中ボス悪役令息くん、度重なるループの末に悪役『令嬢ちゃん』に至る (TS幼馴染は必ず勝つ党第809代党首)
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chapter.22 ひとりぼっちで死んでいくんだって、知ってたんだ

 ■学院(夕暮れ)

 

 ゆっくりと空を落ちてゆく陽が、その火で世界を焼いていた。

 

 夕焼けに包まれて、まるで世界のすべてが燃えて落ちるようだった。

 白い大理石でつくられた廊下もまたその例外ではなく、残火の橙色に染め上げられていく。

 その路をひとりの青年が駆けていた。

 ほんの数日前まで学生や教員がせわしなく行きかい、賑やかな声で溢れていたはずの学び舎には、けれど今、人どころか生き物の気配さえない。

 ただ、革靴がかつかつと大理石を蹴る音だけが響いていた。

 四年だ。今日までの四年間を、青年はこの場所で過ごしてきた。今ではもうすっかり見慣れた場所だというのに、人がいないということだけでこんなにも違って見える。

 

 と、前方に異様な気配を感じて、青年は足を少し緩めた。

 本来なら夕陽か、あるいは壁に刻まれた照明魔法に照らされているべき眼前の道は、しかし、光の一切を飲み込むかのような深い闇に遮られている。のっぺりとした黒に塗りつぶされた闇は、その表層を緩慢に波打たせながらじわりじわりとあたりを侵していた。

 ──瘴気だ。

 周囲の生命をことごとく脅かす、魔族の結界。命を蝕む毒素と悪意に満ちた泥が、青年の行く手を阻んで世界を飲み込もうとしていた。

 中で待ち受けているのは上位の魔族か、あるいは彼らの使役する眷属か。

 ──それとも。

 いや、どちらにせよ、立ちはだかるのなら同じことだ。

 青年は腰に携えていた剣にそっと触れる。

 考えることなどもう何もないだろう。

 覚悟はとうに決めてきたはずだ。

 何があっても、自分は、己が為すべき責を成し遂げなければならない。必ず。

 だから。

 

 青年は大きく口を開いた闇へと向かってゆっくりと歩きながら、耳朶で揺れるピアスを爪先で弾く。流した魔力に反応して青い石がちかちか煌めいた。

 かと思うとそのまろい表面に瞬くほどの間、精緻な陣が浮かんで消え、涼し気な薄荷のにおいを連れた風がふわりとあたりを吹き抜ける。これで、浄化の性質を与えられた風が、瘴気の毒から身を守ってくれるはずだ。製作者は子供だましのお守り程度と言ってはいたが、そもそも魔族の毒に耐性がある自分には十全なものだろう。

 薄荷の風を大きく一度吸い込んで、青年は迷うことなく闇の中へと足を踏み入れた。

 その瞬間、ぞわりと背筋が粟立つ。

 ──魔族の領域に入り込んだのだ、と理性が警鐘を鳴らしていた。

 今すぐ引き返せ、とも囁くそれを抑え込んで、青年は周囲をぐるりと見渡す。

 瘴気の作り出す結界は、どうやら完全な闇をもたらすほど厚いものではないらしい。その隙間からちらちらと差し込む残照のおかげで視界はなんとか保たれている。ただ、夜が来ればどうなることかわからない。光源は用意できないこともないが、急ぐに越したことはないだろう。自然と青年の歩みは早まる。

 

 

 罠はなかった。

 

 

 尖兵の襲撃も、およそ想定できるだけの奇襲も、何も。

 

 短くも長くも感じる時間の中、永遠に続くようなぬばたまの世界を青年は駆け続け。

 そうしてようやくひとつの気配を探り当てて、歩みを止めた。

 行く手を阻むように広がっていた闇が、やがて緩やかに後退し始める。《何か》のもとへとするすると収束されていく。

 そこにいるのが誰なのか、なんてそんなことは始めから知っていた。

 そうでなければいい、と、──彼でなければいい、と思っていたかっただけだ。

 

 渦を巻く瘴気のその中心に、彼はいた。

 

 人間の男が一人、こちらに背を向けて、何もない天井を、─、あるいは夕焼けの空を、見上げるように立ち尽くしていた。

 逃げ遅れた学生か、とそう思えれば、どれだけ幸福なことだっただろう。

 魔族であることを示す角は持たずとも、彼のその足元には、瘴気の闇が揺蕩っていた。ただびとであれば、毒に飲まれてとうに命を落としているはずだ。そうではない、ということが彼がどんな存在であるのか、如実に語っていた。

 そうして彼もまた、青年の気配に気が付いたのか、緩慢な動作でこちらへ首を回す。

 気だるげに細められた目も、すっと通った鼻梁もよく見知ったものだった。美姫もかくやというほどに整った顔立ちは、間違いなく青年の知己のもの。

 

 ──ルクレティウス・リトグラト・リィ。

 

 かつて、ただ道端に佇む姿でさえもまるで絵画のようだ、と国中から誉めそやされていた男は、けれど今は見る影もなくやつれはてていた。

 皴一つなかった筈の純白の制服は、元の色さえもわからないほど血や泥や煤にまみれている。櫛が丁寧に通されて艶めいていた長い藍色の髪も、ばらんに切り刻まれて不揃いな毛先が肩口で揺れるばかり。

 ただ、憎悪と諦念の暗いひかりの宿った蒼だけが、ひたと青年を見据えていた。

「──ははっ、やっぱりおまえが来るんだな」

 聞きなれた嘲笑の声が、ふたりの他に誰もいない廊下に響いた。

 あはは、と乾いた笑いをあげながら、彼はやや大げさな身振りでもってこちらに向き直る。

 そうしたことで、それまで闇に半ば隠されていた男の全身が露わになって。その瞬間、あまりのいたましさに思わず青年は息を飲んだ。

 ──差し込む残火の日差しに照らされた彼の体には、蠢く無数の異形が纏わりついている。

 口が、目が、関節が、羽が、牙が、手足が多すぎる/少なすぎる魔族の群れが、細い肢体を這いまわってはぎぃぎぃと嫌な威嚇音をあげる。下位の魔族だろう。自我はなく、ただ壊し奪い侵すことしか知らない瘴気の塊。

 けれど低級と侮ってかかるには、あまりにも相手の数が多すぎた。

「気持ち悪いだろ? 僕の美意識には反するんだけど……でも、これくらいしないとお前のことを殺せないだろうからってさぁ」

 男の肩口に乗った無貌の鳥が、ただでさえ汚れた彼の制服に黒い体液をぼたぼたとこぼしていた。その様に深いため息をひとつついて、そうして男はまるで華が咲くようににっこりと笑って見せる。

 ぞっとするほど美しい笑みだった。

 けれど、そこには隠し切れない敵意があった。言葉以上に雄弁で明らかな、殺意があった。

 そのことがどれだけでも悲しい。

 けれど。

 

 ──これは己が為すべきことだ。何があっても成し遂げなければならないことだ。

 

 青年は剣の柄に手をかける。

 鞘の下に隠されたその刃を、本当は抜きたくはないのだ。

 目の前にいる男が青年にとってかけがえのない友だから、だけが理由ではない。

 いつだって青年はそう思っていた。

 誰かに刃を向けて、傷つけたりしたくなかった。誰かの命を奪いたくなどなかった。

 世界中の誰もが、不当に傷つけられることも損なわれることもなく、穏やかに笑っていられたらどれだけ幸福なことだろう。

 けれど、そんな甘さを押し通せるだけの強さを、自分はついに手に入れられなかった。それは己の怠慢が故だ。

 だから、ほんの数か月前まで何度となく軽口を叩きあっていた相手を前にしても、言葉を交わすという選択肢は選べない。

 選んではいけない。為すべきことを成し遂げるために。

 己の愚かさがもたらした因果を応報するために、自分はここにいるのだから。

 話し合いで解決できるような、そんな優しい余地はもはや彼らの間から失われている。

 この懐かしい学舎において、なお。

 ふたりの間に数瞬の沈黙が流れた。

「……それで、()()()()おまえが僕を殺すんだ?」

 沈黙を破るのは、どんな形であれ、いつだって青年ではなく男の方だった。首を少しかしげてそう問いかけた彼は、纏わりつくそれらの重さに耐えかねたようにふらふらとよろめく。

 はは、と掠れた哄笑が人のいない校舎にさびしく響いた。

 その姿はまるで、道化師のようにも見えて。

「はは、知ってたさ。わかってたさ。そうだ、おまえはそういう奴だもんな? ……ああ、知ってた。知ってるよ。『正義の味方』殿」

 耳障りなわざとらしい笑い声が、ふっと止んだ。

 最後に吐き捨てられた言葉はやけに穏やかで、眩しいものを見るようにすがめられたあおい瞳に一瞬、憎悪でも諦念でもない感情のひかりが掠める。

 ただ、その目に浮かんだ色の意味を確かめるような余裕は青年にはなかった。

「くそ、わかってる、わかってるよ。五月蠅いなぁ……っ」

 何かを振り払おうとするように、藍色の頭が伏せられて、数度、力なく揺れた。

 ぽたり、と鮮やかな濃い紅がその白い頬を滴り落ちる。

 ぞわり、と総毛だつ感覚に青年は身構えた。

「──死ねよ、勇者」

 男の叫びに呼応するように、獣の群れが沸き立った。次いで、彼の背後に幾つもの魔術陣が展開されていく。

 青年もまた、剣の鞘を振り払う。

 露わになった銀の刃の内側で、蔓草めいた紋様が朱く輝いた。

 

 

 

 

 

 ──そうして男は、いつだってその夜を超えられない。

 

 

 

 

 



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rech.1-1 ほらやっぱり、また同じ朝が来、る……?

 

 

 ──胸を、心臓を、燃える刃が貫いた。

 

 

 そう知覚した瞬間まず感じたのは痛みではなく、熱だった。

 業火に身の内から焙られて、何もかもがどろどろに溶けて、そうやって死んでいくのだと思った。

 

 ──熱い。

 

 身体の内側から燃えていく異様な感覚に背筋はぴんと反り返り、指は助けを求めて宙を掻いた。

 

 ──あつい。

 

 けれどここには助けどころか、すがるものさえ何もない。

 ここは終わりだ。

 四肢の先、臓腑の隅まで焔が焙って、一斉合切すべてが燃やされる。帰り道のない灰への旅程の、その終わり。

 

 ──いやだ。

 

 助けを求めようとしても、焼け付いた喉では空気だってろくに揺らせない。そうしているうちにやっと、熱の後を追いかけるように痛みが体を駆け抜ける。引き裂くような激痛に、あげたかったはずの悲鳴は口の中で消えていった。はくはく、と陸に打ち上げられた魚のように唇だけがみっともなく開いては閉じて。

 嫌だ。

 ぽろり、と涙がひとつ。

 見開かれた眼球の表面を滑って零れて落ちていった。

 ただ熱かった。痛かった。苦しかった。

 

 ──たすけて。

 

 自分を助けてくれるような誰か、なんてそんなものはいないとわかっていても、思わずそう口走りそうになる。

 ああ、いっそもう一思いに死んでしまえたら、どれだけ救われることだろう。

 でも。

 誰にも望まれないのだとしても。

 誰にも顧みられないのだとしても。

 誰も助けてくれないのだと、しても。

 それでも、やっぱり。

 

 ──しにたくない。

 

 その叫びもまた、何処にも届かない。

 あまりの痛みに閉じることさえできなくなった目を朝日が容赦なく突き刺していく。

「あ……」

 すぐそこに、朝が来ていた。

 超えられないはずの夜の、その向こう側にあるものがそこにはあった。

 朝だ。

 と、焦げ付いていく脳でぼんやりとそう思う。

 白い陽光の痛いくらいのまぶしさに目を焼かれて、けれどそれでも、かれは瞼を閉じることができなかった。

 目を閉じるのが怖かった。

 そうすることで死に近づくことも、もちろん怖い。

 でも、暗闇の只中に引き戻されることの方がずっと、ずっと怖かった。

 だって、その深い闇の中で自分は誰にも見つけてもらえない。

 誰にも見向きもされないまま、価値のないもののままひとりきりで死ぬのだ。

 そんなの嫌だ。

 声にならない叫びがまた、喉の奥に消えていく。

 ──死にたくなかった。

 何物にもなれないまま、誰にも見つけてもらえないまま塵屑のように消えていくのはごめんだった。

 だから、あんなにも足掻いたのだ。

 垂れたまなじりをぬるい涙が次々に零れ落ちては濡らしていく。

 

 ──身を焼く焔に焙られて蒸散してしまうはずの涙が、白い枕や敷布にぽたぽたと染み込んでいく。

 

 そこで、かれはやっと気が付いた。

 焔なんて、どこにもなかった。

 かれの上に、どころかその整然と片づけられた部屋のどこにも。

 火の気どころか煙の一筋さえ。

 

 そうして火傷の跡どころか大きな傷のひとつもない、けれど少し胼胝の目立つ細い指が、ようやく虚空でなく柔らかく清潔なシーツにすがった。

 振り乱していた藍色の髪は汗でぴとりと額に張り付いている。

 音にならない叫びを振り絞っていた喉の痛みに、かれはこほこほと何度か咽こんだ。

 焔に燃やされたはずの体はここにあって。あの剣に貫かれたはずの心臓は、ばくばくとまだうるさく拍動している。

 焔がもたらしていた痛みと熱は、かれが正気に立ち返った瞬間、まるで波が引くようにその体から去って行った。

 

 ──生きている。

 

 生きていた。

 また、生きなおしてしまった。

「ぅ、ふぅう゛~~~~~~~っ」

 ぼたぼたと静かに涙を零しながら、かれは震える手で寝台を叩いた。

 仰向けのままの姿勢のせいか、あるいは先ほどまでの幻痛のせいか。

 ろくにちからの籠らない拳がやわらかな寝台を叩くたびに、ぽすぽすと間の抜けた音があがる。

 かえって手のほうが痛むような、まさに八つ当たりのような打擲だった。

 かまうものか。こんなもの、ちっとも痛くない。

 だってまた、()()()()()()()()()()()()()()()

 今度こそ本当の本当に、最後のあの夜であってほしいとあんなにも願ったのに。

 

 あんなにも、苦しい死だったのに! 

 

「ち、ぅ゛しょ……」

 叫び疲れてか、喉が締め付けられるように痛んだ。

 それでも罵ることをやめられない。掠れ切って自分でもろくに聞き取れない声で、なお。

 かれが最後に見た景色が脳裏にはっきりと蘇る。

 短い赤金色の髪。橙の瞳。

 自分より少しだけ、ほんの少しだけ伸びた背に、妬ましいくらい恵まれた体格。

 そして、その右の手が振りかざす、焔を宿した一振りの剣。

 

 それは、もう何度となくかれを殺した男の姿だった。

 きっとまた今度の人生でもかれを殺すのだろう、男だった。

 

 ずっと昔、一度目の人生ではまだ、友だと思っていた。

 相容れないところがないわけではなかったけれど、あれのことを一番に理解しているのは己だという自負があった。

 そうして相手もまた自分のことを友だと思っていてくれている、と、愚かにも思い込んでいた。

 笑い話にもなりはしない。

 恐らく、あれの中での自分はただの、そう、精々がただの学友程度でしかなかったのだ。

 だって、あれは結局ちっともかれのことを理解してなんかいなかった。そうしてかれもまた、あの男のことをその毛の先ほどもわかってなんかいなかったのだ。

 その証左に、いつだって、夜明けをそのまま移したようなあのまなざしは、かれでなくどこか遠くを見ていた。

 

 ……遠くの誰かを見ていて、結局いつも、最後の最後までかれのことなど欠片も映したりしないのだ。

 

「なんで、だよ……」

 かれはもう何百回目かになる問いを誰にともなく吐き出して。

「──は?」

 その蒼い瞳を大きく見開いた。

 薄い唇から吐き出した声は、いつの間にか、はっきりと聞き取れるまでのものに回復していた。

 間違いなく自分が紡ぎ、口に出した言葉。

 

 けれどその声は、自分のものとは思えないほど甲高いものだった。

 

「な、に……?」

 喉を酷使したせい、ではまずありえない。それくらいでこんな声になるわけがない。

 澄んで高くて、どこか甘ったるい女の声。

「うそだ」

 なついていた寝台からがばりと起き上がって、かれは震える手で己の体を撫でていく。

 寝衣の下の二の腕も胸も太腿も、どこもかしこも馬鹿みたいにすべすべとしてやわらかい。

 あまりの衝撃に、涙はいつの間にか止まっていた。

 

 ──嘘だ。

 

 確かに自分は鍛えたものがなかなか身になりにくい体質だった。それでも貴族の男として見苦しくないようにと、日頃から食事や運動に心配ってはいたのだ。

 ちょうどこのころの自分なんて、特に己のひ弱さが恥ずかしくて恥ずかしくて、必要以上に自分を痛めつけていた時期のはずだ。

 そうやって余計な肉のほとんどない、しなやかな筋肉に覆われた体を作り上げた。

 作り上げている、べきなのに、けれど今かれの体は、ふわふわとやわらかくて、吸い付くような脂肪に包まれている。

 まるで、()()()()()()()()

 困惑と動揺の中で、かれは恐る恐る白い寝衣のうちへ手を差し入れて。

 ──遮るものなく伝わってきた、むにゅり、という馴染みの薄いしっとりとしたやわらかさと凹凸にすぐにその手を引き抜く。

 

「は……?」

 

 おかしい。

 嘘だ。

 こんなこと、あるわけがない。

 かれは今まで、七百四十九回は同じ朝を繰り返してきた。

 そうしてそのうち一度だって、こんな馬鹿げたことが起こったりはしなかった。

「──ぼく、が、おんな……?」

 ぽろりとこぼれた問いかけもまた、誰に届くこともなく明け方の澄んだ空気に溶けて消える。

 

 かれひとりを、清々しい冬の朝に置き去りにして。

 



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rech.1-2

「な、んだよ……これ」

 寝衣の上から恐る恐る体の線をなぞっていく。ほそい。やわらかい。おかしい。

 ローブを捲り上げてまでその()()を確認するような勇気は、さすがになかったが、それでも異常は文字通り手に取るようにわかる。

 頭の中はいくつもの疑問符で溢れかえって、さながら洪水状態だ。は、は、と息が浅く荒くなる。

 冷静で論理的な思考、なんて少しも組みたてていられない。

 ただ、居ても立っても居られなかった。動揺にふらつく体をなんとか動かして、寝台の上から、部屋の隅に置いた姿見の前まで文字通り転がり込む。毛足の長い絨毯を踏む足は、爪の一個までこぢんまりとしてかわいらしい。

 まるで子供の、少女のそれのように。

 

 ──寝ている間に姿が変わる、なんてことありえるわけがない。

 

 本人の意思に反して人体を変化させる魔術が法で禁じられて久しい。しかも禁じられたそれだって、人にちょっと獣の要素を加えるだとか、植物の要素を少し与える程度のものだったはずだ。

 たとえ大魔導師であったとしても、他人をまったくの別人へと変化させる、なんてことは不可能で。そのうえ性別を変える、だなんてそんなこと──。

 すがるような気持ちで鏡を見上げる。

 ああ、そうだ。そんな魔術はありえてはいけない。

 だからこれは、まだあんなくそったれな最期のせいで錯乱しているのか、あるいは幻術の類か。そのどちらかしかありえない。

 けれど、そんな甘ったれた想いはすぐに踏みにじられることになった。

 ──ゆがみのない鏡面に映ったのは、間違いなく女のものだった。

 知らない女の顔だった。

 いや、まったく知らないというわけではない、かもしれない。これとよく似た女の姿を見たことがある。たとえば本邸の廊下に飾られた絵画の列だとかに。

 あるいはそう、もしも自分に姉か妹でもいたら、こんな顔をしていたかもしれない。

 だけど、違う。

 これは、こんなものは違う。

 だって、自分は男だ。男だったはずなのだ。

 幻だ、と言い切りたいのに、魔術の気配はどこにもない。魔法の痕跡だって、どこにもない。

 錯乱しているだけだ、と思いたいのに、頭はやけに冷静だ。すでにひんやりとした日頃の平静を取り戻した脳髄は、鏡面の中の女はほかでもない己だ、と早々に結論を示していた。

 信じてたまるか、そんなこと。

「……うそだ」

 自分に言い聞かせるように呟きながら、冷たい鏡にひたりと手を当てる。

 そこに映る少女はまるで死人のようにひどい顔色をしていて、今にも消えて儚くなってしまいそうな脆さを漂わせていた。

 ──その点を加味しても、うつくしい容姿をしていた。

 鏡の中の少女の輪郭を指でゆっくりとなぞって、どこか他人事のようにそう思う。

 そこにいたのは、白いゆったりとしたローブを身にまとった、華奢な子どもだった。

 けぶるように長い藍色の睫毛が、驚きに見開かれた深い深い海の瞳を縁取っている。

 その眦は柔らかく垂れているものの、やさしげというにはどこか険があった。

 まるで、麗しい花弁の下に棘を隠した薔薇のようだ。

 そういえば、自分は昔から花で言うなら薔薇に例えられることが多かった、と、他人事のようにぼんやり思い出す。

 フリルのぎっしりと詰まった、艶やかな大輪の蒼い花のようだ、とよく言われていた。

 誉め言葉だったのか、あるいは遠回しな嫌味だったのかは、知らないけれど。

 ただ、そう称されるようになった要因のひとつは、間違いなくこの緩く波打つ髪だったのだろう。

 手入れがしっかりと行き届いていることを示すように艶やかな藍色の髪を手ですいて、腰のあたりまで長く伸びたそれを一筋すくい。

 ──そうした自分の指の先をかざる爪の、それこそ花びらのように整ったかたちに肌を粟立てた。

 瞳の色も髪の色もこんなにも以前と変わらない。

 なのにたったひとつが違うだけで、こんなにもなにもかもが違う。

「なんでなんだよ……!」

 足元がぐらぐらと揺れていた。気持ちの問題だけじゃない。体に力がろくに入らなくなって、膝が笑う。そのまま立っていられるかさえ

 怪しくて、鏡に体を預けた。

 生家の、たったひとりの≪嫡男≫であること。それだけが支えだった日々が確かにあったのだ。

 このエディリハリア王国に名高き《百花のリトグラト》。

 建国の礎を築いた大貴族の家に生まれた、たったひとりの嫡子であること。

 ──ルクレティウス・リトグラト・リィという名前の男であることだけが、自分の生に与えられた役割だと思っていた。たとえそれがお飾りの地位にすぎなくとも。

 男であるということが、こんな自分に欠片ほどであっても価値を与えてくれる、ただひとつ揺らぐことのない事実だった。

 そうだったはずだ。

 だって、そうでなければ己には誰かに必要とされる要素なんて何もないのに。

 なのに。

 ごん、と鏡に力いっぱい叩きつけたルクレティウスの、──ルクレの拳は記憶の中のそれよりも小さく、ずっと力ないもので。

 鏡にはひびの一つも入らない。打ち付けた手だけがただ、ジンとしびれて痛かった。

 その鈍い痛みが、ルクレに目の前のこれが現実なのだと、性質の悪い悪夢なんかではないのだと再度突き付けてくる。

 目をそらすな、と。

 これがお前なのだ、と。

 けれど、腰をくすぐるほど長い髪も胸元のやわらかい肉の塊も、どれをとっても自分にはどこまでも現実味が薄い。見下ろしたぶかぶかのローブの中では、か細い肢体が頼りなく震えていた。

「っ、クソ! こんな体で、どうやってあの夜を超えろって言うんだ……!」

 ただでさえ自分には他と比べて決定的に足りないものがあるのに、その欠けを埋めるどころか、さらに大きな不足を背負うことになるなんて。

 神の理不尽には慣れっこだと思っていたが、ここまでのことが起こるなんて想像したこともなかった。

 本当に、神様というものは度し難い。

 ろくに信じたこともない神を心の中で思い切り罵って、それからルクレは、はぁ、と大きなため息をまたひとつ落とす。

 こういうときに頼れるような相手は、悲しいことに心当たりがなかった。いや、別にないこともなかったが、そいつには主に気持ちの問題で頼れない、と思う。

 だって、そう遠くない日に自分を殺す男だし。

 自分のことを級友くらいにも思っていない相手に頼るなんて、そんな無様は何よりもルクレ自身が許せないし。

 ぴとりと鏡に額を押し当ててみる。憎たらしい現実を映す鏡面は、ひんやりとしていてひどく気持ちがよかった。少しの間そうしていれば、ざわめいていた心もようやく落ち着きを取り戻す。

 何はともあれ、信じられないようなことが起きていることだけが確かだった。

 どれだけ冷静に考えてみても、性別を反転させる魔術だなんて前例さえ聞いたことが無い。おとぎ話の中にだって、その手のものはそうそう出てきたりしない。

 それくらい、ありえないものなのだ。対象の身体的負荷も計り知れなければ、術者だってどれほどの技巧と魔力量とを求められることか。

 少なくともルクレの知っている範囲では、ここまで高度な魔術が行使できるような人間はいなかった。正直な話、神の手によるものだと言われた方が頷けるだろう。

 ともかく、この現状が他人に知られたら終わりだ、ということは明白だ。この国では嫡子が男女のどちらであっても家を継ぐことはできるけれど、リトグラトにおいてはその限りではない。まあ、家を継げないどころか、ルクレが禁術に手を出したのだとして何かの刑に処されてもおかしくはないのだが。

 いや、もういっそその方がいくらかマシかもしれなかった。

 

 だって、何をしたって結局そう遠くないあの日に自分は死ぬのだ。

 

 魂に諦念が染みつくほどに繰り返された「終わりの夜」をうっかり思い出してしまって、ルクレはずるずるとその場にしゃがみこむ。

 ──五体を焼く魔を祓う焔。橙色のそれに骨の髄まで焼き尽くされるほど醜く落ちぶれた浅ましい最後が、痛みさえも鮮やかに脳裏に蘇る。

 わざわざ思い出そうとしなくても、それは文字通り脳に焼き付けられていて、こうして何かにつけてはルクレの脳を焙ってくる。

 その度に、死にたくないと心で泣いて、生きてみせると心に誓った。

 今度こそ足掻いて藻掻いて、あの夜を越えてみせる、と。

 何度心が折れて諦めても、それでも、といつも意地汚く生にしがみついた。

 自分でも呆れるくらいの貪欲さで749回の人生を繰り返してきた。ほんの少しでも可能性があれば、と。

 でも、それも今回ばかりは無理そうだ。

 男の自分がどれだけ抗っても、死の運命からは逃げられなかったのだ。

 こんな細い女の体でいったい何ができるというのだろう。

 少し視線を下げれば目に入る腕も手も、かつての己のそれよりあまりにかよわいものに見えた。美化しているのかもしれないが、それでも男の自分の体はもう少ししっかりとして、それなりに頑丈なものだったように思えるのだ。少なくとも人並み程度には。

 今のこの姿はどうだ。華奢な肢体に、その細さに相応の腕力。

 自分の身体能力を強化するような魔術がないことにはなかったが、それはルクレには選ぶことができない道だ。

 白魚のような指に不釣り合いなペンだこだけが、以前と変わらないままだった。

 その不格好な膨らみを見つめながら、ルクレは静かに目を伏せた。

 

 ──もう、いいか。

 

 諦めはいつだってひどく優しくて甘い。それを選ぶまでに傷ついた心を癒してくれる。

 こうなってしまった以上、これまでのように足掻くことは無駄なことでしかない。徒労でしかない。女になった。という事実だけが明らかで、それがどうしてか、なんてわかったところで足りないルクレには結局どうすることもできないのだ。

 

 ──もうどうでもいい。全部、どうだっていい。

 

 結局どのみち死ぬのなら、残り僅かな人生を好きに過ごしてやる。749回も繰り返してきたのだ。今回くらいそうしたっていいだろう。どうせまた、あの夜を越えられないまま751回目の朝を繰り返すことになるのだから、これくらい誤差だ。誤差。

 そうだ、いっそちょっとした休暇だと思って、のんびり過ごしたっていい。

 うん、そうしよう、とルクレはひとり頷いた。

 そうやって強がっていないと、ちょっと耐えきれそうになかったのだ。

 だって、もしも、と思う。思ってしまう。もしも自分が、かつて望んだとおりの自分であったなら、こんな馬鹿みたいな窮地でさえどうにでもなったのに、と。

 はは、と思わず嘲るような笑いが零れる。泣き出しそうな色の滲んだ声が、ひとのいない部屋にこだました。

 もしも、なんて夢想は叶わない。そんなこと、とっくのとうに知っている。骨身に灼けて、痛いくらいに。

 ルクレは立ち上がることもせずに、しばらくの間ただそうして座り込んでいた。聞き飽きた予鈴の音が耳に届くまでの間、ずっと。

 



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Inter1 『エディリハリア讃歌』について-ある研究者の手記より-

interは本編外の、いわゆるおまけ要素です
読み飛ばしても問題ありません


 

 

 ──我らの国は救世の国。

 焔の英雄、百花の賢者、翼の聖女が我らを導く。

 三つの柱が業魔を祓い、加護を翳した無二の国。

 世界を救った英雄が、選びし王が統べる国。

 ああ、アシャナの大地のいずこにも、エディリハリアに勝るはなし。

 アシャナの空のいずこにも、エディリハリアに及ぶはなし。

(エディリハリア讃歌より)

 

 

 

 ……リトグラト公爵家が百花(enForiLle(エンフォーリレ))という称号と名誉をエディリハリア王家より受けたのは、ナルザス大図書館に保管された史料を読み解けば一目瞭然のことではあるが、4代目当主ロゥグハト・リトグラト・レゥの代である。彼とその子どもたちの美貌は周辺諸国にも伝承が多く残っており、百の花が咲き誇るように美しいと当時の国王が寵愛されたのもまた、当然の帰結であったのかもしれない。

 話を元に戻そう。我が国における最も古い民謡のひとつである『エディリハリア讃歌』の誕生は、少なくともリトグラト公爵家を2代目ロアハルク・リトグラト・ロゥが世襲した頃である、という説が有力だ。

その為、ここでの「百花」はその叡智を称える百科(eNfoRilie(エヌフォリーリィ))が口伝されていくうちに変じたものか、あるいは4代目が称号の下賜を受けたことによる影響から後世に伝わるうちに変化したものだと類推されているが、どちらの説を裏付ける証拠もまた存在せず、定かではない、とされてきた。

私は今回、この変遷について張本人とも言えるリトグラト公爵家の父祖ロゥク・ルゥ・リトグラト氏に話を聞くことを試みたのだが、残念なことに失敗に終わってしまった。

と、いうのも氏は隠遁生活に入られてすでに長く、リトグラト公爵家によれば、いまだ健在ではいらっしゃるものの、エディリハリアの国土を守ることにこそ重きを置かれているため、世俗との関わりを取り戻される予定はない、ということなのである。かの三英雄のおひとりにお会いすることが叶わなかったのは、我が人生において大きな不幸の一つと言えよう。

しかし、収穫もあった。なんと2代目当主の手記が保管されており、その写しを特別にお譲りいただけることになったのである。

叡智の保管庫とも呼び声高いリトグラト公爵家らしいお申し出であった。この手記の解読により、いまだ謎の多い讃歌の研究が少しでも捗ればよいのだが……。

 さて、この讃歌において、かの時代でも一般的ではなかったはずの《神の去った》という意味を持つアシャナ(AsyEna)という単語が使用されていることについてもまた、研究者の間では長く議論が交わされてきたが私は……

 

 



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rech2-1 死ねばいいのに、ばか

 

 ──ごーん、ごーん。

 

 朝の静けさを切り裂くように、どこか遠くの方で鐘が鳴った。

 二度響いたその音にルクレは俯かせていた顔をはっ、と上げる。 

 

 ──予鈴だ。まずい。

 

 見上げた窓の外、聳え立つ山には真っ白な雪が積もっていて、朝日に照らされまばゆく輝いていた。

 冬だ、けれど本当に今朝がこれまで通りの()()()であったなら、学院はもう年始の休みを明けている。

 そしてさっき鳴り響いた予鈴の音は二回。

 つまり、あと半刻もすれば授業が始まるということで。

 ローブを纏った体を見下ろす。こんな明らかに誰が見ても女だとわかる体のまま登校するわけにはいかない。かといってすぐに打てる手もない。

 どうする。

 何か、を求めてぐるりと部屋を見渡した。

 自分の他に人のいないひとりきりの部屋はがらんとしていて殺風景だ。死に戻るたびに物への執着は薄れていたが、ルクレはもとから部屋にそこまで物を置かない性質(タチ)だったので。

 だからまぁ、部屋を見ただけでは、自分でもここが本当に自分が使っていた部屋なのかわからないのだ。

 確証がほしい。

 自分が間違いなくルクレティウスであるということの、証拠が。

 ルクレの中にはまだ疑念がある。性別が変わるようなことが本当に起こり得るのか、という、疑いだ。

 そんな信じられないことがありえるとするのなら、自分の意識がまったくの別人の体に乗り移った、という可能性だって捨てきれない、と思う。

 どちらにせよ、いつまでも打ちひしがれたままではいられないのだ。なんにしろ行動しなくてはいけないし、そのためには自分の現状をしっかりと見つめなければならない。

 ルクレは立ち上がり、壁際に置かれた机へと向かった。

 きちんと整頓された机の上にはいつも通りに何も置かれていない。こざっぱりとした栗色の板面をさらしている。

 その天板の下に備えられた引き出しをそっと開いた。

 そこには見慣れた筆記用具と手帳と、それから。

 

 ──それから、赤い万年筆の横に、小さな紅の箱がひとつ。

 その天鵞絨の箱にルクレは手をかけた。

 伸ばした指先が小さく震えている。

 怖いんじゃない。武者震いだ。こんなことちっとも怖くなんかない。

 そう誰にともなく言い聞かせながら、箱の蓋をゆっくりとひらいた。

 黒いベルベッドが張られたそこには、銀の指輪が収められている。飾り気のない指輪がひかりを受けてきらりと光った。

 それを恐る恐る持ち上げて、普段そうしていたように左の人差し指に通す。馬鹿みたいにだぶついて揺れる銀色に口づけた。

 この指輪は、定められた持ち主以外には扱えない。

 

「──揺らぐ(しるべ)よ地の底まで/紡ぐ調(しらべ)は空の果てへ

 私は(しもべ)/貴方の影に口づけた」

 

 実は、ちょっとだけ、ほんの少しだけ、期待、しているのだ。

 この体はもしかして、自分の、ルクレティウス・リトグラト・リィのものではないんじゃないか、なんて。

 そんな馬鹿みたいな期待を。

 期待と不安で高鳴る胸とは裏腹に、頭の芯がじわじわと冷えていく。

 魔力が吸われていく、もはや慣れ切った感覚だった。

 

「……おいで、ティティクカ」

 

 ルクレの唇が最後の一音を紡いだその瞬間。

 人差し指で所在なく揺れていたぶかぶかの指輪が、その内側に刻まれた紋様を青くまたたかせて形を変えた。

 ぴとりと、最初からそうだったように指に吸い付く。

 たったひとりの持ち主であることの、その証左に。

 ああ、と落胆と安堵の混じった声が思わず漏れる。

 そうしているうちに、どこからともなく現れた蝶がその白い指先にとまった。

 深い藍色の蝶だった。

 まるでルクレの髪のような色をして蒼白い燐光をまとうその姿は、明らかに自然界のいきものではない。その羽根にルクレはためらいがちに唇を寄せた。鼻先を薄荷の涼しいにおいがくすぐる。その香りに少しだけ心慰められながら、ルクレは口を開いた。

 

「ルクレティウスからニアースティニアへ。運んでおくれ、ティティクカ……ニアへ。僕は体調が少し優れない。今日は部屋で休んでいる。すべて良いようにしておけ。……少しは励めよ。では。──以上、終わりだ」

 

 一息にそこまで言い切って、最後にふう、と息を吹きかける。言葉を吸い込んで、蝶の羽根がじわじわと藍から白へと色を変えた。

 かたんと窓を開けるとルクレの顔に冷えた冬の風が吹きつける。朝風の寒さにふると体が震えた。

 

「──行け」

 

 その寒さをものともしないように、真っ白に染まった蝶は飛び立った。灰色がかった空に蒼白い光が消えていく。

 その姿を見送ってから、ルクレはやっと息をついた。

詞蝶(しちょう)のティティクカ』は吹き込まれた言葉を運ぶ遣いだ。

 あらかじめ定めてある届け先へ飛んで行って、託された言葉をその羽根に文字で現す。魔術士がよく使う連絡手段のひとつだった。

 だいぶ浪漫に寄っていて実用的なものではないと言われがちだが、ルクレはこの蝶が好きだ。

 目に美しく、あまり魔力を使わないところもいい。

 ぼうっと思いを巡らせつつ、先ほどまで蝶が止まっていた左手を陽にかざした。見慣れない、小さな手。その指に嵌まった銀の指輪を眺める。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 つまりは、この体は間違いなく、ルクレティウス・リトグラト・リィのものだということだ。

 見ず知らずのよく似た誰か、あるいは、自分も知らない血縁者のものではなく。

 ほんの少しの落胆と、それ以上の安堵の中でルクレは瞳を閉じた。信じられないことを、それでも信じるしかないのだ。いつまでも動転してはいられない。それに、そう悪いことばかりでもなかった。

自分がルクレティウスであるのなら、女の姿に変わっていたとしても辿る運命にそう大きな違いはない、はずだ。

 749回も繰り返した人生のことを少しくらいは参考にできる。

 まぁとりあえず、言伝てを送ったことで今日一日くらいの時間は稼げた。一日もあればなんとか手を考えつくだろう。

 この学院の中等部に、ルクレの義妹、ニアースティニア・リトグラト・レゥも通っていた。自分が出ていけないのなら、他の誰かにそうさせればいい、というわけだ。

 義妹はルクレのことを、というよりはリトグラトという家自体を、ひどく恐れている。ティティクカに託した文面を見れば、深く理由を聞こうとはしないまま教員のもとへ向かってくれるはずだ。

 そのために高圧的な言葉を選んだのだから、そうしてくれなければ困る。そうでなくとも、ルクレがニアに対してきつい言い方をすることはもう日常茶飯事だったが。

 ルクレは義妹のことが嫌いなわけではなかったけれど、色々と憎たらしくは思っていた。語ることさえおぞましい真似だってしてきた。

 そうやってひどいことをしてばかりいたのだから、義妹からも好かれるわけがない。これまでの繰り返しの中で、彼女に殺されかけることが多いのも当然なほど。

 ともかく誰に似たのか義妹はかなり鈍い方だったが、ルクレが弱っている自身を他人に見られることを死ぬほど嫌っている、という事はよくわかっている。こんなものに対して傾ける優しさも枯れているだろう。

 なにをまかり間違っても見舞いになんて来ないはずだ。

 さぁ、とりあえずこの一日を使って立て直そう。

 そう心に硬く誓い。

 その腕に胸の脂肪の塊がたゆんと触れた瞬間、ぴしりと音を立てて体が固まった。

 そうだった、まずは()()をなんとかしないといけない。

 己の体の柔らかさにルクレはどうしたってびくついてしまう。ローブが一枚隔たりになっているにも関わらず、だ。

 

 ──女の身体ってこんなに柔らかくって頼りないものか? 

 

 髪の毛がちょっと伸びたのくらいはまだ誤差だとしても、性差はやはり大きい。こんなことにいつまでもびくついているわけにはいかないのに。

 教員にも生徒にも、周りの誰にも気づかれないような高度な偽装をなにか考えなければならないのだ。

 ルクレはぐっと下唇を咬んだ。

 ここが()()でなかったならこんな苦労はしなかった。

 ルクレ達が通うこの学校は、この国はおろか周辺諸国の中でも群を抜いた魔導教育の名門と名高い。エヌフォール魔導学院、と言えば知らない者はいないほどに。

 下手な方法を取れば教員にはすぐにばれてしまうことだろう。特に今は教職員以上の才能を持つと言われる生徒だって在籍しているのだ。油断は大敵だった。

 だからといってここを出る選択肢は選べない。

 ルクレは、それもまた運命だというのか、あの夜までは何があっても死ぬことはない。

 が、死ぬよりひどい目に遭うことはままある。八割くらいは自業自得だったが、自死も選べないというのは少し苦しい。

 今回の人生は休暇と見るとしても、ある程度はいつも通りに過ごす必要がある。学院から出る道をかつて選んだこともあったが、どの試行もろくな目に遭わなかったので進んで選びたくはない。

 大きく今までの流れから逸れなければ、そこまで苦しい思いをせずに済むはずだ。

 そうして、女になったせいでか自分の年齢にちょっと自信がなかったが、今はたぶん高等部1年の冬。そうして2年の夏の終わりには、あの夜が来る。残された時間は半年に満たないといったところだ。

 

 ──せめて中等部だったら。

 

 これまでも何度か思ったことが頭をよぎる。そのころだったならまだ取り返しがついたかもしれないのに。

 まぁ、そのあたりもちゃんといつも通りだろうな、と壁を埋め尽くす背の高い本棚の中を見つめながらルクレは思う。

『失われた500年の魔導史』『魔法とその制約』、『ナフタにおける魔術研究の傾向について』。

 整然と並べられた魔導にまつわる分厚い書籍は、だいたいそれくらいの時期に自分が好んで読んでいたものだ。

 背表紙の文字をぼうっと眺めて、そうしてひとつ大きく息を吐いた。

 落ち着こう、大丈夫だ。方法はある。

 自分はルクレティウス・リトグラト・リィ。

 叡智の保管庫と呼ばれるリトグラト家で育った頭脳は伊達ではないのだ。

 ひとまず何か飲み物でも、と思った瞬間。

 

 ──来る。

 

 うなじがぞわりと総毛だつ。

 冷たいひんやりとした風が、先ほど詞蝶を放した窓から吹き込んだ。

 しまった、窓を閉めるのを忘れていた。

 そう思ったのもつかの間。

 ひらり、と風にはためいた白いカーテンの隙間から、黒い影が飛び込んでくる。

 

「おい、レティ。体調が悪い、ってニアから聞いたんだ、が……?」

 

 ああ、僕は馬鹿だ。間抜けだ。阿呆だ。

 鼓膜を揺らす懐かしい声に、ルクレはくらりとよろめいた。

 ニアとこいつが、このくらいの時期にはもうだいぶ仲がいいということをすっかり忘れていたのだ。

 そうしてあの義妹が馬鹿みたいに心配性なことも。まだ中等部のあいつが高等部の教員に話をしようと思えば、なんらかの形でこいつに会う可能性があるに決まってるじゃないか。

 そうして馬鹿みたいに他人のことばかり気にかけるこいつが、体調の悪い級友の様子を見に来るなんてことは、もはや当然の帰結だろう。

 

「……シャニ」

 

 襟足がやや伸びた、短い赤金色の髪。

 夜明けのような瞳。

 日に焼けた肌と、よく鍛えられた体を白い制服の下に隠した男。

 ──シャルナノーク・エイデン。

 シャニ。自称正義の味方。他称、お人よしの馬鹿。

 ルクレが、たったひとりの親友だと思っていた男。

 あるいは──ともしびの勇者。

 

「レティ? おい、ふらついてるんだった、ら」

 

 駆け寄ってきた男の足がルクレの姿を見てゆっくりと止まる。

 あほ馬鹿間抜け、お前って本当にそういうやつだよな、と心の内で思い切り罵る。きょとんとした顔を張り倒したくなる気持ちを堪えて、わざとらしく微笑んでみせた。

 

「何かな?」

「あ、ああ、なんだ、その……」

 

 言い淀むあたり威嚇は通じたらしい。

 けれど、気づくのがあまりに遅い。

 というか、他人の部屋に勝手に入ってくるな、不法侵入だぞ。

 ルクレがそう牽制しようとした瞬間、シャニが迷いつつ口を開く。

 

「……レティ。お前、縮んだか?」

 

 そういえば自分は、この馬鹿の、こういう無駄に敏くて無神経なところも嫌いだったのだ。

 

 そんなことを、ふと思い出した。

 

 

 

 



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rech2-2

 一目見ればわかるような明らかなことを濁すのは優しさじゃない、とルクレは思う。

 何が言いたいかというと、目の前の男のことがやっぱり嫌いだという事だ。

 気の使いどころがおかしいんだ、こいつは。

 縮んだか? じゃない。縮んだどころじゃないことくらい、一目瞭然だろう。はっきりと聞けばいいのだ。その有り様はなんだ、と。

 

「言いたいことがそれだけなんだったら、出て行ってくれないかな」

 

 浮かべた笑みが馬鹿みたいにひきつっているのが自分でもわかった。けれど、苛立ちをどうにも隠していられない。

 胸の真ん中がじくじくと、まるで焼かれたように痛むからだろうか。

 その痛みを振り払うように、ルクレは小走りでシャニの背後へ回った。そのやけに広い背中を扉の方へ向かって力いっぱい押していく。

 押そうとした、という方がずっと正しい。少しくらいは動揺していてもおかしくないのに、シャニの体はびくともしなかった。

 掌から伝わってくる熱と筋肉の硬さが憎くて憎くてたまらない。

 必死に押しているのにこゆるぎもしないシャニのせいで、毛足の長い絨毯を踏みしめた足がずる、と滑る。

 

「ほら! さっさと行けよ! 出口はあっち!」

「っ、何かあったんだろ! 今にも死にそうな顔してるのにほっとけるか!」

「ああ! ぜひ放っておいてほしいかな! 僕は、おまえが助けてあげなきゃいけないようなか弱い乙女じゃないんだから!!」

 

 激情で乱れるルクレの脳裏を3人の少女の姿がよぎる。

 シャニが749回の繰り返しの中で救った女たち。

 正義の味方に助けてもらえる、特別な彼女たち。

 ルクレがほしかったものをすべて持っていた、妬ましい少女たち。

 ルクレは、いつだってこの男にとっての何者にもなれなかったのに。

 

「はやく出てい」

「待てって! ──親友だろうが!」

 

 しんゆう。

 シャニの口から飛び出た言葉にルクレは体を強張らせた。

 

 ──お前がそれを言うのか。

 

 親友。親しい友のこと。特に親しい間柄の。シャニと自分が、そうだって。

 ルクレの心はぐちゃぐちゃだった。まるでひどい嵐が吹き荒れているみたいだ。

 たったひとつの言葉にぐるぐると感情がかき乱される。

 言いたい言葉は山のようにあるのに、何一つ唇から出てこない。

 でも、いったい何と言えるだろう。

 僕のことなんか眼中にないくせに、とか? 

 あるいは、おまえが僕を殺すくせに、とか? 

 冷静じゃないことも自己中心的な言い分なことも全部承知の上で、それでもそう言ってしまいたいとあの夜の自分が叫んでいる。

 けれど、こんなときも冷静な頭は何も言うなと警鐘を鳴らしていた。

 言ってはいけない。ここですべてをぶちまけてしまうのは簡単なことだ。けれどそうしてしまえば、シャニとの間に決定的な亀裂が生まれる。安穏とした学院生活は夢のまた夢、休暇どころではいられない。

 どうすればいい。

 ルクレはこらえるようにぐっと下唇を噛んだ。

 いつの間にかシャニの背中を必死で押していた手はちからを失って、ただそこに添えるだけになっていた。

 背後の怒りが静まったと思ったのか、シャニがゆっくりと振り返った。

 その力強い橙色の瞳がまっすぐ自分を見ている。そんな錯覚に襲われて、シャニは思わず視線を床に落とした。

 勘違いしてはいけない。あんな言葉を、こんな視線を真に受けても苦しいのは自分だけだ。

 これまでだって、何度もそれが勘違いだったと突き付けられてきたのだから。

 とにかく沈黙を避けようと、ルクレは噛み締めた唇をなんとか開く。

 声よ頼むから震えてくれるなと心の底から祈った。感情に任せてこれ以上の醜態を見せるなんて、プライドがゆるせない。

 

「……親友なの、僕とおまえって」

 

 祈りが通じたのだろうか。

 絞り出した声は相変わらず高くて聞きなれないもので、それでもなんとか震えたりかすれたりはしていなかった。

 

「なんだよ、違うのか? 友達甲斐のないやつだな。お前はまぁ、弱ってるとこを見られたくないのかもしれないけど……心配くらいさせてくれよ」

 

 伏せたつむじに向かって降ってくる声はまっすぐで優しい。

 どれだけルクレの性根がひねくれていても、労わられている、とわかってしまうくらいには。そこまではっきりと気遣われると、帰ってくれたっていいんだけど! とは言い返せない。

 だって、心配されているということを純粋に喜んでいる自分が、認めたくはないがルクレの中に確かにいて、シャニの言葉ひとつに文字通り一喜一憂しているのだ。

 落ちつけ。ルクレは自分に言い聞かせる。

 いつも通りに振舞ってみせろ、ルクレティウス・リトグラト・リィ。

 感情を露わにして取り乱すなんて貴族の嫡子にあるまじき行為だ。そうだろう? シャニなんかに動揺させられてたまるもんか。

 胸の内でひとりそう決意を新たにしながら、シャニの言葉をはっと鼻で笑った。

 

「ま、いいよ。心配したいっていうなら勝手にすればぁ? というかおまえさ……疑わないんだね」

「ん? 何をだ?」

「僕が、ルクレティウスだってことだよ。こんな格好なのにさ」

 

 道化師のように仰々しく、ルクレはおどけて腕を広げる。華奢な肢体を見せびらかすように、くるりとその場で回ってだってみせた。

 ルクレは疑った。信じたくないとさえ思った。こんな姿に成り果てた己を。

 なのに。

 

「お前以外の誰だって言うんだよ」

 

 それを、この男はこんなにも当たり前のことみたいに。

 

「親友の顔を見間違えるような薄情者になった覚えはないぞ、俺は。そりゃ性別が変わってるのには驚いたけど、どこからどう見たってお前はレティだし……そういえば、なんでお前、女になってるんだ?」

 

 今さらそれ聞くの。

 ぽつりとそんな言葉が口からこぼれた。毒気が抜けてしまったのは、それを言った男の顔があんまり素直に不思議そうだったからだろうか。

 

「悪いかよ……俺なりに気を使ったんだぞ、これでも」

「そんな馬鹿みたいな気の使い方があるかよ。ばか」

 

 ばつが悪そうにそう言ったシャニがなんだかおかしくって、ルクレは思わず笑ってしまう。

 本当に、こいつは気の使いどころがおかしい。

 はは、と笑いが次から次にこぼれる。

 つい先ほどまで沸き上がっていた怒りは今はもうどこかに行ってしまったみたいだ。

 思えばいつもそうだった。どれだけ怒っていても、こいつの前では長続きしなくて。だいたいいつでもルクレが折れた。

 そうしてシャニの持ってくる面倒事に、嫌々ながらも付き合ってやっていたのだ。

 そういうポーズを取ってばかりいた。

 本当はそんなに嫌じゃなかったのに。

 

「聞いていいのかわからなかったんだ、なにかの魔法だか魔術だかの実験でもしてたのかと思ってな。俺がそういうのにうといのはお前が一番よく知ってるだろ?」

「ま、そうだね。おまえ、いつまで経っても慣れないんだもの」

「しかたないだろ、向いてないんだよ。それで、何があったんだ? 実験、とかじゃないんだよな?」

「何って、今朝起きたらこうだったんだよ。僕だってなんでかなんてわからないね」

「そう、か……」

 

 女になった、という事実に関してはもう何も隠さないことにした。心の準備ができていないのにシャニが飛び込んできたせいで、醜態も少しばかりさらした。ここからうまくごまかしたり嘘を付きとおすだけの自信は無い。

 この際しかたがない、と開き直った方がまだいくらかマシだ。共犯関係に持ち込むしか円満な道はなく、シャニ相手であればまだなんとでもなる。はずなので。

 心はまだどこかざわついていて落ち着かない。

 そんな内心をごまかすように、ルクレは寝台に腰かけて行儀悪く足をぶらつかせる。白い寝衣もぱたぱたと風を含んではためいた。

 シャニはまだ部屋の真ん中に立ったままだ。

 椅子でもすすめてやるかと思って、やめた。

 立たせておいたままでいいのかもしれない、他人の部屋に窓から入ってくるようなやつは。

 

「それで、体調は悪くないのか? 痛みとかは?」

「別に、それはなんともないけど」

「そうか、ならよかった。いやよくはないんだが。具合が悪いとかじゃなくって安心したというかな」

「体調はそこまで悪くないよ。でもなんにも安心できないね。禁術に手を出した、なんて学校に思われたら騎士隊に引き渡されて最悪処刑なんだぜ?」

「あ、そうなのか。……それは確かにまずいな」

 

 まずいどころじゃないんだよね。とそこまで返してルクレは舌打ちをした。

 会話はあまりぎこちなくなることもなく進むのに、それにしては明らかにシャニと目が合わない。

 またふつふつと苛立ちが湧き上がってくる。

 わかっている。こいつがそもそも僕のことを見ていたことなんてろくにないとか、そんなことは十分知っている。

 親友だなんて言葉にかんたんにごまかされたりはしない。

 それはわかっていても、こんなにあからさまに目をそらされるとむかつくのだ。

 

「……なんで目ぇそらすわけ?」

「は?」

「だから、僕を見ろって言ってるの!」

 

 寝台に座ったまま、ルクレはシャニの方に身を乗り出した。

 わざわざ彼の視界に入るように動いたのに、あからさまに顔がそらされる。

 

「──こっち見ろって!」

「っそんなまじまじと見れるか! おまえ、ああ……くそっ! お前、その下なにも着てないだろ!」

「はぁ? ……ハァ!?」

 

 その言葉の意味を飲み込んだ瞬間、ルクレはぱっと両手で白い寝衣の前をかきあわせる。

 頬がかっと、燃えるようだった。開け放されたままの窓から吹き込んだ冷たい風がちょうど心地いいくらいには熱い。

 薄い寝衣は、いくら今の体にはぶかぶかだといっても体の線をまったく拾わないわけではないのだ。

 シャニがどこを見ていたのかなんてすぐにでもわかった。

 

「……へんたい」

 

 言い返す言葉に困りながらそうなじる。口に出してみればなんとも情けない返しだったが、このまま沈黙が訪れるよりよっぽどいい。

 いい、はずだ。

 

「今の、俺は悪くないだろ!? ……とにかく、状況はわかった。俺にできることなら協力するから」

 

 焼けた肌のせいでかさっきまでは気づけなかったが、シャニの耳も端まで真っ赤に染まっている。

 そうして出てきた苦し紛れ5割くらいの返答に、ふうん、とルクレはさらに目を細めた。

 協力する、という言葉を気に食わないとさえ思う。そうやっていつも簡単に手を差し伸べては安請け合いするのだ、この男は。

 

「じゃあ、これ。どうにかできるか?」

 

 腹いせに、たゆんとたゆむ胸の脂肪を持ち上げてみせた。

 義妹に比べるとたいして大きくはないはずの胸なのに、もう肩が重たくて重たくてしかたない。体をちょっと動かすと不随意に揺れるのも気に障る。

 ふにふにと手中の肉を弄べば、それを視界の端に見てしまったらしいシャニの顔がさらに赤くなった。

 おもしろい。と思いながらルクレはさらに畳みかける。先ほどまで感じていた羞恥心なんてものは、気づけば完全に消え失せていた。

 

「あんまり大きかないのに、これ、意外に重くてしかも痛いんだよね」

「あのな、そういうことするの、よくないと思うぞ……」

「なんだよ、こんなのただの脂肪の塊だろ? それともお前、男の胸になんか欲情するっての?」

 

 僕だぜ? と目の前の男を嘲笑う。

 今の見た目が女でも、中身はルクレだ。動揺する方がおかしい。

 正義の味方、なんて聖人ぶった男がこんなことに感情を揺さぶられるなんて、笑える話じゃないか。

 

「ほら、どうなんだよ」

「わかった! わかったから! はぁ…………じゃあ、あれだ。布か何かを巻いて押さえつければいい」

「そんなのでごまかせるの」

「俺の師匠は包帯でそうしてたらしい。だから、なんとかはなるんだと思うが……」

「ふぅん。じゃあそうしてみるかな」

「ああ、ぜひそうしてくれ。今のままだとこっちの精神衛生上よくない、すごくよくないからな」

 

 そういってシャニは視線をそらしたまま、ひどく疲れたような顔をしてみせた。そういう風に言うくせになんだかんだといって協力はしてくれるのだから、なんというか本当に馬鹿みたいにお人好しなやつだ。

 その横顔を見つめながら、ルクレは内心のつぶやきを反芻する。

 協力。

 そうだ、これは協力で、つまり対等な関係だ。

 別に自分が助けを求めたわけじゃない。頼ったりしたわけじゃない。むしろ向こうが力を貸させてください、と言ってきたに等しい。

 だから、大丈夫。

 ぐっと頭をもたげてきそうなプライドにルクレはそう言い聞かせる。誰かに助けを求めるなんてごめんだった。それは自分の至らなさを、弱さを認めることと同義だ。

 でも。

 あの夜に行きつくまでに、こうやって素直に手を伸ばしていたら、こいつは応えてくれたんだろうか。

 助けて、とまだ間に合ううちにその一言が言えていたら、何か変わったんだろうか。

 脳裏をふとそんな戯言がかすめる。

 予想外のことばかりでやっぱり精神的に追い詰められているのだろうか。そんな優しいもしもがあればと願ってしまうのは。

 でも、やっぱりあの夜に行きついてしまったらルクレには言えない。確信めいてそう思う。

 シャニは助けて、と言われたら誰にでも手を差し伸べる男だ。

 自分がもしそう言ってしまったら、ルクレもまた彼の中で有象無象の誰かと同じになる。

 そんなの、絶対に嫌だ。耐えられないとさえ思う。

 だから、やっぱり自分にはそうできない。

 今回のこれを例外だと、助けを求めたわけじゃない、と処理することが精一杯だ。

 だいたい正義の味方というやつは、他に助けなければならない人々を差し置いて、ルクレのような悪党を救ったりしないものだし。

 うん、とルクレはそこまで考えたところでひとり頷く。

 自問自答、終わり。過去に目を向けたところで解決策は浮かばない。今すべきことは明日からの学院生活をいかに乗り切るかを考えることだ。変えようのない過去に思いを馳せることじゃない。

 

 ──過去? 

 

 ぴたりとルクレは動きを止めた。

 過去。

 昔むかし、まだルクレが自分の未来の輝かしさを愚かにも信じていた頃。

 あの日、本邸の植物園で父祖が使ってみせてくれた魔法は、なんだった? 

 ほう、とルクレは息をついた。

 魔法のほのくらいひかりに包まれた植物園。

 そこに溶け込むような、樹木によく似てほっそりとした父祖ロゥク・ルゥの背中。

 その折れそうな手が紡いだ、ひとつのうつくしい魔法陣が脳裏にありありと蘇る。

 安堵に満ちた溜息がひとつ落ちる。

 よかった、と心から思う。

 現状をなんとかする方法は見つかった。

 後はこれを己の手でどうやって再現するか、だ。

 そしてルクレは、こと魔法の再現においては自分の右に出るものはいないと自負している。

 

「で、どうするんだ。明日からの授業、とか。包帯(それ)だけじゃさすがにごまかせないだろ」

「それはまぁ、なんとかなると思う。

 ──お前の顔見たら思い出したんだ。お爺様が使ってた魔法に使えそうなのがある」





スケジュール管理ができないのでとうとうおまけが書き上がりませんでした

ごめんなさい


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rech2-3

ぽかミスで1話抜いて投稿してました
すみません
rech2-3話が6月17日更新分です



 

 

 ──世界には、魔術と魔法。

 

 失われつつあるかつての奇蹟と、生み出されていく新たな技術。

 総じて魔導と呼ばれてはいるものの、それらは決して同じものではない。

 

「……よし!」

 

 寝台から引きはがしたシーツに最後の一文字を書き終えて、ルクレはふうと息をついた。長いこと床に膝をついてそれを描いていたせいで、体の節々が鈍く痛んだ。きしむ体にどこか達成感じみたものを覚えながら、ルクレはゆっくりと立ち上がる。

 深紅の絨毯をシャニに引きはがさせて露わになった床の上。

 そこに広げられた真っ白なシーツいっぱいに、藍色のインクで大小さまざまな陣が描かれている。

 

 理論上はこれで不足はない。はずだ。

 

()()はそれまでの繰り返しの人生の中でも何度か使ったことがある魔法だ。そうしてそのいつかの自分が使ったときは確かにこの記述で十分だった。

 ただ、あの時のルクレにはたいていある種のブーストがかかった状態だったので、念のため今回は少し補助用の魔法陣を足してある。

 かつて見た父祖の魔法陣はひとつきりで、魔力によって即席で描かれた簡易的なものだった。が、ルクレが同じことをしようと思うとこれくらいはしなければならないだろう。

 ロゥク・ルゥは国どころか世界を見ても歴史上類を見ない天才だ。あのひとと自分とを比べることもおこがましい。

 それでも、その天才の魔法を自分なりの方法で再現することくらいは、ルクレにだってできるのだ。

 図形や文字と文字の連なりが複雑に絡まりあった紋様は我ながら緻密で繊細でうつくしい。描いた陣をひとつひとつ検分しつつ、ルクレは脳内でその効果を再度組み立てる。

 いちばん大きな中央の陣が幻影の魔法。

 右上の陣はその幻に実体を与え、右下に描いた惑乱魔法が、解析魔術の類を攪乱して魔法を使っていないように見せかけてくれる。陣のところどころに強化の文言を差し込んであるから、より強固なものに仕上がってくれるだろう。

 試行装置があれば確実なのに、と本邸にある魔導具に一瞬思いを寄せて、ないものねだりはよくないか、と思い直す。

 ぐうっとひとつ伸びをすると、持ち上がったシャツの裾が裸の太ももをくすぐる。背後でぶんと勢いよく首を振るような音が聞こえたが、振り返らないまま机の方にゆっくりと歩いた。シーツを踏まないように、少しだけ注意を払いながら。

 今の自分が着れるものはあまりにも少ない、けれど寝衣のままでいるのはなんとなく嫌。そんな心の赴くままに行動した結果、ルクレは制服の白シャツを羽織って、下着を履くという服装に落ち着いた。シャツは膝のちょうど上まで隠してくれるし、下着以外に履けるものがなかったのだ。

 まるでシャツ一枚しか羽織っていないようにも見えるが、どんなみっともない恰好だろうと構うものか。どうせシャニしか見ていやしない。

 そのシャニの動揺も素知らぬ顔で、ルクレは陣を描くのに使ったペンとインク瓶とをそっと引き出しへと戻した。この藍色のインクは本当にとっておきのものなのだ。材料の一部に手ずから育てた植物を使っているおかげで、ルクレの魔力によくなじむ。

 しかも今日はそこに自分の血も、少しばかりだが、混ぜてみた。魔術師の体液には、人にもよるが幾らかは魔力が含まれる。魔法の触媒として不足はないだろう。

 そして、左手に嵌めた銀の指輪。これは幾つか普段使いの魔術を仕込まれているだけではなく、魔力の増幅器としての機能も持ち合わせている。ルクレの文字通り隠し玉だ。この指輪ひとつで一般市民の30年分の収入に匹敵するほどの値打ちがあったりする、といえばその希少性が伝わるだろうか。

 これが今のルクレにできる精一杯だった。とりあえずは万全の態勢だと言っていい。

 時間をかければもっときちんとした道具も揃えられるのだが、背に腹は代えられない。遅くとも明日の朝までには、何食わぬ顔をして登校できるようにしておかなければならないのだ。とりあえず、で羽織ったぶかぶかのシャツも腰骨のあたりに引っ掛かってしまってとうとう履くのを諦めたズボンも、ルクレの姿が大きく変わってしまったことを明らかに示していた。魔導の助けがなければ、安穏とした死への日々は送れそうもない。

 だから、この魔法は絶対に成功させる必要があった。絶対に。

 カーテンの隙間からは眩しいくらいの陽光が差し込んできている。壁掛けの時計に目をやれば、今まで通りだと諦めつつ迎えた朝からだいぶ時間が経って、もう昼時を過ぎていた。

 思えば朝から何も食べていないのに、不思議と空腹は感じない。

 まだ混乱しているのだろうか。

 それとも、不安なのか。

 

 ──不安? この僕が? 

 

 そういう風に高慢に振舞っていられた日々は、今となってはもうずいぶんと遠かった。

 不安はあった。何度も使ったことのある魔法ではあるが、だとしても半永久的に作用するように、なんて使い方を実はルクレはしたことがない。あくまでも一時しのぎの手に過ぎなかったのだ。そうしてその一時しのぎだっていつもうまくいったわけではなく、失敗すれば思い出したくもないような目に遭って──。

 ふう、とルクレはひとつ息をついた。

 笑ってしまうくらいに自業自得だとわかっていて、それでもなお世界を恨み憎み呪ったことが数えきれないくらいに遭った。そうなりたくないのなら、今しなければならないことは明白だろう。

 

「さて、質問だけど……この一番大きな陣、魔術陣と魔法陣、どっちだと思う?」

 

 付きまとう不安を振り切るように、ルクレはくるりと振り返る。

 は? と間の抜けた声が上がった。まさか今、自分がそんなことを聞かれるだなんて思ってもいなかったのだろう。部屋の主の了承もろくに得ないまま、椅子に座ってぼんやりとこちらを眺めていた男に、ルクレはそう問いかける。

 魔導の初歩も初歩といっていい問題だ。答えられないわけがないだろう? と。煽るように付け加えると、シャニの眉間に皺が寄った。

 集中している証拠だ。こいつは考え事をするときによくこういう顔をする。

 

「っと、あー、これはそうだな……うん、魔法陣だろ?」

 

 果たして、シャニはルクレの期待に応えてくれた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だから魔術陣なら、二つの正円の中に文字式なり図形なりが入ってないといけないし、正円はただの線で書かれなければならない、だったか?」

「そそ、だから線じゃなくて文字列が円を描くこれは魔法陣ってこと。……ちゃんと覚えてたんだ?」

 

 ちいさく首をかしげてからかうように微笑むと、苦笑いが返ってきた。

 

「誰かさんに昔みっちり叩き込まれただろ? ……それにしても、書いてるとこから見てたが俺にはさっぱりわからん。凄いな、これ」

「ふふん。詠唱式が妖精語だから、魔法陣もそれに合わせてるんだ。学院では見ない記法ばかりだろ。まあ、魔法に愛された森の民の、その末裔である僕だからできる方法だよ」

 

 ふん、と胸を張る。先ほどまでならその動きに合わせてたゆんと揺れたはずの胸は、今は巻き付けた包帯の下でおとなしくしてくれている。少し苦しいが、自由にしているよりよっぽど痛みはなかった。

 実のところ、シャニがこの魔法のことがわからない、というのも無理はないことだった。魔法が隆盛を誇ったのは今となっては昔の話だ。まだ世界に妖精がいて、魔王がいた。そんな、いわばお伽話の時代に使われたのが魔法だった。

 人の手に余るものとされた魔法が歴史の中に消え、万人が容易に扱える魔術が魔導の主流になって久しい。学院でも魔導史の一環として魔法について学びはするが、専攻している物好きは世界的に見てもほとんどいない。でも、だからこそルクレは魔法が好きだった。同年代で、おそらく自分が最も魔法に親しんでいると言えるほどに。

 不安はある。だから、魔術ではなく魔法を選んだのだ。749回の繰り返しの中で、ルクレはずっと魔法について学んできた。短い人生だって積み重なれば魔導師に匹敵するだろう。とかく魔法の再現という分野において、今の時代に自分の右に出る者はいない。その自負がルクレの揺らぎそうな心を支えてくれる。

 描いた陣の中央に立ってルクレはすっと背筋を伸ばした。

 魔法を使うとき、畏れてはいけない。疑ってはいけない。揺らいではいけない。

 魔術は規則によって成る技術だが、魔法はただ祈りによって引き寄せられる奇蹟だ。真摯な祈りだけが、世界を動かすちからに届く。

 

≪りり るる りり る≫

 

 妖精たちがかつて木々の間でうたったという言葉たち。軽やかで踊るような音色を紡ぐ。魔力を流し込んだ陣が、ルクレの(ことば)に反応して蒼い光を放った。その一瞬、目の前がぱっと真っ白に染まる。倒れそうになる体を気力で押しとどめた。

 畏れてはいけない。疑ってはいけない。揺らいではいけない。

 まっすぐに、ただ祈るのだ。

 

≪母なる森よ嗚呼お恨み申し上げます

 褪せた(みどり)に枯れた枝交わる道なきこの調べ

 父なる森よ嗚呼お慕い申し上げます

 私はそれでも彼方(あなた)のこ彼方(あなた)の見る一睡の夢の供≫

 

 歌うように言葉を紡ぎながら、世界を呪う。

 大丈夫だ、自分にならできる。だってルクレはかつて、失われた勇者の剣さえもこの世に甦らせてみせたのだ。この程度の魔法を行使できないわけがない。

 そう言い聞かせることで、自身を、心を奮い立たせる。

 畏れてはいけない。疑ってはいけない。揺らいではいけない。

 

≪揺れるみなもに映る木々のように

 震える朝露にひかめく花のように

 私もまたゆがんでひずんで

 世界に溶けてしまいたいのです≫

 

 ばちばちと足元から雷鳴じみた音が鳴る。ルクレの鼻先を何かが焦げる嫌な臭いがかすめた。焔の気配に死への恐怖がさっと蘇って、思わず足がすくむ。

 それでも揺らいではいけない。ルクレはぐっと体に、腹にちからを込めた。

 シャニが見ているのだ。他でもないあの男が。

 なら、無様はさらせない。

 絶対に! 

 

≪嗚呼どうか私を抱きしめてください

 ──ルゥレルゥの波打つ水鏡≫

 

 詠唱に呼応するように光の奔流が立ち昇って、ルクレの藍色の髪を揺らす。気づけば焦げ臭さは遠く、代わりにまるで深い森の中にいるような木々のにおいがあたりを包んでいた。不思議に穏やかな心地の中、ルクレはまばゆい光の向こうになにかの声が聞こえた気がして耳を澄ます。

 

 ──のろわれたこ。

 

 その声を、真意を追いかけようとして。

 雷鳴と光がふっと止んだ。ささやきもまた、どこか遠くへ消えている。

 自分の視界は変わらない。先ほどまでと何一つ。

 

「……どう? 変わった、かな?」

「ああ。ああ! 凄いな。いつものレティだ」

 

 シャニの反応に、ほっと安堵の息が漏れた。どうやらうまくいったらしい。

 足元に目をやれば、かなりの魔力が流れたせいでかシーツはところどころに焼け焦げてひどい有様だった。道理で焦げ臭いわけだ。陣が壊れてしまわなかったのが奇跡だとさえ思う。

 

「それ、ちなみにどれくらいもつんだ?」

「ん? 学院にいる間は永続だけど」

 

 シャニの当然の問いかけになんでもないことのように答える。実際、なんでもないことだ。そうなるように計算して陣を組んだのだから。

 

「はぁ!? そんな使い方して負担は」

「ないよ、土地から魔力を吸い上げてるんだ。発動には僕の魔力を使ったけど、維持は土地の魔力がしてくれる。この隅っこの陣はそのためのやつなんだよ」

 

 ルクレはシーツの左隅に描いた陣を指さした。正円がふたつ重なった、形式通りの魔術陣だ。内側に描かれた式だってたいして難しいものではない。学院に入学して、最初の方で習う魔術陣の応用だった。

 

「土地の魔力を使うって、学院にばれないのか?」

「ばれないね、見覚えないの? これ、授業でも使ってるやつの応用なんだよ。学院で魔術の実習をするのに、生徒の魔力で賄わせてたら体調不良者が出るに決まってるだろ。たいていの生徒は体も魔力も未熟なんだぜ? 魔力の量も質もまちまちだ。最悪死人が出ておかしくない」

 

 そこまで言って、少し過剰表現だったかなとルクレは独り言ちた。たいていの場合、どんな大それた魔術や魔法を行使しても学生が命を落とすようなところまで行くことはない。そうなる前に、大抵力尽きて気を失うことになるからだ。

 

「ま、3年の授業でそこは詳しく教えられることになるんじゃない? つまり、僕らの体が出来上がって、社会に出る前に。要するに、これはそれまでの安全装置なんだよ。術者の魔力が3割くらい残るように、不足を土地から吸い上げる魔術でね。学院で複数の陣を使うときに絶対入ってるし、入れるように教わるから、生徒が何かの弾みで身の丈にあわない魔導に手を出しても命の保障がされるってわけ」

「そうだったのか。ああ、それで外より楽に魔術が使えるんだな」

「そういうこと。まぁ同じような陣を300人以上の生徒が毎日のように使ってるんだから、その中から僕ひとりを見つけ出すなんてできっこないでしょ?」

 

 そこまで説明すれば、シャニにも理解できたのだろう。なるほど、とうなずきながら陣を真剣に見つめている。

 ルクレもまた、銀の指輪に目を落としていた。

 魔法の核は魔法陣ではなく指輪だから、魔法陣から離れても問題はない。魔力は土地が賄ってくれるようになった。たいていの解析魔術は惑乱魔法でごまかせるだろう。当面の問題はこれで解決するはずだ。

 

「──あ、そうだ」

 

 ぽんとひとつ手を打って、ルクレは机に駆け寄り引き出しからインクを取り出した。蓋をくるくると開けて人差し指をインクに浸す。白い指先と花びらのような爪がすっと藍色に染まったのを確認してから、またシャニの方へと足を向けた。

 大事なことを忘れていた。とても大事なことだったのに。

 とりあえずの不安がなくなったその足取りは軽い。ひらひらとシャツの裾がゆらめく。椅子を使ってもいいと許した覚えはまったくなかったが、シャニが座っていてくれて助かった、と思った。だって今の身長差だと顔に手を伸ばすのも一苦労だ。

 日に焼けたシャニの額にすっと藍色に染まった指をあてる。

 

「何かあった時の為に、おまえにかけた分は解いておくから」

 

 うっ、とシャニが露骨に嫌がるのがまたおもしろい。ふふ、とルクレは笑った。

 まぁ嫌だろうなとは思う。たいして思い入れもない相手にまだ協力させられるとわかった上に、その相手が女なのだから。

 理由は聞いたことがないが、こいつはどうにも女というものがそんなに得意でないらしい。将来的に女なんて選り取り見取りになるというのに。ばかなやつ。

 

 ──そんな馬鹿なやつの親友でいたかったあの日の自分もまた、同じだけ愚かしかったのだろうか。

 

 解呪の紋をシャニの額に描きながら、ルクレはそんなことをぼんやりと考えていた。



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rech2-4

ぽかミスで1話抜いて投稿してました
すみません
rech2-3話が6月17日更新分です



重厚な木の扉を押し開くと、そこはすでに人の喧騒で溢れていた。

 

――失敗したか。

 

予想外の光景にルクレは少し眉をひそめた。ふわりと漂ってくるおいしそうなにおいもなんの慰めにもならない。

夕食時にはまだ少し早い時間だというのに、食堂はもう生徒と職員とでごった返していた。

年明け、進級が近いこの時期は春先のとある催しに向けて放課後を自主鍛錬に使っている生徒が多い。学院に二つ設けられた校庭のどちらにも人がひしめいている。

教師ももちろん指導の為にそこに付き添うので、夕方のうちなら食堂も空いている、とこれまでの経験からルクレは踏んでいたのだが。

そんな思惑なんて知らないように、食堂はすっかり人であふれていた。天井の高い大広間のあちこちで、話に花を咲かせながら食事をとっている者たちがいて、かと思えば窓際に群がって何やら外を熱心に見つめている集団もいた。確か食堂からは第二校庭の様子がよく見えたはずだが、いったい何を見ているのだろう。興味はあったが人ごみに近づくのはためらわれる。

そう、人ごみだ。

 

――これは、いったん自室にでも戻って時間を遅らせた方がよさそうかな。

 

対策をしているとはいえ、不特定多数の人間の前に出るのはあまり気が進まない。

左人差し指に嵌めた銀の指輪を、どこか祈るような気持ちで撫でた。

自分には相変わらず男子制服を着た美少女にしか見えていないが、指輪を触媒に発動させた魔法のおかげで、他人にはいつも通りのルクレティウス・リトグラト・リィの姿だと認識されている。それは今日一日をいつも通り過ごせたことで実証済みだ。

とはいえ、今の己が頼りない少女の肢体をしていることに変わりはない。何かがあればひとたまりもなく、抵抗することも難しい。

うん、一度部屋に帰ってもいいかもしれない。安全な道を選ぶことは、別に逃げではないわけだし。

そこまでルクレが思考を巡らせたところで、黒い髪を短く刈った少年がぱたぱたとこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。

見覚えのない顔だが、なつっこい笑顔を浮かべている。

高等部に所属していれば概ね顔と名前が一致するから中等部の生徒だろう。人と人の間をすいすいとすり抜けて、彼はルクレの前でぴたりと足を止めた。

 

「リトグラト先輩!こんばんは、お夕食でしょうか!」

 

まだ声変わり前らしいその声は、人ごみの中でもはっきりと聞こえる気力に満ちたものだった。はきはきとしたあいさつに内心で顔をしかめがら、ルクレはよそ行きの笑顔を向ける。

ちょうどいい、この少年から混雑の原因でも聞き出しておこう、という打算に満ちた笑みだ。なにせ情報収集は戦略の要なので。

 

「こんばんは。ああ、混む前に、と思ったんだけど……今日はなんだか人が多いね?」

「あはは。実は第二校庭にサスーシャ先輩が大穴を開けたみたいで……練習ができなさそうだって、皆さん早めに切り上げてらっしゃるみたいなんです」

「なるほど、それでか……」

 

つまり、今も大窓に群がっている生徒たちの話題はそれだったのだ。校庭の真ん中に大穴なんて開けば、それは気にならないわけがない。ひと騒ぎにもなるというものだ。

だいたいの事情はわかったが嫌な名前を聞いた、とルクレは胸の内で独り言ちる。サスーシャ先輩、というのはおそらく高等部2年のエウリア・サスーシャだろう。名字自体はありふれたものだが、そこそこに広い第二校庭が使用できない程度の大穴を開けられそうなのは、この学院で彼女くらいのものだ。

ルクレもエウリアと大して親交があったわけではないものの、彼女の膂力の凄まじさは骨身に沁みて知っている。

嫌な記憶を思い出しそうになったところで、ルクレはふと、目の前の少年が灰色の目をきらきらとさせてこちらを見つめていることに気が付いた。

 

「ん?どうしたのかな?」

「あの!自分、マトス・アウトスと言います!中等部2年です!よ、よければ自分にお手伝いさせてもらえませんか!?」

「てつだい……ああ!かまわないよ。頼めるかい」

 

どうやら少年、マトスが夕食の介添えをしてくれる、らしい。

渡りに船だ。と鷹揚に頷く。

この学院にはこういった雑事をやりたがる生徒がわりに多い。

貴族に対して点数を稼ぎたい、というよりはいずれ騎士団に入団したときのために、目上に対する気配りや態度を身に着けたいとかなんとかで。

ルクレには彼らの事情や心情はよくわからない。

と、いうより知ろうとしたことがなかった。リトグラトの子どもはたいてい将来は魔術士か薬師か、あるいは研究職につくので騎士とは縁がないのだ。

しかも日頃のルクレはそういう雑事をシャニにさせているので、他の生徒に世話をさせること自体が少ない。

ルクレとしてはあいつがどうしてもしたいというから好きにさせてやっているのだが、その当のシャニは今ちょうどいなかった。

ちょっと目を放した隙に、それこそ雑務でも頼まれたのか消えていたのだ。しかたない。そういう根性が文字通り骨の髄まで染みついているのだから。ばか。

 

「おまたせしました!あちらがいいかと思います!」

 

シャニの不在をルクレが軽く罵っているうちに、マトスは湯気の立つ木の盆を抱えて戻ってきた。人ごみをものともしない足取りはいっそ軽やかだ。そのまま、すっと空いている卓へエスコートしてくれる。

そこは、ルクレの心を読んだような席だった。

同席者がいないどころか、青々とした観葉植物の鉢が影をつくってくれている。周囲の目を気にせずに過ごせそうな、本当に今のルクレにおあつらえ向きの席だ。

うれしい驚きに思わず足を止めると、机に夕食の盆を置いたマトスが振り返った。

 

「昨日はお休みされてたって聞きましたので、ゆっくりお食事できるところがいいかな、と……」

 

つい先ほどまでのはきはきとした口調が嘘のようだ。照れたように少年の語尾は尻すぼみに消えていく。

なるほど、と心の中で頷いた。

ルクレが病み上がりだから、とわざわざ人の目のないところに案内してくれたのだ、この少年は。これこそ正しい気の使い方だ、と感心さえしてしまう。どこかの正義ばかも見習った方がいいくらい、気持ちのいい気配りだ。

 

「ああ、中等部にまで知られてるのかい?ちょっと体調を崩しただけなんだよ、自己管理がなってなくて恥ずかしい限りだ」

「っいえいえ!リトグラト先輩は、有名人ですから!と、とにかくご自愛ください!」

 

ぶんぶんと音が聞こえるほど首を振る少年はすなおでかわいらしい。こういう純粋に慕って敬意を見せてくれる年下はいいものだ。

 

「ありがとう、助かったよ」

 

マトスがひいてくれた椅子に腰かけて、ルクレもまた珍しく素直な気持ちで感謝の言葉を告げる。

いい気分だったので、ふふ、と微笑んでみせると少年のまろい頬がさっと朱を刷いたように赤くなった。

予想通りというか、ルクレにとっては見慣れた反応だが、純でかわいいな、と思う。

己の美貌は昔から同性をも惑わせた。一族がおしなべて美しいがために、百花の名を王から賜ったリトグラトの嫡子としては当たり前のことだ。むしろこの美貌に見惚れない方がおかしい。

どこかの朴念仁のようにルクレの美しいかんばせを平気で殴れる者はもっとおかしいが。む、と危ないところへ回り出しかけた思考回路を止める。これ以上はよくない。

 

「騎士として当然のことをしたまでです!では、自分は失礼します!ありがとうございました!」

 

ぺこりと頭を下げて、マトスはまた人ごみの中へ駆けていく。その背が人波に紛れるまで見送ってから、ルクレは夕食へと向き直った。

木製の盆の上に並べられたのは、焼きたてのパンに鶏肉のソテー。彩りの鮮やかな蒸し野菜の盛り合わせ。

それから、熱いくらいに温められたミルクスープ。

 

「――YelEriOn(イェレリオ)

 

短い食前の祈りを捧げ、ひとまずミルクスープを木匙ですくい、少し待つ。周囲の学生がしているように息を吹きかけて冷ませばいいのはわかっているが、叩き込まれたしつけがそれを許してはくれない。

たとえここが本邸から離れた土地であろうとも。

しかし、本当にいつ見てもおかしいくらいの湯気が立ち昇っている。

この国の人間は、食べ物と飲み物はとにかく暖かければ暖かいほどいいと思っている節がある。それもすぐには口をつけられないほど温めるのがもてなしだ、とまで。

理由は単純だ。

――この国の冬はとかく厳しく、そして長い。

エディリハリア王国の冬は周辺諸国に比べても長く、一年のおよそ半分弱を占めている。そうして、春も夏も秋もその分短い。

たとえば南方にあるナフト公国は冬に類する時期がなく、通年を通してこの国でいうところの春のような季節が続くのだという。だから、ナフトに避寒地を持っているエディリハリア貴族もいないわけではない。ただ、長い冬の度にあちらで過ごすには、物価が高いことを気にせずに済む財力と、長く国元を空けられるだけ身軽であることが条件になる。そのうえ冬の間、この国は雪がやむことがない。旅慣れた者でさえ、吹雪の中で遭難し命を落とすほどに降りしきる。他国に避寒に行ったとして、何かが起こってもそうそう国には戻れない、ということを鑑みると何処も現実的な避寒地にはなりえないのだ。

そのため、それほどに長い厳冬の季節を、自国でいかに心地よく快適に過ごすか、というのはエディリハリアの民にとってまさに心血を注ぐ命題だった。

その命題に対して、この学院はひとつの答えを示した、と言って過言ではないだろう。

手持ち無沙汰な間、ルクレは食堂の窓から外を、空を見上げた。夕暮れに染まった空との間を、緑がかった薄い覆いが隔てている。

――イルミトセの天蓋。

という名で知られる、高度な結界の魔法だ。

建国の三英雄のひとりでありリトグラト公爵家の初代である、ロゥク・ルゥ・リトグラトが作り上げた守護と停滞の結界。

外界からの攻撃への守りのための機構でもあると同時に、この内側の世界は一定の範囲内の温度と湿度を保つようになっている。

すぐ傍に雪深い山麓が連なっているこの土地でも、学院の中は少し冷える程度で済むというわけだ。

停滞、というひどく扱いづらい性質を環境のみに作用するよううまく編み込んでいるのだろう。父祖の織る術式は悔しいことに見た目に美しく、実用性もひどく高い。世界でも片手の指の数ほどしかいない大魔導師の称号を冠するにふさわしいひとだ。

ちなみにその当の父祖は、このイルミトセの天蓋という魔法をただ4533番とだけ呼んでいる。産み出した魔法と魔術のあまりの多さに名前をつけるのが面倒になっているのだろう。まったくうらやましい悩みだった。

――以上、現実逃避。終わり。

やっと唇に寄せても問題ないほどの温度になったミルクスープにおそるおそる口をつける。

口に含めばじわりと内側から体を温める滋味に、ルクレはふうう、と息をついた。食べるにややめんどうなだけで、美味しいことには美味しいのだ。

そうして次の一口を匙ですくいまた物思いにふけろうとしたところで、近づいてくる気配がひとつ。

聞きなれた足音に、ルクレは目線を皿からあげることなく口を開いた。

 

「同席していいなんて、僕ひとっことも言ってないよね」

「悪い、遅くなった」

 

シャニはルクレの対面に断りもなく座りながら、いけしゃあしゃあとそうのたまう。彼の前に置かれた夕食の量はルクレの三倍ほどもある。相変わらず無駄によく食べる男だ。

 

YelEriOn(イェレリオ)!、と食前の祈りを捧げる男のことをじとりと睨んだ。

遅くなった、なんて、まるでルクレがシャニのことを待っていたみたいだ。そんな事実はこれっぽちもないというのに!

 

「別にぃ?おまえのことなんか待ってないけど?」

「じゃあなんでわざわざスープから飲んでるんだ。いつもは最後に残してるだろ?ほら、その野菜とかもう冷めそうだぞ」

「っ!今日はたまたまそういう気分だっただけ!」

 

シャニの追求から逃れようと、慌ててスプーンを口に運ぶ。途端に舌を焼いたスープの熱さに、しまった、と思ってももう後の祭りだ。突き刺すような痛みにじわりと涙が浮かぶ。

 

「っづ!」

「おい、大丈夫か!?」

 

がたん、と椅子を蹴った音がした。涙で滲んだ視界ではよくわからないが、シャニが立ち上がったのだろう。

 

ひた……(痛い……)

「ほら、舌見せろ。……ああ、きれいにやけどしてる。お前、ただでさえ猫舌なんだから気をつけろよ」

ううひゃいなぁ(うるさいなぁ)

 

シャニに促されるまま、べ、と舌を突き出して見せる。空気に触れた傷口がひりひりと痛んだ。またじわと涙が浮かんでくる。

 

「これ、なんとかしないと飯も食えないな。医務室、は」

 

ルクレはふるふると首を振った。医務室には魔術医が常駐しているのだ。偽装は完璧だと自負しているが、万が一を考えればこんなことで危険を侵すわけにはいかない。

 

「……行けるわけないよな。はぁ、しかたないか。……わかってるとは思うが、俺はこういうのあんまり得意じゃないからな」

 

ひってう(知ってる)。シャニの言葉にこくりと頷く。

お前なぁ、とあきれたような言葉が降ってくるが気にしない。だって事実だからだ。

シャニは本当に、いつまでたっても魔術にどこか及び腰だった。

素質がまったくないわけでもないのに、自分には向いていないと嫌がってばかりで。

だから、渋々とはいえシャニがこうやって自分から魔術を使うことはわりと珍しい。少なくとも、この時期はまだ。

 

「――明けに干された慈愛の酒杯/破滅を(かざ)すは()けの星」

 

突き出したままのちいさな舌に、武骨な指がそっと触れた。

 

「嗚呼、枯れてくれるな、金の杯/溢れて零れる、ウルナの雫」

 

拙い詠唱と共に、舌に添えられたシャニの指先がすっと冷気を帯びる。そこから広がってくるひんやりとした冷たさが心地よくて、ルクレは思わず目を細めた。

痛みも熱も、冷えたシャニの指に吸い込まれたように消えていた。文句なしにきちんとした治癒魔術だ。教員が見ていれば成績に加点が入っていたかもしれない。

 

「どうだ?大丈夫、か?」

 

と、傷がふさがっているかを確かめるように、舌の表面をごつごつした指先が数度撫でた。そのなんとも言えない感覚にルクレの背筋、よりもっと下の方がぞわりと震える。

――ぞわり?

形容しがたい感覚を追いかけそうになって、慌ててやめる。

なんとなく嫌な予感がした。この感覚に深入りしてはいけない、と理性が声高に叫んでいる。

うん、よそう。警鐘を鳴らす理性に従って、ルクレは思考を止めた。とりあえず未だしつこく口内に残っていた指に嚙みついて。

かちん。

失敗した。あと一歩のところで危機を察知したのか、対象に逃げられてしまう。白い歯は虚しく空を噛んで高い音を立てた。

 



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rech3-1 ずっと冬ならよかったのに、ってそんなことばっかり思うんだ

 

 ちちちちち……。

 

 どこか、それもとても近いどこかから鳥のさえずる声が聞こえたような気がして、ルクレは小さく首を傾げた。

 

 鳥の声、なんてそう珍しいものではない。

 

 それが昼下がりの教室にいるときに聞こえたものでなかったなら、ルクレだって特に気にも留めたりしなかっただろう。

 

 さえずりがどこから聞こえているものか、ルクレは周囲をちらりと見渡した。

 

 けれど教室の中は、授業中だということを加味しても、やけに静かだ。

 数人がペンを走らせるかりかりという音と、魔導の歴史を語る静かな女性の声だけが響いている。

 その声の主が自信なさげに背を曲げていることに気づいて、ルクレは思わず苦い笑いを浮かべていた。

 黒いローブを纏ったその教師の背筋は、確か半年ほど前まではまだ、いくらかしゃんと伸びていたのに。

 

 そうなってしまうのも無理はないか。

 

 この教室の現状が、彼女の背を曲げるほどに自信を失わせてしまったのだろう。

 あちらこちらで生徒たちが居眠りに耽る、見慣れた/懐かしい惨状を前にルクレはそう心のうちで呟いていた。

 教卓に立つ女、魔導史学の教師であるミネア・セーニャは、決して生徒から人気がないわけではない。

 彼女は悪意から授業をボイコットされているのではないのだ。

 逆に、やわらかな灰色の髪に慈愛の宿った薄青の瞳を持つ女性、とあって生徒たちからもよく慕われていると言っていいだろう。

 魔術の腕だって立つ。特に電撃系の攻撃魔術はかなりの腕前だ。

 ただ、ミネアは日頃、あまりにもおっとりとして気弱すぎた。

 教員になってこれが一年目とまだ年若く、対応もどちらかというと甘い。

 そのせいで彼女は、とりつくろわずに言ってしまえば、生徒からやや舐められている節がある。

 しかも、担当科目も悪かった。

 これが実践魔術関連の担当教員なら、生徒たちが彼女の実力を垣間見る機会だっていくらだって訪れる。おどおどとした第一印象からは考えられないその苛烈さに、周囲の見る目もだいぶ変わったことだろう。

 けれど、ミネアの担当する魔導史学はその名の通り、実技要素もなく座学だけ。

 しかも一般教養系とあって、はっきりと言ってしまえば、生徒からの人気があまりない方の授業だ。

 

 教師として人としてのセーニャ先生のことは好きだが、それはそうとして目の前の睡眠欲求には抗いがたい。

というのが大多数の生徒の言い分だった。

 

 今日は特に昼食の後ということもあってか、睡魔と懸命に戦っている者やすでに負けた者の姿がいつもよりも目につく。

 訥々とこそはしていないものの、穏やかな彼女の語り口もまた、そこに追い打ちをかけてしまっていた。

 そんな惨状の中でもミネアの話を真面目に聞いている生徒がいないわけではないのだが、彼女の授業になるとどうにも睡魔に負ける生徒の数が目に見えて増える。

 ミネアもそれを自覚して、自信を失っているのだろう。

 

 まぁ授業態度が悪いのはルクレも同じことだ。

 起きているからまだマシに見えるが、わざわざ授業なんて聞かなくてももう十分知っているから、とこうしてよそごとばかり考えている。

 

 ちちち。

 

 また小鳥の楽しげに歌う声がする。

 鳥の姿はやはり教室の中には影も形もなかった。

 ならば、とルクレは窓の方へ目を向ける。

 

 ちちち。ちちちちち。

 

 ──いた。

 

 ガラスのすぐ向こう側。

 窓枠に留まった二羽の小鳥が、灰色の雲の間から差し込んだ冬の陽のひかりを浴びて楽しそうに歌っている。

 

 ああ、平和だ……。

 

 とルクレは心の中で思わずそうつぶやいていた。

 

 のどかな、実にのどかな昼下がりだった。

 以前の自分だったなら、こんな心和むような風景を前にしても皮肉の十や二十は出ていたことだろう。

 

 今は違う。

 平和であるということはいいことだ。

 ルクレは愚かしかったから失うまでわからなかったけれど、平穏な日常は何にも代えがたいものなのだ。

 

 750回目の繰り返しが始まって、今日でちょうど2週間。

 ありがたいことに大きな変化は今のところはなかった。

 もちろん目が覚めたら女になっていた、という異変はあまりにも大きい。2週間という時間がたってもこの体にはまだ慣れることができずにいる。

 が、幸いなことに、と言っていいのか、ルクレは繰り返しすぎた死に戻りのおかげで感情を鈍化させることには慣れっこだ。

 なんでもないことだと言い聞かせていればいつか本当になんでもないことになる、はずだ。

 なってくれないと困る。

 

 色々と直視したくないことが多すぎるせいで、実はルクレはまだお風呂に入ることもできていない。

 水浴びも無理だ。布で体を拭うことでさえもダメだった。

 服を脱いで生身の体に触れる、ということへの心理的障壁が現状あまりに高すぎるのだ。

 胸まで触っておいてなんだが、現状、胸なんかよりもずっと触りたくも見たくもないところがある。

 一か所。

どうしても、触ることも見ることもできない場所が。

 たぶん、心のどこかにこの現実をいまだ受け入れられない自分がいて、変わり果てた体を直視しないことで目の前の現実を拒絶したいのだ。

 あまりにも決定的なそこを見なければ触らなければ、なかったことにできないか、と未練たらしく拒んでいる。

 そして、そんな愚かな自分自身と壮絶な戦いを繰り広げた後に、なんとか薄目になって服を脱ぎ、いざこの体を隅々まで洗う、というところでいつもルクレの気力が尽きるのだった。

 代わりに、浄化の魔術を使うことで今はまだ事なきを得ている。風と光でもって体を清浄にきよめてくれる、という今のルクレにとってはまるで救世主のような魔術だ。

 まったく魔導バンザイ! と言うしかなかった。この魔術が使えなかったらどうなっていたことだろう。想像するだけでぞっとする。

 

 まぁ、それだって現実から目をそらしているのと同義だ。

 いつまでもこれを続けているわけにはいかない、とわかっているのだが。

 紅いペンを握った手にルクレは目を落とした。

 小さく細い手とその大きさに似合いの爪。

 何も塗っていないのに艶々とした桃色の爪にも、自分の手の小ささや握力の弱さにもどうにも慣れない。少し気を抜くと物を取り落としそうになることだってあった。

 

 慣れなければ、と頭では思う。

 

 慣れたくない、と心がわめく。

 

 だいたい何事に対してもそんな風に、ルクレはこの一週間を過ごしている。

 元の、男の身体に戻る方法はない、と、それを探して足掻いたりしない、と決めたのならいっそもうすっぱり諦めて慣れなければならないのに。

 ただ、諦めへの言い訳をするのなら、ルクレは学院が所蔵している書籍に関しては、その立場を悪用していわゆる禁書指定のものも読み尽しているのだ。

 なにせこれまで749回も人生を繰り返している。

 打開策を求めてなんだってやった。

 公爵家の嫡子なんてだいたいの我儘が通るおいしい立場、活用し倒すに決まっている。

 学院に収蔵された魔導に関わる書物の内容は、大抵この頭に叩き込んでいる。

その上で、道はない、と判断したのだ。

手がかりさえも、どこにもない、と。

 

 ……いっそ本邸に戻れば、何か手がかりが見つかるのかもしれない。世界中を見ても父祖の手元にしかないような、貴重な書物が実家には数多く保管されていることをルクレは知っている。

 がそうすると今度は、たかが数カ月の余命の為にそこまでして足掻くことに対して、あまりにも気が向かなかった。

 

 だって死ぬのだ。

 シャニに殺されてどうせ今回も短い人生が終わる、とわかっていてなお、リトグラト本邸という自身にとってのトラウマの巣窟に戻るだけの気力は、正直なところ今のルクレにはまったくない。

 まったく、これっぽっちも。

 こつん、とペン先でノートを小突いた。

 じわりと黒のインクが紙面に染みをつくる。

 まったく受け入れがたいことばかりだ。受け入れられない自分の弱さも嫌になる。

 ただ、それでもいくらかの救いはあった。

 幻影の魔法は今日も問題なく機能してくれている。

 おかげで今のところ、学生はもちろん、教員にも異変が知られた様子はない。

 日常生活でも、あの大穴以外に大きく変わったことは起こっていなかった。

 いや、第二校庭に開いた穴だってもしかしたらこれまでも起こっていたことだったのかもしれない。

 よくよく考えてみれば、繰り返しの二日目をあんな風にある種落ち着いた精神状態で迎えたことはなかったように思う。

 いつだって来たるあの日の死に怯えて、まるで追い立てられるような気分だったから。

 だから、ただ自分が気づいていなかっただけなのかもしれない。あんまりに余裕がなかったものだから、周りのことなんて気にかけていられなかっただけだったのかもしれない。

 すっかり元通りになった校庭を横目に眺めながらルクレはそんなことを思った。

 学院の外の空は降りしきる雪で灰色に濁っている。

 外はきっと骨の髄まで凍えるような寒さなのだろう。

 けれど、ここは結界の内側。

 ここにあるのは絶対の守護と、泥濘のような停滞だけ。

 命を奪うほどの吹雪もその苛烈さを奪われる。

 学院は、そこに吹く風はやや冷たくとも、今日もエディリハリアにはあり得ないような陽光の中にある。鳥たちがさえずり遊ぶほどに。

 ん、とこみ上げてきた大きなあくびを噛み締めた。垂れたまなじりに涙が浮かぶ。

 女の体になってからどうにも冷えに弱くなってきてよろしくない。

 筋肉が減ったせいだろうか。元から体温が低く寒さにあまり強くない性質のルクレからすると少し厄介な問題だった。ここのところ、布団に潜っても手足がやたらと冷えて、自然と眠りも浅くなる日々が続いていた。

 

 だから、春のぬくもりはひどく恋しい。

 

 けれど、春が来てほしいとは思えない。

 

 これまで繰り返してきたように今回もまた、穏やかで静かな冬の日々が続いていた。

 いつだってそうだ、春が来るまでは何も起こらない。

 春の半ば、新入生歓迎を兼ねたあの学院祭が開催される頃から運命は加速する。

 だからルクレはいつも思ってしまうのだ。

 

 ──春なんて来なければいい、冬がずっと続けばいいのに、と。

 

 長く厳しく、凍えるようなこの季節が続く限りは死なずに済むような気がした。気がするだけだとわかっている。

 春はゆっくりと、けれど確実に近づきつつあった。

 ルクレはもう一度、教室をくると見渡す。

 陽だまりの中ですやすや眠っている女生徒がいる。

 ミネアの授業に熱心に耳を傾けノートをとる男子生徒もいる。

 そうして、声こそか細く自信なさげに聞こえても、彼女なりに真摯に授業を続ける教師の姿がある。

 

 彼らは知らないのだ。誰一人として。

 

 この世界が、静かにけれどこうしている今も刻一刻と、確実な滅びへ向かっていることを。

 

 



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rech3-2

 

 

 

 

 ──世界は、滅びる。

 

 すべての文明は滅ぼされ、あらゆる命は根絶やしにされる。世界は闇に包まれて、海も地もどこもかしこも血の赤に染まるのだ。

 そんな不可避の終末が今、訪れようとしていた。

 

 それも、かつてこの世界を救った三英雄のひとり、百花の賢者の手によって。

 

 父祖ロゥク・ルゥ・リトグラトはまるで大樹のようなひとだ。穏やかに、ただそこにあって人の世を見守っているひと。遥か昔に何もかもを見捨てて聖域へと閉じこもった森の氏族の、その長の子でありながら世界を救うために立った三人の柱のひとり。

 生きるお伽話そのもの。

 

 彼は長い長いその生涯の中、人の世を愛し見守っているのだと誰もが思った。誰一人として想像さえしなかったことだろう。 そのひとの内側に何があるのか、なんて。

 

 魔王を殺し世界を救ったその賢者がまさか、世界を滅ぼすために魔王を蘇らせようとしている、なんて冗談にしても馬鹿馬鹿しい。

 

 そんな世迷い事を知人が言っていたら、誰だって笑いながら医者にかかるよう勧めるだろう。

 ──まさか、そんなわけがあるか、と。

 

 ルクレは笑えない。

 なぜなら、ルクレもまた、その目論見の片棒を担いでいたからだ。

 というか今現在も担いでいる。

 父祖に逆らうことなくこうして怠惰に生きているというのは、つまりそういうことに等しい。今こうしているうちにも父祖の計画は進行しているのだ。

 

 そうだ、ルクレは悪人で、罪人だった。

 死にたくないばっかりに、あるいは、自分の欲の為に、数えきれないだけの罪を犯してきた。

 

 1度目の人生で、ルクレは父祖に命じられるままに魔物を率いて人を殺している。何人も、何人も。顔見知りも女子供も老若男女の区別なく。

 たぶんきっと、誰かに命令されなくてもそうしていただろう。

 ルクレだって善悪の判別がつかないほど幼い子供ではない。

 あの日の自分はそれがどれだけ悪いことかわかっていて、それでもなお他人を踏みにじったのだ。

 しかもルクレはその後の繰り返しの中でさえ、似たようなことを何度もしてきた。 

 

 その罪悪を知っていてなお、救われたいがために。

 もしくはどうにかして繰り返しの人生から逃れられないか、と。

 

 だから、ルクレの罪は消えない。

 償ったところで、もう決して許されることはない。

 それだけのことをしてきたのだ。自覚はある。

 それも、己の私利私欲のためだけにだ。救えない。

 知りたくないことを前にすれば、耳も目も塞いで閉じ篭った。

 掲げたお題目なんて、別になんだってよかったのだ。

 ただ、自分を認めない世界なんていっそ壊れてしまえばいい、と思った。

 それだけのことだ。

 

 だから、父祖ロゥク・ルゥ・リトグラトが何を思って世界を滅ぼそうと思い至ったのか、ルクレは知らない。知らされていない。ルクレは父祖にとって所詮、使い勝手の悪い駒のひとつでしかないからだ。

 ……昔はその事実がどれだけだってつらかった。まるで、胸に鋭い刃物を突き立てられているように。お前は無価値なのだと言われているようで。

 今はそうでもない。つらくない、とぼんやり思えるくらいにはなった。自分なんかがそんなことを思ってはいけない、と考えられるようになったのだ。まぁ、死に戻りのし過ぎで摩耗してきているだけ、と言えなくもないが。

 ただ、そんな愚かなルクレにもわかることはある。

 

 父祖の計画は、決して一朝一夕にはじめられたものではない。 

 

 そうでなければおかしいのだということくらいは、わかる。

 だってルクレは、世界を滅ぼそうとしている敵のその筆頭たちに育てられた。

 魔王の遺した災厄たち、魔族の手によって。 

 

 ルクレの母親は彼を生んでから二年後に病で死んだ。その十年後に死んだ父も、父祖を恐れてか王城からほとんど帰ってこなかった。顔を合わせたことなんて本当に片手で数えるくらいしかない。そんな人だったから、葬儀のときも大して泣けやしなかった。

 そうして父祖は子育て、というか俗世のことに興味が薄いひとだ。研究以外のおよそあらゆることに向いていない。

 だから、ルクレは自然と使用人に育てられることになった。

 問題は、その本邸の使用人の半数が魔族であったということだった。人間の使用人もいないわけではない。が、彼らは彼らで父祖の信奉者で意思を捨てた操り人形でしかなく、本邸で明確に意思を持って過ごしているのは魔族たちくらいのものだったのだ。

 

 ──魔族。

 

 誰が彼らをそう呼び始めたのか、は歴史書にも記されていない。魔のものである、と自らそう名乗ったという説もあるらしい。

 実際、魔族についてわかっていることはそう多くない。

 

 彼らは死ぬことがない。

 彼らは人とは違う魔法を操る。

 彼らは何度でも蘇ることができる。

 彼らは闇から生まれ、光を憎む。

 彼らは、──およそいきものとして破綻している。

 

 ルクレが知っていることはそれくらいだ。その中には身に染みて思い知らされたことも多い。かれらの顔を思い出すだけで、ルクレの心は自然と冷えて強張った。あまりにも嫌な思い出が多すぎる。

 魔族は、基本的に彼ら以外の生命と共存しえない。

 彼らが望む世界は、それ以外の命にとって文字通りの地獄でしかないからだ。

 

 彼らにとって、吸いこむ空気は毒に汚染されていた方がいい。

 踏みしめる大地は悪意に蝕まれている方がいい。

 世界は暴力と憎悪とに支配されていた方がいい。

 

 魔族にとって命は軽いものだ。

 なぜなら、彼らは死なないから。

 たとえ死んでもまた闇の中から蘇ることができる。

 それもまったく同じ命として。

 

 そのせいもあってか、彼らは命を尊ばない。

 いや、魔族の方からすれば、死ねば二度と蘇ることのない他の命の方が理解できないのかもしれない。

 だから魔王の死後今日まで生き残った魔族の多くは、いまだに各地で暴虐の限りを尽くしている。

 魔物を引き連れ、周りの命を磨り潰し、憎悪を振りまく災害として。

 実は、学院に通う生徒のおよそ半数がいずれ騎士団やギルドに所属することを目指しているのだと言う。そしていつかその一員となって魔族や魔物と戦うために、日々学業に励んでいるのだ。

 すべては、嵐のような暴力から彼らの家族と故郷を守るために。

 

 それくらい、魔族はとかく恐れられる存在だ。

 けれどその魔族の中でも、それでもまだ、ルクレの世話役をしたものはいくらか他種族に理解がある方だった。

 公爵家に仕えている(という体をとっていた)魔族の多くがそうだったのだと思う。人のフリを続けられるだけの理性があるものだけがそこにはいた。

 そうでなければルクレも義妹も、この年まで無事に生きながらえることはできなかったはずだ。

 実際、何度か死にかけたことはあったが、それでもふたりとも五体満足に育てられはした、と言えるだろう。

 精神面はさておき。

 

 ただ、それは彼らの中に善性だとかそういうものが芽生えたから、なんて理由ではない。

 雇い主であり後見であるロゥク・ルゥがそう指示したからだ。

 だから、彼らは生来の悪性を抑え込んで耐え忍ぶように過ごしてきた。

 

 すべては彼らの王を蘇らせるために。

 

 かつて、魔王、と呼ばれた魔族の長によってこの世界は滅亡寸前まで追い詰められたのだという。

 彼、はただそこにあるだけで周囲を毒で汚染し、世界に悪意をばらまいた。

 魔王が巻き散らした憎悪は人の間でも不和の種を育て、魔族とだけでなく人間間での戦争をも引き起こしたらしい。

 あるいは、魔王の毒によって土地が汚染されたことで、酷い飢饉におそわれた地方もあった。あまりの飢えに耐えかねるように、同族を殺してその死体を食べたものまで出た、という伝承が残っている。

 本当に惨い、つらい話だ。

 

 そんな、殺しても殺しても蘇る魔族との戦争と人間同士の争いで人間は消耗戦を強いられ、頼みの綱だった妖精や森の民たちは魔族の穢れを厭ってか、聖域に、森の奥に張った結界の中に引きこもった。

 そうしてすべての希望が潰えたように思えたとき。

 

 その危機に立ち上がったのが三英雄だった、のだそうだ。

 

 業魔を祓う焔をその身に宿したともしびの勇者。

 変革の翼を持ったといううるわしの聖女。

 そうして、魔法に通じ勇者に剣を与えた叡智の賢者。

 

 彼らは悪意に犯された世界を巡っては魔族と戦い、次々に勝ち星をあげた。 

 

 ともしびの焔は業魔を祓う。

 

 あの焔は、闇から生まれ出でた悪意の塊である魔族にも、しんじつ不可逆の死を与える。

 ともしびの焔に灼かれれば、穢れたものはすべて浄められる。たった一握りの灰以外、世界に何も残らない。

 

 そうして三人の英雄は激闘の果てに、ついに魔王を打ち滅ぼしたのだ。

 

 と、建国神話には語られている。

 まったく感動的なお話でヘドが出そうだ、というのがルクレの率直な感想だった。

 あのおじいさまが世界を救ったというあたりが特に信じられない。

 まぁ、お伽話にしか残っていないような時代の話だ。ことの真偽を知っているのは、それこそ今となっては当事者であるロゥク・ルゥくらいのものだろう。

 そしてそのロゥク・ルゥは昔語りを好まない。まぁ、出来の悪い駒と無駄話をするような人ではない、とも言えるが。

 

 だから、ルクレにはわからないことばかりだった。

 

 かつて魔王を打ち倒し世界を救ったはずの父祖が、どうして魔王を蘇らせてまで世界を滅ぼそうとしているのか。

 かつて三英雄の手によって滅ぼされる寸前まで追い詰められた魔族たちが、どうしてその張本人の百花の賢者と手をとって雌伏の時を過ごしているのか。

 

 ルクレにはわからない。

 まあ、その理由も真相もどうでもいいことだ。

 どのみちルクレはあの夏の日に死ぬ。それから先のことなんて、自分には関係ない。   

 

 ただひとつ、確信を持って言えることがあるとするのなら。

 

 

 ──彼らの目論見は文字通り灰燼に帰すのだろうということだけだ。

 

 あの日、ルクレを灼いたあの橙色の焔は、きっと彼らをも灼き払う。

 それだけは本当に確信を持って言える。

 

 滅びは不可避で、世界は悪意に飲み込まれる。

 理性では、頭ではそうなるのだとわかっている。

 けれど、それでも。

 それでも、とルクレは思うのだ。

 

 だいたい、ともしびの焔を持つ者の登場はそもそも父祖の予想外のことだった。その存在を認識した途端、いつも樹木のように泰然としていたロゥク・ルゥが平静さを失ったのをよく覚えている。茫洋とした目が憎悪で揺れたことも。

 シャニは計画の外から場に出てきた、文字通りのワイルドカードなのだ。魔族、という父祖の隠し札を灼き尽くすともしびの焔。ロゥク・ルゥがその計画の妨げになる、と見なすほどの危険因子。

 いや、そうでなくっても、きっとあいつは成し遂げるだろう。

 なにせシャニの抱いた馬鹿みたいに不器用な正義は、どこか祈りにも似て真摯で、決して揺らぐことはない。

 

 だから、きっとシャニは世界を救うのだ。と思ってしまう。

 

 ルクレを殺して、魔族も父祖も、魔王をも倒し、そうしてその果てに、あのばかな正義漢は世界を救う。

 

 遥か昔に、ともしびの勇者がそうしたように。

 

 




 

更新が遅れまして申し訳ない限りです


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rech3-3

 

 ──からん。

 

 物思いにふけっていたルクレの意識をなにか、が転がっていく軽い音が破った。

 ころころという音と軽くなった手の感覚にルクレははっと我に返る。

 いけない。まだ授業中だ。

 ぱちぱちと数度まばたきをして、意識を思索の淵から現実へと連れ戻す。

 さっきまで万年筆をゆるく握っていたはずの手の中には、なにもない。慌てて机の上を見回すと、手から滑り落ちた真っ赤なそれはころりころりと机の角から、さらにその下へ床へと転がっていこうとしている。

 それを素知らぬ顔で捕まえてから、ルクレは横目で周囲の様子をうかがった。

 

 そうして、おや、と首を傾げる。

 教卓には先ほどまでいたはずの教師の姿はない。気持ちよさそうに机に突っ伏して眠っていた生徒たちも目を覚まして次の授業の準備を始めている。

 

 ルクレが嫌なことを思い返してしまっていた間に、どうやら授業は終わっていたらしい。

 

 ──ああ、またミネアの授業をまともに聞かずにこの日を過ごしてしまった。 

 

 背を丸めた女教師のことを思うと少しだけ後ろめたさが募った。けれど今さら授業のひとつやふたつ、とも思う。

 正直なところ、別に一回目の人生でだってまともに授業なんて受けていなかった。

 ルクレにとっては、もう知っている内容ばかりだったのだ。別にそうしていて試験に困ったこともない。学院の授業で学ぶようなことはたいていとっくに知っていて、応用だって簡単だ。

 それに、あのときのルクレは授業なんかよりもずっと、魔法の理論について考えていたかったのだ。

 けれどまあ、今回はせっかくのお休みの人生だった。

 ちょっとくらい授業というやつを真面目に受けてみてもいいかな、と自分でも珍しく、そう思っていたところだったのだ。

 実際この授業まではいちおうきちんとした態度で臨んでいたのに。

 授業の始まった時に開いてから一ページもめくられていない教科書も真っ白なノートも、なんだか見ていられなかった。

 ぱたんと閉じてそうそうに引き出しへとしまいこむ。

 まぁいつまでも引きずっているわけにもいかない。

 こんなささいなことなのだし。

 

 ルクレは視線は教卓に向けたまま、己の手の甲に人差し指の先を置いた。撫でるように、けれど一定の速度でそこに円を描いていく。 

 手遊び、兼気分転換のルーティンだった。

 ルクレは昔から何かの図具の補助がなくとも、こうして手遊びでだってきれいな正円を描けた。いくつもいくつも円を重ねても、線が歪んだり直径が変わったりすることはない。まったく同じ大きさの円を描いていられる。

 それは、一流の魔術師に必要とされる条件のひとつだった。

 むしろ、道具なしに正円が描けないなら魔術師になることは諦めた方がいい。とさえ言われることだってある。

 魔術師としての腕をいつ必要とされるかわからない。

 いつ何時でも自分の万全を発揮できないなら、それは所詮、二流三流に過ぎない、というのがここの副学長の言だった。

 ルクレもまた、そう思う。

 だから、自分は結局二流以下にもなれやしないのだ、とも。

 

 そんなことをつらつら考えながら小さな指で25個目の円を描き終えた頃には、すっかり気分も切り替わる。

 

 ──よし。

 

 うん、とひとつちいさく頷いてとりあえず、次の授業に使う教科書を取り出した。

 授業と授業の間の小休憩はそこそこに余裕がある。が、教室を出て何かすることは躊躇われた。

 この体になってからというのも体力も落ちたのか、何をするにも疲れやすくなった。気がする。

 気がするだけかもしれないが、とにかく無駄に動きたくないのだ。このまま机に突っ伏して寝てしまえたら楽だろうなと思ってしまうくらいには。

 もちろん、そんなことルクレはしない。公爵家の嫡子としての体面というものがあるのだ。

 

 仕方ない、本でも見つめて時間潰すか。こういうときのために、と自室の書棚から数冊の本を持ってきてある。それを取り出そうと引き出しに手を入れて。

 

「──レティ」

 

 廊下の方から聞きなれた声が、そいつだけがする呼び方でルクレを呼んだ。ぴたりと手を止めて声の方へ目を向ける。

 教室の扉のところに赤金色の髪をした男が立って、じっとこちらを見ていた。ふと目線が合う。かと思うと、すたすたと他人の教室の中に入ってきた。おい、おまえの教室は隣だろう。

 けれど足取りはまっすぐで迷いがない。ルクレの席まで一直線だ。

 なに? と首をかしげると、髪がさらさらと背中を流れてくすぐったい。結ったほうがいいかもしれない、とぼんやりと思う。男のときより長くてやや細いせいですぐこうして流れてしまうのだ。

 

「特になに、ってわけじゃないんだが。……レティ、()()()()()()()

 

 見下ろす朱い瞳には、こちらを気遣うような色がはっきりと浮かんでいる。

 あくまでも、()()()、色だ。

 勘違いするなよ。

 自分にそう言い聞かせてから、ルクレは問いかけに答えるために口を開いた。

 どうやらわざわざ術式の確認に来たらしい。正義の味方殿はまったく心配性なことでいらっしゃる。

 

「……まぁまぁ、かな? お前から見てどう見える?」

「いつも通り。……まあ、無理はするなよ。今日もはやく部屋に戻った方がいい」

「おまえが送ってってくれるなら、すぐにでも帰るよ」

 

 そう言ってふふ、と笑って見せる。この場合は聞き耳を立てている同級生に向けて、だ。周囲に気高くも気安い優等生だと見せかけるのは、もはやルクレにとって息を吸うくらい自然で当たり前の動作。たとえそうして点数を稼いだところで、それを利用できるような未来などないとわかっていてもやめられないほどに。

 

「そうか、わかった。じゃあ放課」

「る、ルクレティウスくん……! お話し中にごめんなさい!」

 

 震えた少女の声がふたりの間に割って入った。

 ぱっと目を上げるとクラスメイトの女子がひとり、席の近くにやってきていた。彼女の持つ薄茶色の髪色に青の瞳はエディリハリアの市井によく見る色だ。おそらく一般市民出の生徒だろう。緊張しているのか、かちこちに体が固まっている。

 

「わ、私、今日の授業でちょっとわからないところがあるんです! けど……」

「ああ、どうしたのかな? 僕でよければ、助けになれるかも」

 

 シャニを手で軽く制して、にこりと笑いかけた。花のような、とよく称されるルクレの微笑みに、強張っていた少女の頬が少し和らぐ。

 

「あの、すごい初歩的なことでごめんなさい。魔法と魔術の差異についてのことで……」

 

 ああ、今日はこれの日だったか。

()()は繰り返しの中でいつも起こる方のイベントだ。

 この彼女に放課後、ふたつの差異について教えてやる、というものだった。

 750回目ともなると死ぬまでの間によく起きることほどある種の日常になってしまって、細かいところがぼやけてしまいがちだ。

 よくないな、と自省する。

 ルクレが一般市民出の生徒からこうして頼られることは珍しいことではない。

 基本的に学院生活において、不正を許さず、立場の弱いものを庇護し、ととにかくノブレスオブリージュを体現するように励んでいたからだ。

 まさに民に望まれる貴族そのもの、というルクレの姿に学院中が騙されていたはずだ。公爵家、という貴族の中でもさらに上に立つものとして、一切の隙なく振舞っていた自信がある。

 ルクレの馬鹿みたいに高いプライドが、他人に隙を見せることを厭った、というのも多大にあったが。まぁだからといって何か評価が変わるわけではないのでいいだろう。

 しかも途中編入生であるシャニに対してもかなり気安く接していた(ように見せていた)から、面倒見がよく差別をしない、と思われているのだ。だから教員にさえ気兼ねしてしまうような生徒もこうしてルクレをよく頼る。

 そうされることが好きだったから、答えるのはいつだってやぶさかではない。

 他人にそうしてやれるだけ、余裕のある自分が好きだったのだ。単純に。

 ただ実を言うと、貴族階級の生徒の方がルクレを遠巻きにしがちだった。今だって遠くの方から、シャニと、ルクレに教えを乞う少女のことをありえないものを見るような目で見つめている。

 それもまた、無理のない話なのかもしれない。

 リトグラト公爵家の権勢は、その開祖の偉大さだけにとどまらない。なにせ4代目当主の頃に、当時の王から≪百花≫の名を賜っているのだ。それからというもの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と古い貴族にほどそう見られている節がある。

 つまり貴族の子どもには、気高く触れてはいけないはずのものだと思われているのだ。こればかりはルクレにもどうしようもない。彼らの家がそう教えているのだから。せいぜい彼らにも同じようにやさしく振舞ってやることくらいしかしてやれない。それが素直に受け取られるか受け取られないかは別として。

 

「わ、私、高等部からの編入なんです。基本的なこととか、あんまりわかってなくって……」

 

 そんな貴族たちの視線になんて気づかないまま、申し訳なさそうに少女は言葉を続ける。

 その姿に、いつかの誰かの影が重なった。

 同じような問いに、そういえば昔も答えたことがあった。

 繰り返しの中の昔ではなく、そのさらに前。

 ルクレが中等部の二年になってしばらく経った、夏の日に。

 この学院には、中途編入の制度がある。

 魔導の素養があるすべての子供に対して広く門戸を開く、という理念によるものなのだが、そうして入学してきた編入生のほとんどが一度はこの単位で躓くのだ。

 あの日のあいつも確か、そうしてそこに躓いてひどい点数をとっていたっけ。

 

「今の主流が魔術だっていうところは大丈夫そう?」

「はい、そこはとりあえず……! あと、魔術は汎用性が高くて魔法は専門性が高いってところも、いちおうは」

「そこまでわかってるなら上々かな。外だと魔導で一括りにされてるしね」

「そうなんです! 私も入学するまで全然わかってなくて、便利だなぁとしか思ってなかったから……」

「ああ、わかる。区別するなんて思いもしないよなぁ。俺も同じところでつまずいたことがあるからよくわかる」

「ですよねぇ! ただそういうものだって思ってたから……!」

 

 蚊帳の外になりかけていたシャニがすっと話題に入ってきた。時期は違えど、同じ市民の中途編入生同士。やはり悩みは共通のものだったらしい。

 

「その単元のことなら、確かにレティはいい教師だな」

「これ以外のことでだって、僕はお前を助けてやってるけど?」

「悪い悪い! それもそうだな。っと、レティ。少しいいか」

 

 気安い応酬のさなか、疑問符のつかない問いかけが飛んでくる。

 ルクレがそれに返事を返すより先に、すっと頬に手が伸ばされてきた。

 剣ダコの目立つ親指が、目の下に軽く当てられる。

 きゃっ、と近くで黄色い声が上がった。

 

「おい、気安く触るなよ?」

「悪いな、本当に大丈夫なのか気になったんだ」

 

 口ではこう言ったが、とりあえずシャニのしたいがままにさせておく。

 男に障られてもうれしくなんかなかったが、まぁ、対外的にこういうポーズをとらなければいけないだろう。主に隣にいる女生徒に対して。

 そう、これはルクレの株をあげるためにしかたなくやっていて、つまり許してやっているだけなのだ。

 近くにクラスメイトがいる状態で、まさか無理やりシャニの手を払いのけたりするわけにはいかない。そんなのはみんなの理想のルクレティウスくん、の姿から外れてしまう。

 ひとしきり瞼の血色を確かめた手が、今度は頬を撫でる。

 なるほど。血色と、それから体温でも確認したかったのだろう。

 されるがままになりながら、ルクレはひとりそう得心した。

 まだ生徒が大勢いる教室で、声を張り上げるわけにも目立った抵抗をするわけにはいかない。

 だから、これはしかたない、というやつで、決して頬に触れた手の暖かさが心地いいから、だなんてことではない。

 まるでシャニが自分を特別に心配してくれているみたいだから、なんてことではないのだ。

 

 だってルクレはそんな勘違いをしたりしない。呪文のように心のうちで繰り返す。

 そう決めたのだ。もう二度と勘違いなんてしないと。

 絶対に。

 



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Inter2 chapter.? ゆうしゃのつるぎ


interは本編外の、いわゆるおまけ要素です
読み飛ばしても問題ありません


 ■学院、教室(放課後)、中等部2年、夏

 

「──そもそもだけどシャニ、おまえさぁ……魔術と魔法の違いってよくわかってないでしょ」

「ああ、さっぱりわからん」

「言い切るな! はぁ……。だと思ったんだ、そうじゃなきゃこんな初歩的な間違いするもんか」

 

 対面の席に陣取った男が、はぁ、とわざとらしいため息をつく。

 そこ、他のやつの席だろ、と言いたくなったがやめた。

 放課後の教室には、俺とこいつの他にほとんど生徒の姿はない。

 席の持ち主はとっくに寮に帰ってしまっているだろうし、何よりこの男がそんな些細なことを気にするとは思えなかった。

 華のようだと称えられる繊細な美貌のわりに、こいつ、ルクレティウス・リトグラト・リィの精神は図太い。きっと荒縄よりも頑丈だ。

 

「おまえが馬鹿だと僕の品位まで落ちるんだ、しっかりしてもらわないと困るんだけど」

 

 はぁ~、とまたひとつ。

 今度は先ほどより少し長めのため息が落とされる。

 特に深く気にしたりはしない。ルクレはこういう風に何かと大げさにポーズを取りたがる男だ。ここ数か月の付き合いで、それを身に染みてわからされた。

 というか、途中編入生である俺には初め別の教育係がついてくれていたのだ。それをわざわざ自分が押しのけて代わった癖によく言ったものだとさえ思う。

 思うだけで言い返せはしない。ここまで言われるような点数をとってしまったのもまた俺なのだ。

 机に置かれた答案用紙には、情けないことに平均点をやや下回る点数が記されている。俺としては努力した方だったのだが、まぁ努力が必ず実を結ぶわけではない。そういう意味ではいい教訓になった。のかもしれない。

 

「主席の僕が何かと教えてあげてるんだからさぁ、もうちょっと座学にも身を入れてくれないかな? 魔導基礎くらい、せめて平均点はとってくれないと」

「あ、ああ。すまん……」

「ふん。ま、いいか。僕が教えてやるようになる前の単元だしね。でも、魔術と魔法の差異は本当に基本的な知識扱いされてるんだ。今後他の教科にも響くから覚えておけよ」

 

 こほん、と咳払いをしてルクレは姿勢を正した。その仕草に合わせてさらりと長い藍色の髪が揺れる。そういう動作のひとつひとつがやけに様になる男だ。薔薇のようだ、とかしましく囁く生徒の気持ちが少しわかった。確かに目を引く華やかさがある。

 けれど、艶やかなその髪はいったいどれだけの手入れの成果なのだろう。俺には皆目見当もつかない。

 そんな風にまったく別のことを考えている俺をおいて、ルクレのありがたい講座は始まる。

 

「魔術も魔法も、どちらも魔導に属するものだ。だから優秀な魔術士や魔法使は魔導師の称号を冠する。ここの学長とかもそうだね。まぁあの人はどちらかというと研究畑の人で、教育にはそんなに向いてないんだけど……。で、その上にいるのが大魔導師で、これは一国にひとりもいればいいほうなんだ。そして! このエディリハリアにおける大魔導師は」

「──おまえのおじいさま、だろ?」

「それは覚えてたの」

「誰かさんに、それこそ耳にタコができるほど聞かされたからな」

 

 だいたいこいつの言うおじいさま、ロゥク・ルゥ・リトグラトはそもそも名前と功績くらいは子供に聞いても知っているくらいの有名人だ。

 百花の賢者。

 それはかつて、世界に魔王が現れ滅びの災厄に襲われた日々の中、ともしびの勇者と翼の聖女と共に立ち上がり、人を救った三人の英雄のひとり。

 俺にとってはある種あこがれの人だと言ってもいい。

 

「ま、いいや。それはそうとして、魔術も魔法もどちらも陣や式によって発動するものってわけ。でも、決定的に違うことがある」

 

 はらり。二枚の紙が目の前に広げて置かれた。

 そこに藍色のインクで描かれたふたつの陣は、どちらも俺の目には緻密で高度なものに見える。

 

「これ見てさ、おまえ、どっちが魔術の陣だと思った?」

「わからん」

「ちょっとは考えろ、馬鹿。はぁ……。魔術はきちんと規則が決められててその通りに組み立てられる──陣で言うなら、ふたつの円で構成されること、円は正円であること、とかだね。どの円に何を記述するかも決まってるんだけど、まぁそれは今回はいいか」

 

 すらりとした白い指が紙に描かれた正円をなぞっていく。

 俺のそれみたいに傷だったり剣ダコだったりのない綺麗な指だ。

 ただ俺はその代わり、そのうつくしく見える指にうっすらとペンだこがあることを知っている。もう癖になってしまって魔術で癒しても治りきらないのだろう。こいつもまた勉強という分野で、それだけ努力を重ねているのだ。

 本人はみっともないと思っているのか、しきりに隠したがっているが、そういうところは尊敬できなくもない。と思う。山麓より高いプライドと高慢さの滲むその性格は、素直に擁護できたものではないとしても。

 

「逆にね、魔法の陣はそのあたりの規則性はない、皆無。幾つもの詞を組み合わせて最終的に円形になったら上々、みたいな感じかな。実際、円形じゃない陣も多いってわけ。……ま、そうやって見ればわかりやすいだろ」

「ああ、じゃあこっちが魔術陣か」

 

 俺が綺麗な正円がふたつ重なっている方を指さすと、ルクレは満足げに頷いた。

 

「そう。まぁ、例外として魔術に近い記述をしてるように見える魔法陣もあるんだけど。でもそんな引っ掛け問題に出るようなのは決まってるから、基本を覚えた後についでで頭に入れとけばいいんじゃない? ……言っとくけど、こんなこと中等部の一年でさえわかってるんだからな」

「仕方ないだろ、途中編入生なんだぞ」

「はいはい。──で、もっと基本的なこと。簡単に言うなら、魔術は新しいもので魔法は旧いものなんだ。魔術は人の手によって近年発展した技術で、魔法は世界を動かす祈り、なんだけど……言ってしまえば、魔法は使える人や状況が限られる。制約が何かと多いんだよね」

「制約?」

「そう。ま、これもいったん見せた方が早いか」

 

 訝しげな俺の前で2枚の紙がくるくるとしまわれて、代わりに新しい紙が広げられる。

 先ほどまでより大きな紙いっぱいに描かれていたのは、先ほどの話からすると魔法陣。それは随分と古い詞が書き連ねられた陣だった。

 それくらいは俺にもわかったが、そうしたって見たこともない記述法だ。

 指先で陣を縁取る言葉を1文字ずつなぞっていく。

 

「み、とぐ、ら、ミトグラスの……ミトグラスの剣!? おいまさかこれ、ともしびの勇者の!?」

 

 それはまさしくお伽噺の中のもの。勇者が魔王に突き立てたという焔の剣。

 驚きで思わず声が震えた。

 そもそも存在していることでさえ、ろくに信じられないような代物だった。他の誰かが見せたものならきっと疑っていたことだろう。

 けれど、この男はその剣を勇者に与えたという英雄の子孫なのだ。

 もしかしたら。

 俺はごくりと唾を飲み込んでいた。

 

「そうさ、これは僕がおじいさまの持ってる文献をもとに再現したものでね。理論上はこの陣の記述法で発動するんだ。──≪勇者の剣≫が、ね」

 

 それは、蔓草が絡み合ったような不思議な陣だった。緻密な文字で編まれて、それこそ織物のようだ。これだけみっちりと書き込むのにどれほどの時間を要するのだろう。俺には想像さえ出来ない世界だ。

 

「まぁ見てなよ」

 

 おほん、ともったいつけたような咳払いがひとつ。

 ルクレは、集中力を研ぎ澄ますようにその青い目を伏せて、陣にそっと掌をあてる。俺はその様子を固唾をのんで見守っていた。

 

「──みあかしあかし、世界に灯し/(たきぎ)はわたし、この身をくべる

 此岸彼岸(しがんひがん)の別なく焦がす/火継ぎをここに── 

 

 かくして世界は燃え尽きる

 ──ミトグラスの剣」

 

 

 

 歌うような詠唱に合わせてふわりと陣が蒼白くひかって

 

 

 

 ──瞬いて、消えた。

 は? 思わず首をかしげる。

 確かに一瞬、陣に大きな魔力が流れこんで、逆巻いて。

 けれど、何も起こらなかった。文字通り灯火のひとつさえも灯らない。

 

「ははっ、発動すると思ったのかよ。馬鹿だなぁ、あのともしびの勇者の剣なんだから、術者の魔力にともしびの性質がなかったら発動しないに決まってるだろ? ──つまりはそういうことなんだよ」

 

 虚を突かれた顔をしている俺をルクレがわらう。心底面白そうな笑い声だった。そうしてひとしきり笑い転げて、ルクレはやっと説明を続ける。

 

「魔法は魔術ほど自由には使えない。魔力の量もそうだけどその性質だったり、ものによっては術者の種族や性別にまで左右されることもある。どれだけ緻密に理論を構築しても、精緻な陣を描いても、その制約が満たされなければなんにも起こらない。逆に陣も理論もぼろぼろでも、素養がある者が念じて詠えば世界は動くのさ。だから、魔法は奇蹟で魔術は技術なんだ」

 

 ──世界には、魔術と魔法。

 

 失われつつあるかつての奇蹟と、生み出されていく新たな技術。

 

 総じて魔導と呼ばれてはいるものの、それらは決して同じものではない。

 

 授業で何度か耳にした言葉がすっと頭に染み込んだ。

 どうして魔術と魔法とが分かたれているのか、ずっとよくわからないでいた。正直に言えば、どちらも大して変わらないんじゃないかとさえ思っていた。

 けれど。

 俺はそのとき始めてやっと、魔導というものをやっと少しだけ理解したような気がした。

 

 






シャニがルクレのことをレティと呼び始めたのはこの年の冬のことです


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rech3-4

 

 やや橙が滲み始めた夕方の陽光が、真っ白な廊下へと差し込んでくる。

 それがまるで、──そうまるであの最期の日の景色のように見えて、ルクレは思わず顔をしかめた。

 馬鹿馬鹿しい、終わりの日はまだまだ遠い。

 だいたい、あの日の夕焼けはもっと色濃くて、それこそ燃え盛る焔のようだった。

 そうしてルクレはひとりきり、深い深い闇の中であいつを待つ。瘴気と憎悪にじりじり、じりじりと蝕まれながら。

 そこまで考えたところで、ふるりと小さく頭を振った。こみ上げてきた何かに蓋をするように数度、瞬きをして、視線をぐっと前に引き戻す。

 

 静けさに包まれた廊下に、かつかつ、こつこつと二人分の足音が響いている。

 

 

 

 クラスメイトからの頼み事を快諾した後、思いのほか話に花が咲いてしまったこともあってか、シャニはぎりぎりまでこちらの教室に居座っていた。結局、かんこんと鳴り響いた予鈴に急き立てられるようにして自分のクラスへと戻っていく羽目になったのだから笑わせる。

 ばかめ、時計を見て行動しないからだ。

 ただ、慌てて駆けていくシャニの後ろ姿は本当に見ものだった。おかげでルクレは、比較的愉快な気分で次からの授業を受けることができたのだ。

 そうしてその愉快な気分はたっぷり放課後の約束までは持続した。そう、魔導と魔術の違いについてきちんと教えてやったのだ。なにせもう何度も何度も繰り返していることで、少女の飲み込みが早かったこともあり、要所要所をしっかり抑えつつもかなりスムーズに教えることができた。と、我ながら思う。

 繊細なルクレにしては珍しく、あまりストレスを感じないひとときだった。

 ただ、様子を見ていた他の生徒まで質問してきて、ちょっとした勉強会じみたものになったのは予想外だったが……それもまぁいい。かまうまい。

 教員がちょうど何人か外出しているとかで、彼らも聞く宛に困っていたのだろう。春の大会に向けて各々準備をしているところだからか、この時期はどの生徒も質問ばかり抱えている。教師の前に休み時間や放課後、長蛇の列ができることも珍しくない。

 授業の内容について、しかも初歩的なことなんかを聞くにはかなり肩身の狭い時期だ。

 しかもこの学院にはそんなに教職員が多くない。というか、魔術師の教師がそう多くないと聞く。ルクレが思うに、魔術師はあんまり教職者に向かないのだろう。

 言ってしまえば、やや社会不適合、というかなんというか。

 

 ただ。

 本当の予想外は、自室に戻ろうとしたルクレを迎えに来た人間だった。

 彼女のおかげでせっかくの上機嫌が台無しだ。

 少し後ろを歩く少女を横目に捉えて、ルクレは無意識のうちにひとさし指を擦る。そこにある、うっすらとした胼胝の凹凸を執拗に、何度も何度も。

 そんなルクレの癖など知らぬように、少女はおどおどと後をついてくる。

 

 艶やかな灰色に鮮やかな青の差し色が入った、真っ直ぐな髪。

 ついこの前切ったばかりだからか、肩に届くくらいの長さで揺れている。

 伏せられてばかりいる、水色と藍色が混じった大きな瞳。

 整ってはいるものの、どこか気弱そうな顔。

 そして何より目を引く、白い制服の下でたゆたゆと揺れる豊かな胸。

 ──ニアースティニア・リトグラト・レゥ。

 ニア。他称、リトグラト公爵家の気弱な方。

 ルクレの不肖の、義理の妹。

 あるいは──王太子の元娘。

 

 しかしいつ見ても本当に大きな胸だった。あそこまで豊満だといっそ神聖ささえ感じる、とのたまっていたのは誰だったか。

 さらしの下の己のそれと一瞬比べて、ルクレは思わず苦虫を噛み潰したかのような顔になってしまった。あんな凶器、よくぶらさげて歩けるものだ。以前にもまして、しみじみとそう思う。己のあのサイズでさえ、さらしで潰していないと揺れるのが痛くて不快だったのに。

 ──義妹。

 そういう関係を10年ほどやっている少女は、今も自分の1歩ほど後ろを、少し視線を伏せびくびくと何かに怯えるように歩いている。少女のことを見ていると、いつだって沸々と湧き上がるものがあった。

 ルクレはこの義妹が嫌いだった。本当にだいっきらいだった。

 そしてニアもまた、おそらくルクレのことを嫌っている。

 嫌われて厭われて、憎まれたって当然のことばかりしてきたから。

 そんな彼女が今ここで何をしているかというと、ちょっと目を離したすきにまた何やら面倒事に巻き込まれたシャニの代わりに、ルクレを寮に送り届けに来た。らしい。

 何を言われたのかは知らないがこいつも詳細をよくわからないまま、嫌いな相手の前によくもまあのこのこ出てくるものだ。

 いくら大好きな男に言われたからといって否やと言えないのだろうか。

 いや、言えないのかもしれない。

 恋は盲目だと誰もかれもが話している。恋だ愛だと、そんな不確定で馬鹿馬鹿しいもの、ルクレにはよくわからない。わからないけれど、その素晴らしさを語る人間の宗教染みた熱っぽさを思うと確かに盲目にもなるのだろう。

 理解はできなくとも納得はできる。加えて言えばニアはちょうど『お年頃』なのだ。恋に恋する年頃の熱意をもってすれば、嫌いな相手であっても苦にならない。のかも、しれない。

 と、ルクレは足を止めた。

 1歩2歩とはいえ先を行っていた義兄が止まったのに合わせて、ニアの歩みも止まる。

 ──うん、このあたりがちょうどいいだろう。

 男子寮まではあと5分も歩けば着く。今更だが、どちらの寮も校内にあるのだ。送り届けるも何もない。

 

「おい、ここまででいいぞ」

「え、でも男子寮まではまだありますよね……?」

「はぁ? お前、まさか寮の中までついてくるつもりなの? ばっかじゃない?」

 

 このか弱そうな少女をまかり間違っても、獣のはびこる男子寮まで連れていくわけにもいかない。かといって男子である自分が、今の体は女のそれだが一度考えないとして、女子寮にあまり近づくわけにはいかない。常識的に考えておかしいだろう。

 つまり、彼女の「ルクレを寮まで送り届ける」という使命は最初から破綻しているのだ。

 

「中までなんて言いません……! でも、せめて寮の入り口までは……」

 

 ルクレの言うことには基本的に是と返すニアが、今日ばかりは珍しく食い下がる。

 そんなにシャニが好きなの、おまえ。

 嫌味たっぷりにそう返そうとした瞬間。

 

 がしゃん、と後ろの方で何かが割れる音がした。

 音につられたように、ふたりして先ほど来た道を振り返る。

 割れるようなものがなにかあっただろうか。

 橙に染まった廊下に、ガラスが飛び散っている。

 その真ん中に黒い影がうずくまっていた。

 小さな犬くらいの大きさの。

 ──は? 

 思考がぴしりと硬直した。犬だというには、足が多すぎる。9本以上ある足をまるででたらめに動かしながら体勢を立て直そうとしているその姿は、まるで。

 

「……っ、RiTEd(イティエダ)!」

 

 じわりと空気を侵す毒の気配に、ルクレは短い詠唱を吐き捨てる。

 指輪が白いきらめきをまとい、同色の光をそれに向かって撃ち放った。白く光る杭が突き刺さった瞬間、聞き苦しい絶叫があたりに響き渡った。

 

「なんで、魔物が学院内に……!?」

 

 思わずあげた疑問の声にこたえなんてあるわけもなく。

 とりあえず、力尽きた魔物を燃やしておく。この程度のサイズで、学院内ならルクレにだって対処ができる。ついでに浄化の魔術で瘴気ごと燃えカスをそそいで、魔物がこの場に蘇らないようとりあえず、の処理をしておいた。

 ニアは、と横を見ればへなへなと座り込んでいる。攻撃魔術が使えないのだからいっそ逃げてくれればいいのだが、それも高望みかもしれない。悲しいことにそんな逞しい精神構造をしていないのだ、この女は。

 

「おい、怪我は? おまえに何かあったら僕がノストに仕置かれるんだけど」

「あ、ありません。兄さまは」

「ない。おまえが僕を心配するな。というか、そうだ! ルチウス、ルチウスはどうした? 腐ってもあいつ、おまえの護衛だろうが」

「ルチウスは、今朝あの、本邸に。夜には帰ると聞いてるんですが」

「はん。使えない護衛だな、まったく」

 

 本来であれば、義妹に日頃影に日向にとついている護衛の女に任せておけた事故だ。それをこの後、自分が教員に事案発生の報告をして、原因調査を手伝って、と思うと頭も痛くなるというものだった。

 どうして今回はこうも今までにないようなことばかり起こるのだろう。

 人の目が他にないのをいいことに音高く舌打ちをして、思い切り顔をしかめる。ストレス発散だ。ニアの前で外面を取り繕うような必要はない。彼女にはもっと酷いところだって見られてきたし、ルクレもまたニアの醜態なんてもう数えきれないほど見ている。あまりにも今さらにすぎた。

 こんなところに長居する気にもなれなかったが、とにかくニアが立ち上がるのを待ってやった。手を貸すまでのやさしさをくれてやろうとは思わない。ひとりで立ち上がれなければいずれ死ぬ。というのがリトグラト公爵家で生き抜くふたりにとっての不文律だ。

 

「──先輩! 何かあったんですか!? 大きな音がしたので……」

 

 と、ぱたぱたと、何人かの人が駆けてくる音がした。ぱっと目を向けると生徒が数人、こちらへと向かってくるのが見える。体格からして中等部の生徒だろう。よくよく見れば先だって食堂で出会ったマトスとかいう少年もいる。

 音がしたので、じゃない。馬鹿! 

 とは、さすがに言わなかった。

 というより、言っている暇などなかったという方が正しいかもしれない。

 魔物が割ったガラス窓から、さらに何かが飛び込んでくる。

 黒々とした、先ほどのそれよりもずっとずっと大きな影。背筋を震わせるようなおぞましい気配をまとったそれが、人型である、とかろうじて認識して。

 

「──RiTEd(イティエダ)!!」

 

 その瞬間、ルクレは反射的にそう叫んでいた。

 短縮言語で紡いだ詠唱に、左手の指輪が呼応して白く瞬く。

 こめかみが一瞬つきりと痛んだのほぼ同時。

 廊下に着地した黒い塊に、真っ白に発光する魔力の杭が突き刺さる。

 

「────────!!!!!!!!!!」

 

 空気を震わす絶叫は、人の耳では理解不能な言葉だった。地に伏せたそれの傷口からは血の一滴も流れ出てはいない。ただ黒々とした闇だけがあたりにあふれていく。

 人によく似たかたちをしているようで、けれどそれはどこからどう見てものっぺりとした深い闇の塊にしか見えなかった。ついで、頭頂部からはねじくれた2本の角が生えている。

 ──間違いない。高位のものではないにしろ、魔族だ。

 念のために、とあらかじめ指輪に攻勢魔術を仕込んでおいてよかった。本当に! 

 過去の自分の慧眼をほめたたえたい気持ちでいっぱいになりながら、下級生に向きなおる。結界に守られたはずの学院内にどうして魔族がいるのか、なんて考えている暇はない。今はこれをなんとかしなければならない。

 廊下に縫い付けられた魔族は低い唸り声をあげながらじたばたともがいている。

 

「り、リトグラト先輩……?」

「少し黙っててくれ。──RiTEd(イティエダ)!」

 

 念には念を入れてもう一本拘束代わりの杭を増やしておく。

 といってもルクレだって魔族との交戦経験なんてものはろくにない。これでどれだけ動きを止めていられるかはわからなかった。が、ともかく数分は稼げただろう。ほんのわずかな時間だが。

 

「……ニア。彼らを連れて、退きなさい」

「兄さま!? ま、待ってくださ」

「早く。時間がありません」

 

 それでも、この足手まといたちを逃がすくらいの時間はできたはずだ。

 彼らを庇いながらではろくに戦えない。

 魔族相手に下級生を戦わせてもけがをするか、下手をすれば死ぬだけだ。高等部の生徒ならまだしも、中等部の彼らはまだあまりにも幼く未熟すぎる。

 この中で唯一まだ魔導に長けていると言えるニアは、戦力に数えられない。攻撃魔術が使えないということももちろん一因だが、なにより万が一、億が一でも彼女の体に傷でもつければ父祖の不興を買うことになるからだ。

 そうなれば最悪の人生が始まることになる。

 それだけは何としても、本当になんとしても避けたい。

 だから、逃がした方がずっと心置きなく戦える。

 どのみち、自分がここで死ぬなんてことは起こり得ないのだ。

 

「ほら、はやく。君たちがここにいても怪我をするだけですよ」

 

 なるべくゆっくりとした口調でそう告げる。もちろん、余裕があるように見せかけるために、だ。

 本当は余裕なんてもの欠片もない。けれど、そんな気配を滲ませれば、この子たちも退けないだろう。

 

「っ、せんせい! どなたか先生を、人を呼んできます!」

 

 こちらの意図を察してくれたのか、マトスがそう叫んだ。

 行こう! と声をあげた黒髪の少年に背を叩かれたように、生徒たちが散っていく。ニアは、と見ればなんとか立ち上がって、マトスともうひとり、中等部の女子生徒に支えられるようにして逃げていくところだった。

 

「……感謝する!」

 

 不肖の義妹まで気にかけてくれた少年に謝辞を述べてから、魔族の方へと向き直る。

 

 橙色に燃え上がった廊下に、ルクレはひとりだった。

 

 マトスはああ言ってくれたが、自分は悪党だから、きっと助けは来ない。

 ぴしり、と杭が軋む音がする。

 頼れるのは自分だけ。

 

 いつだって、そうだった。

 



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rech3-5

 

 今の自分が女の身であることを、今日ほど呪った日はないかもしれない。

 

 そんなことを酸欠気味の頭でぼんやりと思う。

 魔族をあの場から引き離すため、ルクレは人気のなさそうな方へ人気のなさそうな方へと必死に駆けていた。

 魔力の杭で二度も貫いてやったのが効いたのか、敵はうまい具合に他の生徒には目もくれず、ルクレを追ってきてくれている。

 ……きてくれている、はずだ。

 ちらと背後に目を向けた。やや引き離した後方に、黒い影がひとつ。

 そのことに少しだけ安堵した。化け物に追われていることに安心するなんて、きっと後にも先にも今日限りだ。

 真っ黒な人型が四つん這いに近い体勢で追いかけてくるのは、はっきり言っておぞましいの一言に尽きる。

 頭部にあたるだろう部位にぎょろぎょろと動く一つ目の、品のないオレンジに光る瞳孔が己の姿を捉えているのを確認してから視線を前方へと戻した。ヘイトはまだ十分稼げているようで何よりだ。

 

 ──もう少し引き離さなければならない、かな。

 

 なにせこのままでは寮に、特に女子寮に近すぎる。この時間帯に寮に戻ってきている生徒の大半は自衛手段に乏しい中等部の生徒だ。万が一にも彼らを巻き込むわけにはいかなかった。

 

 強いものは弱いものを守ってやらなければならない。

 持てるものは、持たざるものを助けてやらなければならない。

 助けられ守られるのは、持たざるものだ。

 

 なら、ルクレはいつだって持てるものでありたかった。誰かに助けられるなんて見下されることとほとんど同義だ。少なくともルクレにとってはそうだった。

 そんなこと、山よりも高いプライドがゆるせない。

 だから、いつだって誰より貴族らしい貴族としてふるまいたかった。持てるものとして、社会に対しての義務と責任を果たし、持たざるものに手を差し伸べる。

 そうでない自分を、きっとルクレはゆるせない。

 たとえ、そのせいで今、自分が死にかけているのだとしても。

 先ほどからみっともなく開いたままの口から、せいせいと荒い喘鳴が漏れる。

 それでも足を止めない。

 一度でも完全に立ち止まれば、たぶん再び走り出すことは難しい。酸欠気味の脳がそう叫んでいる。

 全力で走って初めて知った。

 自分がこんなにも足が遅くなっていて、体力もなくなっていることを。

 ルクレはもともと決して肉体派ではなかった。

 外で遊びまわったり汗をかくよりはずっと部屋の中で大人しく本でも読んでいるほうがずっと好きだ。たぶん、貴族に生まれていなくてもそうだっただろう。

 それでも、運動は他人よりできる方だという自負があった。

 それほど努力しなくとも、走れば学年で十位以内には入ったし、乗馬だってなんだってすぐにできるようになった。

 だからルクレは運動神経にも自信があったのだ。魔導研究には体力があった方がいい、と教員から聞いてからは体力作りだってこっそりやっていた。

 それが、今ではこのざまだ。

 少し走っただけでぜいぜいとみっともなく息が切れる。酷使されて悲鳴を上げる足の裏はだんだんと感覚が薄くなり、まっすぐ走ることさえ難しい。

 しかも、包帯で胸を押さえつけているせいか、ひどく呼吸が苦しかった。

 

 ──クソ! 

 

 心の中で悪態をつく。言葉に出す余裕はない。そんなことに酸素を回したら最悪その場で倒れかねない。

 けれど、足を止めるわけにはいかなかった。弱いものを守るという、貴族としての勤めを果たさなければならないから。

 

 そして、それ以上に。

 ……死にたくなかったから。

 あんなにも死にたいと、もう終わりにしたいとそう思っていたはずなのに、こうやって実際にそれが近づくと必死で生にしがみつく。

 生きる理由なんてほとんど持っていなくて、死ぬ理由ならいくらだってあるのに。

 なのに。

 思索を切り裂くように、びゅう、と風を切る何かの音がした。

 それも、すぐ近くで。ついで、つい今さっき通り過ぎた床が、がりがりと音を立てて化け物の爪にえぐられるのが目の端に見えた。

 まずい。

 こんなにも必死に走っているのに、彼我の距離は詰まるばかりだ。四つん這いの魔族の動きは緩慢なようにさえ見えるのに。

 迫りくる死の匂いを間近に感じながら、それでも足を止めなかったのは意地だった。

 それから、それこそプライドか。

 あるいは、自分の魔術に対しての自負だった。

 今度こそルクレの矮躯を引き裂くために振るわれたその爪牙は、けれど目に見えない壁に阻まれて獲物にまで届かない。ぎちり、と硬度の高い何かが軋む音がする。

 窓から差し込む落ちかけの陽光が、振りかざされた爪とルクレとの間に透けるような薄青の障壁を照らした。

 自動発動の防御魔術だ。薄っぺらな見た目とは裏腹に、一度や二度ならだいたいの攻撃を防ぐことができる。文字通りの虎の子だった。

 予想だにしていなかった障害に、戸惑うように魔族がその巨躯を揺らす。

 一瞬。

 ほんの僅か、けれど確かに生まれた隙に「RiTEdっ!」振り返りながら叫ぶ。

 生み出された魔術の杭がそれの足を貫いて、またぼろぼろの床に繋ぎとめた。

 

 咆哮。

 

 大きく開かれた魔族の顎からだらりと闇色の体液が零れ落ちる。その場に崩れ落ちうずくまるようにして、それの動きが止まった。

 ぜぇぜぇと肩で息をつく。ただでさえ疲労困憊だというのに立て続けに2回魔術を行使したのだ。もちろん魔力は枯渇しかけているが、体力だって限界に近い。

 それでも、休みたくなる気持ちをなんとか抑えてひとつ大きく息を吸い、ルクレはまた駆けだす。

 本当に我ながら生き汚い。

 こんなんだから本邸の使用人たちに小物だと馬鹿にされるのだ。

 自分を見下ろす3対の、瞳孔だけが色違いにぎらぎらと光る視線がありありと脳裏に蘇る。その視線の冷たさを思い出すことで、ルクレはなんとか自分を奮い立たせた。

 今はとにかく逃げるしかない。

 立ち止まって迎撃しようにも、手段がないのだ。

 なにせ今の自分の手札は2つの魔術と2つの魔法。

 それ以上はさすがに用意がない。

 しかも魔法に関しては、この女の姿をごまかすための偽装魔法ともうひとつ、おまもりのようなくだらないものだけだ。

 だから、実質今この場で使用可能な札は2つの魔術きり。

 先ほどから繰り返し足止めに使っている光の杭と、つい今さっきもルクレを魔族の爪牙から守ってくれた自動障壁と。この2つだけ。

 いくら汎用性の高いものだといっても、相手が相手だ。あまりにもちゃちが過ぎる。

 偽装の要であり唯一の頼みの綱となったこの指輪のように、あらかじめ陣を刻んだ装飾具がなければ、ルクレは魔導が使えない。

 逆に言えば、だからこそ汎用性の高いこの2種類だけはたとえ学院にいるときであっても、いつでも使えるように用意してあった。

 しかもどちらの魔術も自分の手で文字通り魔改造している。陣の一部に魔法の式を使ったり妖精語を織り交ぜたりしてあるのだ。そのおかげで杭の威力は魔族を貫けるだけのものになり、ただの防御障壁が自動展開するものに変わった。学院の教師たちが見れば邪道だと顔をしかめそうだが、あいにく己は手段なんて選んでいられない身だ。

 よろめきながら曲がり角に駆け込む。実験棟に通じる廊下にはありがたいことに人の気配はない。来た道も行く先もただただ静かで、自分の呼吸の音と張り裂けそうな心拍だけがうるさかった。獣の唸る声も足音もまだ聞こえてこない。少しだけ走りを緩める。あまり距離を開けすぎるわけにもいかない。他の獲物に目移りされる可能性がある。

 なんてセンスのない、と吐き捨てられたことがあった。誰に言われたのかも、いつの記憶だったかも定かではないけれど。

 

 ──でも、しかたないじゃないか。

 

 速度を落としたおかげで余裕が生じた頭でそうつぶやく。センスだなんだとかかずっていられるか。

 だってルクレの腕では、教本通りの正攻法を使ったところでたいした威力なんて出せやしない。魔族に対抗するなんてそれこそ夢のまた夢だ。

 

 ルクレには魔術師としても魔法士としても、およそ魔導を扱うものとして重大な欠陥がある。

 

 

 ──己には、魔力がない。

 

 正確には、それを生み出すための器官が。

 

 さらしをきつく巻き付けた胸もとをそっと抑えた。その下で、心臓がばくばくと音を立てて脈打っている。

 ルクレのそこには空洞がある。人であれば、いきものであれば確かにあるはずのものがそこに収まっていない。

 からっぽのそこを、昔どれだけでも憎んだ。

 昔の話だ。

 



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rech3-6

 

 

「龍拍」という臓器がいきものにはある。

 心臓に寄り添うように存在し、体の中で最も重要な臓器とまで言われる器官。

 それは、いわば魔力を生み出すための炉だった。

 

 龍拍の大きさやそれが生み出す魔力の量は人によってまちまちなのだという。たいていは成人した男性の握り拳くらいの大きさだというが、歴史上に名前が残っているような偉大な魔導師の龍拍が幼子の拳ほどの大きさだった、という話は有名だ。

 ただ、そこから生み出された魔力は、基本的にまず生命の維持に使われる。

 そうして、魔術や魔法の行使に使用されるのはその余剰分だけだ。

 つまり、どれだけ魔導の才に乏しい者であっても、最低限の魔力は体を巡って彼らを生かしていて。どんな龍拍であっても、その体の持ち主を生かすだけの魔力は生み出すのだ。

 だからそもそも龍拍のない、──魔力を持たない生命は存在しえない。

 それは死んでいるのとほとんど同義だからだ。

 

 魔力は万物に宿る。

 人に、木々に、獣に、石に。

 

 大気にさえ、それは宿るのに。

 

 なのに、ルクレにはそれがなかった。

 龍拍も、魔力も。なにひとつ。

 

 ごく稀に、そういう持たざる者が生まれることもないわけではないらしい。

 ただ、ルクレは実際に自分と同じ症状のいきものを見たことはない。

 魔力を持たないものは無事に生まれることができたとしても、すぐに死ぬ。

 ルクレがこの年まで生きているのは、ただ単にリトグラト家にそういう子どもを生かしておくだけのノウハウがあった、というそれだけのことだ。

 そうでなければ、ルクレもまた、生まれることなく死んでいた。他ならない父祖の手で、生まれる前にその命の芽を摘み取られていただろう。

 だって、あのひとはわかっていたのだ。

 ルクレに龍拍がないことを。こどもがまだ、かれの母の胎にいる頃から。

 その欠損がわかっていてなお生まれてくることが許されたのは、たとえお飾りであっても、直系の嫡子というものの代替品を用意するのがめんどうだった、というだけのことだった。

 自分がそんな理由で生かされた、特別な価値などないちっぽけな命だとルクレはとうに知っている。

 けれど、だからこそ自分くらいはそれにしがみついていたかった。

 ぽとり、と顎を汗がしたたって落ちた。そうやって滴るくらい汗をかくことは貴族としてみっともない姿だ。本邸を牛耳る家令はそう言ってルクレたちを躾けた。脳裏をよぎる絶対零度のその視線を思い切り蹴飛ばす。くそったれ。滝のように汗をかいているくらいで僕のうつくしさは損なわれたりしないのだ。

 汗で濡れた首筋を、夜の気配をまとったひんやりとした風がくすぐっていく。

 それを心地よく思うより先に、まずいな、とどこか冷え始めた頭がそう言った。

 夜は魔族の時間だ。

 夜目のきかなくなる人には不利、というだけでなく、まるで世界を覆う闇からちからを得ているとでもいうように、日が沈むと魔族のちからが強くなるからだ。

 

 ──せめて、実験棟まで。

 

 ルクレの向かう先、この先にある実験棟は、その名の通り魔導にまつわる実験を行うための教室棟だ。

 実験で多少の被害が出ても問題ないように頑丈で人口密度が低く。

 そうしてなによりも。

 中等部の生徒や、自衛手段に乏しいものがまず近づいたりしない場所だった。

 そもそもあの場所は、高等部以上の、教員から許可が出た生徒以外に入室許可がおりない。ちなみに優秀かどうか、というよりはどちらかというと危険性の有無で許可がおりることが多い。ルクレは優秀さで許可をもぎとっているが。

 ともかく、あそこならば魔族を誘い込んでも他の場所ほど被害は出ないし、お目付け役に教員だって常駐していたはずだ。

 学生の頃からあんなところに入り浸っている生徒とその監視役の教員なら、魔族の1体程度であればなんとかできる。

 できる、はずだ。やや希望的観測が入っているし、他人に頼ることはあまり気乗りしない。

 が、そういうプライドを通していられるような事態ではないことは自分だってわかっている。

 ふらつきそうな足を叱咤しながら、ルクレは懸命に走った。

 背後からは大きな獣のような四つ足の何かが奔る音とそれの荒い息遣いが徐々に、けれど確実に、迫ってきている。

 ぐう、と唇を噛み締めた。

 そんなことをしなくってもとうに口の中は鉄さびの味でいっぱいだ。喉に傷でもついたのか、それとも知らない間に口のどこかを切ったのか。どちらだってかまっていられない。

 

 杭を打ち付けて足止めし、それでもこの身に届きかねない爪牙は防護壁でしのいで、また杭を打って逃げる。

 

 そうやってなんとか、本当になんとかここまで走ってきた。

 が、体力的な面はもちろん、他の意味でもそろそろ限界が近かった。

 なにせ、一発足止めするたびに、拘束できている時間は確実に短くなってきている。

 悔しいことに、与えた痛みも拘束もさほど気に留めていないのだ。

 その証拠にそれの足は、まるで床まで縫い留めた杭を無理やり振り払ったように大きく裂けている。傷口から零れた闇が廊下にてんてんと奇妙な足あとを残していた。

 もしあの杭に光の属性が付与されていなければ、足止めとしてろくに機能していなかっただろう。

 それも当たり前のことかもしれない。

 なにせ今のあれは、おそらく傷や痛みを気にかけるだけの理性がないのだ。

 

 魔族には死という概念自体が存在していない。

 けれど、一方で魔力や肉体の限界は存在するし、魔力が尽きれば再生速度は格段に遅くなる。

 生命の維持に魔力を必要とするのは魔族だって同じこと。

 

 つまり、いくら死なないとは言っても一定以上のダメージが短期間で加わればその体は急速な再生を一度やめる。

 そうして休眠に入るのだ。肉体の損傷と魔力の欠乏とが回復するまでの間、ただ眠り、満たされればまた蘇る。まったく理解したくない生態だった。

 けれどそうやって蘇ることは、メリットばかりのことではない。

 休眠から目覚めてしばらくの間は、一時的にとはいえあらゆる能力が下がるらしいのだ。時間がたてばまた元通りになってしまうものの、蘇りたてを叩き続けることができればまるっきり元の状態に戻ることはできなくなる。

 だから、各地で魔族や魔物と相対する人々は魔族と相対するとき、長期戦を行う傾向にあった。拘束した対象を休眠状態まで追い込み、蘇生した瞬間にまた最大火力を叩きこむ。そうやって相手を弱体化させるのだ。

 殺せないのなら、死んでいるような状態にまで追い込めばいい、と言うわけだった。

 けれど、その策にだってデメリットがある。

 ちらりと後ろを振り返ると、ルクレは自分に追いすがる魔族の様子を冷静に観察する。

 杭に引き裂かれた手足では、やはり満足に動くことは難しいらしい。いつもそうしているように獲物を追おうとしては、ぼろぼろの四肢のせいで自重を支えきれずつんのめったり、壁に体をぶつけたりとよろついている。

 

 たぶん、これはある程度削られた個体だ。

 ルクレを今に至るまで殺せていないのがその何よりの証左だった。

 魔族にしては明らかに知能も身体能力も低く、その上、これまで一度も魔導を行使するそぶりさえ見せていない。

 息を吸うように魔導を扱ってこその魔族だというのに! 

 だからこれはおそらく知能はほとんど下がりきっていて、だからこそ憎悪がその身の内に滾っている個体だった。理性も知性も溶け切って、たぶんその内側にあるものは憎しみだけ。

 痛みも拘束もなにもかも大した足止めにならないわけだ。

 

 泣き出したくなるような気持ちで、ルクレは空を見上げた。

 目の端に見えた窓の外では、とうとう深い藍色が世界を飲み込み始めている。

 日が、落ちる。世界を焼く橙の陽光がかげっていく。もう時間がなかった。

 

 ──なんでこんな肝心なときにおまえはいないんだよ! 

 

 忍び寄る絶望から目をそらしたくて、憎たらしい自称正義の味方のことをルクレは頭の中でやたらに殴りつけた。

 想像だけだ。今の己の身体ではあんな筋肉達磨を殴ったところでそれほどダメージが通らないばかりか、はじき返される可能性だってある。

 シャニのくせに生意気だ。気に食わない、ああ本当に気に食わない! 

 ルクレは一瞬そうやって意識を他の、馬鹿みたいなことにそらした。このまま目の前の現実と向き合っていたら、なんだかうずくまって泣きわめいてしまいそうな、そんな気がしたのだ。

 正義の味方だのなんだのという癖に、あの男はことルクレのことに関してはいつだって遅かった。

 いつだって遅くて、あと一歩どころか十歩くらい足りていなくて、手なんか伸びてさえこなかった。他の誰かのときにはいつだって間に合わせてみせるくせに。

 喉元までこみ上げてきた感情を糧に必死に足を動かしながら、ルクレは逃げようのない現実へと目を戻す。

 彼我の距離は先ほどよりやや縮みつつある。

 相手の損傷は小さくないけれど、あれくらいのダメージで休眠に入ってくれるほど魔族は軟ではない。

 一方で、自分の魔力にはほとんど余剰がなかった。杭にしろ盾にしろ、あと2,3度使えれば御の字といったところだろう。

 果たして持つだろうか。

 ルクレはぎゅっときつくきつく拳を握りしめた。馬鹿みたいに小さな手だった。馬鹿みたいにひ弱な女の体で、けれど弱音を吐いてはいられない。

 足が止まれば、思考が止まればそれだけ死が近づく。

 持つだろうか、ではなく持たせるのだ。

 

 覚悟を決めたルクレの視界が、ぱっと開けた。

 十字路だ。

 見慣れた、幾度となく通った道。

 ここを直進すれば図書館に辿り着き、右の道は実験棟につながっている。

 そう、実験棟だ。

 ようやくここまで来た、と胸をなでおろし。

 

 ──左の道から、こつこつという足音が聞こえたような気がしてルクレは目を見開いた。

 

 ──誰か、来る。

 

 左はどこに通じている道だっただろう。

 教員であってくれ、と心底から祈った。

 そうでないなら、せめて高等部の生徒であればいい。

 それこそ、正義の味方だっていうんなら、そこの曲がり角から飛び出してくれたっていいんだ。

 柄にもなく、プライドをかなぐり捨ててそう祈ったのに。

 

 ルクレは、ひゅ、と甲高い笛のような音をたてて息を呑んだ。

 なのに、己の祈りなんていうものはいつだって裏切られるのだ。

 

 小さな革靴が、曲がり角からのぞいた。

 

 まるで中等部の生徒の履くそれのような、まだ真新しいぴかぴかの靴が。

 

 背後で、魔族がにやりと嗤った。

 

 





例のあれに罹患して以来体力が全く戻らんのでちょっと更新を日曜夜に後ろ倒していきます
更新は毎週します、対戦よろしくお願いします


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rech3-7

 

 前方の角から、おそらく何も知らない下級生がやってきていて。

 そして後方からは手負いの魔族が追いかけてきている。

 

 考えられる限り最悪の展開だ。

 

 なんで、と心が不運に泣き言をもらす一方で、頭はひどく冷静に状況を分析していた。

 ここまで来て今さら進路は変えられない。

 しかも、まずいことに背後のバケモノの狙いは明らかに自分から逸れてしまった。

 たとえばここで逆走するなりして自分がどうにか進行方向を変えたとしても、あれはおそらく、先ほどまでのようにおとなしくルクレの後を追いかけてきてはくれないだろう。

 あれの爪牙は曲がり角の先の、抵抗するすべを持たない後輩に向かって振るわれる。

 それがどうしようもない現実だった。

 そうして、悲しいことに己にはこの状況を打開できるような手札がないのだ。

 杭での足止めはたぶん間に合わない。

 数瞬は稼げるかもしれないが、後輩を逃してやれるほどの時間はというと無理だ。ルクレの魔力は尽きかけていて、威力も杭の強度も万全ではない。拘束はたやすく振り切られるだろう。

 なによりこのバケモノのリーチを考えると、無事な手足のどれかが彼、あるいは彼女に届きかねない。

 

 そうして障壁はと言えば、もっと役に立たないのだ。

 あれは自動起動される代わりにルクレの周りにしか展開されない。しかも硬度を高めた代償に、詠唱で手動発動することも座標を変更することもできない。

 

 ルクレの手札はどれも、自分のことは守れても他の誰かのためには役に立たないものばかりだ。

 誰かに助けてもらえるなんてハナから想定していないから、誰かを助けることだって同じだけ勘定に入れていなかった。

 

 なのに。

 

 ──どうする。

 

 思考は交錯して、けれど瞬くうちに導き出せたこたえはたったひとつで。

 行動は、一瞬だった。

 

 

 萎えかけの足に鞭打って、ルクレは躊躇うことなく曲がり角に跳び込んだ。

 

 

 状況がまったくわからないのだろう。いきなり誰かが飛び込んできたことにそこにいた中等部の生徒は、少女はきょとんとした顔をしている。

その痩躯に跳びついてルクレはしっかりと抱き込んだ。そのまま床へ押し倒そうとして。

 同時に指輪に魔力を吸い上げられていく感覚と。

 ついで、がきん、という鈍い音が続く。

 自動発動した障壁は、どうやら振りかざされた凶爪をうまく防いでくれたらしい。

 

 バリアを張ってやれないのなら、その座標を動かすことができないなら、自分が動くしかない。

 咄嗟の判断が功を奏したことにルクレはほっ、とひとつ息をついて。

 そうだ、息をついた。

 油断した。

 思うにそれがよくなかったのだ。

 

 しかも誤算があった。

 自分の体重が軽くなっていることをすっかり忘れていた。

 中等部の生徒相手なら、抱き込んでそのまますぐ床に押し倒せると踏んでいたのに、できなかった。

 自分と彼女との体重差があまりなかったのか。

 それとも抱き込んだ少女がいきなりのことに動揺して、思わず踏みとどまってしまったのか。

 少女を抱き込んだまま、ふたりの身体は一瞬、宙に浮いていた。

 

 ──だめだ。

 

 逃げ場のない空中で、ルクレの背中には防御障壁がまだ残っている。

 残ってしまっている。

 

 自動で発動できて、硬度も高い。

 自己防御においてという点ではおよそ完璧に思えるこの魔術には実はひとつ、大きな欠点があった。

 ルクレがどうしても改善できなかった欠点が。

 

 ──この防御障壁は、二重に展開することができない。

 

 背後にそれがまだ割られずに残ってしまっている以上、もう一枚新しく張ることはできないのだ。

 ルクレの背後には壊れかけの障壁。

 そうして、両側に遮るものが何もないまま、ふたりの身体はまだ空中にある。

 

 本当にたった一瞬の隙だった。

 

 けれど、それを見逃してくれるような生易しい相手ではない。

 

 宙に浮いた獲物をまとめて薙ぎ払うように、その傷だらけの腕がびゅうと音高く振られた。

 

 無慈悲な黒い追撃が、ルクレにはやけにスローモーションで見える。

 見えるだけだ。

 避けられはしないし、何かしらのやさしい奇蹟なんて起こらない。

 

 覚悟どころか、呼吸さえできなかった。

 強烈な衝撃がふたりを襲う。

 体中の骨が軋む音をどこか遠くで聞いたような気がした。

 そうして全身を駆け巡る激痛の、そのすぐ後。

 こほ、と肺から空気のかたまりが押し出された。

 何かに身体が叩きつけられたのだ、と遅れて理解する。そのままずるりと身体が床に滑り落ちて、そこでやっとその何かが壁だったことがわかった。

 ずきずきと身体中がひどく痛んで、うまく呼吸ができない。

 しかも先ほどの衝撃に脳が揺らされてしまったのか、ぐらぐらと世界が乱れて四肢はぴくりとも動いてくれない。

 立ち上がることもろくにできないまま、それでもルクレはなんとか顔をあげた。かすんで乱れた視界に魔族の姿を探す。

 

 どこだ、どこにいる。

 

 きっとあれの狙いは変わっていない。

 その殺意の矛先は、哀れにもこんなところに居合わせてしまったあの下級生に向けられているはずだ。

 ぐわんぐわんと揺れて定まらない上、巻き上がった土煙で視界は最悪だった。

 けれどその中に、それでもわかるうごめく巨躯の影がひとつ。

 そのすぐ近くに、倒れ込んで動かない子どもの足も見えて。

 

「──な、がれる星を」

 

 それを認めた瞬間に、ルクレはかすれた喉で、枯れかけの魔力をかき集めてささやいていた。

 短縮詠唱ではたぶんだめだ、今の自分の状態では十分な威力の保証ができない。

 だめだ、と冷えた理性が叫んでいる。

 そんなことをすればその殺意の切っ先が今度は自分に向けられることになる。

 死ぬ順番がちょっと変わるだけで、何も変えられやしない、と。

 確かにそうかもしれなかった。

 けれど、何もしなくとも結局死ぬのなら、抗った方がいくらかマシだ。

 たいたい、ここに魔族を誘導してきたのはルクレなのだ。

 つまりこの下級生が死んだとしたら、それは己の責だ。

 くそくらえだ、自分は誰かの死なんてものを負うことはできない。そんな重たいものの責任なんて負えない。これまでの繰り返しで重ねてきた罪のせいで、もう手いっぱいなのだから。

 

「たばねて、かえす。空が、ひかりで、満たされるように」

 

 ゆっくりと、バケモノの爪が振りかざされる。動くことのできない獲物たちに見せつけるように。その残虐さに今だけは感謝したかった。

 

「──LyUxiUm(ひかりあれ)

 

 詠唱は、果たしてなんとか間に合ったのだ。

 収束した真っ白な光の矢が、その肩を貫く。

 杭と呼ぶにはもうずいぶんと細すぎる、けれど確かな一矢。

 振り上げられた黒い凶爪が動きを止めた。

 最後の一撃だ。二発目は続かない。

 さっきの障壁と今のそれと。

 これできっかり二回、魔術を行使したことになる。

 

 つまり、──魔力切れ、だった。

 

 その証左に鈍い頭痛は頭の芯を突き刺すような鋭いものへと変わり、指先から熱が、体温が失われ始めている。

 我ながら自分の限界はよくわかっていたわけだ。

 はは、とかわいた笑いが漏れた。静かな廊下に、虚しいそれがやけに響く。

 すべての手札を切りきって、悲しいことに助けはいまだ来ないまま。

 どうにも運は向かなかったらしい。

 

 けれど、ルクレが最後のちからを振り絞った成果だけは、どうやら無事にあがってくれたようだった。

 ぴくりとも動かない足元の獲物からこちらへと、バケモノがその視線を変える。

 オレンジ色にぎらつく瞳がはっきりとルクレの姿をとらえていた。

 当たり前といえば当たり前だ。魔族は憎悪や悲鳴や恐怖を求めて動く。

 意識がない方よりもある方をいたぶりたいのだろう。

 そうして、獲物の恐怖をあおるように、じわりじわりと巨躯が歩を進めてくる。

 一歩一歩を愉しむように、異形が、死が迫ってくる。

 

 それでもルクレは動じない。

 慌てたところで、もうどうにも逃げようがなかった、ということもある。

 脳震盪の影響でまだ手足はちっとも言うことをきかない。立ち上がることさえできないままだ。

 そんな状況で無様に足掻いて相手を愉しませるつもりはなかった。相手の糧になるのだと知っていて、恐れたり泣きわめいたりしたくない。

 それに。

 霞がかかりつつある視界で、それでもルクレはただまっすぐに、近づきつつある死を見つめた。

 貴族たるもの、いつ何時いかなる状況でも冷静さと優雅さとを失ってはいけない。

 

 それくらいの矜持はまだ、己にだってあるのだ。

 

 



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rech3-8

 

 

 ──思えばたった二週間の命か。

 

 学院の廊下に這いつくばって死ぬのはいつものことだが、こんなに早く終わるのはもしかしたら始めてかもしれない。

 たぶん最短記録だ、たいして嬉しくはないが。

 

 そんな馬鹿みたいなことをぼんやりと思う。

 ひとつ前の人生の終わりからたった二週間、されど二週間。

 短いようにも長いようにも感じる日々だった。

 思い返してみればどうにも今までの繰り返しでは起こらなかったようなことが起きる、不思議な日々だった。

 少なくともこんな、この冬の時期に魔族が学院内に侵入するなんてこと、思い出せる限り一度も起こりはしなかったことだ。

 変わらないことももちろんあった。シャニの馬鹿さ加減とか、クラスメイトとの関係だとか。二週間のうちに起こったことの大半はこれまでと同じことばかりだった。

 でも、女の体になったことに気づいたあの朝から、心のどこかでほのかに期待をしていたのかもしれない。

 これまでの繰り返しと変わらないことが大半を占めていて、けれど明確に異なることも起きていて。

 

 だから。

 もしかしたら、と思ってしまったのだ。

 

 もしかしたら、何度も何度も繰り返されるこの意味のない人生を、今度こそはどうにか生き延びることができるんじゃないか。

 

 なんて、そんな期待を。

 馬鹿馬鹿しい。期待なんてそんなもの、いつだって裏切られてきたのに。

 そう思ったのに、それでも儚い希望にすがりつかずにいられなかったのは。

 ……本当はもう、死にたくなんてなかったからだ。

 

 つい二週間前はあんなに生きることを諦めきっていたのに、少しでも生き延びる目がありそうならどうしたってすがってしまう。期待なんてものを抱いてしまう。

 

 ──あーあ。ほんと、ばかみたい。

 

 だって、死ぬことも、それどころか痛い思いをすることだって嫌なのだ。嫌に決まっている。痛い思いを喜んで受け入れるのなんてシャニくらいのものだ。

 だというのに、ちっぽけなプライドなんかのために似合わないことをし続けた結果、ルクレはこうして死んでいこうとしている。

 下級生なんて見捨てればよかったのだ。こんなところに行き会った不幸だけを憐れんで。必要な犠牲だった、と後からその死を悼んで。自分が生き延びることを考えるなら、そうするべきだった。プライドなんてそんなもの、捨ててしまえばよかったのだ。

 誰かを助ける、なんてそんなもの『正義の味方』のやることでまかり間違っても悪党のやることじゃない。それこそあの愚直な馬鹿の役回りだろう。今更ひとりふたりの命を救ったところで、これまでルクレがやってきた悪行が許されるわけじゃない。

 なのに。

 

 ──でもまぁ、たまにはこういう終わりも悪くない、か。

 

 750回目の死を前に、ルクレの心はやけに穏やかだった。

 こんなに凪いだ気持ちで死を迎えることは、これまで一度だってなかったような気がした。いっそ愉快にさえ思っているのは、恐怖で感情が痺れ始めているのだろうか。

 

 脳震盪のせいでかいまだに定まらない視界に、一歩一歩ゆっくりと、いっそ悠然とさえした様子で魔族が迫ってくるのが見える。

 死を引き連れて、その体中の傷から闇を垂れ流しながら。

 

 傷口がふさがっていないのは結界の持っている停滞という作用を受けているのだろう。いくら弱っているとはいえ、魔族は魔族だ。ルクレのつけたあの程度の傷なら、すぐに治してしまうはずだ。それができていないということは結界はまだ作用しているということにほかならない。完全に壊れてしまっているわけではないのなら、少なくとも、今すぐに敵の増援が押し寄せてくることにはならなさそうだ。

 そのことでこの目の前の現実がどうにかなるわけではないけれど、それでも、よかった、と素直に思った。犠牲は多分そこまで出ない。ルクレと、あそこに横たわったままの少女だけで済むかもしれない。

 騒ぎに気づいた教員が対処して、その後は父祖の配下がなんらかの手を打つだろう。春が来るまでは、あのひとも学院を守ってくれるはずだ。

 ルクレの足掻きも全てが全て無駄にならない。

 やっと脳の揺れが治まったのか、近づきつつある終わりの気配に活性化したのか、思考回路がぐるぐると巡り始めている。

 今となってはもうすっかり慣れ親しんだ、走馬灯の予感だった。

 脳裏に最初に蘇るのは、二週間前に目が覚めたときの苦痛と絶望。

 女の身体になっていることに気が付いたときの諦念。

 

 ──でも、どうしてあの日の自分はあんなにも生きることを諦めてきっていたのだろう? 

 

 ルクレだって最初からこんなにも絶望していたわけではなかったはずだ。

 700回以上繰り返した人生のうち、はじめの数十回、いや数百回くらいは本気で抗っていたと思う。

 なにせ諦めの悪さだけが取り柄なのだ。

 魔導師になることを諦めきれずに足掻いたように、一度の挑戦では駄目でも試行を重ねれば、と何度も何度も繰り返した。

 シャニにその浄魔の焔で殺されるのが定めなら、彼の手が届かないところまで逃げ延びれば、果ての夜を超えることができるのではないか。

 あるいは、あるいは自ら命を絶てばこの螺旋から解放されるのではないか。とさえ考えたこともあった。

 たった一度、ただ一度でいい。何かが、奇跡が起きれば、と祈りながらもがき続けて。

 

 そうしてその反抗の日々は、どうなったんだっけ? 

 

 

 脳裏を駆け巡る走馬灯は思えばいつも同じ風景で終わる。

 

 何度繰り返しても、何百回繰り返しても。

 まるでそうなることが定められているように。

 

 学院の廊下で、夏のあの夜に、ともしびの焔に身体を焼かれてルクレは死ぬ。

 その道中で、たとえ何が起きても。自ら命を絶とうとしても。

 749回中749回の人生で、ルクレティウス・リトグラト・リィは、あの夏の日までは絶対に生きていた。生かされていた。

 

 ずきずきと頭がひどく痛む。これは魔力枯れのそれとは違う。まるで大きな掌に頭を握りつぶされているような、激しい痛みだった。

 何か大切なことを忘れている気がする。

 とても、大切なことを。

 

 ──じゃらり、とどこかで鎖の音がした。

 うしろだ、と直感的に思う。

 いまだに身動きの取れないルクレの後ろで、じゃらりじゃらりと金属が擦れる音が鳴り響く。すぐ後ろにはさっき身体を叩きつけられた壁があるはずで、そもそも鎖なんてこんなところにあるわけがない。

 日常生活ではあまり聞くことのない、甲高い音が間断なく響く。

 でも、自分はこの音を知っていた。

 そうだ、知っている。

 

 ぶわり、と脳裏を橙色の焔が焼く。

 

「あ、あ……」

 

 思わず声が漏れた。

 どうして忘れていられたんだろう。どうして、どうして。

 零れた声は安堵ではなくて、たぶん、諦念のそれだった。

 鎖の音が、突然ぱたりと途切れた。

 そうしてそれにあわせたように異形の歩みもまた、止まる。

 憎悪しか残されていないはずのバケモノの目に、はっきりと恐怖がよぎっていた。見間違えではないと言い切れるほどありありと現れたおびえの色に、ルクレはその秀麗な顔をゆがめる。

 

 ……おまえたちでも怖いのか。いや、怖いよな、わかるよ。

 

 聞こえないとわかっていて、そもそも口を動かすだけの気力ももうほとんど残っていなかったのだが、ルクレは心の中で化け物に語り掛けていた。

 

 そうだ。僕もずっと、ずっとこわかった。

 あれに、追いつかれることが。

 

 魔族はまるで石像のように固まって動かない。ルクレは叩きつけられたダメージが残っていて動けない。

 夜の闇が忍び寄りつつある廊下はやけに静かで、両者の息遣いだけがやけに耳についた。

 奇妙な緊張状態を裂くように、ルクレの背後から何か、がずるりと伸びてくる。

 

 ──それは腕だった。

 真っ白な腕だ。

 ひとのそれとは思えないほど太く、大きな腕。

 魔族のそれだと言われた方がまだ納得がいくかもしれない。

 その腕は憎たらしいとも思えないほどたくましく筋張っていて、古い傷痕がいくつもいくつも走っている。そこから漂ってくる血のにおいがあまりにきつくて、めまいがしそうなくらいだった。振り返ってその腕の出所を確かめるような勇気はルクレにはない。

 いやだ、と脳が叫んでいる。死にたくない、と泣きわめいている。

 ろくに動かない足が、それでもどうにか逃げようとしてか無意識のうちに床を力なく蹴っていた。それをみっともないと思う余裕さえない。

 これはだめだ。これだけは本当にだめなのだ。

 あたりに色濃く漂う死の気配に怯えてか、魔族もまたぎぃぎぃと耳障りな悲鳴を上げている。

 あれだけ知能が下がっていても死ぬのは怖いのか、と恐怖に痺れた頭でそう思った。

 怖いだろう。だって、魔族は死なないものなのだ。

 死なないはずの彼らの目の前に、けれど今その闇を消し飛ばすような虚無の白が口を開いている。

 

 迷いなく伸ばされた腕はその一切を気にすることなく、掴んだ異形の頭をそのままぐちゃりと握りつぶす。

 

 断末魔は聞こえなかった。

 ひゅ、と喉が鳴る。

 白い腕の先にだらりと黒い肢体がぶらさがっていた。ぴくりとも動かないその様子はどこか真っ黒な炭に似ている。

 その末路を示しているように。

 見たくない。痛いくらいにそう思うのに、目をそらすことができない。

 瞬きさえ忘れて、ルクレはそれを見つめていた。

 蘇ろうとしているのか、びくん、と異形の四肢が跳ねる。

 

 その瞬間。

 

 じり、と火のつく音がした。ついで、薄闇に橙色の火の粉が散る。

 ぶわりと巻き起こった火焔が魔族の身体を一瞬にして包みこんだ! 

 自然の炎ではない、魔導の焔だ。

 そうして次の瞬間には、あれだけ巨大だった異形が骨のひとかけらも残さずに燃え尽きていた。

 ただ、ひと握りの灰だけが床に残っていて、その白い灰さえも吹き込んだ風にあおられて散り散りに消えていく。

 

 それを見届けて……そこまでがルクレの限界だった。

 世界がぐっと遠のいていく。死への恐怖をありありと感じながら、ルクレは逃げるように意識をそのまま深い闇の中へと沈めた。

 

 

 

 魔族を焼いたそれは確かに魔導の焔だった。

 

 業魔を祓い魔族を殺す、浄化の焔。

 シャニ(ともしびの勇者)の他に、この時代の誰も持ち得ていないはずの。

 ともしびの焔、そのものだった。

 

 

 



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rech3-9

 

 

そうだ。

そうだった。あの腕だ。

それは、まさに死そのものだった。

あれこそが、一切の抵抗は無駄なのだと、これまでの自分に教え込んできたものだった。

 

ぬるく重たい真っ暗な闇の中を揺蕩いながら、ルクレは記憶をたぐっていた。あの真っ白な腕の姿を求めて。

 

 

一番最初にその腕が現れたのがいつだったか、はもう思い出せない。

どうしてだったのか、もだ。

けれどたぶんそのときの自分は、定められた運命から逃げ出そうとしていたのだと思う。

そうでなければあれが現れるわけがない。

あれはルクレに、この身に定められているらしいたったひとつの運命を果たさせるために現れる。

 

 

たとえば繰り返す人生から逃れようと衝動的に窓から飛び降りたとき。これで終わってくれという祈りを裏切るように、あの腕は落ちていくルクレのくるぶしをつかんで部屋の中へと引きずり戻した。

遠慮も容赦も何もない手つきのせいで頭を壁に強かに打ち付けてしばらくのたうち回る羽目になったが、毒をあおったときよりはマシだったと思う。

少し時間はかかるものの、痛みを感じずに死んでいくというちょうどいい毒を本邸から拝借して、その杯を飲み干したまさにその瞬間。鎖を掻き分けて現れた腕が口へと突きこまれて。

そこまではまぁ予想ができたのだが。

あれは、何を思ったのか。それとも何も思わなかったのか。

突き込んだ拳でルクレを、その体の内側からともしびの焔で焼いたのだ。

火が灯された瞬間に己の命が尽きなかったことが今でも信じられない。あんな暴挙でとっておきの毒を解毒されたこともだ。さすが浄化の焔というかなんというか。

だってルクレは、臓腑が焔に巻かれ焼かれていく感触を生きたまま味あわされたのに。

なのにあれは、今のおまえの身体はまだ魔に落ち切ってはいないから、とでもいうように命を奪ってはいかなかった。

鮮やかで耐えがたい痛みだけを瞬く間に残して。

 

 

そもそも、ともしびの魔力を持つものは、同じ時代を生きないものだ。

あの焔は継がれていくものであって、並んで燃えるものでは無い。

だから、シャニがそれを持つ以上、その焔を宿すものはこの時代には他にいない。

いない、はずなのに。

 

まるで燃え尽きた灰のように真っ白なその腕は、いつだって二つとないはずの魔を祓う橙を纏って現れる。

今回のように、ルクレを救うために。

あるいは、ルクレを殺すために。

 

腕の持ち主は何も語らない。そもそも腕以外の部位を見た事自体がないということもある。鎖をかき分けて虚空から生えてくる腕が、肩より向こうの身体を見せたことは一度だってない。

話しかけても何をしても対話することはおろか、意思疎通を図ることさえできなかった。

だから、思惑なんてわからない。

けれど、それの目的は明らかだった。

 

 

――死なせない。

あの夏の夜が訪れるその日まで、ルクレティウス・リトグラト・リィは死ぬことを許されない。

だから、生かす。

 

――逃がさない。

あの夏の夜を越えてからの日を、ルクレティウス・リトグラト・リィは生きることが許されない。

だから、殺す。

 

 

それがおまえに定められた運命なのだと、それは死神のように、ルクレの生殺与奪の権を文字通り掌に握っていて。

 

 

 

だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そよそよとどこかから吹いてきた風が頬をくすぐった。

さわやかな薄荷の香りを運んできたその風は、身体に纏わりついたぬるい闇を払うように吹き抜けていく。

気持ちがいいな、と素直に思った。

そうしてルクレはその風に誘われるようにどこか清々しい気持ちでゆっくりと目を開き。

 

「――お。目、覚めたのか」

 

見たくない現実から目をそらそすために、開きかけた瞼をまたきつくきつく閉ざした。

再び訪れた闇はいつも通りにやさしく凪いでいる。

居心地のいい薄闇の中で、ほう、と一息つこうとして。

 

「こら、レティ。起きたんだろ?」

 

ぺしり。と額をはたかれた。反射で思わず目を見開く。

寝起きの視界に映る、知らない天井に見知った顔。橙色の瞳がこちらを覗き込んでいる。シャニだ。どこか夢心地でその瞳と目を合わせる。

たぶん本人としてはそんなに力を込めたつもりはないのだろうが、この筋肉ダルマは力の加減が絶望的にへたくそだ。はたかれたところがじんじんと痺れるように痛い。

その痛みで意識が少しずつはっきりと輪郭を取り戻す。

目が覚めたばかりでしかも疲れ切っていて、声を出すことさえ億劫だった。文句で詰る代わりにぎろりと睨みつける。

 

「悪い悪い、痛かったか?でもおまえが目を覚ましたら薬を飲ませてくれって言われてるんだ。起きてくれ、頼む。な?」

 

ほら。

差し出された白いマグカップにはなみなみと深緑の薬湯が注がれている。その緑の馬鹿みたいな濃さだけでなんとなく味の想像がついて、ルクレは顔をしかめた。

本邸でよく出されていたものに似ている。嫌なことを思いだしそうだ。あの場所にいい思い出なんてほとんどないだけともいうが。

ともかく薬だというなら飲まなければならない。

眠っている間に魔力を補給してもらえたのか、魔力枯れ特有の頭痛や倦怠感は消えていたが油断は禁物だった。ルクレの身体は欠陥品なのだから。

とりあえず身体を起こそうとすると、そっと背中に掌が添えられて助け起こされる。

その手に身を任せて起き上がり、あたりをぐるりと見回した。

薬草のにおいが鼻先をくすぐる。白を基調とした部屋の中には、清潔そうなシーツのかけられたベッドがいくつか並んでいた。

保健室に併設されているとうわさの病室だろう。利用したことはなかったが、流行り病に備えてこの手の部屋がいくつか用意してあると聞いたことがある。

 

「ほら、飲めそうか?」

「飲まないといけないんだろ?よこせよ」

 

白いマグを受け取って、一瞬。そこから立ち昇るあまりにも刺激的な臭いに口に入れることをためらった。

苔のような濃い緑に嗅いだことのある臭い。効能もだいたいわかる。魔力枯れによって一時的に低下した身体機能を回復させるものだろう。

飲んでおけば身体が楽になることは間違いない。そうわかっていても、やっぱりためらってしまう。

これは、本当に、まずいのだ。

たらりと首筋を冷汗が垂れた。しかし、いつまでもためらってもいられなかった。なにせシャニが見ているのだ。この自分が、まさか苦い薬が飲みたくないなんてそんな無様をさらすわけにはいかない。

ぐっと覚悟を決めて一気にあおる。呼吸を止めてマグの中身が空になるまで耐えた。

舌の上と喉をどろりとした渋みと苦みとえぐみと酸っぱさが通り過ぎていって臓腑に落ちていく。後をひくまずさにじわりと涙が浮かんだ。

 

良薬は口に苦し、とはいえ、物には限度があって然るべきじゃないか。僕が調薬すれば少なくともこのえぐみはなんとかできるのに。酸っぱさなんて出る方がおかしい。こんなのいつかに飲んだ毒杯の方がマシな味だった気がする。

 

意識と血の気がひくような思いをしながらもなんとか飲み干して、ルクレは自分を見つめている正義馬鹿に微笑んで見せる。

こんなことなんでもないことだというように。

そんなルクレの強がりを知ってか知らずか、シャニはうんうん、とうなずいている。

まるで幼子を見るような生暖かい視線に背筋がぞっと逆立った。

 

「えらいな、さすがレティだ。あんなすごそうな薬も平気なんだなぁ。よし、これでニアも安心だな」

 

当然だろ、とそう返そうとしてルクレは、言葉尻に現れた義妹の名前にぐっと眉間に皺を寄せた。

なるほど、あの薬を用意したのは愚妹だったのか。破滅的な味にも納得がいった。あれは舌まで馬鹿なのか、味には頓着しない性質なのだ。

 

「さっきまでニアもいたんだ、さすがにもうだいぶ遅い時間だったから帰したんだけどな」

「……それが、なに」

 

絞り出した声はかすれて我ながらひどく聞き苦しい。これは絶対にあんなに苦くてまずい薬湯を飲まされたせいだった。

義妹が、少なくとも他人の心配が出来て薬湯をつくれる程度には、無事だったらしいこと自体は喜ぶべきことだ。これで本邸からの折檻を恐れずに済むのだから。

でも、それだけだ。それ以上の感情はない。ないったらないのだ。

所在なく見あげた窓の外は真っ暗で、浮かぶ三日月が投げかける白い光と星の瞬きだけが密やかに輝いている。

いったいどれくらい気を失っていたのだろう。

 

「そ、んなこと、より僕の治療は誰が……」

「ああ。おまえを運んだのは俺だし、怪我の確認も俺の方でさせてもらった。先生方も結界のことでてんやわんやだったからな。その後もいちおうずっと着いて見てたから、大丈夫だ。感づかれてないと思う」

「そう……」

 

返ってきたその言葉にほっと息をつく。ともすれば忘れてしまいがちだが、女の身体になったことを教員に知られるわけには行かないのだ。告げられた話の中になんだか聞き捨てならない言葉があったような気がしたが、その違和感は続いたもっと大きな衝撃で塗り替えられる。

 

「……瓦礫の中におまえを見つけたときはぞっとしたよ。倒れたままでちっとも動かなかったんだ。ああ、クソ。怪我がなくて、本っ当によかった……」

 

は?と首を傾げかけてぎりぎりのところでやめた。

怪我がない?

シャニの言葉にルクレは今さら身体が自由に動かせることに気がついた。骨の一本や二本は折れていないとおかしいはずなのに、あれだけ痛い思いをしたのが嘘みたいだった。どこも痛くない。

十中八九あの腕の仕業だろう。

思えば以前にもそんなことがあったような気がする。

つまり死にかけていたから、万が一にでもこんなところで死なない様に保険をかけていったのだろう。

余計なお世話だ。くそったれ。

口の中で小さく呟く。

死ねなかったことはこの際、置いておこう。別に生きていることが嬉しくないわけではない。

 

嬉しくないわけではないのだ。

 

 



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inter.3 ある女の手記.1

 

 

 

 ──人は、生物は、魔力が尽きると死んでしまう。

 龍拍を損なえば、生きながらえることはできない。

 そんなことはわかっている。

 わかっていても、それを飲み込むことは私にはできなかった。

 

 

 これは私の罪過と覚悟の記録だ。道理に背き倫理を踏みにじろうとも、必ず望みを叶えるために。

 その覚悟を忘れないために、これを記す。

 

 私のかわいいルクレティア、私はあなたのことを忘れない。

 絶対に。

 忘れないから。

 

 

 

 

 ───────────────────────────────

 

 

 

 

 ──あの子の死体を運び出すことは拍子抜けするほど簡単だった。

 公爵家の墓所なんてどれだけの魔術的防御がされているかわかったものじゃない。

 学院にいたころから実技がさんざんだった私がどこまでやれるだろう、とびくびくしながら向かったそこには、けれど守衛のひとりもいやしなかった。

 

 気が抜けそうになるくらい無防備で静かな真っ暗な墓所に、あの子の亡骸は置かれていた。

 フリルでいっぱいの白いドレスをまとったあの子はきれいだった。差し込む月のひかりに照らされて、まるで天使さまのようだった。

 いつもどおりにきれいでかわいいルクレティア。

 さらさらとした青い髪は私のそれとはあいかわらず違っていて、どこか眠っているようにだって見えたのに、伏せたまつ毛はぴくりとも動かない。秋の空みたいな水色の瞳を細めて笑ってなんてくれない。

 

 ぬくもりなんてないひんやりとしたその肌は、あの子の魂がもうここにはないって語っているようで、私は、少しだけ泣いた。

 あんなに泣いて泣いて泣きつくして、もう自分の身体には涙なんてちっとも残っていないと思っていたのに。

 

 わたくしの死を本当に哀しむのは貴女だけね、なんて言ったからだ。

 公爵家のお嬢様で、人形みたいにきれいで、頭だってよくてやさしかったルクレティア。

 

 あなたの死を悼まないひとがどこにいるだろう。

 誰からも蔑まれる賎業の私にさえあの子は笑って、良くしてくれたのに。

 どうしてあの子はあんなにさびしいことを言ったんだろう。

 

 私はそれを知らなきゃいけない。

 知らなきゃいけないって決めたんだ。

 

 

 ───────────────────────────────

 

 

 ──腑分けを高位の貴族に行うことは法で禁じられている。死体を盗み出すことよりもよっぽど罪が重い。死刑だって免れないだろう。

 なによりあの子の身体を切り分けることは気が咎めた。

 それでも、やらなければならなかった。

 

 約束した。

 忘れてない、忘れてないよルクレティア。

 あなたは言う。

 わたくしたちは生まれてはいけなかった。忌まわしい血だから。と。

 世界を救った英雄の血をひいたその身体になんの忌まわしいことがあるだろう。

 でも、どう慰めてもあの子は笑ってくれなかった。

 いつも誰に対しても穏やかに笑っていたあなたが、私にだけはそうやってさびしいことを言ったその意味を、私は考えなければならない。

 あなたのことを考えている限り。

 ルクレティア。

 あなたは死なない。

 

 

 

 

 

 ───────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 あの子の身体を分けた。

 

 

 

 

 

 ───────────────────────────────

 

 

 

 

 

 ああ、そうだったのだ。

 ルクレティア、あなたの身体は確かに普通じゃなかった。

 切り分けて、はじめてわかった。

 

 あの子は、生まれつき龍拍を持っていなかった。

 なかったのだ。心臓のすぐ近く、寄り添うようにあるその器官が。

 影も形も。

 

 損なったのではなかったのだ。

 

 

 

 ───────────────────────────────

 

 

 

 

 でも、そんなことはありえない。ありえないはずだ。

 魔力は万物に宿る。

 そうしてあらゆる生き物は、魔力が尽きると死んでしまう。だから、己の持つ龍拍によって生存に必要な魔力を生み出しているのだ。

 

 ルクレティアはそれができなかった。

 まれにそういう欠落を持った子どもが生まれること自体は私も知っていた。

 生まれついて龍拍に異常があるがために、魔力枯れによって命を落とすのだ、と。

 だから、あの子もそうだと思っていた。

 公爵家に伝わる秘術で永らえているだけだと言われて、その言葉をそのままに受け取っていた。

 あの子が死んだ理由だって、その秘術による生命維持が叶わなくなったためだと、そう思っていた。

 

 でも。

 

 でも、違ったのだ。

 そもそもの前提が間違えていた。

 

 あの子の身体には龍拍がなかった。

 龍拍に異常がある生き物は、いる。

 けれど、それ自体が少しも存在しないものはいない。

 私の仕事は賎業だ。

 人や生き物の身体を切り分けて治療し、あるいは死の原因を探る。

 蔑まれて当然のものだ。腑分けは死の穢れに最も近く、また、死を冒涜する行為だから。

 でも、そんな仕事をしている私だからわかる。

 

 いないのだ。

 

 龍拍に現れる異常は、多くの場合それの機能不全であるか、あるいはそこから魔力を供給する菅が塞がっているかのどちらかだ。

 珍しい症例を取り上げてみても、龍拍が欠けたようになっていて管だけがある、というものくらいだろうか。

 だから、そう。

 龍拍もそこに繋がる管もない、というのは生き物としてありえないのだ。

 

 

 

 ──魔族の他には。

 

 

 

 すべての生き物の中で、魔族だけには龍拍がない。

 彼らの身体を腑分けする機会は決して多くはない。蘇生までの休眠期間を狙うしかないからだ。だが、それだけに詳細な記録が残されている。同業者の間でしか出回っていないものだけれど、私の手元にも写しがあった。

 

 彼らには龍拍がない。

 その代わりに、身体を巡る体液が魔力を生み出している、と考えられていて、その血の研究をしている機関もあったはずだ。

 

 あなたは言う。

 忌まわしい血、だと。

 あの気位の高いあなたに、生まれてはいけなかったとまで言わしめたのはこれだった? 

 まるで魔族のようなこの身体のことだった? 

 

 

 

 私は、

 

 

 

 



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rech3-10

 

 魔族の襲撃を受けてなお生きていることは、それ自体はもうはっきり言ってしまえば、嬉しい。いくらルクレが馬鹿みたいにプライドの高いひねくれ者でもうれしくないわけじゃない。さすがに。

 ただ、それを素直に喜べないのは、望んできた死という安寧がどうやらずいぶんと遠いらしいと理解させられた(わからせられた)から。

 そうして、こうやって生き残ったその後に何が待っているか、ちゃんとわかっているからだ。

 

 

 

 

 

 シャニを追い出してひとりきりになった医務室で、ルクレはじっとその瞬間を待っていた。

 

 しんと静かな空気の中、ベッドの上で寝るわけでも何をするでもなく起き上がったまま、ただじっと待ち続ける。

 

 たぶん、来るとしたら夜のうちだ。

 

 日が昇ってしまえば、人間の時間になる。あいつらも自由に動けない。昼間は特にそうだ。

 ロゥク・ルウに下った魔族はすべて、人の目があるところでは人間のようにふるまわなければならない、とそういう約定を交わしているから。

 

 ルクレは横目で窓を見やった。

 青白く光る三日月は空の天辺をやや過ぎてゆっくりと落ちていこうとしている。

 気絶していたせいもあって、もう夜も半分を過ぎていた。

 しばらくすれば朝が来る。

 このまま、何も起こらないまま朝が来ればいいとぼんやり思った。

 叶わないと知っていて、それでもなお。

 

「──こんばんは、坊ちゃん」

 

 医務室を満たしていた穏やかな静寂を、楽しそうな女の声が切り裂いた。

 ああ、やっぱり。

 やっぱり、こいつが来た。

 

 低く艶めいた声は足元から、いやもっと突き詰めるなら、ベッドの下から聞こえてくる。

 ルクレは拳をぐっと握ってマットレスを殴りつけた。ぽす、と間の抜けた音がする。

 またやった、と内心で舌を打った。偽装魔術のおかげで女の体になったのを隠すことがなまじうまくいっているばかりに、近頃自分でもたまに忘れがちになってきた。

 足元をすくわれる前になんとかしなければ。

 対応策を頭の片隅で練りつつ、何食わぬ顔でベッドの下に声をかける。

 

「遅かったな、ルチウス。わざわざおまえの尻拭いをしてやった僕に、おまえ、何か言わなきゃことがあるんじゃないか」

 

 手厳しいね。

 それはいつも通りへらへらと笑いながら、ベッドの下の暗がりからするりと月明かりの中に抜け出てくる。

 

「でも坊ちゃんのおっしゃる通り! 耳に痛いな、ごめんね?」

 

 たいして大きくもない一人用の寝台の下に収まっていたとは到底想像できないような、背の高いいきものだ。

 誠意の薄い謝罪の言葉を口にして、それはかわいらしく首を傾けて見せる。深い紫紺の色をした髪がさらりと流れた。

 

 その仕草をかわいい、とは欠片も思わない。成人男性の平均よりも高い巨躯には、整ってはいるものの眠たそうな顔がついている。その容貌は垂れ気味の目といい少し厚めの唇と言い女性的ではあるのだが、鍛えられた体躯がどうにも印象を上書きしてしまうのだ。おそらくフィジカルだけで言えば生き残った魔族の中でも屈指の実力者というだけのことはある。

 

 そんな彼女の黄色の虹彩が月光の下でサイケデリックに煌めいた。

 

 それは祖父の狗。義妹の護衛にして監視者。魔族の生き残り、そして魔族の外れ者。

 ──至誠のルチウス。

 

「留守にして悪かったね、こんなことになるなんて思わなかったんだ……。だけど、これでも急いで帰ってきたんだよ? それこそ結界がおかしかったから、わざわざ本邸に行かなきゃならなかったんだ。ほらぁ、ミュアナは転送魔術がへたくそだから迎えがいるだろ?」

「おまえらの事情なんて知らないね。で、結界は復旧したわけ?」

「ああ、それはね」

「──ハ、お前がすやすや寝ている間にすべて済んださ」

 

 無防備だったルクレの背中に低い嘲笑が突き刺さる。かすれてざらついた声に思わずばっと振り返った。

 そこには、こんなところにいるはずのない者たちが立っている。

 窓の傍、影が落ちて深まった闇の中に、燕尾服とメイド服とをそれぞれ纏ったふたりの魔族が並んで佇んでいた。

 

 女だ、と、それの姿を見てすぐに言い当てられるものはなかなかいないかもしれない。贅肉の薄い肢体、ルクレよりも上背のある体躯にきっちりと黒い執事服をまとうその姿は、どちらかというとやや女性的ではあっても男のように見える。

 薄桃色の虹彩を人ならざる者の証にぎらぎらと輝かせながら、彼女は愉快そうに笑った。

 

「……ノスティーク」

 

 祖父の狗。リトグラトの仕置き人。あるいは、死にぞこないの魔族たちを率いる魔王狂信者。

 ──双対《そうつい》のノスティーク。

 

「私の名前をお前なぞが気軽に呼ぶなよ。……はん、存在がやけに揺らいでいたから何かと思って復旧のついでに寄ってみれば。それで、今度はどんな大それた術式に手を出した?」

「……何も。何もしてない」

 

 さっと血の気が引くのがわかった。

 これは、おそらくバレている。ルクレが女の姿になったことが。

 こちらを冷え切った目でねめつけるノスティークの横で、メイド服姿の魔族、イウミュアナがくすくすと笑っていた。

 ルクレの反応がおもしろかったのか、あるいは伴侶であるノスティークといられて機嫌がいいのか。おそらく後者だ。

 魔導具の整備を行うイウミュアナはたいてい本邸にこもっていて、国中を飛び回る多忙な伴侶の傍にいることが難しい。転送魔術の才がないイウミュアナにとって自由な逢瀬は夢のまた夢、という本人としては切実な事情もあった。

 

「その成りでよく言う。なんだ? また禁書でも持ち出したのか、やめておけと言っただろう。お前には才がないのだから」

「僕は! 何も! していない! ……はっ、それだけのためにここまで来たの? おじいさまの狗がずいぶんと暇そうじゃないか」

 

 これ以上深く追及されるわけにはいかない。原因究明のために、なんて理由で本邸に呼び戻されたが最後、死ねないまま研究材料の仲間入りをする羽目になる。

 早く帰れという思いを隠さずにそうなじる。

 

 ルクレの性別が変わっていたとしても大局に影響なんて出るわけもない。それに、ルチウスはともかくとしてノスティークにはこんなことに関わっている暇はないはずだ。

 魔族の癖に馬鹿みたいに勤勉な彼女は、表に出てきたがらない父祖に代わり、家令としてリトグラトにおける雑事の一切を取り仕切っている。対外的なことはもちろん、内々に済ませたいような不祥事への対応も、だ。

 幼いルクレが好奇心のまま、自分の手に負えない事態を引き起こしたときに文字通り飛んでくるのもまた、このノスティークという魔族だった。

 今はあのとき以上にあらゆる雑事を抱え込んでいるはずだ。なにせ今のリトグラト公爵家には今までのような都合のいい当主が存在しないのだから。

 

「はァん? お前たちがおとなしくしていてくれれば、私ものんびり妻と愛し合えるというものなのだが?」

「──はいはい、そこまでそこまで」

 

 ルクレの煽りにノスティークが乗ってきたところで、喧嘩はよくない、とそれまでにこにこ見守っていたルチウスがすっと割って入ってくる。

 義妹の護衛は、護衛に任じられるだけあって人のまねごとがうまい。揉め事は止めなければならない、とそう覚えているのだ。

 まねごとだ。こいつの気まぐれと思いつきで、ルクレは過去4回ほど死にかけている。あのときも確か、こいつは悪びれもせずに首を傾げてかわいらしく謝ってみせたのだ。

 

 同族の静止に、それでもノスティークは止まらない。

 かつり、とよく磨き抜かれた革靴が床を叩く。

 その音だけで体が竦んだ。怯えを悟られたくなくて、ルクレはキッと執事服の女を睨みつける。

 そんなささやかな抵抗をものともせず、ノスティークはルクレの眼前に立つと見下ろすように睥睨した。

 

「いいか。ルクレティウス・リトグラト・リィ。およそ何の役にも立たない観賞用の硝子人形。──お前に望む役割など何もない。お前は何も望まれない。お前が男であれ女であれ、何一つ変わることはない。それが我々と父祖たるロゥク・ルゥの意向だ」

 

 わかっているだろう? とささやく女の声は氷点下の冷気を纏ってルクレの心を蝕もうとする。

 

 嫌いだ。改めてしみじみとそう思う。わかりきっていることをなおも突き付けて傷をえぐろうとする、その人間じみた悪意が嫌いだ。

 この魔族の”教育”がなければルクレにだってもっと、もっと何か違う道があったのではないかと思ってしまう。

 そうやって責任を転嫁しようとする己の浅ましさまで突き付けられるようだから、だからルクレはノスティークが嫌いだ。

 

「……禁書を持ち出したのでなければ、私の仕事はもうないな。いらん手間ばかりかけさせおって」

 

 女は呆れたように深く深く息をついた。

 ふう、と空気が吐き出されると共に、その足元に黒より黒い、光を飲み込むような深い闇が零れ落ちてわだかまっていく。

 意志を持つ生き物のようにひらめいた影がルクレの頬を掠めた。すっ、と何かに斬られた感覚が一瞬、体を通り過ぎて消える。

 ……なんだ? 

 なんらかの魔術行使がされた、ということだけはわかる。けれどそれが何かわからない。体をすり抜けていった感覚を追おうとしても、その名残さえ捕まえられそうになかった。

 

「あ、待ってよぉ! ボクも一緒、ね? ね?」

 

 ルクレの困惑をよそに、メイド服の裾をひらひらと揺らしたイウミュアナが続くように暗がりへと飛び込んでいく。

 

「──ではお嬢様、よい夢を」

「ばいばぁ~い」

 

 完璧で優雅な一礼ののち、ぶわりと巻き起こった闇に飲まれるようにして彼女たちは消えた。ルチウスも現れたときと同じようにベッドの下へと滑り込んで、おそらく義妹のもとへと、去っていく。

 医務室には、また優しい静寂が立ち戻った。

 

 ──これで少なくとも、この異常事態に本邸の連中がかかわっていないことはわかった。

 

 いらだちと恐怖を飲み込むように、ルクレは自分にそう言い聞かせる。それがわかっただけでも十分な収穫だ。

 だいたいあんな言葉に傷つくほどやわじゃない。もう慣れっこだ。父祖に、彼らに、己が何も望まれていないことなんて知っている。

 なにかを期待されたことなんて、これまで生きてきた中で一度だってなかった。

 そんなことは最初から知っている。気づかないふりをしていただけだ。

 だから、だから今更こちらを痛めつけるために振りかざされた言葉なんかで、わざわざ思惑通りに傷ついてやるものか。

 

 はっと鼻で笑い飛ばしてルクレはごろりとベッドに横になった。

 夜明けまでまだいくらもある。少しでもいいから休まなければ。布団を顔の半ばまで引き上げてそっと瞼をおろす。

 そこにはいつも変わらない、やわらかで優しい漆黒がある。

 ゆっくりと押し寄せてきたまどろみの中で、ただ無性に、会いたいな、と思った。

 

 会いたい誰かは誰なのか、は今は考えないことにした。

 

 



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rech3-10.5


初めて本編を他者視点で書きましたね、これ





 

 魔族は闇に親しむ。

 

 太陽が苦手なわけではないし、昼日中でも行動に特段の支障はない。

 だが、ただただどこまでも暗いそこにいると、力がみなぎってなんでもできるような万能感に満たされた。そんなとき、ノスティークはいつも魔王陛下に仕えたあの懐かしい日々を思い出すのだ。

 

 

 

 

 怯えているのか、顔からは血の気がひいて、指先なんて震えているくせに、なんでもないことのようにこちらを睨みつけている。

 闇が閉ざすノスティークの視界に最後に映ったのは、そんな愚かな子どもの蒼いまなざしだった。

 ああ、本当に愚かな子どもだ。ルクレティウスという名前を与えられた役立たずの少年は、いつだって少しも賢く生きられない。ノスティークからしたら理解のできない馬鹿ないきものだった。

 

 ──まァ、なんだっていい。

 

 釘は刺したし、あんなところに出向かされたことへの溜飲もついでに下げられた。反応を見られないことは少しばかりもったいないが、ルチウスから何かしら報告が上がってくるだろう。

 周囲で吹き荒れていた魔力のざわめきが落ち着いたことを感じて、ノスティークは目を開く。闇夜にぎらりと蛍光ピンクの虹彩がまたたいた。

 

 そこは、つい先ほどまでいた学び舎とはうってかわって木々や植物で溢れた庭園だった。少し目を上げてみれば古びて蔓草の巻き付いた屋敷も見える。

 

「ほら、ついたぞ。ミュア」

 

 ノスティークは己にしがみついて目をぎゅっと瞑っている愛しい妻の頬を指でくすぐった。長い睫毛に縁取られた白金の瞳が躊躇いがちに開かれていくのをじっと見つめる。

 

「……わ! ほんとにすぐだぁ!」

 

 ぱちりと目を開いてすぐ飛び出てきた驚愕と称賛に満ちたその言葉にノスティークは満足げに微笑んだ。

 いつものように単純な転送魔術を使ってもよかったが、イウミュアナの驚いた顔が見られたならわざわざ面倒な手段を選んだ甲斐があったというものだ。

 なんていうことはない、転移用の魔法陣を使ったのだ。

 学院とこことを直通でつないでいる陣があることを知っているものはほとんどいない。使う者はなおさらだ。

 こちら側はこうして庭園に設置しているのだが、学院側の陣は見つからないよう込み入った場所に隠してあった。今回は本当にわざわざその陣のある場所まで一度転移してから作動させたのだ。

 まさに二度手間、と言うほかない。効率主義者であるノスティークは特に、いつもで絶対に選ばない方法だった。

 けれど、今回ばかりは特別だった。

 なにせ50年以上ぶりに妻と遠出の機会を得たのだ。

 仕事の一環ではあるが、だとしても少しくらい目新しいことをしてイウミュアナを喜ばせたかった。ノスティークにとってかわいいかわいいたったひとりを。

 転送魔法陣での移動は、転移系の魔導を苦手とする妻にはなかなかすることのない経験だったはずだ。

 期待通り頬を上気させたイウミュアナの手を取って、ノスティークはそのまま屋敷へと足を進める。

 ここはリトグラト公爵家の、その本邸だ。王都にある別邸とは違い、学院からも王都からもひどく離れたこの場所に来客の訪れがあることはほとんどない。国境にほど近い森の中で、しかもあの学院と同等かそれ以上の結界に守られている。

 なにせ魔王を打ち倒した英雄の住む場所だ。魔族の襲撃に備えて、なんて言っておけばたいていのことは許される。

 

「戻った!」

 

 庭から真っ暗な屋敷に足を踏み入れたその瞬間にノスティークは声を張り上げた。

 声に載せた魔力が空気を伝って邸宅の隅々まで広がっていく。

 ついで、ぱちんと指を鳴らせば防衛機構がひとつレベルを下げた。

 急なトラブルのせいで、非戦闘員と怠け者程度しか残らない事態になったため念のため屋敷の防衛機構を発動させて出たが、無事何事もなく済んだらしい。

 

「ミュア、悪いが私はあれに報告がある。ひとりで戻れるな?」

「うん、大丈夫。またねぇ……」

「ああ、また」

 

 桃色の髪をかき分けて、その白い額にひとつ口づけを落とした。顔を赤らめたイウミュアナは名残惜しそうに宛がわれた研究室へ消えていく。

 屋敷にこもりきりのあれにとってはかなり久々の遠出だったはずだ。本音を言えば愛しい妻ともっと出歩きたかったが、魔王の再誕が近づく今、ノスティークの肩にかかる責は重い。

 万が一でも億が一でも不測の事態が起こってしまえば、ここ数百年の苦労が無に帰すのだ。だから。

 

 ──すべてが無事に済んだなら。

 

 ノスティークは謡うようにひとり囁いた。

 すべてが無事に済んだなら、その時こそ壊れていく世界でミュアと遊び歩こう。人を殺し命を磨り潰し、悲鳴と鮮血とで世界を彩るのだ。

 その日を夢想しながら耐えることには、もう慣れきっている。

 

 こつこつと小気味いい靴音をたてながら、ノスティークは磨き抜かれた廊下をひとり行く。この時間、人間の使用人は休んでいてあたりに人の気配はない。

 同族たちも各地でそれぞれ己の役目を果たしているはずだ。まぁ、生き延びた魔族はおろか、ロゥク・ルウに従うもの自体が決してそう多くはないのだが。

 多くの魔族はそれまで通りに命を蹂躙し、人に仇なす在り方を変えなかった。変えられなかった。そうしてその結果、殺されてはその力を擦り減らし、もはや魔物と同じ程度にまで成り下がった者さえいる。ああなってしまえばもう、誇り高き魔族とは呼べない。たとえ魔王が蘇ったとしてもだ。ノスティークはあんなものに成り下がることはごめんだった。

 やや速足になりながら、地下へと繋がる石段を降りていく。

 屋敷の中では転移系の魔導が使えない。そのせいで学院との相互転送魔法陣も、庭に設定するほかなかった。

 外敵の侵入を防ぐためには仕方のないことだったが、まったく面倒なことばかりだ。

 ふう、とため息がこぼれる。こういう迂遠なやり方は本来、魔族のやり方ではない。力でもって叩き潰すことばかりが能ではないが、この面倒さには未だにどこか慣れきれずにいる。

 

 私もまた、魔族ということか。

 

 そんなことをしみじみと考えつつ、階段を降り切る。

 本邸の地下、そうしてちょうど中心部。

 吹き抜けになって月光の差し込むその場所にそれはいる。

 

「戻りました、ロゥク・ルウ」

 

 身じろぎもせずにただじっと月のひかりを浴びて、男はそこに佇んでいた。満開の花に囲まれて、男もまるで植物のようだ。

 

 ノスティークは蒼い花々で溢れた花畑には足を踏み入れないまま、その場にすっと跪いた。それはここ数百年で得た学びだ。あの男の顔をしばらく見ているとどうにも殺してやりたくなる。

 それも当然だろう。そもそもあの日、魔王を打ち倒したのはこの男を含めた三人の英雄様とやらなのだ。彼らがいなければ、ノスティークは、魔族はこんな風に隠れ住むことなどせずに世界を我が物顔で踏みにじっていられた。

 それでも、これと手を組まなければ魔族に未来はない、とノスティークは誰より先に傘下に下った。プライドなど、そんな役に立たないものは持ち合わせがない。この身のすべては魔王陛下に捧げている。他に何か少しでも己に自由になるものがあったとしても、それだって自分のものではない。イウミュアナのものだ。魔王が蘇るのなら、ノスティークは靴だってなんだって喜んで嘗めるだろう。

 かけた声にも男の反応はない。視線のひとつもこちらへよこさないロゥク・ルウに向かって、それでもノスティークは口を開いた。

 

「結界ですが、龍脈の流れが変わったことでほころんでいた。と思われます。龍脈の付近に何か大きな刺激が与えられたのではないか、と。ルチウスの所見とも一致しました」

 

 たぶんね、とへらへら笑う同族の顔が一瞬、脳裏をよぎった。

 

 秀でた身体能力ばかりがどうしても目につくが、ルチウスはたいていのことをうまくやるオールラウンダーだ。

 今回もいち早く結界の不調を察知して本邸に駆け込んでいた。運悪くその隙に魔物の襲撃があったが、彼女がその場にいたとしても騒ぎは防げなかっただろう。

 そもそも不調に気づいていなければもっと大事になっていた可能性だってあった。

 今回はまだ早期に結界が割られたために小規模の穴が開いたくらいで済んだが、不調が長く続いていればもっと大きな穴が開けられていたかもしれない。

 そうなれば被害はあんなものでは済まなかっただろう。少なくとも片手の指では足りないだけの死人が出ていたはずだ。

 しかも、襲撃に負い目があったのか、現場に到着してからの教員への説明や煩雑な後片付けもルチウスが進んで行ってくれていた。

 おかげでイウミュアナは自由に動けたし、ノスティークも魔導具を調整する妻の護衛に専念できたのだ。

 今回の騒動の鎮静化に最も貢献したのは彼女だと言って過言ではない。

 後で何か礼をしなければならないな、と思ってノスティークはほんの少し眉をひそめた。また人じみたことを考えてしまった。人間社会に溶け込む努力をしすぎたのか、こうしてたまに人間のようなことを思うことがある。自分は魔族だというのに、笑える話だ。

 

「……ともかく、詳しい原因は現状不明ですが、魔導具を調整したことで結界の修繕は完了。経過観察は必要だが当面の危機は去ったと見ていいでしょう。龍脈本体も心臓も無事でした。少なくとも計画に影響はありません」

 

 そこまで言い切って、するりと立ち上がる。

 ノスティークが報告を終えても、ロゥク・ルウから特に応えはない。いつものことだ。

 この男はこうして月光を浴びている間、まるで石像のように動かない。かすかに息をして、たまにゆっくりと瞬きをするだけだ。

 それでも綺麗にひとつ礼をして、ノスティークは踵を返した。

 報告は済んだ。あの状態でも、周囲の音がまったく聞こえていないわけではないことはわかっている。聞こえていて、だから何も言わないのだろう。

 なによりノスティークにはやらなければならないことが山積しているのだ。いつになるかもわからないロゥク・ルウの反応を待って、こんなところで時間を浪費しているわけにはいかない。

 

 茫洋とした褪翠の瞳は、ただ、遠くを見つめている。

 

 



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rech4-1 期待するってことは、裏切られるってことなんだ

 

 

「──おまえまで僕の味方じゃないって言うの」

 

 目の前に立つ青年の襟を握る少年の指は血の気を失って大理石のように白く変わっていた。綺麗に整えられた爪の先まですっかり青褪めて、まるで彼の髪の色を写したようだ。

 

「おまえ、まで僕を」

 

 そこに続く言葉を口に出せなかったのは、少年にとって格別の幸運だった。

 そして、最大の不幸だった。

 ぎりりと音が鳴るほど歯を食いしばって、彼はそれ以上の言葉を尽くさずにすっと身をひるがえした。美しい青の髪が後を追うようにたなびいて、けれど青年は彼の後を追ってはこない。

 それでも貴族としての矜持が、自身を守るために育てたプライドが、彼にそれをゆるさない。

 

 背後を未練がましく振り向くことを。

 

 ──見捨てるの、なんてそんな、弱者の戯言を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこで、ぱちりと目が覚めた。

 まさに最悪の目覚めだった。

 このまま窓から飛び降りでもして死にたいような気分に包まれながら、ルクレはゆっくりと身を起こした。

 

 背筋にはじっとりと嫌な汗をかいている。

 寝ぼけまなこにうつったのは見覚えのない風景で、二拍ほど遅れて自分がいつもと違うところで眠っていたことを思いだした。 

 

 と、同時に己が先ほどまでどんな夢を見ていたかも思いだして、深いため息をつく。

 

 あれは、夢、というよりも過去の記憶、という方がずっと正しいかもしれない。

 

 そうしてたぶん、あれはいちばん最初の自分だ。

 

 シャニに裏切られたと思って、そんなことであんなにも揺らいでみっともなくすがりつこうとした。まさしく醜態だった。

 馬鹿だなぁ、と今のルクレは心底から思う。

 見捨てるも何も、その男は初めから自分の味方じゃなかったのだ。自分みたいな悪党の味方になんかハナからなってくれるわけなかっただけだ。

 

 はは、と過去の自分を嘲って、──がたん! という何かが硬いものにぶつかる音が、寝起きでぼやけて悪夢のせいで後ろ向いた思考を文字通りに叩き起こす。

 

「おい、起きてるかレティ! まずいことになってるぞ!」

「は?」

 

 音の原因は、つい先ほどまで見ていた悪夢の登場人物で、しかも窓からの乱入にも関わらず悪びれもせず、こちらへ駆け寄ってくる。

 やっぱりこいつは窓を出入り口だと思ってるんだなぁ。とそんな場違いなことを一瞬、ほんの一瞬考えた。

 平民だから、だとかはきっと関係ない。ばかだから、外と繋がっているところは全部出入り口に見えているのだ。ばかだから。

 

「まずいことって、なに」

「落ち着いて聞け……! おそらくだが、バレてる!」

「……はぁ?」

 

 バレた、とはなんだろう。心当たりが多すぎる。直近でしたバレてまずいことは放課後、暇を持て余して禁術の解析をしていたことだが……。

 起きたばかりでうまく働かない頭がゆっくりと動き出す。ただし、事態はルクレの脳みそが通常営業を始めることを悠長に待っていてはくれないようだった。

 

「決まってるだろ! ──おまえが女になってることが、だ!」

「はぁ!?」

 

 無防備に飲み込んだその言葉に心の底から驚いて、その驚きを消化できないうちに、ざわざわと遠くの方から騒がしい声が近づいてくるのに気付いた。

 シャニもまた、近づく気配にじっと耳をすましている。

 

「これは……先生方だな。ずいぶん早い。さっきまで職員室にいたはずだが……」

「ああもう! ひとりで急に落ち着くな! っ、ほら、隠れろ! それでしばらく黙ってろ!」

 

 さっきまであんなに、窓から飛び込んできたり叫んだりとうるさかったのに、急にシャニのトーンが下がる。

 どこか自分だけ置いて行かれたような気持ちになりながらも、ルクレは慌ててシャニをベッドの下に追いやった。

 バレたらまずいのはシャニがここにいることだってそうだ。

 その身体がなんとか寝台の下に収まったのを確認してから、シーツの裾野を気持ち床につくように下ろす。

 きちんとした偽装をしている暇はないからこんなもの気休めにもならないが、それでも何もしないよりはだいぶマシだ。

 壁にかけられた時計を見るにまだ起床時間には少し早い。

 あんまりはやくから部屋を出て外をうろついているのは教員によっては懲罰ものだ。さらに言うと、許可なくこんなところに飛び込んできているのは──しかも正規のルート以外で──どう考えても褒められたものではない。

 

 後始末に追われてルクレがろくに心の準備もできないうちに、ばたんと音高く扉が開かれた。

 

 開け放たれた扉の向こうには見慣れた顔と見覚えのない顔とが並んでいる。

 

 先頭に立っているのは、昨夜、つい数時間前に別れたばかりの魔族、ルチウスだった。

 ただ、人間じみて見えるようにと身長はやや縮み、特徴的な光るオレンジの瞳孔は深い黒に塗りつぶされている。

 寝起きに見るルチウスは特に最悪だ。ルクレは思わず顔をしかめた。実家にいたときのことがいやおうなしに思い出される。

 こいつは、修行だか訓練だとか言って寝ていた当時8歳のルクレを砂漠の真ん中に置き去りにしたことがあるのだ。

 今朝の彼女が浮かべている表情は、なんだかそのときにしていたものと似通っているように見えた。ごくりと唾を飲み込む。ルクレの背筋を嫌な予感が駆け抜けていった。

 

「ああ! 起きられましたか!!」

 

 大げさにもほどがある、芝居がかった態度でルチウスが近づいてくる。ルクレは身をすくめて、逃げ場なんてないベッドの上に退路を探した。

 

「坊ちゃん、ああ、坊ちゃん! なんて、なんてお労しい姿にっ!」

 

 よよよ、とルチウスはわざとらしく泣き真似をしてハンカチを取り出して見せた。実際に、蛍光色の瞳孔を隠した黒い瞳には涙が浮かんでいる。

 けれどたぶん、これは笑いを堪えたそれだ。ほぼ間違いなく。

 

「ああ、なんてこと……」

「り、リトグラト君……」

 

 その後ろで頭を抱えているのは副学長で、ほろほろと泣き出したのは担任のミネアだ。

 白衣を着た男、おそらく魔術医だ、の顔は真っ青を通り越して真っ白になっている。

 ルチウスのすぐ後ろにいたらしいニアもただでさえ大きな瞳をぐっと見開いて、今にも泣きそうな顔をしていた。

 

 早朝だというのに教員たちがそろって見慣れたローブ姿なのは、おそらく彼らが文字通り不眠不休でことにあたっていたことの証左だろう。研究にご執心の学長に代わって学院を事実上経営している副学長はロマンスグレーと呼ぶにふさわしいだけまだ見れた身なりをしているが、年若いミネアは取り繕う余裕もないのか髪もローブも乱れきって、表情にだって疲れを隠せていない。

 

「おっと、失敬!」

 

 ルクレが教員たちを見定めている隙に、ルチウスのグローブに覆われた指が、まるで無事を確かめるような仕草で耳朶を撫でた。

 触れられたそこからびり、と魔力が走る。

 

『──坊ちゃんがかけてた魔法ね、わかってると思うけど解けてるよ』

 

 身体を走る魔力が勝手にルクレの耳の中で音を結ぶ。

 ルクレはさっと左手に、魔法の核を仕込んでいた指輪に目をおとした。

 

 銀の輝きは変わらずそこにあって、なのに幻惑の魔法は──ほどけている? 

 

 ルクレはそろそろとその輪に魔力を通した。

 第一、第二。

 昨日使った光矢と盾の魔術の陣はどちらも流した魔力にかすかに反応を返す。

 第四のそれは無反応だ。それはわかっている。

 これに関しては反応する方がおかしい。

 けれど、ルクレを守ってくれているはずの第三の魔法陣からは、返りがない。

 核にいくつもの傷がつけられて、とてもじゃないが発動できる状態ではなくなっている。

 何で、なんて言うまでもない。

 

 ──ノスティーク! 

 

 にこにこと慇懃に笑う黒髪の執事の顔が頭をよぎった。

 あのくそったれの性悪魔族。ぎり、と奥歯を噛み締める。そうしていないと今すぐにでも口から罵詈雑言が噴き出てきそうだった。

 ルクレの体の変化とそれをごまかすための魔法にまで気が付いて、あいつが何もしてこないわけがなかったのだ。

 おそらく昨夜の去り際のあれだろう。

 絶対そうだ、どうしてあのとき気づかなかったのだろう。

 身体を駆け抜けていった風はおそらくブラフで、まんまとそれに気を取られている隙に指輪に仕込んでいた核を狙われて。

 

 幻影という護りを失って、起き抜けで逃げることもできないまま、ルクレは魔法を使ってまで隠しておきたかった秘密を白日の下に引きずり出されてしまった。

 

『ハハ! 気づいた? それでまぁ、魔物の呪いを受けて姿が変わっちゃった~、っていうことになってるらしいから。そんな感じで! よろしくね?』

 

 くすくすという嘲笑まみれの言葉は、にわかには信じられないようなことを次々と告げる。

 ルクレは愕然とした顔で、ちょうどいいことに周りからは女になったことを驚いているように見えるだろう、悲しそうな表情を取り繕うルチウスの顔を見返した。

 伏せられた、彼女の垂れ気味の瞳の奥で悪意の光が瞬いている。

 

 確かに、身体を変化させるような魔導の行使は、しかも他者のそれを変えるほどのものは、人間にはほぼ不可能だ。

 法で禁じられている、というのもあるが術の使用に必要なだけの魔力をまず用意できないのだ。

 

 一方で、魔物が死に際に呪いを残していくことはほとんどない。が、多くないだけで全くないとも言い切れなかった。

 かれらの生態もそうだが、纏う瘴気についてもまだまだわからないことばかりだからだ。

 魔物の死体が残らないということもあって、研究は遅々として進んでいないと聞く。だから、魔物について語るとき、どうしてもきちんと実証されていることとそうではない、伝承めいたものが混じってしまうことは仕方のないことだった。

 実際に、魔物の瘴気にあてられた人間が獣に変わった、なんてお伽話だってあることにはある。

 そうして獣に変わった人間は、魔物の仲間にされてしまったのでした。なんて結末だったと覚えているが、だからといってそれはあくまでお伽話であって何ひとつとして実証されていない。

 こんな馬鹿みたいな話を信じ込ませるなんて酔狂が過ぎる。

 

 ただ。

 ルクレは、可哀想な子どもを安心させようとしています、という風に肩を抱いたルチウスをそっと見あげた。

 ただ、もしかすると魔族たちからすると、勝算のない酔狂でもないのかもしれない。

 

 と、いうのもこの国の法律では、一部の高位貴族に分析系魔術を使うことが禁じられているからだ。

 よほどの事態でなければ、頭の中だけではなく身体を探ることさえ許されていない。

 

 そうしてこの現状をよほどの事態、とあの家は認めないだろう。

 ルクレはそう言い切れる。

 だって、リトグラト公爵家としてはともかく、一般的な貴族の家では嫡男が女でも別にかまわないのだ。

 だいぶ昔だったはずだが、疫病の関係で女性の当主が立った例は何度かあった。他にも、後継者の問題などで女性が家督を継いだ例はあることにはある。リトグラト家では、そうしてこなかったというだけで。

 

 ともかく、そもそも緊急事態に数えられるかの望みも薄く、うちの格だとそれこそ同じ家の者か王族でなければ分析魔術を行使できないことになっていて。

 そうして王族は父祖ロゥク・ルゥに対してその今日までの功績に敬意を表し、不可侵を表明している。

 彼がすでに死んでいればともかく、いまだ健在であり国の守護者としてある以上、救世の英雄とその血族とを疑うことはない、ということらしい。

 かつて世界を救った英雄としてロゥク・ルウは未だ世界から神聖視されている存在だ。無下に扱うわけがない。

 

 ばかだ、そうでなくても王家は父祖を疑わないのに。

 生まれた子どもを言われるがままに養子に出してしまうくらい、信じ切っているのに。

 

「と、ともかく女子用の制服を準備しないとではないでしょうか?」

「いや、これまで通りの対応を、というのが先方のお話だろう」

「これまで通りと言われましても……!」

「失礼ですが、何か間違いの起こってしまう前に対策をしなくては!!」

 

 それまでただ静かに泣いていたミネアがおずおずと手を挙げる。それを一蹴した副学長の眉間には深い皺が刻み込まれていた。そんな副学長に白衣の男が食って掛かる。

 風向きの変わる気配を、もっと言うなら諍いの火種を感じたのか、ルチウスの目がそちらに逸れた。

 

「に、兄さま、大丈夫ですからね……? 兄さまがたとえ姉さまになっても、わた、私は」

 

 熱を帯びだした教員たちのやりとりをよそに、なぜか同席していた義妹がそっと傍に寄り添ってくる。ルクレの鼻先を、痺れるような甘い花のにおいが掠めた。

 なぜかもクソもない。ルチウスがここにいるからだ。

 おそらく大切な護衛対象をひとりで放置しないために、こんなところまで連れてきたのだろう。ただ、ルチウスがわざわざここに来る必要性があったかというと、ルクレにはないように思えた。

 ニアから離れられないというなら、教員には口頭だけで説明をすればいい。魔物の襲撃なんで大事の後だ。ルチウスにはまず一番にニアの身を守る義務がある。ルクレのことなんて二の次、三の次でよかったはずだった。

 

 けれど、ルチウスはそれをしなかった。

 つまり、嫌がらせと仕事を天秤にかけた結果、嫌がらせが勝ったのだ。そうしてせっかく嫌がらせをしたのだからそれによって驚愕に歪む顔も見ておきたい、とこんなところにまで来た。そんなところだろう。

 そういう享楽至上主義だから滅びかけたんだ、魔族は。いっそそのまま滅んでしまえばよかったものを。

 心の内でしっかり悪態をつきつつ、ルクレはふっと遠くを見つめた。

 

 ──収集、つくのかな。これ……。

 

「まず生徒たちに昨日の問題をどう説明するかをだね」

「そうです! そうですよ、昨日の事件だってあるんです! だいたい学長はどうしたんですか!! 副学長が出張ってきてどうにかなる問題なんです!?」

「キタニル医師、一度落ち着いて……落ち着きましょう……!」

「私は! 医者として生徒の心の傷の話をしているんです!!!!」

「ええ、そのことは我々としても重く受け止めて」

「重く受け止めてるんですか! あの学長が!!!」

 

 騒ぎはいつの間にかベクトルをぐるりと変えて白熱している、ルクレをベッドの上に置き去りにして。

 

 

 

 

 

 



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rech4-2

 

 

「だいたい、昨日の時点で学院長が出てこないのがおかしいでしょう!?」

「あの方は……おそらくいつもの研究がだな……」

「け、研究より生徒の命が大切、でしょう……!? あの方は何をお考えで……!」

「そうですよ!! 学院長の研究がどういったものか寡聞にして知りませんが、生徒の命よりも重要だって言うんですか!!!」

「いや、そんなことはない! もちろんそんなことはないんだが……」

 

 教員たちの話題はもうすっかり完全に自分や昨日の事件から学院長への不満に変わっている。そうしてふたりから責め立てられる形になった副学長はやや旗色が悪そうだ。返答の歯切れも明らかによくない。

 

 が、ルクレはとりあえずこの論戦を静観することに決めた。

 

 なにせ自分よりずっと混乱している人々を目の当たりにしているおかげで、やっと思考回路が少しずつ回り出したところなのだ。

 この現状をまとめて脳内を整理するくらいの猶予はほしい。

 

 もちろん、心優しいルクレティウスくんとしては、担任であるミネアがやり玉にあげられていたのなら助け舟を出すことだって検討する。

 だが、残念ながら副学長にそうしてやる義理はない。むしろ彼を生贄にささげて余剰の時間ができるのなら大歓迎だ。

 別に、昨日の対応が遅かったことを恨んではいないが。これっぽっちもそんな感情はないが。

 

 ──ふむ。

 

 心の中で腕を組む。

 実際にそうするには少しばかり支障があった。その場にいる人間の大半が論戦中とはいえ人の目もあるし、そもそも片腕をニアにつかまれていて自由にならない。

 ともかく気持ちの上でだけ姿勢を整えた。こういうものは気持ちが大切なのだ。

 

 どうやら先ほどまでの教員たちのやりとりからして、今のところ学院側も生徒が女になった、という異常事態をどうにか飲み込もうとしているらしい。

 ルチウスがよっぽどうまく言いくるめたのか、それとも、実際にルクレの姿が変わっているのを見て飲み込まざるを得なかったのか。

 

 まぁ、半信半疑のまま駆けつけて、実際にその惨状を見たら納得してしまった、というあたりが妥当そうだ。

 なにせ、今のルクレは美少女なのだ。それも、自分でも言うのもなんだがかなりの。

 

 年齢を考えても華奢な体躯。けぶるような長い睫毛。ふっくらとしたまろい頬。

 体格に見合ったちいさな手を花びらのような爪が彩っていて。元からそう目立つほうではなかったとはいえ、喉仏だってきれいさっぱり消え失せた。

 今の己は明らかに前の、男だったころの自分とは違っている。顔は似通っていても、体格はまさに少女のそれだ。

 分析魔術など使わなくとも、胸にさらしを巻いていても、一目見ただけでそうとわかってしまうほどに。

 

 そうして、あの英雄の家の者がこんなくだらない嘘をつかないという思い込みが、教員たちの頭から幻覚や替え玉といったまずありえそうな可能性をかき消してしまっている。

 ニアのあの素直な驚愕もそれを裏付けただろう。

 それを狙ってこの場に連れてきた、とは考えにくいが、怪我の功名と言ったところか。

 

 とにかく、リトグラト公爵家という名前はそれだけの価値を持つものだ。父祖の、たまにわざと薄氷を踏んでいるように思える魔王再誕チャートがうまくいっていたのも過去の功績によるものが大きい。

 

 繰り返すようだが、普通の人間は、かつて世界を救った救世主がわざわざ自分たちが打ち倒した魔王を蘇らせてまで世界を滅ぼそうとしている、なんて考えもしないのだ。

 

 盲点だっただろうな。

 

 ロゥク・ルゥがその正体を、あるいはその目論見を明らかにした瞬間の反応を想像して、ルクレは胸中だけでふっと微笑んだ。

 あいにく自分が死んだ後にあっただろうその瞬間を見ることは叶わなかったが、想像だけならいくらでもできる。

 王宮あたりは文字通りハチの巣をひっくり返したような騒ぎになったに違いない。なにせ、当代の王族は完全にロゥク・ルウを信用して、王女を養子にまで出しているのだから。

 

 ──思考がやや横道に反れたところで、ふう、とひとつ息をついた。思ったより大きなため息になったが、安堵のそれ、というよりは、目の前の惨状に呆れてついたものにでも思われるだろう。

 そもそもそんなことを気に掛けるだけの余裕がある者もいない。

 ルチウスはこちらに注意を払ってはおらず、傍らに寄り添うニアにはどう思われてもかまわないのだ。

 

 とりあえず、この分なら騎士団に引き渡されるだとかそういうことは考えなくてもよさそうだ。いくらリトグラト公爵家と言っても禁術に手を出すことはさすがに許されない。そう思ってこれまで隠してきたが、その方面で責められることにはならないと見ていいだろう。

 少なくともノスティークとルチウスが関わった上でこの顛末なら、魔族たちは女になった己をすぐに放逐するつもりはないのだ。

 

 女に、なったのに。

 己の唯一の価値だと信じていたものを失ったはずなのに。

 それでも、魔王の復活が近づきつつあるはずのこの段階でもなお、まだ彼らは嫡子という存在として己を置いておきたいのだろうか。

 きゅ、と自由な方の手を握る。手のひらに食い込む爪の痛みは鮮やかで、これが夢ではないことを示している。

 

 ……大丈夫。

 それならそれで問題ない。自分が真実嫡子として必要とされることはそもそもなく、どのみちこの周回は捨て札だ。750回も繰り返した無価値な人生の中の、いわば短い休暇。トラブルがいくら起きたとしても、あの白い腕が今回も現れた以上、さして影響はないだろう。あの腕がいる限り、何があってもきっと今まで通りあの夏の日に燃えて死んで、また冬のいつかに戻される。

 それだけのことだ。

 

 そうやって開き直ってみると、ルクレはなんだか自分の腹が空いているような気がしてきた。

 気がする、というか空腹だ。ひもじい。

 それも当然といえば当然だ。 

 思えば昨日の夜から食事をとっていなかった。

 腹に入れたものといえばあのまずい薬湯くらいで、あんなものにカロリーはほとんど存在しない。あれを消化することの方がよっぽど熱量を使っただろう。破滅的な味で食欲がやや失せたりはしたかもしれないとしても。

 だとしても、昨日あれだけ重労働をすれば腹も空く。気を抜けば、今にもみっともなく腹が鳴りだしそうだった。

 

 ──何か、食べるものとか持ってきてくれないだろうか。

 が、そんなことを言いだそうにも教員たちは相変わらず元気よく言い争っていて、ルチウスはその様子をにこにこと機嫌よく見守っている。

 きれいにかぶったはずの人の皮が剥がれかけてるぞ、と思わず忠告してやりたくなった。

 魔族は諍いも好きだ。血を見るのが好きなのだ。あの調子だと、何かが罷り間違って彼らが手を出し合わないかなと期待しているに違いなかった。

 魔術師同士の喧嘩なんておもしろそうじゃないか、なんて考えているはずだ。たぶん、絶対に。

 

 そうしてそんな馬鹿騒ぎの中で唯一いまだ沈黙を守っているニアは、というと先ほどから押し黙ったまま人の手を勝手に撫でさすっている。

 掌やら手の甲やらを細い指先に遊ばれているのは、はっきり言ってとてもくすぐったい。すぐにでもやめさせたいところだったが、義妹の奇行を止めるだけの気力が今のルクレにはなかった。昨日の疲れに空腹も加算されて体力だって底をついている。

 しかし、こいつもこいつで何をしたいのだろう。いつもあまり物を言わないせいで、いまいち考えが読めない。

 

 ──ごーん。

 

 そんな、混沌とした状況を切り裂くように、鐘の音が鳴り響いた。余韻を長く残す鐘の音に、論争を繰り広げていた教員たちがはっと顔を上げた。

 あの鐘が二回鳴れば予鈴。三回鳴れば、授業が始まり、一回なら、起床の時刻を告げている。つまり、もうじき他の生徒たちも起き出してくる時間になったのだ。

 

「おっと、じきに朝礼か。──場所を変えましょう。昨日のことにしろこの件にしろ、他の教員たちとも協議しなくては」

「ええ、ええ。もちろんです! あ、当然ですが学院長も引きずり出してください! 責任の所在をはっきりさせませんと、生徒たちも不安がりますから!!」

「そうですねぇ。それより、その朝礼って私も参加してもかまいませんでしょうか? ああいえね、昨日の不始末のお詫びと、当家の坊ちゃんのこととお嬢様のこともお話させてもらいませんと! ……おっと! ですので、ニア様~いったんこのルチウスめと一緒に行きましょうね!」

「は、はい……兄さま、また後程」

「あ! ああ……! あの、ルクレティウスくん」

 

 足早に部屋を出ようとする副学長にキルニスと呼ばれていた医者が追いすがった。さらにその後をルチウスと、彼女に連れられたニアも名残惜しげに続く。

 やっと解放される。と去っていく背中たちを見つめていると、ミネアだけが慌てたようにぱたぱたと近づいてきた。

 

「はい、セーニャ先生。なんでしょう?」

 

 名前を呼ばれたので柔らかく微笑んで見せると、わかりやすく頬が朱に染まる。

 美しい、ということはやはり時に罪深いなとしみじみと思った。

 ちょっと微笑んだだけでこうして人を魅了してしまうのだ。

 少女の姿の方がウケがいいらしいことは複雑だが、ルクレの美貌に変わりはない。こんな絶世の美少女相手に仏頂面を崩さないのは、あの鈍感系不器用男くらいのものだろう。なお、魔族は除くものとする。

 

「と、突然のことで驚きましたよね……? あ、あの、念のため、今日はゆっくりおやすみされていてください。先生も、会議が落ち着いたらまた来ますから」

「そんな……! 僕のことなら大丈夫です。それより、先生の方こそお休みになってください」

 

 昨夜から寝ていらっしゃらないのでしょう? そう問いかけるとふるふると首が降られた。嘘だ。頬が照れて赤く染まっていてなお、十分な睡眠時間をとった人間の顔色には見えない。どちらかというと死体に近い疲労感だ。目の下の隈も、日頃よりくっきりと色濃く浮かんで睡眠不足を主張している。

 だいたい、完全な善意からの申し出ということはわかるが、戻ってこられる方が都合が悪いのだ。

 なにせ教員が近くにいると、悪だくみができなくなってしまうので。

 

「先生は、大丈夫です。休みましたし、なにぶん頑丈ですので……な、何かあったらベルを鳴らしてくれたら、キルニス医師は……しばらく会議で外されますが、他の方もすぐ来られますから」

 

 ルクレの思惑になど気づいていないのか、頑なにそう言ってのけたミネアはローブの懐からそっと小さなベルを取り出した。

 サイドテーブルへ置かれた黄金色のそれは、おそらく魔導具の類だろう。木製の持ち手から金属製の鐘にかけて、伝令魔術の陣が刻まれている。

 

「結界は、もうすっかり元通りです。それに、学院の中にも魔物の残党は一匹たりとも残っていません。ええ、あの、なので、ゆっくりおやすみされてくださいね……ね?」

 

 生徒を安心させようと、ミネアはそっと、ぎこちなく微笑んで見せた。先ほどルクレが見せたそれと比べるとあまりにも疲労困憊の、お粗末な笑みだったが、たぶん込められた思いに関して言えばよっぽど純粋で誠実だっただろう。

 

 疲れ切っていてなお生徒思いの教員に敬意を示して、ルクレは素直に頷いた。

 このひとにこれ以上の心労をかけるのはあんまりにもかわいそうだ。たぶんこの後の会議とやらで、文字通り骨の髄まで疲れ果てることになるのだろうし。

 自身が庇護すべき生徒にそうやって憐れまれているとは知らないまま、ミネアもそのくたびれたローブの裾を翻して立ち去っていく。

 

 そんなばたばたとした退場劇だったせいか。あ、食事のことを伝え忘れた、と思いだしたのは、全員が部屋を出て、呼び止めることはおろか呼び戻すことさえできなくなってしまってからだった。

 

 タイミングをすっかり逃したルクレを嘲笑うように、ぐう、と音高く腹が鳴った。

 

 



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rech4-3

 

 しまった。

 

 空腹を声高に訴える胃腸を、ぎゅっと反射的に抑えこんでルクレは身をすくめた。

 が、もう遅い。

 先ほどまでとは打って変わって静まり返った部屋に、自分の腹の音が鳴り響いてしまっていた。

 騒ぎの元凶たちは立ち去って、けれど部屋にひとりきり、というわけではない。

 まだベッドの下には、いるのだ。

 シャニが。

 やってしまった。

 さっと頬が朱に染まっていくのが自分でもわかる。

 思わず羞恥で呻きそうになる唇をかみしめて耐えた。

 こんな些事を、恥ずかしい、と自分が思っていると他人に知られることが一番恥ずかしい。なんでもないような顔をしなければならない。生理現象だ、と悠然と構えなければ。

 こみ上げた熱を振り払うようにルクレは頭を振った。ついでにこの何とも言えない恥ずかしさも吹き飛んでくれないか、なんて馬鹿げたことを思う。

 当然、現実逃避だ。いっそ放っておいてほしい。ベッドの下で眠っていてくれないだろうか。

 けれど、そんな願いはかなわないのだ。

 

「──ん、終わったみたいだな。おつかれ」

「……あ、あ、おまえ、いたんだっけ。よくバレなかったよね」

「運がよかった。ま、先生方も平静じゃなかったからな」

 

 ルクレの切実な願いなんてこれっぽちも知らないだろうシャニが、そろそろとベッドの下から這いだしてくる。

 俺も腹が鳴りそうだった。

 余計なことを言いながら大きく伸びをした男からは腹の音の代わりに、ぽきぽきと小気味のいい音が鳴った。

 この男は、繊細さ、だとか、心の機微、だとか、あるいは思いやり、なんて言葉を知らないのだろうか。

 そうやって八つ当たりしそうになって、はぁ、と代わりにルクレは大きくため息をついた。そうして、波打った長い髪が顔色を隠してくれることを期待して、顔をやや伏せる。まだ頬がいくらか熱い気がした。ちょっとしばらく顔を見せたくない。せめてもう少し、平常心を取り戻せるまでは。

 

 ルクレは昔から、どうにも朝にあまり強くなかった。

 寝起きは特に意識レベルが下がる。詰めが甘くなったり、感情が今一つ抑えきれなかったり、言わなくてもいいことが口をついて出そうになったり。さんざんだ。

 空腹のせいでか、今日はなおさらひどかった。そうだ、いつもならもうちょっとマシに対応できるのだ。そもそもどれだけ空腹であっても、腹を鳴らすなんて失態をしたりしない。感情を表に出すなんてもってのほかだった。

 ああ、クソ。おなかがすいた。

 身を縮めたまま、ルクレは空っぽの胃腸をなだめるようになでる。なんの慰めにもならないかもしれないが、何もしないよりはマシだ。

 

 と、シャニが何かを探すように棚の扉を開いた。その背中を、ルクレは蒼い髪のカーテン越しに見つめる。

 

「おまえ、何してるの?」

「いや、どっかこのあたりとかありそうだなと」

「何が?」

 

 医務室に備え付けの棚にあるものなんて、包帯だとか薬だとか、そういうもの以外に何があるだろう。

 ルクレが問いかけると、シャニは言葉を探すように少し言いよどむ。

 

「んー。……ほら、俺はよく怪我するだろ?」

「何の自慢にもならないよな、それ」

「まぁまぁ。で、手当は別に自分でもできるんだが、人前で怪我すると医務室に行かなきゃいけなくなるわけだ」

 

 シャニはしれっとそう言ってのけた。なんなら、わざわざ医務室に行くのがちょっとめんどうだと思っていそうな声色だ。

 ──本当にばかだな、こいつ。

 ルクレは呆れて何も言えない。怪我をしたら普通は医務室に行くものなのだ。よっぽど後ろ暗いことでもない限り。

 

「で、さっきのキルニスって人はあんまり見ないけど、ここに常駐してる魔術医にはそこそこ世話になっててさ。その人、甘いものが好きな人で、俺もよくご相伴にあずかるんだよ。だからここにも隠してるんじゃないかって」

 

 話をだらだらと続けながらも、シャニの手は相変わらず棚の中をごそごそと漁っている。

 そういえば、こいつの交遊関係は謎に広かった。

 下級生や上級生だけではなく、普段関わることのあまりない教員にも顔が広いのは、なるほどこういうところで培われてきたわけだ。今までほんのりと不思議に思っていたことがひとつ解決を見て、ルクレは人知れず頷いていた。

 750回も人生を繰り返してきて、まだこんなにも知らないことがある。おそらくこれまでの自分が、どうでもいい、と思って切り捨ててきたものだった。

 そのどうでもよさは、今の自分だって変わりはしない。こんなことを知ったところで何の役にも立たないのだ。

 それでも、どこか、心のどこかがひどくくすぐったくて、ルクレはぱっと顔を上げた。頬はもうさほど熱くなかった。

 

「お、やっぱり。ほら、あったぞ」

 

 ちょうどそのタイミングで、何かを見つけたのかシャニが声を上げる。

 ついで、棚の奥から引っ張り出されてきたのは、愛らしいデザインの缶だ。シャニが持っていると似合わなさに笑えてくるような、ファンシーな四角形の箱がサイドテーブルにそっと置かれる。

 装飾に紛れて保存用の魔術が施された蓋を開けると、中には黄金色をした焼き菓子が並んでいた。

 

「これ、勝手に食べていいの? 話聞いてる限り私物っぽいけど」

「あー。まぁ、たぶん大丈夫だ、そんなに食い意地のはった人じゃないから。いわば緊急事態だしな」

「ふーん……」

 

 シャニにすすめられるまま、ひとつつまんで口に運んでみる。

 そのクッキーは少ししっとりめで、バターがしっかりと使われた、けれど素朴な味だった。

 店売りのものにしては大きさが均一でないから、手作りなのだろうか。とぼんやりそんなことを考える。疲れた身体にしみいるような、優しい味わいに口角が上がった。

 甘さが控えめなのもいい。普段、それこそ茶会でもない限りこういう菓子をあまり口にすることのないルクレにも、食べやすい味だ。

 

 さくさく、とクッキーをはじっこからかじっていると、シャニが白いマグを差し出してきた。

 昨日の夜には緑の薬湯が波打っていたそれに、今は透明な水が満たされている。

 水場もないのにどこから水を持ってきたのか、なんて愚問だった。シャニの右手のあたりでちょうど、小さな魔術陣がさらさらと空に消えようとしていた。水を大気中から生成して、飲めるように浄化したのだろう。

 野営や日常生活で便利だからか、この手の魔術は気負わずにできるのだ、この男も。

 その精度と手早さを日頃の授業でも見せてくれたら、教員たちも喜ぶだろうに。

 そんなよそ事を考えながら、ルクレは一つ目のクッキーを食べきった。

 そうして差し出された水で喉を潤しつつ、次の焼き菓子に手を出すかどうか少し迷う。

 シャニにとっては見知った誰かかもしれないが、ルクレには見知らぬ誰かなのだ。

 腹だけでなく理性まで蝕んでいたひもじさが落ち着いてくると、今度は、そんな見知らぬ誰かのおやつを果たしてどれだけ食べてもいいものか悩ましくなってくる。

 そうやってルクレがためらっていると、武骨な指が二枚目をつまんで唇にぐいぐいと押し付けてきた。目線をあげるとシャニもまた、黄金色をしたクッキーを自分の口に運んでいる。立ったまま食べるのは行儀が悪いと思ったのか、ルクレの視線に男はベッドの隅に腰かけてこちらに向き直った。

 

「ほら、遠慮してないで食えよ。なんなら俺が食べたことにしたっていいんだから」

 

 その言葉になんと返せばいいのかわからない。

 おまえに遠慮してるわけじゃない、とそれでもなんとか言葉を返して、ルクレは二枚目のクッキーを受け取った。

 礼を言う代わりに、ベッドの下でついたのか、それとも食料探索中につけたのか。シャニの耳元についていた埃に手を伸ばす。薄灰色のそれを指でつまんで風に飛ばしてやった。これでトントン、だ。

 

「お、ありがとな」

「別に……」

 

 にっと笑いかけられて、ふい、と目をそらした。

 そのままクッキーを食べることに意識を傾けている振りをする。空腹だったせいか、いや、昨日の疲れもあるのかもしれない。今日はなんだかうまく言葉が出てこなかった。糖分補給し始めたのに、舌も頭もまだぎこちない。

 

 でも。

 焼き菓子に舌鼓を打ちつつ、ルクレはこっそりとシャニを見やった。

 

 でも、この男がここに来ていたことが教員たちにばれなくてよかった、と思う。副学院長はちゃらんぽらんとした学長の分まで厳格なことで有名だ。しかもさっきのあの状況で見つかっていれば、論戦の矛先をずらすためにきつい罰則が与えられていておかしくなかった。

 

 級友が。

 ルクレはともすればそのカテゴリとは違った名前の箱に入りそうになる男を改めて「級友」とつけた箱にしまいなおした。定期的にやっておかなければ、勘違いしそうになる。こいつは誰にでもこうやって無責任に優しいのだ。ルクレだから、なんてそんな甘ったるい理由ではない。断じて違うのだ。

 それはさておき、「「級友」」が、自分のせいでいらない罰を背負わさせるようなことになれば、さすがのルクレも寝ざめが悪い。

 もしかしなくともルチウスにはばれていたのかもしれないが、言及されなかった以上どちらでも大して変わりはしないだろう。

 魔族たちは基本的にかなり気まぐれだ。一秒前の判断でさえ簡単にひっくり返ることがある。あれらのことをあんまり何もかもを気にかけていると発狂しそうで、ルクレはこと日常生活においては、魔族のことを深く考えないように決めていた。

 

 女になったことが魔族にも教員たちにも知られたことは仕方がない。諦めが肝要だ。

 どうにもならないことをどうにかしようと足掻くのはつらい。それにひどく疲れる。それでもやらなければならない時というものはままあるが、今回に関してはお手上げだ。

 ここから状況をひっくり返すことは難しい。ノスティークの根回しがどこまで及んでいるかもわからないのだし。

 おそらく、このまま生徒たちにも、貴族たちにも事は知られるだろう。ルクレティウス・リトグラト・リィが女になった、という事実はすぐに人々の噂を席巻するはずだ。しかも、こんな美少女に成り果ててしまった以上、問題ごとは避けられない。

 夏のあの日に死ぬまでのなるべく安穏とした生活を守るために、問題は山積みだ。

 

「──さて、ともかくいったん戻って着替えてから出直してくるか」

 

 いつの間にかクッキーを食べ終えたのか。ぱんぱん、と手を払いながらシャニが立ち上がった。

 

「ついでに食堂でも軽食か何かもらってくるよ。おまえがいくら小食だってそれじゃ足りないだろうし、先生方のあの様子だとそこまで気が回らないかもしれない」

「あ、ああ。頼んだ」

 

 そう言い残して立ち去ろうとしたシャニが、すぐに足を止めてこちらを振り返る。

 

 なんだ? 

 そう問いかけようとして、──はっとルクレは息を呑んだ。

 シャニの寝巻のシャツの裾が伸びている。伸びている、というか。ルクレの手が裾を掴んで引きとどめていた。しかも両手ともだ。

 手が勝手に出た。指が勝手に掴んだ。聞き分けのない子供みたいで、恥ずかしくてすぐにでも手を放したいのに、指が言うことを聞いてくれない。

 

「ん? どうした?」

「……な、んでもない。なんでもないんだ!」

 

 腹が鳴ったことなんて比べ物にならないくらい恥ずかしくて、ルクレはふるふると首を振った。顔から火が出そうだと思って、なのに頬からは逆に血の気がひいている。

 

「うん。そっか、なんでもないよな」

 

 うん、うん、と頷いたシャニの手で、こわばった指が一本一本丁寧に開かれていく。ごつごつとした指がルクレのそれへ熱を移すようにゆっくり、決して無理やりにではなく、なだめるように指を掴んでは動かした。

 そうされて初めて、ルクレは自分の手がひどく冷え切っていることに気が付いた。男の体温は燃えているように熱い。その熱に気を取られている間に、ルクレの指は裾から離されてシャニの掌に包まれていた。

 ──離れた。

 そう気づいた瞬間。ルクレはぱっと手を布団の内へとしまいこむ。間違ってもあんな粗相を二度としないように掌を硬く握りこんだ。握った指には、まだシャニの触れた熱が残っているような気がした。

 

「おし。じゃ、行ってくる。すぐ戻ってくるから、おとなしくしておけよ」

 

 今度こそ踵を返して、シャニはまた窓から外へ出ていく。扉から出たってよかっただろうに、本当にばかだ、

 その変わらないばかさ加減に少しだけ心が落ち着いた。こんなことが日常になっている男も、そうしてこんなものに日常を感じて安心している己も同じだけ頭がおかしいな、と苦い笑みが浮かぶ。それがさほど嫌な苦みではないことも、ばかげていると素直に思った。

 

 ひとりきりになった医務室でルクレは自分の身体を改めて見下ろす。

 女の体だ。どうしようもない、細くてやわらかい肢体。

 小さくて頼りない体は、幻覚という盾を失ってとうとう何の支えもなくなってしまった。

 だからだろうか。こんなにも心細いのは。あんなことをしてしまうくらい自制心が揺らいでいるのは。

 

 さらしの上から脂肪を掴む。

 掌の下でふにふにと形を変えるそれが、ルクレには憎たらしくてたまらなかった。

 

 

 

 



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rech4-4

 

 ──エディリハリアの貴族たるもの、いつ如何なる時も泰然と。

 

 それはリトグラト公爵家のみならず、エディリハリア王国の貴族に生まれた子どものすべてが教育係から真っ先に、そしておそらく他のどんな言葉よりも聞かされる貴族の心髄だ。

 

 焦りや動揺を表に出してはいけない。

 常に優雅に、悠然と微笑んでいなければならない。

 それは己のためであり、己の家のためであり。

 エディリハリアの国のためであり、何より民のためである。

 上の者が平静を失えば、下の者はそれ以上に取り乱す。

 だからこそ、国民を守る貴族として、常に泰然とあれ。

 

 と、まぁそういうことらしい。

 貴族には民に奉仕する責務がある、としてきたエディリハリアらしい心髄だと言えるだろう。もっとも、悲しいことにその奉仕の精神は近年形骸化してきている。今となってはその高潔な志の名残がこうして一種の慣習として残るだけだ。

 

 もちろんルクレもエディリハリアに生まれた貴族の嫡子として、この心髄を耳に胼胝ができるほど聞かされている。し、ノスティークやルチウスの手で身に染みるほど叩き込まれてもきた。

 

 リトグラトの子供はみなそうだ。

 厳格に定められた基準に達さなければ、屋敷から一歩も外へ出られない。来客と会うこともできない。

 今になって思えば、必要な躾で決まり事だったのだろう。

 なにせ屋敷の中を魔族が闊歩している、なんて話を外部に漏らされるわけにはいかないのだ。どんなときでも動揺せずに口をつぐんでいられる、そんな子どもになってもらわなければ困る。

 

 ただし。

 ただし、あれは8割くらい教育係側のストレス発散も兼ねていた、とルクレは思っている。絶対にそうだと、確信を持って言えた。

 だってそうでなければ、一切ひかりの差し込むことのない迷宮だとか、少しずつ水位が増してくる密室だとかに閉じ込められるわけがない。ステージ選択の時点ですでに悪意が溢れていた。

 どう考えてもやりすぎだ。

 しかも最悪なことにだいたい気が抜けているときを狙われる。そのせいで、便利な魔導具なんてものはたいてい手元になく。

 窮地に落とされながらも、ルクレはそのとき身につけていたものだけでなんとか切り抜けなければならなかった。

 装身具に魔導陣を刻む方法を覚えたのもこのころだ。身につけたままでいれば、少なくともそれらだけは持ち込める。

 なにせ教育中に死にかけても、魔族たちが手を貸してくることはない。なんだか楽しそうにこちらの様子を観戦している声だけが、どこか遠くから聞こえてくるだけだ。

 自力でなんとかできないのなら死ね、と言わんばかりに。

 

 ああクソ。僕が秀才でよかったな! と心の中で吐き捨てつつ、必死に足掻いた日々のことを、ルクレは今でも昨日のことのように夢に見る。まさに悪夢の日々だった。

 

 閑話休題。

 

 ともかく、そういう教育を受けていたのでリトグラト公爵家のこどもたちは「いつ如何なる時も泰然と」なんていう心髄を当然のように身につけて、自然にこなしてみせた。

 死の危機に直面し続けるとどうにも感覚が麻痺してしまうのだろう。

 とあるご先祖は目の前に凶刃が迫ってもなお、微笑んでみせたらしい。それどころか、刃にその身を貫かれた瞬間でさえ、浮かべた笑みを欠片も崩さなかったという。

 ルクレもまた、その心髄を体現していると他人から誉めそやされる程度にはツラの皮が厚くなった。並大抵の刃物では通らなくなるほどの厚みが自慢だ。自然と、被る猫も増えた。

 

 だからそう、くどいようだがエディリハリアの貴族はまかり間違っても、人前で焦って取り乱したり、大声なんて出したりしないのだ。 リトグラト公爵家の子であればなおのこと。

 それはとってもはしたなくて、何より子どもじみたことなので。

 

 けれど今、ルクレは教育を忘れたように、心をかき乱す焦りを表情にも態度にもありありと示していた。

 なんなら喉が張り裂けんばかりの大声も出ていた。

 

「ぜったいに嫌だ!!!!」

 

 いっそ悲痛なまでの叫びが医務室にこだまする。あんまり声が大きかったのか、風もないのに真っ白なカーテンがぱたりと波打った。

 

「──でも、お兄様」

 

 その原因は、目の前に立つ少女だ。ルクレの動揺とは対照的に、彼女は落ち着き払っている。

 学生服を身にまとった、たったひとりの年下の少女にルクレの思考回路は乱されていた。今にも床に座り込みそうになるくらい、膝ががくがくと笑っていた。

 

「わがまま言わないでください、ね?」

 

 困ったように、悲し気に、その整った眉を寄せて義妹は言う。

 ぐ、とルクレは下唇を噛んだ。我儘なんかじゃない、と言い返すことがどうにもできなかった。ただでさえどこか悲しそうな雰囲気を漂わせるニアにそういう顔をされると、自分の方が悪いことをしているような気分になる。

 やめてほしい。過去の事例はともかく、この件に関してはこちらに一切非はないので。

 

 そうだ、自分は悪くない。

 だって、こんなのおかしい。

 

 知らず知らずのうちに震え出していた手足に鞭打って、ルクレは義妹と向き合った。一瞬しっかりと見つめ合い、熱い物に触れてしまったように目をそらす。

 

 こちらをおずおずと見つめるニアのその手には、白くてレースがこまやかで清楚な風情を漂わせた、下着がある。

 

 そう。

 下着だ。

 

 下着。

 

 それも女性用の下着だ。

 色気のない言い方をするとそうなるが、これはたぶん、おそらく、ランジェリーと呼称した方がふさわしいのかもしれない。

 やけに精緻なレースとフリルはおそらく魔導を使わない、手作業のものだ。ちまたにあふれる大量生産品ではない。どれだけの時間と手間がかけられたのか、ルクレには想像もつかなかった。素材も、上等の絹あたりを使っているように見える。

 

 つまり、かなりの高級品だった。

 それを今、ニアに差し出されている。

 誰が? 

 ルクレティウスが、だ。

 

 どうして、と叫びたかった。

 いったいなにがどうしてこうなってしまったのだろう。

 

 女性の下着に詳しくないルクレにも、義妹の手にあるそれが胸部につけるものだということくらいはわかった。間違いなく下半身用のものではない。

 そして、そのサイズからしてどうやら義妹のものではなさそうなこともまた、なんとなくだが、わかる。

 あいつの胸部についている脂肪はなにせ馬鹿みたいな大きさなので、おそらくこのサイズでは無理だ。あの重さを支えきれない。

 つまり、義理の身ではあるが、自分のいもうとが、いきなり自身の下着を見せつけてくるような痴女になったわけではない。

 なら、それ──真っ白でふりふりのランジェリー、なんてものがなぜ義妹の手元にあって、自分に差し出されているのか。

 考えなくてもわかる。現実を突き付けられて、けれど受け入れられずにルクレはうめいた。

 

「兄様が今どうされているのかは知りませんけど……下着くらいは身体に合ったものをつけたほうがいいと思うんです」

 

「いい、いらない。さ、さらしを巻いてるんだ。僕はこれでいい。十分だ。おまえみたいに法外な大きさしてないし」

 

「はぁ、わたしは確かに人よりちょっと大きいほうですけど」

 

「ちょっと!?」

 

 思わずまた大きな声が出てしまった。

 道行く青少年の目を奪いつくすような凶器をぶら下げておいて、よくしゃあしゃあとそんなことが言える。

 ルクレは知っているのだ。ニアの胸部への関心意欲態度で女子生徒が男子をランク付けしているのを。

 ちなみに高ランクの男子は優良物件で、ランクが下がれば下がるほど女子から親の仇のような目で見られることになるらしい。

 加えて言えばルクレはもちろん高ランクで、シャニもそこそこ上の方にいたはずだ。

 まぁ、あいつは女の胸の大小とかそんなに興味ないタイプだし。意外性はない。

 どうせ『好きな胸の大きさ? うーん……好きになった人の大きさ、か?』なんて言うのだろう。おもしろみのないやつめ。そんなんだからいつまで経っても魔術も魔法もからっきしなんだ。

 

()()()()、です。だいたい、胸の大きさなんてそんなこと関係ありません。身体に合った下着をつけるのは淑女のたしなみですよ? だいたい、さらしなんて苦しいでしょう? 包帯で胸を締めあげているのと変わらないんですから」

「ぐ……」

 

 それは確かにそうなので言い逃れが出来ない。今こうしていても若干息苦しいし、魔族との追いかけっこのときもずっと呼吸がし辛かった。もちろん女の身体になって体力が落ちたことも大きいのだろうが、さらしのせいじゃない、とも言い切れない。

 

「──わかった、百歩譲ってそれをつけてやるとして、だ。ひとりで着られる。おまえの手をわざわざ煩わせるまでもないね。……ほら、さっさとよこせ」

 

「だめです。おんなのこの下着はたいへんなんですよ、お兄様」

 

 譲歩して出した提案は、けれど軽々と一蹴された。だめだ。取り付く島もない。ニアの藍色の瞳は、怯えたように伏し目がちなくせ、まっすぐにこちらを見据えていた。

 いつもあんなにおどおどしているくせに、こいつはわりと頑固なのだ。日常の九割がたを周囲に流されて唯々諾々と過ごしているのに、一度こうと決めたら梃子でも動かないし覆さない。

 ああ、クソ。

 ルクレは思わず天を仰いだ。神様がいるのなら殴り倒してやりたい気分だった。

 

 次回以降の繰り返しの中でもしも、万が一、億が一、京が一にでもまた女の体になることがあったなら。

 もちろん、そんなことは起きない方がいいのだが。

 けれどもしも、もしもこんなありえないことがまた起きてしまったら、そのときは。

 

 ──次は、絶対に絶対に誰にも、魔族にだってバレないような方法で隠し通してみせる。

 

 ルクレはそう、心に固く誓った。

 

 ことの始まりはほんの五分ほど前に遡る。

 



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rech4-5





 

 そのときルクレはベッドの上に身を起こして、何をするでもなく晒しの下の胸をもてあそんでいた。

 もてあそぶ。

 それ以外に言い表し方がない。手のひらを押し当てて肉の塊をむにむにと揉む。そこに下心はなかったが、いくらかの興味はあった。昨夜の大立ち回りでの反省もある。

 これまで自分の現状から目をそらしてきたせいで、体の状態をちっとも把握できていなかった。走り出すまでは、あんなに体力が落ちているとはさすがに思っていなかったし、あそこまで足が遅くなって動きにくくなっているとも思っていなかったのだ。

 もっとも、突発的に生えてきた今日の余暇さえなければそのあたりの問題と向き合うのをちょっと先送りにするつもりだったのだが。

 でもまぁ、予想外とは言え暇ができたのだからいつまでも先送りにしてもいられない。

 包帯できつく押さえつけていてなお、その部位はふにふにとやわらかかった。

 他人についているときはただの脂肪の塊にしか思わなかったが、自分についてみるとこれは手慰みにちょうどいいかもしれない。こうやって揉んでいると思考が無に近づいていくような気がした。いつも勝手に回る脳みその動きが鈍くなり、余計なことを考えずに済む。

 ただしこの脂肪の塊を胸部にぶらさげているのは、日常生活においては邪魔だ。とも思った。かなり邪魔だ。

 揺れるとやっぱり痛いし、さらしは胸部を締め付けて苦しい。これを巻いたまま走り続けるのは新手の拷問にも等しいように思えた。

 世の女性はどうしているのだろう。ルクレよりもこの胸部の脂肪が豊かな人たちは、特に。

 

 そうやって徒らに虚無へと近づき始めた思考に歯止めをかけるように、こつこつとノックの音が響いた。

 

 ──シャニ、だろうか。それにしてはやけに早い。

 

 壁にかかった時計を見てみても、少なくとも朝食と着替えを済ませて戻ってくるような時間ではない。ような気がする。しかもあいつが扉から入ってくるかはかなり怪しい。ノックをするかどうかもだ。ということは教員か魔導医か。

 ルクレは手慰みでやや乱れた胸元をさっと整えて居住まいを正した。さもベッドの上でおとなしくしていました、という顔を取り繕う。

 と、もう一度ノックの音がしたかと思うと、返事を待つことなく扉が開かれた。扉の隙間から、見慣れた灰色の頭が覗く。

 ニアだ。

 ルクレはついさっき正したばかりの姿勢を少し崩して、背もたれ代わりの枕に寄り掛かった。義妹が相手ならかしこまる必要は無い。昨日の疲れはまだ色濃く残っているのだ。少しくらい楽がしたかった。

 

「兄さま? あの、入っても、かまいませんか?」

「扉を開けてから聞くやつがいるか。どうせ駄目だって言っても入ってくるつもりだろ……いいよ、さっさと入れば?」

「そ、そんなことありません。……では、失礼します。あ、ルッチ。あなたはそこに残ってください」

「ええ、ええ。畏まりました。こちらに控えております。御用がございましたらすぐお申し付けを」

 

 開いた扉の隙間から滑り込むようにニアが部屋に足を踏み入れた。朝と違って純白の制服に身を包んでいる。その背後にはルチウスの姿も見えたが、なぜかそれ以上入ってはこない。にこにこと微笑んで扉が閉まるのを見送っている。

 

「それで? おまえたちも朝礼に付き合うんじゃなかったのか?」

「それが……ルッチが飽きてしまって。朝礼が始まってすぐお話合いが紛糾し出しはしたんですが、さすがに最後の一線を越えたりはされなさそうだったので」

「へー、ざまぁないね。……で、なんで来たの。その包みの件?」

 

 朝礼についていきはしたものの、期待していたほど火種が燃え上がりそうにないからと退散を決め込んだらしい。

 さもありなんと言ったところだ。人間は魔族より自制心がある。特に教員なんて立場の人間がその場にそろっていて、そうそう簡単に血を見るようなことにはならない。ルチウスの望みが叶うわけないのだ。

 ただ、そうだとして自分に何の用だろう。

 何も用事がなければこの義妹が自分のところにわざわざ来るわけがない。そうして、彼女の手に何か、紙袋のような小包が握られているのをルクレは見逃していなかった。

 

「はい、さ、さすが兄さまですね……。あの、制服、は学院側の判断を待たなくっちゃいけませんけれど──さすがに下着はおんなのこのものをつけていただこう、と思って」

「──は?」

 

 ニアのたどたどしい言葉に思わずそう聞き返す。

 今、彼女は何と言った? 

 口から思わず飛び出した率直な疑念に、ニアは手に持った紙袋を開いて中身を取り出すことで答えて見せた。

 

「おんなのこ用の下着、です。今はまだつけてらっしゃいませんよね? 兄さま」

「……」

「付け方も、わかりませんよね?」

「…………」

 

 どう返せばいいかわからない。

 日頃はあれだけ動くルクレの口は、今に限ってまるで縫い留められたように開かない。舌だって強張って少しも回らない。

 ただかちこちと時計の針が進む音だけが部屋に響いた。

 その、短くけれど確かな沈黙が何より雄弁な答えになった。

 

「はい、ええ、そう。そうですよね。つけてる、とか、わかる、って言われた方がびっくりです。なので、その。

 ──付け方から、教えて差し上げますね……」

 

 そう言ってニアは微笑んだ。見る者の目を奪うような笑みだった。

 目線が伏せられがちな義妹の顔は、髪や影で隠れがちなだけで整っていて可憐だ。特に微笑んでいるときは、どこか少し怯えたような雰囲気も併せて、それはもう他者の庇護欲をそそる。ルクレを艶やかな薔薇にたとえるなら、彼女は楚々としたジプソフィラ(カスミソウ)だと言った貴族がいたがまさにその通りだろう。

 自分が守ってやらなければ。

 見る者にそう思わせる、雨に濡れた花のようなさびしさを纏った弱弱しい少女。

 それでもルクレは彼女が怖い。彼女のそういうところこそ、とても。

 

「──ぜったいに嫌だ!!!!」

 

 と、まぁここまではそういうあらましだった。

 現実逃避は以上で終わり。思考の時間軸を目の前の現実に戻してみると、相変わらずの光景が広がっている。

 ニアの手の中には真っ白な下着があって、それをルクレに差し出す少女は困ったように眉を寄せながらもこちらから視線を外そうとしない。

 冷汗がだらだらだらだらと背筋をつたっていくのがわかった。

 これはもしかしたら、魔族に襲われていたときよりも身の危険を感じているかもしれない。それくらいとにかく冷静ではなかった。自覚はある。思考回路も十全ではないが機能している。それでも平静を取り戻せない。混迷の渦に叩き落されたような気分だ。

 が、わかっていることも少なからずある。

 それは、時に人間には、命よりも大事なものが存在するということだ。

 ルクレにもそういうものがある。

 ──尊厳だ。

 ここでニアに屈することはルクレにとって尊厳の死を意味していた。

 

「でも、付け方はおわかりになりませんよね?」

「だから! ほ、方法さえ口で伝えてくれれば、自分でできると」

「本当にできますか? でも、つけた後に正しいかどうか確認しなくちゃいけませんよ? 私が嫌だということでしたら、ルチウスに頼みましょうか? 私か、ルチウスですよ。兄さま」

「ぐ……っ」

「──もしやお嫌なんですか!? 坊ちゃん?」

 

 扉の外からも追撃するように何か妄言が聞こえてきた。部屋の中の音が、それもたいして大きくもない声が、閉じた扉の向こうに聞こえていることはもうどうでもいい。相手は魔族だ。聞こえていないわけがない。

 ──嫌なんですか、だって? 

 ルクレは思い切り顔をしかめて深々と溜息までついた。

 逆に何を持って嫌じゃないと思っているのだろう。ルチウスがこれまで屋敷の使用人を何人だめにしてきたかわからない。義妹につきそって学院にいるようになってからだって、何人の生徒を手籠めにしてきたことか。

 自分の被害者を数えてからものを言え。

 そう言ってやりたい気持ちをなんとか抑え込む。ここでこいつに少しでも構えば、ちいさな火種が空高く燃え上がる炎になることは目に見えていた。

 

「……わかってると思いますが、ルチウスだった場合は、ついでにたのしいことを教え込まれることになると思いますよ」

 

 だってほら、あんなにはしゃいでるんですもの。

 閉ざされた扉に、おそらくはその向こうにいる護衛へと向けられたニアの視線は冷え切っている。

 義妹の細い指がするりと絹の下着を撫でた。

 冷汗で濡れた背筋を、言い表しようのない悪寒が駆け抜けていく。

 

「この下着だって、ルチウスが用意したんです、サイズはぴったりだと思うって」

「装飾も坊ちゃんに似合いかと思いますがっ! いかんせん目測ですので! ええ、ですので実測させて頂けますと幸甚の至りです!!」

 

 浮ついた妄言がその後もつらつらと続く。だが、聞こえなかったことにした。聞こえないったら聞こえない。ルクレはそっと耳に手を当てた。こんなことで外界の音を遮ることはできないけれど、気持ちは少しだけ楽になる。

 ああ、どうしてこんなことになっているのだろう。昨日からなんだかかんだと艱難辛苦が立て込みすぎているような気がする。

 

「なんであいつはこんなに機嫌がいいんだ……」

「機嫌がいいに決まってます。だって、──ルッチは兄さまみたいなおんなのこが好みでしょう?」

「はァ!?」

 

 声が裏返る。ニアはそれまで浮かべていた意味深な微笑みをやめてきょとんとした顔でこちらを見つめた。藍色の瞳が驚いたように丸く見開かれる。

 

「知らなかったんですか?」

「知ってるわけないだろ……?」

「し、知っているものだと思っていました。その、かわいらしいお姿もルッチの趣味なのかとばかり」

 

 違ったんですね。義妹の素直な問いにルクレは溜息で返した。口を開くだけの体力がなかったのだ。

 なりたくてこんな身体になったわけじゃない。だいたいかわいいってなんだ。趣味ってなんだ。

 ルクレが知っているのは、ルチウスという魔族が女を侍らせて遊ぶのが好きだ、ということだけだ。趣味嗜好なんてあんまりにもおぞましくて知ろうと思ったことさえない。

 

「……まぁそれはさておき。下着の付け方のことを棚に上げたとしても、です。たとえあらゆる建前を棚に上げても、それでも逃れられないのはおわかりでしょう?」

 

 ね? と同意を求める様にささやいて、それからニアはルクレにじりじりとにじり寄った。

 ベッドの上に腕と膝をついてゆっくりとこちらへ迫ってくる。

 ぎしりとベッドが二人分の体重を受けて軋んだ。

 灰色の髪がさらさらとルクレの肩口をかすめて流れる。互いの呼気が頬にあたるようなところまで顔を寄せて、義妹は動きを止めた。

 後ずさりたくなる気持ちを必死に抑えて、ルクレはニアに向き合った。奥底にどろりと諦念が溶けた藍色の瞳と見つめ合う。

 

「わかってらっしゃるでしょう? 私は、兄さまのお体に本当に異常がないのか、確かめないといけません。だって私たちはおじいさまの所有物で、どんなささいなことであっても報告の責があるんですから」

「それは、それはおまえに言われなくたってわかってる。わかってるけど……いい、だろ。べつに」

 

 ──別に、僕がどうなろうとおじいさまは気にしない。

 

 喉からこみあげてきた言葉にルクレは慌てて口を閉ざした。頬の内側の肉をきつく噛み締める。

 それは、絶対に言いたくない言葉のはずだった。骨身に沁みるほど理解はしていても、口に出すことだけはしたくなかった。そのはずだった。

 それも、父祖の関心を一身に受ける義妹相手に、こんなことを言うなんて絶対にありえない。

 その関心が歪んだものであることを、ひどくおぞましいものであることを重々承知の上で、それでもルクレは、ニアに嫉妬してきた。今も、妬心がまったくないと言えばうそになる。

 

 だって、ずっとほしかった。

 父祖の関心。期待。なんでもよかった。

 あの褪せた翠の瞳が自分の上に焦点を結ぶ日をずっとずっと夢に見てきた。それだけが望みだった。

 700何十回と人生を繰り返してきても、いまだにそんなばかみたいなことを心のどこかで夢見てしまう自分がいる。

 だから、ずっと認められなかった。

 自分がどうなろうと誰も、父祖も気にしないなんて。

 認めるわけにはいかなかったのだ。

 なのに今。一瞬とはいえ、迷った。

 そんな言葉を口に出すか、どうか。ニアから逃げ出したくて言ってはいけないことを口走ろうとした。

 

 落ち着け。落ち着くんだ、ルクレティウス。

 抵抗していても、いいことなんて何もない。そうだろう? 

 

 今でこそまだ扉の前でおとなしくしてくれているが、ルチウスが出張ってきたら本当におわりだ。

 ニアの言葉とルチウスの態度からして、ただ体の状態を確かめるだけ、下着の数値を測るだけ。なんて生易しいことには絶対にならない。

 しかも、おそらくこのままだとシャニがここに戻って来て鉢合わせすることになる。

 あいつはくる、なぜならタイミングが悪いことに定評があるからだ。

 ニアだけならば、シャニが来れば止まるかもしれない。

 何百回という繰り返しの中であの二人がいい仲になっていたこともあったし、何よりニアにはまだそのあたりの自制心がある。 思い人の前ではしたない真似なんてできっこない。

 できっこない、はずだ。

 

 でもルチウスなら。あの魔族ならきっと、誰がやってきたとしても止まらない。それどころか嬉々としてその場をかき回すだろう。すべては闘争の為に。

 そんな修羅場に、シャニがくる。

 それだけは、それだけは避けたかった。避けなければならない。なんとしてでもだ。

 あいつの前でこれ以上の無様はさらせない。

 

 ルクレはごくりと唾を飲み込んだ。覚悟はまだ決まらない。

 身体はこの場から逃げ出したがっていて、心は、尊厳はまだ死にたくないと叫んでいる。

 それでも、やらなければならなかった。最後の一線を死守するために。

 

「……っお、お手柔らかに、たのむ……」

 

 義兄の振る白旗に、絞りだされた声に、ニアはただ微笑んでみせる。

 

 それは、死刑を告げるような、ただひたすらに慈しみに満ちた笑みだった。

 

 





ルクレティウスが時折見せる胸部に付属した脂肪への執着は、おっぱいへの恋しさに由来している


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inter.4 あなぐらのぬし


 interは本編外の、いわゆるおまけ要素です
読み飛ばしても問題ありません



 

『穴倉』の扉に手をかけるとき、ルクレの胃はいつもキリキリと痛んだ。

 胃痛の原因は主にストレスだ。

 恐怖と、憎悪と、怯えと。そんなものを感じている己への羞恥。複雑な感情が入り混じって胃腸に大きく負担をかけている。臓腑から苦い液があがってくるほどの疼痛にさいなまれながらもルクレは扉の前に立たなければならなかった。

 

 穴蔵の中には化け物がいる。怪物だらけのこの屋敷の中でも、指折りに自分と相性の悪い相手が。

 寝ているといいと思う、いっそそこにいなければいい。

 でも、そいつはたいていそこにいる。

 眠っていることはほとんどない。基本的に、魔族には睡眠も食事も必要ないからだ。

 

 穴蔵の中でそいつ、イウミュアナは、床から天井まで所狭しと詰め込まれた魔導具の合間を踊るように見回っている。桃色をした短い髪とやけに短く足を露出したメイド服の裾とをひらひら揺らしながら。

 イウミュアナは、メイド服を着ているけれどメイドではない。

 魔導具技師だ。

 服装はただただ趣味なのだという。その趣味が本人のものなのか、それとも伴侶であるノスティークのものなのかは定かではない。どうしてメイド服なのかも、だ。

 が、ノスティークの趣味だったならおもしろいのでルクレはそう思うようにしていた。実際のところはどうだっていい。あの皮肉屋が恋人にメイド服を着せるなんてなんとも俗っぽくて笑える話だ。そう思っていれば日頃の溜飲もいくらか下がる。

 そんなイウミュアナの主な業務は屋敷に保管されている魔道具の管理。それからそれらの調整だと聞いていた。いつ使われるのかも定かではない魔導具を、いつでも使える状態に保つこと。それがそいつの仕事だった。

 

 ぎぃ、と軋んだ音を立てて穴倉へ続く丸扉が開く。

 この狭い穴倉の室温と湿度、そして魔力はいつも一定に保たれている。学院の結界の内部と同じように。

 というより、学院で使われているイルミトセの天蓋の試作品がここに保管されているのだ。試作品であるためいくらか機能は劣るが、狭い穴倉には十分に作用していた。穴倉というだけあって屋敷の地下にあるというのに、ここはいつだってからりと乾いている。

 ぼんやりとした薄黄色の灯りが照らす細い道をルクレはゆっくりと歩いた。

 ここはいつどこを見ても汚れやごみはおろか埃のひとつも見当たらない。ネズミや虫が生きていけないほどに掃除が行き届いている。穴倉の主の仕事の成果だ。その偏執的な手つきを思うとどうにも胃液がこみあげてくる。苦く生ぬるい酸が食道をじりじりと焼いた。最悪の気分だった。

 それでもルクレが、胃が痛むほど寄り付きたくない場所にそれでもわざわざ足を運んでいるのにはわけがあった。

 

 ──本邸には『リディキオンの楼閣』という魔導具がある。

 小さな机くらいの大きさで、千年樹の台座の上に太さが異なる精霊鋼が半球を織りなすそれを、別名『空論の机』と言った。

 それは、特定の制約を満たさなければ作動しないような魔法さえ作動させられる、という理外の魔導具だった。もっともそれはこの魔導具の中でのみの話だ。発動させた魔法で現実に影響を与えることはできない上、制約の内容をかなり厳密に設定しなければならなかったり、魔法陣を一分の歪みもないほど精緻に描かなければならなかったりと発動までの条件は厳しい。

 たとえば勇者の剣であれば、魔法陣もそうだが、発動に必要となるともしびの魔力の性質を詳らかにしなければならない。机上の空論であってもそれを語るだけの論拠を示す必要がある。

 ただし、それだけの労力を傾ける価値がある魔導具だ。ルクレはそう思っている。なにせこれで魔法を再現することができれば、少なくともその魔法陣と理論は正確だという何よりの証明になる。遠い昔に失われた魔法に再び息を吹き込むことができるのだから。

 けれどその魔導具は、厳重に魔術鍵がかかった小部屋にしまいこまれている。世界に片手の指ほども現存していない稀少なものだ、仕方ない。

 そんな貴重なものだったが、以前は他の魔導具と比較してもよく使われていたらしい。地下階段を下りて向かわなければならない穴倉から便利のいい二階の小部屋に持ち出されているのはそのためだった。ルクレはそう聞いている。だが、今ではほとんど使われていない。そのはずだ。少なくとも自分以外にこれを使用している者を見たことはなかった。

 その部屋の鍵がここ、この穴倉に保管されていた。

 と、いうかルクレからすると困ったことに、たいていその鍵をイウミュアナが持ち歩いているのだ。父祖は鍵がなくても部屋に入れるし、その他の誰も『楼閣』に用事がない。そのせいで万事が万事、イウミュアナの裁量に任されてしまっている。

 はぁ、と深いため息がこぼれた。あの鍵がイウミュアナの手になければ、こんな胃痛と付き合わずに済んだのだ。

 そうやって考え事をしているうちに、細い道の先がやや開けた。やっと穴倉へとたどり着いたのだ。

 穴倉は広さはそう広くないのだが、天井がやけに高い。なんらかの魔導が作用しているのだろう。降りてきた深さと比べても部屋の天井が明らかに高すぎる。

 整然とした、とはとても言えない物の溢れ方をしているその場所をルクレはぐるりと見渡した。けれど、そこには目立つ桃色の頭も白黒のメイド服の影もない。物の陰に隠れているのか、あるいは。

 どちらにしろいちいち探すのは面倒だ。ルクレは壁をこつこつと叩きながら声を上げた。

 

「──どこだ、イウミュアナ」

「……ハーイ、ここだよぉ? またあれ使いに来たのかなぁ?」

 

 それ以外で坊ちゃんはこんなとこ来ないもんねぇ。

 にやにやと笑いながら、イウミュアナが上から降ってくる。道理で見当たらないわけだ。天井に吊り下げられた魔導具の調整をしていたのだろう。足の踏み場がなかなか見つからない床の上に、そいつはそれでも器用に隙間を見つけて着地してみせた。ふわり、とメイド服のエプロンが風をはらんで膨れる。

 

「ぷーくすくす、それで? それで? 今度は何をやらかす気ぃ?」

「おまえに言う必要があるのか?」

「なーい! でもさぁ、このまえの翼のアレで懲りなよねぇ」

 

 この前。翼のあれ。……去年の秋休みのことだろうか。

 前科を持ちだされて心の中で顔をしかめた。一年も前のことを持ちだしてくるなんて相変わらず根に持つやつだ。それはルクレからするともう終わった話なのだが。

 去年の秋休み、確かにルクレは例の小部屋の壁を二枚ほど吹き飛ばしている。

 ただ、聖女の持ちえた奇跡の翼、なんて大魔法の再現を試みてあの程度の損壊で済ませたのだ。壁の一枚や二枚かわいいものだろう。ルクレとしては己に責はないと主張したかった。大いなる成功にいくらかの失敗はつきものであることだし。

 折檻を長引かせないために口を閉ざしているだけの理性はあったのであの時はおとなしく反省してみせたが、今でも自分が悪かったとは思っていない。

 繰り返すようだが、成功への道は失敗でつくられる。というのがルクレの持論だ。要はあの日の失敗を今後の試行に生かせばいいのだ。

 

「だいたいあんなのねぇ、再現できっこないんだから! ああいう生得魔法は血か魂に根を張ってるんだもん、条件を解き明かしたりなんて絶ッ対にできないよ。……ま、僕としては大歓迎だけどね? おまえがなんかやらかすとノスティークが帰ってきてくれるからさぁ」

「うるさい、黙れよ色狂い」

「はァ???」

 

 どこからともなく鍵を取り出してイウミュアナはにやにやと笑った。金色のそれを見せびらかすメイドに手短に、けれど遠慮なく言い返す。

 ここだとお互いに手を出すことはできない。口だけだ。周囲に障りがありすぎる。

 この部屋にある魔導具の多くは父祖の手によるものだが、もちろんそうではない物もある。そういった物はたいていあまりにも古すぎて開発者はおろか構造が理解できるものさえこの世にいない。ロゥク・ルゥであれば、あるいは。というところだが、あのひとは自分で作ったものでさえ放置しがちだ。興味が失せやすいひとだからしかたがないが、そんな父祖が勝手をして壊したものをわざわざ直してくださるとは思えなかった。

 だいたいイウミュアナだって調整はなんとかできても、修理はできないものの方が多いのだ。

 そうなるとルクレはもちろん、さすがのイウミュアナも穴倉の中でだけはわきまえる。報復があるとすると穴倉の外でになるが、こいつはなんだかんだ言っても職務には忠実だ。仕事を放り出して私欲のために動くことはほとんどない。

 

「借りてくぞ。後で返しに来る」

 

 その節くれだった手から鍵だけふんだくって、ルクレは足ばやに穴倉を出た。行きは歩いた細い道を帰りは駆け抜けていく。

 背中に浴びせられた哄笑は聞かなかったことにした。

 

 なにせルクレには時間がない。

 自分たちは秋の長期休みの間しか屋敷には帰れない。そして当然だが、リディキオンの楼閣を屋敷から持ち出すことは絶対に許されない。

 だから、己の望みを叶えるためにはこの限られた秋休みの時間を有効活用するほかないのだ。

 ルクレの、望み。

 それは、かつて、遠い遠い昔に失われた奇跡の魔法の再現。

 

 たとえば、救世の英雄が使ったという焔の剣。

 

 たとえば、聖女のその背にあったという魔法の翼。

 

 それを蘇らせることができたら、きっとおじいさまだって。

 きっと。



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rech.5-1 当然だ、このくらい

 

 

 ──熱心に本を読んでいる人間に声を掛けることは難しい。その相手が勤勉であったり、優秀であったり、美人であればなおさらだ。

 と誰かが言った。

 

 誰が言ったか知らないが、まさしくその通りだとルクレも思う。

 

「なぁ、今日の放課後どうする?」

「私は時間いっぱい外かなぁ、今日こそ指導役捕まえるんだ」

 

「実技指導が一番いいのはやはり3年の先生なんでしょうか?」

「でもわたくし、先達の方に意外と1年生の担任の指導がよいのだと聞いたことがありますわ」

 

「腹減ってるからちょいメシ行ってくるわ!」

「じゃあ先行ってっから~」

 

 放課後の教室には授業から解放された生徒たちのざわめきが満ちている。

 

 ルクレもまた、ひとり席に着いたまま自室から持ち出した書物に目を通していた。

 視線は開いた本の文字列を追ってはいるものの、その内容はというと思考を上滑りして消えていく。一度ならず百度くらいは読んでいる本だ。特に目新しい発見もない。

 ルクレは涼しい顔でページをめくりながらも、頭の中ではまったく別のことを考えていた。

 

 ルクレが考えるに、誰かが提言したというあの思考の根底にあるものは無視されることへの恐怖だ。

 自分から相手に接触する、という能動的な行動をとること自体が既に一つのリスクだとして。

 リスクを背負った行動に出たにもかかわらず見返りがない、どころか無視される、なんて自尊心にどれだけの傷を負うことだろうか。

 いくら何かに集中しているのだとしても、いやだからこそお前はそれ以下だと言われるようで、ルクレにはまず耐えきれない。

 無理だ。

 それでもたとえば、相手が怠惰なら、愚鈍なら、醜怪なら、──自分よりも劣っている者だったなら、まだなんとか言い訳が立つかもしれない。

 相手が、その劣等ゆえに優れた自分を直視することができないのだ、とか。

 けれど、自分よりも優れた者、あるいは、対等だと思っている者に無関心な態度をとられたとき、人は無傷ではいられない。

 

 だって、おまえは蚊帳の外だ、と明確にそう示されたとき。

 ぎちり。

 一定の速度でページをめくっていた指が無意識のうちに動きを止めて、紙面に深く皺を寄せる。

 

 自分は誰にも顧みられないのだと改めて突き付けられたあのとき、僕は。

 

 ──自分でも気づかないうちによろしくない方向に転がり始めた思索をルクレは慌てて打ち切った。

 これ以上はよくない。よくないというかだめだ。

 それについてはもう考えないことにしたのだ。

 自分にはどうにもならないことをそれでもどうにかしようと足掻く日々にはもう疲れた。疲れてしまった。

 いくら繰り返したところで際限はない。だってどうにもならないのだ。どれだけ無様を晒しても望みが叶うことはなく、ただ心も体も馬鹿みたいに消耗するだけ。

 だから、煩くわめく感情に蓋をして鍵をかけて、そうしてもう触れないことにした。目減りしていくだけの心をこれ以上すり減らさないために。

 

 ──考えない、考えない、考えない。

 

 心の中で呟いた言葉を重石代わりに蓋の上に積み重ねる。万に一つも開くことがないように。

 これまでだってずっとそうしてきたのに、最近どうにも駄目だった。

 ルクレは周囲から悟られない程度に、ほんのわずかに眉をしかめた。

 700何回も人生をやってきたせいか、蓋がどうにも緩んできている。今までうまい具合に見なかったことにしていたことが噴きあがって思考の隙間に入り込もうとしていた。

 それもこれもこの身体のせいだ。

 こんな、女の身体のせいだ。

 狂った運命を罵りつつ、知らず知らずのうちに力を込めていた指先からゆっくりと力を抜いていく。うっかり本を駄目にしてしまうところだった。

 紙面に寄った皺を爪の先でぴんと伸ばし、脇道にずれた思考を軌道修正する。

 

 つまり、つまりだ。

 先ほどの誰かの言葉に従うのなら、優秀かつ勤勉でしかも美しい自分が集中しているところに声を掛けることはきっと難題になる。

 そのはずだ。

 

 ルクレは、さも本の内容に熱中しているように振舞いながら、そっと背後に気を配る。

 いまだに男子用の制服を着続けている背中に今日も今日とて突き刺さるいくつかの視線。

 その煩わしさに心の中だけでまたひとつため息をついた。

 

 

 

 ルクレが経過観察という名の医務室生活を終える頃には、学院もまた平素の日常をなんとか取り戻していた。

 先日の魔物の襲撃に関しても、性別が変わったことに関しても、休んでいる間に教員たちから生徒にむけて「納得のいく」説明があったらしい。

 呪われた、ということになっているこの身体をどのように説明したのかはわからない。

 日頃は背を丸めてばかりの担任は「せ、先生に万事任せてください……!」と珍しく胸を張って言っただけで、どういった説明をするのか詳細までは教えてくれなかった。

 そのあとに「何も、何一つも心配されなくていい、ですから……ル、ルクレティウスくんはただ、ゆっくり休むことだけ考えてくださいね……ね?」と続いたあたり、おそらく、一夜にして女子になってしまった生徒にあまり負担をかけたくなかったのだろう。

 相変わらず優しいひとだ。疲れ切ったミネアの微笑みを思い出しながらしみじみと思う。

 その誠実さは得難いものだ。そういったところが生徒の過半数に軽んじられる要因のひとつとなってしまっているとしても。

 

 ともかく、教員たちの尽力のおかげで生徒たちから向けられる視線のほとんどは以前と変わらなかった。

 さすが百花。女性になっても変わらずうつくしい、とほめそやされたりする一方で、過剰にこちらを憐れむような視線はない。ちょっとくらいの憐みはまだ許容範囲内だ。

 多くの生徒たちの間には排斥でも憐憫でもなく、受容の雰囲気が漂っていた。

 おそらく、時期もちょうどよかったのだろう。

 校内に閉じ込められて娯楽の少ない冬のただなかではなく、春の気配が色濃くなり始めた冬の終わり。

 そろそろ新学年が見えてきたこともあって生徒の多くは浮足立っていた。

 それは、短くも待望の春を迎えるから、というだけではない。春の終わりに行われる、とある催しもののせいだった。

 

 ──エヌフォーリア学院祭。

 

 学院の名前を冠するだけあって、この行事は生徒も教員も総力を挙げた催事になる。

 智を競う研究発表の部と武を競う魔導大会の部とで文字通りのお祭り騒ぎが1週間も続くのだ。

 気の早い生徒たちは今から準備に忙しくしている。

 この学院祭で優秀な成績を修めたりあるいは周囲の目を惹くことが将来の就職に繋がっていくのだから、それも当然かもしれない。そんな中で1生徒(ルクレ)のことを気にしてばかりではいられないのだろう。

 貴族階級の、就職にさほど興味のない生徒もまた、学院に漂う高揚した空気に充てられて浮つきがちな時期だった。

 そういう生徒はかわいいものだ。かわいい。

 ルクレの変化に興味を割くほどの余裕はないが、それぞれに抱えた問題を解決するための助けを求めていて。

 これまでのようにルクレが救いの手を差し伸べてやれば喜んですがってくる。

 そういう生徒はどの生徒もなかなか追い詰められていて、助け船が男か女かなんて気にしているほどの余裕がないのだ。

 

 だから、問題はそれ以外の生徒だった。

 一部、ほんの一部の上級生。就職のための学院祭に興味もなく、かといって誰かに助けを求めるほど困ってもいない数少ない生徒のうち、これまた一部。

 ルクレは今、そういった数人の上級生から粘着的な観察・及び追跡(ストーカー行為)を受けていた。

 そう、今もこの背中に突き刺さる視線の主は彼らだ。おそらく。

 予想の範疇かつ残念なことに、あのリトグラト公爵家の嫡子が女体になったことに上級生たちは興味津々だった。

 公爵家が森の氏族の血をひいていることもひとつの要因だろう。森の氏族に関する研究はあまり盛んではないが、そういう傍流の研究にこそ血道を上げる人々はいつの時代にも一定数存在する。

 研究の進んでいない謎めいた種族に、魔導史上類を見ない事象とくれば興味をそそられるのも魔導に関わる者の端くれとして理解はできた。理解できても納得はしたくなかった。

 

 ──くそったれ。

 

 彼らも教師の手前、さすがに大っぴらには行動しない。が授業中以外、なんなら授業中もふと何かの気配を感じるときがある。

 ここだけの話。自室とトイレにいる以外の、校舎にいる間は誰かの視線を感じるのだ。なんだか頭がおかしくなりそうだった。

 

 あのあたりの人間の倫理観は、ルクレが言えた話ではないのだが、明らかにおかしい。言いたくないが5歳児以下だ。

 それもこれも学長が研究を奨励しているせいだった。在学生の中に、おそらくこれまでに類を見ないほどその道に熱心な生徒が、ルクレが知っているだけでも数名。その中には今回の件の上級生も含んでいるのだが、その生徒たちは軒並み、今の学長でなければとっくに退学になっている、と囁かれていた。

 確かに、階級の差や教員たちの監視がなければ、彼らはすでに一線を越えていてもおかしくなかった。

 どこか遠い目で文字列を眺めながらルクレは思う。

 まぁ。5歳児だからな、と。

 そうして5歳の子どもと言えば、なんで? どおして? どおやって? が気になるお年頃だ。こうなってしまうのもしかたない。のかもしれない。

 そう感じる時点で、もう一線は超えている気もする。

 けれど実際のところ現在の被害は、視線を感じる、程度なのだ。これを実害と言えるだろうか。

 たかが見られている、くらいで? 

 じろじろと遠巻きに見られること、それ自体は今までにだってあったことだ。そう思うと、これくらいで教師に被害を言い募るのには自分の外聞が邪魔をする。

 だからといって他人の視線を厭って自室に逃げ込むのも無しだ。いつものルクレティウスなら、何をどうまかり間違ってもそんなことはしない。見栄っ張りで高慢な自分にそんな楽な逃げ道は存在しないのだ。

 だからこそルクレは今、そんな生徒たちの好奇の目から逃れるための盾がほしかった。何よりも、喉から手が出るほどにほしい。

 なのにその当の(シャニ)はというと、彼もまた放課後になると勝手にどこかへ行ってしまうのだ。

 

 ルクレは知っている。

 この時期。あいつはいつものおせっかいの一環で、ある先輩の手伝いとやらに精を出している。

 先輩。エウリア・サスーシャ。

 そうだ、少し前に校庭に大穴を開けてのけたあの人だ。

 きっかけも理由も知らない。それまで仲が良かったという話も特に聞いたことはない。けれどあのお人好しのことだから大した動機はないのだろう。

 とにかくその人のために、ここ最近のシャニの放課後は使われていた。ルクレのために、ではなくて。

 

 壁役の不在を腹立たしく思いながらもルクレは素知らぬ顔で本を読み続ける。

 ふと遠くの方で生徒のざわめきが大きくなった。どこか歓声にも似たその声を、聞き流してまた一枚ページをめくる。

 気にしない。

 何かはあったのだろう。だが、あの声色からして緊急性は薄そうだ。ここで反応を示せば彼らに付け入る隙を与えることになる。

 自分は気づいていない、気にしていない。本に集中していて世間のことなど気にも留まらない。

 そういう風に振舞っている限り、彼らも積極的に接触してはこれないはずだ。

 そうやって無関心を決め込んだルクレの前に、咎めるようにぶわりと風が吹き込んだ。

 無遠慮な風が藍色の髪と書籍のページとを捲り上げる。

 

 ──誰か窓を開けていたのか。

 

 乱れた髪をそっと整えながら、ルクレは非難がましく視線を上げた。

 

 その目の前を眩い黄金が横切る。

 

「──ご機嫌麗しゅう、ルクレティウスさん」

「……王女、殿下」

 

 口からまろびでそうになった嫌悪感を敬意のそれへと差し替えた。

 いつの間に目の前に立っていたのか。

 いつの間にここまでの接近を許してしまったのか。

 そこにいたのはルクレがその人生で指折りに嫌いな相手だった。出来ることならなるべく顔を合わせたくなかった女だった。

 

 真っ直ぐに尻のあたりまで伸びた豊かな金髪。

 見事に艶めくその髪を、彼女はいつもひとつに高く結い上げている。

 揺らぐことなくこちらを見据える琥珀の瞳は強い意志の輝きを宿してきらめいていた。

 すらりと起伏に乏しく上背の高い肢体に周囲とまったく同じ白い制服を纏って、けれど彼女は群を抜いて目を惹く。

 

 ──ミルファリオ・エディリハリア・マグナ。

 リオ。他称、100年に一度の天才。

 エディリハリア王国王位継承権第3位保持者。

 王太子のひとり娘にして、ニアの実姉。

 

 この国の王女殿下がそこにいた。

 



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Inter.0 あるいはrech4-5の後に何が起きたのか


ハッピーメリークリスマス!の記念に
おふざけ100%です
本編は通常通り2022/12/25更新します


interは本編外のいわゆるおまけ要素ですが
今回分ほど読み飛ばしても問題がない回もありません




 

 もしくは【間の悪すぎる男】

 

 

(少々刺激的過ぎる内容のため、会話文のみでお楽しみください)

 

 

 

 

「……っお、お手柔らかに、たのむ……」

「はい! お任せください、兄さま」

「なんでそんなにいい返事なんだ。あ~もう駄目だ。これはもう駄目な予感しかしない……」

 

 

 

 

「じゃあまずは……そうですね。それを使うことは未来永劫ないので……燃やしちゃいましょうか」

「ああ……あ!? 燃やす!?」

「だって燃やさないと兄さま、またさらし(これ)を巻いてごまかそうとされるでしょう? だめです、だめだめです」

「は、はぁ!? そんなことないけど??」

「はいはい、抵抗しないでくださいね~」

「やめろニア腕をそんなところから突っ込むな、っ」

 

 

 

 

「ひ、ひどい目に遭った……」

「失礼ですよ。兄さま。こほん。

 

 ──爆ぜる/殻を割いて/ひらく/灼熱の華

 sPUñtOLUka(スプーニルカ)!」

 

「アッばか! 室内で炎を出すやつがいるか!」

「ち、ちょっとくらいは大丈夫です! わたしだっていつまでもできない子のニアじゃありません……!」

「おまえが一番『できない』のは威力の加減だろ!?!」

「今回はうまくできましたもん……」

「さらしの燃え滓も残ってないのに??」

 

 

「そんなことばかり言われる兄さまにはこうです……」

「ひゃん!? こら! 腹を撫でるな!?」

「わー兄さまお肌すべすべ、かわいいですね!」

「すべすべがかわいいって何……?」

 

 

 

 

「ひっ……い、いきなりそんなとこ触るなばか」

「うーん。やっぱりけっこう着やせするんですねぇ、そこそこちゃんとありますよ、これ。でも二の腕のあたりとかはじゅうぶん細いし……うらやましいです……」

「……肉が付きにくいのはもとからだよ」

「そうなんですか? それはそれでうらやましいのですが、わ! 腰も細い……ずるいです……やっぱりルッチに引き渡した方が……」

「それはやめろ!」

「私はいつでも大歓迎ですが! ……まぁでも今は間違いのないようにこの扉を守っていて差し上げます。さすがに学生には刺激が強そうですからね」

 

 

 

 

「待て待てまてまて! そこは背中の肉であって胸部の肉じゃない!!」

「兄さまに……! 淑女の嗜みを一つ……! 教えてさし上げますね……!!」

「ひ……っ」

「お胸は、かき集めたお肉に胸だと言い聞かせて、──つくるんです!」

 

 

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……も、もういいだろ!? 終わったんだし」

「え? まだ終わってませんよ?」

「え?」

「次は下です」

「した……?」

「はい。上下違う下着なんてはしたないです、淑女として上下一揃いは当然です」

「は、はしたなくっていい! 誰に見せる予定もないんだ、別に」

「そういう油断がいざというときに致命傷になるんです!」

 

 

 

 

 

「待て、ニア」

「はい、なんでしょう?」

「白、だな」

「はい、白です。ルッチのこだわりが光ってますね、あの一角獣の」

「そういう言葉を使うのはそれこそはしたないからやめろ……レース、だな」

「はい、レースです……さっき上につけたものと一揃い、ですから同じような意匠になるのは当然ですよ?」

「ああ、そんなことは僕にもまだわかる。それで

 

 ──横がなんで紐なんだ!? 落ちてきちゃうじゃないか!」

「こ、これは今の流行なんです! だってほら、……横にリボンがあったらかわいいでしょう?」

「かわいいってなにが!?」

 

 

 

 

 

「エッ? 太ももなのにちっとも太くない……? 兄さま。これは詐称では?」

「待てニア、さすがにあの。自分でつける。これは、よくないというか。誤解が生じるというか」

「あ……はい! 大丈夫です!うんとやさしくしますから」

「何も大丈夫じゃ、──ん?」

「あれ? 何か物音が」

「だめだ! 行くな!!」

 

 

 

 

 

「──おい、レティ。とりあえず飯……はぁっ!?!!?」

「しゃ、シャルナノーク先輩!?」

「おあ、レティ!? あ────ー、その……」

「待てシャニ、そこにいろ! 説明する、これには深いわけが、いやいるな! 何も見るな! すぐ帰れ! 今見たものは全部忘れろ!」

「お、おう……わるい……すまん。ニアも、俺は見てない。何も見てないからな俺は」

「し、しゃ、シャルナノークせんぱいに……みられた……」

「あーもう! 窓から入って窓から出てくな! ばか! そこは出入り口じゃないんだぞ! ニアも正気に戻れ!」

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……なんであいつはいっつもあんなに間が悪いんだ……」

 

「まっしろ、だった…………」

 



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rech.5-2

 

 

 高等部の二年生である、ミルファリオ・エディリハリア・マグナ王女殿下が一年生の教室に現れることはまずない。

 

 それは彼女が王女サマだから。

 と、いったようなことではまったくなく、単純にエヌフォーリオ魔導学院では学年が上がれば上がるほど生活範囲ががらりと変わるからだ。

 特に上級生は何か用事がなければ下級生のいる階まで降りることがなくなる。

 行動範囲も変わるうえに学習内容も高学年ほど難しいものに進んでいき、自然と低学年に構っているような余裕を失っていくのだ。

 

 これは上級生が下級生と過剰な交流を持たないように日々の動線や教育課程が組まれているせいで、そうなるまではもう色々と複雑な問題が起きていたらしい。

 もちろん今も一定の節度を守った先輩後輩の関係については歓迎されているものの、いかんせん騎士志望の学生やあの助けたがり(シャニ)みたいなのは、現状の環境でさえ使い走りとして何くれとなく言いつけられている節がある。

 昔はそこに身分の上下関係まで加わっていたなら、そういった仕組みになるのもさもありなん、といったところだ。

 

 

「おい……本物の王女殿下だぞ……」

「ミルファリオ殿下だ……ああ……なんて神々しいお姿……」

「ねぇ……殿下に祈ったらご利益あるってほんとかな……?」

「ちょっと! 不敬じゃない? ……そりゃあ間違いなく『ある』でしょ! 二年の先輩たちなんて試験の度に殿下にお祈りしてるって話だし……」

 

 ともかく、普段は遠くから見つめることしか叶わない憧れの王女殿下の来訪に、教室はおろか廊下の方まで下級生を中心とした野次馬が集まってきていた。

 あまりに人が集まってきたせいで、先ほどまでルクレの背中に張り付いていた視線たちが散ってしまったくらいだ。さすがの彼らも居心地が悪かったとみえる。

 

 ……まぁ、そうやって1つこの身の不幸が吹き飛んでくれたと思ったら、また新しく別の不幸が飛び込んできているわけだが。

 そんな騒ぎなどこれっぽっちも意に介さず、当のリオは涼しい顔でこちらを見下ろしていた。

 

「驚きました。あなた、本当に女性の身体になってるのね」

「……王女殿下にはご機嫌うるわしゅうございます。ええ、ご覧の通り」

 

 学院にいる間は王侯貴族と市民の別なく、とは言われているもののさすがにそれを額面通り受け取るほどルクレは幼くも愚かでもない。

 相手は王女殿下だ。

 社交界で行われるものとまではいかなくとも、当然、最低限の礼節くらいは尽くさなければならなかった。

 ルクレは開いていた本をぱたりと閉じて立ち上がる。

 

 ルクレがまっすぐに姿勢を正して立っていても、リオの顔はそれでもまだいくらか高いところにあった。優に頭2つ分くらいはあるだろうか、

 リトグラト家の血族はどちらかというと小柄な方だが、王族はというと体格に恵まれた者が多い。王女もまた例外ではなかった。

 以前よりも開いた身長差に複雑な思いを抱きながら、ルクレは礼をしようとして。

 その作法を、ほんの少しだけ躊躇った。

 

 今の自分は、精神的には男のままであっても、身体的には女のものだ。

 この場合、果たしてどちらの作法を行うのが『正しい』のだろう。

 

 僅かな逡巡の後、ルクレは結局男性の礼法に則ることにした。

 頭をきっちりと下げてお辞儀をするだけの比較的簡単な作法だ。

 女性式の挨拶(カーテンシー)はいかんせん摘む裾のある服装、たとえばスカート、でないとどうも様にならない。というのがまず1つの要因として。

 ついこの前女性の身体に変化したばかりにもかかわらず、大した抵抗もなく早々に順応している、と思われるのもなんだか癪に障る。ちょうどよく衆目も集まっているのだ。自分の精神は依然として男のものだと示したかった、というのが2つ目。

 そうして更に3つ目を言うのなら、立っている目上の相手に対して座ったまま礼をしたり、あるいは簡単に会釈で済ませる、なんていうこともしたくなかったのだ。それは、公爵家の一員としてあまりにも礼儀がなっていないので。

 

 だいたい、挨拶をしたかと思ったら二言目には他人の繊細な事情にずけずけ踏み入ってくるような無礼な人間と己は違うのだ。

 ……別に見下ろされているのが不快だったわけではない。断じて違う。

 

「お見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ございません。解呪に向けて励んではいるのですが……いかんせん前例もろくにありませんから」

「そう」

 

 返事にもなっていないような短い返答と共にルクレに向けられた琥珀の瞳は、まるで実験動物でも見ているかのように温度がない。

 昔はその冷たさにひるんだこともあったが、今となっては慣れた冷ややかさだ。

 この女は、ルクレのことをいつもこんな目で見る。

 

 以前はその温度のなさがどれだけだっていやだった。

 そんな目で見られるくらいなら、いっそのこと畏れられるか奇妙なものを見るような目の方がまだいくらかいい。

 たとえば今、王女の背後でこちらを見つめている貴族たちのように。

 

 リオの後ろにはいつも通り取り巻きが控えている。

 今日も今日とてまるで蟻の行列のように彼女の背後に並んでいるのは、貴族階級の者たちだ。それもいわゆる王党派の子息の顔が半数以上を占めている。

 王女は、ルクレが様々な要因からやや貴族の子弟から遠巻きにされがちなのと違って、彼らの支持が篤い。

 まあそれもごくごく当たり前のことだ。

 リオは現王のただ一人の孫で、王太子を父親に、前々王の姪を母親に持つ。王家の中でも血が特に濃い生粋の王族だと言えるだろう。

 しかもこの国で最も貴い血の持ち主がその血に見合った高い才能を持つとなれば、貴族たちが担ぎ上げたくなる気持ちもよくわかる。

 この国の貴族は概してそこまで際立った才人を輩出していないことを加味すればなおさら。

 

 ──自分では何一つ努力せずただ誰かの威光を笠に着て威張るだけの、愚かで蒙昧な連中。

 過去の繰り返しの中での無様さを思いだすと、ルクレの王党派に向ける評価は自然と辛くなる。

 彼らの大半は日和見主義者で、自分たちの旗色が悪くなるとすぐに何もかも放り投げて逃げ出すのだ。高貴さもその血筋に伴う責務もまったく持ち合わせていない、貴族にあるまじき醜態だった。

 

 ──ま、僕だって人のことは言えないけど。

 

 悪辣さも、それから愚かさもルクレの方が彼らより数倍、もしかすると数十倍は酷かった。他人のことをとやかく言える筋合いもないのだ、己は。

 そうやって、逃避を兼ねた物思いに耽りたくなる脳髄をなんとかねじ伏せ、ルクレは口を開く。

 わざわざ下級生の教室に二年のリオが現れたのだ。何か特別に用向きがあってのことだろう。願わくばさっさと用事を済ませて帰ってほしいものだ。

 

「しかし、王女殿下がこのようなところまでいらっしゃるなんて……何か御用でも?」

「あら、もちろんあなたの様子を見るのと、──シャルナノークに会いに、よ」

「シャニに、ですか?」

 

 うげ。

 思わず心の中で舌を出す。

 何が「あなたの様子を見る」ため、だ。

 

 断言してもいい。

 ルクレの様子を見たかったなんて絶対に建前だ。

 精々「性別転化なんて見たことも聞いたこともない呪いの成果に興味があった」あたりがいいところだし、それを踏まえても九割くらいは後者が主な理由だろう。

 

 つまり、我らが偉大なる王女殿下のお気に入りはルクレではなく貴族の誰かでもはたまた成績優秀者の誰かでもなく、親愛なるエヌフォールの雑用係ことシャニなのだ。

 ルクレとしても、そしてたぶんここに居並ぶ貴族たちとしても、あまり素直には認めたくないことだったが、この女は以前からやけにシャニのことを評価していた。

 きっかけも理由も知らない。けれど、あの男は彼女のお眼鏡に確かにかなったらしい。

 リオはこうしてやけにシャニのことを気にかけて何かと話題に上げたし、たまにふたりで話し込んでいることさえあった。

 同じ学院に通う生徒同士とはいえ、王女殿下と孤児の一般庶民が、だ。

 

 ──どうせ便利な下僕扱いだろう。

 と、かつてのようにそんなうがった目で見ることはルクレにはもうできなかった。

 シャニの持つともしびの勇者としての素質を見抜いたのか、はたまた別の事情があるのか。

 以前、何度か王女を問いただしたことはあったがまともに取り合ってもらえたことはなく、その理由はわからないまま。

 とにかくリオはシャニのことをやけに買っている。それだけが確かだった。

 

「ご足労いただいたところに誠に申し訳ありませんが……、ご覧の通り、彼ならここにはおりません。そもそも僕と彼とはクラスも違うものですから」

「あら、そうなの? てっきり同じクラスなのだと思ってた。あなた、いつ見てもシャルナノークにくっついて回ってるのに」

「ふふ、王女殿下ったらおかしなことをおっしゃいますね。()()、僕の傍から離れたがらないんですよ。だいたい、僕がシャルナノークの教育係をしていることくらいご存じでしょうに」

 

 え? もしかして知らないんですかぁ? 

 言外にそう匂わせて、でもこちらには悪意なんてないんですよと言わんばかりににっこりと微笑んだ。

 とびきりの、とつけても申し分ない美少女の笑みに、背後に控えた取り巻き達や野次馬の顔がさっと朱に染まるのが見える。

 うん。胸のすくような反応だ。

 けれど、リオの表情は変わらない。

 滲ませた悪意も蕩けるような笑顔もどこ吹く風といったところで、相変わらず泰然と構えている。

 

 まあ、元から彼女には何の反応も期待していなかったのだ。気にはならない。

 どちらかというと取り巻きたちに引っかかってほしかった。期待外れもいいところだ。

 ルクレとしてはあんまり長く突き合わせていたい顔ではないので、手っ取り早く他責で問題を起こしたかったのだが。もしかするとルクレが予想していたよりも、微笑みの破壊力が強かったせいかもしれない。

 

 ──ふん。しかたない。絶世の美少女だからな。僕は。

 自分の容貌に対する評価を内心もりもり高めつつ、リオの琥珀色の瞳と視線を絡める。その瞳から相変わらず大した感情の色は読み解けない。ただ、夕焼けの橙が混ざり込んで瞬いているたけだ。

 

「ともかく、シャニ、……いえ、失礼。つい愛称が出てしまいました……こほん。シャルナノークは残念ですがここにはいないんです。ああ、もちろん王女殿下のお望みとあれば彼を呼び戻すこともやぶさかではありませんけれど……」

「いいわ、かまいません。いないのならしかたないわ。皆、学院祭の支度に忙しい時期だもの。……あなたの様子も変わりないようで安心しましたし、わたくしはこのあたりで」

「ええ、ご足労いただいたのに申し訳ありません。彼には僕の方からよく言い聞かせておきますので」

「それこそかまわないというものよ。約束もなしに押し掛けたのはこちらだから。……ああ、そういえば、一つあなたにも用事があったんだった」

 

 何か思いだしたように手を打った王女に、ルクレはきょとんと首を傾げてみせる。そのあざとげな動きに合わせて、波打つ蒼の髪がさらさらと華奢な肩を流れた。

 

 ルクレがリオに対しこうやってやや過剰なまでの反応を返してしまっているのは、ひとえに観衆がいるからだった。その一言に尽きた。

 なにせ、ただでさえ人形じみた容貌をしている一族の一員なのだ。これで感情表現を無に近づけてしまうと、やれ冷徹だ氷のようだと恐れられることになってしまう。

 もちろん焦燥だのなんだのは表に出さないが、喜怒哀楽のうち陽極的なものくらいはわかりやすく表現した方が世渡りしやすい。

 しかも今回のように反応の薄い人間相手だと、ちょっとくらい大げさにポーズをとる方が相手の淡白な様子が引き立てられて周囲のウケがいいときたもので。

 そういうことを今までの人生ですっかり身につけてきたルクレは、無意識のうちにその場で一番好感が抱かれそうな行動をつい実行してしまいがちだった。

 

 今回もまた、自分ではまったく意識しないまま。

 首をちょこんとかしげて、さらに上目遣いで王女を見あげて。

 

 そうしたところでやっと、ルクレは己がかなり恥ずかしい反応をしているということに気付く。

 

 首をかしげる、なんてあんまりにも稚さすぎるし、上目遣いだなんてそれこそ女のようだ。

 が、時すでに遅し。ここまで来たらもう止まれない。

 なにせやられている側である当のリオは、ルクレのこの馬鹿みたいな行為をまったく気にしていないのだ。本当にこれっぽっちも、髪の先ほども気にしていない。枝毛の方がまだ気にかけてもらえている可能性がある。

 なのに、自分がやっていることに対してルクレが一方的に羞恥なんてものを感じていると知られたら。

 想像するだけで卒倒しそうだった。あまりにも恥の極地すぎる。

 よってルクレはこのまま突き進むしかない。撤退は死を意味していた。

 

「用事……? なんでしょう? 王女殿下のお役に立てるかわかりませんが、僕にできることでしたらなんなりと」

「ありがとう。──今度、身体の状態と呪いを受けた瞬間から発動するまでの詳細を聞かせてちょうだい。滅多にない症例だから個人的に興味があるの。できれば臓腑の具合も教えてね。じゃあ」

 

 簡単に言い変えると、お前のことを研究対象として色々根掘り葉掘り調べたい、というような。

 そんな聞き捨てならない捨て台詞を残して、返事も待たずにリオはひらりと金の髪を翻す。落ちていく夕陽の光を反射して長い髪が文字通りの金色にきらめいた。

 

 ──どうかもう二度とお会いすることがありませんように! 

 

 取り巻きたちを連れて悠々と去っていく背中に、ルクレは胸中でそう吐き捨てていた。

 叶わない願いと知っていても、そう祈らずにはいられなかったのだ。

 

 







ハッピーメリークリスマス!

いつも感想ありがとうございます。返信するだけの余裕がなくて申し訳ない限りです。今後ともよろしくお願いいたします。


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rech.5-3


2023年初投稿です
今年もよろしくお願いします


 

 

 

 ──ああ! いらいらする、いらいらする、いらいらする! 

 

 その廊下には、放課後だというのに珍しく生徒の影も教員の気配もない。ただ穏やかな静けさだけが漂っている。

 

 リオとその取り巻きが教室から立ち去って、野次馬たちもゆっくりとそれぞれの日常に戻り始めた頃。ルクレもまた、その騒ぎに乗じて教室から抜け出すことに成功していた。

 

 ただでさえ機嫌が悪いところに、王女との関係だとか、何を話していたのかだとかをあれこれ聞かれるのはごめんだった。たとえ冗談でも不仲だというわけにはいかないし、かといって仲がいいともいいたくない。

 もしも何かの間違いで自分がそういう風に吹聴している、なんて湾曲してリオの耳に入ったら。と思うとぞっとする。 

 

 そういうわけで、ルクレはなるべくどの学年の動線にもならない、人気のない道へと一目散に逃げ込んでいた。

 こういうとき、学年によって生活範囲がわりと明確なのは都合がいい。さらに、広い学院内ではどうしても生徒たちの使用頻度が低い場所が生まれる。そこを加味して逃走経路を考えれば人目を避けることはたやすかった。

 

 教室での騒ぎのおかげもあって最近つき纏っていた上級生たちも振り切れたようだったが、それでもルクレの気分は晴れない。

 

 いらいらする。

 

 残照が差し込む廊下を歩きながらぎゅうと拳を握りこんだ。柔らかい掌の肉に爪を無理やり突き立てる。

 痛いは痛い。でも、そこそこだ。血が滲むようなことはないし、目が冴えるような刺激もない。

 落ちた握力では爪の跡が僅かに残るほどの痛みしか与えられなくて、なんの慰めにもならなかった。

 

 こんなの、逆に馬鹿みたいじゃないか。

 

「……くそ、くそっ!」

 

 口に出してそう試しに罵ってみても気分はあまり上向かない。

 どうしてこんなにも気が晴れないのか、どうしてイラつくのか。

 その根源にあるものについて今は考えないことにする。下手に考え込んで自分で自分の藪蛇をつつきたくない。独り相撲にもほどがあるからだ。

 

 まぁいい。こんなことしていても埒はあかない。

 ルクレはひとつ息を長くついて、──そこでぱっと視線を上げた。

 やめだ、やめ。気分転換をするならもっと別のことでしよう。くるりと踵を返し、打って変わって人の集まる場所を目指す。

 

 行く先はそう、食堂だ。

 人の目を振り切って一人になってみてもなお気分が晴れないのなら、このままでいても何も得にならない。自室に帰ったところでたぶん何も改善されないだろう。それどころか悪化する可能性だってある。

 なら、自分の機嫌を自分で取ってやればいい。

 小食さが災いして大して腹は減っていないが、──普通の人間はこういうとき食事で気を紛らわせるのだといつかに聞いたことがあった。

 そんなに量は食べられないとしても、まぁたまには。

 そう、それこそ甘いものでも食べてみるのがいいかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと廊下を進んでいけば、そろそろ夕食時だからだろう。食堂に近づいてきた証拠に、食欲をくすぐるようないい匂いがあたりいっぱいに広がっていた。

 道を行き来する生徒や職員の姿も増えてきて、喧騒が耳に心地いい。

 そんな生徒たちの流れの中に、見覚えのある赤銅色の頭がひとつ。

 食事はもう済ませたのだろうか。扉をくぐって現れた彼は、そこから足早に立ち去ろうとしていた。

 

「──シャニ」

 

 あまり大声を出して衆目を集めたくなかったので、ルクレはその見慣れた背中に駆け寄った。

 いちおう名前を呼んではみたが雑踏の中に自分の声が紛れてしまうことを考慮して、そっと制服の袖をつまむ。くい、と自分の方に引き寄せることで足止めにした。

 

「誰だ? ……ん? レティ?」

 

 そのどれで気づいたのか、シャニは何かを確かめるようにこちらを振り返って。

 ──すぐにその顔をしかめた。

 

 袖をつまんだルクレの腕を逆につかみ返した青年は、人の流れから外れるように壁際に引きずり込む。そのまま何かを見分するように目の下を引っ張ったり首筋に手が当てられた。

 食事の後だからか、その手はやけに熱い。

 

 いや、違うか。僕が冷えているだけだ。

 

 そこからじわりと伝わって浸み込んでくる熱の暖かさに、ルクレは初めて自分の体温が下がっていたことを自覚した。

 ほう、と小さく息をついて、いつも通りされるがままになっておくことにする。でもそれは抵抗する方が面倒だからで、この温度が心地いいからじゃない。絶対に違う。

 

「うーん、熱はなさそうだし貧血でもなさそうだが……どこか具合が悪いのか?」

「はぁ? なんで?」

「顔色がいやに悪い、なんともないのか?」

「ふふ。僕に向かって顔がどうだなんて言うのはおまえくらいだよ」

 

 はぐらかすようにそう返す。

 でもあながち間違いでもなかった。ルクレの顔を見た人間はたいてい美しさを褒め称えるばかりでその頬が白かろうと青かろうと気にしない。人形の顔色を窺うような人間はいないからだ。

 

「茶化すなよ。本当にどうもないか? 吐き気は?」

「べつに、平気……それより、おまえこそしばらく顔見せなかったけど」

「ああ、ちょっとな。これからまた二、三時間くらい手合わせする予定なんだ」

「は? 今から?」

 

 廊下から見える窓の外にはそろそろ夜の帳が降りようとしている。確かに多少暗くなっても校庭は明るく保たれはするが、さすがに今から外で二時間以上鍛錬だなんて頭がおかしいとしか言いようがない。

 

「うん。先輩と、あーっと、エウリア先輩ってわかるか? ほら、茶髪の」

「エウリア・サスーシャ先輩でしょ? 二年の方だよね。まぁ顔と名前くらいは知ってるけど」

「そう、その人にちょっと頼まれててな。ここ最近、組手に付き合ってるんだ」

「ふーん、でもおまえそのわりに校庭にはいないよね」

「第四演習場に行ってるからな、周りに人がいなくてけっこう集中できるぞ」

「はぁ? 第四ん? あんな辺鄙な場所まで行ってるの?」

 

 いちおう驚いておいてやったが、予想していた人間の名前がシャニの口から出てきたかと思ったら、知っている場所の名前も続いた。

 

 そこはやはりいつもの繰り返しの通りらしい。

 第四演習場は校舎から一番遠い演習場で、正直なところ授業でも自習でもほとんど使われることがない。森の近くの寂れた場所だ。

 あそこを使っている人間はここ数年シャニとエウリア以外に存在しなかったのではないだろうか。

 

「実は、──エウリア先輩はちょっと前に第二校庭に穴をあけたことがあってな」

「あー……それって三週間くらい前?」

「そう。それだ。で、その件があってから、校庭で練習することがどうもその……難しいらしい」

「まぁこの時期だし……貴族の連中なんかは特に嫌がるかもね」

 

 ルクレの言葉にシャニは辛そうな顔をして視線を落とす。

 そんな顔をするなと言いたかったけれど、やめた。言ったところで無駄だ。

 

 シャニは他人が不当に傷つけられることを何より嫌う。

 ばかだから、自分の傷より誰かの傷の方が痛ましげに見えるのだ。ルクレからしたら何をもって「不当」とみなしているのか不可解だが、とにかくこいつにとって今のエウリアの状況はあまり道理に合ったものではないのだろう。

 

 まぁ、悪意を持ってやったわけではないことで疎まれるのは確かにひどいこと、かもしれない。

 少なくともエウリアは故意にそういうことをやるような生徒ではないし。どちらかというとシャニと仲がいいあたり善性の人間なのだろう。

 

 そんな彼女が校庭で練習できない、というのはおそらく貴族階級の生徒が露骨に嫌がっているからだ。一般階級の生徒が嫌がっているだけでこんなことにはならない。

 教員の目があるからだ。近々でやらかしているとはいえ、さすがに生徒から自習の機会を奪うようなことを先生方は許さない。

 けれど、貴族階級の生徒なら。

 彼らはルクレからすると概して排他的で陰湿だ。異物とみなせばすぐに集団から追い出そうとする。それに、教員の目を盗んで何かと画策することも得意だ。

 

 たぶん、原因は穴を開けた件だけではない。他にもある。 

 だってシャニはあの事故が起きなかったときでさえ彼女との鍛錬自体には付き合っていた。場所も変わらない。

 第四演習場で、ふたりきり。

 

 まったく違う要因でもってエウリアを排除しようとしている貴族の生徒が一定数いて、彼らは第二校庭に大穴を開けたという真新しい事故で自分たちの正当性を補強した。

「また穴でも開けられたら学院祭に支障が出てしまう」とでも言ったのだろう、きっと。

「貴方の行いでどれだけの生徒に負担をかけるつもりでしょう」これも言っていそうだ。言外にお前のせいだと言うことで相手の罪悪感に付けこむ、お決まりのやり口。想像に難くない。

 

 それで可哀そうにエウリアはさびれた演習場まで行かなければならなくなった。とまぁだいたいこういう経緯だろうと推測できる。

 

「俺でどれだけ助けになれるかはわからないが、助力を求められたので……」

 

 ので。じゃない、と言い返すことはルクレにはできない。

 その代わりに内心でぐぬぬと呻きながら考える。

 

 シャニはただでさえ助けてを無視できないやつだから、傍目から見ても困りきっている彼女を放っておけなかったのだろう。

 

 ルクレはずっとシャニのその癖を放置して来た。

 シャニが誰に手を貸そうが、それはこいつの勝手だ。シャニを好き勝手利用する連中は許せなくとも、それを当の本人が是としているのならルクレには何も言えなかった。

 ただの級友でしかない己にはどうすることもできない。シャニの行動に口を挟む権利がない。

 

 たまに、本当に目に余るようなときはさすがに口出ししたが、交友関係は個人の自由だ。

 シャニをこき使っていいのは自分だけだと思う一方で、あんまり心の狭いことを言いたくないとも思う。

 

 この男は後先も周囲にどう思われるかも何も考えない。ただ祈りだけがあって、どんなときでも身体が動いてしまう。その結果、自分がどうなろうと気にしない。

 そういう馬鹿みたいに愚直なところも含めてシャルナノーク・エイデンだとルクレは思っているから。

 だから、何も言えなかった。

 

 けれど今回ばかりはルクレの方も譲れない。

 助けて、なんて死んでも言えないが、今のルクレには盾が必要だ。

 特にリオに対しての。

 あの女にこれ以上実験動物を見るような目で見られるのはごめんだった。本当に嫌だった。魔獣の呪い、なんて言い訳で誤魔化していることを根掘り葉掘り聞かれるのも避けたい。

 リオのようなタイプは執拗だ。

 ないとは思うが、あれこれ聞かれるうちに何かしらのぼろが出ないとも言い切れない。

 一番困るのは、リオに追従するように他の生徒、たとえば上級生たちにも同様の諮問を受けるようになることだ。

 彼らが今ぎりぎりで踏みとどまっているのは教員の目があるからだが、もし王女が先陣を切ってしまったら、彼らだってそうしていいことになる。

 なにせ学院内では王侯貴族も市民も同じ一生徒だ。建前の話であっても、そう学院側が謳ってしまっている以上、王女サマを特別扱いするわけにはいかない。

 

 そうなってしまえばルクレの平穏な学院生活は、今でさえ破綻しかけているのに、完全に終わりだ。

 だから、どうしてもシャニのことが必要だ。唯一無二の盾として。

 あの女はシャニに対してだけはまともに振舞う。この男がいる場では、ルクレを詰問することはできないはずだ。

 

 でも、どうすればいいだろう。どうすれば、エウリアの事情より自分を優先させることができるだろう。

 だってルクレはただの級友でしかなく、エウリアはシャニにとって特別な少女のひとりなのに。

 ぎりりと奥歯を噛み締める。乾ききった口の中には血の味が広がっていた。

 

 ──ともかく突破口を見つけなければ。

 

 ルクレはかさついた唇を舌先で僅かに湿した。

 

「……ねぇ、誰か先生とかがついててくれてるの? それ」

「いや、この時期の先生方はちょっと、な」

「おまえ、魔導のことはからきしでしょ? どうしてるの?」

「そりゃお前から見たら誰だってそうだろ。……確かに俺も、それに先輩も中途編入だ。どうにもそっちには疎くて、まあほんとに手合わせというか、組手というか……」

 

 シャニだって、現状があまりよくない状態なのはわかっているのだろう。

 たったふたりに先生の手を割かせるのも、とシャニが言葉を濁す。

 ばっかじゃないの。そう言いたくなる気持ちをぎりぎりのところでこらえた。

 たったふたり、だからこそ教員の補助がいるのに。

 

 話を聞く限りでも、これまでの朧ろ気な記憶を参照しても、エウリアは魔導が得意な方には思えない。シャニは言わずもがなだ。

 そんなふたりが、教員の指導もなしに手合わせを繰り返したところでどれだけの収穫があるだろう。武術の鍛錬が悪いとは言わないけれど、限度はある。

 

 けれど、自分にとってはこれ以上ない好機だった。

 ルクレはわざとらしくため息をついてみせる。

 

「は──────あ。おまえのことだから、そんなことだろうと思った」

 

 これだ。これしかない。

 一方的に助けを求めることは、それだけはどうあったってできやしない。

 それなら、シャニの弱みに付け込んで自分の都合がいいように転がせばいい。

 

「いいよ。魔導のことに関しては僕が見てあげる。叡智の保管庫と名高いリトグラト公爵家の真髄を味合わせてあげよう。どうせ僕は魔導大会には出ないから、勝ち負けがどうとかそういうことはないしね」

「いいのか!?」

 

 案の定、シャニはルクレの言葉を聞くや否やぱっと表情を明るくした。

 

 ああ。こいつは本当に単純でお人よしで、ばかなやつだ。

 きっとルクレが純粋な善意でそう言ったのだと思ったのだろう。

 誰かのために見返りを求めることなく行動できる人間はそうそういない。ルクレなんか対人関係に損得勘定を持ち込む例の極みみたいなものなのに。

 

 なのに。

 なのに、シャニは勘違いしてこんなにも喜ぶのだ。

 

 本当にばかなやつ。

 けれどその単純さのおかげで、リオのことをしばらく気にしないで済むのだからルクレにとっても喜ばしいことだ。

 しかもこれまた都合のいいことに、第四演習場は校舎から遠い。使用している生徒が知られていないくらいには寂れている。あんな演習場まではきっと誰もわざわざ来ないだろう。

 ここでシャニに恩を売っておけるのも悪くない。

 そうだ、悪くない。悪くない気分だ。

 

 ルクレは何も知らないシャニの喜ぶ様子を見ながら、うっすらと微笑んでいた。

 自分でも自覚がないほどわずかに、けれど華が綻ぶように。

 

 

 胸の中にも頭の中にも立ち込めていたはずのもやつきは、気づけばどこかへ消え去っていた。

 

 

 






ルクレくんちゃん「べ、べつにシャニといられるのが嬉しいわけじゃないんだからね!!」


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rech.5-4

 

 

 せっかく気分が上向いてきていたにもかかわらず、件の先輩との顔合わせはまた明日、ということになった。

 

 ルクレの顔色があんまり悪かったのか。シャニが絶対にうんと言わなかったのだ。

 なんともない、といくら言っても少しも取り合ってはくれなくて。

 それどころか食堂に入って職員と何か話したかと思うと、何やら包みを抱えて戻ってきた。

生成りの手巾で包まれた『それ』からはなんだか食欲をそそるにおいが立ち上る。

 部屋でゆっくり食べる方がいいだろ、と抜かした男の顔をルクレは思わずまじまじと見返してしまった。

 確かに、体調がよくない時はあまり人前に出たくはない。弱っている姿を他人に見せるなんて論外だ。

 

 でも、シャニのくせにこんなことに気を回せるなんて。

 鈍感で、魔術式ひとつ覚えるのに2ヶ月かかるシャニのくせに。

 

 ルクレのそんなちょっと失礼な動揺なんて、シャニはちっとも気づきはしなかった。

 そのあたりはいつも通りに鈍いのに、そのくせ、わざわざルクレのことを部屋に送り届けまでしたのだ。

 おかげでルクレはその帰りの道中、こいつは誰にでもこうなのだと自分に何度も言い聞かせなければならなかった。

 そうでなければ勘違いしてしまいそうだった。

 

 ──いきなりだと向こうも驚くだろうし、今日のうちに話しておくから。それ、残さず食べろよ。

 

 そう言い残して、シャニは足早に立ち去った。

 きっとこれから当の先輩のところに向かうのだ。ルクレよりよっぽど特別な先輩のところへ。

 

 けれどその後ろ姿を見送っても不思議と気持ちは穏やかなままだった。憂鬱も苛立ちも頭をもたげてはこなかった。むしろどうしてあんなにイライラしていたのかが自分でもよくわからないくらいに。

 

「……ま、いっか」

 

 気分がいいに越したことはない。それに、ルクレとしても時間が取れるのは僥倖だった。

 口実とはいえ魔導について教えてやることになったのだ。自分がついているのに無様な結果を出させるわけにはいかない。

 たとえそのことを大っぴらに公言しないとしても、だ。

 

 それに、先輩を使って王女殿下に一泡吹かせてやれるかもしれないし。

 そんなことを考えながらルクレは押し付けられた包みを開く。ほわりと上がった湯気が頬をやわらかにくすぐった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いい気分、というものは悲しいことになかなか長続きしないものだ。

 王女殿下の来訪から一夜明けて、ルクレを観察する目は減るどころかむしろ増えていた。

 たぶん、身体の変化に興味を抱いている上級生たちの他に、リオの取り巻きたちもそうしているのだろう。王女さまが興味を抱いているものは自分たちも気になるらしい。見上げた忠節だ。

 どちらの人間もやっかいなことに多少の愛想を振りまいたところで視線を撒くことはできない連中だった。人間の好奇心というものは本当におそろしい。

 

 なので、ルクレは授業終了の鐘が鳴ってしばらくの間席でじっと座っていた。

 今日は本を開いてはいない。ただ周囲の音に、隣の教室の気配に意識を傾ける。

 がらがら、と扉が開く音。

 次いで講義から解放された生徒たちの声。

 

 それらが聞こえたところで、ようやく鞄を抱えて立ち上がる。

 このまま普通に歩いて外に出ても、視線から逃れることはできない。そんなことは百も承知だ。

 

 だから。

 

 ルクレは窓をがらりと開く。

 廊下側ではなく、校庭側の窓だ。

 当然、ひんやりとした風が人いきれで暖まった教室に吹き込んでくる。突然の冷風に非難がましい同級生の目が背中に突き刺さった。

 が気にしない。

 風がまた吹く。冷えた風が藍色の髪を玩んでなびかせる。

 ぱたぱた、とカーテンがひらめいて。

 真っ白なその布の隙間から、にゅっと日に焼けた腕が伸びてきた。

 

「──レティ!」

「迎えが遅いんだよ、ばか」

 

 ちいさく囁いて、ルクレは差し出された手に自分のそれを重ねる。

 力強く引き寄せられたかと思うと足裏が床から離れた。そう思った瞬間に、身体ごと外へ引きずり出される。

 ここは五階だ。落ちたらただでは済まないだろう。

 でも、怖くはない。

 窓の外へ連れ出された身体にがっしりとした腕が回る。嗅ぎなれた薄荷のにおいが鼻先をかすめた。

 

「ちょっと授業が長引いたんだ、遅くなって悪かった」

「ほんとだよ、後ちょっと遅かったら僕は王女殿下の取り巻きに捕まってたね」

 

 悪かったって。

 わざと憎まれ口をたたいてみせれば、シャニは笑い交じりにそう応えた。

 正攻法で抜けられないなら邪道でいい。

 ルクレはそのあたりにこだわりはまったくない。正々堂々クソ食らえだ。たとえちょっと邪道であっても目的達成が確実な方がいいに決まっている。

 そうして、こと校舎の出入りに関してこの男は邪道を極めていた。

 窓を出入り口だと思っている頭のおかしい男は、人ひとりを抱えてなお涼し気な顔で校舎の壁を走っている。

 

 シャニは魔導に苦手意識こそあるが、自分の身体を強化する魔術について言えば得意な方だ。

 そこそこ、と本人は謙遜してかそう言うが、少なくとも壁を平坦な地面のように走っている時点で上の下はある。

 あんまり認めたくはないが、ルクレよりよほどうまい。

 

 身体強化の魔術は普通の魔術とは魔力の使い方が少しばかり違っている。

 特に難しい詠唱や陣も必要ではなく、ほんの一節の短い魔術式だけ。それもなにか装飾具に刻んでいればいい。

 最も重要な要素は体内を循環している魔力の流れを意識すること。そしてその意識は持って生まれたセンスにかなり左右されるうえに、一朝一夕に身につくようなものではない。シャニは少なくともその系統の習練を十年以上やってきている。

 ルクレはこの「魔力の循環を意識する」ということがあまり得意な方ではなかった。

 だって己のこの体の内側を巡っているのは結局のところ他人の魔力で。そこを突き詰めると今度はなんだか嫌な、とまでいかなくとも不思議な気分になってくる。自分の皮膚の下を他人の一部が巡っていると考えると背筋がぞわぞわするのは当然だろう。

 

 だいたい、胸元から湧き上がってくる何かなんて僕にはない。あるものは心臓を巡っていく血液だけだ。

 

 そんなことを考えつつ、ルクレは腕の中の鞄を抱きしめた。

 普段よりもみっちり詰められた鞄の中身ががさがさと音を立てる。自分のことはシャニがしっかり抱えてくれているが、鞄は違う。

 これを落としたらまずい。なにせこの後の指導に使うための魔導具も入っているのだ。

 あまり高価なものではないけれどそれなりに精密な造りをしているものもある。落ちればまず壊れてしまうだろう。

 

 いつの間にか校舎の壁を駆け下り終わっていたシャニが、平地に降り立った瞬間に速度を一段あげる。目まぐるしく過ぎ去っていく周囲の景色で酔わないように、ルクレは目を閉じることにした。

 

 ぬるい闇に包まれた世界にはただ、びゅうびゅうと鳴る風の音と、心臓の鼓動の音だけがある。

 それが不思議に耳に心地よくてルクレはそっとその胸に耳を寄せた。

 

 

 

 

 

 

 

「っと、ついたぞ」

 

 シャニの言葉にルクレは瞑っていた瞼を上げた。

 気づけばあたりはほとんど森の中だった。振り返ってみると校舎がだいぶ遠くに見える。

 第四演習場は遠い、と噂には聞いていたが、来るのは初めてかもしれない。

 本当に遠かった。それにだいぶ寂れている。

 ただ、演習場自体はまだある程度その姿を保っていた。たぶん清掃は定期的に入っているのだろう。朽ちていくのに任せるのは少しもったいないような広さだ。

 

 シャニの腕から飛び降りて、ルクレはぐっと体を伸ばした。

 結界の中とはいえさすがに外は肌寒い。鞄から上着を引っ張り出して羽織る。もこもことした銀の上着はしろかね羊の毛でできていて暖かい。体温維持に魔力を回したくないルクレにとっては心強い味方だ。

 

 それにしても数分ぶりの地面がずいぶん足に懐かしい。シャニに運搬されるのは、体感としてはあんまり心地いい移動手段ではなかった。

 ただ、視線を撒くことにはどうやら成功したらしい。途中まではなんとか追いすがってきていた気配がどこにも感じられない。諦めてくれたようだ。

 損得計算で言えば得をしたと言っていいだろう。それもかなり。

 

 やや乱れた髪と制服を軽く整えていると、演習場の隅から誰かがこちらへ歩いてくるのが視界の端に見えた。

 その人影にシャニはひらりと手を振って呼びかける。

 

「──エウリア先輩!」

 

 なるほど、あれが件のエウリア先輩、か。

 こちらに近づいてくる人影はなるほど、とても森の氏族らしい姿に見える。

 

 邪魔にならないようにか、短く切られた栗色の髪。

 女性にしてはやや短めだが彼女の凛々しい顔立ちにはよく似合っていた。

 その身体に纏った飾り気のない訓練服もあわさって、まるで騎士見習いのようにも見える。

 そうして一番目を引くのはそのきらきらとした瞳だ。

 そこに湛えられたみどりは、夏の木々がつける葉のように青々としている。

 

 ──エウリア・サスーシャ。

 

 エウリア。他称、副学長の悩みの種。

 森の氏族の数少ない裔のひとり。

 あるいは、取り残された厄介者。

 

 

 

 



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rech.5-5

 

 

 

「悪い、先輩。遅くなった」

「いや、わたしも今来たところだ。が……?」

 

 ルクレの姿に気づいたのか、エウリアの足が止まる。

 新緑の瞳がわずかに見開かれて──。

 

 彼女はぱっと嬉しそうに笑った。

 それは、夏の日差しのような眩しい笑みだった。

 毒気のないその態度に思わず心がひるみそうになる。初対面の人間相手にどうしてこう振る舞えるのだろう。

 てらいがなくて、まっすぐで。

 こういういきものはあまり得意な方じゃない。

 

 すぐ喉元までこみ上げてきた怯みを隠したくて、ルクレは口火を切った。

 先手必勝だ。それしかない。

 

「はじめまして、お邪魔してしまってすみません……。ルクレティウス・リトグラト・リィと申します」

「エウリア・サスーシャ、です。お初に、お目にかかります。リトグラト家の方にお会いできて光栄だな」

 

 

 これは他の貴族に好かれないわけだ。

 

 ややぎこちない敬語と共に差し出された手に応じながら、ルクレはひとり得心していた。

 敬語の巧拙はさておいても礼儀作法的に少しばかりよろしくない。別に悪くはないのだが。

 ただ、握手は貴族階級において対等な間柄であることを示す挨拶だ。学院にいてなお階級に固執している貴族の子息たち相手にしたのなら、侮辱だなんだと鼻息を荒くしたことだろう。

 

 ルクレは違う。

 貴族社会の暗黙の了解なんてものを、その外で生きている人間が知っているわけはない。と、いうことをちゃんとわかっている。

 人の社会から離れて暮らしている森の氏族の末裔ならなおそうだ。

 未来を担うはずの諸侯の子息たちさえそんなこともわからない愚か者たちばかりだから、こうして父祖に数百年も騙されているわけだが。

 

 こちらの手をぎゅっと握り返してくるエウリアのちからはたぶんだいぶ加減されていて、それでもなお強かった。

 硬い、胼胝だらけの手のひらだ。

 彼女がどれだけの鍛錬を積み重ねてきたのか、その手に触れるだけでわかるような気がする。鍛錬狂い(シャニ)と仲良くなるわけだ。

 

「昨日、エイデンから話は聞き……うかがいました。その、あー、えっと」

「ふふ、敬語とかはかまいませんよ、サスーシャ先輩。学院内では王侯貴族と市民の別なく、です。ただの一生徒同士、むしろ先輩と後輩なんですから。ね?」

「そうか! すまない、助かる」

 

 あまり得意ではなくてな。

 そういいながら恥ずかしそうに頬をかく姿は、とても校庭に大穴を開けたという人間と同一人物には思えない。

 

「俺には敬語を使えってうるさかったくせに、よく言うな。──それで、昨日も話した通り、レティが魔術関連の指導をつけてくれるそうなんだ」

「はー? 僕が何回おまえの試験を手伝ってやったと思ってるわけ? 敬意のひとつやふたつ持ってもらわなくちゃ」

 

 シャニが軽口を叩いてくるので眦を釣り上げて負けじと応戦する。言われっぱなしは性に合わない、というのももちろんだが、こうやってシャニとも気安い関係であることを見せればエウリアが安心するだろうという打算込みだ。

 自分はあなたの知っている貴族階級とは違うんですよ、とはっきり示しておかなければ。あんな連中と同一視されるのはなかなか堪える。

 

 ふたりの応酬にエウリアが耐えきれないように吹き出したところで、ルクレは彼女の方に向き直った。こほんとひとつ咳ばらいをして余所行きの微笑みを浮かべる。

 

「──ですから、サスーシャ先輩。できる範囲ですが僕にお手伝いさせてください」

「こちらこそ、よろしく頼む。しかしそれを言うならわたしだって、リトグラト君に敬意を抱かなければ。エイデンよりよほど問題児だと思うから。……わたしは、どうにもそちらに疎くてね。身体を動かすことなら得意なんだが……」

「先輩はお強いぞ、かなりだ。俺もなかなか一本取れなくってな」

「なに、エイデンは筋がいい。すぐにわたしなど追い越すさ」

 

 何やらシャニとエウリアががさわやかで熱い、「高めあい」のような気配を漂わせ始めたので慌てて一歩下がる。こういう雰囲気はよくない。鍛錬馬鹿たちに巻き込まれるのはごめんだ。

 

「じゃあ、僕はちょっと離れているのでまずは組手から始めてもらっても?」

「かまわないが……いいのか?」

「ええ、身体強化系の魔術は使えますよね? 軽くで構わないので使っていただけると助かります。シャニ、おまえもね」

「ああ、それなら使える。大丈夫だ、了承した」

「おう。──先輩、今日こそは一本取らせてもらう」

「いいよ、できるものなら」

 

 演習場の真ん中へと歩いていくふたりとは逆に、ルクレはそこから距離をとるように、端の方へと向かう。

 ちょうどよく設置されている丸太の座面から落ち葉やら土塊ををどかして腰かけた。

 元から、最初はふたりの手合わせを見守ることに決めていた。

 実際に見てみることでわかることもある。というか、そうしなければわからない。なにせほとんど情報がないのだ。

 

 エウリア・サスーシャ。

 そもそも彼女についてルクレはあまり詳しくなかった。

 シャニの横に、気づけばそうあるのが当然というように彼女はいて。彼と肩を並べて戦い、後ろめたいことなどなにもない、とただまっすぐに立つ少女。

 

 辛うじて盾を使って戦うことと魔術も魔法も苦手にしていることくらいは知っているが、それ以上はわからない。

 思えば正面から相対したことはなかったし、交友関係なんてものももちろんなかった。

 彼女がどうして森の氏族の癖に魔導を苦手としているのか、なんてことはもちろん知らない。原因もわからない。

 

 だから、まずは「視る」。

 抱えてきた鞄から魔導具を取り出す。

 これはルクレが昔つくった試作品だ。なので特に名前はない。

 一見するとただの銀縁のメガネにしか見えないだろう。

 確かにフレームの方は特になんの変哲もない鋼製のものだが、レンズのところには実はびっちりと魔法式を刻み込んである。

 ものの内在魔力の流れを視るための式だ。中等部の頃につくったわりにはいい出来で、自信作だった。

 

 くもりがないようにハンカチでレンズを拭いてからメガネをかける。頬に触れた金属のひんやりとした冷たさにルクレは小さく身をすくめた。

 魔導具の硝子越しに見る世界は、魔力にあふれている。木々にも土にも、空を行く鳥にもだ。

 そうして演習場のど真ん中で拳を合わせているふたりにも、もちろん。

 ただ、見たところエウリアは身体強化の魔術に関してはシャニと同じくらいか、彼よりも上手いかもしれない。

 組手はふたりが話していたようにエウリア優位に進んでいる、

 彼女の体内で魔力はよどみなく循環を続けて、必要な個所に必要なだけ注がれていた。

 

 うーん。

 ルクレは胸中で首をかしげる。

 ここまで魔力操作に問題がなくて、どうして暴発を起こしたのだろう。

 しかも校庭に大穴を開けるだけの威力で。

 

 確かに魔力操作が苦手、という人間は一定数いる。

 が、そういう人間は概して体内での魔力の流れにも問題がある場合が多い。

 だいたい魔術を使った際の暴発でそこまでの威力が発生すること自体がおかしいのだ。

 学院で教えられるような魔術式には、そのあたりの安全装置になる記述が絶対に含まれている。安全で万人が使用できるものしか講義では取り扱わないことになっているからだ。

 

 そうして、その安全装置の式を忘れていた、という可能性もまた考えにくい。

 エウリアがやらかしたのは講義中だったと聞いた。教員が見ている前で明らかに危険な記述の欠けが許されるわけがない。

 

 ──ふむ。

 

 シャニが森の中に投げ飛ばされていくのを見送ってからルクレは立ち上がった。

 別にシャニが叩きのめされている光景に飽きたわけではない。むしろ後一時間くらいは余裕で見ていられそうだ。

 そうではなくて、そろそろ組手も一区切りついただろうし本題に入りたかったのだ。

 ぱたぱたと訓練着についた土ぼこりを落としているエウリアに呼びかける。

 

「──サスーシャ先輩。一度、試しに何か魔術を使ってみてくれませんか?」

 

 

 

 

 

 

 

 






2月3月4月と繁忙期なので隔週日曜PM6時更新になります

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rech.5-6





 

 

 ドカン! 

 

 そんな景気のいい爆発音がしたかと思うと木立の一部が消し飛んだ。それも、文字通り木っ端みじんに、だ。

 爆発の衝撃波で、冬の寒さの中でも健気に緑を茂らせていた木々が儚くその葉を散らしていく。

 

「あー、あ、ははは……」

「……サスーシャ先輩はなんというか、──魔力の加減が下手ですね」

 

 その惨状を引き起こした張本人が漏らす乾いた笑いにルクレはなんとか微笑みで返した。ぎこちなさをうかがわせない完璧な笑みの裏側で、頬がちょっとだけひきつっていたのはここだけの話だ。

 

 ──魔力の加減が下手。

 というのが、エウリアにおおよそ中等部で習ったような魔術をいくつか使わせてみての率直な感想だった。それ以外に言いようが見つからなかった、とも言える。

 どれもそこまで難しくない魔術だったにも関わらず、不発か爆発かしか起こらなかったので。

 

「ぐう、直截だな。いや、いつもはもっと成功率が高いんだが……」

「うーん、これでもだいぶ言葉を選んだんですよ? ……僕の義妹もそういう加減があまりうまくない方ですが、これは……」

 

 心なしか気落ち気味に見える先輩をしり目に、ルクレは顎に手を当てて考え込んだ。

 

 身近な例でいうと、シャニもニアも魔術があまり得意な方ではない。

 ただ、シャニはどちらかというと魔導自体と親しんでこなかったことによる苦手意識の影響が大きいだろう。

 よく使う、それこそ水を生み出すような魔術は難なく使いこなしているし。暴発させるようなことはそうそうないし。

 

 そこを踏まえるとエウリアの場合、ニアと近しい問題を抱えているように思える。

 

 魔力量は多いくせに義妹は、だからか魔導の威力を加減することがなかなかうまくならなかった。

 まだリトグラトの家に来てすぐの頃だったか、ニアはそよ風を起こそうとして竜巻を引き起こしたことがあった。しかも室内でだ。後片付け、というか復旧がとにかく大変だった記憶がある。

 

 ただこれはまあ当然の帰結で、体内の魔力の量が多いとどうしても体外へ、つまり魔導陣へ注がれる魔力も多くなってしまうせいだった。

 このあたりの加減はあまりにも個々人の体感での差が大きすぎて、基本的に何度もやって感覚で覚えるしかない。

 

 そうしてニアはあの時より成長した今でも、魔力の加減がうまくなったとは言い難かった。

 魔力の量が多いというのも一概にいいことばかりとは限らないのかもしれない。

 最もルクレからしてみれば、贅沢な悩みにしか思えなかったが。

 

 けれどそう考えてみると、エウリアの抱えている問題はニアのそれと近しくとも、少し違うようにも思える。 

 

 なんというか、挙動がおかしい、というか。

 

 そこまで考えたところで、ルクレは顎を掴んでいた指をすっと離した。何事も「どうしてそうなっているのか」がわからなければ対処のしようがない。その場にしゃがみこむと、足元に置いていた鞄の口を開く。まずは原因の特定から始めた方がよさそうだ。

 

 筒状に巻いた羊皮紙を掴みだして、ルクレはぐるりとあたりを見渡した。シャニがまだどこかそのあたりで暇を持て余しているはずだった。

 

 エウリアに魔術を使ってみてもらう間、あいつには少し離れているように頼んでいた。近くで見られていると彼女が集中できないだろう、と思ってだったのだが、さっきの様子だと見られていても結果はあんまり変わらなかったかもしれない。

 

 当のシャニはすぐに見つかった。どうやら演習場の隅の方でひとり柔軟運動をしているようだ。

 ちょっとくらい魔導の練習をすればいいものを、と思いながら、その背中に向かって声をかける。

 

「シャニ! ちょっとこっちに来てくれるか? ……サスーシャ先輩、僕の方で魔術陣を描いてきたので、今度はこれを使ってみませんか?」

「わ、わかった」

「なんだ? もう終わったのか?」

「ううん。ちょっとやってもらいたいことがあってね」

「やってもらいたいこと? 俺にできるやつならかまわないが」

「うん、そんなに難しいやつじゃないから大丈夫。先輩も安心して、ゆったり構えてくださいね」

 

 羊皮紙を手渡しながら意識して視線をエウリアとあわせる。

 先ほどまでの失敗の余波か、その緑の瞳にはくっきりと不安が滲んでいた。

 よくも悪くも感情を押し隠すことができない人なのだろう。

 

 けれど、その怯え自体はルクレにも覚えのあるものだ。

 失敗することは怖い。成功体験が少ないと余計にだ。

 そうしてそれが人前でなら、なおさら心も竦むだろう。

 他人の期待に応えられないことは重く肩に伸し掛かり、自分は価値のないものだと思わせる。

 だが臆病になって挑戦を恐れれば、その分進歩も遠くなってしまうものだ。暴発を恐れて攻性魔導を使えなくなったニアのように。

 

 ルクレは不安の滲む瞳を覗き込んで、大丈夫ですよ、とささやいた。エウリアを少しでも安心させられるように、ゆっくりと言葉を続ける。

 

「大丈夫、少し不思議なことになるかもしれませんが、むしろ僕はそうなることを期待してお願いしていますから」

 

 ね? そう言って小さく首をかしげてみせる。

 初夏の緑に、ほんのわずかにだが力強い輝きが戻って、エウリアがうんと首肯した。

 ほっと胸をなでおろしつつ、ルクレはエウリアと、それからシャニに羊皮紙をそれぞれひとつずつ広げさせる。

 

 そこに描かれた陣はあまり精緻なものではない。ふたつの正円と数行の魔術式だけで構成された魔術陣は、どちらかというと子どもにだって描けそうなほど単純な図柄だ。

 

「……じゃあふたりとも、僕に続いて復唱してください。行きますよ? 

 

 ──珊瑚が爆ぜて/夜々(やや)の星

 貴公子は三時に/あるいは四時に? 

 

 ──しじまを満たせ コフワの吐息」

 

 聞き取りやすいようにゆっくりはっきりと詠うルクレの後から、少し遅れてふたりが続く。

その手から魔力が陣へと流れ込んでいくのが魔導具の硝子越しにはっきりと見て取れた。

 

 そうしてふたりが最後の一文を紡ぎ。

 

 

 その瞬間に起きた現象はおもしろいほどに対照的だった。

 

 エウリアがびしゃりと頭から水をかぶり、その一方で、シャニはぱちぱちと色とりどりの火花を周囲に散らす。

 

「こ、れは……?」

「ああ、やっぱり。──先輩、サスーシャ先輩。風邪をひく前に、これ。使ってください」

 

 思っていた通りの結果に、ルクレはほっと息をついた。

 道理で挙動がおかしかったわけだ。

 納得のいく原因が見つかったことに安堵しながら、鞄からタオルを取り出す。ふかふかのそれをすっかり濡れ鼠になってしまったエウリアに差し出した。

 

「『コフワの吐息』は、一般的にはこうやってシャニのように火花が散る魔術なんです」

「ああ、何人かで使うとかなり綺麗だよな。村の祭りとかでも見たことがある」

「うん、そういう魔術だからね」

 

 掌で火花を遊ばせながら、シャニは懐かしそうに色彩を見つめている。

 エウリアはまったく違う結果に驚いたのか、色とりどりの火花にも目の前に差し出されたタオルにも反応しない。

 ルクレは彼女にタオルを受け取らせることを諦めて、かわりにそのこわばった体を包むよう広げて肩にかけてやった。

 大丈夫ですよ、ともう一度、魔術を使わせる前に囁いたように繰り返す。

 

「魔術、というものは基本的に多少魔力が少なくてもその質が低くても一定の出力が見込めるように構成されています」

「……う、うん。そんな感じのことを確か聞いた覚えがある」

 

 高等部二年の春に履修する内容だ、聞き覚えがあって当然と思うべきか。それとも座学が苦手そうな彼女が多少でも覚えていることを褒めるべきか。

 少し悩んでどちらもやめた。なんだか話題が脱線しそうだ。

 代わりに話を進めてしまうことにする。もう一枚取り出したタオルでエウリアの頬やら髪やらの水分を拭いつつ、ルクレはなるべく優しい、穏やかな口調で優しくはない言葉を切り出した。

 

「ええ。それで、おそらくなんですが……、先輩は魔術というものに、あんまり向いていないと思うんです。それも、だいぶ根本的なところから」

「えっ」

「おい、レティ」

「シャニは黙っててくれ。──加減が下手、と言われるのにも二種類あって。たとえばうちの義妹は魔術陣に流し込む魔力の加減がわかっていない典型的な例なんですが、正しく発動自体はするんですよ。

 たとえば火をつけようとして炎が出ることはあっても、そよ風を起こそうとして竜巻を巻き起こすことはあっても、こうやって火花を出す魔術で水がわいてくる、なんてことはないんです。

 でも、先輩の場合はそういう結果になってしまう。

 僕が思うに、先輩は、たぶんそもそも魔術の思想自体にあんまり向いてないんじゃないかな、と」

「そん、な……」

「別に悪いことではないんですよ」

 

 話を遮ろうとしたシャニをぐっと横目で睨みつけて制止する。

 向いていない、というルクレの言葉にエウリアが傷ついた気配を感じとったのだろう。お人好しめ。

 これを告げれば傷つくだろう、ということくらいはルクレにだってわかっている。わかっていて言ったのだ。

 言いづらいことをそれでも言っておかなければ話が進まない。

 なにせここからが本題なのだから。

 

「魔術っていうのは、魔術の素養がある人間が100人いればそのうち99人、とまで行かなくとも95人が使えるように、という観点で作られてきたものなんです。だからか、魔力があまりにも多すぎる場合だと不具合が起きやすい傾向にあります」

 

 まだ世界に妖精がいたような古代ならいざ知らず、ほぼ人間だけが魔導を使う現代において、その枠組みから外れるほどに魔力が多い者が生まれることはほとんど皆無に近い。

 エウリアがその数少ない例外となってしまったのは、おそらく森の氏族の血のせいだろう。

 

 それは人間社会での普遍性を高めたがための欠陥だ。魔力が多すぎる、ということがそもそもそこまで想定されていないし、陣に注がれた魔力が多かった際の安全装置もまた決して万能ではない。

 

「しかも、先輩は魔力の性質も普通の魔術師と違って水や草花に親しいものみたいですね。ほら、さっき魔術を使った時、不思議なことになったでしょう? もしかすると、これまでにもあったかもしれませんが……」

「あ、あった。昔、本当に数えるほど、だが……」

「でしょうね。そういう作用をしてしまうのが何よりの証拠です。僕もそうなんですが、先輩は森の民の血が強く出ているのだと思います」

 

 若干の嘘を織り交ぜつつ、──なにせルクレには純然な自分の魔力というものは存在しないので──、エウリアのことを適度にフォローしていく。

 あなたの努力が足りなくて失敗していたわけではないのだ、と。これまでに失われ目減りしてきた自信を少しでも取り戻せるように。

 

 魔力の性質にも色々とあるが、一般的な魔術師が水や草木に親しいものを持つことはない。

 人間はたいてい火や大地と親和性が高くなりがちだ。

 そのせいで一般的ではない性質を持った魔力だと、魔術式の種類によってはまったく違う作用をしてしまうことがある。

 

 先ほどの『コフワの吐息』などいい例だろう。

 あれは本当にどこかの無名の魔術師が子供だましに作った魔術だと聞く。祭りだの大道芸だので目を楽しませるためだけのもの。

 だから構成する魔術式も陣も簡単なもので、例外の要素を想定した記述がひとつもない。

 そんな魔術に例外中の例外といえる性質を持った魔力を流せば、当然普通の結果が出るわけがない。

 

「魔力の性質が特異なものですから、どうしても魔術の挙動がおかしくなってしまう。そうすると安全装置になっている式も当然うまく作動しなくって、暴発したり不発になったり、となってしまうわけです」

「だから、わたしに魔術は向いていない、のか……だが、武術だけでは魔導大会を優勝することは難しい。少なくとも今のわたしでは無理だ。どうすれば……」

「解決策はいくつかあります。僕の所見にはなりますが、魔力の加減を覚えて、既存の術式に先輩の特質を考慮した記述を追加していけば、問題なく魔術も使えるようになるはずです……が、短期間での矯正ははっきり言って不可能だと思います」

 

 ルクレはあえてきっぱりと言い切った。

 まかり間違っても希望を残さないように、未練が残らないように絶ち切って置かなければならなかった。

 

 なにせ、エウリアが今まで覚えてきた魔術のうち、記述の抜けや欠けのあるものを補ってまたきちんと覚えさせなければいけない。魔術式も詠唱も陣もほとんど一から覚えなおすようなものだ。

 もちろん間違って前のままのものを使ってしまえば、暴発か不発か。

 どちらにせよ、本番の試合中にそんなことになってしまえばまず敗北は免れない。

 

 だから、魔術は使えない。あまりにも不安定すぎる。不確定要素を排除しきるだけの時間は今のエウリアにはない。少なくとも魔導大会には到底間に合わないからだ。

 それでは意味がない。

 

 だから。

 

「大丈夫です、サスーシャ先輩。僕に任せてください」

「リトグラト、くん……」

 

 ルクレはにっこりと微笑んだ。

 エウリアが思わず頬を染めたそのうつくしい笑みに、なぜかシャニは渋面をつくる。

 ああ、なんだか悪だくみの気配がするぞ、とでも言わんばかりに。

 けれど気にしない。

 これはあくまでも慈善事業だ。かわいそうな先輩をけなげな後輩が手助けしているだけのこと。

   

 

 魔術が使えないのなら。技術に向いていないのなら。 

 

 

 ──それなら、祈ればいい。 

 

 

「学院中に見せつけてやりましょう。妖精に、──魔法に愛された森の氏族の真髄を」

 

 

 

 

 

 

 

 







ルクレティウスは周囲からあまり評価されていないものを実績で認めさせることが好きです。とても。


コメント・評価いつもありがとうございます、励みになっています

次回は2023/02/26㈰更新予定です。


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rech.6-1 だいっきらいだ、

 

 

 窓の外では、しとしとと煙るような雨が降っている。

 

 エディリハリアにおいて霧雨は春を告げる風物詩のひとつだ。雨が雪に変わるほどの寒さが、長く厳しかった冬が、この極寒の国から過ぎ去りつつあることの確かな証。

 

 学院を覆う守護と停滞の天蓋の下でも、外と変わらずに雨は降る。

 こういう日は当然のことだが演習場が使えない。

 昨日まで生徒で溢れかえっていた校庭も、今日はただ霧雨が降りしきるばかりで静けさだけが満ちていた。

 

 

 実のところ、これくらいの雨なら鍛錬は出来るが? といつも通り外へ飛び出していこうとした馬鹿が若干二名ほどすぐ身近にいたのだが。

 ルクレがついていながらそんな愚かな所業をまざまざ目の前で許すわけもなく。

 監視役と鍛錬馬鹿二人もまた他の生徒たちと同様に、この雨の放課後をそれぞれの課題に励む日とすることになった。

 

 

 

 

 

 

「──うーん、わからん」

「わからん、じゃない! 馬鹿なんだから、とにかく手を動かして書き取りからやれってば。わからないところは後でまとめて僕に見せろって言っただろ?」

 

 教科書をぼさっと眺めながらシャニが呑気にそんなことを抜かすので、ルクレはすかさず檄を飛ばす。

 頻出魔術式の書き取り200回も、二週間前の小テストの訂正も終わっていない人間に対して優しくしてやる義理はなかった。馬鹿に馬鹿と言って何が悪い。せめて書き取りくらいは休み時間でも使って終わらせていてほしいものだ。

 

 運よく空き教室を借りられた、──ミネア師にちょっとお願いしてみた、ともいう。人避けのまじないまでしてくれたので感謝しかない──おかげでこうして率直な言い方ができることだけが救いだった。

 

 他の生徒の目があるところでは、馬鹿、なんてわかりやすい罵倒もそうそうできない。

 優等生かつ優しいお貴族様であるところのルクレティウス君は学友にずけずけと物を言ったりしないし俗っぽい言葉を使ったりもしないのだ。

 そう思わせるよう振舞っている以上、第三者がいる場では口調にも態度にも気を遣う。それは相手がシャニであっても変わらない。

 

 まあこの場にもいちおうエウリアという第三者がいるのだが。

 だがそこはそう、ここ数日で彼女が逆に貴族らしい物言いに委縮しがちなことがわかって以来、あえて砕けた物言いを続けているのだからいい。いいことにした。

 こうやって貴族とも気の置けない関係を築けるのだと示していけば、彼女の上層階級へのちょっとした緊張もほぐれていくことだろう。そうでなければ困ったことになる。いろいろと。

 

 その当のエウリアは、というとたまにうめき声はあげながらも鉛筆を走らせ、時おり自分の書いたレポートと本の内容とを照らし合わせていた。

 彼女の形相は控えめに表現しても必死の一言に尽きる。

 

「──サスーシャ先輩、もし補足が必要そうでしたらそこの、その青い表紙に銀字の題の、その本を使うといいですよ。4章あたりからがちょうどいいかと」

「!! ありがとう、さっそく参考にする……!」

 

 やや行き詰っている様子だったのでひとつ助言を投げると、ぱっと緑の瞳を輝かせていいお返事が返ってきた。

 こうやって返事自体はしっかりあるし、シャニよりだいぶ集中して課題に取り組んでもいる。

 見た目だけは熱心で勤勉な態度に見えないことはない。

 

 が、そもそも彼女はシャニよりもずっと追い詰められた立場にいるのだった。

 

 鍛錬にずいぶん身を入れていたのか、それとも他に何か理由があったのか。

 まあおそらく前者が原因だろう。

 エウリアは明日が提出期限の課題さえまだ終わっていなかったのだ。しかも、攻性魔術に関するレポート、なんて時間のかかりそうなものが。

 かろうじて手はつけていたものの、進捗は芳しくなかった。さすがのシャニも期限に一日二日くらいは余裕をもって課題を終わらせていることが多いのに、だ。

 

 ちなみにルクレはハナからこの二人と同じ土俵に立っていない。なにせ課題は出された翌日に提出する派なものなので。

 

 おそらく、エウリアには得意でないことは後回しにしがちな節がある。無意識なのかはわからないが、座学はもちろん、魔導に対する姿勢自体にもその悪癖は表れていた。

 

 苦手なことに向き合いたくない、という気持ちはわからないでもない。けれど、さすがに提出物でそれをやってしまうことはよくない。

 教師の心象が悪くなるというのもそうだが、やらなければならないことが終わっていないというのはやっぱり意識の上でも重荷になる。

 エウリアのような気性なら余計に気にかかるだろう。そんなことでせっかくの訓練に身が入らないようだと意味がない。なにせ大会までの時間はそう残されていないのだから。

 

 それに、いくら提出期限がまだ明日まであると言っても、実際のところは今日までが締め切りのようなものだった。

 

 なにせ春雨の翌日は例年きれいに晴れ渡ることが多い。

 今日はこの通りの天気だが、だからこそ明日からはきっと快晴が続くことだろう。

 絶好の鍛錬日和になること間違いなしだ。

 そんな明日以降の放課後を鍛錬にあてたいのなら、課題を今日中に終わらせなければならない。あくまでも提出物が優先だ、とルクレも少し厳しく伝えていた。

 

 提出締め切りがかなりぎりぎりなこと、そして大好きな鍛錬が取り上げられる瀬戸際とあって、エウリアのやる気にはすっかり火がついている。

 シャニにも彼女のそのやる気だけは見習ってほしいものだ。やる気だけでいいから。

 

 と、そうして課題はすぐに終わらせる性分の己はというと、こんな日だからこそできることに取り掛かっていた。

 

 ルクレはすっと自身の手元に目を落とす。

 机上に置かれているのは、何の変哲もない、シンプルな銀の足環だ。

 その表面には黒のインクで花や葉の意匠が描かれていた。これはまだまだ下描きでここから更に彫金の工程が控えている。

 まだ図柄のすべてを書き写しきれてはいないが、おそらく完成したとしてもただの装飾品にしか見えないだろう。

 

 だが、これはれっきとした魔導具になる。その予定だ。

 ここに描かれた花びらや葉を組み合わせるとある魔法陣になる。ルクレの理論では問題なく作用するものだ。

 そうなるように元の魔法陣を変形して式を図柄の中に取り込んでいるのだ。

 

 まずはこれがぱっと見ただけでは魔導具だと気づかせないように。

 そうして次はこの魔導具がどういった作用をするものなのかわからせないように。

 そういった策謀込みでルクレが意匠を考えた、まさに一点ものだ。

 

 ただし、大会までの期間を考えるとこれ以上凝ったものにすることは難しい。

 講義中と演習場にいる間はさすがにこういった細やかな作業はできない。魔法陣をどう装飾に落とし込むかを考えるくらいのものだ。必然的に鍛錬後の夜寝るまでの間と講義が始まるまでのひとときだけが作業にあてられる時間になる。

 そのあたりを考慮して、図柄も本来ならもう少し複雑なものにする余地があったが譲歩したし、目につきにくいところは簡略化もした。

 

 とにかく限られた時間だが、後一か月半もあればこれともうひとつくらいは陣を施せる、そういう目算を立ててルクレは計画を進めていた。

 今のところ経過は順調だ。どの魔法を採用するかも決まっている。納期までかなり余裕を見れるだろう。

 

 魔法陣だ、というのも気が楽になっていい。

 魔法の根幹は祈りだ。陣の精緻さは魔術ほど必要とされない。手を抜いてもかまわないところでは手を抜きつつ、重要なところを丁寧に仕上げればいくらか時間も手間も短縮できる。

 そうやってなるべく早くに魔導具を完成させ、実践で慣らしと調整とを行えば十二分に使えるものになる。はずだ。

 

 ルクレとしてはどちらかというと調整の時間を多めに見ておきたい。

 なにせエウリアが主に扱うのは盾だ。これまでの繰り返しの中でも、盾を片手に戦っている様子を見たことがある。

 ちなみに剣や槍なども苦手ではないようだが、好んでは使わないらしい。使う盾も普通の武具ではなく、普段はただの籠手のかたちをしていて、魔力を流し込むと盾が展開される、そんな仕組みの武装を使うのだ。とシャニから聞いた。

 

 教える魔法もそれを仕込む装飾品も彼女の戦闘法に合うものをと考えているが、いかんせんそういう戦い方をする人間にルクレはそこまで詳しくない。

 だから、自分が作る魔導具が本当に彼女にとって有用なのか、使用に不都合がないか、をじっくり自分の目で確認して、必要なら仕様を変更する猶予もほしい。

 あくまでも魔法は補助だ。エウリアの戦い方を妨げるようなものにはしたくなかった。

 

 と、ペンの音とページをめくる音がひとつ途切れたような気がしてルクレは顔をあげた。シャニはまだ書き取りを続けている。

 と、いうことは。

 

 なにやら考え込んでいるエウリアの方に、ルクレはその身を乗り出した。背中に流したままにしていた藍色の髪が動きにあわせてさらさらとこぼれ、その手元に影を落とす。

 開かれたままの頁を覗いてみれば、エウリアはどうやら先ほど勧めた書籍の、やや前の方の章を読んでいた様だった。

 

 やってしまった。前もって忠告しておくべきだった。

 ルクレは自分のうかつさを呪いつつ口を開いた。

 

「……ああ、すみません、先に言っておけばよかったですね……。この本、3章以前の記述はあんまり参考にしない方がいいかと」

「そう、なのか?」

「はい、これの発刊から十年後に同じ著者が出した物で前提条件が間違っていた、と述べているんです。まだ雷撃系の魔術が発展していなかった頃のものなので……」

「なるほど、通りで習ったものとは違うことが書かれているな、と……というか、もしかしてリトグラト君、この本の内容覚えてたりするのか?」

「ふふ、偶然ですよ、」

「先輩、レティはすごいぞ。一度読んだ本の中身は全部覚えてるんだ。後書きとかもな」

「おい、シャニ!」

「本当か!? すごいな……わたしは昨日読んだものでさえ危ういことが多いのに……」

 

 謙遜しようとしたところを、すごい、すごいと二方向から褒められて、ルクレはもぞもぞと椅子の上で居住まいを正した。

 

 どうにも座りが良くない。腹のあたりがぞわぞわして気持ちが落ち着かなかった。

 だって、こうやって真っすぐ目を見て褒められるなんていつぶりかもよくわからない。

 世辞でもなく、嫌みでもなく、たった一言二言褒められているだけ。それだけでどうして自分はこんなにも気分がざわついているのだろう。

 

 こちらへ向けられた橙と緑の二対の瞳と目を合わせることができずに、ルクレは僅かに視線をそらした。

 二人の目が純粋な称賛の輝きを浮かべていることがわかっていて、だからこそ。

 

「……二人ともキリがよさそうですし、いったん休憩にでもしましょうか。おいしいお菓子を用意してあるんです」

 

 何故かちょっとこわばっている表情筋を総動員して曖昧に微笑み、ルクレはするりと立ち上がる。

 戦略的撤退だ。こんなところにいられない、と思考回路が警鐘を鳴らしている。

 このままこの場に居続けていたら、なんだかどうにかなってしまいそうだった。

 

 

 

 









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次回は2023/03/12㈰更新予定です、たぶんおまけでニアの話もあります(追い込み


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rech.6-2

 

 

 

 ──僕としたことが、お茶の用意を忘れてしまいました。

 

 なんて白々しいことを言い置いてルクレは教室を出た。ほんの少し、いつもより少しだけ足早に。

 

 ああ、そうだ。完全に言い訳だ。それも杜撰すぎるくらいに穴だらけの。

 水なんて魔導を使えば簡単に生成できるし、湯になるまで沸かすこともできる。なんなら茶の葉だって本当は菓子と一緒に持ってきていた。

 人除けのまじないをしてもらったあの教室からわざわざ出なくて済むように。

 

 それでもどうしたってあの場にい続けたくなくて、馬鹿なことをやっていると自覚しながらルクレはあんなことを言った。言ってしまった。

 そのツケがこれだ。

 教室の外に出てしばらく歩くうちに、背中に刺さる熱烈で粘着質な視線。

 どうやら例の上級生たちはまだ女性化の解明をあきらめていないらしい。そんなに気になるのか。いやそれはこんな珍事が起きれば気になるのは仕方ないかもしれないが。

 

 ──馬鹿、馬鹿、ばか! それだってわかってたはずだろ!? 

 

 表面上は涼しい顔を崩さずに、けれど胸中では自分の愚かさを罵る。

 そんな器用なことをやりながら、ルクレはひとまず食堂へと足を向けた。一度教室を出てしまった以上、目的を達成しないまま戻ることはできない。こんなところで引き返すわけにはいかないのだ。

 

 全寮制なだけあってこの学院の食堂は場所も広ければ職員も多い。さすがに調理場は衛生面の問題があって自由には出入りできないが、その脇につくられた給湯室は生徒や教員も利用できるようになっている。

 とりあえずそこにいったん逃げ込んで、お湯と茶の葉をもらって。

 

 ひとまずこれからの算段をたてつつ歩くルクレの横に、すっと人影が落ちる。

 誰だ、と緩慢に首を回すその鼻先を掠めるのは薄荷のにおいで。

 ルクレはぱっと藍色の目を見開いた。

 振り返って仰ぎ見ればそこには教室に置いてきたはずのシャニがいる。

 

「シャニ……? ──は? 何、なんでおまえ」

「なんでって。荷物持ち、いるだろ?」

 

 はぁ。ルクレのしかめっ面もまったく気にせず、シャニは当然のような顔をしてやや後方をゆっくりと歩く。

 まるでルクレの背中に刺さる視線を遮ろうとするように。

 

 あまりにもなんでもないような顔をしてかざされる優しさに、ぎりりと胸が痛んだ。

 普段はどれだけだって鈍いのに、こんなところでだけ聡くなられても困る。困る、というかむしろ嫌だ。

 

「ティーセットくらいひとりで持てる。僕をなんだと思ってるんだ。だいたいおまえ、課題も終わってない癖に」

「書き取りは終わった、試験の訂正は、それこそレティがいないと進まないからな」

「そんなことで胸張るなよ……」

 

 シャニが後を追ってきたことが純然な優しさではなかったことに、ルクレはほっと胸をなでおろす。課題が切りのいいところまで終わって、自分の助けが必要になったから。手持ち無沙汰になったから追いかけてきた。

 それならまだ大丈夫、まだ許容範囲だ。

 

 そうだ、ルクレはシャニにただ優しくされることが一番嫌なのだ。

 こいつは馬鹿で愚直でお人好しで、誰にでも優しいし誰のことだって助けたがる。

 そういうやつだから自分はこれくらいの、持ちつ持たれつの立場のままでいたい。特別な何かにはなれなくてもいいから。

 特別な何かには、なれなくてもいい。

 生ぬるい諦めの言葉を繰り返す。そうしているうちに胸の痛みも和らぐような気がしてルクレは小さく息をついた。

 

 そのままひとつ深呼吸をする。と、鼻腔を焼き菓子の香ばしいにおいがくすぐった。考え事をしているうちにそろそろ給湯室に着くというところまで来ていたらしい。

 

「……おまえは外で待ってろよ、かさばるから邪魔になるし。荷物だったら帰り道に好きなだけ持たせてやるからさ」

「ああ、わかった。持ちきれなさそうだったら早めに呼んでくれ」

 

 部屋に入ってしまえば追跡者たちの視線も遮れる。彼らだって用事もないのに中まで踏み込んでくるようなことはないだろう。ついでに出入り口にシャニを置いたままにしておけば、多少の威嚇にはなるはずだ。

 そんなことをもくろみながらルクレは給湯室の扉を開く。

 

 ひとりでそこに足を踏み入れたことをたった五秒後には後悔しているとも知らないままに。

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 思わぬところで会うと想像もしてみなかった人間に遭遇すると、他の場所でそうするよりもずっと疲弊する。たぶん心の準備ができていないからだろう。

 

 時間にするとたった数分のことだったにもかかわらず、給湯室を出る頃にはルクレはすっかり気疲れしてしまっていた。疲れのあまりシャニに荷物を全部押し付けてしまったくらいだ。ひとつくらいは持つ気でいたのに、お湯をたっぷり入れたポットも保温性の高い分厚いカップも、三人分の茶葉が詰まった小瓶でさえ今のルクレには手に余る。

 

 ああ、こんなことならシャニを部屋の中まで連れて行けばよかった。そうすればいくらでも盾にできたのに。

 

 計算違いを嘆きつつぐったりとした足取りで教室に戻ると、レポートを書き終えたらしいエウリアが机に突っ伏していた。扉を開ける音は聞こえただろうに、あんまり疲れ果てているのか、うめき声のひとつもあがらない。

 普通なら一週間ほどかけて終わらせる課題を、ルクレが多少手助けしたとはいえ二日程度で仕上げたのだ。それは疲れもするだろう。

 まあまあ自業自得ではあるが、それでもあの強行軍をきちんと終わらせたことは評価したい。

 

 しかし元気そうなのはシャニだけだな、と思いながら、ルクレはてきぱきお菓子とお茶の用意を始めた。疲れてはいる、疲れてはいるがだからこそ早く休憩にしたい。

 

 小瓶のコルクの蓋を開けると、きゅぽんという小気味のいい音がした。ガラス瓶に詰まった茶葉をポットにそのまま流し込む。

 あんまり高級なものを出してふたりを気おくれさせるのもかわいそうだったので、今日のお茶は市民階級にもなじみのある安価なハーブを選んできた。こういうハーブのいいところは雑にいれても味がそこまで落ちないところだ。給湯室で選んでいる時はそこまで考えていなかったが、こうなってみると最良の選択をしたかもしれない。

 

 ポットの中で葉を蒸らし、ふわりとかぐわしい匂いがあがってきたところでカップに順々に注ぎいれていく。白い陶器の中で揺れる薄緑がくたびれた心を目から癒してくれるようだった。

 

 茶葉は安めだが、菓子に関してはそこそこ上等のマドレーヌにした。

 これはルクレが個人的に用意したもので、ちょっとした茶会にだって出せるような代物だ。それがたっぷり入ったバスケットを机の中央に置く。

 そこそこ上等といっても、リトグラト家から見るとお安いものだ。好きなだけ食べてほしい。どのみち日持ちもしないことだし。

 心身のどちらであっても、疲れ切っているときはとにかく甘いものに限る。

 

 いまだ突っ伏したままのエウリアの傍らに、念のため顔を上げたり身じろぎしてもぶつかったりしない少し離れたところを選んだ、カップを静かにおいてやる。と、人の気配を感じたのか、ゆっくりと栗色の頭が持ち上がった。

 

「サスーシャ先輩、お疲れ様です。さ、お茶とお菓子の準備もできましたし、休憩にしましょう」

「ああ……。感謝する……」

「シャニ、自分のカップは自分で運びなね」

「ん、ありがとな」

 

 マドレーヌをひとつ手渡すとエウリアはぱっと表情を明るくした。どうやら甘党だったらしく、美味しそうに次々焼き菓子を頬張りだす。

 さらに、お茶にもどぼどぼと蜂蜜を入れ始めた。どこから取り出したのかわからない蜂蜜の壷はかなりの大きさで、子供の頭くらいはある。その中身を惜しげもなくカップの中に注いでいる。その、どぼどぼ、という擬音は決して誇張ではない。

 どう考えてもどこから見ても入れすぎだ。蜂蜜入りのお茶というより、ハーブ風味の蜂蜜といった方が正しいような代物が彼女の持つカップの中に揺蕩っている。

 

「そ、そういえばさっき給湯室で王女殿下にお会いしたんですが、何か妙なことをおっしゃっていて……」

 

 その様子を見ていられなくて、ルクレは色濃い気疲れの原因を話題にあげた。

 そう、単身お茶の道具を借りに入った小部屋の中でよもやこんなところにいるとは思っていなかった人と出くわしてしまったのだ。

 

 ミルファリオ・エディリハリア・マグナ、王女殿下その人である。

 いくら身分差のないことになっている学院内とはいえ、王女が給湯室なんかに出歩かないでほしい。その輝くばかりの金髪を室内に見つけた途端、ルクレはもうよっぽど見なかったことにして帰ろうと思ったくらいだった。

 しかし、もう二度と会うことがないように、と祈ってからあまりにも早すぎる再会だ。やっぱり神とやらはいないらしい。

 しかも、そんな彼女とほんの数分だが話までしなくてはならなかった上に、その内容がよくわからなかったときた。

 

 ──聞いたわ、あなたにしては珍しいことをされてるのね。

 

 どういう意味でしょう? と聞き返すことは容易だった。だが、ルクレの性格上、あの場でリオに弱みを見せるような行為は選べず。

 疲弊ともやもやを抱えたまま、教室へ戻ってくることになってしまった。

 と、一心不乱に糖分を補給していたエウリアがその若草色の瞳を丸くする。

 

「王女殿下も給湯室を使われるのか……」

「あの人、けっこう気安いぞ。身の回りのことも一通り自分でするって言ってたし。それで、妙なことってなんだ?」

「いや……僕が珍しいことをしているとか、なんとかっていう……」

 

 ルクレはやや歯切れの悪い調子で話しながら、首をかしげる。

 珍しいこと。いったいなんだろうか。そもそもこの場合、リオから見ての珍しいこと、になる。自分では皆目見当がつかなかった。

 だいたい、「あなたにしては」なんて言われ方をされるほど、リオとの交流はない。ないはずだ。

 学院に入る前は夜会やらなにやらの折に世間話をしたくらいだし、入ってからはよけいに顔を合わしてこなかった。

 と、シャニがひとり納得したように手を打つ。

 

「ああ、もしかしてお前が俺と先輩に大会の為の指導を付けてくれてるって話のことか」

「──は? しゃべったの……?」

「お、おう。この前ばったり会った時に、ちょっと」

 

 もしかして、また俺は何か余計なことをしでかしただろうか。

 

 そのきょとんとした橙色のまなざしが、そうまざまざと語っている。

 そうだよ、その通りだよ、とは見栄が邪魔して言えなかった。

 シャニのことだ。包み隠さず話したのだろう。これに関しては口止めしていなかったルクレが悪い。

 だから言い返す代わりに、喉の奥でぐぅ、と唸る。知られてしまった。それもよりによってリオにだ。

 ルクレの思考回路は今、ここ最近稀に見るほどの速度で回り出していた。

 

 

 

 

 

 

 










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次回は2023/03/26㈰更新予定です
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Inter.5 いとしい日々は遠くて


 interは本編外の、いわゆるおまけ要素です
読み飛ばしても問題ありません


 

 

 どうして、と問いかけることも、どうして、を考えることもうずっと前にやめてしまった。

 

 だって理由がわかったところでどうしようもないことばかりだ。

 自分にも、誰にも。

 

 

 

 

 

 

 

 じゃぽん、と水の音がした。

 少女はそれをどこか他人事のように聞いている。  

 

 

「──それじゃあお嬢様、一生懸命頑張ってね!」

 

 朗々と、ひどく楽し気に語る女の瞳には化け物の証左である黄色の虹彩が煌めいている。

 ルチウス、とそう名乗る魔族はその両腕に抱えた少女を愛おしそうに抱き寄せて。──そうして軽々と投げ飛ばした。

 

 ただでさえ華奢で未発達な子どもの体は、人外の腕力でまるで羽根のようにひらりと宙へ浮き。

 そのまま、あまりにもたやすく、あっけなく、眼下に広がる地底湖へと投げ込まれる。

 

 瀟洒な青いドレスの裾がふわりと風をはらんで膨らんだ。

 

 じゃぽん、と高く水音があがり、飛沫が跳ね、湖面に波紋が広がって。

 

 そうして少女はゆっくりと水底へ落ちていく。

 

 

 

 

 彼女は抵抗しなかった。

 

 纏うドレスの布地が冷たい湖水を吸って重くなっても、それどころかその薄金の髪の先まで水の中に沈み込んでも、水を吸い込んでしまって呼吸が苦しくなっても。

 

 それでもなお、少女は身じろぎひとつもしなかった。

 

 ニアースティニア・リトグラト・レゥはただ無気力に、緩慢に遠のいていく湖面を見つめている。

 

 全力で足掻けば、まだ今なら水面に手が届くかもしれない。

 けれどニアは手を伸ばさない。

 その代わりにドレスを飾る青のリボンが水面に向かって伸びて、ひらひらと揺れる。

 

 だって、手を伸ばしたところで何にもならない。

 誰かがその手を握って引き上げてくれることもなければ、自分のちからで湖面の上まで泳いで上がることもできない。

 そうやって抵抗したとしても、嘲笑と共により深みへと叩き落されるだけだから。

 

 何もかもに意味がない。そうして、それでもどうやら殺されることだけはない、とわかっているからもう抗わない。

 今日もきっと死にかけのぎりぎりですくいあげられて、蘇生させられる。

 自分の命でさえニアの自由にはならないのだから。

 

 だから何もしない。

 何をしても意味がないのなら、生にも死にも望みはないのなら。

 それならいっそ、もう。

 

 ニアはそっと目を伏せた。

 

 少しずつ少しずつ、世界は暗くなっていく。

 湖面はもうずいぶんと遠い。時おり口から零れるわずかな呼気が小さな泡になっては遠のいた。

 その様子を少女はぼんやりと見つめる。

 

 魔力を潤沢に含んだ湖水は重たくさえざえと冷え切っていた。体にまとわりついては骨身の芯まで凍えさせるように。

 

 ここは暗く閉ざされている。命の気配に乏しくて、ひどく静かでさびしい場所。

 まるでリトグラトの家そのものだった。

 

 ──ニア

 

 冷えた闇を切り裂くように、誰かがニアの名前を呼んだ。

 

 懐かしい/慕わしい/大嫌いな声。

 優しくてあたたかで、──ひどい。

 

 聞きたくなかった声を脳裏から追い出したくてニアは思わず目をぎゅっとつむった。途端に押し寄せてくる薄闇はもうすっかり慣れ親しんだ穏やかさでニアを包み込んでくれる。

 

 なのに、たったひとつの声を呼び水にして、頭の中を思い出が駆け巡りだそうとしていた。

 

 

 ニアのそれと違って色の濃い、文字通りに黄金の髪が風になびいて揺れる。

 

 ──思い出したくない。

 

 内にふさぎこみがちだったニアをそのひとは眩しい光の中に連れ出してくれた。

 

 ──あんな日々、忘れてしまいたい。

 

 ニアにそそがれるきらきらと輝く琥珀色の瞳はいつもあたたかくて、やさしくて。

 

 ──忘れてしまわなければ。

 

 そうして、まるでいとおしくていとおしくてたまらないとでもいうように。

 

 ──忘れなきゃ。

 

 その人はいつだって愛しむようにニアを呼ぶ。

 

 ──あんな、ただただ幸せだった日々のことなんて。

 

 その記憶たちを振り切るようにニアは強く頭を振った。

 これを思い出してしまったら、すがってしまったら、こんなところで生きていけない。

 

 きつくきつく閉ざした目が熱を持ってひどく熱かった。けれどその熱さえも水の冷たさに飲み込まれていく。

 瞑った瞼の隙間からこぼれた涙は湖水に溶けて名残さえも残さない。

 

 そう、何もかもに意味はない。理由もない。

 

 どうして、と問いかけても誰も答えてはくれなかった。

 どうして、を考えても何もわからなかった。

 だってニアにはわからない。

 

 どうして自分はこんな目に遭っているんだろう。

 どうして誰も助けに来てくれないんだろう。

 どうして、どうしてあのひとが魔族と繋がっているんだろう。

 

 ロゥク・ルゥ・リトグラト。

 あのひとは世界を救った三英雄、魔導の叡智そのもの、エディリハリアの真なる守護者。

 そのはずなのに。

 

 どうして。

 

 

 

 と、緩慢に落ちていくだけだった体が下から何かにぐっと突き上げられた。

 呆気にとられているうちに、背中を押す奔流に持ち上げられて、ぐんぐん湖面が近づいてくる。

 

 ぱっと世界がまばゆく開いた。

 次の瞬間ニアの身体は、ぺしゃ、と地面に落とされた。

 労りや優しさこそなかったが、傷つけるような意図はことさら感じない、そんな不思議な塩梅の動きだった、

 

「──ルチウス、おまえ、ばっっっかじゃないの?」

「…………あ、坊ちゃんだ。どうも~」

 

 呆れたような少年の声が地下の静寂を裂く。

 それはここ数ヶ月ですっかり聞きなれた声だ。

 すらりと人形のように細い肢体、藍色の波打つ髪。蒼色の双眸。

 秀麗な美貌に嘲りと呆れの色を浮かべた少年に、ルチウスはつまらなさそうに手を振って返す。

 

「おい、生きてるか?」

 

 少年、ルクレティウスの問いかけにニアはごほりと咳で応えた。呼吸をするのもままならない。返事なんて到底無理だ。

 その様子を一瞥してルクレティウスは魔族へと向き直る。

 

 ニアの新しい家族である彼は、決して善人とは言えないかもしれないが、ニアから見ると悪人とも言い難かった。

 魔族達の手前、表立って助けてくれるようなことこそないが、こうやって最悪の状況には陥らないようにしてくれる。ニアの自惚れでなければ、だが。

 それは、彼が必ずしも加害者でいられるわけではないからだろう。どちらかというと、一緒にひどい目に遭わされることだって少なくない。だからか、むしろニアからすると仲間意識のようなものさえ芽生えつつあった。

 

「あのさぁ、人間の子どもは水の中だと息ができないんだよ。もう散々試しただろ」

「それはもちろん知ってたけど、だってほら、…………ほら、お嬢様をリトグラトの魔力に慣れさせないとでしょ? 王家のは炎が熱すぎる、坊ちゃんの身体にだってよくないよ」

「それ、今思いついた言い訳か? 僕の魔力補給はこいつに頼らなくても十分できてるんだけど。

 だいたいそれならそれで、こんな非効率的な方法とることないだろ。それこそシーダでも呼べば? あれに吸い上げさせれば少しは余地もできるはずだ」

「え────」

「ハ、尽きぬ泉と乾いた海、どちらが上なのか検証するいい機会だ。なんなら僕も同席したいね」

「……アハハ! 確かに、そっちのがおもしろそうだ。じゃ、シーダ探してくるよ。坊ちゃんはお嬢様のことよろしくね」

 

 義兄の罵倒とルチウスの笑声を聞きながらニアはこほこほと水を吐き出す。足掻かなかった分だけ変に水を飲むことはなかったが、それでもなかなか息が整わない。嘔吐くたびに胸も喉も裂けるように痛みを訴えた。

 

 頭上で交わされる会話の意味はわからない。わかろうとも思わなかった。どうせまた死なないだけのひどい目に遭わされるだけだ。

 それに、義兄が関わっているうちはさっきのよつに差し迫った命の危機に陥るようなことにはならない。ならない、はずだ。

 

 ニアはただ、びっしょりと濡れそぼった体をちいさく丸めて、地面を見つめる。

 

 そこに黄金のきらめきはない。

 ただ苔むした地面だけが広がっている。

 







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