蒼の彼方のフォーリズムZwei if (隼 )
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1話 乾沙希の後悔
私がFC(フライングサーカス)というスポーツを始めたのは何故だっただろうか。
物心のついていない幼少期のことで、詳しくは覚えていないが。確か、『空を飛んでみたい』と言う純粋な興味が最初だったと思う。
――その純粋さは、いつから変化してしまったのだろうか。
「相手より上の位置をキープし続ければ、背中へはタッチされないのではないかしら?」
とある日、厳しい練習の合間時間。イリーナがホワイトボードをじっと見つめて、至極当然のことを言った。
つまりは相手が常に自分の下を飛んでいる状態。
確かにそれを作れれば、相手に背中へタッチされることはない。
しかし、問題は、無視されてローヨーヨーでブイ方向に逃げられてしまう可能性が高いことである。
距離を取られれば、相手に待ち構える時間が生まれるし、そのまま追いつけずブイを取られてしまう危険だってある。
試合において上の位置をキープするなんて考えるまでもないこと。不可能に近しい。
沙希は、イリーナに何を言っているのかという疑問符を浮かべたが、しかしすぐに考え直した。
相手はあのイリーナだ。無意味にこんな事を口にするはずがない。
じっと見つめる沙希に、イリーナは口元に手を当て、少し思考を巡らせた後、静かに口を開いた。
「……相手が上の位置を取って頭を抑えようとすれば、ローヨーヨーでブイ方向に距離を取って牽制する。それが私たちのこれまでの常識だった。そうよね?」
沙希がこくりと頷く。
「確かにそれが最善でしょう。位置エネルギーで相手より優位を取って、ローヨーヨーで追い返しても、既に距離を取っている選手が相手では追いつく事は難しいでしょうし……」
そこでイリーナは、言葉を切って、
「……けど、それが戦略として使えないと、本当にそう言いきれるかしら?」
「どういう意味?」
首を傾げた沙希に、イリーナはカラーペンを手にとり、キュッキュとホワイトボードに図を書き出した。
「私、思ったのよ。私たちはこれまでFCに飛行速度と安定性を追い求めてきた。誰よりも飛行姿勢が良く、誰よりも上昇下降の切り替えがスムーズで、冷静に戦局を見る事が出来、絶対にフェイントに惑わされない選手。それを理想として練習してきた。そうでしょ?」
「うん」
「今の沙希は、スピーダーとしては同年代と比較して誰よりも速く、簡単に相手を近づけさせない判断力と冷静さも備わっている。私はそう思うの」
イリーナはペンを止めた。それから図を指さし、振り返って沙希を見やり、
「だから……沙希なら、相手をブイに逃がさず、一定距離で上の位置をキープし続けられる。そう思わない?」
――その日から、私の練習カリキュラムは大きく変化した。
イリーナは、状況によって左右してしまう上の位置をキープできる距離を計算し、私に随時指導する。
私はプロの選手相手にそれを実践し、失敗を繰り返しながらも、体力が尽きるまで何度も何度もやり直す。
そして、日本での夏の大会、全国制覇という目標を見やり、全力を尽くし……やがて、長い月日が過ぎた。
やってきた夏の大会。しかし、私の予想に反してイリーナの作戦はなかなか日の目を帯びなかった。
プロの講師による効率を重視した練習と、遥か格上のプロ選手相手の試合経験。
イリーナが大枚を叩いて求めた練習効率と、誰より多くの努力を重ね、研鑽を積み続けた私の技術には誰も追いつけなかった。
秘策を使う必要もなく、私は着実にトーナメントを登りつめていく。
試合が終わる度、何度かため息をついた。
……また私は一人ぼっちだ。あの日と何も変わらない。
誰も私を追い抜いてはくれない。
なぜなら、私は孤独であらねばならないから。きっとそういう運命だから。
――だから、嬉しかった。
あの夏の大会、決勝。相手は真藤一成。日本最強のFC選手と呼ばれている男。
その実力は本物だった。まさに彼は天才だった。
1回戦や2回戦で大差をつけ、相手を圧倒した私の技術をいとも容易く凌駕し、瞬く間に点を奪い取っていった。
為す術もない圧倒的な技術に私は感動していた。練習相手だったプロの選手とは違う真の才能を感じた。
……ああ、この人は私とは違う。
常に効率を追い求め、常に練習し続け、理論上の最強を追い求めてきた私とは違うのだ。
――この人がまさに、“天才”なのだと。
知らず知らずのうちに口元に笑みを浮かべている私。しかし、ヘッドセットのイヤホンからはイリーナの痛切な声が響いていた。
内容は私への至極妥当な指示。そこには何故指示通りにしないのかという怒りも混ざっている。
……分かってる。けど、ファーストブイでの対決で私は理解してしまったのだ。
この人は強い。それも圧倒的に。けれど、私たちの戦術を知らない。
だから、彼ではきっと私には勝てない。
なぜなら、彼は本当のFCを知らないから。
私たちが効率を追求し続けたが故に発見した、この戦略を。
真藤一成の猛攻から逃れ、私が必死で蛇行しながら殆ど垂直に上空に逃げていく中。
ふと、聞こえていたイリーナの言動が怒りから悲しみへと転じている。
そこでハッと気づく。
何をしているんだ、私は。
イリーナをもう悲しませないと。そうあの日誓ったでは無いか。
イリーナに勝利を約束したが為に、FCをこれだけ頑張ってきたのでは無いか。
ギュッと瞼を閉じ、次に開いた時、私の瞳は決意に染まっていた。
勝つ。勝つ。絶対に勝つ。
絶対に負けない。負けられない。
眼下で苦しい表情をし、叫び声を上げる真藤一成。
それがなんだ。私を脅しているつもりか。
勝ちたいという気持ちなら私は誰にも負けない。
あなたには分からない。きっと私より多くを持っているあなたには。
真藤一成が水面まで追い込まれ、苦悶の表情を浮かべ、フォースラインにショートカットした。
リードを手に入れた私は、フォースラインでも同様に、まるで単純作業をするように冷静にフェイントを躱し、一定の距離を保ち、上から頭を抑え続ける。
無我夢中だった。
――やがて遂に勝利を告げるホーンの音が鳴った。イリーナの喜ぶ声がヘッドセットから聞こえる。
私はといえば、息を整えながら、真藤一成を見下ろしていた。
彼も息を荒らげながら、失意との瞳でどこまでも広がる真っ青な海を見つめている。
だが、そこには敗北だけではなく、どうして自分が負けたのか分からない、という混乱も含まれているように見えた。
……もし、だ。
もし、私があの時、イリーナの戦術を用いなかったら。試合はどうなっていただろうか。
真っ向から私の技術を否定され、2点を連取され、そこから、私の技術力で彼を打倒することが出来ただろうか。
答えは出ない。いや、出るはずがない。なぜなら試合は私の勝利という形で既に終わっているのだから。
だが、私の心は私の脳裏とは裏腹に、本来の勝敗の行方を確信しているようだった。
――その瞬間、才あるものへの尊敬は畏怖へと変わる。
私はふと、自分自身に問いた。
……私のFCはこれでいいの?
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2話 日向晶也の決意
夏の大会が終わり、自信を喪失したかのように見えたみさきは、ケロッとした顔で退部を告げた。
意外にも真白は部活に残ったが、みさきが抜けたせいか覇気がない。対照的に明日香は夏の大会からメラメラ闘志を燃やし、練習に励んでいる。
部長は受験勉強の合間を縫って練習に参加してくれているが、それ以外は真白が明日香の相手をしている。が、夏の大会で3回戦まで到達し、真藤さんともいい勝負をした明日香と真白ではやはり実力差が大きい。正直言ってまともな練習にはならなかった。
よって白瀬さんに協力を依頼し、明日香のグラシュの最高速度を搾って無理やり真白と練習させている。
こんな方法、真白には悪いと思ったが、快く承諾してくれた。本当に感謝でしかない。
本当は俺が相手をすべきなのだろうが、俺も夏の大会から、みさきと同じような脱力感を抱えていた。
あんな底のしれないような怪物ともう一度同じ土俵に立って試合をする。
そんなことはとてもじゃないが、考えられない。
日が沈み始めた頃、部活は解散となり、俺は帰路に着いた。
頭は真っ白で、何も考えないまま、海を抜け、島の上を飛ぶ。
「……日向晶也?」
と、その時。どこかからか自分を呼ぶ声が聞こえた。
地上を見下ろすと、特徴的な白髪の女の子――乾沙希が俺に向けて手を挙げている。
俺のこと?と自分を指さすと、こくこくとうなづいているのが見えた。
イリーナさんとは部長の試合の時にそれなりに話したが、乾とは帰り道で偶然会って一言二言言葉を交わしたぐらいだったはずだ。出会ってわざわざ呼び止められる程の仲じゃない。
驚きながらも、徐々に高度を下げて近づいていく。
「こんにちは、乾さん。夏の大会では全国大会優勝おめでとうございます。今日は、学校帰りですか?」
「……うん。日向晶也は、練習帰り?」
「ええ、まあ。……今の明日香は乾さん打倒を目指して、全国優勝を目標に練習してます。次の大会は夏の真藤さんとの試合のようには行きませんよ」
「?……うん」
コーチとしての反発心か、俺が思わずしてしまった宣戦布告とも言える発言。しかし、対して乾は曖昧に頷いただけだった。
少し沈黙が流れた。
「それで……なんで俺を呼び止めたんですか?」
俺は話を切り出した。
イリーナさんならともかく、乾からしてみれば俺は単なる他校のコーチに過ぎない。
乾がわざわざ俺を呼び止めた理由が分からなかった。
乾は、心なしか神妙な顔をして、
「……一つ、質問してもいい?」
「質問? 別にいいですけど」
乾は一体俺なんかに何を聞きたいんだ?
「どうして、FCをやめたの?」
「?!」
心臓が跳ね上がった気がした。まさかそんな事を聞かれるとは思っていなかった。
真っ直ぐな目が無遠慮に俺を見つめている。思わず視線を逸らす。
「……イリーナさんから、聞いたんですか?」
「うん。日向晶也は、過去にFCの全国大会で何度か優勝している有名な選手だったって」
「……だとしても、もう昔の話ですよ。話せることなんて何も無いです」
「私には……話せないこと?」
「いえ、別にそういうわけじゃないですけど……どうして、俺のそんなこと、聞きたいんですか?」
乾は無表情のまま、口元に手を当て、少し考えて、
「……私は、FCを辞めようかと思っている」
「えっ?!」
思わぬ人からの思わぬ告白に、情けない声が漏れた。
冗談でも全国大会で優勝するほどのトップ選手が言う言葉じゃない。
「……私には後悔していることがあるから」
後悔……?
「夏の大会で、真藤選手と対戦した時、私は正々堂々と戦わなかった」
「……それはもしかして、上をとる戦法のことを言っているんですか?」
乾がこくんと頷いた。
「あの作戦を使わなければ、私は負けていたかもしれない。だから私は負けるのが怖くて、イリーナの期待を裏切るのが怖くて、ずるをした」
無表情な乾にしては珍しく、声が感情によって震えている。
俺は少し考えてから、
「……スポーツをやっている人間なら、誰だって勝利が欲しいし敗北は怖いですよ。確かに、あの作戦は確かにあの時はびっくりしましたし一時は卑怯だとも思いました」
「……そう」
「けど、ルールに則った正式なもので、乾さんとイリーナさんの革新的な戦略です。何より、気づけなかった真藤さんや俺たちが悪い。乾さんが責任を感じる必要はありませんよ」
「うん、ありがとう……」
「ど、どういたしまして……?」
「……でも。私が試合に勝っても、勝負に負けたのは変わらない。……私は、あの試合、真藤一成に負けた」
「そんな事ないですよ」
「……どうしてそう思うの?」
「さっきも言った通り、正式なルールに則った試合でしたから。ちゃんと真正面から戦って乾さんは勝ったんです」
なんで俺は乾を慰めるようなことを口にしているのだろうと思いながら、俺は反論の言葉を口にしていた。
乾はひとつ頷いてから、俺の目を真っ直ぐに見つめて、
「じゃあ……私は次の試合、真藤一成に勝てると思う?」
「えっ?」
「どう?」
聞かれて、少し考える。
上を取る戦略。その強みはスピーダーが確定でファーストブイの一点を取れることにある。その後は、相手の上の位置を常にキープして逃げ続ければ、タッチによる得点はされず、最初の1ポイントの差は埋まらない。つまり乾の勝利が確定する。
スピーダー有利のまさに乾の土俵。その戦略の前では例え真藤さんが相手でも勝機は十分にあると思う。
「勝てる、と思います。少なくとも可能性は高いです」
悔しいけど、そのぐらいにあの作戦を使った乾は圧倒的だ。
だが、乾は俺の言葉を聞いてフルフルと首を振った。
「無理。彼は本当の天才だから。次に試合をしたら、私は勝てない」
「いや、乾さんだって十分天才じゃないですか」
全国大会優勝なんて芸当、天才以外に一体誰ができるのだろうか。
だが、乾は再度首を振って、
「ううん。彼と試合した時にわかった。私は彼ほど才能はない。だから負ける。前はたまたま策を見つけたから勝てたってだけ。次に同じ土俵で戦えば、私は負ける」
策を弄したとはいえ、1度は公式戦で完全勝利しているというのに、乾はとてもかたくなだった。勝てない、才能がないの一点張り。
――それはまるで、過去の自分を見ているようだった。
全国大会で優勝し、トロフィーを片手に自慢げだった俺。
かつての俺は自分が誰よりも才能に溢れていると確信していた。実際、試合では負けなしだったし、自分より学年が上の選手にも何度も勝った。
それでも努力は決して怠らなかった。白瀬さんや先生といった、プロで活躍する選手から熱心に指導を受けてもいた。
だから、あの時の俺は、自分を上回る人間がいるなんてことを全く想定していなかったのだ。
むしろ、自分を超えるものが現れないことに退屈すら感じていた。
だが、その均衡はだんだんと崩れ始めた。
地方大会、シード枠だった俺は毎年大差で勝ち抜いていた。
負けるはず可能性なんて微塵もなく、勝つのが当たり前。重要なのは、どれだけ点差をつけられるか。予選大会は俺にとってそういうゲームだった。
だが、年々点差が付けられなくなっていった。
大会ごとに計測していた最高記録の更新は遥か昔になり、今では手が届かなくなった。
違和感はだんだんと大きくなり、やがて全国大会優勝が当たり前の実力を持っていた俺は、必死で息を切らして僅差で全国大会を優勝する俺になっていた。
かつては微塵も感じていなかった負ける恐怖。
いつの間にか勝つ楽しさは失われ、ただ恐怖から逃れる為だけに必死で練習を重ね、大会を勝ち抜く。
全国大会で連覇を重ねる俺の名は多くの人間に知れ渡り、誰もが俺の勝利を信じて疑わない。
期待が重く、のしかかる。
だがまだ俺は負けてなどいなかった。僅差の試合も多くなったが、勝ち抜き記録が止まることは無かった。
だから、俺は確信していた。
俺は天才だ。天才がこれほどまでに努力しているのだ。負けるなずなどない。あってはならない。天才である俺の努力が報われなかったら、限界まで努力してそれで、勝ちを掴むことが出来なかったら。
俺は、きっと終わりだ。
先生から止められても、俺は決して練習を辞めなかった。
朝から晩まで、限界まで空を飛び、授業中でも常にFCのことを考え、起きている時間の全てをFCに捧げた。
だが、その思いは気まぐれで相手をした素人の少年1人に吹き飛ばされることとなる。
自分の数年の全力の努力をわずか数時間で習得する人間がいる。その事実に、これまで自分を支えていた1本の柱がポッキリと折れたようであった。
そして気づいてしまった。
……そうか。俺は天才じゃない。
例え限界まで努力したっていずれ、こういう真の天才に追い抜かされる。
……なら、俺がしていることになんの意味があるんだ?
1番になれないのなら、今俺がしている練習も大会の試合も、ただの遊びじゃないか。プロになっても、天才の下にいるしかないのなら、それはあまりに惨めじゃないか。
俺が今まで取った栄誉も何もかも、本来なら真の天才であるそいつが持っていたもので、俺はまぐれでそれを手に入れただけの哀れな人間に他ならない。
価値がない? なら、捨ててしまえ。壊してしまえ。
才能がない? なら、諦めるしかない。FCなんてもう二度とやるか。
子供じみた、しかしながら真に迫った覚悟は今も俺の胸に刻まれている。
そして今、目の前にあのころの俺と全く同じ覚悟を持とうとしている人間がいる。
乾は、真藤一成に才能で負かされたのだ。
あのころの俺のように、例え勝つことが出来たとしても、いずれは絶対に勝てなくなることを確信しているのだ。
暫く無言で考え込む俺を、乾はじっと見つめていた。
その目は期待ではなく、失意でもなく。同士を見る目だ。
そうか、乾が俺に声をかけた理由はこういうことだったのか。
俺も乾も同じように、真の才能というやつを見て、柱が折れてしまった人間なのだ。
いや、正確には乾はまだ折れていないのだろう。だが既に折れる寸前だ。
きっと、俺が傷を舐め合うようなことを言えば。乾に俺が思う全てをぶち負けて、そしてそれに乾が共感してしまえば。
俺たちは共に立ち上がれなくなる。FCから永遠に逃げて、夢を追うことをしなくなる。
「……さっきイリーナさんの為に勝つとか、言ってなかったか?」
自然と乾を引き止めるような言葉が口から飛び出た。
俺自身は同じような状況で真っ先に逃げた情けない人間だと言うのに、どの面下げて行っているのだろうか。
「うん。でも、きっと私じゃ叶えられないから。別の道を探す」
「別の道って?」
「それは……分からない。でも、探す」
いつの間にかタメ口になっていた。
乾の要領を得ない答えにイライラが募る。
「乾は、全国大会で優勝したんだぞ? そんな人間のどこに才能が無いって言うんだ? それなら、真藤さん以外は全員才能がないことになるだろ」
「私は、彼と違って、いつも努力を欠かさずFCに全てを捧げて生きてきた。プロの選手も講師もお金を沢山イリーナが使って雇った。限界まで練習してこの程度。才能と過程は比例する。私に才能はない」
「けどさ……」
「それに、それをいうなら、日向晶也だって全国大会で優勝している。それも、1度や2度じゃない」
「あれは……子供の頃の話だよ」
「才能に子供も大人も関係ない」
「……」
否定の言葉はいくつも頭の中に思い浮かぶ。だが口には出せなかった。
「……日向晶也がFCをやめた理由。多分わかった。私と同じ、でしょ。違う?」
「だったら、どうするんだ? 同じ才能に負けた同士で傷でも舐め合うのか?」
皮肉げに口にした俺の言葉。しかし、乾の目は変わらず真っ直ぐだった。
「……協力、しない?」
「は……協力?」
「私は、このまま負け続けるつもりは無い。たとえ負けるとしても最後まで足掻き続ける。それで、次の大会でFCを引退する」
「いや、ちょ。ちょっと待ってくれ」
慌てて両手を突き出して止める。
乾の言葉は俺の想像を超えて、前向きだった。
「乾が真藤さんを倒すために最後まで足掻くって言うのはわかった。けど、なんでそれに俺を誘うんだ?」
「? だって……日向晶也は天才だから」
「さっきから何回も言ってるだろ。子供の頃の話を持ち出すな。俺は天才なんかじゃない。勝手に期待しないでくれ」
「倉科明日香は、夏の大会で真藤一成をあそこまで追い詰めた。それは貴方の指導が良かったから、違う?」
「違う。俺は何もしてない。明日香がエアキックターンを連発したことを言っているのなら、あれは明日香が勝手にやったことだ。彼女の、才能だよ」
「なら、日向晶也には人の才能を開花させる能力があるんじゃないの?」
「勝手に人を天才に仕立てあげようとしないでくれ。俺にそんな能力はない」
「別にどっちでもいい。私はあなたを天才だと思う。だから、コーチを依頼している」
「……俺がもう、久奈浜学園のコーチをしてるのは知ってるだろ?」
「なら、私が久奈浜に転校してFC部に入ればいいの?」
「あー……ややこしいことになるから、それはやめてくれ」
「なら、私はどうしたらいい?」
「それを俺に聞かれてもな……」
俺は頭をガシガシと描いた。
そもそも乾のコーチをやる気はない。
だがそれを真っ正直に伝えても諦めてくれる気がしない。
乾の真っ直ぐな目がそれを物語っている。目は口ほどに物を言うのだ。特に乾は。
「……わかった。コーチをするよ。ほっといたら、本当に転校して来そうだしな」
「本当?」
目を少し見開き、キラキラとした表情を浮かべる乾。
いや、無表情のままではあるのだが、そんな気配がしている。
「ああ。けど、条件がある。俺がコーチをするのは夏休みの1ヶ月間だけだ。それを超えたら転校したりしてもう俺に付きまとわないことを約束してくれ」
「うん。わかった」
本当にわかってるんだろうな、と思いながら再度頭を描く。
なんで俺がここまで期待されているのかは全く持って不明だが、こうなっては致し方ない。
「それで、練習はいつやる?」
「じゃあ……明日。夕方同じくらいの時間にここに集合で」
「いや、もうちょっと早い時間にしよう」
「……いいの? 部活あるんでしょ?」
「暫く休むことにする。俺がいなくなれば、先生がコーチになるだろうから、むしろ明日香にはその方がいいだろうし」
「うん。……ありがと」
乾が少し嬉しそうに笑って頷いた。
別に乾の為じゃなかった。
ただ、さっきの乾との会話で俺はコーチとしてもFCを続ける気を無くし始めていた。
才能がないことに気づいているのに、なんで今更俺はFCにコーチという立場で他人の才能にしがみついて居座っているのだろうか。
乾との1ヶ月が終わったら、俺もFCをやめる。
そのつもりで俺は、乾に返事をしていた。
夏休みまであと3日。
この夏でようやく俺も終わらせられる。
帰路。ひぐらしのなく声が妙に強く耳に残った。
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3話 鳶沢みさきの告白
「退部ってどういうこと?!」
バン、と大きな音を立ててまどかが身を乗り出すように俺の机を叩いた。
「……先生から聞いたのか?」
情報が伝わるのが早すぎだと感心する。打ち明けたのつい今朝のはずなんだけど。
「晶也さん!私のこと、嫌いになってしまったんですか?」
そこへ今にも泣きそうな顔をした明日香が追従した。
「私、何か晶也さんの気に触るようなことをしてしまったんでしょうか……?」
「いや、違う違う」
俺は涙目を浮かべた明日香に、慌ててパタパタと両手を振りながら否定する。
「じゃ何だっていうんですか!みさき先輩に続いて晶也先輩まで!」
胸ぐらを掴みかかって来そうな真白を手で抑えながら、俺は話を切り出した。
「実は、他の選手のコーチをすることになったんだ……」
「「「ええーーーーー!!」」」
途端に甲高い悲鳴をあげる3人。教室の目線が一斉に俺の机に集まった。
「いっ、一体誰のコーチをするというんですか!今まで一緒に頑張ってきた私たちを差し置いて!――ハッ、まさか!」
そう言って机でグースカと寝ているみさきに視線を投げかける真白。
「……いや、違うよ」
「じゃ、じゃあ晶也さんのコーチをする人って一体?」
明日香が文字として見えるぐらい表情に疑問符を浮かべていた。
「乾だよ」
「へっ、乾さんってもしかしてあの……」
「――真藤さんを打ち負かして全国優勝したあの乾さんですか?!」
素っ頓狂な声を上げたまどかの声を遮るように、真白が悲鳴をあげた。
「……そうだよ」
こうなることは言う前から分かっていた。が、実際、明日香たちからしてみたら俺の行為は裏切りにほかならないよな……。
「ごめん、本当にごめん」
頭を下げて謝る。
「ごめんで済むなら警察なんて要らないんですよこの裏切りものーー!」
「そうだそうだーー!」
真白の声に賛同するように声を上げるまどか。
「ほら、明日香先輩も!この裏切りものに何か言ってやってください!しかもよりによって明日香先輩のライバルに寝返るなんて……ぶつぶつ」
「え、ええっと……私は悲しいですけど、晶也さんのことですし、きっと何か大切な理由があるんですよね?」
「あ、ああ……」
俺は曖昧に頷く。信頼の瞳が眩しい。
「なら、分かりました! 晶也さん無しでも、私頑張りますから!!」
「ええい!こうなったら、晶也先輩がいなくなった分も私が張り切っちゃいますよ! この裏切りものに目にもの見せてやりましょう明日香先輩!」
「え? えっと、そうだね、うん頑張ろう真白ちゃん」
「晶也先輩なんてべーーーっだ。ぺっぺっ、近寄らないでくださいこの浮気男!」
「近寄ってないんだけど……」
「……この浮気男ー」
まどかが小声で耳元に囁いてきた。
うるさいと、しっしっと手を振って遠ざける。
――と、始業のチャイムが鳴った。
真白はチャイムに気づいて騒がしくパタパタと焦って教室を出ていった。
「えっと、そのぉー……浮気男?」
「明日香は別に乗らなくていいからな?」
うししと笑うまどかと苦笑する明日香も俺の机を離れて自席へと戻っていく。
思っていた以上に俺の退部は受け入れられていた。
明日香なんかは俺に信頼の眼差しを向けてくれていて少し心苦しいが、皆俺の意思を尊重してくれている。
本当にいい部員たちだ。いい人達に囲まれたなと実感する。
こういった人間の中だからこそ、俺はFCというものにコーチという立場とはいえ、ある程度向き合うことができるようになったのだろう。
ともあれ、それもこの夏で終わりだ。
今の俺には、スポーツより勉強の方が重要だ。俺ももう高校2年の中ほどまで来てしまっている。そろそろ将来のことを考えなければならない。
俺はいつもより集中して、教師の声に耳を傾けた。
やがて修業のチャイムが鳴ると、バタバタと周りが騒がしくなる。
部活に行くため、着替えをするものや、雑談するもの。様々だが、俺も以前はこの輪に加わっていた。
とはいえ、今日は乾との練習がある。少し早いが、練習メニューでも検討しておく時間にしよう。
そう思いながら、荷物を手に取り、教室を出ようとすると、
「ねえ、晶也」
「ん?」
呼び止めたのはみさきだった。
「ちょっと話さない?」
「ああ、別にいいけど……」
みさきに連れられるまま、近くの空き教室に入った。
「ね。晶也も部活辞めるって本当?」
「なんだ、聞いてたのか」
「そりゃ、私の机、晶也の席の隣だもん。あんな大声で話されて聞こえないわけないでしょ?」
「ま、そりゃそうか。まあそうだよ。辞めるというか辞めた」
「どうして?」
みさきはド直球だなと思わず苦笑してしまった。
みさきは少し表情を不快げに歪めて、
「晶也、なに笑ってるの?」
「いや、痛いところを突かれたからさ」
「へえー“痛いところ”なんだ?」
今度は珍しいものを見つけたとでも言うような、嘲笑するような表情。
「まあ、な。俺はまた逃げたんだから」
「逃げたって、FCのこと? 別に乾さんのところに行くなら逃げてないでしょ?」
「違うよ。乾に1ヶ月間教えて、それで俺のFCはお終いにするんだ。ほら。逃げてるだろ?」
「どういう経緯でそうなったのかはあえて聞きませんが〜逃げてるっちゃ逃げてるのかにゃー」
そういって背後の壁に体をだらんともたれさせるみさき。がハッとなにかに気づいた表情をして、
「……というか。つまりそれは、明日香にもうFCを教えるつもりは無いって事?」
「……まあ、そうなるな」
「晶也きゅんも随分ひどい子に育ったもんだねー……」
「自覚はあるけど。でも明日香のためにはその方がいいだろ。先生がコーチをやった方が間違いなく成長できるだろうし」
元々、先生はメンブレンの使い方に関してはプロの中でもトップレベルであり、頂点と言ってもいいくらいの技術力だ。
俺より先生から教わった方がずっと明日香は強くなれる。それは間違いない。
「でも、明日香は晶也に教えて貰いたがってるよ?」
「小ガモが初めて見た成体を親と勘違いするのと同じだよ。明日香に最初にグラシュの使い方を教えたのは俺だったからな。それだけの話だよ」
「私にはそうは見えないけどなー。まあ、いいや」
みさきはそう言葉を切ってから、キュッと姿勢を正して俺に向き直り、
「――ね、晶也。私たち付き合わない?」
「はっ?!」
その後の言葉に俺は激しく動揺してしまう。
「すごい動揺してる……」
「そりゃあ、するだろ普通……。というか、冗談、だろ?」
ふーっと肩を落とす俺にみさきが言う。
「冗談? 違う違う。本気だよ本気」
「はあ? なんでいきなり……」
「だって私たちさ。FCやめたら暇になるじゃない? だったら、折角だし学生らしいことしてみようと思って」
「暇じゃないだろ。俺たちも来年には受験だ」
「私に受験勉強が必要ないの、知ってるでしょ?」
「まあ、な。だが俺には必要ある」
「晶也、将来な夢とかあるの?」
「……いや、特にないな、今のところは」
「なら、それを私と探すってのも一興でしょ? 晶也が言ったように私たち、来年は受験生。何だかんだいって私も学生らしいこと出来なくなっちゃうだろうから。ね、ちょっと試しに付き合ってみようよ」
「……試しにって言われてもな」
「どうしても駄目? 私とは嫌?」
「いや、そう言われるとアレだけど……」
「――やっばり、晶也、押しに弱い」
「え?」
「乾さんのことも、こうやって押されて仕方なく了承したんじゃないの?」
「まあ、それも少しはあるかもしれないな」
「本当にいいの? 明日香を捨てて、乾さんを取るんだよ?」
「明日香は……1人でもやっていける」
「乾さんはやっていけないの? あの真藤さんを倒すくらい強い乾さんが?」
みさきが皮肉げに笑った。
「……何を聞き出そうとしてるんだ?」
「決まってるでしょ。晶也が明日香よりも私よりも乾さんを取る理由」
「帰るぞ」
「だーめ。聞き出すまで帰さない」
出口に移動して、通せんぼされる。
仕方なく、俺は話し出す。
「……乾と俺は似てるんだ」
「似てる? ……晶也と乾さんが?」
「そうだ。俺が昔、FCの選手だったことは知ってるだろ?」
「うん、確か……何回か全国で優勝とかしてるんだっけ?」
「ああ、小学生の頃だけどな。けど、結局のところ俺には才能がなかった。FCを始めたばっかの男の子に1時間ばかしの練習で1点を取られて、俺は初めてそれに気付かされたんだ」
「1点? 1点ぐらいだったらたまたまってのもあるよね?」
「ビギナーズラックって言うんだったか。始めたばかりの人間が急激にコツを掴んで上手くなることがある。今の俺ならそれは理解してる。けど、俺の心はそれでポッキリ折れた。越えられない才能の壁というやつは実在する。今の乾も同じだ」
「乾さんが?」
驚いた顔でみさきが俺を見る。
「ああ。乾は睡眠以外FCに全てを捧げるくらい必死で練習を重ねてきた。けど、真っ当な方法じゃ真藤さんに勝てなかった。だから、あの作戦を編み出したんだよ」
「へー」
みさきは興味無さげにそう答えたが、
「……そっか、乾さんもそうだったんだ」
下を向いて、ぶつぶつと小声で何かをつぶやき、俺の顔を見る。
「だから、私とは付き合えないの?」
「そういう話だったか? 今の俺の話」
「あれ、違うの? じゃああれ、次の新作ポテトチップスの……」
「もういいもういい! ……とにかく、付き合うとか軽々しく言うなよ? もっと自分の体を大切にしろ」
「体って……晶也ったらいきなり過激じゃない?」
「うるさい。俺はもう帰る」
時計見ると結構な時間が経ってしまっていた。
あまり俺自身乗り気じゃ無いとはいえ、初練習で遅刻というのは不味いだろう。
「悪いけど、じゃあな」
そう言って、俺は急ぎ足で校舎を後にした。
【みさき視点】
晶也が去った後。
「あーあ、フラれちゃった……」
私は誰もいない教室で1人ぼやく。
「体を大事にしろよって、晶也以外に言うわけないでしょあんなこと」
「晶也となら付き合うのも割と本気でアリかなと思ってたんだけど。あー……暇だなぁ」
ぐでんと壁によりかかった。
部活も勉強も恋愛も、する事が特筆してない。はっきりいって手持ち無沙汰だ。
「どうしよ、これから……」
美味しいものでも食べに行こうか。久しぶりにうどんを食べよう。そうしよう。
「……」
いや、そんな気分ではなかった。
……ふと、さっきの晶也との会話を思い返す。
真藤さんと乾さんとの試合。それは私にとって余りに衝撃的だった。
本気を出さずとも私に絶対的な力の差を見せつけた真藤さん。私の目標と捉えていた稀代のスカイウォーカーである彼が苦悶の表情を浮かべながら、あっさりと乾さんに破られたのだ。
私がFCを辞める決断をするには十分すぎる理由になる強烈な試合だった。
あの1戦で才能というやつを嫌という程思い知らされたからだ。
だが、あの真藤さんを破った乾さんは、持てる時間全てを使って全力で努力していた。……私とは根本的に違う。
それでも勝てない人がいると知った時、彼女は一体FCという競技に、何を思ったのだろうか。
結果は晶也の様子を見れば分かる。彼女は戦うことを選んだのだ。
さて、私はといえば。暇を持て余し、こうして誰もいない教室で夕日を見て黄昏ている。
「……私は本当にこれでいいのかな?」
晶也は、自分と同じ境遇の乾さんが必死で才能に打ち勝とうとする姿を見て、何を思うだろうか。
なんとなく想像がついた。
私は暮れていく夕陽を見ながら、校庭から聞こえる騒がしいバットの金属音に耳を傾ける。
「みんな、頑張ってるねー」
果たして、その先に何があるのか。
報われない努力に価値はあるのか。時間の無駄ではないのか。
「よしっ」
私は、立ち上がった。
蝉の声が騒がしい。耳をすませばあっちからこっちからうるさくてたまらない。
どこか遠くに行こう。
――そう、あの橙色の空とか、悪くないね。
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4話 覆面選手の正体
集合場所の海岸に近づいていくと、二人分の人影が見えた。
片方は乾で、もう一人は……誰だ。あの綺麗な金色の髪はイリーナさんか?
徐々に高度を落として、俺は地上にいる二人に近づいていく。
イリーナさんは俺に気づくと、ゆっくり歩いて、俺に近づいて、
「こんにちは、日向さん。夏の大会ぶりですね」
「……ええ、どうも。お久しぶりです、イリーナさん」
和やかに挨拶を交わした。
夏の大会でああいう風に反発した手前、俺の方は若干の気まずさがあったが、向こうは特に気にしていない様子だ。それにしても、
俺は乾に視線を向け、なんでイリーナさんがここに?と視線で問いかける。
すると、乾が口を開く前に、察したのかイリーナさんは自分を指さして、
「私がここに来ること、不思議がってるようデスね。なら教えて差し上げマス」
「イリーナ……これからもずっとその話し方する気?」
「……それもそうですね」
片言の日本語を喋っていたイリーナさんが乾の言葉に一呼吸入れて、姿勢を正した。
「改めまして、私がここに来た理由ですが、私も練習に参加させていただきます。といっても私もコーチという役回りにはなりますが」
「……イリーナさん、普通に日本語話せたんですね」
「もちろん。このくらい私にとって朝飯前デース」
「イリーナ……片言でてる」
「おっと申し訳ありません。癖になってますね……」
乾の注意にいそいそと姿勢を正す。
なるほど。こっちが素のイリーナさんということか。若干佐藤院さんぽい口調だな。まあこっちは本物のお嬢様みたいだけど。
「……日本人はああいうのが好きとお聞きしていたので模倣していたのですが、違いました?」
「え? まあ、好きだって人は聞いたことがないですね……」
そりゃ、日本のどこかには居るだろうけど、多数派ではないと思う。
俺の言葉を聞いて、びっくり!という顔をして固まるイリーナさん。
……むしろ、イリーナさんはその情報をどこから手に入れたんだろうか?
イリーナさんは気を取り直したようにこほんと1つ咳払いをして、
「まあ、そういう訳で。私とも今後ともよろしくしてくださいね、日向さん」
ニコッという擬音が聞こえそうな表情。不気味なくらいににこやかだ。
「あの……俺はイリーナさんの役を奪う形となってしまったわけですが……」
当然ながら、俺がイリーナさんの代わりに大部分をコーチすることになる。乾のセコンドも俺がやる予定だ。その事にイリーナさんが何も思わないはずはないだろう。イリーナさんは乾とずっと2人で頑張ってきたわけだし。正直、少しギクシャクしそうだと思っている。
イリーナさんは少し笑みを浮かべて頷いて、
「その件については私も納得しています。沙希から日向さんにコーチをお願いしたという話とその経緯を聞いて、私も沙希の意見を尊重することを決めました」
「……それは、良かったです」
その割には、イリーナさんの目は全く納得などしてないように見えるのは気のせいなのだろうか。
「……でも、沙希から話を聞いた時には、まさか日向さんが沙希のコーチを了承して頂けるとは思っていませんでした」
「まあ、成り行きですけどね。けど、やるからにはベストを尽くしますよ」
「そうですか、心強いですね。期待しています」
イリーナさんはそう言うと、いつの間にか後ろに控えていた黒服の男に何やら指示を出した。
男は俺の前に大きな箱を持ってきて、箱を開くと俺に差し出してくる。
「え、なんですか?」
覗き込むと、MIZUNO 飛燕 という文字がうっすらと見える。
「確か……日向さんはオールラウンダーですよね? そして、愛用していたグラシュはMIZUNOの飛燕タイプ。今回は私たちの方で最新型を用意させていただきました。勿論、サイズも日向さんに合わせてあります」
「え、競技用のグラシュを用意していただけたんですか? でも、俺は選手をするつもりはありませんよ?」
「ええ、でも何かの時に必要になるかもしれないじゃないですか? 日向さんには万全の体制で沙希のコーチをして頂かなくてはなりませんし」
「それはそうかもしれませんが。いや、でも……」
「サイズはオーダーメイドですから今更返品なんて出来ませんので……それは使う使わないは別として日向さんが貰ってください」
このグラシュ……明日香が使ってるのと同じタイプだけど、最新型のしかも最上位グレードだ。プロも使っているもの。これ、確か外車が変えるぐらいの値段がするんだぞ……。
いや……それ以前に俺の靴のサイズなんていつの間に調べたんだ。
「分かりました……。有難く頂きます」
感謝して箱を受け取る。ずっしりと重い。
「ええ、それともう1つ。こっちは私共が開発し、沙希が使っているアグラヴェインのグラシュです。日向さんに合わせてオールラウンダータイプにしています」
「ええ……? これも貰っていいんですか……?」
乾が使っている聞いたことがないメーカーのグラシュか。まさか自主開発のものだったとは驚きだ。
「履き比べて、どちらでもお好きな方を選んでくださいね。この2つ以外でも欲しいものがあれば、私が用意しますので」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
いたせり尽くせりだ。
と、いうか。海岸には乾とイリーナの2人しか居ないし、さっきの黒服の人はいつの間にか居なくなってるし。
もしかして、俺に乾の練習相手をしろと言外に言っているのだろうか。
と、思っていたら。
「やあ」
遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。
蒼のコントレイルを引きながらやってくるその人物は。
「謎の覆面選手?!」
けど、夏の大会の時とは体格が全然大きくなっているし、声もやはり聞き覚えがある。
謎の覆面選手は俺たちのそばに着地すると、途端に項垂れて、
「いやあ、試しに着けてみたんだけど、これ夏場だと暑いね。ダメだ、お兄さん、これ着けたままFCなんかやったら死んじゃうよ……」
そう言って、かぽっと頭を外す覆面選手。中から出てきたのは。
「白瀬さんじゃないですか?!」
「こんにちは、日向くん。それにイリーナくんも乾くんも、こんにちは」
そうにこやかに挨拶する白瀬さんはキッチリとフライングスーツを着込み、競技用のグラシュを履いている。
この人のこんな姿、久しぶりに見たかもしれない。
「一体どうしてここに?」
「私が呼んだんですよ。沙希の練習相手をして頂きたいと思いまして」
イリーナさんが前に出て説明する。
「……白瀬さん、自分はスポーツ店の店主だからどこかの選手や学校には肩入れしないって言ってませんでしたっけ?」
「い、言ったかなあそんなこと? 気のせいじゃないかなあ……あはは」
怪しい。まさか、覆面をつけてきたのも、自分の姿を隠すためとかだったんじゃ。
「そ、そんな目を向けられても僕は知らないよ。 断じて、売上がちょっと不味くて店が存続の危機だから、大金に目がくらんで仕方なく……とかそんなんじゃないよ?」
いや、全部自分から言ってるし。というか、そんな火の車だったのかあの店。
確かに客なんて滅多に来ないとかボヤいてたけど。
「そんなわけで!乾くんの練習相手兼コーチの白瀬隼人です。改めてよろしく」
ぱちぱちと乾とイリーナさんのまばらな拍手が響いた。
白瀬さんは元プロのFC選手。現役を引退してから何年かは経つが、それでも元は世界でも最高峰のスカイウォーカーだ。
練習相手としては申し分ない。これなら俺の出る幕は無さそうだ。少しほっと一安心だった。
「それにしても、コーチが3人もいるんですが……」
俺が怪訝な視線を向けると、イリーナさんは胸を張って、
「人手は多ければ多いほど良いデース。幸い、お金なら使い切れないほどありますし」
「イリーナ……」
乾がイリーナさんを避難するような目で見ている。
度々指摘してるけど、そんなに嫌いなのだろうか、イリーナさんの片言日本語。
イリーナさんはこほんと咳払いをしてから、
「取り敢えず、時間は有限です。早速練習を始めましょう。日向さん、練習メニューは考えてきましたか?」
「ええ、大体は。でも白瀬さんが入るとなると、少し変更を加えた方がいいかもしれないですね」
「分かりました。では10分程度時間を取りますので、その後で練習を始めましょう。沙希はウォーミングアップでもしておきなさい」
「うん」
パンとイリーナさんが手を叩いて、各自解散という流れになる。
「にしても、どうしようかな……?」
紙に起こした練習メニューを見てじっくり悩む俺に、白瀬さんが近づいてきた。
「驚いたよ。まさか日向くんがこっちに付くなんてね」
「俺の方こそびっくりしました。白瀬さん、何やってるんですか……」
「いやあ、お店が苦しいというのは事実でね。FCを仕事にしたいと思って店を始めたけど、やっぱり現実は厳しいよ」
「あの覆面って、謎の覆面選手のものですよね? もしかして、お知り合いなんです?」
「い、いや僕は知らない。全然知らないよ、うん」
怪しい……。というか白瀬さんは反応がわかり易すぎじゃなかろうか。
「まあそれはそれとして、練習メニューの相談に乗って貰えませんか?」
「おっやる気だね、日向くん。いいの、明日香ちゃんのことは? 葵に任せたって聞いたけど」
「ええ、先生の方が明日香の指導は合ってると思います。俺のFCは堅実で、天才向きじゃありませんから」
「天才向きじゃない、ね。じゃ、乾くんには合ってるってこと?」
「いや、そういう訳じゃありませんが。乾は、俺のことを天才だって勘違いしてるみたいなので断りきれなくて」
「……天才の定義とやらが僕にはわからないけどね」
「俺にも分かりません。でも、俺は違いますよ」
「ふぅん……」
白瀬さんは何かを考えるような仕草で軽く流して、
「で、練習メニューの話だけどさ」
「はい。今のところ、乾には白瀬さんを上の位置から完璧に抑える練習から始めたいと思っています。それで……」
うんうんと聞いていく白瀬さんが途中で口を挟む、
「日向くんは参加しないの?」
「えっ? いや、俺はコーチですから……」
「グラシュ買ってもらったんでしょ? ちょっとぐらいやろうよ」
「いや、出来ませんよ俺には」
「日向くんはさ、このままでいいの?」
「このまま、とは?」
「乾くんやイリーナくんから大体の事情は聞いたけど、君たちは才能に打ち勝とうとしてるって聞いたよ。それは日向くんも他人事じゃないだろう?」
「それは、そうかもしれないですけど」
「お節介なようだけど、このまま君からFCを遠ざけたままにはしておきたくないんだ。日向くんが今こうしている原因は僕の責任でもあるからね」
「それは違いますよ。白瀬さんは関係ないです」
白瀬さんはいやいやと首を振る。
「正直、今回こうやって僕がイリーナくんの誘いを受けたのには、君の復帰を願ってって部分もあるんだ。だから、FCをまた選手として始めて見ないか? 僕も目いっぱいサポートするからさ」
「はい……検討しておきます」
「うん」
白瀬さんはひとつ頷くと、立ち上がり、去ろうとする。
「あ、あの。俺の練習メニューはどうでしたか?」
「……うーん。やっぱりそれは君が考えるべきだよ。乾くんの為に君が何を成すべきなのか、それは僕より君のほうがよくわかると思うんだ」
「……そうですか? 分かりました。ありがとうございます」
よく分からないけど、コーチといっても練習メニュー作成までは関わらないって事なのだろうか。
なら、俺なりのベストな練習メニューを考えてみよう。
数分後、ある程度の練習メニューが固まってきた俺は3人に説明する。
それを聞く乾はこくこくと無表情に頷いていた。
「あ、それと。お互いこれからは下の名前で呼びあおう」
「……ん、いいけど。なんで?」
「これは久奈浜の時にも言ったんだけど、コーチと選手で変な遠慮とか作りたくないからな。だから名前呼びにしてる」
「うん、わかった……晶也」
「あら、日向さん。私のこともイリーナって呼び捨てで良いですよ?」
「僕のことも、隼人って呼んでくれて良いんだよ?」
にこやかな顔で言ってくる2人、なぜか強い圧を感じる。
「い、いえ。遠慮しておきます……」
イリーナさんは、うちの沙希に馴れ馴れしくするなとか思ってそうだ。
白瀬さんは……わからない。けど、なんか思惑がありそうで怖いので呼びたくない。
「先程言った通り、まずは白瀬さんと沙希には、セコンド抜きで試合をしてもらいます」
「……それは、どうして?」
沙希が小さく首を傾げる。
「実際の試合ではセコンドの指示抜きで瞬発的に行動しなければならない場合も多いので、まずは沙希の無意識でやってる行動の傾向を知りたいと思いまして。その中でダメな部分は治して、伸ばせる部分を発見しようと思います」
「了解。僕は普通に試合すればいいの?」
「はい。白瀬さんには沙希と自由に戦ってもらって大丈夫です。それを見て沙希の弱点と思える箇所をリストアップしますので」
「あはは。僕もFCを選手としてやるのは久しぶりだから、あんまり期待しないでね」
「……楽しみ」
少し戦いている白瀬さんに珍しくワクワクとした表情の沙希がこくりと頷く。
「日向さん、私がプロの講師と纏めた沙希についての書類がこちらですので。参考にしてください」
「あ、ありがとうございますイリーナさん」
俺がイリーナに解説してもらいながら書類に目を通していく中、白瀬さんと沙希が空中に上がり、それぞれウォーミングアップを始めた。
全国大会優勝選手の沙希と、かつてプロのFC選手として最高峰の実力を誇っていた白瀬さん。
コーチとしてだけでなく、一人間としてもかなり興味がある。
俺も心無しか、少し楽しみに思い、自然と笑みが浮かんでいた。
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5話 乾沙希VS白瀬隼人
試合開始を告げるホーンの音が鳴り、白瀬さんと沙希の練習試合が始まった。今回は互いにセコンド無しの様子見の試合だ。
白瀬さんは現役時代、生粋のファイターだった。それもフェイントの上手さと正確さで世界最高峰まで登りつめた選手だ。
同時にスタートした二人。まずは定石通りに白瀬さんがセカンドラインにショートカット。沙希がファーストブイにタッチ。
白瀬さんは何故か位置の高低を特に気にせず、ライン上のブイと同じくらいの低位置でサークルを描いて待機している。
当然、ハイヨーヨーで上の位置を確保する沙希。迎え撃つ白瀬さん。セカンドラインでの上の位置の攻防が始まった。
俺は思わず息を飲む。
「……」
白瀬さんの傍目から見て判断がつかない巧妙なフェイントを、上の位置から沙希は冷静に判断し、上手く押さえ込んでいる。
「凄いですね、沙希……白瀬さん相手に」
イリーナが満足気に頷く。
「沙希は厳しい練習でプロの選手相手に完璧に上を抑えるだけの能力を手に入れましたから。とはいえ……」
相手は、フェイントの名手、白瀬さんである。
気がつけば、海面に追い詰められていたはずの白瀬さんがジリジリと乾を押し上げ、セカンドブイ方向に誘導している。
刹那の隙を作り出した白瀬さんが沙希の包囲を抜け、一目散にセカンドブイにタッチした。
白瀬さんはファイターだが、スピーダー相手にテクニカルな得点。
大会でも見た事のない珍しい抜き方だ。
そのままセカンドブイの反動を利用してサードラインを飛行する白瀬さんを、沙希が同じようにブイに触れて加速してから、追う。
ブイにタッチするため、ローヨーヨーで高度を落とした沙希と互い違いに入れ替わるように白瀬さんがハイヨーヨー。いつの間にか沙希より上の位置をキープしていた。
「っ?!」
沙希がすぐに気づいて即座にハイヨーヨー。上を取り返そうと勢いをつけた沙希が白瀬さんに向かってグングン距離を縮めていく。
上の位置を取っているとはいえ、このままでは白瀬さんは追い抜かれてサードブイまで沙希に逃げられてしまう。
プロ選手であった白瀬さんはこういう時一体どう対処するのか。目を見張る。
――と、そこで白瀬さんが後方の沙希に向かってエアキックターンを使った。
「えっ?!」
思わず大声を上げてしまった。
当然ながら、白瀬さんの咄嗟の行動にすぐ後ろを飛んでいた沙希は避けられず、真正面から激突してしまう。
バチンと大きな音が立った。双方が大きく空中で回転する。
白瀬さんも沙希も持ち前のバランス力で脅威の速さで体勢を立て直したが、白瀬さんの方が僅かに速かった。それに未だ上の位置をキープし続けている。
白瀬さんが沙希に瞬時に手を伸ばしてタッチしようとする。
「ッ!」
スピーダーの初速は遅く、自身が逃げられないことが分かっている沙希は身体を不規則にきりもみ回転させながら白瀬さんから逃げようとする。が、白瀬さんはフェイントに騙されず、その指は冷静に沙希の左足首を捉えていた。
バチッと先程より軽い音。
バランスをほとんど崩していない白瀬さんと、完全に反転して頭を下に空中でもがいている沙希。決定的な隙だった。
白瀬さんは必死で背中を隠そうとする沙希の周囲を旋回しながら冷静に手を伸ばす。そしてタッチ。
バチン――と背中を押された反動で沙希が海面方向に押し出された。
同じく反動を受ける白瀬さんは器用にバランスを保ったまま上へ。
1-1。まだ同点だがこれで沙希はファーストブイでのリードを無くしてしまった。
白瀬さんは冷静に沙希の体勢の崩れ具合を見てから、深追いせずに颯爽とサードブイへ向かう。
体勢を立て直した沙希がいち早くそれを追った。
これなら、距離的に白瀬さんがサードブイに到達するまでに十分追いつけるはずだ。
だが、白瀬さんのエアキックターンを警戒しているのか沙希が位置取りに苦戦している。
上下左右に細かなフェイントを何回も入れて牽制する白瀬さん。焦れた沙希がローヨーヨーで追い抜かそうとすれば、白瀬さんも合わせて下がって距離をキープ。追い抜かそうとする沙希を背後に押しとどめようとしている。
この状態でまたさっきのように激突すれば、沙希はセカンドブイ方向に押し戻されてしまうので無理に距離を詰められない。
スピーダーとファイター。本来のスピードは沙希の圧勝の筈なのに、白瀬さんの技術がそれを許さない。完璧な位置取りとフェイント技術だ。
セコンドも無しにどうやって背後の様子を把握しているのだろうかと疑問に思う。目が頭の後ろにもう一つあるんじゃないかと本気で疑う。
打つ手なしと判断した沙希が、悔しげな表情でフォースラインにショートカットした。それを確認した白瀬さんは悠々とサードブイにタッチ。1-2。これで白瀬さんが逆転した形になる。
真藤さんを苦しめた沙希のあの上の位置取りを大技もなしにフェイント技術とバランス能力だけで完全攻略している。
これが、明日香と俺が考えていた沙希を破るための方法その1、強いファイターになること、正にその一つの成功例だった。
ブイにタッチしたファイターをショートカットしたスピーダーが待つ異様な展開。……見たことないぞ、こんな試合。
沙希はフォースブイのすぐ近くでサークルを描くように飛び、速度を保ったまま上の位置をキープ。そして、向かってくる白瀬さんの少し前の位置に飛び込み並走するように飛ぶ。
そして沙希は左右にジグザグに飛行する技――シザーズを行った。
自分はスピードを落とさずにわざと白瀬さんを追い越させてブイ得点権を獲得した後、すぐにスピーダーの速度で追い越し、そのまま距離を離して逃げるつもりだ。
白瀬さんは一体どうするんだ?と思い見ていると、
「……」
白瀬さんは沙希を追い越す前に急停止。その場に体を起こして立ち止まってしまう。
「……えっ」
沙希が驚嘆の声を上げた。
ショートカットしてから白瀬さんに一度も抜かされていない沙希は、得点権が無い為、フォースブイにタッチしても得点が入らない。
これでは沙希は反転して自ら待ち構える白瀬さんに近づくしかない。
いくら初速が最高速と殆ど変わらないファイターだからデメリットが無いとはいえ、あまりに卑怯な手だ。
だが、ルール違反ではない。ブイの直前で待ち構えたり、試合中で急停止するのはマナーとしてはあまり宜しくない事だが、ルールとしては禁止されていないのだ。
更に、常識の範囲内であれば、警告どころか注意すら受けない。つまりは1,2点のリードを奪う目的であればルール内で十分、戦略として使用可能だということだ。
まあ、そもそもスピーダーがショートカットする展開というのが極めて稀だからルール化されていないのだろうけど。
――それからも、そんな調子で白瀬さんが主導権を握る試合が続いた。
そうして、試合終了のホーンの音がなった時、白瀬さんと沙希の得点は5-3。白瀬さんの勝利にて幕を閉じた。
「いやー僕が選手として試合するのは随分と久しぶりだけど、やっぱり体はなまってるもんだね。あはは」
「むー……」
ご機嫌そうににこやかに話す白瀬さんに、沙希が恨めしげな目を向ける。
さっきの試合は点差はさほど付かないものの、白瀬さんの圧勝だった。
沙希が強くなる方法どころか、沙希の倒し方すら明確に検討がついていなかった俺だったが、白瀬さんには存分にそれを見せつけられた。そんな試合展開だった。
白瀬さんはあれでも全然本気を出していない。
俺の目的通り、沙希がどんな方向に弱いかとか、そういうのを確かめながら弱点を的確について行く。そんな指導の為の試合だった。
白瀬さんは大きな口を開けて笑って、
「次は日向くんが相手をするかい? 僕は構わないよ」
「だから、やりませんって」
「あっはっは!」
まるで酒でも飲んだかのように陽気だ。飲んでないのに。
グラシュはアルコール厳禁なので、警察に見つかったら職質されそうだ。
「それにしても、これで沙希の弱点が見えてきましたね」
イリーナさんが真面目なトーンで話を切り出す。
「うん。沙希ちゃんは意外とプレッシャーをかけられることに弱いね」
いつの間にか馴れ馴れしい呼び方になっていた。だが、それより。
「沙希がプレッシャーに弱い……?」
「あら、気づかなかったのですか?」
イリーナさんが心做しか小馬鹿にするような笑みで言う。
「すみません。俺には沙希が合理的な判断を適切にしているようにしか見えなかったので」
白瀬さんは俺をピッと指さして、
「そう!それだよ。 沙希ちゃんは合理的過ぎるんだ」
「……。 それの何が悪いんですか?」
「?」
沙希と二人して首を傾げる。白瀬さんはその様子を見て少し笑って、
「つまりは次の行動が予測しやすいんだよ。沙希ちゃんは」
そうか、そういう事か。
「例えば、最初に沙希が上の位置を取った時に白瀬さんがエアキックターンで奪い返す展開がありましたよね」
「ええ、覚えてます」
「ここで意表を突かれたのは仕方ないですが、この後、再度のエアキックターンを警戒した沙希には白瀬さんから上を奪う選択肢が殆どありませんでした。つまり、白瀬さんはこのエアキックターンの牽制さえしていれば、問題なくサードブイにタッチできたのです」
イリーナさんがわかりやすく解説してくれる。
「……すみませんでした。コーチなのに、何も理解出来てませんでした」
イリーナさんの代わりとしてセコンドまでやるつもりなのに、俺がこれでは情けなさすぎる。俺は項垂れるように頭を下げた。
「いえ、沙希には案外その方がいいかもしれませんね」
「え?」
「沙希と同じ立場から物事を考えてあげられる人間でなければ、実際の試合で咄嗟に行動する沙希の弱点なんて分かりませんから」
「……いえ、そんなことないですよ。情けないです」
イリーナさんが慰めの言葉をかけてくれるなんて意外だった。もっと強く非難されるかと思っていた。
が、今回の件は完全に俺のミスだ。コーチとして、決してしては行けないミスをした。
やっぱり、長い間FCから離れて、選手として勝とうという気持ちすらなくFCに居座る人間に、本当の力で日本一を目指している沙希を教えることなんてできないんじゃないだろうか。
その時、項垂れる俺の裾がちょいちょいと引かれる。
見ると、沙希が物言いたげに俺を見ていた。
「……なんだ?」
「ちょっと、こっち来て」
「? ああ……」
沙希に連れられるまま、イリーナさんと白瀬さんから離れて海岸の隅まで移動する。
いつの間にか日は暮れて、星がポツポツと見え始めている。
そこで沙希は向き直って口を開いた。
「私は、FCが好き。空を飛ぶのが好き。風を切る感覚が好き。星空を飛ぶ時の景色が好き。FCの全部が好き。……晶也は?」
その質問にドキッとする。好き、俺がFCが好きか……。
「俺は……どうだろうな……」
俺はFCを好きとか嫌いとか、そういう単純な言葉で表せるものじゃないように思っている。
好きな部分もあれば、血反吐を吐くほど嫌いな部分もある。一長一短だ。
「けど、多分嫌いじゃないよ。……好きな所の方が多いんだろうと思う」
本当にFCが嫌いならコーチなんてやらないだろう。多分、是が非でも断っている。
だから、きっと俺はFCが好きなのだ。まあ相対的に見ればだけど。
「なら、1つお願いしてもいい?」
「ん? あ、ああ構わないよ」
「じゃあ、もっと本気で私にFCを教えて。私には、今の晶也は全然本気に見えない。私は、もっと死ぬ気でFCをやりたい。そして、勝ちたいの」
「ッ?!」
……そうだ。確かに、俺は全然本気なんかじゃない。
きっと惰性で沙希に教えていただけだ。
久奈浜で明日香に教えていた時もそうだ。明日香はあんなにも一生懸命だったのに……俺だけは全然いつも通りで練習メニューを考えて、見てわかるダメなところを指摘して。……そんなことしかしていない。
結局俺は、コーチとして他人事のように考えて教えている。慕ってくれているあいつらに甘えている。
もっと本気でやっていれば、夏の大会も違う結果があったかもしれない。自惚れかもしれないけど、より良い何かはあったはずなのだ。
「……ごめん、そうだよな。俺、全然必死じゃなかったよな……」
「うん。明日は頑張ろ。私も……頑張る」
今日の白瀬さんとの試合のことを思い返しているのだろうか。
沙希はぎゅっと瞼を瞑って、小さくガッツポーズをしている。
……沙希の為に俺に出来ること。それはなんだろう。考える。
もっとプロの試合を見て、戦略を学ぶか?
違う、それはもう既にイリーナさんがやってる。
技術とか経験を学ぶ?
それだって白瀬さんがいる。俺だけができる事じゃない。
じゃあ、俺に出来ることっていったい?
ふと、さっきのイリーナさんの言葉が思い浮かんだ。
沙希と同じ視点から物事を考えてあげられる人間が必要。
なら、俺に出来ることって。きっと、これしかないのだ。
俺の他には誰にも代換えの聞かない。沙希を本気で勝たせるための方法。その一つの方法として。
俺はスマホを取り出して、電話帳を開いた。
そして、連絡先の中から、『真藤部長』と書かれたダイアルを呼び出す。
何回かコールがあった後に驚きながらも嬉しそうな声が応答した。
まず、夜遅くの電話を謝罪した俺に、真藤さんは日向くんならいつでも構わないよと言ってくれた。
そして本題に入る。
「――真藤さん、もし良かったら俺の練習相手をしてくれませんか?」
「俺にFCを教えてください」
……想像力が足りない。。。
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6話 日向晶也の復帰
フライングスーツを着るのは何年ぶりだったか。確か、競技用のグラシュを履いたのも、あの海岸での出来事が最後だったはずだ。
沙希との会話の後、現地解散となり帰宅した俺は、イリーナさんから渡されたグラシュを開封していた。
包み紙を解くと目に入ったのは、長い時が過ぎて何回かの型代わりがあっても、見た目はさほど変わっていないグラシュ。強い懐かしさを感じる。
俺はなんとも言えない気持ちでそれを手に取った。
「Fly」
久しぶりの競技用グラシュは、ぐらぐらとバランス感覚がシビアで、真っ直ぐ飛ぶのにも苦労した。
服装は学校のジャージという非常に簡素なものだが、実は飛行に殆ど影響がない。
グラシュは飛行中、メンブレンの膜に体全体を覆われているため、空気抵抗は変わらないからだ。
……まあ、フライングスーツを着ないと安全性の面で大会には出られないけど。今は持ってないので仕方がなかった。古いものは当然 とっくに捨ててしまったし。
集合場所の人気のない谷に着くと、既に紫のフライングスーツに試合用のグラシュの完全装備の真藤さんが空中で腕を組んで立っていた。
「やあ、日向くん」
片手を挙げて爽やかに挨拶する真藤さん。
その目はいつもみたいな優しく穏やかな目ではなく、試合中のような猛獣を思わせるぎらついた目をしていた。
あの後、電話での俺の誘いに、真藤さんは二つ返事でOKを出してくれた。
FCの推薦で大学に入学するから受験勉強とかは必要ないみたいだけど、真藤さんも忙しいだろうに、本当に感謝でしかない。
「すみません、真藤さん。こんな夜分遅くに呼び出してしまって」
「いや、僕は気にしないよ。夕方は別の用事があるんだろう?日向くんがFCをもう一度始めてくれる、なんて理由なら僕はいつだって君の元へ向かうさ」
「あはは……ありがとうございます」
不気味な笑みを浮かべる真藤さんに俺は苦笑しながら頭を下げる。そういえば、この人はそういう人だった。
真藤さんは腕を組み直して俺をじっと見て、
「それにしても……どんな心境の変化があったんだい? 僕はとても嬉しいけど、まさか本当に日向くんがFCに復帰してくれるとは……なんて聞くのは野暮だよね?」
「いえ、全然大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
俺は真藤さんに向き直って、
「今、俺は乾沙希のコーチをしています。その中で俺にFC選手としての知識や経験が足りないことは勿論、何より覚悟が足りないことがわかりました。才能を打ち負かす情熱を知らないままの俺じゃ、選手としての沙希に本気で寄り添って指導してあげられません」
「うーん……だから日向くんが実際に選手の立場で僕と試合して乾くんに指導する、ということかな?……つまり日向くんは乾くんのために試合するわけだ」
真藤さんが複雑そうな顔を浮かべた。
それに俺はキッパリと否定する。
「確かにそれもありますが、全部が全部沙希のためじゃないです。一番は俺のためですから」
「うん?どういうことかな?」
「沙希を見て、俺も本気でFCがしたいと思いました。俺は沙希のコーチですが、同時にライバルだと思っています。時間はあまりありませんが、
それでも次の大会は本気で優勝を狙って練習するつもりです。明日香も……沙希も倒したいと思っています」
「そのことは、乾くんに伝えるの?」
「いえ、今のところは真藤さんにしか明かす気は無いです。大会当日まで誰にも伝えません」
「……本気で、FCをするつもりなんだね?」
「はい。そのつもりです!」
真藤さんは真剣な表情で俺に一つ頷いて、
「日向くんの覚悟はよくわかった。僕も出来る限り、力にさせてもらうよ」
「すみません。こんなわがまま聞いて貰って……」
真藤さんはいやいやと首を振る。
「本当はうちの部員にも、他の誰にも、FCを教えるつもりはなかったんだけどね……」
真藤さんはそこで言葉を切って、
「言っただろう? 僕は本気になった日向昌也とずっと試合がしたかったんだ。日向くんは僕にとって神様の一人だからね」
「今の俺は、ご期待に添えるような実力じゃありませんよ?」
「ブランクがあるのは仕方がない。それより、これから本当の日向昌也を見せてくれるんだろう?」
「もちろんです。次の大会は誰にも絶対に負けられませんから」
「わかった。そういうことなら、僕もベストを尽くそう……」
真藤さんが俺に向けて手を差し出す。
俺はゆっくりとその手を握り、握手を交わす。
日本最高のスカイウォーカーと呼ばれる男の手は、女性の手のような綺麗な外見と違って想像以上に無骨な感触で……長年の努力の跡に溢れていた。
俺がFCを放棄して、毒にも薬にもならないことをしている中、この人は決死の努力を重ね続けていたのだ。
今から始める俺が、真藤さんや沙希に追いつけるとは、とてもじゃないが思えない。けど、諦めるつもりはなかった。
全力で、本気で努力して。俺は限界まで強くなる。
沙希のためだけじゃなく、何より自分のために――。
こうして、夜は真藤さんとの秘密の練習が始まった。
久しぶりに競技用グラシュで飛んだ空は想像以上の速さで、少し恐怖を感じた。
久しぶりに自分で引いた蒼色のコントレイルは、想像以上に綺麗で夜の星空に映えた。
こんな事すら知らずにコーチをしていたことに、愕然とする。
……そりゃ、FCを舐めてるよな。沙希に指摘されて当然だ。
今まで俺はコーチとしての役割を何も果たして来なかったのだと気づく。俺はコーチごっこをして遊んでいただけだ。
だから。ここから、また1から。俺は反省して新たに始めるのだ。
今度は本気になって、FCに取り組む。
時間の許す限り、FCのことを考え続ける。
沙希のためにも。
俺のこれからの人生を、あの過去と決別させるためにも……。
翌朝。起きると俺の身体は筋肉痛でバキバキだった。
日常生活すら満足にこなせる気がしない。明らかなハードワークだ。
「練習やりすぎた……」
前に高藤学園で真藤さんとみさきが練習試合をした時を思い出した。あの頃から薄々感ずいてはいたが……やっぱり真藤さんは間違いなくドSだ。
数年ぶりで思うように身体を動かせない俺に、これでもかと言うほどの鞭を浴びせかけてきた。今思い出しても身震いがする。
……だが、ここまでやらないときっと俺は明日香にも沙希にも絶対に勝てない。いや、ここまでやっても勝てるかわからない。
真藤さんは、他の人間にあそこまで苛烈にFCを教えられるのだ。きっと自分にはもっと厳しい規律を強いている。
真藤さんが天才たる所以はきっとそこにあるのだ。なら、俺も決死の覚悟で着いていくしかない。
俺はパンと両手で頬を叩いて気合を入れると、痛む体を必死の形相で起こして、通学用のバッグを持ち、呻きながら学校へと向かった。
始業まであと少しの時間。自分の机に着くと、
「昌也さん!」
ドンと明日香が机に手を乗せて身を乗り出すように聞いてきた。
「乾さんのFCはどうでしたか?!」
そのあまりの気迫に、俺は思わず咄嗟に椅子と身体を後方に引いた。明日香から逃れるように軽くのけ反って。しかし、明日香は止まらない。
「いっ乾さんとどういう練習をしましたか!」
「乾さんが強い確たる理由が私は知りたいんです!ね、昌也さん! 乾さんは一体どんな凄いテクニックを使ってましたか!!私にも教えてください!!晶也さん!!!」
「い、いや、それは、その……」
ドンドンと顔を近づけ、キラキラした目で聞いてくる明日香に……俺はなんというか、気圧されて何も言えなくなった。
「明日香~その辺にしときなよ」
困り果てる俺にそこでみさきが口を挟んできた。
みさきが助け舟を出すなんて意外だ。
「昌也が何も教えてくれないのなんて分かりきってたことじゃない。裏切り者の晶也のことだし、きっと理由を聞いても、明日香を負かせるための甘言しか言わないよ?」
俺は少しむっとした。
俺たちがそんな卑怯な手で勝って何が嬉しいというのだろうか。
みさきの冗談なのだろうが思わず否定の言葉が口から零れ落ちてしまった。
「――いや沙希は……」
「「「沙希?!」」」
しかし、俺がその先を続ける前に、3人の大きな声が教室内に響いた。
いつの間にかまどかも混ざって驚いている。
みさきはわざとらしくしなを作りながら、
「ちょっと~昌也ったらもう乾さんともうそこまで進んじゃったの~?」
「不潔!不潔だよ、日向くん!」
「昌也さん??乾さんと昨日一体なにをしたんですか……?」
「い、いや、違……これは、お前らの時と同じだろ?コーチとしての円滑なコミュニケーションのために名前呼びにしてるだけだよ」
「へぇー…ほぉー…なんか怪しいなぁー。まどかもそう思わない?」
まどかは即答した。
「思います!」
「思うな!そんな事実はない!」
みさきとまどかにキッパリとツッコミを入れる。
朝のホームルームが始まるまで、この騒がしさは続いた。
そして、何となく授業に集中出来ない気持ちのまま、日が暮れ始め、帰りのホームルームが始まった。
「明日から夏休みだからなー!気を引き締めろよー!じゃ、さよなら!」
教師の合図とともに一斉に生徒たちが下校を始める。俺もカバンに教科書類を詰め、帰る支度をする。
今年の夏は朝から晩までFCずくしになりそうだ。真藤さんとの練習のことを考えると、これまでで一番過酷な夏になる。
俺は戦々恐々としながらも、しかし、少し楽しみでもあった。
俺がリュックを手に取り、教室の出口に向かおうとすると、みさきが珍しく明日香に話しかけていた。どうやら一緒に帰るらしい。
って、ん? 明日香は今日はFCの部活があるはずだよな?
「みさきちゃんとの試合、久しぶりです!楽しみです!」
「そんな期待されてもなー。あー私FC辞めて、ブランクあるしぃ~」
当てつけのように俺を見てくるみさき。
そっか。良かった。復帰したのか。やっぱりみさきは強いな。
……みさきは次の大会にも出るのだろうか。少し楽しみだった。
俺はみさきに笑いを込めた頷きを返して、下校口へと向かった。
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7話 イリーナの思惑
いつもの集合場所には、既に沙希、イリーナさん、白瀬さんの3人が揃っている。
軽く集まって情報共有をしてから、早速練習を始めようとする3人に俺は声をかけた。
「すみません!その前に俺からちょっとお願いがあるんですがいいですか?」
「お願い?……ええ。何です?」
イリーナさんがちょっと疑問符を浮かべて俺に続きを促す。
「実は……ちょっと、練習メニューの変更をしたいと思いまして」
「……へえ」
白瀬さんが興味深いものでも見るかのような視線を向けた。
「沙希が個人練習をしてる間、白瀬さんが暇になりますよね? その間、俺と練習してもらってもいいですか?」
「日向さんはFCの選手はやらないのでは?」
イリーナさんが首を傾げて言う。
「……俺ももっと本気で沙希のコーチをしたいんです。前、イリーナさんは俺と沙希が似てるって言ってましたよね。俺なら沙希と同じ視点から試合を見ることが出来ると」
「……ええ、確かに言いましたけど」
「俺も選手として、実際に自分で試合をして、沙希の手助けをしたいんです。多分これが、白瀬さんにもイリーナさんにもできない俺のコーチングだと思いますから」
「僕はいいよ」
白瀬さんが即答した。
「日向くんの相手なら、いつでもウェルカムさ。なにより、昨日日向くんをFCに誘ったのは僕だしね。……まあ、決心したのは僕の言葉ではないみたいだけど」
そう言って、白瀬さんがちらりと沙希を見る。
「?」
沙希は俺と白瀬さんを交互に見て小首を傾げていた。
「……そんなことないですよ。白瀬さんのお陰です。ありがとうございます目いっぱい頼らせて頂きます」
「うんうん」
白瀬さんが満面の笑みで頷く。
イリーナさんは少し考えて、
「……そうですね。沙希の為になる部分も多いでしょう。なにより、白瀬さん本人が了承しているのなら何も問題はありません。個人練習の際でしたら沙希の練習の妨げにもならないでしょうし」
「すみません、イリーナさんもありがとうございます」
沙希は心做しかキラキラした目で、俺の横にぴったりくっつくように座って、
「……お兄さんだけじゃなく、私とも試合しよう」
「……ああ。そうだな」
こういう所、やっぱり明日香と沙希は少し似てるかもしれない。
そう思いながら俺は頷いて……1拍置いて気づいた。
「……お兄さん?」
白瀬さんの方を怪訝な目で見ると、白瀬さんはワタワタと胸の前で手を振って、
「い、いやぁ沙希ちゃんいい子だからさ。冗談でお兄さんって呼んでって言ったら……」
イリーナさんが鋭い目を白瀬さんに向けて、
「白瀬さん……依頼を受けてくれた貴方には感謝していますが、沙希にもしもの事があったら……」
――殺します。
殺意の波動を感じた。
「そ、そんなことあるわけないじゃないか。ただ……僕は若いっていいなあと思っただけだよ。ぐすん」
白瀬さんは涙目になっていた。
なんだか可哀想に思えてきた。
俺はパンパンと手を叩いて、
「まあ、それはともかく練習しましょう。白瀬さんは昨日と同様にセカンドブイで沙希を――」
そしていつものように練習が始まる。
「――ローヨーヨーで白瀬さんの右前方5m、頭を押さえろ!」
「うんっ」
今日は俺が沙希のセコンドをしている。
上の位置をキープする沙希の戦法には、適切な距離を維持することが必要不可欠であり、選手より試合全体を見渡せるセコンドの指示がかなり重要になる。
これまではイリーナさんが距離を目視で計測して、指示を飛ばしていたが、今度は俺がその代わりをしなければならない。
だが、想像以上にシビアだ。
ちょっと指示が遅れたり、目視での予測がズレたりするとあっという間に白瀬さんを逃がしてしまう。
やっぱりイリーナさんは賢いな。これはかなり頭の回転が早くないと中々出来ないぞ。
あの夏の大会、真藤さんを押さえ込んだのは沙希だけでなくイリーナさんでもあったと思い知らされる。
そんなこんなで俺のグダグダな指示で、沙希も思うようなFCが出来ず、練習が終わる。
こんなんで俺に沙希のセコンドなんてできるのか?
イリーナさんに変わった方がいいんじゃないかと思ってしまう。……いや、ここで放棄するなんて絶対に嫌だけど。
「日向さんはいつも頭を抱えてばかりですね」
「あ、イリーナさん……」
海岸の隅でタオルを頭の上に被せて体育座りしていると、イリーナさんが隣に座って話しかけてきた。
「今日の沙希のセコンドのことですか?」
痛いところを突かれる。
「やっぱり、わかりますよね……」
「ええ、酷いものでしたから」
イリーナさんが少し笑みを浮かべながら言う。
まあ……そう言われても仕方ない。今日の試合は誰が見ても泥仕合だった。
「……イリーナさんは凄いですね。上の位置をキープする発想を思いついても、それを実現するのがこんなに大変なんて思いませんでした」
「ええ、思いつきから始まって、1年以上沙希とこの戦略のために練習してきましたから。日向さんに1日2日で追い越されても逆に困ります」
「……やっぱり、大会のセコンドはイリーナさんにお願いした方が」
「――ふぅ……」
そこでイリーナさんはこれみよがしに大きなため息をついた。
「あの夏の大会から思っていましたが、貴方はやっぱり馬鹿ですね」
「へっ?」
「沙希がなぜ1番の理解者である私ではなく、日向さんを次の大会のセコンドに指名したのか。考えたことはないのですか?」
「……」
「上の位置をキープする作戦のために私ではなく貴方を選んだのだと思っているのなら、大間違いです。きっと沙希はもう、私と同じところを見ていません。いや、もうずっと前からそうだったのかも知れませんね……」
そして小さくもう一度ため息をついた。
イリーナさんが弱音のようなことを口にするところ、初めて見たかもしれない。
「沙希が期待しているのは、私ではなく、貴方なんですよ。今日になって 急に気合いが入ったかと思えば、筋違いの所ばかり見て勝手に落胆している。なんで沙希がそんな貴方に頼っているのか、私にはこれっぽっちも分かりませんが……」
「すみません……」
本当にその通りだ。頭が上がらない。
「――日向晶也にしか出来ないことがある。あの子をその確信に至らせる何かがあるのは事実なのでしょう。だから……目先のことばかり見るのはやめなさい。それに、私も頼ってください。元は敵同士でしたが、今は沙希のため同じ目的のため協力する同士なのですから。それに」
イリーナさんはそこで1つ言葉を切って、
「……沙希のことは私が誰よりも理解しているつもりです」
その通りだ。沙希はイリーナさんと幼い頃からずっと一緒にFCを頑張ってきたのだ。
誰よりも二人は通じあっている。俺なんかとは比較にならないほど。
「すみません、ありがとうございます。いつも情けない姿しか見せていない俺ですけど、今度こそベストを尽くしますので。……これからはもっとイリーナさんに頼らせていただきます」
「ええ。それにしても、グラシュを与えたのは私ですが、貴方がFCを始めるとは思いませんでした」
「まあ、沙希を見ていたら。俺も本気にならなくちゃなって思いまして」
「それは、コーチとしての本気ですか? それとも……」
「も、勿論コーチとしてに決まってるじゃないですか!」
俺は慌てて否定した。しかしイリーナさんは表情を変えずに、
「私はどちらでも構いませんよ。これから沙希の一番近くにいる貴方がそういう対抗意識を持つことは、沙希にとっても悪くありません」
なぜだか、イリーナさんには全て見透かされている気がする。
大富豪のお嬢さんと言うだけではなく、底知れない何かを感じた。
「それは……俺が、沙希を倒しても構わないということですか?」
冗談まじりの笑いで俺は聞くと、イリーナさんも少し笑って、
「倒せるものなら、倒してみてください。沙希は強いですよ?」
「勿論、理解してます。でも弱点もありますし、それを一番知ることが出来るのはコーチの俺です」
「沙希の成長に繋がるなら、それも許容します」
「……沙希は、俺に負けたらFCを辞めるかもしれませんよ?」
「私は、沙希にFCを強要するつもりはありません。私はいつもいつまでも、あの子の傍に寄り添って支えるだけですから」
「……どうしてそこまで?」
「あの子とは、血は繋がっていませんが、立派な家族ですから」
イリーナさんはそう言うと、満点の星空を見上げる。
俺も釣られるように空に視線を向けた。
「綺麗ですね……」
「ええ」
イリーナさんと沙希の間で過去に何があったのか、俺は知らない。
けれどその表情には、沙希が時折浮べる覚悟に近い何かを感じた。
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回想 二人の過去
私がFC(フライングサーカス)というスポーツを始めたのは何故だっただろうか。
物心のついていない幼少期のことで、詳しくは覚えていないが。確か、空を飛びたいと言う純粋な興味が最初だったと思う。
当時の私は、孤児院で生活していた。親の名は今も知らない。
孤児院と言っても、私がいた場所は体の良い強制労働施設だった。毎日朝晩仕事に始まり、仕事に終わる。
心根共につき果てる中、夜に天窓から見える小さな星だけが唯一私の心の支えだった。
日が落ち、夜の帳が落ちたころ、就寝時のほんの僅かな休憩時間。私は1人、天窓で夜に煌めく星を見上げ、ほっと感嘆の息を漏らす。
――あの綺麗な星空を自由に飛び回りたい。
その後、孤児院が摘発され、労働から解放された私には自由が与えられた。
何がしたい? 保護される際、親切な職員さんに暖かな笑みで聞かれた言葉。
それに私は目をキラキラさせてすぐに答えた。
「空を飛びたい!」
……その純粋さが変化したのは、いつの事だっただろうか。
思い出す、私の過去を。深く抉り込むように。
「負けた!悔しい……!」
FCを初めて1ヶ月がたった私は、泣きながらイリーナに縋り付いていた。
初めて参加したFCの大会。私は1回戦で敗退した。10-0の完膚無きまでの敗北だった。
その頃、私は海外の裕福な家庭……イリーナの家に養子として招かれ、私の大会には新しい家族を連れて見学にやってきていた。
「よしよし……」
イリーナの母が私を優しく包み込んで慰めてくれる。
イリーナはといえば、私と一緒になって大泣きしていた。
「もっといっぱい練習する……!もっともっと強くなる!」
そういえば、自分がこんなにも負けず嫌いだと気づいたのはこの時だったか。
それからの私は、朝から晩まで、常にFCに没頭していた。
イリーナもFCを始め、私の練習相手をしてくれた。
イリーナと競い合う毎日はとても楽しかった。夜遅くになり、怒られるまで。いや、怒られても私たちはFCに夢中になり続けた。
そして月日は流れ、私が中学生になり、地元でも強豪選手として名が広まり出した頃。
イリーナと父と母、3人の乗る自動車が事故にあった。
高速道路で逆走したダンプカーとの正面衝突。運が悪かったとしか言いようがなかった。現場は酷い有様で、イリーナの父と母は即死だった。
イリーナは奇跡的に大怪我で済んだが、後遺症が残り、FCは続けられなくなった。
病床ですすり泣き続ける私に、イリーナは優しく声をかけ続けた。
本当はイリーナの方がずっと辛かったはずなのに。今も昔も、私はいつまでも子供のままで、イリーナはとても大人びていた。
聡明だったイリーナは、父が経営していた大企業を継ぐことになる。勿論、子供のため、名誉職という形だったが。イリーナの父は社員からの信頼も厚く、イリーナのことを家族のように思っていた。それは養子だった私のことも同様だった。
私は、空を飛べなくなったイリーナの分も、FCに全てを捧げることを誓った。たとえ飛ぶ楽しさを忘れても、イリーナの分まで勝利を手に入れる。それが私に出来るイリーナへの恩返しだと思った。
イリーナは私を全面的に支えてくれることを約束してくれた。父の財力やコネクションを使って会社を設立し、大成功を収めたイリーナは、私の為に有名な講師やプロの選手を頻繁に呼び、自前の体育館を作り、勝つために想像の付くありとあらゆることをしてくれた。
――その結果、私はイリーナの国では並ぶもののいないスカイウォーカーにまでたどり着いた。
だがそこは私の終着点ではない。
私にとってFCの本場は日本であり、そこは私の故郷だった。
あの日、見た綺麗な星空を飛びたい。
そして、世界有数の激戦区である日本で優勝し、プロになる。
そうして、私の覚悟が定まったのだ。
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