無能なナナ 犬飼ミチル生存if (犬飼モミ)
しおりを挟む

前編

『ミチルちゃんの能力は奇跡に近くてね。私のようなモノマネ芸人の体には堪えるのだよ』

 

 ミチルが私を助けるために力を使い果たし倒れた後、私は橘ジンの言葉が真実であったと知った。

 意識は無く呼吸も止まっているにも拘らず、ミチルの体温が下がっていくことはなかった。そればかりか、どんどん暖かくなっていっているような気さえする。

 

 奇跡というには有り体で、見るものが見れば気味が悪いと言われても仕方がないであろう。だが私にとって、それは奇跡以外の何物でもなかった。

 私は意識の無いミチルを抱き抱え、寮の自室に連れ帰った。

 

 それから丸二日、私はミチルの看病を続けた。その間一度キョウヤにも診てもらったが、やはり見たことも聞いたこともない症状だと言っていた。

 この島にはまともな医者も医療機器も無い。やはり無理にでも本土に連れ帰って検査を受けさせるべきか――そんなことを考えながらベッドの縁で腕を枕にしながら眠りについた翌日。くしゃくしゃになった私の髪を、誰かが手櫛をするようにして触れた。

 

「ミチル……ちゃん……?」

 

 果たしてそれは、犬飼ミチルその人で間違いなかった。ちゃんと呼吸をして、自分の足で立ってそこにいる。

 

「ミチルちゃんっ……!」

 

 私はミチルを抱きしめた。悲しくないのに、涙が溢れた。こんなに泣くのはいつぶりだろう。涙の伝う私の頬を、ミチルがそっと触れた。

 

「もう、ナナしゃんは泣き虫さんですね」

 

 これが奇跡でないと言うならば、世界に奇跡なんてものは存在し得ないだろう。私は両手に溢れた現実を掬い取る様にして、ぎゅっと握りしめた。

 だが――奇跡の代償とでも言うべきなのだろうか。私が抱き締めるその少女は紛れも無く犬飼ミチルであったが、私のよく知る犬飼ミチルの姿とはあまりにも異なるものであった。

 

「ナナしゃん、わたし、お腹が空きました」

 

 そう言って、ミチルは私の指を握る。その手は、私が触れるにはあまりに小さすぎる。

 驚くべきことにミチルは、私が眠っている間に、小学生ほどの小さな女の子の姿になってしまっていたのである。

 

 

 

 

 

「え? この子ミチルちゃんなの?」

「か~わい~!」

「抱っこしてみていい?」

 

 翌日。小さくなってしまったミチルを部屋に閉じ込めておくわけにもいかないので、とりあえず教室に連れて行ってみることにした。

 するとどうだろう。みんな代わる代わる小さくなったミチルの相手をし、私なんかは居ないも同然である。

 リーダーの人望も落ちたものだな、と溜め息を一つ。するとミチルがそれに気付き、とことこと私に近寄ってきた。

 

「ナナしゃん、元気ないですか?」

 

 小さくなったミチルには、この島に来てからの記憶が無かった。そればかりか、見た目の姿そのままの年齢まで幼くなってしまったようである。

 だが、それにも拘わらずミチルは私のことを“ナナしゃん”と呼ぶ。どうして私の名前だけを覚えていたのかは解らない。そして、その呼び方はミチルが舌足らずなだけなのかも知れないが、掛け替えのないことのように嬉しく思え、笑みが零れた。

 

「ええ、私なら大丈夫ですよ」

 

 

 

 

 

 授業が終わった後、私は今日もミチルを部屋に連れて帰ることにした。

 

 日中、記憶のほとんどが消えてしまっているミチルが高校の授業を理解できるはずもなかったが、思いがけず大人しく、じっと席に座っていた。そして休み時間になる度にクラスメイト達に遊んで貰っている。その姿は、さながら小動物のようである。

 私がミチルを連れて帰ることに異議を唱える者はいなかった。私のことしか覚えていないのだから仕方ないだろう、といったところである。放課後、日が暮れるまで暫く校庭で遊んだ後、皆は名残惜しそうに手を振った。

 

 食事を済ませ、お風呂から上がると、ミチルは遊び疲れたのかすとんと眠ってしまった。それも、ベッドの前の床で寝るものであるから、私はミチルを抱きかかえてベッドに運び、タオルケットをかけた。

 私も寝支度をしようと立ち上がろうとすると、ミチルが眠ったまま私のパジャマの裾をぎゅっと握っていることに気が付いた。その姿が愛らしく、そっと手を握り返した。

 その時だった。

 

「やあ。いい寝顔だね」

 

 背後に、橘ジンが立っていた。

 

「ノックもせずに人の部屋に入るのはどうかと思いますけど」

「ノックは扉を開ける合図にするものだろう?」

 

 溜め息をつく。ドアを開けて入る訳ではないので、ノックの必要は無い。この男の言わんとしていることは、そういうことである。明らかにそれはジンがありとあらゆる能力を使えることを考慮していない話だが、正論を語ったところで飄々と切り返すのがこの男の性質である。

 

「私やミチルちゃんが着替えをしているかも知れないでしょう。そういう意味で言っているのですよ」

「なるほど、そういうことなら考えておこう。ところでどうだね、ミチルちゃんの様子は」

 

 ジンはそう聞くが、この男は今日の一部始終を見ていたはずだ。

 というのも、昨日あんなことがあったというにも拘わらず、クラスが騒ぎになっていないのだ。既に行方不明者や死者が相次いだことにより授業は中止になっているものの、さらに行方不明者が増えたとなれば、皆が警戒を強めるに違いない。ミチルと暢気に遊んでいる場合ではないのだ。

 そこから導かれる答えは一つ。ジンは、今日一日鶴見川のフリをして過ごしていたのだ。となると当然、日中のクラスの様子も必然的に目にしたことになるだろう。

 

 しかし――それを問い質したところで何の意味も無い。私としては、騒ぎになろうがなるまいが、どちらでも良いのだ。

 

「何か言いたげだね。人の心を読む能力とやらで、私の中にある答えを引き出してみてはどうかね?」

「ご冗談を」

 

 

 

 

 

「お邪魔したね。これはノックもせずに部屋に入ってしまったお詫びだと思って受け取っておきたまえ」

 

 そう言いながら、部屋を立ち去る間際、橘ジンが私の机に何かを置いた。

 粉ミルクだった。

 

「……?」

 

 橘はミチルを幼稚園児、それも入園したての子供かなにかと勘違いしているのだろうか。

 ……いや、ひょっとすると勘違いしているのは私か?

 以前のミチルの身長を元に概算して、小学生くらいだと勝手に決めつけていた。しかし、ミチルが女の子によくある早熟なタイプで、園児時代から身長がほとんど変わっていないというのであればあるいは――

 ……何を言っているんだ。昨日食堂で一緒にカツ丼を食べたではないか。流石に粉ミルクが必要な年齢ではないだろう。

 

 しかし、捨ててしまうにはあまりにも勿体ない。キョウヤが飼っていた猫にでもあげに行くか――と思い部屋を出ようとしたとき、ミチルが私の服の裾を引っ張った。

 

「……ミチルちゃん?」

「……」

「えっと、もしかして、飲みたいの?」

 

「………………うん」

 

 なんだろう。この気持ちは。

 今までの人生で、こんな気持ちになったことがあっただろうか。

 思わず、なぜだかは分からないが、気が付くと私はミチルを抱き締めていた。

 

「ナナ、しゃん……?」

 

 はっと我に返る。何をしているんだ。私は。

 私がそう思った、その時だった。

 

「本土から偉い人が見えられた! みんな校庭に集まって!」

 

 廊下から、先生の声が聞こえた。

 

 

 

 

 

「ついに救助が来たのかな?」

「そういやレンタロウどうした?」

 

 “軍の偉い人”を待ちながら、生徒達は口々に疑問を漏らしている。

 無理も無いことだ。しかし、ここの生徒達は整列することも知らない。“人類の敵”であろうとなかろうと、根本的に分をわきまえない身勝手な子供が多いのだ。

 

「ミチルちゃんのことが心配なら、連れてこればよかったじゃないか」

 

 私は木陰に寄りかかる。木の死角に橘ジンが潜んでいることは察しが付いていた。私は、生徒達に注意を払いながら口を開く。

 

「今のミチルちゃんは、まだ自分の能力に気が付いていないでしょう。だから、ここに連れてくるわけにはいきません」

「ほう。人殺しの美少女にしては健気じゃないか」

 

 “能力”がどのようにして人間に発現するのかは、私も知らない。だが、ミチルの性格だ。昨日の放課後、授業で配られたプリントで指を切った者がいたが、ミチルは心配そうな表情をするのみで、何もしようとしなかった。自分に傷を癒やす能力が備わっていると自覚していれば、真っ先に指を治そうとするだろう。

 

「心配しなくても大丈夫だよ。ミチルちゃんを襲った男は、私がきちんと始末しておいたからね」

「……殺したんですか? 人殺しはしないとか言ってませんでしたっけ」

「ああ、確かに言ったね」

 

 ジンは身を翻し、私の目の前に現れる。それは私のよく知る、小さくなったミチルの姿であった。

 

「だが、こうも言ったはずだ。私は森の動物を気にかけている、と」

 

 ジンが鶴見川を殺したのは好都合だ。これこそまさしく、“人類の敵”と“人類の敵”が勝手に殺し合って死んだようなものである。

 いずれ、この男のことも何とかしなければいけない日が来るかもしれない。

 私は、この得体の知れない男に勝てるのだろうか――?

 

 そう思った時、校庭に一人の男が現れた。

 

『それではご紹介します。鶴岡タツミ教官です』

 

 鶴岡タツミ。

 親の居ない私が最もよく知る人間の一人だ。

 

 いや――あるいは、私はこの男のことさえ何も知らないのかも知れない。

 私がクラスの中で自分を偽るのと同様、鶴岡タツミにも自分には見せない顔が存在するのかも知れない。

 だが、そんなことは今の私には知る由もないことである。

 

「諸君らの活躍は聞き及んでいる。“人類の敵”と戦って死んだ者に敬意を示そう」

 

 それだけ言って立ち去ろうとした鶴岡を引き留めたのは、クラスの生徒達であった。

 島の現状。次々と死んでゆくクラスメイト。説明責任。

 

 口々に訴える生徒達が静まるのを待ち、鶴岡は語り始める。

 島の現状。“人類の敵”が迫っていること。島の生徒達を、仲間だと思っていること。

 鶴岡が語ったのは、おおよそそんな話であった。

 

 真剣な眼差しで耳を傾ける生徒達。そんな彼らに、ミチルに化けたジンは懐かしいものを見るような目をしていた。

 

「……さきほど新たな戦死者が出た。鶴見川レンタロウ」

 

 校庭がどよめく。

 またか。すぐ近くに人類の敵が。

 そんな声が木霊した。

 

「まあ、こうも上手くいくとは、私の“芸術”とやらも捨てたものではないということだね」

「何を言っているんですか? 先輩なら、彼を殺すことくらい容易いでしょうに」

 

 私が睨むと、ジンは以前ミチルに変身してみせた時と同様に、不敵な笑みを浮かべた。

 

「せっかちな女の子だ。まあ、直に分かるよ」

 

 チャイムが鳴る。私が時計に目を向けた次の瞬間、ジンの姿はもうどこにも無かった。

 

 鶴岡が生徒達に語りかける。

 “人類の敵”に殺された仲間達の死を無駄にしてはいけないと。

 

 奮い立つ生徒達。いわばこれは、突き放すような言葉をかけた後の飴だ。

 飴と鞭。その見事なまでの切り替えこそが、鶴岡という男の真骨頂。マインドコントロールの術である。

 

 だが――今なら分かる。

 ジンの言うとおり、この島には不審な点が多すぎる。

 過去にあったとされる能力者同士の争い。大量の死体。

 推定殺害人数。

 

 ジンに言われるまでもなく、もっと早くに気付くべきだったのだ。私はマインドコントロールされていた側だ。それを、今まさに鶴岡の手中に収められようとしている生徒達を見て、ようやく自分を客観視するに至った。

 きっと、それは私に気付きを与えてくれた、ミチルのお陰でもある。彼女の言葉、そして“救い”がなければ、私は私自身を客観視することが果たして可能だっただろうか?

 

「あいつはなにも説明していない! なにもしないと言ってるんだぞ!?」

 

 キョウヤは正しい。しかし、その言葉は生徒達には届かない。

 

「キョウヤさん」

 

 私はキョウヤに近付き、そっと耳打ちする。鶴岡の話に夢中になっている生徒達が、それを聞き留める筈も無かった。

 

「少し、ミチルちゃんの件でご相談が」

 

 嘘だった。

 そしてそれは、キョウヤも勘づいているはずだ。

 私は気付いてしまった。自分がコントロールされていたことに。

 話すべきことは山ほどある。

 

 許してもらえるかどうかの問題ではない。ただ、誰かに打ち明けることでしか、前に進む術はないのだ。

 ミチルが真実を知ったら、彼女は何と言うだろうか。怒るだろうか。それとも、哀れみの目を向けるだろうか。

 見たくはなかった。だけど、私は彼女にさえ説明する義務がある。

 

 これはいわば練習だ。いつかミチルが記憶を取り戻したとき、全てを打ち明けるための。

 今は、勇気が足りなかった。そうして、ミチルが小さくなっていて良かった、などと一瞬でも考えてしまう私はきっと、ここにいる誰よりも卑怯者だ。

 

 

 

 

 

「で、何だ? 相談って」

 

 集会の後、皆がそれぞれ自室に戻っていったのを確認してから、キョウヤを部屋に呼んだ。

 私はベッドに腰掛け、ミチルを膝の上に座らせる。キョウヤは勉強机の前の椅子に腰掛けた。

 

「ええ。今後のクラスの動向、それと私の処遇についてです」

「処遇? お前さん、何か責められるようなことでもしたのか」

 

 フッと声を漏らす。

 キョウヤはずっと私の犯行を疑っている。ただ、動機と証拠が見つからないだけだ。

 

「ナナしゃん……?」

「ごめんねミチルちゃん。私は大丈夫ですよ」

 

 不安そうな表情で私を見上げるミチル。私はそっと、その髪を撫でた。

 

「私は、クラスのリーダーを辞退しようと考えています」

「……それは、どういった風の吹き回しだ?」

「私にはもう必要の無いものですので」

 

 嗅覚の鋭いキョウヤなら、これだけで私の意図することを察するだろう。そして、私が次に言わんとすることもまた、察しているはずである。

 

「キョウヤさん。あなたに、リーダーをお任せしたいと考えています」

「それは構わないのだが、どうやってクラスの連中を納得させる? この通り、俺の評判はあまり良いとは言えない」

「その点は私が何とかします。引き受けてくれますね? この先、万が一事件があった際には動きやすくなると思いますが」

「……まるで、もう事件を起こさないから自由に捜査してくれと言っているようにも聞こえるな

 

「そう捉えて頂いて結構です」

 

 キョウヤは、少し驚いたような表情をした。

 だが、今はこれ以上の話は必要ないだろう。どの道、彼なら真実に辿り着く――私は、確信していた。

 

 その時、とん、と膝の上がほんの少し重くなったように感じた。

 見ると、ミチルが私の膝の上で、うつらうつらと居眠りを始めていた。

 

「……犬飼、柊のことは分かるんだな。俺のことはどうやら覚えていないみたいだが……」

「そうみたいですね……私にもよく分かっていないのですが」

「なるほど……ところで、飯はちゃんと食べさせているんだろうな? まさか、そこに置いてある粉ミルクだけなんてことはないだろうな?」

 

 キョウヤが指差したのは、テーブルの上に置いたままの粉ミルクの容器だった。

 

「ちゃんと食堂でご飯を食べさせてもらってますよ」

「ならいいんだが……ところで、その粉ミルクはどこで手に入れたんだ?」

 

 ……唐突な質問に、私は困惑する。

 ミチルが小さくなったのはつい先日のことだ。定期便で偶然見つけたと言おうと一瞬考えたが、最後に定期便が来たのはミチルが小さくなる前である。

 どう誤魔化したものか――私がそう思った時、ベッドの下から何かが飛び出してきた。

 

「にゃーん」

 

 猫――いや、橘ジン…………猫だった。

 

「なるほど。猫用にまとめ買いしたのか。柊は賢いな」

「あはは……」

「にゃーお」

 

 

 

 

 

 キョウヤはまだ話を聞きたそうだったが、私がミチルを着替えて寝かしつけたいと言うと、意外にも素直に部屋を後にした。

 

 ミチルの着替えはシャワー室の前に置いてある。同じクラスで、裁縫や編み物なんかが得意だという女の子が作ってくれたものだ。

 私がうとうとしたままのミチルを着替えて戻ると、先程の猫が人間の姿になっていた。無論、橘ジンである。

 

「わわ! 猫しゃんが!」

 

 ミチルが目を見開いてジンを指差した。ミチルにジンの能力を話したはずはないが、と私が首を傾げると、ジンはにやりとした。

 

「子供は気配に敏感だからね。私達には分からなくても、今のミチルちゃんに分かることもあるのだろう」

「ナナしゃん、あれは!?」

「あれは……マジック猫さんです」

「やあ、マジック猫さんだよ。にゃーん…………君が振ったんだろう。何か反応したまえ」

「すみません、想像以上に面白くなくて」

 

 橘は、やはりキョウヤには姿を見せるつもりはないらしい。だが、こうしてミチルの前で姿を見せるのは、今の小さいミチルがジンのことを人に話しても説得力を持たないだろうという思惑があるからである。

 

 ミチルをベッドに入れてやると、疲れているのかすとんと眠ってしまった。

 どこかのゲームに夢中な少女とは大違いだな、などと考えながら寝顔を見ていると、ジンが私の背後からミチルを覗き込んでいることに気が付いた。

 

「……この島に警察がいなくて良かったですね」

「その通りだ。この島には警察どころか、まともな医者も裁判官もいない。特に、殺人鬼の美少女なんかにとっては、居心地がいいことこの上ないだろうね」

 

 そう言われたのがもしキョウヤであれば私は真っ先に否定しにかかるところだが、この男の前だと今更そんな必要もないだろう。沈黙は肯定の証だ。私は何も言わず、その場に立ち上がった。

 

「着いてきたまえ、ナナ。鶴岡という男は、恐らく君の上司だろう。もうすぐ本土に帰ってしまうと生徒達が大騒ぎしていたが、直属の部下である君は挨拶しておかなくていいのかね?」

 

 ジンと行動を共にするのは癪だが、目的地が同じなら仕方ない。

 部屋を出て浜辺に向かう道すがら、ジンはいつのまにか小さな蝶の姿に化けていた。ジンが化けた姿は幾度となく見たが、よくよく思い出してみると変身するその瞬間は一度も目にしたことがない。それを差し引いても、なんとも奇怪な能力である。

 

「鶴岡さん」

 

 私はヘリに乗り込もうとする鶴岡に声をかける。連れられた部下ともども、一斉にこちらを振り向いた。

 

「柊か。もっと早くに会いに来るかと思っていたが」

「申し訳ありません。“人類の敵”の弱点を探っていました」

「ほう……」

 

 話をよく聞こうとしたのか、木々を縫って現れた蝶が、私の肩に止まった。

 私は、鶴岡ほど勘の鋭い人間を知らない。ジンが五年前の生き残りだとして、仮にその情報を鶴岡が把握しているとすれば、この季節外れの蝶に違和感を覚えることもあるのではないか?

 だが、果たしてそれは私の杞憂に終わった。鶴岡は、一度拳銃に手を伸ばすものの――そのままホルスターごと元に戻した。

 

「柊。お前に助手をつける。後で挨拶するように指示をしてある」

「はい、ありがとうございます」

「成すべきことを成せ。以上だ」

 

 それだけ話すと、鶴岡はヘリに乗って去って行った。

 委員会が、私の動向についてどこまで把握しているのかは知らない。だが、今最も不都合なことと言えば、ミチルを部屋に連れ込んでいるのが露見することである。

 それだけでも、私がほっと胸をなで下ろすには十分だった。

 

「それにしても、よくバレませんでしたね」

 

 私がふっと隣を見ると、案の定ジンは元の姿に戻っていた。人差し指でメガネを持ち上げながら、私に向かっていつもの不敵な笑みを浮かべた。

 

「いいや、彼は私に気付いていたよ」

「……? どうしてそう思うんですか?」

「簡単さ。私がわざと不自然な飛び方をしたからだ」

「信じられません。あなたが怪しい蝶を演じたと言うなら、それに気付いた鶴岡さんはあなたに向けて発砲なり何なりして仕留めようとしたはずでは?」

 

「その通りだよ。ナナ」

 

 ジンがぬっと私に顔を寄せる。私は一歩後ずさった。

 

「実は、私は先程一度、あの男と接触していたんだ。するとどうだろうか。私が身の上話をするや否や、彼は私をパーティーに招待したんだ。これは一体、どういう風の吹き回しだろうね? ……まあ、私はこのあたりで失礼するよ。この後、イタリアンの予約があるのでね」

 

 そう言ったのを聞いた私が振り返ると、橘ジンの姿はもうそこには無かった。

 と同時に、私は誰かがこちらに向かって駆け寄ってくるのを見つけた。

 

「ナナしぇんぱい!」

 

 大きく手を振っている。彼女が、先程聞いた助手だろうか。

 

「初めましてモエです! しぇんぱいのことは教官から聞いています!」

 

 ひょっとすると、ジンはこの少女の存在に私より早く気付いて立ち去ったのかもしれない。

 まあ、そんなことはどうでも良いのだが――

 

「さあ次はどうしますか!? 今狙っているのは誰ですか!?」

 

 犬が一匹増えた、といった気分である。

 

 

 

 

 

 次のターゲットや私のことを執拗に聞こうとするモエをあしらい、夜。

 

「……眠れない」

 

 ミチルからもらった枕は、そのままミチルを寝かしつけるのに使っている。

 何か、思い出してくれるかもしれないと思ったからだ。

 しかし、今のところはミチルが枕に反応する気配はなく――私ばかり、以前のミチルのことを思い出してしまうのであった。

 

「やあ、ちょうど君を訪ねようと思っていたんだ。隣いいかね?」

 

 寮の建物の前で座り込む私に声をかけたのは、橘ジンだった。

 

「イタリアンの予約はどうしたんです?」

「残念ながらお店の方でダブルブッキングがあってね。辞退させて頂いたよ」

 

 私がモエと話している間に、何かを調べてきたのか、何もしていないのか。

 知りたいことは、私にも山ほどある。そして、目の前にいる男、橘ジン。

 

「……思い出しますね。ミチルちゃんに化けていたあなたを」

「ちょうどここだったね」

 

 この男にされたことを思うと、癪であることこの上ない。

 だが、どう考えてもこの男を頼ることが最善手としか思えないのだ。

 

「一つ、試してみて欲しいことがあるんです」

「というと?」

 

 私は既に、ジンの能力の弱点について、いくつか見抜いていた。

 一つは、誰かに見られていると変身できないということ。思えば、今まで彼が変身した後は幾度となく目にしているのに、変身するまさにその様子を目撃したことは一度も無い。

 そしてもう一つは――能力を持たない普通の人間には化けられないということ。

 これは、以前から疑問に思っていた。初めて会ったとき、ジンは私の能力について質問した。能力の詳細を知りたければ、私に化ければよかったのだ。

 

「先輩は、普通の人間には化けられない。そうですよね?」

「……そんなに真っ直ぐな目をされると、ついもったいつけたくなってしまうが――まあ、その通りだよ。それが?」

 

 ジンのその言葉を待ってから。私はたっぷりともったいをつけるように唇を噛み――言った。

 

「先輩。“今の”ミチルちゃんに化けることはできますか?」

「ほう?」

 

 今のミチルは、自分のヒーリングの能力を自覚していない。だが、体が縮んでしまっても能力が消えたわけではないなら、ジンが変身できるはずである。

 

「試してみるだけなら構わないがね。何か、治したい怪我でもあるのかね? 寿命を削ることになるのは私なのだが」

「別に、能力を使って欲しいわけではありません。ただ――ミチルちゃんの能力が消えてしまったのかどうか、知りたいんです」

 

 そう。私は、確かめたかったのだ。

 ミチルは見知らぬ猫の傷を治し、私の些細な指の怪我も放っておこうとせず、そして鶴見川に襲われて瀕死の私を助けた。

 ヒーリングの能力は、いわばミチルにとっての鎖だ。目の前に怪我人がいれば、彼女は放っておくことができない。たとえそれが、自分を虐めていた人間であっても、だ。

 そして、この能力こそが彼女をミチルたらしめる所以でもある。もしヒーリング能力を失ってしまったとして、記憶を取り戻す日が来たとしたら――それでもやはり、ミチルは自分を責めるのではないか。

 

「何が言いたいのか分からないね。結局君は、ミチルちゃんの能力が健在であって欲しいのかい? それとも、失われてしまえばいいと思っているのかな?」

「それは……分かりません」

 

 ミチルは、“人類の敵”なんかではない。今ならはっきりと、そう言い切れる。

 だが――私はミチルにどうあって欲しいのだろうか。

 共に戦う仲間が欲しいのか。それとも、今更許しを請いたいのか。

 

「君がミチルちゃんのことを本心から慮るようになったことは評価している。だが、自分の中でさえ答えが決まっていないのに、私という得体の知れない能力者を頼るところは頂けないな。私としても、答えを提示してから、今考えているところだったと苦情を入れられてはたまらないからね」

 

 

 

 

 

 私はジンと別れ、寮の部屋に戻る。

 ミチルは私が帰ってきたことに気が付くこともなく、すやすやとベッドで丸まっている。

 

 いつか、彼女が記憶を取り戻すことがあれば、その時、私は――

 

 私は、どうするのだろう?

 

 私はミチルの眠るベッドに横になり、手櫛をするようにして、くしゃくしゃの髪を撫でた。

 

 疑問と疑惑が頭の中を駆け巡る。

 ぼんやりとした答えさえ見つからぬまま、私は柔らかな眠気に襲われた。

 

 

 

 

 

 翌朝。私の部屋の戸を誰かがノックした。

 ミチルはまだすやすやと夢の中。私が目を擦りながら返事をして鍵を開けると、すぐ目の前にキョウヤがいた。

 

 以前なら女子寮に入ってきたことを咎めたところだが、もうキョウヤにその辺りの配慮はないことは周知の事実であるし、妙にここへ来ることに何色を示すことで痛くもない腹を探られてはかなわない。私は、キョウヤは当然私に用があって来たのだろう、と部屋の中へ招いた。

 

「お前さんにも話しておこうと思ってな」

 

 私が座布団代わりになるものを探していると、先にキョウヤが口を開いた。

 

「……何をです?」

「例の事件の犯人についてだ」

 

 わざわざそれを言いに来たのか、と私は少し感心する。

 キョウヤはこれまでの事件で、ずっと私を疑っていた。無論、今回の事件についても、ミチルと一緒にいたという私のアリバイを考慮した上で、私が犯人であるという説も一度は考えたに違いない。

 今回の事件の真犯人が分かったとしても、これまでの事件に私が関わっていない理由にはならない。キョウヤは今でも疑っているはずだ。

 だからこそ、キョウヤがこうして事件の真相を私に伝えに来たことは、私にとって意外なことだった。

 

「知っているとは思うが、真犯人だった鶴見川も何者かに殺害された。あれは、お前がやったというわけではないんだな?」

「ええ。違いますとも」

「じゃあまたあれか? “人類の敵”とかいう」

「さあ……どうでしょうか」

 

 鶴岡に回収される前にちらと遺体を見たが、首があらぬ方向に曲がっていた。どういう理屈かは知らないが、恐らく橘が何かの能力を使ったのだろう。

 今までなら、人類の敵を適当にでっち上げてはお祈りしていたところではあるが……キョウヤに見られているにも関わらず、私にはもう誤魔化す気もさらさらなかった。

 追求されても構わない。もし隠しきれなければ、その時は全てを吐き出してしまおう――

 

 そう思った時、意外にも話題を変えたのはキョウヤからだった。

 

「……犬飼の様子はどうだ」

「へ? ミチルちゃんですか?」

 

ちらとベッドに視線をやる。まだすやすやと寝息を立てていた。

 

「元気ですよ。おかげさまで」

「ならいい。じゃあ、俺はこのあたりで戻るとするよ」

 

 え、と声が漏れた。

 まさか本当に何も調べなければ何も問い質そうとしないとは。

 

「……キョウヤさん、少し変わったんじゃないですか?」

「そうか? まあ殺人鬼だって喪に服すことがあるんだ。俺にだってそういう気分の時くらいあるさ」

 

 

 

 

 

「ねーしぇんぱい。モエが来てからもう何日もたちましたよ? どうして誰も殺さないですか?」

 

 訓練の時間。芝生に座ってぼんやりと時間を潰していると、真壁モエ――私の助手として委員会から派遣された少女は私に向かってそう言った。

 仮にも私の助手だと言うなら、安易に「殺す」などと口にしないで欲しいのだが、それはまあいい。

 

 ミチルの件があってからというもの、能力者を殺すという使命を果たす気は、私の中ですっかり失せてしまっていた。しかし、それを目の前にいるモエに言ったところで、理解されることはおろか、下手をすれば委員会に言いつけられるのがオチである。

 話をする人間は慎重に選ばなければいけない。少なくとも、今のモエには話すべきでないだろう。

 

「つまり……モエにすべて任せてくれるということですね!?」

 

 そういうことではない。

 ない……のだが。

 見くびっている訳ではない。かくいう自分も、能力者を殺すとき散々相手を油断させる手法を使ってきたからだ。

 しかし、このモエという脳天気な明るい少女が、上手く能力者を殺せるとは思えなかった。

 

「……勝手にしてください。私には、私の考えがありますので」

 

 モエは、まるでこの島に来たばかりの自分の鏡写しだ。

 口先だけで相手に胸襟を開かせ、チャンスを伺う。

 モエが校庭にいるクラスメイトの一人に話しかける。坊主頭で、念動力のようにも見える能力を操る少年は、確かヒカルといった。

 

 私は、その姿をぼうっと眺めていた。

 ふと、胸の奥がちくりとした。

 この痛みと苛立ちは、きっとモエではなく、人殺しになる前の自分へのものに違いなかった。

 

 

 

 

 

 ヒカルに付きまとうモエを観察していて、気付いたことがある。

 一つは、ヒカルの能力について。どうやら、彼はいつでも能力をつかえるわけではないらしい。訓練の時間に校庭で能力を使っているかと思えば、喧嘩の仲裁を頼まれて断ったこともあった。彼の能力はいわば重力と逆方向に限定された念動力のようなものだ。もし自由に使えるならば、喧嘩の仲裁くらいどうということもないだろう。 

 もう一つは、モエについて。彼女がクラスの中で脳天気で快活なキャラクターなのは、きっと演技ではなく素の正確である。だが、決して馬鹿というわけではない。一度、彼女は私のことを考えすぎだと言ってあしらったが、それは特別慎重な私との対比であり、彼女には彼女なりの考えのもと行動しているのだ。

 

「とにかくモエは早退して、今夜しかけるです!」

 

 だから、そう言って走り去ったモエを、私が止める権利などないのだ。

 モエは島に来たときの私と同じだ。彼女は今、彼女の中にある正義感のみで行動しているのである。

 それに、下手にヒカルを庇って、利敵行為としてモエから鶴岡に報告される可能性もある。

 

 私はこの先、人を殺さない。

 それで十分ではないか。

 自分の手を汚さず、モエが勝手に任務をこなしてくれる。これ以上無いほど好都合ではないか。

 私は手出ししない。

 

 部屋に戻ると、ミチルが出迎えてくれた。

 ここ最近ずっとそうしているように、食堂で夕食を取り、二人で風呂に入る。

 

「ナナしゃん……どうしたんですか?」

「え?」

「何だか、怖い顔してます」

 

 ミチルが、小さな手でぺたぺたと私の頬に触れる。

 見下ろすと、いつにも増して冴えない自分の顔が、水面に写った。

 

 

 

 

 

 ミチルを寝かしつけた後、地響きの音で目を覚ました。

 何の音かはすぐに分かった。ヒカルが、あの重力の能力を使っているのだ。それも、かなり大規模に。

 狙われているのは、恐らくモエだろう。私はミチルを起こさないようそっと布団から出て、ちらと振り返って寝顔を見てから、部屋を後にした。

 

 ヒカルの住んでいる小屋は、以前見回りと称して偵察したことがあったので、場所は分かっていた。寮からは少し距離がある。私はパジャマのまま、なるべく駆け足でそこへ向かった。

 月は昇っている。思った通りだ。ヒカルが能力を使えるかどうかは、時間ではなく月が出ているかどうかによって決まる。一見すると奇妙な条件だが、実のところ月はその存在が所以で潮の満ち引きが起こるほど、地球の重力と密接な関係がある。ヒカルの能力が重力操作だと仮定すると、その能力が月に大きく影響を受けるといっても驚くには値しない。

 

 ヒカルの小屋まで、いつ舗装されたかも分からないような、木を打ち付けただけのような階段が続いている。私はなるべく急いでそれを駆け上がっていく。

 

「モエちゃん!」

 

 私の杞憂で済めば良かった。

 しかし、悪い予感ほどよく当たるというものである。

 

「ナナしぇんぱい! た、助けてくださぁいっ!!」

 

 モエの体はふわりと持ち上がり――みるみるうちに、浮かび上がっていく。

 私は、以前ジンから聞いた話を思い出した。

 五年前、他の生徒を大気圏外まで飛ばした能力者がいたと。

 恐らくそれは、ちょうど今のような光景だったのだろう。

 

 すぐ側に、恍惚とした表情でモエを眺めるヒカルがいた。

 今すぐやめさせないと、モエは死んでしまうに違いない。

 

 その時、私は思った。

 ヒカルは、私の存在に気付いていない。

 今なら、赤子の手を捻るよりも簡単に殺せるのではないか?

 

 例の毒針は、まだ処分していなかった。

 もう人を殺さないと誓っておきながら、こんなものを持ち歩く私は、やはり誰よりも臆病なのだ。

 

 私はヒカルの背後から、すぐ手が届くところまで距離を詰める。そして、その白い首元に、ひと思いに――

 

「ナナ、もう人殺しを辞めるのではなかったのかね?」

 

 誰かが、私の肩を叩いた。

 

「ナナちゃん、もう人殺しは辞めるんじゃなかったの?」

 

 私は振り返る。

 そこにいたのは、私のよく知る人。

 

「中島……さん?」

 

 中島ナナオ。私が、初めて殺した人だった。

 

「どうして……」

「僕に任せて」

 

 ナナオは今なお気付かないでいるヒカルの肩に、そっと手を触れる。

 

「――え?

 

 その瞬間、能力が解除さる。

 叫び声はモエのものだ。

 

「ひいぃぃぃぃぃ! しぇんぱあぁぁぁぁい!!!」

 

 私は咄嗟に目を伏せる。

 どうして?

 今まで、何度も人を殺してきたのに。

 自ら手を下してきたのに。

 今日だって、モエを放っておいたのに。

 今更、目の前で人が死ぬのが怖いのか?

 

「やあ、間一髪だったね」

 

 聞き慣れた声。そこにいたのは、荒く息をつくモエと、吹き飛ばされ失神したヒカル。そして、

 

「先……輩…………?」

「遅くなってすまないね。前も言ったが、私はいつでもミチルちゃんを助けることができた。それをしなかったのは、ナナ、君がどう変わっていくのか見たかったからだ。だから――今回の件は、その罪滅ぼしとでも思ってくれ」

「……ありがとうございます。ですが、それよりも――」

 

「だ、誰ですか――!?」

 

 モエがジンを指さし、大声を上げた。今し方殺されかけたというのに、元気なことだ。

 

「やあ、きちんと会うのは初めてだったね。私は橘ジン。ナナとは長い付き合いで――」

「先輩です」

「……しぇんぱいの、しぇんぱい……ですか?」

 

 うーんと首を捻るモエ。ジンが何故モエに名前まで明かしたのかは知らないが、あまり話を聞かれて、委員会に報告でもされたらかなわない。

 

「モエちゃん。心配しなくても、この人は味方です。私は少し話があるので、先に帰っていてもらえますか? 後のことは、こちらで何とかしますので」

「……よく分からないんですけど、モエは流されやすいです。しぇんぱいのこと、信じていいんですね?」

 

 私は首を振る。モエはそれを見て、渋々という様子ではあるが階段を下りていった。

 

「先程、ヒカルを殺そうとしたのはあまり良い選択とは言えないね。君は人を殺さないと言ったし、私がいなければ落ちてきたモエを受け止めることもできなかった。死体袋を一つから二つに増やすだけの結果だったかも知れないのだよ」

「……咄嗟の行動でした」

「君らしくないね。……まあいい。それで、ナナ。他にもまだ何か言いたげな表情だね」

「はい」

 

 ジンは気を失ったままのヒカルに近付き、軽く頭を叩く。が、起きる気配はない。

 モエを受け止めたのと、ヒカルを吹き飛ばした能力。同時に二つの能力を使ったのではないと仮定すれば、あれは念動力のようなものだろうか。それも、ヒカルのものよりもずっと強力な。

 聞きたいことは山ほどある。私は口を開く。

 

「先輩。中島さんは、生きているんですか?」

 

「中島くんは自分に向けられる能力を無効かできたようだ。そのせいか今まで彼に変身することはできなかったが、ここ最近になってできるようになった。私の能力が成長したからかどうかは分からないが、いずれにせよ中島くんが生きて、活動している証左だよ」

 

「彼は今……どこにいるんでしょう」

「会いたいかい?」

「会いたいです」

 

 私が崖から突き落とした後、中島は死んでいなかった。自力で這い上がったか、どこかに流されて漂着したか、それとも――

 私がまだ使命を果たそうとしていたならば、これは恥ずべき話である。だがしかし、今の私にはこの上ない朗報であった。

 

 中島が生きている。だが、それだけではない。ジンは自分の能力について、「生きている人間にしか化けられない」と言った。

 今、中島の話を聞いて思い出した。ジンはもう一つ、重大な事実を私に隠している。

 ジンは生きている人間にしか化けられない。ミチルが傷を負い小さくなった日、この男はどこで、何をしていた?

 

「……先輩、答えて下さい。まだ、私に話していないことがあるはずです」

「まあ、私もそれなりに秘密を抱えているがね。そんなに改まって、何を聞きたいと言うのかね?」

「鶴見川レンタロウを匿った場所について」

 

 ジンが目を見開いた。

 おかしいとは思っていた。だが、やはりそうだったのだ。

 

「あの日先輩は、クラスの混乱を避けるため、鶴見川レンタロウに化けて生徒達に接触した。私とミチルが襲われたのはあくまで人類の敵であり、クラスメイトの中に殺人鬼がいたわけではない、とするためでしょう。実際、私は鶴見川レンタロウが逃げたと思い込んで彼のことはクラスメイトの前で言及しませんでしたし、真相を知っているキョウヤやフウコも、あえてクラスを混乱させるようなことは言わない。そこまで考えての行動だったのでしょう。違いますか?」

 

 私がそう言った瞬間、僅かにジンの口角が上がった。

 

「……面白い」

「鶴見川レンタロウは生きている。そうですよね?」

 

 幽体を飛ばせる彼を、どのようにして運び、危害を加えられないように保護しているのかは謎だが――この男の能力だ。今更何をやってのけたところで驚くには値しない。

 

「まあ……確かに、始末したとは言ったが」

「殺したとは、言いませんでしたよね」

 

 それ嘘でないことは、表情を見ればすぐに分かる。

 

「それで、ナナ。君はそれを私に聞いて、どうするつもりだい?」

「ヒカルさんを匿って欲しいんです」

「ほう?」

 

 私は今まで何人もの能力者を殺してきた。中には私に危害を加えようとした者もいたが――それさえ、私の行動の結果に過ぎない。

 誰も、根からの罪人では無いのだ。そして、目の前にいるヒカル。彼は、殺さなければならないほどの極悪人だろうか? 先程の行動だって、モエが先にヒカルを殺そうとし、それに抵抗した結果だとも言えるのではないか。

 

 能力者を殺さないことで立場が無くなるのは、私もモエも同じだ。そして、今のモエが私の考えに賛同するとも思えない。

 では、モエが席を外した今、私がヒカルを始末したことにすればいいのではないか?

 怪しまれるようなら、派手にクラスメイトの前で“ご冥福”を祈ってやればいい。単純なモエのことだ、それで納得するに違いない。

 

「鶴見川レンタロウを匿ったということは、先輩にはどこか、委員会の目が届かない場所を持っているはずです。そこに、ヒカルを一緒に匿って欲しいんです」

「もう、殺しはしたくないと?」

「はい」

 

 殺しをしたくないのは、ジンも同じはずだ。鶴岡と話してどこまで真実を知ったのかは分からないが――能力者を匿う目的としては、変身能力を使う相手の確保か、それとも単に善行を積んでいるとでも言うのか。

 

「お願いします!」

 

 どちらでもいい。

 もう、殺しをせずに済むのなら。

 

「いいだろう。君の言う通りにしよう」

 

 私は深々と下げた頭を上げる。

 

「……やけに優しいんですね」

「まあ、面白いものを見せてもらったのでね。それがお代ということにしておくよ」

「面白いもの、ですか?」

 

 まさか、この男は私が殺しをしないと言ったことが面白いとでも言いたいのだろうか?

 私が少しむっとしながら聞くと、ジンはいつになく上機嫌な表情で応えた。

 

「ミチルちゃんを寝かしつけている時のナナが、あまりにも緩んだ顔をするものだからね」

「……」

「……まあいい。そうと決まれば、早速ヒカル君は私が預からせてもらうとしよう。目覚めないうちに、ね」

「よろしくお願いします」

 

 瞬間移動か何かの能力者に化けて移動するのだろうか。確か、クラスの中に、写真か何かで場所を思い浮かべるだけで移動できる能力を持った少女がいたはずだ。

 ジンが能力者を匿っているのは、恐らく本土だろう。まあ、そこまで私に教えてくれるとは思えないが――そんなことを考えているうちにジンは去って行くかと思ったが、未だ目の前にいた。

 

「……行かないんですか?」

「言わなかったかね? シャイな私は誰かに見られていると変身できないのだよ。照れるじゃないか」

 

 私は軽く会釈をする。

 本当であればなんとかしてジンが変身するその瞬間を拝んでみたいものだが、今回ばかりは素直に見送ることにした。

 

「ところでナナ。いくら急いでいるからと言って、パジャマのまま出掛けるのは頂けないな。まあ、そんな君も魅力的だがね」

 

 私が顔を上げると、そこにはもう誰の姿も無かった。

 

 私は靴についた泥を落としてから寮に戻り、走り疲れた体をベッドに横たえようとするが、その間際、ミチルが既にベッドで寝ていることを思い出し、洗濯したてのパジャマに着替えることにした。

 

 ヒカルは無事に到着しただろうか。そういえば、あの凶暴な鶴見川レンタロウをどうやって保護しているのだろうか。

 ナナオは今どこで、何をしているのだろうか。

 

 私は布団に潜る。ほんのりと温かい。目覚まし時計をセットして瞼を閉じると、胸元のミチルがもぞもぞとうごめいた。

 

「ナナしゃん……?」

「ごめんなさい、起こしちゃいましたか?」

 

 私はミチルの髪を撫でる。するとミチルは、嬉しそうな顔で、私の頬を触った。

 

「ナナしゃん、良かったです」

「……何がですか?」

「もう、怖い顔じゃなくなりました」

 

 はっとして起き上がると、いつもと同じ自分の顔が、窓ガラスに写る。

 午前三時。日が昇るまでおよそあと三時間。見下ろすと、小さなミチルがすやすやと寝息を立てて眠っていた。

 

 

 

 

 

「みなさんに、大事なお知らせがあります」

 

 翌朝。私は教室に入るや否や、そう宣言した。

 授業はないのに、教室の中には人が集まっていた。というのも、実は昨日、クラスメイトの一人からミチルの様子を聞かれ、たまには部屋の外に連れ出すべきかと話していたからである。

 ……まあ、当のミチルはと言えば、私が夜中に起こしてしまったせいか、ひどく眠そうではあるのだが。

 

「昨日の土砂崩れ、気付いた方も多いと思います。あれは実は、大地ヒカル君が――」

 

「ミチルちゃんだー!」

「元気? お菓子食べる?」

「私にも抱っこさせてー!」

 

「あっ、ちょっと」

 

 クラスメイトの女子がミチルを囲み、ぽーんと放り出されてしまった。私はやれやれと後ろ手を組む。

 

「保護者の役回りも大変ね。柊さん?」

 

 そんな私に声をかける人物がいた。深めの色の髪を短く整えてある彼女の名は、三島コハル。

 能力はよく知らないが、ミチルのことも気に入っているらしく、そのせいか私に対してもひどく好意的に接してくれている。

 

「あなたが代わってくれてもいいのですよ?」

「それは無理よ。だってミチルちゃん、柊さんに一番なついているじゃない」

 

 小さくなったミチルは身長が足らず完全に囲まれてしまっているが、そわそわと目線を泳がせ私を探していることが見て取れた。私はその中に割り込んで、ひょいとミチルを抱き上げる。

 

「ほら、やっぱり保護者じゃない」

「……そういうことでいいですよ」

「素直に認めるところも素敵ね。ところで柊さん、さっき何か言いかけなかったかしら?」

 

 ああ、と相づちを打って、抱き上げていたミチルをコハルに預ける。確かにミチルは私にはよくなついてくれているが、コハルに対しても嫌がる様子は見せない。

 私は先生のいない教壇に立ち、机に手をついた。

 

「昨日の土砂崩れ。あれは、大地ヒカルさんが起こしたものです」

 

 私がそう言うと、しん、と教室が静まりかえる。

 コハルに抱きかかえられたミチルまでもが、大人しくこちらを見ている。私はミチルに、大丈夫だよ、と視線だけで返した。

 

「実は、俺もそうなんじゃないかと思っていたんだ」

 

 そう言いながら皆の前に現れたのは、キョウヤ。キョウヤが小さくなったミチルを見に来るためだけに登校したということはないだろうから、私がここで何かを話すことを見越してここに来たのだろう。

 

「気が合いますね、キョウヤさん」

「ああ。だがな、どうしてそれをお前が知っている? 俺の考えたことは、あくまで予想の範疇を出ない。だがお前さんは、あれが坊主の仕業だと断言した。ひょっとして昨日、あの場に居合わせたのか?」

 

 きた。今までだとキョウヤの洞察力は厄介に思っていたが、これで話が省けるというもの。変に誤魔化しを入れるとかえって疑われかねないので、私はキョウヤの言ったことを肯定することにした。

 

「ええ、実は……昨日、モエちゃんとヒカルさんが喧嘩になっているところに居合わせまして」

 

 突然話を振られ、きょとんとするモエ。だが、彼女とて伊達に鶴岡から教育を受けていないのだ。すぐにこちらの意図を汲み取り、話を合わせる。

 

「はい……月見うどんの卵を崩すか崩さないかで、口論になっちゃいまして……」

「……突っ込みたいところはあるが、まあいい。だが、この頃ヒカルと仲良くしていた真壁はともかく、そこに柊がいるのはおかしくないか?」

「見回りです。この頃、“人類の敵”の声が頻繁に聞こえる気がして」

「ほう……で、どうしてヒカルがここにいない? 土砂崩れを起こした張本人なら、今一番に話を聞きたいところではあるのだが」

 

 きた。ここが正念場だ。

 私は今まで、人が死ぬ度に“人類の敵”を登場させ、冥福を祈ってきた。

 これからも、“人類の敵”の影を利用することは変わらない。私がキョウヤから見て突拍子も無い行動をした時、誤魔化しに使いやすいからだ。

 だが――もう二度と、“人類の敵”に人殺しはさせない。

 

「口論の後、“人類の敵”に憑かれてうまく能力が使えなくなった、と相談を受けました。私はその話を、教職員用の電話を通して、鶴岡さんに連絡しました」

「ほう。よく電話が繋がったな」

「ええ。ダメ元だったのですが、繋がって幸運でした」

「で、何の話をしていたんだ?」

 

 キョウヤがこちらを睨む。キョウヤだけではない。クラス中の視線が、私に向けられる。

 私は語る。

 

「依頼しました。――能力の使えなくなった、ヒカルさんの保護を」

 

 私がそう言った瞬間、ざわ、と教室中がどよめく。

 事件続きで不安に思っている者も多いだろう。そして、私が今まで始末してきた能力者、それらは単に行方不明になったか“人類の敵”に殺されたことにしてきた。声こそ上げないものの、それについて疑念を抱いている者も多いはずだ。

 そして、ここにきて鶴岡の保護という情報が出た。勿論そんなことは嘘なのだが、先の集会で鶴岡は既にクラス中の信頼を獲得している。それを踏まえて考えると、ヒカルを羨ましく思う者もいるだろう。

 そこで、私はこれから説得、もとい“保護”に応じてくれそうな生徒に一対一で話しかけて回るつもりでいる。そして定期的に一人ずつジンに預け、私はそれらを殺害したことにして、鶴岡に報告する。

 完璧な作戦ではないか? 特別洞察力が優れていて、リーダーである私に異を唱える人物がいなければ。例えば――

 

「おい柊、その話はちょっと無理があるんじゃないか?」

 

 生徒達の輪から一歩前に出てきた、キョウヤのような。

 

「キョウヤさん、皆さんを混乱させるようなことを言うのはやめてください。一体どうして無理があると言うのでしょう」

「どこがって? そうだな……」

 

 そう言ってキョウヤが指差したのは、コハルに抱きかかえられたミチルだった。

 

「柊。今の理屈だと、真っ先に保護されるべきは犬飼のはずだ。“人類の敵”のせいだか何だか知らないが、能力が使えないどころか記憶もあやふやだ。ただでさえ事件続きなんだ、いくら柊が面倒を見ていると言っても、四六時中見ているわけじゃあないだろう。“人類の敵”がうろうろしている島に置いておくのは、どう考えても危険だ。だとすると、柊、お前さんが鶴岡から聞いたという話そのものの信憑性が薄くなる」

「キョウヤさん、それは――」

 

「それは違うわ」

 

 私が否定するより早く、私とキョウヤの間に割って入ったのはやはりミチルを抱きかかえたままのコハルだった。

 

「ミチルちゃんが小さくなってしまったのは、どう考えても能力の代償よ。だとすると、他の能力者がいる場所に居るのは、元に戻す可能性を探るという意味でも合理的だと思うわ。それから、危険性についても同じよ。私達能力者が“人類の敵”に狙われているのだとすれば、それは本土に居ても同じはずよ。それに――」

「それに?」

 

 コハルはミチルの頭を撫でながら、私に向かって小さくウインクしてみせた。

 

「私、知ってるの。キョウヤくんはああ言っていたけど――柊さん、本当に見てるわよ」

「……何をだ?」

 

 首を傾げるキョウヤ。コハルは続ける。

 

「ミチルちゃんのことよ。毎日毎日、ミチルちゃんより後に寝て、先に起きている。食事もお風呂も、それ以外の時間も人に会うとき意外はずっと一緒。柊さん、よっぽどミチルちゃんのことが好きなのね」

 

 

 

 

 

「さっきは助かりました」

 

 話すべきことを話し終え教室を出た私は、ミチルを抱きかかえたままのコハルと話をしていた。

 ミチルは先ほどクラスメイト達に囲まれたときとは裏腹に不快そうな様子はなく、ニコニコしながらコハルの頬をぷにぷにと触っている。

 

 ぷく、と頬を膨らませるコハル。ミチルはコロコロと声を上げて笑った。

 

「あら、柊さんまでほっぺたを膨らませてるのは何故かしら? ミチルちゃんの真似?」

「……してませんが?」

「冗談よ、冗談。ミチルちゃんが柊さん以外になついてるからって怒らないで」

「…………」

 

 事実、ミチルはコハルに対しては、私と同じように接している。

 まあ……先程のようにキョウヤに詰められるなんてことがあれば、その方が都合が良いのは確かである。

 

 それにしても――ミチルは、ずっとコハルの頬を触っている。自分が抱っこしても、触られることはないのに。

 

 私の頬の触り心地が悪いのだろうか。もしかして。

 私は自分の頬を右手でつまんでみる。

 

 ぷにぷに。

 ぷにぷに。

 

 ……普通だと思うのだが。

 いや、逆か? コハルの頬の触り心地がいいのか? そうなのか?

 私がコハルの横顔をじっと見ていると、それに気が付いたコハルが振り返った。

 

「……顔に何かついてるかしら?」

「ついてないです。ですが、少しほっぺたを触らせてみて頂いてもいいですか?」

 

 私がそう言うと、コハルは未だかつて無いほどに深刻な顔をした。

 

「…………柊さん、やっぱりこれからは私がミチルちゃんを預かるわ」

「それはダメです。そう言えば――どうしてコハルさんがここ最近の私の行動を把握しているんですか? 例えば、私の寝ている時間、とか」

 

 考えてみれば、私はコハルの能力についてよく知らない。

 以前、リーダーとしてミチルにクラスメイトの能力の調査を依頼したことがあった。私の記憶が正しければ、そこにもコハルについての記載はなかったように思える。

 私の行動を知っていたということは、何らかの調査系の能力だろうか。それともまさか、心を読む能力?

 分からない。分からないから、警戒しなければいけない。いくら私やミチルに良くしてくれていても、である。

 私はもう人を殺さない。だが、これまでに犯した殺人を暴かれると、圧倒的に立場が悪くなる。

 

 ――いや、ここで暴かれてしまって、何が困るというのだろう。

 いっそ、このコハルという女に暴かれてしまった方が良いのではないだろうか。

 

 私がそんなことを考えていると、コハルはあっけらかんとした顔で、こう言い放ったのである。

 

「ああ、さっきの? あれは全部私のでまかせよ」

 

「……は?」

「あら、迷惑だったかしら? でも当たっているでしょう?」

「…………まあ」

「ほら」

 

 コハルはふふふと鼻を鳴らす。何か……何かまずいぞ。悠長に自分の頬をぷにぷにしている場合ではない。

 

「それはそうと、そろそろミチルちゃんを返してもらえませんか? 部屋に戻ってお風呂に入れてしまいたいです」

「あら、連れないのね。折角今から私の部屋に招待しようと思っていたところなのに」

「私は別に、コハルさんの部屋に用事は――」

 

「冷血な殺人鬼が、子犬を拾った途端情が湧き、人を殺せなくなってしまった。彼女は殺人から足を洗って、真っ当に生きようとする」

 

 私は振り返る。ミチルが、大きな目をぱちくりさせた。

 

「――こんなお話を考えているんだけどね。どうにもこの先が思いつかないの。柊さん、よければ一緒に考えてくれないかしら」

 

 どこまで気付いている? 何らかの能力で、私の犯行を暴いたとでも言うのか?

 それとも、先程と同じような当てずっぽうか。否。

 コハルの目を見る。これはブラフだ。彼女は、何らかの証拠を掴んでいるわけではない。

 だが、このままにしておくわけにもいかない。

 

「分かりました。ミチルちゃんを連れて帰ってから、コハルさんのお部屋に伺ってもいいですか?」

 

 

 

 

 

 ミチルは手のかからない子だった。

 相応の食事を取り、風呂に入れてやれば、ころんと眠ってしまう。素直に言うことは聞いてくれるし、不用心でだらしなかった誰かさんとは大違いである。

 その日も私は急いでミチルの着替えまでを熟し、ベッドに寝かしつける。よく眠っている。できればこのままミチルの寝顔を眺めながら布団に潜りたいところではあるのだが――今日に限ってそういうわけにもいかない。私はミチルの残したミルクを飲み干してから、コハルの部屋に向かった。

 

「入っても大丈夫ですか」

 

 ノックすると、すぐに返事が返ってきた。恐る恐る扉を開け、部屋の中へと踏み込んだ。

 

「あら、柊さん? 見回りかしら? 大変ね」

「…………」

 

 自分から呼んでおいて、あら? ではないが。

 部屋の中に、特に変わったものはない。あえて挙げるとすれば、引っ越したときのままなのか、段ボール箱がいくつか積まれてあるくらいのものである。

 

「どこでも座って。折角だし、少し話をしましょう」

「これまで起こった事件についてでしょうか?」

「そんな警戒しなくてもいいじゃない。ミチルちゃんの服だって用意してあげたでしょう?」

 

 そうだ――ミチルが小さくなったとき、どうしようもないものがあった。それは服だ。なんとかならないかとクラスの女子に声をかけて回ったが、これまでほとんど喋ったことすらないにも関わらず、コハルはすぐに用意してくれたのである。

 だが、気圧されてはいけない。多少優しくしてくれたとはいえ、得体の知れない人物であることは間違いない。第一、まだ能力だって――

 

「私、女の子が好きなの」

「……は?」

「ずっと前から、柊さんのこと素敵だなって思ってて」

「え? あ、ちょっと」

 

 コハルは尻餅をついた私に迫り、片腕を壁につく。

 いわゆる壁ドンの状態である。まさか、人生で女性から壁ドンをされることがあるとは思わなかったが。

 私が言い淀んでいると、コハルが私の腰に手を回した。

 

「私と二人で、ミチルちゃんを育てない? 私達、いい関係を築けると思うの」

 

 まさかこいつ、本気か? 私の犯行に気付いた上で、何か証拠を持って私を脅そうとしているのか? だとしたら、私は――

 

「……ちょっと、何か言ってよ。冗談じゃないみたいじゃない」

 

 コハルが急に力を抜いた。私はその場に息をついて蹲る。

 何なのだこの女は。何かまずいとは思っていたが、私の直感が告げていたのはこういうことだったのか?

 心臓の鼓動が早い。一旦落ち着けろ。私は胸に手を当てた。

 

 それが良くなかった。

 

「柊さん、私薄々気付いていたんだけれど」

「……何がでしょう?」

「そんなに動揺しているということは、やはり心を読む能力はいつでも発動できるわけではないようね」

「…………」

 

 その通りである。だが、はいそうです、と言うわけにもいかない。

 幸い、コハルが考えているのは、私の能力に何か制限があるということで、心を読む能力自体は疑われていない。

 

「その通りです。私の能力は誰に対してでも使えるわけではありません。もう少し具体的にお話しするとすれば――私の心を読む能力について疑っている人の心は、読むことができないんです」

 

 ある手品師はこう言った。「今から目の前にあるカードを透視して見せましょう」、と。

 手品師は、見事にカードを透視してみせた。それを聞きつけた記者が、今度はカメラを持ってやってくる。

 すると手品師は、たちまち一枚たりともカードの柄を当てることはできなくなってしまったのである。

 だが、呆れて帰ろうとする記者に向かって、手品師はこう言い放つのだ。

 「カメラに見られていると、緊張して透視能力が使えなくなってしまうんだ」

 

 私が言ったのは、つまるところそういうことだ。

 コハルが私のことを疑い続ける限り、私はコハルの心を読むことができない。そういう筋書きである。

 そして、これまでの行動から私の能力について考察できる人物だ。すぐに私の意図に気付き、不敵な笑みを浮かべた。

 

「柊さん、いや、柊でいいかしら?」

「構わない」

「柊。あなた、やっぱり素敵ね」

 

 そう言って、コハルは椅子に腰掛ける。この部屋の中で一番と言ってよいほど、洒落たつくりの椅子である。

 

「他の子から聞いたわ。クラスメイトを保護してくれるんですってね。もしかして、私のことを誘いに来たのかしら?」

「いえ、そういうわけでは――」

 

 ないのだが。コハルは賢い。下手に残しておいて、異変に気付きクラスメイトを先導されてはたまらない。

 ここは、可能な限り早く“保護”しておくべきなのではないだろうか?

 

「――その通りです」

「じゃあ、一つお願いがあるの」

「何でしょう」

「私より先に、保護して欲しい人がいるの」

「……というと?」

 

「――ヒヨリ、出てきてくれるかしら」

 

 コハルがそう言うと、突然、ベッドの下から手が出てきた。ぬっ、と出てきて、そのまま立ち上がる。そこに居たのは、コハルとそっくり同じような姿の少女であった。

 気配はなかった。だが、確かにそこにいたのである。驚いた私が考えをまとめるよりも早く、ヒヨリと呼ばれた少女がコハルの腕に抱きついた。

 

「お姉ちゃん! 私が黙って見ていると思って! 柊と私、どっちが大事なのよ!!!」

「もちろんヒヨリよ。……柊、紹介するわ。この子は双子の妹のヒヨリ。私達は、能力で感覚を共有できるの」

 

 コハルは話した。二人のうちどちらかを先に保護することと引き換えに、自分たちの持つ能力についてを。

 コハルに妹がいることは、これまでクラスの誰にも悟られていないらしい。

 もちろん、能力についてもである。

 聞きたいことは山ほどある。だが今日のところは、私がクラスメイトに二人の秘密を話さないことを条件に、事件の追及をしないということで自分の部屋に戻ることにした。

 

「もーお姉ちゃん、どうして柊に私達の秘密について喋っちゃったの!?」

「保護してもらえるって言ったって、本当かどうか分からないわ。先にどちらかが向かって、情報を共有すれば完璧でしょ」

「うーん、それは確かにそうだけど……」

 

 釈然としない様子のヒヨリ。私はふっと息を漏らした。

 

「本当に仲が良いんだな」

「そうだよ! 柊の入る間なんてないんだから!」

「別に入ろうとはしていないが……」

 

 コハルに頬ずりをするヒヨリ。いや、コハルが――……どっちだ?

 まあいい。私が部屋を出ようとしたその時、ヒヨリの言葉が耳に留まった。

 

「もー、今日は一日中お姉ちゃんを独り占めできると思ったのに! この後ちゃんと構ってよね!」

 

 私は振り返る。

 

「待て、一日中、だと?」

「……お姉ちゃん、私なんか変なこと言った?」

「一日中も何も、今日コハルは一人で教室に来ていたじゃないか。ミチルを抱きかかえて、キョウヤと私の口論に――」

 

「何のことかしら? 今日は私もヒヨリも、教室には行っていないわよ」

「――え?」

 

 ぞわ、と鳥肌が立つ。

 ……だが、それをここで二人に追求しても、何も答えは返ってこないだろう。

 問い質すべきは別の人物だ。こんな悪趣味なことをする者は、一人しか心当たりがなかった。

 

 

 

 

 

「そこに居るのは分かっていますよ」

 

 コハルの部屋を出た私は、誰もいない廊下――誰もいないように見える廊下に向かって呼びかける。すると、柱の陰からふっと、湧いて出るようにして一人の人間が姿を現した。

 

「柊さん? どうかしたの?」

 

 三島コハル――に扮した、橘ジンである。

 

「あまり悪趣味なことはやめて頂けませんか?」

「悪趣味、と言われるのはまあ認めよう。でも、不都合はなかっただろう?」

「……もしかして、コハルさんが私に話があるということを知っていたんですか?」

「まあね。彼女、いつも大きな声で独り言を言うものだから」

 

 独り言……か。コハルの性格からして、確かに言いそうではある。

 

「それにしても、まさか彼女がナナに能力を明かすとはね」

「それに関しては同意見です。まさか、今まで隠していた能力をあんなにあっさり……今更なんですが、どうして未だにコハルさんの格好をしているんですか」

「こうしていた方が女子寮に入りやすいからね」

「いつも平然と入ってきてません?」

「よしてくれたまえ。まるで私が定期的に女子寮に忍び込む不審者のようではないか」

 

 言葉で言い返しても飄々と返されるだけである。私は、可能な限り「えぇ……」というような表情をして見せる。ジンは、人差し指でメガネをくいっと持ち上げた。

 

「そんなに見られていると照れるじゃないか。言わなかったかい? 私は実にシャイなのだよ」

「えぇ……聞いてませんけど」

 

 日中、コハルは学校にいなかった。ということは、他でもないジンがキョウヤの追求から私を庇ったり、ミチルを抱えて預かってくれていたのだ。

 この得体の知れない男に、二つも借りを作ってしまった。

 ……いや、キョウヤの件はともかく、ミチルを預かっていたのは借りとは言わないのではないか?

 それに、ミチルがほっぺたをぷにぷにしていたのだって、…………。

 

「どうしたんだいナナ、急に黙り込んで。お腹でも痛むのかね?」

「…………いまミチルちゃんが着ている服は以前コハルさんから頂いたものなんですけど、あれも先輩だったりしませんよね……?」

「まさか」

 

 

 

 

 

 部屋の前まで戻ってきてみて振り返ると、ジンはもう既にそこにいなかった。

 相変わらず神出鬼没である。聞きたいことはまだまだあるのだが、まあ願わずともまた現れるだろう。私は眠っているミチルを起こさないよう、そっと部屋の扉を開けた。

 

「あら、おかえり柊」

「ああ、ただい――」

 

 そっと扉を閉める。

 疲れているのかもしれない。目を擦ってから、もう一度扉を開けた。

 

「なんで閉めるのよ」

「なんでお前が当たり前のようにここにいるんだ」

「だって、鍵もあいてたし」

 

 鍵を閉め忘れるなどという初歩的なミスをするとも思えないが……確かに、扉を無理矢理開けたような形跡はなかった。

 

「ところで……お前、コハルかヒヨリ、どっちだ?」

「さあ、どっちでしょう?」

「……」

 

 こういうのた単純に考えるのがいい。コハルとヒヨリを見分けるのは困難だが、彼女らが本気で私を騙しにきているとは思えない。となると、タネはシンプルなはずだ。今、目の前の人物はコハル寄りの話し方をしている。私がここまで考えることもコハルなら予想するだろう。つまり、答えは……

 

「コハルだな」

「残念! ヒヨリだよ!」

「……」

 

 なんだか、負けた気分である。

 

「……ところで、さっきのいまで何の用だ? ミチルの寝顔を見にくるのは構わないが、私はヒヨリに用はないのだが」

「私も別に用はないんだけどね」

 

 ヒヨリがミチルの髪に触れる。カーテンの開いた窓から月明かりが差し、部屋の中を淡く照らした。

 

「柊、さっきまで一体誰と話してたの?」

「……何のことでしょう」

 

 ジンと話しているところを見られた?

 周囲には気を遣っていた。だが、コハルやヒヨリは、ジンほどではないにせよ注意が必要だと私の直感が告げている。実際、先程コハルの部屋を出るとき、確かにヒヨリは部屋の中にいた。私がジンと話していた時間は、たかだか数分。その間に、私に気付かれないように先回りをして私の部屋に来た。そして、上手い具合に私は部屋の鍵を閉め忘れていた。

 

 そんな偶然があってたまるか。

 ヒヨリは、何らかの能力を使ったに違いない。

 

「とぼけても無駄だよ。柊はお姉ちゃんと話していたように見えたけど、あれは偽物。だって、あれが本物のお姉ちゃんだったら、私達の能力で話の内容が伝わってこないはずがないもの。あれは、一体誰なの? この学校の生徒ではなさそうだね。ということは、もしかして外部の能力者? そして、柊と親しげに話してたということは、つまり柊は――」

 

 その時、誰かがヒヨリの背後から肩を叩いた。

 

「ヒヨリ、そのあたりにしておきましょう」

「お姉ちゃ――じゃない」

 

「いかにも」

 

 コハルに扮したジンは、指を一つ鳴らす。そして、わざとらしく視線を窓の外に移す。

 視線誘導。ミチルに化けたジンが、私に対してしたことと同じである。私の視線はヒヨリの体で遮られ、コハル自身は目を逸らす。次の瞬間、ジンはいつもの趣味の悪いスーツ姿に戻っている。

 

「初めまして、だね。私は橘ジン。まあ、君ら能力者の先輩といったところだ」

「……誰ですか? 人を呼びますよ」

「やれやれ、穏やかじゃないね。でも、都合がいい。ヒヨリ君に話せば、コハル君にも話が通じるのだろう?」

「そうですけど」

 

 警戒心を露わにするヒヨリ。当然だろう、ここの生徒は、この島には能力者の生徒と教員しかいないと教えられている。突然“先輩”なんてものが現れても、意味が分からないだろう。

 だが、そんなヒヨリの動揺とは裏腹に、ジンは至って普段通りの飄々とした様子で答えた。

 

「君たちだけに話がしたいが、ここでは人目につきすぎる。私に着いてきてはもらえないかね?」

 

 

 

 

 

「ここは……」

「私の別荘のようなものだよ。好きにくつろいでくれたまえ。……まあ、コーヒーくらいしか出せないがね」

 

 ジンが私とコハルを連れて行ったのは、例の海辺の洞穴であった。かつて、私とジンが刃を交えた場所である。その時私は致命傷に近い傷を負わされ、完敗と言う他なかった。

 今更、再びジンと敵対するなんてことは考えたくもない。が、

 

「そのコーヒーだって、食堂からくすねたものでしょう」

「……仲間を殺された少年兵が、折れた水道管から垂れる水を掬って飲むようなものだよ。不問にしてはくれないかね?」

 

 少しからかうくらいは許されるだろう。

 

「そんなことは今はいい。あなたは誰なの? まさか、コーヒーを飲むためにここに連れてきたわけじゃないよね?」

 

 コーヒーを淹れるジンに歩み寄るヒヨリ。今までにもクラスメイトとして見たコハルの中にヒヨリが混じっていたこともあったかも知れないが、ヒヨリという人格として接する機会は無かった。姉と二人芝居なんて芸当をやってのけるだけのことはあり、流石に肝が据わっている。

 

「私は美少女二人とコーヒーを飲むだけでもよかったのだがね……まあいい、何から話そう」

「私……いや、私とお姉ちゃんが知りたいことは二つ。一つは、あなたが何者か。そしてもう一つは、」

 

 ヒヨリが、私の方を指差した。

 

「柊の言った保護計画の信憑性について」

「ほう?」

「あなたの能力はよく知らないけど、私達には分かる。大した能力を持たない私達は、身の程を弁えて生きている。けど、あなたからは奢りと傲慢の匂いを感じる。

 柊と親しそうに話していたし、もしこの計画を柊が企てた何かに関係があるとすれば、強力な能力を持つあなたが関係していると考えるのが自然でしょ。どう、間違ってる?」

 

 ヒヨリ――いや、コハルとヒヨリの話を、何も言わず聞くジン。ヒヨリは言った。自分たちの能力が、強力なものではないということを。コハルに化けたジンは、それを誰よりもよく分かっているはずだ。

 

「……成る程。自らの頭でそこまで導いたのなら、私も話す他ないようだね」

 

 そう言って、ジンはパチンと指を鳴らした。ヒヨリはその指に、私は意図的に視線を逸らす。

 次の瞬間、ジンはコハルの姿になっていた。

 

「私の名前は橘ジン。君達の先輩にあたる能力者さ」

「先輩っていったのは……柊さんのじゃなくて、私達能力者クラスのってことで間違ってないよね?」

「いかにも」

 

 ジンはかつて、コハルやヒヨリと同じように島に連れてこられた能力者である。そう言う意味では、使命を課されて島に来た私よりもむしろ、彼女らの先輩と言った方が正しいまであるだろう。

 

「とはいえ……私はこういう性格だからね。どうにも回りくどい言い方をしてしまう。どうだろう、ヒヨリ君といったね、君が聞きたいことを、何でも一つ答えてあげよう」

「何でも、ですか?」

「私が知っていることであれば、ね。なあに、知らないことは知らないと言うさ。いくら悪名高い商人だって、初対面の客を欺すような真似はしないものだよ」

 

 ジンが自分を悪徳商人に例えるのは、自身の言葉に嘘があるということを指すのだろうか。いずれにせよ、今の私には計り知れないことではあるが。

 ふむ、と顎の辺りに手を当てるヒヨリ。こういう癖はコハルとそっくりだな、などと思った。

 

「既に保護されたと聞いた、大地ヒカル君。彼は今、どこで、どのように保護されているのでしょう?」

「ほう……いいだろう。答えよう。それから、ナナ……君も何か言いたげだね?」

「はい」

「言ってみたまえ」

 

 これも、ずっと聞こうと思っていたことだ。だが、はぐらかされてしまうような気がして、タイミングを掴めずにいた。

 だが、これから先、コハルやヒヨリをはじめクラスメイトを保護するなら、必要な情報だ。

 本来、能力者の子供達がこの島に閉じ込められていることを、私はどのように聞いていた?

 危険すぎる能力者を、相互監視の下隔離しておくことではなかったのか?

 

「大地ヒカルさんだけではありません。鶴見川レンタロウだってそうです。あまりにも危険すぎる彼らを、先輩はどのように保護しているのですか?」

 

 私がそう言うと、ジンは笑みを浮かべながらメガネを指でくいと持ち上げた。

 鶴見川レンタロウは言うまでもなく、ヒカルだって閉じ込めておくのは困難なはず。少なくとも私だとすれば手に負えない。

 ヒカルの保護を依頼したのは、ある種のブラフだ。鶴見川レンタロウの生存確認、そしてジンの手の内を探るための。ジンがヒカルの保護を承諾した時、私は内心拍子抜けしていた。と同時に、こうも思った。

 

 彼に保護してもらうことは、果たして善なることなのだろうか、と。

 

 ジンの能力は未だ計り知れない。そして、彼の性質上、協力者がいるとも考え辛い。

 だとすれば、彼らをどのように保護しているのだ?

 変身能力者であるジンの手数を増やすばかりで、保護された能力者達はどのような扱いを受けているのだ?

 

「保護してくれと頼んだのは、君じゃないか。ナナ」

「ええ。虫の良い話だと言うのは分かっています。でも――」

 

 私がそう言いかけたとき、話を聞いていたヒヨリがジンと私の間に割り込んだ。

 

「待って、待って。どういうこと? 鶴見川くんは“人類の敵”と戦って亡くなったんじゃなかったの?」

「ああ――そうだったね、君にはまだ話していなかった」

「答えて。鶴見川くんは生きているの?」

「……いいだろう」

 

 そう言いながら、ジンは私とヒヨリの額の辺りにそっと手を触れた。

 その瞬間、私の視界から二人の姿や周囲の風景は消え、見知らぬ場所の情景が頭の中に流れ込んでくるような錯覚に陥った。

 

「いいかい? 今から特別に、見せてあげよう――」

 

 

 

 

 

 頭の中に情報が流れ込んでくる。

 これはジンの記憶? こんな能力を持った生徒はクラスに居ただろうか?

 いや、違う。これはコハルの能力だ。ジンはかつて化けた先での能力の制御は難しいというようなことを話してはいたが、逆に言うとそれは慣れと経験次第で自在に使いこなせるようになるということでもある。

 コハルの能力は、双子の妹であるヒヨリとの感覚共有と情報伝達。一種のテレパシーのようなものとも捉えられる。つまり、使い方次第では、私のような赤の他人とでも情報伝達を行うことができるのではないか?

 

 気がつくと、私は見知らぬ部屋にいた。私の隣に、ヒヨリはいない。病院の無菌室を思わせる。コンクリートで覆われただけの無機質な部屋。私以外の人間の気配は感じず、蛍光灯の僅かなノイズだけが耳に馴染んだ。

 

「着いてきたまえ」

 

 どこからともなく声が聞こえる。ジンの声だ。どこから聞こえたかもわからないにも関わらず、私はまるで手招かれるように足を進めた。

 扉を開けたその先に、2、30個ほどの、小さなシェルターがあった。

 私は足を進める。その一番奥に、病室のような小さなネームプレートが掛けられている。

 

【鶴見川レンタロウ】

【大地ヒカル】

 

「これは……」

「入ってみたまえ。なあに、今の君は私の中の記憶を見ているに過ぎない。彼らが君に危害を加えることはできないよ」

 

 鶴見川レンタロウ。かつてミチルを殺そうとし、私を殺した人物。私は生唾を飲み込んだ。

 指を鳴らす音が聞こえた。すっと自動扉が開く。

 

『やあ、柊さん。久しぶりだね』

 

「これは……!?」

 

 鶴見川レンタロウに話しかけられた。

 どういうことだ? 今の私はジンから思念のようなものを見せられているだけで、実体はないはずだ。見下ろすが、やはり足も無い。

 おかしい。これは現実? それとも、鶴見川の反応まで含めてジンが再現しているとでも言うのか?

 

「現実か、現実でないか。そんなものは些細な情報に過ぎない」

 

 ジンの声が聞こえた。隣を見ると、元の姿のジンがそこに立っていた。

 す、とジンが何も無い空間から一振りのナイフを取り出す。

 見覚えのあるナイフだった。

 

「……何のつもりですか」

「憎くはないのかね? 彼のことが」

 

 憎い。憎いに決まっている。命は助かったものの、ミチルがあんな姿になったのはこいつのせいなのだ。

 だが――今の私に彼を憎む権利はあるのだろうか?

 

「私は憎いよ。森の動物たちを沢山殺された。私は動物が好きだ」

 

 ジンが私に向かってナイフを差し出す。

 

「使うといい」

「仰る意味が分かりません」

「聡いナナなら分からない筈もないと思うが、まあいい。君が刺されたこのナイフで、彼を刺したまえ」

 

 私はそっとナイフを受け取る。

 これもまた、ジンの思念なのだろうか? いつか見たのと同じように、ぴかぴかに磨かれてある。

 ナイフを前に、微動だにしないレンタロウ。これは、彼の本体ではない。

 ――なら、私が彼を刺したとして、何の問題があると言うのだろう?

 

 私はナイフを逆手に持つ。そして、かつて私がされたのと同じように、ひと思いに――

 

「……できません」

 

 振り下ろす手を、止めた。

 

「そうかい」

 

 ジンが言った。その瞬間、私の手元からナイフは消え去り、それはジンの右手にしっかりと握られていた。

 

「では代わりに、私の芸術を見て貰おう」

「――ッ!? 何を――」

 

 ナイフが振り下ろされる。

 刃が、鶴見川の胸元を貫いた。

 悲鳴は上がらず、血も流れない。

 代わりに鶴見川の体は刺された胸元から崩壊を始め、やがて霧散するように宙に消えた。

 

「そんな驚いた顔をしないでくれたまえ。ちょっとしたショーのようなものだよ」

 

 ジンが指を鳴らす。するとそこには、鶴見川が元の姿のままで立っていた。

 

『やあ、柊さん。久しぶりだね』

 

「これは……どういうことですか」

「言ったじゃないか。……いや、言わなかったか? まあいい。君が殺意を感じたことも、私が彼を刺したこともすべて虚構。これが、私の芸術さ」

「仰る意味が分かりません。今の行動に、何の意味があるのでしょう」

「あいにく私は君と違って人ならざる下等生物でね。こうして自分を表現しないと、どうにも気が済まないのだよ」

 

 ジンはちらと鶴見川の方を見る。彼は、何事もなかったかのようにそこに立っていた。

 

「……先輩がここに彼らを閉じ込めているのは、いつでも好きな時に殺すためですか?」

「少し違う。こうして今君の前で彼を刺して見せたのは、虚構、いわばホログラムのようなものだ。――だが、確かにそういう使い方も悪くないね」

 

 もう一つ指を鳴らす。今度は、私の見る前でコハルに変身して見せる。

 

「今の私は、君の知覚する幻覚に過ぎない。能力の制限だって無視できる。素晴らしいだろう」

「待って下さい――先輩が今化けているのは、誰ですか?」

「見ての通りコハル君に決まっているじゃないか」

「違います。現実の世界でです」

「コハル君だよ」

 

 コハルだと? 確かに、私に幻覚を見せ始める前、ジンはコハルに変身していた。私が目を瞑ったタイミングで他の能力者に化けたのかとも考えたが、これがコハルの能力だとでも? 単なる情報伝達能力としては、明らかに常軌を逸している。コハルの能力は、妹のヒヨリとの感覚共有と情報伝達。それを応用したとして、こんな高度なホログラムのような表現ができるものだろうか?

 私が答えを出すより早く、ジンが私に問いかける。

 

「私が化けるのは、コハル君とヒヨリ君、どちらでもよかった。だが、いくら試してもヒヨリ君には化けることができなかった。これは一体、どういうことだろうね?」

 

 

 

 

 

「――――ぇんぱい、ナナしぇんぱい!」

 

 私を呼ぶ声が聞こえる。

 瞼を開くと、そこはもといた洞窟だった。

 間を擦り起き上がる。意識を失っていただけで、外傷はなさそうだ。

 見回すが、ジンの姿は無い。代わりに、モエとキョウヤがそこに居た。

 

「しぇんぱい、ここで倒れてたです。一体何があったですか?」

「……すみませんが、記憶が曖昧で……私、どれくらい眠ってました?」

「モエが来たのは十分くらい前です。モエ、しぇんぱいとお話がしたくて部屋に行ったんですがミチルちゃんしかいなくて、おかしいなーと思って探しに来たです! そしたら案の定ここで伸びてるしぇんぱいを発見しました! モエのお手柄です」

「手分けして探そうということになって、俺もかり出された。まあ、お前さんに何も無くてよかったよ」

 

 なるほど、モエがキョウヤを呼んだのか。確かにキョウヤは話が早く、私はともかくモエのことはさほど警戒していない。万が一私が危険な目に遭っていても不死身のキョウヤなら助けに入ることも可能だろうし、合理的と言える。

 

「ところで、ヒヨリさん――いえ、コハルさんを見ませんでしたか?」

「コハルさんです? モエは見てないです。キョウヤさんは?」

「ああ、そう言えばさっき寮の前ですれ違った。何やら難しい顔をしていたようだが……お前さんがここで倒れていたことと、何か関係があるのか?」

「いえ……」

 

 ジンに見せられた幻覚の中に、ヒヨリの姿は無かった。もしヒヨリが私と同じ幻覚を見ていたとすれば、ここに居ないのはなぜだ? 先に目覚め、私を置いて寮に戻ったのか?

 いや――そもそも、ヒヨリの正体は何だ?

 ジンは先程、コハルには化けられたがヒヨリに化けるのは不可能だと言っていた。

 それは何故か。考えられるのは二つ。

 一つは、以前ジンがナナオに化けられなかったのと同様、ジンの能力側の、何らかの制限。

 そしてもう一つは――感覚共有能力はコハルからの一方的なもので、ヒヨリには備わっていないということ。

 つまりヒヨリは、私と同じ無能力者だということである。

 

 

 

 

 

 島に駐在しているはずの医者に診て貰うべきだとキョウヤは言ったが、私はそれを断った。

 私が倒れていたのは病気や外傷ではないし、いずれにせよ医者も今はいないままだろう。

 私は自室に戻る前に、コハルの部屋に向かうことにした。

 キョウヤはまだ何か言いたげだったが、私がコハルと二人きりで話がしたいのだと言うと、渋々ながらも納得してくれた。モエは、もう眠いからと言ってそのまま自室に帰っていった。

 

「まだ起きていますか?」

 

 私は扉をノックする。返事は無い。

 鍵はかかっていなかった。私は、恐る恐る部屋に踏み込んだ。

 部屋の様子は、先程と何も変わらない。ベッドで眠っているのは、ヒヨリ……いや、コハルだろうか?

 私がそっと近付くと、その人物が眠っていないことに気が付いた。

 

「うわっ」

「何がうわっよ。勝手に入ってきたのは柊でしょう」

 

 そう言いながらも、待っていましたと言わんばかりに飛び起きる。話し方の癖からして――恐らく、コハルだ。

 

「一悶着あったみたいね。ところで、さっきの趣味の悪いメガネの男、あれは一体誰なの?」

「……私も、よくは知らない」

「呆れた。素性も知らない人間と、よくあんな親しげに話せるわね。柊はもう少し、年頃の女の子としての自覚を持った方がいいわ」

 

 そう言いながら、コハルは溜め息をつく。どういう意図でそんなことを言ったのかは知らないが、余計なお世話である。

 

「ヒヨリはどこに行ったんだ?」

「あなたが帰ってこないから、ミチルちゃんの様子を見に行ったわ」

「そうか……助かる」

「あら? 怒らないのかしら? 見られたら不味いものでもあったんじゃない?」

 

「見られて困る物なんて、とっくに処分した」

 

 それは、見られて困る物が、以前はあったという意味だ。コハルもそれを察したのだろう。私に向かって、笑みを浮かべた。

 

「それは、ミチルちゃんのため?」

「そうだ」

「素敵ね。――ところで、今更だけど、私に何の用かしら? まさか、寝込みを襲いに来たわけじゃないでしょう」

「もしそうだったら?」

「悪くないけれど、今は状況が良くないわ」

 

 そう言って、コハルはポケットの中に何かをちらつかせた。窓から差し込む月明かりが照らす。小さなナイフのようなものだろうか。

 

「冗談」

「でしょうね」

 

 私はすぐ側にあった椅子に腰掛ける。コハルは、何も言わずその様子を見ていた。

 

 私がここに来た理由は一つ。彼女、いや彼女らの能力を突き止めること。

 ヒントは、ジンがコハルにしか化けられないということ。勿論、ジンが何か彼女らに関する情報を掴んだ上であえてぼかしている可能性も考えられるが、ジンはああみえて意味の無い嘘をつく人間では無い。……と私は思う。

 先程立てた仮説の通り、姉妹で感覚共有をするのであれば、二人共に能力が備わっている必要は無い。先ほどコハルに化けたジンがやって見せたように、一方的に相手の脳内に情報を送り込んだり、感覚器官をのぞき見ることも不可能では無いはずだ。

 クラスの誰も、ヒヨリの存在を認知していない。“委員会”の目さえ誤魔化せているとすれば、ヒヨリはコハルの影となり紛れ込んだ、無能力者ではないか?

 

 私はそれを問うべきだ。口を開く。質問する。

 ただ、そうすれば良いのに、言葉を紡ぐことができない。

 

 何と聞けば良い? ヒヨリは無能力者かと聞けば、何を言っているのだとあしらわれるだけだ。では、何と聞けば確かめられる?

 いや――ひょっとすると私は、とんでもない勘違いを犯しているのではないか?

 取り返しの付かないことをしようとしているのではないだろうか?

 

「……ミチルちゃんの様子は、どうでしょうか」

 

 口をついて出たのは、毒にも薬にもならないような言葉。

 そんな私に、コハルは少しつまらなさそうな顔をした。

 

「ええ、ぐっすり眠っているわ。あなたが居なくてもね」

 

 

 

 

 

 部屋に戻るとそこにはヒヨリの姿は無く、ミチルが一人で眠っているだけだった。

 手を洗い、顔を洗い、歯を磨く。ベッドに入ろうとする直前に服が汚れていることに気付いた。

 何か代わりの服はないかと探す。あいにく、パジャマらしい服は一着しか無い。普段着のシャツでいいかと思った時、小さくなる前のミチルが着ていたパジャマがあることに気が付いた。

 私はベッドに潜る。ほんのりと温かい。私は、その小さな温もりを抱き締める。

 

 触れたら壊れてしまいそうなほどに、脆く、切ない。

 それが、今確かに私の両腕に抱きかかえられている。

 

 私は、また逃げてしまった。私が欲しいのは、真実ではなかったのか?

 真実で人を傷つけることが怖いの?

 真実が人を傷つけることを知っているから?

 

 自己矛盾。エゴイズムの塊。それが今の私。

 我ながら、吐き気がするほどに愚かである。そう思った時、ミチルの小さな手が、私の頬に触れた。

 

「ナナしゃんは……いい人なんだから……」

 

 

 

 

 

「おはよう柊」

 

 翌朝。目を覚ますと、何故か部屋にコハルがいた。

 

「どうしてお前がここにいる」

「入ったらダメとは言われてないから」

 

 コハルはエプロンを身に付けて、何やら料理を作っていた。一瞬またジンがコハルに化けたものかと疑ったが、彼ならエプロンを用意して私の部屋で料理するというシチュエーションは流石に意味不明だ。料理が得意らしいコハルが、私への冷やかしのためだけにわざわざ手料理を振る舞いに来たと言った方がまだ説得力がある。

 

「さあ、もうすぐできるわよ。ミチルちゃんも起きて」

「……んーーーー……」

 

 名前を呼ばれたミチルが、布団にくるまったまま小さく延びをした。

 

「おはよう……しゃん?」

「ナナですよ」

 

 コハルは、味噌汁を椀に注ぎながらクスクスと笑っている。

 

「……何がおかしい」

「別に? しゃん……」

 

 ふわり、と出汁のいい匂いがした。

 三人分の食器がテーブルに並ぶ。私に部屋に、こんなに食器は無かったはずだ。ということは、コハルが自室から持ってきたのだろうか。

 当たり前のようにここに居ることに文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、久方ぶりの手料理に免じて何も言わないことにした。

 

「柊」

「なんだ」

「ミチルちゃん、成長期なんだから。ちゃんと栄養のある物食べさせないとダメよ?」

「……善処する」

「ところで……さっきから部屋の前にいる男は何なのかしら」

 

 コハルがそう言うと、部屋の前で何やら物音がした。

 

「……?」

 

 私はコハルの用意した朝食を食べ終わったミチルの口元を布巾で拭いてから、立ち上がって部屋の扉を開けた。

 

「やあ。美少女の朝餉を邪魔するのは如何なものかと思ってね。部屋の前で待っていたのだよ」

 

 いつも通り、趣味の悪いスーツを身にまとったジンがそこにいた。

 私は振り返ってコハルに尋ねる。

 

「……どうして分かったんです?」

「部屋の前をヒヨリに見張って貰ってたのよ」

 

 ジンの後ろから、ヒヨリがひょっこりと顔を出した。

 

「おはよ、柊」

「……おはよう」

 

「それよりも柊。昨日はこの男のことをよく知らないなんて言っていたけど、それならわざわざ部屋に来るというのも変な話だわ。本当に何も知らないの?」

「それは……」

「ナナ、酷いじゃないか。二人で殺し合った仲だろう」

「先輩は黙っていて頂けますか?」

 

 私がそう言うとコハルは、ふむ、と小さく声を漏らしてから、唐突に隣に居るミチルを抱きかかえた。

 

「隠し事は身のためにならないわ。ね、ミチルちゃん」

「……何をするつもりだ」

 

「ねえミチルちゃん。柊の作るご飯と、私の作ったごはん。どっちが美味しかった?」

「それは……ですね……」

 

 ミチルは、うーんと考えるような仕草をした。

 ……いや、私には分かった。ミチルは悩んでいた。答えは明白だ。ただ、それを言ってしまってもいいのか。

 

 ――十数秒ほど悩んだ末、ミチルは口を開いた。

 

「コハルしゃ」

「ごめんなさい私が間違ってました」

 

 私がそう言うと、コハルは満足そうに笑みを浮かべた。

 

「分かればいいのよ」

 

 

 

 

 

「つまり……柊がこの男の素性を知らないというのは概ね正しく、ほとんどこの男が柊のことを一方的に知っている状態である、と」

「ああ。この際、この男、なんて呼び方はやめてもらえないかね? できれば、ジンという名前で呼んで欲しいところだよ」

「先輩は黙っていて頂けますか?」

 

 どこまで話すか迷ったが、よくよく考えてみると私はジンについて想像以上に何も知らない。ジンと今まで話したことや取り交わした内容について、覚えている限りのことをコハルに話した。もっとも、変身能力などについては、既にヒヨリからの情報でコハルも知るところではあるのだが。

 

「でも、そんなことを話してしまってもよかったのかしら?」

「お前が話せと言ったのだろう」

「あら? 私はミチルちゃんにご飯の味付けの好みを聞いただけよ?」

 

 コハルの膝の上で、ミチルが申し訳なさそうに俯いている。

 

「柊の料理は、ミチルちゃんには少し塩辛いみたいね」

 

 ジンとヒヨリが遠目に見ながら二人してニヤニヤと笑っている。いつのまにそんな仲良しになったのだ。というか、そんなに仲良しなら素性くらいヒヨリ経由で見聞きすればいいではないか。

 

「ところで、コハル君、そしてヒヨリ君。君達は、姉妹どちらか一人ずつの保護を求めていたね」

「ええ。そして、ジン先輩はそれを飲んだ」

「その通り。だが、保護される立場の君達にしては、あまりにも虫が良すぎる要求だとは思わないかい?」

「……何が言いたいの」

「二人の保護は大いに結構だ。だが、こちらも一つ、条件を付けさせて欲しい」

 

 ふっと力を抜いたコハルの腕からミチルがするりと抜けだし、私の元へ戻ってきた。

 ジンはそれを横目に、コハルに向かってこう言った。

 

「保護する順番は、コハル君が先だ。異論は認めない」

 

 コハルとヒヨリが、示し合わせたように訝しげな目でジンのことを見た。

 だが、私からしても妙な話だ。全員保護するつもりであれば順番などは大した違いにならない。むしろ、コハルとヒヨリは注意して見ても見分けがつかないほどにそっくりなわけで、その二人を区別する理由が無い。

 

「あら、ジン先輩はヒヨリより私の方がタイプなのかしら?」

「そういうことにしておいてくれたまえ」

 

 ジンは以前、コハルに化けることはできるがヒヨリには化けられないと言った。そこで私は、能力を持っているのがコハルだけで、ヒヨリは私と同じ無能力者だという仮説を立てた。

 もしその仮説が正しいとして、無能力者のヒヨリがコハルよりも先に保護されると、都合が悪いのだろうか?

 

「……まあいいわ。どのみち、私達にはそれを飲む以外の選択肢は無いのでしょう?」

 

 私が答えを出すより早く、コハルはそう返答した。

 快諾、という様子では無かったが。

 

「話が早くて助かるよ」

「いいわよね、ヒヨリ」

「お姉ちゃんがそう言うなら……」

 

 ジンを問い質すべきだろうか? それとも、当人達が差し障りないと言って承諾する以上、私は口出しをしないべきだろうか?

 

「そうと決まれば、早速準備してくれたまえ。なんせ、いずれクラス中の能力者を移送することになるんだ。どんどん話をつけていかないと、日が暮れてしまうのでね」

 

 

 

 

 

 コハルの移送は、その翌日となった。

 ジンは今日にでもと言ったが、部屋の片付けや荷物の整理があるからと言って、一日の猶予を設けることにした。もっとも、コハルとヒヨリの二人がかりなのだから、もっと早く終わらせることもできただろう。

 

「柊、今日一日は部屋に入らないでもらえるかしら。ヒヨリと二人で過ごしたいの」

 

 今生の別れでもないだろうに。だが――考えてみれば、ずっと二人で芝居を打ってきたのだ。当然、二人はこれまでもずっと一緒に過ごしてきた。ならば、少しの間とはいえ遠く離れることになるならば、切なくなる気持ちも分からなくはなかった。

 私がミチルを連れて部屋に戻ると、猫に化けたジンがベッドの上にいた。

 

「あ、マジック猫しゃんだ!」

 

 ミチルが指を指す。

 にゃーお、と猫が返事をした。

 

 

 

 

 

 翌日。

 コハルを移送が完了するまで、私の出る幕はない。それに、ジンの目的もまだ掴めていない。本当に、この得体の知れない男を信用してしまっていいのだろうか?

 コハルの移送は、私にとってもメリットがあった。ヒヨリ経由で情報を得られるからだ。保護計画と言っても、その場所が本土なのか、それとももっと別の場所なのかすらも私は把握していない。

 コハルはクラスの皆に、保護されることを話していない。ということは、ヒヨリがこれからも学校の中ではコハルとして振る舞うのだろう。だとすると、ヒヨリに接触するのも容易である。

 

「ナナしゃん」

 

 私が考え事をしながらシャワーを浴びていると、外からミチルの声が聞こえた。

 

「ミチルちゃん? どうかしましたか?」

「あのですね……」

 

「しぇんぱーーーーーい! 大変です!!!」

 

 勢いよく誰かが部屋に飛び込んでくる音が聞こえた。紛れもなくモエである。

 

「あっミチルちゃんこんにちは! です! しぇんぱいはどこですか?」

「しぇんぱい……?」

「今シャワーを浴びているので少し待ってもらえますか」

 

 私がそう言うと、モエがシャワー室の扉をばぁん!と叩いた。ひっ、と声が出て、私は仰け反る。小指を鑑の角に打ち付ける。

 じわり、と血が滲む。私は咥えるようにして小指の先を舐めた。

 

「しぇんぱい! 暢気にシャワーなんか浴びてる場合じゃないです!」

「いや何の要件ですか。私知らないんですけど」

「鶴岡さんから連絡が来たです」

 

 サッ、と背筋が冷たくなる。私はお湯を出したまま、シャワー室の扉を開けた。

 

「見せて下さい」

 

 モエからスマホを受け取る。送信時間は十分前。私がシャワーを浴び始める前だ。

 

『一週間以内に一人殺せ』

 

 私がメールに気付かなかったということはない。人目の無いところでは、逐次確認しているからだ。ということは、モエにだけ送信されたということか?

 

「これは……」

「一人殺せば、きっとおばあちゃんに会わせてくれるです! さあ、誰を殺すですか???」

 

 そうだ。ヒカルの時はその場しのぎの嘘で誤魔化したが、モエは私の考えに納得しているわけではない。機会が無かったから誰も殺していないだけで、人殺しをやめようとかそういう気は全くない。

 ――いや、きっとモエはこれが人殺しだとすら感じていないのだ。私にも、心当たりがあった。

 だが、モエには私と違うところがある。

 それは、未だ誰も殺していないということ。

 

「……少し、考えさせて下さい」

「えーっ、モエは早くおばあちゃんに会いたいです」

「……明日には、必ず作戦を練ります」

 

 作戦を練るのは本当だ。

 だから、今は欺されてくれないか。

 

 話は少し聞いている。モエには、私と同じで両親が居なかった。

 前にもこんなことがあった。似た境遇の人間を見て自分に照らし合わせてしまうのは、私の悪い癖だ。

 

 その時。ミチルが私に近付いてきて、ぎゅっと抱き締めた。ミチルは賢い子だ。鶴岡さんからポーカーフェイスも学んだはずだが、ミチルには見抜かれてしまっているように感じる。

 私はミチルを抱き返す。その時、気が付く。

 

「……?」

 

 ミチルの体が、少し大きくなっているのではないか?

 それだけでない。明らかに体重も増えている。

 

 成長期だから? いや、それにしても早すぎる。

 もしかすると、これは――

 

「痛そうですね……」

 

 ミチルが私の手を取る。そして、私の小指の先を――

 

「駄目だッ!!!」

 

 私はその手を振りほどく。

 

「こんな怪我は放っておいても治ると前にも言ったでしょう!? 私がどれだけミチルちゃんのことを――」

 

 ミチルが、泣きそうな目で私を見ていた。

 どうしようもない私は、ミチルから目を逸らした。

 

 

 

 

 

 翌日の朝。身支度を終えたコハルを見送るのは、三人。

 私とミチル、そしてヒヨリ。

 クラスの皆には事後報告である。妙に騒がれても困るからだ。授業は無いが、誰にも見つからぬよう、いつも授業が始まっていたよりもずっと前の時間に、ミチルを起こして部屋を出た。

 

「ヒヨリ、そんなに泣くことないじゃない」

「おっ、をぉぉぉ、お姉ちゃぁん……」

 

 おいおいおいと縋るようにして泣くヒヨリ。後ろから、ミチルが不思議そうな顔をしながら指をくわえて見ている。

 

「感動の別れだが、今生の別れということもない。着いてきたまえ。船まで案内しよう」

「船……はいいとして、先輩はなんでまたコハルさんに化けているんですか」

「一人よりも二人いた方がヒヨリ君がさみしがらないと思ってね」

「面白いと思って言ってるなら面白くないですよ」

「これは手厳しい」

 

 コハルに化けたジンは、やはりどこからか取り出したメガネをかけ、くいっと持ち上げた。

 

「出発だ」

 

 パチン、と指を鳴らす。振り返ると、視線の先には小船が浮かんでいた。

 

「さあ、楽しいクルージングといこうじゃないか」

「……お姉ちゃんにもしものことがあったら……ただじゃおかないからね?」

「これは怖い。でも、君ならコハル君の様子くらいいつでも感知できるだろう?」

「それはまあ、ね」

 

 ジンに促され、コハルは小船に乗り込む。

 間もなくしてエンジンの音がし、動き出す。

 

「お姉ちゃーん! またねーーー!」

 

 ヒヨリが船に向かって叫ぶ。コハルが、船の窓から小さく手を振る姿が見えた。

 そうして、ヒヨリは何度も姉の名を呼ぶ。

 何度も何度も。

 何度も。

 何度も。

 そうして、小船が水平線の彼方に沈んだ頃。

 

 振り返ると、そこにヒヨリの姿は無かった。

 

「――――!?」

 

 どういうことだ。確かに、つい先程までヒヨリの姿はあったし、声も聞こえていた。

 

「ミチルちゃん、ヒヨリさんは――」

「しぇんぱーーーーーい!」

 

 私の言葉を遮り、誰かが近付いてきた。

 

「モエちゃん……見てたんですか? さっきまでここに、ヒヨリさんが――」

「もう見ていられないです! 今日からミチルちゃんはモエが預かるです!」

 

 そう言って、モエはミチルを抱き上げる。ミチルは目をぱちくりさせた。

 

「待て、どういう――」

「だってしぇんぱい! さっきからずっと、じーーーっと何も無い海の方を見てたんです! モエ、てっきり人類の敵に念力でも送っているのかと思って、邪魔しないように様子を見てたのに、結局何もしないんじゃないですか!」

「……何も無い海、だと?」

「そうです! ミチルちゃんもそう思いますよね!?」

「…………」

 

 こくり、とミチルが頷いた。

 

 どういうことだ。確かにコハルは小船に乗り、ジンと共に去って行った。そして、ヒヨリがそれを見送っていた。

 だが、ミチルと、私の後ろに居たであろうモエにはそれが見えていなかった。

 どういうことだ? ジンが何らかの能力を使ったのか?

 ……そう言えば、先程も妙なことがあった。ジンが指を鳴らすのと同時に、突然小船が現れた。

 ジンは、ありとあらゆる能力を行使できる。だが、素のままの姿で使えるというわけではない。

 変身する必要がある。使えるのは、変身した人間の能力だ。

 ジンはあの時、誰に化けていた?

 まさか、この能力の持ち主は――

 

 私は一人、海を見る。

 答えを知る者は、もういない。

 

 

 

 

 

 結局、ヒヨリは学校でも寮でも見つからなかった。

 信じられない。信じたくもないが、状況証拠としては、ヒヨリの存在さえ幻覚の能力だと考える方が妥当ではないのか?

 ある作家が言った。可能性のない事象を除外していけば、やがてはただ一つの真実にたどり着く。

 それが、どんなに奇妙なものであっても、だ。

 

「しぇんぱい、今日は教室に行くですか?」

「……」

 

 モエは、昨日からずっと私の部屋に居座っている。

 誤解は解いたものの、モエは自分がミチルを預かると言って聞かない。とはいえミチルは小さくなったとはいえモエの中では“人類の敵“の括りになるし、はいそうですかと預けて殺されてもかなわない。結局、モエがしばらく私の部屋で寝泊まりする、ということで決着がついた。

 そして結局、ヒヨリが消えたこと――コハルの能力がなぜ解除されたのかは、分からずじまいである。

 今は授業が中止になっているせいで騒ぎになっていないが、ヒヨリで代替するという案が崩れた今、このまま放っておけば、いずれクラスメイトらもコハルの不在に気がつくだろう。

 なら、先に説明しておくのが吉である。

 

「行きましょう。モエちゃん、すみませんが、キョウヤさん達に声をかけて頂けますか?」

 

 

 

 

 

「昨日、コハルさんが保護されました」

 

 モエの呼びかけて集まったのは、クラスの半数程度。授業ではないし、転校生のモエの呼びかけでこれだけ集まれば上々だろう。

 ……まあ、転校生でリーダーなんてやっている私が言う話でもないような気もするが。

 

「保護? それは本当だろうな」

 

 すっ、と前に出て来たのは、例によってキョウヤ。

 キョウヤは、ずっと私のことを疑っていた。その私が、挨拶もせずに消えた一人のクラスメイトを保護したと言うものだから、疑われても無理はない。

 

「妙な話だ。本土で保護して欲しいのはみんな同じはずなんだが、よりによってここ最近柊と仲良さそうにしていたコハルが真っ先に保護されるなんて、どうにも狙いをすましているようにしか見えん」

「……昨日の晩、コハルさんから直接相談を受けました。本土にいる妹が心配だから、会いに行きたい、と」

「ほう……」

 

 それは部分的に正しい。

 嘘をつくときは、適度に真実を織り交ぜる。これも、鶴岡さんから学んだことだ。

 しかし、それで納得しないのがキョウヤである。

 

「だが柊。証拠はあるのか? 俺からしてみれば、お前さんの妄言とどうにも区別がつかん」

 

「おいこらテメエ、まだそんな話してんのか!?」

「ナンセンスじゃないね。探偵にでもなったつもりかい?」

 

 キョウヤに立ちはだかろうとするモグオとキョウヤ。しかし、私はそれを手で制する。

 

「証拠は、私の言葉だけです」

「…………」

「…………」

 

 十秒間ほど睨み合う。先に目を逸らしたのは、キョウヤだった。

 

「……分かった」

「信じてくださるんですね」

「ああ」

 

 ほっと息を撫で下ろす。正直、もっと突っ込まれるかと思った。

 キョウヤが私に近寄り、ぽんぽんと肩を叩く。

 

「お前さん、ちょっと変わったんじゃないか」

「……何がでしょう?」

「以前なら、もっと何か隠しているような気配を感じたんだがな」

 

 

 

 

 

「そこにいるのは分かっていますよ」

 

 部屋に戻ってきた私は、虚空に向かってそう語りかけた。

 返事は無い。ミチルが不思議そうな顔をして私を見る。なんでもないですよ、と言って、ミチルの頭を撫でた。

 

 余計な時はどこからともなく現れるくせに、こちらに聞きたいことがある時はいつまで経っても現れない。……まあ、今に始まったことではないが。

 聞かなければいけないことがある。そして、ジンもそれは承知のはずだ。あえて姿を現さないとすれば悪趣味この上ない。

 あるいは、ジンさえも知らない真実もあるのかも知れない。例えば、コハルの能力について。

 コハルとヒヨリは能力について触れたがらなかったし、状況証拠から考察するに、恐らく彼女らの能力はただの感覚共有ではない。そうでないと、説明できないことがあまりにも多すぎた。

 

「やれやれです~~あれ、ところで先輩は私の部屋で何してるんです?」

「私の部屋……いや、私の部屋ですけど」

「あ、そうでした」

 

 まちがえちゃいましたー、うっかりです、と頭を掻くモエ。本当にいい性格をしている。

 

「ところで。誰を殺すか、ちゃんと考えてくれましたですか? モエは早くおばあちゃんに会いたいです」

 

 誰を殺すか。

 答えは出なかった。出るはずもない。

 能力者を殺す気など、とうの昔に失せてしまったのだ。

 モエは祖母に会うためという明確な目的がある。私はそうでないとはいえ、暗殺を目的にこの島に送り込まれた以上、誰かを殺さなければ立場が無いのは、私とモエは同じである。

 

「……もしかして任務が嫌になったですか? だとすると、モエは鶴岡さんに言いつけなければいけません」

「っ、それは――」

 

 慌てて、どうなる。

 私は、もう人を殺さないと決めた。それは鶴岡との決別だ。今更私の思惑が知れたところで、何の問題があるというのだろう。

 

 モエに座るよう促す。私は、モエと向かい合うように座った。

 

「モエちゃんは、人を殺したことがありますか」

「ないです。それがどうかしたですか?」

「本当に、殺せるんでしょうか」

 

 悪人を殺すのは簡単だ。罪悪感を抱かずに済む。

 任務を遂行する上で、避けては通れないこと。それは、罪の無い人間を殺すことである。

 

「私達の任務は、全ての能力者を抹殺することであったはず。だとすると――例えば、今ここにいるミチルちゃんも殺さなければいけません。モエちゃんには、その覚悟が――」

 

「ありますですよ?」

 

 ふっと風が切る。

 気が付くと、すぐ隣にいたはずのミチルは、モエの腕に抱きかかえられていた。

 

 鳥肌が立つ。

 

「モエちゃん、落ち着いて下さい。話を――」

「ミチルちゃんを殺してしまえばいいんです。私はずっと狙ってたです。なのに、いつまで経っても殺そうとしないなら――代わりに、モエがとどめを刺すです!」

 

 モエの右手には、見覚えのあるサバイバルナイフが握られていた。

 

「モエちゃん、それは」

「少し前に拾ったです。いいナイフでしょ?」

 

 見紛う筈も無い。それは、鶴見川がミチルを殺そうとして使ったナイフであった。

 どうしてこんなところに? いや、今はどうでもいい。今刺されたら、今度こそミチルは死んでしまうに違いない。

 

「落ち着いて下さい。ミチルちゃんは、まだ能力を発現していません。一体、どうして殺す意味があるんでしょう?」

「違いますよ。モエは、若い芽を早めに摘んでおきたいだけなのです。第一、ミチルちゃんがこのまま大きくなれば、治癒能力が使えるようになるのは目に見えているです」

「では……おばあちゃん。おばあちゃんは、モエちゃんが人殺しをすることを望んでいるのでしょうか? きっと、おばあちゃんも悲しみます」

「そんなことないです。“人類の敵”を殺せば、きっと喜んでくれるです」

 

 だめだ。何を言っても通じない。

 だが――無理も無いのだ。きっと、この島に来たばかりの自分に同じ事を言っても、今のモエと同じ反応を示しただろう。

 

「どうしてそんなにミチルちゃんを庇うですか? “人類の敵”に与すると言うなら、いっそ――」

 

 モエが、私に向かってナイフを向け、その切っ先を振り下ろす。

 私は、咄嗟に目を瞑る。

 

「…………?」

 

 何も起きない。

 顔を上げる。

 

「なぁんてね」

 

 目の前に、ジンの姿があった。

 

「先輩……」

「どうしたんだい? 私に会いたそうにしていたから、わざわざこちらから出向いたというのに」

「会いた……流石に趣味悪いですよ」

 

 ふふふ、とジンが微笑んだ。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという話でもないが、笑い方まで趣味が悪い。ふと目をやると、ナイフが落ちていた。手に取る。……柔らかい。鶴見川が持っていたものによく似た、おもちゃのナイフである。

 ミチルは、いつの間にか私の隣に座っていた。

 

「……本物のミチルちゃんですよね?」

「?」

「いや……なんでもないです」

 

 ジンは目の前にいるのだから、ミチルは流石に本物だろう。

 そうして、私が目を離した隙に、ジンはまた変身していた。

 

「……コハルさん」

 

 三島コハルだった。

 

「この格好はなかなか気に入っていてね。運動能力も悪くないし、能力も申し分ない」

「能力……先輩がコハルさんに化けているということは、彼女は健在ということでいいんですね」

「いかにも。保護は君の立ち会いの下だっただろう? そんなことより、ナナ、君は、私に聞きたいことがあったのではないかね?」

「はい。保護している場所――いや、コハルさんの能力について」

 

 ジンが、コハルの姿のままメガネを取り出し、くっと指で持ち上げた。

 

「先輩。三島コハル――そして、三島ヒヨリ。彼女らの能力について、そろそろ教えてくれてもいいのではないですか?」

 

 答える応えると言って、ジンはいつもその答えをはぐらかす。

 今回だって答えてくれるとは限らない。だが、能力者についてジンが私より多くを知っているというのは事実だろう。

 

「ナナ、能力とはなんだと思う?」

「能力……ですか? 例えば傷を癒やしたり、瞬間移動したり――」

「そうだね。ところで、モエくんの能力は何だったかね」

「モエちゃんですか? 彼女の能力は……――ッ!?」

 

 彼女が派遣されて来た時、私は本人から聞いた。

 モエの能力は、とてつもなく体が柔らかいという“設定”である、と。

 

「……無能力」

「よく知っているね」

 

 ジンがにやにやと笑っている。

 そうだ。モエは無能力者だ。ならばどうして、ジンはモエに化けることができたのだ。動物か、能力者にしか化けることができないのではなかったのか?

 

「もう一度問おう。ナナ、能力とはなんだと思う?」

「……」

 

 ジンがナナオに化けたように、ミチルが私を蘇生したように、能力というのは成長する。それは、神から与えられたものではなく、人間の才として備わったものだ。

 ならば、ジンが無能力者に化けたとて不思議ではない。

 

「ああナナ、君の考えていることが手に取るように分かるよ。だが、それは少し違う。私はあくまで能力者にしか化けられない。なら、人間ではない動物に化けられるのは何故だと思う? 簡単だ。人間に備わっていない能力を持っているからだ。そういう意味で、モエくんの体の柔らかさは、能力と言って差し支えないだろう」

 

「そうだね。その人の言うとおりさ」

 

 突然、背後からもう一つの声が聞こえた。

 私は振り返る。

 

「――中島、さん!?」

 

 見紛うわけもない。そこに立っているのは、かつて私が殺そうとした能力者、中島ナナオであった。

 

「ナナちゃん。久しぶりだね」

 

 中島ナナオ。心優しく、気弱で、自分に自信が無い少年。

 それが、かつての私が判断した彼の人物像。

 今は、違った。

 

「何故殺そうとしたかは、聞かないでおくよ。でもね、今の僕には、直ちに君を殺すことだってできるんだよ」

 

 変身能力を持つジンはすぐ側にいる。だとすると、目の前にいるのは間違いなく本物の中島ナナオである。

 それにしては、ずいぶんと雰囲気が違った。

 彼が今私を殺せると言ったことが、冗談ではないと確信するほどに。

 

「中島ナナオ君。我々が敵対する理由はなんだね? ナナのファンとしては、見過ごせないね」

「橘ジン。あなたがどんな能力を持っているのかは知りませんが、僕の能力は知っているのでしょう。なら、余計なことをすると巻き添えをくらいますよ」

「……」

 

 珍しく、ジンが黙った。それもそのはず。ナナオの能力の前では、ジンさえ無能力者と変わらないのである。

 

「中島さんは、どうしてここに? 私を殺すためですか?」

「それでもいいんだけどね」

 

 ナナオはゆったりとした動きで、私に近付く。

 殺意は無かった。

 だが、得体の知れぬ悪意を感じた。

 私は距離を取る。

 距離を取ろうとする。

 ――何故か、足が自分のものではないように動かなかった。

 

「――――!?」

 

 ナナオがナイフを取り出す。

 あくまでゆったりとした動きで、私の脇腹を掠める。

 鋭い痛みが走る。

 だが、致命傷にはなり得ない。

 

「ナナちゃん。僕はね、君に恐怖を与えに来たんだ」

 

 その部屋に居た誰もが一歩も動けぬまま、その様子を見ていた。

 

 また来るよ、と言って、ナナオは立ち去った。

 何事も無かったかのように。

 まるで、茶でも飲んで帰るように。

 堂々と、部屋のドアから姿を消した。

 

「…………ッ」

 

 緊張が解ける。足の拘束が解け、その場に尻餅をつく。

 ジンとミチルも同じようだった。二人も、その場でよろめいた。

 刺された脇腹を、鈍痛が襲う。出血しているが、傷は内臓まで届いてはいない。

 

「ナナしゃん!!!」

 

 ミチルが駆け寄ってきた。そして、私の傷を――――

 

「やめてって言ったでしょう!? こんな傷、放っておいても――」

 

 力が入らない。私はその場に倒れ込み、誰かがその体を支えた。

 

「あまり大きな声を出さない方がいい。ミチルちゃんを見たまえ」

 

 ミチルが、泣きそうな目でこちらを見ていた。

 私は――ゆっくりと腕を持ち上げ、ミチルの頭を撫でた。

 

「……先輩、すみませんが手当てをお願いできますか?」

「いいだろう」

 

 

 

 

 

 真夜中。ふいに目が覚めた。

 私の手を握りしめる、誰かのせいだ。

 

「……ナナしゃん」

 

 汗をかいて、苦しんでいた。

 怪我をしたところが痛いのかもしれない。

 

 先輩と呼ばれていた男の人は、ナナしゃんの手当てをした後、どこかに行ってしまった。

 ナナを頼むよ、と言って。

 

 ナナしゃんは、私に怒った。

 どうして怒ったのか、分からなかった。

 それは、私の“能力”のせいなの?

 

 ナナしゃんは眠っている。布団に潜り込み、少しだけガーゼを浮かして見る。

 

「…………あ」

 

 傷が膿んで、ただれたようになっている。

 

 私の能力。それが何か。よく分からなかった。

 けど、その時、はっきりと自覚した。

 私には、ナナしゃんを助けられる能力が備わっている。

 

 誰かに教わる必要も無い。

 ただ、二つの足で歩き、口を開いて息をするのと同じくらい、自然なこと。

 私の舌が、傷口に触れる。

 ぼうっとした鈍い光に包まれ、傷口が塞がった。

 代わりに、頭痛が私を襲う。

 鈍痛。誰かが、記憶の扉をノックする。

 扉は開かれる。

 それは、私の知らない記憶。

 しかし紛れもなく、犬飼ミチルの記憶であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

中編

 

 死と生の狭間。

 刺されたナナしゃんに私の治癒能力を使っている時、意識は確かに犬飼ミチルの身体の中にあった。

 だが、実際のところそれは正しくはなかった。治癒能力とは、即ち自分の命を分け与える行為だ。

 潜ってゆく。意識の、普通では認識することさえできないその奥へ。私は、はっきりと声を聞いていた。

 

『やめてよ! 私はいい人なんかじゃない!』

 

 後ろ姿が見えた。小さな後ろ姿。明るい色の髪を結んだ、私の知らない少女。

 隣を歩くのは、その少女の父親と母親。顔は見たことがなかったが、私にはすぐに分かった。

 

 一瞬だけ、少女の横顔が見えた。

 

 笑っていた。少女は、ずっと昔、ちょうどあれくらいの背丈の歳で、両親を亡くしていた。

 私のよく知る少女。だけど、その顔は見たことがなかった。

 伸ばした手が空を切る。喉が掠れる。今の私には、触れることもできない。

 

 私は思う。彼女をここに連れ戻すことは、果たして正しいのだろうか。

 ナナしゃん――柊ナナという少女は、間違いなく私にとって“いい人”であった。

 だが、果たして、彼女は救われたいとは思っていないのではないか。

 今、こうして亡くした両親と相見えたことが、彼女にとっての救いなのではないか。

 

 記憶は遡る。

 

 走馬灯?

 違う。これは夢の中。

 眠ってはいない。夢を見ている自分の記憶を、覗き見しているのだ。

 私は眠っていた。これはいつの記憶だろう?

 ずっと、ずっと前のような気がする。でも、きっとそれは間違いで、そう昔のことではない。

 そうだ、これは、お風呂で倒れていた私を、ナナしゃんが助けてくれた時だ。

 

 私は、特別体が大きいということはなく、むしろ小さい方である。でも、一人の人間を、ナナしゃんくらいの女の子が一人で持ち上げるのは、とても大変なことだ。

 でも、ナナしゃんは私の体を軽々と持ち上げた。

 私は、ナナしゃんの体が、見かけによらずしっかりしていることに気がついた。思い出してみれば、以前も一度、人類の敵に返り討ちにあったと言って、大怪我をして寮に戻ってきたことがあった。

 

 もし私だったら……怪我だけでは済まなかっただろう。ナナしゃんのご両親は、人類の敵に殺されてしまったと聞いた。もしかしたら、私が知らないだけで、ナナしゃんは今まで一人で頑張ってきたのかもしれない。

 

 ナナしゃんは大慌てで、薬や水、ごはんも用意してくれた。この島に来てから、誰かにこんなにも良くしてもらったことがあっただろうか。私の意識は朦朧として、その時はよく分からなかった。でも、こうして知れたことは、私にとって幸運なことに違いなかった。

 

 途中で、キョウヤさんも私の具合を見に来てくれた。キョウヤさんが帰った後も、ナナしゃんはずっと、私の顔を見ながらじっと座っていた。

 眠くはないのだろうか。いや、眠れなかったのだ。

 いつもしゃきっとしているナナしゃんがこんなに慌てているのを、私は初めて見た。

 

 記憶は遡る。

 

 柊ナナという少女を初めて見た時、私は確信した。

 この女の子は、とても優しい人なんだ、と。

 自己紹介の時もそうだ。ナナしゃんは、自分は空気が読めないと言った。けど、それはきっと嘘。誰よりも人の気持ちが分かってしまうから、わざと空気が読めない風を装っているのだ。

 私とは、全然違うタイプの性格の持ち主だった。仲良くなれるか分からなかった。仲良くしてくれるか、分からなかった。

 

 ナナしゃんは、私に優しくしてくれた。クラスの中でからかわれていることを教えてくれた時も。人類の敵から、私を守ってくれた時も。

 私が倒れた後、ナナしゃんの傷を能力で治そうとした時。ナナしゃんは、声を荒らげる私を怒った。

 びっくりした。ちょっぴり悲しくなった。

 

 ……でも、私は悪い子だ。ほんの少しだけ、嬉しかった。

 ナナしゃんが、私の前で感情を露わにしてくれたことが。

 

 

 

  気がつくと、私はベッドの上にいた。

  窓から差し込む月明かりに手を伸ばす。骨が軋むような感覚に襲われるが、頭の中は鮮明だった。

  私の体は、完全に元の状態に戻っていた。

  そして、これまでの記憶も。小さくなってからの記憶も。全部。全部。

  ただ、私はすぐに違和感に気がつく。

  ここは、ナナしゃんの部屋。私はナナしゃんの傷を能力で癒やし、記憶を取り戻した。

  いないのだ。柊ナナが。部屋の中に。

  時計を見る。時刻は午前四時。どこかに出かけるには、まだ早すぎる時間だ。

  そして、もう一つ。

  

「やあ、お目覚めのようだね。気分はどうだい?」

 

 目の前に、犬飼ミチルがいた。

 

「……あなたは」

 

 私はその存在を知っていた。もっとも、この記憶は今の私の記憶ではない。小さくなって、全てを忘れていた頃の犬飼ミチルの記憶である。

 

「君とちゃんと話すのは初めてだったね。私は橘ジン。君達の先輩にあたる能力者さ」

 

 びりびりと声が脳に響くように錯覚する。人間が声を発する時、自分自身の声は随分と違った風に聞こえる。そういう意味で私は私の声を聞いたことはなく、きっと今私が聞いているような声で話しているのだ。

 鏡に映った自分を見るように、少し気恥ずかしく思えた。

 

「ナナしゃんは、どこですか」

 

 橘ジンと名乗ったこの変身能力者は、ナナしゃんとずいぶん親しげにしていた。私が小さくなっていた間も、幾度となく姿を現した。

 誰かが見ていると、変身できないとも聞いた。その証拠に、私が目を逸らしたタイミングで、橘ジンは元の姿に戻っていた。

 

「なに、心配はいらない。ナナは、自分の意思で私について来たんだ。危害を加えるようなことは無いばかりか、むしろ君達にとっても福音となるはずだ」

「どういうことですか。それは、コハルしゃんやヒヨリしゃんを連れて行ったことと、何か関係が……」

 

 私が言い終わる前に、ジンが指先で私の唇に触れた。

 

「聞きたいかね? じゃあ、私と一緒に来るといい。ナナも君を待っているよ」

 

 

 

 

 

 私は、ナナしゃん――柊ナナという少女のことをよく知っていた。

 だから、今の彼女の様子は、普段の柊ナナには、とてもではないが似つかわしくなかった。

 

 私が知っている柊ナナは、優しくて、勇気があって、みんなの前では明るくて、でもちょっぴり寂しがり屋で、放っておけない女の子だ。

 

 私が橘ジンに案内を頼むと、彼は私に目隠しをするように指示をした。どうしても場所を知られたくはないらしい。私がジンから手渡された目隠しをつけると、ジンは私の手を取り、何らかの能力を使った。

 

「さあ、着いたよ」

 

 気が付くと、私は部屋の中にいた。

 瞬間移動か何かの能力だろうか。そういえば以前、ナナしゃんに頼まれてクラスメイトの能力を調査したとき、思い浮かべた場所に瞬間移動できる子がいた気がする。

 

「緊張するかね?」

 

 ジンは私に言った。

 緊張。私が、ナナしゃんに?

 何を緊張することがあるのだろう。そう思ったが、私の掌はいつになく湿っていた。

 

「記憶は戻っているのだろう? ナナは、ずっと君が知っている通りの柊ナナだ。今の君の姿を見たら、泣きながら抱きつかれるかもしれないね」

 

 ジンが部屋の扉を開ける。そこにいたのは、確かに柊ナナだった。

 

 だけど、私が知っている彼女とは、あまりにも違いすぎた。

 

「ナナ、しゃ……」

「…………」

 

 向けられる目があまりにも無機質で。

 私は息を呑む。

 

 虚ろな目をしながら佇む柊ナナの手には、赤く染まったナイフが握られていた。

 

 

 

 

 

「ミチルちゃん……」

 

 犬飼ミチルがいた。

 私のよく知る少女。

 ずっと、小さな姿になっていた。

 今、目の前にいるのは、確かに私のよく知る犬飼ミチルであった。

 

「…………」

 

 手を伸ばす。……手を伸ばそうとしたのを、もう一方の手で抑えた。

 

「ナナしゃん、怪我を……」

 

 優しい子だ。犬飼ミチルは、ずっと優しかった。こんなどうしようもない私に対しても。

 けど、それは、ミチルが本当の私を知らないからだ。

 

「これは、私の血ではない」

「え……」

「私が殺したんです。中島ナナオも、渋沢ヨウヘイも、葉多平ツネキチも、佐々木ユウカも風間シンジも羽生キララも高梨カオリも石井リュウジも、みんな私が殺した」

「ナナしゃん、何を言って……」

「あの日。そう、ミチルが一日中眠っていて、偽物が学校に来た日があったな。あの日、私はお前を殺そうとした。だが失敗した。お前がいまここで生きているのは、ただ運が良かっただけだ」

 

 私は血糊のついたナイフをミチルに向ける。ミチルの足が止まった。

 私にはすぐに分かった。ミチルは今、私に駆け寄って、抱き締めようとしたのだ。

 あの時のように。

 けど、それを受け入れることはできなかった。受け入れてはいけなかった。

 私は、人殺しだ。

 

「先輩、後は頼みます」

「いいのかね?」

「はい。ミチルちゃんは、私みたいな人殺しと一緒にいていい子ではありませんので」

 

 ミチルは、保護されたということにして、ジンが実家に送り届ける手はずになっていた。

 鶴岡にどんな目的があるのかは未だ図りかねているが、流石に本土で攻撃的な能力も持たない少女一人のために、騒ぎを起こすことはないだろう。

 

「ナナしゃん! 私には分からないです! それでも、私は、私だけは、ナナしゃんのことを――」

 

 見捨てたりしない、とでも言うつもりだろうか。

 どのみち、私が赦されるはずもないのに。

 私は立ち止まらない。振り返ることなく、ナイフにこびり付いた絵の具を払った。

 

 

 

 

 

 時間は少し遡る。

 私が腹を刺された後、夜、ベッドで眠っていた時、奇妙な違和感を覚えた。

 刺されたあたりが、突然熱を帯び始めたのだ。

 私にはこの感触に覚えがあった。ミチルの治癒能力だ。私の傷は瞬く間に塞がり、それよりも驚くべきことに、隣で眠っていたミチルが、元の姿に戻っていた。

 

 仕組みは分からないが、理屈抜きにして、いつかは元の姿に戻るだろう、と勝手に思っていた。私は安堵した。

 と同時に、私はこうも思った。

 とうとうこの時が来てしまったか、と。

 

 ミチルは能力を使った後、そのままころんと眠ってしまった。……また、体調が悪くなるようなことがなければ良いのだが。

 

「先輩、いるんでしょう」

 

 私は虚空に向かって声をかける。部屋の扉が開いた。

 

「何か決心したような顔だね」

「……はい。私は、もう逃げません」

 

 私は話した。これまでの自分を。ミチルの将来を。

 私が、ミチルを本土に帰す計画を。

 

「ナナ。私の目には、君がミチルちゃんから逃げているようにも見えるがね」

「……違います」

「まあいいだろう。来たまえ。覚悟を決めたナナに、話しておくことがある」

 

 

 

 

 

「ここは……」

 

 ジンに目隠しをされ、連れてこられた場所。私には、見覚えがあった。

 ヒヨリと行動を共にしていた時、コハルに化けたジンに見せられた幻覚の中で見た施設だ。無機質な壁。足跡と声が反響した。

 

「まあ座りたまえ」

 

 ジンが指を指す。その先に、いつの間にか椅子とテーブルが置かれてあった。

 

「……」

 

 促されるまま私が席に着くと、ジンは徐に茶を淹れ始めた。

 

「ナナ。今の君は、鶴岡のことをどう思っている?」

「どう、とは」

「君は以前、鶴岡の命を受け、この島に来た。だが、今のナナは、もう鶴岡に従う気はない。それどころか、憎しみさえ抱いている」

「はい。それが何か?」

「試させてもらうおうと思ってね」

 

 指を鳴らす。部屋から入ってきたのは、鶴岡――鶴岡の幻覚である。

 

「殺せるかしら?」

 

 ジンは、いつの間にかコハルの姿に化けていた。そして、彼女の仕草を真似るように、左手を口元に添えた。

 

「当たり前だ」

 

 気が付くと、私の手には一振りのナイフが握られていた。見覚えのあるナイフ。これもまた、コハルの能力が見せる幻覚?

 いや、そんなことは今はどうでも良かった。

 幻覚であれば、この鶴岡は私に危害を加えることはない。ただ、目の前で殺してみせればいい。私は逆手に握り直したナイフを真っ直ぐに――

 

『ナナ、何のつもりだ』

「…………ッ!」

 

 鶴岡の幻覚が、そう言い放った。

 あの声で。

 幾度となく私を恐怖に陥れた、あの声で。

 

 目の前にいるのは、鶴岡ではない。

 分かっていた。頭では理解していた。

 それなのに、私の足は一歩も動かなかった。

 

「ナナ、どうしたんだい? まさか、あんな大見得を切っておいて、幻覚だと分かっている鶴岡すら刺せないのかね?」

「……いや。そんなはずは……」

「まあいい。……モエくん、話してくれたまえ」

 

「はい!」

 

 ジンに手招きされ、モエが現れた。ジンは、私より先に、ここにモエを連れてきていたのだろうか?

 ジンは未だヒヨリに化けている。だとすると、目の前にいるモエは本物のモエか。それとも、彼女も幻覚か。

 真壁モエは語る。

 

「鶴岡さんは言ってたです! ナナしぇんぱいがこのまま誰も殺さなかったら、代わりにミチルちゃんを殺すです! 本土でミチルちゃんを待っている、ミチルちゃんのお母さんもお父さんも、みんなみんな殺すです! ミチルちゃんの友達も、その友達の友達も、みんなみんな殺すです! 人類の敵の仲間は、みんな人類の――」

 

 私は、鶴岡に向かってナイフを振り下ろす。鮮血――いや、これは赤い塗料。私の靴を、服を濡らし、ナイフにべったりとこびり付いた。

 

「いい顔だ、ナナ」

 

 気が付くと、モエもコハルも鶴岡もいない。

 ただ、不敵な笑みを浮かべる橘ジンが、目の前に立っていた。

 

 

 

 

 

 ジンに見送られ、島の女子寮に戻ってきた。

 外は日が登っておらず、暗い。夜。時間の感覚はとうに消えていた。ずいぶん長い一日だったようにも感じるし、一瞬の間だったようにも感じる。

 そう思えてしまうのは、今日という日に、本質的に私が何も成し遂げられていないからだ。そして、そんな日は大抵、時間は私が思うよりもずっと早く過ぎている。

 

 授業がなくてよかった。教室に行く必要があれば説明しなければならないことが山ほどあるし、こんな自分の顔を晒したいとも思えなかった。

 

 ミチルは無事に家に帰り着いただろうか。家の前までは、ジンが送ってくれるそうだが。未だ彼が信用に足る人間なのかは図りかねていたが、彼の協力なしでは先が無いこともまた事実である。

 

 例えば、鶴岡や中島ナナオへの対抗策。

 無能力者の私は、悔しいが彼らに対抗する手段など持ち合わせていない。クラスのみんなに協力を仰ぐことも考えたが、ただでさえ私のリーダーとしての訴求力は以前より落ちている。とすれば最初からジンを頼った方が確実なのではないか。

 ……いや、それはジンを信用しきってしまうことと同義だ。その考えは、果たして安全だと言えるのか?

 

 ――考えがまとまらない。身に覚えがある以上に、疲れが溜まっていた。

 慌てることはない。既に、ミチルは安全な本土に移り、鶴岡の毒牙に狙われることもないのだから。

 

 私は服も着替えず、ベッドに横たわった。

 身体を預ける。思考が枕に沈み込んでゆく。

 まだ新しい枕。私はぎゅっと抱き締める。

 笑顔が浮かんだ。あなたの笑顔。

 もし今、客観的に自分を見たとすれば、私はきっと笑うだろう。

 これではまるで、恋する乙女のようではないか、と。

 あなたの手を離したのは、私。それでもどうか、笑わずに聞いて欲しい。

 

 手を離したのは、あなたのことが誰よりも大切だから。

 だけど、こんなにも寒い夜は、あなたのことが恋しくてたまらない。

 

 

 

 

 

 いつ眠りに落ちたのか、よく覚えていない。

 ずいぶんと長い間、枕を抱いていたような気がする。

 涙は出ないのに喉が渇き、水を飲むためにベッドから身を起こすと、窓の外が明るいことに気がついた。

 

 歯を磨く。温かいシャワーを浴びるような気分でも無かった。それでも髪がざらついているように感じ、水を頭からかぶった。

 

 毎朝、私はどんな生活をしていただろう。一人で迎える朝の時間が、ずいぶん長いように感じた。

 おもむろに、私は粉ミルクを湯に溶かす。一気に飲み干しても、妙に味気なく感じた。

 広い一人部屋。窓を開ける。風の音。鳥の囀り。草木が擦れる。

 部屋の扉をノックする音。

 

 部屋の前にいるのが誰なのか、私には一人しか心当たりがなかった。

 

「ナナ、昨晩はよく眠れたかい?」

「お陰様で」

 

 

 

 

 

 ジンの計画――いや、私とジンの計画は、予想以上に滞りなく進んだ。

 既に保護計画の概要はクラスメイトの前で説明していたが、何より大きかったのはミチルの存在である。

 

「お前さんがこんな早い段階で犬飼に順番を回したんだ。となると、そんなに悪い計画でもないんだろう」

 

 一番のボトルネックになり得ると憂慮していたキョウヤさえ、そう言ってすんなりと納得した。

 実のところ、皆に話している内容は計画の一端でしかないのだが――私が特別仲良くしていたミチルでなければ、こうはいかなかっただろう。

 

 鶴岡の部下という設定で、ジンは生徒たちを護送した。いつもの趣味の悪いジャケットでは無く無地のスーツを身にまとったジンの姿は、普段の彼を知っている私から見ればひどく滑稽に見えた。

 

 飯島モグオ、郡セイヤ、空野フウコ――途中で何かに勘づかれて抵抗されてはたまらない。能力の詳細が割れている者から順に、一人ずつ施設へと送った。

 クラスメイトは20人ほど。そう時間はかからなかった。

 

「もうすぐですね」

「ああ、君の舌がよく回るお陰で、予定より早く計画が進んだよ」

「先輩ほどではありませんよ」

 

 人一人が入れるほどの、直方体のシェルター。

 以前、ジンに幻覚で見せられたのと、同じ空間。そこに、クラスメイトの能力者の人数と、同じ数だけ並んでいた。

 

「残るは、キョウヤ君だけだね」

「はい。すぐに終わりますよ」

 

 真っ白な壁に覆われた、無機質な部屋。

 空調設備の音。

 響く足音は、二つだけ。

 

 

 

 

 

「柊。目隠しをつけないといけない理由はなんだ?」

「だからそれは、護送先があまり公になってはならないからと……」

「公になってはいけない所に俺達は送られるのか?」

 

 ……やはり、一筋縄ではいかないようだ。

 

 クラスメイト全員の護送が終わり、残すは小野寺キョウヤただ一人。しかしこれは偶然ではなく、当然意図的な順番であった。怪しまれる可能性が最も高いのは、キョウヤ。万が一にも護送の説明をした後に逃げられてクラスメイトに話されでもしたら、計画が頓挫しかねない。

 

「何を困った顔をしている。犬飼も今と同じように目隠しをつけさせたのか? さぞ、やり易かっただろうな。犬飼はお前さんを疑うことなんて無いだろうからな」

 

 そう言って、ふっ、とキョウヤは笑った。

 だが実際のところ、キョウヤは計画の全てを把握しているわけではない。この言動も、ハッタリに過ぎないのだ。

 だが――改めて問われると、言い様に困るのも確かである。事実として、説明さえすればなんとかなるだろう、と思って何とかならなかったという次第だ。この頃キョウヤが妙に納得してくれていただけに、私の認識が甘かったと言わざるを得ない。

 

「…………」

 

 言うに事欠いて私が黙っていると、何者かが、とん、と私の肩を叩いた。

 

「やあ、お取り込み中失礼するよ」

 

 その人物――いや、見るまでも無い。

 既にこの島には、私達の他に生徒はいないのだ。

 

「小野寺キョウヤ君。きちんと自己紹介するのはまだだったね。私の名前は橘ジン。よろしく頼むよ」

「あんたは……あの鶴岡とかいう胡散臭い男の手下、という認識で合っているか?」

 

 キョウヤは眉一つ動かさずに、問うた。

 

「そう捉えて頂いて構わないよ」

 

 何のつもりだ。計画では、極力ジンは生徒達には接触しないということではなかったのか。

 

「小野寺キョウヤ君。君は、不死身能力の持ち主だったね」

「それが何かあるのか?」

「君は我々のことを信用できないのだろう。なら、隔離施設ではなく本土に送り届けても構わないよ」

 

 私は悠長にそう話すジンの手を引き、耳打ちする。

 

(何のつもりですか!? 島の能力者を全員護送する計画は――)

(ナナ、よく考えたまえ。私が彼の護送を一番後に回した理由を)

(それは――)

 

 キョウヤは、死なない。

 施設に生徒達を隔離する目的は?

 ――そうだ。確かに、ジンの言うとおりである。

 

「君は、何があっても死なないのだろう。なら、自由を奪ってまで隔離する必要もない」

 

 ジンは、生きている能力者にしか変身できない。

 ということは、死なないキョウヤは、死なないというだけでジンの“駒”になるのだ。

 

「納得したかね? じゃあ、本土に向かおう。目隠しは勿論必要無い」

「待て、まだ話は――」

 

 視線誘導。ジンがよく使う手口だ。

 その一瞬の間に、ジンはコハルに化けていた。

 私がそれを視認すると同時に、ヒヨリがジンの背後に現れる。

 これが、コハルの能力の真髄。

 口元にハンカチを宛がう。揮発性の麻酔薬でも仕込んであるのか。はたまた、それすらも幻覚か。

 

「柊、後で迎えに来るわね。少し目を瞑ってくれるかしら?」

 

 そうして私が次に目を開けた時、島にはもう誰の姿も無かった。

 

 

 

 

 

 ジンが私を迎えに来たのは、その日のうちのことだった。

 能力者ではない食堂のスタッフや先生も、ジンの計らいで本土に送り届けてある。にも拘わらず、島の水道は使えるし温かいシャワーを浴びることは可能であり、一人で過ごすことに何の不便もないのだが――まあ、早いに超したことはない。何のトラブルも無かった証拠である。

 

「待たせたね。行こうか」

「ええ」

 

 ジンが私の手を取る。テレポートか何かを使うために変身するのだろう、と気を利かせて目を逸らすが、一向に変身する気配が無い。不思議に思って目を開くと、ジンの顔が目の前にあった。

 

「どうしたんだいナナ。他の生徒達と同じように、目隠しでもしておくかい?」

「ご冗談を」

 

 次に私が瞬きをした瞬間、既にジンの変身は完了していた。

 これも能力の進化というやつだろうか。詳細は分からないが、あまり褒めると調子に乗るので何も言わない。

 

 そうしてふわりと身体が浮くような感触を覚え、気が付くと私は例の施設にいた。

 

 部屋いっぱいに並べられた、直方体のシェルター。

 私はその内の一つに近付く。

 

 箱の一部がスケルトンになっており、外から顔が見えるようになっている。

 名前の知らないクラスメイト。彼は私に気付かない。ただ、息もせずに眠っている。

 

「ナナ。役者は揃い、舞台は今まさにライトアップされた。もう引き返すことはできないよ」

「私が今更引き返すとでも?」

 

 引き返すつもりなら、こんなことはしない。

 どのみち、鶴岡と中島を止めるには、この方法しか無いのだ。

 

「冗談だよ。行こうか」

 

 

 

 

 

 なんとしても鶴岡と中島を止めねばならない。

 発端は――いや、語るまでも無い。中島が私を刺し、それ以上何もせずに帰って行った後だ。

 

「彼、この島に居る全ての能力者を皆殺しにするつもりらしいね」

「……ッ……どうして分かるのです?」

 

 私が傷の痛みを堪えながらそう言うと、ジンは包帯を巻く手を止めて笑った。

 

「僭越ながら、君に変身させてもらったよ。心を読む能力を使うためにね」

 

 冗談きついですよ、と私は呟くような小さな声で言った。

 

 

 

 思えば、それを聞いたときの私は、何も分かっていなかった。

 人間は、都合の良いことだけを考え、都合の悪いことは無意識のうちに蚊帳の外に追いやってしまう。

 私は暗殺者だ。島の能力者を殺すために送り込まれた。

 私はもう人は殺さないと誓った。だが、能力者同士が殺し合うのは? かえって好都合ではないか。そんなことを一瞬でも考えなかったかと言えば、それは嘘だ。

 そして、その能力者の中にミチルが含まれることも、私は考えることをしなかった。

 

 ジンは、そんな私に火を付けたのだ。

 もう、後戻りのきかないところまで来てしまったのだと。

 

 中島の能力は計り知れない。だから、彼が私を舐めきっているうちに、先に動くしかないのだ。

 ありったけの駒を集めて。

 

「ナナ、中島くんの居場所が分かったよ」

 

 今まさに、賽は投げられようとしている。

 天命を待つ前に、私にはまだ、やるべきことがあるはずだ。

 

 

 

 

 

「今日は早めに寝るといい」

 

 ジンに促され、私は用意されたベッドで眠りについた。

 山ほど部屋があり、私には個室が宛がわれた。

 お世辞にも綺麗な部屋とは言い難かったが、ベッドが置かれてあるだけでも有り難かった。代えの服もないので、私はそのまま布団に潜り込んだ。

 

 瞼を閉じる。

 少しの時間でも眠れるよう、訓練されてきた。

 訓練の空き時間に眠ることを覚えた私にとって、この場所は極楽と相違ない。

 

 

 

 

 

 夢を見た。

 ある女の子の夢だ。

 ふわふわのくせっ毛で、小柄な女の子。

 名前は、ミチルと言った。

 彼女は、どういうわけか私に良くしてくれる。

 無償の愛などというものがこの世界にあるとすれば、彼女はきっとそれを持っているに違いない。

 彼女は、私の正体を知ったとしても、受け入れてくれるだろうか。

 あの時、殺人を打ち明けた私に向けられた表情の意味が、私にはまだ理解できずにいた。

 同情。鬱憤。哀憐。悲哀。それとも――

 

「ナナしゃんは、いい人です。私は知っています」

 

 ミチルの手が、ベッドで眠る私を撫でた。

 それは確かに、夢のような現実だった。

 あるいは、そこにいるのはミチルに化けたジンかもしれない。

 

 だが、もはやどちらでもよかった。

 今すぐあなたの手を取りたい。

 だけど、私の身体は石のように重く、少しも動かない。

 これはきっと罰だ。

 小さくなったミチルに甘え、彼女を危険に晒した罰。

 

 彼女は、きっと私のことを許すだろう。

 十人殺しても、百人殺しても、千人殺しても――夢で見たあなたは、私のことを許してしまうのだ。

 

 それだけが、たった一つ。

 大好きなあなたの、大嫌いなところだった。

 

 

 

 

 

「おはよう、柊」

 

 朝。私を起こしに来たのはコハル――ではなく、コハルに化けたジンだった。

 

「……」

「そんな嬉しそうな顔をしないでくれたまえ。照れるじゃないか」

 

 ふっふっふと笑いながらメガネをくいくいするジン。私はそんなジンを横目に扉を閉め、乱雑に取り付けられた流し台で顔を洗い、朝食の用意された席についた。

 食パンにコーヒー。島の食堂からでも持ってきたのだろうか。パンが焼かれているのは、調理器具の一つでも持ってきたのか――いや、彼にはその必要もないだろう。

 

 私はパンを咥える。

 

「鶴岡は軍の施設にいる時間が長いが、最近はある政治家の屋敷に頻繁に出入りしているようだね」

「政治家?」

「ああ。現状で野党第一党の――ナナ、ニュースは見るかい?」

「まあ、多少は」

 

 暗殺者として生きていくのに、知識は武器である。ここのところは少しばかり疎くなっていたものの、島に来る以前の国政状況なんかは当然のように押さえていた。

 

「なら話が早い。その党首の屋敷だ。怪しいと思わないかね?」

「……」

 

 政治家。鶴岡がどれほどの権力を持っているかは正確には分からないが、もし仮に権力者だとして、能力者関係の話をするとすればそれは実際に国政を担う与党だろう。あえて直属でない野党に対し、何の用があると言うのか。

 

 ……いや、或いは。

 表向き、この島は能力者の訓練施設という名目で維持されている。

 そこに集められた生徒たちを暗殺する目的で、私は送り込まれた。その首謀者は一体誰だ?

 

 能力者を皆殺しにし、ナナオと連むことで利益を得るのは誰だ?

 

「ナナ、そう難しい顔をしないでくれたまえ。君が今考えていることを当てて見せようか?」

「……?」

 

 ジンはテーブルの前に身を乗り出し、コーヒーを啜る私の顔を覗き込んだ。

 

『どうせ起こしに来るなら、ミチルちゃんに化けてくれれば良かったのに』

「違いますね」

 

 ……まあ、遠からずとも言える、が。

 

「食べ終わったら行きますよ。どうせやるべきことは山ほどあります」

「ああ。私利私欲を貪り暴虐の限りを尽くす悪徳代官を尋ねるとしよう」

 

 

 

 

 

 なるべく目立たない格好が良い。その点、ジンの用意した服は、悪目立ちしない程度に黒基調で統一されていた。私はそれらに袖を通す。制服とは違い、スカートではなくズボンだ。動きやすいのは都合が良い。

 帽子を深くかぶり、ジンの用意した車の助手席に乗り込む。

 

「おや。後部座席に座っても良いのだよ」

「……? 私はここで……」

「ナナしぇんぱい! おはようございます! 遅いですよ! おそようございます、です!!!」

 

 バンバンバンと助手席のシートを叩く。私は後ろを振り返る。……いや、振り返るまでもないが、モエだった。

 

「どうしてモエちゃんがここに……?」

「彼女もなかなかどうして光るモノを持っているからね。私が直接スカウトしたのさ」

「……よく来ましたね。鶴岡さんはもういいんですか?」

「はい! ジンしぇんぱいから聞きました、鶴岡さん、実は世界征服を企んでるのです! モエ許せないです!!!」

 

 ……ちら、とハンドルを握るジンに流し目を送る。

 

「おばあさんと一緒に、夜景の見えるレストランでディナーをご馳走したのさ。二人とも、喜んでくれたようで何よりだよ」

「そんなことだろうと思いました」

「ナナ、そんな怖い顔をしないでくれたまえ。折角だからコハルくんにでも化けて見せようか? それともミチルちゃんの方が良いかい?」

「確かにコハルさんには運転席が似合いそうですが――今ミチルちゃんに化けたら、ブレーキに足が届かなくなりますよ」

「それは困った。是非やめておくとしよう」

 

 

 

 

 

 ジンに連れられて向かった先は、都内の商業施設だった。

 数多くのショップや飲食店が建ち並び、平日だというのに人で賑わっていた。

 駐車場はいっぱいで、立体駐車場の一番上の階にようやく駐車し、車を降りた。

 

「そう言えば、今更なんですけどどうして車で来たのです?」

「どういうことかね」

「別に移動するだけなら、瞬間移動でも何でも使って来れば良かったじゃないですか。この間、島から皆を連れ出したみたいに」

「ああ、私を含めて二人程度ならそれでも良かったんだがね。今日はモエ君もいるし、他にも荷物があったんだ」

「荷物?」

 

 はいはーい、とモエが声を上げる。トランクルームから、背の丈ほどもある巨大なスーツケースを2、3個取り出していた。

 

「ナナしぇんぱいも手伝って欲しいのです」

「? これは……」

「まあ、いわば餌といったところだね」

「モエが運び込んだです!」

 

 ジンはスーツケースのうち一つを横に倒し、暗証番号式の鍵を開ける。

 

「これは……」

 

 大量のコピー用紙。目に付く派手派手しい色で、何やら印刷されてある。

 その内の一枚を手に取る。私は目を見張った。

 

「政府筋からのリーク記事だ。“人類の敵”なんて存在しない。そうだろう? ナナ」

「ええ」

 

 今こうして涼しい顔をしているジンとて、元々は“人類の敵”と戦うために集められた生徒の一人に過ぎないのだ。私と同じか、それ以上に思うところがあるのだろう。

 

「もう一つのスーツケースには同じものが、最後のスーツケースには拡声器とバッテリー、ネット配信用の機材が入っている」

「……つまり、これを配って回る、と」

「理解が早くて助かるよ。大きな魚を釣るには、小さな魚をおびき寄せるのが肝要。これは、そのための撒き餌だ」

 

 “人類の敵”。教科書なんかでも広く記載されている。その存在を知らない人間は、この国にはいないはずだ。

 だが同時に、その存在に疑問を持つ者も少なくないはずだ。私は――愚かな私は疑うこともしなかったが、例えばコハルのように思慮深い人間であれば、その存在を疑問に思っても無理は無い。

 

 “人類の敵”は、超常的な能力を使ったり、人の精神を操ることができる。にも拘わらず、一向に人類に攻め入ってくる気配が無いのだ。

 

「しかし――これを使って、鶴岡さんをおびき寄せると言うのですか? そんなに上手くいくでしょうか?」

「ナナ。確かに今日の目的は、鶴岡タツミをおびき寄せることだ。だが、それは彼を叩くためではない。忘れたのかね? 今、彼の側には、恐るべき能力者――まさしく“人類の敵”と呼称に相応しい能力者がいるということを」

「……中島さん」

「そう。彼らも、騒ぎがあれば私達の仕業だと気が付くのも時間の問題だ。目的は、彼らを本拠地から引き離すこと。決して交戦せず、車を捨てて離脱する。いいね?」

 

 

 

 

 

 大きなショッピングモールには、大抵広いイベントスペースが存在する。

 よく新製品のアピールイベントや打ち出し中の地方アイドル、ボランティア主催のちょっとした体験会なんかに使われたりするが、今日はそれが何もない。

 平日である。多くの人にメッセージを伝え、鶴岡らをおびき寄せるには、休日の方が良いのは言うまでもない。しかし、あえて平日に計画を実行するのには理由があった。

 

「ナナ、考えてみるといい。君は駅前の広場でギターを弾き歌を歌う人物がいたとして、彼がその場所を使う許可を取ったかどうかを気にしたことがあるのかね?」

 

 そう。今日、ジンは一切の許可を取っていないのである。

 突然大荷物からスピーカーとマイクを取り出し、ビラ配りをする。堂々としていれば、警備員でさえすぐには怪しまないものである。

 それに――今の私達には、参政権どころか戸籍があるのかどうかすら怪しい。許可を取れないか、取ったとしても委員会の連中に嗅ぎつけられないとも限らない。

 

 斯くして、計画は実行に移されるのである。

 

 ジンは機材のセッティング。私とモエは、道行く人に声をかけ、印刷してきた紙を配る。

 そうして二十分ほどが経過する。私とモエは、既に数十枚の紙を配り終えていた。しかし、ジンのスピーカーから音が流れる気配はない。

 何をしている? 機材のトラブルでもあったのか?

 振り返る。そこには、バンドマンのような派手なギターを構えるジンの姿があった。

 

「!? 先輩、何を――」

 

 轟音。ジンがギターの弦を弾く。

 私もモエも、その場に居た人物全てが耳を塞ぐ。

 

 その中に、二人。

 眉一つ動かさず、それを静観する人物がいた。

 

「……中島さん、それに、鶴岡――」

「どうやら上手くいったようだね。ナナ、モエくん、それでは我々はお暇するとしよう」

 

 そう言ったジンに、後ろから腕を掴まれる。

 次の瞬間、私達は既に車の中にいた。

 

「シートベルトをしたまえ」

「……安全運転でお願いします」

「勿論」

 

 

 

 

 

 その日、とあるショッピングモールで騒ぎがあった。

 明らかに能力者が起こしたであろう騒ぎならば、それらの一つ一つ、おれが足を運ぶことはない。だが、今回ばかりはそうせざるを得なかった。

 広いショッピングモールに取り残されたのは、確かに我々にとって戦場であった。おれは、散らばった紙のうち一枚を手に取る。

 

「ほう……」

 

 状況証拠から見るに、明らかに橘ジン、そしてその協力者である柊ナナの仕業に間違いなかった。おれは、手にした紙をポケットにねじ込む。

 

「橘ジンは、変身しようと思った能力者が生きていなければ、変身することができないんじゃなかったっけ?」

 

 おれの隣で、鋭い視線を投げかけながら腕を組む少年……中島ナナオはそう言った。

 柊と他の能力者を殺すという目的で、おれと行動を共にすることがある。だが、彼は神出鬼没。気付かぬうちにおれのヘリに乗り込んできたあたり、彼も柊ナナの動向には興味があるのだろう。

 

「ああ。やはり、柊は島の能力者を殺したとおれに報告し、どこかに匿っている」

「だろうね。さっき橘ジンが変身したのは、瞬間移動能力を持つ前園サチコ。彼女もまだ、生きているんだろうね」

 

 彼らの目的は、おれと中島ナナオをおびき寄せること。

 だとすると、その後に向かうべき場所は――

 

 中島ナナオと顔を見合わせる。

 彼は、にやりと笑みをこぼした。

 

「いいじゃないか。今は、彼らの作戦に乗ってあげよう。どのみち作戦は割れているし、能力者を隔離した場所を突き止めるのが先だ。君もそう思うだろう?」

 

 足音がした。振り返る。

 そこにいるのは、柊ナナのたった一人の友達。

 

「はい。ナナしゃんは、私が止めます」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後編

 

 橘ジンという男に本土に送り届けられて、二週間ほどが経った。

 両親は、私を温かく迎えてくれた。島で何があったのか、私は話さなかった。それでも、私の表情から察してくれたのだろう。私は一人で部屋に閉じこもった。

 

 ある日。家に私一人の時、電話がかかってきた。私に電話をかけてくるような人に心当たりはない。きっと両親の病院の関係者だろう。電話を受けても何も答えられないので、私は聞こえないふりをして布団の中で蹲った。

 だが、奇妙なことに、電話は毎日かかってきた。それも、きまって両親がいない時間に。

 私は部屋をそっと出て、電話機のナンバーディスプレイを確認する。知らない番号だった。

 

 その時。一人の女の子の顔が、脳裏をよぎった。

 

 恐る恐る受話器を取る。

 

「犬飼ミチル。君に伝えておきたいことがある。――柊ナナについてだ」

 

 そうして、私は知ることになる。

 電話をかけてきた男の名は、鶴岡タツミ。使命を持って島にやって来たナナしゃんの、直属の上司であること。

 そして、橘ジンと柊ナナが今まさに実行に移さんとしている、恐るべき計画のことを。

 

 

 

 ナナしゃんを止めなければいけない。鶴岡さんから話を聞いたとき、私はそう思った。

 どうして鶴岡さんがナナしゃん達の計画を把握しているのか。分からない。だけど――私は思い出す。私の手を離した時の、あの目を。

 今のナナしゃんならやりかねない。私はそう確信した。

 

 内容はこうだ。

 私を本土まで送ってきた男の人、橘ジンさんは、変身能力者。存命でさえあれば、あらゆる能力者に変身することができる。きっと、私にだって変身できるのだろう。聞くだけでも、すごい能力者だ。

 ナナしゃんと橘さんは、まず始めに島の能力者全員を、施設に隔離した。能力の発現条件は明らかでないものの、本土では新たな能力者が生まれることは間違いない。橘さんは適宜能力を使い、その都度能力者を隔離・収容する。

 

 死なずに生きてさえいれば、橘さんは能力を自由に使うことができる。

 そして、その中には、キョウヤさんの不老不死能力も含まれる。

 

 ありったけの能力者をかき集め、自身はキョウヤさんの能力で生き延びる。そうすれば、半永久的に隔離施設を運用することができる。

 保護という名の下集められた能力者を、眠らせたまま。

 

 そうして待つ。いつか、科学的に能力者が生まれる仕組みが解明される時を。能力が発現しない世界を。――能力を、人為的に消すことができる技術の誕生を。

 

 それこそが、二人の計画する、能力者コールドスリープ計画の全容であった。

 

 

 

 人間にとって、“能力”とは一体何なのだろうか。

 

 両親の病院で勉強をする中で、私は一度、発達心理学の本を読んだことがある。

 能力について、明確な定義があるわけではない。能力の発現条件や効果、代償についても人それぞれ。私の治癒能力もまた、使ってみてはじめて判明したこともある。

 だが、例えば特別走るのが速かったり、長く息を止められたり、反射神経が良い人だっている。常人では考えられないほど長生きしたり、体が柔らかい人もいるだろう。

 人格の形成には、“できること”が大きく影響する。絵を描く人が表現者としての人格を獲得するのと同じように、きっと定義された上での“能力”も、能力者である私たちの人格の一部であることは間違いない。

 

 過ぎた能力は、諸刃の剣だ。あの島でも、能力を使いこなせなかったり、持て余してしまう生徒達を多く見た。

 だが――彼ら能力によって裏打ちされた人格を持つ人間から能力を取り去ってしまったとすれば、それらは果たして元の人間と言えるだろうか。

 

 足の折れた走者のように。腕をもがれた絵描きのように。

 自分を見失ってしまうのではないだろうか。

 

 事実として、能力者の存在は多くの問題を抱えている。一般人に危害を加えることも考えられる。

 

 だとしても、ナナしゃんと橘さんのやり方は、絶対に間違っている。

 私が止めるんだ。鶴岡さんや、中島さんと一緒に。

 私にしかできないことが、きっとあるはずだ。

 

 それに――私は知っている。

 いつも気丈に振る舞うナナしゃんが、誰よりも優しく、そして誰よりも繊細な女の子だということを。

 

 何より、私は。

 そんなナナしゃんに、心を読む能力を失って欲しくなかった。

 

 

 

 

 

「……追いかけないんですか?」

 

 ナナしゃんと橘さんが立ち去った後、私は鶴岡さんにそう聞いた。

 ナナしゃん達の計画については、鶴岡さんから聞いたから知っている。だが、それをどう止めるかは、私は聞かされていない。

 

 ただ、ナナしゃんを止めるには、私の治癒能力が必要。それだけ聞いていた。

 

「心配しなくても、すぐにまた会える。それどころか、今頃、柊と橘ジンから私に会う算段をしているはずだ」

「……」

 

 本当であれば。私は、ナナしゃんに直接会って話したかった。

 今、しようとしていること。

 これからのこと。

 

 けど――私一人では、ナナしゃんを止めることはできない。

 だから、鶴岡さんと中島さんの力を借りて、ナナしゃんを止めるのだ。

 

 私は、昔から決断することが苦手だった。

 人に背中を押してもらう方が、ずっと楽だ。

 だけど――これは違う。

 ナナしゃんを止めるという、私の意思。

 私の世界一大好きな女の子。

 意地が強く、勇気があって、誰よりも優しい女の子。

 そんな彼女が間違った道を進もうとするならば、止められるのはきっと、私しかいないはずだ。

 

「行くぞ、犬飼」

「はい、鶴岡さん」

 

 

 

 

 

「目的地まで少し距離がある。ナナ、モエ君、休めるときに少し眠っておくといい」

「……」

 

 ジンが運転する車の、助手席。

 私は頬杖をついて窓の外を眺めながら、信号が青に変わるのを持っていた。

 

 能力者が能力者たりえる所以。

 普通の人には無い力を持つこと。

 

 治癒能力を持つミチル。

 その能力ゆえ、中学では虐められていた。

 

 発火能力を持つ飯島モグオ。

 その能力ゆえ、放火を疑われた。

 

 氷結能力を持つ、郡セイヤ。

 その能力ゆえ、事故を止められなかったことに苛まれている。

 

 不死能力を持つ、小野寺キョウヤ。

 その能力は、彼にとって幸せなことなのだろうか。

 

 橘ジン。

 彼が能力者を下等生物であると言って貶めるのは、何故か。

 

 私は。

 無能力者である私は、それらの意味を真に理解することはできない。

 

  “能力なんて、無ければ良かった”

 

 私はまだ、奪われていない。

 奪われていないはずだ。

 

 だが、目の前に、“能力”によって奪われた人間がいる。

 それならば、私は。

 無能力者である私が、今ここにいる理由。

 

 私ならできる。

 世界で一番大好きな女の子。

 浅はかな私を、命がけで助けようとした女の子。

 私は、その能力に救われた。

 

 私を救ったことを、どうか誇りに思わないで欲しい。

 

 私はいい人なんかじゃない。

 でも、そんな私にたった一つ、あなたに報いることができるとすれば。

 優しすぎるあなたを、治癒能力から解放する。

 それができるのは、きっと私だけのはずだ。

 

 

 

 

 

 ジンに連れられて向かったのは、ごくありふれた繁華街のビル。

 委員会の本拠地ではないが、鶴岡たち委員会メンバーの拠点の一つらしい。

 

「場合によっては、車は乗り捨てていくつもりでいてくれたまえ。くれぐれも、身元が割れるようなものは残さないように」

 

 大きな車を悠々と操ってコインパーキングに駐車しながら、ジンはそう言った。

 

「無論です。それよりも……」

 

 私は後部座席に目をやる。ぐおー、ぐおーと寝息を立てて眠る、モエの姿があった。

 

「……モエちゃんが一番心配です」

「良いではないか。それだけ余裕があるということだ。――ナナ、君も見倣ったらどうかね?」

「見倣う? 何が――」

 

 私が一瞬目をそらした隙に、ジンはコハルに変身していた。そしていつものように赤い伊達眼鏡をかけてから、私の手を取った。

 私は咄嗟に、その手を振り払う。

 

「ほら、そんなに手が震えていては、引き金を引くこともできないわ」

 

 ジンが私に手渡したもの。

 私は思い出した。

 それは、かつて訓練を受けた私が手にしたのと丁度同じ様な、拳銃だった。

 

「……私、モエちゃんを起こして来ます」

「助かるよ。それと、銃は見えないようどこかにしまっておきたまえ。敵のアジトに乗り込む前に職務質問でもされようものなら、笑い話にもならないからね」

 

 

 

 

 

 鍵がかかっていた。

 

 ジンがコハルの能力を使って人払いは済ませていたものの、人間ではない物理的な鍵はどうしようもない。

 いや――あるいは、ジンがもし念動力か何かの能力を持ってさえいれば易々と突破できるのだろうが、そう都合の良いものでもない。むしろ、電子錠でなかったことを幸運だと思うべきだろう。

 

「モエちゃん、ワイヤーを貸してもらえますか?」

「? いいですよ! でも、何に使うです?」

 

 私はモエから受け取ったワイヤーを、鍵穴にそっと差し込む――しかし、上手くいかない。簡単な鍵開けは、暗殺手段の一つとして知識はあった。しかし、いざワイヤーのような使い慣れない道具を使うとなると、なかなかどうして上手くいかない。細い針金か、物理的にドアをこじ開けられるものがあれば――

 

 ……私はポケットに手をやる。あるではないか。鍵をこじ開ける道具が。

 それに気がついた私に、ジンがにやりと笑った。もしや、ジンはここまで想定して、私に拳銃を渡したと言うのか。

 

「ナナ、予行演習だ。暗殺者としての使命を忘れたのと同時に、銃の撃ち方も忘れたなんてことはないだろう?」

「まさか」

 

 訓練で、何度も触った拳銃。

 得意ではなかった。だが、それ以上に、殺人鬼である私の体に染みついていた。

 

 安全装置を解除し、引き金に人差し指を添える。

 

 ――発砲。

 

 破裂音。金属が擦れる音。

 ドアノブが、だらしなく扉から剥がれ、ぶら下がった。

 

「行こうか、ナナ」

「ええ」

 

 扉を開け、中に踏み込む。

 その時、私の頭を、怪しげな予感が過ぎった。

 

 ――ジンが人払いをしたとはいえ、簡単すぎやしないか?

 こんなちっぽけな拳銃一つで突破できるようなものなのか?

 

 しかし。それを考えたところで、答えは出ない。

 恐らく、ジンも気がついているだろう。

 それでも何も言わないのは――罠だと分かっていたとして、私たちには前に進む以外の選択肢がないからだ。

 

 

 

 ビルの中は、明かりがついたままだった。

 何に使われている場所なのかは詳しく分からないが、拠点の一つと言うからにはそれなりに人の往来もあるのだろう。

 

 ジンは臆することなくすたすたと歩いてゆく。当然、彼は最強の能力者を自称するだけのことはあり、ちょっとやそっとのことでは死なないのだろう。だが、無能力者である私は違う。ナイフで刺されれば傷はしばらくの間治らないし、銃弾を浴びれば簡単に死ぬ。

 だが、ジンが得意気に前を歩くのが気に入らず、私は一歩先を歩こうと歩みを進めた。

 

 その時だった。

 

 頑丈そうに見えた床のタイルが、私が踏みしめた瞬間崩れ落ちた。

 老朽化? いや、これは罠だ。コンクリートで固められているはずの床が、こんなにも容易く剥がれ落ちてたまるものか。

 しかし――罠だと分かったところで、どうしようもない。

 私は、無能力者だ。

 

 馬鹿みたいだ。使命を放り投げ、鶴岡に反逆した。しかし、能力を持たない私は、こんな単純な罠すら耐えることなく、簡単に死ぬのだ。

 私は目を瞑る。

 

 

 ――しかし、鈍痛が私の体を襲うことはなく。

 手足が自由に動く。骨の一本も折れていない。恐る恐る、私は落ちてきた穴を見上げた。

 

「先輩……」

 

 そこにいたのは、橘ジン。

 変身能力者。その姿は、私のよく知る橘ジン、そのものだった。

 

「まったく、手のかかる後輩を持ったものだ」

「どうして……」

 

 私の知りうる限り、一人で複数の能力を持つものはいない。てっきりヒカルか誰かに化けたのだろうと思ったが、そんな様子ではない。

 今私の体をふわふわと持ち上げているのは、間違いなく橘ジンの能力によるものだった。

 

「そろそろ話しておいてもいい頃合いだ。ナナ、これは私の本当の姿ではないのだよ」

 

 変身能力者、橘ジン。

 私達の先輩にあたる能力者である。全世代のサイキックウォーを生き延びたと自称するが、当然それを目撃した者はおらず、その詳細は謎に包まれている。

 

 私の体はふわりと浮き上がり、何事もなかったかのように着地した。私はその拍子に尻餅をついた。

 ジンは能力を使った。だが、ジンは変身能力を使っていない。それは、つまり。

 

「ずっと、化けていた……?」

「いかにも」

 

 俄には信じ難い。しかし、自分の認識と事実が食い違っている場合、誤っているのはいつも自分の認識の方である。

 私の把握している限り――いや確実に、今の橘ジンのような姿で念動力を持つ能力者はクラスには居なかった。とすると、先のサイキックウォーを生き残ったのは、一人だけではなかったということである。

 一体どこに?

 いや――答えは既に手の内側にある。

 念動力は確かに強力な能力ではあるが、それだけで鶴岡ら委員会の手から逃れられるとは考えにくい。

 その能力者は、ジンにとって重要な人物のはずだ。だとすると、答えは一つだ。

 

 直方体のシェルターが並んだ、あの部屋。クラスメイトの能力者の人数分、用意されていた。

 私が最後に確認した時、空きは一つだった。不死能力を持ち、保護の必要が無いキョウヤに割り当てられるはずだった。

 おかしい。生きている能力者と同じ数用意したならば、シェルターの空きは二つ存在するはずだ。

 

 ミチルは、本土に返したのだから。

 

「……先輩。念動能力者の橘ジンさんは、今――」

 

 私が問うと、ジンはにやりと笑った。

 

「さあ、先を急ごうか」

 

 

 

 

 

 ビルの中は、外から見るよりも広く感じた。あるいは、私達のような侵入者が来ることを考え、わざと複雑に造られてあるのかもしれない。

 渡り廊下を通過し、隣のビルへ。何の能力かは知らないが、ジンは内部構造を把握しているのだろう。私とモエは、無言でジンに続いた。

 

「さあ、着いたよ」

「ここは……」

 

 ビルの一室。大きなモニターの用意されたデスクトップ型コンピュータが一台、奥のテーブルに鎮座している。

 

「ナナ、モエ君。何でもいい。証拠を探すんだ。いいね?」

「それ、先輩の能力で何とかならないんですか?」

「あいにく、私は謙虚な能力者なのだよ。無闇やたらと能力をひけらかす者と一緒にしないでくれたまえ」

 

 つまり、できないのだと。

 得たい情報は二つ。鶴岡ら委員会と野党幹部との繋がり、それと能力者暗殺の実態だ。

 ジンが言うからには、証拠はここにある可能性が高いのだろう。では、どう探すか?

 テーブルに積まれた書類。一台のコンピュータ。

 

「モエ、これを調べるです!」

「あ、ちょっと待ってください」

 

 私の制止も聞かず、モエがコンピュータの電源を入れる。

 その時だった。

 

『やあ、侵入者諸君。久しぶりだね』

 

 何の操作もしていないのに画面が点灯する。そこに映っていたのは、

 

「中島、さん……」

「結構なおもてなしじゃあないか。と言っても、どうやらこちらの声は聞こえないようだがね」

 

 やはり。どこかで計画は感づかれ、私達がここに来ることは読まれていた。だが、引き下がるわけにはいかない。

 中島は私を殺せない。彼の行動原理が私への復讐心だとするならば、私が死んでしまったら意味が無いはずだ。

 

 画面の中の中島が、指を弾く。その瞬間、私達が通ってきた扉が、勢いよく音を立てて閉まった。

 

「さあ、ゲームを始めようか」

 

「あ、あかないですーっ!」

 

 モエが扉を開けようとがちゃがちゃと触るが、一向に開く気配はない。モエはこれでも私と同じように訓練を受けた身なので、見た目に反して決して非力というわけではない。となると、画面の向こうにいるナナオが電子的に制御したのか、はたまた何らかの能力で干渉したのか。詳細は不明にしても、物理的なキーで開けれるようなものでもないらしい。となると、ビルの入り口をロックしてあった物理的な鍵は、やはり私達をここまで誘い込むための罠だったと考えるのが妥当か。

 

『君達が進むべきは、そっちじゃないよ』

 

 今し方入ってきたのとは逆位置にある扉が、音を立てて開いた。

 いや――そこに扉があることにも気付かなかった。何も無かったように見えた壁が割け、二つの扉が現れたのだ。

 

『能力者を皆殺しにする計画――そう、君がよく知る計画についての資料もある。ナナちゃんが欲しかったものだろ? 持って行くといい』

「……どうしてですか」

『リスクとリターンがあって、はじめてゲームは面白くなるんだよ。それと、これを』

 

 今度は天井が割け、小さな穴が開いた。

 

『今持っている拳銃は一丁。モエちゃんの分も用意しておいたよ』

「モエが使っていいですか!?」

『うん。君を見ていると、昔のナナちゃんを思い出すんだ』

 

 何と趣味の悪いことだろう。そう思ったのは、きっと私だけだ。

 

『扉は二つある。ナナちゃんとモエちゃん、一人ずつどちらかの扉に入るんだ』

「……分かりました」

『それと――ジン先輩、あんたは居残りだよ』

「断ると言ったら?」

『気付いているだろうけど、この部屋には無数の監視カメラがある。人の目があると変身できないんじゃなかったっけ?』

「成る程。部屋に入る前に、コハル君に化けておけばよかったね」

 

 ジンは一度、コハルに化けていた。今の姿に戻ったのは何故だ?

 さっきみたいに危険が迫ったとき――私やモエを助けるためではないか?

 

「……先輩、もしかして――」

「ナナ、その表情は君らしくないね。早く先に進みたまえ。私はそう簡単に死なないよ」

 

 

 

 

 

 柊ナナと真壁モエが立ち去る。部屋に残されたのは、橘ジン――の姿をした、何者か。

 余裕綽々の表情でコンピュータの前に置かれた椅子に座る彼は、眼鏡を指で持ち上げ、画面の向こうにいる能力者と目を合わせた。

 

『ひどく余裕そうだね』

「ナナオ君、だったね。そう怖い顔をしないでくれたまえ。私達は互いに、人ならざる下等生物ではないか」

 

 橘ジンという最強の能力者。能力を無効化する、中島ナナオという能力者。

 正反対の二人は、緊張するでもなく、ただ画面越しに対峙していた。互いが互いを一筋縄では殺せないことを、理解しているからである。

 

『あんたと一緒にしないでくれる?』

「おや、これは手厳しい」

 

 先程ジンは、もしコハルに化けていれば、とは言ったものの、果たしてコハルに化けていたところで状況を打開できるかは甚だ疑問であった。中島ナナオに、能力が通用するのか。

 橘ジンは能力の成長により、中島ナナオに変身することは可能としていた。あるいは、何が起こるのか分からない以上、中島ナナオに化けることこそが最適解だったのかも知れない。

 

『あんたはさ、ナナちゃんとモエちゃんが心配じゃないの?』

「言いたいことがあるならはっきり言いたまえ」

 

 橘ジンがそう言うと、中島ナナオは大きく口を開いて笑った。

 

『橘ジン。あんた、面白いね。特別に、僕の仲間にしてあげるよ』

「デートのお誘い、というわけかね?」

『どう受け取っても構わない。だけど、あんたにとってもこちらにつくことは合理的なはずだ』

 

 ジンの表情から動揺の色は見えない。しかし、実際のところナナオの言うことはあながち間違いではない。

 能力者コールドスリープ計画など全て忘れ去って、柊ナナとも手を切り、鶴岡や中島ナナオのいる委員会サイドに回る。本来ジンが追い求めた真実を知るためには、最も合理的である。

 

「あまり二人を見くびらない方が良い」

 

 しかし、ジンは合理性など二の次にする男である。

 非情に見えるが、約束を違えることはない。恩に対しては礼を尽くす。

 一言で言うと、彼の者は義理堅いのだ。

 

『言うのは勝手だ。だが、無能二人に何ができる? 残念ながら、あんたが二人を手助けすることはできない』

 

 実は、この間ジンは何度か変身を試みている。しかし、部屋に設置された監視カメラのせいか、はたまたナナオの能力のせいか。変身することは叶わなかった。

 ジンは余裕な口を叩くが、柊ナナと真壁モエのことを心配していないというわけでは決してない。だが、それと同時に、期待してもいるのだ。

 

「訂正したまえ。彼女らは無能力者だが、無能ではない」

『何? ……ああ、訂正しようか。確かに、僕は真壁モエについては大して知らないし、話したこともない。彼女は無能ではないかもしれない。しかし、柊ナナはどうだ。ろくに使命とやらも果たすこともしない。そうだ。僕のことだって殺しそこねた。崖から突き落とせば死ぬことを確かめただの言っていたが、結局僕はこうして生きている。それこそ無能と言わずして、なんと呼ぶ?』

 

 それを聞いて、ジンは手で口元を押さえ、くっくっくと笑い声を漏らした。

 

『何だ? 何がおかしい』

「いやあ何、自分の能力が使えると解った途端、人のことを無能だなんだと騒ぎ出す。拾われた野良猫が、飼い主を盾に威張っているように見えたものだからね」

『……あんた、自分の立場理解してる? 僕は今、今すぐにでもあんたを――』

 

「案外気が小さいようだね」

 

 その時だった。ジンの姿が瞬く間に変化する。

 いや、実のところ、その様子を捉えた者はいない。ジンは、人の目があるところでは変身できないのだから。

 

『……ッ! あんた、今どうやって』

「能力の効果は感情に影響される。怒りの感情だってそうさ」

 

 ジンが化けたのは、前園サチコ。頭で思い浮かべた場所に、瞬時にテレポートすることができる。

 

「さあ、ナナ、モエ君。次は君たちの番だ」

 

 そう呟いた、次の瞬間。

 もうそこにジンの姿は無かった。

 

 

 

 

 

 私とモエが通された部屋。いや、部屋というには細長く、廊下というには短すぎる。二つの空間の間は透明な厚い板で仕切られており、行き来することはできないが姿は見える。声は聞こえないが、ある程度意思疎通は取れそうだ。

 二つの空間は左右に分かれているだけで、内装に変わりはなく、また私とモエが別々の扉に入ることしか指示されていないことを鑑みるに、区別はされていないらしい。モエが私の方を見て、口をぱくぱくさせながら手を振った。こんな状況下でも緊張の色が見えないのは、彼女の利点かも知れないと思った。

 

『待たせたね。さあ、準備はいいかい? ゲームを始めよう』

 

 どこからか声が聞こえた。

 同じタイミングで、モエが手を振るのをやめた。あちらにも聞こえているのだろう。

 スピーカーらしきものは見当たらない。何かの能力で語りかけているのか。いずれにせよ、今の私に知る術は無い。

 

「ゲーム、と言いますが。何をすれば良いのでしょう?」

『なに、簡単なことさ』

 

 こちらの声も届いているらしい。仕切り越しに隣の部屋を見る。モエは不思議そうな顔でこちらを見ている。やはり、こちらの声は届いておらず、またナナオはどちらか一方に語りかけることもできるようだ。

 指を弾く音が聞こえた。と同時に、目の前に二枚の画像が浮かび上がる。

 隣の部屋に居るモエの様子を鑑みるに、あちらにも何かの画像が表示されているようだ。が、内容までは確認できない。

 

『ゲームの内容はこうだ。まずモエちゃんが一枚の画像を選び、それをナナちゃんが当てる。簡単だろう? 見事正解すれば君達二人を解放しよう。だけど、外れた時は……まあ、話す必要もないね。間違える筈もない。だってナナちゃんは――心を読む能力者だもんね?』

 

 私に心を読む能力は無い。

 中島ナナオも鶴岡も、真壁モエも橘ジンも知っている事実。私は無能力者であり、無能だった。

 兎に角、このゲームを何とかクリアしないことには話にならない。間違えれば何かがあるといった。その内容は分からないが、あまり嬉しくないものであることは間違いないだろう。

 一方で、中島ナナオの行動理念が鶴岡と同じだと仮定すると、無意味な誤魔化しは使わないだろう。正解すれば、それでクリアーという訳だ。

 

 目の前に提示されたのは、二枚の風景画。一枚は春に撮影されたもので、桜の散る山道を一両編成の電車が走り抜けている。

 もう一枚は、ある小屋の写真。夜に撮影されたものだ。辺りは暗く、小屋の中で灯りが点っているのが確認できる。

 この内どちらかを選べ、と。仕切り越しにモエの方を見ると、既にどちらか片方を選んだようだった。

 

 ふむ、と私は顎に手を当てて考える。直感的に考えると、モエが選びそうなのは電車の写真だ。乗り物が好きなのはいつか聞いたことがあったし、私がそれを把握している、ということをモエが把握していても良いはずだ。

 どの写真を選んだかは当然確認できないが、特に考え込むような様子は無かった。だとすれば、答えは明白なのではないか? 選択に時間をかけなかったことこそが、彼女からのメッセージではないのか?

 迷っていても仕方がない。ジンはきっともうどうにかして脱出しているだろう。私が後れをとるわけにはいかない。

 

「モエちゃんが選んだのは――」

 

 私は指をさそうとする。その時、思った。

 写真は二枚しかなかった。

 ナナオは今、私への復讐、つまり私への憎悪故に、こんな訳のわからない空間に私を閉じ込め、ゲームをしているはずだ。

 だとすれば、簡単にクリアされてはならない。

 

 では何故、写真は二枚しかない?

 もし私が思考を放棄し当てずっぽうで指を指しても、二回に一回は正解してしまう。

 果たして、わざわざこんな舞台を用意して、そんな下らないゲームをするだろうか?

 

 私は考える。モエも馬鹿ではない。彼女とて、鶴岡から訓練を受けたのだ。

 きっとすぐ、私と同じ考えに辿り着くはずだ。

 

「中島さん。分かりました」

『そうかい? まあ言ってごらんよ。多分当たらないと思うけどね』

 

 冷静であることと恐怖を感じていることは、対になるようであってその実全く異なる概念である。

 冷静であっても何も考えていないことはあるし、慌てていても頭はクリアで思考が駆け巡っていることもある。

 真壁モエは変わった子だが、馬鹿ではない。ヒカルの件もそうだが、怖いものは怖いと感じることができる。さっきだってそうだ。閉じ込められたと分かった瞬間、ひどく慌てているように見えた。

 

 私とモエは、別々の扉に入った。透明な板のようなもので仕切られていて、声は聞こえないが姿は見える。

 妙な話だ。こんな薄い板一枚で、声を完全に遮断できるものだろうか?

 音とは、つまるところ振動だ。いくら声が聞き取れなくとも、モエの声は根本的にかなり大きい。こんなに薄い板であれば、モエが大声を出せば多少の振動は伝わるのではないか?

 

 初めからおかしかったのだ。今、隣に見えるモエはひどく楽しそうだ。怯えや恐怖の色は見えない。

 さも二択を思わせる写真。二枚の中に答えがあるとは、一言も言われていない。

 

 私は祈る。どうか、モエが私と同じ情報を手にし、私と同じ答えを導き出しているように、と。

 

「中島さん。モエちゃんは、何も選んでいません。きっと、あなたが良いと言うまで手を下ろすことはないでしょうが」

 

 

 

 

 

 結論から言うと、柊ナナの予想は当たっていた。

 何も選んでいない。選べない。

 真壁モエは、柊ナナが心を読めないことを知っているのだから。

 

「しぇんぱーい! きこえますかー! モエです! 今から! 右側の写真を選ぶです!!!」

 

 大声を出すと、仕切り越しに見えた柊ナナは、小さく頷いた。

 

 おかしい、と思った。

 

 真壁モエがこうして大声を出すと、柊ナナはいつも、少しうるさいと言いたげな顔をする。それは、切羽詰まった状況、例えばこのビルに侵入してからもそうだった。

 本当に、この仕切りの向こう側にいるのは、柊ナナなのか? 真壁モエは、疑問に思った。

 確かめる術はない。真壁モエも柊ナナも能力を持たない、ただの人間なのだから。

 だが――仮に向こうにいるのが柊ナナではなくホログラムのようなものだとすれば、柊ナナも同じように真壁モエのホログラムを見ているに違いない。

 

 そして、真壁モエが気付いたことに、柊ナナが気付かないはずがない。

 

「しぇんぱい、余計なことしないで下さいね?」

 

 真壁モエは壁に向かって指を指す。

 その指先はどこにも向いておらず、ただ虚空を見つめながら時を待っていた。

 

 

 

 

 

「中島さん。モエちゃんは、何も選んでいません。きっと、あなたが良いと言うまで手を下ろすことはないでしょうが」

 

 私がそう言った瞬間、中島ナナオは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

 いや――正確には、私には彼の顔は見えていない。だが、今確かに見えたのだ。

 

『……その通りだよ、ナナちゃん』

 

 そして――同時に、私はこうも思った。

 今の中島ナナオでも、こんな顔をするのか、と。

 

 彼にとって、私が問題に正解することは想定外だったのだ。だから、私達を解放するという想定はしていなかった。

 なぜなら、私が見せられている写真の中に、正解は無かったのだから。とはいえ、中島は何一つ嘘はついていない。確かに二枚の写真とは言ったが、この写真と同じ物をモエが見ているとは一言も言っていない。

 

『まいったなあ。鶴岡さんにはどう説明しよう。……まあいいか、これも余興の一つだ。またすぐに迎えに行くからね。――写真の裏側を見るといい』

 

 裏側?

 私は壁に掛けられた二枚の写真を手に取る。その裏に、小さなスイッチがあることに気が付いた。

 少しためらい気味に、そのスイッチを押す。すると、私が入ってきた扉とは違う場所に扉が現れた。何かの能力で隠していたのだろうか。

 

 ふと、先程までモエが見えていた仕切りの向こう側に目をやる。そこにはもう誰の姿も無かった。

 

 

 

 

 

「しぇんぱーーーい!!!!!」

「わっふ」

 

 扉を出た瞬間、モエが私に抱きついてきた。

 すぐ外は、人通りの少ないどこかの道の真ん中。振り返ると、通ってきたはずの扉は消滅していた。

 

「しぇんぱいは、ちゃんと正解したですか???」

「正解したからここに居るんでしょう」

「なるほど!」

 

 モエは中島の話など興味も無かったらしく、ボタンを発見した瞬間迷わず押し、外に出てしまったらしい。まあ、モエらしいと言えばモエらしい。

 さて、ここは何処だ。出られたのはいいが、私達には足が無い。テレポート能力でも使えたら――

 

「あ、しぇんぱいのスマホが鳴ってるです!」

「……」

 

 このタイミングで連絡を寄越す人間に、一人しか心当たりが無かった。

 

『やあ、脱出したようだね。おめでとう』

「先輩も無事みたいで何よりです」

『今から二人を迎えに行こう思うんだが、人力車と馬車ならどちらがお好みかね?』

「自動車でお願いします」

 

 私は電話を切る。

 場所は……まあどうせ既に分かっているだろう。

 

「それにしても、やっぱりしぇんぱいはすごいです! モエ、しぇんぱいが二分の一に賭けたらどうしようかと――」

「モエちゃん、私の能力を忘れたんですか?」

「……大食いです?」

「違いますよ」

 

 

 

 

 

 ジンの用意した車は、先程乗ってきた物とは違う車であった。

 前の車はコインパーキングに停めていたはず。とすればこの車は何なのか。詳細は不明だが、そこのあたりは足がつきにくいようにジンが上手くやっているのだろう。あえて問うのも愚問というものだ。

 

「そういえば――委員会の計画、その証拠を押さえるという話でしたが……」

「ああ、勿論拝借してきたよ」

 

 ジンが右手でハンドルを握りながら、左手で書類の束を私に差し出した。私はそれを受け取り、ぺらぺらとめくる。

 確かにそれらしい書類だ。だが、よくよく考えれば、このビル自体も私達を弄ぶための罠だったのだ。この書類も本物ではなく、フェイクという可能性も――

 

「ナナ、実は私も心を読む能力を手に入れたようなんだ。君が今何を考えているのか当ててみせよう」

「……運転に集中してください」

「そうだね。じゃあ一つだけ。――ナナ、君は大きな思い違いをしている。例えば、この書類が偽物ではないか、とかね」

「……」

 

 図星である。モエは後部座席からこちらを見ながらうんうんと頷いていた。

 

「ナナ、よく考えてみたまえ。中島ナナオ君の目的は何だったと思う?」

「それは、島の能力者の虐――」

 

 ――違う。

 それは、鶴岡達、委員会の目的だ。

 中島ナナオの目的は――

 

「……私を、弄ぶこと」

「その通りだ。だとすると、偽物の書類を用意する意味が無い。それが私達に露見して、まんまと罠に誘い込まれてくれる柊ナナがいなくなっては、彼としても不本意だろう」

 

 確かに、ジンの言うとおりである。

 そんな簡単なことにも気づかなかったのか、私は。島でミチル達と暮らすうちに、私は……

 

「ナナ、余計なことを考えすぎるのは、君の悪い癖だ。あまり普段から邪なことを考えるのは止めた方が身のためだよ」

「先輩にだけは言われたくないです。……そう言えば、さっきの仕掛けなんですが」

「モエくんと別々の部屋で写真当てゲームをしていたね。あれが何か?」

「……何で知ってるんですか」

 

 まあ色々とね、とジンは眼鏡の弦を指先で持ち上げた。

 

「名探偵モエの機転で助かったです!」

 

 はいはいっ、とモエが後部座席で手を上げた。先程まであんな状況だったのに、元気なものである。同じ訓練を受けて送り出された者として、その点に関して私は密かにモエを評価していた。

 

「私とモエちゃんが入れられたのは、隣の部屋のように思えました。……すぐ隣の扉に入ったのですから。ですが、仕切り越しに見えたモエちゃんは、本物のモエちゃんとは違う動きをしていました。中島さんの能力は能力の無効化だけだと思っていたのですが――先輩、ひょっとすると、中島さん達は、コハルさんのような、幻覚か何かを操る能力者を――」

 

「ナナ、また思い違いをしているよ」

 

 君の悪い癖だ。少し落ち着きたまえ。

 今度はジンはどこからかコーヒーの缶を二つ取り出し、私に差し出す。私はそのうち一本を、後部座席に座るモエに手渡した。

 

「ナナ、無能力者である君が、一番能力に囚われている」

 

 私ははっとなり、コーヒーを開ける手を止める。

 既に人類は空も飛べるし、念動力より早く人を殺せる。

 そう言ったのは、かつての私である。

 

「あれは能力者の仕業ではない。透過スクリーンを使った、単なるホログラムだよ」

 

 

 

 

 

 ジンのアジト――彼は“別荘”と呼ぶが――に戻って数日。これといって練るような作戦もなく、私達はぼんやりと過ごしていた。

 

「ナナ、モエくん、そろそろ昼食にしよう。こちらに来たまえ」

 

 食事はほとんどがインスタント食品。栄養だなんだと気にするようなたちでもないが、一応ジンがサプリメントなんかを用意してくれているのでそこのところは心配なさそうである。まあ、電気と水は使えているので食材さえあれば何か調理できないこともなさそうだが、サプリメントや食材を手に入れることができるとしてあえてサプリメントを選ぶのは、ジンらしいといえばジンらしい。

 

 ――いや、案外ジンは料理をしている姿も似合うのではないか?

 どういう訳かは分からないが、エプロンをつけながらうきうきとフライパンを振るジンの姿が簡単に思い浮かんだ。これは……幻覚能力……?

 

「……しぇんぱい、時間を持て余しすぎて頭がおかしくなっちゃったです?」

「何でもないです。行きましょう」

 

 その日の昼食は、袋麺とサプリメント6錠だった。

 

「そう言えばジンしぇんぱい、次はいつ攻め込むです? モエは準備ばっちりです」

「結構なことだね。でも、こちらから計画するまでもなく――噂をすれば、ほら」

 

 ジンが指差すのは、建物の入り口。ドアの隙間に、封筒のようなものが差し込まれてあった。

 

「モエがとってくるです!」

 

 考えてみれば、ナナオや鶴岡が私達の居場所を突き止めていても不思議ではない。急に襲ってくる可能性も考慮して警戒はしていたが、やはり私を弄ぶことが目的ならば、それなりの舞台も必要といったところだろう。

 ――そう、きっとその気になれば、ナナオ達は今すぐにでも私を殺しに来ることができるのだ。

 

「持ってきたです! 開けていいですか?」

「……ええ」

 

 モエがばりばりと封筒を破く。中に入っていたのは、一枚の便箋。

 

「ふむふむ、“明日の夜、○○アパートの201号室で待っています”……鶴岡さんたちが待っているということでしょうか、でも、どうしてアパートに……しぇんぱい? どうしたんですか?」

 

 その便箋を見て――いや、その封筒を見た瞬間から、予感はあった。

 モエは天真爛漫な性格をしているが、粗暴ではない。モエが封筒を破く前にきちんとのり付けしてある口を剥がそうとして、諦めたことを私は見逃さなかった。

 ナナオや鶴岡があれを用意したとして、たかだか封筒の口に、それほど気を遣うだろうか? ――否。

 

 便箋に書かれた、たった一行。

 その筆跡に、見覚えがあった。

 

「……ミチルちゃん?」

 

 

 

 

 

「ナナ、本当に一人でいいのかね?」

「モエもお供するです!」

 

 手紙の差出人に気付いたのか、気付いていないのか――いや、モエはともかく、ジンは仮に気付いたところであえて私に言わないだろう。

 なるべく早くに戻るとだけ言って、辺りが完全に暗くなってからアジトを出た。

 あるいは、ジンはこっそり私のことをつけて来ているかも知れない。だが、それはそれで別に良い。ジンの道楽のようなもので、私が構うなと言った以上、向こうから干渉してくることはないだろう。

 

 たとえ、私が殺されようとも。

 

 足が着かないよう切符を買い、電車に乗る。都内、とある町外れ。

 人気は無い。指定されたアパートに辿り着く。その建物に、私は覚えがあった。

 実際に来たことは無い。だが、確かに知っているのだ。

 それほど新しくはないが、管理が行き届いているのが見て取れる。私はポストを確認する。201号室は、空室だった。

 

 小さなアパートだが、エレベーターが設置されていた。私が上行きのボタンを押すと、ぱっと明かりがついた。

 人の気配は無い。私はエレベーターを降りる。

 すぐ近くの部屋の、扉が開いていることに気が付いた。

 201号室。

 開いたドアをノックし、部屋の中の様子を伺う。そこにいたのは、一人の少女。

 

「待っていましたよ、ナナしゃん」

 

 そう。ここは、ミチルの両親が所有するアパートの一つ。

 かつて私はあの島で、ここに来ることを誘われた。

 

 学校を卒業し、“人類の敵”との戦いが終わったら、と。

 

「ミチルちゃん……」

 

 手紙には、一人で来い、などとは一言も書かれていなかった。

 だが、ミチルは私が一人で来ることを確信していたのだ。

 

「来てくれて、ありがとうございます」

 

 ミチルが近付いてくる。私は、身構える。

 ポケットの中に、拳銃を忍ばせていた。

 もしこれが罠だったら。

 ミチルが、何者かの教示を得てここに居るのだとすれば。

 無能力者である私は、この拳銃を使うしかない。

 

「会いたかったです、ナナしゃん」

 

 私は以前、ミチルを突き放した。

 全ての罪を告白して。

 大勢の人を殺した。そんな私を許すとでも?

 いや、きっとそれではダメなのだ。誰が許すとか、そういう話ではない。

 私が、私を許してはいけないのだ。

 

 靴を履いたまま玄関で立ち尽くす私を、ミチルはそっと抱き締める。

 そうして、耳元でこう囁くのだ。

 

「ナナしゃんはいい人です。……何か、事情があったんですよね? 全部聞きます。私はいつだって、どんなことがあっても、ナナしゃんの味方です。お友達です」

 

 その言葉は、かつて私が求めた福音。

 だが――今の私にとって、蜜よりも甘い悪魔の囁き。

 

 玄関の扉が閉まる。

 

 

 

 

 

「もう三日も帰って来てないです……」

 

 テーブルに寝そべりながら、モエがそう呟く。

 ジンは念動力を使ってパスタ鍋を混ぜながら、顔だけ振り返って返事をした。

 

「ナナが心配かね」

「どうせしぇんぱいは一人でなんとかしますよ。モエは相手がいなくなって張り合いがないだけです」

「相手?」

 

 ジンが聞くと、モエはシュッシュッと両手を動かしてパンチングポーズを取る。

 

「ナナしぇんぱいとは、いつもエアボクシング大会とか笑ったら負けゲーム大会をしてるです」

「前者はともかく、後者はナナに勝のは難しいだろう」

「0勝17敗です……勝てる気がしないです」

「そんなところだろうね」

 

 ジンは茹で上がったパスタを湯切りし、皿に盛り付ける。申し訳程度のプチトマトを付け合わせにし、サプリメントと一緒にテーブルに運んだ。

 

「ジンしぇんぱい、フォークがないです」

「ああ、すまないね」

 

 ジンがパチンと指を鳴らすと、フォークが三本、どこからともなく飛んでくる。ジンとモエは、それらを一本ずつキャッチした。

 

 最後の一本は、もう一枚の皿の前に、ひとりでに着地した。

 

「ジンしぇんぱいは、ナナしぇんぱいのことが心配ですか?」

 

 モエは一口目のパスタをすすり終えてから、そう聞いた。

 ジンは無言でパスタを啜る。そうして一人前を食べ終えたところで、口元を拭いてからようやく、こう言った。

 

「ナナのことだ。どうせ一人で何とかするに違いないさ」

 

 

 

 

 

 結論から言うと、全て話した。

 

 私が知っていること。島に来る前に鶴岡から訓練を受け、暗殺者として送り込まれたこと。

 クラスメイトを殺したのは、私であること。

 人類の敵などというものが、存在しないこと。

 能力者こそが、人類の敵と呼ばれていること。

 そして――私がかつて、ミチルを殺そうとしたこと。

 

 ミチルはどこまで知っているのだろう。あるいは、全て知っているのかもしれない。

 涙は出なかった。私が許しを乞うような話でもない。だがミチルは、淡々とそれらを語る私に対し何も言わず、時々頷きながら聞いてくれた。

 

 私が口をつぐむと、ミチルはぎゅっと私の肩を抱き寄せた。

 

「分かります。仕方なかったんです。両親を失ったナナしゃんに、何もできることはなかったんです」

 

 唇を強く噛む。乾いた皮膚が裂け、鉄の味がした。

 私は机に突っ伏す。

 

 話した。

 話してしまった。

 なのにどうして、この少女は怒らないのだ。

 

 

 

 

 

 そうして、いつの間にか私は眠ってしまっていた。

 気が付くと朝だった。カーテン越しに差し込む日差しに、目を細める。

 六畳ほどのスペースに、テーブルが一つ。

 

 誰かが、部屋の扉を叩く。

 ミチルの姿は無い。私は扉を開いた。

 そこに立っていたのはミチルではなく、私のよく知る人物。

 

「こうして合うのは久しぶりだな、柊」

「……鶴岡さん」

 

 私は咄嗟に身構える。用意した拳銃は、未だポケットの中に入っていた。

 

「ミチルちゃんは?」

「身柄はおれが預かっている。心配はいらない。貴様が大人しくしている限りはな」

「……」

「いい目だ。だが一つ断っておく。犬飼ミチルがおれの元にいるのは、あいつ自身の意思だ」

 

 ミチルが?

 どうして、鶴岡と。

 ……いや、予感がなかったと言えば嘘になる。おかしかったのだ。ミチルが、私達のアジトを突き止め、手紙を残したこと。私を呼び出したこと。ミチル一人で、それが可能だろうか。いや、私はそれを信じようとしなかっただけだ。

 だが――問題はきっと、そこではない。

 

「信じられない、といった顔をしているな。犬飼がこちら側にいたことが、そんなにショックだったか?」

 

 笑っていた。

 当然だ、鶴岡やナナオは、私を殺そうと思えば今すぐにだって殺せるはずだ。それをしないのは、つまり私を弄び、楽しんでいるからだ。

 

「……ええ。その通りです。信じられません。ミチルちゃんを、どうやって欺したんですか。何て嘘をついたんですか」

「柊。貴様はまだ理解していない」

 

 鶴岡は帽子を深く被り直し、部屋を出る。そうして立ち去り際に一瞬だけ振り返り、私に向かって言った。

 

「昨日、貴様が真実を話した時、犬飼は怖がらなかった。それがどうしてか分かるか?」

「それは、ミチルちゃんが私を――」

「違う。犬飼には、貴様の所業を予め、おれから伝えてあったからだ。確かにおれは貴様を弄んだが、無意味な嘘はつかない。犬飼に対し、真実しか告げていない。それで犬飼がおれの麾下にいるのは、貴様がそれだけのことをしてきたからだ」

 

 

 

 鶴岡もミチルも、戻ってくることはなかった。

 ミチルを救った気になっていた。だが、それは違った。ミチルは私を見限り、全ては鶴岡の手のひらの上で踊らされていたのだ。

 確かに、私を殺人鬼に仕立て上げたのは鶴岡だ。だが、何も考えず人殺しになった私もまた、確かに罪人であった。

 

 部屋の中で、私は一人、時をやり過ごした。

 ジンやモエのいるアジトに戻る気にもなれなかった。ほのかに甘い香りのするこの部屋から足を踏み出すには、私はあまりにも臆病すぎた。

 

 そうして三日ほどが経つ。自分でも分かるほどに憔悴しているというのに、腹は減るものである。

 台所で蛇口を捻ると、水が出た。私は直接口をつけて水を飲む。甘くも苦くもなかった。そして、甘くも苦くもないのが当然であるということに気付くのに、私は少しの時間を要した。

 

 更に翌日。

 冷蔵庫の電源が入っていることにようやく気がついた。

 中に、冷えたスープを見つけた。

 見覚えがあった。

 島にいた頃、私が衰弱したミチルに作ったものと、そっくりだった。

 

 私はそれをスプーンも使わず、恐る恐る口に運ぶ。

 美味かった。

 きっと、私が作ったものより、ずっと。

 

 私はずっと迷っていた。

 ミチルに殺人を告白した時から。私は、生きていても許されるのかと。

 食事を取るのは、生きるためだ。私は吐き気を堪えながら、スープを口に運び続けた。

 

 そうして全てを食べ終わった、ちょうどその時。

 誰かが部屋の扉を叩いた。

 

「しぇんぱい! ナナしぇんぱい! ここにいるですか!?」

 

 モエの声だった。

 私を連れ帰りに来たのだろうか。行き先を告げてきたわけではなかったが、ジンの能力があれば私の居場所くらい簡単に突き止められるだろう。だが、今の私には返事をする気力すら残っていなかった。

 

「入るですよ!」

 

 玄関の鍵はかかっていなかった。

 モエは玄関で靴をほっぽり出し、のっしのっしと部屋に上がってきては、私の顔を覗き込んだ。

 

「ジンしぇんぱいの言った通りだったのです」

「……何がですか?」

「ナナしぇんぱいがここで乾涸らびているって言ってたです」

「…………」

 

 ……実際、その通りではあるが。

 

「そんなことより! いつまでここにいるですか! 早く戻ってくるです!」

「モエちゃん。申し訳ないんですが、私はもう……」

「ジンしぇんぱいが連れ去られました」

「ジン先輩が? 何かの間違いでは」

「間違いじゃないです! モエの目の前で連れ去られたです!」

「……」

 

 ジンの能力は、間違いなく最強だ。

 彼が本気を出せば、国一つ壊滅させることも容易いだろう。それをしないのは、彼が真実を追い求めるが故である。

 そんなジンを御せる者など、一体どこに——

 

 いや。居るではないか。

 最強の能力者であるジンと対をなす、かつて最弱だった能力者。

 私は、その人物をよく知っていた。

 

「中島ナナオくんです。突然アジトに現れて、ジンしぇんぱいを連れ去ったです!」

 

 

 

 

 

「これから私をどうするつもりかね?」

「さあね。ナナちゃん達次第じゃないかな?」

 

 ジンが連れ去られたのは、ある地下室。

 目隠しして連れてこられた。ナナオがずっと側におり能力が使えない為、ジン自身にもここがどこなのかは不明である。頑丈そうな金属製の椅子に縛られ、手足も固定されている。

 

「そんな怖い顔をしないでくれたまえ。私達は共に、人ならざる下等生物じゃないか」

「あんたと一緒にしないでくれ、って前にも言わなかったっけ?」

 

 ナナオがジンを睨み付ける。以前の彼からは想像もつかないような冷たい視線。しかし、ジンの表情は変わらない。それは彼の自信故か、はたまた慢心か。

 

「君たちの目的はなんだね? 囚われの令嬢として身代金を用意されるには可愛げが足りないことくらいは自覚しているつもりだがね」

「お金が欲しいならもっといい方法があるさ。それよりも今は、この身の悪を愉しみたいんだ」

 

 そう言ってナナオは――丁度いつもジンがするのを真似るように、どこからか四角いケースを取り出した。

 

「ほう?」

 

 ケースを開くと、小さなペンチのようなものが現れた。しかし、その用途は普通ではない。

 

「案外平然としているんだね。これは拷問器具の一種で、爪を――まあ、あんたが知らないはずもないか」

「生憎、痛みには慣れているんでね」

「けど、能力は使えない」

 

 ナナオはそう言いながら、爪剥ぎをジンの左小指に宛がう。

 

「中島ナナオ君。君の目的はナナを弄ぶことだろう?」

「何さ。今更怖くなったの? でもやめないよ」

「やれやれ、“類の敵”を自称するとジョークも通じなくなるのかね? これは忠告だ。あまり、ナナとモエくんを舐めない方がいい」

「……この後、あんたを拷問する様子を撮影した動画をナナちゃんに送りつける。そうすれば――」

「二人なら来ないよ」

 

 ジンは不敵な笑みを浮かべながら、ナナオに向かってそう断言した。ナナオは不愉快そうに顔をしかめる。

 

「……あんた、人望無いんだね。同情するよ」

「中島ナナオ君。本当にそう思うのなら、あまりにも見る目が無い。確かに私に人望は無い。だが、二人が来ないと言ったのは、それ故ではない」

 

 その瞬間、堅く縛られていたはずの縄は緩み、瞬く間にジンの身体は解放される。人差し指で眼鏡の弦を持ち上げた。

 

「信頼だよ」

 

 

 

 

 

「しぇんぱい! 助けに行きましょう! しぇんぱーーーい!!!」

 

 モエが耳元で叫ぶ。

 私の足は動かない。

 ……うるさい。放っておいてくれ。

 

 はなから、私はジンの能力を過信し過ぎたのだ。考えてみれば、ジンの弱点は視線だけではない。当然のことながら、能力を無効化できるナナオの前では、ジンとて無力なのだ。

 まして無能力者である私に、今更一体何ができるというだろうか?

 

「でも! ジンしぇんぱいが殺されちゃうかもです!」

「……殺しませんよ」

 

 私はモエの言葉を否定する。皮肉なものだが、それだけは確信を持って言える。ナナオの目的は私だ。ジンが私をおびき寄せるための罠だとすれば、私が行くまでに殺してしまっては意味が無い。

 あいにく、今の私がジンを助けに行こうなどと考えられる状況にない。だとすると、むしろ好都合ではないか。

 

「私は行きません。ジン先輩を助ける? 無茶です。どうしてもと言うなら、モエちゃん一人で行って――」

 

「柊らしくないな」

 

 その時。モエの背中越しに、玄関の方から声がした。

 私は振り返る。いや、振り返るまでもない。

 それは、私のよく知る人物。

 

「キョウヤさん……」

「探したぞ、柊。見たところひどく傷心している様だが……すまないが、構っている暇はない。ジンと言ったか? 俺はそいつから頼まれてここに来た」

 

 ジンがキョウヤに? どういう風の吹き回しだ。島で保護を諦めてきりだと思ったのだが、その後も二人の接触があったのか?

 

「キョウヤさん。残念ですが、今の中島さん相手では私達に勝ち目はありません。いっそ、このまま私一人が――」

「柊。今まで島で死人が出たとき、お前さんは“人類の敵”のしわざですとご冥福を祈るだけで、何もしてこなかった。一度でも誰かを守ったことがあるのか、リーダー?」

「それは……」

 

 私が殺した。

 仕方なかった。

 命令だった。

 しかし結局、私は誰も救えていない。この手で守ったと思ったミチルでさえも、今や鶴岡の手の内側だ。

 

 私には、何も言えなかった。だがキョウヤは、ぺたんと座ったまま言葉を詰まらせる私の肩に手を添え、言った。

 

「あの男は柊の仲間なんだろ? まだ、やれることはあるはずだ」

「……キョウヤさん」

「何だ。作戦を立てるなら急いだ方がいい」

「いえ……きっとこうして話をしてくれるということは、キョウヤさんは私の過去についてもう知っているんだと思います。じゃあ、どうしてわざわざ私に声を掛けに来たんですか? 私は殺人鬼で、島の生徒たちを――」

「勘違いするな」

 

 キョウヤは私の言葉を遮る。そうして、平然とした顔で、こう言ってのけた。

 

「お前さんのやったことを許すとは一言も言っていない。ただ――俺は、見てみたいと思っただけだ。殺人鬼であるお前さんが、人を救うところをな」

 

 

 

 

 

 キョウヤは人数分の折りたたみ式自転車を用意していた。

 軽いが、見た感じ頑丈そうだ。かなり良いものなのだろう。キョウヤはエレベーターを降りたすぐそこで、てきぱきと組み立てている。

 

「手伝います」

「ああ、頼む」

 

 折りたたみ式とはいえ、組み立てるのは少し慣れが必要だ。だが、幸いなことに私はこのての作業は比較的得意としていた。

 モエには念のため部屋の中を調べてもらっている。それほど広い部屋ではないので、自転車の準備ができる頃には降りてくるだろう。

 

 自分でも不思議なほど、キョウヤと話すうちに心が軽くなるのを感じた。罪を感じなくなったわけではない。だが、心境の変化に、キョウヤの存在があったことは間違いなく大きい。

 

「とはいえ――煽るような言い方をしてなんだが、これからどうするつもりだ? あいにくだが俺は詳しい事情は知らない。あのジンという男から、詳しいことは柊から直接聞くようにと言われていてな」

「私のことは、少し落ち着いてからにしましょう。それよりも、いくらキョウヤさんが不死身だといえ、この三人ではとてもではないですが中島さんや鶴岡さんに勝ち目はありません。だとしたら協力者が必要です。能力者を制するには、能力者しかありません。以前、私とジン先輩は、島の能力者たちをある施設に――……キョウヤさん、何を嬉しそうな顔をしているんですか?」

「いや、深い意味はないんだがな。やっとお前さんらしい話し方をするようになったな、と思っただけだ」

「なんですか、それ」

 

 自転車を組み終わって暫くすると、モエが二階から駆け下りてきた。私は小さく手を振りながら、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、呟いた。

 

「それは……キョウヤさんが思い出させてくれたからです。私の使命が、“人類の敵”を倒すことだ、ということを」

 

 

 

 

 

 一列に並んで走る三台の自転車。順番は、キョウヤ、モエ、そして最後に私。

 律儀にもキョウヤはヘルメットまで用意していた。

 

「“人類の敵”と戦う前に補導でもされたら士気が下がるからな」

 

 ……だそうだ。モエなんかは物珍しさでうきうきと被っていたが、まあ彼女らしいと言えば彼女らしい。私は促されるまま、最後に残ったヘルメット……ピンクのヘルメットを被った。

 

「キョウヤさん、ヘルメットを用意してくださったのはありがたいのですが、もう少し他のものは無かったのですか?」

「一番地味なものを選んだつもりだが……」

 

 それは流石に嘘だろう。

 

「モエはとってもいいと思います! ナナしぇんぱいの髪の色とそっくりですし!」

「おお、それはよかった」

「……」

 

 私達が向かう先は、鶴岡やナナオ達のいる委員会――ではない。

 私の一番よく知る施設。だが、場所は知らない。

 

「柊、もう一度確認するが、そこに能力者の生徒たちが閉じ込められている、という話で間違いないんだな」

「ええ。間違いありません」

 

 ジンがキョウヤと接触した時、その場所について聞かされたらしい。

 もしやジンはずっと前から、こうなることを予見していたのか――いや、そんなことを今考えても仕方が無い。

 

 “人類の敵”と戦うために集められた生徒たち。

 ならば今、彼らの力を借りる他ないだろう。

 

 

 

 

 

「着いたぞ」

 

 木を隠すには森の中、秘密結社のアジトを隠すには地下室と相場が決まっている。

 キョウヤに案内されたのは、とある廃工場。

 外装は剥がれたり錆びたりしていて、もうずっと使われていないのが見て取れる。

 

「あのジンという男が言うには――この場所は昔持ち主が破産してその後所有者が転々としたあげく、国が工業地として開発に乗り出したのはいいものの資金不足でうやむやになっているらしい」

「なるほど……」

 

 キョウヤに引き続き、私とモエも自転車から降り、ヘルメットを自転車の前カゴに入れた。

 

「入るぞ」

 

 倉庫の扉に鍵はかかっていない。キョウヤが少し押すと、簡単に開いた。

 

 倉庫の中はただただ広く、とてもではないが以前ジンに連れられた場所とはかけ離れているように思える。

 本当にここに――? キョウヤが振り返って、私に尋ねる。

 

「聞いた話によると、ここの地下に件の施設があるらしい。柊、何か心当たりはないか?」

「いえ――私にもさっぱり」

 

 私も倉庫の中に入る。モエも後ろをついてくる。

 この倉庫の地下に施設があるとすればどこかに階段か何かがあるはずだが、見当たらない。ジンは何らかの能力で瞬間移動することも可能だろうが、私達にこの場所を知らせた以上、私達が開けられなければ意味が無いからだ。

 だが、誰にでも明けられるようでは意味が無い。ジンのような能力者であれば簡単に開けられるが、私のような無能力者はその限りではない。そういった仕掛けが理想的なはずだ。

 

「しぇんぱーい! ここの床に何か書いてある、です」

「?」

 

 モエが倉庫の隅で手招きしている。私とキョウヤはそちらに向かった。

 モエが指差している方を見ると、小さなスイッチのようなものが確認できる。

 

「押してみても、何も起こらなかったです」

「――なるほど」

 

 恐らく、これはごく単純な仕掛けだ。

 振り向くと、キョウヤも私に向かって頷いた。

 

  “四人必要”

 

 モエが発見したスイッチの側には、そう書かれてあった。

 倉庫の中をくまなく探索すると、全く同じスイッチが三つ見つかった。これで、合計四つになる。

 

「……四人必要、ということは、四人で同時にスイッチを押さないと開かない、ということでしょうか?」

「そう考えるのが妥当だな」

 

 キョウヤはそう言って頷く。無造作に置かれたスイッチなら押すと何らかの罠が発動するのではないかと疑ってかかるところだが、良くも悪くもそれは先ほどモエが押してしまっている。私とキョウヤが一つずつボタンを押すが、やはり何も起こらなかった。

 

「四人必要ということだが、あいにくここには三人しかいない。何か方法を考える必要があるな」

「シンプルに、ボタンを一つ何かで固定してしまうのはどうでしょう?」

「そうだな。何か固定するのに使えそうなものは――」

 

 キョウヤは視線をきょろきょろと彷徨わせる。とはいってもこの倉庫に何か使えそうなものなど――キョウヤの視線が、私の頭にぴたりと止まった。

 

「柊、それを貸してくれるか?」

「? あ、――」

 

 キョウヤが指差したのは、私の髪留めだった。

 確かに、うまく使えばボタンを押した状態で固定できそうである。

 

「試してみましょう。お願いできますか?」

「ああ。任せろ」

 

 私は片方の髪留めをほどき、キョウヤに手渡す。キョウヤはそれを手早くボタンに巻き付け、私とモエに残りのボタンを押すよう促した。

 

「押しますね」

「押すです!」

「ああ、押すぞ」

 

 ……………………

 

 ドン、と物音がした。

 倉庫の中央で、何かが動いたような気配がある。

 近付いて確認する。床に亀裂が入っていた。

 

「どうやら、上手くいったみたいですね」

「ああ。先に進もう」

 

 

 

 

 

 倉庫の床からは、金属製の梯子が伸びていた。

 最近使われた痕跡は無い。ジンなら、こんなものを使わずとも浮遊能力なり瞬間移動なりで簡単に中に侵入できるからだろう。その内のどれも持たない私達三人は、梯子を下りるしか無い。

 

「俺が一番先に降りよう。もし罠があっても死なないし、万が一お前さん方がうっかり足を滑らせて落ちてきても受け止められるからな」

「あはは……」

 

 そうして、キョウヤを先頭にして梯子を下りる。

 深さはさほどでもない。せいぜい5、6メートルといったところだろうか。最後の二段ほどをジャンプして降りると、モエも2メートルほどの高さから飛び降りてきた。

 

「どいて、どいてくださいですー!」

「……モエちゃん、危ないですよ」

「モエは軟体能力を持っているので平気です!」

「軟体能力? それがお前さんの能力なのか?」

 

 ああそうだ、キョウヤはモエの能力を知らないのだ。

 最も、モエは私と同じで、いわゆる能力者ではないのだが――モエは得意げな顔で、ぐにゃりと身体を曲げ、頭を足の間から突き出して見せた。

 

「あれか、……びっくり人間レベルか。モグオ達の仲間に入れてもらった方がいいんじゃないか?」

「なんだかすごく馬鹿にされた気分です!」

 

 そんなことを言ったらキョウヤくんだってびっくり人間じゃないですかー、などと言いながらぎゃあぎゃあと騒ぐモエを余所に、私は周囲を確認する。

 コンクリートで固められた空間。いつか、ジンの能力で連れられた場所で間違いない。以前は気付かなかったが、今私達がやってきた場所の天井は、鍵の外れた扉のようにぱくりと割れている。

 このような密閉された地下室は通常、勝手には空気が循環しない。だが、天井の穴の存在とは関係ない方向に、風の流れを感じた。恐らく、換気装置があるのだろう。

 この施設の維持にもしジンの能力が関係しているなら、と少々良くない想像をしたが、どうやら杞憂だったようである。

 

「行きましょう、キョウヤさん、モエちゃん。皆が待っています」

 

 

 

 

 

 無機質な部屋に並ぶ、いくつもの四角い物体。

 モエは勿論、流石のキョウヤも動揺を隠せない。当たり前だ。私も、決心をするのに時間がかかった。

 そして今も、迷い続けている。

 この地下室に能力者を閉じ込めることは、果たして正しいことなのだろうか、と。

 

「……成る程。にわかには信じがたいが――つまりお前さんは、あのジンという男と結託し、鶴岡による保護と偽って生徒たちをここに閉じ込めた、と」

「そう捉ええて頂いて構いません」

 

 キョウヤは置かれた箱のうちの一つに近寄り、こんこんと右手で叩いた。反応は無い。

 私もキョウヤの横から覗き込む。飯島モグオが眠る箱だった。

 

「キョウヤさん、この光景を見て、私やジン先輩のやったことについて追求したいのは重々承知です。ですが、今――」

「急いでいるんだな?」

「……はい」

「確かに俺はお前さんに聞きたいことが山ほどあるが――それは後でもいいだろう」

 

 その言葉を聞いて、私はほっと胸をなで下ろす

 キョウヤが私の考えに賛同してくれるかはともかくとして、ここでキョウヤが納得してくれるかは未知数だった。だが蓋を開けてみれば、話を聞いてさえキョウヤは涼しい顔をして私の前に立っている。

 

「協力を頼む、と言ったな。誰を起こすかは決めてあるのか? この人数を一斉に起こすのは不可能だし、仮にそうしたところで余計な混乱を生むだけだぞ」

「ええ。分かっています」

 

 最初に誰を起こすか。私の中の答えは、既に決まっていた。

 この状況下で大きな混乱をせず、頭が切れる人物であればなお良い。おまけに、あのジンも変身能力を媒介して多用するほどの能力者。私には、一人しか心当たりがなかった。

 

 私は大量に置かれた箱の間をぬって進み、そのうちの一つに手を触れる。

 生体認証クリア。生命維持装置停止。

 ――扉が開く。

 

「……私のことが、分かりますか」

 

 私が声を掛けると、すぐにその少女は目を覚ました。

 そして毎日眠るベッドから朝身を起こすようにして、ゆっくりと起き上がる。

 

「あら、どうせ起こしてくれるならキスの一つでもしてくれれば良かったのに」

「そんな役回り、私には似合わない。まだお前の方が似合うくらいだぞ、コハル」

 

 

 

 

 

 私は鞄を開け、中からペットボトル入りの飲料水を取り出すと、コハルに手渡した。

 コハルは何も言わず受け取る。封を開けると、一息で半分ほどを飲み干した。

 

「……何も、聞かないのか?」

「そりゃあ聞きたいわよ」

 

 コハルは自身が眠っていた箱に腰掛ける。キョウヤとモエはそこいらを探索しているようだ。私はコハルの隣に座った。

 

「でも、今はそれどころじゃあないんでしょう?」

「ああ」

 

 このような状況――いや、コハルとて何が起きているかを全て理解するのは無理がある。しかし、彼女から見れば、保護すると言って突然眠らされたかと思えば、訳の分からない部屋で私に起こされた、という風に写っているに違いない。そのような状況下で取り乱さないのは、コハル自身が持ち合わせた胆力の賜であろう。

 

「状況説明は後で良いわ。とにかく、私に何か用があって皆より先に起こしたんでしょう? 今は、私が何をすればいいのかだけ教えて」

 

 頭が切れ、強力な能力を持った能力者、三島コハル。

 だが、彼女には致命的な弱点がある。

 それは、コハル自身が自分の能力を誤解していることである。

 

 だが、私は他の飯島モグオや郡セイヤといった強力な能力者を差し置いてコハルを選んだのには、理由がある。

 単純な話だ。どのみちナナオの前で能力を使うことはできない。ならば、能力よりもその頭脳を優先すべきだと考えたからだ。

 

 そして、もう一つ。

 コハルに、話しておくべきことがある。

 思い出したのだ。

 三島。どこかで聞いたことがある名前だった。

 ジンは恐らく、事実を知っている。あえて私に教えなかったのは、私自身に思い出させるためだ。

 

「コハル。お前の父親は、ずっと前に亡くなっているらしいな」

「ええ、それが何か――」

「お前も気付いているはずだ。殺されたんだ。そしてきっと犯人は、私の両親を殺したのと同じ人間だ」

 

 私は話した。

 私のパパ、そしてコハルの父親について。

 

 以前、ジンやモエと、委員会の施設に侵入した。その時に持ち出した資料に書かれてあった。

 私のパパとコハルの父親の間には、親交があった。委員会が行う能力者弾圧について、その他数名と共に告発することを計画していた。

 だが、計画は失敗した。

 私の両親もコハルの両親も、みんな殺された。

 私達が殺すはずだった、“人類の敵”に罪をなすりつけて。

 

 私とコハルの間には、大きな違いがあった。

 それは能力者か否か。

 殺す側か、殺される側か。

 

 ある意味、私は幸運だったのだ。

 へまをすることさえ無ければ、殺されることはなかったのだから。

 

「そう」

 

 私は言うべきことを言い終える。だが、コハルは顔色一つ変えない。私はむしろ、そのことに疑問を抱いた。

 

「……驚かないのか?」

「そりゃあ驚くわよ。でもそれも、私――いや、私達が予想したうちの一つの答えだったの」

「私達?」

 

 私は首を傾げる。遠くで聞いていたキョウヤとモエも、同じように不思議そうな顔をした。

 

「私の能力を忘れたのかしら? ……ヒヨリ、出ていらっしゃい」

 

 コハルが宙に向かって手招きをする。その時、何もない空間から――いや、それは間違いだ。確かにコハルには見えていたのだ。

 コハルと瓜二つの少女。ヒヨリが姿を現した。

 

「お姉ちゃーーーーーーん! 会いたかったよぉ!!!!!」

「そんなに大きな声を出さないの。……柊、ありがとう。気を遣わせたみたいね」

「いや、私は――」

 

 ヒヨリを目覚めさせてはいない。

 いや、そもそもヒヨリの入った箱など、どこにも無かったのだ。

 

 確かに、コハルを目覚めさせれば、同時にコハルの内包するヒヨリの人格が表出する可能性はあった。

 だが、そうでなくても良いとは思っていた。ヒヨリを安全な地下施設の中に置いておくと言えば、ヒヨリも納得するだろうと思ったからだ。

 

 キョウヤが駆け寄ってくる。

 

「おい柊、目覚めさせるのは一人だけという話ではなかったのか、これでは――」

「いえ」

 

 私はキョウヤに向き直る。そしてまるで、鴉が黒い鳥であることを説明するかのように、さも当然のことだと言わんばかりの顔で、こう答えた。

 

「コハルさんとヒヨリさんは、二人で一人なんです」

 

 

 

 

 

 私、キョウヤ、モエ、そしてコハルとヒヨリを合わせて計五人。順に梯子を登り、地下室を出る。だが問題が二つあった。

 

「柊。ここの入り口はどうする?」

「あ……」

 

 なんとか開くことはできたものの、閉め方が分からない。いくら人気が無い倉庫とはいえ、誰かに侵入されない保障はない。一応手動で扉を閉じることは可能だが、力を入れると簡単に開いてしまう。これでは、どうぞ入って下さいと言わんばかりの状況である。

 

「何か適当に板でも置いて隠しておくのはどうかしら?」

「そうだな、なるべく避けたいが……最終手段だな」

 

 私とコハルが唸っていると、モエが地下室の扉目がけて走ってくる。何事かと思いよく見ると、大きなコンクリートブロックを両手で抱えるようにして持っている。

 

「モエちゃん、何をして――」

「ええーーーーーーーい! です!!」

 

 ごおん! と音を立ててブロックが衝突する。扉立て付けが少し歪んだ。

 

「おい真壁、何のつもりだ」

 

 キョウヤがモエの肩を掴んで抑えつける。モエは足をばたつかせて抵抗した。

 

「ドアを開かないように歪ませるです! そうすれば、誰も入れないです」

「そんな無茶苦茶な――……いや」

 

 案外、理にかなっているのではないか?

 この地下空間の存在に気付く人間はそういないだろう。だとすれば、偶然立ち入った人間の目を誤魔化せればいい。

 どうせ私達は人数がいるので最終手段として物理的に扉を破壊することができる上、ジンの救出に成功すればテレポートなり何なりで簡単に中に入ることができる。

 

「そうですね、やっちゃいましょう!」

「……ねえお姉ちゃん、しばらく見ない間に柊はおかしくなっちゃったのかな?」

「だめよヒヨリ。あまり見ないで」

「おい何だ二人とも。あとキョウヤさんもそんな引き気味で見てないで助けてください。あの、聞いてますか?」

 

 

 

 

 

 キョウヤが用意した自転車は三台。一方、ここに居るのは私、モエ、キョウヤに加え、コハルとヒヨリの五人。

 一昔前ならさもありなん、特に後ろ盾のない私達が二人乗りなどをして補導された日には、作戦どころの騒ぎではない。

 

「タクシーでも捕まえるか? 金ならいくらか持ってきている」

「自転車は?」

「ここに置いていこう。余裕があればまた取りに来ればいい」

「ですね」

 

 倉庫の前の道路は、開発を諦められただけのことはあり閑古鳥が鳴いているが、少し歩くと大通りに出た。もうスマホを隠す必要性もないので電話や配車サービスなんかで呼んでもよかったのだが、少し待っていると向こうから一台のタクシーが走ってくるのが見えた。キョウヤは手を挙げてそれを呼び止める。

 

「どうした? 乗るぞ」

「いえ……そう言えば、タクシーって何人まで乗れるのかな、と思いまして」

「あ……」

 

 運転席を除き、一般的なタクシーは四人乗り。自転車を乗り捨てたは良いものの、これではどのみち乗れないではないか。

 もう一台待つか? しかし……

 私がそう考えていると、モエが声を上げた。

 

「モエが走って帰るです!」

「いやでもモエちゃん、ここからだとかなり距離が――」

 

「その必要はないわ」

 

 私とモエの間に割って入ったのは、コハルだった。

 

「? コハルさん? 一体――」

「だから、その必要はないと言っているの。もうヒヨリが走って行ったわ。場所はさっき聞いた住所近くのコンビニで待ち合わせることにしてあるわ」

「あ――」

 

 以前、ヒヨリは足が速い、とコハルが自慢げに話しているのを、ちらと聞いたことがあった。

 当時、私はそれについて何とも思わなかった。

 

 だが、今は――

 

「さ、行きましょう。折角キョウヤ君が奢ってくれるんだもの。人の厚意を無下にしないのもマナーというものよ」

 

 

 

 

 

「じゃ、私はヒヨリを迎えに行って来るわ」

 

 キョウヤが代金を支払っている間に、コハルはそう言って一足先にタクシーを降りた。

 引き続き、私とモエもタクシーを降りる。無闇に入るところを晒したくないので仕方ないのだが、アジトからは少し離れた場所だった。

 

「……」

「? キョウヤさん、どうかしましたか?」

「いや何だ、三島が、ヒカリといったか、妹を迎えに行ったわけだが――」

「ヒヨリさんですね」

「ああそうだ。迎えに行ったのは結構だが、いくら足が速いと言っても、まだ――」

 

「キョウヤさん、それは杞憂ですよ」

「何だと?」

「あーーっ、戻ってきたです!」

 

 モエが指を差す。確かに、コハルがヒヨリと一緒にこちらに向かって歩いてくる。

 流石のキョウヤも、これには目を丸くしている。その隣で、私は口元を抑えながらこう言った。

 

「ヒヨリさんは、とっても足が速いんです。それはもう、信じられないくらいに」

 

 

 

 

 

「なるほど、事情は分かったわ」

 

 私の淹れた茶を啜りながら、コハルはそう言った。

 テーブルを囲むのは、私とコハルの二人だけ。キョウヤは何やら調べたいことがあると言ってどこかに行ってしまった。ヒヨリとモエは、少し離れたところで紙飛行機飛ばし大会をして遊んでいる。案外、仲が良さそうだ。……ひょっとするとヒヨリが気を遣ってモエに合わせているだけかも知れないが。

 

「やっぱり、驚かないんだな」

「ええ。さっき倉庫でも同じようなことを言ったけど――元から柊のことは少なからず怪しんでいたし、今更といった感じね。それで、橘ジンを助ける手段や作戦、それとも他に何か心当たりはあるのかしら?」

「ない」

 

 私が躊躇いもなくそう言うと、コハルは拍子抜けしたように溜息をついた。

 

「呆れた。殺人鬼の美少女の名も廃れたものね」

「別に名乗った覚えはないが。それよりも――」

 

 私はコピーしていた例の資料を差し出す。コハルはきょとんとしながら、それを受け取った。

 

「コハル、私は今から、お前の考えていることを言う」

「あら、お得意の“心を読む能力”かしら?」

「そういうことにしておいてくれ。――『なぜ、大した能力を持たない自分が、真っ先に起こされたのか』だろう?」

「……」

「その答えが、これだ。悔しいが、今の私では、鶴岡やナナオに勝てない。強力な能力者であろうと、ナナオの前では無効化されてしまう。だからコハル、お前の力が必要なんだ。ここで私と、作戦を練ってくれ。そういうのは得意だろう?」

 

 コハルは受け取った資料をぺらぺらとめくる。一通り目を通した後目の前に置き、茶を飲み干し、不敵に笑みを浮かべながら、言った。

 

「素敵ね」

 

 

 

 

 

「柊たちに協力するのは構わないわ。ただ、条件を出してもいいかしら」

「条件?」

「ええ。条件と言うよりは、お願い、に近いのだけれど」

 

 そう前置きをしてからコハルが私に申し出たのは、丸一日の休暇。

 それも、私と一緒に、である。

 

「ヒヨリは一緒じゃなくてよかったのか?」

「今日はね」

 

 コハル曰く、これは“デート”らしい。

 一応我々は追われる身なので迂闊な行動は避けたいが、コハルが条件として言うなら仕方ない。私は甘んじて受け入れることにした。

 

 まず真っ先に向かったのは、ショッピングモールに入っている服屋だった。

 チョイスを間違えなければ誰が着ても似合いそうな服が大量に並んでいる。そう、平凡であれば平凡であるほど良い。私はそこで、以前ジンとショッピングモールに乗り込んだときとほとんど同じようなシャツ、それと帽子を持ってレジに並ぶ。

 

「……コハル、どうしてお前も全く同じ物を持っている」

「双子コーデよ」

「お前の妹は私ではなくヒヨリだろう?」

「ヒヨリは今モエちゃんと遊んでいるわよ」

「いや、そういうことを聞きたいわけではないんだが」

 

 暫く待ち、レジの順番になる。私は、コハルが手にしていたシャツと帽子を引ったくり、自分のものと一緒に店員に差し出した。

 

「会計、一緒でお願いします」

「あら、優しいのね」

「ろくに現金も持っていないだろう。今日だけだ」

 

 レジで値札を外してもらい、試着室で着替えて店を出る。私の一歩前を歩くコハルを見る。確かに、今なら姉妹だと言われても納得する……かもしれない。

 

「あら? その調子だとミチルちゃんが帰ってきたらヤキモチを焼かれちゃうわよ」

「……そういうのじゃないぞ」

 

 

 

 次にコハルと一緒に向かったのは、アイスクリームの店だった。

 私でも聞いたことのある有名チェーン。小さい子供を連れた人や若いカップルで、そこそこの列になっている。

 

「……これ、並ぶのか?」

「ええ」

 

 先ほどの服屋の列より長い。しかも、購買意欲を煽るためかなんだか知らないが、何故かここだけ屋根はなく、日差しが差し込んでくるのだ。

 だが……それもこれも、コハルの条件に含まれると言うなら仕方ないという話だ。私が悪態を口にしながら列に並ぶと、一歩遅れてコハルも私の後ろに並ぶ。その手にはいつの間にかチラシが握られており、あれやこれやとアイスクリームのフレーバーを吟味している。

 

「……おい、私の財布があるのをいいことに高い物を注文するつもりじゃないだろうな」

「あら、ケチな女の子はモテないわよ?」

 

 結局、私もコハルもシングルサイズを注文した。

 

 私はシンプルなバニラ味、コハルはストロベリー味のアイスクリームを手に、空いているベンチに腰掛けた。

 

「そう言えばこのアイス、柊の髪色に似ているわね」

「は?」

 

 そうまで言っておいて、何事も無かったかのようにアイスクリームを口にするコハル。

 正直なところ、こういった食べ物は苦手だ。

 

 いや――苦手、というと語弊がある。昔、両親に甘い菓子を与えてもらったことはある。だがそれ以来、私は一度として口にしていない。

 だが、折角買った物を一口も手を付けないわけにもいかない……と一口、スプーンで口に運ぶ。

 

「……」

「あら、とってもいい顔。そんなに美味しいなら、私にも一口くれないかしら」

「……あげないぞ」

「これも“要求”のうちだと言ったら?」

「…………一口だけだぞ」

 

 私はアイスクリームのカップを差し出す。コハルはそれを受け取ることなく、手で制した。

 

「あーん」

「……は?」

「あーん」

「…………」

 

 これも“要求”だとでも言うのか。

 やむを得ない。私はスプーンでアイスクリームをすくい、コハルの口に――

 

「あら、あそこにいるのはミチルちゃんかしら」

「!?」

 

 私は咄嗟にコハルの指差した方向を見る。

 ……誰もいない。いちゃつくカップルが何組かいるばかりだ。

 私は振り返る。コハルは、にやにやと笑みを浮かべながらアイスクリームを頬張っていた。

 

「嘘よ」

 

 

 

 

 

 その後も私はコハルに言われるがまま、コーヒーショップやアクセサリー店、ゲームセンター、極めつけは話題の映画を観たりなんかをした。コハルは財布を持っていないので、当然私が出すことになる。次々と高額な物を要求されるのかと警戒していたが、意外にもコハルは見て回ることを楽しんでいるようで、あれこれと要求されるようなことはなかった。

 

「名残惜しいけど、そろそろ帰りましょうか」

 

 ショッピングモールの屋上。朱に染まった陽が落ちてゆく。

 私はこの光景を知っている。島から見た夕日。

 今、私の隣にはコハルがいた。風に靡くショートカット。少しの間、私は見蕩れていた。

 

「なにかしら? ミチルちゃんじゃなくて残念?」

「いや」

 

 今日が終わるのが寂しかった。

 寂しいのだ。私は。

 

 以前、ミチルに言われた。

 『お友達です』と。

 私には友達がいなかった。

 もしも、私が普通の少女として幼少期を過ごし。

 普通の学校に進学し。

 そこでミチルやコハルと出会っていれば、きっと。

 

 こんな夕焼けは、日常の一部だったのだ。

 

「ねえ柊」

 

 振り返る。世界が紅く染まる。

 幻覚? いいや、これは現実。

 ただ、その瞬間、確かに私達二人は、たった二人だった。

 

「私と、どこか遠くへ行かない?」

「二人で?」

「そう、二人で」

 

 コハルが、何の用もなく私を呼び出すとは思えなかった。

 その、本当の要件がこれか? いいや。

 

「真の幸福に至るのであれば、それまでの悲しみはエピソードに過ぎない」

「……誰かの詩か?」

「さあね」

 

 私には分かっていた。コハルは、私を試しているのだ。

 

 幼い頃、苦汁を飲み、辛酸を舐めて過ごしたのは、私もコハルも同じだ。

 だから、私達二人なのだ。

 きっと誰にも理解されない。ただ、私には理解できてしまうのだ。

 

 ミチルや、他の生徒達を救う覚悟はあるのか。

 救ったところで、私自身に未来は無い。

 私の罪が、消えることはないのだから。

 

「それでも、やめるわけにはいかない」

「みんな、柊のことを責めるかもしれない」

「構わない。私は、それだけのことをしてきた」

 

 日が沈む。気付くと、屋上には私達二人しか居なかった。無意識のうちにコハルが能力を使ったのか。

 いずれにせよ、無能力者の私には計り知れない。

 

 目が合った。正面から向き合う。コハルの瞳は、澄んだ藍色。

 先に目を逸らしたのは、コハルだった。

 

「いいわ。帰りましょう」

「……いいのか? てっきりもっと高い菓子やアクセサリーなんかを要求されるものだと――」

 

 そう言いかけた時、コハルが人差し指で私の唇に触れた。

 

「鈍感な女の子はモテないわよ。言ったでしょう? “デート”だって」

 

 

 

 

 

「あ、おかえりなさい! です」

 

 アジトに戻った私を出迎えたのは、モエだった。

 アジトの中は土足だが、少し靴を脱ぎたい気分だ。

 

「汗をかいたので部屋で着替えてきます」

「柊、そんなに私とお揃いの服が嫌だったのね……」

「えーーっ、ナナしぇんぱいひどいです!」

「は?」

 

 ぎゃあぎゃあと騒ぐモエを余所に、私は部屋に戻る。綺麗な椅子もベッドもないが、そっと床に腰を下ろす。心地良い疲労感。私は靴下を脱いだ。

 

「柊、ちょっといいか」

「キョウヤさん?」

 

 部屋の扉を叩く音。気配はキョウヤ一人。私が返事をすると、キョウヤは扉を開けて入ってきた。

 

「いやなんだ、お前さんには伝えておこうと思ってな」

「なんでしょう」

「今日の日中、ヒヨリがいなくなった」

「…………!?」

「で、今ふっと湧いて出たように現れた」

「…………」

 

 私は頭の中で、いくつかの仮説を立てる。コハルの能力は、幻覚を見せること。その能力によって、ヒヨリという妹を私達の頭の中に投影している。発動条件は不明だが、現状ではかなりの距離が開いていても使える。が、それに限界があるのだろうか。

 もう一つは、単純に能力を連続で使う時間だ。今日のようにコハルが一人で行動した場合、ヒヨリは長時間モエやキョウヤの目に触れていたことになる。何らかの時間制限があって、連続使用時間を超えたのだろうか?

 

 確かめる術はないが――

 

「お前さん以前、コハルとヒヨリは二人で一人、みたいなことを言っていたな、あれは一体――」

 

 その時、再び誰かが私の部屋の扉を叩いた。

 

「柊? 入って良いかしら」

「……ああ」

 

 コハルが入ってくる。手に何かを抱えている。

 

「……なんだ、それ」

「私、今になって思ったの。折角のデートなんだから、お揃いのアクセサリーでも買えばよかったって。でも、もう帰って来ちゃったから……代わりに、これをあげるわ」

「なんだこれは」

 

 コハルが私に手渡したのは、レトルトパウチのように閉じられた袋。密閉されており中は見えないが、このパッケージから察するに――

 

「昆虫食の専門店があったから、こっそり買ってきたの」

「いらないです」

 

 

 

 

 

「今日は早めに寝た方がいい。特に柊と三島は疲れているだろう」

「遊んできただけなので差し支えないですが……」

「楽しかったようで何よりだ。だが、疲れるものは疲れるだろう」

 

 キョウヤに促され、私達はそれぞれ部屋に戻った。

 明日から、コハルと立てた作戦を実行に移す。それなりに気力と体力の要求されるタイムスケジュールになる。

 服を着替え、ベッドに潜る。しかし、どうにも寝付けない。これは果たして緊張のせいか。それとも。

 

 暫くベッドに蹲った後寝るのを諦め、起き上がる。そう言えば、明日のスケジュールの中には食事の時間が考慮されていない。まあ、一食や二食抜いたところで作戦には問題ないが――皆はそうとも限らない。何か準備でもしておくべきか、と部屋を出る。

 ジンの用意したアジトには、キッチンと呼べるほどのものではないが、簡単な水回りと調理器具がある。私がそちらに向かおうとすると、キョウヤとばったり鉢合わせた。

 

「キョウヤさん?」

「お前さん達の食事でも用意しておこうと思ってな。俺は食べなくても死なないが、お前さん方はそうもいかないだろう。ところで、柊はどうしたんだ? 眠れないのか?」

「いえ、――まあ、そんなところです」

 

 キョウヤを手伝うという体で、私も調理に混ざることにした。

 なぜかやる気満々なキョウヤに任せてしまってもよかったのだが……それほど料理が得意でない私が手を出すのは、一抹の不安が過ぎったからである。

 

「柊、わさびはどこに置いてあるか分かるか?」

「ありません。それから、キョウヤさんがいま手に持っているのはからしです」

「まいったな……サンドイッチにはわさびを入れるものだと聞いたのだが……」

「……?」

 

 キョウヤは鼻がきかない。が、そういうレベルの話でもなさそうだ。

 サンドイッチくらいなら、私にも作れないこともないだろう。不死身のキョウヤならともかく、訳の分からないものを作られて食中毒なんかを起こされた日には作戦どころの騒ぎではなくなってしまう。

 

「私がやります。キョウヤさんは座って見てて下さい」

「いや、しかし……」

 

「こんな夜中に二人で何騒いでるの」

 

 振り返る。そこに立っていたのは、パジャマ姿のコハルだった。

 

「柊……私とは遊びだったの……?」

「そうなのか? 柊」

「なんでキョウヤさんまで乗っかってるんですか

 

 およよと鳴き真似をしながら、コハルはぐいとキョウヤを押しのける。ついでに私も押しのけられる。

 

「柊だって料理は苦手でしょう。私がやるわ」

「いやしかし……」

「柊」

 

 コハルが包丁を手にしたまま振り返る。なぜか笑っている。

 

「どうして食パンに塩が塗られているのかしら」

「食中毒のリスクを減らせるかと思って」

 

 

 

 

 

 五人分のサンドイッチを作り終え、私達は部屋に戻る。

 時刻は午前三時。明日の出立は七時。多少であれば徹夜をしても一切問題は無いが、明日から作戦決行だ。

 少しでも寝ておこうと、薄い布団の中に蹲る。目を閉じると、優しいあなたがいた。

 

 私は問いかける。

 どうして、私の手を離れてしまったの、と。

 

 答えはきっと、私の中にある。

 私がそれを、思い出したくないだけだ。

 あなたを救ったところで、私の罪が消えることはないのに。

 

 あなたは何も言わない。

 口をつぐんだまま、静かに笑っている。

 

 夢を見るのは珍しくなかった。

 だけど、夢の中のあなたは、ここのところ、いつもそうして笑っている。

 

 まるで、死人を想うようだ。

 あなたはちゃんと、生きているのに。

 

 伸ばした手は空を切り、指先で掻いた空気が泡となり、消える。

 誰かが私の肩に触れる。

 私は振り返る。

 

「柊、起きて。朝よ」

 

 気が付くと、もう外は明るくなっていた。

 ほんの少ししか眠っていないのに、頭は不思議なほどに軽く、冴えている。

 

「ああ、すぐに準備する」

 

 

 

 

 

『自転車を回収するにしても人数分はないし、徒歩で移動するのが無難ね』

 

 コハルの提案通り、私達はアジトを出て歩く。

 この間はやむを得ずタクシーを使ったが、あまり良い選択肢とは言えない。タクシーには必ず防犯カメラがあるからだ。今私達はみな目立ちにくい服を着、帽子を深く被っている。委員会の手がどこまで伸びているかは不明だが、目立たないに超したことはない。

 

 目的地は、コハルとも二人で行ったショッピングモール。アジトからは歩いて20分ほど。可能な限りリスクを減らし、また最悪の場合二手に分かれることを考慮し、私とコハル、キョウヤとモエとヒヨリの二班で、少し離れて歩く。

 

「……別れるのは私も賛成だが……どうしてこの組み合わせなんだ?」

 

 コハルとヒヨリの事情を知っている私からすれば、二人は同じ班にいるべきだろう、と私は思った。

 

「あら、分からないかしら?」

「?」

 

 コハルに促され、私も振り返る。……昨日もこんな感じだったのだろうか。ヒヨリとモエ、キョウヤの三人で談笑している。

 

「……ああ」

 

 思いの外、キョウヤも楽しそうである。

 

「私達も何か面白い話でもしましょうか」

「面白い話?」

「そうね、例えば――」

 

 ぴたり、とコハルが立ち止まる。

 何の真似だ? コハルの顔を覗き込むと、完全に固まっている。

 

「――あれ、ミチルちゃんかしら」

「おいコハル、その面白くないギャグなら昨日もう――」

「違うの柊。よく見て」

 

 コハルが指を差す。私達の目の前。

 夏空。今更、私は気付く。

 あまりにも、私達以外の人影がないことに。

 アスファルトから熱気が立ち込め、空気を揺らす。

 

 その先に、ミチルがいた。

 一振りのサバイバルナイフを手に、立っていた。

 

「ミチルちゃん……?」

 

 見紛うはずもない。私が手を離したあの日から、幾度となく夢で見た姿。

 

「お久しぶりです、ナナしゃん。あの、お部屋でお会いして以来ですね」

 

 緊張感を帯びた声。誰かに操られているか、脅されている? 何のために?

 ――いや、これはミチルの意思ではないか?

 

「みなさんが今から行く場所は分かっています。鶴岡さんのところですよね? 私が案内します」

「……」

「ただ、ナナしゃん一人だけです」

 

 私達を隔てるのは、ほんの数メートルの空間。

 違う。その間にあるのは、一振りのナイフ。

 

 あの気弱なミチルがナイフを握りしめ、私と対峙しているという事実。

 どれほどの覚悟を持って、そこに立っているのか。

 

「……分かりました」

 

 キョウヤ達は少し離れたところでこちらを注視している。コハルはわざとらしく、私に耳打ちをした。

 

「柊、作戦はどうするのよ」

「どうせ目的地は同じです。私一人でやってみせます。ただ――」

 

 ちらと後ろを振り返る。きょとんとするヒヨリと目が合った。

 

「ヒヨリさんに尾行をお願いできますか?」

「何言ってるの。ヒヨリは……」

「できないんですか?」

 

 今度はコハルと目を合う。先に口を開いたのは、コハルだった。

 

「できるに決まってるわ。ヒヨリは、私の妹だもの」

 

 

 

 

 

 ミチルの歩幅に合わせ、私は歩みを進める。

 私達の間に、以前のような会話は無い。ミチルの仕草からは、気まずさは感じない。それは、私だけが一方的に感じているだけである。

 誰かに操られている風でもないが、相変わらず周囲に人影はまばらで、誰一人として私達に注意を向ける者はいない。

 

 誰かの視線を感じ振り返ると、物陰に隠れるヒヨリの靴の先がちらと見えた。どうやら、うまく尾行してくれているようである。

 

「着きました。入りましょう」

 

 果たして、ミチルに案内されたのは、例のアパートだった。

 

「ここに、鶴岡さんが……?」

 

 私がそう独りごちると、ミチルがすっと頭を下げる。

 

「ごめんなさい。鶴岡さんはいません。ここには、私一人しかいません」

「? ミチルちゃん、一体――」

 

 ミチルの手には、ナイフが握られている。

 さっき会ったときから、ずっとである。

 あるいは、私はもっと早くに、その可能性を考慮すべきだったのだ。

 

「ナナしゃん。何も言わなくていいです。ただ、一緒にいたいだけなんです」

 

 ミチルはナイフを両手で握る。

 その刃先が向けられているのは私ではなく、ミチル自身。

 

 

 

 

 

「ハンガーストライキというものを知っているか」

 

 鶴岡が、部屋の中にいるジンに声を掛けた。

 

「もちろん知っているがね。それが?」

「不思議だとは思わないか? 交渉とは本来、互いの対価を天秤に乗せ、どちらに傾くかを争うようなものだ。だが、ハンガーストライキというものにはそれがない。いわば失う物が無い“無敵の人”が交渉のテーブルに着く」

 

 ジンはもう拘束されていない。何故か、いつのまにか縄を解いてしまうからだ。しかし能力で脱出できるということはなく、部屋に閉じ込められたままだ。

 

「言いたいことがあるならはっきり言いいたまえ」

「つまりだ。テーブルの前に弱者が立ったとき、唯一差し出せるものは何だ、という話だ」

 

 鶴岡は、犬飼ミチルを柊ナナの元に向かわせた。それは、いつもの様にマインドコントロールで操ったのか?

 ――否。答えは既に、ミチルの中にあった。

 

「自らの命を賭け、交渉する他ないだろう」

 

 

 

 

 

「ミチルちゃん、何を――」

「こうするしかなかったんです。私には」

 

 ミチルは話し始める。

 私の呼吸を確かめるように、ぽつりぽつりと。

 ミチルは既に計画を知っている。以前この場所で、私が話したのだ。よく覚えている。ミチルはそれを聞いて、肯定も否定もしなかった。

 だが、ミチルがその計画を受け入れるはずがなかったのだ。

 

「こんなこと、言いたくなかった。でも、言います」

「……」

「ナナしゃんは、間違っています」

 

 私は、何も言い返せなかった。

 間違っていることなど、とうの昔から分かっていた。

 今に始まったことではない。両親が殺されてから、私は疑いもせず鶴岡や委員会に従っていた。人を殺し、善人の皮を被って生き延び、そしてジンの計画に手を貸した。

 果たして、私の人生で、正しいことなど存在しただろうか?

 

 ミチルはナイフを強く握る。

 刃先が、首筋に触れた。

 

「ナナしゃん。最後のお願いです。私と一緒に来て下さい。でないと、私は――」

 

 わかった。

 ミチルちゃんの言うとおりにする。

 そう言おうとした。

 

 だが、私の声は掠れ、乾いた音が鳴るだけだった。

 

 私だって、ミチルと一緒にいたかった。

 だが私には、私を信頼してくれた仲間がいた。

 私はそんな彼らを裏切れるのか?

 

 ――できない。

 できるはずもなかった。

 

 そんなのよりも、もっと良い方法がある。

 柊ナナ。お前は殺人鬼だ。

 あの鶴岡という憎たらしい男から、一体何を学んだ?

 

 プライドを捨て、生き延びる方法?

 

 違う。

 

「ミチルちゃん」

 

 私はミチルに歩み寄る。ナイフを持つ手に、そっと触れる。

 ――震えていた。

 

「本当のことを言わなくても構いません。でも、私の話を聞いて欲しいんです」

「……」

「ミチルちゃんの覚悟は伝わりました。きっとこうすれば良いと、鶴岡さんに言われたのでしょう。こうすれば柊が仲間になる、と。じゃあ、私が従わなかった場合は?」

「……それは」

 

 このナイフで、自らの首を掻き切る?

 いいや。きっと、そんな想定は話していないのだ。

 

 私はナイフの柄に触れる。固く握られていたように見えたミチルの手は簡単に解け、ナイフはからんと音を立てて床に転がった。

 私は、ナイフを拾い上げる。

 

 その時だった。

 

「ハッタリでも何でも、おれを楽しませてくれさえすれば生かしてやろうと思っていたのだが――やれ」

「!?」

 

 ふいに両腕が動かなくなる。

 ジンの念動力? いいや。

 

 部屋の前に、鶴岡と中島ナナオがいた。

 これは、ナナオの能力?

 

 私の腕は、ひとりでに持ち上がる。

 ナイフを握ったまま。

 

「ミチルちゃん、逃げて」

「ナナ、しゃ……」

 

 ミチルは動かない。

 違う。動けないのだ。

 

 私は全身に力を込める。だが、身体は思うように動かない。

 私の脳が、それを拒んでいる。

 あと数ミリで、ナイフがミチルの喉に触れる。

 避けられない。

 私はぎゅっと目を瞑る。

 

 ――その時だった。

 

 部屋の外で、衝撃音。振り返ることもできない。が、声ですぐに分かった。

 

「ミチルちゃん!!!」

 

 ヒヨリだった。部屋の外で様子を窺っていたヒヨリが、駆け込んできて、ミチルを突き飛ばした。

 

「役者は揃ったようね」

「柊、遅くなってすまない」

「モエも準備ばっちりです!」

「……皆さん」

 

 私達を尾行していたのはヒヨリだ。だが、皆もその後ろに控えていてくれていたのだ。

 

「柊、あなたらしくないわね」

「……すまない」

「責めてないわ。それに、そんなにしおらしくされても張り合いがないわ」

 

 コハルは私の手からナイフを抜きとる。そしてそれを、鶴岡と中島ナナオに向ける。

 

「役者は揃ったわ。覚悟はいいかしら?」

 

 

 

 

 

 少し時は遡る。

 私とコハルが作戦を練っている時のことだ。

 

「ねえ柊。私、ふと思ったんだけど……能力って、超能力みたいなものかしら」

「……は?」

 

 コハルの言う意味が分からない。首を傾げる私に、コハルはなおも真剣な表情で頬杖をついた。

 

「超能力は超能力よ。テレビなんかでやってる人がいる……」

「ああ」

 

 なるほど。確かに、テレビをつけると透視やら何やらで能力者らしい能力を使っているのを見かける。広義では、占いなんかもそれにあたるだろう。

 

「そもそも、あれは本当にやっているのか?」

「殆どは仕込みの偽物でしょうね。でも、本物が紛れていても不思議ではないと思うの」

「その“本物”が、ここの生徒達なのでは?」

 

 私はそう言うと、コハルはなるほど、と呟き、手を打った。

 

「柊、心を読む能力で私の考えていることを当ててくれないかしら?」

「……私をからかって楽しい」

「正解」

 

 当然、コハルは私が心を読む能力なんて持っていないことを知っている。と言うか、聞くところによれば、かなり早い段階から私の能力を疑っていたそうだ。

 

「柊が今までこころを読んでいたのは、どうやっていたのだっけ?」

「表情や声色、そして仕草だな。無意識下の動作には感情が表れやすい」

「じゃあ、目隠しされたら能力は使えなくなる?」

「それがどうかしたのか?」

 

 コハルはいそいそと台所へ向かう。そして、何かを手に取って持ってきた。

 

「それは……」

「飯島モグオや郡セイヤのような、物理現象に干渉する能力はどうしようもないわ。ただ――中島ナナオのように精神に影響する能力ならば、或いは――」

 

 目が隠れては心を読めないのと同じように、精神に影響を与える能力は何かしらの伝達を行っていると?

 そんな話は聞いたことが無い。だが、縋るのも憚られるような小さな糸口でも、手繰り寄せぬわけにもいかない。

 

 危険な賭だ。全く聞かず、笑いものになる可能性もある。

 だが、私もコハルも、頼るべきものがあまりに少なすぎた。

 

 私達は二人で、折り紙を折る要領で形作る。

 

「どうしたの柊。ぐちゃぐちゃになっているじゃない」

「折り紙はあまり得意では無いんだ。悪いか?」

「あら? 前衛的な造形も素敵だと思うわよ」

 

 

 

 

 

「役者は揃ったわ。覚悟はいいかしら?」

 

 コハルが高らかに宣言する。

 その様子を見て、鶴岡が苦笑を漏らした。

 

「滑稽だな。そこにいる小野寺キョウヤはともかく、お前たちは揃いも揃って大した能力を持たない者ばかりだ。最強の能力者と謳われた橘ジンも、今はおれの手中にある。この状況下で、お前達はどう戦う?」

「心配には及ばないわ。――皆、あれを」

 

 作戦通りに。私達は皆一斉に、“あれ”を取り出し、頭にかぶった。

 

「ふふっ……ははははははは!」

「貴様らは馬鹿なのか? まさか、そんなもので中島ナナオの能力を破れると思っているのではあるまいな」

 

 中島ナナオは指を差して大笑いする。

 私達が被ったのは、アルミホイル。アルミホイルを丸め、帽子のように模ったものである。

 

「能力と言っても、超常現象と一括りにできるものではありません。物事には理由があります。私は考えました。もし、中島さんの能力が、未知の電磁波か何かを通して私達に伝えられるのであれば、これで防げるのではないか、と」

「柊ナナ。人類の敵と行動を共にして、気でも触れたか? ――中島」

 

 刹那、身体の自由が奪われる。これは、中島ナナオの能力。

 中島ナナオの能力の本質は、人間の脳に干渉することである。ジンの念動力のように直接的に肉体に干渉するわけではない。

 

 アルミホイル程度で中島ナナオの能力が防げるとは、私だって思わない。だからこそ、私とコハルは賭けたのだ。もしも予想が当たっているとすれば――私達の勝ちだ。

 

「付き合ってられん。やれ」

 

 鶴岡が中島ナナオに拳銃を手渡す。

 

 その時だった。

 

 引き金を引こうとした中島ナナオは、自分の手に拳銃が握られていないことに気が付いた。

 何が起こった? いや、答えは明白だった。

 

 一人の少女が、完全に油断していた中島ナナオの手から、拳銃を抜き取ったのだ。

 

「お前……どうして動ける」

「この帽子を被ってるからに決まってる、です!」

 

 私達の中でただ一人。真壁モエが拳銃を構えていた。

 

 

 

 

 

 再び、時を遡る。

 私とコハルがアルミホイルで帽子を作っていると、モエが眠そうに目を擦りながらやって来た。

 

「二人とも、何やってるですか? 寝ないですか?」

「モエちゃん……」

 

 私はコハルにアイコンタクトを送る。怪しまれてはいけない。コハルは小さく頷いた。

 

「モエちゃん、よく聞いて。実は……この作戦の主役は、あなたなの」

「えーーっ、モエがですか!?」

「だから、今日はゆっくり休んで欲しいの」

「わかりました、です!」

 

 びしっ、と敬礼する真似をし、モエは立ち去る。

 私とコハルは、胸をなで下ろした。

 

「……作戦を聞かれてしまっては、どうしようもないからな」

「そうね」

 

 中島ナナオの精神干渉が、どのように作用するかは釈然としない。当然、こんなアルミホイル程度で防げるものではないだろう。

 だが、それでいいのだ。

 私達は仮説を立てた。中島ナナオの能力は、能力の無効化である。だとすれば、彼が人を操るのは、人に行動の選択肢を提示するものではない。

 人の理性や思い込みにつけ込み、“その行動以外の選択肢を奪っている”のだ。

 

 私達はこの帽子を使って、モエに催眠をかける。

 中島ナナオの能力を逆手に取る。“自分には能力が効くはずがない”とモエに思い込ませさえすれば、中島ナナオの能力の影響を抑えられる。

 これは、誰よりも思い込みが激しく、愚直で真っ直ぐなモエにしかできないことだ。

 

「柊、仲間を弄ぶ気分はどう?」

「そんなにいい気分じゃないな」

 

 

 

 

 

「お前……どうして動ける」

「この帽子を被ってるからに決まってる、です!」

 

 私達の中でただ一人。真壁モエが拳銃を構えていた。

 アルミホイルの帽子くらいで、中島ナナオの能力は防げない。現に、私やキョウヤ、コハルも動けていない。

 

「ナナしぇんぱいとコハルしぇんぱいが、モエのために作ってくれたです! これのお陰で、モエはいま無敵です、ですよね?」

 

「そうね」

「そうだな」

 

 大嘘である。

 

 流石の鶴岡と中島ナナオも、これには面食らう。なんせ、鶴岡の拳銃は既にモエに渡ってしまっているし、中島ナナオは武器など最初から持ち歩いておらず、丸腰なのである。

 

「動かないで下さい。少しでも変な行動を取れば……撃ちます、です」

 

 外で鶴岡の仲間が控えている可能性もある。モエがそこまで考えていたかどうかは分からないが、いい判断だと言える。

 鶴岡と中島ナナオは顔を見合わせ、答えた。

 

「真壁モエに脅される日が来るとはな……いいだろう、貴様の言うとおりにしよう」

 

 

 

 

 

 中島の能力の影響が外れる。

 身体の硬直が解け、力が抜ける。モエ以外の全員が、その場に膝をついた。

 

「柊。お前の要求はなんだ?」

「要求……」

 

 言いたいことは、山ほどある。

 ミチルは目の前にいる。今更、鶴岡が再び彼女を懐柔することは無いだろう。

 

 だとすれば、私達の真の目的は何だ?

 生徒たちを、その能力から解放することだったはずだ。

 

 橘ジンの力で、彼ら能力者を集めることには成功した。だが、その先はどうだ? いくら橘ジンが最強の能力者で、あれほどの設備を用意できるほどの力があったとして、私達が生きている間に目的を果たすことはできるのか?

 

 ――それは、きっと不可能だ。

 だとしたら、私がすべきことは一つ。

 

「鶴岡さん。大事な話があります」

「……ほう」

 

 私は振り返る。皆が、私の背中を見ていた。

 

「……皆さん。すみませんが、鶴岡さんと二人にしてもらえませんか。大事な話があります」

「柊。お前さんがやろうとしていることは概ね見当がつくが、俺達が部屋を出た瞬間撃たれた、なんてことにはならないだろうな」

 

 キョウヤの言うことはもっともだ。しかし、私にはそうはならないという確信があった。

 なぜなら――鶴岡の目的は、私を殺すことではないからだ。

 

「鶴岡さん。銃を捨てて下さい。それと同時に、皆には部屋から出てもらいます」

「……良いだろう。柊、いい目だ。流石、おれが仕込んだだけのことはある」

 

 

 

 

 

 私は話した。

 計画について。そして、それを成し遂げるには、私たちの力では到底及ばないこと。

 

 私が話すまでもなく、鶴岡は私の計画や作戦など、とうの昔に知っているだろう。それでも手を出してこなかったのは、ジンの隠した施設をついに突き止められなかったか、はたまた知った上で私を弄ぶために泳がせたか。

 

「聞こう、柊。幸運にも貴様はいまこの瞬間、おれよりも優位に立った。人殺しの柊ナナが奇跡的に得た仲間のお陰でな」

「負け惜しみですか?」

「好きに捉えるといい」

 

 この状況下でなお、鶴岡が本当に私の要求を呑むことにしたのか、はたまた何か奥の手があるのかは疑問である。

 

「研究に協力してください。私たちの目的は、全ての能力者を、その能力から解放することです」

「確かに、おれにはそれを実行に移すだけの権力も、金もある。だが、それをすることによって、おれに何の得がある」

「ご自分の立場を分かってらっしゃいますか?」

「理屈で人は動かんよ」

 

 鶴岡はその場に座り、足を組む。

 

「柊、座れ。一つ、昔話をしよう」

 

 鶴岡は私に座るよう促す。私は鶴岡の姿を見下ろしながら、首を横に振った。

 

「……まあいい。いつの話だったか――これは、貴様がおれの麾下に入り、まだ日が浅かった頃の話だ。意地悪な親戚をたらい回しにされている貴様を、おれは引き取る形で軍に受け入れた。

 もう気付いてはいるだろうが、おれが全て仕組んだ。心の壊れた少女を作るために、な。

 

 “人類の敵”という架空の存在を流布し、それに対抗するために能力者を動員する。この筋書きに懐疑的な国民は存在する。貴様の両親もそうだった。だが、柊ナナ、貴様は知らなかった。だから、おれが教えた。“人類の敵”とは、能力者のことであると。

 それは嘘だ。だが、今の貴様なら、どこまでがおれの本心かも分かるだろう。

 

 人間は醜い。手に余る力を与えれば、暴走する。やがて、我々無能力者を脅かす存在になり得る。それは偽りではなく真実だ。我が物顔で人知を超えた力を振りかざし、人間社会を破壊する。貴様だって見てきたはずだ。島の中での、能力者たちの横暴を。

 

 確かに、犬飼ミチルのような善なる能力者がいたことは認めよう。だが貴様とて、疑ったのではないか? この少女が、何か後ろ暗いものを抱えているのではないかと。

 

 同じだ。何も違わない。

 我々には、良い能力者と悪い能力者を区別する術など、何一つないのだ。

 

 だがそれは、我々無能力者だって同じだろう。

 

 かつて貴様はこう言った。

 人間は既に空も飛べるし、念動力より早く人を殺すこともできる、と。

 その通りだ。無能力者は知恵と技術で能力者を上回る。

 

 だが、多くの人間が見落としている。いや、見ぬ振りをしているのだ。

 おれや貴様のように、心に化物を飼う無能力者の存在を。

 

 柊、貴様は賢く、優しい。だが、誰よりも能力に振り回されているのは、貴様だ。

 

 貴様が選んだのは、おれとは違う道だ。だが、その行き着く先が、“能力者コールドスリープ計画”とは――

 滑稽だとは思わないか。能力者が普通の人間と変わらないと言ったのは、貴様自身だ。

 

 ならば、能力を消すことの意味だって分かるだろう。

 能力者は既に、“人類の敵”ではなくなった。

 だが、彼らの中に化物を見出してしまった。

 それをしたのは、おれではない。柊、貴様自身だ」

 

 人間のふりをして生きる、化物たち。

 それは鶴岡でも、学園の能力者たちでも、ましてや人類の敵でもない。

 私自身だった。

 

「それでも――もう、引き返すわけにはいかないんです」

 

 私は足下に転がっている銃を拾う。撃ち方は、鶴岡から教わっていた。

 銃口を向け、引き金を引く。

 それを見て鶴岡は、微動だにしない。

 

 撃て。

 撃てば、全てが終わる。

 協調の道は潰えた。なら、障害は排除すべきだ。

 

「おれを撃てるか、柊」

 

 それはきっと、ついに私が撃たないことを知っているからだ。

 

「撃たないのか? ならおれが代わりにやってやろう」

 

 鶴岡が私から銃を奪い返そうとする。引き金を握っていた力が抜け、銃弾はあらぬ方向へ飛び、床に弾痕を残した。

 

 撃たなかった。

 いいや、撃てなかった。

 鶴岡への反逆を決めたときから、覚悟していたのではないか?

 彼を、この手で殺すと。

 罪の無い人間を大勢殺しておいて、今更私は躊躇うのか。

 目の前にいる、一人の人間を殺すことを。

 私は。

 

 鶴岡が私に銃口を向け、引き金を引く。

 

 抵抗すべきだ。

 まだ、成し遂げなければならないことがある。

 能力者を、みんなを、ミチルを救う。

 そのために、まだ、やらなければならないことがあったはずだ。

 

 なのに、どうして私の足は動かない?

 

 ああ、それは――

 

「愚かだな、柊」

 

 銃弾が、私の足を貫いているからだ。

 

「――――ッ!」

 

 右足の膝。皮膚が裂け、肉が抉れる。

 たまらず私はうずくまり、右足を抱えるようにして倒れ込む。飛び散った血が、服に染みた。

 

「下らんな。このまま放置しても、貴様はいずれ死ぬだろう」

「……私を、どうするつもりですか」

「どうもしない。貴様は道端の小虫を踏みつけた後、丁寧に供養するのか?」

 

 出血が酷い。急いで止血しなければいけない。

 なのに、意識が朦朧とし、ここから一歩も動けない。

 

 思えば、こんなことは初めてではない。

 そうだ、島にいた頃も、こんなことがあった。

 

 鶴見川という能力者に、背を刺された。

 痛かった。だが、意識ははっきりとしていた。

 それは、目的があったからだ。

 

 それに引き換え、今の私はどうだろう。

 立ち去ってゆく鶴岡を、制止することもしない。

 ただ、その背中と、自分の足から流れる血を眺めている。

 

 ――部屋の扉が閉まる。

 

 意識が朦朧とする。

 助けを呼ぶか? いや――

 キョウヤたちはすぐ近くで控えているはずだ。鶴岡が外に出てくるのを見て、来てくれるかもしれない。いずれにせよ、この足で立って歩くのは不可能だ。

 

 銃弾は貫通している。摘出の必要はない。私は撃たれた足にハンカチを押し当てる。

 傷口が擦れ、激痛が走る。その痛みが、私の記憶を攫った。

 

 ミチルを庇い、鶴見川レンタロウに刺された。傷口は抉れ、骨に衝撃が走る。

 あの時に比べれば、どうということはない。あの時に比べれば――

 

 出血が止まらない。

 助けを求めた手が、空を切る。

 私は一人だった。

 ずっと一人だった。一人でも平気だった。

 

 だから、こんなにも一人が辛いはずがなかった。

 

 視界がぼやける。

 目を閉じる。

 

 指先に触れる。

 誰かが、私の名前を呼んだ。

 

「――ゃん、ナナしゃん」

 

 頭が重い。両手で目をこすり、恐る恐る視界を開く。

 ……明るい。私は再び瞼を閉じる。

 

「ナナしゃん、起きて下さい。朝ですよ」

「……」

 

 目の前に、エプロン姿のミチルがいた。

 枕元には、目覚まし時計とスマホ。私はそれを手に取って確かめる。着信は入っていない。

 

 私は起き上がる。

 

「顔を洗って、テーブルで待っていてください」

 

 ほのかな味噌の香り。

 味噌汁の葱を刻む音。

 米の炊ける音。

 

 ミチルに言われるがまま、私は顔を洗い、ぼうっとしたまま服を着替え、テーブルについた。

 

「さあ、できましたよ」

 

 テーブルに並べられたのは、白いご飯に味噌汁、ほうれん草のおひたし。卵焼き。

 朝から手が込んでいる。こんな朝食は、いつぶりだろうか――

 

 ……いや、私は何を言っているのだ?

 ミチルは毎日私に朝食を作ってくれる。食べ終えた後は、二人で学校に……

 

「ナナしゃん、お水を取って頂けますか?」

「あ、はい」

 

 私がミチルのコップを受け取ろうと、手を伸ばす。

 その時だった。

 指先がコップを弾き、テーブルから滑り落ちる。

 

 破裂音。

 ガラス製のコップは散り散りになり、私の足下に――

 

 赤黒い液体が広がっていた。

 

「ッああああああああああああああああああああっっっ!!!」

 

 右足の激痛。

 私は目を覚ます。

 

「――ゃん、ナナしゃん!」

 

 私の手を握っていたのは、ミチルだった。

 

「あ……ぁあ…………」

 

 声が掠れる。喉の奥が焼けるように痛い。水。水が必要だ。

 人間は、およそ2リットルの血液を失えば生命活動を維持できないと言われている。私が気を失っていたのは一瞬だ。だが、その間にどれだけの血液を失った?

 

 視界が失われてゆく。

 私を呼ぶ声が聞こえる。

 

 こんなところで終わるのか? 私はまだ何も成し遂げられていない。

 私は――

 

 もう、いいんじゃないか?

 

 私には能力がない。もし本当に心を読む能力なんかがあれば、さぞやり易かったことだろう。

 私は与えられなかった。それにしては、よく頑張った方ではないか?

 

 結局私に、人を救うだけの力なんてないのだ。今までだって、運良く生きながらえ、善人と勘違いされて救われただけだ。

 私は、とっくの昔に死んでいたのだ。

 終わりにしよう。

 パパと、ママに会いたい。

 

 なのに。

 なのにどうして――

 

 傷口が熱くなっていく。ミチル。ミチルの手だ。

 助けられる保証はないのに。自分だって、無事でいる保証はないのに。

 

 私は、あなたを能力から解放したかった。

 その願いは、ついに果たされることはない。

 

 もういいじゃないか。

 このまま死なせてくれ。

 ミチルちゃん。私の、大好きな人。

 あなたには、私を助ける力がある。

 でも、私にはない。

 一人では何もできない。私は無能だ。

 

 私はあなたを救えない。

 それでもまだ、あなたは私に罪を背負えと言うの?

 

 

 

 




あとちょっとだけ続きます


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リバイバル

 

 これは、初めから終わりまで、私だけの物語だった。

 

 

 

 

 

 私に触れる、少女の手のひら。

 あたたかい。

 この温もりを、私は知っていた。

 

「助けなきゃっ…………早くッ……!」

 

 あの時と同じだ。

 傷口は燃えるように熱いのに、感覚が麻痺して痛くない。布きれ一枚で抑えきれるような傷ではなかった。激しい失血で視界は閉じ、声も微かに聞こえるばかりである。それなのに、傷口に触れられる感覚だけは残っていた。

 

(声が……出ない)

 

 また。

 まただ。

 私のことなんて放っておいてくれ。

 どうせ私なんかいなくても、キョウヤやジンがうまくやってくれるに決まっている。

 意味なんて無かった。

 

「ナナしゃんは……いい人なんだから…………っ!」

 

 違う。

 違う。違う。

 意味の無いことをするな。

 私は誰も救えない。

 私は、最初から最後まで、ずっと無能だった。

 

 あの時。

 鶴岡と対峙した瞬間。

 機会はあった。私の銃口は、間違いなく鶴岡の心臓を捉えていた。

 引き金を引かなかったのは、私の甘えだ。

 もう二度と人殺しをしない。そんな浅はかな祈りに、私は殺された。

 

 目前の敵をみすみす見逃し、返り討ちにあった。

 私には、お似合いの死に様だ。

 

 そのはずだったのに。

 

「ナナしゃん、ごめんなさい。私は信じられなかったんです。でも、誰よりも知っています。ナナしゃんが、誰よりも私達のことを想ってくれていたことを…………!」

 

 私の頬に、何かが落ちた。

 涙。

 ミチルの涙だ。

 どうして。

 どうして私なんかのために、涙を流すの?

 それじゃあまるで――

 

 

 

 

 

 そうして、私は目覚める。

 幸せな夢を見る。

 

 私は罪を背負わず、息を吹き返す。

 ミチルは死んでいない。

 誰一人、死ぬことはなかった。

 ヒカルもレンタロウも生きている。

 ヒヨリはコハルと同じ部屋で暮らしている。

 ジンは捕まっていない。

 計画なんて、はじめからなかった。

 

 ……本当に?

 本当に、幸せだった?

 

 私は一人、反芻する。

 口ずさむ。

 

 その歌を、聞く者はいない。

 

 

 

 

 

 部屋の中にいた。

 島にいた頃。私の部屋の中。

 私はミチルからもらった枕に、顔を埋めていた。

 それは確かに、手に触れられる形を持って存在した。

 それは夢。幸せな幻覚。

 だが、どこからが幻なのか、私には分からなかった。

 

「ミチルちゃん、今なにしてるかな……」

 

 部屋の窓を叩く音。

 それが誰なのか、私は既に知っていた。そして、この後起こることも、私には分かった。

 

「しばらく会えなくなるとか言っていませんでしたか?」

「猫は自分勝手なものだろう?」

 

 ジンは私に、ミチルの危機を伝えに来たのだ。

 部屋を飛び出す。

 走る。

 走る。

 電話の音。

 私はスマホを地面に叩き付ける。

 すぐに、着信音は遠くなった。

 驚くほど、速く走れた。

 やけに多い街路灯。

 私が駆けた後に、砂埃が舞う。

 

「能力者同士が勝手に殺し合うのは、好都合だ」

 

 なら、どうして私は足を止めない?

 

 

 

 物音が聞こえた。

 風が木々を揺らす。

 誰かの声。

 

「許さないぞっ……!」

 

 ミチルだ。

 

「あなたがなにを馬鹿にしてようといいですけど、ナナしゃんは……ナナしゃんのことはっ!」

 

 追いかける。

 足下に、何かが触れた。

 私は拾う。

 カッターナイフだ。

 いつか私が佐々木ユウカに突きつけたものと、そっくりだった。

 

 私はカッターナイフの刃を出し、左腕に突き立てた。

 

 ……痛くない。

 これは幻覚だ。

 瞬く間に、傷は消えた。

 

 ミチルが廃屋の壁に追い詰められる。

 何かを話している。

 そして、鶴見川レンタロウはナイフを振りかざす。

 まだ間に合う。

 私なら、止められる。

 止められる筈だ。

 もう傷つくことは無い。

 今度こそ、声が出なくなる前に。

 ミチルに伝えよう。

 

 あなたの代わりに、私を死なせてくれ、と。

 

 私は駆け寄る。

 レンタロウとミチルの間に割って入る。

 ナイフが、私の身体を貫通する。

 血液が噴き出す。

 痛くなかった。

 それは、これが幻覚だからではない。

 

 ナイフが、ミチルの背に刺さっていた。

 

 触れようとする。指先が空を切る。

 ミチルが悲鳴を上げる。

 私は――――耳を塞ぐ。

 

 肉の裂ける音。

 悲鳴はやがて嗚咽に変わり、そうして何もかもが消える。

 血液が飛び散る。

 止めることも抱き締めることもできないくせに、私の身体は赤く染まってゆく。

 これは罰だ。

 あなたを助けられなかった、私への罰。

 

 そうして、全てが朱に染まった時――

 

 

 

 暗転。

 

 

 

 私は部屋の中にいた。

 島の寮ではない。もっと昔。

 パパとママが生きていた頃。私の家の、子供部屋。

 将棋の駒やトランプのカードは、綺麗に片付けられている。

 

 物音がした。

 私はベッドで蹲る。

 リビング。人の気配がする。

 何かの割れる音。物音が大きくなっていく。

 

 あの日だ。

 パパとママが、殺された日。

 

 私はゆっくりと起き上がる。

 何度も考えた。

 もし、あの日に戻れたなら。

 もし、パパとママが生きていたら。

 もし――パパとママと一緒に、私も殺されていたら。

 ゆっくりと歩く。

 小さな身体。

 リビングの扉を開く。

 誰もいない。

 足を踏み入れる。

 テーブルの上には、まだ温もりのある二つの生首。

 私はそっと、その熱に触れる。

 

 

 

 暗転。

 

 

 

 私は一人、夜の海辺に立っていた。

 どうしてここにいるのか分からない。

 どうして生きているのか分からない。

 死にたいと願った。

 一緒にいたいと願った人は、いつも私より先にいなくなる。

 どうして、私を置いてゆくの?

 

 はじめて、一緒にご飯を食べた。

 はじめて、私のために怒ってくれた。

 はじめて、私を理解しようとしてくれた。

 はじめて、私にプレゼントをくれた。

 はじめて――友達ができた。

 

 私を置いていかないで。

 何度も夢に見た。

 あなたが、私を助けて死んでしまう夢を。

 私はまだ、何も報いていないのに。

 

 どうして私を助けるの?

 どうしてそんなに、私のために必死になれるの?

 

 それじゃあまるで――私が、いい人だったみたいじゃないか。

 

 私は振り返る。

 廃屋の側。幸せそうな顔で眠る、少女の姿があった。

 

 押し寄せる波が靴に染み、爪先を濡らした。

 

 いつからそうしていたのか分からない。

 いつまでそうしていたのか分からない。

 気が付くと私はここで立っていて、ただ一人、水平線の向こうを眺めていた。

 

 振り返ると、ミチルがいる。

 私には振り返る勇気がなかった。

 現実に背を向けていたのは、私一人。

 

 頭が重い。考えるのをやめてしまいたい。

 けど、それはきっと許されない。

 

 私はまた、助かってしまった。

 ぬるい潮風に引き摺られるように、私は少女の元へと歩いた。

 

 私は少女を見下ろす。星影ができるほど近付いているのに、少女はぴくりとも動かない。

 ただ瞼を閉じ、人形のように佇んでいた。

 

 私はしゃがみ込み、肩を抱く。

 少女の胸元に耳を当てる。

 

 波の音。

 風が木々を揺らす。

 地面に突き刺さったナイフ。

 柱の軋み。

 脱げて転がった靴。

 ぼろぼろになった制服。

 土埃にまみれたカーディガン。

 こんなに近くにいるのに、あなたの気配だけがない。

 

 流れてゆく。

 あなたとの記憶が流れてゆく。

 これは幻覚?

 確かにそれは、私の内側にあったものだ。

 なのに今、それらは指の合間をすり抜け、ただの一粒も残ってはいない。

 

「やだっ…………やだあああっ――――!!!」

 

 嗚呼。

 私はまた、あなたを救えなかった。

 夢の中でさえ、私は無力だ。

 記憶が消えてゆく。あなたとの思い出が消えてゆく。

 何度も掬い上げようとして、また零れ落ちる。

 そうしてすぐに、零れ落ちたことにすら気が付かなくなる。

 

 

 

 私は一人、夜の海辺で、“人類の敵”の亡骸を抱き締めていた。

 いつからこうしているのか分からない。

 どうしてこんなことをしているのかも分からない。

 

 ただ、一つ気が付いたことがある。

 私が今、悲しいという感情を持っていることだ。

 

 どうしてこんなにも悲しいのか分からない。

 ほんの少しの時間だった。同じ教室で過ごしただけの“人類の敵”。

 

 その時、指先に何か触れた。

 拾う。

 それは、私が少女のために買った、一本のペンだった。

 

 視界がぼやける。

 何故だか分からない。

 私は泣いていた。

 涙を流していた。

 

 私は無能で、人殺しだ。

 それでもなお、前に進むか。それとも、引き返すか。

 どのみち、立ち止まることは許されない。

 やるべきことは、たくさんある。

 きっとすぐに、私は歩き始める。

 

 だけど、今日だけは。

 最後に一度だけ、あなたに甘えることを許して欲しかった。

 許して欲しかったのに。

 

 私は、少女の胸に顔を埋める。

 あなたの匂いを、忘れてしまわぬように。

 あなたの記憶が、消えてしまわぬように。

 僅かに残った熱を、失わぬように。

 

 

 

 朝が来るまでずっと、小さな亡骸を抱き締めていた。

 

 

 

 




ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。