐々に色が戻り始めると、アイシアはようやく自分の周囲の状況を理解し始める。

 

 黒竜が泳いでいたのは、街中だった。白く美しい壁が続く、目的地である王都の街だとすぐに分かった。

 丁度昼頃で、最もにぎわっていたであろうその街の中を、悲鳴をあげる人々が逃げ惑っている。全員が全員、初めて目の当たりにする怪物を前に正気を失い、我先にと背を向けて走り出している。

 長年平和に慣れた住民達には刺激が強すぎる、凶悪な外見の怪物の登場で、街は完全に恐慌状態に陥っていた。

 

 その怪物の背に乗ったまま、アイシアはがくりと項垂れ頭を抱える。

 混乱の原因の一端となった申し訳なさで、もう人々の方に顔を上げられそうに無かった。

 

「まさか…あのまま突っ込むだなんて」

「グルルル…」

 

 嘆きの声を上げるアイシアに、黒竜が何事かと横目を向けてくる。

 悪意の欠片も感じられない、頭を抱えるアイシアを本気で案じるようなその素振りに、ふつふつと湧いていた怒りがぶつけ所を失う。

 

 急いでいた彼女達を想っての行動であるとわかり、一言も文句を挟めなくなってしまった。

 

「アイシア! どうするつもりなの!? こんな事になっては…!」

「ええい…仕方がない! このまま城まで向かいましょう! 細かい事は、今考えます!」

 

 起こすつもりのなかった大騒ぎを起こしてしまった責任を感じ、真っ青な顔になるセリアに、アイシアはそれ以上に引き攣った顔で返す。

 やってしまったものは仕方がない、と割り切れればよかったのだが、生憎アイシアはそこまで薄情になれない。凄まじい罪悪感で押し潰されそうになりながら、黒竜の背に顔を埋めるばかりであった。

 

 背中でそんな悲壮な空気が流れるのも知らず、黒竜はまっすぐに街中を突っ切る。最初にアイシアが示した方角の通り、そびえ立つ真っ白な城に向かって影を泳ぎ続ける。

 途中に遭遇する人々や建物をすべて無視し、最も目立つものが見える場所を目指して進み続けていた。

 

 そうしてやがて、彼女達の前にもう一つ、重厚な造りの門が見えてくる。

 壁の外と同じ堀に囲まれた、より厳重な警備が配置された城の入り口―――そして、アイシアとセリアが会おうとしている国王の元に通じる入り口である。

 

「止まれ! …いや、何だ貴様らは!?」

「人…? 人が化け物の背に乗っているのか!?」

 

 国王の守護を担う、より厳つい鎧を身に纏う兵士達が、接近する黒竜を前に槍を構える。

 壁に配されていた兵士達よりもベテランなのか、黒竜を前にして戸惑う事はあっても後退る事はない。そして黒竜の背に乗っているセリアとアイシアに気付き、疑惑と警戒の目を向けて身構える。

 

 アイシアはガシャガシャと集まってくる彼らを目にし、眉間にしわを寄せて考える。

 やがて女騎士は、勢いを全く緩めず突き進む黒竜の耳元に口を寄せ、天を指差すと大きな声で叫んだ。

 

「飛べ!!」

「ゴルルルルルル!!」

 

 黒竜は唸り、一度影の中に深く潜る。最初から覚悟を決め、息を止めたアイシアとセリアがきつくしがみつく中、影の中で勢いをつけた黒竜が地上へと飛び上がる。

 驚愕の表情で固まる兵士達を再び飛び越え、黒竜は城に通じる門を高々と飛び越えていく。

 

 そして次の瞬間、ズシン!!と轟音を響かせて、黒竜は門の向こう側に広がる広場へと、四つん這いで着地してみせていた。

 

「ゴルルル……」

「な…何なのだこの巨大な化け物は…!?」

「何者だ、貴様ら! ここをエイベルンの城と心得ての狼藉か!?」

 

 ようやく停止した黒竜の周りに、城中から武装した兵士達が集まり、鋭い槍を突きつけて包囲を始める。背に乗っている、怪物とともに現れた彼女達を警戒し、不審な真似をすれば即座に貫く姿勢を見せる。

 

 黒竜は自身に向けられる穂先にやや不機嫌そうな唸り声をあげるも、首を撫でられ宥められたことで、渋々剥き出しにしていた牙を収める。

 突然大人しくなった黒竜に、兵士達が訝しげな視線を向ける中、体勢を低く落とした黒竜の背から女騎士と令嬢が降りてきたことで、全員の注目が集まった。

 

「―――お騒がせして申し訳ありません…! 私はツーベルク公爵令嬢、セリア・ツーベルクです!」

「…その専属護衛、アイシアと申します」

「国王陛下に緊急の連絡事項があり、このような姿で失礼させていただきました! どうか、陛下に一度! 御目通りをお願いします!」

 

 困惑の視線が集まる中、セリアはボロボロの装いのまま見事な貴族作法(カーテシー)を見せ、アイシアも続いて騎士の礼を見せる。

 

 どよめく声で、辺りがざわざわと騒がしくなるのを無視し、セリアはキッと表情を引き締め、兵士達全員に向かって声を張り上げる。

 しかし、セリアの言葉にすぐに応じる者は一人もおらず、未だ全員が疑いの目を向けていた。

 

「なっ…何を言うのか!? そんな化け物と一緒に現われておいて、できるわけがないだろうが!!」

「無茶な事を言っている事はわかっています……ですが事は、一刻の猶予もありません! 早急に応じていただかなければ、この国に未来はありません!」

「何を馬鹿な事を…!」

 

 予想通り、セリア達が真正面から名乗り、兵士達は警戒したまま応じる気配を見せない。

 異様な力を見せる黒竜の背に乗って現れた二人を、怪しいと思うなという方が難しく、化け物を従える魔女が攻めてきたと言われた方がまだ信じられる状況である。

 

 説得は困難を極めると覚悟を決めていたセリアは、一体どうすればいいのかと険しい顔で歯を唇を噛み締める。

 そんな時、傍らから聞こえてきた金属音に、振り向いたセリアや兵士達はギョッと目を見開き、言葉を失う。

 

 いつの間にか鎧を脱ぎ、剣を鞘ごと外したアイシアが、制服の上着まで脱いで地面に投げ捨てていたからだ。

 

「……私達を敵とお疑いなら、この場でいくらでもお調べいただきたい。何なら全裸になっても構いません…ですが、その代わりどうか、セリア様のお話をしかと聞き入れていただきたい」

 

 シャツとズボン姿になったアイシアが、その場に膝をつき深々と頭を下げる。

 主以外の人間に首を垂れるという、騎士にとっては最大級の屈辱をあえて受け入れながら、表情一つ変えない女騎士の姿に、身構えていた兵士達はかける言葉を見失う。

 

「…グルルルル」

 

 すると、彼らはさらに驚きの光景を目にする。

 アイシアとセリアが乗ってきた黒竜、あまりに異様過ぎる姿を見せつける怪物が、まるでアイシアに付き従うように地に体を伏せ、首を垂れていたからだ。

 一端の騎士のような礼儀を見せる黒竜に、兵士達は逆に恐怖感を覚えて後退ってしまうほど。さらにはセリアまでもが地面に膝をつき、頭を下げるのだからもう理解が追い付かない。

 

 口を開かせる暇もなく排除するつもりでいた兵士達は、戸惑いながら互いに目を見合わせ、長く考え込む。

 しばらくしてから、兵士達の中で最も年嵩の、白く豊かな髭が特徴的な老騎士がセリア達の前に出て、険しい顔のまま口を開いた。

 

「……まずは、そのお姿を清めていただこう。王の御前に出るのに、淑女がそのような装いをしていいものではない」

 

 老騎士から送られる気遣いの言葉、そして霧散していく周りの騎士達の殺気に、アイシアもセリアもホッと安堵の息をつく。

 黒竜はそんな双方のやり取りを見ながら、べったりと腹を地につけ、深い息を吐き出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21.Audience

 エイベルンの城の中心に作られた玉座の間。

 他国の使者を出迎える際や、国家を揺らがす程度の裁判など、重要な用事にのみ使われるその部屋は今、数十人の兵士達に囲まれた物々しい空気が支配している。

 

 その中心にいるのは、跪いた令嬢と女騎士の二人組。

 そしてその向かい側の玉座に腰を下ろす、金髪碧眼に豊かなひげを蓄えた、王冠を被った初老の男。

 顔立ちはなかなか整っているが、然して長身というわけでも、肥え太っているわけでもない、いたって普通の外見をした彼こそ、ガイウス・エル・エイベルン、この国の王である。

 

 争いを好まない、しかし強国に与するような腰の弱さもない、平和な時代を維持し、賢王と称される有能さで民から確かな信頼を得ている人物。

 穏やかな人柄で、他国からも強い信用を得ている彼だが、今この時においては恐ろしく険しい表情を見せている。

 

 原因は、ガイウス王の両手で広げられた数枚の書類。

 書類の一部には、つい先ほど耳にした辺境の領地を任せた貴族の名前に、その者の家紋を表す印が押されており、さらにもう一つ、仇敵である帝国のものであることを示す印も押されている。

 それが示すある裏切りの真実に、賢王の怒りが一気に燃え上がらされたのだ。

 

「これは……真なのか、ツーベルク嬢」

 

 ぶるぶると震える手が、ぐしゃぐしゃとその書類を握りつぶしていく。

 もはや原型を留めていないそれをドンッ!とひじ掛けの上に叩きつけ、ガイウス王は鬼のような形相で、咆哮を上げるのを必死に耐える。

 血管が今にも弾けそうになる怒りをどうにか抑え込み、目の前で跪いている一人の令嬢を見下ろした。

 

 ガイウス王の何度目かもわからない確認の言葉に、セリアは深く頷き肯定を示す。

 定期的な催し、ガイウス王の親族などの祝いなどでしか顔を見たことがない、この国において最も発言権を有した男の豹変に、セリアは冷や汗を流しながらも口を開く。

 

「はい…恐れながら、実際にガーランド伯爵が自白いたしました真実にございます。一刻の猶予もないため、物的証拠はその書類のみになりますが……」

「いや、よい…あの男なら確かにやりかねん。そういう野心を持った男を辺境へと追いやったのは余であるからな……しかし、まさかそこまで堕ちていたとは」

 

 ガイウス王は顔を手で覆い、玉座の肘掛けに体をもたれかける。

 深い深いため息がこぼれ、叫びだしたくなるほど胸の中で怒りが渦巻く。そうしないのは、命懸けでこの情報を持ち帰ってきてくれた二人に対する遠慮と、少しの意地によるものだった。

 

 しばらく項垂れていたガイウス王は、やがてぐっと表情を引き締めて姿勢を正すと、セリア達に深々と頭を下げた。

 

「申し訳ない……国内に病魔を広げないための苦肉の策であったが、まさかそんな邪悪な思惑が絡んでいた人災だったとは。其方達には申し訳ない事をした…」

「あ、頭をお上げください!」

「いや、何度謝ったところで足りぬ……あの男の野望に気付かず、無様に操られた余を憎んでくれていい。本当に、申し訳ない…!」

 

 ガイウス王は顔を上げ、慌てた様子で両手を横に振るセリアを見つめる。

 

 王への謁見ということで、道中身に纏っていたドレスは着替えさせられている。礼儀という意味だけでなく、淑女が痛々しい姿を晒したままであることを受け入れられなかったための処置であった。

 しかし着替えてなお、セリアの顔色は未だ悪いままである。急ぎの用で化粧をさせてやる暇もなかったために、駆け込んできたそのままの状態でこの場を訪ねる羽目になった。

 

 代わりにセリア達が本当に焦っている様子がわかり、彼女達の話の信憑性が上がったことは、苛立つほどに皮肉な話であった。

 

「…よくぞ、この情報を持ち帰ってくれた。昨今の帝国の動きは、この作戦を隠すためのものであったようだな。馬鹿馬鹿しい、国境侵入のような小さな諍いばかりをあちこちで起こすものだと思っておれば、まさかこのような悪辣な手段に出てくるとは……」

「レギン……いえ、ガーランド伯爵の言葉を鵜呑みにするのなら、すでに帝国は進軍の準備を始めているものと考えてよいのではないでしょうか。だとすれば…」

「うむ、こちらも早急に迎え撃つ準備を始めなければならん。其方達の働きが無ければ、今頃はもう奴らの魔の手が……」

 

 アイシアが語るゾッとしない話に、ガイウス王は険しい顔で冷や汗をかく。

 今考えてみると、流行り病が発生した後のツーベルク領の封鎖こそ、レギンと帝国が目論んだ最大の策だったのではないだろうか、とそう思えてくる

 

 毒でツーベルク領内に病を流行らせ、人の出入りを完全に遮断することで、向かい側にある帝国の情報さえも遮る。近づけない危険な病原地帯を隠れ蓑にし、細かな侵略行為で他所の地域に注意を引き、本命の侵略の準備を進めていく。

 大勢の民の命を顧みない、悪魔のような策である。これを考え出し、他に行わせた者がいるのならば、それはきっと本物の悪魔なのだろう。

 

 そして真に恐ろしいのは、それを手伝わせる人間を他国に用意する情報力と人心掌握術である。

 性格に難があり、辺境に左遷される形で身を置かれたレギン・ガーランドは、自分の立ち位置に大きな不満があった。同じエイベルンの貴族であるツーベルク公爵には、学生時代からの深い因縁がある。

 二人の過去を調査し、憎悪を煽り、ここまでの反逆を犯させたというのならば、本当に恐るべき思考の持ち主である。

 

(…詳しく考えるのは、事を全て片付けてからだ…)

 

 ガイウス王は深い思考に陥りそうになる自分を律し、切り替える。

 そして見つめるのは、無言のまま暗い表情で俯くセリアだ。

 

「…安心しなさい、こうして危険を冒して我が国の窮地を知らせてくれたのだ。必ず、君の愛する領地の民は救ってみせるとも」

「ああ…! 陛下…」

「今は休みなさい……君は充分役目を果たしたのだから」

「はい…はい! お言葉に甘えさせていただきます…!」

 

 ガイウス王の優しい言葉に、セリアはほっと安堵の息をつき、ボロボロと涙を流す。

 一介の貴族令嬢の言葉を信じてくれただけではない、最初に危機に晒されるツーベルクの民の事も思い遣ってくれているのだと知り、心の底から歓喜する。

 これで全てが丸く収まる、そう知ったセリアは、へなへなとその場に座り込んでしまった。

 

 即座に主の傍に駆け寄るアイシアを横目に見ながら、ガイウス王は顎を撫でため息をつく。

 そうしてしばらく黙り込んでいた王は、不意に傍らに立っていた兵士の一人に視線を向け、威厳のこもった声で鋭く告げた。

 

「軍部に伝えよ。情報収集のため、斥候を帝国との国境に放ち、同時に全軍を率いツーベルク領に向かえ。いつ帝国の軍勢が姿を現そうと、即座に撃退する準備を整えるのだ!」

「はっ!」

「そしてこちらの御令嬢を客室へ……旅の疲れを癒してさしあげろ」

「承知いたしました…」

 

 ガタッと玉座から立ち上がり、ガイウス王は傍らに控えていた連絡役の兵士に伝える。

 兵士が小走りで将軍達の元に向かうと、今度は玉座の間の隅に控えていた侍女に視線を向け、簡潔に命令を伝える。

 

 心も体も疲弊した少女を安心させようとしてか、穏やかな表情で歩み寄ってくる侍女に、セリアは渇いた笑みを浮かべて腰を上げる。

 アイシアの手を借り、共に玉座の間を後にしようとするアイシアとセリアだったが。

 

「……もし、アイシア殿。其方には少し、話がある」

「え…?」

 

 唐突に名を呼ばれ、アイシアが困惑気味に振り向く。

 ガイウス王は訝しげな視線を返すアイシアを見つめ、険しい表情を向けてくる。有無を言わせない、先ほどの穏やかな表情とはまるで逆の様子だ。

 

 ただ事ではないガイウス王の雰囲気に、アイシアは困惑しながらも小さく頷く。

 侍女にセリアを預け、小さく声をかけると、主と共に去っていく彼女の背中を見送り、女騎士は改めて国王と向き直った。

 

「…わ、私に一体、何のようでしょうか」

「何、難しい話ではない……君のもう一人の同行者の事だ」

「っ…!」

 

 ガイウス王の厳しい視線に、言葉に、アイシアは思わず息を呑み、反応を見せてしまう。

 見れば、玉座の間に揃っているほかの兵士達も同じく鋭い視線をアイシアに向けており、嘘やはぐらかす事を決して許さないといった雰囲気に満ちている。

 進言の場が、一気に尋問の場に変わったかのような緊張感で、アイシアは思わず背筋を伸ばしていた。

 

「あの黒竜は…一体何だ。何処で、あの化け物を見出し、手懐けたのだ。嘘偽りなく、全て語りたまえ」

 

 ぶるり、と肩を震わせるアイシアだったが、ガイウス王のこの質問はある程度予想していたものであったため、然して狼狽していなかった。

 玉座の間に案内されるまでにたっぷり考えた答えを引き出し、表情を引き締め、真っ直ぐに王の目を見つめ返して答える。

 

「は、はっ……か、彼は…私達がガーランド領に向かう途中、帝国の兵に襲われた時に出会いまして……」

「ほう、帝国兵に…」

「はっ。その際、仲間を殺害した帝国兵の前に現われると、瞬く間に奴等を屠り、仲間を埋葬してくれた、野生の獣とは一線を画す存在でございます」

 

 こめかみを伝った汗が、アイシアの胸元に滴り落ちて染みを作る。背中全体をじっとりとした感触が襲い、妙に心臓の鼓動が強くなる。

 

 何もやましいことなど口にしていない、真実しか口にはしていない。

 なのに、ガイウス王や周りの兵士達から向けられる鋭い視線に、このままではまずいことになるような気がしてくる。

 

「言語は通じなくとも、身振りや絵で意思を通わせることは可能で、陛下や国に仇為す存在ではないものと判断しておりま―――」

「其方の判断は今、重要ではない」

 

 向けられる視線の奥底にあるのが、黒竜に対する疑念であると考えたアイシアは、その疑いを少しでも減らそうと熱く語り出す。

 だがガイウス王はそれを最後まで聞くことなくアイシアを制し、冷たい視線を彼女に向けたまま、厳しい声で告げる。

 

「余が懸念しているのは、奴の持つ危険性についてだ……いつこちらに牙を剥くやもしれぬ化け物を、一体いつまで近くに置いておかねばならない」

 

 アイシアはハッと目を見開き、ガイウス王を凝視して、ぶわっとより多くの汗を噴き出させる。

 

 そこでようやく彼女は気づく。

 彼らはあの黒竜を疑っているのではない。既に揺るぎない脅威の一つとして捉え、迫り来る帝国の軍勢と同じように早急に排除することを考えているのだと。

 

 アイシアがどう思っていようと関係がない。排除するにあたって必要となる黒竜についての情報―――怪物が持つ異質な能力について詳しく聞き出すつもりで、彼女をここに残したのだ。

 

「聞けばあの黒竜、影に潜るなどというとんでもない能力を有しているそうではないか……奴の手にかかれば、何時如何なる方法で身を守ろうと、楽に余を食い殺すことが叶うのではないか?」

「かっ…彼は、そのような大それたことをしでかす輩では……!」

「其方が奴をどう評価していようと、我らはそれを知らぬ。そして其方、言葉は通じぬといったな? そして、意思を伝える知能はあると…ならば、こちらを騙す程度の知能もあるのだろう。獣と言えど、他者を騙すくらいの事は平気でやってのけるものだ」

 

 必死に反論の言葉を絞り出すアイシアだが、ガイウス王は即座にそれを切り捨てる。

 

 黙り込むアイシアに、ガイウスは深いため息をついてから表情を変える。

 それは傍目から見れば、怪物に毒された女を諭そうとするような慈悲に満ちた顔で、目を見ると一切の優しさのない、冷酷なものを向けていることがわかる。

 

 

 これが、平和な治世を続ける賢王の真の姿。

 国の脅威となるものを冷静に判断し、冷酷に排除する方法を考える、冷たい心の持ち主。そして国の維持の為には、お人好しな面さえ演じてみせる本物の傑物であった。

 

 セリアと話していた時も、彼は自分の本心を悟られぬよう、彼女達を案じているような表情を見せながら、彼は現実的な問題を思考していた。

 

(ツーベルク領を帝国に奪われるわけにはいかない……あの地は我が国の大切な食糧産地、失うわけにはいかぬ最重要資産だ。もしあの地を奪われれば、遅かれ早かれ我が国は弱体化し、帝国に吸収されてしまう。その先に待っているのは、本物の地獄だ)

 

 帝国の侵略という危機に、真っ先にツーベルク領の守護を約束したのは、セリアに同情してのことなどではない。

 エイベルンの食料自給率の大半を担うツーベルク領を失った場合の損失を考え、即座に動く必要が出たというだけの事であった。無論口にすれば彼女達の信用を失う事となり、今後のツーベルク公爵との関係も悪化することとなる。それらの損害を考慮しての発言であった。

 

(しかし、今になってあの男に接触し、こうもうまく事を運ばせる知恵者がいたとはな……左遷のつもりであの無能を辺境に追いやったことは間違いだったか)

 

 ガイウス王としては、地位も権力も削ぎ落としたうえで、立地的にも好ましいとは言えない辺境にレギンを追いやった時点で、反逆の脅威を排除したつもりになっていた。

 それがまさか、帝国の方から利用しようと近づいてくるとは、思いもよらなかったのである。

 そう断言できるほどに、レギン・ガーランド伯爵という男は、自分の能力を過信した、頭脳の劣る雑魚でしかなかったのだ。

 

 

 

(今後は、もっとうまいやり方を考えねば……だがそれは後回しだ。今は―――)

「なぁ、アイシア殿。余は君を責めているわけではない。むしろあのような化け物を利用し、ここまで主を守り抜いた君を尊敬しているのだ……だが、もう奴の役目は終わった。違うかね?」

「…私は、そんなつもりで」

「いや、そんなつもりでよかったんだ。所詮は人と獣、利用し利用される立場、それでいいのだ……人に抱くような恩義を、化け物に抱く必要などないのだよ」

 

 ガイウス王の忠告という名の脅しに、アイシアは真っ青な顔で何度も首を振る。

 ガイウス王は内心で舌打ちをこぼし、無駄に義理堅い女騎士を見下し、嘲笑する。

 

 道中どのような目に遭ったのか、どのようなやり取りが怪物との間にあったのか気にならなくもないが、それでも相手が人外であることに変わりはなく、依然として排除すべき対象であることに変わりはない。

 渋るアイシアに、ガイウスはじっと鋭い目を向け、説得という名の矯正行為を続けた。

 

「このままあの化け物を放置しておけば、もしかしたら君や、君の主に牙を剥くかもしれない……そうなったとき、君ははたして後悔しないのかい?」

 

 続けて突き付けられる不穏な未来予想に、アイシアの目が揺れ始める。

 恩義ある存在への義理と、周囲からの視線の厳しさ、そして何より大切な主の身の安全への危惧が、徐々に均衡を崩し始める。

 

 もう少し背中を押せば、この女はもう堕ちる。

 そう確信したガイウス王が、さらなる言葉を積み重ねようとする。

 

 

「―――きっ…緊急報告! 緊急報告ーっ!!」

 

 

 しかし、その緊迫した空気をつんざくように、どたどたとけたたましい足音が響き渡る。

 その声で、アイシアはハッと我に返ったように目を瞬かせ、荒い息をついて居心地悪そうにあたりを見渡す。流されかけた自分の思考に、戸惑いを抱いているようだ。

 

 反対にガイウスは苛立たし気に顔を歪め、玉座の間に飛び込んできた一人の兵士に目を向ける。

 重要な仕事の邪魔をされた時のような、腹立たしい気持ちを前面に押し出し、王は肩を上下に揺らす彼を睨みつけた。

 

「一体何だ、騒がしい……」

「ほっ、報告であります!!」

 

 王の御前であることも忘れた、無作法な入室を咎めようとしたガイウス王の言葉を遮り、兵士がバッと敬礼を見せる。

 ますます渋い表情で眉間にしわを寄せるガイウス王に、兵士は引きつった顔で直立し、震える声である情報を―――王国全土を揺るがす、重大な知らせを齎した。

 

「てっ…帝国が、ツーベルク領内を侵攻し、王都に向かってきているとの報告が上がりました!!」

「何だとぉ!?」

 

 唐突過ぎるその報告に、ガイウス王は驚愕で玉座がひっくり返るほどに勢いよく立ち上がり、周りの兵士達も騒然となり始める。

 間近でその知らせを耳にしてしまったアイシアも、愕然とした表情で立ち尽くしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22.Aggression

(……恐ろしく暇だな)

 

 塀の中の日陰に伏せ、〝それ〟はふと思う。

 周りにはやたらと引き攣った顔の兵士達がいて、槍を構えたまま自分を油断なく凝視しているが、然したる脅威とも思えず好きにさせている。

 

 女性と少女を運んできて、自分を見ながら何か怒鳴りつけている兵士達を見て、邪魔をする者なら叩きのめして食い殺してやろうかと思ったところに、女性達が突如全身で伏せだした。

 これは自分もしなければならない流れかと思い、取りあえず似たように体を伏せてみたところ、兵士達も大人しくなり、槍も下げたので正解とわかった。

 

 兵士達は女性達を何処かへと連れて行き、〝それ〟のみがこの場所に残された。

 それからもう数十分か小一時間、〝それ〟はほったらかしにされていたのだ。

 

(敵意のようなものは薄れたから手出しはしなかったが……何の話をしているのだろうな。向こうで妙な事になっていなければいいが……いや、そもそも俺はなぜこんな事を気にしているのか)

 

 ただ単に、食しても誰も困らないような獲物を食せる機会を得られると思って、女性達をここまで遥々送り届けに来たつもりだった。

 

 しかし、辿り着いたこの場を見渡しても、それらしい獲物は見当たらない。

 警戒し槍を突きつけてくる兵士達に対し、女性達は立ち向かうどころか頭を下げ、何かを懇願していた様子。そんな相手を捕食するわけにはいかず、黙って女性達の好きにさせるしかなかった。

 

(たらふく獲物にありつけるかと思ったのにこれとは、当てが外れたか?)

 

 これならあの後、さっさと森にでも戻り、獲物を求めて流離う日々を再開した方がましだったかもしれないと、〝それ〟は自分の選択を後悔する。

 

 こうなったら、そこらにいる兵士達を口にして空いた腹を満たそうかと目を向ければ、ざわっとどよめいた兵士達が槍を向けてくる。

 本気でそうしようかと考えた〝それ〟だったが、やがてその考えを引っ込め、空腹を誤魔化すように瞼を閉じた。

 

(いや、そんなことをすればこれまで我慢してきた意味がなくなる。俺は獣とは違うのだ。本能のままに目の前のものに襲い掛かるような事は……大分してきたが、二度も同じ過ちは犯すまい)

 

 揺らぎかける自分の中の欲をどうにか抑え込み、〝それ〟はひたすら耐え続ける。

 だが次第に、腹の奥に空いた隙間が広がり、それを埋めたいという欲求が膨れ上がってきた。

 

(ああ、なんて融通が利かないんだ、この身体は……小一時間も我慢する事ができないのか? これなら途中に遭遇した獲物を喰っておけばよかった。どれだけ食ったら真に満たされるのだ、この我儘な体は…!?)

 

 胃の腑が訴える空腹の信号が、痛みに変換されてそれを責め苛む。丸一日絶食したかのような感覚に陥り、思考までもが徐々に鈍り始める。

 せっかく抱いた我慢も砂の城のように崩れ出し、苛立ちで低い唸り声が口から漏れ出る。

 

 兵士達が怯えたように後退っている事も知らず、〝それ〟はせめて視界に何も入らないようにしながら、必死に自分の中の欲望と戦い続けた。

 が、そんな自分への抗いも、長くは続きそうになかった。

 

(ああ…だめだ、頭がうまく働かん。一体俺は何だというのだ…なぜこんなにも節操がない。なぜこんなにも欲望に忠実だというのに、余計な感情がくっついている。ただの獣、化け物に必要のないもののはずなのに)

 

 ぐるぐると思考が渦を巻き、次第に〝それ〟から冷静さが失われていく。

 思考はひたすらに食うことにのみ集中され、それ以外の優先順位があっという間に下がっていく……いや、そもそも思考から外される。

 だらだらと口の端からは涎が溢れ出し、滴り落ちて真下に池を作っていく。

 

 一度限界を超えた直後を経験したためか、以前よりは堪える事ができている。

 しかし、それも焼け石に水と言った些細なもの。理性の鎖はあっという間に本能に覆い尽くされ、食い尽くされようとしていた。

 

(そもそも俺はなぜ我慢している? なぜあの女性達に気を遣っている? 獣ではない? いや獣だろう? 好きに食って好きに腹を満たして何が悪い? 食う獲物を選り好みする必要があるのか? 獲物ならそこら中に棒立ちになっている奴らがいるだろう? 何故だ? 何故だ? 何故食ってはならん?)

 

 苛立たし気に、置かれた自分の爪が地面を引っ掻き、溝を刻む。投げ出された尾もびたんびたんと地面を叩き、何の意味もない行為を繰り返しさらに不満が募る。

 がりがりゴリゴリと理性が削られていき、残りあともう僅かとなり始める。

 

 周りで何やら、駆け込んできた兵士が叫び、他の兵士達にも動揺が広がって騒がしくなり始めるが、最早そんなことも気にならない。いや、そもそも興味がわかない。

 〝それ〟に対して警戒を向ける事も忘れ、ばたばたとあちこちに駆け回り始めているが、〝それ〟はもう見てもいない。

 

 ―――そんな事、もうどうでもいいか。

 

 ぷつ、ぷつと糸が切れていくような感覚がして、必死に本能を抑えつけていたことも忘れ、欲が求めるままに体が動き出していく。

 その時だった。

 

〝それ〟の本能を刺激する、大量で濃密な気配が漂い始めた。

 

(…! 何だ、この感覚は…?)

 

 思考がわずかに澄み、膨れ上がっていた食欲がほんの少しだけ抑えられる。何故かを考える余裕もないまま、〝それ〟の宿す特殊な嗅覚が強く働き始める。

 

 その気配は、一度〝それ〟が感じ取ったことのある種類のものだった。

 追い詰めた弱者に対し、空腹を満たす為でなくただ甚振り愉しむために囲い、力を揮おうとするような気配。生物の本能ではなく、個人的な好みで害をなそうとする、吐き気を催す感情。

 あの女性と少女にも向けられていたことのある、他者を踏みにじるためでしかない胸糞の悪い悪意に満ちた気配だ。

 

〝それ〟が目を覚まして初めて抱いた、〝それ〟の欲と望みを全否定するかのようなその気配が、それはもう大量に流れ込んでくる。

 気づいたその直後、〝それ〟はゆっくりと体を起こし、動き出していた。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

「訓練中の兵、非番の兵も全員集めろ! 迅速にだ!!」

「装備の用意を急がせろ! 一刻も早く!」

 

 ガシャガシャと鎧を鳴らし、兵士達が慌てた様子で王城内を駆けていく。

 全員、焦りと狼狽で表情を引き攣らせ、ばたばたと騒がしく走り回っている。彼らが口々に叫ぶ声が重なり、室内にいてもそれが聞こえていた。

 

「……もう、始まってしまったのですね」

 

 客室の窓際に立ち、慌ただしく駆け回る兵士達を見下ろしていたセリアが小さく呟く。

 

 旅の疲れと、精神的疲労を癒すようにと案内されたこの部屋に来て小一時間。

 無駄に胸元も脚も露出していない、きちんとした格好の侍女達に入れて貰った飲み物で喉の渇きを癒し、一息ついていた時に聞こえてきた喧騒。

 何事か、と聞き耳を立てていた彼女は、彼らが口にする情報で、全てを理解してしまった。

 

「…セリア様!」

 

 虚ろな表情で立ち尽くすセリアは、やがて部屋の外から聞こえてきたけたたましい足音に振り向く。

 バンッ、と勢いよく開かれた扉の向こう飛び込んできたアイシアに、セリアはフッと渇いた笑みを浮かべて出迎えた。

 

「アイシア……陛下とのお話はもう終わったの?」

「え? あ、いいえ…それどころではなくなりましたので……ああ、いえ! セリア様がお気になさることではありませんが!」

「いいのよ、アイシア。もう、全部わかっているから…」

 

 静かな声で告げるセリアに、アイシアはグッと言葉に詰まり、目を逸らす。

 隠し事のできない、全てが態度に出てしまう忠臣の悲しげな姿に、セリアは自嘲気味にため息をつく。

 

「…ツーベルクに、帝国が来ているのね」

「はい……おそらく私達がガーランドの屋敷を出た時点で、動き出していたものかと」

「そう…そういうことだったのね。私達の働きは……何もかもが遅すぎた、そう言う事だったのね」

 

 今のセリアの中に渦巻いているのは、激しい無力感。

 二人の臣下の命を散らさせ、苦難を偶然で乗り越え、ようやくたどり着いた真実とこの場所であるが、それらが全て無駄に終わったかのように思えて、やるせなくなる。

 そんな主の姿を見ていられず、アイシアも自分の不甲斐なさに歯噛みするばかり。

 

(あの男の思惑に……卑劣な思考を予測できなかった私の落ち度だ。何が専属護衛だ、この方の身体を守る事ばかり気にして、この方の願いを聞き届ける事もできなかった)

 

 もっとうまい方法はなかったのか、もっとできる事はなかったのか。

 二人してそんなことばかり考えてしまい、只々重いため息ばかりがこぼれてしまう。

 

 加えて、アイシアの脳裏にはあの黒竜の事も浮かぶ。

 幾度もアイシア達の窮地を救い、この地まで守り続け、送り届けてくれた異形の者。何一つ礼もできないまま、他者に頼る事しかできずにいるアイシアとは異なり、確かな結果を残している怪物。

 そんな彼に対し、向けられる疑念を解消できず、挙句の果てに暗に排除を命じられる始末。

 

 情けなくて、申し訳なくて、今あの黒竜に顔向けできる気が、全くしていなかった。

 

(私などとは違い、多くの事を成してみせた彼の立場を守る事もできやしない……何という、役立たずな人間なのだ、私は…!)

 

 重い沈黙が降り、その場に立ち尽くすアイシアと、まだ窓の外に目をやるセリア。

 一言も発さないまま、目を合わせる事もなく、外から聞こえてくる兵士達の声を耳にし、時間だけが過ぎていく。

 

 やがて、セリアがアイシアの方へ振り向く。

 渇き切った枯れ花のような、儚げな笑みを湛え、セリアは弱々しい声で告げる。

 

「…アイシア、帰りましょう」

「え…!? そ、それは、どういう意味で…」

「言葉通りの意味よ……ツーベルクに、お父様たちのいるあの地へ戻ると言ったの」

 

 アイシアな大きく目を見開き、セリアの言葉に、それが意味する意思に絶句する。

 

 今まさに戦場となろうとしている地に帰るなど、自ら命を投げ出そうとしている事と同じ。

 いや、死ぬだけならまだしも、悪逆非道で知られる帝国兵が無数に集う地に向かうという事が、どれだけ凄惨な未来に直面するか。

 見目麗しい、由緒正しき公爵家令嬢であるセリアがどんな目に遭わされるかなど、想像に難くない。

 

「お気を確かに! 自棄になった所で、誰一人救われは……」

「自棄じゃないわ…もう、そうする事しか私にできる事はないと思った、それだけの話よ」

 

 必死に主の無謀を止めようと説得を試みるアイシアだが、詰め寄ってくる女騎士を前にしても、セリアの表情に変わりはない。

 

 確かに、自暴自棄になった様子はない。いたって冷静なまま、しかし同時に全てを投げ出すような表情で、自らの決定を口にする。アイシアにはそれは、諦めに似た感情に見えた。

 言葉を失くす忠臣に、セリアは苦笑を見せながら言葉を続けた。

 

「私はね、アイシア…私がこの旅で犠牲になることで、誰も傷付かなければいいと思っていたの。お父様も民も、ガーランド伯爵も、そしてあなたやあなたの仲間もみんな、誰一人いなくなる事はないと思っていたの……馬鹿な話よね、そんなの有り得ないのに」

「セリア様…」

「私は人の悪意に疎すぎたわ……本当に悪いのが誰かも考えずに、いいように利用されようとしていただけだった。その所為で、こうやって何人もが犠牲になろうとしている」

「それは……あなたの所為では」

 

 自責の念に囚われる主を説こうと、アイシアが彼女の目を見つめるも、セリアは首を横に振る。すでに気持ちは決まってしまっているようで、一言も聞き入れようとしない。

 セリアは再び窓の外を見やり、美しく広がる城下町を眺めため息をつく。

 

 きっと帝国軍は瞬く間に、ツーベルク領を蹂躙し、さらにこの王都を目指して突き進んでくるだろう。

 道端に生えた野花を気にせず踏み潰すように、何の躊躇いもなく、病で弱り切ったツーベルクの民を蹂躙し、金と女を奪い取り、肥えた腹をさらに膨らませて向かってくるだろう。

 

 その進軍を、果たしてエイベルン軍はどれだけ押し返せるだろうか。

 つい先ほど知らせを受けただけで、迎撃の準備などまったくできていない無防備な状態。敵が王都に辿り着かれる前に出陣できたとしても、ツーベルク領が戦場になる事は避けられない。

 そうなる前にここへ急ぎやって来たというのに、全てが無駄になってしまったのだ。

 

 今にも消え入りそうな、主の悲痛な姿を見てしまったアイシアは、もう彼女に対して何も言う事ができなくなってしまった。

 

「私にできることはもう……なにもないわ。できる事と言えば、自分で最期を決めることぐらい。帝国兵に純潔を犯されるぐらいなら、故郷の地で自ら命を絶つわ」

 

 セリアはそう告げ、遠い森と山々の向こう、ツーベルク領の方角を見据える。

 アイシアがどれだけ反対しようとも、苦しむ民たちの元に戻り、最後を彼らと共にすると確定している様子である。

 アイシアはもう、否定の言葉を口にすることはできなくなっていた。

 

「…最期まで、お供いたします」

「…ありがとう、アイシア」

 

 困ったような顔で微笑みかけるセリアに、アイシアは彼女に見えないように唇を噛む。

 本音を言えば、たとえ恨まれてでも彼女をここに縛り付けるか、帝国兵の手も届かないような地に連れ去ってしまいたい。主の意志を踏みにじってでも、死なせたくない。

 血筋を守るためではなく、敬愛する主人として最後まで守り抜きたいと思っていた。

 

 だがアイシアは、自分の手ではそんなことは叶えられない事をわかっていた。非力な自分を自覚したまま、無茶を最後まで通せる自信など、一切ありはしなかった。

 

(…彼の背を借りれば、そんな未来もかなうのだろうか)

 

 ふと脳裏に浮かんだ考えに、アイシアは深く自己嫌悪を抱く。

 この期に及んでまだ他人に力を借りる気になっている自分の浅はかさに、吐き気を催すくらいだった。

 

(いずれにせよ、私にできる事も何一つとしてない。セリア様への義も、侯爵様への恩も、そして彼への借りも、何一つ返せないまま……それなのに潔よい最期を求めるとは、私も相当に強欲だな)

 

 暗い表情でアイシアが俯いていると、セリアが小さくため息をつき、客室の出入り口に向かって歩き始める。宣言通り、戦地となり果てる故郷へ帰るためだ。

 

「帰る前に…一度陛下にご挨拶をしておくべきかしら。でも…今はきっと、お忙しいでしょうね」

「…私達の意志を聞けば、お引き留めになると思います。ここは何も言わず……王都を去るべきかと」

「そうね……そうなるでしょうね」

 

 アイシアの考えを肯定し、セリアは一度申し訳なさそうに、視線を王城の奥、玉座の間がある方角へ向ける。

 一貴族の令嬢として、最も位の高い存在である国王に一言も言えないまま去る事を心の中で謝罪しつつ、意志を変えぬまま外に向かって歩き出す。

 

 このまま何事もなく、城の外まで出ていくことができるだろうか。

 途中で止められる事だけはないように、とアイシアとセリアが祈り、客室の扉に手をかける、その時だった。

 

「グルルルルルルル……!」

 

 突如、窓の外から聞こえてきた聞き覚えのある唸り声に、アイシア達はハッと目を見開く。

 振り向いた二人は急いで部屋に戻り、窓から身を乗り出すと、声の主を探して辺りを見渡し、そしてまた目を見開く。

 

 王城の入り口で横になっていたはずの、怪物。

 城内に案内されるアイシアとセリアを見送り、そのまま大人しく沈黙していたはずの黒竜が、酷く不機嫌そうに顔を歪め、体を起こしている姿が目に入った。

 多くの兵達に囲まれながら、それを全く意に介せず、虚空を睨みつけて牙を剥き出しにしていたのだ。

 

「ど、どうしたのでしょうか…?」

 

 訝し気に黒竜を見やり、困惑した声を上げるセリア。

 黒竜が見ている方角、その先にあるものを考えていたアイシアは、やがてある可能性に思い至り、顔から血の気を引かせて息を呑んだ。

 

「まさか……待て!!」

「グオルルルルルル!!!」

 

 気づいたアイシアが叫ぶのとほぼ同時に、黒竜は巨大な咆哮を上げて立ち上がり、四つん這いで駆け出す。

 驚いた兵士達が慌てて左右に避け、腰を抜かすのを放置し、黒竜は王城の塀に向かって、頭から真っすぐに突っ込んでいく。

 

 激突する、と周りの兵士達から悲鳴のような声が上がる。

 だが、黒竜は塀にできた自らの影に潜り、鼻先から触れた瞬間から壁をすり抜け、あっという間に全身が壁の向こう側に消えていく。

 

「ゴルルルルルル!!」

 

 呆け、我を失って硬直する兵士達。

 黒竜はそれをすべて無視し、再び強烈な咆哮を上げて影の中に飛び込み、どこへともなく、その巨体を消してしまったのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23.Gluttony

 広大な平地と豊かな自然に恵まれた、エイベルン王国の北側の領地ツーベルク。

 長年に渡ってエイベルン王国を支え続ける、由緒正しき侯爵家の者が統べる地である。

 

 そこは今、謎の病魔によって衰退の一途を辿らされていた。

 

 

 

「お母さん……! お母さん!」

 

 幼い子供が、寝台から起き上がる事もできなくなった母親に縋りつき、外に聞こえてくるほどの悲鳴をあげて泣きじゃくる。

 枯れ枝のように痩せ細った母親は、痛々しい声で泣く我が子を宥めたくとも、弱り切った身体では頭を撫でてやることもできない。

 

 そんな家が一つや二つではなく、ツーベルク領内の主な町、さらに詳しく言うなら川に接した広範囲の人里で生まれ、悲しみの声があがっている。

 ツーベルク侯爵、アレス・レイル・ツーベルクもまた同じで、一向に引く事のない熱と吐き気、呼吸困難などで苦しみ続けていた。

 

「…もはや、この身も終わりか」

「旦那様…! そのようなことをおっしゃらないでください!」

「いや……自分の身体がどうなっているかくらいはわかる。私の命はもう…そう長くは持つまい」

 

 ベッドに横たわり、掌に血が滲むような咳を何度も繰り返すツーベルク侯爵。

 彼を労わる老執事も、顔色は悪くやせ細っている。忠義に厚い彼は自分の体の不調を押してでも、主の身を案じて職務を全うしようとしていた。

 

 屋敷内にいる他の執事や侍女達は、すでに暇を取らせて家に帰らせていた。

 主を敬愛している彼らは渋ったものの、ほとんどが体調に不調をきたしていたため、渋々ながらその命令に従った。

 屋敷に居るのはまだ元気な者か、命令に背いた頑固な者達だけだった。

 

「先祖代々、守り続けてきたこの地がこんな事になるとは……向こうで父祖に合わせる顔がない」

「それは…旦那様の所為ではございません。天災を人がいかに退ける事ができましょうか?」

「だがそれでも……もっと早く異変に気付き、対処する事ができていれば。ここまでの事にはならなかったかもしれんのだ」

 

 自己嫌悪に陥る主に、老執事は必死に否定の言葉を返す。だが、正義感の強いツーベルク侯爵は納得しない。

 苦悶の表情のまま頭を抱え、思慮の足りなかった自分を責め続けるばかり。

 

 老執事がかける言葉を見失い、悲痛な顔で俯き出した時、不意にツーベルク侯爵が顔を上げた。

 

「セリアは……セリアはまだ見つからないのか」

「…はい。例の書置き以外に手掛かりはなく、現在もアイシア殿と一緒に行方不明のままで…」

 

 たった一人の娘、愛する妻の忘れ形見であるセリアの事を考え、苦しげだったツーベルク侯爵の顔がさらに歪む。大切な宝物が手の中から消えた事で、弱っていたツーベルク侯爵の心はさらに苛まれる。

 

 領内に病魔が広がり、倒れる民が何人も出だした頃に突如姿を消した愛娘。

 部屋にたった一枚残された置手紙に書かれていたのは、『育てて頂いた恩を、今この時に返しに向かいます。親不孝な私をお許しください』という文章だけだった。

 

「ああ…一体何を考えているんだ。優しいあの子の事だ、この現状を黙って見ていられるはずもない……何か打破するための手立てを探しに行ったに違いない」

「ですが、一体どちらへ…?」

 

 老執事の呟きに、ツーベルク侯爵は険しい表情で俯く。

 彼の脳裏に即座に浮かんだのは、彼の人生でたった一人、長年に渡って嫌い続けているある男の事だ。

 

 レギン・ガーランド。

 貴族の子息が通う王都の学校の同学年の生徒で、何かと突っかかって来ては罵倒をぶつけてきていた、常に他者を見下す典型的な馬鹿息子だった。

 成績や家柄、さらには女子生徒との関係においていちゃもんをつけ、問題を起こす事が多かった相手。

 それは双方が大人になり、ツーベルク侯爵が家庭を持つようになっても続いた。

 

 集まりがなければ会うこともないような、思い出すことも煩わしい男。だが今この状況において、そんなろくでもない男の事が妙に気にかかっていた。

 

(あの男の領地は質の高い薬の生産地……もしやセリアはあの男の元に? なんと愚かな…飢えた獣の前に新鮮な生肉を置くようなものだ。何をされるか……)

 

 愛娘に向けられているかもしれない、下賤な欲望を想像し、ツーベルク侯爵はとてつもない吐き気を覚える。

 誇り高き貴族が相手ならば、ここまでの不安はそう抱きはしないだろう。だが、頼ろうとしている相手がもし奴ならば、考える以上の最悪の結末が待っているかもしれない。

 

 亡き妻の最愛の宝が、最低の存在に穢される光景を想像することは、弱った身体にはあまりに酷な事だった。

 

「…王都から、何か返答は」

「何も……街道は封鎖されたまま、隔離が続けられています」

「くっ…このままではいけない事はわかっているだろうに…!」

 

 頼りにならない王国に、ツーベルク侯爵は苛立たしげに声を荒げ、すぐに激しく咳き込む。

 

 隔離が対処として必要だと理解はできても、様子見がこうも長引くとさすがに腹が立ってくる。

 生きる為に必要な食糧の生産の多くを担うこの地の機能が停止したままでは、今後どのような弊害が出てくるかもわからないというのに、だ。

 

「これが神の采配だというのなら……神はどれだけ性格が悪いのだろうな」

 

 皮肉をこぼすと、老執事は気まずげに目を逸らす。言っても仕方ないことという嘆きで、侯爵自身も深いため息をついて項垂れる。

 

 そんな時だった。侯爵の寝室に、一人の薄汚れた格好の兵士が飛びこんできたのは。

 

「ほっ…報告! 報告です!!」

「何ですか、騒々しい! ここをどこだと心得て……」

「緊急の…報告なんです!」

 

 およそ領主の屋敷に入るには相応しくない格好の兵士、おそらくは国境警備の者であろう彼に、老執事が思わず苦言をこぼす。

 しかし兵士は引き下がらず、慌てた顔のまま跪き、ベッドに寝たきりとなった侯爵に首を垂れると、息を荒げたままその情報を口にした。

 

「てっ…帝国の軍勢が! 現在ツーベルク領に向かって進軍中! その数……およそ5千!!」

「なっ……」

 

 もたらされた報告に、老執事は絶句し目を見開き、呆然とその場に立ち尽くす。

 侯爵は僅かに目を見開くも、やがてベッドに倒れて顔を掌で覆うと、心底うんざりした表情で天井を仰いだ。

 

「…神よ、あなたは本当に残酷だ」

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

 それは、まるで黒い波だった。

 重厚な漆黒の鎧に身を包み、整然と四列を保ったまま行進する数千人もの兵士達。

 山道を、川を越え、これから侵す地を見据えて進み続けるその姿は、まるで人間では無い一個の生き物の様だ。

 

 いや、一人一人の表情を見るとそれも正しいかもしれない。

 兜に隠された歩兵の顔は、皆ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべて進んでいる。まるで、目前に生肉を置かれた飢えた狼のように、欲望を抑えられないけだものの貌である。

 

 それを指揮する、馬に乗った将の顔を見ると、こちらも人間とは言い難い。

 向かう先、ツーベルク領に向ける目は、欲望に満ちた醜悪な眼差しである。兜に隠されていなければ、悪魔の様に歪んだ悍ましい顔が覗けたことだろう。

 

「フン…予定よりも遅いな。これが今の帝国軍の現状か、嘆かわしい」

 

 そんな声が、兵士達が進む山道を見下ろせる丘の上から響く。

 やたらと装飾が施された甲冑を身に纏い、同じく無駄に飾られた青鹿毛の馬に跨る、細く厭らしい目をした髭の男が兵士達の行進を見て呟いていた。

 

「だがあれはあれで、蹂躙が始まれば十分に役立つ点は褒めてやるべきか……進軍で手に入れた者は全て好きにしていいと伝えてあるし、不満をこぼす者はそういまい。まったく、都合のいい駒で助かるな」

 

 吐き捨てるように言い、将の男は鼻を鳴らす。

 彼の兵士達に向ける目は、同じ人間に向けるものではない。金をつぎ込んで仕込ませながら、思った以上に役に立たない犬か、使い勝手の悪い道具に向けるようなもの。

 彼らには、大事を成すための足掛かりにする程度の期待しか、勝敗抱いてはいなかった。

 

 

『帝国は全ての国を支配し、永遠不変の栄光を築く』

 それが現皇帝の掲げる理想であり、国を統べる指針である。

 

 帝国以外の国は全て、帝国に貢ぐことが義務であり至福。そうでないものは存在する価値がないと言われるほど、絶対的な権力を主張している。

 実際、その妄言を実現できるほどに帝国は軍事力を増し、周辺国家を呑み込んでさらに勢力を拡大している。数年前は現在の領域の半分程度しかなかったのだから、その速さは凄まじいものである。

 

 だが、それで得をしているのは帝国のごく一部、上層部のみである。

 帝国内は身分の差が激しく、貴族でない者は人間扱いされる事も少ない。男は単なる労働力としか見られず、高い税で縛られ自由など微塵もない。

 女にいたっては道具でしかなく、好き勝手に甚振られて道端に捨てられることもざら。

 老人にいたっては絞れるだけ絞られた後、見せしめに殺される事も多々あり。

 子供は幼い頃から洗脳教育が施され、決して帝国貴族に、特に皇帝に逆らわないよう魂の芯にまで叩き込まれる。

 

 帝国に生まれた者は、人間ではなくなるのだ。

 それが他者を支配しようとする化け物になるか、生きながらの屍になるか、その違いでしかない。

 

 

 今、他国に進軍している兵の多くは、絶対的強者に恭順し甘い汁を啜ろうと画策している者達だ。

 逆らうことは端から考えず、それならいっそ自ら従っていい目を見ようと考える小心者。自ら兵士を望む者がいたとしても、それは余程性根が腐った者か、殺戮を好む異常者である。

 

「だが、土掘りしか能のない下民よりはマシか……田舎を征服するのにそう時間はいらんだろうし、今回はずいぶん楽な蹂躙だ。こうも暇では、鈍ってしまうなぁ」

 

 山々の向こう側、畑が広がっているはずの土地を見やり、将の男は欠伸交じりに呟く。

 進軍の邪魔になりそうな作物は火をかけるか、兵を使って刈り取り捨てるか。田舎の食べ物など、上流階級の世界に生きてきた自分の舌には合うはずもないと、早々に廃棄を考える。

 

 将の男にも、もちろんこの場にいない帝国の貴族達にも、民の暮らしを考える気はさらさらない。

 後でいくらでも増える労働力の環境を、いちいち考えているほど暇ではなく、自分達が如何に優雅に快適に過ごせるかどうかこそが大事であり、唯一である。

 まだ到着もしていないが、将の男の脳内は帰国して遊ぶことだけを考えていた。

 

(買い取った女で遊ぶのももう飽きた……子供で猟をするのも最近つまらん。帰ったらまた別の玩具を買い求めるとするか……いや)

 

 退屈そうに虚空を見やっていた将の男だが、やがてにやりと不気味に嗤う。

 視線の先、ツーベルク領を越えたさらに先にある王国に思いを馳せ、男は自分の欲望がむくりと鎌首を上げるのを感じる。

 

「どうせなら……あの国の連中で遊べないか進言しよう。ああ、そうだ。あの田舎者共に武器を持たせ、互いに殺し合わせる催しを開くのもいいか? もしかすると陛下もお気に入りになられて、私への報償も増えるやもしれんな…」

 

 ニタニタと、将の男の笑みがますます化け物じみていく。

 その思考はもはや人間ではない。自分以外の全てを玩具としか考えない、そして自分の存在こそが絶対で揺るがない者と捉える、異常性を自覚しない怪物の思考である。

 

 身の毛もよだつ悪意を全身から醸し出した男は、俄然やる気を出して進軍の様子を見下ろす。

 そうと決まったのなら、さっさと命の限り働き死ね、と使い捨ての道具でしかない兵士達を見送り、すでにすべて終わったように馬の上で寛いでいた。

 

 だが次の瞬間、彼の余裕は全て失われた。

 

「「「「「ぎゃあああああああああああああ!!!」」」」」

 

 不意に聞こえてきた、軍勢の先頭を歩いていた兵士達の絶叫。

 遠い山道の先で、姿の見えない彼らから放たれたその声に、将の男は訝しげに目を細め、背筋を伸ばして目を凝らした。

 

「…? 何だ?」

 

 何が起こっているのか、と、一応将として持ち合わせている小さな望遠鏡を取り出し、レンズを覗き込む。

 軍勢の列を辿り、悲鳴が聞こえてきた方に照準を合わせてみる。すると、前方の舞台が何やら慌てふためき、来た道を駆け戻ってくる姿が目に入った。

 命令に従順であらねばならない兵士にあるまじき醜態に、将の男は苛立ちに顔を歪める。

 

 しかし続いて見えてきた光景に、彼はギョッと目を見開く。

 逃げ惑う兵士達が、次々に姿を消し始めた。何の前触れもなく、あっという間に数十人が消え失せたのだ。

 

「うわあああ!!」

「助けて……殺される!」

「お母さ―――」

 

 異変は徐々に軍勢の前方から後方にまで広がっていき、数百人が姿を消していく。

 大勢の悲鳴が響き渡るが、それは声の主が姿を消すたびに途切れ、然して大きくなることもない。静かすぎる最期が、望遠鏡を覗く将の男の目に焼き付けられた。

 

 ごくりと息を呑み、冷や汗を流す将の男。

 彼はやがて、消えた兵士達の足元に起きている異変に気付いた。

 

 兵士達が歩く山道、そこに巨大な影が広がり、兵士達はその中に足から沈み込んでいたのだ。

 ずるずると、凄まじい勢いで広がっていくその影は、まるで底なしの沼のように兵士達を沈ませ、瞬く間に全身を呑み込んでいく。

 異様なその光景は、まるで何かに捕食されているようにも見えた。

 

「ぎゃああああ―――」

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌―――」

「なっ…なんだ!? 何が起こっている!?」

 

 将の男は、望遠鏡の先で起こっている異常に絶句するしかない。

 彼が棒立ちになっている間に、犠牲者は遂に千人にまで届く。列の前方から順に、影の中に沈み真面な悲鳴もあげられないまま消えていく。

 何が起こったのかも理解できないまま、痕跡一つ残さず姿が見えなくなる。

 

 すぐ目の前で呑み込まれ消えていく味方に目を見張る後ろの兵士だが、気付いた時には彼らも影に足を取られ、同じように呑み込まれてしまう。

 何度も同じことが続き、あっと言う間に軍勢は半分近くにまで減らされていた。

 

 ようやく、異変を察したらしい後方の兵士達が、迫り来る何かに対抗するために武器を構えだす。

 広がってくる影に気付き、何かがいると察して飛び退り、呑み込まれる事を防ぎ始める。

 

 軍勢の減少が止まって、〝それ〟はついに動き出し、自身の姿を軍勢の前に曝け出した。

 

「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 

 地面に生じた闇の中から飛び出した、巨大な黒竜。

 夜空よりも暗く、光の全てを呑み込みそうな色をした鱗に覆われた、一口で人を丸呑みにできそうな怪物が、雷鳴のような咆哮を上げてその姿を現す。

 

 兵士達は現れた怪物を前に、武器を構えたまま立ち尽くし呆然となる。

 迎撃することも忘れて固まる兵士達に、黒竜はギラリと鋭く輝く眼光を向け、夥しい量の血に濡れた牙を剥き出しにする。

 がぱりと開かれ、目前にまで接近する大顎を前にして、兵士達はもう何の反応もできなくなっていた。

 

「ゴルルルルルル!!」

「ギャッ―――」

 

 立ち尽くす兵士達の上半身が、黒竜のひと噛みによって食い千切られ、ただの肉片となり果てる。鎧など何の意味もなさず、ぶしゃりと噛み潰され、瞬く間に数十人が犠牲となり食い殺される。

 

 刹那の内に消えた味方の成れの果てを前に、すぐ横にいた兵士達は目を見開き、一拍遅れて悲鳴をあげる。

 だが、口を開いた時には既に黒竜の牙が近くにあって、上げた悲鳴ごと暗く深い喉奥に吸い込まれていた。

 

「このっ…!」

 

 何とか我に返った兵士が、ばりばりと味方の兵士を咀嚼する黒竜の顔に向けて槍を突き出す。しかし、突き出した槍はぶつかった途端に半ばからへし折れ、僅かにも傷をつける事も叶わずにただの木片に成り代わる。

 目を見開く兵士に、黒竜は一切の躊躇いなく食らいつき、ぼきっと腰から上を食いちぎる。

 

 一切の抵抗が無意味と悟った瞬間、黒竜を前にした兵士達は顔面を蒼白とさせ、武器を捨てて走り出していた。

 

「ひっ…ひぃぃぃ!?」

「ど、どけ! どけよ!」

「逃げろ! 殺されちまうだろうが!!」

「お前がどけぇ!!」

「死にたくねぇ…死にたくねぇよ!!」

 

 もう味方への遠慮などありはしない。自分一人が生き残る事を考え、一刻も早くあの恐ろしい化け物の前から離れることに集中する。

 もう彼らは他国を脅かす侵略者ではない。自分達を遥かに超える圧倒的強者に蹂躙され、見っともなく逃げ惑うだけの、張りぼてを失くした餌でしかなかった。

 

 背を向けて走り出し、後方の列とぶつかって渋滞を起こす兵士達にも、黒竜は躊躇いを見せない。

 手近にいた獲物を喰い終えると、黒竜はどうやってか自分の潜っている影を広げ、揉める兵士達の足元にまで届かせる。

 罵倒し合い、殴り合いまで始めた兵士達は、そのままずぶずぶと影に飲み込まれていった。

 

 

「ば……化け物、こ、こっちに来る…!? 嘘だろう…!?」

 

 そんな地獄の光景を、将の男はガタガタと震えながら凝視していた。

 彼の乗る馬も怯え、将の男が手綱を引いても応じない。あげくの果てに、体勢を崩した将の男が鞍から落下すると、我に返ったように走り去ってしまった。

 

「お、おい! 待て…待てこの獣め! 私を……私を置いていくな!!」

 

 逃げ去る馬に手を伸ばし、叫ぶ男だが、馬がそれを聞き入れるはずもなく、彼はぽつんと一人取り残される。

 

 悲鳴が丘の下から響き渡り、ぼきぼきと肉と骨が砕ける音が断続的に響く。徐々にそれが自分の元に近づいてくる事実に、背筋が震える。

 その事実に怯えながら、男は涙と鼻水で顔中を汚し、尻餅をついたまま震える体で後退った。

 

「来るな……こっちに来るな化け物! いやだ、私はまだ死にたくない!!」

 

 早くこの場を離れねばと、将としての責務をすべて放棄し、這いずりながら惨状に背を向ける将の男。

 そんな彼の目の前に、どちゃっと何かが落下してくる。

 

「―――ひ、ひぃっ! ひぃいいい!?」

 

 目前に転がったのは、兵士の生首だった。それも一つではなく、顔の半分が食いちぎられた物から、目玉が一つだけだったりと、無残な状態のものが幾つも。

 将の男は完全に腰を抜かし、自分と目が合った生首から離れる事もできず、じたばたと藻掻くことしかできない。

 

 そして彼は気づく。

 あれだけ聞こえていた悲鳴が、もう一つも聞こえてこない事に。

 生首たちを持ってきた〝それ〟が、静かに自分を見下ろしていることに。

 

「ゴルルルルル……」

「あ……ぁ…」

 

 顔を上げて視界に映ったのは、口周りを真っ赤に汚した黒竜の貌。

 そこだけ夜になってしまったかのように真っ黒な、鎧のような鱗に覆われた巨体に、一本一本が剣のように鋭く巨大な牙。そして、生物とも思えないくらいに怪しく真っ赤に輝く両目。

 

 文字通りの怪物が、ぎろりと男を見下ろしていた。

 

「……助けて」

 

 誰に対する者でもなく、将の男が悲しげにこぼす。

 黒竜はそれに耳を貸す様子も見せず、ゆっくりと顔を男に近づけ。

 

 

 がばりと。

 男に向けて顎を開いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24.Close

「……これは一体、どういうことだ」

 

 エイベルン王国の将軍、アルガンは思わずそう呟き、目前に広がっている光景に呆然自失となる。

 彼の部下達も同じで、まるで自分が今見ているものがこの世のものとも思えない様子で、硬直し立ち尽くしていた。

 

 帝国の侵略者から領地を守るため、派遣された王国の軍が辿り着いた、国境近くの山地。

 本来であれば視界に映るのは、青々とした草木で彩られた、幼い頃から見慣れた景色。そして今は、それを汚す黒い侵略者達の姿が映るはず。

 だが、いま彼らが見ている世界と、記憶の中の景色は全く重ならない。

 

 彼らの目に入り込むのは、山道に突き立てられたまま放置されている武器の数々。

 そして、鋭利な刃物で切り裂いた後のような、草木の一本も残っていない土の道。そこにはたった一匹も生物の気配を感じ取れない、死の山のような景色だった。

 

 同時にぷんと漂ってくる、鉄分を含んだきつい臭い。

 強烈な臭気にえずき、中には蹲って胃の中の物を全て吐き出す者もいる。そうなるほどに、侵略者達の消失した現場は、凄まじい状態を見せていた。

 

「せ、生存者は……いや、帝国兵は確認できるか?」

「……いません」

「一人もか!? たったの一人も確かめられないのか!?」

「いません…! 誰一人、生きている帝国兵はいません!!」

 

 アルガン将軍の問いに、望遠鏡を覗いていた部下の一人が、今にも泣き出しそうな声で告げる。

 山々のどこを覗いても、確認できるのは持ち主を失った武器の数々。そして飛び散る鎧や武具の破片らしき金属片。肉片の一つも見当たらず、動くものは何一つ見つからない。

 

 5千もの大群が、知らせを受けた王国軍がこの地に辿り着くまでの間に、影の形も何も残さないまま、姿を消してしまったのだ。

 

「何が起こったのだ…!? あれは…何の痕だ!? ここで奴らに…何が起こったのだ!?」

「わかりません…ただこれは、人間業ではありません!」

 

 わかりきったことを報告してしまうほど、将軍も兵士達も狼狽していた。

 帝国の侵略という脅威が消えた事を喜ぶよりも、出陣が無駄に終わった徒労感よりも強く、この惨状を生み出した何かに対する恐怖感が芽生え、あっと言う間に膨れ上がっていく。

 帝国軍がいた痕跡をわずかにしか残さない何かに、アルガン将軍は戦慄を抱いていた。

 

「…とにかく、調査だ。まさかとは思うが、これが帝国軍の策という可能性もないわけではない。我々を混乱させ、不意を打つという種類のな…!」

 

 バクバクと激しく脈打つ自分の心臓をどうにか抑え込み、アルガン将軍は自分の部下に告げる。引き攣った表情は必死に隠し、泰然とした態度を見せつける。

 将たる自分が冷静さを欠けば、それは部下にも伝わり失態の要因となる。それを防ぐために、自分こそが支柱とならねば、と自分を奮い立たせる。

 

 そんな彼は、顔を上げた部下達が〝それ〟を目にし、驚愕と絶望で顔面を蒼白にしていた事に、気付かずにいた。

 

「そうさせないために、付近一帯に探索を行い、詳しい調査を―――」

「…しょ、将軍…!」

 

 兵士達に振り向いたアルガン将軍は、真っ青な顔で自分に指を差す彼らに訝しげに首を傾げる。

 そして返ってきた彼らの声が、凍えるように震えていることに気付き、彼はますます困惑を強くする。

 

 何を見ているのか、と眉を寄せたアルガン将軍は、次の瞬間ハッと目を見開き、勢いよく背後に向かって振り向く。

 そして彼もまた、自分を見下ろす巨大な黒い竜の貌を目前にし、その場に凍り付いた。

 

「…グルルルル」

「なっ―――」

 

 真っ赤な血に濡れた口を舐めながら、同じ色をした目で見下ろしてくる、一体の黒竜。

 影の中に半身を沈めているという、生物の範疇から完全に逸脱した在り方をした怪物を前に、アルガン将軍は言葉も出ない。

 

 凍り付いたように立ち尽くしたまま、見つめ合うこと数十秒。

 不意に黒竜が首を伸ばし、アルガン将軍の前で口を開いた。

 

 身構える将軍や兵士達の前に、黒竜の口の中からこぼれた何かが、ガランッと金属音と共に落ちる。

 それはアルガン将軍の足元にまで転がり、顔を見せる。自分を見上げる、恐怖で引き攣った形で固まった顔を目の当たりにして、アルガン将軍はハッと我に返った。

 

「…! これは、帝国の将…!」

 

 情報として知っている、悪逆非道の帝国軍を率いて残虐な行為を働いてきた男の顔。

 それが物言わぬ骸の一部となって自分の前にあるという事実に、将軍はごくりと息を呑み、続いて恐る恐る黒竜を見上げ、口を開いた。

 

「……お前が、やったのか」

「ゴルルルル…」

 

 アルガン将軍の問いに答えるように、黒竜は低い唸り声をあげ、目を細める。

 畏怖や恐怖、正体の知れない恐るべき怪物を前に、言葉も出ない彼らの視線を一身に浴びながら。

 

 黒竜は、苛立たしげに彼らを見下ろし、くいっと顎で方角を―――ツーベルクの地を示した。

 

 

 

 町民達の前に現われたその怪物は、じっと静かに人々を見下ろしていた。

 病に苦しめられ、大半が外に出る事もままならなくなり、さらには帝国軍の侵略という凶事を耳にし、最早ゆっくりと滅びの時を待つばかりだったツーベルクの民。

 そんな彼らの前に現われた、影に半身を沈めた黒竜は、大勢の注目を浴びて鎮座していた。

 

 だが、彼らが最も目を奪われていたのは黒竜自身ではなく、黒竜の真下に置かれた瓶の山。

 青緑色の液体が入ったそれらに、街の住民達はみな困惑の視線を送る。

 

「何だ、あのでかい竜は…」

「あの瓶は……まさか、飲めって言ってるのか? ど、毒か?」

「何が目的なんだ…!?」

 

 得体の知れない黒竜の意図を読めず、どよめく町民達を黒竜は黙ったまま赤い目で睥睨する。

 

 すると、不意に黒竜が一人の町民に―――真っ白な格好をした、治療師の男に顔を向け、足元に置いた瓶を一つ摘まみ上げ、差し出してみせた。

 いきなり瓶を近づけられた治療師はギョッと目を剥き、しかし退く事もできず、恐る恐る瓶を受け取り、蓋を開けて臭いをかいでみる。

 

 その瞬間、治療師の男はハッと目を見開き、謎の瓶を凝視する。

 

「これは……まさか、例の病の!?」

 

 自分が今立ち向かっている、ツーベルクの民を苦しめる由来不明の病魔。

 その治療に必要不可欠な素材の匂いを感じ取った彼は、バッと興奮気味に顔を上げ、瓶を運んできた黒竜を凝視し、また驚愕で目を見開く。

 

 黒竜は、どこから取り出したのか大きな布を―――帝国の紋章が縫い込まれた大きな旗を片手に持ち、住民達に見せつけていた。

 ところどころに血がつき、ボロボロになったそれに町民達の目が集中すると、黒竜はそれを両手で持ち、左右に引っ張り始める。そして。

 

「ゴルルルルルル!!」

 

 ビリビリビリィッ!と旗は左右に引き裂かれ、破片が風に乗って周囲に四散する。

 その行為が示す帝国軍の末路、そして黒竜がやってのけた偉業を悟ったツーベルクの民は。

 

 大気を震わせるほどの喝采を上げ、黒竜を強く崇めたのだった。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

 ―――その日、ツーベルクの地に一体の神獣が降臨した。

 

 豊かな地を毒で穢し、卑劣な手段で蹂躙し全てを奪い去ろうとした、悪逆非道の帝国。

 王国軍はこれを退けるため、知らせが入った直後に軍を派遣するが、相手は5千もの大軍。準備も時間も足りず、ツーベルクの地は為す術なく侵され、悲劇に包まれる―――そのはずであった。

 

 そこに現われたのは、人を想い義の心を有する優しき神獣。

 夜空よりも暗く濃い鱗を有し、暁の輝きを放つ眼を持った巨大な竜。

 

 彼は悍ましき欲望に満ちた帝国軍にたった一体で立ち向かい、見事それを打ち破ってみせた。

 ツーベルクの民に、そして王国軍にたった一人の犠牲を出すことなく、5千の大軍の全てを屠り、王国を救ってみせたのだ。

 

 しかしそれだけではない。

 彼の神獣は帝国軍が放った毒で斃れたツーベルクの民に、どこからともなく持ってきた薬を差し出し、無事に全員帰還した王国軍と共に、病に苦しむ人々をも救ったのだ。

 

 姿は人にあらず、しかしその心は誰よりも貴く美しい、心優しき神獣。

 人々はその在り方に、帝国という悪魔を撃ち滅ぼすために使わされた、真なる神の遣いの姿を見た。

 

 そんな噂話が、王都のいたるところで広まり、大勢の民の耳に届けられる。

 そしてそれは王都だけではなく、ツーベルクを除くエイベルンに属する全ての領地にも届き、真実として伝えられていくこととなる。

 瞬く間に、神獣たる竜の噂が、まるで英雄譚の様に国中に浸透していくこととなったのだった。

 

 

 

「……全て、消えた。いや……食われたのか。5千もの軍勢が……たった一体の化け物に」

 

 玉座にへたり込みながら、ガイウス王はアルガン将軍からの報告に冷や汗を流す。

 跪いた将軍も同じく全身から汗を噴き出させ、引き攣った顔を伏せて首肯を見せる。うまく言葉も出てこなくなるほどに、その場にいる誰もが恐怖感に苛まれていた。

 

「…我が国の、損害は」

「0です……一人たりとも討たれることなく、進軍した兵士全員が帰還しております」

「つ、ツーベルクは」

「同じく、0です……領地に、人里に入るよりも前に、黒竜は帝国軍全員を食い殺し……ツーベルク領を、救ってしまいました」

 

 もたらされたそれらの情報に、玉座の間に控えていた他の将軍達は呆然と立ち尽くし、ガイウス王は顔を手で覆う。聞き間違いか、妄言であってほしかったと願うが、もうそれは何の意味もなさない。

 

 敵軍の一人も退けることなく、国とは全く関係のない怪物の殺戮により、国の窮地が救われた。

 それが屈辱以外の何物であるか、ただ軍を率いて出てくるだけで何も出来なかったアルガン将軍は、伏せた顔をぐしゃぐしゃに歪めて呻いていた。

 

「この…薬というのは」

「ガーランド伯爵が用意していた、万が一の為の解毒剤のようです。僅かながら、倉庫に残っていました。……これらが持ち込まれたことで、病の治療が始まったツーベルク領では、かの竜をまるで神獣のように崇める者まで現れているという話です」

「…我が軍は、薬を運ばされただけという事か」

 

 屈辱に耐えかねたガイウス王は、ドンッと玉座のひじ掛けに拳を打ち付け、ギリギリと歯を食い縛る。

 眉間に深くしわを寄せ、鬼のような形相で、自分を差し置いて神聖視され、崇められるたった一体の怪物に憎悪の炎を燃やした。

 

「…得体の知れぬ、化け物の分際で…!」

 

 自分ではどうしようもなくなった怒りを持て余し、ガイウス王は血が滲むほどに拳を握りしめる。

 

 戦において、王国軍が何もできずに終わってしまったことで、民の国への信頼は著しく下がったに違いない。

 最終的に犠牲がないまま終わったことは僥倖だが、かの黒竜の助けがなければ、一切の抵抗も無意味のまま蹂躙され、大きな被害を被っていたに違いないのだから。

 

 民が頼り、指針にするのは王という役職ではない。

 自分達の生活の安全を保障し、豊かな暮らしを約束してくれる相手である。それが破られた時、民は容赦なく王を見限り、牙を剥くことも有り得るのだ。

 

 故に、凄まじき力を持った黒竜という、何を考えているか全くわからない怪物に信仰が集まる事は、国として非常に望ましくない状況であった。

 

(これでは、あの化け物を始末できないではないか…! もし排除など試みようものなら、今度こそ民の信頼は消失し、反逆の意志が芽生えかねん……まさか、奴はこの結末を予想して!?)

 

 自分の命が脅かされている事を察し、そうさせないための道筋を考え出したのならば、一軍師にも劣らない恐るべき知略の持ち主である。

 ガイウス王は、自分が如何に愚かな選択を取りかけたのかを痛感し、臣下達に見えないようにぶるりと肩を震わせた。

 

「……ツーベルク嬢は、騎士アイシアは今どこにいる」

「客室にいるはずです。…お呼びしますか」

「頼む……奴の処遇のために、彼女達からもっと詳しい話を聞いておかねばならん」

 

 兵士の一人にそう伝え、彼が退出すると、ガイウス王は重く深いため息をついて天井を仰ぐ。

 それは見るからに王らしくない、心身ともに疲れ切った中間管理職のような、痛々しい姿だった。

 

「陛下、如何されるおつもりか」

「…方法は何でもいい。奴を懐柔する術を考える。こうなった以上、奴には本当に我が国の守護獣になってもらうよりほかにない……腹立たしい事だがな」

 

 ぼそりと呟き、苦渋の決断を伝えるガイウス王に、将軍達は一斉に同意するように首を垂れる。

 危険因子として摘み取れないのなら、利益を示し味方として引き込むしかない。王よりも信頼の厚くなる何かがある事は認めたくないが、そうしなければ今、民が敵に回りかねない。

 

 今後の課題の重さに頭を抱え、王が唸り髪を掻き上げる。

 その時、先ほどセリア達を呼びに向かった兵士が、大慌てで玉座の間に飛び込んできた。

 

「た…大変です! 陛下! ツーベルク嬢が…! 客室から消えました!!」

「なっ―――」

 

 顔面を蒼白にした兵士の報告に、将軍たちが一斉に振り向き、兵士と同じく顔を真っ青にしていく。

 思わぬ事態に、ガイウス王は一瞬、意識が遠くなるのを感じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25.Christening

「お父様…」

 

 ベッドに横になる、以前見た時よりも痩せ細ってしまったツーベルク侯爵に縋りつき、セリアは悲痛な声をこぼす。

 枯れ枝のように骨が浮き出た、今にも折れてしまいそうなほどに弱った姿を目にして、一人娘はぐっと息を詰まらせる。

 

 ツーベルク侯爵は、そんな娘に向けてふっと微笑み、ぽんぽんと彼女の頭をなでてやる。

 

「……大丈夫だ、君の友人が運んできてくれた薬のおかげで、私も、民も峠を越えられた。心配しなくとも、お前の前から今すぐに旅立つことはない」

「はい…はい…!」

 

 父からの温かい感謝の言葉に、セリアはぽたぽたと涙を流し身を震わせる。

 もう少し遅ければ、病の進行も帝国の侵略も、何もかも止めることが間に合わなかったかもしれない。自分の巡り合わせと幸運に、そして神の采配に深く感謝するばかりだ。

 

 ツーベルク侯爵はしばらく娘の好きなようにさせていたが、やがてスッと目を細めて彼女を見つめ出す。彼の纏う雰囲気も、ピンと張りつめたものへと変わった。

 

「…だがセリアよ。私はお前を叱らねばならない。たとえこの身がどうなろうと、私はお前をあの男の元に差し出すつもりなどなかった……自分の価値を、過剰に貶め過ぎだぞ、お前は」

「…は、はい」

「結果が全てだというが、私はお前を失う結末などどうあっても受け入れられない。こんな事は、もう二度としないでくれ……お願いだ、私の宝よ」

 

 ツーベルク侯爵はそう告げ、優しくセリアの頬に触れる。

 たとえ最たる主君である国王に命じられたとしても、妻を失った今の自分にとって唯一の宝となった愛娘を手放すことはできないのだと、傷ひとつないセリアに心底安堵の眼差しを送る。

 

 父からの懇願に、セリアも自分の愚かしさを痛いほどに知らしめられ、また涙腺を決壊せ、嗚咽をこぼす。失わずに済んだ温もりに、ただのか弱い少女はひたすら泣き続けていた。

 

 しばらくの間、固く心を通じ合わせる父娘。

 やがてツーベルク侯爵は、ふと思い出した様子で、この場にいない一人の姿を探した。

 

「…ところで、セリアよ。君の護衛の彼女は、今どこに?」

「…え、アイシアですか? 彼女なら―――」

 

 顔を上げたセリアは、目元を擦って涙を拭い口を開く。

 訝しげな目を向けるツーベルク侯爵に笑みを見せ、得意げな表情で続けて応える。

 

「この地の……この国の救世主と共にいます」

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

 バクバクしゃくしゃくもぐもぐボリボリ、と。

 

 皿の上に乗せられた大量の果物を咀嚼し、〝それ〟は舌に感じる甘味を堪能する。

 ()()()()()()()とも思える素晴らしい味覚に〝それ〟は歓喜をあらわにし、恍惚とした様子で目を細めていた。

 

(ふむふむ……量は雀の涙だが、この味は実に甘美。最近は生臭い肉ばかり口にしていたせいか、初めての感覚で新鮮だな! 腹はたまらんが胸がいっぱいだ! 素晴らしい!)

 

 黒い鎧の連中を片っ端から喰いまくり、影の中に引きずり込んでから呑み込み、食欲と衝動の赴くままに暴れ回ったが、それでも胃の中はまだまだ隙間が空いている。

 自分を苛んでいた激しい飢餓感は抑えられたが、最初に戻っただけで、胃袋はまだ不満を告げていた。

 

(うむぅ……しかし、ここまで食っても満腹とならんとは、一体この身体はどうなっているのやら。下手をしたら、後になってやってきたあの白い連中まで食っていたところだ)

 

 ごっくん、と噛み砕いた果物を呑み込んでから、〝それ〟はふと少し前の事を思い出す。

 

 黒い鎧の連中を一人残らず平らげ、一息ついていた〝それ〟の元にやってきた、白い鎧の集団。

 黒い鎧の連中よりもはるかに少ない、強い緊張感を醸し出していた彼らを前にして、〝それ〟はある既視感を抱いたことから襲撃を止めた。

 

 やって来た集団の格好は、〝それ〟がこの地まで送り届けた女性の鎧と似た意匠のものだった。

 細かな違いこそあったが、胸元に刻まれた紋章を思い出すに、間違いなく同じ勢力に属する集団であると推測できる。

 武器を突き付けられたが、手を出さないで正解だったと〝それ〟は安堵の息をついていた。

 

(失せろと顎を向けたらその通りにしてくれたが、一体奴らは何をしに来たんだろうな……やたらと悔し気に顔を歪めていたが)

 

 ぺろりと口周りを舐め、残った果実の汁も残らず舐め取り、〝それ〟は少し満足げに唸る。

 皿の上にはもう一つも果実はなく、物足りなさを感じるものの、欲をかいてもどうにもならないと自分を納得させる。

 思考を変えようと、〝それ〟はもう一つ、気にかかっていたことを思い出した。

 

(あの薬……妙に鼻につく臭いがする町に置いてきたが、あれで正解だったか? 適当に目立つ格好をしていた奴に渡してみたら、喜んでいたから間違いはないと思うが……効かぬ薬だったら失敗だったかもしれんな)

 

 腹ごなしに影を泳ぎ、見つけた人里。

 元気のない、痩せた人間ばかりが目立つその場所に入ってみて、もしや使い道があるかもしれないと、確保しておいた薬の袋を差し出してみたところ、ちょっとした騒ぎになった。

 

 その際、鱗のどこかに引っかかっていたらしい大きな布に気付いた〝それ〟が、邪魔に感じて引き裂いたところ、辺りから凄まじい歓声が上がり心底驚かされた。

 

(あれが何を意味していたのか……未だに全くわからんな)

「――、―――――。――――、――」

 

 ふん、と鼻を鳴らし、不思議そうに首を傾げる〝それ〟。

 ぼんやりとしていた〝それ〟は、横から話しかけてくる、見慣れた女性に訝しげな視線を向け、眉間にしわを寄せた。

 

(…さっきからコイツは、何を話しかけているんだ? 果実をくれたのは嬉しいが、何をそんなに笑っているのやら。……まぁ、どうでも良いが)

 

 満面の笑みと共に、やたらと話しかけてくる長く時間を共にした女性。

 この地に辿り着き、近くの森の中でしばらく寛いでいたところに彼女はやってきて、大量の果物を目の前に持ってきた。

 差し出されるそれを受け取らない理由はなく、こうしてご相伴にあやかっているわけだ。

 

(顔を見るに、何かの礼か……運んだことか? 正直言えば、俺は此奴を利用していた立場なんだがな……そう考えると、若干居心地が悪いな。少しばかり…申し訳ない)

「――、――――。―――――――」

(というかさっきからずっと喋っているな、こいつ。意思疎通だけでもどうにかなるまいか……主に、今後の方針を決めるうえで)

 

 妙に親し気な様子の女性に、黒竜は影の中を揺蕩いながら、フッと呆れたような息をこぼしていた。

 

 

 

「こんな形でしか礼をできんが……その様子を見るに気に入ってくれたようだな、安心した」

 

 手持ちの皿で最も大きな皿を用意し、その上に用意できる限りの果物を乗せて運んできたアイシア。

 それを口にし、すぐさま平らげ始めた黒竜が目を細め、恍惚とした姿を見せてくれたことでホッと安堵し、笑みがこぼれる。

 

 今現在、彼女の財布はすっからかんになっているが、これでもまだ礼には足りないくらいだと全く気にしていなかった。

 

「…貴殿は凄いな。私やセリア様を救ってくれただけではない。この国の窮地まで救ったのだからな……これでは、あの王も貴殿を害そうとは思えまい。してやったり、というところだな」

「ゴルルル…」

 

 満足げに唸る黒竜の鱗を撫で、アイシアは語り掛ける。言葉が通じておらずとも、溜まりに溜まった感謝を、物の代わりに言葉でぶつけたかった。

 

 そこでふと、アイシアはある事に思い至る。

 

「……そういえば、いつまでも貴殿と呼ぶのは味気ないな。私の勝手な印象だが、これまで長く共にいるのに、あまりに他人行儀が過ぎるやもしれん。真に名前があったとしても…呼び名くらいはあってもいいのではないか?」

 

 返事がないことをいいことに、アイシアは寛ぐ黒竜を見下ろし考え込む。

 この怪物が、何を思って自分達を助けてくれたのかは分からない。しかし、何故だかわからないが、今後この黒竜とは短くない付き合いになりそうだと感じ、腕を組んで首を捻る。

 そこに自分の願望が混じっている事を自覚しないまま、女騎士は黒竜へ贈る、名前という名の贈り物を考え続ける。

 

 そしてしばらくして、アイシアは満面の笑みを携えて黒竜に向き直った。

 

「ならば、貴殿の名は―――」

「グルル…?」

 

 視線の強さが気になってか、黒竜は訝しげな目をアイシアに向けて唸る。

 何を言っているのか、何をするつもりなのかまるでわかっていないらしい怪物に、少しばかり愛らしさを抱きながら、アイシアは今考えだした怪物の〝名〟を口にする。

 

 

襲撃者(アサルティ)

 

 

 紡がれたその名が、黒竜の耳に響く。意味が分からなければ、ただの音でしかないそれが、鼓膜を震わせ黒竜の脳にまで伝わる。

 我ながらいい出来だと自画自賛するアイシアの前で、黒竜はやはり不思議そうに彼女を見つめ返し、小首を傾げてみせる。

 

 その変化が生じたのは、突然だった。

 

「グル―――!?」

「あッ―――!?」

 

 アイシアと黒竜の視界に電流が走り、パチパチと弾けて視界の全てが真っ白に染め上げられていく。五感の全てが麻痺し、一人と二人だけが世界の中から隔絶されたかのような感覚に陥る。

 

 そして次の瞬間、アイシアと黒竜の脳裏に、全く同じ声が響き渡った。

 

 

 ―――ついに……ついに完成した!!

 

 ―――これが私の最高傑作…!

    この世にある全ての生物をリセットする、この世界の全てを無に帰す最強の捕食者!!

    あらゆるものを支配し、奪い、凌辱し、屠り、喰らい、壊し、殺し尽くす終末の獣!

 

 ―――私の全てはここに集約した…!

    私から何もかもを奪ってきた塵共が、全てを無に帰されるのだ!!

 

 

 ―――今、この時をもって人の世は終わりを告げる!!

 

 

「なん……だ…これ、は……!?」

 

 高らかに嗤う、見覚えのない男。

 視界に広がる緑色の液体。

 そして、硝子の壁に映った異形の影。

 

 雷のような怒涛の勢いで、脳にねじ込まれる見たことのない記憶が、アイシアの中で暴れ回る。

 よろよろと足元が覚束なくなり、激しい嘔吐感に襲われ、目の焦点が狂ったアイシアが、ずるずるとその場に倒れ込む。

 

 それは黒竜も同じ事で、瞳孔が急に収束したかと思えば、即座に弛緩し、目から光が消え失せる。

 ぐらりと巨体が体幹を崩し、ゆっくりと横たわり、やがて影の中に全身が沈んでいく。

 

 まるでただの屍が、暗い水の底に沈んでいくかのように、ピクリとも動かず影の中に消えていく黒竜の姿を、薄れる意識の中で瞼に焼き付けるアイシア。

 同時に、どこからか自分を案じ駆け寄ってくる主の少女の声を耳にした気になりながら。

 

 アイシアの意識もまた、深い闇の中に沈んでいった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

 そこは、すべてが漆黒で飾られた空間だった。

 ドーム状の天井とそこから下がるシャンデリア、悪魔が支える意匠の柱とおぞましい模様の施された壁、鏡のように反射するほど磨かれた床。

 全てが夜闇のように黒く、あらゆる光を飲み込むような印象を与える空間となっていた。

 

 輝きを放つ全てのものを否定するかのようなその空間に、玉座の上で鎮座する男がいた。

 空間と同じく、黒を基調とした豪華な装いに身を包み、二十代前半頃の麗しい顔立ちをした、気だるげな雰囲気を醸し出す青年である。

 

 玉座の肘掛けで頬杖をつき、冷たい氷のような目を見せる青年は、自分の目の前で跪く一人の男を見下ろす。

 真っ青な顔で、ブルブルと震える彼を見下ろす青年は、しばらくして小さく口を開いた。

 

「全滅した……だと?」

「はっ、エイベルンに進軍した帝国兵総数5千! 全員が討ち死にしたとのことです!」

「使えぬ男め……わざわざ5千もの手駒を失い、そのくせ生きて戻ることも叶わんとはな」

 

 ふん、と鼻を鳴らし、青年―――グランヴェルズ帝国第3代皇帝オーウェル・デル・グランヴェルズは小さく舌打ちをこぼす。

 

 肥沃な領土を有するエイベルン王国や鉱山をいくつも抱えるデリエラ公国、航路を保有するナトリエラ商業、そのほかにも存在する十幾つもの国々。

 大陸には多くの資産価値を持つ国々があり、長い歴史を見ると、時に互いの資源をめぐって争いが起こってきていた。

 

 グランヴェルズ帝国は、それらの国々に比べれば比較的歴史の短く、しかし変動の大きさで言えば随一の大国である。

 先代皇帝を弑し、若くして王位に就いたオーヴェルの代になってからはその変動も顕著で、勢力の拡大に関しては歴史的に類を見ない拡大ぶりであった。

 

「見事役目を果たしてみせます…などと大言を口にしておきながら犬死したか。つまらぬ男よの」

「……お、恐れながら陛下!」

 

 ハァ、と大きなため息をつき深い落胆を見せるオーウェル。

 冷めた目で虚空を見やる若き皇帝に、報告に上がった兵士は声を震わせながら口を開く。ぎろり、と不機嫌そうな視線を頭頂部に感じつつ、兵士は言葉を続ける。

 

「て、帝国の侵攻を阻んだのは、恐るべき力を持った竜であったとのことです! なんの前触れもなく現れたその竜が、あっという間に軍を食い殺し、全滅させたと…!」

 

 ぴくり、とオーウェルの頬が小さく痙攣し、気だるげだった表情が険しくなる。

 無表情こそ変わらないものの、目には氷塊のごとき冷たさを宿し、より強い苛立ちを見せる空気が玉座の空間を支配する。

 

 体の芯まで凍りつきそうなほどに恐ろしい気配に、兵士は跪いたまま、カチカチと歯を打ち鳴らし出した。

 

「竜…? そんな戯言を真に受けて、おめおめ戻ってきたのか、貴様は」

「っ……げ、現地に派遣した影からの、確かな報告でございます! ツーベルク領に侵入した5千の兵、全てが一体の黒竜に食い殺され、跡形もなく姿を消したと―――」

 

 命惜しさに、ガバッと顔をあげて弁明しようとした兵士。

 しかし、彼の目にいつの間にか立ち上がっていた皇帝の姿が写った直後、なぜかぐるりと天井と壁、そして床を連続で刹那の間に見せつけられる。

 

 最後に顔面に衝撃を受け、跪いた体勢のまま倒れこむ自分の姿を視界に映し、兵士の意識は闇に飲まれていった。

 

「妄言に付き合う暇はない……我の望みを果たせぬ者に存在する価値はない。…片づけろ」

 

 ブンッ、と手にした剣を振り払い、付着した鮮血を取り除きながらオーウェルが告げると、玉座の間の影からいくつかの黒い影が飛び出し、兵士の骸を運び出していく。

 骸が片付けられ、最初から何もなかったかのような綺麗な状態にされると、オーウェルはどっかりと玉座に座り、深いため息をつく。

 

 やがて彼は、最初と同じ頬杖をついた体勢で虚空を見つめ、小さな声で呟いた。

 

「しかし竜か……それほどまでに大きな力を持った存在ならば、かなり役に立つかもしれんな。使いこなせば、この大陸だけではない……海の向こうの国々も手中に収められるやもしれん」

 

 玉座に体を預けた若き皇帝は、瞼を閉じると想像力を働かせる。あの兵士の言葉が真実として、竜がいかなる存在であったのかを。

 

 5千という大軍を相手に退かないという、まるで機能していない恐怖感。それだけの数を屠れる圧倒的な戦闘能力。そして何より、一度の報告では計り知れない異能の力。

 実在するというのならばこれほど恐ろしい存在はおらず―――同時にひどく、心惹かれる相手であった。

 

 

「―――欲しくなってきたな、その化け物」

 

 

 思わず溢れた、熱を孕んだオーウェルの声。

 誰もいなくなった玉座の間で一人嗤う若き皇帝の顔は、まるで欲しい玩具を前に焦がれる少年のようであり、同時に獲物を前にした飢えた獣のような、悍ましい顔をしていた。




ヨナルデパズトリ様、Luciefu様、No.va様、たけし3号様、ごましお君様、D.D.D.様、Nau様、メカ三等兵様、当方の拙い文の誤字修正に感謝いたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅱ 襲撃者、色欲の蜘蛛と遭遇す
プロローグ


注意!
章名で分かる通りR-17.9の表現があります、苦手な方はブラウザバックを。


5/2 7:46 修正
これで少しはマイルドになった……でしょうか?
直接的な単語を減らしたから大丈夫……だと思いたいです。


 はっ、はっ、と。

 深く昏い夜の森の中を懸命に走る、一人の少女がいた。

 

 さらさらとたなびく長く美しい金髪に、草木と同じ翠の瞳。

 すらりと伸びた華奢な肢体に、白磁のような肌、程よく実った胸元と臀部の膨らみ。

 そして何より目立つのは、尖った長い両耳。

 

 エルフ―――自然を愛し、自然と共に生きる種族。

 生まれ育った森と一生を共にし、それを侵す存在には容赦をしない。

 しかしそれゆえに、自種族以外の種族に対して排他的で、時に過激な面を見せる事もある、いわゆる「潔癖症」の人種である。

 

 その一族の一人である少女は今、必死の形相で森の中を走っていた。

 縄張りである森の中を、何度も背後を気にしながら、表情を引きつらせて。

 

「はぁっ…はぁっ! いや…いやっ! 近づかないで!!」

「――――――」

 

 彼女を追うのは、巨大な影だった。

 ザザザザザッ…と立ち並ぶ太く立派な木々を薙ぎ倒し、踏み越え、長い数本の足を高速で動かし、追跡する怪物である。

 暗闇の中で八つの目が輝き、エルフの少女を凝視し続けていた。

 

 不意に、怪物の口から大量の何かが射出される。

 粘度を持った糸のようなそれは少女に向かって伸び、少女の片足に絡まり縛り付ける。その所為で、少女はつんのめり地面に勢いよく倒れ込んでしまった。

 

「あっ…! いやっ!」

 

 痛みに呻き、それでも何とか起き上がろうとするが、糸は周囲の草木も巻き込んで硬化しており、少女はその場に縫い付けられたように動けない。

 

 少女は顔中から冷や汗を噴き出させ、必死に足に付着した糸を引きはがそうとする。

 だがそうしている間に、怪物は少女との距離を詰め、気付いた時には既に真っ赤な眼で少女を頭上から見下ろしていた。

 

「…ギチギチギチ…!」

「あっ……いや、嫌よ! 嫌ぁ!!」

 

 覆いかぶさってくる、森に棲む熊よりも大きな怪物。

 奇妙な音が怪物の口からこぼれ、悍ましい形をしたそれから、だらだらと半透明の液体が零れ落ちる。

 

 恐怖で目を見開き、顔面を蒼白にさせる少女。

 仰向けで硬直する彼女の身体に、液体がべちゃべちゃと浴びせられる。ぬるぬるした液体は衣服に浸み込み、少女の肌にべったりと張り付き、酷い不快感を齎す。

 

「離して…! いやっ! 離してぇ!!」

「ギチギチギチ…! ギチギチギチギチギチ!!」

 

 悲鳴をあげ、涙を滲ませ、じたばたと両足を固定されたまま藻掻き、首を横に振る少女。

 全身を汚され、恐怖で怯える痛々しい姿に、怪物は愉悦を感じているのか、気味の悪い音を立てて目を光らせる。

 

 やがて、怪物はがぱりと口を大きく開き、上顎から小さな針を突き出させる。

 それを激しく身をよじらせる少女の首筋に突き立て、自ら分泌した液体を注入し始めた。

 

「ひぃっ……アッ!? あっ、あっ、あっ…!?」

 

 チクリとした痛みが走った直後、少女は顔を真っ赤に染め、呼吸を乱れさせる。体に異様な熱が広がり、全身の汗腺が開いて大量の汗が噴き出す。

 

 皮膚の感覚が敏感になり、空気が触れるだけで反応するようになるのと反対に、思考は鈍化していき目の焦点も合わなくなっていく。

 少女の身体は勝手に震え、脳がぐちゃぐちゃにされていくように感じられた。

 

 びくびくと震える少女を見下ろし、愉悦の音を鳴らす怪物。

 すると、怪物はまた口から糸を吐き出し、少女の身体を巻き取る。

 

 がんじがらめにされた少女の身体がグイッと持ち上げられ、動き出した怪物によって荷物のように運ばれていく。

 暗い闇の中に連れ込まれ、少女の表情はますます強張った。

 

「嘘…嘘よ、嘘! どうして……どうして、私がこんな目に…!? 私っ…何も、何も悪い事してないのに…!!」

「ギチッ、ギチギチギチチ…!」

 

 怯える少女の声も聞かず、怪物はすさまじい速度で森の中を進み、やがてある場所に辿り着く。

 

 そこにあったのは、巨大な穴だった。

 無数の木片と草木が、大量の怪物の糸によって巻き込まれ、一塊にされてできた一見洞窟のようにも見える穴。

 不気味に口を開けるその中に、怪物は少女を伴って入っていく。

 

 荒い息をつき、熱っぽい顔で穴の中を見渡す少女。

 彼女の表情は、次の瞬間凍り付き、一気に血の気が引いて真っ青に変わった。

 

「ヒィ……ヒィイイ」

「助けて…たす、けて…」

「死にたくない……いやぁ…!」

 

 奥に見えたのは、自分と同じく怪物の糸に囚われた同族のエルフ達の姿。

 皆、顔に見覚えがある。ここ最近に行方不明になったとされる、集落でも有名な美女達である。

 

 男性陣の噂になるほどの器量だったのに、今やかつての美貌が翳るほどやつれ、虚ろな目で穴の天井や壁にがんじがらめにされてしまっている。

 

 だが、少女を怯えさせたのはそれだけではない。

 捕らわれたエルフの女性達の腹部が、皆一様に大きく膨らみ、異様な姿に変貌していたからだ。

 

 そうなった姿を、見たことはある。

 集落において、次なる命を育んでいる仲間の姿を見たことは、一度や二度ではなく、自分もいつかは相手を見つけてそうなるのだと、漠然と考えてはいた。

 だが、今目の前にいる同族達の姿は、それとは異なっていた。

 

「ひぃ…うご、いてる……! 私の中で、動いてるぅ…!」

 

 呻く一人のエルフの腹が、ボコボコと歪にゆがむ。無数の小さな何かが蠢いている様が、遠目からでもはっきりと見える。

 別のエルフ達の腹も蠢き、今にも何かが飛び出してきそうな痛々しい雰囲気を醸し出す。

 

 彼女達の腹の中に何がいるのかなど、どんなに馬鹿であってもすぐに分かった。

 

「……まさ、か…わた…し、も……!?」

 

 カタカタと歯を鳴らし、女性達を凝視していた少女。

 自分の未来を想像し、愕然とした顔でガタガタと全身を震わせ、目の前が真っ暗になる。

 

 すると、まるでこの光景を見せつけるように沈黙していた怪物が、糸を引っ張り始める。

 腕ごと胴に巻き付いていた糸が外れ、代わりに少女の両手足に巻き付き捻り上げる。痛みに藻掻く少女だが、抵抗虚しく大の字に囚われ、地面に仰向けにさせられる。

 

「ギチギチ……えるふ、えるふノメス…!」

 

 目を見開く少女に届く、怪物の口から洩れた〝声〟。

 だらだらと涎を垂らす、八つの目に明確な害意を宿した怪物が、横たえた少女の肢体を凝視し顎を鳴らす。

 

 その様はなぜか、少女の目に全く別の姿を想起させる。

 幼い子供に覆いかぶさり、獣欲を溢れさせ下卑た笑みを浮かべる、ぶくぶくと肥え太った中年の人間の男の姿を。

 

「いや……いやよ、いや…! それだけは…こんなのいやぁ…!」

「えるふ…! キョニュウえるふ! ユメニマデミタジンガイリョウジョクぷれい…!」

 

 意味の分からない言葉を続け、膨らんだ腹部を上下に振る怪物。

 べちゃべちゃと汚らしい体液を垂らし、八本の足で自分を捕らえる怪物を前に、少女はいやいやと首を横に振る。

 

「いや……た、助けて」

 

 少女の懇願の声が、怪物の巣の中に虚しく響く。

 痛々しい、あまりにも憐れな少女を見下ろしたまま、怪物は変わらず顎を鳴らし、八つの目を爛々と輝かせる。

 

 そしてやがて、怪物の腹の先端から生えた凶器がゆっくりと掲げられ―――少女の体を、容赦なく貫いた。

 

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 巨大な月が照らす、深い森の奥にできた怪物の住処。

 その奥に囚われた少女達の悲鳴が、いつまでもいつまでも木霊し続けていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1.Reboot

 いつも通りの朝が始まるはずだった。

 嬉しくもなんともない、何の変り映えもない、億劫さが最初に来る、詰まらない朝が。

 

「……んぅ、もう今日が来たのか」

 

 眩しさに顔をしかめ、少女は思わず呟く。

 朝陽を顔に受けて目を覚まし、瞼を擦りながら寝具から抜け出し、麻で作った服を身に纏う。

 

 集落の外れに自分で建てた家を出ると、水を汲むために川へ向かう。

 その途中、集落の住人達……自分の同族達から冷たい視線を受けながら、なるべく顔を見ないように俯いたまま通り過ぎる。

 何度か舌打ちが聞こえるものの、どうにか無視して川へ急ぐ。

 

 気づいたら受けていた、理不尽な敵意の視線にどうしても胸が痛むが、気持ちを無理矢理押さえつけ、桶を持って家まで往復する。

 

「…いただきます」

 

 水で顔を洗い、ある程度すっきりさせてから、先日採集した分の果実を朝食に使う。

 

 この世に生を受けて数十年、共に暮らす者はここ十年近くおらず、いっそ寂しさも薄れてきた。

 日に日に心が麻痺していくことを自覚しながら、もそもそと林檎を腹に収める。

 

 そうして朝の習慣を終えてから、自分に課せられた役目の為に準備を始める。

 弓の具合を確かめ、矢の数を数え、狩りの装いに着替えて道具を背負う。最後に前髪をまとめるバンダナを巻いてから、ふぅ、と小さくため息をついた。

 

「……大事な仕事なら、ボクだけに押し付けなきゃいいのに」

 

 母親が亡くなり、みなしごとなった自分に集落の長が与えたある役目。

 はみ出し者の自分がこの地で暮らすための、毎日こなさなければならない役目。他の誰もやりたがらない、押し付けられた汚れ仕事。

『集落に害をなす侵入者の排除』という、望んでやる者のいない行為である。

 

「……獣は殺すな、人間は殺せ。無茶ばかり言うんだから、全く」

 

 500年に渡って森を守ってきたと、集落の全員から敬意を集める長の命令を思い出し、エイダはため息をつく。

 押し付けられた役割に、うんざりした気持ちを隠せずにいた。

 

 自分の両肩が酷く重くなってくるのを自覚しつつ、少女―――ハーフエルフのエイダはわが家を出て、集落の外へと向かった。

 

 

 

 エルフは余所者の存在を許容しない。

 森に生まれ、森に育まれ、森に生き、いずれは森に還る。そんな大きな輪の中に存在しているという教えを幼い頃から受けているため、そこに割り込む存在を認められないのである。

 

 故に、生まれ育った森に紛れ込む存在があらば、武力を持って排除しようとする。

 女子供であっても容赦はなく、何より悪意を持って入り込む輩には、死よりも恐ろしい末路を与える。そう決められている。

 

 しかし、エルフは総じて草食主義であり、命を奪う行為も忌避している。

 そのため侵入者の排除、つまりは命を奪う役目は汚れ役として扱われるため、普段は担う者がほとんどいない。よほどの事情があれば全員が武器を取るが、日頃の見張り程度であれば誰もやりたがらない。

 

 そして、その嫌われる役目に選ばれたのが、人間に産まされた子(ハーフエルフ)という望まれない産まれ方をしたエイダであった。

 

 

 

 しかしこの日、ある違和感を覚えたエイダは、訝しげな表情で森の中を見渡していた。

 豊富な植物、清らかな風、探せばすぐ近くに水源がある、命を育むのに十分すぎる環境が整った、広大な森。

 なのに今現在、エイダは獣一匹たりとも、影も形も見つけられずにいた。

 

「どうなってるの…? 気配があまりに少なすぎる……獣達はどこに消えちゃったの?」

 

 今は季節は春の最中、冬の眠りからはとうに醒め、生物は皆活発に動く時期。

 なのに、どこを見渡してもエイダ以外の気配が感じられない。巣に潜んでいるのかと探してみるも、全くのもぬけの殻となっている。

 

 次第にエイダの背筋に、嫌な汗が吹き出し始めた。

 

「……これ、間違いなくおかしいよ。長に知らせなきゃ……でも、聞いてくれるかな」

 

 逸る気持ちを抑え、エイダは表情を曇らせる。

 自分に与えられた役目は、侵入者の排除。相手が何であろうと、姿を見せず命を狩る事のみを任されていて、異変の報告はそうではない。

 もしこれを伝えに戻ったとしても、臆病風に吹かれて駄々をこねていると捉えられる可能性もあった。

 

 エイダは歯噛みし、引き返しかけた足先を戻す。

 存在を認められない、混じり物の自分が集落に残るには、異変の正体―――つまりは敵を狩るしかない。相手が何であろうともだ。

 

「…行くしか、ないか」

 

 覚悟を決め、エイダはさらに先へ足を踏み入れる。

 エルフの血が叫ぶ命の危機、それが最も強く感じられる方向へ、ごくりと息を呑みながら生い茂る木々の向こう側に進む。

 

 そして進めば進むほど、エイダの違和感は大きくなっていく。

 昨日は聞こえていた鳥の鳴き声どころか、虫の鳴き声も聞こえない。風に枝が揺れる音しか聞こえない、異様なほどに静かな森に変貌している。

 

 そして何より漂うのは、濃密な死の気配。

 血の匂いと腐臭、自分の役目が生む結果生じるそれよりもっと濃い、強烈な臭いが襲ってくる。

 

「ここまで濃い死の臭いなのに……獣の死骸が一つもない。病か何かじゃないのなら……何かに襲われて食われた? …何に?」

 

 エイダは鼻を押さえながら、引き攣った顔で森の中を見渡す。

 

 彼女が生きてきて、このような状況に遭遇したことは一度もない。

 この森において、捕食者と非捕食者の均衡は保たれており、一方が急にいなくなることはまずありえない。それも、捕食者も一緒にというのは考えられない。

 

 そうする事ができる獣に、心当たりがない。

 ならばこれをやってのけたのは、他所から来た何かという事になる。

 

「やっぱり無理だ…! ボクだけじゃこんなのどうしようもない…! 一度戻って……」

 

 いまだ姿の見えない謎の捕食者に、エイダは湧きあがる恐怖を抑えられず、ぶるりと肩を震わせて踵を返すエイダ。

 何を言われようと、どんな目を向けられようと、命が惜しいエイダは同族達に危険を知らせるために、集落に引き返すことを決める。

 

 だが、駆け出そうとしたエイダの肩に、不意に何かが落下し付着する。

 気持ちの悪い感触がした、と思った直後、しゅうしゅうと音を立ててエイダの衣服が溶け始めた。

 

「っ!? うわっ、うわっ! 何、何!?」

 

 慌ててエイダは、煙を上げる衣服を脱ぎ、足元に投げ捨てる。

 雨粒とも、花の蜜とも違う、半透明の気持ちの悪い感触の液体が、あっと言う間にエイダの上着を溶かしきってしまう。

 その様に、エイダは真っ青な顔で顔中から冷や汗を噴き出させる。

 

「何…これ!? 毒……酸…!?」

 

 エイダは思わず後退り、後ろにあった大樹に背中をぶつけながら、煙から漂ってくる刺激臭に顔をしかめる。

 急いで脱ぎ捨てていなければ、自分もこうなっていたかもしれないと、背筋にゾッと寒気が走る。

 

 そこでふと、エイダは気づく。

 衣服を溶かした謎の液体は、一体どこから来たのかと。

 

 さっと顔から血の気を引かせたエイダは、ガバッと顔を上げると、その先に見つけた光景に途端に顔を強張らせる。

 

「ギチギチギチ…!」「キチチ…!」「ギチチチ…!」

 

 顔面を蒼白にし、立ち尽くすエイダを見下ろす、無数の目。

 だらだらと口から液体をこぼし、ゆっくりと降りてくる、いくつもの大きな影。

 

 爛々と八つの目を輝かせる、エイダよりも巨大な体を持つ蜘蛛の怪物が、顎を鳴らして近づいてきていたのだ。

 一体だけではない、十数体の大群である。

 

「なっ……あ…!?」

「ギチチ…えるふ、ろりえるふ…!」

「アタラシイエモノ…アタラシイオモチャ…!!」

 

 異形の口から漏れ出る不気味な〝声〟、地の底から響くような歪な音。

 悍ましい悪意と欲望が滲み出たそれを耳にし、エイダは大きく目を見開き、ずるずるとその場にへたり込んでしまう。

 

 蜘蛛の怪物たちは、腹部の先端から伸ばした糸を切り、一斉に地面に降り立ってくる。

 槍の穂先のように鋭く尖った足を地面に突き立て、地面を震わせながら、怪物達はエイダを取り囲む。不気味に輝く八つずつの目が、エルフの少女を凝視する。

 

 エイダが腰を抜かしている間に、怪物達は彼女の退路を完全に閉ざしてしまった。

 

「オッパイチイサイナ……アナモキツソウダ」「ダガソレガイイ!!」「オオキサナンテイクラデモカエラレル…」「ムネナンテカザリデスヨ!」「デカイニコシタコトハナイケドナ」

 

 エイダには全く意味の分からない、怪物達が口にする〝声〟の数々。

 怪物達はまるで、同じ存在同士で話しているように一糸乱れぬ動きでエイダに詰め寄ってくる。その姿はエイダにはなぜか、肥えた醜い人間の男が喋っているように見えた。

 

「いや……やめて、来ないで…!」

「ギチギチギチ! ソノカオソソル!」「ヨウジョノナキガオマジサイコー!」「コノキチクメ!」「ぶーめらんオツカレサマデス」「ミンナオナジアナノムジナダロ」

 

 逃げる事も叶わない、ゆっくりと近づいてくる怪物達に、エイダはボロボロと涙を流して懇願する。

 弱々しく、痛々しいその姿に、怪物達はますます興奮した様子で嗤い、顎を鳴らして近づいてくる。

 

「アジミシチャウ?」「ホンタイガオコルダロ」「ホンタイハキョニュウハダカラベツニダイジョウブダロ」「ジャアナイショニシチマウカ」「イギナシイギナシ」

 

 やがて、怪物達はぼたぼたと酸の涎を垂らし、詰め寄ってくる。

 

 垂れ落ちた酸の涎がエイダの頭にかけられ、肌着までもを溶かしてくる。

 しかし、あられもない姿にされていくことよりも、得体の知れない怪物達に悪意を向けられることにより強い恐怖を抱き、エイダはガタガタと震えるばかりだった。

 

「誰か……誰か…!」

 

 助けを求めるも、辺りにエイダ以外に人の姿はない。

 そして何より、助けを求めたところで応じてくれる者はいないのだと気付き、エイダの目から光が消えていく。

 

 突如、怪物達がぐわっと前足を上げ、腹部を近づけてくる。

 気色の悪い虫の裏側を目の当たりにしながら、エイダは一筋の涙を流し、強張っていた全身から力を抜いた。

 

(……ああ、ボク、これで終わりなんだ)

 

 唐突に脳裏に浮かぶ、これまでの記憶の数々。

 母と共に過ごした日々、亡くなった後の苦労、集落での同族達からの蔑みの目、長の冷たい言葉。

 

 そんなどうしようもない思い出ばかりが、エイダの中に蘇っていた。

 

(別にいいか……僕なんて、死んだところで誰も困らない。ああでも……役目を別の誰かがやらなくちゃだから、そこだけはいい気味かもなぁ)

 

 鼻先にまで近づいてくる、怪物達の腹から生えた謎の器官。鼻に刺さる臭いに、徐々に思考にもやがかかってくる。

 あまりにも運のない自分の生を嘆き、自嘲気味に嘆息したエイダは、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 が、彼女を覆っていた影が、次の瞬間消え去った。

 

「ギ―――!!」

 

 甲高い断末魔の声が響いたと思った直後、バキバキバキッと何かが割れる音が響く。

 続いて柔らかい肉が潰される嫌な音が響き、断末魔の声が途切れる。

 

 我に返ったエイダはハッと目を見開き、目の前の光景に呆然となる。

 自分の一番近くに迫っていた怪物の一体、それも最も大きな個体が真下から生えた何かに突き上げられ―――いや、食らいつかれていた。

 

 ざざっと後退る怪物達とエイダの視線を受けながら、その何か……黒竜は、赤く目を輝かせた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2.Encounter

「ギチッ…ナンダコイツ!?」

 

 エルフの少女と同じく驚愕し、動揺の声を上げる怪物達。

 彼らの警戒の目を一身に受け、地面から―――そこに広がる影の中から現れた巨大な黒竜が、咥えた蜘蛛の怪物を噛み潰し、呑み込む。

 

 バキバキと破片が飛び散り、体液と肉片が四散し、辺り一面が青紫色に染まる。

 口の周りをべたべたに汚しながら、黒竜は血の色をした目を動かし、怪物達を睥睨した。

 

「ゴルルルル…!」

「なんダコノばけもの…!?」「ヤバイころサレル!」「にゲロ!!」

 

 べろりと口周りを舐め取る黒竜を前にし、怪物達はエイダを放置して一目散に逃げだす。

 巨体に見合わぬ俊敏さで、木々が並ぶ森の奥に逃げ込むその様は、何故だか見苦しさが目立つ。己よりも弱い存在を甚振っていた人間が、より強い立場の者を前に恐れをなした姿にも見えた。

 

「ゴルルルル……」

 

 黒竜はそれに、苛立たしげな唸り声をあげる。

 ぎろりと鋭い目を向け、牙を剥き出しにすると、背を向けて疾走する蜘蛛達に向かって動き出す。

 

 ズッ、と影を泳ぎ、一気に加速した黒竜が最も近くに居た蜘蛛の腹部に食らいつく。

 抵抗する間もなく、バキバキと蜘蛛の腹は噛み潰され、足と頭だけがぽろぽろと地面に散らばる。それを放置し、黒竜は先に逃げる他の蜘蛛達を追いかける。

 

 黒竜は一度、自らの影の中に潜り込み、さらなる加速と共に空中に飛び上がる。

 ガシャガシャと必死に逃げる蜘蛛の二体を後ろから両手で掴み、地面に叩きつけ仕留める。地面に手をついた勢いでもう一度加速し、前にいたもう一体にも食らいつく。

 

 四体を瞬く間に潰し、散らばった数体を狙い首を伸ばす。

 しかし、黒竜が口を開け、再びの跳躍を行おうとした時には、残りの蜘蛛達は糸を木々の枝に射出し、するすると頭上に登っていた。

 黒竜はしぶとくそれを追おうと影の中からの跳躍を行うが、奮闘虚しく、蜘蛛達の姿は生い茂る葉の向こう側に見えなくなってしまった。

 

「ゴルルルル…グルァァァア!!」

 

 目と鼻の先から消え去ってしまった複数の獲物。

 捕らえ、胃袋に収める事ができなかった悔しさに、黒竜はギリギリと牙を噛みしめ、怒りの咆哮を上げ続ける。

 

 その恐るべき姿に、エイダは呆然としたまま、新たに現れた怪物の巨体を凝視する他になかった。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

(チッ……半分以上逃がしたか。あいつらの肉、ぷりぷりしてて美味かったのに)

 

 口の中に残った蜘蛛の肉を咀嚼し、〝それ〟は忌々し気に唸る。

 今までにないほどの食い応え、そして旨味を有した獲物と出会えた事で多少上機嫌になったが、やはり己の肉体は物足りなさを訴えている。

 

 食に関して節操のない自らに呆れ、〝それ〟はフンと鼻を鳴らす。

 そしてやがて、怪物は眉間に深いしわを刻み始めた。

 

(うむ……しかし、非常に困ったことになった)

 

〝それ〟はじろりと、周りに生い茂る木々を見渡す。

 たいして詳しくはないのだが、視界に映る樹木の葉は、以前に見た森のものとは異なる種類のものに見える。葉の形状や厚さ、幹の表皮も異なっていて、雰囲気からして違いが判る。

 

 そこから察するに、この地は眠りに就く前にいた場所とは異なる、全く見知らぬ地であることがわかった。

 

(迷ったな、これ)

 

 ただ一つ分かっている事実に、〝それ〟は嘆くように天を見上げ、目を細める。

 なぜ自分がここにいるのか、どういう経緯でこんな所に彷徨い出ることになったのか、あらゆる疑問が〝それ〟の中に生じ、天を仰いだまま動かなくなる。

 

(ぷっつりと記憶が途切れた後、何があった? ずいぶん長い間影の中を彷徨って……というか漂っていたようだが、ここはどこだ?)

 

 自分でも全くわかっていない、影の世界。

 海や川のように流れがあるわけではなく、深さに底があるのかも、広さに限度があるのかもよくわかっていない、謎多き真空の空間。

〝それ〟に触れてさえいれば入れるが、〝それ〟以外の生物には呼吸もままならない、無の世界。

 

 ずいぶん長い間、〝それ〟は闇の世界で眠り続け、そして不意に目を覚ました。

 そして〝それ〟が動いた理由はただ一つ、〝腹が減った〟という変わらない底なしの欲求に突き動かされたからだ。

 

(知らぬ間に、随分深い所まで沈んでいたから少し不安になったが、地上に上がれてよかった……やたら旨そうな臭いがしていた奴らに感謝せねばならんな)

 

 深い深い影の世界で、右も左も、それどころか上も下も曖昧だった世界で真っ直ぐに上がって来られたのは、群がる幾つもの獲物の気配を感じ取れたからだった。

 空腹の身体を動かし、影の中から浮上して獲物を視界に捉えてからは、もう夢中だった。

 

 気づけば、やたらと大きな蜘蛛の集団を標的にし、襲い掛かっていた。

 なにか喋っているようにも思えたが、空腹に苛まれた〝それ〟の耳には届かず、牙を剥いて蜘蛛達に踊りかかっていた。

 

 そうして、暴走した食欲を鎮静した〝それ〟は、一息ついてその場に佇み、現状の整理を始める。

 まず始めたのは、意識を失う以前に何をしていたのか、何が起こったのかを思い出す事だった。

 

(彼女が話しかけてからの記憶が非常に曖昧だ……確か、彼女が俺に何かを話しかけて、俺に名を……そうだ、名をつけたのだ。何だったか……そうだ、アサルティだ。そう名付けたのだ……ん?)

 

 寝起きの為か、はっきりとしない記憶を辿り〝それ〟―――襲撃者(アサルティ)と呼ばれた怪物は首を傾げ、しばらくしてようやく答えを引っ張り出す。

 

 しかし、すぐに一つの疑問に思い至り、虚空に目を向けたまま逆方向に首を傾げた。

 

(…なぜ、そう思った? 彼女の言葉は、あの時も全く分からなかったはずなのだが……なぜだ? 何故そう名付けられたとわかった? 言語もわからんというのに)

 

 差し出された果物に夢中になっていたアサルティに、女性が仕切りに話しかけていたことは覚えている。しかし、彼女の言語に通じていない〝それ〟にとっては、意味のない音の羅列でしかなかった。

 ただひとつ、襲撃者(アサルティ)という言葉の意味を、そしてその名をつけられた事を〝それ〟は理解できていた。

 それがひたすらに、不可思議でしかたがない。

 

 首を左右に傾け、唸りながら、長い時間考え続けるアサルティ。

 険しい顔で悩み続けていた怪物は、やがてふっと鼻を鳴らして、思考を止めた。

 

(まぁ、いいか―――それより、やはりあれっぽっちでは全く足りんな)

 

 唐突にやる気をなくしたアサルティは、眉間のしわを消して肩から力を抜く。

 気になったのは僅かな間で、その事に関して考える行為に面倒臭さを抱いた瞬間、あっさりと興味が失せる。

 

 そんなことよりもアサルティは、取り逃がした巨大蜘蛛の事が気になってくる。

 これまで口にしてきた獲物の中でも、特別に美味だった分、逃がしたことが非常に惜しく、その事ばかりが気になっていた。

 

「あ……ぁ…」

 

 ふと、背後からか細い声が聞こえて、アサルティは我に返る。

 振り向くと、小柄な金髪の少女が幹に背中を預け、へたり込んでいる姿が映った。

 

 ガタガタと震え、アサルティを凝視する少女。青ざめた彼女の顔の横からは尖った長い耳が伸びていて、身体に合わせてぷるぷると震えている。

 アサルティは訝しげに、やや変わった容姿をした彼女を見つめ、首を傾げた。

 

(ん…? 何だ、こいつは。妙な形の耳をしているが……この間の糞不味い獲物の同類か?)

 

 脳裏に過るのは、自身に名を与えた女性と共に旅をしていた時、遭遇した妙な集団の事。

 緑色の小さな体に、不細工な顔をした妙に味の悪い連中で、吐き気を堪えながら集落ごと食い尽くしたことを覚えている。

 

 しかし、記憶にあるその集団とは明らかに見た目が異なっている。長く尖った耳は似ているが、その他の特徴は全く異なる。

 体もそう小さくはなく、肌も普通の人間と同じく白い。顔立ちにいたっても、鼻もやたらと大きくなく、目も気持ち悪くない。旅をした女性達と見た目は耳以外にあまり変わりはない。

 

 であれば何者なのか、とアサルティは訝しみながら、詳しく観察しようと少女の元に近づいてみる。

 

「た……た…!」

 

 すると、少女は向かってくる怪物の貌に恐怖し、目を潤ませて震える声を漏らす。

 何事か、とさらに顔を近づけるアサルティの前で、少女はボロボロと涙を流し、ひゅっと息を吸い込み、甲高い声で叫んでいた。

 

「食べないでくださいぃ~!!」

「くワネェヨ」

 

 目の前で悲鳴をあげる少女に、アサルティは呆れた目を向け、吐き捨てるように告げる。

 青褪め、引き攣った顔で見上げてくる少女を鋭く睨みつけ、怪物は苛立たし気に鼻を鳴らす。

 

 そして、自分が見せたある異常に気付き、アサルティはん?と首を傾げた。

 

(…あれ? 今、俺……喋った?)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3.Communicate

「ぼっ…僕! 僕肉もついてないし、骨ばっかりだからおいしくないです! だから食べないでください! お願いしますぅ~!!」

クワネェッテノ(喰わねぇっての)

 

 樹の幹に背中をぶつけ、いやいやと首を振りながら、泣き叫ぶエイダ。

 黒竜が呆れたように目を細め、ため息交じりに答える声も聞こえていないのか、ひたすらに叫び続ける。

 

「あっ、貴方は大きいし! ここには僕しかいないから、食べたってお腹は満たされないです! 食べたら余計にお腹がすくと思うんです! だからやめておいた方がいいです!!」

ダカラクワネェッテ(だから喰わねぇって)

「僕あんまりいいもの食べてないから! 栄養もないし食べ応えないです! だから食べない方がいいですやめて下さいぃ!!」

クワネェッテイッテンダロウガ(喰わねぇって言ってんだろうが)

 

 涙と鼻水で顔中をぐちゃぐちゃにし、ついには樹の幹にしがみついてがたがたと震えだす。

 先ほどから何やら幻聴が聞こえてきて、エイダはますます混乱し、自分でも何を言っているのかわからなくなる。そもそも怪物を相手に、何を懇願しているのか。

 

 止まらない命乞いと、キンキンと鼓膜に伝わってくる悲鳴。

 一切手を出さず、ハーフエルフの少女を見つめていた黒竜から、やがてブチッと何かが切れる音が響いた。

 

ダカラクワネェッテイッテンダロウガ(だから喰わねぇって言ってんだろうが)!!」

「ひぃいい!!」

 

 牙を剥き出しにし、目を吊り上げ吠える黒竜。

 ごぅっ!と突風のように襲い掛かる咆哮に、エイダはますます怯え身を縮こまらせる。

 

 しかし、泣き叫ぶことを止めたおかげか、徐々にエイダの頭に登っていた血が降りてくる。

 少しずつ冷静さを取り戻していくと、エイダはきょとんとした顔で固まり、目を瞬かせながら背後に振り向いた。

 

「……今、喋ったのはあなたですか…?」

ヤットカ(やっとか)……、オマエハ(お前は)

 

 恐る恐る、様子を伺いながら問いかけるエイダに、黒竜はフンと鼻を鳴らしてみせた。

 見下ろしてくる双眸は鋭く、影から生える長い首と大きな顔は、やはりとてつもない恐怖感を与えてくる。

 

 しかし、向けられる視線はじとりとした人のものであり、獣とは明らかに異なるものであると、エイダはようやく安堵を抱き始める。

 怪物を相手に安堵するというのも妙な話だが、それだけエイダは困惑していた。

 

「ほ…ほんとに、食べないんですか?」

クワネェ(喰わねぇ)オマエ(お前)ドウミテモウマクナサソウダシ(どう見てもうまくなさそうだし)クウキニナラネェ(喰う気にならねぇ)

「うっ…美味しくなさそうって」

 

 エイダの身体つきを見下ろし、詰まらなそうに答える黒竜。

 容赦のない怪物の評価に、エイダは安堵すべきか腹を立てるべきか悩み、少しの間険しい表情になる。

 

 エルフは森に暮らす性質上、動きやすいよう細身で身軽な体躯になりやすいのだが、エイダはそれと比べても小柄で痩せ細っている。

 同年代の女子達と並ぶと、まるで年下のように見えてしまう事が彼女の悩みの種であった。

 

「す…好きでこんな体になってるわけじゃ」

ソンナモンシルカ(そんなもん知るか)トニカク(とにかく)オマエミタイナヒンソウナ(お前みたいな貧相な)ヤツヲクウキハネェ(奴を喰う気はねぇ)ウルセェカラダマッテロ(うるせぇから黙ってろ)

「ひどい!」

 

 暴言で傷付けたくせに、気遣いも何もない黒竜に、思わず恐怖も忘れて抗議の声を上げるエイダ。

 だが、黒竜は鬱陶しそうに吐き捨て、エイダから目を背ける。そんな素っ気ない、無関心な態度があまりにも辛く、エイダは涙目で地面を叩いていた。

 

 やがてエイダは、キッと黒竜を怒りの眼差しで睨みつける。

 もはや最初の恐怖は微塵もない。自分にとって酷な事ばかりを口にする怪物には、物申さずにいられなかった。

 

「というか、あなたは誰なんだ!? あなたみたいな猛獣は見たことないし…それにそんな風に影に潜れる奴なんて見たことが―――って何ですかそれ!?」

 

 猛然と吠えるエイダだが、改めて黒竜の姿を目の当たりにすると、驚愕で大きく目を見開き、固まってしまう。

 

 地面にできた影の中から、まるで水面から顔を出すかのように顔を覗かせる巨大な竜。

 普通ではありえない、異能の力を見たエイダは表情を引き攣らせ、黒竜の顔とそれが身を沈める影を交互に凝視し、喚き続けた。

 

「かっ…影!? 本当に影に潜っているんですか!? ど……どうやって!?」

ウルセェナァ(うるせぇなぁ)……。キヅイタラコンナフウニナッテタンダヨ(気づいたらこんな風になってたんだよ)

「気づいたら…!? どういう事ですか!?」

ダカラシラネェッテノ(だから知らねぇっての)

「知らないで済まされませんよ! 一体何者なんですか!? まっ、魔法!? 魔法なんですか!?」

シラネェッツッテンダロ(知らねぇっつってんだろ)

 

 ひたすらに困惑し、質問をぶつけるエイダに、黒竜の顔はどんどん険しくなってくる。

 最初は懸命に距離をとろうとしていたのに、黒竜の異能を見てからは興奮気味に詰め寄ってきている。一体何が彼女の琴線に触れたのかわからないが、黒竜は徐々に苛立たし気に唸り始める。

 用のない少女が自分を引き留めていることが、とてつもなく鬱陶しいようだ。

 

イイカゲンダマレ(いい加減黙れ)。、オマエニナニカカンケイガアルノカ(お前に何か関係があるのか)?」

「あっ…ありますよ! ぼ、僕は…この森で敵を見張り、侵入者を排除する役目があるんですから!」

ミハリ(見張り)…?」

 

 黒竜は胡乱気な眼で、聞いてもいない事情を語るエイダを見下ろす。

 蜘蛛の集団にやられかけ、半分溶けた格好を見ると、確かに戦うつもりの装いに見える。装備は弓矢と短剣だけで心もとないが、敵の侵入を探り、奇襲をかけるだけなら十分かもしれない。

 

 しかし、黒竜にとってそれは重要ではなかった。

 エイダが語った「役目」という言葉が、怪物にある可能性に思い至らせていた。

 

「……ジャア(じゃあ)コノサキニオマエノナカマガイルンダナ(この先にお前の仲間がいるんだな)?」

「…っ!?」

 

 ぼそりと呟いた(どうやって話しているのかは不明だが)黒竜に、エイダはハッと表情を変える。

 

 黒竜が見せる謎の力。音もなく、気配すら感じさせずに現れ、鋭く尖った牙を標的に突き立てる異能の力。逃れる術の思い付かない、恐るべき能力。

 それを、集落の同族達に振るわれる光景を幻視し、エイダは咄嗟に腰に提げた短刀を抜き放っていた。

 

「だ……だめです! それはだめです!」

「ア?」

「なっ、仲間は! 僕の仲間は食べちゃダメです! 絶対に!」

 

 無意識のうちに、集落のある方向を背に庇い、怪物に短刀の切先を突き付けるエイダ。

 黒竜が訝し気に首を傾げている事にも気づかず、顔中から冷や汗を噴き出させ、しかし決死の覚悟を決めた顔で身構える。

 

 勝ち目が微塵もなくとも、エイダの内にある強迫観念のようなものが、彼女を集落と同族達を守る行為に走らせていた。

 

「…イヤ(いや)クウキナンテネェケド(喰う気なんてねぇけど)

「ぼ、僕は…人間の血が入ってるからって、嫌われてて! みんな僕に冷たいけど! それでも僕が生まれ育ってきた場所だから! たっ、大切だから!」

ナニモシナイッテ(何もしないって)……タンニオマエヲ(単にお前を)ソコマデオクッテヤロウカト(そこまで送ってやろうかと)

「辛い想い出ばかりだけど、あったかい想い出もあって! ま…守りたい場所だから! だから、だから…! い、行かせません!!」

 

 ガタガタと身を震わせ、涙を流しながら、エイダは黒竜の前に立ちはだかる。

 例えここで食い殺され、無意味に散ったとしても、同族を守ろうとした意思は本物だと自分に言い聞かせ、誇りながら死のうと立ち続ける。

 

 勝手に盛り上がり、勝手に聞いてもいない家庭の事情を語り、勝手に覚悟を決めるハーフエルフの少女に、黒竜はヒクヒクと目の下の筋肉を震わせる。

 そしてついに、再びブチッと何かが切れる音が響いた。

 

ハナシヲキケ(話を聞け)、クソガキ!!」

「はぅん!?」

 

 ぱこんっ!と黒竜が影の中から抜き出した手がエイダに伸びて、爪が額を激しく打ち付ける。

 なかなかに激しい音が響き渡り、エイダはその場にひっくり返り背中から倒れ込む。ついでに後頭部を強かに打ち付け、少女は悶え苦しむ羽目になった。

 

 ゴロゴロと地面を転げ回るエイダを見下ろし、黒竜は再び鼻を鳴らし、呆れた口調で告げる。

 

メンドウクサイヤツメ(面倒臭い奴め)……ワカッタ(わかった)チカヅカナイ(近づかない)ソレデイイカ(それでいいか)?」

「うぅ…」

シンパイシナクテモ(心配しなくても)ソイツラヲオウツモリダ(そいつらを追うつもりだ)オマエニモ(お前にも)オマエノナカマニモヨウハナイ(お前の仲間にも用はない)

 

 額を押さえ、涙目でうめくエイダを見やってから、黒竜は踵を返す。

 恨めしげな視線が向けられるも一向に構わず、少しばかり上機嫌に、自分が取り逃がした獲物の集団が去った方に泳ぎ始る。

 

アノデカイクモハ(あのでかい蜘蛛は)ナカナカウマクテクイデガアリソウダッタナ(中々旨くて食いでがありそうだったな)……」

 

 その呟きに、エイダはハッと目を見開く。

 つい先ほどまで自分の目の前にあった、絶望の塊のような怪物の群れ。何処から現れたのか、何時から居るのかもわからない、謎の言葉を発する別の怪物の集団。

 それらと遭遇してしまったエイダは、どうして助かったのか。

 その理由を、目の前の怪物の凄まじさで忘却していたエイダは、ひゅっと息を呑みながら硬直していた。

 

 額の痛みも忘れ、ずぶずぶと影の中に潜っていく黒竜の後姿を凝視した彼女は、黒い鱗が全て見えなくなるよりも前に、思わず声を張り上げていた。

 

「あ…あの!」

「ン?」

 

 突如呼び止められ、訝しげに目を細めて浮上し直す黒竜。

 影の底に消えかけた怪物を呼び止めた少女は、振り向かれると肩を強張らせ、あわあわと狼狽を見せ、視線を泳がせる。

 黒竜の目が鬱陶しそうに尖り始めた時、少女はようやく声を発する。

 

「…ぼ、僕の家に来てくれませんか?」

「……ア?」

 

 予想だにしないエイダの申し出に、黒竜は大きな困惑の声を返していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4.Call oneself

(何でこんな事になっているんだろうな……訳がわからん。状況も、こいつの考えも何もかも)

 

 木々の間を、自らの影を泳ぎ通り過ぎる〝それ〟。

 全面を硬く黒い鱗に覆われた、怪物の顔の真ん中には不機嫌そうなしわが刻まれ、目つきもやや険しくなっている。

 

 目が覚めてからずっと、状況に流されてばかりのような気がして、虫の居所が悪くなっているのだ。

 

(いつの間にか喋れるように……というか言葉がわかるようになっているし。いや、こいつの言語だけかもしれんが。そもそも、俺はどうやって喋っているんだ? 口は蜥蜴の口で、舌や顎を動かしているつもりはないのに、どこから声が出ている?)

 

 自分で行っている行為の原理が、自分に起こっている現象の原因がわからず、〝それ〟はしきりに首を傾げる。

 

 そもそも何者なのかもわかっていない、自分自身。

 最初に感じたのは、大きな違和感と何かを忘却しているという直感。自らの肉体に違和感を抱き、そうなる以前の自分を思い出せなくなっていた。

 思い出せないという事は、こうなる以前の自分がいたという事で、何かしらの理由があって今の姿になった過程があるという事だ。

 

 ならば何があったのか、過去の自分は何だったのか、そして今の自分はどうして存在しているのか。

 疑問が次から次へと浮かんできて、全く収拾がつかなくなってくる。

 

(……まぁ、いいか。実際に考えてもわからんことだし)

 

 故に、〝それ〟はまた思考を放棄した。

 疑問が山のように積み重なっていたのに、ふとした瞬間にガラガラと瓦解し消え去ってしまう。それに疑問を抱くことなく、〝それ〟はフゥと鼻息を吐く。

 

 やがてその目は、自分の背中に跨る少女に向けられた。

 蜘蛛の集団に囲まれていた所を結果的に救う事になった、先ほどからびくびくと怯えた様子を見せる、尖った耳が特徴的な少女だ。

 

「……ジブンデコイトイッタクセニ(自分で来いと言ったくせに)ナゼオビエル(なぜ怯える)イワナケレバヨカッタノニ(言わなければよかったのに)

「お、怯えるとかそんなんじゃなくて……こういう時、何を話せばいいのか、全然わからなくて」

 

 じとりと、心底呆れた様子で見つめて来る〝それ〟に、エイダは顔を逸らしぼそぼそと小さな声で返す。

 

 背に乗せて、進み始めてから変わる事のない少女の態度。

 せっかく言葉を伝えられるようになったのに、意思疎通が全くうまくいっていない気がして、〝それ〟の眉間のしわはますます深くなった。

 

ソモソモ(そもそも)ナゼオレヲイエニマネイタ(なぜ俺を家に招いた)ナニガシタイノダ(何がしたいのだ)オマエハ(お前は)

「ベ、別に何も企んでなんかいませんよ! ただその……あ、危ない所を助けてもらったのに、何もしないのは失礼かなって…」

「…タスケタオボエハ(助けた覚えは)マッタクナイノダガナ(全くないのだがな)

 

 ぼそぼそと聞き取り辛い声に耳を傾け、〝それ〟はフンと鼻を鳴らす。

 起き抜けで、ひたすらに腹が減っていたところに見つけた獲物に飛び掛かっただけで、少女を助けるために現われたわけではない。所詮は自分だけの為だった。

 それを感謝されるのは、〝それ〟にとっては非常にむず痒い事だ。

 

(まぁ、えらく嫌な気配を感じたから、あの場に出てきたというのもあるが……人助けをするつもりでは全くなかったし、言う必要も無かろう)

 

 ふと脳裏に浮かぶのは、背に乗る少女に迫っていた蜘蛛の集団。

 人間よりもはるかに大きな体躯に、何やら奇妙な言語を口にしていた、何となく気色悪さの目立つ怪物の群れの事だ。

 

(そういえば、あいつらは何だったのだろうな…? やたらとでかくて食い応えがあったが、明らかに今の俺と同じく喋っていたな。この森に棲む固有種か何かか…?)

 

 自分と同じく、発声器官があるのか微妙な外見で不気味に口をきいていた、八脚八眼の怪物達。

 ガシャガシャと顎と足の関節を鳴らし、尻から放つ糸を手繰って、巨体に見合わぬ俊敏さを見せた化け物の群れ。

〝それ〟にとっては、滅多に出会えないであろう御馳走に見えた。

 

 ふと考えた〝それ〟は、背に乗る少女にもう一度視線を向け、問いかけていた。

 

「…オマエハ(お前は)アイツラガナンナノカシッテイルノカ(あいつらが何なのか知っているのか)?」

「い、いいえ…ずっとあの辺りで見張りをしていましたけど、見たことがない生き物でした。……それに、喋る怪物なんて、あいつらかあなた以外に会ったことないです」

「…ソウカ」

 

 首を振る少女に、〝それ〟は若干の落胆を抱きながら視線を前に戻す。

 

(ならばやはり……俺と同じ、どこかからやって来た異物、か。あんな気味の悪い言語を口にする連中と同郷などとは、考えたくもないが)

 

 蜘蛛達が逃げる際に口にしていた言葉らしき音と見せた姿は、何故か〝それ〟に嫌悪感を抱かせた。

 小さく弱々しい少女に対しては、甚振るような高圧的な態度。しかし〝それ〟が出現し襲い掛かった後に見せたのは、恐怖を前面に押し出した情けない姿。

 とても獣らしからぬ、小心者の小悪党のようなみっともない様を見せていた。

 

(まぁいい……次に見つけたら一匹残らず食い尽くしてやろう。あれは本当に喰い甲斐があった。また食べたいものだ)

 

 存在そのものを嫌悪しつつも、味に関しては望ましい者であり、〝それ〟は思わずべろりと口周りを舐める。気をつけていないと、涎が垂れ流しになりそうなほどだった。

 

「…あの、お聞きしていいですか?」

「ン?」

 

 再び美味を味わう事を妄想していた〝それ〟は、少女が話しかけてきたことで意識を引き戻される。

 ぎろりと目を向けてくる〝それ〟に、びくりと肩を震わせた少女は、恐る恐ると言った様子で見つめ返す。

 

「お、お名前を……お聞きしていいですか?」

ナマエ(名前)……ナマエカ(名前か)

「あっ、言いたくないんならいいんです! ただその……お礼したいって言ってるのに、お名前も知らないんじゃ失礼かなって。…あ、僕、エイダって言います」

「…ソリャドウモゴテイネイニ(そりゃどうもご丁寧に)

 

 ごにょごにょと、恥ずかしそうにしながら、ちゃっかり自分から名乗ってくる少女―――エイダに、〝それ〟はぐるぐると唸り、少し悩む。

 自分も名乗らなければならないような流れができてしまったからだ。

 

 しばらくの間考え込み、沈黙に困惑したエイダがおろおろと〝それ〟の顔を覗き込みだした頃、ようやく〝それ〟は口を開いた。

 

「……あさるてぃ、ダ」

 

 口にしたのは、なぜか自分の脳裏に焼き付いた、この世界で与えられた名だった。

 

 失われた過去の記憶の中に、自分を呼ぶ名前があった気もするが、それは消し炭の様に焼け付いて思い出せない。

 その代わりのように新たに与えられた名が、何故だか今の〝それ〟―――アサルティにはしっくりきて、これ以外にないように思えてくる。

 

 そうした瞬間、まるでアサルティは、自分の存在がようやくこの世界に根付いたような、不思議な感覚を覚えたのだった。

 

「アサルティ……アサルティ…、はい! しっかり覚えましたよ! じゃあアサルティさん! この先はぐるっと大きく右に回って進んでもらえますか?」

「ア? ナンダソノチュウモンハ(何だその注文は)

 

 名乗り合うや否や、さっそく馴れ馴れしく名を呼んできて、指示をしてくる少女に、怪物はぎろりと鋭い目を向ける。

 

 エイダはまたびくっと肩を震わせ、気まずげに目を逸らす。

 アサルティは泳ぐのをやめ、じっとその場から動かず、エイダを睨み続けた。

 

オマエ(お前)レイガシタイカラッテイウリユウデ(礼がしたいからっていう理由で)ココマデノセテヤッタノニ(ここまで乗せてやったのに)ワザワザトオマワリサセルキカ(わざわざ遠回りさせる気か)ナノリアッタカラトイッテ(名乗りあったからと言って)サスガニズウズウシイゾ(流石に図々しいぞ)

「えっとその…この先は色々あるので、真っ直ぐ行かない方がいいと言いますか……」

ナンダソノイイワケハ(何だその言い訳は)

 

 煮え切らないエイダの物言いに、だんだんと苛立ってきたアサルティが、鋭く睨みつけたまま目を覗き込んでくる。

 恐ろしい怪物の顔に迫られ、冷や汗をだらだらと垂らすエイダが、必死に目と身体を逸らす。

 

 怪物の目に殺気が混じり、グルルル…と唸り声とともに牙が剥き出しにされ始めた、その時だった。

 

 

「止まれ、化け物」

 

 

 突如響き渡った声に、アサルティとエイダの目が見開かれ、二人の視線が同時に上を向く。

 視線を上げた先に見つけた、木々の打の上に立つ無数の人影に、エイダはさっと顔から血の気を引かせ、息を呑む。

 

 そこにいたのは、華奢な長身に金の髪と尖った耳を持つ、美しい容貌の集団。エイダと似ているが、彼女よりも長い耳を持つ男女達。

 麗しい顔立ちに明確な敵意を宿した彼らが、手にした弓に矢をつがえ、四方八方からアサルティに狙いを定めていたのだ。

 そして矢は、アサルティの背で硬直するエイダも狙っていた。

 

「…誰にも望まれぬ、憐れな命だからと温情をかけてやれば、この様か。お前には失望したぞ、穢れた子エイダ」

 

 集団の中で、もっとも立派で美しい格好をした男が、エイダを見下ろして告げる。

 キリキリとつがえた矢で、怪物ではなく同胞のはずのエイダを狙う彼は、冷たい氷のような魔差しを向け、嫌悪に塗れた言葉を吐く。

 

 彼を見上げながら、エイダはガタガタと身を震わせていた。

 

「レ……レイアン様」

「黙れ、我が名を呼ぶな穢れた子が……お前が連れてきたその化け物と共に、ここで処刑してやろうか」

 

 震える声を漏らす少女にも容赦なく、殺気をぶつける男と、同じだけの嫌悪をぶつけてくる周囲の者達。

 決して仲間に向けるものではないそれらの視線に、事情を全く知らないアサルティだったが、ふつふつといら立ちが募って来るのを感じていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.Misgivings

「何だ、あの化け物は……見たことがないぞ」

「それに、何だ? 影に沈んでいるのか…!?」

 

 弓矢を構え、高い木の上から見下ろしてくる同族達。

 自分も攻撃の対象になっている事に愕然とし、エイダはごくりと息を呑む。

 

 こうなる前に、集落を大きく迂回する形で自分の家に向かうつもりだったのに、それが間に合わなかったことに激しい後悔と絶望を抱く。

 如何なる言い訳を用意したところで、誰一人誤魔化せないであろうこの状況に、目の前が真っ暗になるようだった。

 

「エイダ……私は言った筈だな。お前は本来は存在することを許されぬ命なのだと……森に貢献したお前の母の存在があってこそ、お前に生きる事を許しているのだと」

 

 麗しい顔に嫌悪と憎悪をあらわにし、エルフの集落の次期長を約束された青年・レイアンが告げる。

 真っ青な顔で、カタカタと全身を震わせる少女にも容赦なく、数名の同胞達と共に、謎の怪物と共に戻ってきたエイダを見下ろす。

 弓につがえた矢は、迂闊に動けば躊躇いなく命を奪う事を示していた。

 

「なのにこの様……どこで手懐けてきた、その化け物は。それを使って、我らに復讐でもするつもりだったのか」

「ちっ、違…」

「口を開くな、汚らわしい人間の混じり物め」

 

 怯えながら、どうにか否定の言葉を絞り出そうとするエイダを、レイアンは冷たい言葉で押さえつける。

 端から少女の言葉を聞き入れるつもりはないようで、声を聞くことも嫌がっているように見える。

 

 うっすらと浮かぶ笑みは、予てから嫌悪していた、集落に混じった異物を排除する機会を得たことを喜ぶかのようだ。

 

「見れば見るほど、不気味な化け物だ……まるでお前の中に流れる血が生み出したようじゃないか」

「っ……」

 

 ぐさぐさと、レイアンの言葉が無慈悲にエイダの心を傷つける。

 悲痛に歪んでいたエイダの表情はより一層ひどくなり、まるで実際に刃を体に受けたかのような、痛々しい様子を見せる。

 

 しかし、彼女の顔に浮かぶのは苦痛よりも、諦めが大きい。

 残酷な言葉をぶつけられる事よりも、そう言われてしまう自分自身に対して、深い嘆きと悲しみを抱いているような、そんな姿だった。

 

「父上に言われて目を瞑っていたが、こうなればもう決定的だな……お前は裏切り者だ。皆に危害を加える前に見つけてよかった……その化け物もろとも、ここで始末してくれよう」

 

 そう言い、自身も矢をつがえるレイアン。集落に伝わる、先祖代々受け継いできた特別製の弓矢は、例え得体の知れない怪物であろうと易々と仕留められるだろう。

 

 視界に入った鏃の輝きにより、エイダはハッと我に返る。

 慌てて彼女は黒竜の背から降り、膝をつくと、レイアン達に向かって勢い良く頭を下げた。

 

「ち……違うんです、本当に違うんです! こ、この方は敵じゃないんです! む、むしろ私を助けてくれて…」

「黙れと言った筈だ…! お前が喋るだけで、森が穢れる!」

 

 先ほどとは打って変わって、エイダは必死の思いでレイアンに懇願する。変わらず、冷たく拒絶され、一層殺気が襲い掛かるも、深々と頭を下げ続ける。

 恥を捨て、次期長の青年に対する畏れも抱いたまま、エイダは額を地面に擦り付け続ける。

 

 縮こまり、背中を震わせる少女の背中を、黒竜は不思議そうに見下ろしていた。

 

「お前を助けただと…? お前が呼び出した化け物なのだから当たり前だろうが」

「呼び出してなんていません! いきなり目の前に現れただけで…」

「ええい、黙れ! お前の言葉に信用性などない!」

 

 ぎゅんっ!と、ついにレイアンの弓から矢が放たれ、伏せるエイダに向かって飛んでいく。

 無抵抗の少女に、強烈な殺気を乗せた鏃が向かう様はさすがに良心が咎めたか、他のエルフ達が焦ったように息を呑むが、放たれた矢を止める手段は彼らにはない。

 ぶるぶると震える少女の背を、無慈悲な矢が貫こうとしたその時。

 

 ずるるるっ、とエイダの前に影が広がり、その中から現れた巨大な腕が盾となり、矢を弾いた。

 

「なっ…私の矢が、効かない!?」

「オイ、イイカゲンニシロヨ(いい加減にしろよ)クソヤロウ(糞野郎)

 

 カンッ、と甲高い音を立てて弾かれ、くるくると回転しながら木々の中に飛んでいった矢に、レイアンはまさか、といった表情で立ち尽くす。

 人間が纏う鉄の鎧であっても、容易に貫く事ができる一矢が全く歯が立たないなど信じられず、大きく目を見開き、しかしすぐに忌々し気に歪んだ顔に戻る。

 

 青年の殺気を向ける標的が変更され、同時に他の戦士達からの警戒心が膨れ上がる中、黒竜アサルティはぎろりと彼らを睨みつけ、声を発した。

 

ゴチャゴチャウルセェンダヨ(ごちゃごちゃうるせぇんだよ)ヒトノハナシモキカネェデ(人の話も聞かねぇで)ムナクソワリィコトバカリイイヤガッテ(胸糞悪ぃ事ばかり言いやがって)ナニモシネェッテ(何もしねぇって)サッキカラズットイッテンンダロウガ(さっきからずっと言ってんだろうが)バカカ(馬鹿か)

「言葉を…!? ますます不気味な化け物め…!」

オマエノブサイクナツラヨリマシダ(お前の不細工な面よりましだ)クソヤロウ(糞野郎)

 

 鬱陶しそうに告げられたアサルティの言葉に、レイアンの顔が真っ赤に染まる。ギリギリと歯を食い縛り、目を吊り上げ、額に血管を浮き立たせた顔で、怪物を睨み返す。

 その顔はアサルティの言う通り、美しさが損なわれた、悪鬼のように悍ましいものであった。

 

「こっ…この私を不細工だと……!? い、いや…そんなことはどうでもいい! 貴様は何者だ! どこから現れた!」

ミテノトオリ(見ての通り)カゲノナカカラデテキタニ(影の中から来たに)キマッテンダロウガ(決まってんだろうが)ヤッパリバカナノカ(やっぱり馬鹿なのか)?」

「そんな事は聞いていない! 貴様、私を虚仮にしているのか!?」

「レイアン様、落ち着いてください!」

「冷静さを失えば、忌子とあの化け物の思うツボですよ!」

 

 鼻をほじり、冷めた目で見上げて来るアサルティの物言いに、レイアンはすっかり頭に血を昇らせ、武器を構える事も忘れて喚き散らすばかり。

 今にも殴りかかりそうになるのを、配下達が必死に宥め、止めようとしていた。

 

バカニシテルノハ(馬鹿にしてるのは)ソッチダロウガ(そっちだろうが)ナンデコイツノハナシヲ(何でこいつの話を)チャントキイテヤラネェ(ちゃんと聞いてやらねぇ)? イミゴカナンカハシラネェガ(忌み子かなんかは知らねぇが)ギャーギャーウルサクテ(ぎゃーぎゃーうるさくて)ミットモネェンダヨ(見っともねぇんだよ)

 

 ビキッ、と嫌な音が、レイアンの身体のどこかから響く。アサルティを睨むレイアンに、何かの糸が切れた、というような雰囲気が見える。

 

 衝動のまま、再び弓に矢をつがえるレイアン。アサルティもそれに合わせ、唸り声をあげて牙を剥き出しにする。

 一触即発、エルフと怪物の殺気がぶつかり、空気がピンと張りつめていく。

 その様に圧倒されたエイダとエルフ達が、ハッと我に返って表情を引きつらせる。

 

「き…貴様ぁ……!」

「グルルルル…!!」

「だっ…だめです、アサルティさん!」

「いけません、レイアン様!」

 

 すぐ傍からかけられる制止の声も聞かず、レイアンの矢が、先ほどよりも鋭い勢いで放たれようとし、アサルティが影から飛び出す体勢に入る。

 もはや、誰も両者の激突を止められない、とそう思われた。

 

「やめんか、お前達!」

 

 だが、鋭く響き渡る声が割って入り、殺気が一瞬にして霧散する。

 レイアンはびくりと肩を震わせ、アサルティは何事かと困惑の表情になる。

 

 ピタリと動きを止め、声がした方へ振り向いた彼らは、エイダや他のエルフ達と共に、樹々の奥からゆっくりとやってくる集団に気付く。

 深くしわの刻まれた顔に、薄く長い金髪の髪を持つ、老いたエルフ達だ。

 

「ち……父上」

「この地で安易に血を流すなと、何度言えばわかるのだ貴様は…! そのように容易く頭に血を昇らせおって、恥を知れ馬鹿息子め!」

 

 途端に勢いを失くし、気圧された様子で手を下ろすレイアンに、老いたエルフ―――集落の長であるレヴィオは、鬼のような形相できつく叱責する。続いて、レイアンとともにいる戦士達にも鋭い視線を向ける。

 

「貴様らもだ! まだ長でもない若僧をなぜ止めぬ! 暴君に粛々と従うしか能がないのか、貴様らは!!」

「もっ…申し訳ありません!」

「私の血を継いでいようといまいと、そ奴に全てを決める権限はない! 見知らぬ相手に迂闊に手を出すような者に、好き勝手させるな馬鹿者共が!!」

 

 烈火の如き勢いで怒鳴る長に、若いエルフの戦士達はすぐさま枝の上から飛び降り、その場に跪き首を垂れる。レイアンも渋々と言った様子で降り、しかし不貞腐れたように目を逸らす。

 

 叫び過ぎたのか荒い息をつき、隣にいた別の老エルフに肩を支えられるレヴィオ。

 彼は息を整えてから、無言で様子を伺っている黒竜と、その前で怯えたような視線を向けるエイダを見やり、眉間にしわを寄せた。

 

「…『忌み子がついに恨みを晴らしに来た』などと騒ぐ声が聞こえてきたと思えば、やはりお前か、エイダよ」

「お、長…その、申し訳……」

「よい、何も喋るな……お前にその気がないのはわかっている」

 

 再びその場に伏せ、震える声で謝罪を口にするエイダに、レヴィオは無言で首を振る。

 レヴィオと老エルフ達は、青ざめた表情で見つめてくるエイダになぜか痛ましげな視線を向け、重いため息をつく。

 続いて彼らは、彼女の傍で佇む黒竜に視線を移した。

 

「そこの……恐るべき異能の力を持つ、異形の者よ。我らは古くよりこの森に住まう一族。何ゆえこの地を訪ねたのか」

「……リユウハトクニナイ(理由は特にない)シイテイウナラ(強いて言うなら)キヅイタラココニイタ(気づいたらここにいた)

「貴様! 下手に出ていれば付け上がりおって!」

「黙れ馬鹿息子! 貴様は今は口を挟むな! 下がっていろ!」

 

 レヴィオの問いに、レイアンとは全く異なる穏やかな口調で答えるアサルティ。

 レイアンはそれが気に入らなかったのか、険しい顔で喚くも、レヴィオに釘を刺され、苛立たしげな顔で引き下がる。

 

オレモオレジシンガナニモノナノカ(俺も俺自身が何者なのか)ヨクワカッテイナイ(よくわかっていない)ミテノトオリノバケモノダガ(見ての通りの化け物だが)ソチラガナニカヲスルツモリガナケレバ(其方が何かをするつもりがなければ)アルイハミルニタエナイ(あるいは見るに耐えない)コウイヲシナケレバ(行為をしなければ)テヲダスツモリハナイ(手を出すつもりはない)アンズルナ(案ずるな)

「それを……いかに証明できるか」

オレニハフカノウダガ(俺には不可能だが)オレガタダノバケモノデハナイ(俺がただの化け物ではない)トリカイシテクレテイルナラ(と理解してくれているなら)ソチラデハンダンスルザイリョウ(其方で判断する材料)ニハナルノデハナイカ(にはなるのではないか)?」

 

 アサルティの答えに、レヴィオはじっと黙り込み、考え込む。視線を怪物から離さないまま、そして怪物も同じくエルフの長を見つめ、互いを探り合う。

 

 まるで時間が止まっているかのように沈黙する両者。

 エイダや若いエルフの戦士達、老エルフ達は息を潜めてその様子を伺い、レイアンだけは苛立たし気に地面を爪先で叩く。

 数分か数十分か経ってから、ようやく彼らの腹の探り合いが終わった。

 

「…あいわかった。そなたに我等を害する意図がない事はわかった。里に近づかぬのであれば、このまま見逃そう」

カンシャスル(感謝する)ムダナセッショウハオレモコノマナイ(無駄な殺生は俺も好まない)

 

 互いに頷き合い、視線を逸らすアサルティとレヴィオ。

 エイダ達はホッと安堵の息をつくものの、やはりレイアンはその決定に噛みついた。

 

「父上! こんな化け物に好き勝手させるつもりですか!? 今すぐに殺すべきで……」

「黙れ! お前の決定で何十人犠牲にするつもりだ、頭を冷やせ! ……この馬鹿の事は気にしなさるな、手を出さぬよう、言い聞かせておく」

「父上!」

「エイダ! お前が連れてきた客人だ、お前が最後まで面倒を見ろ。…何かあった時は、お前が責任を取るのだぞ」

「は…はい」

 

 エルフの長はそれだけ告げると、老エルフ達を伴って森の奥に引っ込んでいく。

 レイアンがそれに待ったをかけるが、誰一人一切耳を貸すことなく、黙々と樹々の奥に向かう。若いエルフの戦士達も同じく、ちらちらとレイアンを見やりながら、アサルティに背を向けて去っていく。

 

 エイダは半ばぼんやりとしたまま、彼らの背中を見送っていたが、やがてハッと我に返り声を張り上げた。

 

「あっ…あ、あの! 長! ほ……報告しなければならない事が!」

「黙れ混じり物が! これ以上我らの手を煩わせると―――」

「…聞こう。その者を案内した後で、私の家に来なさい」

 

 エイダの声に、やはりレイアンが噛みつくも、それを制した長が平坦な声で返答する。

 絶句するレイアンを引き連れ、長達は木々の奥に歩き去っていき、やがてその姿が完全に見えなくなる。

 

 しんと静かになった森のど真ん中で、エイダはようやく息をついた。

 

「…オマエ(お前)ナカナカメンドウナモノニ(中々面倒なものに)トラワレテルミタイダナ(囚われてるみたいだな)

「そう……見えますか? 参ったな…こうなる前に、あなたを連れて行きたかったんですけど……いやな目に遭わせちゃいましたね。…ごめんなさい」

 

 困ったような顔で、力なく笑うエイダ。どう見ても虚勢であり、無理をしているのがまるわかりな姿は、痛々しいを通り越して見た者に心に痛みを齎す。

 

 深いため息をつき、悲し気な表情で俯くエイダ。

 その体が、不意にひょいと持ち上げられ、すとんと黒竜の背に乗せられた。

 

「え……」

 

 キョトンと目を丸くし、エイダはアサルティを見上げる。

 呆ける彼女に、黒竜はぎょろりと視線を向け、待ちくたびれたように鼻を鳴らしてみせた。

 

レイヲシテクレルンダロウ(礼をしてくれるんだろう)イマノヤツラガモドッテクルマエニ(いまの奴らが戻ってくる前に)サッサトアンナイシテクレ(さっさと案内してくれ)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6.Frustration

 ギッ…と軋む音を立て、自宅の扉を開く。

 日に日に開けづらくなる入り口に、その内修理をしなければ、と憂鬱な気分になりながら、エイダは中に入り、扉を開けっぱなしにする。

 

「…どうぞ、入ってください」

 

 室内の端に移動すると、入り口に向かってそう告げる。

 入室を促されたアサルティは、一度鼻先から扉を潜ろうとして、顔の横が引っ掛かってすぐにやめる。

 少し考えると、アサルティは一度後ろに引き、影の中に潜ると、エイダの家の中心から顔を出した。

 

「……サップウケイナイエダナ(殺風景な家だな)

「ほっといてください!」

 

 室内を見渡し、寝具や机など、最低限の家具しか置いていない中身を見て、思わず呟くアサルティ。

 すかさずエイダが声を上げるも、自分でも日頃から思っている事であるため、がっくりと肩を落としてため息をつくばかりだった。

 

 気を落とすエイダだったが、やがて我に返ると家の奥に引っ込み、貯えていた果物の袋と、事前に作ってあったあるものを運び出してくる。

 

「じゃ、じゃあ、どうぞ……少ないかもしれませんが、お約束のお礼の品です…」

 

 ドサッ、と袋を黒竜の前に置き、口を開いて中身を取り出す。それと一緒に、自作の菓子も皿に置き、アサルティの前に差し出す。

 アサルティはクンクンと鼻を鳴らし、差し出された菓子を不思議そうに見下ろした。

 

「…コレハ(これは)?」

「木の実を使って作ったお菓子で……母に教えてもらったものです。あんまりうまくはないですけど…せめてもの感謝の気持ちって事で」

 

 恥ずかしそうにはにかみ、エイダは耳を垂れさせる。

 

 アサルティは差し出された菓子を見つめ、しばらくすると舌で掬い上げ、ボリボリと噛み砕き味わい始める。

 エイダがごくりと息を呑み、様子を伺う中、アサルティは喉を鳴らし、ぺろりと口の周りを舐めて、少女を見つめ返した。

 

ワルクナイ(悪くない)ナカナカコノミノアジダ(中々好みの味だ)

 

 怪物に高評価を貰い、エイダはホッと安堵の息をつく。もし気に食わず、激怒でもされようものなら、自分の命は今度こそここまでだっただろう、というほどの覚悟をしていた。

 

 アサルティは残った菓子を一つ残らず平らげ、続いて袋の中の果物に口をつける。

 モリモリと中身が減っていき、ほお袋を一杯にして咀嚼する怪物を見つめ、少女は心底安堵した様子で頬杖をついていた。

 

「…お気に召していただけましたか?」

ジュウブンダ(十分だ)……コチラコソワルイナ(こちらこそ悪いな)ベツニタスケヨウト(別に助けようと)オモッタワケデモナイノニ(思ったわけでもないのに)ココマデヤッテモラッテ(ここまでやってもらって)

「そういうのは、思っても口にしない方がいいですよ」

 

 無駄に正直な怪物の返事に、エイダは困ったような顔で苦笑する。

 確かに、食欲に促されるまま蜘蛛の怪物達に襲い掛かっただけで、自身を救うために現われたわけではないかもしれない。しかし、

 

 その行動の結果、自身は命を拾われたのだから、感謝を抱くのも間違いではない。そう思い、エイダは穏やかな笑みを湛え、巨大な黒い竜を見つめ続けていた。

 

「…ゴチソウサマ」

 

 やがて、差し出された礼の品を全て腹に収めたアサルティは、満足げに唸り目を瞑る。

 しばらくの間、口内に残った甘みを堪能していた怪物は、不意にパチリと瞼を開けると、エイダに訝し気な視線を向け出した。

 

「…デ、アノレンチュウハナンダ(あの連中は何だ)?」

「え?」

オマエニテキイヲムケテイタレンチュウダ(お前に敵意を向けていた連中だ)トクニアノ(特にあの)イチバンエラソウダッタ(一番偉そうだった)ムナクソノワルイクソヤロウ(胸糞の悪い野郎)

 

 嫌悪を剥き出しにしたアサルティの名指しに、エイダは一瞬呆気にとられ、やがて納得したように肩を落とす。微笑も消え、少女は心底疲れ切ったような表情になる。

 

「…あの人は長の子で、レイアン様です。唯一の男児で、次期村長の座を約束されている方で、若いエルフの中心人物なんです」

イイトコノオボッチャンッテトコロカ(いいとこのお坊ちゃんってところか)

「いいとこ……まぁ、権力はあると思いますけど」

ソンナヤツニ(そんな奴に)ナゼオマエハハクガイサレル(なぜお前は迫害される)? オマエ(お前)レンチュウニナニカヤッタノカ(連中に何かやったのか)?」

 

 アサルティが不思議そうに尋ねると、エイダは途端に口を閉ざし、気まずげに目を逸らす。

 沈黙し、重い雰囲気が漂い出すと、怪物もさすがに気を遣ったのか、無理に問い質すようなことはせず黙り込む。

 

 ややあってから、エイダは重くなった口を再び開いた。

 

「……僕が、人間の血を引いているからだと思います」

 

 ぽつりとこぼれる、これまで誰にも語ることがなかった、自分以外の誰もが知っている事実。

 自分から語ろうとはせず、しかし彼にならいいかとほんの少しの気のゆるみから漏れてしまった自身の過去。

 しまった、と目を見開くエイダだが、すぐに落ち着きを取り戻し、開き直ったように続きを口にした。

 

「母と、人間の旅人だった父との間にできた子……勝手に禁断の恋をして、森を飛び出して、裏切られて戻ってきて、帰る場所を失くした愚かな女の子供、それが…僕です」

 

 

 

 ―――それは、ある一人の愚かな女の話。

 

 外の世界に夢を抱く、世間知らずのエルフの箱入り娘。

 徹底的に排他的で、外の世界との交流を禁じてきたエルフの里に生まれたその娘は、とにかく決まりというものを嫌がっていた。

 知らない世界を見たい、知らない誰かと出会いたい、知らない何かを感じたい。

 そんな好奇心と無知さに溢れた、無邪気で恐れを知らない、頭の少し足りない子供だった。

 

 そんな彼女の日常が狂ったのは、ある一人の人間と出会ってから。

 里の外に食糧を採集しに行った際、獣道の途中に倒れ伏す、怪我を負った男を見つけた時だった。

 

 他の種族に対する遠慮も隔意もない彼女は、迷うことなく彼の元に駆け寄り、簡単な応急処置を施した。そしてしばらくの間、里の者も獣も近づかない場所に連れて行き、匿ったのだ。

 傷が癒えるまでの間、警戒一つせず話しかけ、交友を深めた彼女は、いつしかその男に対し恋心を抱くようになっていた。

 熱く見つめてくる彼女に対し、男も同じ気持ちだと告白し、その晩に即座に身を重ねてしまった。

 

 無論、そのような関係を里の者が認めるはずもない。村の娘を誑かした男として、何よりエルフの縄張りに侵入した慮外者として、処分してしまおうという声が上がった。

 娘はそれを嫌がり、止める声をすべて無視し手を振り払い、男と共に森を飛び出したのだった。

 

 娘にとって悪夢だったのは、それからだった。

 

 彼女が愛した男は、詐欺師であり扇動者であり泥棒でもある、物事を金でしかとらえられない金の亡者。

 それでいて自身の欲望を、人のいい笑顔で隠す事ができる異常者で、娘の事も骨の髄まで利用し尽くすために、恋心を芽生えさせ自由に操るためだったのだ。

 彼女を連れ出したのも、彼女を人間社会においては非常に価値の高いエルフの奴隷として、高額で売り出すためであった。

 

 娘がその思惑に気付いたのは、男と共に暮らすようになって数年経ってからだった。

 慣れない人間の暮らしに四苦八苦し、ようやく家事をこなせるようになってきた矢先、突然仕事先から戻ってきた夫が、気味の悪い笑みを浮かべた男達を伴ってきた。

 彼らこそ、娘を奴隷として買い取りにやって来たのだと、夫の口から直接語られたのだ。

 

 娘はすぐさま逃げ出そうとし、そして捕らえられた。

 異臭のする男達に全身を掴まれ、愛したはずの夫に下卑た目で見下ろされながら、娘は首輪を嵌められ、買主の元に連れ込まれた。

 そこでの暮らしは、たった一度も想像がしたことがないほど凄惨で、自ら命を絶ちたくなるほど悍ましく恐ろしい日々であった。まるで玩具のように弄ばれ、痛めつけられる暮らしは、娘の心を鑢で削るように壊していった。

 

 その暮らしは、一年ほどで何とか終わらせられた。

 森の暮らしから何年も離れ、身体能力が著しく低下した娘であったが、ほんの一瞬の隙をつき、買主達の元から逃げ出す事ができた。

 追っ手から逃れ、身を隠し、足をボロボロにしながらも娘は逃げ続けた。

 

 そしてついに、彼女は母なる故郷の森に辿り着く事ができた。

 しかし、命からがら戻ってきた娘を、彼女の父や母、同胞達は決して受け入れなかった。

 

 必死の思いで逃げ続けた娘の胎には、悍ましき人間のこの命が宿ってしまっていたからだ。

 

 拒絶され、絶望した娘は再び自らの命を奪う事を考え、そして腹に宿った命を殺すことも考えた。

 しかし、生来他者が傷付くことを嫌がるお人好しな娘は、何の罪もない子を殺める事を忌避し、自ら死ぬ選択も取れなくなった。

 

 仕方なく彼女は、村から遠く離れた場所に居を構え、たった一人で生きていくことを決めた。

 そしてたった一人で、忌まわしき人間の血が混じった娘を産み落とし、齢十になるまで何とか育て上げた。その間、村の者達は誰も彼女を助けることなく、生まれた子を嫌悪してきた。

 

 母となった娘はやがて心労で亡くなり、彼女の娘はたった一人取り残された。

 味方が誰一人いない森の中で、少女は孤独に生き続け、自らの存在そのものを嘆き、疎むようになってしまったのだった―――。

 

 

 

 小さな、消え入りそうな声で告げられた少女の過去に、怪物は動きを止め、続いて大きく首を傾ける。

 理解しがたい事を聞いたように、眉間に深いしわが寄ったくしゃくしゃな顔となっていた。

 

ダカラナンダトイウノダ(だから何だと言うのだ)?」

「え…? あ、いや、えっと……に、人間は暴力的で、嘘つきで、森を汚す穢れた種族だからって、その血が流れている僕を目の敵にしていて……それで」

オマエガヤツラニナニカ(お前が奴らに何か)シタワケデハナイノカ(したわけではないのか)?」

 

 怪物の問いに、少女はぷるぷると首を横に振る。

 返ってきた反応に、アサルティはますます訳がわからないというように首を傾ける。連中の考えも、それを少女が文句ひとつ口にせず受け入れているのかも、何一つ理解できない。

 

 虚空に目をやるエイダの表情は、全てを諦めたような無気力そのもの。どれだけ理不尽な暴言を吐かれても、暴力を振るわれても、一切の抗議を諦めた様子であった。

 

ナンダソレハ(何だそれは)イイガカリニモホドガアルナ(言い掛かりにもほどがあるな)ナノニモンクモイワヌノカ(なのに文句も言わぬのか)? ソレデイイノカ(それでいいのか)オマエハ(お前は)オカシイトハオモワヌノカ(おかしいと思わぬのか)

「おかしいも何も……変に逆らったりしたら、この森を追い出されるかもしれませんし。大人しくしてるのが一番賢いやり方ですよ…」

ムコウハカンゼンニ(向こうは完全に)オマエヲハイジョスルキ(お前を排除する気)マンマンダッタヨウダガ(満々だったようだが)?」

「それはそれです……現に僕、望まれて生まれた存在じゃありませんし、はは…」

 

 渇いた笑いをこぼし、膝を抱えて俯くエイダに、アサルティはじっと鋭い視線を向ける。

 怪物の目の前にいるのは、本気で今の環境を仕方がないものと受け入れた、今以上の苦しみを恐れている少女。改善することも考えず、自分の立場そのものが変わる事を恐れる弱虫な子供。

 見た目以上に小さく見える少女を見下ろし、怪物は呆れを孕んだ目を細めた。

 

「…モンクヲクチニスルグライハ(文句を口にするぐらいは)イイノデハナイノカ(いいのではないのか)? タメコムダケデ(溜め込むだけで)ジブンノホンネモハキダサヌノナラ(自分の本音も吐き出さぬのなら)イズレオマエハコワレルゾ(いずれお前は壊れるぞ)

「こうして生かしてもらってるだけで、ありがたいと思わなくちゃ」

「…アンナレンチュウニ(あんな連中に)ケイイヲモツヒツヨウナド(敬意を持つ必要など)ナイトオモウガナ(ないと思うがな)

 

 アサルティの棘のある言い方に、エイダはどう返したものかと険しい顔になる。

 ただ単に嫌悪しているだけなのか、自分を勇気づけようとしているのかは分からないが、レイアンへの暴言には思わず苦笑してしまう。

 逆らうことなど考えられない、絶対的な上位者への暴言には、同意できなかった。

 

 ふっと微笑んだエイダは、空になった袋と皿を持ち、奥に片付けに行く。

 ついでに背負った弓と短刀を置いた彼女は、アサルティを置いて出口に向かっていく。

 

「じゃあ、私……長にあの蜘蛛の化け物のことを、報告しに行かなきゃですから。また、食べ物を取ってきますから、ゆっくりくつろいでいてください…」

 

 儚げに笑いかけた彼女は、小さく頭を下げて自宅を後にする。

 小さな足跡が遠くなり、何も聴こえなくなったころに、アサルティはフンッと勢いよく鼻息を吹き出し、吐き捨てた。

 

ナゼダロウナ(何故だろうな)……アノガキヲミテイルト(あの餓鬼を見ていると)ドウニモムシャクシャシテクル(どうにもむしゃくしゃしてくる)ナントイウカ(何というか)イヤナモノヲオモイダスキガスル(嫌なものを思い出す気がする)ヨウナ(ような)?」

 

 自分でも戸惑うように、眉間にしわを寄せたまま呟いた怪物は、苛立たし気に唸り、ずぶずぶと影の中に沈んでいった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7.Complain

「父上! 一体何を考えているのですか!?」

 

 だんっ、と床を踏みつけ、レイアンが父レヴィオに向けて吠えかかる。

 目の前にいるのが父親である以上に、里の長で逆らうべき人間ではない事も忘れ、レイアンは自分の不満をぶつける。

 

「あのような得体の知れない化け物を放置し、混ざり者を野放しにしておくなど! 正気の沙汰ではありませんよ!?」

「…私が決めた事だ」

「今すぐにでも処分すべきです! あれは我ら一族に災いをもたらす悪魔の手先です!」

 

 息子に背を向けたまま、レヴィオは窓から夕焼けの空を見やる。振り向く事もなく、丁度エイダの家がある方角をじっと眺めている。

 

 鼓膜に刺さる甲高い声にやや苛立っている様子を見せ、黙り続ける彼に、レイアンはギリッと歯を食い縛る。

 唯一の息子であるのに、次期長を約束された優れた存在であるのに、完全に無視され放置されているという状況が、酷く矜持に触れているようだ。

 

「あの混じり者は我々に復讐するつもりなのですよ! そうに違いありません! あの異様な化け物の力を使って、我らを滅ぼすつもりなのです!」

「…だが証拠は何もない」

「あれに薄汚い人間の血が混じっているというだけで、十分な証拠ではありませんか!」

 

 ハッ!と吐き捨てるレイアンは、我慢の限界だと言わんばかりに長に言葉を続ける。

 エイダが生まれるより数十年早く生まれた彼にとって、人間の血が混じった者が里のすぐそばにいることが、嫌で嫌でしかたがなかったのだ。

 

「くそっ…生きているだけで罪だというのに、役目を与えてこれまで生かしてやったのに、こんな凶行に走るとは…! こうなる前にさっさと殺しておくべきだったんですよ!」

「……」

「奴がいるだけで森は穢れる! 奴はこの森に紛れ込んだ異物、毒です! 早急に対処しなければ、やがて我らが代々守り続けてきたこの地は滅びましょうぞ!」

 

 レイアンは声高に叫び、父に窮地を訴えようとするが、レヴィオは黙ったまま何も返さない。むしろレイアンが声を発するたびに、怒りを抑えているような険しい顔になっていく。

 

 一向に、たった一度も肯定の言葉を返さないレヴィオに、レイアンはますます苛立った様子を見せる。

 何故同意しないのか、何故何も返答しないのかと頬を痙攣させ、その場で床を踏み鳴らす。その様はどう見ても、癇癪を起した幼子の様にしか見えなかった。

 

「奴め…! 一体何を考えている…!? そうだ……もしかすると、最近の同胞の行方不明事件も、奴らの仕業かもしれない。だとしたら目的は……そうか、そういうことか!」

 

 ぶつぶつと呟いていたレイアンが、急にハッと目を見開き、口元を笑みに歪める。

 悪意が全面に表れた醜悪な顔で、本人は全くそれに気づかないまま、自分が今思い付いた真実を吐き出す。

 

「父上…おそらく奴は、人間と繋がっているのです。我等の居場所を人間どもに伝え、あの化け物の力で捕らえ、人間どもに引き渡しているのですよ! 我らエルフは特別な存在……人間どもはそれを妬み、穢れた外の世界で、同胞達を弄び飼い殺しにしているというではありませんか!」

 

 レイアンの主張に、レヴィオは顔にビキリと血管を浮き出せる。

 息子の主張は所々で的を射ているが、そのほとんどが予想に過ぎない。当たっている箇所も、噂や人から聞いた話で実際に目にしても体験してもいない、中身がすかすかの想像でしかない。

 

 そして何より、彼は父親にとって禁忌ともいえる事実を口にしてしまっていた。

 レヴィオの脳裏にはある一人の同胞の娘の事がよぎる。かつて己が数多の愛情を捧げ、しかし掟を犯しその報いを受けてしまった、哀れで愚かな娘の事を。

 彼女への想いを表に出さぬよう、懸命に奥底に封じ込もうとしていた記憶が蘇ってしまう。

 

 レイアンは父親の苛立ちにも気づかず、ニヤニヤと笑みを浮かべたまま反応を待つ。レヴィオは重く息を吐いてから、ようやく再び口を開いた。

 

「…確かに、そういう時代もあったな」

「そうでしょう!? そう言う事なんですよ!!」

「だがそれは……己の力量を見誤り、不用意に森の外に出てしまった愚かな同胞の末路だ。それをあの者一人の責任と押し付けるつもりはない」

「なっ…!」

 

 自分の推理を否定され、レイアンは瞠目し、次いで顔を真っ赤に染め上げる。

 わなわなと肩を震わせた彼は、キッと鋭いまざなしでレヴィオを睨みつけ、また床を踏み鳴らし始めた。

 

「そ…それと話は別だ! 奴は我等の敵! あなたが手を下さないのなら、私がじきじきに―――」

「やめぬか愚か者が!!」

 

 不意に、レイアンの頬に強烈な衝撃が走り、彼の体が宙に浮く。目を見開いたまま、レイアンは背中から倒れ込み、床に勢いよく倒れ込んだ。

 

「ぐっ…!? ち、父上…?」

「私の決定に異を挟むな! お前は私の息子というだけで、生殺与奪の権限を有してはいない事を忘れるな! その短絡的な思考を治さない限りはな!」

 

 ズキズキと痛む頬に手を当て、呆然とレヴィオを見上げるレイアン。父親に殴られるという初の体験に、それまで渦巻いていた感情の殆どを忘却してしまう。

 

 レヴィオは鼻息荒く息子を睨みつけ、肩を上下させる。

 年齢のせいか、一発拳を放っただけで息が荒れる自分を恨めしく思いつつ、スッと背中を向けた。

 

「…様子を見ると言っている筈だ、お前は決して手を出すな! でなければ処分されるのはお前の方だ……わかったら下がれ」

 

 それだけ告げると、話は終わりだというように口を閉ざすレヴィオ。

 忘我の最中にあったレイアンは、徐々に正気に戻り始めると同時にきつく唇を噛み締め、ぶるぶると全身を震わせる。

 もう一度父をぎろりと睨みつけると、立ち上がり荒々しい足取りで長の部屋から立ち去っていった。

 

 どすどすと足音が遠ざかっていくと、レヴィオはまた窓の外、翳り始めた空を眺め、小さくため息をついた。

 

「……ままならぬな、子を育てるというのは。なぁ、オリヴィエよ」

 

 既にこの世から儚くなった妻の事を想いながら、レヴィオは遠い目で空を見上げる。

 その時だ。ちょうど息子が話題にしていた少女が、音もなくレヴィオの後方、自室の隅に現れたのは。

 

「長…お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「……何だ」

 

 全ての感情を封じ込め、冷淡な声で応じる長。少女エイダはそれに、悲し気に眉間にしわを寄せるが、すぐに首を振って無表情に戻る。

 エイダはその場に跪き、首を垂れながら口を開いた。

 

「―――私があの方に……黒い竜に会う前に、遭遇した別の怪物がいます。…人語を介す、蜘蛛の怪物でした」

「…詳しい話を聞かせて貰おう」

 

 少しだけ震える声でもたらされた報告に、レヴィオは目を細め、ゆっくりとエイダの方へと振り向いた。

 

               △▼△▼△▼△▼△

 

 バサバサと草木を踏み潰し、レイアンが夜の更けた森を歩く。

 虫達の鳴く声も掻き消されるほどに荒々しい足取りで、険しい形相で木々の奥へと向かっていく。その口からは常に、不平不満が溢れ出ていた。

 

「くそっ! くそっ! あの耄碌爺め…! ふざけたことを抜かしやがって!」

 

 他に人目が無いのをいいことに、募り募った苛立ちをぶちまける。

 従うべき長であっても、血の繋がった父親であっても関係ない。自分が蔑ろにされるという事が、腹立たしくて仕方がないのだ。

 

 自分はいずれ里で最も偉い存在になる男。それに加え、優れた能力を持つエルフの長なのだから、世界中のあらゆる種族の中でも、最も優れた存在になるのだという自負が彼にある。

 そんな自分の主張が取り下げられ、事もあろうに混ざり者の少女が守られるという事態が、何よりも気に入らなかった。

 

「私は里を……仲間を想って言っているのだ! なのになぜ殴られねばならん! あの爺め……私が長になった暁には、身の程を教えてくれる!」

 

 まだその時ではないと自分を抑えつつ、レイアンは望ましい未来を夢想し、それが叶う時がまだ先である事に、悔し気に唇を噛む。

 

 憎たらしい事だが、父レヴィオは百年以上里を守り続けた功労者であり、多くの里の住民からの信頼も篤い、稀有な人物である。

 里の中でも上の年代の者達は皆彼に従っており、まだまだ現役であるために、世代交代はまだ遠い未来の話である。まだ好きに動くことはできそうにない。

 

「まったく……さっさと事故か何かで死んでくれないものか。いや…何か問題を起こさせれば、長の地位を退けさせられるか…? チッ、うまくいかないものだ」

 

 ぶつぶつとぼやきながら、レイアンは暗い森を歩く。

 そして目的地である、森の中でも数本しか生えていない特殊な木が生えている箇所に辿り着く。

 

「…レイアン様?」

 

 近づいてくる足音に反応してか、その木の後ろに隠れていた一人のエルフの女性が顔を覗かせてくる。

 

 優しい垂れ目に翡翠色をした瞳、桜色の唇にシミ一つない肌。乳房も尻も大きく、柔らかさに溢れた肢体を有する、美しい妙齢の女性だ。

 彼女を前にしたレイアンは、表面上はフッと紳士的に微笑み、内心はでれっとだらしない顔になる。

 

「ルイゼ……待たせてしまったな、父上がなかなか解放してくれなかったのだ」

「さびしかったですわ…身体はこんなに火照っているのにほったらかしにされて、凍えてしまって悲しかったですの」

「すまないな……では今晩は、凍えぬよう熱い夜を過ごすとしよう」

 

 すすす…と寄ってくる女性を、レイアンは大きく手を広げて受け止め、抱きしめる。

 彼女の背に回した手で、豊かに膨らんだ臀部を撫でつけ、開いた背中を撫でると、ルイゼという名の彼女は妖艶にレイアンに笑いかけた。

 

 定期的に行われる、次期長を約束された男と村で評判の美しい娘の逢瀬。

 レイアンの立場があるため、公にするわけにいかないが、時間が作れた時は遠慮なく体を重ねられる貴重な時間を、二人は存分に享受する。

 

「あん……またここでいたしますの? 人がいるところでできないのはわかりますけど、流石に少し恥ずかしいですわ」

「誰も来ないのだからいいじゃないか……もし誰かいたとしても、見せつけてやればいいし、告げ口などさせないさ。なんせ私は、長の子なのだ…そのくらいの権限はあるよ」

「まぁ、頼もしいですけど…ご趣味が少し独特ですわね―――あっ」

 

 今すぐにでも互いの衣服を脱ぎ捨て、溜まりに溜まった欲望を注ぎ込みたいと奮えるレイアンは、ルイゼの肌を撫でながら告げる。

 敏感なところに触れられ、びくんっと震える彼女を見つめ、レイアンはにたりと目を細めた。

 

「今夜も愉しもう……時間が許す限り」

「あぁ…レイアン様…」

 

 ゆっくりと、里でも優しく気遣いができ、何より色っぽく豊満な体を持て余す、男であればだれもが憧れる美女の身体を押し倒し、レイアンが彼女の上に覆いかぶさる。

 歓喜で目を潤ませ、美しい笑みを浮かべるルイゼの衣服の紐を解き、肌を晒していく。

 

 月光に照らされ、妖艶な輝きを放つ美女の身体を見下ろし、レイアンはべろりと唇を舐め、彼女の柔肌に唇を落とす。

 そうして、虫のさざめきだけが響き渡る森の中で、男女が密やかに睦み合う光景が始まる。

 

 それを―――赤く輝く八つの目が、見えないどこかからじっと無音で凝視している事に、二人は気づいていなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8.Abduction

「はぁ…はぁ……こ、今夜も素晴らしかったですわ、レイアン様……」

「ああ…君の身体も最高だった。私は本当に幸せ者だな…」

 

 荒い息をつき、赤い顔で甘えた声を上げるルイゼの隣に、脱力したレイアンも倒れ込む。

 長時間、適度な速さで走り続けた後のような疲労感で、青年達は何度も熱い息を吐く。しかし、体の中にあっただまを吐き出したように爽快な気分で、二人とも随分と満足気な様子である。

 

 心地よさそうに、すりすりと胸元に頬ずりをしてくるルイゼ。

 すると、彼女を見下ろしていたレイアンが、重いため息を発してから口を開いた。

 

「けど、今夜はもう終わりにしなければ。最近、父上の目が厳しくなってきてね……これまでのように好きに会えなくなるかもしれない」

 

 レイアンがそう告げると、ルイゼは不満げに唇を尖らせる。彼女が抱く欲求は、まだレイアンほどに解消され切っていないのだ。

 自分だけ満足していくのかと、ルイゼがレイアンに厳しい視線を向ける。それに対し、レイアンは苦笑をこぼし、内心では舌打ちをこぼした。

 

「ひどいですわ、私はまだこんなに火照っていますのに……」

「許しておくれ、ルイゼ。私達の関係を邪推する者もいるんだ……君を守るためなんだ。わかっておくれ」

「レイアン様…」

 

 我慢を強いられるのは自分だけではない。彼もまた、課題を片付けるために仕方なく一時の別れを切り出しているのだと気付き、ルイゼは抱いた怒りを引っ込める。

 

 しかしそれでも不満は残り、愛する秘密の恋人を詰るように、彼の肌を指先でつつく。

 いじらしい仕草を見せるルイゼに、レイアンは微笑ましい視線を向ける……事はなく、冷めた表情で、鬱陶しそうな視線を向けていた。

 

(この女もだんだん飽きて来たな…締まりも緩くなってきたし、今後は適当な理由をつけて回数を減らすか。また新しい奴を相手にしたいが…どうしたものかな)

 

 ほかにも数人いる相手と、どう折り合いをつけて相手どろうかと考え、レイアンはすり寄ってくるルイゼの頭を撫でる。幼子にやるような行為だが、ルイゼは気に入っているらしく笑みが浮かんでいる。

 

 

 いつの頃からだったか、人より早く、強く発揮され始めたレイアンの下半身の欲望。

 そういった欲望が他の種族より低いエルフには珍しく、レイアンは人より強くその行為に興味を持つようになっていた。

 

 それをどう処理すべきか、割と早い段階でわかっていた彼は、自分の立場を利用し、村の女に内密に頼むようになった。

 最初は夫を亡くして久しい村の未亡人、そこから徐々に若い相手にと、言葉巧みに説き伏せ、表情を偽り、拒絶できないようにしながら頷かせ、股を開かせてきた。

 

 そう言った話題に対し、厳格な父に見つからないよう細心の注意を払いながら、レイアンは多くの女性、少女達と関係を築いてきた。

 相手が居る居ないに限らず、時に自分の立場を利用しながら、密かに遊び続けてきたのだ。

 

 

(まったく…最近は爺の監視もきつくなってきたし、溜まりまくって散々だ。相手の年齢を下げ過ぎると、今度は向こうの親がうるさくなるだろうし、あまり数を増やすのもな……)

 

 しかし、比較的大きな村でも、閉ざされた森の中。

 人数にも限りがあり、手を出せない女性もいるため、遊ぶ相手も少なくなってきていた。

 

 最近では、性格を理由に自分に対する扱いを粗雑にしている父。

 人目があろうとなかろうと関係なく、自分の行いに対し難癖をつけ、大勢の前で恥をかかせることも多々あるため、レイアンは日頃から鬱憤を募らせていた。

 

 ルイゼとの行為が明らかとなれば、レヴィオは烈火のごとく怒るに違いない。

 

(まったく……せっかく生まれ持った遊び道具を使わずに、恵まれて持った時間ばかり浪費するなんて、年寄り達は情けないな)

 

 エルフの民は出生率が低い。それは長寿であり、多くの子孫を残す必要がないため、体質的に比較的子ができにくいためである事もあるが、大半の理由は本人達の欲求にある。

 エルフの発情期はごく短く、そういった行為に対する興味も低いため、子を作る機会というものが極端に少ないのだ。

 

 だが、レイアンは違った。いや、特殊だった。

 子ができにくいのなら丁度いいと、言葉巧みに女子達を唆し、そういった行為に興味を抱かせ、相手をさせまくったのだ。

 

 変わった形で改革的だった彼のやり方は、他の同年代、そして年下の男のエルフ達の意識にも影響を及ぼしていて、彼に付き従う者達が増えつつある。

 里にいる中年から高齢の者達を除き、里のエルフ達は彼を次なる長にと望み始めていた。

 

「そろそろ戻ろう……大丈夫。早く君を妻として迎えられるように、私は頑張るから」

「…そうね、その時を待っているわ」

 

 ルイゼと唇を重ね、レイアンは立ち上がって脱ぎ捨てた衣服を身に纏っていく。

 名残惜しそうに背中を見つめるルイゼを置き去りにし、レイアンは一足先に里に戻っていく。一緒の時間に帰り、疑われないようにという理由で、ルイゼが身を清める手伝いを避けているのだ。

 

 そんな理由があるとはつゆ知らず、ルイゼはレイアンが去っていく姿を見送り、しばらくしてから自分の衣服に手を伸ばす。

 秘密の恋人が語る輝かしい未来を夢見、いそいそと楽しそうに袖に手を通していく。

 いつか本当に彼の妻になれたら、いつか本当に彼の子を身籠れたら。そんな未来を、早く来てほしいと待ち遠しく思い続けていた。

 

 

「―――リアジュウハッケン」

 

 

 だがその時、ルイゼの動きがピタリと止まる。

 豊かな胸を押し込み、腰に紐を巻こうとしていた彼女の手が、耳に届いた謎の声で硬直する。

 

「……だ、誰?」

 

 露出しそうになる胸元を隠そうと衣服の襟を掴み、ルイゼは辺りを見渡す。

 まさか、先ほどの秘め事を誰か里の者に見られていたのか。レイアンの恐れていたことが起きてしまったのかと、ルイゼは顔から血の気を引かせる。

 

 きょろきょろと辺りを見渡すが、どこにも人影は見えず音も聞こえない。

 思わず漏れてしまった声ではなく、態とこちらに聞かせるような声であったため、それ以上隠れる必要はないはず。なのに、一向に声の主を見つける事ができない。

 

「誰なの…? か、隠れてないで出て来なさい。私を脅す気なら受けて立つわよ、私はそんなものに屈したりはしないから…!」

 

 レイアンに付き従う者ならば、いくらでも誤魔化せる。だがもしレイアンの父の派閥、エルフが積極的に交合することに忌避感を抱く者だった場合、何らかの手で口封じをしなければならない。

 もしそうなら、自分こそが愛する男を守らなければと、ルイゼは片手で体を隠したまま身構える。

 

 すると突如、鋭い眼差しで周囲を探っていた彼女の視界が、がくんと真下に下がった。

 

「え……きゃー――!?」

 

 真下から強い力で引きずり落とされる感覚に、ルイゼは悲鳴をあげる。

 しかし、彼女の身体は瞬く間に地面の下にもぐり、空いた穴も即座に閉じられてしまったため、その声が誰かに届くことはなかった。

 

 彼女にうわべだけの愛を囁いたレイアンも無論、何も知らずに自邸の方へ戻る。身体を重ねた相手が、突如何処かへ消えた事など、微塵も気づかずにいた。

 

 

 

「いやっ……いやぁぁ! 離して……離しなさいよ!!」

 

 自分の腹を締めあげる、毛むくじゃらの腕のような何かを叩き、ルイゼは甲高い声で叫ぶ。

 深い深い穴を引きずられ、美しかった彼女の髪は土で汚れ、ぼさぼさになっていく。辛うじて纏っていた衣服も、引きずられて所々ボロボロになり、あられもない格好になっていく。

 

 何が起こっているのか全く見当がつかない彼女は、自分を何処かに連れて行こうとしている何かを、バシバシと叩く以外に抵抗する術がなかった。

 

「ふざけないで! 私はっ…私はレイアン様の恋人なのよ!? こんな事をしてただで済むと―――あぐっ!」

 

 美しい顔を、見る影がないほどに歪め、叫び続けていたルイゼは、固い土の上に叩きつけられ、呻く。

 痛む背中を摩り、体を起こそうとした彼女は、視界に映ったその光景に一瞬思考を忘れ、次いでザザッと後退った。

 

 深い深い土の下に幌がる広大な空間。

 その天井からぶら下がる、数人の少女や女性達―――一糸まとわぬ格好で、全身を異様に膨らませた、ルイゼと同じエルフの娘達がそこにいたのだ。

 

「ひっ……いやぁぁ!?」

 

 ルイゼは目を剥き、喉が裂けんばかりの絶叫を上げる。

 

 白い糸に手足を絡められ、吊り下げられる同胞達だが、誰一人としてルイゼのような嫌悪を表した顔をしていない。

 むしろ恍惚とした顔で頬を赤らめ、だらりと舌を垂らしただらしのない顔をしており、びくびくと全身を震わせている。一目で、彼女達が一人も正気を保っていないことがわかった。

 

「う、ウソ…レイン? ルカ? ライア? あ、貴女達……どうしてこんなことに…!?」

 

 ルイゼは彼女達が、全員自分の知っている行方不明者であることに気付く。

 さして関わりがあったわけではないが、最近いきなり姿を消し、両親や兄弟が探し回っていたことで記憶に残っており、時折顔を思い出すようになっていた者達なのだ。

 

 里の者が懸命に捜索しても、手掛かりも何一つ見つけられずにいた彼女達が、よもやこんな場所にいたのか、とルイゼが息を呑む。

 

「……ぁ、ぁあ…」

「ぅふ、うふふふふふ…」

 

 吊り下げられた彼女らは、光を失った目で虚空を見つめ、だらだらと涎を垂らしながら声ならぬ声をこぼしている。現時点では何もされていないように見えるが、身体に何かを施されたのだろうか、常に痙攣し体を揺らしている。

 よく見れば、彼女達の膨らんだ体は、中で何かが動いてボコボコと波打っている。姿は見えずとも、悍ましい何かがいることがわかり、ルイゼの背筋に震えが走る。

 

「ま、まさか……最近噂になっている行方不明になった子達は、全員ここに……!?」

「ゴメイサツダヨ、オジョウサン」

 

 ガタガタと震えていたルイゼは、背後から聞こえてきた声にひゅっと息を呑み、ガバッと身体をひっくり返す。

 

 目を見開いた彼女の目の前に、八つの赤く輝く瞳が、己を一口で呑み込めそうなほどに巨大な蜘蛛の貌が、ずいっと近づけられる。

 至近距離から見つめてくる、巨大な蜘蛛の目の全てに自分の顔が映り込み、如何に自分が恐怖で引き攣っているのかが見える。

 

 ぱくぱくと口を開閉し、硬直する彼女の前で、蜘蛛の口がグパッと開かれた。

 

「ココハオレノイエ……オレガシハイスルオレノクニ、オレノオウコク。ココニハイッタイジョウ、オマエハモウオレノモノ。オマエハオレノオンナニナルンダ」

 

 異形の口から聞こえてくるのは、奇妙な響きを持った確かな言葉。普通の獣ではまずありえない、明確な意味を持った言語であった。

 

 姿形は間違いなく正体不明の異形で、意思疎通ができる存在には見えない。

 しかしなぜかルイゼの目には、気持ちの悪い蜘蛛の貌が、脂ぎった肥満体の男がニタニタと不気味に笑いかけてくる顔に見えていた。

 

「この…! 化け物! 近づかないでよ!」

 

 だらだらと垂れ落ちてくる、蜘蛛の口から洩れた液体がルイゼの身体にかかり、べとべとに汚していく。それを嫌がるルイゼが押し退けようとするが、蜘蛛は重く微塵も動かない。

 

 すると突如、ルイゼの両手両足がぐんっと引っ張られ、大きく体を広げられる。さらには垂れ落ちた液体によって彼女の衣服は溶けだし、残った衣服の一部も無くなっていく。

 慌てて隠そうとするも、手足を引っ張る何かの力は強力で、全く身動きが取れなくなってしまっていた。

 

「離しなさい! 離しなさいっての! 私は……私はレイアン様の…! 里の次期長の妻になる女で―――」

「ツヨキデキョニュウナエルフ……イヤ、コノデカサハモハヤバクニュウダナ」「シカモイケメンノオンナダゾ」「ソレハイイ、タマニハヒトヅマモワルクナイ」「オマエノモノハオレノモノ、オレノモノハオレノモノダ」

 

 必死に拘束から逃れようと暴れ、叫ぶ彼女の元に、次から次へと声が集まってくる。

 自分を抑え込む個体と全く同じ見た目の、少しずつ大きさの異なる蜘蛛の化け物達が、ぎちぎちと音を鳴らして向かってくる。

 生理的な嫌悪で、ルイゼはもう叫ぶ気力も奪われ出していた。

 

「い、いや…嘘、やめて……!」

 

 本能的な恐怖で、ボロボロと涙を流し懇願するルイゼ。

 しかし、蜘蛛の怪物はそんな声に反応するそぶりも見せず、ゆっくりと自分の体ごと管を押し込んでいき、そして―――

 

「いやあああああああ!!」

 

 痛々しい美女の悲鳴が、土の下の空間にこだました。

 

「オイ、ズルイゾ!」「サキドリハユルサン!」「ジャアベツノアナヲツカエバイイダロ」「ソレモソウカ」「オンナノアナハイクラデモアル」「ナイナラツクッチマエバイイ」

 

 悲鳴をあげるルイゼに、他の蜘蛛の怪物達が集り、凌辱を繰り返す。

 

 エルフの美女は苦痛で翻弄され、涙が途切れる事はない。

 しかし、痛みと苦しみはいつまでも続くことはなく、次第にルイゼを快楽で狂わせていく。そしてやがて、彼女の挙げる声にも、次第に艶が混じり始めていく。

 

 全身を蜘蛛の化け物達に穢されながら、ルイゼという女の自我は、色欲に穢され壊されていくのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9.Suspect

 エルフ達の里はその朝、ざわめきに包まれていた。

 平和だった森で起こったある事件、数百年に渡って維持してきた平穏の中で立て続けに起こる悲劇に、エルフ達は恐怖と不安で落ち着かなくなっていた。

 

「おい聞いたか、今度はファルマのとこの娘のルイゼがいなくなったらしいぞ」

「ああ、何でもいつの間にか部屋から居なくなったらしいな……まさか、誰かに連れ攫われたのか?」

「だが、争った形跡はないらしい。一体どうなってるんだ…?」

 

 事件が起きたのは昨晩の事。

 ベテランの戦士ファルマの一人娘であるルイゼが、夜中にどこかへ消えてしまったという話だ。

 

 若者の間で極稀に起こる家出の類かと思われたが、ファルマの家庭は良好で仲違いをする理由はない。

 時々、出かける事が多い自由奔放な娘を心配してファルマが注意をすることはあるが、ルイゼは反発することもなく、注意されてからは外出を控えるようになったぐらいだ。

 だからこそ、娘想いな父親を残して彼女が失踪することなど、考えられなかった。

 

「どこかで事故に?」

「けど、あの子が行きそうな場所を探しても、全然見つからなかったそうよ。痕跡も何もなかったって…」

「そんな事ってあるのか……?」

 

 もともと気立てもよく、美人で評判だった彼女がいなくなった事は、多くのエルフの男達に悲しみをもたらし、身を案じる声がそこかしこから上がる。

 同年代の女達との仲もそれなりに良かったため、村全体に緊迫した雰囲気が漂っていた。

 

「やっぱり、最近起こってる神隠しと同じなのかしら…?」

「そうかも知れないわ。いなくなってるのは女の子ばかりだし、同じ犯人の仕業なのかも」

「犯人って……誰よ」

「さぁ…」

 

 普段ならばもっと人出があるはずの里が、やや静まり返っている。

 里で評判の美女の行方不明事件は、エルフ達の心に影を落としていた。心配なのは確かだが、皆、自分も巻き込まれたくないという気持ちで、自宅に引っ込んでいるのだ。

 

 強張った表情で、知り合いと噂を語り合う何処か足元が覚束ない様子の住民達。

 その様を、日課の見張りの為に自宅を出るところだったエイダが、何事かと訝しげに眺めていた。

 

「…? 何かあったんですかね…?」

 

 思わず呟き、首を傾げるエイダ。

 するとその呟きが聞こえたのか、身を寄せて囁き合っていた女子達が振り向き、即座に目に嫌悪感を宿して、少女を睨みつける。

 他にも数人、エイダが見つめてきている事に気付き、中には唾を吐く者も出始める。

 

「いやだわ…ただでさえ嫌な空気なのに、もっと気分が悪くなった」

「ほんと、なんでわざわざこっちを通っていくのかしら。見ているだけで気持ち悪いわ……混じり者のくせに生意気ね」

「ほんと気分悪いぜ…さっさと死んでくれねぇかな。鬱陶しい」

「あいつこそ、どっかに消えちまえばいいのに」

 

 エルフ達の話題は、美女の行方不明事件から人間の血が混じった少女への敵意に挿げ替えられる。

 四方八方から向けられる嫌悪の視線に、エイダはキュッと身を縮こまらせ、視線は悲し気に伏せられる。長年受け続ける目だが、一向に慣れる気がしない。

 

 さっさと通り過ぎてしまおうと、純潔のエルフ達と目を合わせないように目を伏せたまま、速足で歩き出そうとした時だった。

 

「待て! 貴様!!」

 

 空気を切り裂くように轟く、男の声。

 エイダがよく知る、一人の男の聞きなれた声が鼓膜に届くと、エイダはびくっと身体を震わせ、その場で硬直する。

 恐る恐る振り向いたエイダは、長の邸からずんずんと荒い足取りで向かってくるレイアンと、その取り巻き達の姿を目にした。

 

 目尻を吊り上げ、剣呑な視線を突き刺してくる彼に、エイダは思わず一歩二歩後退る。

 しかし、少女が逃げる暇さえ許さないように、素早く近づいた取り巻き達が彼女を取り囲み、逃げ場を完全に奪ってみせた。

 

「……な、何の用ですか…?」

「はっ…予想はできてるんじゃないのか、この悪魔め…!」

 

 肩を震わせ、怯えた上目遣いで尋ねるエイダに対し、レイアンは以前よりもずっと厳しい表情で吐き捨てる。 取り巻き達も同じような眼で、エイダを今にも殺しそうな様子で睨みつけてくる。

 

 会って早々、凄まじく重い殺気に晒されるエイダは、何が何だかまるでわからない。

 長の息子の機嫌を損ねる何かをしてしまったのだろうか、ここまでの敵意を持たれる何かをやらかしただろうか、と自分の行いを顧みる。

 しかし、昨日は長の一声で返されてから一度も会っていない。心当たりなどまるでなかった。

 

「わ、私が何か、レイアン様の癪に障る事をしましたでしょうか…? わ、詫びろとおっしゃるのであれば、そうします……け、けど、せめて理由をお聞かせいただければ…」

「しらばっくれるのもいい加減にしろ、糞餓鬼めが!!」

 

 しどろもどろになりながら、レイアンや取り巻き達の憎悪から逃れようと、声を絞り出すエイダ。

 そこに突如、取り巻き達の包囲を押し退けて一人の男性が割り込んでくる。目を血走らせ、髪をぼさぼさにした彼は、息を呑んだエイダの襟首を掴み上げた。

 

「お前だろう!? お前が私の大事なルイゼを連れ去ったんだろう!?」

「ひぐっ…!? な、何を、言って…!?」

「どこへやった!? 私の宝を!! どこの人間に売り飛ばした!? どこに殺して捨ててきた!? 言え! 言わないとここで殺してやる!!」

 

 襟を掴まれ、持ち上げられ、気道を締められたエイダが苦しげな声を上げるが、男は気づいていないのか、それともまるで気にしていないのか、自分の問いばかりをぶつけてくる。

 涙目でもがき、呻くエイダの意識がフッと遠くなりかけた時、男の肩にポンッと手が置かれた。

 

「落ちつけ、ファルマ。ここでこいつを殺せば、お前の大事な娘の居場所は永遠に分からなくなってしまう……そうだろう?」

「うっ…ぐぅうう…!」

 

 レイアンに宥められた男、行方不明になったルイゼの父ファルマは、ギリギリと歯を食い縛り呻く。

 顔をくしゃくしゃにし、獣のように唸ると、やがて手から力を抜いた。

 

 襟を離され、解放されたエイダは地面に背中から落下し、ゲホゲホと咳き込み涙と唾液をこぼす。

 危うく理由も何も知らぬまま殺されかけた少女は、より一層がたがたと震え、涙で濡れた目でレイアン達を見上げる。

 

「けほっ……ぼ、くが……何をしたと…?」

「こいつまだ言うか…!」

「だから落ち着け……それはそうだ、そう簡単に口を割るはずもない。それでは消えた彼女達が報われない」

 

 地面に倒れ込むエイダの顔の傍に、レイアンはしゃがみ込み顔を寄せる。

 そして困惑するエイダの首元に、懐から取り出したナイフを突きつけ、刃を肌に触れさせる。急所に食い込む鋼の感触に、エイダはピタリと動きを止め、顔からサーっと血の気を引かせた。

 

「犯人に間違いないお前には、限界まで苦しんでから罪を認めて貰わなければなぁ……覚悟しておけ、泣いて縋りついても、私達がお前を許すとは思うな」

「だ、だから……何を…!?」

 

 狂気で脅され、身動きの取れない状態のまま震える声を上げるエイダ。

 突然命の危機に晒され、真面に考える事もできない様子の彼女に、レイアンは冷酷な眼差しを向けたまま鼻を鳴らした。

 

「わざわざ言わなければならないのか……お前は容疑者なんだよ―――同胞の女子達を攫い闇に隠した、最低最悪の凶悪犯としてな」

「なっ…!? そんなこと、していません!」

「黙れ、お前の言葉には何の信用性もない……否定したいならすればいい。どうせ何をしようとも、お前が罪を認め裁かれる事は決定しているんだからな」

 

 レイアンの冷め切った、しかし確かな愉悦を孕んだ言葉に、エイダはごくりと息を呑む。

 

 エルフの女性達の何人かが、ここ最近行方不明になったままであることは、少しではあるが耳に入っていた。

 跡形もなく消えるため、最初からいなかったかのような錯覚に陥るとも。本当に何の前触れもなくいなくなるため、いなくなった女性達の家族は、未だ現実味がない様子で戸惑っているとも。

 

 だが、その犯人として疑われる……というよりも、即座にそうだと断定されるとは夢にも思わなかった。自分を囲む全員がそう考えているのだと気付き、エイダは冷静ではいられなくなった。

 

「し……してません! 僕はそんな事してません! 本当なんです!」

「ふざけるな! お前しかいないんだよ汚い人間の混ざり者が! 娘を返せごみ屑が!!」

「本当なんです! 私は……私は何も!!」

 

 他の一切を疑うことなく、激しい憎悪をぶつけてくるファルマに、エイダは必死に否定の言葉を返す。

 しかしファルマの思考は完全に疑惑で固まっているようで、動けない彼女を甚振ろうと拳を振り上げている。レイアンの取り巻き達が止めなければ、この場で殴りつけている筈だ。

 

「まさか、あいつなのか…?」

「やっぱりな…何かやらかすとは思ってたんだ。汚らわしい半端者め」

「でも、混ざり者って言っても餓鬼だぞ?」

「方法なんていくらでもあるだろ……あいつなら納得だ」

 

 レイアン達の詰問を見ていた他のエルフ達も、エイダに疑惑の視線を向け始める。

 もともとハーフエルフのエイダを嫌悪し、存在そのものを疎んでいた彼らだ。この騒ぎで目障りだった相手が消える事を望んでいるらしく、レイアン達に期待の視線を向けている。

 

 誰一人、自分の無実を考えてくれる者がいない。理不尽な疑いなのに、誰一人おかしいと思うことなく、長の息子の暴言を肯定しようとしている。

 普段とは比べ物にならないほど孤立した最悪の状況に、エイダの中に絶望が広がり始めた。

 

「さぁ、お前はこれからじっくりと痛めつけ、真実を口にさせてや―――」

「何をやっているのだ、お前は!?」

 

 口を三日月のように妖しく歪め、嗜虐心に満ちた表情でエイダを連行しようとしたレイアン。

 取り巻き達も、野次馬のエルフ達も皆似たような醜悪な笑みを浮かべ、大嫌いな少女を見送ろうとした時。

 

 数人の老エルフ達を引き連れたレヴィオが、険しい表情でレイアンの方を睨みつけ、厳しい声で怒鳴りつけてくる。

 横槍を入れられたレイアンは、今度は全く隠すことなく、心底鬱陶しそうに鋭い目を返した。

 

「父上……邪魔をしないでください。私は今、同胞を貶める悪魔の娘を裁くところなのです」

「何が悪魔の娘か。聞いていれば言いがかりに等しい、一方的な決めつけで連れて行くところだったではないか。仮にも私の息子が何たる様だ!」

 

 唾を吐き散らし、息子を叱る長。凄まじい剣幕に、レイアンの取り巻き達は勢いを削がれ、居心地悪そうに目を逸らす。野次馬達も似たような反応だ。

 しかしレイアンだけは目を逸らすことなく、ちっと舌打ちを上げてレヴィオを睨み返していた。

 

「父上……言いがかりとは言いますが、犯人はこの混じり者以外にいないでしょう。お忘れですか? こいつが連れてきた巨大な化け物の事を」

「っ……」

「こいつが跨り、我らの里に入り込もうとした得体の知れぬ化け物……影に潜り、人語を解する悍ましい黒い竜。あれを呼び出したこいつなら、同胞をいくらでも攫えましょうぞ?」

 

 芝居でもしているかのように、大仰な手ぶりと声で語るレイアン。

 その内容が初耳だった野次馬達は、思わずエイダを見つめてどよめきの声を上げる。

 

 レヴィオは自分が語らずにいた情報を躊躇いなく口にしたレイアンに、より強く厳しい視線を向ける。

 様子を見て、確かな情報を手にして公表しようとしていた事実。迂闊に語って混乱を招かないようにという配慮をまるで考えない息子に、強い苛立ちを抱く。

 

「…そうしたという確かな証拠はない。その推理は、今はまだお前の妄想でしかない。そもそも、化け物ならば―――」

「妄想も何も、それが真実……そうに決まっているんですよ、父上」

 

 父親の言葉を遮り、レイアンは小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、笑みを浮かべる。

 それは我儘の激しくなった老害に対し、敬意も何もなくしたような、相手の一切に対して呆れ果て、落胆しきったような、そんな態度であった。

 

「馬鹿者! それだけで罪ありきと決めつけ、他者を裁くなどお前は何様のつもりだ!!」

「何を気にしているのですか……こいつは人間の血が混ざった半端者、処分して感謝されこそすれ、何故批難されなければならないのですか?」

「お前…!」

 

 心底納得できないといった様子で首を傾げるレイアンに、エイダはひたすらに恐怖を抱く。

 彼の、そして彼の取り巻き達の人間に対する偏見と敵意は、異常と言えるほどに強烈である。まるでそうある様に決められて生まれてきたかのような、そんな途方もない想像さえ浮かんでくる。

 

 一向に自分の制止を受け入れようとしない息子に、怒りを募らせたレヴィオがさらなる叱責を発そうと、拳を握りしめる。

 

 

「うぎゃああああああああ!!」

 

 

 しかし、その声が外に出る事はなかった。

 里の端から響き渡った、恐怖と絶望に溢れた悲鳴。そしてズンッと大気を震わせた轟音が、向かい合い火花を散らせていたエルフ達の意識を、強制的に引き寄せたのだ。

 

 ギョッと目を見開き、振り向いたレイアン達とレヴィオ達は、音と悲鳴が聞こえた方向を見据える。

 エイダも同じく、のろのろと体を起こし、何が起こっているのかと目を凝らし始める。

 

 そして、それは現れた。

「ギチギチギチギチギチ!!」

「ギギギギギ!!」

「ギチチチチ、ギチチ!!」

 

 里を守り続けた樹々を粉砕し、家屋を踏み潰し、気味の悪い鳴き声と足音を響かせながら。

 人の背丈を優に超える巨体を見せつける無数の蜘蛛の化け物達が、まるで黒い波のようにエルフ達の元へ襲い掛かってきたのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10.Confrontation

 ザザザザザザッ…!と素早く動く八本の足が、草地を走り音を立てる。

 それが何十も重なる事で、寒気を走らせ気持ち悪さを齎す音が、大量に鼓膜に突き刺さってくる。さらには青々とした緑が真っ黒に染められていき、見た者に吐き気を催させた。

 

「ギチギチギチギチギチ…!!」

「な、何だこいつらは!?」

「巨大な……蜘蛛!?」

 

 爛々と輝く真っ赤な眼が、突然の事態に慄くエルフ達を、特に驚愕と恐怖で固まる女達を凝視する。

 長く森に棲む彼らでも初めて見る蜘蛛の怪物、それが夥しい数の群れを成し、真っ直ぐに向かってくる光景に、エルフ達は同様で即座に動けなくなっていた。

 

「オンナハサラエ! オトコハイラン!」「オレ、アノオンナガイイ!」「ジャアオレハアッチノチイサイコ!」「ババアガイルケドソッチハ?」「コノミジャナイカライラネェ!」

 

 その隙を見逃さず、蜘蛛達ははっきりと人語を口にしながら、エルフ達に襲い掛かる。

 巨体からは想像もつかないような俊敏さで動き、見上げるほどの高さまで跳躍すると、棒立ちになる一人の男に覆いかぶさる。

 凄まじい重量を受け止めた彼の身体から、ボキボキと嫌な音が響いた。

 

「ぐああああああ!!」

 

 巨体に押し潰され、押し倒された男は苦悶の声を上げ、白目を剥いて血を吐く。

 彼にのしかかった蜘蛛の怪物は、悶え苦しむ男の様を見下ろし、心地よさそうに泣き声をあげる。そしてばたばたと暴れる彼に向け、がパッと開いた口から鋭い牙を伸ばし、男の額に突き立てる。

 

「オトコハイラネェッテイタダロウガ! ジャマダバカガ!」

「げぎゅっ―――」

 

 牙は男の額を貫き、脳にまで届く。直後、男の頭の中からじゅるるるっと中身を啜る音が響き渡る。

 男はビクンッと体を痙攣させると、やがてピクリとも動かなくなる。

 

 中身を全て吸い上げた蜘蛛の怪物は、ずぷっと血肉に濡れた牙を抜き、満足げにまた大きな声で鳴く。

 同胞が瞬く間に、物言わぬ骸となり果てるその光景に、目撃してしまったエルフ達は絶句し、立ち尽くしてしまった。

 

「うっ…うわあああ!!」

「ギチチチチチチ! ジャマスルオマエラガワルインダ! エサニデモナッテロ!」

 

 我に返った何人かが、背を向けて走り出そうとするも、その時には既に蜘蛛の怪物達が襲い掛かり、最初の被害者と同じように体液を啜り葬る。

 数秒も絶たないうちに、どさどさと次々に、からからに乾いたエルフの男達が草地に倒れていき、積み重なっていった。

 

「いっ…いやあああ!!」

「ジェダ! 嘘でしょ、ジェダ!? 嘘だと言ってぇ!」

 

 倒れた男達の中に、自分の夫や恋人の姿を見た女達が、顔を真っ青にして悲鳴をあげる。

 変わり果てた愛する男を前に、彼女達の思考は完全に冷静さを失い、足が勝手に犠牲者達の元へ向かっていく。

 

 周りの者がそれを見て正気に戻り、止めようと手を伸ばすも、すでに彼女達は手の届かない距離まで離れてしまっていた。

 

「ジェダ―――」

 

 横たわる夫、恋人の傍に駆け寄ったその女性達。その手が骸に触れようとした瞬間、女達の姿が掻き消えた。

 

 夫達の元に手を伸ばしたまま、女達は腰に白い糸が巻きつけられ、宙に持ち上げられていく。

 頭上に広がる大樹の枝、そこにぶら下がった蜘蛛達が、腹部の紡績器官から放った糸により、あっと言う間に何人も連れ攫われていた。

 

「ギチチ…! ヒトヅマトイウノモマタイイモノデスナ!」「ネトラレハイイブンカ!」「コノハイトクカンガタマラネェ!」「ザイアクカンナンテナイクセニ!」

「このっ……おのれぇ!」

「化け物め!!」

 

 増えていく犠牲者を前に、ようやく戦士達の目が覚める。

 意味の分からない言葉を吐き、女達を攫おうとする頭上の蜘蛛に向け、数人で一斉に矢を放つ。

 

 しかし、鋭い勢いで放たれた矢は、全て蜘蛛達の体表に刺さることなく弾かれ、虚しく残骸が飛び散る。蜘蛛にも、矢が当たって痛がる素振りは全く見受けられなかった。

 

「そんな―――ぎゃっ!?」

「は、速い―――ぐはっ!」

「ダカラ、ジャマスンナッツッテンダロウガゴミクズドモ!」

 

 攻撃が全く聞いていない事に、愕然と目を見開くエルフの戦士達。

 棒立ちになる彼らに、今度は蜘蛛達から凶刃が放たれる。

 

 女達に糸を巻き付けたまま、顔を向けた蜘蛛達の口が大きく開かれ、その奥から鋭く尖った糸の槍が放たれ、戦士達を串刺しにしていく。

 矢よりも速く、力強く放たれたそれは、容赦なくエルフ達を次々に貫き、骸に変えていった。

 

「こ……これは、一体何だというのだ…!?」

 

 同胞達が次々に斃れていくその光景に、レイアンは後退りながら絶句する。

 屈強な、優れた力を自他ともに認める戦士達が、得体の知れない怪物達の魔の手によって、為す術なく屠られていく。その間に、美しい女達が片っ端から攫われていく。

 まるで、エルフという種が滅ぼされていくかのような光景に、レイアンは開いた口が塞がらない。

 

 不意に、レイアンの視線が背後に向く。

 彼と、彼の取り巻き達が囲んでいた、忌まわしき人間の血が混じる少女。今まさに処刑しようしていた汚らわしき存在エイダに、レイアンは憎悪に満ちた目を向けた。

 

「貴様…貴様だな! 貴様があの化け物を呼び出したんだな!」

「やめんか、そんな場合では……」

「黙れ老害が! お前にはもううんざりしてるんだよ!!」

 

 表向きには従順に首を垂れていたレヴィオに向け、我慢の限界に達したレイアンは、溜め込んでいた苛立ちの全てをぶちまける。

 吊り上げた目で父親を睨み、彼の忠告を一切の躊躇いなく振り払う。

 

 焦燥と怒り、そして訳の分からない存在によって、自分の世界が壊されていく事への恐れで、これまで辛うじて保たれていた楔を破壊してみせた。

 

「こいつさえ……こいつさえ殺せば! あの化け物共はどこかに消える! そうに違いない!!」

「そ…そうだ! こいつが悪いんだ!」

「殺せばすべて解決するんだ!! 早く、早くやってくれ!」

 

 目を血走らせ、腰に佩いた剣を抜くレイアン。切先をエイダに向け、焦りで震える刃を首に当てる。

 取り巻き達もそれに全面的に同意し、エイダを決して逃がさないように、レヴィオ達の妨害が入らないように包囲をより固める。

 

「何の根拠があってそんな戯言を……や、やめろ! 話を聞け!」

「落ちつけ、お前達!」

「うるせぇ! 邪魔するんじゃねぇ!!」

 

 まるで正気ではない彼らに、レヴィオを始めとする老エルフ達が止めようとするが、頭に血が昇った若いエルフ達は止まらない。むしろより一層激昂し、老エルフ達を払い除ける。

 

 すぐ近くから上がる怒号と、遠くから聞こえてくる悲鳴と断末魔。

 自分には縁がなくとも、平和だった森に突如訪れた惨劇。怒涛の流れに取り残されたエイダは、尻餅をついたままその様を見ている事しかできない。

 自分の命を狩ろうとしている刃を、凝視する事しかできなかった。

 

「さぁ、死ね! 汚らわしい悪魔の娘よ!!」

 

 エイダにそう叫び、刃を振り上げるレイアン。

 耳まで裂けて見える口や、血走った焦点の合っていない目は、彼こそが悪魔のように醜悪で悍ましい。

 

 取り巻き達に止められる長以外、誰も凶行を止めてくれる者はいない。

 首を断とうと迫り来る刃を前に、エイダはきつく唇を噛み、自分の身体を抱きしめ固まる。

 

(どうして……!? どうして僕は……僕が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ…!!)

 

 生まれた時からずっと続く理不尽、覚えのない悪意。

 望んで生まれて来たわけでもないのに、生かしてくれと頼んだわけでもないのに、罪だと言われて詰られる。

 そんな自分の生が、経験してきた全てが、彼女から気力を奪っていく。

 

 まるで化け物のように見えるレイアンの手で剣が振り下ろされ、刃が自分の首に触れたその瞬間。

 エイダはスッと瞼を閉じ、強張らせていた体から力を抜いた。

 

(こんな事なら……あの時、助けてもらわなきゃよかった―――)

 

 一度、自分で口にした感謝の言葉を否定し、諦める。

 つい先日、里を侵す怪物達と最初に遭遇した時に、今この状況のように襲われ、死んでいればよかったと、生き残ったことそのものを後悔する。

 

 瞼を閉じ、視界から光を拒んだ彼女は。

 誰より自分を憎み、死を望む青年の手で屠られる事を、無抵抗のまま受け入れようとしていた。

 

 だが、その未来はまたしても訪れなかった。

 

 

「―――グオオオオオオオオオオオ!!!」

 

 

 ドッ、と。

 地中から巨大な影が飛び出し、辺りに大きな影を作る。同時に凄まじい咆哮が辺りに響き渡り、大気と大地を揺らす。

 

 体の芯にまで伝わってくる震動に、思わずレイアンは手を止めて振り向く。

 彼の取り巻きも、レヴィオも、そしてエイダも、大きく目を見開き、突如乱入した存在を―――襲撃者(アサルティ)を凝視し、また言葉を失くした。

 

               △▼△▼△▼△▼△

 

「ゴルルルルルル!!」

「ナンダコイツ!?」「キノウノヤツダ!」「セッカクノロリノシュウカクヲジャマシタヤツ!」「フザッケンナヨコイツ!」「オタノシミノトチュウニワッテハイルトカ、マジナエルワー…」

 

 凄まじい唸り声をあげ、宙に跳び上がったアサルティは再び影に潜り、再度顔を出して凄まじい勢いで泳ぐ。

 

 牙を剥き出しにし、敵意を向けて来る黒竜に、蜘蛛の怪物達は途端に退いていく。

 驚愕と不満を口にしながら、雷のように轟く咆哮を上げる、自分達とはまた異なる姿の怪物から逃げ出していった。

 

(こいつら、デカいくせに俺よりも速い……普通に追いかけていては、一匹も捕まえられん! ならば…!)

「グルルッ!!」

 

 ぎり、と牙を鳴らしたアサルティは、手近に生えた大樹を片手で掴む。

 自分の泳ぐ勢いを利用し、自分の腕よりずっと太い幹をバキバキと圧し折ると、大きく振り上げる。大きく体をのけぞらせたアサルティは、掴んだ大樹を槍のように投げ飛ばした。

 

 投げ飛ばされ、ぐるぐると回転する大樹は勢い良く森の中を進み、並び立つほかの樹々を半ばからへし折っていく。

 そしてやがて、放たれた追撃は大蜘蛛達の元にまで届き、素早く動く足に圧し折られた多くの大樹が絡まり、逃走の足を止めてみせた。

 

「ギギギギ!?」「ナニヤッテンダテメェ!」「オレノセイジャナイデショウガ!」「オイ、オスナヨ!?」

 

 蜘蛛達は体勢を大きく崩し、顔面から地面に倒れ込む。背後から来た大樹の一撃をどうにか躱した個体も、前を走っていた個体に巻き込まれ足を止められてしまう。

 巻き込まれた個体が他の個体に対し文句を垂れ、その声にも抗議の声が上がる。

 

 すぐさま立ち上がろうと、投げ出された足全てを立て直そうと、わずか数秒もたつく。

 それが、彼らの運命を決定づけてしまった。

 

「ゴルルルル!!」

「ギッ―――」

 

 走り出そうとした蜘蛛の怪物の一体が、僅かな悲鳴と共に真っ二つに切り裂かれる。

 バキバキバキッ、と硬い殻に覆われた巨体が、真下から噛みついたアサルティの牙によって、あっと言う間にバラバラにされる。

 夥しい量の、毒々しい紫色の体液がぶちまけられ、辺りに鼻に刺さる悪臭が漂う。

 

 森の中を、目に居たい極彩色に染め上げながら、黒竜は次なる獲物を見定め、今度は上から飛び掛かった。

 

「グルルルルルァ!!」

「ヤメェヨコイツ!」「オイハヤクイケヨ!」「アシヲフムナ!」「ニゲロ、ニゲロッテ!」「コンナヤツヲアイテニシテラレルカ!」「オレハカエラセテモラウゾ!」

 

 鋭く尖った牙を剥き出しにし、もう一体の腹部を食い千切るアサルティ。

 瞬く間に竜の顔面は紫色に染まり、貪欲な食欲に燃える目が爛々と輝きを放つ。それに射抜かれた怪物は、何の抵抗もできないままに貪り食われていった。

 

(今はただでさえ腹が立っているのだ…! この苛立ちを少しでも抑えられるように、お前達全員、俺の胃に収まってもらうぞ!!)

「ゴアアアアアアアア!!」

 

 アサルティは、今この時までずっと怒りを堪えていた。

 長い耳の少女と出会い、その同胞と遭遇した時からずっと、理由のわからない苛立ちを抱え続けていた。

 年上らしき集団が、小さな少女を一方的に罵り見下す様に。それに何も言い返そうとしない少女の弱々しい姿に、何故だか堪えきれない怒りを抱いていたのだ。

 

 それをどう解消すればいいのか、何故そんなものを抱いたのか、わからない事にも苛立ちを募らせ、空腹も相まってどんどん我慢ができなくなっていく。

 地上に感じた無数の気配によって、黒竜は今この時を以て、感情を爆発させたのだった。

 

「ヤベェッテ、コノママジャゼンメツスルゾ!」「ハヤクホンタイニホウコクニイケ!」「ホンタイデテクルカナァ…?」「イイカラハヤクイケッテンダヨ!!」

 

 次々に仲間を屠っていくアサルティに、蜘蛛達は口々に叫びながら右往左往する。

 諦めず逃げようとする怪物達だが、すぐさまアサルティに追いつかれバラバラに食い千切られ、血の跡だけを残して消される。

 

 するとただ一体、蜘蛛達の中でも特に小さい個体が、他よりも遥かに素早い速さで逃げ去っていく。

 粗方の獲物を喰い終わったアサルティは、ぎろりとそれを見つけ後を追おうとしたが、その時には既に小型の個体は、樹々の奥の見えない場所にまで逃げ去ってしまう。

 

(チッ…! 一匹逃がしたか……!)

 

 逃げた個体が見えなくなると、アサルティは即座に追うのをやめ、その場に留まる。

 やがて、フンと満足げに鼻を鳴らすと、口周りに付着した大量の体液を舐め取り、ゆっくりと踵を返すのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11.Negotiation

「……何という、力だ」

 

 圧し折られた樹々の奥から近づいてくる、体中を紫色の体液で汚した黒竜。

 それを目にし、呆然と立ち尽くしていたエルフ達の誰かが、ぼそりとそんなことを呟く。

 

 謎しかない、それでいて圧倒的な力を持ち、同じだけ巨大で手の出しようがなかった怪物の群れを相手に、理不尽なまでの蹂躙をやってのけた怪物。

 その光景を目の当たりにしたレヴィオや他の老エルフ達は、開いた口が塞がらなかった。

 

「我等の手が何も通じなかったあの怪物共を、たった一体で……」

「一体……一体何者なのだ。ただの獣ではまずありえんぞ」

 

 目を大きく見開き、冷や汗を垂らす老エルフ達。

 無論、慄いているのは彼らだけではなく、蜘蛛の怪物達の襲撃をどうにか生き延びた、若いエルフの戦士達も同じように驚愕の視線を送っていた。

 

「ば、化け物だ…!」

「化け物を食い殺す……もっと危険な化け物だ…!」

 

 命の危機を抜け出した彼らだが、全く心を休める事ができず、がたがたと身を震わせる。

 優れた身体能力を誇り、高い知能をも有する特別な種族。先祖代々住処である森を守り続け、何者にも侵させたことがないという自負を、生まれた時から持ち続けていた。

 

 なのに、突如現れた得体の知れない化け物達に森を破壊され、抵抗が全く何の役にも立たなかった。

 エルフの戦士達は皆、矜持がズタズタにされ、凄まじい無力感に苛まれていた。

 

 そんな中、いち早く我に返ると、キッと横に振り向く者がいた。

 ギリッ、と歯を食い縛り、目を吊り上げたレイアンは、他の者達と同じく呆然となり、草地にへたり込んでいるエイダを睨みつけた。

 

「見ろ! お前が連れてきたあの化け物のせいで、数百年に渡って我らが守り続けた森は、こんなにも無残な姿になり果てた!! お前のせいだぞ、汚らわしい屑が!!」

「……」

 

 自分の中の恐怖心をどうにか抑え込み、唾を吐き散らし、暴言をぶつけるレイアン。

 だが、エイダの表情は微塵も変化がない。近づいて来る黒竜に対し、どこか責めるような、落胆したような冷めた目を向けるだけで、返事もない。

 ついには黒竜の顔に付着する紫色の体液に、羨望のような眼差しを送り始めていた。

 

 虚ろな目で怪物を見つめていたエイダは、不意にぐいっと襟首を掴まれ持ち上げられる。その間も何も反応を示さない彼女に、レイアンが再び吠える。

 

「聞いているのか、貴様ぁ! 全部お前の所為だぞ! 森がこんなふうになったのも、あれが我らに牙を剥くのも、我らが殺されるのも! 全部全部貴様の所為だぞ!!」

「レイアン! やめろというに…」

「うるせぇ爺! 邪魔すんじゃねぇ、黙ってろ!」

 

 身動ぎ一つしないエイダを締めあげるレイアンに、レヴィオが肩を引いて宥めようとするが、息子は全く耳を貸さず、むしろ敵意を持って拒絶する。

 この場で首を絞め、命を奪う気にも見える気迫に、エイダはもう何もかもを投げ出す気になり、虚空を見上げる。

 

 レイアンはむしろそれが気に入らないようで、襟首を掴んだままがくがくと前後に揺さぶり始めた。

 

「おい、何を黙ってるんだ貴様! もっと泣けよ、嘆けよ! お前のせいでこんな事になってるんだぞ!? 何の反省もないまま終わらせるつもりか!? ふざけるな糞餓鬼が!!」

「っ……」

「お前が泣いて謝らなきゃ、私が満足できないだろうが! 詫びろよ! 全部自分の所為ですと! 生まれてきてごめんなさいと! 今ここで全部を懺悔しろよ!!」

 

 エイダの顔中が、飛んできたレイアンの唾液でべたべたになるが、エイダはやはり何の反応も返さない。聞こえてくる声にうんざりしながら、ぐらぐらとされるがままになっている。

 

 レイアンはますます顔を赤黒く染め、精悍な顔立ちを醜く歪め、額に血管を浮き立たせる。

 思わず、握りしめた拳を振り上げたレイアン。手っ取り早く少女を痛めつけ、泣きながら謝罪の言葉を吐かせるようにしようと考え、汚れ一つない自分の剣を構えた。

 

「いい加減にしろよ糞餓鬼…! 私が泣けと言っているんだからさっさと―――」

「オマエガイイカゲンニシロ」

 

 だが、彼の剣が少女の首を裂くより先に、彼に衝撃が襲い掛かる。

 真横から叩きつけられた黒く太く硬い何かによって、レイアンは空中に吹っ飛ばされる。そのお陰でエイダはレイアンの手から逃れ、真下から生えてきた巨大な竜の腕に抱き留められた。

 

「あぅっ…」

「サッキカラギャーギャーギャーギャー……ウルセェクチヲサッサトトジヤガレ、クソヤロウ」

 

 エルフ達の元から引き離し、真下から顔を出した黒竜アサルティが、鋭く吐き捨てるような声で告げる。

 巨体を見上げるエルフ達は、ぎろりと向けられる鋭い眼光に息を呑み、思わず数歩後退る。

 

 アサルティはエイダを掴んだまま自分の傍に下ろし、誰も近づかぬように周りの全員を睨みつける。

 迂闊に動けば、先程の蜘蛛の怪物達と同じような末路を辿ると察したエルフ達は、一歩も動けずただ立ち尽くす事しかできなくなる。

 だが一人だけその空気を読めず、起き上がるや否や声を荒げる者がいた。

 

「きっ……貴様! この私に手を出すとは愚かな事を! やはりその糞餓鬼の手先だな! ここで処分してくれ……」

「デキルモノナラ、ヤッテミロクソヤロウ。オマエハクウキニモナラナイ」

 

 取り落とした剣を慌てて拾い、構え直すレイアンに、アサルティは牙を剥き出しにして唸る。

 エイダを抱える方とは逆の腕を影から持ち上げ、ゴキゴキと骨を鳴らす。その気になれば、軽く握りつぶせるだけの膂力を有するそれに、レイアンは途端に勢いを失くし、冷や汗を流す。

 

 しかし、ここで引くことは彼の自尊心が許さないらしい。

 引き攣った顔のまま、がたがたと全身を震わせながら、震える切っ先を突き付けた。

 

「ヒッ…こ、この私を誰だと…!」

「やめんか、レイアン! いい加減にしろ!」

 

 情けない姿を晒し、それでも上から見下す態度を止めないレイアン。力の差をわかっていても、膨れ上がった自尊心が彼に退く事を許さないようだ。

 

 そんな息子の姿を見ていられなかったのか、レヴィオがきつい口調で吠え、制する。思わぬところからぶつけられた怒声に、レイアンはびくっと肩を震わせて口を閉ざす。

 ようやく黙ったレイアンの前に割り込み、息子を背中に庇うようにして、レヴィオがアサルティに向き合った。

 

「……不肖の息子が、失礼をした。どうか、気を悪くしないでいただきたい」

 

 深々と頭を下げるレヴィオに、若いエルフ達がざわざわと動揺の声を漏らす。

 他の種族、それも異形に対し首を垂れるなど、自意識の高いエルフにとってはあり得ない事で、レヴィオに対する視線が明らかに変わる。

 

「我が同胞達の窮地を救ってくれたこと、感謝する。この礼は、後程いかようにも……」

「爺! こんな奴に頭など下げるな! 恥を知れ!」

「お前は黙っていろ…! 状況をどれだけ理解できていないのだ……お前のその浅慮な行動で、一族全てを危険に晒すつもりか…!」

 

 父親が他者にへりくだる様に、レイアンが声を荒げるも、レヴィオはそれにきつい目を向けて叱る。

 小声で、黒竜に聞こえないように忠告するも、頭に血が昇ったレイアンは微塵も察する事ができないようで、なおも鋭く黒竜を睨むばかり。

 それも、父親の背に隠れたままという情けない姿を晒している事に、気付いていなかった。

 

 アサルティはそんな彼らに、呆れたように鼻を鳴らし目を細めてみせた。

 

「ベツニレイナドヒツヨウナイ……タスケヨウトナド、オモッテイナカッタカラナ」

「そうか…なら、其方は何を望む? 何のためにあの蜘蛛の怪物を喰らった?」

「ハラガヘッテイタカラ、タダソレダケノコトダ」

 

 そう言って、アサルティはぺろりと自分の口の周りを舐める。

 エルフ達は、付着した怪物の体液を見て、いずれ自分達も同じ運命を辿るのかと息を呑み、また後退る。手にした弓に力が籠もるが、アサルティは微塵も気にしていない。

 

 さらに張り詰めた雰囲気が漂い始める中、レヴィオはアサルティを見上げたまま、再度問いかける。

 

「…ならば、其方には我等を食するつもりはないと申されるのか?」

「オマエタチガナニモシナケレバ……アトハ、オレノハラガ、キョクゲンマデヘッテイナケレバナ」

「それを、保証できるか…?」

「スルイミガアルノカ? ソコノオトコハ、ハナカラオレヲコロスキデイタガ…」

 

 アサルティは再び、レイアンを睨み牙を剥く。

 敵意に晒されたレイアンは、無意識のうちに父の背中に縋りつき、自分のみを隠そうとする。表情こそ見下したままだが、身体は正直に恐怖感を示している。

 

 レヴィオは肩を引っ張られながら、片手を広げて息子を隠そうとする。そして、再度恐ろしき黒竜に向けて語り掛けた。

 

「…あいわかった。誰も其方に手出しをせぬよう、厳命しておく。其方も、我らに手出しをせんでくれるか…?」

「スルイミガナイ。オマエラヲクッタラ、ハラヲクダシソウダ」

「なっ…! 貴様!」

「やめよ…! 今私が言ったばかりであろうが…!」

 

 またも声を荒げ、罵ろうとしたレイアンを必死に止める。

 レヴィオの額には大量の汗が噴き出し、血の気が引いて酷い顔色になっている。今にも倒れそうなほど、精神的負荷に苦しんでいることが明らかだ。

 

 流石のアサルティも、それを見て何も思わないわけではなかった。

 

「……ココニハモウコナイ。テダシモシナイ。コレデイイカ?」

「感謝する…! それと……其方の助けにも、もう一度礼を言う」

「イイ…ソコマデイワレルト、ムズガユイ」

 

 アサルティはそう言い、居心地悪そうに目を逸らす。

 自分の欲のままに行動した結果、褒められ称賛されるという状況が、違和感があまりに大きいようだ。

 

「…イクゾ」

「あっ―――」

 

 不意に踵を返すと、黒竜は片腕で掴んでいたエイダを持ち上げ、自分の背中にひょいと乗せる。そしてそのままエルフ達を背にし、ずぶずぶと影を泳ぎ、その場を離れていった。

 

 謎ばかりを持つ、恐るべき力を持つ怪物が里を離れていく姿を、エルフ達は武器から手を離さないまま、一言も発することなく見送る。

 夜の空より黒く、巨大なその背中を見つめていた彼らの目は、アサルティに対する畏れの他にも、怪物が連れていくエイダに対する蔑視もあった。

 

「…最後に一つ、良いだろうか?」

「…ナンダ?」

 

 樹々の向こう側に消えようとしていたアサルティを、レヴィオが不意に呼び止める。

 黒竜だけでなく、周りのエルフ達から向けられる訝しげな視線に対し、レヴィオは微塵も気にした様子を見せず、真っ直ぐな目で黒竜を見つめ、問いかけた。

 

「もし、我らが其方に頼んだとしたら……あの蜘蛛の怪物共を、我らの代わりに退治してくれるか?」

「長!? 何を…!?」

 

 周囲からぎょっと、エイダからも驚愕と非難の視線が突き刺さるが、レヴィオはいたって真面目な顔でアサルティを見つめたままだ。

 本気で異形の力を頼ろうとしている台詞に、若いエルフ達からは疑うような目も向けられ始める。

 

 アサルティはそんな、どんな相手であろうと誠意を備える長の態度に、息子とは大違いだと呆れた様子を見せる。

 しばらくの間、真意を探ろうとするような鋭い目を向けていたが、やがて面倒くさそうに鼻を鳴らし、吐き捨てるように答えた。

 

「ソノキニナッタラ、クイニイク。ダガ……オレハオマエラニタノミゴトヲサレテウナズクホド、オンモギリモモッテイナイ」

「…左様か」

「ジャアナ……」

 

 若干の落胆を見せる長を、そして唖然としたまま立ち尽くすエルフ達を残し、アサルティはなぜかぼんやりとしているエイダを背に乗せ、森の先へと姿を消す。

 後に残されたエルフ達は、長への不信感で一杯になった眼差しを向け続けていたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12.Each speculation

「どういうつもりだ、爺!!」

 

 だんっ、と床を踏みつけ、レイアンがレヴィオに向けて吠える。

 長の邸宅に、数人の取り巻きと共に乗り込み、他の老エルフ達に囲まれる形で腰を下ろしている父親に、苛立ちと不快感を交えた鋭い視線を向ける。

 

 老エルフ達は、高潔なエルフにあるまじき態度をとる彼に、思わずため息をこぼす。

 中でもレヴィオは、息子が父に向けるものではない、憎悪冴え混じった眼差しに悲しげに目を伏せていた。

 

「…レイアン、もう私を父上とは呼んでくれないのだな?」

「そんなことはどうでもいい! 何だ、先程の会話は!? 情けない様ばかり晒す老害めが!!」

 

 唾を吐き散らし、端正な顔を歪めてぶちまけられる暴言。

 レヴィオが目を細め、悪鬼のように醜悪に吠える息子を見つめる。

 

 ふと、脳裏に過るのは彼がまだ幼かった頃の姿。

 今よりもずっと素直で、しかし多少あった他者を見下す性格は、年齢もありまだ可愛げがあった。しかし、すっかり成人した今の彼が見せるそれは、見過ごせないほど肥大している。

 なぜこのような結果になってしまったのかと、自分自身の至らなさを後悔し、レヴィオは重いため息をついた。

 

「……迂闊に手を出すのは危険だと判断したまでだ。いずれ必ず策は講じる」

「何を悠長な事を! あのような化け物共を放置して、日和見を決め込むとは情けない! 森に侵入した化け物共を排除しないなど、臆病者になり果てたか、糞爺め!!」

 

 穏便に諭そうとする父の言葉にも耳を貸さず、レイアンはダンッと床を踏みつける。

 もはやそれは癇癪を起した子供の様な様で、れっきとした大人がやるにはかなり痛ましさを抱かせる。まるで体だけ成長し、中身が我儘なまま固定されているようだ。

 

 その醜悪さに、さすがに老エルフ達も顔を歪め、若者たちを苛立たしげに睨み返した。

 

「口を慎めレイアン! お前達もだ! 誰にそのような目を向けている!」

「若造が生意気な事を口にするな! 長の決定だぞ!」

「お前達、老害共こそ黙っていればいいだろうが…」

「何だと…!?」

 

 レイアンの暴言に、流石に見過ごせなくなった老エルフ達が目尻を吊り上げる。

 気づけば、若いエルフ達全員が、レイアンと似たような視線を長達に向けている。それは自分の親であっても祖父であっても、何の躊躇いなく敵意を向けていた。

 

 その異常さに、老エルフ達はやや気圧されたように顔を引き攣らせる。

 レイアンに影響されたのか、かつては年長者を立てていたはずの若者達が、一切の命令を聞かず反旗を翻しそうになっている。これまでにない事態に、老エルフ達は戸惑いを顔に浮かべ出す。

 すると、若いエルフ達の中で、何人かが前に出て口を開いた。

 

「長よ……あなたの決断は少し疑わしい。やはりあれは危険すぎるのだ。たとえ言葉が通じるとしても、敵にならないとは限らんだろう」

「そうだ、それもあの混じり者の言う事……信用などできるはずもない」

 

 レイアンに比べればまだ穏やかだが、そう告げてきた若者達の目には、レヴィオに対する疑惑が宿っている。

 自分達の提示した意見が却下された事、主張が通らない事に酷く不満を抱いているような、苛立ちが大きく表れた表情であった。

 

「まさかとは思うが、長よ……あの混ざり者を贔屓しているのではあるまいな」

「そうだ…そう見えるぞ! なぜあの異物を特別扱いしている!? 不平等ではないか!」

「あの混ざり者にそんな価値があるというのか!」

 

 遂には、里の者全員が疎んでいる少女が、未だ存命であることから、長が特別な感情でそう扱っているのではないかと邪推し始める。

 長はそんな彼らに、深い深いため息をついてみせた。

 

「……私は長だ。個人の感情でそのような決定はしない。あの子の事は、人間の血が混じっているとはいえ、残りは全て同胞の血が流れているのだ。何より……あの子が望んでそう生まれたわけではない」

「そんなことが理由になるものか!」

「そうだ! 人間の血が混じっている時点で、奴は罪人だ! 情けをかける必要などあるものか!!」

 

 どうにか若者達の怒りを治めようと努める長だが、彼らは全く受け入れない。

 生まれた時からある他種族への隔意が、何故だか異様に増大し手が付けられなくなっている。レヴィオや老エルフ達は、若者たちのその豹変に困惑しっぱなしになる。

 

 喧々囂々と、長達に向けて自分勝手な不満をぶつけ、顔を歪ませる若者達。

 するとやがて、その中心人物であるレイアンがスッと手を挙げ、取り巻き達の勢いを止めた。

 

「……お前の言いたい事はよくわかった。あくまであの混ざり者は生かすつもりなのだな?」

「…せめて、私の生きている間は、生を謳歌させてやりたい」

 

 レヴィオは真剣な眼で、冷酷な目で自分を見下ろすレイアンを見つめる。

 若者達からの批判も軽蔑も覚悟のうえで、自分の中にある本当の感情を隠しながら、長としての自分の言葉を貫き通そうとする。

 

 しかし彼は、息子の目になぜか、危険な思考が透けて見えた気がした。元からあった敵意はもうなく、全く別の者としてみているような、壁のようなものを感じさせる目だ。

 

「そうかそうか……よくわかった。よし、ならばお前のその意を汲んでやるとしよう」

「レイアン…!?」

「どういうつもりだ!」

 

 急に手のひらを返したレイアンに、取り巻き達が血相を変えて叫ぶ。

 目の上のたん瘤だった汚らわしい存在を、この機会に完全に抹消してしまいたい、そう考えていたのにだ。

 

 同じ考えを抱いたからこそついて来たのにと、長の子にも敵意を向け始める若者達に、レイアンはにやりと口角を醜く歪め、諭すような穏やかな口調で語る。

 

「なぁ父上よ……里で暮らす以上、それぞれが役割を担わなければならないだろう? 疎まれている者程、重い役目を負わなければ、誰も納得しません」

「ああ、その通り…だからあの子には、敵の接近を知らせる危険な役目に―――」

「そんな仕事では、生ぬるくて誰も認めませんよ」

 

 自分の言葉を遮られレヴィオは訝し気にレイアンを見つめる。

 

 里の者とあまり顔を合わせずに済む、森の端での見張りの仕事。それは、人間の国がある方角に赴き、外敵が侵入してこないかを確認し、場合によっては排除を行う危険な役目だ。

 同胞に危険を知らせた後は、その場に留まり、自ら武器を持ち侵入者を始末しなければならない為、争い事を嫌うエルフ達にとってはやりたくない汚れ仕事となる。

 

 故に、レヴィオはその役目をエイダに任せた。

 誰もやりたがらない仕事を、嫌う役目を担わせることで、彼女に里の者達が少しでも悪意を向けなくなるようにと考慮したのだ。

 

 だが、レイアン達はその仕組みを真っ向から否定してきた。

 レヴィオは内心で怒りを必死に抑え込み、自分の思慮をないがしろにする息子を睨みつけた。

 

「……生ぬるい、だと?」

「ええ…! どこが危険なのだ? 侵入者の排除は里の者全員が望んでいること……誰もやりたがらない? いいえ、私が言えば皆喜んで行うとも! 塵掃除は皆でやるものだろう!?」

 

 その言葉に、老エルフ達はざわざわと顔を見合わせ、血の気を引かせていく。

 平和を望み、故郷である森から出てくる事がまずないエルフ。それ故に争いとは縁がなく、彼の発言のように、好戦的な性格の持ち主が出る事もそうそうないはずなのだ。

 

 反対にレイアンの取り巻き達の表情は、レイアンと同意しているように笑みが浮かんでいる。ただの笑みではない、狂喜が混じった醜悪な笑顔となっていた。

 

「お前…自分が何を言っているのかわかっているのか」

「お前こそわかっているのか? お前達は皆、生ぬるい。お前のやり方では、我らエルフはいずれ滅びるのだ」

 

 冷めた目で父親を見下ろしたレイアンは、不意にくいっと顎を上げる。するとその仕草に反応した取り巻き達が、素早く飛び出し、老エルフ達の元へ向かう。

 

 そして懐から太い蔓を何本も取り出し、長達を拘束し始めた。

 

「!? 何のつもりだ……ぐわっ!」

「もういい加減、見ていられなかったからな……お前達にはその座から降りて貰おうかと」

 

 後ろ手に縛られ、倒れ込むレヴィオの顔を、あろうことかレイアンが足で踏みつける。

 自分の体重の殆どをかけ、頭蓋骨がぎしぎしとなるほどに力を籠め、抑えつける長のこの姿に、同じく拘束された老エルフ達は言葉を失った。

 

「レイアン、貴様! こんな事をして、冗談では済まされんぞ!」

「何をする気だ……ぐっ!」

「うるさいっつってんだよ、老害共……」

 

 倒れた老エルフ達の胎に、若いエルフ達は一緒になって腹に蹴りを入れる。

 老いた体には、若者達の一撃は重く、苦悶の声を上げた彼らは皆、為す術なく黙り込んでしまう。冷や汗を流し、丸まる彼らを見下ろし、レイアン達は邪悪に笑ってみせた。

 

「もうあんた達にはついて行けねぇ……うんざりなんだよ、あんた達の説教に付き合うのは」

「俺達は新しい長についていく。あんた達はもう用済みなんだよ」

「ははは! いっつもいっつもカビが生えたような同じ事ばっかり言いやがって……しつけぇんだよ糞爺共!」

 

 身動きの取れない、親・祖父母世代の彼らに、若者達は心底心地よさそうに笑う、嗤う。

 自らの手で枷を外し、柵から逃れた彼らの顔は華やかで、しかし誰もが目にギラギラと危険な光を宿している。

 

 その様に、レヴィオを始めとした老エルフ達はぞっと背筋を震わせる。

 まるで見た目だけを真似た何かが、若者達にい成り代わったかのような、そんな悍ましい想像まで抱いた。

 

「これからは、私が―――俺が全てを纏める。お前達みたいな化石は片づけさせてもらう・・・・・異論は認めないぞ? なんせ俺が今決めた事なんだからな」

 

 耳まで裂けて見えるほど口角を上げ、レイアンは父を見下ろす。

 血の繋がった親であっても、何の躊躇いもなく悪辣な行為を働く息子に、老エルフ達は皆絶句し、少しも動けない。

 その間に、若者達が長達の体を引きずり、邸宅の外に運び出していった。

 

「ああ、あの混ざり者の事は気にするな。生かしておいてやるよ……まぁ、死んだほうがましと思える目には、遭わせるつもりだけどな…はは、ひゃははははは!!」

 

 運ばれていく、無力な老人達に横目をやったレイアンが、醜悪に目を細めて高らかに嗤う。

 全てを奪い、手に入れた彼は、邪魔なもの全てが消えて広くなった室内を見渡し、耳障りな甲高い声ではしゃぎ騒ぐ。

 

 横抱きにされ、無言で荷物のように運ばれるレヴィオはただ、変わり果てた息子の声を聞いている事しかできず、やがてがくりと項垂れる。

 自分自身の無力さに、変わってしまった子供達を憐れみ、無慈悲な現実を哭くばかりとなってしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13.Misunderstanding

(……苛々する)

 

 木々の間を通り抜け、背中に乗せた少女の家を目指しながら、アサルティは無言で目を細める。

 もし人の顔がついていなたなら、ムスッとした如何にも不機嫌な表情になっていただろう。それくらいに、怪物は悶々とした感情を持て余していた。

 

(理由も過去も何も知らないけど、何でこいつがあんなにめたくそに言われなきゃならないんだ? こいつがなんかしたって言うのか?)

 

 影を泳ぐ間、ずっとアサルティの脳裏に蘇る、長耳の男達とのやり取り。

 

 傲岸不遜、見下した態度がひたすらに鼻につく若い男の口にする罵倒の数々。その取り巻き達も全く同じ視線を向け、エイダを睨み不満をぶつけまくっていた。

 それを宥める年嵩の耳長達もいたが、さほど厳しいとは思えず、はっきりいって大して役に立っていたように思えない。

 

 何よりアサルティを苛立たせるのは、他者からの暴言に一切の反論そ見せず、座り込んだままのエイダだった。

 

「…オマエ(お前)ナンデアンナニセメラレテタ(何であんなに責められてた)? オマエハアイツラニ(お前はあいつらに)……ナニヲシタ(何をした)?」

「……」

 

 問いかけるアサルティだが、エイダは俯いたまま何も答えない。

 黒竜の背に乗り、耳長達の元から離れてからずっと黙ったまま、揺れるだけ。

 

 まるで人形か何かを乗せているような気がして、アサルティは半目になって低く唸る。もやもやしたものが、また一段膨れ上がったようだ。

 

「…イイタクナイナラムリニハキカナイ(言いたくないなら無理には聞かない)ダガ(だが)ヒトコトモンクハイワセロ(一言文句は言わせろ)……アンナレンチュウニイワレッパナシデ(あんな連中に言われっぱなしで)ナゼダマッテイル(何故黙っている)ジブンデハナセルクチガアルクセニ(自分で話せる口があるくせに)ナゼハンロンシナイ(何故反論しない)

「……」

ナゼタニンニシネトイワレテ(何故他人に死ねと言われて)コバマナイ(拒まない)アノトキオマエハ(あの時のお前は)アノガキニサレルガママニ(あの餓鬼にされるがままに)シノウトシテイタ(死のうとしていた)ナゼダ(何故だ)?」

 

 立て続けに告げるも、エイダは否定も肯定もしない。

 それほど重い何かを背負っているのか、ただ単に異形に向けて吐露したくないのか、人ではないアサルティには判断しようがない。

 一言も発さず、自分の背に跨るだけの少女に、黒竜はフンと鼻を鳴らした。

 

「…マァ、ソコラヘンハドウデモイイガ(そこらへんはどうでもいいが)ミテイテハラガタツカラヤメロ(見ていて腹が立つから止めろ)ウットウシイ(鬱陶しい)

 

 沈黙したままの彼女を冷たい目で見下ろし、前を向く。ずっと見ていると、余計に苛立ちが募りそうだったのだ。

 

(……何なんだろうな、この妙な気分は。腹が立つのに、ほったらかしにできないというか)

 

 何故だか、この少女に対しては酷く興味を惹かれる。いや、目を離せない。

 異形の姿で目覚めてから、もう十数日経ったか。その間自身を動かしていたのは、腹の中の空白を満たしたいという欲望ばかり。

 本能ではなく、自分の意志で何かを行おうとしたことはあまりなかった。

 

 例外は、途中に遭遇した二人の女性を背に乗せ、彼女達の目指す場所まで運んだ時だけ。

 それ以外の生物のほとんどは、『食べたい』という欲望のままに、言葉を交わす暇もないうちに、自分の腹の中に納まってしまった。

 

(今も腹が減っているのに、美味そうな臭いを感じているのに……こいつの事は、あの二人の事は今も食いたいとは思わない。これに、一体何の違いがあるのだろうか…?)

 

 二本足で立っていて、意味は分からずともはっきりとした言葉を吐く生き物。

 出会ってきた彼女達と、似たような姿をした相手を前にしても、黒竜は〝獲物〟としか思わなかった。

 

 それを己が如何に区別しているのかわからず、眉間にしわを寄せるアサルティだが、延々影を泳ぎ続けても、何も答えは出てこない。

 そうこうしているうちに、見覚えのある場所に―――エイダの家にまで辿り着いてしまった。

 

「…ホラ(ほら)ツイタゾ(着いたぞ)ジブンデオリロ(自分で降りろ)

 

 入口の前に体を寄せ、エイダに促す。

 口調は突き放すようだが、少しでも降りやすいようにと、影から出した自分の腕を足場代わりに差し出す。だが、それでも動かないエイダに、また眉間にしわが寄る。

 

「……どうして、ですか」

 

 不意に、ずっと黙り込んでいたエイダが口を開く。

 しかし、こぼれだしたその言葉の意味が全く分からず、アサルティは首を傾げ、少女の顔を覗き込む。

 

 黒竜の鼻先が触れそうになった瞬間、エイダはバッと勢いよく顔を上げ、鋭く吊り上げた目で黒竜を見上げてくる。

 その時の彼女の目は、涙に濡れて揺れていた。

 

「どうして…! どうして僕を助けたりなんかしたんですか!!」

 

 引き攣った声で、びりびりと大気を震わせる声で叫ぶエイダ。

 目を見開き、硬直する黒竜を放置し、エイダはギリギリと歯を食い縛り、フーフーと荒く息を吐く。まるで、怒り狂った獣のような形相だ。

 

「あのまま殺されていれば、僕は楽になれたんだ! 助けてほしくなんてなかった! そんなこと願った事なんてなかった! どうして邪魔したんですか!?」

 

 視線で怪物を射殺そうとしているかのように、敵意のこもった目で見上げる。そのうち、少女の目尻からはボロボロと涙が溢れ出し、頬を濡らして落ちていく。

 小さな体は、怒りと悲しみでぶるぶると震え続けていた。

 

「なんで…!? なんで僕、生まれてこなきゃいけなかったんですか!? ここにいるだけで罵られて、見下されて……こんな生活、もう嫌だ! もう…楽になりたい! 解放されたいんですよ!!」

 

 無言で俯き、罵倒や蔑視を受け入れるばかりだった少女は、堰が破れたようにとめどなく吠えまくる。怪物以外に誰もいない事が、余計に慟哭に拍車をかけているようだ。

 

「こんな事なら…もっと早く! あの蜘蛛の化け物にでも食い殺されてればよかった! あなたは…あなたは余計な事しかしてないんですよ! 僕の邪魔しかしてないんですよ! あなたの助けなんか、僕は全く必要となんてしてなかったんですよ!!」

 

 怒涛の勢いでぶちまけられる少女の本音に、アサルティはもう何の反応も返せない。いや、感情が凍り付いたかのように、微動だにせずに少女を凝視するだけ。

 エイダを見つめるその目から、徐々に温度がなくなっていくことに、泣き叫ぶエイダは全く気付いていなかった。

 

「大嫌いです…! 母さんもあなたも、みんな! こんな…こんな苦しみしかない生がこの先も続くなんて、悪夢以外の何物でもないじゃないですか! こんな事なら…こんな事なら……!」

 

 自分の中で渦巻く感情のままに、彼女は言った。言ってしまった。

 

 

「僕なんて……生まれてこなければよかったんだ!!!」

 

 

 その瞬間、少女の姿が消え失せる。

 そして、自分の家の壁に、背中から激しく叩きつけられていた。

 

「ガッ…は…」

「……イイタイコトハソレダケカ(言いたい事はそれだけか)

 

 目を見開き、息を詰まらせる少女の目の前に、真っ赤に輝く異形の目が迫る。

 牙を剥き出しにし、地の底から響くようなおどろおどろしい唸り声をあげる怪物は、今にも燃え上がりそうな目で少女を睨みつける。

 そこに宿っているのは、明らかな殺意だ。

 

シニタイ(死にたい)? コロサレタイ(殺されたい)? ナラバナゼソウシナカッタ(ならば何故そうしなかった)……シニタイナラジブンデシヌガイイ(死にたいなら自分で死ぬがいい)オロカモノメガ(愚か者めが)ナゼオレガソレニテヲカサネバナラン(何故俺がそれに手を貸さねばならん)

「かはっ……ヒュ…」

イキテイルノガイヤナラ(生きているのが嫌なら)サッサトヤツラノトコロヘジブンデカエレ(さっさと奴らの所へ自分で帰れ)ソウスレバ(そうすれば)サッサトコロシテクレルダロウヨ(さっさと殺してくれるだろうよ)……オマエガソウシタイノナラナ(お前がそうしたいのならな)!」

 

 ビキビキと、貌に血管を浮き立たせ、自身の怒りをあらわにするアサルティだが、エイダにはもう応える余裕もない。

 自宅の壁に押し付けられ、呼吸を止められ、貌を真っ青にした彼女は、ばたばたと足を振り回し暴れる。肺を押さえつける黒竜の腕を押し退けようとして、全く動かせず、ぶくぶくと泡を吹く。

 

 次第に少女の目から光が消え、動きが鈍くなってくる。

 目からとめどなく涙を流しながら、エイダの意識は闇に呑まれようとしていた。

 

「……カッテニシロ(勝手にしろ)モウシラン(もう知らん)

 

 だが、不意にアサルティの手が離れ、エイダは解放される。

 ずるずると地面にへたり込み、何度も激しく咳き込む少女を横目に、アサルティは吐き捨てるように告げた。

 

オマエノイウトオリ(お前の言う通り)……タスケテワルカッタナ(助けて悪かったな)コレデオワカレトシヨウカ(これでお別れとしようか)

 

 先ほどの憤激が、嘘だったかのように冷たい目で少女を睥睨し、黒竜は背を向ける。

 ずぶずぶと影の中に身を沈め、消えていく怪物は最後に、もう一度だけ長耳の少女を振り返る。

 

 自宅を背に、座り込んだ少女は俯いたままピクリとも動かず、沈黙している。よく見なければ、死体にでも見間違いそうなほどに彼女の姿は弱々しく、痛々しさを催させる。

 後ろ髪が引かれそうなその様を見やり、黒竜はもう振り向くことなく、影に沈んでいった。

 

 ―――勝手にうちの物を食うんじゃないって言ってんだろ!

    腹が減ったんならどっかで残飯でも漁ってろ!

 

 闇の世界に帰った黒竜の脳裏に、誰かの声が響く。

 怒りと憎しみに満ちた、全身全霊で嫌悪感を訴える、甲高い雌の声だ。

 

 ―――くっさいにおい撒き散らして居すわるんじゃないよ!

    今日は客が来るんだ、失せろクソガキ!

 

 ―――できない? じゃあさっさと死にな!

    何もできないろくでなしの屑を置いとくつもりはないよ!

 

 聞き覚えのない声のはずなのに、知っている気がする。

 何度も何度も耳にして、繰り返し同じ事ばかり聞かされて、吐き気がするほどに嫌悪した、殺したいくらいに嫌いな声の持ち主。

 奥底に刻み込まれた、顔も思い出せない誰かが、怪物の中に蘇っていた。

 

 ―――あたしがこんなに苦労しているのは、誰のせいだと思ってんだ!

    全部お前のせいに決まってんだろ!

    あんたさえいなきゃ、あたしはこんなところで苦しんでないんだよ!

 

 ―――お前なんて、生まれてこなければよかったんだ!!

 

「……ナンダ(何だ)コノキオクハ(この記憶は)

 

 求めてもいない記憶が何度も脳内で再生され、黒竜は知らず拳を握りしめる。

 爪が皮膚を突き破り、赤い血が流れ出しても、黒竜は微塵も気にしないまま、闇の世界を奥へ奥へと潜っていくのだった。

 

               △▼△▼△▼△▼△

 

 誰もいなくなった森の中で、エイダは深く息を吐く。

 顔を上げ、後頭部を家の壁に当てて脱力する。木々の枝に隠された空を見上げ、虚ろな目で手足を投げ出す。

 

「…これでいいんだ。最初から一人だったんだ……僕はこれで、もう元通り…」

 

 ぼそりと呟き、エイダは目を閉じる。

 一時は恩人と持ち上げ、全力での礼を考えた相手を追い出し、予定通り敵意を返された少女は、何もする気力がなくなり、僅かにも動かなくなる。

 

 心は薙ぎ、さざ波一つ起きない。

 自分に敵意も隔意も抱かない、それどころか案じてまでくれるような存在を自ら手放し、手の届かない場所まで追いやったことに、どうしようもないほど虚しさを感じる。

 元通りではなかった。元からあったものまでなくなったようで、少女の心は只管に虚ろだった。

 

「……そうだ、そうですよね。生きてる意味ないんですから、自分で死ねばよかったんですよね。なんで僕、これまでそうしなかったんだろう。馬鹿だなぁ……」

 

 不意に、黒竜が自分に向けて言った言葉が思考に過り、ハッと目を見開く。

 生まれた時から続いていた嫌な事のせいで、麻痺していた心が少しだけ動く。仕方ない、どうしようもないと諦めていたことが、怪物の言葉で思考を正される。

 

 人間の血を引いて生まれただけで、他に何の罪もないのに、なぜ存在を否定されなければならないのか。見ず知らずの青年達に、罵倒され、憎まれ続けなければならないのか。

 

 そこに明確な理由はない。

 強いて言うなれば、エルフという自尊心の塊たちの中に異物がある事が、酷く気分が悪く思えるからだ。部屋の中にあるごみを、片付けたいと思っただけの事だ。

 

 ごみは自分で消える事はない。しかし自分は塵ではない。

 ならば、誰に迷惑をかけることなく、手を煩わせることなく、自ら消えればすべてが丸く収まる話なのだ。

 暫くの間考えていたエイダは、やがてそう決定づけた。

 

「…もっと早く、そうしていればよかった…」

 

 悲しげにつぶやき、立ち上がる。そして、どうやってこの世から消えればいいかと、その場でぼんやりと考えこむ。

 

 命を奪ったことは、エイダはこれまで一度もない。外敵の排除という役目を担っていても、そんな事態に遭遇したことはまだなかったからだ。

 それゆえ、どうすれば手っ取り早く自らの命を絶てるかも、想像がついていなかった。

 

「……首を斬りましょうか。それとも頭を砕きましょうか……だったら、できるだけ高い所がいいですね。そんなところ、どこにあったでしょうか」

 

 ぶつぶつと呟き、自らを殺す方法を考えるエイダ。

 

 そんな時だった。

 ガサガサと草木を掻き分け、自分の元へ向かってくる誰かの気配を感じたのは。

 

「―――ふん、話には聞いていたが、辛気臭く薄汚い場所に住んでいるものだな」

 

 聞こえてきた声に、振り向く。

 そしてそこにいた者達、レイアンが率いるエルフの青年達に、エイダは一切表情を動かさないまま、訝しげに首を傾げた。

 

「レイアン様……何か御用でしょうか」

「こんな吐き気のする所に来たくはなかったがな! だがまぁ…仕方がない! お前に役目を言い渡しに来たからな」

「役目……ですか」

 

 レイアンの言っている意味が分からず、エイダは逆方向に首を傾げる。

 

 何故だろうか、やって来たレイアンの格好が、以前よりもずっと派手に見える。

 衣服はさらに布が足され、暑くはないのかと思えるほどひらひらしている。やたらと輝く腕輪や装飾品が身につけられ、非常に派手で人目を引く格好になっている。

 まるで、森に生える危険な毒キノコのような色合いであった。

 

「役目を与える……それは、長の役目ではないのですか?」

「ああ、その通りだ…なぜなら私こそが、新たな長となったのだからな! 故に、私が全てのエルフを統べるのだ!」

 

 尋ねたエイダに、レイアンは自信満々と言った態度で答える。

 少女には、たった数時間会わなかっただけで、青年の気がさらに一回り以上膨れ上がっているように見えた。衣服の所為だろうか、肥え太った中年の男の幻影まで見えるようだ。

 

 困惑の視線を向けるエイダに向けて、レイアンは勿体ぶった仕草で指を突き付け、歪に笑いながらさらに告げて見せた。

 

「汚らわしい混ざり者の娘よ……お前には、我が森を穢す大蜘蛛の化け物の退治を命じる!!」

 

 光の失せた目で、ぼんやりと立ち尽くす少女に向けて、爛々と危険な光を目に灯した青年が、げらげらと嘲笑いながら命じたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14.Strict Order

「喜べ、混ざり者……お前に最後の役目を与えてやろう。それを達成したならば、お前の存在を許してやる。お前がどこで何をしようが文句は言わん……好きな場所で生きて死ね」

 

 左右を取り巻き達に囲まれ、連れて来られたエイダにレイアンは言った。対するエイダは、虚ろな目で顔を上げ、彼を訝しげに見つめる。

 

 長が座るべき椅子に腰を下ろし、数々の装飾品で身を飾り、ふんぞり返るレイアンは、にやにやと不気味に嗤う。他の老エルフ達の場所まで空いているため、長の邸は酷く寂しく見えた。

 

「言っておくが、長はもう引退なされた……耄碌した爺では一族を守る事はできんからな」

 

 嗜虐的な目で見下ろされ、告げられても、エイダはただ納得するだけだった。

 ついにやってしまったのか、とぼんやりと考えるだけだった。

 

 血の繋がった父親を座から蹴り出し、後釜に入るこの男の悪辣さも、それに何もおかしさを感じない取り巻き達も、もう嫌悪感さえ湧いてこない。

 自分がものとして扱われようとしている事にも、全てに対してどうでもいいと思ってしまっていた。

 

「不安か? お前を唯一擁護してくれた者がいなくなって……だがそう案ずるな、私も少し、考えを改めたのだ。せっかくある道具を、ただ処分するなどもったいないのだと」

「……」

「私も、もっと早くこうしておけばよかったと思っているよ。短慮だったと、反省しているのだ」

 

 大仰な手振りで語るレイアンに、エイダは無言のまま、頷き一つ返さない。

 聞いているかどうかも定かではない彼女の態度に、レイアンは然して気にした様子も見せず、にたりと目を細めて語る。

 

「わかっていると思うが、逃げようとなど考えるなよ? 役目を果たすまで、お前に自由はない……まぁ、どうせお前には、ここ以外に居場所などないだろうがな。余計な言葉だったな、ははは!」

「……」

「エルフでも人間でもないお前は、どこへいっても異物だ……受け入れてくれるのはもう、私だけなんだ。感謝してくれよ?」

 

 ペラペラとしゃべり続けるレイアンに、エイダはやはり何も答えない。

 さすがに気に障ったのか、レイアンの眉間にしわが寄る。それに気づいたエイダの左右に控えた取り巻き達が、鋭い目で睨みつけ、左右から迫り吠え出す。

 

「おい、いつまで黙っているつもりだ! いつまでもお前などにかまけている時間はないんだ、頷くぐらいしてみせろ!」

「……」

「こいつ…俺達を馬鹿にしているのか!?」

 

 ついには、取り巻きの一人がガッ、と拳を繰り出す。

 頬に痛い一撃を受けたエイダは、そのまま床に倒れ込み、口の端から血を流す。

 

 その様に溜飲が下がったのか、レイアンはまた笑みを浮かべ、不意に立ち上がるとエイダの前まで歩み寄り、しゃがみ込む。

 彼は少女の前髪を掴み、焦点の合っていない目を覗き込み、また語りかけた。

 

「なぁ、これは好機なんだぞ? 誰からも存在を認めてもらえないお前が……唯一存在を許される最後の機会だ。他の者には私が言い聞かせておいてやる。だからお前は……素直にうんと頷けばいいんだ。そうだろう?」

 

 どろどろとした悪意を目の奥に宿すレイアンと、黒々とした虚無を目の奥に宿すエイダが、じっと見つめ合う。

 まるで命のない人形のように、レイアン達にされるがままになっていたエイダは、長い時間をかけてようやく反応を返した。

 

「……はい、わかりました」

「…ふ、ははは。よく言ったぞ、()()()

 

 変わらず、目から一切の光を失った少女の頬を、逆賊の長がするりと撫でる。

 嫌悪も憎悪も、何も感じず無の状態を貫くエイダの前で、レイアンはケタケタと肩を揺らし、告げた。

 

「あの蜘蛛の化け物―――〝略奪者(パラモア)〟に挑み、その命を使ってくれ、哀れな混じり子よ」

 

               △▼△▼△▼△▼△

 

 獣の鳴き声一つ聞こえない森の中を、エイダは一人歩く。

 背に弓と矢筒を、腰に短刀を、最低限の装備だけで、不気味な風が吹き抜ける、怪物の縄張りとなった森を孤独に進む。

 

 彼女の目的は、女達を攫った犯人である大蜘蛛の巣を見つけ出し、女達を救出すること。そして出来る限り、大蜘蛛を殺し数を減らしておくこと。

 それが、新たな長レイアンに提示された条件だった。

 

 それは間違いなく、死地に向かう役目だ。

 いまだ得体の知れない、何体いるかもわからない大蜘蛛の怪物の巣に単身向かい、生きているかもわからない同胞達を救出しろなど、正気の沙汰ではない。

 どれだけ優しい言葉で隠そうと、レイアンの真意は隠せない。

 

『役立たずは役立たずなりに、一族の礎となって死ね』

 そう内心で考えている事は、明らかだった。それでも、拒むことはできなかった。

 

(……でも、これで不安材料が一つ消えました)

 

 とぼとぼと、力ない歩みで森の奥を目指しながら、エイダはフッと自嘲気味に笑う。

 命じられる前、自ら命を絶つ方法を考えていた彼女にとっては、死ねと言われる事は願ったりかなったりの指示だからだ。

 

(怪物さんは、私をどうするでしょうか……頭からばりばり食べてくれますかね。お腹に針を刺して、体液を吸ったりするんでしょうか…わからないなぁ…)

 

 エイダは虚ろな目で虚空を見つめ、くすくすと笑う。

 苦しむことは間違いないが、それでも十数年も続いた生が、終わりを迎えられるかもしれないという事が、嬉しくて仕方がなかった。

 

 結局、自らを殺すことなどできそうもなかった。

 刃を体に突き立てようと、縄で首をくくろうと、高所から身を投げ出そうとも、実行する直前に怖気付き、やめてしまった筈なのだ。

 そんな臆病者だからこそ、逃げる事もできず、ずるずると今日まで生き永らえてしまったのだ。

 

(でも、考えてみたらそうだな。蜘蛛じゃなくて、竜の……アサルティさんに食べて貰った方がよかったかな。あの人の方が、長く苦しまなくていいかもしれないな)

 

 今になって、エイダの脳裏に過る、巨大な黒竜との初めての会話。

 前触れなく訪れた命の危機の直後、突如現れた全く別の怪物。巨大で危険な存在を目の当たりにした彼女は、思わず叫んでいた。

 

(食べないで下さい……今と逆だな。どうせなら、あの時に食べて貰えばよかった、馬鹿だなぁ、僕は……)

 

 過去の過ちを嘆いても、もう後には戻らない。

 今食べて下さいと願っても、彼はそうしてはくれないだろう。顔も見たくなくなった獲物を、わざわざ腹に入れたいと思うはずもない。

 

 そもそも、きっともう二度と顔を合わせる事はないだろう。

 自分が癇癪を起した事で、怒りを露わにし遠ざかってしまったことに、エイダは激しく後悔を抱く。

 

 その所為で、自分が苦しむ時間が伸びたのだと、自分の浅はかさに呆れるばかりであった。

 

(でも…きっと蜘蛛さんはそうしてくれますよね。アサルティさんと一緒で、喋る変わった怪物さんですし……お願いしたら、喜んで食べてくれますよね)

 

 生きる事に疲れた少女にとって、もう死は救いとなっていた。

 一刻も早く、今生での苦しみから解放される事を願って、ひたすらに足を前へと進める。暗く、ぽっかりと開いた闇の世界を目指し、歩き続ける。

 

 そして彼女は辿り着いた。

 大樹の枝や幹、あらゆる場所にこびりつく真っ白な糸が張り巡らされた、静かな場所に。

 

 まるで織物のように絡まるそれらの間を通り抜けると、大きな大きな、エイダが豆粒ほどに思えるほどに広く開けた穴が見つかった。

 まるで地の底にまで通じていそうなほど、広く深い大穴である。

 

「……間違いないですね。ここがあの蜘蛛さんの住処です」

 

 小さく呟いたエイダは、迷うことなく穴の淵に足を踏み入れる。

 大蜘蛛が自ら空けたのか、それとも自然にあったものなのかは分からないが、確信を持ったエイダは躊躇いなく奥を目指した。

 

 

 

 穴の奥へと入ってみると、エイダは思わず感嘆の声をこぼす。

 地面の下ゆえ、冷たい空気になっていると思いきや、そこまで肌に冷気が刺さることはなく、むしろ過ごしやすそうな適温になっている。

 

 加えて言えば、糸は壁に沿って張られているだけではなく、仕切りのように分厚い幕を作っている。

 あるいは小部屋のように、あるいは台のように、ただの巣とは思えない複雑な構造に、エイダは徐々に困惑を抱き始める。まるで一軒の家を覗いているようだ。

 

「……本当に、ただの蜘蛛さんではないみたいですね」

 

 いつしかエイダは、冷や汗をかいていた。

 自分が喰われに行こうとしている怪物が、自分が思っている以上に恐ろしく、危険な存在であると、今になって気付き始めた。

 

 しかし、それでもエイダの歩みは止まらない。

 迷うことなく、躊躇うことなく、自分を救ってくれるものを探して、広い糸の迷路の中を歩き回る。

 

「―――……!」

 

 ふと、エイダの耳が何かを捉える。あまりにも遠く、微かな声ゆえに聞き逃しそうになったが、自分以外の何も聞こえないために、比較的はっきりと届く。

 ハッと目を見開いたエイダは、音を感じた方向にすぐさまその場から走り出す。

 

 穴の中で、足音がどこまでも響き渡るが、一切構わない。元々見つけてもらい、食い殺してもらうために来たのだ。

 音のした方向を目指し、そして見つけてもらう事を望み、できるだけ派手に走り抜ける。

 

「ハァッ……ハァッ…こ、ここに……何かが……!?」

 

 やっと見つけた、やっとたどり着いたと。

 エイダは息を弾ませ、知らないうちに笑みを浮かべ、次第に近付いてくる音の元へと急ぐ。

 

 そしてついに、その空間へと足を踏み入れ、闇の中に目を凝らす。

 

「……え?」

 

 しかし、そこで目にした光景に、エイダは勢いを全て削がれ、呆然と立ち尽くす。

 大きく見開いた眼にそれらを映し、さーっと顔中から血の気を引かせていく。思考が停止し、徐々に荒くなる息と共に、身体に震えが走り出す。

 

 目の当たりにしたものは、まるで地獄そのものだった。

 

「あっ……あーあーあー!!」「ぎぼぢいい…ぎぼちいいよぉ!!」「いや……いやいやいやいやぁぁ!!」「たすけて…だれかたすげでよぉ!!」

 

 天井からぶら下がる、無数の裸の女体。

 糸に四肢を絡められた数十人ものエルフの女達が、全身を体液でぐちゃぐちゃにしながらあえぎ、悲鳴をあげ、悶えている。

 

 一糸まとわぬ身体は、腹部や胸部が異様に膨らみ、あり得ない形を見せる。普通の妊婦でもそうはならないであろう程、乳房や腹が肥大している。

 

 しかしもっとも異様なのは、女達全員が苦痛だけではない、快楽の表情を見せている事だ。

 痛々しく泣き叫ぶ者もいれば、涎と鼻水と涙を流し笑っている者もいる。そして皆、時折ビクビクと全身を痙攣させているのだ。

 その場にいるすべての女達が、異様な姿と表情を晒し、悶え悦んでいた。

 

「な……んです、か、これ…!?」

 

 エイダの目に宿っていた虚無が、皮肉な事にこれで引っ込む。しかし代わりに湧き出した恐怖が、彼女の身体を凍り付かせる。

 

 大蜘蛛が女達を攫う理由を、彼女はまるで理解していなかった。

 捕食のためか、体内に卵を植え付ける為か、その程度の考えしか抱いていなかった。

 

 だが、目の前にあるこの光景はまるで違う。

 美しかったはずの女達が、まるで別の生き物にでも変容してしまったかのように、醜く悍ましい姿を晒す。まるで眠らないまま、悪夢の中に迷い込んでしまったようだ。

 

「こ、これ…攫われた人たちですか…!? 食べられたんじゃなくて、みんなここで、囚われていて……!?」

「―――あ、ぎ、ぎぃいい!!」

 

 不意に、エイダのちょうど真上にいた女が、白目を剥いて叫ぶ。

 見上げれば、女達の中でも特に大きく膨らんだ体をしていて、よくよく見ると皮膚がボコボコと波打っているのがわかる。

 

 エイダは思わず、上がりそうになった声を手で抑え込む。ずるずると後退り、壁に背中をぶつけ、そのまま地面にへたり込む。

 その間にも、真上の女に起きた変化は続いていた。

 

「あぁぁ……ぎ、ぎぎぎぎぃぃぃ!!」

 

 ビキビキと、女の皮膚に血管が浮かぶ。限界まで膨らんだ風船のように、うっすらと体の中まで透けて見える。

 ぼたぼたと涎を垂らし、目を見開き、苦悶の声を上げ続けていた女が、びくびくと大きく身を震わせる。

 ミチミチぎしぎしと、肉と骨が軋む嫌な音が鳴り出した、その直後だった。

 

 どばっ!と、彼女の皮膚が裂け、エイダの元へ大量の肉片が降り注いだ。

 

「ひっ…ひぃやぁぁぁ!!!」

 

 ぼたぼたぼたっ!と、真っ赤な肉が雨のように落ちてきて、エイダの全身を真っ赤に染める。

 頭上には、身体の肉の殆どが削げ落ちた女が、恍惚の笑みを浮かべたままぶら下がり、痙攣を続けている姿がある。目に光はなく、既に事切れている事を教える。

 

 恐ろしい一部始終に、エイダはガタガタと身を震わせ、ぱくぱくと何度も声ならぬ声を漏らす。

 怪物に食って貰い、楽になろうという考えは、もうとっくに失くしていた。こんな凄惨な最期を迎えるなど、望む筈がなかった。

 

 しかしすでに、彼女が逃げる道はどこにも残されていないという事に、彼女は気づいていなかった。

 

「に、逃げなきゃ……逃げなきゃ…!」

 

 力の入らない両足に叱咤し、立ち上がろうともがくエイダだが、怯え切った自分の身体は別の誰かのように、全く動いてくれない。

 両腕はぬるぬると、血に濡れた地面を滑るだけで、這って動く事さえできない。

 

「…キィイ」

 

 一歩も動けない彼女の耳に、また別の声が聞こえる。

 ビクッと肩を振るわせたエイダは、恐る恐る、ぎこちない動きで目を動かし、自分の真下を見る。

 

「キィ……オンナ?」「オンナダ、ギィギィ」「アタラシイママカ!」「ロリナママトハマニアックデスナ」「イイゾイイゾォ!」「マズハハラゴシラエダナ」

 

 辺りに飛び散る肉片に混じり、白い球体の何かが転がっている。

 真っ赤に汚れたまま、コロコロと転がっていたそれらに突如ピキッとひびが入り、次々に割れ始める。

 

 その中から現れる、掌サイズの蜘蛛の幼生。

 殻を割った瞬間から、明確な言葉を発し這い出してくる、小さくも危険な怪物の子供達。それが何十何百と、産声を上げて近づいてくる。

 

 それを目にしてしまったエイダは、もう堪える事ができなかった。

 

「うっ…うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

「エサニスル?」「オカス?」「マズハホンタイガアジミスルダロ」「ドッチニシロツカマエトコウゼ」「ソレモソウカ」「アー、オレモハヤククイテェ」「ガマンノトキダヨ、キョウダイ」

 

 悲鳴をあげたエイダが踵を返すも、その時には既に蜘蛛の子供達が体に張り付き、エイダの動きを阻害していた。

 足に、腕に、胸に、背中に張り付き、その数を利用して全身に組み付く。そして互いに放った糸を使い、少女の全身を縛り始めた。

 

「いやだ…いやだぁぁ! 離して…離してぇ! 僕は…僕はいやだ! こんなふうに死にたくない! 死にたくないよぉ!!」

「アーアーナイチャッタヨ」「ダレダヨナカセタヤツ」「オマエダロウガ!」「ミンナドウザイダッテノ」

 

 必死にもがくエイダだが、すでに彼女の身体は自由を奪われ、地面に転がるばかり。

 次から次へと涙が溢れ、恐怖が少女の心を苛む。そして、抵抗する力を根こそぎ奪い去っていく。

 

 絶望で目の前が真っ暗になっていく。

 するとやがて、暗く闇に呑まれていく視界の中に、赤く輝く八つの光が見え始める。

 

 ズシン、ズシンと音を立て、ゆっくりと近づいてくるその光の持ち主は、比較する事も馬鹿らしくなるような巨体を揺らし、エイダの前に訪れた。

 

「―――オォ、コンドノエモノハコレカ。マァマァカオハイイガ、ドレダケナガモチスルダロウナ」

 

 その声は、周囲から聞こえてくる蜘蛛達の声と全く同じもの。

 視界に映る八つの光は、また別の方向にも見え始め、少女の視界全体が赤い光に占められる。

 

 もう、反応さえできなくなったエイダは、一切の悲鳴も出せず。

 

 そのままことん、と。

 自ら意識を手放すのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15.Criminal

 その男は、凄まじいほどの穢れた欲望を持った、紛う事なき悪人であった。

 

 親の遺産を食いつぶし、自ら働く意志を一切持たない。それでいて自分の望みばかりを優先させようとする、性根の腐ったどうしようもない男。

 自分以外の全ては、自分が幸福に生きる為にあるのだと信じて疑わず、自らに奉仕することを強要する、誰もが嫌い、疎むろくでもない男であった。

 

 中身の醜い彼は、見た目も醜かった。

 歩き回る事も少なく、食っちゃ寝を繰り返す不衛生な身体はぶくぶくと肥え太り、体臭は鼻がもげそうなほどに強烈。肌もできものや垢だらけという、悲惨な姿。

 まるで形だけは人の姿をしただけの、吐き気を催す化け物のような男だった。

 

 そんな彼が最も強く抱いていた欲望は、生物として最も本能的なもの。種族を後世にまで残すという、必要不可欠な思考であった。

 しかし、男はそれをただの娯楽、自分が愉しむだけの行為としてしか認識していなかった。

 

 初めはそこまで害があるものではなかった。紙に描かれた絵や、機械の中で動く映像で、男は自分の鬱憤を解消し、そこそこに満足できた。

 しかし、時が経つにつれそれだけでは満たされなくなった。

 

 やがて男は、実物に手を出すようになった。

 人目を避け、誰も近づかない寂れた場所を見出し、足がつかないような閉ざされた領域()を用意し、獲物を探す。

 そして、見つけた幼い少女やか弱そうな女性を追い、力尽くで黙らせ攫い、領域()に連れ込み、欲望に促されるままに襲い掛かった。

 

 痛みと恐怖で泣き叫び、嫌がる女達に、男は酷く興奮した。

 初めは大きかった抵抗が、男が腰を振るたびに弱々しくなり、やがてぐったりと力が抜けていく様を見ると、より一層の高揚に呑まれた。

 

 最後に自分の欲望をぶちまけると、男はこれ以上ない快感に歓喜する。白く汚れた獲物を踏みつけ、凄まじい爽快感に満面の笑顔を浮かべ、吠える。

 そんなことを、男は闇にひっそりと身を隠し、何度も、何度も、自分の領域()に近づく獲物がある限り、絶やすことなく繰り返してきた。

 

 しかし、彼の楽しみが続くことはなかった。

 法の番人たちが男の犯した罪を知り、捕えようと動き出したのだ。

 

 慌てて逃げ出した男だが、大勢に狙われては逃げることなど叶うはずもない。

 しかし、恐怖と焦燥が彼の肉体の枷を外したのか、凄まじい力で追っ手を振り払い、地の果てを目指して走り続けた。

 

 追い、追われを繰り返し、男の形相もより惨めに醜く変貌し始めた頃だ。

 

 男は死んだ。

 切り立った場所で足を踏み外し、遥か高い空中へと投げ出され、そのまま真っ赤な地面の染みへと変わり果てたのだ。

 

 ピクリとも動かない身体を投げ出し、身体の熱が徐々に失われていくことを感じながら。

 男の意識は、真っ暗な闇に呑まれた。

 

 

 

 そして男は、不意に目覚めた。

 どことも知れない世界で、見たこともない大きさの八本脚の怪物に姿を変え、覚醒した。いや、生まれ変わった。

 

(なんだよここ…!? 何だこの筒……何の映画だよ!?)

 

 男が最初に目にしたのは、うっすらと向こう側が透けて見える、分厚いガラスの壁。

 外と環境を完全に分かたれ、ごぼごぼと泡が噴き出す謎の液体に満たされた、不気味な景色がそこにあった。

 

 男は理解のできない状況に狼狽し、ガラスの中で八つの目をぎょろぎょろと蠢かす。

 全身を動かし、狭っ苦しいガラスの壁を叩き割ろうとするも、目覚めたばかりの身体は真面に動かず、身動ぎさえできない。

 酷い混乱に陥った男は、恐怖で自らの鼓動を速める事しかできずにいた。

 

(なんだよ…何が起こったんだよ…!? ここは一体……何なんだよ!?)

 

 疑問を抱いても、答える者など誰もいない。

 精神的に追い詰められたまま、男は異形の身体の檻の中で、目に映る光景に変化が訪れる時を待つばかりになる。そんな状況になっても、男は他者を当てにし続けていた。

 

 そして男はやがて、転機を迎える。

 フッと意識が遠のいたかと思った直後、彼はいつの間にか、外の世界に鎮座している事に気付く。

 

 ガラスの壁も、それを囲う謎の空間もない。

 辺り一面、太く立派な木々が並ぶ森が広がる、広大な景色が視界に映る。

 

(ここはどこだ……俺はなぜ、ここにいる…?)

 

 思い出そうとしても、その場所に至るまでの記憶は皆、一切合切失われていて、何も思い出せない。

 あるのは()()()()と直感している自分の肉体だけで、他の何も理解できない。巨大な蜘蛛の形をした自分の身体に、戸惑うばかり。

 

(嘘だろ……まさかこれはそう言う事か? ()()()()()()()()って言うのか…!?)

 

 男は、自分に起きた変化について、ある答えを見つけていた。

 当初はあるはずもないと、くだらない妄想だと切って捨てていた可能性が、むくむくと男の中で確信に変わっていく。信じられない気持ちとぶつかり、悶々としたまま動けなくなる。

 

 何故、本当に、とそう考えるよりも先に、男の脳裏に過った思考があった。

 

 ―――犯したい……。

    女を……雌を……孕ませ、凌辱したい……!

 

 それは、他のあらゆる思考を押しのけ、男の全てを支配した。

 現状の理解よりも、今後の生存のための策でもない。自らの欲望を叶えることだけを考え、慣れない八本の足を操り、前と進みだす。

 

 全ては、己の欲望を満たす為の獲物を探すために。

 

 そして男は、見つけ出した。

 森の中を独り歩く、金色の長い髪と尖った耳を持つ、美しい容姿の雌を。

 

 視界に獲物を捕らえるや否や、男は巨体に見合わぬ俊敏さを見せ、耳長の雌に襲い掛かった。

 混乱し泣き叫ぶ雌を、いつの間にか覚えていた無限に糸を放ち操る力で抑え込み、自らに備わった器官を見せつける。

 

 そして、備えた管を雌の身体に突き刺し、思う存分に遊びつくした。

 

 恐怖と苦痛で泣き叫び、悲鳴と嬌声を同時にあげる雌に、男は心の底から満たされた様子で唸り、咆哮する。

 白い液体をこれでもかと吐き出し、自分でもよくわからない卵のような何かを埋め込み、脚と糸で雌の身体を思う存分弄ぶ。

 

 やがて雌が、呻き声一つ漏らさなくなってから、男はやっと止まった。

 そして、さらなる獲物を求める事に執着し始めた。たった一人だけでは満足できない、もっともっと楽しみたいと、男の本能が吠えていた。

 

(何がなんだかよくわからねぇけど……もう、どうでもいい。この力さえあれば、もう追われる事も逃げる必要もなくなるじゃねぇか…! 最高だ…! 最高じゃねぇか、異世界転生!!)

 

 男は歓喜し、前腕を振り回し狂喜の咆哮を上げる。

 自らの身体に満ちる、無敵に思える凄まじい力をひしひしと感じ、そして脳裏に浮かぶ様々な願望と欲望に、涎を垂らして達成の瞬間を待ち望む。

 

 男は決定する。他の何も考えることなく、欲望のままに生きると。

 この世に存在するすべての雌を手に入れ、奪い取り、己の種を植え付け遊び尽くすと。その障害となる全てを、この力をもってして滅ぼすと。

 

(俺のものだ…! 女は全部、俺の玩具だ! やってやる……全部を手に入れてやる!!)

 

 

 

 こうして、八目八脚の怪物は誕生した。

 森の奥に巣を作り、攫った雌達を使って生み出した自らの分身を利用し、より大規模な狩りに興じるようになっていった。

 

 黒竜がこの地に現れる、数週間も前の話である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16.Deaparate

 ぞわぞわと、背筋に寒気が走る。

 周囲のいたるところから、かさかさと気味の悪い音が、そして女の嬌声と悲鳴が聞こえてきて、己の聴覚を狂わせてくる。

 

「……ん」

 

 今すぐに起きなければ、酷く後悔する羽目になる。

 そんな声が聞こえた気がして、エイダはゆっくりと、重く閉ざされていた瞼を開き始める。

 

 そして、すぐに後悔した。

 

「ヒギィイイイ!! やべて…やべてやめでぇぇ!!」

「じぬっ! しんじゃうっ! もうしんじゃうぅぅ!!」

「ごろじでぇ……もうころじでよぉ!!」

 

 意識を取り戻したエイダの目の前にあったのは、白目を剥いて泣き叫び、涎と涙を撒き散らして悶え苦しむエルフの女達の顔。

 つい先ほどまで、真下から見上げていた女達の悲惨な姿が、目と鼻の先にまで近づいていたのだ。

 

「ヒィッ!?」

 

 正気を失くした女達の姿を目撃し、エイダは小さく悲鳴をあげる。

 

 そこでエイダは、自分の両手足にも蜘蛛の糸が巻き付き、空中に吊り下げられている事に気付く。

 思わず藻掻き、拘束を抜け出そうとするも、糸は凄まじい粘着性と強靭性を見せ、全く引き千切る事ができない。まさしく、蜘蛛の巣の罠にかかった憐れな獲物そのものの様だ。

 

「あ……あぁ…! ぼ、僕……どうして、こんな、所に…!?」

 

 凍り付いた思考を無理矢理回らせ、エイダは自分に何が起こったのかを必死に思い出そうとする。

 そしてやがて、ハッと目を見開いた彼女は、自分の真下に顔を向け、目を凝らす。

 

 自分が吊られている、森の木とほぼ同じ程度の高さから見下ろした先に、真っ赤な水溜まりがある。

 無数の肉の欠片が転がるそこに、何体もの蜘蛛達が集り、ぐちぐちと音を鳴らして肉片にかじりついている。

 

 少しずつ、転がる肉のかけらが小さくなっている様子を見て、エイダの中に凄まじい嘔吐感がせり上がった。

 

「うっ……うぶぇっ…!!」

 

 堪える事ができず、エイダは空中にぶら下がったまま、盛大に胃の中のものを吐き出してしまう。びちゃびちゃと吐しゃ物が落下し、血に混じって凄まじい色になる。

 酸っぱい匂いが自分の口から溢れ、エイダは思わず涙目になった。

 

「な、何人……いったい何人、ここで犠牲になったのですか…!?」

 

 大きく肩を上下させ、戦慄の声をこぼす。

 攫われたエルフの女達が全員、ここで怪物達に卵を産みつけられ、苗床にされていたという事実に、恐怖が沸いて止まらなくなる。

 

 しかしそこで、エイダはより恐ろしい想像をしてしまい、ひゅっと息を呑んで固まった。

 

「……一体、彼女達は何体……あの怪物達を産んだのですか……!?」

 

 目に見える範囲でも、女達は十数人はいる。聞いていた行方不明者の数は、前回起こった襲撃を含めてももっといるはずだ。という事は、女達が囚われている場所は他にもあるという事になる。

 

 その全員が怪物達の子を産み落とさせられたのだとすれば、どれだけの数まで増えたのだろう。

 一人で何十体も生み落としてみせた彼女のように、一度に多く生み出せるのだとすれば、この巣に潜む怪物の数は、恐ろしい数になるはずである。

 

「に…逃げなきゃ……逃げなきゃ…! ここにいたら、僕もあの人達みたいに、殺される…!」

 

 ガタガタと身を震わせ、エイダは必死に暴れ、糸の拘束を抜け出そうとする。

 延々と続く苦難に飽き飽きし、自ら死にに来たことも忘れ、必死に抵抗を続ける。

 

 見るも無残な死に方をしたエルフの女の最期が何度も脳裏に蘇り、エイダから真面な思考力を根こそぎ奪い去っていた。

 

「どうして…どうして取れないの…!? 早く、早く逃げないと…逃げないと…!」

「……あは…あははははぁ、無駄よ、無駄無駄……」

 

 ボロボロと涙をこぼし、もがくエイダにそう告げるものがいた。

 ハッと我に返り、エイダが振り向くと、そこにも体を大きく膨らまされた女が一人いた。

 

 レイアンの秘密の恋人であり、何度も肉体関係を持っていた彼女―――ルイゼは、半笑いで虚ろな目をしながら、嘲笑うようにエイダを見下ろしていた。

 

「あの方から逃れるなんて……誰にもできないわぁ。あの方はねぇ……最強なのぉ、どんな生物だってぇ、あの方に傷をつける事もできないのォ……そういうお方なのぉ…」

「あ、の、お方…? まさか、あの蜘蛛の……」

「新入りの分際で……気安く喋ってんじゃないわよ小娘がぁ!!」

 

 びくびくと怯えながら、恍惚とした笑顔と全裸で吊り下げられているルイゼにエイダが問うと、ルイゼは突如豹変して怒鳴り返す。

 エイダが悲鳴と共に身を縮こまらせると、ルイゼはまたうっとりと顔を蕩けさせ、虚空を見つめて笑みを浮かべる。半開きになった口からは、だらだらと唾液が垂れ落ちていた。

 

「ここに来てぇ……あの方に愛されてぇ、わかったのぉ。あの方はぁ……世界中の全ての雌を手に入れるぅ、王になるべきお方なのぉ……あんな奴目じゃないぃ、最高に魅力的なお方なのよぉ……?」

「な、何を…言って……」

「あの方のモノはおっきくてぇ……胤を植えてもらうとぉ、もう全部がどうでもよくなるくらい幸せになるのぉ。それでわかるのよぉ……あの方こそがぁ、この世界の全てを手に入れるに相応しいお方なんだってぇ…!」

 

 頬を赤く染め、当然と語るルイゼの表情は、まるで恋する乙女のよう。

 しかし、両の目には何も映しておらず、見えているかどうかさえ分からない。ぽっかりとあいた深い穴の奥を想わせるそれで、自分の中の『あの方』を見つめているらしい。

 

 彼女は一体、捕らわれてどれだけの時間が経ち、何をされてきたのだろうか。女をここまで壊し、悍ましく変貌させる蜘蛛の怪物に、エイダはもう脳の処理が追い付かない。

 逃げようともがいていた体も、震えるだけで少しも動いてくれなくなっていた。

 

「他の男なんていらないぃ……あの方さえいればぁ、私達は幸せなのぉ。あのお方の子を産んでぇ……この森をぉ、この世界をぉ、全部全部あの人で埋め尽くすのぉ! 素敵な事でしょぉぉ…!?」

「いや……いやぁぁ!」

「そんなの嫌よぉ…! 誰か……助けてぇ…!」

 

 ケタケタと歪に笑い、そう語るルイゼ。

 周りにいる女達は、まだそこまで壊れていないのか必死に首を横に振り、涙を流して拒絶する。

 

 しかし、そんな彼女達体は生みつけられた卵によってぶくぶくと膨らみ、中にはボコボコと波打っている者もいる。

 手遅れ、という言葉が、彼女達を凝視していたエイダの脳裏に過った。

 

「あは、あはははははぁ! あんた達もいずれそうなるのぉ……あの方に愛され続けていればぁ、いずれ嫌でもわかるわぁ! 私達は全員ん……あの方のものになるのぉ!」

 

 唾液を吐き散らし、語っていたルイゼ。

 彼女の身体が、不意にボコボコと激しく波打ち始める。

 

 はち切れそうなほどに膨らんだ胸や腹の中に入った無数の化け物が暴れ、飛び出そうともがき揺れ動く。

 ガタガタと震え続けるエイダの耳に、再びミチミチと肉が裂ける音が届き始めた。

 

「あぁぁ……あぁあああ!! これよぉ、これを待ってたのよぉ!! 生まれるわぁ……またぁ、私の赤ちゃん達がぁ、生まれるわぁぁぁぁぁ!!」

 

 歓喜の咆哮を上げ、身体の内側に潜む怪物の誕生を望むルイゼ。

 ミチミチバキバキッ、と肉だけでなく骨も折れる音が響き始めたその瞬間。

 

 どぱぁんっ!!と、ルイゼの身体が風船のように弾け、無数の蜘蛛の怪物の子達と共に、肉片が辺り一面に撒き散らされた。

 

「あ、あ、あぁぁ…!」

 

 生まれ落ちた蜘蛛達は、器用に地面に足から着地すると、降り注ぐ肉片の雨を全身に浴びて歩き出す。

 そして近くに転がる肉片のもとに向かうと、ガパリと口を大きく開き、自分達の母でもあったそれらを貪り始めた。

 

(悪夢だ……これは悪夢だ…!)

 

 微塵も動かない身体で、エイダはそれを凝視する他にない。

 他の女達も同様で、叫ぶ気力もなくなったのか、顔中涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、声ならぬ声を漏らし嘆くばかり。

 誰もが、自分はもう助からないと、完全なあきらめの境地に至っていた。

 

「―――ギチギチ、キョウキタエモノハコイツダケカ…」

 

 不意に、エイダのすぐ後ろから、不気味な声が聞こえる。

 ビクッと身体を振るわせたエイダは、ゆっくりと、ぎこちない動きで振り向き、声が聞こえた方を見る。

 

「ロリハイイケド、コイツダケジャタノシメソウニナイナ……コンドハソトニサガシニイカセルカ。イエカラデルノ、マジデメンドクセェ」

「ひっ……あっ…!」

 

 天井に張り付き、ぎょろりと悍ましい目で見下ろしてくる、集落に現れた蜘蛛達の数倍巨大な蜘蛛。

 子供達と全く同じ声で、しかしさらに醜悪さと嫌悪感を与える視線を向けてくる、間違いなく親玉である化け物―――〝略奪者《パラモア》〟の姿がそこにあった。

 

 不意に、パラモアの八つの目が輝く。

 すると、張り巡らされた糸がひとりでに動き、吊り下げられた女達が移動させられる。無論エイダも同じで、捕らわれの女達の中でひときわ小柄な彼女は、大蜘蛛の親玉の目の前に移動させられていた。

 

「ロリハシマリガイイケド、スグニシヌカラナ……アンマリナガモチサセテアソベナイカラ、アツカイガメンドクサインダヨナ」

「デモオカスクセニ」「イイワケケッコウ」「オワッタラカワレヨ、ホンタイ」「アソベルオンナモスクナクナッテキタシナ」「ネーパパ、アタラシイオモチャガホシイヨゥ」「ガマンシナサイ!」

 

 両手足を広げられ、空中に固定されるエイダの元に、パラモアがゆっくりと近づいてくる。彼の子であり、眷属である無数の蜘蛛達に囃し立てられながら、獲物の最初の味見を行おうと、両足をこじ開けていく。

 

「あ……あガ、あ……あ」

 

 エイダが痛みに悶絶しても、怪物の動きは止まらなかった。

 その様にさらに嗜虐心を煽られたように、ぎちぎちと顎を鳴らし、腹部の管からだらだらと、白濁した液体を垂れ流した。

 

 巨体が徐々に迫り来る様を見上げ、エイダはぱくぱくと意味もなく口を開き、涙を流す。

 自分の中に入りそうもない、大人の男の腕ほどもある太さの管を凝視し、大の字になったまま凍りつく。

 

(いやだ、いやだいやだいやだ……こんなのはいやだ、こんなふうに死ぬのはいやだ…!)

 

 度重なる残酷な光景を見せつけられ、楽に終わらないのだと絶望を突き付けられたことで、壊れていた少女は、強引に正気に引き戻される。

 迫りくる絶望に恐怖したエイダは今、明確に。

 

 死にたくない、と、そう思っていた。

 

「……助けて」

 

 そんな呟きが、誰かに届く筈もなく。

 大蜘蛛の怪物の親玉が備えた管が、一切の容赦なく、少女の身体に付き立てられようとした。

 

 

 

「―――グルルルルァァァァァァアアア!!!」

 

 

 

 その咆哮が、エイダの中にあった絶望を、瞬く間に払い除ける。

 同時にパラモアの動きも止まり、何が起こったのかと八つの目があらゆる方向を見渡す。

 

 しかしその時には既に、パラモアの真下にできた巨大な影の中から飛び出した黒竜が、パラモアの腹部に食らいつき、地面に引きずり落としていた。

 

「ギチギチギチギチィ!!」

「グルァァァァァァァ!!」

 

 地面に叩きつけられたパラモアはすぐさま起き上がると、お楽しみの邪魔をした謎の竜に敵意の目を向け、威嚇で牙を噛み鳴らす。

 それを受けた黒竜アサルティは、自身の中で渦巻く怒りを表すかのように、大気をふるわせるすさまじい咆哮を上げてみせる。

 

 黒竜と大蜘蛛。

 この世に在るべきではない危険な怪物達が今、真正面から睨み合い、互いを完全な敵とみなし、対峙した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17.Versus

 ぐぱっ!と大きく開かれた黒竜の牙が、大蜘蛛の足の一本に食らいつき、バキバキと圧し折る。

 対する大蜘蛛も負けず、残る足を伸ばし、鋭く尖った先端を黒竜の鱗に突き立てる。

 

 互いに血を流し、表皮を砕かれるアサルティとパラモア。赤と青、鮮やかな体液が飛び散り、まるで雨のように辺りに降り注いだ。

 

「ガルルルルルル!!」

 

 首のあたりに穴を空けられ、アサルティは思わず牙を離す。しかし退く事はせず、今度は自分の両手に生えた爪を左右から振るう。

 斬撃はパラモアの顔面に放たれ、八つの目のうち片側の二つが潰された。

 

「ギチギチギチ…! ジャマスルナヨ、トカゲヤロウガ!」

ウルセェ(うるせぇ)ムシケラ(むしけら)!!」

 

 大蜘蛛は目を真っ赤に光らせ、自分に傷をつける黒竜に喚く。その間も自分の足を振り回し、獲物の前に立ちはだかる怪物を排除しようと、暴れ続ける。

 

 黒竜はそれを、即座に切って捨てるように吐き捨て、自身の牙と爪を振るう。

 苛立つ怪物は、己の中に湧きあがる激情に促されながら、自分と大差ない巨体に向かって襲い掛かった。

 

「アサルティさん……どうして」

 

 二体の怪物達が殺し合う姿を、エイダは呆然と、糸に吊り下げられたまま凝視する。

 一方的に八つ当たりし、愛想をついて何処かへ去ってしまったはずの彼が、どうしてあんなにも奇跡的な時機に助けに入ってくれたのか。

 

 しかし、そんな少女の声に黒竜は答えない。自分の前にいる蜘蛛にのみ集中し、咆哮と血飛沫を撒き散らしながら、荒れ狂うばかりだ。

 もしかすると、エイダの存在にそもそも気付いていないのかもしれない。

 

 唖然としていたエイダはやがて、いつの間にかエイダの片腕を捕らえていた糸が外れている事に気付く。怪物達の乱闘の影響で、運よく引き千切れて外れたらしい。

 

「……馬鹿ですよ、僕なんか助けて。何の意味もないですよ、アサルティさん…」

 

 果たして本人に、そんな意図があったかどうかは定かではない。

 しかし、自ら命を断とうと怪物の巣に足を踏み入れ、死に方が気に入らず命乞いしたエイダが、間一髪で救われたのは事実。

 

 このままここで食われてはならないと、そう考えたエイダは急ぎ、自分の四肢を拘束する糸を睨む。

 そして腰に備えた短刀を抜き取り、残る四肢を縛る糸を切断しようと試みた。

 

 

 

「グルァァァァァァ!!」

「ギチチチチ……イヤ、チョッ、ヤメッ、オマエェ! ホンキデコロスキカ……イヤ、ホントニマテッテ!!」

「ひぃっ!?」

 

 しかし、拘束を逃れるのは容易ではなかった。

 怪物の放った糸は異様に強靭であり、粘度のせいで刃がうまく通らない。その上二体の怪物達の戦いの余波で、揺れて何度も手元が狂いそうになっていた。

 

 ふと見ると、攻撃を繰り返すパラモアだが、最初よりもアサルティの鱗に突き刺さっていない。アサルティの斬撃や噛みつきの方が深々と決まっているのに対し、パラモアの攻撃は弱々しく思えた。

 例えるのならば、日頃に運動をしていない弱者が、強者に押し倒され一方的に嬲られているような光景だ。

 

 エイダは何故だか、ぶくぶくに太った肥満体型の男が、屈強な男に馬乗りにされて、力の限り殴られている姿を想像してしまった。

 

「ゴルルルル!!」

「アブッ、アブナイッテマジデ!」

 

 組み合っていた黒竜と大蜘蛛は、やがて勢い余って壁に激突する。巨体が二つ激突し、洞窟内の壁が一撃で粉砕され、二体は隣の空間へと倒れ込む。

 

 衝撃で、食らいついていた相手の牙が離れ、パラモアがごろごろと地面を転がる。

 二体の間に距離ができた隙を見て、パラモアは急ぎ体勢を整え、黒竜の前から脇目もふらずに逃走を開始した。

 

「ニガスカ…! グルァァァ!!」

 

 ぶるんぶるんと首を振り、アサルティは背を向けるパラモアを睨みつける。ずぶずぶと影を泳ぎ、パラモアよりも早く行き、捕らえようと獲物を見定める。

 しかし、その身を闇の世界に沈めようとした黒竜に突如、頭上から無数の黒い影が降り注いだ。

 

「ホンタイノモトヘハイカセネェ!」「トカゲガリダ!」「ココハオレニマカセテサキニイケ!」「シボウフラグヲタテルナバカ!」

「グルルルル……ガァァァァ!!」

 

 黒竜の背に飛び移り、蜘蛛の怪物達が牙を突き立てる。

 それらの牙は黒竜の鱗を破るには至らなかったが、大蜘蛛を追おうとした黒竜の動きを止める事には成功する。

 

 ガチガチと体表で鳴る牙の音や、全身を小さな生物が這いまわっている感覚に、アサルティは鬱陶しそうに唸り、ぶるんぶるんと体を揺らして振り払おうとする。

 しかし、蜘蛛達は数十、数百と群がり、互いに足を絡ませて取り除く事ができない。

 

 黒竜は自分の身体を壁に叩きつけ、地面を転がり、そして影の中に潜り、群がる敵を払い除けようと藻掻き続ける。

 しかし、蜘蛛の怪物達はそれでも、アサルティの身体から離れようとしなかった。

 

「くっ……早く、早く…!」

 

 苦戦するアサルティの姿に、エイダが慌てて、残る右足の糸を切ろうと急ぐ。

 刃で切ったのではなく、熱で糸が弱まる事に気付いた彼女は、短刀ではなく弓の弦で摩擦し、他の糸をどうにか取り除いていた。

 

 そしてようやく、ぶちぶちと最後の糸が千切れる。

 しかしその瞬間、エイダは手元を狂わせ、掴みぶら下がっていた糸を手放してしまった。

 

「あっ……わっ、わぁっ!?」

 

 手を伸ばすもすでに届かず、エイダは空中に投げ出される。森の大樹と同じ高さはあろう地上に向けて、頭から真っ逆さまに落下する。

 ぶわっ、と顔中に冷や汗を噴き出させ、エイダはひゅっと息を呑む。

 

 しかし、頭が果実のように弾け、真っ赤な花を地面に咲かせると直感した直後、黒く巨大な手がエイダと地面の間に割って入る。

 ぼすっとエイダの身体を受け止めた手は、そのまま彼女を脇に放り投げ、地面に転がした。

 

「あぅっ!? ア、アサルティさん…!?」

「ゴルルルルルル…!!」

 

 地面の染みにならずに済んだエイダが、苦悶に聞こえる咆哮を上げるアサルティを見上げ、目を見開く。

 少女の呼びかけに答えることなく、怪物は壁に体を擦り付け、蜘蛛達をすり潰す。ギャリギャリと岩肌に鱗が接触し、赤い火花が無数に辺りに飛び散る。

 

 ついには、硬い岩壁に頭から突っ込み、洞窟全体に凄まじい衝撃が走る。

 強烈な一撃を受けた岩壁は大きな罅を入れられ、やがてガラガラと破片となって辺りに四散する。その崩落に巻き込まれ、黒竜に張り付く蜘蛛達の一部が、次々に潰され、剥がされていった。

 

「ギャアア!!」「コイツムチャクチャダ!」「コンナヤツニツキアッテラレルカ!」「オレハカエラセテモラウ!」「ダカラシボウフラグヲタテルナッテノ!」「モウヤダコイツラ!」

「グルルルル……!!」

 

 ぼたぼたと零れ落ちた蜘蛛達は、暴れ回る黒竜の相手に嫌気がさし、同時に目的を果たしたことで次々に離れていく。

 体を起こした黒竜は、ぶるぶると頭を横に振って正気を通り戻し、逃げる蜘蛛達を睨みつける。

 

 すると次の瞬間、ぎょろりと瞳孔が縦に裂け、真っ赤な血のような光を放った。

 

「ガルルルルル!!」

「エッ、チョッ、ナンダコレ!?」「シズム…シズムゾ!?」「ナンジャコリャ!?」

 

 黒竜の浸かる影が一瞬にして広がり、蜘蛛達の方へ伸びていく。

 影は蜘蛛達の真下にまで達すると、すぐさま闇の世界に通じる穴を開く。蜘蛛達はそれを避ける事もできず、瞬く間に影の中に呑み込まれていく。

 

「ギャアアア!!」「イヤダ…イヤダイヤダイヤダ!!」「ダレカ…ダレカタスケロ!」「シニタクナイ!!」「フザケンナコノバケモノ!!」

 

 ずぶずぶと闇の中に沈められ、蜘蛛達が口々に命乞いの声を上げる。

 しかし、それで黒竜の処刑が止まるはずもなく、数分もしないうちに蜘蛛達の姿は完全に消え去る。

 

 しん、と静かになった頃に、アサルティが目を細め、げふっと大きなげっぷをこぼした。

 

「……マッタク(全く)クロウニミアッタウマサダカラ(苦労に見合った美味さだから)ヨケイタチガワルイナ(余計質が悪いな)

 

 べろりと口の周りを下で舐め取り、呟く。

 そして影を泳いで移動し、途中ですり潰しておいた蜘蛛達の死骸を咥え、片っ端から噛み砕き呑み込む。

 

 仕留めた獲物は、一匹残らず腹に収めるつもりで、瓦礫の中に埋まる異形の亡骸を平らげていく。

 それを終えてようやく、アサルティはようやく動きを止めた。

 

「…オオモノヲトリニガシタカ(大物を取り逃がしたか)サテ(さて)コレカラドウスルカ(これからどうするか)…」

 

 呟きながらアサルティは、自分の身体につけられた傷を見下ろす。

 鋭く尖った足で貫かれ、今も血を流す深い穴。これまで狙ってきた獲物も、ここまで深い傷を負わせた相手はいない。せいぜい、鱗を少し削る程度のものだ。

 

 しかし、あの蜘蛛は他とは明らかに違った。

 頭脳は然して問題ではない。人語を介する程度で、罠にはめたり策を講じたりする様子はまるでなかった。せっかくの蜘蛛の糸も全く使おうとせず、力押しで向かって来ていただけだ。

 

 しかし、その力押しが危険だった。大蜘蛛の体表は、アサルティの牙や爪でも容易には引き裂けず、食らいついている間に何度も反撃を喰らわされた。

 どういうつもりか、ある程度組み合った後は一目散に逃げ出し、子に足止めをさせて姿を消した。

 聞こえてきた言葉から察するに、相当に臆病な奴の様だが、もし好戦的な性格だったなら、戦闘の続行は非常に危険であっただろう。

 

「……コノママニガスノハ(このまま逃がすのは)ジツニオシイナ(実に惜しいな)

 

 しかし、アサルティは不意に、にやりと口角を上げる。

 己が初めて取り逃がした、未だ全てを味わえていない厄介な標的。黒竜の目にはもう、大蜘蛛の怪物が極上の獲物に見えて仕方がなかった。

 

サテ(さて)オウニシテモドコニムカウベキカ(追うにしてもどこに向かうべきか)……」

「…きっと、集落です」

 

 狭い洞窟の中で試行していたアサルティは、真下から聞こえてきた声に目を見開く。

 じろりと目を向ければ、肩を押さえたエイダが恐る恐る、様子を伺うように黒竜の元へ近づいてくる姿がある。

 

 アサルティは彼女に、やや厳しい視線を向けて牙を剥いた。

 

「…ナニヲシテルンダ(何をしてるんだ)オマエハ(お前は)レンチュウニショブンサレタ(連中に処分された)ノカトオモッテイタガ(のかと思っていたが)?」

「…攫われた女達を探せと、それと…あの怪物を探れと、そう命じられたんです」

「ハッ、イノチシラズガ(命知らずが)ソンナメイレイヲヤスウケアイシタノカ(そんな命令を安請け合いしたのか)オマエハ(お前は)

「……今さっき、その決断を激しく後悔しました」

 

 気まずげに目を伏せていたエイダが、ちらりと背後を振り返る。

 

 黒竜と大蜘蛛の戦闘の余波のせいだろうか、天井からぶら下げられていた女達が地面に転がっている。

 四肢を糸に拘束されたまま、ピクリとも動かず、横たわっている。見ると、膨れていた腹が裂け、中身が溢れ出してしまっている。

 それは内臓であり、無数の卵であり、原型もなくなるほどに潰れているのがわかった。

 

「あんな死に方をするぐらいなら、あの里で苦しんでいた方がましだと……そう、思いまして」

「ソウカ…マァ、ソウダナ」

 

 アサルティも、無残な姿を晒している女達の亡骸を見下ろし、フンと鼻を鳴らす。

 

 しばらくの間、竜も少女も何も言わなかった。

 エイダは恩人に対し、自分が見せた失礼な行動を思い出し、黒竜は少女の後ろ向きな態度に苛立ち、どちらもまったく口を開かなくなる。

 

 重い沈黙が続いた時、ふと、二人の視線の先……倒れ伏す女達の亡骸の一つから、微かな呻き声が聞こえた。

 

「……ぁ、あ」

「! まさか、まだ息があるんですか…!?」

 

 慌てて駆け寄るエイダ。アサルティも何を思ってか、彼女と共に血溜の中に横たわる女の方へ近づく。

 

 すぐさま彼女の容態を見るエイダだが、見た瞬間に悲痛に顔を歪める。

 痛々しく呻き、血を吐く女の身体は、治療の知識のないエイダであっても、もうどうしようもないと確信してしまうほどの有様となっていた。

 

「…ごめんなさい。ボクじゃもう……あなたを助けてあげられません。ごめんなさい…」

「も…ぅ、いや、な、の…」

 

 ばっくりと裂けた腹から、太い縄のように見える臓器がこぼれている女に、エイダはつい頭を下げる。

 悲惨な姿に、エイダはまるで彼女の痛みを自分が受けているような気分に陥る。それをどうにもしてやれない事に、とてつもない無力感に苛まれる。

 

 しかし女は、もう視力が働いていないのか、虚ろな目でエイダを、いや黒竜の方を見つめる。

 今にも途切れそうなか細い声で、女は一言、懇願した。

 

「……ころ、し、て」

「ワカッタ」

 

 こぼれた最後の言葉に、エイダがハッと目を見開く。

 その時には既に、黒竜の牙が女の目前に迫り、がぶりと頭を噛み潰していた。

 

 頭部を失った女の身体がビクンと大きく痙攣し、やがてただの肉の塊に変わる。アサルティはそれを舌で拾い上げ、ばくんと口の中に放り込み、ばりぼりと咀嚼する。

 怪物は続いて、他に転がっている女達の亡骸に目をやり、次々に頬張り呑み込む。

 

 数分も経たないうちに、洞窟の中にあった女達の憐れな遺体は、綺麗さっぱり片付けられた。

 

「…キニイラネェ(気に入らねぇ)キニイラネェナ(気に入らねぇな)アノムシケラヤロウ(あの虫けら野郎)

「え…?」

ナニニハラガタツノカハオレモシランガ(何に腹が立つのかは俺も知らんが)……アノヤロウハ(あの野郎は)コロシテオカネェトダメナキガスル(殺しておかねぇと駄目な気がする)クイコロシテヤラネェト(喰い殺してやらねぇと)ムカムカシテシカタガネェ(むかむかして仕方がねぇ)

 

 どこに向かったかなど、皆目見当はつかない。

 しかしアサルティは、両の目に怒りの炎を燃やしながら、取り逃がした獲物が最後にいた方角を睨みつける。食欲ではない何かが、暴食の怪物を突き動かしていた。

 

コロス(殺す)コロス(殺す)バラバラニサイテクイツクス(ばらばらに裂いて食い尽くす)……グルルルル」

 

 爛々と目を輝かせ、牙を剥き出しにするアサルティ。

 その様に、思わず顔を引き攣らせ後退るエイダだったが、不意に表情を引き締め、踏みとどまる。

 

 気付けばエイダは、ずぶずぶと影に潜ろうとした黒竜に向け、力強く叫んでいた。

 

「ぼ…僕も、連れて行ってください!」

「…ア?」

「きっと…きっとあの怪物は、新しい女を求めて、僕の里にまた現れます! そこに向かえば、もしかしたら見つかるかもしれません!」

 

 力説するエイダに、アサルティはぎろりと鋭い目を向ける。

 その目は理解できないものを見る目であり、同時に強い呆れを孕んだ目であった。

 

「…オマエハバカカ(お前は馬鹿か)? オマエヲコロソウトシタ(お前を殺そうとした)ヤツラガイルバショダゾ(奴らがいる場所だぞ)

「わかってます……でも、こんな光景を見て、何もしない気にはなれないんです」

クルシムスガタヲミタクナイ(苦しむ姿を見たくない)()? カッテニシネバイインジャナイノカ(勝手に死ねばいいんじゃないのか)アノクズドモハ(あの屑共は)

 

 冷淡な声で黒竜が告げると、図星を突かれたエイダは思わず俯く。

 しかし、彼女の拳はギュッときつく握りしめられ、必死に耐えている事を示す。正論を突き付けられてなお、退けない感情に突き動かされ、エイダは黒竜に向き合っていた。

 

「そうですよ…! あんな人達、死ねばいいと思ってますよ…! いっつもいっつも、死ね、いなくなれって言われ続けて…! 苦しくて苦しくて仕方がなかったですよ…!」

「…ナラバ」

「だけど! ホントに死んだら、僕はこの気持ちをどうしたらいいんですか!?」

 

 大きな声で、激昂するように吠えたエイダに、アサルティは思わず口を閉ざす。

 気づけば少女は、ボロボロと涙を流していた。積もりに積もった本音と共に、封じた感情が堰を切ったように溢れ出し、止まらなくなっていた。

 

「あの人達がいなくなって、僕だけ生き残ってたら、一体僕はこの気持ちをどこにやればいいんですか!? 僕だけ痛い思いして、それでもここに生きてるのに、なんであの人達だけ勝手に楽になるんですか!? ふざけんな馬鹿!!」

「……」

「僕が苦しんだ分、あいつらも苦しめ! 死んだら何にも苦しくないじゃないですか! 生きて僕に悪い事したって、罪悪感に苛まれてろ!!」

 

 大きく肩を上下させ、力の限り叫びまくるエイダに、黒竜は目を丸くしながら、じっと耳を傾ける。

 以前話した時のように、全てを諦め自暴自棄になったわけではない。自分を責め苛むすべてに対し、反抗する気持ちで、自分の思いのたけを叫んでいた。

 

「だから…死なせてたまるか! あんな化け物に横取りされてたまるかってんですよ!」

 

 キッ!と目を吊り上げ、吠えたエイダを見つめ、アサルティは無言のまま目を細める。

 恐怖よりも先に、怒りと憎しみが前に出て、少女を突き動かしている。募り続けた不満が、怪物の元に向かう事への恐怖を薄れさせているのだろうか。

 アサルティはやけくそになった彼女に、最早かける言葉が見つからない。

 

 するとやがて、怪物はずぶずぶと身体を影に沈め、少女に向けて首を垂れてみせた。

 

「…あ、え…あの」

ノレ(乗れ)サッサトシロ(さっさとしろ)

 

 散々叫んで喚いてようやく落ち着いたのか、エイダは唖然とした顔で黒竜を凝視する。

 自分の前に差し出されている背中を見つめ、どうすればと戸惑う彼女に向けて、黒竜はため息を交えるように、吐き捨てた。

 

リガイハイッチシテル(利害は一致してる)……ツレテッテヤルカラ(連れてってやるから)ソッチハソッチデジブンデナントカシロ(そっちはそっちで自分で何とかしろ)

 

 そんな黒竜の申し出に、エイダはまたぽかんと呆ける。

 やがてハッと我に返り、大急ぎで黒竜の背に飛び乗り、ざぶんと闇の世界に共に潜り込んでいった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18.Biological selection

 ザザザザザザ…!と、七本脚の巨体が密林を走る。

 激突された樹々は、まるで小枝のように圧し折られ、遠く吹き飛ばされていく。無数の樹々に邪魔されながら、大蜘蛛の怪物の進撃は一向に衰える様子がない。

 

 自らの唯一といえる天敵から逃れるため、パラモアはひたすらに走り続けた。

 

(くそが! くそがくそがくそが!! あのトカゲが! 俺の邪魔ばかりしやがって!)

 

 残った六つの目を爛々と輝かせ、胸中に怒りを渦巻かせる。

 起こすはずのない失態、あるはずのない障害、いるはずのない敵、予想だにしなかった事態が連続して降りかかり、パラモアは苛立ち焦る。

 

 数ヶ月かけて生み出してきた眷属は、黒竜の襲撃によりほとんど全滅した。苗床にした女達も、あの場に全て集めていたことが災いし、全て手放す羽目になった。

 あの巣を作って以来、どこにも行かず引き籠っていたため、唯一の住処も失ってしまった。

 

 今のパラモアが有しているものは、もう何もない。

 できる事と言えば、こうして捕食者の脅威から逃げ続ける事だけだ。

 

(何なんだよ!? 何なんだよあの化け物! 俺のものを……俺の玩具を奪いやがって! 俺の家を壊しやがって! 何であんな奴に俺の楽しみを邪魔されなきゃならないんだよ!?)

 

 不平不満を内心でぶちまけ、パラモアはガチガチと牙を噛み鳴らす。

 今すぐに引き返して、自分の世界に割り込んできた黒竜を殺して、ぐちゃぐちゃにしてやりたかったが、身体は素直に逃走を続けている。

 

 今の姿になるずっと前から、荒事を恐れ、自ら動く事さえ億劫になっていた怪物にとっては、立ち向かうという選択は最初からない。

 巣に引っ込み、自分よりも弱い相手にのみ攻撃できる矮小な精神の怪物は、積み上げたものを壊されても、反撃することなどできるはずがなかった。

 

(どうする…!? どうする!? あの化け物はどうしたらいい!? 平気で俺の足を食い千切るし、こっちの攻撃は効かないし! 食われるしかねぇじゃねぇか!!)

 

 自らの身体に突き刺さる、黒竜の鋭い牙と爪の痛みを思い出し、必死に打開策を考えるパラモア。

 戦う術など一切知らない大蜘蛛は、ひたすら悶々と悩み続けていた。

 

(どうすりゃいいんだ…! どうすりゃ…!)

 ―――罠を張ればいい。

    自慢の糸でがんじがらめにしてやれば、あの化け物と言えど容易には逃げられまい。

(ああ、そうだな…! そうだ、おれにはこの力があるじゃねぇか!)

 

 ふと聞こえてきた声に、パラモアは即座に納得し、恐怖心がわずかに減る。

 冷静で、そして冷酷なその声に、パラモアは何の疑問も抱くことなく、ぎろぎろと六つの目を蠢かせ、嗤う。

 

(何ならギチギチに縛って、窒息させてやってもいい! 触られなきゃ何も怖くない…!)

 ―――窒息させるより、引き千切ってやった方がいい。

    影に潜るなどという、わけのわからない力を持つ化け物だ……加減など不要だ。

(そうだ……その通りだ! 縛ったところで両目を潰して、口の中からずたずたに斬りさいてやればいい! もう二度と、俺の身体を壊せないようにしてやる!)

 

 臆病に逃げる事だけ考えていたパラモアの思考に、惨たらしく相手を殺す残酷な思考が混じる。己に傷をつけた怪物に対する憎しみが、謎の声の導きが、大蜘蛛の思考を変えていく。

 

(殺してやる…! 俺の邪魔をする奴は皆、全部殺してやる…! 男は全部餌で、女は全部孕み袋だ! 全部犯して壊して食ってやる…!)

 ―――そうだ。

    全部俺のものだ、全部俺のためにあるものだ!

(全部俺のものだ! 全部俺のために存在しているのだ!)

 

 じわり、じわりと、大蜘蛛の思考が危険で独善的なものに変わっていく。

 元からあった色欲がより膨れ上がり、残虐性が混じり出す。悍ましい桃色だった思考に、一滴の黒が混じりさらに毒々しく変化していく。

 

 突如聞こえてきたその声が一体何者なのか。それに対する疑問は、パラモアの中に何一つ浮かんでこない。

 その事にすら、パラモアは何の疑問も抱いていなかった。

 

               △▼△▼△▼△▼△

 

「……最近は、静かですわね」

「ああ、あの蜘蛛の化け物が現れた時はどうなるかと思ったが、戦士達がどうにかしたようだな」

 

 エルフの集落、あの中のある一件の家の中で、一組の夫婦が向かい合って座り、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 夫レノンは戦う力のない、あまり体の強くない機織り。妻レーナの方は体は丈夫だが、さほど身軽でもなく、夫のために家事を行う程度の生活を送る、ごく普通の夫婦だ。

 

 いつも通り平和に過ごしていた時に起こった、怪物達の襲撃。

 二人は自宅の奥に身を寄せ合い、身を隠す事で、怪物達の襲撃を免れていた。

 

「聞いたところでは、レイアン様が何か策を講じたらしいな……何でも、あの混ざり者を利用して化け物を退治するおつもりだとか」

「まぁ、あの子を……ずっと嫌っていましたものね、汚らわしいと」

「果たしてあんな奴に何かできるのか……レイアン様のお考えはまるでわからん」

 

 時折集落に顔を出し、ちょっとした用事を済ませに来る混じり者の少女のことを思い出し、夫婦は顔をしかめる。

 レイアンほどではないが、この夫婦も人間に対してはあまりいい印象を抱いていない、集落においては典型的ともいえる人物であった。

 

 嫌悪感を抱いていた少女が、集落に迫った怪物を退治する役に立つという。

 夫婦には、どうにも信用しがたい話であった。

 

「いざという時は、集落を捨てて何処かへ行かなければならないかもしれない……」

「何処かって…どこへ?」

「何処かだよ……あの怪物が現れないような、遠く、静かな場所さ」

 

 レノンはそう言い、深くため息をつく。

 数百年に渡り、先祖代々守り続けてきた森を捨てるという選択は、確かに受け入れ難い。豊かで馴染み深い、この地以外で暮らす想像など、どうやってもできない。

 

「…最近のあの方はおかしい。以前はもっと……年長者を敬う程度のことはしていたはずだ。それなのに…」

 

 しかし、最近のレイアンの様子を思い返すと、どうしても頼り甲斐というものに欠け、付き従う事に忌避感を抱かされる。

 長年エルフの民を統べ、信頼の厚い長レヴィオとの衝突は何度も見ていたし、その口ぶりがどうにも乱暴で、受け入れられない。

 

 まるで欲深で狼藉者ばかりと噂の人間のようで、好きになれそうになかった。

 彼の取り巻き達も、彼に影響されたのか粗暴な態度が目立ち出し、良識ある者達からは棘のある目で見られだしていた。

 

「こういっては何だが……私達に子がいなくてよかったかもしれない。もしいればあの方と同年代で…同じように、傲慢で自分勝手に育っていたかもしれない」

「……こんな事に、感謝する日が来るとは思いませんでした」

「私の身体が弱いせいで、君には寂しい思いをさせてきた……すまない、レーナ」

 

 長い時間を夫婦として過ごし、しかしただの一度も子を成したことがない事に、二人は悲しさとともに安堵も覚える。

 

 子を成せない身体であるレノンは、申し訳なさそうにレーナに頭を下げる。

 夫婦となってから百数年、二人で夜を過ごしたことは片手で数えるほどしかない事が、レノンに罪悪感を齎していた。

 

「…もうやめましょう、あなた。子供はいつかでいいのですよ……そうね、平和な場所で、のんびり過ごしたいですね」

「ああ…準備を、進めておくとしようか」

 

 気遣ってくれる妻を悲しげに見つめ、レノンは立ち上がる。

 他の者達に何か言われるかもしれないが、大事なのは妻と今後の生活。何と言われようと、脅威がすぐそばにあるこの地に留まる理由は薄い。

 

 夫に付き従い、妻も準備を手伝おうと腰を上げる。

 できれば早い方がいいだろう、と持ち出す物を考えていた、その時だった。

 

 

「―――逃げるつもりか、裏切り者」

 

 

 戸口から響いたその声に、夫婦はハッと目を見開き、振り向く。

 何の音も立てず、気配さえ悟らせず、入り口を塞ぐように仁王立ちした青年―――レイアンの姿がそこにあり、夫婦の思考を凍り付かせる。

 

 二人を見つめる目は冷たく、およそ同族に向けるべきものではない。氷のようなその視線が、レノンとレーナをその場に縫い付けていた。

 

「レ…レイアン様…」

「俺のものを勝手に持ち出そうとは……どうやら命が惜しくないようだな、塵屑め」

 

 表情を強張らせる二人の元に、レイアンは遠慮なく上がり込む。

 怒り狂っているようにも、冷め切っているようにも思える平坦な声で、ゆっくりと近づく。

 

 夫婦は異様な迫力を醸し出すレイアンに困惑し、徐々に部屋の奥へと追い詰められていく。刃物を突き付けられているかのように、夫婦は青年にただ事ではない恐怖を抱いていた。

 

「あ、貴方のものなど持ち出したつもりはありません。私達は着の身着のまま、この地を去ろうと思っただけです。決して、貴方の手を煩わせるつもりなど―――」

「黙れ! 臆病風に吹かれた雑魚が! お前が盗人であることに違いはない!」

「盗人って…!? だ、だから…私は妻と共に、あの怪物から逃げるためにこの地を離れるだけで……」

 

 来ていきなり、敵意を剥き出しにするレイアンに、レノンは必死に言い訳を返す。

 しかし夫が何を言い募ろうとも、青年の罵倒の言葉は止まらない。目は正気を失っていて、真面な状態には全く見えない。

 レーナは本能的な恐怖を覚え、思わず夫の後ろに隠れる。

 

 妻が夫の背に身を隠した時、青年の目がギラリと、毒々しい赤色に光る。

 そしてレイアンが片手を突き出し、手首から白い何かが射出され、レノンとレーナに襲い掛かる。

 

「がっ!?」「きゃぁっ!?」

 

 白い何か―――太く大きい大量の蜘蛛の糸は、重力をまるで無視した動きで夫婦にそれぞれ絡みつき、四肢を縛り宙に吊るす。

 さらにはレノンの首に巻きつき、ギリギリと気道を狭め始めた。

 

「かっ……がっ、れ、レイアン様…!? 何を……!?」

「あ、あなた…! あなたぁ!!」

 

 呼吸を阻害されたレノンは、泡を吹きながらレイアンを凝視する。見る見るうちに顔を青紫色に染めていく様に、レーナが悲鳴をあげる。

 

 対するレイアンはさらに目を吊り上げ、苛立たしげな様子でレノンを睨みつける。

 手首から放たれた糸が蠢き、夫の首をより強く締め上げる。ぎちぎちと、肉だけでなく骨まで軋む音まで聞こえていた。

 

「盗人を懲らしめるのだ……痛みが無ければ反省などするはずないだろう」

「だっ…だから! 私達は何も盗んでなど……!」

「いや、今まさに盗もうとしていた…! 俺のものを、お前のような役立たずが持ち去ろうとしたのだ!」

 

 そういってレイアンが見つめるのは、夫と同じく宙に吊り下げられる妻。

 数百年たっても美しさは損なわれず、むしろ年月を経るごとに魅力を増していくと、ひそかに自慢に思っていた妻。

 それをレイアンはまるで、我が物のように見ていた。

 

「なっ……れ、レイアン様!? 彼女は…私の妻で」

「うるさいわ、塵屑め! 剣も振るえない、弓も射れない、戦いの手駒にもならん役立たずの分際で、俺のものを横取りできると思ったか!?」

「レイアン様…!? 何を、言って…」

「俺以外に雄などいらん! 種の繁栄には俺だけがいればいい! 俺以外の雄に存在する価値はない!!」

 

 激昂し、わけのわからない言葉を吐き散らすレイアン。

 言っている意味がまるで理解できず、レノンもレーナも、怯えた眼差しで次期長と言われていた彼を凝視する他にない。

 

「この里にあるものは全て俺のもの……土も木も食物も、女もだ! それを奪う者は、誰であろうと殺してくれる!!」

 

 唾を吐き、吠えるレイアンの目がレノンを射抜く。

 くわっと見開かれた彼の目が―――昆虫の複眼に変化している事に気付き、夫婦は一斉に悲鳴をあげる。

 

 異形と化したレイアンは、糸を射出する手をぐいっと引っ張る。それにより、レノンの全身に巻き付いた糸が一気に引き寄せられ、捕えた獲物に凄まじい力を加える。

 ギチッ!とレノンの身体に糸が食い込み、驚異的な力で肉を締めあげ、そして。

 

「ぎゅっ―――」

 

 ぶぢぃっ!!と。

 レノンの全身が切り裂かれ、吹き飛ぶ。糸が肉に食い込み、一瞬にして切断してしまったのだ。

 

「ひっ……ひぃやぁあああ!!」

 

 目の前で夫がばらばらにされた姿に、一瞬固まっていたレーナが叫ぶ。

 ぼたぼたと落下する肉片からは血液が噴出し、夫婦の家を真っ赤に染め上げる。想い出の全てが穢されていくような光景に、頭の中が真っ白になる。

 

 レイアンはそれを、実に気分良さそうに眺めていた。

 目障りだった邪魔者、嫌鬱陶しかった虫けらが目の前から消えた事で、爽快な気分に浸っていた。

 

「きひっ、きひひふひひ、ひははは…! 邪魔をするからだ…俺の邪魔をするからだ」

 

 不気味に笑い、レイアンはもう一度レーナを見やる。

 

 自分が次の標的にされているのだと気付き、途端にレーナは悲鳴を止め、がたがたと震えだす。

 異質な異形の力を使い、同胞を何のためらいもなく殺した様を見たことで、レイアンに対する恐怖が思考の全てを支配する。

 長く見知っているはずの青年が、もう同じ種族とは思えなかった。

 

「お、お願いします…! こ、殺さないっで…お願いします…!」

「殺す…? せっかくの苗床をなぜわざわざ潰さなければならない。まだ一度も愉しんでいないのだぞ」

 

 ニタニタと嗤い、レイアンが手を伸ばす。伸びた両手がレーナの衣服を掴み、思いっきり左右に引っ張る。

 ぶちぶちと、人外の強さで衣服が引き千切られ、レーナの豊満な体が青年の前に晒しだされた。

 

「ひっ…いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 夫以外に見せた事のない、あられもない姿を見られ、涙を流して泣き叫ぶレーナ。

 隠そうにも全身を縛られた状態では、身をよじる事さえできず、身体を左右に揺らすしかなく、余計に見せつけるばかりである。

 

 自由を奪われた哀れな人妻の姿に、レイアンはゆっくりと歩み寄り、不気味に指を蠢かせ、距離を詰めた。

 

「お前も俺のものだ……この里の、この森の、この世の雌は全て俺のものなんだ……!」

 

 迫り来るレイアンの、悪魔のように醜悪な笑みに。

 四肢を封じられ、吊り下げられるレーナはただ、涙を流しされるがままになるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19.Pollution

 豊かな森に守られ、数百年の時を経てきたエルフの集落。

 そこは今、凄まじい惨状を晒していた。

 

 集落の住人全員が、夥しい量の蜘蛛の糸に囚われ、身動きの取れない状態で磔にされている。

 家屋の殆どは跡形もなく破壊され、巨大な蜘蛛の巣の材料にされる。視界の全てが真っ白に染まっているその様は、いっそ壮観だと言えた。

 

「いやぁ…いやぁぁ!!」

「やめて…もうこれ以上はやめてぇ!!」

「許して! もう許して!!」

 

 そして、囚われた女にいたっては、着ていた衣服を全て剥がされ、一糸纏わぬあられもない姿にされていた。

 老人を除いて、年齢を問わず多くの女達が、真っ白な肌を晒され、宙吊りにされている。

 

 その様を、女達の夫、恋人、親、住民の半数を占める男達が、必死の形相で見上げ、力の限り叫んでいた。

 

「やめろ……やめろぉ!!」

「もうやめてくれ!」

「妻に…妻にそれ以上触るな! 血迷ったかレイアン!!」

 

 男達は涙を流し、磔にされた女達の中心で一人佇む青年を睨む。

 不気味に笑い、捕えた女達を満足げに眺めるレイアンは、男達の怒号などまるで気にも留めない。むしろ、そうして怒り狂う様を、実に楽しそうに見やるだけだ。

 

 さらに、吠える男達の中には、彼に付き従っていた取り巻き達の姿もあった。

 

「レイアン! おい、レイアン! 何をするんだ!」

「離せ! この糸を早く外せよ!!」

「どいうつもりだ、レイアン! 説明しろ!!」

 

 ぎしぎしと、糸の拘束から逃れようと藻掻く取り巻き達だが、粘つく糸は固まってまるで微動だにしない。

 芋虫の様にうねうねと身をよじらせるだけの彼らに、レイアンはフンと鼻を鳴らしてみせた。

 

「うるさいな……もうお前達は用済みになったから、処分するためにそうしたに決まってるだろ。いちいちわかりきったことを説明させるんじゃねぇよ」

「な…何だとぉ!?」

「用済みってどういうことだ!? 処分って……殺すって事か!?」

「…本当に鬱陶しいな」

 

 訳がわからないと、目を吊り上げて叫ぶ取り巻き達と、他の男達。

 レイアンは忌々し気に舌打ちをこぼし、ガツガツと地面を蹴って苛立ちを見せる。

 

 その様は、癇癪を起す直前の子供そのもので、青年の異様さをさらに示していた。

 

「俺以外の雄は邪魔だ……俺一人いれば、血筋なんざいくらでも増やせる。女さえいれば数なんかいくらでも増やせるんだよ。だから……お前らは死ね。ただ餌として食われればそれでいい」

「何だそれは…!? お前は何を言ってるん―――」

 

 反論を口にした取り巻きの一人が、途端に黙る。

 いや、一本の糸を持ち、無造作に手を引いたレイアンによって、首から上がぽんっと空中に撥ね飛ばされる。

 

 斬り飛ばされた首は、女達の前まで転がり、顔を上に停止する。

 何が起こったのかまるでわかっていない、無の表情で固まっていたそれに、女達が悲鳴をあげる直前、レイアンの足が振り落とされた。

 

「うるせぇ……うるせぇ、うるせぇうるせぇ! ごみが口きいてんじゃねぇ! くそが!!」

「きゃああああああ!!」

「お前らもうるせぇんだよ!! 雌は黙って啼いてりゃいいんだよ!!」

 

 ぐちゃぐちゃと、男の首を踏み潰し、なおも足を止めないレイアン。

 真っ赤に汚れる青年と、飛び散る血潮と脳漿に悲鳴をあげる女達に、レイアンは目を血走らせて吠える。

 

「俺だけいればいいんだよ…! 俺だけがこの世で唯一の雄であればいいんだよ! 他の低俗で低能な雄は、生きてる資格なんてありゃしないんだよ!! そんなこともわからねぇから、お前らは塵なんだよ!!」

 

 唾を吐き散らし、口角を耳まで裂けて見えるほど吊り上げ、焦点を失いながら、身勝手で意味不明な言葉を吐き散らすレイアン。

 端正な顔立ちは、暴論を吐くたびに醜く歪み、元の姿とはかけ離れたものになっていく。それこそ、集落に現れた怪物にどこか似通った姿に見える。

 

 そこに、ドドドド…と重い轟音が響いてくる。

 バキバキと樹々をへし折り、糸の壁を乗り越え、パラモア―――レイアンが名付けた巨大な蜘蛛の怪物がその姿を見せる。

 

 かつては失禁するほどに恐怖をあらわにし、怯えていた化け物がそこに現れたというのに、レイアンは一切恐れる姿を見せない。

 それどころか、そこに何もいないかのように振る舞っていた。

 

「ギチチチ…アタラシイオンナガ、コンナニフエタ。アトハアノバケモノガクルマデニ、ジュンビヲオワラセナイトナ…」

「くひひ……化け物め、俺の玩具をみんなコワシやがって、目にものミセてくれるわ…!」

「そウダ……オレハバけもノダ、あンナ噛み付ク事しカデキナい奴に負けルワケガねぇ。おレの方が強インダ……!」

 

 ズシンズシンと地面を踏み鳴らし、集落の真ん中へと、レイアンの元へと向かうパラモア。

 巨体が影を作り、レイアンを覆い隠しても尚、レイアンは顔色一つ変えない。狂気に満ちた笑みで、くつくつと肩を揺らして佇むばかり。

 

 そして、蜘蛛の怪物と青年は、示し合わせたように続く言葉を口にする。

 まるでエルフと怪物が、全く同じ存在に変貌していくような、異常な様を見せていた。

 

「「コノ世ノ雌ハ、全テ俺ノ物!! 俺以外ノ雄ハ全テ食イ殺ス!!」」

 

 怯える女達と、慄く男達の前で。

 さらなる異形に変貌していく蜘蛛と青年は、悍ましく高らかに嗤い続けていた。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

 邪魔な木々を潜り、押しのけ、黒竜が影を泳ぎ、先を急ぐ。

 バサバサと葉や枝が顔に当たるのも構わず、ひたすら前だけを見つめ、前進する。

 

 その背に乗るエイダは、必死にアサルティの背にしがみつき、吹き飛ばされないように耐え抜く。

 背中や髪に枝が当たって非常に苦痛だったが、一言も文句を垂れることなく、黒竜の鱗にへばりつき続ける。

 

 アサルティは前を向いたまま、目だけをぎょろりと動かし、背中のエイダに視線を向けた。

 

「…ソレデ(それで)オマエノムラハドッチダッタカ(お前の村はどっちだったか)?」

「……え? え!? 知らずに泳いでいたんですか!?」

 

 予想だにしない一言に、エイダはギョッと目を見開き、固まる。

 自分を背に乗せて進みだすや否や、迷う素振りもなく動き出したものだから、きちんと方向をわかって出発したものだと思っていた。

 なのに、実際は全く場所を理解していなかったという事実に、開いた口が塞がらない。

 

ナントナク(何となく)ケハイダケヲタヨリニシテイタカラ(気配だけを頼りにしていたから)キマッタバショヲメザシテル(決まった場所を目指してる)ワケデハナカッタモノデナ(訳ではなかったのでな)……」

「そんな…困りますよ! もうあの怪物が集落に行っているかもしれないのに!」

ソンナコトヲイワレテモナ(そんなことを言われてもな)……」

 

 抗議の声を上げるエイダに、アサルティは不満げにぼやく。

 

 影を泳ぐという特異な能力を持つ黒竜。真っ暗な闇の世界では、目印など見つかるはずもない。

 気配だけを頼りに進み出したはいいが、気配を発しているのはエルフ達だけではなく、虫や獣もいるのだ。

 

オマエガトチュウデ(お前が途中で)シジデモダセバヨカッタンダ(指示でも出せばよかったんだ)オレダケヲセメルナ(俺だけを責めるな)バカモノ(馬鹿者)

「何ですかそれ!? 私の所為だとでも!?」

オマエガスンデルモリナンダカラ(お前が住んでる森なんだから)オマエガシッテナケレバオカシイダロウ(お前が知ってなければおかしいだろう)

「私だって行ったことない場所ぐらいありますよ!!」

 

 ギロッ、と咎めるような視線を向けるアサルティに、エイダはがーっと目を吊り上げて叫ぶ。

 あまりにも理不尽な物言いに、大人しい少女もさすがに我慢できなかったらしい。

 

「ああもう…! こんな事してるあいだに、里のみんなが食い殺されてたらどうするんですか!」

オレハベツニドウデモイイ(俺は別にどうでもいい)……オマエガキチントアンナイスレバ(お前がきちんと案内すれば)オレモマヨウコトナク(俺も迷う事なく)ヤツヲクイニイケルノダ(奴を食いに行けるのだ)

「もう! 勝手な事ばかり!」

 

 枝や葉に顔を当てないよう、辺りを見渡して位置を確認しようとするエイダ。

 来たことがない場所でも、太陽の位置や風の向き、森の中でも目立つ目印になるものを頼りにし、集落の位置を特定しようとする。

 

 しかし、見慣れない場所で右を見ても左を見ても、似たような光景が広がるだけだ。

 

「くっ……アサルティさん! ちょっと止まって、首を伸ばしてもらえませんか!?」

「ア? ナンデ?」

「上から方角を確かめるんですよ! 早く!」

 

 大声で促すエイダに、アサルティは渋々泳ぐのをやめる。

 エイダが停止したアサルティの頭の上によじ登り、彼女が角を掴んで体を固定するのを確認してから、アサルティはぐいっと体を起こす。

 影の中で縦泳ぎになり、半身を地上に伸ばし、エイダの視線をできるだけ高くする。

 

ミエルカ(見えるか)?」

「んん……もう、少し! もうちょっと首を伸ばしてください!」

ムチャイウナ(無茶言うな)……マッタク(全く)

 

 頭の上に立ち、必死に目を凝らすエイダの注文に、アサルティはうんざりした様子で呟く。

 よろけて落ちてはたまらないと、彼女の下で必死に動かないよう、体勢を維持する。

 

 あの巨体と集落の人数なのだから、さっさと見つけてくれないものか、と黒竜が無言で待っていた時だった。

 

「……ン?」

 

 ふと、アサルティの視界に何かが入り、目を細めて目を凝らす。

 高い位置から見下ろしたおかげで、陽光に反射した何かが目に入る。細く、樹々の間から覗いて見える、金属のような何かだ。

 

「オイ、アレハナンダ(あれは何だ)?」

「え?」

 

 アサルティの指摘に、集落の位置を探していたエイダが首を傾げる。

 アサルティはずぶずぶと影に戻り、ゆっくりと輝く何かがあった場所へと近づいていく。

 

 しかし上からは見えた何かが、真横から探すと全く見つからなくなり、アサルティは訝し気に眉間にしわを寄せる。

 

ナンダッタンダ(何だったんだ)、アレハ……」

 

 不思議に思いながらも、さらに前へ進んでいくアサルティ。

 低木を掻き分け、樹々の間を覗き込もうとした時、頭の上に乗るエイダがぐいっと角を引っ張った。

 

「ダメです、アサルティさん!」

 

 角を引かれ、無理矢理止められたアサルティは、苛立った様子でエイダを睨む。

 しかしエイダは気にせず、何やら緊迫した様子でアサルティの頭の上から身を乗り出し、樹々の間を指差した。

 

イテェナ(痛ぇな)……ナンダヨ(何だよ)

「あ、あれを見てください…!」

「アレ?」

 

 エイダに促され、彼女が指さす何かに目を凝らすアサルティ。

 鬱蒼と茂る木々の間、数えきれない枝や葉の間の、何も無い空間に何事かと集中する。

 

 そこで、アサルティはようやく理解する。

 木々の間には、よくよく目を凝らさなければ見えないほどに細い糸が、幾本も張り巡らされていたのだ。

 

「……コレハ(これは)アノクモノワナカ(あの蜘蛛の罠か)

「あ、危なかったですね!」

「アイツ、ニゲナガラコンナモノヲヨウイシテイタノカ(逃げながらこんなものを用意していたのか)…?」

 

 張られた糸に爪を引っ掻け、バチンと弾いてみるアサルティ。

 すると、思った以上の抵抗が爪にかかり、僅かであるが爪の先が欠けているのに気付く。

 

 知らずに通れば、行動を阻害される。あるいは勢いよく飛び込めば、身体を切断されていたかもしれない、細く強靭な糸。

 残酷な罠に、アサルティの上でエイダがサーッと血の気を引かせた。

 

 ふと、背筋に嫌な予感が走ったエイダは、辺りをぐるりと見渡してみる。

 じっと視線を巡らせると、微かではあるが光る何かが目に入る。目の前にあるものと同じ糸が、そこら中に幾本も張られている事に気がついた。

 

「ど、どうしましょう……これじゃ前に進めませんよ!?」

「フン……」

 

 ぎしぎしと支柱となっている樹々を鳴らす糸を見つめ、考え込むアサルティ。エイダが頭の上で慌てているのをよそに、ぎろりと糸を見据える。

 

 一見、無造作に張られているように見える糸の罠の数々。

 しかし遠目から見てみると、ある方向に集中して張られているようにも思える。

 

 少し移動して見渡してみれば、ある一点を中心に張られている。まるで、そこに何か巨大な何かが隠れ、誰も近づかないようにしているようだ。

 それを見たアサルティは、にやりと口角を上げて目を光らせた。

 

「ジャア、トオラナケレバイイノダ(通らなければいいのだ)……シッカリツカマッテ(しっかり掴まって)イキヲトメロ(息を止めろ)

「え?」

 

 急に話しかけられ、呆けた声で答えるエイダ。

 彼女の許しを待つことなく、アサルティはぐいっと影の中から空中に飛び上がり、頭から影の中へと潜り込む。

 頭部からエイダの悲鳴が木霊したが、一切気にすることはなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20.Conclusion

「ああ……ああああああ…!」

「やめて……許して、許して…!」

「もう、もういやぁ…いやぁぁあ」

 

 そこら中から上がる、微かに艶を含んだ女達の呻き声。皆、身体の中に卵を産みつけられ、腹部などが異様に膨張させられている。

 そのすぐ傍には、身体の一部を欠損して倒れ伏す、事切れた男達の姿がある。横たわる彼らは皆例外なく、囚われた女達―――それぞれの妻や恋人に手を伸ばし、沈黙していた。

 

 そんな惨状の中心に、パラモアとレイアンはいた。

 蜘蛛の頭の上にエルフの青年は立ち、にやにやと不気味に笑い、辺りを満足げに見渡す。同胞の雄のみを尽く葬り、女達を生き地獄に陥れた男は、何の罪悪感も抱かずそれを眺める。

 

 彼の目は、パラモアと全く同じ血のような赤色に光っていた。

 

「キひ、きヒ……でキた、でキタ、俺の巣ガまタデキた」

「アの化け物ヲ殺す罠ガやっトデキた……こレデモウ誰も俺を殺セナい」

「「キひ、きヒヒ……準備はデキた、アの化ケ物ヲ食い殺ス用意はでキタ。何処から来ようと、いツ来よウト、俺ノ巣に入ッた得物ハタだジャスまナい……俺の邪魔ヲスる奴ハ、みンナ殺す! 殺ス!」」

 

 数分前までは、豊かな森に囲まれていたはずのエルフの集落。

 しかし今、その面影は微塵も残っていない。

 

 太く立派だった樹々は半ばから圧し折られ、真っ白な糸がそこら中に張り巡らされ、樹々はその支柱に利用された。家屋もすべて粉砕され、糸の壁に呑み込まれている。

 

 住んでいた住人達は皆引きずり出され、パラモアの餌か、新たな眷属を生み出す苗床にされた。

 この地でありのままの姿を保っているのは、レイアンを除けばもう、囚われたままの彼の父や老エルフ達だけであった。

 

「「あノ化け物ヲ殺シタら、次ハ外だ……モットモっと女を手ニ入レテ、もットモッと孕まセル! そうシタラモッと外を目指シて、モっともット女を孕マせる! ソウだ……全テの女ヲ俺の物に! 他ノ雄は皆殺シて、俺がコノ世の王になッテヤる!!」」

 

 さらなる色欲に心を震わせ、涎を垂らし、パラモアはその時をじっと待つ。

 自身の眷属を全て食い殺し、少しずつ築き上げた自身が支配する王国を崩壊させた元凶、決して許すことのできない邪魔者。

 

 不遜にも自身に牙を剥いた愚か者を、惨たらしく始末しなければ気が済まなかった。

 

「「早く……早ク来イ。早クこコニキて俺に食わレロ、殺サレろ! オ前を殺シて、俺ハサラなる女ヲ手に入レに行クンだ…!」」

 

 そこに、突如襲われ牙を剥かれ、脇目もふらず逃げ出す事を選んだ臆病者はいなかった。

 餌や女の調達も、全てを眷属にやらせていた引き籠りとは思えない強気な姿勢で、憎しみの対象である黒竜の登場を待ち続ける。

 

 見た目は同じなのに似ても似つかない、まるで別人のような豹変である。

 

「「サッサと来イよ! 俺を待タせルナよ!! 俺ニ殺されルタメに、サッさと出テコイよ塵屑ガァ!!」」

 

 パラモアの頭の上に立つレイアンと、彼を乗せて微動だにしないパラモア。

 両者の口から洩れるのは、全く同じ声。示し合わせたように同じ言葉を発し、捕えた獲物や屠った邪魔者を見下ろし、悍ましく目を光らせる。

 

 彼らの姿を一言で言い表すのならば、同じといったところか。

 姿形はまるで異なるのに、全く同じ存在が並んで立っているように―――いや、混じり合った一つの個体のように見えた。

 

「レイアン…!」

 

 そこに、パラモアにとっては初めて聞く、レイアンにとっては聞き馴染みのある声が届く。

 ぎろりと、パラモアと共に、苛立ちを前面に表した目で見下ろしてみれば、いつの間に抜け出して来たのか、自分の父が下から見上げてきている事に気付く。

 

 彼の後方には、家屋の破片に身を隠すほかの老エルフ達の姿も見える。息子の元に向かうレヴィオを止めようと、必死に声を上げていた。

 

「「ア? 何の用ダよ、糞爺……ドコカら出テ来やガッた」」

「お前…! 一体どうしてしまったというのだ!? 何故、何故その化け物と共にいる!? 里をこんな目に遭わせて、一体何をしようというのだ!?」

「「うルセぇ爺だな……黙ッテろよ屑ガ!!」」

 

 レイアンとパラモアが同時に吠え、巨大な蜘蛛の足がズシンと地面を貫く。

 怪物と青年の怒号、そして巨体の動作により、エルフの森はグラグラと揺れ、レヴィオもそれにつられて体勢を崩す。

 

 しかし彼はどうにか倒れず、体勢を整えて息子に向き直った。

 

「レイアン…! もうやめろ、これ以上同胞の命を奪って何になる!? 女達を見境なく襲ってどうなる!? 本当に化け物になってしまう前に、やめるのだ!!」

 

 レヴィオはそう、暴走する息子に向けて叫ぶ。

 愚かな行為を繰り返そうと、自分に対して敵意を向けてこようと、異形に変じていようと、彼にとっては大切な血の繋がった息子。どんな目に遭わされても、手放したくはない。

 

 自分の命を懸けてでも、元通りとはいかなくても、これ以上自分の手の届かない何かに変貌してほしくなどなかった。

 

「レイアン、頼む! 姿形が変わっても……心だけは、エルフのままであって―――」

「「うるッセぇッツってンダヨぉ、ゴみ虫ガァァァァ!!!」」

 

 どっ!と、レイアンの手首から蜘蛛の糸が放たれる。

 幾本も束ねられた、粘着性ではなく強靭性に優れたそれは、真っ直ぐにレヴィオに向かい宙を裂く。

 

 そして瞬く間に、レヴィオの胸の中心に糸は突き刺さり、背中側まで貫通する。

 肺に大きな穴を空けられ、目を見開いたレヴィオはごばっと大量に血を吐き出す。糸が引き抜かれると、レヴィオは驚愕の表情のまま崩れ落ち、その場に倒れ込む。

 声もなく沈黙する彼の真下には、夥しい量の鮮血が溢れ出し、大きな池を作りだす。

 

「お……長ぁ!!」

「レイアン貴様ぁ! 長に……実の父に何という非道な真似をぉ!!」

 

 隠れていた老エルフ達も、レイアンの暴虐には黙っていられず、身を乗り出して叫び始める。

 数十年に渡り愛情を注がれ、次なる長となるためにあらゆるものを与えられてきた若者。長が目に入れてもいたくないほどに可愛がっていた青年が、本気で鬱陶しそうに顔を歪めたまま、父の命を奪った。

 

 その光景が、ひたすらに信じられない。

 大恩ある親に一切の敬意を抱くことなく、まるで目障りな塵を処分するかのように屠った。それにより、老エルフ達の我慢は限界に達した―――しかし。

 

「「ダカら……ウるせェッツってンダろ!!」」

 

 彼らもまた、放たれた蜘蛛の糸に貫かれ、その場に次々に倒れ込んでいく。

 咄嗟に逃げようとした彼らだが、気付いた時には糸は目前にまで迫っており、躱す事もできず急所を貫かれ、数人がそのまま命を落とす。

 

 瞬時に静かになった彼らに、レイアンとパラモアは、ひたすら楽しそうに嗤い声を上げた。

 

「「俺トオ前らガ同胞だ? ふざケタコと言っテんジャネぇ……オ前ラみタイな下等生物と、俺ヲ同列に語るンジャねぇヨ! 馬鹿か!!」」

 

 げたげたと肩を揺らし、唾を吐き散らし、レイアンとパラモアが天を仰ぐ。

 自分がまるで、全ての生物を統べる王となったような爽快な気分で、二人の怪物は己以外の全てを見下す。

 

「「俺ガ唯一ッて言っテンダろ! 俺だケのたメニ、全テは存在シてルンだよ! ふひヒヒ…ふヒャハははハハは!!!」」

 

 嗤う姿は、もうエルフでも人でもない。

 大蜘蛛と同じ醜く悍ましい何かを、無理矢理エルフの形に収めたような、見た者の背筋を震わせる嫌悪の権化である。

 

 彼を見上げる、まだ息のある老エルフ達は、恐怖で震えて息もできない。

 一体、自分達の目の前にいるあの男は何なのだろうか。一体、どんな経緯があってあのような怪物が生まれてしまったのだろうか、と記憶を必死に探り、元凶を探す。

 

 レイアンは彼らを見下ろし、目障りな邪魔者を全て排除しようと、最後の一矢を放とうとした―――その刹那のことだ。

 

 

 ずるるるる…!と、レイアンとパラモアの足元に、巨大な黒い影が広がっていく。

 二人の怪物がそれに気づき、まさかといった表情で目を見開き、即座にその場から飛び退いた、だが。

 

 

「―――グオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 

 

 どばぁっ!と、広がった影よりズレた個所、パラモアが飛び退いた丁度の真下から、黒竜が大きく咢を開いて飛び掛かる。

 黒竜の牙は深々と大蜘蛛の表皮に突き刺さり、バキバキと鎧を容易く砕く。

 

 二体の怪物はそのままもつれ合って倒れ込み、糸の張り巡らされた森の中に突っ込む。

 同時に、二体の激突の衝撃により、パラモアの頭の上からレイアンが放りだされた。

 

「ぐぬぁっ!?」

「ギギギギギギ!?」

 

 ドサッ、と地面に倒れ込むレイアンは、同じくひっくり返されるパラモアを見やり、そしてそこに飛び掛かるアサルティを見て、忌々し気に舌打ちする。

 黒竜の体表を見るに、傷らしい傷は全く見当たらない。先ほどの登場から考えるに、ここに来るまでに仕掛けた罠には一切引っ掛からず、あの影を泳ぐ力ですべて無視してここに辿り着いたのだろう。

 

「「このッ…化け物メ!! 何故罠にカカラない!? 態々俺が用意シてヤッたとイウノに、何故殺されナイ!? ふザけるナヨコの塵屑が!!」」

 

 自分の策を何もかも無視する怪物に、レイアンもパラモアもひたすらに怒りを抱く。

 自分の思い通りにならない存在が、憎くて鬱陶しくて腹立たしくて、自分の手で殺してやりたくて仕方がなかった。

 

 ガチン、ガチンと迫る牙を足でどうにか抑えながら、パラモアがレイアンと共に吠える。

 自らに死が迫っている事よりも、自分の策が無駄になったこと、自分の思い通りにならない存在がある事に、異常な怒りを抱いていた。

 

「ガルルルル!! グルルルル!!」

「「だっタライい! 今こコデ殺しテヤる!! たカガ噛みツククらイシか能ノナい雑魚ガ! コの手デぐチャグちゃニブッ殺シテヤって―――!!」」

 

 そう叫び、パラモアは鋭く尖った足と牙を、レイアンは自分の弓矢を構える。

 大蜘蛛の足が黒竜を抑え込み、容易に影に潜れなくさせる。そうするまでもなく、アサルティはパラモアの胴体に食らいつき、離れようとしていないが、それでもぎっちりと黒竜の身体に足を絡ませる。

 

 そこを、レイアンが狙う。数十年に渡って鍛え上げてきた弓を以て黒竜を、大きく開かれた目を貫こうと狙う。

 弓の弦を押さえつける指が離され、備えられた矢が勢いよく、黒竜の顔面に向かって放たれようとした。

 

 だが、その一撃が黒竜の目を貫くことはなかった。

 

「―――ぁぁぁぁぁぁああああああああ!?」

 

 ひゅるる…と、レイアンの頭上から何かが落下する音が届く。

 女の悲鳴とともに近付いてくるその声に、何事か、とレイアンが意識を割いたその直後、ゴッ!と凄まじい衝撃がレイアンの頭頂部に炸裂する。

 

「……がっ、あっ…!?」

 

 レイアンの視界に大量の火花が散る、衝撃が脳を揺らし、元から無かった真面な思考を奪い取る。

 ぎょろっと白目を剥いたレイアンは、ゆっくりと身体を傾がせ、地面に頭から倒れ込む。頭頂部から勢いよく鮮血を噴き出させ、俯せに倒れていく。

 

 レイアンが沈黙した後、彼の頭の上に乗っていた少女―――エイダが涙目で頭を押さえ、へろへろとしゃがみ込んだ。

 

「ふっ……くっ、ひぐっ…! あ、あの人…! いきなり真っ暗闇に引きずり込んだと思ったら、途中でいきなり空中に放り出すなんて…! 私が死んだらどうするつもりだったんですか…!?」

 

 明らかに腫れている頭をおさえ、恨み言を口にするエイダ。

 出血もなく、ただ痛いだけで済んでいるという異常に気付くことなく、大蜘蛛に襲い掛かっている黒竜を睨みつける。

 

 地響きと怪物達の咆哮を耳にし、痛みが去るのを待っていたエイダ。

 しばらくしてようやくましになり、のろのろと立ち上がった彼女は、自分のすぐ近くに倒れ伏すレイアンと、遠くに臥せっている血塗れに老エルフ達に気付き、大きく目を見開いた。

 

「…! お、長! それに……レイアン様!? ま、まさか、みんな、死んで…!?」

 

 ひゅっと息を呑み、すぐさま長達の元へ走り出すエイダ。

 レイアンの元に向かわなかったのは、日頃の恨みが原因であろうか。それともレヴィオに対する印象の方が、他よりもましだったからであろうか。

 とにかく大急ぎで長の元に駆け寄り、しかし彼に刻まれた傷の大きさに、顔から血の気を引かせる。

 

「……そんな、これじゃ…もう…!」

 

 手の施しようがない、あまりにむごい傷。

 何も出来ないと気付き、絶句するエイダは、横たわるレイアンが震えながら手を伸ばそうとしている事に気付いた。

 

「! お、長! しっかりいしてください!」

「エ……エイダ…気を、つけろ…! そ、そこに……」

「う、動いちゃだめです! 動いたら、余計に出血が…!」

 

 目を血走らせ、必死に体を起こそうとするレヴィオ。エイダはそれをし留めようと、レヴィオの身体に覆いかぶさる。

 何も出来なくても、せめてこれ以上苦しまないようにという想いで、レヴィオが動くのを阻止しようとする。

 

「ぬぅあああ!!」

 

 だが、突如レヴィオがエイダを突き飛ばし、逆に彼女に覆いかぶさる。

 重傷を負った体のどこにそんな力があるのか、とエイダが驚愕で目を見開いた瞬間。

 

「き、ヒッ―――!」

 

 ずぶっ!と、レヴィオの背中に短剣が突き立てられる。

 苦悶の声を上げ、歯を食い縛るレヴィオの下で、エイダは何が起こっているのかまるでわからず、困惑で硬直し息を呑む。

 

 短剣を突き立てた男―――レイアンは、狙った相手・エイダを刺す事ができず、忌々し気に舌打ちをし、父親の背中から短剣を引き抜く。

 遠慮なく刃が引き抜かれると、傷口からさらに血が噴き出し、背後のレイアンに降りかかる。しかしそれでも、レイアンは表情一つ変えず、レヴィオに庇われるエイダを睨みつけていた。

 

「糞が……糞ガ糞ガ糞が!! 邪魔スルなっツッテんダロうが糞爺!!」

「…これ以上は…! やらせん…!」

 

 目を吊り上げ、真っ赤に光る目で見下ろすレイアンに、レヴィオは血反吐を吐きながらそう告げる。

 

 二人の男達のやり取りに、エイダはもうついていけず困惑しっぱなしである。

 何故、元から仲が良くはなかったものの、命を狙われる謂れのないはずのレヴィオが、実の息子に殺されかけているのか。

 それを理解する前に、レヴィオがエイダの上から、フッと笑みを浮かべて話しかけた。

 

「……案ずるな、エイダ、我が孫娘よ……この命を懸けてでも、お前をあ奴にやらせはしない…!」

「えっ……」

 

 ぶるぶると身体を震わせ、語り掛けてくるレヴィオに、エイダの思考が停止する。

 

 眉間により深いしわを刻んだレイアンは、まずは邪魔な父親から処分しようと思ったのか、短剣を握り直すと真上から飛び掛かる。

 落下の勢いを加えた一撃が、今度はレヴィオの脳天を一息に貫こうと迫る。

 

「! このっ…!」

 

 しかし、落ちて来るレイアンを前に、怒涛の展開で呆然としていたエイダが我に返り、自分の腰に提げた短剣に手を伸ばす。

 自分が思っていた以上の速さで刃を抜いたエイダは、迷うことなくそれをレイアンに向けて投げつける。

 

 甲高い風切り音と共に、短剣はレイアンの顔面に吸い込まれるように突き刺さり、彼の脳を貫いて反対側にまで届く。

 直後、レイアンの顔面から大量の鮮血が噴き出し、彼はぎょろりと白目を剥いて、身動ぎ一つせずに地面に落下する。

 

 気が狂ったとしか思えない青年が、地面に倒れてピクリとも動かなくなっても、エイダは緊張で息もできない。

 彼女に覆いかぶさるレヴィオが崩れ落ちてようやく、彼女はハッと我に返った。

 

「お、長! しっかりしてください! 長!」

「……馬鹿者め……なぜ、そうなるまで止まれなかったのだ、馬鹿息子め……!」

 

 レヴィオは横たわる息子の亡骸を見つめ、ほろりと涙を流す。

 困惑で目を泳がせ、必死に呼びかけてくるエイダに応える事もできず、レヴィオは次第に瞼を閉じていき、次第に静かになる。

 彼の下から抜け出そうと藻掻くエイダは、反応一つ返してこない彼に、さらに焦燥に駆られ出した。

 

「長…!? 長ぁ!!」

 

 死屍累々。多くのエルフの男達の亡骸が転がる、エルフの集落があった場所で、エイダの泣き叫ぶような悲鳴が、どこまでも甲高く響き続けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21.Recollection

 枯れ木が砕けるような、乾いた音が連続して響く。

 自分を支えていた足が、一本を残して破壊された大蜘蛛の怪物は、毒々しい色の体液をぶちまけて崩れ落ちる。

 目からは光が薄れ、命の灯が徐々に薄れている事を示していた。

 

「ギッ……ぎギッ…! ち、ぢグショぉ…! 俺が…こノ俺ガ…! コンな所で……!!」

 

 どろどろと、口から体液を吐き出し、真下に池を作るパラモア。

 しかし、満身創痍の状態に陥ってなお、自分に牙を剥いた敵に対する怒りは維持されている。

 

 バキボキと、食い千切ったパラモアの足を咀嚼していたアサルティは、ゴクンとそれを呑み込むと、訝しむように目を細め、首を傾げてみせた。

 

「…オマエ(お前)サッキトセイカクガカワッテイナイカ(さっきと性格が変わっていないか)? ソコマデユウカン(そこまで勇敢)……トイウカ(というか)ゴウマンデハナカッタトオモウガ(傲慢ではなかったと思うが)? スクナクトモ(少なくとも)ジブンカラコウゲキシテクルヨウナ(自分から攻撃してくるような)ヤツジャナカッタノダガ(奴じゃなかったのだが)…」

 

 最初の邂逅、地下の巣穴で相対した時とは明らかに異なる態度。

 まるで姿形だけ同じの別個体のような、高慢で自信過剰な正確になっている事に、アサルティはひたすらに困惑する。

 赤く目を点滅させ、呻いていたパラモアは、やがてハッとアサルティを見上げて固まる。

 

「オ前……お前モ、同ジナのか!? お前モ、転生しテ……ドッカの誰カに、力を与エラれて…!」

「ア? テンセイ? ナンダソレハ(何だそれは)?」

 

 驚愕と共に、怒りを込めてぶつけられた問いに、アサルティは逆方向に首を傾げる。

 天性か? 転成か? 点睛か? 典正か? 転生か?

 

 聞きなれない単語を突き付けられ、お前はそうなのかと問われても、どのことを言わんとしているのかわからず、答える事もできない。

 するとパラモアは、急に目を強く光らせ、激昂したように声を荒げだした。

 

「トボケるなヨ……化け物! お前みタイナ奴が、俺以外にイテタまるカ…! 誰カ、誰かお前ニ力ヲ与えたニ決まッテる! ソレは誰だ!? 神カ!? 答エロよ!!」

シラン(知らん)ソウイウコトハナニモオボエテイナイ(そういう事は何も覚えていない)

 

 何を急に怒り出しているのか、とアサルティは呆れる他にない。

 

 意識がはっきりしてから、早数週間といったところ。

 自分が何者であるか、どうして何も覚えていないのか、目覚める直前まで何があったのか、その全てが記憶から欠落しており、説明などできるはずもない。

 

 何よりも、思い出したいとも、知りたいとも思っていないのだから、黒竜は自分の成り立ちを知る由もなかった。

 

「い、イヤ…! そンなはズハナい…! オ前は俺ト同類だ…! 日本人デ……アノ時死んデ、コの世界の化ケ物に生マれ変ワッたンダ…!」

「フゥン、ソウナノカ(そうなのか)……」

 

 喚くように、ぶつぶつと独り言ちる大蜘蛛に対し、黒竜は不思議そうに目を瞬かせる。

 パラモアの呟く言葉の内容は、アサルティには皆目見当もつかない。何とか理解できる、呟きの端々から察するに、この怪物は何か知っているのかもしれない。

 目に映る他の生物とは明らかに異質な自分達の正体について、何かしら察しているのだろう。

 

 しかしやはり、アサルティにはどうでもいい事であり、欠片も興味がわかなかった。

 

「マァ、ソンナコトヨリオレハモウ(そんな事より俺はもう)ガマンノゲンカイナワケデナ(我慢の限界なわけでな)……」

 

 べろり、と汚れた口周りを舐め、アサルティが口角を上げる。

 突如、不気味な笑みを浮かべて近づいて来る黒竜に、気付いたパラモアはびくっと全身を震わせ、ぎょろぎょろと目を泳がせ始めた。

 

 怪物の目の前にいるのは、足の殆どを失ったボロボロの自分―――つまりは獲物が一体のみ。

 それを前にした化け物がすることなど、もう一つしか思いつかない。

 

「マ、待て! お、俺トオ前は同郷ダ! ソシて……同じ人間だッタンだ! こ、殺スノは良くナイ……そうダロう!?」

シッタコトカ(知った事か)

 

 別人のように変化していたパラモアの態度が、ここにきて元に戻る。

 見下し、自分以外の全てを組み伏せようと声を荒げていた怪物は、迫り来る命の危機により、急速に勢いをなくし出す。

 決して届く筈もないのに、自分の命を、血肉を狙う別の怪物に向けて、必死の命乞いを始める始末。

 情けない声を上げ、醜態を晒すパラモアに、アサルティは表情一つ変えなかった。

 

オレハハラガヘッテイル(俺は腹が減っている)……ダカラオマエヲクウ(だからお前を喰う)ソレダケノコトダ(それだけの事だ)ナニガオカシイ(何がおかしい)?」

 

 牙を剥き出しにし、ゆっくりと近づくアサルティ。

 パラモアはどうにか逃げようと藻掻くも、一本しか残っていない脚では移動などできない。それどころか、巨体を持ち上げ、立ち上がる事さえできない。

 

 アサルティには、散々逃げて手を煩わせていた大蜘蛛の怪物が―――調理を終えて、食われるのを待つ極上の料理に見えていた。

 

「や、やめロ……ヤメて…!」

オマエモサンザンスキニアバレテキタンダ(お前も散々好きに暴れて来たんだ)……ミグルシイイノチゴイハヤメロ(見苦しい命乞いはやめろ)オマエノジュンバンガキタダケノコトダ(お前の順番が来ただけの事だ)ナニヲソウオソレル(何をそう恐れる)

 

 ぐぱっ!と、アサルティの顎がこれ以上ないほどに大きく開かれる。

 ずらりと並んだ鋭い牙の奥、見えた黒竜の喉は、まるで深い穴の底のような、光を一切受け付けない漆黒が広がっている。

 もし入り込もうものなら、二度と陽の下には戻って来られない、そんな地獄が広がっていた。

 

 そしてアサルティの牙が、ぶるぶると震えるパラモアの頭部の上下に、それぞれ突き立てられていく。

 

「ヤ、ヤめ―――ギッ!!」

 

 諦め悪く、命乞いを口にしかけたパラモアの声が、それ以降ぶっつりと途切れる。

 八つの目全てを噛み潰し、頭部を食い千切った瞬間、大蜘蛛の残った身体がビクンッと大きく奮える。

 

 その後、ばきばきぼきぼきと、思わず耳を塞ぎたくなるような、殻と肉を咀嚼する音が響く。

 大蜘蛛の巨体は見る見るうちに小さくなっていき、夥しい範囲の血痕だけを残し、この世から跡形もなく消え去っていく。

 

 全てを食い尽くし、アサルティは顔を上げる。

 顔中を毒々しく染め、満足げに舌で顔を舐め取りながら、げふっと大きなげっぷをこぼした。

 

クウカクワレルカ(喰うか喰われるか)……ソレガ、コノ世ノ理トイウモノジャナイノカ?」

 

 もう跡形もない獲物―――同郷で同種の存在だと喚いていた何者かにそう告げ、アサルティはゴキゴキと首の骨を鳴らす。

 微かな違和感を自身に覚えながら、怪物はにたりとまた口角を上げるのだった。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

 ごぽっ…と、地面に横たわる女達の孔から、黒い塊が幾つもこぼれる。

 こぼれ落ちたそれ、小さな蜘蛛の仔はうぞうぞと蠢いていたが、やがてぴくぴくと痙攣し始め、そのまま動かなくなる。

 腹に卵を産み付けられた女達全員がそうなり、生みつけられた蜘蛛の子は全て死に絶える。

 

 しかし、女達もまたわずかな痙攣を残し、ピクリとも動かなくなる。

 虚ろな目で空を見上げたまま、涙の痕を目尻に残し、先に行った夫や恋人達の元へ、その魂を手放していった。

 

 

 

「終わったようだな、全てが……一度は拒否したあの者が、終わらせてくれたらしい」

 

 血の気がすっかり引いた真っ青な顔で、レヴィオがぼんやりとした様子で呟く。

 体に開けられた大穴により、もう体中の血がほとんど抜け落ちた。あとは意識が闇の底に落ちていくのを待つだけである。

 

 そうなるよりも前に、レヴィオは自分を抱き上げるエイダを―――娘の忘れ形見である少女を見上げ、悲痛げに目を細める。

 

「お前には、すまん事をしたと思っている……人間に犯されて帰ってきた娘が産んだ子を、守ってやれんとは……親として、恥ずかしく思う…」

「長……は、私の…祖父、なのですか……?」

「皆の手前、表だってそう扱う事はできなかったがな……」

 

 初めて知る真実に、エイダは目を見開いたまま言葉が出ない。

 もうこの世のどこにもいないと思っていた、血の繋がり。それをこの男が有していたのだと知り、どうしていいかわからなくなる。

 

「だ、だったら……レイアン様は、私の叔父…? いや、伯父…?」

「…お前には、親族を殺させてしまった。だが、もうあれはエルフでもなくなった、ただの化け物だった……気に病むことはない」

「でも、でも、私はこの手で、誰かの命を…!」

「それでもだ……己を殺そうとした相手の命を奪っただけのこと、責める者はもう居ない」

 

 そういって、レヴィオはエイダから目を逸らし、周囲に目をやる。

 美しかった森は破壊され、そこにあった家屋やエルフの営みも、跡形もなくなっている。

 

 住民達は皆、無残に殺され苗床にされ、五体満足でいる者は誰もいない。

 森を守り、長い月日を経て、この世のどんな種よりも高潔で誇り高いと自負してきた種は、その内この地に一人もいなくなってしまう。

 その様を嘆きながら、レヴィオはこれでいいと納得し始めていた。

 

「我等は、傲慢過ぎたのだ……他とは違うのだと驕り、レイアンのような者を生み出し、あの化け物に付け入る隙を与えてしまった。自業自得なのだ、我らの滅びは……」

「長…」

「だが、お前は違う。望まぬ生まれを持ち、穢れた存在だと蔑まれ続けた。だが、だからこそ驕らない。柵に囚われない……お前を縛るものはもう、どこにもなくなったのだ」

 

 今にも泣き出しそうな目で見つめてくるエイダに、レヴィオは自嘲し目を伏せる。

 岩のように重い手を伸ばし、項垂れる少女の頭に乗せ、掌を擦り付けるように撫でる。

 

「この森に住まうエルフの種は、この時を持って滅ぶ……他者を見下し、今の地位に胡坐をかいた愚かな種として、死んでいくのだ。その最後は……私でいい」

 

 エイダの頭に乗せた手からも、徐々に力が抜けていく。目からは光が失われ、見えているかどうかも定かではなくなる。

 ハッと息を呑むエイダの前で、レヴィオはまた、優しい笑みを浮かべてみせた。

 

「エイダよ……生きよ。お前のために……」

 

 その言葉を最後に、レヴィオの手がことりと落ちる。

 エイダは慌ててその手を取るが、長の―――自分の実の祖父がもう呼吸もしていない事に気付き、顔をぐしゃぐしゃに歪めて項垂れる。

 

 もう、二度と口をきいてくれない最後の肉親の手を握り、エイダはぽろぽろと涙を流した。

 

 

 

「意外ダッタナ……マサカアノ糸、食エルトハ思ワナンダ。菓子ノヨウナ甘サダ。アノ蜘蛛、生カシテ俺ガ満足スルマデ糸ヲ作ラセレバヨカッタ」

 

 くちゃくちゃと、そこら中に張り巡らされていた糸を咀嚼し、影を泳ぐアサルティ。

 大蜘蛛を喰いきった後、まだ小腹が空いたままだと食えるものを探し、ふと思いついて糸の山にかじりついてみたら、思った以上に濃厚な味を感じた。

 思わず気に入り、瓦礫と一緒に片っ端から食い荒らし、満足げに集落の中心に戻ってきたのだ。

 

 そこでアサルティは、老人の亡骸を抱えて座り込むエイダに気付き、訝しげに目を細めて、彼女の元に近づいた。

 

「……何ヲヤッテルンダ、オ前ハ」

「な、何でも……ありません」

「イヤ、絶対ニ何カアッタダロ。ドウシタンダ?」

「なんでもないんです…! 本当に……放っておいて、下さい」

 

 問いかけたアサルティに、エイダはぐいっと目元を拭って首を横に振る。

 赤くはれた目を黒竜から隠し、エイダは祖父の亡骸を横たえ、立ち上がる。アサルティは、明らかに何かあったと思わしき少女を見つめ、何も言わずにその場に留まる。

 

 しばらくの間、エイダは無言で佇み、虚空を見つめていたが、やがてアサルティの方に振り向く。

 

「アサルティさん……一つだけ、お願いを聞いてもらっていいですか?」

「何ダ?」

 

 嫌がる素振りも見せず、アサルティが問い返す。

 口が悪く、自分勝手だが、自分の命を救い、脅威であった怪物を屠ってくれた異形に向け、エイダは痛々しい笑みを見せ、頭を下げた。

 

「集落の人達を……私の家族を埋葬するのを、手伝って貰えませんか?」

「……仕方ネェナ」

 

 アサルティは、一人ぼっちになってしまった少女のその願いを、断る事ができなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22.Departure

 美しかった森は、もうほとんど跡形もなくなっていた。

 雄々しく聳え立っていた大樹は軒並み圧し折られ、無残な残骸となって横たわる。その根元で生い茂っていた草木も、下敷きとなってすり潰され、哀れな姿を晒す。

 

 誰にも知られることなく、ひっそりと存在していたエルフの里もまた、むごい様を晒していた。

 人が住んでいたとは思えないほどに荒れ果てた、廃墟と言い表すほかにない瓦礫の山―――たった二体の怪物達により破壊しつくされたその地が、そこにあった。

 

「……ありがとう、ございます。手伝って貰って」

 

 荒れ果てたエルフの里の中心、瓦礫を退かした空間で、エイダがそう呟く。

 後ろに立つアサルティは、掠れた声で感謝を告げるエイダに目を細め、ため息交じりに応える。

 

「……気ニスルナ。穴ヲ掘ッタダケダ」

「それでも……助かりました。僕一人では、いつまでたってもみんなを眠らせてあげられなかったと思いますから」

 

 膝をつき、背筋を伸ばした彼女の目の前にあるのは、枝を十字に組んで地面に突き立てた、簡素な墓。

 辛うじて見つけられた里の住人達、彼らの亡骸を地面に埋め、せめてそこに眠っているのだとわかるように目印を立てた。

 

 決して仲が良かったとは言えない、しかし血の繋がった彼らの弔いを終え、エイダは深くため息をつく。

 自分以外の全員が、目の前の地面の下で眠っているのだという事実に、胸にぽっかりと穴が開いたような、酷く虚しい気分に陥っていた。

 

「オ前モ物好キダナ……自分ヲ疎ンデイタ連中ニ、ココマデシテヤルトハ」

「ほったらかしにしたら、それこそ後悔が残りそうだったので……嫌われていても、酷い事をされても、血の繋がりは確かにあった筈なんです」

 

 ぐいっ、と涙が滲んだ目を拭い、立ち上がるエイダ。

 それ以上に泣くことを堪える少女に、黒竜はただ無言で目を細めるだけで、何もしない。

 

 一人と一体はしばらくの間、じっと墓を見つめ、佇み続けていた。

 

「オ前、コレカラドウスルツモリダ?」

「…どう、とは?」

「今後ノ暮ラシダ。家モナイ、親族モイナイ、今ノオ前ニハ何モ無クナッタワケダガ……当テハアルノカ?」

 

 ふと、アサルティが抱いた疑問を口にしてみると、エイダは困ったように笑い、目を逸らす。

 あまりに唐突に起きてしまった惨事で、自分が生き残るとさえ思っていなかった騒動である。乗り切った後をどう過ごすかなど、全く考えていなかったようだ。

 

「そうですね……とにかく、進みながら考えてみます。あなたの言う通り、何にもなくなってしまいましたけど……生き残ったからには、やれることがないか探してみたいなって思います」

「……ソウカ」

 

 少女の覚悟は、状況に流されて仕方なく受け入れざるを得なかったものだ。

 目的も見えない、どこに行けばいいかもまるでわからない状況で、たった一人で生きていかなければならない。

 人生のあまりの厳しさに、アサルティも流石に同情せざるを得なかった。

 

「……俺ノ役目ハ終ワッタナ。ナラ、ココデオ別レトイウ事ニ―――」

 

 ふん、と鼻を鳴らし、アサルティはその場を後にしようと踵を返す。

 少女がそこまで決めているのなら、自分が口を挟む必要はない。勝手に好きにやればいい、と少女の前からさっさと去ろうとする。

 

 が、ふとアサルティは、自分の背に何かがひょいっと飛び乗る感覚を覚え、思わずぎろりと自分の背を返った。

 

「……何ヲシテイル」

「え? 背中に乗るのはだめですか? 今までずっと乗せてもらってたから、いいかなって思ったんですけど……」

 

 黒竜の鋭い視線を前に、無断で怪物の背に跨った少女はきょとんと首を傾げる。

 その目は、本気で何を気にしているのかと訝しんでおり、アサルティは思わずひくりと頬の筋肉を痙攣させる。

 

「イヤ、ソウデハナイ……オ前、俺ニツイテクル気ナノカ、ト聞イテイルダケダ」

「むしろ他に選択肢がありますか? 森がこんな事になっちゃ、もう一人では生きていけそうにないですし、それに身寄りもなくなっちゃいましたし……だったら、唯一知った仲のあなたについていくのが一番かなって思いまして」

「誰モソンナ話ヲシテイナイ!」

 

 くわっ!と大きく咢を開き、アサルティがエイダに向かって吠える。

 剥き出しにした牙を目前にまで近づけるが、エイダはまるで気にした様子もなく、平然としたままアサルティを見つめるだけ。

 それがますます気に入らず、アサルティは唸り声をあげてエイダを睨みつける。

 

「俺ガイツ、オ前ガツイテクルコトヲ許シタ! 勝手ナ事ヲスルナ!」

「……ですが、まだ責任を取ってもらっていません」

「責任ダト?」

「はい、責任です……私を生かした責任です」

 

 何のことだ、と目を吊り上げて問うアサルティに、エイダは至極真面目な態度を見せ、むんと胸を張ってきっぱりと答える。

 その視線に、どこか責めるような圧迫感を感じたアサルティは、思わず唸るのをやめて相手を見つめ返す。

 

「私は一度、死ぬつもりでした。それをあなたが辞めさせました……だから、そうした責任を取ってもらいます」

「ア…? 何ヲ言ッテイルンダ、オ前ハ」

「私が決めたことを途中で邪魔したんですから、最後までちゃんと邪魔してください」

 

 アサルティは目を細め、ぐるるる…と苛立たし気に唸り、天を仰ぐ。

 

 どうやらこの少女は、本気で自分についてくるつもりらしい。

 当てもない、理由もない、ただ食欲に促されるままに彷徨い続ける自分に、意味の分からない理由で同行を求めている。

 黒竜は頭の痛みを覚え、エイダを鋭く睨みつけた。

 

「知ルカ、降リロ、行クナラ一人デ行ケ」

「いやです! 絶対ついていきます! あなたの意見は全部無視します!」

「拒否スル! 離レロ!」

「いーやーでーすー!」

 

 ぶるんぶるんと体を揺らし、エイダを弾き飛ばそうとするアサルティだが、エイダは全身で鱗にへばりつき、必死に堪え続けている。

 何を言っているのか、本気で訳がわからないが、鱗にしがみつくエイダの手が離れる様子はない。

 

 ついには、アサルティの方が先に疲れ果て、背中を揺さぶるのをやめて心底呆れた視線を背中に向けた。

 

「オ前、イイ加減ニシロヨ……俺ノ責任ダロウガ何ダロウガ知ッタ事カ。勝手ニヤレバイイダロウガ」

「そうです! 勝手にやります! だからこうしてついていこうとしてるんです!」

「ダカラ何故ソウナル…!」

「あなたが言ったんですよ! 勝手にしろって! だから僕は勝手にするんです! 言われるまま、反抗しない奴は見てて苛々するんでしょう!?」

 

 エイダが口にしたとんでもない返答に、アサルティは思わず口を閉ざし、色々と思い返してみる。

 確かに、自ら死地に向かう彼女の前に何度も現れ、危機を回避させたのは確かだ。

 

 ただの偶然や、自分の苛立ちを解消させるための行為でしかなかったそれらに、礼を言われる謂れは確かにない。だが、それらに文句を言われる謂れもないはずだ。

 なのに、吹っ切れた様子のエイダに圧されてか、どうにも反論する気にはなれなかった。

 

「…ッタク、邪魔ニナッタラ容赦ナク捨テテイクカラナ」

「上等ですよ! 意地でもしがみついていってやりますからね!」

 

 大きく肩を落とし、ずぶずぶと影を泳ぎ始める黒竜。

 その背でエイダはふんと荒く鼻息を噴き、アサルティが向かう先を見据える。

 

 もはや、これ以上何を言っても諦めはしまい。

 いっそのこと無理矢理振り払って、あるいは叩き潰して去ってしまおうかとも思ったが、何故かそうする気にはなれない。

 

 いまだにぎゃーぎゃーと喧しいエイダに横目を向け、アサルティはまた鼻を鳴らす。

 

(何故だろうなぁ……こいつを見て、鬱陶しいからと食う気にもならんのは。俺は此奴に……何を想っているんだろうか)

 

 自分でもよくわからない心境の変化に、アサルティは悶々としたものを抱える。

 それを解消できないまま、黒竜は背中に無理矢理できた同行者を乗せ、己の勘の赴くままに進み始める。

 

 ただ何故か、一人ではなくなったこの旅が、嫌とは思えずにいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

「……明日は降るか、また外に出られそうにない」

 

 少し、湿り気を帯びた風が肌を打ち、髪を揺らす。

 流れる雲の厚さを見るに、きっと明日はひどい雨になるだろうと予想し、女は片方だけ開いた左目を細める。

 

 長い間、部屋に閉じ込められ、ずっとベッドに寝かされていたために体全体が重い。

 息苦しさしかない数日だったが、それが全て主である少女の善意による処置であるものだから、大きな声で文句も言えず、ため息ばかりがこぼれていた。

 

「もう大丈夫だというのに、我が主は本当に過保護だな」

「それは貴方が、体調が万全じゃないのに任務に向かおうとするからよ、アイシア」

 

 苦笑を浮かべ、虚空を見つめていた女―――アイシアは、背後からかけられた声に思わず振り向く。

 そこには主である公爵令嬢・セリアが頬を膨らませて立っていて、じろりと忠臣を責めるように見つめていた。

 

「セリア様……私はも、本当に大丈夫ですので」

「いいえ、まだ休んでいなければだめよ。…本当に心配したのよ、あんな場所で倒れ込んでいて」

「その…申し訳ありません」

 

 静かな怒りを見せるセリアに、アイシアはしきりに頭を下げる。

 主からの過ぎた心配に困惑するものの、こうなっても仕方がない理由について思い出し、それ以上何も言えない。

 

 数日前、ツーベルク領だけでなくエイベルン王国全土を脅かそうとした事件が集束した直後のこと。

 王国の救世主である黒竜にせめてもの礼がしたいと、アイシアが代表して、彼の元に大量の食物を持って訪れた。

 

 しかし、向かってからいつまで経っても女騎士は戻って来ず、次第に心配になったセリアが捜しに行くと、森の中で倒れ伏す彼女の姿を見つけたのだ。

 セリアは慌てて人を呼び、アイシアを屋敷に連れ帰って自室に寝かせ、大急ぎで医者を呼びつけたりし、忠臣の看病に努め続けた。

 

 アイシアはそれから三日三晩眠り続け、ある時急に意識を取り戻した。

 ある二つの点を除けば、アイシアは健康そのものであることがわかったものの、胆が冷えたセリアは彼女にしばらくの間休むよう命じ、頻繁に様子を見にやってくるようになっていた。

 

「本当に怖かったのよ……あの方の元に向かったあなたが、死んだように横たわっていたんだもの」

「申し訳ありません……」

「あの方までいなくなって、貴女までいなくなってしまったら、私にはもう頼れる人はいなくなるのよ。本当に……目覚めてよかったわ」

 

 不安げに目を伏せるセリアを見ていると、アイシアにはもう何も言えない。

 命を賭して、主を守るべき立場にありながら、長い間彼女を悲しませてしまった負い目が、アイシアの心を苛んでいた。

 

 その時、不意にアイシアの腹から空腹を示す音が鳴る。

 アイシアもセリアも大きく目を見開き、次いでアイシアは顔を赤く、セリアはくすくすと嗤い声をこぼす。

 

「も、申し訳ありません…」

「最近のあなたは、本当によく食べるわね。あの方に影響されたのかしら」

「誠に申し訳ありません……食べても食べても腹が減るのです。一体、私の身体はどうしてしまったのか…」

 

 食べ物を求めて唸る腹部を押さえ、恥ずかしそうに頬を染めるアイシア。

 

 永い眠りから目が覚め、最初にアイシアが求めたのは、自らの空腹を満たす事だった。

 以前の彼女とは比べ物にならない量を求め、料理人が唖然とするくらいの健啖ぶりを見せた彼女は、さらな量を求めて料理人達を失神させたほどだ。

 

 自分の本文は騎士であると考えている彼女だが、人前で腹を鳴らすという恥を見せ、平気でいられるほど女を捨ててはいない。

 なのに正直すぎる自分の身体が、情けなくて仕方がなかった。

 

「ご飯をきちんと食べられるのはいい事よ? だけど……どうしてそんなに食べているのに、ここら辺は変わらないのかしら? 羨ましいわ…」

 

 セリアは唇を尖らせ、アイシアの腹部を撫でる。

 常人の何倍もの量を腹に収めているのに、アイシアの体型には全く変化がない。胸元や臀部の豊満さは増して見えるのに、腰周りや脚はしなやかで細いままなのだ。

 アイシアはどう答えた者かと困惑し、苦笑を漏らすだけにとどまっていた。

 

「……ところで、その、もう一つの方は」

「……はい」

 

 ふと、セリアが表情を変え、心配そうな眼差しをアイシアに送る。

 アイシアは即座に察し、右目を―――これまでずっと閉じていた方の瞼を開く。

 

 そこに露わになったのは、異形の眼だった。

 瞳は血のように紅く、白目は星のない夜空のように真っ黒に染まっている。よく見れば、瞳孔部分は爬虫類のように縦に細く裂けているのがわかった。

 

「これは……流石にお医者様にも見せられませんわね」

「ええ、無用な混乱を招くだけ……いや、私を化け物扱いする者も現れるかもしれません」

「どうして、こんな事になってしまったのかしら…?」

 

 変わり果てた忠臣の目を見つめ、悲痛な声を漏らすセリア。

 常に自分を守ってくれた女騎士に起きた異変を、どうにもできない無力感に苛まれているようだ。

 

 一方でアイシアは、ある可能性を脳裏に思い浮かべて黙り込む。

 おそらくは、自身に起きている異常の原因であろう存在に―――自分や主の恩人でもある、一体の巨大で凶悪な怪物の事を。

 

(根拠はない…だが、やはり彼が何かしら関わっている事は間違いないのだ。気になると言えば気になるが……)

 

 別段、困っている事は何もない。

 人前で右目を見せられなくなったが、眼帯をつけて怪我をしたと誤魔化せばいいだろう。空腹感についても、今はそこまで困っているわけではない。

 

 しかしそれでも、謎を謎のまま終わらせておくことは、できそうになかった。

 

(貴殿は……今、どこで何をしているんだ…?)

 

 姿の見えない、闇の世界に住まう怪物のことを想い、アイシアは深くため息をつく。

 その眼差しが、どこか熱を孕んだ潤んだものとなっている事に気付く者は、誰もいなかった―――。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ⅲ 形なき強欲なる者
プロローグ


 それは、ある夜のこと。

 人気が全くなくなった、ある大きな街の貴族街にて。

 

 

 暗い夜の闇を、オレンジ色の光が通り過ぎていく。

 二頭の馬が引く、漆と金箔で飾られた馬車が、ゴトゴトと石畳の上を進んでいた。

 

 やがて、馬たちの嘶きと共に馬車が止まり、扉を開けて、一人の紳士が顔を出す。

 精悍な顔立ちに、整えられた髪と髭。見る者の十人中十人が、誠実そうな男だと評価を下すだろう外見の男が、自宅である大きな屋敷の前に降り立った。

 

「…御苦労だった、後片付けを頼むよ」

「はい、旦那様」

 

 御者席に座る老人にそう命じ、馬車がゴトゴトと進みだすと、男は屋敷の扉に向かう。

 

 街で有数の実業家にして、一、二を争う富豪の一人である彼。

 今夜もある重要な取引、企業の重役達との会食、溜まった書類の整理に奮闘した帰りで、さっさと就寝してしまいたいと必死に眠気と戦っていたところだった。

 

「明日は何だったか……ああ、そうだ。用意しなければならない書類がまだいくつもあるんだった……いい加減、纏まった休みを取って体を休めなければな…」

 

 ゴキゴキと、凝り固まった首を回して骨を鳴らし、大きく欠伸をこぼす。

 何か、就寝前に小腹を満たしておくか、と考えながら、門に手を伸ばした時だった。

 

「―――あの、すみません。ゴードンさんで間違いないですか…?」

「…ん?」

 

 唐突に、聞きなれない声で自分の尚を呼ばれ、男―――ゴードン・エルハイムは訝しげに振り向く。

 眠気を我慢し、帰宅の邪魔をされたことへの苛立ちを見せないよう、余所行きの表情で振り向く。

 

 そこにいたのは、年若い女だった。

 肩までの長さの赤毛に、卵型の顔。大きな瞳に、艶のある唇。長く細い手足に均整の取れた身体つき、程よく実った胸元と臀部。

 街中でもそう見つからないなかなかの美人であり、ゴードンは一瞬眠気を忘れ、内心で感嘆の声をこぼす。

 

「君は…?」

「夜分遅くにすみません。私、レニーって言います。ゴードンさんのことを尊敬していて、いつかお会いできたらと思って探していまして…!」

 

 頬を染め、目を輝かせてそんなことを言う、レニーと名乗る娘に、ゴードンは表面上は微笑み、内心では鬱陶しさに舌打ちする。

 

 富豪であり、有能な手腕で知られているゴードンの元には、度々こういった輩が現れる。

 話がしたい、関わりを持ちたい、教えを請いたい。いずれもゴードンの持つ財産や能力を欲しがり、自分のものにしたいと考えている者達であった。

 

(こいつもどこかの回し者か……いや、どこかの企業の娘か。私の財産を狙ってきたんだろうが……どうしたものか。見た目は悪くなさそうなんだが…)

 

 そんな、自分の功績に()()()()()()輩は、毎日のように現れていた。

 相手が男だからと、見た目を重視した女を送り込んでくるのが基本であり、突き放せば後で悪い噂を流される事もあり、甘い顔を見せればいつまでも付き纏ってくることになる。

 

 実に厄介な、対応の仕方には十分な注意が必要な事態だが、こういった輩をゴードンは長年の活動で見慣れており、あしらい方も熟知していた。

 

「すまないね……今日はもう疲れていて、休みたいんだ。話なら、また機会があったときにしてもらえないだろうか」

 

 申し訳なさを見せつつ、自分が困っているという事を示し、自ら引き下がるように促す。

 悪印象を残すのは相手側も望まない事であるため、大抵の女はこれで引き下がる。しかし質の悪い、あるいは頭の悪い女であればこれでも諦めない事がある。今回は後者であったようだ。

 

「少しだけ、ほんの少しだけでいいんです! 少しだけでも、お時間をいただけませんか?」

「ふぅん……困ったね」

 

 ずいっ、と距離を詰めてくる女に、ゴードンは顎に手をあて、困り顔で首を傾げる。

 しかし内心では、しつこく食い下がる女への苛立ちで、湧きあがる殺意を必死に抑えつけていた。

 

(今日のはしつこい奴だな……こういう輩は面倒だ。上がり込んだら急に態度を変えて、肉体関係を迫って責任を取らせようとしてきたり、目を離した隙に重要書類を盗もうとしたり……)

 

 自分が経験してきた、あらゆる苦い記憶。

 数々の成功を収めてきた自分を妬み、引きずり落とそうとする者。あわよくば愛人の座に収まり、蜜を啜り寄生しようとする者。多くの人間が、ゴードンの身を狙ってきた。

 

 人知れず始末することもできる。奴隷として売り払ってしまえば、雀の涙の額であろうが懐は潤う。

 しかし、相手がどこの誰であるかわからない時点でその手段に踏み切れば、どんな報復が帰ってくるか全くわからない。

 富豪といっても、一つの街で最も力がある程度。大国の富豪が相手だった場合、易々と踏み潰される場合もあるのだ。

 

「……わかったよ、私の負けだ。少しだけだよ、話をするのは……それと、話をするのはここでだ」

 

 仕方なくゴードンは、女に向き直り耳を傾ける。

 相手が何を要求するのか、何が目的なのか探るために、屋敷にはあげずにその場で相対する。

 

 ごねる事を覚悟のうえで、それが最低限の条件だと一歩も退かない様子を見せる。

 

「ありがとうございます…! お時間はそんなにいただきません!」

 

 にっこりと笑みを浮かべ、女は全く気にした様子もなく、ゴードンに一歩近づく。

 ゴードンは彼女に聞こえないよう、小さくため息をつきながら、腕を組みその場に佇む。

 

 これで重要書類は盗まれない。屋敷の中の金銭も奪われない。

 ただ単に実業家である自分を尊敬してか、何かしらの縁を結びたくてかは知らないが、これで少しは危険を減らせただろう。

 

 そう考えていたゴードンは次の瞬間、全身を水の塊に覆われ、呑み込まれた。

 

(……え?)

 

 ごぼっ……と困惑したまま息を漏らし、次いで自分が水中にいる事に気付き、慌てて藻掻き出す。

 

 ばたばたと両手足を動かすが、水は重く、べたつき、自由に動けない。

 ここはどこだ、何故水の中にいる、何が起こった、と。何が何だかわからないうちに、ゴードンは溺れ、意識が徐々に薄くなっていく。

 

 そして彼は、自分の衣服がボロボロと崩れ始めている事に。

 いや、自分の体そのものが溶け始めている事に、驚愕と混乱の中で気づく。

 

(何だ、これは…⁉ 何だ、何が起こっ……)

 

 皮膚が爛れ、筋肉が灼け、骨が溶けていく感覚に怯えながら、ゴードンは必死に藻掻き続ける。

 辛うじて残った片方の眼球で、必死に外を凝視し足掻いていた彼は。

 

 水が形を成し、先ほど見た女の顔となって、自分を見下ろしている光景を最後に目に焼き付け―――やがて、跡形もなく消え去っていった。

 

 

 

「……あー、終わった終わった。ったく……ぐだぐだ時間取らせてんじゃないわよ、あのおっさん」

 

 しん、と静かになった夜の闇の中、一人の女がぼやく。

 一糸まとわぬ美しい体に、黒髪を垂らした妙齢の美女が、ぶつぶつと鬱陶しそうにあたりを見渡す。

 

 すると、その体が徐々に歪んでいく。細く華奢な肩が盛り上がり、手足が伸び、全身にみるみる筋肉が盛り上がり、次いで皮膚が変色していく。

 

「まぁ、いいや。全部貰っちゃったし―――今後はこれを有効活用させてもらうとしようか」

 

 ぼやいていた声もまた、ぐちぐちと肉が蠢く音と共に変化し、男のものに変化する。

 あっという間に黒髪の女の姿はその場から消え去り、女がいた場所には、溶けて消えてしまった筈のゴードン・エルハイムが佇んでいた。

 

「ふむ、ふむ……なるほど、見た目にそぐわぬあくどい仕事をしていたようだな。それでこの儲けようか……悪は栄えないというが、この世界においてはそうでもないのかもしれないな」

 

 声の調子を確かめ、頭の中の記憶を探り……ゴードンの姿と全てを模した〝それ〟は、にやりと笑みを浮かべる。

 コッコッ、と弾む心を表すように靴を鳴らし、自分の屋敷に入ろうとした時。

 

 ドサッ…と、布の塊が落ちるような音が響き、〝それ〟がくるっと振り向く。

 

「ひ、ひぃ…⁉︎ お、お前は一体…⁉︎ 旦那様に何を、何をした…⁉︎」

「……ああ、見られてたのか」

 

 腰を抜かし、青ざめた顔で震える御者の老人に、〝それ〟はゴードンの顔をしたまま眉間にしわを寄せる。

 一通り、周りに人がいないことを確認して事に及んだはずだが、老人が戻ってくる時機を見誤ったらしい。全て見られてしまったようだ。

 

 どうしたものか、と頬をかき、考え込む〝それ〟。

 やがて、〝それ〟はニヤリと笑みを浮かべ、悍ましく目を光らせ、老人の下に近づいていく。

 

「せっかくだ……お前も貰って行こうか」

 

 そう告げる〝それ〟の姿が、ぐにゅりと粘土のように歪んだ瞬間、老人はよたよたと慌てふためきながら走り出す。

 一刻も早く、あの化け物から逃がれなければ。

 

 しかし、老人の必死の思いを嘲笑うように、どぷりと津波のように押し寄せた〝それ〟が、老人を包み込む。

 最期の悲鳴さえも呑み込み、街には再び、不気味な静けさが漂うのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1.Along the way

「ほー? 故郷の村が魔物に襲われて、一族は散り散りになって、んで、ここまで流れて来たと……なるほどなぁ」

 

 じろじろと不躾な目を向け、使い古された鎧を身に纏う禿頭の男が呟く。

 視線の先にいる、小柄な少女。人より長く、森人(エルフ)よりも短い耳を持つハーフエルフの語る事情を、事実か否かを判断しているようだ。

 

 少女は緊張した面持ちで、国境を守る熟年の衛兵の判断を待つ。

 身分を示す物は何も無い、賄賂となる金銭も持ち合わせていない。言葉と態度だけで、隣国との交路を守る彼の信用を得なくてはならないのだ。

 

「い、行くところがないんです。隣のレ…レーヴェン共和国なら、亜人でも雇ってくれるお店もちゃんとあるって、旅の途中で教えてもらったので……」

「まぁ、確かにそう聞いてんな。ふーむ…」

 

 じっと真剣な面持ちで見つめて来る少女の前で、顎をさすって考え込む衛兵。

 しばらくの間黙り込んでいた彼は、やがて傍に置かれた棚に歩み寄り、中にしまっていた一枚の紙を取り出す。

 

『是を所持する者の通行を許可する』と記されたその書類に、衛兵は懐から取り出したハンコにインクをつけ、ぺたりと押し付けた。

 

「おらよ、国に着くまではずっとこれを持ってな。失くしたら向こうでまた審査せにゃならんから、気ぃつけろよ」

「!あ…ありがとうございます!」

 

 認可を得た事を示す書類を受け取り、少女ーーーエイダはパッと顔を明るくする。

 とりあえずの第一関門を突破できた事に、ほっと安堵の息をつく。話した事情も()は一切口にしていないため、当たり前といえば当たり前なのだが。

 

「……しっかし最近は本当に魔物絡みの事件が多いよな。この間も山向こうの国で化け物が暴れて、とんでもねぇ被害が出たって話だぜ」

「へ、へー…大変ですね」

 

 親し気に話しかけてくる衛兵に、エイダはびくっと肩を揺らし、冷や汗をかきながら相槌を打つ。

 衛兵はやや不振な彼女の様子も、亜人ゆえの遠慮や怯えからくるものと感じてか、然して気にすることなく手続きを進める。

 

 その時、エイダの足元にできた影が、不意にゆらりと揺れた。

 

「…モウ、イイノカ?」

「…まだです。まだ絶対に出てきちゃダメですよ」

「暇ダ、ソレニ腹モ減ッタ」

「我慢してください…!この場でだけは出てこないでください、お願いしますよ…!」

 

 ふと、小さく聴こえて来る異形の声に、エイダは顔を引きつらせながら懇願する。

 エイダの影に潜む巨大な異形は、渋々といった様子で沈黙し、影の世界の奥底へと引っ込んで行く。

 

 ほっ、と安堵の息をつくエイダ。

 そこへ、全ての手続きを終えた衛兵が手招きをし、関所の扉を開け放った。

 

「そいじゃ、お気をつけて。良い旅を! またいつか機会があったら会おうや」

「あ…は、はい! ありがとうございます!」

 

 強面の顔をにっと笑顔にし、快く迎え入れてくれる衛兵。

 エイダはおっかなびっくりといった様子で、彼の隣を通り抜け、関所の扉を潜る。

 

 その向こうにずっと続く、多くの商人達が通ってできた広い道。地平線の彼方まで続いて見えるそれを見つめ、エイダはほぉっと感嘆の声をこぼした。

 故郷の森ではまず見た事がない景色に、遠く大きく広がる世界に、胸の中に期待が膨らんでいく。

 

 背後で関所の扉が閉じられ、ゴゴンッと重い音が響き渡ってから、エイダはようやく安堵の息をついた。

 

「……もう、大丈夫ですかね? 出てきてもいいんじゃないでしょうか?」

 

 自分の影に向かってそう呼びかけ、返事を待つ。

 しかし、いつまで待ってもなかなか声が返ってこない。

 

 エイダが訝しげに首を傾げ、「おーい」「もしもし~?」と何度も声をかけ、影の部分をつんつんと突いてみるも、一向に返事がこない。

 だんだんとエイダの背筋に震えが走り、頭の中が嫌な予感で一杯になり始めた。

 

「…まさか、まさか…!」

 

 バッ、と先程の衛兵がいた方を振り向き、異変がないか音を探る。

 腹が減った、という彼の言葉をもっと考えていれば、とエイダが深い後悔に苛まれたその時だった。

 

「ギ―――!」

「グルゥアアアアアアアアア!!」

 

 背後で、進むはずの方角から響き渡る、何かの生物の断末魔の声。それとほぼ同時に聞こえてくる、巨大な肉食生物の咆哮。

 緊迫していた表情からどっと力を抜き、半目で振り向くエイダは、思い切り肩を竦めてそれを見やる。

 

 天空を舞っていた、死肉を狙う鳥の群れと、そこに飛び掛かる巨大な黒い竜。

 見上げるほどの高さなのに、易々と跳躍して数羽を纏めて喰らっている怪物を睨み、エイダは思わず顔を覆って天を仰いでいた。

 

「もう…! 余計な心配をかけさせないでくださいよ、アサルティさん!」

「ガフッ…ガフッ! ン? 何ガダ?」

 

 仕留めた獲物にかぶりつき、満足げに呑み込む黒竜が、訝し気に振り向き尋ねてくる。

 悩みなどまるでなさそうな、そしてこちらの悩みを一切考えていなさそうな怪物の態度に、エイダはもう、げんなりとした気持ちで肩を落とすほかにない。

 

「勝手にどこかに行かないでくださいって言ってるんです! こっちはもう、あなたがとんでもない事しちゃったんじゃないかって心配になったんですからね!?」

「知ルカ、ソンナモノオ前ノ勝手ナ妄想ダロウニ」

「そりゃあ、そうですけど……!」

 

 エイダの心配などまるで気にせず、黒竜アサルティは次なる獲物を探し、そして見つけ次第即座に影の中に潜り、音もなく襲い掛かりに行く。

 自由気儘、いや、自分勝手な同行人の気性に、エイダは深く重いため息をこぼすばかり。

 

 衛兵がいつ気付くか、とエイダは審査の間ずっと戦々恐々としていた。

 魔物に故郷が襲われたのは確かだが、その魔物の一体が、今まさに自分の影の中に潜んでいるなど、絶対に誰にも言えるはずがない。

 

「ギャア! ギャァア!」

「待テ! 獲物共! 大人シク俺ノ糧ニナルガイイ! グルルルル!」

 

 そしてこの同行人といったら、急にふらっといなくなっては獲物を探しに行ってしまう。

 一応、共に旅をしてはくれるのだが、気付けば姿が見えなくなり、エイダに最悪の想像をさせる。

 

 彼女の最近の悩みはもっぱら、この恐るべき怪物とどのように過ごしていくのか、という事ばかりだった。

 

 

 

「ですから! ご飯を食べに行く時は一声かけていってください! 僕も今だいぶお腹空いてるんですから!」

 

 ズブズブと影の海を高速で進む黒竜とハーフエルフの少女。

 巨大な背の上で頬を膨らませ、抗議の声を上げる少女に対し、黒竜は目を細め、やれやれと言わんばかりに鼻を鳴らす。

 

 一人、いや一体で始まった宛てのない旅。

 目覚めてから然程経っておらず、自らの存在そのものを把握しきれていない黒竜は、自分の懐に無遠慮に入り込もうとしている耳長の少女に対し、呆れと困惑の感情を抱いていた。

 

「……勝手ニ食イニ行ケバイイダロウガ」

「前にそうしようとしたら置き去りにされかけたからですよ!」

 

 ぷんぷんと怒りをあらわにし、エイダがアサルティの背中をぱしぱしと叩く。

 エイダとしては本気で叩いているのだが、硬い鱗に覆われたアサルティにしてみればそよ風のようなもの。ただし、鬱陶しいものであることは間違いなかった。

 

「……ソモソモ、オ前ガ勝手ニツイテ来タダケノ話ダ。俺ハオ前ト別レテモ一向ニ構ワン」

「あー! あーあー、そういう事言っちゃうんですね! いーですよいーですよ、是が非でもしがみついてやりますからね!」

「ダカラナゼソウイウ話ニナル……」

 

 冷たく突き放す言い方をするも、エイダはますます黒竜の身体に捕まる力を強めるだけ。

 元は単独での旅を望んでいたアサルティは、ぐるぐると唸りながら首を竦める。

 

(何だってこんな事になったのやら……共に旅をするのなら、彼女の方が遥かにましだったな。少なくとも此奴よりは確実に礼儀正しかった。今頃どこにいるのやら……)

 

 脳裏に浮かぶ、自分に名前を付けてくれた女騎士の顔。

 突然現れて同種を喰い殺した自分に、意思疎通の意思があると見ればすぐに話しかけてきた。

 

 なかなかに稀有な人物であり、この場にいればおそらくはしっかりと話をしてから、双方納得して旅をしていたであろう女性。

 今やもう懐かしいという想いさえ抱く彼女を、黒竜は内心で欲していた。

 

(住む場所をなくしたからついて行くと言ったのだ。此奴の言う国、適当な人里の元に置いて行けばいいか…)

「アサルティさん! 聞いてるんですか⁉」

「……聞イテイル、煩イ奴メ」

 

 自分の目を覗き込み、無視されていないかと確かめてくるエイダに、アサルティはふんと鼻を鳴らす。

 いつまでこんな耳障りな相棒と旅をしなければならないのか。そんな悩みを抱えつつ、黒竜は果てしなく続く道を、影に浸り泳ぎ続ける。

 

 ひょんなことから始まった、凶悪な姿と能力を持った怪物との旅。

 帰るべき場所を失った少女と、帰るべき場所を知らない黒竜による、宛てのないどこか遠くを目指す道。

 

 始まってまだ数週間しか経っていないというのに、エイダはこの同行人との付き合い方に大いに悩み、そして早速胃が痛むのを感じるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2.Night

 パチパチと火の粉を吐く焚火の傍で、木の実の固い皮が剥かれていく。

 

 夜も更け、三つの月が上がり始めた時間。

 エイダは椅子にできそうな手頃な石と、目印にできる木を見つけ、焚火を用意して自分とアサルティの分の料理の準備を始める。

 

「もうちょっと待っててくださいね…! アサルティさんの分は多いので、準備にも時間がかかっちゃうので……」

 

 山積みになった、そこらの樹々に生えていた果実。

 大量に摘み取ってきたそれらの皮を剥き、持ち歩いてきたその他の材料を合わせ、以前アサルティにも好評だった菓子を作る準備を行う。

 以前は自分の分だけで足りていたのだが、今の旅には大食漢である黒竜の分も作らなければならない為、少女は額に汗を滲ませながら刃物を握りしめる。

 

 先に、そこらの獲物を狩って食事を済ませていたアサルティは、いそいそと皮を剥くエイダを見つめて、ふと声を漏らした。

 

「……オ前、少シ変ワッタカ」

「え? 何でですか?」

「以前ノオ前デアレバ、俺ガツイテクルナト命ジレバ身ヲ縮コマラセ、スゴスゴトドコカヘ去ッテイタト思ウ。最近ハ……図々シクナッタ」

「なっ…!」

 

 アサルティの言葉に、カッと目を吊り上げて腰を浮かすエイダ。

 しかし険しい顔でしばらくの間葛藤したかと思うと、渋々といった様子で座り直した。

 

「…アサルティさんに迷惑かけてるのは、わかってますよ」

「アタリ前ダ。ワカッテイナカッタラオ前ノ神経ヲ疑ッテイルトコロダ」

「そういう事じゃなくて!」

 

 皮肉を吐くアサルティに声を荒げつつ、一旦木の実と刃物を脇に置くエイダ。

 不満げに唇を尖らせながら、ハーフエルフの少女はもじもじと指を絡ませ、俯く。赤く染まっているのは、焚火の所為だけではなさそうだ。

 

「変わらなきゃ……って、思ったんです。帰る処もなくなって、知り合いもいなくなって、僕一人になっちゃって……どうすればいいのか、何もわからなくなっちゃいましたし。…僕の居場所がどこなのか、わからなくなったんです」

「…ソレデ?」

「だから……探そうと思ったんです。どこに行けばいいのか、どうしたらいいのか、目的と目的地を探そうと思いまして……アサルティさんについて行けば、それがわかるような気がしまして」

 

 ぽつりぽつりと、黒竜の視線を気にしながら呟き、恥ずかしそうに目を逸らすエイダ。

 アサルティはそれに呆れた目を向けつつ、口を挟む事なくじっと耳を傾ける。

 

「それで、いつまでもうじうじしていたら、どこにも行けないままなんじゃないか……って、思いまして」

「…ソレト俺ニツイテイク事トハ、マタ別ノ問題ダト思ウガナ」

 

 じろり、と目を細め、アサルティはずぶずぶと影の中に身を鎮める。

 身勝手な決定を下したものだ、と少女に対し文句を言いたくなったが、何故だかそれを否定する事はできず、ふんと鼻を鳴らすだけに留める。

 

 本人も、自分の考えが自分本尾である事を理解しつつ、不意に黒竜に不思議そうな眼差しを向け始めた。

 

「あの……アサルティさんは結局、何者なんでしょうか?」

「俺ガ知ルカ」

「だからそういう事じゃないんですってばぁ!」

 

 詰まらなそうにそっぽを向く黒竜を、少女は泣きそうな声で呼び止める。

 心底面倒臭そうに眉間にしわを寄せたアサルティは、仕方がないという風に唸り声をこぼし、エイダに顔を寄せる。

 

「…俺ハ、気ガツイタラ影ノ海ヲ漂ッテイタ。ソレ以前ノ記憶ハナク、腹ノ虫ガ促スママニ獲物ヲ探シテ彷徨ッテイタ。ソレ以外ノ事ハ、本当ニ知ラン」

「父親や母親の事は……?」

「知ラン……イタノカドウカモワカラン。ソウイウ記憶ハ一切残ッテイナイノダ」

 

 エイダに語りながら、アサルティ自身も疑問を抱く。

 

 呼吸をしていない事や、影に潜る能力を持っている事を除けば、見た目は基本的に普通の生物と変わらない。傷を負えば血を流し、腹も減る。

 ならば、自分を生み出した親と呼べる存在がいる筈なのではないか、と。

 

「どんな方なんでしょうね……あ、方っていうのはおかしいか。どんな竜……怪物? どういえばいいんでしょうか?」

「知ラン……トイウカ、ドウデモイイ」

「どうでもよくは……まぁ、どんな親かは人によりけりですしね。子がだめだめでも親が立派だったり、反対に子がしっかりしてても親が駄目な人だったり……」

「…オ前ノ故郷ノ連中モソウダッタヨウダカラナ」

「……死んだ人にそんな事言ったらだめですよ、アサルティさん」

 

 エイダの生まれを理由に、力尽くで排除しようと目論んでいた里の長の子について思い出し、吐き捨てるアサルティにエイダが苦言をこぼす。

 無残な最期を遂げた彼らの事をエイダも思い出してしまい、居心地悪そうな表情で視線を逸らす。

 

 あれほど辛辣な目に遭わされたというのに、恨み言をあまりこぼそうとしないエイダに、アサルティは内心でため息をつく。

 

(お人好しめ…多少悪態をついたところで誰も咎めまいに。ましてや、此奴こそ奴らに復讐する資格があるだろうに、馬鹿な奴め……)

 

 多少正確に変化は起きたようだが、いつまで経っても里の連中への憎しみを持てないでいる少女。

 自分とはどこまでも異なる在り方である少女に、呆れと共に逆に感心もしていたアサルティは、ふと自分自身の原点について考え始める。

 

(親、か……いるとすれば、少なくとも俺と似た姿をしているはず。だとすれば、俺と同じように影の海の中を泳いでいるのだろうか……?)

 

 ふと、アサルティは瞼を閉じ、その光景を想像してみる。

 大きさの異なりはあるが、自分とよく似た黒い竜が闇の世界を泳いでいる景色。自由気儘に闇の中を進み、腹が減れば外の世界へ飛び出し、獲物を捕らえに向かう……そんな生態。

 

 だが、光源が全くないために背景と完全に同化している、という残念な想像しかできなかった。

 

(姿が見えないのでは、それが同族かどうかもわからんな……最悪の場合、共食いになっているやもしれん。何と厄介な生物に()()()ものだ)

 

 自身に対する皮肉をこぼしながら、内心で嘆息するアサルティ。

 実際に遭遇したとして、どんな結末になるか考えてみても、憂鬱な末路しか思い浮かべる事ができなかった。

 

 もしも自分の同族が、自分を生み出した存在が現れたとしても、決して友好的な感情は抱けないだろう。

 根拠は何一つとしてないが、そう思った。

 

「……グルルルル」

 

 不意に、アサルティは自身の胸に、むかむかとした嫌な感情が湧きあがってきたことに気付いた。

 

 怒り、憎しみ、嫌悪。

 存在の全てを否定したいというどす黒い感情が胸の内から湧き上がり、視界が黒く染まっていくような錯覚に陥りだす。

 

 親、創造主、生産者。自身をこの世界に産み落とした存在、自身をこんな姿にした張本人。

 己が頼んだわけでもなく、願ったわけでもなく、意味もなく姿形を勝手に決め、悍ましき力を与えてこの世に追いやった、吐き気がするほどに腹立たしき者。

 

 

 もし、そんな存在と相対したら―――。

 

 

「……さん、アサルティさん!」

 

 その声に、はっと目を見開く。

 我に返ったアサルティが目をやれば、何やら心配そうに顔を覗き込むエイダの姿が目に映った。

 

「…何ダ?」

「何だじゃないですよ! 急に黙り込んで、返事もしてくれなくなって、無視されてるのかと思ってちょっと怖くなっちゃったでしょうが! …どうしたんですか?」

 

 腰に手をあて、怒声を上げるエイダに、黒竜はパチパチと目を瞬かせる。

 どうやら、先程からずっと話続けていたらしい。なのに何も言葉を返さなくなり、長い間沈黙するアサルティに、不安が爆発したようだ。

 

 ものの数秒だけ、思考に耽っていたつもりであったアサルティは、目尻に涙を溜めるエイダに呆れた目を向けた。

 

「……何デモナイ。ソレヨリ、用意ハマダカ?」

「あっ……と、すみません忘れてました」

「……ソレノ為ニ、オ前ノ同行ヲ認メテヤッテイルト言ッテモ過言デハナイノダゾ」

 

 アサルティにせっつかれ、せっせと果実の皮を剥く作業に戻るエイダ。

 白い果肉が露わになっていく果実を見下ろしつつ、エイダはフッと笑みを浮かべた。

 

「まぁ、どんな人が親でも、僕は今は感謝していますよ。生んでくれてありがとうって」

「…アンナ目ニ遭ッテモカ?」

「…死にたいって思ったことは何度もありますけど、今は違いますね」

 

 エイダはまた手を止め、アサルティに手を伸ばして、ごつごつとした鱗を撫でる。その感触が嬉しくて堪らないというように、何度も何度も黒竜の肌を撫でつける。

 少女の頬は、いつしか林檎の様に淡く、先程の羞恥とは異なる赤色に染められていた。

 

「こうしてアサルティさんにも会えましたし……良い事も確かにあったんだ、って母さんに自慢したいなって思うんですよ」

「……アッソ」

 

 照れ臭そうに笑うエイダから、アサルティは雑な返事を返してぷいっと顔ごと目を逸らす。

 触れない距離まで離れてしまい、少女がしょぼんと寂しそうな顔になるのも構わず、ずぶずぶと影の中に身を潜めてしまう。

 

 ただしそんな本気の感謝の言葉を受け取り、悪い気にはならなかった。

 

(……まぁ、此奴が共に在りたいと言い続ける限りは、一緒に旅をしてやってもいいか)

 

 本人には決して言えない言葉を内心で吐き、少女が作る菓子の完成を待ち侘びるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3.First foreign country

 実に数日かかった、国境を越えてからの旅。

 野を越え川を越え、時折再発するアサルティの暴走を何とか止め、エイダの疲労が徐々に限界に近づき始めた時。

 

 長く果てしない道を歩いていたエイダ達の横を、一杯に荷物を積んだ馬車がガラガラと忙しなく通り過ぎていく姿を、頻繁に見るようになる。

 同時に大きな荷物を背負った人々とすれ違うようになり、何事かと訝しんだエイダは、進行方向に目を凝らしてみる。

 

「…! アサルティさん、見えましたよ!」

 

 草原の遥か先に広がる広大な山々。その麓に広がる、真っ白で長い壁に気付いたエイダははっと目を見開き、歓喜の声を上げる。

 こうしてすれ違う者が多くなってきたのは、目的地である国が近く、商人や旅人が集まって来ているからに違いない。

 

 数えるもの億劫になるほどの数の商人達を見やり、足元を見下ろし小声で話しかける。

 

「……美味しいものとか期待できそうですね」

「……ダトイイガナ」

 

 エイダの足元の影に潜んだまま、アサルティは頭上に多く集まる気配を察知して呟く。

 大勢の前で自分が姿を現すと、余計な騒ぎに巻き込まれかねない。そう考え、また空腹を訴えだした胃を慰めるため、狩りに赴こうとする自分自身を抑え込む。

 

「……ドウデモイイガ、コウモ大量ニ生キ物ノ気配ガアルトヤヤコシクテカナワン。俺ハ今マデ、地上ニイル者ハ皆、選ンダリセズニ食ッテイタカラナ」

「……やめてくださいね? 絶対襲い掛かったりしないでくださいね?」

「……善処スル」

 

 近くを歩いていた商人が、訝しげな目を向けてくる事に肝を冷やしつつ、エイダは同行人の存在を悟られないように細心の注意を払う。

 

 この恐るべき怪物が、自分達の真下に潜んでいる……などと発覚した暁には、この場はとてつもない恐慌状態に陥り、最悪自分は怪物を連れてきた狂人として捕縛されるかもしれない。

 そうなったら最後、国に仇為す魔女か何かと詰られ、石を投げられたり暴行されたり、挙句首を落とされるような、最悪の未来しか想像できなかった。

 

「んんっ……アサルティさん、くれぐれも人前では出てこないでくださいね? 約束ですよ?」

「……一人カ二人クライハ駄目カ?」

「だめです」

「……ケチナ奴ダ」

 

 厳しい表情でエイダが告げると、アサルティは不満げな唸り声をこぼし、やがて渋々といった様子で黙り込む。獲物の気配が集まった地上から、ずぶずぶと潜って離れていったようだ。

 

「ごめんなさい、アサルティさん……でも、行方不明事件の容疑者になる事は勘弁してほしいんです」

 

 エイダとしては、恩人である怪物に窮屈な思いをさせたくはなく、できれば食事くらい自由にさせてやりたいと考えている。

 

 しかし、もし彼が国の住民達を獲物に狙い始めれば、犠牲者はきっと数人では済まなくなる。

 数十人か数百人か、もしかすれば数千人……町丸ごとの人間が姿を消し、結局とんでもない騒ぎになって捕らえられる未来しか見えなくなる。

 

 自分の不安を考え過ぎと思う事なく、エイダはぶるりと体を震わせる。

 

「……アサルティさんのご飯をどうするか、しっかり考えなくてはなりませんね。長の所から持ってきた()()があればしばらくは……」

 

 エイダは独り言ちりながら、肩に担いだ荷物に目をやる。

 一番奥、もっとも盗まれにくそうな箇所に隠したそれが、今後の自分の運命を決める……正確には、かの黒竜のご機嫌を左右する鍵となる。

 

 荷物を下から持ち、中に隠した者の重さを確かめてみたエイダは、やがて顔中に冷や汗を垂らしながら目を逸らす。急に心許なくなってきたのだ。

 

「…ま、まぁ、大丈夫ですよね。食べ物くらい何とでもなります。大丈夫……大丈夫」

 

 脳裏に過る、自分の首が地面に転がる光景に、エイダは知らない間にごくりと唾を呑む。

 何とでもなる、と前向きに考えようとして、しかしどうしても自分が人間達に囚われ、罪を償う為と称して何処かに売り飛ばされるか、惨い殺され方をする未来を想像してしまう。

 

 周囲の商人達に困惑の目を向けられながら、エイダは国に着くまでの間、ぶつぶつと自分を励ます事に集中し続けたのだった。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

 そして彼女達は、ようやくその地へ辿り着いた。

 無数の山々が連なってできた壁の根元に作られた、端が霞んで見えない程に長く弧を描く見上げる程に高く白い壁と、色とりどりの壁や屋根が連なる街。

 

 徐々に近づく白い塀、その一部に開いた、二人の兵士に守られた入り口を潜り、エイダはおずおずと中へと入る。

 

 奥に広がっていたその景色に、エイダは思わず感嘆のため息をついた。

 

「おっ……きいですね!」

 

 門からずっと先に続く、長く広い石畳の道。

 故郷の森ではまず見られない直線があちこちに見られ、きっちりと整えられた街の中を、数えきれない数の人々がさも当然のように行き交っている。

 

 さらには、左右を見るとそこかしこに見つかる、街中を流れる水路の数々がエイダの目を惹く。

 国の中心を通り、綺麗に真っ二つにしているようなそれから幾つもの支流ができ、街中に流れていく。人々は船を使い、陸地だけでなくその水路も通り道にしているようだ。

 

 そんな光景を前に、人間とは斯くもすさまじい技術を誇っているのか、とエイダは思わず道の真ん中で立ち尽くし、間抜けな顔を晒してしまっていた。

 

「はぇー…わっ、っとと」

「……おい、嬢ちゃん、邪魔だよ。どきな」

 

 瞬きも忘れるほどに呆けていたエイダは、後ろから見知らぬ中年男性に小突かれてようやく我に返る。

 慌てて横にどき、自分の後ろで詰まっていた入国者達がぞろぞろと進み出す。中にはエイダを睨み、ちっと舌打ちをこぼす者もいて、申し訳なさでぐっと縮こまる。

 

「大きいとそれだけ人も多い……当り前ですよね。考えなしに歩いていたら、すぐに迷子になってしまいそう…」

 

 小さく呟き、道の端から街を眺めてみる。

 

 無数の蟻の子のように密集する人々のせいで、真っ直ぐな道の先がどうなっているのか全く見えない。

 辛うじて、遠くに小さく見える建物……聳え立つ尖った塔が幾つも生えた何か見える。外から見えた塀の広さから考えて、丁度中心辺りに立っているあの建物は、偉い人間の住む場所であろう。

 

 だが、目印になりそうなのはそれだけ。国の中心点がわかるというだけで、どこに何があるのかなど、慣れていなければ全くわかりそうにない。

 果たして、この国の者達はきちんと街の配置を理解しているのだろうか、とそんな疑問が浮かぶくらいの広大さだ。

 

「……ま、まぁ、森での暮らしに比べれば、こんな街の配置を覚える事なんて簡単ですよね。大丈夫、大丈夫……きっと」

 

 自分で自分を納得させ、エイダはやや冷や汗を垂らしながら、道の奥を目指す人々に混じって歩き出す。

 目的地などない。取り敢えず他の者達が歩く方向について行き、どうするかを決める。浅はかな思考だったが、適当に進んで人気のない所に迷い込むというような結末を迎えるよりはましだった。

 

 緊張の面持ちと共に、荷物をきつく抱きしめて進むエイダ。

 彼女の足元に、ずるりと巨大な竜の影が浮かび上がると、半森人の少女は少しだけ表情を緩ませた。

 

「……おかえりなさい。どこかで、ご飯でも?」

「……少シダケ。ソコラニイタ鳥ヲ数十ホド、コノ程度デハ腹ノ足シニモナランガナ」

 

 小声で足元に話しかけると、足元の影の中から微かに鼻先が浮かんできて、不満げな呟きが帰ってくる。苛立っているのか、危うく周りの者に聞こえそうな唸り声もこぼれている。

 エイダはそれはそうだ、と苦笑を浮かべ、足を動かしながら自分の荷物の中を探る。

 

 ごそごそと袋の奥底を探り、やがて彼女は両掌で抱えられるほどの大きさの袋を―――じゃらじゃらと音を立てる、数十枚の金色の貨幣が詰まったそれの中を覗く。

 

「長の話じゃ、これがないと人間の街じゃご飯を食べる事もできないみたいだし、どのくらいの量でどれだけ必要なものに替えられるかわからない……慎重に使わないと」

 

 かつて、里の長から少しだけ聞いた、人間の道具の話。

 金という、自分が欲しいものと交換したり、どこかで働いた努力の量に合わせて渡されるものだというもの。

 

 森を出て、全く知らない世界に旅立つにはきっと必要になるだろうと考え、崩壊した里の中の家々や長の屋敷から探し出してきたそれを、大事に抱え込む。

 そんな彼女を影の中から感じ取り、アサルティはじとりと恨みがましげな眼差しを向けた。

 

「……ヤル気ヲ見セルノハ結構ダガ、俺ハ腹ガ減ッタノダガ?」

「……どこかで食べ物を得るのは賛成ですけど、お願いですから少しくらい制限をかけて下さいね」

「……善処スル」

「……本当にお願いしますよ」

 

 素直に言う事を聞いてくれるか怪しい同行人に嘆息しつつ、エイダは貨幣が入った袋を荷物の中に再度仕舞い込む。そして、両手でぐっと握り拳を作り、誰にともなくやる気を見せつける。

 

「さぁ、行きましょうか!」

 

 取り敢えず決まった次の目的地。腹拵えができそうな場所を目指し、多くの人々が行き交い出来た影の中に巨大な竜を紛らせて、少女は国の奥を目指すのだった。

 

 ―――その背中をじっと見据える、一組の鋭い視線があった事にも気づかないまま。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4.Suddenly

「へい、いらっしゃい! 肉屋ボビーの出張串肉屋台、ただいま営業中だよ! 赤字覚悟の大安売り! なくなったら即閉店だ! 買わなきゃ損だよ~!」

 

 大きな通りを進むと、左右に鮮やかな屋台が多く続く様が目に映る。

 道行く人々を呼び止め、店先に並べた色とりどりの品物を見せつけ、巧みな言葉で興味関心を惹く。

 

 特に、香ばしい匂いを漂わせる料理を出す店の前には人集りができていて、我先にと貨幣を手に握りしめ、火に炙られる串に刺さった肉の塊を求める。

 赤いたれに彩られた串肉が売れる度、屋台の主はほくほくと満足げな笑みを浮かべてみせていた。

 

 そして、そんな巧妙な手口に乗せられ、半森人の少女もふらふらと屋台に吸い寄せられていた。

 

「はぁ……美味しそうです。でもあれを求めてしまったら今後の旅に影響が……でも、本当に美味しそうで……でも……やっぱり……」

 

 視線はしっかり串肉に釘付けに、口の端から涎を垂らしながら、エイダは自分の中で理性と本能が激しく鬩ぎ合っている事を自覚する。

 

 本来、森人は獣や魚の肉を食べられないのだが、半分人間の血が混じったエイダは話が別である。

 肉も魚も普通に食し、他にもエルフが好まない食物……例えば作物や発酵食品に対しても忌避する事はない。比較的、生物として雑食性と分類される人間に近い趣味嗜好をしているのだ。

 

 そんな彼女が迷っているのは、目の前で香ばしく炙られる串肉を求めるか否か。

 手持ちの貨幣の量と自分の食欲を天秤にかけ、本能に打ち負かされそうになっている自分を必死に奮い立たせようとしていた。

 

「だ、駄目…! あんな誘惑に乗ったりなんかしちゃ、絶対に駄目なんです…! これは僕の未来を左右しかねないもの……こんな所で安易に使ったりなんかしちゃ駄目なんです…!」

 

 誰に言い訳をしているのか、伸びそうになる片手をもう片方の手で抑え、一歩を踏み出しそうになる片足の甲をもう片方の足で踏みつけ止める。

 

 串焼きの店を前に息を荒くし、目を潤ませる長耳の少女。

 傍から見ればそれは不審人物でしかなく、店に集まる客達は然して気にしていないものの、通りを歩く者達はそんな彼女からそそくさと離れていく。予期しない所で、エイダは無駄な注目を集めてしまっていた。

 

「く……はっ! あ、アサルティさん…!? ま、まさかとは思いますが、あれを食べたいなんて思ってませんよね…!? あなたのお腹が膨れるほどあれを買ったら、お金なんてすぐなくなっちゃいますから……だから、その、出来るだけ我慢を…!」

 

 足元の影に潜んでいる黒竜に向けて、咄嗟に気付いたエイダが必死に懇願する。

 ただでさえ恐ろしい程の量を喰い、然したる間隔を空ける事なく食欲をあらわにする怪物だ。釘を刺しておかなければ何処までも喰い続ける事だろう。

 

 そんな不安に苛まれるエイダであったが、予想に反してアサルティはその場に顔を見せる事はなかった。

 

「……あれ? あの、アサルティさん?」

「何ダ?」

「あの……欲しがったりしないんですか? 僕、てっきり欲しがるものかと……」

 

 香ばしい匂いを漂わせる串肉に対して、全くといっていいほど興味を示していないアサルティの様子に戸惑うエイダ。

 アサルティは影の中に潜ったまま、唖然としているエイダを見上げ、ふんっと荒く鼻息を吹く。エイダを小馬鹿にしているような態度であった。

 

「何故カハ知ランガ、アンナモノニ興味ハ微塵モ抱ケヌ……俺ハ生ノ肉ガ、特ニ自分デ狩ッタ獲物デナケレバ喰ウ気ガシナイヨウダ」

「あ、そうなんですか……へー」

 

 同行者の妙な拘りを知ったエイダは、ちらりと視線を上げて再度串肉を凝視する。

 同行人にあれを食する気がないのであれば、懐事情を気にする必要もなくなったという事だ。自分一人であれば大した量にはならないだろうから、暫く貨幣の扱いを気にする事もないだろう。

 

「……喰イタケレバ喰エバイイダロウ、オ前ノ金ダ」

 

 徐々に笑みを浮かべていくエイダに、アサルティが呆れた声で告げる。

 考えを見透かされたエイダはびくっと肩を震わせ、貨幣の入った袋を握り締めたまま、困り顔で串肉とアサルティを交互に見やる。

 

「迷ウ必要ナドアルマイ……腹ガ減ッタノナラ食エバイイダロウ。ソレヲキニ入ッタノナラバ」

「い、いやー、その……あんまり考えなしに使っちゃっても、あとで困っちゃうんじゃないかなー……と、考えちゃいまして」

「金ナド、使ウ為ニ在ルノダ。イツカ無クナル事ヲ危惧シテ、何カノ事故デ次ノ瞬間ニ全テ失クシテミロ……目モ当テラレンワ」

「ぐぅ……アサルティさん、竜なのにどうしてそんな含蓄に富んだ言葉を私にぶつけてくるんですか」

 

 怪物に諭されるという、非常に貴重で有難い経験のはずなのに、エイダは喜びなど一切感じず気恥ずかしさで一杯になる。

 

 しかし、それでエイダの気持ちは固まり始める。相場も正確な量もわかっていない貨幣、どれがどれだけ価値があるかもわからないそれらだが、確かに手元にあるうちに使っておかなければ危険だ。

 自分の足の甲に置いていた足をどけ、一歩踏み出しながら、エイダは足元のアサルティに再度視線を向ける。

 

「いいんですか、一杯買っちゃってもいいですか。実は僕もお腹空いてるんで、後先考えずにたらふく食べちゃってもいいですか」

「イイカラサッサト買エ。俺ハ腹ガ減ッタ……サッサトドコカニ食事ニ行キタイ」

「……人間は食べないでくださいよ?」

「善処スル」

 

 今一つ信用し辛い返答を貰い、エイダは改めて屋台に向き直る。

 香ばしい匂いは話している間も彼女の胃袋を刺激し、我慢の限界へと誘っていた。

 

「あの! そのお肉、一本……いえ、二本ほどいただけませんか!?」

 

 意を決し、袋の中から貨幣を一枚取り出したエイダが、客達の間から手を伸ばして屋台の店主に手渡そうとする。

 キラキラと金色に輝くそれでどのくらい買えるのかはわからない。しかし今はたった一本でもいいから口にしてみたくて堪らなくなっている。

 

 しかし、店主は何故か驚いた顔でエイダを見て、次いで彼女が抓んだ金色の貨幣を見下ろしていた。

 

「あー、嬢ちゃん、ほんとにこれで買う気かい? こっちとしちゃあ、もうちっと細かい金があると助かるんだがな……釣りが足りねぇよ」

「つり…? よくわかりませんけど、いらないのでこれで買えるだけ下さい!」

「お、おう……ほんとにいいのかな」

 

 店主は頭を掻きながら、再度エイダに間違いはないのかと確認をする。

 周りの他の客達からも困惑の視線を向けられている事にも気づかず、エイダはわくわくと店主を、彼が約串肉を見つめて目を輝かせる。

 

 しばらくの間悩んでいた店主は、やがて諦めたようにため息をつき、半森人の少女から貨幣を受け取ろうと手を伸ばした。

 

「ったく……お嬢ちゃん金使うのも初めてみたいだから、今回だけおまけしてや―――うおっ!?」

「ひゃっ!?」

 

 しかし、店主が貨幣を抓もうとしたその時。

 店主とエイダの間を、一つの黒く小さな影が走り抜け、二人の腕を弾き飛ばした。

 

 店主は驚いて仰け反り、エイダは目を見開いて後退ると、そのまま尻餅をついてしまう。

 周りの客達も思わず距離を取る中、小さな何者かは速度を緩める事なく、颯爽と人の間を走り去っていった。

 

「な、何なんですかあれは!? こんな人混みの中をあんなに走って……なんて失礼な!」

 

 大した痛みではないが、人前で転ばされたエイダが憤然とした声を上げる。

 目を吊り上げ、何者かが逃げた方向を睨みつけたまま、億劫そうに立ち上がって尻を叩く。せっかく気分が軽くなっていたのに、地面に思いきり叩き落とされた気分だ。

 

 ふん、と鼻息を荒くし苛立ちを露わにするエイダ。そこに、屋台の店主が恐る恐るといった様子で声をかけてくる。

 

「おい、お嬢ちゃん……さっき持ってた財布はどこやったんだ?」

「え?」

 

 言われてエイダは、自分の両手を見下ろしよく見る。

 一枚だけを取り出して、確かに握り締めていたはずの、多くはない、しかし決して少なくはない量の貨幣が詰まった袋。

 

 それが―――自分の手元から、忽然と姿を消していたのだ。

 

「あ、え、あぁ!? ど、どうして!? 何で……どこに行っちゃったんですか!?」

 

 ぎょっ、と目を見開いたエイダはすぐさま辺りを見渡し、暫くしてから先ほど走り去っていった謎の人影の事を思い出す。

 

「ど、泥棒! 泥棒~!!」

 

 意味のない叫び声を響かせてから、エイダは慌てて自分の生命線を奪った盗の後を追いかけに向かう。

 奇声を上げ、うろ覚えな恰好しか手掛かりのない小さな影を探しに、エイダは一目散に大勢の人でごった返す街の中を駆けていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.Thief

「……何ヲシテイルノダ、アイツハ」

 

 エイダが去った串肉の屋台の前では、取り残された店主や客達が呆けた顔になり、彼女が去った咆哮を見やって囁き合っていた。

 銅貨十枚ほどで買える串肉に、その千倍ほどの価値がある金貨を差し出した世間知らずの亜人の少女。その後の怒涛の展開で、その場にいた全員が呆れ果て、立ち尽くしていた。

 

(騒動に巻き込まれねば気が済まんのか、あいつは……俺に騒ぎを起こすな、厄介事を起こすなといいつけておいて、勝手な奴だ)

 

 屋台の影に映った影の中から地上に目を浮かばせて様子を伺いつつ、アサルティは思考する。

 目を細め、喧しく騒いで走り去った少女の向かった方を見やり、如何したものかと唸りながら考える。

 

 見るからに高価そうな貨幣を隠す気も見せず、大して高価でもなさそうな串肉をと交換しようとして、どこぞの盗人の獲物にされてしまった。

 完全なエイダの自業自得なのだが、これまで森で一人で暮らしてきた彼女にそのような事を考える事を期待するのも、酷な事に思えた。

 

(ここで別れてもいいが……絶対に後で騒ぐに違いない。全く……勝手に一緒に来たくせに、勝手にいなくなるとは、最初に会った時より、間違いなく我儘になっているな、あいつは)

 

 置いていったとしても、そのうち追いついてくるかもしれない。

 もしそうなった時、放置された時間が長ければ長いほど、エイダは自分に不満と怒りをぶつけてくるだろう。それは間違いなく面倒臭い事態だ。

 

 ぎゃーぎゃーと喧しく喚く様が容易に想像でき、アサルティは厄介な同行者に心底呆れを抱く。

 

(面倒臭いが……暫く付き合ってやるか、どうせ、この先やる事もやりたい事も無いのだしな)

 

 心の中で独り言ちると、アサルティはずぶずぶと影の中に潜っていく。

 どうせどこに行ったとしても、気配を辿ればすぐに追いつける、と軽く考えながらエイダの居場所を探り出す。

 

 しかし、その時アサルティは完全に沈む前に、辺りに今一度鋭く視線を巡らせ、奇妙な違和感に苛まれている事を自覚した。

 

(……気のせいか? ここらの人間の気配は、似ているというか、()()()()()()()()()()()()()()な。妙な街だ……気持ちの悪い)

 

 これまでに感じた事のない感覚、見た目は異なるのに、辺りにいる人間全てが全く同じ存在であるかのように感じ、君の悪さを覚える。

 しかしアサルティはそれ以上気にする事なく、ずぶりと完全に影の中に沈み、そして影毎跡形もなく消えてしまうのだった。

 

 

 

 国の入り口付近よりも、遥かに大勢の人々が集まり、ひしめき合う街の中心地。

 隙間などほとんど見当たらない、通ろうとすれば即座に四方を囲まれてしまいそうな中を、黒い小さな影は慣れた様子ですいすいと抜けていく。

 

 まるで人の動きを全て予測し、最短の道を算出しているかのような素早さで、後を追うエイダをみるみる引き剥がしていった。

 

「くっ…! 待ちなさい! 私のお金……返してください!」

 

 叫び、必死に手を伸ばしながら呼び止めるエイダだが、黒い影は立ち止まるどころかさらに加速し、みるみる遠くへ離れ、小さく見えなくなっていく。

 自分を嘲笑うかのようなその後ろ姿に、エイダはかっと頭に血を昇らせ、自身の肺があげる悲鳴を無視し、突如大きく跳躍する。

 

 鬱陶しい人混みの上を飛び越え、大通りの片側の屋台の屋根の上を飛び跳ね、進む。

 大通りの人々から驚愕と困惑の眼差しを受けながら、それらを一切気にすることなく、人混みの中を走り抜ける影の跡にぴったりと張り付く。

 

「逃がしませんよ…! 絶対に取り返してみせます!」

 

 きっ、と鋭い目で小さな背中を補足し、その場から大きく跳躍すると通りの片側に並んだ屋台の屋根の上に飛び移る。

 辺りや屋台の店主達からどよめきの声が上がるも気にせず、屋根と屋根の間を軽々と飛び越え、まるで風のような素早さで駆けていく。

 

 森での暮らしで得た俊足と体力、どんなに足場が悪くとも体勢を崩さない平衡感覚。

 半分とはいえ、森人の身体の力の全てを使い、込み合う人混みの中から飛び出したエイダは上から盗人の後を追いかける。

 

「そこです! 次で勝負を決め―――」

 

 位置を確かめ、時機を見計らい、飛び掛かって盗人の動きを止めようと考える。

 他の者を巻き込まないよう、自分を凝視している者達の動向を常に気にしながら、意を決して再び飛ぼうとしたその時。

 

 不意に、盗人が一人の通行人の影に隠れた直後、二つに分かれて別々の方向へ走り出した。

 

「―――ヘ⁉」

 

 突然の事に、エイダはぎょっと目を見開いて思わず立ち止まる。

 ずっと目で追い続け、瞬きも必要最低限に抑えて見逃す事など無かった相手が、突然二手に分かれた事に動揺してしまう。

 

「え、えっと…⁉ ど、どうして⁉ 二人になった……ぶ、分身⁉ 双子⁉」

 

 おろおろと戸惑いながら、全く異なる方向に行ってしまう二人を交互に見やる。

 どちらが自分が先ほどまで追いかけていた相手なのか、それともどちらかが自分を惑わせる幻なのだろうか。何が起こっているのかまるでわからず、眼を見開いて立ち尽くす。

 

「えっと、えっと……ええい、ままよ!」

 

 迷ったエイダは勘で片方を標的に捉え、再び屋根の上を跳躍して追いかける。

 いきなりの事態に困惑した所為で、エイダと盗人の間の距離はより広げられてしまい、気を抜けばすぐに見失ってしまいそうになっている。

 

 しかし、エイダは執念で小さな盗人を追い続けていた。

 

 やがて、盗人は大通りの途中の横道に入り、どんどん奥へと入り込む。

 大通りよりも暗く狭いが、十分大勢の人々が通っている場所で、小さな盗人は彼らの間に潜り込み、姿を隠そうとする。

 

「この…! いい加減にしなさい!」

 

 エイダは屋台の屋根の上から、食事処や様々なものを売る店の屋根の上に映り、上から盗人の姿を探す。

 一件、どこもかしこも人の頭ばかりが目に入って見つけ辛い事この上ない。しかし通りを歩く人々は、自分の足が汚れるのを嫌がり、足元を走る盗人を避け、その分隙間が作られ、見つけ易くしている。

 

 エイダは人々が左右にぞろぞろと動き、足元の小さな影にぶつからないようにしている箇所を見定め、一切目を逸らす事なく走り続けた。

 

 やがて二人は、さらに暗く狭い通りへと足を踏み入れていった。

 明るく賑やかな大通りとは正反対に、湿気の多く薄暗い、人の姿が疎らな場所である。

 

 盗人の影を目で追っていたエイダは、そこで奇妙なものを目にする。

 

 ちらほらと見える人間は、薄汚い格好で俯き大半がその場に蹲っていて、生気の薄い死人のような顔を晒しているのが見えた。

 かすかに見えた顔は弱り切った老人ばかりで、中には横たわったままぴくりとも動かない者もいる。暗く汚い細道も相まって、棺桶の中をの字てしまったかのような不気味さが感じられた。

 

「…あれは…? いいえ、それどころではありません」

 

 気になったエイダだが、すぐに我に返って盗人に意識を戻す。

 盗人との距離は徐々に近づいており、このままなら確実に抑え込めると確信を持てる所にまで来ていた。

 

「もう、逃がしませんよ……ふっ‼」

 

 機を見て、一切の容赦など考えず屋根の上から飛び掛かろうとした、その瞬間。

 

 眼下に接近した盗人が、ほんの一瞬速度を緩めたと思った直後。

 数分前の大通りで起こった事と同じように、盗人の影が幾つにも分かれる。五つに分かれた小さな盗人は、ばらばらと全く別の方向を向いて散っていった。

 

「ええ―――わっととと⁉」

 

 標的を一瞬見失い、何も無い地面の上に降り立ったエイダは体勢を崩しかけ、どたっと顔面から前に倒れ込む。

 額を強かに打ち付けたエイダは呻き声をこぼしながら、走り去っていく複数の小さな人影をそれぞれ睨みつける。五つの影は、エイダには目もくれずに一心不乱にどこかへと走り去っていく。

 

 すぐさま追い続けようとしたエイダであったが、突如ぐらりと体を傾げさせ、その場に勢いよく倒れ込んでしまう。

 

「あ、あれ……なに、これ……身体が……」

 

 起き上がろうと藻掻くも、エイダの身体は本人の意思を無視して微塵も動いてくれない。

 何故か朦朧とする意識の中、エイダは息を荒げさせながらごろりと横たわる。全く力の足りない、重くなった体を仰向けにさせて、四方を壁に囲まれた空を見上げる。

 

 そうした途端、エイダの腹から凄まじい、旅の同行者が放つ唸り声のような音が、盛大に響き渡った。

 

「……ぉ、おなか、空いた……」

 

 空腹を訴える腹を撫でさすり、エイダはそう言えば屋台の串焼き肉を食い損ねたままであった事を思い出す。

 旨そうな臭いに誘われ、手に入れられるだけ確保しておこうと思った矢先。手にするよりも前に貨幣を全て奪われた。その上で盗人を捕らえようと全力疾走した結果、捕える事に失敗して疲労感だけが残った。

 

 踏んだり蹴ったりという言葉が一番ふさわしい有様に陥らされている事に、思わず自分自身に落胆のため息をこぼす。

 

「あ、あの泥棒……絶対に許しません……おいしそうなお肉……これじゃもう、食べられないじゃないですか……! ……はぁ」

 

 とっくに姿を消した盗人への恨み言を吐くも、やがてそうする気力も失くなってくる。

 みるみる減っていく自分の中の活力に嘆息しながら、空に浮かぶ雲を見上げ、口の中に溜まった唾液をだらだらとこぼすばかりになっていた。

 

「……どうしよう、この先」

「―――何ヲシテイルノダ、オ前ハ」

 

 誰にともなく呟いていると、すぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 はっ、と目を見開いて、声がした頭上へ顔を向けてみると、真っ逆さまになった同行者の黒竜の顔が視界の全てを覆い尽くす。

 

 何時の間にやら、自分のすぐ目の前で影の中から顔を出していたアサルティ。どことなく呆れた風に見えるその顔を見つめ、エイダは申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「アサルティさん……すみません。ごはん、買えなくなっちゃいましたぁ」

 

 潤んだ目で黒竜を見上げ、情けない声を漏らす同行者を見下ろし。

 半森人の少女を追ってきた黒竜はじとりと目を細め、やがて面倒臭そうに首を竦め、唸り声と共に生温かい息を吐きかけるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6.Introspection

「……はぁ」

 

 静かな、円形に敷き詰められた煉瓦によって作られた広い場所。

 石でできた器の中に女性の像が立てられ、その手に抱えられた水瓶から水が噴き出すよくわからない造形物の縁に腰を下ろし、深いため息をこぼすエイダ。

 

 膝に肘を乗せ、両手のひらの上に顎を乗せた彼女は、陰鬱な表情で何もない地面を見下ろしていた。

 

「…イツマデソウヤッテイルツモリダ。盗マレタモノハ仕方アルマイ」

「それはそうなんですけど……でも、はぁ」

「…ヤハリオ前ハ、手間ノカカル奴ダ」

 

 落ち込んだまま動く気配を見せないエイダに、彼女の足元の影の中からアサルティが呟く。

 

 盗人に金を掠め取られ、完全に逃げられた後、よろよろと覚束ない足取りで宛ても無く彷徨い、この場で力尽きたように座り込んでしまった同行者。

 いつまで経ってもため息を吐くばかりで、情けない顔を晒す半森人の少女に黒竜は只管呆れていた。

 

「ソンナニアノ肉ガ食イタカッタノカ?」

「……お肉というよりも、人間の作った食べ物を口にしてみたかったんです。里のご飯は不味くはなかったですけど、みんな料理とかしないので、味気ないって感じてましたから……」

「ナルホドナ……」

 

 沈んだ顔で項垂れるエイダの呟きに、アサルティは納得の声を漏らす。

 

 森人の食文化については全くと言っていい程知らないが、あれだけ森に囲まれた場所での料理の種類など、片手で十分数えられる数であっただろう。

 もし森の中で火など使おうものなら、たった一度の失敗でとんでもない人災が起こっていたに違いない。そんな状況で、料理の種類が増えるはずもない。

 

 普通の森人(エルフ)であればそれで満足だったかもしれないが、エイダは半森人(ハーフエルフ)。味覚も好みも人間に近く、森人の食生活では満足などできなかったに違いない。

 

「奪ワレタ事ハモウ仕方ガナイ。アノ後散々探シ回ッテ見ツケラレナカッタノダカラ、奴等から取リ戻ス事ハモウ諦メルベキダ」

「そう、割り切れたらどんなにいいか……はぁ、お肉食べたかった」

 

 口惜しそうに何度もため息をこぼすエイダに、アサルティはそれ以上きびしい言葉を吐かない。いや、吐けなかった。

 食べても食べても中々満たされない難儀な体質となった自分に重なる所を感じた為か、アサルティは鼻を鳴らしつつ同情的な視線を同行者に向ける。

 

 その時ふと、地面を見つめていたエイダが顔を上げる。

 もう悲痛な顔にはなっておらず、先程の攻防についてを思い出し、険しい顔で考え込み始める。

 

「あれ……どうやったんでしょうね。追いかけてたらいきなり数が増えましたよ? 人間ってあんな……魔法みたいな技が使えたんでしょうか?」

「イヤ、アレハ同ジ格好ヲシタ者ガ時機ヲ見計ラッテ同時ニ動イタダケダ。最初カラ人混ミノ中ニ隠レテイタノダロウ」

「えっ、そうなんですか!?」

 

 ずっと影の中からエイダと盗人の後を追いかけていたアサルティに告げられ、エイダは衝撃を受けた様子を見せる。

 

 逆にアサルティは、この程度の真相に何故気付けないのかとエイダに呆れた目を向けていた。被害に遭って頭に血が昇っていた為かは知らないが、普通に考えて分身などと言った得体の知れない術を使える者がいてたまるか、と。

 

「相手ハオソラク、集団ダ。アノ人混ミノ中カラ狙イ易ソウナ者ヲ選ビ、一人ガ盗ミ出シタ後ハ複数デソレヲ援護スルノダロウ……ツマリ、オ前ガソレダケ旨ソウナ獲物ニ見エテイタトイウワケダ」

「……もしかしてアサルティさん、本当は怒ってます?」

「イヤ、オ前ガアマリニモ情ケナイカラ呆レテイル」

 

 眩く輝く、見るからに高い価値がありそうな貨幣をこれ見よがしに見せつけていた姿は、どこからどう見ても格好の餌食であった。

 そもそものエイダの姿が、この国のような都会に来た事がないような田舎者らしさ溢れるものであった為に、数多の住民や訪問者達で溢れるあの路で獲物にされてしまったのではないか、と

 

「アノ屋台ノ親父ガ困リ顔ニナッテイル事ニ気付カナカッタノカ? オ前ニ何度モ確認シテイタダロウニ、アノ場デ躊躇ッテイレバ隙ヲ見セル事モナカッタダロウニ……」

「…だったら、言ってくれたらいいじゃないですか」

「知ラン。自分デ気付カネバ意味ガナイダロウ……ソウヤッテ甘イ考エヲヨギラセルカラ、アンナ奴等ニ狙ワレルンダ」

 

 ずるり、と辺りの人間の視線を気にしながら目から上を地上に出し、冷たい視線を向けるアサルティ。

 詰るようなその目と言葉に、エイダは唇を尖らせて目を逸らす。言い返す事などできそうもない、一から十まで、自分の注意力が足りていなかった為、そして人を疑わなかった為に起こった事態であった。

 

 近くを誰かが歩く音がして、すぐさま影の中に沈むアサルティを横目に、また頬杖をついたエイダはため息交じりに虚空を見やった。

 

「…はぁ、これからどうしたらいいんでしょうか。長の話じゃ、人間の国ではお金が全てを左右するものだって言ってましたし、このままじゃ僕、路頭に迷ってしまいます」

「…別ニコノ国ニ居続ケナケレバナランワケデモアルマイニ」

「そうですけど、来たからには何かしてから旅立ちたいんですよ……前々から、里を出て何処かに行きたいって思ってましたし。なのに、こんな事になるなんて……」

 

 生まれを理由に、普段から罵倒され、役目を押し付けられていた日々を思い出し、俯くエイダ。

 彼女を除いた一族郎党、怪物に襲われ、里と共に跡形もなくなくなってしまった今、不謹慎ではあるが自由の身となったからには、これまでできなかった事をしたいとそう考えていた。

 

 エイダの呟きを聞き、彼女の以前の姿を一時ではあるが見てきたアサルティは、影の中で小さく唸り声を漏らした。

 

「……マァ、ヤリタイヨウニヤレバイイダロウ」

「おかげで、持ってたお金が半分になっちゃいました……分けていなかったら本当に、僕達路頭に迷っていた所ですよ」

 

 そう言って、エイダは自分の荷物の中から一つ、重い金属音を立てる袋を取り出す。

 先程盗人に奪われたものと全く同じ、開け口から金色の輝きが覗いて見えるそれを探り出し、両手のひらの上に乗せる。

 

 それを見て、アサルティは思わずずぼっと影から顔を丸ごと飛び出させ、その袋を凝視した。

 

「……オ前、ソレ、盗マレタノデハナカッタノカ」

「え、いいえ? これはさっきのとは違うものですよ?」

「……オ前マサカ、予メ金ヲ小分ケニシテイタノカ」

「あ、はい。こうしておけば、袋が一つなくなってもまだ大丈夫かな、と思いまして……」

 

 かっと目を見開き、袋を凝視するアサルティにきょとんとした目を向けながら、エイダは小さく頷く。

 

 アサルティはしばらくの間黙り込み、袋に鼻先が触れるほどの距離で固まっていたが、やがてずるずると力なく影の中に沈んでいく。心底呆れた様子で、唸り声を漏らしながらまた姿を消してしまった。

 

「……心配シテ損シタ」

「え?」

「……ナンデモナイ。ソレヨリ、ソレダケアレバシバラク過ゴスノニ十分ナノデハナイノカ?」

 

 苛立った様子でエイダの追及を躱し、彼女の掌の上の袋を示す。

 先ほどまで陰鬱とした顔で項垂れておきながら、実は対策を取っていた少女の抜け目なさに、アサルティは内心で舌打ちをこぼす。

 

 だがエイダは貨幣を半分残しておきながら、それでもまだ不安気な表情で顔をしかめていた。

 

「さっき、アサルティさんに言われた言葉が、すごく身に沁みました……僕、考えが甘過ぎました。物を買う事も満足にできませんし、その所為で人に騙されるかもしれない……同じままじゃ、いつか絶対路頭に迷うかもしれません」

「……ナラバ、ドウスル」

「あはは…どうしたらいいんでしょうか。お金って、どうやったら手に入るんですかね?」

 

 困り顔で、頭を掻く事しかできないエイダは、足元のアサルティに問い返す。

 

 森の中で、他人に拒絶されながら生きるばかりであった少女にとって、大勢の人に囲まれ、関わりを持って生きるなど、どうすればいいのか想像もつかない。

 もっとも有効な手段だと教えられた、金銭を得る方法がわからない今、今あるものを少しずつ消費していくしかない。だが、その半分を先程一気に失ったところなのだ。

 

「困ったなぁ……こんな事なら、長に色々聞いておけばよかったですね。死ぬなんて考えもしませんでしたし、良い事だけじゃなくて嫌な事とか、もっと……はぁ」

 

 今さら悔んだところで、目の前で息を引き取った者に尋ねる事などできようはずもない。

 悩んだまま、動く事ができないままでいるエイダに、アサルティは半目で肩部分を竦めると、自らの腕だけを地上に出し、とある方向を指で示してみせる。

 

「……足リナクナッタノナラ、増ヤセバイイダロウ。人間ハ皆、ソウヤッテ日々ヲ暮ラシテイルノダカラナ」

 

 黒竜が見つけ、示した方向をエイダはむき、そして目を見開く。

 

 彼女達の視線の先で、彼らは―――雑多な鎧をそれぞれ身に纏い、使い古された武器を片手に騒がしく道を歩く男達が。

 そして彼らがぞろぞろと入っていく、汚らしい酒場のような店―――アサルティとエイダにはまだ読む事はできないが、〝冒険者組合(ギルド)〟と書かれた場所が存在していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7.Adventures’s guild

 大通りから随分と離れた、寂れた小汚い道の途中にその組合所はあった。

 溝鼠や御器齧(ゴキブリ)がちょろちょろと走り回る狭い通りに面した、軋む小さな戸の隙間から覗き込むと、中からは喧しい男達の笑い声と怒号が聞こえてくる。

 

 一件、酒場のような汚らしい店のようであり、壁にずらっと並んだ酒瓶や汚れた机と椅子が目立ち、どうしても組合所などと言う真面目そうな場所には思えない。

 そこに集る男達も、それなりに鍛えられた逞しい体をしているものの、皆似たような汚れた装いをしていて、荒くれ者という印象がすぐさま脳裏に浮かぶ有様であった。

 

「おい、酒が足りねぇぞ! さっさと持って来い!」

「飲み過ぎだぞ、お前……いくら女に振られたからって店に迷惑かけんじゃねぇよ。いい加減にしねぇとリリスちゃんに出入禁止にされるぞ」

「知るかぁ! 飲まなきゃやってられねぇだろうが! 畜生…あの女」

 

 とある席を見やれば、大量の空の酒瓶を転がした髭面の男が突っ伏しており、友人らしき中年男性が肩を叩いている姿が目に入る。相当酔っているのか、髭面の男は座っていても体幹がぐらぐらと揺れていた。

 

「てめぇ! その仕事は俺の物だ! 横取りしてんじゃねぇ!」

「うるせぇんだよ! 早い者勝ちだ、鈍間が! それ以前にお前じゃ力不足なんだよ、雑魚が!」

「言いやがったな、糞野郎! 表出ろや!」

「誰が出るかよ馬鹿が!」

 

 店の奥で、大量の紙が張り出された場所では、二人の男が鬼の形相で罵り合っている様が見つかる。

 どちらも屈強な身体に幾つもの傷を刻み、凄まじい威圧感を放つ巨漢であり、口を開けば空気がびりびりと震動し腹の奥底まで伝わってくるほどの大きさの声が放たれる。

 

 そんな二人はやがて取っ組み合いを始め、ばたばたと辺りに埃と震動を撒き散らし出した。

 

「リリス姐さ~ん、今夜は俺と一緒に飲まない~? 旨い所教えてやるよぉ~……いっでぇ!」

「てめぇ! 俺のリリスを口説いてんじゃねぇ! お呼びじゃねぇんだよ屑が!」

「あぁ!? うるせぇよ、引っ込んでろ! お前なんかがリリス姐さんに相応しいとでも思ってんのか!? 身の程弁えろや!」

 

 また別の場所、大量の酒瓶を並べた棚の前の大近くでは、黙々と杯を磨く妙齢の女性に話しかける男達が騒がしく喧嘩を始めている。

 炎のような鮮やかな髪を一つに纏め、肩から胸の前に垂らした豊満な身体つきをした美女が一切反応していない事にも気づかず、男達はその場で胸ぐらを掴んで罵声を浴びせ合う。

 

 店の中のあちこちで怒号が沸き、骨と肉がぶつかる鈍い音が響いてくる。情けも遠慮もまるでなく、全力で相手を組み伏せようと殴打する音が店の外にまで届く。

 その様に、入り口からこっそりと様子を窺っていたエイダは、ひくひくと頬を痙攣させていた。

 

「…あの、本当にここじゃないとお金を手に入れる事は出来ないんですか…?」

「知ラン。探セバアルカモシレンガ、余所者ヲスグニ受ケ入レルヨウナ場所ハ多クハアルマイ。多少騒ガシイガ、今スグ働ケソウナノハ此処グライナモノダロウ」

「多少……」

 

 がしゃん、ぱりん、ばきっ。

 喧嘩に巻き込まれた、或いは武器として握られた酒瓶や皿が割れ、椅子や机がばらばらに破壊される様を今一度目にして、エイダは小さく呟く。

 

「ぼ、冒険者って……何なんですか? 一体どんな事をする仕事なんですか?」

「詳シクハ知ラン。ダガ、依頼ダノ報酬ダノト言ッテイルノヲ聞イタ。オソラクハ、何処カカラ齎サレタ頼ミ事ヲ引キ受ケテ、終ワッタラ金ヲ貰エルノダロウ」

 

 影の中からこっそり聞き耳を立て、集めた情報を語るアサルティ。

 きちんと当たっているかどうかまではわからない。怒号と罵声が轟く中で何とか聞き分けた単語を並べただけで、誰かが最初から最後まで説明してくれたわけでもないのだ。

 

「……そんな立派な仕事をする場所には思えませんよ。ここに居るのって、誰も彼もが真昼間から酔っ払った駄目な大人の人にしか―――ひっ!?」

 

 がしゃん、と近くで起こった破砕音に、エイダはまたびくっと肩を震わせる。

 

 店の中のあちこちで起こった喧嘩はそれぞれ、徐々に決着がつき始めている。どちらも血塗れの痛々しい姿になり、片方は何とか立って鼻息荒くその場を離れていくが、負けた方はぴくりとも動かずその場に横たわっている。

 店の中のあらゆるものが巻き込まれているというのに、従業員らしき美女は我関せずといった様子のまま、器を磨き続けるだけ。

 

 まさに荒くれ者共の集う場所。

 喧嘩を止めるどころか囃し立て、中には自ら混ざろうとする混沌とした有様であり、エイダはすぐさま入り口から離れると、アサルティの方を向いてぶんぶんと首を横に振った。

 

「……無理です。やっぱり無理です。あんな中に入ってったら僕、絶対に身包み剥されて何処かに売られてしまいます。怖すぎます」

「偏見ガ過ギルダロウ。奴等モ好キデアンナ顔ヲシテイルワケデハ……」

「見た目の問題じゃないんですよ! あのやらかし振りを見て言ってるんですよ!」

 

 ずれた感想を述べるアサルティに、エイダは思わず声を荒げて足元の影の中に吠える。

 直後、はっと我に返って店の方を見やり、姿を見せていないのに向けられている視線の数々にぶるりと背筋を震わせる。無用な注目を集めてしまったと、ばくばくと暴れる自らの鼓動を落ち着けようとする。

 

「……あの人達の会話、一部でしたけど聞こえてたでしょう? 酒浸りだわ、喧嘩っ早いわ、女を口説くわ。僕なんて餌食でしかないですよ」

「オ前ミタイナ鶏ガラガ女トシテ狙ワレルノカ?」

「……()()()()の意味は分かりませんけど、少なくとも馬鹿にされているのはわかりますよ……!」

 

 狼狽えるエイダを前に、暢気に中々酷い言葉を口にするアサルティに、少女はほんの一瞬であるが不安を忘れて同行人を睨みつける。

 

 だが、すぐに店に視線を戻して中の様子を伺い、頭を抱えてしまう。

 顔中青痣だらけで、ぼこぼこにされた男性が横たわる様に唾を吐き捨てる禿頭の大男。壮絶な殴り合いに没頭する髭面の男達。美女を巡って激しく罵り合う傷だらけの男達。

 

 アサルティがどんなに気楽にものを言おうとも、受け入れがたい雰囲気が店の中一杯に漂っていた。

 

「違う所を探しましょう。大丈夫ですよ、こんなに大きな街なら他にも僕を受け入れてくれる所がある筈です。さぁ、さっさとこんな所から離れて―――」

「イイカラ行ケ、マダルッコシイ」

 

 誰にともなく呟き、踵を返そうとしたエイダの足をアサルティががしりと掴み、無理矢理向きを変えさせる。そしてその尻に尻尾を軽く叩きつけ、前のめりに蹈鞴を踏ませる。

 エイダはあわあわと慌てながらどうにか体勢を保ち、転ばずに済むとほっと安堵の息を吐く。

 

 しかし、すっと顔を上げたエイダの視界に幾つもの視線、突然の来訪者に訝し気な目を向ける男達の目が入り込み、エイダはひゅっと息を呑み固まってしまう。

 凍り付いたように動けなくなる少女だが、入ってしまった以上仕方がないと、ぎこちなく歩き出し、店の中で最も話しかけやすそうな相手―――器を磨く手を止めた赤毛の美女の方へ近づき、口を開いた。

 

「ぼ、冒険者…というのになるには、どうしたらいいでしょうか!?」

「……あんた、見慣れない子ね。他所から来た子?」

「は、はい! 今日初めて、この街に入りました!」

 

 ふん、と鼻を鳴らした赤毛の女性―――リリスと呼ばれていた彼女は、微かに擦れてはいるものの耳に心地よい声を少女に返し、眉を顰める。

 

 じろじろと自身の全身を見つめられ、エイダは相手が同姓であるにもかかわらず落ち着かない気持ちになる。普段から罵倒される事が当たり前で、相手と目を合わせて話す事が無かった彼女は、目を逸らしそうになる事をどうにか堪えてその場に佇む。

 

 やがてリリスは肩を竦め、緊張した面持ちで棒立ちになっているエイダを見下ろし、目を細めた。

 

「……まぁ、仕事の紹介ぐらい幾らでもしてやるよ。あんたみたいな細っこい餓鬼が、それも世間知らずの森人(エルフ)にできる仕事なんて、端た金しか得られないだろうけどね。冒険者を嘗めたら、あんたみたいな奴はすぐに潰れるよ」

「そうだそうだ! 冷やかしならさっさと帰れ、ちび!」

「お前みたいな餓鬼が来る所じゃねぇんだよ!」

「もっとでかくなって、乳も尻もばいんばいんになったら俺が買ってやってもいいぜぇ!」

 

 苦い表情でリリスが告げると、周りの男達から野次と揶揄いの声が飛んでくる。

 特に、リリスを口説こうとしていた男達からは厳しい視線が向けられ、しっしっ、と野良犬化野良猫を追い払うような仕草までされる。

 

 リリスは喧しい男達にため息をこぼし、腰に手をあてて俯いてしまったエイダの顔を覗き込んだ。

 

「……あいつらに同意するわけじゃないけどね、態々人間の街にまで来て、こんな汚くてきつい仕事に就こうとしなくても、元居た家で楽に暮らしてれば―――」

「―――お金が、欲しいんです!!」

 

 見るからに人里、それもこの国のような大きな場所で暮らした経験のなさそうな少女。

 痛い目を見る前に夢を見る事を諦めさせようと、リリスが説き伏せようとした寸前……エイダはかっと目を見開き、叫んでいた。

 

「故郷の森はとんでもない災害に遭って住めなくなるし、家族なんて生まれた時から居なかったし、長の所から持ち出した人間のお金も半分盗まれるし、余所者の僕を受け入れてくれる所なんて無いなんて言われるし……働かなきゃいけないんです! 誰に何と言われようと!」

「……あぁ、うん」

「危なくたって、貰えるお金が少なくたって、そんな事どうでもいいんです! ごはんさえ手に入ればどこでもいいんです、僕は!!」

 

 怒涛の勢いで吐き出される少女の想いに、気だるげに佇んでいたリリスは思わず背筋をぴんと伸ばして黙り込む。

 それまで煩く騒いでいた男達も、突如始まった少女の独白に思う所があったのか、ばつが悪そうに目を逸らし出す。中には、森人の少女に同情的な視線を送るものまで現れた。

 

「だからお願いします! 僕に仕事を下さい! お金が欲しいんです!」

 

 店中の男達から、先程とは打って変わって生温かい眼差しを集めながら、エイダはがばっとリリスに頭を下げる。腰は直角に、これ以上ないほどの礼を尽くして懇願する。

 それを無言で見下ろしていたリリスは、やがて肩を落としながら大きくため息をこぼした。

 

「……初心者は簡単な依頼しか渡せないよ。その後の働きぶりでその難しくて報酬の高い依頼を渡してやれるようになるから、精々それまで頑張りな」

「! じゃ、じゃあ…」

「……この街にはあんたみたいに路頭に迷いかけている奴もいりゃ、寝床を確保するのにも難儀している奴らもいる。そいつらの一部は、一度は冒険者として一獲千金を目指して、失敗して心が折れた連中さ。あんたはそう……ならないか。金が欲しいってだけだもんね」

 

 近くの路地裏、表の大通りから離れた場所に屯している者達の事を思い浮かべたリリスだが、先程のエイダの慟哭を思い出して首を横に振る。

 少なくともこの少女であれば、態々危ない橋を渡る気など起こしはしないだろう、と。そこまでの欲を持っていないのだから、橋を渡る以前に近づきもしまい。

 

 リリスはそう独り言ちると、自分の前に置かれら台に備えられた引き出しから、鎖に繋がれた札を取り出し、エイダに手渡した。

 

「……はいよ、これが冒険者の証だ。失くしたら面倒な手続きをしなくちゃいけないから気をつけな。そんで、受けられる依頼はそこの右端の壁に張り出してある。好きに選びな」

「は、はい! ありがとうございます!」

 

 エイダはぱっ、と目を輝かせ、再びリリスに頭を下げて走り出す。

 教えられた壁は何処かと辺りを見渡し、近くにいた男に案内される少女の背中を見つめて、リリスは台の上で頬杖をつく。

 

「……悪い子じゃなさそうなんだが、色々不安になる子だねぇ」

「……大イニ同意スル」

 

 思わず呟いたリリスの耳に、どこからともなく聞きなれない謎の声が届き、赤毛の美女は目を見開いて辺りを見渡す。

 しかし、どこにも声の主の姿が見当たらないため、空耳か何かだと自分を納得させ、中断していた器を磨く作業を再開する。壁の前を陣取る少女を横目にしながら、やれやれと億劫そうに。

 

 そんな美女を影の中から見上げ、アサルティもまた、壁に張り出された紙の一枚を取って何やら騒いでいる同行人に、目を細めて呆れを示すのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8.Labor

「ふっ……く、ほっ!」

 

 ざくり、と突き入れた(スコップ)に泥を乗せ、気合いを入れて持ち上げる。

 それを横に移動させ、先に作った土砂の山に積み重ねると、再び鋤を足元の溝の中に突っ込み、泥を掬い上げて移動させる。それを何十、何百回と繰り返し、積もりに積もった泥を片付けていく。

 

 衣服の裾を捲り、両手足は何もつけず素肌を晒し、作業に没頭する半森人の少女。

 既に全身に汚れをつけ、鼻に突き刺さる悪臭に苦しめられながら、街からの依頼だという溝の……排水溝の清掃業務をこなしていく。

 

「溝掃除、って…! 結、構……重、たい、ん、です、ね…!」

「黙ッテ働ケ。俺が手伝ってやってるんだ、文句など言わせん」

「わかっ、て、ます……よ!」

 

 どさどさと、掬い上げた泥を襤褸布の上に移し、一箇所に纏める。

 ある程度の量が溜まると、巨大な黒い竜が顔だけを影の上に浮かばせ、襤褸布ごと泥水を頭に乗せて何処かへと運んでいく。黒竜は黙々と影の中を泳ぎ、別の場所に移動して頭の上に乗せた泥を放り上げ、積み重ねる。

 

 周りに人目がない事を確りと確認した上での共同作業を、アサルティとエイダは一体と一人だけでかれこれ数時間は続けていた。

 

「はぁ……はぁっ……! 綺麗な街だと、最初に来た時には感心していましたけど、見えない所ではこういう大変な仕事が必要だったんですね…」

「当タリ前ダ、何モセズニ綺麗ナママ保テルワケガナイダロウ……マァ、ソレデモヤリタガル者ハ少ナイヨウダガナ」

 

 どさっ、と運んだ泥を放り上げ、山をさらに高くしながらアサルティは呆れた声を発する。

 街中に残された、数少ない土がある場所。雑草が端に生い茂るその場に泥を運び、再びエイダのいる所へ戻る。

 

 雨風によって運ばれてくる砂や石粒が建物の隅や溝に溜まり、定期的に掃除をしなければあっという間に大きな塊になってしまうのだという、水に恵まれた町の悩みの種。

 街の景観だけでなく、衛生管理も兼ねた重要な仕事のはずだが、誰もが汚れるのを嫌がっている所為か、依頼は溜まるばかりで中々消費されていないようであった。

 

 故にこそ、エイダのような余所者がすぐさま仕事にありつけているのだが、それを素直に喜べるほど楽な仕事ではなかった。

 

「…はぁ! …あの、アサルティさんはいいんですか? その、おなかの具合は……」

「サッキ、適当ナ獲物ヲ口ニシテキタ。如何デモイイカラ動ケ」

「……僕の仕事なのに、手伝って貰って申し訳ないです。というか、そもそも手伝って貰えるなんて思ってませんでしたけど」

 

 鋤を一旦下ろし、腰に走る痛みに悶えながら、エイダは泥を運ぶアサルティに申し訳なさそうに肩を竦める。

 対するアサルティは、口では厳しい事を言いながら分担された仕事を手伝っている。精神と肉体とで、全く異なる行動が起きているかのようなちぐはぐさがあり、エイダは思わず訝し気にアサルティを見つめる。

 

「……何故カハワカランガ、最近ハ何モセズニ漂ッテイルト居心地ガ悪ク感ジルヨウニナッタ。以前デアレバオ前ノ事ナドホッタラカシニシテイタ筈ナノニ……」

「流れるように酷い事を言いますね…でもまぁ、それがアサルティさんの本当の優しさなのかもしれませんね」

「……優シイ、ナ。俺ガソンナ偽善的ナ存在ダトハ思エンガ……」

 

 にへら、と肩を大きく上下させたまま呑気に笑うエイダに、アサルティはじろりと胡乱気な目を向ける。

 

 己が他者に対して優しく接した記憶はない。自身の根本にあるのは食欲で、腹が減っていれば相手が何であろうと取り敢えず捕食を試みる。言葉を介する者であれば一旦は考えるが、気に入らない、自分の気分を損ねる者であれば躊躇いなく喰ってきた。

 エイダが自分にくっついてきて、それを拒む事も排除する事もしないのは、単純に彼女の図太さに呆れ、手をかける気にならなかった、ただそれだけの理由であった。

 

「……何デモイイ。俺ハオ前ガヤタラト気ニシテイルカラ、オ前ガ随分ト推スアノ肉ヲ喰ッテミルダケダ。オ前ガアレダケ騒グ所為デ、気ニナッテ仕方ガナクナッテシマッタダロウガ」

「あ、あはは……じゃ、じゃあこのお仕事が終わったら早速買いに行きましょうか!」

 

 ぐるる、と唸るアサルティに睨まれ、エイダは引きつった顔で笑いながら掃除を再開する。

 ただし、依頼されていた箇所はまだ半分以上もある。半日清掃を続けてまだ半分にも達していない事実に軽く絶望しながら、黙々と手と足を動かし続ける。

 

 何度も休憩を挟み、残り一割二割に差し掛かった頃には、最初に確認した時には天高く昇っていたはずの陽は、建物の間に沈みかけていた。

 

「はぁ……くっ、はぁ…! お、終わりますかね、これ…」

「真ッ暗闇ノ中デ続ケタクナケレバ、最後マデ気合イヲ入レロ。デナケレバ金ハ手ニ入ランゾ」

「はーい…」

 

 丸一日掃除を続け、エイダの胃は激しく空腹を訴え続け、身体はもうとっくに限界だったが、それでも懸命に鋤と泥を動かす。

 アサルティがいなければ、作業量はこの倍以上になっていた事だろう。その事実を鑑みて、助けてくれる者がいるだけずっとましだと自分に言い聞かせ、これまでで一番力を込めて泥を掬い上げる。

 

 そうして、陽の光が山々の向こうに完全に隠れ、空にちらほらと星が瞬き始めた頃になって、ようやくエイダ達は目標の排水溝の範囲を掃除し終えたのだった。

 

「……ぉ、終わり、ました、ね」

「バテテイナイデ、サッサト組合ニ戻ルゾ。報酬ヲ貰ワナケレバ何ノ為ニココマデ手伝ッタノカワカラン……ト、ソノ前ニ依頼シタ奴ノ所ニ行カナケレバナラナインダッタカ」

「…ちょ、ちょっとぐらい休ませてくれても…」

「モウジキ組合モ閉マル、早ク立テ。オ前ガヤラネバナラン役目ダ」

「……はぃ」

 

 ぐったりと、さらに泥にまみれる事も厭わずその場に倒れ込もうとしたエイダだったが、アサルティに無慈悲に促され、渋々といった様子で立ち上がる。

 全身を拾う噛んで苛まれながら、半泣きの半森人の少女と憮然とした表情の黒竜は、とぼとぼと覚束ない足取りで歩き出したのだった。

 

 

 

 じゃら、と掌の上で音を立てる数枚の貨幣。

 数日前に失われたものに比べて、輝きの劣る銅褐色のそれらを見下ろし、エイダは無言で立ち尽くしていた。

 

「はいよ、これが報酬だ。……悲しむのも無理はないけどね、所詮あたしらの価値なんてそんなもんなのさ。冒険者ってのは、この国じゃ最底辺の存在なんだよ」

 

 貨幣をを見下ろしたまま動かないエイダに気の毒そうに目を細め、リリスが告げる。

 依頼者に報告をし、暗い中で確認作業を行い、ようやく依頼を達成できていると承認され、そのまま組合に戻ってきた。

 そして報酬として小さな袋を一つだけリリスから渡され、エイダの表情はピタリと固まったのだった。

 

 数日跨ぐような仕事を、半日と少しでこなしてきた結果は見事であったが、そもそもの成功報酬が恐ろしく乏しかった。

 一日に成人男性が必要とする食料の半分程度しか買えないような、あまりにも少なすぎる金銭。枝のように細く華奢な少女に対する惨い仕打ちに、リリスも思わず顔を歪める。

 

「これが、あれだけ働いた分の報酬……」

「……今回の仕事は肉体労働だけど、他にも色々種類があるから、続けられそうな奴を今度からは自分で選びなよ。じゃあ、また明日頑張りな」

 

 ため息をついたリリスは、そう言ってまた器を磨く作業を始める。無言のまま立ち尽くしているエイダに振り向く事なく、自分の手元だけを見つめる。

 エイダはしばらくの間黙り込んでいたが、やがてリリスに小さく頭を下げると、この場へ来た時と同じ覚束ない足取りで歩き出す。好き勝手に騒ぐ男達を横目にしながら、戸を開けて外へ出て行く。

 

 暗く、街の光が点いて辛うじて見える道を、エイダはやや俯きながら歩き、やがて虚ろな目でぼんやりと天を仰いだ。

 

「……やっと、おわりました」

「想像以上ニ安カッタナ、オ前ノ仕事ノ見返リハ」

 

 人の気配がほとんど感じられない、入り組んだ道のど真ん中。酒盛りでわいわいと騒ぐ声が、はるか遠くから微かに届くその場所で、ずるりと顔を覗かせたアサルティが呟く。

 

「コノ街ハ、俺ノ思ッテイタ以上ニ余所者ニトッテ生キ辛イ場所ダッタヨウダ……悪イ事ハ言ワン。留マル事ナド考エズ、別ノ場所ニ……ソウダナ、何処カ他所ノ森ニデモ移リ住ムガイイダロウ」

 

 天を仰いだまま、いつまで経っても全く動かない同行者に、アサルティは内心で苛立ちを募らせながら告げる。

 金を盗む者はいる、真面な賃金で働かせてくれる場所はない。森で孤独に過ごしてきたエイダには全く合わなそうな人間の世界を目の当たりにし、黒竜は酷く落胆を覚えていた。

 

「……コノ際ダ、オ前ガ望ムノナラバ、オ前ガ住ムノニ十分ソウナ場所マデ送リ届ケテヤッテモイイ。コンナ町ニ留マル理由ナド―――」

「終わりましたよ、アサルティさん…」

 

 まったく動こうとしないエイダに促そうと、そしてあまりに哀れ過ぎる彼女を気遣って、自身の気分を害する人間の世界から離れることを提唱する。

 だが、アサルティが話し終える直前、エイダはぱっと目を見開き、同行者を眩しい笑顔で見下ろした。

 

「終わりました! 僕、ちゃんと働いてお金を手に入れましたよ! やった…! 生まれて初めて、僕の行動が正当な評価を受けました!!」

 

 満開の花が咲いたかのような笑顔で、衝動のままにぴょんぴょんとその場を飛び跳ねるエイダ。

 堪えてきた感情が、一つの経験を切っ掛けに洪水のように溢れ出し、半森人の少女は喜びの感情をこれでもかと表に表していた。

 

「オ前……金ガ少ナクテ落チ込ンデイタノデハナイノカ?」

「え? どうして落ち込む必要があるんですか?」

「……ドウ考エテモ、仕事ノ量ト報酬ノ量ガ釣リ合ッテイナイダロウ……少シクライ、不満ヲ抱クノガ当タリ前ジャナイノカ」

 

 理不尽な扱いを受けた筈なのに、悲壮感など一切感じさせない歓喜を見せるエイダに、アサルティは呆れ以上に、かつてないほどの困惑と恐怖を抱く。

 引いた目で見つめられ、エイダは訝しげに首を傾げながら、やがて苦笑を浮かべて口を開いた。

 

「……あの人は、良い人ですよ。本当に意地悪なら、お金なんて一つも渡してくれなかったでしょうし」

「ソレガ義務ダ。仕事ヲシタ分代価ヲ払ウ……当タリ前ノ事ダロウ」

「あはは、僕の故郷ではそれ、当たり前じゃなかったんで……むしろ僕、今物凄く嬉しいんですよ」

 

 頭を掻き、向けられる疑問の視線に困り顔になる。

 その脳裏には、かつての生活が―――恐るべき黒竜と出会う前、日常であった同胞達からの冷たい視線と厳しい言葉の数々が蘇っていた。

 

 行動を疎まれるどころか、存在そのものを否定される日々。

 それに比べれば、代価が釣り合っていなくとも、扱き使われようとも、一人の存在として相対して貰えている事が、うれしくて仕方がなかった。

 

「…なので僕、もうちょっとこの街で頑張ってみようと思います。まだあのお店の串焼き肉、食べられてませんし」

「食イ意地ノ張ッタ奴……ソノ上、恐ロシク物好キダナ、オ前ハ」

 

 呑気に笑うエイダに、アサルティは目を細めると、ずぶずぶと影の中に沈み始める。

 

 この調子では、どれだけ忠告しようと無駄になりそうだ。多少の困難や理不尽ではへこたれず、前よりましだと何となく乗り越えていくかもしれない。

 自ら望んで苦労を味わおうとしているようにしか見えない彼女に、アサルティはもうかける言葉が見つからなかった。

 

「ダッタラ好キニシロ……ドウセ俺モ目的ナド無イ、コノ辺リデ適当ニ過ゴス事ニスル」

「あ、あははは……きょ、今日もどうもありがとうございました」

「……フン」

 

 沈んでいく旅の同行者に礼を言い、エイダはまた苦笑する。それは呆れられている自分自身に対してのものだが、なんだかんだ言いつつ助けてくれたお人好しの怪物に対するものでもあった。

 そして、黒竜の姿が完全に見えなくなってから、エイダは軽い足取りで、街の中で最も明るくにぎやかな場所を目指して歩き出した。

 

「今度こそ……今度こそ、あの時食べられなかったあれを…! あぁ、もう! 待ちきれない!」

 

 逸る気持ちに急かされ、浮足立ちながら、エイダはずっと自分を魅了してやまない串焼き肉の店を目指して道を進む。

 飛び跳ねるような歩き方で、何となく覚えている道を逆走していた彼女は、ふとある事を―――今朝味わったばかりの苦い経験を思い出し、自分の懐を今一度確かめた。

 

「今度こそ、盗られてなるものですか……!」

 

 重い金属の感触が手から離れた事を思い出し、気合いを入れ直す。

 道中、二度とあのような輩に後れを取るものか、と鼻息荒く懐を押さえ、光と音を頼りに前を目指す。

 

 

 

 そんな彼女の背中を、見覚えのある黒い小さな影が幾つも息を潜め、じっと観察していた。

 闇の中に同化した彼らは、辺りを見渡す半森人の少女の視界に入らないよう細心の注意を払いつつ、標的の元へと徐々に近づいていくのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9.Revenge

「さてさて……大通りの近くまで来たはいいですが、こうも美味しそうな匂いをかいでしまうと他のお料理も気になってきますね。僕、そんなに食べられませんし……どれにしましょうか迷います」

 

 懐の貨幣入れを確かめながら、光の方へ向かうエイダ。

 口の中は涎で溢れていて、時折呑み込まなければだらだらと垂れ出てしまいそうなほどだ。乙女としてそんな醜態は晒したくはないが、空腹の所為で段々気にならなくなってくる。

 

 女としての尊厳を失う前に、どうにか購入するものを決めてしまわなければならない。

 

「よし、最初にあの串焼き肉を手に入れ、その他は目に入ったものを一つずつ買いましょう。……あのお店はどこにありましたっけ」

 

 一歩一歩が随分と小さく感じられる。待ちに待った瞬間、

 ついぞ口にする事ができなかったあの料理を今度こそ蝕するという欲望が、エイダの感覚を狂わせているのだろうか。串焼き肉までの距離が異様に遠く感じられ、エイダはますます唾液を溜め込む。

 

 そんな彼女の背後に、小さな影が音もたてずに近付きつつあった。

 影に身を潜め、息を殺し、前だけを見つめて歩を進める半森人の背後にぴったりと張り付き、徐々に距離を詰めていく。

 

 やがて歩く速度を速め、ぼろぼろの外套の中から手を伸ばした、その瞬間。

 

 

「―――二度も同じ獲物を狙えると思いましたか?」

 

 

 がばっ、と勢いよく振り向いたエイダが、自身の胸元に伸ばされた手を掴み、その場に留めさせた。

 小さな盗人は外套の下で目を見開き、慌ててエイダから離れようと藻掻く。だがエイダは盗人の腕を引き、捻り上げながら小さな体をその場に押し倒し、押さえ込んでみせた。

 

「……⁉」

「待っていましたよ…! こうして出て来てくれるのを! さぁ、前に盗んだ分も含めて仕返しをしてあげましょう!」

 

 エイダはにやりと口角を上げ、獰猛な獣のように恐ろしい形相で小さな盗人に凄む。

 

 真昼間、それも多くの人がごった返す目立つ場所で、堂々と自分を襲ったこの小さな盗人とその仲間達。

 手慣れた様子で街中を逃げ、仲間と連携して自分を翻弄し、まんまと姿を消してみせた彼ら……腹立たしいが、見事だという外になかった。

 

 だから、今度は絶対に思い通りにはさせない、と心に決めていた。

 安易に奪える恰好の獲物だと思われて堪るかと、半日近く使って、同行者に態々手伝って貰って手に入れた報酬を奪われてなるものかと、決意を目に灯して周囲を警戒し続けていたのだ。

 

 道端に寝転がる薄汚い格好の男達や、座り込む老婆、屯する中年の男女達。

 擦れ違うあらゆる者達に注意し、自身に近づこうとする者はいないか、態とらしく金銭を入れている懐に手をあてながら、待ち続けた……そして遂に努力は実り、自らの手で捕える事に成功したのだ。

 

「他にもいるんでしょう…⁉ 出て来て下さい……この子は人質にさせてもらいます」

 

 じたばたと自分の舌で暴れる盗人を押さえつけたまま、エイダは暗闇の中に告げる。

 しばらくの間、何者も応える事なく沈黙が流れたが、やがてぞろぞろと小さな影が幾つも進み出て来て、エイダに姿を現し出した。

 

 一人、二人、三人……エイダの真下にいる者も含め、十数人の同じ格好をした盗人達が悔し気にエイダを睨みつけてくる。

 何より目立ったのは、全員エイダの胸下ほどの背丈しか持っていなかった事である。大きくても自分の肩ほどしかなく、人種の違いを考えると、二桁かそれ以下の年齢に間違いなかった。

 

「やっぱり、子供…ですよね。貴方達、どうしてこんな事をしているんですか?」

「……その子を離せ」

「だったらまず、僕に教えてください。どうして盗みなんてしたんですか。貴方達……親がいるでしょう?」

 

 自分を取り囲んでいる者達は、人間の年齢ではまだ親に甘えている頃の筈。自分はそんな経験など殆どなかったし、家庭によって其々だろうが、こんな場所で盗みを行うような年齢ではない。

 

 そこまで考えて、エイダははっと息を呑み、盗人達を順々に凝視する。

 同時に、エイダの問いの声を聞いた盗人達から、怒気が目に見えそうなほどの量と濃度で漂い始めた。

 

「こんな事をして……いえ、もしかしてさせられているんですか? 親か他の大人に―――」

 

 普通ではない自分自身、混ざった血を理由に蔑まれ、罵倒され、危険な役目を押し付けられていた事から、目の前にいる彼らも同じ目に遭わされているのかと勘ぐる。

 もしそうならばと、痛い程気持ちがわかる彼らを只の悪人として見る事はできなくなり、エイダの手からほんの少し力が抜ける。

 

 その一瞬の隙を突き、盗人達の中の一人、最も背の高い者が懐から刃を抜き、エイダに猛然と飛び掛かった。

 

「…死ね!」

「え、わ、うわっ⁉」

 

 すぱっ、と空気を切り裂くような勢いで、盗人が殺意を以てエイダに斬りかかる。

 エイダはすぐさま足元の一人から手を離し、その場から跳び退って刺突を躱す。ほんの一瞬反応が後れ、衣服の胸元に刃が掠り、エイダは冷や汗を垂らしながら盗人の一人と相対する。

 

「お、落ち着いてください! 僕、何か気に障るような事を言いましたか⁉」

「うるさい! 死ね!」

「酷い!」

 

 再び振りかぶられる刃、随分と手の込んだ装飾が施された、どう見ても安物には見えない短刀を前にし、エイダは慌てふためきながら相手に呼びかける。

 

 相手が子供なら、乱暴に殴り飛ばすわけにもいかない。そう考えて説き伏せようと思っていたのだが、盗人の一人は何故かエイダに怒りを抱いた様子で、本気で刺し殺しそうな勢いを見せてくる。

 自分の発言が琴線に触れたのだろうか、とエイダは記憶を探るも、次々に振るわれる刃を躱す事に必死でうまく頭が纏まらなくなっていた。

 

「くっ…! だから! 落ち着いてくださいってば!」

 

 危うく頬を斬り裂かれそうになりながら、エイダはどうにか相手の腕を掴み、動きを止めさせる。

 盗人の一人は藻掻くも、体格差がある相手はすぐには振り払えず、外套の下で歯を食い縛りながら唸り声を漏らすばかりになっていた。

 

「離せ! お前……絶対殺してやる!」

「殺すって言ってる人を離せるわけがないでしょう⁉ いいから落ち着いてくださいってば!」

「うるさいって言ってんだろ! 死ね! 死んじまえ、くそっ!」

「この…! 言わせておけば…!」

 

 押さえつけられた腕を無理矢理上げ、刃をエイダの胸に突き立てようとして来る盗人の一人。

 エイダも意味が分からないまま殺されてたまるものかと抵抗し、両者はぎしぎしと骨が軋む音を響かせながら睨み合う。

 

「あ、貴方達の狙いはお金でしょう⁉︎ 僕を殺して何の意味があるんですか⁉︎」

「黙れって言ってんだ!」

「あぁ、もう…! ちょっとは聞く耳を持ってくださいよ!」

 

 苛立ったエイダは、いい加減にしろとばかりに力を込め、盗人の一人を引き摺り倒そうとする。

 しかし相手もただでは倒れず、地面を転がりながらエイダを引っ張り、二人で大きさも分厚さも不揃いな石畳の上を転げ回る。

 

 石畳の突起が腰や肩に押し付けられ、痛みに悶えるエイダを余所に、盗人の一人は立ち上がって再度刃を振り下ろす。

 

 エイダは顔面を狙うそれを転がって躱し、急いで起き上がるともう一度盗人の一人の腕を掴んで止める。

 こうも敵意を向けられる理由が微塵も理解できず、困惑したままとにかく凶器を手放させようとするのだが、相手は獣のような唸り声をあげて抵抗し続け、一向に大人しくならない。

 

「くっ…お前ら! おれの事は構うな! おれごとこいつを殺せ!」

「え⁉ あ、いや、ちょっ……それは狡いんじゃないですか⁉」

 

 いつの間にか、押さえつけていた筈のエイダの手を盗人の一人の手が掴み、反対にその場に留められてしまう。

 そして、周囲を囲んでいた他の小さな盗人達が、少しだけ迷う素振りを見せながらそれぞれで刃を抜き出し、じりじりと距離を詰めてくる様に慌てふためく。

 

 逃れようとするも、盗人はエイダの手をきつく掴み、一歩たりとも動けない。外套の下から覗く目に見据えられ、エイダの背筋にぞっと寒気が走る。

 

「まっ……待っ‼︎」

 

 迷っていた他の小さな盗人達が、雄叫びを上げて駆け込んでくる。

 エイダを押さえ込む仲間に言われた通り、仲間を傷つけてでも獲物を仕留めるつもりか、外套の奥から覗く視線を鋭く尖らせて向かってくる。

 

 逃げられない、避ける事ももう間に合わないそう察したエイダが絶句し、思わず目を瞑った時だった。

 

 

 夜闇を貫くように、何処かの誰かがあげた絶叫が、長く尾を引いて響き渡った。

 

 

「……あ、あれ? 痛くない……刺さってない? というか、さっきの悲鳴は一体…?」

 

 痛みに身構え、ぎゅっと瞼をきつく閉じていたエイダは、いつまで経ってもそれがやってこない事を訝しみ、きょとんと呆けた顔で辺りを見渡す。

 

 そして目の前の凶器を持った盗人達を見やり……彼らが全員、刃を振りかぶったまま固まり、あらぬ方向を向いて立ち尽くしている事に気付いた。

 

「あ、あ……!」

「まずい…あいつだ……!」

 

 盗人達は、先ほどの絶叫が響いてきた方をーーー暗く音もない、遠く続く道の先を見やっていた。

 人気のない、いや、先ほどまでは確かに存在した生物の気配がぷっつりと途切れてしまった闇の世界を凝視し、呆然と立ち尽くしたままがたがたと震えている。

 

 エイダが何事かと首を傾げたその時、彼女を押さえつける盗人の一人が、突如弾かれたように叫び始めた。

 

 

「―――奴だ! 奴が現れたぞ‼〝貪食者(スナッフ)〟だ‼︎」

 

 

 彼がそう叫んだ直後。

 暗く静かな闇の中から、どぱっ!と凄まじい勢いで極彩色の何かが広がりながら飛び出してきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10.Amorphous

「――――――‼」

 

 べちゃっ、べちゃっ、と不定形に蠢く極彩色の何か―――液体と固体の中間のような、粘度を持った不定形の怪物が、身体の一部を手足のように伸ばして壁や地面に貼り付き、巨大な全身を前へと動かしていた。

 

 否、それはよく見れば様々な色をした無数の何かが一塊になり、一つの生物のように蠢いているらしい。気持ちの悪い半液体の身体にはうっすらと臓器のような物が覗き、巨体が蠢く度に脈打つ様子を見せる。

 

 赤、青、黄、緑、紫、桃、灰と同じ色がないようだが、そのどれもがどす黒く不気味な色をしていて、触るだけで恐ろしい目に遭う事が予想される。

 事実、不定形の怪物の体内には人の姿が……皮膚を溶かされ、今もみるみる筋肉や骨を溶かされていく憐れな犠牲者の姿が見つかった。共に漂う汚れた布の破片から察するに、途中の道で寝転がっていた浮浪者の一人に間違いない。

 

「うわあああああああ‼」

「に、逃げろ!」

「助けてくれぇ‼」

 

 最初の一人の悲鳴で叩き起こされたのか、あちこちに寝転がっていた、あるいは座り込んでいた浮浪者達が弾かれたように走り出す。

 しかし、小枝のように痩せ細った身体では上手くは知れない様子で、それ以上に不定形の怪物が見た目とは裏腹にあまりにも俊敏であった為に、次々に伸ばされた半液体の腕に囚われ、呑み込まれていった。

 

「あ……あ、ぁ……!」

「――――!」

 

 半透明な体の中に囚われ、藻掻き苦しむ浮浪者達だが、強力な酸で満たされた牢獄の中であっという間に溶かされ、やがて跡形もなくなってしまう。

 そんな様を目の当たりにし、盗人達は皆棒立ちになったまま震え上がり、最も背の高い仲間に怯えた表情で振り向いた。

 

「ラ、ライアン…!」

「ちっ……予想を悪い意味で裏切りやがって。ここを離れるぞ! 固まって逃げるな、ばらばらになって走れ! 立ち止まったらそこで終わりだと思えよ‼」

 

 ライアンと呼ばれた盗人の一人、彼らの間で上の立場を有しているらしいその者は、舌打ちをこぼしてからすぐさま仲間達に命じる。そうしてようやく、盗人達はわっと悲鳴をあげてその場から駆け出した。

 

「あ、あれは一体…⁉ この街にも、アサルティさんやあの蜘蛛みたいなとんでもない化け物がいたっていうんですか…⁉」

 

 わらわらと小さな盗人達が真横を駆け抜け、街の暗闇の中に姿を隠していく様を呆然と見送り、エイダは目を見開いたまま目の前の新たな怪物を凝視する。

 

 一応、生物の姿を保っていた二体とは全く異なり、異様としか言えない、決まった形を持たない謎しかない怪物。この世に存在するものとは思えないその姿に、恐怖よりも戸惑いが思考を占める。

 

「……って、見てる場合じゃないですね、これ⁉」

 

 立ち尽くしていたエイダは慌てて、踵を返して走り出す。不定形の怪物に背を向け、一切振り向く事なく無我夢中で、怪物の魔の手が届かない場所を目指して足を動かす。

 

 怪物は自分の体の一部を蠢かせ、顔のように盛り上がらせると、逃げ惑うエイダや小さな盗人達を睥睨するような素振りを見せる。

 やがて半透明の巨体はぶるぶると震え出し、どばっと幾つにも破片に弾けるようにして分かれ、それぞれで獲物の後を追いかけ始めた。

 

「―――――――!」

「―――!」

「――――!」

「何なんですか、あの化け物は⁉」

 

 叫びながら、エイダは必死の形相で夜の道を全力で疾走する。

 途中に横たわる、捨てられた木箱のような者を足場にして跳躍し、建物の上へ移動してすぐさま走る。

 

 その後を、濃い青紫色をした不定形の怪物がずるずると身体を引き摺り、追いかけてくる。それが這った跡は、体内の酸が漏れ出しているのかしゅうしゅうと不気味な色の煙を上げ、異臭を漂わせる様が目に映った。

 

「あ、あれは絶対に捕まってはいけない…! あんな最期は絶対に嫌です‼」

 

 エイダはもうぼやく事も止め、とにかくこの謎しかない危険な怪物から逃れようと、走る事だけに集中する。振り向く事もせず、只管に前だけを見据えて足を動かす。

 屋根を飛び越え、瓦を滑り、背後から迫る這いずる音から離れようと必死に藻掻き、汗だくになりながら荒い呼吸を繰り返す。

 

 対する不定形の怪物もまるで速度を落とす事なく、屋根瓦や壁を溶かしながらエイダの背後に食らいつき続ける。

 生物としての特徴が全く見つからない所為か、疲弊している様子は全く見当たらなかった。

 

「しつ……こい!」

 

 いつまで経っても離れない怪物に、エイダは次第に苛立ちを募らせていく。

 怒りのままに蹴り飛ばしてやりたくなるが、そうした瞬間触れた足が無残な有様になる事は目に見えていて、悶々とした気持ちを抱えたまま走るしかなくなる。

 

 方向を変え、物陰や段差を利用して引き離そうと試み、その尽くが失敗に終わってさらに苛立ちが募った……その時であった。

 

「いやあああっ!」

 

 ふと、エイダが走る屋根の真下から、少女の悲痛な悲鳴が響いてくる。

 はっと目を見開いて振り向けば、細く狭い道の途中でへたり込む、小さな盗人の一人の姿が見つかった。

 

 被っていた外套が脱げ、恐怖で引き攣り涙で濡れた幼い少女の貌が露わになったその前に、ずるずると濃い紅色の怪物がにじり寄っていた。

 

 エイダはその様に息を呑み、ほんの一瞬躊躇いを抱く。

 死が背後から迫り来る自分と、目の前で死に近づきつつある少女。偽善と自愛が自分の中で天秤にかけられ、自愛に重さが傾きそうになった、刹那。

 

「――――!」

「…! ああ、もう!」

 

 ずばっ、と背後の怪物が体の一部を伸ばし、槍のように突き出してくる。

 エイダはそれをどうにか紙一重で躱し、進行方向を真横にし、そのまま目下の地面に向かって勢いよく飛び降りる。

 

 向かいの建物の壁を蹴りつけ、跳躍してまた反対側の壁を蹴りつけ、少しずつ減速しつつ地面に着地すると、そのまま全力で少女の元へ向かう。

 エイダが少女の元へ辿りつき、走りながら胸の中に抱え込んだ直後、少女に迫っていた怪物がざばっと無数に腕を伸ばしてエイダと少女に襲い掛かる。

 

「―――! うぐっ⁉」

 

 大急ぎで飛び退こうとしたエイダだったが、彼女が離れるより前に怪物の腕が背中に触れ、じゅうっと音を立てて彼女の背中に熱が走る。

 衣服を容易く溶かされ、決して浅くない傷を刻まれ、エイダはその場に痛々しく倒れ込んでしまう。それでも腕の中の少女に傷をつけまいと、歯を食い縛りながら抱き締めて守る。

 

「うぁ…、うわああぁん…!」

「…! あぁ、どうして僕ってば……こんな状況で他人の事なんか気に掛けちゃったのかなぁ…⁉」

 

 怪物が一度視界から消えた為か、火が着いたように泣き声を上げる少女。エイダはその声と背中の痛みに顔を顰め、自嘲気味に吐き捨てる。

 

 他人の事など気にかけている場合ではない筈なのに、怪我を負ってまで庇うという自分でも意味の分からない行動。どこぞのお人好しの黒竜にでも影響されているのかと苦笑をこぼし、エイダはのろのろとぎこちない動きで顔を上げる。

 

 そうした彼女の視界に、ぬるりと半液体状の貌が迫る。

 うっすらと向こう側が覗いて見える、血を凝縮したような色合いの何か……それが、ゆっくりとエイダの顔に近づいてくる。

 

 

 ()()()()。生物の捕食とは間違いなく異なる末路を脳裏に浮かべながら、そう察して恐怖で固まるエイダと少女。

 自らの顔をぼんやりと映す怪物の貌が触れるまで、あと僅かとなった―――その瞬間だった。

 

 

「グルァアアアアアアアア!!!」

 

 

 ばぐんっ!と。

 エイダの目の前から不定形の怪物の姿が掻き消される。

 

 はっと息を呑んだエイダは、咄嗟に頭上を見上げ、遥か高く跳躍する夜空以上に黒く巨大な竜を凝視し、歓喜を交えた声を上げる。

 

「アサルティさん!」

「ガルルルルルルル!!」

 

 名を呼ばれ、しかし一切反応する事なく、アサルティは半液体状の獲物を咥え、真っ逆さまに地面に落下する。

 ずるん、と巨体が自らが生み出した影の中に潜り、一瞬で全体が消え失せる……と思いきや、すぐさま刺々しい鱗に覆われた顔が飛び出してくる。

 

「グルルル……ブベッ!!」

 

 もごもごと口の中で獲物を味わっていた黒竜は、やがて顔を顰めると獲物を勢いよく吐き出し、地面に叩きつけた。

 赤黒い物体を全て吐き出しても、アサルティは何度も嘔吐き口の中のものを撒き散らす。それにより唾液以外に色々と、細かい肉片や赤黒い液体が幾つも地面に飛び散った。

 

 一方、吐き出された不定形の怪物はしばらくの間ぴくぴくと痙攣し、次第にずるずると集まって一つの塊に戻っていく。ものの数秒で、元より多少縮んだだけの姿に戻ってしまった。

 

「ふ、不死身ですか…⁉」

「ゴルルルル……!」

 

 何事も無かったかのように蠢く不定形の怪物に、エイダが少女を抱えたまま引きつった声を漏らす。

 アサルティはそんな彼女達を背に庇うようにしながら、鋭い目で敵を睨みつけ、今度は自分から出るのではなく相手の出方を待つ。

 

 すると、不定形の怪物は自らの身体を縮め、発条のように弾力を使ってアサルティの方に飛び込んできた。

 

「アサルティさん、気をつけ―――うわぁっ⁉」

「グルル……グルアアア!!」

 

 飛んできた怪物に、アサルティは苛立たし気に唸ると影の中から腕を抜き出し、怪物に向けて思い切り振り下ろした。

 どんっ、と凄まじい音と衝撃が走り、不定形の怪物が地面に叩きつけられ、再び幾つもの破片に別れて飛び散る。一瞬で怪物は、地面や壁に染みとなって貼り付いてしまった。

 

「―――!」

「――――――!」

 

 襲撃は一度だけではなかった。エイダを追い回していた青紫色のもの、他の獲物を追っていた深緑や黄土色の怪物達がやって来て、同じようにアサルティに向かって飛び掛かってきたのだ。

 

 アサルティはそれらを睥睨すると、今度は尾を影の中から起き上がらせ、怪物達を地面や壁に叩きつけ、次々に潰していった。

 轟音が立て続けに鳴り響き、辺りに大きく亀裂が入るも、エイダと少女が悲鳴をあげる事も気にせず、アサルティは襲い掛かる敵を無慈悲に葬っていく。

 

「イイ加減ニシロ……グルァァァ!!」

 

 やがて、そこらに溢れていた不定形の怪物は、残らず壁と地面の染みへと化した。辺り一面が毒々しい極彩色に染められ、鼻に衝く異臭が立ち込める羽目になる。

 

 アサルティはふん、と鼻を鳴らすと、腕と尾を上げて潰した獲物の様子を見る。

 血痕のように広がって石畳の上に貼り付いた不定形の怪物だったが、それでもまだぐずぐずと蠢き、飛び散った破片と合わさろうとする様子を見せる。

 

「うへぇ……これだけやってまだ生きてるんですか…? 気持ち悪い……」

「グルルルル……」

 

 アサルティの背後に隠れながら、様子を窺ったエイダが鳥肌を立たせながら産屋き、アサルティも同意するような唸り声をこぼす。

 

 少しの間、蠢く潰れた敵を見下ろしていた黒竜は、やがて地面に口先をつけ、貼り付いた不定形の怪物を啜り始める。怪物は微かな抵抗を見せたが、アサルティから受けた衝撃が効いていたのか、次第に端からずるずると呑み込まれていく。

 

「……味ハ中々ダッタガ、()()()()()()ハ最悪ダナ。モウ二度ト喰イタクナイ」

 

 やがてアサルティは怪物達を纏めて飲み干し、ごくりと喉奥に流し込む。最後にげふっとげっぷを漏らし、気だるげに首を竦めてみせたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11.Residence

「……なんとか、なり、ました……か?」

「グルル…」

「よ、よかったぁ~」

 

 震える小さな盗人を抱きしめたまま、エイダはずるずるとその場にへたり込む。

 恐ろしいほどの賛成を持った怪物に呑まれ、消えて無くなるところであったと、心の底から安堵し長くため息をこぼす。

 

「何だったんでしょね、あのどろどろ……あんな生物がいただなんて思いもしませんでしたよ」

「知ラン。俺モデキル事ナラ、二度ト彼奴ヲ喰イタクハナイ……コレマデノ獲物ノ中デモ、格段ニヤリヅライ相手ダッタ」

 

 そんなエイダを見やっていたアサルティは、彼女の背中が痛々しく焼け爛れている事に気付く。

 背骨から肩、腰の近くまでが赤くなり、ぶつぶつと皮膚が変形してしまっている。飛び散った不定形の怪物の体の一部はほんの小さなものであったはずだが、背中の大半が傷を負っている。

 

 だというのに、全く痛がっていないように見えるエイダに、アサルティは少し遠慮がちに声をかけた。

 

「…痛クハナイカ」

「え? ……あ、いた、いたたた! あれ⁉ いつの間にこんな傷…! 痛った…!」

「……単ニ気付イテイナカッタダケカ」

 

 アサルティに指摘されるや否や、ようやく我に返ったように顔中から脂汗を噴き出させ、汚い悲鳴をあげて地面を転げ回る。

 それまで大事に抱えていた盗人の一人を横にどかし、じくじくと痛む背中を押さえようとして、患部に届かず悶え苦しむ彼女の姿にアサルティはふっと鼻を鳴らした。

 

「アレニツイテ考エルノハ後ニシテ、サッサトソノ傷ノ手当テヲシロ。放ッテオイタラ妙ナ病気ニカカルゾ」

「わ、わかってますけど……あだだだだだ! あ、歩くのも痛いんですよ!」

「ダラシガナイ……ソノ程度ノ傷ヲ大袈裟ニ痛ガリヤガッテ」

 

 涙目で横たわり、動く事もままならない様子のエイダを見下ろし、呆れた様子で目を細めるアサルティ。降ろされた盗人の一人がそれを心配そうに見つめる傍で、黒竜は影の中からそっと腕を出し、同行者を真下から掬い上げた。

 

「取リ敢エズ、場所ヲ変エルカ……マッタク、妙ナ問題ニ巻キ込マレタモノダ」

「―――待て」

 

 エイダを背中に乗せ、その場を離れようとした時だった。

 

 ざっ、と無数の足音が響き、アサルティとエイダの周囲に幾つもの人影が立ちはだかる。

 一体と一人を取り囲んだ彼らは、懐からそれぞれ刃物を取り出し、切先を突き付けてくる。皆、同じように手を震わせており、最も背丈が高い一人も美しい装飾が施された短剣を手にし、外套の中から鋭くアサルティ達を睨みつけてきた。

 

「……お前ら、何者だ。返答次第じゃ、此処から逃がすわけにはいかないぞ…!」

 

 短剣を逆手に構え、視線を怪物と半森人の少女から全く逸らさずにそう問う。顔は外套に隠されて見えないが、黒竜に対する警戒はいやというほど感じられる。

 当の本人も脅したところで効くとは思っていないようで、覗く目は不安に歪んでいる。だとしても、不審な動きをすれば必ず一矢報いてやるというような覚悟が感じられ、アサルティも思わず動きを止めて相手を見つめ返した。

 

「…それはこちらの台詞でもありますよ。何回も僕のお金を奪って、いい加減にしないと怒りますよ……この人が!」

「俺カヨ」

「そうで……あだっ⁉」

 

 盗人の言葉に、直接的な被害を受けたエイダが目を吊り上げ、抗議の声を上げる。

 しかし、自ら復讐するのではなく他者に頼るという情けない態度を直後に見せ、彼女を抱えていたアサルティにその場に放り出されてしまう。

 

 尻餅をつき、痛みに悶えるエイダが呻き声をこぼしていると、最も背の高い盗人の一人が一歩を踏み出し近付いて来た。

 

「あの貪食者(スナッフ)を喰い殺すなんて……お前らは一体何なんだ! 何が目的だ!」

「も、目的なんて、別に何も……」

「とぼけるな! そんな化け物を操ってるくせに、只の森人だなんて誤魔化せると思ってるのか⁉ おれの家族に手を出してみろ……相打ちになってでも刺し違えてでも殺してやる!」

 

 盗人達は既に、アサルティ達を排除しなければならない脅威と認識しているのか、刃物を構えたまま警戒を解く様子がない。

 特に最も背が高い一人は、自らの命を賭けてでも敵を排する覚悟を決めているようで、今にも飛び掛かって来そうな威圧感を放っている。小柄なのに、獰猛な獣を相手にして売るかのようだ。

 

 どうすれば矛を収めてくれるのか。無言で佇むアサルティの傍に立ちながら頭を悩ませていると……突如、エイダの傍を小さな人影が駆け抜けていった。

 

「ライアン…! ライアン!」

「ルラ……心配したぞ。よく無事だったな、お前」

 

 エイダが咄嗟の判断で庇った盗人の一人が、悲痛な声で仲間の名を呼びながら抱き着く。

 最も背の高い盗人の一人はそれを優しく受け止め、震える体を撫で、穏やかな声をかけて落ち着かせようとする。

 

 少女らしき小さな盗人は、しばらくして落ち着きを取り戻すとエイダ達を指差し、嗚咽交じりの声で仲間に話し始めた。

 

「あのね、あのね、あのえるふのおねえちゃんがたすけてくれたの。あっちのまっくろいりゅうさんも!」

「……そう、か」

「ルラね、スナッフにたべられそうだったの! でもね、あのおねえちゃんがかばってくれたんだよ!」

 

 少女らしき仲間に、最も背の高い盗人の一人はこくこくと頷きながら、アサルティ達の方をにらんだまま。

 仲間の命を救われたのは事実らしい。しかしだからと言って、恐るべき力を持った怪物とそれを操る人物を、すぐにそのまま受け入れられるものではないのだと、内心で葛藤しているようだ。

 

「…そうだ、おねえちゃん、スナッフにやられてけがしちゃったの! せなか、スナッフにやかれちゃってるの! ライアン、あのおねえちゃんのてあてしてあげなきゃ!」

「……そう、か。怪我、か……わかった、わかった…」

 

 仲間の懇願に、盗人の一人は言葉を濁しながらアサルティ達の方を見やる。

 渋々、といった様子が明らかな態度で仲間達に目を配り、刃物を構える事を止めさせる。そして全員を後ろに下がらせてから、アサルティ達の方へゆっくりと近づいた。

 

「……仲間を助けてくれた事には、礼を言う。さっきの侮辱は見逃してやる。手当てが必要なら……まぁ、道具だけなら貸してやる」

 

 先程とは打って変わって、嫌々そうとはいえ、礼を口にして恩を返す気を見せた盗人の一人。

 外套の下でつんと唇を尖らせ、そっぽを向く様は気難しい子供の態度そのままで、数分前の殺気が嘘であったかのように思えてくる。

 

 エイダはきょとんと呆け、来たければ勝手について来いとばかりに背を向けて去っていく盗人の一人を見つめてため息をこぼした。

 

「どういう風の吹き回しでしょうか。さっきまで本気で僕を殺そうとしていたのに……どうしましょうか、アサルティさん」

「別ニ行ク気ハナイノダガナ…マァ、手当ヲサセテクレルトイウノダカラ、行ケバイイダロウ」

「そうですかねぇ……」

 

 周囲からぞろぞろと動き出していくほかの盗人達を横目にしながら、アサルティは盗人達の後を追って影を泳ぎ出す。

 一度殺し合いに発展した所為か、中々行く気になれなかったエイダだったが、やがて盗人達もアサルティも全員自分を置いて進んでいる事に気付き、慌てて自身も走り出す。

 

 悶々とした気持ちを抱えながら、小さな盗人達が向かう方向―――より暗く汚い道の先を見据え、訝しげに首を傾げるのだった。

 

               △▼△▼△▼△▼△

 

 辿り着いた場所は、廃墟だった。

 

 広い敷地に建つ大小様々ないくつもの建物。煉瓦が積まれてできたそれらは、四角いものもあれば円柱のものもあり、そのどれもが見上げる程の高さを誇っている。

 尖った屋根を持つ高い塔が十数も並んだ景色は、国の入り口からも見えた城のようで、いったい何十何、百人が暮らしていたのかと見る者を圧倒してくる。

 

 しかし、視界に入った建物は皆寂れ、壁や天井に修復不能としか思えない大きな穴が開いていた。

 建物としての役目をほとんど果たせないような無惨な有様で、いままさに冷たい夜風が吹きつけ、寒さに震える羽目に陥らされる。

 事故で開いたものではなく、経年劣化で自然に崩れたものである事がわかり、エイダはこれから入ろうとしている建物を凝視して、ぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。

 

「……おい、何やってんだ。さっさとこっちに来い」

 

 後ろからぶっきらぼうに急かされ、エイダははっと我に返って中に足を踏み入れる。その後をアサルティが続き、少女と黒竜は小さな盗人達の住処を目の当たりにする。

 

 目に映ったのは、床に並べられた無数の汚れた布の塊だった。あちこちが擦り切れ、その都度修繕しているらしい縫い跡が幾つも見つかるそれが、エイダは布団だと直感する。

 次いで見つかったのは、木箱の中に入れられた食料。幾つもある箱の二つだけに、明らかに鮮度が落ちている果実や野菜が詰め込まれているのが見つかり、漂ってきた異臭に思わず鼻を押さえて顔を顰める。

 

 他にも布に包まれた刀剣、地面に散らばった硝子玉、塵としか思えない服らしき布の破片、まだ使われている痕跡が見受けられる割れた食器の破片……と。

 こんなにも多くの人が住んでいるとは思えない程に荒れた空間を前にし、アサルティ達は完全に言葉を失っていた。

 

「ここは……一体」

「さっき言ったばかりだろう……俺達の住処だって」

 

 誰にともなく問いかけたエイダに、すぐ近くの木箱に腰かけた盗人の一人が外套を脱ぎ捨てながら答える。

 

 汚れた布の下から露わになる赤い髪、幼くも整った顔。鋭く吊り上がった碧色の瞳。

 小さくとも均整を持つ、引き締まった手や足や腰。小柄であるにもかかわらず、衣服の胸元を大きく持ち上げる膨らみ。

 

 汚れていても輝きを失わない美貌を持った小柄な少女が、ふんと荒々しく鼻を鳴らしながら、エイダを鋭く見つめて語ってみせた。

 

「親に売られて、捨てられて、追い出されて……そうして住む所をなくした子供が、命辛々辿り着いて、同じ痛みと苦しみを抱えた俺達が集まった場所-――家族の家だ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12.Orphans

「リサとロイは収穫物を仕舞ってこい。アイサは火の準備、シシリーは食材の準備をしてくれ。ティナは此奴に薬を塗ってやれ……ルラはその手伝いだ」

 

 今にも崩れそうな建物の中、外套を脱いだ少年少女達が、仲間の中で最も年上の少女の指示に従い、わらわらとあちこちに散らばっていく。

 その盗人の一人、ライアンと呼ばれた少女は気だるげに首を鳴らし、穴だらけになった椅子に勢いよく腰かけ脱力する。背中から飛び込むように座ったせいで、彼女の胸元の膨らみが凄まじい揺れを見せた。

 

 しばらく放心していた彼女は、やがて不意に感じた視線の訝しげに顔を歪め、自分を凝視する半森人の少女に胡乱気な視線を返した。

 

「……何だ、俺の顔に何かついているか?」

 

 ぎろり、と苛立たし気にエイダを睨み、鼻を鳴らすライアン。

 眉間にしわを寄せて犬歯を剥き出しにしているが、生憎そこまでの恐怖感はない。精々小型の犬猫が威嚇しているような、多少の迫力があるだけである。

 

 しかしそれでも、放心していたエイダははっと我に返り、先程と同じ敵意を見せ始める彼女にぶんぶんと首を横に振ってみせた。

 

「あ、いえ……お、女の子だったんですね」

「……何だ、俺が女だったら何か不都合でもあるのか、くそが」

「い、いえ! そんな事は!」

「……ふん」

 

 申し訳なさそうに肩を竦めるエイダに、ライアンは舌打ちをこぼしながら目を逸らす。勘違いされた事が相当不満なのか、眉間のしわがなかなか消えずに残っている。

 機嫌を損ねてしまったと、自分の不用意な発言に後悔するエイダはぽりぽりと頬を掻いて目を逸らす。

 

 見れば見るほど、着飾ればさぞ人目を惹くであろう少女なのに、身に纏う襤褸と汚れた顔の所為でその美しさが霞んでしまっている。身長はともかく、エイダよりも遥かに女らしい体付きをしているのに、台なしになっている気がする。

 荒々しい口調といい態度といい、その上分厚い外套で全身を隠されていては仕方がないと思うのだが、それでも間違えた事で気まずさを覚えてしまう。

 

「…あの、ライアン、ちゃん?」

「気安く俺の名を呼ぶな」

「ご、ごめんなさい……えっと、あ、あの子達は貴方の姉妹なんですか? 慕われてるみたいに見えましたけど…」

 

 目に見えそうなほどに分厚い壁を作っている盗人の少女に、余所者である半森人の少女は躊躇いがちに尋ねる。

 もっと他に聞く事があるだろうと自分でも思ったが、無遠慮に聞いていいものかと悩み、なるべく当たり障りのなさそうな話題を選んだつもりだったのだが、エイダは言ってから激しく後悔を抱いた。

 

「違う、血の繋がりなんてない―――でも、全員俺の家族だ」

 

 吐き捨てるように返答するライアンの声には、エイダに教えるというよりも、まるで自分に言い聞かせるような響きがあった。

 自分の意思ではなく、勝手に与えられた考えを無理矢理自分に押し付けているような、どこかぎこちない印象を受け、エイダは訝しみつつそれ以上の追及はやめた。踏み込んではいけない領域のように感じたのだ。

 

 知りたい事を何も知れず、どうしたものかと戸惑うエイダのすぐ傍から、不意に聞きなれた声が響いた。

 

「オ前、サッキ親ニ捨テラレタトカ言ッテイタガ……ドウイウ事ダ?」

 

 重苦しい雰囲気が漂い始めた時、それまで黙ってエイダの傍に佇んでいたアサルティが、二人の様子などまるで気にせず恐ろしく聞き辛い質問をぶつける。

 エイダは思わず血の気を引かせてアサルティに振り向き、ライアンはぎろりと鋭い目で一人と一体を睨みつける。だが、すぐに諦めたように大きなため息をつき、面倒臭そうに口を開いた。

 

「……言葉の通りだよ。あいつらは勝手に俺達を産んで勝手に捨てた。利用価値がなくなったのかとか、何にむかついたのか、理由も何も言わないで俺達を追い出した……殺されなかっただけましだけどな」

「何カシタノカ?」

「あ、アサルティさん、ちょっとそこまでに……」

 

 険しい顔で語るライアンに、全く遠慮なく問い続けるアサルティに、エイダが恐る恐る止めようとする。盗人達にどうこうされる心配はないが、あまり相手を不機嫌にさせては自分も巻き込まれかねないと思ったのだ。

 

 案の定、椅子から腰を上げたライアンは鋭い視線をアサルティに向け、懐の短刀に手をかける。

 が、やがて諦めたように溜息を吐くと、再びだらりと脱力した。

 

「……何もしていない。みんなそうだ、何も悪い事なんてしてないのに、あいつらが気に入らないって理由だけで捨てられたんだ」

「……碌デモナイ親ダナ」

 

 虚空を睨みつけたまま、頬杖をついて答えるライアンに、アサルティもやや苛立ちを覚えた様子で呟く。

 ライアン達の境遇に対しては然して興味がない様子だったが、彼女達の親に対しては思う所があったらしい。低い唸り声をこぼしつつ、ライアンと同じく眉間に深いしわを刻み込んでいる。

 

 その時、ライアンの言う通りに盗んだものを運んでいた小さな盗人達がぞろぞろとやって来て、ライアンの影に隠れるようにしながらアサルティ達を覗き込んできた。

 

「……お父さんもお母さんも、みんな急に変わっちゃったんだ。この間までやさしかったのに、いきなりぼくたちのことをこわい目でにらむようになっちゃって……」

 

 余所者の他人種と得体の知れない怪物に怯える様子を見せながら、悲しみに満ちた声で自分達の境遇について話し出す小さな盗人達。

 まだ完全に心を許しているわけではないようだが、それでも今すぐに手を出してくるような存在ではないと察したのか、距離感を探りながらアサルティ達に話しかけてくる。

 

「……一度も叩いたりしなかったのに、わたしたちにどなりながらなぐるようになって……何度も死ぬかと思ったの」

「……おれの母ちゃん、人を傷つけるようなことは絶対にしなかったのに、おれのことを笑いながらなぐってきたんだ。おれがやめてって言ってもやめてくれなくて……たのしそうにずっとわらってたんだ」

「こわかったの……お父さんもお母さんも、しらないべつの人になっちゃったみたいだったの……」

 

 目に涙を溜めながら、震える声で話す小さな盗人達。中には当時の痛みを思い出してしまったのか、ぐすぐすと鼻を鳴らし嗚咽を漏らす者も出てくる。

 ライアンはそんな彼らから目を逸らし、黙り込んでいる。しかし自身もかつての苦しみを思い出しているのか、椅子の上に置いた手に力を籠め、表面に爪で傷痕を刻み込んでいた。

 

「そしたらある日、急に追い出されちゃったんだ。お父さんもお母さんもこわいかおになって、ぼくたちのくびをつかんで、ごみみたいにほうりすてて……やめてっていったら、くびをしめてきて……ころされる、って思ったから、ひっしににげてきたんだ」

「……そんな」

 

 そんな少年少女達の姿に、エイダは気づかぬ間に涙を溢れさせていた。血の繋がった両親から理不尽な扱いを受け、心にも体にも深い傷を負わされた彼らの痛みを想像し、ぶるぶると己が身を震わせていた。

 一方でアサルティは険しい視線で彼らを見つめ、一言も発する事なく小さな盗人達の話に耳を傾けていた。

 

「なんて酷い話でしょうか…! こんな小さな子供を追い出すなんて……それも、殺す事も厭わず、血の繋がった実の親がですよ…⁉」

「……オ前ガソレヲ言ウノカ、オ前ダッテ同胞ニ殺サレカケタクセニ」

 

 ぼろぼろと涙をこぼし、一塊になって寄り添い合う小さな盗人達。

 彼らの過去に必要以上に同情するエイダに呆れるアサルティだが、当の本人は相手の話に夢中で、その上自分が鼻を鳴らす音の所為で全く聞いていない。結果、話をした盗人達が引く程に酷い顔になり果てていた。

 

「マァ、イイ。トニカクオ前達ハ親ニ恵マレズ、似タヨウナ理由デ行キ場ヲ失クシ、集マッタ似タ者同士トイウワケダ」

「……その通りだ」

「アサルティさん…!」

 

 何の遠慮もなく、盗人達の事情を理解し吐き捨てたアサルティにエイダが抗議の声を上げるが、ライアンも子供達も然して気にした様子がない。もうとっくに割り切ったという事なのだろうか。

 

 やがて、ライアンは椅子の背凭れから体を起こし、アサルティとエイダを鋭く見据え出す。

 ついでに片手は懐の短刀に掛かり、何時でも抜いて目の前の相手に突き立てられるようにしながら、一切視線を逸らさずに口を開く。

 

「こっちの話はもう十分だろう。今度はお前達が教えろ……何者だ。お前はともかく、そっちのでかい化け物は一体何だ」

「あ、え、えっと……こ、この人は悪い人じゃ…!」

「……ソレガワカッタラ、苦労ハナイ。ダガ、事情ヲ語ラレタカラニハ、コチラモ語ラネバ礼儀ニ反スルナ」

 

 有無を言わさぬ威圧感と共に問われ、黒竜は呆れた様子で応じる。

 おろおろと困り顔で自分とライアンを交互に見つめるエイダを横目に見ながら、アサルティはずぶずぶと自らの身体を影の中から浮かばせ、遥か高くからライアンを見下ろした。

 

 

「―――俺ハタダノ化ケ物ダ。己ノ過去モ何モ知ラズ、コノ世ヲ彷徨ウ怪物……名ヲ、〝あさるてぃ〟ト言ウ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13.Usurp

 ずる、ずる、と。

 重い何かが引き摺られるような音が、真夜中の廃墟街に響く。

 

 建物の影から、割れた窓の奥から、砕けた床の隙間から、様々な隙間から半透明な()()が滲み出し、一箇所に集まっていく。

 それぞれで異なる、毒々しい色をしたそれらは一つになると、ずるずると歪に形を変え、みるみるその体を縮めていき。

 

 

 ―――やがて一人の、細く華奢な身体つきをした人間の女の姿に変わった。

 

 

「……あ~あ、せっかく鬱陶しいごみを片付けようと思ったのに、邪魔されちゃったわ」

 

 それは、どこか人外染みた美貌を持った女であった。

 人であって人ではない。得体の知れない()()が無理矢理、万人が思い浮かべる美女の形へ変じたような、そんな根拠のない違和感を抱かせる雰囲気を放つ、()()であった。

 

 一糸纏わぬ白い肌、染み一つない白磁のような身体を月光に照らさせ、独り言ちるその女。

 大き過ぎず小さ過ぎず、見事な流線型を誇る各所を見せつける全身。同性であっても見惚れそうな完璧に均整がとれた自らの姿を夜闇の中で晒し、肩を竦めてみせる。

 

「全く、しぶといのよね。大分前に追い出したからとっくに野垂れ死んでいるもんだと思ってたのに……さっさと殺しておけばよかったわ。邪魔くさいったらありゃしない」

 

 すると、女の足元からまたもや不定形の何かが溢れ出し、女の身体に纏わりついていく。

 すらりとした脛に、むっちりとした腿に、豊かな臀部に、細く引き締まった腰に、適度に豊かな胸に。極上の色気を持った女の身体が極彩色の()()に覆われ、隠されていく。

 

 やがて女は、流麗な礼装(ドレス)を身に纏っていた。月光に照らされて美しく輝く、舞台女優の装いのような恰好へと、ほんの数秒の内に変じていたのだ。

 

「何だか知らないけど一箇所に集まってたし、ついでに掃除してやろうと思ったのに、よくわからない変なのに邪魔されるし……うざったいわぁ」

 

 誰に聞かせるわけでもなく、ぶつぶつと呟く女。宝石のように輝く目を細め、眉間にしわを寄せながら、不満を口にし続ける。

 

 人の気配がほとんど感じられない街を独り歩く女は、異様な存在感を放っていた。

 女以外の全ての人間が全て消え失せ、ただ一人の世界になってしまったかのような。そんな世界を、女は自らが主役の舞台にいるように優越感に浸った様子で、靴音を鳴らして歩いていた。

 

 しかし、女の顔には確かな苛立ちが浮かんでいた。

 己一人がいるべき舞台に、不快な邪魔者が紛れ込んでいるような、そんな苛立ちを抱いている様子が窺えた。

 

「潰しても潰しても逃げ延びて、汚らしい醜態を晒して居座るなんて……せっかく全部手に入れたのに、ごみが目障りな所為で全然満足できないわ。蜚蠊(ゴキブリ)みたいにしぶとく生き延びる奴らって、どうしたら綺麗にいなくなるのかしら…?」

 

 乳房の下で腕を組み、小首を傾げる女の姿は蠱惑的で可愛らしくも見えたが、口から漏れだす言葉は残酷な悪意に満ちていて、見る者の恐怖感を煽る。

 そしてそんな言葉を吐きながら、女の表情は困り顔のまま全く変わっていない。例えて言うのならば、自宅に湧く害虫の駆除を如何にするべきか、平凡な悩みを抱えているだけのようだった。

 

「何も持っていない、何の役にも立たないごみの分際で、私の世界に紛れ込んで―――ほんと、子供って邪魔くさくて嫌いだわ」

 

 冷めた目で吐き捨てる女の礼装が、一瞬ぐにゃりと歪む。女の感情の変化を表しているように、滑らかな絹のようであった表面が毒花のように刺々しくなる。

 ぐちゃぐちゃと蠢き、鋭く宙を差していた無数の棘は、次第に縮み元の滑らかな表面に戻る。それでも礼服の表面は蠢き、生物の体表のような印象を抱かせていた。

 

 そうして、女が自らの異様さを辺りに見せつけながら夜の街を歩いていた時だった。

 女の前に、左右の建物の影から複数の男達が姿を現し、女の元へぞろぞろと近づいて来たのだ。

 

「へ、へへへへ……ね、姉ちゃん、だ、だめだよ…こ、こんな所に、ひ、一人で来ちゃ」

 

 汚れた襤褸を纏った、がたがたに歪んだ歯が目立つ男がどもりながら話しかけてくる。

 女が立ち止まると、周囲を他の男達が……異様に大きな鼻を持っていたり、爛れた肌をしていたり、四肢が異様に膨張している男が囲み出す。

 

 全員がにたにたと不気味な笑みを浮かべていて、女に対して下卑た欲望を抱いている事を悟らせた。

 

「そぉんな綺麗なおべべを着て、襲ってください~って言ってるようなもんだよぉ?」

「ぐ、ぐふ、ぶふふふ…!」

「そ、それに、も、もも、ものすごくい、いい女だ。あ、あああっちでおれ、おれ達と遊ばな、ないか?」

 

 異様に大きな鼻を持つ男が女の後ろに回り、女の豊かな胸元を無遠慮に覗き込む。

 そうすると歪んだ歯を持つ男が女の腕を掴み、身動きが取れないように抑え込もうとする。皮膚が爛れた男と四肢が膨張した男もそれに続き、腰や肩を掴んで女を捕らえる。

 

 風呂になど何十年入っていないであろうか、垢に塗れた手が異臭を放っていたが、女は一切表情を変える事なく男達を見やっていた。

 

「俺達、随分うまい飯を食ってなくってなぁ……あんたが恵んでくれると、とっても助かるんだぁ」

「れ、礼ならいくらでもすっぞ。き、きき、気持ちよくしてやるからよぉ……あ、あんたもそんなかっこでうろつくくらいだ、う、うえてんだろ? そうだろ?」

「ふ―っ……ふーっ…!」

 

 無言のまま、抵抗らしい抵抗を全くしない女の態度に、男達は観念した、または自ら望んでいると解釈し、女の身体を好き勝手に弄り始める。

 白磁の肌は触れるだけで心地よく、柔らかい肉を指で押すとそれだけで幸福感を得られる。それでいてそうそう見る事のない美貌を間近で見る事ができて、男達の気分はかつてないほどに昂っていた。

 

 身包みを剥ぐ事が主な目的であったのに、途中から女の肉体を愉しむ事を望み始めた彼らは、身動ぎ一つしない獲物を前に涎を垂らし出す。

 

「あぁ~…我慢できねぇ! この場で喰って―――」

 

 どうせ、辺りに全く人気のない廃墟街。そしていたとしても咎める勇気などない、むしろ進んで仲間に加わりそうな碌でなししかいないと、男達の動きがより活発になる。

 

 この場で押し倒し、邪魔な布を全て取り払って存分に味わおう。

 獣欲が暴走し、正気を失った目で女を凝視しながら、歪んだ歯の男が舌なめずりをしながら女の礼装の胸元に触れた。

 

 

 その瞬間、歪んだ歯の男の手に、かっ、と凄まじい熱が襲い掛かってきた。

 

 

「―――いでぇっ⁉ な、何っ……いってぇなこの女!」

 

 思わぬ痛みに、思考を肉欲に支配されていた男は我に返り、顔を顰めて女から離れる。

 胸に何か凶器でも仕込まれていたのだろうか。誘う、というか受け入れる素振りを見せながら反撃する機会を探っていたのか、と未だ表情の変わらない女を睨みつける。

 

「こいつ…! こっちが下手に出てりゃ付け上がりやがって! 痛い目に遭わなきゃわからないようだ…な……」

 

 こうなれば容赦なく殴りつけ、痛みと苦しみで大人しくさせてやろう。綺麗な顔が多少歪んでも仕方がないと、男が目を吊り上げて痛みが走る腕で拳を構える。

 

 しかし、男はやがて気付く。

 女に振るうはずの自身の腕が、妙に軽くなっている事に―――肘から先が、綺麗さっぱり無くなっている事に。

 

「あぇ…? ―――ひっ、ぎゃああああああああ‼」

 

 そう気づくや否や、襲い掛かってきた凄まじい痛みに悶え、男は背中から倒れ込んでのたうち回る。異変に気付いた他の男達が目を剥く前で、歪んだ歯の男は顔中から体液を垂れ流し、獣のような悲鳴をあげた。

 

 消えた腕からは煙が上がり、なおも肘から上が消えて、いや、溶かされていた。肉がみるみる焼け爛れ、ぼろぼろと崩れて地面に落ちているのだ。

 溶けた跡からは強烈な異臭が漂ってきて、他の男達は思わず後退る。咄嗟に捕らえた女からも手を離し、地面を転げ回る歪んだ歯の男から距離を取ろうとする。

 

「お…おい! 助けてくれ! い、い、いてぇ! いてぇよ! 死んじまう!」

 

 溶けていく腕を押さえて、歪んだ歯の男は泣きながら叫ぶ。悲痛な声を上げて、痛みを誤魔化そうとしているのか地面に自らの頭を叩きつけ、両足を振り回している。

 次第に、溶解は痕を押さえていたもう片方の腕にまで達し、最初と全く同じ速度で爛れ、崩れていく。初めに溶けだした方もとうとう肩にまで達し、筋肉が溶け、骨と内臓が露出しそれらも崩れ出していく。

 

 それを、女は無言で見下ろしていた。

 自らを捕らえていた他の男達には目もくれず、道端の塵でも見るかのようなどうでもよさそうな眼差しを向け、気だるげに佇んでいた。

 

「あ……ぁ、あ……あ…―――」

 

 そして歪んだ歯の男を襲った溶解は首にまで達し、頸椎を溶かして、ごろりと頭部が転がり落ちる。恐怖に染まった男の顔が地面を転がり、身体から外れてなお襲う激痛が男の精神を侵し続ける。

 

 やがて、頭蓋と脳が露出しそれらも溶け、とうとうそこには何も無くなってしまったのだった。

 

「ひ、ひぃ、ひひっ…ひぃっ!」

「な、何だこりゃあ……!」

「……⁉」

 

 仲間を襲った悲劇を前に、他の男達は全員、恐怖で顔を引き攣らせへたり込む。嗅覚に突き刺さる刺激臭も忘れるほどに硬直し、がたがたと震えてまったく動けなくなる。

 

「……ねぇ、あんた達」

 

 怯える男達に、ずっと黙っていた女が口を開く。

 ひっ、と声を漏らし、一斉に振り向く男達に向けて、女は溜息を吐きながらじっと、面倒くさそうな視線を向ける。

 

「何、私の体に触ってんの。ごみくずの分際で、私の身体を汚してくれてるの」

「ひっ、ひぃい…!」

「答えなさいよ。誰の許可を得て、私の美しい体を穢してんのって聞いてんのよ……返事をしろ、くそがぁ‼」

 

 震えたまま答える事もできないでいる男達を見下ろし、突如女は豹変し声を荒げる。

 ますます怯える男達に向けて、女の纏う礼服が蠢き、一部が触手のように伸びる。伸びた触手は男達の首に突き刺さり、体内に何かを入れる。

 

 小さな痛みが走り、困惑し慌てふためく男達に―――その直後、強烈な痛みが襲い掛かった。

 

「ぎゃああああ‼」

「いやだぁああああ‼」

「……‼」

 

 泣き叫ぶ男達の首が、どろりと溶けて崩れ出す。見る見るうちに皮膚が穴だらけになり、筋肉が溶解して骨まで露出する。

 凄まじい激痛が走り、悶え苦しむ男達は本能的に体内に入れられた何かを取り除こうと、自らの首筋を掻き毟る。一切の躊躇をせず、爪を立てて皮膚を引っ掻き肉を裂く。

 

 しかし、爪の先が触れるだけで溶解は広がり、男達の両手が煙を上げて溶け始める。その間も首の溶解は止まらず、あっという間に頭蓋が体から離れてしまう。

 

「あんた達なんて、何にも持ってないどうしようもない屑じゃない……私の手を煩わせて、本当に鬱陶しいったらありゃしないわ。あー、気持ち悪い」

 

 呻き声が木霊のように残り、か細く消え去っていく。既に男達は全員、跡形もなく消え去っているのに、恐怖の断末魔が今も続いているように聞こえる。

 

 それを見下ろしながら、女はふんと鼻を鳴らし、触れられた肌を擦っていた。

 自らが襲われそうになったという事実を全て掻き消そうとするように、男達が消えた跡を靴で蹴り、ふみつける。

 そうして痕跡を完全に抹消してから、女は恍惚とした笑みを浮かべて深い息を吐いた。

 

「ふふふふふ……またごみを、それも四つも片付けたわ。私って本当にいい女よね、世の中のごみを綺麗にしてあげてるんだから……あのごみにも感謝して欲しいくらいだわ。まぁ、我が家の掃除をするのも、主の役目だけど」

 

 達成感に満ちた表情で虚空を見やり、軽い足取りで歩き出す女。

 女が身に纏う礼服がぐにゃぐにゃと歪み、花や葉の形となって本人の満足感を表す。

 

 人の気配が今度こそ完全になくなった廃墟街を独り、舞台上で踊るように歩きながら、女は心底楽しそうに語った。

 

 

「汚いものも醜いものもいらない―――この世の美しいもの全て、私のものよ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14.Will to protect

「ゴルルルルルル…!」

「きゃー!」

 

 雷のように轟く咆哮を上げ、影の中を突き進む黒竜が、鋭い牙を剥いて迫る。

 恐ろしい形相で近付いてくる怪物の姿に、小さな子供達は悲鳴をあげて逃げ惑う……の、だが。

 

 誰一人、本気で恐がる者はおらず、むしろ楽しげに笑い声まで上げて、廃墟の中を走り回る。

 黒竜も捕食しようという雰囲気はなく、子供達との間に付かず離れずの距離を保ち、態とらしい唸り声をあげている。

 

「サァ、逃ゲロ逃ゲロ、追イツイタ奴カラ喰ッチマウゾ~」

「わぁー!」

「逃げろー!」

 

 どことなく面倒臭そうに、しかしほんの少し楽しそうに、黒竜は子供達を追いかける。

 つい数十分前までは本気で恐がって逃げていた子供達だが、最早何の恐れも抱いていない様子で、けらけら笑って廃墟の中を走り回っている。

 

 そんなやり取りを―――追いかけっこに興じるアサルティと子供達を眺め、エイダはくすりと微笑みをこぼした。

 

「……よかった、皆さんアサルティさんの事はもうそんなに怖くなくなったみたいですね」

 

 背中を露出し、膝を抱えた体勢のままエイダは呟く。

 

 自分が汗水たらして手に入れた金銭を狙ってきた盗人達だが、ああしているのを見るとただの子供なのだなと、怒りがどこかに行ってしまうのを感じる。

 アサルティも彼等の相手をする事は不快ではないようで、走り回る子供達に律儀に付き合っている。よく見れば知らない間に背中によじ登っている者もいるのだが、振り落とさないよう注意して泳いでいるようだ。

 

 その面倒見の良さをどうして自分には見せてくれないのだろうか、とエイダが内心で不満を抱いていると、彼女の背後に腰を下ろしていた少女が深い溜息をこぼした。

 

「……あいつら全員、気を許し過ぎだ」

「もう……大丈夫ですよ、アサルティさんは良い人……竜? ですから。ああやって遊んであげてるんですから、ライアンちゃんももう少し肩の力を抜きましょうよ」

「……気安く俺の名を呼ぶな」

 

 ちっ、と舌打ちをこぼし、エイダから視線を逸らすライアン。

 手には何処かで手に入れた火傷用の薬の瓶があり、中身をエイダの背中に塗り付けている。子供達が怪物と遊ぶ事に夢中になっている為に、仕方なく手当てを担っているのだ。

 

 獲物として、そして敵として扱う事はやめても、慣れ合う事は矜持が許さないらしい。エイダとは一定の距離を保ったまま、頬杖をついて詰まらなそうにそっぽを向いていた。

 

「……まぁ、あの化け物がそこまで危険な存在じゃない事はわかった。貪食者(スナッフ)みたいに話が通じないわけじゃないみたいだし……殺すのは勘弁しておいてやる」

「むぅ…何でしょうか、まだ疑われている気がします―――あだだだだ!?」

 

 ライアンの物言いに引っかかるものを覚えたエイダが不満をこぼすと、途端に背中に激痛が走る。

 じとりと恨みがましげな目で、くすりをつけた指先で傷口をぐりぐりと突いているライアンを睨み、やがて目を逸らして深い溜息を吐く。

 

 何か気に障る事を言った自分への感情を、地味な嫌がらせで済ませてくれているだけましなのだと、そう考える事にした。

 

「だが、このままここに居させてやる気はないぞ。この手当てが終わったらさっさと出て行け」

「えっ⁉ 休ませてくれないんですか⁉」

「…当たり前だ。ルラを助けてくれた事には礼を言うが、その借りはこの手当で全部返す。第一、本気でお前らの全部を信用したわけじゃない」

 

 じとり、と疑わしげに目を細め、エイダに、そしてアサルティを鋭く睨むライアン。

 

 弟分や妹分達がどんなに懐いても、恐るべき力を持った謎の怪物である事に変わりはない。むしろ、日頃廃墟街を騒がせている別の怪物を屠るほどの力があるのだから、距離を取るのが当たり前だ。

 その選択で弟分達に責められようとも、家族を守るという最大の目的の為があるライアンは、その意志を貫き通すつもりであった。

 

 呆けるエイダの見つめる前で、明るい声を上げて燥ぐ弟分と妹分達を眺め、ライアンは小さく微笑みを見せた。

 

「ここに住んでいいのは俺の仲間……家族だけだ。新しく入っていいのは行く所が無くて、死にそうになった子供だけ……お前には、あの化け物がいるだろう。だから、手は貸さない」

「家族……」

 

 ライアンの呟きを、エイダはぽつりと繰り返す。

 

 血の繋がりはない、ただ同じ境遇にあるというだけで、深い繋がりはそれほどない。

 なのに、それ以外に気を許す事はないと言いたげなライアンの呟きに、エイダは自身の胸の中がきゅっと締め付けられるような感覚に陥る。

 

 家族が笑い、生きている姿を見つめる、年齢よりずっと大人びて見える少女の横顔を見つめ、エイダはいつしか目を潤ませていた。

 

「……あの、すみませんでした」

「……何がだ」

「今日、私がライアンちゃんを待ち伏せした時……ライアンちゃん、物凄く怒って、本気で私の事殺そうとしたじゃないですか」

 

 もじもじと指先を擦り合わせ、申し訳なさそうにエイダが語り出すと、火傷後を苛んでいたライアンがぴたりと動きを止める。

 様子の変わったライアンに横目を向けながら、エイダは膝に顎を乗せ、瞼を伏せながら重いため息をこぼす。自分の中にも嫌な思い出が蘇り、気分が恐ろしく下降し始めていた。

 

「多分あの時……きっと言われたくない事を言ったんですよね。何処が嫌だったのかはわかりませんけど、御免なさい、謝ります」

「……別に、どうでもいいし」

「はは……それでもですよ。言っとかないと僕の気が済みませんので……ただの自己満足です、ほんとにすみません」

 

 ぺこりと頭を下げるエイダに、ライアンもばつが悪そうに目を逸らす。

 窃盗という罪を犯したのは自分で、向こうは真っ当な文句を口にしただけなのに、逆に頭を下げられるという状況は居心地が悪いのだろう。

 

 手当の手を止めたライアンの態度に、苛立っていると勘違いしたエイダはまた深い溜息をこぼした。

 

「駄目だなぁ、僕ってば。自分だって碌な人生を送ってないくせに、他人の事言えないくせに……ほんと馬鹿」

 

 がっくりと肩を落とし、項垂れるエイダ。好奇心に負けて村を出て、悪い男に騙されて捕まって、挙句無責任に混じり者の子供を生んで早くに他界し。

 忌まわしき人間の血が混ざった子として過ごしてきた肩身の狭い日々を思い出してしまい、凄まじく気分が落ち込んでくる。ライアンに向けて、自分が言われて来た事と似たような言葉を吐いた事に激しい後悔を抱き、身体の中に大きな鉛の塊が入り込んだ気分に陥る。

 

 瞼を伏せ、嘆く様を見せるエイダの後姿を見つめていたライアンは、やがてふっと鼻を鳴らすと、エイダの背中の火傷後にばしっと布を叩きつけた。

 

「……お前の事情なんか知るか。くだらない」

「うっ…⁉ そ、そんな事言わなくてもいいじゃないですか!」

 

 びくっ、と痛みで全身を震わせるエイダをまるで気にせず、薬を塗り終えた背中が空気に触れないように、包帯を巻きつけていく。盗んできた窓幕(カーテン)を割いて作った布で、口調とは真逆に丁寧に覆っていく。

 

 すると、半森人の少女の白い肌の所々に刻まれた、大小さまざまな傷痕に気がつく。

 爪で引っ掻かれたような痕、殴打された痕、事故でついたものではまずない、他人につけられた傷痕が幾つも見つかり、ライアンの手が無意識のうちに止まる。

 

 胸中に浮かんだ感情に、ライアンはぐっと唇を噛む。しかしそれを言葉にして放つ事はせず、包帯を巻く作業を再開するとエイダの肩を押して背を向けた。

 

「今晩の詫びに、ここを寝床に貸してやる……朝になったらさっさと出て行けよ」

「え? …は、はい、そりゃどうも。じゃあ、使わせていただきます」

 

 ほんの少しだが、声に優しさが混じって聞こえた気がして、エイダは困惑しながら頷きを返す。

 振り向いて、どこかに立ち去ろうとするライアンを見つめるが、背を向けた小さな盗人達の姉貴分は全く顔を見せず、廃墟の奥に姿を消してしまう。

 

 彼女の後姿に、エイダは自分でも気づかないうちに、羨望の眼差しを向けていた。

 

 

 

 そして、そんな眼差しを向けられているライアンもまた。

 誰にも見えない暗い部屋の中で、憂いに満ちた表情で座り込み、膝を抱えて項垂れたのであった。

 

「……お父様、お母様、どうして……!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15.Lost days

 少女は、幸福だった。

 

 国内でも屈指の勢力を誇る商人の家の一人娘として生まれ、与えられる暮らしを享受してきた。

 多くの使用人達に囲まれ、高級な食事を毎日摂り、優秀な教師を雇って最高位の教育を受け、商家の跡取りとなる未来が約束された類稀に幸運な人間であった。

 

 両親との仲も良好で、夫婦は喧嘩をする事は全くなく、毎日娘に愛情を注いでくれていた。

 家を守る事が大前提であり、その為に産んだ娘ではあったが、結婚や趣味においてある程度の自由を得られるように尽力する、真摯に娘の幸せを願う人格者達であった。

 

 ただ、位の低い貴族であったり、貧しい家の出身の者に対してはやや偏見を抱く箇所があったのが玉に瑕であったが、それでも大きな問題を起こす事はなく、平穏に暮らしていたのだ。

 

 

 

「おとうさま! みてくださいまし!」

 

 ある時、少女は一枚の紙を抱いて自室を飛び出し、自宅の一角にある書斎の扉を押し開け中に飛び込んだ。

 

 書斎の中にいたのは、眼鏡をかけ髭を蓄えた中年の男。人より少し肥えた腹を持つ、温和な印象を抱かせる金髪の男性―――少女の父親である。

 突然の訪問に父は驚いたが、相手が娘である事がわかると途端に破顔し、満面の笑みを浮かべて立ち上がり、駆け込んでくる娘を抱き留めた。

 

「おぉ、どうした? 何かいい事でもあったのかな、我が娘よ」

 

 夕陽のような赤い髪、毎日使用人達に香油で整えられ、さらさらとした心地良い感触がする自慢の髪を撫で、父はにこにこと笑っている娘に問う。

 仕事の途中であったが、普段は真面目に文句一つ言わずに勉学に励んでいる娘が飛んでくるような事態だ。相当に大事な話なのだろうと、内心期待を抱いて顔を合わせる。

 

「お、おべんきょうがおわったので……せんせいにゆるしていただいて、これを! おとうさまたちに!」

 

 頬を林檎のように朱く染め、少し恥ずかしそうにしながら、少女は大事に胸に抱いていた紙を父に手渡す。

 父はそれを受け取り、訝しげに首を傾げながら、何かが描かれた面を上にする。

 

 果たしてそれは、鮮やかに描かれた父母と少女の絵であった。

 文筆で輪郭を作り、絵の具で着色した、家の前に並んで立つ三人の親子。満面の笑みを浮かべた彼らは仲睦まじく寄り添い、絵の具の所為では無い輝きを放っている。

 

 はっきり言って、巧いとは言えない落書きの類。

 少女はそれを恥ずかしそうに、しかしどこか誇らし気に見せ、父の反応を待っていた。

 

「……これを、私に?」

「お、おとうさまとおかあさまにかんしゃをつたえたくて……それと、ずっといっしょにいてほしいな、と。ご、ごめいわくでしたか…?」

 

 拙く、家の中に飾られている絵画と比べるまでもない代物。勉学が終わった後とはいえ、仕事を中断してまで受け取るものではない不要な物を渡され、父はしばらくの間沈黙する。

 邪魔をされて怒りを抱いた……訳では当然なく、ぶるぶると震え出した父はがばっと顔を上げ、目尻に涙を滲ませながら娘に抱き着いた。

 

「嬉しいぞ! 感動だ! 我が娘は天才だ! こんな素晴らしい絵を描いてくれるなんて!」

 

 娘の描いた絵を高々と掲げ、大きな声を震わせ、父はこれ以上ないほどに歓喜を露わにする。

 拙かろうと無駄であろうと関係がない。娘が自分達の為、想いを込めて描いてくれた贈り物であるというだけで、父の心は幸福で一杯になっていた。

 

「額縁に入れて飾ろう! 厳重に守らなければならん! 我が家の家宝にしようぞ!」

「おとうさま……おおげさですわ。やりすぎです」

「やり過ぎな事などあるものか! お前がくれた宝物だ! 私が死ぬまで大切に保管するぞ! 絶対にだ‼」

 

 父は娘を抱き上げ、部屋の中でくるくると回って自身の歓喜を見せつける。

 もうこれ以上に幸せな事はないと言わんばかりの狂喜振りを見せ、贈り物をした娘を呆れさせるほどに笑い、燥いでいた。

 

 しかし、喜んでいたのは娘の方も同じだった。喜んでくれるかどうか不安になりつつ、一生懸命に描いたものを本気で喜んで貰えて、心から温かいものが溢れ出すのだ。

 それはそれとして、こうも異様なほどに騒がれると羞恥が膨らみ、そろそろ落ち着いてほしいと切に願ってしまう。

 

 こんな所を誰かに見られては堪らない、と頬をさらに赤く染めていた時、書斎の扉が勢いよく開かれ、また新たな訪問者が姿を見せた。

 

「あなた! 何を騒いでおいでですか⁉ 外まで聞こえるではありませんか‼」

「! お、おかあさま……」

 

 ばん、と扉を押し開けて仁王立ちする、礼装を纏った妙齢の美女。

 少女よりも淡い髪を一纏めにして胸の前に垂らした、背の高く豊満な身体つきをした女性―――少女の母が、厳しい表情で夫と娘を見据えていたのである。

 

 鋭い眼光に射抜かれ、燥いでいた父は途端に勢いを失くし、そろそろと娘を落として縮こまってしまった。

 

「あ、いや……すまん。つい興奮してしまってな」

「由緒ある商家の長としての立場をお忘れになられては困ります。外にはあなたの部下も使用人達もいるのですよ? 腑抜けられては困ります」

「う、うむ……」

「何が嬉しかったのかは知りませんが、いつも言っている通りに他の者の視線を気にし、然るべき姿勢を保って―――」

 

 嫁入りした妻であるが、生真面目で冷静な彼女は夫に対しても毅然とした態度を保ち、他者にも同じ態度を求める芯の通った女であった。

 自他に厳しい彼女は恐れられていたが、それ以上に聡明で優れた采配能力を有し、商家の従業員や使用人達に信頼される、夫並みの人格者であった。

 

 しかし、生真面目過ぎるゆえに融通が利かない性分であり、度々理由も聞かずに夫を叱る事があり、夫はその点だけを残念に思いながら、大人しく説教を受けていた。

 

「まって、おかあさま! おとうさまはわたしのえをほめてくれたの! しからないで!」

 

 しょぼくれる父の姿を見ていられなくなった少女は、懇々と言い聞かせる母に立ちはだかり父を庇う。

 母は即座に口を閉ざし、夫が持っている絵に視線を送り、はっと表情を改めた。

 

「……それは、あなたが描いたの?」

「はい…おとうさまとおかあさまに、かんしゃのおもいをこめました。だから、おとうさまのじゃまをしたのはわたしなんです。おとうさまをしからないであげてください」

「あぁ、娘よ……」

 

 父が喜び過ぎていたのは確かだが、そうなった原因は自分にあると、少女は俯きながら母に訴え出る。

 今度は自分が叱られる番かもしれない、と無言で見下ろしてくる母に怯え、しかし自分の罪はしっかり受け止めなければときゅっと目を瞑る。

 

 母は父から絵を受け取るとしばらくの間見つめ、黙り込んだかと思うと、やがてふっと微笑みを浮かべ娘に手を伸ばした。

 

「……素敵な絵ね。このまま飾っておきたいわ。丈夫な額が必要になるわね」

 

 ぽん、と娘の頭の上に手を乗せ、優しく撫でてやる母。慈愛に満ちた眼差しで娘を見下ろし、自分と夫が描かれた絵を大事そうに片手で抱き締める。

 娘は目を見開くと、ぱっと明るい表情になって母の腰に抱き着く。母はすぐさまその場にしゃがみ込み、豊かで柔らかな胸元に娘を抱き寄せた。

 

「怒ったりなんてしないわ、こんな素晴らしい贈り物をしてくれるいじらしい娘を、どうして叱らなければならないの? そんな事をする人なんて、人間じゃなくて化け物だわ」

「おかあさま…!」

 

 満面の笑顔で顔を埋めてくる娘の髪を撫で、母はくすくすと上機嫌に笑う。すると父もやや遠慮がちにその場に膝をつき、母と娘を纏めて抱き寄せる。

 両親の温かさに包まれ、娘は心の底から安堵を抱く。贈り物をして本当によかったと、自分の行いに凄まじい満足感を抱き、温もりに身を委ね続けるのだった。

 

「今夜の夕食は豪勢にしましょう。素敵な絵をくれたあなたへのお返しよ」

「…! はい!」

 

 

 少女は幸せだった。

 何不自由なく、両親に愛され、いつまでもこんな日々が続くものだと、永遠に変わる事はないのだと信じ切っていた―――その日が来るまでは。

 

 

 

 

 

「どけ! 糞餓鬼!」

 

 ぶんっ、と横薙ぎに振られた腕が、少女の鼻っ柱に直撃する。

 思わぬ一撃に少女は反応する事すらできず、木の葉のように軽々と宙を舞い、どさっと背中から床に叩きつけられた。

 

「…⁉ ⁉」

「あ、あなた…! 私達が一体何をしたというのですか⁉」

 

 横たわった少女の元に駆け寄り、小さな体を抱き上げた母が戸惑い怯えた表情で問う。

 見つめる先にいるのは、自分達家族に躊躇いなく愛情を注いでくれていたはずの父。普段ならば穏やかに笑っているはずの彼は、悪鬼のような恐ろしい形相で娘と妻を睨みつけ、鬱陶しそうに鼻を鳴らしていた。

 

 少女は困惑しながら体を起こし、不意に自らの鼻の下に感じた生温い何かに触れる。

 それが自らが発した血である事を理解すると、少女は顔からさっと血の気を引かせ、母の腕の中でがたがたと震え始めた。

 

「邪魔な塵があったから払い除けただけだ。一々騒ぎ立てるな、面倒臭い奴め」

「邪魔って……あなたの娘ですよ⁉ あなたが何時も、眼に入れても痛くはないほどに可愛がっている……私達の宝なのですよ⁉」

「煩いぞ。何が宝だ、餓鬼の一人や二人死んで何が問題だ。鬱陶しい」

 

 ぺっ、と唾を吐き捨てながら、父は母の剣幕をものともせずに言葉を返す。

 

 眉間には皺が寄り、こめかみはぴくぴくと痙攣を続け、足はばたばたと上下して苛立ちを隠そうともしない。組んだ腕を人差し指でとんとんと叩き、身体全体で忙しなさを表している。

 何より異様なのは娘に向ける視線で、道端に放置された臭った生塵を見ているかのような、凄まじい嫌悪感に満ちた視線を向けていた。

 

 その姿には、以前の優しさも穏やかさも一切感じられず、まるで赤の他人であるかのような錯覚に陥らせた。

 

「お、とう……さ、ま」

「何が……何があったのですか、あなた! 一体どうして、そんな……⁉」

 

 想像だにしない事態に遭遇し、母と娘は抱き合ったまま混乱の渦に沈む。

 

 豹変は、父が仕事から帰った直後であった。

 以前ならば、大きな責任を伴う仕事を終えた後は真っ直ぐ家に帰り、妻と娘と抱擁を交わし心を癒し、娘を寝かしつけた後は妻と共に寝て体を慰めるのが常だった。

 

 だが、いつもよりも遥かに遅く帰った彼は、頑張って夜遅くまで起きてまで出迎えた娘と顔を合わせるや否や、きっと目を吊り上げて平手を繰り出したのである。

 何の前触れもない、娘が粗相をしたわけでも、疲れた所に苛立つ一言を発したわけでもない、突然人が変わったように怒りを露わにし、それまで振るった事もない暴力を浴びせかけたのである。

 

 夫の見た事もない表情と聞いた事もない声に、妻は戸惑いながら娘を背に庇い、変わって鋭い眼差しで夫を睨みつけた。

 

「何があったかは存じませんが、自分の苛立ちを娘にぶつけるなんて、これは父にあるまじき暴挙ですよ! 冷静になりなさい! ちゃんと聞かせて下さいまし、そんな風になる程の何かがあ―――」

「煩いと言っている‼ 黙れ塵が‼」

 

 夫を宥め、落ち着かせようとした妻を、夫は激昂しながら殴りつけた。

 

 喧嘩など一度もした事がないであろう、肉だけしか載っていない大したことのない拳。

 それでも、妻にとっては夫から初めて受けた暴力。ごり、と骨がぶつかる音が鳴り、続いて鈍い痛みが走ると、妻はへなへなとその場に座り込んでしまった。

 

「あ、あな、た……?」

「ぐだぐだと説教何ぞ垂れおって……お前は黙って私の言う事を聞いておればいいのだ! 口答えをするな! 胸糞悪い女が…!」

 

 殴られた頬に手を添え、呆然となる外にない妻を放置し、夫は踵を返すとどすどすと足音を響かせて歩き去っていく。

 

 残された妻と娘は、遠ざかっていく一家の大黒柱の背中を見送り、固まるばかり。

 夫にして父親である男の背が見えなくなり、ばたんと扉が閉じられる音が響いたその瞬間……少女は、自分の平穏な生活が壊れ始めた事を、うっすらと悟り始めた。

 

 だが気付いた時には、とっくに手遅れであった。

 

 

 

「調子に乗るなよ、糞婆」

「誰があんたに従うものか……お前の娘も同じだ、鬱陶しいからさっさとどけ、塵が!」

 

 父が妻子に対する態度を変え、近寄らなくなってから次に起こった異変は、使用人達であった。

 少女や父母に敬意を抱き、何時も笑みを消す事が無かった彼らは、父が豹変した翌日辺りから一人、また一人と態度を変え始めたのだ。

 

 食事を用意しなかったり、言葉遣いが粗雑になったり、舌打ちをしながらぎろりと鋭い目で睨んできたり、挙句少女や母を邪魔だと言わんばかりに足で小突いてきたり。

 それまでの上下関係をまるで無視した、度が過ぎた行いを繰り返すようになり出した。

 

 そんな豹変した者達に、まだ真面であった使用人達が叱責する事態が始めのうちは何回か発生したが、やがてそれも一つ一つ無くなっていった。

 気づけば商家中の全員が似たような態度になり、少女と母に一方的な敵意を向けるようになっていった。

 

「……一体、どうして、こんな事に……」

「お、おかあさま……しっかり。わたしがついておりますから…」

 

 変貌していく日々に少女は困惑し、しかし幼い彼女は何も解決する事はできなかった。

 愛する夫に殴られ、信頼していた使用人達に虐げられ、耐えがたい裏切りを受けた母は日に日に窶れ、かつての美貌が翳り始めたのに、してやれるのは心配することくらい。

 

 どんなに毎日を嘆いても、父も使用人達も元には戻らない。

 日に日に彼らの視線は鋭くなり、精神的・身体的暴力の回数は見る見る増えていく。少女の身体には青痣が幾つもできたが、使用人達は心配するどころか、いい気味だと嘲笑う始末であった。

 

 少女が無力感に苛まれたその頃、再び父が動いた。

 少女が機嫌を伺いながら、恐る恐る話しかけても容赦なく殴り飛ばすようになっていた父が、突如近付いて来たかと思うと、険しい表情を浮かべて母の腕を掴んできた。

 

「―――来い! さっさとしろ! 動け!」

「あ、あなた…おやめください! こんな、乱暴な……!」

 

 嫌がる母を無理矢理引き摺り、ここ数日は全く使っていなかった夫婦の寝室へと連れ込み、閉じこもってしまったのである。

 

 少女は部屋の外に置き去りにし、父母は一晩中出てこなかった。

 耳を聳てれば、また殴られているのか鈍い音が響き、同時にくぐもった呻き声や悲鳴が聞こえてくる。

 

 変わり果ててしまった父を、そしてそんな男に嬲られる母を案じ、しかしやはり何もしてあげられないと嘆きながら、少女は両親が戻ってきてくれるようにと淡い願いを抱き、膝を抱えて蹲っていた。

 耐えれば、時を待てば、また以前の平穏で幸福な日々が戻って来るかも知れないと、根拠のない祈りを支えにして一晩中待ち続けた。

 

 そして、母は戻ってきた。

 窶れていた顔は健康的に戻り、心なしか以前よりも自信満々といった態度で、夫婦の寝室から夫と共に出て来た。

 

「お、おかあさま…―――!」

 

 少女ははっと顔を上げ、自分の前に戻ってきてくれた母の姿にほっと安堵の息を吐く。

 そして湧き上がった衝動のまま、一日ぶりの母の温もりに触れようと、手を伸ばし飛びつこうとし。

 

 

「―――触らないでよ、汚らわしい」

 

 

 ばしんっ、と。

 冷たい表情で鼻を鳴らした母に平手打ちを食らい、真横に倒れ込んだ。

 

 じんじんと痛みが走る頬に手を添え、呆然と母を見上げる。自分に向けられている母の眼差しが、以前父が自分に向けていた物と全く同じ蔑みの視線である事を理解すると、全身の血が凍りついたかのような恐怖を抱く。

 

「さっさとこんな塵、片付けないと。折角良い家が手に入ったのに、塵が居付いたままじゃ寛げやしないわ」

「……お、かあ、さ、ま?

「あーやだやだ、こういうの全部自分で片付けないといけないのかしら。やらせる奴だけ残しとけばよかったかもしれないわねぇ……まぁ、今更どうでもいいけど」

 

 苛立たし気に髪をかき上げ、娘から目を逸らす母。普段はやらない、豊満な身体つきを誇示するような仕草を見せ、自宅の中を弾得て見るかのように見まわしていく。

 

 少女は頬を押さえたまま、固まるばかりであった。

 父や使用人達に続き、唯一の味方と思っていた母までもが変わり果て、少女の心身を支えていたものが少しずつ崩れていくのを感じる。

 

 やがて、身を震わせる己が娘に対し、母はまた冷たい眼差しを送ると片足を振り上げた。

 

 

「じゃあね、塵。あんたが居てとっても鬱陶しかったわ―――どっかで適当に野垂れ死になさい」

 

 

 そんな冷酷な言葉を最後に、そして顔面に襲い掛かった激痛を最後に。

 少女は意識を手放し……朦朧とした意識の中で、一人の女が下品に高笑いする様を幻視し、闇の中へと沈んでいった。

 

 

 

 次に少女が目を覚ましたのは、粘っこい感触が気持ち悪い塵溜めの中だった。

 (バケツ)をひっくり返したような勢いで降り注ぐ雨の中、少女は生塵の中に塗れながら、大量の雨粒を叩きつけてくる真っ黒な空を見上げて沈黙していた。

 

 近くに人の気配はない、自分一人だけが、塵溜めの中に放り出されている。

 

 その瞬間自分は、あの者達に棄てられたのだ―――そんな揺るがぬ事実を理解し。

 塵溜めの中で一人、溢れ出した感情を抑える事が叶わなくなり、大きな声を張り上げて泣き叫ぶのだった。

 

 何の意味もなくとも、何もかもを失った少女には、そうする事しかできなかった。

 

          ▼△▼△▼△▼△▼△▼

 

「……ちっ、最悪な夢だな」

 

 うっすらとした闇の中を漂っていた意識が、朝の陽光を瞼に受けた事で現実に引き戻される。

 最悪の寝覚めを経験した少女―――ライアンは気だるげに体を起こし、住処の壁の穴から差し込んでくる陽光を睨みつける。

 

 何も纏っていない身体からずり落ちる毛布を肩に羽織り、大きく伸びをする。ごきごきと首や肩から音が鳴り、昨晩は大分魘されていたのだなと、自分で自分を嫌悪する。

 

 ずいぶん昔の記憶を、つい昨日のように感じてしまった。

 吐き気がする程に腹立たしい思い出を再び体験させられ、ライアンはばりばりと頭を掻いて唸り声をこぼす。今更こんな夢を見る程気にしているとは、自分は随分女々しかったのだな、とそう思う。

 

 辺りを見渡せば、他の子供達はまだ起きていない……あの怪物は、連れを残して何処かに消え去っている。

 どこに行ったのか、と辺りを見渡していると、不意にライアンの周囲を大きな影が覆った。

 

「……なんだ、それは」

「一宿一飯ノ恩義……トカイウヤツダ」

 

 訝しげに睨みつけるライアンに、野良猫やら野良犬やらを何匹も加えた巨大な黒い竜―――アサルティが答える。

 

 どさどさと地面に置かれる獲物の数々を見やり、ライアンは深くため息を吐く。

 見た目と相反する真摯さを見せつけるこの怪物には、どう対応するのが正しいか、全くわからなかったのだ。

 

「……お前、本当に何なんだ。中に人が入ってるだけじゃないのか」

「知ラン、ムシロ俺ガ知リタイ。……トニカク、コレデ寝床ヲ借リタ礼ハ返シタゾ」

 

 無駄に礼儀正しい、そして義理堅い黒竜の言葉に、ライアンは頭を抱えて項垂れる。

 

 ちらり、と横目を向け、山積みになった獲物を確認する。

 種類はともかく、それなりに肉が載った十分な量の食料である。野良犬や野良猫どころか人肉さえ奪い合うような劣悪な環境で、これだけあれば何日持たせられるやら、と頭の中で算盤を弾く。

 

 また大きく溜息をこぼしたライアンは、踵を返し何処かへ泳いでいこうとするアサルティに掌を突き出し、呼び止めた。

 

「そこで待ってろ、それ使って朝飯位は作ってやる……あいつらは起こさないようにしてやってくれ」

「…ワカッタ」

 

 訝しげに首を傾げつつ、頷いたアサルティに奇妙な可笑しさを抱き、ライアンは立ち上がり自分の服を探す。毛布を適当に丸めて放りながら、肌着代わりの襤褸布を拾って、自分の無駄に大きな胸に巻き付け、形を整える。

 

 その様を見守りながら、アサルティは少し驚いたように小さく唸る。

 常に眉間にしわが寄っていた小さな盗人達の長の表情は―――何故かその時ばかりは柔らかく、微笑みを浮かべているように見えた。

 

 

 

「……俺もどうかしているな、あんな薄情者共の夢を見た後で、あんな訳の分からない化け物に対しては、逆に親しみを抱くなんて」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16.Farewell

「ふぁ~あ……あれ?」

 

 エイダが目を覚ました時、小さな盗人達は一人もいなくなっていた。

 相変わらず汚れた、今にも崩れそうな廃墟はがらんと静まり返り、住人がそれぞれで使用した毛布が散乱しているだけ。

 

 眠気眼を擦り、辺りを見渡していたエイダは、部屋の中心に置かれた大きめの鍋と、それから漂ってくる何やら香しい匂いに気がつく。

 

「あの子達はどこに……というかこれは、ごはんですか? あとちょっとしか残ってないみたいですけど」

 

 鍋の中を覗き込み、隅に残った薄い煮汁らしき液体を見下ろす。放置されていた匙を使って掬い上げ、嗅いでみると、殆ど冷めていたが食べる事に支障はなさそうに感じる。

 しかし、勝手に口にしていいものかと、自覚し始めた空腹を我慢しながら作った者の姿を探していると。

 

「……ソレハオ前ノ分ダソウダ」

 

 背後から聞き慣れた声を掛けられ、はっと振り向く。

 いつの間にかすぐ近くに浮上していたアサルティの前で、一気に眠気が消えたエイダは今一度視線を鍋に戻す。

 

「僕の分、ですか?」

「ソレヲ喰ッタラサッサト出テ行ケ、ダソウダ。アイツ、随分前カラ用意シテイタゾ」

 

 アサルティはそれだけ説明すると、ずぶずぶ影を泳いで廃墟の出口に向かってしまった。

 

 告げられたエイダは目をぱちくりと瞬かせ、少しの間鍋の中を覗き込んで考え込む。自分の分、という事はこの中に残っている少量の煮汁は、自分の為に残されたという事か。

 食べ残しにしては少し多いと疑問に思っていた所に答えを提示され、エイダは納得し何度も小さく頷いた。

 

「……ん? あの人達、もう行っちゃったんですか?」

「一稼ギシテクル、ダソウダ。次ノ獲物デモ探シニ行ッタンダロウ……オ前ノヨウナ安イ獲物ハ早々見ツカランダロウガナ」

 

 適当な器を見つけ、鍋をひっくり返して中身を注ぐエイダに、アサルティは皮肉をぶつけてから、野良犬の死骸らしき肉を咥えてごくりと呑み込む。足りないと思い、予め狩っておいた分のようだ。

 

「そ、その話は勘弁してくださいよ……次はちゃんと死守したんですから。いいじゃないですか」

「最初カラ気ヲ配ッテイレバ、ソモソモアイツラニ狙ワレル事モナカッタダロウニ」

「……アサルティさん、もしかして僕の事嫌いですか?」

「鬱陶シイトハ思ッテイル。俺ガオ前ト共ニイルノモ、オ前ガ勝手ニツイテ来テイルダケダカラナ……俺ガ望ンダ覚エハ一度モナイ」

 

 ばきぼきと骨を噛み砕くアサルティは、じとりと咎めるような視線をエイダに向けて鼻を鳴らす。醜態を何度も晒す半森人の少女に、心底呆れているようだ。

 

 エイダは気まずそうに目を逸らし、次いでため息と共に大きく肩を落とす。

 このような会話を以前もしたな、と以前の失態を思い出させられて憂鬱な気分になりながら、器の中の煮汁を口いっぱいに頬張る。

 

 微妙な温さを自分が遅くに起きた所為だと我慢し、やがて全て呑み込んだエイダはふと、多くの塵が放置された廃墟の中を見渡し、眉間に皺を寄せた。

 

「……あの人達、この先も同じ暮らしを続けるんですかね…?」

「サァナ。ソレシカナイノナラバ、ソウスルノデハナイノカ」

「あんなちっちゃい子も沢山いるのに、本当に大丈夫なんでしょうかね。僕はもう気にしてませんけど、他の被害者とかが怒ったりして……こう、仕返しとか復讐とか」

 

 自分だって盗まれた事に怒りを覚え、一時は後を追って捕えようと考えたのだ。

 自分以上に被害の大きかった者、他者を傷つける事に何ら躊躇いを抱かない人間などがいたならば、小さな盗人達は只では済まされないだろう。自分が故郷の森で受けた仕打ちから考えるに、暴行は当然、殺されてもおかしくはない。

 

 考えれば考えるほど心配になり、エイダは思わず神妙な表情で俯き、考え込む。

 そんな彼女に、アサルティはじとりと険しい視線を向け、ぐるぐると苛立ちの唸り声を漏らした。

 

「オ前、他人ノ心配ヲシテイル余裕ガアルノカ?」

「…アサルティさんに迷惑かけっぱなしってのはわかってます。ですけど、一度言葉を交わした相手が酷い目に遭ったりするのは……いやだな、と」

 

 この黒竜に、小さな盗人達の事情は全く関係がない。それは自分も同じ事で、推しかけて無理矢理旅に同行しているだけの赤の他人なのである。

 確かに、アサルティに不注意について忠告され、また新たに現れた怪物から救われたりと、他人を気遣っている暇は全くない。

 

 だがそれでも、エイダが生まれつき持った厄介な性分が、出会った顔見知りを忘れる事を拒み、許さないのだった。

 

「……ソレハ、オ前ノ故郷ノアノ屑共ガ相手デモカ?」

「……あの人達が死んでしまった直後は、ちょっとくらいはざまぁみろって思ったりもしました。でも、時間が経った今は……」

 

 毎日罵倒し、本気で殺そうとしてきた故郷の半森人の男達。

 彼らに対する感情は暗いものばかりで、碌な思い出が無かったが、それでもエイダという少女を構成する記憶の中に、確かに入っている存在であったのだ。

 

 どんなに嫌いでも、この世からいなくなった事に対しては思う所が多々あった。

 

「居なくなるのって、寂しいんですよ。どんなに嫌いな人でも、憎い人でも、それまで確かに存在していた人がいなくなるのって……なんか、こう、胸の中に穴が開いたみたいな感じがするんですよ」

「……ソウイウモノカ?」

「少なくとも僕は…そういう感じです」

 

 エイダはそう言い切ると、不意に自らの懐を弄り出し、大事に奥底に隠して老いた金銭の入った袋を取り出す。

 じゃらじゃらと音を立てる、二度と奪われてなるものかと死守するつもりでいた、今後の生活基盤。それをエイダは……空にした鍋の傍にそっと置く。

 

「……こんなものに振り回されるから、無駄に気を張る羽目になるんですよね」

 

 手元にはもう一銭もない。あの串肉をもう食べられないのは残念だが、何故か清々しい気分になり、もうあまり気にならなくなってくる。

 手ぶらとなったエイダは軽くなった懐を弄り、やがて満足げな笑みを携えて頷いたのだった。

 

 

 

 そんな風に、大真面目な顔で相変わらず甘い行為をしたエイダに、アサルティは肉を齧りながら首を傾げる。

 根本的に人に、命に対する価値観が異なるのだろうか。無言で地面を見つめるエイダに、全く理解ができないと言いたげに目を細め、額の辺りを顰めさせる。

 

「最初ニ会ッタ時ヨリハ遥カニマシナ馬鹿ニナッタガ……ヤハリ馬鹿ハ馬鹿ナノカ」

 

 他人を気にする事ができる精神を、アサルティはどうしても理解できなかった。

 お人好しと言われた事はあるが、そう言われるに至った行動の多くは己の為にやった事。己の思考に最初に上がるのは食欲で、次は大抵気分次第でころころと変わる。

 

 気に入らなければ何もしないし、むしろ率先して喰い殺し。暇でやる事が無ければ、困っている様子の輩を手伝ってやる気にもなる。

 自分は常に、自分の感情の赴くままに動いて来たつもりなのだ。他者の事は、根本的にどうでもいいのだ。

 

 これは、()()()()()()()()からなのか―――エイダの意識が自分に向いていない間、アサルティは獲物を咀嚼しながら物思いに耽る。

 傲慢な捕食者の思考を自覚し、アサルティは微かに自分の中に嫌な感覚が芽生えた事に気付いた。

 

「……マァ、俺モ人ノ事ハ言エンガナ。本当ニ、俺ハ何ニナッテシマッタノダロウナァ……」

 

 影の中に目から下を沈めつつ、アサルティは思う。

 

 こんな迷惑な考えを持った者が、訳のわからない能力とやたらと空きまくる胃袋を持ってやって来て―――()()()()()()()()()()()()()()()()()のだろうか、と。

 

 

 

「……ン? コノ世界…?」

 

          ▼△▼△▼△▼△▼

 

「―――よし、今日の仕事場はここだ」

 

 建物の屋根の上から覗ける、眼下で騒ぐ大勢の人々。

 自国にはない、珍しい品や優れた品を求めてやって来た他国の者達が、商人達を相手に交渉を行う様が見える。

 

 ねちっこく、時に威圧的に話して値段を下げようと努める彼らの懐からは、じゃらじゃらと大量の金銭の音が聞こえてくる。

 それらは商人達にとって自分の要求を通す為の武器だが、彼らにとってはご馳走であった。

 

「南東区は目立ち過ぎちまったからな、ほとぼりが冷めるまでしばらく離れておこう……それまで他の狩場でも目立たないようにしろよ」

「う、うん」

「わかった…!」

 

 狙う獲物の質が高ければ、その分危険性も高くなる。

 多くの金を持つ者ほど用心深く、奪われないように屈強な護衛を雇い、自分の周囲を固めているもの。挑むのは覚悟が必要となる。

 

 失敗して捕らえられるのは勿論、足がついて住処を特定されては堪ったものではない。

 

「……ねぇ、ライアン」

「何だ」

「……きのうたすけてくれたかいじゅうさんのことなんだけど」

 

 思考するライアンの元に、襤褸布で顔まで隠したルラが話しかけてくる。

 辿々しく、もじもじと躊躇いがちに口にした言葉に、ライアンは反射的に顔をしかめて妹分から目を逸らした。

 

「あいつらは他人だ。もう関わる事もないんだから、忘れろ。あの遊びも危ないから駄目だ、禁止する」

「えー?」

「そりゃないよ、ライアン姉」

 

 ライアンがそう告げると、他の弟分や妹分達から抗議の声が上がり出した。

 昨晩一緒に遊んでもらった事が相当気に入ったのだろうか、いつもは従順な少年少女達が口々に不満をぶつけてくる。

 

 経験のない事態に、ライアンはぎょっと目を剥いて彼らに振り向いた。

 

「お、お前ら……」

「あ、あのね? あのかいじゅうさんのちからをみてておもったの。かいじゅうさんにもてつだってもらったら、しごとがもっとらくになるよ!」

 

 呆れるライアンに、リラが懸命に訴えかけてくる。

 ライアンに反対される事を承知で、それでも自分の命の恩人であるという思いと、楽しかった記憶に突き動かされ、いつにない積極性を見せてくる。

 

 それは他の者達も同じで、目を輝かせながら今が好機とばかりにライアンの周りに集まってくる。

 

「ライアン、あいつらさそわないのか?」

「かおはこわいけど、ぜったいいいやつだぞ」

「なかまにいれてやろうよ」

 

 わいわいと、仕事前である事も忘れて騒ぐ少年少女達に、ライアンは思わず頭を抱える。

 どれだけあの怪物の事が気に入ったのやら、全員が期待に目を輝かせている。特に男子が強く反応を示しているのがわかった。

 

「……あいつらは俺達とは違う世界に生きてんだ。それを態々こっちの世界に引き摺り込むなんて、面倒事の臭いしかしねぇだろ」

 

 ライアンがきっぱりと拒否すると、全員が落胆した様子で肩を落とす。そしてライアンに恨みがましげな視線を送り出す。

 

 弟分と妹分達の気分が一気に降下した事で、ライアンは深い溜息をついて項垂れる。こんな事で仕事前のやる気が落ち込むなど、情けなくて悪態がこぼれそうになった。

 

「でも、わたしをスナッフからたすけてくれたよ」

「それは……」

 

 純然たる事実に、ライアンも多少は悩む。

 

 廃墟街に出没する不定形の怪物。普段は山のような巨体で、時に無数に分裂し襲い掛かってくる、何もかもを捕食し溶かしてしまう危険な存在。

 何度も狙われた事のある怪物と、それを逆に捕食してしまえる怪物……それを味方にする事は、確かに魅力的であった。

 

(あいつが味方になってくれたら……いや、そんなのはただの妄想だ、考えるだけ無駄だ。だが、化け物を味方にするなんて、連中の度肝は抜けそうだな)

 

 街を見下ろし、人々を睥睨してライアンは思う。

 

 何一つ不自由なく暮らしているように見える男、他人を顎で使って買い物に興じる女、生まれてからこれまで何もかもを与えてこられた子供、老い先短い人生で金を溜め込んでいる老人達、そして自分達を追い出した屑共。

 あの怪物が味方であればーーー自分達を見下し虐げる連中に目に物を見せてやれるのではないか。

 

 そんなくらい考えを抱いたライアンは、やがてはっと我に返るとぶんぶんと首を横に振った。

 

「さぁ、無駄話はこれくらいにして…―――行くぞ」

 

 自分自身に言い聞かせるようにして、弟分達にそう告げたライアンは腰を上げ、今日の獲物を見定める為に街へと降りていく。

 

 その後を他の者もついていき、小さな盗人達は街へと散らばっていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17.Fixer

「寄っといで寄っといで! 異国の織物が揃ってるよ! 見なきゃ損だよ!」

「隣国で作られた風変わりな発明だ! 冷やかしでもいいから見ていかないかい⁉」

「あま~い果実はどうだい! 安くしとくよ!」

 

 大通りのあちらこちらから、威勢のいい掛け声が響いてくる。

 普段は静かな、他人の通りも疎らである通りなのだが、月に一度、時刻やよその国からやってくる商人達が集まって市を開き、単純に売るだけでなく商品の知名度を上げようと奔走するのである。

 

 遠くから、自身を持って持って来る分商品の質は高く、次々に客はやって来て飛ぶように売れていく。

 品物は異国でしか手に入らない果物や野菜、肉や魚もあれば、異国の技術で生み出された発明品や民芸品も出される。作った本人が自ら店頭に立ち、声高々に品物の利点と作るまでの苦労を語り、道行く人の関心を惹いて薦めているのだ。

 

 月に一度の催しに、人々の財布のひもは緩み、そして商人達の懐はあっという間に潤っていく。

 そんな彼らを……通りの影に潜んだ三人の小さな盗人達が、じっと息を殺して見つめ、標的を見定め向かう時機を見計らっていた。

 

「……あの男はどうかな。たくさん持ってそうだよ」

「だめだ、となりにごえいがいる。かえりうちにあっておわりだ」

「そのとなりの女はあんまりもってなさそうだな。ありゃはずれだ」

 

 目の前を通り過ぎていく客や屋台や茣蓙を広げた商人達を一人ひとり眺め、狙うべきか否かを判断する。

 

 最初に通り過ぎた男は裕福層だが、すぐ傍で屈強な大男がぴったりと張り付いていて、全く隙を見せない。稼いだ金で自分を守る事を重点的に考えているようだ。

 次に見つけた女はごく普通の格好で、肩に担いだ鞄の中身も食べ物ばかりが入っている。ちょっとした贅沢をするために市に出て来たのだろう。

 

 その次も、その次の前を通り過ぎる者も、狙うには危険を伴う、或いは狙ってもさして実入りのないあ相手ばかりで、盗人達は中々仕事をできずにいた。

 

「……きのうの森人のお姉ちゃんみたいなやつはいないね」

「あんな狙い易い鴨なんてそうそう居るわけないだろ、馬鹿」

 

 この仕事を初めて何年と何ヶ月が経ったか。その中でもあそこまで簡単に盗める相手はいなかった、と三人の中で一番年上の少年は呆れた表情で鼻を鳴らす。

 

 あんな獲物が今後現れてくれるとも限らない。あんな獲物に頼らなくてもいいように、己の技量を高めて稼ぎを確実にできるようにしなければならない。

 最年長の姉貴分が別の場所にいる今、自分がしっかり弟分たちの面倒を見なければ、と少年は鋭く獲物を捜し、息を潜める。

 

「ライアンはだめって言ってたけど、こういうときアサルティがいたらすごくやくにたちそうだよね」

「うん、ぬすんだらすぐに、かげにもぐってにげちゃえばいいんだもん」

「……あんな奴に頼ろうと思うな。あんな世間知らずのお人好し共なんか……」

 

 諦めた様子のなさそうな弟分達に、少年達はやや鬱陶しそうに返す。

 

 弟分達の言う通り、害になる輩ではないのはわかっている。同情し好意的に接してくれる雰囲気もあり、味方になってくれればさぞ安心できるだろうと思える。

 森人の女は頼りないが、何よりも魅力的な黒竜の能力は逃しがたい。あの力を自在に使う事ができれば、この先の人生はどれだけ楽になるだろうか、と。

 

 だが、だからこそ少年にとっては傍にいてほしくなかった。

 力を持つ者に同情され、助けられる事に対し、見下されている気がして不快な気分に陥ってしまうからだ。

 

「もういいから、今日の獲物を探せ。目標分稼がないとライアンにどやされるぞ」

「はーい…」

 

 意識を切り替えねばと少年が告げると、弟分達は渋々といった顔で視線を市に集まった客達に戻す。

 狙い易く、盗みに気付かれにくい、それでいて実入りの多そうな相手。数少ない標的を見つけ出す為、三人は目を皿のようにして人々を観察し続けた。

 

 そんな時、一を横切る一つの人影に気付いた。

 護衛もおらず、服装もそこまで豊かではなく貧しくもない、白いひげを蓄えた初老の男性である。

 

「……あのおっさんがいいんじゃない?」

「ん? …ああ、そうだな。あれは丁度いいかもしれない。後を追ってみよう」

 

 慣れた足取りで歩いていく男に意識を集中させ、少年と弟分達は動き出す。

 姉貴分よりは巧くはないが、街の人間に殆ど気付かれる事のない無音の足運びと息の殺し方を用い、獲物の後ろにぴったりと張り付く。

 

 ―――男が持つ、年齢に似合わぬ鋭い目つきに気付く事なく、小さな盗人達は進むのだった。

 

          △▼△▼△▼△▼△

 

「……鬱陶しい野鼠が、数匹かいるな」

 

 市から離れ、しばらく歩いた先に広がる、料理を提供する店が多く集まる場所。

 その一角にある、こじんまりとした洒落た店に入った初老の男―――表向きには温厚な、裏では冷徹な思考で多くの民から金を巻き上げる大商人である人物が、近頃街で流行っている珈琲を口に運びつつぽつりと呟いた。

 

 派手な装いを嫌い、然して裕福ではないように偽り、目立つ位置に護衛を置かずに街往く者達の需要を確かめていた時、彼はふと物陰から向けられている視線を感じた。

 

 一箇所だけではなく、少なくとも三か所から同時に向けられる、時機を見計らう視線。

 男は珈琲を入れた器で口元を隠しつつ、老人とは思えないほどに鋭く殺気の籠った視線で視線を感じる方を睨み、思考する。

 

「一つは、只の餓鬼共……一つは記者、もう一つは金に目が眩んだ女か。他にも何人かいるが、大体皆同じような相手だな……儂の金を狙う犬共が」

 

 ふん、と鼻を鳴らし、男は吐き捨てる。

 

 幼少期から苦労を重ね、数々の裏切りを経てなお成功への執念を抱き、齢六十となった今や他に並ぶ者のいないほどの富豪へと成り上がった人物。

 多くの店を持ち、配下を従え、国を裏側から牛耳り王よりも力を持っているとさえ言われる、敵に回せば命はない恐ろしい男が彼であった。

 

 だがそれでも、彼を狙う者は大勢いた。

 純粋に金銭を奪おうと目論む者、配下に下り甘い蜜を啜りたがる者、毎日豪勢に暮らせるであろう愛人の座を狙う者、ありとあらゆる種類の人間が彼の隙を伺っていた。

 

 地味な恰好で普通の人間を装って尚、狙う者は減らない。闇の世界に身を潜め、多くの別の顔を使って自らを隠していても、執念で顔を暴いて近付いてきていた。

 

「……誰にも渡さんぞ。全て儂のもの、儂の財産じゃ……鐚一文奪わせたりはせんぞ」

 

 自身が一度命じれば、一般人を装って姿を偽っている護衛達が一斉に動き出す。

 自身を狙っただけではない、自身を不快にさせた者も、通行の邪魔をしたというだけでも、多額の報酬を払って雇った護衛達は命令通りに障害物を排除する。

 

 それだけの事ができるという自負を抱き、男は敢えて周囲に蔓延る盗人達を泳がせ、動きを待っていた。

 

 

 

「……まずいな。あれは多分、西のゴドウィンだ。人身売買までやってるっていう恐ろしい奴だ」

 

 店先の椅子に腰かける初老の男を凝視し、盗人の少年が悪態交じりに呟く。

 

 目の前にいる男が腰を下ろした瞬間、雰囲気が別人のように豹変し、三人は戸惑いと恐怖でその場に立ち尽くす。

 狙い易そうな獲物として追ってきた相手が、実は同業者も避けるような大物であった事に気付き、冷や汗を垂らしながら舌打ちをこぼす。

 

 老いてなお凄まじい威圧感を放つ男から、本能的な恐怖を感じた少年は離れられなくなっていた。

 

「下手に近付いたら、どこかに隠れてる手下に捕まってそのまま奴隷堕ちだ。しくじったな……今離れたら絶対に追って来るぞ」

「そんなこわいやつ、なんできづかなかったんだよ…!」

「奴の顔を知ってる奴は少ない……この国の金の動きを裏で操ってるって言われてるくらいの男だ。近くで雰囲気を感じてやっとわかったんだよ」

 

 狙っていた男の雰囲気が急に変貌した所為か、すっかり怯えて逃げ腰になっている弟分達を横目に、少年は自分の失態だと歯を食い縛る。

 

 相手が悪いとわかった今、長居は無用。

 なのに、逃げようと隙を見せた瞬間後ろから狩られそうな威圧感があり、誰一人その場から動く事ができない。一触即発の、破裂寸前の風船のような雰囲気となっていた。

 

「ど……どうする? ぬすみにいってもにげてもつかまるんだろ?」

「何か、何か騒ぎでも起こればその隙に逃げられそうなんだが……そんな都合よく起こらないか」

 

 頬を引きつらせ、少年は小さく唸る。都合のいい偶然に頼りたくなるほどに、状況は不利で激しい後悔に苛まれる。

 あの男を狙わなければ、途中で諦めていれば……弟分達の言い分を真面目に聞いて、あの黒竜の力を借りていれば、ここから逃げるどころか獲物を奪う事もできたかもしれない。

 

 最早、真面に思考もできなくなるほどに少年達は焦り、男の一挙一動に一々身を震わせながら、機を窺う事しかできない。

 

 

 先程から全く動きがない、自分を狙う不届き者達に焦れ、初老の男が近くに控える肺かに合図を送ろうとした―――その時だった。

 

 

「―――相席、よろしいですか?」

 

 

 そんな、場の雰囲気に全く似合わない呑気な声が響き、男は動きを止め、ぎろりと鋭い視線を向ける。

 そして、そこにいた一人の女……藤色の髪に、白磁のような艶やかな肌をした美しい女を前に、胸中で酷く荒ぶっていた初老の男は一瞬苛立ちを忘れて魅入ってしまう。

 

 女は男の注目の全てが自分に向いている事を察すると、にこりと……どこか作り物染みた笑みを浮かべ、許しも得ぬまま静かに向かいの席に腰を下ろした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18.A wicked woman

「……誰だね、君は」

 

 突如、自分の許しも得ぬままに目の前に陣取って来た女に、男は険しい顔で吐き捨てるように問う。

 視線は女の顔、異様に整った人形のような顔に向けられ、眉間には深いしわが刻まれる。一人で味わっていた憩いの時間に割って入った無粋な輩に対し、明確な敵意を抱く。

 

「礼儀がなっていないな。ここは今、私が貸し切っているお気に入りの店だ。許しも得ずに入るとは、余程私に嫌われたい愚か者のようだな」

「うふ、そんな怖い顔をなさらないでください……私恐ろしくて泣いてしまいますわ」

 

 胡乱気な顔で迎える男に構う事なく、女は妖艶な笑みを湛えて男の目を覗き込む。

 長くしなやかな足を組んで自身の艶めかさを男に見せつけ、頬杖をつきつつ前のめりになり、振れれば指がさぞ柔らかくだろうっという、巨大な果実のように豊満な胸の谷間を誇示する。

 

 大きく開いた胸元は、そこらの男であれば簡単に理性を飛ばさせる程の色気を放ち、今は目の前の男に対して誘惑の香りを放っている。

 気の所為か、女からは実際に熟した果実のように香ばしい香りさえ漂っているように感じられた。

 

「知る人ぞ知るやり手、商人の中の商人たるゴドウィン様にお会いする為に、わざわざ遠くからやって参りましたのに……そんな冷たい態度を取られてしまっては悲しいですわ」

 

 しゅん、と笑みを引っ込めた女は、代わりに雨に濡れた子犬のように弱々しく同情を誘う表情になる。憂いを湛えた瞳が伏され、見る者に罪悪感を抱かせる。

 女はそのまま、男の手に縋りつこうとし、そろそろと染みも傷も何もない手を伸ばしていく。

 

 だが、それが触れようとした瞬間。

 ぱんっ、と激しい乾いた音が響き、女の手が宙に弾き飛ばされた。

 

「近付くな、薄汚い女め!」

 

 がたん、と座っていた椅子を蹴飛ばし、立ち上がった男が目を吊り上げて怒鳴りつける。

 いきなりの事で理解が追い付いていないのか、きょとんと呆ける女を見下ろし、女が触れようとした箇所を付近で何度も擦る。まるで雑菌に触れられたような態度で、男は最大の嫌悪感を示していた。

 

「お前のような輩はこれまでに何度も見て来たわ‼ どいつもこいつも遜り、縋りつき、他人の慈悲に味を占めた野良犬のように寄って来た! 少しでも甘い顔を見せてやれば、奴等は調子に乗って何度も儂から漏れだす甘い蜜を啜りに来た‼ 気持ちの悪い、糞共めが‼」

 

 自分以外の何物も信じていない彼にとって、一定の範囲に近づいてくる存在は尽くが敵であるという認識であった。故に素朴な恰好で自らを偽り、人を雇って自分を守る壁を作っている。

 自分に態々近づいてくるような存在は、自分の財産を目当てにしているに違いない。ならば誰一人近付かせてなるものかと、男は常日頃から自分の存在を隠してきた。

 

 そして、目の前にいるこの女は明らかに自分を狙ってきている。

 かつて自分の元に心からの味方であるかのように振る舞い、内心で醜い欲望に突き動かされてやって来た不埒な輩と同じような、欲望に塗れた汚い目を見せて。

 

 男はぺっ、と唾を吐き捨て、がつんと女が頬杖をつく机を蹴りつける。

 黙り込んでしまった女を鋭い刃のような目で見下ろし、噴き出した苛立ちのぶつけ所を探して地面を何度も踏みつける。

 

「どうせ貴様も、儂の金が狙いだろう! 誰がくれてやるものか! 女は何よりも信じられん……妻だの愛人だのと擦り寄って、儂を操っていい暮らしをしたいだけの俗物が! 汚い! 業突く張りが!」

「……」

「さぁ、とっとと失せろ! 儂が見逃してやっている間にさっさと失せろ! 触りたくもないんだ、お前の様な塵なんぞに‼」

 

 がんっ、と自らが蹴り倒した椅子を再度蹴り飛ばし、踵を返す男。

 息を荒げ、顔中に汗を噴き出させ、男は一刻も早く女の姿を視界から外そうとするように、足早に席から離れていく。

 

 

 そんな姿を、様子を窺っていた小さな盗人達は、険しい表情で見守っていた。

 周囲に潜む護衛に感づかれないよう細心の注意を払いつつ、二人の会話が聞こえる程度の距離にまで近づき、離れる時機がないかと探っていた。

 

 の、だが、恐ろしい剣幕で吠える男に怯え、離れる時機を見失い、思わず二人の声を最後まで聞く羽目になっていた。

 

「……なんか、かわいそうな人だね」

「あ、ああ…そうだな」

 

 じっと静かに聞き耳を立てていた弟分達が振り向き、兄貴分の少年に語る。

 聞こえてくる言葉から察した通りならば、あの男もまた理不尽な人生に振り回され、猜疑心で凝り固まってしまった悲しい人物なのだろう。

 

 自分達は信じていた家族に裏切られ、追い出され、貧しい暮らしに追いやられた挙句同じ境遇の者同士で集まって、協力し合って今を必死に生きている。

 あの男も多くの人間に裏切られ、今や誰も信じず自分一人の為だけに金を稼ぎ、死ぬまでたった一人で生きていくつもりでいる。

 

 始まりは自分達と似たようなもので、関わべきでない危険な存在だと思いつつも、どうしても同情せずにはいられなかった。

 

「あの人には、ライアンみたいな人がいなかったんだね」

「たすけてくれる人がだれもいなくて……それでああなっちゃったんだね」

「……そうだな」

 

 弟分達の悲し気な呟きに相槌を返しながら、少年は店の入り口にまで差し掛かった男を注意深く見張る。他者に対して過剰な程の拒絶感を示す男の境遇には同情するが、そうしたからと言って味方になってくれるわけではない。

 以前、あの男は裏社会で恐れられる恐ろしい男。不用意に近付いてどうなるものか、わかったものではない。

 

「……とりあえず、ここを離れるぞ。ゴドウィンがあの女に気を取られているうちに、あいつから距離を取った方が良い」

「……うん」

 

 弟分達の背中を叩き、少年は店に残された女を一瞥し、頭を振って歩き出す。

 

 おそらくこの後、あの命知らずの女が碌な目に遭わないだろう。この国の裏社会を牛耳る怪物の機嫌を損ね、只で済むはずがない。

 見逃すとは言っていたが、後になって人目に付かない場所に連れ込まれ、甚振られた挙句に商品として出荷されるかもしれない。そういう事を平然と行える人物を相手にしてしまったのだから。

 

 気の毒だとは思いつつ、相手の恐ろしさを知らずに近付いた愚か者として、自分達が無事に逃げる犠牲になって貰おう。そういう意味では、ありがたい介入だったと胸中で感謝しながら歩を進める。

 

 

 ―――だがその歩みは、少年の背後で蠢く何かの気配を感じ取った瞬間、まるで極寒の冷気に晒されたようにぴたりと静止した。

 

 

「ちっ……だったら、仕方がないわね」

 

 背後から聞こえてきた、心底苛立った様子の舌打ちの声。

 それが、先ほどまで気色と色気に満ちていた例の女の声である事を理解し、少年は思わず驚愕と困惑で振り返る。

 

 店では少年と同じく、その場を立ち去ろうとしていた男が険しい表情で立ち止まり、女に再び向き直っていた。

 

「……大人しく姿を消せば見逃してやるといったのが、理解できなかったのか」

「はっ、見下してんじゃないよ。老い耄れに凄まれた程度で怯えるとでも思ったのかい? 馬鹿か、調子に乗るんじゃないよ耄碌爺」

 

 顔は先程と同じ、しかし相手に向ける視線は蔑みと苛立ちに満ちた剣呑な物。

 目を離した僅かな間に、別人のように態度を豹変させた女に、男は額とこめかみ、そして手の甲に太く血管を浮き立たせる。

 

 女はそれを目の当たりにしながら、さらに挑発するように鼻を鳴らして罵倒の言葉を吐き続けた。

 

「何よ、爺のくせに餓鬼みたいな癇癪起こしちゃって、見っともないったらありゃしないわよ。ちょっと揶揄っただけで本気にしちゃって、ほんと器の小さい男。むきになっちゃって馬鹿みたい」

「……お前……‼」

「私だって、あんたみたいな皺だらけの爺なんて願い下げだけど……こんなに扱いにくい奴なら、もういいわ。操るのはやめ、全部貰っちゃうわ」

 

 けらけら喧しく喋り、男を嘲笑う女。美しい顔立ちが台なしになる程、女が向ける目は醜く悍ましく、男に、いや、他者に対する侮蔑が表れている。

 

 男は頬をひくひくと痙攣させ、やがて全身を怒りでぶるぶると震わせる。

 今日に至るまで、金儲けで苦労した時代にも受けた事のないような嘲笑と罵倒を受け、頭の血管が切れてもおかしくがないほどの憤怒を見せつけた。

 

「この…存在そのものが不快な塵めが! 失せろと言ったのがわからんか⁉ ……いや、もういい。お前のような愚か者は商品にしても何の得もない、この場で処分してくれる! おい、この女を殺せ‼」

 

 真昼間の街中にいる事も忘れ、辺りに配置しておいた護衛達にそう命じる。

 そもそも、雇い主の命令も忘れて赤の他人を近付かせる間抜けな護衛の所為でこのような不快感を味わわされたのだ、と先程から全く動きを見せない護衛達に対する怒りも燃やす。

 

 始末次第、連中にも罰を与えねば。そう目を吊り上げて苛立つ男であったが―――いつまで経っても、護衛達は男の元に姿を現さなかった。

 

「…? おい、何をしている! さっさとこの女を殺せ‼ 周りの目など気にするな! 早くやれ! おい‼」

 

 一向に動きがない周囲に、男は困惑しながら怒号を放つ。

 しかし、どんなに待っても護衛達が姿を見せる様子はなかった。男が寛いでいた時と同じく、辺りはしんと静まり返ったままで、男の怒号が虚しく消えていくだけであった。

 

 男はそこでようやく我に返り、ある違和感に気付く。

 出かける前に確認した護衛が周りに一人も見当たらず、それどころかこんなにも自分が騒ぎ、怒鳴っているというのに、周りにいる人間が誰一人として反応を見せていないのだ。

 

 茶を呑んでいた老夫婦も、燥いでいた子供も、手を繋ぎ楽し気に話していた男女も、誰一人として自分達の方を見る事なく……それどころか、一点を見つめたまま固まっているのだ。

 

「……何だ、これは。おい、何だこれは⁉ ふざけているのかお前達、おい!」

 

 男はさっと表情を変え、辺りを見渡しながら後ずさる。周りの固まった人間達に大声で呼びかけながら、徐々に覚束なくなる足取りでずるずると後ろに下がっていく。

 まるで、時間が凍りついた中に自分一人だけが取り残されたかのような光景に、男の顔から大量の冷や汗が吹き出す。

 

 男の足は無意識のうちに、そんな凍りついた時間の中で平然と動き、嗤っている謎の女から離れようとしていた。

 

「くっ、ふふ。ねぇ、あんたの呼んでる護衛ってぇ……こいつらの事ぉ?」

 

 女はそう言って、男の足元を指差す。すると、女の背後から何かが飛んできて、鈍い音を立てて地面を転がってくる。

 

 転がって来た()を前にし、男はびくっと前身を震わせ、背後の木に背中をぶつけて倒れ込む。

 丁度股の間に転がり、正面を上にして止まったそれは―――自分が雇い、もっとも使える者と判断していた護衛、その首から上だった。

 

「―――ひ、ひぃい⁉」

 

 恐怖に目を見開き、大きく口を開いた絶叫の形で固まった護衛の生首を前に、男はそれまで這っていた強気を保つ事ができず、情けない悲鳴をあげて腰を抜かす。

 影の支配者という他人に向けた仮面を剥ぎ取られた男は、最早意味のない悲鳴をこぼして藻掻く事しかできなくなる。

 

 そんな彼の元に、女はにたにたと不気味に嗤ったまま近付き、足元に転がった生首を掴んで男の前に掲げてみせた。

 

「こいつ、あんたに近づくのに邪魔だったからさっさと殺しちゃった。うるさいとぜんぶ台なしになっちゃうから、最初に首を切って声帯を潰してさ? 気を遣うの大変だったんだよね……あ、他にもあるのよ。見る?」

 

 がたがたと震える男に構わず、女はそう言って自身の衣服の胸元に手をかけ、がばっとさらに広げる。

 布が勢いよく剥ぎ取られ、白く豊満な乳房が曝け出される……その寸前、女の胸がぼこりと波打ち、丸い肉の塊が幾つも転がり出てくる。

 

 それらが全て、首だけになった己の護衛である事がわかると、男は悲鳴も上げられず、魂が抜けたように脱力してしまった。

 

「……ぁ、あぁあ……あ…」

「あらぁ? 何よ、もう壊れちゃったの? まだ駄目よ、あんたはあたしの事を馬鹿にして見下した事に対する罰を受けてないんだもの。ほら、起きて起きて」

 

 女を凝視したまま、呻き声を漏らすだけになった男に、女は不満げに唇を尖らせて肩を掴んで揺らす。

 現実を放棄しようとしてか、精神を壊してしまった男はどんなに揺すっても元には戻らず、やがて女は舌打ちを一つこぼして立ち上がる。

 

「はぁ……まぁ、いいわ。許してあげる。()()()()()()()()()()()わけだし、あんたの無礼なんて気にしないわ!」

 

 にこにこと上機嫌に笑いながら、女は男の頬に触れる。

 虚ろな目で見上げてくる、当初の覇気も活力も何もかもを失くした男の顔を上げさせ、鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけ。

 

 

 

 そして、女の全身がずるりと、半透明なえきたいのような何かへと変貌した。

 

「じゃあ―――イタダキマス」

 

 

 

 どす黒い七色の何かへと変貌した女は、べろりと下のような部分で口のような穴の淵を嘗め、男の顔面に喰らいつく。

 どぷんっ、と男の顔だけでなく全身が七色の液体状の何かの中に取り込まれ、うっすらとした影しか見えなくなる。やがてそれは、端からぼろぼろと崩れて小さくなっていき、最後には消えて無くなってしまう。

 

 液体状の何かはしばらくの間ぐねぐねと蠢き、粘ついた気味の悪い音を響かせる。

 獲物を咀嚼するような、胃袋が消化を行っているかのような蠕動を全体で行い、ぼこぼこと表面が何度も変形を見せる。

 

 そして……不定形だったそれは、突如形を取り始める。二本の足、二本の腕、そして胴と頭が分かれ、指や毛といった細かな部分が形作られていく。

 半透明だった表面も次第に色がつき、ねちゃねちゃと音を立てていた体は弾力を帯び、液体から個体へと変じていく。

 

 

 そして現れたのは、一切傷の残らぬ、泰然とした表情を湛えた男―――ゴドウィンであった。

 

 

「……あ~あ、やっぱり爺の身体奪っても全然嬉しくないわ。財産を貰うにも、こいつの声としゃべり方でいちいち部下を操らなきゃいけないし……本当、面倒臭いわ。あ~あ……」

 

 口を開きこぼれ出たのは、男の声ではなく先ほどの女の声。気だるげに響くその声も、徐々に男のものに変わっていき、見た目も声も態度も何もかもが同じになる。

 ごきごきと首の骨を鳴らし、自らの身体の調子を確かめるような仕草を見せると、それは―――大商人に成り代わった何かは、にたりと不気味に嗤ってみせた。

 

「次はもっと綺麗な女を狙っちゃお。南にはまだ言ってないわよね……あっちは確か胸の大きい女とか、身体つきの整った女とかが多いって聞いたし、奪うならそっちの方が良いわよね。うふ、うふふふ……今から楽しみだわ~」

 

 愉しそうに話す男の顔の半分が、先程の女の顔に変わる。あまりにも歪な姿を晒しながら、その何かは店の中で踊るように歩き回る。

 

 悍ましい光景を間近で見せられているにも関わらず、店の中にいる誰一人として驚愕する様子はなく、相変わらず凍り付いたように固まったまま。心なしか、その光景を当然の元として受け入れている雰囲気さえあった。

 

 

 そしてその光景に怯え、戸惑う者は、店の外の物陰に身を潜める三人の小さな盗人達だけとなっていた。

 

「……ま、まずい、まずいよあれ…!」

「う、うわぁ……うわあぁあ…!」

 

 あまりにも恐ろしく、悍ましく、気が狂いそうな光景を目の当たりにしてしまい、弟分達はがたがたと震えて兄貴分にしがみつく他にない。

 兄貴分の少年もまた真っ青な顔で立ち尽くし、顔中冷や汗まみれになりながら、やがてはっと我に返ると背中に縋りつく弟分達の方へ振り向く。

 

「―――に、逃げるぞ! 早く‼」

 

 もう、気配を殺す事も身を隠す事も考えていられない。

 あの化け物の近くから一刻も早く離れなければと、小さな盗人達はもつれそうになる足に叱咤して、全速力で走り出す。

 

 じゃり、と小石を蹴る音が響いたその瞬間……佇んでいた何かが、ぎょろりと人間にはありえない体勢で振り向き、苛立たし気に舌打ちをこぼした。

 

「…あぁ、あれの掃除もしなきゃいけないのか。ほんっとに迷惑だわ、社会の塵の分際で」

「ほんとほんと」

「蚊みたいに潰したらどんなに気分いいだろうね」

「さっさと殺しちゃおうよ~」

 

 女が鬱陶しそうに呟くと、それまで周囲で制止していた店の中の他の客達がぞろぞろと動き出し、同じ方向を見やって口々に騒ぎ始める。

 すると、客達の顔がずるずると蠢き、全員が同じ女の顔に変じていく。全員が苛立ちに歪んだ恐ろしい形相で、遠ざかる少年達の背中を睨みつけている。

 

 

 そして、その場にいた全ての人影が崩れ、液状に変じた何かが濁流のように溢れ出し、蛇のように体をしならせて少年達を追い始める。

 

 ……甲高い悲鳴がどこかから響き渡る中、街からは人の気配が全て消え失せていたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19.Run away

「うわあああああああああああああああああ―――‼」

 

 少年達の悲痛な叫び声が響き渡る街の中、彼等の後をずるずるぐちゃぐちゃと気味の悪い粘ついた音が追いかける。

 

 様々な毒々しい色に変わる、決まった形のない生き物にはまず見えない何か。骨も筋肉もない液体のような体で、それらは街中を蠢き進んでいた。

 ある個体は蛞蝓のように地を這い、ある個体は飛び跳ね、ある個体は転がり、逃走する少年達の後方から迫っていく。徐々に彼らとそれらの距離は縮まり、四方八方から少年達を追い詰めていった。

 

「に、兄ちゃん! どうしよう!」

「追いつかれちゃうよ!」

「喋ってないで走れ! 死ぬぞ‼」

 

 手を伸ばせば触れられそうなほどの距離にまで近づかれ、恐怖で顔を歪めた弟分達が少年に乞う。

 ただ逃げるだけで精一杯で会った少年も、それ以外に何も思い付けず弟分達に怒鳴り返す事しかできない。大きな声で怒号をぶつけられ、弟分達は涙を溜めた目元を拭って走り続ける他にない。

 

 嗚咽を漏らして黙り込む彼らを見やり、少年は悔しさで歯を食い縛る。偉そうに命じておいて、何もしてやれない自分自身の情けなさに腸が煮えたぎっていた。

 

「……あの女が、貪食者(スナッフ)だったってのか―――⁉」

 

 きっ、と背後を睨みつけ、向かってくる不定形の怪物の姿を視界に映す。

 

 近づくだけでも危険な影の支配者に媚びを売る只の馬鹿な女だと思っていたのに、突如態度どころか姿までもを豹変させ、相手を呑み込んでしまった。

 かと思えば、不定形の身体が変質し、呑み込んだ男そっくりの姿に化けて満足げに笑い始めた。

 

 何が起こったのか、未だに少しも理解していないが、とにかく逃げなければと本能的に体が動いていた。

 

「走れ! とにかく走れ! あいつから離れるんだ! 姿を隠せるところまで走れ!」

 

 全力疾走を続け、とっくに意気は上がり全身の筋肉が悲鳴をあげているが、耐える他にない。

 体勢を崩しかけている弟分達の襟首を掴み、喝を入れながら、少年は何度も後ろを振り返り、迫り来る怪物達との距離を測る。

 

 不定形の怪物達は何処かから姿を現し、少年達を追いながら時に纏まり、時に分かれ、毒々しい色の粘液で街を汚して向かってくる。

 まるで雨期に起こる川の氾濫のように、巨大な影となって獲物を覆い尽くさんとする。駆ける少年達の足元に、怪物の生み出した影が徐々に近づきつつあった。

 

 その光景を振り返り、少年はちっ、と舌打ちをこぼす。

 何処か身を隠す場所か振り切る為の小道などないものかと辺りを見渡しているのに、そんな都合のいいものどころか……道行く人の影すら見つけられずにいたのだ。

 

「何で……何で誰もいないんだ⁉ こんな化け物が暴れてるってのに、何で誰もいないんだよ⁉」

 

 そこらの家の中にも、店の中にも、視界に入るあらゆる建物の中にも外にも、一切の人の気配が感じられない。繁盛していた市の方へと急いでも、やはり人の姿は見つける事ができない。

 自分達以外の街の住人全員が、街の中から消え去ってしまったかのようだ。

 

 何故、先ほどまで確かに大勢の人々で賑わっていた筈なのに、いざ探そうとした瞬間にいなくなっているのか。異様としか思えない状況に、少年は背中にびっしりと冷や汗を噴き出させて焦る。

 

「こうなったら…無理矢理にでも押し入って―――!」

 

 一度何処かの建物の中に入り、体勢を整える必要がある。既に体力は限界で、走り続けたとしても追いつかれるのが関の山だ。

 孤児の盗人である自分達を入れてくれる家などある筈もなく、ならば無理矢理にでも押し入ってやるしかないと、少年は覚悟を決めて開いていそうな建物の入り口を探す。

 

「…! 兄ちゃん! あそこに人がいるよ!」

「たすけてもらおう!」

「……わかった。あの女のいる建物に一旦立て籠もるぞ…!」

 

 その時、ふらふらと覚束ない足取りで駆けていた弟分達が、ぱっと目を輝かせて騒ぎ出す。

 彼らが指さす先に、道端に佇む礼装を纏った女性が立っている事に気付くと、少年はきっと覚悟を決めた目を向けて速度を上げる。

 

 高級そうな装いに日傘を差した、金持ちそうな女だ。助けを求めても、拒まれる可能性が高い。

 もしそうなった場合でも、懐に入れた刃物で脅して中に入れさせてやればいいと、懐に手を伸ばして少年は女性の元を目指して走る。

 

「おい、お前! 死にたくなかったら俺達を中に入れ…―――⁉」

 

 刃物を抜き、引っ掴んで首元に突き付けてやろうとしたその瞬間、少年の動きが止まる。

 

 少年達の声に気付き、ゆっくりと振り向いた金持ちそうな女が顔を―――見覚えのあり過ぎる、先程例の男を襲った何かと全く同じ顔をした女が、少年達に視線を移す。

 少年達が唖然とする前で、女はにやりと不気味に嗤い……ずるりと、人形のように整った顔を粘土のように歪め、ばしゃっと大量のどす黒い液体となって襲い掛かってくる。

 

「うわぁあああ‼」

 

 目前に広がった極彩色に、逃げ場を失った少年達は悲鳴をあげて立ち尽くす。

 前も後ろも、いつの間にか左右も上も、全てが怪物の壁に阻まれ逃げ道などどこにもなくなってしまってる。触れれば即、死が訪れる相手に追いつめられ、少年達は互いに抱き合って頭を抱える。

 

 これが……こんなものが自分達の最期なのか。こんな訳の分からない怪物に喰われて死ぬのが、突如変わってしまった親に捨てられ、不幸に堕ちた自分達の結末なのかと、自分達の不幸を嘆き絶望した。

 

 

 

「―――グルァアアアアアアア‼」

 

 

 

 その瞬間、凄まじい音量で轟く咆哮が辺り一帯に響き渡り、少年達ははっと我に返る。

 咄嗟に顔を上げた直後、巨大な黒く艶やかな何かが視界を横切り、少年の目前に迫っていた怪物の一部が消え失せる。

 

「……⁉」

「ああああああ⁉」

「ガルルルルル‼」

 

 唖然とする少年達の周囲を、黒い影―――アサルティは凄まじい速度で泳ぎ回り、不定形の怪物に襲い掛かる。

 がちがちと牙を打ち鳴らし、両腕の爪を振り回し、鋭い眼光で射抜き、地まで震える強烈な咆哮を放ち、周囲を取り囲む無数の怪物を威嚇する。近付くな、と全身で誇示しながら怪物達を威圧する。

 

 ……己の背の上で、鰭にしがみついたエイダが涙目で振り回されているのも構う事なく。

 

「あ、あ……アサルティさん~⁉ もう少し背中に乗ってる僕に気を配って~‼」

「グォルルルルルル‼」

 

 悲鳴をあげるエイダだが、アサルティは返事もせず怪物達に吠えるだけ。縦横無尽に泳ぎ回る巨体に翻弄され、今にも吹っ飛ばされそうだったが、半森人の少女は必死に鰭を掴み、耐えていた。

 

 怪物は突然の事に驚いているのか、ぶるぶると全身を震わせて後退り出す。食い千切られた己の体の一部に恐怖を抱いたのか、その個体は特に俊敏に黒竜の牙から逃れようとする素振りを見せた。

 

「あいつ……よ、よし! そのままやっちまえ! 喰い殺せ‼」

「たすかった…! やっちゃえ!」

「そいつをやっつけろ~!」

「ガルルルルルル…!」

 

 少年と弟分達は呆然と、自分達を囲んで咆哮を上げるアサルティを凝視し、やがて我に返り出すとアサルティに期待と希望を抱き、囃し立て始める。

 

 しかし、アサルティはそんな彼らに視線をやると、不機嫌そうに眉間にしわを寄せて低く唸る。

 そのまま怪物達に背を向けると、今度は少年達に向かって鎌首をもたげ、鋭い牙の並んだ大顎を開いて飛び掛かった。

 

「…え、は⁉ ちょ、ちょっと待っ―――うわぁああ⁉」

 

 少年達が逃げる暇も与えず、アサルティはがぶりと彼らを口の中に収め、すぐさま影の中に潜り込む。

 

 巨大な竜の周りを囲み、様子を窺うように震えていた不定形の怪物達は、竜の巨体が沈が沈むとその影の元へと殺到していく。

 そして影が縮み、薄れ、完全に消え去ると互いに顔を見合わせるように蠢き、やがて再び一つに纏まる。一つの巨大な塊になった怪物は、ずるずると一直線に街中を進み出した。

 

 

 

 音もなく、光もない、完全なる闇の世界を黒竜は泳ぐ。

 鰭に半森人の少女をしがみつかせ、口の中に三人の子供を含み、巨大な身体をしならせて真っ直ぐに突き進む。

 

 何も見えない空間の中をただ真っ直ぐに、己の有する感覚に従って泳いでいた黒竜だったが、不意に彼の眼がぎろりと背後に向けられる。

 自分にしがみつき、悶絶しながら白目を剥いている少女……その後ろで動く何かに気付いた黒竜は、ぎりっと牙を軋ませる。

 

 黒竜は突如背を逸らせ、地上に向かって急速に浮上し始める。

 地上に感じる気配に構う事なく、大急ぎで影の外を目指し、光の中に向かって一気に飛び出した。

 

「―――うおぉわ⁉」

「何だあの化け物はぁ…⁉」

 

 どばっ、と音もなく飛び出してきた巨大な竜。

 地上にいた人間達、裏町に住む浮浪者や宿無しの男達が慄く様を横目に、アサルティは己が巨体を引き摺り上げると、がぱっと口を開いて三つの人影を吐き出す。

 

 ついでに己の鰭にしがみつく少女を片手で掴み、ぺいっと塵のように放り捨てた。

 

「うぐっ…⁉」「あだっ!」「うあっ⁉」「へぶっ⁉」

 

 べたべたとした粘液塗れになった少年達が地面を転がり、放り捨てられたエイダが顔面から落下する。

 少年達は呻き声をあげ、揺れで狂った三半規管を宥める為に横たわったままに。ついでに少しの間とはいえ暗闇に囚われていた所為で、目を開けられなくなっていた。

 

 そして顔面から地面に叩きつけられたエイダは、暫くの間顔を押さえて蹲り、熱した地に置かれた蚯蚓のように地面をのた打ち回っていた。

 

「……ちょ、ちょっと何するんですかアサルティさん⁉ 痛ったぁ…僕が何をしたっていうんですか! いきなり泳ぎ出すわ、いきなり影に潜るわ、いきなり放り捨てるわ‼ 何の恨みがあるっていうんですか⁉」

 

 痛みに呻いた少女はすぐさま起き上がり、ぞんざいな扱いをする旅の同行者に抗議の声を上げる。痛みで開かない眼を擦り、涙を溜めながら、いつになく乱暴な黒竜に対して不満をあらわにする。

 

 だが、どんなに声を荒げても返事が返って来ず、訝しんだエイダは開けづらい瞼を無理矢理抉じ開け、音が聞こえる方を見上げる。

 三人の小さな盗人達もやがて体を起こし、騒がしい音が聞こえる方へと視線を向ける。

 

 

 そして、全員が呆然と、目の前に広がっている光景に目を瞠った。

 

 

「グルルル……ガァァァァ‼ グルァァァァァァ‼︎」

「~~~~~‼」

 

 咆哮をあげ、体を振り回す黒竜。その巨体の胸部分には極彩色の液体のような何かが貼り付き、ずるずると無数の触手を伸ばして鱗に突き立てている。

 触手が触れた箇所からは煙が上がり、しゅうしゅうと音を立てているのが聞こえる。そして、煙が上がる箇所では黒竜の鱗が変色し、ぼろぼろと溶けて剥がれ落ちているのが見えた。

 

 

 その光景に、エイダは呆然と立ち尽くしていた。

 共に旅をし、遭遇してきた猛獣や怪物を難なく倒し、捕食してきた彼がーーー無敵の怪物だと思っていた竜が、たった一体の小さな何かに襲われ、悶え苦しんでいる。

 

 見た事のない、これから先も見る事はないと思っていた光景に遭遇し、エイダの思考が凍り付いてしまっていた。

 

「……ア、アサルティ、さん?」

「グルァァァァァァ‼︎」

 

 エイダの戸惑いの声に応える事なく、アサルティは異物に貼り付かれた自分の胸を掻き毟り、苦悶の咆哮をあげて身を捩る。

 だが、掻いても掻いても液体の体は毛程も動じず、爪で引き裂いても一度切れてまたくっつくだけ。挙句自分の爪で自分の体を傷つける羽目になり、アサルティはより一層の苦痛の声をあげ続けた。

 

「〜〜〜〜〜〜‼︎」

「ギャオオオオオオオ‼︎」

 

 胸だけでなく肩や腹にまで貼り付かれ、鱗がじゅうじゅうと異臭を撒き散らして灼かれ溶けていく。

 次第にその下の筋肉と神経まであらわになり始め、不定形の怪物の触手はそこにまで伸び、アサルティを激痛で苛み、苦しめる。

 

 絶叫したアサルティはついに体勢を崩し、廃墟街の真上にゆっくりと倒れ込む。

 エイダと少年達、廃墟街の浮浪者達が呆然と見上げる前で、黒竜の巨体は多くの建物の屋根と壁を破り、破壊していった。

 

「アサルティさん⁉︎」

「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア‼︎」

 

 耳を塞ぎたくなるような悲鳴が響き渡り、さらに多くの建物が崩され、無数の瓦礫が雨霰となって降り注ぐ。

 廃墟街の人々は突如現れた怪物の暴走に怯え、降り注ぐ瓦礫に恐怖し、我先にと遠く離れた何処か安全な場所を目指して逃げ惑った。

 

「……だ、だめだ」

「逃げろ! 早く‼︎」

 

 放心するエイダを放置し、我に返った小さな盗人達も弾かれたように走り出す。

 

 彼ならもしや、と期待していた怪物が苦戦する姿に即座に見切りをつけ、脇目も振らずに只管に走る。

 怪物の同行者たる少女を置き去りにしても、少年は振り向く事なく弟分達に手を引き、逃走を再開したのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。