チンチンスレイヤー (パイの実農家)
しおりを挟む

一章 The Gauntlet
一話


 

 そは天の光の翳りより 紅蓮の地獄を照らすもの

 (のはら)(かがりび) 夜陰を流離(さすら)

 朝露の如くに去りゆかん

 そは赤き月の袂より 破れた炎を纏うもの

 跡に埋火(うずみび) 路に難有り

 東雲のかかるに去りゆかん

 

 かねて火を畏れよ 影の内に安息はなし

 煮えたぎる岩漿の如く歌うのだ

 陰に火を焚き染めよ 夜の帳に衣を透かし

 天へと昇り運命の輪を回すのだ

 

 導管を転げる火となりて 石の雨を抜け

 苦しみの声を遮るものよ

 竜を焼き 悪魔を従え 血を賭場に積み

 賽の行く末に克するものよ

 その灯にて我が運命を照らし給え

 

 そは天の光の翳りより 紅蓮の地獄を照らす者……

 

                    ――紅蓮術師を讃える歌 作者・年代不明

 

 

 

 §

 

 

 

 魔術師の名門たる『賢者の学院』を若くして卒業。

 すでに二度真言呪文を発動できる天才。

 女魔術師は努力で栄光を勝ち取って生きてきた。

 

 宮廷魔術師にでも、商会の顧問魔術師にでも、研究者にでも、何にでもなれる俊英(エリート)

 

 それらをすべて振り切って、女魔術師は冒険者になった。

 

 差し出された真新しい白磁の認識票を一瞥して、興味なさげにそれを首にかける。

 

「では、あなたもこれより冒険者の一員です、女魔術師さん」

「ええ、ありがとう」

「純粋な魔術師の方々は一党(パーティ)を組むようにお願いしますね」

「そうね、そのつもり」

 

 女魔術師は受付嬢に会釈して、冒険者組合(ギルド)の壁際に寄った。

 そして品定めするように人々を見回した。

 

 ――上級冒険者と組めるはずもなし、新人から見繕うしかないけれど……。

 

 女魔術師は辟易とした内心が表に出ないように表情を作った。

 

 ――あの男どもは粗野すぎる。少女の四人組は……ひ弱で頼りなさそうね。神官への選り好みはしないものとしても……男所帯に混じるのは勘弁ね。何をされたものか分からないし。

 

 自分に軽薄な視線を向ける男を睨みつけて追い払うと、女魔術師は自分の豊かな胸元に手を乗せて、溜息をついた。

 

 ――美人は生まれつきの幸運だ、胸が大きいと得をする、皆そう言うけれど、ねえ……。

 

 暗澹とした心を押し隠して、一党を見定めることしばらく。

 

「なぁ、ちょっといいか?」

 

 そう声をかけられたとき……女魔術師はまず、表情と声音に内心が表れないよう取り繕う準備をして、それから振り返った。

 恐らく自分と同年代の少年と少女だった。

 

「何かしら?」

「あんたも新人だよな? 俺たちもなんだ。一党を組んでくれないか?」

 

 想像していた通りのことが、予想外に直截に飛んできた。女魔術師は二人をさっと眺めた。

 

 ――長剣と……格闘術かしら。まあ、前衛二人なのは丁度いいわね。

 

 見目もいい。男所帯でない。いやらしい目を向けては来ない。最低限戦えそう。

 

 ――ひとまず合格。

 

 そんな感想はおくびにも出さずに、女魔術師は突き放すように言った。

 

「人を誘う前にまず名乗ったらどう?」

「ごめんなさい、うちの馬鹿が! ほらあんたも謝って」

「ああ、うん、悪かった。そうだな……」

 

 ――()()()、ね。

 

 二人は、剣士と女武闘家と言った。

 一同はまず自己紹介を済ませ、それから仔細を相談し始めた。

 

「二人は気心知れてるみたいだけど、同郷なのかしら」

「そうよ。こいつが冒険者になるーって言って村を飛び出してったから、ついてきたの。一人で行かせたらどうなるか分かったもんじゃないから」

「おいおい、俺だってなあ」

 

 決してそれだけではあるまい、と女魔術師は感じ取った。冒険者が命がけの職業だということくらい村人でもわかろうものだ。自分も冒険に憧れがあったか、家庭に問題でもあったか、そうでなければ……。

 

 ――とりあえず、私に色目使って来ることはなさそうね。

 

 この先、色恋沙汰でこじれたりしなければいいが。ことさらに誇示してみせるつもりはないが、女魔術師は自分の容姿に自信があった。大きな胸とくびれた腰。学徒として不健康な生活に片足を突っ込んでいた頃だって体型維持と美容健康には気を使っていた。恵まれた生まれにあぐらをかいた慢心ではなく、努力を積み重ねてきたからこその自信だ。魔術と同じ。

 別に女武闘家が自分に劣るなどとは思わないし、むしろ美人だとは思う。が、大抵の人間は自制心がなく、刹那的な欲求に逆らえず関係をこじらせることがあるということを、女魔術師は学院で何度か知ることがあった。年若いならなおのこと。

 

 ……そこまで考えて、問題が起きたら対処すればいいだけだ、と思い直した。その程度の連中なら踏み台にしていくまでだ。今までと同じように。

 

「……そうね。いいわ。私と組みましょう」

「本当か? よっし、これで三人目だ!」

「助かるわ! これからよろしくね」

「ええ」

 

 固くしていた表情を事務的に緩めて見せ、女魔術師は喜ぶ二人と握手を交わした。

 

「それで、何の依頼に出るつもりなの?」

「ああ、ゴブリン退治に行きたいんだ。村娘が攫われて大変だって」

 

 ゴブリン退治。女魔術師はその言葉を口の中で転がした。

 

 ――ま、初陣としては定番だけど。

 

「流石に三人では不安ね」

「最低でも神官が欲しいかな。ゴブリンに負けるつもりはないけど……」

「そうね。でも」

 

 女武闘家の言葉に頷いてから、女魔術師は言った。

 

「しばらく眺めていたけど、神官は見なかったわよ」

「あんまり待ってられないぞ。早く助けに行かないと」

 

 確かに、村人の救助も依頼の内ならば時間をかけるほど不利だ。

 

 ――どうせ、強敵は私が倒すのよ。二人は雑魚を任せられない程ではなさそうだし。なら、神官は最低限の回復ができればそれでいいわ。

 

 悩むほどでもない、と女魔術師はすぐに結論を出した。

 

「なら、次にやってきた神官を誘いましょう。経験者でも、新人でも」

 

 神官は神官というだけで身分や人格が保証されている。才能だけで出来る職業ではないからだ。たとえ汚職に手を染める生臭神官だろうと、神から奇跡を賜れるのは神の意に沿う者だけ。

 とはいえひどく臆病だったり妙に頑固だったりということはあるだろうが……一党の妨げにならなければそれでいいのだ。

 

 女魔術師の提案を二人は受け入れた。

 

 そして待つことしばらく。

 組合役場に新たにやってきたのは、彼らと同じ年代の、地母神の神官の少女だった。

 剣士は迷いなく足を進め、登録を終えたばかりの少女の背に声をかける――。

 

「なぁ、俺達と一緒に冒険に来てくれないか?」

「ふぇっ?」

 

 

 

 ……と、四人が出会う、ちょっとだけ前。

 

 辺境の街の門ではざわめきが起こっていた。

 羨望の囁きと好色な視線、その中心を歩む一人の女性。

 

「んー……どこだろう」

 

 風体は冒険者、それも呪文使いのようだった。

 ぴっちりとしたボディスーツをインナーに、(シルク)らしきもので編まれたドレスと外套を纏っている。ものの価値が分からない者にも上質な素材であることが見て取れた。しかし杖の類は持ち歩いていない。代わりに目立つのは、胸元の爪を模したペンダント。

 

 とはいえそれだけならば、この辺境の街で目を引くような特徴ではない。

 目を引いているのは、彼女の美しさと、艶やかさだった。

 

 おとぎ話から抜け出してきた姫のような、男女を問わず魅了してやまない美貌。

 そんな印象を淫靡に覆す、部位一つとっても扇情的な肉体。

 通りすがった者の目を節操なく奪う彼女は、狼の毛皮にも似た灰金(アッシュブロンド)の長髪をたなびかせ、目的地を探すようにしてきょろきょろと視線を左右にさまよわせていた。そのたびに揺れる乳房を追って人々の視線も左右に揺れた。

 

「ここかあー……」

 

 ややあって、彼女がたどり着いたのは冒険者組合(ギルド)だった。

 

「……よーし」

 

 女性は両手でぱんぱんと頬を叩くと、意を決して役場のドアに手をかけた。

 

 ――ちょうどその時、そのドアの向こうでは、受付嬢が新人の剣士たちを見かねて口を挟んでいた。

 

「もう少ししたら、たぶん、他の冒険者の方が来ると思いますが……」

「ゴブリンなんて、四人で十分でしょう?」

 

 剣士は気軽にそう言うが、受付嬢はゴブリン退治が決して簡単なことではないのを知っていた。そして、組合職員に忠告以上の口出しは出来ないことも知っていた。

 

「さらわれた女の子が助けを待ってるんです、これ以上、時間をかけるわけにはいきませんよ!」

 

 だからそう言って剣士たちが外に出ようとするのを、受付嬢は複雑な顔で見送るしかなく。

 

「たのも~!」

「うぶっ」

 

 と入ってきた女性に剣士の少年がぶつかって尻もちをついたのを見て、ああ引き止める理由が出来たと思わず安堵していた。

 

「わっ……と、ごめんね~? 大丈夫?」

 

 女性は思い切り胸で跳ね飛ばしてしまった少年に視線を合わせ、顔を覗き込んだ。

 

「イ、イエッ全然!」

 

 剣士は今自分が埋もれた、かがみ込んだ姿勢によってより強調された胸を見て思った。

 

 それは巨乳というにはあまりにも大きすぎた

 大きく 分厚く 重く

 そして柔らかすぎた

 それはまさに爆乳だった

 

「むしろありがとうございま、ごほぉ!?」

「すみませんうちの馬鹿が本当に!」

 

 馬鹿なことを口走った剣士に、女格闘家は素早く強烈なボディブローを叩き込んでから後頭部を掴み、無理矢理お辞儀をさせた。

 

「気にしないで~。怪我がないならよかったよ~」

 

 女性はにこにこ笑ってそう言うと、少年たちの脇をすり抜けて受付へと歩き出した。

 

 豊満な乳房ばかりに目が行ったが、見ればその顔は驚くほどの美女で、背も並の冒険者を超える高さだった。足も長く、腰は大きくせり出し、ひょうたんのようにくびれている。そして柔らかいだけでなく筋肉もついているようだった。灰金の髪は丁寧な手入れを伺わせる色艶に反して、狼の毛皮のように膨れてささくれ、また引きずらないギリギリまで伸び放題に伸びている。

 目立つ姿だが見たことはない。認識票も見える場所にはない。だが佇まいは市井の人々ではなく冒険者の側。服装からして呪文使いだろう。

 受付嬢は胸中でそこまでまとめると、いつものように微笑んで彼女を出迎えた。

 

「おねがいしま~す」

「はい、本日はどうなさいましたか?」

「冒険者登録をしたいんですが~」

 

 受付嬢は少し目を見開いた。まだ冒険者でなかったとは。改めて装備を一瞥するが、黒いドレスはただの布ではなくかなり上質な素材で出来た戦闘衣(バトルクロース)であり、白いボディスーツも補正下着(ファンデーション)ではなくなにかの革で出来た防具のようだ。新品のように見えるのは丁寧に手入れされているからで、決して新品の衣装ではない。大きく空いた胸元や太ももの際どいスリットなど、少々セクシーすぎるとは思うが。

 もっと見れば長い足を包むブーツも雑嚢(ハヴァサック)もよく手入れされた革で出来ており、荷物の量も多くない。旅慣れていることが伺えた。

 

 見るからに、駆け出しの冒険者には見えない。少なくとも冒険者以外の職で旅の経験を積んでいるのは間違いないだろう。

 

「わかりました。文字の読み書きは出来ますか?」

「えへへ~、こんなこともあろうかと! ちゃーんと覚えてきました!」

 

 女性はにへらと花のように微笑んで、胸を張った。あまりの質量の揺れに受付嬢まで目線を上下させた。

 

「で、ではこちらにご記入をお願いします。ご不明な点がありましたらお声掛けください」

「はーい」

 

 冒険記録用紙(アドベンチャーシート)を差し出しつつちらと後方を見れば、そこでは新人冒険者たちが何事か相談している。

 

「受付の人にああ言った手前だけど、俺あの人も誘おうかと思う」

「あんた、こんのスケベ!」

「ばっ、違うって!」

「あの……私も、四人より五人の方がいいと……」

「そうね。救助なら手は多いほうがいいわ。取り分よりも人命でしょう」

 

 よしよし、と受付嬢はうなずいた。全く経験のない四人だけでは不安だったが、旅慣れた装備の彼女と一緒ならば少しは()()も減るだろう。

 技量点と履歴は開けておくように、体格については自己申告で構わない、など疑問に適宜答えつつ、受付嬢は彼らの旅路の不安点が一つ取り除かれたことを喜んだ。

 

「書けました! はいっ」

「はい、お預かりしますね……」

 

 受付嬢は記録用紙を受け取ると、目を通しながら白磁の認識票(タグ)に写しを取り始めた。

 

 性別、『女です!』。

 ――もっと端的に書いてもいいんですが。

 

 年齢、『一一〇……です、たぶん』。

 ――半森人なのかしら?

 

 職業、『なし(従者をしてたんですけど……)』。

 ――何か事情があったんでしょう。

 

 種族、『淫魔です、こっちだと夢魔だっけ?』。

 ――なるほど夢魔でした、か?

 

夢魔(サキュバス)!?」

 

 受付嬢は叫んだ。同時に、何人かの手練の冒険者が構えをとった。

 それから、事態を飲み込んだ大多数が騒然とし始めた。

 

 淫魔、夢魔――淫らと偽りを司る魔神(デーモン)の一種、とされている。

 

「はい!」

 

 彼女は()()()()と胸を張り、ぐっと背に力を込めた。

 すると、彼女の背の外套が渦巻いたかと思えば、それは黒々とした蝙蝠の翼に変じる。続いて、ハートに似た先を持つ細い尾が宙を踊った。見ればいつの間にか、鋭い角が二つこめかみから弧を描いていた。

 

 冒険者たちに緊張が走る――だが下手なことをすれば危ないのは受付嬢たちだ。

 そんな中で、彼女は朗々と謳い始めた。

 

「幽世魔界と四方盤上にその名を知られる夢魔女王陛下より天佑を髪に賜り、北は砂州口の都にて生まれ落ち、畏れ多くも御方々にお仕えすること九九年……御方に暇を出され途方に暮れること六年あまり……」

 

 その姿勢が段々としおれていく滑稽な姿は、周囲の緊張と比べればいっそ恐ろしくさえあった。

 

「……(いとま)に殺されまいと手を付けた物語に骨の髄まで魅了され、身一つにて立身せんと思い立ち、至高神様の御秤の上で沙汰を待つこと五年、ついにお許しを頂いたのです!」

 

 とまで言い切ってから、あ、と淫魔は間抜けな声を上げた。

 

「そーだ、まずはこっちだった。あはは……」

 

 そう言って彼女は雑嚢の横のポーチから一枚の手紙を抜き出した。受付嬢は恐る恐るそれを受け取って、それを検める。

 

 ――確かに、至高神殿の正式な書類ですね……。

 

 天秤の印璽が正しいことを確認し、後ろに控えている監査官(至高神に仕える神官だ)にも確認を取ってから、封を切る。差出人も高位の司祭のようだった。内一つは組合宛の控えだった。

 

『この者、混沌より生まれたるもその魂に穢れなし。祈りと痛みを以て己が潔白を示したことをここに記す。故、その十の爪を証としてこの者の市井での活動を認容するものとする』

「十の……爪?」

「そうだよー。ほらこれ」

 

 受付嬢が顔を上げると、淫魔は胸元のネックレスを指差した。

 

 至高神の印と見知らぬ紋章が収まったメダルと、その左右に連なる十枚の鋭い爪だ。おおよそナイフほどの長さで、爪だと言われていなければそれを模した象牙か何かの細工にしか見えない。爪のネックレスと言われれば野蛮な印象のはずだが、どこか厳かで静謐な印象を受けた。

 

「わたしの爪だよ」

 

 ほら、と彼女はその長い手袋を外して見せ……。

 

「ひっ」

 

 受付嬢は息を呑んだ。

 その指の先には爪がなく、抉れた肉がふさがったと思しき歪な凹凸がわずかにあった。

 剥がしたのだ。切ったのではなく。根本から。

 

「一応わたしたち唯一の肉体武器(えもの)だからねー。……あ、もう痛まないよ~。物もちゃんと握れるし。わたし、働けます!」

 

 何を勘違いしたのか、彼女が柔らかく微笑んでそう言う前で、受付嬢は戦慄していた。

 爪を剥がすというのは重い拷問だ。手指の先は感覚の鋭い部位だし、物を握るのも難しくなる。淫魔が痛みに鈍いのかもしれないが……。

 見れば、警戒していた冒険者たちも青い顔をするものが多くいた。

 

「……わかり……ました。至高神がお認めになられたなら、私共から言うことはありません」

「はいっ」

 

 驚きはしたが、大神殿からのお墨付きというなら文句をつけようがない。至高神の秤に乗せられたとあらば、むしろ神官に次いで身分が明らかだということだ。

 

「すみません、続きに取り掛かりますね」

 

 記録用紙の続きに目を通す。

 職業。外見。技能。呪文……。問題はない。新人だとすれば破格だろう。元は従者だと言うが、戦いの経験も十分にあるようだ。種族さえ見なければ、心得のある人間(ではないが)が冒険者に転身した、という風だ。

 

「……はい、それではこちらを」

「ありがと~」

 

 それらを(一度簡潔にまとめ直してから)小さく刻みつけ、白磁の認識票を仕立て上げた。

 彼女はそれを満面の笑みで受け取ると、光に透かすようにしてしげしげと眺めた。

 

「身分証を兼ねたものですが……あくまで冒険者の身分を保証するものです。あなたの場合はその至高神の聖印とできれば手紙も、忘れずに携帯してくださいね」

「はーい。あ、しまっといたほうがいいんだっけ」

 

 彼女は翼を畳んで少し力むと、角と尾を隠し、翼を元の外套に変えた。

 

「依頼はあちらの掲示板に張り出されています。自分の等級に見合ったものを選ぶべきですね」

「うんうん。身の程ってやつだね」

「まさしく」

 

 やはり心得のある人間だ。受付嬢はわずかに思案した。夢魔という色眼鏡を外せば、彼女はとても善良な人間に見える。

 

 もちろん、夢魔とは虚偽と誘惑の悪魔と言われるほどだから、彼女の明るい態度が演技である可能性は否定できない。しかし彼女が善の立場にあることは、神の名の下に証明されている。聖印を身に着けていられることもそう。爪を捨てたその行いもそう。

 

 至高神とは事の真贋を見通す神。

 たとえ魔神であろうとも、その御前にて偽りはあり得ない。

 

 だから、受付嬢は彼女を信用に足ると判断した。

 

 あるものでやるのだ、と胸中誰かのように呟いて、受付嬢は言葉を続けた。

 

「あとはまあ、あなたには不要な助言かもしれませんが、初めは下水道の掃除やドブさらいで慣れていくべきだと思いますよ」

「うーん?」

 

 彼女は小さく蠱惑的に小首を傾げたが、すぐに得心がいったとばかりの笑みを浮かべた。

 

「……そうだねぇ。何事も初めが肝心だよねぇ。身の程を知るにはぁ、下から一つずつ試すしかないものねぇ」

「ええ、そうですね」

 

 下手な芝居で返答されて、受付嬢はしたりとほくそ笑んだ。

 

「まあ? わたしはぁ? それなりにぃ? やれるほうだけどぉ? 例えばゴブリン退治をするとして? 徒党(パーティ)を組むとしたらぁ~?」

「五人はいたほうがいいと思いますよ」

 

 受付嬢は事務的に微笑み、淫魔は我が意を得たりとうなずいた。

 

「じゃあそうだなぁ? 丁度よく白磁の冒険者たちの一党があったりしないかなぁ?」

「でしたら、ちょうど今、ゴブリン退治に向かおうとされている方々がいらっしゃいますよ」

「本当にぃ? じゃあわたしも混ぜてもらおっかなぁ~」

 

 白々しいやり取りをしつつ、彼女は一歩二歩と後ろに下がるとくるりと振り向いた。

 その先には、怯え半分でその場に釘付けになった新人たち四人。

 

「というわけでぇ……おねーさんもいーれて?」

 

 それは少なくとも、同じ白磁の冒険者たちが一党を組む様子とはかけ離れていた。

 

「わたしは淫魔術師。よろしくね?」

 

 

 

 

一章 『ザ・ガントレット』

     あるいは定番の邪悪雑魚ちんちんをスレイしようとして悪辣GMと出目に負ける話

 

 

 

 




・Gauntlet
 中世で行われた処刑法。囲んで棒で殴る。
 転じて、手荒い歓迎。あるいは苦しい状況。挑戦。

・淫魔
 原作やTRPGでは夢魔と呼ばれている。どちらも同じ種族を示す。
 ということにしたい。
 淫魔術師という語感がいいのでここでは淫魔で通すことにする。
 夢魔術師だとあまりにもマーリンすぎるため。

・夢魔女王
 実質的な淫魔の指導者の一柱。夢魔・女王ではなく夢・魔女・王。
 夢の国を統べる魔女の王。争い、魔術、嘘の神。
 AAを当てるならモリガン・アーンスランド。

・ということにしたい。
 ということにしたいときの魔法の言葉。
 類義語:「そういうことになった」「古事記にもそう書いてある」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二話

 

 

 §

 

 

「受付嬢さん! 大丈夫でしたか!?」

 

 駆け寄ってきた槍使いに、受付嬢は小さく頷く。

 

「特になにかされたわけではありませんよ」

「しかし! 相手は魔神(デーモン)でしょう?」

「至高神の秤の上で裁かれたとのことですから、間違いはないと思いますが……」

「あの証文だってどこまで信じられるか」

 

 心配されているのはありがたいし、気持ちはよく分かる。

 ちらりと見やると、監査官は頷いた。

 

「間違いなく正式な書類です。蝋印も署名も印鑑も。偽造は不可能でしょう。そして、大司祭の真偽感知や邪悪感知を潜り抜けられるとは思いません」

「となると、やはり彼女は本当に祈りを知った夢魔なんだと思います」

 

 むむむ、と唸る槍使いの後ろで、同じく臨戦態勢を取っていた重戦士が息を吐いた。

 

「まあ、そもそもバックについてんのが夢魔女王なんだろ? ならまあ、そっちの機嫌さえ損ねなきゃあ滅多なことにはならねえと思うが」

 

 重戦士の言うことも尤もである。

 遥か北、夢を統べる魔女の王。戦の行方を決めるもの。淫魔にして、信仰を集める女神。

 魔女や呪術師の原型とまで言われるそれは、決して邪な神格ではない。善良でも当然ないが。

 

「逆に危ねえだろ、機嫌損ねたら一発アウトってか?」

「噂や英雄譚が正しいなら、たかが従者の一人がどうなったって構いやしねえと思うが。それに暇を出されたんだろ?」

「あいつの言うことなんてどこまで信用できるかわかったもんじゃねえだろ……」

 

 と槍使いは言うが、実際の所受付嬢はそこまで悪意を感じなかった。監査官も邪悪感知(センス・イーヴィル)真偽感知(センス・ライ)を使っていたはずで、彼女が何も言わないとなれば一定の信用はおけるはずだ。

 

「んなこと言ったら夢魔の情報なんて神話の一節程度だろ。たまに娼婦に混じってる奴らも、身の上話はしたことねえ。嘘の塊だなんて話もどこまで信じれるか分かりゃしねえし、それよか、至高神の判断や実在の土着神のほうが信用できるね、俺は」

 

 だから組合の方針を支持する、と重戦士は腕を組んだ。

 

「つーかお前、そこまで言うならあのガキ共についてったらどうだよ? そうしねえ辺りお前も否やはねえんだろ?」

 

 痛いところを突かれた、と槍使いは顔をしかめた。

 

「……夢魔ってのが知ってる通りなら、俺一人じゃあちょっとな。あいつは今日は休みだしよ。誘惑程度なら振り切るつもりだが、もっと魔法的なもんだと分からねえからな……」

「ま、ただでさえ()()だもんな。俺も誘われてついてかねえ自信ねえわ」

 

 何を指して言っているのかすぐ理解できただけに、槍使いは内心で同意するに留めた。懸想する女の前でそういう姿を見せない分別はあった。

 

「とはいえ、誰か確認はした方がいいだろうな……もし本当に全部偽りだったとして、ガキ共が全員おっ死んだとして。それが事故かあいつのせいか、確かめてえとこだが……」

 

 そう言われて、受付嬢も少し考え込んだ。過剰に疑っているようで引け目はあるが、百聞は一見に如かずとも言う。しかしそうして冒険者を送り込んで確認するとなると、それは腕のいい斥候を出すか、何かあとをついていく理由のある者でなければならない。しかもそれは組合の信頼厚い冒険者でなければ……。

 

「あ」

 

 一人いるではないか。初心者冒険者たちのゴブリン退治の後を追うだけの理由のある冒険者が。

 そう思って受付嬢が顔を上げた時、組合の扉が開いた。

 

 現れた鎧姿の男は、視線が己に集中したのを見て、問うた。

 

「ゴブリンか?」

 

 

 §

 

 

 一方、とうの淫魔術師と言えば、すでに一党に馴染んでいた。

 

「へぇ~、幼馴染なんだ~」

「腐れ縁って言うのよ、こいつとは」

「うるせぇ、こっちのセリフだ」

「仲良しさんだね~」

 

「じゃあ本当に世のため人のためなんだー? 偉いね」

「そ、そうでしょうか……?」

「うんうん。もっと自信持ってー! あなたは?」

「……立身よ。悪い?」

「うーん? わたしもそうだし、ふつう皆そうなんじゃないー?」

 

 村行きの馬車に乗るより早く、淫魔術師は四人の間にひょいと滑り込むと、立て板に水とばかりに喋り出し、そして今まで喋り通していた。

 

 至高神の天秤に乗せられてなおここにいるというのは、個人が得られる信用としてはこれ以上ないはずなのだが、それでも皆先入観は拭えなかった。

 しかしそれも、彼女の話術の妙を前にすれば夏の氷のようなもの。

 気付けば女神官は最初の警戒心を緩めるに至っていた。

 

 ――悪い人じゃあ、ないんですね……。

 

 たとえ生まれが魔神であっても、敬虔な祈りを以てその善性を証明したなら、彼女はむしろ自分と同じ側の存在だろう、と女神官は考えていた。生まれの悪さなら孤児だってそうだ。あるいは、神殿で保護されたことで神官になった自分と違い、己の善を証明するために苦行に挑んだ彼女の方が信心といえばよほど深いかもしれない……。

 

 いや、信仰は夢魔女王という神に捧げているのだったか。知らず失礼なことを考えていたことに気付き、女神官は心中で恥じた。

 

 とまれ、これからは冒険だ。

 そして、彼女は少なくとも自分たちよりは心得がある様子。

 女神官は胸中にあった漠然とした不安が少しずつ晴れていくのを感じていた。

 

 馬車を降り、村を経由し、件の洞窟へ向かう最中の森の中で。

 改めて、と淫魔術師は声を上げた。

 

「ちゃんと確認しておこっか。皆が何が出来て何が出来ないか……」

「……そうね。私も一つ、確認したいことがある」

 

 淫魔術師の言を、女魔術師は冷たく遮った。

 

「あなた、術師なのよね?」

「うーん? そうだよ?」

「……「みだらな偽りを紡ぐ喉から、まことのことばは生まれない」。あなたたち夢魔は真言呪文を使えないはずよ」

 

 淫魔術師は目を輝かせた。

 

「よく知ってるねー! そう、わたしたちは『まことのことば』は覚えられないの」

「そして、精霊たちが魔神(デーモン)に力を貸すわけがない。死霊術師でもない」

「うーん? まあ、そうだね。精霊使いでも死人うらない師でもないよ」

「なら、術師というのは嘘でしょう?」

 

 しん、と静寂がその場を支配した。

 

「そのドレス、黒葉樹(ダークリーフ)とグリフィンの(たてがみ)で編まれたものよね。内着も、何かの高位の生物の革。駆け出しが持つには質が高すぎる……そんな装備がすっと手に入るなら、わざわざ辺境で冒険者になる必要なんてないはずよ」

 

 ――言われてみれば……。

 

 女魔術師の言には理があった。

 確かに、至高神に認められたのなら、別の道は幾らでもあったはずだ。娼婦となれば貴族を相手に夜の女王として君臨することもできるだろう。

 立身……成り上がることが目的だと彼女は語った。それならば、わざわざ辺境で冒険者になる必要はないのではないか?

 

「お、おいおい、お前……そんなに剣呑に」

「あんたちょっと黙ってなさい」

 

 仲裁に入ろうとした剣士を、女武闘家は引き止めた。そして、女魔術師の前に出る。

 女神官は、おろおろとその場で杖を抱くことしか出来なかった。

 

 淫魔術師はそれまで活発に動いていた口をぴたりと閉じていた。

 それは、機をうかがっているかのようでもあり、何かを期待するようでもあった。

 

「あなた、なにかの方法で至高神の目を欺いたんだわ。高位の司祭を洗脳するか何かして一筆書かせて! そしてこの辺境で、混沌の勢力に利する何かをしようとしている。そうでしょう!」

 

 そこまで言って、女魔術師は杖を構えた。

 学院を卒業した証である大きな柘榴石が、陽の光を受けてぎらりと光った。

 

「ここなら他の誰かを巻き込むこともないわ……さあ、答えなさい、魔神(デーモン)め! ここで何を企んでいるの!」

 

 淫魔術師は――。

 

「……ふふ」

 

 目を細め、何か感じ入るようにして首元のネックレスをそっと撫でた。

 それからゆっくりと顔を上げた。

 肉感的な唇がそっと裂いて、静かに、しかし力強く、言葉を紡ぐ。

 

「……まず、訂正するけどー……淫魔は確かに幽世の種族だけど、人が魔神(デーモン)と呼ぶあいつらとは違うよ。元々、あなたたち人間が翼と角を見てひとくくりにそう呼んだだけだもん。……夢魔女王陛下が中立の神格としてありつづけてくださるのが、その証明なんだけど……」

 

 混沌には与しないし、秩序には従わない。

 あるいは、そのどちらをもその時々で使い分ける。

 淫魔はそういう生き物だ、と彼女は言った。

 

「信じられないわ」

「わたしが嘘をついてないことは、これが証明してくれる」

 

 淫魔術師はネックレスを指差した。至高神と、夢魔女王、二つの刻印のなされたそれを。

 

「これはねー、御方と至高神様の御加護が籠もった『十の誓いのネックレス』っていって……つけている人が決まりを破ると、爪がその人に食い込むようになってるの」

 

 その言葉が真であると、皮肉にもすぐに証明された。

 

「証拠がないじゃない」

「なら……貸してあげようかー?」

 

 ヒッ、と引きつった声が上がるのを、女神官は抑えられなかった。

 彼女の言葉を受けた途端、ネックレスがひとりでに持ち上がると、その爪の一本を首元へ食い込ませ始めたからだ。

 

「嘘です、貸し出しません!」

 

 慌てて前言を撤回すると、爪はぴたりと動くのをやめて、やがてしゃらりと音を立てて力なく胸元にぶら下がった。

 

「……こんなふうにね」

 

 うっすらと血が滲んだ首元を撫でて、淫魔術師はかいた冷や汗をそっと拭った。

 それはある種呪いの道具のようですらあった。いや……夢魔女王の手のものならば、正しく呪いが籠められているのだろう。

 

 女魔術師も苦い顔をしていた。それがどういう心境故か、女神官には分からなかった。

 

「というわけで、わたしの言葉に嘘はありません! そもそも、淫魔が嘘()()吐かないなんてのは言いがかりだよー。真言が使えないって神話の一文を皆拡大解釈するんだもん。ひどいよ」

 

 と、ぶつくさ彼女は何事か不満を述べると、とにかく、と声を張って女魔術師の質問に答えた。

 

「冒険者になったのは、冒険者に憧れて。辺境に来たのは、御方の託宣(ハンドアウト)から。企んでいることはー……おいしいごはんをたくさん食べたーい、友達がいっぱいほしい! かな?」

 

 ――おいしいごはん……って……。

 

 その言葉の裏の意味に気付いて、女神官は顔を赤くした。淫魔は精気を食べるとされている。その方法は、つまり、そういうことだ。

 

 淫魔術師は、そもそもね、と前置きして、表情を改めた。

 

「わたしたちは、人間の敵にはならないよ。だって人間がいなくなったら、わたしたちは本当に飢えて死んじゃうもの」

 

 その透き通るような微笑みに何を見たのか。

 一同はただ神妙な顔で黙るより他になく、それは、彼女の表情が柔らかく崩れるまで続いた。

 

「……まあ、わたしはそんなの知らないんだけどねー! 一一〇歳のわかぞーだから!」

 

 三人はゆっくりと顔を見合わせた。

 初めに女神官が頷いた。それを見て、剣士と女武闘家も笑みを浮かべた。

 

 女魔術師はそれでも、険しい顔で杖を構えたままだった。

 

「……信じないわよ」

「うん」

「信じれるわけ、ないじゃない」

「……そうだね」

 

 淫魔術師は微笑んだ。

 

「それでいいんだよ、きっと」

 

 翼が宙を切り裂いた。角が禍々しく捻じくれた。尻尾が、鞭のようにしなった。

 

「ありがとう」

 

 淫魔は己の姿を晒すと、それきり黙り込んだ。

 どこか寂しげでもあり、嬉しげでもあった。

 

 女魔術師は杖をぐっと握りしめて、歯を食いしばり、その微笑みを睨みつけて。

 それから、ゆっくりと杖を下ろした。

 

「……これから冒険だっていうのに、呪文を消費するわけにもいかないわ」

 

 女魔術師はふいっと顔を背けた。

 

「行きましょう。まずは村人の救助だわ」

 

 四人は顔を見合わせて、それからくすりと笑って、彼女の背を追った。

 

 

 




・淫魔は真言を使えない
 ということにしたい。
 ゴブリンシャーマンとかデーモンのような混沌の軍勢が使う呪文と人間の使う真言を比べると発音が違う。これは秩序の神の言葉と混沌の神の言葉という違いがあるとされている。
 ということにしたい。
 これとは別に、淫魔は真言を唱えられない。ということにしたい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話

 

 

 §

 

 

 剣士。剣を振るうのみ。水泳が得意。

 女武道家。武術の心得。頑丈。

 女神官。奇跡を三回。内訳は《小癒(ヒール)》と《聖光(ホーリーライト)》。手当の知識。

 女魔術師。真言呪文を二回。内訳は《火矢(ファイアボルト)》《力矢(マジックミサイル)》《解錠(アンロック)》。知識に自信あり。

 

「で、あんたは結局術師なの?」

「術師だよ~? 念術師(サイキッカー)!」

 

 真に力ある言葉によって世界を改ざんするのが魔術ならば。

 意識から霊魂を通じ世界に直接触れるのが、念術(サイキック)だという。

 

「そんなものがあるのか……?」

「人間は苦手だよね、心にまつわるあれこれがさ。誰でも出来ることなんだけどなー……。まぁ、わたしたちは皆生まれつき得意だから、あんまり強くは言えないかも」

「……淫魔が人を惑わすっていうのは、念術によるものなのね」

「そうそう。何の修養を積まなくてもえっちな方面では色々できちゃうのが淫魔なの。中でもわたしはきちんと修養を積んで術者となったので~す」

「具体的に何が出来るの?」

 

 淫魔は唇に人差し指を当てて首を傾けた。

 

「真言呪文と念術魔法を比べると、そうだなあ……回数はこっちのほうが多いけど、破壊力とか事象の規模だと比較するまでもなくそっち、って感じかなあ。まあ、最上級の念術師はとんでもないらしけど、それは真言使いも同じだしー……」

 

 細かな違いはいっぱいあるけど、と付け加えて、淫魔術師は滔々と語った。

 

 詠唱はいらないため肉体的な阻害は呪文の発動を妨げないが、一方で感情の制御や複雑な思考がいるため、精神的な影響に弱い。

 呪文の使用回数の回復が、真言使いより容易。

 物質的な影響を与えることもできるが、力場を生み出して操ることを除いては、真言呪文のように自然の法則に逆らって世界を書き換えることはできない。

 

「わたしは特に心術と幻術が得意だよー。皆の心の怯えを取ったり、怯えさせたり、幻を見せたりできるの。でも肉体的な傷を負わせるのは難しいかな。支援職だって思ってねー」

「なら、案外バランスもいいんじゃないか?」

 

 タイプの違う前衛二人。回復を担う神官。呪文攻撃をできる術師と、支援を専門にする術師。

 なるほど確かに、役割分担はできているように思える。即席で組んだにしては上出来だ。

 

「んー……斥候か狩人かがいたら一番だけどー」

「ないものねだりしてもしょうがないでしょう」

「それもそうだねー」

 

 一党は気持ちを切り替えて、洞窟へと踏み込んでいく。

 洞窟は狭く、二人並んで戦うのは難しいが、一方で単純な一本道のようだった。

 

 松明は淫魔術師が持つべきだ。杖や身振りを必要としない彼女は荷物持ちにはうってつけだ。

 先頭を剣士。次いで女武闘家。中心に明かり持ちの淫魔術師。女神官。最後尾が女魔術師だ。後方の順番は入れ替えてもいいが、一本道ならこれで後衛の安全は保証される。

 そういう女魔術師の提案に皆従った。

 

「……だ、大丈夫でしょうか?」

 

 女神官はおっかなびっくり洞窟を歩いている。彼女は先程から不安そうにしてばかりで、ただでさえ良くない女魔術師の気分を更に苛立たせる。

 この場で唯一……淫魔術師を含めていいのかわからないが……ゴブリンへの対抗手段を持たないのだから気持ちは分かるが、怯えてばかりいるなら冒険者なんてやめた方がいいに決まっている。

 

「とりあえずゴブリンと戦った経験はあるけどー」

「そう、なんですね?」

「うーん、巣穴に乗り込むっていうのは経験がないからなー。先頭の二人も気をつけてね」

「大丈夫さ! ゴブリンとなら俺だって戦ったことがある。俺たちなら勝てるさ」

 

 剣士がどんと胸を叩き、わぁ~頼りになる~、と淫魔術師がおだてる。女武道家はちょっとすねたように剣士の足を蹴った。

 

「狭いんだから後ろばっか見てデレデレしないで!」

「し、してない! してないぞ!」

 

 普段と様子が違う女武闘家に、焦って弁解する剣士。

 事情を察した二人のうち、淫魔術師はあらあら~と微笑むばかりで、女魔術師は額に手を当てることしかできなかった。

 

「どうだか。さっきもあの人に頭撫でられてスケベな顔してたじゃない! おっぱいに見惚れてばっかりで……! あんたは少し痛い目見ればいいのよ!」

「してないだろそんな顔! おーい、先に行くなよ! 待てって!」

「ちょっと、隊列を乱さないで!」

 

 肩を怒らせて女武道家が先へ行ってしまうのを、剣士は慌てて追いかけた。

 一声かけるが二人とも聞く耳を持たない。

 予想よりなお悪い一党に、女魔術師はため息とともに肩を落とした。

 

 ――前衛は痴情のもつれ、神官は臆病、おまけに一党には淫魔が混じる。

 

「前途多難ね……」

 

 その細い手を、別の手がそっと掴んだ。

 

「急ご? 遅れちゃうよ」

 

 淫魔術師は顔を覗き込むようにしてそう言った。

 

「……眩しいから、松明近づけないで」

「あ、ごめ~ん」

「あとあんたも早く行くのよ。立ち止まってないで」

 

 手を振り払い、逆に淫魔術師の背を押して、女魔術師は歩き出した。

 彼女の手の妙な熱さが移った気がして、忌々しげにその手を睨む。

 

「ごめんごめ~ん。ほら、女神官ちゃんも」

「え、は、はいっ」

 

 女神官も背を押され、三人とも駆け足で、前衛二人を追いかけようとした。

 その背後でがらりと岩が崩れる音がして、女神官ははっとして振り返った。

 

「……どうしたの?」

「今、後ろで何か、崩れるような音が……」

 

 ――何を言い出すかと思えば……。

 

「あのね」

 

 女魔術師は失望と苛立ちの混じった声を出した。前衛との距離は開いている。すぐに追いつかなくてはならないというのに。

 

「私達は一本道をまっすぐ進んできたのよ? 後ろに何かいるわけ――」

 

 そう言って女魔術師が振り返るのと、淫魔術師が手をかざすのは同時だった。

 

「――ゴブリン!?」

「――《不自然な欲情(アンナチュラル・ラスト)》」

 

 後ろから、壁を掘り崩して現れたゴブリンたち。その先頭の一体が、淫魔術師の思念に襲われ、明らかに様子を変えて隣のゴブリンへと飛びかかった。

 女魔術師はとっさに杖を構えた。呪文を唱えられたのは日頃の訓練の賜物だったし、舌がもつれなかったのは奇跡に近かった。

 

「《サジタ()……インフラマラエ(点火)……》」

「手前から三体目をおねがーい!」

 

 淫魔術師の指示に一瞬眉をひそめるも、その通りに杖を向ける。

 見れば、何かの術にかかったと思しきゴブリンは、隣のゴブリンに対して情欲をむき出しにして迫っている。迫られている側は鬱陶しがり、やがて暴力に訴え始めた。

 

 ――淫魔らしいやり方って言えばいいのかしら!

 

 見るに堪えない光景だが、しかし一度の呪文で二人を拘束しているのだから文句もない。

 

「《……ラディウス(射出)》!」

 

 脳裏に刻み込んだ呪文を、塗りつぶすように。

 真言の発動は、そんな感覚が伴う。

 果たして、解き放たれた火矢は(あやま)たず三匹目のゴブリンを射抜いた。その顔面が炎に焼き焦がされる。異臭、異音、そして肉の崩れ落ちる音。

 

 自分の研鑽が、目に見える形となって手応えに変わり、女魔術師の心を高揚させる。

 

「仕留めた! 次を……!」

「待って! 二人が戻るまで時間を稼ぐよー!」

 

 それに水を差したのが淫魔術師だった。

 

「炎はわたしが持ってる! 二人とも行ける範囲には限度がある! 数が多い! 呪文じゃ倒しきれない! だからー、短期決戦よりー、前衛との合流を優先! 《目眩(デイズ)》っ!」

 

 まるで別人のごとく。

 矢継ぎ早に口に出される状況分析が、次には一つの解になる。

 女魔術師は反論の余地もなくそれに従わされていた。

 

「女神官ちゃん!」

「は、はいっ!?」

 

 淫魔術師は……いつの間にか拾っていた錆びた小剣(ショートソード)を拙くも果断な動きで振り下ろし、まず掴みかかってきた同胞を滅多打ちにしているゴブリンに一撃、二撃、脳天をかち割る。続いて、その死体に愛欲を示す発情したゴブリンにもとどめを刺した。

 

「《聖光(ホーリーライト)》、出せる!?」

「でっ……出来ます! やります!」

 

 指示が行き渡る頃には、続く四体目のゴブリンが眼前に迫ってきていた。

 

「《いと慈悲深き地母神よ、闇に迷えるわたしどもに、聖なる光をお恵みください》!」

 

 奥からやってきた四体、五体目のゴブリンが、閃光に目を焼かれて呻き声を上げる。

 

「わたしも《色飛沫(カラースプレー)》習っておけばよかったな……!」

 

 言いつつ、淫魔術師は二人の手を取って下がった。

 女魔術師は歯噛みした。

 

 ――悔しいけど……こいつの言う通りだわ。たかが一匹くらいで調子に乗っていた……。

 

 女魔術師の呪文使用回数は二回。たった、ではない。この歳で真言呪文を二回も唱えられるのは才能ある魔術師の証だ。

 だが、それはゴブリンには関係ないのだ。たとえ自分が同年代でも抜きん出た、学院でも主席を取るような魔術師だとしても、ゴブリンを倒せるのは二匹まで。それで打ち止め。

 ならば、同じ一回の呪文の行使で、二匹ものゴブリンを同時に行動不能にした淫魔術師の方が、仕事をしていると言う他にない。

 

 知らず、女魔術師は杖を強く握りしめた。

 

 その後ろから、前衛の二人がかけてくる。

 

「おい、どうした! ……ゴブリン!?」

「説明は後! 代わって!」

「任せて!」

 

 身軽で細い女武闘家が、壁によった三人の隣をすり抜けて前に出る。

 

「悪い先走って!」

「いいから早く前に立って!」

「この先広くなってたりしなかったー!?」

「え!? あー、ちょっと行くと分かれ道だった! そこなら俺と武闘家で並んで戦える!」

「そこまで下がろー! 女武闘家ちゃん! 無理せず追い払う程度でー!」

「それなら楽勝、よっ!」

 

 始まってみれば驚かされた後方からの奇襲(バックアタック)も、気付けば完全に立て直し、十分に勝てる戦いに様変わりしていた。

 

 ――腹立たしいけど、淫魔なんかに指示されてるのに、なんか問題なく勝てそうじゃない。

 

 先程とは少し違う、地に足のついた高揚感。

 いや……これは連帯感だ。女魔術師は思った。それまで浮ついてた一党が、今は危うくとも一つの集団としてまとまっている。そして、その中心には淫魔の姿。

 淫魔術師は、呪文を使う以上の働きで、一党を支えて見せていた。

 

 自分に、これと同じことが出来ただろうか?

 

 そんな想像が脳裏をよぎる程度には、後衛は少し余裕を取り戻せていた。

 上がった息を整えつつ、戦う前衛の様子に逐一気を配りつつ、時折呪文で援護を挟み、道の小石などをよけながら、三人は剣士の言った広い場所まで進んでいく。

 

「魔術師ちゃん」

「なに?」

 

 途中、淫魔術師が声をかけた。

 

「あなたの呪文が一番強くて、一番便利だから、いっちばんピンチになるまで我慢してね」

「……そうね。雑魚に撃っちゃ、無駄弾よね」

 

 ――おだてたって、魔法は強くならないわよ。

 

 淫魔術師を恨めしげに見やると、彼女はにへらと笑って、それから真面目な顔で前を見た。

 




・不自然な欲情/Unnatural Lust
 対象の情欲に働きかけて別の対象へと発情させる念術呪文。抵抗に失敗すれば強い性欲に一時我を失うことになる。

・目眩/Daze
 対象に一瞬の目眩を起こさせる呪文。
 こつ(ナック)と呼ばれる技法で唱えられている。真言呪文でいう単語発動に相当するもの。

・色飛沫/Color Spray
 幻の強い光と色彩を放射状に放ち、視界を奪う呪文。低位の生物なら意識を奪うこともある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四話

 

 

 §

 

 

 女魔術師は苛立っていたが、それ以上に高揚していた。

 

 淫魔術師、彼女の言葉の節々には、仲間の士気をあげるための嘘や誇張が含まれている。

 それを咎める理由もないのに、女魔術師は唇がとがるのを止められない。

 こちらが素っ気ない態度を取っているのに、臆することもないその振る舞いも、また。

 

「ついたわよ!」

「なんかでけぇの出てきたぞ!」

 

 女武闘家が一匹を仕留めた頃合いに、奥からのそのそと現れたのは、他のゴブリンよりも明らかに図体の大きな、筋肉質なゴブリンだった。

 

「ホブゴブリン!? そいつ強いしタフだよ! ナメてかからないでー!」

 

 前衛に走った一瞬の怯えを、彼女がそっと取り除く。

 背中を押し、言葉をかける。それだけのことで。

 

「わかった! 武闘家、俺がやる!」

「ええ……! フォローするわ!」

「多分怪我なく勝つのは無理だなー……女神官ちゃん、《小癒(ヒール)》の準備! 魔術師ちゃん!」

「はいっ!」

「任せなさい! 《サジタ……インフラマラエ……》」

 

 言うまでもなく。

 淫魔術師は、この一党の要になっていた。

 

 人間ではないから、混沌の勢力の生まれだから、そんな忌避の気持ちは皆もうなかった。

 的確な指示と、術使いの妙。柔らかくもよく通る声は皆の心に滑り込み、時に奮い立たせ、時に冷静さを与える。

 

 勝てる。

 その気持ちの源泉は、間違いなく彼女にあった。

 

 だから――。

 

「あぐっ……!?」

 

 彼女が悲鳴を上げた時、全員が振り返ってそれを見た。

 

「何!?」

「どうした!?」

 

 彼女の背に、弓矢が突き刺さっていた。

 誰も知らないことだが、彼女の衣服は上等な防具でてきているが、唯一背中だけは、翼を出すために大きく開けられている。彼女の外套は、淫魔たちが生得的に持っている擬態の能力で出来た見せかけのものだ。

 

 淫魔の血も赤いのだな、と女魔術師は場違いにもそう思った。

 同時に、かっとなった頭が、半ば勝手に状況を飲み込んで行動に移していた。

 

 挟み撃ちを受けている。なんとかしなきゃ。

 

「《――ラディウス》っ!」

 

 振り向きざまの火矢(ファイアボルト)が、暗闇を引き裂いて駆け抜けた。

 弓を構えてにたにたと笑っていた、通路の先からやってきた新手のゴブリンを一匹、焦げた肉塊に変えた。

 

 それが悪手だったと、次の瞬間思い知らされた。

 

「う、ぐあっ!?」

 

 鈍い殴打音とともに、剣士がくぐもった悲鳴を上げる。

 身を守ることも出来ずに、無防備な背中を殴り飛ばされた剣士は、そのまま壁に叩きつけられて動かなくなった。ゴブリンが一匹、その背に飛びかかる。

 

 大柄で、筋肉質。並の男より大きなそいつ……ホブゴブリンは、何故か苛立たしげに唸り声を上げると、続いて女武闘家に掴みかかった。

 その握撃(グラップル)の、一度目が偶然に空を切った。

 

「っ、なめるなァっ!」

 

 我に返った女武闘家が、裂帛の気合とともに正拳突きを繰り出した。鈍い殴打音が響き、ホブゴブリンが痛みに呻く。腹巻き代わりにされていた古びた鎧を、砕くことには成功した。

 ……が、その体躯は揺るがない。

 

「がっ――」

 

 怒りのままに掴み上げられた女武闘家は、必死になって手足をばたつかせて、拘束から逃れようともがいている。だが意味はなかった。膂力には明らかな差があった。

 

「うそっ、いっ、痛いっ! やめろっ、離しなさいっ! 離せぇっ!」

 

 その体が――弧を描く。

 

「ゲ、ぷっ」

 

 奇妙な声が、細い体から漏れた。

 叩きつけられた体から、肺腑が潰れて息が漏れた、そういう声だと、目で見て理解させられた。

 壁に叩きつけられた女武闘家が、ずるずると床に崩れ落ちる。

 そしてそこへ、残ったゴブリンたちが群がっていった。

 

「……え? あ……」

 

 それを、女魔術師は見ていることしか出来ない。

 ()()()使()()()()()()()()()()()

 

「わ、たし」

 

 怒りに任せて放った呪文が、今まだ残っていたのなら、彼女たちを助けることも出来たのに。

 

『あなたの呪文が一番強くて、一番便利だから、いっちばんピンチになるまで我慢してね』

 

 そう言われていたのに。

 

「私の、せい――」

 

 呆然とする間もなかった。

 目の前には、醜悪な緑の小人。

 

「ひっ」

 

 振り上げられた刃に怯える余裕もなかった。喉が引きつって音が出た、それだけのことしか出来なかった。

 だが刃が振り下ろされようとしたまさにその時、手に強く熱を感じたかと思えば、その凶刃は虚空を切るにとどまった。

 

 いや、ゴブリンは確かに女魔術師を捉えていた。ただしそれは幻だったのだが。

 

 ――《分影(セルフヴィジョン)》、いや、さっき、彼女に掴まれた、手が。

 

 燃えるように熱かった、気がした。

 恐怖に尻もちをついて後ずさった女魔術師は、はっとして振り返った。

 

 見れば、ああ、見れば……どうだろう。

 崩れ落ちたはずの淫魔の、細く豊かな体が、震えながらも身を起こそうとしていた。

 その黄金の瞳は、炯々と燃えている。

 

 倒れて尚、彼女は呪文を練っていたのだ。恐らくは、先の二人が偶然に守られたのも。

 

 地に落ちて転がった松明が、ゴブリンの姿に隠れて消えた。

 ぎょろりと、半ば不自然に、ゴブリンの顔が女魔術師から逸れて、淫魔術師へと向かった。

 

「そう……こっちだよぉ……こっちに、おいでぇ」

 

 淫魔術師は気丈に微笑むと、ゴブリンを誘うように手招きした。

 ゴブリンは愚かにも淫魔の誘惑にまんまと釣られて、目の前の女魔術師すら無視して淫魔へと歩み寄る。邪悪な欲望で下半身を膨らませて。

 

 守ろうとしている。この期に及んで。私たちを。

 あんなにひどいことを言ったのに。

 恐れて遠巻きに見ていたのに。

 

「っ――」

 

 それに比べて、私は?

 

「ぅ……あ――」

 

 女魔術師は、握りしめた杖を、衝動的に振り上げた。

 

「ああああああっ!」

 

 女魔術師は、悲鳴を上げながら、ゴブリンへと駆け寄った。

 そしてゴブリンが何事かと足を止めるより早く、それを振り下ろした。

 ゴブリンの小さな頭蓋に杖の先端が叩きつけられる。

 

「うああああっ!!」

 

 打撃音。怒る声。足りない。もう一度振り上げて、振り下ろした。

 

「ああああ!! ああああっ!! うあああああっ!!!」

 

 ゴブリンが刃を取り落とす。もう一度。悲鳴が上がる。もう一度。悲鳴が上がる。もう一度。もう一度……。

 杖がばきりと折れて転がった。

 

「うううぅっ……ううっ……」

 

 ゴブリンの頭蓋は見るも無残に潰れていた。

 振り上げる気力もなくなって、疲労に膝をつき、何度も何度も肩で息をする。

 

「すご、い……がんばったね……」

 

 だがそれも束の間、彼女の声を聞くなり、居ても立っても居られず、もつれた足で彼女に駆け寄って、すがりつくようにして彼女の体を支えた。

 場違いに味わい深い薔薇の香りが、異臭に慣れた鼻を突き刺すようだった。

 

「淫魔、あんたっ!」

「ちょっとまってね……解毒薬(アンチドーテ)……を……」

 

 淫魔は雑嚢のポーチに手を突っ込むと、薬瓶を取り出した。

 しかしその手が痙攣しだし、薬瓶は滑り落ちようとする。

 

「はっ、だめっ!!」

 

 女魔術師は地に落ちようとする解毒薬に転げるように飛付いて、なんとかそれを体全体で抱え込んで守ってみせた。

 

「うえ……ごめ……」

「今飲ませるからっ! 口開けてっ!」

 

 言葉を発しているのか悲鳴を上げているのか、自分でも分からなくなっていた。

 焦りで震える手をどうにか押し留めてコルクを引き抜き、淫魔術師の艶やかな唇につける。その中身が空になるまで、ゆっくりと傾けて飲ませた。

 

 効果はすぐに現れた。

 震えが止まり、発声は明瞭になり、呼吸は深くなった。

 

「はぁ、はぁ……ごめんね、油断して……」

「ちがっ、違うっ! 私がっ」

 

 まだふらつく体をなんとか立たせて、背中の矢を引き抜くと、淫魔術師はいつものように微笑んでみせた。それがあまりにも痛々しくて、女魔術師は顔を伏せた。

 そこに、ああ、またしても、影が差した。

 

「あ……」

 

 誰が声を上げたのだろう? だが、絶望したのは皆同じだ。そして、分かりきったことだった。

 

 前衛が突破されたのだから、当然、敵は後衛に押し寄せてくる――。

 

 咆哮とともに、ホブゴブリンがその腕を振りかぶった。

 幻といえど、誰が仕掛けたのかは分かるらしい。あるいは野生のカンなのか。それとも、彼女がそう仕向けたのかもしれない。

 大きな小鬼が狙いを定めたのは、淫魔術師だった。

 

 そして、淫魔は……気丈に、しかし蠱惑的に、笑った。

 皆をかばうため。少しでも生かすため。淫魔らしく、誘うように。

 

 大柄のゴブリンは、怒りとはまた違う欲望をたぎらせて、姦婦へと迫る。

 女魔術師はもう何も出来ない。

 呪文を使い果たしてしまったから。

 

 蹂躙される未来を、受け入れることしか出来ない?

 

 ――ふ、ざ、けるな……っ!

 

「《サジ、タ》――」

 

 女魔術師の心の奥から、怒りの炎が形を得て噴き上がった。

 

「《イン、フラマ、ラエ》……ッ」

 

 彼女の頭蓋を鐘の代わりにつくようだった。

 激痛が幾度も幾度も跳ね回り、刻み込まれた真言の燃えさしが傷のように痛む。

 超過詠唱。限界突破。脳裏に刻み込んだ呪文を、魂を代替としてもう一度扱う技。

 

 魂を薪に、魔術師は高らかに、炎の言葉を吐き出した。

 

「――《ラ……ディ……ウス》ッ!!」

 

 〈火矢(ファイアボルト)〉が宙を駆ける。

 何事かと振り返るホブゴブリンの胴体を焼き焦がし、腹を抉り、炭化させ……。

 しかし、倒れない。

 

「……く、そ」

 

 ホブゴブリンは激痛に悶えるが、悶えるだけ。

 その生命を一撃で奪い尽くす程の力は、彼女には出せなかった。

 

「あ、だ、だめ――ッ!!」

 

 矛先が変わる。

 怒りのままに振り抜かれた拳が、女魔術師の細い体を宙に吹き飛ばした。

 

 地面に叩きつけられた体が、勢いのままに跳ねて浮かぶ。

 体がバラバラになるかのような激痛が全身を襲った。

 吹き飛んだ眼鏡がひしゃげる。

 

 悲鳴が一つ、洞窟に響いた。

 

 

 §

 

 

 女神官は、それを震えて見ていることしかできなかった。

 淫魔が崩れ落ちるのも、前衛が薙ぎ倒されるのも、女魔術師が猛るのも、吹き飛ばされたのも、淫魔が悲鳴を上げたのも。

 表情は恐怖に歪み、喉は石にでもなったかのように動かない。

 震えは止まらず、しかし目を閉じることも出来ず、そして何も出来ない自分の卑怯さを省みることすら出来ず、目の前の恐怖に凍りつくだけ。

 どうか気付かないで、と祈るだけ。

 

 浅い呼吸が聞きつけられたらと恐れても、それを止めるようなことさえできず。

 ただ、恐怖に竦んでいた。

 

「なんでっ、魔術師ちゃん!」

「あん、たに、ばっか……」

 

 女魔術師の体は、通路の向こうへ転がっていく。

 淫魔術師が、それをかばうように追いかける。

 

「かばわれて……らんないわよ……」

「そんなの!」

 

 目の前を歩く巨躯に、小水を漏らして泣き叫ぶようなことさえ、今の彼女には出来なかった。

 ホブゴブリンは、あくまで二人の下へと向かっていく。

 それに安堵することも出来ない。

 見開かれた目で、おぞましい鬼の横顔を眺めることしか。

 

「ねえ……悪魔なんでしょ……」

「もうやめて、喋らないで……!」

 

 女魔術師の息は浅い。緊急で手当をしなければ、命に関わる。

 そんなことが分かったとして、今動くことは女神官には出来なかった。

 

 誰か助けて。神様どうか。

 そう祈ることしか。

 

「私の……魂も……命も、全部、あげる……から……」

 

 女魔術師は、ひゅうひゅうと隙間風のように呼吸を漏らした。

 

 もう、祈ることしか。

 

「せめて、あんた、くらい……助かってよ……ね」

 

 それくらいしか、彼女たちにできることは残っていなかった。

 

 

 ――そして、足音が洞窟に響く。

 

 

 こつ、こつ、こつ。小さくとも、決断的な足音が。

 

「まず、一つ」

 

 小鬼の命を刈り取る音が、洞窟に響く。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五話

 §

 

 

 男の手際は鮮やかだった。

 

「二」

 

 女武闘家に群がって陵辱の限りを尽くしていたゴブリン二匹を、投擲と剣で順繰りに殺害する。剣士の肉を裂いていた一匹の刃を鎧で受け止めると、返す刀で首を跳ね飛ばした。

 

「三。……田舎者(ホブ)一。要救助者三」

 

 ホブゴブリンが振り返るのに合わせて、女神官は彼を見た。

 

 みすぼらしい男だった。

 薄汚れた革鎧と、鉄の兜。小さな盾を腕にくくりつけ、松明を握っている。いや、今まさに松明を放り捨て、短剣を手にとった。

 片手には中途半端な長さの、数打ちの剣。まるで戦場をさまよう鎧の亡者のようだ。

 

 そして、ホブゴブリンが新たな敵に苛立ち混じりの咆哮を発しようとしたそのときには、腹へと短剣が突き刺さっていた。

 最初に女魔術師たちが対処したゴブリンが持っていた、毒塗りの短剣だった。そして突き刺さったのは、先程女武闘家が渾身の一撃を叩き込んだその場所、砕けた鎧の奥だ。

 痛みと毒にもがく巨躯。そこへ、鎧の男が飛びかかる。

 

「手負いではな」

 

 鋭い蹴りがホブゴブリンの股間を強打する。何かが潰れる音。大小鬼(ホブ)の凶相が、激痛に裏返る。

 間髪を容れずに首筋へ突きを一つ。男は素早く剣をひねり、延髄を割った。

 

 崩れ落ちる巨体を男はじっと見つめ、蹴り転がし、もう一度心臓に刃を突き立てた。

 

「……四」

 

 それから松明を拾い上げ、男は周りを見回した。

 

「奥に二。道中に四。……これで十」

 

 ゴブリンだ。男はまず、ゴブリンの死体を数えた。

 そして、死体を一つ一つ検めて、怪しければ剣を突き立て、血脂で使い潰した剣を放り捨て、二つ三つとゴブリンたちの武器を拾い上げ。

 それから、人間のことを見た。

 

「死者なし。重傷者三。軽傷者一。合計五」

 

 女神官は知らず身を竦ませた。男の得体のしれなさに。ともすれば、ゴブリンよりも恐ろしく見えるその男に。

 返り血にまみれたその男は、戦場を一瞥し終えると、頷いた。

 

「予想が外れた。だが運がいい」

 

 その言葉に、女神官の鈍った頭は具体的な想像をしたわけではなかった。少なくとも、重傷の女魔術師が遺体荒らしかと思ったようには。

 ただ、漠然とした不安から逃れようと、枯れた喉からどうにか声を絞り出した。

 

「……あの、あなたは……一体……」

 

 男は答えた。

 

 

小鬼を殺す者(ゴブリンスレイヤー)

 

 

 

 §

 

 

 その名前を滑稽と笑うものはいなかった。

 ドラゴンでも、デーモンでもなく、最弱の魔物たるゴブリンを殺すもの。

 

「駆け出しか」

 

 男……ゴブリンスレイヤーは女神官の前に無遠慮に屈み込むと、その認識票を見て言った。

 当の男の認識票は、松明の光を確かに照り返す、鈍い銀。

 

「銀、等級……」

 

 例外措置である白金、国家の難事に立ち向かう金、それら二つの下。

 第三位。事実上の、在野最優の冒険者。

 

 自分たちとは比べるべくもない、熟練の戦士だ。

 

「無傷か」

「え、あ……」

 

 女神官が何を言うのも待たずにゴブリンスレイヤーは立ち上がると、今度は女魔術師と淫魔術師の下に向かう。

 そして、ベルトポーチから小瓶を取り出し、瀕死の女魔術師に突き出した。

 淡い光をはらはらとこぼす、緑色の薬品……治癒の水薬(ヒールポーション)だ。

 

「飲めるか」

 

 返事はない。

 

「なら口を開けろ」

 

 男は全く遠慮の一つもなく女魔術師の口を開かせると、そこに薬を流し込んだ。

 女魔術師は抵抗もできずにそれを受け入れる。

 

「あばらを骨折。背骨は無事。臓腑に痛みはあるか」

 

 ゴブリンスレイヤーの言葉に、ゆるく首を横に振る女魔術師。

 

「運がいい。すぐに治る」

「よかった……魔術師ちゃん……!」

 

 言葉の足りないその男の言葉に希望を見たのだろう、淫魔術師が、泣きそうな顔で女魔術師にすがりつく。

 ゴブリンスレイヤーは、今度はそちらを見た。

 

「肩か。解毒薬は……」

 

 そして、床に転がる小瓶を見た。

 

「飲んだようだな」

「あ、うん、わたしは大丈夫……他の子は?」

「剣士が毒を負っている。間に合うかは賭けだ」

 

 ゴブリンスレイヤーは立ち上がった。

 気付けば淫魔術師の擬態は解けていたが、男は何も言わずに、気を失っている女武闘家と剣士にも水薬を飲ませた。

 

「後は祈れ」

 

 女神官はそう言われて反射的に手を組んでいた。

 男はその間に淫魔術師の前に立ち、機械的に問いかけた。

 

「何人だ。いくつ見て、いくつ殺した」

 

 女神官がその言葉の真意を測りかねる間に、淫魔術師は指折り数えてから答えた。

 

「一党は五人。見たのは、えーと、田舎者(ホブ)を込みで十。うち六はやったよ」

「そうか」

 

 男はその場の人員を一人ずつ確認し、戦闘痕を眺めて、一つ頷いた。

 

「上位種を知る。横穴への対処もした。通路で戦闘。その後に背を取られたか」

「……すごいね、分かるんだ」

「よくある失敗だ」

 

 「既知の空間で一対一で戦えば十中八九危うからず」というのはならず者のごとき者(ローグライク)の教えだが、それを正しく実行できる初心者は少ない。

 

「見ろ」

 

 ゴブリンスレイヤーは松明の転がる床を指で示した。

 

「足跡だ」

 

 言われてみれば、左の通路は足跡がいくつもあるのが分かる。右は少ない。

 

「左は恐らくゴブリン共の詰め所だ。音を聞きつけてお前たちを見つけ、機を伺っていた」

「機を……ゴブリンが?」

「奴らは夜目が利く。子供程度の浅知恵もある」

 

 女神官の言葉に、ゴブリンスレイヤーは笑いもせずに言った。

 

「いいか。奴らは馬鹿だが、間抜けじゃない」

 

 その言葉になんの誇張もないことくらい、皆身にしみて分かっていた。

 

「他に上位種は見たか」

「ううん、ホブだけ……ホブ以外にもいるの?」

「見ろ」

 

 ゴブリンスレイヤーは松明をかざして、通路脇の壁を示した。

 その壁には糞尿で模様を描かれており、中央にはカラスやネズミの死骸や骨で出来たなにかの物体(オブジェクト)があった。

 

「トーテムだ。つまり、呪術師(シャーマン)がいる」

「シャーマン……」

「呪文使いだ。そこの娘より上等の」

 

 女神官はもとより、女魔術師も、呪文を使うゴブリンの存在など聞いたこともなかった。

 女魔術師の口元から、ぎりり、と歯ぎしりの音が聞こえてくる。

 ゴブリンスレイヤーはそれに興味すら示さずに、後ろを指して言った。

 

「俺は横穴から行く。ここで根切りにする」

 

 女神官は彼を見上げた。彼はもう、こちらに一瞥もくれなかった。

 

「お前たちはどうする。戻るか、待つか」

 

 そう問われて、女神官はまず淫魔術師を見た。

 この一党を率いていたのは間違いなく彼女だ。だから、彼女の判断に従おう。

 疲弊した精神は、そうやって思考停止を選んだ。

 

 だが、淫魔術師は困ったように眉根を寄せて、視線を彷徨わせていた。

 ゴブリンスレイヤーと、倒れ伏す女魔術師とをだ。

 

「……行くに、決まってるでしょ」

 

 静寂を破ったのは、女魔術師のそんな声だった。

 

「あっ、魔術師ちゃん!」

「ゲホッ、くそっ……ああもう……私たちは救助に来たのよ。やり遂げなきゃいけないわ」

 

 咳き込み、血の塊を吐き捨てながら、女魔術師は身を起こしてそう言った。

 

「……何ができる」

「見て分からない?」

 

 女魔術師は怒りすら籠めてゴブリンスレイヤーの後ろ姿を睨みつけた。

 

「呪文は使い切ったわ。杖も折れた。あんたのお荷物になるくらいでしょうね。出来ることなんて何もない! 分かってるわよそんなことは!」

 

 それは、火薬に火がついたかのような向こう見ずな激発だった。

 

「魔術師ちゃん……」

「ここで引いたらおしまいでしょう!? 一生ゴブリンなんかに怯えてがたがたしながら生きることになる! そんなの私は絶対にごめんよ! 生きてる! なら前に進む! 何をしてでも徹底的にやってやる! ダメでもあんたのケツ追っかけてやるわよ! 悪い!?」

 

 女魔術師は精一杯に強がって、そう居直って叫んでみせた。

 萎えてしまいそうな気力を、どうにか振り絞って立ち上がっていた。

 

「いや」

 

 女魔術師の激高を意にも介さず、ゴブリンスレイヤーはそう言った。

 

「お前たちは」

「やる」

 

 淫魔術師も立ち上がった。

 

「呪文があと三回。催眠とか、幻術とか、そういうのが出来るよ。念の()()()はもう品切れ」

「上等だ」

 

 ゴブリンスレイヤーの兜が、こちらに向いた。

 洞窟の闇よりなお底深い闇を見て、女神官は身を竦ませたが、しかしそれでも、恐怖を飲み下して己を奮い立たせた。

 

「やり、ます……」

 

 錫杖を床について、背中を壁に預けて、震える膝が床に落ちようとするのに抗って、女神官はついに立ち上がった。

 

「行きます。回復と、光源が、あと二回できます」

「そうか」

 

 ゴブリンスレイヤーは洞窟の奥を睨んで、言った。

 

「十分だ。行くぞ」

 

 

 §

 

 

 果たして、そのとおりになった。

 

 ゴブリンスレイヤーの行いは徹底していた。

 たかがゴブリンと侮ることなく、周到に罠を張り、道具を惜しみなく使い、隠れ、だまし、不意を突き、そして確実に殺す。

 

「先に俺とお前で行く。残りはこれで罠を張れ」

 

 ゴブリンスレイヤーは女神官を連れて横穴に潜る。奇跡の光が穴から漏れ、悲鳴が聞こえ、そして二人が飛び出してきた。

 女魔術師と淫魔術師は、手渡された杭を打ってロープを張り、簡易な罠とした。

 罠は十分に機能し、二人を追ってきたゴブリンたちはバタバタと倒れた。

 

「合図したらこれを投げ込め」

「これは?」

「メディアの油とか、ペトロレウムとかいう、燃える水(ガソリン)だ」

 

 女魔術師は、手渡された陶器の壺を、言われた通りに投げ込んだ。

 ゴブリンたちはよく燃えた。

 

「呪文は使うな」

「不測の事態に使う? なら自己判断でいいかな」

「ああ」

 

 ガソリンの煙に燻されて飛び出てきたゴブリンたちを順番に殴り殺す中、一匹だけ、ロープを飛び越えてきたゴブリンがいたが、それはすぐさま淫魔術師の手に堕ちた。ゴブリンの死体に発情し腰を振るそれを、ゴブリンスレイヤーは無感動に叩き殺した。

 

「十七。下るぞ」

 

 彼の号令に皆無言で従った。

 

 汚濁にまみれた村人を、女魔術師と女神官で助け起こした。まだ息があった。

 

「彼女は私が背負うわ。とりあえず外までは」

「分かった」

 

 床の炎を踏み消したゴブリンスレイヤーは、ずかずかとゴブリンシャーマンの死体へと歩み寄っていく。その隣を、淫魔術師が並走した。

 

「……あいつ」

「分かっている」

 

 ゴブリンスレイヤーは、死んだふりをしていたシャーマンの頭蓋を叩き割って処理した。

 

「十八。上位種は無駄にしぶとい」

 

 そして、骨の玉座を蹴倒したゴブリンスレイヤーは、その奥の隠し倉庫を開いてみせた。

 中に居たゴブリンの子供たちを指差して、お前たちは運が良かったと小鬼殺しは言う。

 

「奴らはすぐ増える。もう少しばかり遅ければ、五十匹には増えていた」

「……ここで殺さなきゃ」

「ああ」

 

 淫魔術師は端的に言って、ゴブリンスレイヤーも短く肯定した。

 

「子供も、殺すんですか」

「奴らは恨みを一生忘れん。それに、巣穴の生き残りは学習し、知恵をつける」

「……より悪辣になる……」

 

 女魔術師は苦い顔をした。

 ゴブリンが弱い理由が分かった。

 

「そうだ。生かしておく理由などどこにもない」

 

 女神官は、己の声が凍えているのを自覚した。

 それでもなお、聞かねばならないことがあった。

 

「善良なゴブリンが、いたとしても?」

 

 女魔術師は黙って、隣に立つ彼女を見た。

 とうの淫魔は、適当な棍棒を拾い上げて、構えた。

 ゴブリンスレイヤーは。

 

「善良なゴブリン」

 

 不思議そうに呟いて、思案し。

 

「探せばいるかもしれん。だが……」

 

 そして、棍棒を振り上げた。

 

「……悪しきを定められたものにとって、善行とは善に関わらぬこと」

 

 淫魔は曖昧に笑ってそう言って、そして彼に習った。 

 

「人前に出てこないゴブリンだけが、良いゴブリンだ」

 

 だから、誰も、何も、言えなかった。

 

「これで、二十二」

 

 そうして、初めての依頼は成功した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六話

 

 §

 

 

 辺境の街に戻った後、剣士と女武闘家は、村に帰るとだけ告げた。

 それを引き止めることは出来なかった。その資格は、自分にはなかった。

 

 助け出された村娘は、世を儚んで神殿に入ったらしい。

 陵辱を受けた女が修道女となるのはよくあることだ。それはよく知っていた。

 

 ゴブリンスレイヤーは詳しい報告をする、と言って組合(ギルド)の奥に消えた。

 当然、慰めの一つもかけることはしなかった。

 

 淫魔術師は、ひとまず皆の生還を喜び、報酬を皆に分け合った。

 死ねば終わりだから、という彼女の言葉は、これ以上なく重かった。

 

 女魔術師は……冷たい目でこちらを一瞥すると、去っていった。

 何を言おうとしていたのかなんて、分かりきっていた。

 

 ――あの時、何もしなかったくせに。

 

 女神官は、とぼとぼと宿に帰り、身を清め、布団に籠もった。

 何も考えたくなかった。

 

 こんなことが、誰も幸せにならなかった今日のことが、よくあることで済まされるなんて。

 何も出来なかった自分だけが、なんの傷もなく帰ってきたなんて。

 

 もし自分が何かできていれば、こんなことにはならなかったかもしれない、なんて。

 

 考えられる余裕は、まだなかった。

 

 

 §

 

 

 ゴブリンスレイヤーは役場の奥で、受付嬢に仔細を報告していた。

 

「終わってみれば二人が重傷、一人も軽くない傷を負い……ですか」

「ああ」

「……とりあえず、全員生きて帰れたことを喜ぶべきでしょうね」

「そうだな」

 

 彼は言葉少なだ。報告を受けるときは、知りたいことをこちらから聞かなければならない。

 その心得がある受付嬢は、知るべきことを一つずつ、根気よく尋ねていった。

 

「その、どうでしたか。彼ら一党はどのように敗北を?」

「……直接目にしたわけではないが」

 

 ゴブリンスレイヤーは端的な言葉で、あの時見て取れた彼らの戦いを語った。

 横穴から奇襲を受け、これにうまく対処して隊列を入れ替え。後退して有利な地形で戦おうとするが、上位種の登場と挟撃、頭目の負傷が重なり、壊滅した、ということを。

 

「頭目……一体誰が?」

「淫魔術師と言っていた。翼と角の生えた背の高い女だ」

 

 受付嬢に緊張が走る。

 

「……もし、ですが。彼女が、彼らの壊滅を誘導した、という可能性は?」

 

 その問いに、ゴブリンスレイヤーはしばらく考え込んだ。

 彼がそうして悩むところを、受付嬢は久しく見ていなかった。

 

「……いや、ないだろう」

 

 ややあって、ゴブリンスレイヤーは結論を下した。

 

「後衛への大勢の奇襲を捌き、浮足立つだろう新人たちの手綱を取る。新人とは思えん。呪文の使い方も、頭の回転の早さも、十分にある。結果的には、奴の指揮は裏目に出たが……確かに生存への意志があった。一党を壊滅させるだけなら、もっと適当でいいはずだ」

 

 彼がこれほど喋ることは中々ない。こちらの意図は通じている。

 そして、それだけ優秀な冒険者だったということも分かった。

 

「あの一党のゴブリンに対する知識がもう少し深いか、射られたのが他の後衛だったか、あるいは腕のいい斥候がいるか、他の連中がもっと慎重だったならば、あの一党は無傷で冒険を終えただろう。つまるところ、あの一党の壊滅の原因は、運だ」

「……なるほど」

「それに、奴は仲間の安否一つにうろたえていた。罠に嵌める側の様子ではない」

 

 ゴブリンスレイヤーはそれきり黙り込んだ。

 

「……ありがとうございました。色々と余計な手間をかけさせてしまってすみません。報酬には少し色をつけておきますね」

「分かった」

 

 ゴブリンスレイヤーはすっくと立ち上がると、荷物を背負って応接室を出ようとし、そこで止まって振り返った。

 

「一ついいか」

「はい?」

 

 彼は僅かに首を傾げて、受付嬢に問うた。

 

「淫魔とはなんだ?」

 

 

 §

 

 

 ふらつく足を叱咤して、折れた杖を抱えて、どうにか宿に荷物を投げ込んで。そこでようやく空腹を自覚して、のろのろと部屋を出た。

 凝った食事をする余裕はなかった。考えるのも億劫で、適当な酒場に足を向けた。

 

 席についてぼうっと品書きを眺めていると、飲みたくもない酒が今だけは必要なのだと気付かされた。読めない品書きを放り捨て、食事もそこそこにきつい蒸留酒を頼んで、待つことしばらく。

 

「あ、いたいたー」

 

 聞きたくない声が聞こえてきて、女魔術師は溜息をついた。

 

「女魔術師ちゃーん。相席いいー?」

 

 淫魔術師は、まるで冒険に出る前と同じような気楽な様子だった。

 何を答える前に席に腰を下ろした彼女を見て、女魔術師は口を開き、そして閉じた。

 

「……好きにして」

「わーい! あ、店員さん、この酒蒸しとエールでー」

 

 ――追い払えばよかったのに。

 

 そうは思っても、実際に彼女をどう拒絶すればいいのかも分からなかった。

 

 間を置かずに、蒸留酒とエールが運ばれてくる。店員の配慮に舌打ちしたくなる。

 にこにこと楽しそうにジョッキを手にとった彼女に遅れて、自分でも信じられないほどとろくさい動きでグラスを手に取った。

 

 透き通る褐色の水面で、自分の顔がぼやけている。

 それをじっと眺めて、それから顔を上げた。淫魔が、そうするのが当然とばかりにジョッキを掲げて待っていた。

 

「冒険の成功に!」

「……皆の無事に」

 

 乾杯、とグラスとジョッキをぶつけた。

 ぶつけて、何もかもが腹立たしくて、女魔術師はグラスの中身を思い切り煽った。

 

「わお」

 

 喉が、腹が、じゅうじゅうと音を立てて焼けるようだった。

 グラスを一息で空にして、それを机に叩きつける。

 

「っはぁ……!」

 

 そうしてようやく、はらわたで唸り続けていたやり場のない感情の獣が、多少溜飲を下げたのを感じて、ようやく、そうようやく、まともに話せるだろうと彼女の顔を見た。

 彼女のぼやけた顔は、しかし分かりやすいくらいににこにこと笑顔だった。

 

「……わざわざ私を探したわけ?」

 

 淫魔術師はきょとんとした顔を、斜め下に崩して笑った。

 

「うん……他の皆は、そういう気分じゃなさそうだったから」

「は。そりゃあ、高く買われたものね。私は見ての通り余裕綽々よ。杖は折れたし眼鏡は割れたし報酬は安いし、大赤字で気分がいいわ」

 

 店員になるべくきつい酒をもう一杯と言いつけて、女魔術師は淫魔術師と向き合った。

 

「そういうあんたも、余裕そうね」

「うーん……わたしの感覚だと、えーと、「死ななきゃ安い」ってやつ」

 

 淫魔術師は既にジョッキを半分ほど空にしていた。

 

「生きてるなら、明日がある。今日が最低な気分なら、明日はきっと少しはマシだよ。違う?」

「悪いことに底なんてないでしょう。今日が始まりかもしれないのよ」

「明日の賽の目が一か六かなんて分からないよ」

 

 もう一度ぐいっとジョッキを傾けて、するすると彼女は酒を胃に落とした。

 底に残った僅かなエールを見つめながら、淫魔術師は笑った。

 

「なら、骰子を振れることは幸運なんだ」

 

 何を答えるでもなく、女魔術師は揚げた青唐辛子を噛んだ。酒にひりついた舌を別の熱さが焼いていく。顔をしかめて、ぐっとそれを飲み込んだ。

 

「……そうかもね」

「うん」

 

 ちょうどそこへ、店員が料理と酒を並べ始めた。

 二人はしばらくそれらに没頭した。何も言わずに皿を空にした。

 それは全部フリで、きっとお互いに、何を話すか考えていた。

 

 それから、どちらからともなく視線を合わせた。

 躊躇しなかったぶん、先手を取ったのは淫魔術師の方だった。

 

「ありがとね、あの時」

 

 ――ああ、もう、この女は。

 

 ちょっとした情緒の駆け引きで、この女に敵うことはないんだろう。そんな想像が脳裏をよぎって嫌になる。

 言おうとした言葉が何で、いくつあって、どう並んでいたか、綺麗さっぱり忘れてしまった。

 だから、女魔術師は素直に答えるしかなかったのだ。

 

「……呪文使い切った私より、あんたの方が役に立つって思ったから」

「そっか」

 

 飲み込もうと思っていたものが、腹の底から溢れてくる。ああ、分かっている。

 女魔術師は赤い顔をうつむかせ、言葉を濁さないように必死になって、答えた。

 

「私があそこで突っ立ってても、何も出来なかった」

「……そうかな」

「何も。できなかった」

 

 握りしめたグラスが揺れて、ぼやけた顔がぐちゃぐちゃに歪む。

 次頑張ればいい。そんな慰めだけは聞きたくないし、考えたくもない。

 酒はよくない。吐き気がする。今度から気をつけなくては。ああ、分かっている。

 

 今度なんて、もしかしたらなかったのだ。

 

「……あんたがいなかったら、きっと皆――」

 

 がたん、と椅子が転がる音がした。

 顔を上げてみれば、淫魔術師は青い顔をしていた。

 

「大変だぁ……」

 

 深刻そのものの顔で、彼女は言った。

 

「宿、取るの忘れてたよぉ……」

 

 女魔術師は、深くため息をついた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七話

 今日は奢るということで、合意となった。

 

「ごめんねぇ、相部屋頼んでぇ」

「今日だけよ。次は馬小屋に転がすから」

 

 淫魔術師は酔い覚ましのハーブを噛み噛み、おろした雑嚢からあれこれと荷物を取り出しては積んでいく。手鏡、櫛、香油、水袋、布と桶をまとめ、ろうそくに火をつけた。それから少し迷ってから瓶詰めの雑香(ポプリ)の蓋を開けて机の上に置いた。ローズマリーの香りがふわりと広がる。あとはアセビと柑橘類だろうか。

 花の香りが充満するたび、仮宿でしかないのに、自分の部屋を侵食されていくようだった。趣味が良いから文句は出なかったが、むしろそんな心の細かな機微まで見透かされているような気がして女魔術師は落ち着かなかった。

 

 窓を開けた。夜風は酒に火照った顔を覚ますのにはちょうどよかった。

 椅子に座って、その異常に長い髪を()かしていく淫魔。それをベッドに腰掛けて眺めていると、ふと彼女はこちらの顔を見て小首を傾げた。

 

「やったげよっか?」

「……自分でやるわよ」

 

 任せたくないという気持ちもあったが、それよりもそのすさまじい毛量を梳かす労力に自分の分まで上乗せするのは気が引けた。

 棚から私物の櫛を取り出して、肩口で切り揃えた髪にそっと通す。その手付きが、目の前で鼻歌を歌う彼女より拙いことに気付かされて、女魔術師はまた一つ溜息をついた。

 

 櫛を通すたび、水で洗ったはずの髪から、燃える水(ガソリン)の発した煙の臭いや、ゴブリンの返り血、自分の血、背負った人の流した血、あの洞窟そのものに充満していた腐臭、そういったものがこぼれてくる気がして、吐き気がした。

 それも、彼女が半分ほど済ませる間に、全部かたがついてしまった。

 

 香油をなじませようと荷物を開けて、あ、と小さく呻く。ちょうど辺境についた日に切らしてしまったことを忘れていた。今日買って帰るつもりだったのだ。最初の依頼を華々しく終わらせて、その金で、少し良い物を買おうと。

 

 そうしていると、やはりと言うべきか、気のいい淫魔はまるで当たり前といった顔で香油の瓶を差し出してくるのだ。

 

「使っていいよ」

 

 それが当然、みたいな顔をして。

 

「……何かで返すから」

「部屋貸してくれただけで十分だよー」

 

 差し出された瓶を、顔も見ずに引ったくった。

 何か言えただけ上等だった。

 

 手に取ると、甘く華やかな薔薇の香りが、鼻孔を柔らかく撫でていった。薔薇の香料は一瓶集めるのに花畑が一ついる、高価で貴重なものだった。油も彼女が知らない透き通った金色のもので、質が高そうに見える。安部屋一つ貸しただけで借りていい品ではなかった。

 

 髪になじませて、布で余分を拭き取る。

 そうすると、まるで彼女に抱かれているような気分になる。

 あの時、抱きかかえられたあの時に、血と腐臭の向こうから漂ってきた薔薇の香り……。

 

「……ねえ」

 

 辛抱たまらず、その源泉が何であるかも分からないまま、衝動的に女魔術師は立ち上がった。

 

「お礼代わりに、手伝わせて」

 

 香油の瓶を持ったまま彼女の隣に並んで、答えを聞く前に彼女の髪に手をかけた。

 生まれてから一度も刃を入れたことがないのではと疑うような毛量。狼の毛皮のようにつんと癖が立っているが、つまんで見れば絡まり合うこともなくさらさらと指の間をこぼれていった。

 綺麗な髪だった。

 

 彼女は、笑うでも拒否するでもなく、ただじっと女魔術師の顔を見つめて、ぽつりと言った。

 

「……ありがとう」

 

 どうしてそんな声を出すの? とは言えなかった。

 いつもなら無邪気に喜ぶだけなのに。そんな、泣きそうな声で。

 

 それから長い間、ただ無言で彼女の髪に指を通した。

 香油なんていらないくらい彼女の髪は美しく、手触りは絹にもまさる心地よさだった。手入れしている側が魅了されそうなほどに。

 

 それも、永遠には続かない。

 

「……ねえ」

 

 整えた髪を軽くまとめて、湿らせた布で手と顔を拭いた後。

 同じベッドに並んで腰掛けて、女魔術師はようやく問いかけた。

 

「何か言いたいことがあるんじゃないの」

 

 ――自分は何も言えないくせに、棚に上げて……馬鹿みたい。

 

 自嘲が口の端に表れた。結局自分は何も出来ないままだ。彼女のような果断さも、勇気も、持ち合わせていなかった。足を引っ張って、無様に生き延びて、それでおしまい。

 

「何か言いなさいよ」

 

 責めるような口調。けれど自分は誰に向けて言っているんだろう。

 こんなことを言いたくて、彼女を部屋に上げたんだったっけ?

 

 ひょう、と風が頬をはたいた。

 逃げるように顔を上げると、彼女の顔が目の前にあった。

 

「ちょっ」

 

 ぐっ、と肩を掴まれる。覆いかぶさるようにして、淫魔は少女を押し倒した。

 

 ベッドが揺れて軋む。

 壊れた眼鏡が、床を転がって跳ねた。

 

 翼がばさりと広がったのが僅かに見えた。

 すだれのように垂れ下がった彼女の髪が、雑香(ポプリ)の香りも、夜の空気も、全て遮った。

 薔薇の香りが充満して、その奥から、形容しがたい甘い香りが漂ってくる。脳髄を直接酒に浸したみたいな、くらくらするほどの酔いに似た何かが、体中を巡り出した。

 彼女の馬鹿みたいに大きな乳房が、柔らかな体が、指先が、己の体に溶け込んでくるようだ。

 

「――……いいわよ、別に」

 

 顔を背けて、素っ気なく吐き捨てた。鼻先が彼女の髪をこすった。

 

「あげるって、言ったもの。好きなだけ犯せばいい。ゴブリンよりずっとマシだわ。淫魔を部屋に上げたんだもの、覚悟は……」

 

 そして背けた頬に、ぽた、と雫がぶつかって跳ねた。

 

「……どうして」

 

 ……ようやく、二人は目を合わせた。

 彼女の金の瞳は、似合わない赤に彩られて潤んでいた。

 

「どうして、あんたが……泣いてるのよ」

 

 彼女の顎先から、ぽたぽた、涙がこぼれ落ちてくる。

 拭うこともできずに、何故と問いかける。答えはない。

 淫魔はただ泣いていた。

 

「答えなさいよ。……ねえ」

 

 ――ああ、だめだ。耐えられない。

 歯を食いしばって飲み込んでいたものが、腹の奥にしまっておこうと思っていたものが。

 

「――泣きたいのは、こっちよ!」

 

 わっと、溢れ出した。

 

「頑張って勉強して! 学院を主席で出て! 冒険者になって華々しく活躍するんだって子供みたいに夢を見て! それで出会ったのがあんたよ!」

 

 ずっと我慢していたことが、全て無駄になってしまった。

 言わないでおく、ただそれだけのことさえ、出来なかった。

 

「私の知らない魔法! 私より優れた呪文捌き! しかも美人で、おしゃれで、気遣いも出来て、背も高くて、私より、世渡りも上手でっ」

 

 彼女にあたって何になるんだろう。

 命の恩人なのに。こんなことをぶつけてどうしたいんだろう。

 女魔術師は、自分のことさえ分からない。

 

「私よりずっと頭も良くて、私の知らないことも知ってて、色んな事を考えてて、呪文なんか使わなくたって皆のことを支えられて! 優しくて! 私()()()よりずっと、ずっと!」

 

 ――あの時。死んでもよかった。

 私よりもずっと優れた、私よりもずっと優しい、そんな人が、私のせいで死ぬのは嫌だった。

 あなたには生きていて欲しかった。

 

 したり顔でひどいことを言った。そんな相手に、あなたは優しかった。

 何が虚飾と色欲の種族だ。彼女のどこが! 誰より誠実だったのに!

 私達のほうが、よっぽど虚栄心でいっぱいだ!

 

「何も出来なかったっ!」

 

 精一杯取り繕っていた表情は、今はもうぼろぼろと泣き崩れていた。

 

「ゴブリンにも劣るって! 私の努力はその程度だったっ! 私っ、皆を守れなかったっ! あなたに言われてたのに! そんなことも守れなくて!」

 

 自分の全てが嫌だった。

 こんなに優しい彼女に嫉妬するくらいなら心なんてないほうがよかった。

 無力な子供が、子供じゃないと背伸びして、それに巻き込んで皆を死なせかけた。運が悪かったら死んでいた。

 もしあの時誰かが来なければ。

 もし、彼女と出会えていなければ……死んでいたのだ。

 

「私なんか、わたしなんかぁっ……!」

 

 最後の言葉を吐こうとしたまさにそのとき、その頬を細い指がそっと撫でた。

 涙の跡をなぞり、なぞって、そして淫魔は泣きながら微笑んだ。

 見たことのない笑顔だった。

 

 言葉という言葉がふいと引っ込んで、泣いて黙るしか出来なくなってから、次はわたしの番とばかりに、淫魔術師が口を開いた。

 

「わたし、わたしね……嬉しかったの――」

 

 覆いかぶさる彼女との、距離が少し近づく。

 

「皆、遠巻きだった。わたしのことを、まっすぐ見ようとはしなかった」

 

 こんなふうに。そんな言葉が、彼女の脳裏をよぎった。

 

「石を投げる人もいる。陰口を叩く人もいる。でも一人面と向かって対峙する人はいない……いなかった。だって、そうだよね。それはとっても……疲れるから」

 

 始めから、受け入れられると思っていたわけではなかった。行いで、人となりで、心の善さを示すことで、少しずつ見方を変えてもらわなくてはならなかった。

 けれどそれは、至高神から免状をもらってなお、変わらなかった。

 

 それを責めるつもりはなかった。ただ、寂しかっただけ。

 

「わたしたちはうそをつく生き物だから」

 

 ――だけど、あなたは違った。

 

「だからね、ああやって言い募られたとき、嬉しかったの」

「あっ、あれは……だって……私が、自分を賢く見せようって」

「それでも、皆が避けるはずの所に、あなたは一人で踏み込んできた」

 

 それが嬉しかった。

 どんなに笑顔を振りまいても、どんなに気遣いを繰り返しても。あるいは、体を重ねても。睦言と睦言を、体液と体液を、どれほど交換しても。

 その僅かな隙間だけが、一度だって埋まらなかった。

 

「きっとね? きっと、わたしは……本当なら、あのとき皆を見捨てて逃げたと思うの」

 

 だって、見知らぬ人なら替えがきく。

 人は淫魔に体を求め、淫魔は人に餌を求める。

 ただそれだけの関係なんだから、深入りなんて誰もしない。

 

 あの場で逃げ出して誰が咎めよう?

 周りは半ば数合わせで組んだだけの頼りない新人。状況は最悪で、自分は攻撃手段を持たない。人同士でだって、命をかけるかどうかは半々あればいいほうだろう。

 

 自分だけなら、いつでも逃げられた。自分は善人だと主張したいなら、誰か一人適当に守ってもよかった。それくらい、残る三回の呪文でも簡単だった。

 

 骰子を振れるのは幸運なことだ。

 明日に骰子を投げればいいのだから、今日命を張って振るべきじゃないのだ。

 

「だけど」

 

 鼻と鼻が触れ合う距離で、その緑色の瞳を目にいっぱいに映した。

 この距離で快楽が伴わないことが、例えようもなくむず痒かった。

 こんなに透き通った目に見つめられることには、慣れていなかった。

 

「わたしのことを、あなたはちゃんと問い詰めてくれた」

 

 あなたはそれを、ただの虚栄心と言うけれど。

 

「わたしの怪我に、真っ赤になって怒ってくれた」

 

 あなたはそれを、愚かな間違いと言うけれど。

 

「わたしのために、体を張ってくれた」

 

 あなたはそれを、自暴自棄だと言うけれど。

 

「わたしに、言いたくないこと、いっぱい言ってくれた」

 

 あなたは、言わない方がいいって思っているけれど。

 心をさらけ出すことは悪いことじゃないって、わたしはそう信じている。

 

「わたしは、それがうれしかったの」

 

 ――だって、わたしは淫魔だから。

 

 うそと、みだら。それが全て。

 夜の闇を笑って歩く、月に愛された女たち。

 体を貪り、心をたぶらかし、人を惑わす、下賤な魔物。

 そうあれかしと祈られるが故に、かくあらんと祈ることはなく……。

 

 そんな相手と、誰が真面目に取り合うんだろう?

 

 わたしたちが吐く優しい言葉が、気遣いが、まことの心から生まれたものだと、どうやって証明すればいいんだろう?

 結局、そうして(ほだ)した相手を、食い物にしてしまうのに。

 

 わたしたちは、心の全てを嘘偽りにしなければ、生きていけないのに。

 

「あなた()()()、いいの」

 

 祈りを込めて、淫魔はそう締めくくった。

 吐息と吐息を交換しながら、唇が触れ合わないギリギリの距離で、黄金の瞳はじっと緑の瞳を見つめていた。

 

「……きっと、私は足手まといよ」

 

 女魔術師は言った。

 

「なら、次はもっとうまくやれるよ」

 

 淫魔術師は言った。

 

「何度も当たり散らすわ」

「隠されるよりずっと嬉しい」

「出会ったばかりなのに、信頼なんて出来っこない」

「だったら、そうなれるようにがんばるね」

「……私じゃない誰かの方が、きっとあなたを幸せに出来る」

「でもわたしは……あなたと幸せになりたい」

 

 女は困ったように眉根を寄せた。

 

「……何よ、それ。まるで告白みたいじゃない」

 

 淫魔は照れたように微笑んだ。

 

「そうだね。ちょっとまだ、早いかも」

 

 二人はそっと距離を開けて、お互いの顔をはっきりと見た。

 相手はひどい顔をしていた。

 

「だから……そうだなあ」

 

 たとえ全てが裏目に出ても。

 何もかもが上手くいかなくても。

 色んな事を失敗しても。

 それでも骰子を振ることに、意味があるのだ。

 だから骰子を振れることは幸運なんだ。

 

 そう祈って、淫魔術師は微笑んだ。

 

「わたしと一緒に、骰子を振ってくれませんか?」

 

 女魔術師は溜息をついて、それから、口元だけで笑った。

 

「私でよければ、喜んで」

 

 

 

 §

 

 

 

 ここではないどこか。空と海と大地の向こうの、そのまた向こう側で。

 光と秩序と宿命の神様たちと、闇と混沌と偶然の神様たちが、

 骰子を片手に円卓を囲んでいました。

 彼らは骰子(さいころ)の出目を楽しみ、駒の活躍を喜び、悲しい結末に涙し、時にずるに怒りました。

 

 ある時、〈幻想〉と〈真実〉が遊んでいる所に、別の神様が声をかけました。

 普段別の盤で遊んでいるその神様は、名前を〈虚構〉と言いました。

 

 彼女は、一人の淫魔を見初めると、自分の分身を作り、彼女に託宣を与えました。

 彼女はそうやって、正道を外れた駒を好む神様でした。

 なにせ嘘というのは、誰かのために誰かを犠牲にするものですから、うそとみだらの中に生まれる淫魔は、まず自分に嘘をつかなければ生きていけない生き物なのです。

 嘘の神様としては、これ以上なく愛おしい子供たちでした。

 

 そうして、異端の冒険者が生まれました。

 混沌から生まれ、秩序に洗礼された、中立の淫魔です。

 

 〈虚構〉も、〈幻想〉の隣に腰を下ろして、一緒になって骰子を振りました。

 〈真実〉の用意した冒険は意地悪で、おまけに悪い出目が続きます。

 結局戦いは敗北に終わり、例の『彼』がやってきてようやく、冒険者たちは命からがら生きて帰ることが出来ました。

 〈真実〉は本当ならもっと被害が出たのにと不満げでしたが、〈幻想〉と〈虚構〉はほっと一息をつきました。半ば敗北じみた結末であり、駒たちのいくつかは盤上を降りてしまいましたが、皆無事に帰ることが出来たからです。

 つまらなそうにいじけてみせる〈真実〉の対面、新しい冒険者を用意しなくてはと〈幻想〉があくせくしだすその隣で、〈虚構〉は嬉しそうに微笑みました。

 

 なにせ彼女のお気に入りは、一つ欲しかったものを手に入れたようでしたから。





・このセッションについて
 初心者PLへの導入がメイン。
 サンプルキャラで遊んでるヤツからとりあえずダイス転がしたヤツからGMと相談して早速ハウスルールで変な種族作りやがったヤツまで幅広い。
 出目が悪い方向に転がっていった結果濃厚なロマンシスが発生したため、PLたちはより濃いキャラを用意する羽目になった。

・ザ・ガントレット
 ゴブスレTRPGリリース記念にKUMO先生が書き下ろした、原作一話オマージュの1レベルシナリオ。
 オマージュではあるが原作より明らかに難易度が上がっており、最悪死ぬタイプの罠とか普通に死ぬタイプの罠とか普通に死ぬ条件の挟撃とかが襲いかかってくるため「レベル1シナリオなんて余裕だぜ」と思って調子こいてると原作一話になる。
 原作知識があると一転してヌルゲーになる。

・このパーティの敗因
 斥候のいない冒険とは海図のない航海に等しい。備えよう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章 The Whirlwind
八話


 

 

 

 趙客縵胡纓 呉鉤霜雪明

 銀鞍照白馬 颯沓如流星

 十歩殺一人 千里不留行

 事了払衣去 蔵深身與名

             ――李白『侠客行』より

 

 

 §

 

 

 石造りの廃墟の地下、檻の中で、少女たちが二人身を寄せ合って啜り泣いていた。

 賊に拉致されどこともしれぬ廃墟に連れ込まれたのがつい先日。

 毎日何人もの男たちから陵辱を受け続け、少女たちの精神はすり減っていた。

 このまま村に帰ることもできず、男たちに蹂躙される日々を送るのだろうか。

 やがて病と傷に倒れて捨てられるのだろうか、それとも売り飛ばされるのだろうか。

 散々に弄ばれた豊かな胸を穴の空いた毛布で隠して、二人はさめざめと泣いていた。

 

 助けを求める祈りは天には届かないのではないかと、望みを捨てかけていたその時、ひたひたと足音がした。

 ああまた犯されるのだと絶望する少女たち。しかし……。

 

「みーつけた♥」

 

 そこに現れたのは、べっとりと返り血に汚れた幼い子供だった。

 夜闇に輝く月のような銀の髪と、透き通った青い瞳。ひょこりと動く三角形の耳と、揺れる尾。

 その手には長大な湾刀を下げていた。

 

「あ……あなたは?」

 

 少女は刀を一振り、檻の錠前を切り飛ばす。

 そして片手で狐の印(キツネサイン)を組むと、その口を二度開かせて、蠱惑的に微笑んだ。

 

「通りすがりのちゃんばら狐よ♥」

 

 

 

 

 

 

 二章 『ザ・ワールウィンド』

      あるいは武侠メスガキ狐娘とともに人攫いちんちんをスレイする話

 

 

 

 

 

 

 ()にも(かく)にも、金が入り用だ。

 

「はぁー……」

 

 女魔術師は肩を落として、机の上に乗せたそれらを眺めた。

 学院の卒業の証として授かった杖、だったもの。それと、割れた眼鏡。

 

 それから、痩せこけて餌を待つばかりの、哀れな革の金袋。

 

「……ねえあんた、一緒に骰子(さいころ)振ろうって言ったわよね」

「わたし、嫌いなものがいくつかあるんだけど、金目当てに博打打つ人はとってもきらーい」

「でしょうね」

 

 最後に、向かいに座った淫魔術師の、駝鳥(だちょう)の卵もかくやの乳房。

 

「机に乗せない、わざとらしく寄せない、もっと恥じらいを覚えなさい」

「はーい」

 

 淫魔(サキュバス)は素直に体を起こして、翼が変じたローブを少し深めに被った。周囲の男たちが残念そうに視線を切ったのを、女魔術師は気にしないように努めた。

 駆け出しが折れた杖を眺める姿など、彼女の乳房を前にしたら吹き飛んだことだろう。

 

 ――やり方が卑猥なのよ。

 

 ともあれ、嘆いても金は増えたりしない。

 

「一応、呪文は使えるんだよね?」

「ええ、まあ、一応ね」

 

 折れた杖先に埋まる透き通った柘榴石(ガーネット)を撫でて、女魔術師は膨れっ面で答えた。

 

「大変だけど、出来なくはないわ。ただ……威力は落ちる」

「そうだよねー」

 

 あまり知られていないことだが、呪文使いは発動体がなくとも呪文を操れる。

 しかし杖が呪文の発動の助けになっていることに間違いはなく、より正確に、より強く、と考えるなら、杖は必要不可欠なものだ。

 

「あと、眼鏡もね」

 

 女魔術師は目が悪い。そして眼鏡は高級品だ。

 冒険の最中、遠くが見えないなんて理由でなにかの兆しを見落としたくはない。ただでさえ私生活にも影響が出ているのだ。

 

「とりあえず駆け出しらしく地道に稼いで、繕うか買い換えるかしなきゃだけどー」

「私達にはまず前衛が必要で……」

「ゴブリン相手に杖を折られた新人術師を一党に欲しがる新人なんて、まあまともじゃないよねー」

「おまけに淫魔がついてくる。ゴブリンよりマシ程度の男しか来ないでしょうね」

 

 実に簡素な三角形の堂々巡りだ。女魔術師は嫌味のように言い返して、まるで気にしていない淫魔を睨みつけ、そして肩を落とした。

 淫魔は小首を傾げて、自分のことを指差した。

 

「お金、稼いでこよっか」

「本気で言っているのなら、今すぐここから出ていって」

 

 ――仲間に体を売らせた金で装備を買うくらいなら、死んでやる。

 

「えへへ、だよね」

 

 そんな女魔術師の怒りを受けて、しかし当の淫魔は嬉しそうに頬を染めてうつむいた。

 面倒くさい、と息を吐くより他にない。

 

 淫魔(サキュバス)祈らざるもの(ノンプレイヤー)、らしい。

 昨日寝物語に聞いた話では、淫魔は……いや、淫魔を含む多くの古く有名な種族は、大抵『古くそうあれかしと生まれたもの』だという。

 

 人を惑わす嘘をつき、淫らな行いで命を搾る。

 夜な夜な男の夢枕に立ち、下劣な夢で堕落に誘う。

 海深くから美しき歌声を響かせて、船人を操り情夫にする。

 ……夢精を誤魔化すための嘘から生まれ、淫らなものだと指さされる。

 

 逸話は様々。しかしそうして『そうであれ』と願われるから、淫らで嘘つきになる。

 それを祈ったのが神か人かはともかく、彼らは古い時代に望まれたあり方を捨てられない。

 

 だから、淫魔は嘘つきで。だから、誰も真面目に取り合わない。

 

 だからこそ、彼女は嘘偽りのない感情をもって向き合ってくれる誰かを求めている。

 

 分かってはいるが、面倒くさい。

 

「……まあ、でも、選り好みできる立場ではないってのは確かね……」

 

 今更実家に頼るのも土台無理な話だ。最悪、身売りを考えなければならないかもしれない。死ぬよりも、純潔を金で散らすほうがマシだからだ。

 言いたくはないが、手練手管を習うのに最適な人材は目の前にいる。乳も尻も顔もある。愛嬌はないし、したくもないが、――ゴブリンよりはマシだ。

 

 心折れた二人のことを思い出して、女魔術師は顔をしかめた。

 

「とにかく、私はしばらく組合の雑務でもなんでもして、杖をなんとかするわ」

 

 これでも賢者の学院を主席で出たのだ。知識も知恵も教養もある。そこらの新米よりはずっと出来ることは多いはずだ。今ここで活かせないなら、何のために学んだのやら。

 

「あんたは」

 

 別んとこで冒険なりしてなさい、と言おうとして、向けられた視線に口をつぐんだ。

 

「本気で言ってるのならー?」

「……悪かったわよ」

「よろしー」

 

 淫魔術師は微笑み、女魔術師は溜息をついた。

 そして、ずるずると重い足取りで受付へと向かった。

 

 

 §

 

 

「そう都合良くは行きませんねえ……」

「そうね」

 

 女魔術師は分かりきった言葉にただ頷いた。

 受付嬢は頬に手を当てて視線を宙にさまよわせた。

 

「確かに、学院を主席卒業というのは、一種のステータスですけど」

「所詮実績のない子供、でしょう?」

「そうなりますね。少なくともここでは」

 

 知識を生かした仕事を探しても、それを証明する身分がないから、受けられない。

 受付嬢の言葉は簡潔だった。

 先立つものがない。金も身分も。そんなことは分かりきっていたが……。

 いざこうして口に出されてみると、存外堪えるものだった。

 

「それに、そういった知識を求められる仕事は外注されることも少ないですし、いわんやあらくればかりの冒険者組合(ギルド)では、となりますね」

「そうよね」

「こちらとしても、冒険者さんに組合の仕事を振り分けるのは、あまり……」

「そうでしょうね。まあ、アテにしていたわけじゃないわ」

「そちらの仕事をお探しでしたら、学院の方と連絡をとって、伝手を頼るほうがいいと思います」

「あー……考えておくわ」

 

 その選択を取れば、たしかに文官だの公務員だのにはなれるだろう。だがそうなると淫魔術師とはお別れの可能性も高いし、恐らく自分は冒険者を引退することになる。

 女魔術師はひらひらと手を振って話を流した。

 

「とりあえず、何かの採取だとかドブさらいだとか、今の私とあいつでも受けれそうな仕事を適当に見繕ってくれないかしら。当座の食い扶持だけでも稼がないと」

「かしこまりました」

 

 受付嬢は感心したように頷いて、書類の束を何度か捲った。

 大抵、駆け出しの冒険者が地に足のついた思考に落ち着くまでには、それなりの期間がある。

 それは、手酷い失敗をしたらとか、残酷な現実に直面したらとか、そんな分かりやすい転機からくるものではなくて、そういったものの総合である『泥臭くやるしかない』という現実を飲み込めたときに起きるものだ。だいたい、短くても一月はかかるのだが。

 

「それと、まあ望み薄ではあるけど……杖のない只人の魔術師と祈りの言葉持つ(プレイヤー)淫魔に混じって冒険できる奇特なやつが現れたら、仲介して欲しい」

「中々難しい注文ですね……」

「私達と同じあぶれ者に卦体(けったい)な魔術師ペアがいるって話してくれればいい。ああでも、その、がっついた男は避けて。安全のためにね」

 

 それくらいでしたら……という受付嬢の言葉で十分だった。

 女魔術師は差し出された書類に目を通す。なんだかんだと言いつつも知識の必要な仕事を回してくれる気遣いに感謝しつつ、一つ一つを丁寧に確認していく。

 

 その姿を、受付嬢は難しい顔で見ていた。

 

 ――ゴブリンスレイヤーさんが適任なんですけど。

 

 彼が優秀と評価した術師たち。攻撃と搦手で役割の別れた二人は、なるほどそこだけ聞けば引く手数多の人材だ。そしてそれを躊躇わせるいくつかの要素を、ゴブリンスレイヤーは気にもとめないだろう。

 

 ――ですが、うーん……。

 

 受付嬢とて、この十年でそれを考えなかったことはない。

 だが実際の所、そうして引き合わせても彼とうまくやれる人間はいなかった。

 何より、昨日まさにゴブリンによって悲惨な目に遭った彼女たちに、ゴブリン退治の日々を送らせるのはどうなのか、という思いもある。

 

 それに、ゴブリンスレイヤーは仲間を必要としない。

 あるものでやる、と彼は言って聞かないのだ。

 

 悩んでいるうちに、女魔術師は依頼を選んでしまったようだった。

 薬草の採取依頼だ。野外活動能力はともかく、まず薬草類への知識が必要だが、彼女はそれを持ち合わせていると語った。

 集団との戦いでなければ、あるいは偶発的遭遇で済むのであれば、二人でも対処できると。

 戦闘能力に不安のある人間が受けるには相応しい依頼で、文句のつけようもない。少なくとも下水道へ潜るよりは堅実だし、稼ぎもいいだろう。

 

 ――でも、見違えましたね。下手な助けはいらないのかも……。

 

 報告を聞くに、最初の冒険で随分な絶望を味わったと思うのだが(事実帰還したばかりの彼女の憔悴ぶりは酷かった)、彼女は一夜で立ち直り、未来を見据えて行動を始めている。

 昨日あった驕りも消えて、地に足のついた考えで行動しているようだ。そこにかの淫魔が合わさるなら、新人によくある死に方はしないだろう。

 

 それでも不運が起きれば死ぬのが、冒険なのだが……。

 

「……はい、承りました。無事のお帰りをお待ちしています」

「せいぜいゴブリンが出ないことを祈っておいて」

 

 それはもう、と受付嬢が頷くのを横目に、女魔術師は依頼書を手に戻っていった。

 

 

 §

 

 

 結論から言うと、受付嬢の祈りは天に届いた。

 〈真実(GM)〉に言わせれば、「同じやつばっか出してもなあ」である。

 

 

 §

 

 

「賊が?」

「はい……」

 

 中継地として薬草の群生地の近辺にある村に訪れた所、慌てた顔で出迎えた村長と話の行き違いが頻発し、詳しく聞いてみれば「賊が出て組合に使いを出した」という話。二人とちょうど入れ違いになったようだった。

 

「……とりあえず話は聞くけど、私達はまだ白磁等級で、今は前衛もいないわ。薬草の採取に来ただけってことは周知しておいて。村の守りの手伝いくらいは出来るだろうけど」

「それでも心強いですので……報酬もお出しします、なにとぞ」

「それも含めて詳しい話をしましょう」

 

 二人は村長の家に招かれ、お茶を片手に詳細を尋ねることになった。

 

 先日のこと、賊が街道を行っていた馬車を襲撃したらしい。そこには村の薬師とともに街に出ていた村長の一人娘も同乗していた。当然、薬師と村長の娘は賊に拉致されることになった。

 

 娘は当然として、薬師もこの村に欠かすことの出来ない人材である。

 村長は泡を食って組合へ早馬を出したのだが……。

 

「『義によって助太刀いたす!』ってやつだ~! 初めて見た~!」

 

 馬小屋を借りて一泊していた旅人の侠客が、宿飯の恩義だと言って剣を手に立ち上がり、見事二人を村に返したのだという。

 はしゃぐ淫魔の言う通り、なるほどそこまでなら美談である。だから女魔術師は問いかけた。

 

「それで、その旅人は戻ってこないと?」

「……荷物は置かれたままなので、恐らくは……」

 

 そうだろう。女魔術師は難しい顔をして黙り込んだ。

 

「つまり、依頼主はあなたというより娘さんか薬師で? 依頼の内容は山賊の殲滅か、代わりに囚われになった剣士の救助ってことね? 随分娘さんに甘いのね」

「いや、はは、おっしゃる通りで……」

「まぁ、山賊を野放しにしておくわけにもいかないっていうのは分かるわ。使いを出した直後に情勢が変わったわけだけど……報酬は組合に使いを出した通りの額面かしら」

「まさしく……」

 

 女魔術師は顎先を指で撫でて考える。依頼としては間違いなく実入りのいい仕事、だが。

 

「……もう少し詳しい話を聞いてから決めるつもりだけど、期待しないで。後衛二人で山賊を一網打尽なんて無理よ」

「そうですか……」

「まぁ、正式に依頼を受けた冒険者が来るまでの夜警の手伝いくらいなら請け負うわ。向こうだって呪文使いのいる村を襲わないでしょ……それでいい?」

「うーん……うん。いいと思うー」

 

 淫魔術師は少し考える素振りを見せたが、すぐ頷いた。

 

「おお、ありがとうございます。それだけでもありがたい話です……」

「報酬の話は後で。賊の規模が知りたいから、娘さんか薬師さんの話を聞きたいわ。あと、地図はない? できれば村だけじゃなくてその周辺も知りたいわ」

「地図でしたらこちらに。すぐに呼びつけましょう」

 

 村長は何事か使いを出し、簡単な地図を机に広げた。

 

「昨日とは大違いだねー」

 

 淫魔術師はにやにやと笑い、女魔術師はそれを鬱陶しげに睨み返した。

 

「……ゴブリン退治とは違うでしょう。相手は人よ?」

「そうだねー」

 

 元々、こうやって段取りを付けて問題を解決する能力はあったのだ。

 昨日は聞いて分かることなどないからと、ただの襲撃と略奪(ハックアンドスラッシュ)だとたかをくくっていたからこそ、ああなった。

 こうして鼻っ面をへし折られてなお迂闊でいられるほど、女魔術師は恥知らずではない。

 

「出来ることは全部やるわよ。こんなものを素人が振り回す程度でもね」

 

 女魔術師は背負った剣を指で叩いた。

 

 ゆるく湾曲した片刃の剣、東洋の湾刀(イースタンサーベル)。昨日の冒険で得た数少ない戦利品だ。

 旅人か冒険者か知らないが、自分たちの前の犠牲者の持ち物らしく、ゴブリンスレイヤーいわく「ゴブリンにとっては大型武器だが、そのわりに細く弱そうに見えたのだろう」との理由で放置されていたようだった。一党が手に入れ、女魔術師が預かっていたはいいものの、使い道もなく売却を待つだけとなっていたのだが……。

 

『私が使っても子供のちゃんばらにもならないけど。あんたが使った方がマシじゃない?』

『わたしも似たようなものだしー……身を守るものは少しでもあった方がいいと思うよー』

 

 といった会話の下、とりあえず藪を薙ぐ鉈代わりの意味も込めて、今日の武器として女魔術師が背負うことになった。手ぶらの女二人よりは多少なりとマシだろうからだ。

 

 おっかなびっくり抜いてみると、切っ先が鈍く光る。湾刀の状態の善し悪しなど錆びているかどうかしか分からないが、とりあえず切れることは確認済みだ。

 当てられるかどうかはともかく、当たればまあ、手傷にはなるだろう。

 やたらめったら振り回せば、まぁ淫魔術師の念術を待つくらいはできるはずだ。

 

「……ま、これに頼ることがないようにしましょう」

 

 女魔術師がそう締めくくった頃、村長が二人の少女を連れてきた。

 その表情が、受けた暴行への絶望などとは別種の不安や自分たちへの期待に満ちていることに、女魔術師は溜息をつきそうになった。

 

 

 




・Whirlwind
 旋風。激しい突進や回転。
 転じて破壊的な力。またそれをもたらすもの。

狐人(ヴァルポ)
 獣人(パットフット)の中でも珍しい種。ということにしたい。
 毛並みの白いものは霊力があるとかで祀られる。ということにしたい。
 読みはWoWのヴァルペラから引いたつもりだったがアークナイツにそのままおったわ。
 ルナール・ヴィクセン・ヴァルペラで迷った。

・杖なしでの真言呪文の発動
 TRPG基準だと四方世界では別に発動体がなくても呪文は使える。
 ただし杖には呪文行使を達成値+1ほど助ける効果がついており、呪文の威力はこの行使判定の結果が良いほど高まる。当然低いと失敗する。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九話

 

 §

 

 

 森の道を行く最中、倒木があって馬車が止まった。

 それをどかそうと御者や護衛が奮闘しているところに、突然悲鳴が上がった。

 混乱している間に男たちがやってきて、二人を捕らえると、馬と積み荷を奪って連れ去った。

 森中の廃墟に連れ込まれ、散々に陵辱された。

 数日後、夜半に狐人(ヴァルポ)の少女が忍び込んできた。

 彼女の手引で馬に乗せられ、なんとか手綱をとって村まで逃げることが出来た……。

 

 二人の話を総合すると、そのようになる。

 薬師も村長の娘も、年若い娘だった。彼女たちがむくつけき男どもに貪られた下りは眉をひそめたが、ともあれ、顛末を黙って聞いていた二人は顔を見合わせた。

 

 ――陵辱の苦しみより、冒険者への感謝や憧れのほうが強く出てるわね……。

 

 こんなことを言いたくはないが、山賊といえど相手は人だ。そして犯すだけで汚物をぶちまけて遊んだり痛めつけて壊すようなこともしない。

 ゴブリンよりは余程ましなのだろうな、と女魔術師は思った。でなければ、助けにきた少女にここまで入れ込むような余裕はないはずだ。

 

 ――犠牲の程度を比べるなんて、愚かなことだわ。

 

 そうは思っても、女魔術師はその愚かな考えを頭から追い出すことができなかった。

 汚濁に沈む女武闘家の姿が、ボロ雑巾のようになった被害者の村娘の姿が、生気を失い馬車に揺られる彼女の姿が、瞼の裏から消えない。

 

 ……二人の少女を帰した後、二人の冒険者は顔を突き合わせて地図を睨んでいた。

 

「結局規模までは分からなかったわね」

「うーん」

「賊の類がそこらの食いっぱぐれならいいけど、落ちぶれた騎士とかだと面倒ね」

「うーん」

「後はまあ、術師らしき女の半森人か……まあ、ずば抜けた使い手なら盗賊なんてやってないか」

「うーん」

「悩んでばっかいないで喋りなさい」

「あだーっ」

 

 女魔術師は腕を組んで乳を寄せる淫魔術師の額を小突いた。

 

「あなたの隣にいるのが意見を聞くだけの木偶だと思ってる?」

「ごめんごめん……うん、じゃあ、ちょっと聞いてね」

 

 淫魔術師は地図を指で撫でた。

 

「まだ整理中なんだけどー、そもそもの状況がすごい大変な感じだなー、って」

 

 言われて、女魔術師は顎で続きを促した。

 

「村近辺に張って馬車を襲って、女二人だけ抱えて戻る、ってことは、最低でも()()()()のためでしょー? 薬師さんは腕を見込んでかもしれないけどー……余裕があるんだよね」

「余裕? ……食料ね」

 

 女魔術師ははっとして地図を見た。

 

「食料の安定的な供給……いえ、()()が可能な状態……ってことね? たかが山賊が」

「うん。粥とか、水とか、そこらへんはきちんと出たらしいし。でも身代金をせしめるとかはしてないしー。お腹すかないくらい奪えるか、農地や収穫で生きていけるか」

「後ろに()()()いるか」

 

 淫魔は頷いた。

 

「何にしろー……飢えて逃げ出した元農民の集い、なんて程度ではないと思うなー。まともな戦士と、それなりの知恵者、どっちかが頭目でどっちかが参謀でー……あ、話にあったローブの半森人の女性がどっちかかな? それで、統率はそれなりに取れてて、総数は二十ないと思う」

「その根拠は?」

「犯されてた時間ー。昼間は休めて日暮れから大体五人くらいを相手して、起きるのがお昼くらいだったんでしょー? てことは交代制(ローテーション)はきちんとできてるよね。規律があって、それを運用できる知恵と従わせられる腕が上にある証拠だよー。それで、まあー、淫魔としての知見だけど、二十以上男がいるならもっと負担がかかると思うよ」

 

 同じ部屋で犯されてて、他に女性はいなかったらしいし。と淫魔術師は言った。

 これほど信頼のおける知見もないな、と女魔術師は溜息をついた。ただでさえこの淫魔は頭がいいのだし、性行為は彼女らの領分だ。

 

「……ということは、やり手が引っ越してきただけではない、わね」

「そうだねー……そういうとこは多分、引っ越す前から女数人連れてると思う。でも二人の様子を見た感じ、前の女を雑に扱って死なせたってわけでもなさそー」

「手慣れてて資源もある、女を狙って拐う、賊……」

 

 女魔術師はそれに該当する集団が一つ思い当たってしまった。

 淫魔は不快そうな顔をした。

 

「人攫い」

「だと思う」

 

 

 §

 

 

 お頭、とありふれた呼ばれ方をするその恰幅のいい只人の男は、相棒である半森人の女と薄暗い部屋で食卓を囲んでいた。

 

「……で? どうだあのガキは」

「実にいい。実にいいが、骨が折れるな。そこらの娘ならば適当に心を折って仕舞いなのだが……先程指でかわいがっていたんだが、強気に抵抗してきたよ」

 

 私としては楽しみが長く続いて嬉しいがね。半森人の調教師はそう言って薄く微笑んだ。

 

「ちっ」

 

 頭目はたらりと脂の溢れる骨付き肉を噛みちぎり、ジョッキいっぱいのエールで流し込んだ。

 半森人はたっぷりと塩を振った焼き魚を、銀のフォークとナイフで丁寧に割いて口に運ぶ。

 そこだけ切り取るならば、上等な酒場で食事を摂る男女というところだ。

 埃の積もった廃墟の一室でなければ、もう少し雰囲気も出ただろう。

 

「ふざけやがって、あのメスガキ。おかげで予定がぱあだ」

「まぁそう言うな。貴重な狐人(ヴァルポ)の処女、それも白子(アルビノ)だ。きちんと売ればそこらの女を何十人捕らえても釣りが来るさ」

 

 奴隷――それも、神殿の認可を経ない、非合法なもの。

 貴族や豪商を相手に、女を集めて手懐けて売る。彼らはまさしく『人狩り』だった。

 それも、裏社会ではそれなりに名の知れた手練である。

 

「そりゃあ俺らはいいがよ。丁寧に調教ってなると穴ボコ使えねえから、子分共がなあ。数もだいぶ減っちまった。参ってるやつもいるしな。どうしたもんかね……」

「そこはお前の手腕と人徳を信じているとも。何、久々に素晴らしい素材を手に入れたんだ。彼女は私の最高傑作になるやもしれん……たまにはじっくりとやらせてくれ」

「まぁ……雑にゃ使えねえわな。乳の薄いガキにあんだけおっ勃ったのは初めてだよ俺ぁ」

 

 頭は骨を更に放り捨て、椅子に背を預けると、顎を撫でて目を閉じた。

 

「調教に金も時間もかけるとして、段取りをつけて、手配師からふんだくる仕込みも含みの、ひいふうみい……まあ半年はかかんねえか? それまで無給となると蓄えが怪しいわな……」

「なら追加で狩るか? しかしそろそろ移動の頃合いだが」

「わぁーってる。同じ場所でぐずぐずして騎士様にでも来られちゃたまんねえ」

 

 空になった皿に、豚と魚の骨が積み重なった。

 人狩り頭と調教師、二人は思うままに腹を満たしても、邪な議論を止めない。

 

「降って湧いた幸運だ。お前の好きにやれ。あの亡霊みてえな手配師が見ただけでイっちまうような上物に仕立てろ」

「流石、話が分かるじゃないか」

「だが別に食い扶持も稼いでもらう。明後日来るあいつに話を通して別に依頼を引っ張って、その日のうちに移動だ。次は南。まず人員の補充、それから適当に狩って当座の食い扶持を稼ぐ」

「分かった。なら時間のかかる仕込みは後回しに……水責め程度にしておこうか」

 

 そうして邪悪な算段がひとまずついたところで、女はおもむろに立ち上がると、恰幅のいい男に寄り添って、肩に手を置いた。豊かな胸がわざとらしく揺れる。

 

「それで、我らが頭目。傑作を仕上げるためには質のいいインプットが必要なのだが」

 

 その薄らと上気した肌が、いつの間にか露となっていた。

 

「ったく……こんなハゲた中年のどこが気に入ったんだお前は」

「そりゃあもちろん、長物を巧みに操るその腕前さ」

 

 はちきれんばかりの肉の塊に指を這わせて、女は嫣然と微笑んだ。

 

 

 §

 

 

 話はまとまった。

 相手は推定でやり手の人攫い。十分な規模と装備があり、統率は取れている。

 狐人の少女剣士は大立ち回りを繰り広げたようだが、それで何人倒せたかも分からない。

 手慣れた人攫いなら仕事をした近辺に長期間滞在するとは思えず、まして狐人の少女という上物を手に入れた今、敵勢力は撤退を考えているものと思われる。

 従って増援を待つ余裕はなく、狐人の剣士を救出するならば二人で向かわなければならない。

 

「諦めるべきね」

 

 女魔術師は端的に結論を出した。

 

「そんな……」

 

 村長の娘が悲壮な声を上げた。

 

「……なんとかなりませんか? 私達の……恩人なのです」

 

 薬師の女性も真摯に頼み込んでくる。

 

 そこに女魔術師は余裕を見てしまって、胸の奥が苦しくなった。

 ぐつぐつと煮えたぎり、ズキズキと傷み、そして喩えようもなく震えていた。

 

 嬲り殺しにされる戦士、凌辱の限りを尽くされた女武闘家、震える女神官、倒れ伏す淫魔、衝撃と激痛。迫り来る巨大な影。敗北と、死と、それ以下の末路。

 

 せめて、泣いてすがるならまだ良かった。

 どうしてそんなにまともでいられるのだ、と女魔術師は喚きたくなる。

 これが小鬼(ゴブリン)だったら口も聞けないだろうに。

 だって二人は。

 私達は!

 

 そんな愚かで理不尽な怒りを抱く自分に、何より(はらわた)が煮えくり返りそうだった。

 

「……好きで見捨てるわけじゃないわよ。でもね、私達二人の手に負える規模じゃないの」

 

 女魔術師は依頼掲示板の内容を思い返して、状況と照らし合わせて、そして唸った。

 

「最低でも鋼鉄等級の一党が必要ね……そこまで腕の立つ戦士は村にいないし、無理よ」

 

 女魔術師がきっぱりと答えを告げる横で、淫魔は首を傾げている。

 それに嫌な予感を覚えて、女魔術師は問いかけた。

 

「……あんた、何考えてるの?」

「うーん……本当に無理かなー、って」

 

 女魔術師は頭を抱えた。

 

「ねえ、あんた言ったわよね? 明日骰子を振れるのは幸運なことだって。なら、ここで博打を打つべきじゃないと思うんだけど?」

「でもね、吟味するのはタダだよー?」

 

 淫魔はあっけらかんとそう言って、女魔術師の顔を覗き込んだ。

 

「もーちょっと考えよ? この村にしばらく残るのは決まりなんでしょー?」

「それは……そうだけど」

 

 女魔術師は眉をひそめ、しばし思案し、そして決然と彼女の顔を見返した。

 

「よしんば方法があったとしても危険すぎるわ。――私は、嫌よ」

 

 結局、それがすべてだ。

 自分のミス。力不足。理由は様々あるだろうけれど、そうじゃなくて……。

 

「もう目の前で仲間が壊されるのは、嫌」

 

 それを受けて、淫魔は嬉しそうに口元を緩めた。

 

「ふふ」

 

 ――仲間、だって。

 

 心配されている。自分は淫魔なのに。

 それが嬉しい。それを、得難くも尊いものだと思う。

 自分のような生まれながらの嘘つきをこうも信じてくれるのが、たまらなく嬉しい。

 

 ――それはきっと、同じだもんね。

 

「だから」

 

 淫魔は微笑んだ。

 

「よく考えてみよー? 時間はないけど、ゼロじゃないよ」

 

 女魔術師は面白くなさそうな顔をして、溜息をついた。

 そして、次は被害者の二人に顔を向けた。

 

「……さっきは遠慮してたけど、もっと詳しく話しなさい。犯されてる間のことも、そうでない時のことも。下衆共のくだらないぼやきの一言一句までひねり出して」

 

 詰め寄るような勢いで、女魔術師は問いかけた。

 

「私達に命張らせようって言うなら、あなた達にも対価は払ってもらう」

 

 二人の少女は顔を見合わせて、頷いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十話

 

 

 §

 

 

 夜の帳が降りる中、廃墟の地下ではぽこぽこと泡が弾ける音がしていた。

 半森人の女が、縛り上げられた年端も行かぬ少女の頭を掴み、水桶に押し込んでいるのだ。

 

「よく耐えるねえ。実にいい……。健気で、いじましい、無駄な抵抗だ。そそられるよ……」

 

 少女は後ろ手に縛られたまま跪き許しを請うような姿勢で、水桶に顔を浸している。

 女調教師はその体を好き勝手にまさぐり、撫で回し、時につねり、責め苦を与えていた。

 

 しかし少女は溺れて暴れるような素振りは見せなかった。

 ただ身動ぎもせずに、規則的に少量の息を吐き出している。

 

 様子を見に来た人狩りの頭は舌打ちをした。

 

「普通の女なら喚いて溺れてる頃だろうが……」

「よく粘るだろう。かわいいものだね」

 

 水桶の中では美しい銀の髪がゆらゆらと揺れており、時折規則的に泡が浮かんでは弾けている。

 それは水中でより長く呼吸を続かせるための呼吸法だった。

 

 男はずかずかとその隣に寄ると、少女の土手っ腹を蹴り上げた。

 

「ごぼっ……っ!?」

 

 泡が大きく吐き出される。

 

「おら、もう一度行くぞ」

 

 先程よりも強く、少女の体が浮き上がるくらいの威力で、容赦のない蹴りが薄い胸を打つ。

 肺から酸素を吐き出させんとする一撃に、しかし少女はぐっと耐えた。

 

「ち……一丁前に耐えやがって。まだだ、もう一回」

 

 男はそう言いつつ足を振り上げる素振りだけ見せた。

 身構える少女を襲ったのは、しかし足裏をくすぐる羽箒の感触だった。

 

「ぼここっ!?」

「ふふっ、隙ありだ」

 

 備えていた痛みや衝撃とは違う感触に、少女は耐えきれず息を漏らしてしまう。

 白い尻尾がばたばたと暴れ、泡がぼこぼこと溢れては弾ける。

 やっとか、という言葉を女調教師は飲み込んで、頭を押さえる手に力を籠めた。

 

「必死に耐える姿もよかったが……さあ、そろそろ私に、君の苦しむ姿を見せてくれ」

 

 少女の身動ぎが増えた。暴れられる程の可動域は彼女には残っていなかったが。

 女調教師は恍惚とした顔で、力が抜けるのを待っている。

 人は少々溺れた程度では死なないことを彼女はよく知っていた。

 

「ああ……いい、いいぞ……たまらぬ動きで私を誘うじゃあないか……」

 

 粘ついた吐息が女の口から漏れた。

 大分お気に入りらしいな、と人狩り頭は溜息をついて、しかし何も言わずにそれを見守る。

 

 女調教師は何度か力を緩める素振りを見せて揺さぶりつつ、窒息死しないぎりぎりまで待ってからゆっくりと顔を上げさせた。

 

「さあ……いったいどんな顔をしているかな……」

 

 パン窯を開ける女のように、邪悪な笑みで少女を迎える女調教師。

 その肌は薄く色づいた肌色をしており、耳は上へつんと尖っている。

 怜悧ながら子供らしい丸みを帯びた顔と、幼く細い体。

 しかし下腹部には赤く入れ墨がなされている。

 伏せられていた瞳が開けば、青玉の瞳がぬらりと揺れて夜闇を裂いた。

 

 極めて貴重な、白い狐人(ヴァルポ)の少女だ。

 

「ハッ――」

 

 息を吸い込む仕草を見て、まさに絶頂の寸前といった女調教師のその顔に、唾が飛んだ。

 

「――ざぁこ♥ ざこ♥ ざこおばさん♥ 肌しわしわ♥ 調教師のくせに水攻めもヘタ♥」

 

 少女の呼吸は正常だった。大気を求めてあえぐことも、飲み込んだ水にむせることもしない。

 蹴りやくすぐりで呼吸を漏らしたのも、一瞬前の暴れる素振りも、全て演技。

 それもそのはず――このあどけない少女は、しかし卓越した剣技一つで山賊の半数を薙ぎ払い、人狩りの頭目と女調教師が二人がかりで挑んでようやく捕らえた、凄腕の剣士なのである。

 

「一人じゃ水攻めもうまく出来なくて~♥ 大人二人がかりで手を上げたのに~♥ 溺れるフリも見抜けな~い♥ うふふっ、子供にやり込められて情けなくないの~?」

 

 少女はそのツリ目を愉快そうに細めて笑っていた。

 

「このメスガキ……!」

「んん~っ? なっさけな~い声がしたと思ったらザコザコおじさんだ~♥ な~んかいかにも悪ぶってたのにあんなへなちょこキックで許してくれてぇ、あ・り・が・と~♥」

「なんだとぉ……!」

「あっそれともぉ~、もしかしてあれがおじさんの本気だったのかなぁ? うっわ~、ざ~っこざこじゃ~ん♥ ざ~こ♥ ざぁこ♥ ざこおじさん♥ 前髪すかすか♥ お腹たぷたぷ♥」

「うるせえ! 髪のことは言うな!」

 

 狐人の少女は、自分が虜囚であることなどまるで気にしないかのように面罵を止めない。そして人狩りの男も、苛立ったからといって傷をつけるわけにもいかない。貴重な売り物だからだ。

 よしんばそうするとしても、それは調教師の領分、男の判断で出来ることではない。

 そして、当の女調教師は……。

 

「ふふ、うふふ……いけない子だ」

 

 吐きかけられた唾を指で拭うとぺろりと舐めて、恍惚とした顔で言った。

 

「こんなことをされたら……濡れてしまうじゃないか……」

「うわ……」

「お前は本当によぉ……」

 

 少女と男は揃ってドン引きしていた。

 

 

 §

 

 

 敵は人狩り。というのは推論だ。

 だから当然、ただの山賊が物取りに襲ってこないよう、夜警を手伝うことにもなる。

 十分に身を休めた二人は、自警団の男たちと交代し、揃って物見台に立っていた。

 

 空気の澄んだいい夜だった。夜空を無数の星々が彩り、月明かりが微かに大地に注いでいる。

 煌々と炊いた松明の炎が村の周辺を照らし出し、影を深めていた。

 

「……別に寝ててもいーんだよ?」

 

 淫魔術師が問うと、女魔術師は首を横に振った。

 呪文の使用回数も疲労も回復している。それでも女魔術師は外に出ていた。

 

「そういう気分なの」

 

 女魔術師はそう言って、夜風に身を預けて目を閉じた。

 

「そっか」

 

 淫魔術師はその長い髪を申し訳程度に押さえると、それきり黙って森に目を向けた。

 

 沈黙が降りた。

 鳴き虫たちがそこかしこで歌い、木々は時折ざわめいた。

 松明がぱちぱちと音を立てて弾け、獣の声が遥か遠くにこだました。

 

「……ねぇ」

 

 それらを飽きるほど聞いた頃、女魔術師は口を開いた。

 

「なんで、私を抱かないの」

 

 夢魔、あるいは淫魔。人に夢を見せ、あるいはまぐわい、その精気をすする……。

 そこには、同性ではいけないという話は聞いたことがなかった。

 

「昨日も、今日も。手も出されてないし、夢を見させられたりもしてない。どうして?」

 

 昨日――寝台の上で、肌を重ねたあの時。

 淫魔は、その名に相応しいことを何一つしなかった。

 その恐るべき手練手管で天上の快楽を刻み込まれることもなければ、気力の限りを吸いつくされて干からびることもなかった。

 睦言を囁き心の芯まで溶かされるようなこともなければ、魂の奥深くまで彼女の言葉に塗り替えられて正気を失うこともなかった。

 

 子が母に甘えるように、獣が同胞を守るように、遊び疲れた子供のように、二人は寝台の上で抱き合って、泥のように眠ったのだ。

 女魔術師は、はしたないことだと分かっていても、隣に立つ美女にそれを問いかけた。

 

 淫魔は――悲しげに笑った。

 

「あなたは、抱かない」

 

 それが、ただの選り好みや好き嫌いでないことくらい、女魔術師にも分かった。

 

「そう決めたから。だって……」

 

 淫魔の表情は泣きそうなほどに張り詰めていて、それでも、いつものように笑顔だった。

 女魔術師はそれが気に入らなかった。

 けれど、黙って彼女の言葉を待った。

 

 また、沈黙が降りた。

 赤と緑の双子の月が、綴織(タペストリー)の如き夜空の星々が、少しずつ角度を変えて巡っていく。

 松明は夜闇を払う対価として少しずつ己の身を擦り減らしていく。

 それらが目にも分かるほどになってから、淫魔は口を開いた。

 

「……なんでもなぁい」

 

 茶化すようなその言葉で。

 女魔術師は猛烈な怒りを覚え、ついで奇妙な無力感を覚えた。

 それが彼女の核心なのだと理解させられ、しかし踏み込むだけの度胸も方法もないことに気付かされて、それがどうしようもなく苦しかった。

 

 笑っている彼女もきっと苦しんでいる。けれどそれを、自分は救えなかった。

 

「……そう」

 

 だから、そう打ち切るより他になかった。

 

「安心したけど、依頼中に空腹で倒れるなんてのはやめてよね」

「うふふ、はーい。ちゃんとご飯は食べてるから、安心してね」

「あんたの食料事情とかも聞きたくないから話さないでね」

「はーい」

 

 軽口を叩きながら、女魔術師は一つ決心をした。

 けれど、それを表に出すことはしなかった。

 

 いつか彼女を救ってやりたい、なんて。

 出会って二日の相手にそこまで入れ込んでいる自分を、努めて見ないようにして。

 

 

 §

 

 

 短く吸い、鋭く吐く。

 咳き込むような息遣いで、咳き込むときの力みなく。

 

 狐人剣侠は暗闇の中で一人調息を行っていた。

 遠く東の国にて功夫(クンフー)を積んだ彼女は、卓越した内功の使い手である。

 呼吸を丹田へと送り、丹田から経絡へと勁を通す。

 全身を巡る気を掴み、身体自在の域へと達する。

 内息を調えるとして調息。内家の修練の基礎の基礎である。

 

 ――まあ身体自在()()()なんだけど!

 

 狐人剣侠はひとりごちた。

 彼女の師は仙境に至るほどの内功使い、少なくとも彼女が知る中で最も功を極めた者だ。

 ある種の完成形を(師に言わせればまだまだ途上であるとのことだが)知っているからこそ、狐人剣侠は驕りを知らない。

 

 ――師父は激流の中で剣を振らせたし。あの程度苦でもないもん。

 

 そして、受けてきた稽古が常識的には虐待どころでは済まないことも知らない。

 

 ――あーあ、棒振りたいな。「一宿一飯の恩義なぞないほうがいい」「人助けなどするものではない」って聞いてはいたけど、こういうことかあ……。

 

 少女は退屈していた。少なくとも、虜囚の憂き目に遭うことが何かしら功になると踏んでいただけに、肩透かしもいいところであった。

 

 ――あの変態女下手くそだし、とっとと抜け出したいんだけどなー……。

 

 問題はその機会がいつ巡ってくるかだ。

 狐人剣侠は内功を巡らせ、聴力を研ぎ澄まし、微かに漏れ聞こえる会話を耳で拾った。

 そうして少しずつ算段を立てることが、今の少女の暇潰しだった。

 

 そしてその機会がそう遠くないことを、彼女は直感していた。




・淫魔の食事
 同性でもいい。
 ということにしたい。
 ◆ユリ・アトモスフィア重点◆


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十一話

(読者の皆さんへアンナウンスンーがあります。
 先日投稿されたあとがきに重大なインシデントがはっせいし、先の物語の解説をミス・コピイー・アンド・ペースートしてしまう問題が起こりました。もう問題はない。
 われわれはこのインシデントオーを重く受け止め、へんしゅうチームをケジメし業む中のサイバネティックス・ユビの着用、精神コンストレイショーン効果のあるサイバーお経の骨伝どう視聴、夜のテトラポッドにはりついた貝取り放題する研修などを決定しました。ごあんしんください。

 最後に、この小説は高度な誤字検出UNIXシステムにより常にスキャンされていますが、脱走者もいるしばくはつすることもある。読者の皆様による監視による誤字報告メントはひじょうに助けになっています。
 また感想もわれわれのパワで、それはとても良いです。返信行為は野良スパイへの警戒のため古代ヘイアン期の翻訳機にかけて暗号化しており読みづらいこともあります。わかったか)



 

 

 

 §

 

 

 ――どうかしてるわ。

 

 森の中まで踏み込んでみて、改めて女魔術師は溜息をついた。

 

 たった二人の駆け出し呪文使いが、会ったこともない少女を救うため、山賊蔓延る砦の廃墟に挑もうだなんて、英雄譚に憧れるにも限度がある。

 しかし、やることになってしまった。

 

 お互いの手札を広げてみれば、淫魔術師はこと対人においては万能に近い、ということをまざまざと理解させられた。潜入、撤退、無力化、用途は多岐に渡る。攻撃呪文しかない自分と比べてなんと頼りになることか。

 そうして場と手札を比べてみれば、気付けば見通しが立ってしまった。

 手があるならやらないのは性に合わない。

 しかしそれは、馬鹿なことをしているという感覚を拭ってくれるわけではない。

 

「危なくなったらすぐ逃げるわよ」

「予定違いがあったら警戒。悪い方に転がったかすぐ判断できないなら撤退。覚えてるよー」

「それでも相当危ない橋なんだからね」

「そだね。でもわたし、ちょっとわくわくしてるよ」

 

 淫魔術師は普段とは違う、高揚感からくる笑みを浮かべていた。

 

「誰かのため、危険を承知で、知恵と機転を頼りに、いざ冒険!」

「……大丈夫だと思うけど、遊び気分でやらないでよね」

「だいじょーぶ」

 

 二人は音もなく森の上を進んでいく。

 しかし二人には森中気配を消す技術など持ち合わせていない。ではどうやっているのか。

 

 答えはこうだ。

 淫魔が飛び、女魔術師を抱えて進む。

 

「……飛べるなら、普段から飛べばいいじゃない」

 

 そう、淫魔は空を飛べる。それも翼を羽ばたかせて飛ぶのではなく、〈浮遊(フロート)〉の魔法のように翼を介して魔法的な力を起こして飛翔する。だから音はならないし、痕跡も残らない。

 

「飛ぶときは飛ぶよー? でも、歩かないと足がなまるから」

 

 淫魔術師は簡潔に答えた。

 

 まず、敵の斥候に気付かれないように接近する手段として、二人は空中からの突入を選んだ。

 もちろんただ高くを飛べば目視で見つかってしまうので、濃く生い茂る木々を選んで、その上を低空飛行している。地表からは木々が邪魔となって視認は困難であり、もし高所から探されても、晴れ渡る青空を背景に飛ぶよりはずっと気付かれづらい。

 

「それより、しっかり捕まっててね。絶対落ちないでね?」

「分かってるわよ。あんたこそ、しっかり掴んでてよね……」

 

 女魔術師は両手を淫魔の首に回して、全身をぎゅっと密着させる。

 この高さであっても落ちればただではすまない。音もなるし跡も残る、骨折は確実で作戦は失敗に大きく近づく、となればいわゆるお姫様抱っこを恥ずかしがるわけにもいかない。

 しかしこの姿勢は半ば必然として彼女の胸とかなり密着することを意味する。というより、淫魔術師の西瓜(ウォーターメロン)のような乳房が二つ腹や膝の上に乗っかっており、女魔術師は別の意味で意識が遠のきそうな思いだった。

 

 ――羞恥とか卑猥とか、それ以前の問題でしょこれ……!

 

 ちょっとでも意識してしまうと、腹の奥が快楽を欲しがってうねるのが分かった。

 今自分を抱きかかえているのはこの世で最も淫らな生き物なのだと思い知らされる。

 間近で、彼女の顔を見る。真剣な表情で前を見据える彼女の横顔の、なんと美しいことか。

 この完成された美貌を前にして、男だ女だといった差は意味をなさない。

 

 彼女の体は真実魔性だった。触れあえば、人としての尊厳さえも快楽に溶けていく。

 もし、もしも、もしも彼女が今自分の体をまさぐったら? 

 耐えられるわけがない。恥も外聞も、それからの自分は考えることをしなくなるだろう。

 彼女に媚びへつらい、快楽を求めて浅ましく腰をくねらせる、愚かな雌豚(えさ)の出来上がりだ。

 

 自分がそうなった未来が容易に想像できてしまって、それを自分の本能が望んでいるのが分かってしまって、女魔術師は発情と羞恥と恐怖と怒りが同時にやってきて気が狂いそうだった。

 

 なんとか耐えようとして顔を上げる。真剣なその横顔が、昨日のそれと重なった。

 

『あなたは、抱かない』

 

 悲しそうに、しかし決然とした、彼女の言葉を思い出した。

 その理由が、おぼろげに見えた気がした。

 

 彼女は決して無知や無理解からこうしているわけじゃない。自分の体がヒトにとってどれほどの毒になるのか、正しく理解している。

 

『そう決めたから。だって……』

 

 ――そうなったらもう、仲間じゃないから……。

 

 性行為は確かに淫魔にとっての食事になる。だが、食事と同じわけがないのだ。

 吸って終わりではない。吸われた側にも影響が色濃く残る。

 肌と肌を重ね合わせて、一つになること。女魔術師はそれを知らないけれど、予想はついた。

 

 果たして自分は、彼女に愛を囁かれて、堕落せずにいられるだろうか?

 

「見えた。あれかなー……?」

 

 淫魔術師のつぶやきにはっと我に帰った女魔術師は、すぐさま気持ちを入れ替えた。

 今追求することではなかった。

 

「あそこで……間違いないと思うわ。本当に廃墟ね……」

 

 山肌が崩れて崖となったあたりに建造物が見えた。

 

「それじゃあ、行くよ――《不可視化(インヴィジビリティ)》」

 

 淫魔術師は十分な集中から呪文を唱え、二人の姿は溶けて消えた。

 数分間の透明化を可能とする《不可視化》により、安全に砦に接近する。

 《不可視化》は攻撃を行うと解除されるが、攻撃しなければ消えたままだ。

 人を抱えながら飛んだって解除はされない……。

 女魔術師は己を抱える相手の感触を確かめながら、視線を砦に集中させた。

 

 そこは昔、まだ辺境の開拓が十分でなかった頃に橋頭堡として建造された砦であるという。辺境と呼ばれる区域が広がったことで放棄されたものだ。勾配の緩やかな山に築かれた陣地で、城と呼べるほどの規模はない。外壁も幕壁もそこかしこが崩れており、侵入は容易そうだ。

 比較的まともに建物が残っているのが西側の建物のみで、依頼人たちの情報では入り口が崩落して完全にふさがっているらしい東は、なるほどほとんど原型を留めていない。

 

 二人はまず東側へと移った。賊が警戒しているのは街道に一番近い側や歩きやすい道のある側、つまり内側は死角だった。まして、入り込みようのない廃墟のそれも屋上の歩廊などを注視するやつはいなかった。

 斥候の目を欺く能力は二人にはない。だから、そもそも斥候が目を向けない位置に隠れたのだ。

 

 時刻は朝。闇夜に紛れる選択肢は、夜目の効かない二人だからこそなかった。相手側に森人や鉱人の哨戒がいたらおしまいだからだ。正確には、淫魔夢魔は只人よりは夜目が効くらしいが。

 歩廊の胸壁の裏に身を潜め(淫魔術師は一度目立つ翼を隠し)、二人は周囲の様子を伺った。

 

「うわ」

 

 淫魔術師が先に気付いて顔をしかめた。

 街道から一番近い入り口は、そこかしこが赤黒く汚れていた。血である。先に乗り込んだ狐人の少女が大立ち回りをした跡で間違いない。

 

「ねぇ、あれ、見える?」

「うーん? あ、お墓だね……」

 

 もう少しよく見れば、砦をやや離れた所に簡素な墓があるのが見えた。

 淫魔が注視すると、その作りは砦と比べてかなり新しいのが分かる。

 

「本当に大暴れしたみたいね」

「にーしーろー……うわー見えてるだけで十一あるよ」

「想定のうち半分くらい減ったってこと? 嬉しい誤算じゃない」

 

 なにせ敵の数は二十を想定してここに来たのだ。半分以上が減っているとなれば楽でいい。

 それに、生き残った相手だって無傷ではないはずだ。

 

 旅人の少女は相当腕の立つ剣士だったらしく、盗賊たちを五人()()()()()と殺害しながら娘たちを馬に乗せて逃し、一人その場に残って戦っていたという。村長の娘は記憶力が自慢らしく、その情報は確かなものだと彼女は断言した。あまりに猟奇的で直視に耐えなかったが、一太刀で鎧ごと腹を掻っ捌き、チーズを切り分けるように首を刎ねるような腕前だったとか。

 その情報が確かなら敵の数は最初の想定よりもっと少ないはず……というのが、二人が作戦の決行を決めた最大の要因だった。

 

 女魔術師は雑嚢の中を確かめ、これから先の手順に思いを馳せる。

 そこには、布にくるまれた薬が複数詰まっていた。

 

 薬師である少女に、薬を山程提供させたのだ。

 なにせ二人は回復ができない。斥候もいなければ前衛もいない。あるものをありったけ使ってもまだ足りない。道具は一つでも多いほうが良かった。

 そして、薬師は非常に協力的で、惜しみなく薬を譲ってくれた。

 女魔術師はそれらをしっかり確かめると、うち一本を取り出して煽った。

 

 いわゆる『能力上昇の秘薬』、服用者の特定の機能を高める薬品だ。

 中でもこれは動作の正確性を高める。一本で銀貨五〇枚はするそれを、躊躇いなく飲み干す。

 効果はすぐに現れた。

 

 女魔術師は指を何度か開いて閉じて、体の動きのキレの違いを確かめた。

 最悪の場合背負った湾刀を振り回すのは女魔術師の仕事だった。

 

 淫魔術師も取り出して数えていた薬を鞄に戻して、知覚力を引き上げる秘薬を飲み干した。それから、強壮の水薬(スタミナポーション)も。

 

「準備できたわね?」

「うん、やろう」

 

 まずは見張りからだ。

 幸い、数は二人しかいない。最悪でも呪文を切れば騒ぎになる前に対処できるだろう。

 中庭を見ている者は(見張りなのだから当たり前だが)一人もいない。

 だが場所がやや離れており、できれば引きつけてから呪文一発で一網打尽にしたい。

 中庭はただの平地だが、崩れた壁や壊れた馬車などが転がっていて、身を隠す場所は幾つかありそうだった。もっとも素人が隠れたところで斥候の目をごまかせるかは賭けになる。

 

 女魔術師は手早く思考をまとめ、作戦を立てた。淫魔術師がそれを幾つか訂正し、実行となる。

 

 潜入の心得などない彼女たちは、立ち塞がる障害を一つずつ排除するしかない。

 しかしすぐさま手を下すのではなく、見張りが交代になるまで辛抱強く待った。

 発覚までの時間は伸ばすに越したことはない。素早く潜入して素早く離脱など不可能だった。

 

「来た」

 

 交代要員が砦の奥から出てくる。それを見て、更にしばらく待ってから、淫魔は女魔術師を一度地上へ下ろして、空中へ浮かび上がった。

 影がかからないように注意して位置を取り、片手を上げて合図を送る。

 それを見て女魔術師は手頃な石を掴み上げ、放り投げた。

 只人はものを投げるのに向く。非力な女魔術師でも、石を投げ込むくらいはできる。

 それは中庭に積まれた瓦礫の山にぶつかって、がらごろと大きな音を立てた。

 

「あん?」

 

 見張りが二人とも気付いた。二人の見張りは遠くから手信号(ハンドサイン)を送り、ゆっくりと瓦礫に近寄っていく。手慣れた動きだ。訓練された斥候と思しい。

 一人が少し離れて、すぐに援護できる位置に立つ。あの動きはどこかの騎士か軍隊の修練を積んだ者たちかもしれない。女魔術師は息を潜めながら思った。

 

「洗脳……うーん、ここは範囲を取るとこかなー」

 

 淫魔術師は上空で二人が同時に効果範囲に収まるのを待ち、精神を研ぎ澄ました。

 感情を平静(フラット)に。幸福でも不幸でもない、激怒も悲観もない、無感情に。余分な思考、余分な感情は術の行使に支障をきたす。念術(サイキック)はこの瞬間的な瞑想から始まる。

 そうして平静を保つ心の上に、呪文に必要な感情を紡ぎ出す。

 疲れた体をベッドに横たえるときの快楽。眠気に逆らう苦しさ。眠りという抗い難き誘惑……。

 

 すべての形あるものは形なき力に支えられている。

 念術師ならば誰もが知っている世界の真理だ。

 

 この世とは何でできているだろう? 肉は何でできている? 水は? 岩は? 金属は?

 粉塵は、積もれば山となり、固めれば石となる。それが答えだ。

 目に見えぬほどの小さな粒を、幾重にも重ねて、形にしている……ものはそうしてできている。

 その粒と粒の繋がりこそが、心の力だ。

 

 この世すべての心あるものは、世界に「かくあれかし」と祈っている。

 平和であれ、健全であれ、神の御心に沿ってあれ、戦乱よあれ、己に都合よくあれ。

 無数の祈りがこの世のあらゆる場所で発される。

 

 だが集団は個人の特徴を(なら)してしまう。麦畑に枯れた麦穂があったとしても、少数ならば埋もれてしまう。麦穂の粒の一つがまだ青くても、他が実っているなら収穫時だ。

 一つ一つはばらばらな祈りの数々も、百集まればたった幾つかの言葉に集約される。

 一人より百人のほうが強く、百人より万人のほうが強いから。

 万人に通ずるものだけが浮き上がり、そうでないものが沈んで消える。

 

 そうして、秩序も混沌も、只人も魔神も、あらゆる心あるものの祈りを束ねていけば、そこには一つの巨大な意志が浮かび上がるのだ。

 感情も特徴もない、全体の意志の統括者。顔のない巨人。色なき大樹。

 この世すべての心の集合体。ただこの世に『かくあれかし』と祈るもの。

 それこそが世界意志(オムニマインド)――人々は世界という樹木の根に繋がれている。

 

 であるからこそ。

 万人の祈りを心の力で超克できれば、世界意志の定めを打ち破ることはできるのだ。

 運命の変転。因果の行使。感情の昇華――人がまれに引き起こす、道理を超えた奇跡。

 それを体系化したものを、念術と呼ぶ。

 

 念術師(サイキッカー)は、その類まれなる精神の修養を以て、世界意志に牙を剥くのだ。

 個我たる(シュラウド)を破り、己に刺さる根を辿り、木々へと登るのだ。

 一つでもって全てに伍する。形なきものに限りなどないが故に。

 鋼の如くに鍛えられた心の刃で、心意の大樹に己が意志を刻む業――。

 

「――《睡眠(スリープ)》」

 

 発動は一瞬。しかして効果は分かりやすいほどに覿面だった。

 見張りたちの距離が十歩(10フィート)程になった所で、淫魔術師は念術を解き放った。

 すると、見張りの二人は少しふらついたかと思うと、ばたりと倒れて眠ってしまった。

 

「よーし」

 

 淫魔術師はそれがブラフでない確信を持って地上に降りて、女魔術師を呼び寄せた。

 

「……通ったの?」

「大丈夫。食らったフリなんかじゃないよー」

 

 淫魔は自信ありげに胸を張った。

 馬鹿でかい乳房が二度三度と跳ねるのを、女魔術師は不安半分で見返した。

 

「よしんばフリだったとしてもね、わたしたちが狸寝入りを見逃すわけないでしょー?」

「それも……そうね」

 

 女魔術師は納得して、いびきをかき出した二人の男を見下ろした。

 そして、背の刀をおっかなびっくり抜いた。

 

「……とどめ、さすわよ」

「うん」

 

 淫魔術師も見張りが持っていた剣を手にとって、盗賊の首に添えた。

 どちらからともなく呼吸を合わせて、二人は剣を引き斬った。

 

 ……音もなく死んでいった二人の男を見下ろして、女魔術師はじっと立ち竦んだ。

 

「どう?」

 

 問われて、女魔術師は首を横に振った。

 

「怖いわ」

「怖い?」

 

 女魔術師は、先日のことを思い出した。

 ホブゴブリンの豪腕により薙ぎ払われ、体中が砕けるかのような痛みを味わった。

 体の端から生きている実感がどんどん抜け出ていって、恐ろしかった。

 そんな目に皆を、彼女を、合わせたくないと思った。

 

「初めて人を殺したのに、たとえ悪党だって言っても、悪い事のはずなのに」

 

 女魔術師は血に濡れた刀を見て、そこに映る己を見た。

 くっきりと映る自分の顔は、ひどく冷たく強張っている。

 

「ためらいすら感じない」

 

 先月までの、まだ冒険者ですらない、夢見るだけの少女だったらどうだっただろう?

 悪党だから、と何も考えず《火矢(ファイアボルト)》を打ち込んで、ぐずぐずに焼けただれて死ぬ男を見て愚かな奴らと鼻で笑ったのだろうか。

 それともそうして炭化した体のおぞましさに吐き気を催してうずくまっただろうか。

 

 だが今は、動揺の一つも浮かんでこない。

 

「……あんたはどう、いえ……どうだったの」

 

 女魔術師が問い返すと、淫魔術師は困ったように眉根を寄せた。

 

「わたしはー……わたしは、しばらく動けなかったかな」

「……そう」

「あと、慣れたくないなって、思った」

 

 慣れ、と女魔術師はその言葉を口の中で転がした。

 人殺しに慣れたら、どうなってしまうんだろう。

 人間として胸を張って生きていられるような状態なのだろうか。

 

 合戦に赴く兵士たちが、酒や女や薬で精神を高揚させるのは、そうした熱狂がなければ人を殺すのは辛いことだから、という説を女魔術師は思い出した。

 本来、誰だって進んで人を殺したくはないのだ。

 女魔術師はそう信じた。

 

「こいつらは」

 

 そして呟いた。

 

「こいつらは、慣れちゃったんでしょうね」

 

 淫魔術師は、悲しそうに笑った。

 

「そうだね」

 

 ……二人は死体から装備と道具を全て奪うと、ボロ馬車の中に死体を放り込んだ。

 衣服も防具もサイズが合わず、薬はない。使えそうなものは少なかった。装備は上等だから高く売れるだろう、と淫魔術師は言った。

 上等な装備をこの程度の賊が持っているのがおかしいと、二人とも理解していた。

 鍵束だけは拝借した。

 

 湾刀の血を盗賊の服で拭い、鞘になんとか納めて、女魔術師は入り口を見据えた。

 

「ここからが本番よ」

 

 女魔術師たちは鍵を開け、砦の地下へと一歩踏み入れた。





・不可視化/Invisibility
 透明になる呪文。攻撃を行うとその成否にかかわらず解除されるが、間接的に被害を与える分には問題ない。

・睡眠/Sleep
 対象を眠らせる。強力な存在には効かない。

・世界意志、幕、その他
 四方世界は神様が作った盤である。そのつくりの話。
 PCNPCを問わずキャラクター全体の望みを平均化するとこの世界になる。より多数に都合がいいから重力があり、光があり、弱い力と強い力がある。
 だから多数の願いを上回るほど強く祈ると理屈を超えて奇跡(神の力ではなく、偶然を引き寄せるの意味)が起きたりする。
 もちろんこれはあくまで世界のつくりの話なので、人間皆祈ってるから混沌には負けない! とかいう理屈は通らない。滅ぶときは滅ぶ。備えよう。

 ということにしたい。

 こういうファジーさのあるつくりのほうが、後で別のルールねじ込んでも馴染ませやすいだろ、という神々の思惑がある。だから別の駒突っ込んでも元の世界を形作るバカでかい祈りに取り込まれるだけで、元あるものがいびつになったり壊れたりはしない。
 ということにしたい。

 出典は様々あるが名称はStellarisとかToME4から。
 念術自体もToME4とPathfinderRPGのちゃんぽんだと言える。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十二話

 

 

 §

 

 

 ――風の流れが、また変わった。表の戸がこの短時間で二度も開いた……。

 

 狐人の少女は内心でほくそ笑んだ。

 

 ――誰か来たな。

 

 しかしそれを表に出すようなやわな真似はしない。

 今日も気丈な顔で、煽るように笑みを浮かべる。

 縄から手枷足枷に取り替えられ、ある程度の可動域を与えられた狐人の少女は、腰をくねらせて挑発的に言った。

 

「それでぇ~♥ 今日は何して遊んでくれるの、変態のおばさん?」

「それなんだがね……」

 

 女調教師は微笑んで、それを狐人の少女に見えるように机の上に置いた。

 見事なつくりの、誰が見ても業物と分かる、美しい湾刀だった。

 

「あたしの刀?」

「ああ。いい武器だね。美術品として売れるかもしれないね」

「……ふぅ~ん? 中々分かってるじゃない!」

 

 女調教師の言葉に、少女は少しだけ鼻を膨らませた。

 

「とってもいい刀なのよ、なんたって師父が見繕ったんだもの! 手に入れるの苦労したんだから! 見なさいその(こしら)え、美しいでしょう!」

 

 ――本当に! お姫様の伝手で海を渡って、それから何人の武士をなぎ倒したことやら!

 

 あまりにあまりな入手までの経緯を思い出して辟易するが、ともかくこれは名刀なのだ。

 少なくとも持ち主と尋常な決闘で勝って得たのだから狐人の少女が正当な所有者である。彼女の理屈ではそういうことになる。

 

「銘が読めないでしょうけど、こっちで言うなら〈デイライトストレート〉よ! 東の日の神に奉納されてたこともあるくらいの名刀なんだから!」

「そうかそうか。それはよかった」

 

 女調教師はそう笑うと、その刀を無造作に抜いて机に置いた。

 

「ところで、君は刀さえ手に入ればどうとでもなると考えているね?」

 

 狐人の少女はうっと声をつまらせた。それこそ自分に限らず、侠客の類は皆得物一つあればなんとかなるという風に生きている者が多い。

 その極みたる師は最悪そこらの木の棒でもやれてしまうから別格だったが……。

 

「だから、君に立場をわからせるにはこれが一番いいと思ったんだ」

 

 女調教師は微笑みとともに、水差しから水をちょろりと垂らし、切っ先を湿らせた。

 そして、邪悪な笑みとともに呪文を唱えた。

 

「『時の番人(クロノス)よ、その力を借り受けたもう。時計を回せ、早く、早く、虫の命が如くに早く!』」

「えっ、ちょっと! じょ、冗談でしょ? ねえ?」

 

 精霊術――それが何の精霊への祝詞で、どのような効果をもたらすか?

 古来精霊に親しい狐人(ヴァルポ)である彼女は、よく分かっていた。

 だから、少女は焦りとともに悲鳴じみた声を上げた。

 

「やめてってば、お願い! 謝るから! ごめんなさい! もうからかわないから!」

 

 少女は縛られた体を何度もひねり、どうにか拘束から抜け出そうともがく。

 それを見て、女調教師は邪悪極まりない、醜悪さすら覚えるほどの笑みを浮かべた。

 

「――《風化(ウェザリング)》」

「やめてぇ――っ!!」

 

 水に濡れた切っ先が見る間に赤茶けて、そして(こぼ)れた。

 

「あ、あ、ぁ……やだぁ……あたしの、刀……師父の……」

 

 鋭利に研がれた刃先は見るも無残に錆びついて、涙のようにぼろぼろと剥がれ落ちていく。

 狐人の少女はそれを前にうなだれることしかできなかった。

 

「ふ、ふ……あはぁ……っ♥」

 

 絶望に打ちひしがれる少女を見て、女調教師は絶頂に吐息を漏らした。

 

「安心したまえ、まだ刃は残っているだろう? 研ぎ直せば使えるさ……」

「う……うう……」

「だけど私も、まだ呪文は唱えられる」

 

 女調教師は少女の顎に手を添えて、顔を上げさせた。

 泣き腫らしたその表情を見て、女は法悦から怪物の如き笑みを浮かべた。

 そして少女の細い体に指を這わせ、胸を撫で、腹をさすり、股ぐらへと潜り込ませた。

 

「どうなるかは君次第ということだ……分かるね?」

「っ……!」

「まずは股を開くんだ……そう、いい子だ……」

 

 女は少女の頬を伝う涙をべろりと舐め取って、淫猥な命令を口にした……。

 

 

 §

 

 

 この砦はそこまで大きなものではない。

 三階建てに地下があるといった程度で、その上階も外から見た限りでは崩落の危険がある様子。となれば、上階にわざわざ寝床を設けるとは思えない。

 ならばこそ、まず上階の掃除(クリアリング)を済ませる。

 

 二人はそう決めると、なるべく静かに、しかし素早く移動を開始した。

 どうせ足音や痕跡を消して歩くことはできない。飛べる場所は飛び、そうでない場所は歩いて、可能な限り素早く部屋を検めていく。最悪窓から飛んで逃げれる、という余裕もあった。

 とはいえ、敵に察知されて困るようなことはなかった。

 淫魔術師が(本人曰く「おままごと程度の」)斥候の心得を持っていたのが一つ。そもそも敵の数が大きく減っているのが一つ、また士気も低いのが一つ、飛んでいる敵の侵入まで警戒されていないのが一つ、呪文による奇襲は避け得ないというのが一つ。

 小さな要素が積み重なって、少女たちの潜入はうまくいっていた。

 

「……いるわね」

 

 女魔術師の耳にも聞こえる、談笑する男たちの声。酒と賭博と猥談、荒くれ者らしい内容だ。

 とまあこのように、内部にいる山賊たちは基本的に寝ているか騒いでいるかで、先んじてこちらが存在に気づけることのほうが多かったのだ。

 

 二人は少しだけ止まって状況の把握に努める。数は恐らく三人。酒は結構入っている。

 女魔術師は湾刀を抜き、戸を少しだけ開けた。淫魔術師は後ろで呪文による即応の構えを取る。

 食堂でもなんでもない、今まで何個も見てきた居室だった。当時はベッドが幾つか並んでいたのだろうが、この部屋にあるのは酒の入った棚と、中央に置かれた古びた丸机だ。そこで男たちは酒を飲みながら札遊び(カードゲーム)に興じている。窓はしっかり閉じられてカーテンで塞がれていた。

 男たちはだいぶ酒が入っているらしく顔を真っ赤にしていた。武器は大きなものは見えない。あったとしても短剣程度だろう。

 

 であれば、と女魔術師は雑嚢から少量の粉が入った瓶を取り出した。

 小瓶の底に積もるのは大毒揚羽(あげは)の鱗粉、吸い込めば人間を数分足らずで死に至らしめる猛毒の粉末だ。森を歩く者に恐れられているが、扱い方を知っていれば採取はできる……。

 薬師が護身用に集めていたものを譲り受けたのだ。

 

 呪文の使用回数は節約したい。あれだけ油断している相手には尚更。

 この毒も戦闘中に使うには危険すぎる。特に救出対象が居合わせる場では使えないだろう。

 だからこの場で呪文の回数を残すために切ることにした。

 あとはどうやって巻き散らすかだが……女魔術師は素早く思考を巡らせた。

 

 淫魔術師は五つある念術の体系のうち、力術、素術、霊術といった現実に作用する類のものをまるで使えない。心術と幻術に特化した、催眠術師(メスメリスト)と分類される念術使いだ。

 駆け出しの念術師でも簡単な念動力はあるらしいが、淫魔術師にはない。

 そして女魔術師も、風に類する真言は使えない。《火矢》、《力矢》、《解錠》、その三つだ。

 

 となれば、ここは知恵の回しどころである。

 

 後回し――この先で戦闘になった時に危険。

 罠を仕掛けておびき寄せる――全員同時に釣れるか不明。誘引に呪文を使いたくはない。

 ならばこの部屋にいるうちに細工をする必要がある――女魔術師はもう一度中を盗み見る。

 蝋燭の灯りを頼りに、男たちは賭け事に夢中になっている。天井は淫魔がこっそり飛べるほど高くもないし、穴もない。入り口はここともう片方、隣の扉のみ。

 

 呪文を切るべきか? 女魔術師は悩んだ。眠らせて首を切ってもいいが、あれは絶対確実に効果を発揮するとは言えないらしい。二人までなら漏れが出ても続けざまに二人で呪文を唱えれば対処出来たが、三人となると誰にも効かなかったときが問題だ。

 女魔術師は、風に揺れる蝋燭を睨みながら考えを巡らせて、ふと気付いた。

 

 ――蝋燭が揺れてる?

 

 窓を見ると、カーテンは時折たなびいているのが見えた。

 窓の立て付けが甘く、隙間風が吹き込んでいる。

 

「決めた」

 

 女魔術師は作戦を手短に伝えて小瓶と小道具を渡し、淫魔は合点承知と別の窓から飛び立った。

 男たちに一番近い窓を、影が映らないように注意してぐるりと見回って隙間を探すと、逆さになって窓の隙間の上に淫魔は渡されたものを取り出す。

 

 羊皮紙である。

 淫魔はそれをくるくると巻いて、円錐形の筒を作ると、尖った先の穴を丁度いいサイズに緩め、それから窓の隙間にあてがい、機会を待った。

 やがて、風がひときわ強く吹いたその瞬間に、淫魔は小瓶の中身を即席の漏斗に添わせてさらさらと流し込んだ。

 

「……うっ、ゲホッ、なんだ?」

「ゲホッ、ゴホッ、がああっ!?」

 

 中で毒を浴びた盗賊たちが苦しそうに声を上げ、騒ぎは――起こらない。

 そんなことになるまでもなく、男たちはすぐさま毒で半死半生となっていた。

 

 女魔術師と淫魔術師はそれをしっかり待ってから、中に入る。当然、口元を布で覆って。

 そしてまだ息のある男たちにとどめを差した。

 

「……うまくいったね」

「大毒揚羽の鱗粉がこれくらい強い毒だって教わってなかったら出来なかったわね」

 

 これまた戦利品を剥ぎ取ると、淫魔術師は自分の質のいい雑嚢にそれをしまった。ほとんど使い物にならず、せいぜい金と短剣、装飾品程度だったが……。

 

 二人は顔を見合わせ、周囲を確認し、それからまた次の部屋を探りに向かった。

 

 

 ……二人の潜入はうまく行った。

 

 途中危険だったのは救護室にいた大量の怪我人に感づかれたときだったが、淫魔術師がとっさに全員に卑猥な幻覚を見せて大声を出されるのを止め、その隙に女魔術師が毒を使い切って殺した。

 

 一方、出来るなら狙っていた淫魔術師による洗脳は、ついぞ機会が訪れなかった。二人同時に操れるほどの腕は彼女になく、また一人きりの遭遇は救護室で看護していたと思しき男がやってきた一回きりだった。このときは完全な偶発的遭遇であり、相手は大声を出して仲間を呼ぼうとしたために、女魔術師がとっさに呪文を切って殺してしまった。

 

 他にも収穫があった。

 

「……うそ、これ、デヴィルの署名だ……」

 

 書類を見つけたら確実に確保する。女魔術師は先んじて明言していた。

 やり手の人攫いなら確実に売却先との繋がり(コネ)がある。取引の証拠があれば大元を断てるかもしれないのだ。

 

 倉庫に書類を見つけ、当座の安全を確保した確認したとき、淫魔術師が掘り当てたのだ。

 それは一見してもただの書類にしか見えなかったが、しかしよく見ると普通のインクではない。血を混ぜたインクで記された、魔法的な意味がある署名だった。

 

「てことは、ここの後援者(パトロン)って魔神(デーモン)なの?」

「うーん、悪魔(デヴィル)魔神(デーモン)は色々違うんだけど……今関係あるのは、取引先の一つに悪魔教団があるらしいってことかなー」

「……というよりも、後援者はいなくて、仲介人(ブローカー)が同じなのね。この貴族と、この商会でしょう? ……詳しくは見ないといけないけど、売却先が特定地域に寄ってるのは分かるわ」

 

 絶対に帰らなければならなくなった。

 女魔術師は額に手を当ててしばらく天井を仰ぐと、急いで書類を鞄に詰めた。

 

 概ね順調に事が進み、上階の安全を確保し、倉庫から戦利品を得た後。

 二人は顔を見合わせて、それから地下に続く階段を見た。

 鉄格子で塞がれた先は松明もない暗闇だった。

 

「私が一」

「わたしは四」

「薬は毒薬と強壮の水薬(スタミナポーション)を使ったきり」

「わたしも。あとはもらった三色水薬、自前のも残ってる」

 

 まずはお互いのリソースの確認。

 

「寝床の数と、外の墓、ここで遭遇した人数、それから考えて残りが四人」

「それからー、呪文使いの半森人と、長斧(ハルバード)使いの頭領」

「合計六。……この先か」

 

 続いて状況の確認を終えると、二人は改めて鉄格子の扉に向き合った。

 

 女魔術師は音を立てないように慎重に鍵束を取り出して、なるべく静かに錠前を外した。

 鍵を布にくるんでしまうと、地に横たえていた抜身の刀をおっかなびっくり手に取る。

 

「……ふう……」

 

 湾刀は細身に見えてもずしりと重く、女魔術師の非力な腕では持っているだけで疲れが来る。

 しかし何度かの()()()()によって術理の一端は理解できてきた。

 重さに任せて叩きつけるのではなく、押し引きどちらかで摩擦して斬る武器だ。押し付ける力の強さは重要ではない。ならば、当たればなんとか傷にはなるだろう。

 

 もしも、もしも格闘戦になったとしたら。

 淫魔術師が呪文によって動きを封じた相手を、湾刀で倒さなくてはならない。

 

 嫌な汗がじっとりと滲んで、柄巻きの革を濡らした。

 

「だいじょーぶ」

 

 淫魔術師の手が、肩にそっと添えられる。

 手のひらの熱が肩に移って、芯にまで届くようだった。

 

「ひとりじゃないよ」

 

 その眩しいほどの黄金の瞳に、怯えた顔の自分が映ったのが見える――。

 

 ――途中でやめるのは、誰でも出来る。そうでしょう、私。

 

 女魔術師はつばを飲み込み、大きく胸を反らせて息を吸って、吐いて、顔を上げた。

 その緑の瞳で決然と、頼れる仲間を見返した。

 

「やるからには、徹底的に、ねじ伏せて、勝つ」

「……うん」

 

 賽の目が悪かったね、はいおしまい。そんな負け犬の戯言は吐かない。

 始めたならば終わらせる。途中でやめるのは凡人のすること。

 

 だから、やり通す。

 

「……行きましょう」

 

 二人は戸を開けて、地下へと続く階段を降りていった。




・〈風化〉の詠唱について
 原作における鉱人道士の詠唱は基本的に鉱人特有の詠唱と判断した。
 精霊への嘆願という術の特徴ゆえに、精霊術の詠唱は文言一致の必要はない。
 ということにしたい。

・大毒揚羽
 外敵に対して猛毒の鱗粉を撒き散らして身を守る危険な蝶。
 森と解毒薬をナメた冒険者がよくhageる。
 刺激しなければただの蝶なので専門の知識があれば捕獲が可能。
 鱗粉はご禁制の毒薬で街への持ち込みは厳禁。そもそも採取してから数日で効力を失ってしまう。
 一方蛹や本体には薬効がある。薬師が護身用に持っていることも多い。
 世界樹の迷宮シリーズにおける毒吹きアゲハから。

・悪魔と魔神は違う
 ということにしたい。
 詳しくどう違うかはまた今度。
 簡単に言えばD&Dのデヴィルとデーモンの違い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十三話

 

 

 §

 

 

 砦の外の森の中を、二人の男が歩いていた。

 背には血抜きされた鹿が一匹吊るされており、狩りの後だということが伺える。

 

「くそー、だいぶ矢ダメにしちまった」

「僕らが狩りそこまでなのはお頭も分かってるよ。どやされたりはしないって」

「そうだけどよお」

「むしろ素人二人で鹿仕留めたんだ、姐さんからお褒めの言葉くらいは頂けないかなあ!」

「お前ほんと姐さん好きだよな……分かるけどよ」

「ただでさえ女がいなくなって困ってるんだから、せめて目の保養くらいしないとさあ」

 

 二人は明るく軽口を交わしていたが、表情を無理に作っていることは明白だった。

 

「あのガキ、高く売れるってんで姐さんが好き放題するらしいしな」

「まあ、仕方ないんじゃない。そこらの村娘とは雲泥の差だったし」

「お頭も俺らが戻るまでは調教の様子見るっつってたよな?」

「だね。姐さんのことだからまあ、薬でぐちゃぐちゃにして犯すんだと思うよ。『女同士ならどれだけやっても処女のままだから損しない』とか言いながら」

「いいなあー! 見世物にしてくんねえかなあー!」

 

 やがて二人の調子は沈んでいき、ついには言葉が途切れた。

 

「……狩人がいたら、もっと楽に狩れたよな」

「……いいっこなしでしょ、それは」

 

 髭面の只人の戦士と、線の細い圃人の斥候。

 二人は人狩りの一員だった。熟練とはとても呼べないが、さりとて団歴は長い。

 元はどこかの騎士だったらしい鉱人(ドワーフ)のような体型の男を頭と仰ぎ、それに嫁のように寄り添っては手管を振るう女調教師を姐さんと慕っている。

 

「こんな稼業してまともに死ねるわけがない。皆分かってたでしょ」

「……そりゃ、そうだがよ」

「全滅しなかっただけマシでしょ。生き残った皆で団を立て直さないと。それこそ、死んだ皆に申し訳が立たないじゃないか」

 

 圃人の言葉に、只人の戦士は静かに黙り込んだ。

 

「とにかく、怪我人の皆には滋養をつけてもらって、僕らは早く引っ越しの準備……」

「……どうした」

 

 言うより早く、戦士はとっさに獲物を捨て、剣を抜いて構えを取った。

 圃人の斥候はじっと砦を見つめて、それから呟いた。

 

「見張りがいない」

「……急ぐぞ。獲物は後回しだ」

 

 二人は砦に駆け出した。見張りはその間も出てこない。

 

「おい、痕跡分かるか」

「……血の跡……雑に消しただけ、素人だ。靴のサイズからして只人か森人の女……かな。でも」

 

 斥候は古びた馬車の中を確認して、うめいた。

 

「二人の目を欺ける程度のやつだ」

「……クソッ! ふざけんなっ!」

 

 戦士は瓦礫を思い切り蹴飛ばした。

 

「……足跡が消えた? 急ぎたいかもだけど、ちょっと僕に従って」

「ああ……分かってる。けどよ」

「うん」

 

 斥候は不自然に途切れた足跡の向かう先を、砦の入り口と予測した。

 鍵が空いていることに顔をしかめ、斥候は罠を警戒しつつも中を伺い、左右をさっと見る。

 

「……血の匂い……焦げた匂い。救護室の方だ……」

「おい……まさか!」

「ごめん、確認は後。先に下手人を探そう」

 

 斥候は足を止めて、足元を探った。途切れ途切れだが確かにある靴跡。

 

「……空を飛んでるな、これ」

 

 斥候は嫌な想像に顔をしかめた。

 

「室内でも飛んでいる……大きさは人型とそう大差ない……魔神(デーモン)かも」

「……なるほどな。俺一人じゃ骨が折れるな」

「お頭と姐さんならなんとかなると思うけど……急ごう。地下に行ったなら逃げ道はない、後ろを取って袋叩きだ」

合点(がってん)!」

 

 二人は階段を音を殺しながら駆け下りた。

 一本道の廊下を素早く検めていく。食料庫、武器庫、会議室、お頭のヤリ部屋。捕虜を放り込んでおく牢屋――仲間の死体が二つ。二人はさらに慎重に歩を進める。

 やはり目的地は、地下の最奥に設けられた拷問部屋だ。

 二人は顔を見合わせて道を急いだ。

 

 まさにそのとき、拷問部屋前の広間では、()()()()()()()()()()()()()、しかし美しい女の魔神(デーモン)()()、四本の腕を器用に組み、頭領と調教師に対峙していた。

 

 

 §

 

 

 魔神(デーモン)――それも、高位魔神(アークデーモン)

 頭領はそれをひと目で感じ取った。

 

『……さぁて』

 

 青白い肌と四本腕をした女の魔神は、()()腕の指をぴっと立てて、言った。

 その手のひらには牙の生え揃った恐ろしい口が、餌を求めるように開閉している。

 

『落ち着いてくれたかしらぁ?』

「……言葉を話す魔神がいるたぁ、聞いたことはあったが」

 

 頭領はなんとかそれだけを捻り出した。

 

『光栄に思いなさぁい? 私達がお前達の前にわざわざ姿を現すことなんて、滅多にないのよ』

 

 女魔神はおぞましくも美しい微笑みを浮かべた。

 

「それで、お偉い魔神様がなんでございましょうか? 取引先のヘマを俺らのせいにされちゃ困りますぜ」

『うふふ、別にあいつらのことなんかどうでもいいのよ。人間ごときの生贄の一つや二つ、どうなろうと困らないわ――必要なら、自ら出向いて奪えばいいもの。でしょう?』

「……違いありませんな」

 

 人狩りの頭領は苦い顔で頷いた。

 

『それでね? あなたたちの懐にいる可愛い狐、あれは私のものなの』

 

 魔神はぺろりと舌なめずりしてそう言った。

 頭領はそれに思い当たる節があった。少女の下腹部に刻まれていた入れ墨――あれは単なる模様ではなくある種の力ある装飾だと相棒の調教師は言っていた。

 

『ちょっと目を離した隙にこんなところまで逃げてしまうんだもの……困っちゃうわよね?』

「……なるほど。返却せよと?」

『そう。ああ、別にいいのよ、いたぶって遊んでたんでしょう? それを咎めたりしないわ。落ち度は私にあるものね? だから、あなたたちはただ黙って私のかわいい子狐ちゃんを差し出してくれればそれでいいの』

 

 最悪だ、頭領は呻いた。

 相手が高位の魔神であるなら、逆らえるはずもなければ、出し抜くことを考えるのすら危険だ。男は魔神が決して御することの出来ないものだと知っている。奴らは破壊を撒き散らすおぞましき混沌そのものなのだから。

 

「……一つ聞きたいんですがね、外にいた俺の部下たちは、一体?」

『あら……私が憂さ晴らしに殺したと思ってるのね? 馬鹿にしないで頂戴』

 

 魔神はくつくつと喉を鳴らして、腕の二つをゆらりと広げた。

 

『我らは〈自死に誘うもの(セラプティス)〉。手を汚すことなくより多くを殺すことが、私達の本懐』

 

 けれど、ともう一揃いの腕を組んで、魔神は言った。

 

『敵うはずのない相手に自棄になって襲いかかるのも、ある種の自殺だと思わない?』

 

 糞が、と出かけた悪態を、頭領はすんでのところで飲み込んだ。

 生き残った部下ももう全滅ということだろう。狩りに出ていた二人くらいは生き延びていてほしいものだが……。

 どのみち、上位のデーモンなど一人で戦って勝てる相手ではない。選択肢はないのだ。

 

「……わかりやしたよ。俺も命は惜しい……」

「いいや、その必要はないな」

 

 頭領が(こうべ)を垂れようとしたまさにその時、調教部屋のドアが開いた。

 四本腕の魔神の顔が微かにこわばる。

 

「目を欺くのは上手いようだが……やり方が粗末じゃないか?」

『なんの……ことかしら?』

「魔神がそう簡単に表に出るものか。まずは使いを出すはずだ。その姿、偽りだろう」

 

 半森人(ハーフエルフ)の女調教師は、部屋の中央で待ち構えていた。

 目の前には、泣き腫らした顔の狐人(ヴァルポ)の少女が両手足に枷をはめられている。

 

「中々具体的な造形だが、セラプティスなどというものが存在するかはさておいて……魔神に扮するとは、随分とたいそれたことを考える」

「……ほぉ、そりゃまぁ、恐れ知らずってなもんだ」

 

 にわかに、男の表情に殺気が籠もる。

 

「上位の魔神ならいざ知らず、虎の威を借る狐程度にビビるこたぁねえなぁ」

 

 下ろしていた長斧(ハルバード)が構えられると、魔神は溜息をついた。

 

『あーあ。なんでこう、面倒な方向にばかり転がるのかしらぁ』

 

 そして幻術が解かれる。

 そこにいたのは……しかし依然として人ならざるものだった。

 ねじれた角と、黒い翼と、細い尾を持つ、悪魔の如き美女だ。

 

「……ほう、夢魔か」

「ああ……?」

「せぇっかく後腐れないように気を使ってあげたのにぃ、台無しにするんだものぉ……」

 

 しなを作る淫魔の美しさに、一瞬誰もが我を忘れた。

 

「ざけんな、夢魔ってこたぁ結局魔神(デーモン)じゃねえか」

 

 頭領は困惑したように叫んだ。

 

「これも幻であってくれ」

「なるほど……一般に目にする夢魔は非力だからね。現実世界では只人にも劣るとすら言われる。私達の知らない魔神の姿を模倣できてもおかしくないし、そうする理由もあるな……」

「そうなのよぉ。困っちゃうのよね。だから強そうな見た目を装ってたんだけどぉ……まぁ、結局あなたたちの仲間はヤっちゃったわ。正当防衛よぉ」

 

 淫魔は尾を振り振り答えた。

 

「でもねぇ、嘘ばかりついてるわけじゃないのよ? そこの狐人の子は元々私のものだもの……」

 

 淫魔が微笑みかけると、狐人の少女は目を見開いて、少し後退りしてみせた。

 

「取り返しに来たのは本当。それに、あなたの仲間程度にやられるほど弱くないのも本当。あなたたち自体は、お世話になってる所でも結構評価されててねぇ? 殺しちゃダメって言われたの」

「世話に……ね」

 

 人狩りの二人は顔を見合わせた。思い当たる節は複数ある。邪教、娼館、悪徳貴族。

 女調教師は調教部屋を出て、代表するように矢面に立った。知的好奇心を隠せないと言った顔で。

 

「この交渉、私が代表させてもらおう。いいね?」

「全くお前は……いいぞ。誰も邪魔しやしねぇよ」

 

 そう言いつつ、男は斧槍(ハルバード)を構えたままだった。

 淫魔は気にした風もなく、女調教師に向き合った。

 

「交渉ってことはぁ、素直に返す気はないのよねぇ?」

「うん。まぁそう言わずに聞いてくれ。交渉と言ったが、夢魔と実際に相対するのは初めてでね。いや、夢魔を名乗り出てくれたのは……と言うべきかな。だから話をしたいというのが正直なところなんだ。いいかな?」

 

 淫魔は少し悩む素振りを見せた。

 

「あんまり長々と会話されて、なにか企まれても面倒ねぇ」

「なら、三度。三度問うたら、それで終わりだ」

「ふぅん」

 

 淫魔はじろりと半森人をねめつけると、やがて諦めたように肩を落とした。

 

「……ま、それくらいならいいわよぉ」

「助かるよ。なら一つ目、まず聞きたいのは……夢魔は一般に貧弱だと言われるが、君はどうも違うらしい。これは私達の認識が間違っているのかな?」

「さぁ? でも、そうね……私は少なくとも、そこらの子よりは格上だと思うわよ? 淫魔の成長はね、時間には比例しないの。(アストラル)界の向こうの種族にとって、大事なのは魂の格だから」

「なるほど。道理だ。君はかなり格の高い夢魔なんだろうね……」

 

 淫魔は答えずに微笑んだ。

 女調教師はその場を左右にウロウロと歩き、何往復かすると考えをまとめた。

 

「では二つ目。先程の理由は嘘だったのだろうが、この子を欲しがる理由は何だい?」

「私のものだから、それじゃあ不満?」

「狐人の少女をモノにして何をするのか? と問えばいいかな」

 

 淫魔はきょとんとした顔をした。

 

「何って……こんなに美味しそうなごちそうは中々ないじゃない? 見えないと思うけど、綺麗で透き通った魂をしているわ……さぞ香り高い鳴き声を上げるんでしょうね」

「……夢魔は同性でもイけるのか。初耳だな」

「それは質問?」

「いいや、独り言さ。三つ目」

 

 女調教師はぴたりと足を止め、戸を塞ぐように立ちはだかって、言った。

 

「私を抱いてくれないか?」

「……え?」

 

 淫魔が一瞬呆けたその瞬間、通路から二人の男が飛び出した。

 

 

 §

 

 

 三度問いかけたらそれで終わり。

 その指示に忠実に、三度目の問いと共に通路に控えていた二人の盗賊は奇襲を仕掛けた。

 惜しむらくは、相手がそれくらいのアクシデントは織り込み済みだったことである。

 

 

 §

 

 

 斥候と戦士の息のあった組み付きは、確かに相手を捉えたはずなのに、空を切った。

 何が起きたか分からず目を白黒させる二人をよそに、女調教師が舌打ちして振り返る。

 

「――嘘をつくときのコツはね~」

 

 声は、部屋の奥から響いた。

 

「段階を踏むこと~」

 

 ドアの奥、部屋の中央。

 今まで目の前にいたはずの淫魔が、狐人の少女の後ろに浮いていた。

 

「嘘のヴェールを一枚めくると~、み~んなその裏にあるものを真実だと思っちゃうんだよね~」

 

 淫魔はのんきな表情で何のことでもないかのように、種明かしとばかりの両手を広げた。

 

「だから中途半端に賢い人ほど騙しやすいの~」

「な、ぐ……貴様っ……!」

 

 全て幻。いつからだ。少なくとも己が幻術を見破ってからか。

 女調教師は自分が騙されていたことに気がついて、怒りとともに呪文を紡いだ。

 

「《土精(ノーム)よ土精、転げて回れ――》」

 

 しかし、呪文を唱え始めてから気がついた。

 ――狐人の少女は、どこへ行った?

 

「――い~けないんだ♥」

 

 答えは、風より早くやってきた。

 一条の銀光が、その心臓を過たず貫く、という形で。

 

「が……はっ」

「よそ見しちゃ、ダ・メ・だ・よ♥」

 

 朽ちた刀とは別の湾刀を握った、幼くも恐るべき狐人(ヴァルポ)の剣侠が、獣の如き笑みを浮かべていた。

 

「んん~♥ いい切れ味♥ 銘は……『リトルフォックス』! いい剣じゃない!」

「てめぇ――!」

 

 しかしそこへ、人狩りの頭領が飛びかかっていた。

 斧槍を振り上げて突進する男。狐人剣侠の隙をつく形、間違いなく一撃は通る間だった。

 

「《サジタ()……インフラマラエ(点火)……ラディウス(射出)》!」

 

 伏兵がいなければ、だが。

 

「ガアッ……!?」

 

 狙い澄ました《火矢》が頭領の横腹に直撃する。歴戦の戦士である頭領は、そこらの人間ならぐずぐずに焼き焦がして穴を空けるような一撃を、鎧を用いて余裕を持って受けた。

 だが狐人剣侠に回避する隙を与えるのには十分だった。

 

「ちっ――」

「おっと? やるじゃない、おじさん♥」

「――まだいやがったか!」

 

 避けるどころか鋭く剣を返した狐人剣侠の刃を柄で弾き返し、頭領は姿に似合わず俊敏に後ろへ飛び退った。

 微笑む淫魔の隣、鋭い眼差しで男を睨み返すのは、その場にいなかったはずの第三者。

 女魔術師は涼しい顔で正面を見据え、呪文の手応えとそれを耐える相手の技量を測っていた。

 

「てめえら、気張れ! 生きて返すな!」

「応ッ!」

「合点承知!」

 

 頭領の号令一つで戦闘態勢が整う。そこらの盗賊とは明らかに違う練度が見て取れる。

 

 敵は格上。呪文は切れた。場所は袋小路――。

 女魔術師は額の汗を拭い、不敵に口の端を釣り上げた。

 

「やるわよ」

「おっけー!」

「まっかせてぇ~♥」

 

 ――彼女はそうして骰子を投げる。

 

「敵も、運命も、偶然も――徹底的にねじ伏せて、勝つわ」




・セラプティス
 自殺によって異常な混乱と絶望を撒き散らしたものの魂より生まれ出るデーモン。
 おぞましき無限の荒野たる奈落界アビスの、恐るべき暗殺者にして戦士であり、誘惑者。
 自らが生前そうした(してしまった)ように、人の命を用いて死と混乱を撒き散らそうとする。
 Pathfinder RPGより。D&Dにもいるかもわからん。D&Dの資料は量が多すぎてとてもではないが揃えられん……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十四話

 

 女魔術師は自分が臆病だと知っている。

 

 強い口調や、気丈な態度は、弱い自分を隠したいからだ。

 立身や栄達を求めるのは、栄誉という分かりやすい誇りがなければ胸を張れないからだ。

 努力を怠らないのは、怠けたことでそれらを失うことが怖いからだ。

 

 その臆病さは、作戦を立てるという点においては利点となった。

 

 《上級幻像(メジャー・イメージ)》による音のある虚像をその場の全員に見せる。

 その裏で、《不可視化》で二人浮きながら広間に入る。

 淫魔術師の話術によって扉を開かせて、内部へ侵入。注目が虚像に向いているうちに狐人剣侠に手順を記した羊皮紙の切れ端を見せる。

 伏兵の立てる騒音に紛れて、淫魔が湾刀で枷を壊す。

 その後、奇襲を仕掛ける。

 

 用意周到な作戦は完璧に機能した。

 

 幾つもの想定があった。

 狐人に怪我があるなら水薬をありったけ飲ませ、回復を待つ時間は淫魔が話術で作る。

 枷が鉄製ならば女魔術師の《解錠(アンロック)》。

 遭遇した数から伏兵がいるはずと判断したが、拷問部屋の中にいる可能性もあった。

 頭領たちが怪我をしている可能性もあった。逆に最悪魔神(デーモン)の存在も考えた。

 奇襲の失敗も考慮のうちだった。

 最悪、淫魔本体が姿を表して誘惑する手もあった。

 

 女魔術師は壁のろうそくを使って松明に火をつけた。

 彼女の呪文はもう打ち止めだ。だが出来ることはある。

 あの時そう叫んだように。

 

 ――ないことは、やらない理由にはならない。

 やると決めた。ならばやるのだ。最後まで、徹底的に。

 

 一方、淫魔術師も使える呪文は後一回、それも難しいものは使えない状態だ。

 《上級幻像》は淫魔術師の扱える念術呪文の中では一番難しい位階のもので、そこらの呪文二回分くらいの消費に加えて身体的な疲労まで起こる。

 そしてゴブリンのような短絡的な生物と違い、人間は魂魄が強靭だ。《不自然な欲情(アンナチュラル・ラスト)》のような人にかける妨害呪文は確実性を欠く……最後の一回を運に委ねたくはない。

 

 最後に、狐人剣侠――彼女の状態ははっきり言って想定以上、ほとんど消耗していない。

 

「君は……泣き叫んでいたと、思ったんだが」

「ハッ」

 

 息も絶え絶えの様子で這いつくばる半森人を、狐人剣侠は鼻で笑い飛ばした。

 

「女の涙は一番の武器だって、ママに教わらなかったの~?」

 

 恐るべき師父の下で厳しい修行を積んできた彼女にとって、調教師の責め苦はなんの痛痒にもなりはしなかったのだ。

 たかが刀を一本失った程度で心折れるような者なら、とっくの昔に死んでいるのだ。

 少女は見知らぬ刀であっても十全に振るうことが出来たし、素手でも女の頭蓋を引きずり出すくらいは出来た。

 

 ――第一、優れた使い手は得物を選ばぬというのが師父の教えだし。

 

 武侠とは死狂いなり――そういう類の狂人なのだ。

 そして、それを悟らせないための詐術だった。

 全て、少女の掌の上だったのである。

 

「年下のガキに女の手管でも負けちゃうざこざこおばさ~ん♥ 気分はど~ぉ?」

 

 その堂々たる立ち姿を見て、瀕死の女は微笑んだ。

 

「ああ、やはり君は……戦いの中でこそ、輝くのだね――」

 

 可愛らしい姿に悪鬼羅刹の如き凶相を浮かべ、少女は狐の手印(キツネサイン)を突きつける。

 そして鋭く刀を振り下ろした。

 

「――雑魚に用はないから」

 

 女調教師の首が飛ぶ。

 残り三――これで数は同じ。女魔術師が数えたと同時に、圃人(レーア)の斥候が動いた。

 

「お前、お前ぇっ!」

「馬鹿野郎隊列を乱すな!」

「よくも姐さんをぉっ!!」

 

 短剣二本による嵐の如き連撃が少女を襲おうとする。

 狐人剣侠は背に隠した手信号で手助け無用を伝えると、また嘲りの笑みを浮かべた。

 

「やぁ~んこわぁ~い♥ でもぉ~」

 

 その目がギョロリと剥かれるのと、圃人の体が反射的にその場を飛び退いたのは同時だった。

 

「二度も言わせないで」

「い、ぐ、ぎゃああああぁっ!!!?」

 

 一閃から辛うじて逃れた斥候は、代償にその腕を一本もぎ取られることになった。

 

「雑魚はどうでもいいの。……あたしは功夫(クンフー)を積みに来たのよ」

 

 少女は華やかに笑って、それから音もなく構えをとった。

 爪先一つをピンと伸ばして、刀を持つ右手を高く、切っ先に添えた左手を前に。

 全身ブレ一つない爪先立ちから、演舞のように弧を描いて刃を流し、そしてまた止まる。

 

 そして、剣侠は堂々たる名乗りを上げた。

 

「いざや、いざ、いざ、音に聞け! 宿飯の恩と己が義心にて刃を抜くは、汝らが大敵! 手に剣、腹に陰陽、師父に侠たる"黒風白雨(ヘイフォンバイユー)"、我が字名(あざな)は"銀兴旋风(インシンシェンフェン)"――」

 

 武侠とは、義理を通して道理を蹴飛ばすやくざ者。

 世の理に従わず、己の侠を張り通す、武芸の求道者だ。

 

「――通りすがりのちゃんばら少女よ!」

 

 少女はぴたりと止まると狐の手印(キツネサイン)とウィンクを決めて、それから音もなく前に踏み込んだ。

 

「畜生がっ!」

 

 その猛攻に真っ向から抗うのが、人狩りの頭領だった。

 軽く鋭い振りだというのに、その一撃は痺れるほど重い。内家功の使い手とはまさしく身体自在の戦士であり、細腕に剛力を産み、骨をも柔軟に撓ませるのだ。

 一方で頭領も、巧みに斧槍を回して凌ぎつつ、時に痛烈な反撃を繰り出す。少女は余裕ありげにこれをかわすが、受けたり。

 

「あっは♥ やっぱりおじさん、やれば出来るじゃな~い♥ ほら、がんばれ♥ がんばれ♥」

「こ、の、メスガキがぁ……っ!」

 

 間違いなくこの場で一番優れているのはこの二人の戦士だった。

 であれば、その戦いの趨勢をいかにして決するか、ということになる。

 

 痛みに呻く圃人の斥候は治癒の水薬を口にし、傷口にふりかけ、更に腕を布で縛り上げて、なんとか止血を図る。

 その間、只人の戦士は調教部屋の二人に注意を向け、警戒半分で踏み込んでくる。

 

 ――回復に一手使うなら好都合。

 

「手筈通り」

「いくよー!」

 

 二人は同時に声を張り、準備しておいた陶器の壺を掴み取って、抜き打ち気味に投げた。

 

「こんなもん!」

 

 投擲はあっさりと避けられ、一つは届きすらしなかったが、それは二人の狙い通り。

 物体の投擲は避けれても、内部に溜まっていた油の飛散は避けられない。

 近くにいた圃人も、巻き添えで油にまみれた。もっとも彼はそれどころではなかったが。

 

「うおっ、油だと!?」

 

 そこら中が油にまみれて足の踏み場が失われる。圃人はともかく、只人の男には辛い地形だ。

 男の動きが鈍ったのを確認してから、女魔術師は次に、手に持った松明を振りかぶった。

 

「待っ、やめ――」

「うるさい」

 

 女魔術師は松明を投げた。

 

 投げ込まれた死から逃れようとする男、しかしその足が滑って転げた。

 そうなれば、全身脂に塗れるのは必定。

 そこに、松明がゆっくりと迫り、そして――地に落ちるより早く、火がついた。

 

「ぎゃああああっ!!」

 

 投げつけたこれは単なる油ではなく、薬師の少女から譲り受けた、錬金術によって調整された特殊な油だ。よく滑り、よく燃えて、よく粘つき、長く残る。

 二人の男が火だるまになったのを見て、女魔術師は息を吐いた。

 

 概ね予想の範疇だ。ここまでは。

 問題はここから。

 

 見れば、術師では理解できぬ、刃と刃の激しい応酬がそこにある。

 狐人の少女は一言で言えば達人であり、それは相手の恰幅のいい男にも言えた。

 どちらが有利かなど、とてもではないが判別がつかない。

 

 狐人の剣士を仲間につけ、彼女を山賊の頭領にぶつける、というのは既定路線だった。

 だがお互いの最大戦力がどれほどのものなのか。これはもう、予想することは出来なかった。

 結果で言えば、悪くない。傍目に互角で、敵の取り巻きを処理しきるまで保った。

 最悪の場合の「囮にして不可視化で逃げる」案を使わずに済んだといえる。

 

 女魔術師は息を吸って、吐いた。

 それから、杖から外してきた大きな柘榴石(ガーネット)を捧げ持って、目を閉じた。

 

 今自分に出来ることは何か。考えるまでもない。

 呪文使いなのだから、呪文を使うに決まっている。

 

 超過詠唱(オーバーキャスト)だ。

 

「《サジタ()》」

 

 魂を燃やす。これは冗句でもなんでもない。

 呪文の力を己の命で賄おうという行いだ。

 それがどれほどに苦しいのか、もう既に理解している。

 

「《インフラマラエ(点火)》」

 

 発動が成功するかも怪しい。ましてや今は杖もないのだ。

 前回は辛うじて、薬で持ち直せる範疇で済んだ。でも次は?

 もしかしたら発動に失敗して、呪文にその身を焼かれるのかもしれない。

 

 添えられた手を握り返す。淫魔が小さく頷くのが分かった。

 女魔術師は決然と前を見据えた。

 

 失敗したって構わない。

 ひとりじゃない。無謀じゃない。

 今ここで骰子(さいころ)を投げる、そのことに意味があるのだから。

 

「――《ラディウス(射出)》」

 

 発動成功――《火矢》が流星のように空を裂く。

 

「舐めんなァ――!」

 

 しかし頭領は獣のように吠えると、鎧でそれを受けた。

 鎧はグズグズに溶け落ち、腹は醜く炭化するも、男の戦意にはいささかの陰りも見られない。

 

 とはいえ、それは受けに一手使ったということでもある。

 その分だけ遅れて、狐人剣侠へ向けて斧槍が振り下ろされた。

 

「《凶兆(イル・オーメン)》」

 

 だがその動作に、淫魔の呪文が割り込んだ。

 

 極めて単純な心術。奇跡で言えば、交易神の《幸運(ラック)》のちょうど真逆か。

 瞬間的な心への負荷が、うまくいくはずの一動作を鈍らせる、それだけの呪文。

 それだけであるがゆえに、意志力による抵抗を許さない。

 

 そして、達人同士の立ち会いにおいて、その少しは致命的だ。

 

「なっ」

 

 目測を四半歩誤った刃が床を打つ。

 僅かに身を傾けてそれを避けた狐人は、短く息を吸い、鋭く息を吐いた。

 腹部に刻まれた淫靡な入れ墨が薄く光る。

 

 こん、こん、こん。

 

 咳き込むような奇妙な息遣いで、狐人は迅速に気を練った。

 起こりは無造作に。師父の教えは骨身に染みている。

 故に、ふらりと傾ぐように前へ出たその体は、次には一つ飛ばして二歩目を刻んでいた。

 

「――お、」

 

 外れた斧槍を翻して少女を押しのける筈だった男は、虚を突かれた。

 目測を外す歩法の妙が、振り上げた刃の行く末を空へと変える。

 

 少女の下腹部――丹田の表面で、淫紋――気収束具が煌々と光を放つ。

 暁光が天を焼くが如く、巡る光が渦を巻いて、やがて尾の如く九つ灯る。

 陽の気が丹田より生まれ、全身へと渡り、そして流れ出す――気収束具によって可視化されたその流れを、果たして男は理解できただろうか。

 

 こん、こん、こん。

 

 練り上げられた陽の内功が、細腕に金剛石を割るほどの気を生む。

 遥か東でさえ秘され途絶えた至高の功が、彼女の手により一つの絶技に結実する。

 

 その術理は、強い踏み込みから始まる。

 

 震脚……踏み込んだ足へ大地が返す衝撃を、丹田を通して勁に変え、背骨から肩へと伝える。

 振り上げた腕を通じ、肘を通じ、手首を通じ、刃を通じる。駆け上がるままだった勁が、弧を描いて前へと転じる。

 勁は打ち込まれた刃先を通じて、敵手の面へと通じ――今度は起こりとは逆しまに、その骨肉を徹して地を目指す。

 

 頭蓋を割り、連なる背骨を縦に割り、胸骨を割り、臓腑を割り、肉を割り、鉄を割る。

 その様はまさしく、天雷が轟くが如く。

 

 真二つに割れた鎧が音を立てて転がった。

 刃は緩く虚空に留まり、しかし斬痕は床にまで真一文字の線を刻んでいた。

 

 剣の先にも気を徹し、面打ちにて勁を打ち込む。

 しかし緻密な功は散らばるはずの衝撃を収斂し、迸る稲妻に変える。

 刃ではなく発勁でもって、骨肉を断つ技。

 

 (みだり)()く振るえば、これ即ち身体自在に達する。

 故にその名を――。

 

「――《九煬无妄剣》」

 

 男は正中を真二つに断ち割られ、何を言い遺すこともなく左右に倒れた。




黒風白雨(ヘイフォンバイユー)
 人呼んで『黒風白雨(ヘイフォンバイユー)』、あるいは嵐を運ぶ者(ストームブリンガー)=『兴风者(シンフェンジェー)』。正体不明の武侠、(ルー)の名の怪人。
 東洋における生きた災害であり、「武家の先代は奴を武道家として育てたが、人として育てるのを忘れた」「一度現れれば殺戮を撒き散らす」など恐れられている。武侠物語にもなっている生ける伝説。
 有名なものとして、一殺一救の中庸を教えとする武侠を破った後、『勘定の立て替え』として、豚小屋で偶然拾った亡国の姫を『救う』ために旅をする物語などがあげられる。

 という感じのKUMO先生のAA短編が昔あった。
 彼らも四方世界にいる、ということにしたい。
 ちなみにこの人が使う打狗棒法・天下無狗はそっくりそのまま棒術の達人洪七公という人の必殺技だ。

銀兴旋风(インシンシェンフェン)
 yinは銀とも淫とも読む。xingは兴とも星とも読む。
 ただ単に師父から来た名というわけではないようだ。

・錬金術油
 椰子(パーム)油をベースに作る増粘剤。ということにしたい。本家D&DやPathfinderではどうだったかな……ワセリンの類だった気がするが……。
 彼女たちが使ったものはこれにペトロレウム(ガソリン)を蒸留分離したものが混じっていて、よく燃える。
 軽銀の製法が失伝していて良かったね!

・奥義
 武侠に必殺技はつきもの。
 どうせなら『扶桑武侠傳』という武侠世界TRPGから技を取ろうと思ったのだが、ルルブを紛失した。
 いや……積みルルブだったからさ……やったことないし……。
 『七星剣・(星の名前)・(技の名前)』て命名法則だったんだけど詳細が分からん……。

・九煬无妄剣
 天雷无妄とは易経六十四卦の一つ。上卦に()、下卦に()で記される。
 そのまま妄想がないことを意味する単語。易占では自然の成り行きのように恣意性なくあれとする。
 煬とは熱を与えること。炙る、焼く、溶かすに通じる。yangは煬とも陽とも読む。

 面打ちの衝撃を収束させて、気で押し固め、衝撃を刃にして相手の肉体を割る技。
 狐人剣侠独自の必殺技。優れた内功と発勁への熟練が求められる。
 本来は硬気功のような内功で身を固めた相手への必殺技で、経絡をズタズタに破壊し気を練れなくして殺す技。あと素手でも出せる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十五話

 

 

 

 §

 

 

「教えることはもうない。何故なら俺が知らぬからな」

「ええ……?」

「しかし放り出すにもいかん」

 

 男はそう言って腕を組んだ。

 全身を襤褸布で覆い隠した年齢不詳の男。その前に、痛む体に気を張って立つあたし。

 浮浪者はどちらと問われたら男の方に指が向くだろう。

 しかしこれでも、この怪人は知らぬもの無き黒風白雨(ヘイフォンバイユー)その人であり、あたしの恩人だ。

 

「神功の妙は確かに頂いた。加えて、宿飯の恩があり、雑事の助けも受けた。故、見合うだけのものを授けねば釣り合わぬ。しかし手持ちがない」

「どうするの」

「どうするか」

 

 俗世を離れ、遥かに山の高きに二人、修行すること一年。

 あたしは命を救われた。

 

 親のない乞食の一人として日々を食いつなぐ中、土中より掘り出した経典の写本。

 それが秘された武術書だと気付いたあたしは、生きるためにそれに手を出した。

 その結果、読み違えか手順の違いか、不完全なまま通ってしまった『神功』はあたしの経絡を焼くようになった。僅かな力みで、まるで体内を太陽に灼かれるように。

 

 このままでは死ぬ――と思った矢先に出会ったのが、この怪人。

 

 凶手を鬱陶しげに薙ぎ払う彼があたしなど及びもつかない功の持ち主だと理解したあたしは、彼を匿い、食事を出し、そして事情を話して助けを乞うた。

 武侠は恩を必ず返す。それを逆手に取った形だ。

 

 男は初め渋々だったが、とうの経典を差し出すと態度を変えた。

 それがとうに失われた武術の秘伝書だと知ったのもその時だった。

 それと、男が丐幇(かいほう)のお尋ね者、黒風白雨だということも。

 

「その乱れた功はマシにはなった。小娘には過ぎたものではあるが、経絡を功に焼かれるような無様はもう晒すまい。その至上の内功あらば大概の術理は実現しえよう。才気は煥発、年若く時は長くあり、土台はある。ふむ……」

 

 男は困ったように首を傾げた。巻きつけた襤褸の奥は奈落のようにして見通せないが、その表情は眉根を寄せていることだろう。

 

 男はその棒術を伝えようとはしなかった。

 その恐るべき打狗棒法の術理は何かしら特別なものらしいのだ。

 

 やがて、男は顔を上げた。

 

「ではこうしよう。俺はお前に道を示す」

「道」

「然り。俺はお前に恩を返すが、俺の持ち合わせなど武術しかない。しかしながら棒法の術理にて対価を支払うとなれば何十年とかかるやもしれぬ。丐幇の連中も煩かろうしな」

 

 故に、と襤褸布の男は言った。

 

「俺はお前に行く道を選ばせる。己が何を学び何を志すかを選ぶ権利を与える。邪道に堕ちるもよし、正道を歩むもよし。だが武の道からは逃れられぬ。お前はもうこちら側だ」

 

 元より逃げるつもりはなかった。

 生まれながらの孤児であり、人攫いに怯える日々を過ごし、生きるための力を求めた。

 かの経典を掘り当てた時から、拙くも武芸に身を浸して生きてきた。

 他の道を選ぶつもりは、最早なかった。

 

「はい、老師」

「否」

 

 だから、その言葉ほど嬉しかったことはない。

 

「俺はお前に本気で武を仕込む。いつぞやの手慰みではない。それがこの棒法でなくとも、我が内功でなくとも、俺はお前を一人前に仕立てることになる」

 

 老師とは単なる先生だが、師とは武侠にとっては父も同然。

 正式な弟子入りとは、単なる入門とは違う、非常に重く大きな意味を持つ。

 武芸の秘奥とはそれほどに重いものであるが故に。

 

「――であれば、拝師(パイシー)の儀を執り行わねばなるまい」

 

 それは血による繋がりよりも遥かに深い、魂の父子となることだ。

 

「祖師はおらん。金子もいらん。貼もいらん。まったくどれも面倒だ。うむ、俺の門だ。儀も俺の勝手であるべきだろう。だが茶はいるな。献茶と師訓だけでよかろ」

 

 男は腕を組み、どっかと腰を下ろした。

 

「どうした」

 

 それからこちらを見て、首を傾げた。

 

「何故泣く」

 

 あたしは涙をこらえながら、雑嚢の奥から粗末な茶道具を取り出した。

 男は何ということもないといった様子で軽く頷いた。

 欲しかったものがいっぺんにやってくる幸福に負けぬよう、必死に薬草を摩って茶を点てた。作法は朧げに知っていた。

 

 跪いて礼を三回。それから、茶と呼ぶにはあまりに粗雑な薬膳茶を捧げる。

 男はうむ、と飄々と頷いて、器を取って中身を飲み干した。

 

「不味い。が、それもまたよし」

 

 男は器を置いて端的に訓戒を述べた。

 

「汝、謙虚たらずともよい。だが正直であれ」

「はい」

「汝、騙してもよい。だが誠であれ」

「はい」

「汝、享じてもよい。だが流れることなかれ」

「はい」

「恩に報い、敵に抗え。己の望みに逆らわず、己の恐れに逆らうのだ」

「はい」

「ならばこれより、汝が名は『銀兴旋风(インシンシェンフェン)』。我が徒弟である」

 

 あたしは泣きながらその名を拝し、頭を垂れた。

 

「はい、師父(スーフ)

 

 

 

「――でそれから色々試して刀を使うことにしてね、色々な流派の、あっでも全部師父が打ち破ったやつね、師父はすごいんだから、で術理を手ほどきしてもらいながらそれを元に刀術を一から作らされてね、大変だったんだから激流の中で重しつけながら剣振るったり岩断つまで飯抜かれたり刀理のみで燕を落とせって言われたり、それでそこそこ形になったからついでだから陰陽揃えろって言われて失われた経を探してね、上巻部分はなんとか口伝されてたのを見つけてそっちの内功も覚えたんだけどそしたらまた気脈焼け付いて大変で、だからこの整気紋入れる羽目になってさ、あそれで下巻は散り散りになってて探してこいって言われてね」

「あーもううるさい! 頭痛いのよこっちは!」

 

 女魔術師は一喝し、額の汗を拭った。

 

 行きは飛んだ。二人だからだ。軽装だからだ。

 では人が増え荷物が増えた帰りはどうするのか?

 当然徒歩だ。

 

 ――疲れた……。

 

 背負おうかー? という淫魔術師の誘いを断り、疲れ切った体に鞭を打って戦利品を背負い、帰路をとろとろと歩いていた。

 元々後衛で体力がないのに加えて、木の根や藪で足場も悪い。踏み均されているわけでもない道は余計な負担となって体力を削っていた。

 狐人剣侠は悪路を歩き慣れているらしく、体力も有り余っている。

 地上に降りた淫魔術師も疲れを感じさせない足取りだ。

 淫魔は生得的に持久力に優れている、らしい。何故かなんて問うまでもないが。

 

 ――私も野外活動(フィールドワーク)の技術、身につけた方がいいかしら……。

 

 益体もないことを考えていると、淫魔がへらへらと笑って肩に手を乗せた。

 

「まあまあいいじゃん~、わたしたちお姉さんだし~」

「……あんたは気楽ね。いい鞄持ってると態度にも余裕が出来るみたいで羨ましいわ」

「あ、あはは~……」

 

 嫌味を言うと、淫魔は引きつった笑いを漏らした。

 

「え? じゃあおねーさんそれもしかして〈物入り袋(ホールディング・バッグ)〉!?」

「う、うーん……〈便利な背負い袋(ハンディ・ハヴァサック)〉ー……」

「えーっすごーい!」

 

 そう、すごいのだ。

 あれはいわゆる魔法の鞄である。

 

 見かけよりもずっと多くのものが入り、ずっと軽く持ち運べる、冒険者のみならず商人や軍人までもが欲しがる魔法の道具(マジックアイテム)だ。

 中でも彼女の〈便利な背負い袋〉は、通常の魔法の鞄に加え更に『常に取り出したいものが一番上にくる』という魔法がかかっており、望む道具を確実に素早く取り出せる一級品である。

 

 銀貨どころか、金貨を積んで買う代物だ。

 

「こっちだとすごい値段だよねー……向こうでも高かったけどー……」

「でもすごいよ! あたし初めて見た!」

 

 はしゃぐ狐人剣侠を横目に、女魔術師はその宝石よりも高額な鞄を見て、それから淫魔術師の顔を意味深に見つめた。

 淫魔術師は誤魔化すように視線を逸した。

 

「ひ、久しぶりにぃ、中いっぱいになっちゃったなぁ、あはは、あはははぁ……」

「はぁ……」

 

 女魔術師は顔を覆った。

 

 ――騙されておいてあげるわよ。

 

「ま、そうね……今回は相手が相手だったし。戦利品も増えるわよね……」

 

 なにせ盗賊団の資材を持てるだけ奪い取ってきたのだ。

 武具、薬。魔道具。貴金属。その他。これらが丸々懐に入れば、稼ぎは極めて良いのだが……。

 

 女魔術師は懐から数枚の書類を取り出して溜息をついた。

 人身売買の証拠書類。資金や資材の提供元。

 仲介人(ブローカー)の正体は掴めないが――そこには王国貴族の名まであった。

 

「割に合わない、わよね」

 

 女魔術師はそれを懐に押し込んで隠し、溜息をついた。

 盗賊組合(ギルド)への渡りをつける手段もない。仕掛け人(ランナー)の目利きもできない。権力者への伝手(コネ)もない。ここにいるのはただの小娘と淫魔だけ。

 権謀術数渦巻く世界に乗り込む、その資格がそもそもないのだ。

 

「難しいことは偉い人に任せたらいいよ~」

「そうね。権力者に委ねなきゃならない結果として、戦利品は証拠として押収されるわね」

「う……」

「あまり取り分に期待出来ないのよね。本当、苦労の割に合わないわ……」

 

 女魔術師は溜息をついた。書類に限らず、装備や薬品は全部没収されうる。

 ご禁制の薬品――媚薬や自白剤――まであるのだ。ねこばばなんて余裕がないよう、至高神の神官の立ち会いのもとで厳密に検査されるだろう。

 

「でも、あの時よく発動させたねー。ほら、最後の超過詠唱(オーバーキャスト)

 

 気を紛らわせようと、淫魔術師は指を立てて言う。

 女魔術師はそれに乗って、ゆるく頭を振った。

 

「あれは別に、発動しなくてもよかったのよ」

「え」

「前衛が抑え込んだ相手を呪文で制圧するのは軍隊戦術でも基本よ。相手が騎士か傭兵上がりなら絶対に警戒するわ。こっちの本命と見た目均衡を保っているなら尚の事ね……」

 

 呪文を唱えるということそれ自体が、男の注意を引く動きだったのだ。次に来る《凶兆(イル・オーメン)》が本命で、《火矢》は所詮前座でしかないのだ。まして、その呪文で倒せないのが分かりきっているのだから、なおのことである。

 あの場で女魔術師が出来ることなど、ちょっと気を引く程度しか残っていない。

 

 のろのろと歩きながらの答えに、驚いたのは狐人の少女だった。

 

「そんだけで超過詠唱したの!?」

「大声出さないで……」

 

 限界を超える強烈な負荷は痛く苦しい。狐人剣侠は呪文使いではないが、似た経験はあった。

 限界まで経絡を酷使するときの激烈な痛み。制御できない内功に身を灼かれる苦しみ……。

 

 女魔術師は疲れた声で言った。

 

「命を賭け金(チップ)に積むのよ? やれることは全部やるわ」

 

 狐人の少女は驚いたように眉を上げ、女魔術師の前に回り込んでその顔を見上げた。

 

「腕前も分からない剣士一人をアテに、呪文使い二人で敵のねぐらに突っ込んだのに?」

「賭けなきゃ札は配られないからねー」

 

 淫魔術師が能天気な声で勝手に答えた。

 

「そのあたり、魔術師ちゃんは堅実(タイト)なんだよねー。けちだよけち」

「自分の身より可愛いものなんてそうないでしょう」

 

 堅実で何が悪い、と内心毒づく。そもそもここに来るのは反対だったのだ。

 手があるのにやらないのは性に合わないから、仕方なく来ただけ。

 その手だって、身の安全の確保が最優先。準備した手札をいくつ腐らせたことやら。

 

「命までは取られないように余地(マージン)を取って、探り探り賭け金を積み立てて、自分の心を隠して、相手の顔色を伺って、手癖を見て度胸を試して……」

 

 女魔術師は背の低い狐人をちらと見て、その白い毛並みを見た。

 腰に下げた二つの鞘を見て、細くも鍛えられた体を見た。

 

「勝負所で配られたのは怪物手(ポケットペア)。なら後は()()()()()()()()でしかないわ」

 

 だから、女魔術師はそうした。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 口にしてしまえばそれだけのことを、女魔術師は徹底したのだ。

 

 狐人剣侠はその言葉を聞いて、何度か目をしばたかせて、そして黙り込んだ。

 

 木の葉の天蓋に切れ目を見て、女魔術師はほっと息を吐いた。

 街道までくれば、少なくとも足元に気をつける必要はなくなる。

 少し急がなきゃねー、と淫魔術師が能天気に言うと、女魔術師は嫌そうに呻いた。

 街道から見上げてみれば、もう西の空が黄味がかっていた。

 

「ね、お姉さんたち」

 

 狐人剣侠が問うと、二人は同時に振り返った。

 

「冒険者なんだよね?」

「そうね。駆け出しの、杖のない魔術師と淫魔の二人組(デュオ)よ」

 

 女魔術師は嫌味ったらしく言って、胸元の白磁の認識票(タグ)を弾いた。

 淫魔術師は困ったように笑って、しかし黙って少女の言葉を待った。

 

「あたしも仲間に入れてくれない?」

 

 直截に、少女は言った。

 

「……どうして?」

「恩返し」

 

 狐人剣侠はすっと居住まいを正した。

 女魔術師はその、足先から尾の先端までもが洗練された佇まいをじっと見つめた。

 

「あたしを助けたのはお姉さんたち。だから、あたしもお姉さんたちを助けるの」

 

 狐人は真摯に目を合わせる。

 少し迷って、女魔術師は答えた。

 

「……私達が助けなくても、あなた一人でなんとでもなったでしょう、あれ」

「それとこれとは話が別でしょ? 助けられたのはマジなんだから」

 

 少女はあっけらかんと言った。

 

「武を奉じ、義侠に殉ずる、そういうものなの、あたしたち」

 

 眼鏡のつるを押し上げようとした中指が空を切った。

 溜息をついて、隣に立つ淫魔術師を見上げた。

 そのにへらーっとした笑みを睨みつけて、肩を落とした。

 

 それから、改めて狐人の少女に向き直った。

 

「私達の一党に義理で従うやつはいらない」

 

 少女は初め、面食らったように目をしばたかせ、その言葉の意味を反芻した。

 それから、耳やら尾やらをしおれさせて、顔を伏せた。

 それを見届けてから、女魔術師は言った。

 

「それで、あなたは義侠心を満たしたいの。それとも仲間になりたいの」

 

 背筋と尾耳がぴんと伸び、それから、少女の顔が喜色に染まった。

 素直じゃないんだから、と言いたげな淫魔を睨みつけ、腕を組んで返事を待つ。

 聞くまでもないとしても、それははっきり言葉にさせる必要があった。

 

「……あたし! そういうとこが気に入ったの! だからあたしも仲間に入れて!」

「そう」

 

 それを聞いてから、女魔術師はようやく笑みをこぼした。

 

「願ったり叶ったりよ。これからよろしく、剣士さん」

「やったー! 狐ちゃんよろしくねー!」

 

 めいめいに笑う二人の前で、狐人剣侠は右手を握って左手を伸ばし、顎の前で突き合わせる、異国風の礼をした。

 

请多关照(チンドゥグァンジャオ)! これからよろしく、おねーさんたち!」

 

 それから、満面の笑みで二人の間に飛び込んだ。

 

 




丐幇(かいほう)
 武侠小説において俗世を離れた武侠たちの社会を武林だの江湖だのと呼ぶのだが、その中でも一大勢力を築く組織。乞食たちの互助組合でもある。
 丐幇のお尋ね者を匿ってあまつさえ師事するということは、まあそういうことだ。
 幇主は代々打狗棒法という棒術を受け継ぐことになっている。
 つまり丐幇に属さぬが打狗棒法を扱う者ということは、まあそういうことだ。

・このセッションについて
 武侠ものと言いながらあんまり武侠小説知らないPLが語感だけでキャラを持ってきたのでGMが苦心してなんとか話を合わせたセッション。
 狐PLの導入のためのミニシナリオと残る二人を交えたセッションとクライマックスでそれぞれ日にちをまたいでいる。
 術師二人でのハックアンドスラッシュは無謀だ。やめようね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章 The Steamroller
十六話


 夜の(とばり)の下りた貴族街にて、一人の男が馬車を下りた。

 王都は夜も眠らぬと噂されるが、住宅街(ベッドタウン)はそうではない。

 男は人目を気にするように周囲を見回すと、急かされたかのように早足で、しかし不自然に足音を殺して、寝静まった己の屋敷の戸に滑り込んだ。

 家令や使用人の迎えもないまま、階段を昇り、書斎に入り、灯りを点ける。

 

 そして目にする。絵画の裏の隠し戸が開いているのを。

 

「『家長(M)』に黙って副業ですか?」

 

 振り返れば……ソファに腰掛けてこちらを見やる、一人の()()

 

「機密を売り物にするのは不味かったですね」

 

 その不敵な笑みを険しい顔で見据えながら、男は己の書机に座った。

 座るときの仕草に隠して、書机の棚を音もなく引き出す。

 

「芝居がかった手で脅したつもりか? 蛇よ」

 

 男は落ち着いた様子で手袋に手をかけた。

 裏切りの尻尾を掴まれたところで、恐れることはないとばかりに。

 

「彼女は裏切り者の始末には、『月央』を送る」

 

 手袋を放り捨て、男は薄く笑んだ。

 

「私は局長だ……月央への昇格者は全て知っている。お前はまだ一人も殺していない」

 

 平然と、しかし見下すように言う男を、侍女は酷薄な笑みを浮かべたまま見つめていた。

 

条件(タスク)は――」

「二人」

 

 ――男は素早く引き出しに手をかけた。

 

 魔法使いの(ワンド)が如くに突き出されたのは、への字を描いた奇妙な筒だった。

 木製の身の緩く曲がる地点には、妙な形の金具が据えられている。

 

 雷撃棒。短筒。またの名を、銃。

 火薬の力で鉛の礫を音より早く撃ち出す兵器。

 燧発式(フリントロック)拳銃(ピストル)だ。

 

 男は毎朝これを丁寧に整備し、そして装填を済ませて、いつでも撃てるように隠していた。

 

 ――王国において、火器の製造・所持は違法だ。

 

 酒場の娘でも人を殺せる道具を普及させるのは、国の治安に大きな悪影響を与える。

 故に、たとえ冒険者や軍人であっても、一定以下の大きさの火器は単純所持すら許されない。

 民間には大砲のような隠し持てない大型火器だけが限定的に所持を許され、専用の訓練を積んだ軍人ですら、火器を携行しての作戦行動は極めて稀だ。

 

 例外は、国にそれを認可された者たち。

 己の使命を、剣でも鎧でもなく、懐に隠した一発の鉛玉を用いて果たさねばならない者たち。

 

 つまり、密偵(スパイ)だ。

 

「残念だよ。君と()()()()()()()ことが」

 

 男は勝ち誇ったように笑うと、引き金を引いた。

 燧石(ひうちいし)が火花を散らし、火皿へと飛び込み……かちん、と乾いた音だけが鳴る。

 

 男はその表情を変えた。

 

「お見通しですよ」

 

 それを見てから、侍女は指を立てて見せた。

 その間に、鉛玉を一つ挟んで。

 

「銃も、あなたの企みも」

 

 気取った言葉に、男は皮肉げに笑った。

 

「そのようだ」

 

 そしてすぐ口元を引き結んで、男は間髪入れずに問いかけた。

 男はそうして場の流れを握っていいように動かすのが得意だった。

 

「どう()った?」

「あなたの『知人(コンタクト)』ですか?」

「ああ」

 

 侍女は冷たい笑みを崩しもせずに言った。

 

「ひどいものでした」

 

 ――武器を抜く暇もない、がむしゃらの格闘戦。

 洗練された技などなく、掴みかかって殴って倒して蹴りつけて。

 襟締(ネクタイ)を掴み上げて首を締め、水桶に顔を押し込んで溺れさせる。

 瀟洒とは程遠い、泥臭い戦いをもって……侍女は本日、男の共犯者を殺すに至った。

 

「気分はどうだ」

 

 男は問うた。

 一度目の殺しは重くのしかかる。銃の携行を許されるのは、実働員の中では月央だけ。

 己の手で物理的に人間を殺害する、その精神的な苦痛を呼び覚まさせようと、男はあくまで優しげに言葉を続ける。

 

「辛いか? だが心配ない……二度目は」

 

 バン。

 

 小さな雷が侍女の手から鳴り響き、男の言葉を遮った。

 

「ええ」

 

 仰向けに吹っ飛んだ男の頭には、穴が一つ。

 机の墨汁(インク)壺が転がり落ち、床に染みを作る。

 

 侍女は煙を吹く燧発式拳銃を布に包んでエプロンドレスに隠し、立ち上がった。

 

「楽ですわね」

 

 これで二人目。

 

 かくして、密偵の侍女は裏切り者の始末を終え、昇格の条件を満たした。

 王国で唯一の殺しの許可証(ライセンス)――月央の七の座を手に入れたのだ。

 

 まだ、国王の名が違った頃の話である。

 

 

 

 

 

 

 三章 『ザ・スチームローラー』

      あるいは王室直属の凄腕スパイ侍女と一緒に貴族ちんちんをスレイする話

 

 

 

 

 

 

 その後の話をしよう。

 

 気が気でない様子で待っていた村長の娘と薬師の少女は、狐人の少女を見るや悲鳴じみた喝采を上げ、少女を取り囲んで踊り回り、礼を言ったり無事を喜んだりした。

 それから、今度は二人の術師に飛びつかんばかりの勢いで迫り、涙ながらに礼を言った。

 情緒の不安定な少女たちに振り回される前にその場を抜け出し、二人は村長に依頼の完了を報告することにした。

 

 報酬については女魔術師はとかく容赦がなかった。

 村長は金欠に涙しながら正規の報酬――ただし等級ではなく依頼難度相応の――を支払い、女魔術師が言い放った『組合への状況の説明責任』という新たな問題にくずおれた。

 依頼を出しておきながら別の冒険者に委託してしまいました、ではこの後やってくる冒険者が浮かばれないわけで、何かしら罰則があるはずだ。

 もちろん受けた女魔術師たちにも問題はあるが、救助という依頼と予想される時間制限はそれを無視して強行するに足る理由だった。

 事実、ギルドが二人に下したのは軽い注意と社会奉仕だけだ。

 

 利益はそれだけではない。

 薬師の少女の好意で、徴発した薬品のうち貴重品でない水薬は追加の報酬として譲り受けることになった。駆け出しの冒険者及び冒険者志望である三人には大いに助かった。

 特に合わせて六本もの治癒の水薬は大きな収穫だった。

 元の依頼……薬草の採取も抜かりない。本職の薬師に手伝われて失敗するわけがなかった。

 

 回収してきた人攫いたちの装備は全て没収されたが、情報提供の対価としてそれなりの見返りをもぎ取ることはできた。

 もっともその報酬は(女魔術師の見立てで)売却額の半額にも満たなかったが。

 

 そうして得られた報酬の総額は、駆け出しの冒険者が手にするには破格なものだった。

 

 故に今。

 前衛が加入し、装備を整え、蓄えもできた、新進気鋭の三人組は――。

 

「巨大鼠が二、粘菌(スライム)が天井に二、水路に一!」

「水路は任せたわ」

「いつも通り、りょうかーい!」

 

 ……下水道で鼠退治に勤しんでいた。

 

 

 

 数日前。

 

「……以上を踏まえて、昇級のご相談です」

 

 まあそう来るわよね、と女魔術師は溜息をついた。

 

 状況が状況とはいえ依頼を横取りしたことへの警告、術師二人で無謀な挑戦をしたことへの注意と苦言、単なる盗賊と考えず証拠物品を探して持ち帰ったことへの感謝、それらを聞き流していた後に待ち受けていたのが、その本題だった。

 

「お二人とも白磁等級の実力を大きく逸脱している、というのが組合(ギルド)の判断です。淫魔術師さんは術師として非凡な域にあるようですし、女魔術師さんは深い見識と洞察で状況の解決に大きく貢献してくださいました。加えてこれから新規登録なさる狐人の方も実力に申し分ない剣士ということですから、徒党としての実力は十分以上でしょう」

 

 農民の出が数人寄り集まったような徒党では、証拠の書類をそもそも読めたかどうかも怪しい。一党に術師がいないなんてことは珍しくないのだ。

 そして、敵が人攫いだと事前に当たりをつけていた二人だからこそ、証拠隠滅をさせる手間を与えずに事を進めることができた、と冒険者組合は考えている。

 

 実際のところ、隠密行動になったのは選択肢がそれしかなかったからであり、それが成立したのは音を立てずに飛べる淫魔の特徴故で、書類の回収は努力目標でしかなかったのだが……。

 

「白磁から黒曜への昇級は敷居も低いですし、お二人がよろしければ明日にでも昇級審査が可能ですが……」

「それ、棄権(パス)させて」

 

 女魔術師はすっぱりと断った。

 

「……理由をお伺いしても?」

 

 言わせるの? と女魔術師は目で問いかけ、受付嬢は眉根を寄せた。

 昇級は基本的には強制できるものではない。明らかに実力よりも低い等級に居座っているのならともかく、一度や二度の棄権はおかしなことではない。

 

 とはいえ、とはいえである。

 女魔術師が見せた手腕は、上位の冒険者たちの間でも通用すると受付嬢は断言できる。明らかに実力に見合わない難易度の依頼を機知一つでもって()()()()()()()()()()、というのは並大抵のことではない。

 

 危険行為だと詰め寄る組合職員らに女魔術師が理路整然と提示する、十重二十重の『手札』。

 単なる挟撃から、負傷した場合の撤退の手筈、等々(エトセトラ)

 重箱の隅をつつくような限定状況への対処まで抜かりがない。

 奥底に高位の魔神(デーモン)がいる想定を大真面目に論じ、そして一切の逡巡なく撤退の手筈を示す女魔術師は、ただの駆け出し冒険者とひとくくりにはできない才能の塊だ。

 

 賢い、というのはそれだけ優れた特徴(フィート)なのだ。

 

 ――命の危機に直面したから、驕りを捨てて一皮むけた、と言えばよくある話ですが。彼女の場合は、成長というよりは本来の姿に戻ったと言うべきなんでしょうね……。

 

 それも、考えてみれば当然だった。

 彼女は賢者の学院を年若くも卒業した才媛なのだから。

 

 単なる魔術の修行場ではない。賢者の学院の名の通り、知恵ある者を育てる場だ。

 呪文のみならず、自然や宗教や政治、動物や植物、それらの知識を学ぶ場であり、それを扱うための知恵を磨くための場所でもあるのだ。

 文字通り、王国でも最高峰の学府であるからして、生徒に求められる水準はひどく高い。

 

 在野の魔術師から薫陶を()()()()()()()()()若い魔術師の雛たち。しかしその師から推薦をもらえなければ、まず試験を受けることすら許されない。

 そうして集められた徒弟たちは厳しい試験によってふるいにかけられ、少数が入学を許される。呪文を一つ覚える間に何年もの修行を重ね、その間、内部でも熾烈な競争にさらされる。ついていけないものは淘汰され、才能と努力を双方備えたごく一部だけが卒業の栄誉を賜る。

 学院とはそれほど厳しい環境だ。

 

 故に卒業生はとかく引く手あまただ。

 国は宮廷魔術師への厳しい門戸を簡単に開くし、知識神の神殿からも呼び声がかかる。大手の商会もぜひ顧問魔術師にと売り込みをかけるだろう。

 そんな約束された栄達を蹴って、彼女は組合の門戸を叩いたのだ。

 

 彼女は在野の冒険者とは、そもそも開始地点が違う。

 だからこそ、組合としては早く昇級してほしいのだが……。

 

 女魔術師は苦々しげに表情を歪めて、吐き捨てた。

 

「私の実力が追いついてないのよ。もういい?」

 

 それは何に、とは問うまでもないことだった。

 それ以上何も言うことができず、受付嬢は立ち上がる女魔術師に頭を下げる他なかった。

 

「……ああ、そうだ。私以外の二人については個別に聞いて」

 

 ――お二人とも、貴女をおいて昇格しようとはしないと思いますが。

 

 受付嬢は喉元まで昇ってきたその言葉を飲み込むのに、だいぶ苦労した。

 

 





・Steamroller
 (反対意見を振り切るような)強引な手段。

・家長、婦長
 Master、ないしMatron。
 頭一文字を通称として呼ばれる地位。

・月央
 (M00N)の中央。殺しのライセンス。侍女は(獲得当時)数えて七番目。
 王国秘密情報部に所属する官吏、つまり諜報員のうち、暗殺を認められた者。
 実働部隊では最高の役職だが、部下を率いることはあまりなく、また()()()()()も激しい。
 あと今回は怒られてもおかしくない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十七話

 

 

 §

 

 

「貴族に豪商、司教まで。選り取り見取りですね」

 

 王都の中心――文官たちの行き交う宮廷の、その隅。

 一般に知られていないその場所は、王国秘密情報局と呼ばれている。

 

「全く嘆かわしいことです。陛下の治世は良いのですが……」

「国が荒れた後は腐敗が進む。世の常です」

 

 先の大戦、魔神王との戦いの傷は、まだ癒えていない。

 とうの大戦の武勲をもって国王となった金剛石の騎士(ナイト・オブ・ダイヤモンド)は間違いなく名君だが、だからといって国の傷が瞬く間に癒えるわけではない。

 

「しかし、高名な司教が年端も行かぬ女子を買い漁り、男爵家夫人は邪教に手を染め……根は深いですな。果たしてどこから手を付ければいいやら」

「断言しますが、これは末端ですよ。亡霊(スペクター)はこんなもの残しませんもの」

 

 妙齢の美女はそう言って眼鏡を押し上げる。控えていた男も渋い顔をした。

 

「彼奴らの周到さは偏執的な域にありますからな」

「卸売先……つまり一定の取引実績がある顧客で、かつ亡霊からは切り捨てても構わない程度の存在でしょう。この賊も含めて。功を求める騎士や軍人でしたら、書かれた通りの場所を襲撃して成果を上げるでしょうね。そして」

「彼奴めはその動きから情報を得て、更に込み入った手を打ってくると」

 

 頷く女に、男は別の書類を手にとった。

 

「では家長(M)、我々国の狗も犬らしく嗅ぎつけた匂いを愚直に追うのが自然ですな?」

「あなたに一任します。しかし予算はあまりありませんから、重々承知してくださいね」

「仰せのままに」

 

 大人数は送るな、という言外の指令を、男は恭しく受け取った。

 

「それで、本命は」

「ここです」

 

 家長、つまり情報局の長である女は、気難しい顔で長い赤毛を指で巻いて弄び、それから、広げられた大陸地図のうち、首都から遠く離れた辺りを指で叩いた。

 

「辺境ですか……」

 

 男は渋い顔をした。

 

「伯が加担しているとは思いたくはないですが、その下辺りは間違いないでしょう。どこかで情報を集約して、かつ上への情報は握りつぶしている。でなければ、ここまで手広くやれません。そして王都に近づくほど私達の目は厳しい……」

「しかし家長、となれば他国という線もありますが」

「そうですね。まず、国境を人狩り程度が超えるのは不可能です。そして辺境の更に僻地、空白地帯を通って人間を輸送するというのは難しいでしょう」

 

 国境を超えるような長距離移動を頻繁にするのはコストが掛かりすぎる。ならば一度に纏めて大規模な輸送部隊を構築する必要があるが、当然そんな大部隊が国境をこっそり通過することはできない。足手まといの軍団を抱えてその護衛と見張りを立てながら未開の地を行軍というのは、自殺行為かその親戚だ。

 

「少なくとも十分に訓練された軍が必要ですね?」

 

 家長は近い国への迂回道程(ルート)を指でなぞって示した。

 そのどれもが辺境を経由することになる、ということが分かる。

 

「それほど統率された軍団を隠れて組織できるとは考えづらい。だから、可能性は二つ……」

「辺境は国外からやってくるそれの受け入れ先か……」

「亡霊どもの根城か」

「つまり、罠ですな」

「ええ。つまり、いつも通りです」

 

 家長は顔を上げ、決然と言った。

 

「月央を送ります。銅貨娘(マネーペニー)さん」

「はい、家長」

「早馬で、組合(ギルド)他に根回しを。それから――」

 

 部屋の隅に控える秘書の女性が、どこか待ち望んだような顔で家長を見る。

 赤毛の女は、嫌そうに言った。

 

「侍女長に、『懲罰房送りにせよ』と。彼女、最近とみに遊び呆けているようですからね」

 

 

 

 

「あっ……い、いけませんわ先輩、こんな所で……!」

 

 王宮、と一言に言っても範囲は広い。

 王都に座する城の裏には、国王陛下や王室の御方々が住まう宮殿がある。応接室、客室、その他諸々、日常使われない部屋を無数に持つ宮殿、その片隅にて。

 

「あら、王室侍女たるもの、皆様の予定(スケジュール)はすべて覚えていなくてはいけませんよ」

 

 銀髪の麗しい侍女は、年若い新人侍女の腰を抱きつつ、さっと後手に紗幕(カーテン)を閉じた。

 未だ掃除中の客室の一角は、喉奥の震える音すら聞こえるほどに静かだ。

 

「お客様はおらず、御方々はこちらには来られず、同僚は今皆別の場所でお仕事の最中。ここにいるのは私と貴女だけですよ? きちんと覚えていませんと」

「せっ、先輩のお仕事は?」

「親切なお友達が代わってくれましたよ。用事がありましたからね」

 

 言うなり、女は後輩侍女を寝台に押し倒した。

 あっ、と甘い声を漏らした後輩は、しかし口では拒否を続けている。

 

「よ、用事があるのでしたら」

「ええ……大事な後輩への教育ほど、重要なことがありますか?」

 

 女は少女に覆いかぶさるようにして顔を近づけ、その蠱惑的な美貌で少女の心を虜にした。

 

 少女は、とある貴族の三女として産まれた。

 単なる女性使用人とは異なり、高貴な方々の身の回りの世話を任される侍女というのは、単なる家事能力だけではなく美貌や教養を高いレベルで求められる、位の高い従者だ。

 王室の侍女ともなればそれに釣り合うのは十分な貴族教育を受けた女性が望ましく、そして決して裕福でない一般的な貴族家は、子女を奉公という形で送り出すことで利を得られる。作法(マナー)と教養を仕込まれたという価値(ステータス)は後に縁談で有利に働く。子女は洗練された流行の最先端の中で感性を磨き、家には金が入るのだ。

 

 少女もそうして家と己のために奉公に出て、そして出会ったのが先輩である。

 少女は潤んだ目で先輩を見た。先輩が『遊び人』であることは知られていた。同性愛者で浮気者の悪い女。そう知られていても一夜の夢を毎日見ている。時には高貴な方々さえも、などと。

 分かっていても、彼女は魅力的で、そして理想的だった。瀟洒で楚々とした振る舞いと、的確で早い仕事。少し話せば笑顔になり、教えは丁寧で、誰にでも分け隔てない。

 そうして心を許したが最後、気付けば寝台の上で鳴かされるのだ。

 

 分かっていて警戒していた少女はしかし、もう拒むことも出来ずにその美貌に見惚れていた。

 

「忘れっぽい貴女のために、強く記憶に残るように、じっくり教えてあげますわ」

「あっ……」

 

 先輩は少女のドレスの内側にそっと指を滑らせ、少女は自分がこれから何を教えられるのかの期待で胸をつまらせた。

 そして侍女長が扉を開けた。

 

「何をしているのですか」

 

 二人は揃って飛び上がり、そして振り返ってそれを見た。

 竜もかくやの形相でこちらを、というより銀髪の侍女を睨む、敬愛する王室侍女長の姿をだ。

 

「侍女長……今は王城でのお仕事では?」

「御方々のお言葉で一度戻ってきたのです。それで、貴女の仕事は?」

「勿論、完璧に済ませて来ましたわ」

「仕事を同僚に押し付けて後輩の仕事の邪魔をするのが完璧とは、貴女の仕事観についてよく話し合う必要があるようですね」

「邪魔だなんて」

「言い訳は結構」

 

 老齢の、しかし背筋のぴんと伸びた侍女長は、軽薄に笑う侍女につかつかと歩み寄った。

 

「侍女長、御方々から託されたお仕事がまだ残っておいででは?」

「王宮の秩序を守ることより、大事な仕事がありますか?」

 

 侍女長は、今まさにいただかれようとしていた小動物から猛獣を引き剥がした。

 

「風紀を乱す問題児をこの手で更生させる、これほど私に適任の業務もないでしょう」

「……そんな」

 

 銀髪の侍女は悲痛な声を上げた。

 

「懲罰房に一月です。今すぐ向かいなさい。逃げ出したならば、今度こそ()()()()()()()()()()()()叩き込みますからね」

「……かしこまりました、上官殿(Ma'am, yes ma'am)

 

 うなだれて出ていく侍女を見送って、侍女長は硬直したままの少女を見た。

 

「立ちなさい」

「ひっ、は、はいっ」

 

 怯えながら急いで立ち上がった少女を一瞥し、侍女長は溜息をついた。

 そして、素早く少女の身なりを整えると、一人の侍女へと仕立て上げた。

 

「雑務を押し付けてしまってごめんなさいね。さ、元の業務に戻りなさい」

「あ……はい、かしこまりました!」

 

 室内の清掃に戻る新人侍女の様子を見て、侍女長は小さく頷いて部屋の扉に手をかけた。

 

「ああ、それと……」

 

 出る直前、侍女長は振り返って愛する部下に声をかけた。

 

「高貴な方々は言うに及ばず、使用人の業務予定は把握しておきなさい。御方々のご要望を素早く叶えるこつは、専門家に委ねることです」

「は、はい! すみま、申し訳ありません!」

「後で予定表をお渡しします。初めはそれを見比べながら、ゆっくり覚えていきなさい」

 

 侍女長は頭を下げる侍女を背に、扉を閉めた。

 

 

 

 そういうわけで、銀髪の侍女は懲罰房と呼ばれる場所にやってきた。宮殿の外に立てられた掘っ立て小屋である。

 またやったんだ、今度は誰が、と興味と軽蔑と落胆の混じった内緒話を突っ切って、すでに定位置となり『銀髪専用部屋』とまで呼ばれるそこに、自主的に潜り込む。

 そして壁の木組みの一部に指をかけてずらし、鍵を差し込んで隠し扉をあけた。

 

 両開きになった重たい扉の内側には、刃物から銃器までがびっしりと並べられた棚があった。扉の裏にも様々な道具が安置されている。薬、衣服、かつらや眼鏡、用途不明の球体、その他。

 

 王室侍女はまず服を脱ぎ捨てた。

 すらりとした長身と、豊かに肉づいた体が、扇情的な下着を隔てて露わになる。次に侍女は武器の棚に手をかけた。

 

 迷いなく小刀(ナイフ)を手に取り、侍女服の袖と靴下止め(ガーターベルト)に忍ばせた。続いて指ほどの太さの細長い小瓶を懐へ。その他幾つかの道具を素早く選び出しては、机へと並べていく。

 そして銃器だ。侍女がそれらを丁寧に並べたところで、懲罰房に侍女長が現れた。

 

「まだ何か?」

 

 問われて、侍女長は恭しく一礼し、机に小箱を置いた。

 

「貴女様にこちらを、と『補給係(Q)』様から頂きました」

「あの(にきび)面の青二才が?」

 

 王室侍女は美しい肢体を独房に晒しながら、棚から拳銃の一つを手にとった。

 素早く分解し、金具を確かめ、やすりと燧石を確かめ、元に戻す。

 そうしながら、側に控える侍女長と剣呑な会話を続けていた。

 

「彼はなんと?」

「『耳を揃えて返せ』と」

不可能任務(ミッション・インポッシブル)に挑めとは、腕がなりますこと」

 

 銃の整備を止めて、侍女は箱の金具を開けた。

 納められていたのは拳銃と、小さな賞牌(メダル)だった。賞牌は一見すると何の変哲もないもので、ところどころ錆びている。銃は侍女の知識にない形をしていた。

 一通り検めたことで仕組みを理解したのか、侍女は一つ頷いた。

 

「……なるほど。しかし彼が新装備を説明に来ないのは珍しいですね?」

「お望みでしたらお繋ぎいたしますが」

「いいえ。美術館で逢引なんてはしたないですからね」

 

 侍女は一度箱を閉じ、鍵をかけた。箱は魔法的な鍵によって施錠されたようだった。

 それを確認してから、仕立ての違う、質の低い侍女服を手に取る。

 恐ろしいほどの早着替えを披露すると、彼女はその全身に装備を忍ばせていった。

 侍女長は、王家の人々にするように、黙して側に控えようとしたが、できなかった。

 

「とても重要な仕事だそうです」

 

 背中越しに、侍女は答えた。

 

「私の仕事はいつもそうですよ。麗しいご婦人をもてなし、寝台にて愛をささやき……」

「健気な後輩の心を弄び、老いぼれになっても忘れられない夢を見せる?」

 

 侍女は微笑みとともに髪をかき上げ、つるりと丸い耳を曝け出した。

 一見しても分からないだろう。だが間近で注意深くそれを見ることを許された者には、その耳が本来あるべき形を削ぎ落として只人のそれに似せていることが分かる。

 

「とても大事でしょう?」

 

 長きを生きた美しき女は蠱惑的に笑うと、老いた後輩の顔を覗き込む。

 そして、額に口づけ、頬に口づけ、唇に口づけて、跪いて手の甲に口づけた。

 

「残念ですが、私はこれから一月ほど懲罰のお時間ですから」

「『国王陛下の秘密の使用人』はいつも忙しさに目を回していらっしゃる」

「だから大事なのです。目の保養がね」

 

 やがて装備を終えた侍女は、最後にそのまばゆい銀髪を素早く編み込んでまとめると、魔法のかつらを被って伊達眼鏡をかけた。

 どこにでもいそうな、中流の商家に仕える野暮ったい召使いがそこにいた。

 

「それでは、悲嘆にくれる問題児へのお説教などなど、委細お任せしますわ」

「泣き叫ぶ余裕もないくらいに痛めつけておきましょう」

 

 そして彼女が隠し棚を操作すると、棚が扉のように開いた。

 地下へ通じる階段――城の外に出るための秘密の抜け道を、王室侍女は降りていく。

 

「……どうぞ、ご無事で」

 

 『月央七』、王国最高の密偵(スパイ)である美しき銀の蛇は、いつも御婦人方にするように、後ろ髪を引かせぬ足取りで去っていった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十八話

 

 

 

 

 §

 

 

 そういうわけで、未だに白磁のままの一党は精力的に下水道の掃除に取り組んでいた。

 依頼達成数を稼ぎながら、徒党(パーティ)内での連携の形を構築していく作業だ。

 

 意外な弱点として、淫魔術師が虫に弱い事が分かった。

 単純な好き嫌いだけでなく(勿論初見の時淫魔は泣いた)、単純で機械的な知性しか持たない生物を相手にすると、彼女の手札は大半が機能しなくなってしまうのだ。

 

「感情が薄い生物はむりー! 感覚器が人とかけ離れてる生物もだめー! 虫、だめー!!」

 

 淫魔の幻術は(本人曰く「位階が足らない」ため)基本的に視覚と聴覚しか騙せないし、感情や心理を持たない相手に心術は効かない。

 唯一の攻撃性呪文も幻痛を与える呪文であり、神経系の通っていない虫には効かないのだ。

 言われてみれば当然なのだが、女魔術師からすると驚きの発見だった。

 

 では淫魔術師がお荷物かと言うとそんなことはまったくない。己の役目を敵の探知と味方の補助に限ることで淫魔術師は十分な貢献をしていた。

 念術(サイキック)の汎用性に女魔術師は舌を巻く思いだ。

 

 一方、新入りの狐人剣侠は八面六臂の活躍を見せた。

 ただでさえ素早い獣人(パットフット)であり、その技術によって身体能力を爆発的に強化でき、さらに魔法の如き技芸を備える彼女は、天井や水面を当たり前のように走り、危険な赤粘菌(レッドスライム)の放つ雷の矢の魔法を刀一つで撃ち返すのだ。

 本来武器では倒せない群体(スウォーム)は衝撃波で打ちのめし、無数の虫の大群には真正面から突撃して真一文字に群れを割って、あまつさえ帰ってこれてしまう。

 三人の中で最も強い、等級詐欺(オーバーパワー)も甚だしい逸材である。

 

「くさーい! 鼻が曲がっちゃうよ! やだやだもうやだー! 行きたくなーいー!」

 

 本人は毎日駄々をこねているが……感覚が鋭敏な分だけ悪臭がきついのだろう。

 

 翻って、女魔術師に出来ることは少ない。

 初め隊列の制御や連携の調節を担っていたのも、二日目にはこなれてきて、ある程度言わずとも動けるようになった今では、松明係くらいしかやることが残っていない。

 

 やろうと思えば大黒蟲(ジャイアントローチ)も一撃で叩き切れる剣士と、それを支える優れた支援術師。

 ()()()二回の、それも単体攻撃呪文を唱えること、それが女魔術師のすべて。

 

 ――こんな状態で、昇級? 馬鹿げてる。

 

 黒曜等級が、ただ新人でないことを示すだけの等級で、実力などまるで考慮されないということは理解している。

 それでも、女魔術師はよしとしなかった。

 

 ――それに納得出来るなら、冒険者になんてなってないわよ。

 

「うわー……大黒蟲が二体ー! あと鼠の群れ!」

「うげぇ……おねーさんお願い? ね? あたし近づきたくないなぁ~?」

 

 女魔術師は修理した眼鏡のつるをぐいと押し上げ、新調した紅玉の杖で古びた石畳をついた。

 弱音も怒りも表に出さず、ようやくの出番への高揚もせず、ただ平静に言った。

 

「甘えたこと言ってないで、大物をうまく纏めなさい。陸上によ」

「だよねぇ……うわーん文句言えない! あたしやだー! あれキモいー!」

「鼠なら幻術効くわよね? 群れの足止め、二手稼いで」

「おっけー!」

 

 女魔術師は油壺を腰帯袋(ベルトポーチ)から抜いて、狐人剣侠に投げ渡した。

 

「問題ないわ――ねじ伏せて、勝つだけよ」

 

 奇怪な鳴き声を前に、女魔術師は杖を緩く掲げる。

 勝敗は、言うまでもなかった。

 

 

 

 そのままなら下水道を漂白する勢いで掃除していく新人冒険者一党だが、弱点は明白だ。

 

 つまり、継戦能力。

 

「もういいの?」

「貴女も疲れてきた頃でしょ」

「……さっすがおねーさん、もう分かっちゃうんだ?」

 

 術師である二人は言うに及ばず、加えて剣侠も、その能力を常時発揮できるわけではない。

 内功の発露は心の疲労を伴う。つまり休憩が要るのだ。

 術師ほど長時間のまとまった休息ではなくとも、である。

 

 彼女の戦闘力は『気』によって発揮されており、これがないときの彼女の動きは常人のものに落ち着く。内家功の使い手にとって、筋肉はときに邪魔にすらなる。故に狐人剣侠の体は細くすらりと痩せていて、筋力には乏しいのだ。

 

 女魔術師は(一度慢心から死にかけた関係で)その手の無理を押すことはない。

 そして、前衛が休息を取る間、術師二人で警戒するというのも難しい。淫魔術師の探知だって念術の使用回数を消費するし、長時間の維持は疲労を伴うのだ。

 だから、一党の戦術資源(リソース)を管理して、安全に撤退することになる。

 

「今日もおしまいかあ」

「手応えがないー?」

「まあ、そりゃね……敵はキモいし場はクサいし、まーサイアク」

「言えてるうちは大丈夫ね」

「んもー師父みたいなこと言うし……」

 

 戦術資源を使い切るために入り口近くで偶発的遭遇(ランダムエンカウント)を待って、最後の一戦を危なげなく終えてから、一党は下水道を出た。昼下がりの日光が暗がりに慣れた目に眩しい。

 一党の探索は迅速で、疲労を感じるほどの行軍を終えても日は落ちない。

 

 そのまま、近くの水場で髪と体をしつこく洗う。これもいつもの習慣だ。

 淫魔も狐人も匂いには敏感で、女魔術師は綺麗好きな部類だから、ただの水浴びでも長くなるのは明白だった。この後宿に戻って着替えてから改めて体を洗うのが一行の日課である。

 

「やっぱおっぱいでか……勝てる未来が見えないよぉ……」

「いい加減飽きなさいよそれ」

 

 濡れた髪を絞りながら言う狐人の少女。その胸は平坦だった。

 対して、女魔術師は控えめに言っても起伏に富んでいた。

 

「第一、もっとすごいのがいるでしょ……」

「あのねおねーさん、淫魔を引き合いに出せる女性がまず珍しいんだよ」

 

 胸は大きく、腰はくびれて、足は長い。引き締まってはいないがたるんでもいない。肌はきめ細やかでつややかだ。髪だってそう。

 淫魔が放つ魔性の色気とは違う、生々しくも匂い立つ、人間の美貌だ。

 女魔術師は片眉をあげた。

 

「当たり前でしょ、美容健康には気を使ってるもの」

 

 そういうと、狐人の少女の頭を撫でて川から上がった。

 

「貴女はまず食べて肥えて背を伸ばさないとね」

「むー……」

 

 ぐしゃぐしゃとかき混ぜられた髪を押さえて、狐人は膨れた。

 裸になって見れば、その体にはどこか不健康さを感じる。細い四肢とあばらの浮いた胴。背も低いし、肉感はまるでない。いかにも栄養の足りない孤児といった見てくれだ。

 白い体毛と相まって亡霊のようだった。

 

「牛乳か羊乳でも飲みなさい」

「うえーあたしアレ苦手……こっちの人はよく飲むよね……」

「むしろ飲まれてない地域があることに驚きだわ。牧畜がいない国もあるのね」

 

 二人は満足行くまで体を洗って、替えの服を着込むと、外にいた淫魔を呼び寄せた。

 

「交代」

「ありがとー」

 

 淫魔の裸は文字通り目に毒だ。だから淫魔術師は人前では極力肌を晒さない。

 水浴びの時も、誰か先客がいるときは常に遠慮する。それは仲間二人にも例外ではなく、こうして見張りを兼ねて外で待つのだ。

 どのみち女所帯な以上そういった警戒は然るべき予防ではあるのだが……。

 

「それじゃあ、ちょっと待っててねー」

 

 一人静かに水場へ向かう淫魔術師の背中を、女魔術師はじっと見つめていた。

 

「どうしたの、おねーさん」

「別に……」

 

 女魔術師は振り向かず、ただ深く息を吐いた。

 

「何も、ないわ」

 

 冷えた手が小さく震えているのが、狐人には見えた。

 

 

 §

 

 

 大勢の観客の前で、二人の男が盤上の(ピース)を睨んでいる。

 中年の紳士は黒の僧侶(ビショップ)をつまみ上げ、白の騎士(ナイト)をその場に置き、言う。

 

王手(チェック)

 

 そして煙草の白煙を(くゆ)らせた。

 壮年の男は難しい顔をする。

 後ろでは記録係がペンを走らせ、駒を模したパネルが魔法で操られ、観客用の大盤の上を動いた。

 

 時計が鳴らすチクタクという音がいやに響く。

 

 壮年の男が悩む中で、給仕(ウェイター)が静かにそして機敏に進み出て、盆から敷き布(コースター)ごと一杯の水を差し出した。

 中年の紳士はそれを見やり、そして硝子製の杯を手に取る。濡れた敷き布が底に張り付いたのごと手で支え、ひと飲み。

 

 そして杯の底を透かして、敷き布に記された文字を見る。

 

『すぐに出頭せよ』

 

 男は杯を脇に置くと、敷き布で口元を拭いた。

 そして折りたたみ、自然な仕草で懐に隠す。

 

 たっぷり悩んだ壮年の男は、苦し紛れに(キング)を逃がす。

 それを見るや、紳士は迷いなく白い女王(クイーン)を手に取った。

 壮年の男の顔が、静かに強張っていく。

 

 紳士は男の顔を見つめ、女王を横へ一歩、騎士の裏へ。

 

 小さなざわめき。

 その後に、壮年の男性は己の王に手をかけ、横へ倒した。

 

「おめでとう、さすがだ」

 

 立ち上がって手を差し伸べる男性に紳士は握手に応じる。

 観客の拍手を浴びながら、紳士はさっそうと、しかしどこか緊張感のある顔で、その場を歩き去った。

 

 

 

「闘魚は実に勇敢だが、皆愚かだ。……その一匹を除いては」

 

 どこかの豪華な客室にて、一人の男が椅子に深く腰掛けていた。

 膝の上で白い波斯(ペルシャ)猫を撫でている。そして声色は穏やかで冷酷だ。

 

 水槽の中では金魚が鰭を膨らませ、果敢に眼の前の雄と争っている。ちぎられた鰭の一筋が水槽をはらりと落ちていった。

 

「こいつは他の二尾を争わせ……待つのだ」

 

 それを、中年の女が見ている。背筋の通った、しかし老いの隠せない女だ。

 

「生き延びるため、勝者が疲労するのを待って」

 

 男は椅子の上で淡々と述べる。

 

「そして亡霊のごとく忍び寄り、叩く」

 

 女は男の顔色を伺いながら、訛りの強い言葉で答えた。

 

「面白い比較です」

「お前を連邦から引き抜いたのは楽しませるためではない、第三位」

 

 入れ、と男は言い、手元の魔道具で扉の鍵を開ける。

 入ってきたのは、先の紳士然とした男だ。

 

「座りたまえ、第三位。第五位の報告を聞こう」

「作戦部長として盤上遊戯(チェス)のようにうまく指してくれるとよいですが」

「お任せください」

 

 男……第五位は第三位の揶揄も一顧だにせず隣に立つと、自信に満ちた顔で語り始めた。

 

「ご指示の通り、魔神召喚の呪文書を奪取する計画を立てました」

 

 邪悪な計画を。

 

「遂行には連邦との繋がりを持つ官僚と、王国情報部員の協力が必要です」

 

 その名を出されて、女の顔が不快そうに強張る。

 

「もちろん両国は我らの陰謀とは気付きません」

 

 顔の見えない男は猫を撫でながら問いかけた。

 

「第三位、第五位の計画遂行にあたっての準備は?」

「は、第一位。彼の計画にもとづき組織を完了しております」

 

 第三位の女はなまりの強い公用語でキビキビと答えた。

 

「王国辺境の官僚に適任者がいます。連邦の潜入工作員です。祖国への忠誠心も厚く仕事のできる人材です。裏社会では手配師を名乗らせ奴隷売買を開始させております」

「お前を連邦の密偵狩りの長だと信じているのか?」

「『亡霊』となったことは知りません。私の変節を知るものは首都でもごく一部です」

「そう願おう」

 

 男はそこで第五位に顔を向けた。

 

「成功の確信はあるのかね」

「あらゆる失敗を想定した計画です」

 

 紳士は自信に満ちた冷笑のまま答えた。

 

「情報部の家長(M)、あの赤毛の魔女がそう簡単に罠にかかるかな」

「罠と思えばこそかかるでしょう。危険を冒すのが、かの王の気風ですから」

 

 その冷笑がわずかに色を濃くすれば、男は満足げに喉を鳴らした。

 

「もっともだ。他には?」

「我々亡霊からすれば、復讐の機会でもあります。否博士のね」

 

 第五位は顔色ひとつ変えずに言った。

 

「これほどの大任、王国が派遣するのは月央……恐らくは蛇です」

 

 男はやおら身を起こし、水槽から死んだ金魚をつまみ上げた。

 波斯猫がにゃあと気品のある声を上げ、愛嬌よく身を捻って餌をねだる。

 

「怨念を込めた悲惨な死をやつに送れ」

 

 競争に負けた哀れなエサが噛み砕かれる。

 

「直ちに計画の遂行を」

 

 第五位は小さく頷き、第三位をちらと見て、言った。

 

「失敗はありえません」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十九話

 §

 

 

「依頼?」

「ええ、皆様にです」

 

 三人娘は並んで顔を見合わせ、そして言った。

 

「白磁等級に?」

「将来性のある冒険者に」

 

 受付嬢は意にも介さず答えた。

 

「そして、件の書類を確保した向こう見ずな知恵者たちに、です」

 

 組合(ギルド)の奥、面談室に呼び出され、女魔術師たちは受付嬢と向かい合っていた。

 

「皆様の実力を正確に測る必要がある、というのがギルドの決定になります。これは件の情報の確度を少しでも上げるためということでもあります」

「……ああ、そういうこと」

 

 女魔術師は納得したように言った。

 部屋の隅でさり気なく起動された防音用の魔道具。

 黙して語らぬ至高神殿からの監督官。

 扉の外に気配を感じる、という淫魔術師の手信号。

 

「確かに、私たちが混沌の手先だと面倒くさいことになるわね」

 

 疑われるとは思いもしなかった、とばかりに女魔術師は言った。

 

「そっか、そうよね。別に身元証明書を提出したわけじゃあないしね」

「ええ、そういうことです」

「そしてそういうことなら、そういうことよね?」

「管轄外ですが、そういうことでは?」

 

 そうだろうな、と女魔術師は頷いた。

 情報を提出して、それが国に届き、方策が打ち出され、今実行されようとしている。しかし今更になって裏を取ろうなんて、全く遅い。

 

「まったく、心配性もいいとこね」

 

 深いため息。

 けれど受付嬢は構えていた曖昧な笑みを盾にして、続きを待った。

 

「……いいわ。疑われるのは本意ではないし。状況がそれを許さないというなら、仕方ないわ。昇級審査の依頼、受けましょう」

「話が早くて助かります」

 

 これに驚いたのは狐耳の剣士だった。

 

「ええ!? 今の話のどっからそこに繋がるの!?」

「白磁のぺーぺーの功績じゃあ信憑性が足りないのよ」

「いやでも、もう遅くない?」

「書類の上で順序が多少前後するだけなら、手違いで済ませられるじゃない」

 

 女魔術師は呆れたように肩をすくめた。

 

「要するに、上のお方々は今人攫いどもの元締めに対する電撃作戦を準備中なの」

 

 二転三転する話に驚く狐人剣侠をよそに、女魔術師はもたらされた情報の裏を口にする。

 

「今回、時間は敵になると踏んだ。だからいらない裏は取りたくないし、障害は全部押し通りたい。私たちの持ってきた情報について、出処をいちいち疑われていちゃ話にならないわけ」

 

 能力ある、信頼の置ける冒険者であることを、第三者にも示せる必要がある。

 組合に赴いて書類に適当を書けば誰でもなれる白磁ではなく、国がその能力を認めた黒曜以上の等級である必要があるのだ。

 

「そして肩書きは一番優れた証明書だもの」

 

 受付嬢は分をわきまえている。だから口を開かない。

 女魔術師と受付嬢の間にあったのは、貴族としての教養だった。

 そしてそれを、黙ってただ聞いている淫魔術師もまた。

 

「で、こんな能書きほど無意味なものもないわ。冒険者のお仕事に戻りましょう」

「では、今回の依頼についてご説明させていただきますね」

 

 けれど、裏がどうであれ起きることは変わらない。

 必要なのは冒険者。求められるのは依頼の遂行だ。

 微笑みとともにそれを見守る淫魔をちらりと見て、女魔術師は差し出された書類に手を伸ばした。

 

 

 

 §

 

 

 

 世を儚んで修道女となる者は多い。

 それが年若い修道女となれば、何があったかは誰でも分かる。

 辺境の人々は見慣れない顔の被害者を憐れみの目で見、気にもとめずに日常へと戻っていく。

 

 修道女は道の隅を謙虚にしかし粛々と歩き、修道院へと入っていく。

 

 出迎えた同僚の修道女に頭を下げ、導かれるままに奥へ。

 そして頭巾(ウィンプル)を脱ぎ捨て、その長い銀髪を振り乱した。

 

「月央七、光栄です」

「ありがとう」

 

 蛇と呼ばれる密偵は、そのようにして辺境の修道院に辿り着いた。

 

「奴隷売買の証拠を捕まえたと聞きましたが?」

「ええ、ですがそちらは隠れ蓑(ダミー)です。巧妙なね」

 

 修道院は丸々一つが王室秘密情報部の施設だった。

 修道服を着た女密偵の長が、机に資料を広げながら言う。

 

「狩人は偽の獲物は猟犬に任せろとのこと」

「そして本当の獲物へ矢を放ったと」

「然り。蛇の如く獲物を追う魔法の矢を、土壌を食い荒らす土竜へと」

 

 蛇の顔がにわかに鋭くなる。

 

「奴隷売買における手配師(フィクサー)を名乗る者、恐らく上位の官僚です。連邦と緊密な関係がなければ難しい手口でしょう。となればここ数年の変心ではない」

土竜(スリーパー・セル)ですか」

 

 忠誠心溢れた人材だ。王国の官僚としてそれなりの地位につけるまで潜伏するのは並大抵のことではない。

 そして、それほどの人材を単なる奴隷売買のために使い捨てるわけもない。

 彼女は長い白髪を払った。

 

「直近だと辺境の行楽地(リゾート)で官僚の慰労会があります」

(カヴァー)は?」

「息の掛かった商会の使用人の一人として」

「かないませんね」

 

 女は肩をすくめた。

 

「それと、別件ですが一つ」

 

 また別の書類を広げて、修道女は言う。

 

「件の書類を確保した冒険者たちです」

 

 さっと書類を眺め、蛇は一つの書類を手に取った。

 普通ならば月央に回すような仕事ではないだろう。しかし修道長も女密偵も何も言わない。

 

「女性。赤毛。魔術師。先の年に賢者の学院を卒業……と」

「白磁等級、登録して二日の術師の二人組。片方は夢魔だそうです」

「それはいい。美人が()()とは、仕事に熱も入るというもの」

 

 代わりに軽口を叩きながら書類を机に放り、女はやおら踵を返した。

 

「冒険者組合に働きかけて指名の護衛依頼を入れてあります。慰労会へはそれで」

 

 後ろに続く修道長の言葉に頷いて、女は仕事道具を手に取る。

 

「実際の所どの程度?」

「大神殿からは裏が取れています。逆に言えばそれだけです」

 

 また別の着替えを手に取ったところで、蛇の手が止まった。

 どこか呆れたような顔で、彼女は遥か西……王都の方を見た。

 

「……まったく」

 

 肩をすくめて、いつもとは少し違う笑みを浮かべた。

 

「神経質な家長を持つと、かないませんね」

 

 

 





(へんしゅうチームのワクチン接種研修のため本日の投稿はとても短く、通常の半額だ。また明日は休みだ。重度研修反動が予想されるため明後日も休む可能性がある。皆さんも暖かくしてよく寝ましょう。以上です)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十話

(重度ワクチン反応及びエルデンリング研修のため投稿が遅れた。なにか問題ですか? 何も問題はない。毎日小説が投稿されますか? おかしいと思いませんか? あなた。しかし光るなんかや政治的正しさに配慮してへんしゅうチームはケジメされます)


 

 

 

 §

 

 

 

「依頼を受けた冒険者です」

「ああ、これはこれは! どうぞよろしくお願いいたします」

 

 黒髪のかつらを被り商会の下女に扮した密偵の女は、作業の傍ら冒険者に興味を持つ下働きの女性を装って、少女たちを品定めしていた。

 

 燃えるような赤髪を切りそろえ、きらびやかな緑の瞳を眼鏡の裏に隠した女魔術師。その胸は豊満だった。

 狼の毛のようなブロンドの髪とまばゆい黄金の瞳。ずば抜けて背の高い美女、淫魔術師。その胸は豊満だった。

 白に近い銀の髪を二つ結い(ツインテール)にした狐人(ヴァルポ)の剣士、狐人剣侠。その胸は平坦だった。

 

 美人揃いで素晴らしい、と一言こぼして、密偵扮する下女は荷運びに戻る。

 

 そして彼女が背を向けたのを見て、さっと視線を交わす冒険者たち。

 

「それでは、お邪魔にならないよう控えておきます」

「ご配慮いただいてどうも、こちらが皆様の馬車です」

 

 商会の代表と顔つなぎもそこそこに、三人は馬車の幌に潜り込んだ。

 

「見られてたね」

 

 狐人剣侠が口火を切った。

 

「明らかに堅気じゃないよ。体幹すごいもの」

「私じゃ気づかなかったわ」

「うそだぁ、見てたじゃん」

「ずるしただけよ」彼女は隣で微笑む淫魔を見た。「一人じゃ分からなかったわ」

「ふふーん」

「えーむしろそっちに気付かなかったあたし! どういうからくり?」

「また後で教えたげるー」

 

 やいのやいのと言いながら荷物を置いて、三人は気楽に腰を下ろした。

 

「まあ、御上の方々の目の代わりでしょうね。」

 

 女魔術師は眼鏡を取って拭きながら、のんきに言った。

 

「気にすることないわ。堂々としてればいい」

「それはまあ、そうだけど」

「悪さしてないって証明してくれるんだから、むしろ味方! みたいなー?」

「そういうこと。後は冒険者の本分を果たすだけよ」

 

 至高神の秤にかけてね、と言って、女魔術師は眼鏡にほうと息を吐きかける。

 曇った硝子を乾布で拭きながら、いつものように講釈を垂れた。

 

「そもそもうちの魔神は大神殿のお墨付きなんだから。向こうもそれは分かってるのよ。でも確かめたって証拠だけきちんと残さなきゃいけないのがお役所的な正しさってわけ。第一組合(ギルド)からの要請も考えたら密偵も王室から……待って」

 

 女魔術師ははたと気付いた。

 

「待って……ありえない。そんなわけ……戦闘訓練を積んだ密偵? あんたが褒めるくらいに?」

「うん? うん」

 

 狐人剣侠の首肯に、女魔術師は顔を青くする。

 

「……『国王陛下の(On His Majesty's )秘密の使用人(Secret Service)』」

 

 その言葉に、狐人と淫魔は首を傾げた。

 

(――この狐娘は間違いなく達人の域にいる。それが褒めるくらい? ただの玄人じゃない。……月央。そこまでするの? たかだか確認のためだけに? そんなわけない! 月央は殺しの番号よ? ……辺境に? なら……目的……輸送先は行楽地……私たちの元に来た? ああ、もう、ふざけるな……!)

 

「手も目も耳も足りない……!」

 

 女魔術師は顔をあげて、戦場を前にした時と同じ声色で二人に告げた。

 

「よく聞いて。一度で覚えて。じきにただの護衛依頼じゃなくなる」

 

 険しい顔で外をにらみ、女魔術師は言った。

 

「嵐の中で舞う凧にはなりたくないわ」

 

 

 

 馬車を出て、酒場に集まり、軽食のふりをして密やかに言葉を交わす。

 

「――密偵(スパイ)?」

「そう。それも特級の。国が直接殺しを認めた一握りの密偵、実働部隊の最高階級……『月央』」

 

 時間は僅かだ。女魔術師は端的に言った。

 

「これから来る御者も含めて、誰が聞いててもおかしくない。これから先、他人は全員諜報員だと思って」

 

 昼の酒場は食事処としてごった返している。彼女たちの言葉を聞いている者はいない。いれば二人のどちらかが気づく。

 二人の様子を見た上で、女魔術師は言った。

 

「つまり、この依頼の最中か直後でコトが起こる」

 

 水を一飲み、少女は眼鏡を押し上げた。

 

「それで、ここから先で一番立場が弱いのは誰?」

「……そういうこと。で、どうするの頭目(リーダー)?」

 

 つまり、このままでは疑われるのは自分たちだ。

 彼女は口の端を歪めて、絞り出すように言った。

 

「思惑に乗るしかないでしょ」

「え?」

「ようするに、下女になれって言われてるのよ、私たち」

 

 秘密の使用人の下につく、という女魔術師の言葉に、狐人は首を傾げた。

 

「あー……書類上は混沌の手先って疑われてて、この先でひと悶着あって、だから身の潔白を証明してもらうためにはそのげつおー? の人に証言してもらう他なくて?」

「だからそいつをタダで手伝えって言外に言われてるのよ。あるいは、手伝わざるを得ない状況に持ち込むつもり」

「なーるほど、ハメられたわけね」

 

 彼女の機嫌が急降下していくのが、二人の目にも分かった。

 

「こっちの思惑が分からないような間抜けなら国で引き取った方がいい。そうでないなら役に立つから利用した方がいい。そういうこと」

「あーっあくどーい! 聞きたくなーい!」

 

 くそったれ、と女魔術師は毒づいた。

 

「まあ、引き取りたいんでしょうね、向こうは」

 

 はるか遠く、王都の方角を睨んで、女魔術師は言った。

 

「神経質な御上を持つと、下々の者は大変だわ」

 

 苛立ちを隠さないまま水を飲み干して、女魔術師はため息をついた。

 

「とにかく、まずは当の使用人に接触しなきゃいけないけど……」

「あっそのお肉もらいー」

 

 女魔術師が言い切る前に、淫魔術師が身を乗り出し、目線で彼女を抑えた。

 

「言う前に取らないで」

 

 さりげなさを装って、女魔術師は言った。

 

 見れば、酒場の戸口を商会の下女が開けたところだった。

 そして迷いなく女魔術師の前まで歩み、小首を傾げてみせる。

 

「相席をお願いしても?」

 

 彼女は、殺しの許可証を持つ蛇の名の女密偵は、格好にそぐわない冷酷な微笑みを浮かべた。

 

「……どうぞご自由に」

 

 女魔術師はそれを睨みつけ、吐き捨てた。

 

 

 §

 

 

「今回のご依頼ですが、追加でいくつかお頼み事がございます」

「聞きましょう」

「ああ、その前に」

 

 密偵は視線で女給(ウェイトレス)を呼びつけた。

 その一瞬で、女魔術師は机の下で差し出された手を重ね合わせた。

 淫魔がくすりと微笑むのを感じ、ほんの僅かに目を閉じる。

 

(――大丈夫、私はやれる)

 

混酒(カクテル)は?」

「ございますよ」

北の水で混酒の王様を、(Vodka Martini,)混ぜず、振って(Shaken, not stirred)

「かしこまりました」

 

 久しく感じなかった気がする。

 本当はまだ、季節が一巡もしていないのに。……実家に戻った気分だ。

 女魔術師は張り詰めた心が表情に出ないよう、きゅっと友の手を握りしめた。

 

「失礼ですが、昼餐(ランチ)のおつもりで?」

「型破りな女だと?」

「見た目はかっちりしてらっしゃいますけれど」

 

 密偵は下級使用人らしい薄荷(ミント)色の給仕服をちらりと見て、肩をすくめた。

 

「お褒めに預かり光栄ですわ」

 

 女魔術師は視線で狐人剣侠を見て、黙ってるようにと合図(サイン)を送る。

 小さく顎を引いた彼女から視線を外し、女魔術師は言葉を続けた。

 

「それで、ご用向きは」

「こちらの事情はお分かりのようですので」

 

 密偵がそこまで言うと、女給が盆に酒を乗せて現れた。

 グラス一杯の透き通った酒を手にとって、女給に一つ目礼。

 それから女魔術師へと言った。

 

「詳しい話をと」

 

 仲間の顔を見るまでもない。去っていく女給を横目に、女魔術師は苦い顔で言った。

 

「随分と準備がよろしいようで、こちらとしても安心いたしました」

「お気になさらず。ちょっとした嗜みですもの」

 

 カクテルを一口なめて、女は言った。

 

「とはいえ、私としては反対です」

 

 女魔術師は面食らったのをなんとか隠したが、まばたきの回数が増えたことを目ざとく見抜かれたことを理解してしまい、内心で舌打ちした。

 

「上の方の思惑には乗りたくないでしょう? 私も、家長の言いつけは破りたいお年頃ですの」

「若々しゅうございますことね」

「でしょう?」

 

 密偵はかつらの黒髪をさっとかき上げて、ほんの一瞬だけ耳を見せた。

 女魔術師はそれを見て――何かを確信して、これまでとは違った、締め付けられるような苦しみを顔に浮かべた。

 

「ご理解いただけました?」

「……ええ、大方は」

 

 震える声を何度も呼吸して整えて、女魔術師はきゅっと目を閉じた。

 知らず握りしめていた手を、別の手が包み込む。

 女魔術師は彼女の手に爪が食い込まないようにと努めて力を抜いて、笑った。

 

「お恥ずかしながら、私も、家長の目からは逃れたい年頃でして」

「それで辺境へ?」

「ええ。そればかりでもないですが」

 

 女密偵は杯をくいっと傾けると、つんとした辛味を舌で味わい、微笑んだ。

 

「賢い選択ではないでしょうね」

「……ええ」

「ですが、勇み足は若い時分にのみ許された魔法ですから」

 

 杯に透かした歪んだ顔を覗き込んで、密偵は酷薄な笑みを色濃くする。

 

「となると、あなた方の扱いは実に難しい」

「そうでしょうか?」

「そうでしょうとも。疑いを晴らし、かつ連行はしない、というのはね」

 

 ここだ――女魔術師は息を吸った。

 

「では分かりやすい功績でそれを買うというのは?」

「それこそ難しい。熟練(プロ)の領分に素人が踏み込もうとは」

「ええ。ですから、冒険者として」

 

 女魔術師は、握り返された手を安心しろとばかりに少し上下に振った。

 

「迷宮に潜り敵の目を掻い潜って宝物を掴むのも、屋敷に忍び込み警備の目を掻い潜って情報を掴むのも、同じ冒険ですわ」

 

 女密偵は杯を空にして、女魔術師の目を見た。

 

都市の冒険(シティ・アドベンチャー)のご依頼に、ちょうどぴったりの一党がいるのですけれど」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。