燃え尽きるまで、君の隣で (ペンギン13)
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生きるには早すぎるし死ぬには若すぎる

 優木せつ菜は死んだ。

 

 ゲインを目一杯に上げたマーシャルアンプに、エレクトリックギターと、ファズエフェクターを繋いだだけの音はとても原始的で、剥き出しの暴力性を感じさせる。

 ファズエフェクターのスイッチを蹴飛ばし、フェンダーミュージックマスターの、汗に濡れたネックを絞り上げ、6本の弦にピックを力いっぱい叩きつける。

 シールドケーブルを通し、真空管によって何倍にも増幅された電気信号が、スピーカーキャビネットを揺らし、吐き出された絶叫は、赤く焼けた切れ味の悪いナイフのようで。

 ナイフの切っ先が、せつ菜の衣装の胸元を裂き、真っ白い新雪みたいな皮膚の薄皮を、そして肉を切り開き、内側を露わにする。

 彼女の内側から溢れ出した真っ赤な液体は、歌声となり、その歌声は観客を切り裂き、バンドをも切り裂きバラバラにして、飛び散る血液は燃料で、ガソリンよりも、ニトロよりも、この世界に存在するどんな物質よりも可燃性が高く、途方もない熱量が会場を覆い、さらにさらに、もっともっと、熱く、高く、どこまでも。

 せつ菜は笑う。自らの胸を裂き、進んで自らの血肉を燃やして、子供みたいに笑い、そして歌う。彼女は己の中の全てが燃え尽きるまで、きっと歌い続ける。

 こういう歌い方をする人、音を鳴らす人を、僕は何人か知っている。実際に逢ったことは無い。彼らは遠い昔、僕らが生まれるよりもずっと前に、27やそこらで死んでしまって、彼らと逢うことが出来るのは、銀色の円盤に遺された音楽の中でだけだ。

 

 優木せつ菜は死んだ。

 

 確かにそうなのかもしれない。

 彼女は彼らと同じになってしまったのだから。

 

 

----

 

 

 高校入学を期に姉とふたり暮らしを始めた。学校こっちのほうが近いし、いいんじゃない? という姉からの提案だった。

 10歳以上も歳が離れていて、とっくに実家を出ている姉とはそれまで大した交流がなかったものだから、多少迷ったけれど、電車の乗り換えなしで通学できるのは非常に魅力的だったし、環境を一新するのも悪くないかな。そう思い僕は姉の提案を快諾した。

 そして、その判断は間違いだったと、僕はすぐに思い知らされた。

 

「や、いらっしゃい」

 

 引っ越し初日。僕を出迎えた姉の顔色はゾンビの様で、なんでか半裸だった。背後に見える部屋の光景はまさにゴミ屋敷。つんとした腐臭が鼻をつく。

 こいつはマズい。

 回れ右して帰ろうとする僕の背中に姉は「もう岬の荷物届いてるけど帰るなら処分しておくよ。ギターとか高く売れそう」そんな悪魔みたいなことを言って、僕は泣く泣く姉が手招きする部屋へ足を踏み入れたのだった。

 

 ところで、姉はミュージシャンという、少し説明に困る職業をしている。

 ミュージシャンと言うと、テレビの煌びやかなステージで歌う歌手や、ギターを掻き鳴らすバンドマンなんかを想像するものだけど、僕の姉はそういったステレオタイプなミュージシャン像からはかけ離れていて、あえて言うのなら『音楽のなんでも屋』といった感じだ。

 一番得意にしているのはエレキギター。だけど鍵盤やドラムも人並みに演奏が出来てサポートで呼ばれることもしばしば。

 音楽教室の講師や、個人レッスンも請け負っているとか。

 PCを使った作曲に明るく、インディーズの歌手や地下アイドルグループに曲を提供している。

 サポートでツアーに出たときはひと月くらい家に帰らなかったし、そうでなくても生活は大変に不規則で昼夜逆転は当たり前。曲を作っていないときは大体飲んだくれて寝ているのが日常。

 部屋がゴミ屋敷に、シンクが腐海になるのも理解できる。

 僕が来る前は一体どんな生活を送っていたのか、想像するのも恐ろしい。

 

 だからそんな姉が、僕が学校から帰ってくる夕方の時間に、リビングで紅茶とケーキを用意して待っているなんて、天変地異の前触れのようなもので、何も見なかったことにして自室に逃げ込もうとするけれど、あっさり首根っこを捕まえられてしまって、僕はソファに座らせられた。

 

「岬、ショートとチョコどっち良い? あたしはチョコ食べるけど」

 

「最初から選択肢ないじゃん……」僕は嘆息して「どういう風の吹き回し? ケイコさんが食べ物を人に分けるなんて」

 

「たまには姉らしいこともしないとね」

 

 そういうことなら、ありがたく。「頂きます」ケーキを口に運ぶ。スイーツの良し悪しなんて分からないけれど、少なくともコンビニに売っているやつに比べると上等なものらしいことはわかった。

 食べている最中、じっとケイコさんがこちらを見ているものだから、大変居心地が悪い。

 学校終わりで小腹が空いていたこともあって、僕はものの数分でケーキを平らげた。ご馳走様。するとケイコさんはニッと笑って「よし、食べたね」

 

「食べろって言ったから食べたんだけど……」

 

「そんじゃ、これよろしく。土曜までね」

 

 そう言ってテーブルに放りだしたのは数枚のA4用紙とUSBメモリ。

 ……またか。僕はげんなりした気持ちでA4用紙に目を落とす。五線譜に音符の踊り、小節毎にアルファベットでコードネームが記載されているギターパートの譜面。USBメモリの中身は音源のデータだろう。

 

「……また下手くそな音が欲しくなったの?」

 

「捻くれたこと言わない。あたしが欲しいのはラフな感じの音」

 

 なぜだかケイコさんは度々、自作の曲のギターを僕に弾かせようとしてくる。

 僕自身、小さなころから父さんの友人の、大人げない大人たちに囲まれてギターを弾いているから、周囲の同年代のギタリストに比べれば多少なりとも弾ける方だけども、それはあくまでも素人の中の話であって。

 

「いつも言ってるでしょ。音楽は上手下手じゃないって」ケイコさんはチョコレートケーキを手づかみで頬張って、紅茶を一気に飲み干す。

 

「下手くそだけど音色が良いからね、岬のギターは」

 

「結局下手なんじゃん」僕が言うと、ケイコさんはケラケラ笑い「ふて腐れない。それに今回の仕事は楽だから安心しなよ」

 

「……どういうことさ?」

 

「あたしが教えてるとこでやるイベントのサポート。一曲だけだし楽なもんでしょ?」

 

「だったら、教え子に弾かせればいいのに。なんで僕?」

 

「めぼしい奴がいないから、アンタに頼んでんの。なに、ケーキだけじゃ不満?」

 

「そりゃあ、まぁ」

 

 だって今週の土曜でしょ? 二日で曲を覚えて練習して、初対面の人たちとライブって、正直言って面倒臭い。週末の夜は父さんの友達のセッションに誘われてるし。

 

「よし、それなら姉さんが、何か好きなものを買ってあげよう。それがギャラ代わりってことで」

 

 物で釣り始めたよ。

 出来れば機材がいいな、経費で落ちるから。などとセコイことを言う。

 それならばと、僕は前々から欲しかった、まず手に入らないであろう、市場にほとんど出回らない、ウンと高価なエフェクターを挙げると、ケイコさんは少し考える素振りを見せて、千鳥足で自室に引っ込んだ。

 どたんばたんがしゃんと、棚をひっくり返す物騒な音を何度か響かせて数分、ようやくドアが開いたかと思うと、ほれ、円盤系のエフェクターをこちらに放って寄越した。

 ズシリと重い金属の質感。

 

「……なんで持ってるのさ」

 

「親父のスタジオ行ったときに持ってきた」

 

「泥棒じゃんっ」

 

「親族間の窃盗は罪にならないのだ無知め」

 

 ゲラゲラ笑いながら、全くためにならない知識を披露するケイコさんは「受け取ったんだから契約成立」と、こちらにまた何かを投げた。虚を衝かれた僕は「うわっ」それを顔面で受け止める。

 視界を塞ぐのは布の感触。なにこれ? 服? 

 持ち上げて、眼前に広げてみるとそれは、どこかの学校の制服だった。しかも女子用。

 

「髪とかメイクとかは、やってやるから」

 

「えっ、なに? どういうこと?」

 

「言わなかったっけ、イベントって、虹ヶ咲って女子校の文化祭だから」

 

「聞いてない!」

 

「文句は受け付けない。そんじゃよろしく」ケイコさんはそう言い捨てて再び自室へと引っ込んでしまった。

 

 

 エフェクターを突っ返して、駄々をこねて、ケイコさんを諦めさせるか。女装でギターを弾くことを甘んじて受け入れるか。

 一晩悩んだ。結論は後者だった。

 ああなったケイコさんは、僕が何を言っても聞き入れてくれないだろうし。

 なんといってもこのエフェクターは、ヴィンテージの貴重な品だ、僕の小遣いじゃとても手が届かないし、大人になって稼ぎを得るころには、今よりも高騰していることは間違いない。

 

 ……たったの一回。たった一回女装するだけでこれが手に入るのなら。

 

 翌日、一世一代の決心で「引き受けるよ」徹夜で作業をしていたらしい、目に隈を作ったケイコさんに言うと、当然と言わんばかりに頷いて、除毛クリームを投げてよこした。そこまでしないとダメ?

 

「言い忘れてたけど土曜は顔合わせで、本番は来週ね」

 

「……それって二回女装しろって言ってる?」

 

「一回も二回も変わらないでしょ」

 

「大違いだよ!」

 



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彼女について

 五年ほど前から爆発的に流行し出した『スクールアイドル』という文化。

 発端は東京は秋葉原。黎明期こそ秋葉原特有のオタク文化のひとつと認識されていたそれは、意外にも同年代の女子高生、女子中学生の間で人気を博し、SNSなどの媒体を介して瞬く間に全国へと波及、爆発的なブームとなった。

 今では全国の高校でスクールアイドル部なるものが発足。グループを組み『ラブライブ』という、野球でいうところの甲子園のようなものを目指し日々、切磋琢磨している……らしい。

 らしい、というのは僕自身が進んで知り得た知識ではなくて、虹ヶ咲学園へと向かう道すがら、車を運転するケイコさんが教えてくれたことだから。

 

「アンタ高校生やってて、スクールアイドルのひとつも知らないわけ?」

 

「全く知らないってわけじゃ……」

 

 僕だって高校生なわけで、周囲でスクールアイドルの話題は頻繁に耳にするし、なんなら軽音部で曲をコピーしたことだってある。

 どのグループの曲だったかは忘れてしまったけれども。

 

「それじゃ優木せつ菜は? 今SNSなんかで話題だけど」

 

「……」

 

 沈黙する僕に、ケイコさんは深い溜息。

 

「好きな音楽以外も聴けって言ってるでしょ? おっさん連中に混じってカビ臭いロックばっかやってるから、いつまで経っても童貞なんだよアンタは」

 

「なんだとっ」

 

「違うの?」

 

「……仰る通りです」

 

 いいじゃん別にプロを目指してるわけでもなし。音楽くらい好きにやらせてくれよ。 

 赤信号で車が止まったタイミングで、ケイコさんは後部座席のバッグからタブレット端末を取り出して僕に渡した。

 

「フォルダに動画があるから見てみ」

 

 信号が変わって車が再び動き出す。

 僕は言われた通りにファイルをタップする。それはライブの映像だった。

 客席からスマートフォンで撮影されたらしい映像は手ブレが酷く不明瞭。観客の歓声が大きく歌声は殆ど聴こえない。

 ステージはさほど大きくはない。恐らく小規模なイベントの野外ステージ。それでも照明と観客のもつペンライトの光で照らされる有り様は神秘的にすら見える。

 そんなステージに立ち、熱狂の坩堝を生み出しているのは、たったひとりの女の子。

 

「それが優木せつ菜」

 

「さっき言ってたスクールアイドル?」

 

「そ。今年の春先くらいに姿を現して首都圏のライブイベントを荒して回ってる謎のスクールアイドル」

 

「謎って」

 

「謎なんだよ。所属も、学年も、どこの誰だか全部が謎。ライブイベントに飛び入りして、馬鹿みたいに盛り上げて、気がついたらいなくなってる」

 

 なんだそりゃ、都市伝説か。目的がまるでわからない。さっきのケイコさんの話だとスクールアイドルというのはグループを組んで活動することに意味がある。一人では『ラブライブ』に出場することは出来ないのだ。

 僕は映像を拡大してステージ上の女の子を改めて見てみる。画像が粗く容姿はまったくわからない。

 この子はどうしてこんなことをしているのだろう?

 

「まぁ、その謎もそろそろ明かされるんだけどね」

 

「どういうこと?」

 

 僕が訊ねるとケイコさんはタブレットをちらと見て「アンタが参加するバンドのボーカル、そいつだよ」

 

 

-----

 

 

 そら、着いたよ。ケイコさんはそう言って、車のエンジンを切った。

 車を走らせること30分ほど経って、目的の虹ヶ咲学園に到着した。

 事前に調べていたから、相当に大きな学校であることはなんとなく理解していたけれど、実際に目の当たりにするとその威容に圧倒される。ひとつひとつの施設が僕の通う高校と同じくらいのサイズ感。

 土曜でも部活動のためか、学校指定のジャージや、僕と同じ制服を着た生徒の姿が、道中ちらほらと見えた。

 

 ……そう。同じ制服。

 

 出発前に着替えさせられた虹ヶ咲学園の制服は何故か誂えたみたいにピッタリ。

 昔からロクに運動もせずギターばかり弾いていたから、貧相な身体をしている自覚はある。それでも違和感なく着れてしまうのはそれなりに衝撃だった。

 さらなる衝撃は、ケイコさんがどこからか用意したウィッグを被せられ、メイクを施された自身の姿。

 目立たない印象の黒のセミロング。厚手のストッキングで脚のシルエットは綺麗に隠されている。爪にはもともとの色に近い薄桃色のマニキュアという徹底ぶり。

 仕上げに、太い黒縁の地味な伊達眼鏡と、使い捨てのマスクを着けると、女子高生の出来上がり。

 なんてこった。

 

「ほら、さっさと降りた降りた」

 

 この姿で外に出ることを躊躇する僕を気にもせず、ケイコさんはさっさと車を降りて行ってしまうものだから、僕はギターケースを背負ってその背中を追う。

 うぅ……スカートに吹き込んでくる風の感覚が気持ち悪い。

 広大な駐車場をしばらく歩いて、ようやく建物の中に足を踏み入れる。

 ケイコさんは慣れた様子でどんどん歩いていくが、正直すでに一人で帰れる自信がない。フロアマップが所々に設置されていて、大型のショッピングモールみたい。

 いつの間にか音楽科のエリアに足を踏み入れていたらしい。ギターや管楽器の入ったケースを抱えた生徒とすれ違う機会が増えてきた。並ぶドアも貸しスタジオなんかでよく見かける鉄製の防音扉。

 ケイコちゃんじゃん。やっほ。と友達みたいに声を掛けられる姉の後ろを、僕はカタツムリみたいに縮こまり、ついて行くこと数分、ひとけのほとんど無い施設の最奥、ひときわ大きな防音扉の前でようやく歩みを止めた。

 防音が厳重で、しんとした静けさが辺りを覆っている。分厚いガラスの壁面から陽光が差し込む。

 他の物に比べ大型な両開きの防音扉。清潔な白の壁面に沿うようにコーヒーサーバーと革張りのソファ、ローテーブルが設えられたラウンジ。

 そのソファのひとつに身を沈める女生徒に、ケイコさんは「おまたせ、リカ」友達にするように片手を上げて気さくに言った。

 

「遅刻だよー、ケイコちゃん」女生徒は立ち上がって無表情に言う。

 

「たかが数分でしょ?」

 

「されど数分。他の講師は時間が守れないやつに仕事は回ってこないっていうけど?」

 

「良いことを教えてあげよう。腕があって偉ければ何をしても許されるの」

 

「雇われ講師のくせにエラそー」

 

 教師と生徒の会話か? リカさんという女生徒の、歯に衣着せぬ物言いに唖然とする僕に、その視線が向く。

 

「その子が例の?」

 

 緑のリボンは確か三年生だったか。僕は情けなくケイコさんの後ろで会釈する。

 

「そ。可愛がってあげて」グイとケイコさんは僕を女生徒の前に押しやると「事務に顔出してくるからあとはよろしく」なんて言って、足早に去って行ってしまった。

 

 ……え、嘘でしょ。置き去り?

 

 振り返ると真正面にリカさんの柔和な顔。驚いて身を引こうとするけれど、伸びてきた手が頬に触れて、冷たい指先の感触で僕は凍ったみたいに動けない。

 

「……へぇ。ケイコちゃんには似てないけど、うん、ちゃんと整ってるねー」

 

 リカさんの視線が僕の頭から爪先を撫でる。蛇に睨まれた蛙ってこういうことなんだなとか、もうすっかり、全てを諦めた心地で考えていると、頬に添えられた手と反対の手がスカートの中に入って来て、むんずと、男性の大切な部分を鷲掴みにするものだから「うわぁぁぁ!」僕は悲鳴を上げ転がるように手近なソファの影に蹲る。

 

「なにすんだこの野郎!」

 

「……悲鳴は『きゃあ』でしょ? 今は女の子なんだから」

 

「あっ!」ハッとして手で口を塞ぐけれど時すでに遅し。人の良さそうな笑顔のままでこちらを見下ろすリカさん。

 終わった僕の人生? ……いや、待て『今は女の子』って言った?

 恐る恐る、リカさんを見上げると彼女は「いくらケイコちゃんでも、事情を知らない人間にキミを預けたりはしないってー」笑って言う

 

「リカね。今回のバンドのベーシスト兼バンマスだからよろしくどうぞ」

 

「えっと……御崎岬です」

 

「聞いてはいたけど凄い名前だねー。ゴリラの学名みたい」

 

 変わった名前だとはよく言われるけれど、それは初めて言われた。僕は曖昧に笑ってなんとか立ち上がる。

 

「ケイコちゃんからはどこまで聞いてるの?」

 

「優木せつ菜って人の後ろでギターを弾けって」答えると、リカさんは「あーうん、わかった。最初から説明するねー」そう言った。

 

 

-----

 

 

 優木せつ菜。

 所属不明。学年不明。

 姿を現したのは今年の春先から。公式の音源などは存在せず、動画サイトに投稿された僅かばかりのライブ映像が唯一の記録らしい記録。

 その正体は既に卒業、引退した強豪校のスクールアイドルなんじゃないかとか、実は大手事務所の所属アイドルだとか。

 憶測が憶測を呼び、圧倒的なパフォーマンスと、謎のスクールアイドルという話題性から、気が付けばすっかり全国区の知名度に。

 そんな今をときめく彼女から、虹ヶ咲学園に接触があったのは夏休みが終わってすぐの頃。

 

 虹ヶ咲学園にスクールアイドル同好会を設立したい。

 

 生徒会を通じての接触。相も変わらず正体を明かさずにそのような希望を出してきたものだから、報告を受けた職員室は困惑。

 それでも念のためと理事会にこの話を上げたところ、あることを条件に同好会設立の希望は、まさか承諾されてしまう。

 学園が提示した条件は三つ。

 ひとつは楽曲提供を虹ヶ咲学園音楽科が請け負い、一切の権利を同校が保有すること。

 もうひとつは、来年度の同好会発足までに指定する都内及び近郊の中学校でライブパフォーマンスを行うこと。

 そして最後が今年の文化祭でゲリラライブを行うこと。

 

「音楽科の生徒って他に比べて減っていってるんだ。専門性が強いわりに将来性が無いからね。せつ菜ちゃんの楽曲担当っていうのは、生徒集めの良い話題になると思うよ」

 

リカさんがベースのチューニングを合わせながら言う。「これだけの設備を揃えて廃科なんてことになったら笑い話にならないからねー」

 

 リカさんに連れてこられたスタジオは、父が経営しているレコーディングスタジオの規模とは一線を画していた。月とスッポンとか、それどころの話ではなく、とにかく規模がおかしい。

 僕とリカさんの他、今回の優木せつ菜バンドに集められたメンバーが、各々の楽器のセッティングをしているレコーディングブースは、フルオーケストラが丸々入ってもまだ余裕がある広さ。

 防音ガラスに隔てられたコントロールルームには巨大なミキシングコンソールが鎮座し、本でしか見た事のないような機材が整然と並んでいる。

 聞けば学内の放送設備にも連動しているらしく、昼休みに生徒のライブ演奏が流れることもあるとか。

 とてもじゃ無いけれど、高校の設備とは思えない。

 こんな環境を維持するとなれば、生徒が何人いても足りないだろう。

 

 『でも、どうしてゲリラライブ? 生徒集めが目的なら告知を出した方がいいんじゃないですか?』

 

 僕はスマートフォンのメモアプリに打ち込んで、リカさんに見せる。

 声はどうやったって男なのだから、意思疎通をするにはこうするしかない。 

 

 画面を見たケイコさんは「あー」と頷いて「話題性だよ話題性。学園がSNSにちょこちょこ情報を漏らしてるらしいから、本番は満員御礼だろうねー」

 

『会場ってどのくらいの大きさなんですか』

 

「5000人いかないくらいかなー?」

 

『ちょっとしたアリーナ規模じゃないですか……』

 

「言われてみればそうだ。感覚バグるねー、この学園にいると」

 

 リカさんはチューニングを終えたベースを爪弾きながら言う。

 ……あ、この人上手い。

 

「だけど、申し訳ないけども、岬ちゃんは会場やら観客やらの心配の前に、やってもらわなきゃならないことがあるんだよ」

 

 やらなきゃならないこと? なにそれ?

 

 首をかしげると、ふと背後に視線を感じて、そちらを見るとセカンドギターを務める女生徒と目が合って、すぐに逸らされた。

 ……見られていたというか、睨まれてた?

 

「さっき説明した通り、せつ菜ちゃんのライブはかなり急に決まったものでさ。それが私たちを差し置いての大トリで、そのくせ練習には一度も顔を出さないもんだから、みんな気が立ってるんだよねー」

 

 あぁ、それで。

 スタジオに入った瞬間からのピリピリとした雰囲気はそれが原因か。

 

「で、そこに岬ちゃんでしょ? ケイコちゃんの妹? とはいえさ。文化祭のステージに続いて、ギターまで縁故でねじ込まれて、さすがにバンドのみんな不満爆発なわけなのよねー」

 

『……それで、僕にどうしろって言うんですか?』

 

「そんな難しいことじゃないよ」リカさんはベースをスタンドに立てかけると、指先で僕の胸をトンと突いて「岬ちゃんのギターで、ここにいる全員を納得させてくれればいいだけ」そう言って柔らかく笑う「私もみんなもさ、ヘタクソと一緒には演りたくないから。」

 

 コントロールブースの方に人がぞろぞろと入ってくるのが横目にわかった。明らかに生徒ではない風貌はおそらく講師。何人か雑誌で見たことがある。

 その中にはケイコさんの姿もあって、ケイコさんはこちらに向かって、指でバツを作って見せた。リカさんがそれに肩をすくめて頷き、周囲を見渡して言う。

 

「せつ菜ちゃん、今日も来ないってさー。残念だけど、これが本番前最後の音合わせだから、ぼちぼち頑張ろっか」

 

 一回目は岬ちゃんがリードで、二回目は交代して……。

 テキパキと指示を出すリカさんから離れて、自分の持ち場に戻る。

 

 ……そんな、煽るようなことを言われても困る。ギターで納得とか、よくわからないし。僕に出来ることはただ、父さんに教えてもらったギターを弾くことだけだから。

 スタンドからギターを取り上げて、ボリュームを全開にする。火の入った真空管のノイズがスピーカーから漏れ出し、スタジオ内の気温がグッと上がったように錯覚する。

 ケイコさんの合図で、ドラムスの女生徒がカウントを刻む。僕はいつも通りに、6本の弦にピックを振り下ろす。

 



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迷子。副会長。

 リハーサル後のコントロールブースは紛糾していた。リハーサル自体は滞りなく終わったのだけど、僕と女生徒のどちらをリードギターに採用するかで、意見が割れたのだ。

 それというのもケイコさんが僕に渡した譜面が、本来のものと全く違っていたらしく(僕がもらった譜面はコードのみのシンプルなものだった)、ふたりの演奏の比較がまともに出来ないのだ。

 音楽科で作曲を3年間学んだ生徒が考え抜いた譜面に基づいた精緻な演奏と、僕のほとんど手癖で弾いた演奏の録音が、巻き戻したり早送りしたり繰り返し再生され「演奏が機械的すぎる」とか「ここスケールアウトしてない?」「でもグルーヴはこっちのほうが」とか、そういう話し合いというか、言い合いが始まって、もう30分以上が経過しようとしていた。

 講師陣はリハーサルが終わるなりほとんどが帰ってしまった。残った講師は我関せずと雑談に興じていて、隣に座るケイコさんにいたっては気怠そうに欠伸をこぼしている。仕事しろよ大人たち。

 僕はというと、話し合いに混ざれるわけもないので、不本意ながら唯一気を許せるケイコさんの隣にパイプ椅子を持ってきて所在なくただ佇んでいた。

 先ほどから何度も録音を聴いているけれど、女生徒の演奏の方がいいじゃん。というのが僕の本音で。

 女生徒の演奏は上手かった。とにかくリズムとピッチが正確でミスが無い。こんなに上手な人は同年代では初めてだった。

 スタジオミュージシャン然とした彼女と、ブルースや60年代のオールドロックの影響が色濃い僕のプレイスタイルでは、比較が難しいのはわかるけれども、父の影響でギターを弾いてきただけの僕と、プロを志してきっと血の滲むような努力を重ねてきた彼女を、比較すること自体が申し訳ないような、居心地の悪さがある。

 

「岬、アンタ先に帰ってな」

 

 飽きた、と言わんばかりに何度目かの欠伸を噛み殺しながら「アンタがいると終わらないわこれ」話し合いの輪を見てそう言った。

 つられるように視線の先に目を向けると、リカさんが困ったような、それでも相変わらず柔和な笑みを浮かべて、こちらを見ている。

 ……本人目の前で結論を出すのが気まずいのかな? 

 リハ前のことを思うとそんな、繊細な配慮をしてくれるのが不思議で仕方が無いけれど、居心地の悪さは確かだったから、帰れというのなら喜んで帰らせてもらおう。

 ギターケースを抱えて立ち上がりかけて、はたと思い当たる。先に帰れって、どうやって帰れっていうのだ、こんな格好で。ケイコさんにその旨をスマートフォンに打ち込んで見せると「電車で帰れば?」などと。

 女装して電車なんていよいよ変態じゃないか。

 僕は怒りをぐっと堪えて『駐車場で待ってる』そう打ち込んだ画面を見せて、こっそりスタジオを後にした。

 

 

*****

 

 やはりというか……迷った。

 僕は設置されたフロアマップを見て、改めて虹ヶ咲学園の広大さを改めて痛感する。

 スタジオを出て数分、ケイコさんに連れてこられたときの道をなんとか思い出しながら、音楽科のエリアを歩いていると、方々から「あ、ケイコちゃんの妹だ」「それギター? ちょっと合わせていかない?」と声をかけられるものだから、精一杯の愛想笑いを返して、とにかく人気の少ない方を選んで進んでいった。そして当然のごとく、見事に道に迷った。

 

「だめだ、ここさっきも通ったところじゃん……」

 

 生来、引きこもり気味なところがある僕は、こういう大型商業施設じみた所には滅多に行かないから、縦横に無暗やたらと広い建物は得意ではない。

 人気の無い方を選んだ甲斐あって、生徒の姿は全く見えなくなったけれども、フロアマップを見る限りこの辺りは職員向けのエリアになっているらしく、万一声をかけられたときを考えると、冷たい汗が背筋をつたう。

 

「マズイ、マズイ」呟きながら、僕は未だ慣れないストッキングの脚を捩らせる。

 

 冷たい汗の理由はもう一つあって……トイレ。そう、トイレに行きたいのだ。

 学園に足を踏み入れてから続いていた極度の緊張。それは、リハーサルを終えこうして人気の無いところにひとりになったあたりから、猛烈な尿意へと姿を変え、僕を苛んでいた。

 広大な校舎を歩き回っている最中、何度かトイレを見かける機会はあったけれど、流石は女子校というか、それらは全て女性用で。

 ……いや、今の僕の外見を鑑みれば、女性用のトイレを使うのは、むしろ正しいのだ。理解している。理解しているのだけど……その一線を超えるのはマズイんじゃない?

 フロアマップを指でなぞる。現在地。東へ進んだところに女性用を示す赤いトイレのマーク。

 どうしよう。もういいんじゃないかな。いやさすがにそれは。

 理性と生理的欲求の闘い。理性が圧倒的劣勢。そうやってひとり懊悩していたものだから「あの、大丈夫ですか?」と、背後から声をかけられて飛び上がるほど驚いたし、本当に漏らすかと思った。

 恐る恐る振り返ると、心配そうにこちらを窺う、小柄な女生徒がひとり。アンダーリムの銀縁眼鏡と、三つ編みのおさげ。真面目そうな容姿。

 

「顔色が……もしかして具合が悪いのですか? 保健室にお連れしましょうか?」

 

 いいえ、トイレに行きたいだけです。顔色はこの状況に青くなってるだけです。そんなことを馬鹿正直に言えるわけもなく、僕はふるふると首を横に振る。

 ……選択肢はいくつかあった。

 走って逃げる。これは迷子がより悪化するだけだから無し。

 女生徒の好意に甘えて保健室に連れて行ってもらう。馬鹿野郎、一発で男だってバレる。

 素直にトイレの場所を教えてもらう。この場合、連れていかれるのは間違いなく女子トイレだ。

 どうしたものか。悩んでいると、一向に黙ったままの僕に女生徒の表情が僅かに曇り始めているのがわかった。

 

 悩んでいる時間はない。

 

 僕はスマートフォンを取り出して即座に文字を打ち込んで、それを女生徒の眼前へと掲げて見せた。

 

『トイレに行きたいんです』

 

 理性の敗北だった。

 

 

*****

 

 生まれて初めて入った女子トイレは、小便器が無いだけで男子用とあまり大差なかった。あと信じられないくらい綺麗で広かった。それは虹ヶ咲学園だからだろうけれど。

 そんな風に暢気に感想を抱くくらいに、僕は冷静だった。刑務所に入った人の2人に1人が出戻るとどこかで聞いたことがある。人間はいちど道を踏み外すとそこからは転がり落ちるだけなのかもしれない。

 ……大丈夫、僕はまだ大丈夫。

 恐る恐るトイレのドアを開けて外を伺うと、やはりというか、先ほどの女生徒は律儀に僕を待っていてくれた。

 

『すみません、とても助かりました』

 

「いえ、お役に立てたのなら良かったです」

 

 それで、その……。女生徒が少し言い淀んでから、僕を真っすぐに見て「不躾で申し訳ありませんが、学年と所属、それと名前を教えていただけませんか?」そう言った。

 

 あ、疑われている。間違いなく。

 あんな場所でギターを背負ってウロウロしていれば、それも当然だろう。

 僕はこっそり唾を飲み込んで、スマートフォンに文字を入力する。慌てない。慌てると怪しまれる。

 

『通信課程1年生、御崎岬です』

 

 画面を見た女生徒は「……通信課程?」呟いて首を傾げる。

 

 それは事前にケイコさんと打ち合わせていた設定だった。

 通信課程なら周囲に顔が割れてなくて当たり前だし、名前もどうせ女みたいなんだしそのままでいいでしょ。

 多分、考えるのが面倒くさかったのだと思う。

 

『ごめんなさい。病気で声が出ないんです。姉が音楽科の講師をしているので治ったら通いたいと思っていて、今日はわがままを言って見学に来ました』

 

 これは、今とっさに思いついた設定で。こんな噓八百がスラスラと出てくる自分に少し引きながら、スマートフォンの画面を女生徒にみせると彼女は、しまった、そんな表情を浮かべて、それから腰を90度近くまで深く折って頭を下げた。

 

「知らなかったとはいえ、申し訳ありません。辛いことを言わせてしまいました……」

 

『大丈夫です。気にしていませんから』

 

 ……うっわぁ、罪悪感が凄い。設定考えたやつ人の心とかないの? お前だよ馬鹿。

 ごめんなさい本っ当に。僕は心の中で平身低頭しながら、女生徒になんとか顔を上げてもらう。

 

「すみません生徒名簿で見かけなかったお顔だったもので……。文化祭シーズンに他校の生徒が制服を借りて忍び込む、なんてことが過去の記録にあったのでまさかと思ってしまって」

 

 通信課程の方なら納得です、と一人得心する彼女に僕はギョッとして『生徒名簿って……全校生徒の顔と名前を覚えているんですか?』

 

「はい、もちろん。生徒会の一員ですから」と当然のことのように頷いた。

 

 ホームページで見かけたけど、虹ヶ咲学園は中等部と高等部があって、生徒数は学年あたり千人近くも在籍しているらしく。

 単純計算で高等部だけでも3千人? とてもじゃないけれど覚えきれる人数じゃない。ていうか、いまこの人、生徒会って言った?

 唖然とする僕の視線をどう受け取ったのか、彼女は佇まいを直して。

 

「申し遅れました。1年普通科、生徒会副会長の中川菜々です」

 

 頭がクラリとする。副会長だって?

 今の状況で一番出くわしちゃいけない人じゃないか。

 

「道に迷ってたんですよね? どこに向かっていたんですか、良かったら案内しますよ」

 

 できれば遠慮したいところだけど、ここで固辞しても怪しまれるだけだし、何よりきっと一人ではまた迷う。背に腹は代えられない。僕は震えそうな指で『職員用駐車場までお願いしても良いでしょうか?』そう打ち込んだ。

 

*****

 

 

 中川さんは大変に親切な人で、駐車場までの道中、無言で気まずくならないようにと思ったのか、すすんで話をしてくれた。

 設定上、話せない僕を気遣ってか「学園に来るのは初めてですか? 広くて上級生でも迷う人がいるんですよ」とか「音楽科の御崎先生の妹さんなんですね。御崎先生は……ちょっと破天荒なところもありますけど、とても人気があるんですよ」とか。

 僕が頷くだけで良いような話題を選んで話してくれて、その親切心に、ただただ良心が傷んだ。どうしてこんな良い人を騙してるんだろう僕。

 歩きスマホは良くないかなと思いつつも、喋らせてばかりが申し訳なくて『生徒会とはいえ、土曜にまで学校なんて大変ですね』そう打ち込んで中川さんに見せる。

 

 中川さんは画面を見て「とんでもないです」控えめに笑った。

 

「文化祭は高校3年間で3回ありますが、その学年での文化祭は人生で一度きりじゃないですか。家庭の事情で全てに参加できない人だっています。だから、出来ることなら皆さんにとって良い思い出になる文化祭にしたいんです。そのお手伝いができるのなら、これくらいなんてことありません」

 

 ――私はこの学園が大好きですから。

 

 

*****

 

 しばらく歩いて目的の職員用駐車場へ繋がる出口まで、ようやく到着した。

 やっと、やっと解放される……。

 

『ありがとうございます。本当に助かりました』僕は頭を下げる。

 

「いえ、お役に立てたのなら何よりです」

 

 わざわざ案内してくれたことへのお礼の気持ちと、騙してることに対する謝罪の気持ちを込めて、もう一度深く頭を下げて、外へと向かおうとすると「そういえば」と中川さんが呼び止める。

 

「御崎さんは文化祭には来られるんですか」

 

 どうだろう。話し合いの結果次第だからなんとも言えないけれど、多分きっと落ちてるだろうし。あの感じだとリードギターどころかセカンドギターも難しいんじゃないかな。

 僕は悩んで『わからないです。人混みがあまり得意では無いので』打ち込んで見せた。

 

「そうですか……」と、中川さんは残念そうな表情を浮かべる。ここまで親切にしてくれた人に、そんな表情をさせてしまうことに酷い罪悪感を覚えて『でも、体調が良かったら来たいです』なんて、僕はまた嘘を重ねる。

 

「はい是非! ……最終日。良かったら最終日だけでも見に来てください。きっと凄いことが起こりますから」

 

 それでは。と踵を返して校舎に戻っていく中川さんの背中に、もう一度頭を下げて、僕はケイコさんの車の方へ向かう。

 

 最終日。きっと凄いことが起こる。

 

 なにか確信めいた物言いだった。優木せつ菜のゲリラライブのことを知っているかのような……いや、生徒会副会長なら知っていて当然か。中川さんもスクールアイドル好きなのかな? 全然そんな風には見えなかったけれども。

 

 そうしてようやく辿り着いた駐車場。なのだけど、ケイコさんの車が停まっているはずの場所はもぬけの殻になっていた。

 青くなって電話をかけると運転中らしいケイコさんは「電車で帰ったんじゃないの?」と他人事みたいに言ってすぐに通話を切るのだから、この野郎タクシーで帰ってやる、と思っても実行する度胸はなく。

 天罰なのかな。僕は絶望的な気持ちで、女装のまま電車で帰宅するのだった。

 



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音楽科名物。感じたままに。

 あの悪夢じみた、オーディション紛いのリハーサルの日から数日が経ったけれども、僕がバンドメンバーに選ばれたのかどうか、結果は未だわからずにいた。

 僕と虹ヶ咲学園を繋ぐ唯一の存在であるケイコさんが、あれから仕事が忙しいのか家を空けがちなもので、結果を聞くことができなかったのだ。

 きっと音楽科の生徒でやることになったのだろう。なんとなくそう思った。

 お互いもう二度と会わないだろう相手だから、わざわざ連絡を寄越す必要はない。もしかしたら本当に忘れられているのかもしれない。それならそれでいい。

 そうやって僕は一人で納得して元通り、ケイコさんの言うところの、カビ臭い音楽に埋没する日々に戻っていった。

 もう、あんな女装をしなくて済むのなら、それに越したことはないのだ。

 

*****

 

 ところで虹ヶ咲学園の文化祭は土曜と日曜の2日間に渡って行われる。

 規格外な生徒数と学園の規模から毎年、多くの来客が訪れ、地域を巻き込んだ文字通りのお祭り騒ぎだとか。

 その2日目、最終日にあたる日曜の早朝。僕はスマートフォンの着信音で叩き起こされた。

 

『いまどこー? なにしてるの?』

 

 聞きなじみのない、女の人の声。

 昨日は随分と遅い時間まで、父の友人のライブハウスに入り浸っていたから、起き抜けの、睡眠不足にぼやけた頭はまともに働かず「え、なに。だれ」など、要領を得ない言葉しか出てこなくて。

 そうしていると、受話口から呆れたような溜息。そして通話は切れた。

 

 ……間違い電話かな?

 

 ちらと時間を確認するとまだ午前5時。迷惑なやつだなぁ。

 寝直そう。スマートフォンをその辺に放ろうとすると、液晶が光ってメッセージアプリの通知が。ほとんど惰性で操作してメッセージを開いて表示された画像データを見た瞬間、僕の意識は頭を引っ叩かれたみたいに一気に覚醒して、慌てて着信履歴から電話を掛け直す。

 

『やっほー、起きたー?』

 

「いつの間に写真なんか撮ったんですかっ」

 

 送られてきた画像は、先日のリハーサル中の、ギターを弾く僕の写真だった。

 聞きなじみの無い声は、よくよく思い出すと、優木せつ菜バンドのベーシスト兼バンマスのリカさん。

 

『得意なんだよねー隠し撮り。で、そんなことはどうでもよくて。なに? まだ家いるの?』

 

「こんな時間、学校がある日でも寝てますよ……」

 

『普段は良くても、今日はマズイんじゃない? そこからだとお台場まで結構かかるでしょー?』

 

「お台場?」

 

『あー……もしかしなくても、聞いてない感じ?』

 

 リカさんから話を聞いた僕は青くなって、通話が繋がったままなのも忘れて「僕って優木せつ菜のバンドメンバーに入ってたの!?」隣のケイコさんの部屋に怒鳴り込んだのだけど室内に、ケイコさんの姿は無くて、続いて玄関を見ると靴が無くなっている。

 こんな早くに出掛けた? そもそも帰ってきてない?

 ぐるぐる思考を巡らす僕を現実に引っ張り戻したのは、スマートフォンから聞こえるリカさんの声。

 

『リハ始まっちゃうからさ、とりあえずさっさとこっち来てよ』

 

「そう言われても、自分じゃ化粧とか出来ませんし……」

 

『この間みたいにウィッグ被って、眼鏡とマスクしとけば、なんとかなるってー』

 

 なんとかなるのか? ていうか、ケイコさんがいないってことは、また電車に乗るの? あの格好で?

 

 ……もういっそ、バックレちゃおうかな。

 

 そんな僕の考えを見透かしたように『逃げたら岬ちゃんの可愛い姿が全世界にー』などと、恐ろしい言葉とともに通話が切れて、続いてメッセージアプリの通知が連続する。

 

「何枚撮ってんの、あの人……」

 

 通知欄に並ぶ自身の痴態に、気が遠くなりそうになりながらも「行きます! すぐに行きますから!」メッセージを送信し、とりあえずは制服に着替えることにした。

 

 

*****

 

 

 最寄りの新宿からお台場までは、どうやったって1時間以上かかる。

 さらにお台場に到着してからも学園内で迷って、会場のメインアリーナへと辿り着いた頃には、既にリハーサル開始から1時間近くが経過していた。

 僕一人が遅刻したところで、リハは滞りなく進行しているようで、アリーナは濃密な音楽で満たされている。

 バスケットコート4面ぶんくらいの広いフロアにずらりとパイプ椅子が並ぶ。それを見下ろすように、フロア全体を囲む観客席。窓は全て暗幕で覆われていて薄暗い。煌びやかな照明がリハーサル中の演者を本番さながらに彩る。

 フロアの最奥に設えられたステージの威容は、とても学園祭のものとは思えない本格的なもので、段積みになったJBLのスピーカーが唸り、低音が腹を突き、全身の骨を揺さぶる。

 インカムに怒鳴り声を上げながら右往左往するスタッフの邪魔にならないように、小さくなりながら、客席でリハの様子を見物する生徒の中に、リカさんの姿がいないものかと探していると「おーい、こっち」と、大音量の隙間に呼ぶ声が聞こえて、見るとリカさんを始めとした、前回のリハで顔を合わせたせつ菜バンドのメンバーが、比較的音が小さい、アリーナの隅の方で勢揃いしていた。

 

「本番の日に遅刻とかいい度胸だよね」「ケイコちゃんの妹なんだし仕方ないでしょ」「血は争えないね」「顔すら見せない優木さんに比べればマシだって」

 

 好き放題に言い合う女生徒たちを「あんまりイジメないであげなってー」リカさんが緩く諫める。

 ケイコさん学校でもそんな感じなんだ。本当に教師やってて大丈夫? ていうか、優木せつ菜は当日のリハにすら参加しないつもりなの?

 何かと不安になってくる僕に、リカさんは「これあげる」冊子を渡して寄越した。

 B5サイズのそれは学園祭のパンフレットだった。パラパラとめくって見ると、各クラスや部活動・同好会が行う催しの紹介が記載されていて、流しそうめん同好会とか、存在そのものが気になるものがちらほらあったけれど、僕が目を留めたのはタイムテーブル。

 膨大な催しの数々。上から下までびっしりと埋まったタイムテーブルには、所々に蛍光ペンでマークされている箇所があって、そこにはなぜか、岬ちゃん、と僕の名前が書き込まれているのだ。

 

『なんですか、これ?』僕はスマートフォンに入力して、件のタイムテーブルと一緒に、リカさんに見せる。

 

「見ての通りだよ。線引いてるとこが岬ちゃんの担当ねー」

 

 どういうこと? 首を傾げる僕にリカさんは「音楽科名物ってやつだよ」そう言って、周囲のバンドメンバーと顔を見合わせてニヤリと笑った。

 

*****

 

 

 虹ヶ咲学園の学園祭は、部活動・同好会の数に比例してとにかく、出し物が多い。

 バスケットボール部やソフトボール部みたいな、運動部はそれぞれユニフォーム姿で、焼きそばやたこ焼きなんかの屋台を出店している。

 演劇部などの文科系の部活動は、自分たちの活動の発表の場として舞台や創作物の展示を行う。

 それだけで、もう回り切れないくらいの量なのに、先述の流しそうめん同好会のような変わり種も相当数あるのだから、いよいよ混沌としてくる。

 そして、それらのほとんどで必要とされるのが音楽だった。

 

「いつくらい前からかは知らないんだけど『生演奏の方がお客さん集まるんじゃない? 音楽科にお願いしよう!』とか言い出した先輩がいたらしくてさー」と他人事みたいに言ったのはリカさん。

 喫茶店同好会のジャズ喫茶での演奏。服飾同好会のファッションショーでのBGM。演劇部の劇伴。カラオケ同好会ののど自慢大会の伴奏。などなど音楽科へのリクエストは多数。

 

 音楽科名物、というのはつまるところ、学園中のありとあらゆるクラス・部活動・同好会からの生演奏の要求にどうにか応えよう、というもので、リカさんから半ば強制的に参加させられたメッセージアプリの音楽科グループは、通知がひっきりなしに鳴り続けていて

 

「トランペットひとり来て今すぐ!」「弦切った!近くに持ってる人いない?」「アンプ煙吹いた誰か助けて!」などと、まさに阿鼻叫喚。

 

 僕の方も指定された場所に向かうと「ギター弾けるならベースもいけるよね!? ルート8分で刻んでくれればいいから!」とエレキベースを押し付けられたり。

「エレキはいいから、アコギでお洒落っぽいやつ弾いてくんない?」とてもざっくりとしたリクエストを貰ったり。

「ケイコちゃんの妹? ならドラムもいけるね!」無理くりドラムセットに押し込められて、父の友人に少しだけ教わったドラムをやけくそで叩いたり。

「ギター弾けるならピアノもいけるよね!」どうしていけると思った?

 

 そうして、ただっ広い学園中を右往左往して、多種多様なステージをこなしていると、天辺にあったはずの太陽は大分傾いて、いつの間にか優木せつ菜のライブまで幾許かという時間になっていた。

 

 

*****

 

 

 メインアリーナの関係者口から、楽屋へと向かう。

 学園祭も佳境。楽屋代わりのロッカールームは大変な賑わいで、ステージを終えたらしい女生徒たちが衣装のまま興奮気味に言葉を交わし合っている。

 女生徒たちは通路まで溢れ、ステージで何かミスをしたのか蹲り泣きじゃくる生徒を励ます姿や、抱き合いこれまでを称え合う姿や、純度100パーセントの青春を横目に、なんとなく居心地が悪い僕は知っている顔が無いかと探していると、ある意味で一番会いたいと思っていた人物、頭にキャラクター物のお面なんて着けて、お祭り気分丸出しのケイコさんを見つけた。

 向こうもこちらに気が付いたようで、おっす、気さくに声を掛けてくる。

 

『おっす、じゃない! 僕がどれだけ苦労したと思ってんだ!』叩きつけるようにスマートフォンの画面をタップして、入力した文字をケイコさんに見せる。

 ケイコさんは目をパチクリさせてから、押し付けられた様々な楽器を背負う僕を見て「可愛そうに、音楽科名物に巻き込まれたんだな。でもそれなら文句はリカに言えって」

 

『ち・が・う! 僕が優木せつ菜バンドのメンバーになってたってどうして教えてくれなかったのさ!』

 

「言ってなかったっけ?」

 

 言ってないよぉ……。全く悪びれないケイコさんの様子に怒りを通り越して脱力する。すると、いまさらになって疲労と空腹がどっと押し寄せてきた。そういえば朝から何も食べてないじゃん。

 ケラケラ笑いながらフランクフルトを齧るケイコさんが恨めしい。こちとらマスクが外せないから、楽屋前に並んだケータリングを失敬することも出来やしない。

 じっとりとした視線をケイコさんに向けていると、ステージの方からひと際大きな歓声が聞こえた。

 優木せつ菜のステージを除いた、全ての演目が終了したらしい。

 ステージを降りた演者たちがやってきて、女生徒たちから、お疲れ様、良かったよ、と次々と声をかけられる。

 その中から数人が輪を外れて、タオルで汗を雑に拭ったり、ドリンクを煽るように飲んだり、それは見ると優木せつ菜バンドのメンバー。ずっとステージに上がっていたのか、いつもは柔和な笑顔のリカさんの表情もどこか険しい。

 ケータリングを掻き込んでいたバンドメンバーのひとりが僕に気が付いて「岬ちゃんじゃん」それから何人かが寄ってきて「音楽科名物どうだった?」「なにその恰好、一人でバンドやんの」「めちゃくちゃ頑張ってたらしいじゃん」とライブの興奮を引きずっているのか、肩を組んできたり偉くフレンドリーな様子で、僕はタジタジになる。

 ベンチに腰かけたままのリカさんは水を一口飲んでから「ケイコちゃん、せつ菜ちゃんは?」

 

「ん、ちゃんと来てるみたい。さっき生徒会の……中川ちゃんだっけ? が言ってた」

 

 バックレなかったか。本当に存在したんだね。

 メンバーが軽口を叩き合っていると、実行委員らしい生徒が駆け足で寄ってきて、バンドの皆さんはそろそろステージにお願いします、と言った。

 

「さー行こうか」緩く気合を入れたリカさんのあとにメンバーが続いて、僕も不要な楽器をケイコさんに押し付けて後を追う。

 ステージの方から、アンコールを求める声と手拍子が漏れ聞こえてくる。

 岬。背後からケイコさんの呼ぶ声が聞こえて、振り返る。

 

「なんか感じたら、感じたまま、そのままに、アンタらしく弾きな」

 

 なにそれ? 僕が首を傾げると「アドバイスだよ」ケイコさんはそう言って、食べかけのフランクフルトを頬張った。

 

 

*****

 

 

 アンコールを求める観客の地鳴りのような歓声の中、僕らは照明の落とされたステージに上がる。

 ちらと客席を見て、やっぱり見なかったことにする。

 当日は満員、なんてリカさんは言っていたけれど、本当に満員だよ……。キャパ5000人くらいだっけ。そんな場所でのライブ、観に行ったこともなければ、当然演ったこともない。前から後ろまで、ぎっしりと埋まった客席は破裂する寸前の風船みたいに、今か今かと優木せつ菜の登場を待ち望んでいる。

 さっきまで演奏をしていたリカさんたちと違って、僕の方は何一つ用意が出来ていないから「どうしてこんなギリギリに来るの!」と怒るスタッフさんに、手伝って貰いながら楽器のセッティングをする。

 少しギターの音が鳴っただけで客席がどよめくのだから、大変心臓に悪い。

 意識しないよう客席に背中を向けて準備を進めていると「ビビってるー?」唐突に耳元で言われて、驚いてひっくり返そうになった。振り向くとリカさんの顔がすぐ近くにあって、耳元で話さないとロクに会話できないのはわかるけれど、異性にこう近づかれると僕だってさすがに気まずい。

 

「まぁ多少は、こんな人数の前で弾いたことないですし」どうせ周囲には聞こえないだろうから、僕は言葉に出して言う。

 

「そこは強がりなよー男の子」

 

「今の僕は女の子ですから」

 

「心まで女の子にならなくてもー」緩く笑うリカさんは肩から下げたエレキベースを背中の方にやって、僕の肩に腕を回す。だから近いって。

 

「上手く弾こうとか考えなくていいからさ、感じたまま、岬ちゃんらしく演ってよ」

 

「励ましてるんですか? この間はめちゃくちゃ煽ってきたくせに」

 

「えーそうだっけー?」

 

 しらばっくれるリカさんに僕は嘆息する。

 感じたままに。僕らしく。さっきケイコさんも言っていたけど、どういう意味なんだろう。ギターを弾くのに、僕らしくもなにもないだろう。他の人はともかく、僕の弾くギターはそういうものではない。

 そういえばと思い出してリカさんに「どうして僕ってメンバーに選ばれたんですか? もうひとりの娘の方が上手かったじゃないですか」そう訊ねる。

 

「ああ、それはね……」リカさんの言葉は、背後から上がった爆発音みたいな歓声で掻き消された。

 何事かとリカさんと二人して振り返ると、まだ照明が焚かれていない、薄暗いステージ上に先程までは無かった一人の女の子の小柄な背中。薄明かりの中でもはっきりとわかる艶めいた黒の長髪。制服のような、だけども目が覚めるような赤と白を基調に、フリルやリボンで装飾されたそれは、どこからどう見てもアイドルの衣装。

 

 彼女が優木せつ菜?

 

 そんじゃ、頼んだよ。そう耳打ちして、リカさんは自分の持ち場へと戻っていく。

 もはや怒号か悲鳴みたいな歓声を、真正面からたっぷり浴びた優木せつ菜は、リカさんの方に目配せを。リカさんは頷いて、ドラムスの女生徒に合図をする。

 唐突に、優木せつ菜が、天に向かって拳を突き上げた。

 すると、客席の狂騒は嘘みたいにピタリと止んで、それはまるでオーケストラの指揮者みたいで。

 息をすることすら躊躇われる、世界が終わった後のような静寂。一瞬の、永遠のような静寂にハイハットの4カウントがひびを入れ、優木せつ菜がマイクへと吹き込んだ歌声で、それは木っ端みじんに砕け散った。

 



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CHASE!

 僕がよく出入りしている、父の友人が経営するライブハウスは、プロのミュージシャンが頻繁に訪れる。

 プロと言っても訪れるのは、今をときめくロックバンドのボーカルとか、音楽シーンを賑わす歌姫とか、そういう表舞台で耀く人たちではなくて、歌詞カードの一番後ろの方にちょこっとクレジットされているスタジオミュージシャンや、教則本の著者や、界隈では有名人でも一般の人は全く知らないような人たちだ。

 父の友人が、もともとプロのジャズドラマーだったのが大きな理由なのかも知れない。

50歳の時に胃の3分の2もを摘出する大病を患い、現役を退いたオーナーが開いたライブハウスは、ミュージシャン時代の仲間たちが夜な夜な集まり、仕事では出来ない自分たちの好きな音楽を演奏し、酒を呑み酔っ払う。そんな悪ガキの溜まり場みたいな場所なのだ。

 あるとき、そういうところに出入りしていることを、軽音楽部の友人にこぼしたとき「プロとアマチュアってさ、実際どう違うの?」と訊かれたことがある。

 

「音楽で収入を得ているかどうかじゃない?」

 

 僕が答えると友人は、車に轢かれてぺしゃんこになったカエルでも見るような目で僕を見たので「ごめん今の無し」少し考えてそれから「やっぱり、音かな」そう答えた。

 例えば、コード進行を決めてソロを持ち回るようなセッションで、趣味で楽器を弾く人たちの中に、一人だけプロのミュージシャンを放り込んだとする。

 そして、そのミュージシャンがギタリストだったなら。一音。たったの一音だ。

 趣味で楽器を弾く人たちが、コツコツ練習をして馴染ませてきた手癖やフレーズを、チョーキングの一発。たったの一音。それだけで全てを塗り潰して、バンドサウンドを丸ごと掌握してしまう。

 音の説得力、なんて言うと酷く抽象的だけど、プロとアマチュアの違いを訊かれて、それ以上に思いつくことはない。

 

 

*****

 

 

 ーーこれはマズイ

 

 優木せつ菜が、歌詞の始まりの一節をマイクを吹き込んだ瞬間、きっとバンドメンバーの全員が直感した。

 優木せつ菜バンドのメンバーは音楽科の俊英で構成されている。バンマスのリカさんを含めた全員が、すでに学外で仕事をこなしている実質プロミュージシャン。実力は学生バンドの域を優に超えている。

 そんな人たちの作り出すバンドサウンドを、優木せつ菜は信じられないことに、ほんの一瞬で自分の色で塗り潰してしまったのだ。

 歌声に引っ張られて、ドラムスのリズムが前のめりになり、バンド全体がそれに引き摺られ始める。

 なにがマズイって、想定外の彼女の実力に動揺があったこともそうなのだけど、なにより、リズムがかなり走り気味なのだ。多分だけれど優木せつ菜は、生のバンドで歌うことに慣れていない。

 それでいて、マイクにぶつける声量は、並みのボーカルでは話にならないくらいにパワフルなのだから手に負えない。小さな子供が車を乗り回しているようなものだ。アクセルを踏みっぱなしにサウンドは加速を続ける。

 曲がサビへと差し掛かる。長い黒髪が、スカートの裾が翻る。優木せつ菜のパフォーマンスは一層の熱を帯びる。

 歌がバンドが、転がり落ち始める。いよいよ修正が困難になるかと思われた、そのとき。腹を突くような鋭い低音が曲の崩壊をすんでのところで押しとどめた。

 

 リカさんのベースだ。

 

 4本の弦。指板を細い指が別の生き物のように這いまわる。ツーフィンガーから弾き出された歪んだ低音が、固い地面に杭を打ち込むようにして、優木せつ菜の暴走を押しとどめ、ビートの襟首を掴んで引っ張り戻し、それに他の楽器も追従する。

 

 ……あそこから立て直しちゃうんだ。しかもたった一人で。

 

 涼しい顔でベースを弾くリカさんに内心で少しだけ引く。正直、もうダメだと思っていた。

 

*****

 

 振り回されっぱなしだった僕にも、1コーラス目を終えた頃には、周囲を見渡すくらいの余裕が出てきた。

 小柄な肢体を目いっぱいに使って踊り歌う、優木せつ菜の背中に、なんでそんなに動いて歌声が全くブレないのかと驚嘆したり、だけども思わず声が出そうな位に驚いたのは客席の有様だ。

 客席が真っ赤に燃えているのだ。フロアも二階席も、会場中が燃え盛る炎に包まれている。それはもちろん僕が見た錯覚で、その正体は観客の持つ赤いペンライトで。数千もの赤い輝きは、優木せつ菜の歌に合わせて揺れ動き、やがてステージまで焼いてしまうのではないかと思わせるくらいに眩しく、どうしようもなく熱い。

 

 ……熱い? 何が?

 

 僕は疑問に思う。

 だって、どれだけ量があろうとも、所詮はペンライトの光で、何もかもを焼き尽くす炎に見えてもそれは、電池とLEDで輝く偽物の灯だ。これだけ離れたステージで熱を感じるはずなんてない。ないはずなのに。それでも確かに僕は熱を感じている。

 胸とお腹の真ん中あたり。臓腑の奥の奥に。どうしようもない熱を。

 それはずっと昔。まだ幼い子供だった頃、初めて父のギターを聴いた時の感覚に良く似ていて……。

 

 もしかして、歌?

 

 優木せつ菜の、小さな背中を凝視する。

 客席の炎はいよいよ勢いを増してステージに迫り火の粉が降りかかる。客の肉や脂肪や骨が焼ける匂いすら感じる。フロアを埋める群衆は皆一様に燃えていて、ペンライトは松明のようで、嬌声を上げながら、優木せつ菜の歌に焼かれている。

 客席の歓声はどこか遠くに聞こえて、バンドの音すらも遠い。

 それなのに、優木せつ菜の歌声だけは脳や細胞に刻み込まれるみたいに、明瞭に聞こえる。

 胸とお腹の真ん中にあった熱は、いつの間にか全身へと浸食し、押弦する指が火傷したみたいにヒリヒリする。優木せつ菜の歌声が鼓膜を震わすたび、身体を内側から焼かれるような、心臓を指先で愛撫されるような、狂おしいほどの甘い疼痛が全身を焼き、叫び声を上げそうになる。

 ……ふと、この熱の正体を知りたくなった。きっと普段の僕ならそんなことは思わない。すっかり熱に浮かされていた。蝋燭の火に自ら飛び込む羽虫にでもなったような心地だった。

 

 ーー感じたままに弾け。

 

 本番前にケイコさんが、リカさんが、そんなことを言っていたような気がする。

 曲はBメロを踏み台に、2回目のサビへなだれ込んでいく。

 僕はギターアンプのボリュームを右に思い切り捻って、ファズエフェクターのスイッチを蹴っ飛ばした。

 

 

*****

 

 

 唐突に絶叫するギターの音に、バンドの全員がギョッとした目でこちらを見たのが分かった。僕自身もその視線に冷静さを取り戻しかける。

 今ならまだちょっとしたミスで終われる。

 そう思ったのだけど、ばったり目が合ったリカさんが「い・け」そう言ったのが確かに見えた。

 僕は頷いて、ネックを根本まで絞り込み、勢い任せに音符を叩き込む。スケールアウトするギリギリのライン。フレーズは次から次へと湧いてきた。全身の血液が燃料に変わってしまったみたいだ。手を止めることが出来ない。止めたらきっとこの手は、身体は、焼け落ちてしまう。

 僕の暴走で揺らぎかけたバンドサウンドは、リカさんが難なく修正し、心臓を打つベースの低音が、いけ、もっといけと言わんばかりに、僕を煽る。

 優木せつ菜の歌と絡み合うように、白い喉元に噛みつくように、僕は6本の弦を搔き毟った。

 サビを疾り抜け、間奏、ギターソロへ。歌が途切れた僅かな瞬間。常に客席に向かい合っていた優木せつ菜がこちらを振り返った。

 

 ……さすがに怒ってるかなぁ。

 

 辛うじて残った理性で不安を覚える。

 ライブの主役はあくまで優木せつ菜な訳で、添え物のはずのギターがこれだけ好き放題やらかしてしまったのだ。きっと多分怒ってる。

 ちょっと申し訳ない気持ちで、でもギターを弾く手は止めないで、僕は恐る恐る、優木せつ菜の表情を窺う。そういえば、彼女の顔を見るのはこれが初めてだ。

 指板から僅かに持ち上げた視線の先、優木せつ菜と目が合って、僕はピックを取り落としそうになった。

 だって、笑っていたのだ。

 こんなにも綺麗に、無垢に笑う人を僕は初めて見た。

 楽しくて楽しくて仕様がないと言うような。屈託のない満面の笑み。

 彼女は、優木せつ菜は、赤く煌々と燃え盛る客席を背に、子供みたいに笑っていた。

 

 

*****

 

 怒号のような雷鳴のような歓声が鳴りやむのを待たずに、優木せつ菜は、深い深いお辞儀を客席にひとつして、誰よりも早くステージから去っていった。

 本日のプログラムは全て終了しました、一般のお客様はスタッフの誘導に従って……アナウンスとともに、会場の照明が点灯して、客席の炎はチープな赤いペンライトの光に戻り、やがてそれらも消えて、先ほどまでの狂騒が霧散する。

 ステージにはスタッフがぞろぞろやってきて、テキパキと機材の撤収を始めている。

 夢から覚めたような気持ちで、呆然とその光景を眺める。するとバンドメンバーが僕の肩をどついて「暴れてくれたねー」「まぁいいんじゃない? 盛り上がったし」「せつ菜ちゃんヤバかったねあれでスクールアイドルは詐欺でしょ」「かわいかったねーファンになっちゃおうかな」などと話しながら、ステージ袖へ消えていく。

 僕はそれらに何の反応も返すことが出来ず、身体がすっかり萎えてしまっていて、ふらふらとギターアンプを背もたれに、座り込んでしまった。

 

「やってくれたねー、ロックンローラー」

 

 そう声を掛けてきたのはリカさんで、僕を見下ろすリカさんは普段と変わらない柔和な笑顔で、だけども僕はスマートフォンを取り出して『すみません』と打ち込んで謝罪する。

 頭の中が混乱している。こんな感情に引き摺られてギターを弾くことなんて今まで一度も無かった。どうして?

 考えようにも、身体中のエネルギーを引っこ抜かれてしまったみたいに倦怠感が酷く、頭が全く回らない。疲労感に任せてこのまま眠ってしまえば、今までのこと全部が夢にならないかな。

 そうして本当に瞼を閉じてしまおうと思ったのだけど、伸びてきた手が僕の襟首をむんずと掴んで無理やり立たされてしまって、肩から下げたままのギターが揺れて肋骨にめり込んで痛い。こんな乱暴な真似をする人に、心当たりは一人しかいない。

 

「苦しいよケイコさん」

 

 相変わらず頭にお面を着けたままのケイコさんは「周りに人いるんだから喋るなバカタレ」僕の頭を小突いて「とりあえず逃げるよ」

 

「逃げるってどうしてー?」と僕の代わりに訊いてくれたのはリカさん。

 

「滅茶苦茶にやりすぎなんだよ。音楽科のお偉方が怒鳴りこんでくる」

 

 音大出の堅物どもはこれだから面倒臭い、などと毒づきながら、ケイコさんは僕からギターをもぎ取ってケースに納めて自分で背負いながら「音楽科の講師が使う更衣室があるからそこに隠れてて。学園祭なら誰も来ないだろうから。落ち着いたらリカに迎えに行かせる」

 

「えぇー、わたしー?」

 

「リカの責任でもあるんだからね? なんのためにアンタをバンマスに据えたと思ってんだよ。学生バンドくらい完全にコントロールできなくて、これから先やってけると思ってんの?」

 

 予想外に強い言葉がリカさんに飛んで、僕はギョッとする。ケイコさんから見ればそりゃあ粗があったのかもしれないけれど、リカさんのベースがなければ、僕が暴走するよりもずっと前に、バンドサウンドは空中分解していた。今日のライブの最大の功労者は間違いなくリカさんだ。

 それなのにリカさんは「……うん、ごめんなさい」素直に謝ってしまって。なにか庇う言葉の一つでも出てくれば良かったのだけど、場を搔き乱した張本人の僕に言えることは何もなくて、ただただ居たたまれなく、情けなく俯いていることしか出来なかった。

 

 

*****

 

 

 ケイコさんの言う更衣室は、メインアリーナからそれほど離れていない場所にあり、音楽科名物に巻き込まれて一日中学園中を走り回った甲斐もあって、多少迷ったけれども、なんとかひとりで辿り着くことができた。

 優木せつ菜のステージに立ったためか、マスクをしていても顔が知られてしまったらしく、道中声を掛けられることがしばしばあった。愛想笑いでどうにか切り抜けたけれど、内心気が気ではなく、目的の更衣室を見つけると、ノックもせずに転がり込むみたいに中に入ってしまって、それが良くなかった。

 

「きゃっ」と、か細い声が聞こえて、僕の方も悲鳴を上げそうになる。

 

 反射的に声のする方を見てしまって後悔する。更衣室だ。着替え中だったらどうしよう。慌てて目を背けて、視界の端に制服の女生徒の姿が見えて、小さく安堵の溜息。下着姿とかだったら罪悪感で生きていられなかった。

 更衣室は普通教室の半分くらいの大きさで、壁面は全て縦長のロッカーで埋まっている。中央には背もたれのないベンチが設えられ、女生徒はそこに腰かけていて、僕はそれが見知った顔であることに気が付いた。

 女生徒の方も僕の姿を認めて「あっ」声を漏らす。

 アンダーリムの銀縁眼鏡と、三つ編みのおさげ。理知的な雰囲気。確か、そう。中川菜々さん。先日、初めて虹ヶ咲学園に来たとき、道に迷っていた僕を助けてくれた生徒会の副会長。

 この間会ったときはきちんと着こなしていた制服が少し乱れていて、着替えの途中だったような様子で、本当に危なかった……。

 人と遭遇するのは想定外だったけれど、知っている人で助かった。先日のお礼を伝えなければとポケットからスマートフォンを取り出して僕ははたと気が付く。

 

 ーー音楽科の講師が使う更衣室があるからそこに隠れてて。学園祭なら誰も来ないだろうから。

 

 ケイコさんがそんなことを言っていたような……。

 どうして中川さんがここに? 普通科って言ってたよね。サボりかな。いや生徒全員の名前を覚えているような、真面目な人が?

 手にしたスマートフォンに何をどう打ち込んだものかと思案していると「あの」と、中川さんが立ち上がり「通信課程1年の、御崎岬さんですよね?」固い声音で言った。

 

 はい。先日はどうもありがとうーー。スマートフォンに打ち込もうとして、背筋に冷たい物を感じる。中川さんの僕に向ける視線がなんというか、まるで不審者に対して向けるそれなのだ。

 僕は直感で、逃げなければ、後ろ手にドアノブを取ったのだけど、予想外に機敏な動きで僕に近づいて来た中川さんの手が、ドアノブごと僕の手をむんずと掴んで、小柄なのに意外と力が強い、というか距離が近い! 制汗剤の甘い香りがして、僕は反射的に後ずさって、だけどもそこには当然、ドアがあって、逃げ場がない。

 ちょうど頭一つ分くらい、僕の胸元辺りの至近にある中川さんの、眼鏡の奥の瞳には明らかな敵意のような物が宿っている。

 中川さんは僕から視線を一切逸らさず、握る手をさらに強く掴んで

 

「御崎岬さん。あなたは何者ですか?」低い声でそう言った。

 



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正体は。

「あの後、生徒名簿を再度確認しました。通信課程の方とはお会いする機会が少ないからと、しっかり確認していなかったことも事実でしたから」

 

 中川さんは後悔を滲ませた様子で言う。

 

「しかし、何度見返しても御崎岬さん。あなたのことを見つけることが出来ませんでした。これはどういうことでしょう?」

 

『生徒名簿の印刷ミスじゃないですか?』

 

「それは私も疑って、職員室で原本を確認しましたが、結果は同じでした」

 

『実は最近編入したばかりで、もしかしたら生徒名簿の更新が間に合っていないのかも』

 

「当校の通信課程の募集は前期と後期の2回です。後期の募集は学園祭の後になりますから、それは考えられません」

 

 スマートフォンを握る手にじっとり汗が滲む。マズイ。どうしよう。言葉を重ねるたびに、嘘のメッキが次から次へと剝がれていき、中川さんの表情はどんどん険しくなる。

 

「お姉さんが音楽科の講師をしていると言っていましたね? 確かに同じ苗字の御崎先生が非常勤講師として在籍していますが、訊いてみたところ、全く知らない、とのことでした」

 

 僕はスマートフォンを床に叩きつけそうになって、それをグッと堪える。

 知らないわけないだろ! 事の始まりから今の状況まで、全部ケイコさんの責任じゃないか!

 そりゃあ、中川さんに顔を知られたのは僕の不注意かもしれないけれど、それにしたって無責任が過ぎるし、仮に問い詰めても「めんどかった」で済まされるのが、ありありと想像出来てしまってそれがまた腹立たしい。

 なにかこの場を切り抜ける冴えた言い訳はないものかと、必死に考えを巡らせていると、ふいに、中川さんが悲し気な表情になった。

 

「こんな無茶なことをしなくても、生徒会を通して下されば良かったんです」

 

 ……あれだけの演奏が出来るのならきっと、中川さんが呟く。

 

『ライブ見てたんですか?』

 

「えっ!? そ、それはもちろん、優木せつ菜、さんのライブは生徒会主導でしたから、生徒会の一員としての責任といいましょうか……」

 

 どうして言い淀むの? 首を傾げる僕に「と、ともかく」中川さんは取り繕うように何度か咳ばらいをしてから、元通りの険しい表情で僕を見据えて「今この場で、正直に話してくれるつもりはないのですね?」

 

 僕は慎重に考えて、スマートフォンに文字を打ち込もうとしてやめて、無言を貫くことを選ぶ。こうなってはどれだけ嘘を重ねてもボロが出るだけだ。いっそなにも喋らない方が賢明な選択に思える。

 背後のドア越しに学園祭の喧騒が、別世界の出来事みたいに聞こえてくる。そういえば後夜祭の催しでも音楽科の出番があったはずだ。僕の仕事は誰かが代わりにやってくれるのかな?

 気まずい沈黙。現実逃避気味になりつつある僕の意識を、直視したくない現実へと引き戻したのは、中川さんの「わかりました、もう結構です」という言葉と重たい溜息。

 

「貴方が説明を拒むのなら、音楽科3年の岡峰梨花さんに話を伺います」

 

 岡峰梨花って、リカさんのこと? いや、このタイミングで名前が出てくる以上きっと彼女のことだ。

 

『なんでリカさんに?』

 

 僕は慌ててスマートフォンに打ち込む。中川さんは画面を一瞥すると「バンドの責任者である岡峰さんが、今回のことを知らないはずがありません。他校の生徒を許可なくステージに上げるなんて前代未聞です。相応の責任を取っていただきます」

 

 そこを退いてください。僕の手を抑え込むようにしていた、中川さんの手に力が加わってドアを押し開けようとしてくるから『待って! ちょっと待ってください!』僕は必死になってそれを食い止める。

 ケイコさんの悪だくみを、生徒会や他の職員に報告しなかったリカさんにも、確かに責任の一端はあるのかもしれない。

 だけども実行犯は他ならぬ僕自身で、それに一番悪いのはケイコさんなわけで。ライブの後でケイコさんに理不尽に叱責されるリカさんの姿を思い返すと、やったこれで逃げれるぞ! なんて能天気に思えるわけがなく。それに最初はおっかなかった他のバンドメンバーも最後の方は気さくに話しかけてくれたりして、彼女たちにも何らかの処罰が及ぶのかもしれないことを考えると、素直にここを通す気にはなれなかった。

 

「通してください! 邪魔をするなら、このことも貴方の学校に報告しなければならなくなるんですよ?」

 

『だからちょっとだけ待って!話し合おう』

 

「貴方がなにも話そうとしないから、こうなってるんじゃないですか!」

 

 中川さんは小柄な割に意外と力が強い。運動部にでも入っているのだろうか。とはいえ体格差があるし、なにより中川さんは女の子で、僕の方は見てくれはこんなでも、中身は男なのだから、本気になればきっと、力ずくで彼女を突き飛ばすことくらいは簡単に出来る。きっと出来るのだけど、それをやってしまったら、さすがに色々と引き返せなくなる。

 なによりも悩ましいのは、中川さんは僕の正体に疑念を持っているようだけど、性別に関しては女性であると信じたままなので、ドア一枚を攻め守る最中、躊躇いなくその華奢な肩で押し開けようとして来たり、やや汗ばんだ小さな手が僕の方の手に触れてきたりするものだから、生まれてこの方、ロクに女子とスキンシップを交わしたことがない僕にとって、それらの接触は精神衛生的に大変よろしくないもので……あぁもう、どうしてこんなことになってるの? 僕はだんだん気が遠くなってきて、すると突然、眠りに落ちるときみたいな、抗いようのない感覚に襲われて、実はこれは悪夢だったのではなかろうか、そんなことを思ったのだけれど、当然そんなわけはなく、すとんと落ちる感覚の正体、それは背中に守るドアの固い感覚が唐突に消えたからだった。

 

「岬ちゃん着替え持ってき、うわっ!」

 

 後ろ向きにひっくり返る僕の視界の端にはリカさんの驚く顔が、もつれるように倒れ込んでくる中川さんが、なんだかやたらとゆっくりに見える。

 だけどもそれは全て気のせいで、次の瞬間には僕は、背中から床に叩きつけられて、肺の空気が全部漏れ出して目の前が真っ白になって、さらに後頭部を強かに打ち付けて、目の裏側に火花が散るのが見えた。

 

「ゴホッ、痛ったぁ……」

 

 僕は呻き声を漏らして、背中と後頭部の鈍痛に耐える。目玉が飛び出たかと思った。あれ、なんだ視界が暗いぞ? もしかして本当に飛び出た? えっと、僕いま仰向けなんだっけ? 息が出来ないんだけど、え、死んだ?

 真っ暗な視界と息苦しさに、僕は海にでも落ちたような心地で、藻掻くように手を伸ばすと、指先がなにか酷く柔らかいものに触れて、それから小さい悲鳴が聞こえて、僕はようやっと正気に戻る。

 視界を遮っている、前髪を除けると、こちらを見下ろす人の顔が見えた。

 僕の腰のあたりに馬乗りになったその人は、唖然とした表情をしていて「御崎さん……その格好は、一体……」

 その言葉にハッとなって自分の有様を改める。ウィッグは明らかにズレてしまって、変装用の眼鏡は外れて頭の横に転がっていて、そのすぐ傍に中川さんの銀縁眼鏡が落ちているのが見えた。

 ……終わった。もはや取り繕うことが出来ない絶体絶命の状況。

 だというのに、僕は逃げ出すこともせず、ただ目の前の、その人の顔から視線を外すことが出来ないでいた。

 三つ編みのおさげは、片方だけが倒れた衝撃で解けてしまったらしい。溶けた黒真珠ような艶のある黒髪が肩に流れている。眼鏡のない瞳は冬の夜の空みたい。

 僕の胸のあたりに置かれた、彼女の掌は制服のジャケットの厚い布地越しでも分かるくらいに熱くて、ライブの焼かれるような熱狂が、彼女の、優木せつ菜の歌声が、聞こえたような気がした。

 

「……優木、せつ菜?」

 

 僕がうわ言みたいに、その名前を呟くと、彼女は大粒の黒色の瞳をなお大きく見開いて小さな唇が、言葉を紡ぎだそうと開きかけたとき「生徒会副会長、中川菜々さん。至急、学園祭運営本部までお越しください、繰り返します……」という、アナウンスが学園中のスピーカーを通して流れてきた。

 それを聞いた彼女は弾かれるように立ち上がって、床に転がった銀縁眼鏡を拾い上げるや否や、物凄い勢いで走り去っていってしまった。

 僕は小さくなった背中が階段の方へ折れて完全に見えなくなってようやく、のろのろと身体を起こす。

なんだか面白いことになってきたねー。楽し気に笑うリカさんの声がやたらと遠くに聞こえた。

 



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正体。気持ちよく。

 とにかく逃げなければと思った。

 中川さんなのか、優木せつ菜なのか。彼女はなにやら放送で呼び出されて去って行ったけれど、用事が済めば教員なり警備員なりを引き連れて戻ってくるはずだ。

 ケイコさんが自白すれば、後々僕の通う高校に今回の件でクレームが入るだろう。だけど思い返すとステージ場で僕は女装をしていて、顔もマスクと眼鏡で隠れている。彼女以外には正体が割れていないのだ。

 仮にライブ中の動画や写真を撮られていたとしても、知らぬ存ぜぬを貫き通せばきっと切り抜けられる、はず。

 この場で捕まることが、何よりも致命的だ。今は逃げることが最善。

 そうと決まれば、どこか人目につかないところ、そうだ先日の職員駐車場がいい。

 乱れた身なりを正して、さっさと更衣室を後にしようと思ったのだけど、目の前にリカさんが立ちはだかった。

 

「逃すわけないでしょー? これからが面白いんだから」

 

「なんにも面白くないですよっ」

 

 女装を剥がされて連行される惨めな男の姿は、他人事ならばもしかしたら面白いのかもしれないけれど、当事者からしたらたまったものじゃない。

 

「ほんとに余裕がないんで、力ずくでも退いてもらいますよ?」

 

「わー怖い。でもいいのかなーそんなことして?」リカさんは意地の悪い笑みを浮かべて、スマートフォンを操作して画面を僕の方に向けて見せた。

 そこには先ほどの床に無様に転がる僕の写真が表示されていて、ウィッグがずれて眼鏡が外れてしまっていて、間違いなく僕だと判別できる。いつの間に撮ったんですか……。僕は膝から崩れ落ちそうになる。

 

「言ったでしょー。隠し撮り得意だって」なんて得意げにピースなんてするものだから、もういっそのことスマートフォンを取り上げて壊してしまおうかなどと、乱暴なことを考えてしまうのだけど「クラウドに保存してるから、スマホ奪ったって無駄だよー」と、見透かしたように言われてしまって、僕は本当にその場に崩れ落ちた。

 

「それじゃー諦めて、一緒に面白いことしようか?」

 

「……なんですか面白いことって」

 

「岬ちゃんだって知りたいでしょー? 優木せつ菜の正体」

 

 

*****

 

 

 音楽科3年、岡峰梨花さん……御崎岬さん。至急、生徒会室までお越しください。という校内放送が流れたのは、それからしばらく経ってのことだった。

 リカさんは、僕が反抗することをすっかり諦めたことを認めると、色々なところに電話をかけたり、メッセージを打ち込んだりと、なんだか忙しそうな様子。

 僕の方はリカさんが持ってきてくれた服に更衣室の隅の方で着替えていた。リカさんのクラスでお揃いで作ったTシャツの余りらしく、一緒に持ってきてくれたカーディガンを羽織れば、制服そのままに比べてだいぶ印象が変わる。

 ステージに立ったときのままの格好で、校舎をうろつくのは心臓に良くないから助かった。このまま家に帰してくれればもっと助かるのだけども、もちろんそうはいかず。

 

「それじゃー行こうか」

 

 放送で呼び出されてからも、10分ほど電話で談笑を続けていたリカさんがようやく通話を切って、意気揚々と、僕は恐る恐る更衣室を出ていく。

 そんなビビらなくても大丈夫だよー? 音楽科のお偉方にはケイコちゃんが話をつけてくれたみたいだから。リカさんが僕を振り返って言ってくれて、多少は気が楽になった。

 学園祭が終わり、後夜祭へと移行した学園内は、一般客がいなくなったためか多少落ち着いていて、祭りの終わりを惜しむ寂しげでだけど賑やかな雰囲気で満たされている。

 そんな中、生徒会室のある一画だけは、世界から切り離されてしまったみたいにシンと静まり返っていて、リカさんのドアをノックする音がやたらと大きく聞こえた。

 どうぞ、という声が中から聞こえて、悠々と中に入っていくリカさんの背中に隠れるように僕も後に続く。

 生徒会室は広かった。高い天井。広さは普通教室をふたつくっつけてもまだ足りないくらい。室の中央にローテーブルとソファがあって、壁面に寄せてスチール製の書庫が並んでいる。備え付けのホワイトボードにはびっしりと予定が込まれている。いかにも事務室然とした面持ちだけど、そこかしこに植えられた観葉植物の緑のおかげか殺風景には感じられない。

 空の薄闇を切り取る天井にまで届く高さの窓硝子を背に、木製のデスクが設えられていて、大柄な革張りのオフィスチェアにちょこんと座っていた中川さんが、僕たちの姿を認めて立ち上がる。

 

「お忙しいところお呼び立てして申し訳ありません」

 

「いいよー別に。暇してたから」

 

 リカさんは言いながらソファに身を沈める。その傍らに所在なく立ち尽くす僕に、中川さんは「どうぞ、楽にしてください」と言って、入口のドアにまで歩み寄り内側から鍵を閉めた。

 全然楽にできる雰囲気じゃないんだけど……。僕は恐る恐る、リカさんの対面のソファに腰を下ろす。

 デスクに戻りチェアに腰を掛けた中川さんは、組んだ手の上に顎を載せて口を開く。

 

「呼び出された理由はわかりますね?」 

 

 生徒を詰問する教師みたいな固い口調。眼鏡のレンズがLED照明に反射してとても怖い。

 ますます萎縮する僕とは対照的に、リカさんは「えー、なんでだろー?」などと、とぼけて、それに中川さんの眉間に皺が寄るのが見えて、そんな煽るような反応しなくても、僕は気が気じゃない。

 

「単刀直入にお聞きします。御崎さん、貴方は他校の生徒で……男性ですね?」

 

 リカさんみたいにとぼける度胸はない。僕は掌に滲んだ汗を握りつぶして頷いて「ごめんなさい騙して」スマートフォンに打ち込むのではなく、言葉に出して言って頭を下げる。生徒会室の床を見つめ続ける時間は、やたらと長く感じて胃の奥の方が鈍く痛んだ。

 しばらくの沈黙の後で「顔を上げてください」と中川さんが言ってそれから深い溜息。

「岡峰さん。バンドの責任者である貴方はこのことを知っていましたか?」

 

「うん。ケイコちゃんに面倒見てくれって言われてたから」

 

「……御崎先生と岡峰さん以外に、今回の件に関わった生徒はいますか?」

 

「いないよー。音楽科のみんなには岬ちゃんはケイコちゃんの妹ってことで通ってる」

 

「そう、ですか」中川さんは組んだ手の上に額をピッタリと付けて項垂れる。心底弱り切ってる様子で「何もかもが前代未聞です……」と小さく漏らすのが聞こえた。

 

「そんな深刻に考えなくていーんじゃない?」リカさんが能天気に言う「この三人が黙ってれば、それで済むんだからさー」

 

「いいえ、それはできません。生徒会の一員である以上、規則違反を見逃すわけにはいきません」

 

「お固いなー。さすが生徒会長様」

 

「確かに生徒会選挙には立候補しましたが、今は副会長です」

 

「他に候補いないんだからもう確定でしょー」

 

 おめでとー、と拍手をして見せるリカさんに、中川さんは居心地悪そうな表情を浮かべる。

 

「一年生で生徒会長って、よくあることなんですか?」

 

 規格外の大所帯である虹ヶ咲の生徒会長ともなれば大変な重責なんじゃないだろうか。僕はつい口を挟んでしまう。

 

「前例はありますから、そう珍しいことでは……」謙遜する中川さんの言葉を「いやいやー、かなりのレアケースだよ」とリカさんが遮るように言う。

 

「虹ヶ咲って専門性の高い学科が多いから、みんな自分の夢を追うのに精一杯で、菜々ちゃんみたいな生徒会活動に一生懸命に取り組む生徒って貴重なんだよー。今年の学園祭だって菜々ちゃんの働きぶりが凄いって音楽科でも評判だし」

 

 唐突なべた褒めに中川さんは「いえ、そんなことは」と少し狼狽えるのだけど「だからこそ、せつ菜ちゃんの正体が菜々ちゃんだって知ったら、みんな凄く驚くだろうねー」と、リカさんが黒い笑みで核心を突いて、その表情はピシリと固まった。

 

「……な、にゃんのことでしょう」

 

 不自然な沈黙の後で、中川さんが澄ました顔で言うけれど、思い切り噛んでるし、頬に冷や汗が伝っているし、眼鏡の奥の瞳が泳いでいるし、わかりやすいくらいに取り乱している。

 ……やっぱり、彼女が優木せつ菜なんだ。

 僕の視線を感じてか、中川さんは「証拠……!そうです私が優木さんだという証拠はあるんですかっ」とても焦った様子で言うと、リカさんはスマートフォンを操作して、更衣室で僕に見せたのと同じ写真を中川さんに突きつけた。

 

「そ、それが私だっていう確証はありませんよね? ほら画像も少し乱れていますし」

 

「ほー、まだしらばっくれるかー」

 

 リカさんがスマートフォンの画面をスクロールすると、僕と中川さんがもつれ合って転倒する場面が、パラパラ漫画みたいに再生されて、いやこの人何枚撮ってるのさ。

 

「これってさー見方によっては、せつ菜ちゃんが自分のバンドのギタリストを押し倒してるようにも見えるよねー」

 

「見えませんっ!」

 

「いやいやー人間はつまらないことより、面白可笑しいことの方が好きな生き物だからさー」

 

 リカさんが嗜虐的な色の笑みを浮かべる。

 

「優秀と評判の次期生徒会長が、策謀を巡らせ創設したスクールアイドル同好会。初ライブの後で自身のバンドの女装ギタリストを押し倒し、二人は持て余した身体の熱を慰め合う……」

 

 どう、面白いでしょ? 小首を傾げて可愛らしく微笑むリカさん。中川さんはさっきまでは赤面していた顔を、真っ青にして唖然としている。僕もきっと似たような顔色で、どうやったらそんな悪魔じみた話を考えつくのだろうか。

 

「わたしさーケイコちゃんから頼まれて学外で色々やってるせいで、色んな知り合いがいるんだー。ケチなフリーライターとかさ。優木せつ菜の正体がわかったかもって電話したら凄い食いつきだったよー?」

 

「……要求は、何ですか?」

 

 青白い顔の中川さんが絞り出したような声音で言う。そりゃあそうだ。万が一にでもそんな記事が画像付きでネットに出回ったら、学校生活どころか人生自体終わりかねない。その時はもれなく僕の人生もお終いだ。

 

「要求だなんてやだなー。何だか恫喝でもしてるみたい」

 

 みたいじゃなくて恫喝そのものだよ。内心で思うけれど、声に出す度胸は無い。

 今この場で一番強い力を持つのは男の僕でも、次期生徒会長の中川さんでもなく、間違いなくリカさんだ。

 大人しく、リカさんの次の言葉を待つ僕たちに笑みを浮かべて「お願いしたいことは二つ」と、ピースするみたいに指を二本立てて見せる。

 

「岬ちゃんの件は見逃してもらう。その方がお互いのためになるでしょー?」

 

「……もうひとつは何ですか?」

 

 中川さんが問うと、リカさんは愉快そうに笑って僕を指差した。

 

「せつ菜ちゃんのライブに、岬ちゃんを参加させる」

 

「どうしてそうなるんですか!」「何で!?」

 

 僕と中川さんはほとんど同じタイミングで立ち上がって抗議の声を上げるのだけど、リカさんはどこ吹く風、余裕たっぷりに脚を組み直して「なにー文句あるの?」

 

「文句しかないですよ!なにが悲しくてまた女装してライブなんかしなきゃいけないんですか!?」

 

「その割に楽しそうに演ってたじゃん? 好き放題アドリブ入れてさー」

 

「それは……目が合ったとき、リカさんがいけって言ったから」

 

「いけ? 死ねって言ったんだけど」

 

「そんな辛辣なこと言ってたの!?」

 

 実際言われても仕方ないくらいの暴走だったけれども。

 

「ダメです。認められません」中川さんが毅然と言う。

 

「えー、どうして?」

 

「他のスクールアイドルも参加するイベントや、他校の文化祭を巡るんですよ? リスクが高すぎます。なぜ御崎さんでなければならないのかも理解できません」

 

「えーわからないの?」

 

「音楽科にはギターを専攻している生徒が多く在籍していますし、3年には岡峰さんと同様に学外での活動をこなしている方が数人いらっしゃると聞いています」

 

「わたしたちの代は当たり年だからねー。ぶっちゃけ岬ちゃんより腕が立つ娘はゴロゴロいるよ」

 

「それならーーー」

 

「でも優木せつなのバンドのギターは岬ちゃんじゃなきゃダメ」 

 

 これだけは譲れない。リカさんの有無を言わせぬ口調に、中川さんは気圧されて黙り込んだ。

 リカさんは立ち上がって中川さんの方に歩み寄る。

 

「今日のライブ気持ちよかった?」

 

「それは……とても、楽しかったです」

 

「だよね。ナマのバンドで歌うのは初めてでしょ? 処女卒業おめでと」

 

 しょっ、処女って! 一瞬で耳まで赤くなって狼狽える中川さんの頬に、デスク越しに伸びたリカさんの手が触れた。感電みたいに硬直する中川さんの身体をそっと引き寄せて耳元で囁くように言う。

 

「言っておくけど、岬ちゃん以外のギターじゃ今日みたいに気持ちよくなれないよ?」

 

 何を根拠に、震える声でなんとか返す中川さんに「これまでの人生と、これからの人生を音楽に捧げた女の勘」とリカさんは答えた。

 字面だけ見れば大言壮語も甚だしいけれど、リカさんが言うとなぜだか説得力があって、あんなベースを弾く人は同年代では僕自身初めてで、きっと青春の多くの時間を犠牲にして努力を重ねてきたに違いないから。中川さんも同じように感じたのか反駁しなかった。

 中川さんが何か考え込むように俯く、会話が途切れ、後夜祭の喧騒が届かない生徒会室はやたらと静かで。

 だから「てーいうか、その反応。まさかそっちの方も処女? こーんなのぶら下げて?」とリカさんの能天気な声が沈黙を破壊して、それから中川さんの胸を鷲掴みにしたのは、想像だにしない突拍子がない行動で、制服のジャケットの上からでも分かるボリューム感のあるそれを揉みしだく様を僕は思い切り凝視してしまった。

 中川さんは自分が何をされているのか理解が追いついていない様子。ワシワシ好き放題される自らの胸元と、リカさんの顔とを視線が行き来して、最後に僕とばったり目が合った瞬間、火でも吹きそうなくらいに赤面した。

「何をするんですかっ!」リカさんの手を力任せに振り払うと、そのままバランスを崩してしまい背後の椅子の脚に蹴つまずいて、床にひっくり返ってしまう。

 

「岬ちゃんヤバイよ菜々ちゃんのおっぱい……」

 

「なにバカなことやってるんですか!」

 

「いやー場を和ませようと思って」

 

 どんな和ませ方だ。僕はデスクの裏に回って、転んだ中川さんを窺うと乱れたスカートの隙間から見てはいけないものがほんの少しだけ見えてしまって「大丈夫ですか?」僕は何も見なかった体で地べたにへたり込む彼女に声をかける。

 中川さん、は、はい……、と返事をするけれど、どこか呆然自失としている様子。あんなことをされればそうもなる。

 そんな状態だからか、差し出した僕の手を中川さんは「ありがとうございます」警戒することなく取ってくれて、僕はびっくりするくらい軽い身体を引っ張り上げた。

 

「で、どーする?」

 

 横合いから声をかけられて、中川さんはハッと我に返って、リカさんにキツイ視線を送る。

 

「もうちょっと、岬ちゃんと一緒にやってみなよ。きっと面白くなるよー?」

 

 手なんか繋いで仲良しさんなんだし。リカさんが揶揄うように言って、僕は慌てて「ごめんっ」取ったままだった手を離して後ずさる。

 

「……私が何を言っても、要求を通すつもりなんですよね?」

 

「最初からそう言ってるでしょ?」

 

 悪びれずに言う中川さんは、天を仰いでそれから特大の溜息を吐く。

 

「今日みたいな、全身全霊のステージをお客さんに届けるためには、御崎さんの存在が必要なんですね?」

 

 リカさんが鷹揚に頷くのを見て、中川さんは色々な文句を飲み込むように、わかりました。

 

「ただし、何かしらの問題行動があった場合、今回のことも含めて学園に全て報告させていただきます」

 

「わたしは別にいいけど、それだと菜々ちゃんもマズイことにならない?」

 

「自分で蒔いた種です。責任はとります」

 

 おーかっこいいー、と茶化すリカさんを無視して、中川さんはこちらに向き直り「改めまして優木せつ菜です。御崎岬さん、よろしくお願いします」そう言って手を差し出してきた。

 あぁ、結局こうなるのか。ライブってあと何本くらいやるのかな。ずっと女装してないといけないのかな。いけないよね。

 どうしてこうなったのか、わからないけれど、どう足掻いても逃げ場がないことだけはわかる。だから僕は「御崎岬です。本名です。よろしくお願いします」出来る限りこの悪夢が早く終わることを願いながら、その小さな手と握手をした。

 



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ドサ回り。雨。トラブル。

 ライブツアーというと、全国のアリーナを回ったり、ラストを武道館やドームで飾ったり、なんとなく華やかなイメージがあると思う。

 だけどそんなツアーを行えるのは極々一部の選ばれたミュージシャンだけで、実際のところは大変過酷なものらしい。

 走行距離が20万キロを超えた中古のハイエース。ドラムセットやらアンプやらギターやら機材をみっちり詰め込んだ車内は狭く、固いベンチシートに肩を寄せ合って数百キロ。

 そうして辿り着いた地方のライブハウスでは客がたったの3人しかいなかったり、道中携帯の電波が届かないところで車が動かなくなって東京には無い星空の下で途方に暮れたり、打ち上げで全員が酒を飲んでしまって身動きが取れなくなったり、酔った勢いで対バンの人と殴り合いの喧嘩を繰り広げたり。

 そうやって数々の苦難(一部は自業自得)を乗り越えながら、日本中のライブハウスをあちこち回ることを、父やその友人たちは「ドサ回り」と呼び、彼らはそれらのどうしようもないエピソードを武勇伝のように、誇らしげに幼年の僕に語り聞かせてくれて、当時の僕はそれがお気に入りの絵本のなかの世界よりもよっぽど不思議で面白い話のように思えて、もっと聞かせてとねだったものだった。

 

 学園が課した優木さんのライブ巡りはまさに「ドサ回り」だった。

 

 先々週の土日は群馬と静岡。先週は千葉と栃木。今週の茨城と神奈川で関東圏制覇。

 それだけにとどまらず、平日の放課後には都内のライブイベントに飛び入りで出演したりと、これをドサ回りと呼ばずしてなんと呼ぶ。

 もちろん優木さんも僕らバンドメンバーも免許なんて持っていないから、移動は学園が用意するマイクロバスなのだけど、部外者の僕はそれに乗り込むことは出来ずもっぱら電車かバスで、この交通費が財布に大打撃。

 ただ、道中でなにかあってはいけないと、僕の引率で優木さんまで面倒な電車移動になってしまったため、あまり大っぴらに文句を言うのは気が引けた。

 一応、ケイコさんにどうにかならんものかと訴えたのだけど、バレたのも巡業についてくことになったのもあんたのせいじゃん、と一蹴されてしまってさすがにカチンときたから食事を全てケイコさんが嫌いな野菜ずくしにしたところ、二日目でトマトを顔面に投げつけられた。

 

 

*****

 

 

 日曜日の朝、優木さんとの待ち合わせの駅の改札前。休日ということもあって構内は多くの人が行きかっている。

 最初は違和感だらけだった女子の制服も、今では感覚が麻痺してきて、これだけ多くの人のなかでも欠伸を噛み殺すくらいの余裕があって大変によろしくない。 

 グッと伸びをすると、背中からバキバキと物騒な音が鳴った。昨日の睡眠時間は1時間程度。ここのところはほとんど毎日こんな具合だ。

 

 虹ヶ咲学園音楽科の作編曲班は大変優秀だった。

 優木さんの持ち曲は、学園祭で披露したオリジナル曲が1曲。個人で活動していたときカバーが2曲の計3曲とやや心もとないものだった。

 新たにオリジナル曲を作ろうにもさすがに時間がないし、練習時間も設けないと学園祭のステージの二の舞になりかねない。

 そうなるとカバー曲の持ち数を増やそう、となるのは自然の流れで。実際バンドのライブでもオリジナル曲より、誰もが知っている曲のカバーのほうが盛り上がったりするし。

 優木さんがリクエストした楽曲を、彼女用に音楽科が編曲することになったのだけど、これが恐ろしいスピードで、次から次へと新しい譜面が上がってくる。

 その甲斐あって、ライブごとに違ったカバー曲を披露することができ、学園が管理する彼女のSNSアカウントには新しい動画が投稿され、フォロワーの数は日に日に増えていった。

 ……だけど持ち曲が増えるということは当然のことだけれど、それらの曲を覚えて演奏できるようにならなければならないわけで。

 譜面をサッと流し見ただけで、完璧に弾ける化け物みたいなバンドメンバー達と違い、ある程度練習をしなければならない僕の睡眠時間は激減。

 酷いときは学校をサボって練習をしてそのままライブに合流なんてこともあった。この2週間は人生で最も長い時間ギターに触れていたと思う。

 

 

***** 

 

 優木さんが姿を現したのは、約束の時間を少し過ぎたころで、今まで一度も待ち合わせに遅れたことが無かったから珍しいなと少し驚いたのだけど、小柄な身体を人ごみに揉まれてやってきた彼女を見て僕はギョッとする。

 

「優木さん、顔色真っ青だけど大丈夫?」

 

 僕は声に出して訊ねる。この格好で移動をする機会が増えて気づいたのだけど、周囲の人は他人の声がどうとか案外気にしていないみたいで、これだけ混雑している場所なら多少の会話くらい何の問題もない。

 

「……大丈夫です」優木さんは、明らかに大丈夫そうではない弱弱しい声音で答える。

 

「もしかしなくても体調悪い? ちゃんと寝てる?」

 

「あまり……生徒会の引継ぎと定期テストが重なってしまって……」そう言うと、優木さんはハッとして自分の頬をぺちぺち叩いて「大丈夫です。本当に」

 

「それよりも遅れてしまってすみません。早く向かいましょう」

 

 衣装で膨れたスクールバッグを肩にかけなおして、乗り換えのホームに向かおうとする優木さんの足取りは危うくて「その、良かったら持とうか? 余計なお世話だったらごめんだけど」衣装で膨らんだ重たそうなスクールバッグを指して言うと、優木さんは少し迷って「……お言葉に甘えても良いですか?」おずおずバッグを差し出し、受け取る僕に「それと、すみません。今は優木せつ菜ではなく中川菜々ですので、そう呼んでいただけると」そう申し訳なさそうに言った。

 

 

*****

 

 

 優木せつ菜と中川菜々。

 同一人物なんだけど外見も性格も、コインの表と裏みたいに、全く違っていた。

 銀縁眼鏡に三つ編みのおさげ。これぞ優等生な真面目な容貌に、沈着冷静な性格の中川さん。

 対して優木さんの方は明朗快活。眼鏡のない大きな瞳はキラキラに輝いているし、話していると常に語尾に「!」が付いてくるような、元気いっぱいの子供みたいな人。

 とても人懐っこい性格で、学園祭の以前は優木さんに対して思うところがあった様子のバンドメンバーも「せつ菜ちゃん喉飴食べる?」「ありがとうございます!いただきます!」「このアクセサリー、せつ菜ちゃんの衣装に合いそうだなと思ったんだけどあげようか」「いいんですか!? すっごくかっこいいです!」などと猫可愛がりだ。

 どちらが本当の彼女なのか、僕にはわからない。

 一緒に移動する時間は長いものの会話をする機会は少ない。これまでの経緯が経緯だからなんだか気まずい。

 それに、話そうにも移動中の中川さんは読書をしていることが多く、僕の方は少しでも睡眠時間を稼ぐために寝ているか、余裕なく譜面に齧りついているかで。

 座るときは足を閉じた方が良いですよ、とか。背筋が曲がってますよ、とか。

 所作のアドバイスをぽつりぽつりとくれるとき以外、言葉を交わすことは無かった。

 

 

*****

 

 今日ライブを演る女子中学校は、有名な観光地からほど近い所にある。

 そのためか電車もバスも大変に混雑していて、目的地に到着する頃には、優木さんの顔色はいっそう悪くなっていた。

 バスを降りて、ふたりそろって傘をさし、雨除けのビニールで覆われたアーチを潜って校舎へと向かう。

 昨晩から降り続く雨は一向に止む気配がない。

 校門前に並ぶ屋台のテントは人気がなく、調理器具なども見当たらず、もぬけの殻だ。屋外の出店はもしかしたら中止なのかもしれない。

 横手に見える、雨でぬかるんだグラウンド。そのちょうど真ん中くらいには校舎に向かって設置された仮設ステージがあって、ステージ上の機材類は全てビニールシートで覆われている。

 

「これ、今日ライブ出来るのかな?」

 

「……わかりません。まずは職員室に挨拶に伺いましょう」

 

 中川さんについて、職員用玄関で入館証を貰って校内へと足を踏み入れると、開場前にも関わらず、大変な喧騒に出迎えられた。

 昇降口の先、広い玄関ホールには壁沿いに折り畳みの会議机がズラリと並んで、色とりどりの揃いのクラスTシャツを身にまとった女子生徒たちが、おでんであったり、焼きそばであったり、ホットドッグであったりを調理する器具を設置していたり、床に這いつくばって即席の看板を作っていたり忙しない様子。

 道中すれ違った生徒会役員らしい腕章をつけた女生徒たちは「屋外の機材の搬入は終わった!?」「重たいもの以外はあらかた!」「音響機材はどうします?」「雨の中あんなの運べないよレンタルなんだから」「軽音部のでどうにかしよう」「体育館と講堂の新しいタイムテーブルは各部に配り終わった?」「まだ作成中です!」と半ばパニックのような有様で、挨拶をしようとする中川さんに気がつくことなく速足で去って行ってしまった。

 

「なにか、あったのでしょうか……」青白い顔で呟く中川さんに僕は「そうかもしれないね」頷く。

 開場までもう幾許もない時間でこの慌ただしさなのだから、不測の事態があったのだろう。

 

「力になれることがあればいいのですが」と中川さんは言うけれど、僕たちはあくまで部外者で、何か手伝おうとしたところで、きっと場を搔き乱すだけだ。

 中川さんもそれがわかっているのか、少し悔し気な表情で、バタバタ走り去っていく女子生徒達の背中を見送って、僕らは2階にある職員室へと向かう。

 

 

****

 

 その小さな声は学校中に満ちた喧騒の中であって、良く聞こえてきた。

 職員室がある2階の上階の階段の踊り場。

 泣き声。しゃくりあげるような嗚咽。

 それはどちらも学園祭の開場の直前の、本来陽気であるべきときに相応しくないもので、だからだろうか、嫌に耳について聞こえた。

 中川さんも気が付いたらしい。

 2階フロアの、職員室の方へと歩みを進めていた彼女は振り返って声のする方へ向かって行ってしまう。

 

 ……体調が良くないんだから、わざわざ問題に首を突っ込まなくてもいいのに。

 

 中川さんに少し遅れて付いていくと、3階へと続く階段の中ほどに腰かける2人の女生徒の姿があった。

 学園祭の仮装なのだろうか、2人とも個性的な格好をしている。

 蹲り嗚咽をこぼす女生徒は男物の着流し姿。傍らで背中を撫でて慰める女生徒は、浅葱色の新選組の羽織姿で、なぜか髪飾りに大きなリボン。

 

「大丈夫ですか?」

 

 躊躇なく声をかける中川さんに、新選組の羽織の方の女生徒が顔を上げて、それから困ったような表情を浮かべる。

 それを見た中川さんが、申し遅れました私は虹ヶ咲学園から来ましたーー。

 すると唐突に、蹲って泣いていた方の女生徒が弾かれたように顔を上げて、視線が中川さんと僕とを何度か行ったり来たりして、泣き腫らした赤い目が僕たちをキッと睨みつける。

 

「貴方たちが来なければっ!」

 

 黒板を引っ搔いたみたいな怒声と、あまりの剣幕に僕らは面食らう。着流しの女生徒は涙を散らして立ち上がって、手がぎゅうと強く握られていて、僕は殴りかかられでもするんじゃないかと身構えたのだけど、新選組の羽織の女子生徒が「こら、ダメだよ」そっと抱きとめた。

 

「で、でも部長。今日が部長とやれる最後の舞台だったのに」

 

「うん、うん、そうだね」

 

「ずっと楽しみで、部長と同じ舞台に立つのが……」

 

「嬉しいな、私もだよ」

 

「だから、わたし、悔しくって悔しくて……」

 

 着流しの女子生徒は背丈が高く、新選組の羽織女子生徒はほとんど抱えるみたいに彼女の身体を抱き、優しく背中を撫でると、着流しの女生徒はさめざめと泣き始めた。

 その光景は彼女らの服装も相まってまるで、お芝居の一場面のようにすら見えて、事情が何一つわからない僕たちは、観客よろしくそれを見守ることしか出来なかった。

 

 しばらくすると着流しの女生徒の泣声も収まってきて、新選組の羽織の女生徒が背中をポンと叩いて「大丈夫? 落ち着いた?」と優しく問いかけると、着流しの女生徒は肩に埋めていた顔を離して「すみませんでした。もう大丈夫です」まだ震える声で言った。

 

「開場前に短縮した台本の読み合わせをしておきたいから、部室に皆を集めて欲しいんだけど、お願いしても大丈夫かな?」

 

「はい、わかりました」

 

「ありがとう。それから……大きな声出しちゃったことちゃんと謝ろうか?」

 

 着流しの女生徒は僕たちの存在を完全に忘れていたらしく「あっ」と上げると、赤面してこちらを向いて「すみませんでしたっ」頭を下げると、返事も待たずにそのまま踵を返して階段を駆け上がっていってしまった。

 

「すみませんでした。悪い娘じゃないんですけれど、少し立て込んでいたもので……」

 

 心底申し訳なさそうに謝る新選組の羽織の女子生徒に中川さんは「いえ、こちらこそ急に声をかけてしまって」と謝罪してから「……その、もしよろしければ、何があったのか教えていただけませんか?」そう言った。

 

 

****

 

 

 思い返すと行く先々の学園祭のほとんど全てで、大小何かしらのトラブルに見舞われた。

 リハーサルの時間がなくぶっつけ本番でステージに立つことになったり、ライブを行うには無理がある粗末な機材が用意されていたり、カバー曲に使用する同期音源が急に止まったり。

 なかには演奏が止まりかねない致命的なトラブルもあって、勘弁してくれよ、と頭を抱えたくなったものだけど、行く先々の学園祭実行委員もきっと同じように思っていたに違いない。

 あまりに多忙な毎日が続いていて、これまで意識が向かなかった。ただでさえ過密な学園祭のスケジュールに、急にねじ込まれた優木さんのライブ。どこの学校も迎え入れるための準備の時間も余裕も無かったのだ。

 機材トラブル程度で済んでいたのはむしろ幸運だったのかも知れない。

 

「雨で校庭のステージが使えなくなったことで、体育館を使う部の持ち時間が削られることになったんです」

 

 校庭に設置されたステージは優木さんのライブのために用意されたものだった。

 文化部の活動が盛んなこの学校は、講堂も体育館も既に予定がビッシリと埋まっていたため、ライブのため時間を捻出することが難しかった。

 しかしそこに昨日から降り続く雨。

 わざわざやって来た他校の生徒を、雨だからライブが出来ないんです、なんて追い返すこと出来るはずがない。

 開場時間が迫るなか実行委員たちは、無理をすれば体育館や講堂で無くても発表が可能な部活に、本来は雨天時に屋台をするクラスが使用するはずだった空き教室をあてがい、体育館の使用時間をどうにか確保。玄関ホールの喧騒はその影響だ。

 それでも足りない分は、各部の持ち時間を削ることで捻出することに。

 しかしどの部活も、この日のためにこれまで活動をして来た訳だから、持ち時間を削られることに良い顔はしなくて、話し合いは難航。

 業を煮やした実行委員が「くじ引きで決めよう。それなら公平でしょ?」と言い出し、そうして割りを食うハメになったのが、新撰組の羽織の女生徒が所属する演劇部だった。

 

「そんなのおかしいです。それなら私たちの持ち時間を減らすべきで……。今からでもそちらの実行委員に掛け合えば」

 

 彼女は「いえ」と首を振る。

 

「どうしてですか? こんな理不尽……先ほど部員の方の様子を見る限り、他の皆さんもそれに貴方だって、納得されてないんじゃないですか?」

 

「納得……そうですね。確かに納得は出来ていないと思います。皆も私自身も」

 

 それなら、と言い募ろうとする中川さんを彼女は制して「ですけれど、楽しみにしている人が沢山いるんです。今日の、スクールアイドルのステージを」

 

「……せつ菜のステージを?」

 

「はい。せつ菜さん。優木せつ菜さんでしたか? すみません、スクールアイドルにはあまり詳しくなくて。凄く人気のあるスクールアイドルなんですよね?」

 

 他ならぬ優木せつ菜本人である中川さんは、えぇ、その、と歯切れの悪い返事。

 

「私の学校でもスクールアイドルはとても人気があるんです。 ……正直に言うと私たちの舞台が不完全なものになるのは悔しいです。とても、悔しい。でもスクールアイドルのライブを楽しみにしている人達がいて、私だって観たい舞台が観れなくなってしまったら悲しいですから」

 

 だから仕方ないんです、彼女は苦笑する。

 

「不完全とはいえ私たちは舞台を演じることができて、皆が楽しみにしている優木せつ菜さんのライブも出来る。きっとこれが最善の形なんですよ」

 

「最善だなんて……」

 

「それにこんな経験、なかなか出来るものじゃありませんから、多少短くなってはしまいますが、元々の物よりもずっと面白い、素敵な舞台にして見せますから」

 

 アドリブは苦手なんですけどね、と笑う彼女に、中川さんはついに言葉を返せなくなって、ちょうどその時「先輩!みんなを部室に集めました!」先ほどの着流しの女生徒が階段の上から呼びかけてきて、彼女は振り返って、ありがとう、すぐ行くね。

 

「それでは失礼します。時間が合うようでしたら私たちの舞台、観にきて下さい!」

 

 一礼をして、新撰組の羽織を翻して走り去る彼女を見送る。その背中が見えなくなってから隣で中川さんが「こんなの、間違ってます」小さく呟くのが聞こえた。

 踵を返して階段を降りていく中川さんに僕は「どこに行くの?」慌てて声をかける。

 

「職員室です」

 

「挨拶に行くんだよね?」

 

「はい……それと抗議に」

 

「抗議って」 

 

「私の大好きが誰かの大好きを傷つけるなんて、絶対に許せません」

 

 感情を押し殺した声で言う中川さんの背を追いかけながら、僕は面倒なことになってしまったなと、内心で嘆息した。

 

 

 



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無茶。

「それは面倒くさいことになったねー」

 

 リカさんが気怠そうにボヤく。

 中川さんが職員室へ踏み入ってから少しして開場のアナウンスが流れた。相変わらず生徒が忙しく右往左往する喧騒の中、保護者らしい壮年の男女や、卒業生らしい私服の女性や、他校の制服を着た学生や、来場者が増え始めたころ、渋滞で遅れていたリカさんたちバンドメンバーがようやく到着した。

 これまでの経緯をスマートフォンに打ち込んで説明したところリカさんは先ほどの反応。バンドの面々は「別にライブできるんだからいいんじゃない?」「向こうのゴタだし、こっちにゃ関係ないよね」「前座ここの軽音部だって」「いいね食ってやろう」と、なんだか血の気が多いことを言っていて、この場に中川さんが居なくてよかったなと心底思った。

 静かに職員室の扉が開いて「失礼しました」一礼して、中川さんが出てくる。

 振り返った険しい表情を見る限り、どうやら抗議は失敗に終わったらしい。

 

「おはよー菜々ちゃん。なんだか大変みたいだねー」

 

「岡峰さん……皆さんもおはようございます」

 

 律儀に挨拶をする中川さんに「はよー」「なんか顔色悪くない?」「生理?」などとバンドの面々は雑な返事をして、あまり余裕が無いのか中川さんはそれらに取り合わず「先方の都合で予定に大きく変更がありました」と言いながら、職員室で貰ったらしい最新のタイムテーブルをメンバーに配る。

 手渡されたタイムテーブルに目を落とすと、確かに大きな変更だ。昼頃に予定されていた出番が夕方ごろ。場所は体育館に変わり……いや、ていうかこれトリじゃん。

 これまでのドサ回りの経験から、優木さんのライブが他のどの催し物よりも盛り上がることに確信はあるけれど、それにしたって部外者がトリを務めるというのはいかがなものなのだろうか。色々な事情があるのだろうけど、この学校の生徒のことを考えると少し居たたまれない。

 

「リハーサルの時間は取れないらしく、申し訳ありませんが今回もぶっつけ本番になります。集合時間やステージの段取りなどは、これから実行委員の方と優木さんと話して決まり次第お伝えしますので、皆さんは学園祭を見て回るか、バスの方で待機していて下さい」

 

 中川さんは淡々と言って、それから僕の方に歩み寄ってきて「荷物、ありがとうございました」なんだかんだでずっと持っていたスクールバッグを僕は手渡して、小さな背中が雑踏の奥へと消えるのを見送った。

 

 

*****

 

 

「げー、出番5時だって」「時間まで見て回る?」「あたしバスで寝てるわ」などと言い合いながら三々五々散っていくメンバー達。

 

「菜々ちゃんが無茶しないか気にかけてなよー」と、別れ際にリカさんが言っていたのが気がかりだけど、裏方仕事で僕が力になれることなんてないし、そもそも中川さんに限って無茶なんてするわけがないだろう。

 それにしても、夕方まで時間を潰すとなるとなかなかに骨だ。いくら慣れてきたといっても、この格好で他校の校内をうろつく度胸はさすがに無い。

 タイムテーブルに改めて目を落とすと、演劇部の公演は昼頃かららしい。一応観に行ってみようかな……。

 なんにしても、とりあえずは時間まで漫画喫茶でも探して時間を潰そう。

 そうと決まれば、昇降口に向かって、虹ヶ咲と違って迷う心配もないから、スマートフォンで近隣の地図を眺めながら歩いていると唐突に声をかけられた。

 

「あの、せつ菜ちゃんのバンドの人ですよねっ?」

 

 顔を上げると見たことのない制服の女生徒二人組。

 彼女らはなんだかキラキラした瞳でこちらを見ていて、僕が機械的に頷くと揃って歓声を上げた。

 

「私たちせつ菜ちゃんのファンで」「今日ライブやるって本当なんですか」「バンドの人たちもすっごくかっこよくて」

 

 それからなんでか握手を求められて、記念撮影をして、圧倒されているうちに彼女らは「ライブ頑張って下さい!」と満足気に去って行ったのだけど、似たようなことが校内を歩いていると頻発して、これには流石に参った。

 だって皆、凄い勢いで話しかけてくれるのだけど、僕の方は喋れないし、喋れない事情をいちいち説明するのも億劫で、かといって優木さんの評判に関わるだろうから、邪険に扱うことも出来ない。

 さっさと校外に出たかったのだけれど、開場から時間が経って人出の増した昇降口の方に行くのは自殺行為に思えた。絶対に捕まる。

 どうしようもないから、学校の歴史だとか、地域の沿革だとか、人気の少ない展示をやっている教室を選んで時間を潰していると、ちょうどグラウンドの方に面した窓に、おかしな物が見えた。

 

 朝に比べるとやや弱まった雨足。しかしグランドの土の地面は相変らずぬかるんで、水溜りが大小無数にあって、その真ん中あたりにポツンと佇む仮設ステージの白い幌が物悲しい。

 その仮設ステージに向かって、水溜りを踏み潰しながら、傘もささずにずんずん歩いて行く小さな白い人影は、最初は何かの見間違えかと思ったのだけど、目を凝らして見るとそれはどこからどう見ても、スクールアイドルの衣装に着替えた優木さんの姿だった。

 

 なにやってんのあの人!?

 

 声を出しそうになるのをグッと堪えて、窓の方に寄って外を見ると、優木さんがステージによじ登ろうとしていて、なんだか滅茶苦茶に無茶しようとしてる! 僕は慌てて昇降口に向かって駆け出した。

 



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小さな鳥の歌。優木さんの歌。魔法。

 雨でぬかるんだグラウンドをローファーで走るのは、中に水や泥が入り込んで大変に不快だし、滑って転びそうになるし、何一つ良いことが無かった。

 朝に比べると雨は随分弱まっていて、それでも身体にまとわりつくような細かな雨が降り続けている。

 ステージに辿り着くころには、制服もウィッグもマスクも、すっかり濡れそぼって、水滴で鬱陶しい眼鏡は外してポケットに突っ込む。背負ったギターケースの中身が心配だけど後回しだ。

 

「優木さん、なにしてるのっ!?」

 

 ステージ上に張られた、雨よけのビニールを除けて、マイクを手に取ろうとする優木さんの背中に声をかける。

 

「み、御崎さん? どうしてここに?」

 

 振り返った優木さんのステージ衣装には、ところどころに泥が跳ねて汚れていて、三つ編みを下した黒髪には水滴が滴っている。 

 

「窓から姿が見えたから……なにしようとしてるの?」

 

 そう僕が訊ねると優木さんは、気まずそうに俯いた。

 

「ライブを、やろうと思ったんです」

 

「ライブって、メンバーには声掛けたの?」

 

 優木さんは首を振る。

 いやいやいや。広大なグラウンドのど真ん中。バンドも従えずに、たった一人アカペラでライブ?

「やるならせめて、バンドメンバーが揃ってからやろう。リカさんたち呼んでくるから」

 

 確か、バスで寝てる、と言っていた。リカさんやバンドメンバー達を呼びに行くため、駐車場の方に駆けだそうとする僕を「ダメですっ」優木さんの声が引き留めた。

 

「ダメなんです。私の我儘ですから、私だけの責任でやらないと」

 

「……まさかと思うけど、許可取ってない?」

 

 頷く優木さんに、僕は気が遠くなる。なんだってそんな無茶を。

 

「やめときなよ、絶対に問題になるよ」

 

「わかっています。全て承知の上です」

 

「……もしかして、さっきの演劇部の娘たちのこと気にしてるの? あんなの優木さんが気に病むことじゃないって」

 

 僕たちはただ、ライブを演りに来ただけだ。

 貴方たちが来なければ、なんて学園の指示で演奏をしに来ている僕や優木さんに言われたってどうしようもない。

 文句を言うなら、くじ引きで持ち時間を決めるような適当な提案をした実行委員や、雨天でダメになる半端なステージを用意した職員室や、ライブを無理にねじ込んだ虹ヶ咲学園に言うべきだ。

 それなのに、優木さんは悔し気に顔を歪めて首を振る。髪の毛から宙に舞った水滴はまるで涙の粒みたい。

 

「私がもっと凄ければ、こんな雨なんかに負けないステージを用意して貰えるくらい、私が凄いスクールアイドルだったなら、こんなことにはなりませんでした」

 

「いや、その理屈はおかしいでしょ……」

 

「おかしくないです」優木さんは手に持ったマイクを強く握りしめる。

 

「きっとあの演劇部のお二人は……いえあの方たち以外も。この学校の全ての生徒達はこの日のために、自分たちの大好きなことのために、たくさんの努力をしてきて、私がそれを邪魔してしまったんですから」

 

 僕は言葉に詰まる。どうしてそこまで自罰的になれるのか理解ができない。

 演劇部の人たちも、この学校の生徒も、今日初めて会った僕たちには、なんの関係もないじゃないか。

 僕が冷徹なのか? そんなことはないだろう。他の誰かだって同じように考えるはずだ。

 気の毒だね。仕方ないよって。

 

「御崎さんは何も見なかったことにして、校舎に戻っていて下さい。ライブが終わったらバンドの皆さんはすぐに帰宅できるよう取り計らいますから」

 

 そう言って、優木さんは手に持ったマイクのスイッチを入れて、だけどもマイクは全く反応しなくて。まだ体調が芳しくないのか優木さんは、青白い顔でフラフラとステージ上を歩いて、並べられたマイクスタンドから新しいマイクを引き抜いて、けれども当然、音は鳴らなくて。

 

 踵を返しかけて、思いとどまる。

 僕は優木さんとは違う。

 出会ったばかりの赤の他人が困っていて、力になれることがあれば気分次第で不承不承、手を貸すくらいはするかもしれない。

 だけど、自分の立場を脅かしてまで助力するかと言えば、それは確実に否だ。そこまで僕は人間が出来ていない。

 だけど今、目の前で困っていて、だけどそのことをおくびにも出さずに、誰にも頼らず、自分一人でどうにかしようとしているのは、実行委員の生徒でもなく、屋台の準備に悪戦苦闘する生徒でもなく、あの演劇部の生徒達でもなくて、優木さんだ。

 

 僕は優木さんのことを何も知らない。

 優木さんと中川さん、どちらが素の彼女なのかわからないし、どうしてこんなにスクールアイドルに対して熱量を持っているのかも知らない。ていうかなんで正体隠してるの?

 本当に何も知らないんだ。関係性を問われれば、赤の他人と答えても違和感は無い。

 けれど、彼女には僕が初めて虹ヶ咲学園に行ったとき、道に迷っているところを助けてもらった。

 それなのに僕は、全てが僕の責任でなかったとしても、結果的に彼女のことを騙し、その厚意を仇で返す形になった。

 ……息を吐く。覚悟を決める。

 もし、これから始める行為を咎められ、僕の正体が明るみになれば、色々と、それはもう色々と僕自身も、僕以外も、大変面倒なことになるだろう。

 だけども、ここで優木さん一人残して、言われた通り回れ右して、のこのこ校舎に戻るのは、こんなふざけた格好をしているとはいえ、男としてどうかと思うから。

 僕はステージに手をかけてよじ登る。

 

「ちょっと貸して?」

 

 驚いた様子で振り返る優木さんの手からマイクを取って、ステージ上を見渡して、上手の袖の奥に目当ての物を見つけて歩み寄る。

 しゃがみ込んで見てみると、だいぶ年季が入った外見だけど幸いにも、うちで使っている発電機と同じ機種だった。

 しばらく前に父の仕事の手伝いをしたときに、教えてもらった手順を思い出しながら、燃料コックを開き、チョークを引いて、スイッチをオンにする。

 

「わかるんですか?」

 

 心配気に訊いてくる優木さんに、多分、と返しながら、スターターハンドルを思い切り引っ張る。

 一回では起動せず、本当に動くのこれ? 不安になりながらも、何度か同じ動作を繰り返していると、エンジンが咽るような音を鳴らして、チョークを戻していくとエンジンが始動した。

 発電機の唸り声のような低音に、優木さんの肩が跳ねる。

 続いて発電機の近くに置かれていた、ラックケース入りのパワードミキサーの電源を入れる。

 グラウンドのどこにもPAブースが見当たらなかったときから、薄々感づいてはいたけれど、このステージの音響はステージ上だけで完結している。

 本当に準備の時間がなかったのだろう、ステージの外に音量のバランスなどを操作してくれるスタッフがいないのだ。

 当然、バンド演奏に耐えられる環境ではなく、良くてカラオケ大会レベルの音響設備。

 それでもリカさんたちならば、どうにかしてしまうのだろうけれど……。

 だけれど、今はこのシンプルすぎる機材がありがたかった。これくらいなら僕でも弄れる。

 マイクをミキサーに接続して、音が問題なく出ることを確認して優木さんに手渡し、手早く自分のギターの準備に取り掛かる。

 ライブを始める前に誰かに気取られたら面倒だ。急がないと。

 ギターケースを開くと、うわぁやっぱり中に雨水が染みてる。ケースのポケットから同じように濡れているファズエフェクターとシールドケーブルを取り出して、アンプに繋ぐ。とりあえずは音が出るから大丈夫そう。

 

「あの……良いんですか?」

 

 チューニングをしていると優木さんが訊いてきた。

 

「なにが?」

 

「一緒にステージに立っていただけるのは凄く心強いですけれど、迷惑をかけることになってしまうかと思いますので……」

 

「まぁ、きっとなんとかなるよ」

 

 先のことは後で考えればいい。

 僕はステージ袖に見つけた丸椅子を持ってきて、一脚を優木さんに勧めて、その対面に腰かける。どうせ客はいないんだ。

 組んだ脚にギターを構えて、どの曲を演ろうか? 訊ねようとして、自分の手が酷くかじかんでいることに気が付いた。

 

「……ごめん、少しだけ指慣らししても良い?」

 

 ステージの幌だけでは、未だ降り続ける細かな雨を遮ることは出来ず、冷たい雨が足元を濡らしている。

 優木さんが頷くのを見て、僕は濡れたファズエフェクターのスイッチを蹴っ飛ばし、ギターアンプが咆哮を上げかけるのを、ギターのボリュームノブを絞って抑え込む。

 すると音色は鈴の鳴るようなクリーントーンへと、魔法のように変容する。

 この円盤系のファズがなければ出来ない、ギターの弾き方と一緒に、子供のころに教わった魔法。

 ピックを振り下ろし、左手で指板を探る。

 ウォーミングアップに弾くのはいつもこの曲だ。初めて弾けるようになった曲。父が教えてくれた曲。ギターの神様が産み落とした、おとぎ話みたいな小さな鳥の歌。

 

 星を散らすギターの音色に、低い歌声が紛れていることに最初、僕は気が付かなかった。

 それは優木さんの地面を這うような低音のハミングだった。

 歌詞を伴わない感情を剝き出しにした歌声は次第に熱を帯び始め、曇天を割る雷光を思わせる鋭いシャウトとフェイクが飛び出し、僕は追い立てられるようにギターのボリュームを上げて、ネックを絞り上げ、ピックを叩きつける。

 

 2分程度の短い曲はあっという間に終わった。

 優木さんと僕との間に、きらきらと瞬いて見えるのは、雨粒か、音の残滓か、それとも飛び立った小さな鳥が落としていった羽だろうか。

 指先はすっかり温まって、優木さんの方も青白かった顔に、心なしか血色が戻っているように見える。

 

 曲はどうしようか?

 

 あの曲にしましょう。

 

 わかった。テンポはこれくらいでいい?

 

 僕は指を鳴らす。

 

 はい。

 

 じゃあカウント4つで。

 

 ミュートした6本の弦にピックをぶつける。

 

 1、2、3、4

 

 優木さんが息を吸い込む音。弦のスクラッチノイズ。

 

 吐き出された優木さんの歌声に、僕はただ圧倒される。

 こんな歌い方も出来るんだ。幸福なときに零れる溜息のような。残雪を溶かす春の陽光のような。

 普段の烈火のような、強烈な光を伴う歌声とはまるで違う、温かくて優しい歌声。

 

 優木さんの歌は不思議だ。

 聴いていると胸の奥がじわり熱くなって、気が付けば身体中は焼けるような甘い痛みを伴う熱に包まれていて、それなのにその痛みはどうしようもなく心地よい。

ステージでは彼女の一挙手一投足から目が離せない。

 客席に向けて腕を振り上げた瞬間。手をグッと握りこんだ瞬間。呼吸で肩が上下する瞬間。

 どれかひとつでも見落とせば、彼女の音楽から振り落とされてしまうから。

 

 今みたいな、ふたりきりの状況ではなおさら。

 優木さんをじっと見据える。艶のある唇がマイクのグリルに触れる。細い指先がケーブルを握りこむ。シャウトの瞬間、身体がくの字に折れて、白い首に血管が浮き上がって、泥で汚れたブーツの足がぐっと持ちあがる。

 押弦する手元を覗き込む必要はなかった。ギターを弾く両の手はオートマチックに動いた。僕のギターの音は、優木さんの歌声に溶け込んで、混ざりあって、ふたつの音の境界線が曖昧になって、そうしてひとつの音になる。

 優木さんの星空みたいに輝く瞳の中に、僕のシルエットを見る。ふと彼女の眦が緩んだ。歌声と同じ優しい笑顔だった。もしかしたら僕の方もそんな顔をしていたのかもしれない。

 

 優木さんの歌は不思議だ。

 優木さんの歌に寄り添っていると、意味を持たない僕のギターが、なにか意味のあるもののように感じられるから。

 

 

*****

 

 

 いつ曲が終わったのかわからなかった。

 僕と優木さんの間には、音楽の気配がまだ濃く滞留していて、優木さんの呼吸の音と僕の呼吸の音とが、もしかしたら鼓動の音までもが、先ほどまで鳴っていた音と同じ、全く同じ、ひとつの音に聞こえて。

 魔法にでもかけられたみたいだった。無音の中にまだ音楽が続いているような。

 だけれど、次第に魔法は解けていく。

 最初にギターアンプから漏れるノイズの音が、次に発電機の低い駆動音が、遠くを走る車のタイヤが地面を踏み潰す音が。

 現実の音たちは僕らの音楽に浸透して、音楽の魔法は塗りつぶされて、やがて消えてしまう。

 最後に雨が地面を打つ音が聞こえた。とても強い音だ。また、降り出したらしい。

 だけど、グランドの方に目をやると、どうやらそれは雨の音ではなかった。

 

 ステージの真ん前に、制服姿の女生徒がひとり。

 大きなリボンで結った長い髪の毛は雨ですっかり濡れてしまって、ぽたぽたと雫を落とす前髪の奥の、爛々と輝く空色の瞳は僕らをまっすぐに見上げて、彼女の一生懸命に打ち鳴らす拍手が、なるほど雨音の正体だった。

 雨音はさらに勢いを増す。

 僕らは驚いて校舎の方を振り向く。

 開いた窓にはたくさんの人の姿があった。彼らの振る色とりどりペンライトの、淡い光が校舎を彩る光景は、どうしようもなく非現実的で、美しくて、優木さんとふたり顔を見合わせる。まさか本当に夢の中にいるんじゃないだろうか?

 

 瞬間、クラッシュシンバルの痛烈な一撃が、僕らの呆けた思考を完全に現実へと引き摺り戻した。

 ベースのグリッサンド。歪んだギターのコードストローク。火花が弾けるようなドラムスのフィルとともに、軽快なビートが疾走を始める。

 昇降口から何人もの人たちが、傘もささずに、ステージの方へと駆け寄ってくるのが見えた。

 野太い8分音符を刻みながら、リカさんが曲名を叫ぶ。

 僕らはバンドサウンドに背中を叩かれて、丸椅子を蹴倒して立ち上がる。

 優木さんは雨に濡れることも気にせず、ステージの先端まで歩み寄り、小さな拳を力いっぱいに突き上げた。

 優木さんの拳の先の、歓声に揺れる校舎の奥に見える雨空の向こう側に、曇り雲が割れて陽の光が幾筋か差し込むのが見えた。

 



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裸足。ありがとう。

 演奏が終わるまで誰も止めに入らなかったのは、気を遣ってもらったのだと思う。

 セットリストが一巡し、アンコールを求める声が聞こえてきたころになってようやく、教員らしい男性が数人ステージへと上がってきた。

 それを見たリカさんが目配せをすると、メンバーたちは肩をすくめて、アンプの電源を切ったり、ドラムセットから出てきたり、僕もそれに習って、自分の楽器を片づけた。

 客席の生徒らから、多少の不満の声が聞こえて来たけれど、教員がいくつか声をかけると、案外と大人しく生徒たちは校舎へと戻っていった。

 ステージに上がってきた教員の中でも、一番年かさの総白髪の男性教師が、こちらに近寄ってきて、なんだか申し訳なさそうに頭を掻きながら口を開く。

 

「抗議にいらっしゃったそちらの生徒会長さんといい君たちもきっと、こちらの生徒のことを慮っての行動なんだろうね」

 

 気を遣わせてしまってすまない、と頭を下げる総白髪の教員に僕らは面食らう。

 こんな勝手をしでかした手前、怒鳴られるとばかり思っていたから。

 

「すまない、そう、すまないとは思っているんだ。だけどね、こう騒ぎになってしまって、なんのお咎めもなしというわけにいかない、こちらの事情も分かってほしい」

 

 弱り切った様子で言う総白髪の教員に「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」と、深々と頭を下げたのはリカさん。

 

「君が責任者かな? 職員室まで一緒に来てもらっても?」

 

 素直にうなずくリカさんに、総白髪の教員はホッとした表情で「それと生徒会長さんも呼んでもらいたい。便宜的なものだから、そう構えなくても大丈夫だから」と言って、そこで僕は、はたと気が付いた。

 いつの間にか、ステージから優木さんの姿が無くなっている。

 優木さんの正体を知っているのは僕とリカさんだけで、それに優木さんがライブが終わると知らぬ間に姿を消すのはいつものことだったから、メンバーたちは気にしていない様子だけれども。

 リカさんは面倒くさそうに「菜々ちゃんのこと探して職員室まで引っ張ってきて」そう僕に耳打ちして、教員らに付いて校舎の方へと去っていった。

 

 

*****

 

 

 ライブ行脚をするようになってわかったことだけれど、優木さんは初めて訪れた学校やライブ会場であっても、人気の少ない所を見つけるのが得意だ。

 というのも、生徒会長の中川さんから、スクールアイドル優木せつ菜へと変身するところは、正体を隠している手前誰にも見られてはならない訳で。

 だからか、学園祭やイベントの喧騒の最中でも人気の少ないお手洗いや、空き教室や、そういうところを見つけるのが優木さんは上手で、同じく正体がバレたらお終いな僕も、着替えが必要な時は彼女の後で使わせてもらったりしていた。

 すぐに見つかると思っていた。なんとなく、優木さんが使いそうな場所の目星は付いていたから。その筈だったのだけど。

 

「……だめだ、見つからない」

 

 校内中を駆け回った僕は荒い息を吐いて、もう何度目になるかわからない、優木さんの番号にコールしてみるけれども、呼び出し音が虚しく鳴り続けるだけ。

 諦めてスマートフォンをポケットにしまい込んで、肩を落とす僕の横を、実行委員の腕章をつけた生徒や、呼び込みの生徒が駆け抜けていく。

 優木さんのライブの分の時間がごっそりと空いた体育館は、タイムテーブルが再度組み直され、件の演劇部も当初の予定通りに公演が出来るようになったとか。

 二転三転する状況に振り回されている生徒たちだけど、来た時に比べると、校内はどこか明るい活気に溢れているように思えた。

 ふと窓から外を見ると、空は相変わらずどんより曇っているけれど、雨は止んでいた。

 

 ……ここからだと、こういう風に見えるんだ。

 

 屋外のステージには当たり前だけど人の姿はない。優木さんが歌って、僕がギターを弾いていた。

 ついさっきまであそこでライブをやっていたなんて、なんか現実的じゃない。

 魔法のような時間だった。

 優木さんの歌声と僕のギターの音とが溶け合ってひとつになる感覚も、ペンライトで都会の星空みたいに淡く光る校舎も。白昼夢のようで、けれど胸のあたりに残った熱の残滓は確かに現実のもので……。

 

 いやいやいや!

 

 今は物思いに耽っている場合じゃない。早く優木さんを見つけないと。

 再び駆け出そうとして、窓の外のステージに僕の意識は何か引っかかりを覚える。

 そういえば優木さん、あのとき校庭を突っ切ってステージに向かって行っていたような。

 もしかして……!

 弾かれるみたいに踵を返して、僕は昇降口の方へと向かう。

 

*※***

 

 予想は的中した。

 正午を過ぎて人通りの増す昇降口を出て、校舎に沿ってグルリと回り裏手に出ると、すっかり人気のないところにポツンと、プレハブ小屋をひとつ見つけた。

 立て付けの悪いドアをそうっと引いて中を覗き込むと、どうやら使っていない体育用具の保管に使われているらしい。

 割れた三角コーンや、錆びたハードルや、取っ手が壊れたライン引きや、それらが雑然と仕舞われていて、薄暗い埃っぽい空気の滞留した室の奥の、折りたたまれたマットの上に、何か黒い影が蹲るのが見えた。

 

「優木さんっ」

 

 黒い影の正体は優木さんで、僕は傍に駆け寄る。

 なんとか制服には着替えられたようだけれど、三つ編みのおさげは形が崩れているし、足元はまだ衣装のブーツのままだし、傍らに衣装やタオルが散乱していて「優木さん、ちょっと、大丈夫?」華奢な肩をおっかなびっくり揺すると、くぐもった呻き声が聞こえた。

 良かった生きてる、いやそりゃあ生きてはいるだろう。ダメだ思ったよりもテンパってる。

 

「……御崎さん?」

 

「ごめん、少し触るよ」

 

 前髪をよけて額に触れる。じわりと伝わってくる熱は明らかに平時のそれとは違っていて「救急車とか呼んだ方がいいのかな」無意識に呟くと「だ、駄目です」優木さんが焦った様子で身体を起こそうとして、だけど力が入らないのかまたマットに倒れ込んでしまう。

 

「それは駄目です、私がせつ菜だと両親に知られてしまいます」

 

「いや、そんなこと言ってる場合じゃ……」

 

 学園祭の喧騒が遠いプレハブ小屋に優木さんの荒い呼吸の音が痛々しい。どう見てもまともに動ける状態じゃない。

 だけれど「お願いします、駄目なんです」と、ほとんど泣き出しそうな様子で懇願されてしまっては、僕の方もどうしようもなくて。

 

「……一人で動けそう?」

 

 優木さんは蹲ったまま弱々しく首を振る。

 

「あの、邪な気持ちとか一切ないからね?」

 

 僕は優木さんの脚の方にまわって、ブーツの靴ひもを解いて脱がせる。次いで靴下も脱がすと、濡れた生白い素足が露わになる。

 くるぶしとアキレス腱の滑らかなライン。土踏まずのアーチ。つるりとした踵。形の良い整った指。丁寧に切りそろえられた爪。

 綺麗な人ってこんなところまで綺麗なんだな。

 早速邪なことを考えかけて、視線を逸らすと今度はスカートの意外に肉付きの良い白い腿やふくらはぎが目に入ってしまって、僕はぶんぶん首を振って口の中の肉を思い切り噛んで邪念を追い払う。マットの縫い目のほつれた所を一点に見つめながら、濡れた裸足をタオルで拭いた。

 

「すみません……お見苦しいものを」

 

 酷く恥ずかし気な様子の優木さんに僕は「いや全然、酔っ払ったケイコさんで慣れてるから」などと出来る限りの平静を装って言って、傍らに転がっていた替えの靴下とローファーを履かせる。

 出しっぱなしの衣装を畳んで、優木さんのスクールバッグに詰める。泥に濡れたブーツは大したものの入っていない僕のバッグに。

 ギターケースとそれらを背負い、優木さんに肩を貸してどうにか立たせて、人気の少ない裏門からこっそり僕らはその場を後にした。

 

*****

 

 裏門を出てすぐに通りかかったタクシーを捕まえた。悠長にバスなんて待っていられない。

 途中に見えたドラッグストアに寄ってもらって、風邪薬と栄養ドリンクを買い込んで、この期に及んで遠慮しようとする優木さんに押し付ける。

 昼を過ぎた中途半端な時間ということもあってか、観光地特有の駅前の混雑とは裏腹に、上りの電車はふたりで並んで座れるくらいには空いていた。

 シートの端に優木さんを押し込み、その隣に腰をかけてようやく人心地ついて思い出す。

 ……そういえば、リカさんに優木さんのこと連れて来いって言われてたっけ。

 電車内だから電話をかけるわけにもいかなくて。優木さんの体調がもう本当にどうしようもなく、もはや死んでしまうのではないのかと思うくらい悪くって、リカさんには大変申し訳なく思うけれど付き添って帰宅する次第です。というメッセージを送信して、電車の乗り換えを調べていると「すみません、何から何まで」隣から、か細い声の謝罪が聞こえてきた。

 

「いいよ気にしないで。それより体調悪いんだから寝てなよ」

 

「話している方が気が紛れますから……。御崎さんが良ければ話し相手になってくれませんか?」

 

「別にいいけど……」

 

 以前から訊いてみたいと思っていたことはあったし。

 

「優木さん……今は中川さんか。中川さんはどうして正体を隠してスクールアイドルをやってるの?」

 

「両親がそういうことに厳しくて、やりたいと言ってもきっと許してくれませんから」

 

「え、じゃあ親にもスクールアイドルのこと隠してるの?」

 

 頷く中川さんに「そこまでしてやりたいもの? スクールアイドルって」そう問うと「もちろんですっ」少し大きい声の返事が返ってきて、周囲の視線がこちらを向いたのに気が付いたのか中川さんは声を潜めて「初めて見たときから憧れだったんです」と照れくさそうに笑った。

 

「キラキラ輝いていて綺麗で、見ていると胸の奥が熱くなって、まるで大好きなアニメや小説の主人公みたいで……辛いときや苦しいときに沢山の元気と勇気を貰ったんです」

 

 そこにある熱の存在を確かめるかのように、優木さんはそっと自身の胸元に手を置く。

 

「学業を頑張ることも好きです。両親に期待されることは嬉しいですし、それに応えるために努力することも楽しいですから。……それでもやっぱり、一度くらいは自分の好きなことを本気でやってみたくて。憧れたスクールアイドルたちのように、ステージで思い切り大好きを叫びたくて……」

 

「生徒会長になって、同好会を作ったと」

 

「ど、同好会のためだけじゃないですよ? 学園の皆のために頑張ることだって大好きですからっ」

 

 それは知っている。初めて訪れた虹ヶ咲学園で迷ってトイレも見つけられず、途方に暮れていた僕を助けてくれたのは他でもない中川さんだった。

 

「……あの時はありがとう」

 

「え?」

 

「初めて逢ったとき、迷子になってたの助けてくれたでしょ? ちゃんとお礼を言ってなかったなと思ったから」

 

 学園祭の準備だったりで忙しかっただろうに。

 周囲の目があるから、僕は目立たないくらいに少しだけ頭を下げて「それと改めてだけど、騙して本当にごめん」

 

「……謝るべきなのは私の方です」

 

「中川さんが? どうして?」

 

「あの日、御崎さんの正体がわかった後で、岡峰さんと御崎先生……御崎さんのお姉さんにどうしてこんな無茶をしたのか理由を訊きました」中川さんは電車の床面を見つめたまま言う。

 

「それで話を聞いてみると主犯格はあのお二人で、御崎さんはむしろ巻き込まれた被害者じゃないですか? それなのに私は御崎さんを責める態度を取ってしまって、わかったあともなかなか謝ることができなくて……」

 

「いやまぁ、あの二人っていうかケイコさんが一番の元凶なのは確かだけど、僕だって報酬につられた共犯なんだから、中川さんが謝ることはないよ」

 

「いえ、本当なら御崎さんが被害者だと分かったときに、それこそ私の正体が明らかになってでも御崎さんのバンドへの参加を辞めさせるべきでした。それが生徒会長としての責務ですから。……なのに、そうしなかった、出来なかったのは私の私利私欲なんです」

 

「私利私欲?」

 

 中川さんは頷いて「楽しかったんです」ポツリと呟いた。

 

「あの日、御崎さんやバンドの皆さんとステージに立ったのが、あまりにも楽しくて。本当に楽しくて。もっともっと一緒に演りたいと、そう思ってしまったんです」

 

 生徒会長失格ですね。自嘲するように言う中川さんに、僕は何か声を掛けなければと思ったのだけど、間が悪く電車が乗り換えの駅に停車してしまった。

 よろける中川さんに手を貸して次の電車に乗り込み、空席に二人並んで腰を下す。そこで中川さんは「あれ?」と声を漏らして「御崎さんの乗り換え、この電車じゃないですよね?」

 ……僕は少し迷って、スマートフォンを取り出して文字を打ち込む。周囲に人が多くいて、声を出すのが憚られたからであって、決して気恥ずかしさを隠すためではない。

 

『お台場にちょっと用事があって』

 

 そんな苦しい言い訳を打ち込んだ画面を見せると、中川さんは眼鏡の奥の瞳を丸くして、それから「御崎さんは優しい人ですね」と緩く笑って言った。

 

 

****

 

 

 電車に乗る前に飲んだ風邪薬が効いてきたのだろうか。次第に会話は途切れ途切れになって、気がつけば中川さんは寝息を立て始めた。

 ……しまった。そういえば最寄り駅を聞いていなかった。

 だけれど、せっかく眠った所を起こすのもなんだか可愛そうな気がして、とりあえずは学園前で降りれば大丈夫かな。

 僕の方もトラブル続きで疲れていたからひと眠りしたい所だったのだけど、途中から肩を枕代わりにされてしまって、枕は動いてはならない、僕は流れていく車窓の外の景色を無心に眺めた。

 

 駅に到着してからが大変だった。

 学園前が間近に迫って肩を揺すったものの中川さんは、なかなか目覚めてくれなくて。なんとか下車して駅のホームまで引っ張ってきたものの、ぐったり僕にもたれかかったまま、うつらうつらと目が殆ど開いていない。

 

「中川さん、中川さん。大丈夫?」

 

「あぁ……ふぁい」

 

「いま学園前なんだけど、最寄りってここで合ってる?」

 

「だい、じょうぶです……世界は私が救いますから……」

 

「ごめん何の話?」

 

 その場に留まっていてもどうしようもないから、とりあえず改札を出ると「菜々っ?」驚く声とともに、黒いコートの女性がこちらに駆け寄ってきた。

 随分若く見えるから迷ったけれど「中川さんのお母さんですか?」僕は訊ねる。

 女性は頷いて「出先で体調を崩したって連絡があったから迎えにきたのだけど」ぐったりする中川さんの額に手を当てて「酷い熱……」顔をしかめる。

 

「一応、風邪薬は飲ませたんですけど、一人で動けないくらい弱っていたので、病院に連れて行った方がいいかもです」

 

「ありがとう。貴方は菜々の友達?」

 

「ええっと友達というか……色々あって通信課程に通ってるんですけど、生徒会活動に興味あって。それで今日は中川さんの厚意で活動を見学させてもらいまして」

 

「通信過程? 音楽科じゃないの?」

 

「え」

 

「だって、背中のそれ楽器でしょう?」ギターケースを指差されて「これは、そう、今日の生徒会の活動って他校との交流会だったんですけど僕、趣味で弾き語りやってるんでちょっと披露してみたらどうかしらなんて、そんな感じで、ええ」

 

 しどろもどろな僕に、中川さんのお母さんの表情は段々と曇ってきて「それよりも、貴方の方こそ体調は大丈夫なの?」

 

「はい? 体調?」

 

全く心当たりのない心配に僕は首を傾げたのだけど「だってその声。酷く枯れているみたいだから。普段からそんなに低い声ではないのでしょう?」と言われて、さあっと血の気が引く。

 なんで僕、普通にべらべら喋ってるの!?

 今日は普段女装しているときと比べて話す機会が多くて、油断していたのかもしれない。とにかく、これ以上ボロが出る前にここを立ち去らなければ。

 

「少し張り切って歌いすぎちゃったのかもしれません! のど飴買って帰らないと!」

 

 などと適当なことを口走りながら「それじゃあお大事に!」相変わらず世界がどうのこうのむにゃむにゃ言っている中川さんを、お母さんに任せて、僕は回れ右して改札にダッシュする。

 

「ちょっと! 具合が悪いのなら送って行くわよ!」

 

「大丈夫ですっ。中川さんまた学校でね!」

 

 背中にいくつか呼び止める声が追いかけて来たけれど、僕は聞こえないふりをしてホームにやってきた車両に身体を滑り込ませた。

 電車が走りだすと、僕はたまらずドアのすぐ横でへたりこんでしまう。

 あぁ、どうしよう絶対バレてるよね。ていうかなんだよ『また学校で』って。通信課程だって自己紹介したじゃん。

 後悔で身体がずっしりと重たくて、だけどそれは精神的な理由だけでないことに気が付く。肩に食い込んだギターケースのストラップと、スクールバッグがふたつ。ふたつ?

 

……うわぁ、中川さんのスクールバッグ持ってきちゃった。

 

 駅に戻って返しに行く。無理無理無理。また顔を合わせる勇気なんてない。確か中川さん、財布とスマホは自分で持ってたし大丈夫だよね。うん、きっと大丈夫なはず。

 そう自分に言い聞かせて、なんとか立ち上がって車内の電光掲示に目をやると、電車は僕の最寄りとは反対方向に向かって元気に走っているようだった。



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幕間 ぶらじゃあ

「……どうしたものかなぁ」

 

 リビングのテーブルの上に載った中川さんのスクールバッグを前に僕は嘆息する。

 うっかり持って帰ってきてしまった中川さんのスクールバッグの中には、彼女が今日のライブの際に着ていた衣装が入っていて、確か泥とか跳ねて汚れていたし、何もしないでそのまま後日突っ返すというのはいかがなものだろうか。

 けれども他人の、しかも女子の鞄を勝手に暴くというのは、倫理的にだいぶマズイ。

 洗濯した方がいいでしょうか? と電話でお伺いを立てようかとも思ったけれど、あのぐったりとした姿を思い出すと、連絡をすることは憚られた。

 僕の鞄に放り込んであったブーツの方は、合皮製だったから泥を落としてから、軽く水拭きして乾燥させている。

 問題は目の前のブツだけだ。

 僕はしばらくの間悩んで、ごめんなさい。邪な気持ちは本当にこれっぽっちもないんです。内心で言い訳をしてえいや、スクールバッグのジップを一思いに開いた。

 目に飛び込んできたのはベストの赤色。次いでシャツの白。

 雨なのか、はたまた汗なのかわからないけれど、それらはしっとり湿っていて、ひとつ取り出すたびに酷い罪悪感に苛まれて、良心がガリガリと削られていく。

 

「なんていうか、思っていたよりも複雑な構造だな」

 

 テーブルの上に並べ終えた衣装を眺めて思う。

 深い赤色のベストや、特徴的なアシンメトリーなデザインのスカートはもちろん、シャツ一つをとっても、袖口と裾にあしらわれたフリルは素人目にも凝った造形だ。ブーツでほとんど隠れてしまう靴下にまで装飾があって強いこだわりが感じられる。

 手袋や髪飾りといった小物の点数も多くて、ていうかこれ、どうやって洗濯すんの?

 ケイコさんと一緒に暮らすようになって、ステージ衣装の洗濯をやらされることはしばしばあるけれど、あちらはダメージジーンズとか、缶バッジや安全ピンで改造されたガーゼシャツとか、パンクテイストなものが多くて、まるで参考にならない。

 

「クリーニング屋に持ち込んだ方がいいのかな……」

 

 スカートとベストには、それなりに目立つ泥汚れがあって、果たして素人が手を出してどうにかなるものなのか。そもそもこんな凝ったものをその辺のクリーニング屋が請けてくれるものなのか。

 衣装を前にうんうん唸っていると「あれ、なんだこれ?」バッグの奥の方に何かが残っているのが見えた。装飾の類だろうか。

 何の気なしにバッグから引き摺り出してそれを改める。

 

 瞬間、僕の思考はフリーズした。

 

 他の衣類と変わらず水気を孕んだそれは明るい赤色で、派手だけれど嫌味じゃないレースの生地。なんだか長くて、大きなまあるい形状のものがふたつあって、ホックになにかが引っ掛かっていて……。

 

 あっこれブラジャーだ。

 

 リビングの扉が開く音がした。

 辛うじて引っ掛かっていた、ブラジャーと同じ意匠のショーツが、ぽとりと情けない音を立ててフローリングの床に落ちた。

 帰ってきたらしいケイコさんと視線がバッタリ合って、永遠とも思える数秒の後、ケイコさんはいつもは乱暴に閉じるドアを、音も立てずにそっと閉じた。

 僕は慌ててその後を追って「待って待って待って! 違うんだって!」そそくさと外に出ていこうとするケイコさんを引き留める。

 

「大丈夫、全部わかってるから。姉さんそういうのに理解があるほうだから」

 

「どう理解してるのか知らないけどそれ誤解!」

 

「お楽しみ中にごめん。外で時間潰してくるから1時間くらいでいい? 30分……いや10分もあれば十分か」

 

「そんなに早くないわっ」

 

 間違えて鞄を持ち帰って来てしまったことなど、事情を必死になって説明するとケイコさんは「あっそ」つまらなさそうに鼻を鳴らして「で、それどうするの?」無意識に握りしめていたブラを指して言う。

 

「ケイコさん、代わりに洗濯してくれない?」

 

 僕はこれ以上ブラを視界に入れたくなくて明後日の方向を向きながら、ケイコさんにそれを押し付けようとする。

 

「お願い、ほんとに。なんでもするから」

 

「嫌だよ面倒臭い。ていうか、普段あたしの洗ってるんだから気にならないでしょ」

 

「身内のとは事情が違うって……」

 

「なるほど……あたしのは大丈夫でも、優木せつ菜のブラだと欲情してしまうと。そいつはとんでもない変態野郎だ」

 

「誰がとんでもない変態野郎だ!」

 

「あんただよ。……認めなって楽になるよ? 自分は優木せつ菜のブラで欲情する変態早漏やろうだってさ」

 

「より酷くなってる!」

 

「認めたら代わりに洗ってやろう」

 

 誰が認めるか。言いかけて僕はぐっと言葉を飲み込む。癪だけど今頼れるのはケイコさんだけだから。ちょっと恥をかくだけで済むのなら……。

 

「……僕は優木せつ菜のブラで欲情する変態早漏野郎です」

 

「えーなに? 聞こえなーい」

 

「僕は優木せつ菜のブラで欲情する変態早漏野郎です!」

 

「うっわ何言ってんのこいつドン引きだわ」

 

「あんたが言わせたんだろうが!」

 

 さすがに頭に来て叫ぶと、ケイコさんはゲラゲラ笑いながら僕の手からブラを引ったくって、床に落ちたままのショーツを拾い上げ「……もしかして優木せつ菜って結構巨乳? 岬見てみなってめちゃくちゃデカイ」などと言いながら赤い布切れを目の前に広げてくるから僕は顔を覆ってその場に蹲って「もう本当に勘弁してください……」

 

「なんだよ、小娘のブラの一つでぴーぴー騒いで。童貞じゃあるまい」

 

「童貞だよ!」

 

「早漏変態童貞野郎?」

 

「うっさい!」僕がその辺にあったクッションを投げつけようとすると、ケイコさんは「童貞が怒ったー」と笑って洗濯機のある脱衣所の方に逃げていった。

 このやりとりですっかり疲れ切った僕は結局、衣装を自分で洗濯することは諦めて、近所のクリーニング屋に持って行くことにした。

 普通に男の格好でスクールアイドルの衣装を持ち込んだ僕のことを、クリーニング屋のおばちゃんが、とんでもない変態野郎を見るような目で見てきたのは仕方のないことだと思う。




お気に入り。評価。ありがとうございます。感謝。


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パンクロッカー。God Save the Queen。

 中川さんから着信があったのは、トラブルだらけのライブの日から数日が経った週の真ん中あたりのこと。

 

『大変ご迷惑をおかけしました』

 

 まだ風邪を引きずっているのだろうか、中川さんの声は心なしか声が普段よりも低く感じる。

 

「体調はもう大丈夫なの?」

 

『はい、お陰様で。熱が下がったので明日から学校に通うつもりです』

 

「そっか、無理しないでね」そう言って、はたと思い出すのは自室の片隅に置かれた中川さんの、衣装もろもろが入ったスクールバッグの存在。

 

「……ごめん。中川さんのカバン、不注意で持って帰ってきちゃったんだけど、無いと不便だよね?」

 

『いえいえ母から聞いてましたから。そのことでもご迷惑をおかけしてしまったようで……』

 

「迷惑なんて。それよりお母さん、僕のこと何か言ってなかった? 気が抜けてて思い切り会話しちゃったんだけど」

 

『特に不振がっている様子はありませんでしたよ? 親切な友達だねって。出来れば直接お礼を言いたいと言ってましたが』

 

「それは丁重にお断りしたいです」

 

「ですよね」と、くすくす笑う声が耳にくすぐったい。でも良かった、思っていたよりも元気そう。

 

「カバンだけど、よかったら明日の放課後にでも持って行こうか?」

 

『……お願いしても良いでしょうか? すみません、本当なら自分から取りに行かなければならないのに』

 

「気にしないで。勝手に持って帰ったのは僕なんだから。放課後、到着したら連絡するよ」

 

『はい、ありがとうございます』

 

 また明日、と言い合って通話は終わった。なんだか友達同士みたいだ、また明日なんて。ライブ以前に比べて随分と柔らかくなった関係性は不思議と心地良いものだった。

 

 

*****

 

 

 翌日の放課後。一度下校してから、虹ヶ咲学園の制服に着替え、化粧など身なりを整えてお台場へ向かうと、到着する頃には冬の短い陽は随分と傾いてしまっていた。

 東京湾から吹きつける風がしんと冷たい。最初の頃こそスカートの中に冷風が入り込む男子には未知の感覚に辟易したものだけど、今ではすっかり慣れてしまってそれが良いことなのか悪いことなのか。

 学園前駅の改札を出て少し歩くとすぐに、未だに校舎とはとても思えない建物の威容が見えてくる。校門を潜って中川さんに到着したことを伝えようとスマートフォンを取り出そうとすると「御崎さん」と、声が聞こえて中川さんがこちらに小走りにやってきた。

 頬と鼻の頭がほんのり赤く色付いていて『外で待ってたの?』下校途中の生徒が多く見えるから、スマートフォンに入力して画面を見せると中川さんは「そろそろ来られる頃かと思いましたので」

 

『病み上がりなんだから、無理はしないでよ』

 

「大丈夫ですよ。もうすっかり元気ですからご心配なく」

 

 改めて先日は本当にありがとうございました。そう小さく笑って言う中川さんは、先日の電話でも感じた通りまだ声が幾分低く感じられるけれど、確かに元気そうで安心する。

 ……だけども安心するのも束の間。中川さんのスクールバッグ。その中身についてどう説明をしたものか。

 しかし、うじうじ考えていても仕方ないので『中川さんのカバンのことなんだけど』と切り出す。

 

「はい、わざわざ持ってきてくださってありがとうございます」

 

 差し出された手にスクールバックと、それとは別にブーツが入った紙袋を手渡した。

 

『一応クリーニングに出したから汚れとかは大丈夫だと思うけど、後で確認しておいてね』

 

「……お心遣いありがとうございます。かかった代金は必ずお返ししますから」

 

 大切な物なんですと、衣装が入ったスクールバッグを愛おしそうに胸に抱く中川さんの姿に良心がしくしく痛む。

 

『それで、衣装以外のやつなんだけどさ……』

 

「衣装以外?」

 

『うん。……えっと、洗濯とかカバンに詰めるのとかは全部ケイコさんにやってもらったから、僕はほとんど触っても見てもいなくて、だからもうほとんど記憶にないから』

 

 ……本当はばっちり覚えている。普段洗濯してるケイコさんのものに比べてやたらと立体的な形状の赤い布切れ。そう簡単に忘れられるわけがない。こんなふざけた格好をしていても一応は年頃の男子なわけなんだし。内心で醜い言い訳を重ねる。

 画面を見た中川さんは、なんのことか合点がいってないらしい。首を傾げて思案気な表情を浮かべていたのだけど、ハッと何かを思い出した様子で慌ててその場にしゃがみ込み、スクールバックを開き中身を改めて、そして硬直した。

 もともと寒さで赤くなっていた頬がさらに濃く色づいて、黒髪に覗く形の良い耳までが朱に染まる。それは寒さのせいではないだろう。

 

「ち、違うんです!」中川さんはカバンを閉じると、隠すようにそれを胸に抱いて「これはライブのときだけで、気合いを入れるためで!」

 

『大丈夫なにも覚えてない! だから落ち着こう?』

 

「本当に普段はもっと地味なのを着けてますから! せつ菜のときだけですから!」

 

『わかったから声、声抑えてっ』

 

 騒いでいると優木せつ菜だってバレちゃうよ。耳打ちすると中川さんはハッとして辺りを見回して口を噤んだ。

 冷静沈着な生徒会長で通っているであろう中川さんが慌てふためく姿というのはきっと珍しいもので、下校途中の生徒の注目を集めてしまっていた。

 

「……ともかく、届けてくださってありがとうございました」

 

 中川さんは深呼吸をひとつして普段の落ち着いた低い声音で言う。

 だけれど、頬に差した朱色は未だそのままで「……できれば、このことは忘れてもらえると」例のブツが入ったスクールバッグを抱いて伏し目がちに言う様子は、見ていてなんだか心臓によろしくない。

 あまりにも居た堪れない。さっさと退散しよう。そう思って『本当に何も覚えてないから心配しないで、それじゃまたライブの時に』と立ち去ろうとすると「あ、待ってください!」制服の裾を掴まれてしまう。

 裾を掴んだままで何事か言い淀む中川さん。

 傍から見たらどんな光景なんだろうこれ、すれ違う下校途中の生徒たちがこちらを横目に何かコソコソ言い合いながら通り過ぎて行く。

 中川さんもそれに気が付いたらしく慌てて袖から手を離して、酷く申し訳なさそうに言う。

 

「この後、お時間よろしいでしょうか? 岡峰さんが私たちに話があるそうなんです」

 

 

*****

 

 

 中川さんに着いて通されたのは生徒会室だった。

 閑散とした室内。誰もいないのかと思ったのだけどドアに鍵をかけた中川さんが「岡峰さん、お待たせしました」と言うと「やー待ったよ。ロックンローラーたち」聞きなれた声が返ってきた。

 以前に来た時に中川さんが腰掛けていた革張りのチェアがくるりと回って、現れたのはリカさんの姿。

 彼女は悠然と脚を組みなおして「いやーどちらかというと、パンクロッカーだね」普段の柔和な表情で言う。

 

「僕らが楽器で人を殴りつけそうに見えますか?」

 

「テムズ川に船浮かべて、その上で勝手にライブでも始めそうには見えるかな」

 

 リカさんは椅子をくるりくるりと回転させて、Sex PistolsのGod Save the Queenの歌詞を鼻歌交じりに諳んじる。先日のライブの件を揶揄しているのだとすぐにわかった。

 

「ライブのことなら、ちゃんと電話で謝ったじゃないですか」

 

「そうだねー。菜々ちゃんも朝一で音楽科まで来て謝ってくれたしねー。……だけどね、ごめんなさいしてお終いってわけにもいかないんだ今回のことはさ」

 

 突然の重苦しい口調に「それは、どういう……」中川さんが訊ねようとしたのだけど、それよりも先にキュッと音を立てて椅子の回転を止めたリカさんが、勢いよく立ち上がって伸びをする「バンドの娘達と話し合ったんだけどさー」背中の骨が鳴る小気味好い音。それから溜息をひとつ。

 

「悪いけどわたしたちはもう、せつ菜ちゃんのライブには出ない」

 

 えっ、と僕と中川さんはほとんど同時に声を上げる。

 

「当日までには作曲クラスの娘に音源を用意させるから、残りのライブはカラオケで頑張って」

 

「待って! ちょっと待ってくださいって」どんどん話を進めていくリカさんを僕は慌てて制して「そんなの聞いてないんですけどっ?」

 

「そりゃー言ってないし?」

 

「どうして」

 

「だって岬ちゃん、厳密には音楽科じゃないでしょ?」

 

 そう言われてしまうとぐうの音も出ない。音楽科どころか虹ヶ咲の生徒ですらないんだ。だけど、どうしたってそんな急に。

 

「皆さん、朝は謝罪を受け入れてくださったのに……」と中川さんも困惑。

 

「菜々ちゃんだけが謝ってもねー。肝心のせつ菜ちゃんはだんまりだしー?」

 

「そ、それは、せつ菜の姿で校内を歩き回ることが出来ないから……。次のライブのときに直接謝罪するつもりだったんです。もしお時間を頂けるならいまからでも……」

 

 食い下がる中川さんだけど「あー、いーからそういうの」とリカさんは、面倒臭そうに手を振る。

 

「だいたいさー、ライブやりたくても出来ないんだよ」

 

「出来ないって、どういうことです?」ほとんど涙目になりつつある中川さんに代わって訊ねると「楽器なしでどーやってライブやるの?」リカさんは肩をすくめて言った。

 

「わたしとギターの娘の楽器修理中なんだよ。誰かさんが雨の中で無茶してライブなんてやるからー」

 

 それを聞いた中川さんは「申し訳ありませんっ」眼鏡が飛んで行ってしまいそうな勢いで頭を下げる。

 

「修理にかかった費用は全額必ずお支払いします。……ですが楽器でしたら音楽科の備品を使えばいいのではないでしょうか?」

 

「いやー、やっぱり手に馴染んだ楽器じゃないとさ。ていうか、菜々ちゃん。修理代金を全額持つって軽々しく言っちゃっていいのー?」

 

「それは、もちろんです」

 

「あー生徒会の予算使うんだ? ずっこいなー」

 

「まさか。私の責任ですから必ず自費で支払います」

 

「へーそうかそうか」リカさんは腕組みをして頷くと、小悪魔というよりは悪魔そのものみたいな笑みを浮かべて「よかったねー岬ちゃん」楽し気に言った。

 中川さんがこちらを振り向くのを見ないふりして僕は「なんのことですか?」しらばくれる。

 

「とぼけなくてもいいのにー。ケイコちゃんから聞いたよ? ギターもエフェクターも全滅だったんだってね」

 

 あーもう……どうして余計なことを言うのさ。

 本当なんですか、恐る恐る聞いてくる中川さんに、まぁうん、言葉を濁す。

 楽器が壊れたのは本当のことだ。

 雨天のライブの後、中川さんを探し回ったり、見つけた後は駅まで送ったりで濡れた楽器の手入れをする時間はなかった。

 そして家に帰ってからは例の衣装騒動。

 状態を確かめられたのは翌日になってからで、雨水が内部にまで浸透したのだろう。ギターもエフェクターも、アンプに繋いでもノイズを吐き出すだけの木屑鉄屑に成り果てていた。

 

「だけど大丈夫だから。ギターは父さんのおさがりで元からボロボロだったし、エフェクターも骨董品みたいなものでいつ壊れてもおかしくなかったっていうか」

 

 何故か必死に言い訳をする僕だけど「いやいやいや」リカさんが遮る。「スラブボードのミュージックマスターなんて4・5年くらいしか生産してない希少品でしょー。ファズフェイスは60年代のゲルマニウムだっけ?」

 

「なんでそんな詳しいんですか……」

 

 よほどの機材オタクでもなければついてこれないような専門用語だらけの会話。目を白黒させる中川さんに、リカさんは近づいてするりと肩を組んで、この日一番の笑顔。

 

「二つ合わせて100万ちょっとかー。あーあ、とんでもないことしちゃったねー菜々ちゃん」

 

「ひゃっ、100万円!?」

 

「全額自費で支払うんだっけ? ちゃんと払えるのかなー」

 

 そうだこんな立派なのがついてるんだからお金が無理ならこっちで払えばいいんだ。リカさんは肩に回した手でいつかのように胸を鷲掴みにしたのだけど中川さんは呆然自失、全くの無反応。

 すると何を考えているのか、リカさんはジャケットのボタンの隙間に手を突っ込んで、形容するのが憚られるような手つきで中川さんの胸を揉みしだく。

 その光景に先日の赤いぶらじゃあのことを思い出しかけてしまって僕は「いい加減にしてくだい」リカさんを中川さんから引き剥がした。

 

「岬ちゃんも揉んで見なって、凄いから」

 

「誰が揉むか」確かに凄いんだろうけど。

 

「お小遣いを……貯金を崩して……あぁ」と虚空を見ながら呟く中川さんの肩を揺さぶって「大丈夫。大丈夫だから戻ってきて」と正気に戻るよう促す。

 それからリカさんに向き直って「あんまり意地悪するのやめてあげてくださいよ。だいたいリカさんの使ってたベースって音楽科の備品ですよね?」

 

「あーバレてた?」

 

「ヘッドの裏に備品のシールが貼ってあるのが見えました」

 

「よく見てるねー」悪びれずに笑うリカさんに僕は深く嘆息した。 

 



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パンクロッカー。God Save the Queen。②

「……どうしてウソを吐くんですか」

 

 正体を取り戻した中川さんが恨めしそうに言った。

 散々なセクハラを受けたためか、対面に座るリカさんから一番遠いソファの隅で自身の身体を抱く様子がなんとも痛々しい。

 そんな姿を見てもリカさんは「菜々ちゃんって弄りがいがあるよねー」あっけらかんしていて「もちろん二重の意味で」と手をワキワキさせるのだから、中川さんはますますソファの隅で小さくなる。おっさんか。

 

「だけど真剣な話、大事にならなかったのは運が良かっただけだよ。向こうの先生方が良い人じゃなかったら学校同士の問題に発展していたかもしれない。だいたいあんな間に合わせのステージで対策もしないで雨の中ライブなんて、感電でもして当たりどころが悪かったら即死だよ即死」

 

 即死だなんてそんな大げさな、などと楽観することは出来ない。

 機材トラブルによる事故死は、技術が進歩した昨今ではほとんど聞かなくなったものの、過去を振り返ると枚挙にいとまがない。

 有名どころだとヤードバーズのキース・レルフの感電死とか。

 先日のステージはボーカルのマイクを含めて全てが有線で繋がった環境で、多くが雨風に晒されて濡れていた。

 リカさんの言う通り、本当に万が一があったかもしれないのだ。

 

「すみません。軽率でした」

 

「そんな、御崎さんが謝ることじゃ……」中川さんが庇ってくれるけれど僕は首を振る。 

 確かにあのとき真っ先にライブを敢行しようとしたのは中川さんだった。でも機材をセッティングしたのは他でもない僕自身だ。

 中川さんやバンドメンバーを危険に晒していたことを今になってようやく思い知った。

 

「ふたりとも優等生然としてるくせに変なとこで羽目を外すんだから。折角ここまで頑張ってきたのに仕様もないことで同好会がポシャったらイヤでしょー?」

 

「はい」「……おっしゃる通りです」

 

「わかったら今後はもう少し考えて行動すること。それじゃーこの話はもうおしまいっ」

 

 リカさんはぱちんと手を叩くと、勢いよく立ち上がって「お疲れー」と有無を言わさずさっさとこの場を後にしようとするから僕は「いやいや、待ってくださいって」慌てて前に立ち塞がる。

 

「なにー? もっとお説教されたいの?」

 

「違います」

 

「でもほら、菜々ちゃんが見てるから……あっむしろその方がイイのかな」

 

「なんの話をしてるんですか」

 

「岬ちゃんの歪んだ性癖」

 

「そんな性癖持ち合わせてないです」

 

 このままリカさんのペースで話していると、煙に巻かれてしまいそうだから、僕はさっさと本題を切り出す。

 

「楽器は壊れたけど学校の備品。向こうの学校とのいざこざもなかった。それなら残りのライブもバンドで演れるんじゃないですか?」

 

「確かに、そうですよね」ぱっと中川さんの表情が明るくなる。対照的に気まずそうなリカさんは「いやー本当ならそうだったんだけどねー」頬を掻いて「えっとね、わたしとアキコに仕事が入っちゃってー」

 

「その仕事を、もともと決まっていた優木さんのライブよりも優先したと?」

 

「仕方ないんだってー。お世話になってる人からの依頼で断れなくて」

 

 先程までの余裕は何処へやら平身低頭で「ごめんねー」と、手を合わせるリカさん。

 よくもまぁそれでさっきは散々やってくれたものだなと、僕は内心に沸々としたものがあったのだけど、一番酷い目に遭った中川さんが「残念ですが、お仕事なら仕方がないですね」と頷くから何も言えない。

 

「でもそれなら代役を立ててればいいのでは? もちろん岡峰さんたちが音楽科でも特に優秀なのは聞き及んでいますが……」

 

「それは無理だと思う」「無理だねー」僕とリカさんの声が重なる。

 

 リカさんともう一人の、仕事が入ってしまったというアキコさんはドラムスを担当している生徒で、実はこのふたりが優木せつ菜バンドを支える要なのだ。

 バンドというとボーカルやギターといった花形に目が行くのは当然のことなのだけど、その実、最も重要な役割を担うのはフロントマンに比較するとやや地味な印象がある、リズムセクションのドラムスとベースで、それは歴史が証明している。

 

 ロバート・プラント、ジミー・ペイジというカリスマを擁したレッドツェッペリンには、ビートを自由自在に操るジョン・ボーナムとジョン・ポール・ジョーンズの二人がいた。

 ギターの神様と称されるエリック・クラプトンにも、クリーム時代にはジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースがいて、クラプトンのギターと真っ向からぶつかり合える彼らが存在がなければクリームは歴史的なバンドにはなり得なかった。

 ソロに移行してからもスティーヴ・ガッドやネイザンイーストを始めとした強力なリズムセクションを従えていることから重要さが見て取れる。

 ジャンルを超えてジャズでは、ビル・エヴァンストリオのポール・モチアンとスコットラファロ。マイルス・デイビスのポール・チェンバースとフィリー・ジョー・ジョーンズ。

 

 良いバンドには必ず良いリズムセクションが存在する。

 優木せつ菜バンドもその例に漏れず、優木さんの圧倒的な歌声とパフォーマンスが会場中を魅了、支配しているように見えて、鳴っている音楽そのものを掌握しているのはリカさんとアキコさんが生み出す高校生離れしたグルーヴなのだ。

 女性ミュージシャンのプレイには、男性にはない柔軟さがあると評されることがあるのだけれど、リカさんとアキコさんは柔軟さを通り越して最早、変幻自在といった様子だ。

 文化祭のライブでこそ、優木さんの意外にも強烈な歌声に引き摺られかけたアキコさんだったけれどあれ以降、彼女の刻むビートには一切の揺らぎが見られず、演奏に熱が入ると暴走しがちな優木さんと僕を、リードを着けた犬みたいに完全に飼いならし、それどころか気まぐれに尻を蹴っ飛ばすようにしてわざと暴走させたりして、バンドサウンドに完全に支配下に置いている。

 

「代役も考えたんだけどさー、君たちふたりが嚙み合ったときの爆発力は私達でもちょっとヒヤヒヤする時があるから。……それに菜々ちゃん、まだ喉の方はまだ本調子じゃないでしょ?」

 

「それは……はい」

 

「そんなんじゃー、生のバンドの音圧には負けちゃうって。残りのライブはカラオケで頑張ろう? カラオケって言っても打ち込みのショボいやつじゃない、ちゃんとした音源用意させるから」

 

 諭すように言うリカさんだけど、中川さんの反応は芳しくない。ぐっと押し黙る様子は玩具を買ってもらえない子供のようで。

 僕の方まで辛くなってくる。先日の電車の中での会話で、中川さんがバンドとステージに立つことを心から楽しんでいることを知っているから。

 しかし中川さんの希望をそのまま通すのは難しい。

 リカさんとアキコさんの不在はもちろんとして、中川さん自身の体調が万全ではないのが大きな問題だ。

 生のバンドで歌うことは、実は結構難しいことで相応の技術が必要とされる。

 しかもスクールアイドルのステージでは歌だけではなく、ダンスにも意識を向けなければならないのだ。

 ドラムスがクリックを聴いて演奏しているといっても、人間が生み出すリズムは生もの同然で、集中力を欠くと簡単に振り落とされてしまうし、枯れた喉の歌声ではバンドの音圧に耐えられない。

 恐ろしいまでの順応力でバンド演奏に対応してきた中川さんだけど、今回ばかりは流石に厳しい。

 現状ではリカさんの言う通り、カラオケ音源でのパフォーマンスが最もリスクが少ない選択肢なのだ。

 きっと中川さん自身も理解しているはずなのだけど「本番までに体調は戻します。パフォーマンスも独りよがりにならないようこれまで以上に気を配ります。ですから代役の方を紹介していただけませんか?」と頑なで。

 

「いやーそう言われてもねー。……あっほら、岬ちゃんからもなんか言ってあげてよ」

 

 珍しく押され気味のリカさんがこちらに助け舟を求める。

 

「まぁ、リカさんが言うことももっともだと思うけど」と言うと、中川さんが酷く哀しそうな表情をするものだから「思う、思うけど、やっぱり中川さんの気持ちも理解できるというか……」慌てて取り繕うとリカさんの視線がスッと鋭くなって、なんだこれ、どちらの側に立っても角が立つじゃん。

 最後通牒を突きつけろというリカさんからの無言の圧力をひしひしと感じる。けれど中川さんのあんな表情を見てそれは酷な話だ。

 なにか気の利いた折衷案がないものかと、ふたりの顔色を窺いながら必死に考えを巡らせてそうすると、ふと脳裏に浮かぶ光景があった。

 

 雨粒が地面を打つ音。ギターの鈴鳴り。優木さんの溜息のような歌声。小さな鳥の歌。音楽の魔法。……あぁそうか。

 

「優木さんと僕のふたりで演ればいいんだ」

 

「……ふたりで、ですか?」

 

 首を傾げる中川さんに僕はうなずいてみせる。

 

「このあいだのライブのときさ、リカさんたちが合流する前に少しだけふたりで演奏したでしょ? あれ思い返すと結構手応えがあったなって。それにほら僕のギター一本が相手ならバンドで歌うよりも中川さんの負担も少ないと思うし」

 

「ふたりでって、簡単に言うけどねー」と最初は渋面を浮かべたリカさんだけど「いやー、でも……もしかして、ふたりだけなら案外?」ぶつぶつ何事か呟きながらしばらく黙考して「菜々ちゃんはどう? 演れる?」

 

「は、はい!」

 

「音数が圧倒的に減るんだから菜々ちゃんの出来次第では、穴だらけのスカスカのステージになるけど、そのへん理解してる?」

 

「もちろんです。必ず最高のステージにしてみせます!」

 

「で、岬ちゃんは色々調子のいいこと言ってるけど、ギター一本用に編曲って自分でやれるの?」

 

「そ、それは……」やればできないことはないだろうけれど、次のライブっていつだったっけ? 慣れない作業だから間違いなく時間はかかると思う。

 返事に窮する僕に「まー、それくらいは音楽科で請け負ってあげるよ」リカさんは呆れたように言ってから「……それにしてもねー」

 

「なんですか?」

 

「ううん、べつにー。残りのライブも『ふたりで』仲良く頑張ってね」

 

 揶揄うみたいに笑って、楽譜はメールで送るから、と言い残してリカさんは生徒会室を出ていった。

 リカさんがいなくなった途端に室には静寂が訪れて、なんだか身体から力が抜けた僕はソファに身を沈める。

 とりあえずどうにかなった。

 編曲された曲を、次のライブまでに覚えなければならないという面倒ごとが眼前に控えているけれど、今は忘れよう。

 

 あれ……そういえばギターどうしよう。僕の手持ちのギターは、あの父のお下がりのボロボロのミュージックマスターだけだ。

 

 壊れたギターは、ライブハウスを経営する父の友人が、ヴィンテージ機材の愛好家で、楽器を粗末に扱ったことに対する罰の拳骨ひとつと引き換えに修理を引き受けてくれたのだけど、断線したピックアップは同じ年代のワイヤーをアメリカの知人に探させてリワインドするとか、入手困難なはずエフェクターの内部部品はなぜかロット単位で所有しているらしくその中から良いものを選定するとか 、フレットもこの際だから打ちなおすかとか、やたらと張り切っていたから、まず間違いなく年内には戻ってはこないと思う。 

 ていうか、ふたりで演るならアコギの方が見栄えするかな。

 そういう演出面も中川さんと相談して決めてしまわないと。

 

「あの……どうしてですか?」

 

 変わらず立ち尽くしたままの中川さんが言って、僕は慌てて漏らしかけた溜息を飲み込んだ。

 

「え?」

 

「どうして、ふたりで演ろうなんて……」

 

「あ、ごめん。……もしかして迷惑だった?」

 

「い、いえ! 迷惑だなんてそんな。とても嬉しいです!」

 

 でも……と中川さんは目を伏せる。

 

「ここでバンドが解散になれば御崎さんは女装をしてステージに立つことから解放されるわけじゃないですか。それなのに、どうして一緒にステージに立つことを提案してくださったのかと……」

 

 ほんとだ。

 中川さんの言葉に僕は唖然とする。その通りだ。あぁ、リカさんの去り際のニヤニヤ顔はこれを揶揄していたのか。言ってよ! ……いや言われたところで、嬉しそうにする中川さんを前に撤回なんて出来なかっただろうけれど。

 

 どうして僕はこのふざけた女装生活から解放される機会を自ら手放したのか。

 内心では女装がクセになり始めてるとか? 馬鹿を言え。誰が好き好んでこんな格好をするか。

 特に冷え込む最近の季節はズボンが酷く恋しいし、化粧をするのだって面倒だ。やむを得ず女性用トイレに入るのは未だに良心が痛む。ムダ毛の処理なんて毎日のルーチンになってしまった。

 出来ることなら一刻も早くこの状況から解放されたい。

 だというのに、どうして僕はあんな自身の首を締めるような提案をしたのか。

 

 どうして、と問われると答えることは何故だか難しかった。

 

 ほんの少しでも仲良くなれた中川さんの、悲しそうな顔を見るのが心苦しかったからというのは理由の一つなのだろうけれど、それは本質ではないように思えた。

 かと言って、他に女装を許容してステージに立つ理由があるかというと、これがさっぱり思い当たらなくて。

 何故だ、どうしてだと首を捻っていると「……もしかして、なのですが」と声が至近で聞こえて驚いて顔を上げると、いつの間にか傍らに中川さんの姿。

 

「な、なに?」

 

「前々から、そうなんじゃないかって思っていたんです」

 

 ずいと一歩こちらに寄る中川さんの表情はソファに埋まった僕からだと、ちょうど陰になって上手く窺うことが出来なくて、蛍光灯の灯が逆行する眼鏡には名状し難い迫力があって、僕は思わず後退りするのだけど、中川さんはどんどんにじり寄って来て、また後退りして、すると背中がソファのひじ掛けにぶつかって、あぁ、逃げ場がなくなった。

 

「御崎さん……実はお好きですよね?」

 

「なんのこと?」

 

 まさか女装のこと言ってる? いやいやいや、どうにも馴染んできてしまってきている実感はあるけれど、違う。断じて好きなんかじゃない。

 

「恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ」優しい声音で中川さんは言って、伸びてきた小さな両の手が僕の手をそっと取って包んだ。

 

「お好きなんですよねっ、スクールアイドルが……!」

 

「……へ?」思わず呆けた声が漏れる。

 

 中川さんはずいと顔を寄せてきて、銀縁のアンダーリムの奥の大粒の瞳はちょっと怖いくらいに爛々と輝いていて、もう逃げ場のない僕はほとんど押し倒されたみたいな状態でソファからずり落ちそうで、腰が悲鳴を上げているのだけど、中川さんは止まらない。

 

「薄々感づいてはいたんです。せつ菜のステージでギターを弾く姿がいつも楽しそうですし、イベントのときなんて他のスクールアイドルのライブを食い入るように見ていて、あっこの間のイベントでご一緒したグループを覚えていますか!? 実は私もあのグループには以前から注目していて、外見の可愛らしさからは想像できない熱いパフォーマンスは見習うべき点が多くあって、そういえば! 可愛らしいといえば……」

 

「待って、お願いだからちょっと落ち着いて!」

 

 吐息すら感じられる距離まで迫る中川さんを、近い、近いって、どうにか押し戻すと彼女は「すみません、つい興奮してしまって」照れくさそうにはにかむ

 

「この姿だと大っぴらにスクールアイドルが好きだと明かせませんから、こうして同じものを好きな人と話せることが嬉しくって……」

 

 スクールアイドルが好きかと言われると、好きでも嫌いでも無いというのが正直なところで。

 大体にして音楽自体、父とその友人たちが愛好する音楽をなぞっているだけで、僕自身には音楽に対して取り立てて強いこだわりや情熱は無いのだ。

 だけど「スクールアイドルを愛するもの同士、これからもよろしくお願いしますねっ!」と新品の電球みたいに眩しい笑顔で言われてしまっては、とても否定なんて出来なくって、僕はただただ曖昧に笑って頷くばかりだった。

 



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私服。男の子。父さん。

 中川さんとの待ち合わせは僕の実家のある中央線の最寄り駅で、約束の時間の五分前に到着した。

 今年の春先からケイコさんの家に住まうようになって以来、全く帰ってなかったのだけど、何かと濃い毎日を送っているせいか半年余りという月日以上に、見慣れたはずの景色が随分と久しく感じられる。

 駅前は土日ということもあってか人が溢れていて、中川さんの姿を見つけ出すのには少し苦労した。

 この町は小さなライブハウスが軒を連ねていることもあってか、地元民と思しき老人に混じって、一目見てそれとわかるギターケースを背負った人や、尋常ではない髪色の人が行きかい混沌とした様相。

 ごった返す改札前を離れた南口の方、人波に隠れて壁面にもたれる小柄な姿をようやく見つけることが出来た。

普段と違う格好をしているのも、見つけるのに時間がかかった理由のひとつだった。

その日の中川さんは休日なのだから当たり前といえばその通りなのだけど、普段の制服姿ではなく私服だった。

明るい赤色のプルオーバーパーカーの上に、光沢の強い白い厚手のダウンを羽織っている。ベージュのハーフパンツから伸びる脚は厚手のタイツに包まれていて、足下は機能性に優れていそうなスポーツブランドのロゴが入ったスニーカー。斜めがけしたショルダーバッグにはなにやらキーホルダー類がじゃらじゃら付いていて、そして相変わらずの銀縁眼鏡と三つ編みのお下げ。

カジュアルを通り越して少々子供っぽい、そんな印象の姿格好で、いや僕の方もシャツの上に安物のモッズコートを羽織っただけで、他人の服装をとやかく言える立場ではないのだけど、スクールアイドルなんて煌びやかなことをしている中川さんだから、きっと私服はキメキメなんだろうと勝手に想像していたものだから、その姿は意外だった。

 おおい、と手を振って見せるけれど、眼鏡の視線は手元の文庫本に一心に注がれていて、こちらに気が付いている様子はない。

 

「ごめん、お待たせ」

 

 近づいて、声を掛ける。視線が文庫から持ち上がって目が合ったのだけど、少しの間をおいて瞳に浮かんだのは困惑の色で、中川さんは余所行きの笑みを作って「人違いじゃありませんか?」

 

「いや、間違ってないけど」

 

「……すみません、人と会う用事がありますので」

 

 失礼しますと頭を下げて、中川さんは文庫をバッグに仕舞って、足早に改札の雑踏に向かおうとするものだから、待って待ってよ、僕は慌てて引き留めるのだけど中川さんは、あの困ります人を呼びますよ、と毅然と言って、あれもしかしてこれ、僕だって気づかれてない?

そういえば、制服以外の格好で中川さんに会うのは初めてだけど、まさか、そんな。

 

「僕なんだけどわからない?」恐る恐る訊ねる。

 

「申し訳ありませんが全く心当たりがありません」中川さんはピシャリと言う。

 

僕はちょっとだけ泣きそうになりながら「……御崎なんだけど」

 

 えっ、と身体ごと振り向いた中川さんは、僕の頭の先から爪先まで、何度も視線を巡らせてから「……御崎さん、なんですか?」と唖然とした様子で言って、僕はうなだれるみたいに頷く。

 

「す、すみません! 女の子の姿じゃない御崎さんを見慣れていないものでっ」

 

「大丈夫。大丈夫だから。だからあんまり女の子の姿とか大きな声で言わないで」

 

 一応ここ地元だから。知人に聞かれようものなら社会的に死んでしまうから。

 

 

*****

 

 あの、本当にすみませんでした。商店街を並んで歩いていると、中川さんが申し訳なさそうに言った。

 

「……それにしても御崎さん、本当に男の子だったんですね」

 

 そんな感心したように言われてしまうと困ってしまって、僕は曖昧に笑って、まぁ一応ね。

 

「それよりも遠くまで今日は遠くまでありがとう」

 

「いえいえ、こちらこそせっかくの休日に時間をつくっていただいてありがとうございます」

 

 それにしても、と中川さんは辺りをキョロキョロと見回して「初めてきましたが、なんだか楽しそうな街ですね」落ち着きなく言った。

 あぁ、そうかも。僕は頷く。

 同じ中央線沿いの中野や吉祥寺に比較すると見劣りするものの、この町も先述したライブハウスをはじめ、個人経営の古着屋や、ホビーショップ、レコード店、喫茶店などが点在していて、それらのサブカルチャーと古くからそこに在る商店らが混ざり合ったこの通りは統一感がなく、混沌とした様は初めて訪れる人には確かに面白おかしく映るのかもしれない。

 ふらふらとホビーショップに引き寄せられようとする中川さんを、そっちじゃないよ、苦笑まじりに制して、僕らは商店街をまっすぐに歩く。

 

 今日の目的である父の経営するレコーディングスタジオは、商店街を抜けた宅地との境い目あたりの、古ぼけた三階建のビルの二階にある。

 ……ここですか? と一階に整体院の入ったビルを見て中川さんが呆けたように言って、虹ヶ咲学園の設備に慣れていると、こんなところにスタジオがあると言っても信じられないだろうな。そうだよ、僕は頷いて人がすれ違うのもやっとな細くて急な階段を、先導して上がっていく。

 

「怪しさ満点だけど、中身はなんてことないありふれたスタジオだから」

 

 僕はそう言って階段を上った先にある、立て付けの悪いドアを開けた。

 ドアを開けたすぐ目の前には狭い通路を挟んで分厚い防音扉があって、中はアナログミキサーや各種機材が鎮座するコントロールルームになっている。

 はめ殺しの防音窓を何度か叩いて手を振ると、年季の入ったオフィスチェアに腰掛けてマックブックのキーを叩いていた白髪頭の男性が振り返ってこちらを向く。彼は僕らの姿を認めて相好を崩す。のそりと大きな体躯が立ち上がって防音扉を開いてくれた。

 

「久しぶりだね岬。見ない間にちょっと大きくなったんじゃないかい」

 

 そう言って僕の頭を犬でも撫でるみたいに掻き回すのだから、中川さんの前でそれは少し気恥ずかしくて「こんな短い間に背が伸びたら苦労しないよ」と、僕は苦労して大きな手から逃れる。

 いやいや、子供の成長というのはあっという間だから。緩く笑って「それで、そちらのお嬢さんが電話で話していた?」と中川さんの方を向いて、僕らのやり取りをぽかんとした様子で見ていた中川さんは慌てた様子で「も、申し遅れました。初めまして、中川菜々といいます。本日はお忙しい中お時間を割いて頂きありがとうございます」

 

「これは丁寧にありがとう。しっかりした娘さんだ。ケイコと岬の父で、御崎誠一郎です。よろしくね」

 

*****

 

 

 

 優木さんとふたりのライブは「やったことがないことをやってみたい」という、彼女の希望もあって、アコースティックで演ることに決まった。

 決まったのだけど大きな問題があって、それは僕がそもそもアコースティックギターを所持していないことだ。

 最初はどこかから借りられるだろうと楽観していたのだけど、しかしそう簡単にはいかなかった。

 リカさんに音楽科の備品を貸してもらえないものか訊いてみると、ついこの間自分の楽器をお釈迦にした人に貸せると思う? と一蹴されてしまう。

 ケイコさんから借りるという手段もあったけれど、あのいい加減な性格からは考えられないことに、ケイコさんのギターにはF1マシンみたいにシビアな調整が施されていて、とてもじゃないけど僕の腕前では弾きこなすことできない。それにうっかり傷でもつけようものなら何をされるかわかったものじゃない。

 仕方がないから楽器店にも足を運んで見たものの、僕の小遣いで手に入る半端な出来のギターでは、優木さんの歌声には到底太刀打ちできそうになかった。

 そうして困り果てた僕が最後に泣きついたのが父だった。

 しかしスクールアイドルのライブで使うからギターを貸してくれ、なんて言えるわけもない。

 そこで中川さんと相談してひとつの口実を用意した。

 

「それにしても岬が同年代の娘とバンドか。親元を離れると変わるものだなぁ」

 

「は、ははは。そうかな」

 

 それは学外のライブで偶然知り合った中川さんと、偶然意気投合してバンドを組むことになって、他のメンバーが集まるまではふたりで活動をしていこうということになって、それでアコースティックギターが必要になって……という作り話。

 父に対して大変心苦しくはあるのだけど、優木せつ菜の正体をおいそれと明かす訳にもいかないし、優木せつ菜の正体がバレるということは、僕が女装をしてステージに立っていることが同時にバレるということなので、僕らの保身のためにもこの作り話は必要なものだった。

 作り話といっても半分くらいは本当の事なわけだし、だれも傷つかない幸せな嘘。きっとそう。そうに違いない。

 だけど設定の作りこみが少々甘かったようだ。

 

「でも中川さんも、岬と音楽の趣味が合うなんて珍しいね。僕が言うのもなんだけど大昔の洋楽ばかりでとても偏った嗜好をしてるから。ご両親の影響かな?」

 

「え、えっと。それは……」中川さんの目が泳ぐ。そのあたりのことは全く打ち合わせていなかった。

 

「僕が中川さんの影響を受けたんだよっ、ほらあの、この間教えてくれた女性ボーカルのなんとかって曲とか凄い良かったよ!」

 

「あぁはい! あれですね! あれは凄く良いですよね私も大好きです!」

 

 引き攣った笑みを浮かべて言い合う僕らに、何をどう勘違いしたのか父は「そうか、岬も女の子の気を引くためにギターを弾くようになったか」と全く見当違いなことを言い始める。

 

「父さん、なに言ってるのさ……」そんなの今どき中学生でもいないだろう、と思ったのだけど。

 

「そ、そうだったんですか?」どうしてか真に受けた中川さんが狼狽えて。

 

 僕は、違う違う違う、慌てて否定するけれど父は「いいんだいいんだ、僕の若いころだって……」などと昔話を始める始末で、中川さんは何故か赤面していて目を合わせてくれなくて、どうしてこうなった、僕は途方に暮れて天を仰いだ。

 



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髪。ジミヘン。作曲

 父が案内してくれたレコーディングブースには、いささか多すぎる気がする、十数本程のアコースティックギターがスタンドに立てかけられた状態でずらりと並んでいた。

 普段は手狭なレコーディングブースは、床面積の多くを占めて鎮座するドラムセットが解体されて、マイクやアンプ類とともに部屋の隅に追いやられていることもあって、普段よりも広く感じられる。

「岬が僕に頼み事をするなんて珍しいから、張り切って色々引っ張り出してきたよ」と笑う父に、中川さんが「全部御崎さんのお父様のギターなんですか?」と驚く。

 

「楽器が好きでね。昔からコツコツと集めてたんだ。弾く方はからっきしなんだけど」

 

 照れ臭そうに笑いながらも、家族が関心を示さないコレクションに興味を持って貰えたことが嬉しいのか、ほらこれなんて僕が会社勤めの頃、初めてのボーナスを全部つぎ込んで手に入れた、と長い話が始まりかけたところで、父のポケットに入ったスマートフォンから着信音が鳴った。電話の相手を確認した父は肩を落として、ごめんしばらく席を外すよ。

 

「仕事?」

 

「いやスガさんだ。マーシャルのヘッドの調子が良くないって言っていたから、きっとそのことだと思う」

 

 スガさん、というのは件のライブハウスのオーナーのことだ。父とは旧知の仲であると同時に同じヴィンテージ機材の愛好家同士でもあって、メーカーではもう受け付けていないようなクセのある機材の修理の依頼がしばしば舞い込んでくる。

 

「すぐ戻らないようなら、鍵をかけないで出ていって大丈夫だから」

 

 何もない所だけれどゆっくりしていってね。と中川さんに声をかけて、父は慌ただしくスタジオを出ていった。相変わらず忙しい人だ。

 ……それにしても。

 僕は用意してもらったギターを振り返る。ギブソン・マーチン・テイラー・ヤマハ・ギルドとまさに選り取り見取り。急な頼みだったというのに、こんなに用意してもらって全く頭が上がらない。

 父の楽器蒐集は趣味であると同時に仕事の側面も持っていたりする。ただ集めて楽しんでいるわけではなく、たびたび知人のミュージシャンにレンタルしているのだ。

 ヴィンテージのギターは個人で何本も所有するには値が張りすぎる。しかしその音色には無二の価値があって、主にレコーディングなどで重宝されるのだとか。

 定期的にプロの演奏家に貸し出すということもあってか、どのギターもしっかりと調整が施されており、すぐに演奏ができる万全のコンディションだ。

 ……ライブで使える実用的なやつ、とお願いしたのは確かなのだけれど、商品にあたるものが出てくるとは予想外だった。

 ヴィンテージの風格が漂うギブソンJ-45とかマーチンD-45とか一体いくらするのか。

 つい最近ギターを壊したばかりの僕には考えるのも恐ろしい。

 多少なりとも気軽に弾けるものがないかと、並んだギターを見比べて居ると「本当にたくさんありますね! ゲームの武器屋さんみたいでかっこいいです!」と唐突に快活な声が聞こえてきて、驚いて見ると傍にいつの間にか優木さんになった中川さんがいた。

 優木さんになったといっても、ただ三つ編みを解いて髪型が変わっただけなのだけど。

 艶やかな黒髪が流れるのを見て「優木さんて、髪が凄く綺麗だよね」そんな言葉が口をついて出た。

 へっ? と優木さんが素っ頓狂な声をあげる。

 それは以前から度々思っていたことだった。自分自身ウィッグを扱うようになってからその手入れも自身でやっているけれど、これがとても面倒で、ブラッシングはもちろん、シャンプーやらトリートメントやら。ちょっとぞんざいに扱っただけで変な癖がついたりしてもう大変。

 その点、優木さんの髪の毛は本当に見事なものだ。だってさっきまで三つ編みだったのを解いて、櫛を通した気配もないのに、全く癖のひとつもついていない。

 つい、まじまじと見てしまったのだけど優木さんが「あはは……面と向かって褒めてもらえると、なんだか照れてしまいますね」と頬を掻いて、しまった、なんの脈絡もなく僕みたいのに外見をどうこう言われたらそりゃあ困るだろう。

 

「なんか、ごめん」

 

 僕は適当なギターを1本手にとって、チューニングは父が済ませてくれていたようだから、気まずさを誤魔化すみたいに音を鳴らす。

 

「えっと、やっぱり、ギターによって音が違うものなのですか?」

 

 優木さんがそれ以上、髪の話を続けなかったことに安堵して「うん。使ってる木材とか、ボディの形状とか、ちょっと聴いてわかるくらいには違うと思うよ」

 僕はスタジオの隅に積まれた丸椅子を二脚持ってきて、一つを優木さんに勧めた。

 比較しやすいように対面に腰掛けて、ギターを数本持ち替えつつ手グセで弾いてみせたのだけど「この曲って……」優木さんは音色の違いよりもフレーズの方に反応を示した。

 

「この間のライブで弾いていた曲ですよね。思い返すとライブだけじゃなくリハーサルのときにも」

 

「あぁ、うん。よく覚えてたね。……きっと初めて覚えた曲だから、無意識に弾いちゃうんだと思う」

 

「有名な曲なんですか?」

 

「有名……っていったら、有名なのかな。古い洋楽好きの人じゃないと知らないと思うけれど」

 

 ジミヘンて知ってる? と訊ねると優木さんは少し思案して「ええっと確かギターをこう壊したり……」と、ギターを振りかぶる仕草をして見せた。

 

「そう、それそれ」

 

 ジミヘン。ジミ・ヘンドリックス。ギターの神様。

 ビートルズやローリングストーンズなど、多くの伝説的なバンドが活躍したロックンロールの最盛期に流星のように現れて、そして本当に流れ星みたいにあっというまに燃え尽きてしまった。エレクトリックギターの可能性を大きく押し広げたギタリスト。

 

「ステージでギターを燃やしたり、頭の後ろや歯で弾いたり、滅茶苦茶やる人だから意外かもしれないけど、この曲は『Little Wing』っていってジミヘンが作った曲なんだ」

 

 言いながら僕は曲を爪弾く。

『Little Wing』はジミヘンの2枚目のアルバムに収録されたバラードで、今日まで数多くのギタリストにカバーされてきた名曲だ。

 薄氷を割るようなストラトキャスターの繊細な鈴鳴りと叙情的な歌詞は、それこそ先ほど優木さんが言ったような、破天荒な印象からはかけ離れている。

 けれども、ソロのギターの咆哮は間違いなくロックンロールそのもので、きっと父さんも多くのギタリストたち同様、そういう不思議な曲調を気に入って、そして幼少の僕に教え込んだのかもしれない。今となってはもう分からないことだけれど。

 

「それじゃあ御崎さんは、そのジミヘンさんのことが大好きなんですね!」

 

「え?」僕は思わずギターを弾く手を止めて優木さんの顔を見返す。

 

「だって、その曲を弾いているときの御崎さんは、とても楽しそうですから」

 

 だからきっと大好きなんだろうなと思ったんです。そう言って笑う優木さんは普段の照明みたいなピカピカした笑顔とは違った、温かな、柔和な笑みで、僕はなぜだかそれを直視できなくて「好きってわけじゃなくて、もちろん嫌いなわけでもないけど、多分父さんが弾き方を教えてくれた曲だから」しどろもどろに言う。

 

「ということは、お父様もジミヘンさんがお好きなんですか。親子で同じ音楽が大好きって、とっても素敵なことです!……ちょっと羨ましいくらい」

 

 あれ、でも。と優木さんは、ふとなにかを思い出したように頭の上に疑問符を浮かべて「御崎さんのお父様、弾く方はからっきしだと仰っていませんでしたか?」

 

 しまった余計なことを言った! 首を傾げる優木さんに、僕は膝の上のギターを取り落としそうになるのを寸での所で堪える。

 

「それは、ほら。父さん、昔はレコード会社で働いてて、色んなミュージシャンと仕事をしてきたらしいし、今もレコーディングの仕事なんてやってるから、人並み以上に耳が肥えていて。だから謙遜してるんだよきっと」

 

 そうまくし立てるように言って「それよりも、前から気になってたんだけど優木さんって自分で作曲はしないの?」無理やりに話題を変える。

 

「作曲ですか?」

 

「ラブライブってオリジナル曲じゃないとダメなんでしょ? 優木さんの持ち曲って、学園祭の時に音楽科が用意した曲以外は全部カバーだから」

 

「あはは……さすが、よくご存じですね」優木さんは苦笑する。

 

 自発的に調べたわけじゃない、リカさんやケイコさんから得た知識だから胸を張れることではないけれど、ラブライブのレギュレーションに関しては多少なりと知り得ていた。

 非公式な活動ではカバーだろうがコピーだろうが、権利関係さえクリアしていれば、どんな曲をやっても問題はない。

 しかし公式戦となると話は別で、オリジナル曲を用意しないことには、予選に参加する権利すら得られないのだとか。

 年々増加の一途を辿る参加希望校をふるいにかけるためとはいえ、なかなかに難しいことだ。

 

「一応、挑戦はしてみたんです。でも思い浮かんだメロディを形にする術が無くって」

 

 それはそうだろう。極論、作曲はだれにだって出来る。ちょっとした鼻歌だって言ってしまえば立派な作曲だ。

 問題はそれを曲に落とし込む編曲の方。ある程度の音楽理論を修めていることはもちろん、曲を作るために必要なPCや楽曲制作ソフトは学生には高価な代物だし、作業環境を整えたところで、それらを使いこなすことは難しい。

 

「それに……虹ヶ咲には音楽科がありますし」

 

「……優木さん、もしかしてそれ目当てで虹ヶ咲に進学した?」

 

「ま、まさか。そんなこと、あ、あるわけないじゃないですかっ」

 

 吹けない口笛を吹きながら否定する優木さんだけど、思い切り目が泳いでいて、なんというか、ごまかすのが尋常じゃなく下手。

 その様子が可笑しくて、つい笑ってしまって、優木さんは「……御崎さん意地悪です」頬を膨らませる。

 

「ごめん。でもそっか、メロディまではできたんだ」

 

「メロディといっても、ちょっと口ずさむくらいのものですけど」

 

「良かったら、歌ってみてよ」

 

「えっ、いえ、本当にそんな大した物ではありませんから」

 

「大丈夫、笑ったりしないし」

 

「……さっき、笑ったじゃないですか」

 

「それとこれとは別でしょ」

 

 しばらく僕を恨めしそうに見ていた優木さんだったけれど、やがて諦めたのか「……わかりました」小さく息を吐いて、佇まいを正して、スッと息を吸い込んだ。

 溜息のような歌声。歌詞はまだ考えていなかったのかメロディだけ。素朴で拙いけれど確かな熱を孕んだ、そんなメロディ。

 思わず聞き惚れてしまいそうになるのを堪えて、僕は探るように指板に指を這わせる。そうして手繰り寄せたキーに即席でコードを割り当てて、歌声に寄り添うように、アルペジオを爪弾いた。

 打ち合わせなしに音を合わせたことに驚いたのか、優木さんの歌は少しの間止まって「魔法みたい」と呟いた。

 かと思えば急にニヤリと挑戦的な笑みを浮かべ、先ほどまでよりも一段回、強い熱量を持った歌声でメロディを歌い上げるから、僕は振り落とされないように慌ててピックを取り出してコードストロークに切り替える。

 やられてばかりでは癪だからと、いくつか手癖でアドリブを放り込むと、優木さんの方も負けじと鋭いフェイクでやり返してくる。

 そんなやり合いの最中で、優木さんがふっと可笑しそうに笑った。僕の方もつられて笑ってしまう。

 魔法みたい。

 優木さんはそう言ったけれど、僕からすれば優木さんの歌こそが魔法のようだった。

 彼女の歌声はいつだって、僕の知らない僕のギターを引き出してくれる。

 



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髪。ジミヘン。作曲②

 優木さんが髪型を元に戻して身支度を整えている間に、簡単にスタジオの片づけを済ませた僕は「少し父さんと話があるから、先に帰ってて」と伝えて隣のコントロールルームへ向かった。

 いつの間に帰ってきていたのか。先ほどミネラルウォーターのペットボトルを取りに行ったとき、防音ガラス越しにその姿が見えたのだ。

 

「父さん、借りたいギター決まったよ」

 

「そうかい。気に入ったのがあったのなら良かった」父は此方を振り返らずに言う。 

 床に直接、胡坐で座る父の前には分解されてる最中のマーシャルのヘッドアンプが。外装が剥がれて木地が覗くボロボロのアンプには見覚えがあった。

 基盤を見て唸る父に「スガさんのとこの?」と訊ねると頷いて「スガさんは昔からギター弄りとか、ちょっとしたエフェクター作りはやたらと得意だけど、こういう大がかりなのはまるで駄目だからね」と笑う。

 

「そうそう、岬のギターの修理だけど、まだまだかかるって」

 

「だろうね……なんだか凄くこだわろうとしてる感じだったから」

 

 そう言ってはたと思い出したのは、ギターと一緒に修理に出した円盤系のファズエフェクターのことで。あれはケイコさんが父さんのスタジオからパクってきた物だった。

 

「ごめん。そういえばちゃんと謝ってなかった。借りてたエフェクター壊しちゃったこと」

 

「いやいや、もとはあのバカが勝手に持ち出した物だし、それに僕はもう岬にあげたつもりでいたから」

 

 父さんは身体ごとこちらを振り返って「そんな些末なことは気にしないよ。家族なんだから」と、大きな手で頭を撫でてくれる。少し気恥ずかしいけれど僕はされるがまま。

 

「今回の、ギターのことだって頼ってくれて嬉しかったよ。岬は本当に頼ることがないから……。そうだ、良かったらエレキも一本見繕おうか?」

 

「そんな、悪いよ」

 

「だけど、あのフェンダーも随分使い込んだだろう? もう何年だったかな……そろそろ、いいんじゃないかい?」

 

「僕は……」父の手から逃れて「僕は、あのギターで良いよ」

 

「そうか……」なにか痛ましいものでも見るような父の視線に耐えられず「ごめん」呟くように言うと「いいや、こっちこそ無神経だったね」と言って、僕の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻きまわす。

 

「それでも、必要になったらいつでも甘えてくれていいから。ほら、楽器なら売るほどあるんだから」と殊更明るい様子で言うものだから「買いすぎるとまた母さんに怒られるよ」と調子を合わせて揶揄うように言うと、父は子供みたいなだけど目じりに皺の目立つ笑顔で「まったくだ」くしゃりと笑った。

 

 

****

 

 

 それから互いに近況を報告し合って「それじゃあ、ギター使い終わったら返しにくるから」スタジオを後にしようとする僕を「ああ、そういえば」父が呼び止めた。

 

「どうかした?」

 

「中川菜々さん。彼女、優木せつ菜さんだろう?」

 

 僕はギターのケースを落っことしそうになるのをなんとか堪える。

 確信めいた父の問いに面食らった僕は平静を装って「なんのこと?」

 

「別に隠さなくても」

 

「いやほんと、なんのことだか」

 

「岬、バックバンドで参加してるだろう?」

 

「ていうか優木せつ菜って誰?」

 

「あぁ岬の女装趣味は大丈夫ちゃんと理解してるから」

 

「僕の趣味じゃねぇ!」と思わず叫んでしまって叫んでしまって、ハッとして父の方を見ると、勝ち誇るような満面の笑み。

 ……ちくしょうやられた。

 僕はその場にへなへなと座り込んで両手で顔を覆う。身内に女装がバレるというのはこんなにも辛いものか。羞恥心とかそういうものを通り越して、もうただただ消えてしまいたい諦観と虚無感。

 消沈した僕を見て、流石に父も気の毒に思ったのか笑顔を引っ込めて「ええっと、岬は脚のラインが綺麗だからもっと出しても良いと思うな」などと見当違いの慰めの言葉をかけてくるのだから「余計なお世話だよっ」僕は一層暗澹とした気持ちになる。

 だけどいつまでも黙ってもいられない「……いつ、気づいたの?」なんとかそう訊ねると父はあれあれ、とレコーディングブースが一望できる分厚い防音ガラスを指差す。

 ギター選びをしていた最中は、僕らを気遣ってか下されていたブラインドが今は上がっていて、ガラス越しに積み上げられて隅に寄せられたドラムセットとマイクスタンドが見える。

 ……そう、マイクスタンド。それらにはマイクとケーブル類がセットされたままになっている。

 僕は思い切り溜息を吐いて「聴いてたの?」と、つい責めるように。

 父は白髪頭を掻きながら「趣味が悪いとは思ったんだけど、ほら職業柄気になってしまって」申し訳なさそうに言う。

 

「優木さんのことよく知ってたね」

 

「まぁ、狭い業界だから。若い子が噂してるのを小耳に挟んでね」

 

 ラブライブで活躍したスクールアイドルが卒業後にレーベルにスカウトされるのは良くあることらしい。それにしたって耳が早いとは思うけれど。

 

「そこでだ。岬に折り入ってお願いがあるのだけど」

 

「このタイミングのお願いは脅迫と変わらないよ……」

 

 先ほどの少々重たい会話があって、それでいてこういうことを平気な顔でしてくる辺り、流石図太いというか、やはりケイコさんと父娘なだけあるというか。

 そう大したことではないし無理強いもしないから、と僕を宥めすかしつつ父の話す『お願い』は、なるほど確かに父からすれば大したことでは無いのだろうけれど、僕にはなんとも頭が痛くなるものだった。

 

 

***

 

 

 どうせなら実家に顔を出さないかという父の誘いを丁重に断って、スタジオを出た頃には、冬の短い日はもうすっかり傾いていた。

 随分と長居していたようだ。防音室というのは不思議なもので時間の感覚が狂いやすい。

 頬に吹き付けてくる、自動車の巻き上げる埃っぽい排気ガス混じり風が冷たく、もっと厚着をしてくればよかったかなと後悔する。

 だから、スタジオを出てすぐの歩道の隅で中川さんが、紺碧に染まった空をぼんやり眺めながら、白い息を吐いているのを見つけたときは変な声が出そうになった。

 

「え、帰ってなかったの!?」駆け寄る僕の姿を認めた中川さんは「お疲れ様です」と律儀に一礼。

 

「御崎さんと少しお話がしたかったので」

 

「先に言ってよ……」

 

 それなら父との話をもっと早く切り上げて来たのに、というか中で待っていてもらったのに。これで風邪がぶり返したなんてことになったら目も当てられない。

 なんというか、中川さんはライブのときもそうだったけれど、理性的に見えて自分の身を顧みないというか、結構無茶をする。

 もう少し、気を利かせれば良かったな。

 勝手に項垂れる僕の様子に、思い違いをした中川さんが、すみません、ご迷惑でしたよね、としゅんとした様子で言うものだから「いや全然、迷惑なんかじゃないって」慌てて返す。

 

「それで、話ってなに? ライブのこと?」

 

「はい、それもあるんですが……」なんだか言い辛そうに身体の前で、寒さで指先が赤くなった小さな手をもじもじやっている。

 なんだろう。首を傾げる僕に中川さんは「ここに来る途中、商店街の方に色々とお店があったじゃないですか、その……ホビーショップとか」上目遣いに言った。

 あぁ、と僕は頷く。道中吸い込まれるみたいに入口に引き寄せられる中川さんを引っ張ってきたっけ。

 

「それで、もし良ければ御崎さんと行ってみたいなと思いまして」

 

「えぇ、僕?」驚いて訊き返すと、中川さんは「はい是非!」と力強く頷く。

 

「でも、アニメのこととか全然わからないし……」たぶん付いて行っても邪魔になるだけだろうから、やんわり断ろうと思ったのだけど「大丈夫です! 私が教えますから!」と例の電球みたいな笑顔で中川さんがずいと寄ってくる。優木さんが漏れてるよ?

 目が眩むような笑顔と、爛々と輝く眼鏡の奥の大粒の瞳に気圧されるみたいにして僕は「わかった。行こうすぐ行こう」がくがく縦に頭を振った。

 やった、と小さくガッツポーズをする中川さんの姿は幼子みたいで、なんだか微笑ましくて。表情に出ていたのだろうか、僕の方を見た中川さんはハッとして、ひとつ咳ばらいをしてから佇まいを正して「立場上、アニメや漫画が好きなことを大っぴらに明かすことが出来なくて、ずっと語り合える友人が欲しかったんですよ……」恥ずかし気に言った。

 

「そんな、語り合えるほど詳しくなれる自身ないんだけど」

 

「そんなことありません!素敵な作品が沢山ありますから、きっと御崎さんも大好きになりますよ!」

 

「そこまで言うなら……えっと、ご教授お願い致します?」

 

 そうと決まれば善は急げです、と意気込んだ中川さんだけど「あれ?」と僕の手元に視線を注ぐ「ギター増えていませんか」

 ……今まで気が付かなかったんだ。僕は苦笑を飲み込んで「うん、父さんがエレキも無いと不便だろうって」

 

「良かったらお持ちしますよ」

 

「いいよ、重たいだろうし」

 

「遠慮なさらず。こう見えて鍛えてますから!」僕の手からギグケースを取って、なんでもないようにひょいと背負ってしまう。ギタリストみたいですか? と得意げに振り返るのだけど、中川さんが小柄なせいもあって後ろから見るとギグケースに手足が生えて闊歩しているように見えてしまって。まるでギターの妖怪だ。失礼にもほどがあるから口には出さなかったけれど、笑いを噛み殺すのに酷く苦労した。

 

 それから中川さんの作品愛に溢れた蘊蓄に耳を傾けながらホビーショップや古本屋を巡ったのだけど、まさか商店街にある全ての店舗を回るとは思ってもみなかった。

 アコギのハードケース片手に練り歩くのはなかなかに骨だったけれど、ショルダーバッグが膨らむくらいにグッズを買い込んで、ぶんぶん手を振りながら改札に消えていく中川さんが楽しそうだったから、まぁ良かったかな。



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打ち上げ。秋葉原。お願い。

 アコースティックライブは成功だった。

 日本人っていうのはバラードとアンプラグドが大好きな人種だ、と断言するのはケイコさん。

 やや極端な物言いだとは思うけれど確かに、90年代にクラプトンが巻き起こしたアンプラグドブームよりもずっと以前から、フォークソングに親しんできた日本人には、アコースティックは好まれやすいみたい。

 ライブに対して批判的な声もあった。

 なにせ完全に見切り発車だったのだ。優木さん自身が病み上がりだったこともあって練習時間をろくに取れなかったダンスは断腸の思いで振付を簡略化せざるをえなかった。

 それならばいっそと、マイクの前から一歩も動かずに歌う思い切った演出など、極端に歌唱に特化したステージは果たしてスクールアイドルのライブと呼べるのか、などと。

 けれども、そういった声は湖に投げ入れた小石の波紋くらいの、本当にささやかなもので、その証拠に学園が管理するSNSにアップロードされた今回のライブ動画への反響は、最初の学園祭のライブのときに勝るとも劣らないくらいだった。

 日本人っていうのは、人と違ったことをする奴に対して脊髄反射で否定的になる人種だ、と断言するのもケイコさん。それは極端すぎると思う。

 ともかく、これでおよそ二か月間に渡って続いた優木さんのライブ行脚も無事に終わりを迎えたのだった。

 

 そしてライブの終わりには打ち上げがつきものだ。特にバンドには。

 すっかりバンドメンバー達のお気に入りとなった優木さんは、打ち上げと称した可愛がりに連れ出されたらしい。

 らしい、というのは僕は参加を遠慮したからで。

 いくら馴染んだといっても、避けられない用事以外で女装で出歩く度胸はない。

 とはいえ、短期間で多くのステージを共にした、いわば戦友のような人たちの誘いであったから、少しだけ残念に思っていたのだけど、打ち上げの日に撮られたという動画を中川さんに見せてもらって、その判断は間違っていなかったと確信する。

 

「大丈夫だったのこれ?」

 

「……あはは、なんとか」奇抜な色のドリンクをストローでかき混ぜながら中川さんは乾いた笑顔。

 

 その動画というのは、学校指定のジャージに身を包んだ優木さんたちが、お台場の砂浜で追いかけっこをしているもので、追いかけっこといっても追われているのは優木さんだけ。

 普段から鍛えているのだろう、俊敏な動きで運動不足なバンドマンたちをかわし続けていた優木さんだけど、多勢に無勢では流石に分が悪く、やがて掴まってしまった。

 メンバー全員に囲まれた優木さんは小さな体躯を軽々と持ち上げられ、なぜか胴上げされて、それだけならまぁ、女子高生の悪ノリとギリギリ理解できたのだけど次の瞬間、優木さんは悲鳴と共に海に投げ込まれてしまい、それに続いて全員が飛び込んで行くのだから、僕はもう唖然とするしかない。真冬になにやってんのこの人たち……。

 

「全員で凍えながら学園の寮まで走って行って浴場をお借りしたのですが、そこでも、まぁ色々と、えぇ本当に色々とありまして……」

 

 虚ろな目で自身の身体を抱く様子から、きっとメンバーから手酷いセクハラに遭ったんだろうな。うっかりその光景を想像してしまいそうになって、僕はドリンクと一緒に邪念を飲み下す。

 

「えっと、身体は大丈夫? また風邪とか」ていうかお台場の海って衛生的にどうなの?

 

「はい、それが自分でも驚くくらいなんともなくて。心なしか身体が頑丈になったような気がします」と乾いた笑い。

 

 おまたせしました、とスタッフが頼んでいた料理を持ってきた。

 テーブルに置かれたプレートに盛り付けられた料理に、中川さんの表情が一転して華やぐ。中川さんがスマートフォンで写真をパシャパシャやっている間に、僕の方にも料理が運ばれてきた。

 勧められて注文したキャラクターのイメージカラーを模しているらしい真っ青なカレーライスは、実際に現物を目の当たりにするとなかなかに異様で、美味しそうですねそちらの写真も撮っていいですか? とスマートフォンのカメラを向ける中川さんに、なんなら食べちゃってもいいよ、と言いそうになるのをなんとか堪えた。

 

 

*****

 

 

 

 僕が打ち上げに参加しなかったことが気がかりだったのだろうか、打ち上げの日から数日経ったころに中川さんから連絡があった。

 

『気になっているカフェがあるのですが、ご一緒にいかがでしょう?』

 

 同年代の女子が行きたがるカフェだなんてきっと、僕みたいのには縁遠いお洒落な場所だろうから少し気遅れしたけれど、折角の厚意を無下にするのはどうかと思ったし、それに中川さんに話さなければならないことがあったので、ありがたく誘いに甘えることにした。

 

 待ち合わせ場所が秋葉原の時点でなにかおかしいぞとは思っていた。

 

 中川さんに連れられて行ったカフェは、SNS映えするカロリー爆弾なパンケーキも、瀟洒な北欧家具もなければ、もちろん気の利いたジャズが流れていることもなかった。

 壁一面は額縁に入ったキャラクターのイラストが飾られ、等身大パネルが所狭しと並び、スピーカーからは主題歌と挿入歌と登場キャラクターによるアナウンスが、大型モニターではアニメ本編を編集したらしいものがリピートで流されている。

 コラボカフェというものらしい。未知の文化。

 もう少しで期間が終わってしまうところだったんです! と興奮気味に話す中川さんだけど、僕の方はややグロッキーで。だってカフェに入るのに整理券なんて渡されると思わなかったし、まさか30分近くも待つとも思わなかった。

 それでもひたすらに楽し気な中川さんを見ていると、まぁいいか、と思えてくるのだから不思議なもので。

 

 奇抜な料理と中川さんの止まらないアニメ蘊蓄をひとしきり楽しんだ後は、中川さんに連れられてひたすらに秋葉原を練り歩いた。

 僕でも知っているような大手のアニメショップはもちろん、ゲームセンターや少しアングラな雰囲気の個人経営のお店等々。スクールアイドル発祥の地ということもあって、それらのグッズも充実している。

 中川さんは自分の庭と言わんばかりに、慣れた様子で街を案内してくれた。

 秋葉原には全く馴染みのない僕だけど、あれはなにかと訊ねれば、10倍くらいの情報量で答えてくれる中川さんのお陰で思いがけず楽しめた。

 

「……ええっと、なんか凄い肌色な漫画だけど、中川さんこういうのも好きなの?」

 

「それは! 投稿サイトで人気を博した先生の初の単行本で……ではなくっ! そ、そちらは成人コーナーです!早く戻ってきてくださいっ」

 

 ……そんな、ささやかなトラブルもあったけれど。

 

 

*****

 

 そうしてすっかり遊び呆けていたものだから、随分と時間が経っていたことに気がつかなかった。

 見上げると雪でも降りそうな暗い曇り空が広がっていて、それを塗り潰さんばかりに、店々のネオンが煌々と輝いている。

 この街はとにかく明るい。そこら中に星でも落っこちてるみたい。

 人口の星々が地面や近くの空をむやみやたらと照らしていて、だから夜の訪れに気がつかない。

 

 最後に中川さんが連れられてきた場所は、駅からほど近いところにある学校だった。

 学校と言っても、曇った夜空を突き刺す高層ビルの校舎の威容は、虹ヶ咲学園のそれに勝るとも劣らない。

 

「やっぱり、大きいです……」中川さんは校舎に手を伸ばしながら言う。

 

 UTX学園。芸能に特化した高校で、スクールアイドルブームの火付け役にしてラブライブ初代優勝校。

 熾烈を極める東京エリアにおいて、毎年のように優勝候補に挙げられる屈指の全国屈指の強豪校だ。

 他を寄せ付けない高校生離れした実力でもって手にした第一回ラブライブ優勝の栄光と、その僅か数か月後に開催された第二回大会において廃校寸前の公立校に喫したジャイアントキリングの汚泥は、今なお伝説のように語り継がれている……と中川さんが教えてくれた。

 そういった経緯を知っているからだろうか、夜闇をたっぷり湛えたガラス張りの校舎はやたらと威圧的に見えて少しおっかない。

 

「来年からはここもライバルになるんだもんね。大変だ」自分が戦うわけでもないのに何故だか怖気づいてしまった風に言う僕だけど「そうですね……」中川さんは伸ばしていた手をぎゅっと拳にして「でも、楽しみですっ」とピカピカの笑顔で言うのだから敵わない。

 実際のところ、来年度から始動する虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会がどこまで通用するのかは全く予想ができない。

 優木さん個人であれば、並み居る強豪相手にも遅れは取らないだろう。

 だけどラブライブ優勝を目指す以上はグループでの活動が必至なわけで、そうなると話しは大きく変わってくる。

 果たして優木さんの実力に肩を並べられるメンバーが集まるのだろうか。

 僕がそんな心配をしても仕方がないのはわかっている。だけども間近で優木さんのスクールアイドルへの熱量を目の当たりにしてきた身としては、出来ることならその想いが報われてほしいと思った。

 

 「頑張ってね。応援してるから」ほんの短い間だったけれどステージを共にしたボーカリストに向けて僕はエールを送る。

 だけど帰ってきたのは「えっ?」と素っ頓狂な声。

 こちらを振り返った中川さんは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていて、え、なに、なんか変なこと言った?

 困惑する僕をよそに中川さんは「あ、そうか、そうですよね……」となんだか一人で納得していて。

 

「ええっと、大丈夫? どうかした?」

 

「はい、すみません。その……先日のライブが御崎さんと一緒に出来る最後のライブだったんだと今になって気がつきまして」

 

 あはは、と中川さんは頬を掻く。

 

「どうしてでしょう、同好会が発足した後も御崎さんや、バンドの皆さんとライブを続けていくのだと思い込んでいて。すみません、御崎さんには特にご迷惑をおかけしたのに、こんな身勝手なこと……」

 

「いや、全然。迷惑なんてことはない、けど」

 

 それは、難しいことだと思う。

 優木さん以外に僕の素性が知られないように活動をしていく自信は無いし、バンドだってそうだ。リカさんを始めとしたメンバーの全員が3年生なのだから来年には卒業してしまっている。果たしてあのクオリティのバンドをまた組めるのだろうか。

 ……いや、なんで続ける方向で考えてるんだろう。この間からちょっとおかしいぞ。

 女装して他校に、それも女子高に忍び込んでバンド活動なんて無茶苦茶、もうこれっきりでいいだろう。この数ヶ月バレなかったことの方が奇跡だ。

 そうやって自分に言い聞かせるのだけど「少し、残念ですね」という中川さんの呟きがボトリと、僕と中川さんの爪先の間に落ちるのを聞いてしまうと、なぜだかどうにかしなければという気持ちがあって、そこでふと思い出したのは父からの『お願い』だった。

 

 ……遊ぶのに夢中ですっかり忘れてた。

 

 しかし、思い出したのはいいけれど、どうしたものか。

 頭の中で気の利いた言葉を探すけれど、なにも思い浮かばず、だってこんな経験今までにないのだから、胃のなかに氷でも放り込まれたみたいな緊張に襲われる。

 そうしてやきもき無言でいると中川さんが「さて、そろそろ帰りましょうか」と言って「今日は楽しかったです。お疲れ様会だったのにたくさん連れ回しちゃいましたね」駅の方に向かおうしてしまう。

 だから僕はほとんど反射的に言っていた。

 

「中川さん、今月の25日って予定ある?」

 

 少しの、だけどえらく長く感じる沈黙。耳の奥がシンと痛くなる。客引きのメイドの、メイドサンタと萌え萌えなひと時を、と言う呼び込みの声や、大型ビジョンのアニメの広告が遠くに聞こえる。いやサンタメイドってなに?

 そうして恐々とこちらを振り返った中川さんの赤い顔を見て、僕はあまりにも言葉少なだったと後悔した。

 

「えぇっと、25日ってその……クリスマス、ですよね」と俯き加減の中川さんが言う。

 

「ごめんっ、下心とか本当そういうのじゃなくって、お願いしたいことがあって」

 

「お願い、ですか?」

 

 キョトンと、首を傾げる中川さんに僕は、無駄に身振り手振りを交えて話をする。このクソ寒いのに冷や汗が止まらなかった。

 



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12月25日。RED HOUSE。熊

 12月25日。

 新宿駅東南口はうんざりするくらいに混雑していた。

 普段の混沌とした雰囲気とは違った、どこか浮ついた、地に足が付いていないような、今年一番の冷え込みなのに生ぬるい熱を孕んだ空気感は、やはり今日がクリスマスだからなのだろうか。

 モッズコートの襟を掻き寄せて息を吐く。白く染まった息がふうわり浮いて消える。

 夕刻の空は、厚い雲にすっぽりと覆われて、夜と見紛う暗さ。雪でも降ってきそう。背後の甲州街道を行き交う自動車の巻き上げた風が酷く冷たい。

 改札近くには、恐らくというか間違いなく恋仲の人を待つ老若男女が吹き溜まっている。

 僕もまぁ、待ち合わせと言えば待ち合わせではあるのだから、彼ら彼女らといわば同属のはずなのだけど、まるで事情が違うから、他人からすればそんなの分かるはずもないのに、なんだか肩身が狭い。

 カップルが一組、また一組と、手を繋ぎ、腕を絡め、微笑み合ってネオンが点り始めた雑踏に混ざって消えていくのを、僕はガードパイプに縮こまって腰掛け、所在なく見送る。

 てっきり中川さんも、彼ら彼女らのように、改札の向こう側からやってくるものだと思い込んでいた。

 だから、横合いから「お待たせしました!」といつものように元気よく声をかけられた僕は驚いて背負ったままのギターケースごとガードパイプからひっくり返りそうになった。

 

「わわっ、大丈夫ですか?」

 

「だ、大丈夫。もう着いてたんだね」

 

 中川さんの方を見ると、先日の秋葉原の時と変わらない、どこか垢抜けないカジュアルな服装。

 ……なのだけど、この寒いのに赤いダッフルとマフラーは小脇に抱えられていて、寒くないの? 訊こうとして、やたらと血色の良い頬や、そういえば優木さんの方の雰囲気が漏れ出る、ぺかぺかの笑顔に気が付いて。

 

「……中川さん、もしかして今までどこかで練習してた?」

 

「はい昼頃からカラオケで!」

 

「うわぁぁ、なんか本当にゴメン……」

 

 

*****

 

 

 スガさんのライブハウスでは毎年25日、クリスマスの日にライブイベントを催している。

 イベント、と言っても集まるのはスガさんの現役時代の音楽仲間や常連客ばかりで。大体が引退した独り身ミュージシャンや、子供を送り出して時間を持て余した人の集まりだから色気のようなものは皆無。

 父さんがよくライブを演っていたところだから、その縁で僕も子供の頃から毎年のように参加している。

 ほとんどが身内のホームパーティのような催しだけど、ステージに上がるのが一線を退いたとはいえ、元は百戦錬磨のスタジオミュージシャン達なのだから侮れない。

 ジャケットにミュージシャンの名前がクレジットされるのが常識になる以前から、数々のレコードに音を吹き込んできた、名もなき名手揃い。

 コアな音楽通なら、それこそお金を払ってでも観に来たいと思うのではないか。演奏のクオリティはそこらではお目にかかれないくらいに高い。

 しかし悲しいかな、寄る年波には勝てないというか。一段と冷え込むこの季節、喫煙飲酒とただでさえ不摂生な老人どもだから、毎年のように体調を崩す輩がちらほら。

 今年はそれが、スガさんのバンドのボーカルだった。

 父さんからの『お願い』というのは、中川さんに件のバンドのボーカルの代役をお願いすることだった。

 

 

*****

 

 

「だけど、本当に大丈夫なの?」甲州街道を途中で折れて新宿三丁目方向へ。ライブハウスは東新宿の方にあるから少し歩くことになる。その道すがら、僕は中川さんに恐る恐る訊ねる。

 さすがに冷えてきたのだろう、コートを着込んでマフラーも巻き直した中川さんは「もちろん、ご心配なく。歌詞もしっかり覚えてきましたから」と頼もしい返事。

 

「えっ本当に? 全部英詞なのに……」

 

「英語の勉強にもなって、とても有意義でした」

 

「さすが生徒会長……いや、そうじゃなくて」洋楽ばかりやるくせに英語がさっぱりな僕はすっかり感心しきりで、でも訊きたかったのは「今日、付き合ってもらっちゃって大丈夫だったの?」

 

 先日の秋葉原での打ち上げの別れ際、しどろもどろになりながら話した、父さん伝手の代役のお願い。

 断られるだろうと内心では思っていた。だってクリスマスだよ? けれど返ってきたのは二つ返事の「是非、参加させて下さい!」

 あの日は中川さんが門限ギリギリだったこともあって、演奏する曲であったり、段取りの詳細はメッセージアプリでやりとりをしたから、なんとなく訊ねるタイミングを逃してしまっていた。

 

「えぇもちろん。御崎さんのお父様にはギターを貸していただいた恩がありますから。私に出来ることがあるのなら是非、お力になりたいです」

 

「それはありがたいんだけど……でも、今日ってアレじゃない?」

 

「アレ、とは?」

 

「ほら、クリスマス」

 

「はい。そうですね?」頷く中川さんだけど「それがどうかしましたか?」いまいち要領を得ない様子で首を傾げる。

 

「だから、ほら。なんていうか……」僕は言い澱んで「折角の日に、その、もしいるならだけど、彼氏さんとか、こんなことしてて怒ったりしないのかなって」

 

「はぁ、かれしさん、ですか」

 

 赤信号。立ち止まった中川さんは形の良い眉を寄せて「かれしさん?」そんな言葉生まれて初めて聞きました、みたいな反応。

 かれしさん。かれしさん。

 信号が青に変わって、郭公の電子音が聞こえて、人並みが動き始める。

 

「そ、そんな人はいませんッ!」目の前で巨大な風船が破裂したような大声だった。

 

 周囲の人がギョッとしてこちらを振り向いたけれど、さすがは東京は新宿シティ。一瞥して興味を失った様子で、何事もなかったかのように人々は流れていく。

 

「クリスマスは毎年ラブライブの予選をリアタイで応援して、その後は家族と過ごしています! か、彼氏なんていたこともありません!」

 

 あまりの剣幕に僕はちょっと引き気味に「そ、そうなんだ。ごめん、てっきり」

 

「むしろ、どうしていると思ったんですか!?」

 

「いや、だって、中川さん綺麗だし、普通にいるんじゃないかなって」

 

「き、綺麗って……」モニョモニョ言って黙り込んでしまう。人の流れを交差点の真ん前で人の流れをせき止めているものだから、すれ違いざまにあからさまに舌打ちをしていく、おっかないのがいれば、痴話喧嘩? 中学生かな? など茶化す声も聞こえて、非常に居た堪れない。歩行者信号が点滅を始めて、僕らは慌てて横断歩道を渡る。

 

「……ええっと、なんかごめん。気を悪くするようなことを言ったなら謝るよ」先を歩く中川さんの背中に言うと「いえ、そんなことは……」中川さんは立ち止まって「けれど可笑しいですよ。せつ菜ならともかく、菜々の姿の私が、その、き、綺麗なんてことは……」

 

「いや、同一人物なんだから、中川さんだって綺麗な人だと思うけれど……」そこまで言って冷静になる。なんで僕こんな口説き文句みたいな台詞を口にしてるの?

 振り返った中川さんの半分がマフラーに埋まった赤面した顔を見て、対照的に青くなった僕は「ごめん、もう言いません」再度謝罪して中川さんの先を歩く。クリスマスの雰囲気に当てられたのだろうか。

 先日もこんなことがあったような気がする。最近どうかしている。

 

 

*****

 

 

 花園神社を通り過ぎて、周囲の景色がオフィス街の灰色めいたものに変わった辺りで、僕らはようやく足を止めた。

 真新しいビルとビルの間に窮屈そうに挟まれた、干からびた野菜みたいな、哀愁漂う三階建の雑居ビル。その地下にスガさんのライブハウスがある。

 一階フロアの壁面にネオン看板が直接設えられていて、店名である『RED HOUSE』の赤い文字が怪しく浮かび上がっている。

 店名はジミヘンの曲からの引用で、ジャズドラマーのクセに重度のハードロック好きなスガさんの趣味だ。

 地下へと続く細い階段は壁面が毒々しい赤色に塗られていて、経年で剥がれ落ちた箇所を隠すように、色褪せたポスターやフライヤーが、そこかしこに貼られたままになっている。

 幼少の頃から出入りしている僕にとっては見慣れた光景だけれど、よくよく考えれば大変近寄り難い雰囲気をこれでもかと漂わせていて、さすがの中川さんも少し引きつった表情。

 

「父さんのスタジオと同じで、見た目は凄く怪しいところだけど、中身は……うん」

 

「中身は!? 中身はどうなってるんですか!?」

 

 取って喰われたりはしないって。僕は軽く笑って、中川さんを連れ立って細い急な階段を降りる。

 重い防音扉を引くと、煙草と地下特有の黴臭さを多分に孕んだ空気が顔にぶつかった。

 キャパ100人程度のフロアには、普段は無い簡素な丸テーブルと椅子とが雑然と置かれていて、馴染みのおっさん連中が早速酒盛りを始めていた。

 普段はあまり顔を出さないご婦人たちも、隅の方のテーブルを陣取って談笑に花を咲かせている。

 ステージ上ではまだ開演前なのだけど、ボロいアコースティックギターを抱えた白髪の老人が、生音でロバートジョンソンを弾き語っていて、これがまた抜群に上手く、丁度良いBGM代わりになっている。

 入ってすぐにあるバーカウンターに熊のような、というか熊そのものな巨体を見つけて「スガさん、来たよ」声をかける。

 振り返った禿頭が「おう、遅ェぞ岬」とこちらを睨め付ける。

 別に怒っているわけではない、これが彼の通常営業だ。

 だけど初対面の中川さんには、このライブハウスの雰囲気ともども、とてもカタギには見えないスガさんの風貌は、流石に刺激が強かったみたいで、僕の背中越しに「は、はじめまして」普段の元気は何処へやら、なんとかスガさんに挨拶。

 中川さんの姿を認めたスガさんは「あ? なんだその嬢ちゃんは」とドスの効いた声で言って、背後の中川さんがますます恐縮するから、人を食べない熊だから大丈夫だよ、そんな冗談でも言おうと思った時、椅子がバタバタと倒れる音、それからロバートジョンソンが聞こえなくなっていることに気が付いて、見ると赤ら顔のおっさんどもが立ち上がって、こちらを凝視していているのだから驚く。どうしたついにボケたか。

 少しの謎の沈黙のあとで、おっさんどもが同時に口を開いた。

 

 岬が女を連れてきたっっっ!

 

「あらまぁ綺麗な娘さんだこと。どこから来たの?」と婦人のひとりがするすると近づいてきて、中川さんの手を取って椅子に座らせると「オ、オレンジジュース飲むか?」おっさんが瓶入りのジュースをどこからか持って来てきて差し出して。

 

「バカヤロウ、今時の娘はそんなダセェもん飲まねぇよ」

 

「なんだバカヤロウ、じゃあなんだったら飲むってんだ」

 

「この間テレビでやってたぞ。紅茶になんとかってカエルの卵みたいなのが入ったやつが流行ってるらしい」

 

「すげぇな、最近の娘はカエルの卵なんて食べるのか」

 

「あれだな、きっとダイエットに効くんだろうな」

 

「あぁダイエットな。ダイエットは大事だよな」

 

 よっしゃカエル捕まえに行くか、数人のバカヤロウが本当に外に出て行こうとするのだから頭が痛い。

 

「オレンジジュース好きですよ! 大好きです!」中川さんが慌てて引き止めると「おぅマスター!店にあるオレンジジュース全部もってこい!」「おひとつで十分ですからっ」などと、てんやわんやの騒ぎで、見ていられなくて仲裁に入ろうとしたのだけど、背後から伸びて来た手が僕の頭をむんずと鷲掴みにした。こんなことをするのは小さな頃から一人しかいない。

 

「ちょ、スガさん痛い!」

 

「岬、ちょっと面ァ貸せ」

 

「痛い!潰れる潰れる!」

 

 

*****

 

 

 スガさんに引き摺られて行ったのは、バーカウンターの背後にある楽屋で。楽屋といっても倉庫を兼ねているから埃っぽく、大量の楽器が持ち込まれている今日は特に雑然としていてる。

 その辺から引っ張ってきたビールケースに座らされる。

 スガさんは座面のクッションがビリビリに破けたパイプ椅子に腰を下ろして煙草に火を付けた。溜息と一緒に紫煙を吐き出すと「でなんだ、ありゃあ」と、不機嫌そうに言った。

 

「父さんから聞いてないの? ボーカルの代役の話」

 

「頼みはしたがよ……あんな、ちんちくりんが来るたぁ思わないだろ」

 

「いや、ちんちくりんって」

 

 クソッあのロリコンめ。毒づいて苦々しく煙を吐く。人の父親をロリコン呼ばわりはいかがなものだろう。

 

「えぇっと……中川さん結構、ていうか、かなり歌えるよ?」

 

「誠一郎が推すんだ。そりゃ歌えるだろうさ」

 

 期待しちゃあいないがな。スガさんは転がっていた空き缶に吸殻を放り込んで、よっこらっしょ、立ち上がって「あー……お前の方はどうなんだ」

 

 僕? どうなんだってなにが? 「例年通りでしょ。なんにも変わらないよ」

 

 スガさんは胡乱な目で、そうかよ、僕を見やると巨体を揺すってバーカウンターの方に戻っていった。

 

 



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親子。

 楽屋に荷物を置いてフロアに戻ると、老人たちの下衆な歓迎が待ち受けていた。

 手は繋いだか。チューしたか。エッチしたか。等々、思春期の中学生みたいに詰め寄ってくるのを、頭を引っ叩いたり、酒瓶を口に突っ込んだりして黙らせていると、次第に開演の時間が近づいて、フロアが随分と混雑してきた。

 テーブルは殆ど埋まって、半ば立食パーティのような具合なのは毎年恒例。

 際限なく絡んでくる輩を適当にいなして、中川さんを探すと隅っこの方のテーブルにその姿を見つけることが出来た。

 丸椅子に縮こまって少し緊張した様子で、何者かと談笑しているのだけど、その相手がいつの間にか来ていた父さんだったから安心する。

 ここの連中は音楽の才能と引き換えに、デリカシーを何処かに捨て置いて来てしまったところがあるから、目を離すと中川さんにどんな無礼を働くかわかったものではない。

 「父さん。この間ぶり」テーブルの方に行くと「やぁメリークリスマス」と父が相好を崩した。中川さんが少しホッとした様子で「御崎さん。ちょうどお父様に先日のお礼をお伝えしていたところでした」

 

「お礼なんて、こちらこそクリスマスにこんなお願いをしてしまって申し訳ない」

 

「そんな、とんでもないです」

 

「そうは言っても、菜々ちゃんだって年頃なんだから、いい人のひとりやふたりいるんじゃないの?」

 

「父さん、それはちょっと……」つい今しがた全く同じ話題で困らせたばかりだから。中川さんも同じことを思ったのか「お父様まで……」と嘆息して「そんな人はいませんから」

 

「そう? じゃあうちの岬なんてどう?」

 

「な、な、なにを仰るんですかっ!?」「何言ってんの!?」

 

 からから笑う父にげんなりしていると、父の隣に腰掛けるその姿を見つけてしまって、ギクリとする。

 影になって見えなかった、ただでさえ存在感が希薄な人だから。

 無意識に体を硬くする僕に「どうかしましたか?」中川さんが小首を傾げる。

 

「……立ってないで岬も座ったら?」 

 

 喧騒の中に掻き消されてしまいそうな酷くか細い声で、母さんは言った。

 

 

*****

 

 人間、たったの半年くらいでそうそう変わるものではない。

 それは母さんも同じで、病的に青白い童顔の細面も、僕とは正反対なすらりと長い体躯も、吹けば崩れて飛んでいってしまいそうな頼り無さも、僕が実家を出た半年くらい前となんら変わりない。

 訥々と抑揚なく喋り続ける癖も当然、同じままで。

 

 少し痩せたんじゃない……? ケイコさんのご迷惑にはなっていない……? ちゃんとご飯は食べているの……? 学校は楽しい……? 友達は出来た? 中川さんとは同じ学校なの? お付き合いしてるの?

 

 こちらが答える前から次々と問いを寄越すものだから、僕はもう最初から諦めて、あぁ、とか、うん、とか適当に相槌を打っていると、見かねた父が「ヒトミちゃん、そんなに一気に聞いたら岬が困ってしまうよ」苦笑混じりに言って、急に黙った母さんはぼうっと僕を見て「……岬、ごめんなさい。ごめんね」そう言って俯く。

 すぐに謝る癖もずっと同じ。

 こうなると黙り込んでしまうのはわかっていたことだから「ええっと、母さんがここに来るの珍しいね。」当たり障りない話題を選んで語りかけてみると「……うん」母さんはしばらくの沈黙のあとで頷いて「本当は来たくなかった……こんなところ」などと平気で口にするのだから……この人は本当に、さすがに僕も少しカチンと来て「じゃあ、なんで来たのさ。嫌なら来なきゃいいのに」自然と声が硬くなる。

 

「……だって岬が、ちっとも帰ってこないから」

 

「ちっともって、まだ半年でしょ」

 

「……たまには帰って来てねって言ったのに」

 

「だから、まだ半年って言ってるじゃん」

 

「……もう帰ってこないんじゃないかって思って」

 

「帰らない方がいいんじゃないの?」

 

 僕がいない方が父さんと楽しくやれるでしょ? そんな致命的な言葉を口にしかけたところで「こら、岬。ヒトミちゃんも」と父さんが仲裁に入ってくれてようやく、隣で困り顔の中川さんに気が付いて、ああやってしまった、頭に上っていた血が急に降りて来る。

 

「……ちょっと頭冷やして来る」そう言い残して席を立つ。背後に聞こえた母さんの、ごめんなさい。掻き消えてしまいそうな声を聞かなかったふりをして。

 

 

****

 

 

 地下の階段を一気に上ってRED HOUSEの、看板の下にのろのろ膝を抱いて蹲る。赤く滲んだネオンの光の中にいると不思議と、ほんの少しだけ心が安らぐような気がする。

 それはきっと昔からの習慣のようなものだからで、幼少の頃セッションでボコボコにされたときなんか、こうやって逃げ出して、煤けた看板の下で小さくなって、気持ちが落ち着くまで外の景色をぼうっと眺めていた。

 入り口のガラス扉の向こうでは、ついに雨が降り始めたようで、霧みたいな細かな水滴が、明治通りを行き交う車のテールランプに照らされて、ちょうどクリスマスの電飾みたいにキラキラ輝いている。

 思い切り息を吸い込んで、そして吐き出す。真っ白な息。冷たい雨と堆積した埃のにおい。

 あぁ、やってしまったな。膝の頭に額をぶつける。

 母さんとはいつもこうだ。上手くやれない。幼い頃はこんなんじゃなかったのだけど、いつの頃からだったか、思い返すと不和の理由は分かりきっていて、けれども分かっているからといってどうこう出来るわけでもなくって。

 膝の間に頭を突っ込んで、溜息を零すとどうしようもなく惨めな気持ちで、いっそこのまま帰ってしまおうか、だけど中川さんを放って行くわけにもいかないよなぁ……。

 そうやってウジウジしていると、誰かが階段を上がってくる足音が聞こえて、僕は身体を一層縮めて、薄汚れた壁の一部になってやりすごそうと思ったのだけど、足音は僕のすぐ近くで止まった。

 そうっと腕の隙間からそちらを窺うと、中川さんの姿があった。

 

「あの、大丈夫ですか?」慮る声音に僕はもう羞恥とか申し訳なさとかで一杯で、なんとか頷いてみせる。

 

「ごめんね。折角来てもらったのに、酷い雰囲気にしちゃって」

 

「そんな。確かに驚きはしましたが……御崎さんの怒っているところ、初めて見ました」

 

 同い年の女の子の前で母親と喧嘩って、すっかり冷えた頭で思い返すと、とんでもなく恥ずかしいもので、熱くなる顔を腕で隠して「まぁ、うん」とか曖昧に返事すると、中川さんが隣に蹲み込んで「難しいですよね。親子って」コンクリートの床にぽとりと言葉を落とした。

 

「……中川さんのとこ、上手くいってないの?」

 

「そういうわけでは。厳しいところがありますが両親のことは尊敬していますし、仲良くやれていると思います」

 

 ですが…。言葉を切って中川さんは少し自嘲気味に「自分が大好きなことについて、未だに打ち明けられずにいますから」

 

「……スクールアイドルのこと、まだ話せてないんだ」

 

「はい。一番に応援してほしい、私の大好きを分かって欲しい人たちなのに。だからこそ、もし否定されてしまったらと考えると、なかなか勇気が出なくって」

 

 本当に難しいです。そうポツリと溢して視線を落とす中川さんだけれど、ハッと顔を上げると「すみません、私のことばっかり」申し訳なさそうに言って、僕は「いや全然」首を振る。

 

「いつか、ちゃんと言えると良いね。スクールアイドルのこと」

 

「はい。いつか、必ず」

 

 御崎さんも、と中川さんが何か言いかけてそれを搔き消すみたいに階段下の方から「オイ岬、もう始めっからさっさと降りてこい」とスガさんのドスの効いた声が飛んで来て、僕らは苦笑する。

 立ち上がって、埃を払って、地下へ続く階段を降りる。防音扉に手をかけようとしたところで、後ろの中川さんが御崎さん、と呼び止めた。 

 

「今日は御崎さんの分の大好きも私が叫びますから、だから安心して下さいね!」

 

 胸を叩きながら言う中川さんの笑顔があまりにも頼もしくて、自分が少し情けなかった。

 

 

*****

 

 

 毎年催されるクリスマスライブだけど、ステージに上がる面子に代わり映えはない。

 それもそのはずで、集まるのがスガさんの知己な以上、病欠やらで減ることがあっても増えることはないからで、ほとんどが小さな頃から見知ったオッサン連中だ。

 けれどたまにだけど、お弟子さんとか、親戚で楽器をやってる人を連れてくることがあって、どうやら今年はそのたまにの年だったらしい。

 一番最初に演奏を披露したのは、人の良さそうな大学生くらいのギターボーカルの青年と、どう見ても女子中学生にしか見えない(ステージの後でジョッキビールを平然と空けているのを見て外見で判断してはいけないなと反省した)小柄童顔なドラマーからなる、平均年齢の高いこの空間においては大変フレッシュなツーピースバンドで、曲目の方もグリーンデイとかMr.Bigのバラードとかなり若々しい選曲。

 演奏の方も良くも悪くも若々しくて、ボロボロのフライングVを掻き鳴らしてマイクに齧り付くちょっとたどたどしい青年の歌を、小柄な体躯からは想像も出来ない少女のパワフル過ぎるドラムが容赦無く叩きのめす様はいっそ痛快。客席から「下手くそ!」とか「ドラムだけで良い」とか愛のある?ヤジが飛んだ。

 以降は例年通り、熟練のミュージシャン達の演奏が続くのだけど、様子がどこかおかしくて、選曲がミーハーというか、CMで耳にするような有名曲ばかり。

 普段ならクリスマスなんておかまい無しに戦前のブルースや、難解極まりないビ・バップを平気で演るクセに一体どうしたのかと思えば、どうやら中川さんに気を効かせてステージ上で曲目を替えているようで、そんなの僕がガキの頃にもやらなかったじゃん!

 中川さんはというと、ステージ近くのテーブルに、父さんと母さんと一緒に着いていて、曲に関する蘊蓄を披露しているらしい父さんに、コロコロ表情を変えながら相槌を打っている様子が見えて、どうやら楽しんでくれているみたいで安心する。

 僕の方は例年のことなんだけど、この集まりの中でも最年少、つまるところ下っ端なものだから「岬!ちょっとタバコ買って来てくれ!」「おい、ビール持ってこい」と、オッサン達の使いパシリで右往左往していて、中川さんが「私もお手伝いします」というのは押しとどめて。流石に雑用なんかさせられない。

 しかし、この使いパシリも意外と悪いものではなく、ライブも後半に差し掛かると、良い感じに出来上がったオッサン達の財布の紐が緩くなって、例えば数千円のお釣りをそのまま、駄賃だ、と寄越してくるので、ライブ行脚の移動費諸々ですっかり薄っぺらくなった財布には大変ありがたく、普段以上に甲斐甲斐しく働いていると、唐突に頭をむんずと掴まれて「オラ演るぞ」とスガさんが言って、気がつけば縁もたけなわ、最後のバンド、僕らの出番だった。

 僕は慌てて楽屋からギターを持って来て「中川さん、用意できてる?」父さんや、周囲のおばさま達と談笑していた中川さんは「はい、大丈夫です!」待ちきれないといった様子で、さすが肝が座っているというか。

 楽しく歌えばそれでいいのよ。応援してるからね。おじちゃん手拍子でもしちゃおうかな。など、いつの間にかすっかり皆のアイドルといった様相で、実際スクールアイドルではあるのだけど、中川さんはありがとうございます、精一杯頑張りますと恐縮しながら、いちいち声援に応えている。

 そう大したステージではないから客席からそのまま、柵の隙間を抜けて、気持ちばかり段になったステージに中川さんを伴って上がろうとすると「岬、菜々ちゃん、ちょっと」と背後から父さんが呼び止めた。

 柵に寄りかかった、父さんはちょいちょいと手招きして、内緒話でもするみたいに、顔を寄せてくる。

 それは少々、いやかなり突飛な提案だった。

 

「……本気?」「良いのでしょうか、そんなことをして」

 

 流石に不安になる僕らだけど父さんは「余裕、余裕」と能天気。

 

「菜々ちゃんを推したのは僕だからね。この孫の演奏会でも見るみたいな生温い空気はちょっと気にくわない。思い切りやっちゃって、きっと連中ひっくり返るよ」皺の目立つ顔で少年みたいにほくそ笑んで「しくじっても岬がカバーするから」と無責任に言う。

 オイ、くっちゃべってないでさっさと用意しろ、とステージからスガさんの怒声が飛んできて、僕は肩をすくめる。

 

「……いいよわかった。やろうか」

 

「え? 本当に大丈夫なんですか?」

 

「わからないけれど、きっとなんとかなるよ」

 

 だって普段のライブもこんな感じじゃない? ちょっと投げやりに言うと、中川さんは少し苦笑して、確かにそうですね。

 ステージに上がって、父さんから借りたギブソン335をケースから取り出して、手早く準備を終わらせる。

 中川さんがマイクチェックをしている間に「ちょっといい?」ドラムセットに窮屈そうに収まったスガさんに「最初の曲だけ、キュー出し僕がやっていい?」そう言うと、スガさんは怪訝そうな表情を浮かべて「好きにしろ」とぶっきらぼうな返事。

 バンドメンバーにも断りを入れて、中川さんを振り返ると、爛々と輝く双眸とかち合って、彼女は力強く頷く。

 外見は中川さんのままだけれど、優木せつ菜の雰囲気というか、熱量のようなものが滲み出ていて、すっかり準備万端で、もうあとは音楽を始めるだけ。

 僕は頷き返してミュートした6本の弦にピックを思い切り叩きつけた。



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