これであなたはサトノ家行きです (転生した穀潰し)
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episode.1
01:星の消失


本作品を閲覧される前に、あらすじに記載された注意事項を一読することを強く推奨します。


『──東京レース場で開催される今年最後のレース。来場者数十万人越え、ウマチューブLive同接百五十万人以上という異例の注目を浴びたジャパンカップ』

 

 日本で初めて開催された国際招待競走、ジャパンカップ。海外で活躍するチームを招待し、トゥインクル・シリーズで活躍するウマ娘達と熱戦を繰り広げるこの舞台に今、世界中の期待が注がれている。

 

 もとより最も格の高い"GⅠ"に分類されるため、注目度は非常に高いレースであった。

 

 しかし先ほど実況者が語った通り、今年のジャパンカップに対するそれはまさしく異常。

 

『なんと言っても今年のジャパンカップには、()()が出走しますからね。彼女の走る姿を一目見るために、現地に足を運んだ人も多いのではないでしょうか』

『ええ! かくいう私も──』

 

 何度もレース場に足を運ぶ私でも、今回ばかりはさすがに足が竦む。観客の流れはまるで嵐の中の荒波だ。

 

 背中に負ったお気に入りのバッグのショルダーベルトを、私はぐいっと握りしめる。

 

「──ダイヤちゃん、早く行こ!」

「えっ、ちょっと……っ!」

 

 尻込みする私をよそに、親友のキタちゃんは私の手を強引に引いて荒波の中へ飛び込んだ。

 

 人混みの中で揉まれること数分、キタちゃんのおかげで私達はホームストレッチの先頭に立つことができた。

 

 本格化を迎える前の、小柄な体型だった私達は尻尾を興奮気味に揺らしながら柵から身を乗り出す。

 

 私の目の前では、数々の重賞を手にする優駿ウマ娘達がターフの上でゲート入場を控えていた。

 

「あっ!」

 

 私はそんなウマ娘達の中から、血眼になって彼女を探す。

 

 海外で活躍する彼女の姿をこの目で見る。それが私の唯一にして最大の目的だった。

 

 当然、彼女はすぐに見つかった。

 

 いや、探すまでもなく私の視線は彼女に吸い寄せられた。

 

 陽光を浴びてきらめく、黒鹿毛の髪。彼女は自身の晴れ舞台を鮮やかに彩る勝負服に身を包み、精神統一を図っている。

 

『──アルデバラン。今世界でもっとも勢いのあるアメリカのチームがついに、日本の大舞台に上がります』

 

 私の瞳は彼女に釘付けだ。彼女を直接見れたという感動も相まって、私は掛かり気味になっていた。

 

 あ、今こっち見た!?

 

 私の熱烈な視線に気付いたのか、彼女はこちらを向いて軽く手を振ってくれた。

 

「いま、あたしに向けて手を振ってくれた……っ」

「いや、絶対私だよ!」

「あたしだって! 絶対目があったんだから!」

「それは違うよキタちゃん。ぜっっっっったい私!」

 

 多分、彼女が手を振ったのは私に向けてでもキタちゃんでもないだろう。このような勘違いは日常茶飯事だ。多分、誰もが一度は経験したことがあるのではないだろうか。

 

『待ちに待った一番人気の紹介です。本レースの大本命、主役と言ったら彼女しかいないでしょう。チーム・アルデバランの肩書きを背負って──"ミライ"が日本の盾に挑みます』

 

 彼女の名は──ミライ。その人気と功績から"星"という二つ名を持つ世界的なアイドルウマ娘が今日、日本のレースに出走する。

 

『間もなく各ウマ娘の出走準備が整います。ついに実現した夢の舞台。その幕が今、上がります!』

 

 世界中の期待を一身に受け、ミライがターフを駆け抜ける。

 

「わぁ…………」

 

 すごい、なんて凄いのだろう。

 

 その優雅な走りはまるで、夜空を旅する流星のよう。二つ名の通り、目を離せば一瞬で見失ってしまいそうなほど、彼女は速い。

 

 自身の影すら踏ませない圧倒的なスピードはまるで、大逃げをしながら追い込みをかけるかのよう。

 

 目が離せない。五感のすべてを集約して、私はミライのレースに没入する。

 

「──あぁ」

 

 彼女と同じウマ娘に生を()けたものとして。

 

「いつかこの舞台で、私も……っ!」

 

 

 

 強い憧れを抱くのは必然のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──訪問ッ! わたしはトレセン学園理事長、秋川やよいだッ!」

 

 部屋の支柱からぶら下げたロープの輪を、手綱を強く握りしめるように掴む。あとは首をかけて、足場の椅子を蹴る。そして、このくそったれな世界からおさらばする……はずだった。

 

「……あ?」

 

 俺は自分の耳を疑う。

 

 来客? このタイミングで?

 

「懇願ッ! この扉を開けて欲しい! 君に用事があってここに来たッ!」

 

 それはそうだろう。用事がなければこんなへんぴな場所に来るはずがない。

 

 世間の視線から逃げるために、罪の意識に苛まれる自分を守るように。人里離れた山奥の、朽ちかけた山小屋で暮らす俺に用事だなんて。

 

 たいそう変わった人間なんだろう。

 

 山小屋にはインターホンが無い。バシバシッ! と、立て付けの悪い扉を殴りつけるような音が響き渡る。

 

 扉が壊れるだろうが。

 

 俺は内心で毒づく。しかし、俺は無視する。

 

 俺は決意を固めるのに……この輪に自らの首を差し出すのに、二年の年月を要した。

 

 そんな俺の覚悟を、赤の他人に容易く揺るがされてたまるか。

 

──バシッ、バシッ! グギィ、バキッ、バシバシバシッ! グチュゥッ!!!!

 

……それにしても騒がしいな。他人の家だというのに、ノックに一切の遠慮が無い。

 

「ええい、強行ッ! たづなッ!」

「はい」

 

 一向に返事をしない俺に痺れを切らしたのか、来客の女が誰かの名前を呼ぶ。”たづな”らしき人物が女の言葉に短く答えると。

 

「──ッ!」

 

 玄関の扉が……吹き飛んだ。

 

 蹴り飛ばしたのだろう。空間を隔てる壁が無くなる。俺は少しギョッとして、開放的になった我が家の入り口に視線を向けた。

 

「初めまして。トレセン学園で理事長秘書を務めております、駿川たづなです♪」

 

 全身緑色の事務服に身を包んだ女が、涼しい顔をして立っていた。

 

 駿川たづな。その名前には聞き覚えがある。しかし果たして、それはどこで耳にしたか……思い出せない。あるいは、思い出したくないのかもしれない。

 

「失敬ッ! 強引な手段を用いてしまってすまないッ! 改めて、わたしはトレセン学園理事長ッ! 秋川やよ……い…………んぁ?」

 

 理事長と言うには少し小柄な、少女と形容してもおかしくない年齢の女──秋川やよいが扇子をタンッと開く。

 

 そして同時に、あんぐりと目を見開く。

 

 当然だろう。なにせ目の前でいま、人が死のうとしているのだから。

 

「──た、たづなぁッ!!!!」

 

 秋川の慌てふためく声に、緑色の事務服女──駿川たづなが即座に応じる。瞬きをした次の瞬間、俺の眼前には駿川の姿が。

 

 一瞬、駿川が消えたように見えた。人間離れした脚力で地面を蹴ったと思ったら、勢いそのままに身体を掴まれ地面に叩きつけられた。

 

 部屋中に土埃が舞い上がる。何が起こったのか理解が追い付かない。気付いたときには、俺は呆然と天井を見上げていた。

 

「手荒な手段を取ってしまい、申し訳ありません」

 

 そんな俺の顔を、駿川が覗き込んでいた。そのせいで頭に被っていた帽子が落ちそうになり、駿川は慌てた様子で帽子を押さえていた。

 

……俺は死ねなかった。

 

 後悔が込み上げてくる。二年間かけて固めた決意がこれでは水の泡だ。

 

「……なんてことを」

 

 なんてことを、してくれたんだ。

 

 この日、俺は全てを終わらせるはずだったのに。

 

 赤の他人が、余計な邪魔を。

 

 

 

 

 

「──アルデバラン」

 

 

 

 

 

 秋川の突然の言葉に、俺の心臓が大きく跳ね上がる。鏡を見るまでもなく、自分がいま最悪な表情を浮かべているのがわかった。

 

「無双。かつて"ウマ娘"達の頂点に君臨()()()()、世界最強のチームの名だ」

 

 チーム・アルデバラン。この世界において、その名を知らないものはいない。

 

 別世界の名を冠し、その魂を受け継いで運命をなぞるように大地を駆ける。人間には存在しない生体器官と超人的な脚力をもつ──ウマ娘。

 

 今や国民的スポーツ・エンターテイメントとも言える『トゥインクル・シリーズ』で人気を博す、ウマ娘達の頂点に君臨していたチーム。それが、秋川が言ったチーム・アルデバランだ。

 

 アメリカ合衆国のマンハッタンに本拠地を構え、他の追随を許さない圧倒的な実力をもって、彼女達は世界中を魅了した。

 

 色々な意味で世間話として話題が尽きず、雑談のネタには持ってこいなチーム・アルデバラン。

 

「……知らないな」

 

 俺は秋川の脈絡のない話題に対して、しらを切った。

 

「俺は今、忙しいんだよ。赤の他人と世間話に耽る余裕なんてないんだ。だから、早急にお引き取り願いたい」

 

 アルデバラン。おうし座の一等星、だったか。

 

 確か意味は……。

 

「戯言」

 

 俺の要求に対し、秋川は短い言葉で一蹴した。

 

「二年前、"星の消失"と共に、とあるサブトレーナーが行方不明になったという噂が話題となった」

「初耳だな」

「ならば紹介しよう。彼はトレーナー養成校を卒業後、アメリカへ留学。在学中の成績を評価され、齢二十でアメリカ最強を誇るチーム・アルデバランのサブトレーナーに就任。そこで四年間の経験を積んだ天才だ」

「それは凄いな。そんな人間がいるのか」

 

 しかしそれが一体、どうしたと言う。

 

「"星の消失"によって、自然と表舞台から姿を消したチーム・アルデバランだが。……しかし今もなお、ウマ娘達の憧憬の象徴として輝き続けている。それ故ッ!」

 

 秋川は扇子をパンッと広げ、俺に向かって突きつけた。

 

「──懇願ッ! "星"を育て上げたトレーナーの手腕をもって、トレセン学園に在籍するウマ娘達を導いて欲しい!」

 

 秋川が、俺に向かって凄い勢いで頭を下げた。

 

 さすが、トレセン学園──日本ウマ娘トレーニングセンター学園の理事長。ウマ娘達を想うその心意気には感服する。

 

「断る」

 

 しかし残念だ。秋川達は一つ、根本的な勘違いをしている。

 

「な、何故ッ!?」

「“星の消失"とか、チーム・アルデバランとか何か知らないが、残念ながら人違いだ。悪いが他を当たってくれ」

 

 こんな山奥で腐っている人間が、そんな輝いた人間に見えたのか? だったらその目は節穴だな。

 

「え、あ、あわわっ……」

 

 俺は秋川の言葉を適当にあしらって、二人を部屋から追い出そうとする。

 

 俺の心にさざ波を立てる嵐には、早急にお引き取り願おう。

 

 二人を玄関まで追いやる。

 

「ぎ、疑問ッ! 何故自らの輝かしい過去を否定する!? その才能があれば、どれほどのウマ娘が救われることか──」

「俺はウマ娘なんて嫌いだ。もう二度と、関わりたくない」

「……ッ」

 

……しまった。つい勢いに任せて、余計なことを。

 

 失言を口走った罪悪感からか、俺は秋川の顔を直視出来なかった。

 

「……遺憾」

 

 そんな俺のザマを見かねたのか、秋川はぽつりとこぼす。

 

 

 

「今の君を見て、彼女は──"ミライ"はどう思うだろうか」

 

 

 

──"ミライ"。秋川がこぼした名前に、俺の身体は過剰な反応を見せた。

 

 心臓が握り潰されそうなほど締め付けられ、呼吸を奪われる。全身から脂汗がブワッと吹き出したかと思えば、視界が激しく揺さぶられて平衡感覚を失った。

 

「──ッ!?」

 

 俺はなりふり構わず便所へ駆け込んで、胸の中から込み上げてきたものを思い切り嘔吐した。

 

 吐いて。

 

 吐いて。

 

 息が絶え絶えになりながら、また吐いて。

 

 胃液をしぼり出すまで吐き続けた俺は、乱れた呼吸を何とか整えてその場から立ち上がる。

 

「だ、大丈夫ですかっ!?」

 

 俺の様子を見に来たのか、駿川が慌てた様子で駆け寄ってきた。駿川に身体を支えられる。

 

 身体の中のものすべてをぶち撒けて、吐き気はおさまった。しかし、視界をぐわんぐわんと揺さぶられ、俺は立つことすらままならなくなる。

 

「至急ッ! たづな! 彼を早く──……」

 

 そして視界が暗転し、俺は意識を手放すのだった。

 

 

 

***

 

 

 

 チーム・アルデバラン。ウマ娘の頂点に君臨する者達の中で、一際輝く存在がいた。

 

 自身の影すら踏ませない圧倒的な実力と、見る者すべてを魅了するカリスマ性を備えた一人の少女。

 

 エクリプスの再来と呼ばれ、瞬く間に世界の"星"となったウマ娘。

 

 その名は──ミライ。

 

 数々の偉業を成し遂げた彼女に、多くの人々が心を奪われた。多くのウマ娘が憧れを抱いた。

 

 ()()()()()を迎えてもなお彼女を称賛する声は止まず、憧れを抱く者は後を絶たない。

 

 彼女に憧れ、目標とするウマ娘がいるのであれば、一つ助言をしてあげよう。

 

 

 

 

 

 その先に待つのは、救いようのない──破滅であると。

 

 

 

 

 



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02:星屑の再来

描写を一部修正しました。


「──うぅっ、また負けたぁ……」

 

 毎週末に行われるチーム・アルデバランの模擬レースで、毎回()()()()()になるミライを慰めるのが俺の役目だった。

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったミライの顔が、俺の胸元に押しつけられる。

 

「……服が汚れるだろ? ティシュやるから、ほら、鼻かみな?」

「……うん」

 

 俺に促されるまま、チーンとミライが鼻をかむ。俺のシャツで。

 

 あー、うん、知ってた。

 

 しばらく咽び泣いて、ミライが落ち着くのを待つ。

 

「落ち着いた?」

「……うん」

「そろそろ離れようか」

「いや」

 

 即答するミライの黒鹿毛の尻尾がユサユサと揺れている。

 

 こうなったミライは頑固だ。諦めるしかない。

 

「もぉ、みんな速すぎ!」

「落ち込む必要なんて無い……って、言いたいんだけどね。分かるよ、その気持ち」

 

 気分が暗く沈んだミライにかける言葉が見つけられず、俺はもどかしい感情に苛まれる。

 

「トレーナーも落ち込んでるの?」

「そう見える?」

「うん」

 

 彼女との約束を果たすため、俺は十八歳でアメリカへ留学した。最先端の学問を学び、豊富な知識を育んだ。

 

 ひたすら尽力すること二年、とある人物からその努力を評価され、俺はチーム・アルデバランのサブトレーナーに抜擢された。

 

 チーム・アルデバランは、五十人を超えるウマ娘が所属する超大規模な集団だった。その内情はウマ娘数人単位にサブトレーナーが配属され、毎週末の模擬レースで好成績を収めたウマ娘のみが最強の称号を背負ってレースに出走する弱肉強食の世界だった。

 

 必然的にチームの中に階級が生じた。それはウマ娘しかり、トレーナーしかり。

 

 模擬レース最下位常連のミライを、ターフの隅でこうして慰める。

 

「ごめんね、トレーナー。私が弱いばっかりに……」

「ミライのせいじゃないよ。君を導けない()()なトレーナーの責任だ」

 

 認めたくは無いが……俺達は落ちこぼれだった。

 

「はぁあ……、どうやったらみんなに勝てるのかなー!」

 

 ミライは、サブトレーナーの俺が唯一担当するウマ娘だった。

 

「そういえば、ミライはどうしてこのチームに入ったんだ?」

「ん〜? どうしてかぁ……」

 

 ターフに大の字になったミライが、よいしょっと身体を起こす。

 

「家の近所にね、仲の良い年下のウマ娘がいるの」

「ああ、あの子か」

 

 ミライが言うウマ娘とは、俺も面識があった。日本の文化に興味津々で、大和撫子に憧れる淑やかな女の子だ。

 

 女の子は、ミライがトレーニングする様子を普段からよく眺めている。今日だって、ミライの模擬レースを応援しに来ていた。

 

「あの子と約束したんだ。一番強いウマ娘になるって」

「そうか、良い目標だな」

「トレーナーは、どうしてトレーナーになりたいと思ったの? 私も聞きたいな」

 

 俺がトレーナーを志した理由、か。

 

「俺もミライと似たような理由だよ。年の離れた女の子の面倒を見ていたことがあったんだけど、その子と約束したんだ。君を一番強いウマ娘にするって」

「あははっ! 私達、似たもの同士だね!」

 

 似通った境遇で、似通った志を抱き、二人三脚で歩みを進める。

 

 俺にとってミライとの関係は、社会的な立場を除けば青春と呼ぶに相応しいものだった。

 

「こんなことでメソメソしてしてたらダメだよね! トレーナー、この後もトレーニングするよね?」

「ああ。あ、その前に……」

 

 俺は首を傾げるミライに平然と言い放つ。

 

「足、触らせて?」

「言い方!」

 

 ミライの頬が紅く染まった。ミライのげんこつが腹に飛んでくる。ウマ娘の怪力から放たれるそれは、危うく俺の意識を刈り取るところだった。

 

 しかし、ミライは俺の言葉の意図を察している。恥ずかしそうにしながらも、大人しく生足を差し出した。

 

 俺は着用していた薄手の革手袋を外し、ミライの柔肌を愛しむように、丁寧に触れる。

 

「ふむ……疲労が蓄積している様子も無いし、今日は少し厳しく行こうか」

「トレーナーって、少し足に触れただけでよくそんなことが分かるよね」

「ふっ、聞いて驚け。俺はウマ娘の肌に触れることで身体の状態を完璧に把握出来るんだ!」

「うわキモ……ただの変態じゃん」

 

 そんな汚物を見るような目で俺を見るなよ。泣けてくるだろ?

 

「体温三十六度五分、脈拍百三十……ふむ、少し脈が早いな。心臓の音が忙しない……もしかして何か問題が?」

「ちょ、ちょちょちょっ! なに余計な情報引き出してるの!」

 

 ミライが顔を真っ赤にしながら、俺の脛を蹴る。だから痛いって。

 

「は、早くトレーニングするよ! 次こそ一着になって、みんなを見返してみせるんだから!」

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 逃れられない罪の意識が悪夢として体現し、俺の精神をすり減らす。

 

 俺は昔から、ウマ娘に触れるだけで身体の状態を把握出来るという特異な体質を持っていた。

 

 その体質は俺がウマ娘のトレーナーを志すにあたって、強力な武器となった。

 

……だが、俺は彼女を(うしな)った後に気付く。

 

 これは、俺の身に降りかかった呪いなのだと。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

「──ッ」

 

 背後から食い殺さんと迫り来る悪夢から逃げるように、俺は毎朝ベッドから跳ね起きる。

 

 乱れた呼吸を、肩を上下させながら荒々しく整える。

 

 そして、全身から噴き出た脂汗を拭き取ることから俺の一日は始まる。

 

……のだが。

 

「──ぇっ、ぁぐはッ!?」

 

 今日は夢だけでなく現実までもが、俺の身体に追い討ちをかけてきた。

 

 俺の顔を誰かが覗き込んでいたらしい。跳ね起きた頭の直線上に、紺色の制服に身を包んだ少女の顔があった。

 

 衝突は免れない。

 

 俺は頭部をかち割られるような激痛を覚えながらベッドに跳ね返され、少女は痛みに悶えるようにベッドの縁で頭部を押さえていた。

 

(なんで……ていうか君、誰…………)

 

 ズキズキする額を抑えながら、俺は衝突した少女の様子を窺う。

 

 腰まで伸びる癖のない綺麗な鹿毛の髪。人間には無いウマ耳をぺたんと垂らしながら、尾骶骨付近から生える鹿毛の尻尾を天井へ向けて逆立てていた。

 

「──う、うぅ……痛いぃ…………っ」

 

 このウマ娘が身に付けている制服から、彼女がトレセン学園の生徒であることが分かった。

 

 相変わらず額を押さえて悶えるウマ娘をよそに、俺は周囲の状況を確認する。

 

(……駄目だ、全く見覚えが無い)

 

 見知らぬ天井、見知らぬウマ娘の少女。黄緑色のカーテンで周囲から隔離されており、ろくな情報が得られなかった。

 

 俺が現在持ちうる情報で、推察するしかない。

 

 自殺を図ろうとしたタイミングで、トレセン学園の理事長が俺の元を訪れた。

 

 理事長を追い返そうとするも、途中で俺は意識を失い……今に至る。

 

 俺がいる空間は、消毒液のような独特のにおいが充満していた。耳を澄ますと、部屋の外から少女達が奮起する掛け声が聞こえてくる。

 

 加えて、未だに悶え続ける制服姿のウマ娘がいる。

 

(ここは……トレセン学園、なのか?)

 

 おそらく意識を失った俺を、理事長達がここまで運び出したのだろう。

 

 状況はあらかた把握した。

 

 さて、とりあえず俺がやるべき目下の行動は。

 

(このウマ娘に、何て声をかけるか……だな)

 

 正直、俺は困惑していた。

 

 俺はこのウマ娘の容姿に心当たりが無かった。

 

 突っ伏すウマ娘を一瞥する。レースに適したがっちりとした体付き、加えて制服越しに浮き上がる女性的な曲線。

 

 おそらく、理事長から俺の監視を任されたウマ娘だろう。人間の監視にウマ娘は最適だ。残念なことに、人間ではウマ娘の身体能力に抗うことは出来ないのだから。

 

「お、おい……少し聞きた──」

 

 仕方なく、俺はこのウマ娘に声を掛けることにした。適当に情報を吐き出させて、理事長が来る前にトンズラする算段だ。

 

 しかし。

 

 

 

「──歓喜ッ! 目を覚まして何よりッ!」

 

 

 

 出鼻を挫くように、黄緑色のカーテンが大仰に開かれた。

 

 トレセン学園理事長、秋川やよい。

 

 トレセン学園理事長秘書、駿川たづな。

 

 俺は二人を前にして悟る。

 

 もう、逃げられないと。

 

 

 

***

 

 

 

 駿川から聞いた話によると、俺はあの後、三日間意識が戻らなかったそうだ。

 

 俺の予想通り、ここはトレセン学園の保健室。

 

「何はともあれ、意識が戻って良かったです♪」

 

 俺としては、このまま永遠に意識を手放しても良いと思っていた。

 

「……誘拐は犯罪だぞ」

「誤解ッ! わたし達はあくまで、意識を失った人を保護したに過ぎない! あのまま君を放置すれば、それこそ世間から問題視されてしまうッ!」

 

 物は言いよう。これ以上の争いは無益だろう。

 

「そうか。助けてくれてありがとう。悪いが礼に値するものは何一つ持ち合わせていないから、俺はこれで失礼する」

 

 余計なお世話であることには変わりないが、一応感謝の気持ちは伝えておく。

 

「トレーナーさん、そう言わないで下さい」

 

 ベッドから起きあがろうとするも、理事長秘書の駿川に身体を抑えられてしまう。

 

 涼しい顔をして、凄まじい怪力だ。逃げられない。

 

「説明ッ!」

 

 ちびっ子理事長秋川が扇子を広げ、パンっと叩く。

 

「わたし達には意識を失った君を保護した以上、容体が完全に回復するまで面倒を見る責任があるッ!」

 

 そんなのは余計なお世話だ。

 

 さっさと学園から放り出せば良いものを、お前達はどうしてそこまで俺に執着する。

 

 そんな必死に道理を並べて、俺を引き留める理由がどこにある。

 

「要求ッ! せめて君の容体が回復するまでの期間で構わないッ! その間、トレセン学園に在籍するウマ娘の面倒を見てもらえないだろうかッ!!!」

「……」

「あわよくばトレセン学園のトレーナーとして籍を置き、君の手腕を存分に振るってほしいッ!」

 

 勝手に話が進んでいく。俺の意思は置き去りだ。

 

「悪いが遠慮させてもらう」

 

 そんなの当然、突っぱねるに決まっている。

 

「想定ッ! 君は長期間指導から離れていた。突然のことであるが故、不安を拭い切れないのも確かッ!」

 

 俺はそういう意味じゃないと、どこか()()()()()秋川に主張しようとした。

 

 しかし、秋川は畳み掛けるように続ける。

 

「配慮ッ! そのためにわたしは()()を呼んだッ!!!」

 

 彼女、と言って、秋川は未だにベッドの縁で突っ伏すウマ娘の少女に扇子を向けた。

 

 少女は痛みで悶えているというよりも、起き上がるタイミングを失い、居心地の悪さを感じているようだった。

 

 ウマ娘の少女が顔を上げる。

 

 目があった。

 

 少女の宝石のような栗色の瞳に、困惑の表情を浮かべる俺が映る。

 

 少女と面識は無いはずだ。

 

 しかし、面影がある。

 

 背筋を伸ばして腰掛ける少女は、お嬢様を彷彿とさせる上品な雰囲気に包まれていた。

 

 純情可憐な少女の笑顔は白百合のように美しく、蠱惑的な肉体のアンバランスさが犯罪的な魅力を放っている。

 

 可憐な花の蜜に誘き寄せられ、甘美なそれを吸ったが最後、ずるずると沼の中に引きずり込まれてしまうような。

 

 取り返しがつかないと分かっていながらも、手を伸ばさずにはいられない。

 

 そんな魅惑を無意識に放つような少女だった。

 

 少女と正面から向き合って、俺は少女の前髪に特徴的な菱形の流星があることに気付く。

 

……彼女と最後に会ったのは、いつだっただろう。

 

 俺が渡米するその瞬間まで「行かないで」と身体に引っ付いて、泣きじゃくっていた小さな少女と、目の前の少女が重なる。

 

──君を一番強いウマ娘にするために、頑張って勉強してくるよ。

 

 そんな約束してから……もう、八年になるのか。

 

 俺が感慨深い思いに浸っていると、恥じらいつつもつぶらな瞳を潤わせる少女の視線を感じた。

 

「あ、えっと…………」

 

 なんて声をかければいいのか分からない。そもそも他人と会話をするのは二年ぶりで、話し方すら忘れてしまっているような状態だ。

 

 胸の奥に詰まった思いを言葉にするのに苦労して、俺は結局何も言うことができなかった。

 

 そんな俺の様子をおかしいと思ったのか、少女は柔和に微笑んだ。その一挙手一投足から、上品な雰囲気が溢れてくる。

 

 そしてやがて、感動の再会と言わんばかりに満開の笑顔を咲かせて、少女が言った。

 

「──八年ぶりですね。また会えて嬉しいです、()()()

 

 もう二度と会うことはないと思っていた。

 

 けれどどうして、何かの縁か。

 

「あ、あぁっと……久しぶり、だな」

 

 俺はこうして、一回り歳の離れたウマ娘──サトノダイヤモンドと再会することになった。

 

 

 

***

 

 

 

 この空間で、俺はおそらく誰よりも居心地の悪さを感じていた。

 

「懇願ッ! リハビリを兼ねて君には、サトノダイヤモンドの担当トレーナーとして彼女の育成に励んでもらいたいッ!」

 

 理事長の言葉に、俺は耳を疑う。

 

 それは事実なのか、という視線をサトノダイヤモンドに──ダイヤに向けた。

 

 俺の視線を感じ取ったダイヤは、恥じらいながらも満更ではなさそうに頬をかいていた。

 

「これは何者でもない、彼女自身の要望だッ!」

「……ダイヤの?」

「当然、要求に応じてくれれば相応の報酬を用意するッ!」

「こちらを」

 

 理事長のそばに控えていた駿川が、俺に向かって何かを差し出してきた。

 

 俺は再三目を見開く。

 

 駿川に渡されたのは……賄賂だった。

 

「……何だこれは」

「わたしのポケットマネーだッ!!!」

 

……理事長。何となく、この人の性格が見えて来た。

 

「……はぁ、必要ない。犯罪に加担する気は毛頭無い」

 

 ばかばかしい。俺は身体に掛けられた布団を払い、ベッドから出る。

 

「悪いが、その要求には応じられない」

「……え、ど、どうしてですかっ!?」

 

 最初に声を荒げたのは昔馴染みの少女、ダイヤだった。

 

 昔馴染みと言っても、俺の両親がダイヤの両親と親交があるというだけ。俺とダイヤはその付随的な関係に過ぎないのだが。

 

「だ、だって私……。昔、兄さまと約束して……っ」

 

 八年も前の口約束を、ダイヤは大切に胸にしまっていたようだ。彼女から明らかな動揺が見て取れる。

 

 約束。俺だって当然、覚えている。

 

 ただ、ダイヤからの要求を否定する理由はもっと、根本的な部分にあった。

 

「ダイヤ。俺はもう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 二年前、俺はウマ娘を育成するトレーナーとしてのライセンスを放棄していた。

 

「そんな、そんなの何かの間違いですっ!」

「事実だ。悪いが他を当たってくれ」

「いやです!」

 

 ダイヤは昔から、一度心に決めたことは何があっても曲げない頑固な性格だった。

 

 思春期にウマ娘の身体が急成長する『本格化』を迎えたようだが、ダイヤの中身はまだ、年相応のおてんば娘なのだろう。

 

「ようやく……見つけたのに…………こんな、こんな……」

 

 ダイヤは俺のシャツ越しの右腕を、絶対に離さないと言わんばかりに強く握る。すごく痛い。

 

 強情な少女をさてどうしたものかと頭を抱えていると、理事長が横から口を挟んできた。

 

「無問題ッ! たづな!」

「はい……トレーナーさん、これを」

 

 賄賂の次に駿川から渡されたのは。

 

「………………」

 

 

 

 二年前に俺が放棄したはずの、ライセンスカードだった。

 

 

 

 カードの手触りから、これがつい最近新調された物であることが分かった。

 

「……ライセンスの再取得には、再び採用試験を受験する必要があるはずだ」

「特例。これは君の功績を評価したURAが用意したものだ」

「よく覚えておけ、それを職権濫用と言うんだ」

 

 俺はダイヤの拘束を振り払おうとする。しかし、びくともしない。

 

 不意に、ダイヤの柔肌が()()俺の手に触れる。

 

「……」

 

 こんな状況だと言うのに、俺のクソッたれな体質が主張を始める。

 

 サトノダイヤモンドというウマ娘の情報が、頭の中に流れ込んでくる。頭痛が襲いかかってきた。

 

「もう一度言う。ダイヤ、俺はもうトレーナーじゃない」

「いいえ。兄さまは私のトレーナーです。これは決定事項です」

「いい加減折れてくれよ。俺はもう決めたんだ」

「い・や!」

 

 いくら何でも、ワガママ過ぎる。

 

「良いか、ダイヤ。よく聞け」

「承諾の返事しか聞きません」

「トレセン学園には俺よりも優秀なトレーナーが大勢いる。強くなりたいのなら、俺以外を頼れ」

「う、ううっ〜……ッ!!」

 

 強情なウマ娘だが、これだけは絶対に譲れない。

 

 サトノダイヤモンドが"一番強いウマ娘"を志すのなら、なおさら。

 

 ダイヤは俺に譲る意思が無いことを悟ると、大粒の涙を浮かべて俺を睨みつけた。

 

「兄さまの……兄さまのバカッ! もう、知らないっ!!」

 

 ダイヤは泣き顔を覆って、保健室を走り去っていった。

 

 俺は、ダイヤの後を追わなかった。

 

「『本格化』を迎えても、彼女は数日前にトレセン学園へ入学したばかりだ。もう少し、言葉を選んでやってくれ」

 

 理事長に諭され、俺は冷静さを取り戻す。

 

「疑問。何故君は、彼女との約束を反故にする。君の原点は、彼女では無いのか?」

「俺の、原点……」

 

──俺が君を、一番強いウマ娘にするよ。

 

「理事長」

「うむ」

「俺は二年前に、トレーナーのライセンスを捨てた。そして俺はもう、トレーナーとして復帰するつもりはない」

「……無念。そうか」

 

 今度こそ、俺をこの場に引き留めるものは無くなった。

 

「チーム・アルデバランのチーフトレーナーは、君を高く評価していた」

「……知らないな、そんなチーム」

「何故君は、彼女の想いに応えない? ライセンスの有無に関係無く、わたしは君の本心が聞きたい」

 

 俺の目の前にいるのは、年端もいかない少女のはずなのに。

 

 少女には、多くのウマ娘の夢を預かる学園の顔としての、風格があった。

 

 きっとこの人には、誤魔化しはきかない。

 

 下手に取り繕うより、素直な気持ちをぶちまけた方が良いと、俺は判断した。

 

「俺には、トレーナーとしての才能が無い」

「卑屈か? だったらそれは、君以外のトレーナーに対する侮辱に他ならない」

「いいや、本心だ」

 

 言葉に出すことで、俺自身も自分の本音と向き合うことが出来た。

 

「あの子には才能がある。少し触れただけで分かった」

「それは君の特異な"体質"が導き出した結論か?」

「……そんなことまで調べていたのか。……そうだ。だから俺は、あの子の才能を潰すわけにはいかない」

「彼女の才能を見出したのなら、それを輝かせるのが君の役目では無いのか?」

「いや、それは俺の役目じゃない」

 

 残念ながらそれは違う。断言できる。

 

「俺にはもう、ウマ娘の面倒を見る気力が無いんだ。そんなトレーナーなんて、ウマ娘の方から願い下げだろう?」

 

 

 

***

 

 

 

──そうか。

 

 物分かりのいい理事長で良かった。これ以上、彼女は食い下がっては来なかった。

 

──気が変わったら、いつでもわたしの元へ訪れて欲しい。

 

 しかし、俺を諦めたつもりは無いようで。

 

──学園には自由に出入り出来るよう、話を通しておく。

 

 駿川から入校許可証を半ば強引に押し付けられた。

 

──数日後、未デビューのウマ娘達による選抜レースが開催される。君もぜひ、見に来て欲しい。

 

 立場的に言えば、俺はライセンスを持たないウマ娘嫌いの一般人だ。

 

 理事長がこれほどまで俺に執着する理由が、理解出来なかった。

 




ダイヤちゃんに”兄さま”って慕われる存在しない記憶……。


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03:親友

 高倍率の入学試験を突破し、トレセン学園の門を叩いたウマ娘達に訪れる次なる試練。

 

 選抜レース。

 

 チーム未所属のウマ娘のみがエントリーできる、トレセン学園の一大行事。

 

 選抜レースは一年に四回開催され、その一回目の開催が三日後まで迫っていた。

 

 ウマ娘達はこのレースに出走し、スカウト目的で観戦するトレーナーに対して実力を示す。

 

 URAが運営するトゥインクル・シリーズにエントリーするにはトレーナーと契約を交わし、チームに所属する必要がある。

 

 そのため、ウマ娘達にとっては今後の運命が決まるといっても過言ではない。それほどまでに重要なレースなのである。

 

「──午後の授業では、三日後に開催される選抜レースのターフを使用して行います。体操着に着替え、トラックに集合して下さい」

 

 私──サトノダイヤモンドは今、担任の先生の言葉を右から左に流していた。

 

 いまいち授業に集中することが出来ない。三日後に重要な選抜レースが控えているというのに、私は一体どうしてしまったのだろうか。

 

「……兄さまの嘘つき」

 

 原因は当然分かっている。今朝、八年ぶりに再会したバカな兄さまのせいだ。

 

──俺が君を、一番強いウマ娘にするよ。

 

 兄さまは、私と交わした約束を忘れてしまったのだろうか。

 

 そんなはずはないと、私は脳裏をよぎった可能性を否定する。

 

 兄さまは約束を反故にするような人じゃない。

 

──トレセン学園には俺よりも優秀なトレーナーが沢山いる。強くなりたいのなら、俺以外を頼れ。

 

 でも。

 

 八年越しに再会した兄さまは、まるで別人だった。

 

 保健室で、兄さまの昏く濁った瞳に私が映った。

 

 全てを諦観し、絶望に染まったような表情を浮かべていた。

 

 仮に兄さまが変わってしまったとしても、私は再会出来ただけでこの上なく嬉しかった。

 

 二年前、兄さまが突如失踪したという知らせを受けた時、私は足元が崩れ去るような感覚に陥った。

 

 あの頃は正直、生きた心地がしていなかったと思う。

 

 兄さまが渡米した後、彼の身に一体何があったのだろうか。今度あったら、兄さまの口から聞いてみよう。

 

「──ちゃん、ダイヤちゃんっ!」

「……えっ!?」

 

 机に頬杖をついてぼーっとしていると、不意に隣から声を掛けられた。

 

「ダイヤちゃん、どうしたの?」

 

 私の様子を気にしてくれたのだろう。

 

 ツーサイドアップが魅力的な、濃い鹿毛のミディアムボブ。溢れ出る情熱を灯したようなルビーの瞳を持つ少女。

 

 私の幼馴染であり、親友であり、ライバルであるウマ娘。

 

──キタサンブラック。通称、キタちゃん。

 

「ううん、何でも無いよ。心配してくれてありがとう、キタちゃん」

「本当かなぁ。ま、ダイヤちゃんがそういうなら大丈夫だよね!」

 

 困っている人を放っておけない人情派ウマ娘。"お助け大将キタさん"は、今日も天真爛漫な笑顔を浮かべて元気いっぱいだ。

 

「あ、それよりもダイヤちゃん! 早く食堂に行こ! 席が無くなっちゃうよ!」

「うん、そうだね」

 

 キタちゃんに手を引かれるまま、私達はピーク時の食堂へ駆け込んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 時速六十キロをゆうに超える速度で走るウマ娘は、一般的な人よりも代謝が良いため多くのエネルギーを摂取する必要がある。

 

 その膨大なエネルギーを補うために食事は必須だ。ウマ娘の爆発的なパフォーマンスを生み出す原動力となるため、疎かにすることは許されない。

 

 本格化を迎え、より一層食欲の増したウマ娘達をサポートするために、トレセン学園は全ての学食を無料で提供していた。

 

 豊富なメニューに加え、ウマ娘個人の好みに合わせて味付けをも調整してくれる。

 

 これが中央……!

 

 トレセン学園恐るべし。何という大盤振る舞い。

 

 私達は混雑する食堂の中で辛うじて向かい合う二席を確保し、食券機に並んだ。

 

「テイオーさんは『特大にんじんハンバーグ』がおすすめだって言ってたっけ。特濃はちみつを豪快にトッピングするのがポイントなんだって!」

 

 キタちゃんは無敗の二冠ウマ娘、トウカイテイオーさんに対して強い憧れを抱いていた。

 

 入学当初、私達は先輩風を吹かした可愛らしいテイオーさんに学園の施設を案内してもらった。

 

 私がいない場所では、キタちゃんは普段テイオーさんと一緒にいることが多い。

 

「そうなんだ。じゃあ私も、キタちゃんと同じものを頼もうかな」

 

 私達は仲良く同じ食券を発行し、待つこと数分。

 

「……おおおっ」

 

 肉厚なハンバーグが何層にも重なり、濃厚な蜂蜜がふんだんにかけられた豪勢な料理がトレーの上に乗って提供された。

 

 一キロをゆうに超える料理を持って、私達は席についた。

 

「「いただきます!」」

 

 料理が冷めないうちにナイフとフォークで一口大にカットし、溢れだす肉汁を絡めとりながら口へと運んだ。

 

「「ん〜…………っまぁい!!!」」

 

 そして二人揃って頬を押さえた。

 

 舌鼓を打つ上質な甘味と犯罪的なカロリーに圧倒されるがままに、私達はひたすら口を動かした。

 

 少し口の中がこってりしてきたと感じたら、肉塊の山を脳天から突き刺す新鮮なにんじんを一思いにかじる。

 

 柔らかなハンバーグとシャキシャキとしたにんじんの歯ごたえのギャップを噛み締めながら、私達はトレセン学園の食事を堪能した。

 

 本格化を迎えたばかりの私達は食欲旺盛な食べ盛り。豪勢に盛り付けられていた料理をぺろりと平らげるも、なんだかまだまだ物足りなくて。

 

 別の料理も食べてみたいな、なんてキタちゃんと話しながらマックイーンさんイチオシのメロンパフェに手を出してみたり。

 

 まぁ、何が言いたいかというと。

 

 

 

 

 

 私達は二人揃って、次の授業に遅刻しました。

 

 

 

 

 

 ちなみに、メロンパフェは二杯食べました。美味しかったです。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「やばいやばいやばい〜っ!」

 

 トレセン学園に入学して分かったことだが、どうやら私達は時間にルーズなようだった。

 

 数日前の新歓レースが開催された日も、危うく憧れの先輩達のレースを見逃すところだった。

 

 その夜、興奮した私達は栗東寮の門限を破り、寮長のフジキセキさんにこっぴどく叱られたりもした。

 

「なんで毎回こうなるのかなぁ!」

「あはは、何でだろうね……」

 

 二人で苦笑しながらも、大急ぎでトラックを目指す。

 

 そして授業開始の鐘が鳴ってから十分後。

 

「授業はとっくに始まっていますよ。キタサンブラックさん、サトノダイヤモンドさん」

「「す、すみませ〜ん……」」

 

 私達はようやく、午前中に指示されていたトラックに到着した。

 

「今回は大目に見ますが、次回からは遅刻しないように注意して下さいね」

「「は、はいぃ……」」

 

 これからターフを走るというのに、私達の息は絶え絶えだった。こんな調子でこの先やっていけるのかと、少しだけ心配になる。

 

「それでは全員揃ったので、授業を始めます」

 

 私達はターフの上に体操座りで並んで座る。

 

 今後の競走生活に直結する、重要な内容だ。私は先生の話に耳を強く傾ける。

 

「選抜レースの目的は、午前中に説明しましたね。午後の授業では、レースの具体的な内容について話していこうと思います」

 

 選抜レースは、新人ウマ娘達のほとんどが出走するトゥインクル・シリーズ──メイクデビューを想定して行われる。

 

 ウマ娘各々でバ場適性、距離適性が異なるため、選抜レースはいくつかの部門が用意されていた。

 

 芝二千メートル/右・内──中距離。

 

 芝千六百メートル/右・内──マイル。

 

 芝千二百メートル/右・内──短距離。

 

 ダート千六百メートル/左・内──マイル。

 

 ダート千二百メートル/左・内──短距離。

 

 ちなみに、メイクデビューには長距離が存在しない。十分なトレーニングを積んでいない新入生には、長距離を完走するのは困難だという理由が一般的だ。

 

「選抜レースはメイクデビューを想定し、フルゲート九人で出走します。前日にレースの出走順、枠番を決めるためのくじ引きを行います」

 

 どの部門で出走するかは、ウマ娘各々の判断に委ねられる。

 

「くじ引きの際、運営からゼッケンが配布されます。レース当日は、ゼッケンの番号が前面に見えるように着用して下さい」

 

 出走部門を決定したら、あとはひらすら一着を目指してコースを走り抜けるのみ。

 

「まだ、自分の脚質適性や距離適性がはっきりとしていない生徒もいると思います。その場合、自分が将来出走したいレースの距離を想定し、出走部門を決定するといいでしょう」

 

 選抜レースの目的は、ウマ娘を育成するトレーナーからスカウトを受けること。当然、トレーナーの目には出走したレースに適性がある前提でスカウトを進めていくだろう。

 

「今日はひとまず、色々な距離のコースを走ってみましょう。自分自身の走りやすいバ場、距離を探りましょう」

 

 授業が終わるまで、好きな距離を自由に走って良いとのことだった。

 

 先生の話を聞いて、私はさっきから走りたくて走りたくて身体が疼いていた。

 

「おっと、その前に。ウマ娘にとって、怪我は選手生命に直結します。準備体操、柔軟は入念に行いましょう」

 

 生徒全員でしっかりと身体を温めて、今度こそ解散になった。

 

 各々の理想を追い求めるべく、私達はコースの中に足を踏み入れるのであった。

 

 

 

***

 

 

 

「キタちゃんはどの部門でレースに出走するの?」

「んー、あたしは芝二千かな〜。ダイヤちゃんは?」

「私も芝二千だよ」

 

 短距離やマイルは、私の距離適性的にどうにも向いていないようだった。以前行った自己分析では、中距離や長距離にかけて適性があると感じていた。

 

「脚質はどうする?」

 

 私はキタちゃんに問う。

 

「んー……差し、かなぁ。ダイヤちゃんは?」

「私は先行! 憧れのマックイーンさんと同じ、先行が良い!」

 

 私はメジロマックイーンさんに強い憧れを抱いている。彼女の走りを一目見た時から、彼女のような存在になりたいと思っていた。

 

 常にバ群の上位でレースを支配し、繊細な判断が要求される仕掛けどころを完璧に見抜いて一着を貪欲にもぎ取る。

 

 その最強のステイヤーたる姿に、私は畏敬の念を抱いてすらいた。

 

「ま、トレーナーさんがいない状態で走っても、自分に合った脚質なんてよく分からないし。思う存分走ろっか!」

「うん!」

 

 私達は意気揚々と、芝二千メートルのコースをキタちゃんと並走した。

 

 その身一つで風を切り裂き、景色を前へ前へと押し広げる感覚。

 

 ウマ娘として生を受けた者にしか味わうことの出来ない極上の体験に、私の心は高揚した。

 

 足が棒になるまで走って、気が付いたら授業が終わってしまう。

 

「選抜レース。一緒に頑張ろうね、ダイヤちゃん!」

「うん!」

 

 選抜レースの日が待ち遠しい。

 

 必ず一着でゴールを駆け抜けて、彼に認めてもらうんだ。



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04:選抜レース

 今日は以前、理事長が口にしていた選抜レースの開催日だ。俺は首に入校許可証をぶら下げて、トレセン学園の門を潜った。

 

 別に、トレーナーに復帰するつもりなんて無い。

 

 選抜レースを観戦しないと、後々面倒なことになりそうだと思っただけだ(主に理事長と駿川方面で)。

 

「選抜レースのトラックは……こっちだったか」

 

 トレセン学園の敷地はまるで迷路のようだ。

 

 俺は守衛から貰った学園の見取り図を頼りに、トラックを目指す。

 

 しかし、ふむ……。

 

「ここは……どこだ?」

 

 困ったな。現在地が分からないと、どの方向に進めば良いのか判断がつかない。

 

 学園にいる者の大半は、選抜レースを観戦するため既にトラックへ足を運んでいるのだろう。周囲には人っ子一人見当たらない。

 

 腕に巻いた時計は十三時四十分を示している。選抜レースの開始時刻は十四時だ。

 

 あと二十分。

 

 別に、ウマ娘のレースが見たいわけでは無いのに。

 

 俺の中に()()が生まれてしまっているのは……どうしてだろうな。

 

「──おや? そこの君」

 

 俺がだだっ広いトレセン学園の敷地を彷徨っていると、背後から凛とした声音の女に声をかけられた。

 

 俺は背後を振り返る。

 

 俺の目線の先には、トレセン学園の制服に身を包んだウマ娘が立っていた。

 

(学園の生徒……にしては風格があるように感じる)

 

 腰丈の鹿毛の長髪をたなびかせながら、俺の方へと近付いてくる。三日月の形をした一房の前髪が特徴的な女だった。

 

 切れ長の瞳に見つめられ、彼女が声をかけた人物が俺であることを察する。

 

「入校許可証……ふむ。選抜レースを観戦しに来たのか? スーツに身を包んでいることから察するに、君はトレーナーかな? しかし、胸元にバッジが付いていない……」

「あ、えっと……?」

 

 何やら俺の容姿を観察し、女はぶつぶつと言葉をこぼしている。

 

「……ああ、すまない。つい一人で考え込んでしまった」

「えーっと……?」

「そういえば、まだ名前を名乗っていなかったな。私はシンボリルドルフ。トレセン学園で生徒会長を務めている者だ」

 

 シンボリルドルフ。そのような名前を、過去に一度聞いたことがあるような気がする。

 

「……おや? その様子だと、私の名前を知らないようだ」

 

 シンボリルドルフの様子から推測するに、彼女はそれなりに名の知れたウマ娘のようだ。

 

「……すまない」

「何、気にする必要は無いさ。少し珍しいと思ってね」

 

 トレセン学園の生徒会長だ。おそらく、かなりの強者だろう。あとでウマチューブで検索してみよう。

 

「これも何かの縁だ。見たところ、道に迷っているように感じる」

「実はそうなんだ」

「トレセン学園の敷地で迷子になる人が現れるのは、日常茶飯事だからな」

 

 やはりそうか。この学園は少々広すぎる。

 

「選抜レースを観戦しに来たんだが……」

「なるほど。では、私が案内しよう」

「良いのか?」

「私も丁度、選抜レースを観戦しようと思っていたところでね」

「助かる。シンボリルドルフ」

「そう固くなるな、私のことはルドルフで良い」

 

 俺はルドルフに案内され、トラックを目指した。途中、俺はルドルフから様々な質問を受けた。

 

「少し聞きたいのだが、良いかな?」

「ああ。案内の礼だ。答えられることなら、なんでも」

「ありがとう。ではまず、君の印象についてなのだが……私の中で、君は少しチグハグでね」

 

 ルドルフは先程も俺の容姿……特に服装に疑問を抱いているように見えた。

 

「ただの一般人だよ」

「私にはそうは見えないが?」

「本当だ。スーツに関しては……これしか着る服が無かったんだ」

「ほう? 仕事熱心な倹約家ということかな。なるほど、興味深い」

「興味を持たなくていい」

 

 ルドルフと話していて分かったことだが、このウマ娘はかなりの饒舌家だった。

 

 少し口調は硬いが、他愛無い雑談を心の底から楽しんでいるように見えた。

 

「君との会話は楽しいな。話していて飽きないよ」

「そうか?」

「あぁ楽しいさ。周囲の者……いや、私を知るほとんどの者達が、一歩引いた場所に身を置くからな」

 

 そう語るルドルフの表情は、心無しか寂しそうだった。

 

 しばらく歩くと、人々の活気溢れる歓声が俺の耳に届いてきた。

 

「もうすぐ到着だ」

 

 整備された並木道を抜ける。

 

 そして俺は再び、歓声が飛び交うレースの世界に足を突っ込むこととなった。

 

 

 

***

 

 

 

「ありがとう、君のおかげで迷わずにここまで来れた」

「当然のことをしたまでだよ。それでは、私はこれで失礼する」

 

 ルドルフと別れて、俺は目的もなくふらふらとトラック周辺を彷徨った。

 

 選抜レースに向けて精神統一を図るウマ娘や、そんなウマ娘達をスカウトしようと躍起するトレーナーの邪魔にならないよう、俺は観客席に腰を下ろした。

 

 春の陽気に当てられて、俺はスーツの上着を脱ぐ。

 

「やば、もうすぐレースの順番回ってくる……第一レースとか付いてないよ……」

「ドンマイ。でもそれって、すっごく注目を浴びてるってことじゃん? そこで一着になったら、チーム・リギルやチーム・スピカから声がかかるかもしれないよ?」

「それマジっ!? 燃えてきた!」

 

 選抜レース目前に、自らを奮い立たせるウマ娘達。

 

「おハナさん。今年はどのウマ娘を育てるつもりだい?」

「さぁな?」

「おーいケチケチするなよ。つってもま、俺も言わないけどな! 今年のジュニアは豊作の予感になりそうだぜ、はははっ」

 

 より優秀なウマ娘をスカウトしようと、観察眼を光らせるトレーナー達。

 

 俺は彼らのような熱意を注ぐことが出来ず、疎外感のようなものを感じてしまう。

 

「俺も昔は……」

 

 なんて呟いたところで、枯れてしまった情熱に火は灯らない。

 

『──これより、今年度第一回目の選抜レースを開催します。出走するウマ娘は、準備を始めて下さい』

 

 観客席の隅で、俺は選抜レースの出走表を広げた。新聞紙のような面積の紙に、ウマ娘達の名前がずらぁっと並んでいる。

 

(サトノダイヤモンド、サトノダイヤモンド……なるほど、第七レースか)

 

 彼女が出走するのは、芝二千メートル/右・内の第七レース目だ。

 

 まだ時間に余裕がある。特にやることも無いため、ウマ娘達のレースを見て時間を潰す。

 

「……ふむ」

 

 俺は色々なレースをぶらぶらと観戦しながら、印象に残ったウマ娘の名前を記憶していく。

 

 印象的な走りを見せたウマ娘は、そうだな。

 

 ダート千二百メートル/左・内より、終始余裕のある逃げで二着以下を大差で突き放したキョウエイマーチ。

 

 芝千六百メートル/右・内より、外目から上がり三十三秒台と驚異的な末脚を披露したマカヒキ。

 

 芝千六百メートル/右・内より、惜しくもマカヒキに屈したが大外から足が違うと思わせる豪快な追い込みを見せたドゥラメンテ。

 

 芝二千メートル/右・内より、自身のポテンシャルを最大限に引き出し、完璧なタイミングでスパートを仕掛けたロイカバード。

 

 芝二千メートル/右・内より、落ち着いてレースを俯瞰し、丈夫な体躯を駆使した長い追い込みで先行ウマ娘達を差し切ったキタサンブラック。

 

 この辺りだろうか。

 

 さすがは中央。トレセン学園の入学試験を突破しただけあってどのウマ娘も素質や才能に満ち溢れている。

 

 そんな才能溢れるウマ娘達の中から一人に声をかけるとするなら……いや、なんでもない。

 

 頭に浮かんだ余計な思考を振り払う。

 

 さて、そろそろ俺が今日選抜レースに足を運んだ目的である、サトノダイヤモンドが出走する第七レースが始まる。

 

 

 

***

 

 

 

「これより芝二千メートル/右・内、第七レースを開始します。出走する選手は準備をして下さい」

 

 荒ぶる心臓を必死になだめながら、私は出走の準備を待つ。

 

「大丈夫。大丈夫だよ、私」

 

 昨夜、私はウマチューブでマックイーンさんのレースを何度も見返した。イメージトレーニングは完璧だ。

 

 瞳を閉じて、私は落ち着いて深呼吸を繰り返す。

 

(私の夢は、一族の悲願であるG1レースに勝利すること。こんなところで緊張していたら、夢を叶えることなんて出来っこない)

 

 足元を絡め取ろうとする恐怖や不安の感情を意識の隅に強引に追いやって、私は目の前のレースに集中する。

 

(選抜レースで一着を取って、夢を叶える! そして何より……兄さまに認めてもらうんだから!)

 

 何回もレース会場に足を運び、熱狂するいくつもの試合を肌で感じてきた。

 

 強い想いを原動力に変えて、私はゲートに入る。

 

 ゲートの中は……何というか、息苦しさを感じる。  

 

 無機質な鉄格子の檻の中に、閉じ込められたような感覚。

 

 獲物が目の前にいるのに、牢獄の内側でお預けをくらっているような感覚。

 

 私は頭を左右に振って、曇った思考を打ち消す。

 

 静かに瞳を閉じる。

 

 騒がしかった観客の歓声が、次第に遠くなっていく。

 

 私は自身の内側に眠る闘争心に磨きをかける。

 

 そして、今か今かとゲートが開放される瞬間を待ち侘びた。

 

『選抜レース。芝二千メートル/右・内、第七レース』

 

──ガタンッ!

 

『──スタートしました』

 

 ゲートが解放。

 

 一着に食らい付く九人の獣が、ターフの中に放たれる。

 

 

 

***

 

 

 

「──っ!」

 

 私はゲート内の芝を蹴って、前方に躍り出た。

 

 私は五枠九番と大外からのスタートだった。

 

 比較的不利と言われる枠番からの出走だったため、出遅れは致命的になる。何としてもそれだけは回避しなければならなかった。

 

 第一コーナーに差し掛かる前の直線から、激しい先行争いが繰り広げられる。

 

 私は周囲のウマ娘達に目を配る。

 

 ゼッケン番号三番が、バ群の先頭を突き進む。三番に引っ張られるように五番、六番が集団から逃げ出した。

 

 一バ身離れて一番、四番、八番、私のバ群が先行する。

 

 残りの二番、七番が足を溜める形でバ群後方に落ち着いた。

 

 バ群の好位置に着くことが出来た私は、第一コーナーをカーブし順調にレースを進めていく。

 

 第二コーナーを丁寧に捌き、向正面の直線に突入する。

 

 私の思い描いた展開で、レースが進んでいく。

 

(この時、マックイーンさんだったら──)

 

 私の思考は常に、憧れのメジロマックイーンを模していた。

 

 あるゆる場面に置いて、彼女ならどう対処するか、どう仕掛けるか。

 

 憧憬する背中に自身を重ね合わせ、私は直線を駆け抜ける。

 

 残り千二百メートルを通過したところで、停滞していたレースに動きが起こる。

 

 先行集団の先頭を走る一番が、()()()()()()()()()

 

(えっ? まだ半分以上も距離があるのにスパートをかけるの?)

 

 私は一番が加速する意図が読めず、困惑する。

 

 一番の仕掛けに対抗するように四番、八番が足の回転数を爆発的に上げた。

 

 先行組のバ群から突き放された私。視界が開けたことで、彼らがこの距離からスパートをかけた原因を理解した。

 

(どうして、そんなに離れて……っ)

 

 私はすぐ前方と、後方を走っていたウマ娘達に集中するあまり、逃げ集団の存在が意識から薄れてしまっていた。

 

 私は、先行集団がギアを上げた原因が作戦によるものではなく……焦りによって生じたものであることを悟った。

 

 先頭から七バ身……いや、八バ身近い距離が開いている。

 

 逃げウマ娘がいるレースにおいて七、八バ身の距離が開く展開は珍しくない。

 

 実際、私はメジロパーマーやダイタクヘリオス、ツインターボのような逃げウマ娘が出走するレースを良く観戦していた。

 

 だけど。

 

 実際にターフに降り立つとその距離は……絶望的なまでの差があるように感じた。

 

 一生縮まる気がしない。そこにまるで、断崖が存在しているかのような錯覚を覚えてしまう。

 

 ここで遅れを取ると、一着にはなれない。

 

 私よりも先に、ゴールテープを切られてしまう。

 

 逃げられる。

 

 一着を取り逃がす。

 

 そんな未来に恐怖した私は、彼女達に釣られるように追いすがった。

 

『な、なんと! 残り千メートルの地点で先行集団全員が一気にスパートをかけた!!』

 

 以前キタちゃんとの並走したことで、私はマックイーンさんのように第四コーナーでグンッと押し上がる感覚を身に付けた。

 

 並走の際に分かったことだが、私は他のウマ娘よりもスタミナが秀でていた。

 

 ここで加速したとしても、まだ足は持つ。

 

『第三コーナーを曲がり、まもなく第四コーナへ突入! ここからは直線での勝負だ!』

 

 第四コーナーを抜ける頃には、逃げの脚質を持つウマ娘達が持久力を使い果たして垂れ始めていた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」

 

 私の肺は破裂寸前だった。

 

 体力を最後の一滴まで絞り出す。

 

 もはや一着に対する執念のみで走っているような状態だった。

 

『ここで九番サトノダイヤモンドが先頭に躍り出た!』

 

 前方を走っていたウマ娘を軒並み薙ぎ払って、私はバ群のハナに立つ。

 

 残り三百メートルを通過。

 

 後続は失速気味。

 

「いける……ッ!」

 

 私は全身で空気を鋭く切り裂き、景色を前へ、ひたすら前へと押し広げる。

 

 残り二百メートル。

 

 私は、勝ちを確信した。

 

『──さぁ、ここで足を溜めていた差しウマ娘が一気に上がってきた! 鋭い末脚で先頭に迫る!』

 

 レースで終始私の後方を走っていたウマ娘達が、鬼気迫る形相で一着の座を奪いにくる。

 

 大丈夫。それでも私には届かない。

 

(マックイーンさんだったら、ここからもっと加速して……)

 

 最強のステイヤー、メジロマックイーンのように。

 

 私は腕を大きく振って、天高く羽ばたくように、さらに前へ──。

 

(…………え。なん、で……っ)

 

 

 

…………進めない。

 

 

 

 なんで。

 

 私の思考が疑問で塗り潰される。

 

 足が前に行かない。

 

 前進しているはずなのに、後退しているような感覚を覚える。

 

『残り百メートルで二番と七番が先頭を追い抜いた! 後続もまだ諦めていないぞッ!!!』

 

 残り百メートルが、ひたすら遠い。

 

 追い抜いたはずのウマ娘達が、何故か私の視界の先にいる。

 

 どうして。

 

 どうして、私の足は言うことを聞いてくれないの。

 

 理由は単純。

 

 スタミナ切れだ。

 

 レース中盤に掛かったことで体力を消耗し、終盤に向けて足を温存することが出来なかった。

 

『ここで──二番が一着でゴールインッ!! 後に続くように七番、八番、四番が帰って来ましたッ!」

 

 私は棒になった足を懸命に動かして、何とかゴールにたどり着いた。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……ッ」

 

 そして、私はそのまま芝の上に倒れ込む。

 

 肩で大きく呼吸して、ひたすら息を整えることに集中する。

 

 選抜レースとはいえ、私の人生で初めてのレース。

 

 結果は八着。

 

 惨敗だった。

 

 その事実を受け止めた時、私は目尻が熱くなるのを感じた。

 

「──っ」

 

 周囲の視線から逃げるように、私はターフから走り去る。

 

 まだ走る気力が残っているのなら、どうしてレースの時に振り絞らなかったのかと、今更ながら後悔した。

 

 

 

***

 

 

 

「……八着、か」

 

 俺はダイヤのレースを観戦し、独りごちた。

 

 ダイヤのレースに対して指摘したいことは山ほどあるが、それは今後彼女を担当するトレーナーの役割である。俺が口を挟むべき問題では無い。

 

「さっきのレースの一着は……メジロドーベルか。終始落ち着いた様子でレースを俯瞰していた」

 

 ダイヤが敗北を喫した原因の一端に、自身のペースを乱したことが真っ先に挙げられる。先頭から七バ身近く離されたら、焦る気持ちも分からないわけではない。

 

「まだロクにトレーニングを積んでいない、メイクデビュー前のウマ娘達だ。あんな速度で飛ばせば、後半で失速することは目に見えていた」

 

 少し考えれば、あるいは誰かが助言すれば、中盤での掛かりを防げたかもしれないな。一着を取れた可能性も……いや、彼女の敗因は他にもあるか。

 

 さて、ダイヤのレースも見終わったことで俺は選抜レースを観戦する理由が無くなった。

 

 服の裾で()()を拭い取って、俺はトラックを後にする。

 

「──すみませんっ!」

 

 俺が一人で道を歩いていると、活発な印象の女子生徒から声をかけられた。

 

「少し、聞きたいんですけどっ!」

 

 濃い鹿毛のミディアムボブに、ツーサイドアップのアレンジを加えたウマ娘だ。燃えるようなルビーの瞳に焦りを浮かべた彼女の容姿には、見覚えがある。

 

(この子は確か、芝二千メートルの第五レースで一着だった……名前は確か、キタサンブラックだったか)

 

「あたしと同じくらいの身長のウマ娘を見ませんでしたか? あたしよりも明るい鹿毛の長髪で、前髪に菱形の模様がある女の子なんですけど……」

 

 キタサンブラックの言葉を聞いて、彼女の探す人物が誰であるかを瞬時に悟る。

 

「ダイヤなら確か、レースが終わった直後に校舎の方へ走って行ったぞ」

「……え。ダイヤちゃんの名前、どうして」

 

……しまった。つい彼女の名前を口走ってしまった。俺の目の前で、キタサンブラックが困惑した表情を浮かべている。

 

「……あー、さっきのレースを見て印象に残っていたんだ」

 

 俺はすぐさまそれらしい理由をでっち上げて取り繕う。

 

「もしかして、トレーナーの方ですか?」

「いや、俺はただの一般人だ」

「そうは見えないけど……あ、いえ、何でもありません! 教えてくれて、ありがとうございますっ!!」

 

 深く頭を下げて、キタサンブラックは校舎裏の方へ走り去っていった。

 

「……帰るか」

 

 選抜レースでウマ娘達の熱い青春を目の当たりにしても、俺の気持ちは変わらない。

 

 過去に満ち満ちていた指導者としての熱意は、一体どこに行ってしまったんだろうな。



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05:星屑の再燃

描写を一部修正しました。


「今年の新入生は粒揃いだな」

 

 選抜レースを運営しながら、私──シンボリルドルフは感情が昂っていた。

 

「あら、ルドルフ。今日はなんだか楽しそうね♪」

「マルゼンスキーか。ふふ、そう見えるか?」

 

 声をかけてきたのは、私が信頼を置く友人マルゼンスキー。

 

 抜群のスタイルと、時代を先取りした言葉のセンスが特徴的なウマ娘だ。その実力は超一流で、他の追随を許さない圧倒的な逃げ足から”スーパーカー”の異名を博している。

 

「前途有為。今年のチーム・リギルは、更に強くなりそうだ」

「そうね。ナウいウマ娘達の熱意を分けてもらって、あたし達も頑張りましょう!」

 

 私達が所属するチーム・リギルは、トレセン学園においてトップクラスの実力を誇るチームだ。

 

「東条トレーナー。今年の新入生の中から、もうスカウトの目星はつけているのだろうか」

「大方な。既に声はかけている」

 

 東条ハナ。チーム・リギルを統率する辣腕トレーナー。グレーのパンツスーツを完璧に着こなした、クールビューティーな女性だ。

 

「さすが東条トレーナー。その手腕、感服する」

「今年のリギルは更に強くなる。トレーニングも厳しくなるぞ、気を引き締めていけ」

「モチのロンよ!」

 

 トレーナーは一見、冷徹な仮面を被った血も涙もない女性だと誤解されがちだ。しかし、彼女の勝利を志す強い熱意は、我々ウマ娘を魅了するに値する。

 

「去年はチーム・スピカに遅れを取ったが、二度目は無い」

「そうね! 負けてばかりじゃいられないものね!」

「ああ。私も後輩達に可能な限りアドバイスを贈ることにしよう」

「期待しているわよ、二人とも」

 

 捲土重来。トレセン学園最強の座につくのは、私達チーム・リギルだ。

 

「チーム・スピカを下し、そして我々はいつか世界最強と名高い……チーム・アルデバランをも超えてみせる」

「あら!」

「なんと……」

 

 東条トレーナーが目指す志の高さに、私は驚きを隠せなかった。

 

 チーム・アルデバラン。かつてウマ娘達の頂点に君臨していた、世界最強のチーム。

 

「既に過去の記憶になってしまったけれど……叶うなら、一度手合わせしてみたいものね」

 

 彼女らは二年前、"星の消失"と共に表舞台から姿を消した。

 

 当時は様々な憶測が世間を騒がせていたが、姿を消した原因について多くのメディアやネット上で深い考察が行われた。

 

 長い考察の末、一つの結論として導き出されたのがチーム・アルデバランの”星”、最強のウマ娘──ミライの故障事故。

 

 当時、ミライが出走したレース──凱旋門賞は全世界で生中継されていた。すると何故か突然中継が遮断され、何の情報も得られないまま翌日彼女の訃報が報道された。その時の困惑と悲愴感は今でも胸に深々と刻まれている。

 

 何故なら、私はミライに対して憧憬の念を抱いていた。言葉を少し崩すと、大ファンだったのである。

 

 ミライの故障事故の他にも、いくつかの推論がチーム・アルデバラン消失の都市伝説として残っている。

 

 都市伝説の中で有名なものを一つ挙げるとするならば、ミライを育成していた担当トレーナーの失踪、辺りだろうか。

 

 この都市伝説が真実なら、それはこの業界の大きな痛手だ。”星”を輝かせたその手腕を持ってすれば、多くのウマ娘達を幸福へと導くことが出来ただろうに……。

 

「──アルデバラン……」

「おや?」

 

 私が密かに憂いでいると、ヒトより優れたウマ娘の聴覚が、背後からの呟くような声音を捉えた。

 

「あら、グラスワンダーちゃん!」

「……すみません。先輩方の口から、懐かしい名前を耳にしたものですから」

 

 グラスワンダー。

 

 チーム・リギルに所属するアメリカ生まれの帰国子女。温厚篤実な性格で、大和撫子を彷彿とさせる清楚可憐な振る舞いが魅力の少女だ。

 

 しかし同時に彼女は強い芯を持っており、その内に秘める獣のような闘争心はチーム・リギルの中でも突出している。

 

「グラスワンダー。怪我の調子は?」

「はい。だいぶ良くなって来ました。今月中にはトレーニングに復帰出来るかと」

「それは良かった」

 

 以前、グラスワンダーはトレーニングの途中に右足を負傷し、療養を余儀なくされた。

 

 メイクデビューで華々しい活躍を飾った彼女にとって、療養生活はさぞ辛かったことだろう。

 

 しかし、持ち前の精神力で負の感情を一切表に出さなかったグラスワンダーは今後、必ずや頭角を表すことだろう。

 

「チーム・アルデバランといえば、なんといっても"星"のミライよね! 三年前のジャパンカップ、今でも鮮明に思い出せるわ〜!」

 

 三年前に開催されたジャパンカップ。チーム・アルデバランからミライが出走表明をしたことで、異例の注目を浴びることとなった。

 

 私も現地でミライのレースを観戦したが、彼女の走りは圧倒的だった。トゥインクルシリーズを代表するGⅠウマ娘達や、世界で活躍するウマ娘達が群雄割拠するレースにおいて、二着以降を嘲笑うかのような大差勝ち。

 

 ミライの脚質は既存の型にはまらない。まるで、大逃げを仕掛けながら追い込みをかけるかのような、異常な走り。

 

 ミライは本当に私と同じウマ娘という種族なのか、疑いを抱いてしまうほどだ。

 

「あ、そういえばグラスワンダーちゃんって、アメリカで生まれ育ったのよね?」

「はい」

「だったらだったら、ミライのオフレコな姿とか、見たことはあるのかしら〜?」

「ありますよ」

「マ!?」

 

 マルゼンスキーが何を言い出すのかと思えば……。

 

 しかし私も興味がある。ミライの一ファンとして。プライベートの様子は如何様か。

 

「出来ればグラスワンダーちゃんしか知らないような、マル秘な話が聞きたいわ!」

「ん〜そうですね、プライベートのミライさんは……」

「うんうんっ」

 

 おとがいに手を当てて、過去を振り返るグラスワンダー。

 

 そして、大和撫子らしい柔和な笑みを浮かべてグラスワンダーは言った。

 

「素敵な殿方へ密かに恋文を認める、一途な女性でしたよ」

 

 

 

 

***

 

 

 

 選抜レースが開催された日の夜、俺は観客席にスーツの上着を置き忘れていることに気が付いた。

 

 夕方から天候が崩れ、現在は生憎の雨模様。

 

 残念ながら自前の傘を持っていなかったので、俺は近くのコンビニでビニール傘を購入してから学園の敷地に入る。

 

 日中、トレセン学園の生徒会長であるルドルフに案内された道を思い出しつつ、俺は夜道を急いだ。

 

「……無敗の三冠ウマ娘。シンボリルドルフ。史上初のGⅠ最多七勝。この成績を知れば、確かに同じ立場で話すことなんて出来ないな」

 

 ルドルフと対面した際に感じた風格は、錯覚では無かった。

 

 その偉業から"皇帝"の異名を持ち、全てのウマ娘が幸福になれる時代を目指す理想主義者。

 

 理想主義者といっても、シンボリルドルフには理想を叶えるに相応しい功績と人望が備わっている。

 

「いくら知らなかったとは言え……もっと敬意を表するべきだった」

 

 後悔先に立たず。今度ルドルフと会話することがあったら、今日の非礼を詫びることにしよう。

 

……っと、もうトラックに着いたのか。道に迷わなければ意外とすぐだったな。

 

 トレセン学園は自主トレーニングをする生徒達のために、寮の門限まではターフが解放されている。まぁ、この土砂降りの中で走るヤツなんていないだろうが。

 

 数多くの照明が点灯しているため、忘れ物を探すことは簡単だろう。

 

 観客席を探ること数分。俺は水分を含んでグチョグチョになった上着を見つけ出した。

 

 目的は果たした。

 

 俺は早々に踵を返し、来た道を戻る。

 

 

 

「──はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 

 

……気のせいか? 今、ターフから水溜まりを弾く足音が聞こえたような。

 

 この悪天候の中で、自主トレをしているウマ娘がいるのか?

 

 雨天時の重バ場を想定してのトレーニングか。しかし、周りに人がいる様子はない。

 

「……自殺行為だ。中央のトレセン学園にも、ウマ娘としての本能を自制出来ないバカなヤツがいるんだな」

 

 水分を含んだ芝は足を取られやすい。ウマ娘は生身の身体で、自動車並みの速度を出す生き物だ。一度の転倒が選手生命に直結する。トレーニングをするにしても、最善の注意を払わなければならない。一人でのトレーニングなんて論外だ。

 

 陽が沈んで気温が低下し、身体に打ちつける雨が拍車をかけるように体温を奪う。

 

 蓄積した疲労で集中力を乱し、滑りやすい芝に足を取られて転倒なんてしてみろ。

 

 もう二度と、走れなくなるかも知れないんだぞ。

 

 もう二度と、歩けなくなるかもしれないんだぞ。

 

 もう二度と、生きられないかもしれないんだぞ。

 

「──いたっ……ッ!?」

 

 ターフから、苦痛に悶える声が聞こえた。

 

 ドサッと鈍い音が響く。

 

 ほら見ろ、集中を欠くから転ぶんだ。

 

 周囲に俺以外の人はいない。

 

 さすがに、見て見ぬ振りをすることは出来なかった。

 

 俺はターフに目線を向ける。大丈夫か、と声をかけようとして。

 

 

 

 

 

「………………は?」

 

 

 

 

 

 俺の心臓が鷲掴みにされた。

 

 呼吸の仕方を忘れ、鼓動がこれ以上なく跳ね上がった。

 

 全身が泥に塗れ、ターフに倒れ伏したウマ娘には心当たりがある。

 

 薄汚れた鹿毛の長髪。前髪に特徴的な菱形の模様があり、本格化を迎えたばかりの強かでワガママなウマ娘。

 

 サトノダイヤモンド。

 

 俺の大切な、歳の離れた昔馴染みの女の子。

 

「──ダイヤッ!!」

 

 気付いたら、俺は手に持った傘を放り出して走っていた。

 

 雨に打たれる事なんて気にも留めず、俺は血相を変えて彼女の元へ駆け寄る。

 

「え……兄、さま…………?」

「大丈夫か、怪我はないか!?」

「……右足が」

「見せてみろ」

 

 俺は最優先でダイヤの姿勢を安定させる。革手袋を脱ぎ捨て、彼女のおみ足に触れる。

 

 ダイヤの身体に触れたことで、俺の"体質"が彼女の容体を瞬時に、正確に把握していく。

 

「……右足首を捻挫している。大事には至らないが、適切な対処をしなければ長引くぞ」

「ごめん……なさい…………」

「話はあとで聞く……失礼」

「へ? ……きゃっ!」

 

 俺は負傷したダイヤを横抱きにして、トラックを後にした。

 

 本当はダイヤを寮に送り届けるべきなのだが、生憎俺は彼女の寮の場所を知らない。

 

 状況がイマイチ飲み込めていないダイヤを抱えて、俺は理事長からあてがわれた──自身のトレーナー寮に彼女を運ぶのだった。

 

 

 

***

 

 

 

「……すみません。はい、はい……。お願いします」

 

 帰宅早々、俺は理事長秘書の駿川に電話をかけた。事情を説明し、駿川経由で栗東(りっとう)寮の寮長に連絡をしてもらうことになった。

 

「すぐに手当をしたいが……ひとまずシャワーを浴びてこい。そんな姿じゃ風邪を引く」

「……」

「捻挫した場所は極力温めるな」

「…………」

「ダイヤ?」

「……ぇ、ぁ、あっ! はい……」

 

 俺は借りてきた猫のようにおとなしいダイヤを、なかば強引に浴室へとぶち込んだ。

 

 本来、捻挫した箇所を温める行為は逆効果なのだが……事情が事情だ。仕方が無いと妥協する。

 

 ダイヤがシャワーを浴びている間に、俺は諸々の準備を始める。

 

 捻挫とは、身体の関節に不自然な力が加わることによって靭帯が損傷した状態のことだ。靭帯が炎症を引き起こしており、熱を帯びている。

 

 ダイヤの場合、軽度の捻挫ではあったが処置を疎かにすると長引く可能性があった。

 

 炎症を抑えるための氷のうと濡れタオル、足を固定するためのテーピングなどなど。

 

 着替えに関しては……適当なジャージで我慢してもらおう。ダイヤが着ていた体操着をすぐに洗濯機にかけ、乾燥するまでの辛抱だ。

 

 しばらくして、男物のぶかぶかなジャージに着替えたダイヤが浴室から出てきた。

 

「あ、上がり、ました……」

「よし、じゃあこっちに来い」

「はい……兄さま」

 

 俺はダイヤをベッドに腰掛けさせ、右足のジャージを捲り上げる。

 

 手際良くテーピング処置で足を固定させ、氷のうを当てる。

 

「完治するまで……そうだな、一週間は運動やマッサージはするな。絶対安静だ。分かったな?」

「……はい」

 

 物分かりが良くて助かる。

 

「……ったく、どうしてあんな無茶をした」

「それ、は……」

 

 ダイヤは俺の問いに対して、バツが悪そうに視線を逸らした。

 

 無理に言う必要はない……と言いたいところだが、今日のように無茶な自主トレは看過出来ない。

 

「選抜レースか」

「……はい」

 

 言い淀むのなら、こちらから切り出すだけだ。

 

 ダイヤは昔から、一度決めたことは意地でも貫き通す頑固で剛直な性格だった。

 

 駄目なことは駄目だと、誰かが本気で叱ってあげなければ。何よりも、彼女の身を守るために。

 

「……恥ずかしい姿を、見せてしまいました」

「お前は全力で走った。恥じる必要なんてない」

「でも、私……わたしは…………ぅ、ぅぁあっ!」

 

 必死に堪えていたのだろう。俺の言葉を皮切りに、ダイヤのせき止めていた感情が一気に爆発した。

 

 泣いている女の子を、一体どうやって慰めるのが正解なんだろう。

 

「絶対、一着になれると思ったのに……っ。マックイーンさんみたいな、格好いい姿を見せて……兄さまに、認めて…………欲しかったのに……っ」

 

 "俺に認めて欲しい"。

 

 そんな思いを抱えて、お前は走っていたのか。

 

「それなのにっ! 八着、八着って……こんな、こんな結果っ……誰も、認めてくれないっ!」

 

 ダイヤは俺の胸元に顔を押しつけて、声を上げて泣いた。

 

 果たしてどうしたものかと悩み抜いて、俺は遠慮がちにダイヤの頭に手を置いた。

 

「……すまなかった」

 

 ダイヤの一着に対する執着心。その矛先を自分自身の夢では無く、俺に対して向けさせてしまった。

 

 お前はウマ娘だ。

 

 他人のために走るのではなく、自分の夢のために走れ。

 

「焦る気持ちは理解出来る。でも、無茶をして怪我したら全てが水の泡だ……分かるな?」

 

 こくこく、とダイヤは首を縦に振る。

 

「君は強くなれる。夢を叶える才能と、努力出来る根性がある。俺が保証する」

 

 先程からダイヤの身体に触れていることで、俺の"体質"が暴走していた。

 

 この"体質"は非常に厄介なもので、ウマ娘に深く触れれば触れるほど、育成に必要のない情報まで吸い出してしまう。

 

 例えば、思考。

 

 彼女が今、何を考えているのか。

 

 どんな気持ちで俺の言葉を聞いているのか、など。

 

 全て、筒抜けだった。

 

 これでもだいぶ制御出来るようになった方なのだ。

 

 俺の手がウマ娘の肌に直接触れなければ、この異常な”体質”に苦しまれることはない。

 

 その対策として、普段は薄手の革手袋を着用している。

 

 昔は膨大な情報量で思考がパンクし、頻繁に頭痛を引き起こしていた。まぁしかし今でも、あまり変わりはないのだが。

 

「……」

 

 無性にこっ恥ずかしくなって、俺は視線を彷徨わせる。

 

 他人の心を覗き見する趣味は無い。少し頭が痛くなってきた。そろそろ離れてくれとダイヤに要求したが、いやですと即座に否定された。

 

 少し強引に身をよじるが、ウマ娘特有の怪力にねじ伏せられてしまう。泣き顔を見られたく無いのかもしれない。

 

「そろそろ落ち着いたか?」

「……うん」

「良かった。そろそろ離れてもらっても良いか?」

「いやです」

 

 ダイヤの鹿毛の尻尾がユサユサと左右に揺れる。

 

 こうなったダイヤは頑固だ。諦めるしかない。

 

「……私、マックイーンさんに憧れているんです」

「唐突だな。でもまぁ、何となく分かるよ。走りを見れば」

 

 メジロ家の令嬢、メジロマックイーン。

 

 メジロ家の悲願といわれる天皇賞制覇を()()に、繋靭帯炎を発症して長期療養を余儀なくされた最強のステイヤー。

 

 シンボリルドルフをウマチューブで調べている過程で、俺は過去にトゥインクルシリーズで輝かしい成績を残した者達の走りを確認していた。

 

「私は……マックイーンさんのようにはなれないのでしょうか」

 

 今日の選抜レースで、ダイヤは明らかにメジロマックイーンを意識した走りをしていた。

 

 憧れる気持ちは分かる。

 

 だが、彼女のようになれるかと聞かれたら……。

 

「それは厳しいだろう」

 

 答えはノーと、言わざるを得ない。

 

「……っ、そう、ですか。そうですよね……」

 

 分かりやすく落胆するダイヤ。

 

「今日の選抜レース。彼女と同じ先行の脚質を意識して走っただろ?」

「え? は、はい」

 

 メジロマックイーンを模して、ダイヤはレースを走った。彼女が得意とする脚質すらも真似をして。

 

「現状、ダイヤはレースで先行することに向いていない」

「どうして、そんなことが分かるんですか?」

「体質なんだ」

「体質……?」

 

 適性の低い脚質で選抜レースに臨み、冷静さを欠いて余計なスタミナを消費した。終盤へ向けて足を溜められず、スタミナが切れて失速した。

 

 これが、ダイヤが選抜レースで八着となった敗因だった。

 

「ダイヤの場合、中盤まではバ群の中団でレースの様子を窺いながら足を溜めて、終盤で一気にスパートをかける“差し"の脚質に適性がある」

「差し……」

「トレーニングを積めばレースで先行策に出ることは容易いだろう。だが現状は、スピードと末脚を維持するスタミナが足りない。全身の筋肉も未発達。その中でレースに勝とうと思うのなら、後半まで足を溜めるべきだった」

「……はい」

 

 年齢はまだ幼いとはいえ、本格化を迎えたダイヤは立派なアスリートである。辛いかもしれないが、自身の敗因を理解しなければ以後同じことの繰り返しになる。

 

「良いか、ダイヤ。お前はメジロマックイーンじゃない。サトノダイヤモンドだ。憧れっていうのはな、その姿を自分に重ねることじゃない。その背中を、自分の力で追い越すことなんだ」

「自分の力で、追い越す……」

 

 酷な言い方かもしれない。しかし、憧れの存在を自分の姿と重ね合わせで出来上がったそれは結局、二番煎じでしかないのだ。

 

「そうだ。……まぁ結局何が言いたいかっていうと、焦る必要はまったく無いってことだ」

「はい」

 

 理解してくれたようで良かった。

 

 これでもう、ダイヤは無茶な自主トレーニングをして身体を壊すことは無いだろう。

 

「それにしても、メジロマックイーンか」

「私の憧れの方です……もし叶うのなら、マックイーンさんが天皇賞で一着を取る姿を見てみたかったです」

 

 ”名優”の二つ名を持ち、長距離を主戦とする姿から最強のステイヤーと称されたメジロマックイーン。

 

 しかし、現実とはなんて非情か。

 

 彼女が悲願としていた舞台は、壇上へ立つ前に幕が下りてしまったのだから。

 

「……あ、ご、ごめんなさい。暗い雰囲気にしてしまいました」

「気にしないよ」

「あ、憧れといえばっ」

 

 少し湿ってしまった雰囲気を吹き飛ばそうとしたのか、わずかに裏返った声音でダイヤが声を上げた。

 

「実は私、マックイーンさんの他にもう一人……憧れているウマ娘がいるんです」

 

 言いながら、恥ずかしそうに頬をかくダイヤ。

 

「これは正直、恥ずかしくて誰にも……親友のキタちゃんにも言っていないんですけど」

 

 えへへ、とはにかむダイヤ。

 

 無意識に、彼女の表情に目線が吸い寄せられた。

 

 

 

 

 

「私……ミライさんのようなウマ娘になりたいんです」

 

 

 

 

 

 ダイヤの口から飛び出した名前に、俺の心臓がとくんと跳ね上がる。

 

 世界最強のウマ娘──ミライ。

 

「ミライさんはなんて言うかもうとっっっっても素敵すぎて憧れるのもおこがましいと言いますか、いやでもでもっ、やっぱり他を寄せ付けない圧倒的な走りに魅了されない人なんていないと思うんですっ。三年前のジャパンカップはご覧になりましたか? 私はもちろん現地で観戦しましたっ。ターフに立つ生ミライさんを見た瞬間はもう……っ。あ、でもやっぱり私なんかが憧れているなっていったらみんな笑っちゃいますよね……あ、これは内緒ですよ! 特にキタちゃんには!」

 

 憧れ、か。そうか、そうか……。

 

「なっ、笑わないで下さい兄さま!」

 

 俺は今、()()()()()のか……?

 

「……うぅ、やっぱり言うんじゃなかった」

 

 ベッドの上で羞恥心に悶えるダイヤ。

 

 枕を抱えてジタバタを繰り返し、しばらくしてその音がぴたりと止んだ。

 

「……? ……寝てる」

 

 疲労が蓄積し、緊張の糸が解けたことで眠気の波が一気に押し寄せてきたのだろう。

 

 無防備というか、隙だらけというか……。

 

「……信頼されている、ってことにしておくか」

 

 俺はダイヤの身体に布団を掛けて、部屋の電気を消す。

 

「憧れ、か……」

 

 

 

 

 

──私ね、みんなが憧れるようなウマ娘になりたいんだ!

 

 

 

 

 

 自然と、口角が上がる。

 

 誰に話しかけるわけでもなく、俺は虚空に向かって独りごちた。

 

 

 

 

 

「夢が叶ったな……ミライ」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「おはよう、ダイヤ」

「……ぉ、お、おお、おはようございましゅっ!」

 

 翌朝。俺は寝癖で髪が爆発したダイヤに挨拶する。

 

「足の調子はどうだ」

「あ、足は問題……ない、です」

 

「体操着はもう乾いているから。学園に行くときはそれに着替えてくれ」

「は、はいぃ……」

「……? 何だ、どうかしたのか?」

 

 先程から挙動不審なダイヤに、俺は怪訝な視線を向ける。

 

「早く支度しないと遅刻するぞ。お前は一度、寮に戻る必要があるんだからな」

 

 俺も今日はこの後、学園に用事がある。きっちりとしたスーツに身を包んで、身支度を進めていた。

 

「……兄さま。今日は何か、大切な用事があるんですか?」

「いや、別に大した用事ってわけじゃないが」

「なら、一体……?」

 

 忙しなく動く俺に、今度はダイヤが困惑したような視線を向ける。

 

「受けることにした」

「……?」

「気が変わった。俺は、お前との約束を果たす」

 

 約束を果たすためにはまず、理事長に声をかけなければならない。

 

「ダイヤ。俺は今日から、()()()()()()()()()()()

「……え」

 

 ダイヤが目を点にして硬直する。

 

 そして、ようやく俺の言葉を理解したらしい。

 

 

 

「──えぇぇぇええええええええええっ!?!?」

 

 

 

 可愛らしい叫び声が、部屋中を駆け巡った。



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06:トレセン学園

たくさんのお気に入り登録、ありがとうございます。


「──歓迎ッ! わたしは君を信じていたッ!!」

 

 ダイヤを学園まで送り届けた後、俺はその足で理事長室へと向かった。

 

「たづな! 早速彼にトレーナーライセンスとバッジをッ!」

「はい。……トレーナーさん、こちらを」

 

 理事長秘書の駿川から、改めて新調されたトレーナーライセンスとバッジを受け取った。

 

「ありがとうございます」

「今後のトレーナーさんの待遇についてなのですが、トレーナーさんは過去に一度ライセンスを破棄しているため、立場上新人トレーナーという扱いになります」

「はい」

 

 俺は、二年前の自分の顔写真が貼られたライセンスに視線を落とす。

 

 ライセンスの中の男は、希望と熱意に満ちた表情をしている。

 

 昔の俺は、こんな顔をしていたのか。

 

「必要な手続きに関しては、こちらで全て処理しますのでお気になさらず♪」

「どうも」

「質問ッ! トレーナー、何かわたし達に聞いておきたいことはあるだろうか!!」

 

 聞いておきたいこと……そうだな。

 

「……レースに出走するためには、チームを結成する必要があるはずだ。現状、俺はダイヤ以外の担当を請け負っていない」

「配慮ッ! 確かにトゥインクル・シリーズが主催するレースに出走するには、五名以上のウマ娘が所属するチームに登録する必要がある。しかし! URAは君の功績を非常に高く評価している。故に──」

 

 理事長は手に持った扇子をシュバっと開いて言い放つ。

 

「特例ッ! 担当ウマ娘が規定人数を満たしていなくても、チームの存続を承認し、レースへの出走を許可するッ!!!」

 

……すごい贔屓(ひいき)だな。そんなんでいいのか、URA。

 

「但し。レースに出走する以上、チームに所属しているという体裁は必要だ。後ほど、チームの設立届けを提出してほしい。その気であれば、メンバーの勧誘も可だッ!」

「分かった」

「うむ!」

 

 俺の返事を聞いて、理事長は年相応の笑顔を浮かべた。

 

「安堵。良い返事が聞けて何よりだ」

 

……気のせいか。

 

 今、一瞬のうちに理事長の、理事長としての仮面が剥がれ落ちたように感じる。

 

 手にした扇子で顔を仰ぎながら、だらしなくソファーの背もたれに体重を預けた。

 

「暴露……実はな、URAから君を必ずトレーナーに復帰させろと圧力をかけられていたんだ」

「……そんなんで大丈夫なのかよ、URA」

 

 こんな小さな理事長に、()()()()を押し付けるだなんて。

 

「"星"を育てた貴重な人材だ。確保すれば、業界の飛躍は確実。その意見にわたしも賛同した。URAの要望に、無理をしてでも応えたくなった。ウマ娘達の輝かしい未来のために」

「……」

 

 そんなことを言われてもな。

 

 正直荷が重い。

 

「期待しているぞ、”新星”ッ!」

 

 しかしどうやら、俺はまた頑張るしか無いらしい。

 

 

 

***

 

 

 

「えへ、えへへ、えへへへ……」

「うわ、ダイヤちゃんの顔が溶けてる……」

 

 一度栗東寮に戻って制服に着替えた私は今、教室の机に座ってだらしない表情を浮かべていた。

 

──俺は今日から、お前のトレーナーになる。

 

 昨日の選抜レースは八着という不甲斐ない結果に終わったけれど、私の熱意はしっかりと兄さまに伝わった。

 

 そしてついに、私は念願だった兄さまとトレーナー契約を結ぶことが出来たのだ!

 

 その事実が、私の胸をザワつかせる。

 

 冷静な思考が暴力的な熱で溶かされていく。

 

 故に、私の顔ははしたなく溶けていた。

 

「ダイヤちゃん? ダイヤちゃ〜ん?」

「……んぁ? キタちゃん?」

 

 いつからだろう。親友のキタちゃんが私の顔を覗き込んでいた。

 

「今日のダイヤちゃん、なんだかぽわぽわしてる」

「えぇ、そうかなぁ」

「何か良いことあった?」

「良いこと? 良いこと……うぇへへ〜」

 

 良いことって言ったら、やっぱり兄さまが私の……きゃっ。

 

「実はねぇ〜、兄さ……トレーナーさんが、私のことを熱烈にスカウトしてくれたの!」

 

 今すぐ校舎を駆け回って、この気持ちを叫びたい。

 

 はしたないから、そんなことはしないけど。

 

「最初はとっても頑固なお方だったのに……私の熱意に押されて最後には……きゃっ」

「……あたし、惚気を聞かされてる?」

 

 惚気か。確かに、惚気かもしれない。

 

 別に惚気でも良いや。

 

 聞いて、キタちゃん。この私の喜びを!

 

「そういえばダイヤちゃん、足の方は大丈夫?」

 

 キタちゃんが唐突に話題を変えてきた。

 

 多分、私の惚気話に飽きたんだと思う。

 

……火照った身体の熱が、スッと引いていくのが分かった。

 

「……うん、軽い捻挫だって。一週間は安静にしないといけないんだけどね」

「そっか、大怪我じゃなくて良かったぁ」

「心配かけてごめんね、キタちゃん」

 

 選抜レースに負け、自暴自棄になって、たくさんの人に迷惑をかけた。

 

 もう二度と誰かに心配をかけさせる行動はしないと、私は心に誓った。

 

「そういえばキタちゃん、選抜レースで一着だったよね? トレーナー方からのスカウトは来てるの?」

「ふっふっふっ、良くぞ聞いてくれました!」

 

 待っていた、と言わんばかりにキタちゃんは腰に手を当てる。

 

 言葉の節に溜めを作って、ウマ耳の穴をかっぽじって聞けと言わんばかりに主張した。

 

「なんとあたし……チーム・スピカからスカウトされました!」

 

 キタちゃん曰く、放課後に一人で学園の敷地を歩いていたところを、素顔を隠した謎のウマ娘集団に袋詰めにされたらしい。

 

「すごいねキタちゃん! じゃあ、あのトウカイテイオーさんと一緒に走れるんだ! 良いなぁ!」

「えっへん! そうでしょそうでしょー!」

 

 チーム・スピカといえば、今やトレセン学園でチーム・リギルに並ぶ程の実力を備えた超一流のチームだ。

 

 キタちゃんが強い憧れを抱くトウカイテイオーさんの他にも、チーム・スピカにはスペシャルウィークさんやサイレンススズカさん、ゴールドシップさんが所属している。

 

 そして何より、私が強く憧れるメジロマックイーンさんが所属していたチームだ。

 

「大物の一員だね、キタちゃん」

 

 キタちゃんはすごいなぁ。

 

 少し気を抜いたら、さらに置いていかれてしまいそうだ。

 

「これからお互い頑張ろうね、ダイヤちゃん!」

「うん! 負けないからね、キタちゃん!」

 

 負けたくない。

 

 勝ちたい。

 

 ライバルのキタちゃんだけには、絶対に。

 

 

 

***

 

 

 

 理事長秘書の駿川に連れられて、俺は学園内の施設を見学していた。

 

「本当に広いな……」

 

 東京都府中市に所在する日本ウマ娘トレーニングセンター学園──通称トレセン学園。

 

 全国に設立されたウマ娘トレーナーニング施設の中でも、トレセン学園は最新鋭かつ最大規模。ウマ娘を育成する環境として完成された施設である。

 

「ここが、校舎の中央に位置するエントランスホールになります」

 

 理事長室を出て最初にやってきたのは、二階が吹き抜けとなった校舎中央のエントランスホールだ。

 

 エントランスホールには購買や図書室、資料室が併設されている。その他には学園行事の告知を行う掲示板や、レースへの出走手続きを行う登録ロビーなど。

 

 現在は授業中ということもあり生徒の姿は無いが、放課後は賑わいを見せるそうだ。

 

 エントランスホールを出て、敷地を西に歩くこと数分。校舎の別棟に設けられたトレーナールームに案内された。

 

「こちらが、トレーナーさんが利用するトレーナールームになります」

「思っていたよりも広いな」

 

 事実上チームの部室となるトレーナールームは、俺が想像していたよりも設備が充実していた。

 

「こういう部屋は普通、好成績を収めたチームだったり、大所帯のチームが使用するんじゃないのか?」

「トレーナーさんの功績を考慮すれば、当然の待遇です。こちらが部屋の鍵と合鍵になります」

「…………どうも」

 

 俺は駿川から鍵を受け取る。

 

 さらに連れ回されること数分、再び本校舎のエントランスを経由して俺は食堂に案内された。

 

「食堂は主に在籍する生徒達が利用しますが、職員の利用も許可されています。ぜひ足を運んで下さいね♪」

 

 何でも、トレセン学園の食堂で提供されるメニューは全て無料だという。とんでもないな、中央。

 

 ここからは本格的に、ウマ娘達が使用するトレーニング施設の説明となって。

 

「プールやトレーニングジム、ダンススタジオ、体育館を使用する際は、事前に申告が必要となります。こちらの使用申告書に必要事項を記入して提出して下さい」

「他のチームと使用したい時間が重なった場合はどうなる?」

「そのような場合は基本的に、レースで好成績を収めるチームが優先されます」

「なるほど」

 

 完全な実力至上主義か。まぁ、当然だろう。

 

 そして俺は、ウマ娘達のトレーニングにおいて最重要と言っても過言ではない、トラックについての説明を受けた。

 

 実際に足を運び、場所を確認していく。

 

「先日の選抜レースや新歓レースといった催しに使用されることもありますが、基本的にはウマ娘達のトレーニング場として解放されています」

 

 先日選抜レースが開催されたトラックには、芝やダートはもちろんのこと、トレーニング用の坂路やウッドチップコースも整備されている。

 

「照明設備も充実しているため、寮の門限までは、夜間でも使用可能です」

 

 その他トレーナーには関係無いが、一般的な学校と同様に生徒達が勉学に励む教室や、理事長がプライベートで管理するにんじん大農園があったりする。

 

「施設の説明に関しては以上になります。不明瞭な点がございましたら、いつでも聞いてくださいね」

「ありがとう。駿川さん」

「そんなに畏まらず、私のことはどうか"たづな"と呼んで下さい♪」

「はい……えっと、たづなさん」

 

 俺は駿川……たづなさんに、有無を言わせない圧をかけられた。断ったら後が怖そうなので、大人しく従っておく。

 

「トレーナーさん。この後、少し時間はありますか?」

「時間? 特に用事はないが……」

 

 昨日の無茶な自主トレの影響で、怪我が完治までの一週間ダイヤはトレーニングが行えない。

 

 そのため今の時間はフリーだ。しばらくしたら、様々な仕事が舞い込んでくるだろうが。

 

「でしたら少し、私とお話ししませんか? 個人的に、少し興味がありまして……」

「面白い話なんて出来ないですよ」

「構いません。せっかくなので、ゆっくりと腰を落ち着ける場所で話しませんか?」

「なら、食堂とか?」

「はい♪」

 

 生徒達は午前の授業を受けている時間帯だ。静かで邪魔も入らないだろう。

 

 俺はたづなさんと食堂に入り、窓際の席に腰を下ろす。

 

「……」

 

 しかし、今は授業中のはずだよな。

 

 何か、バケモノみたいな量の飯を食っている芦毛の生徒がいるんだが。

 

「せっかくなので、何か飲み物でも頼みますか?」

「えっと、じゃあコーヒーで」

「分かりました。少し待っていて下さい」

 

 しばらく待っていると、たづなさんがトレーに俺が注文したコーヒーと、カフェオレを乗せて戻ってきた。

 

「お待たせしました」

「どうも」

 

 ちなみに俺は苦党だが、コーヒーは砂糖を入れないと飲めない。

 

 卓上に常備された角砂糖を摘む。

 

 チャポン、チャポン、チャポン、チャポン……。

 

「……」

「何か?」

「い、いえ!」

 

 これくらいで良いか。

 

 俺はコーヒーを一口啜る。

 

 苦い。

 

 チャポン、チャポン、チャポン、チャポン……。

 

「……うん、美味い」

 

 完璧な調整が出来た。俺は満足する。

 

「それで、話って?」

「……あ、ああ! すみません、えっとですね」

 

 たづなさんはどこか慌てた様子で、カフェオレを一口啜る。

 

 たづなさんの顔つきが真剣なものに変化した。

 

「先日は、大変失礼致しました」

 

 先日……ああ。突然俺の家にやってきて玄関をぶっ壊した挙句、二年間かけて固めた決意を台無しにしたことか。

 

「先程理事長が仰っていた通り、私達はURAから強い圧力がかけられていました。強引な手段を取ってしまったことを、今一度謝罪させて下さい」

 

 理事長もたづなさんも、色々なものを抱えながら生きているのだなと、改めて実感する。

 

「別に、気にしていません」

 

 俺の目には、理事長やたづなさんが"できる大人"に映った。

 

 辛い現実から逃げ出した、子供のような自分とは違う。

 

 理不尽を受け入れ懸命に生きるその姿に俺は、羨望のような感情を抱いていた。

 

「……正直。私は理事長とは異なり、あなたがトレーナーに復帰する可能性は絶望的だと考えていました」

「……」

「差し支えなければ、あなたが私達の要求を受け入れた理由を……トレーナーとして復帰した理由をうかがってもよろしいでしょうか?」

 

 トレーナーに復帰した理由、か。

 

 つい先日まで、トレーナーには絶対に復帰しないと断言していたんだ。突然の手のひら返しに、疑問を抱く気持ちは十分に理解できる。

 

「……特に意味なんて無いですよ」

 

 強いて言うなら、気まぐれだろうか。

 

「気が付いたら、俺はダイヤに対してトレーナーになると言っていました」

 

 我ながら、芯のない半端な人間だなと自嘲する。

 

 一般的にそのような人間を、()という。

 

「みんな、買い被りすぎなんですよ。URAも、理事長も……チーフも」

 

 周囲の人間は、俺を天才だなどとおだてる。

 

 誤解だ。

 

 俺は、ただの落ちこぼれなんだ。

 

 

 

 生涯でたった一人の担当ウマ娘を、俺は壊してしまったのだから。

 

 

 

「私はそうは思いません」

 

 俺の言葉を受けて、たづなさんは強い口調で否定した。

 

「数年前まで、私達の業界は衰退気味でした。ですが、一人のウマ娘の登場によって世界中から注目を集め、立て直しに成功したんです」

 

 たづなさんが言う通り、ウマ娘達に対する世間の注目はここ数年右肩上がりだ。

 

「今の業界がかつて無いほど脚光を浴びているのは、あなたとあなたのウマ娘のおかげといっても過言ではありません」

「……知らないな、そんなウマ娘は」

 

 俺はそんな立派なウマ娘なんて記憶に無い。

 

 模擬レースは毎回びりっけつで、トレーニング後に毎日泣きじゃくっている女の子の姿しか、俺は知らない。

 

「……話が逸れたな。まぁ、あれだ。それらしい理由を付けるなら、選抜レースだろう」

「ご覧になっていたんですね」

「まぁ、一応」

 

 全力でターフを駆けるダイヤを見た。

 

 たとえ振るわない結果であったとしても。

 

 彼女の走りに、俺はどうしようもなく魅了されてしまった……の、かもしれない。

 

「あとは……そうだな。ダイヤに昨日みたいな無茶を繰り返されたら、俺の心臓が持たない」

「なるほど。つまり、サトノさんが燻っていたトレーナーさんの心に再び熱意を灯したんですね♪」

「……そういうことになる、かもしれないな」

「素敵だと思います。甘酸っぱい青春(アオハル)ですね!」

「俺……二十六ですよ」

 

 青春って年齢じゃないだろ。

 

 こんな返答で良かったのかは分からない。でもまぁ見た感じ、たづなさんは満足してくれたようだ。

 

 俺達はその後しばらく、特に中身の無い雑談に耽った。

 

「──今日は付き合って下さって、本当にありがとうございました」

「いえ、こちらこそ」

「それではこれで失礼します。よろしければまた、お話しして下さいね♪」

 

 たづなさんと別れた俺は、この後の暇な時間をどう潰そうかと頭を悩ませる。

 

 とりあえず、コーヒーをおかわりしてからゆっくりと考えるとしよう。



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07:二人三脚

 一週間後。

 

 午後の授業を終えたダイヤを連れて、俺は別棟にあるトレーナールーム──部室に向かっていた。

 

「トレセン学園の授業って、どんな内容なんだ?」

「午前中は普通の座学が多いです。ウマ娘ならではの内容もあります。午後はウイニングライブ等の声楽や、ダンスレッスンですね」

「とても大変そうだな」

 

 レースに青春の大部分を捧げるウマ娘達だが、彼女達はれっきとした学生だ。一般人同様に必要な教養を身に付ける義務がある。

 

 一般教養以外にも、アスリートとして履修すべき専門科目が複数あるはずだ。

 

 加えて、レース後に開催されるウイニングライブの練習も欠かせない。ウマチューブでウイニングライブの動画を視聴したが、やはり歌もダンスも一流だった。

 

 "ウイニングライブを疎かにする者は学園の恥"という意見が、トレセン学園共通の認識だそうだ。

 

 確かにウマチューブに挙げられた動画の中には、天を仰ぎながら見事な棒立ちを決め込む者がいたり、掟破りのブレイクダンスを披露する者もいた。それはそれで、多くの再生回数と高評価を得ていたのだが……。

 

「私、ダンスがあまり得意ではないんですよね……」

「練習すればすぐに上手くなるさ」

 

 コツコツ練習を重ねれば、ダイヤなら卒なくこなすことが出来るようになるはずだ。

 

 俺は移動中、ダイヤに対して当たり障りのない話題を振った。

 

 放課後になると、トレーナーや生徒達の活動が活発になる。

 

 トレーニングというよりも、感覚的には部活動に近いのかもしれない。

 

「着いたぞ」

 

 施錠していた扉を開けて、俺達は部室に入る。

 

「わぁ……思っていたよりもずっと広いんですね!」

 

 初めて踏み入れた部室に、ダイヤは目を輝かせた。

 

 俺は改めて、その充実した数々の設備を見渡した。

 

 広々とした空間の正面奥側に堂々と配置された、トレーナー用の作業デスク。

 

 チームの作戦会議で重宝しそうな長机とホワイトボード。

 

 部屋の隅にずらりと並んだ空の本棚。

 

 その他、二人程度が余裕を持って入れそうな更衣室。簡易的なシャワールームやトイレも完備されていた。

 

 さすがトレセン学園……恐るべし。

 

「そこに更衣室があるから、ジャージに着替えてこい。内側から鍵をかけられるから安心しろ」

「そんな心配していませんから」

 

 ダイヤがジャージに着替えている途中、俺は童心に帰ったように部室を物色した。

 

 別に、必要であれば私物を置いても良いってたづなさんが言っていたな。

 

 決めた。ポケットマネーでコーヒーメーカーを導入しよう。

 

 空の本棚はそうだな、適当な書類で埋めておくか。そういえば、俺の実家に参考になりそうな本が残っていたな。今度取りに帰るとしよう。

 

「お待たせしました」

 

 しばらくして、ジャージに着替えたダイヤが更衣室から出てきた。運動しやすいようにか、鹿毛の長髪をポニーテールに結っていた。

 

 女の子っていうのは、髪型ひとつで雰囲気が大きく変わるものなんだな。

 

「今後の活動について、色々と話したいことがある。トレーニングはその後だ。とりあえず、そこの席に座ってくれ」

「はい」

 

 ダイヤを椅子に着席させて、俺はホワイトボードの前に立つ。

 

「具体的な話に入る前に、俺達のチームについてなんだが」

 

 チーム名も決めていないし、メンバーもダイヤ一人だ。こんなんで本当にチームを名乗っていいのか、疑問ではあるが……。

 

「現状、このチームは俺とダイヤの二人三脚だ」

「素敵だと思います! ……あれ? でもそれだと、チーム登録に必要な条件を満たしていないような?」

「そのことについてなんだが……」

 

 俺は簡単に、チーム登録が許可された理由を説明した。

 

 言ってしまえば、これは理事長やURAからの完全なエコ贔屓だ。

 

 レースの実績があればこんな横暴もまかり通るかもしれないが、今の俺達は完全に無名のチーム。

 

 今後、俺達は学園内で注意して立ち回る必要がある。

 

 例えば、チーム登録をするため必死にメンバーをかき集めた者達からしたら、俺達の存在が彼らの目にどう映るだろう。

 

「……つまり、内情は公にするな。ということですか?」

「そうだ。物分かりが良くて助かる」

 

 所属するチームについて聞かれたら、適当にはぐらかして欲しい。俺はそうダイヤに伝えた。

 

「まだチーム名も決まっていない。加えてまだ誰からも認知されていないはずだから、誤魔化しやすいだろう」

「分かりました」

 

 可能な限り、トラブルに巻き込まれるのは避けたい。

 

 ダイヤがレースで成績を残すまでの辛抱だ。

 

「よし、じゃあ今日の本題。今後の目標について話していくぞ」

「はい!」

 

 俺はホワイトボードにマーカーを走らせる。

 

「俺達の当面の目標は、二ヶ月半後のメイクデビューだ」

 

 ジュニア級六月後半に開催される、ウマ娘達の新バ戦。

 

「場所は()()()()()()、芝二千メートルの右/内回りのコースだ。有名な重賞として挙げられるのは大阪杯、ローズS(ステークス)、チャレンジカップだな」

 

 ホワイトボード上に、俺は阪神レース場の簡易的な見取り図を描いていく。

 

「レース場の詳しい解説は後日みっちり行うから、今日はざっくりとした概要だ」

 

 今日からメイクデビューを攻略するためのトレーニングを行うが、ダイヤにはまず、今後のトレーニングの意図を理解してもらわなければならない。

 

「特徴的なのが、スタート直後とゴール直前にある急勾配の坂路。第三、第四コーナーがゆるやかな下り坂で、直線に近い形状になっていることだ」

 

 それ以外は基本的に、起伏の少ない平坦なコースになっている。

 

「最終コーナーからの直線が短く、逃げや先行の脚質が有利というのが一般的な意見だ」

「え、じゃ、じゃあ……」

「少し、厳しい戦いになる」

 

 ダイヤは先日の選抜レースで、現状では先行の脚質適性が低いことを痛感しただろう。

 

 今のダイヤは、レース終盤の末脚を活かす"差し"の脚質に適性がある。

 

「でも、新バ戦……メイクデビューに関していえば、俺は脚質だけでは優劣の差が出ないと踏んでいる」

 

 メイクデビューや未勝利戦は、脚質云々よりもウマ娘個人の能力差で勝敗が決することが多い。

 

「コースの特徴を細かく把握し、それに合わせた戦略を組む。これから二ヶ月半のトレーニングで、ダイヤの身体を最適化させる」

 

 俺の“体質"による分析では、二ヶ月半の徹底したトレーニングで十分に勝利を狙えるようになるはずだ。

 

「厳しいトレーニングになるが……ついてこられるな?」

 

 俺の仕事は、ダイヤに一着を勝ち取るための力を授けること。

 

 彼女が根を上げたらそれまでだ。

 

「はい!」

 

 しかし、ダイヤは持ち前の根性で難なく乗り越えてくれると、俺は信じている。

 

「あぁ、あと……。ダイヤが俺をトレーナーとして逆スカウトした以上、絶対に守ってもらわないといけないことがある」

「はい、なんでしょうか?」

 

 俺がダイヤを育成するに当たって、基本的には二人三脚……お互いに意見を出し合いながらトレーニングメニューを考えていくつもりだ。

 

 しかし、俺にも絶対に譲れない教育方針がある。

 

 ダイヤには、最初に説明しておく必要があった。

 

 

 

 

 

「いかなる理由があろうとも……()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 トレセン学園は、生徒の自主性を尊重する。そのため、生徒達の自主トレーニング用に常にトラックが開放されていた。

 

「これだけは約束して欲しい。もし守れないようであれば……俺はお前のトレーナーを辞める」

「……っ」

 

 言葉だけを聞くと、自由を束縛されて息苦しさを感じてしまう条件かもしれない。

 

 それでも、聡明な君のことだ。

 

 きっと理解を示してくれると、俺は信じている。

 

「はい。分かりました」

 

 一見過剰で異常、時代遅れとも言える俺の管理主義的な教育方針に対して、ダイヤは嫌な顔一つすることなく、柔和な笑みで受け入れてくれた。

 

「ありがとう」

 

 その返事から、俺に対する信頼の高さが窺える。

 

 ダイヤの期待に応えるために、俺も全力を尽くそう。

 

 

 

***

 

 

 

 ダイヤを連れて、俺はトラックにやってきた。トレーニングに励むウマ娘とトレーナーの姿が、ちらほらと見える。

 

「トレーニングを始める前に、準備体操と柔軟は入念に行う」

 

 十分に身体が解れていない状態でトレーニングを行えば、怪我を引き起こす原因になる。

 

 一通り準備運動を終え、柔軟に移る。

 

 柔軟、いわゆるストレッチには静的と動的の二種類があり、目的に応じて使い分ける必要がある。

 

 特に激しい運動を行う前は、動きのある動的ストレッチが有効だ。逆に静的トレーニングは運動後のクールダウンとして行うと、最大限の効果を得ることが出来る。

 

 俺はダイヤを芝に座らせる。手本を見せるように、俺はダイヤの前方に腰を下ろす。

 

 全身の筋肉を柔らかくすることは勿論、ウマ娘の場合は特に、酷使する下半身を重点的に行う。

 

 ウマ娘が人間離れした速度を出力する推進力の源──トモの柔軟をメインに、時間をかけて柔軟メニューをこなしていく。

 

「……よし、これくらいで良いだろう」

 

 準備運動と柔軟を終え、俺はダイヤをターフに立たせる。ダイヤは、今すぐにでも走りたそうにうずうずしていた。

 

「最初はウォーミングアップだ。まずは二千メートルをニ周。最初の一周は身体を慣らす程度の速度で、残りの一周は四割程度の力で走るんだ。くれぐれも、全力を出さないように注意しろ」

「はい!」

 

 俺が指示を出した瞬間、ダイヤはあっという間に走り去ってしまう。

 

 本当に走るのが好きなんだな。

 

 ダイヤがコースを走っている内に、俺はこれから行うトレーニングメニューについて今一度確認した。

 

 今日のトレーニングには、ダイヤの身体能力を大方把握するためのメニューを多く組み込んだ。

 

 現時点のダイヤの能力値と、目標とする能力水準との乖離具合を調べるためだ。

 

 加えて、これは俺自身のリハビリのようなメニューでもある。

 

 俺は二年間、トレーナーとしての活動を一切行ってこなかった。故に二年前と比較して、確実に腕が落ちているはずだ。

 

 正直な話、俺の"体質"を用いればタイムの計測など必要ない。俺はすでに、前述した内容の乖離具合を数値に換算して把握している。

 

 それでもタイム計測を実施する理由は二つ。

 

 一つ、口頭で伝えただけではダイヤが納得しないと判断したから。

 

 二つ、俺の"体質"が導き出した結論と実際の結果に、どれほどの差異が生じるのかを把握するため。

 

 この測定結果をもとに、今後のトレーニングスケジュールを調整していく。

 

「ただいま戻りました!」

 

 ちょうどダイヤがウォーミングアップを終えて、俺の元に戻ってきた。

 

「足の調子はどうだ?」

「はい、もうすっかり治っています。兄さまのおかげです!」

「それは良かった」

 

 俺の予想通り、ダイヤが負った捻挫は一週間で完治していた。

 

「よし、次は今のコースでタイムを測定する。この後のトレーニングのことなんて考えず、持てる限りの全力で走れ」

「はい、兄さま!」

 

 阪神レース場で開催されるメイクデビューにおける基準タイムは、二分四秒五。

 

 他のウマ娘と競ることでタイムが縮まることは良くあるが、今回知りたいのは純粋なダイヤの能力だ。

 

 スピード、スタミナ、パワー、根性、賢さなど。さまざま要素を総合して反映されたタイムが、今の彼女の全て。

 

「準備は良いか?」

「はい。いつでも」

 

 集中力を研ぎ澄ませるダイヤの邪魔にならないよう、俺は短く言葉を発した。

 

 俺はストップウォッチのボタンに指をかける。

 

「それじゃあ行くぞ。用意……スタート」

「──ッ!」

 

 俺の合図と同時に、ダイヤが地面を蹴ってスタートを切った。

 

 トレセン学園のターフの内回りは、終始起伏の少ない道が続く。坂路は外回りコースに用意されているため、今回の測定結果がメイクデビューの結果に直結するわけではない。

 

 俺は時折手元のストップウォッチのタイムを確認しながら、ダイヤの走る様子を観察する。

 

(メイクデビューで一着になるためには、単純に計算して一ハロンあたり十二秒四のタイムを継続する必要がある)

 

 ハロンとはイギリスで使用される距離の単位だ。一ハロン二百メートル。二百メートルごとにハロン棒という標識が設置されており、進行するレースのペースを判断する基準として用いられている。

 

 時速六十キロを軽く超える速度で走るウマ娘だが、当然長時間トップスピードを維持することは出来ない。逃げウマの場合はともかく、差しや追い込みを得意とするウマ娘の場合は尚更だ。

 

 この場合において、ハロンタイムはあくまでも基準である。

 

(一ハロンあたり十三秒一。メイクデビュー前にしては、悪くないタイムだ)

 

 向正面へ差しかかるダイヤの様子を確認したところ、後半へ向けて余力を残しながら走っているような印象を受けた。

 

(選抜レースの結果を受けて、ダイヤは”差し”の脚質を意識している)

 

 となると重要視するべきは、レースで残り六百メートル……上がり三ハロンのタイムだ。

 

 ハイペース、スローペースといったレース展開で左右されることがあるが、一般的に上がり三ハロンを三十三秒台で走破できれば優秀と言われている。

 

 当然レース場の種類やバ場状態、走行距離に影響される数字であるため、あくまでも基準である。

 

(っと、そろそろ残り六百メートルの位置に来るな)

 

 色々と考えているうちに、ダイヤが第三コーナーに差し掛かる。六と書かれたハロン棒の横を通過した。

 

 最終コーナーを抜け、残り四百メートル。最後の直線へと突入する。

 

 全身全霊をかけたダイヤの末脚が、爆発的な速度を生み出す。

 

「はぁあああああああッ!!」

 

 歯を食いしばりながら、ダイヤが地を低く翔けるように走る。

 

 普段の温厚な様子とは似ても似つかない、レースという舞台に向かい合う真剣な表情で。

 

「っ」

 

 二千メートルを走破した。

 

 俺は精神を極限まで研ぎ澄ませ、ダイヤがゴールする瞬間にストップウォッチを切る。

 

 タイムを確認する。

 

「……ふむ」

 

 俺はストップウォッチに表示されたタイムを、ノートに記録する。同時に前半三ハロン、上がり三ハロンのタイムや今後の課題や改善点を挙げていった。

 

「お疲れさん」

 

 俺はターフの上で倒れ伏すダイヤに、ペットボトルとタオルを差し出した。

 

「に、兄さま……それ、で……タイムは…………?」

「二分七秒一。俺の予想を上回るタイムだった」

「ほ、本当ですか……っ!」

「ああ。上出来だ」

 

 俺の”体質”が導き出した結論よりも、一秒以上早いタイムが出た。

 

 本番とは異なる環境で生まれた結果だが、メイクデビュー一着に向けてかなり希望が見えるタイムだった。

 

 この一本のタイムアタックで、俺が多くの情報を収穫することが出来た。

 

「はぁ、はぁ…………ふぅ」

 

 文字通り全力を出し尽くしたダイヤだが、俺の予想以上に息の入りが良い。

 

 心肺能力が優れているのだろう。すでに起き上がれるまでに回復している。

 

「十分に休憩を挟んだら、今後のトレーニング方針について話していく」

「分かりました」

 

 俺は自身の汗をタオルで拭って、水分を口に含む。

 

(当面の課題は……フォームの改善だな)

 

 ダイヤの走りを一通り確認した俺が最初に着目したのは、彼女の走行フォームだ。

 

 今のダイヤの走りは、彼女の優れた身体能力に物を言わせているような印象を受ける。簡単に言うと、足への負担が極端に大きい走り方だった。

 

 あの爆発的な推進力を、現状では足だけで生み出している。これでは身体が壊れるのは時間の問題だ。

 

 身体の外側へ逃げる力を抑え、全身の筋肉を駆使して効率的に前へと進めるように。

 

 身体に掛かる負担を限界まで減らし、何よりも故障しないような走り方を目指して。

 

 二ヶ月という時間は長いようでとても短い。

 

 フォームの改善と共にフィジカルを鍛えつつ、スタミナを付けて、戦略を学習させる。

 

 相当ハードなスケジュールになるが、ダイヤなら弱音を吐かずについてきてくれるだろう。

 

 突き放すようで酷だが、根を上げればその程度の原石だったということだ。

 

「……あっ」

 

 俺がトレーニングメニューを練っていると、休憩していたダイヤが明後日の方向を向いて小さく声をこぼした。

 

「どうした?」

「あ、えっと。向こうにキタちゃ……友達の姿が見えたので」

 

 俺はダイヤが指差した方向へ視線を向ける。

 

 トラックの外縁を取り囲む土手の舗装路を、複数人の集団でランニングするウマ娘達の姿があった。

 

「キタサンブラック、か」

 

 彼女は確か、選抜レース後に俺に声をかけてきたウマ娘だ。

 

「え、キタちゃんのことをご存知なんですか?」

「あの子も選抜レースに出ていただろう? 印象に残っているんだ」

「……そうですか」

 

 そして、キタサンブラックの周りにいるウマ娘達についても心当たりがある。

 

 メイクデビューのウイニングライブで、天を仰ぐように棒立ちを決め込んだ黒鹿毛のウマ娘──スペシャルウィーク。

 

 同じくウイニングライブで、突如ブレイクダンスを披露した芦毛のウマ娘──ゴールドシップ。

 

 無敗のクラシック三冠を目前に、怪我で菊花賞の出走を断念した鹿毛のウマ娘──トウカイテイオー。

 

 他を圧倒する天才的な逃げ足で、”異次元の逃亡者”の異名を冠した鹿毛のウマ娘──サイレンススズカ。

 

 彼女達はトレセン学園において、チーム・リギルと肩を並べる実力派集団──チーム・スピカ。

 

「キタサンブラックは、チーム・スピカに入ったのか?」

「はい。キタちゃんはすごいです。とっても……」

 

 キタサンブラック。

 

 おそらく今後、幾度となくダイヤのライバルとして立ちはだかるウマ娘に成長するだろう。

 

「兄さま」

「ああ」

「私、キタちゃんとはライバルなんです」

 

 俺は、穏やかな瞳の奥底で滾るような闘志を燃やすダイヤを見た。

 

「キタちゃんにだけは絶対に、負けたく無いんです」

 

 気合十二分。

 

 担当ウマ娘の熱い要望に応えるのが、担当トレーナーの──俺の仕事だ。



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08:攻略メイクデビュー





「……う〜ん」

「ミライ、どうしたんだ?」

 

 俺は、なんだか納得いかない表情で首を捻るミライに声をかけた。

 

「なんかさー。今、走っててあんまり気持ちよくないなーって」

「……えっと。それは模擬レースのせいで?」

「それもあるけど! んん〜、何て言うのかなぁ」

 

 ミライは自身の足に触れながら、思考にモヤがかかる原因を口にする。

 

「もっとこう、バビューンッて走りたいのに。今の走り方は、ンン〜……ズンッ! って感じ」

「……んぉう?」

 

 ミライは自分の考えを他人に説明するの壊滅的に下手だ。現に、俺はミライの言葉を何一つ理解出来ていない。

 

「もぉ! 何でわかってくれないの! トレーナーでしょ!?」

「そんな無茶な……」

 

 良く言えば感覚派。

 

 悪く言えば口下手。

 

「トレーナーなら、私に少し触れば分かるんでしょ! ほら、触ってよ! ん!」

 

 チーム・アルデバランに所属するウマ娘の中で唯一、俺はミライだけに自身の特異な"体質"のことを打ち明けていた。

 

「……はいはい」

 

 恥じらう様子は一切無い。ミライは不機嫌そうにヘソを曲げながら、シミ一つない綺麗なおみ足を俺に晒した。

 

「どう?」

「特に問題は無いよ。身体は健康そのものだ。今の走り方も、ミライに合っているはずだよ」

「……そっか。トレーナーが言うなら、大丈夫だよね」

 

 俺の言葉を聞いて、ミライは現状を素直に受け入れた。

 

「すまない。ミライが現状に不満を抱いてしまう原因は、指導力不足な俺にあるんだ」

「謝らないでよトレーナー! そんなこと言ったら、いっつも私のために頑張ってくれるトレーナーに毎回最下位をプレゼントする私はどうなるの!?」

 

 チーム・アルデバランの模擬レースで、ミライは確かに必ず最下位の称号を俺にプレゼントしてくれる。

 

「俺は順位よりも、一生懸命走るミライの姿を見るのが好きだな」

「え"っ"!?」

 

 俺の告白じみた言葉に、ミライの耳がピンと張る。

 

「そ、そんな……私が好き、だなんて…………」

 

 ミライはもじもじと身体をよじり、勢いのままに尻尾を荒ぶらせていた。

 

「でも私とトレーナーは、そういう関係じゃ……ないし…………もし、そういう関係になることで足が速くなるなら、まぁ、別に良いかなぁっていうか」

 

 信頼されているんだなと、俺は自分の胸が熱くなるのを感じた。

 

「あぁ……なんか、恥ずかしくて身体熱くなってきちゃった! 私ちょっと走ってくるから、じゃあね!」

「あ、おい……」

 

 俺の返事を待たず、ミライはその場所から走り去ってしまう。

 

「……」

 

 俺はターフを楽しそうに走るミライを遠目に見守りながら、今日の模擬レースの結果をノートに記録した。

 

 

 

──五月○日、模擬レース最下位。

 

 

 

 俺はミライの歩みを振り返るように、ノートを遡る。

 

 二月○日、模擬レース最下位。

 

 二月○日、模擬レース最下位。

 

 二月○日、模擬レース最下位。

 

 三月○日、模擬レース最下位。

 

 三月○日、模擬レース最下位。

 

 三月○日、模擬レース最下位。

 

 三月○日、模擬レース最下位。

 

 四月○日、模擬レース最下位。

 

 四月○日、模擬レース最下位。

 

 四月○日、模擬レース最下位。

 

 四月○日、模擬レース最下位。

 

 四月○日、模擬レース最下位。

 

 五月○日、模擬レース最下位。

 

 五月○日、模擬レース最下位。

 

 五月○日、模擬レース最下位。

 

「……すまない」

 

 誰もが目を背けたくなる悲惨な戦績。

 

 それでもなお、ミライは輝かしい笑顔でターフを駆ける。

 

 この戦績は、君のせいじゃない。

 

 君は何も悪くない。

 

 これは、君を担当するトレーナーの責任だ。

 

 

 

 

 

 君の資質に応えられない、()()な俺の責任だ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「──ッ!?」

 

 俺は今日も、悪夢から逃れるように飛び起きる。

 

 最近、夢の中であいつの顔がはっきりと映るようになった。

 

 俺の中で自虐的な被害妄想が膨れ上がる。

 

 現実の世界にまで、夢幻の悪魔が侵食しようとしていた。

 

「かはぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁ……ッ」

 

 激しい動悸が収まるまで、俺はベッドの上で静かに目を瞑る。

 

「ふぅ…………ふぅ………………」

 

 やがて思考がクリアになって、俺は平常心を取り戻すことが出来た。

 

 最近、人間の()である俺は再びウマ娘のトレーナーになった。

 

 少しは過去の自分から成長出来たと思っていたが、残念ながらそうではないらしい。

 

 後ろめたい過去を清算するはずだったのに。

 

 

 

 俺はどうやら。

 

 

 

 古傷に自ら手を突っ込んで、ぐちゃぐちゃに掻き回しているようだ。

 

 

 

***

 

 

 

 昨日のタイム計測を経て、翌日からのトレーニングはウマ娘特有の爆発的な速度に耐えるための身体づくりに重きを置くことにした。

 

 トモが生み出す人間離れした推進力によって、ウマ娘が自身の身体を壊すことは珍しい話ではない。

 

 今のダイヤの身体は、時速六十キロオーバーで走行するアルミホイルの車と言っていい。

 

 今後は下半身の筋肉を重点的に、かつ、全身の筋肉が偏らないようバランス良く鍛えていく。

 

「スクワット二十回、あと二セットだ」

「は、はい……!」

 

 本当はトレーニングジムを利用したかったが、事前申告は前日までに行わなければならない。

 

 まぁ、いきなりバーベルやダンベルを持ち上げるのも大変だろう。

 

 今日は野外で出来る簡単な基礎トレーニングをメニューに組み込んだ。

 

「少し猫背になっているぞ。かかとは浮かせるな。鍛える筋肉を意識しろ」

「は、はひぃ〜……」

 

 生まれたての子鹿のようにプルプルと震えながらも、ダイヤは俺の指示通り懸命にスクワットを続ける。

 

「ほら、根性見せろ」

「こ……根、性ぉおお〜っ!」

 

 スクワットの他には、プッシュアップやプランク、レッグレイズなど。ダイヤの身体が耐えられる限界ギリギリまで、俺は彼女を徹底的に追い込む。

 

「む、むりぃ〜……」

「はい次」

「ひぃぃ……っ」

 

 明日が休日で良かったな。多分動けなくなるぞ。ま、トレーニングは続けるけどな。

 

「……よし、十分休憩だ。お疲れさん」

 

 一通りメニューをこなしたダイヤは、言葉を返す気力すら振り絞ってしまったようだ。そのまま芝に突っ伏してしまう。

 

 さて。ダイヤが休憩している間に、俺は次のトレーニングの準備に取り掛かる。

 

 俺は持ってきたボストンバックの中から、蹄鉄付きのシューズを取り出した。ダイヤのトレーニング用に特注したシューズである。

 

「休憩が終わったらこの靴に履き替えてくれ」

「分かりました……重いですね、この靴」

「蹄鉄の重量を少しいじった。片方十キロだ」

 

 俺が用意した靴に、ダイヤが足を入れる。明らかに動きにくそうだ。

 

「よし。じゃあそこに姿勢をまっすぐにして立つんだ」

「はい」

「その姿勢でトモを直角に上げろ。膝下を前に出さず、つま先は地面と垂直にして維持するんだ」

 

 ダイヤの前で、俺は指示した姿勢を実際に行なってみせる。

 

「こうですか?」

「そうだ。その姿勢を……そうだな、三十秒キープしろ。終わったら反対だ」

 

 姿勢が崩れそうになったら、俺が背後に回ってフォローする。

 

「次はそのままの姿勢で、足だけを上下させるんだ。一定のペースで三十回だ。二セットな」

「に、兄さまこれっ、キツイです!」

「走りに耐える身体作りだ、我慢しろ」

「うぅっ……!!」

 

 自慢のスタミナと根性を存分に発揮し、ダイヤは健気な姿勢で俺の指示に従った。

 

「二十七、二十八、二十九、三……十っ!!」

「はい、反対」

「お、鬼ぃさま!!」

 

 上手いこと言ったつもりか。三十点だ。

 

「二十六、二十七、二十……八……二十きゅうっ……………さん、じゅぅ……ふはぁっ!」

「良い根性だ」

 

 十キロの蹄鉄をつけてよく頑張った。及第点だ。この調子で、どんどん蹄鉄を重くしていこう。

 

「あのっ、このトレーニング……何を鍛えているんですかっ……?」

「腸腰筋……いわゆるインナーマッスルってやつだ。ウマ娘達が用いる主な走法については勉強しているか?」

「えっと、”ストライド走法”と“ピッチ走法”ですか?」

「正解だ」

 

 ウマ娘の走り方は大きく二つ。

 

 体格に対して歩幅を大きく取る”ストライド走法”。

 

 歩幅を小さくし、足の回転数を上げる”ピッチ走法”。

 

「今鍛えている筋肉は、走行中の体幹を安定させつつ、力強いストライドを生み出す原動力になるんだ」

「そうなんですね。初めて知りました!」

 

 腸腰筋を鍛える恩恵は他にもあるが、詰め込むように知識を押し付けては意味はない。その説明は後日に回すことにした。

 

「……しかし、ダイヤは俺の想像以上に息の入りが良いな」

 

 さっきまで俺の前にぶっ倒れていたはずなのに、気がついたら笑顔を浮かべてケロッとしている。

 

「……? あ、確かに! で、でもっ! 身体は限界なんですけどね!!」

 

 彼女のスタミナには光るものがある。伸ばせば大きな武器になるだろう。

 

「よし。じゃあ次は、今の姿勢でジャンプしながら交互に足を入れ替えろ」

「今の私の話、聞いてましたかっ!?」

 

 ついでに根性も鍛えることにしよう。歯を食いしばれ。レースは踏ん張りが大事だぞ、ダイヤ。

 

 

 

***

 

 

 

 基礎トレーニングを終えた後は必ず、入念にストレッチを行う。

 

 翌日の筋肉痛は免れないだろう。しかし、少しでも身体から疲労を抜いておかなければ、明日のトレーニングに支障をきたしてしまう。

 

「あの、兄さま。今日は、その……走らないんですか」

「ああ。二週間はそのつもりだ」

「え”」

 

 平然と返答した俺の言葉に、ダイヤが分かりやすく青ざめた。

 

「そ、そんなぁ! いくらなんでも酷すぎます!」

 

 ウマ娘達にとって走ることは、人間の三大欲求と同列に語られることがある。

 

 受け取り方によっては拷問とも言えるようなトレーニングメニューに、さすがにダイヤも我慢出来なかったのだろう。

 

「これもトレーニングの一環なんだ。理解してくれ」

「分かっています。分かっていますけどぉ……っ!」

 

 確かに、ダイヤの気持ちは分かる。

 

「これは、ダイヤにとって必要な期間なんだ」

 

 本当は一ヶ月程度は基礎トレーニングに集中したかったが、メイクデビューまでの時間から逆算するとそこまでの余裕はない。

 

「良いかダイヤ。俺はこの二ヶ月で君のフォームを矯正する。今のダイヤの走り方は、足に対して負担がかかり過ぎているんだ」

 

 昨日のダイヤのタイムトライアルで、俺はダイヤの走行フォームに染み付いた癖を見抜いた。

 

 もちろん俺の”体質”で、ある程度走り方に問題があることは事前に分かっていた。

 

 しかし、俺は二年間ウマ娘の育成から離れていたため、勘が戻るまで自身の”体質”をあまり信用しないようにしている。

 

 事実、昨日実際に測定したタイムと、”体質”が推定したタイムには一秒近い誤差があった。

 

「今回は、折れてくれないか?」

「……分かりました」

 

 聡明な君のことだ。そう言ってくれると信じていた。

 

「安心しろ。たとえ走れなくても、足腰立てなくなる程度にはしごくから」

「何も安心できません!」

 

 走りを禁止されることは、相当辛いことだと思う。

 

 でも、約束しよう。

 

 二週間後、君は以前よりもずっと早く……頑丈な身体で走れるようになると。

 

 

 

***

 

 

 

 翌日、基礎トレーニングで徹底的に追い込んだダイヤの身体が悲鳴をあげていた。案の定、筋肉痛に苛まれているのである。

 

 特に下半身は酷いようで、一歩を踏み出すたびに苦悶の表情を浮かべていた。

 

「……よし、その姿勢でバーベルを持ち上げてみろ」

「ふんっ、ぬぬぬぬぬぅッ!」

 

 しかし、俺はトレーニングの手を緩めたりはしない。ダイヤの身体が故障しないギリギリを見極めて、最大限の効果が得られるよう徹底的に身体作りに励む。

 

 今日の基礎トレは、筋肉痛が比較的軽度の上半身に負荷をかけるメニューを中心にしている。

 

 トレーニングジムの使用許可が降りたので、身体作りに最適な器具を用いて俺はダイヤの身体を痛めつけていた。

 

「肩甲骨を寄せて胸を張れ。反動を使うな。足裏でしっかりと地面を掴んで、背中を押すような感覚でバーベルを上げろ」

 

 俺はベンチプレス中に事故が発生しないよう補助に回りつつ、ダイヤにトレーニングのポイントを伝える。

 

「息を止めるな、肺の中の空気を吐き出しながら持ち上げるんだ。ゆっくりおろすとき、静かに息を吸う……そうだ」

 

 俺は今、ダイヤに百二十キロのバーベルを持たせている。

 

 ウマ娘は外見こそ人間の女性だが、成人男性の比にならない怪力をその身体に秘めている。

 

 正直、ダイヤにとって百二十キロはまだ余裕のある数字だろう。

 

 しかし、何事も段階を踏むことは大切だ。身体の成長と共に、徐々にバーベルの重量を上げていこう。

 

「はい、お疲れさん」

「──っぷはぁああ……っ」

 

 息も絶え絶えな様子だが、ダイヤは息の入りが良いためすぐに回復することだろう。

 

 俺はカバンからタオルとドリンクを取り出して、ダイヤに差し出した。

 

「ありがとうございます」

「少し休憩したら、今度は姿勢を変えて別の筋肉に負荷をかける」

 

 走ることにおいて、上半身の筋肉は非常に重要だ。

 

 例えば、誰もが経験的に理解しているであろう腕の振り。

 

 腕を前から後ろに振ることで、骨盤や脚を前に押し出す力が生まれる。

 

 腕を後ろから前に振ることで、地面下方向に強い力を与える。

 

 これだけでも、上半身の筋肉はより力強いなストライドを生み出すための原動力として貢献していることが分かるだろう。

 

 それ以外には、上半身が乗っかる股関節を安定させ、トモを前へ引き出す力を生み出すこと。骨盤の落ち込みを防止し、瞬発的に地面に伝える力を増幅させることなど。

 

 加えて忘れてはいけないのが、体幹の強化だ。

 

 ウマ娘のレースにおいて、選手同士の接触はどうしても生じてしまう。

 

 並走するウマ娘のパワーに押し負けず、自分の走りを継続する安定性が求められてくるのだ。

 

 ウマ娘の身体というのは神秘的で、人間よりも筋繊維の修復が異常に早い。人間では自殺行為に等しいスパンでの筋トレも、彼女達なら問題なく行える。もちろん、限度はあるが。

 

「力が入りやすい場所に足を置いて、膝を外側に捻るんだ」

「こうですか?」

「そうだ。その足幅よりも少し広い位置でバーベルを掴め。肩を前に出して、正中線上に肩甲骨がくるように意識してみろ」

 

 休憩を挟んだら、今度は腰回りの筋肉に負荷をかける。

 

「上体の前傾を保って、足を地面に押し込むように持ち上げろ。バーが膝を超えたら尻を突き出して身体を一直線にするんだ」

「はい! ん……っしょぉおおおお!!」

 

 顔を真っ赤にしながら、ダイヤは一生懸命バーベルを引き上げる。

 

 基礎トレ中心のメニューで不満はあるだろう。しかし、目の前のトレーニングに懸命に向き合う姿勢は立派だ。

 

 この調子でいけば、二週間が経つ頃には少しずつ成果が現れることだろう。

 

 

 

***

 

 

 

 オーバーワーク寸前で基礎トレを切り上げた俺は、部室で先日後回しにしていたレース場の解説を行うことにした。

 

 その名も、攻略メイクデビュー。

 

「人っていうのは、経験の無いことに対して強い不安と緊張を覚える。ウマ娘にとって人生初の公式レース、メイクデビューが良い例だ」

 

 デビュー前のウマ娘にとって、公式レースは未知の領域。初レースで極端に緊張して実力が出しきれなかった、なんていうはよく聞く話である。

 

「緊張を無くすってのは残念ながら不可能だ。場数を踏むしかない。だから、出来る限りの入念な準備をする」

 

 俺は選抜レースでダイヤの走りを見て、彼女は存外"掛かりやすい"という欠点を見抜いた。

 

 途中で先行集団がスパートをかけた意図を察知出来れば、無闇に加速せず、冷静なレース運びで一着を狙えた可能性がある。

 

「俺はこの二ヶ月間で、メイクデビューに関する情報を徹底的に叩き込ませる。レース場の特徴、出走するウマ娘の特徴、レース展開の特徴。それを踏まえた上で、ダイヤがどう立ち回るべきか」

 

 メイクデビュー前のウマ娘を担当する場合、俺は常に最悪の状況を想定する。

 

 ダイヤがレースで"掛かること"を前提に、俺は話を進めていく。

 

「メイクデビューが開催される阪神レース場。この前、俺は比較的逃げや先行の脚質が有利だと言ったな。それは何故か、覚えているか?」

「はい。えっと……最終直線が短くて、加速できる距離が少ないから。ですか?」

「そうだ。それは、コースの距離的特徴という視点から見た脚質の優劣ということを覚えておけ」

 

 後半での爆発的な加速が要求される以上、差しや追い込みといった脚質は、やはりどうしても最終直線距離の長短に左右される傾向がある。

 

「さらに、レース場の地形的特徴から差しの脚質が不利と言われる理由がもう一つある。なんだか分かるか?」

 

 ホワイトボードに描いた阪神レース場の見取り図を指しながら、俺はダイヤに問う。

 

 ダイヤはう〜んと頭を捻りながら、ぽつりと呟く。

 

「……坂路」

「正解だ。俺がこの前説明したことを、よく覚えているな」

 

──特徴的なのが、スタート直後とゴール直前にある急勾配の坂路。

 

「坂路は平坦な道と比べて、速度が落ちる傾向がある。つまり、逃げや先行のウマ娘達が序盤で速度を出し切れない……スローペースなレース展開になるんだ」

 

 そのため、レース終盤においても逃げや先行を得意とするウマ娘達に脚が残っている可能性が高く、差し切れない可能性が生じてくる。

 

「加えて第三、第四コーナーの緩やかな下り坂。この地形を利用して、序盤で温存せざるを得なかったスタミナと共に逃げ切ってくる。これを差し切るのは、相当骨が折れる」

「……聞くたびに、勝ち目が遠のいていく気がします」

「焦るな。これはあくまで、レース場の特徴が生み出す展開に基づいた一般的な傾向だ」

 

 一般的な傾向を蔑ろにするつもりは無い。しかし俺の経験上、レースに出走するウマ娘達の特徴も当然考慮するべきだと思っている。

 

「仮にダイヤが、トレーナーだったとしよう。この話を聞いて、どういう脚質のウマ娘を出走させる?」

「それはもちろん、逃げや先行に適性のあるウマ娘ですけど……あ」

 

 何かに気付いたような表情を浮かべるダイヤ。

 

「レースは一人で走る競技じゃない。相手のウマ娘がいて成立するものだ。選抜レースの時を思い出してみろ」

 

 自分以外のウマ娘と併走する感覚を、ダイヤはすでに一度味わっているはずだ。

 

「どんな感覚だった」

「とても、焦りました。ついていかなきゃ、ほかの方達よりも、前に行かなきゃって」

「その感覚を、"掛かる"って表現するんだ」

 

 周囲の存在を多く認知するほど注意が分散し、ウマ娘達に"掛かり"が生じやすくなる。

 

「逃げや先行の集団が競り合えば、その分レース展開がハイペースになる。スタミナを著しく消耗し、終盤で大きく垂れる。レース場の特徴は度外視してな」

「つ、つまり……っ!」

「そこを一気に差し切る。それが、俺達の勝ち筋だ」

 

 差しや追い込みは、逃げや先行と比較してレース展開に勝敗が左右されやすいデメリットがある。

 

 しかし、それらが立派な戦術の一つとして確立している以上、相応のメリットも存在するはずだ。

 

「俺の作戦はこうだ。レース序盤から中盤にかけては、バ群の中団から後方で自分の走りを維持。第三コーナーからの緩やかな下り坂を利用して勢いをつけ、スパートをかけて最終直線を走り抜ける」

 

 この作戦が実行できれは、ダイヤはまず負けないだろう。彼女の身体能力に依存するところも大きいが、持ち前の根性で乗り越えてくれるはずだ。

 

「以降はこの作戦をもとにトレーニングを積んでいく。その他、想定されるあらゆる状況に対する策を勉強させるから、覚悟しておいてくれ」

「はい、兄さま!」

 

 気合十分。ダイヤのやる気は絶好調だ。

 

 この調子を維持すれば、トレーニングの効果も増すことだろう。



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09:束の間の雑談

 二週間に及ぶ基礎トレーニング期間が終了したため、俺達は次のステップに移る。

 

 普段と同様に準備体操と柔軟を入念に行う。俺は基礎トレの一部を行うよう指示して、ダイヤの身体を温めさせた。

 

 そしてついに、俺はダイヤを二週間ぶりにコースの中へ入れる……その前に。

 

「今日もこの靴を履こう」

 

 基礎トレーニングでも使用した、蹄鉄の重量を調整したシューズ。俺は今日もこれをダイヤに履かせた。

 

 最初は片方十キロの蹄鉄だったが、筋肉の発達具合に応じて現在は片方十四キロとなっている。

 

「俺はこれから、ダイヤの走行フォームを矯正する」

 

 ダイヤの現状の走行フォームについて、浮き彫りになった課題を簡単に整理する。

 

 矯正すべきポイントは以下の三つ。

 

 一つ、走行中の力みが生んだ全身の硬い動き。

 

 二つ、コーナーを曲がる際に生じる軸のブレ。

 

 三つ、地面を蹴った後に背後へ流れる足。

 

 当然、一度に矯正することは不可能だ。

 

 加えて順を追わなければよりフォームが複雑なものとなってしまい、身体にかかる負担が倍増するリスクがある。

 

 俺は矯正点を一つずつ、丁寧にダイヤへ伝える。目の前の課題に向き合わせ、余計な情報に惑わされて頭がパンクすることを防ぐためだ。

 

「一度、その靴を履いた状態で千メートルを一本。全身の力を抜いて、ランニング感覚で走ってみろ」

 

 基礎トレーニングに時間を割くという体で、俺は二週間ダイヤに一切走らせることをしなかった。

 

 この千メートルで、ダイヤは身体に染み込ませてしまった"走る感覚"を簡単に取り戻すだろう。

 

 その感覚の中に、矯正の"種"を一つだけひっそりと植え付ける。

 

「準備は良いか?」

「いつでもいけます!」

 

 意気揚々と踏み出した、その一歩目。

 

「…………っ!?」

 

 ダイヤの表情が、分りやすく違和感の色に染まった。

 

 例えるなら、悠々と大地を疾走する豹が両足に枷をかけられ、自由を奪われたかのような。そんな感覚で顔を歪めた。

 

 俺の言いつけ通り、ダイヤは全身の力を抜いて千メートルを走り切った。

 

「走ってみて、どうだった?」

「……あんまり、気持ち良く無かったです。走るたびに、足に違和感を感じてしまって……」

 

 当然だ。

 

「ダイヤが今の走りで感じた違和感。これをメイクデビュー前に全て払拭する」

 

 それが、ダイヤの走行フォームの問題点なのだから。

 

「今まで気付かなかったと思うが、ダイヤは走行中、無意識に全身を力ませていたんだ」

「そう、だったんですか……」

「そのせいで身体にある筋肉の一部しか使えず、全身のしなやかなバネが活かせていない。筋肉の緊張がスタミナを奪い、やがては思考すらも侵食する。悪循環の根源だ」

 

 要約すると、ダイヤは身体の使い方が下手くそなのだ。

 

「まずは、肩の力を抜いて走る感覚を身体に叩き込む。その過程で、自然と走りが最適化されていくはずだ」

 

 俺が適宜アドバイスを送りつつ、ダイヤ本人が納得出来るまでひたすら反復練習。

 

 これが、今後のトレーニングの中心となる。

 

「焦る必要は無い。ゆっくりと深呼吸を繰り返して、まずは全身が脱力する感覚を掴むんだ」

 

 チグハグだった身体の歯車が、ガチッとはまる感覚。

 

 この感覚を得られるだけでも、彼女の走りは飛躍的に向上することだろう。

 

 

 

***

 

 

 

 トレーニング開始から約一時間。

 

「兄さま! 最初よりも力を抜いているはずなのに、身体が前に進んでいるような感じがします!」

 

 目に見えて、ダイヤの身体から不自然な力みが抜けていた。

 

 感覚を掴むまでもっと時間を要すると踏んでいたが、どうやら俺はダイヤの成長速度を見誤っていたようだ。

 

「……予想以上だ」

 

 こいつはすごい。

 

 心の中で、俺は強い手応えのようなものを感じた。

 

「よし、次のステップに進もう。次はもっと難しいぞ」

「はい、お願いします!」

 

 全身を脱力して走る感覚を得たダイヤに対して、俺が次に教えるのは。

 

「次は、身体の軸だ」

 

 走行中に乱れる上半身の矯正だ。

 

「身体の真上から、真っ直ぐな線が通っていることを意識して一本走ってみろ」

 

 これは先程の矯正よりも難しくはない。()()()()()()()改善出来るような内容である。

 

「それだけで良いんですか?」

「ああ」

 

 意識するだけで改善出来る内容。

 

 しかし、それが決して簡単だとは言っていない。

 

 俺の指示通り、ダイヤは身体の軸を意識して一本を走った。

 

 そんな彼女に、俺はアドバイスをかける。

 

「ダイヤ。()()()()()()()()()()()ぞ」

「……!」

 

 身体の軸を意識して……つまり、全身がブレないように()()()()()、ダイヤは走った。

 

「全身を脱力させつつ、絶対にブレない強固な軸を生み出す」

 

 一見矛盾を抱えた、違和感に塗れた言葉。

 

 しかし意外と、解決方法は単純だ。

 

「まぁ、今は頭の片隅程度に留めておけ。基礎トレで身体を作れば自然と出来上がってくる」

 

 基礎トレーニングを継続し、筋肉量と体幹を強化する。

 

「今のダイヤの身体は軸が通っていない。だから特にコーナーを走る際に上体がブレて、力が外に逃げてしまうんだ。これが矯正する二つ目の点だ」

「なるほど」

 

 続いて、俺は矯正するポイントの三つ目をダイヤに伝える。

 

「そして三つ目の点。ダイヤは今、全身を脱力させて走る感覚を身につけた。その反動が押し寄せるように、最初に走った時よりも脚が重くなったと感じないか?」

「……よく分りますね。さすがです、兄さま!」

 

 全身の力みが抜けたからといって、大きくフォームが変わることは無い。

 

 同じ脚の使い方、動かし方をしているのに、脚だけが何故か重たくなった。

 

「これがダイヤの走行フォームの大きな問題点の一つ。言葉で表現すると、脚が後ろに流れている状態だ」

 

 ダイヤは地面を蹴った後、脚を背後に置き去りにしてしまう傾向があった。

 

「重心が先端に偏ったものを持ち上げようとすると、重量以上の重さを感じることがあるだろ?」

「つまり、身体から足が離れるほど重りがより重く感じる……ってことですか?」

「そういうことだ。地面を強くインパクトして得られた力が、身体の後ろに逃げていく。その感覚を、俺は感じやすい”重量”に置き換えてダイヤに体験させた」

 

 より綺麗なフォームで、より効率的な力を得るために必要な要素をダイヤ自身で把握して欲しかった。これが、今日のトレーニングの意図である。

 

「基礎トレでトモを直角に上げて上下させたり、ジャンプして左右の脚を入れ替える練習をやっただろ? それがここで活きてくる」

 

 足を後ろに流すのではなく、地面を蹴った瞬間に強く上に引き上げる。

 

「地面から得られる力を逃すな。蹴った脚の膝を、真っ直ぐ身体の前へ持ってくるような感覚で走ってみろ」

 

 上手くいけば、靴の重りの存在が意識の中から薄れてくるはずだ。身体の近くで足を引き上げる分、重心が身体に寄ることになるのだから。

 

「何度も言うが、焦ってはダメだ。これは習得までに時間がかかる。根気良く続けていくことが、案外最短だったりするからな」

 

 ダイヤが怪我をしないための走り方を習得するまで、俺は一歩も先へ進まない。

 

 彼女が、今後の競走人生を歩むために。

 

 俺はそれが、最善の選択だと思っている。

 

 

 

***

 

 

 

 午前のトレーニングを終えた私は、兄さまを昼食に誘った。 

 

 あまり乗り気では無かった兄さまだったが、最後は私の勢いに根負けしたようだ。ため息をこぼしながら、今回だけだぞと頷いてくれた。

 

 意気揚々と食堂へ足を運ぶと、そこにはちらほらとウマ娘やトレーナー達の姿があった。

 

「みなさん、休日も熱心なんですね」

「ウマ娘も俺達も、休日なんてほとんど無いからな」

 

 私は適当な席を見つけて、兄さまと座る。

 

「普段飯は購買で済ませるから、そういえば食堂で飯を食べたことは無いんだよな」

「そうなんですか? だったら、私のおすすめを紹介します!」

 

 この前キタちゃんと食べた『特大にんじんハンバーグ』なんて、もうほっぺたがが落ちるくらい美味しいんですよ!

 

 そう私が強く主張したら、兄さまは顔を引き攣らせながら苦笑した。

 

「さすがにその量は食えん」

「……そうですか、美味しいのに」

 

 私は兄さまが受け入れてくれなかったことにシュンと落ち込んで、せめて一口だけでも食べてもらおうとこのメニューを注文する。

 

 対して兄さまは、一般的な量の唐揚げ定食を頼んでいた。

 

「…………まじかよ」

 

 テーブルに料理を並べると、そのボリュームの差に兄さまが驚愕していた。

 

「え、それ……食えるの?」

「え? はい」

 

 逆に兄さまこそ、その食事量で足りるのかと言及したくなる。

 

「一口食べますか?」

「いや、いらない。見てるだけで胃がもたれそうだ……」

「そうですか……」

 

 ハンバーグを小さく切り分けて、口に運ぶ。

 

 こんなに美味しいのに。

 

「それで、今日はどうかしたのか?」

 

 食事中、兄さまが私に唐突に話題を振ってきた。

 

 多分、私が兄さまを昼食に誘った理由を聞いているのだろう。

 

 理由かぁ。

 

 別に、大した理由なんてないのだけれど……。

 

「一緒にご飯を食べたかっただけ……では、理由になりませんか?」

 

 強いて言うなら、昔みたいに仲睦まじく同じ時間を共有したかったから……かも?

 

「だって……兄さまと八年も離れ離れで私、寂しかったんですよ?」

 

 再会を果たしたその日から、私達は必要最低限の会話しかしてこなかった。

 

 私はそれがすごく寂しいと感じていた。

 

 昔のように、気楽な関係ではないかもしれない。

 

 雇用者と被雇用者、指導者と教え子といった義務的な関係なのかもしれない。

 

 それでも私は、彼との仲を深めたかった。

 

 だから今日、私はこうして彼を食事に誘った。

 

「今は少し、甘えたい気分なんです」

「……そうか」

「ふふふっ。兄さま、照れてますね? お顔が真っ赤ですよ?」

 

 冗談混じりに本音をさりげなくぶつけて、兄さまをからかってみる。

 

 平静を装おうと必死になっているせいで、私が今どんな表情をしているのか、彼には分からないだろう。

 

「兄さま」

「……何だよ」

「私、嬉しいです。兄さまが私のトレーナーになってくれて」

「……俺は今猛烈に後悔しているよ」

「まぁ、ひどいです。兄さま」

 

 こうして再び兄さまと顔を合わせて話すことが出来ているのも、彼が私との約束を守ってくれたからである。

 

 嬉しさをかみしめるように、私は他愛ない雑談にのめり込んでいく。

 

「兄さま。私、ずっと聞きたいことがあったんです!」

「何だ? 答えられる範囲なら答えてやる」

「兄さまがアメリカでどんなことを経験したのか、ずっと知りたいと思っていたんです!」

 

 私は、私の知らない兄さまを知りたい。

 

 彼の全てを知りたいと思ってしまうのは、傲慢なのでしょうか。

 

「……面白い話なんて出来ないぞ? ただ勉強してただけだし」

「聞きたいです!」

「……そうだなぁ」

 

 私の熱意に押し負けて、兄さまは流されるように過去を語ってくれた。

 

 渡米後は、ひたすら勉学に励んでいたということ。

 

 勉学の内容が難しすぎて、危うく留年しかけたこと。

 

 血の滲む努力の末、念願のトレーナーライセンスを獲得したこと。

 

 レースに対する熱意をとあるトレーナーに買われて、サブトレーナーとして経験を積んだこと。

 

「別に、そんなに面白い話では無いだろう?」

「いいえ! とっても興味深いです!!」

 

 過去の兄さまを知れば知るほど、私はもっと彼に興味を抱く。

 

 一度に全ての質問は出来ないため、私は内容を吟味し、今一番気になっていることを兄さまに問うた。

 

「サブトレーナーって、どんな仕事をするんですか?」

「基本的にはチーフトレーナーの補佐だが……俺達の場合は、ウマ娘の面倒を見ていたな」

「面倒……担当とは違うのですか?」

「ああ。ウマ娘との契約は、あくまでチーフトレーナーが交わすものだからな」

 

 兄さまのサブトレーナー時代。気にならないわけがない。

 

「兄さまが面倒を見ていたウマ娘って、どんな方だったのですか?」

 

 私の純粋な疑問に、兄さまは言葉を詰まらせる。

 

「…………そうだな」

 

 過去に想いを馳せているのか、しばらく俯いたあと、兄さまは苦笑を浮かべながら呟いた。

 

 

 

 

 

「……変な奴だったよ。落ちこぼれってバカにされても、平然と笑顔を振りまく女だった」

 

 

 

 

 




ルーキー日間1位に掲載されていました。
正直自分でも驚いています。
読者の皆さま、本当にありがとうございます。


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10:名家の手紙

 俺がトレセン学園に勤務するようになってから、二ヶ月が経過した。

 

 担当ウマ娘であるダイヤに対して、俺は少し前までは考えられないほど熱心に指導に当たっていた。

 

 身体作りのための基礎トレと、フォームの矯正に重きを置いたメニューを根気良く続けること一ヶ月半。

 

 その成果が徐々に現れ始めていた。

 

「矯正したフォームもだいぶ板に付いてきたな。どんな感じだ?」

「はいっ! 以前よりも軽い力で走っている感覚なのに、グンと前に進んでいる気がします!!」

「良い傾向だな。不自然な力みが抜けて、効率的な走りができている証拠だ」

 

 目下の課題であったフォームの矯正点は、意識した状況下であれば、これ以上指摘する必要のない水準に達していると言っていい。

 

 しかし依然、集中が乱れればフォームが崩れてしまう問題を抱えているため、気を抜くことはできない。

 

 今月末にメイクデビューを控える俺達は、無意識下でのフォームの維持と、必要となる技術の習得に力を注いでいた。

 

「序盤のコーナーを曲がるときは、常に身体の軸を意識しろ。外側の肩を少し開くような感覚で、遠心力を外に逃すイメージを持て」

 

 差しの脚質で戦う以上、序盤はなるべくスタミナを温存したい。

 

 コーナーの走行は、直線の走行に対して苦手意識を抱くウマ娘が多い。なぜなら、身体を外へ外へと追い出す”遠心力”という要素が加わるからだ。

 

 レース序盤のコーナーは、遠心力に逆らわない消費エネルギーの少ない走法で切り抜ける。

 

「終盤のコーナーの場合、今度は外側の肩を内側へ入れ込んで前傾姿勢を作れ。遠心力を利用して、力強く芝を踏み込むんだ」

 

 遠心力の要素が加わるコーナーは、直線よりもより強い力で地面を蹴る必要がある。

 

 しかし、消費エネルギーが大きくなる反面、直線よりも地面から得られる力が増えるという利点が存在する。

 

 これを利用しない手は無い。

 

 遠心力を活かした力強い走法で、最終コーナーをラストスパートの助走区間として利用する。

 

 コーナーを走行する技術の習得は、メイクデビューで一着を取るために必要な最低条件だ。

 

 基礎トレーニングで体幹を強化し、ブレない軸を作る。全身の筋肉を発達させて、遠心力の負荷に耐える身体を作る。

 

 全ての段取りを最適にこなした上でようやく、必要最低条件を達成するためのスタート地点に立つことが出来た。

 

「最後の直線はとにかく脚を前に出せ。絶対背後に勢いを逃すな!」

「はいっ!」

 

 ラストスパートをかける最終直線は、風の抵抗を少しでも減らすために大きく前傾姿勢を取る必要がある。

 

 その際も身体の軸を一直線に保ち、上半身が生み出す力、下半身が作り出す力、地面がもたらす力を全て吸収して、前へと進む推進力に変える。

 

 これら全ての工程を的確に処理した上で生み出されるものこそが、最終直線で最強の矛となる”末脚”なのである。

 

「今の一本は悪くない走りだった。その感覚をメイクデビューまでに身体へ染み込ませろ」

「頑張りますっ!」

「休憩を挟んだら、次は坂路を走る。ポイントを復習しておけ」

 

 コーナーの身体使いに関しては、この調子で行けばレースで使える水準に達するだろう。

 

 反対に、ダイヤは坂路を走ることに苦手意識を抱いている節があった。

 

 メイクデビューの開催地となる阪神レース場の大きな特徴。それはスタート直後とゴール直前にそびえ立つ、高低差約二メートルの坂路。

 

 スタミナを根こそぎ奪われる害悪な地形を攻略することも、必要最低条件の一つに含まれる。

 

 坂路の走行は基本的に歩幅を狭く取り、脚の回転数を限界まで引き上げる"ピッチ走法"が主流だ。

 

 絶壁のような坂路をとんでもない速度で駆け上がるピッチ走法だが、その分スタミナを著しく消費する。

 

 スタミナと根性に秀でるダイヤでも、心臓が食い破られそうになるほどの負担がかかる走法なのだ。

 

 差しの脚質でレースに臨むため、序盤の坂路は余裕を持って登っていくことが出来る。

 

 しかし、レース終盤ではその事情が変わってくる。

 

 先頭集団を後方から差す以上、終盤の坂路においては最終直線で得た速度を可能な限り維持する必要がある。

 

 ピッチ走法をモノに出来ていないダイヤにとって、このままでは分が悪すぎる状態でレースに出走する羽目になってしまう。

 

「この前教えた通りに坂路を登ってみろ。歩幅を普段よりも小さく狭めて、脚の回転数を上げるんだ」

「はい、行きます!」

 

 一見すると、ダイヤは何の問題もなく坂路を駆け上がっているように見える。俺の指示通り、ダイヤは歩幅と脚の回転数を器用に調整出来ていた。

 

 しかし。

 

(坂路を登る瞬間だけ、全身が不自然に力んでしまうな。"脚"に意識が奪われる分、他が疎かになっているのか)

 

 俺の指示に意識を集中するあまり、フォーム矯正で培った綺麗な走りを蔑ろにしてしまう癖があった。

 

「脚の動かし方については、その調子を維持すれば問題無いだろう。次は脚から意識を外して、リラックスした状態で走ってみろ。全身の力みを抜きたい」

「……っ。分かりました!」

 

 俺はダイヤにアドバイスをおくり、次の一走を注意深く観察する。

 

(……予想以上だ。俺の指示の意図を読み取って、フォームを一発で修正してきた。指摘していないにも関わらず、軸の歪みも一緒に直してきたか)

 

 この様子なら、今日は坂路を走るコツをさらに教えても大丈夫そうだ。

 

「次の一本だが、今よりも少し大きく腕を振って走ってみろ。感覚的には、前に出す自分の脚を、反対側の腕で引っ張り上げるような感じだ」

 

 矯正で培った基本のフォームを応用し、坂路用にアレンジした型を新しく構築する。

 

「少し前傾姿勢を取って、アゴを引く。目線を下方向に下げつつ前を見据えろ」

 

 坂路での加速はほぼ不可能。失速を防ぎ、最終直前までで生み出した推進力を噴射して登り切るしかない。

 

 あとはひたすら反復練習。微調整を繰り返しながら、身体にしっくりと馴染むダイヤだけの走り方を模索していく。

 

「徐々にだが坂路のタイムも縮まりつつある。しっかりとフォームの維持を意識しつつ、地形に合わせた走法のポイントをそれぞれ復習しておくように」

「はい!」

「よし、今日のトレーニングはこれで終了する。クールダウンとストレッチまで気を抜かないように」

 

 俺は普段よりも一時間早くトレーニングを切り上げた。慣れない動作の連続で、ダイヤの身体に想像以上に負担が掛かっていたからだ。

 

(この調子で行けば、メイクデビュー直前にはフォームをものにできるだろう。問題は、他のウマ娘が干渉するレースで、どこまで自分の走りが出来るかだが……)

 

 レースは他のウマ娘達がいて初めて成立するもの。

 

 ダイヤには選抜レース以外で、自分以外の本気で勝ちにくるウマ娘と走った経験がほとんどないはずだ。

 

 チームメンバーがダイヤ一人だと、併走トレーニングが出来ないことも結果に響いてくる可能性がある。

 

 他のチームに併走トレーニングをお願いするか? 

 

 いや……でも俺、トレセン学園で知り合いって呼べるトレーナーが誰もいないんだよな。

 

 くそう。こんな所で躓くくらいなら、他のトレーナーとコミュニケーションを取っておくべきだった……!

 

「兄さま? どうかしましたか?」

「……何でもない」

 

 仕方ない。

 

 レース本番では極力自分の走りを意識するようにと、声を掛けておくか。

 

 

 

***

 

 

 

 メイクデビューまで残り二週間。俺は現在、一人きりの部室で頭を抱えていた。

 

「うーん……チーム名が全く思いつかん」

 

 机に頬杖をついて、唸り声を上げる。

 

 メイクデビューに……いや、トゥインクル・シリーズ全てのレースにおいて。

 

 出走に必要となるテーム名が、一向に決まらなかった。

 

 チーム名はとても重要だ。自分達を象徴する、唯一無二のブランド名を意味するようなものである。

 

 理想や願望など、チーム個々の強い想いが込められるそれを、適当に名付けて良いわけがない。

 

 良い案が思いつかなかった俺は、数日前にダイヤへこの話題を振ったが。

 

──チーム名ですか? 私は、兄さまに名付けて欲しいです!

 

 と言われてしまった。

 

 別に案が無いわけでは無いのだが……うーん。

 

「──失礼します。トレーナーさん、少しお時間よろしいでしょうか?」

「……? あ、ああ。たづなさん」

 

 ああでもない、こうでもないと悩みに悩んでいると、突然部室の扉が開いた。書類を抱えたたづなさんが、扉の外から顔をみせる。

 

「お取り込み中でしたか?」

「チーム名のことで少し……えっと、それで?」

「突然の訪問で申し訳ないのですが、少しばかり長い話になるかもしれません。よろしければ、中に入っても?」

「ああ、どうぞ」

 

 たづなさんを適当な席に座らせて、俺は私物のコーヒーメーカーで飲み物を淹れる。

 

「ありがとうございます」

「いえ。それで、話とは?」

「せっかくなので、本題に入る前に雑談でもしませんか?」

「雑談……? まぁ、良いですけど」

 

 やけにもったいぶるな。切り出しにくい話題なのか?

 

「最近、サトノダイヤモンドさんの調子はどうですか?」

「まぁ、ぼちぼちって感じですね。メイクデビューで一着を取れるかは、今後の調整次第かと」

「今日はトレーニングの予定は無いのですか?」

「最近身体を酷使させていたので、今日はオフにしています」

 

 人生初の公式レースが間近に迫っていることもあり、ダイヤは最近のトレーニングで根を詰めすぎていた。

 

 焦っても良いことはないので、たまには息抜きをしてこいとトレーニングをオフにしたのだ。

 

「トレーナーさんは、ダイヤさんを大切にされているんですね♪」

「……普通でしょう」

 

 すぐにそっちの路線に話が逸れるから、俺は正直たづなさんが苦手だった。

 

「……ダイヤさんが少し、羨ましいです」

「え?」

「なんでもありません。そろそろ、本題に入りますね」

 

 本題か。一体何の話を持ち出すのやら。

 

「これを」

 

 たづなさんは、身構える俺に対して一通の封筒を差し出してきた。

 

 やけに上質な素材で作られたそれを受け取って、俺は中を確認する。

 

 小綺麗に折り畳まれた便箋が数枚封入されていた。

 

 俺は便箋を開き、綴られた文章に視線を落とす。

 

 

 

「…………()()()?」

 

 

 

 差出人の名を見て、俺は疑問を浮かべる。

 

 メジロ。

 

 優秀なウマ娘を世に多く輩出する名家が、一体俺に何のようだ?

 

「トレーナーさん、率直にうかがいます」

 

 対面して座るたづなさんの様子からして、彼女は一通りの事情を把握していると見た。

 

 たづなさんから発せられる次の言葉を、固唾を呑んで待つ。

 

 

 

 

 

「──チームメンバーの勧誘を、検討する気はありませんか?」

 

 

 

 

 

 俺はその言葉をどう解釈すればいいのか、少し悩んで。

 

「やはり、規定人数で何か問題が?」

 

 未実績のチームに対する贔屓のような待遇に、外野が不満を抱いたのかもしれないと結論付けた。

 

「いいえ。そちらの文章に目を通していただければ理解されると思いますが、差出人はメジロ家の当主様です」

「……なるほど」

 

 メジロ家の当主……あの婆さんか。

 

「どうして俺が復帰した時期に……あぁ、URAか」

 

 メジロほどの名家ともなれば、URAに対しても顔が利くのだろう。いや、トレセン学園の理事長と繋がっている可能性も否めない。

 

 何かしらの手段を用いて、俺がトレーナーに復帰した情報を入手したのだろう。しかしどうして……。

 

「文面では相互の解釈に齟齬が生じる可能性があるとのことなので、私からも説明させていただきます」

 

 何がともあれ、俺は黙ってたづなさんからの説明を聞くことにした。

 

「結論から先に言いますと、トレーナーさんには二名のウマ娘を担当して欲しい、とのことです」

「二人?」

「はい。そのうち一人はトゥインクル・シリーズのレースには出走せず、トレーナーさんの()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「いや、訳が分からないんだが?」

 

 ウマ娘が、俺のサポーター? ウマ娘は普通、レースに出走して成績を残す目的でチームに加入するんじゃないのか?

 

「誰だ、そんな風変わりなウマ娘は」

「メジロマックイーンさんです」

「…………」

 

 メジロ家が誇る最高傑作──メジロマックイーン。

 

 "名優"の異名を冠するメジロの令嬢だが、悲願の天皇賞制覇を目前に繋靭帯炎を発症し、現在進行形で長期療養を余儀なくされている。

 

「当主様からは、マックイーンさんとは顔見知りだとうかがっています」

「……まぁな」

 

 アメリカに留学してトレーナーとしての経験を育んでいた頃、確かに俺は彼女と出会った。

 

 おそらく"あいつのレース"を現地で観戦しに来たのだろう。当時レース場で迷子になっていたマックイーンを案内して、顔見知りとなった。

 

 その際、何かの縁とメジロの婆さんにお願いされて、少しだけ彼女の走りを見たことがある。

 

 以前ウマチューブで視聴したマックイーンの走りに、俺はわずかだがその頃の面影を感じた。

 

「マックイーンさんは今、メジロ家の療養所で休養されています。この件は本人からの強い希望ということもあり、後日トレーナーさんへ挨拶に伺いたいそうです」

 

 なるほど。たづなさんの話を聞いて、要件は理解出来た。

 

 だが引き受けるかと言われれば、話は別だ。

 

「トレセン学園は許可するのか? レースに出走しないウマ娘をチームに所属させるっていうのは」

「問題ありません。学園には将来トレーナー職を志望する生徒も多く通っており、彼らが研修のような形でチームに加入する例も数多く存在しています」

 

 トレーナー養成校に在籍するよりも、本格的な指導を間近で見れるというのは確かに利点がある。

 

 トレセン学園はトレーナー養成校と提携を結んでいるし、カリキュラムも充実している。進学のサポートもしてくれるとなれば、確かにそういう選択肢を選ぶ生徒もいるか。

 

「……悪いが、この件に関しては保留にさせてくれ。現状、業務は俺一人で間に合っている」

「分かりました」

「それで、もう一人のウマ娘に関しては?」

 

 マックイーンに関する事情は大方把握した。

 

 しかし、あの婆さんはもう一人のウマ娘を、()()()()()()育成することを所望している。

 

「こちらの方は、ダイヤさんと同時期に本格化を迎えた高等部の生徒になります」

 

 ダイヤと同時期に本格化を迎えた、か。デビューする時期によっては出走レースが被る可能性があるな。

 

「──メジロドーベルさん。こちらの方は、トレーナーさんと面識は無いとお聞きしています」

 

 メジロドーベル? 

 

 その名前には聞き覚えがある。確か……ダイヤが出走した選抜レースで一着を取ったウマ娘の名だ。

 

「俺の記憶では、選抜レースで一位を取ったウマ娘のはずだ。彼女を欲しがるトレーナーなんて、引く手数多だろう?」

 

 何故こんな時期に、スカウトの話が上がる。

 

 マックイーンの件以上に理解出来ない。

 

「トレーナーさんのおっしゃる通り、ドーベルさんは一度チームに所属していました。しかし、残念ながら数日前に契約が破棄されています」

「メイクデビュー前に、破棄だと……?」

 

 何か、厄介な事情を抱えているに違いない。

 

「婆さんには悪いが、現時点では彼女を担当する気はない」

「理由をお伺いしても?」

「理由は三つある。一つ。ダイヤと同時期に身体が本格化を迎えたこと。今後のデビュー時期によっては、出走するレースが被る可能性がある」

 

 ウマ娘は身体の本格化に伴ってデビューする時期を選択する。

 

 出走を希望するレースが重なれば、俺は間違いなくダイヤを優先するだろう。この意思は絶対に曲げられない。

 

「二つ。メイクデビュー前に契約破棄されるウマ娘だ。破棄に至った背景は知らないが、おそらく原因の一端は彼女にもあるんだろう。問題を抱えたウマ娘に寄り添う指導が、今の俺に出来るとは思えない」

 

 俺がトレーナー復帰に踏み切ったのも、契約相手が昔馴染みのサトノダイヤモンドだったからである。現状、俺はダイヤ以外のウマ娘に寄り添える自信がなかった。

 

「そして三つ。これが一番大きい理由だ。何故本人が、俺の元に顔を出さない。契約を希望するなら、自分の足で持ちかけるのが常識だろう?」

 

 婆さんが手紙を差し出してくる辺りから察するに、契約希望はおそらくメジロドーベル本人の意思じゃない。

 

「俺の教育方針は徹底した管理主義だ。本人にその意思が無ければその方針に息苦しさを覚えて、自ら契約を破棄するのがオチだ」

「そのことなのですが……ドーベルさんは男性に対して極度の苦手意識を抱いているそうで」

「だったらなおさらダメだろう……」

 

 理解に苦しむ。

 

 それなら普通女性トレーナーのチームに話を持ちかけるだろう。例えばそうだな、チーム・リギルとかだろうか?

 

「婆さんの願いには……まぁ、応えたいとは思うが。さすがに今回ばかりは断らせて欲しい」

 

 メジロの婆さんには、むかし色々と世話になった。一応恩義のような感情を持ってはいるが……ウマ娘の競走人生を預かる身としては、二つ返事で承諾することなんて到底出来ない。

 

「……そうですか。残念です」

「この件は、俺の方から婆さんに連絡を送る。ほとんど個人間の事情に巻き込んでしまって、申し訳ない」

「いえ。これも全て、トレセン学園に在籍する生徒のためですので」

 

 上に立つ者の鑑だな。素直に尊敬する。

 

「時間を取ってしまって申し訳ありません。それでは、私はこれで失礼します」

 

 洗練された所作でお辞儀をし、たづなさんは部室から去っていった。

 

「……はぁ」

 

……さて。

 

 どうしたもんかな。

 

 

 

***

 

 

 

「──お願いっ! 一緒に汗を流そうよダイヤちゃん!」

「え、え〜っと……」

 

 放課後の教室で、私は親友のキタちゃんに迫られて困惑していた。

 

「ダイヤちゃん今日オフなんだよねっ? お互いメイクデビュー前だし、せっかくだから一緒に走ろうよー!」

 

 キタちゃんの言葉通り、私達は輝かしい栄光への登竜門といえるメイクデビューを間近に控えていた。

 

 キタちゃんが所属するチーム・スピカだが、彼女曰く今日はオフの日だそうだ。

 

 どうやらキタちゃんは、体力を持て余しているらしい。

 

「ね? ねっ? お願いダイヤちゃん! 一生のお願いっ!!」

 

 要約すると、自主トレーニングのお誘いだった。

 

「ごめんキタちゃん。誘ってくれるのは嬉しいんだけど、自主トレはちょっと……」

 

 キタちゃんには申し訳ないが、私は彼女の誘いを断らざるを得なかった。

 

 兄さまから、自主トレーニングはするなと釘を刺されているからだ。

 

「本当に……ごめんね?」

 

 親友の頼みを断るのは心が痛い。胸がぎゅっと締め付けられる。

 

 しかし本当に、これだけはどうしても……。

 

 そしてキタちゃんは、私に断られる可能性を微塵も考えていなかったのか。

 

「……うぅ」

 

 私の目の前で、涙目を浮かべていた。

 

「そっか……分かった」

 

 そ、そんな悲しそうに肩を震わせないで欲しい。

 

 私だってキタちゃんと走りたい。昔は毎日のように一緒に走っていたから、余計に心が焦がれてしまう。

 

 それでも、ダメなものはダメ。

 

 ダメなのに。

 

「……わ」

 

 親友が、今にも泣き出しそうな表情をしているから。

 

 つい、私の心に魔が差して。

 

「分かったよキタちゃん。今回、だけだからね?」

 

 

 

 

 

 キタちゃんの誘いに、乗ってしまいました。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「グラスワンダー、調子はどうだ?」

「はい。レースへの復帰はもっと調整が必要ですが、コンディションは好調です」

「それは何よりだ」

 

 チーム・リギルに所属する仲間として、私──シンボリルドルフは怪我で療養を強いられていたグラスワンダーの身を案じていた。

 

 故障を引き起こした身体面も心配ではあったが、それよりも私は彼女の精神面に気を配っていた。

 

 怪我の影響で、グラスワンダーはクラシック級のレースを辞退せざるを得なくなった。

 

 ウマ娘にとってクラシック級とは、競走人生において最も思い入れの強くなる時期といっても過言ではない。

 

 皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制覇したウマ娘のみがその誉を冠する──クラシック三冠。

 

 桜花賞、オークス、秋華賞を制覇したウマ娘のみがその名で称えられる──トリプルティアラ。

 

 多くのウマ娘が目標とするレースの大半がクラシック級に凝縮されており、グラスワンダーもクラシック三冠を志す一人だった。

 

 栄光を掴む一度きりのチャンスを故障によって逃してしまった彼女に対して、トレセン学園の生徒会長として寄り添わなければならないと判断したのだ。

 

「気に掛けてくださって、ありがとうございます」

「なに、チームメンバーの心配をするのは当然のことさ」

 

 グラスワンダーは襲いかかる困難に挫けず、早くも次の目標を見据えている。

 

 現在は十月に開催される毎日王冠への出走を目標に、トレーニングに励んでいた。

 

「私、もう少し走りますね」

「ああ。引き留めてしまって申し訳ない」

 

 怪我の影響で、グラスワンダーは以前の感覚を取り戻すのに四苦八苦しているようだ。

 

 しかし、それ以前に走ることに対して純粋な楽しさを見出しているようにも見えた。

 

「今年の彼女の走りが楽しみだ」

 

 いつか私も、グラスワンダーと肩を並べて競い合う機会があるかも知れない。その時に備え、私もトレーニングに励まなくてはな。

 

「──ルドルフ。あなたから見てグラスの調子はどう?」

「トレーナー。ええ、すこぶる良好かと」

 

 グラスワンダーと入れ替わるように、チーム・リギルを統率する東条トレーナーが私の隣に立った。

 

「……そうか」

「グラスワンダーと何か?」

「……まぁ、少しな」

 

 東条トレーナーは少しバツが悪そうに、視線を逸らした。私は何となく、二人の間に生じた出来事を察する。

 

 あまり触れて欲しい話題では無いのだろう。私は彼女に異なる話題を振った。

 

「それにしても、今年の新入生は本当に優秀ですね」

「ああ。もしかしたら、ルドルフをも超える存在が生まれるかもしれないな」

「それはとても、素晴らしいことです」

 

 今年チーム・リギルに加入したウマ娘達は、東条トレーナーの指導の元でメキメキと実力を伸ばしている。この調子で行けば、彼女達は新バ戦で華々しいデビューを飾ることだろう。

 

 チーム・リギルに所属するウマ娘以外にも、先の選抜レースで才能の片鱗を垣間見せる者が多くいた。

 

 例えば、先程からターフを利用して自主トレに励んでいる新入生がそうだ。

 

「あの二人が気になるのか?」

 

 私が新入生達へ視線を向けていることに気付いたのだろう。今度は東条トレーナーが話題を振りかえした。

 

「ええ。のびのびとした様子で走る黒髪の生徒は特に。新入生とは思えない走りをしている」

「彼女の名はキタサンブラック。チーム・スピカに所属するウマ娘だ」

「なんと! どうりで……」

 

 今や、トレセン学園で最強と名高いチーム・スピカ。あの走りを見れば、実力のあるチームからスカウトされるのも納得だ。

 

「私も声をかけたが、残念ながら断られてしまった」

「トレーナーも声をかけられたのですね」

「ああ。選抜レースでも、印象に残る走りをしていたからな」

 

 東条トレーナーの目に留まるほどの実力を備えた新入生。これはチーム・リギルにとって、最強の地位を揺るがす脅威となるだろう。

 

「トレーナー。もう一人の生徒については?」

 

 生徒会長として長く活動する私だが、トレセン学園に在籍する生徒の名を全て覚えているわけでは無い。

 

「ああ。彼女はサトノダイヤモンドだな。この業界では有名な資産家、サトノグループの令嬢だ」

 

 サトノという名には心当たりがある。URAへの運営協力や、慈善事業といったレース文化の発展に貢献する新興の家系だ。

 

 名門メジロ家と同様、競走ウマ娘業界の発展に尽力している良家。しかし、残念なことにサトノ一族からは未だにGⅠレースを制覇した者はいなかったと記憶している。

 

「先日の選抜レースにおいて、彼女はキタサンブラック以上にトレーナー達の間で話題になっていたな。しかし、実際の選抜レースでは八着と惨敗。残念だが、以前ほどの注目を浴びることは無くなったように感じる」

「……非情な話ですね」

「ウマ娘をスカウトするトレーナーも、結果を残さなければならない。お互い実力社会に身を投じた者同士だ。本人も納得せざるを得ないだろう」

 

 全てのウマ娘が幸福になれる世界を創る。

 

 これは、私の理想主義を全面に押し出した標語(モットー)である。

 

 私は第一線で活躍していた時代に、妄言と吐き捨てられるような理想を豪語するに相応しい戦績を残した。

 

 しかし残念なことに、その理想へと進む第一歩目から私は躓いている。

 

 東条トレーナーの言葉通り、私達の社会は実力主義。実力がなければチームに所属することが出来ない。そして規定上、チームに所属しなければレースに出走することすら叶わない。

 

 トレセン学園の門を叩いた者の大半は、中央のレースで活躍する自身の姿を思い描いていただろう。

 

 その人口約二千人。

 

 対して中央のライセンスを取得したトレーナーの人数といえば……。

 

 物理的に不可能なのだ。

 

 メイクデビューで勝利したその瞬間、そのウマ娘は上澄みの中の上澄み。九人に八人が未勝利戦で現役生活を終える過酷な舞台に、そもそも立つことが出来ない者達が大勢いる。

 

「あまり気負うな。これは仕方のないことだ」

 

 そんな私の苦悩は、東条トレーナーに筒抜けだったようだ。

 

「ルドルフ。お前は近々ドリーム・シリーズが控えている。トレーニングに不要な思考は故障を招く、気を引き締めろ」

「申し訳ありません」

 

 東条トレーナーの叱咤を受けて、私は緩んだ意識を強く引き締める。"皇帝"の異名を冠するウマ娘として、無様な姿は晒せない。次回出走するレースへ向けて、私はトレーニングに打ち込むのだった。



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11:星屑たる所以

「──どうして、どうして私は勝てないの?」

 

 その日、温厚なミライが初めてサブトレーナーの俺に対して怒りをぶつけてきた。

 

 チーム・アルデバランの模擬レースで、連続最下位という不名誉な記録を更新し続けることに不満を抱いたのか。

 

 あるいはチーム・アルデバランの"落ちこぼれ"として周囲から揶揄われることに、心が耐えられなくなったのか。

 

 普段と百八十度異なるミライの様子に、俺はかける言葉を失った。

 

「私もトレーナーも、こんなに頑張っているのに! 何で、何でわたしはこんなに遅いのっ!?」

 

 ミライは爆発する感情に身を委ね、声を荒げる。

 

 俺は何も答えられなかった。

 

「ねぇ、トレーナー。何か言ってよ。どうして私は勝てないの? どうせ分かっているんでしょ!?」

 

 悪意や不条理に晒され続け、削ぎ落とされる形で剥き出しとなった負の感情の矛先が、俺に向けられる。

 

 ミライに胸ぐらを強く掴まれた。

 

 ウマ娘の力に対して、人間である俺は抵抗することが出来ない。

 

「みんな……みんな私のことを、グズで鈍間なウマ娘ってバカにする。言いたい放題言って、速く走る方法を誰も教えてくれない」

 

 俺の知るミライは、誰に悪口を言われても、理不尽な悪意を向けられても笑顔を絶やさないウマ娘だった。

 

 我慢の、限界だったのだろう。

 

「……」

 

 俺は、ミライの心の強さに甘えていた。

 

 そのせいで、彼女が年頃の女の子であるという認識にノイズがかかっていた。

 

「どうせトレーナーも、心の底で私のことを笑ってたんでしょ? 負け続けても必死に笑う私を見て、嘲笑っていたんでしょっ!?」

 

 身体が強く揺さぶられる。

 

「……」

 

 この期に及んで俺はまだ、彼女にかける言葉を必死に探していた。

 

「ねぇ……何か言ってよ」

 

 思い切り身体を手前に手繰り寄せられた。

 

 昏く濁ったミライの瞳が、俺の眼前に迫る。

 

「お願い、だからぁ……っ」

 

 そして、今にも泣き出しそうに双眸を滲ませるミライを見て。

 

 俺は。

 

「…………俺は」

 

 固く閉ざしていた口を開く。

 

「この選択が、最善だと思っている」

「………………え?」

「俺は、()()な人間なんだ」

「言ってる意味が分からないよ、トレーナー」

 

 意味が分からない、か。

 

 そうかもな。

 

 臆病な俺にしか、この言葉の意味は分からないだろうな。

 

「ミライは……どうしてレースで勝ちたいんだ?」

 

 だから、少しでもミライが理解してくれそうな言葉に変えて、俺の意思を伝える。

 

「レースに勝つことが、お前にとって()()()()()よりも大切なのか?」

「大切だよ」

 

 俺の問いに、ミライは戸惑う間もなく即答した。

 

「私には夢があるの。世界で一番強いウマ娘になるっていう、大きな夢が」

 

 それを叶えるために、チーム・アルデバランに入ったのだと。

 

「だから私はレースで勝ちたい。レースに勝って、夢を叶えるの」

「…………そう、か」

 

 ミライの意志は確固たるものだ。揺さぶりをかけても微動だにしない強い理想を、心に灯していた。

 

「すまなかった」

 

 俺はミライに謝罪する。

 

「本当に、すまなかった」

 

 ウマ娘の夢を支えるトレーナーを騙っておいて、その実、一番近くで彼女の夢をぶち壊そうとしていた屑な俺を。

 

 

 

 許してほしい、なんて思わない。

 

 

 

 実際、彼女を喪った今でも、俺は当時の選択を強く後悔していた。

 

 

 

 あの時。

 

 

 

 どうして俺はもっと。

 

 

 

 彼女の夢を、心を。

 

 

 

 

 

 完膚なきまでにへし折らなかったのか、と……。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 連日の勤務で身体を酷使していたのか、俺は勤務時間にも関わらず部室のデスクで居眠りをしてしまった。

 

 相変わらず、俺は悪夢のような記憶を目覚まし代わりにして起床する。

 

 時刻はすでに放課後を迎えていた。たづなさんが部室にやってきたのは正午頃だったと記憶しているので、四時間近く眠っていたことになる。

 

 悪夢にうなされていたせいか、いまいち思考がハッキリとしない。頭にモヤがかかっているような感覚だった。

 

 体調もすこぶる悪い。

 

 一度、気分転換が必要だ。

 

 俺は部室を出て、外の空気を吸いに行く。

 

 数回深呼吸を繰り返したことで、脳内に新鮮な酸素が取り込まれる。そこで俺はようやく、平常心を取り戻した。

 

 さて、そういえばまだチーム名を決めていなかった。

 

 せっかくだから、トレセン学園の敷地を散策しながら考えるとしよう。何か良い案が思い浮かぶかもしれない。

 

 ああでもない、こうでもないと頭を捻る内に、俺の足は進んでいく。

 

 気の赴くままに敷地をうろついて、トラック外縁の土手を歩いていたとき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は見た。

 

 

 

 

 

 見てしまった。

 

 

 

 

 

 自分の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていく。

 

 

 

 

 

 それが、人間を人間たらしめる──理性であると気付いたときには、全てが手遅れだった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「──はぁ、はぁ、前よりずっと速くなってるね、ダイヤちゃん」

「キタちゃんもね……」

 

 最初は乗り気でなかったキタちゃんとの自主トレだが、走っているとつい夢中になってしまった。

 

 キタちゃんと共に、私はターフの上に倒れ伏す。

 

「あたしも……負けていられないなぁ」

「私は、テイオーさん達と一緒に走れるキタちゃんがとっても羨ましいよ!」

 

 走ることに夢中になるあまり、私の頭からあの約束のことなどすっかり抜け落ちていた。

 

「ねぇねぇ、ダイヤちゃん。ダイヤちゃんって普段、どんなトレーニングしてるの?」

「うーん。そうだなぁ」

 

 私はここ数日間で取り組んでいたトレーニングの内容を思い返す。

 

「身体作りのための基礎トレと、フォームの矯正かな。最近は、走る技術を色々教えてもらってるよ」

 

 兄さまの指導のおかげで、以前の自分よりも大きく成長することが出来た。そんな自覚がある。

 

 昔は常にキタちゃんの後ろを走っていた私だったが、今では隣で肩を並べられるほどに速くなったのだ!

 

「私も、キタちゃんがチーム・スピカでどんなトレーニングをしてるのか知りたいな」

 

 しかし、キタちゃんもチーム・スピカに加入したことで着実に実力を伸ばしている。私や兄さまとは異なる視点から、何か成長のヒントが得られるかもしれない。

 

「たまに変なトレーニングをすることもあるけど、あたしは基本的に走ってばっかりだよ。トレーナーはあたし達の自主性を尊重してくれている感じかな」

 

 チーム・スピカのトレーナーさんは、兄さまと真逆の教育方針だった。そのことに私は少し驚く。

 

 誤解を招く言い回しかもしれないが、兄さまは徹底した管理主義。

 

 対してキタちゃんのトレーナーさんは、自主性を重んじる放任主義。

 

 互いに芯の通った教育論で、特にキタちゃんのトレーナーさんはトゥインクル・シリーズで数多くの実績を挙げている。

 

 キタちゃんの性格からすると、チーム・スピカとの相性は抜群なのかもしれない。

 

「のびのびと走れて、あたし結構気に入ってるんだ。それに何と言っても、あのテイオーさんがいるし!」

 

 加えて、チーム・スピカには最強と名高いウマ娘達が集結している。彼女達から与えられる刺激も、キタちゃんの成長を助長する要因となっているのだろう。

 

「……良いなぁ」

 

 憧れの人と一緒に風を切ることが出来たら、どれほど幸せなことだろうか。

 

……なんて、理想を並べたところで虚しさが募るだけだ。

 

「さてと、そろそろ体力も戻ってきたことだし。走ろっか、ダイヤちゃん」

「うん!」

 

 スタミナも回復したことだし、もう少しくらいならキタちゃんと走っても良いだろう。

 

 キタちゃんの誘いに食い気味に同意して、私はターフから立ち上がるために腰を上げようとした。

 

 その瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──お前は一体、何をしている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の背筋が、凍りついた。

 

 文字通り心臓が止まって。

 

 おそるおそる、私は背後を振り返る。

 

 この時ようやく、私は兄さまとの大切な約束を反故にしてしまったのだと。

 

 取り返しのつかないタイミングで自覚した。

 

 

 

***

 

 

 

「お前は一体、何をしている」

 

 腹の中で煮えたぎった感情を、俺は制御することが出来なかった。

 

 友人と仲睦まじく談笑する彼女へ一歩近づく度に、俺が俺で無くなっていくのを感じた。

 

 彼女の背後に立つ。振り向いた彼女──サトノダイヤモンドは今、どんな表情をしているのだろう。

 

 それすらも、理性が崩壊した俺の目には映らなかった。

 

「ち、違うんです兄さまっ、これは……っ」

「何をしていると、聞いているんだ」

「っ」

 

 この二ヶ月で築き上げてきた関係性に、ヒビが入る音がした。

 

「……自主トレーニング、です」

 

 聡明な君のことだ。その行動が何を意味するか、ちゃんと理解した上での行動なのだろう。

 

 理由は色々とあるのかもしれない。

 

 しかし、今の俺にダイヤの背景を推し量る余裕は微塵も無かった。

 

 頭に血が上りすぎて、冷静な判断なんて出来なかったのだ。

 

「俺との約束、覚えているよな?」

「それ、は……」

「忘れたとは言わせない」

 

 視野が極端に狭まり、周囲が見えなくなる。

 

「……お前には失望したよ」

 

 もはや、目の前のダイヤの姿すら見えていなかった。

 

「今日付けで、俺はお前のトレーナーを辞める」

 

 自分の意思で選択した行動には、責任が伴う。それはダイヤも俺も例外ではない。

 

 俺はダイヤとの契約時、条件を設けた。

 

 ダイヤは俺が設けた条件を承諾し、自分の意思でそれを破った。

 

 放った言葉に対して、取った行動に対して、お互い責任を取る必要がある。

 

 契約とはそういうものだ。

 

「ま、待って下さいッ!」

 

 興味が失せたと言わんばかりに立ち去る俺の腕を、ダイヤが強く掴んだ。

 

「約束を破ってしまって、本当にごめんなさい……」

「俺はもうお前を信用できない。信用に足らないウマ娘を、育てることは出来ない」

 

 俺はダイヤの謝罪に耳を傾けず、彼女を突き放すような態度を取った。

 

 トレセン学園に入学したばかりの子供に対して、些細なことで俺は気が狂いそうなほど激昂してしまうなんて。

 

 正真正銘、もはや手の施しようがないほどの()へと成り果てていた。

 

「──ちょっと待って下さい!」

 

 そんな屑とダイヤとの会話の間に、第三者からの横槍が入った。

 

 ダイヤの友人であるキタサンブラックが、立ちはだかるように俺の前へ躍り出る。

 

「トレーナーを辞めるって、一体ダイヤちゃんが何をしたって言うんですか!?」

「口を挟むな。お前には関係ない」

「いいえあります。今の話、自主トレが原因で契約を破棄するみたいな感じに聞こえるんですけど?」

「そうだ」

「それってあんまりじゃないですかッ!?」

 

 声を荒げるキタサンブラック。

 

「……」

 

 俺は無視した。

 

 俺の態度に対して、あからさまに嫌悪感を示すキタサンブラック。

 

「っ。少しは人の話に耳を──」

 

 そんなキタサンブラックのことなどお構いなしに、俺は彼女の横を素通りしようとした。

 

 しかし、キタサンブラックが俺をその場に引き留めようと、鬱陶しく腕を掴んで来たものだから。

 

 俺はつい、カッとなって。

 

「部外者は黙っていろッ!!」

 

 煩わしい蝿をつぶすように、俺は握られた腕を強く薙いでしまった。

 

「…………え?」

 

 赤の他人から突然浴びせられた怒号と、暴力紛いの行動に驚いたのだろう。キタサンブラックがバランスを崩し、背後に尻もちをついてしまった。

 

 唖然とした様子で、俺を見上げるキタサンブラック。

 

「何も知らないガキが、ふざけやがって……ッ」

 

 そんな彼女に対して、追い討ちをかけるように。

 

 俺は……。

 

 

 

 

 

「──そこまでだ」

 

 

 

 

 

 突如背後から浴びせられた、威圧感をむき出しにした制止の声。

 

 凛としていて威厳があり、強かな怒気を孕んだ声音には、心当たりがある。

 

「……おや、君は選抜レースの時の」

 

 そして、それは相手も同じようだった。

 

「……お前は」

 

 シンボリルドルフ。トレセン学園の生徒会長を務める、現役最強のウマ娘。

 

 ルドルフは俺の容姿を一瞥すると、呆れたような声音で言い放った。

 

「中央に勤務するトレーナーとあろう者が、まさかウマ娘に対して暴行を働くとはな」

 

 彼女の指摘を受けて、俺はその瞬間ようやく我を取り戻すことが出来た。

 

 改めて、周囲を見渡してみる。

 

 俺は想像以上に、多くの者達から注目を集めていた。

 

 浴びせられるほぼ全ての視線に、困惑や嫌悪、敵意といった感情が込められているように感じる。

 

「生徒会長として、この問題を看過することは出来ない。トレーナーとしてあるまじき行動を犯した君には、相応の処罰が加えられることだろう」

 

……内心、俺はルドルフに感謝していた。

 

 キタサンブラックを振り払った時、彼女から声が掛からなければ、俺はもう屑ですら無くなっていたのかもしれない。

 

「……好きにしろ」

 

 どのみち、俺は今日をもってダイヤのトレーナーを辞める。

 

 ライセンスが剥奪されるというのなら、喜んで差し出そう。

 

 トレーナー職を罷免するのなら、甘んじて受け入れよう。

 

 俺がウマ娘を育成するトレーナーとして相応しくないのは、ライセンスを破棄した二年前からとっくに分かっていたことだ。

 

 きっと何かの手違いで、俺はまたこの世界に戻って来てしまっただけなのだから。

 

 俺はルドルフに背を向けて歩き出す。

 

 今度は誰からの邪魔も入らない。

 

 全身に突き刺さる視線を浴びながら、俺はターフを後にする。

 

 

 

 最後まで、俺はあの子の顔を見ることができなかった。

 

 

 



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12:星屑の本懐

 翌日、俺は先日の問題行動に対する処罰を受けることとなった。

 

 処罰の概要が記載された書類がトレーナー寮の自室に届き、俺は一通り目を通す。

 

 その内容は、()()()()()()()()というものだった。

 

 俺は一瞬、目を疑った。

 

 俺は、第三者からウマ娘に対する暴力行為と捉えられてもおかしくない言動を取ったという自覚があった。

 

 本来職の罷免を免れない行為であったと記憶している。しかし、こうして一週間の謹慎処分で済まされたということは。

 

「……理事長か、あるいはURAか」

 

 一連の騒動が公になるのを恐れたのか、あるいは不足気味の人材が失われることを危惧したのか。

 

 はたまた、別の理由か。

 

 俺はおそらく、権力を持つ人間に匿われた。理不尽と呼ばれるほどの大きな圧力で、事実がもみくちゃにされた。

 

 外部から情報を得る手段がない以上、この処罰に至った理由は推測の域を出ないのだが。

 

 まぁ何となく、こんな感じだろう。

 

 一週間の謹慎処分。ダイヤのレースは二週間後だから、まだ余裕は……。

 

「…………何考えてんだよ」

 

 担当ウマ娘との契約破棄は、既に決定事項。

 

 俺は一体、何を考えようとしていたんだ。

 

 思考を放棄するように、俺はベッドに身体を投げ出す。

 

 過去の面倒な縁が生み出した状況から、ようやく抜け出せるんだ。

 

 理事長にさっさと辞表を突き出して、こんな学園からおさらばしよう。

 

 この学園はダメだ。

 

 ウマ娘なんて嫌いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だってこの世界には、余計な思い出が多すぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベッドの上でそのまま意識を手放し、俺が次に目覚めたのは真夜中だった。

 

 昨日から俺は飯も食わず服も着替えず、風呂にすら入っていない状態だった。

 

 さすがに不快感を覚えたため適当にシャワーを浴びた後、俺は買い置きしてあったカップ麺を乱雑に漁る。

 

 何も考えずお湯が沸くのを数分間待っていたら、唐突に玄関からインターホンが鳴った。

 

 こんな深夜に、しかも謹慎期間中の俺を訪ねてくる人間なんているのか。

 

 おそらく部屋を間違えたのだろう。俺は無視して、やかんの前に立つ。

 

 ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン……。

 

 先程から連続して音が鳴っている。どうやら本当に、俺の部屋を訪ねてきたようだ。

 

 仕方ないから玄関へ足を運んで、はいはいと扉を開ける。

 

 

 

「…………あ? 理事長?」

 

 

 

 玄関先で立っていた人の姿には見覚えがあった。

 

 比較的小柄で、少女と形容してもおかしくない年齢の、栗毛の女。

 

 トレセン学園理事長──秋川やよい。

 

「訪問。夜分遅くにすまない。君と話がしたくてここに来た」

「……俺、謹慎中ですよ?」

「うむ、当然把握している。故に、わたしは忍びで足を運んだ」

 

 確かに、俺の目の前にいるのは理事長一人だ。普段は必ず傍で控えているたづなさんの姿が、今日に限っては見当たらない。

 

「要求っ。早く中に入れてくれないか? たづなに見つかってしまう。それに、夜は冷えるからな」

 

 俺が返事をする前に、理事長は扉の隙間から猫のようにスルッと入ってきてしまった。

 

 たづなさんに無断でトレーナー寮へ来たのか。後でどうなっても知らないぞ。

 

 今の俺に子供を追い出す気力は残っていなかったので、仕方なく扉を閉めて理事長の後に続いた。

 

「清潔。過酷な業務に従事する中でも、部屋の掃除を怠らないとは良い心掛けだ」

「そりゃどうも」

 

 俺の場合、片付けるようなものがほとんど無いからなんだけどな。

 

「おお! これは、カップラーメン!」

「なんだ、食ったことないのか?」

「何度か食べようと思ったが、毎回たづなに止められる」

 

 理事長は年相応か、それよりも幼い子供のように瞳をキラキラさせてカップ麺の容器を眺めていた。

 

「食うか?」

「うむ!」

 

 理事長の純粋すぎる笑顔に、俺は毒気が抜かれたような気がした。

 

 テーブルの椅子にちょこんと座る理事長の前で、俺は沸騰したお湯を容器の中にいれる。

 

 蓋をして三分待つ間に、俺は理事長に問うた。

 

「……それで、こんな時間に何しに来た」

 

 どうせ、ロクな話ではあるまい。

 

「確認。生徒会長のシンボリルドルフから、君のことを聞いた。ウマ娘に手を上げたという話は……事実か?」

「事実だ。何なら、我を忘れて外道に堕ちるところだった」

「把握」

 

 意外だった。学園のウマ娘達を誰よりも大切に思っている理事長のことだから、もっと気性を荒げるものだと思っていた。

 

 子供相手にブチ切れた短気で屑な俺とは違って、理事長は本当にできた人間だ。ふつふつと湧き上がっているであろう感情を、全て理性で律している。

 

「本人達からも事情は伺っている。片方の生徒が泣きじゃくって、あまり会話にならなかったがな」

「……そうですか」

 

 今更罪悪感に浸ってどうするんだよ、俺は。

 

「本人は契約の継続を強く懇願していた。わたしが言うのもアレだが、彼女の話に耳を傾ける気はないか?」

「契約には責任が伴う。一度それを曲げたらおしまいだ」

 

 俺は彼女に条件を提示し、相手が了承した上で契約を結んだ。情に絆されて蔑ろにしていいものでは決してない。

 

「承知。契約違反を犯したのは生徒の方だ。理事長という立場をもってしても、二人の事情に介入することは出来ない」

 

 ()()()()これ以上言及することなく、あっさりと引き下がってくれた。

 

 しかし。

 

「……と、まぁここまでは理事長室で話せば済む内容だ」

 

 ()()()()()()、俺の意志に食い下がった。

 

 彼女なりの配慮なのだろう。誰の邪魔も入らない空間で、対話する機会を設けたということが。

 

 

 

 

 

「──”ミライ”のことを、未だに引きずっているのか?」

 

 

 

 

 

「……知らないな、そんなウマ娘は」

「隠す必要はない。この空間には、わたしと君しかいないのだから」

「……」

 

 秋川の瞳に強く見据えられて、俺は言葉を詰まらせる。

 

 喉の奥がからっからに乾くほど考え込んだ末に、俺はとりあえず話を逸らすことにした。

 

「三分経ったぞ。ほら、割り箸」

「うむ、頂こう」

 

 完成したカップラーメンを秋川の前に差し出す。

 

 箸を二つに割って、容器の蓋を開けながら秋川は言う。

 

「既に引退したチーム・アルデバランのチーフトレーナーから、君の事情は大方聞いている。彼女は君のことを、高く評価していた」

「……そうですか」

 

 言いながら、秋川は両目を輝かせて麺を啜る。

 

「美味ッ!」

 

 夢中になって食べる姿を見て、無意識に俺の口元が綻んだ。

 

 

 

──ねぇトレーナー! これ、すっごく美味しいよ!

 

 

 

……はぁ。目の前の子供に、俺は一体何を重ねているんだか。

 

 

 

「……俺は」

 

 

 

 そして。

 

 

 

 気付けば俺は。

 

 

 

「あの時、選択を間違えた」

 

 

 

 自分の中に封印していた記憶を、ポツポツと、語り始めていた。

 

「俺があいつを……ミライを育てなければ、彼女があんな悲惨な最期を迎えることは無かった」

 

 かさぶたになった古傷を自らの手で掻きむしる。

 

 これ以上苦痛で、不快なことはない。

 

「俺だけが、ミライの夢をへし折ることが出来た」

 

 それでも、心の傷を声という形に変えてしまうのは。

 

「俺だけが、ミライを落ちこぼれのウマ娘に育てることが出来た」

 

 目の前で失われた一つの命に。

 

「俺だけが……ミライを救うことが出来た」

 

 償いをしたかったのかもしれない。

 

「それは結果論に過ぎない」

「違う。()()()()()()()()

「それは、君の特異な”体質”のせいか?」

「そうだ」

 

 俺は分かっていた。

 

 ミライが自身の身体を破壊しかねないほどの才能を秘めていることに、最初から気付いていた。

 

 ()()な俺は彼女の才能が開花することをひたすらに恐れ、ミライを徹底的に落ちこぼれへと追い込んだ。

 

 才能が花開いてしまうその前にミライの心をへし折って、競走とは無縁の人生を歩ませてあげようと思った。

 

 しかしそれが叶う寸前に、俺の方が彼女の熱意に折れてしまった。

 

 走り抜けた先に見える景色が救いようのない破滅と分かった上で、俺はミライを育成した。

 

 これを人殺しと言わずして、何という。

 

「……そうか」

 

 胸の内で整理していた言葉が、いつの間にか声に漏れていたようだ。

 

 赤裸々な俺の本心を聞いた秋川が、深く、静かに頷いた。

 

「自主的なトレーニングを一切許さない徹底した管理主義。ウマ娘達の自主性を尊重するわたしでも、不思議と共感できる」

「そんなんじゃない。俺はただ、臆病なだけなんだ」

 

 俺の手の届かないところで、大切なものを失うのが怖い。

 

 今まで取ってきた行動は全て、臆病な自分自身を殻に閉じ込め、守るためのものだった。

 

「俺は屑だ。ダイヤが走る未来を諦めさせるために、いくつもの策を講じた」

 

 徹底的に自由を拘束し、息苦しさを覚えさせ、俺は()()()()()()()()()()()()()

 

 律儀に契約が継続された場合を想定して、彼女が一番不利になるようなコンディションのメイクデビューを用意した。

 

 

 

 全ては、彼女の才能を開花させないために。

 

 

 

「……なるほど。そして、全ての策を跳ね除ける可能性すら想定して、彼女の身体を完璧に作っていたわけか」

「……」

 

 俺はそんな出来た人間じゃない。

 

 屑なんだ。

 

 契約破棄を仕向けたなどと格好つけ、いざ実際に約束が破られたらトラウマを重ねてしまって、我を忘れて怒り狂う。

 

 指導者としても、人間としても。

 

 俺は屑なんだ。

 

 俺は精神的に不安定な部分がある。ただ理解はしていても、自分で制御することが出来なかった。

 

「……これは蛇足だが、二年間失踪していた君の居場所を特定したのはわたし達ではない。彼女だ」

「ダイヤが?」

「相当慕われているのだろうな。君に対する彼女の執着心は、雇用関係の域を明らかに逸脱している。昔馴染みに抱く以上の感情を持ち合わせていることぐらい、とっくに理解しているだろう?」

「それ以上の感情で行動を起こせば、誰も報われないくそったれな結末を迎えるだけだ」

 

 身をもって経験した人間の言葉だ。

 

 せいぜい心に刻んでおけ。

 

「……変な方向に話が逸れたが、要は俺に、ダイヤとの契約を継続して欲しいってことだろう?」

「左様。こうして話をするために、わたしが君を擁護した」

「……余計なことを」

 

 こんな屑の世話を焼く必要なんて、微塵もないだろうに。

 

「君は今、精神が非常に不安定な状態だ。そんな中、わたし達は君を強引に復帰させてしまった……。この騒動の全責任はわたしが持つ。せめてもの償いだ。少しでも君の負担が軽くなるように、腕の良いカウンセラーを紹介しよう。これの礼も含めてな」

 

 秋川はいつの間にか、カップラーメンを完食し終えていた。

 

「馳走になった。とても美味しかった。良ければまた、こうして食べさせてくれ」

「……もう少し明るい時間帯にしてくれ」

「うむ!」

 

 唐突に現れて、嵐のように爪痕を残していった秋川やよい。

 

 大胆でわんぱくな一面を持ちつつ、確固たる信念と人に寄り添う優しさを兼ね備えた彼女はまさしく、理事長という器に相応しい人物だ。

 

 俺は秋川を玄関まで見送りにいく。

 

「溜め込んでいたものを吐き出すと、少しは楽になるだろう? ……根本的な原因を作ってしまったわたしが言うのも、お門違いか」

「……そんなことは」

 

 しかし、こんな年下の少女に気遣われるというのは面目が立たないな。

 

「確認。一週間後、もう一度君の答えを聞く。今度はもう引き留めるような真似はしない。金輪際、君の余生に関与しないことを誓う。……新星。こんな状況に追い込んだ上でも君に期待してしまうわたしを、どうか許して欲しい」

 

 最後に重くのし掛かるような言葉を残して、秋川は俺の部屋を後にした。

 

「……俺の飯」

 

 秋川の訪問に意識を奪われていたせいか。

 

 俺はまだ空腹のままだ。

 

 湯を沸かしなおす間に、俺は今後のことをぼーっと考える。

 

 今回の事態は俺だけの問題が解決すれば終わり、というわけではない。

 

 今後俺は、ウマ娘に暴行を振るったトレーナーという印象で認識されることだろう。身体に刻み込まれた刺青のように、簡単に消えるものではない。

 

 加えて、この二ヶ月で築き上げてきた担当ウマ娘との関係にも亀裂を入れてしまった。もはや、以前のように接することは出来ない。

 

 山積みの問題を前にして、身から出た錆とはいえ俺は頭を抱えざるを得なかった。

 

 正直、担当ウマ娘の契約違反という比較的正当な理由で、俺はこのまま失踪するべきじゃないかと思う。

 

 なぜなら、契約とは情に絆されて蔑ろにしていいものでは無いからである。

 

 

 

 色々と、俺の中で整理する時間が必要だ。

 

 

 

 俺が俺と、向き合うための時間が必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メイクデビュー当日、俺は地下バ道で落ち着かない様子のミライを見守っていた。

 

「やばいトレーナー。緊張しすぎて、吐きそう……」

 

 パドックでの衣装披露を終え、レース本番まではまだ時間があった。

 

 桃色のブルマに無機質なゼッケンを身につけて、二人揃って出走の時を待つ。

 

 チーム・アルデバランという肩書きもあり、ミライは当然本レースの一番人気におされた。

 

 会場に押しかけた大半の観客が、ミライの華々しいデビューと今後の活躍に胸を躍らせていることだろう。

 

 そんなミライがまさか、模擬レースで万年びりっけつだった落ちこぼれのウマ娘だとは夢にも思うまい。

 

「落ち着いて。トレーニング通りに走れば、ミライは必ず一着になれる」

 

 俺は緊張で青ざめるミライの背中をさすりながら、激励の言葉をおくった。

 

「ほら、深呼吸」

「すぅううううう〜………………はぁあああああ………………」

 

 爆発寸前の心臓に手を当て、深呼吸を繰り返すこと数回。次第にミライは平常心を取り戻していく。

 

「ふぅ…………。ありがと、トレーナー」

「ああ」

 

 緊張で表情筋が凝り固まっているのか、ミライの笑顔はまだ硬い。このままでは、レースに多少なりとも影響が出るかもしれないな。

 

「ねぇ、トレーナー」

「うん?」

「ありがとね」

 

 ミライが急に振り返り、俺に向けて礼を言ってきた。

 

 突然どうした、そんな改って。

 

「落ちこぼれだった私を、ここまで連れてきてくれて。私、本当に感謝してる」

「……そうか」

「模擬レースで負け続けて、癇癪を起こした私を見捨てないでくれて。私、本当に嬉しかった」

 

 なんだよ、まるで愛の告白みたいだな。

 

「告白……そうかもしれないね。あはっ」

 

……しまった。声に出ていたか。

 

「……あくまでこれはデビュー戦だからな。一世一代の大勝負ってわけじゃないんだぞ?」

「あははっ。分かってるよ」

 

 こいつ、トレーナーの俺をからかって楽しんでいるのか?

 

「……でも、それくらい思い入れの強いレースになるかも。私、レースには一生縁が無いのかなって思ってたから」

 

 遠い目をして、苦渋を舐めた過去に想いを馳せるミライ。

 

 そんな彼女の姿を見て、俺の胸に罪悪感が込み上げてくる。

 

「私、ようやくスタートラインに立てるんだよね?」

「……ああ」

 

 負の感情を紛らせるように、俺は夢へ向かって駆け出すミライの背中を押す。

 

「応援してる。精一杯、走ってこい」

 

 出走の時間が迫っている。

 

 ミライがターフに足を踏み入れるその瞬間まで、俺はトレーナーとして彼女の背後に控える。

 

 ターフへ繋がる地下バ道の先は、輝かしい光で満ちていた。熱気がこもった歓声が溢れ、俺の鼓膜をぼんやりと揺らしている。

 

「トレーナー。私、世界一のウマ娘になるっていう夢があるの」

 

 いつの日か、ミライが涙をこぼしながら打ち明けた壮大な野心。

 

「世界一のウマ娘になって、私ね」

 

 夢の終点へと行き着く片道切符を切って、ミライは光の中へと歩みを進める。

 

 

 

 

 

「──みんなが憧れるようなウマ娘になりたいんだ!」

 

 

 

 

 

 大きな夢と希望を背負って、ミライはターフの世界に降り立つ。

 

「行ってくるね、トレーナー!」

 

 最高の笑顔を浮かべる少女を送り届けてから間もなくして。

 

 

 

 

 

 

 

──俺は、伝説の幕が開ける瞬間に立ち会ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 



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13:空回り、綻ぶ歯車

「──すまなかった」

 

 謹慎期間が明けた俺は、真っ先にこの事態の被害者となったキタサンブラックのいる教室へ足を運び、深々と頭を下げた。

 

 教室へ足を運ぶ途中、俺は嫌悪や敵意のこもった視線を一身に浴びることとなった。

 

 想像はしていたが、俺が起こした問題は周知のものとなっていたようだ。

 

 こうして頭を下げる最中も、多くのウマ娘達から嫌悪的な眼差しが飛んできているのを感じる。

 

 突然教室に入ってきて、突然謝罪されて、キタサンブラックはどうやら困惑しているようだ。

 

 俺の謝罪を受けて、キタサンブラックが今どのような表情を浮かべているかは定かではない。

 

「ウマ娘のパートナーであるトレーナーとして、俺は君に対してあるまじき行動を取った」

 

 許して欲しいとは思わない。

 

 些細なことで気が動転し、衝動に駆られて理性に欠いた行為を働いた俺が招いた事態だ。トレーナーとして、大人として、潔く罪を認めなければならない。

 

「すまなかった」

 

 俺はキタサンブラックの心に、傷を付けてしまったかもしれない。

 

 青春時代を共に駆けるトレーナーという像に、不信感を抱かせてしまったかもしれない。

 

「……」

 

 キタサンブラックからの返事は無い。

 

 俺は一秒が無限に引き延ばされたような錯覚に陥る中、彼女の前で頭を下げ続ける。

 

「……あの。一つ、聞きたいんですけど」

 

 沈黙した空間に、最初に亀裂を入れたのはキタサンブラックだった。

 

 俺は素直にキタサンブラックの声に耳を傾ける。当然、視線は床に向いたまま。

 

「あなたはまだ……ダイヤちゃんのトレーナーですか?」

 

 キタサンブラックの背後に隠れた人影が、ビクンと揺らぐ。

 

 何故このタイミングで、こんな質問を……?

 

 いや、今それを考えるのは得策では無い。

 

 俺はキタサンブラックの問いに対して、正直に答える。

 

()()()

 

 キタサンブラックの背後に潜む人影が、今度は嬉しそうに揺らいだ。

 

「そうですか……良かったです」

 

 優しいな、君は。この状況においても、友達を優先できるだなんて。

 

「あの……顔を上げてください、トレーナーさん。ダイヤちゃんは、何も悪く無いんです」

 

 理事長の秋川から話を聞いたことで、大方の事情は把握していた。

 

 目先の出来事に囚われて、その背景に気を配ろうともしなかった。

 

 こんな自分が本当に嫌になる。

 

「……ああ」

 

 結論から言うと、俺は一週間の謹慎期間を経て、ダイヤとの契約を継続することを選択した。

 

 ダイヤが約束を破って自主トレを行った背景や、俺のトレーナーとしての落ち度など、様々な事情を加味して()()()()判断し、契約を破棄するには至らないと結論付けた。

 

「あの、もうすぐ授業が始まるので……」

「ああ、もうそんな時間か……本当に、申し訳ない」

 

 俺はこれ以上彼女達に迷惑をかけてはいけないと思い、この場から立ち去ることにした。

 

「ダイヤ、少し良いかな」

「は、はいっ」

 

 教室を後にする寸前、俺は少しだけ担当ウマ娘の時間を借りる。

 

 ダイヤは大人しく俺に続いて、教室を出た。

 

「この前はすまなかった」

「い、いえっ……私が、約束を破ってしまったのが原因ですから」

 

 ダイヤの表情は見るからに不安で押しつぶされそうであった。

 

 宝石のように輝く強かな笑顔が魅力だったのに。

 

 俺が全部、奪ってしまったんだな。

 

 罪悪感で押し潰されそうになる前に、俺は手にした鞄のファスナーを上げる。

 

「メイクデビューまであと一週間。レースに向けて調整するメニューを組んだ」

 

 そして、俺はダイヤに一週間分のトレーニングメニューが記載された書類を渡した。

 

「先日の一件で、俺はまだ処理しなきゃいけないことが多くある。その間、俺はトレーニングに付き添えない」

「…………つまり、()()()()ってことですか?」

「そうだ」

 

 今まで約束を破れば契約破棄と釘を刺していたのに。こんな手のひら返しみたいな真似は、ダイヤに申し訳が立たないな。

 

「色々と抑圧されて、辛かっただろう。少し、羽を休める感覚で好きにやってみろ」

 

 俺は以前まで、ダイヤが自主トレすることをあんなに恐れていたはずなのに……どうして今の俺はこんなに、平然としていられるんだろう。

 

 それっぽい理由をつらつらと並べて、俺は彼女の返事を待たずにそそくさと踵を返した。

 

 だが実際に、俺がダイヤを指導する時間が無いのも確かである。

 

 今日はこの後、謹慎期間中に俺の元へ訪れた理事長の紹介で、カウンセラーと面会する予定が入っていた。

 

 二年前。大切なものをどこかに落としてから、俺は少しおかしくなった。

 

 精神疾患なんていう都合の良い言葉を使うつもりは無いが、一度検査を受けてみては? という理事長の厚意に預かることにした。

 

 冷静な視点で自分を客観すると、つくづく俺はこの仕事に向いていないと思う。

 

 トレセン学園から去れる絶好の機会だったのに。

 

 契約は情に絆されて蔑ろにしていいものではないと、豪語していたのにも関わらず。

 

 一番情に絆されたのは……俺じゃないか。

 

 

 

***

 

 

 

 一週間という謹慎期間が明け、面会謝絶だった兄さまと会えるようになった。

 

 けれど、約束を反故にしてしまった私は兄さまにどんな顔をして会えば良いのか分からなくて。

 

 ひとまず放課後までに考えようと私は教室へ向かう。

 

「おはよう、ダイヤちゃん」

「おはよう、キタちゃん」

 

 先日の一件に巻き込んでしまった親友のキタちゃんは、普段と()()()()()()()()()()()声を掛けてくれた。

 

「ダイヤちゃん。そういえばあたし、メイクデビューで一着を取れたんだ」

「うん、ウマチューブで見てたよ。凄かったね」

 

 先週末、キタちゃんはメイクデビューに出走し、見事一着を勝ち取った。

 

 将来の可能性を感じさせるようなキタちゃんの走りは、何だかとても眩しくて。

 

 羨ましいな……なんて、感想を抱いていた。

 

 授業が始まるまでキタちゃんと雑談に耽るも、私は会話に身が入らず、どこか上の空。

 

 私の思考を支配するのは、どれもこれも兄さまのことばかり。

 

 この後、どんな言葉をきっかけにして兄さまに話しかければ良いだろうか。

 

 失望させてしまった兄さまの信頼を、取り戻すことが出来るのだろうか。

 

 そもそも兄さまは今、私の担当トレーナーなのだろうか。

 

 分からない。分からないのが……たまらなく怖い。

 

「……ダイヤちゃん?」

 

 もし、兄さまの言葉通り契約が破棄されていたら。

 

 私は一体どうすれば良い?

 

 もう一度図々しく契約を持ちかけるか。無理だ。そんなことをしたら、今度こそ嫌われてしまう。

 

 だったら諦める?

 

 それは絶対に嫌だ。私に愛想を尽かして、他のウマ娘に目移りして契約を持ちかけてしまったら。

 

 多分私は耐えられない。

 

 どうか私を見捨てないで欲しい。

 

 おこがましいと分かっていても、私はもう一度彼に振り向いて欲しいと思ってしまう。

 

 自分の不注意が招いた事態に頭を抱えていると、少し顔に出てしまっていたようだ。

 

「…………ダイヤちゃん、あの──」

 

 キタちゃんの声音が変化した瞬間、教室の扉が静かに開く。

 

 教室内がざわつく。私は何かあったのかなと視線を向けて……原因はすぐに分かった。

 

「……兄さまっ」

 

 先日の騒動で、兄さまの噂は学園中に広がっていた。謹慎期間ということもあって噂がひとり歩きし、歪曲した事実が形成されていた。

 

 非難の矛先の一部は兄さまの担当ウマ娘である私にも向けられたが……全くその通りだったので、私は決して否定することをしなかった。

 

 スーツ姿の兄さまは真っ直ぐに私達の方へ歩いてきて。

 

 

 

 

 

 キタちゃんの前で、深々と頭を下げた。

 

 

 

 

 

「すまなかった」

 

 言葉を紡ぎ終えてもまだ、兄さまは顔を上げなかった。

 

 キタちゃんは明らかに困惑していた。

 

 しばらくして、キタちゃんが固く閉じていた唇を開く。

 

「……あの。一つ、聞きたいんですけど。あなたはまだ……ダイヤちゃんのトレーナーですか?」

 

 唐突に何を聞いているのと、覚悟が決まっていない私の心臓が大きく跳ねた。

 

 キタちゃんの背後で、私はおそるおそる兄さまの次の言葉を待つ。

 

「そうだ」

 

 そして、さも当然と言わんばかりにあっさり答えるものだから、何だか拍子抜けしてしまった。

 

 無意識に尻尾が揺れる。

 

 私の心配は杞憂だった。安心感で胸が満たされて、張り詰めた緊張の糸が解ける。気を抜くと、目尻から涙が伝ってしまいそうだった。

 

 兄さまとキタちゃんの会話が少し続いたあと。

 

「ダイヤ、少し良いかな」

 

 胸を撫で下ろす私に声がかけられた。

 

「は、はいっ」

 

 嬉しさとか、安心感とか、何かもう色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って声が裏返ってしまった。

 

 教室を出る兄さまの後を、私は忠誠心の強い大型犬のような態度で続いた。

 

「この前はすまなかった」

「い、いえっ……私が、約束を破ってしまったのが原因ですから」

 

 兄さまから契約継続の意向を確認できて安堵する一方、私のせいで学園中から非難を浴びている彼に対して、今更ながら罪悪感がわきあがってくる。

 

 それでもやっぱり、兄さまが担当トレーナーのままでいてくれることへの嬉しさが勝ってしまった。

 

 しばらく幸福感を噛み締めた後、私は兄さまから複数枚の書類を受け取った。

 

 私は意気揚々とその書類に視線を落とす。

 

「メイクデビューまであと一週間。レースに向けて調整するメニューを組んだ」

 

 

 

 

 

 

 

……え?

 

 

 

 

 

 

 

「先日の一件で、俺はまだ処理しなきゃいけないことが多くある。その間、俺はトレーニングに付き添えない」

「…………つまり、自主トレってことですか?」

「そうだ」

 

 兄さまから肯定の言葉を聞いて……私は悟る。

 

「色々と抑圧されて、辛かっただろう。少し、羽を休める感覚で好きにやってみろ」

 

 私達の関係は、表面上何の変化もない。担当ウマ娘と担当トレーナーという、ごくごくありふれた関係。

 

 でもその中身は、以前とは全く別物になってしまった。

 

 見て呉れを取り繕っただけの安っぽいハリボテ。

 

 虚しさだけが詰まった空っぽのまがいもの。

 

 私と兄さまを繋ぐ絆は多分もう、ぐちゃぐちゃに……。

 

 呆然とする私をよそに、それじゃあ、と短く言葉を残して、兄さまは踵を返してしまう。

 

 待って……っ。

 

 兄さまを引き留めようとしたけれど、声が出ない。

 

 兄さまの背中が遠ざかっていく。

 

 その距離が私と兄さまのありのままを示しているように感じて、心臓がぎゅうと締め付けられた。

 

 私はそんな被虐的な妄想を振り払うように、教室へ飛び込んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 カウンセラーによって行われた複数の心理検査の結果、俺は精神の許容範囲を超えた極度のストレスによる、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。

 

 精神疾患においてありふれた病名に、俺はそうですかと頷くことしか出来なかった。

 

 加えてうつ病と統合失調症を併発しており、長期的な治療を実施する運びとなった。

 

 実感はいまいちわかなかった。それどころか、俺の愚行に大義名分が生まれてしまったようで情けないとすら感じていた。

 

 検査を終えたその足で俺は理事長室へ向かい、業務続行の意を示した。秋川は年相応な様子で喜んでいた。

 

 しばらくの間は、俺が請け負っていた事務作業を軽減してくれるそうだ。

 

 俺は素直に、彼女達の厚意に甘えることにした。

 

 けれど仕事が無くなった訳ではないので、足取りは重いが部室に立ち寄る。道中、お世辞にも心地良いとは言えない視線の雨を身体に浴びた。

 

 部室の鍵を開けて、中に入る。

 

 

 

──あ、トレーナー。おかえり!

 

 

 

 一瞬、存在しない女の幻覚を見た。間髪入れず、頭痛と共にそれを振り払う。

 

 部室には当然誰もいない。

 

 席に着く前に俺はコーヒーを淹れた。

 

 一息つく。

 

 俺はこれから、先延ばしにし続けたチーム名を決めなければならない。ダイヤのメイクデビューの出走登録期限が間近に迫っているのだ。

 

 いくつか案を出しては消して、浮かべては振り払う。

 

──ねぇ、そんなに悩むことかな?

 

 以前は悪夢とか、面影を他人に重ねるだけだったのに、今や幻覚として()()を体現してしまうとは。

 

 とうとうイカれてしまったな、俺は。

 

──本当はもう、決めてるんでしょ?

 

 心の底で澱んでいた未練が、耳に馴染んだ声音を騙って問いかけてきた。

 

「違う。そんなことをしたら、それはただの押しつけだ」

 

 ”その名前”は俺とダイヤを象徴する名前では無い。

 

 これは俺と、俺の未練を象徴する名前だ。

 

──私との思い出を否定するの?

 

 確かに、この名前には彼女との思い出がたくさん詰まっている。

 

「……違う。これは決別だ」

 

 けれど過去の思い出なんて、今後には不要なもの。

 

 俺には過去を乗り越えて、前に進むための標語が必要なんだ。

 

──それを否定って言うんだよ、トレーナー。

 

 俺が生み出した幻覚は、いちいち神経を逆撫でする。

 

「それはっ──」

 

 それは違うと、声を荒げて主張しようとした俺はふと気付く。

 

 そもそもこの幻覚自体が、過去を否定している裏付けになっているんじゃないのか、と。

 

「……」

 

 俺はもう考えるのが嫌になって、机にペンを投げ出した。

 

 おそらく今日はもう仕事にならない。

 

 卓上を乱雑にしたまま、俺は部室を出て行った。

 

 

 

***

 

 

 

 先日の一件で、気分転換に学園の敷地を散策することが難しくなった。

 

 そそくさと寮に戻ろうとした俺だったが、いつの間にか足がトラックの方へと向かっていた。

 

 さながら未練に縋る亡霊のような足取りだった。

 

 ウマ娘達が真剣に汗を流している様子を、俺は遠慮がちに見る。

 

 別に目的なんて無かった。こんな場所に来るはずじゃ無かった。

 

 それでも俺は多分、無意識の内に()()のことを……。

 

「……っ」

 

 油断したのも束の間。

 

 トラックの隅の隅でひそかに佇む俺と、一生懸命トレーニングに励む彼女と──ダイヤと目があった。

 

 物陰に隠れてやり過ごそうにも、あいにく俺が立っているのは遮蔽物が一切ない場所だった。

 

 こちらの存在に気付いたダイヤは、あまり軽快とは言えない足取りで俺のもとへとやってきた。

 

「その、えっと……トレーニングを見にきてくれたのですか?」

「……まぁな」

 

 二人の間にぎこちない空気が漂う。

 

 お互いに顔色をうかがうような、よそよそしい態度だった。

 

「……? あの。顔色が悪いようですが、お体が優れないのですか?」

 

 はたから見ると、俺は顔色が悪いらしい。

 

「……かもしれないな」

 

 何となくそんな自覚はあった。

 

「その、ご自身のお体には気を遣って下さい。兄さまに何かあったら私、心配してしまいますから……」

「あぁ……ありがとう」

「……」

「……」

 

 会話が途切れた。

 

 気まずい。

 

 何か、何かないかと疲弊した頭を回転させる。

 

「……ダイヤ。この前はその……すまなかった」

 

 必死に考えた結果、このギクシャクした関係の原因を話題に挙げるとは。俺を客観視している自分が笑っていた。

 

「事情も聞かずに怒鳴りつけて、本当に大人げない真似をしたと思う」

 

 あの時、ダイヤの言葉に耳を傾ける余裕があればこんな事態にはならなかった。

 

 これは体裁を取り繕うみっともない言い訳のように聞こえるかもしれないが、俺は心の底からダイヤのことが心配だったのだ。

 

 

 

 

 

 俺の手が届かない場所で大切なひとが傷ついてしまうことが、どうしても耐えられなかったから。

 

 

 

 

 

 もう二度とあんな思いをしたくなくて、それで……。

 

「ごめん」

 

……いや、違うな。結局は自分に対する保身なのだ。

 

 自分が傷付きたくないから、ダイヤの意思を無視し、身勝手な善意を押し付けて自己保身に走る。

 

 そんな、どうしようもない屑。

 

 多分、俺は入れ込み過ぎる性格なのだ。

 

 担当トレーナーと担当ウマ娘という関係以上に、不要な情熱を抱いてしまうのだろう。

 

 何故なら俺には前例があるから。

 

「……」

 

 今後、俺がウマ娘達と接するためには線引きが必要だ。

 

 不用意に肩入れせず、理想的な関係でいるために。

 

「わ、私は全然気にしてないですっ。原因は私なので……兄さまが謝る必要は無いです」

 

 こんな俺を前にしても、君はまだ昔のように慕ってくれるのか。

 

 優しいな、ダイヤは。

 

「……兄さま?」

「今後のために一つ確認しておこう。ダイヤ、俺とお前の関係は何だ?」

「幼なじみです」

「違うだろう?」

「……」

 

 その優しさに俺は甘えていた。

 

「……担当トレーナーと、担当ウマ娘です」

 

 だから、いつまで経っても俺は成長出来ない。

 

 ()()()()()に対する清算が必要だ。

 

 二人の関係性にヒビが入ってしまったこの機会に。

 

 いっそのこと全部ぶっ壊して、新しい関係を構築するのも悪くないんじゃないだろうか。

 

「俺はダイヤのトレーナーだ。今後、俺のことは”トレーナー”と呼んで欲しい」

「に、兄さまっ。それはっ……!」

 

 そうすれば俺は、ダイヤに対して寛容になれる。

 

 義務的な関係に身を置くことで、柔軟な対応が出来る。

 

 彼女を伸び伸びと走らせてあげることが出来る。

 

「違うだろ?」

「……」

 

 俺が、俺の理想とするトレーナーでいられる。

 

「……はい。トレーナー、さん」

「そうだ。それで良い」

 

 保身。

 

 どこまでいっても、自分の心を守るための身勝手な押しつけ。

 

「トレーニングの邪魔をしてすまなかった。……それじゃあ」

 

 新しい関係の構築、なんて格好良い言葉を並べているけれど。相手の意思なんて完全に無視だ。言葉を返す暇を与えず、俺はそそくさと立ち去った。

 

 俺はただ、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 なんて弱い男なんだ。俺は。

 

 救いようが無くて、反吐がでる。



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14:星の残滓

描写を一部変更しました。


 最近どうも寝つきが悪くて、夜中に目が冴えてしまうことが多くなった。

 

 相変わらず毎夜のように悪夢にうなされ、強い幻覚に見舞われる。

 

 最近一層、俺はおかしくなり始めた。

 

「……なぁ、ミライ。最近、眠れないんだ」

『時差ボケじゃない?』

「まさか、もうずっと日本にいるんだよ?」

 

 一人きりの空間にいると俺は自ら望んで……嬉々として幻覚を受け入れるようになった。

 

 幻覚は過去の未練。

 

 つまり、幻覚を見ている間は過去に戻れる。

 

 ()()()()()()()

 

『何か悩みごと?』

「悩み……ああ、そういえば最近ウマ娘を担当することになったんだ。だけどまだ、チーム名が思い浮かばなくてさ」

 

 壊れた心の隙間を埋めるように、俺はミライに縋る。

 

『なんだ、そんなことで悩んでいたんだ。あるじゃん、私達にぴったりの名前が──』

 

 心地の良い声音に耳を傾ける。

 

 俺は辛い現実から目を背けて、全身を思い出の世界に委ねた。

 

「……っ。ぅ、うぁ……っ」

 

 でも、全てを投げ出そうとする寸前に幻覚は霧散し、強い頭痛と吐き気に襲われる。

 

 ここ数日、俺は廃人のような行為をひたすら繰り返していた。

 

 寮に引きこもって、仕事に手をつけていない。

 

 担当ウマ娘から連絡が何件か届いていたが、俺は返信することが出来なかった。辛い現実から身を守るために、スマホを壊してしまったからだ。

 

 どうしよう、どうしよう。

 

 担当ウマ娘のメイクデビューの出走届けを出さないと。

 

 ああ、でもその前にチーム名を決めなきゃ。

 

 だけどなかなか良い案が思い浮かばない。

 

 きっと頭を使いすぎて疲れているんだ。

 

 少し寝よう。

 

 

 

 

 

 

 

 そしたらまた、俺は彼女に逢えるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 最近、兄さ……トレーナーさんと連絡が取れない。

 

 メッセージを送信しても既読すら付かないし、電話をかけても一向に繋がる気配がしないのだ。

 

「トレーナーさん……」

 

 私のせいだ。私が約束を破ったばかりに、こんな事態になってしまったのだ。

 

 トレーナーさんは今、学園中から歪曲した非難を浴びせられている。

 

 私の前に顔を出さないのは、きっと人前に出るのが怖くなってしまったからだ。

 

 トレーナーさんに指示されたトレーニングメニューをこなした後、私は脇目も振らずに部室へと戻る。

 

 ジャージから制服に着替えた後、私は特に用事も無く門限ギリギリまで部室に居座る。

 

 仕事で忙しいトレーナーさんのことだ。もしかしたら、部室に足を運ぶ機会があるかもしれない。

 

 ここ数日、私はこんな感じで生活を送っていた。

 

 手にしたスマホからメッセージを送信する。

 

『トレーナーさん。今、お忙しいですか?』

 

『良ければお話がしたいです』

 

 当然、返事は無い。

 

 電話に切り替えるも、残念ながら繋がらない。

 

「……はぁ」

 

 私はがっくりと肩を落とした。

 

 最後にトレーナーさんと顔を合わせた時、とても思い詰めた表情をしていた。

 

 きっと、私が原因で苦しんでいるんだ。

 

 そう思うといてもたってもいられなくなって、私は部室を飛び出した。

 

 

 

***

 

 

 

「──トレーナーさんの寮、ですか?」

「はい。よろしければ、教えて頂けないでしょうか?」

 

 部室を飛び出したその足で、私は理事長室へ向かった。

 

 秋川理事長とたづなさんは忙しなく業務に勤しんでいたが、私の訪問を快く受け入れてくれた。

 

 私は手短に用件を説明する。

 

「……そういえば最近、トレーナーさんの姿を見かけませんね」

「そうなんですか?」

「はい。いくつか連絡を送ってはいるのですが、一向に返事が無くて……」

 

 突然音信不通になってしまったトレーナーさんのことを、たづなさんも心配していたようだった。

 

「……理事長」

「うむ」

 

 たづなさんと秋川理事長が目配せすると、業務を中断して席から立ち上がった。

 

「同行。わたし達も彼のことが心配だ。寮にいるかは分からないが、一度確認しに行こう」

「はい!」

 

 理事長達の同意を得て、私はトレーナーさんが住む場所へと向かった。

 

 

 

***

 

 

 

 トレーナーさんが住む寮は、学園から徒歩数分という距離にあった。

 

 私は二人の後に続き、ついにトレーナーさんの部屋の前に立つ。

 

「ここが、トレーナーさんのお部屋です」

 

 ごくりと、緊張で唾をのむ。

 

 彼がいる保証なんてどこにも無いけれど、きっとここにいるだろうという漠然とした期待を胸に、インターホンを鳴らす。

 

 しばらくして、部屋の奥から物音が聞こえてきた。

 

 トレーナーさんがいる。それだけで、胸が高鳴った。

 

 玄関の扉がゆっくりと開く。

 

「どちら様で……」

 

 くたびれたスーツ姿のトレーナーさんが、寝ぼけ眼を擦りながら部屋から出てきた。

 

 私は数日ぶりの再会に心が踊った。

 

 トレーナーさんは以前よりも少しだけ(やつ)れていた。血色も悪くて目元に大きな隈が出来ている。

 

「あ、あのっ。トレーナーさん、私っ──」

 

 トレーナーさんは、緊張で裏返った声を発した私を見下ろす。

 

 すると、彼の死んだ魚のような目に生気が宿った。

 

 花が咲いたように、表情が蘇る。

 

 

 

 

 

 

「──ああ! よく来てくれたね、"()()()"」

 

 

 

 

 

 

 私は一瞬、自分の耳を疑った。

 

 彼は今、私の姿を見てなんと言った?

 

 疑問を問いかける間も無く、トレーナーさんは饒舌に喋りかけてきた。

 

「しばらく姿を見せないから、心配していたんだ。なぁ"ミライ"、俺はずっと待っていたんだよ」

 

 ミライ? 

 

 私はサトノダイヤモンドだ。トレーナーさんは一体、何を言っているのか。

 

 困惑する私をよそに、トレーナーさんは続ける。

 

「早く次のレースの作戦会議をしよう。次の相手は日本の強豪が大勢いるんだ。戦う前に、入念な準備をしないとね」

 

 おかしい。トレーナーさんは目の前の私を真っ直ぐ見つめているが、()()()()()()()()()

 

 私の背後に控える二人も、トレーナーさんの豹変ぶりに言葉を無くしていた。

 

「こんなところで突っ立っていないで、早く上がると良い。風邪を引いてしまう」

 

 いよいよ支離滅裂な言動に、私達は異変を察知し始めた。

 

 動揺して棒立ちする私だったが、急に身体の重心が前へと傾く。

 

「えっ?」

 

 突然トレーナーさんに手首を掴まれ、身体を強く引っ張られたのである。

 

「い、いやっ」

 

 得体の知れない恐怖心を覚え、私はトレーナーさんの手を振り払う。

 

 突然の出来事で力加減を忘れてしまい、勢い余って今度はトレーナーさんが姿勢を崩してしまった。

 

 トレーナーさんが尻餅をついて、背後に倒れ込む。

 

「……ぇ、ぁ、ご、ごめんなさいっ」

 

 慌ててトレーナーさんを起こそうと歩み寄る。

 

 しかし、

 

「お、お前……ミライじゃないな」

「え?」

「ちっ、近寄るなっ」

 

 尻もちをついたまま、過呼吸気味にトレーナーさんが後ずさる。

 

 こんな痛々しいトレーナーさんの姿を、私は見たことがなかった。

 

 彼は一体、何を見ているのだろう。何を私に重ねているのだろう。

 

 これではまるで会話にならない。その様子ははっきり言って、異常だった。

 

「……たづな」

「はい」

 

 私の動揺をよそに、後ろで待機していた二人が動いた。

 

 秋川理事長の合図でたづなさんが動いた思ったら、次の瞬間、トレーナーさんの意識がぷつりと途絶えてしまったのだ。

 

 たづなさんが、トレーナーさんに何かをしたのだろう。

 

「驚愕……まさか数日で、ここまで急激に悪化していたとは」

「救急車を呼びますか?」

「いや、無理に環境を変えてしまうとかえって危険だろう。他の者に見られるのもあまり好ましくない。たづな、彼をベッドに」

「はい」

 

 意識を失ったトレーナーさんを軽々と横抱きにして、たづなさんは部屋の奥へと消えていった。

 

「あ、あの……これって…………」

「ひとまずわたし達も入ろう。話はそれからだ」

 

 秋川理事長の口ぶりから、トレーナーさんがおかしくなった原因に心当たりがあるようだ。

 

 彼女の後に続いて、私はトレーナーさんの部屋へお邪魔する。

 

 トレーナーさんの部屋はきちんと整頓されていた。いや、散らかすような物が何もないと言った方が正解か。

 

「……っ。これ、は…………」

 

 私は視界の隅で、くの字にひしゃげたスマホを見つけてしまった。連絡がつかなかった原因が分かって安心した部分もあったが、それよりもやはり押し寄せる不安の方が大きかった。

 

「あの、理事長。トレーナーさんが急におかしくなってしまった原因に、心当たりがあるようですが……」

「左様。サトノ君、君は彼からどれだけ事情をうかがっている?」

「いえ、私は何も……」

 

 どうやらトレーナーさんは私に隠し事をしていたようだ。

 

 誰にでも明かしたくない秘密はある。頭では分かっているんだけど、何でだろう。心がモヤモヤした。

 

「たづな、彼女に説明を」

「宜しいのですか?」

「彼女は彼の担当ウマ娘だ。知っておいてもらう必要がある」

 

 トレーナーさんの様子を見守っていたたづなさんが、あたふたする私の元へやって来た。

 

「サトノダイヤモンドさん。少し長い話になりますが、宜しいですか?」

「はい……教えて欲しいです。トレーナーさんのこと」

 

 私はトレーナーさんのことが知りたい。出来れば本人の口から直接聞きたかったけれど、わがままは言っていられなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 最初にたづなさんから聞かされたのは、トレーナーさんが複数の精神疾患を併発しているとのことだった。

 

 私はあまりの衝撃で言葉を失った。以前まであんなに優しく熱心に接してくれていたのに。生じたギャップに頭がおかしくなりそうだった。

 

「トレーナーさんが精神疾患と診断されたのは、つい最近です」

「最近……も、もしかしてっ」

 

 トレーナーさんが精神的に追い詰められた原因に、私は心当たりがあった。というか、私が原因そのものだった。

 

「悪化してしまった一要因としては考えられるかもしれませんが、根本的な原因は別にあります」

「別?」

「はい、それも二つ。一つはトレーナーさんが以前、二年間失踪していたことと深い関係があります」

 

 そういえば、と私はハッとした。

 

 私の隣にトレーナーさんがいることが当たり前になっていたせいで、過去に私が血眼になって彼を探していたということをすっかり忘れていた。

 

 辛く心細い過去を忘れ去ってしまうほど、私にとって今が幸せだったということだろうか。

 

「サトノさんは、"()()()"というウマ娘を知っていますか?」

 

 そういえばトレーナーさんもさっき、私を見て"ミライ"という名前を口にしていたっけ。

 

「当然知っています。知っていますが……」

 

 世界最強のウマ娘として名を馳せた"ミライ"なら知っている。トレーナーさん以外には公言していないが、私の密かな憧れだった。

 

 しかし、"ミライ"とトレーナーさんの精神疾患に一体何の関係が?

 

「二年前の凱旋門賞で発生した故障事故……一般的に"星の消失"と呼ばれる出来事に、トレーナーさんは不幸にも、現場で立ち会ってしまったそうです」

 

 "星の消失"による困惑と衝撃は、今でも鮮明に覚えている。

 

「私も本人から聞いたことではないので、少し憶測が混じってしまうのですが」

 

 不幸にも世界一のアイドルウマ娘が逝去した、悲しい出来事だった。

 

「トレーナーさんが失踪し、精神疾患に陥ってしまった原因は……"星の消失"で()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「そうなんですね……………………え?」

 

 

 

 

 

 え、は? え……?

 

 

 

 

 

 私は耳を疑った。

 

 たづなさんが放った言葉が、理解出来なかった。

 

「サトノさんが驚かれるのも無理はありません。規約上、ミライさんはチーム・アルデバランのチーフトレーナーと契約を交わしていましたので」

 

 私が聞きたいのは、そういうことじゃない。

 

「と、トレーナーさんとミライさんって、お知り合いだったのですか……?」

「はい。彼はアメリカへ留学後、才能を買われてチーム・アルデバランに所属した過去をもっています」

「……」

「以前引退されたチーフよりうかがった話ではありますが、ミライの育成はチーム・アルデバランのサブトレーナーであった彼に一任されていたそうです」

 

 ああ、ダメだ。頭が真っ白になる。

 

「…………」

 

 たづなさんが、この期に及んで冗談を口にする人だとは思えない。

 

 つまりトレーナーさんは本当に、ミライさんの……。

 

「“星の消失"後、おそらく悲しみに耐えられなかったのでしょう。トレーナーさんはライセンスを放棄し、行方不明になってしまいました。その後の流れは、サトノさんもご存知かと思います」

 

 以前、食堂でトレーナーさんと雑談した時のことを思い出す。

 

 サブトレーナー時代、彼はとあるウマ娘の面倒を見ていたと口にしていた。あれがまさか、“星"のミライだったなんて誰が想像できよう。

 

「失踪したトレーナーさんを捜索する際、何か手掛かりになるかもしれないと思い、一通りの身辺調査をさせて頂きました。残念ですが、留学中……彼のご両親は不幸にも震災に巻き込まれ、亡くなられていました」

「……………………」

 

 これもまた初耳だった。私は家の者に協力を仰いでトレーナーさんの身元を特定することに成功したが……親族が死去しているという情報までは教えられていなかった。

 

「加えて、トレーナーさんには親戚という繋がりがありませんでした。おそらくご両親の婚姻の際に、いざこざが生じたのかと」

「………………じゃあつまり、トレーナーさんは」

 

 不幸に不幸が重なる、とはまさにこのような事を言うのだろう。

 

 親族を亡くし、最愛の担当ウマ娘を喪い、異郷の地で天涯孤独となってしまったトレーナーさん。

 

 トレーナーさんの境遇を鑑みれば、彼が狂ってしまった理由が痛いほど理解出来た。

 

 彼が一番辛かったとき、誰でもいい。誰かがそばにいてあげられれば……。

 

 これは私の憶測に過ぎないが、先日私のしでかした行為がトレーナーさんの辛い記憶を蘇らせる引き金になってしまったのかもしれない。

 

 二年という長い時間をかけ、やっとの思いで抑え込んだ辛い過去を。

 

 私は愚かにも、呼び覚ましてしまったのかもしれない。

 

「わ、私が今まで、トレーナーさんにしてきたことって……」

 

 家の力を駆使して居場所を特定し、過去の口約束を交渉材料に取り上げて強引に契約を持ちかけ、あまつさえ身勝手に約束を破って不要な批難を浴びせてしまった私の行動は。

 

 全て、彼に対する追い討ちだったのだ。

 

 どこまでも傲慢で自分本位な言動に、おこがましいと分かっていても絶望してしまう私がいた。

 

「サトノさん、あなただけの責任ではありません。業界復帰を強要したURAも、それに賛同した理事長や私にも、責任の一端があります。私達は彼という利益に目が眩み、慮ることを怠りました。これが、もう一つの根本的な原因になります」

「……」

 

 不安と後悔で胸が一杯で、私の視界は真っ暗だった。

 

「今後、私達は全力を上げて彼をサポートしていく予定です。せめて彼が……普通の生活を送れるようになるまでは、必ず。これは、私達が申し上げるのもおこがましいのですが……サトノさん。トレーナーさんの担当ウマ娘として、どうか彼を支えてあげて下さい」

 

 支える? 私が?

 

 彼の全てを壊してしまった私に今更、何が出来るというんだろう。

 

 たづなさんの言葉に、私は返事をする余裕なんて残っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

「……ぁ、れ? ダイヤ?」

「目が覚めましたか?」

 

 目が覚めると、ベッドで横たわる俺の隣に、担当ウマ娘のサトノダイヤモンドが腰掛けていた。

 

 そういえば以前にも、似たような状況があったような気がする。

 

 やがて寝ぼけていた思考がハッキリとしてきた。

 

 最近寝つきが悪くて意識が混濁しているが、ダイヤや理事長達が俺の部屋に訪れたことはぼんやりと覚えている。

 

 そして何となく、俺は自分が取った行動を思い出した。

 

「……すまなかった。最近、ちょっと自分をコントロールするのが難しくて」

 

 相変わらず言い訳がましいが、そのせいでダイヤに多大な迷惑をかけていた。

 

 加えて気が動転し、彼女に強く拒絶されたような記憶も残っていた。

 

 あまつさえ、ダイヤを別の誰かと錯覚して接していたような……。

 

 そういえば、今何時だろう。時間帯によっては、寮の門限があるダイヤを戻してあげなければいけない。

 

「ダイヤ、俺のスマホを知らないか?」

 

 普段はスマホがあるため、掛け時計を部屋に置いていなかった。普段は枕元に置いて眠るのだが、あいにく周辺には無い。

 

「……こちらに」

 

 遠慮がちにダイヤから渡されたそれは、確かに俺のスマホだった。

 

 正確には、俺のスマホ()()()()()だ。

 

「……」

 

 俺は目が点になった。

 

 画面がバッキバキに割れて、くの字にひしゃげている。ガラケーじゃあるまいし。

 

 見るも無惨な姿に成り果てたスマホを見て、俺は乾いた笑みを浮かべるしかない。

 

 多分、俺がやったんだろう。これに関しては全く記憶が無いのだけれど。

 

「すまない。今何時か、教えてくれないか?」

「二十三時です」

「えっと……寮の門限、とっくに過ぎてるぞ?」

「許可は貰っています」

「そうか。なら……良いか」

 

 この言葉を最後に、会話が途切れる。

 

 気まずい。

 

 前回のように逃げ道が無いから、余計にそう感じるのだろう。

 

 何か、何か話題を……。

 

 俺が必死に頭を働かせていると、キキィ……とベッドの軋む音が静寂な部屋に響いた。

 

「……ダイヤ?」

 

 これは一体どういうことだろう。四つん這いになったダイヤが俺ににじり寄って来た。

 

「ごめんなさい」

 

 ダイヤの謝罪が一体何に対するものなのか分からないまま、俺の全身が温もりに包まれた。

 

「……え」

「驚かせてしまって、すみません」

 

 後頭部にダイヤの両腕が回り、視界が年齢に反して豊満な身体に埋もれてしまう。

 

 俺は今、ダイヤに抱きしめられていた。

 

「たづなさんから、全てをうかがいました」

「……それは」

 

 ダイヤの言動から察するに、俺の後ろめたい過去を知ってしまったようだ。

 

 となると当然……。

 

「ミライさんの……担当トレーナーだったのですね」

 

 ミライのことも。

 

「お、俺はそんな……っ」

 

 

 

──そんなウマ娘は知らない。

 

 

 

 などと、言い張るつもりか。

 

「………………ああ、そうだ」

 

 認めなければ。

 

 それは過去を否定することと同じ。

 

「いつの間にか、すごい方になっていられたのですね」

「……すごくなんて無いよ」

 

 俺はただの落ちこぼれで、ミライを殺した屑で。

 

「ごめんなさい」

「どうしてダイヤが謝るんだ?」

「全部……私を思っての行動だったのですよね」

 

 それは、ダイヤの自由を完全に拘束したトレーニングを組んだことに対するものだろうか。

 

「……考え過ぎだ」

「それなのに私は、トレーナーさんの気持ちを汲み取れず自分本位な行動ばかり……本当に、腹が立ちます」

 

 ダイヤに施した教育は、俺の弱さの表れ。

 

 お前が謝る必要なんて、これっぽっちもない。

 

「トレーナーさんのことを本当に思うなら……私は約束通り、契約を破棄するべきなのかもしれません」

「……」

 

 ダイヤの曇った表情を見て、俺はその言葉を否定することが出来なかった。

 

 何より俺自身が。

 

 ダイヤが契約を、自発的に取り消すように仕向けた節があるのだから。

 

「最低だって分かっています。おこがましいのは承知の上です。それでも、それでも私は……っ」

 

 ダイヤの宝石のような瞳が、俺の濁り切った目を射抜く。

 

 覚悟と決意を強く固めた凛々しい表情に、俺の視線が吸い込まれる。

 

 

 

 

 

 

 

「──あなたに、支えて欲しいんです」

 

 

 

 

 

 

 

 俺を抱擁するダイヤの両腕に、わずかに力がこもった。

 

「そのかわり、私があなたを支えます」

「……え?」

「私の人生を捧げます。どんな時もあなたのそばにいます。決して一人にはさせません。これで……私が望むものと、対等になりますか?」

  

 もう傲慢に望むだけの存在ではないのだと、強かな眼差しが訴えかけてくる。

 

「……それだけでは、足りませんか? でしたら──」

 

 俺の返事が無いことに不安を抱いたのか、一転して消え入りそうな声が発せられた。

 

「……十分すぎる。ていうか少し重い」

「お、重いですか……でも、本心です」

「別に何もいらん。たかがトレーナー契約に自分の人生を差し出すな、バカげてる」

「で、でもそれじゃあ……私はトレーナーさんに何も」

 

 ダイヤの性格からして、これは俺が納得するまで絶対に引かないな。

 

「元気に走る姿を見せてくれれば、それで良い」

「……」

「まぁでも……嬉しいよ。こんなしょうもない俺を、支えるって言ってくれて」

 

 これでダイヤは納得してくれるだろうか。

 

 彼女にここまで言わせておいて申し出を断るのは、男が廃る。

 

 というかそもそも、俺はダイヤとの契約を継続している。

 

「レースを間近に控えているというのに、面倒ごとに巻き込んでしまったな。担当ウマ娘のメンタルケアを怠るどころか、俺がケアされる立場になるなんて……はは、情けない」

 

 俺ってつくづくトレーナーという職に向いていないな。指導者なんて器じゃない。

 

「情けない。情けないよ……」

 

 人肌の温もりを感じたのは、何年ぶりだろう。

 

 乾ききった俺の心に、ダイヤの優しさが染み込んでくる。

 

 静かに肩を震わせる俺に気付いたのか、ダイヤは無言で身体を包み込んでくれた。

 

 今だけは、彼女に甘えても良いだろうか。

 

 俺を支えてくれると言った彼女に、弱さをさらけ出しても良いのだろうか。

 

 そんなことを考える間もなく。

 

 俺は今まで押し殺してきた感情を爆発させるように、声を上げてなきじゃくった。

 



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15:宝石の覚悟

 声を張り上げて泣いたトレーナーさんはその後、疲れてしまったのか私の胸の中で眠ってしまった。

 

 このまま彼の温もりを感じていたいけれど、きっとこの姿勢では寝づらいだろう。

 

 私は少し体勢を動かして、トレーナーさんの頭を膝の上に乗せてみる。

 

 頬を伝った涙の跡、泣き腫れて赤くなった目尻、あどけなさの残る無防備な寝顔。

 

 目元にかかる彼の前髪を払って、私は彼の頭を撫でるように手を添えた。

 

「……」

 

 彼の過去を聞いて、彼が抱えているものを知って、彼の未練を悟った。

 

 彼の精神を極限まで追い込んだ原因は私にある。

 

 期待を裏切って、トラウマを掘り起こして、汚名を着せて、苦しめた。

 

 彼を支えたい。これは私の嘘偽りない本心だ。

 

 でも彼のことを本当に思うなら、私は彼の隣にいるべきではない。いてはいけない。

 

「……()()()。私、嬉しかったです」

 

 私のわがままに付き合ってくれて、本当に嬉しかった。子供の頃の口約束を守ってくれて、涙が出るくらい嬉しかった。

 

 ありがとうございます。

 

 本当に、ありがとうございます。

 

「私……()()()()()()()退()()()()()()()()()()()()

 

 ウマ娘の走りは、人々に夢と希望を与える。彼の最愛のウマ娘、ミライがそうであったように。

 

 私はミライから夢をもらった。彼女の走りに憧れを抱いた。そして彼からは、夢を叶える力を授かった。

 

 でも。

 

 私はそんな彼に絶望を植え付けた。トラウマが眠る土を不躾に掘り起こし、水を与え、瞬く間に開花させてしまった。

 

 ごめんなさい。

 

 本当に、ごめんなさい。

 

「兄さま。私の家に、素敵な別荘があるんです。緑に満ちて、綺麗な海を一望できる。穏やかで、静かな場所なんです」

 

 そこなら、彼の心を苦しめるものは何もない。彼の壊れた心に安らぎをもたらしてくれるはずだ。

 

「よろしければ、私と一緒に来ませんか? ……なんて、冗談です」

 

 何を聞いているんだろう。彼の隣に私がいては、何も変わらないというのに。

 

 トレセン学園を退学した後は、普通の学生になろうかな。心理学を勉強して、誰かの心に寄り添えるカウンセラーを目指してみるのもわるくない。

 

「兄さま、本当にごめんなさい」

 

 二ヶ月という短い期間だったけれど、私の人生の中で最も充実していた時間だった。

 

 せめてもの恩返しとして、功績にも栄誉にもならないけれど、メイクデビューの勝利を届けたいと思っている。

 

「本当に、ありがとうございました」

 

 

 

***

 

 

 

 悪夢にうなされずに眠れたのは何年ぶりだろうか。驚くほど熟睡できたような感覚がして、身体がとても軽かった。

 

「おはようございます、トレーナーさん」

 

 目を開けると、ダイヤが俺の顔を真上から覗き込んでいた。

 

 枕の感触が普段と異なる。なるほど、俺はダイヤの膝を枕代わりにして眠っていたのか。

 

「よく眠れましたか?」

「うん……おかげさまで」

「そうですか、良かったです」

 

 俺の返事を聞いて、ダイヤが柔和に微笑んだ。

 

「今、何時か分かるか?」

「少し待ってくださいね……六時五十分です」

 

 ダイヤは制服のポケットからスマホを取り出して、俺に現在の時刻を教えてくれた。

 

「ありがとう……そうだ。早く、チーム名を決めないと」

 

 日付が変わり、メイクデビューの出走登録期限が数時間後にまで迫っていた。

 

「トレーナーさん、そのことなんですけど」

「……? どうしたんだ、そんな改まった表情をして」

 

 ハンガーに掛けられたスーツに手を伸ばす俺に、背後から声がかかった。

 

 普段よりも少し大人びて、どこか神妙な面持ちのダイヤ。

 

「トレーナーさん、私──」

 

 ダイヤの方を振り返る。そして彼女は、きょとんとする俺に胸の内を明かしてくれた。

 

「…………そう、か」

 

 ダイヤの気持ちを聞いて、しばらく考えた後……俺は彼女の決意を尊重することにした。

 

 今の俺の精神状態では、彼女の指導に当たることなんて到底できない。

 

 今後彼女と一緒にいても、一方的に迷惑をかけてしまうだけだろう。

 

 我ながら、ずいぶんと面倒なものを抱えてしまったものだ。

 

「トレーナーさん。最後に一つだけ、()()()()を聞いていただけないでしょうか」

「ああ、言ってみろ」

 

 そして俺は、ダイヤから最後のわがままを聞いた。

 

「……っ。ダイヤ、それは……」

 

 彼女から飛んできた予想外の一言に、俺はわずかに動揺する。

 

「私はウマ娘です。せめて、せめてトレーナーさんに着せてしまった汚名だけは、私自身に雪がせて下さい」

 

 ダイヤが俺に向けて、深々と頭を下げてきた。

 

「その名前を背負うことの意味が……分かっているのか?」

 

 自分から余計な枷を掛けるような行為だ。

 

 そんな重圧を背負ったところで、君には何のメリットもないはずだ。

 

「理解の上です」

 

 それなのに、君はどうして……。

 

「どうかお願いします。私にあなたの心を、支えさせて下さい」

 

 彼女のわがままの意図を考える。その言葉の意味を考える。

 

 まだ、答えは出ない。

 

「……ああ、分かった」

 

 しかし、教え子のわがままに耳を傾けることも、指導者には必要なのではないだろうか。

 

 

 

***

 

 

 

 メイクデビュー前日、俺はダイヤの最終調整を済ませ、午後から阪神レース場へと出発した。

 

 移動手段はいくつかあったが、外部からの干渉を避ける意味で車を選択した。

 

 東京都府中市から約六時間かけて兵庫県宝塚市へと移動し、俺達は阪神レース場付近の旅館に宿泊する。

 

 俺とダイヤで別々の部屋を借り、荷物を整理した後、ミーティングがしたいと言って俺は彼女を部屋へと呼んだ。

 

 午前中に行った最終調整の様子を見て、メイクデビューの作戦を話し合う必要があった。

 

 俺の問題行動が原因で、二週間という貴重な時間を無駄にしてしまった。当初予定していたスケジュールが完全に狂ったため、現状、ダイヤがメイクデビューで一着を取れる期待値は絶望的と言えた。

 

 不十分なステータス。

 

 脚質的に不利な地形。

 

 未経験の初公式レース。

 

 不安要素が三拍子揃えば、絶望的と評した理由が一目瞭然だろう。

 

 それでも、俺は彼女のわがままに応えなければならない。

 

「大まかな作戦は、この前部室で話した通りだ」

 

 俺は、以前ダイヤに伝えた作戦内容を再度語った。

 

──レース序盤から中盤にかけて、バ群の中団を維持。第三コーナーからの下り坂を利用して勢いをつけ、スパートをかけて最終直線を走り抜ける。

 

 距離と地形の関係上、逃げや先行を得意とするウマ娘が多く出走する。レース経験の少ないウマ娘達だ。前半にハイペースな競り合いが生じることはまず間違いない。少々他力本願な作戦になるが、勝ち筋が絞られている以上高望みはできない。

 

 そして、それはダイヤに対しても同様だ。

 

 選抜レースの様子からして、現状のダイヤは存外掛かりやすい。高度な駆け引きや戦術を教えても、かえって足を引っ張るだけだ。

 

 基本的なレース運びと、それに伴う注意点を軽く説明する。

 

「ここまでで何か、詳しく聞いておきたいことはあるか?」

「大丈夫です」

 

 最悪、俺はダイヤの感覚に身を委ねてしまっても良いと考えていた。これも一つの正解ではあるのだが、逆に困惑を招きかねないと思い、伝えることはしなかった。

 

 俺はメイクデビューの出走表と、出走ウマ娘の特徴を調査した書類に目を落とす。

 

 俺の予想通り、出走ウマ娘の大半が逃げや先行を得意としていた。

 

 レース経験が無いダイヤの場合、巧みなコース取りは期待出来ない。出走するウマ娘の傾向的に終盤で垂れ、抜け出せない壁になってしまう可能性がある。

 

 最悪、戦略や駆け引きなんて全部投げ捨てて、自慢のスタミナに物を言わせてコースの大外を回ってもいい。

 

 ゴール板を通り過ぎる瞬間に、バ群の一番前にいれば良いのだから。

 

「……ああそうだ。ダイヤ」

「はい、なんでしょうか?」

 

 俺はダイヤを手招きする。

 

 そこで俺は、彼女にこのレースに臨むにあたっての()()()()()を話した。

 

 俺の言葉を聞いて少し困惑するダイヤだったが、最後は笑顔で頷いてくれた。

 

「……以上だ。俺はこの二ヶ月で、出来る限りのことはやったつもりだ。後はなるようになるさ」

「ふふっ、はい!」

「良い返事だ」

 

 本番を目前に控えても、ダイヤは笑顔を絶やさない。

 

 メイクデビューへの期待と不安を胸に、ミーティングは解散となった。

 

 

 

***

 

 

 

 深夜、俺はここ数日で溜まった仕事を消化していた。

 

 たづなさんに仕事の一部を肩がわりしてもらっているが、数日分が溜まるとそれなりの量になる。

 

 空き時間に適度に消化しなければ、どんどん積み重なって手が付けられなくなってしまう。

 

 部屋の時計に目を向けると、すでに日付が変わっていた。

 

 思った以上に没頭していたようだ。そろそろキリの良いところでけりをつけないと、明日の活動に支障をきたしてしまう。

 

 パソコンの電源を落として部屋の照明を消そうとした時、不意に入り口の扉がコンコンコンッと叩かれた。

 

 こんな時間に誰だろう。不思議に思い、俺は部屋の扉を開けた。

 

「……ダイヤ?」

 

 扉の前に立っていたのは、旅館浴衣に身を包んだ担当ウマ娘のダイヤだった。

 

「トレーナーさん、その……」

「眠れないのか?」

「……はい」

 

 レース前夜は、緊張して中々寝付けないウマ娘も多いという。いや、ウマ娘だけではない。人間だってそうだ。

 

「あ、あのっ! トレーナーさんさえ良ければ、その……」

 

 言い出し辛そうに身をよじるダイヤ。その後に続く言葉に、俺は黙って耳を傾ける。

 

「私と……添い寝してくれませんか?」

 

 そいね、添い寝か。

 

 さすがにそれは、トレーナーとウマ娘という関係から逸脱しているのではないだろうか。

 

 それに俺がいると返って寝られないような気もするし。

 

「だ、ダメなら全然良いんですっ」

 

 体裁を考えるばかりで一向に口を開かない俺を前に、居心地の悪さを感じてしまったのか。ダイヤは掛かり気味に身体を翻す。

 

「失礼しまし──」

「ま、待てっ」

 

 そそくさと去ってしまいそうだったダイヤの手を、俺は咄嗟に掴んでしまった。頭の中では未だ、葛藤の結論が出ていないというのに。

 

 必死に思考を巡らせて、俺は次に口にする言葉を吟味する。

 

「……落ち着くまでなら」

「……っ!」

 

 俺は結局、ダイヤの要求をここで否定してしまえば明日のレースに支障をきたしてしまうんじゃないかと正当化して、渋々受け入れることに。

 

 ぱぁっと、分かりやすくダイヤの表情が明るくなった。

 

「枕っ、持ってきますね!」

「あ、おいっ……」

 

 落ち着くまでと言っただろう……まぁ良いか。

 

 枕を抱きかかえたダイヤが、ブンブンと尻尾を振って俺の部屋に入ってきた。

 

 照明を消すと、一気に視界が暗くなった。窓からかすかに差し込む月明かりを頼りに、俺は畳に敷かれた布団に入った。

 

「お邪魔します」

 

 一人部屋ということもあってか、余分な布団が用意されていなかった。俺が床で寝ると言ったらダイヤが怒ったため、仕方なく二人で枕を並べる。

 

 二人で寝ることを想定していないから当然、狭くて身動きが取りづらい。けれど、どんな時よりもダイヤの温もりを強く感じた。

 

「……こっちを見てはくれないのですか?」

「知らん、さっさと寝ろ」

 

 俺はダイヤに背を向けるような姿勢を取っていた。

 

 これが、大人としての最大限の妥協ラインなのだ。

 

「こうしていると、昔を思い出しませんか?」

「いつの話だよ……」

 

 俺がダイヤに昔馴染みとして接していた時のことだろう。うろ覚えだが、そんなこともあったような気がする。

 

「……意地悪です」

 

 素っ気ない俺の反応に、背後でダイヤがふてくされてしまったようだ。

 

「もう知りません」

 

 より一層、ダイヤの体温を強く感じる。気付くと俺の腹に華奢な腕が回されていた。

 

 俺の背中にダイヤの身体が密着して、身動きが取れなくなってしまった。

 

 残念ながら、大の大人でも本気を出したウマ娘の力には抗えない。

 

 もう抵抗することは諦めた。ダイヤが落ち着くまでの辛抱だ。

 

「……」

「不安か?」

 

 急に押し黙るダイヤに、今度は俺から語りかける。

 

 最近なりを潜めていた俺の体質が、先程から彼女の不安定な心情をダイレクトに伝えてきた。

 

「……はい」

 

 不安になるといつだって、自然と人肌の温もりを求めてしまう。過去の俺がそうだったように。

 

「さっきまでは平気だったんですけど。真っ暗な空間に一人でいると、その……」

「大丈夫……って言っても、不安は払拭できないよな。実は俺も、ずっと不安だったんだ」

 

 ダイヤは不安が原因で目が冴えており、この調子では当分寝付けそうに無い。どうせ寝れないのなら、俺の雑談にでも付き合ってもらおう。

 

「あいつが……ミライがいなくなってから、俺はずっと不安だったんだ。あいつがいない世界で、どうやって生きていけば良いのか分からなかった」

 

 ミライというウマ娘は、俺にとって"星"そのものだった。

 

 "星"に照らされた道を、俺はひたすら歩んで来た。

 

 けれど"星"が輝きを失った瞬間に、どこを目指して歩いていたのか、その道すらも見えなくなって。

 

 星が崩れ、"星屑"だけの存在に成り果てたものは、自分で自分を照らすことは出来ない。

 

「だから俺は逃げた。気が狂うくらい泣いて、死んだように息をしてた」

 

 失踪した後の二年間はよく覚えていなかった。でも、ずっと不安に怯えていたような気がする。

 

「情けない話、俺は誰かに慰めて欲しかったんだと思う」

 

 俺は誰かに、心にぽっかりと空いてしまった穴を埋めて欲しかった。

 

「まぁ察してると思うけど、そんな機会が来ることはなくてさ。情けない話、首を吊って死のうとしたよ」

「……」

「そんな心境の中で、俺はダイヤと再会した」

 

 全部を投げ出して楽になろうとした矢先、俺の人生に転機が訪れた。

 

「初めは強情なダイヤに、随分と手を焼かされたよ」

「あ、あの時は必死でっ」

()()()()()

「え?」

 

 今になって思えば、俺は嬉しかったのだ。

 

「こんな俺でもまだ、誰かに必要とされているって分かったから」

 

 誰かに必要とされることが、たまらなく嬉しくて。

 

 あれだけ荒んだ心が、満たされてしまったのだ。

 

「だからまぁ、その、なんだ……お前がそばにいると、不安が吹き飛ぶんだ」

 

 ダイヤが隣にいてくれるだけで、()()()()()()()()()()()()()()のだ。随分気付くのが遅れてしまったが。

 

「不安を抱えているなら、遠慮なくぶつけてくれ。今度は俺が支えてみせるから」

「……」

「ダイヤ?」

「…………」

 

 何だ、寝たのか。あっさりだな。

 

 自分の本心に向き合うような、小っ恥ずかしい一人語りになってしまった。

 

 退屈過ぎて寝てしまったんだろうな。いや待て。よくよく考えると俺は、ダイヤの不安を何も解消できていないじゃないか。

 

……はぁ。

 

 顔が熱くて目が冴えた。せっかく寝付けたダイヤを起こさないように、仕事の続きでもしよう。

 

 しかし残念ながら、俺は眠っているはずのダイヤにがっちり拘束されて布団から出られなかった。

 

 そして知らぬ間に、俺は深い眠りについていた。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 そっか。

 

 私は、兄さまのことを支えられていたんだ。

 

 それを知ることが出来ただけで、この二ヶ月間にはとても大きな意味があったと言える。

 

 押し寄せてくる不安を紛らわせるように、私は兄さまの温もりを求める。

 

(あったかいなぁ)

 

 

 

 兄さま。

 

 

 

 私、頑張るよ。

 

 

 

 

 

 頑張って、あなたにもらった希望をお返しします。

 

 

 

 

 



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16:アルデバラン

 翌日、阪神レース場に到着した俺達は関係者入り口から中に入った。

 

 移動中、ウマ娘達のレースを観戦に来た人達と多くすれ違った。今日は午後から重賞の中でも特別格の高いGⅠレース──宝塚記念が開催されるため、万単位規模の観客がレース場に訪れていることだろう。

 

 阪神レース場入り口の正面広場はもうお祭り騒ぎ。屋台やグッズ販売など、多大な賑わいを見せていた。

 

 俺はレースを直前に控えるダイヤを気遣いながら、控室へと送り届ける。

 

「見ていて下さいね、トレーナーさん」

「ああ、ちゃんと見てる」

 

 ダイヤとは一旦ここで別れ、別行動となる。

 

 次にダイヤと顔を合わせるのは、レース前に行われるパドック会場でのウマ娘紹介だろう。

 

 パドックとは、出走ウマ娘達のコンディションを観客が確認する目的で設けられた時間である。

 

 メイクデビューは第四レース目に予定されており、ダイヤがパドックに登るまで余裕がある。

 

 時間を潰す目的で、行く当てもなく会場内をぶらついていると。

 

「──あ」

 

 俺は偶然にも、顔見知りのウマ娘と出会った。

 

「……キタサンブラック」

「……こんにちは」

 

 濃い鹿毛をツーサイドアップにまとめ、燃えるようなルビーの瞳を持ったウマ娘──キタサンブラック。

 

 彼女が会場にいる理由はすぐに分かった。親友の応援だろう。東京から兵庫までとても距離があるというのに、友達思いな優しいウマ娘だ。

 

 数日前のダイヤとはまた違う。居心地の悪さを感じた。

 

「その……この前はすまなかった」

 

 とりあえず、以前の不祥事を謝罪する。他愛無い話題から入って、俺は適当に場を繋げた。

 

「メイクデビューで一着になったって……ダイヤから聞いたよ。おめでとう」

「……あ、ありがとうございます」

 

 空気がギクシャクしているというか、やはり彼女は俺のことをよく思っていないのだろう。

 

 会話が続かず、助け舟を求めて視線を彷徨わせていると。

 

「──ああ、キタサン。なんだ、ここにいたのか」

 

 癖毛を背後で束ね、左側頭部を刈り上げた特徴的な髪型の渋めな中年男性が、人混みをかき分けてやって来た。

 

「トレーナーさん」

「一人で行動するとはぐれるだろうが」

「ご、ごめんなさい……」

 

 口に咥えた棒付きの飴を転がしながら、ため息を吐く男性。キタサンブラックにトレーナーと呼ばれているということは、彼がチーム・スピカの……。

 

「んで、この人は?」

「え、えっと……親友のトレーナーさんです」

 

 中年男性の意識が、俺の方へ向いた。頭のてっぺんから足の爪先までを一瞥し、ふむ……と唸る。

 

「先日はお騒がせしてしまい、大変申し訳ありませんでした」

 

 先日の一件で、俺はウマ娘はもちろんトレセン学園に所属するトレーナー達からも冷ややかな視線を向けられていた。

 

 実害を被ったキタサンブラックを育成するチーム・スピカのトレーナーだ。本当は誰よりも最初に謝罪するべき相手だった。

 

 良い印象を抱かれていないだろうと思っていたが、彼の反応は意外なものだった。

 

「いや、俺達の方こそすまなかった。他のチームの方針に首を突っ込んじまって。迷惑をかけた」

 

 何故か逆に頭を下げられてしまった。加えて、彼の隣に立つキタサンブラックからも。

 

「ごめんなさい。ダイヤちゃんを自主トレーニングに誘ったのは……あたしなんです」

「ダイヤから聞いたよ……あの時は強く怒鳴ってしまって、すまなかった」

 

 彼女達が頭を下げる理由は全くない。胸に強い罪悪感が込み上げてきた。

 

「本当は真っ先に謝罪に赴くべきだったんだが、なかなか見つけることが出来なくてな」

 

 騒動を起こしてからの二週間、俺はほとんど学園に出勤していなかった。

 

「いえ、そんなことは……」

「俺が言える立場じゃないが……あんたも若いのに、結構苦労してるんだな」

 

 チーム・スピカのトレーナーから労いの言葉をかけられて、俺はなんと返せばいいのか分からなくなってしまう。

 

「これ、やるよ」

 

 彼が俺の手のひらに何かを置いた。

 

 蹄鉄の形をした棒付きの飴だった。

 

「……どうも」

「そういや自己紹介がまだだったな。チーム・スピカのトレーナーをやっている沖野だ。よろしくな、新人」

「はい。よろしくお願いします」

 

 結構インパクトのある見た目だが、中身は案外気さくな人だった。

 

 沖野トレーナーを見て思い出した。そういえば確か、今日の宝塚記念の出走表にチーム・スピカのメンバーの名前があったような気がする。

 

「あんたの担当ウマ娘……サトノダイヤモンドだったか。キタサンから聞いたが、今日のメイクデビューに出走するんだろ? 応援してるぜ」

「ありがとうございます」

「それじゃ、俺達は迷子になった他の奴らを探しにいってくる」

「し、失礼します」

 

 沖野トレーナーは、最後まで律儀に頭を下げるキタサンブラックを連れて、人混みの中へと消えていった。

 

 手持ち無沙汰だった俺は、何となくスマホで宝塚記念の出走表を確認した。格の高いレースの出走表は、検索するまでもなく候補に上がる。

 

 ファンからの人気投票で出走ウマ娘が決定する宝塚記念には、チーム・スピカのみならず、チーム・リギルやチーム・カノープスといったそうそうたる面子が集結していた。

 

 宝塚記念の出走時間は午後の第十一レースに予定されている。午前にも関わらずこの賑わい具合だ。午後は会場内をろくに歩けないほど混雑するだろう。

 

 俺は予定よりも少し早く、パドック会場に移動した。

 

 

 

***

 

 

 

 パドック会場には出走するウマ娘達を間近で応援しようと集まった観客の他に、俺と同業のトレーナーや記者関連の人達がちらほらと見て取れた。

 

 現在は第二レースのジュニア級未勝利戦に出走するウマ娘の紹介が行われていた。

 

 普段なら未勝利戦やメイクデビュー、オープン戦に出走するウマ娘達のパドック会場にはあまり人は集まらない。おそらく、午後に開催される宝塚記念に出走するウマ娘の姿を良い位置で見ようと陣取りしているのだろう。

 

 トゥインクル・シリーズに出走するウマ娘達のレベルは、未勝利戦といえど非常に高い水準にある。どのウマ娘達も気合に満ちていて、次こそはと闘志を燃やす姿に思わず目が奪われてしまう。

 

……パドックといえば。

 

 昔、人生初の公式レースでガチガチに緊張したミライが、平坦な場所で躓いて盛大に転んでいたことを思い出す。あれがもう、何年も前のことになるのか。

 

 視察そっちのけで思い出に浸っていると、いつのまにか第四レースに出走するウマ娘達の紹介が始まっていた。

 

 

 

***

 

 

 

『──続きまして第四レース、メイクデビューに出走するウマ娘達の紹介です』

 

 パドック会場から響くアナウンサーの声に、俺は耳を傾ける。

 

 午後に控える宝塚記念と比較すると注目度は低いが、それでもメイクデビューは特別なレースだ。先程までの未勝利戦よりも多くの視線が注がれていた。

 

 周囲の観客は、これからのレースを担う逸材が登場するかもしれない瞬間に期待を膨らませている。

 

『九番人気を紹介します。三枠五番ジョウショウバトル』

 

 俺はダイヤの登場を待ち望みつつ、出走ウマ娘達のコンディションを確認していく。

 

 先程紹介されていた未勝利戦クラスのウマ娘達には劣るが、決して油断できない仕上がりだ。

 

 レースでは基本的に、人気が高いウマ娘ほど上位に入着する傾向がある。事前に出走表に記載されていたが、今回ダイヤは四番人気におされていた。

 

『六番人気、四枠八番タガノジーニアス』

『持続力に自信があるウマ娘です。終盤のスパートに期待が持てそうですね』

 

 アナウンサーの紹介と解説による評価が会話形式で放送される。観客はそれを聞きながら、ウマ娘達のコンディションを確認するというのがパドックでの一般的な楽しみ方だ。

 

『続きまして四番人気、五枠九番サトノダイヤモンド』

 

 そしてついに、パドックの奥からゼッケンを装着し、体操着に身を包んだ担当ウマ娘のダイヤが現れた。

 

 俺達の前に姿を見せたダイヤは、初レース前とは思えないほどの落ち着きを払っている。

 

『とてもリラックスした様子ですね。四番人気なのが信じられないほどの仕上がりです』

 

 優雅な所作をもってその場でくるりと回り、静かに笑みを浮かべている。

 

 紹介が終わるまでパドックの上で佇むダイヤだったが、観客の中に紛れる俺の姿を見つけたのか、はにかみながら小さく手を振ってくれた。

 

 俺もダイヤに手を振りかえす。俺の反応を見て、ダイヤは満足そうに微笑んでいた。

 

 

 

「…………え?」

 

 

 

 テンポ良く次のウマ娘の紹介へ行くと思っていた矢先、パドックにいた観客の一人が動揺したような声を漏らした。

 

「お、おいっ。メイクデビューの出走表見てみろよ……」

「どうした急に」

「良いから見ろって」

 

 落ち着きのない観客の男性に催促されるまま、彼の隣にいた男性がスマホの画面を確認した。

 

「……は?」

 

 おそらく彼は今、ダイヤの名前が記されたメイクデビューの出走表に目を落としているのだろう。

 

 そんな二人の異変に釣られるように、少数ではあるが周囲の観客が同様のアクションを起こす。

 

 そして、パドックに居合わせた観客の誰かが……ぽつりと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

「…………()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 

 それはかつて”星の消失”と共に表舞台から姿を消したチームの名前であり、歴史にその偉業を深々と刻みつけた世界最強の象徴であった。

 

 誰かの呟きが波紋のように広がり、会場のどよめきが指数関数的に膨れ上がる。

 

「嘘、だろ……?」

 

 一同騒然となってしまえばもはや収拾がつかない。

 

「「「──っ……!!」」」

 

 出走ウマ娘の紹介そっちのけで観客達が暴走する事態へと発展した。

 

 本来出走ウマ娘の解説を行う際、同時に所属するチーム名を紹介する決まりとなっていた。

 

 しかし、今回に限ってそれが行われなかったのは、このようにパドックという場が成立しなくなってしまうと考えたからだろう。

 

 残念ながら、既に手遅れではあるのだが……。

 

 どよめきが会場全体に広がってしまうのは、もはや時間の問題だ。

 

 歓喜に打ち震える者や、その場で放心する者、慌ててカメラを回す者がいれば、会場を勢いよく抜け出してしまう者など。

 

 様々な反応が飛び交う中、騒動の中心であるダイヤは依然、強かな覚悟に満ちた様子で静かに佇んでいた。

 

「……」

 

 そんな彼女の勇姿を、俺は会場の隅からひっそりと眺める。

 

 

 

 俺は未だに、彼女の()()()()の意図が掴めないでいた。

 

 

 

──私にあなたの心を、支えさせて下さい。

 

 

 

 俺は未だに、彼女の言葉の意味を考えていた。

 

 

 

 こんな。

 

 

 

 こんな……()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 君は一体、何をしようとしているんだ?

 

 

 

 

 

 



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17:異色の登竜門

「──突然の連絡すみません。理事長、少しだけお時間よろしいでしょうか?」

 

 トレーナーさんに身勝手なわがままを言ったその日の始業前、私は秋川理事長に電話をかけた。

 

 数回のコールを挟んだ後、理事長と連絡が繋がった。

 

『無論。サトノ君、わたしに何か用事か?』

「はい。実は理事長に、お願いしたいことがありまして……」

 

 始業の鐘が鳴るまで、あと三十分程度時間がある。

 

 私はトレーナーさんの事情を知る理事長に、今朝に交わした彼との会話内容を話した。

 

『──ッ!?』

 

 スマホ越しに、理事長が息を呑むほどの衝撃を受けているのが伝わってきた。

 

 

 

──私は、チーム・アルデバランの名前を借りてレースに出走します。

 

 

 

『さ、サトノ君っ! それがどういうことを意味するのか、理解しているのかッ!?』

「はい」

 

 私を責め立てるような、切羽詰まった理事長の困惑した声。

 

「私の浅はかな行動が原因で、トレーナーさんは学園中から目の敵にされています。なので、私がトレーナーさんに着せてしまった汚名を払拭します」

 

 トレーナーさんには、過去に未練と共に沈んでしまった栄誉と功績が残っている。

 

「彼に浴びせてしまった不名誉を、彼自身の名誉で塗り替えます」

 

 彼がチーム・アルデバランの、ひいては”星”のミライを育成したトレーナーだと周知すれば、彼は一転して羨望と称賛の光を浴びることになるはずだ。

 

『確かに、そんなことをすれば彼の評価は簡単にひっくり返るだろう。有り余るくらいにな。だがッ──』

 

 スマホ越しに、珍しく感情を荒々しく表に出した理事長の声が返ってくる。

 

『それは早計だッ! チーム・アルデバランが競走の世界に凱旋すれば、文字通り世界中の人々が注目することになるッ! そんなことになったら、世界中の人間がミライについて言及するはずだッ!』

 

 理事長の意見は的を射ている。トレーナーさんの未練の象徴であるチーム・アルデバランは、同時に”星”のミライの象徴でもある。

 

 トレーナーさんに降りかかるミライについての言及は、十中八九避けられないだろう。

 

『そんなことをしたら、彼は今度こそ自ら死を選んでしまうッ!』

「はい」

『それを理解しているなら、なんでそんな真似をッ──』

()()()()()()()

『……は?』

 

 理事長から間の抜けた呟きがこぼれた。

 

「多分、同じなんです」

『……何が言いたい?』

「トレーナーさんがミライさんの跡を追うという結末は、もう何をしても変わらないということです」

『──ッ』

 

 理事長も私も、トレーナー寮で彼の豹変した姿を目撃した瞬間から何となく察していたことだと思う。

 

「私の予想ですが……彼が命を絶つのは時間の問題だと思います。もってあと一週間か……二週間か。もっと短いかもしれません」

『……』

 

 変わらないのだ。彼にどんなアプローチをしても、自らこの世を去る結末は変わらないのだ。

 

 何故なら私達が、その選択肢を選ばざるを得ない状況まで彼を追い詰めてしまったからである。

 

『…………彼の誉を背負って、君は何をするつもりだ』

()()()()

『………………は?』

 

 手の施しようがない、絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況で。

 

 私は──博打を打つ。

 

「トレーナーさんが私の走りを見て、未来に希望を抱いてくれる可能性に賭けます」

 

 私がチーム・アルデバランという肩書きを背負って走る理由は、主に二つ。

 

 一つは、私が原因で着せてしまった不名誉を払拭すること。

 

 そしてもう一つ。

 

 

 

──彼の心に巣食う未練と、真正面から向き合ってもらうこと。

 

 

 

「理事長。私達はミライさんに夢をもらった大ファンです」

 

 仮に彼が前を向いたとしても、心の奥底ではチーム・アルデバランという未練が根を張り巡らせている。

 

「私達は、トレーナーさんに手を伸ばした共犯者です」

 

 だから私は、彼の心に癒着した未練を根こそぎ取り除く。

 

 そのためには、彼の内面に潜む未練を表に引きずり出す必要があった。

 

「だから……どうかお願いします」

 

 これは、彼自身の心に全てを委ねたタチの悪すぎる大博打。

 

 

 

 

 

「──どうか私に、全てを賭けて下さい」

 

 

 

 

 

 それでも、私は彼に前を向いて生きてほしいから。

 

 身勝手にも、そう願ってしまうから。

 

『………………正気の沙汰じゃない』 

「そうかもしれません……あはは」

 

 彼の心をズタズタに引き裂いてしまった私だけれど、その反動は私自身の心にも及んでいたようだ。

 

『……仮に。その賭けに敗れて、彼の精神が完全に崩壊したら……どうするつもりだ』

「私が傍で看病します」

『学園はどうするつもりだ』

「賭けがどっちに転んでも、私はトレセン学園を退学するつもりです」

『…………彼がもし、ミライの跡を追ったら』

「一緒にいきます」

『……………………』

 

 彼の()()()()()。これはもう、彼の心を壊してしまったと自覚した日から決意していたことだ。

 

『……どうして、そこまで』

 

 どうして? どうして、か……。

 

 なんて、考えるまでもないよね。

 

 

 

 

 

「私、兄さまが好きなんです」

 

 

 

 

 

 私が彼を、心の底から愛しているから。

 

 幼い頃から好意を抱き続けて、それがいつの間にか、手が付けられないほど膨れ上がって。

 

 その結果、心に傷を負った彼に追い討ちをかける羽目になってしまったけれど。

 

「どう転んでも、結果は同じです。だから私は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に全てを賭けることにしました」

 

 どう考えても冷静な判断じゃない。明らかに血迷った愚者の選択だ。

 

 でも、冷静な判断ができるほどの時間も残っていない。

 

 だから、私は賭けに出る。

 

 どうか私の走りが、彼の生きる希望になりますように。

 

 だから、私は奇跡に縋る。

 

『……………わたしは、何をすればいい』

「ありがとうございます、理事長」

 

 あなたなら、そう言ってくれると信じていました。

 

 

 

***

 

 

 

 喧騒が溢れる地下バ道をおもむろに歩きながら、私は強かな覚悟を改めて胸に灯す。

 

 蹄鉄を装着したお気に入りのシューズの足音がかつん、かつんと、波紋が広がるように反響する。

 

 まだ見ぬ景色が広がる世界。本バ場と地下バ道を隔てる陽光の前で立ち止まり、私は静かに目を瞑った。

 

 いつか私もと、憧憬する”星”に想いを馳せていたことが、今では遠い昔のように感じる。

 

 そしてあろうことか、私は憧れの”星”と同じ肩書きを背負って晴れ舞台に上がろうとしている。

 

 私は一度、深く深く息を吸った。

 

 全身に緊張感が駆け巡る。

 

 巨大な枷を彷彿とさせる肩書きの重圧が、私の浅ましい考えを嘲笑う。

 

「……ぁ、あはは」

 

 正直に打ち明けると、今の私の思考は恐怖で支配されていた。

 

 今こうして立ち止まっているのだって、私の意思ではない。

 

 あまりの恐怖で、両足が竦んで動かないのだ。

 

 震えが止まらない。武者震いなんかじゃない。ただ怖くて、前に進むことを拒絶しているだけ。

 

「…………」

 

 兄さまと控室で別れたとき、パドックで人前に立ったとき。私は歯を食いしばって、強かなサトノダイヤモンドを演じた。内心を悟られぬよう、努めて気丈に振るまった。

 

 けれどその裏で、私はひたすら込み上げてくる恐怖とたたかっていた。

 

 仮に私がこのレースで勝ったとしても、負けたとしても。

 

 私はきっと、彼の心を完全に壊してしまう。

 

 目の前で発狂する彼の姿が容易に想像できてしまって、私の思考が真っ白に染まる。

 

 苦しい。あまりの後悔と罪悪感で胸が張り裂けそうだ。

 

 こんな他力本願で、万に一度も起こらない奇跡に縋るような真似をして。

 

 

 

 怖い。

 

 

 

 怖い。

 

 

 

 怖いよ。

 

 

 

 でも私はもう、後に引くことなんて出来ない。

 

 どれもこれも全部、私が招いた事態なんだ。

 

 怖くても、足が竦んでも、重圧に押し潰されそうになっても。

 

 私は前に進むしかない。

 

 自分で狂気を演じて退路を立ったくせに……臆病なウマ娘だよ、私は。

 

「……こんなかっこわるい姿、兄さまには見せられないなぁ」

 

 兄さまの瞳に映るサトノダイヤモンドは、何事にも強情で、頑固で、わがままで、強かなウマ娘。

 

 担当ウマ娘の印象は、担当トレーナーの印象に直結する。

 

 担当ウマ娘の戦績は、担当トレーナーの評価に直結する。

 

 

 

 そして、

 

 

 

 担当ウマ娘(わたし)の走りが、担当トレーナー(兄さま)の未来に直結する。

 

 

 

 大丈夫、大丈夫だ。自分自身をひたすら鼓舞し、余計な思考を振り払う。

 

 

 

 私は彼に、奇跡を届けてみせる。

 

 

 

 過去と向き合う、勇気を届けてみせる。

 

 

 

 今を歩む、希望を届けてみせる。

 

 

 

 未来を見上げる、夢を届けてみせる。

 

 

 

 私は世界の”星”を育てた人の教え子だ。私を支えると言ってくれた彼を信じ、彼が育ててくれた私を信じる。

 

 大丈夫、大丈夫だ。だからせめて、この瞬間だけは胸を張って。

 

 

 

 

 

 行ってきます、兄さま。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

『──続きまして本日の第四レース、メイクデビューに出走するウマ娘達の入場です』

 

 騒然としたパドックでの出来事からしばらくし、ターフに繋がる地下バ道からメイクデビューに出走するウマ娘達が現れた。

 

 午後に予定されている宝塚記念に比べて、どうしても特別感が薄れてしまうメイクデビュー。しかし、今日のそれは一味も二味も違う。

 

 二年前に表舞台から忽然と姿を消した、チーム・アルデバランの凱旋。

 

 ウマ娘達の入場と共に、会場内のメインスタンドやホームストレッチにいる観客達が揃って大きな歓声を上げた。大勢の人達が、喧騒のターフに立つウマ娘達へ視線を向けている。

 

『注目は四番人気のサトノダイヤモンド。チーム・アルデバラン凱旋の舞台がまさかここ、阪神レース場になると誰が予想出来たでしょうか』

 

 おそらく……いや、この場にいる観客の大半が、チーム・アルデバランの肩書きを背負う彼女に期待と注目を注いでいる。

 

 サトノダイヤモンド。

 

 ”星”を喪った俺が、未練を着せる形で晴れ舞台へと送り出してしまった担当ウマ娘。

 

 ゲート入場を控え、静かに精神統一を図るダイヤを見守りながら、俺は無意識に握り拳を作っていた。

 

 観客から寄せられる過度な期待、過剰な注目。

 

 既に手遅れな状況に至ってこんなことを言うのはアレだが。

 

 どうかそれらが、彼女の重荷になりませんように。

 

 俺は今や、彼女に身勝手な感情を押し付ける有象無象の観客に過ぎない。

 

「……頑張れ、ダイヤ」

 

 俺にできるのは、彼女の()()()()の意図と、あの言葉の意味を考えること。

 

 ただ、それだけだった。

 

 

 

***

 

 

 

『各ウマ娘のゲートインが始まります』

 

 盛大なファンファーレの後、規則に従って各ウマ娘達が指定のゲートに収まっていく。大外枠を引いた私は努めて冷静に、自身がゲートインする順番を待つ。

 

『四番人気のサトノダイヤモンドが注目を集めるメイクデビューですが、他のウマ娘達を忘れてはいけません。堂々とした逃げ足が光る二番人気ロードヴァンドール、粘り強い走りを武器とする一番人気ロイカバード。強豪達が並み居る中、果たしてどのウマ娘がデビューを飾るのか』

 

 私の周囲でゲート入りを待つウマ娘達から、強い警戒の視線が飛んでくる。事前にトレーナーさんが予想していた通り、おそらくこのレースで私は、彼女達から徹底的にマークされることだろう。

 

『逃げや先行を得意とするウマ娘達が多いですね。一般的にはハイペースなレース展開が予想されますが、スタート直後に高低差二メートルの坂路がそびえています。序盤から繰り広げられるであろう彼女達の駆け引きには注目です』

 

 この二ヶ月間で学んだことを、走馬灯のように振り返る。このレースで一着を取るために二人で練った戦略、二人三脚で習得した技術。そして、彼の心を支えると誓ったあの日の覚悟。

 

 私は横目でチラリと、競走相手となるウマ娘達の様子を確認した。

 

 初の公式レースということもあり、わずかに緊張が表情へと現れている二番人気のロードヴァンドール。

 

 彼女と真逆で、まるで緊張などしていないかのように平然と佇み、出走の時を飄々と待つ一番人気のロイカバード。

 

 事前情報に基づくトレーナーさんの予想では、彼女達がこのレースのペースメーカーになると言っていた。しかも一番人気のロイカバードは、私が苦渋を舐めた選抜レースにおいて一着という成績を収めている。

 

 私は一度、脳内で理想的な展開をシミュレートする。

 

 ロードヴァンドールやロイカバードを筆頭とする先行集団がレース前半で競り合い、ハイペースな流れになることで後半へ残す脚を少しでも削ってもらう。

 

 そして末脚が鈍った集団に対し、第三コーナー辺りから続く下り坂を利用して私がスパートを仕掛ける。

 

 仮に理想的な展開でレースが運ばなかったとしても、レース終盤のために脚を残しておくことは絶対条件だ。

 

 序盤で掛かれば敗北は必至。一度心を乱せば立て直しは不可能。

 

 間もなくして、最後に大外枠である私のゲートインが完了する。

 

 ゲートの中で窮屈な閉塞感を覚えながらも、私は震える身体に鞭を打って強引に集中力を高める。

 

 出走の瞬間、爆発的だった観客席からの喧騒が嘘のように凪ぐ。

 

 不気味なほどの沈黙。極限まで暴走する心臓の手綱を握りしめ、息を大きく、ゆっくりと吸い込んだ。

 

 その瞬間、私の意識が深い水の底に沈んでいくような、経験したことのない不思議な感覚に包まれた。

 

『新バ達によるトゥインクル・シリーズの登竜門メイクデビュー、ゲートイン完了』

 

 誰もが固唾を呑んで注目する中。

 

 

 

『──今、スタートが切られました!』

 

 

 

 沈黙を食い破るように大きな音を上げて、私達の大一番へと挑む(ゲート)が開かれた。

 

 

 

***

 

 

 

 

『各ウマ娘が好調なスタートを切って、バ群を形成していきます』

 

 統計上、阪神レース場は逃げや先行を得意とするウマ娘の勝率が高い。その要因は、スタート直後にそびえる高低差二メートルの坂路である。

 

 その脚質の特性上、ゲートが開門した瞬間からバ群を先導し、激しい位置取り争いを繰り広げることとなる。

 

 走りやすい位置につくためには当然脚を使って速度を上げる必要があるが、上述した坂路のせいで余計なスタミナを消費するという大きなデメリットが生じてくる。

 

 ゴール直前にも再度坂路を駆け上がるという心臓破りな地形的特徴から、序盤でハナを奪い合わないスローペースなレースが展開される傾向にあるのだ。

 

 だが俺は以前、ダイヤと作戦を立てる過程でその一般論を否定した。

 

 地形的特徴による予測には、実際にターフの上で競り合うウマ娘達の心理的側面が考慮されていないからだ。

 

 過去の選抜レースで、ダイヤが他者の走りでペースを乱したように。

 

 今、俺の目の前で熾烈な競走を繰り広げているのは、人生で初めて晴れ舞台に上がったウマ娘達だ。

 

 前に行きたい。

 

 足がうずうずするから、もっと速く走りたい。

 

 一種の"渇き"のようなウマ娘の本能を抑え込んで、戦術に徹せられるほど、競走者としての器は完成していないはず。

 

 そう踏んでいた。

 

『ハナに立ったのは六番ロードヴァンドール。その背後に二番、五番と続き、バ群を先導します』

 

 しかし……。

 

『バ群の中団を悠々と進む一番ロイカバード。四番人気、九番サトノダイヤモンドは後方から二番手に落ち着きました』

『序盤からかなりゆったりとしたペースで進んでいきますね。()()()()()()()()()()。スタート直後に立ちはだかる坂路の影響でしょうか』

 

 俺の浅はかな予測はレース序盤から、呆気なく破られることとなった。

 

(二年間指導から離れていたせいで勘が鈍りすぎたか……いや、今はそんなことを考えても仕方ない)

 

 公式レース未経験のウマ娘達とはいえ、相手は中央。

 

 レースに出走出来るだけでもある程度の素質と才能が保証されたエリート達だ。地形的特徴を完全に把握した上で、レースに臨んでいる。

 

 少し考えれば、分かることだった。

 

「……っ、まずいな」

 

 この瞬間、俺は指導者としての慢心を痛感した。二年の空白を開けても、トレーニングに関しては俺の"体質"で何とでもなってきた。

 

 実際そうだ。選抜レース時と比較しても、俺はダイヤの身体能力を無駄なく底上げすることが出来た。

 

 しかし、レース本番における心理戦に関しては、俺の"体質"なんてまるで意味をなさない。

 

 相手の実力を考慮せず、彼女達の一着への執念を甘く見ていた。侮っていた。

 

 過去の功績から無意識に、驕りのような感情を抱いていたのだ。

 

 俺は世界最強のウマ娘──ミライを育てたトレーナーなのだから、と。

 

 いや、違う。

 

 

 

 

 

 俺が本当に驕ってしまったのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ミライの脚質は逃げ。

 

 それも相手に自身の影すら踏ませない圧倒的な大逃げ。

 

 戦略、戦術、心理的駆け引きがまるで意味を成さない筋金入りの脳筋戦を得意とするぶっ飛んだヤツだった。

 

 過去を振り返っても、俺は公式戦においてミライに戦術的指導をした覚えがまるで無かった。

 

「くそ……」

 

 今更無力感に打ちひしがれて、俺はホームストレッチの柵を叩く。

 

『──第二コーナーをカーブし、ウマ娘達が向正面へ進んでいきます』

 

 しかし現在進行形で進むレースは、俺に後悔させる余裕なんて与えてはくれなかった。

 

 コースの向正面をやや長な団子になって進むウマ娘達の様子が、ターフビジョンに映し出される。

 

 四方八方から届く大歓声をよそに、俺は必死になって画面上からダイヤの様子を確認した。

 

(まだ、掛かってはいない……落ち着いてる。スローペースな展開を考慮しても、だいぶ足を溜められているはずだ)

 

 未だレース展開に大きな動きは無い。

 

『相変わらず先頭を進む六番ロードヴァンドール。その後方で順位が入れ替わり五番、二番。一番ロイカバードは順位を一つ落として五番手の位置に着きます』

『サトノダイヤモンドは内ラチに沿って自分の走りを徹底してます。冷静に仕掛けどころを窺っている様子です』

『間もなく千メートルを通過し、レースは後半戦に突入します。そのタイムは──』

 

 ダイヤはコースの内ラチに着くことで走行距離のロスを極力減らし、スタミナの温存を図っていた。

 

「……気のせいか、少し走り辛そうな表情を浮かべているような」

 

 俺がダイヤの様子に一抹の違和感を感じていると。

 

 

 

──ざわざわ……っ。

 

 

 

 周囲の観客が……いや、会場全体から大きなどよめきがわき起こった。

 

 俺はその原因が分からず一瞬首を傾げたが、答えはすぐに分かった。

 

 

 

 

 

『な、何と……()()()()()!? 千メートル通過が六十七秒四という、あり得ないほどのスローペースです!!!』

 

 

 

 

 

「…………は?」

 

 あり得ない。どう考えてもそのタイムはおかしい。

 

 阪神レース場におけるメイクデビューの基準タイムは、二分四秒五。

 

 基準タイムを半分で割った時間を千メートル通過時の時計とし、一秒早ければハイペース、一秒遅ければスローペースと呼ばれる世界において。

 

 差しや追い込みを得意とするウマ娘達が多ければまだしも、逃げや先行を得意とするウマ娘達が大半を占める中で、五秒近い遅れが生じるのは異常としか言いようがない。

 

 こんな展開、見たことも聞いたこともない。

 

 俺は思考をフル回転させて、この想定外な展開が巻き起こった原因を探る。

 

「……まさか」

 

 大袈裟かもしれない、考えすぎかもしれない。

 

 しかしどんな方向から原因にアプローチしても、最後は全く同じ結論に行き着いてしまう。

 

 それは。

 

 

 

 

「──ダイヤの末脚を、全員が完全に潰しに来ているっていうのか……?」

 

 

 

 

 

 レースに出走する者全てが。

 

 

 

 最強の肩書きを背負うダイヤを警戒しすぎたが故に起こってしまった、過剰なまでの対策なのではないのか、というものだった。

 

 

 



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18:サトノダイヤモンド

──二年前、世界最強と名高いチーム・アルデバランが表舞台から姿を消した。

 

 世間では、チーム・アルデバランの象徴であったミライの故障事故──"星の消失"が原因であるという推測が一般的だった。

 

 その内情を知る者は、当時チームを率いていたチーフトレーナーとサブトレーナー、そして所属していたウマ娘達のみ。

 

 "星の消失"がチーム崩壊の一要因ではあるが、根本的な原因は一人のサブトレーナーにあった。

 

 つまり……俺だった。

 

 チーム・アルデバラン所属のウマ娘、ミライの故障事故が発生する二ヶ月前。チーフトレーナーがサブトレーナー全員を招集し、とある会議が開かれた。

 

 その内容というのも、今年で定年退職を迎えるチーフトレーナーに変わり、新たなチームの後継者を発表するものだった。

 

 結論から言ってしまえば、後継者に選ばれたのはミライの面倒を見ていた俺だった。

 

 チームの象徴たるミライを育成した功績と、ウマ娘個々人に対する的確な指導が評価されての選出であり、チーフの決断に異論を唱える者はいなかった。

 

 当時の俺は、若くして出世し成功を掴んだことを大いに喜んだ。

 

 順調に仕事の引き継ぎを進め、今後の飛躍に胸を膨らませていた矢先のことだった……。

 

 後に”星の消失”と称される、レース史上最悪の故障事故。

 

 俺は最愛の教え子であったミライの死を乗り越えられず、トレーナーライセンスを放棄し日本に帰国した。

 

 本来であればチームの引き継ぎを行うべきだったが、俺はそれを怠った。失踪後、チーフが俺以外の後継を任命しなかった理由は定かではないが、おそらくは彼女の慈悲か、あるいは同情か……。

 

 結果、所属していたサブトレーナー達はそれぞれ独立し、チーム・アルデバランは空中分解。後継されることなく表舞台から姿を消すこととなった。

 

 これが事の顛末である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正直に打ち明けると、俺は決して引き継ぎを怠ったわけでは無かった。

 

 手放したくなかったのだ。身勝手にも彼女との思い出が詰まったこのチームを、誰にも渡したくなかった。

 

 ミライがいない世界で、俺はどうやって明日を歩めば良いのか分からなくなった。

 

 チームを率いる力が無いと悟られれば、俺は思い出が詰まった居場所を追われてしまうかもしれない。

 

 たとえ過去の功績を、他者の栄誉をドブに捨ててでも、ミライが遺してくれた思い出を守らなければならない。

 

 だから俺は、チーム・アルデバランという()()を抱えて逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突き詰めると、俺はミライと一緒にいたかった。

 

 ミライと二人でトレーニングメニューを考えたかった。

 

 ミライが走るレースを見守りたかった。

 

 ミライがセンターに立つライブを、特等席から眺めたかった。

 

 やりたかったことが。

 

 叶えたかったことが。

 

 俺の心の底で、消化不良の()として残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ミライと一緒にいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 それが、俺の未練だった。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

『──波乱の展開となったメイクデビュー、前半千メートルを六十七秒四で通過していきます』

『後続のウマ娘達には、少々厳しい戦いになりそうですね……』

 

 俺の未練を背負って、彼女が走っている。

 

 ひたすら前へ進む彼女の勇姿に、後ろめたさで胸がざわつくのは一体何故だろう。

 

 ゴールへ駆ける彼女の晴れ舞台を、心を閉じ込めた殻の隙間からのぞいているのは一体どうしてだろう。

 

「……」

 

 ねぇ、ミライ。

 

 彼女が──ダイヤがあんなに頑張って走っているのにさ。

 

 俺は、心の底から彼女を応援することが出来ないんだ。

 

 心を覆う何かに遮られて、声が出せないんだ。

 

 

 

 やっぱり俺は、後悔しているのかな。

 

 

 

 夢へ駆ける君の背中を、悲惨な結末を迎えると知った上で押してしまったことを。

 

 

 

***

 

 

 

(……遅い)

 

 バ群の後方からレースを俯瞰し、第二コーナーを過ぎた辺りから私は大きな違和感を肌で感じていた。

 

 先頭を進むウマ娘達のペースが、あまりにも遅すぎる。

 

 もちろん、阪神レース場の地形的特徴からスローペースな展開でレースが進むことは予測してきたし、対策もしてきた。

 

 でもこれは、あまりにも異常な遅さなのではないか?

 

(一秒弱……ううん、もっと。二秒、三秒? あるいはそれ以上かも)

 

 実際にどれほどレースがスローペースになっているかは判断がつかない。私はまだレースにおける直感……勝負勘というのだろうか、それが備わっていなかった。

 

 だから私は、兄さまと二人三脚で組み立てた戦略に徹することを決める。

 

(この調子だと兄さまの言葉通り、先頭集団はかなり足を残した状態で最終直線に突入するはず。今は自分の走りやすいペースを維持して、スタミナを温存する)

 

 いくら遅いからといって、今速度を上げたら相手の思う壺だ。

 

 今は我慢のとき。

 

 レース終盤での真っ向勝負に備え、少しでも足を溜める必要がある。走行距離はなるべく最短で行きたい。私はコースの内ラチに沿って、スタミナの浪費を抑える。

 

(んん……確かにスタミナは抑えられているはずなんだけど。少し、走りにくい……ちょっと苦手かも)

 

 自分が楽だと感じる速度で向正面を走る。バ群の先頭から私の位置まではおよそ六、七バ身程度といったところか。

 

 まもなく前半戦の千メートルを通過するが、バ群に大きな変動はない。動きがあるとしたら、緩やかな斜面が続く第三コーナーを過ぎた辺りから。

 

 停滞した展開が動き出すその瞬間まで、私は愚直に、私の()()を全うする。

 

 

 

***

 

 

 

「──()()()()()()、ですか……?」

 

 

 

 メイクデビュー前日。トレーナーさんがミーティングの最後に提案してきた対策を聞いて、私は困惑したのを覚えている。

 

 ただ走る。

 

 それが一体何の対策になるというのか。

 

「チーム・アルデバランとしてレースに出走する以上、不要な緊張やプレッシャーを背負って走ることになると思う。十中八九、他のウマ娘達からのマークも厳しくなるだろう」

「つまり、普段通りを心がけろっていうことですか?」

「いや、違う。()()()()()()

「…………えっと?」

 

 トレーナーさんの意図が理解出来ない。私が今言ったことと、一体何が違うのだろう。

 

「"チーム・アルデバラン"のネームバリューを逆手に取る。ダイヤにのし掛かる重圧、ウマ娘達からの徹底的なマークを、こっちが利用するんだ」

「???」

 

 重圧を、マークを……利用する?

 

「三年前のジャパンカップ。確かダイヤは、ミライのレースを現地で観戦していたんだよな?」

「は、はいっ! 最前列で応援していました!!」

「だったら思い出して欲しい。ミライと競走するウマ娘達からは、どんな印象を受けた?」

「……ごめんなさい。あの時の私はミライさんに集中するあまり、盲目的だったと言いますか」

「そうか。じゃあこれを見て欲しい」

 

 そう言ってトレーナーさんは、以前新調したスマホの画面を私に見せてくれた。

 

 画面に映し出されていたのは、忘れもしない三年前のジャパンカップ。出走するウマ娘達が、ゲートインを控える場面だ。

 

「どう思う?」

 

 何回も、何十回も、何百回も再生したジャパンカップ。

 

 以前の私はミライさんにしか目がいかなかった。

 

 しかし今、別の視点を得て動画を見てみると。

 

「…………表情が、とても重い」

 

 画面越しにヒシヒシと伝わってくる、世界最強と戦うことに対する圧倒的なプレッシャー。猛獣を彷彿とさせる剥き出しの警戒心。そして、泥沼に引きずり込まれてしまうかのような恐怖心。

 

 見ているこっちが息苦しさを錯覚してしまうような。

 

 レースが始まる前から、既に盤上が世界最強の"星"に支配されているような。

 

 そんな印象を受けた。

 

「今のダイヤが覚えた感覚。それが明日、ダイヤと走るウマ娘達が感じるプレッシャーだ」

 

 私はミライではない。

 

 しかし過去にミライが残した功績が、プレッシャーという悍ましい怪物に姿を変えて、チーム・アルデバランという肩書きに宿っている。

 

「加えてレース中、常に誰かを意識するっていうのは容易に出来ることじゃない。トレーニングにおいてもそうだが、何か一つのことに集中すると、別の何かが疎かになるだろう?」

「確かに、何度もそういう経験をしました」

 

 この二ヶ月間の苦しいトレーニングで、幾度となく経験してきた葛藤。並行して課題を処理できないもどかしさ。

 

「俺の経験上、誰かをマークする際はスタミナを消費する。予測通りスローペースな展開になったとしても、他のウマ娘達は徐々に、徐々にスタミナがすり減っていくはずだ。だから──」

 

 何となく、トレーナーさんの本当に言いたいことが理解出来るようになってきた。

 

 

 

 

 

 

 

「ただ走るんだ。ダイヤならきっと走り抜けられるって、俺は信じてる」

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

「前半千メートル通過の時計が六十七秒四。逃げや先行を得意とするウマ娘達が大半を占める中でのこのタイムは確かに異質だが、展開としては一般的な"スローペースの前残り"に分類される」

「どうした急に」

 

 あまりに過剰な対策にやりどころのない焦燥を感じていると、俺の隣でレースを観戦する男達が唐突につぶやいた。

 

 鼓膜が破れるほどのどよめきと歓声が湧き上がる中、彼らの言葉が不思議と耳に届いた。

 

「差しや追い込みを得意とするウマ娘は、レース終盤のスパートに文字通り全身全霊を注ぐ。だが、スローペースな展開では前を行くウマ娘達に余力が残っているため、追い上げが届かないケースが多い」

 

 前残りとは、レース展開の基本を形容する言葉の一つである。

 

 一般的に、逃げ・先行の脚質のウマ娘が、序盤のリードを活かしてそのままゴールする展開のこと指す。

 

「確かに。レースで前へ行くっていうのは、ゴールまでリードを死守するという強い意思表示だ。それを捻じ曲げてまで展開を遅らせる理由は、やはり後続に控える彼女を封じる目的が……?」

「間違いないだろう。例え九番のサトノダイヤモンドが鋭い末脚を持っていたとしても……七バ身近い差を、しかも余力を残した先頭集団を差し切れるかどうか」

 

 

 

 差し切れるかどうか。

 

 

 

 ああ、その通りだ。

 

 

 

 ()()()

 

 

 

 ()()()()()()()()

 

 

 

『間もなくバ群の先頭が第三コーナーに差し掛かります! 直線に近い傾斜を下るもまだ行かない! まだ動かない!!』

 

 実況者の声が。

 

 観客席からのどよめきと歓声が。

 

 まるでノイズを切ったかのように遠ざかる。

 

(何を悔しがっているんだ。これは全部……俺が仕向けたことじゃないか)

 

 後悔を糧にした元来の目論見通り。

 

 この晴れ舞台は、彼女が負けるために用意されたもの。

 

 疑いを知らない彼女の純粋な好意を利用して、臆病な俺が用意してしまったもの。

 

──私ね、みんなが憧れるようなウマ娘になりたいんだ!

 

 未練の中で、誰かが夢を語って最高の笑顔を浮かべている。

 

「……………」

 

 二年間、俺は散々後悔してきたじゃないか。

 

 彼女の才能を開花させてしまったあの過ちを二度と繰り返さないと、心に強く誓ったじゃないか。

 

 

 

 

 

 俺は間違っていない。

 

 

 

 

 

 これでいい。

 

 

 

 

 

 これでいいんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これでいい……はずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

『──間もなくバ群の先頭が第三コーナーに差し掛かります』

 

 私のいる位置から七バ身ほど先行する六番のロードヴァンドールが、第三コーナーの緩やかな下り坂に突入した。

 

『直線に近い傾斜を下るもまだ行かない! まだ動かない!!』

 

 本来。私はこの下り坂を利用して加速し、溜めた末脚を徐々に解放してスパートをかける算段だった。

 

(……だめ。今仕掛けたらきっと、最後まで走り抜けられない)

 

 これは勝負勘というよりも、感覚的には悪寒に近いだろうか。

 

 仮に今仕掛けたところで、先頭を躱せるビジョンがまるで浮かんでこなかった。

 

(まだ……まだ溜める。大丈夫、落ち着いて。私の脚ならきっと届く、()()()()()

 

 コンマ単位の判断が要求される重要な局面。

 

 歩幅一歩分が着順に直結する、極限の駆け引き。

 

 心臓がこれ以上ないほど暴れている。必死に手綱を握りしめて、鋼の意志で掛かりを凌ぐ。

 

「──っ」

 

 こう着状態が続く展開だったが、たった今、バ群後方で動きがあった。

 

 おそらくスタミナ切れを起こしたのだろう。私の前方を走っていたウマ娘の一人が後方へと垂れてきた。

 

 焦燥感と恐怖心を抑え込むので必死だった私は、彼女を認識した瞬間に慌てて進路を左へ取り、衝突を回避する。

 

 この動きで少し、走行距離とスタミナにロスが生まれてしまった。

 

 終盤に備え、少しでも体力を温存したかった私はすぐさま内ラチへ身体を寄せる──。

 

(……? さっきよりも、地面を掴む感覚が気持ちよく感じる)

 

 その間際、私は内ラチが外よりもわずかに荒れていることに気が付いた。

 

 最短距離、スタミナ温存を意識するあまり、私は文字通り足元がおろそかになっていた。

 

 先頭から少し遅れて、私は第三コーナーをわずかに外目から突入する。

 

 そしてついに。

 

 

 

 

 

 永遠に続くと思われた均衡が、地鳴りのような歓声とともに崩壊する。

 

 

 

 

 

『──行った! ついに一番ロイカバードが行った! 残り五百メートルで、戦いの火蓋を切りに行きます!!』

 

 最初に仕掛けたのは、バ群中団で息をひそめていたロイカバード。

 

『ロイカバードが三バ身の差を一気に縮めて、六番ロードヴァンドールに並んだ!』

 

 そして、誰かが動く瞬間を虎視眈々と狙っていたかのように、他のウマ娘達も進撃を開始する。

 

『間もなく先頭が第四コーナーをカーブ! 残り四百、サトノダイヤモンドはまだ行かない!』

 

 こらえろ、こらえろ、今じゃない。

 

(まだ……まだ、まだ、まだまだまだまだっ)

 

 仕掛けどころを見極めろ。

 

 走る道筋を思い描け。

 

 極限まで精神をすり減らして、自分が息をしていることすら忘れて、強靭な覚悟を胸に灯す。

 

 先頭との差は約八バ身。

 

 

 

 

 

 

 

「──ッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 一世一代の大勝負。

 

 この一歩先に広がる景色が──私達の人生を賭した正念場。

 

『動く! ついに動いた! 九番サトノダイヤモンドが、大外から末脚を爆発させて豪快に突っ込んできた!』

 

 最終直線。ここから先は、駆け引きを投げ捨てた純粋な力の殴り合い。

 

「はぁあああああああああああッ!!!!」

 

 私は一歩一歩に全身全霊を捧げて、先頭目掛けて一心不乱に猛追する。

 

 目の前に立ちはだかる絶壁を超えた先に待つ、ゴールをただ一直線に見据えて。

 

『一人、二人、躱したっ、また躱したッ!! 余力を残したウマ娘達をものともしない速度で、あっという間に先頭を捉えるか!?』

 

 残り五バ身。

 

 死力を尽くして前へ、ただ前へ。

 

『先頭はロイカバードとロードヴァンドールの二人態勢! サトノダイヤモンドはこの二人すらも躱してしまうのかッ!!』

 

 残り四バ身。

 

 脚の回転数をがむしゃらに引き上げて、一歩でも早く最高速度に到達させる。

 

『残り二百五十メートルを切る! 全員がとんでもない速度で坂路に突っ込んでいくッ!!』

 

 残り三バ身。

 

 坂路に差し掛かればこれ以上の加速は望めない。

 

 踏み込め、絞り出せ、駆け抜けろ。

 

 そしてついに、先頭まで残り二バ身という距離まで肉薄して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………ぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その距離にして、約五メートル。

 

 

 

 その時間にして、約コンマ四秒。

 

 

 

 しかしその差は、あまりにも絶望的。

 

 

 

 ダイヤはこれ以上ない完璧なタイミングで勝負を仕掛けた。異常な展開を察知し、既存の戦略を即座に修正した。終始自分の走りに徹して、勝利することを第一に見据えていた。

 

 でも、今回ばかりは仕方なかった。前を走るウマ娘達に、余力が残りすぎていた。

 

 先頭を進む二人のウマ娘は、坂路に突入する直前まで加速を続けている。まるで、ダイヤの強烈な追い上げを嘲笑うかのように。

 

 彼女達はおそらく、このままの速度を維持して坂路を登っていくことだろう。

 

「………………」

 

 

 

 戦況はもはや絶望的。

 

 

 

 現状を打破する手段は無い。

 

 

 

 俺は盤上をひっくり返す奇跡のような作戦をダイヤに施していない。そんなものは無いからだ。

 

 

 

 いつ彼女の心が折れてもおかしくないような状態。

 

 

 

 それに加えて、彼女が背負った俺の未練が、大観衆の無責任な視線に形を変えて更なる追い討ちをかけている。

 

 

 

「……………………」

 

 

 

 手の施しようがない、絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況で。

 

 

 

 俺は──いつの間にか彼女の走る姿に、()()()姿()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

『サトノダイヤモンドは届かないか。快進撃はついに終止符か、残り百八十──』

 

 よく頑張った。

 

 本来不要なはずだった重圧を背負って、よくここまで戦った。

 

 二ヶ月前の選抜レースで苦渋を味わった君が、こんなにも眩しく成長してくれた。

 

 よく頑張った。

 

 "もう十分じゃないか"。

 

「…………………………」

 

 彼女に送っているはずの労いの言葉。

 

 それなのにどうして、自分自身を慰めるような言葉に聞こえるのだろう。

 

 無情な現実に打ちひしがれるように、俺は瞼を閉じて光を拒絶した。

 

 もう十分頑張った。だからもう楽になっても──。

 

 

 

 

 

 

 

『──いや、まだだッ! サトノダイヤモンドの目は死んでいないッ!! 二バ身の差に必死に食らいつくッ!!』

 

 

 

 

 

 

 

…………どうして?

 

 地獄の底に突き落とされたような局面で、どうして君は諦めないんだよ。

 

「………………………………」

 

 俺は恐怖で下を向いて、過去の未練で心を支えることしか出来なかったのに。

 

 君は勇敢に上を向いて、未来を切り拓こうと前へ進んでいるというのか。

 

 

 

……あぁ、すごいな、ダイヤは。

 

 

 

「…………っ」

 

 それに比べて、俺は、

 

(二年前のあの日から、ずっと未練に縋りついている)

 

 過去を乗り越えられず、今日も惨めな自己保身に走り、未来を恐れて蹲っている。

 

 大切な教え子を喪失した痛みは、今でも俺の心に深い傷跡として残っている。

 

 この傷がある限り、俺はもう間違えない。

 

 もう二度と同じ過ちを繰り返さないと、今は亡き君に誓った。

 

 それが君を殺した俺にできる、唯一の罪滅ぼしだったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でもさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………れ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぁ、ミライ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やっぱり俺には、()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………しれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 懸命に前を向いて、夢へ駆ける君達の邪魔をすることなんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──走れぇええええええええッ!!!!! ダイヤぁああああああああああ!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺には、出来ないんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 届かない。

 

 残り二バ身の差が、どうしても縮まらない。

 

 もう私の脚にはもう、これ以上加速できる余力がこれっぽっちも残っていなかった。

 

 坂路に突入する前に先頭を捉えられないと、私は彼女達を追い抜くことが出来ない。

 

 

 

──負ける。

 

 

 

 直感的に悟ってしまう。

 

 敗北する未来が明確に浮かび上がって、私の視界を真っ黒に塗りつぶす。

 

(……いや。いやだっ、いやだよ……ッ!)

 

 止めどなくわき出てくる最悪の光景を振り払うように、私は走る。ひたすら走る。

 

 何故なら私は勝たなければならない。

 

 勝って希望を届けなければならない。

 

 奇跡を起こさなければならない。

 

 それなのに……。

 

(…………ぁあ)

 

 万に一つの確率に縋り、彼の未練をわがままに背負ったことが完全に裏目に出てしまった。

 

(やっぱり私には、無理だったのかな)

 

 縮まらない。魂を込めて一歩を踏みしめようとも、どれだけ歯を食いしばっても、先を行く背中には届かない。

 

 ゴールまではもう、百八十メートルを切った。

 

 

 

 

 

 そしてついに、私は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「ぃ、いや……そん、なの…………絶対だめ……ッ」

 

 諦めることなんて私には許されない。

 

 俯いちゃだめ。

 

 前を向かなきゃだめ。

 

 私は走らなければならない。

 

 

 

 だって。

 

 

 

 だってそうしないと──。

 

 

 

「…………っ」

 

 異色の登竜門となったメイクデビューに決着が着くまで、残り十秒。

 

 私に罪の意識を深々と刻み付けるかの如く、体感時間だけが無限に引き伸ばされる。

 

 突きつけられる絶望に、心が折れそうだった。

 

 四肢の感覚が曖昧になって、涙で滲む視界が光を拒絶して、耳朶を打つ会場の熱狂が嘘のように凪ぐ。

 

 あまりに無情な現実に、心が壊れそうだった。

 

 前に進んでいるはずなのに、私の意識はまるで、必死に何かを探しているかのように立ち止まっている。

 

 

 

 

 

 その姿は何故か、二年前の私によく似ていた。

 

 

 

 

 

(兄さま……)

 

 コマ送りになった世界で、私は彼の姿を強く求める。

 

 失踪の知らせを受けた日から抱き続けた彼への渇望が、再び私の心にわき上がる。

 

 私は心になだれ込んでくる暴力的な熱に身を委ね、赴くままに視線を動かした。

 

 まるで、彼の心に導かれるように。

 

 まるで、彼の心に支えられるように。

 

(……っ、あぁ……)

 

 そしてついに、私は彼の姿を瞳に捉えることが出来た。

 

 

 

……意外だったのは。

 

 

 

 普段から少し無愛想で、どこか冷めたように人生を諦観していた彼が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(あぁ、兄さま……っ)

 

 

 

 彼の声援が、塞ぎ込んでしまった私の耳に届く。

 

 

 

 彼の熱意が、私の渇き切った身体を満たす。

 

 

 

 彼の心が、私の心に前へと進む勇気をくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──走れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私、走るよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……まだまだ」

 

 

 

──彼女にもらった夢を。

 

 

 

 残り百八十メートル。

 

 

 

──彼女にもらった希望を。

 

 

 

 残り十秒。

 

 

 

──彼にもらった勇気を。

 

 

 

 残り二バ身。

 

 

 

──今度は私が、あなたに送ります。

 

 

 

 

 

「──ここからぁあああああああッ!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 どれだけ辛くても、どれだけ限界だと感じても、決して下を向いて良い理由にはならない。

 

 彼が背中を押してくれた。だから私はさらに力強く一歩を踏み出して、未来へと続く直線(みち)を全力で駆ける。

 

 懸命に、前だけを見据えて。

 

『な、なんとッ!? サトノダイヤモンドの速度が再び上がる!! 翼を広げて羽ばたくように、()()使()()()()()()()()ッ!!!』

 

 強い想いが脚の回転数を爆発的に引き上げる。自身の限界を超えて生み出された速度で、先頭を走るウマ娘に肉薄する。

 

『先頭との差は残り一バ身! 逃げ切るか、差し切るかッ!? 残り五十ッ!!』

 

 

 

 一歩一歩に全身全霊を尽くして、私は先に広がる景色を切り開く。

 

 

 

 心に秘めたありったけの感情を込めて、私は叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──勝つのは……わたしなんだからぁあああああああああッ!!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ねぇ、兄さま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あなたが育てた愛バ(わたし)の走りは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あなたが前を向いて歩む、希望になれましたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その場にいる誰もが固唾を呑んで、ターフビジョン側面に設置された電光掲示板を食い入るように見つめる。

 

 

 

 

 

 

 

 息が詰まるような長い沈黙の末。

 

 

 

 

 

 

 

『一着は……』

 

 

 

 

 

 

 

 ついに、一番上の空白に栄光を示す数字が輝いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──九番、サトノダイヤモンドです!!!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 



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19:未来を見上げて

「……勝った…………のか………………?」

 

 わなわなと身体を震わせながら、俺は電光掲示板を見た。

 

 暗黒な画面の一番上で燦然と輝く、九番の数字。

 

 その数字が、彼女の功績をはっきりと示していた。

 

「あ……ありえない…………」

 

 徹底的に脚を潰されて、作戦を壊されて、目を背けたくなるような絶望的な状況下で、君は勝ったというのか……。

 

 決して俯かず、懸命に前を向いたというのか。

 

「……ぁぁ、……ああ…………っ」

 

 俺はもう、溢れ出てくる涙を堪えることが出来なかった。

 

 いくら両手で涙を拭っても、俺の中でせき止めていた何かが決壊したかのように流れ出てきてしまう。

 

 どうしようもなく、彼女の勇ましい姿に自分の惨めな姿を重ねてしまう。

 

 もはや、俺は立っていることすら出来なかった。

 

「──兄さま」

 

 歓声で会場が震える中、へたり込む俺の頭上から声が掛けられた。

 

 サトノダイヤモンド。俺の大切な、担当ウマ娘。

 

「私、勝ちましたよ」

「っ……、ぁあ」

 

 おめでとう、と言いたいのに声が出ない。

 

「兄さまの応援が、私の背中を押してくれました」

「……っ──ぁあ、ぁぁ……」

 

 嗚咽を漏らして、俺はただ頷くことしかできない。

 

 涙が止めどなく溢れてくる。

 

 心の傷口に澱んだ膿が、涙と共に流れ落ちていく。

 

「兄さま」

 

 その場でへたり込んだ俺の身体が、彼女の温もりに包まれる。

 

「私は──あなたの希望になれましたか?」

 

 ダイヤの言葉を聞いて、俺は彼女が自ら重圧を背負ったことの意味をようやく理解した。

 

 

 

 俺に、過去と向き合う勇気を与えてくれたのか。

 

 

 

 俺に、今を歩む希望を与えてくれたのか。

 

 

 

 

 

 俺に……未来を見上げる夢を与えてくれたのか。

 

 

 

 

 

「……ぁあ。なってるよ…………十分に」

 

 

 

 

 

 ありがとう。

 

 

 

 

 

 俺の心を支えてくれて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本当に、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウイニングライブは、本日予定されている全レースが終了した夕方から開催される。

 

 華やかライブ衣装に身を包んだダイヤがセンターに立つのは四曲目。

 

 あまりダンスは得意ではないと言っていたけれど、ダイヤが満開の笑顔を浮かべながら歌って踊るその姿は、誰をも魅了する輝きを放っていた。

 

 俺はサイリウムを振ってダイヤにエールを送る。曲が終わってダイヤが退場するその瞬間まで、俺は彼女の晴れ舞台をしかと目に焼き付けた。

 

 ダイヤのウイニングライブが終了するのと同時に、俺は五曲目の準備が行われている会場から静かに抜け出す。

 

 会場の熱気に当てられていたせいか、肌に触れる外の夜風が心地よかった。

 

 レース場に訪れていた人々の大半がライブ会場に移動しているため、周囲に人の気配はない。

 

 俺は正面に広がる噴水広場の緩やかな階段に腰掛けて、とある人物に電話を掛けた。

 

 数回のコールの末、スマホ越しに懐かしさを覚える声が返ってくる。

 

『──はい』

 

 実に、二年ぶりの会話になるのだろうか。

 

「……お久しぶりです、()()()

 

 二年前に定年退職をしてトレーナー業界の第一線を退いた、チーム・アルデバランの元チーフトレーナー。

 

 ミライの故障事故から、何かと俺のことを気にかけてくれていた恩師である。

 

『……まさか、あなたから連絡をしてくれるなんて。二年ぶり、かしら……?』

「そうですね」

『皆さん、あなたのことをとても心配していましたよ』

「……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 

 二年ぶりに話すチーフトレーナーは、昔と変わらず温厚で柔らかな物腰だった。

 

『特に、あなたと仲良くしていた方達を落ち着かせるのは、とっても苦労しました』

「……彼らにはいずれ、こちらから連絡するつもりですので」

 

 ”星の消失”を経て、俺は何も、誰にも相談せずに失踪した。本当に、大勢の人達に心配と迷惑をかけてしまったと思う。

 

『レース、拝見しましたよ。サトノダイヤモンドさん、でしたっけ。素晴らしい方と出会いましたね』

「はい」

 

 トゥインクル・シリーズで開催されるレースは、ウマチューブなどに映像として誰もが視聴できるように保存される。

 

 ダイヤのわがままを聞いた時はあまり想像できなかったけれど、やはり彼女が背負った肩書きは大きな反響を呼んでいるようだ。

 

『私のチームを、引き継いでくれたんですね』

「……ずっと、気になっていたんですが」

 

 俺はチーフに、二年前から疑問に思っていたことをぶつけてみた。

 

「どうして失踪した俺を、後継に任命したままだったのでしょうか」

 

 俺がこの業界に戻ってくる保証なんてどこにもなくて、世界最強の肩書きが一夜で崩壊すると知った上で。

 

 どうしてチーフは、俺にチームを託したままだったのだろうか。

 

 しばらく沈黙が続いた後、チーフは穏やかな口調で俺に言った。

 

()()()()

「……え?」

『私達の、わがままです』

 

 そして、恥ずかしい悪戯を打ち明けるように、少しおどけた様子でチーフは言った。

 

『あの子が……ミライが亡くなった後。あなた以外のメンバー全員で、話し合いました』

「……」

『故障事故を経て……あなたはいつ自ら命を絶ってもおかしくないほど、心に深い傷を負ってしまった』

 

 チーフの言葉通り、ミライを喪くした俺は現実に絶望して、心を固く閉ざしてしまった。

 

『このチームには……あなたとミライの思い出がたくさん詰まっています。だからどうか、過去の()()()があなたの心を支えてくれますように。それが、あなたを思う仲間の総意でした』

「…………」

 

 俺はずっと、過去の()()に縋ることで生きていくことが出来た。

 

 

 

 でも。

 

 

 

 でも本当に、俺が地獄のような二年間を生きてこれたのは……。

 

 

 

「……そうですか」

『こうして私に連絡を送ってきてくれたということはきっと……少しずつ、前に進もうとしているんですよね』

「はい。ダイヤから……教え子から、たくさんのものを貰いましたから。時間はかかるかもしれませんが……少しずつ、前を向いていこうと思います」

 

 俺はダイヤが懸命にレースを走る姿から、辛い過去と向き合う勇気をもらった。未練と決別し、今を歩む希望をもらった。そして、未来に想いを馳せる夢をもらった。

 

 ダイヤが壊れてしまった俺の心を、強かに支えてくれた。

 

 だから、俺はきっと大丈夫だ。

 

『そうですか……それはとっても、良いことです』

 

 画面越しに、チーフの心の底から安堵したような声がこぼれた。

 

 俺の身勝手な自己保身に巻き込んでしまって、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。

 

──すみません。

 

 そう言ってチーフに謝ろうとした俺だったが、同時に発せられた彼女の声に制された。

 

 

 

『"ミライ"という冠名(なまえ)には……』

 

 

 

「え?」

 

 突然、どうしたのだろう。

 

『彼女の走りを見た全ての人達に、“未来を夢見て前に進んで欲しい“……そんな意味が込められています』

 

…………。

 

『彼女が一番未来を届けたいと言っていた方の道を、彼女自身で閉ざしてしまったことが……私にとって、ずっと心残りでした』

「…………」

『でも良かった。あなたがまた、前を向いてくれて』

 

 ミライは、そんな気持ちでレースを走っていたのか。

 

 今更気付いても手遅れだというのに、じんわりと目尻が熱くなってしまった。

 

『きっとあの子も……()も、あなたが再び歩き出してくれたことを、心の底から喜んでいますよ』

「……っ」

 

 

 

 あぁ、駄目だな。

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 俺はまだ、過去の思い出を引きずってしまいそうだ。

 

 

 

***

 

 

 

「──こちらにいらしたのですね」

 

 チーフトレーナーとの会話を終えた後、俺は階段に腰掛けたまま夜風を感じていた。

 

 ぼーっとしていた俺に突然、背後から声がかけられる。

 

 振り返ると、ライブ衣装から制服に着替えたダイヤが立っていた。

 

「となり、よろしいでしょうか?」

「うん」

 

 俺の返事を受けて、ダイヤが拳三つ分くらい離れた位置に腰を下ろした。

 

「……俺さ。てっきり、取材とかインタビューとか。根掘り葉掘り聞かれる覚悟をしてきたんだけど。意外とそういうのが全くなくてさ……チーム・アルデバランって、案外大したこと無かったのかな」

 

 ダイヤのわがままを受け入れた時から、何となくメディアからの言及は避けられないなと覚悟していた。

 

 ただ、世間からの言及がどのようなものなのかに関しては、当時は思考が上手くまとめられなくて想像に至らなかったが。

 

 しかし実際は、俺の自意識過剰だったようだ。

 

「そんなことはありません。おそらく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「理事長が?」

「はい」

 

 確信があるのだろうか、ダイヤは迷うことなく頷いて微笑んだ。

 

 ああ、そうだ。理事長といえば。

 

……いや。それよりもまず、俺はダイヤに言わなければならないことがある。

 

「ダイヤ。改めて……メイクデビュー一着、おめでとう」

 

 レース直後は俺が泣き崩れてしまったせいで言葉に出来なかったが、落ち着いた今ならしっかりと口にすることができる。

 

「……ふふ、ありがとうございます」

 

 俺からおくられた突然の祝福に、ダイヤは嬉しげに、そしてどこか寂しげにはにかんだ。

 

「余計な重圧を背負って……本当に、よく頑張った」

「あ、あはは……これはその、私のわがままでしたので」

「それでも。俺は、レースを走り抜いた君が誇らしいよ」

「……」

 

 ダイヤのわがままには、本当に手を焼かされた。

 

 でもそれ以上に、俺は彼女のわがままに救われた。

 

「兄さま」

「うん?」

「ありがとうございました」

 

 突拍子もなくダイヤから礼を言われて、俺は返事に戸惑う。

 

 気になってダイヤが座る方向を向くと、彼女が真っ直ぐに俺を見つめていることに気付いた。

 

「私、兄さまと過ごした時間を宝物にします」

「唐突だな」

「以前もお伝えしましたが……私は、今日をもってトレセン学園を退学します。兄さまと交わした約束通り、契約も全て破棄します」

 

 ダイヤから退学という単語を耳にしても、俺は取り乱したりはしなかった。

 

 事前にダイヤの口から聞いていたことだ。決意を固めた彼女に、俺は水を差すような真似なんてできなかった。

 

 でもいざこうして別れの時が近づくと、何故だろう……少しだけ、胸の奥が無性にざわついてしまう。

 

「GIレースに勝ちたいっていう夢は……もういいのか?」

「はい。サトノ家には、私の他に優秀な方がたくさんいますから。サトノの悲願は、他の方にお任せします」

「……そうか」

 

 俺は静かに頷いて、彼女の意見を尊重する。

 

「ダイヤ。俺からも、その……ありがとう」

 

 彼女のわがままの意味を何となく悟って。

 

 自意識過剰かもしれないけれど、きっとダイヤは心に傷を負った俺のために走ってくれた。

 

 だから、俺は今を歩む希望を与えてくれた彼女にお礼を言わなければならない。

 

「理事長が、病気の治療に最適な病院を紹介してくれたんだ。だからさ……俺はそこで、自分自身と真剣に向き合ってくるよ」

 

 俺はダイヤから、過去と向き合う勇気をもらった。絶望的な状況でも決して俯かない彼女の姿に、俺は心の底から励まされたんだ。

 

「……っ、…………はいっ」

 

 ありがとう。ダイヤが心を支えてくれたから、俺はきっと大丈夫。

 

「……兄さま」

 

 心なしか、涙ぐんだ声音でダイヤが俺を呼んだ。

 

「もう一つ、もう一つだけ……私の()()()()を聞いてくれませんか?」

「俺に、できることなら」

「抱きしめて下さい」

「え──」

 

 俺がダイヤのわがままに答えるよりも前に、彼女は俺の胸元に飛び込んできた。

 

 俺は突然の抱擁に戸惑っていると、必死に嗚咽を堪える音が聞こえてきた。

 

「ダイヤ……?」

「ずっと、ずっと怖かったんです……私がっ、私が全部壊しちゃったから……ッ」

「……」

「後悔と罪悪感で押し潰されそうで……っ、今日のレースだって、わたっ、わたしは…………ぅ、ぅうっ」

 

 ついに抱え込んだ感情を抑えきれなくなったのか、ダイヤは言葉にならない声を漏らして泣き出した。

 

 ダイヤがどんな覚悟で今日のレースに臨んだのかは、到底推し量ることなんて出来ないけれど。

 

 胸の奥から込み上げてくる感情を言葉にする代わりに、俺は彼女の華奢な身体を抱き寄せる。

 

「……っ」

 

 俺の抱擁を受けて、背中に回されたダイヤの両腕にさらに力がこもる。密着度が上がり、彼女の体温をより強く感じるようになった。

 

「あぁ…………あったかいなぁ」

 

 そしてダイヤがこれ以上、俺に何かを語ることは無かった。

 

 ダイヤの心が穏やかになるまでの間、俺は彼女の温もりを忘れないように抱きしめ続ける。

 

 あぁ、ダイヤの言う通りだ。

 

 

 

 本当に、温かい。

 

 

 

***

 

 

 

「──ごめんなさい。少しだけ、取り乱してしまいました」

 

 どれだけ時間が経ったのか定かではない。ただ、それほど長い時間では無かったように感じる。

 

 ダイヤは泣き腫らした目元を隠しながら、静かに俺の腕の中から退いた。

 

 二人の距離が再び、最初の拳三つ分に収まる。

 

「私のわがままを聞いて下さって、本当にありがとうございます」

「ああ」

「これでもう、私は大丈夫です」

 

 そう短く口にして、ダイヤはおもむろに立ち上がった。

 

 スカートについた土埃を払って、ダイヤが俺の前に立つ。

 

「そろそろ、帰りましょうか」

「ああ、そうだな」

 

 俺もダイヤの後に続いて立ち上がり、二人で肩を並べて街灯に照らされた夜道を歩く。

 

 俺達の間に会話は無い。でも、決して居心地が悪いとは感じなかった。

 

……だからこれはきっと、他愛ない会話の延長線。

 

「ダイヤ」

「はい、何でしょうか?」

 

 ダイヤと共に歩みながら、俺は彼女に声をかける。

 

「たまにはさ、俺の()()()()も聞いてくれないか?」

「兄さまのわがまま、ですか?」

「ほら、普段は俺がダイヤのわがままに付き合ってきただろう?」

 

 ダイヤは物珍しいと言わんばかりの表情で、隣を歩く俺を見上げてきた。

 

「ふふっ、そうですね。たまには、兄さまのわがままを聞くのも良いかもしれません」

「そう言ってくれて嬉しいよ」

「何でも良いですよ。さぁ、どうぞ」

「もう一度、君をスカウトさせてくれ」

「まぁ、兄さまもそんなわがままを言うんですね。私をスカウトだなんてっ」

 

 まるで駄々をこねる子供をあやすように、上品に微笑むダイヤの反応が返ってくる。まぁ、聞いてくれと言っただけだから、別に受け入れてくれとは思っていないのだけれど。

 

……ちょっと勇気を出したんだけどな。大の大人がわがままなんて言うものじゃない。

 

──今のは忘れてくれ。

 

 そう口にして、俺は隣にいるダイヤに訂正を呼びかけた。

 

「……?」

 

 あれ、おかしいな? 俺の横にいたはずのダイヤの姿が見当たらない。

 

 どこに行ってしまったのだろう。そう思って、俺は背後を振り返る。

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 口をぽかんと開けて、俺の隣にいたはずのダイヤが後方で突っ立っていた。

 

 俺の言葉の意味を理解するのに時間が掛かっているのだろうか。

 

 しばらく放心した様子のダイヤだったが……突然、彼女の目元から大粒の涙が滴った。

 

「兄、さま……? い、いま……なんて…………?」

 

 頬を伝う雫を拭い取ることもせず、唖然とした様子でダイヤが俺に問うてきた。

 

「もう一度、君をスカウトさせて欲しい」

 

 俺は背後で立ち止まったダイヤに寄って、再び同じわがままを言い放つ。

 

 彼女からの返事はない。反応もない。だから俺は、わがままを続ける。

 

「俺はこれから、自分自身と真剣に向き合ってくる。どれだけ時間が掛かるかは分からないけど、いつか必ず戻ってくる」

 

 俺を蝕む病はとても面倒で、とても根深い。でも、俺はそれでも君から、前へ進む勇気をもらったから。

 

「だから、健康な身体になったらさ。俺はまた、ダイヤと一緒に今を歩きたい」

「…………っ、ぅ……ぁあっ」

 

 どうしようもなく壊れてしまった俺の心を支えてくれたダイヤに、恩返しがしたい。

 

「ダイヤと一緒に夢を語って、同じ未来を見ていたい」

「う、ぅうっ……ぅあ……っ、──ぁああっ!」

 

 俺を支えてくれたダイヤを、今度は俺が支えたい。

 

 どうしようもなくそう思ってしまうのは、俺のわがままなのだろうか。

 

 俺は目の前で泣きじゃくるダイヤに手を差し出す。

 

 彼女が俺の手を取ってくれるかは分からない。

 

「わ、わたし……っ、兄さまを傷つけてしまったんですよ……? だ、だからっ……私はもう、兄さまの隣にいたらいけないと思って、それで……っ」

「それでも俺は、ダイヤと一緒にいたい」

「──ッ」

 

 だから、少しでもダイヤが俺の手を取ってくれるように、ありのままの本心を彼女へとぶつけた。

 

「だからさ……俺のことを、待っていてくれないか?」

 

 君が待っていてくれたら、自分自身の過去に立ち向かう勇気がもっと大きくなる気がするんだ。

 

 君が隣にいてくれたら、今を歩むのがもっと楽しくなると思うんだ。

 

 君が傍で笑っていてくれたら、より素敵な未来を形にできると感じるんだ。

 

 

 

 

 

 なぁ、ダイヤ。

 

 

 

 

 

「いつか必ず──君を迎えに行くから」

 

 

 

 

 

 もし君さえ良ければ、俺は君と一緒に。

 

 

 

 

 

「だからさ。俺の手を、取ってくれないか?」

 

 

 

 

 

──未来を見上げていたいんだ。

 

 

 

 

 

「…………っ」

 

 

 

 

 

 ダイヤは両目からこぼれ落ちる涙を静かに拭って、

 

 

 

 

 

 

 

「──はいっ」

 

 

 

 

 

 

 

 とびっきりの泣き笑いを浮かべながら、俺の手を優しく包み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 十二月二十四日。

 

 世間を騒然とさせた衝撃のメイクデビューから半年が過ぎた。

 

 今日は、俺がついに病を克服した退院の日。そして、心待ちにしていた教え子との再会の日。

 

 非常に優秀な精神科医やカウンセラー、理事長が用意してくれた治療に最適な空間。そして、自分自身と向き合う意欲的な態度が相乗したおかげか、奇跡的とも言える速度で俺は健康に近い心を取り戻すことに成功した。

 

 しかし、致命的な状態を数年間放置していたこともあってか、完治までは更に長い年月をかける必要があった。

 

 それでも医師の診断曰く、俺の心は退院しても問題なく日常生活を送れる水準に回復しているとのことだった。

 

 俺は一通り荷物をまとめて、最後の退院手続きを済ませる。

 

 今日はこの後、久しく会っていない教え子と再会する予定が控えていた。

 

 俺は病院を退院したその足で、彼女が待つトレセン学園へと向かおうとして。

 

 

 

「──兄さま」

 

 

 

 しばらく聞いていなかった教え子の柔らかな声が、俺の耳に届く。

 

 俺はその方向に視線を向けると、制服姿の彼女が正面に控えていることに気が付いた。

 

 サトノダイヤモンド。俺の教え子にして、色々な意味で強かなウマ娘。

 

「学園で待ち合わせって言っていたじゃないか」

「すみません、我慢できませんでした……ぇへへ」

 

 半年前と比べて、少しだけ大人びた印象になったと感じたが……どうやらそれは俺の勘違いだったようだ。

 

「退院、おめでとうございます」

「ああ、ありがとう」

 

 こうしてダイヤと面と向き合って話す機会を、どれほど待ち望んでいたことか。

 

 他愛ない会話を交わすだけでも、不思議と俺の頬が綻んだ。

 

「さぁ、兄さまっ。早速ですが、私の家に参りましょう!」

「え?」

「今日は私の家で、兄さまの退院祝いとクリスマスを兼ねたパーティーを開くんです。さぁ、早く行きましょう!」

「あっ、お、おいっ──」

 

 ダイヤの勢いに流されるまま、俺は彼女が乗ってきた車に詰め込まれてしまった。

 

 俺が座ったその隣に、ダイヤは拳一つ分の隙間も開けずに腰掛ける。

 

 至近距離から教え子にまじまじと見つめられて、俺は羞恥心を覚えて彼女から視線を逸らす。

 

「……なんか、近くない?」

「そうですか? 普通ですよ」

 

 ダイヤにとっては、この密着した距離感がデフォルトなようだ。

 

「ふふふっ。兄さま、照れていますね? お顔が真っ赤ですよ?」

「……ああ、照れてるよ」

「……意外と、正直なんですね」

 

 過去にも似たような形でからかわれたことがあったからな。

 

「兄さま。私いま、とっても幸せです」

「また唐突だな」

「兄さまがこうして、私の隣にいてくれる。それが……今でも信じられなくて」

 

 俺も、ダイヤと同じ気持ちだった。

 

 二年前に心を壊した俺が、自分自身と真剣に向き合う機会をもらって、あろうことか再び誰かの隣に立っている。

 

 あぁ、到底信じられない光景だ。

 

 まるで、奇跡でも起きてしまったかのようだ。

 

「兄さま。これからも()()()──サトノダイヤモンドをよろしくお願いしますね?」

 

……いや、多分奇跡なんて起こっていないのだろう。

 

 ダイヤに大切なものをたくさん貰って。

 

 ダイヤに壊れた心を支えてもらって。

 

 そんな彼女の健気な積み重ねが、俺に前を向かせてくれた。

 

「ああ、こちらこそ──」

 

 色々と面倒な問題を抱え込んでしまった、訳ありトレーナーの俺だけれど。

 

 

 

「一緒に頑張ろうな、ダイヤ」

 

 

 

 ダイヤが心を支えてくれたから、俺は未来を見上げて歩いていくことが出来る。

 

 

 

「ふふふっ……はいっ!」

 

 

 

 だから俺達はもう、きっと大丈夫だ。

 

 

 



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幕間 1
XX:キタサンブラック 1


 三年前に開催されたトゥインクル・シリーズ国際招待競走──ジャパンカップ。

 

 世界最強と名高いチーム・アルデバラン、その中でも”星”という異名で一世を風靡したアイドルウマ娘──ミライが出走するということもあり、当時のトゥインクル・シリーズの中でも異例の注目を浴びることとなったGIレースである。

 

 ミライの走りを生で見ることが出来る。直接応援を届けることが出来る。

 

 その事実に胸が躍った。普段は画面越しに憧れを抱くだけだったミライに、会うことが出来るなんて。

 

 レース当日。あたしは親友のダイヤちゃんを誘って、ジャパンカップの開催地である東京レース場に足を運んだ。

 

 来場者数が十万人を超える異例の熱狂具合に、あたしの期待は否応無しに高まった。

 

 荒波のような人混みに尻込みするダイヤちゃんを引き連れて、あたしはホームストレッチの最前列を目指した。憧れのミライの姿を一番近くで見たかった。普段は人情深いあたしだけれど、今回ばかりは遠慮できない。

 

 小柄な体格を生かして混雑する人の隙間を縫い、あたし達はレースの観戦に最適な場所をなんとか確保することができた。

 

 柵から身を乗り出す勢いで、あたしはターフの上でゲート入場を控えるミライを食い入るように見つめる。

 

──あ!

 

「いま、あたしに向けて手を振ってくれた……っ」

 

 今、ミライがチラリとこちらを見た。あたしに向けて、ミライが手を振ってくれる。

 

「いや、絶対私だよ!」

「あたしだって! 絶対目があったんだから!」

「それは違うよキタちゃん。ぜっっっっったい私!」

 

 多分、彼女が手を振ったのはあたしに向けてでもダイヤちゃんにでもないだろう。このような勘違いは日常茶飯事だ。

 

『──間もなく各ウマ娘の出走準備が整います』

 

 ダイヤちゃんと言い争っている間に、ミライの晴れ舞台の準備が整う。くだらない喧嘩で一生に一度の機会を見逃すわけにはいかない。

 

『ついに実現した夢の舞台。その幕が今、上がります!』

 

 世界中の期待を一身に受け、ミライがターフを駆け抜ける。

 

「すごい……」

 

 彼女の優雅な走りはまるで、夜空を駆ける流星のように美しい。”星”という異名を冠するに相応しい、圧倒的な速さだった。

 

「あたしも、なれるかな……」

 

 ミライの勇姿に見惚れながら、あたしは呟く。いつかあたしも、彼女のようなウマ娘になりたい。

 

 彼女と同じウマ娘に生を()けたものとして、強い憧れを抱くのは必然のことだった。

 

 

 

***

 

 

 

 三年前。あたしは”星”の輝きに照らされて、将来の理想像を形にすることが出来た。

 

 ああ、忘れもしない。

 

 三年前のジャパンカップ。

 

 あの時の()()()があったから、今のあたしがここにいる。

 

 絶対に忘れない。

 

 

 

 

 

──キタサンブラックが描いた夢の、誰も知らない本当の始まり。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「……ダイヤちゃ〜ん? もぉ、どこ行っちゃったの?」

 

 ミライが出走したジャパンカップは、東京レース場で開催される今年最後のレースであった。

 

 第十二レース全ての出走が終了すると、レース場に併設されたライブ会場でウイニングライブが行われる。

 

 十万人を超える来場者が一斉にライブ会場へ移動するため、小柄な体格のあたし達は荒波のような人の移動にあっけなくのみこまれてしまった。

 

 有り体に言うと、あたしは迷子になっていた。

 

 東京レース場には何度か訪れたことはあった。しかし、人混みから抜け出すので精一杯だったあたしは現在地がどこなのか、分からなくなってしまったのである。

 

 ダイヤちゃんに電話をかけようとしたけれど、まるで見計らったようなタイミングでスマホの充電が切れてしまった。

 

 あたしは使い物にならないスマホをカバンにしまって、周囲を見渡す。

 

 先程まであたしの視界は見渡す限りの人、人、人で埋めつくされていた。しかし今はどうだろう。人の気配が微塵もなく、無機質で細長い迷路のような廊下が無限に広がっている。

 

 避難口誘導灯の蛍光色に照らされた少し不気味な道を、身体を小さくしながらゆっくりと歩く。

 

 この後、ジャパンカップで見事一着となったミライのウイニングライブが控えている。彼女が舞台のセンターに立つ瞬間までには、何としてもここから抜け出さなければならない。

 

 変わり映えのしない通路をしばらく進む。だんだんと胸に込み上げてくる不安が大きくなるのを感じて、焦燥に駆られるようにあたしは走り出した。

 

「えっ──」

 

 そして、廊下の突き当たりを曲がった瞬間、あたしの身体が何かに衝突した。

 

「──ぶぐぉっ!?」

 

 どうやらあたしは、人とぶつかったようだ。その衝撃でスーツ姿の青年がひしゃげたような声をあげて、背面の壁に身体を強打してしまう。

 

「え、あ、ごっ、ごめんなさいっ!?」

 

 焦りが募るあまり、少し勢いが出てしまったようだ。あたしは慌てて青年の元に駆け寄った。

 

「だっ、大丈夫ですか……っ!?」

 

 見た感じ、青年が怪我を負ったような様子はない。

 

「あ、ああ……うん。大丈夫……慣れてるから、あたたっ」

 

 両手に薄手の革手袋を着用した青年は、頭部を軽くさすりながらおもむろに起き上がる。

 

 少し変わったファッションだな……なんて余計なことを考えていると、不意に青年から声がかけられた。

 

「えっと……君、こんなところでどうしたの?」

 

 青年と目が合う。ちょっとカッコいいな、なんて不要な感情が脳裏に浮かんで、あたしは慌ててそれを振り払う。

 

「あ、えっと、その……」

「もしかして、道に迷った感じかな?」

「……はい」

 

 青年の言葉に微かな羞恥心を覚えながらも、あたしは素直に頷いた。

 

「ご両親と一緒に来たのかな?」

「い、いえ……友達と」

「ふむ……」

 

 青年はあたしの前でしばらく考え込む。

 

「とりあえず、ここを出よう。窓口まで案内するよ」

「……えっと」

 

 あたしはこのまま青年について行っても良いのだろうか……なんていうあたしの警戒心は、親切な青年に筒抜けだったようだ。

 

「ああ、すまない。俺は君達ウマ娘を指導するトレーナーだ。ほら、襟にバッジが付いているだろう?」

 

 青年の言葉通り、彼が着用するスーツの襟元には身分を証明するライセンスバッジが輝いていた。

 

「ご、ごめんなさい……」

「謝る必要はないよ。まぁ、たとえ君に話しかけたのが変質者だったとしても、返り討ちにあうだけだろうけどね」

 

 乾いた笑みを浮かべながら、青年が歩き出す。

 

 その半歩後ろからあたしは続く。

 

「あの、ひとつお聞きたいんですけど……」

「うん?」

「えっと……トレーナーさんはどうしてこんなところを歩いていたんですか?」

「あぁ……人避け?」

 

 確かに、外は会場を移動する大勢の人々でごった返している。

 

「レースが終わったから、控室へ行って()()の様子を確認しに行こうとしたんだけれど……」

 

 青年の言葉の節々から、彼の苦労がひしひしと伝わってくる。

 

 青年はあたしの緊張を紛らわそうとしてくれているのか、他愛ない話題を色々と振ってくれた。

 

「この時間帯だと、君はジャパンカップを観戦しに来たのかな?」

「は、はいっ! ミライさんの応援に来ました!!」

 

 あたしの声のトーンが跳ね上がる。青年は少し驚いた表情を浮かべたが、年相応にはしゃぐあたしの様子を見て、次第に顔を綻ばせていた。

 

「初めてミライさんのレースを生で観ましたっ! とっても可愛くてカッコよくて速かったですっ!!」

「ははっ……そっか。それは良かった」

「──っ!? あ、うぅ……」

 

 いつの間にかあたしは、聞かれてもいないことを早口で青年に語っていた。

 

 正直、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

 

 青年と会話を続けているうちに、いつの間にか迷路のような廊下を抜け出していた。どうやらあたしが迷い込んだのは、レース関係者が使用する通路だったようだ。

 

 しかし通路から抜け出したは良いが、ここはどこだろう。廊下の至る所に扉があって……あ、なるほど。レースに出走するウマ娘達の控室か。

 

「ごめん、少しだけ待っていてくれるかな?」

 

 青年の後にしばらく続いたあたしだったが、彼は一足先に目的地へ到着したのだろう。通路左手に設置された扉の前で立ち止まった。

 

「はい」

「ありがとう。すぐに戻るよ」

 

 あたしにそう言い残して、青年は控室の中に入って行った。

 

 パタリと扉が閉まる。扉の真ん中には控室を使用するウマ娘の名前らしきものが表記された紙が貼られていたが、あいにく英語で書かれていたため読むことが出来なかった。

 

 しばらく待つ。

 

 すると意外にもすぐに、部屋の奥から青年が出てきた。

 

「もう良いんですか?」

「ああっと……少し話が長引きそうでさ。君さえ良ければ、中で待っていてくれないかな」

「は、はいっ。大丈夫です」

「ありがとう。簡単なお茶菓子を用意するよ」

 

 控室といえば、今日のレースに出走したウマ娘がいるんだよね。

 

 あたしの心臓が不意の出来事で大きく跳ねる。

 

 青年が控室の扉を開けてくれる。

 

 入っていいよ、ということなのだろう。

 

「お、お邪魔します……」

 

 おそるおそる、あたしは控室に一歩を踏み込む。

 

「……?」

 

 しかし、控室を見渡しても誰もいない。でもトレーナーさんは確かに、誰かと会話していたような気がするんだけれど。

 

「あ、あの誰もいませ──」

 

 あたしは背後に控える青年に疑問をぶつけようとして振り返る。あたしの意識が青年の方へと向いたその瞬間。

 

 

 

 

 

「──わぁっ!!」

 

 

 

 

「うきゃあああああああああっ!?!?!?」

 

 突然女性のいたずらな大声が、あたしに襲い掛かった。あまりに不意な出来事に、あたしはとんでもない声をあげてしまう。

 

 あたしは何事かと、慌てて声の主を視線でたどった。

 

………………………………え?

 

「あは、あははははははっ!!!」

 

 あたしは一瞬、自身の目と耳を疑った。

 

「……はぁ、ファンの前で笑いすぎだ」

「ごめんごめんっ。で、でもこの子のリアクションが、もうとっても可愛くって、あははっ!」

「…………()()()?」

「うっ……あ、あはは。驚かせちゃって、ごめんね?」

 

 え? …………ミライ?

 

 え。

 

「あ、あれ? 反応がなくなっちゃった……」

「そりゃあ、あんな風に驚かしたらこうもなるだろう」

「う、うぅ…………」

 

…………?

 

「すまない。道に迷った君のことをミライに話したら、ぜひ会いたいって言いだしてさ」

「だって私、ファンと交流する機会が全然無いんだもん」

 

 あたしの目の前で青年と言い争うウマ娘は、あろうことか先程のジャパンカップで”星”のミライが着用していたきらびやかな勝負服と、同様の衣装に身を包んでいた。

 

「……ほん、もの?」

「え、うん」

「ミライ……さん?」

「うんうんっ」

 

 あたしは彼女の言動に、しばらく思考がフリーズして。

 

「み、ミライさんって──日本語喋れたんですか!?」

「え、驚くとこそこじゃなくないっ!?」

 

 膨張した困惑が一気に爆発した。

 

 えっ? あたしの目の前に本物のミライさんがいる!?

 

 ええええええっ!?!?!?

 

「私、ハーフなんだ。母親が日本人なの。こっちに住んでたこともあるから、日本語はぺらぺらだよ」

「は、はわ、はわわわわわ…………っ」

 

 ほ、本物だぁ…………。

 

「いつも応援してくれてありがとっ!」

「は、はひっ!」

 

 ミライさんは小柄なあたしに目線の高さを合わせて握手をしてくれた。内心パニックになっているあたしには最早(もはや)、正常な返答をする余裕なんてこれっぽっちも残っていなかった。

 

「トレーナーから聞いたよ? 道に迷っちゃったんだよね。でも安心して、私のトレーナーが責任を持って送り届けてあげるから!」

「言い方」

「別に私が連れて行ってあげても良いけど、多分会場がヤバい事になるよ?」

「……確かに」

 

 本物のミライさんとの対面で意識を完全に持っていかれていたが、そういえば……。

 

「あ、あの……。トレーナーさんって、もしかして」

 

 ミライさんは先程、迷子のあたしを案内してくれた彼のことを”トレーナー”って呼んでいたような気がする。

 

「厳密には彼女のトレーナーでは無いけれど、やっていることはトレーナーのそれと変わらないかな」

「もぉ、トレーナーは私のトレーナーでしょ!? ハッキリ言わないと、この子も困惑しちゃうよ」

 

 何か大人の事情があるのかもしれない。少なくともあたしの記憶では、チーム・アルデバランに所属するミライのトレーナーは目の前の彼では無かったはずだ。

 

「この人はね、私のとっても大切なトレーナーなんだ」

 

 ミライさんは、遠慮がちに背後に控えていたトレーナーさんの腕をグイッと引っ張って、あたしに紹介してくれた。

 

 トレーナーさんを隣に引き寄せたミライさんの表情は……なんて表現すれば良いのかな。少なくとも、ミライさんのこんな可愛らしい表情は見たことが無かった。

 

「ミライさんの、トレーナーさん……」

「ま、まぁ……そうなるの、かな」

 

 トレーナーさんは少し恥ずかしそうに頬をかきながら、あたしの言葉を肯定した。

 

 

 

 そっか。

 

 

 

 そうなんだ。

 

 

 

 この人が、ミライさんを育てたんだ……。

 

 

 

「あ、あの……っ!」

「「……?」」

 

 仲睦まじい二人のやりとりを眺めていると、胸がソワソワするような不思議な感情が込み上げてきた。

 

 あたしはそれを心の中で咀嚼して、気付いたら二人に声をかけていた。

 

「あたし、ミライさんの大ファンなんですっ!」

 

 あたしの唐突な告白に、二人は正直困惑していたと思う。

 

「あたし、ミライさんのようなウマ娘になりたいんですっ!!」

 

 でも、あたしは心に生まれた衝動を我慢することが出来なかった。

 

 

 

 

 

「トレーナーさんっ! 将来あたしが大きくなったら、あたしのトレーナーになって下さいっ!!」

 

 

 

 

 

 良く言えば、自分の気持ちに正直。悪く言えば、本能的な衝動を抑えられない。

 

 勢いのままに頭を下げた後で、じわじわと羞恥心と後悔が込み上がってくる。

 

 こんなどこのウマの骨とも知れない子供に突然迫られて、相手にとっては明らかに迷惑だろう。

 

 TPOを弁えない失礼千万なあたしの言動。

 

 本当にごめんなさい。

 

「……あ、あはは、困ったな」

 

 案の定、突然子供に言い寄られたトレーナーさんは困惑し、乾いた笑みを浮かべていた。

 

「あ、そ、その……ごめんなさいっ。本当はこんなこと言うつもりなんてなくて、そのっ」

 

 今更訂正しても、ギクシャクしてしまった空気は元には戻らない。

 

 多感な時期に入ったばかりのあたしはその事実を痛感しただけで感情が暴れ出してしまって、目尻に涙を浮かべてしまった。

 

 昔から周りが良く見えない子だと言われてきたけれど……それが何も、あたしの憧れの人がいる前で起きなくても良いじゃないか。

 

 俯いて、今にでもこの控室から走り去ってしまいたい気持ちに駆られていると。

 

「──ごめん。泣かせるつもりは無かったんだ」

 

 ミライさんのトレーナーさんが立膝をついて、革手袋を外した手であたしの頭を撫でてくれた。

 

「ありがとう。素直な気持ちを誰かに伝えるってことは、誰にでも出来ることじゃない」

「ぅ、ぅう…………」

「これは君の一番の長所だ。自信を持っていい。涙を流す必要はないよ」

 

 トレーナーさんはこんなあたしに幻滅するどころか、言動を肯定的に捉えて優しく宥めてくれる。

 

「私もね、君がそう言ってくれてとっても嬉しい。たった今、私の()が叶っちゃった」

 

 そしてトレーナーさんどころか、彼の隣に立っていたミライさんまでもあたしの愚行を肯定してくれた。

 

「……君は将来、とっても強いウマ娘になれる。世代の頂点も夢じゃない」

「ど、どうしてそんな風に言えるんですか……?」

「なんとなく分かるんだ。”星”を育てた俺が保証するよ」

「ほ、本当……ですか?」

「ああ」

 

 トレーナーさんはまるで、確信があるかのような口調で言い放つ。

 

 どうしてだろう。まだ出会って間もない、名前も知らない彼に認められたような感覚がして、胸の奥がかあっと熱くなった。

 

「た、ただ……スカウトの件は、そうだな。俺の活動拠点がそもそも、海外だからな……」

「そ、そのことはもう忘れて欲し──」

「えーもったいないよっ!」

 

 あたしが慌てて打ち消しの言葉を言おうとした瞬間、ミライさんが被せるように声を発した。

 

「トレーナー! せっかくこの子が勇気を出して言ってくれたんだから、しっかりと返事をしてあげるべきでしょっ!?」

 

 ミライさんが困惑するトレーナーさんを説教している。二人は普段から、このような仲睦まじい関係なのだろうか。

 

 やがてトレーナーさんの方がミライさんの熱意に折れたのか、改めて立膝をついてあたしに向き合ってくれた。

 

「……そうだね。もし君が本格化を迎えて、レースに出走出来るようになったら。その時は、改めて君のことをスカウトさせてもらうよ」

「……っ」

 

 たかが子供の口約束。きっとトレーナーさんは、本気でその言葉を口にした訳では無いと思う。

 

 数多といるファンの一人に対する、少しだけ特別なリップサービス。そんなことは、熱に浮かされた思考をちょっとでも動かせば分かることだった。

 

 でも、まだまだ子供だったあたしには、憧れの人達を前にして冷静になることなんて出来なくて。

 

 彼から貰った言葉が、どんなものよりも嬉しくて。

 

「良かったねっ! ……あ、そうだ!」

 

 トレーナーさんの返事に満足そうな笑みを浮かべたミライさんが、何かを閃いたかのように表情を更に明るくした。

 

「これ、あげる。私の夢が叶った記念に」

 

 ミライさんは自身の左耳に付けた耳飾りを取って、きょとんとするあたしの手に置いた。

 

 ミライさんの耳飾りは、三種類の鮮やかなガーベラとリボンがあしらわれた高級で綺麗な代物だった。

 

「この耳飾り、私の一番のお気に入りなんだ。だから、私の夢を叶えてくれた君に()()よ」

 

 押し付けられるがままに受け取ってしまったが、これは本当にあたしがもらっても良いものなのだろうか。

 

「そして、君の身体が本格化を迎えてレースに出走できる時期になったら、この耳飾りをトレーナーに渡すの。"私をスカウトして下さい"って。どう? なんだかとってもロマンチックだと思わない?」

「は、はいっ! とっても素敵だと思います!!」

 

 なんて情熱的なアプローチだろう。まるで、物語のヒロインになったような気分だ。

 

「……あ、もうこんな時間だ。ミライ、そろそろウイニングライブの準備をしないといけない」

 

 憧れの人達と会話した幸運な時間は、あっという間に過ぎてしまった。

 

 レース後からはぐれてしまったダイヤちゃんにも、心配を掛けてしまっているかもしれない。

 

「俺は窓口にこの子を送ってくる。すぐに戻ってくるから、ちゃんと移動の準備を済ましておくように」

「うん、わかった」

 

 そろそろ行こうかとあたしに声をかけて、トレーナーさんが立ち上がる。

 

 夢のような時間は、もう終わり。

 

「──ミライさんっ!」

 

 こんな幸運はもう二度と巡ってこない。

 

「あたし、これからもミライさんのことを応援しています!」

 

 だからせめて、悔いが残らないように自分の気持ちを伝えたい。

 

「今日のウイニングライブ、とっても楽しみに待っていますからっ!!」

 

 

 

 

 

──あたしに夢をくれて、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 今でも時々、三年前の夢を見る。

 

 "星の消失"を経てもはや叶わぬ夢となってしまったけれど、あの日の幸運は、あたしが前へと進む大きな原動力となっている。

 

 ミライさんの形見であるガーベラの耳飾りは、あたしの一番の宝物として今でも大切に保存している。

 

 

 

 

 

 ミライさんと交わした約束を守るために。

 

 

 

 

 

 あたしを認めてくれた()()()に、この耳飾りを届けるために。

 

 

 

 

 

 子供の頃の口約束に、三年経った今でも淡い期待を寄せてしまっている。

 

 ロマンチックな思い出に胸をときめかせるなんて、快活なあたしらしくないけれど。

 

「ミライさん……」

 

 でも、あたしだって年頃の女の子なんだから。

 

 仕方ないですよね。

 

「…………トレーナー、さん」

 

 

 

 

 

 あの人との出会いに、素敵な運命を感じてしまっても。

 

 

 

 

 

 仕方……ないですよね。

 

 

 

 

 



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XX:キタサンブラック 2

「──ち、違うんです兄さまっ、これは……っ」

「何をしていると、聞いているんだ」

「……自主トレーニング、です」

 

 あたしが親友のダイヤちゃんを自主トレーニングに誘った日のこと。

 

 ターフの上で休憩していたと思ったら、突然やってきたトレーナーさんがダイヤちゃんに厳しい口調で言及してきた。

 

 動揺し、何故だかとても思い詰めたような表情を浮かべたダイヤちゃんに、トレーナーさんが有無を言わせぬ物言いで畳み掛ける。

 

「俺との約束、覚えているよな?」

「それ、は……」

「忘れたとは言わせない」

 

 あたしは二人の間に漂う不穏な空気を肌で感じていた。あたしは周囲を見渡す。一体何事かと、トレーニング中だったウマ娘やトレーナー達の視線を集めてしまっていた。

 

「……お前には失望したよ。今日付けで、俺はお前のトレーナーを辞める」

 

……え? ()()()? 契約破棄ってこと?

 

 今の状況の中で、契約破棄に至る理由なんて一体どこにあるというのだろう。まさか、自主トレーニングが原因であるとは言うまい。

 

「ま、待って下さいッ! 約束を破ってしまって、本当にごめんなさい……」

 

 興味が失せたと言わんばかりに立ち去ろうとするトレーナーさんを、ダイヤちゃんが必死の形相で引き留める。

 

「俺はもうお前を信用できない。信用に足らないウマ娘を、育てることは出来ない」

 

 突き放すようなトレーナーさんの言葉を受けて、ダイヤちゃんの表情が青ざめた。まるで、絶望のどん底に突き落とされてしまったかのように。

 

 親友の悲しそうな表情を見て、あたしはいても立ってもいられなくなった。

 

「──ちょっと待って下さい!」

 

 立ち去ろうとする彼の進路に割り込んで、あたしは大きく両手を広げる。

 

 絶対に行かせない。そんな気持ちを身体にこめて。

 

「トレーナーを辞めるって、一体ダイヤちゃんが何をしたって言うんですか!?」

「口を挟むな。お前には関係ない」

「いいえあります」

 

 あたしの良心が、彼の言動を否定している。

 

 だからあたしは自分の気持ちを素直に伝える。絶対に引いてはいけない。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「今の話、自主トレが原因で契約を破棄するみたいな感じに聞こえるんですけど?」

「そうだ」

 

……なんで、なんでそんな平然と答えられるの? 

 

 なんで自主トレが契約破棄に繋がるの?

 

 トレーナーさんの背後でダイヤちゃんが泣いているのに、どうして彼女の言葉に耳を傾けてくれないの?

 

「それってあんまりじゃないですかッ!?」

 

 あたしは彼の言動に対して声を荒げた。

 

 彼がダイヤちゃんのトレーナーだというのなら。せめてしっかりと話し合って上で、それで……。

 

「……」

 

 しかし、トレーナーさんはあたしの言葉を無視して横を通り過ぎようとする。

 

「っ。少しは人の話に耳を──」

 

 いよいよあたしも冷静さを失って、彼のことを強引にでも引き止めようと手を伸ばした。

 

 その結果。

 

 

 

「──部外者は黙っていろッ!!」

 

 

 

 あたしは彼の怒気を孕んだ強烈な罵声と共に、身体の重心が崩れるほどの勢いで背後に押っ付けられてしまった。

 

…………え?

 

 何が起こったのか分からず、あたしはただ呆然と尻もちをついて、トレーナーさんのことを見上げた。

 

「何も知らないガキが、ふざけやがって……」

 

 一般的な人間がどう足掻いても、ウマ娘の身体に秘める怪力に勝つことはできない。たとえ彼があたしに暴力を振るってきたとしても、正当防衛として返り討ちにすることができる。

 

 それなのにあたしは、眼前で深い憎悪に染まった表情の人間に対して恐怖を抱いた。

 

 どうして彼がこんなに怒り狂っているのか理解できない。正気を失った彼の形相が、言動が……たまらなく怖い。

 

 彼が一歩近づいてくる度に、あたしは背後に後ずさる。

 

 そしてついに、あたしとトレーナーさんの距離が手の届く位まで縮まって……。

 

 

 

 

 

「──そこまでだ」

 

 

 

 

 威圧感を剥き出しにした制止の声が、彼の動きをピタリと止めた。

 

「……おや、君は選抜レースの時の」

「……お前は」

 

 あたしのことを助けてくれたのは、トレセン学園で生徒会長を務める無敗の三冠ウマ娘──シンボリルドルフ。

 

 少し息を荒げていたのは、彼女がトレーニング中だったからだろう。異変を察知して、駆けつけてくれたのかもしれない。

 

 トレーナーさんとルドルフ会長が少しだけ言葉を交わした後、彼は冷静さを取り戻したように去っていった。

 

「……君、怪我は無いかい?」

 

 尻もちをついて呆然としているあたしに、ルドルフ会長は優しく手を差し伸べてくれた。

 

「一体何があったのか、説明してくれないか?」

「は、はい……えっと、あたしとダイヤちゃんが…………あ」

 

 自分で言って、あたしは親友のことを思い出す。

 

 あたしのことよりも、突然の契約破棄を突きつけられ、トレーナーさんの背後で涙を浮かべていたダイヤちゃんのことが心配だ。

 

「ダイヤちゃん……っ」

 

 あたしは慌ててダイヤちゃんに視線を向ける。

 

「ぃ、いや……だ、め…………契約破棄だけは、そんな……っ」

「……ダイヤちゃん?」

 

 明らかに様子がおかしい。表情がどこか虚で、ぶつぶつと何かを呟いている。

 

 あたしは慌ててダイヤちゃんに駆け寄って、彼女に声を掛けた。

 

「に、兄さま……ご、ごめんなさい。いや、行かないで…………っ」

 

 ダイヤちゃんは横に立つあたしのことが見えていないのか、覚束ない足取りで彼のことを追いかけようとする。

 

「ま、待ってよダイヤちゃんっ!」

 

 あたしは慌てて彼女の腕を取った。今、彼の元へ行ってしまったら、さらに傷つけられてしまうかもしれない。

 

 あたしは自分の良心に従って、ダイヤちゃんを引き留める。

 

 しかし。

 

「──離してッ!!」

 

 明らかに冷静さを失って取り乱したダイヤちゃんが、大声を上げてあたしを拒絶した。

 

「行かないと……っ。私のせいなのッ、私が兄さまとの()()を破って、自主トレなんかしたからッ!!」

「え、約束って……?」

 

 ダイヤちゃんはあたしの制止を強引に振り払って、彼の背中を追いかけようとする。

 

「だ、だめだよダイヤちゃんっ。今あの人のところに行ったら……っ」

「邪魔しないでよッ!!」

「……っ」

 

 こんなに感情を爆発させたダイヤちゃんを、あたしは見たことが無かった。

 

 結局、とんでもない力で暴れるダイヤちゃんを抑えるため、ルドルフ会長を含む他のウマ娘達の手を借りることになってしまった。

 

 

 

***

 

 

 

 周囲を巻き込むような騒動を起こしてしまったあたし達は、秋川理事長やたづなさんに事情を説明することとなった。

 

 理事長室にいるのは二人の他に、事の背景を知らないあたしと泣きじゃくるダイヤちゃん、そして、あたしを助けてくれたルドルフ会長の三人。

 

 まともに話が出来ないダイヤちゃんの代わりに、二人の会話を一番近くで聞いていたあたしが事情を説明した。

 

「「…………」」

 

 あたしの説明を受けて、秋川理事長とたづなさんが顔を青ざめさせながら絶句していた。

 

 その反応を受けて、あたしは異変を悟る。

 

 あたしは何か、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。

 

「理事長」

 

 先程からあたしの話に黙って耳を傾けていたルドルフ会長が、重たい表情を浮かべる秋川理事長に声を掛けた。

 

「私はことの一部始終を見ていただけですが、彼がウマ娘に暴力を振るう瞬間を目撃しました。彼はウマ娘の競走生活を支える指導者として言語道断、あるまじき行為を犯したと判断します」

「……無論。だが、彼女は何一つ外傷を負っていない」

「程度が重要なのではありません。暴力を振るったという事実を重く受け止めるべきなのです」

「…………彼の処遇はわたしが判断する。事態の鎮火に協力してくれたことを感謝する。君はもう下がって良い」

「しかし……っ」

「君が納得できないのは重々承知だ……だが頼む。ここはどうか、わたしに免じて欲しい」

 

 秋川理事長の独断まがいの対応に不満を抱いたルドルフ会長だったが、込み上げてくる感情を律した様子で理事長室を後にした。

 

 重苦しい雰囲気が、四人となった理事長室に漂う。

 

 ダイヤちゃんの泣き声だけが響く空間で、最初に口を割ったのは秋川理事長だった。

 

「……後悔、先に立たずか」

「なんのことですか?」

「失敬。こちらの話だ。君が気にする必要はない」

 

 秋川理事長は脱力した様子で、ソファーの腰掛けに体重を預ける。

 

「に、兄さまは……」

 

 兄さま……ダイヤちゃんのトレーナーさんのことだろうか。

 

 泣きじゃくって上ずった声音で、ダイヤちゃんがポツリとこぼす。

 

「もう……私のトレーナーを辞めてしまったのでしょうか」

「分からない…………だが十中八九、彼は指導者の立場を放棄するだろう」

「そ、そんな……っ」

 

 大粒の涙を浮かべながら、ダイヤちゃんは俯いてしまった。

 

 先程から話を聞いていたが、あたしにはどうしても理解できないことがあった。

 

「あの、どうしてトレーナーさんはダイヤちゃんとの契約を破棄してしまうんでしょうか。トレーナーさんはさっき、自主トレが原因だって言っていましたけど」

 

 あたし達はウマ娘だ。少しでも強くなるため、少しでも速くなるため、人一倍走っていたいと本能的に思ってしまう種族だ。

 

 そんな向上心の塊のようなあたし達の行為が、一体どうして契約破棄に繋がるのだろうか。

 

「…………それが、二人の()()()()だったからだ」

「……え?」

 

 契約条件……? 自主トレをしないことが……え、なんで?

 

「今回の騒動の場合……残念だが、非があるのはサトノ君だ」

「……」

「この件に関して、理事長としてはこれ以上関与することが出来ない。担当契約は当事者間の問題だ」

「…………はい」

「一応、彼を説得できるように動くつもりではいる。この事態を招いた原因の一端がわたしにもあるからな。だが……あまり期待はするな」

「……お願いします、理事長」

 

 この場にいる全員がことの重大さを受け止める中、あたしだけが事情を把握できずに浮いてしまっていた。

 

「彼と再会できたのは奇跡に近い。サトノ君も半端な覚悟では無かったはずだ。なのにどうして、契約条件を反故にしてしまったんだ」

「そ、それは……」

「あの……その、契約条件って一体何なんですか?」

 

 あたしは少しでも事情を掴もうと、秋川理事長達に疑問を投げかけた。あたしの疑問に対して答えてくれたのは、契約の背景を全て把握しているであろう秋川理事長だった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それが、担当契約を承諾した彼がサトノ君に課した唯一の条件だ」

「……………………」

 

 その瞬間ようやく、あたしは自身がしでかした過ちの大きさを理解した。

 

「とりあえず、一度彼には冷静な思考を取り戻してもらう必要がある。目撃者が複数いる以上、一週間程度は学園から距離を置いた方が良いのかもしれない」

 

 あたしの視界が真っ黒に染まっていく。

 

 ダイヤちゃんのトレーナーさんが怒り狂ったのは、信頼していた教え子に裏切られてしまったから。

 

 ダイヤちゃんが取り乱してトレーナーさんを引き留めようとしたのは、約束を反故にしたことを強く後悔したから。

 

 じゃあ、ダイヤちゃんはどうして約束を破ってしまった?

 

 ダイヤちゃんがトレーナーさんとの約束を破って、自主トレーニングを行ってしまったのは。

 

「全部、あたしの……せい…………?」

 

 強引にダイヤちゃんを自主トレに誘った、あたしの所為だ。

 

 

 

 

 

 二人の仲をズタズタに引き裂いてしまったのは誰でもない……あたしなんだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 「──すまなかった」

 

 あの時の騒動から一週間後。ダイヤちゃんのトレーナーさんが突然教室に入ってきて、あたしの前で深々と頭を下げた。

 

 彼の言動に、あたしは困惑していた。

 

「ウマ娘のパートナーであるトレーナーとして、俺は君に対してあるまじき行動を取った。すまなかった」

 

 どうして彼が頭を下げているのか、あたしには理解出来なかった。

 

……なんで? なんでトレーナーさんがあたしに謝るんですか?

 

「……」

 

 先週の騒動に居合わせた複数の目撃者が噂を流したのか、現在では歪曲した事実が学園中に蔓延しており、彼は非難の的となってしまっていた。

 

 トレーナーさんは何も悪くない。本当に非難されるべきなのは、ダイヤちゃんを強引に自主トレに誘ったあたしなのに。

 

 彼に誠意を込めて謝らなければならない。でもその前に、どうしても確認しておかなければならないことがある。

 

「……あの。一つ、聞きたいんですけど。あなたはまだ……ダイヤちゃんのトレーナーですか?」

 

 トレーナーさんがまだ、ダイヤちゃんとの担当契約を継続しているのか。それだけがずっと気になっていて、この一週間、あたしはろくに寝付けなかった。

 

「そうだ」

 

 トレーナーさんの返答から、彼はダイヤちゃんとの担当契約を破棄していないことが分かった。

 

「そうですか……良かったです」

 

 あたしの胸に大きな安堵が込み上げてくる。

 

「あの……顔を上げてください、トレーナーさん。ダイヤちゃんは、何も悪くないんです」

「……ああ」

 

 あたしの所為なんです。全部、あたしが悪かったんです。だから、あたしに頭を下げないでください。

 

「あの、もうすぐ授業が始まるので……」

「ああ、もうそんな時間か……本当に、申し訳ない」

 

 先程から、教室にいる生徒達がトレーナーさんに対して鋭い非難の視線を飛ばしていた。

 

 謂れのない中傷を受ける彼の姿をこれ以上見たくなくて、最もらしい理由をつけてあたしは彼を守ろうとする。

 

「ダイヤ、少し良いかな」

 

 トレーナーさんは去り際に、彼の担当ウマ娘であるダイヤちゃんの名前を呼んで廊下へと出た。

 

 あたしはホッと胸を撫で下ろして、自分の椅子に腰掛ける。

 

 しばらくして、ダイヤちゃんが廊下から戻ってくる。

 

「ダイヤちゃ──」

 

 慌ててダイヤちゃんに声をかけようとしたけれど、彼女の様子を目の当たりにしてあたしは躊躇してしまった。

 

 胸元に両手を押し当てて、ダイヤちゃんは過呼吸気味に思い詰めた表情を浮かべていた。

 

 この数分間で、二人の間に一体何があったのだろうか。

 

 ただ一つだけ分かるのは。

 

 あたしの身勝手な行動が、二人の関係を修復困難な状態までぶち壊してしまったこと。

 

 それだけだった。

 

 

 

***

 

 

 

 消灯時間を迎え、栗東寮のみんなが寝静まった夜。

 

 あたしは同室の子を起こさないようにベッドから起き上がって、机の引き出しを漁った。

 

 引き出しから小さな木箱を手に取って、中身を取り出す。

 

「……ミライさん」

 

 三年前。あたしが憧れのミライさんから貰った、ガーベラの耳飾り。

 

 時間が経って少し劣化してしまったけれど、あたしはこうして今でも大切に保管していた。

 

 心が不安定になったとき、あたしはこうして彼女の形見に安定を縋る。

 

「あたし、親友が一番大切にしていたものを壊してしまったんです」

 

 耳飾りに後悔を語りかけても、当然返事なんてくるわけがない。

 

「ミライさん。あたしは……どうしたら良いんでしょうか」

 

 多分今のあたしが何かをしたところで、火に油を注いでしまうだけ。

 

 どうすればいい。何をすれば、あたしは二人の関係性を修復できる?

 

 

 

「…………トレーナーさん、教えてくれませんか?」

 

 

 

 あたしの欠点を長所として肯定してくれたあの人なら……身勝手なあたしの悩みに寄り添ってくれるのだろうか。

 

 

 

***

 

 

 

 六月末、阪神レース場で開催されるGⅠレース──宝塚記念に出走するゴールドシップさんを応援するため、あたし達は東京都府中市から兵庫県宝塚市までやってきた。

 

 会場は午前中にも関わらずもの凄い人だかりが出来ていて、あたしはこの中を進んでいくのかと少しばかり億劫になっていた。

 

 チーム・スピカとしてメンバーの応援をすることはもちろんだけれど、今日は午前の第四レース──メイクデビューに親友のダイヤちゃんが出走する。親友の応援も、忘れてはならない。

 

 目下の目的まで、あたしは一緒に応援に来ていた方々と屋台を回ろうかなと考えていると……。

 

「あ、あれ……皆さん、どこへ行っちゃったんですか?」

 

 いつの間にか荒波のような人の移動にのみ込まれてしまったようだ。あたしはテイオーさん達を見失ってしまう。

 

 有り体に言うと、あたしは迷子になってしまった。

 

 まだまだ時間に余裕があるため、あたしは焦らず会場内をぶらつくことにした。

 

 焦燥に駆られて走ってしまうと、あの時のように誰かに衝突してしまう可能性がある。

 

 三年前と似たような状況に陥って、あたしは懐かしさで頬を緩めていると。

 

「──あ」

 

 あたしは偶然にも、顔見知りのトレーナーさんとばったり出会った。

 

「……キタサンブラック」

 

 どうしてトレーナーさんがこんな場所に……なんて野暮な質問はしない。

 

 彼はダイヤちゃんのトレーナーさんだ。メイクデビューに出走する彼女の引率と応援のために決まっている。

 

「……こんにちは」

 

 相変わらずスーツ姿に薄手の革手袋を着用した、少し変わったファッションだなと内心で思いながら、あたしはトレーナーさんと当たり障りのない挨拶を交わした。

 

 ギクシャクとした居心地の悪さを感じてしまうのは、きっとあたしに負い目があるから。

 

「その……この前はすまなかった」

 

 重苦しい雰囲気を払拭しようとしたのか、トレーナーさんの方からあたしに話しかけてくれる。

 

「メイクデビューで一着になったって……ダイヤから聞いたよ。おめでとう」

 

 てっきり叱責の言葉を予想していたため、斜め上からの褒め言葉にあたしは返答に困ってしまった。

 

「……あ、ありがとうございます」

 

 とりあえずあたしは、当たり障りのない返事で乗り切った。

 

 空気が重く澱んでいて息苦しさを覚えていたあたしは、目の前に立つトレーナーさんから目を逸らし、視線を彷徨わせて助け舟を求めた。

 

「──ああ、キタサン。なんだ、ここにいたのか」

 

 すると、あたしの願いに答えてくれるかのように、背後から耳馴染みした男性の声が届く。

 

「トレーナーさん」

 

 人混みをかき分けてやってきたのは、あたしが所属するチーム・スピカの代表責任者である沖野トレーナーだった。

 

「一人で行動するとはぐれるだろうが」

「ご、ごめんなさい……」

 

 沖野トレーナーはため息をこぼしながら、相変わらず棒付きの飴を転がしている。彼も一人ということは、他の方々とはぐれたのだろう。

 

「んで、この人は?」

「え、えっと……親友のトレーナーさんです」

 

 あたしは簡単に、ダイヤちゃんのトレーナーさんのことを紹介する。

 

 沖野トレーナーは彼の容姿を一瞥して、ふむ……と唸る。そして、沖野トレーナーが何かを言おうとした矢先。

 

「先日はお騒がせしてしまい、大変申し訳ありませんでした」

 

 ダイヤちゃんのトレーナーさんから謝罪の言葉が飛んできた。あたしの肩がびくりと跳ねる。

 

「いや、俺達の方こそすまなかった。他のチームの方針に首を突っ込んじまって。迷惑をかけた」

 

 あたしが発端となって起こった騒動については、当然沖野トレーナーの耳にも入っていた。

 

 もちろんこっぴどく叱られたし、散々後悔もしてきた。

 

「ごめんなさい。ダイヤちゃんを自主トレーニングに誘ったのは……あたしなんです」

 

 この会場には先日の教室のように、彼を非難する視線は一切ない。

 

 だからあたしは改めて、彼に深く頭を下げた。今更謝ったところで、手遅れなのは変わりないけれど。

 

「ダイヤから聞いたよ……あの時は強く怒鳴ってしまって、すまなかった」

 

 彼の怒りは至って真っ当なものだ。あたしは彼が悪いとは微塵も思っていない。

 

「本当は真っ先に謝罪に赴くべきだったんだが、なかなか見つけることが出来なくてな」

 

 トレーナーさんと沖野トレーナーがしばらく話している間、あたしはじっと彼のことを見つめていた。

 

 とても落ち着いた様子で、時たま頬をかきながら苦笑を浮かべている。そんな彼の表情に、あたしは今まで感じたのことの無かった()()()を覚えた。

 

「──それじゃ、俺達は迷子になった他の奴らを探しにいってくる」

 

 彼から踵を返した沖野トレーナーが、再び人混みの中へ歩み出した。

 

「し、失礼します」

 

 あたしも今度ははぐれないように、しっかりと沖野トレーナーの後に続く。

 

 トレーナーさんの姿が見えなくなる寸前にも深々と頭を下げて、あたしは彼の元から去った。

 

「ふむ……」

「どうかしたんですか?」

 

 人混みの中を進む途中、あたしの隣で沖野トレーナーがおとがいに手を当てて何やら考え込んでいた。

 

「あいつの顔、どっかで見たことあるんだよな……」

「そうなんですか?」

「ん、ああ…………ダメだ、思い出せん」

 

 彼はダイヤちゃんのトレーナーさんだから、沖野トレーナーの同業者として顔を合わせた機会があるのかもしれない。でも確か、沖野トレーナーは彼のことを新人と呼んでいたし。うーん……。

 

「……お、迷子発見」

 

 二人揃って頭を悩ませていると、両手に大量の食べ物を抱え込んだスペシャルウィークさんがこちらに向かって歩いてきた。

 

「あ、トレーナーさん!」

「……スペ、お前到着早々買い込みすぎだろ」

「ふひまふぇん」

「口に食い物を運ぶ手を止めろ……はぁ、まったく」

 

 これで沖野トレーナーを含めてチーム・スピカの三人が揃った。あとはテイオーさんと、スズカさんの二人。

 

 ゴルシさんは午後の宝塚記念に出走するため、すでに控室で待機しているはずだ。

 

「ゴルシの宝塚記念まで時間あるし、ひとまず自由行動にするか」

「……結局ですか?」

「そう伝える前に全員がどっか行っちまったんだよ」

「……あ、あはは」

 

 あたしも人のことは言えないので、苦笑して誤魔化した。

 

 さて。

 

 ダイヤちゃんがエントリーしたメイクデビューの出走まで、あと一時間ほど。

 

 親友の晴れ舞台を、一番良い場所で応援したい。

 

 あたしは少し早いけれど、ターフのホームストレッチへ足を運んだ。

 

 

 

***

 

 

 

……はずだったんだけれど。

 

「──ええっと、この食材が売ってるお店は……」

 

 何故かあたしは、広場で屋台を開いて小銭を荒稼ぎするゴルシさんに買い出しに駆り出されてしまった。

 

 控室で大人しくしていると思っていたけれど、全然そんなことは無かった。

 

 彼女はあろうことか、兵庫県の郷土料理である明石焼きを観客に振る舞っていた。

 

──ん? ああキタサン、オメェ丁度良いところに来たな! 屋台が意外と盛況で材料が切れそうなんだよ、つーわけでひとっ走り頼むわ。

 

 あたしは昔から困っている人を放っておけない性格なので、ゴルシさんからの頼みを断ることが出来なかった。

 

 そんな経緯で、あたしは阪神レース場を離れて周辺の商店街を駆け回っていた。

 

「急がないと、ダイヤちゃんのレースが始まっちゃう……っ」

 

 しかも厄介なことに、ゴルシさんは材料に対するこだわりが強く、購入する店舗の名前まで指定してきた。

 

 あの人レース前なのに一体何をやっているんだろうか。重賞レースの中でも特別格の高い、GIレースだというのに。

 

……いや。多分そんな奇想天外で自由奔放な性格だからこそ、ファンから絶大な人気を得ているのかもしれない。

 

 宝塚市を奔走すること数十分。あたしは頼まれた食材を買い揃えて、ゴルシさんのいる屋台へ大急ぎで戻る。

 

「はぁっ、はぁっ……ゴルシさん、戻りました…………」

「ん、さんきゅー。これ駄賃」

 

 息が絶え絶えになったあたしに、ゴルシさんは買い出しのお礼として明石焼きを差し入れてくれた。

 

「……ふぅ。ありがとうございます」

 

 あたしは息の入りには自信がある。乱れた呼吸を素早く整えて、ゴルシさんからお駄賃をもらった。

 

「あ、これ、とってもおいしいです!」

「ったりめーだろ。なんつったって、本場に弟子入りしたんだからな!」

「そうなんですね……ぁっつ」

 

 明石焼きを頬張りながら、あたしは周囲を見渡す。

 

 

 

 そういえば先程から、少し疑問に思っていたことがある。

 

 

 

「ゴルシさん。先程からこの広場……人が少なくありませんか?」

 

 あたしが阪神レース場を離れる前までは、むせ返るような熱気に満ち満ちた密度であった。

 

 しかし今はどうだろう。もぬけの殻と言うか、店主の姿が見当たらない屋台もいくつかある。

 

 この時間帯に、観客がこぞって注目する催しがあったのだろうか。正直、記憶していない。

 

 不思議に思いながら、あたしは明石焼きを一つ頬張る。

 

「ん、ああ。なんか復活したらしいぞ、()()()()()()

「なるほど、そうなんですね……」

 

 ふわふわの生地に包まれたタコの食感を楽しんだ後、ごくんと飲み込む。

 

 

 

 

 

「…………………………ん"ん"ッ!?」

 

 

 

 

 

 ちょっと待て。今ゴルシさん、さらっとなんて言った?

 

「……アルデ、バラン?」

「なんだオメェ、知らねぇのかよ」

 

……アルデバランって。あの”星”のミライさんが所属していた、あのチーム・アルデバランのこと?

 

「まぁ、アタシとしては商売客を横取りされて文句の一つでも言ってやりた──」

「すみません失礼します」

 

 あたしは残った明石焼きをゴルシさんに渡して、一目散に会場へ駆け込む。

 

 二年前、”星の消失”と共に表舞台から姿を消したあのチームが帰ってきた?

 

 ありえないとあたしの理性が否定する。しかし、広場に人っ子一人いない異常な光景が、彼女の言葉に妙な説得力を持たせていたのは確かだ。

 

 会場入り口に近づくにつれて、あたしは事態の異常性をヒシヒシと痛感することとなった。

 

「……入れない」

 

 ターフの観客席まではかなり距離があるというのに、入り口から尋常じゃないほどの密度で人々が停滞している。

 

 観客席を目指す人々の言葉に耳を傾けると、あちらこちらから過去の記憶となった名前が飛び交っていた。

 

 本当に……あのチーム・アルデバランが復活したのかもしれない。

 

 ということは。

 

 

 

 

 

……もしかしたら、()()()が。

 

 

 

 

 

 

 胸の鼓動が手綱を引き裂いて暴れ出す。叶わないと思っていた約束が、現実になる瞬間が来たのかもしれない。

 

 あたしは逸る期待に決意を固めて、荒れ狂う波浪の中へ飛び込んだ。

 

「すみませんっ、通してっ! 通して下さいっ!」

 

 力加減を調整しながら、あたしは必死に観客席への道を切り開く。幾度となく背後に押し戻されるも、あたしはめげずに前へ進んだ。

 

 確かめなければならない。伝えなければならない。

 

 色々な感情が複雑に混ざりあって生じた原動力を頼りに、時間をかけて荒波の中を無我夢中でかい潜った。

 

「はぁ、はぁ……何とか着いた」

 

 骨の折れる苦労の末、あたしはターフを一望出来る三階観覧席にたどり着く。

 

『──一着は九番、サトノダイヤモンドです!!!!!!』

 

 アナウンサーが親友の名前を大大と叫んだ。残念ながら、あたしはダイヤちゃんの晴れ舞台を見届けることが出来なかった。

 

 その瞬間、地鳴りのような歓声が湧き上がって会場全体が震え上がる。

 

 突然の爆音に耳を抑えながらも、あたしは会場内にいるかもしれないあの人をガラス越しに探した。

 

『──チーム・アルデバランがいまッ!! 強烈な印象を刻みつけたウマ娘と共に、競走の世界に凱旋しましたッ!!!!」

 

 アナウンサーの言葉で会場のボルテージが限界を突破して、もはや収拾がつかない事態に突入する。

 

 かくいうあたしも、あの人がいるかもしれないという期待で盲目的になってしまっていた。周囲の喧騒を置き去りにして、あたしは大衆の中から、過去の記憶と合致する人物を血眼になって探す。

 

「……あ、ダイヤちゃ──」

 

 その途中、ターフの上に毅然とした姿で立つ親友の姿があたしの視界に入った。

 

 ダイヤちゃんは観客の声援に応える様子は一切見せず、おもむろにホームストレッチの方へと歩みを進める。

 

 ダイヤちゃんが誰かと話をしていた。相手は地面にしゃがみ込んでしまっているのか、周囲の観客に阻まれてしまってこちらからは確認できない。

 

 しかし偶然にも人混みの中に隙間が生まれ、人より優れたウマ娘の視力が、ダイヤちゃんと話す相手の姿を確かに捉えた。

 

 ダイヤちゃんに抱きしめられる、トレーナーさんの姿を。

 

 

 

 

 

 ダイヤちゃんを抱きしめ返す──()()()の姿を。

 

 

 

 

 

「………………………………なん、で?」

 

 

 

 どうして気付かなかった。

 

 

 

 どうして気付けなかった。

 

 

 

 あの人のまとう雰囲気が違いすぎた。

 

 

 

 あたしの記憶に刻まれたあの人とは、表情がまるで別人だった。

 

 

 

 三年という時間で、人は過去の面影を微塵も残さないほど変わってしまうものなのか。

 

 

 

 加えてあの人は以前、海外を活動拠点にしていると言っていたから?

 

 

 

 二年前にあの人が所属していたチーム・アルデバランが、表舞台から姿を消してしまったから?

 

 

 

 あたしはきっとフィルターをかけていた。あの人があたしの前に現れるはずが無いと、無意識の内に決めつけてしまっていた。

 

 

 

 あたしはその場で呆然と立ち尽くし、ガラス越しに二人の絆が固く結ばれる瞬間を見つめていた。

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 叶わないと知りながら、決めつけておきながら。結局あたしは心のどこかで、愛しい記憶に淡い期待を寄せてしまっていた。

 

 

 

 もしかしたら、成長したあたしのことを迎えに来てくれるんじゃないかって。

 

 

 

……でも、気付いた時には全てが手遅れだった。

 

 

 

 どうすればいい。

 

 

 

 あたしはどうすればいい。

 

 

 

 あたしはあの人に選ばれなかった。選ばれる権利なんて残っていなかった。

 

 

 

 あの人が選んだ相手は、独りよがりな運命を感じていたあたしではなかった。

 

 

 

「…………っ」

 

 

 

 あの人が手を差し伸べた相手は、彼の心を追い詰める元凶となったあたしではなく、

 

 

 

 

 

 

 

──あたしの一番大切な、親友の女の子だった。

 

 

 

 

 

 

 



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episode.2
20:悶絶する原石


 西日が差し込む荘厳な書斎に足を踏み入れるのが億劫に感じるようになったのは、一体いつからだろう。

 

 息が詰まるような緊張感、秘めた思考が筒抜けになっているかのような錯覚を覚えながらも、(わたくし)は毅然とした佇まいで彼女と向き合う。

 

「……足の調子はどうですか?」

 

 私の左脚を鋭い眼光で射抜くのは、優秀なウマ娘を数多輩出してきた名門メジロ家の当主。

 

 私の実祖母──おばあ様である。

 

「はい。療養に専念した甲斐もあり、問題なく日常生活を営める水準まで回復しています」

 

 菊花賞出走後、私はウマ娘の選手生命を蝕む難病──繋靭帯炎を発症した。

 

 発症後はトレセン学園を休学し、メジロ家の療養施設で治療に専念すること八ヶ月。ようやく私は、来月の七月から学園へと復学する目処が立った。

 

 私はおばあ様から視線をわずかに逸らし、書斎の側面に飾られた誉の数々に目を向ける。

 

 メジロ家の悲願であるGⅠレース──天皇賞(春)の制覇。母子三代の春天制覇という前人未到の功績を期待された矢先の、無慈悲であっけない終幕劇。

 

 メジロ家が誇る最高傑作として競走の世界へ送り出され、"名優"の異名を冠した輝かしい過去の軌跡。それが今では、()()()()を持つ私に対する皮肉に思えてならない。

 

「……足のことなら、あなたが気にする必要はありませんよ」

 

 おばあ様が、表情に影を落とした私に向かって労いの言葉をかける。

 

「以前あなたにお話しした件ですが。数日前……二人共々、彼から承諾の言葉を頂きました」

「……」

「彼が業務に復帰するまで些か時間を要するとのことですが」

 

 私は静かに口を噤む。

 

 私が死んだ足を抱えて明日を歩むために、心の奥底で強かな決意を固める。

 

「──しっかりやりなさい、マックイーン」

 

 下を向くことなんて、私には許されない。

 

「はい、おばあ様」

 

 

 

 

 

 何故なら、私には……。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「──天晴(あっぱれ)ッ! 先日のメイクデビュー、見事であったッ!」

 

 文字通り全てを賭した一世一代の大勝負から一夜が明け、私──サトノダイヤモンドは始業前にトレセン学園の理事長室へと足を運んだ。

 

 扉を開けて早々、私は秋川理事長から大仰な歓迎を受けた。

 

「あ、あはは……し、失礼します」

 

 先日秋川理事長に対して電話越しに無理難題を押し付けた罪悪感で、私は彼女からの褒め言葉を素直に受け取ることが出来なかった。

 

「サトノさん。メイクデビュー一着、おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます。たづなさん」

 

 秋川理事長の隣に控える秘書のたづなさんからも、祝福の言葉をかけられる。

 

「こちらにどうぞ」

「はい」

 

 たづなさんに催促されて、私は理事長に設けられた談話用のソファーに腰掛けた。

 

「サトノ君。まずは君に、感謝と謝罪をしなければならない。目先の利益に目が眩み、あらゆる対応を後手に回してしまったわたし達の責任を全て君に背負わせてしまった。申し訳なかった」

「いえ……その責任は本来、私が背負うべきものでした。私の身勝手なわがままが、事の発端でしたから」

 

 ()()()()()()()()を胸に抱き続け、私は心に深い傷を負った兄さまを身勝手にも、強引に競走の世界へと連れ戻してしまった。

 

「だが君は、その足で彼を絶望のどん底から救ってみせた。彼を想う健気な勇姿に、心の底から感謝する」

「救っただなんて……おこがましいです」

 

 複数の精神疾患を併発し、兄さまはいつ自ら命を絶ってもおかしくなかった。

 

 しかし、異色の登竜門となったメイクデビューを経て、彼は過去と向き合う勇気を抱いてくれた。

 

 何が兄さまの心境に影響を与えたのかは分からない。

 

 でも、私の走りが彼の希望になれていたら良いなって、心の底からそう思う。

 

「これはあくまで一般的な見解だが。彼を蝕む病……精神疾患の治療に対して最も重要なことは、クライエントが自分自身に対して関心を抱くこと。それがやがて他者への関心を持つことに繋がり、晴れて健康な心を取り戻す準備が整うのだそうだ」

 

 昨夜、兄さまは自分自身と向き合う覚悟を語ってくれた。これはつまり、自分自身に関心が向き始めたということなのではないだろうか。

 

「わたしが彼に提供した環境は、その手の病の治療に間違いなく最適だ。彼の積極的な主体性も相まって、退院まで長くはかからないだろう」

 

 兄さまは既に、トレセン学園を離れて秋川理事長が紹介した病院に入院している。私が次に兄さまと会えるのは、彼の内面に巣食う病が根絶したあと。

 

 少し……いや、とっても寂しいと感じるけれど、また彼と一緒に歩むことが出来る幸せの方が圧倒的に大きかった。

 

──いつか必ず、君を迎えに行くから。

 

「…………っ、はぅ」

「サトノ君?」

「ぁ、あああっ! ごめんなさいっ、少し……ぼーっとしていました」

 

 一瞬飛びかけた意識を手繰り寄せて、私は慌てて取り繕う。

 

 実を言うと私は、昨夜からずっとこんな調子だ。

 

 彼から貰った宝物のような言葉の数々が頭の中でずっとリフレインしていて、胸の辺りから込み上げてくる暴力的な熱によって冷静な思考が溶かされてしまう。

 

……だって、仕方ないよ。あんな、あんなっ……ぷ、ぷぷ、プロポーズみたいな…………っ。

 

──それでも俺は、ダイヤと一緒にいたい。

 

「…………ぅあっ」

「サトノさん、やはり疲労が抜け切れていませんか?」

「……ぇ、ぁああああっ!! なんでもっ、なんでもないですからっ!!!! お気になさらず……」

 

 これ以上私の痴態を他人に晒してはいけない。緩んだ帯をきつく締めるように意識を強く持って、私。お願いだから。

 

「サトノ君、これはわたし個人の余計な懸念なのだが」

「……? はい」

「彼が健康を取り戻したとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「っ」

 

 秋川理事長の言葉を受けて、私の全身に巡った熱が瞬く間に引いていく。

 

「彼はこれまで、過去の存在であるミライを拠り所とすることで何とか心を支えてきた。それが今回の一件で、彼の精神的支柱がミライからサトノ君にすり替わっただけなのではないかと思ってしまったんだ」

 

 確かに、秋川理事長の懸念は一理ある。

 

 兄さまは昨夜、私と一緒にいたいという赤裸々な本心を打ち明けてくれた。それは確かに彼が前を向き出した証拠であるが、同時に依存的な側面が存在していることも否めない。

 

 もし仮に、私がミライさんと同じような末路を辿ってしまったら……。

 

 今度こそ、兄さまの心は粉々になってしまうかもしれない。

 

「誰かを頼りにすることは悪いことではない。一人で生きていける者など、この世界には誰もいないのだからな」

「どうすれば、兄さまはその危険な状態から抜け出すことが出来るのでしょうか……?」

「単純だ。精神的支柱を増やせば良い」

 

 つまり、彼の心の拠り所を増やす……でもどうやって?

 

「既に目処は立っている」

「と、言いますと……?」

「今後、サトノ君が所属するチーム・アルデバランに二名の生徒が新たに在籍することとなる」

「それは、兄さまが決定したことでしょうか?」

「左様。彼女達に、サトノ君が一人で請け負う役割を分担してもらう」

 

 なるほど。確かにそれなら、仮に誰かが欠けても拠り所が他者に残っているから心が崩壊する可能性は低下する。

 

「近頃、二人揃って君の元へ挨拶に伺うそうだ」

「分かりました」

 

……個人的には。

 

 もう少しだけ兄さまを独占したいという気持ちがあった。

 

 私と兄さまの関係は確かに危うい。けれどそれは、私と兄さまが深い関係に至れたことの裏返しでもあるわけで……。

 

 しかし確かに、精神的支柱が増えるほど彼の心は安定するのも事実であって……。

 

 この胸にわずかに込み上げてきたモヤモヤは、彼の心を独り占めしたいという子供っぽいわがままが生み出したもの。それと彼の心の健康を天秤にかけた時、どちらに傾くかは語るまでもない。

 

「……しかし、アルデバランか」

 

 話の内容に一段落ついたのだろう。秋川理事長が感慨深い表情を浮かべるのと同時に、疲労困憊な様子のため息がこぼれた。

 

「サトノ君も概ね予感していたことではあると思うが……世間の熱が一夜にして、とんでもない程に膨れ上がっている」

「……はい」

 

 私は秋川理事長の実感のこもった言葉を重く受け止める。

 

 兄さまを救いたい、兄さまの力になりたいという想いが爆発した挙句、私は周囲の目というものを疎かにしていた節がある。

 

 かつての世界最強が競走の世界に凱旋したとなれば、世間は当然過剰なまでに盛り上がるわけで……。

 

「サトノ君、君はしばらく学園の敷地外に出ないことを推奨する。マスコミは可能な限りこちらで対処するが……万が一ということもある」

「分かりました」

「だが、世間に対して情報発信を拒絶し続ければ、不信感を抱かせる可能性がある。近々サトノ君には、とある雑誌記者の取材に応じてもらいたい」

「はい」

 

 ただ、競走の世界に飛び込んだ以上世間の目に留まる覚悟はしてきた。今回の一件はその延長線と捉えれば良いだろう。

 

「もうすぐ始業の鐘が鳴る。朝早くから呼び出してすまなかった」

「いえ、こちらこそ。私のわがままに応えて下さって、本当にありがとうございました」

 

 二人に一礼し、私は理事長室を後にする。

 

 全身に巡った緊張感が一気に弛緩して、今度は全く別の感情に身体が熱く包まれた。

 

 前途洋々とした幸福感を噛みしめながら、私は人通りの少ない廊下を進む。

 

「……ふふ、ふふふふっ」

 

 だらしなく緩んだ頭のネジを弄びながら、私は教室の扉を開く。

 

 

 

 

 

 そして私は、自身の心構えの浅はかさを痛感することとなった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「サトノさんっ! 昨日のメイクデビュー凄かったよっ!!」

「あ、ありがと……っ」

「サトノさんが所属するチーム・アルデバランって、あの”星”のミライさんのチームだよね!?」

「う、うん……そうだよ」

「サトノさん以外にどのウマ娘が所属してる? まだ枠って空いてないかな……良かったらトレーナーさんのこと紹介してくれない!?」

「えーっと、兄さ……トレーナーさんは今ちょっと忙しいから」

 

 私が教室へ一歩踏み入れた途端、クラスメイト達が極上の餌を見つけた蟻のように群がってきた。

 

 まるでゲリラ豪雨のような質問責めにあたふたしながら、私は何とかして渦からの脱出を試みる。

 

「どんなトレーニングをしたらあんな末脚が手に入るの? やっぱり”星”を輩出した特別なメニューが?」

「サトノさんって、チーム・アルデバランのトレーナーさんとお知り合いだったんですか!?」

「サトノさんとトレーナーさんってどんな関係性なのっ!?」

「良いなぁ……アタシもサトノさんのトレーナーさんに指導してほしい〜!」

「「「──っ……!!」」」

 

 成り行きで世界最強の肩書きを背負ってしまった訳だけれど……正直、私は自分の行為に対する認識が甘すぎたと今更ながら後悔している。

 

 まぁ、当然こんな反応になるよね。全ウマ娘の憧憬の的と言っても過言ではない”星”のミライが所属していたチームが目の前に、それも手を伸ばせば届きそうな場所に何の前触れもなく突然凱旋したのだから。

 

 四方八方から飛んでくる質問にどうやって答えようか頭を悩ませていると、三女神様が助け舟を出してくれたのだろう。素晴らしいタイミングで始業の鐘が鳴った。

 

「──みなさん、おはようございます。朝のホームルームを始めますよ、席についてください」

 

 各々不満をこぼしながらも、私に群がっていたクラスメイト達が自分の席に戻っていく。

 

 開放的な感覚を噛みしめる私だったが、先生が催促している手前この場で長居は禁物だ。

 

 私は小走りで教室内を進み、自分の席に腰を下ろした。

 

「おはよう、キタちゃん」

 

 私は左隣の席に腰掛ける親友のキタちゃんに静かに声をかける。

 

「……っ。お、おはよ……ダイヤちゃん」

 

 少し遅れて、キタちゃんが私に挨拶を返してくれた。

 

 そういえばキタちゃんは、昨日の私のメイクデビューを応援しに来てくれていたんだよね。残念ながら運悪く、顔を合わせて話すことは出来なかったけれど。

 

「……? キタちゃん。少し元気が無いように見えるけど、どこか体調が悪かったりする?」

「ぇ、あ……ぁあ! 何でもないっ! 何でもないからっ!!」

「──キタサンブラックさん。ホームルーム中はお静かに」

「……あ。ご、ごめんなさい…………」

「?」

 

 私の言葉に対して過剰な反応を示したキタちゃん。少し心配、何かあったのかな……。

 

「出席を取ります……皆さんの気持ちは十分理解出来ますが、意識の切り替えを覚えることも大切ですよ」

 

 一度授業が始まってしまえば、私があれこれ言及されることは一切なくなる。

 

 まさか、授業が私にとって安寧の時間になるだなんて。

 

「はぁ……」

 

 夢にも思わなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 何故だかメイクデビュー以上の疲労感を覚えた一日だったが、私は何とかして乗り切ることが出来た。

 

 予定されていた授業を受け終え栗東寮へ戻った後も、相変わらずマシンガンのような質問責めが続いた。

 

 正直質問への返答が億劫になっていた私は、夕食と入浴を早急に済ませて自室に飛び込んだ。

 

「……疲れた」

 

 ルームメイトはまだトレーニング中のようで、部屋には私しかいない。私は疲労を発散するように、はしたなくベッドの上に倒れ込んだ。

 

 両腕を大の字に広げて、天井を仰ぐ。

 

 しばらくぼーっとすること数分。私は無意識にスマホを手に取ってあの人に……兄さまに連絡を取ろうとした。

 

「……あ、そっか」

 

 しかしその途中で私は気付く。入院する兄さまを担当する主治医の許可が下りるまで、彼との一切の接触が禁止されていたことに。

 

 電子機器による連絡も当然接触の一部に該当する。メールの一通も送れないことをもどかしく感じながらも、私は彼がいち早く快復してくれることを切に願った。

 

 さて。手持ち無沙汰になったわけだが、私は就寝時間まで何をして時間を潰そうか。

 

 授業で用意された課題はトレーニングが無いためとっくに済ませてあるし、明日の準備も終わらせた。

 

 ふむ。せっかくだから、ウマチューブにアップされているレース動画を視聴しながら戦術を研究しよう。

 

 昨日のメイクデビューで経験したように、一度ターフの上に立ってしまえばそれ以降兄さまからの助言はもらえない。臨機応変な対応が出来るよう、自分自身で戦術を組み立てる能力が必要になってくるはずだ。

 

 思い立ったら即行動、私は自身の机に向かう。

 

 ウマチューブに上げられた数あるレースから、私は再生回数が比較的多い動画を一つ選んだ。

 

 さまざまな視点に立ってレースを視聴し、何となく気付いたことをノートに書き出していく。

 

 私が注目したのは、バ群における位置取りと進路選択の二点。

 

 視聴するレースで一着となったウマ娘が、果たしてどのような意図でバ群の位置を選択したのか。

 

 内ラチが空いているのにあえて外を回った要因は何なのか。

 

「前日の豪雨の影響でバ場は不良。このレースの前走を見返すとその大半が、序盤に形成されたバ群がそのまま着順に直結してる……」

 

 このレースで一着を飾ったウマ娘が本来得意としている脚質は差しや追い込み。しかし今回の場合、バ群を先導する先行に近い集団でレースを進めている。

 

 一般的にバ場状態が悪いと、後方集団による末脚が発揮されにくいとされている。統計的なデータを参照しても、バ場状態が不良以下では逃げや先行を得意とするウマ娘の勝率や入着率が高い傾向にあった。

 

 そして当日のバ場状態から察するに、ウマ娘達が総じて荒れた内ラチを回避した理由はおそらく"ノメる"ことを嫌ったからだろう。

 

 ちなみにノメるとは、バ場状態が悪い時に地面を上手く踏み込むことが出来ず滑ってしまうことを指す。ノメると身体の軸や重心が傾き、スタミナの著しいロスが生じてしまう。最悪転倒の危険性もあるため、彼女達のコース取りの魂胆は一目瞭然だった。

 

 そして、レースのアーカイブを視聴していて気付いたことがある。

 

「うーん、全体的に展開が変化するタイミングが遅い。少しだけ……私のメイクデビューに似てるかも」

 

 私が経験したレースほど顕著ではないが、終始スローペースな展開が続いていた。これまで収集した情報から、遅い展開となった理由は容易に想像できる。

 

 バ場状態が悪く、転倒の危険性を考慮したため必然的に速度が低下した。故に先行集団が余力を残し、後方集団の末脚がさらに届きにくくなった典型的な前残りのレース展開。

 

 私の考察が正しいと仮定すれば、一着となったウマ娘は出走するレースの事前情報だけで展開を予測し、脚質を意図的に変更したと解釈することができる。

 

「レース前の情報収集も大事っと、なるほど」

 

 レースに絶対は存在しない。しかし、レースに出走する直前まで情報を収集すれば確実な勝利に近づけるかもしれない。

 

 レースに出走する前から、既に相手との駆け引きは始まっている。情報収集の重要性を理解した、非常に有意義な時間となった。

 

「んん…………っ」

 

 椅子に腰掛けて軽く背伸びをし、全身の疲労感を外部へ追いやる。

 

 さて、今度こそ本当にやることが無くなった。就寝時間にはまだ早いけれど、明日に備えて今日はもう寝ようかな。

 

 私はベッドに潜って布団をかぶる。アラームを設定するために暗転したスマホの画面を付けた。

 

 すると。

 

『──いやぁ、何度見ても本当に素晴らしい走りですね!』

 

 先程のウマチューブのアプリを起動したままだったのか、ロックを解除した途端に女性キャスターの声が響き渡った。

 

 ウマチューブではレースのアーカイブが視聴出来るほか、レース関連のニュースが生中継されていたり、娯楽系の動画を楽しむことが出来る。

 

 自動再生機能の影響か。先程のレース動画から、よくテレビで見かけるような特番ニュース番組に切り替わっていた。

 

『日本のトゥインクル・シリーズに突如凱旋した”チーム・アルデバラン”。世間はもうこの話題で一色に染まっています!』

 

 嬉々として語るキャスターが取り上げていたのはやはりと言うべきか、現在進行形でホットなテーマとなっているチーム・アルデバランの復活劇について。

 

 キャスターの隣に設置されたスクリーンには、先日開催されたメイクデビューの映像が再生されていた。

 

 つまるところ、私が映っていた。

 

 私の走りを見て、競走の評論家らしき人達が各々の意見を交わしている。

 

『結果だけで言えば、サトノダイヤモンドが二着にハナ差での勝利。しかし彼女の走りを目の当たりにした者達にとっては、圧倒的という印象しか残りませんでしたね』

『と言いますと?』

『サトノダイヤモンドが出走したレースはあまりに異質でした。過去に類を見ない、前代未聞と言って良いほどのスローペース。どう足掻いても絶望的という窮地に追い込まれてからの、あの強烈な末脚。高低差二メートルの坂路ですら滑走路として利用してしまう、並のウマ娘には到底できることではありません』

『かつて世界を熱狂させた”星”のミライを輩出したチーム・アルデバラン。その最強の肩書きに相応しい走りを見せてくれましたね。サトノダイヤモンドさんの今後の活躍には目が離せません!』

 

 番組の中で、私の走りが絶賛されていた。私的には本当にギリギリの戦いだったし、何なら途中で諦めかけていた場面もあった。

 

 でも改めて賞賛の声を聞くと、悪い気はしない。こんな私を二人三脚で育ててくれた兄さまにはいくら感謝してもしきれない。

 

 なんて、布団にくるまって頬を緩めていると……。

 

『──さて、期待の原石であるサトノダイヤモンドさんの走りもそうですが』

 

 スクリーンの画面がレース映像から切り替わる。次いで映し出されたのは、電光掲示板に私の数字が掲載された後の場面。

 

『今、レースファンから熱狂的な注目を浴びているのが()()()()()です』

 

 ターフの上に毅然とした様子で立つ私が、おもむろにホームストレッチの方へ歩き出す。

 

 番組内で流されている映像は、おそらくホームストレッチにいた観客が撮影したものだろう。

 

 私が泣き崩れてしまった兄さまの前に立って、それで……。

 

 

 

 

 

「──ぁ、ぁあああああああああああッ!?!?!?!?!?!?」

 

 

 

 

 

 私は絶叫した。

 

『メイクデビューで見事一着となったサトノダイヤモンドさんが、泣き崩れる男性を温かく抱擁する瞬間です』

 

 あの時は兄さまのことしか頭に無くて、周囲の観客など気にもとめていなかったが。

 

「……ぉ、ぅぉぁ」

 

 こんな公衆の面前で、なんてことをやってるの昨日の私ぃ……っ!!

 

 顔面を思い切り枕に押しつけ、私は声にならない悲鳴をあげて悶絶する。

 

『特にこちらの、スーツ姿の男性について注目が集まっています。襟元のバッジから察するに、おそらく彼はサトノダイヤモンドさんの担当トレーナー。ひいては、()()凱旋したチーム・アルデバランの──』

 

 私はスマホの画面を暗転させて無造作に放り投げ、勢い任せに布団に包まる。

 

 しばらくネットの記事や動画を閲覧するのは避けよう。このままだと、込み上げてくる羞恥心でしんでしまう。

 

 私はそのまま一人で悶々とした感情を抱え続けた。

 

 結局、私は就寝時間が過ぎても寝付くことが出来なかった。



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21:名門のウマ娘

描写を一部修正しました。


 兄さまが学園を離れてから一週間が過ぎた。相変わらず取っ替え引っ替えで生徒達が私の元へやってくるが、そんな状況にも次第に慣れてきてしまった。

 

「サトノさん。今、少しだけお時間よろしいでしょうか?」

 

 午前の授業を終えた昼休み。食堂の利用を避け、購買で買ったお昼ごはんを部室で食べていると、緑の事務服に身を包んだ理事長秘書のたづなさんが訪れた。

 

「はい、大丈夫ですよ」

 

 ここ数日私は人目を気にして昼食を取っているのだが、一人でいると時間の流れが心なしか長く感じる。朝に買ったごはんを完食しても、昼休みの時間はまだ半分近く残っていた。

 

「ありがとうございます」

 

 たづなさんは私と対面する席に腰掛ける。私は裾を正して、彼女の話に耳を傾けた。

 

「サトノさんも既にご存知のことですので、手短にお話ししますね。以前お知らせしたチーム・アルデバランに新しく在籍する生徒達のことなのですが、諸々の目処が立ったとのことです。今日の放課後、こちらの部室に挨拶へお越しになるそうです」

「分かりました」

 

 私と兄さまの二人三脚だったチームに、新しい仲間が加わる。共に切磋琢磨する”仲間”という存在にワクワクとした思いを馳せる反面、同じくらい不安もあった。

 

「そして、私が部室に訪れた理由がもう一つあります」

「と、言いますと?」

「今後のチームの運営についてです。サトノさんには先にお伝えしておこうと思いまして」

「はい、お願いします」

「チームの代表責任者が不在の場合、規則として代理の責任者を立てなければなりません。ですのでトレーナーさんが退院されるまでの間、私がチーム・アルデバランの代理監督に就任し、サトノさん達をサポートしていきます」

 

 トレーナーが存在しないチームはそもそも、チームとしての機能が根底から破綻してしまっている。活動するには当然代替となるトレーナーを用意する必要があるが、それがまさか理事長秘書のたづなさんになるとは思っていなかった。

 

「あの、たづなさんは大丈夫なのでしょうか? 普段の業務に加えてチームの監督だなんて……」

「問題ありません。しかし、私はトレーナーさんの()()で、事務的な手続きや連絡事項の伝達に従事することとなります」

 

 つまり、私達のトレーニングに関しては一切関与しないということか。

 

「兄さまの意向、というのは一体?」

「トレーニングに関する一切は、()()()()()()()()()()()()()()()()とのことです」

 

 以前、兄さまは徹底的な管理主義という教育理念を掲げていた。

 

 指導に携わることの出来ない環境に身を置いているにも関わらず、兄さまは生徒(わたしたち)の一存でトレーニングを行うことを許可した。

 

 これは勝手な考えだけれど、兄さまは私に過去の失敗を挽回するチャンスを与えてくれたのだと思う。

 

 今度は絶対に、兄さまを悲しませるような真似はしない。

 

「新たに在籍する生徒の一名なのですが、彼女はチーム全体のサポートを担う予定になっております。『トレーニングに関しては、彼女を中心として取り組んで欲しい』と、トレーナーさんからお言葉を頂いています」

「分かりました。一つ質問なのですが……兄さまのサポーターというのは、サブトレーナーのような認識で合っているでしょうか」

「はい。そのような解釈で問題ありません」

 

 確かにトレセン学園にはレースへの出走を目指す生徒以外にも、トレーナー職を志す生徒も多く在籍している。彼女達が研修のような形でチームに所属することは、決して珍しい話ではない。”星”のミライを育てた兄さまの指導を受けたいと考えるのは、どうやら競走選手だけではないようだ。

 

……あ、そういえば。私は肝心なことを忘れている。

 

 まだ、たづなさんから移籍してくる生徒の名前を聞いていなかった。

 

「たづなさん。新しく在籍される生徒の名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「はい」

 

 放課後の対面までに、最低限の情報は持ち合わせておく必要がある。新たな仲間と良好な関係を築くために、情報収集は大切だ。

 

 一体、トレーナーさんはどんなウマ娘を選んだのか。純粋な好奇心が入り混じった私の質問に、たづなさんが笑顔で答える。

 

 

 

 

 

「──メジロマックイーンさんと、メジロドーベルさんです」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 放課後、私は足早に教室を出て部室へと駆け込んだ。

 

 私は真っ先に清掃に取り掛かり、部室をくまなく綺麗にする。諸々の準備を整え、私は適当な椅子に腰掛けた。

 

 耳と尻尾が忙しなく揺れて落ち着かない。けれど裾だけはきちんと正して、私は静かに彼女達の到着を待つ。

 

「新しいチームメイトの一人がまさか、憧れのマックイーンさんだなんて……」

 

 未だに実感がわかない私は、無意識に声に出してそれを噛みしめようとした。

 

 メジロマックイーン──マックイーンさんは、私が憧れるウマ娘の一人だ。

 

 最強のステイヤーとして名を馳せ、その走りから”名優”の異名を冠したマックイーンさんに、当時の私はどうしようもなく魅せられた。

 

 マックイーンさんが出走するレースは、必ず現地へ赴いて声援をおくる。それほどまでに、私は彼女の熱狂的なファンだった。

 

 その中でも特に、クラシック級の菊花賞は圧巻だった。最終コーナーで先頭を奪い、暴力的なスタミナに物を言わせた豪快なスパートでゴールを駆け抜けた彼女の姿は、今でも私の記憶に深々と刻み込まれている。

 

 しかし、栄光と挫折は紙一重というべきか。菊花賞出走後、マックイーンさんは悲願としてきた春の天皇賞を目前にして繁靭帯炎を発症し、長期療養を余儀なくされた。

 

 実質的に現役引退という形でトレセン学園を休学。マックイーンさんの背中を追いかけるように学園の門を叩いた私は、心のどこかでやるせない感情を抱え続けてきた。

 

 だから、私はキタちゃんが羨ましかった。キタちゃんは強い憧れを抱くトウカイテイオーさんと同じチームに所属して、一緒に汗を流している。その姿がとても眩しかった。

 

 でも、マックイーンさんは戻ってきた。あろうことか、私が所属するチーム・アルデバランに移籍という形で。

 

 僥倖……という言葉は彼女に対して失礼が過ぎる。しかし私は、マックイーンさんと一緒に過ごせることがたまらなく嬉しかった。

 

 そして、マックイーンさんと共に移籍してくるメジロドーベルさんについてだが、実は彼女とも面識があった。

 

 私がマックイーンさんを応援するためにレース場へ足を運ぶのと同時に、ドーベルさんも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私達は必然的に顔見知りになり、軽く挨拶を交わす程度には友好的な関係を築けている。

 

 それに、ドーベルさんとは過去に一度、選抜レースで競い合った経験がある。さすがは名門メジロのウマ娘というべきか、以前は歯が立たないどころか惨敗もいいところだった。

 

 新しく在籍するウマ娘がどちらとも顔見知りであったこともあり、初対面の相手に対する独特な緊張感は抱かずに済んだ。

 

 けれど、それとはまた別の緊張が全身に回って、腰掛ける私の身体をガチガチに固めている。

 

 部室に掛けられた時計の秒針が立てる大仰な音に、意識が乗っ取られそうな感覚を覚えていると……。

 

──コンコンコンッ。

 

 静寂な空間に、扉をノックする音が三回響く。

 

 きた……っ!

 

「──失礼します」

 

 扉の奥から耳馴染みした声が届いて、私の身体に熱がこもる。

 

 芦毛の艶やかな長髪を靡かせ、トレセン学園の制服に身を包んだ憧れのあの人が、

 

「お久しぶりですわね、サトノさん」

 

 

 

 

 

──メジロマックイーンが、私を目にして柔和に微笑んだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

「お久しぶりですっ、マックイーンさんっ!」

 

 登場早々、私はマックイーンさんの元へ尻尾をぶんぶんと振りながら駆け寄った。

 

「またこうしてお会いできて嬉しいですっ!!」

「ええ、私もですわ。八ヶ月前の菊花賞以来ですわね」

「はいっ!」

 

 実に八ヶ月ぶりとなるマックイーンさんとの対面に、私は興奮が隠せない。目と鼻の先までマックイーンさんに詰め寄って、私は彼女の手を取った。

 

「…………さ、サトノさん。()()()()()()()()()()

 

 私の容姿を一瞥したマックイーンさんが静かに息を呑む。

 

 そう言えば確かに、最後にマックイーンさんと会ったのは私が本格化を迎える直前であった。何十センチも身長が伸びたこともあり、彼女が驚くのも無理はない。

 

 憧れのマックイーンさんと同じ目線に立って会話をしている。よくよく考えると、この事実はとても感慨深い。

 

「はいっ! 私、とっても大きくなりました!」

「……中身は、あまり変わっていないようで安心しましたわ」

 

 私のあまりのはしゃぎように、マックイーンさんが複雑な感情がこもったため息をこぼす。

 

「──マックイーン。この子、アンタのファンなんだから再会をもっと喜んであげたら?」

 

 熱心なファンに詰め寄られて少々困惑気味だったマックイーンさんに、背後から凛とした声がかけられる。

 

「ドーベルさん!」

「選抜レースぶりかな。こんにちは、サトノ」

 

 毛先まで丁寧に手入れされた鹿毛のロングヘアが魅力的な、クールビューティなウマ娘──メジロドーベル。

 

 マックーンさん同様名門メジロ家のウマ娘であり、今後の活躍が大いに期待されている人物だ。

 

 トレセン学園の高等部に在籍するドーベルさんは、中等部に在籍するマックイーンさんの()()に当たる女性である。

 

 マックイーンさんの方が先に本格化を迎えたため、年齢とデビュー時期が逆転したような形になっていた。

 

「少し驚いただけですわ……こほんっ。サトノさん、改めまして──」

 

 気持ちを引き締めるように咳払いをして、マックイーンさん達が私に向き合う。

 

「本日からチーム・アルデバランに移籍する運びとなりました、メジロマックイーンですわ」

「……同じく、メジロドーベルです。よろしく」

「はいっ! よろしくお願いしますっ!!」

 

 二人に向かって笑顔で挨拶し、私は再会の喜びを噛み締めた。

 

「失礼します。あら、もう皆さん揃っていますね。少し遅れてしまい申し訳ありません」

 

 マックイーンさん達から少し遅れてやってきたのは、複数の書類を抱えたチーム・アルデバラン代理監督のたづなさん。

 

「既にご存知のことかと思いますが、自己紹介をさせていただきます。トレーナーさんが諸事情によって不在の間、チーム・アルデバランの監督代理を勤めさせて頂きます、駿川たづなです♪」

 

 洗練された所作でお辞儀をし、たづなさんが部室の机に持ってきた書類を置く。

 

「チームメンバーが揃いましたので、今後の活動方針についてご説明します。自由な席にお座り下さい」

 

 たづなさんの指示に従って、私達は各々の席に腰を下ろすのであった。

 

 

 

***

 

 

 

「──以上が、皆さんにお伝えする連絡事項となります。諸々の質問につきましては随時回答いたしますので、グループチャットまたは個別で私宛に連絡を送ってください」

「分かりました」

 

 たづなさんが説明した活動方針は、私が事前に受けていたものと同様の内容であった。

 

「それでは私はこれで失礼しますね、皆さんのご活躍を期待しています♪」

 

 たづなさんが部室を退室し、三人だけの空間となった。

 

 とりあえずたづなさんから配られた書類をカバンにしまって、私は改めて席に着く。

 

「これからどうする?」

 

 少々の沈黙を破ったのは、マックイーンさんの姉であるドーベルさんだった。

 

「いきなりトレーニングというのもアレですし、少し自己紹介を掘り下げるとしましょう」

 

 それぞれ面識があると言えど、今後チームとして活動していく以上、自分自身のことをより相手に理解してもらう必要がある。

 

 関係を一歩押し進めるためにも、少し踏み込んだ自己紹介は有効だろう。

 

「言い出しっぺということで、まずは私から。以前とは色々と変化したことがありますから、特にサトノさんには知っておいて欲しいですわ」

「はい」

 

 まずはマックイーンさんの自己紹介から。

 

「既に周知のことかと思いますが……私は菊花賞出走後に繁靭帯炎を発症し、実質的に競走能力を喪失しました。八ヶ月間の療養を経て、ようやくトレセン学園に復学いたしました…………申し訳ありません。初っ端から重い話を持ちかけてしまいましたわ」

「い、いえ、そんなことは……」

「しかしご安心下さいな。私は既に自身の気持ちに折り合いをつけ、新しい目標を定めてゼロからスタートいたしましたわ!」

 

 マックイーンさんはその新しく掲げた目標を達成するために、チーム・アルデバランへと移籍したのだろう。

 

「足を失っても、私はレースの世界に携わっていたい。なので私は、ウマ娘を支えるトレーナーを志すことに決めましたの」

 

 マックイーンさんは人柄も戦績も非常に優秀な方だ。それでいて決して努力を怠らない直向きな姿勢に、私は強い憧れを抱いた。

 

 きっとマックイーンさんなら、新しく抱いた夢を必ず叶えられるだろう。

 

「その第一歩として、私はトレーナーさんの指導を補佐するサポーターとしてチームに籍を置かせて頂きました。トレーナーさんが業務に復帰されるまでの間、私が彼の代わりとしてお二人のトレーニングをサポートいたしますわ!」

 

 豊富なレース経験を持つ憧れのマックイーンさんから直接指導してもらえる機会が来るとは、夢にも思わなかった。

 

「マックイーンさん、これからよろしくお願いしますっ!」

「ええ! メジロのウマ娘として、期待には完璧に応えて見せますとも!」

 

 ウマ娘の命ともいえる”足”が難病に蝕まれても、マックイーンさんは決して下を向かず、新しい未来を切り拓き、希望を持って歩んでいる。

 

 やっぱりかっこいいなぁ、マックイーンさんは。

 

「……それじゃあ、次はアタシかな。メジロドーベル。年齢とデビュー時期が逆転しているから混乱するかもしれないけれど……一応、マックイーンの姉」

「はい、存じています」

「得意な脚質は、一応差し。長所は……模索中。あとは、えっと…………ごめん。アタシ、あんまり自己紹介できることが無いかも。サトノ、何か聞きたいこととかあったら言って」

「あ、だったら! ドーベルさんがどうしてこのチームに入ったのか知りたいです!」

 

 ドーベルさんは、一体どんな想いを抱えてこのチームにやって来たのだろう。

 

「どうして、か……」

 

 ドーベルさんは少し考え込んだ後、間を置いて私の質問に答えてくれた。

 

 

 

 

 

「──…………たいから」

 

 

 

 

 

「え?」

 

 消え入りそうな声で呟くドーベルさん。ウマ娘の優れた聴覚を持ってしても、私は彼女の言葉を聞き取ることが出来なかった。

 

「……ごめん、今のは忘れて。んっと……ちょっと、このチームに興味があったから、かな」

 

 ドーベルさんがうやむやにしようとしたのは、あまり詮索されたくない事情があるからだろう。私がこれ以上言及するのは不躾だ。

 

「アタシはマックイーンみたいに優秀じゃないけど……これからよろしくね、サトノ」

「はい!」

 

 そして、最後は私の番。立ち上がって、二人に自分のことを知ってもらう。

 

「改めまして、サトノダイヤモンドと申します。サトノ家の悲願であるGⅠレース制覇を目標に、兄さまと一緒に頑張っています」

「兄さま?」

「あ、えっとその……トレーナーさんのことなんですけど。子供の頃からの顔見知りでして……」

 

 幼い頃に定着した呼び名の延長線で彼のことを”兄さま”と呼んで慕っているが、別に兄妹でも何でもない。

 

「やっぱり、トレーナーさんとお呼びするべきでしょうか」

 

 色々と誤解を招きかねない呼称なので、少しずつ矯正していくべきかなと考えていると。

 

「別に良いんじゃない? どんな呼び方をしても、その本質は変わらないもの」

「……っ。そう、ですよねっ」

 

 ドーベルさんは私の呼称に嫌悪感を示すことなく受け入れてくれた。

 

「サトノさんがトレーナーさんに対して思い入れがあることは理解しております。気にする必要はありませんわ」

「マックイーンさんっ」

 

 二人の寛容な心がじんわりと染みる。

 

「……んんっ、気を取り直しまして。レースでは基本的に、差しの脚質で走るのが得意です。マックイーンさんほどではありませんが、スタミナと根性には自信があります!」

 

 当たり障りのない内容から入って、少しだけ趣味の話題に触れる。

 

「レースとは関係ありませんが……実は私、クレーンゲームが得意なんです。オフの日はよくクレーンゲーム巡りをしています。季節限定、地域限定、大小含め、現在リリースされている『ぱかプチ』は全種類コンプリートしています!」

「……意外。サトノもそういうゲームに興味あるんだ」

「実家がその手の事業に力を注いでいますから、その影響で。あはは……」

 

 少々通俗的な趣味であるが故、普段の私の印象からは想像出来ないと言う声もよくあがる。

 

 ただ、クレーンゲームは本当に好きな趣味なので、自分を語る上では欠かせない存在だ。

 

「あとは…………あ」

 

──ああ、そうだ。チーム・アルデバランに所属している以上、このことを忘れてはいけない。

 

 

 

 

 

「私、ミライさんのようなウマ娘になりたいんです」

 

 

 

 

 

 サトノダイヤモンドの原点を語らなければ、私を知ってもらうことは出来ない。

 

 ”星”を育てたトレーナーに指導してもらう以上、相応の結果を残す必要がある。

 

 彼が固めた決意と勇気に対して、罪滅ぼしと恩返しをするために。

 

 私は、ミライさんのような素敵な存在になりたい。

 

「……ミライって、あの?」

 

 ドーベルさんの問いかけに、私は静かに頷く。

 

「はい。ミライさんのようなウマ娘になるために努力は惜しみません。その過程で、皆さんに迷惑をかけてしまうことがあるかもしれません。それでも精一杯頑張っていくので、これからよろしくお願いしますっ!」

 

 新しい仲間の誕生は、まだまだ未熟な私を強く成長させてくれるに違いない。

 

 そんな予感を強く覚えながら、チーム・アルデバランに所属するウマ娘達の自己紹介は幕を下ろした。



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22:見習いトレーナー

トレーニング回です。
描写の一部に独自解釈があります。


「……出端を挫いてしまうようで申し訳ないのですが」

 

 チーム・アルデバランに所属するウマ娘達の自己紹介を終えた矢先、マックイーンさんが申し訳なさそうに口を開いた。

 

「プールや体育館同様、トラックの使用にも申告書が必要であることを失念しておりました……」

 

 マックイーンさんの言葉通り、放課後から二十時までの時間帯にトラックを使用する際は他の施設同様、事務に使用申告書を提出する必要があった。

 

 ちなみにそれ以降は、自主トレーニングを行う生徒達のために解放されている。

 

「申し訳ありません。トレーナーさんの代わりを完璧に努めようとするあまり、指導の面にばかり目が奪われておりましたわ……」

 

 トレーナーの仕事は担当ウマ娘の指導だけではない。学園の事務的な業務をこなす他にも、施設の空き状況を調べて事前に使用申告を行なったり、レースへの出走届を提出したり、はたまたチームメンバーの勧誘やスカウトなどなど。

 

 大変な業務であることは目に見えているのだから、私達がマックイーンさんの落ち度を責めるはずがない。

 

「そんなこと誰も気にしません。私達のためにありがとうございます、マックイーンさん」

 

 指導経験が一切ない中等部の学生が、懸命にトレーナーの役割を努めようとしてくれているのだから。私も可能な限りマックイーンさんに協力して行きたい所存だ。

 

「すみませんサトノさん。トレーニングの変わりと言ってはあれですが、本日は私が考えた、今後のお二人の指導方針について説明させて頂きます」

 

 マックイーンさんは自身のスクールバッグから数冊のノートとファイルを取り出した。

 

「お二人をサポートするにあたって、トレーナーさんからいくつか参考資料を頂きました。大方それらを参考にしつつ、私の経験を多少織り交ぜた内容となっております」

 

 私達はマックイーンさんから、彼女が事前に準備していたと思われる資料を受け取る。

 

 資料に目を通すと、約一ヶ月間に及ぶトレーニングの予定表やその具体的なメニュー、今後の目標や課題が詳細に記されていた。

 

「……すごいです。これ、全部マックイーンさんが作ったんですか?」

「ええ、幸い時間はたっぷりと有り余っていましたから。……ほぼ全て、トレーナーさんからの受け売りですが」

「そんなことないですっ!」

 

 この資料からは、マックイーンさんが自身の目標と真摯に向き合う覚悟や、私達を想う彼女の熱意がひしひしと伝わってくる。

 

「過去二ヶ月分のサトノさんのトレーニングメニューを拝見しましたが、トレーナーさんは身体作りを非常に重視しているとお見受けしました。”星”のミライを育てた指導者が毎日のメニューに組み込んでいるのですから、間違いありませんわ」

 

 マックイーンさんが組んだトレーニングメニューは兄さまの指導同様、身体の基盤作りに焦点を置いた内容となっていた。

 

「加えてサトノさんの走りも確認しましたが、基礎に忠実で非常に綺麗なフォームだと感心しました。おそらくトレーナーさんは、ここからサトノさんの身体に適したフォームに少しずつ作りかえていく予定だったのだと感じます」

 

 憧れのマックイーンさんに褒められて、私は嬉しさと恥ずかしさが入り混じった表情を浮かべる。

 

「なのでサトノさんの場合は、現状のフォームを維持し、基礎をさらに固めていくことを目標として定めましたわ」

「はい!」

 

 マックイーンさんはトレーニングメニューの目的を分かりやすく丁寧に説明してくれた。方針が明確だと目指すものがはっきりするおかげで、トレーニングにより身が入る。

 

「そしてドーベル。あなたの場合はメジロ家専属コーチの方針に沿ったメニューを組みました。多少、私の主観で変更した箇所はありますが」

「……ん」

「コーチ?」

「メジロ家は競走の世界における名門。私達は幼少期の頃から、すべからく英才教育を施されて来ました。これはその延長線であると考えて下さいませ」

「なるほど」

 

 私も彼女達同様、生家の悲願達成のために幼い頃から様々な準備を行なってきた。現在のような本格的な指導には至らないが、私にもコーチと呼べる存在がいたのでマックイーンさんの説明は容易く腑に落ちた。

 

「個々の指導方針に対する説明は以上ですわ。そして、お二人に共通する課題も並行して行います。具体的にはスタミナの強化と、戦術の勉強です」

 

 私はスタミナと根性には自信があるが、とは言ってもメイクデビューを勝利して間もないジュニア級のウマ娘。最強のステイヤーたるマックイーンさんにとっては、子供に毛が生えた程度のものだろう。戦術に関しては、言葉にするまでもなく未熟そのもの。

 

「トレーニングに関しては翌日から行う予定です。特にサトノさんの場合は、色々と疲労が溜まっていることでしょう。今日はゆっくり身体を休めて下さいな」

「心配してくれてありがとうございます、マックイーンさん」

 

 生徒同士で今後の方針を確認し、今日のところは解散となった。相変わらず人目を避けるように栗東寮へ戻って、私は普段より早く床に就くのであった。

 

 

 

***

 

 

 

 翌日、私達はジャージに着替えてトラックに集合した。以前よりも周囲の視線を感じるのは、私の気のせいではないだろう。

 

「準備体操と柔軟は入念に行います。身体を怪我しないように、集中しますわよ」

 

 三人で輪になって、誰かが手を抜いていないか、互いを監視するように準備体操と柔軟を行う。

 

「……意外、マックイーンも一緒にやるんだ」

「当然ですわ! 激しい運動は厳しいですが、多少身体を動かさなければ私の”体質”が暴走してしまいますので」

「”体質”?」

「サトノさんが気にする必要は微塵もございませんわ。ええ、微塵も…………はぁ」

 

 あまり触れてほしくない話題らしい。でも確かに、理解はできる。

 

 以前まで現役として活躍していた選手が、運動の一切を断った途端身体がおかしくなるという話はよく耳にする。もしかしたらそのような症状が、マックイーンさんにも生じてしまっているのかもしれない。

 

 時間をかけて入念にストレッチを行い、続いて基礎トレーニングへ移る。

 

「コースを走る前に行う基礎トレーニングですが、サトノさん」

「はい、なんでしょうか?」

「サトノさんが普段取り組んでいるメニューを、私達に教えて欲しいですわ。可能であれば、運動と同時に筋肉の動かし方とその効果を口頭で説明して下さるかしら?」

「分かりましたっ!」

 

 教うるは学ぶの半ば、ということわざがある。

 

 生半可な知識や教養では到底、人に物を教えることは出来ない。自然と自分の不明瞭な点が浮き彫りになり、その問題を解決した後でようやく他人に教えることが可能となる。転じて、人に教えるという行為が自分自身の勉強になるという言葉だ。

 

(わたし)達ウマ娘に限らず、何事を行うにも身体が資本です。ウマ娘の身体は人より強靭ですが、同時にとても繊細です。なので全身の筋肉が偏らないように、バランスよく鍛えていく必要があります」

 

 基礎トレーニングと言ってもやることは筋トレと大差ない。その行為に目的意識を抱いて行うことの重要性を再確認しながら、普段のメニューをこなしていく。

 

「まずは上半身からです。私達は足を酷使するので下半身に目が行きがちですが、上半身を疎かにしてはいけません」

 

 上半身を鍛えることの重要性は、耳にタコができるほど兄さまから伝えられてきた。

 

 色々と難しい言葉を並べず簡潔にまとめると、上半身のトレーニングには筋力増強と体幹強化の効果がある。

 

 さらに極限まで突き詰めると、怪我の防止である。

 

「えっと、このトレーニングでの重要な点は……」

 

 ただ、普段のルーティントレーニングのポイントを口頭で説明するというのは予想以上に難しかった。一言声を発する度に頭の中で整理した情報がぐちゃぐちゃになって、焦りが募る。

 

 トレーナーに限らず、誰かに物を教える職業に就く人はすごいなと思った。要点を簡潔にまとめて分かりやすく伝えてくれる兄さまの優秀さを、私は改めて痛感する。

 

「サトノさん、ゆっくりで構いませんわ」

「あはは……すみません」

 

 テンパっていた私を見かねてか、マックイーンさんが穏やかにフォローしてくれた。

 

 私はマックイーンの言葉に素直に甘えながら、上半身のトレーニング、下半身のトレーニングとゆっくり続けていく。

 

 下半身を鍛える基礎トレーニングは、力強いストライドの原動力となる腸腰筋や、超人的な推進力を生み出すトモを発達させる効果がある。

 

 再三語るが、ウマ娘にとって身体は資本。

 

 より速く、より強く、より長く走るために。地味なトレーニングも決して手は抜かない。

 

「…………ふぅ。マックイーンさん、これで全てのメニューが終わりました」

 

 普段よりもだいぶ時間が掛かってしまったが、チームメンバーに対してなんとか全メニューの解説を終えることが出来た。

 

「ありがとうございます、サトノさん。非常に有意義な時間でしたわ」

「基礎トレだけど……これ、結構キツイね。今まで筋肉を上手く使えていなかったってことかな」

 

 ドーベルさんの呟き通り、まだこれっぽっちも走っていないのにも関わらず、私達の額には汗が滲んでいた。

 

 丁度良い感じに身体を刺激出来たので、走る準備は万端だ。

 

「さてと……お二人とも。続いてはウォーミングアップですわ。怪我をしないように、気を引き締めていきましょう」

 

 私はマックイーンさんの言葉に強く頷いて、快晴のターフを駆け抜けた。

 

 

 

***

 

 

 

 チームに新しいメンバーが加わったということもあり、その日私は初めて併走トレーニングを行った。

 

 併走トレーニングによって得られる効果は非常に大きい。ウマ娘の闘争本能を引き出し、かき立てることによって、レース本番のような緊張を感じながらトレーニングを行うことが出来るのである。

 

 以前までは兄さまと二人三脚でトレーニングに励んでいたこともあり、単走しか経験したことのない私にとって非常に良い刺激となった。

 

「お二人とも、お疲れ様ですわ」

 

 首からストップウォッチをぶら下げ、バインダーを片手に持ったマックイーンさんが併走を終えた私達にタオルや飲み物を差し出してくれた。

 

「ありがとうございますっ」

「ん、ありがと」

 

 私達はそれを受け取るや否や、身体に勢いよく流し込む。

 

「七月に入ったこともあり、右肩上がりで気温が上昇します。なのでくれぐれも、熱中症には気をつけて下さいまし」

 

 休憩時は木陰に移動して全身に巡った熱を逃す。

 

「本当は私達も、夏合宿に参加出来れば良かったのですが……」

 

 計測したタイムを記録するマックイーンさんが、少し残念そうに呟いた。

 

 マックイーンさんがおっしゃった通り、七月から八月末の約二ヶ月間は、トレセン学園の恒例行事である”夏合宿”が開催される時期である。

 

 トレセン学園は一学期の終業が七月上旬と、普通科の学校よりも非常に早い。ちなみに昨日が終業式で、今日から夏休みに突入している。

 

 避暑的な意味合いを込めて、学園主導で行われる夏合宿。全国各地に点在するトレーニング施設を使用して行われるそれには、毎年多くのチームが参加していた。

 

 合宿には当然、チームに所属していないウマ娘の参加も許可されている。その場合、教官による引率のもとで参加する規則となっていた。

 

 そしてチーム・アルデバランに所属する私達だが……結論から述べると、今年の夏合宿は見送る運びとなった。

 

 理由は主に二つ。一つは代表責任者である兄さまの不在。そしてもう一つが、合宿よりも学園に残った方がトレーニングに集中出来るからである。

 

 先日のメイクデビュー以降、チーム・アルデバランは良くも悪くも学園中から注目を浴びていた。

 

 夏合宿に参加し、多くの生徒が不在となるこの時期は現状の私達にはうってつけ、というわけである。

 

「休憩が終わったら、次はスタートのトレーニングを行います」

「スタート……ですか?」

「ええ。見たところお二人は共通して、スタートに対して苦手意識を感じていると思いましたので」

 

 マックイーンさんの指摘通り、私はスタートがあまり得意ではない。いや、得意ではないと言うよりも、ゲートに入った時の息が詰まるような閉塞感が苦手と表現するべきだろうか。

 

「特にドーベル。あなたはスタートを克服する必要があります」

「……言われなくても」

 

 しかしドーベルさんは、本当にスタートが苦手なようだ。マックイーンさんの指摘に対して、苦い顔を浮かべながらそっぽを向いている。

 

「と言うわけで、スターティングゲートの一枠を倉庫から拝借しましたわ」

 

 そしてターフの隅には、いつの間にかマックイーンさんが用意したゲートがひっそりと佇んでいた。

 

 木陰から移動しながら、私達はマックイーンさんの説明を受ける。

 

「スタートのコツは反射神経……と一言で片付けてしまったらお終いなので、今回はスタートの技術と考え方についてお教えします」

 

 マックイーンさんがゲートの隣に立って、私達に語りかけた。

 

「結論からお伝えしますと、重要なのは”重心移動”と”意識”の二点ですわ」

「重心移動と意識、ですか?」

「まずは前者について説明します。サトノさん、陸上競技の短距離種目に多く用いられるスタートの方法はご存じかしら?」

「えっと、クラウチングスタートでしょうか?」

「正解ですわ」

 

 クラウチングスタートとは、地面に設置されたスターティングブロックを利用したスタートのことである。ブロックを強く蹴ることによって水平方向に力を伝えられるため、素早い加速が可能になると記憶していた。

 

「それに対して私達のスタートは中立の姿勢、つまりスタンディングスタートで行われます」

 

 スタンディングスタートはクラウチングスタートと異なり、水平方向に与えられる力が極端に減少する。その上静止した状態からの超加速が要求されるため、慣性の法則に抵抗するパワーが必要となってくる。

 

「反動による推進力を得られない以上、いかにして前へ進む力を生み出すか。これに対する答えが一点目のポイント、重心移動ですわ」

 

 マックイーンさんが実際にゲートの中に入って、身体の動かし方を実践してくれた。

 

「体勢に決まりはありません。しかし一般的には利き足を後ろに引き、やや前屈みになった姿勢がベストであるとされています」

 

 スタートの姿勢をとったマックイーンさんを見習うように、私はその場で彼女の動きを模す。

 

「重要なのはこの姿勢からスタートする瞬間。利き足で地面を蹴るのではなく、反対の足で地面を押すようにして、重心を前方へ移動させることですわ。ちなみに、このようなプロセスでスタート直後に急加速することを、”ハーフバウンド”と言います」

 

 そう言って、マックイーンさんは集中力を研ぎ澄ませ、ゲートから鋭く飛び出した。

 

 彼女の動きには一切の澱みがなく、洗練された滑らかな身のこなしに私は感嘆の声をもらす。

 

「言われてみれば確かに……あ、本当だ。今は利き足で地面を蹴っている感覚があります」

 

 私は身体の操作を無意識に委ねて、スタートの姿勢を作る。そして走り出す瞬間、重心を移動させているような感覚はなく、私は身体の背後に置いた利き足で地面を強く蹴り上げていた。

 

「ハーフバウンドの利点について、簡単に説明しますわ。これは私なりの解釈になりますが……」

 

 マックイーンさんは、手にしたバインダーをホワイトボード代わりにして私達に自論を語る。

 

「今のサトノさんのように後方へ置いた利き足で地面を蹴るよりも、私が実践したように重心を前方へ移動させる方が、反応時間の短縮に繋がると考えております」

 

 そう言いながら、マックイーンさんはスタート直後に起こる身体の反応を順番に書き起こした。

 

 一、ゲートが開門したという視覚情報が脳に伝達される。

 

 二、一旦脳で情報が整理され、その情報が対応する運動器官へと送られる。

 

 三、送られてきた情報をもとに、身体が運動を行う。

 

 マックイーンさん曰く、特に重要なのは”二”の項目だそうだ。確かに待機する姿勢において、利き足は脳に対して末端の場所に位置している。そうすると当然、命令の伝達に要する時間が増加するため反応時間に差が生じてしまう。それが、スタートを苦手とする要因になっているのかもしれないと彼女は語った。

 

「あとは単純に、地面に対して力を伝えやすいからですわ。しばらくトレーニングを積めば、ハーフバウンドの感覚は簡単に掴めます」

 

 兄さまは、地面から得られる力を利用することの重要性を繰り返し熱弁していた。スタートも走ることの延長線なのだから、間違いないだろう。

 

「ここからは二点目のポイント、意識についてですわ」

 

 一点目のポイントを押さえるためにしばらく反復トレーニングした後、再びマックイーンさんの説明に移る。

 

「レース中に何を重視するかによって、スタートに対する意識が変化します。先程までは素早く上手にゲートを出る方法を解説してきましたが……()()()()()()()()()()()()()()()、ということを念頭に置いて下さいまし」

 

 マックイーンさんの言葉を受けて、私は少し意外に思った。スタートに対する反応は、速ければ速いほど良いと考えていたからだ。

 

「少し座学を交えますが……ドーベル。ウマ娘の歩法には、それぞれの速度に対応した用語があります。ですが私、うっかり失念してしまいました。教えて下さいませんこと?」

「……バカにしないで。常足(ウォーク)速足(トロット)駈歩(キャンター)襲歩(ギャロップ)でしょ。それぐらい誰だって分かるよ」

「正解ですわ。意外と忘れている方も多いので、確認ですわ」

「ちゃんと覚えてるじゃん」

 

 人間離れした速度で走るウマ娘に限定されるが、ドーベルさんが答えた通り、走る速度に応じた専門的な用語が存在する。

 

 ドーベルさんが最初に挙げた常足(ウォーク)とは、分速八十メートル程度を指す歩法である。人で言うところの徒歩と同義であるため、レースで用いられることはまず無い。

 

 続いて速足(トロット)。分速二百メートル程度を示す歩法である。ウマ娘がジョギングをする際によく計測される速度であるが、こちらもレースで用いられることは無いと言っていいだろう。

 

 同じく駈歩(キャンター)。分速三百四十メートル程度を表す歩法である。駈歩はゆったりとした走り方を表しており、レース直前に行う”返し”の際に多く用いられる歩法だ。一部では、後述する遅い襲歩に区別している場合もある。

 

 そして、四種類の歩法の中で最も馴染み深いのが襲歩(ギャロップ)だ。

 

 襲歩は全ての歩法の中で最も速く、いわゆる疾走の速度に分類される状態だ。全速力の場合、分速千二百メートルに到達することも少なくない。

 

「静止した状態から、いかにして襲歩の状態へ移行するまでの時間を短くするか。この時間が短ければ短いほど、一般的にゲートを出るのが上手であると表現されます」

「じゃあ、例外というのは……?」

「脚質ですわ」

 

 ここで言う脚質は説明するまでもないが、逃げ、先行、差し、追い込みの四種類のことだ。

 

「得意とする脚質によっては、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。先に言いますと、差しや追い込みの戦術を主軸とする場合ですわ」

「……?」

「散々スタートのコツをお教えしてきましたから、理解に苦しむというのは当然の反応です」

 

 マックイーンさんのフォローを鵜呑みにするなら、私の抱いた疑問は間違っていないことになる。

 

「少し話が逸れてしまいますが、私達が”一完歩”でどれほどの距離を進むかご存じでして?」

 

 一完歩とは、襲歩状態におけるウマ娘の歩幅のことである。

 

「えっと確か……七、八メートルでしょうか」

「その通りですわ。単純計算で、一ハロン辺り二十九歩前後と言ったところでしょうか」

 

 一完歩は歩法と同じく、レースにおける基礎的な知識である。しかしそれと、上手なスタートが足枷になるという言葉の間に接点を見つけることが、私にはどうしても出来なかった。

 

「ウマ娘の”走りたい”という欲求はしばしば、人間の三大欲求に匹敵するとされていますわ。その本能に則ると、私達は基本的に速度を落として後退することを嫌います。渇きに近い衝動を抑制するわけですから、当然のことですわね」

 

 スタートに成功した場合、脚質に関係なく自然とバ群の前目につくこととなる。

 

 すると当然、先行集団の熾烈な位置取り争いに巻き込まれるため、脚の消耗を嫌って後退する必要が生じてくるはずだ。

 

……あ。

 

「学年的にサトノさんはまだ学習していないと思いますが、スタート直後から最短時間で襲歩に到達させる歩法を”回転襲歩”と言いますわ。これは、レース終盤のスパートに匹敵するほどスタミナを著しく消費します」

 

 マックイーンさん曰く、回転襲歩という歩法は私が持つ知識で代替するところの、序盤に生じる位置取り争いに相当するそうだ。

 

「ここまで言えば、嫌でも察することかと思いますわ。上手なスタートを切ったはずが、かえって序盤でスタミナを消費してしまう。こうして色々理屈を並べてみると、スタートに対する考え方が変わってくると思いませんこと?」

 

 差しを得意とする私やドーベルさんの場合だと、序盤で位置取り争いに参戦するのは悪手だ。

 

「極端な出遅れは論外ですが……良いスタートが切れないからと言って、苦手意識を持つことはありませんわ。そうでしょう?」

「…………言われてみれば」

 

 マックイーンさんの解説に、終始苦い顔をしていたドーベルさんが納得したように頷いた。

 

「以上が、私が重視しているスタートの考え方になります。鵜呑みにする必要はありませんが、今後のトレーニングの参考になれば幸いですわ」

「ありがとうございますっ、マックイーンさん!」

 

 マックイーンさんの指導者たる完璧な振る舞いに、私は感激してばかりだ。

 

「さて、説明も終わったことですし早速実践ですわ! 何事もアウトプットが大切でしてよ!」

「はいっ!」

「分かった」

 

 マックイーンさんの熱心な指導のもと、私達はひたすらトレーニングに打ち込む。

 

 この調子でトレーニングを積めば、いつか兄さまに成長した姿を見せられるかもしれない。

 

 胸に込み上げてきた熱を感じ取りながら、私は一つ一つの課題と向き合うのだった。



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23:月刊トゥインクル

 季節は七月の中旬。チーム・アルデバランに対する世間の熱が冷めやらない最中の一幕である。

 

『──確認。サトノ君。以前話した、雑誌記者への取材のことなのだが……』

 

 普段のようにトレーニングの準備を進めている途中、秋川理事長から電話があった。

 

『唐突で申し訳ない、少しスケジュールが押してしまってな。本来は午後に行う予定だったのだが、この後すぐでも構わないだろうか?』

「はい、すぐに調整しますね。少々お待ち下さい」

 

 私は早急にスマホの画面を操作して、マックイーンさんに連絡を送った。事情を説明してからしばらくして、彼女から無事了承を得ることが出来た。

 

 取材は人目を避ける目的で、理事長室を利用して行われるそうだ。

 

 私は一度ジャージを脱いで制服に着替え、鏡の前で胸元のリボンを整える。

 

 兄さまの担当ウマ娘、ひいてはチーム・アルデバランの名に恥じぬよう身だしなみは完璧であるべきだ。

 

 入念な準備を経て、私は栗東寮を出る。人気の少ない校舎内を歩いて、理事長室を目指す。

 

 そういえば最近、よく理事長室に出入りしている気がするなぁ……なんて考えていると、あっという間に目的地へ到着した。

 

「失礼します」

 

 ノックを三回挟んだ後に、私は理事長室へと入室した。

 

「歓迎ッ! サトノ君、突然のことで申し訳ないッ!」

「いえ、何も問題ありません」

 

 普段と変わらず大仰な声音で迎えてくれた秋川理事長。

 

「サトノさん、こちらにどうぞ」

 

 彼女の隣に控えるたづなさんに案内されて、私は談話用に設けられたソファーに腰を下ろす。

 

 秋川理事長とたづなさんはおそらく、取材の邪魔にならないよう配慮してくれたのだろう。部屋の側面に位置取り、静かに私の様子を見守るように並んで立つ。

 

 そして、肝心の雑誌記者の方は私よりも一足先に理事長室へ入室していた。

 

 私と対面するような形で、白のパンツスーツを着こなした綺麗な女性が腰掛けている。

 

「初めまして。私、『月刊トゥインクル』にて記者を担当しております──乙名史悦子と申します」

 

 首からかけた蹄鉄型のペンダントと、肩から提げる少し無骨なショルダーバッグが特徴的な乙名史記者は、私の目から見てまさしく”記者”という印象だった。

 

 月刊トゥインクルとは、ウマ娘やレースに関する詳細な情報を月刊誌に掲載する大手出版社のことだ。

 

 月刊誌の商標に出版社名をそのまま用いていることから、非常に力を入れている雑誌であることがうかがえる。

 

 他にもウマ娘を題材とした記事を取り扱う出版社は多くあるが、月刊トゥインクルはURAと業務提携を結んでいることもあり、幅広い読者層から非常に高い信頼を得ていたと記憶している。

 

「突然のことで申し訳ありません。この度は、秋川理事長のご紹介に与り取材に参りました。短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」

「はいっ。こちらこそ、よろしくお願いしますっ」

 

 乙名史記者の礼儀正しく、誠実な態度を受けて、私の身がギュッと引き締まるのが分かった。

 

「本来トレーニングに充てる時間を割いて下さっているとのことなので、アイスブレイクの時間は設けず、早速取材に移らせていただきます。取材の内容について、いまから録音させて頂いてもよろしいでしょうか?」

「はい、問題ありません」

「ありがとうございます」

 

 乙名史記者はショルダーバッグから手帳と万年筆を取り出し、両者の中間の位置にボイスレコーダーを置いた。

 

「それでは……サトノダイヤモンドさん。先日のメイクデビュー、お見事でした! まずはトゥインクル・シリーズの登竜門を無事突破した現在のお気持ちを、率直にお聞かせ下さい」

「そうですね…… 無事一着となれたことは非常に嬉しいのですが、それよりも満たされるような安心感の方が強いです」

 

 これはある意味、自業自得に他ならないのだが。

 

 勝っても負けても何一つ希望が見出せないどころか、底なし沼の絶望に引きずり込まれそうな状況の中で、私はレースを走った。

 

 万に一度も起こらない他力本願な奇跡に縋りついて、とち狂った大博打の末、今の私がここにいる。

 

「なるほど……。やはり、チーム・アルデバランという肩書きを背負う重圧は相当なものであったとお見受けします」

 

 私達の内情を知るものはごく僅かと非常に限られている。

 

 乙名史記者の言葉通り、兄さまやミライさんの誉を背負うことに対する精神的負担も当然大きかった。しかし、それとは比較にならない次元の重圧を抱えて、私はレースに臨んだ。

 

「はい。おっしゃる通りです」

 

 しかし、それをわざわざ口にする必要は無い。私は乙名史記者の言葉に肯定し、取材を続ける。

 

「ありがとうございます。それでは、次の質問です。世間では、異質なレース展開をものともしないサトノダイヤモンドさんの強烈な末脚に注目が集まっています。ジュニア級ながらクラシック、シニア級に匹敵する武器を手に入れたサトノさんが、トレーニングで心がけていることは何でしょうか」

 

 心がけていること、か……そうだな。

 

「基本的には、私を担当して下さるトレーナーさんの指示を大切にしています。具体的な内容ですと、んん……レースに耐えられる身体作りと、徹底的に基礎を固めることを重視しています」

「ふむふむ……ありがとうございます。チーム・アルデバランの凱旋に多くのファンから期待が寄せられていますが、出走レースのローテーションや、今後の展望についてお聞かせ願えますか?」

 

 現状、チームの代表責任者である兄さまが不在であるが故、私はまだ次走となる具体的な目標レースを定めていない。

 

「えっと……まだ明言することは出来ませんが、目下の目標としては"条件クラス"の突破を見据えています」

 

 URAが主催するトゥインクル・シリーズは、開催されるレース全てに対して、厳格なクラス分けがなされている。

 

 レースのクラスは上位から順に、GⅠ、GⅡ、GⅢ、リステッド競走、オープン特別、条件クラス、メイクデビュー・未勝利戦となっている。

 

 簡単に説明すると、レースの勝利数と獲得賞金額に応じて出走できるレースの選択肢が増えていくといった仕組みだ。

 

 私は先日メイクデビューを勝利したことで、無事条件クラスに昇格した。条件クラスで一着となればURAが規定した勝利数に関する縛りは撤廃され、以降はレースで獲得した賞金金額が重要となってくる。

 

「ゆくゆくは私の生家の悲願であるGⅠレースの制覇を目指して、毎日のトレーニングに励んでいます」

 

 世界最強の称号を背負う私だが、それはあくまで成り行きであり、本来であれば分不相応な誉に他ならない。

 

 グレード制が導入された重賞レース、それに次ぐ準重賞(リステッド)、オープン特別競走、条件クラス。

 

 成り行きの誉に驕れば、瞬く間に足を掬われる。決して慌てず、地に足をつけて次走のレースに臨む必要が私にはあった。

 

「決して慢心せず、目の前の勝利を志す直向きな姿勢、素晴らしいですっ! 記者である前にサトノダイヤモンドさんの一ファンとして、今後の活躍を大いに期待しています!」

 

 秋川理事長からは事前に、取材時間が三十分程度であると伝えられていた。横目で理事長室に掛けたれた時計を確認すると、まだまだ時間は十分に残っている。

 

 私はこの後も気を引き締めて、乙名史記者の取材に応じる。

 

「続いての質問ですが、サトノさんが所属するチーム・アルデバランについてお聞きします」

 

……やはり来たか。

 

 はなから予想していた質問を投げられて、私の身体が微かに強張る。

 

 きっとチーム・アルデバランに対する言及こそが、取材を依頼してきた乙名史記者の本旨なのだろう。

 

「それではまず、鮮烈な復活劇を遂げたチーム・アルデバランの代表責任者についてお聞かせ下さい。元チーフトレーナーの引退は周知の事実となっておりますが、現在は当時のサブトレーナーのどなたかがチームを引き継いだ、という認識でよろしいでしょうか?」

「はい、そのような認識で問題ありません」

「世間では、ホームストレッチからサトノダイヤモンドさんに声援を送っていたスーツ姿の男性が後継者であるとの意見が有力です。こちらに関しては如何でしょうか?」

「はい。彼が私達を担当して下さっているトレーナーさんです」

「ふむふむ……ありがとうございます。次の質問です──」

 

 右手に持った万年筆を快調に滑らせながら、取材が続く。

 

 

 

 

 

「世界最強の肩書きを引き継いだ彼ですが──チーム・アルデバランの象徴であった”星”のミライとの関係性について、何か知っていることはありますか?」

 

 

 

 

 

 乙名史記者からこの手の質問が飛んでくることはあらかじめ想定しており、身構えていたことではあったのだが。

 

「そ、それは……」

 

 分かっていてもやはり、私は言葉を詰まらせてしまった。

 

 その質問は、私が答えても良い内容なのだろうか。そんなモヤモヤとした思考に意識を乗っ取られて、私はわずかに冷静さを欠いてしまう。

 

 チーム・アルデバランが凱旋した以上、ミライさんに対して言及されることは明白であった。

 

 しかし、兄さまが不在の状況で、断片的な情報しか持ち合わせていない私が不躾にも彼の過去を語って良いのだろうか。

 

 私の口から、彼の思い出を公にしても良いのだろうか。

 

 しばらく言い淀んでしまった私は、助けを求めるような形で側面に控える二人に視線を送った。

 

 縋るような視線に応えてくれたのは、私と共に、兄さまに業界復帰を強要してしまった秋川理事長だった。 

 

「問題ない。サトノ君が知っていることを話してくれて構わないという言葉を、彼から預かっている」

 

 秋川理事長が静かに頷く。その仕草を見て、兄さまが私のことを信頼してくれているんだと瞬時に悟った。

 

 彼の厚意に対して感謝と罪悪感を胸に抱きながらも、私は改めて乙名史記者へと向き直る。努めて真摯な態度で質問に答えた。

 

「話をお聞きした限りでは、お二人の間柄は担当ウマ娘と担当トレーナーに限りなく近いものであったそうです。ミライさんの育成は、当時チーム・アルデバランのサブトレーナーであった彼に一任されていたと伺っています」

「な、なんと……っ」

 

 取材のメモを取る乙名史記者の身体が一瞬、込み上げてくる感情で震え上がったように見えた。

 

「…………しい。……あ、し、失礼しました。んんっ、気を取り直して、こちらが本日最後の質問になります」

 

 予定されていた時間いっぱいまでは余裕がある。思ったよりも順調に取材が進んでいたようだ。

 

 最後まで気を抜かないように、私は背筋を正す。

 

 

 

 

 

「──レース後にサトノダイヤモンドさんが行った、トレーナーさんに対する()()についてなのですが」

 

 

 

 

 

「──……ッ!?!?!?!?!?!?」

 

 想定外の質問に、私は声にならない悲鳴を上げてしまった。

 

「あの行動の意図について、差し支えなければお聞かせ下さいませんか?」

「ぁ、ぇとっ、あれはそのっ……何と言いますか…………」

 

 動揺し、取材の場であるにも関わらずみっともなく取り乱してしまう私。

 

 何か言葉を発しようにも頭の中が真っ白で、何も浮かび上がってこない。

 

 落ち着いて、私。大丈夫、まだ時間はたっぷりとあるんだから。ゆっくりと深呼吸して一から考えれば良い。

 

「……、はぁ…………」

 

 新鮮な酸素を頭に取り込んで、乱れた思考を平常に戻していく。

 

 そして、

 

「……」

 

 私は乙名史記者が、数多と浮かぶ疑問の中からこの質問を選んだ理由を考えた。

 

 取材依頼が殺到した中で、秋川理事長が月刊トゥインクルに所属する乙名史記者にのみ独占取材を許可した意図を考える。

 

 これは私の直感に過ぎないが、おそらくそれらの答えがこの質問に詰まっている気がした。

 

「……私は」

 

 私は頭の中でゆっくりと言葉を吟味して、要求されているであろう正しい返答を声に出す。

 

「並々ならない決意と覚悟で不肖な私の指導に当たって下さったトレーナーさんへの至上の感謝を、あの抱擁に詰め込みました」

「ふむ……ふむふむ」

「この感情を言葉だけで表現する術が、私には分かりませんでした。なので、私の心に芽生えた温かい気持ちを、行動に変えて伝えたいと思ったんです」

 

 これは紛れもなく私の本心であり、行動の意図を説明するに値する言葉となっているはずだ。

 

「…………」

 

 私の返答を受けて、乙名史記者が押し黙ってしまう。

 

 何かまずいことを言ってしまっただろうか。間違った返事をしてしまっただろうか。

 

「…………す」

 

 す……?

 

「す……す、す……!!」

 

 私が焦燥を感じている間、乙名史記者は特に意味のない文字をぶつぶつとこぼしていた。

 

 そして、

 

 

 

 

 

「──素晴らしいですっ!!!!」

 

 

 

 

 

 彼女の内に秘める何かが今、爆発した。

 

「言葉などでは全然足りない、感謝の気持ちを”抱擁”という熱烈なアプローチに変えて相手の心へ直接届けるっ。なんて素敵な師弟愛なのでしょうっ!!」

「……えっ」

「トレーナーさんを想う献身的な態度、涙を流した殿方に寄り添う姿勢はつまりっ、何があってもあなたを支えるという強かな覚悟の証っ!!!!」

 

 尋常じゃない速度で、乙名史記者が筆を走らせる。どこか恍惚とした笑みを浮かべながら、血走った様子で暴走が加速していく。

 

「あぁ……なんて素晴らしいのでしょうか……私、とっても感動しました……っ!」

「あ、あはは……」

 

……私、そんな話したっけ? でも、実際その通りというか……言い得て妙というか。

 

「……っとと。申し訳ありません、少々取り乱してしまいました」

「い、いえ……」

「質問は以上となります。サトノダイヤモンドさん、本日はありがとうございました。おかげで素晴らしい記事が書けそうです」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

 予定されていた時間まではまだ少し余裕があるが、乙名史記者からの取材はこれにて終了となった。

 

 生涯で初めて取材というものを経験したが、上手な対応が出来ただろうか。粗相は無かっただろうか。

 

 そんなことを考えながら、私は理事長室を後にするのであった。

 

 

 

***

 

 

 

 取材を終えた私は来た道をそのまま引き返し、栗東寮へ戻った。

 

 改めてトレーニング用のジャージに着替え、既にトレーニングを開始しているであろうマックイーンさん達に「今から向かいます」と連絡を送り、私は部屋を出る。

 

 夏合宿の影響で寮内もがらんどうとしており、普段では考えられないほど物静かな空間を一人で歩く。

 

 マックイーンさん達がいるトラックまでは少し距離がある。私は歩きながら軽く準備運動を行いつつ、取材で凝り固まった体をほぐす。

 

「──ねぇ」

 

 私がちょうど背伸びをしていると、背後から唐突に声を掛けられた。

 

「私ですか?」

 

 声の主を探して、私は振り返る。

 

 私を呼び止めたのは、トレセン学園の制服に身を包む三人のウマ娘。

 

 私がトレセン学園に入学してから三ヶ月以上になるが、彼女達の容姿にはまるで心当たりが無かった。少なくとも同級生ではなく、まとう雰囲気から察するに、高等部の生徒だろうか。

 

「あんたがサトノダイヤモンドで合ってるよね?」

 

 三人の中心に立つ金色に近い栗毛のウマ娘が、私の名前を口にする。彼女達が呼び止めたのはどうやら、私で間違いないようだ。

 

「はい、そうですが……」

「ちょっといい?」

 

 そう短く言ったのを最後に、栗毛のウマ娘達は私の返答を待たずして、トラックから少し逸れた方向と歩き出す。

 

 私は彼女達についていくか少し悩んで、結局三人の後に続くことにした。

 

 繰り返しになって申し訳ないが、私はもう一度マックイーンさんに遅刻の連絡を送る。

 

 しばらく歩いて、私は陽の光が届かない倉庫裏にたどり着いた。

 

「あの、先輩の方々ですよね? 私に何かご用でしょうか?」

 

 時間が押しているため、私は率直に先輩方へ用件を問う。

 

「お願いがあるの」

「お願い、ですか?」

「あんたのトレーナーを貸してほしいの」

 

……ここ最近の私を取り巻く環境からして、彼女達の目的は何となく予想が付いていた。

 

「ごめんなさい。私のトレーナーさんなのですが、現在は諸事情で学園を不在にしていまして……」

 

 三人の目的は私ではなく、私のトレーナーさん(兄さま)だ。

 

 兄さまは現在秋川理事長が紹介した病院に長期入院しており、一切の接触が禁止されている。

 

 だから彼女達には悪いが、その要求には応えられない。

 

「申し訳ありません。この後トレーニングが控えているので、私はこれで失礼しま──」

「待って」

 

 私が踵を返してトラックへ向かおうとしたところ、背後から栗毛のウマ娘に右手を掴まれた。

 

「あたし達、どうしてもレースで勝ちたいの」

「……え?」

 

 栗毛のウマ娘が懇願するような声音で言葉を放つ。転じて至って真剣な物腰に、私は何故か後ろ髪を引かれるような気持ちになってしまう。

 

「噂で聞いたの。チーム・アルデバランのトレーナーなら、”どんなに弱いウマ娘でも勝たせてくれる”って」

 

 栗毛のウマ娘から語られる兄さまの噂だが、正直初耳だった。

 

 多分、選抜レースで八着と惨敗した私がメイクデビューで勝利したことから生じたものだろう。

 

「あたし達は()()()に同じチームでデビューしてから、まだ一勝も出来てないの」

「……つまり、先輩達は」

「契約が解除されて、今は未所属」

 

 トゥインクル・シリーズに出走するためには、どこかしらのチームに所属している必要がある。

 

 チームに所属することでレースへの出走権を獲得するわけだが、実はその裏に、落とし穴のような規則が存在していた。

 

 それは、デビュー戦から二年九ヶ月が経過するまでに勝利することが出来なければ、()()()()()()()()()()()()()()といった内容である。

 

 再びレースに出走するには当然、チームを運営するトレーナーと再度担当契約を結ぶ必要がある。

 

「どうしてもレースで勝ちたい。でも……どこのチームにお願いしても、全て門前払い」

 

 だが、二年以上未勝利の状態だったウマ娘と改めて担当契約を交わそうとするトレーナーがいるかと言われたら……残念だが、答えはノーである。

 

 競走の世界に身を投じた者には、結果というものが必ず付きまとう。

 

 レースに勝てる素質がないことを実質的に証明してしまっているウマ娘と……言い方は悪いが、トレーナーにとって彼女達と担当契約を結ぶメリットは何一つないと言って良い。

 

 このような形での契約解除はまさしく、強制的な引退と同義なのである。

 

「あんたのチームってまだ枠が空いてるんでしょ? ねぇ、お願い。贅沢なんて言わない。一度だけ、一度だけで良いからレースに勝ちたいの」

 

 先輩方に詰め寄られて、私は戸惑う。

 

 彼女達の気持ちは痛いほど理解出来るし、共感もする。

 

 でも、私からは何も言えないし、言えるような立場でもない。

 

「わ、私は……」

 

 返答に困った私は、圧力に屈するように顔を伏せて、それで……。

 

 

 

 

 

 

 

「──あら、サトノさん」

 

 

 

 

 

 

 

 その凜とした呼びかけは、私に出された助け舟だった。

 

「ま、マックイーンさん。どうしてここに……?」

「倉庫からゲートを一枠拝借しようと思いまして」

 

 私の憧れのウマ娘であるメジロマックイーンさんが、先輩方に詰め寄られている私に歩み寄ってくる。

 

「サトノさん、こちらの方々は?」

「え、えっと……先輩の方々です」

「ふむ……」

 

 マックイーンさんは私から視線を逸らして、奥に立つ彼女達を一瞥した。

 

「先輩方、このような薄暗い場所での立ち話はあまり穏やかではありませんわ。よろしければ、場所を変えませんこと?」

 

 マックイーンさんは私を庇うような位置に立って、先輩方と向かい合う。

 

「……メジロマックイーン」

「あら、私のことをご存知でして?」

「聞いたわ。あんた、チーム・アルデバランに移籍したんだってね」

 

 メジロ家のウマ娘であるマックイーンさんとドーベルさんがチーム・アルデバランへ移籍したという話は、既に周知の事実であった。

 

「ええ」

 

 当然のように、マックイーンさんが肯定する。

 

「あんた、元チーム・スピカでしょ? 何でわざわざ移籍なんかすんの?」

「長期療養で学園を休学する際、沖野トレーナーとは担当契約を解消しましたので。移籍に関しても、決して珍しい話では無いと思いますが?」

「そういうことが聞きたいんじゃなくて……はぁ、もう良いよ」

 

 栗毛のウマ娘は深いため息をこぼした。これ以上の会話は無駄だと判断したらしく、そばにいた先輩方を連れてこの場から立ち去っていく。

 

「…………何で」

 

 私達の真横を通り過ぎる寸前、栗毛のウマ娘が今にも消え入りそうな声で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

「何であんたが選ばれるんだよ。あたし達と同じ……走れないウマ娘(オワコン)のくせに」

 

 

 

 

 

 

 

 ウマ娘の聴覚は人間よりもはるかに優れている。マックイーンさんのことを罵倒するような発言を聞き取った私は、去り行く背中に一言物申そうとして。

 

「サトノさん」

 

 マックイーンさんの右腕が、感情に突き動かされる私を制止するように伸ばされた。

 

「どうして……っ」

 

 このまま言われっぱなしで良いのですか?

 

 志半ばで無慈悲に夢が絶たれて、それでも新しい目標を掲げて懸命に前を向く姿を否定されて、何も言い返さないのですか?

 

 なんでそんなに、マックイーンさんは冷静でいられるのですか?

 

「彼女達の気持ちは十分理解出来ます。私がチーム・アルデバランに移籍したことを良く思わないのは何も、()()()()()()()()()()()()()()()()()

「え、それって……」

「サトノさんが気に病む必要はございませんわ」

 

 マックイーンさんは普段と至って変わらない様子で、私に微笑みを向けてくれる。

 

「サトノさんも既にご存知の通り、私の足は競走能力の喪失に等しい難病を抱えています。そんなお荷物の私が、”星”のミライを育てたトレーナーさんの数少ない枠を割くことなど、本来あってはならないことなのです」

 

 マックイーンさんは、担当トレーナーである兄さまのサポーターとしてチームに移籍した。

 

 チーム本来の目的であるウマ娘の育成からは少し逸れているが、このような形で加入する事例も数多く存在している。

 

 そのため、マックイーンさんが自分自身を貶めるような発言をする必要は微塵もない。

 

「しかし、だからと言って私はこの席を誰かに譲るつもりはありません」

「マックイーンさん……」

「これは過去に、()()()()が私に激励としてかけて下さった言葉の一つなのですが……」

 

 マックイーンさんは在りし日に想いを馳せるように、どこか遠い目をして私に言った。

 

「夢の実現という甘美な響きには、他人の夢を蹂躙する残酷な側面が含まれているそうです」

 

 トレセン学園の門を叩いた生徒の数だけ夢があって、その数多の夢が屍として積み上げられた頂で初めて、一つの夢が夢として輝く。

 

 夢はレースに似ていると、私は率直に思った。

 

 夢が叶うのはほんの一握り。

 

 どんなレースも一着になれるのは一人だけ。

 

 無慈悲で、残酷で、薄情であるからこそ。

 

 夢という言葉に誰もが惹かれ、一着という順位に執着するのである。

 

「トレーナーさんのご厚意に甘えさせていただき、私はチーム・アルデバランへと移籍しました。たとえそれが、誰かの夢を引き裂くことになるのだとしても──」

 

 マックイーンさんはその凛とした美貌に強かな決意と覚悟を化粧して、赤裸々な感情を打ち明ける。

 

 

 

「私はもう……諦めたく無いんです」

 

 

 

 そんな彼女の横顔を、私はただただ静かに見つめていた。



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24:名優の姉

 夏休みも中盤に突入した八月初旬。

 

 摂氏三十五度を優に超える猛暑日が連続で記録される影響で、長時間の屋外トレーニングが困難な状況となっていた。

 

 そこで最近では、チーム・アルデバランのサポーターを務めるマックイーンさんの提案で、屋内施設を使用したトレーニングメニューを多く取り入れている。

 

 ちなみに今日は、私達の共通の課題であるスタミナ強化と避暑的な意味合いを込めて、プールを用いた水泳トレーニングである。

 

「──お二人とも、今日も張り切ってトレーニングですわ!」

 

 私達はトレーニング用の水着に着替えて、プールサイドに集合した。私達以外にプールを利用している生徒はおらず、実質的に貸切状態。監視員さんに一言挨拶してから、私達は本格的なトレーニングに移る。

 

「水に入る前にしっかりと準備運動を行いますわ……ほらドーベル、トモの伸ばしが甘いですわ!」

「……分かってるよ」

「サトノさんも、肩甲骨周辺のほぐしが足りませんわ!」

「は、はいっ!」

 

 トレーニング開始前の準備運動の様子からして、何となく見て取れると思うのだが。

 

 私の憧れのウマ娘であるマックイーンさんは何故か、普段よりも三割増のやる気を滾らせていた。

 

「……マックイーン、ちょっと気合い入りすぎじゃない?」

「当然ですわ! 水泳トレーニングは非常に運動効率が良く、体脂肪の燃焼効果や内臓脂肪の減少さらには呼吸循環系の機能向上といった数多くのメリットがあるんですの!」

「あ、そう」

「加えて水の浮力によって、足に掛かる負担が軽減されますの。これはもう、私のために用意されたトレーニングと言っても過言ではありませんわ!」

 

 確かに、水泳トレーニングはマックイーンさんが熱弁したように、怪我や病気などが原因で脚部不安を抱えるウマ娘の運動不足を解消するといった側面も存在する。

 

 左脚に繁靭帯炎を発症してしまったマックイーンさんにとっては、数少ないうってつけの運動なのだ。

 

「そういえばマックイーン昨日、購買でこっそりアップルパイを──」

「あ、あなた見ていたんですのっ!?」

 

 マックイーンさんが顔を真っ赤に染めて声を荒げる。

 

「運動量が減っても同じ食事を続けてたら、太るのは当然でしょ」

「問題ありませんわ! 今日のトレーニングで摂取したカロリーを帳消しにする予定ですのでっ」

 

 そういえばマックイーンさんは以前、自分自身の”体質”について嘆いていたことがあった。

 

……なるほど。”体質”ってそういうことか。

 

「ん”ん”っ”……冗談はさておき、そろそろ始めますわよ。準備はよろしくて?」

「大丈夫」

「頑張りますっ!」

 

 準備運動と柔軟を終え、私達は十分に身体を温めた状態で全長五十メートルのプールに浸かった。

 

「まずはプールの水に浸かって身体を慣らします。その後は、各々好みの泳法で五十メートルを四本泳ぎますわ」

 

 先程マックイーンさんが挙げたメリットの他に、水泳トレーニングには全身の筋肉をバランス良く鍛えられる効果がある。

 

 水の特性として挙げられるのが、主に水圧と浮力の二種類。

 

 水圧は地上でトレーニングするよりも大きな負荷が身体にかかる一方、心臓の負担を軽減する利点がある。

 

 浮力は身体の可動域を大幅に増大させ、関節に掛かる負担を著しく軽減してくれる効果がある。

 

 加えて水に浸かっているだけでも、体温維持のためにエネルギーを継続的に消費していく。

 

 水泳トレーニングとは、身体を鍛えスタミナを強化するのに最適な有酸素運動なのだ。

 

「最初は全員共通の課題として、千メートルを五本。それ以降のトレーニングは各々の判断に委ねますが、まずは十五キロ前後を目安にすると良いですわ。休憩は適宜取るようにして下さいまし」

「ん」

「言っておきますが、出し惜しみは厳禁ですわ。走ること以外も疎かにせず、メリハリをつけていきましょう」

「はいっ!」

 

 自分自身の成長のため、手を抜いてトレーニングに取り組むことなど許されない。

 

 私は改めて気持ちを引き締め、課された距離を泳ぐのであった。

 

 

 

***

 

 

 

「──ぜぇ”、はあ”ぁ”っ……げほっ、くはぁ”、はぁっ、はぁ”……っ”」

 

 時間をかけてマックイーンさんから課された距離を泳ぎきったドーベルさんが、荒々しい呼吸を繰り返しながらプールサイドで突っ伏していた。

 

「ど、ドーベルさん、大丈夫ですか……?」

 

 私は慌ててドーベルさんに歩み寄って、タオルとドリンクを彼女に手渡す。

 

「ぁ”、ぁりがと……サトノ…………っ」

 

 ドーベルさんは息を整えることに集中しているようで、私が差し出したものにしばらく手をつけなかった。

 

 水滴が止めどなくしたたる長髪にタオルを大雑把に押し当てて、少し時間を空けてから、ドーベルさんは勢い任せにドリンクを流し込む。

 

 そのまま数分が経過して、ようやくドーベルさんの呼吸が規則正しいリズムを刻み始める。

 

「…………はぁ、……すごいね、サトノは」

 

 ドリンクが入ったボトルから口を離したドーベルさんが、唐突に私のことを褒めた。

 

「すごい、ですか……?」

「あれだけの距離を泳いでも、アタシと違ってケロッとしてるし」

「そ、そんなことはないですよ……っ」

 

 私は他のウマ娘よりも少しだけ息の入りが優れているだけで、実際泳ぎきった直後はドーベルさん同様プールサイドでぶっ倒れていた。

 

「それを言うなら……マックイーンさんの方が」

 

 そう言って、私は未だプールで水泳を続けるマックイーンさんへ視線を向ける。

 

 長時間が経過しても速度が衰える気配がなく、彼女はまるで()()()()()()()()()()()()()()()()泳ぎ続けている。

 

 マックイーンさんも当然休憩は挟んでいるが、あれだけの距離を泳いでもまだスタミナが有り余っているのかと思うと……。

 

「マックイーンのスタミナは本当に化け物だよ。長期療養で結構なブランクがあったはずなのに、衰えている気配がまるで無い」

 

 レースにおけるマックイーンさんの最大の武器は、暴力的なスタミナに物を言わせた強靭なスパートにある。

 

 長期療養の影響で確実に筋肉量が落ちているにも関わらず、無尽蔵なスタミナは未だ健在。

 

 今の私達では、最強のステイヤーたる彼女の足元にすら及ばないのだと痛感した。

 

「こんなんじゃ全然足りない。もっとスタミナをつけないと……」

「も、もう少し休憩を挟んだ方が良いのでは?」

「大丈夫。妹が頑張ってるのにアタシが休んでたら、姉としての顔が立たないし」

 

 そう言って、ドーベルさんは再び水中に潜っていった。

 

 これは余計なお世話かもしれないが……はっきり言って、私にはドーベルさんが強い焦燥感と戦っているように見えていた。

 

「ドーベルさん、大丈夫かな……」

 

 メジロマックイーンという優秀なウマ娘の後にデビューを控えている以上、周囲からの期待は私の想像をはるかに絶するものだろう。

 

 そんな重圧に負けじとトレーニングに励む姿は非常に凛々しく、尊敬の念すら覚えるほど。同時に少しだけ、彼女のことを心配する気持ちもあった。

 

 ドーベルさんよりも一足先に休憩していた私は、彼女の後に続いてプールへ潜る。

 

 この後はスタミナが完全に切れるまで泳ぎ続けて、疲れ果てた私はその日、脇目も振らず泥のように眠ったのであった。

 

 

 

***

 

 

 

 夏休みも終盤に突入した八月下旬。

 

「お先に失礼します」

 

 今日のトレーニングは午前中のみで、午後からは自由な時間であった。

 

 トレーニングを終え、ジャージから制服に着替えた私は荷物をまとめて一足先に部室を出る。

 

 特にこれといった用事は無いのだが、最近では実施したトレーニングの内容や所感をノートに記録することが日課となっていた。

 

 夏合宿と帰省の影響で、相変わらず栗東寮は静かでがらんどうとしている。

 

 少し物寂しさを覚えるが、やりたいことに没頭出来るため私としては有り難さも感じていた。

 

 自室に戻った私はそのままの勢いで机に向かい、ノートを広げる。

 

 本日のトレーニングメニューと意識したポイント、浮き彫りになった課題と今後の目標などを書き込んでいく。

 

 この習慣は夏休みに入った辺りから継続していたため、トレーニングノートは二冊目に突入していた。

 

 ノートを振り返ってみると、少しずつではあるが、成長を目に見える形で確認することが出来た。無意識に私の頬が緩む。

 

 一通りノートを書き終えた私は、それを両手で広げたままベッドに身体を投げ出す。

 

 私はノートを天井に突き出すように掲げて、ぽつりと呟いた。

 

「……兄さま、褒めてくれるかな」

 

 兄さまがトレセン学園を離れてから、間もなく二ヶ月が経とうとしている。

 

 当然、彼に会えないのは寂しい。治療のためだと理解していても、やっぱり私の心は激しく彼の温もりを求めてしまう。

 

 メイクデビュー前夜に感じた彼の背中の温もりが、ウイニングライブ後に刻み込んだ彼の鼓動が、どうしても忘れられなかった。

 

 しかし、このように熱に浮かされた状態でトレーニングに臨めば、彼の信頼を裏切ることに繋がりかねない。

 

 故に私は、トレーニングに対する意識を改める必要があった。

 

 いつか来たる再会に備え、成長した私を見せたい。

 

 胸を張って彼の教え子を名乗りたい。

 

 彼に相応しいウマ娘(わたし)になりたい。

 

 そのためには、誰よりも真剣にトレーニングに取り組まなくてはならない。

 

 そうやって考えを進めていく内に、私は自然と意識の切り替えが出来るようになってきたのだ。

 

 だがそれはあくまでも、()()()()()()()()()()()()()()である。

 

「……」

 

 一人でいるとしばしば、強引に胸の内に押し込んだ感情が爆発しそうになる時があった。

 

 兄さまと再会を果たしてからの三ヶ月間で、私は彼に対する底なしの好意を自覚した。

 

 指導者と教え子という立場上、この先私が、彼に対して気持ちを打ち明けることはないだろう。

 

 社会的な立場を抜きにしても、兄さまの心を追い詰めた私に、彼を支える権利など残っていないのだから。

 

 それは、いけないことなんだ。

 

 

 

……当然、頭では理解しているのだが、

 

 

 

──いつか必ず、君を迎えに行くから。

 

 

 

 真剣な眼差しで私を射抜いて、兄さまがあんな言葉を囁くから。

 

 

 

 

 私の心はずっと生殺しの状態で、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時々、気が狂いそうになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 気分転換を兼ねて、私は夏休みの課題に取り組むことにした。

 

 夏休みは二ヶ月という長期間のため、出題される課題は非常に多い。計画的に進めていかなければ、未来の私が悲鳴をあげるだろう。それは自明の理であった。

 

 栗東寮ではどうにも集中力を欠いてしまうと判断した私は、部室へ移動して課題に取り組むことにした。

 

 課題をいくつかスクールバッグにしまって、私は寮を出る。

 

 炎天下の敷地に一歩出るだけで汗が滴ってきた。私はハンカチで汗を拭いながら、急いで校舎別棟の部室へ向かう。

 

「──失礼します」

 

 兄さまは不在だが、礼儀として私は一言断り部室に入った。

 

 その瞬間、直射日光で熱された私の身体を冷涼な空気が撫で上げる。

 

「……?」

 

 部室は冷房が効いていて非常に涼しかった。最後に部屋を出た誰かが切り忘れたのかな。

 

 しかし、これはこれで都合が良い。私は室内を進んで適当な椅子に腰掛ける。

 

「……すぅ……すぅ…………ん」

 

 そこで初めて、()()がいることに気がついた。

 

「ドーベルさん?」

 

 制服に着替えたドーベルさんが机にノートを広げ、両腕を枕代わりにして寝息を立てている。

 

 トレーニングの後から、ドーベルさんはずっと部室に居残っていたのかもしれない。

 

 冷房が効いて快適な空間といえど、冷涼な風を無防備に受け続けたら身体を冷やしてしまう。

 

 私はドーベルさんの肩にブランケット──部室に常備してあったもの──をかけて、斜め対面の席に腰掛ける。

 

 そして机に教材を広げ、彼女の眠りを妨げないように課題を消化しようとして。

 

「……?」

 

 ふと視界の隅に、ドーベルさんが出しっぱなしにしていたノートが映り込んだ。

 

 少し卓上が散らかっていたので、私は寝ている彼女の代わりにノートと筆記用具を片付けてあげようと腰を上げる。

 

 鉛筆と消しゴム、ボールペンをドーベルさんの筆箱にしまった後、広げっぱなしのノートに手を伸ばして。

 

「……これは」

 

 見開きのページに描かれた内容が、無意識に私の目に止まった。

 

「可愛い……」

 

 何かのアニメの登場人物だろうか。可愛らしい女の子のイラストが、ポップなテイストでいくつも描かれていた。

 

「…………んぁ? サトノ……?」

 

 少しうるさくしてしまったか。眠っていたドーベルさんが目を覚ましてしまった。

 

「……あ、あれ。アタシのノート…………」

 

 ドーベルさんは寝ぼけ眼を擦りながらきょろきょろと周囲を見渡して、

 

「──っ!?」

 

 私を視界に捉えた瞬間絶句した。正確には、私が手に持ったノートを見てである。

 

「み、見た……?」

「……すみません、机の上に広げてあったので目に入ってしまって」

「…………ぁあ」

 

 事実を受け止めた様子のドーベルさんが、頭を抱えて項垂れた。

 

「……サトノ。ノート、返してもらっても良い?」

「は、はいっ。すみません……」

 

 私は手にしたノートを慌ててドーベルさんに渡す。

 

「ドーベルさん、絵を描くのがお好きなんですか?」

 

 ドーベルさんの反応からして、あまり触れて欲しくない話題なのかもしれないが。

 

「とっても上手なんですね……私、感動しました!」

 

 ノートに描かれたイラストはどれもこれも秀逸で、素人目にも心の底から可愛いと思えるようなものばかりであった。

 

「……あ、ありがと」

 

 お世辞を抜きにしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……昔から絵を描くのが趣味で、暇な時間に落書きとかよくしてたから」

「そうなんですね」

 

 ドーベルさんの意外な一面を発見して、私は嬉しい気持ちになった。

 

 というのも、チーム・アルデバランにメジロ家の二人が移籍してから、ドーベルさんとはまだ壁があるように感じていたからだ。

 

 マックイーンさんとは過去に絡みがあったこともあり、すぐに打ち解けることが出来た。

 

 しかし、ドーベルさんの場合は、彼女自身が私達と一線を引いているような気がして。

 

 チームメイトとして申し訳ないが……正直に打ち明けると、私は彼女に対して少しとっつきにくい印象を抱いていた。

 

 もしかしたら、これがきっかけでドーベルさんと仲を深められるかもしれない。

 

「あのっ、ドーベルさんさえ良ければ、ノートをもっと見せてくれませんかっ!?」

「べ、別にいい、けど……」

 

 私の勢いに屈したのか、ドーベルさんは観念したかのようにノートを渡してくれた。

 

 私は課題そっちのけで、夢中になってノートをめくる。

 

「わぁ……すごい、すごいですドーベルさん!」

 

 練習のような形で様々な角度からキャラクターが線のみで描かれているページもあれば、丁寧に色付けされたキャラクターが描かれているページもある。あ、こっちには漫画まで……っ!

 

「どれもこれもすごく綺麗で上手ですっ、特にこのイラストなんて──」

 

 暴走する私を見て、ドーベルさんは頬を紅潮させながら顔を覆っていた。

 

「分かった、分かったから……っ!」

「……あ、す、すみませんっ。私ったら、つい熱くなってしまって……」

「別に良いよ。褒められて……まぁ、悪い気はしないし」

 

 ただ、私の熱弁を食らったドーベルさんはまんざらでもないらしく、顔を逸らしながら人差し指で頬をかいていた。

 

「……そんなに、すごいかな」

「はいっ。どのイラストにも魅力が詰まっていて、ドーベルさんが本当に絵を描くのがお好きなのだと伝わってきます!」

「そ、そっか……ありがと」

 

 私も教科書に落書きをする程度で絵を描くことはあるけれど、彼女ほどの水準に到達するには相当な努力と時間を要するはずだ。

 

「ドーベルさんはどうして、絵を描くことがお好きなんですか?」

「特に理由はないけど……強いて言うなら、集中出来るから、かな」

「集中、ですか……?」

「絵を描くことに没頭すると、他に何も考えなくて良いから。その感覚がとても心地良くて……気が紛れるんだ」

 

 少し予想外の返答に、私は言葉を返すまでに不自然な間を作ってしまった。

 

 てっきり、可愛いキャラを描くのが好きであったり、サブカルチャーに興味があるからといった理由を想像していた。

 

 しかしドーベルさんは何というか、少し普通の人とは違う視点から"絵を描く"という行為を捉えているように見えた。

 

 その姿は何というか、とっても……。

 

「かっこいい……」

「……え?」

「とってもかっこいいですっ!!」

 

 私の目には、キラキラと輝いて映った。

 

「……かっこいい?」

「はいっ」

 

 ドーベルさんは私の言葉を繰り返し、魅力が詰まった彼女自身のノートをぱらぱらとめくる。

 

「…………ふふ。サトノ、ちょっと変」

「え、変ですか?」

「変だよ」

 

 放った言葉とは裏腹に、ドーベルさんはやっぱりまんざらでもなさそうにはにかんでいた。

 

「ありがと、ちょっと自信がついたよ」

「はいっ」

「ところで……サトノ、自分の目的忘れてない? 課題しに来たんでしょ?」

「え……あ、あはは」

 

 ドーベルさんに指摘されて、そういえばと私は気付く。

 

 こうして部室へやって来たのは夏休みの課題を消化するためであって、チームメイトと雑談をしに来たわけではない。

 

「アタシ、邪魔になるだろうからもう行くね」

「……あ、ドーベルさん待って下さいっ!」

 

 私は一拍遅れて、席から立ち上がるドーベルさんを引きとめた。

 

「うん?」

「ドーベルさんさえよろしければ、勉強を教えて頂けないでしょうか?」

「アタシが?」

「夏休みの課題で、少し分からない箇所がありまして……」

 

 マックイーンさんから、ドーベルさんは学業の成績も優秀だという話を伺っていた。

 

 ドーベルさんにお願いすれば、分からない問題を解くコツを教えてくれるかもしれない。

 

「別に良いよ。一応……学年的には後輩の頼みだからね」

「ありがとうございますっ!」

 

 私はドーベルさんの隣の席へと場所を移し、改めて教材を広げる。

 

「この問題なんですけど……」

 

 最初、私はドーベルさんに対して”人を寄せ付けないクールなウマ娘”という印象を抱いていた。

 

 しかし、こうしてドーベルさんとプライベートな交流を持って、彼女の面倒見の良い一面を知ることができた。

 

 ドーベルさんとの心の距離が少し縮まったような気がして、私の胸がじんわりとした熱で満たされる。

 

 その温もりが、何故だかとても心地良かった。



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25:私の夢

 世間を騒然とさせたメイクデビューから約二ヶ月。秋川理事長曰く、少しずつではあるがチーム・アルデバランに対する爆発的な注目は落ち着きを取り戻してきているそうだ。

 

 ヒートアップする事態の鎮火に貢献したのはおそらく、大手出版社──月刊トゥインクルが発行した月刊誌だろう。

 

 様々な憶測が飛び交う中で発行された、信頼性の高い出版社からの独占取材記事。

 

 雑誌には凱旋したチーム・アルデバランについての特集が掲載され、一面にはゴール前を駆け抜ける私の姿が写っていた。

 

 その大見出しは『最強の凱旋! ”星”を受け継ぐ至高の原石!』などと大仰な表現で飾られており、次のページには先日の取材内容が対談形式で綴られている。

 

 その中には当然、私のトレーナーである兄さまについて触れられた内容もあった。

 

 現在のチーム・アルデバランを率いているのは、当時のサブトレーナーの一人であった兄さまであるということ。

 

 チームの象徴であった”星”のミライを育てたトレーナーが、兄さまであるということ。

 

 非常に信頼性の高い出版社が公開した内容ということもあって、ごく一部からは過去の故障事故を非難する声も上がったが、それを容易くかき消すほどの称賛を世間から集めることとなった。

 

 さらには当時チーム・アルデバランを統率していた元チーフトレーナーが声明を発表したことで、記事の信頼性に拍車をかけた。

 

 結果から述べると、私のとち狂った魂胆は功を奏したといえる。

 

 世界中から称賛の声を浴びて、築き上げた誉が評価されて、彼の今後の活躍に注目が集まった。

 

 付随的に業界に対する世間の関心が上昇し、日本のトゥインクル・シリーズは今後、三年前のジャパンカップに匹敵する注目を浴びることとなるだろう。

 

 私のトレーナーは、世界中から称賛されるに値する素晴らしい方だ。これは、彼の偉業に対する正当な評価なのだ。

 

 私達の特集が掲載された月刊トゥインクルが発行されたのは、先月のあたま頃。

 

 世間を騒然とさせていた根本的な原因は、公となった情報の信頼性が欠落していたことにあるだろう。正式な情報が公表されれば必然的に、事態は落ち着きを取り戻していく。

 

 これでもう、学園内で彼を非難する者が現れることはないだろう。これならきっと、彼は安心して学園へ戻ってくることが出来る。

 

 私はほっと胸を撫で下ろす。

 

 私達を取り巻く問題は、順調に解決の方向へと進んでいる。

 

 何も気に病むことはない。あとは前途洋々とした素敵な未来が待っているだけ。

 

 ただ唯一、私に気がかりなことがあるとすれば。

 

 

 

 

 

──私はあくまで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ということだろうか。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「──サトノさん。あなたの今後に関する予定なのですが」

 

 チーム・アルデバランのミーティング中、進行役を務めるマックイーンさんが私に問うてきた。

 

「来年のクラシック級に臨むにあたって、この時期から出走するレースの目標を立てる必要がありますわ。具体的には中・長距離を主戦とする三冠路線、マイル・中距離のティアラ路線。サトノさんの実力であれば、どちらの路線を選択したとしても問題無いと判断しますが」

 

 約二ヶ月に及んだ夏休みの最終週。私は早くも、将来の選択が迫られる時期を迎えつつあった。

 

 ウマ娘にとって一生に一度しか出走できない、クラシック級のレース。

 

 クラシックレースに出走するためには、合計三回に分けて出走登録料をURAに納金する必要がある。そして、その第一回目の登録申込締切日時まで二ヶ月を切った。まだ二ヶ月もあると感じるかも知れないが、選択が後手に回るとトレーニングの調整が間に合わない可能性が生じてくる。故に大体のウマ娘は、夏休みが明ける頃までに今後の目標レースを定めていることが多い。

 

 クラシック級のレースには、距離適性に応じた二種類の路線が存在する。

 

 皐月賞、日本ダービー、菊花賞の三冠路線。あるいは桜花賞、オークス、秋華賞のティアラ路線。

 

 トゥインクル・シリーズが導入するグレード制において、最上格に位置するGⅠ重賞の、さらに特別なGⅠレース。

 

 生涯一度の誉を巡って争う熾烈な戦いに注がれる注目度は、他のレースとは比べものにならない。

 

 出走するだけで超一流。レースを制せば世代の頂点。三冠を戴けば最強の証。

 

 ”皇帝”シンボリルドルフが成し遂げた──クラシック三冠。

 

 ”魔性の青鹿毛”メジロラモーヌが掴み取った──トリプルティアラ。

 

 生家の悲願であるGⅠ制覇を夢に掲げる私に与えられた、贅沢過ぎる選択肢。

 

……だと言うのに。

 

「……ごめんなさい。私はまだ、次に出走するレースを決めることすら出来ていないんです」

 

 私は傲慢にも、栄光の選択を先延ばしにし続けていた。

 

 なぜなら。

 

「トレーナーさんが不在だから、ですか?」

「……はい」

 

 弱くてちっぽけだった私に、”走る”という選択肢を与えてくれた彼が……隣にいないから。

 

 私の足は、私の未来を切り拓く足であると同時に、彼の未来を背負った足でもある。

 

 だから、教え子である私の一存で、彼の未来を決めることなんて出来なくて。

 

「ごめんなさい。本当は甘えだって、自覚しているんですけど……」

 

 それっぽい理由を並べているけれど、私はきっと自分で選択することが怖いんだと思う。

 

 兄さまが強かなウマ娘だと評してくれた私だが、その根底の性格はどうしようもないほど臆病なのだ。

 

 メイクデビュー直前に地下バ道でただ一人、恐怖に怯えて前へ進むことを躊躇した臆病なウマ娘。

 

 それが、サトノダイヤモンドという女の子。

 

「サトノさんの気持ちは理解できます。あなたが抱いた不安を解消するのは本来、ウマ娘の指導者であるトレーナーの務め」

 

 今だって、未来の選択を兄さまに委ねようとしている。

 

「しかし私は思うのです。この選択は誰でもない、サトノさん自身が下すべきなのだと」

 

 マックイーンさんは不安に怯える私を諭すように、厳しい言葉を放った。

 

「確かにトレーナーさんの意見を参考にすることは重要です。客観的な視点に立ち、的確な助言をして下さることでしょう。ですが、現在のサトノさんが置かれている状況は、その甘えを許してはくれません」

「……おっしゃる通りです」

「仮にトレーナーさんがサトノさんの隣にいたとしても、おそらく私は同じことを問うでしょう」

 

 良いのだろうか。

 

 本当に私の一存で決めても、良いのだろうか。

 

「これは私の主観ですが」

 

 叱咤を受けてもなお優柔不断な仕草を見せる私に、マックイーンさんは呆れてしまったのかもしれない。

 

 マックイーンさんが一度、話題を転換した。

 

「トレーナーさんはサトノさんに対して、相当な信頼を置いているとお見受けします」

「ど、どうして、そう断言できるのでしょうか?」

「この状況が雄弁に物語っていますわ」

 

 マックイーンさんは確信があるような笑みを浮かべながら、「分かりませんか?」と私に問う。

 

「トレーナーさんの境遇を知る身として、サトノさんなら理解出来るはずです。徹底的な管理主義を掲げていた彼が、どうしてこのような状況を許可したのか」

 

 現在の私たちは、兄さまの目の届かないところでトレーニングを行なっている。

 

 自主トレーニングの一切を禁止していた彼の教育方針からすると、本来ではありえない光景なのだ。

 

 それならどうして、こんな状況が生まれているのか。

 

「答えは一つしかありません。彼が、サトノさんを信頼しているからです」

 

 マックイーンさんは語る。

 

──彼は聡明なサトノさんを信じているのです。自身の身体を無碍にするような真似はもう絶対にしない、と。

 

「信頼……」

 

 マックイーンさんから貰った言葉を繰り返して、自分の中でゆっくりと消化する。

 

「信頼…………そっか」

 

 私は、彼の判断に対する解釈を履き違えていたのかもしれない。

 

 兄さまは私に、過去の失敗を挽回するチャンスを与えてくれたのだと思っていた。無意識に、彼に試されているのだと意気込んでいた。

 

 けれど、兄さまが私達に判断を委ねた本当の理由は、

 

「トレーナーさんはサトノさんのことを信頼しているのですから。彼はきっとあなたの選択を誰よりも尊重し、応援し、一番近くで支えて下さるはずですわ」

 

 

 

 

 

 私のことを、信じてくれているから……?

 

 

 

 

 

「改めて問います。サトノさんは、どのような目標を掲げますか?」

 

 私の夢は、生家の悲願であるGⅠレースに勝利すること。そのために、私はトレセン学園の門を叩いた。

 

 しかし、私が学園生活を送る中で、いつの間にか新しい夢が増えていた。

 

──私、ミライさんのようなウマ娘になりたいんです。

 

 かつては誰にも打ち明けることの出来なかった、密かな”星”への憧れ。

 

 けれど、いつしか私の中でその憧れが膨れ上がって、大きな夢へと変化していた。

 

 憧れが夢へと変化したその理由を、私は今一度自分の心に問うてみる。

 

 すると、答えはすぐに返ってきた。

 

「私は……兄さまに相応しいウマ娘になりたい」

 

 強かな覚悟で私を支えてくれた兄さまに、心の底から恩返しがしたい。

 

 彼に相応しいウマ娘とは、一体何だろう。

 

 GⅠウマ娘だろうか、三冠ウマ娘だろうか、日本一のウマ娘だろうか。

 

 多分これらの称号だけでは、胸を張って兄さまの教え子を名乗ることは出来ないだろう。

 

 

 

──何故なら彼は、世界一のウマ娘を育てたトレーナーなのだから。

 

 

 

「ありがとうございます。マックイーンさんのおかげで、自分の夢を見つめ直すことが出来たような気がします」

 

 自分の本心と向き合って、理想の姿を再び頭に思い描く。

 

 生家の悲願を叶えたい。

 

 ミライさんのようなウマ娘になりたい。

 

 胸を張って、彼の教え子を名乗りたい。

 

 私に与えられた贅沢な選択肢の中で全てを満たす道は、もはや一つしかないだろう。

 

 

 

「私は──クラシック三冠に挑戦します」

 

 

 

 夢の実現に向けて、まずは日本一のウマ娘を目指す。故に私は、王道の三冠路線へ舵を切る。

 

 口にするのは簡単だが、日本一の王座はひとつだけ。私の選択が茨の道であることは承知の上だ。

 

 でも、おそらくこれが、今の私にとってベストな選択。日本一すら通過点だと豪語する程の意気込みでなければ、きっと私の夢は叶わない。

 

「素晴らしい選択ですわ。夢を実現する気概も申し分無し。そして、そんなサトノさんを支えるのが、トレーナーさんの代わりである私の務め」

 

 マックイーンさんは私が三冠路線を選択することを既に予測していたのか、今後のスケジュールが綴られた資料を私に差し出してくれた。

 

「クラシック戦線の開幕戦となる皐月賞を第一目標に、出走レースのローテーションをいくつか考案してみましたわ」

 

 マックイーンさんが作成した資料には、皐月賞への出走を意識したレースのローテーションが複数記載されていた。

 

 条件クラスの突破を起点とし、マックイーンさんが提案したのは以下の三つ。

 

 出走に必要となる最低限の賞金を稼いで、トレーニングに集中するローテーションA。

 

 ステップレースやトライアルレースを利用し、場数を踏んで本番に物怖じしない経験を身につけるローテーションB。

 

 GⅠレースに勝利したいという当初の夢を加味し、ジュニア級のGⅠ重賞を取り入れたローテーションC。

 

「どのようなローテーションを選択するかは、これから共に考えていきましょう。トレーニングに関しても、しっかりと検討を重ねなければなりませんわね」

「ありがとうございます、マックイーンさん」

「当然のことをしたまでですわ。しかし、油断は禁物です。次走となる条件クラスに勝利しなければ、全ての計画が頓挫してしまいますので」

 

 マックイーンさんの努力を無駄にしないために、兄さまの信頼に応えるために、私自身の夢を叶えるために。

 

「はい。私、頑張ります」

 

 

 

 一生懸命、走り抜いて見せる。

 

 

 

***

 

 

 

 夏休みが明けた二学期は、ウマ娘にとって重要なシーズンだ。

 

 クラシック級の激闘を締め括る菊花賞、秋華賞。

 

 世界の傑物が集結するジャパンカップ。

 

 ジュニア級の新星が鎬を削る阪神JF、朝日杯FS、ホープフルステークス。

 

 そして、年末総決算と称される秋のグランプリレース有記念

 

 それ以外にも天皇賞(秋)やエリザベス女王杯、東京大賞典といった注目度の高いGⅠレースが二学期に集中しているのである。

 

 夏合宿を経て、心身ともに目覚ましい成長を遂げたウマ娘達の夢が激しくぶつかりあう至高の祭典。

 

 夏休みの最終週で、私は”皇帝”シンボリルドルフが歩んだ三冠路線へ舵を切る決断を下した。

 

 そして目標が明確になると、一つ一つの行動に目的意識が生まれる。掲げた夢を叶えるために、一秒たりとも無駄には出来ない。

 

 前途洋々とした未来を想像し、期待に胸を膨らませながら迎えた二学期の始業式当日。

 

 普段よりも少し早く栗東寮を出て、私は教室を目指す。

 

 約二ヶ月間の夏休みを挟んだこともあってか、以前のように生徒達から鬼の質問責めをくらうことは無くなった。

 

 時々視線を感じることはあっても、今後、四方八方を取り囲まれるような事態には至らないだろう。

 

 ようやく普段の学園生活が戻ってきたことを実感しながら、私は教室の中へと入る。

 

「おはよう、キタちゃん」

「──ッ!?」

 

 二ヶ月ぶりに再会した親友のキタちゃんに声をかけると、彼女は脊髄反射のような勢いで手にしていた雑誌を閉じた。

 

「お、おはようダイヤちゃんっ」

 

 キタちゃんは、あはは……と苦笑しながら、私に挨拶を返してくれる。

 

 キタちゃんが何を読んでいたのか気になった私だが、雑誌の表紙を目にしてすぐに分かった。

 

「それ、月刊トゥインクルだよね?」

 

 キタちゃんが手にしていたのは、大手出版社が発行する月刊誌であった。それも最新刊ではなく、私の特集が掲載された一ヶ月前の()()である。

 

「う、うん……親友のダイヤちゃんが特集された記事だから、絶対に手に入れなきゃと思って」

「そっか。ありがとう、キタちゃん!」

 

 キタちゃんが手に持つ雑誌には開き癖がついており、かなり読み込まれたような跡が見てとれた。

 

「ダイヤちゃん、あっという間に有名人になっちゃったね」

「あ、あはは……」

 

 彼女の言葉通り、私は世間からかなり注目されるウマ娘となってしまった。その実、私は夏休みの期間中学園の敷地外に出ていないため、あまり実感が湧いていなかったりもする。

 

「……ねぇ、ダイヤちゃん」

「うん?」

 

 キタちゃんが雑誌の表紙を見つめながら、私に声をかける。

 

「ダイヤちゃんのトレーナーさんって、すごい人だったんだね」

「……うん」

「ごめんねダイヤちゃん。あたし、何も知らなくて……二人に迷惑かけちゃった」

 

 静かに席に着くキタちゃんが、申し訳なさそうに俯いた。

 

「迷惑だなんて、全然思ってないよ。それに兄さまも、キタちゃんに謝りたいってずっと言ってたから」

 

 過去の一件でキタちゃんが何か負い目を感じているのなら、それは違うと伝えたい。

 

 騒動の原因は、彼の担当ウマ娘であった私の不注意にある。本来であれば、キタちゃんを巻き込んでしまった私が頭を下げるべきなのだ。

 

「…………そっか」

 

 雑誌を持つキタちゃんの手に、僅かに力がこもった。

 

 そして、しばらく手元に落とされていたキタちゃんの視線が、今度は私に向けられる。

 

「ねぇ、ダイヤちゃん。良かったら、トレーナーさんのことについて聞かせてくれないかな」

「兄さまのこと?」

「どんな些細なことでも良いんだ。少しだけ、どんな人なのかなって気になっちゃって……あはは」

 

 頬をかきながら再び視線を逸らすキタちゃん。少し艶を無くした濃い鹿毛の髪を指で梳かしながら、私に問うてきた。

 

 そうだよね。兄さまはミライさんを育てたトレーナーなんだから、気にならないわけないよね。

 

「好きな食べ物とか、休日にしていること、とか……本当に、何でも良いんだけど…………」

「え? んーっと、そうだなぁ」

 

 キタちゃんの質問は少し予想の斜めを行くもので、私はしばらく考える。

 

「うーん、好きな食べ物じゃなくて飲み物になっちゃうけど……コーヒーとか、かな。兄さま、お仕事中によく飲んでたから。あ、コーヒーといえば……少し前のことなんだけど、兄さまが高級なコーヒーメーカーを買ったんだーって自慢してきたことがあってね。私、反応に困っちゃって──」

 

 兄さまは苦党だーって常々言い張ってるけど、コーヒーは砂糖をたくさん入れないと飲めないの。それを知った時は、おかしくて笑っちゃったなぁ。

 

 そして、休日にしていることについてだが……実のところ、私もプライベートの兄さまをよく知らない。

 

 それでも何かキタちゃんに話をするなら、そうだな……。

 

「トレーニングがオフの日に、一度だけ兄さまとゲームセンターに行ったことがあるんだけど。兄さま、お出かけにスーツで来たの。私、兄さまの姿を見た瞬間目が点になっちゃって──」

 

 普通お出かけって私服で来るよね? それなのにスーツって……兄さまったら、まるで仕事の延長線って感じなの。気合いを入れておしゃれしてきたんだけど、盛大に空回っちゃったよ。

 

 兄さまの話題となると途端に饒舌になる自分に気がついてしまい、言っていて私は少し恥ずかしくなった。

 

 それと同時に、私はキタちゃんの質問にしっかりと答えられているのかと疑問に思ってしまった。

 

 兄さまはトレーナーなんだから、本当はトレーニングに関することを聞きたいはずだよね。

 

 もしかしたら、少し切り出しにくくて当たり障りのない話題から入ったのかもしれない。

 

「ごっ、ごめんねキタちゃん。こんな話、聞いてて何も面白くないよね……」

 

 ついつい口が回ってしまって、私はキタちゃんを置いてけぼりにしてしまった。

 

「そんなことないよ……面白い人なんだね、ダイヤちゃんのトレーナーさんって」

 

 こうして並べてみると確かに、兄さまは少し変わった人なのかもしれない。でも、そんなところを含めて、彼はとっても素敵な人だと思う。

 

「ありがとう、ダイヤちゃん。あたしのわがままを聞いてくれて」

 

 キタちゃんが私にお礼を言った。こんなことで良ければ、いくらでも聞いてほしいな。

 

「……そっか」

 

 そう伝えると、キタちゃんは嬉しそうに頬を緩めた。

 

「あ、もうすぐホームルームが始まっちゃう。良かったらまた今度……色々と聞かせてほしいな」

「うん! 何でも聞いて良いからね、キタちゃん」

 

 キタちゃんと雑談に興じていると、あっという間に時間が過ぎてしまった。

 

 私はすぐに自分の席へ戻って、始業の鐘が鳴るのを待つ。

 

 ジュニア級の二学期はまさしく、ウマ娘にとって人生の分岐点。

 

 夢への二歩目を踏み出す瞬間は、もはや間近に迫っている。



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26:夢への二歩目

『──続きまして本日の第七レース、条件クラスに出走するウマ娘達の入場です』

 

 クラシック三冠に挑戦するという目標を定めてからさらに約一ヶ月。私は今、マックイーンさんが提案してくれた全ローテーションの起点となる条件クラスのレースに臨もうとしていた。

 

 次走の舞台となったのは東京レース場。コース詳細は芝二千メートル/左。ここ数日快晴の天候が続いたこともあり、コンディションは良バ場だ。

 

 装蹄に不備がないことを確認し、私は不気味なほどに静寂な地下バ道をおもむろに歩く。

 

 カツン、カツンという金属音が、地下バ道に波紋を広げるように響き渡る。

 

 本バ場へ近づくにつれて、会場のガヤガヤとした喧騒が私の鼓膜を揺らしだす。

 

 緊張で暴れ出す心臓を落ち着かせるために、私は一度深呼吸を挟んだ。

 

 深く息を吸って、ゆっくりとはき出す。

 

「ふぅ………………。んん……よしっ」

 

 頬を叩いて気持ちを引き締め、強かな決意を胸に灯して私は呟く。

 

「──行ってきます、兄さま」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

『重賞レースの開催を予定していないにも関わらず、本日の東京レース場は大勢の観客で溢れかえっています。その数、驚異の六万人越え!』

『以前、驚異的な凱旋劇を披露したチーム・アルデバラン。”期待の原石”サトノダイヤモンドの次走に注目が集まる中、本日ついにその瞬間がやってきました』

 

 ホームストレッチを埋め尽くす大衆の熱気を肌で感じながら、私は姉のドーベルと共にサトノさんのレースを応援しに来ていた。

 

 私の左隣にはチーム・アルデバランの代理監督を務めるたづなさんの姿もある。

 

「……あぁ。懐かしいですね、この空気」

 

 緑の事務服を着こなすたづなさんが瞳を閉じ、何かに想いを馳せるように呟いた。

 

「……うぅ」

「ドーベル。あなた、大丈夫ですの?」

 

 私はたづなさんとは対照的に、右隣で不審な態度を見せるドーベルに声をかける。

 

「ホームストレッチから無理に応援する必要はありませんわよ」

「……大丈夫。チームメイトの晴れ舞台なんだから、ちゃんと応援しないと」

「そうですか」

 

 ドーベルは過去の経験から、人が大勢いる場所に対して強い苦手意識を抱いてしまっている。いや、場所というよりは自分以外の人そのものを苦手としていると言うべきか。特に、男性に対してその反応は顕著だ。

 

 ゆえにドーベルがレースを観戦する際は、人の密度が薄い会場観客席を用いることがほとんどである。そんな彼女がホームストレッチに立っているということは、心の底からサトノさんのことを応援しているのだろう。

 

 そういえば過去に一度、ドーベルは自分の意思でホームストレッチからレースを観戦していたことがあった気がする。

 

 あれは確か、三年前の……。

 

『──第七レース、条件クラスに出走するウマ娘達の入場です』

 

 私が過去の記憶を検索していると、会場の熱気が更に高まった。

 

 ターフに繋がる地下バ道から、条件クラスに出走するウマ娘達が続々と登場する。

 

「サトノさーん、頑張って下さいまし!」

 

 体操服にゼッケンを装着した状態で姿を見せたサトノさんに、私は声援をおくる。両手をメガホン変わりにして、声を張り上げた。

 

 六万人を超える大観衆の目当ては言わずもがな、チーム・アルデバランに所属する“期待の原石”サトノダイヤモンド。

 

 驚異的な末脚を披露したメイクデビュー以降、サトノさんは数多くのファンを獲得した。世間の反応を調べたところによると、非常に端麗な容姿とその豪快な走りっぷりのギャップに魅了されている者が多いようだ。

 

 サトノさんがクラシック級の三冠路線を目指すにあたって、私は彼女にいくつかの選択肢を提案した。そして今日のレースは、その全ての起点となる重要なものである。

 

 メイクデビューを突破し、彼女の次なる条件クラスの舞台として私が選択したのは東京レース場。

 

 サトノさんの距離適性や脚質適性、得意とする武器を最大限に活かせると判断し、以下のような舞台をセッティングした。

 

 東京レース場第七レース:条件クラス──芝二千メートル/左。

 

 押さえておくべき特徴は、大きく分けて二つ。

 

 一つ目は、スタート直後に控える直角に近い第二コーナー。

 

 スタート地点が第一コーナーの外側奥とイレギュラーな場所からレースが開幕し、直角に近い第二コーナーを曲がって向正面に突入する。第二コーナーに差し掛かるまでの距離は約百二十メートルと非常に短く、その影響から序盤の位置取り争いが非常に熾烈なものとなることが多い。

 

 さらに忘れてはならないのが、コーナーが()()()()()ということ。コーナーで速度を出しすぎるとかえって進路が膨れ上がってしまい、大幅なロスにつながってしまう。

 

 しかしサトノさんの場合は、差しの脚質を軸にしたレース展開を得意としている。リスクを負ってまで序盤で先行する必要がないため、私は彼女が有利に立ち回れると判断した。

 

 二つ目は、五百メートルを超える長い最終直線。

 

 第四コーナーを抜けた先に待つ最終直線には、高低差約二メートルの坂路が形成されている。数字だけを見れば阪神レース場のような急勾配な坂であるが、実際には非常になだらかな直線が続いているといった印象だ。

 

 坂を登り切ったとしてもそこから三百メートル近い直線が続くため、私はサトノさんの武器である末脚を最も活かしやすいコースであると結論づけた。

 

 サトノさんほどの能力があれば、条件クラスを突破することは容易いだろう。だがしかし、レースというものに絶対は存在せず、油断すれば足を掬われるのは明白だ。

 

「サトノ、勝てるかな」

「何も問題ありません……と、言いたいところなのですが」

 

 私がドーベルの言葉に対して歯切れの悪い返答をしてしまうのは、サトノさんのポテンシャルを心配して……というわけではない。

 

「サトノさんが引いた枠は、六枠十二番とメイクデビュー同様()()。こればかりは運が絡んでしまうため仕方ありませんわ。戦術の面でカバーするよう助言しましたが、レースに絶対なんて存在しません」

 

 サトノさんにうってつけの舞台を用意することが出来たと自負しているが、同時に拭いきれない懸念もあった。

 

「どんな状況に遭遇しても冷静でいることが重要ですわ、サトノさん……」

 

 私は祈るような眼差しで、ゲートインが間近に迫るサトノさんを見守る。

 

 東京レース場の芝二千メートルというコースには、レースに集中するあまりついつい見落としてしまいがちな──とんでもない罠が潜んでいた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

──良いですか、サトノさん。スタート直後の位置取り争いに巻き込まれることだけは絶対に避けてくださいまし。

 

 ゲートインを直前に控える中、私は先程控室でマックイーンさんから貰った助言を思い出していた。

 

──分かりました。ですが、一体どうして……?

 

 マックイーンさんがここまで強く釘を刺すということは、相当な理由があるに違いない。

 

──”斜行”という反則行為に抵触し、降着となる可能性があるからですわ。

 

 斜行とは文字通りコースを斜めに走行する行為を指し、他のウマ娘の進路を妨害したと判断された際に用いられる反則行為の名称である。

 

 確かに、東京レース場の地形的特徴からすると、大外枠から序盤の位置取り争いに参加するためにはコースを激しく横断する必要がある。

 

 差しという脚質で戦う以上、私は序盤からバ群の先行位置につける利点は薄い。末脚を活かす長い最終直線が存在する以上、審議を招くような行為は控えるべきだろう。

 

──分かりました。

 

 マックイーンさんと練り上げた作戦と注意点を今一度確認し、大外枠の私がついにゲートに収まる。

 

『条件クラスに出走するウマ娘のゲートインが完了──スタートしました!』

 

 残念ながら、大外枠のゲートインからスタートまでの間に息をつく暇は無い。

 

 マックイーンさんの言葉を念頭に置いて、私は夢の実現へと繋がる二歩目を踏み出した。

 

 

 

***

 

 

 

『各ウマ娘が一斉にゲートを飛び出します。いや、十二番のサトノダイヤモンドが少し出遅れたか』

 

 無機質なゲートがガタコンッ! という音を上げて開かれる瞬間が、ターフビジョンに映し出される。

 

 サトノさんが他のウマ娘達よりも数コンマ遅れてゲートを出たことが原因なのか、会場が明らかにざわついた。

 

『サトノダイヤモンドはレース終盤の末脚を活かした展開を得意としています。序盤の熾烈な位置取り争いを嫌ってのことでしょう』

 

 サトノさんの魂胆を瞬時に察した解説陣が、すかさず彼女のスタートをフォローする。

 

「……良いですわね。サトノさん、スタートがかなり上達しています」

 

 夏休みの二ヶ月間で習得に励んでいたスタート技術だが、既に本番で通用する水準に達しつつあると私は感心した。

 

 重心移動を利用し、利き足とは逆の足で地面を押し出すようにスタートを切るハーフバウンド。

 

 一般的には先行争いで優位に立つために編み出された技術であるが、軽快なスタートを切れることからエネルギー効率も良く、身体への負担が少ないという利点もある。後方からのレースを得意とするウマ娘といえども、習得する価値は十分にある技術だ。

 

 さて、サトノさんに控室で念押しした助言については……。

 

『サトノダイヤモンドは後方から四番手の位置につけて最初のコーナーへ突入していきます』

 

 懸念であった序盤の位置取り争いに関しては危なげなく避けることに成功し、サトノさんの得意とする展開に落ち着くことが出来た。

 

「ふぅ……何とか第一関門突破ですわ」

 

 私は胸を撫で下ろし、安堵のため息をこぼす。

 

「ねぇ、マックイーン」

「何でしょうか?」

「サトノ、大丈夫かな」

 

 ターフビジョンを見つめるドーベルが、相変わらず不安げな声音で呟いた。

 

 序盤に潜んでいた罠を掻い潜ることができたサトノさんに、もはや敵はいない。

 

 私は即座に問題ないと返答すべく、視線をドーベル同様ターフビジョンの方へ移す。

 

 

 

 

 

「……………………なるほど」

 

 

 

 

 

 その光景を見た私は、ドーベルの表情が晴れない理由を瞬時に察知した。

 

 直角に近い第二コーナーを抜け、レースは既に向正面へと突入している。サトノさんは元来の目論見通り、後方の位置に着けて自分の走りを徹底していたが。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ということですわね」

 

 終盤の長い直線に備え、スタミナ温存を意識するあまり内ラチにぴたりとつけて走行した結果……。

 

 

 

 

 

 サトノさんは前方を進むウマ娘や、併走するウマ娘達に進路を完全に塞がれてしまっていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 相手の驚異的な末脚に対する策というのは、意外にも単純だ。末脚が活かせないよう前を塞いでしまえばいい。

 

 あまりに露骨な場合は進路妨害として降着や失格といった処罰を下されるが、基本的には当人の進路選択ミスとして処理されることが多い。

 

 私の武器はレース終盤の末脚だ。どれだけ先頭との距離が離れていても、今の私には差し切れるという自信がある。

 

 しかし、レースとは併走する相手がいて初めて成立するもの。誰もが一着を目指すため、危険因子に対して何かしらの策を講じてくるのは必然のこと。

 

 その対策の内容が、ウマ娘達に四方八方を取り囲まれた現在の状況である。

 

(……まずい)

 

 これはまずい、非常にまずい。

 

 序盤中盤とスタミナを温存したとしても、終盤でありったけを放出できなければ意味がない。

 

 慌てて周囲に視線を配るも、意図的に幅を寄せられているため抜け出せそうな隙間はどこにも無い。

 

(一旦落ち着こう。ここで掛かったら、相手の思う壺)

 

 私が位置取り争いを避けるような作戦を立ててきたと同時に、他のウマ娘達は私の末脚を封じるような作戦を立ててきた、というわけだ。

 

 彼女達は私が勝手に掛かって、勝手にスタミナを消耗することを望んでる。

 

(……大丈夫。勝負はまだまだここからなんだから)

 

 そんな明け透けな魂胆に引っかかってやるもんか。

 

 手のひらの上で踊らされてたまるもんか。

 

 気を強く持て。窮地に立っても呑まれるな。不安なんて、自分の足で置き去りにしてしまえ。

 

 仕掛けるのは今じゃない。だから、焦る必要はどこにもない。

 

 大丈夫、大丈夫だとひたすら心の中で唱えて私は前を向く。

 

 過去の選抜レースで苦渋を味わった頃とは違うんだと、私自身に言い聞かせながら。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 サトノさんがバ群に飲み込まれてからというもの、展開はこう着した状態に陥りつつあった。

 

『まもなく千メートルを通過、その時計は六十一秒三。ややスローペースといった展開でしょうか』

 

 サトノさんを除く十一名のウマ娘が、最も警戒すべき相手を徹底的にマークしている。

 

 バ群を先導するウマ娘が意図的に速度を落とすことで後方集団を固まらせ、彼女達はそれに便乗する形でサトノさんへの対策を修正し、四方八方を包囲していた。

 

 この状況を打破するのは、仮にシニア級のウマ娘であったとしても容易ではない。

 

「どうしよう。このままじゃサトノ、負けちゃうんじゃ……」

「……」

 

 私は不安に苛まれるドーベルに言葉を返すことが出来なかった。

 

 周囲の観客もドーベル同様、サトノさんを心配するような声や展開に疑問を抱く声で溢れかえっている。

 

 競走相手を警戒し、対策を講じるのは当然のことだ。

 

 その場合、対策されることを前提として戦略を考案する必要があるのは自明の理であり、私はそれを怠った。

 

……正直に認めよう。私はサトノさんの才能に対して、驕りのような感情を抱いていたのだと。

 

 メイクデビューで見せたような彼女の末脚ならば、仮にどんな危機的な状況に陥ったとしても、盤上を容易くひっくり返してしまうだろうと。

 

(……くっ、不甲斐ないっ!)

 

 ここ二ヶ月、私はチームに不在であったトレーナーさんの変わりを完璧に務めることが出来ていたはずだ。残念ながら、そう勘違いしていた。

 

 だが実際はどうだ?

 

 圧倒的一番人気に推され、誰もがサトノダイヤモンドの圧勝だと疑わなかった彼女が、こうして苦戦を強いられている。

 

 それはどうして。言わずもがな、私のせいだ。

 

 現状を打破するには、バ群に生じる可能性のある、一瞬の隙間を見つけて飛び込んでいくしかない。

 

 しかし一着という栄光を渇望し、警戒心を決して緩めないウマ娘達がそんな付け入る隙を許すだろうか。私ならそんなこと、絶対に許さない。

 

『先頭を進むウマ娘が向正面を抜けて、間もなく第三コーナーへ突入します──』

 

……万事休すか。

 

 私はあまりの情けなさで視線を下げてしまう。

 

 自信満々にサトノさんを送り出しておいて今更合わせる顔がないと、私は彼女の晴れ舞台を直視できなくなってしまった。

 

「──マックイーンさん」

 

 歯を食いしばって苦渋を味わう私に、左隣から落ち着いた声音で言葉をかけられる。

 

 力無くそちらの方を向くと、代理監督のたづなさんが柔和な笑みを浮かべて私を見つめていた。

 

「トレーナーという職業に必要な素養が何か、ご存じですか?」

 

 素養? 突然、どうしたのだろう。

 

「えっと……状況に応じて適切な助言を送るよう常々心がけること、でしょうか」

「はい、それも大事なことの一つです」

 

 たづなさんは私の言葉を肯定して、視線をターフの方へと戻す。

 

「どれだけ完璧な指導をしたとしても、万全な準備を整えたとしても……レースを走るのはトレーナーではありません」

 

 サトノさんが窮地に追い込まれているにも関わらず、たづなさんは顔色一つ、声色一つ変えずにレースを観戦している。

 

「一度背中を叩いて送り出してしまったら、私達は何もしてあげることが出来ない。その感覚が、とてももどかしい」

 

 まるで、私の心が筒抜けになっているかのようだった。

 

 あぁ、図星だ。

 

 たづなさんの言う通りだ。

 

 私は今、自分が何も出来ない現状にやるせないもどかしさを感じている。

 

「私も今、マックイーンさんと同じ感覚を抱いています」

「……ならどうして、それ程までに冷静なのですか?」

 

 私はたづなさんの抱える矛盾が気になって仕方がない。私とたづなさんの違いが理解できない。

 

 何が違う? 何が私とたづなさんを明確に隔てている?

 

「サトノさんを信じているからです」

 

 あまりにも単純明快なたづなさんの返答。ゆえに私は、衝撃を受けた。

 

「教え子を晴れ舞台へ送り出したトレーナーに出来ることは、一つしかありません」

 

 それがたづなさんの言う──信じる、ということなのだろうか。

 

「口で言うのは簡単ですが、実際その立場に立つと非常に難しい。マックイーンさんは今、身をもって経験していることかと感じます」

「……はい」

「トレーナーという職業に最も必要な素養は、いついかなる状況においても担当ウマ娘を信じることです。担当トレーナーとの信頼関係は、担当ウマ娘にとって大きな力となります。そして、その逆も然り……残念ながら、理屈で説明することは難しいんですけどね」

 

 たづなさんの言葉が心に染みる。私は改めて自身の未熟さを痛感し、トレーナーという職業の偉大さを再三思い知った。

 

「マックイーンさん。胸を張って送り出したサトノさんを、今は信じて待ちましょう」

 

 ホームストレッチに立つ私が不安な顔をしていては、逆にサトノさんを心配させてしまうだろう。全力でターフを駆ける彼女の足手まといになってしまうことなど、絶対にあってはならない。

 

 強かな覚悟でレースへ臨むサトノさんを信じ、隣で微笑むたづなさんに背中を押してもらいながら、私は伏せてしまった顔をゆっくりと上げる。

 

 

 

 

 

 

 

「──ほら、見てください。レースに絶対なんて、どこにも存在しませんよ?」

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 鋼の意志で掛かりを防ぐも、私は依然としてバ群に飲み込まれる苦しい状況を強いられていた。

 

 前方を走るウマ娘が進路を塞ぎ、併走するウマ娘と(ラチ)に左右から厳しく挟み込まれている。

 

『完全に囲まれてしまったサトノダイヤモンド。これは果たして抜け出せるのか──』

 

 間もなく向正面の直線も終盤に差し掛かり、バ群は第三コーナーへと突っ込んでいく。

 

 私は先頭から九番目の位置で走行しつつ、努めて冷静な視点で現状を整理する。

 

 集団から二バ身差をつけて逃げるウマ娘が三人、壁となるウマ娘が前方に三人、横で併走するウマ娘が二人。そして、最後方で足を温存しているウマ娘が三人。

 

 ああ……まるで、肉の檻に閉じ込められているかのようだ。

 

 私は意識を研ぎ澄ませ、虎視眈々と肉壁に隙間が生じる瞬間を窺う。

 

 東京レース場の第三コーナーは緩やかな下り坂で、カーブが鋭角気味になっている特徴がある。続く第四コーナーも同様に、こちらも体感鋭角だ。

 

 つまり遠心力による加速が得やすく、自身の最高速度に持っていきやすい。

 

(大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ……っ!)

 

 私の見立てでは、この辺りから誰かが仕掛けるはず。誰かがスパートを仕掛けた瞬間、壁となるウマ娘達の速度にズレが発生して隙間が生じるに違いない。

 

 その瞬間を狙って、私が壁の隙間に身体をねじ込む。現状を打破する手段はおそらく、これしかない。

 

 繊細な判断力と、作戦を実行する胆力。そして、ひたすら待つという尋常でない精神力。

 

『前が開かないっ、開かないぞっ! こう着状態のまま第四コーナーを迎えようとしています──』

 

 どれかが欠ければ敗北は必至。加えて考える要素は他にも山ほど残っている。

 

 私の集中力が極限の域に達しようとしていた瞬間──。

 

 

 

 

 

 唐突に、その時は来る。

 

 

 

 

 

「……えっ?」

 

 私の進路を塞ぐように前方を走っていた二人の進路が、第四コーナー突入直後、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

 意図していない突然の展開に一瞬動揺するも、私は虎視眈々と狙っていた好機を決して逃さない。すかさず自身に鞭を打って、身体ごとバ群の隙間に突撃する。

 

『少し厳しいか、苦しいかっ!? サトノダイヤモ──ッ、いや、前が開くッ! ついに進路をこじ開けたッ!!』

 

 徹底的だったマークを強引に躱し、私はついに四番手へ浮上した。

 

 私はそのまま進路を外へ持ち出し、吹き飛ばされそうな遠心力を利用して温存し続けた末脚に拍車をかける。

 

『来たっ、来たっ、サトノダイヤモンドが最終直線で抜け出したッ!!!』

 

 地鳴りのような歓声を全身に浴びながら、私は全身全霊を解放し、ありったけのスパートを仕掛けた。

 

「──はぁああああああああッ!!!!!」

 

 瞬く間にハナを奪い取り、私は末脚を爆発させて後続を突き放す。

 

『二バ身っ、三バ身っ、四バ身……っ! サトノダイヤモンドの快進撃が止まらないっ、誰も止められないっ!』

 

 風を切り裂く私の視界に、もはや私を拒むものは何もない。

 

 両手を大きく振るたびに、足を一歩踏み出すたびに、私だけの景色が鮮やかに加速していく。

 

 

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

『──サトノダイヤモンドが圧倒的な実力を披露して、見事一着を掴み取りましたッ!!!!』

 

 

 

 

 

 迫る後続に大差をつけて、私は先頭でゴールを走り抜けた。

 

 

 

 

 

 終わってみれば独壇場の晴れ舞台に、会場は歓喜し熱狂で震え上がる。

 

 

 

 

 

 この瞬間、私は夢への二歩目を無事に踏み出すことが出来たのだと実感した。

 

 

 

 

 



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27:健気なサプライズ

「──ほっ、本当ですかっ!?」

 

 その朗報が届いたのは、私が条件クラスを突破した日から一週間後のことであった。

 

『左様。詳細な日程については、後日改めて連絡する』

「はいっ、お願いしますっ!」

 

 スマホ越しに秋川理事長の言葉を聞くや否や、私は椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。

 

「……サトノ? どうかしたの?」

 

 タイミング的には、チーム・アルデバランの面々が揃ったミーティングの終了直後。

 

 そのため、その場にいたドーベルさんから怪訝な視線を向けられてしまった。

 

「聞いて下さいドーベルさんっ!」

 

 私は胸になだれ込んでくる感情を共有したくて、嬉々とした声音で言い放つ。

 

 

 

「──兄さまが帰ってくるそうですっ!!」

 

 

 

 六月末のメイクデビュー以降、兄さまは秋川理事長が紹介した病院で心に巣食う病と向き合っていた。

 

 兄さまを蝕んでいた心の病は絶望的なまでに深刻だったが、彼に芽生えた前へと進む気持ちが薄紙を剥ぐように症状を緩和させていき、ついには退院の目処が立つまでにこぎつけることが出来たのだそうだ。

 

 あまりの嬉しさで思わず涙をこぼしてしまいそうになったが、さすがに二人の視線があるため私はそれをぐっと堪え、喜びを噛み締めるだけに止めた。

 

「ふふっ。良かったですわね、サトノさん」

「はいっ! 本当に嬉しいですっ!!」

 

 私の喜びに共感してくれるかのように、マックイーンさんが微笑んだ。

 

 私の予想では再会までに最低でも一年以上、良くて数年、あるいは私がトレセン学園を卒業する程度の年月を要するだろうと覚悟していた。

 

 だがしかし、彼は半年にも満たない速度で心に絡まったしがらみを振り解いている。

 

 なんて奇跡的な回復速度だろう。彼の強靭な生命力には、心の底から驚かされる。

 

「……良かった」

 

 それほどまでに、彼は私を求めてくれているのだろうか。

 

……なんてちょっと都合のいい解釈をして頬を赤らめ、いやいやまさかと首を横に振って私は煩悩をかき消す。

 

 ああ、でも本当に良かった。気を緩めると、やっぱり目尻から涙をこぼしてしまいそうだ。

 

 

 

「……あの、少し気になったんだけどさ」

 

 

 

 水を差すようでごめん……と、ドーベルさんが遠慮がちに呟きながら私達に質問してきた。

 

「このチームのトレーナーって、どんな人なの? あ、ミライを育てたトレーナーって意味じゃなくてさ」

 

 兄さまと相識の間柄にある私とマックイーンさんに対して、ドーベルさんと彼との間に面識が無いことは事前に伺っていた。

 

 質問が遠慮がちだったのはきっと、私達とドーベルさんの間に激しい温度差があったからだろう。

 

「そもそもアタシ、なんでトレーナーが不在なのかもよく知らないし。たづなさんは諸事情って言っていたけど」

「あまり公にしたくない理由があるのでしょう。余計な詮索は無粋というものですわ」

「まぁそれは……分かってる、けど」

 

 ドーベルさんは、理解はするけど納得まではいかないといった微妙な表情を浮かべていた。

 

「サトノ」

「はい、なんでしょうか?」

「サトノから見て……トレーナーってどんな印象?」

 

 ドーベルさんはその瞳に微かな不安を宿して、私に向けて問うてくる。

 

 私にとっての、兄さまの印象か……。

 

「そうですね……ちょっと無愛想に見えて、実は指導に対して強い情熱を持っている方だと思います」

 

 八年前の兄さまとは印象が大きく変化してしまったけれど、ウマ娘を見るときの真剣な眼差しは依然として健在だった。

 

 ウマ娘との向き合い方に悩み、苦しみながらも一生懸命答えを探す彼の在り方に、私は強い尊敬の念を抱いている。

 

「……そう」

「大丈夫ですわドーベル。彼はあなたが思っているような殿方ではありません」

「べ、別に何も言ってないでしょ……っ」

「……?」

 

 私は、マックイーンさんとドーベルさんのやりとりの意味を掴み損ねて首を傾げる。

 

「さて、ミーティングも終わったことですし、そろそろトレーニングに移りましょう。このままトラックへ移動しますわ」

「はい、分かりました」

 

 本日の予定では、トラックの利用状況を考慮してミーティングの後にトレーニングを行うこととなっていた。

 

 トラックの利用時間には制限があるため、あまり無駄には出来ない。

 

 私達はトレーニングに必要な道具が揃っているかをきちんと確認して、部室を後にするのであった。

 

 

 

***

 

 

 

「──サトノさん。この後少々、お時間よろしいでしょうか?」

「はい、大丈夫ですよ」

 

 トレーニングの後、私はマックイーンさんから少しだけ部室に残ってほしいと声をかけられた。

 

 マックイーンさんは私と二人で会話がしたいとのことで、ドーベルさんが退室したことを確認してから静かに口を開く。

 

「今後のことを考慮して、サトノさんには知っておいて欲しいことがありますの」

「と、いうのは?」

「私の姉──ドーベルのことについてですわ」

 

 私と対面の席に腰掛けるマックイーンさんは、どこか神妙な面持ちで話題を切り出した。

 

「近々トレーナーさんが業務に復帰されるということもあり……私の口からではありますが、サトノさんには事前にお伝えしておこうと思いまして」

 

 そう言って、マックイーンさんは彼女の姉であるメジロドーベルのことについて語り始める。

 

 一通りマックイーンさんの話を聞いて、私はドーベルさんが抱える事情を整理する目的で言葉を繰り返した。

 

「──男性に対する極度の苦手意識、ですか?」

 

 マックイーンさんの話によると、ドーベルさんは幼少期に経験した辛い出来事が原因で他人──特に男性──に対して強い苦手意識を抱くようになってしまったのだそうだ。

 

 それ以降は必然的に人前へ出ることが困難となり、対人関係に関する負の連鎖が形成されてしまっているとのこと。

 

「はい。実はこのような苦手意識が原因でドーベルは以前、前任トレーナーとの契約を破棄する事態に至りました」

 

 マックイーンさんの言葉通り、ドーベルさんはメイクデビューを目前に担当トレーナーとの契約が解除されるといった騒動があった。

 

 ドーベルさんがレース界の名門──メジロ家のウマ娘であったこともあり、いっとき学園中にこのような噂が流れていたことを覚えている。

 

「少し気になったのですが……ドーベルさんの前任トレーナーは確か、男性の方だったと記憶しています。一体どうして、ドーベルさんは男性トレーナーが運営するチームに加入していたのでしょうか」

 

 当時は噂の背景を知らなかったがために右から左へと流していたが……マックイーンさんの説明を受けた後では、どうしても不可解だと感じてしまう。

 

「私も以前、サトノさんと同様の疑問をドーベルへとぶつけたのですが……残念ながら返答を濁されてしまいました。何か、事情があったのかもしれません」

 

 この疑問を解消するためには、おそらくドーベルさん本人に直接聞いてみるしかないだろう。 

 

「……あれ? でしたらドーベルさんはどうして、兄さまのチームに移籍を希望したのでしょうか?」

 

 ドーベルさんが男性に対して苦手意識を抱いていることは理解した。

 

 だとしたら今度は、ドーベルさんがチーム・アルデバランに所属している現状に対して矛盾が生じてくることになってしまう。

 

「申し訳ありません。その辺りの真意に関しても、本人に直接聞いてみないことには何も……」

「そ、そうですよね」

「ただ、私とドーベルに移籍の話を持ちかけて下さったのは、メジロ家の当主……私のおばあ様なのです。きっとおばあ様には何か、大きな意図があったのではないかと感じています」

 

 マックイーンさんですら分からないのであれば、これ以上の詮索はお手上げだ。

 

「ドーベルと幼少の頃から接してきた限りでは、彼女は自身のコンプレックスに対して相当悩んでいる様子でした。もしかしたらおばあ様は、彼と触れ合うことで何か、問題解決のきっかけを見出そうとしているのかもしれません」

 

 ドーベルさんが抱えている問題は私が想像している以上に切実で、深刻なのかもしれない。

 

「ですがあくまで、おばあ様が持ちかけた移籍話を承諾したのは紛れもなくドーベル本人の意志。それはきっと……自分自身と向き合う覚悟の裏返しであるのだと、私は捉えています」

 

 ドーベルさんが強かな覚悟を胸に抱いて自身のコンプレックスと向き合っているというのは、チーム・アルデバランに移籍を果たしたこの状況が雄弁に物語っている。

 

「トレーナーさんが業務に復帰された後、もしかしたらお二方に多大なご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません。そのためサトノさんには、このことを事前に理解しておいて欲しいと感じました」

 

 男性トレーナーの兄さまがチームに戻ってきた場合、ドーベルさんのコンプレックスが刺激されてしまう可能性を捨て切ることはできない。

 

 大事なのは、ドーベルさん自身が苦しむ問題に対して、周囲の私達がどのように向き合っていくべきなのか。

 

「マックイーンさん。ドーベルさんのことを教えて下さって、ありがとうございます」

 

 同じチームに所属する仲間として、面倒見の良い先輩を尊敬する後輩として。

 

 私自身がしっかりと考えて、彼女と触れ合っていく中で答えを見つけていかなければならない。

 

「私に協力出来ることがあれば、何でも仰って下さい。大切なチームメイトとして、私もドーベルさんの力になりたいです!」

「ありがとうございます、サトノさん」

 

 本当はドーベルさんに直接言葉を伝えたいけれど、彼女自身からコンプレックスを打ち明けてくれたわけではない。

 

 だからせめて、陰からドーベルさんのことを支えていけたら良いなと、心の底からそう思った。

 

「……最後にもう一つ、ドーベルのことに関して、サトノさんに一つお願いしたいことがあるのですが。よろしいでしょうか?」

「はい、何でもおっしゃって下さい」

「今後業務に復帰される、トレーナーさんのことについてなのですが……ドーベルが彼の背景を知らない件に関しては、彼女に余計な負担を与えさせないようにというおばあ様の配慮なのです」

 

 確かに、兄さまが休職に至った事情は非常に複雑で、コンプレックスを抱えるドーベルさんにとってはかなりの負担になってしまうことだろう。

 

「段階を踏み、関係が親密なものとなるにつれて少しづつお互いを打ち明け、知っていく……おそらくそれが、ドーベルのコンプレックスを解消する有効な手段になると考えてのことでしょう」

 

 他人という存在に対して苦手意識を抱くドーベルさんが、兄さまの事情に主体的な関心を持つ。

 

 ドーベルさんの成長を行動から測ろうとするならば、これ以上分かりやすいものは無い。

 

 ドーベルさんを配慮した合理的な選択に、私が疑問を挟む余地なんて無かった。

 

「ですので……サトノさんにもどうか、見守っていて欲しいのです。ドーベルがコンプレックスを克服し、成長していく姿を」

 

 共に切磋琢磨するチームメイトとして、私もドーベルさんの成長を積極的に支えたい。

 

「もちろんです、マックイーンさん」

 

 優しい先輩を慕う後輩として、ドーベルさんにはどうか晴れやかな気持ちで笑っていて欲しいと思う。

 

「ありがとうございます、サトノさん。話は以上です。トレーニング後で疲労が溜まっている中、引きとめてしまって申し訳ありません。今日はゆっくりと休んで下さいな」

「はい。マックイーンさんはこの後、まだ何か?」

「ええ。本日行ったトレーニング内容のまとめを少々。私のことは気にせず、サトノさんは明日に備えて下さいまし」

「分かりました。失礼します、マックイーンさん」

 

 このまま部室にいては、マックイーンさんの集中力を妨げてしまう可能性がある。それに明日も授業やダンスレッスン、トレーニングと目白押しな内容がスケジュールに詰まっている。

 

 私はマックイーンさんに対して去り際に一礼し、そのまま部室を後にするのであった。

 

 

 

***

 

 

 

 それからしばらく月日が経過し、秋川理事長から兄さまに関することで連絡があった。彼の退院日が明確に決定したそうだ。

 

 兄さまの退院日は──十二月二十四日。

 

 兄さまとの再会まで既に一ヶ月を切っており、十二月に差し掛かる頃には彼と連絡をとっても良いという許可が下りた。

 

 メールでのやり取りでは味気ないと感じた私は、許可が下りたその瞬間に彼へと電話をかけた。

 

 数ヶ月ぶりに聞いた端末越しの声は、八年前の温厚な彼を彷彿とさせる声音に変化しているように感じた。

 

 少し興奮しすぎたせいで兄さまに苦笑されてしまったが、そんなのは些細なことだ。

 

 それ以降の連絡はメールを用いて行うこととなり、私はさっそく、再会当日の予定を組み立てることにした。

 

 兄さまの退院日である十二月二十四日は、ちょうどクリスマス・イブと重なる。せっかくだから、彼の退院祝いとクリスマスを兼ねたパーティーを開こう。

 

 兄さまが病み上がりであることを踏まえて、規模は小さくするべきだろう。私の家族に協力してもらって、ささやかだけれど盛大にお祝いしたい。両親も以前から兄さまに会いたがっていたため、パーティーの件は快く引き受けてくれた。

 

 当日までに全ての手筈を整え、待ち合わせ場所と時間を設定する。再会までの段取りを一通り整えて、私は決定した内容を兄さまに連絡した。

 

 ここからの数週間は本当に長かった。早く時間が過ぎてくれと願うばかりで、毎日ソワソワしていたように感じる。

 

 

 

 

 

……そしてついに、世間を騒然とさせた決死のメイクデビューから半年。

 

 

 

 

 

 今日は心待ちにしていた、兄さまとの再会の日。

 

 自分で待ち合わせ場所と時間を決めておいてあれだけれど……再会を待ちきれなかった私は秋川理事長から病院の所在地を聞き出し、朝からエントランスの正面に張り付いていた。

 

 どうか、健気な教え子からのささやかなサプライズということにしておいて欲しい。

 

 師走の季節ということもあり、日中とはいえ身体に吹きつける風は非常に冷たい。真っ白な吐息でかじかむ指先を温めながら、私は彼が退院する瞬間を待ち続ける。

 

 そしてついに、エントランスの自動扉の奥から男性のシルエットが浮かび上がった。その曖昧な輪郭が瞳に映るだけで、彼に焦がれる私の鼓動がとくんと跳ね上がる。

 

 

 

 

 

「──兄さま」

 

 

 

 

 

 ああ、ようやく。ようやくだ。

 

 

 

 

 

 

 

「退院、おめでとうございます」

 

 

 

 

 

 

 

 止まっていた私達の時間が──再び動き出す。

 

 

 

 

 

 

 



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28:夢の残滓

描写の一部に独自設定があります。


 異例の注目度となった今年のトゥインクル・シリーズもついに大詰めを迎え、長いようで短かったトレセン学園の二学期が終業した。

 

 冬休みを利用してチーム・アルデバランの面々はそれぞれの実家へと帰省し、各々の年末を過ごす運びとなった。

 

 六月末から実に半年間に及ぶ闘病生活を乗り越え、三学期からはついに……あの人が業務へと復帰する。

 

 彼の退院日に直接赴いたのは、サトノさんだけであった。

 

 というのも、私とドーベルは中途半端な時期にチームへ移籍したこともあり、顔を合わせるどころか、ろくに会話をする機会すら無かったからである。

 

 どうせなら、新年という切りのいいタイミングで顔合わせを行った方が良いだろう。やや古典的ではあるが、私は手紙という手段を用いて彼に退院祝いの言葉をおくらせてもらった。

 

 彼と共に行動するサトノさんは、今頃何をしているのだろうか。行動力の高いサトノさんのことだから、一途に慕う彼のことを連れ回しているのかも知れない。

 

 きっと二人のことだから、仲睦まじく年末を過ごしているのだろう。

 

「──マックイーン、準備はもう出来た?」

 

 さて。サトノさん同様メジロの本邸が所在する北海道へと帰省した私達だが、現在はこの後に控える重要な行事に向けて身繕いを進めている最中だ。

 

 メジロ家は毎年年末を迎えると、親戚や業界関係者を大勢招待して一族主催のレセプションパーティーを開催する。

 

 羊蹄山麓の本邸を宴会場に催されるレセプションパーティーの目的は様々だが、最たるものとしては社交・交流の場を一族主催で設けることだろう。

 

 トゥインクル・シリーズを運営するURAの重鎮や、中央で活躍する優駿ウマ娘を数多輩出するトレセン学園理事の方々、レース文化の発展に貢献する企業やコンツェルンの関係者などが一堂に介し、交流の場を提供すること。

 

 来賓の方々からは多種多様な人脈が獲得できると好評で、年々パーティーの規模が拡大しつつあった。

 

 そして当然、レセプションパーティーを主催するメジロ家にとっても、重要な意味合いが存在する。

 

「ええ。ライアンも、今年は気合が入っていますわね」

「マックイーンもねっ」

 

 端的に言ってしまえば、名門メジロの名を冠するウマ娘達の()()()()()である。

 

 会場から少し離れた応接間の一室に現役で活躍するメジロのウマ娘が集合しており、現在はパーティーに向けておめかしの真っ最中だ。

 

 メジロ家の顔としてフォーマルな場に臨む以上、些細な粗相すら許されない。スタッフの方々に入念なメイクと、各々の魅力が最大限に引き立つようなドレスアップを施してもらう。

 

 先ほど述べたように、メジロ家が主催するレセプションパーティーにはお披露目会的な側面が存在する。

 

 なので、主役となるウマ娘達には気持ち鮮やかな配色のドレスを。

 

 ちなみに私の場合は、袖にレース生地が施されたアイボリーのワンピースドレスを着飾っている。極力肌の露出を避け、胸元に薄緑のリボンをあしらったお気に入りの代物だ。

 

「……あ〜。私、こういうパーティーってあんまり得意じゃないんだけどなぁ」

「パーマー、そんなにかしこまる必要はありませんよ。メジロのウマ娘として、堂々と、胸を張っていれば良いのです」

 

 レセプションパーティーを目前に控え、億劫な表情を浮かべているメジロ家の三女──メジロパーマー。

 

 そんな彼女を、メジロ家の次女──メジロアルダンが冷静沈着な物腰で言いくるめる。

 

「さて。準備も整ったことだし、そろそろ会場へ行こう…………?」

 

 メジロ家の四女──メジロライアンが姉妹を統率しようとした時、彼女は周囲を見渡して首を傾げた。

 

「あれ……誰か、ドーベルがどこに行ったか知らないかな?」

 

 ライアンはどうやら、応接間にメジロ家の五女──メジロドーベルの姿が無いことを疑問に思ったようだ。

 

「本当だ。ドーベル、どこに行っちゃったんだろ?」

「んー、私が応接間に入室した時には既に、ドレスアップを終えていましたけど……」

「私達より一足先に部屋を出てから、戻って来ませんわね」

 

 私達もライアン同様、ドーベルの行方に心当たりが無かった。

 

 もしかしたら、既に会場へ移動しているのかもしれない。

 

「──でしたら、わたくしが探して参りますわ〜」

 

 歳の近い姉妹が揃って頭を悩ませていると、背後からほのぼのとした声音の提案が飛んできた。

 

「わたくし、ドーベルお姉さまの居場所には心当たりがありますわ」

「ブライト、それは本当かい?」

「はい〜」

 

 その提案を投げかけたのは、メジロ家の末っ子──メジロブライトだった。

 

 腰丈まで伸びる明るい鹿毛の癖毛が魅力的なブライトは、メジロ姉妹の中でも比較的年齢が離れている。

 

 今年で十歳を迎えるブライトだが、おっとりとした言動とは裏腹に非常に肝が据わっていて、行動力も異常に高い。

 

「それでは早速、行って参りますわ〜。お姉さま方とは後ほど合流いたしますので……失礼しま〜す」

 

 そして、気が付いたら会話の主導権を握られているなど、姉妹とはいえ未だ計り知れない部分も多い。

 

 相変わらずおっとりとしているが足取りに淀みは無く、ブライトはそのまま扉を開けて悠々と出て行ってしまった。

 

「せっかくだから、この場はブライトに任せよう。……あ、いけない。そろそろパーティーが始まっちゃう」

 

 部屋の時計を確認すると、パーティーの開催時間まで残り十分を切っていた。

 

 メジロのウマ娘たるもの、時間にはシビアであるべきだ。私達は足早に応接間を出て、パーティーへと急ぐのであった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 イラストを描く時にはまず、作品全体の印象を決めるための大ラフを考案する。

 

 大ラフというのは端的に言うと、イラストにおける設計図のような存在だ。

 

 作品のテーマを決定して、その表現に最適な構図を模索して、しっくりくるまで何度も試行錯誤を繰り返す。

 

 満足した大ラフが完成すれば、次はラフだ。この過程における大ラフとラフの大きな違いは、作品に含まれる情報量の差にある。

 

 大ラフは勢いを意識して大胆に描くため、整合性が著しく欠けてしまっているような状態だ。ラフの段階では違和感を感じる箇所を修正しつつ、キャラクターや背景の情報量を増やしていく。

 

 ラフの描き込み終えれば、残るは下書き、線画、着彩、仕上げの工程を順番に踏んでいくだけ。

 

 ラフ以降の工程は作品の完成度に直結するため非常に重要だが、アタシは特に序盤の段階を意識している。

 

 大ラフが魅力的に見えなければ、そのイラストに魂は宿らない。

 

 ラフを詳細に詰めていかなければ、完成するのは違和感だらけの欠陥品だ。

 

「これで……あぁ、ようやく描けた……っ」

 

 何事も最初が肝心、とはよく言ったもので。やはり絵を描くのも例外では無いのだなと、完成したデジタルイラストを眺めてしみじみとそう感じるアタシであった。

 

「──失礼しますわ。ああ、ドーベルお姉さまっ。やっぱり、こちらにいらしたんですのね」

 

 アタシが一人で達成感に浸っていると、唐突に部屋の扉が開く。わずかに動揺しながらも声の方へと視線を向けると、少し歳の離れた妹のブライトが立っていた。

 

「ドーベルお姉さま。こちらで何をしていらしたのですか?」

「え、あー。その……」

「……?」

 

 アタシがレセプションパーティーを()()()()()()自室に篭もっていたことを疑問に思ったのだろう。純粋無垢なブライトがアタシの方へと歩み寄ってくる。

 

「……やばっ」

 

 突然のことで判断が鈍り、行動が遅れてしまう。イラストを表示した状態でタブレット画面を付けっぱなしにしていたと気付いた時には、ブライトは既にアタシの眼前にまで迫っていた。

 

「あら? それは…………まぁ!」

 

 残念ながら、ブライトの視界にイラストが映り込んでしまったようだ。

 

 彼女の好奇心の矛先が、アタシの背後の置かれたそれに向けられる。

 

 

 

 

 

「──()()()()()()()()!」

 

 

 

 

 

 ブライトは流れるようにアタシの背後へ移動して、両目を輝かせた。

 

 アタシが描いた──ミライのイラストを手に取りながら。

 

「こちらは、ドーベルお姉さまがお描きになったのですか?」

「……うん。まぁ、ね」

「ほわぁ! 素敵ですわぁ〜!」

 

 面と向かって自分のイラストを褒めてもらった経験が少ないため、羞恥心に負けたアタシはすぐさまブライトからタブレットを取り返そうとする。

 

「とっても──キラキラして見えますわぁ!」

 

 でも、あまりに純粋な瞳で”星”のミライを見つめるブライトを前にして、アタシは毒気を抜かれてしまった。

 

「良かったらそれ、ブライトにあげるよ」

「え? よろしいのですか?」

「うん。あとで……印刷してあげる」

「嬉しいですわぁ! わたくし、宝物にしますわ!」

 

 年相応にはしゃぎながら飛び回る妹のブライト。この様子を見れば既に察していることだと思うが、彼女はミライの大ファンなのである。

 

「……もう一度、お会いできたら良いのに」

 

 ブライトはアタシの描いたミライのイラストをしばらく眺めた後、一転して憂いを帯びた声音で呟いた。

 

 かつて、世界中を震撼させたレース史上最悪の故障事故──”星の消失”。

 

 その事故による世界への影響は計り知れず、あらゆる人々やウマ娘達が世界的アイドルウマ娘に対して追悼の意を示した。

 

 当然ブライトも例に漏れず、激しいショックが原因で数日間寝込んでしまったことを覚えている。

 

 ()()()()()()メジロ家の姉妹達は過去にミライと面識があるため、彼女の喪失感に拍車をかけることとなったのだろう。

 

「ふふふ、のちほど額縁に入れて飾らなくてはなりませんわ。わたくしの、宝物ですわ〜」

 

 ミライに憧憬を抱くウマ娘は、”星の消失”以降も年々増加の一途を辿っている。

 

 半年前にミライの所属していたチーム・アルデバランがレースの世界に凱旋したことも相まって、再び彼女の功績や伝説にスポットライトが当てられていることも要因の一つだろう。

 

「……あ。そういえばわたくし、本来の目的をうっかり忘れておりましたわ。ドーベルお姉さま、早くしないとパーティーが始まってしまいますわ〜」

「もうとっくに始まってるよ」

「あら〜。でしたら、急がなければなりませんね」

 

 ブライトがくるりと踵を返す。

 

「さぁ、行きましょうか。ドーベルお姉さま!」

「……うん」

 

 正直、あまり乗り気ではなかった。元々パーティーをすっぽかす目的で、アタシは自室に引きこもっていたのだから。

 

 でも……今のアタシはお気に入りの可愛い衣装を着ているし、さらにはブライトが迎えに来てくれた手前、彼女の厚意を無下にはできない。

 

 アタシは重たい腰をなんとか上げて、先を歩むブライトの後に続くのであった。

 

 

 

***

 

 

 

 アタシが会場に到着する頃にはすでにレセプションパーティーは始まっており、その会場内は大勢の来賓の人達で賑わっていた。

 

 社交や交流の場を設ける目的で開催されているため、パーティーは立食スタイルが採用されている。ホールに等間隔に配置されたテーブルに用意された料理やドリンクは、彼らからとても好評なようだ。先程から忙しなくスタッフが出入りを繰り返している。

 

 そういえば、パーティーが億劫だったせいか昼食は控えめだった。空腹を感じてお腹をさするも……あの人混みの中に入っていくのは少々、難易度が高すぎる。

 

 一応メジロの血を引くウマ娘という立場上、フォーマルな場に出た以上は気丈に振る舞わなければならない。何か粗相をしてしまったら、おばあ様の顔に泥を塗ってしまうことになるからだ。

 

 アタシは息をころすように会場の隅を移動し、あたかも参加しています感を演出する。

 

 一番人の密度が少なく、かつ会場の縁から一番近いテーブルの料理を少しとって、空腹を紛らわせた。味はよく分からなかった。

 

 その後はそそくさと目立たない場所で息を潜め、怪訝に思われない程度に定期的に立ち位置を変えて時間が流れるのを待つ。

 

 そんなことを繰り返していると、アタシは会場の隅に佇む()()()()()を見かけ、思わず声をかけてしまう。

 

「……あれ、マックイーン?」

「あら、ドーベル。先程はどちらに行っていらしたんですの?」

 

 袖にレース生地が施されたアイボリーのワンピースドレスを着こなしたマックイーンが、身体の前で両手を揃えてパーティーの様子をぼんやりと眺めていた。

 

「まぁ、ちょっと……マックイーンこそ、どうしてこんなところに?」

 

 マックイーンが静かに佇む場所は、会場上部に設置された照明のちょうど死角にあたる位置だった。

 

「特に理由はありませんが、少々会場の熱気に当てられてしまったので」

「そうなんだ」

 

 短い会話を交わして、アタシは何気なくマックイーンの隣に立つ。この場所からは不思議と、会場全体の様子がよく見える。

 

「今年は去年と比較して、華やかな賑わいですわね」

「……あんまり覚えてないや」

 

 去年の今頃は、どうやってパーティーの時間を潰していたっけ。そもそも、参加していたかどうかすら怪しい。

 

「今年、私達メジロ家は大きな成果を残しました。おそらくはその影響でしょうね」

 

 マックイーンの言葉通り、アタシ達メジロ家のウマ娘は今年のトゥインクル・シリーズで華々しい成果をあげた。

 

 メジロ家の次女、メジロアルダンは自身にとってのラストランとなった高松宮記念を制覇し、GⅠタイトル獲得という有終の美を飾ってトレセン学園を卒業した。

 

 メジロ家の三女、メジロパーマーは先日開催された有馬記念で並み居る傑物を破天荒な戦略で退け、驚異のGⅠ二勝目を成し遂げた。

 

 メジロ家の四女、メジロライアンは六月末に開催された宝塚記念で一族の期待に応える走りを披露し、念願のGⅠウマ娘へと成長した。

 

「今年開催されたGⅠレースを合計三勝。メジロ家にとって、躍進の年となりましたわ」

 

 数少ないGⅠタイトルを獲得した影響か、アルダン、パーマー、ライアンの三人は先程からひっきりなしに来賓の人達から声を掛けられていた。

 

「そして、ブライトはまだ本格化を迎えてはいませんが、早くも才能の片鱗を見せているそうです」

 

 ブライトはまだ十歳と幼く、身体に本格化が訪れる気配は無い。

 

 しかし彼女は今、メジロ家の中で最も将来が期待されているウマ娘だ。

 

「ブライトは長距離を主戦場とする──ステイヤーとしての適性が非常に高いと評されています。彼女の専属コーチ曰く、その素質は私をはるかに凌駕するとのことですわ」

「……」

「彼女は将来、おばあ様の悲願であった天皇賞(春)を制覇し、母子三代の春天制覇という前代未聞の偉業を成し遂げてくれることでしょう。私も精一杯、彼女を応援しなくてはなりませんわね」

 

 アタシは会場の中から、話題に上がったブライトの姿を探して視線を彷徨わせる。

 

 しばらくしてアタシが見たのは、一回り以上背の高い人達に囲まれながらも、決して笑顔を絶やさないブライトの姿だった。それどころか、周囲に微笑みを届けているようにも見える。

 

「彼女達がいれば、この世代のメジロ家は安泰でしょう」

「そうだね」

 

 それからというもの、アタシとマックイーンは華々しい姉妹の姿を眺めながら、ひたすら時間が過ぎるのを待っていた。その間、アタシ達は特に誰かから声を掛けられることもなかったため、精神的には比較的穏やかであった。

 

「……ドーベル。私は、あなたにも謝らなければなりませんわね」

「なんで?」

「あなたにも、私の使命の一端を押し付けてしまいました」

 

 マックイーンは申し訳なさそうな表情を浮かべて、横に並ぶアタシに言葉をかける。

 

「周囲の期待があなたにとって重荷になっているのだとしたら、それは私の責任です」

「別に何とも思ってないから。それに……アタシの心配するくらいなら、自分の体調を気遣ってよ」

「そうですか」

 

 アタシのつんけんとした返事に、マックイーンは微かに安堵したように見えた。

 

「……あなた達を見ていると、何故だかお腹が空いてきます」

「え、突然なに? 意味が分からないんだけど」

「ふふっ、冗談ですわ。私少々、お手洗いへ行って参ります。まさか、ついて来るなんて言いませんわよね?」

 

 そう言っていたずらに微笑んだマックイーンは、アタシに背を向けて会場を後にする。

 

 再び一人になった手持ち無沙汰なアタシは、再び場所を点々として時間をやり過ごす。

 

 途中で人通りが少ない通路のテーブルから料理をとって口に入れたが、やっぱり味は分からなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 長かったパーティーも終盤に差し掛かり、ようやく解放されるとアタシは内心安堵していた。

 

「──ドーベル」

 

 唐突に声を掛けられて、アタシはひどく動揺したことを覚えている。

 

 声の主をたどって視線を走らせ、その姿を捉えたアタシは思わず目を見開く。

 

「お、おばあ様……っ」

 

 メジロ家の当主にして、レース業界の大御所と言える存在の実祖母──おばあ様がアタシの前に立っていた。

 

 アタシはおばあ様を前にして、激しい緊張を覚える。それと同時に、彼女からアタシに声を掛けてくれたことに対する微かな喜びを覚える。

 

 動揺を必死に隠そうとするアタシの前で、おばあ様がおもむろにその口を開く。

 

「マックイーンを探しているのですが、どちらにいったか心当たりはありませんか?」

 

 その目的はどうやらアタシではなく、妹のマックイーンのようだった。

 

「……マックイーンなら確か、お手洗いに行くから席を外すと言っていました」

 

 マックイーンと別れてしばらく経つが、そういえば彼女はまだ会場へは戻ってきていない。

 

「そうですか、ありがとうございます」

 

 おばあ様はお礼の言葉を短く述べて、アタシの元から去っていく。

 

「あ、あの……っ」

 

 その背中を、アタシは不躾にも引き留めた。

 

「どうかしましたか?」

「え、あ……いえ、何でもありません」

 

 特に意味なんてなかった。声を掛けたその理由すら不明瞭で……アタシは一体どうして、おばあ様を引き留めてしまったのだろう。

 

「ドーベル」

 

 おばあ様は去り際に、疑問と後悔で視線を下げてしまったアタシの名前を呼んだ。

 

「あなたもメジロの名を冠するウマ娘です。()()は厳禁ですよ」

「…………はい、ごめんなさい」

 

 アタシがパーティーをすっぽかそうとしていたことなど、おばあ様には筒抜けだったようだ。叱責の言葉を残して、おばあ様は会場を後にした。

 

「……」

 

 おばあ様がいなくなった後、アタシは胸の奥から不快なものが込み上げてくるような感覚に陥った。

 

 近くにあった残り物のジュースを喉の奥に流し込んで、気分を紛らわせようとする。

 

 アタシが口にした飲料水の種類は定かではないが……それはすでに炭酸が抜け落ちていて、あまつさえぬるま湯と化していた。

 

 その飲み物ははっきり言って、アタシの口には合わなかった。

 



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29:新星の再来

「──退院からすでに二週間が経過しましたが、体調はいかがですか?」

 

 半年前。俺は自分自身が抱える心の問題と向き合うために、秋川理事長が紹介してくれた病院へと入院した。

 

 長期にわたる闘病生活を経て二週間前に退院の目処が立ち、明日から俺はトレーナー業務に復帰する。

 

「はい、特に問題はありません」

 

 今日こうして病院を訪れたのは経過観察の一環であり、主治医とコミュニケーションの場を設けることが目的であった。

 

「あなたの回復力には驚かされるばかりですよ。入院からわずか半年間で、人はここまで立ち直れるのかと」

「教え子を迎えにいくと、約束していましたから。いち早く健康を取り戻さなければ、彼女の現役時代が終わってしまいます」

「そうですか。理由は何であれ、あなたが再び前を向いてくれたことを主治医として喜ばしく思います」

 

 経過観察といっても特にこれといった検査を受けるようなことはなく、前述した通り主治医との会話がメインである。

 

「……正直。私の立場からすると、業務への復帰は推奨できない側面もあります。くれぐれも、無理だけはなさらないで下さい」

「はい、承知しています」

「栄養バランスの取れた食事と、適切な睡眠時間は必ず確保してください。余裕があれば、ジョギングといった適度な運動を。それと、処方薬に関しては毎日必ず服用するようにして下さい。軽度ではありますが、副作用が生じる可能性にも留意しておいて下さい」

「分かりました」

 

 しばらく会話を続けて、最後の方はもはや雑談に近かったように感じる。

 

「……あなたの教え子のご活躍は、日頃から耳に入ってきます。私もレースを拝見しましたが、素晴らしい走りでしたね」

「自分も、彼女の成長には驚かされるばかりです」

 

 教え子との契約期間において……俺が彼女の指導にあたったのは、ほんの三ヶ月足らず。

 

 そのせいか、俺はトゥインクル・シリーズで活躍するサトノダイヤモンドの担当トレーナーであるという認識が薄れてしまっているような気がした。

 

「そろそろ時間ですね。元気な姿を見れて良かったです」

「ありがとうございます」

 

 これまで大変世話になった主治医に感謝を伝えて、俺は席を立ち上がる。

 

 

 

 

 

「改めて──退院、おめでとうございます」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 病院を後にしたその足で、俺は半年ぶりにトレセン学園へ赴く。

 

 今後の生活に必要となる荷物を、俺は明日までにトレーナー寮へ運ばなければならなかった。

 

 部屋の中は相変わらず何もなく、物寂しさを覚えるほどに質素な雰囲気だった。

 

 しかし半年間放置していたこともあり、申し訳程度に備えられた家具の上にはだいぶ埃が積もっている。

 

 心機一転、と言うわけではないが。

 

 トレセン学園は明日から三学期を迎え、それにあわせる形で俺は業務に復帰する。今後お世話になる空間は、きちんと綺麗にしておきたい。

 

 時間をかけて部屋中の埃を隈なく拭き取る。掃除が一段落ついた時点で、俺は勢いのまま荷解き──入院の際に寮から持参したちょっとした私物──へと手を伸ばす。

 

 荷解きと言っても病院へ持ち込んだものは本当に少なくて、すぐに終わってしまった。

 

 最後にシワを伸ばしたスーツとネクタイをハンガーに掛けて、やることは全て片付いた。

 

 以前と何も変わらない光景に安心感を覚えつつも……半年前とは一つだけ、俺は()()()()()を持ち込んでいた。

 

 がら空きの本棚に立てかけられた薄いアルバムを手にして、俺はひっそりと過去の記憶に想いを馳せる。

 

「……懐かしい」

 

 色褪せた写真という形で切り取られた、何の変哲もない日常の一コマ。

 

 枚数で言ったら、十枚にも満たない。かといって大層な内容が刻まれているのかと言われたらそうではなく、ごくごくありふれた一瞬を形に収めただけの紙切れにすぎない。

 

 それでも俺にとっては、大切な教え子と紡いだかけがえのない宝物と呼べる代物だった。

 

「ミライ」

 

 記憶の中のミライはいつも笑顔だ。それにつられて、周りの仲間達も笑顔になる。

 

 それは俺も、例外ではない。

 

「君は相変わらず元気だね」

 

 ”星の消失”から実に三年近い時間が経過したが……やっぱり俺は、ミライがいない世界を受け入れることなんて出来なかった。

 

 ミライの笑顔を見るたびに、俺はもれなく後悔に苛まれる。

 

 ミライが模擬レースで結果を残せず癇癪を起こしたあの日、俺は君に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って。

 

 変えられない過去を掘り返して、情けないヤツだと思われるかもしれない。

 

 前を向くと決めたはずなのに時々後ろを振り返ってしまうような、女々しい男だと笑われてしまうかもしれない。

 

「ごめん」

 

 俺は過去の記憶を慈しむように、少し埃の被った写真を指のはらで撫でる。

 

 そこに温もりを感じることは無かったけれど、不思議と心にじんわり染みるものがあった。

 

「……俺さ。また、頑張るよ」

 

 今後、俺の心に刻まれた傷口が癒えることは無いだろう。

 

 なぜならこの傷は今や、”俺”という人間を形作る──()()のようなものとなっているのだから。

 

 君のいない世界を受け入れることは出来ない。

 

 でも、俺はそんな世界と真剣に向き合ってみせる。

 

 どんなに苦しくても、今度こそ乗り越えてみせる。

 

「だから、見ていてくれ」

 

 俺はもう一度前へ進むよ、ミライ。

 

 

 

***

 

 

 

 翌朝、俺は午前五時に起床して身支度に取り掛かった。

 

 寝ぼけまなこを擦りながら洗面台の前へと移動し、冷たい水を顔に掛けて眠気を吹き飛ばす。

 

 寝癖を直して身だしなみを整え、俺はクリーニングに出していたスーツに袖を通す。ネクタイを結んで首元までしっかりと締め、教え子から貰ったガーベラのタイピンでシャツに留める。

 

 最後に普段から愛用している薄手の革手袋を装着すれば、準備は完了だ。

 

 気が引き締まるのを感じながら、俺は数年ぶりに自炊をすることにした。あらかじめ前日に購入しておいた食材を用いて、俺はサンドイッチを作る。調理の合間にお湯を沸かして、一杯分のコーヒーを用意した。

 

 ゆっくりと落ち着いた時間を過ごすと、不思議と心に余裕が生まれる。片手間に今日の予定を確認しながら、スマホの画面をスクロールした。

 

 半年程度世間の情報から隔離されていたわけだが、退院からの二週間で自身の置かれている状況は大方把握することが出来ている。

 

 チーム・アルデバランの凱旋はやはり、世界中から大きな反響を呼んでいるようだ。

 

 あまり実感が湧いていないことだけが、少々気掛かりだったが……。

 

 今一度、チーム・アルデバランを率いるトレーナーとしての矜持はしっかりと持っておくべきだろう。

 

 先代のチーフトレーナーが築き上げた栄光に、泥を塗るわけにはいかない。

 

 さて、そろそろ寮を出る時間が迫っている。復帰早々遅刻していては、トレーナーとしての示しがつかない。

 

 最後に忘れ物が無いかを確認し、俺は心機一転とした想いを抱きながらトレーナー寮を後にした。

 

 

 

***

 

 

 

 俺の勤務先となるトレセン学園は、トレーナー寮から徒歩数分という距離に立地している。東京ドーム十七個分の敷地はあまりに広大で、俺は未だに施設の位置を全て把握しきれていなかった。

 

 トレセン学園の校門へ近づくにつれて、制服に身を包んだウマ娘や、トレーナー達の姿が増えてくる。戻ってきたんだなという実感が胸に込み上げてくるのと共に、歩道を歩く俺に周囲の視線が寄せられていることに気がついた。

 

 少しばかり注目を浴びてしまっているようだが……俺は過去に色々と問題を起こしているため、仕方のないことではある。

 

 俺はあまり気に留めずに学園の校門を通過し、チーム・アルデバランの部室であるトレーナールームへ足を運ぶ……。

 

 その矢先の出来事だった。

 

「──あ、あのっ!」

 

 突然背後から、学園の制服を身にまとったウマ娘に声をかけられる。声の主をたどって生徒の容姿を一瞥するが、残念ながら心当たりはない。

 

「チーム・アルデバランの……トレーナーさん、ですよね……?」

「え、ああ、うん。そうだけど」

「やっぱりっ、そうなんですねっ!!」

 

 俺の返事を受けて、目の前の生徒が一際大きな声を上げた。一体何事かと、周囲から更なる注目を集めてしまう。

 

「──ね、ねぇ。あの人ってさ」

「うん、テレビに映ってた人だよね……っ」

「じゃ、じゃああの方が……!」

 

 次第に生徒の数も増え始める時間帯であり、気が付いたら俺の周りに人だかりが生じ始めていた。

 

「あの、お願いがあるんですけどっ!」

 

 周囲の人が人を呼び、俺はいつの間にか大勢の生徒達に詰め寄られるような状況に巻き込まれていた。

 

「わっ、私をトレーナーさんのチームにスカウ──」

「抜けがけなんてずるいよっ、あたしだって──!」

「お願いしますっ! どうかアタシをスカウトして──」

「いやいや、この中では私が一番速いですからっ!」

「「「──っ……!!!!」

 

 人数が増えすぎた影響で、俺は彼女達の言葉を何一つ聞き取ることが出来ない。申し訳ないのだが、せめて一人ずつ話してくれないだろうか……っ。

 

 そんな俺の切実な要望も虚しく、周囲の熱はさらにヒートアップしていく。大勢のウマ娘達に揉まれるこの状況は、正直言って非常に危険だ。

 

 ど、どうにかしてこの状況を脱しなくてはならない。認識が浅はかだったこと早速後悔する俺だったが、今はそれどころでは無い。

 

 多少の抵抗も虚しく、俺はウマ娘達が生み出す荒波の中にのみ込まれてしまって……。

 

 

 

 

 

 

 

「──君達、少し落ち着きたまえ。彼が困惑してしまっている」

 

 

 

 

 

 

 

 完全に溺れてしまう寸前、その渦の外側から凛とした声音と共に救いの手が差し伸べられた。

 

「君達の気持ちは十二分に理解出来るが、この状態では通学路を塞いでしまう。この場は私に免じて、引いてもらえないだろうか?」

 

 俺はまだその姿を捉えることは出来ていないが、彼女の声音には心当たりがある。

 

 周囲の生徒達は彼女の言葉を聞き入れたようで、惜しみながらも俺の周りから離れていった。

 

 次第に視界が晴れていき、俺に助け舟を差し出してくれた彼女の容姿が明らかになる。

 

 俺の目が最初に捉えたのは、ツンと伸びた彼女の()()姿()だった。

 

「…………」

 

 ありがとう、と反射的にお礼を述べようとした俺だったが……喉の先まで上がってきた途端に、その言葉は引っ込んでしまった。

 

 

 

──こうして彼女と対面するのが、トレーナーとして最悪な印象を植え付けたきりだったことを思い出したからだ。

 

 

 

「……あ、えっと…………」

 

 身から出た錆といえど、込み上げてくる気まずさがすごい。

 

 先程の生徒達に取り囲まれていた方が、よほどマシだと感じるほどに。

 

「──私は正直」

 

 数秒の沈黙の後、俺に背を向けたまま彼女が口を開いた。

 

「今の君に対して、どのような顔をして向き合えば良いのか分からないでいる」

 

 そして、それはどうやら彼女も──シンボリルドルフも同じだったようだ。

 

「指導者としてあるまじき行為に及んだ君に対して苦手意識を抱く反面、世界の”星”を輝かせた指導者としての君に感服している私がいるんだ」

 

 ルドルフが抱えている葛藤は……それはもうひどいものだった。

 

 おもむろに言葉を並べる彼女の声に、俺は大人しく耳を傾ける。

 

「私は君の教え子に対して、憧憬の念を抱いていた。過去に一度、私は彼女と対面したことがあるのだが……その時確信したんだ。理想の実現に必要な要素が、如何なるものであるのか」

「……」

「ウマ娘を蔑ろにした君に込み上げてくる感情と、理想の実現に必要不可欠な存在を見つけたことに対する喜びと……そんな君に嫌悪されている現状への後悔が胸の中で渦巻いているんだ」

 

 こうしてルドルフが俺に背中を向け続けているのも、彼女が滅茶苦茶な矛盾を心に抱えているからなのだろう。

 

「……今の私が傲慢であることは、当然理解しているよ」

 

 ルドルフの言葉通り、彼女の言動は確かに……傲慢な要素を含んでいるのかもしれない。

 

「だが、これは私の本心なんだ」

 

 ルドルフは俺に怒りをぶつけるわけでもなく、謝罪をするわけでもなく──偽りのない本心を打ち明けてきた。

 

 そして、そんな彼女に対して未だに一言も言葉を返せていないのは、俺が指導者としての未熟であることの裏返しなのだと思う。

 

「……ごめん」

 

 なんて言葉を返せば良いのか分からないが……とりあえず俺は、ことが穏便に済むよう謝罪という形から入ることにした。

 

「あの時の俺は、正直どうかしていたと……思う。君達ウマ娘を指導出来るような状態じゃなかった」

「君の事情は理事長から伺っている。決して口外はしていないから、安心してほしい」

「暴力を振るってしまった子には、誠心誠意謝罪したつもりだ。でも、彼女に対して恐怖心を植え付けてしまった自覚もある。行動の責任を取って……俺は金輪際、彼女に近づかないことを誓う」

 

 闘病生活の果てにようやく自分自身を客観視出来るようなったわけだが……振り返ってみると、良くあんな精神状態で指導者を名乗れたなと過去の自分に呆れてしまう。

 

「私から声をかけておいて申し訳ないが……この状態では正直、話の落としどころがつけられそうにないな」

 

 俺に背を向けて話すルドルフが苦笑した。

 

「……俺も、そう思うよ」

 

 お互いに、過去の件に関して色々と整理する時間を設ける必要があるのかもしれない。

 

「……そうだ。トレーナー君」

「うん?」

「もし君さえ良ければなんだが。一度、君と腰を落ち着けて話が──」

 

 そして、ルドルフが背を向けたままの状態で俺に何かを提案しようとした矢先……。

 

 

 

 

 

 

 

「──あっ、カイチョー! おはよ〜っ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 背後から駆け寄ってきた小柄なウマ娘が、俺の横を颯爽と駆け抜けてルドルフに抱きついた。

 

「こんなところで会うなんて奇遇だねカイチョー! もしかして〜、ボクのことを待っていてくれたとかっ!?」

 

 鹿毛の長髪を後頭部でまとめ、明朗快活な言動でルドルフに絡んでいる生徒には、心当たりがある。

 

「て、テイオー…………あぁ、えっと、その……」

 

 彼女の名前は確か……無敗の二冠ウマ娘として名を馳せる、チーム・スピカ所属──トウカイテイオー。

 

 トウカイテイオーの唐突な登場に困惑を隠せないルドルフは……ばつが悪そうにぎこちなく顔を動かして、俺の方へと視線を向けてくる。

 

「…………」

 

……それが俺とルドルフの、また別の意味で気まずい対面の瞬間となった。

 

「……? ねぇねぇ。カイチョーは今、誰と話してたの?」

「え……ん”ん”っ”。ああ。チーム・アルデバランを統率する、トレセン学園所属のトレーナー君だよ」

 

 ルドルフの説明を受けたトウカイテイオーが、彼女からわずかに視線を動かす。

 

「……アルデバラン」

 

 トウカイテイオーの鮮やかな甘色の瞳に、困惑の表情を浮かべた俺の姿が映り込む。

 

 やがてトウカイテイオーはルドルフに絡みついていた身体を離し、こちらの方へと歩み寄ってくる。

 

「……えっと」

 

 小柄な体躯のトウカイテイオーが、品定めをするような眼差しを向けながら俺の目前で静かに佇む。

 

「…………」

 

 俺は彼女を前にして無性に緊張してしまい、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

 端正な顔立ちのトウカイテイオーが、何やら神妙な面持ちで距離を縮めてきたと思ったら……。

 

 

 

 

 

「ボク、トウカイテイオーっていうんだ! これからよろしくねっ、アルデバランのトレーナー!」

 

 

 

 

 

 俺の目の前で一気に破顔し、元気な声で自己紹介をした。

 

「ああっ、いけない! もうこんな時間じゃん! それじゃあボクは、カイチョーと一緒に学園へ行くから! またねっ、トレーナー!!」

 

 そして、トウカイテイオーは俺の返答を待たずして踵を返し、彼女は自身の背後にいたルドルフの腕を取る。

 

「えっ、て、テイオー……っ」

「ほらほら! こんなところで突っ立ってたら遅刻しちゃうよ!」

 

 トウカイテイオーは困惑するルドルフをよそに、快活な足取りで校舎の方へと走っていく。

 

 まるで嵐のような生徒の登場について行けず、俺は口をぽかんと開けながらその場でしばらく硬直した。

 

 ぼんやりと眺めた視界の先に、トレセン学園の校舎へと駆け込んでいくルドルフとトウカイテイオーの姿が映る。

 

 こうして肩からスクールバッグを提げて走る姿を見る限り、世間から無敗の三冠ウマ娘と評される彼女も学園の生徒なんだなと、ちょっとだけ親近感を覚えた。

 

「……しまった、時間」

 

 のん気に通学路のど真ん中で突っ立っていた俺だったが……トウカイテイオーの言葉通り、本当に時間が押していた。

 

 今日はこの後、トレセン学園の始業式に参列する予定が控えている。

 

 始業式には生徒や教師だけでなく、俺達のようなトレーナーも出席するよう義務付けられている。

 

 俺は頬を叩いて気を取り直す。

 

 新たな門出となる一歩目を再び踏み、走り出すのだった。

 

 

 

***

 

 

 

「──歓・喜ッ!!!!!」

 

 始業式に出席した後、俺はその足で業務復帰の意向を改めて示すために理事長室へ訪れた。

 

 俺が入室した瞬間、相変わらず大仰に扇子を広げて秋川理事長が叫ぶ。興奮した様子で、年相応にはしゃぎながらこちらへと駆け寄ってきた。

 

「わたしは待っていたぞッ! 君が戻ってきてくれるこの瞬間をッ!!」

 

 秋川理事長は俺の右手を強く取って、感情の赴くままに激しく振った。見た目と年齢に反してその握力は非常に強く、俺は苦笑を浮かべて痛みをごまかす。

 

「お帰りなさい、トレーナーさん♪」

 

 そんな俺を見かねたのか、緑の事務服に身を包む理事長秘書のたづなさんが笑みを浮かべながら近づいてくる。

 

「えっと、その……ご迷惑をおかけしました」

 

 俺が長期入院で学園を不在にしている間、業務の全てをたづなさんに肩代わりしてもらうどころか、チームの代理監督まで引き受けてもらっていた。

 

 第一印象は正直アレだったけれど、今では一つ年上の彼女に頭が上がらない。

 

「いえいえ、お気になさらず。これも理事長秘書の務めですので」

 

 仕事量が何倍に膨れ上がったにも関わらず、たづなさんはケロッとしている。効率が良いのだろうか。それとも、スタミナがあるのだろうか。

 

「まさか、わずか半年間で業務に復帰出来るほど回復するとは思ってもみませんでした。正直、信じられません」

「主治医からも同じことを言われました。自分でも不思議な気分です」

 

 厄介な精神疾患を併発していた俺が半年足らずで健康に近い心と取り戻せたのは、主治医曰く”奇跡”とのこと。

 

 自分でも未だに信じられないが、いち早く業務に復帰出来るのはきっと良いことだろう。

 

 俺は話が脇道に逸れる前に、本題を切り出した。

 

「たづなさん、今後の業務の引き継ぎなのですが」

 

 俺はたづなさんから業務の内容とその進行状況を聞き、早急に仕事に取り掛かる必要があった。

 

 トレセン学園に在籍するトレーナーは本業であるウマ娘の指導とは別に、学園の事務作業を担っている。

 

 始業式当日は授業が午前中までしかなく、午後からはチーム・アルデバランのメンバーを集めてミーティングを実施する予定となっていた。

 

 さらにはミーティング後はトラックを用いたトレーニングがスケジュールに組み込まれているため、事務作業に充てられる時間は今しかないのだ。

 

 俺はたづなさんから改めて業務に関する説明を受け、なるべく短時間で引き継ぎ作業の内容を把握する。

 

 二人は俺が病み上がりであることを考慮してくれたのか、当面の間は事務作業の量を調整してくれるとのこと。退院早々激務で体調を崩したとなっては主治医に合わせる顔がないので、俺は大人しく秋川理事長達の厚意に甘えることに。

 

 これで目的は全て果たしたので、俺は彼女達に今一度お礼を述べて理事長室を後にした。

 

「──トレーナーさん」

 

 理事長室を出た直後、俺の背中を追ってきた様子のたづなさんがこちらへと歩み寄ってくる。

 

「何かありましたか?」

「今後のチームの運営に関して、少しだけお話ししておきたいことがありまして」

 

 理事長秘書のたづなさんは、俺の休職期間中にチーム・アルデバランの代理監督を務めてくれていた。

 

 実のところ、チームに在籍した日数で言えば俺よりもたづなさんの方が圧倒的に長かったりもする。

 

「トレーナーさんはまだ病み上がりで、体調面での不安も大きいかと感じます。なので当面の間は、チーム・アルデバランの代理監督を継続させて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」

「本当ですか……っ。ぜひ、お願いします」

 

 たづなさんの申し出はむしろ、俺にとって願ったり叶ったりな内容であった。

 

「指導面に限らず、業務に関する悩みなどは遠慮無く私に打ち明けて下さいね」

「ありがとうございます、たづなさん」

 

 たづなさんの厚意を受け取らない理由が無いため、俺は彼女に対して素直にお礼の言葉を述べた。

 

「引き止めてしまってごめんなさい。改めて……退院おめでとうございます、トレーナーさん」

 

 最後に俺はたづなさんへ深々と一礼し、静まり返った廊下を歩いて部室を目指す。

 

 今日は何だかとても、晴れやかな気分だ。



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30:新星の苦悩

 久々の業務に少々の戸惑いを覚えながらも、俺は午前中までにある程度仕事を進めることが出来た。

 

 昼食は購買で購入したもの──栄養バランスはちゃんと意識している──で済まし、俺は現在、午後に控えるミーティングの準備を進めていた。

 

 ミーティングの流れとしては簡単な自己紹介の後に、今後の方針や規則を改めて説明しようと考えている。あとはチームメンバーの出走レースや、目標に向けたトレーニングの提案など。

 

 事前にサポーターとして在籍するメジロマックイーンから色々と情報を貰っているが、やはり、担当ウマ娘の情報は自分自身で確認したいと思ってしまうのが指導者としての性である。

 

 彼女達のトレーナーとして努めて堂々振る舞う俺だが……実は内心、めちゃくちゃ緊張していた。

 

 以前たづなさん経由でメジロ家当主の婆さんから手紙を貰った際、俺は色々と理由を並べてその申し出を断っていた。

 

 だがしかし、俺はその一ヶ月後に依頼を引き受け、彼女達のトレーナーとなる決断を下している。二人の移籍を承諾した件に関してはちゃんとした理由はあるが……彼女達からすればやはり、一体どういう風の吹き回しだと怪訝に思っていることだろう。

 

 このような懸念が緊張の一端ではあるのだが、それよりもただ単純に、初対面の生徒と顔を合わせることにドキドキしているといった側面の方が大きい。

 

 メジロマックイーンに関しては過去に面識があり、断片的ではあるが、俺は彼女のことを理解している。

 

 確か『メジロ家定例旅行』という名目のもと、マックイーンは一家総出でミライのレースを現地まで観戦に来ていた。その際、少しだけ彼女の走りを見てあげたことがある。

 

 現在のマックイーンは菊花賞出走後に左脚部繁靭帯炎を発症し、競走生活と折り合いをつけて新しい目標へと歩み出している。実質的に競走能力を消失してしまった状態では……やはり、やむを得ない選択だったのだろう。

 

 そして、マックイーンの実姉にあたるメジロドーベルについてなのだが。

 

「……男性恐怖症、か」

 

 実を言うと……俺がいま抱えている不安の大半は、彼女によるところが大きかった。

 

 俺は決して彼女を忌避しているわけではない。

 

 ただ、彼女が抱える問題のスケールを捉えきれず、どう接すれば良いのか分からない状態なのである。

 

 メジロドーベルの容姿に関しては、既に過去の選抜レースを観戦した際に確認していた。

 

 俺の記憶が正しければ、過去にアメリカへ訪れていたメジロ姉妹の中に、彼女の面影と重なるウマ娘はいなかったように感じる。

 

 一度でも面識があれば適切なアプローチを導き出しやすいのだけれど……なかなか、そう上手く事は運ばない。

 

「…………」

 

 さらに俺を悩ませる原因が、先も口に出した──男性恐怖症という大きな障壁だ。

 

 正確には、ドーベルは他人に対する強い苦手意識を抱えており、その中でも特に男性に対する反応が顕著であるとのこと。

 

 実際それが原因となって、彼女は半年前に前任トレーナーとの契約が破棄されている。

 

 このことから推測されるメジロドーベルの性格は……指導者が匙を投げてしまうほどの"気性難"である、ということだろうか。

 

 しかし、メジロドーベルは男性恐怖症という大きな問題を抱えながらも、男性トレーナーが代表を務めるチームに移籍を希望してきた。この裏には何か、相当な理由があるに違いない。

 

 俺は今後、それらの要素を踏まえた上で彼女と接していく必要がある。

 

 友好な関係を築く上で重要なのは第一印象だろう。

 

 気さくな感じで話しかけるべきか……だが、この俺を気さくという枠で括るのは少々無理があるような気がする。

 

 堅い態度で接すれば、それはそれで彼女に対して窮屈な思いを強いてしまうことになるだろう。

 

 半年前まではもっとこう、色々と割り切れていたような性格だった気がするのだけれど……闘病生活における心の変化が、俺の性格にも影響を及ぼしているのかもしれない。

 

 指導者の迷いは教え子に伝播する。せめて彼女達の前では優柔不断な姿を見せず、堂々と振る舞いたいものだ。

 

 現状不安定になっている指導者としての()は、今後の生活の中で取り戻していくとしよう。

 

 ミーティングの資料に不備がないかを確認し、俺は彼女達を迎え入れる準備に取り掛かった。

 

 

 

***

 

 

 

 それからしばらく時間が経過し、ついに、彼女達との対面の瞬間がやって来る。

 

「……」

 

 こんなに緊張するのは久しぶりだ。内心を悟られぬよう気を引き締める目的で、俺は今一度ネクタイを固く結び直す。

 

──コン、コン、コンッ。

 

 静寂な空間に、扉をノックする音が三回響く。

 

 きた……。

 

「──失礼します」

 

 扉の奥から耳馴染みした声が最初に届いて、俺の緊張した身体に安心感が流れ込んでくる。

 

「兄さま。本日から改めてよろしくお願いしますね!」

 

 最初に姿を見せたのは、かつての俺に過去と向き合う勇気を与えてくれた強かなウマ娘──サトノダイヤモンド。

 

「ご無沙汰しておりますわ、トレーナーさん。改めまして、メジロマックイーンと申します」

 

 続いて凛とした佇まいでダイヤの隣に並び、透き通るような声音が印象的なウマ娘──メジロマックイーン。

 

 そして、

 

 

 

 

 

「……………………どうも」

 

 

 

 

 

 二人の影に隠れながら俺の様子を窺う、非常に警戒心の強いウマ娘──メジロドーベル。

 

 チーム結成からだいぶ時間が経った。半年越しの対面という異例な状況が完成したわけだが、焦る必要はない。ひとまずは簡単な自己紹介から始めていこう。

 

「今後、君達三人を担当するチーム・アルデバランのトレーナーだ。よろしく頼む」

 

 色々と面倒な問題を抱え込んでしまった、訳ありトレーナーの俺だけれど。

 

「早速だけど、今後の活動方針について説明しようと思う。適当な席に座って欲しい」

 

 精一杯、君達の夢に寄り添えるように努力しよう。

 

 

 

***

 

 

 

 ミーティングの時間を用いて最初に行ったのは、少しだけ踏み込んだ自己紹介だった。今後チームとして正式かつ本格的に活動していくにあたって、お互いを知るというのは必要不可欠だ。

 

 自己紹介の内容については特に指定せず、何より俺自身の緊張をほぐす意味で自由な語らいの場とした。

 

 ちなみに俺が自己紹介で語った内容としては、過去の経歴が主である。好きな食べ物や趣味の話をしても良かったのだが、それよりも優先して伝えるべき情報の方が圧倒的に多い。

 

 とにかく何かを話すことで、俺はこの場の雰囲気にいち早く身体を馴染ませたかった。

 

 俺の後はダイヤ、マックイーンと続き、チームの最年長であるメジロドーベルが最後となる。

 

 しんがりを務めることになったメジロドーベルは、あからさまに緊張した様子で席を立った。

 

「……メジロドーベル、です…………よろしく」

 

 男性に対して強い苦手意識を抱いているとは聞いていたが、俺はその症状が実際にどの程度のものなのか測りかねていた。

 

 メジロドーベルは自身の名前と手短な挨拶だけを済ませて、再び席に着いてしまう。

 

 対面からの数分間で、俺は彼女が抱える問題の大きさを何となく掴み取る。

 

 他者の心の問題を主観的な物差しで測るのは、本来とても危険なことだ。でも、半年前まで心に重大な欠陥を抱えていた俺の身からすれば、彼女の問題に同情しない方が難しい。

 

 さぞかし、辛い思いを我慢しながら生活してきたのだろう。

 

「ありがとう。君のことはこれから、なんて呼べば良い?」

「……普通に、ドーベルでいい」

「分かった」

 

 ウマ娘の指導に関してある程度の経験を持つ俺だが、残念ながらドーベルのような性格の子を育成した経歴はない。色々と()()()な状態で、俺は彼女と向き合っていく必要がある。

 

「ドーベル、これから一緒に頑張っていこう」

 

 初対面ということで、俺は彼女に対して革手袋を脱いだ手を差し出し、誠意を示すための握手を試みた。

 

 男性を極端に苦手としているドーベルの場合、今後俺が彼女に触れられる機会はまず無いと考えるべきだろう。

 

 故に俺は一番都合の良い状況を利用して、彼女と合理的な接触を試みる。

 

 

 

「…………ごめん。そういうのは……ちょっと」

 

 

 

 しかし残念ながら、俺の魂胆は呆気なく失敗に終わった。

 

「いや、こちらこそごめん。さすがに、配慮に欠ける行動だった」

 

 俺はウマ娘を育成するにあたって、自身の特異な”体質”を最大限利用してきた。

 

 ウマ娘の身体に直に触れるだけで、その状態を把握出来るという便利な能力(ちから)

 

 しかし今の反応から、ドーベルの育成に関しては”体質”に基づく指導を行うことが出来ないと判明した。

 

 何かしら理由をつけて強引に触れても良いが、その代償はとてつもなく大きいだろう。指導者と教え子という関係に亀裂が入りかねない。

 

 俺にとって非常に難易度の高い育成になるが、これまでの経験を活かせば十分に補える範囲だ。

 

「自己紹介が一通り終わったから、次はチームの指導方針について確認していこう」

 

 マックイーンとドーベルが移籍する以前、俺は教え子に対して一切の自主トレーニングを禁止するといった徹底的な管理主義を掲げていた。

 

 この教育理念は俺の精神的な脆さを象徴するものであり、理にかなってはいるがその分、問題に発展することも少なくない。

 

「基本的には俺が作成したメニューに基づいてトレーニングを実施してもらう。メニューの要望があれば、その都度対応していこうと思ってる。そして、自主トレーニングに関してだけれど……」

 

 基本のスタンスは相変わらず管理主義的なものと変わりないが……半年前とは一つだけ、大きな違いがある。

 

「今後、自主トレを希望する場合はマックイーンに同伴してもらおうと考えている。これが、自主トレーニングを行う条件だと思って欲しい」

 

 それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()である。

 

 俺の過去のトラウマが元となって生じた過剰な管理主義だが、その根源は、手の届かないところで大切な教え子が傷ついて欲しくないという後悔にあった。

 

 逆に言えば、不測の事態に対応出来る状況下でのトレーニングに関しては、何の問題も無いということである。

 

 半年前と比較してチームメンバーが増加し、うち一人は指導者を補佐するサポーターとして移籍している。

 

 ここまで語れば何となく察しているとは思うが。俺が二人の移籍を承諾した主な理由はまさしく、これに該当する。

 

「自主トレを実施した場合、マックイーンはその内容をまとめて俺に報告して欲しい。それを踏まえて次回のトレーニングメニューを調整するつもりだ」

「了解しましたわ」

 

 大幅な変更点を明確に伝え、続いては個々の目標について説明していく。それぞれに配布した資料をめくってもらい、その内容を口頭で補完する。

 

「まずはダイヤ。君が見据える第一の目標は、クラシック級の開幕戦である皐月賞だとマックイーンから聞いている」

「はい」

 

 俺が不在の間にダイヤが三冠路線へ進む決断を下したということは、マックイーンから退院祝いの手紙と共に受け取った報告書に目を通したことで把握している。

 

「俺は現状、マックイーンが考案した出走ローテーションをそのまま採用したいと考えている」

 

 マックイーンがダイヤに対して考案したローテーションはどれも、トゥインクル・シリーズの仕組みを熟知した秀逸な内容となっていた。

 

 非の打ち所がなく、ダイヤの理想を加味した非常に良い内容であったため、俺はそのまま彼女の案を採用させてもらうことに。

 

 マックイーンが考案したローテーションから選択したのは、出走に必要となる最低限の賞金を稼いでトレーニングに集中するローテーションA。

 

「ダイヤの次走は、来月に開催されるGⅢ──きさらぎ賞を想定している」

 

 きさらぎ賞は、二月の頭に京都レース場で開催される重賞レースである。

 

 芝千八百メートル/右・外といった中距離レースの中で最短に区別される距離であり、今のダイヤであれば一着を十分に狙っていける内容だった。

 

「俺は現状、皐月賞に出走するまでに出来るだけトレーニングを積みたいと考えている。その理由に関しては、後日にきちんと説明しようと思う」

「はいっ、分かりました!」

 

 ダイヤに関する説明に一区切りをつけ、俺は続いてドーベルの今後に関する説明に移る。

 

「そして、ドーベル。君についてはまず、この後に控えるトレーニングでタイム測定を行う」

 

 俺の”体質”に基づく指導が行えない以上、一つ一つ地道にメジロドーベルというウマ娘を理解していく必要がある。

 

「君の情報は事前に受け取っているけど、距離適性や脚質適性は俺自身の目で確かめたい。これらの結果を基にして、メイクデビューの時期を決定していこうと考えている」

 

 ”体質”による能力の把握が行えないだけで、やること自体はほとんど変わらない。過去に培ってきた経験があれば、何とでもなるはず。心配するようなことはない。

 

「……ん」

「ミーティングの内容は以上だ。この後はトラックへ移動して、早速トレーニングに取り掛かろうと思う。各自ジャージに着替えて、十五分後に集合するように」

 

 有効に使える時間は非常に限られている。闘病生活に充ててしまった貴重な時間を取り戻すためには、今から一秒たりともおろそかに出来ない。

 

 俺は事前に準備しておいた道具一式を持って、トラックへと移動した。

 

 

 

***

 

 

 

 ジャージに着替えたダイヤ達がトラックにやってきて、早速トレーニングを開始する。

 

 相変わらず準備運動と柔軟に関しては入念に取り組み、時間をかけて身体をほぐしていく。

 

 実に半年ぶりに指導の環境へと戻ってきたわけだが、彼女達が着用するジャージが冬仕様になっていることに気が付いて、俺は今更ながら季節の変化を実感していた。

 

 一月上旬ということもあり、ある程度防寒対策をしているとはいえ非常に寒い。

 

 俺もひっそりと身体を動かして、凍えながらも努めて気丈に振る舞った。

 

「……よし。それじゃあ、今日のトレーニングメニューについて今一度確認しよう」

 

 チームメンバーが増えたため、俺は担当ウマ娘達に対してしっかりと指示を出すことを意識する。

 

「この後はダイヤとマックイーン、俺とドーベルでペアを組んでトレーニングを実施する。ダイヤはマックイーン指導の元で、課題の克服に努めてもらう。ドーベルは俺と共に、各距離におけるタイム測定を実施する。ここまでで、何か質問はあるか?」

「特にありませんわ」

「私も大丈夫です」

「……大丈夫」

「よし、じゃあ早速トレーニングに取り掛かる。怪我をしないように、集中していこう」

 

 効率を意識し、二手に分かれてトレーニングを実施する。

 

 ここに至るまでドーベルとは一度も目が合うことはなかったが。さすがにトレーニングの時間ともなると、彼女も意識をしっかりと切り替えてくれているようだ。

 

 不安と緊張で一色だったドーベルの表情に、集中と本気の色が混ざる。

 

「まずはウォーミングアップだ。ひとまず、千六百メートルを二周しよう。最初の一周は身体を慣らす程度の速度で、もう一周は身体を温める程度……四割くらいの力で走るんだ。スタミナは極力温存しておくと良い」

「ん」

 

 俺がドーベルに対して指示を飛ばした瞬間、彼女はこの場から逃げるように走り去っていった。

 

 ドーベルがウォーミングアップに取り組んでいる間に、俺はタイム測定の準備を進める。

 

 今回のタイム測定では芝のコースを利用する。スタミナを考慮して、ダートコースでの測定は後日に実施することとした。

 

 タイム測定に採用したコースはそれぞれ、短距離──千二百メートル、マイル──千六百メートル、中距離──二千メートル、長距離──三千メートル。

 

 それぞれの測定結果と平均タイムを参照し、ドーベルの距離適性を確認するのが今日の目的だ。

 

 本当は長距離の計測を実施する予定は無かったのだけれど、当人の強い希望を無碍にすることは出来なかった。

 

 後半に進むにつれて疲労の蓄積が著しい場合、測定を翌日以降に持ち越すことも念頭に置いている。

 

「……お待たせ」

 

 しばらくして、ウォーミングアップを終えたドーベルが俺の近くに戻ってきた。彼女の様子をざっと確認したところ、十分身体は温まったようだ。

 

「よし、それじゃあ早速タイム測定に移る。休憩時間は多く確保するから、この次に控える測定のことなんて考えず、持てる限りの全力で走って欲しい」

「ん」

 

 俺はドーベルに指示を飛ばして、彼女をコースの上に立たせる。

 

「スタートの合図に関しては、このスターターピストルを使おうと思う」

 

 というのも、今回設定した距離ではスタート地点とゴール地点が異なっている。

 

 正確なタイムを測定するためにはゴール位置に立っている必要があり、こればかりは仕方がない。

 

「ゴール地点から音を鳴らすが、ウマ娘の聴力なら問題なく聞き取れるはずだから心配はしなくていい」

 

 早速俺はゴール地点へと移動し、腕を大きく振って合図を送る。それに応じて、ドーベルがスタートの姿勢に移行した。

 

「それじゃあ行くぞ、用意……」

 

 スターターピストルの引き金に指をかけ、俺はその腕を空へ向けて大きく掲げる。

 

 

 

 

 

「──スタートッ!」

 

 

 

 

 

 パァンッ! という乾いた銃声が響くのと同時に、ドーベルは勢いよくスタートを切った。



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31:悲願

トレーニング回です。
描写の一部に独自解釈があります。


 兄さまがドーベルさんのタイム測定を行っている間、私は来月に開催されるきさらぎ賞へ向けて課題の克服に臨んでいた。

 

「サトノさんの課題は確か……コーナーの曲がり方に違和感がある、でしたわよね?」

 

 チーム・アルデバランのサポーターを務めるマックイーンさんにその悩みを打ち明け、自分が抱えている違和感を言葉にする。

 

「はい。身体の使い方に関して引っかかりを感じているわけでは無いんですけど……稀に、コーナーの(ラチ)から大きく逸れてしまうことがあって……」

「なるほど、逸走ですか」

 

 マックイーンさんはおとがいに手を当てながら、解決策の考案に力を注いでくれる。

 

「逸走の原因に、何か心当たりはありまして?」

「えっと……ごめんなさい。私としては、全て同じ感覚でコーナーを曲がっているんです。意識しながら走っていても、時々進路が大きく膨らんでしまって……」

「ふむ……」

 

 心当たりがまるで無く、違和感を説明出来ないのが非常にもどかしい。

 

「逸走が発生しやすいコーナーの場所や、右回り、左回りといったコースの条件に傾向はありますか?」

「う、うーん…………」

 

 私は頭を捻った。ただ唸るだけで、私は最後までマックイーンさんの参考になるような情報を引き出すことは出来なかった。

 

「分かりました。ひとまず、サトノさんが実際に走っている様子を確認します」

「す、すみません……」

 

 会話を交わしながらトラックに入り、私はマックイーンさんの指示でコーナーから二百メートル離れた地点に立つ。

 

「せっかくなので、次走のきさらぎ賞のコースを意識して行いましょう」

 

 京都レース場で開催されるきさらぎ賞の特徴は何といっても、高低差約四メートルを超える第三コーナーの坂路──通称、淀の坂だろう。

 

 きさらぎ賞は第二コーナー奥のポケットからスタートし、最初に向正面半ばから初角となる第三コーナー頂上までを駆け上がる。その後、第四コーナーを緩やかに下って最終直線に突入するといった、かなり特殊なコース形態となっている。

 

「サトノさんにはこれから、右回りの第三、第四コーナーを想定して走ってもらいます」

 

 第三コーナーの二百メートル手前からスタートし、二つのコーナーを通しで走り抜ける。

 

 芝の内回りコースはドーベルさんがタイム測定で使用しているため、今回は外回りのウッドチップコースを用いてトレーニングをすることとなった。

 

 ウッドチップが敷かれたコースにはコーナー前に坂路が形成されているため、淀の坂を想定するといった意味でも非常に有効だろう。

 

 私はマックイーンさんの指示に従って、スタート地点へと移動する。

 

「課題に関してはあまり意識せず、普段通りの走りを心がけて下さいまし!」

 

 マックイーンさんは第三、四コーナー中間の外側に立って、準備を進める私に合図を送った。

 

「いつでも構いませんわー!」

 

 遠目にマックイーンさんが手を振ったので、スタートの合図と捉えて私は徐々に速度を上げていく。

 

 本番のきさらぎ賞においては、第四コーナーが下り坂になっていることからスピードに乗って最終直線に突入することが可能となる。

 

 最初の坂路は基本の歩幅を狭く取り、脚の回転数を引き上げるピッチ走法で切り抜ける。第三コーナーに突入したら歩幅(ストライド)を元に戻し、私はカーブを丁寧に捌く。

 

 第四コーナーでは外側の肩を内側へ入れ込んだ前傾姿勢を作り、可能な限りの遠心力を利用することに意識を割いた。

 

「──ッ!」

 

 地面から得られる力を余すことなく推進力に変換して、私は力強く両コーナーを走り抜ける。

 

「…………、……ふぅ」

 

 ゆっくりと速度を落として、私は走り抜けてきた走路を振り返る。

 

「あ、あれ……?」

 

 そして、私は首を傾げた。

 

「ふむ……特に進路が膨れ上がったり、逸走するような気配は見られませんでしたわね」

 

 走行フォームを確認していたマックイーンさんが、色々と考えを巡らせながらこちらに寄ってくる。

 

「すみません……お、おかしいなぁ」

「毎回進路が膨れ上がってしまうわけでは無いのですね。もしかしたら、左回りの際に生じやすいのかもしれません」

 

 マックイーンさんの提案で、今度は左回りでコーナーを走ることにした。

 

 先程は遠心力を利用する消費エネルギーの大きい走法を採用したため、今度はその反対である、遠心力を外に逃した走り方を意識する。

 

 身体の軸を意識し、外側の肩を少し開くような感覚で。第一、二コーナーを走行するような、自分自身が一番走りやすいと感じるフォームで柵に沿って走り抜けた。

 

「……んむむ」

 

 しかし、またしても私は違和感を抱くことなくコーナーを曲がってしまう。

 

 当然、逸走しないことは良いことだ。綺麗な形でコーナーを捌けている証拠なのだから。

 

「なるほど。これでコース条件が影響を与えているという可能性は潰せましたわね。となると、原因はサトノさんの走法にあると考えるのが妥当。ですが……」

 

 私のコーナーの捌き方は、兄さまから手取り足取り教わった技術である。

 

 かつてのトレーニングでは彼から逸走の傾向があると指摘されたことは無かったので、この半年間で走行フォームに歪な変化が生じてしまったと考えるべきだろう。

 

「サトノさん、もう一度右回りでコーナーを走ってみましょう。何回か繰り返すことで、違和感が現れるかもしれません」

「分かりました」

 

 マックイーンさんの指示に従って、私は反復して右回りのコーナーを駆け抜ける。

 

 一回、二回、三回と繰り返していくが……特に違和感を覚えることもなく、進路が膨れ上がることもなかった。

 

 そして、何か変だな……と感じ始めた四回目。

 

「……?」

 

 第三コーナー手前の坂路を走り抜けてカーブに突入した瞬間。

 

 

 

 それは唐突に、私の身体へ襲い掛かる。

 

 

 

(走り方は全く同じなのに……身体が遠心力に負けて、外側へ流れていっちゃう……っ)

 

 ()()だ。これが、私が稀に覚える違和感だ。

 

 柵に沿って走っているはずなのに、思いっきり外側へ弾き飛ばされるような感覚。

 

 コーナーを通過する際に生じる遠心力で、自分の意志とは関係なく身体が走路から逸れてしまう感覚。

 

 違和感を覚えた私は即座に進路の修正を図るも、意図せず大外へ身体を持ち出すような動きになってしまった。

 

 それでも何とか身体を内側へ引っ張りながら、第四コーナーを通り抜ける。

 

「あ、あのっ!」

「……ええ。サトノさんのおっしゃる通り、確かに進路が大きく膨れる逸走の傾向が見られました」

 

 遠目からだが、マックイーンさんも私の進路が膨れる瞬間を目撃した。

 

「サトノさん。前回までの走りと比較して、今回は何か意識を変えた部分はありますか?」

「いえ、特には……。あ、ですが今回の場合、コーナーに突入する瞬間からはっきりとした違和感がありました」

「なるほど……」

 

 私はマックイーンさんに、先程覚えた感覚を言語に変えて伝える。

 

「状況を整理すると……コース条件が原因ではなく、逸走が生じるのは数回に一度。そして、その違和感はコーナー直後にはっきりと現れる。となると、考えられるのは……」

 

 マックイーンさん同様に逸走の原因を考えるが、私は唸るばかりで答えなんて見つけられそうになかった。

 

「……ふむ。サトノさん」

「は、はいっ」

「サトノさんが覚えた違和感の正体について、おおよその目星が付きましたわ」

「本当ですかっ!?」

「ええ。しかしまだ断言はできない状況ですので、今から検証してみましょう」

 

 そう言って、マックイーンさんは一度トラックを離れ、私達の荷物が置かれた木陰の方へと移動する。

 

 マックイーンさんはそこで何かを準備し、しばらくしてこちらへと戻ってきた。

 

「お待たせしました」

「それは……三脚、ですか?」

 

 マックイーンさんが木陰から持ってきたのは、撮影用にスマホを設置するための三脚だった。

 

「これを使って、サトノさんがコーナーに突入する瞬間を撮影します」

 

 黙々と準備を進めながら、マックイーンさんは語る。

 

「私の予測が正しければ、撮影した映像の中に原因が映り込むはずですわ」

「な、なるほど」

「サトノさん。次からの数本は極力遠心力に逆らわず、左回りの時と同様の感覚で走って下さいませ」

「逸走が起こった時と条件が違いますが、大丈夫なのでしょうか?」

「おそらく問題ありません。それに、コーナーを助走区間として使用するほどの速度を出した場合、映像にブレが生じてしまう可能性もありますから」

「分かりました」

 

 マックイーンさんは第三コーナー付近が画角に収まるよう三脚の位置を調整し、スマホの撮影ボタンに指をかける。

 

 彼女が腕を振ったのを合図に、私は再び直線から走り出した。

 

 撮影した回数は全部で十回。その内、逸走が発生したのは二回目と八回目。

 

 マックイーンさんが撮影した映像を確認する。撮影前の予測と答え合わせを行なっているようだ。

 

「……なるほど」

 

 しばらくして、マックイーンさんの表情が柔らかくなる。

 

「分かりましたわ。サトノさんの逸走の原因が」

「本当ですかっ!?」

 

 私は嬉々としてマックイーンさんに駆け寄って、映像を確認する。

 

「……う、うん?」

 

 しかし、何度繰り返しても逸走した時としなかった時の違いを見つけられず、私は首を捻った。

 

「これは本当に細かな点なので、サトノさんが気付かないのは無理もありません。しかし、小さな要因にも関わらず、走りに与える影響は甚大です」

 

 マックイーンさんは映像を少しだけ巻き戻し、私がコーナーに突入する数秒前からそれを再生する。

 

「これが、サトノさんが普段通りの走りをした際の映像です」

 

 コーナーを過ぎたら再び映像を巻き戻し、異なる場面を同じ瞬間から再生する。

 

「続いて、サトノさんに逸走が生じた際の映像です」

 

 全く同じ画角で、私の走る様子が記録されている。

 

「う、うーん……?」

 

 マックイーンさんが頑なに答えを言おうとしない意図は理解している。逸走の原因を、私自身に気付かせるためだ。

 

「ふふっ。少し、いじわるが過ぎたかもしれませんわね」

 

 しかし、延々と首を傾げ続ける私をみて、自分で原因を見つけ出すのは困難だと判断したらしい。

 

「足元に注目して、もう一度確認してみて下さいな」

「足元ですね。分かりました」

 

 マックイーンさんの助言に従って、私は再度映像を確認する。

 

 歩幅……は、ほとんど同じ。地面を捉える足の使い方にも差は見られない。

 

 他に何か、相違点を挙げるとするならば……。

 

「足を前に出す順番の違い……いやでも、そんな単純なことってあるかなぁ」

()()ですわ」

「う、うーん………………へ?」

「正解ですわ。よく分かりましたわね、サトノさん」

 

 今度はまた別の意味で、私は首を傾げる。

 

 ()()()()()()()()という、苦し紛れに捻り出したようなことが、逸走の原因……?

 

「答えが出たということで、映像を再確認しながら解説していきますわ」

 

 疑問に埋め尽くされた頭を整理しながら、マックイーンさんの言葉に耳を傾けて映像を注視する。

 

「これはコーナーを捌く上で非常に重要なことなのですが、それを理解している方は存外少なかったりします」

 

 マックイーンさんは映像を再生し、私がコーナーへと突入する瞬間にそれを止める。

 

「右手と左手に”利き手”なるものが存在するように、私達の足にも”利き足”というものがあるのは既にご存知のことかと感じます」

 

 過去にマックイーンさんからハーフバウンドの技術を教わった際に、私は自身の利き足がどちらであるかは既に把握していた。

 

「利き足と反対の足……今後は、”逆足”と呼ぶようにしましょうか。逆足よりも利き足の方が器用に扱えるということは、何となく想像がつくと思います」

「はい。確かに、スタートのトレーニングをする過程で経験しました」

「先に結論を述べてしまうと……逸走という現象は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ものです」

 

 現在画面の中で静止している私は、()()()のコーナーに対して逆足である()()から突入している。

 

「コーナーを捌く場合は利き足に限らず、重心を必ず内側に預けなければなりません」

 

 つまり今回の場合、右回りのコーナーへ突入した瞬間の重心が外側に残っていたということなのだろう。

 

「右回りなら右足に重心を乗せ、左回りなら左足に重心を預ける。このような考え方を一般的に、”手前を替える”と表現することが多いですわ」

 

 マックイーンさんが教えてくれた内容を念頭に置いた上で、私は今一度映像を再生する。

 

 坂路を登って右回りのコーナーへと突入する瞬間、私は明らかに左足で地面を踏みしめていた。どう見ても、身体の重心が外側に残っているような印象を受ける。

 

「たかが一歩の違いなんて誤差だろう? ……と、疑問に思われることもあるかもしれません。ですがそれは、大きな間違いです」

 

 私は耳をそばだてながら、マックイーンさんの解説を聞く。

 

「私達ウマ娘の歩幅は、襲歩状態で約七メートル。手前を替えることに失敗した場合、走行距離に著しいロスが生じることとなります」

 

 内側の足でコーナーへと突入するタイミングを逃してしまった場合。逸走を避けるためには、二歩分の距離を余計に走る必要がある。

 

「逸走を防止するために生じたロスは、後々の不利を招きます。タイミングを逃したことによって経済コースから外れ、スタミナを浪費します。すると終盤に発揮する末脚の切れ味が鈍り、みすみす一着を相手に譲ってしまう」

 

 レース序盤のコーナーでミスしてしまった場合はまだ、挽回のチャンスは残っているだろう。だがしかし、後半のコーナーでロスが生じた場合は致命的だ。

 

「以上のことが、サトノさんが抱いていた違和感の正体になります」

「な、なるほど……っ!」

 

 表現しようのない違和感を抱えて悶々とし続けたモヤモヤが、一気に晴れ渡ったような爽快な気持ちになる。

 

「逸走の対策としては、自分の走行位置からコーナーまでの距離感を掴むことですわ。難しく考える必要はありません。ほんの少し、意識を割くだけで良いのです」

 

 難しい技術を習得する必要もなければ、極限の集中を要するわけでもない。

 

 これまでのトレーニングで培った走りの感覚を応用すれば、距離感なんてすぐに掴めるはずだ。

 

 気付いてみれば、本当に単純なことだった。

 

 ただ、足を前に出す順番が違うだけ。

 

「早速、試してみますか?」

「はいっ!」

 

 そのことを少しだけ意識して、私は再び直線から第三コーナーへと突入していく。

 

 すると、先程までの逸走が嘘のように消え、何度繰り返しても柵の湾曲に沿った理想的な走りでコーナーを切り抜けることが出来た。

 

「すごい、すごいですっ!」

 

 興奮のあまり、私はマックイーンさんの元へおおはしゃぎで駆け寄る。

 

「はしゃぎ過ぎですわよ、サトノさん。ふふっ、少し落ち着いて下さいな」

 

 苦笑しながら興奮する私を宥め、マックイーンさんは自身のスマホを操作する。そして、先程とは別の動画を画面に映して、私に示した。

 

「少し気になることがありまして……サトノさんが三ヶ月前に出走した、条件クラスの動画を確認していました」

 

 現在再生されている動画は、三ヶ月前に私が道中で苦戦を強いられた、条件クラスのレース映像である。

 

 競走相手からのマークが激しく、徹底的に末脚を潰すような周囲の立ち回りに苦戦したことを覚えていた。

 

「若干の直線を挟んで第四コーナーに突入した直後のことです。サトノさんの進路を塞ぐように前方を走っていたウマ娘達が、不自然に外側へ膨れ上がったことを覚えていますか?」

「は、はい……もしかして」

「ええ。彼女達の進路が膨れ上がった原因はまさしく、コーナーの形状に対して突入する瞬間の足を間違えたことにあるかと」

 

 最初はコーナーに生じる遠心力が原因かと思っていたが……もし本当に遠心力の影響で進路が膨れたのなら、少なからず彼女達以外も影響を受けているはずだ。

 

「さて……トレーニングを始めてからだいぶ時間が経ちましたので、一度休憩を挟みましょうか」

「はいっ、ありがとうございました!」

 

 課題の克服に打ち込むあまり、時間という意識が私の中からすっかりと抜け落ちていた。

 

 私達は一旦トラックを出て、軽い休憩を挟む。

 

「……ふぅ」

 

 さて、しばらくしたらトレーニングを再開するわけだが。

 

 兄さまの指導のもとでタイム測定を行っていたドーベルさんの様子は、今頃どうなっているのだろうか。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「──げほッ、ぁ”っは……ぐぅあ”、はぁ”っ”、はぁ”ぁ”……っ」

 

 予定していた全距離のタイム測定を終え、俺はストップウォッチに記録された秒数をノートに記す。

 

「お疲れ様。休憩は長めに取るから、ゆっくり休むと良い」

 

 息も絶え絶えになってターフに倒れ込むドーベルへ休憩の指示を出して、俺は一旦手元のノートに視線を落とした。

 

 俺は各距離において彼女が叩き出したタイムを確認しながら、ふむと唸る。

 

 千二百メートル──短距離における走破タイムは一分十三秒一。

 

 千六百メートル──マイルの走破タイムは一分三十八秒五。

 

 二千メートル──中距離の走破タイムは二分三秒七。

 

 三千メートル──長距離の走破タイムは三分四十秒六。

 

「……これは」

 

 ドーベルが記録した結果をメイクデビューの標準タイムと比較して、俺は感嘆の声をもらした。

 

 短距離、マイルに関しては、少しトレーニングを積めばメイクデビューで容易に一着を狙うことが出来るだろう。中距離に関しては、この時点で既に標準タイムを上回ってすらいる。

 

 デビュー前のウマ娘としては突出している水準に、俺は驚愕せざるを得ない。

 

 加えてこれら三距離の測定の際、俺はドーベルから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 タイム測定の様子から察するに、ドーベルの身体は長く良い足を使うというよりも、瞬発力を駆使した鋭い末脚の発揮に適性があるだろう。

 

 スタミナに関しては少々持て余しているように感じたため、今後は終盤の末脚を重点的に強化していく方針でトレーニングを実施していけば、効率的な成長が期待できる。

 

「ふむ……ドーベルの場合、マイルから中距離を主戦として、本人の意思があれば短距離路線に進む選択肢も悪くない」

 

 ドーベルの距離適性なら、デビューから一年後のクラシック級ではティアラ路線が有望か。早い段階で狙いを定めれば、トリプルティアラを手中に収めることだって夢じゃない。

 

 さすがは、名門メジロのウマ娘といったところか。

 

 そして、長距離に関しては……デビュー前のウマ娘に三千メートルを走らせるのは、少々酷だったかもしれない。

 

 二千四百メートルあたりでスタミナが底をついてしまったようで、最終直線に至ってはジョギングに近いような速度だった。

 

 それに、短距離、マイル、中距離と立て続けに計測したことで疲労が蓄積していた可能性だって考えられる。

 

 十分な休息を挟み、当人の強い意志があったとはいえ……一度に全ての距離を測定するのは、正直言って尚早だった。

 

「ドーベル、休憩中にごめん」

 

 俺は一旦思考をやめて、木陰でドリンクに口をつけるドーベルに歩み寄った。

 

 タイム測定で得られたデータをドーベルと共有し、一度彼女の意見を取り入れるべきだろう。その上で、今後の展望について彼女と共に考えていきたい。

 

「……」

 

 休憩中のドーベルにある程度近づいたとき、俺の身体に鋭い警戒の眼差しが飛んできた。

 

……しまった。

 

 無意識に、普段ダイヤと接する際の距離感が行動に現れてしまった。

 

 メジロドーベルというウマ娘は、俺が想像していた以上にパーソナルスペースが広い。彼女にはさらに気を遣わなければならないと俺は内心後悔し、一層意識を引き締める。

 

「休憩したままで良い。タイム測定の結果を踏まえて俺なりの展望を考えたんだけど、その前に一度、ドーベルの意見を──」

()()

 

 少し会話を増やす目的で、先に彼女の方から目標や意見を聞こうとした俺だったが……。

 

 残念ながら、その声は途中で遮られてしまった。

 

「………………え?」

「だから、春天だって。アンタ、耳遠いの?」

 

 ドーベルの口から予想だにしない単語が飛び出してきて、俺は情けない声をあげて聞き返してしまった。

 

「……えっと、ごめん。もう一度、言ってくれないか?」

「…………はぁ」

 

 ドーベルは俺の間抜けな反応に心底呆れたような表情を浮かべて、ターフに落ち着けていた腰を上げる。

 

 そして、固い決意に染まった瞳をこちらへ向けて、毅然とした態度で言い放った。

 

 

 

 

 

 

 

「アタシは、春の天皇賞に出る。春天を制覇して、このアタシが──メジロ家の悲願を実現させる」

 

 

 

 

 

 

 



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32:コンプレックス

 担当ウマ娘のメジロドーベルから飛んできた予想外の発言に、俺は驚愕のあまり言葉を失った。

 

「天皇賞……春?」

 

 俺の記憶が正しければ、天皇賞(春)は京都レース場で開催される、芝三千二百メートルの長距離レースだ。

 

 シニア級に成長したウマ娘のみが出走できるGⅠ重賞で、トゥインクル・シリーズの最高峰に位置付けられる”八大競走”の一つに数えられている。

 

 京都レース場の地獄に等しい地形的特徴から、無尽蔵なスタミナと長丁場でも途切れない集中力が求められる。そして何より──()()()()()()()()()が必要不可欠だ。

 

 それが、天皇賞(春)。

 

 俺は視線を無意識に手元のノートへ落として、先程ドーベルが記録した時計を確認する。

 

 三千メートル──走破タイム、三分四十秒六。

 

「……なに?」

「そ、それはさすがに……厳しいんじゃない、かな?」

 

 歯切れの悪い返答を受けて機嫌を損ねたドーベルに対し、俺はタイム測定の結果を示した。

 

「記録を確認すれば分かる。君は長距離よりも、マイルや中距離といった方向に適性が──」

「まだ二年以上時間があるでしょ」

 

 彼女の言葉通り、天皇賞(春)に出走できるようになるのは、デビューから二年後のシニア級を迎えた後である。

 

 だが、この記録はメジロドーベルというウマ娘の距離適性を如実に示したものだ。

 

 仮に最初の二年間全てをトレーニングに捧げたとしても、彼女の得られる成果は善戦程度が限界だろう。

 

 距離適性とはウマ娘の先天的な素質に左右される側面が強く、こうして結果が出ている以上、彼女のそれは賢明な選択とは言い難かった。

 

「それに、さっきの計測は万全の状態じゃなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から、本来ならもっと良い結果が出せるはず」

「……え?」

 

 ドーベルの弁解に対して、俺は再び言葉を失った。

 

 仮に彼女の言葉を鵜呑みにするのなら、長距離以前の測定結果をさらに更新することとなる。

 

 俺は”体質”に頼るまでもなく、直感で理解した。疑う余地なんて微塵もない。

 

「……なんてことだ」

 

 メジロドーベルというウマ娘に秘められた才能の片鱗を目の当たりにし、俺は全身が打ち震えるような感覚に襲われる。

 

「そ、それなら……なおさら推奨は出来ない。マイルから中距離のレースに狙いを定めた方が賢明だ。君の素質ならそれこそ、トリプルティアラだって──」

「勝手にアタシを決めつけないでッ!」

 

 頑なに天皇賞(春)に執着するドーベルに対して説得を試みるも、俺の言葉は強い口調で彼女に遮られてしまう。

 

「アンタ達大人が声を揃えて言う”素質”って何? ”才能”って何なの? それが無いと努力しても無駄って言いたいわけ? ふざけないでよ」

 

 声を荒げて不満を露わにするドーベルに、俺は気の利いた言葉を返してあげることが出来なかった。

 

 彼女の歯に衣着せぬ直球な言葉が、何より”才能”という概念に執着していた俺の心に、容赦なく突き刺さる。

 

「”星”を育てたトレーナーだって聞いてたけど、周りの大人と何も変わらないじゃん……期待するだけ無駄だった」

 

 ドーベルの失望する声音に含まれる微かな悲しみを感じ取って、俺は今更ながらに後悔した。

 

 俺はもっと、ドーベルの目標に寄り添うことが出来たはずだ。”体質”を補うことばかりに気を取られ、肝心な担当ウマ娘とのコミュニケーションをおろそかにしてしまっていた。

 

 俺はまず最優先で、天皇賞(春)に込める彼女の想いを共有するべきだった。

 

 メジロドーベルの名が示す通り、彼女は名門メジロ家のウマ娘。その生い立ちを想像すれば、彼女が天皇賞(春)にこだわる理由なんて簡単に掴めるはずだった。

 

 それに、ドーベルが天皇賞(春)に固執する理由は、メジロ家の悲願を果たすことだけでは無いはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

「──ドーベル。その言葉は移籍を認めてくださった彼に対して、失礼が過ぎるのではないですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 一番近くにいたじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 かつて、悲願達成という志を共に()()()()──メジロマックイーンという妹の存在が。

 

 

 

 

 

 

 

「…………マックイーン」

 

 俺の記憶が正しければ、彼女達の世代から天皇賞(春)を制覇したメジロ家のウマ娘はいなかったはずだ。

 

 悲願達成の最有力候補と期待されていたマックイーンが繁靭帯炎によって長期療養を余儀なくされたとなれば、必然的にデビュー前のドーベルに対して一族の期待が注がれるはず。

 

 ドーベルの背景を推し量ることが出来れていれば、簡単に分かることだった。彼女の背負う使命の重みを、理解してあげられるはずだったのだ。

 

「少し頭を冷やすべきです。冷静な思考を取り戻した後で、腰を落ち着けて意見を交わし合うべきですわ」

 

 マックイーンの鋭い指摘に対して、ドーベルは居心地が悪そうに視線を逸らした。

 

「…………ごめん」

 

 重苦しい沈黙がしばらく続いて、ドーベルが小さく謝罪の言葉を呟く。そして彼女は俺の返事を待たぬまま、トラックから走り去っていった。

 

「……申し訳ありません、トレーナーさん」

 

 頭を抱える俺の様子を見て、マックイーンが姉の代わりと言わんばかりに謝罪を述べる。その背後からは、担当ウマ娘のダイヤがおずおずとした様子で事の成り行き見守っていた。

 

「……ごめん。君達を担当する指導者として、見苦しいところを見せてしまった」

 

 トレーナーの俺がドーベルを諭すどころか、チームのサポーターを務めてもらっている担当ウマ娘に仲裁される情けない結末となってしまった。

 

「ドーベルは少々、男性に対して口調が鋭くなってしまう傾向がありまして……彼女としてもあのような失言は本意では無いはずです。なので今回の件はどうか、寛大なお心で……」

「大丈夫。ドーベルの気分を逆撫でした俺が悪いんだ。すぐにでも後を追って、頭を下げてくる」

「いえ、ここは私が向かいますわ。きっと今のトレーナーさんが何かをしたとしても正直、焼け石に水かと感じます」

「……よろしく頼む、マックイーン」

 

 穴があったら入りたいとは、まさにこのような心境のことを言うのだろう。

 

「に、兄さま……」

「ごめん。ダイヤにも、その……恥ずかしい姿を見せてしまった」

「い、いえ……」

 

 俺はこの半年間で、自分自身の心に巣食う問題と真剣に向き合ってきた。

 

 病を克服したことで自信を取り戻し、前途洋々とした気持ちで業務に復帰して。

 

 俺は一つ、分かったことがある。

 

 

 

 

 

「誰かと真剣に向き合うって……自分自身と向き合うことよりも、よっぽど大変なんだな」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

「…………やってしまった」

 

 逃げるようにターフから走り去った後、時間をかけて冷静な思考を取り戻したアタシは激しい自己嫌悪に陥っていた。

 

 半年間に及ぶ過酷なトレーニングがなかなか結果に繋がらず、成長を実感出来ない現状に不満を抱いて八つ当たり。おまけに男性に対する苦手意識が鋭い口調に拍車をかけて、余計なことまでぶちまけてしまった。

 

 アタシは手に持っていたタオルで顔を覆って、そのまま天を仰いだ。

 

 そのままの状態でしばらくぼーっとしていると、一方的な言い争いと化した時のアイツの表情が脳裏に浮かんできた。

 

──君は長距離よりも、マイルや中距離といった方向に適性が……。

 

「……そんなこと、自分が一番分かってるっての」

 

 アタシの身体が長距離適性に乏しいことなんて、誰かに指摘されるまでもなく幼少期の頃から理解しているつもりだ。

 

 長年多くの名ウマ娘を輩出してきた名門メジロ家は、その家風としてトゥインクル・シリーズの中でも特に、長距離レースを重視する傾向にあった。中でも天皇賞(春)に対するこだわりは非常に強く、その制覇はメジロ家の”使命”や”悲願”と称されるほどに重要な目標である。

 

 次世代を担うメジロのウマ娘として生を享けたアタシも、その例に漏れず天皇賞(春)の制覇を目標に掲げていた。

 

……ただ他の姉妹達と少し異なっていたのは、アタシに長距離を走る才能と見込みが絶望的であったということだろうか。

 

 純粋なステイヤーの血筋を引きながら、名門メジロの名を冠しておきながら……などとそんな感じで、昔から周囲の人達からは何かと冷遇されることも多く、アタシは期待や賞賛から程遠い眼差しを向けられる環境で育ってきた。

 

 その過程で”他人”という存在に苦手意識を抱くようになり、感情を盛大に拗らせ、ひねくれた自身の性格に思い悩む今に至る。

 

「はぁ…………」

 

 人気の少ない校舎の裏側で膝を抱え、アタシは重すぎるため息をゆっくりとこぼす。

 

 そんなアタシのコンプレックスに拍車をかけたのが、”本格化の遅延”と呼ばれる現象だった。

 

 一般的に、ウマ娘の本格化が始まるのは十三歳前後であるとされている。

 

 同年代の姉妹が順当に本格化の時期を迎え、トレセン学園入学と同時に華々しいデビューを飾る中、アタシだけが本格化の恩恵から取り残されていった。

 

 そして、ようやく本格化の兆しが見えた頃には……アタシはすでに高等部へと進級しており、姉妹達に至ってはシニア級で活躍するGⅠウマ娘。

 

 本格化を迎えぬまま現役時代を終えるのではないかという焦燥感と、メジロの名に恥じない功績を残す姉妹達への劣等感が、擦り切れたアタシの心を容赦なく傷つけてくる。

 

 色々と拗らせ過ぎた気性難のウマ娘に寄り添ってくれる人なんて当然現れるはずもなく、選抜レースを見てアタシの目標に共感してくれた男性トレーナーからも、体裁の良い言葉を並べて捨てられてしまった。

 

 きっとあの男性トレーナーが見ていたのはアタシではなく、”メジロ”ドーベルという別の何かだったのだろう。

 

「……いや、今考えるのは昔のことじゃないでしょ」

 

 気分が沈むと、心に刻まれた苦しい記憶が息を吸うように蘇ってくる。

 

 アタシがいま真っ先に考えるべきなのは、この後どんな顔をしてアイツに会えば良いのかということ。

 

 アイツと対面してからまだ数時間も経っていないというのに、関係が既に崩壊しかけている。第一印象が最悪、なんていう次元の話ではない。

 

 身から出た錆ではあることは重々承知だけれど……正直、アタシ一人では荷が重すぎる。

 

 何もかもがうまくいかない。

 

 子供の頃から、やることなすこと全てが空回り。

 

 本当に、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。

 

 

 

 

 

 

 

「──昔から、隠れんぼの実力であなたの右に出る者はいませんでしたわね、ドーベル」

 

 

 

 

 

 

 

 自身の言動が招いた問題の対処に頭を悩ませていると、背後から突然凛とした声がかけられた。

 

 安心したような、それでいてどこか呆れたような声音の持ち主には心当たりがある。

 

「……何それ嫌味? 言いたいことがあるならはっきり言ってよ、マックイーン」

「他意はありません。ただ、姉の様子を確認してくるとトレーナーさんに約束した手前、引くに引けなかっただけです」

 

 アタシが自暴自棄になってトレーニングを投げ出してから、既にかなりの時間が経過している。

 

 マックイーンはずっと、こんなアタシのことを探していたのだろうか。

 

「別に、頼んでないし」

()()()()で睨まれても、説得力がありませんわね」

 

 妹のマックイーンに指摘されて、アタシは慌てて顔を逸らした。すかさずタオルで表情を覆って、頬を伝う汗を拭う。

 

「隣、失礼しますわ」

「……どっか行ってよ」

「相変わらず素直じゃありませんわね、あなたも」

 

 アタシの言葉を右から左へと流して、マックイーンが隣に腰掛ける。

 

「あの後、本日のトレーニングはそのまま終了しました。トレーナーさんから、ゆっくり休んで欲しいと伝言を預かっています」

「……あっそ」

「ちなみに明日はオフなので、気分転換にスイーツでも食べに行きましょう。美味しいアップルパイのお店を知っています」

「おせち料理を爆食いした正月からそんなに経ってないけど?」

「あなたも道連れです。拒否権はありません」

 

 最近、マックイーンが以前よりも丸くなったと感じるのは気のせいではないだろう。彼女なりの気遣いであると気付いていながら、毒を吐いてしまう自分が情けない。

 

「食欲が増す要因としては睡眠不足や栄養失調、生理などが代表的ですが……一番の原因はやはり、ストレスでしょう」

「……ごめん、甘味の誘惑に敗北した心境を正当化してるようにしか聞こえないんだけど」

「食べることで不安や不満を解消出来るなら、それに越したことはありませんわ」

 

 アタシの場合、ストレスを発散するという意味で絵を描くことは少なくない。

 

 嫌なことを全部忘れて何かに打ち込む感覚というのは、存外とても心地良い。その影響でみるみる絵が上達してしまったのは、少し複雑な気持ちだが。

 

「……お互い、面倒なものを抱え込んでしまいましたわね」

 

 アタシの隣で膝を抱え、天を仰いで深いため息をこぼすマックイーンの横顔を盗み見る。

 

 どんな場所でも毅然とした態度を崩さないマックイーンが、ぽつりと弱音をこぼす。

 

 そんな彼女の姿を見るのは、随分と久しぶりだ。

 

「ドーベル、焦る必要はありませんよ。誰かと比較する必要もありません。あなたの活躍はこれからなのですから」

 

 アタシはマックイーンから激励の言葉を貰う。

 

「そして、その活躍のためには私達ウマ娘を支えて下さるトレーナーの存在が不可欠です。先程の言動は、あなたと真摯に向き合おうと努力されている彼に対する侮辱に他なりません」

 

 アタシはマックイーンから叱りの言葉を受け取る。

 

「明日、トレーナーさんに謝罪しに行きましょう。安心して下さいな、この私が同伴して差し上げます」

「……一人で行く」

「そうですか」

 

 言質は取りましたよと、アタシの隣でマックイーンがいたずらに微笑んだ。

 

「日も暮れかけているので、私はこれで失礼します」

「そういえばマックイーンってさ……トレーニングの後、いつも一人でどこかに行ってるよね?」

「ええ、メジロ家の療養施設に。知っていますか? おばあ様のご厚意によって療養施設に増設されたターフが、一ヶ月ほど前に完成したそうです」

 

 私にはあまり関係ありませんが……と、苦笑を浮かべながらマックイーンが言う。

 

 療養施設一帯はメジロの私有地で、ターフを増設する程度の敷地はあるのかもしれないが……そんなアクセスの悪い場所にターフなんか作って、おばあ様達は一体何を考えているのか。

 

 少なくとも、アタシには関係のない話だ。

 

「ふぅーん……でも、わざわざ施設に行ってどうするの?」

「メジロのウマ娘たるもの、プロポーションは常に完璧であるべきです」

「何それ、ただのダイエットじゃん。でもそれなら別に、学園のトレーニング施設を使えば良くない?」

「そんなことをすれば、噂になってしまいますので。メジロの淑女たるもの、常に陰の努力を怠ってはなりません」

 

 ジャージについた土埃を軽快に払うと、マックイーンは相変わらずイタズラな笑みを浮かべてアタシの元から去っていった。

 

 あれだけうるさかった状態からマックイーンがいなくなるだけで、すぐに静寂な空間へと元通りになる。

 

──お互い、面倒なものを抱え込んでしまいましたわね。

 

 今度は、つい先程マックイーンのつぶやいた言葉がアタシの脳裏に浮かんできた。

 

 マックイーンは現在、ウマ娘にとって不治の病と呼ばれる繁靭帯炎を患っている。その症状は一旦回復したとのことだが、今も変わらず再発という恐怖に苛まれているはずだ。

 

 アタシの悩みが容易く霞んでしまうほど重い問題を抱えて、どうして彼女には他人を気遣う余裕があるのだろう。

 

 アタシとマックイーンの、一体何が違うのだろう。

 

 同じ血を引いて生まれ、同じ環境で育ち、同じ道を歩んできたはずなのに。

 

「誰か、教えてよ……」

 

 空に問いかけても答えは返ってこない。

 

 しかし現状でただ一つ、こんなアタシにも分かることがある。

 

 こうして膝を抱えていては、その答えを探しに行くことなんて出来ない、ということだ。

 

 もうすぐ西に日が沈む。

 

 冬の夜風に晒されて平気と言い切れるほどの情熱が、今のアタシの心には残っていなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 業務復帰初日からチームを崩壊に追い込んでしまうような失態を犯した俺は、今朝から一転して憂鬱な思いを抱えながら荷物をまとめていた。

 

 仕事道具を鞄にしまいながらも、頭の中ではずっと反省会が続けられている。

 

 配慮が足りなかっただの、思春期の女性をもっと理解しろだの、言葉遣いには気をつけろだの。

 

「……はぁ」

 

 俺はかつて、世界的なアイドルウマ娘として一斉を風靡した”星”のミライを育てたトレーナーだった。

 

 昔の教え子に対する晴らしようのない後悔はこの際置いておくとして、やっぱりウマ娘を育成する手腕にはそれなりの自信があった。

 

 だがしかし、こうして育成が成立しない状況を生み出してしまっている辺り……その自覚は驕りであったと言わざるを得ないだろう。

 

 ミライ、ダイヤと育成ウマ娘を担当し、チームのサポーターとしてマックイーンを迎え入れ、ドーベルの移籍を承諾した。

 

 そういえば……俺が今まで担当してきたウマ娘はみな聡明で、指示に対して素直に従ってくれる温順な者ばかりであった。

 

 彼女達とは対照的に、ドーベルの性格は言ってしまえば反抗的で警戒心が強い気性難。男性に対する極度の苦手意識も相まって、その傾向には拍車が掛かっている。

 

 それらの前提を踏まえれば。

 

 ダイヤやマックイーンに接するときのような態度で育成にあたれば、ドーベルから不満が飛んでくるのは当然のことだ。

 

 今更後悔しても遅いが……もう少し、もう少しだけ俺は彼女に寄り添うことが出来たのではないだろうか。

 

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ……と、誰か偉い人が常々口にしていたような気がする。これに倣うと、俺は考えるまでもなく愚者一択であろう。

 

 まぁ、後悔して学べたものがあるのなら、それはそれで良いのかもしれないが……。

 

 俺は部室の戸締まりを確認し、最後に電気を消して部屋を出ていく。

 

 仕事場から離れた後も、俺の頭は彼女達のことでいっぱいだ。

 

 ドーベルに対する謝罪を考えるのはもちろん、ダイヤの新しいトレーニングメニューを考案する必要だってある。加えて、マックイーンにもトレーナーとして必要な知識や技術を余すことなく授けなければならない。

 

 さらに学園から回される事務作業と、それとはまた別個でレースへの出走登録やトレーニング施設の使用申告書の提出、備品の整備に加えて病院での経過観察も……うぅ。

 

 いや、無駄にタスクを並べるのはやめよう。

 

 やることが多すぎて、億劫になってしまいかねない。

 

 俺は自分の意志でこの世界に戻ってきたんだ。

 

 今を歩むと覚悟を決めたのだから、弱音なんて吐いている場合ではない。

 

 冬の季節は日が沈むのも早く、まだ十九時前だというのに辺りは随分と暗い。トレセン学園の敷地には至る所に照明灯が設置されているとはいえ、太陽の光が無いといくら着込んでも肌寒さを感じてしまう。

 

 早く寮に戻って明日に備えようと、俺は足早に校門を通り抜けた。

 

 

 

 

 

「──お。ようやく来たな、新人」

 

 

 

 

 

 その時である。

 

 この肌を刺すような寒さの中にも関わらず、校門の隅で佇んでいる男性の姿が俺の視界に映り込んだ。

 

 その男性の容姿には、心当たりがあった。

 

「あぁ、さっむ……」

 

 癖毛を背後で束ね、左側頭部を刈り上げた特徴的な髪型の渋めな中年男性が、きょとんとする俺の元へと近づいてくる。

 

 黄色の派手目なワイシャツと黒のジャケットを着こなし、棒付きの飴を口で転がしながら、チーム・スピカを監督する沖野トレーナーが目の前に立った。

 

「ご無沙汰しています、沖野トレーナー」

「半年ぶりだな、新人。諸事情で突然休職って聞いていたけど、元気そうで安心したぜ」

 

 結構インパクトのある見た目だが、沖野トレーナーは意外と気さくな人である。

 

「しっかし驚いたよ。半年前に阪神レース場で出会った新人がまさか、”星”のミライを育てたトレーナーだったなんてな」

 

 沖野トレーナーと初めて対面したのは半年前。

 

 メイクデビューに臨むダイヤを引率するために訪れた阪神レース場でばったりと出会い、軽く会話を交わした程度の関係である。

 

「とんでもねぇヤツがやって来たって、当時は俺達トレーナーの間でも話題になってたんだぜ?」

 

 俺に注目の眼差しを向けている対象はどうやら、トレセン学園に在籍する生徒達だけでは無いようだ。

 

「そう、ですか……」

 

 確かに、学園関係者が一堂に会する始業式では、立場に限らず大勢の人達から注目を集めてしまっていたような気がする。

 

「えっと、それで……沖野トレーナーは何故、このような場所に?」

「そんなに畏まるなって。歳はともかく、指導者としての手腕は新人の方が上なんだからな……ん? となると、新人って呼ぶのはまずいか?」

「いえ、新人であることに変わりはないので……では、沖野トレーナーのことは今後、沖野先輩と」

 

 俺は沖野トレーナー──沖野先輩に対して、どうしてこんな場所にいたのかと尋ねる。

 

 彼の返答曰く、どうやら俺が仕事を切り上げる瞬間をずっと待っていたのだそうだ。

 

 その理由を、沖野先輩はこう語る。

 

「半年前、俺の教え子が迷惑をかけちまっただろ? 以前は軽く頭を下げることしか出来なかったから、しっかりと謝罪するべきだと思ってな」

 

 そう言って、沖野先輩が深く頭を下げた。

 

「あの出来事が新人の辛い過去を呼び覚ますきっかけになっちまったのだとしたら、俺はその責任を取る必要がある」

 

 彼はおそらく、チーム・アルデバランに所属していた俺の経歴を調べる過程で、過去の出来事を知ったのだろう。

 

 過剰な管理主義を掲げていた俺の背景に触れてしまったせいで、彼は不要な責任を感じてしまっているようだ。

 

「いえ、あの騒動の原因は俺自身にありますから。むしろ俺が改めて、危害を加えてしまったあの子に……」

「それじゃあ俺の気が済まない」

「…………えっと」

 

 今朝にもトレセン学園の生徒と似たようなやり取りをした覚えがある。

 

 その際は時間の関係やら何やらでうやむやになってしまったが、今回ばかりはそうもいかない。

 

「あ、あの、顔を上げてくれませんか……?」

 

 こうなってしまえば、お互いの罪悪感がぶつかり合って会話は平行線だ。

 

「それは出来ない」

 

 自身の過ちを沖野先輩の責任として水に流すつもりは毛頭ないけれど、それは彼とてきっと同じ。

 

「……じゃ、じゃあその……先輩の言う、責任の代わりと言ってはアレなんですけど」

 

 沖野先輩にこれ以上責任を感じさせないために、俺は頭を下げ続ける彼に対して提案を持ちかけた。

 

「悩みごとを、聞いてくれませんか……? 教え子と、その……対面初日に揉めてしまって」

 

 このまま一人で悩みを抱えていても、その解決の糸口を見出せる気がしない。

 

「悩み、か……」

 

 先輩はトレセン学園でもトップクラスの実力者を統率するチーム・スピカのトレーナーだ。

 

 そんな彼に悩みを打ち明ければ、何か良いアドバイスをしてくれるかもしれない。

 

「分かった。聞くよ、新人の悩み」

「本当ですか……っ」

 

 おもむろに姿勢を元に戻した沖野先輩は、俺の提案を快く受け入れてくれた。

 

「新人。この後、時間あるか?」

「え、ええ……沖野先輩は、大丈夫なんですか?」

「善は急げって言うだろ? それに元々、新人と話がしたくて待ってたわけだし……あ、そうだ」

 

 沖野先輩は俺に一言断りを入れると、ポケットにしまっていたスマホを手に取り、画面を操作する。

 

 しばらくして、スマホに向けられていた沖野先輩の視線が俺の方へと戻ってきた。

 

「新人。もし良かったら、俺の同僚を誘っても良いか? 悩みの相談なら、俺よりも彼女の方が向いていると思ってな」

「自分としてはありがたいですけど……相手の都合は大丈夫なのでしょうか?」

「ああ。実はその同僚も、新人と接点を持ちたがっていたんだよ。指導者としての実力は確かだから、きっと新人の力になってくれると思うぜ」

「ありがとうございます、沖野先輩」

 

 途方に暮れていた俺は素直に沖野先輩の厚意に甘え、彼の申し出にお礼を述べる。

 

「んじゃ、そろそろ場所を変えよう。こんなところで突っ立ってたら、風邪を引いちまうからな」

 

 俺は沖野先輩の後に続いて、街頭で照らされた舗装路を歩いていく。

 

 そういえば、トレセン学園に勤務してから他のチームのトレーナーと接点を持つのは今日が初めてだ。

 

 それを自覚した途端、何故だか激しい緊張を覚えて手汗が止まらなくなってしまった。



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33:指導者の苦労

 沖野先輩に連れられてやって来たのは、トレセン学園からしばらく移動したところにある彼行きつけのバーであった。

 

 店内はモダンな雰囲気に包まれた静謐な空間で、少数の先客が各々の時間を満喫している。まさに、大人の隠れ家といった印象だ。

 

「何にも聞かずに連れて来ちまったが……新人、酒は飲めるか?」

「大丈夫です。嗜む程度ですけど」

 

 俺と沖野先輩は店内のカウンターテーブルに腰掛け、それぞれメニュー表の目に留まったドリンクを注文する。

 

 そういえば、最後にお酒を飲んだのはいつ頃だっただろう。少なくとも、ダイヤと再会を果たした日以降は一度も口をつけていない。

 

 久しぶりであることを自覚した途端、何故だか無性に緊張してしまう。

 

「さっき誘った俺の同僚なんだが……仕事が長引いたらしくて、到着まで少し時間が掛かるらしい。俺だけでよければ、早速悩みを聞くが?」

「ありがとうございます、沖野先輩」

 

 沖野先輩の同僚の方が到着するまでの間に、俺は自身の抱えている悩みをぽつり、ぽつりと彼に対して打ち明け始める。

 

 俺が悩みごとの全てを吐露し終えるまで、沖野先輩は何も言わずに耳を傾けてくれていた。

 

「……なるほど。担当ウマ娘が掲げる目標と、距離適性のギャップか。新人はそれを指摘して、仲違いに発展しちまった……と」

「彼女とは今日が初の対面だったので、仲違い……というのは少し、語弊があるかもしれませんが」

「まぁ、よくある話だよな。大きな夢を掲げる担当ウマ娘に対して、距離適性っつう現実を突き付ける場面は絶対に訪れる。その瞬間に教え子との関係が悪化しちまうのは、珍しいことじゃない」

 

 俺が抱えている悩みは決して特別なものではない。

 

 トレーナーであれば誰もが一度はその壁に突き当たる、ありふれた悩みごとである。

 

「たまに忘れがちになるが、俺達が名乗ってる『トレーナー』っつうのは仕事なんだよ。仕事である以上担当ウマ娘を勝利へ導く義務があるし、彼女達に結果を残してもらう必要だってある」

 

──要はバランスなんだよ──と、沖野先輩は語った。

 

「担当ウマ娘の夢は最優先で叶えてやりたい。それは、俺達トレーナーの性ってもんだ。だが、距離適性を無視してでも夢を追わせてやるのは現実的じゃないし、無責任だ」

 

 担当ウマ娘の夢に寄り添う姿勢と、担当トレーナーとしての責任を全うする姿勢の()()()()

 

「こういう風には言いたくないが……汚い話トレーナーの仕事ってさ、担当ウマ娘の適性に合った夢を見繕って、当初の夢とすり替えるような側面があるんだよ」

 

 担当ウマ娘の適性に応じて目標を指し示し、言葉巧みに彼女達を誘導して、現実味のある新しい夢を提供する。

 

 そうすればウマ娘は適性という壁で夢を失わず、トレーナーは彼女達の夢に寄り添い、職業としての責任も果たすことができる。利害が一致するのだ。

 

「結果を残す優秀なトレーナーは、総じてそれが上手なんだ。担当ウマ娘が当初抱いていた夢を、適性に見合った夢に塗り替える。彼女達のモチベーション管理を完璧にこなしながらだ」

「……なるほど」

「新人の指摘は間違っちゃいねぇ。無責任に夢を追わせず、適切な形で現実と向き合わせるのは指導者として当然の義務だ。今回の状況だと、それを指摘する時期がちっとばかし早かっただっただけさ」

 

 理想的な夢から、現実的な夢にすり替える。

 

 本来であれば両者の間に信頼関係が構築されてから行うはずのそれを、俺は相手のことを何も知らない初対面の状態から行ってしまった。

 

 ウマ娘の才能を、言い換えれば彼女達の適性を瞬時に見出す“体質"を補うことに意識を取られ過ぎて、俺は必要な過程をすっ飛ばしてしまったのだ。

 

「ただまぁ、夢をすり替えるってのは気持ちの良いことじゃねぇ。俺達に担当ウマ娘の理想をそのまま追わせてやれる手腕があれば、それに越したことはない」

 

 沖野先輩の口からこぼれた理想は、ウマ娘の夢に寄り添うトレーナーなら誰もが抱く葛藤だ。

 

 理想的な夢を心の底から追わせてあげたい気持ちと、現実的な夢を提示しなければならない責任がせめぎ合い、妥協点を見出すことに囚われる。

 

 ウマ娘達が理想と現実のギャップに苦しむように。

 

 俺達トレーナーも、本心と責任のギャップを抱えながら日々の指導に当たっている。

 

「……ウマ娘達の夢が潰える瞬間ってさ、何も適性が判明した時だけに生じるわけじゃねぇんだよな」

 

 一拍置いて現実を語る沖野先輩の横顔からは普段の気さくさが抜け落ち、どこか憂を帯びた表情に変化していた。

 

「担当トレーナーにありつけず、そもそも選手としての実力が足りないとき。夢の舞台であるレースで敗北したとき。一番えげつないのが、夢の実現に手が届く瞬間に……怪我をしたときだ」

 

 頬杖をついてため息をこぼす沖野先輩が、どこか遠くを眺めながら言葉をこぼす。

 

「怪我で夢を諦めるウマ娘を、俺は数えきれないほど見てきた。教え子が怪我を乗り越えてもう一度夢を抱くことが出来るなら、俺は全力で彼女達を支える。だがその怪我が、競走能力の喪失に等しいものだった場合は…………」

 

 沖野先輩の言葉に重みを感じてしまうのはきっと、彼自身の経験に基づくものなのだと理解してしまったから。

 

「…………いや、これ以上はもうやめよう」

 

 沖野先輩は、少し話が脱線してしまったと謝りながら頭を掻いた。

 

 次の瞬間、彼の身体にまとわりついていた重たい雰囲気が嘘のように吹き飛んだ。

 

「まぁなんだ。やっぱアレじゃね? 複雑な乙女心を理解することから始めるとか?」

「ええ……」

 

 沖野先輩の口から出てくる言葉が、急に俗っぽくなった。

 

「良いか新人。ウマ娘って種族はな、先天的に自己顕示欲が強い傾向にあるんだ」

 

 まるで他言無用の裏技を紹介するように、沖野先輩の声量が小さくなる。

 

「まずは担当ウマ娘と親交を深めるキッカケを作れ」

「親交を深めるキッカケどころか、第一印象からマイナスに振り切っているんですが……」

「なら、振り出しに戻るところからだな。安心しろ、大体俺もこのパターンから始まる」

「沖野先輩、どうやってウマ娘をスカウトしてるんですか……?」

 

 何も安心できないどころか、沖野先輩のドヤ顔は不安を煽る要素でしかない。

 

「トモを触る。じっくりと、慈しむように、隈なくだ」

 

 俺はもしかしたら、相談する相手を間違えたのかもしれない。

 

……いや待て。最初にウマ娘の身体に触れると言う意味では、俺も沖野先輩と大して変わらないのではないだろうか?

 

「最悪な出会いを経て好感度がマイナスに振り切ったら、最初に敵意がないことを示す。次は、彼女達の自己顕示欲を軽く刺激してやるんだ。その後はな……」

 

 話し方は胡散臭いのに、それでも俺は何故か沖野先輩の言葉に耳を傾けてしまう。案外理にかなったプロセスと、経験に基づいたその根拠を丁寧に説明してくれるものだから、不思議と納得してしまった。

 

 それが無性に悔しいと感じてしまったのは、きっと気のせいだ。

 

「……とまぁこんな感じで進めていけば、好感度は振り出しに戻るはずだ。好感度が振り出し以上になるかは今度の努力次第だが、少なくともマイナスに振れることはないだろう」

 

 一度どん底を経験しておけば、確かにそれ以上好感度が下がることはないとは思う。

 

「なるほど」

「総括すると、担当ウマ娘の好感度を元に戻す過程を経ることによって、晴れて彼女達の悩みに寄り添う資格を手に入れるっつうわけだ」

 

 話の締めくくり方は少々強引だったが、参考にできる部分は多々あった。

 

「ありがとうございます、沖野先輩」

 

 これまで一人で抱え込んでいた苦悩を他人に打ち明けたおかげか、以前よりも随分と気が楽になったように感じる。

 

 マイナスに振り切れてしまったドーベルの好感度をどうやって戻していくのかについては、さらに検討を重ねる必要があるだろう。

 

 俺は一旦マスターから提供されたお酒に口をつけて、アルコールが身体にまわる感覚を懐かしむ。

 

「しかしまぁ、驚いたよ。かつて世界を獲ったチーム・アルデバランを率いるトレーナー様も、こんな普通な悩みを抱えてるんだなってさ」

「自分は別に、超人でも何でもないですよ。最初に面倒を見ていた教え子の才能に、寄生していただけです」

 

 トレセン学園に勤務するようになってから、抱えた悩みが完全に晴れたことはない。それどころか、発散する間も無くひたすら蓄積していくばかりだ。

 

「運も実力の内ってことじゃねぇか? ダービーみたいに」

「日本ダービーを制覇するウマ娘には必ず、相応の実力が伴っていますよ。一緒くたにするのは、彼女達に失礼です」

「たとえ運だったとしても、少しは自分に自信を持っても良いと思うぜ? 腰が低いと教え子に舐められる。ワガママなんて言われたい放題だ」

 

 沖野先輩が率いるチーム・スピカに集うウマ娘達は確か、非常に癖が強いことで有名だ。

 

「沖野先輩のチームメンバーって結構、個性的な生徒達が多いですよね」

「ああ、とんでもねぇヤツらばっかりだ。せっかくだから教えてやるよ。ついでに今の悩みも聞いてくれ」

 

 不満をこぼす沖野先輩の声音は不思議と明るく、表情からこぼれる笑みを隠しきれていない。

 

「そもそもゴールドシップは論外だ、あいつの奇行は俺の手に負えん。スズカは目を離すとすぐに走り出すし、スペはずっと何か食ってやがる。この前の新年会なんて俺の自腹だぜ? あいつら無尽蔵の食欲を隠すことすらしねぇ。少しは慎みっつうもんを覚えてほしいよマジで。おかげで財布が今日も空だ」

「会計どうするんですか?」

「……新人」

 

 平然と後輩をたかる沖野先輩に呆れながらも、俺は相談のお礼ということで仕方なく了承した。

 

 俺が軽々しい沖野先輩の態度を憎めないのは、きっとこのフランクなやりとりが彼なりの気遣いであると、心のどこかで勘づいているからなのだろう。

 

「でも……わがままなウマ娘と言ったらやっぱ、テイオーが真っ先に頭に浮かぶよ」

「トウカイテイオー、ですか?」

 

 彼女は今朝、生徒会長のルドルフと会話する俺に向かって明朗快活な笑顔で自己紹介をしてくれたウマ娘だ。

 

「テイオーの場合、“皇帝“シンボリルドルフに対する憧れが強くてな。無敗の三冠ウマ娘っつう夢へのこだわりは凄まじかったよ」

 

 沖野先輩の担当ウマ娘であるトウカイテイオーは確か……日本ダービー出走後に骨折が判明し、菊花賞の出走を断念せざるを得なかったと聞いている。

 

「菊花賞以降、テイオーとはちっとばかしギクシャクした関係が続いていてな。結構、気まずいんだよ…………はぁ。()()()俺は、一体どうするべきだったんだろうな……」

 

 俺の悩みに親身になってくれた沖野先輩自身も、担当ウマ娘との向き合い方に葛藤を抱えているようだ。

 

「無敗の三冠ウマ娘になる夢は叶わなかったが、レースに対するこだわりは相変わらずでさ。一度出走するレースを決めたら、テイオーは聞く耳を持たずに一直線。そして……蓋を開けてみれば復帰戦でまさかの一着。とんでもねぇヤツだよ」

 

 トウカイテイオーが復帰戦の舞台に選択したのは、シニア級最長距離のGⅠ重賞──天皇賞(春)。

 

 復帰明け、加えて経験のない長距離レースということも相まって、正直厳しいのではないかという意見が一般的だった。

 

 しかし、実際に天皇賞(春)に出走したトウカイテイオーは鬼気迫る勢いで他者を圧倒し、見事春の王座に君臨した。

 

 トウカイテイオーの無敗記録は止まることを知らず、今度は秋に開催された天皇賞の盾をレコードタイムで奪取。

 

 無敗で天皇賞春秋制覇という前代未聞の偉業を成し遂げたトウカイテイオーの快進撃は凄まじく、シニア級二年目に突入して以降も破竹の勢いは健在だ。

 

「俺はテイオーが天皇賞(春)に出走することに対して、正直反対だった。テイオーの本質は中距離だ。それなのに長距離GⅠレースを復帰戦に選ぶなんて、いくらなんでも分が悪すぎるってな」

 

 勝算の乏しいレースに二つ返事で出走を許可することは出来ない。仮に俺が沖野先輩の立場だったとしても、同様の選択をするだろう。

 

「だがアイツは俺の反対を押し切って出走し、一着を掴み取った。……それ以降、俺はテイオーに対して何も言えなくなっちまった」

 

 トウカイテイオーが天皇賞(春)を制覇してからというもの、沖野先輩は彼女のわがままを黙認し続けている状態なのだそうだ。

 

「……俺も、新人の抱える悩みがよく分かるよ」

 

 深いため息をつく沖野先輩に対して、俺はかける言葉が見つからない。

 

 自身の適性に悩みながらも夢を諦めない担当ウマ娘の表情が、俺の脳裏をよぎる。

 

「はぁ……俺の癒しはもう、新入生のキタサンだけだ」

 

 沖野先輩の口から不意に溢れた名前を聞いて、俺の鼓動がわずかに跳ねる。

 

 あの出来事から半年経った今でも、あの子に対する負い目は消えていなかったようだ。

 

「ただ最近のキタサンは何故か、調子を落とし気味なんだよなぁ。トレーニングにもあまり顔を出さなくなっちまったし」

「あの、それってもしかしなくても、自分が原因なのでは…………?」

「いんにゃ? それは絶対違うって頑なに否定してたし、考えすぎだろう」

「そう、ですか……」

 

 あの快活な子が調子を著しく落とす理由が俺以外にあるのだとしたら……何か、考えられる要因はあるのだろうか。

 

「そういえば、先月のホープフルステークスに出走していましたよね」

「ん、ああ。惜しくも二着だったけどな」

 

 長期入院の影響で鈍った指導の勘を取り戻すために視聴していたウマチューブの動画に偶然、勝負服を身にまとった彼女が映っていたことを思い出す。

 

 ジュニア級からGⅠレースに出走し、結果を残すウマ娘なんてほんの一握りだ。

 

 あの子の走りを直接見たのは選抜レースだけであるが、半年経った今でも、素晴らしい足を持っていると感じさせる走りは健在であった。

 

「調子が良ければ一着も十分狙えたんだが……あいつは、不調の原因を誰にも打ち明けてくれないんだ。一人で抱え込んで、それでも笑顔を絶やさないから……そのせいで、踏み込むに踏み込めないんだよな」

 

 俺は、キタサンブラックの育成を担当しているわけではない。

 

 だから、残念だけれど……。

 

「……」

 

 俺が彼女にしてあげられることは現状、何も無かった。

 

 実際に彼女の走りを確認すれば不調の原因を探ることが出来るかもしれないが……はっきり言って、それは悪手だ。

 

 沖野先輩は指摘を濁していたが、彼女が抱える不調の原因は十中八九、過去に問題を起こした俺にあると考えるのが妥当だろう。

 

 そんな俺が彼女に近づけば、事態を複雑にして更なる不調を招いてしまうことなど目に見えている。

 

「……不調を脱するきっかけとしては、あれですけど」

 

 でも、彼女に対する負い目があるのも事実で。

 

 不調に苦しむ彼女の力になってあげたいという気持ちも当然あった。

 

「脚質を変えてみるのはどうでしょう。あの子の足なら、逃げや先行辺りも器用にこなせそうですが」

 

 キタサンブラックの走りを直接指導することはもう出来ないけれど、沖野先輩を介して間接的に彼女の役に立ってくれたら良いなという想いで、俺は色々と意見を出してみた。

 

「俺もそう思ってキタサンに提案したんだが……あんまり、しっくり来なかったそうでな」

「そう、ですか……。でしたら、目的意識を明確にしてみるというのは?」

「俺もモチベーションを向上になると思って、新年会で今年の具体的な目標を書き初めさせたんだよ」

「なるほど……」

 

 不調脱却のきっかけとなる意見をいくつか出してみたが……俺の意見はどこまで行っても一般的で、そのほとんどが実施済みの内容であった。

 

「…………すみません。自分の手腕では、あの子の力になれないみたいです」

 

 罪滅ぼしすらろくに出来ない自分自身が情けなくて、俺はため息を我慢することが出来なかった。

 

「いんにゃ、色々とありがとな。もう一度、新人の意見を参考にしてやってみるよ」

 

 その後は沖野先輩とウマ娘の育成論やトレーニングに関する意見を交換しながら、時間を過ごしていった。

 

 沖野先輩は自身の教育理念として、ウマ娘の自主性を尊重した放任主義に近いものを掲げている。

 

 俺には無い視点に立った彼の指導方針は非常に興味深く、参考に出来る箇所も数多くあった。

 

「……なぁ、新人。つかぬことを聞くが」

「何でしょうか?」

 

 そして大体、二十分が過ぎた辺りだろうか。

 

「その、あいつが何か──」

「──ごめんなさい、待たせたわね」

 

 カウンターに腰掛ける俺達の背後から、凛々しい雰囲気を身にまとった女性の声が掛けられた。

 

「ああ、おハナさん。遅かったじゃねぇか」

「担当のリハビリに付き合っていたのよ。私が見ていないと、あの子はすぐに無茶をするんだから」

 

 沖野先輩と気さくに会話する女性トレーナーの容姿には、心当たりがある。

 

 グレーのパンツスーツを完璧に着こなし、切長な双眸から知的な印象を感じさせるクールビューティーな辣腕トレーナー──東条ハナ。

 

「新人、紹介するよ。彼女がさっき言ってた俺の同僚、おハナさんだ」

「初めまして、新人君。あなたの活躍は常々耳に入っているわ」

 

 トレセン学園最強と謳われるチーム・リギルを監督し、超一流の育成手腕をもって多くの名ウマ娘を輩出してきた東条トレーナーだが、そういえば今日まで彼女と接点を持ったことが無かった。

 

「よろしくお願いします、東条トレーナー」

「彼が新人と呼んでいたから私も同じように呼んだけれど、さすがに失礼が過ぎるわよね。気を悪くしたらごめんなさい」

「いえ、新人という立場にあるということは事実ですので」

 

 東条トレーナーは俺の左隣の席に腰掛け、こちらに視線を向けてくる。

 

「あなたとは以前から一度、話をしてみたいと思っていたの。この場に招いてくれたことを感謝するわ」

「いえ、こちらこそ嬉しいです」

「新人君から悩みの相談があると彼から聞いていたのだけれど……その様子だと、既に解決してしまった感じかしら?」

 

 解決に至ったわけではないが、俺に蓄積されていたわだかまりはだいぶ発散されたと思う。

 

「はい。沖野先輩のおかげで気持ちが軽くなりました」

「なら良かった。私達は仕事柄ストレスを溜め込みやすいから、愚痴の一つぐらいこぼさないとやっていられないわよね」

「東条トレーナーも、担当ウマ娘と揉めることが?」

「私の指導スタンスだとどうしても、教え子達から反感を買ってしまうことが多くて……。それに、メンタルケアの分野に関しては苦手なのよ」

 

 この業界の大ベテランである東条トレーナーも、こんな俺と全く同じような悩みを抱えているのか。

 

「大きな怪我を抱えて、夢を諦めざるを得なくなったウマ娘にどう寄り添うべきか。この難題に対して、私は明確な答えが出せそうもないわ」

「……」

「諦められないから夢なのに、現実を突き付けるのはその夢に寄り添っていた私達だなんて。本当に、損な役回りよね」

「分かる、分かるぜ〜おハナさん。俺もそのやるせない気持ちがじゅ〜ぶんに分かる!」

「私は軽薄なあなたの言動が理解出来ないわ」

 

 聞くところによると、沖野先輩と東条トレーナーはそれぞれ正反対の教育理念を掲げているという。性格も真逆で、その会話からは犬猿の仲を彷彿とさせるほどに、そりが合わないような人達であった。

 

 しかし、そんな二人が同じ空間で酒を交わし、互いのわだかまりを吐き出す程度に親密な関係を築いている。それはきっと、各々の教育理念にある根底や原点が一致しているからなのだろう。

 

「ただ、鬱憤を晴らすだけというには惜しいほど豪華な面子が揃っているわけだし。せっかくなら、生産性のある有意義な会話をしましょう?」

「珍しく気が合うじゃねぇか、おハナさん!」

「世界を獲ったトレーナーの教育論、とても興味深いわ」

 

 沖野先輩曰く、東条トレーナーは普段こそ冷静沈着な態度でいるものの、こうしたプライベートの場ではいくらか砕けた口調に変わるとのこと。

 

 先程から続けていた沖野先輩との会話に東条トレーナーが加わったことで、より濃厚で身になる情報を得ることが出来た。

 

 そして話が進んでいく内にどうやら、全員身体にお酒が回ってきたらしい。各々の担当自慢が始まる。

 

「──今年のクラシック三冠は俺のダイヤのものです。俺はダイヤの夢を叶えて、あの子に恩返しをするんです」

「いんにゃ、クラシックの主役はキタサン一択だ。チーム・スピカ様の日本ダービー三連覇を見せてやるぜ!」

「残念だけど、最後に差すのはチーム・リギルよ。ふふっ、強いわよ? 私のドゥラメンテは」

 

 期待に満ちていたはずの業務復帰初日は、早くも頭を抱えてしまうほどの問題を生み出しての幕開けとなった。

 

 半年前と比べて心に余裕があることは確かだが、それは指導者としての手腕が成長したわけでもなければ、教え子の心境に寄り添える甲斐性が生まれたわけでもない。

 

 俺は果たして、しっかり彼女達と向き合うことが出来るのだろうか。

 

 

 

***

 

 

 

 翌日、俺は普段よりも早い時間帯から学園に出勤し、部室で仕事を進めていた。仕事といっても学園から回される事務ではなく、担当トレーナーとしてのものである。

 

 トレーニングがオフの場合、俺はその時間を利用して今後のスケジュール調整や指導内容の確認をすることが多い。

 

 担当ウマ娘が増えたことで、必然的に個々の教え子に対して注げる時間が短くなってしまう。しかし逆に、担当トレーナーにのしかかる負担は倍増する。

 

 そのため、指導の効率化などといった工夫を凝らさなければ、トレーニングの質の低下に繋がってしまう。

 

 担当ウマ娘各々の目的に最適な指導内容を吟味し、最新の論文や研究、傾向などを参考にした上でトレーニングメニューを考案する。

 

 試行錯誤を繰り返す内にあっという間に時間は過ぎ去り、既に日没の時刻を迎えていた。

 

 そろそろ仕事を切り上げて寮に戻ろうかと考えていると、不意に部室の扉をノックする音が俺の耳に届く。

 

 一体誰だろう。

 

 不思議に思った俺は部室に訪れた人物を確認しようと腰を上げるが、完全に立ち上がる前に扉が開いた。

 

 扉の向こうから現れた予想外の人物を目の当たりにして、俺は言葉を詰まらせてしまった。

 

「……え、ドーベル?」

「………………どうも」

 

 後ろ手に扉を閉めながら、担当ウマ娘のメジロドーベルが俺の様子をおそるおそる窺う。

 

 対面初日から険悪な雰囲気を作ってしまい、俺はどうやって関係を修正していこうかと仕事の傍らでずっと考えていた。

 

 しかし、今日のトレーニングをオフにしたせいで、ドーベルと向き合う心の準備は不完全な状態であった。

 

 担当ウマ娘を前にして狼狽する姿を晒すわけにはいかず、せめて体裁だけは必死に取り繕いながら彼女にかける言葉を探していると……。

 

「………………これ」

 

 いつの間にか、ドーベルは不自然な姿勢のまま硬直する俺の前までやってきていた。

 

 ぼそっと短い言葉を呟いて、ドーベルがデスクの上に何かを置く。

 

「……これは、一体?」

 

 俺の視線が下に落ち、丁寧な包装が施された手のひらより少し大きめな箱に意識が向いた。

 

「……アロマディフューザー。余ってたから、アンタにあげる」

「俺に?」

「……仕事柄、ストレスを溜めやすいと思うから。ラベンダーとか、おすすめ」

 

 ドーベルは続けて包装されたアロマオイルの小瓶をデスクに置いて、用件は済んだとばかりにそそくさと踵を返す。

 

「……それじゃ」

「ま、待ってくれ……っ」

 

 俺は部室から立ち去ろうとするドーベルを慌てて引き止める。

 

「昨日は、その……ごめん。ドーベルの夢を、頭ごなしに否定するような真似をしてしまって……」

 

 可能な限り言葉を選んで、背中を向ける彼女に声をかけた。

 

「……別に」

 

 扉に手をかけるドーベルがこちらを振り向くことは無かったが、耳の動きから察するに、俺の言葉は彼女に届いていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「………………………昨日は……ごめん」

 

 

 

 

 

 

 

 退室間際、ドーベルは消え入りそうな声音の呟きを残して、俺が反応を示す前に部室から去ってしまった。

 

 昨日の出来事に対して、ドーベルも思い悩んでしまうところがあったようだ。

 

 相変わらず山積みの問題を抱えているわけだけれど……それは何も、担当トレーナーの俺だけでは無い。

 

 今後俺には、担当ウマ娘一人ひとりにしっかりと向き合う必要がある。

 

 それと同時に、トレーナーという職業に対して理解を深めることも重要であると痛感した俺は、改めて緩んでいた気持ちをぎゅっと引き締めるのであった。



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34:夢の狭間

 俺の意識が夢の中にあると悟ったのは、既にこの世を去った女の子が隣で屈託のない笑顔を浮かべていたからだ。

 

「──あははっ、また私の勝ちぃ!」

 

 泥まみれのジャージに身を包んだミライが、指でブイサインを作って笑っている。

 

「……ミライ。さすがに大人気ないんじゃないか?」

 

 そんなミライに対して、俺は肩をすくめながらため息混じりの声をかけた。

 

「えぇ〜、でもさ。本気でやらないとマックちゃんに失礼じゃない? 何より本人からの希望なんだし」

「それはまぁ、そうだけどさ……」

 

 俺は隣に立つミライから視線を移し、彼女とは対照的に荒々しい呼吸を繰り返すウマ娘の少女に意識を向けた。

 

 ターフに両膝を突いて必死に息を整えている様子からも分かると思うが、少女はつい先程まで俺の担当ウマ娘であるミライと併走勝負(タイマン)を張っていた。

 

 もっとも、少女の身体は本格化を迎えていないため、結果など一目瞭然であったが。

 

「大丈夫かい? マックイーン」

 

 俺は必死になって呼吸を整える芦毛のウマ娘──メジロマックイーンに声をかけた。

 

「……っ、はぁ、はい…………お気に、なさらず」

 

 日本のトゥインクル・シリーズで活躍するウマ娘を輩出する名門──メジロ家と繋がりを持ったのは、ミライがアメリカクラシック三冠を制覇した直後である。

 

 アメリカニューヨーク州に所在するベルモンドパークレース場で開催されるGⅠ競走──ベルモントステークス。彼女達は『メジロ家定例旅行』という名目で、アメリカクラシック三冠の最終戦に臨むミライのレースを観戦しに現地まで訪れていた。

 

 その際レース場内で迷子になっていたマックイーンと偶然出会い……とても大雑把に説明すると、紆余曲折を経て今に至る、というわけである。

 

 彼女達は定例旅行で二週間ほどアメリカに滞在するらしく、マックイーンと出会ってから既に一週間が経過していた。彼女以外にも四名のウマ娘が訪れていたが、うち三名は本格化を迎えているため各サブトレーナーの元でトレーニングに参加し、残りの一名はミライの幼馴染達と戯れている。

 

 そして、同じくチーム・アルデバランのサブトレーナーである俺の元で走りの特訓をしているのが、メジロマックイーンというウマ娘であった。

 

 当時のマックイーンは十一歳と幼く、身体が本格化の恩恵を受けていないため高負荷なトレーニングを行うことが出来なかった。

 

 なので俺は、比較的負荷のかからない特訓を彼女に施すことにした。具体的には、”走る”ことに対する土台を作ってあげることだ。

 

「マックイーン、君は飲み込みがとっても早いね。一週間前とはまるで別人だよ」

「……ですが。タイムは全く変化していないどころか、遅くなっています」

「大丈夫、焦る必要はないよ。新しいフォームの方が、君の身体に合ってる」

 

 記録が伸びないマックイーン本人は不満そうに顔を顰めているが、俺は自信を持って彼女に言い切る。

 

 マックイーンに新しく授けたフォームの恩恵は、今後彼女に訪れる本格化の身体的変化を想定してのもの。

 

「トレーナーの言う通りだよ! マックちゃん、とっても綺麗に走れるようになってる!」

「ほ、本当ですか……っ」

「うんっ! さっすが、私を担当するトレーナーだけなことはあるね!」

 

 隣で得意になるミライは無視して、俺は汗を流すマックイーンに用意していたタオルを差し出す。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 少し遠慮がちにタオルを受け取って、額から滴る汗を拭き取るマックイーン。

 

 俺は手ぶらになった勢いで、そのまま腕時計に視線を落とす。

 

 現在時刻は十五時と、午後の特訓開始から二時間程度が経過していた。

 

「キリの良い時間だから、一度休憩を挟もうか」

 

 トレーニングほど激しい運動でないとはいえ、長時間の特訓ともなれば身体に疲労が蓄積する。

 

 集中力も途切れがちになるため、怪我を防止するという意味でもメリハリをつけることは重要だろう。

 

 それに、ずっと身体を動かしていたからお腹も空いているはずだ。

 

「ねぇねぇトレーナー。私が昨日お願いした”あれ”、作ってくれた?」

「……作るの、結構大変なんだからな」

「”あれ”?」

 

 俺とミライの会話についていけず、頭上にはてなを浮かべるマックイーン。

 

「ミライに頼まれて、間食用のスイーツを作ったんだ」

「す、スイーツ……っ」

 

 瞳の奥を密かに光らせるマックイーンと、待ってましたと言わんばかりに頷くミライを連れて、俺達は食堂へ足を運んだ。

 

 施設内へは入らず、トレーニング用のターフを一望できるテラス席に腰掛ける。

 

「マックイーンの口に合うかは分からないけれど……」

 

 俺はバッグからスイーツが入った容器を取り出して、取り皿を人数分用意した。

 

「アップルパイを焼いたんだ。良かったら、食べてみて欲しい」

 

 ミライにお願いされて作ったスイーツは、彼女の大好物であるアップルパイ。砂糖で煮たゴロゴロの林檎をカスタードとパイ生地で包んだ、オーソドックスなものである。

 

 俺は取り皿にアップルパイを切り分けて、席につく二人に差し出した。

 

「待ってましたぁ!」

「い、頂きます……」

 

 食欲の赴くままに食らいつくミライとは対照的に、マックイーンは上品な所作でアップルパイを口に運ぶ。

 

 間食用のおやつに選択したアップルパイだが、ミライの好物であるという以外にもちゃんとした意図が含まれている。

 

「良いかい? アップルパイにはとても多くの栄養が含まれているんだ。激しい運動で消費したカロリーを補うだけでなく、疲労回復や免疫力の向上、身体の健康維持やストレスの緩和。身体が何よりの資本である君達ウマ娘にとって、文句の付け所がない食べ物なんだ!」

「むぐ、んむぐ……んんっ。さっふがトレーナー、今日もすっごく美味ひいよ!」

「……」

 

 俺のありがたい知識の共有をまるで無視するようにスイーツを貪るミライを見て、自然とため息がこぼれた。

 

 少しは話を聞いてくれよと内心で小言を吐き出すが、美味しそうにアップルパイを頬張るミライを前にすると、何故だか不思議と微笑みに変わってしまう。

 

 自分が作ったものを美味しいと言って食べてくれるのは、やっぱり嬉しいものだ。

 

 さて、このアップルパイはミライの好みに寄せて焼いたものだが、果たして令嬢たるマックイーンの舌に合うだろうか。

 

 俺はミライから視線を移し、彼女の隣に腰掛けるマックイーンに意識を向けた。

 

「……」

 

 するとマックイーンは何故か、恥ずかしそうに俺から視線を逸らしてしまう。

 

 彼女の目の前には、ミライよりも先に綺麗になっている取り皿がぽつん。

 

 その口元には、アップルパイの食べかすが少しだけ付いていて。

 

「………………あの」

 

 ぷるぷると羞恥心に悶えるような様子で時折こちらに眼差しを向けながら、マックイーンは遠慮がちに口を開いた。

 

「お、おかわりって……ありますか?」

 

 どうやら、マックイーンも俺の作ったスイーツを気に入ってくれたようだ。

 

「ああ、もちろん」

「私も私もっ!」

「はいはい」

 

 三人で仲良くスイーツを食べながら、俺達は普段と変わらない賑やかな一日を過ごす。

 

 この穏やかな夢が少しでも長く続くことを願いながら、俺は過去の記憶に思いを馳せた。

 

 

 

***

 

 

 

 今まで一体、どんな夢を見ていたのだろうか。ふと目が覚めると、そんな疑問が頭に浮かび上がってくる。

 

 意識がとても曖昧で、ぼんやりとした感覚の中。俺は直前まで見ていた景色を思い出そうとした。

 

「……ん、んんぅ…………」

 

 波乱の業務復帰となった初日から約一週間が経過し、少しずつ身体が仕事の感覚を取り戻しつつある頃。

 

 担当ウマ娘との距離感に四苦八苦しながらも、俺は極限まで気を遣うことで何とかトレーニングを成立させ、今日は一週間ぶりのオフである。

 

 担当ウマ娘を増やしたことで身に染みたが、身体にかかる負担は当初の想像をはるかに超えるものであった。

 

 感覚的には、乗算というよりも累乗に近いだろうか。

 

 指数関数的に膨れ上がる疲労を誤魔化して業務に打ち込むも、今のように身体が限界を感じてしまい、業務中に居眠りをしてしまうこともしばしば。

 

 長期入院中にお世話になった主治医から体調管理を徹底しろ、と釘を刺されていたが……気が付いたら業務に没頭してしまい、自分のことを後回しにしてしまっている。

 

 夢を追いかける担当ウマ娘の支えになりたくて、理想と現実のギャップに苦しむ担当ウマ娘の力になりたくて。

 

 教え子達のためになるのなら、ついつい自分のことなど二の次に。

 

 過去に壮絶な挫折を経験して、一度は嫌気が差したにも関わらず真剣に取り組んでしまうあたり、どうしようもないなと苦笑を浮かべてしまう俺であった。

 

 デスクに突っ伏した身体を上げて、業務の続きに取り掛かろうとした時。

 

「……?」

 

 俺の肩の辺りから、温もりのある何かがするりと滑り落ちた。

 

 地面に広がったものを手にとって、俺はそれが何かを確認する。

 

「……ブランケット? 一体、誰が……」

 

 俺の肩にかけられていたのは、部室に備え付けてあったブランケットであった。

 

 今日のトレーニングはオフにしており、ミーティングも予定していない。部室には俺一人のはずだが、一体誰が俺にブランケットをかけてくれたのだろう。

 

「──お目覚めですか?」

 

 寝ぼけ眼を擦りながら室内を見渡すと、その正体はすぐに分かった。

 

 彼女はいくつかある椅子の一つに背筋を伸ばして腰掛け、上品な所作で読書に耽っていた。

 

 俺が目を覚ましたことを確認すると、彼女は手にしていた本をパタリと閉じてこちらに微笑みを向ける。

 

「……マックイーン?」

 

 既に朧げになっている先程の夢に出てきた少女と、椅子に座る担当ウマ娘の面影が重なる。

 

 メジロマックイーン。

 

 将来トレーナーになることを志し、サポーターとしてチームを支えてくれている立派なウマ娘。

 

「暖房が付いているとはいえ、何かを羽織らなければ風邪を引いてしまいますよ」

 

 どうやらこのブランケットは、マックイーンがかけてくれたものであったようだ。

 

「ありがとう、マックイーン」

「少々、根を詰めすぎではありませんか? 頑張ることは素晴らしいですが、身体を壊してしまっては元も子もありません」

「返す言葉がないよ」

 

 ブランケットを畳みながら、俺を咎めるマックイーンに言葉を返す。

 

 チラリと横目で時計を確認すると、時刻は既に二十時を回っていた。俺は一体、何時間居眠りを続けていたのだろうか。

 

「マックイーン。わざわざオフの日に部室に来るってことは、何か用事があったんじゃないか? もしかして……けっこう待ってた?」

「いえ、昨日部室に忘れ物をしてしまったので。それを取りに来ただけです」

「じゃあどうして、こんな時間まで?」

「トレーナーさんがあまりにも無防備でしたので、私が見守っていて差し上げようかと」

 

 くすりと微笑むマックイーンを前にして、俺は無性に恥ずかしくなって視線を逸らした。

 

「トレーナーの業務が多忙であることは重々承知ですが、しっかりと休息を挟んでいますか? 食事や睡眠は十分に摂れていますか?」

「……う」

「その様子を見る限りでは、聞くまでもありませんわね」

「じ、自炊もしてるし、ちゃんとベッドの上で寝てる。何も問題はない」

「言い訳は結構です」

 

 ちょっと圧が強いマックイーンに気圧され、俺は肩身の狭い思いを感じてしまう。

 

「休職されていた期間の埋め合わせをしようと、必死に努力されているのは理解できます。サトノさんが出走するきさらぎ賞まで三週間を切り、気性難のドーベルを担当してくださっているわけですから、大変であることも重々承知です」

 

 ため息をこぼしながら、マックイーンは俺が居眠りをしていたデスクの前までやってくる。

 

「……ですが、それとこれとは話が別です」

「……おっしゃる通りで」

 

 これ以上仕事を続ければ、俺はマックイーンにキツく叱られてしまうかもしれない。

 

 端正な容姿から繰り出される鬼の形相を前に業務を継続出来るほど、俺の肝は据わっていなかった。

 

「どうしても休息が取れないというのでしたら……トレーナーさんを特別に、メジロ家の別荘へご招待しましょう」

「べ、別荘……?」

「本土から離れた無人島を開拓した、豊かな自然が溢れる素敵な別荘です。疲弊した心身を休ませるには、うってつけのスポットです。いかがですか?」

 

 その提案はつまり、島流しということだろうか?

 

「い、いや……遠慮しておこうかな」

「……そうですか」

 

 マックイーンの提案を断ったことで、少ししょんぼりしたように彼女の耳が前に垂れた。

 

「こ、コーヒーでも淹れて一息つくことにするよ」

「ではその間、私がトレーナーさんの話し相手になって差し上げます」

「そこまで気を遣ってくれなくても良いんだけど……」

「これは監視です。チームのサポーターを務めるウマ娘として、当然の義務です」

 

 この様子だと、何を言ってもマックイーンは引いてくれなさそうだ。

 

「……それじゃあ、お願いしようかな」

「ええ♪」

 

 俺が渋々了承したら、マックイーンは鬼の形相を崩して普段の柔和な笑みを戻した。

 

 半年前に購入したコーヒーメーカーを操作しながら、マックイーンに声をかける。

 

「マックイーンも飲むかい?」

「せっかくなので、お願いしますわ」

 

 二人分のコーヒーを沸かす間、俺はマックイーンの対面に腰掛けてしばらく待つ。

 

「こうしてトレーナーさんと二人きりでお話をする機会は、ずいぶんと久しぶりですわね」

「言われてみれば、確かに」

 

 過去にアメリカでマックイーンの面倒を見た時も、彼女達の移籍を承諾して一週間前に対面を果たした時も周りには必ず他の誰かがいて、二人きりという空間になったことはほとんど無かったと記憶している。

 

「私、トレーナーさんにずっとお聞きしたいことがあったんです」

「ん?」

「何故、私達の移籍を認めて下さったのでしょうか?」

 

 マックイーンは多分、俺が一度彼女達の移籍を断ったにも関わらず手のひらを返したことに対して疑問に思っているのだろう。

 

「これはダイヤにも話していないことなんだけど……」

 

 チームメンバーと良好な関係を築くためには、時に胸の内を打ち明けることも必要かもしれない。

 

「実は俺、彼女のメイクデビューを見届けてトレーナーを辞めようと考えていたんだ」

「……」

 

 当時、心に重大な欠陥を抱えた状態で指導に当たっていた俺は、些細なことが引き金となって激しく取り乱してしまったことがあった。

 

 自分を制御することが出来なければ、担当ウマ娘に多大な迷惑をかけてしまうことは火を見るよりも明らかだ。

 

 理事長の厚意で療養に最適な病院を紹介してくれたが……実を言うと、それだけでは業務復帰に踏み切る判断には至らなかった。

 

「マックイーンがトレセン学園に復学する以前にさ、絶対にやってはいけない問題を起こしたんだ。なんて言うか……人として欠陥まみれなんだよ、俺って」

 

 現状、半年間に及ぶ闘病生活の末に健康に近い精神(こころ)を取り戻すことが出来たが、何かの拍子に抑えが効かなくなってしまう可能性は依然として捨てきれない。

 

「俺一人で教え子と向き合うのが、正直怖かった。また、周りを傷つけてしまうんじゃないかって」

 

 担当ウマ娘のダイヤだけじゃない。彼女の親友であるあの子にも、深い傷を負わせてしまった。

 

「だから、チームのサポーターとして移籍を希望してくれたマックイーンの手を借りようと思ったんだ」

「……私の?」

「俺が問題を起こさないように……万が一の事態に発展した場合、俺のことを律してもらおうと思って」

 

 マックイーンは非常に責任感が強く、秩序に準する性格の持ち主だ。

 

 名門メジロ家を代表する令嬢として優れた教養があり、若齢にして淑女的な物腰と気品が備わっている非の打ち所がない人格者。

 

 俺が業務復帰に踏み切ることが出来たのは、マックイーンによるところが非常に大きかった。

 

「…………そう、ですか」

「たっ、ただこれは俺が勝手に思ってるだけだから、マックイーンは何も気負わなくて良い」

 

 俺の内心を明かしたことで、だんだんと言葉尻が萎んでしまうマックイーン。

 

 いくら良好な関係を築くためとはいえ、もう少し話題は選ぶべきだったかもしれない。

 

「マックイーンはトレーナーを目指すためにチームへ移籍してくれたんだから、俺は当然、君の夢にも真剣に向き合う。分からないことや困ったことがあったら、何でも相談してほしい」

「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、何かあれば相談させていただきますわ」

「ああ!」

 

 少し会話を続けている間に、コーヒーメーカーの動作が停止していることに気がついた。

 

 俺は席を立って二人分のコーヒーをマグに注ぎ、マックイーンに差し出す。

 

「ありがとうございます」

「砂糖やミルクはいるかい?」

「頂きます」

 

 それぞれ好みの味付けになるまで調整を続け、俺達は揃って一息付いた。

 

「……結構苦いですわね」

「それが良いんじゃないか」

「そうおっしゃる割には、砂糖を多く入れていたように感じますが?」

「こういうのは雰囲気が大事なんだ」

 

 言って、俺に怪訝な眼差しを向けてくるマックイーン。俺は特に気にせずコーヒーを啜った。

 

 先程の話題は既に一区切りついたため、今度は別の内容を考えてマックイーンに話を振る。

 

「俺が業務に復帰するまでの半年間、チームを任せる形になってしまったけれど。マックイーン、君は本当に優秀なウマ娘だよ」

「とっ、唐突に私を褒めるのはやめて下さいまし。びっくりしますでしょうが」

 

 脈絡もなく突然俺に褒められたことで、マックイーンは分かりやすく動揺した。

 

 耳が忙しなく動いて、マグを持つ手がぷるぷると震えている。

 

「誰かに物事を教えるのも上手だし、人に指示を出して器用に動くことも出来る。おまけに勤勉で、レース経験も豊富。非の打ち所がまるでない。君は必ず、立派なトレーナーになれるよ」

「あ、ありがとうございます……」

「実際にダイヤを指導する場面を見たけれど、指摘する部分が無いほど完璧だった。わざわざ俺の元へ移籍する理由が見当たらない位だよ」

 

 先日。半年ぶりにダイヤの走りを指導したが、彼女は俺が休職していた期間で目覚しい成長を遂げていた。

 

 最初の二ヶ月間で身体に叩き込んだフォームを崩すことなく基礎を上達させ、スタート技術や戦略面における成長も著しい。

 

「あ……そういえばダイヤ、知らないうちに受け身の技術も上達していたな。もしかして、これもマックイーンが?」

「受け身の取得に関しては、学園のカリキュラムに組み込まれています。ですが一応、サトノさんにはメジロ家直伝の受け身を授けました」

 

 時速六十キロ以上でターフを駆けるスポーツである以上、転倒のリスクはどうしても切り離すことはできない。転倒は選手生命に直結するため発生しないに越したことは無いが、残念ながらその可能性を捨て切ることは不可能だ。

 

 なので、万が一転倒が発生しても身を守れるように、受け身などの教育は徹底されている。レース史上最悪の故障事故である”星の消失”も、ウマ娘の転倒が原因であった。

 

「最高速度で転倒した場合、受け身を取ることは非常に困難を極めます。ですが……ウマ娘の卓越した身体能力を最大限に発揮すれば、決して不可能ではありません。サトノさんには、故障することなく現役生活を過ごして欲しい。そう思うと、自然とこちらの指導にも身が入りました」

「……君はすごいな、マックイーン」

 

 というのもつい最近、トレーニングで疲れ果てたダイヤが、道具を片付けている最中にぬかるんだ芝に足を取られて転倒してしまうということがあった。

 

 転倒……というよりはただ単に”こけた”と表現する方が適切なのかもしれないが、ダイヤは洗練された身のこなしを駆使して怪我を免れた。

 

 ウマ娘には走行時のバランスを維持する尻尾や、平衡感覚をつかさどる非常に優れた耳が備わっている。

 

 普段のトレーニングによって身体が鍛えられているウマ娘であれば。

 

 転倒の原因が骨折といった()()()()()()()()()()()、瞬時に受け身を取って大事を免れることが可能なのだ。

 

「やっぱり、君にチームを託して正解だった」

「トレーナーさんの期待に応えることが出来たようでしたら、何よりですわ」

「ああ、十分すぎる位だよ。ありがとう、マックイーン」

「そんなに褒められると……少し、恥ずかしいです」

 

 マックイーンは俺の予想をはるかに上回るほど立派なウマ娘だった。大人の俺よりも間違いなくしっかりしていて、彼女には頭が上がらなくなってしまう。

 

「こ、コホンッ……この話題は、ここまでにしましょう。ある程度時間も過ぎていることですし……実は最後に一つだけ、トレーナーさんにどうしても聞きたいこともあります」

「俺が答えられることだったら、なんでも」

「私の姉である、ドーベルのことで少々……」

 

 マックイーンは実姉の名を口にしながら、申し訳なさそうな視線をこちらへ向けてくる。

 

「正直に答えて欲しいのですが……彼女の反抗的な態度は正直、手に負えない状態なのでは無いでしょうか?」

「…………」

 

 彼女の言葉に、俺は返答を詰まらせてしまった。

 

 もはやそれが、分かりやすい答えのようなものである。

 

「お二人の様子を側から確認した限りでは、あまり……上手くいっていないように感じます」

「…………まぁ、な」

 

 実を言うと……マックイーンの指摘通り、対面から一週間が経過した今でも俺はドーベルとの適切な距離感をはかりかねていた。

 

 担当ウマ娘一人ひとりと向き合う決意を固め、一旦はお互いに歩み寄れた気になっていた俺であったが、一朝一夕で心の距離を縮めることなんて到底出来ず。

 

 そればかりかドーベルに寄り添うこと姿勢を意識するあまり……現状、余計にギクシャクとした関係が生まれつつあった。

 

 ドーベルとは意見が割れることも多く、一方的な言い争いと化してしまうことが日常になってしまっていて。

 

「こんな俺でも、夢と現実のギャップに苦しむドーベルの力になりたいって本気で思っているんだ。けど……」

 

 担当ウマ娘を想う気持ちとは裏腹に、トレーニングの度に食い違いが続いてしまい、関係性は依然として平行線のまま。

 

 彼女が目標に掲げる天皇賞(春)の制覇を後押ししてやれば、きっと関係性は改善されるかもしれない。

 

 しかし、彼女の競走生活を預かる担当トレーナーとしては、適性が絶望的な状態で背中を押すことなんて絶対に出来なくて。それは、無責任にも程がある。

 

「……あれ程までに反抗的な態度が続いていても、トレーナーさんは何故、匙を投げないのですか?」

「なぜか……そうだな、特に理由はないけれど。俺はもしかしたら、ドーベルに昔の教え子を重ねているのかもしれない」

「教え子……それは、ミライさんのことを指しているのでしょうか」

「これは当時のチームメンバー以外には知られていないんだけど……デビュー前のミライは、落ちこぼれだったんだ」

 

 正確には違う。俺が担当ウマ娘のミライを落ちこぼれに育てていただけである。

 

「……意外です。あのミライさんが、落ちこぼれだったなんて」

 

 けれど、それが原因でミライは自身の掲げる夢と現実のギャップに苦しみ、癇癪を起こす事態へと発展してしまった。

 

「だから、どうしても放っておけなくてさ……どれだけキツい言葉をかけられたとしても、俺は絶対に匙を投げたりはしないよ」

 

 ドーベルが俺を見限った場合は別だが、俺自身が彼女達の移籍を承諾した以上、最後まで担当トレーナーであり続ける所存だ。

 

 こうして耳触りの良い言葉を並べているが……汚い話、俺は多分ドーベルにミライの面影を重ねて罪滅ぼしをしようとしているだけなのかもしれない。

 

 実のところ、本心は自分でも分かりかねていた。

 

 俺は本当にドーベルのことを想っているのか。

 

 ドーベルにミライの面影を重ねることで、俺の心に残った未練を晴らそうとしているのか。

 

 分からない。

 

 答えの出ない葛藤がドーベルと対面する度に俺の思考に渦巻いて、彼女に歯切れの悪い言葉ばかりを掛けてしまう。

 

 それ故に、俺はいつまで経っても彼女との距離感を縮められないのかもしれない。

 

「……すみません。話の最後だと言うのに、雰囲気を暗くしてしまいました」

「そんなこと気にしなくて良い。時間もかなり経ったことだし、今日はここまでにしよう」

 

 時計を確認するとその長針が二十一時を指し示しており、実に一時間近く雑談に耽っていたことになる。

 

 寮の門限まではまだ時間はあるが、季節が冬ということもあって夜道は非常に暗い。

 

「あ、あの、トレーナーさん」

 

 デスクに置いていた荷物をまとめて部室の戸締りを確認していると、少しそわそわとした様子でマックイーンが俺に声をかけてきた。

 

「えっと、その…………」

 

 彼女にしては珍しく歯切れが悪い。

 

 俺は疑問を抱いて首を傾げも、大人しく彼女の口から出てくる次の言葉を待った。

 

「……今日は、ありがとうございました。私のわがままに、付き合わせてしまって」

「わがまま……?」

「いくら強引に休息を取るよう言いましたが、私と二人きりで話していては気が休まらなかったのではないですか?」

 

……なんだ、マックイーンはそんなことを気にしていたのか。

 

「そんなことないよ。マックイーンとじっくり話すことって今まであまり無かったから、とても楽しかった」

「そう、ですか…………それなら、良かったです」

 

 俺の返事を受けて、微笑むマックイーン。

 

「辺りも暗いし、寮まで送っていくよ」

「ありがとうございます。お気持ちだけ、受け取っておきますわ」

「……そうか、分かった」

 

 少し勇気を出して提案したが……彼女はウマ娘なんだから、そういう類の心配は確かに不要か。

 

「じゃあ、マックイーン。また明日」

「ええ、また」

 

 最後に短く別れの挨拶をして、俺は部室の電気を静かに消した。

 

 

 

***

 

 

 

 完全に日が沈み切った夜道を一人で歩く。

 

 普段はスーツの上から厚手のコートを羽織る俺だが、今日に限ってはそれを畳んで右腕にかけている。

 

 真冬の夜は身体の芯まで冷え切ってしまいそうな寒さが特徴的だが、今夜は普段よりも幾許か暖かいと感じていた。

 

 トレセン学園からトレーナー寮までは、徒歩数分といった程度の距離だ。特に肌寒いとは感じないため、コートを羽織る必要は無いだろう。

 

 学園の校門を出てからしばらくして、俺は突然ふと、自身に襲いかかる違和感に気が付いた。

 

「……何だろう」

 

 

 

 

 

 真冬の夜にしては少し……()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 俺はネクタイを緩めて、少しだけ身体を夜風に晒す。冷たくて、涼しくて、とても気持ち良い。

 

 その感覚が、俺に襲いかかった違和感に拍車をかける。

 

 違和感の正体は分からないけれど、ひとまず寮へ戻ろう。連日の勤務で、少し疲労が蓄積しているのかもしれない。

 

 そう結論づけて、俺は足速に帰路へ着くが……。

 

「あ、れ……変だな」

 

 一歩を踏み出す足が当然、覚束なくなってしまった。何だが視界もぐわんぐわんと揺れるし、頭もズキズキと痛い。

 

 俺は今、猛烈なめまいに襲われている。

 

 そう自覚した瞬間、俺は以前入院していた病院で、退院の際に主治医から説明されたことを思い出した。

 

──ああ、そういえば。処方された薬に、副作用があるって言ってたっけ。

 

 そんなに重くはないと言っていたからあまり気に留めていなかったけれど、ここ数日生活リズムを崩し気味だったし、今日も業務中に居眠りをしてしまっていた。

 

 後悔が込み上げてくる最中にもめまいは次第に大きくなっていって、俺はついに立っていることすら覚束なくなってしまった。

 

──ぁ、これ、ヤバい……。

 

 遠ざかる意識を必死に手繰り寄せようとするも、その意思とは裏腹にどんどん身体の自由が効かなくなっていく。

 

 早く、寮に戻らなければ。

 

 この季節、この時間帯に道端で倒れてしまうのは、非常に危険だ。

 

 一歩、二歩と踏み出すが、果たして俺は前に進めているのか。

 

 それすらも、分からなくなってしまう。

 

 全身に駆け巡る脱力感への抵抗も虚しく、俺の視界はとうとう暗転し、かろうじて繋ぎ止めていた意識の糸が段々とほつれていく。

 

 それはもしかしたら、次の瞬間にやってくるであろう衝撃から身を守るためだったのかもしれない。

 

 制御出来なくなった身体が重力に従って、ゆっくりと倒れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──、……っ! …………さ……んっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の意識が完全に途絶える寸前。

 

 ぼんやりと霞んだ視界に血相を変えて飛び込んできた君は……一体、誰だったのだろうか。



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35:夢から覚めて

 窓から差し込む青白い光を受けて、俺は意識を失ってからさほど時間が経過していないことを知った。

 

 妙に重たい瞼を開けるのが億劫に感じながらも、俺は周囲の暗さに目が慣れるまでぼんやりと天井を眺める。

 

 辺りに充満する消毒液の独特な匂いで、ここがトレセン学園の保健室であることが分かった。

 

 あの後、帰路の途中で激しいめまいに襲われた俺のことを誰かが助けてくれたのだろう。親切にもベッドで横たわる俺の身体に、毛布と布団を重ねがけしてくれていた。

 

 だがしかし周囲に人の気配は無く、空間を隔離する黄緑色のカーテンに映る人影は一つだけ。当然、俺のものだ。

 

 目覚めてからしばらくしたことで、だいぶ夜目がきくようになってきた。

 

 俺は横たわっていた状態から背中を起こし、あたらめて周りの様子を確認する。

 

 これといって視界に留まるものは無かったが、俺から見てベッドの左縁に、背もたれのない丸椅子が一脚置かれていた。

 

 おそらく、意識を失った俺を保健室まで運んで来てくれた人が先程まで座っていたのだろう。その座板に触れると、微かな温もりを感じ取ることが出来た。

 

 ポケットにしまっていたスマホで時間を確認すると、現在時刻は二十二時。部室を出たのが二十一時頃だったと記憶しているので、意識を失っていたのは一時間程度か。

 

 これ以上学園に長居しては、明日の業務に支障をきたしてしまう。だけど俺は身体が妙に重いと感じてしまって、ベッドから起き上がることが憂鬱になってしまった。

 

 気だるげな感覚に身を委ねるように、俺はその場でしばらくぼーっとしていた。

 

 そこからさらに、数分ほどが経過した頃だろうか。

 

 ベッドの四方を囲うように閉めていたカーテンが、唐突にしゅるしゅると音を立てて開かれる。

 

「…………あっ」

 

 静寂に満ちた空間に響く、微かな驚きの声。

 

 俺の耳がその呟きを確かに捉え、吸い寄せられるように視線が動く。

 

「…………え?」

 

 カーテンの奥から現れた意外な人物に、俺は困惑を隠すことが出来ない。

 

 窓から差し込む月光に照らされ、シルエットだった彼女の姿がはっきりと浮かび上がる。

 

 

 

 

 

 

 

「目を、覚まされたんですね……あぁ、よかった……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 心の底から安堵したかのような表情を浮かべる少女の容姿には、心当たりがある。

 

 月光で艶を取り戻した濃い鹿毛のミディアムボブ。左右で結った二房の髪を揺らしながら、少女は思いやりに満ちたルビーの瞳を一身に向けてきた。

 

 その姿を目にした俺の口から、無意識に彼女の名前が溢れる。

 

 

 

「…………キタサン、ブラック?」

 

 

 

 担当ウマ娘の親友──キタサンブラックが、きょとんとする俺を瞳に映して柔和に微笑む。

 

「あ、あたしのこと……覚えていて、くれたんですね」

 

 忘れるはずが無かった。

 

 俺が君にしてしまったことを、一日たりとも忘れたことは無い。

 

「どうして、君が……?」

()()トレーナーさんの姿を見かけたんです。そしたら突然身体がよろめいて、倒れてしまいそうだったので……」

 

 キタサンブラックの言葉を聞いて、俺は彼女に危ないところを助けてもらったのだと悟った。

 

「そう、か……ありがとう。俺のことを助けてくれて」

 

 彼女がいなければ今頃、俺はどうなっていたか分からない。道端で倒れて力尽きる自分の姿なんて、考えたくもない。

 

 この子に感じる負い目が、さらに大きくなってしまった。

 

「意識が戻って何よりです。本当に、ほんとうに良かった……っ」

 

 彼女が涙ぐんでまで俺を心配してくれる理由は定かではないが、その柔らかい眼差しを向けられ続けると……何故だか彼女のことを直視できなくなってしまう。

 

 キタサンブラックが、ベッドの縁に置かれた丸椅子に腰掛ける。

 

 すると彼女は静寂を嫌ってか、俺に向かって積極的に話しかけてくれた。

 

「あ、あのっ、喉は渇いていませんか? 飲み物をその、少し……かっ、買い過ぎてしまって」

 

 キタサンブラックの言葉を受けてから気付いたのだが……彼女は現在、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それは、自販機が壊れたんじゃないかと疑ってしまうほどの量だった。

 

「コーヒーがお好きだと、ダイヤちゃんから聞きました」

「……うん。でも、その量は……?」

「どれが良いかなって悩んじゃって、気付いたらその…………あ、あはは」

 

 彼女が抱える飲み物は大半がコーヒーで、中にはお茶やスポーツドリンクなどといった物も含まれていた。

 

 恥ずかしそうに視線を逸らすキタサンブラック。

 

 キタサンブラックの厚意は非常にありがたいのだが、一回り歳の離れた学園の生徒から施しを受けるのは如何なものか。

 

 だがしかし、彼女の健気な気遣いを無碍にするのも何だか気が引けてしまう。

 

「……ぁ、ご、ごめんなさい。あたしがこんなことしても、迷惑なだけでしたよね……」

 

 そんな俺の心の葛藤は、返答を待つキタサンブラックに伝わってしまったようだった。

 

「迷惑だなんて、全然思ってない。ありがとう、俺のことを気遣ってくれて」

 

 少し引け目を感じるが、キタサンブラックの指摘通り喉が渇いているのは確かだ。

 

 しばらく脳裏で葛藤した結果、俺は彼女からの厚意をありがたく受け取ることに。

 

 俺は彼女からホットコーヒーとスポーツドリンクを貰って、少し身体が熱かったので後者から先に頂くことにした。

 

「俺が言うのもアレかもしれないけど……寮の門限は、大丈夫なのか?」

「あ、あぁ〜…………はい、大丈夫です」

「……ごめん」

「大丈夫です、本当に気にしないで下さい。こう見えて、反省文は書き慣れているんです」

 

 全然大丈夫じゃないだろう……。後日、寮長には俺の口から事情を説明しておこう。

 

 俺と同様に、キタサンブラックも余ったコーヒー缶のタブを開けて一口含んだ。

 

「──ッ!?!?」

 

 彼女は腕に抱えた飲み物の中から無作為に一つを手に取っていたので、それが微糖なのか無糖なのか判断がつかなかったのだろう。

 

 俺の目の前で、キタサンブラックがコーヒー(無糖)の苦味に悶えている。

 

 ウマ娘はヒトよりも五感が優れているため、彼女には少々刺激が強過ぎたのかも知れない。

 

「くぅっ、──ッ! ……ぅぅ〜っ!! に、苦いぃっ」

「…………大丈夫?」

 

 今度はまた別の意味で、彼女のことが心配になってしまった。

 

「俺が貰ったのは微糖なんだけど……交換する?」

「……ぉ、おねがいします」

 

 俺は目をしぱしぱさせるキタサンブラックに未開封だった微糖のコーヒー缶を渡して、反対に無糖のそれを受け取る。

 

 口の中に蔓延る苦味を払拭するように微糖コーヒーを流し込む彼女を見て、無意識に俺の口元が綻んだ。

 

 何故だか放っておけないような感情を抱きながらも、俺は手にした無糖コーヒーを一口啜る。

 

「…………」

 

 

 

 

 

 しかし、俺は忘れていた。

 

 

 

 

 

「──ッ!?!?」

 

 

 

 

 

 コーヒーには、砂糖をふんだんに入れなければ飲めないということを……。

 

 

 

 

 

「ぉっ、ぉおお──っ、……ッ!? ぐぅ”……ぅ”ぅ”う”」

 

 頭の中が弾けるようなあまりの苦さに、俺はみっともなく悶えた。

 

 その様子を、何だかよく分からない表情を浮かべたキタサンブラックにまじまじと見られてしまう。

 

「ゲホッ、げほ……っ! に、にが……っ」

 

 それでも生徒の前でこれ以上情けない姿を晒すわけにはいかず、缶に残った量を頑張って冷まして胃袋に無理やり流し込んだ。

 

「はぁ、はぁ……ふぅ…………」

 

 俺は身体に残った気力を全て振り絞って、コーヒーを飲み干すことに成功する。

 

 その後……何だか全身がすごく重いと感じた俺は、脱力感に逆らわずベッドに横たわった。

 

「と、トレーナーさん……大丈夫ですか?」

「……大丈夫。変な心配かけさせて、ごめん」

 

 俺がキタサンブラックにかけた謝罪の言葉を最後に、しばらく続いた会話が途切れる。

 

「……」

「……」

 

 無言の静寂に身を預けると、動揺した思考が段々と冷静になっていくのが分かった。

 

 普段よりもぼんやりとした意識の中で考えるのは当然、複雑な表情で俺を見つめるキタサンブラックのこと。

 

 先日、金輪際彼女には近づかないとルドルフに誓った手前、別の意味でも気まずさが押し寄せてくる。

 

 部屋の電気は付いていないが、窓から差し込む月光は存外明るく、お互いの浮かべる表情を暗闇で隠すことは出来ない。

 

「……半年ぶり、ですよね」

 

 沈黙を破ってくれたのは、またしてもキタサンブラックからだった。

 

 キタサンブラックの放った言葉通り。

 

 彼女と最後に会ったのは、ダイヤがメイクデビューに出走した去年の六月末。

 

「少し、印象が昔にもど……かっ、変わりましたね」

「そうかな……そうかも」

 

 半年間の闘病生活を挟んだので、確かに相手へ与える印象や雰囲気は変化したかもしれない。以前のように、他人に対して高圧的な態度を取っていなければ良いのだけれど。

 

「……」

「……」

 

 そしてまたしても、気まずい沈黙。

 

 会話の仲介役がいなくて、負い目を感じている一回り歳の離れた生徒とこんな時間に二人きり。

 

 もしかしなくても、俺はヘタレだ。

 

 俺にポンポンと気の利いた話題を振れる甲斐性があれば、きっと過去に問題なんて起こしていなかったと思う。

 

「…………トレーナーさん。つ、つかぬことをお聞きしたいんですけどっ」

「うん?」

 

 今度は妙にそわそわとした様子で、キタサンブラックが俺に問うてきた。

 

「あの……あたし達、昔どこかでお会いしたことって…………ありませんか?」

「え?」

「………………ぁ、ああえっとっ……あれですっ! トレーナーさんの印象が、昔出会った人に似ていたので。つ、つい…………」

 

 俺とキタサンブラックが、昔に……?

 

「それって、何年くらい前?」

 

 俺は再びベッドから背中を起こして、キタサンブラックに言及する。

 

「えっと……三年から、五年くらい前だった…………はずです」

 

 今から三年前というと……”星の消失”によって、世界的アイドルウマ娘が逝去した年だ。

 

 そして五年前は……チーム・アルデバランに所属していたウマ娘が、アメリカクラシックで三冠を獲得した年。

 

 キタサンブラックは担当ウマ娘のダイヤと同年代だから、逆算すると十歳前後か。

 

 現在のキタサンブラックの面影と重なる少女の姿を想像して記憶に検索をかけるが……やはり先程から思考が熱っぽさに浮かされているせいか、明確に浮かび上がってくることは無かった。

 

 過去の担当ウマ娘には幅広い年齢層のファンがいたため、もしかしたらその中の一人が彼女であった可能性がある。

 

「……ごめん」

「あたしこそすみません、突然こんなことを聞いてしまって」

 

 どうか気にしないで下さいと柔和に微笑むキタサンブラックだったが……一体どうしてこんなことを聞いてきたのだろうかと、後ろ髪を引かれるような思いが俺の胸に残る。

 

 俺はかつて、情に絆される優柔不断な自分を嫌うあまり、いつしか極端な程に割り切れた性格へと豹変していたことがある。その当時も結局、自身の()()から目を背けることなんて出来なかったが……。

 

 そこに至るまでの過程で、俺は何か大切なものを削ぎ落としてしまったのだろうか。

 

「…………」

「…………」

 

 心なしか、再び訪れた沈黙は先程よりも格段に重いと感じてしまった。

 

 二人きりの空間を淡く照らしてくれていた夜空の月が、天邪鬼な雲に覆われてしまったのだろう。

 

 そこにいるはずの彼女の表情が、昏い陰に染まって見えなくなってしまった。

 

 そして、再び夜空の月が光を取り戻したと同時に……。

 

 

 

 

 

 

 

「──あ、あのっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 キタサンブラックは腰掛けた椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がって。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あたし! 実は、あなたに……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 胸元でぎゅっと両手を握りしめ、強かな決意と覚悟を灯した瞳を揺らしながら、俺の双眸を一身に射抜く。

 

 

 

 

 

 

 

「ずっと……っ、お渡ししたかったものが──」

 

 

 

 

 

 

 

 そして彼女が何か、決定的な言葉を口にしようとした瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──兄さまッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 血相を変えて保健室に飛び込んできた少女の登場に、キタサンブラックの声は遮られてしまった。

 

 空間を隔てていたカーテンが凄まじい速さで開かれ、息を切らした制服姿の担当ウマ娘──サトノダイヤモンドが姿を見せる。

 

「ダイヤ、どうして……?」

「キタちゃんから連絡を貰ったんです。兄さまが、倒れてしまったって」

「そうだったのか」

「あ、あたしと二人きりだとトレーナーさん、気まずいかなって思っちゃって…………ぁ、あはは」

 

 頬を掻きながらはにかむキタサンブラック。

 

 また余計な気遣いをさせてしまったかなと、少し申し訳ない思いを感じた。

 

「すみません、寮を抜け出すのに時間がかかっちゃいました」

「え、抜け出してきたのか?」

「はい。同室の子に協力してもらって、何とか」

「それ、問題になるんじゃ……?」

「反省文で済めば、御の字です」

 

……ああ、まったく。君達は一体どうして、自身を顧みずに他人の心配をすることが出来るのか。

 

 ある種呆れのような感覚を抱いているはずなのに、俺の心はどうしようもなく温かい気持ちで満たされていた。

 

「さてと……ダイヤちゃんが来たので、あたしはもう行きますね」

 

 キタサンブラックは役目を終えたと言わんばかりに椅子から立ち上がって、ベッドの下に置いていたスクールバッグを肩に掛ける。

 

 その中に急いで()()をしまうと、彼女は俺の返事を待たずして一礼し、保健室から去っていった。

 

 最後にお礼の一言くらい……と思ったが、彼女は寮の門限を破ってまで俺のことを見守っていてくれた。

 

 戻れるなら、なるべく早いに越したことはないだろう。

 

 キタサンブラックには返しきれない恩が出来てしまった。

 

 しかしそれを返すためと言って、今後彼女へ近づくことが許されるのだろうか。

 

「兄さま」

 

 恩義と負い目の間で葛藤を続ける俺だったが……あまりに考え込みすぎたせいで、入れ替わりでやって来てくれたダイヤに意識を向けられていなかった。

 

 少しむくれた様子のダイヤが、俺を真っ直ぐ見つめてくる。

 

「…………怒ってる?」

「怒ってはいません。私達のために一生懸命頑張って下さっているのですから」

「そうか」

「ですが、倒れるほど無理をするのはやめて下さい。本当に、やめて下さい」

 

 そう言われて、俺は自分自身に対する情けなさを再三痛感した。

 

 担当ウマ娘のために、空白の時間を埋めようと業務復帰早々根を詰めすぎた結果……。

 

「……本当に、ごめん」

 

 俺はかえって、彼女達を心配させることになってしまった。

 

 最近、何もかもが上手くいっていないように感じる。

 

 やることなすこと全てが空回りで、一層自分の姿が惨めに見えた。

 

「少々、失礼しますね」

 

 ダイヤは一度断りを入れると、彼女は自身の前髪をかき上げながら、俺の額に顔をぐっと寄せてきた。

 

 俺とダイヤから距離という概念が消え去り、額同士がこつんと触れ合う。

 

「ん……兄さま、少し熱がありますか? 正確には、測ってみなければ分かりませんが」

「そういえば……さっきから身体は熱いし、頭もぼーっとする」

「ちょっと待ってて下さいね」

 

 ダイヤは一度俺から離れ、近くに常備されていた体温計を手にして戻ってきた。

 

「これを使って下さい」

 

 彼女から受け取った体温計を脇にさし、待つこと数分。

 

「……三十八度九分、か」

「結構ありますね」

 

 残念なことに俺は、完全に発熱してしまっていることが発覚した。

 

「夕食は食べましたか?」

「……まだ」

「その様子ですと、シャワーも浴びていないですよね」

「……少し、ベタベタする」

 

 全身から噴き出る脂汗のせいか、先程からシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。

 

「でしたら一度寮へ戻って、身体を綺麗にしましょう……失礼しますね」

「え──」

 

 ダイヤからの質問に淡々と答える俺だったが、彼女は突然何を思ったのか。

 

「ん……しょっと」

 

 ベッドに預けた俺の身体を軽々と持ち上げ、そのまま横抱きにしてしまった。

 

「兄さま、荷物は自分で持てますか?」

「い、いやっ、ちょっと……待って…………っ」

 

 いわゆる”逆”お姫様抱っこの体勢に、俺は込み上げてくる羞恥心が抑えられなくなってしまう。

 

 確かに、ウマ娘の膂力(りょりょく)であれば成人男性を持ち上げることなど容易いだろう。普段のトレーニングでは、その何倍もある重量の器具を使用しているのだから。

 

「ですが兄さま……寮まで歩けないですよね? 安心して下さい。こう見えても私、力持ちですから」

「そういう意味じゃ、なくって……っ」

 

 必死になって訴えかける俺だが、ダイヤに対する抵抗は無力だった。

 

「暴れないでください。ふふっ、大丈夫ですよ。絶対に離したりしません」

「…………せめて、おんぶで」

 

 ダイヤに運ばれることに関しては既に観念しているので、せめてこの恥辱を掻き立てるような姿勢だけは変えてくれないかと懇願する。

 

 仕方ないですね……と、ダイヤは少し残念そうなため息をこぼして、俺の要求をのみ込んでくれた。

 

「私のこと、決して離してはダメですよ? しっかりと前に腕を回して抱き締めて……そう、そうです」

 

 自分で歩くことが出来ないのだから、俺は結局ダイヤに頼るしかない。

 

 大人しく彼女の囁きに従って、俺達は保健室を後にするのだった。



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36:記憶の中の君

 担当ウマ娘に背負われてトレーナー寮を目指す間、俺はひたすら誰にも見られないことを祈っていた。

 

 深夜帯ということもあり、人の気配は全く無いと言っていい。

 

 だがしかし、この羞恥心を掻き立てられるような姿勢のせいで、俺はしきりに周囲の視線を気にしてしまう。

 

 俺の容体に気を遣ってか、ダイヤは普段よりも格段とゆっくり歩く。それがまた、俺の精神をげっそりとすり減らすのだ。

 

「こうしていると、昔を思い出しませんか?」

「……逆だ、逆。俺がダイヤをおんぶしていたんだ」

 

 過去の記憶に想いを馳せて微笑むダイヤだったが、こちらとしては本当に気が気でなくて。

 

「もう少し……速く歩いてくれないか?」

「お気持ちは分かりますが、兄さまに怪我を負わせるわけにはいきません」

「……ちょっと、熱が上がってきたかも」

「……分かりました。しっかり掴まっていて下さいね」

 

 俺は自身の体調を引き合いに出して、ダイヤに歩く速度を上げてもらう。思い出話で盛り上がるのは、また今度で良い。

 

 照明設備が完備された歩道を進むこと数分。俺の視界の先に、待ち望んだトレーナー寮の建造物が映り込む。

 

 俺の部屋は、五階建ての寮の中で最上階の突き当たりに位置している。

 

 エレベーターを利用して通路を歩き、カバンの中から部屋の鍵を取り出して、ダイヤに扉を開けてもらう。

 

「……ありがとう、助かったよ」

 

 ここまで辿り着ければ大丈夫だとダイヤに伝えたが、彼女はこのまま俺を看病すると言って聞かなかった。

 

「良い、のか……?」

「良いも何も、最初からそのつもりで来ていますので」

 

 ダイヤの厚意を無碍にする理由は特になかったので、俺は素直に、彼女の厚意に甘えることにした。

 

「このままベッドまで連れて行きますね。まずは身体を拭いて綺麗にしましょう」

 

 ベッドがある部屋まで身体を運んでもらい、縁の辺りで下ろしてもらう。

 

「脱いだスーツは預かりますね。着替えはどちらに置いてありますか?」

「そこの……奥のタンスの引き出し。上から三段目と、四段目」

 

 ダイヤが忙しなく動いてくれている間に、俺は空調を付けて部屋の温度を上げる。

 

「兄さま、身体を拭く用のタオルを持ってきました」

 

 ダイヤは俺の着替え一式を持ってきてくれるのと同時に、蒸したタオルを数枚準備してくれていた。

 

 俺は汗で張り付いていたシャツを脱ぎ捨てて半裸になる。熱で頭が茹で上がっているせいで、既に羞恥心の類は麻痺していた。

 

「…………お背中、拭きますね」

 

 キキィ……とベッドを微かに軋ませて、蒸しタオルを手にしたダイヤが俺の背後につく。そしてそのまま、優しい力加減で身体の汚れを拭き取ってくれた。

 

 俺も前側を拭こうとタオルを取るが、もはや手を動かすのも億劫に感じてしまっている。

 

「ダイヤ……あとで、前も拭いてくれないか」

「……ぇっ、は、はいっ」

「ありがと……」

 

 一通り背中を拭き終えたダイヤが、今度は俺の前に回る。

 

「し、失礼します」

 

 複数枚用意していたタオルに取り替えて、ダイヤは先程よりもさらに丁寧な手つきで身体を拭いてくれた。

 

「……………………」

 

 その間は完全に無言の状態が続いたが、今の俺に気恥ずかしさを感じる余裕なんてない。

 

 目の前でもぞもぞと動く担当ウマ娘の姿をぼーっとした眼差しで見つめながら、俺は彼女に身を委ねた。

 

「お、終わりました」

「……ありがとう。下半身は、さすがに自分でやるよ」

 

 これ以降の部分に関しては、ダイヤに任せるわけにはいかないだろう。ここからは体力と根気の勝負だ。

 

「わ、私、簡単に何か作りますね。台所をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「ああ。確か……食材は買い置きしていたものが、冷蔵庫に色々とあったはず」

「分かりました。……あ、脱いだ服を洗濯するので、また後で来ますね」

 

 そう言い残して、ダイヤは寝室からそそくさと去っていった。

 

 彼女が戻る前に、早く残った部位を拭いてしまおう。

 

 着ていた服を全て脱ぎ、俺は体力を振り絞って懸命にタオルを動かす。なかなか思うように身体を動かせないもどかしさを感じながらも、何とかして全身を拭き終えることが出来た。

 

 ダイヤが持ってきてくれた寝巻きを着て、俺はそのままベッドに身体を預ける。

 

 ちょうどそのタイミングで、寝室の扉が三回ノックされた。

 

「失礼します……洗濯物、お預かりしますね」

 

 俺が脱いだ衣服をダイヤに回収してもらって、彼女は再び扉の奥に消えていく。

 

 それから、十五分程度が経過しただろうか。

 

「兄さま、お待たせしました。食べやすいかと思いまして、お粥を作ってみました」

 

 お盆に手作りのお粥を乗せたダイヤが寝室に戻ってきた。

 

「お口に合うかどうかは、分からないですけど……」

 

 恥ずかしそうに視線を逸らすダイヤが作ってくれたお粥は、梅とささみをメインにしてトッピングに小ネギを散らした美味しそうな一品であった。

 

「私、横に座りますね……んしょ」

 

 どうやら、彼女がお粥を食べさせてくれるらしい。

 

 手にしたスプーンで一口分をすくって、俺の舌がやけどしないように適度な温度まで冷ましてくれる。

 

「どうぞ、食べてみて下さい」

 

 そのままダイヤに口元まで運んでもらって、パクリと含む。

 

 ペースト状になった梅のさっぱり感と、柔らかいささみの食感が優しい味わいを生み出して、口の中に広がる。

 

 本当にあっさりとしていて、身体が熱に浮かされた状態でも非常に食べやすかった。

 

「とっても美味しいよ」

「ほ、本当ですかっ」

「料理、上達したんだな」

「レパートリーは、まだあまり無いんですけど……」

「十分だよ」

 

 少しずつダイヤにお粥を食べさせてもらいながら、量も適度で無理なく完食することが出来た。

 

 最後に簡単に歯磨きを済ませて、寝るまでに必要だった工程は大方終了する。

 

「兄さま、今日はもうベッドに入ってお休みになって下さい。喉が渇いても良いように、飲み物をお持ちしますね」

 

 ダイヤにベッドへ横たわる手伝いをしてもらい、そのまま身体に布団をかけてもらう。

 

「お茶とスポーツドリンクの二種類を用意しました。飲みたい時に声をかけて下さい」

「ありがとう……」

 

 部屋の電気を常夜灯に切り替え、本当に後は眠るだけとなった。

 

 俺がベッドに身体を寝かせている間、ダイヤはその隣に椅子を置いて待機していた。

 

「……さすがに、寝ても良いんだぞ?」

「兄さまが寝付かれるまでは傍にいます」

「……そうか」

 

 明日も学園の授業があるのだから、ダイヤには俺に構わず早く寝て欲しい。しかし、彼女はとっても頑固なウマ娘だから、俺が寝るまで本当に起きているつもりだろう。

 

 俺が早く寝付けば良いだけの話だが、残念ながら目を閉じていても眠気は全然やってこなくて……。

 

「眠れませんか?」

「……身体が重い」

「では、兄さまが安心して眠れるように私が手を握っていてあげましょう」

 

 ダイヤは布団から飛び出している革手袋越しの左手を取って、優しく右手を重ねてきた。

 

「覚えていますか? 昔私が風邪をひいた時、仕事の都合で両親が不在で……兄さまが看病して下さったこと」

「そんなことも……あったっけ」

「ありましたよ。さっきのお粥も、兄さまが私に作ってくれたものなんですから」

 

 本当に断片的な記憶だけれど、それらしい光景が頭に蘇ってくる。懐かしい思い出だ。

 

 ダイヤの実家は超が付く程の豪邸だ。看病なんて使用人の方に任せれば良いものを、彼女の両親は何故か、近所に住まう俺に押し付けてきて……。

 

 俺の両親と仲が良かったとはいえ、どうしてこんなことをする必要があるのかと疑問に思っていたこともあった。

 

 でも、こうしてダイヤが甲斐甲斐しく看病してくれているのはきっと、昔の記憶が残っているおかげなのかなと思う。

 

「熱が下がらないようであれば明日、病院へ行きましょう」

「病院は……行きたくない」

「もぅ、子供みたいなわがままを言ってはダメです」

 

 ダイヤが俺を心配してくれる気持ちは十分伝わっているけれど……実を言うと、これは俺のプライドの問題であった。

 

「業務復帰早々に風邪で寝込んじまったとか……これじゃあ、主治医に合わせる顔が無いよ」

「え?」

「…………本当はさ、反対されていたんだ。トレーナーに復帰するの」

 

 俺が眠れるまでダイヤは起きているそうなので……せっかくならその間、雑談に付き合ってもらおうかな。

 

「トラウマを、自分から掘り返すようなものだ……なんて言われてさ」

 

 主治医の発言は最もで、俺の精神(こころ)を第一に考えた上での意見であることくらい分かっている。

 

 絶対に戻ってはいけない。また君は、心を壊してしまうかもしれない。

 

 そうなったら、今度こそ手遅れになってしまう……と。

 

「お互いの意志がぶつかって、激しい口論に発展したこともあった。それでも結局は、業務復帰に対する執着心が"生きる"ことへの意欲を高めると判断されて……向こうが折れてくれた」

 

 俺が奇跡的な速度で病を克服することが出来たのも、この生に対する執着心が良い方向に働いていたと主治医は口にしていた。

 

「無理を押し通して、わがままを言って散々迷惑かけて、いざ戻ってきたら仕事が忙しくて発熱しましたとか…………さすがに、恥ずかしすぎる」

 

 半年間の空白を埋めようと休憩時間を削り、担当ウマ娘達のためにと食事時間を削り、体調を顧みず睡眠時間を割き続けた。

 

 こうして発熱してしまったのはきっと、薬の副作用なんかが原因じゃない。

 

 慣れないことの連続に、無茶を強要し続けた俺の身体が限界を迎えただけなのだ。

 

「……風邪なんて、明日になれば治ってるはずだ」

「その根拠のない自信は、一体どこから来るのですか?」

「……辛辣だな。『病は気から』を、身を持って体現した人間の言葉なのに」

「でしたら、私を心配させないで下さい。早く元気になって、私を心の底から安心させて下さい。でなければ、レースにも影響が出てしまうかもしれません」

「なに……それは、いけないな」

 

 三週間後に控えるきさらぎ賞は、ダイヤにとって初となる重賞レースだ。余計な不安が原因で敗北を喫することなど、絶対にあってはならない。

 

「……もう寝るよ。話に付き合ってくれありがとう」

「はい。お休みなさい、兄さま」

「一緒に頑張って、ダイヤの夢……叶えような…………絶対に」

 

 早く寝付かなければ、俺もダイヤも揃って明日の活動に支障をきたしてしまう。

 

 目を瞑ってしばらくじっとしていると、気付けば俺の意識は穏やかな微睡の中へと落ちていった。

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 規則正しい寝息の音が、静謐な空間に微かに響く。

 

 差し出した手を握り返す力が弱まったことで、私は彼が眠りについたことを悟った。

 

「……兄さま」

 

 彼のあどけない寝顔を見るのは、これで三度目。高熱を出してしまったことから、以前と比較しても表情はいくらか険しい。

 

「ありがとうございます。私のことを、迎えに来て下さって」

 

 体調を崩して熱に浮かされていながらも、兄さまは私達担当ウマ娘のことを一番に考えてくれている。

 

 そこに彼の本質のようなものを感じ取る私だったが、同時に隠しきれない苛立ちが込み上げて来る。

 

 自身の身体をぞんざいに扱ってまで業務に打ち込む彼の姿勢に対して。

 

 体調不良をひた隠しにして、私達担当ウマ娘と接していたことに対して。

 

 

 

 

 

 そして何より……彼の異変に気付いてあげられなかった自分自身の不甲斐なさに対して。

 

 

 

 

 

 私達のことを思ってくれているのは涙が出るほど嬉しい。でも、兄さまにはもっと自分を大切にしてほしい……なんて、私が軽々と口にしていい言葉じゃないけれど。

 

 しばらく兄さまの寝顔を眺めたあと、私は握りしめていた手を離して彼を起こさないように立ち上がる。

 

 スカートのポケットに入れたスマホを確認する。ちょうど、日付が変わった頃合いだ。

 

 そういえばまだ、私は彼から預かった洗濯物を干していないことにふと気付く。洗濯機を回してから時間が経っているため、すでに動作が停止しているはずだ。

 

 私は寝室を離れ、洗濯機が置いてある脱衣所へ移動する。

 

 そして、近くにあった洗濯カゴに脱水を済ませた衣服を移し替えていく。

 

「…………」

 

 その際、私は努めて無心を貫いていた。今、私が手にしている布地は何なのか。

 

 それを認識してしまったら、何だか良くないことが起こってしまいそう。

 

 全ての洗濯物を移し終えた私は、カゴを持ってベランダへ出る。

 

 服が型崩れしないよう丁寧にハンガーにかけて、手際よく物干し竿に吊るしていった。

 

 この季節に吹く夜風は非常に冷たく、少しベランダに出ただけで全身がかじかんでしまった。

 

 暖房の効いた部屋に戻ってすかさず身体を温め、せっかくだからと、この勢いで洗い物まで済ませてしまう。

 

「部屋の掃除は……また、明日で良いよね」

 

 やることを全て終えた私は、兄さまの部屋で手持ち無沙汰になってしまった。

 

 寮に戻ることも考えたけれど、彼の体調が急変してしまう可能性もあるため選択肢から除外する。

 

 明日に備えて私も寝ようかな。

 

 でも、兄さまの部屋に上がった時から感じている彼の匂いが強すぎて、正直寝られそうにない。

 

……少しだけ、兄さまの部屋を物色してみようかな。

 

「……っ、だ、ダメだよ。そんなことしちゃ……」

 

 先程から私の尻尾が忙しなく動いている。大きな耳は私の意思とは無関係に、彼の寝息を捉え続けていた。

 

 私の胸に、悶々とした感情が込み上げてくる。それを誤魔化すためには、何か別のことをするしかない。

 

「……見るだけ、そうっ、見るだけなら…………っ」

 

 そうだ。これは、偵察だ。

 

 兄さまのプライベートな趣味嗜好を把握し、彼に対する理解を深めるのだ!

 

 彼の睡眠を邪魔しないように、抜き足差し足忍び足の精神で歩き回った。

 

……それから大体、十分くらいが経過した頃だろうか。

 

「…………え、え?」

 

 私は困惑が隠せないでいた。

 

 ()()()()()()

 

 彼の趣味に通じるようなものが、何一つ。

 

 かろうじて発見できたのは、彼が普段から愛用している同機種のコーヒーメーカーだけ。

 

 トレーナー業が過酷であることは十二分に理解しているつもりだったけれど……まさか、ここまでとは。

 

「…………あっ」

 

 もはや祈るような思いで部屋を見渡していたが……ついに私は、空の本棚に立てかけられた一冊の本を見つけることが出来た。

 

 その本を手にとって、表紙に目線を落とす。

 

「……アルバム、かな」

 

 私の言葉尻が小さくなってしまったのは、これがアルバムであると確信が持てなかったから。

 

 思い出を綴るにしてはあまりに質素で、ページ数もごくわずか。

 

 私物をほとんど持たない兄さまが唯一寮へ持ち込んだ、たった数ページにも満たないアルバム。

 

「少しだけなら……見ても、良いよね」


 

 もしかしたら。

 

 私の知らない兄さまを、少しだけでも知ることが出来るかもしれない。

 

 そう思ってしまったら最後、私は込み上げてくる好奇心を抑えきれなくなって。

 

 ゆっくりと、それを開く。

 

「………………」

 

 ()()を見た瞬間、私は自身の認識が誤りであったことを理解した。

 

 思い出を綴るにしてはあまりにも質素な作りで、一度ページを捲れば背表紙が見えてしまうほどに薄い一冊のアルバム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だけどそこには間違いなく──彼の()()()が詰まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発熱から一夜明け、俺は依然として気だるい身体を動かして、真っ先に自身の体温を測った。

 

 残念ながら翌日になっても熱が下がることはなく、俺はしぶしぶ仕事を休むことに。

 

 午前中に近所の内科を受診した結果、疲労の蓄積による免疫力の低下が原因であると診断された。

 

 医師に処方箋を出してもらい、用意された薬を飲むと驚くほど身体が楽になったように感じる。

 

 午後は栄養価の高い食事を摂り、仕事のことは考えずひたすら寝て過ごした。

 

 さらに翌朝を迎えること頃には完全に熱も下がって、ついに俺は活力を取り戻すことが出来た。

 

 規則正しい生活の重要性を再三痛感した俺は、退院の際に主治医から言われた言葉を思い出す。

 

 栄養バランスの取れた食事と、適切な睡眠時間。そして、適度な運動。

 

 そういえば最近は運動をしていないなと思い、俺は早速、適度な運動としてジョギングを日課に取り入れることにした。

 

 午前五時に起床し、運動しやすいジャージに着替えてトレーナー寮を出る。

 

 コースは寮からさほど遠くない河川敷周辺を選択した。

 

 早朝ということもあってか人気は少なく、適度に温まった身体で冬の冷気を切り裂く気分は悪くなかった。

 

 病み上がりということもあり、俺はかなりゆったりとしたペースを維持して走る。

 

 そして、ジョギングを始めてから二十分程度が経った頃である。

 

 少し身体が疲れてきたと感じたので、俺は近くにあった自販機で飲料水を購入し、併設されていたベンチで休憩を挟むことにした。

 

「……あ」

「え?」

 

 

 

 

 

 しかし、そのベンチには()()()()()の姿が。

 

 

 

 

 

 トレセン学園指定のジャージに身を包み、ペットボトルを手に一息つくウマ娘の少女が、俺の呟きを捉えてこちらを見上げる。

 

「き、奇遇ですね……っ」

 

 俺の姿をはっきりと認識したのか、少女──キタサンブラックは慌てて取り繕ったかのような笑みを浮かべた。

 

「あっ、ここ座りますか? すみません気が利かなくて」

 

 俺がここにきた意図を察した様子のキタサンブラックは、肩幅を限界まで小さくしてベンチの端にそそくさと寄った。

 

 このタイミングで彼女に出会えたのは、今の俺にとって()()だったのかもしれない。

 

 俺はキタサンブラック同様ベンチの端に遠慮がちに腰掛けて、購入した飲料水に口をつける。

 

 乾いた喉を潤してから、俺は黙り込んでしまった彼女に声をかけた。

 

「……キタサンブラックは、朝練?」

「え、は、はいっ。最近、早く目が覚めてしまうことが多くて……トレーナーさんは?」

「最近、運動不足だったから……ジョギングをやろうと思って」

「そ、そうなんですね……」

 

 未だにキタサンブラックとの距離感をはかりかねている俺は、他愛ない話題から入ってひとまず場を和ませようと試みる。

 

「……」

 

 しかし、これでは以前までと何も変わらないと感じた俺は、勇気を出して本題を切り出すことにした。

 

「キタサンブラック」

「は、はい」

「ありがとう」

「…………ふぇ?」

 

 唐突にお礼の言葉をかけられて困惑した様子のキタサンブラックだったが、俺は構わず続ける。

 

「二日前のお礼が……まだ言えてなかったから。それを、伝えたくて」

 

 担当ウマ娘のダイヤと違い、キタサンブラックに面と向かってお礼を言うのは少し気恥ずかしかった。

 

「い、いえいえそんな……っ。当然のことをしたまでですからっ!」

 

 彼女にとっては当然なのかもしれないけれど、俺にとっては全然違う。

 

「体調の方は……もう大丈夫ですか?」

「おかげさまで。あの時は本当に助かったよ。キタサンブラックがいなかったら、俺は今頃どうなっていたか分からない」

「そう、ですか……。こんなあたしがトレーナーさんのお役に立てたのでしたら……とても、嬉しいです」

 

 俺の言葉を受け取って、キタサンブラックは頬をかきながら恥ずかしそうに微笑む。

 

「朝練の邪魔になったら悪いから、俺はもう行くよ」

 

 キタサンブラックに感謝を伝えた俺だが、決して彼女に対する負い目を忘れたわけではなかった。

 

 キタサンブラックは心優しいウマ娘だから、彼女にこれ以上余計な負担や気遣いをかけさせたくない。

 

 俺はベンチから腰を上げ、それじゃあと最後に一声かけてジョギングを再開する。

 

 そして、俺がその一歩目を踏み出した時だった。

 

 

 

 

 

 

 

「──あ、あのっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 慌ててベンチから立ち上がったキタサンブラックに、背後から呼び止められた。

 

「うん?」

「トレーナーさんさえよろしければ、その…………()()()()()()()()()?」

「……え?」

 

 彼女から飛んできた提案があまりにも予想外すぎて、俺は頭上に疑問を浮かべてしまう。

 

 反射的に聞き返してしまったが、果たして彼女にどういう意図があって、そんな言葉をかけてきたのだろうか。

 

「せっ、先日のように誰もいないところでトレーナーさんが倒れてしまったら……ダイヤちゃんが、心配しちゃうかもしれません」

「気持ちは嬉しいけど……俺とキタサンブラックじゃ、走る速度がまるで違う。トレーニングの時間を割いてまで、君に迷惑をかけるわけにはいかないよ」

 

 人間におけるジョギングの平均速度は、分速百メートル前後である。それに対してウマ娘の場合は、人間と同様のジョギングでもその二倍近い速度が出る。

 

 速度を極限まで抑えて走るという行為は、ウマ娘達にとって苦痛そのもの。

 

「…………………………そう、ですか」

 

 俺はキタサンブラックにこれ以上迷惑をかけたくなくて、彼女の申し出を断った。

 

「…………」

 

 でも俺はその時、再びベンチに腰掛けた彼女が俯いて、今にも泣き出してしまいそうなほど思い詰めた表情を浮かべていることに気付いてしまった。

 

……どうしてキタサンブラックは、こんなにも俺のことを気にかけてくれるのだろう。

 

 胸元でペットボトルを握りしめるキタサンブラックを前に、俺は彼女のことが分からなくなってしまった。

 

「…………」

 

……いや、違う。

 

 分からないんじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 俺はキタサンブラックのことを何も知らない。

 

 だから今、彼女の手の甲にこぼれ落ちた()の意味を……汲み取ってあげられないんだ。

 

「……実は俺、病み上がりで運動したせいなのか、さっきから身体が妙にフラフラしてて」

 

 俺はキタサンブラックに対して、償いきれないほどの負い目がある。そこに返しきれない恩が加わって、俺は一体、どんな気持ちで彼女と向き合えば良いのか分からなかった。

 

 そもそも、彼女と向き合う権利があるのかすら判断できない状況だ。

 

「もしかしたら、俺……寮へ戻る前に、倒れてしまうかもしれなくて」

 

 だからこんな……あまりにも分かりにくくて、トレーナーである以前に大人の男として情けなさの極みともいえるような言い回しになってしまったけれど。

 

 

 

 

 

「迷惑をかけちゃうかもしれないけど……もし君さえ良ければ、俺のことを──()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 俺は、呆けた表情でこちらを見上げるキタサンブラックのことを知りたいと思った。

 

「……………………ぇ、ぁ」

 

 彼女の頬を静かに伝う涙の意味が、知りたくなった。

 

「は、はいっ、はい……! どうかあたしに、任せてくださいっ!!」

 

 その日、俺は初めてウマ娘の少女と一緒に走った。

 

 誰かと一緒に風を切る感覚はとても新鮮で、一人で走っていたときには感じることのない”楽しさ”を覚えた。

 

 きっと、今の俺になら。

 

 彼女が親友を自主トレーニングに誘った気持ちに、共感できるような気がした。



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37:噂

『メジロ家定例旅行』という名目でアメリカへ訪れていた彼女達が日本へ帰国する、二日前のこと。

 

「──私の夢、ですか?」

 

 走りの特訓を終えてヘトヘトになったマックイーンに対し、俺はクールダウンの傍らで何気なくそう問うてみた。

 

「ああ。二週間近くマックイーン達の面倒を見てきて、少しだけ気になったんだ。君達の底なしの向上心は、一体どこから来てるのかなって」

 

 チーム・アルデバランの元で特訓に打ち込んできたメジロ家の少女達はもれなく、素晴らしい向上心の塊であった。

 

 辛い特訓の連続にも根を上げることなく食らいつき、全てを取り込もうとする貪欲な姿勢。若齢特有の柔軟な適応力と、素直で真面目な態度。

 

 中でも本格化を今後に控えるメジロマックイーンは特にその傾向が強く、二週間という短い期間で彼女は目覚ましい成長を遂げていた。

 

「ふふふっ。そういうことでしたら、トレーナーさんには特別に教えて差し上げます」

 

 俺の質問に対して幼いマックイーンは堂々と胸を張り、自信に満ちた様子で言い放つ。

 

 

 

 

 

 

 

「──天皇賞の制覇。それが私にとっての至高の夢であり、メジロ家に生まれた者が背負う使命なのです」

 

 

 

 

 

 

 

 純粋な瞳で夢を語る彼女の表情は、生家に対する並々ならない誇りに満ちていた。

 

 使命を背負う責任感もさることながら、その重圧ですら光栄だと言わんばかりの姿勢はあまりに眩しく、何より強かであった。

 

「天皇賞の制覇は、私が尊敬するおばあ様の悲願。その実現のためならば、私はいかなる努力も惜しみません」

 

 天皇賞制覇に対する気概は十分で、何より彼女には野心を現実のものとする才能がある。

 

「そうか。それは、とっても良い夢だ」

 

 日本で開催されるトゥインクル・シリーズは世界的にも有名で、大志を抱いた傑物達が鎬を削る至高の舞台だ。

 

 デビュー前から”メジロ家の最高傑作”と期待されているマックイーンであれば、必ずや頭角を現し、いずれ世代の中心を担う存在へと成長することだろう。

 

「生家の悲願達成は、一筋縄ではいかないことでしょう。しかし私は、どのような困難に遭遇しても決して諦めません。不屈の心構えで障害を乗り越え、いつかこの手で春の盾を掴み取って見せますわ!」

 

 キラキラと輝く瞳で夢を語るとき、少女達はもれなく最高の笑顔を浮かべている。

 

 かつて、壮大な夢を語ったミライもそうであった。

 

 ミライは普段から笑顔の絶えないウマ娘だが、夢を語る瞬間に見せるそれは本当に格別で、思わず見惚れてしまうほど。

 

「素晴らしい心意気だね。じゃあまずは、お菓子を我慢するところから始めてみようか」

「な……っ!?」

「育ち盛りだからたくさん食べるのは良いことだ。でもここ最近のマックイーンは少し、甘いものを食べ過ぎて体重が──」

「ふん”──ッ!」

 

 そんな彼女の気概に応えようと早速助言をおくった俺だったが、顔を真っ赤に染めて憤慨したマックイーンに脛を蹴られてしまった。

 

「──ぉ”ッ”!?!?!?」

「その発言は少々ッ、うら若き乙女に対するデリカシーが欠落しているのではありませんことッ!?」

「だ、だってマックイーンが、どんな努力も惜しまないって……いてて」

「それとこれとは話が別ですわっ! っていうか私、自身の体重をお教えした記憶がないのですがッ!?」

 

 あまりの痛みに芝の上をのたうち回りながら、俺は脛を押さえて情けなく悶える。

 

「……トレーナー。少しは乙女心の勉強もするべきじゃない?」

 

 そのみっともない有り様を、道具の片付けで先程まで席を外していたミライに運悪く目撃されてしまった。

 

「そんなデリカシーの無さでさぁ、よくトレーナーが務まるよねぇ……」

「…………ぐうの音も出ないよ」

 

 芝に倒れ伏す俺の前でしゃがんだミライが、俺の頬を弄ぶように人差し指でつつく。

 

「私、そういうの良くないと思うなぁ。ずけずけと心に入り込んでくるの。少しは私達の気持ちにもなってよね。まったく」

「……善処するよ」

 

 ミライからありがたい説教を受け、今日の特訓は終わりを迎えた。

 

 それからしばらくマックイーンが口を聞いてくれなくなって、俺は寂しい思いをしたことを覚えている。

 

 彼女達が日本へ帰国するまでに仲直りは出来たけれど、デリカシーの部分に関しては要改善と口を酸っぱくして言われてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もうじき夢から目が覚める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢は得てして有限だ。愛しい夢にずっと浸っていたいけれど、その続きを見ることは残念ながら非常に難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢が終わる瞬間は、いつだって()()にやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう一度夢を見るためには、融通の利かない現実と向き合わなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして辛い現実を乗り越え、再び愛しい夢に浸ることが出来たのだとしても……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また同じ夢が見られるとは、限らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 連日蓄積した疲労が原因で発熱してしまった日から約一週間。今日は俺が格段と億劫に感じていた、経過観察当日である。

 

 一日の予定としては午前中に病院へ赴いて経過観察を行い、午後からは学園で明日以降のトレーニングメニューを調整することとなっていた。

 

 重い足取りで半年ほど世話になった病院へ向かい、主治医と対面する。

 

 主治医の笑顔を前にバツの悪さを感じてしまうのは、俺が彼の警告を無視して体調を崩したことに原因があるのだろう。

 

 案の定、俺は主治医から厳重注意を受け、生活習慣の改善を要求されてしまった。

 

 食事は栄養バランスを意識し毎日必ず三食、最低六時間以上の睡眠時間の確保、一日三十分程度の運動。

 

 予想以上に主治医の圧の強さに驚いた俺は、椅子に座ってただ頷いていることしかできなかった。

 

 最後に継続して服用している薬を処方してもらい、憂鬱だった経過観察は終了する。

 

 病院を出た後、俺はタクシーを利用して府中市のトレセン学園まで戻ることにした。

 

 病院からトレセン学園までは大体、車で一時間程度。今の時間だと、学園へ到着するのはお昼休みくらいか。

 

 俺はタクシーに乗車して移動する間も無駄にはしない。

 

 健康的な生活リズムを維持しつつ、綿密で効率的なトレーニングメニューを考案するためには時間の使い方をこれまで以上に工夫する必要がある。

 

 現在考案しているのは、人生初の重賞レースまで二週間を切ったダイヤのトレーニングメニューである。

 

 ダイヤに取り組ませているトレーニングの内容としては、基礎の応用と皐月賞に焦点を置いた戦略幅の向上。

 

 長期間に及ぶ基礎的な技術の徹底によって、ダイヤはクセのない綺麗な走行フォームを習得した。

 

 加えて継続した基礎トレーニングの成果も如実に現れ始めており、本格的にダイヤの身体に適した”彼女だけの走り”を追求する段階へ突入している。

 

 それに伴い、現在俺はダイヤが得意としている既存の戦略を修正し、クラシック級GⅠ重賞の制覇を目標に新しい戦略を考案している最中だ。

 

 新しい戦略とは言っても、取り組んでいることは脚質適性の向上である。

 

 メイクデビュー、条件クラスとダイヤが出走してきたレースを振り返ると、彼女は過剰なまでのマークを終始強要されてきた。

 

 メイクデビューでは前代未聞のスローペースが生み出した前残りの展開によって、絶望的な状況からの大逆転劇を強いられてしまった。

 

 条件クラスでは彼女の末脚を完封する目的で練られた相手の戦略によって、危うく全力を出しきれずに敗北してしまう可能性があった。

 

 以上のことを踏まえると、今後ダイヤに対するマークが一層激しくなることは明白。その状態でGⅠ重賞を制覇するのは、正直言って現実的じゃない。

 

 そこで俺がダイヤに提案したのが、脚質の変更。

 

 具体的には、バ群後方からレース終盤の末脚を活かす『差し』の脚質から、バ群の先頭集団に食らい付いて前方からレースを展開する『先行』の脚質への変更である。

 

 レースは基本的に、逃げや先行の戦略を用いた方が優位に立ち回れる傾向にある。

 

 前めにつければ相手ウマ娘からの不利を受けることが少なく、バ群に揉まれる心配もないため精神的にも余計な負担がかからない。

 

 非常に安全で勝率の高い戦略であるが、同時に、随所で繊細な判断が要求される非常に難易度の高いものである。

 

 ダイヤの一番の武器であったレース終盤の末脚を意図的に殺す戦略にはなるが……それ以上に、先行することによるリターンが大きくなると俺は感じていた。

 

 現在のトレーニングの様子を見る限りでは、新戦略を習得するまでもうしばらく時間がかかるだろう。

 

 二週間後のきさらぎ賞にはおそらく間に合わないため、世間へのお披露目は三ヶ月後の皐月賞になる。

 

 相手の意表を突くという観点からも、脚質の変更は良い隠し玉になるかもしれない。

 

 そして、もう一人の担当ウマ娘であるメジロドーベルに関してだが……俺が現在模索しているのは彼女に適したトレーニングメニューではなく、円滑なコミュニケーションを取る方法である。

 

 天皇賞(春)の制覇を目標に掲げるドーベルを否定するわけではないが……やはり彼女を担当するトレーナーとしては、素直に背中を押してあげることが出来なかった。

 

 目に見える才能を捨ててでも、俺は適性が絶望的に乏しい彼女の夢を応援してあげるべきなのか。仮にドーベルに夢を追わせたとして、俺はその責任を取れるのか。

 

 何がともあれ。真っ先に取り組むべき課題は、俺とドーベルの間に漂うギクシャクとした雰囲気をかき消すことだろう。

 

 初手のアプローチに失敗したことが原因で、現状彼女との心の距離は平行線だ。

 

 そして残念なことに、俺はその距離を埋める手段がまるで思い浮かばなくて手詰まりな状況に陥っている。

 

 何でもいい。何でもいいから、ドーベルが閉ざしてしまった心に踏み込むきっかけさえ掴めれば……。

 

 そんなこんなで頭を捻らせているうちに、タクシーはいつの間にか目的地であるトレセン学園に到着していた。

 

 運賃を払ってタクシーから降車し、学園の敷地内を歩く。現在は昼休みの時間帯であるため、生徒達が談笑する様子がちらほらと見て取れる。

 

 昼食は購買に立ち寄って済ませようと考えた俺だったが、午前中に主治医から釘を刺されていたことを思い出す。

 

 あと十分ほどで昼休みが終了するため、その後で食堂を利用するとしよう。

 

 時間を潰す目的で、俺は色々と思索に耽りながら敷地内をぶらついた。

 

 そして、三女神像の噴水が鎮座する中庭を通りかかった時のこと──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──あなたには何も関係ないでしょうッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちょうど俺から見て死角にあたる方向から突然、怒気を孕んだ激しい叫び声が飛んできた。

 

 一体何事かと意識を向けたが、噴水のシルエットで視線が遮られてしまってその様子を確認することは出来なかった。

 

 誰かが喧嘩でもしているのだろうか。しかし中庭に響き渡った怒号の声音には、()()()()()()()()()()()()

 

 あまりに突然の出来事に、周囲にいた生徒達も驚いた様子で視線を向けている。

 

 怒号の発生源を辿って中庭を横断すると、俺は視界の先に見知った男性トレーナーの姿を捉えた。

 

「……沖野先輩?」

 

 バツが悪そうに側頭部をかきながら、男性トレーナー──沖野先輩は重苦しいため息をこぼす。

 

 俺の呟きが届いたのか、肩をすくめた沖野先輩がこちらを振り向いた。

 

「……ん、ああ。新人か」

「沖野先輩、一人ですか?」

「……まぁ、そうだな」

 

 二週間ぶりに顔を合わせた沖野先輩からは、以前よりも少しだけ(やつ)れているような印象を受けた。

 

「女性の怒鳴り声が聞こえたので来てみたんですけど……先輩、何か心当たりはありますか?」

「…………」

 

 俺が質問したことによって、沖野先輩は完全に黙り込んでしまう。

 

 俺としては先ほどの様子を聞く程度の、本当に軽い気持ちで投げかけたつもりの質問だったが……沖野先輩のまとう雰囲気から察するに、もしかしたら彼が当事者なのかもしれない。

 

「……新人」

「はい?」

 

 どこか神妙な面持ちで、俺の真正面に立った沖野先輩から視線を向けられる。

 

「先に謝っとく…………()()()()()()

「え?」

 

 脈絡のない突然の謝罪に、俺は困惑が隠せない。

 

 その発言の意図を聞こうにも、その前に沖野先輩はこの場から逃げるようにして立ち去ってしまう。

 

 だだっ広い中庭で、俺だけがぽつんと一人取り残されるような感覚に陥った。

 

 一体、どういうことだろう。

 

 どうして沖野先輩は、何の脈絡もなく俺に謝罪なんてしてきたのだろう。

 

 それも、普段の気さくで飄々とした雰囲気とは似ても似つかないほど、思いつめたような表情を浮かべて……。

 

「……そういえば」

 

 一度情報を整理する目的で、考えを巡らせていた途中。

 

 俺はふと、先程飛んできた怒声に対して聞き覚えがあるような感覚を抱いたことを思い出す。

 

 普段の淑女的な物腰と気品に満ちた様子からは想像も出来ないが……その声音を聞いた限り、脳裏にはどうしても()()の姿が浮かんでしまって。

 

「……」

 

 それが俺の、ただの勘違いであれば良いのだけれど。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 不穏な現場に居合わせた際、当時は状況を飲み込めずに困惑していた俺だったが。

 

 

 

 沖野先輩からの唐突な謝罪の意味を含め、全てを理解したのはその翌日。

 

 

 

 俺がその異変に気付いたのは、業務の合間に一度昼休憩を挟もうと、部室から食堂へ移動しているときだった。

 

「……?」

 

 今後のトレーニングメニューについて色々と思索に耽りながら廊下を歩いていると、チラチラとこちらの様子を窺うような視線を向けられている感覚に陥った。

 

 気のせいだろうか……俺は少し不思議に思って周囲を一瞥するも、談笑に興じる生徒達ばかりで俺に注目しているものはいない。

 

 チーム・アルデバランを率いるトレーナーとして、業務復帰初日のように、以前からそれなりに注目されているという自覚はあった。

 

 考えすぎかもしれない……そう割り切った俺は、メニューの考案に再び意識を割きながら廊下を更に進む。

 

 もうすぐ昼休みが終了する時間帯とはいえ、食堂に近づくにつれて生徒達の密度は自然と増していく。

 

「…………ん?」

 

 またしても感じる、不可解な視線。

 

 全身を舐め回すようなそれを受けて、俺はさすがに何かがおかしいと気付いた。

 

 視線の出どころを追って周囲を見渡すが、やはり誰一人として俺を見ている人はおらず。

 

 だがしかし、二回目も同様の反応が見られたともなれば、生徒達が意図的に俺から視線を逸らしていることぐらいは察しがついた。

 

 半年前のような、大問題を引き起こした場合であればともかく。

 

 これほどまでに注目を集めていることに対して、俺は全くと言っていいほど心当たりがなかった。

 

 異変を肌で感じてはいるものの、見ず知らずの生徒に話しかけてまでそれを払拭するべきか。

 

 しばらく葛藤を続けた俺は、どうせ時間が解決してくれるだろうという楽観的な結論を出して、それらを意識の外側へと追いやった。

 

 食堂へ到着した俺は目に留まった定食メニューを注文し、料理を受け取って適当な席に腰掛ける。

 

「……食べづらいな」

 

 意識するだけ無駄だと理解しているつもりだったが、こうも背中に視線が突き刺さっていると料理の味も分からなくなってしまう。

 

 早く食べて部室へ戻ろう。あまりの居心地の悪さから自然と箸を進める動作が忙しなくなっていき、わずか数分足らずで料理の半分近くが皿の上から消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

「──え、なにそれ初耳なんだけど」

 

 

 

 

 

 

 

 そして、残り一口というところまで食べ進めた時。

 

 ふと、背後のテーブルを囲む生徒達の雑談が俺の耳に流れてくる。

 

「あんたあの()知らないの? 今めっちゃ話題になってんじゃん」

 

……噂?

 

「いや、全然」

「えぇ、まじ? うちのクラスとかその話題で持ちきりだったよ? まぁ、当人がいたからってのはあるかもしれないけど」

「で、なんなのその噂って」

「チーム・スピカの移籍話」

 

 生徒の一人から予想外なチーム名が出てきて、俺は少し困惑した。

 

 これだけ周囲から注目を集めていることもあって、その噂の内容は少なからず俺に関すること──チーム・アルデバランなど──だと思い込んでいた。

 

 チーム・スピカといえば昨日、顧問の沖野先輩が中庭で誰かと揉めていたような気がする。一部始終を確認していたわけでは無いため、断言は出来ないが。

 

 なにがともあれ、これで全身に感じていた視線の正体が、俺の自意識過剰によるものであると判明したわけだ。

 

 俺は安心して、ホッと胸を撫で下ろす。

 

 胸のモヤモヤも晴れたことだし、最後の一口に手をつけて部室へ戻ろうとした俺だったが……。

 

 

 

 

 

 件の噂は、それだけでは終わらなかった。

 

 

 

 

 

「え、でもそれって半年前の話じゃん。なんで今更蒸し返してんの?」

「さぁ……ただ昨日、スピカのトレーナーが元担当とバトったっぽい」

「元担当って確か、名家のお嬢様でしょ? 足の怪我が原因でレースを引退して、今はトレーナーを目指してるって聞いたけど」

 

 彼女達の話題に上がった生徒の特徴から、それが俺の担当ウマ娘であるメジロマックイーンだとすぐに分かった。

 

「移籍のせいでみんなあの子のこと()()()してるけどさ、普通に可哀想だよね。新しい目標を見つけて、一生懸命頑張ってるのに」

「あぁ、噂の内容がまさにそれ」

「え、どゆこと?」

「あの子がトレーナーになるために別チームへ移籍したって話。あれさ……」

 

 噂に心当たりがないと言っていた生徒の発言も気がかりだったが……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──なんか、()らしいよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その次に飛び出した衝撃的な言葉によって、俺の頭は真っ白になってしまった。



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38:振り出し

 はかり知れない動揺と困惑が脳裏に渦巻いて、冷静だった俺の思考がぐちゃぐちゃにかき乱される。

 

 全身を死角からぶん殴られたかのような衝撃に襲われて、俺は手にしていた箸を皿の上に落としてしまった。

 

「……え」

「やばっ──」

 

 その妙に響く甲高い音をウマ娘特有の優れた聴覚が捉えたのか。

 

 雑談に夢中になっていた生徒達が、背後で聞き耳を立てていた俺の存在に気付いたようだ。

 

 慌ててその場から立ち去っていく生徒達。

 

 だがしかし、今の俺には彼女達に意識を割く余裕なんて残っていなかった。

 

「…………どういう、ことだ?」

 

 件の噂を知る生徒が放った──”嘘”という言葉。

 

 混乱した思考を一旦まっさらな状態に戻して、俺は件の噂について知っている限りの情報を今一度整理する。

 

 噂の発端に心当たりがあるとすれば、昨日の中庭での出来事だろう。

 

 チーム・スピカのトレーナーである沖野先輩と、彼の元担当ウマ娘による口論が引き金となり、学園中に噂が蔓延した。

 

 先輩の元担当ウマ娘とは、先程生徒達が話題に挙げていたメジロマックイーンである。現在はチーム・アルデバランに所属し、チームのサポーターを務めている。

 

 マックイーンがチーム・アルデバランへ移籍を希望した理由は、指導者になりたいという彼女自身の目標を達成するため。

 

 サポーターとしてチームを支えるマックイーンは非の打ち所が無いほど優秀で、何より目標に対して常に真摯であった。

 

 入院中に外部との連絡が許可されて以来、マックイーンは実施したトレーニングの内容を俺にかかさず報告してくれていた。

 

 実際に彼女がサポートにあたる様子を見た限りでも、知識と経験に基づいた指導を完璧にこなしていたことを確認している。

 

 マックイーンがどれだけ真剣に、自身の目標と向き合っているのか。

 

 俺は彼女の担当トレーナーとして、一番の理解者であると自負している。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな優秀なマックイーンが果たして……嘘をつくことなんてあるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

……そもそもだ。

 

「……マックイーンには、嘘をつく理由なんて無いはず」

 

 生徒が発した”嘘”という言葉に、俺はずっと引っかかりを感じていた。

 

 大前提として、マックイーンは俺に対して()()()()()()()()()のだ。

 

 仮に、万が一……生徒の発言通り、指導者を志すマックイーンの目標が嘘だったとして。

 

 指導者を志す以外に何か目的があったとしたら、わざわざ欠陥を抱えた訳ありトレーナーの元へ移籍を希望するはずがない。

 

 手紙という回りくどい手段を用いて俺に連絡を寄越す必要もないだろう。そんな面倒なことをせず、彼女が以前まで所属していたチーム・スピカへ戻れば良いだけの話だ。

 

「……さすがに、この可能性は無いだろう」

 

 そんな合理性に欠けた選択を、聡明な彼女が取るとは到底思えない。

 

 マックイーンがチーム・アルデバランへ移籍を希望した理由はおそらく……彼女の理想とする教育理念や指導スタンスが、沖野先輩よりも俺の方に近かったから。それ以外、考えられない。

 

 

 

 

 

 

 それじゃあ結局、()()()()()()()()……?

 

 

 

 

 

 色々と考えを巡らせてみたけれど、処理しきれない情報と彼女に対する主観的な認識が錯綜(さくそう)しているせいで、俺は答えを導き出すことが出来なかった。

 

「……本人に、確認してみよう。それが一番正確で、手っ取り早い」

 

 結局のところ、信憑性にかける噂は鵜呑みにせず、本人に直接確認を取った方が良いだろう。

 

 今日は放課後に、担当ウマ娘達のトレーニングが控えている。

 

 その際に少しだけ時間を割いて、彼女に噂のことを聞いてみよう。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 不可解な噂を耳にしてから数時間後、午後の授業終了を示す鐘が学園中に鳴り響く。

 

 

 

 

 

 忙しない心臓の鼓動を感じながら、しばらくの時間が経過して──。

 

 

 

 

 

「……マックイーン」

「…………」

 

 俺は今、件の噂の当事者となってしまった担当ウマ娘と向き合っている。

 

 デスクを隔てて向かい合うマックイーンの様子は……当然というべきか、普段よりも格段に固い印象であった。

 

 図らずも噂の中心に立ってしまっているが故、彼女の耳にもそれは届いているはず。

 

 

 

 

 

 だけどマックイーン。

 

 

 

 

 

 どうか、安心してほしい。

 

 

 

 

 

 俺はそんな噂のことなど、これっぽっちも信じていないのだから。

 

 

 

 

 

「なんて言うか、その……災難だったな」

「…………」

「出どころが不明の噂なんて、これっぽっちも気にする必要はないよ。俺は、マックイーンが真剣に目標と向き合う姿をちゃんと見てきた」

「…………」

 

 表情に昏い影を落とすマックイーンに対して、俺はすかさずフォローを入れる。

 

 不特定多数から向けられる無責任な悪意は、誰であっても非常に心に刺さるものがある。

 

 強かなウマ娘であるマックイーンもきっと、不本意な噂のせいで苦しんでいるんだ。

 

「何があっても、俺はマックイーンの味方だ。目標に向けて努力する君を、俺はちゃんと見てる。外野の発言に耳を傾ける必要はないよ」

 

 俺は今回の件に関して思っていることを、努めて素直に口に出した。

 

 心の内を打ち明けるのは少し恥ずかしいけれど……自分の気持ちに正直にならないと、きっと相手には伝わらない。

 

 それは俺が、半年前に身をもって学んだことだ。

 

「…………」

 

 しかし残念なことに、言葉をかけた後もマックイーンの表情は依然として昏いまま。

 

「……」

 

 マックイーンが部室に入ってきてからというもの、俺と彼女の視線が交錯することは一度たりともなかった。

 

 

 

 

 

……その事実を頭で理解した瞬間。

 

 

 

 

 

 胸騒ぎのような感覚がぶわりと湧き上がってきて、一抹の不安が脳裏を過ぎった。

 

 

 

 

 

「……一応、確認しておきたい」

 

 これは決して、マックイーンのことを疑っているわけではない。

 

 これはあくまでも確認、確認だ。

 

 噂に対して不安を感じてしまっているということは……認めたくはないが、俺がマックイーンを信頼しきれていない証拠。

 

 担当ウマ娘を信じることは、トレーナーという職業において最も重要なことと言っていい。

 

 担当ウマ娘と無条件の信頼関係を築くことは、過去に在籍していたトレーナー養成校でも一番最初に叩き込まれた指導者としての姿勢だ。

 

 件の噂が原因で、ほんの少しでも疑いの方向に傾いてしまった自分の心が情けない。これじゃあ彼女を担当する指導者としての顔が立たない。

 

 本人に事実を確認した後、俺は誠心誠意マックイーンに謝ろう。

 

 目標に向けて真剣に取り組んできた姿を見てもなお不安を消化しきれなかった俺のことを、どうか許してほしい。

 

「あの噂は……本当なのか?」

 

 マックイーンが不安にならないように、俺は努めて冷静な態度を徹底していたつもりだった。

 

 担当トレーナーとして見本となる姿勢を、彼女の前では貫きたいと思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──申し訳ありません、トレーナーさん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……鏡を見るまでもなく、ありありと分かる。

 

 マックイーンからこぼれた言葉を受けて……俺が今、どのような表情を浮かべてしまっているのか。

 

「…………っ、………なん──」

 

 反射的に、俺はそう聞き返してしまった。聞き返して、俺は咄嗟に口を噤んだ。

 

 俺は慌てて、疑問を肯定で返したマックイーンの表情を確認する。

 

「トレーナーさん、大変身勝手で申し訳ないのですが……急用を思い出してしまったので、本日のトレーニングは欠席させて頂きます」

 

 今の俺の反応は多分、彼女にとって明確な拒絶の意に映ってしまったのだと思う。

 

 マックイーンは表情に昏い影を落としたまま、踵を返して部室を出て行ってしまった。

 

「…………待ってくれよ」

 

 数秒遅れで慌てて腕を伸ばすも、当然ながら俺の手は空を切る。

 

 真っ白になった頭を使って、俺は精いっぱい状況の理解に努めた。

 

 昼休みに小耳に挟んだマックイーンの噂は……残念ながら、真実であった。

 

 当人に直接確認を取ってしまったので、もはや戯言だと切って捨てることは出来なくなってしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

……じゃあ、()()()は?

 

 

 

 

 

 

 

 噂が本当なら、マックイーンはどうして俺に手紙を差し出したのだろうか。

 

 どうして俺に嘘をつく必要があったのだろうか。

 

 嘘をついてまでチーム・アルデバランに移籍した本当の目的は、一体何だったのだろうか。

 

「……俺はまだ、何も聞いていない」

 

 俺は知りたい。

 

 どうしてマックイーンが、俺に嘘をついたのか。

 

 きっと彼女には理由がある。

 

 嘘をつかざるを得なかった、大きな理由が……。

 

「……っ」

 

 そう考えだした途端。

 

 俺は居ても立っても居られなくなり、マックイーンからずいぶん遅れて部室を飛び出した。

 

 今のマックイーンを一人にしてはいけない。

 

 トレーナーとしての直感が、俺にそう訴えかけてくる。

 

 直感に突き動かされて彼女の後を追いかける俺だったが、数十秒間に迫る出遅れは致命的だった。

 

 広大な敷地を誇るトレセン学園内を手当たり次第に駆け回る俺だったが、残念ながら彼女の姿を視界に捉えることは出来なかった。

 

 そして、マックイーンが部室でこぼした謝罪の言葉を最後に……金輪際、彼女がチームに顔を出すことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……後から聞いた話によると。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンは今日以降、学園の授業にすら出席しなくなってしまったのだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私がその噂を耳にしたのは、いつものようにトレセン学園へ登校し、教室で始業の準備を進めていた時だった。

 

 スクールバッグから教材を机に移し替えている最中、何故だか私が座る方角に周囲の視線が集まっていることに気がついた。

 

 半年前から注目を浴びることは多々あったため、いつものことかと、特に気には留めていなかったのだが……。

 

「あ、おはようキタちゃん」

「ダイヤちゃん……うん、おはよう」

 

 私から少し遅れて登校してきたキタちゃんのどこか落ち着きのない様子を見て、違和感を覚えた。

 

「キタちゃん、何かあった?」

「えっ、あぁ……っ。う、うん。ちょっと…………登校中に、噂を聞いちゃって」

「噂?」

 

 キタちゃんは昔から、考えていることが存外表情や態度に現れやすい。私の顔色をちらちらと窺っている様子から察するに、何か、私や兄さまに関係する噂を聞いたのだろう。

 

「それって、どんな噂?」

 

 私がそう問いかける間も、キタちゃんは仕切りに周囲の視線を気にしていた。もしかしたらその噂とやらは、彼女自身にも関係があるのかもしれない。

 

「え、えと…………んっと──」

 

 キタちゃんは言い出し辛そうに口をもごもごさせながらも……意を決したように唇の端を結んだ後、彼女が耳にしたという噂を語ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 

「………………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 キタちゃんの口から語られたそれを受けて、私は驚きを隠すことが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 放課後、部室を目指す私の足取りが普段よりも忙しない。

 

 その原因は考えるまでもなく明白だ。私が今朝教室で聞いた、件の噂である。

 

 キタちゃんが教えてくれた噂についてなのだが、広がる速度がとにかく尋常ではなかった。

 

 私が学園のどこへ移動しても感じる、不特定多数の視線。昨日までは特に何ともなかったため、噂が蔓延し始めたのは今日以降で間違いない。

 

 一体どうして、こんな噂が流れてしまったのだろう。

 

 無駄に長い廊下を早歩きで進みながら、私はずっと件の噂について考えていた。

 

 噂の内容は、私が所属するチーム・アルデバランと、キタちゃんが所属するチーム・スピカの移籍に関係するものであった。

 

「……マックイーンさん」

 

 キタちゃんが私に語ってくれた噂ははっきり言って、聞くに耐えない内容だった。

 

 というのも、私が尊敬するウマ娘のマックイーンさんを意図的に貶めるようなものだったからである。

 

 そもそもマックイーンさんが私達のチームに移籍したのは半年前の出来事であり……なぜ今更になって噂に上がっているのか、私には理解出来なかった。

 

 マックイーンさんの努力を否定し、嘲笑うかのような噂に、私は明確な怒りを覚えた。彼女が夢と真剣に向き合う姿勢を無責任にバカにして、一体何が楽しいのか。

 

 マックイーンが夢の実現に向けて取り組む様子を、私は一番近くで見てきた。その姿に、私は何度も助けられた。彼女の努力を真っ赤な嘘だと決めつける者達は、はっきり言って異常だとすら思う。

 

 何がともあれ、このような悪意に曝されているマックイーンさんのことが心配で仕方ない。

 

 一刻も早くマックイーンさんを見つけて、彼女を安心させてあげなければ……。

 

「──っとと。すみません」

 

 不穏な胸騒ぎに急かされた状態で廊下を進み、丁度その突き当たりに差し掛かった時。

 

 私は視界の端から突然現れた学園の生徒と、危うく衝突しかけてしまいそうになった。

 

「あ、こちらこ…………サトノ?」

 

 そのときばったりと出会った人物と、私の視線が交錯する。

 

「え、ドーベルさん?」

 

 私がぶつかりかけたのは、同じチームに所属する先輩ウマ娘のメジロドーベルさんだった。

 

 偶然顔を合わせたドーベルさんからは、どこか激しい焦燥に駆られているような印象をうける。

 

 その原因には心当たりがあった。いや、原因なんて一つしかないだろう。

 

「その様子だと……サトノも聞いたんだ、マックイーンの噂」

「は、はい。親友から聞きました」

 

 ドーベルさんは、マックイーンさんの実姉にあたるウマ娘だ。妹を貶めるような噂を耳にすれば、内心穏やかではないだろう。

 

「とりあえず、部室に行こう。今日はトレーニングの日だから、マックイーンも顔を出すはず」

 

 都合が悪くてトレーニングを欠席する際は、基本的にスマホのグループチャットを用いて連絡する方針となっていた。

 

 真面目なマックイーンさんはチームの方針を蔑ろにするウマ娘ではない。

 

 彼女から欠席の連絡がない以上、下手にトレセン学園の敷地を駆け回るよりも、放課後を待った方が賢明で確実だった。

 

 ドーベルさんと廊下を進む途中、ひっきりなしに周囲から視線の雨を浴びた。

 

 私は注目されることにすっかり慣れてしまったが、ドーベルさんにとっては苦痛以外の何者でもないだろう。

 

 しかし、彼女はしきりに耳を絞りながらも、努めて気丈に振る舞っていた。

 

 並んで廊下を歩く私達の間に会話は無く、重苦しい雰囲気に支配されているような感覚だった。

 

 もっとも、各々の思考は既にいっぱいいっぱいで、雰囲気に意識を割くような余裕なんて微塵もなかったのだけれど。

 

 校舎別棟の階段を登って、私達の部室があるフロアを移動する。

 

 そして、私達が遠目に部室の扉を捉えた時のことであった。

 

「……あ」

 

 隣を歩くドーベルさんが唐突に足を止め、呟きをこぼす。

 

 ドーベルさんの視線を追うように目線を動かしたのと同時に、私達が目指す部室の扉がおもむろに開いた。

 

 その扉の先に繋がるのは、チーム・アルデバランが使用している私達の部室。

 

「……」

 

 そこから姿をのぞかせた人物を前にして。

 

 私達はつい先程まで胸に灯していたはずの目的を忘れ、その場で立ち尽くしてしまった。

 

「……マックイーンさん」

 

 私は無意識に、視線の先に立つマックイーンさんの名前を呟く。

 

 私達が今いる場所からすぐに動けなかったのは多分、扉をゆっくりと閉めるマックイーンさんの表情を見て……()()()()()()()()()()()()

 

 表情に昏い影を落とし、誰が見ても分かるほど憔悴しきった様子の彼女を目の当たりにするのは、この瞬間が初めてだった。

 

 普段の気品に満ちた笑みと優雅な品格からは想像もつかない、まるで()()()()()()姿を前に、私達は行動することを躊躇ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、それがいけなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……、…………っ」

 

 床へと向いていたマックイーンさんの瞳が一瞬、周囲を確認するかのように揺れ動く。

 

……多分、その途中で私達の姿が彼女の視界に映ったのだろう。

 

 マックイーンさんは私達に背を向けるのと同時に、その場所から存在をかき消すかのような勢いで走り出してしまった。

 

「マックイーンさん……っ」

 

 マックイーンさんの動きにつられるように、私は慌てて床を蹴る。

 

 今の彼女を、一人にしてはいけない。

 

 理屈ではなく、直感が私にそう訴えかけてきている。

 

 私の駆け出しから少し遅れてドーベルさんも動き出し、二人でマックイーンさんの行方を追うのだった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 マックイーンさんの後を追ってたどり着いたのは、トレセン学園本校舎の屋上であった。

 

 マックイーンさんが屋上と校舎を隔てる分厚い扉の奥へと消えてからしばらくし、私達は彼女に続いてそれを勢い任せに開け放つ。

 

「マックイーンさんっ!」

 

 屋上に吹き付ける北風は居竦まるほどに冷たく、地上よりも格段に強く荒ぶいていた。

 

 私は屋上へ到着するや否や、分け目もふらずに後を追ってきたマックイーンさんの姿を探す。

 

 縦横無尽に視線を駆け巡らせた果てに、私は彼女の背中姿を視界に捉えることが出来た。

 

 マックイーンさんは屋上の外縁に手を添えて、そこからの景色をぼんやりと眺めていた。

 

 天気はあいにく黒雲混じりの曇り空で、お世辞にも綺麗な景色とは言えないけれど。

 

 悩みを抱えているひとはよく、学園の屋上へ足を運ぶ。

 

 誰にも邪魔されない静かな空間で、こみ上げてくる気持ちを整理するために……。

 

 

 

 

 

「──あら、サトノさん」

 

 

 

 

 

 穏やかではない私の呼びかけに応じて、マックイーンさんがおもむろにこちらを振り返る。

 

「奇遇ですね。それに、ドーベルも。お二人は一体、どうしてこちらへ?」

「…………え、えっと」

 

 マックイーンさんの返事を受けて、私は彼女へ届けるはずだった言葉を喉元で詰まらせてしまう。

 

 私達の前に立っているマックイーンさんは、()()()()()()()()()()()()()気品に満ちた笑みを浮かべていた。

 

 それは、彼女にまとわりついていた憔悴の雰囲気を、微塵も感じさせないほどの変貌ぶりであった。

 

 先程廊下で垣間見たマックイーンさんの表情は果たして、噂を耳にした私達が生み出した幻覚だったのだろうか。

 

 少なくとも今の私には、マックイーンさんの素顔を看破することが出来なかった。

 

 その"普段通り"は気丈に振る舞うために取り繕ったものなのか。

 

 はたまた、噂のことなど本当に気にも留めていないのか。

 

「…………」

 

 柔和に微笑むマックイーンさんを前にして。

 

 

 

 

 

──私は、彼女のことが分からなくなってしまう。

 

 

 

 

 

「マックイーン。正直に答えて」

 

 しかしそれは、必然のことであった。

 

「学園で流れてるマックイーンの噂……あれ、本当なの?」

 

 私がこれまで見てきたのは、"憧れ"というフィルター越しに映したマックイーンさんの姿だけ。

 

 “憧れ"のマックイーンさん。

 

 "尊敬する”マックイーンさん。

 

 これらの感情は時に、私達を著しく盲目にする。

 

 憧れる先輩のことは何でも知っている。

 

 尊敬するウマ娘のことを誰よりも深く理解している。

 

 美味しいスイーツに目がないことも、野球観戦を密かな趣味にしていることも、最近はB級映画巡りに熱意を注いでいたことも……。レースに関する情報なんて、言わずもがな。

 

……じゃあ、それ以外のことは?

 

 目の前で微笑む彼女のことを……私は今、理解出来ているのだろうか。

 

 ドーベルさんの問いかけに対して、マックイーンさんは静かに唇を噤む。

 

 しばしの沈黙の末、マックイーンさんは閉じていた口をゆっくりと開けて……。

 

「どのような解釈をするかは個人の自由ですが……大方は、噂の通りで間違いありません」

 

 普段とさして変わらない様子で、ドーベルさんの言葉を肯定した。

 

「…………」

 

 マックイーンさんの回答に私は言葉を失う。

 

 平然と告げられた事実が頭の中で渦巻いて、思考が真っ白になっていることにすら気付かなかった。

 

「なんで?」

 

 対するドーベルさんは、間髪入れずに鋭い口調で彼女に言及した。

 

「トレーナーになりたいって……あんなに頑張ってたじゃん。サトノのためにって、こんな面倒なアタシのために、マックイーンはずっと頑張ってたじゃん! それなのに、何でそんな噂が流れるわけッ!?」

 

 声を震わせながら荒らげるドーベルさん。

 

 ドーベルさんの怒りの矛先はマックイーンさんではなく、彼女を貶めるような噂を流したひと達へ向けられていた。

 

「悔しくないの!? 何で否定しないのッ!? そんなの、そんなの……っ、アタシが知ってる、マックイーンじゃない……」

「……」

 

 ドーベルさんの叫びに対して、マックイーンさんは無言を貫く。

 

「何か言ってよ、何で黙ってるの?」

「…………」

「……否定、しないんだ」

「…………」

 

 マックイーンさんの沈黙はおそらく……ドーベルさんの言葉に対する肯定だった。

 

「……なんで?」

 

 激情に委ねて放たれていたドーベルさんの問いかけが一転して、弱々しく、縋るような声音に変わる。

 

「トレーナーに捨てられて泣いてたアタシを励ましてくれたのは、マックイーンじゃん。一緒に頑張ろうって言ってくれたマックイーンを見て、アタシはアンタのことを尊敬してた」

「…………」

「アタシよりも年下なのに、一族の期待を一身に背負っても堂々としてるマックイーンのこと……すごいなって、ずっと思ってたッ!」

「…………」

「…………ねぇ、否定してよ……お願いだから」

 

 絞り出したような声音でこぼれ落ちたドーベルさんの言葉に対しても、

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 マックイーンさんが返事をすることはなかった。

 

 

 

 

 

 

「…………そうなんだ」

 

 今回の彼女の沈黙は、ドーベルさんの願いに対する否定であった。

 

「……どうしてアイツだったの?」

「どうして、と言いますと?」

「マックイーンが嘘をついた理由をアタシなりに考えたけど……答えなんて、きっと考えるまでもなかった」

「そうですか」

「アンタには帰る居場所があったはず。それなのに……嘘をついてまでアイツのチームに移籍した理由が分からない」

「その選択が、私に残された()()()()()()だった。それだけの話です」

「だから……ッ。アタシが聞きたいのは、そういうことじゃなくて……ッ!」

 

 苛立ちを露わにするドーベルさんを前に、マックイーンさんは「ああ」と何かを理解したかのような素振りを見せる。

 

「そういえば……ドーベルはまだ、あの人の背景を知るほど親密な関係に至っていませんでしたね」

「え?」

「本当はちゃんとした段階を踏むことが理想的でしたが……あなたの問いに答えるためにはまず、彼のことを少しでも知って頂かなければなりません」

 

 その言葉を皮切りに、マックイーンさんは私達のトレーナーである兄さまのことについて語り始めた。

 

 兄さまとのアメリカでの出会いを筆頭に、かつてのチーム・アルデバランにおける活躍や、彼にとって最愛の教え子であったウマ娘との関係性。兄さまの特異な指導方法から、当時の彼を取り巻く人間関係に至るまで。

 

 マックイーンさんが語った内容をまとめると……彼女が私達に対して説明したのは、豹変してしまった半年前の兄さまが形成されるに至った()()であった。

 

「…………」

 

 マックイーンさんの口から語られる兄さまの情報は、彼の昔馴染みであった私ですら全く知らないものばかり。

 

 兄さまのことは何でも知っていると自負していたつもりだったけれど……その実、私は彼のことを上辺でしか見ていなかったということなのだろうか。

 

 私もマックイーンさんも、兄さまと相識の間柄にあるということは共通していたはずなのに。

 

 過去に彼と過ごした時間で言えば、マックイーンさんよりも私の方が圧倒的に長いはずだったのに……。

 

 一体どうして、”兄さま”という存在に対する理解度や解像度が、こんなにも違っているのだろうか。

 

 その事実に打ちひしがれるのは今じゃないと頭では理解しているのだけれど……私の心は計り知れないショックを受けてしまって、目の前が真っ暗になってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「………………は? なに……それ…………」

 

 

 

 

 

 

 

 そして、それは私の隣に立つドーベルさんも同様だった。

 

「そんなボロボロの状態で、アイツは学園に戻ってきたって言うの? 何でトレーナーの仕事、続けていられるの……? 知らない……ぁ、アタシ、そんなこと何も知らない…………」

 

 焦点がずれた瞳を虚げに揺らしながら、ドーベルさんは呟く。

 

「ぇ、じゃあアタシは、そんなアイツに……不満も、ストレスも、気に食わないことも全部、押しつけてたって、こと…………?」

 

 ドーベルさんの呟きには、横に並ぶ私の心にも深々と突き刺さるものがあった。

 

「アタシ達は今の今まで、ボロボロのアイツを……利用しようとしてたってこと…………?」

 

 過去を振り返るように言葉をこぼし、ドーベルさんは胸元に手を押し当てながら苦しそうに呼吸を繰り返す。

 

「意味、分かんない……意味わかんない、分かんない分かんないわかんないわかんない──ッ!?!?」

 

 やがてドーベルさんは同じ言葉を狂った機械のように繰り返し、次の瞬間、彼女は唐突に踵を返して屋上から走り去っていってしまった。

 

「……ぁ、ドーベルさん…………っ」

 

 屋上から飛び出したドーベルさんの後を追おうと反射的に身体を翻す私だったが……途中、急激に後ろ髪を引かれるような感覚に襲われて駆け出した足にブレーキをかけた。

 

 屋上にはまだ、マックイーンさんが残っている。

 

 彼女を一人にしないために、私達はこうして屋上へとやってきたはずだった。

 

 マックイーンさんとドーベルさん。

 

 彼女達は両者とも尊敬できる優しい先輩で、私には二人を天秤にかけることなんて到底出来なかった。

 

 それでも現状は刻一刻と、私に困難な判断を下せと要求してくる。

 

 様々な要素を天秤の上皿に乗せて客観的な判断を心掛けようとした私だったけれど、残念ながら調整に失敗し、秤を大きく崩してしまう。

 

 故に私は強く目を瞑って、私は自身の中に眠る直感に全てを委ねることに。

 

「……っ」

 

 思考を放棄してから間もなく、私は地面のコンクリートを強く蹴り上げて……屋上を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 それから後のことは、正直よく覚えていない。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンが最後に部室を訪れてから、今日で三日目になる。

 

 マックイーンと最後に会話──と言っても、ほとんど一方的なものであったが──を交わして以降、彼女は一度もトレーニングに顔を出していなかった。

 

 マックイーンに毎日連絡を送ってはいるが未だに返事は無く、聞いたところによると……彼女はどうやら、学園の授業にも出席しなくなってしまったのだそうだ。

 

 トレーニングといえば……マックイーン以外にもう一人、三日前から欠席を続けている担当ウマ娘がいた。

 

 マックイーンと共にチームへ移籍してきた──メジロドーベルである。

 

 ドーベルからは事前にトレーニングを欠席する旨の連絡をもらっているのだが、そのタイミングがマックイーンの失踪と重なるため、心配なことに変わりはなかった。

 

 ドーベルが欠席を申し出た日数はニ日間であったため、おそらく今日のトレーニングには顔を出すことだろう。

 

 間もなく放課後を迎え、授業を終えた担当ウマ娘達が部室へやってくる頃。俺はトレーニングの用意に不備がないことを確認しながら、彼女達の到着を待つ。

 

 それからしばらくして、部室と廊下を隔てる扉が遠慮がちに開かれる。

 

「……」

 

 わずかに生まれた扉の隙間から入室してきたのは、俺の担当ウマ娘であるメジロドーベル。

 

 三日ぶりに顔を合わせたが、彼女の表情は普段よりも浮かない様子だった。

 

「授業、お疲れ様。体調不良って聞いていたけど、身体はもう大丈夫なのか?」

「……うん」

「そっか。それは良かった」

 

 ドーベルとの関係はまだまだぎこちないものだけれど、心の距離はそんなに簡単に縮められるものではない。

 

 噂の件もあり、ドーベルの心はおそらく普段以上に不安定だ。

 

 経験上、俺は意識を注ぎ過ぎるとたいてい空回る。

 

 そのため最近では、必要以上に担当ウマ娘との距離を縮めるアプローチをすることは無くなった。

 

 この対応に少し違和感を覚えることもあるけれど……現時点の彼女に対してはおそらく、一定の距離を空けたスタンスが最適解だろう。

 

 現状の関係に囚われず、ゆっくりと時間をかけて歩み寄っていく。

 

 それが、数週間ドーベルと接してきた上で見出した俺の答えであった。

 

「…………あの、さ。唐突で悪いんだけど」

「うん?」

「……これ」

 

 ドーベルは業務用デスクの前に立つ俺の元まで歩みを進めると、肩に掛けたスクールバッグをあさって中から一枚の用紙を取り出した。

 

 ドーベルがその用紙を、俺へと差し出す。

 

 俺は彼女から受け取ったそれに、何気ない気持ちで視線を落とした。

 

「…………」

「……身勝手で、ごめん」

 

 用紙を手にした俺の様子を窺うように、ドーベルは消え入りそうな声で謝罪の言葉を呟く。

 

 俺は彼女から貰ったそれ──チームからの()退()()を見て、彼女に言葉を返せなくなってしまった。

 

「マックイーンから……アンタのことを、聞いたの」

「俺の、こと……?」

「アンタの…………病気のこと」

「……」

 

 ドーベルの発言から分かる通り、俺は彼女に対して以前まで患っていた病気のことを打ち明けていなかった。

 

 特に隠していたわけではなかったのだが、話題にあげても反応に困るような内容だ。

 

 そのため半年間に及ぶ闘病生活を、俺はただの諸事情として通していた。

 

「身勝手だって、アタシが一番自覚してる。アタシ達から移籍を希望した立場で、こんなこと言い出すのは良くないって本当は分かってる。でも、でもアタシ……これ以上アンタに、迷惑かけたくないの」

「……迷惑だなんて──」

「そんな嘘、つかないでよ」

 

 俺はドーベルが打ち明けた内心を否定しようと言葉をかけるが、途中で彼女に声を被せられてしまう。

 

「アンタが体調を崩して風邪を引いた原因……それって、アタシのせいだよね」

「違う。あれは俺の杜撰な自己管理が招いた失態で──」

「誤魔化さないでよ」

 

 ドーベルは確信のこもった口調で俺の言葉を否定する。

 

「分かってるの。アンタがアタシと接してるとき、いつも辛そうな顔してた。サトノやマックイーンに向ける視線には無いものが混じってる……今だってそう」

「……」

 

 俺はもしかしたら、無意識の内に苦悩を表へ出してしまっていたのかもしれない。

 

「マックイーンの件もあるし……これ以上わがまま言って、アンタに迷惑をかけたくないの」

 

 チームからの脱退を希望するドーベルの意志は固い。

 

 残念ながらこの状況では、彼女を説得することは困難だろう。

 

「それにアタシ…………やっぱり、諦められないの」

「……春の天皇賞のことを、か?」

「適性が絶望的だってことは自覚してる。目標を変えるべきだっていうアンタの指摘は、考えるまでもなく正しいって分かってる。それでもアタシは…………なりたい自分に、なりたいの」

「……チームを脱退した後に、あてはあるのか?」

「分からない……でも、アタシをステイヤーとして育ててくれるトレーナーを探そうかなって思ってる」

「……そうか」

 

 ドーベルの距離適性の関係上、俺は最後まで彼女の目標を快く聞き入れてあげることが出来なかった。

 

 お互いの主張が根本から食い違っているのであれば、苦悩や不満から目を背けてまで担当契約を継続する必要なんて無いのかもしれない。

 

「…………分かった。脱退の手続きに関しては、あとは俺が済ませておくよ」

 

 しばらく考えた末……俺は結局、ドーベルの意志を尊重するという結論を下した。

 

 脱退届の署名欄に俺の名前を記入し事務へ提出すれば、彼女はチーム・アルデバランから正式に脱退が完了する。

 

「君の力になれなくて、本当に申し訳なかった」

「……謝らないでよ。アタシのわがままのせいなんだから」

 

 俺は部室を後にしようとするドーベルの背中に続いて、せめて自身の夢へ挑む彼女を見送ろうと考えた。

 

 その途中、俺は彼女の背中に問いかける。

 

 最後にいくつか、ドーベルに聞いておきたいことがあった。

 

「そういえばさっき、ドーベルはマックイーンから俺の病気のこと聞いたって言っていたけど」

「……そうだけど」

「ここ数日、マックイーンと連絡が取れないんだ。どうやら学園の授業も欠席していて、寮にも戻っていないらしくて……ドーベル、何か知らないか? 例えば、彼女の居場所とか」

「特には、聞いてないかな。でも、あまり大事(おおごと)にはなっていないから……北海道の本邸か、どこかの療養施設辺りじゃないかな」

「そうか」

 

 マックイーンのその後については、彼女の姉であるドーベルでさえも把握していないようだ。

 

「最後にもう一つだけ、良いかな」

「なに?」

「どうしてドーベルは、春の天皇賞にこだわるんだ?」

「前にも言わなかったっけ? 天皇賞の制覇は、アタシ達の使命だって」

「ドーベルが天皇賞へ込める想いは、使命だけじゃ説明出来ないような気がしていたんだ。本当はある程度関係が進展した後に、聞きたいと思っていたんだけど」

 

 ドーベルの天皇賞(春)に対する執着心は、使命という言葉だけで芽生えるものでは無い。そこには使命とは別の、彼女自身の個人的な想いが込められているはずだと俺は踏んでいた。

 

 使命の奥にある想いを理解すれは、メジロドーベルというウマ娘の核心に迫ることが出来ると考えていたのだが……。

 

「…………あんまり、覚えてないや」

「そうか」

 

 残念ながら、彼女が俺に対して赤裸々な本心を語ってくれることは無かった。

 

「短い時間だったけど、君の担当になれて良かった」

「……そう」

 

 別れ際に贈る言葉にしては、少々薄っぺらいような気もするが。

 

 悲しいけれど、今の俺にはこれくらいしか言ってあげることが出来なかった。

 

「迷惑ばかりかけて、本当にごめん…………それじゃ」

 

 最後にドーベルは深々と頭を下げて、俺の元から去っていった。

 

 彼女の背中を引き留める甲斐性が俺に備わっていたら、そもそもこんな情けない結末で終わることは無かったのだろう。

 

「…………」

 

 俺は部室の扉を静かに閉める。

 

 だだっ広い空間で一人になった途端、全身がどっと重くなって、俺は近くの椅子に身体を預けた。

 

 マックイーンが失踪して、ドーベルがチームを脱退して……全てが振り出しに戻ってしまったかのような感覚が、俺の心に重くのしかかってくる。

 

「……兄さま」

「……? あぁ、ダイヤ。来てたのか」

 

 いつの間にか、ドーベルと入れ替わるような形で部室にやってきたダイヤが、俺の目の前に立っていた。

 

「何か、ありましたか……?」

「何でもないよ。それじゃあ今日も、トレーニングを始めようか」

 

 重たい腰を何とかあげて、俺は準備していたトレーニング用具の確認作業へ戻る。

 

 これ以上、担当ウマ娘に余計な心配をかけさせるわけにはいかない。

 

……こんな挫折を味わうのは、何年ぶりだろうか。

 

 せめてダイヤが見ている前でだけは、彼女の担当トレーナーとしてしっかりと振る舞っていなければ。



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39:使命

 天皇賞の制覇。生来より課せられた悲願達成の使命は、私──メジロマックイーンにとって存在意義に値するものであった。

 

 ここ数年で飛躍的な発展を遂げてきたレース業界において、代々数多くの名ウマ娘を輩出してきた名門メジロ家。

 

 長距離レースを重視するその家風より、世間一般からは『長距離のメジロ』としての呼び声が高く、中でも一族が世代を通じて勝利を収めてきた天皇賞に対する執着は並々ならないほどであった。

 

 そして、次世代のメジロを担う存在として誕生した私達姉妹はもれなく、周囲から向けられる大きな期待を背負って幼少期を過ごしてきた。

 

 物心が付いた頃から英才教育を施され、メジロの名を冠するウマ娘としての正しい在り方を学ぶ日々。

 

 生家の悲願達成に文字通り全てを費やすその姿勢は、世間一般からすれば窮屈に感じるかもしれない。

 

 しかし、私にとって周囲の期待を背負って生きることは当然のことであり、高潔な血筋を引くウマ娘としての矜持を育む生活に強い誇りを感じていた。

 

 それからしばらくの歳月が過ぎて、本格化を迎えた私は満を持して競走の世界へと足を踏み入れることとなった。

 

 一族が心血を注いで次世代の育成に励んだ成果は、次第に目に見える形ではっきりと現れる。

 

 トレセン学園入学後に無名のチームからトゥインクル・シリーズへ出場し、メイクデビューをレコードで勝利。

 

 ジュニア級を無敗で走り抜け、次なるクラシック級も善戦。

 

 トゥインクル・シリーズにおいて最高峰のレースと称される”五大競走”の一つ──菊花賞を制覇する頃には、メジロ家の最高傑作として日本中から称賛の声を浴びるようになっていた。

 

 ”名優”という異名を冠するようになったのも、丁度その頃からだろう。

 

 メジロの名を継ぐウマ娘として華麗に、優雅に、完璧に勝利することを最優先に考えてきた私ではあったが、異名という形で世間から親しまれるのは存外悪いものではなかった。

 

 私がトゥインクル・シリーズで輝かしい戦績を残せば、メジロ家は更なる繁栄を遂げることが出来る。私という存在を生み出してくれた生家に対して、恩返しをすることが出来る。

 

 ここまで来れば、メジロ家の悲願達成は目前だ。

 

 シニア級において最長距離を誇るGⅠ重賞──天皇賞(春)。

 

 天皇賞(春)の制覇こそがこの身に託された一族の悲願であり、果たさなければならない使命であり、幼少期から抱き続けた私にとっての──夢であった。

 

 菊花賞の制覇は私にとって、偉大な使命の通過点に過ぎない。

 

 来たる悲願達成の瞬間へ向けて、一層気を引き締めてトレーニングに励んでいた矢先のこと……。

 

『──お嬢様。どうか落ち着いて聞いて下さい』

 

 ターフを走っている途中、私は左脚に微かな違和感を覚えた。

 

 違和感と言っても特に気にする程のものでは無かったのだが、数ヶ月後には天皇賞が控えているということもあり、念には念をという意味でメジロ家が雇用する主治医に身体の状態を確認してもらうことに。

 

 過剰と思えるほどの精密な検査を終えた後、神妙な面持ちでこちらを見つめる主治医を目にし、私は漠然とした胸騒ぎに襲われた。

 

 固く閉ざされていた主治医の口が重々しく開いて、私に告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『お嬢様は左脚に…………繁靭帯炎を、発症いたしました』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのあまりにも無慈悲な事実を突き付けられた瞬間、手の届く場所にあったはずの夢があっけなく崩れ落ちていった。

 

 

 

 

 

 不恰好に夢の残滓を掻き集めても、それらは全て私の手のひらからこぼれ落ちてしまう。

 

 

 

 

 

 ひたすらに夢を追いかける輝かしい日々は、何の前触れもなく唐突に幕を下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがてその先に永遠と続くのは……抱えきれない未練に追われる、絶望に塗れた日常だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ねぇねぇマックイーン。突然で悪いんだけど、ボクと同じチームに入ってくれない?」

 

 トレセン学園入学後、今年度一回目の選抜レースを一着で勝利した私に声を掛けてきたウマ娘がいた。

 

 鹿毛の長髪を後頭部でまとめ、鮮やかな天色の瞳で机に腰掛ける私を見つめるクラスメイト。

 

「……何なんですの、テイオー? 藪から棒に」

 

 彼女の名はトウカイテイオー。その明朗快活な性格からは想像し難いが、彼女は旧家の出身である。その影響で、私の生家であるメジロ家とも以前から交流があった。

 

「私は今、チーム選びで忙しいのですが?」

「そういえばマックイーン、この間の選抜レースで一着だったもんね。スカウトとか来てるの?」

「ええ。ですから今、こうして所属するチームを吟味しているのです」

「なら丁度良かった! マックイーン、ボクと同じチームに入ってよ、チーム・スピカ!」

「……()()()?」

 

 テイオーの口から出てきたチーム名には全くと言っていいほど聞き覚えがない。

 

 手に持っているトレセン学園チームリストを確認しても、その名前を見つけることは簡単ではなかった。

 

「確かテイオーも、選抜レースでは一着だったはずです。もっと有名なチームからスカウトが来ているのでは無いですか? 例えば、チーム・リギルとか」

「うん、来たよ。でもさぁ、レースを走るのはボク達なんだから、トレーナーなんて誰だって同じだよ。いてもいなくてもどうせ関係ないもんね!」

「…………はぁ」

 

 相変わらずの慢心具合に、私は呆れて物も言えなくなった。

 

「お断りします。私には、天皇賞の制覇という重要な使命がありますので」

 

 今後の競走生活を共に歩むチームになるのだから、私はテイオーと違って真剣に選びたい。

 

 情に絆されてチーム選びを蔑ろにし、悲願を果たせなかったともなれば一族の面汚しもいいところだ。

 

「ねぇ、良いじゃん! ボクと同じチームに入ってよマックイーンーっ!」

「……」

「ねぇねぇねぇねぇ! 入ってよぉボクと同じチームにぃ! お願いお願いーっ!!」

「……ぁあもうっ! うるさいですわ!」

 

 しかし、どれだけ追い払ってもテイオーはしつこく食い下がってくる。耳元で騒がれ続けた私はついに、我慢の限界を迎えてしまった。

 

「分かりましたっ! そこまで言うのでしたら、見学程度はして差し上げます!」

「本当っ!? ありがとうマックイーン!」

「私はするのはあくまで見学です。チームへの加入を決めたわけではありませんから。くれぐれも誤解しないで下さいまし」

「はいはーい。それじゃあ放課後、ボクが案内するから。そのつもりでよろしくー」

 

 私が見学の意向を伝えると、テイオーはあっという間に踵を返して他の友人の輪に戻っていった。

 

「…………何だったんですの?」

 

 トレセン学園入学早々、面倒くさいクラスメイトに目をつけられてしまった。

 

 私は一旦チーム選びを保留にして、放課後までにトウカイテイオーが所属するチーム・スピカについての情報を収集するのであった。

 

 

 

***

 

 

 

 クラスメイトから執拗な勧誘を受けた日の放課後、私はテイオーに連れられてトレセン学園の敷地外にある裏山の神社を訪れていた。

 

 何百段もそびえる階段を登りながら、私を先導するテイオーのあとに続く。

 

「こんなところでトレーニングをしているんですの?」

「ほら、ボク達のチームってまだ無名じゃん? トラックの使用申告をしても、後回しにされることが多いんだってさ」

「世知辛いですわね……というか、さりげなく私をあなたと一緒くたにするのはやめて下さいまし」

 

 目的の場所へ到着するまでの間、私はこれからトレーニングを見学するチーム・スピカについての情報を再確認することに。

 

 チーム・スピカは二年前に創設されたチームであり、その代表を務めるのは同時期に現職へ復帰した"沖野"という男性トレーナー。

 

 新学期を迎えたことで所属していた年長のチームメイトがトレセン学園を卒業し、目の前にいるトウカイテイオーを含め、現在では三名のウマ娘が所属している。

 

 チームの規定人数云々の話に関しては、かなりの猶予があるそうなので、それに満たない現在でも問題なく活動出来ているとのこと。

 

 私はてっきりチームの規定人数を埋めるために勧誘されたと感じていたので、テイオーの意図がますます分からなくなってしまっていた。

 

 ある程度登ったところで一度、連続する階段が途切れる。中間地点の広場に到着した。

 

「……あの、どこまで登れば良いのですか?」

「うーん、おっかしーなぁ。トレーナーは確かこの辺りで待ってるって言ってたんだけど」

 

 テイオーの言動から察するに、私達が今いるこの広場が待ち合わせ場所であるようだ。

 

 しかし、あたり一帯を見渡しても人の気配は無く、静寂な雰囲気が漂うだけであった。

 

「……テイオー。私はあなたの顔を立てて差し上げたのですよ。これ以上私の貴重な時間をあなたに割くわけにはいかないのですが?」

「まぁまぁそう言わないでよ。今度駅前のスイーツ奢ってあげるから」

「……あと五分だけですからね」

 

 どうせここまで付いてきてしまったので、もうしばらくの間私はテイオーに付き合ってあげることにした。

 

 しかし、それから五分以上が経過したにも関わらず、チーム・スピカのトレーナーらしき人物が現れる気配は無かった。

 

「…………私、もう帰ります」

 

 これ以上、私の貴重な時間を無駄にすることは出来ない。

 

 私には生家の悲願を果たすという使命がある。こんなところで油を売っていては、果たせるものも果たせなくなってしまう。

 

 そう考えて、私はそそくさと踵を返そうとした瞬間。

 

「──ッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 制服のスカートから伸びるトモの辺りを舐め回すように弄られる不快感が、私の全身を突き抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 最初は膝下を撫で上げていた何者かの両手がトモを伝って内股を這い、不躾なそれは遂に、無防備なスカートの内側へ……っ。

 

「──さすがはメジロ家の令嬢! 均整の取れた神々しいおみあ」

「どどどっ、どこを触っているんですかこの変態ッ!!」

「ん"ぐふぉ"ゔ……っ!?」

 

 左脚にまとわりつく不快感を引き剥がすように、私の背後で立膝をつく男性の顔面を思い切り蹴り飛ばした。

 

 手加減を忘れたウマ娘の蹴りを受けて、私よりも大柄な男性が宙を舞って地面にくしゃりと落ちる。

 

「な、なななな何なんですのこの男性はっ!?」

 

 私はこの不審者から慌てて距離を取って、両手でスカートの裾を押さえた。

 

「もぉ、遅いよトレーナー!」

「……い、いやぁ、すまんすまん。来る途中に良い脚を持ったウマ娘をスカウトしたんだが……ちっとばかし気を失ってたわ」

「……さいってー。いい加減やめなよ、そのヤバいスカウトの仕方」

「いんにゃっ! 俺は魅力的な脚を持ったウマ娘をスカウトしたいんだ! 側から見るだけじゃあ、分かるものも分からない!!」

「……たづなさんにもう一回言いつけとこ」

「んぁあ"あ"あ"あ"っ! もう減給は嫌だぁああああッ!?」

 

 ぽかんとする私をよそに、隣に立つテイオーと、顔面を抑えながら地面でのたうち回る不審者が会話を続けている。

 

 それに耳を傾けると、何だか聞き捨てならない単語が聞こえてきたような気がして、私は両耳を激しく絞った。

 

(この不審者が……チーム・スピカのトレーナー? ほ、本気で言っているんですの?)

 

 冷静さを取り戻してきた思考を用いて事態を把握するにつれ、私の表情が段々と引き攣っていく。

 

 中央のトレセン学園に勤務するトレーナーは、大志を抱くウマ娘に対して常に紳士的で、思慮分別に長けた立派な方々だと思っていた。

 

 だが、この不審な男はどうだ。

 

 初対面のうら若き乙女に対して変態的な行為を働き、会話から想像するに他のウマ娘に対しても同様の行為を繰り返しているらしい。

 

 もはや考えるまでもなく、私は本能で理解する。

 

 

 

 

 

 このチームは──ヤバい。

 

 

 

 

 

 彼らと関わると、ロクでもないことに巻き込まれるような気がする。否、目に見えている。

 

「私はこれで失礼しますっ!」

「えっ、マックイーン!? ちょ、ちょっと待って──」

 

 テイオーの制止を無視し、私は踵を返して来た道を引き返す。

 

 テイオーには悪いが、これ以上彼女の言葉に耳を傾ける気は無い。

 

 背後から慌てて引き留めるような声が聞こえて来たけれど、私はそれら全てを無視して、無駄に長い階段を下っていった。

 

 

 

***

 

 

 

「──ねぇねぇマックイーン。今日はトレーニングの体験に来てよ!」

「…………」

 

 私が散々な目にあった翌日、クラスメイトのテイオーは懲りずにチームの勧誘に来た。

 

「今日はトラックの使用申告が通ったから、コースに入ってトレーニング出来るんだ!」

「お断りします」

「えぇ! 何でさ!」

「私はもう、チーム・スピカには関わらないと決心しましたので」

「昨日のこと、怒ってるの?」

「当たり前ですわ! 何なんですかあの不躾な振る舞いは!」

 

 私は座っていた椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、声を荒げて憤慨する。そのせいで周囲から注目を集めてしまい、途端に恥ずかしくなって私はそそくさと椅子に身体を預けた。

 

「マックイーンの気持ちも分かるよ。ああやってスカウトするの、日常茶飯事らしいし。ボクも蹴り飛ばしたっけ」

「…………」

 

 テイオーの言葉を聞いて、自身の頬がピクピクと引き攣る。あのような変質者を野放しにしておいて、トレセン学園の治安は大丈夫なのだろうか。

 

「まぁ言動は残念なヒトだけど、トレーナーとしてはそこそこ優秀だったって評判らしいよ」

「……前者で全て台無しですが、一応聞いて差し上げましょう」

「最近ではめぼしい成績こそ残していないけど、昔はそれなりに結果を出してたんだって。噂だと、初めて持った担当をダービーウマ娘に育て上げたらしいよ」

「なるほど……言動はアレですが、指導者としての実力は本物であると」

 

 最低最悪な第一印象を抜きにすれば、沖野という男性は非常に優れたトレーナーであることに間違いないだろう。

 

 あの男性が率いるチームに加入する気は毛頭ないが、その手腕を一度体験するくらいなら考えないこともない。

 

「……というかテイオー。あなた昨日、トレーナーなんて誰でも良いとおっしゃっていませんでしたか?」

 

 トレセン学園へ勤務するトレーナーの方々へ失礼千万な発言をしておきながら、しっかりと実力で選んでいるじゃないか。

 

「どうせなら優秀な方が良いじゃん!」

「……あなた、自身の発言が矛盾していることにお気付きでして?」

 

 チーム・スピカのトレーナーも癖が強いが、そこに所属するウマ娘も負けず劣らずの気性難っぷりだ。

 

「と・に・か・く、今日の放課後はジャージに着替えてトラックに集合! 約束破ったらダートに埋めるからね!」

「わ、私はまだ体験をすると決めたわけでは……っ! …………はぁ」

 

 慌ててテイオーに言い返す私だったが、今の時間がお昼休みということもあり、彼女は返事を待たずに友人達と食堂へ走っていってしまった。

 

「まったく、どうして私がこんな目に……」

 

 テイオーは私と違い、快活な性格のおかげでクラスの中でも人気があって交友関係が非常に広い。

 

 それなのに、わざわざクラスで浮いている私に声をかけるなんて……勝ち気で生意気なテイオーのことが、この時はまるで理解出来なかった。

 

 

 

***

 

 

 

「──お、ちゃんと来たな」

「…………」

 

 放課後、仕方なくジャージに着替えた私はテイオーに連れられてトレセン学園敷地内にあるトラックへ足を運んだ。

 

 昨日のことがありながら何食わぬ顔で私の前に立つ沖野トレーナーを見て、恨めしさのあまり鋭い視線を彼へぶつけてしまった。

 

「そんなに睨むなって、悪かった悪かった」

「その謝罪にまるで誠意を感じないのは、私の気のせいでしょうか?」

「うーし……お前ら! 一旦集合だ!」

「む、無視……」

 

 沖野トレーナーは私の言及を容易くいなして、コース付近に散らばって準備運動をしていたウマ娘達を一ヶ所へ集める。

 

 張り上げた沖野トレーナーの声に応じて、テイオー以外の二名のウマ娘がこちらへと寄ってきた。

 

「今日一日トレーニングを体験することになった、新入生のメジロマックイーンだ。仲良くしてやってくれ」

 

 沖野トレーナーは、私を立てるように一歩引いた場所からチームメンバーに語りかける。

 

「今日はよろしくねっ! マックイーン!」

 

 最初に声を掛けてきたのは、私を強引に連れてきたウマ娘──トウカイテイオー。

 

「よろしくお願いします」

 

 テイオーの後に続いたのは、明るい栗毛の長髪を目元で切り揃えたウマ娘──サイレンススズカ。非常に物静かな印象で、神秘的な透明感と憂いの帯びた雰囲気が特徴的な方だった。

 

 そして、チーム・スピカに所属するもう一人のウマ娘なのだが……。

 

「──んほぉ! マックイーンじゃねぇか! こりゃあ奇遇だな!」

「ご、ゴールドシップ…………っ」

 

 色素の薄い芦毛のロングヘアに、特徴的な装具を付けた高身長のウマ娘──ゴールドシップ。

 

 おそらくこの学園でその名を知らないものはいないだろう。かくいう私も、学園一の問題児と名高いゴールドシップからは、何故だか知らないがよく絡まれていた。

 

「ん、なんだお前ら、知り合いか?」

「ああ! こいつはアタシのおじいちゃんだ!」

「はぁっ!? 私はあなたの血縁者になった覚えなどありません! そもそも、性別が違います! あなたの目は節穴でしてっ!?」

 

 ゴールドシップに絡まれると、何というか……非常に疲れる。二千名近くが在籍するトレセン学園で、よりにもよって目をつけられたのがこの私だなんて……よよよ。

 

「ま、仲良くやれそうで何よりだな」

「……あなたにはこれが、仲良しに見えるのですか?」

 

 これ以上彼らのような奇行集団に突っ込むのはうんざりだ。

 

 煮るなり焼くなり、もう好きにして下さいまし……。

 

「トレーナーさん」

「ん、どうしたスズカ」

 

 私が意図的に彼らから距離を取っていると、私と入れ替わるような形でサイレンススズカさんが沖野トレーナーの方へと駆け寄っていった。

 

 スズカさんの様子を窺う限り、彼女はチーム・スピカの中で唯一の常識人だろう。まともな方がいてくれて良かった……。

 

「走ってきても良いですか?」

「ああ、好きに走りな」

「はいっ!」

「…………え?」

 

 今からトレーニングをするんですわよね? それなのにどうして彼は、何の指示も出さずに彼女を送り出しているのですの?

 

「スズカのことが気になるのか?」

「あの、沖野トレーナー? 今日は、トレーニングの日では無いのですか? 最初から全力疾走させて、大丈夫なんですの?」

「それがスズカにとってのトレーニングだからな」

「……はい?」

 

 沖野トレーナーの言葉を受けて、私の脳内がクエスチョンマークで埋め尽くされる。

 

「うっし! 今日は小指でスイカ割りに挑戦だ! 前回は二本指だったが、師匠から授かった秘伝の技を駆使すれば不可能じゃないはずだ!」

「ああ、頑張れよ」

「完璧に五等分してやっから、オメェら楽しみにしてやがれ!」

「…………あ?」

 

 もはや走ってすらいないゴールドシップの破天荒な行動に、私は開いた口が塞がらなかった。

 

「んじゃ、俺達もトレーニングを始めるか」

「はーい」

「…………」

「マックイーン。そんなところで突っ立ってどうしたの? 早くこっちに来なよ」

「…………なるほど、これがあなた達にとって平常運転なのですね」

 

 もはや何が何だか分からない。

 

 だから私は、何が何だか分からないことを、()()()()()()()()()()()()飲み込むことにした。

 

……まぁ、あれだ。この沖野というトレーナーは、担当ウマ娘の自主性を極限まで尊重した放任主義を教育理念に掲げているのだろう。

 

 私は疑問を覚える思考を放棄して、テイオーと共にコースの中へと足を踏み込む。

 

「まずは二人とも、ウォーミングアップで二周走ってこい。その後は併走トレーニングをしてもらうから、十分身体を温めてくといい」

「はーい。それじゃ、マックイーンお先ぃっ!」

「……あ、こら待ちなさいテイオー!」

 

 沖野トレーナーの指示を受けてそうそうに駆け出したテイオーの後に続き、半テンポ遅れて私は地面を蹴り上げる。

 

(……テイオーの走りを間近で見るのは初めてですが、生意気な口を叩くだけのことはありますわね)

 

 ウォーミングアップということもあり、先行するテイオーは当然余力を残して悠々と走っているだろう。

 

 しかしテイオーの走りの随所から、彼女の突出した才能と隠れた努力が滲み出てきている。

 

 私が特に警戒すべきは、脅威的な足の柔軟性によって生み出された彼女にしか出来ない特別な走り方。

 

 非常に柔らかい足首としなやかな脚遣いに、テイオー自身の抜群のセンスが掛け合わさることで生まれる異次元の推進力。

 

 先日の選抜レースで彼女の走りを見たときは正直、度肝を抜かれたものだ。

 

 果たして、本気を出したトウカイテイオーに、現時点での私の全力が届くかどうか……いや、そんなことを考えるのは今では無いだろう。

 

「……よし、戻ってきたな。休憩は必要か?」

「いらなーい」

「問題ありません」

「ん。それじゃあさっきも言った通り、二人には併走トレーニングを行なってもらう」

 

 沖野トレーナーの指示はこうだ。

 

 コースは先程ウォーミングアップで走ったトラックを左回りで一周。距離にして、約二千メートル。先にゴール板の前を走り抜けた方の勝利。

 

 私達は早速コースに入り、各々スタートの構えを取る。

 

「ボクさ、選抜レースを見た時からずっと気になってたんだよね。マックイーンのこと」

「あら、そうですか」

 

 沖野トレーナーが所定の位置につくまでの間、隣に並ぶテイオーが私に声を掛けてきた。

 

「マックイーンはボクにとって、一番のライバルになる。無敗の三冠ウマ娘の座に着くボクの夢に、綺麗な花を添えてくれる──最高の()()()()()としてね」

「相変わらず生意気な口ぶりですわね。正直、あなたの舐め腐った態度がウザいと感じていたのですよ。その天狗になった鼻っ柱を、今ここでへし折って差し上げます」

「にししっ……そうこなくっちゃ」

 

 挑発に乗せられて苛立ちが込み上げてくるのとは裏腹に、私の思考は異常なほどに冷静だった。

 

「あ、そうだ。ボクが勝ったら、マックイーンにはチーム・スピカに入ってもらおっかな」

「では私が勝利した暁には、駅前で販売されている数量限定特大アップルパイをたらふくご馳走して頂きます」

 

 これまで培ってきた私の全てを出し切って、トウカイテイオーよりも先にゴール板を駆け抜ける。

 

「それじゃあ行くぞー! よーい……」

 

 何故だろう。隣にトウカイテイオーがいるだけで、不思議とメジロマックイーン()の中に眠る闘争心が震え上がる。

 

 これまで経験したことのない感覚に、私は隠しきれない高揚感を覚えた。

 

 思考は澄み渡るほどに冷静だけど、スタートの瞬間を控える身体は滾るような闘志に満ちいている。

 

 この意外と心地良い感覚が生まれたのは、私が彼女の生意気な挑発に乗せられてしまったからだろう。

 

「──スタートッ!」

 

 それはそれで、とってもムカつく。

 

「「──ッ!!!!」」

 

 スタートの合図と共に、私達は全力を振り絞って加速を図る。

 

 この併走(レース)に勝つのは誰でもない──この私だ。



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40:追憶

 トウカイテイオーとの併走勝負にて、序盤でハナを奪ったのは、生意気にも私に挑発をふっかけてきたクラスメイトのテイオーだった。

 

 対する私は急激に加速するテイオーをマークするような形で、ピッタリと背後に姿を隠した。

 

 現在私が得意とする戦略では、序盤はスタミナ温存を徹底し、終盤へ向けて脚を溜めることが多い。

 

 併走相手がテイオーしかいない以上、ある程度は彼女についていく必要がある。そのため、ここは多少無茶をしてでも彼女の後ろに張り付かなければならない。

 

 しかしそうなると、私は何か別の形でスタミナを温存しておく必要があった。

 

(……テイオー。あなたの身体を使わせて頂きますわ)

 

 そして、その代替策として打ち出したのが、先行するテイオーのすぐ後ろを陣取るこの立ち位置である。

 

 風を切り裂くように高速で移動する物体の真後ろには、空気圧の抵抗が極端に小さくなる領域が生じる。この現象は”スリップストリーム”と呼ばれており、スタミナ温存に有効な手段として習得が推奨されている技術の一つだ。

 

 非常に難易度の高い技術ではあるが、名門メジロ家の元で長年英才教育を施されてきた私にとって、この程度は造作もないことである。

 

 先行するテイオーの身体を風避けとして利用しつつ、時おり必要以上に足音を立てて私の存在を意識させる小細工も忘れない。

 

 併走序盤で私が想像しうる完璧な布陣を敷いた上で、第二コーナーを通過し向正面へと突入する。

 

 このまま私にとって有利に働く状況が続けば、最終直線でテイオーの背中を躱して私が勝利を掴むのは確実だろう。

 

 そして、そんなことを当然、トウカイテイオーが許すはずはない。

 

 向正面の直線に突入した瞬間。

 

「……ッ」

 

 機を見計らったかのように、先行するテイオーが()()()()

 

 背後のマークを振り払うかのように速度を上げて、疑似的なスパートの体勢を作り出す。

 

 非常に柔らかな足首で地面を蹴り上げる繊細な感覚と、脅威的な足の柔軟性が可能にする普通では考えられない程の前傾姿勢。

 

 まるで、軽快なステップを踏むような足取りで異次元の推進力を生み出す、テイオーだけに許された特別な走り方。

 

 併走中盤から常識破りのスパートを仕掛けられ、私とテイオーの間に二バ身以上の差が生まれてしまった。

 

 次第に離れていくテイオーの背中が、生意気にも私に訴えかけてくる。

 

 

 

 

 

──”ついて来れるのか”、と。

 

 

 

 

 

(……ふふっ。そんなもの当然──)

 

 テイオーがふっかけてきた挑発に対して、私は内心でほくそ笑む。

 

(ついていくわけ、ないでしょう?)

 

 こんな見え透いたハッタリに、この私が騙されるはずがない。

 

 彼女が併走中盤のタイミングでスパートを仕掛けた意図は、考えられる限りで主に二つ。

 

 一つ、スリップストリームを利用してスタミナ温存を図る私を振り払い、私からスタミナを奪うこと。

 

 二つ、自身がスパートを仕掛けることで私の隠している末脚を誘発させ、終盤でのそれを鈍らせること。

 

 テイオーの挑発に乗らず、二バ身後方で自分の走りを徹底していると、私の見立て通り彼女はスパートの姿勢を解いて元の速度に戻った。

 

(ふんっ……こんな小細工、メジロ家を代表する私に通用するとお思いでして?)

 

 読みを的中させて得意になる私だったが……その裏で冷静に現状を分析し、若干の焦りが生まれつつあることも確か。

 

 併走前に計画していた作戦通り、序盤はテイオーの真後ろを陣取ることによってスリップストリームを起こし、スタミナを温存した。

 

 それを嫌ったテイオーが私を振り払うためにスタミナを放出し、引き離しにかかる。

 

 私はスタミナを温存し、テイオーにはスタミナを浪費させる。

 

 現状、私が立てた筋道通りに展開が進んでいる……ように見えるが。

 

(……ふむ)

 

 いつの間にかテイオーとの間に開いてしまった、()()()()()。あの一瞬でこれ程までの距離が開いてしまったのは正直、想定外だった。

 

 二バ身の差が開いたことによって、私は走行中に著しい空気抵抗を感じるようになる。それを嫌って再度テイオーの背後に潜り込もうとすれば、私には余計なスタミナを消費する必要が生じてくる。

 

 結果的に見れば、私はテイオーが吹っ掛けてきた挑発に乗っておいた方が正解だったのかもしれない。

 

 これが仮に、あの勝気で生意気なクラスメイトが意図して行った作戦だったとしたら……。

 

 

 

 

 

 私はまんまと、テイオーの手のひらの上で踊らされたということになる。

 

 

 

 

 

(…………不愉快です)

 

 併走勝負は間もなく向正面を抜けて、第三コーナーへと差し掛かろうとしている。

 

 二バ身差をつけて先行するテイオーだが、中盤に疑似的なスパートを繰り出したことで彼女自身、確実にスタミナを消費しているはずだ。

 

 私が得意としているのは、強靭なスタミナを爆発的な推進力に変えて生み出すレース終盤の末脚。序盤や中盤での駆け引きを帳消しにしてお釣りが来るほどのスパートが、私の誇る最大の武器。

 

(テイオー。あなたのその生意気な口を、二度と叩けないようにして差し上げますわ……ッ!)

 

 第三コーナーを抜けて第四コーナーへ突入した瞬間、私は温存していたありったけのスタミナを注ぎ込んで、末脚を爆発させる。

 

「やああああああぁぁぁッ!」

 

 コーナーから得られる遠心力を加速に利用し、外を回って瞬く間に二バ身の差を縮めにかかる。

 

 そして先を走るテイオーも、私の足音の変化を感じ取ったのだろう。

 

 私の仕掛けに対抗するように、再度脅威的なスパートの体勢を取った。

 

「はああああああぁぁぁッ!」

 

 両者ともに拮抗した速度で、ゴール板めがけて一心不乱に突っ込んでいく。

 

 テイオーと競り合う瞬間に生み出された私の末脚には、過去に経験したことのない程の切れ味が宿っていた。

 

 テイオーに勝ちたい。

 

 テイオーにだけは負けたくない。

 

 私の身体の中で暴れる闘争心が限界を遥か彼方へ置き去りにして、スパートに更なる加速をもたらした。

 

 最高のコンディションだ。

 

 言い訳のしようが無いほどに、私の末脚は絶好調。

 

 

 

 

 

……だが、しかし。

 

 

 

 

 

(──な、何故ですの……っ)

 

 ありったけを込めた私の全力を持ってしても、先頭を駆けるトウカイテイオーを差し切ることができなかった。

 

 スタミナはまだ残っているはずなのに。

 

 芝を蹴るパワーだってこれ以上無いくらいみなぎっているはずなのに。

 

(くっ……なんて、不甲斐ない……っ!)

 

 

 

 

 

──ゴール板の前を駆け抜けるその瞬間まで、私はテイオーの背中を追い越すことが出来なかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「──あっははっ! いえーいっ! ボクの勝ちだぁ!!」

「…………」

 

 併走トレーニングを終え、私よりも一足先にゴールしたテイオーはこれ見よがしに自身の勝利を主張してきた。

 

「やったやったやったやった! ボク、マックイーンに勝ったんだ! あははっ!!」

 

 テイオーは、自身がライバルと称した相手との競り合いに勝てたことがよほど嬉しかったのだろう。ターフの上で無邪気に飛び跳ねる姿は、小動物のような印象を彷彿とさせる。

 

 そして、併走トレーニングに惨敗して苦渋を味わうこととなった私は、彼女とは対照的な感情に支配されていた。

 

「負け、た…………この、私が……?」

 

 敗北の事実を受け止められず、私は到底受け入れることのできない自身の結果をぽつりとこぼす。

 

 作戦は終始完璧だったはずだ。途中で想定外の事態に直面したこともあったが、終盤の末脚で簡単に巻き返せる程度の誤差であった。

 

 つまり私は、併走トレーニングで文字通り自身の全力を絞り出した。

 

 全身全霊で勝負を仕掛け、私はテイオーの背中に届かなかった。

 

 私は、テイオーに負けた。

 

「……っ、ぁ、…………うぅ……っ」

 

 言い訳のしようがないほど完膚なきまでの返り討ちに遭い、私は悔しさのあまり両手で顔を覆ってしまう。

 

「……えっ、ま、マックイーン……もしかして、泣いてるの?」

「な、泣いてっ、なんかぁっ! うぅ……ひっく……いませんッ!!」

「な、泣かないでよマックイーン……。たかが併走トレーニングなんだからさ、ね?」

「…………慰めは、結構です……うぁっ…………よ、余計に惨めになる、だけですからっ」

 

 私はテイオーからすかさず距離を取って、持参したタオルで頬に伝う大粒の汗を拭き取る。

 

「──いやぁ、はははっ! お前らマジですげぇな、デビュー前のウマ娘が出せるタイムじゃねぇよ!」

 

 コースを一望できる場所から併走の様子を確認していた沖野トレーナーが、ストップウォッチを片手に持って、大仰に笑いながらこちらへとやってきた。

 

「……ん? マックイーン、お前……」

「ち、近寄らないで下さい! 今近づいたら、デリカシーが欠落したあなたの間抜け面を蹴り飛ばしますわよっ!!」

「物騒すぎるだろ……」

 

 私は毒々しい言葉を撒き散らして、無遠慮に近寄ってきた沖野トレーナーを牽制する。

 

「さすがはメジロ家の令嬢。しっかりと基礎を押さえた完璧な走りだった。細かな技術ひとつとっても、洗練されていて無駄がない」

「…………皮肉ですか?」

「ったく素直じゃねぇなぁ。ちゃんと本心だよ、素直に受け取っとけ」

 

 私のツンとした態度を前に苦笑する沖野トレーナーを見て、何故だか無性に腹立たしく感じたので警戒の眼差しを飛ばしておく。

 

「……さて、優秀なメジロ家のご令嬢に問題だ。テイオーに敗北した理由は何でしょう?」

「あなた、さては私のことをバカにしていますの? ……向正面で、テイオーの仕掛けに対する処理を誤ったことです」

「半分正解だ。でも残念、半分不正解だ」

「…………」

 

 沖野トレーナーは不敵に口角を吊り上げて、テイオーに屈した私に試すような眼差しを向けてきた。

 

「マックイーンの敗因はもう一つある。これが分からないようじゃあ、少なくともデビューからの一年間はテイオーに勝てないなぁ」

「……私はこの世界における超一流の名門、メジロ家のウマ娘なのですよ。たとえ一度は屈しても、同じ失態は決して繰り返したりしません」

「お、()()! よく分かってるじゃねぇか」

「…………先程から少々、煽るような言動が目立ちますね。なぞなぞに興じるほど、私は暇では無いのですが?」

「なぞなぞなんかじゃねぇよ。正解ってちゃんと言っただろ? もう一つの敗因は──マックイーンが()()()()()()()()()()()だってさ」

「……っ。私を侮辱するのも大概に──」

「脚、余してただろ?」

「…………」

 

 唐突に核心を突くような沖野トレーナーの言葉に、私は押し黙る。彼の指摘に対しては私も自覚があったため、特に驚くようなことはなかった。

 

 ただ一つだけ気がかりだったのが……脚を余してしまったことと私の生家の間に、どのような関連性があるのか。どうしてそれが、私の敗因に繋がるのか。

 

「メジロ家は代々、長距離レースの制覇に対して心血を注ぐステイヤーの血統だ。長距離レースを重視する家風の元で英才教育を受けたウマ娘は、どんな方向性で育てられると思う?」

「それは当然、メジロ家の悲願である天皇賞の制覇に重きを置いた指導ですわ」

 

 現に話題に上がっているメジロ家のウマ娘が言っているのだから、間違いない。

 

「ですから、そのことと私の敗因に一体どういう関係が………………ぁ」

 

 私はこれまで施されてきた教育を振り返る中で……ふと、気付いてしまった。

 

「デビュー前から生粋のステイヤーを育成するメジロ家独自の英才教育……いやぁ、本当にとんでもない一族だ」

「つ、つまり私がテイオーに敗れた本当の理由は……っ」

「十中八九、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だろうな」

 

 私はその言葉を聞いた瞬間、全身に衝撃が駆け巡る。

 

 彼の指摘は私にとって、気付く可能性すら無かった盲点であった。

 

「別にマックイーンの走りを否定しているわけじゃねぇ。将来長距離レースに出走すれば、お前は間違いなく一着を狙える」

「……」

「それにさっきも言ったが、マックイーンは走る上で必要な基礎を完璧に押さえている。それも本格化による身体の変化に対応した柔軟な基礎だ。メジロ家は一体、どれだけ先の未来を見据えているんだか」

 

 沖野トレーナーから貰ったアドバイスを受けて私は思う。

 

 飄々とした口調や変質的な行動が悪目立ちする沖野トレーナーではあるが、意外にも彼はウマ娘のことをちゃんと見ているんだな……なんて。

 

 私は改めて、目の前に立つ沖野という男性を一瞥した。

 

 癖毛を背後で束ね、左側頭部を刈り上げた特徴的な髪型。顎周りに無精ひげを残した渋めな顔立ち。背丈も高くガタイもしっかりしているが、男性特有の威圧感のようなものは感じなかった。

 

「沖野トレーナーってヒトとしてはサイテーだけど、トレーナーとしてはそこそこ優秀じゃない?」

「…………まぁ。そこは、認めましょう」

「なぁ、それはどっちを認めたんだ?」

「「両方」」

「……お前ら」

 

 沖野トレーナーは私の想像もしなかった視点から現在の問題点を見抜き、それを的確に言語化する能力を持っている。

 

 無名のチームを率いるトレーナーではあるが、以前テイオーが口にしていた通り、実力は本物のようだ。

 

「まぁいい。とっとと休憩なり何なりして、もう一本併走するからな」

 

 チーム・スピカのトレーニング体験はまだ始まったばかりである。早速、名誉を挽回するチャンスが到来したわけだ。次こそは生意気なテイオーをぎゃふんと言わせてみせる。

 

 しばしの休憩を挟んだ後、テイオーと共にコースへと戻る。

 

「マックイーン。ちょっと良いか?」

 

 その途中、私はストップウォッチを手にした沖野トレーナーに呼び止められる。

 

「何でしょうか?」

「次の一本は、俺の指示に従って走ってみろ」

「指示……と、言いますと?」

「テイオーを引っ張って、終始ペースを握るんだ」

「……あの。私、レースで先行した経験が一度も無いのですが?」

「お前器用そうだし、感覚で何とかなるだろ」

「はぁっ!? そんな適当な……あ、こらっ、待ちなさいっ!!」

 

 少し感心した途端に、この全てをウマ娘に丸投げするような仕打ちは正直やめてほしい。

 

 結局どれだけ声を荒げても、沖野トレーナーは振り返ることなく私のそばから離れていく。

 

……まぁいい。私はメジロの名を冠するウマ娘だ。沖野トレーナーから飛んでくる無茶振りの一つや二つ、完璧にこなしてみせる。

 

「ねぇ、マックイーン」

「今度は何ですか」

 

 所定の位置についてスタートの瞬間を待つまでの間、隣に並ぶテイオーが先程と同様に声をかけてきた。

 

「トレーナーはあんな感じで締まりがないし、何でチームとして成立してるのか分からない位めちゃくちゃだけどさ……案外、居心地良いんだよね」

「奔放なあなたには、ウマが合うのかもしれませんわね」

「マックイーンも来てよ、ボク達のスピカにさ」

「……まぁ、そうですわね。検討することを検討する、その程度はして差し上げます」

「素直じゃないなぁ……ま、さっきの賭けに勝ったのはボクだから、決定事項だけどね!」

 

 憎まれ口を叩き合うテイオーとの関係は、存外悪いものでは無かった。

 

 他人に変に気を遣わず、ありのままの姿をさらけ出せる空間というのは確かに……居心地が良い。

 

「おーしお前ら、そろそろ始めるから気を引き締めろよー!」

 

 沖野トレーナーの合図に従って、私達は二人揃ってターフを駆ける。

 

 今度こそ、私はこの生意気なライバルに黒星をつけてやるんだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 それが今後、私の前に幾度となく立ちはだかるライバル──トウカイテイオーとの、ついでに言うとチーム・スピカを率いる沖野トレーナーとの出会いであった。

 

 強引にトレーニングを体験させられた後、私はテイオーから泣き落としを食らって仕方なくチーム・スピカに加入。

 

 チーム・スピカとして活動していく上で最初に取り組んだのは戦略の勉強と、破天荒な気風からは考えられないほどまともな内容であった。

 

 相変わらず勝気で生意気なテイオー。

 

 物静かで控えめな性格だが、走ることへの欲望に対しては愚直なほどに忠実なスズカさん。

 

 もはや説明することすら面倒くさいゴールドシップ。

 

 一癖も二癖もある彼女達と共に切磋琢磨する中で、私は過去の英才教育で培った走りに更なる改良を加え、私だけの武器を作り出すことに成功した。

 

 持ち前のスタミナをレース終盤のロングスパートに活かす戦い方から、終始レース展開を支配して好位から一気に抜け出す先行スタイルへの変更。

 

 その取り組みが功を奏し、私はジュニア級のメイクデビューをレコードタイムで勝利し、ライバルのテイオーと共に華々しいデビューを飾った。

 

 その後は二人揃ってジュニア級を無敗で駆け抜けたこともあり、チーム・スピカの名は瞬く間に世間へ広がることとなった。

 

 相変わらずはちゃめちゃだらけの日常に頭痛が絶えない私だったけれど、広い視野に立つとおおよそ順風満帆と呼べるような日々。

 

 本音を打ち明けるとテイオーが調子に乗るから口には出さなかったけれど、私は仲間と共に夢を追いかける毎日が楽しかった。

 

 それもこれも、入学当初からクラスで浮きまくっていた私にテイオーが声をかけてくれたおかげだろう。

 

 名門メジロ家の箱入り娘で、世間を知らない生粋のアスリート。

 

 とっつきにくさの塊のような私に友好関係を築くきっかけを作ってくれたことは、本当に感謝している。

 

 まぁこれも当然、テイオー本人に伝えることはなかったのだが……。

 

 やがて私達は学年が上がり、共に主戦場をクラシック級のレースへと移した。

 

 無敗の三冠ウマ娘を目指すテイオーと、生家の悲願である天皇賞の制覇を目指す私。

 

 利害関係に基づけば、クラシック級のレースにはテイオーが優先して出走するべきである。

 

 そのような旨をテイオーに提案した私であったが、テイオーは私の厚意を”つまらない”と一蹴した。

 

──最強のライバルがいないレースに勝ったって、何の価値も無いよ。

 

 当たり前のように、テイオーは言う。

 

 チーム・スピカに加入した当初は生意気なクラスメイトを叩き潰す気まんまんでいた私だったが……苦楽を共にする内にどうやら、彼女に対して情が芽生えてしまったようだ。

 

──あ。さてはマックイーン、ボクとの直接対決で負けるのが怖いんだっ。

──んなっ!? そんな訳ありませんわ!

 

 私はただ、テイオーの顔を立てて上げようとしただけ。

 

──良いでしょう。そこまで言うのでしたら手加減など致しません。この私が直々に、あなたの夢を終わらせて差し上げます!

──にししっ! そう来なくっちゃ!

 

 こうしてテイオーの挑発に乗せられて共に臨んだ、生涯一度の大舞台──クラシック三冠レース。

 

 開幕戦の皐月賞。私のライバルであるテイオーが本レースの一番人気となり、私は一つ下の二番人気に甘んじた。

 

 公式戦で初となる、ライバルとの直接対決。

 

 最終直線では私とテイオーの一騎打ちとなり、結果は一バ身の差が開いてテイオーが勝利を収めた。

 

 テイオーにとっては夢の実現へ繋がる大きな一歩であり、私にとっては泣き喚くほど悔しい思いを経験した初の黒星であった。

 

 最強のライバルへのリベンジに燃える中で迎えたクラシック三冠を争う二戦目、日本ダービー。

 

 テイオーを徹底的に完封する対策を積んで臨んだ日本ダービーでは、終始私が優勢となってレースを展開するも、最後の最後でわずかに躱されハナ差の二着に屈する。

 

 ああ、悔しい。なんて悔しいのだろう。

 

 これだけ対策を練ってきたにも関わらず、ライバルのテイオーに届かないだなんて……。

 

 全身を焦がすような悔しさが、立て続けに敗北を喫した私に襲い掛かる。

 

 悔しい。

 

 くやしい。

 

 

 

……でも、何故だろう。

 

 

 

 こんなにも悔しい思いを抱えているにも関わらず、私の胸は(きた)るライバルとの再戦に隠しきれない高鳴りを感じている。

 

 胸の中に芽生えた”楽しい”という感情に目を向けた時、敗北に沈んだ私の心が一瞬で切り替わった。

 

 最後の舞台はクラシック三冠の終幕を飾る長距離レース、菊花賞。

 

 再戦の瞬間までは、まだまだ半年近い猶予がある。

 

 次にテイオーと競り合う時は、私のありったけをぶつけたい。全身全霊を捧げて、胸が躍るようなレースがしたい。

 

 ライバルとの対決に心を燃やす日々は私にとってかけがえのない青春であり、同時に、何気なく過ぎてゆくありふれた日常だった。

 

 

 

 

 

……故に私にとって、ライバルと過ごす日常は()()()()()()()

 

 

 

 

 

 しかしその日常が、夢のように特別なものであったと気付いたときには……何もかもが手遅れだった。

 

 

 

 

 

 平凡だった日常の歯車が狂い始めたのは丁度、日本ダービーの開催から三日後のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私にとって生涯のライバルとなる存在であったトウカイテイオーの左脚に──骨折が判明したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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41:ライバル

 沖野トレーナーからテイオーが左脚を骨折したという連絡を受けた私は、居ても立っても居られなくなって寮を飛び出し、彼女が入院することとなった病院へと駆け込んだ。

 

「──テイオー!」

 

 血相を変えてテイオーの病室に飛び込むと、ベッドの上で退屈そうに横になっている彼女と、その縁に置かれた丸椅子に絶望的な表情を浮かべながら腰掛ける沖野トレーナーの姿を捉えた。

 

 普段から気さくで、どんな時もフランクな姿勢を貫いていた沖野トレーナーの変化を目の当たりにし、私は事の深刻さをひしひしと感じ取る。

 

「あれ、マックイーンじゃん。どうしたの?」

「どうしたもこうしたもありませんわ! あなたが左脚を骨折したとの知らせを受けて、駆けつけたんです!」

 

 事態を深刻なものとして受け止める私とは裏腹に、骨折をした張本人は思わず気が抜けてしまいそうな程に平常運転であった。

 

「昔はあんなに塩対応だったマックイーンが、まさかボクのことを心配してくれるなんてっ。随分と性格が変わっちゃったよねー! ま、毒舌なマックイーンを変えたのはボク自身なんだけど、にししっ!」

 

 こんな状況にも関わらず、生意気な憎まれ口が減らないテイオー。

 

 だがしかし、この場に限ってはその生意気な言動が彼女のなりの気遣いであると、私は瞬時に理解した。

 

 テイオーの身体に掛けられた布団の隙間から覗く、しなやかな彼女の右脚。

 

 その綺麗な右脚とは対照的に、無骨なギプスと包帯でぐるぐる巻きにされた痛々しい左脚。

 

 空元気に振る舞うテイオーを見て、私は彼女に対して同情のような感覚を抱いてしまう。

 

「……ふん、相変わらず生意気な態度ですわね。心配して損しましたわ」

 

 けれど私は、込み上げてきた感情をテイオーに打ち明けたりはしなかった。

 

 今は、無理をしてでも普段通りでいようとするテイオーの意志を尊重したい。

 

 故に私は、彼女の挑発にまんまと乗せられてあげることに。

 

「トレーナーさん。テイオーの怪我に対して、お医者様は何と?」

「……全治六ヶ月だそうだ。骨折の完治からリハビリを含めて、復帰は来年の春になる」

「来年の、春……」

 

 病院へ訪れる前に覚悟は決めてきたが……意気消沈する沖野トレーナーからテイオーの容体を聞いて、私は全身の力が抜け落ちるような感覚に陥った。

 

 来年の春を迎える頃には、テイオーにとって最後の一冠である菊花賞などとうに過ぎ去ってしまっている。

 

 菊花賞に出走出来ないということは、無敗の三冠ウマ娘を目指していたテイオーの夢は、もう……。

 

「…………すまない、テイオー」

 

 先程からテイオーのそばで肩身の狭い思いを抱えていた沖野トレーナーが、彼女に対して平謝りを繰り返す。

 

「もぉ、一体どうしたのさトレーナー! そんな様子じゃボク達の調子が狂っちゃうじゃんっ!」

「…………」

「……はぁ。こういう時こそ、気さくに振る舞ってよね」

「……すまない」

 

 骨折したテイオーに対して何もしてあげられない現状を前に、沖野トレーナーは無力感に打ちひしがれている様子だった。

 

 そして無力感を苛まれているのは、テイオーの担当トレーナーである彼だけではない。

 

「……実はボクさ、トレーナーに黙ってたことがあるんだよね」

「ん……?」

「みんなに内緒で……自主トレしてたんだ。結構負荷の高いやつ」

「知ってたよ」

「止めなかったの?」

「教え子の自主性は、ちゃんと尊重したかったからな。ダービー目前だったし、不完全燃焼はお前も嫌だろ?」

「にししっ、ちゃんとボクのこと分かってるじゃん」

 

 しばしば配慮に欠ける言動が目立つ沖野トレーナーの性格は、良く言えば懐が広く、悪く言えば軽々しい。

 

 放任主義を掲げる沖野トレーナーではあるが、それは彼の信条に基づく一つの答えであり、軽薄そうに見えてその実誰よりも担当ウマ娘のことを想っている人だった。

 

 故に今回起きてしまったテイオーの骨折は、彼女だけでなく沖野トレーナーにとっても大きな挫折に感じているのだろう。

 

「……はぁ〜。ボク、これからどうしよっかな〜」

「気分転換を兼ねて、休養を挟んでみてはいかがでしょうか? 例えばそうですわね……美味しいものを食べると、沈んでしまった気持ちも回復しますわ。よろしければ、ご一緒しますが?」

 

 不安や不満を紛らわせる方法の一つとして。

 

 お世辞にも得策と呼べるような内容では無いが、何かを食べて空腹をたらふく満たすという手段がある。

 

 食べることで不安や不満を紛らわせることが出来るなら、それに越したことはないんじゃないかって……状況が状況だし、そんな風に思ったりもしていた。

 

「えーそれマックイーンが行きたいだけじゃん! これ以上体重計をいじめるのはやめてあげて!」

「んなっ!? 私はあなたのためを思って提案したのであって、決して自己の欲求を満たそうとしたわけではありませんわ! っていうかあなた今、さりげなく私のことをバカにしましたわね!?」

「ああっ、ダメダメ! マックイーンがベッドに乗ったら重さに耐えきれなくなっちゃうよ!!」

 

 沖野トレーナーと同様に、私まで悲愴感を漂わせてしまったら。

 

 テイオーはきっと、がむしゃらに夢を追いかけ続けていた昨日までとの違いを感じて、心を痛めてしまうかもしれない。

 

 テイオーは私に対して、普段通りを望んでいる。

 

 それをわざわざ、彼女の口から確かめる必要なんてない。

 

 何故なら、テイオーはあんなに大事にしていた夢が無慈悲に潰えた瞬間(いま)でさえ……健気に生意気であり続けているのだから。

 

「……でもま、気分転換も悪くないかなー。残念だけど、ボクの夢はもう叶いそうにないしね。にししっ、こうなったらスイーツ食べ放題でマックイーンを道連れに──」

「──いや、諦めるのはまだ早い」

「……………………ぇ?」

 

 私とテイオーがいつものように憎まれ口の応酬を続けていると、突然……。

 

 

 

 

 

──それをぶった切るような言葉が、沖野トレーナーの口から放たれた。

 

 

 

 

 

「全治六ヶ月? 復帰は来年の春? だから何だっていうんだ……んなことを言われてもな、俺は……俺は絶対に、お前の夢を諦めたりしねぇぞ!」

 

 どこか傷を舐め合うような、普段通りであること自体に虚しさを覚えるような私達の会話を、沈黙に暮れていた沖野トレーナーが一蹴した。

 

「……っ。も、もぉ……トレーナー、いきなりどうしたのさ」

 

 突然息を吹き返した沖野トレーナーの決意の宣誓に、テイオーは言葉を失っていた。

 

 それでも彼女は目を見開き、声を絞り出して普段通りに努める。

 

「良いかテイオー。俺はこれからお前の復帰プランを練り上げる。そしてお前を万全な状態に戻して、必ず菊花賞へ送り出してみせる」

「…………」

 

 どう考えても実現不可能なはずの未来を、沖野トレーナーは本気の眼差しで呆然とするテイオーに語る。

 

 普段の飄々とした態度からは、想像もつかないほど強かな熱意を灯した沖野トレーナー。

 

 担当ウマ娘の心を鷲掴みにするような彼の覚悟は、とても素晴らしいことだ。

 

 だけど……。

 

「……トレーナーさん。テイオーを想うその気概は立派ですが、お医者様の判断を無視するというのは……」

 

 それはきっと、彼が絶望の間際に垣間見せた"強がり"に過ぎなかった。

 

「そんなことは……っ、十分、分かってるつもりだ。ギリギリまで粘って、限界まで挑戦して、それでも医者に止められたら…………その時は、諦めるしかない」

 

 無理難題に真正面から向き合おうとする沖野トレーナーだが……その反面、彼はしっかりと過酷な現実も見通していた。

 

「でも、でもさ! トレーナーの俺が真っ先に諦めちまったら、テイオーは夢に挑むことすら叶わずに終わっちまうんだよ……っ!!」

 

 

 

 

 

 それでもなお、教え子への情熱を宿した沖野トレーナーは止まらなかった。

 

 

 

 

 

「俺はもう二度と、諦めたくないんだよ……」

 

 こんなに感情を剥き出しにして教え子を鼓舞する沖野トレーナーの姿は、初めて見た。

 

「良いか、テイオー……っ。俺が絶対に──お前を無敗の三冠ウマ娘にしてみせるッ!」

 

 心の底から担当ウマ娘に寄り添う彼の本当の姿を、私は知らなかった。

 

 彼はまるで、別人のようであった。

 

「…………い、良いの? ボクは、まだ……夢を諦めなくても…………っ、良いの?」

 

 理想を熱く語る沖野トレーナーだが、その表情は普段と比較にならないほど険しい。

 

 自身の発言がどれほど滅茶苦茶で、どれほど実現性に欠けるものであるのかを、おそらく彼自身が一番理解しているからだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、しかし……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「当たり前だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この場合において本当に重要なのは、きっと……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──もう一度、俺と一緒に走ろう。テイオー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………っ。うん…………っ、うんッ!」

 

 担当ウマ娘に対する沖野トレーナーの真剣な態度が、取り繕ったテイオーの仮面を優しく剥がす。

 

 テイオーは目尻に浮かべた大粒の涙を両腕で拭い取ると……既にそこには、純粋に夢を追いかけていた頃の彼女が蘇っていた。

 

「うっし。それじゃあテイオーには早速、明日から菊花賞へ向けた復帰プランに取り組んでもらう」

「ええっ!? 明日って、それはちょっと早すぎないっ!?」

「俺はお前の夢を諦めないって決めたんだ。一日……いや、一秒たりとも無駄にはできんっ!」

 

 テイオーにそうやって言い残した沖野トレーナーは、復帰プランを練るといって病室を飛び出していった。

 

 静謐な空間が戻ってきた病室で、私はテイオーと二人きりになる。

 

「…………あんなトレーナー、初めて見た」

 

 呆然とした様子で、開け放たれた扉の先を見つめるテイオー。

 

「……私も」

 

 そして、それは私も同様であった。

 

 良い意味で沖野トレーナーらしくない言動……いや、もしかしたら諦めの悪いこの姿こそが、彼の指導者としての本質なのかもしれない。

 

「…………変なの」

 

 彼の熱意を一身に注がれたテイオーは、しばらく不思議な表情を浮かべていたが……。

 

 

 

「──トレーナー、カッコいいじゃん!」

 

 

 

 瞬く間に破顔して、普段の快活で生意気なテイオーにすっかりと戻っていた。

 

「ボク、トレーナーのこと見直しちゃったよ! 普段はウマ娘の太ももが大好きなヘンタイなのにっ!!」

「いいえ、普段の態度で帳消しですわ。それどころか、まだまだ余裕でマイナスです。彼にはせめて、私達の好感度を振り出しに戻して頂かなければ」

「あははっ! 間違いないやっ!!」

 

 私はテイオーと二人揃って笑みを浮かべた。

 

「残念だったね、マックイーン。クラシック最後の一冠も、どうやらボクのものになっちゃうみたい!」

「あら? テイオーは次のレースが長距離であることをお忘れでして?」

 

 相変わらず勝気で生意気なライバルだけれど。

 

 テイオーにはきっと、そんな無邪気な笑顔が一番似合う。

 

 

 

***

 

 

 

 沖野トレーナーの言葉通り、テイオーの復帰に向けた取り組みは翌日から行われることとなった。

 

「菊花賞の制覇に向けて、とりあえず過去二十年分の統計データとレース映像を用意した」

 

 病室のベッドで背中を起こすテイオーの前にこれでもかと積み上げられた、山盛りの教材と書類。

 

「…………え、なに、何これ?」

「過去二十年間で菊花賞に勝利したウマ娘の特徴や傾向、京都レース場の地形的特徴や押さえるべき重要なポイントを網羅した資料だ」

 

 予想を遥かに上回る彼の熱意に、テイオーとそこに同席する私の顔があからさまに引き攣った。

 

「身体を安静にする必要がある当面の間は、俺達と一緒に勉強だ」

「えぇ……」

「観念しろテイオー。俺は絶対に諦めないからな」

「仕方ないなぁ。勉強はキライだけど、マックイーンの泣きっ面を見るために頑張っちゃおっかなー」

「そこは夢のためと言いなさい」

 

 ベッドに備えられた机に資料を広げて、テイオー、沖野トレーナー、私の三人でひたすらに菊花賞への理解を深める勉強に勤しむ。

 

「……うわぁ、何これ。文字ばっかり」

 

 テイオーが資料を複数枚手に取って、不満を露わにする。

 

「んっと……。えぇ、ここ数年雨のせいでバ場状態が崩れ気味じゃん。ボク、良バ場が良いんだけど」

「天候やバ場状態は、私達の力ではどうすることも出来ませんわ。ですが、しっかりと対策は考えておいた方が宜しいかと」

「何で?」

「私、道悪得意ですもの」

「けっ!」

 

 テイオーの文句をさらっと無視して、私は余った資料の一つに視線を落とす。

 

 私と沖野トレーナーが真面目な雰囲気を作ったことで、次第にテイオーも観念したようだ。

 

 彼女は複数枚の資料を行ったり来たりしながら、傾向や要点をノートにまとめていった。

 

「ねぇ、トレーナー。去年の菊花賞のデータなんだけど」

「ん……? あぁ、そいつのデータは正直参考にならないから読み飛ばしていいぞ」

「外回りの第三コーナー向正面って確か、淀の坂がある場所だよね。そこからスパートを仕掛けてなんで勝てるんだろう」

「私のようにスタミナに絶対的な自信があって、なおかつ道中に極限まで脚を溜めることが出来れば不可能では無いかと」

 

 菊花賞へ向けた勉強会のおかげで、私達三人は勝負所のポイントやレース場の地形で押さえるべき重要な箇所を誦じることが出来るまでに至るのであった。

 

 

 

***

 

 

 

 医師から退院の許可が下りたタイミングで、沖野トレーナーが考案した"トウカイテイオー菊花賞復帰バッチリプラン"は次のステップへ移る。

 

「菊花賞の要点を網羅したら、次は復帰へ向けたイメージトレーニングだ」

 

 無事に退院を果たしたテイオーとはいえ、彼女の左脚を覆う無骨なギプスを外せるようになるまでは、まだまだ時間を要する。

 

 沖野トレーナーは、松葉杖をつきながらトラックへとやって来たテイオーをターフが一望出来る場所に座らせて、復帰プランの詳細を口にした。

 

「今のテイオーなら、このトラックに京都レース場の地形を重ね合わせることが出来るはずだ」

「うん」

「これからマックイーンが、菊花賞を想定して三千メートルを走る。テイオーは極限までイメージを膨らませて、マックイーンと競り合うんだ」

「私の背中を追い越せると良いですわね。まあ、イメージでも不可能なことだとは思いますが」

「むっきぃーっ! マックイーンの方こそ、ボクにボコボコにされて泣きべそかかないでよね!」

 

 私はテイオーの闘争心を刺激する言葉を発して、ライバルを煽った。普段は言われっぱなしの私なので、せっかくだからこの機会に細やかな意趣返しをさせてもらおう。

 

「──お、何だかおもしれぇことしてんじゃねぇか! うっし、アタシも混ぜろ!」

 

 私とテイオーが言い争いを続けていると、チームメイトの破天荒ウマ娘──ゴールドシップが絡んできた。

 

「菊花賞を想定してんだろ? んじゃあ、このクラシック二冠ウマ娘様に任せな!」

「ああ、そういえば去年の菊花賞を制覇したのはあなたでしたわね」

「アタシが特別に、ひと肌脱いでやるよ。胸を借りるつもりでかかってきな、テイオー」

 

 珍しく大真面目なゴールドシップが現れて、私達は真っ先に彼女が偽物じゃないかと疑った。

 

 だけどまあ、これを機に彼女が少しでも真剣にトレーニングと向き合ってくれるようになるのなら、偽物でも良いんじゃないかって思ったりもした。

 

 最も、テイオー自身は全く参考にならないからといって駄々をこねていたのだけれど……。

 

 

 

***

 

 

 

「よし、テイオー。今日からお前を新入生教育係に任命する」

 

 テイオーの脚を覆っていた無骨なギプスが外れたのは、故障から約三ヶ月後のことだった。

 

 復帰までの道のりを順調に歩んでいるテイオーに対して、唐突に沖野トレーナーがそう提案してきた。

 

「新入生教育係……?」

「先日のメイクデビューに勝利した新入生のスペシャルウィークを、日本一のウマ娘に育ててもらう!」

「ええっ!? それはさすがに無茶ぶりが過ぎるんじゃないかなっ!?」

「よろしくお願いしますっ、テイオーさんっ!」

 

 今年北海道から上京してきたチーム・スピカの新入生──スペシャルウィークが、期待の眼差しを一身にテイオーへと向ける。

 

「スペの夢は、日本一のウマ娘になることだ。少し漠然としているが……分かりやすい形で日本一を証明するなら、日本ダービーを制覇することだろう」

「つまり……今年のダービーを獲ったボクが、スペちゃんにアドバイスすれば良いってこと?」

「そうだ。つっても、そんなに難しいことをするわけじゃねぇ」

 

 沖野トレーナーがその提案を投げかけてきたのは、トレーニングが始まる直前。

 

「テイオーには、普段からトレーニング前に取り組んでいるストレッチと基礎トレの見本になって貰いたい」

「え、それだけで良いの?」

「ああ。でも、ただ見本になるだけじゃねぇぞ。身体の使い方をみんなに分かるように説明しながらだ」

 

 沖野トレーナー曰く、ストレッチや基礎トレーニングに限らず自身が実施している行動の意図を理解することで、その恩恵が何倍にも膨れ上がるとのこと。

 

「『教うるは学ぶの半ば』、なんて言うだろ? 特に新入りのスペには、先輩として色々と教えてあげてほしいんだ」

「そんなことで良いなら、お茶の子さいさいだもんねっ!」

 

 意気揚々と私達の前に躍り出たテイオーが、先輩風を吹かしながらストレッチの体勢に入る。

 

「テイオー」

「なに?」

「早速だが、ストレッチの目的と効果をみんなに説明してやってくれ」

「目的、目的かぁ…………あれ、なんだろ」

「どうした?」

「頭ではなんとなく分かってるんだけど……いざ説明するとなると、ちょっと難しいかも」

 

 沖野トレーナーから飛んできた早速の要求を受けて、テイオーが頭を捻らせながらうんうんと唸った。

 

「ああ、難しいだろう? 自分の物事への理解度を確かめたいとき、一番手っ取り早いのは誰かにそれを説明することだ」

「確かに……物事を感覚的に理解しているだけでは、論理的な説明が要求された場合に苦労しますわね」

「そうだ。特にテイオーの場合、感覚であらゆる物事を捉えていることが多い。天才肌ってやつだな」

 

 テイオーの天才的な素質は、レースに関する場面において現れることが多い。

 

「テイオーには今後、感覚的に処理してきた走りの技術一つ一つへの理解を深めてもらう。今日の説明は、その練習みたいなもんだ」

「何か、思ってたより大変そう」

「しっかりと説明できる知識を身につけることで、テイオーはさらに強く成長できる。それに、怪我の防止にも直結してくるんだ……頑張れるな?」

「……仕方ないなぁ。そこまで言うんだったらボク、頑張っちゃおっかなー!」

 

 やる気に満ち満ちた声音とは裏腹に、説明を用いながらのストレッチや基礎トレはテイオーにとって非常に困難を極めるものであった。

 

 一つの動作をするたびに動きが停止して、テイオーはその都度沖野トレーナーに助けを求めていた。

 

 テイオーにとって説明という行為がどれほど難しいことであったのかは、彼女自身のくしゃくしゃな泣きっ面が分かりやすく示していた。

 

 

 

***

 

 

 

 テイオーが新入生教育係に任命されたのと同時に、復帰へ向けた本格的なリハビリが開始された。

 

「菊花賞を制覇するためには、三千メートルを走破するためのスタミナが必要だ」

 

 沖野トレーナーが次なる復帰プランとして提唱したのは、屋内施設のプールを用いた水泳トレーニングであった。

 

 トレーニング用の水着に着替えた私達は、肩まで水に浸かった状態で沖野トレーナーの言葉に耳を傾ける。

 

「菊花賞の開催まで三ヶ月を切った。今日からはリハビリと並行してトレーニングにも取り組んでもらうつもりだ」

 

 テイオーの怪我は順調に快復へ向かっているとはいえ、それだけでは彼女が目標とする菊花賞の出走には到底間に合わない。

 

 ここから彼女に要求されるのは、安全性を前提とした上で、トレーニングの効率を両立させること。

 

 その点に着目すると、沖野トレーナーが提案した水泳トレーニングは非常に理にかなっていた。

 

「水泳はスタミナを強化するトレーニングとして一般的に認識されているが、脚部不安を抱えるウマ娘のリハビリとしても非常に有効なんだ」

「確かに……水による浮力を活用すれば、脚部不安を気にせず鈍った身体を動かすことが出来ますわね」

「その通りだ。さらに全方向から加わる水圧が全身を刺激して、肺活量と筋力の向上を同時に期待することができる」

「すごーい! 一石二鳥以上じゃん!」

 

 骨折の影響でろくに身体を動かせなかったテイオーにとって、患部を気にせずリハビリとトレーニングに打ち込めるこの環境は、最適以外の何物でもない。

 

「まずはゆっくりと水中を歩いて、水に身体を慣らしていこう。マックイーンはテイオーの付き添いを頼む」

「分かりました。ほら、行きますわよテイオー」

「はーい」

 

 私は水中に浸かるテイオーの右手を取って、彼女を先導するようにプールの縁を歩く。

 

「ねぇマックイーン。水中でわざわざ手を繋ぐ必要あるの?」

「私はあなたを監視する目的でリハビリに付き合っているのです。あなたにとっては久々の運動なのですから、どうせ破茶滅茶するのは目に見えていますわ」

「ぶーぶー!」

「ライバルのことなどお見通しですわ。もたもたしていると、復帰に間に合わなくなりますわよ」

「素直にボクのことが心配だって言えば良いのに」

「んなっ!? そんなことあるわけないでしょうっ!? 自惚れるのも大概にしてくださいましっ!」

「にししっ、ボクはライバルのことなんてお見通しだからねっ!」

 

 相変わらずすぐに調子に乗るテイオーを無理やり引っ張って、私は水中を進む速度をわずかに上げる。

 

 生意気なテイオーめ、私の親切心を笑いものにするだなんて許せない。

 

「…………ありがと」

「……ふん」

 

……だけどまぁ、どんな時でも笑顔が絶えないのは良いことだ。

 

 今回ばかりは、目を瞑ってあげるとしよう。

 

 

 

***

 

 

 

 沖野トレーナーによる献身的なリハビリによって、菊花賞の開催が予定されている十月を迎える頃には、テイオーは自身の足でターフを走れるまでに回復していた。

 

 数ヶ月ぶりにターフを走った時のテイオーときたら、まるで新しいおもちゃを買い与えられた子供のようなはしゃぎ具合だった。

 

 過酷な復帰プランの最中ではあるが、骨折に伴うリハビリに関しては一段落したと言っても良いだろう。

 

 あとは菊花賞本番へ向けて少しずつトレーニングの強度を上げていって、最終的にはレースの勘を取り戻し、感覚をひたすら研ぎ澄ませていくだけだ。

 

 一度は諦めかけてしまった夢の舞台。

 

 血の滲むような努力を経て、テイオーは自らの手でそれを手繰り寄せて見せた。

 

 テイオーの夢は本当に、手の届くところまでに迫っている。絶望的だった状況に屈することなく、彼女は這い上がってきた。

 

 テイオーは強い。レースにおける天才的な実力だけでなく、故障を乗り越えたことによって精神面もたくましい成長を遂げた。

 

 そんなテイオーはまさしく、私のライバルとして不足なし。

 

 テイオーの夢にこの私が立ちはだかり、私の夢に最強の彼女が立ちはだかる。

 

 ライバルと死闘を繰り広げる未来に想いを馳せると、胸が躍ってしまって仕方がない。

 

 

 

 

 

──テイオー。今度こそ私が、最強のあなたに黒星をつけて差し上げます。

 

 

 

 

 

 夢にまで見たライバルとの、全身全霊を捧げた本気の勝負。

 

 

 

 

 

 絶対に負けない。

 

 

 

 

 

 絶対に勝ちたい。

 

 

 

 

 

 強かな決意を胸に灯し、大観衆の声援を()()()()()()挑んだ夢の舞台──菊花賞。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果は当然、私の優勝だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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42:優しいひと

 菊花賞の開催まで残り二週間を切った。

 

 順風満帆な日々が一変した日本ダービー以降、私はチームメイトとしてテイオーのリハビリに付き合うかたわらで、幼少の頃から抱き続けていた夢に挑む準備を進めていた。

 

 生家の悲願である天皇賞(春)の制覇を目指すステイヤーとして、菊花賞は確実に獲っておきたい重賞レースである。

 

 九月下旬に開催された菊花賞トライアル──神戸新聞杯を危なげなく制覇した私は現在、悲願達成を目指して以下のようなプランを考えている。

 

 三冠路線の激戦を締めくくる菊花賞で最強のライバルを下し、天皇賞(春)の前哨戦に指定される阪神大賞典を物にし自信を付け、万全を期して偉大なるメジロ一族の夢に挑む。

 

 私は菊花賞本番に向けて少し長めの調整期間を設け、現在は不安の残る箇所を重点的に追い込む段階に突入している。

 

 私が菊花賞を制覇するために不足している要素は、正確無比なラップタイムの継続と、最終直線で発揮するラストスパートの切れ味。

 

 皐月賞、日本ダービーにおいて明確に勝敗を分けたのは、緻密な戦略でも高度な駆け引きでもなく、純粋なまでのスピードであった。

 

 瞬発力の向上とトップスピードの維持に重きを置いて、私はひたすら調整に打ち込む。ここからは積極的に自主トレーニングを取り入れて、心と身体を徹底的に追い込み最高のコンディションを作りあげていく。

 

 少し肌寒さを感じる秋風に当たりながら、私は一人でターフを駆ける。

 

 自主トレを開始してから既に二時間以上が経過しており、ふと上を見上げると、私の頭上には澄み渡る夜空が広がっていた。

 

 寮の門限まではまだ余裕があるが、明日にもトレーニングが控えているため無茶は出来ない。

 

 過剰な追い込みは、かえって不要な焦りや不安を生む。今日のところはこの程度で切り上げて、ゆっくりと身体を休めるとしよう。

 

 私は額に残った汗を拭き取りながらターフを後にし、着替えとスクールバッグが置いてあるチーム・スピカの部室へと戻る。

 

 静まり返った校舎別棟の廊下は既に照明が消されており、私は窓から差し込む月明かりを頼りに部室を目指した。

 

「……あら?」

 

 別棟の廊下を進んでいる途中、私はふと、等間隔に並んだ扉の一つから照明の光が漏れていることに気付く。

 

 その場所はちょうど、私が所属するチーム・スピカが利用している部室であった。

 

 扉の前まで近づくと、私はその奥から人の気配を感じ取る。

 

 ふむ……沖野トレーナーは、今日も懲りずに残業を続けているのだろうか。

 

 沖野トレーナーはテイオーの件も相まって、ここ最近では元より疎かだった彼の杜撰な自己管理に、拍車が掛かっているように感じる。

 

 自身のことを二の次に考えている沖野トレーナーに何か一声掛けてあげようと、僅かに開いた扉に手を掛けた時。

 

「……っ、──」

 

 ウマ娘の優れた聴覚が、沖野トレーナーのものではない誰かの声を聞き取った。

 

 この時間帯に彼以外のひとが部室にいるのは珍しい。

 

 私は一旦その場で様子を見ようと、扉の隙間から室内の様子をこっそりと覗った。

 

「──ありがとね、トレーナー」

 

 私はデスクに向かって残業に勤しむ沖野トレーナーと向かい合い、彼に対して感謝の気持ちを述べるウマ娘の姿を視界にとらえる。

 

 そのひどく穏やかな声音と、後ろ手を組んだ彼女の背中姿には心当たりがあった。

 

(……テイオー?)

 

 日本ダービー出走後に故障が判明し、血の滲むようなリハビリを乗り越えて夢への挑戦を続ける私のライバル──トウカイテイオー。

 

 私は部室の外から耳をそば立てて、二人の会話に意識を傾けた。

 

「どうしたんだよ、お前が急にお礼を言うなんて珍しいじゃねぇか」

「そうだったけ…………そうだったかも」

「……テイオー?」

「…………」

 

 沖野トレーナーと会話を続けるテイオーは、何故だか妙にしおらしい。

 

 そんな彼女の様子を垣間見て、私の全身に悪寒が駆け巡る。

 

 言葉の間に生まれた不思議な沈黙はきっと、彼女の中に芽生えた複雑な気持ちを整理するための時間だったのだろう。

 

「…………っ。まさか──」

 

 身体の背後で組まれたテイオーの両手に、力が込められたのと同時に。

 

 テイオーは沖野トレーナーの制止を待たずして、決定的な言葉を口にする。

 

 

 

 

 

 

 

「──ボク、やっぱりさ…………菊花賞の出走は諦めることにしたんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 テイオーが自身の意思を告白した瞬間、質量のある何かが激しく蹴り倒されたような音が室内に響き渡る。

 

「今日、お医者さんに足を診てもらったんだ。それで──」

「まだだ……ッ。まだ諦めちゃダメだ、テイオー……ッ!」

「…………」

「菊花賞まではまだ時間がある……っ! 不安なことがあるなら何でも打ち明けてくれ! 俺が絶対に解決策を見出してみせる! だから……ッ」

「…………」

 

 棄権の意を示したテイオーに対して、沖野トレーナーは必死の形相で説得を試みる。

 

 しかし、沖野トレーナーの言葉は一方的で、残念ながら両者の間にコミュニケーションは成立していなかった。

 

「…………っ」

 

 無言を貫くテイオーを前に、沖野トレーナーは先程から語りかけ続けていた言葉を失い、打ちひしがれるように息を呑んだ。

 

 私が現在立つ位置からでは、彼と向かい合うテイオーの表情を窺うことは出来ない。

 

 ただ、沖野トレーナーのらしくない様子を見れば、彼女のそれを察することなど容易であった。

 

「……まだ、全力で走れないんだ」

 

 テイオーが故障を乗り越えた左脚のつま先で、静かに床をつつく。

 

「今までみたいにスパートをかけようとすると、ブレーキがかかったみたいに全身がモヤモヤするの」

「……防衛本能の一種だ。過去に経験した苦痛を繰り返さないために、無意識のうちに身体を負荷から守ろうとしてしまう」

「……うん、多分そんな感じ」

 

 どうやら沖野トレーナーには、テイオーの抱える悩みに心当たりがあったようだ。

 

「今のボクはまだ、全力で走れない。そんな状態で菊花賞に出走して、全力のマックイーンと戦うなんて……ボクには出来ないよ」

「……」

 

 テイオーの口から不意に私の名前が飛び出して、心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。

 

「トレーナー。今までありがとね、色々と」

「……」

 

 私は込み上げてくる感情を抑え込み、その場で必死に息を殺しながら二人の会話に耳を傾け続けた。

 

「…………だめ、だ」

「……」

 

 既に自身の夢に折り合いをつけたテイオーに対して、沖野トレーナーは力無く説得を試みる。

 

 両腕をデスクにつき、脱力気味に体重を支える彼の声音は微かに震えていた。

 

「まだ……駄目なんだ……っ。頼むから、諦めないでくれよ…………」

 

 一体彼はどうして、こんなにも担当ウマ娘の夢に真剣なのだろうか。

 

 一体何がここまで、彼の心を突き動かしているのだろうか。

 

 きっと私がいくら考えたところで、彼の真意が見えることはないだろう。

 

 沖野トレーナーは必死に嗚咽を堪えてテイオーに語りかけるも、ついには溢れ出てくる感情を抑えきれなくなったのか、手のひらで目元を覆ってしまった。

 

「……もぉ、なんでトレーナーが泣いてるのさ」

「お、俺は……っ、泣いて、なんか……っ!」

 

 テイオーの指摘を否定する沖野トレーナーの言葉とは裏腹に、彼の頬を伝って大粒の涙が滴り落ちる。

 

「はぁ…………仕方ないなぁ」

 

 そんな沖野トレーナーの様子を見かねたのか、テイオーは肩をすくめながら泣き崩れる彼の元へと近づいて……。

 

 

 

 

 

「──ん、しょ」

 

 

 

 

 

 テイオーは沖野トレーナーの後頭部に両腕を回して、彼の頭を胸元に抱き寄せた。

 

「っ……、何を──」

「はいはい、じっとしてる」

 

 突然の抱擁に動揺した沖野トレーナーは、予想だにしない担当ウマ娘の行動に冷静さを失って身を捩る。

 

 しかし、人の身である沖野トレーナーの抵抗など、ウマ娘である彼女の前では無意味に等しかった。

 

 しばらく沖野トレーナーの抵抗は続いたようだが、最終的には担当ウマ娘に大人しく身体を預けていた。

 

「ボクさ……嬉しかったんだ」

 

 胸元で静かに嗚咽を漏らす沖野トレーナーに、テイオーは穏やかな声音で語りかける。

 

 彼女が打ち明ける赤裸々な告白に、私も息を潜めて耳を澄ませた。

 

「左脚を骨折して、菊花賞までの復帰は絶望的。あの時はもう、ボクの夢は終わっちゃったんだなって……自分に言い聞かせることしか出来なかった」

「…………」

「でも、トレーナーだけは諦めなかった。諦めるなってボクを激励するんじゃなくて、諦めさせないって自分自身を鼓舞してた」

 

 当時のことは、私もよく覚えている。

 

 残酷な現実に打ちひしがれ、テイオー自身すらも大切な夢を諦めかけていた中で……あの時、沖野トレーナーだけは最後まで抗い続けていた。

 

 飄々とした上辺の裏に隠れていた情熱を剥き出しにして、彼は妄言と切って捨てられるような理想を背中で語ってみせた。

 

「そんな姿を見せつけられて、全身がたぎるように熱くなった。ボクはまだ、夢を諦めなくて良いんだって……心の底から安心したんだ」

 

 沖野トレーナーは誰もが匙を投げてしまうような絶望に真正面からぶつかって、豪語した理想を本当に体現させてしまうのではないかと思わせるほどの熱意をテイオーに示し続けた。

 

 その直向きな彼の姿が、残酷な運命に曝され凍えきってしまった彼女の心を根底から救ってみせたのだ。

 

「だから──ありがとう、トレーナー。ボクのことを、諦めないでいてくれて」

「…………」

 

 沖野トレーナーは立派で、優しいひとだ。

 

 彼は普段の態度を差し引いて余りあるほどの魅力を秘めた、一流のトレーナーなのである。

 

「夢を諦めるのは……うん、今でもやっぱり悔しいし、とっても苦しい。……でも、心配しないでトレーナー。ボクはもう大丈夫だから」

「……どう、して?」

「必死にリハビリに取り組む中でさ……ボク、気付いちゃったんだ。夢を叶えることだけが──全てじゃないんだって」

 

 沖野トレーナーの後頭部に回されたテイオーの両腕に、わずかに力がこもる。

 

「復帰を目指してがむしゃらに頑張ってきた毎日は、ボクの生涯の中で一番濃厚な時間だった。ただ辛いだけのリハビリに耐え忍ぶ日々だったはずなのに、当時を思い出すだけで……ボクの胸はいっぱいに満たされるんだ」

「……」

「おかしいよね、こんな感覚。挫折を経験する前のボクじゃ、絶対に生まれない感情だった」

 

 大きな挫折を経て、テイオーの心は目覚ましい成長を遂げた。

 

 たとえ目標の達成に至らずとも、夢を懸命に追いかけたその過程は彼女にかけがえのない宝物をもたらしたのだ。

 

「ねぇ、トレーナー」

「……どうした?」

「ボク、もう一度夢を探すよ。だから今は少し休憩して、みんなと夢中になれる時間に備えるんだ」

「…………ああ、分かった」

 

 テイオーの無敗の三冠ウマ娘になるという夢は、自らの強かな意志をもって幕を下ろした。

 

 しかし、終幕の過程で培ったかけがえのない経験は、テイオーの心に新たに芽吹く夢の大きな礎となるだろう。

 

 テイオーは直向きに夢を追いかける道のりを経て、素敵な成長を遂げた。

 

 だからきっと、私がこれ以上彼女のことを心配するのは無粋である。

 

 強かな覚悟で挫折を乗り越えたテイオーなら、きっともう大丈夫。

 

「ボクがまた元気に走れるようになったらさ……その時には、トレーナーにも手伝って欲しいんだ。新しい夢をたくさん見つけて、今度こそ、ちゃんと叶えたい」

「……ああ、一緒に見つけよう。今度こそ、俺はテイオーの夢を実現させてみせる」

「にししっ。期待してるからね、トレーナー」

 

 二人の間に生まれた親密な雰囲気を邪魔するほど、私は風情に欠けたウマ娘ではない。

 

 廊下の壁面に預けていた背中をおもむろに起こして、私は来た道を引き返す。

 

 着替えはまた明日取りに行こう。それが今である必要はない。

 

「……汚名返上は、しばらくお預けですわね」

 

 夢の旅路に区切りをつけ、新たな夢を見つける出発点に立ったトウカイテイオー。

 

 だがしかし、依然として私にとっての最強のライバルであることは変わりない。

 

 菊花賞での再戦は叶わなかったが、私達が待ち望んだ舞台はいつか必ず実現する。

 

 今の私に出来ることは、未来で蘇る最強のライバルに相応しい存在であり続けること。

 

 テイオーがこぼしてしまった最後の一冠は、彼女のライバルである私が回収する。私以外のウマ娘が一冠を戴くことなど、絶対にあってはならない。

 

 空席となった最強の玉座を守るのは、誰でもないこの私だ。

 

 トウカイテイオーの凱旋劇を、最高の舞台に仕立てるために。

 

 

 

 

 

 

 

──どんな困難が立ちはだかろうとも、私は走り続けてみせる。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 菊花賞出走前日。

 

 私は沖野トレーナーによる引率のもと、チーム・スピカの仲間と共に京都レース場付近の旅館に宿泊することとなった。

 

「──あ〜あ! つまんないなぁ!」

 

 トレセン学園が所在する東京から車で移動し、京都に到着する頃にはすっかり日が沈んでいた。

 

 体重管理を徹底しながら夕食を取り、現在は当旅館の売りである天然の露天風呂に浸かって移動の疲れを癒していた。

 

「……テイオー。あなたも一応乙女の端くれなのですから、はしたないですわよ」

 

 私と共に露天風呂に浸かってバシャバシャと水しぶきを上げているのは、生意気なチームメイトのトウカイテイオー。

 

 あろうことかこの私に二度も黒星をつけ、世代の頂点に君臨するウマ娘と謳われる因縁のライバルである。

 

「ボクも菊花賞に出たいよぉ! マックイーンをぼっこぼこにして無敗の三冠ウマ娘になりたかったのにぃ!」

 

 こうして彼女が京都へ訪れたのは、菊花賞に出走する私の応援が目的であった。

 

 テイオーはクラシック級のGⅠレースを立て続けに制覇し、無敗の三冠ウマ娘の誕生を期待された矢先に骨折という挫折を経験した。

 

 驚異的な回復力と血の滲むような努力を経て、テイオーは自身の足で夢の実現まであと一歩のところまで迫った。

 

 露天風呂で子供のようにはしゃぐテイオーではあるが、彼女はかつて自身の置かれた状況を賢明に整理し、自らの選択で菊花賞の出走を断念したという強かな意志を持ち合わせている。

 

 このように駄々をこねるテイオーだが、文句をこぼす彼女の表情には不思議と曇りはなかった。

 

「明日はマックイーンの応援かぁー。ねぇ、ボクの応援いる?」

「全くもって不要です。ですが、最強のステイヤーたる私の走りを特等席でご覧になれる絶好の機会でしてよ?」

 

 このように生意気で相手を煽るような言動は、私とテイオーにとってすっかり染みついた日常の一コマである。

 

「あなたが菊花賞の出走を断念したことは残念ですが……ご安心下さいな。明日のレースは私が圧勝し、あなたの面子を立てておいて差し上げます」

「けっ、勝手にしろやい!」

 

 じゃぶじゃぶとお湯をかき分けながら、素っ裸で湯船の中を泳ぐテイオー。

 

 今は私とテイオーの二人しか露天風呂を利用していないので問題は無いが……こんな姿をファンの誰かに見られでもしたら、卒倒ものである。

 

「……それで、足の調子はいかがですか?」

 

 これ以上ハメを外しすぎるの良くないと思ったので、私は声のトーンを少しだけ落としてテイオーに問いかけた。

 

「別に、心配しなくても平気だよ。出ようと思えば、菊花賞だって出れたんだしさ」

 

 声音の変化だけで私の意図を察してくれるあたり、テイオーとは随分親しい間柄になってしまったものだ。

 

「ボクはまだ全力が出せない。そんな状態でマックイーンと勝負するのは、ボクのプライドが絶対に許さない」

 

 勝気で生意気な言動が常々目立つテイオーではあるけれど、レースに対する熱意と、競走相手に対する敬意を疎かにしたことは一度たりともなかった。

 

「だから、菊花賞はマックイーンに譲る。たまにはライバルに見せ場を作ってあげないと、ボクの強さが際立っちゃうだけだからね」

 

 私としても、万全でない状態のテイオーを下して得た勝利に価値を見出せるとは思えない。

 

 菊花賞での再戦は叶わなかったが……今はきっと、お互いにとって重要な準備期間なのだろう。

 

「テイオー。復帰明けの目標レースはもう、決めているのですか?」

 

 無敗の三冠ウマ娘になりたいという夢の幕を、自らの意志で下ろしたテイオーのことだ。

 

 心身ともにたくましく成長した彼女であれば、既に新しい目標を見つけていても不思議ではない。

 

 私は思い切って、それを直接テイオーへと問うてみた。

 

「うん。でもまぁ、頭で思い浮かべている理想ではあるんだけどね」

 

 そして案の定、強かなウマ娘のテイオーは既に、新しく夢中になれる目標を見つけることが出来ていたようだ。

 

「参考程度に、教えていただけますこと?」

 

 明朗快活なテイオーは一体、どのような目標を見出して歩みを進めているのか。

 

「にししっ、気になる?」

「ええ」

「しょうがないなぁ。じゃあ今日は特別に、マックイーンに教えちゃおっかなー」

 

 彼女のライバルとして、それは非常に興味深い話題であった。

 

「ボクはね……」

 

 少しだけもったいぶるような間を挟んで、テイオーは私に言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──春の天皇賞に出る。そこでもう一度、マックイーンと走るんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いたずらだけど純粋で、生意気だけど憎めない。そんな笑顔を浮かべながら、彼女は新しい目標を語る。

 

「無敗の三冠ウマ娘になる夢は叶わなかった。だから次は、生涯無敗のウマ娘を目指す。でもそれはボクにとって、ワクワクする夢の過程に過ぎないんだ」

 

 テイオーは湯船に浸かっていた身体を、おもむろに起こす。

 

「ボクはもっと、マックイーンと走りたい。マックイーンと一緒の晴れ舞台に上がって、心が躍るようなレースがしたい」

 

 そして彼女は、自身の胸を大仰に張って言い放った。

 

 

 

 

 

 

 

「マックイーンと一緒のレースに出て、マックイーンに勝つ──それがボクの、新しい夢だ」

 

 

 

 

 

 

 

 透き通るような夢だった。

 

 飾り気のない純粋なテイオーの言葉に、私も不思議と胸が高鳴った。

 

 世代の最強と称されるウマ娘から好敵手と認められている事実が、たまらなく嬉しかった。

 

 一方的で独りよがりな敵対視ではなく、心の底から相手の実力を認め合った──”ライバル”というかけがえのない関係性。

 

「……ええ、悪くない夢ですわね」

 

 テイオーが描く夢は、とても良い夢だ。トウカイテイオーというウマ娘を構成する一部に私が存在するというのは、とても心地良い気分になる。

 

「良いでしょう。それがあなたの夢だとおっしゃるのでしたら、()()()協力して差し上げます」

 

 大切な夢を語ってくれたテイオーには、私も相応のお返しをする必要があるだろう。

 

「明日の菊花賞を制覇し、最強という称号を手中に収め……万全を期した状態で、私があなたの夢に立ちはだかりましょう」

 

 テイオーがレースの世界に戻ってきた時、私のような強い存在がいなければ彼女もつまらないはずだ。

 

「にししっ、そうこなくっちゃねー! まぁでもっ? ボクが夢を叶え続ける限り、マックイーンは一生泣きべそをかき続けることになっちゃうんだけどねっ! あはっ、あはは!!」

 

 私がテイオーの夢を引き立てるように、テイオーが私の夢を鮮やかに彩るように。

 

「それじゃあ約束っ! ボク達はずっとライバルで、二人で一緒のレースに出る! そして、最後に笑うのはずっとボクっ!!」

「はぁっ!? 勘違いもここまでくると清々しいですわねっ! ……良いでしょう。その約束、受けて立ちます。ですが最後に泣くのはあなたであるということを、ゆめゆめお忘れなく!」

 

 月明かりの下で交わした約束は、私の青春を象徴する大切な思い出だ。

 

 小指に感じた彼女の温もりは、たとえ色褪せたとしても忘れられそうにない。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 主役が不在となった菊花賞を私が制覇したことで、激動の展開となったクラシック級に一区切りがついた。

 

 始まりの夢に自らの意志で見切りをつけたテイオーは、のびのびとした休養を挟みながら、新しい夢をたくさん見つけるために歩み出している。

 

 大団円こそ迎えることは無かったけれど、その心持ちは不思議と、新たな門出を迎えるかのような清々しさで満たされていた。

 

 クラシック級を走り抜けたとなれば、次に訪れるのはメジロ家の悲願が眠る魔境──シニア級。

 

 私は来年から、”経験”という圧倒的な武器を身につけた年長の傑物達が跋扈するシニア級に殴り込む。

 

 一族の悲願、ひいては私が抱き続けた生来の夢を叶えるためには、そんなライバル達を軒並み退ける必要がある。

 

 決して一筋縄ではいかない。しかしそれでこそ、挑み甲斐のある壮大な夢なのだ。

 

 菊花賞制覇の余韻に浸るのは一時の休息に過ぎず、悲願達成の瞬間に至るまでの道のりは、まだまだ果てしない。

 

 偉大な使命を背負った私の歩みはすでに、次なる目標へ向けて動き出している。

 

 私が次走に定めたのは、天皇賞(春)の前哨戦として位置付けられる三月中旬の重賞レース──阪神大賞典。

 

 本競走を一着で制覇した場合、その勝者には天皇賞(春)の優先出走権が与えられる。

 

 シニア級に上がって初のレースということもあり、手応えを確かめ、本命へ向けて箔を付ける意味でも阪神大賞典は獲っておきたい。

 

 前途洋々たる気持ちを抱いて、私はかけがえのない夢に挑む。

 

 そんな輝かしい未来の日々に想いを馳せて、私は今日も変わらずトレーニングに明け暮れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……だが、しかし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は一つだけ、大きな勘違いをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 円満を迎えた穏やかな日常は、悪戯な運命が定めた小休止に過ぎなかったのだということを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私がその事実を痛切に思い知ったのは……またしても、すべてが手遅れとなってしまった後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──果てなき夢に囚われた私は今も、終わらない悪夢に魘され続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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43:夢の終わり

──左脚部繁靭帯炎。

 

 それが私の身体に突如襲いかかった、不治の病の名であった。

 

 繁靭帯炎とは、ウマ娘の足関節を繋ぐ靭帯の炎症を総称する病名である。

 

 臨床症状として主に挙げられるのは、患部の熱感や腫脹、跛行など。

 

 骨折のように発症直後から競走能力を失うわけではないので、一見するとさほど深刻な病ではないと思うかもしれない。

 

 だがしかし、繁靭帯炎を不治の病たらしめる所以は表面上の症状ではない。

 

 繁靭帯炎の本質は、疾患に伴う衝撃緩和機能の損失と症状の慢性化、そして、異常なまでの()()()()()()にあった。

 

 一歩を軽く踏み込むたびに耐え難い激痛が患部を襲い、最悪の場合、競走能力の喪失どころか歩行能力すら失ってしまう可能性がある。

 

 現在に至るまで繁靭帯炎に対する明確な治療法は確立されておらず、たとえ病を克服したとしても、再発の恐怖に怯えながら過ごす地獄の日々から逃れることはできない。

 

 それが、私が今後生涯をかけて向き合っていかなければならない病の全容であった。

 

「…………そっか」

 

 私は自身の身体に襲いかかった疾患の内容を、わざわざメジロ家の療養施設までお見舞いに来てくれたライバル──トウカイテイオーに包み隠さず打ち明けた。

 

 私の説明を受けて、テイオーは短く言葉をこぼして肩を落とし、力無く椅子の背もたれに全身を預ける。

 

 明朗快活で生意気なテイオーの性格は、この場においてはどうやらなりを潜めているようだ。

 

 その表情に昏い影を落とすテイオーの姿を見るに、彼女と交代する形で私が長期療養を強いられることを憂いているのかもしれない。

 

 テイオーの境遇を思い返せば、彼女が私に同情してしまうのも無理はない。

 

「……これから、どうするの?」

 

 私の顔色を窺うような声音で、テイオーが藪から棒に問うてきた。

 

「これから……」

 

 私が左脚部繁靭帯炎と診断されたのは二日前、菊花賞の開催から数日と経たない頃である。

 

「……正直に打ち明けると、あまり実感がわいていないんです」

 

 発症が確認されてからというもの、私はメジロ家が各地に保有している療養施設の一つに滞在し、予後判定が下されるまで横になっていることが多かった。

 

 私は身体に掛けられた布団から脚を晒し、包帯の巻かれた患部をテイオーに見せる。

 

 患部を手指で軽くなぞると、炎症によって生じた腫脹の凹凸を感じ取ることができる。

 

 じんわりとした熱感を帯びているが、実は触れても痛覚が刺激されるようなことはなかった。

 

「包帯の影響で症状が深刻そうに見えますが……患部に少々違和感を覚える程度。何でしたら、こうして普通に歩くことも出来ます」

 

 私はベッドからおもむろに起き上がって、テイオーの前に立つ。

 

 繁靭帯炎の主な症状に跛行──正常な歩行機能を失うこと──というものが挙げられるが、それを発症した現在でも、私は問題なく歩くことが出来ている。

 

 故に現在の私には、ウマ娘にとって不治の病と称される疾患を発症したという実感がなく、どこか他人事のような認識であった。

 

「病名を告げられた瞬間はさすがの私も狼狽しましたが……案外、大したことないのかもしれませんわね」

「じゃ、じゃあ……っ!」

「ええ。当然、復帰一択です」

 

 テイオーの期待が込められた眼差しに、私は毅然とした心持ちで応えてみせる。

 

 繁靭帯炎だろうが何だろうが、私はまだ道の途中。

 

 一族の悲願を託されたウマ娘として、このまま使命を果たさないで諦めるわけにはいかない。

 

「繁靭帯炎の治療には多少の時間を要するとのことです。復帰は早くて来年の夏以降……残念ですが、次の天皇賞は見送るしかありませんわね」

 

 一般的に言われている繁靭帯炎の治療に要する期間は、リハビリを含め最低でも八ヶ月程度。現在は十月の末なので、どう足掻いても六ヶ月後の天皇賞(春)には間に合わない。

 

 治療が中途半端な状態でリハビリに取り組み、疾患が再発してしまっては元も子もないだろう。

 

 生涯に一度しか出走できないクラシックレースの制覇を夢に掲げていたテイオーと異なり、シニア級に区分される天皇賞(春)は来年以降も挑戦することができる。

 

 繁靭帯炎の寛解が確認されるまで、根気強く治療とリハビリに取り組んでいけば、私はまた夢に挑むことが出来るはずだ。

 

「リハビリに関してですが……特に心配などしておりませんわ。何と言っても、私達にはあの図々しいトレーナーがいますから」

「あははっ! 間違いないやっ!」

 

 冗談を交えながらテイオーと雑談に耽り、私は部屋にこもった陰鬱な雰囲気を払拭する。

 

 私がこうして彼女と笑って過ごせているのは……認めるのは何だか癪だが、私達を担当する沖野トレーナーの存在によるところが非常に大きかった。

 

 過去にテイオーが骨折を経験してしまった際、沖野トレーナーだけは当人ですら諦めかけていた三冠の夢を手放さなかった。

 

 復帰が絶望的と言われ続けた中で抗い続け、彼は指導者としての矜持を背中で語ってみせた。

 

 普段は軽薄で配慮に欠ける言動が目立つ沖野トレーナーではあるが、このような状況で最も頼りになる人であるのは事実。

 

「ボクの時もそうだったけど、あの時のトレーナー本当に暑苦しかったなぁ。隣にいるだけで汗が止まらなくなっちゃうんだもん」

「これからあの熱量の矛先が私に向くのかと思うと、正直億劫になりますが……まぁ、悪い気はしませんわね」

 

 繁靭帯炎の治療は当然、一筋縄ではいかないだろう。だがしかし、沖野トレーナーがいれば不思議と安心できる。

 

 あの最悪な第一印象から、よくもまぁここまで変化したものだ。

 

 沖野トレーナーに対してそれなりに信頼を寄せていることを当時の私が知ったら、間違いなく卒倒するだろう。

 

 そんな感じて雑談の内容に沖野トレーナーを取り上げていると、私が療養に使用している部屋の扉がおもむろに開かれた。

 

「あ、トレーナー!」

「……ん、ああ、テイオー。来てたのか」

 

 扉を開けて入ってきたのは、私達の話題の中心となっていた沖野トレーナー。

 

 彼もどうやら、テイオーと同じく私の見舞いに来てくれたようだ。

 

「相変わらず、ひどい顔ですわね」

「……すまん」

「もう、しっかりして下さいまし。そんな様子では、担当ウマ娘の不安を助長してしまいますわよ」

「気を付けるよ」

「ええ、そうして下さいな」

 

 そう言いながらも表情に昏い影を落とした様子は変わらず、沖野トレーナーは後頭部を掻きながらこちらへと近づいてくる。

 

 口でこそ手厳しい言葉を放ってはいるものの、沖野トレーナーの心情自体は十分に汲み取れているつもりだ。

 

 沖野トレーナーの表情が苦悶に歪むのも、無理はないだろう。

 

 何しろ彼はひと一倍担当ウマ娘を想う気持ちが強く、指導に熱心で情に厚い。

 

 きっと彼のことだから、余計な責任を感じてしまっているのだろう。

 

 沖野トレーナーがベッドの縁に用意された来客用の丸椅子に腰掛け、私を見た。

 

「足の調子はどうだ?」

「少し違和感を覚えることはありますが……特に痛みもありませんし、普段通りですわ」

「……そうか」

 

 現在の感覚を率直に伝えながら、私は包帯でぐるぐる巻きになった左脚を空中で軽く遊ばせる。

 

 この様子をひと目見れば、心配性の沖野トレーナーも安心してくれることだろう。

 

「それで、トレーナーさんはどうしてこちらへ? 私の記憶が正しければ、施設を訪れるという連絡は頂いていないはずですが……」

 

 担当ウマ娘が繁靭帯炎を発症したとなれば、大抵の担当トレーナーが血相を変えて駆けつける。ちょうど昨日の彼がそうだったように。

 

「マックイーンには俺の口から直接……伝えなきゃと思ってな」

 

 普段は気さくな印象が特徴的な沖野トレーナーだが、その話題を切り出そうとする彼の様子はまるで正反対だった。

 

 そんなに思い詰めなくて良いと、昨日もそう伝えたのに……。

 

「ここに来る前に……マックイーンのご両親に会ってきたんだ」

「お父様と、お母様に……?」

「土下座してきた」

「……あの、いくら何でも責任を感じすぎでは? ……ふふっ。まぁ、あなたらしいと言えばあなたらしいですが」

 

 どうしてこのタイミングで私の両親が出てきたのか、少し疑問に思った。だがしかし、答えは案外すぐに導き出すことができた。

 

 沖野トレーナーは私を預かる担当トレーナーとして、両親に諸々の説明をする義務に準じていたのだろう。

 

 彼はこう見えて意外と律儀な一面も持ち合わせているため、彼が起こした行動は納得であった。

 

「今後の方針について、色々と話し合ってきたんだ」

「そうでしたか。それで、結論は出ましたか?」

 

 ちなみに今後の展望として、私が考えているのはこうだ。

 

 最初の数ヶ月は治療に専念し、繁靭帯炎を寛解させる。

 

 その後はリハビリに取り組みつつトレーニングの強度を徐々に上げていき、来年の秋に現役へ復帰。

 

 レースの感覚を取り戻しながら天皇賞(春)の優先出走権を獲得し、満を辞して本番へ臨む。

 

 理想に基づいたプランであるが、幸い時間には余裕があるため、ある程度の修正も容易い。

 

 私の提案が仮に無茶なものであったとしても、沖野トレーナーなら何とかしてくれるだろう。

 

「ああ、出たよ」

 

 沖野トレーナーは私の問いかけに短く答える。

 

 すると彼は神妙な面持ちで今一度、私に向き直った。

 

「マックイーン」

「はい」

「どうか、落ち着いて聞いてほしい」

「……? はい」

「レースはもう、諦めよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………………………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 え?

 

「引退後の見通しについて、ご両親と意見を交わし合ってきた」

 

 あ、え?

 

「内容は主に、治療とリハビリが完了した後の進路と、俺の今後の役割について。当面の間は治療とリハビリに専念しながら、それと並行する形で新しい目標を一緒に探していきたいと思っている」

 

……え? ぁ、えっと……え?

 

「いん、たい……?」

「……ああ」

「………………じょ、冗談にしては少々、洒落にならないかと」

「…………」

「……う、嘘、ですわよね?」

 

 この状況において洒落にならない冗談を持ち出すとは、彼の笑いのセンスはちょっとどうかしているんじゃないか?

 

 あまりにも滑りすぎて、全く笑いが生まれていない。

 

 隣にいるテイオーなんて、笑うどころか顔から表情が抜け落ちてしまっているではないか。

 

「わ、私はまだ、一族の悲願を果たしていないのですよ? 冗談も程々にして下さいまし」

「……俺がそんな冗談を、言っているように見えるか?」

「………………」

「……力になれなくて、本当にすまない。マックイーン」

 

 沖野トレーナーがベッドの上で呆ける私に向かって、深々と頭を下げる。

 

 その光景は以前にも、テイオーが入院していた病室で見た。

 

 でも、私に対してかけてくれる言葉が違う。

 

 まるで、沖野トレーナーが()()()()()()()()()()()()()()()かのようなニュアンスが、彼の言葉に含まれているかのようだった。

 

 そして、そんな私の被虐的な解釈をあたかも肯定するかのように、彼は頭を下げ続けている。

 

 沖野トレーナーが放った言葉を頑張って咀嚼したけれど、頭が真っ白になっているせいでまともに考えることが出来ない。

 

 一文字一文字をゆっくりと、努めて慎重に彼の言葉を読み解いていく。

 

 一つの結論が出た。

 

「…………………………………………なん、で?」

 

 それは、晴れようのない疑問であった。

 

「繁靭帯炎が不治の病と呼ばれる理由は、その異常なまでの再発率の高さに依拠している」

「……え?」

 

 彼が突然、説明を始めた。

 

 それは私が胸に抱いている疑問への回答、という解釈で間違いないのだろうか。

 

「最新の研究によると、疾患の再発率は靭帯の損傷具合に影響するという結果が報告されている」

「…………」

「マックイーンの容体から、主治医達が研究結果を参照して再発率の目安を計算したんだ」

 

 理解が追いつかない私を置き去りにして、沖野トレーナーは淡々と事実を口にし続ける。

 

「仮に繁靭帯炎が寛解したとしても、マックイーンがもう一度疾患を再発する確率は……」

 

 その声はまるで機械のように無機的で、義務的な宣告を強いられているかのようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──八割以上、だそうだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沖野トレーナーはただひたすらに頭を下げながら、私に対して事実だけを語った。

 

 そしてついに……置いてけぼりにされていた私の思考が彼の残酷な言葉を噛み砕き、否応無しに理解してしまった。

 

「………………どう、して?」

 

 沖野トレーナーは、私を諦めてしまったのだ。

 

「……すまない」

「どうして……っ」

 

 少しずつ、少しずつ自身の置かれた状況を把握することが出来た私は、分かりやすく取り乱した。

 

「どうしてですか……っ。テイオーが骨折した時は、絶対に諦めないとおっしゃっていたではないですかっ!」

「…………」

「わ、私がテイオーよりも弱いからですか? テイオーに勝ったことがないから、弱い私のことは諦めると言いたいのですか……ッ!?」

 

 私が彼の口から聞きたいのは、合理に満ちた賢明な言葉ではない。

 

 私が彼の口から聞きたいのは、()()()()()()()()()()()……。

 

「私は絶対に諦めませんわっ! 志半ばで根を上げることなど、私の矜持が許しませんッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私が彼の口から聞きたかったのはもっと、もっと別の…………っ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………やっぱり、諦められないのか?」

 

 私のわがままを聞き受けて、沖野トレーナーは観念したかのように後頭部を掻いて項垂れた。

 

「愚問です。不治の病だろうと何だろうと、私が一族の悲願を果たすことは決定事項です」

 

 私の強固な意志を前に、沖野トレーナーはついに折れたような素振りを見せる。

 

 彼はきっと、この私を試していたんだ。

 

 不治の病と真正面からぶつかって、お前は果たして地獄のような苦しみに耐えることが出来るのか。

 

 お前に夢を叶えるための気概はあるのか、なんて。

 

「……そうか」

 

 沖野トレーナーは静かに頷くと、先程から床に落としていた視線をゆっくりと持ち上げる。

 

 沖野トレーナーの表情は相変わらずひどい憔悴具合だったが、彼の眼差しには強かな決意と覚悟に満ちた光が宿っていた。

 

 その眼差しは、私もよく知っている。

 

 それはかつて、夢を諦めかけていたテイオーへ注いだ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あまりにも諦めの悪い、私達しか知らない沖野トレーナーの一面。

 

……そう、それだ。

 

 私が本当に欲しかったのは、どこまで行ってもしつこく食い下がってくるような、鬱陶しいと感じるくらいの安心感。

 

 沖野トレーナーは私の決意に突き動かされるように、持参した鞄を漁って複数枚の書類を取り出した。

 

 彼はそのうちの一枚を、きょとんとする私に対しておもむろに差し出す。

 

「マックイーン。もしお前がどうしても、レースを諦めきれないというのなら……」

 

 おそらく今後の治療やリハビリ、復帰に関する概要が記されたものだろうと考え、私は手にした書類に視線を落とす。

 

……だがしかし、それは私の浅はかな勘違いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺はお前との担当契約を──破棄する」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もはや私には、議論の余地すら残されていなかったのだ。

 

 信頼を寄せていた彼から唐突に契約破棄を突きつけられ、私の思考は真っ白に染まり、視界は真っ黒に塗りたくられる。

 

 その言葉を突きつけられた後のことは……正直、よく覚えていない。

 

 けれど、私の心に深々と刻み込まれた傷痕が、ありのままに起こった出来事を鮮烈に記憶していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沖野トレーナーは、私を捨てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の夢が、終わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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44:溺れるものは藁をも掴む

 私の左脚に繁靭帯炎の発症が確認されてから、今日で約一週間。

 

 私はトレセン学園を休学し、メジロ家の療養施設で長期的な療養に勤しむ運びとなった。

 

 色々な意味で現実味の湧かない感覚を抱えながら、私はぼんやりとした毎日を過ごしていた。

 

「…………」

 

 ふとした瞬間に私の脳裏をよぎる、日常の全てが一転したあの日の光景。

 

 悪い夢ならどうか覚めてほしい。

 

 だけど残念なことに、私の心に刻まれた癒えない傷が、紛れもない現実であることを否応なしに突きつけてくる。

 

 沖野トレーナーとの関係に関しては、私の友人であるテイオーが彼を説得するために動いてくれているとのこと。

 

 正直、どのような顔で彼と向き合えば良いのか分からないでいた私にとって、テイオーの申し出はありがたかった。今回ばかりは、彼女の厚意に対して素直に甘えることにする。

 

 テイオーは療養に尽力する私を気遣ってか、毎日たくさんのメッセージを送って来てくれる。

 

 そんなに心配しなくても良いと伝えたのだけれど、テイオーは甲斐甲斐しく連絡を取り続けてくれていた。

 

 私の復帰を心待ちにしているテイオーのためにも、一刻も早く繋靭帯炎を克服し、あるべき場所へ戻るとしよう。

 

 

 

***

 

 

 

 繋靭帯炎の発症から約二週間が経過した。

 

 療養生活は相変わらず退屈で、変わり映えのしない日常の繰り返しであった。

 

 朝日を浴びて目が覚めて、朝食をとって身支度を済ませ、学業に遅れが生じぬよう家庭教師の授業を受ける。

 

 起床後、もはや日課になっているテイオーからのモーニングメールに返信し、私は自分の足を使ってベッドから起き上がった。

 

 前日に用意した衣服に着替えて、身支度を整えようとした矢先──。

 

「──いっ……!?」

 

 床に足を下ろした私の表情が、突然の痛みを受けて苦悶に歪んだ。

 

 一体何事かと、私は痛みを感じた左脚に視線を向ける。

 

 包帯でぐるぐる巻きにされた、見掛け倒しの左脚。

 

 患部が熱感を帯び、腫脹が収まる気配はないが、発症からしばらくが経過しても外傷が悪化したような傾向は見られない。

 

 先程の全身を突き抜けるかのような鋭い痛みは、私のただの勘違いかもしれない。

 

 私は恐る恐る足先を伸ばして、親指から慎重に体重を預け──。

 

「──ッ!?!?」

 

 鋭利な針で滅多刺しにされるような激痛が、再び私の身体に襲いかかってきた。

 

「……い、今のは…………?」

 

 身体を動かしていないにも関わらず動悸が激しくなり、脂汗で湿った髪が私の肌にまとわりつく。

 

 肩で不規則な呼吸をくり返し、私は冷静な思考を無我夢中で手繰り寄せる。

 

 数分間をかけてゆっくりと平常心を取り戻すと、これまで私の中に存在していなかった実感がふつふつと湧き上がってきた。

 

 ウマ娘にとって不治の病と称される──繋靭帯炎。

 

 これまで私の奥底で鳴りを潜め、ただの違和感に過ぎなかった小さな綻びが……ついに凶悪な本性を現す。

 

 延々と魘され続けている悪夢からは、まだまだ目覚められそうにない。

 

 

 

***

 

 

 

 私が長期療養に努めるようになってから、一ヶ月が過ぎた。

 

 繁靭帯炎の症状が悪化したことにより、治療はおろか正常な歩行すらままならない状況が続いていた。

 

 慣れない松葉杖の使用に悪戦苦闘しながらも、私はいつか訪れる復帰の瞬間を心の拠り所にして懸命に日々を過ごしている。

 

 そして今日、私は繁靭帯炎の根絶へ向けて大きな一歩を踏み出すこととなった。

 

「……本日は、よろしくお願い致します」

 

 私が繁靭帯炎の治療手段として選択したのは、再生療法の一種である──幹細胞移植療法。

 

 幹細胞移植療法の概要としては、以下のような流れとなる。

 

 最初に、自身の胸骨から正常な幹細胞を取り出し、数週間をかけて細胞を培養させる。

 

 その後、必要十分な量に達するまで細胞を増殖させた後に、損傷部位に移植させて靭帯の機能回復を図る。

 

 繁靭帯炎が不治の病と称される所以は、その異常なまでの再発率の高さ。

 

 というのも、損傷した靭帯が自然治癒によって修復される場合、損傷した細胞組織とは異なる構造を成す瘢痕(はんこん)組織が用いられる。

 

 そして厄介なことに、この瘢痕組織は損傷部位の代替に過ぎず、本来の機能を持ち合わせているわけではない。

 

 強靭な耐久性もなければしなやかな伸縮性もないので、運動の負荷になど到底耐えられず、結果的に再発を招く原因となってしまう。

 

 だがしかし、幹細胞移植療法を用いればこれら全ての懸念点を払拭し、再発率の低下を期待することが出来る。

 

 幹細胞が持つ分化能と自己複製能の特性を利用し、損傷した組織に限りなく近い細胞で靭帯を修復する。

 

 明確な治療法が確立されていない繁靭帯炎ではあるが、現状ではこの幹細胞移植療法が最も治療に有効であるとされていた。

 

 生涯で初めて経験する、重要な手術。

 

 恐怖が無いかと言われれば嘘になるが、私は名門メジロ家のウマ娘。

 

 こんな志半ばで、弱音を吐くわけにはいかない。

 

 

 

***

 

 

 

 幹細胞を移植する手術が無事に終了し、繁靭帯炎の発症から完全休養を取ること約二ヶ月。

 

 超音波検査による診断の結果、幹細胞を投与した損傷箇所の順調な回復を確認することが出来た。

 

 今後の予定としては、歩行能力を回復するためのリハビリを経て、運動強度を徐々に上げつつレース復帰を目指すといった段階を踏んでいくこととなる。

 

 そして、本日からは主治医による指示のもとで、私は最初の段階である歩行能力の回復に取り組んでいく。

 

 松葉杖に頼り切りだった状態から、まずは平行棒を用いた自力での歩行を試みる。

 

「……いっつ、ぅう…………っ」

 

 完全休養を挟んだおかげで以前のような激痛を感じることは無くなったが、痛みが無くなったわけではない。

 

 平行棒を強く握り、体重を両腕で支えながら地面を撫でるように左脚を軽く踏み出す。

 

 少し前まで当たり前にこなせていたことが出来ないというのは、かなり精神的に来るものがある。

 

 私の表情が苦悶に歪んでいるは、なにも物理的な痛みだけが原因ではないのだろう。

 

 リハビリの時間は、一日約十分から十五分程度。この段階で無理をすると簡単に症状が再発してしまうため、焦りは禁物だ。

 

 リハビリを済ませた後は普段通り家庭教師の授業を受けて、自由時間はひたすら天皇賞(春)に関する情報をかき集める。

 

 その他には友人のテイオーとメッセージをやりとりしたり、密かに最近人気のスイーツについて調べてみたり。

 

 復帰までの道のりは至って順調だ。

 

 この調子で、辛いリハビリも頑張ろう。

 

 

 

***

 

 

 

 繁靭帯炎発症から三ヶ月。

 

 新年を迎え、シニア級に突入してからしばらく経った時期である。

 

 残念なことに、リハビリの進捗が芳しくない。

 

 歩くだけならすぐに元通りになると楽観視していたが、どうやら私の考えは浅はかであったようだ。

 

 歩行時に痛みを感じることは少なくなったのだけれど、どこかまだその足取りはぎこちなく。

 

 これで快復に向かっているのかと問われると……正直、程遠いレベル。

 

 不自由な制限に囚われる日常生活にも随分と慣れてきて、現在では松葉杖を手足のように使いこなすことが出来るし、何なら一人で入浴することだって出来る。

 

「ふぅ……」

 

 今日も辛いリハビリに耐え、長かった一日が終わろうとしている。

 

 無造作に身体をベッドへ投げ出して、ぼーっと天井を眺めた。

 

 私は眠りにつく前に、何となくスマホを手に取ってロックを解除する。

 

 今日はテイオーからの連絡が数十件きていた。それら全てに一通り目を通し、私は短いメッセージと共にスイーツのスタンプを添えて返信する。

 

 あ、そうだ。テイオーといえば。

 

 最近はリハビリに集中したくて頭の片隅に追いやっていたけれど……私と沖野トレーナーの関係は今、どうなっているのだろうか。

 

 沖野トレーナーを説得すると言っていたテイオーだけれど、その件に関しては数ヶ月間メッセージのやり取りをしてきた中で一度も触れられていない。

 

 さすがのテイオーでも、沖野トレーナーを説得することは出来なかったと考えるのが妥当だろう。

 

 リハビリを乗り越えてトレーニングを再開し、トレセン学園に復学したらまずは……そうだな。所属するチームを探すところから始めないと。

 

 あ、そういえば……二年前の入学式で受け取ったトレセン学園チームリストが、寮から持ち出した荷物の中に眠っていた気がする。

 

「確か、この辺りに…………ありましたわ」

 

 随分と埃を被り、紙も黄ばんで変色が進んでいたが、まぁ参考程度にはなるだろう。

 

 私は菊花賞を制覇したGⅠウマ娘だ。例えどのチームに移籍を希望したとしても、引くて数多だろう。

 

……このことは、もうしばらく後に考えれば良いか。

 

 なんだか今日はどっと疲れた。

 

 明日も歩行のリハビリが待っているし、翌日に備えてもう寝よう。

 

 せめて夢の中では、自由に走り回りたいな。

 

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 繁靭帯炎発症から四ヶ月が経過した。

 

 起床から身支度を済ませ、用意された朝食を一人で食べる。その後は家庭教師の授業を受けて、相変わらず歩行のリハビリに取り組む。

 

 ルーティン化した日常を過ごしていると、毎日に新鮮味を感じなくなって物足りなさを覚えてしまう。

 

「…………」

 

 現在はリハビリに指定されている時間だが、私は無断で屋内施設を抜け出し、木々に囲まれただだっ広い空間の隅で膝を抱えていた。

 

 最近、私はリハビリをサボることが増えた。

 

 以前は毎日毎日真剣に歩行のリハビリに取り組んでいたけれど……今は、どうだろう。

 

 別にリハビリの時間に施設を抜け出したからといって、私を強く咎めようとしてくる者は誰もいない。

 

 設けられた時間をとうに過ぎた後に施設へ戻っても、お帰りなさいませと、使用人はただただ優しい言葉をかけてくれるだけ。

 

 彼らはおそらく、私の心情を気遣ってくれているのだろう。そんな素晴らしい方々に囲まれて日々の生活を送れるだなんて、私は本当に恵まれている。

 

 こうして広場の隅に出来た木陰にぼんやりと腰を下ろして、どれくらいの時間が経過しただろうか。

 

 スマホの画面をつけて、現在時刻を確認する。

 

 十六時四十二分。授業が終わったのが十三時だったから……大体、三時間半くらいか。

 

 特に誰からの連絡も来ていなかったので、私はそれの画面を暗転させてポケットにしまい込んだ。

 

 連絡が来ないとは言っても、そもそも私のスマホに登録された連絡先は全て削除されているのだから当然のことなのだけれど。

 

 何故だかついつい、スマホの画面と通知音に意識が向いてしまう。ルーティンというのは存外、恐ろしいものなのかもしれない。

 

「…………」

 

 だだっ広い広場を眺め続けていると、私は無意識の内にイメージの世界をそこに重ね合わせていた。

 

 空想のターフの上を駆け抜けるウマ娘の姿には、生憎心当たりがある。

 

 軽快な足取りで疾走し、瞬く間に風を置き去りにするウマ娘──天皇賞を走る私の姿だ。

 

 想像の私と競り合っている相手は誰だろう。この場所からだと表情を窺うことは出来ないけれど……彼女の背中姿から察するに、とても楽しそうだ。

 

「…………」

 

 以前まではこのように、空想のターフを眺めて復帰へ向けたイメージトレーニングをひたすら繰り返していた。

 

 ターフを駆ける未来の自分に胸を膨らませて、リハビリのモチベーションを保つ。

 

 この行為も、復帰を目指す私にとって重要なルーティンであった。

 

「…………」

 

 だけど、私がこうしてリハビリをすっぽかすようになってからは、擦り切れた心に虚しさが募るだけ。

 

 それでも無意識に行為を続けてしまっているのは……やっぱり、本心では戻りたいのだろう。

 

 あるべき場所へ、使命を果たすために。

 

 けれど今の私には分かっている。

 

 ひたすらにイメージトレーニングを繰り返したところで、それはただの現実逃避に過ぎないのだということを。

 

「…………」

 

 両脚を抱え込む私の腕に、力がこもった。

 

 左脚を覆う包帯と無骨なサポーターが、私に過酷な現実を突き付ける。

 

 四ヶ月間に及ぶ懸命なリハビリの成果は、松葉杖の補助無しで数メートルを歩けるようになった程度。

 

 想像以上に怪我の治りが遅く、当初の復帰プランが現在進行形で後ろ倒しになり続けている。

 

 仮に私がめでたく復帰を果たした場合でも……繋靭帯炎の再発率は八割を超え、一歩間違えたら全てが振り出しに戻ってしまう。

 

 そんな絶望感な再発率を奇跡的に乗り越えたとして。

 

 次に私に立ちはだかるのは、所属するチームの壁である。

 

 URAが運営するトゥインクル・シリーズに出場するためには、出場条件を満たしたチームへの所属が不可欠。

 

 元々所属していたチームのトレーナーからは、あっけなく捨てられてしまった。

 

 新しいチームへの移籍を検討しようにも、脚に特大の爆弾が埋め込まれたウマ娘の面倒を見てくれるトレーナーが果たしているだろうか……いるわけがない。

 

「…………」

 

 繋靭帯炎を発症してしまった時点で、私は既に詰んでいたのだ。

 

 私に悲願達成の使命を託したメジロ家の方々は既に後進の育成へ尽力しており、朽ち果てた"名優"に変わる新たな存在の誕生を待ち望んでいる。

 

 今一度自身の存在価値を己に問うた時、私は答えに詰まってしまう。

 

 生家の悲願を果たせず、志半ばで前へ進む足を失い、信頼を寄せていた人からも捨てられた。

 

 全てを失った私の手元に残ったのは……期待と矜持に満ちた偉大な夢が破れ、残滓のようにあっけなく散らばった抱えきれない未練の数々。

 

 私はもう、考えることをやめた。

 

 懸命にリハビリに取り組んだとしても……ただ、惨めになるだけ。

 

 ぼんやりと広場を眺めてから、もうすぐ四時間が経とうとしている。

 

 肌寒い風に晒され続けていると、心まで凍えきってしまいそうだ。

 

 冬の季節は日が沈むのも早いし、今日はそろそろ施設へ戻ろう。

 

 周囲の木々に立てかけていた松葉杖を取ろうと、私は懸命に身を捩る。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──マックイーン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな時にふと、頭上から私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

 こんな私に声を掛けるなんて、一体誰だろう。

 

 療養施設に勤める使用人の誰かが、いい加減自堕落になった私を叱りに来たのだろうか。

 

 私は何気ない気持ちで落としていた顔を上げて、声が聞こえてきた方向に視線を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

「──ッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 その声の持ち主を前にして、私の心臓が凍りつく。

 

 弛緩していた気持ちが急激に締め付けられ、強烈な窒息感によって胸が握りつぶされる。

 

 わなわなと唇を震わせて、私は絞り出したような声音で言葉をこぼす。

 

 

 

 

 

 

 

「お、おばあ様…………っ」

 

 

 

 

 

 

 

 私の生家であるメジロ家の現当主にして、数々の偉業を残してきた私の実祖母──おばあ様。

 

 羊蹄山の麓に所在する本邸で暮らしているはずのおばあ様が、一体どうしてこんなところに……っ。

 

「もっ、申し訳ありませ──」

 

 しかし、今はそんなことを考えている場合では無い。

 

 尊敬する偉大なおばあ様の前で、私はあろうことか腰をついて座り込んでしまっている。

 

 私は普段の優雅さや気品のかけらもない所作を晒しながら、大慌てで彼女への無礼を謝罪し、その場に立ちあがろうとする。

 

 しかし、突然の来訪に思考が追いつかずみっともなく取り乱したせいで、私は自身が療養の身に置かれていることをすっかり失念してしまっていた。

 

 不自由な左脚に力を込めてしまったことで私はバランスを崩し、立ち上がる寸前に激しく尻もちをついてしまう。

 

「…………マックイーン」

「ぁ、ご、ごめんなさいおばあ様っ……こ、これは、そのっ」

 

 見るに堪えない醜態を晒してしまった私を前にして、おばあ様が再び私の名を口にした。

 

 無様に腰が砕けた私を見下ろしながら、おばあ様がこちらに近づいてくる。

 

 反射的に、私は()()()()()()()()()

 

 おばあ様が一歩を踏み込む度に私の動悸が激しくなって、全身から堪えきれない恐怖が込み上げてくる。

 

 

 

 

 

 

 

「…………ぃ、いや、……だ、……っ」

 

 

 

 

 

 

 

……多分いまの私は、他人と関わることに対して過剰な恐怖心を感じるようになってしまったのだと思う。

 

 誰かに見限られてしまうことが怖くなって、必要最低限の人としか接点を持たなくなった。

 

 ぼろぼろになった心をこれ以上傷つけないために、全ての連絡先を削除して他者との関係を断ってしまった。

 

 自身の血筋を誇りに思い、一族の名に相応しい物腰と品格を備えた”メジロマックイーン”はもう、どこにもいない。

 

 ここに蹲っていたのは抱えきれない未練に押し潰され、八方塞がりの状況に狼狽し、あらゆる恐怖から壊れた心を守るだけで精一杯な…………()()ウマ娘。

 

 きっとおばあ様も、一族の期待を裏切ってしまった弱い私を捨てるつもりなんだ。

 

「……こ、来ないでっ、下さい…………っ」

 

 大好きだったおばあ様が近づいてくるたびに、私は呼吸の仕方を忘れながらも距離を取るために必死に後ずさる。

 

 しかし、背後に植わっていた木に背中をぶつけ、これ以上逃げられないことに気付いた。

 

 そしてついに、私とおばあ様の距離が手の届くところまで縮まってしまう。

 

「……マックイーン」

 

 おばあ様が弱い私の名前を呼ぶ。

 

 おばあ様は激しく取り乱して狼狽する私の前で静かに屈むと、こちらに向けて両腕を伸ばしてくる。

 

「や、やめっ──」

 


 私はあまりの恐怖に心が耐えられなくなり、全てを拒むように強く目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──一人にしてしまって、本当にごめんなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の身体が突然、懐かしい温もりを思い出した。

 

「…………………………ぁ」

 

 一体何が起こったのかと、私はゆっくりと瞼を上げる。

 

 視線を落とすと、おばあ様の背中が見えた。

 

 目線を左へ動かすと、おばあ様の横顔があった。

 

「あなたが一番大変な時に、私は傍にいてあげることが出来ませんでした」

 

 耳元から、おばあ様の優しい声が届く。

 

 心が他人を拒絶したとしても、身体は大好きだったおばあ様の温もりを覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

──私は今……おばあ様に、抱きしめられているんだ。

 

 

 

 

 

 

 

「苦しい時は、どうか一人で抱え込まないで下さい」

 

 私の背中に回されたおばあ様の両腕に、微かな力がこもる。

 

 懐かしい温もりが、さらに大きくなった。

 

「マックイーン」

 

 おばあ様がもう一度、私の名前を呼ぶ。

 

 おばあ様の言葉に、私はせいいっぱい耳を傾けた。

 

「今まで、本当によく頑張りましたね。あなたの活躍を、私はずっと見ていましたよ」

「………………ぇ」

 

 おばあ様から、労いの言葉をもらった。

 

「あなたは私達のために、本当に立派に育ってくれました。悲願のために、使命のためにと一生懸命走る。そんなあなたが、私はとても誇らしい」

 

 おばあ様の骨ばった手が、私のくずおれた背中を優しく撫でる。

 

「……でも、ごめんなさい」

 

 耳元から届いたおばあ様の謝罪と共に、彼女の温もりがもっと大きくなる。

 

「あなたは私達の夢を一身に背負ってくれました。ですがそのせいで……あなたは、どんな時でも強くあろうとしてしまう」

 

 おばあ様は一度抱擁を解いて、呆然とする私の顔を見つめた。

 

「……良いですか?」

 

 昔から自他ともに厳しくも、家族への思いやりに満ちていた方であったが……こんな風に柔らかく微笑むおばあ様を見たのは、今日が初めてだった。

 

 温もりを灯したおばあ様の眼差しを一身に注がれて、私の憔悴した瞳が揺れうごく。

 

「マックイーン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に辛い時は──泣いても、良いんですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉を耳にした途端、私が心の奥底で蓋をしていたはずの感情が暴れ出してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

「………………ぅ、うぁ、ぁあ……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 まるで堰を切ったように、我慢していた何かが涙と共に溢れ出してきた。

 

 

 

 

 

 

 

「うぅっ、ぁ、ぅう……っ、──ぁああっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 私は今まで誰にも、それこそ家族にすらも弱い自分を曝け出したことは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 何故なら私は、一族の期待を一身に背負ったメジロ家のウマ娘だったから。

 

 

 

 

 

 

 

「わっ、わたっ! わたくしは……っ、ぅ、ぁあ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 誰にも仮面の下に隠した素顔を見せたことは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 何故なら私には、涙を流すような軟弱な自分なんて必要なかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 だからこんな風に感情を爆発させたのは、初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 押し殺していた本当の気持ちが、心の底から叫び声を上げている。

 

 

 

 

 

 

 

 その心の悲しみを代弁するように、私は声を上げて泣きじゃくった。

 

 

 

 

 

 

 

「私はまだっ…………まだ……っ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私にはまだ、果たさなければならない使命がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私にはまだ、実現させなければならない悲願がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私には、まだ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──走り……、たいのに…………っ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──どうしても諦められない、夢がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心に蓄積したたくさんのものを涙で洗い流すまで、おばあ様は私の背中を優しく撫で続けてくれた。

 

 ずっと一人で抱え込んできたものを吐き出すと、それだけで随分と心が軽くなったように感じる。

 

「……ありがとう、ございます。おばあ様」

 

 泣き腫らした目元を服の裾で拭って、私はおばあ様との抱擁を解く。

 

 静かに鼻を啜った後、少し遅れて私の胸に羞恥心が込み上げてきた。

 

「辛いことは、あまり溜め込まない方が良いですよ」

「……はい」

 

 尊敬するおばあ様に情けない姿を見せてしまい、私は無意識に視線を逸らしてしまう。

 

「……その、おばあ様。少し気になっていたのですが」

 

 これ以上の醜態を晒したくはなかったので、私はおばあ様に対して異なる話題を振ることにした。

 

「おばあ様はどうして、療養施設へお越しになったのでしょうか?」

 

 これはおばあ様の姿を見た瞬間から、ずっと疑問に思っていたことであった。

 

 普段は羊蹄山の麓にあるメジロ家の本邸で暮らしているおばあ様が、一体どうして、こんなところに……。

 

「ああ、そうでした」

 

 おばあ様の口ぶりから察するに、どうやら何か目的があって療養施設へ訪れたようだ。

 

「マックイーン。あなたの()()について、私から提案があります」

「……っ」

 

 おばあ様の口から『今後』というフレーズを耳にして、私の身体が激しく緊張する。

 

 走る足を失った私の存在は、数々の名ウマ娘を輩出してきたメジロ家にとっての面汚しに他ならない。

 

「その前に一つ、あなたに確認しておきたいことがあるのですが……」

 

 正直、もうどうなっても良いやという気持ちで、私はおばあ様の提案に耳を傾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──もう一度、レースの世界に戻る覚悟はありますか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………………………え?」

 

 あまりに突拍子もないおばあさまの発言に、私は自身の耳を疑ってしまう。

 

「無理強いはしません。私達の悲願を押し付けているわけでもありません。ただ私は、あなたの意志を確認したいのです」

 

 私の……意志。もう一度走りたいという、嘘偽りのない赤裸々な本心。

 

 当然、レースの世界には戻りたい。

 

 もう一度レースに出走して、果たせなかった夢を叶えたい。

 

「で、ですが私には……もう…………」

 

 夢を叶える覚悟なら当然ある。

 

 一族の悲願を果たすことこそが私の生まれた理由であり、私の存在意義であるのだから。

 

 だがしかし、胸の内ではこうして強い気持ちを語っておきながらも、実際の私はおばあ様に対する返事を詰まらせてしまう。

 

 何故なら私はこの四ヶ月間の療養生活で、絶望的な現実を嫌と言うほど突き付けられてきたのだから。

 

 先が見えない地獄のリハビリ。

 

 血の滲む努力を嘲笑うかのような疾患の再発率。

 

 そして、スタート地点に立つことすら許されない現状に、私は為す術もなく無力感に打ちひしがれた。

 

 この世界に希望が無いことなど、私の現状を見れば一目瞭然だ。

 

 奇跡なんて、嘘だ。

 

 ありもしない奇跡を信じたところで、一層惨めな思いを感じてしまうだけ。

 

 私にはもう、走れる足がない。

 

 死んだ足を抱えるウマ娘に、明日なんて存在しない。

 

「私が聞いているのは、あなたの現状ではありませんよ。レースの世界へ戻るという、強かな覚悟の有無を聞いているのです」

 

 おばあ様は私の思考など筒抜けだと言わんばかりに、口調を鋭くして今一度私に問うてきた。

 

「奇跡は願うものではありません。あなた自身で起こすものです」

 

 確信を持って断言するおばあ様の目には、一体何が見えているのだろう。

 

「希望が無いなどと嘆く必要はありません。何故ならそれは、あなた自身で見出すものだからです」

 

 手の施しようがない、絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況で。

 

 

 

 

 

 私にはまだ──諦めないという選択肢が残っているのだろうか。

 

 

 

 

 

「マックイーン。あなたが走ることを諦めないと言うのなら……私はあなたに、()()()を示すことが出来ます。そのために、私はあなたの元へ訪れました」

「可能、性……」

 

 おばあ様が口にした言葉を、私は無意識に繰り返す。

 

 希望なんて無い。

 

 奇跡なんて起きるはずがない。

 

 それでも私にはまだ、可能性が残されているのだろうか。

 

 おばあ様の語る可能性が一体何のことなのか、今の私には全くと言って良いほど見当がつかない。

 

 しかし、強い口調で断言したおばあ様にはきっと、私には見えない可能性(なにか)が見えているのだと思う。

 

「…………おばあ様、私は」

 

 おばあ様の言葉通り、もし本当に私の中に可能性が残っているというのなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──もう一度、走りたいです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私はそれに……縋りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「分かりました」

 

 私の決意表明を受けて、おばあ様は静かに微笑んだ。

 

 おばあ様は短い言葉を残してその場から立ち上がる。

 

 きょとんとする私をよそに、おばあ様はポケットに忍ばせたスマホを取り出して、誰かと通話による連絡を取った。

 

 数回のコールがスマホから鳴り響いた後、その画面がパッと切り替わる。

 

『──ご無沙汰しております』

 

 ウマ娘の優れた聴覚が、画面越しに聞こえてきた中年男性の声をぼんやりと聞き取る。

 

 その男性の声には不思議と、聞き覚えがあった。

 

「突然の連絡になってしまい、申し訳ありません」

 

 果たしてその声の持ち主は一体、誰だったか。

 

「少々お時間、よろしいでしょうか」

『ええ、もちろん。問題ありませんよ』

「実はあなたに、折り入っての頼みごとがあります」

 

 淡々と会話を進めるおばあ様の言葉に意識を向けながらも、心当たりのある声の持ち主を脳裏で探る。

 

……あ、思い出した。

 

 その声の持ち主は確か、トゥインクル・シリーズを運営するURAの……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──人探しの協力を、お願いしたいのですが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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45:繰り返す後悔

 マックイーンの失踪、ドーベルの脱退からしばらくの日数が経過した。

 

 ダイヤの初重賞レースとなるきさらぎ賞を三日後に控える中で、俺は女々しくも未だに挫折を引きずり続けている。

 

 何も言わぬまま俺の元から姿を消したマックイーンとは当然のように連絡が取れず、ドーベルに関してはもう、声を掛ける大義名分が残っていない。

 

 どうやら俺には、複数のウマ娘達を導くための努力が足りなかったようだ。

 

 数十名以上のウマ娘が所属していたかつてのチーム・アルデバランで数年間、俺は一体何を学んできたのだろう。

 

 唯一俺の元に残ってくれたダイヤの前では、これでも気丈に振る舞っているつもりだった。

 

 だけど、聡明な彼女のことだからきっと、色々と気を遣ってくれているに違いない。

 

 レース本番の調整をメインにトレーニングを行った後、俺は今こうして部室に残り、帰宅の準備を進めていた。

 

 随分と物寂しくなった部室の清掃を簡単に行った後、しっかりと戸締りを確認した俺は荷物をまとめて部屋を出た。

 

 トレセン学園に来た当時は、広大で複雑な施設の中で迷子になることが多かった。しかし、今となってはすっかり身体が環境に適応したように感じる。トレーナー寮を目指す俺の足取りには、迷いがない。

 

 寮へ戻ったら一通り身の回りの家事を済ませて、明日の準備をして、その後はそうだな。

 

……あ、そういえば以前、ドーベルからアロマデフューザーを貰ったっけ。最近疲れが溜まってきたように感じるから、使い方を調べてやってみようかな。

 

 トレセン学園の昇降口を出て、正門へと続く通りを歩いていく。

 

 瀟洒な正門を抜けた後、俺は左方向に進路を変えて帰路に着いた。

 

 ちょうどその時……。

 

 

 

 

 

「──よう、新人」

 

 

 

 

 

 聞き覚えのある男性の声が、寮を目指す俺の背中を呼び止めた。

 

 そういえば以前にも似たようなことがあったなと思いながら、俺は男性の声が聞こえてきた方向へと身体を向ける。

 

 癖毛を背後で束ね、左側頭部を刈り上げた特徴的な髪型の男性が、街灯の下で静かに佇んでいた。

 

「沖野先輩?」

 

 黄色の派手目なワイシャツと黒のジャケットを着こなし、棒付きの飴を口で転がした沖野先輩が、きょとんとする俺の方へと近づいてくる。

 

 一体どうして、沖野先輩がこんなところに……。

 

 俺が頭の中で疑問に感じたことを口にする前に、沖野先輩が先に言葉をかけてきた。

 

「この後少し、時間ある?」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 トレセン学園を後にしたその足で、俺は沖野先輩と共に以前も訪れたバーへとやってきた。

 

 静謐な空間に踏み入ると、自然と心も穏やかになる。

 

 仕事に勤しむ中で心に蓄積したものを整理したい時に、沖野先輩はよくここへ足を運ぶのだそうだ。

 

 俺は沖野トレーナーと並んでカウンターテーブルに腰掛け、ひとまずメニュー表の目に留まったドリンクを各々で注文する。

 

「……突然すまんな。こんなことに付き合わせちまって」

 

 ドリンクが提供されるまで手持ち無沙汰となった中、隣に座る沖野先輩が申し訳なさそうに声を発した。

 

「大丈夫です。寮へ戻っても特にやることはなかったので」

「……そうか」

 

 俺の言葉を受けて、沖野先輩は静かに頷く。彼の目線が、テーブルに落とされた。

 

 しばらくの沈黙を挟んだ後、沖野先輩は意を決したように顔を上げて、かたく噤んだ口を開く。

 

「……すまん。こんな事態になっちまった俺達の問題に、新人を巻き込んじまった」

 

 沖野先輩が今日こうして俺を飲みに誘った理由については、何となく見当がついていた。

 

 十中八九、先日学園中に蔓延したマックイーンの噂に関してのことだろう。

 

 チーム・アルデバランへと移籍したマックイーンは以前、沖野先輩が顧問を務めるチーム・スピカに所属していた経歴を持っている。

 

 以前に一部始終を目撃した中庭での出来事から察するに、マックイーンが学園から失踪した背景にはおそらく、移籍前の事情が複雑に絡んでいると俺は踏んでいた。

 

「沖野先輩……過去にマックイーンと、何かあったのですか?」

「その辺りも含めて、俺は新人に説明する義務がある。少し長い話になるが……聞いてくれるか?」

「はい。聞かせて下さい、お二人のこと」

 

 かつてチーム・スピカに所属していた頃のマックイーンを、俺は何も知らない。

 

 マックイーンの過去を知ることが出来れば、俺は彼女が失踪した理由を掴めるかもしれない。

 

 俺は沖野先輩が打ち明ける過去の出来事に、懸命に耳を傾ける。

 

「何から、話すべきかな……」

 

 最初に沖野先輩が語ったのは、メジロ家の令嬢であるメジロマックイーンとの出会いであった。

 

 マックイーンと同時期にチーム・スピカへ加入した無敗のウマ娘──トウカイテイオーの強い推薦によって、沖野先輩は天皇賞の制覇を目標に掲げる彼女を半ば強引にチームへと引きずり込んだそうだ。

 

 その後は担当ウマ娘達と独自の信頼関係を築きながら、順風満帆な競走生活を送っていたのだという。

 

 しかし、無敗の三冠ウマ娘を志すトウカイテイオーが骨折を経験し、事態が一転する引き金となってしまった。

 

 沖野先輩は夢を諦めかけていた彼女に寄り添い、怪我の回復を手厚くサポートしたとのこと。

 

 そして、脅威的な回復を見せたトウカイテイオーと入れ替わるように、マックイーンが左脚部繁靭帯炎を発症してしまったこと。

 

 ここまで大雑把に過去の歩みを語ってきた沖野先輩であったが、彼が本当に話したかった内容はこの先にあるようだ。

 

 沖野先輩がこぼす言葉の数々に、更なる重みが加わる。

 

「……マックイーンが繁靭帯炎を発症した後、怪我の全容を確認するために彼女の主治医から話を聞いたんだ」

 

 マックイーンが発症した繁靭帯炎は、その異常なまでの再発率の高さ故に、ウマ娘にとって”不治の病”と称されるほどに深刻な疾患であった。

 

「繁靭帯炎の再発率は、靭帯の損傷割合に依存することが多いそうだ。マックイーンの場合、その損傷が想像以上に激しかった。仮に繁靭帯炎を克服して、マックイーンがレースへ復帰できたとしても。主治医達の見立てによると……病の再発率は、八割を超えていたんだ」

「…………」

 

 沖野先輩が打ち明けた衝撃の事実を受けて、俺は言葉を失ってしまう。

 

 八割以上の再発率……それはもう、実質的な予後不良宣告に等しい状態であった。

 

「俺はこれ以上、マックイーンを走らせるのは危険だと思った。下手をすれば、日常生活すらまともに送れなくなっちまう。それだけは何としても、避けなければならない」

 

 マックイーンの競走生活を預かる監督責任者として、沖野先輩は決断を迫られた。

 

 左脚に爆弾を抱えた状態で夢を追うマックイーンに寄り添うのか。

 

 それとも、彼女の今後の人生を考慮してレースとは異なる道を紹介するのか。

 

……もはや沖野先輩に与えられた選択肢など、あって無いようなものだった。

 

「まぁでも……それを説明したところで、すんなりと夢を諦められるようなヤツじゃなかった。別の道を示そうにも、あいつは聞く耳を持とうとすらしなかった。そんなことは、マックイーンを担当してきた俺自身が一番分かっていたからな」

 

 きっと沖野先輩にとっても、それは苦渋の決断だったのだと思う。

 

「これ以上、マックイーンを走らせるわけにはいかない。俺は何としても……マックイーンをレースの世界から遠ざけなきゃいけないって、そう考えた。だから、俺は……」

 

 故にそれは、仕方のないことだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──マックイーンとの契約を、強引に破棄したんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一族の悲願を一身に背負い、その重圧を誇りと称したマックイーンであれば、例えどんな逆境に晒されようとも絶対に夢を諦めることはしないだろう。

 

 だから沖野先輩は、マックイーンをレース界のシステムそのものから排除しようと考えた。

 

 URAが運営するトゥインクル・シリーズに出場するためには、チームへの所属が不可欠。

 

 チームに所属しなければ、マックイーンはこれ以上怪我に苦しむことはなく、不自由のない日常生活を取り戻すことが出来る。

 

 現役時代を終えたウマ娘には、それよりも圧倒的に長い余生が待っている。

 

 現役時代の置き土産として、身体に残酷な後遺症が刻まれるウマ娘も決して少なくはない。

 

 ウマ娘の競走生活を預かる俺達トレーナーの仕事は、担当ウマ娘を勝利に導くことだけが全てではない。引き際を見極めることだって重要なことだ。

 

 マックイーンの今後を本当に想うのであれば、沖野先輩が下した判断は極めて()()()()()()と言える。

 

「…………後悔したよ」

 

 だが、合理的過ぎる選択を取ってしまったが故に、二人の関係性に修復不可能な亀裂が生じてしまったのだろう。

 

「客観的に見れば、俺は予後不良も同然となったマックイーンを見捨てたことになる。それ以降、長期療養のために学園を休学したマックイーンは心を閉ざして、俺のチームは一度崩壊した……ま、自業自得だな」

 

 自嘲気味に語る沖野先輩。

 

 表情に昏い影を落とした様子からは、彼の底知れない苦悩が窺える。

 

「それ以降は、新人も知っていることだと思う。長期療養を経て学園へ復学したマックイーンが、新しい目標を掲げてチーム・アルデバランに移籍した」

 

 話の時間軸が大きく飛躍したのはきっと、沖野先輩が長期療養に努めていたマックイーンの動向を把握出来ていなかったから。

 

「確かマックイーンは、トレーナーになるっつう目的で新人のチームに移籍したんだったよな?」

「はい。移籍前に貰った彼女達からの手紙には、そう書かれていましたので」

 

 マックイーン達が移籍を希望するにあたって、俺は事前に、それらの旨が記された婆さんからの手紙を受け取っていた。

 

 当初は諸々の事情で移籍を断っていた俺だったが、紆余曲折を経て、最終的に二人の希望に応える選択をとった。

 

 トレーナーを志すマックイーンの努力は本物であった。

 

 本職顔負けの指導能力を披露して、顧問の俺が不在となっていたチームを守ってくれていた。

 

 だから、俺はマックイーンが移籍を希望した理由に対して、何ら疑問を抱くことはなかったが……。

 

「その情報を掴んだ瞬間……俺は真っ先に、何か裏があると思っちまったんだ」

 

 彼女の背景を知る沖野先輩にとっては、違和感の塊だったのだろう。

 

 

 

 

 

──マックイーンが()()()()、新しい目標を掲げてトレセン学園に戻ってきたということが。

 

 

 

 

 

「どうしてマックイーンが新人のチームに移籍を希望したのか、俺には分からない。それをマックイーンに聞く権利が無いことなんて重々承知だったが……不意にあいつの姿を見て、俺は我慢出来なくなっちまった」

 

 長期療養を経て学園へ復学したマックイーンに対して、衝動を抑えられなくなった沖野先輩が彼女の魂胆を探るために近づいてしまった。

 

 それが──噂が蔓延する直前の中庭での出来事だった、ということだろう。

 

「結局本人の口から真実を聞くことは出来なかったが……学園中に蔓延しちまった噂と、マックイーンが失踪した現状を照らし合わせて、俺は間接的に確信した」

 

 マックイーンに関する噂が蔓延したあと、俺は事実確認をするため彼女自身に言及した。

 

 その結果、マックイーンは噂の内容を否定することなく、俺に謝罪だけを残して消息を絶った。

 

 これだけの情報を整理すれば、自ずと真実は見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

「あいつはもう一度──レースに出ようとしていたんだって」

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンは、夢を諦めていなかったのだ。

 

 それが分かると、マックイーンが嘘を口実にしてチームへ移籍してきた理由がなし崩し的に浮き上がってくる。

 

 断られると思ったのだろう。

 

 脚に特大の爆弾を抱えたウマ娘を受け入れるチームなんて、どう考えても存在しないのだから。

 

 本来あるべき場所へ戻らなかったのではなく……彼女は、戻れなかった。

 

 だからマックイーンは、俺に嘘をついた。

 

「これは本来、俺とマックイーンの問題だった。なのに関係の無い新人を巻き込んで、こんな大事に発展させちまった。本当に、すまなかった」

 

 沖野先輩は俺に過去の全てを打ち明けて、深々と頭を下げた。

 

 俺の中で不明瞭だった謎が明らかになって、少しは晴れやかな気分になるかと思ったが……全然、そんなことは無くて。

 

 沖野先輩と同じく、俺は救いようのない真実を前にして、心がずんと重く沈んだような気分に陥った。

 

「……謝らないで下さい。俺も、沖野先輩の判断は正しかったと思っています」

 

 繁靭帯炎を発症したマックイーンを想って突き放した沖野先輩の選択は、英断だったと思う。

 

 何故なら、彼の選択は……。

 

 

 

 

 

 

 

 

──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………違うんだよ」

「え?」

「……違うんだ。そうじゃ無いんだよ、新人」

 

 俺は沖野先輩の選択を肯定したつもりだったが、彼の表情は依然として浮かばなかった。

 

「俺は……マックイーンと向き合うことから、逃げただけなんだ」

 

 いつの間にか、沖野先輩は店側から提供されたドリンクを飲み干していた。

 

 沖野先輩がこんな風に弱音を告白するということは、もしかしたら身体に酔いがまわったのかもしれない。

 

「少し話は変わるんだけどさ……去年の天皇賞(秋)のことは、知っているか?」

 

 沖野先輩が一度話題を転換し、去年の十月末に開催された天皇賞(秋)について言及した。

 

 当時の俺は闘病生活の真っ只中であったため、実際のレースを見たわけでは無い。

 

 しかし、退院から業務に復帰するまでの過程で、俺はトゥインクル・シリーズに関する情報をひたすら収集していた記憶がある。

 

「もしかして…………"沈黙の日曜日"のこと、ですか?」

「……ああ」

 

──沈黙の日曜日。

 

 このフレーズは、昨年に開催されたGⅠ競走──天皇賞(秋)で発生した悲劇を象徴するものであった。

 

 端的に換言すると、沖野先輩のチームに所属するウマ娘の故障事故である。

 

 当時の天皇賞(秋)にチーム・スピカから出走を表明したのは、トウカイテイオーとサイレンススズカの二名。

 

 かつての世界的アイドルウマ娘を彷彿とさせる圧倒的な大逃げを披露したサイレンススズカが、第三コーナー通過後に突然競走を中止。

 

 対するトウカイテイオーはレコード記録を塗り替えて天皇賞(秋)に勝利し、無敗で天皇賞春秋制覇という偉業を達成した。しかし、不思議と歓声は上がらず、辺りは沈黙に包まれていた。

 

 それ故に称された、沈黙の日曜日。

 

 そして後日公表された、サイレンススズカの左脚部粉砕骨折。

 

 世間の一部からは、引退が危ぶまれるとの声が数多く挙げられていたと記憶している。

 

「スズカの怪我を診た医者からは、復帰は絶望的だと言われた。仮に地獄のリハビリを乗り越えたとしても、元のように走れる可能性は限りなく低いって念押しされたんだ」

 

 沖野先輩曰く、サイレンススズカの故障は予後不良と診断されてもおかしく無いほど重症であったそうだ。

 

「以前のように走ることは出来ない……そう告げられたスズカの表情は、今でも俺の脳裏に焼き付いて離れない」

 

 度重なる不幸によって、当時の沖野先輩は心身ともに疲弊していたことだろう。

 

「俺はもう、二年前と同じ後悔を繰り返したくなかった。だから俺は、スズカを諦めなかった」

 

 沖野先輩は絶望のどん底に落ちてしまったサイレンススズカに対して懸命に寄り添い、塞ぎ込んでしまった彼女の心を支え続けた。

 

 そして、沈痛な故障事故から約三ヶ月。沖野先輩の献身的な努力が身を結び、彼女の容体は少しずつ快方に向っているとのこと。

 

「怪我が快復に向かうにつれて、スズカは段々と笑顔を取り戻していった。そんなあいつの顔を見て……俺は嬉しくなった。今度はちゃんと、救ってあげることが出来たんだって」

 

 そう語る沖野先輩の表情は、とても穏やかであった。

 

「でも、俺は同時に……気付いちまったんだ」

 

 しかし、それも束の間。

 

 沖野先輩の影を帯びた顔が、苦悶に歪んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうして俺は──マックイーンの時だけ、諦めちまったんだろうって」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 左脚部繁靭帯炎を発症した──メジロマックイーン。

 

 左脚部粉砕骨折を患った──サイレンススズカ。

 

 両者は共にレースへの復帰が絶望的と評され、残酷な現実によってどん底へと突き落とされたウマ娘達。

 

 二人の間に強いて違いを挙げるとするならば、怪我の名称とその概要辺りだろうか。

 

 しかし、怪我にもがき苦しむ当人達を"程度"で比較するべきではない。してはいけない。

 

「マックイーンを想って突き放したつもりだった。でもその行動の本質は……ただの自己保身だったことに、気付いちまったんだ」

 

 沖野先輩は語る。

 

 繁靭帯炎を発症してしまったマックイーンを導く手腕と覚悟に不安を覚え、責任を背負うことから……逃げ出してしまったのだと。

 

 取り返しのつかない後悔に苦しむ気持ちは、胸が締め付けられるほど共感出来る。

 

 何故なら俺は三年以上が経過した今でも、最愛の教え子を喪った後悔に囚われているのだから。

 

「新人。俺の不始末にお前を巻き込んじまって……本当に、本当にすまなかった」

 

 今日何度聞いたか分からない、沖野先輩からの謝罪。

 

 後悔に苦しむ沖野先輩に対して、俺はどのような言葉をかければいいのか少し迷った。

 

「……それは、結果論だと思います。沖野先輩がマックイーンを突き放していなければ、事態は比にならないほど悪化していたかもしれません」

 

 一連の出来事に対して責任を感じている沖野先輩であったが、彼が果たして非難されるべきなのかと聞かれると……多分それは、少し違うんじゃないかと思う。

 

 俺は過去に、沖野先輩と真逆の判断を選択した。

 

 その結果、俺の心は見るも無惨に壊れてしまった。

 

 結局タラレバを語ったところで、心を蝕む後悔をひたすら助長してしまうだけだろう。

 

「…………人の()()っつうのは、やっぱり簡単には変わらないもんなんだな」

「え?」

「実は俺さ、一度トレーナーの仕事を辞めてるんだ」

 

 沖野先輩が打ち明けた意外な発言に、俺は反射的に声をこぼしてしまった。

 

「経緯は違えど過去にも似たような経験をして、世間から目の敵にされて……怖くなった俺は、教え子を捨てて逃げたんだ」

「……」

「そこから俺は四年間、後悔に苛まれながら自堕落な生活を続けた」

 

 普段はとても気さくで飄々としている沖野先輩にも、逃げ出したくなるような辛い過去があったのか。

 

「……でもまぁ、結局俺は夢を諦められなかった。その気持ちが再燃した理由はさておくとして……もう二度と同じ後悔を繰り返さないと誓って、俺は現職復帰に踏み切ったんだ」

「そう、だったんですか」

「そしていざトレーナーに復帰して担当を持ったらこのザマだ。情けない限りだよ、ほんと」

 

 がっくりと肩を落として自嘲する沖野先輩。

 

「どれだけ自分を変えようと努力しても……最後には結局、自分の心に染みついた本性が出てきちまうのかもしれないな」

「深い教訓ですね」

「ああ。元教え子からの受け売りだけどな」

 

 話の終わり際まで息の詰まるような雰囲気を、最後まで引きずらせたく無かったのだろう。

 

 俺の隣には、普段の気さくな沖野先輩が戻っていた。

 

「沖野先輩の昔の教え子って、どんなウマ娘だったんですか?」

「ん? ああ、そうだな……だらしない俺と違って、常に完璧を求めるヤツだったよ。ぶっちゃけ相性最悪」

「えぇ……」

 

 そう口にしながら嘲る沖野先輩の表情からは、微かな笑みが溢れている。

 

「新人。突然誘っておいてアレだったが、話を聞いてくれてありがとう。その礼として、今日は俺が奢ってやるよ」

「本当ですか。では、お言葉に甘えさせて頂きます」

「おう。一人で抱え込んでたものを吐き出すと、()()()()()()()()()()()()()()()()

「それは、良かったです」

 

 心というのは本当に不思議だ。

 

 辛いことを誰かに聞いてもらう、それだけで押し潰されそうだった感覚から解放されることだってあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………ぁ。そうか、そういうことだったのか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……沖野先輩、どうかしましたか?」

「ん、ああ、いや……どうしてこんなタイミングで気付いちまったのかなって、思ってさ」

「……?」

 

 そうやって語る沖野先輩の顔は晴れやかだったが……何故だかとても苦しそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………あぁ。あの時、俺がマックイーンにしてやるべきだったのは──こういうことだったのか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沖野先輩は最後にそう口にして、右手で目元を覆った。

 

 

 

 

 

 

 

 もしかしたら彼はこの瞬間……彼が理想とする指導者としての本質に、たどり着いたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 



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46:新星の本質

 きさらぎ賞の開催まで残り二日。

 

 明日はきさらぎ賞が開催される京都レース場へ移動するため、本番前のトレーニングは実質的に今日が最後であった。

 

 ターフを利用してダイヤの最終調整を済ませた後、俺達は部室で本番に備えたミーティングを行っていた。

 

「……作戦に関しては以前説明した通り、後方からの末脚を活かしていこう。徹底的にマークされることになるから、経済コースはなるべく避けた方が良い」

「分かりました」

 

 ダイヤにとって三戦目となる公式レース、GⅢ──きさらぎ賞。

 

 メイクデビュー、条件クラスとレースを重ねていれば当然、彼女に対するマークは一層厳重なものとなる。

 

 ダイヤの武器である末脚を対策されることは大前提として、既に彼女の傾向や癖も見抜かれつつある頃だろう。

 

 爆発力のある末脚を使うため、ダイヤは道中、限りなく内ラチに寄った進路を選択することが多い。

 

 今回の場合も、他のウマ娘はこの辺りからダイヤを潰しに掛かってくるだろうと俺は予想している。

 

 俺は横目でチラリと、部室の壁面に掛けられた時計を見た。

 

 現在時刻は十七時をちょうど過ぎたところ。

 

 明日は長時間の移動もあるし、ダイヤとしても今日はゆっくり休みたいだろう。

 

「……よし、今日のミーティングはこれでお開きにしよう。片付けは俺がやっておくから、もう戻っていいよ。お疲れ様」

「はい。ありがとうございました、兄さま」

 

 俺も明日以降に向けて荷造りを始める必要がある。

 

 現地へ持参する仕事や書類を整理して、不測の事態を考慮して用具の予備を揃え、万全な体制で本番に臨みたい。

 

 数日間部室を留守にするので、部屋の整理整頓と清掃も欠かせない。俺はこれからまだまだ、やることが山のように残っている。

 

「…………」

「……? どうした、ダイヤ。何かあったのか?」

 

 早速書類の整理から始めようとデスク周りに手をつけた俺だったが……ふと、未だ部室に残っているダイヤの姿が視界をよぎった。

 

 何か質問したいことがあるのだろうか。

 

 俺は一度作業する手を止めて、改めてダイヤに向き合った。

 

「兄さま」

「うん」

「あの。少しだけ、お聞きしたいのですが……」

 

 ダイヤは自身の瞳で真っ直ぐに俺を射抜きながら、静かに噤んだ唇を開く。

 

 

 

 

 

「──私に何か、隠していることはありませんか?」

 

 

 

 

 

……。

 

 俺はダイヤが放った言葉の意図を見抜けず、硬直してしまう。

 

「……あっ。えっとその、私は決して兄さまを責めようとしているわけじゃなくてですね……っ」

 

 俺のあからさまな反応を誤って解釈したのか、ダイヤがすかさず自身の発言をフォローした。

 

「兄さまは先日から、ずっと何かに悩んでいるように見えたんです」

「……」

「兄さまは優しいですから……レースが控えている私に余計な心配を掛けさせないようにって、普段以上に元気に振る舞っていると感じてしまって」

 

 ダイヤの指摘通り……今の俺は確かに、彼女に対して色々と隠していることがある。

 

 その隠しごとがダイヤのパフォーマンスに影響を及ぼす可能性を考慮して、彼女に打ち明けていないことも事実であった。

 

 だがしかし、それが返ってダイヤの不安を助長させてしまっていたようだ。

 

「……ごめん。明後日のレースが終わった後に、機を見計らって打ち明けようと思っていたんだ。結果的に、隠すようなことになってしまったんだけど」

「あ、謝らないで下さい……。私が兄さまを見ていて、勝手に感じてしまっただけですから」

 

 俺はダイヤに対して気を遣うどころか、今まで上手く隠し通せていると思い込んでしまうくらい、彼女に気を遣われていた……ということか。

 

「…………マックイーンさんと、ドーベルさんのことですよね?」

 

 そしてどうやら、ダイヤには隠しごとの内容すらもお見通しだったようだ。

 

 そもそもこんな状況の最中で、チームメンバー相手にそれを隠すことなど不可能に近い。

 

「……ああ、そうだよ」

 

 俺は正直に観念して、ダイヤの言及を肯定した。

 

「兄さま。悩みがあるのでしたらどうか、担当ウマ娘の私に打ち明けてくれませんか?」

 

 ダイヤの気遣いはとても嬉しい。

 

 しかし果たして、その判断は現状において適切といえるのだろうか。

 

「…………分かった」

 

 様々な要素を客観的に加味して検討した結果……俺はダイヤに対して、包み隠さず全てを告白することにした。

 

 このままモヤモヤとした心情を引きずれば、レース本番に影響が出るのは明白だ。

 

 それに、二人のチームメイトであったダイヤには、全てを知る権利がある。

 

「少し長い話になるけど、良いか?」

「はい。聞かせて下さい、お二人のこと」

 

 ダイヤから了承を得た。

 

 ここからは俺の発言通り、本当に長い話になる。立ち話で済むほど気楽な内容では無いため、俺は彼女と対面する形でテーブルの椅子に腰掛けた。

 

「最初に話さなきゃいけないのは、そうだな……」

 

 俺が真っ先にダイヤに語ったのは、先日学園中に蔓延したメジロマックイーンの噂に関する内容であった。

 

 噂の概要についてはダイヤも把握しているだろう。

 

 その上で俺が打ち明けたのは、それに関する真偽、ひいてはその真相であった。

 

 マックイーンがチーム・アルデバランへと移籍した、本当の目的。

 

 マックイーンが嘘をつかざるを得ない状況に追い込まれた、あらましの過程。

 

 それを経て、噂の件に責任を感じてしまったドーベルが既にチームを脱退していて、自身の夢を追いかけているということ。

 

 そして、マックイーンがトレセン学園から失踪し、現在に至っても未だに連絡がつかないこと。

 

「……」

 

 俺がことの顛末を告白し終えるまでの間、ダイヤは終始無言を貫いて事実を受け止め続けていた。

 

 ダイヤは聡明なウマ娘だ。

 

 彼女は既に、ある程度の背景を察していたのかもしれない。

 

「……これが、俺の知っている全てのことだ」

 

 やがて俺の長い語りを終えた時には、心が重く沈むような沈黙が二人きりの空間を支配していた。

 

「教えて下さって、ありがとうございます。兄さま」

 

 全てを打ち明けたあと、すべからく俺は後悔に苛まれる。

 

 やはり大事なレースを控える担当ウマ娘に対して、あまりに重すぎる精神的負担を与えるべきでは無かった。

 

 黙秘と告白の狭間で揺らぎ、結局こうして全てを打ち明けてしまったのはきっと……俺自身が一人で真実を背負うことに、限界を感じてしまったから。

 

 情けない話、俺はきっと楽になりたかったのだろう。

 

「兄さまは、その……お二人のことについて、どのように考えていますか?」

「どのように、か……」

 

 おそるおそるといった様子で、ダイヤがそれを俺に問うてきた。

 

 しばらく時間をもらって、俺はこの件に関する自身の本心を探る。

 

「……分からない」

 

 当然、答えなんて浮かび上がって来なかった。

 

 ただ一つだけ、俺の元から去ってしまった彼女達に対して言えることがあるとすれば。

 

「だけど、俺はもう……このままで良いんじゃないかって思うんだ」

 

 その発言はまるで、現状に対してやるせない感情を抱く自分自身を納得させているかのようであった。

 

「ダイヤは、繋靭帯炎について学んだことはあるか?」

「い、いえ。繋靭帯炎という名前と、それがウマ娘にとって"不治の病"であるということくらいしか……」

 

 俺が現状を肯定した理由について、なるべく分かりやすい言葉を吟味しながらダイヤに伝える。

 

「繋靭帯炎は骨折と違って、すぐに走れなくなるわけじゃないんだ。最初は患部に違和感を覚える程度で、発症後もそれなりに運動を継続することも出来る」

 

 繋靭帯炎が何故、”不治の病”と呼ばれているのか。

 

 繋靭帯炎を発症したマックイーンが今、どういう状況に置かれているのか。

 

「繋靭帯炎の本質は、その異常なまでの再発率の高さにある。明確な治療法も無く、再発を繰り返した場合……最悪、足を失ってしまうことだってあるんだ」

 

 ダイヤに対する説明はまるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「マックイーンの場合、繋靭帯炎の再発率は八割以上……残念だけど、彼女は復帰に踏み切れるような状態じゃない」

 

 次に一歩を踏み出した瞬間に、マックイーンは再び地獄の振り出しへと戻されてしまうかもしれない。

 

 理論上、マックイーンがレースに復帰できる可能性はゼロというわけでは無かった。

 

 繋靭帯炎が再発しない二割未満の可能性に賭けて、身体の状態に応じた適切な負荷量のトレーニングを積んでいけば…………いや、やめよう。こんなこと、あまりにバカげている。

 

 トレーニングの前後で最適な措置を常々施し、再発の恐怖を振り切って全力でターフを駆け抜け、レースの世界に復帰する。

 

 それは辺り一面が見えない地雷に埋め尽くされ、その中にたった一つ一つあるかないかの安全地帯を、捨て身の一発勝負で突っ込んでいくようなものだ。

 

 針穴に糸を通すなんて次元の話じゃない。

 

 失敗すれば最悪、彼女は全てを失ってしまう。

 

「もし仮に、レースへ復帰できたとしよう。ダイヤも十分経験したことだと思うけど……競走である以上、他のウマ娘達から激しい干渉を受ける。身体にかかる負担はトレーニングの比じゃない」

 

 現状を冷静に整理すれば、沖野先輩が下した決断がいかに賢明であったかが分かる。

 

 チームに籍を残し、中途半端に夢を見させて地獄のような葛藤の日々を送らせるよりも。

 

 根本から可能性を絶った方が、きっと諦めも付きやすくなる。

 

 それで当人が潔く納得出来るのかと言われたら、全く別の話ではあるのだが……。

 

「これは多分、仕方のないことなんだ」

「……そう、ですよね」

 

 メジロマックイーンはダイヤにとってミライと同じ、あるいはそれ以上に強い憧れを抱く先輩のウマ娘であった。

 

 そんな彼女が絶望の淵に追いやられていると知ったダイヤのショックは、到底計り知れない。

 

 自身を納得させるように頷いて、ダイヤはそのまま俯いてしまう。

 

 そしてそれは、俺も同様だった。

 

「……兄さま」

「ああ」

「私、マックイーンさんが天皇賞で一着を取る姿が見てみたかったです」

「……ああ」

「私、ドーベルさんともっとトレーニングがしたかったです」

「……ああ」

「私、二人と一緒に……全員で夢を叶えたかったです」

「……そうだな」

 

 叶わない願いを込めたダイヤの呟きに、俺は言葉を返すだけで精一杯だった。

 

 息の詰まるような重苦しい空間の中に、秒針を刻む掛け時計の音が大仰に響く。

 

「…………」

 

 ついに俺は言葉を完全に無くし、テーブルに両肘をついて重い頭を抱えてしまった。

 

 

 

 

 

……俺はもしかしたら、この息苦しい空間から尻尾を巻いて逃げ出したかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 俺の意識が一瞬だけ過去に遡り、心に焼き付いたあの日の過ちが脳裏をよぎる。

 

 

 

 

 

 

 

──私ね、みんなが憧れるようなウマ娘になりたいんだ!

 

 

 

 

 

 

 

 純粋な夢に向かって直向きに駆ける教え子の背中を、悲惨な結末を迎えると知った上で押してしまった──あの日の過ち。

 

 

 

 

 

 心が壊れるほどの後悔に苛まれ、過去の選択を呪い続けた地獄の日々。

 

 

 

 

 

 抱えきれない未練で心が押し潰されそうになる度に、俺は選ばれなかった未来に想いを馳せて自分を守った。

 

 

 

 

 

 

 

 過去の俺が選択を間違えなければ──ミライはどれほど、幸せな人生を歩むことが出来たのだろう……と。

 

 

 

 

 

 

 

 俺の身勝手な選択が、ミライの明るい将来を閉ざした。希望に満ちた幸せを奪った。かけがえのない夢を壊した。そして、周りの人々を不幸に陥れた。

 

 

 

 

 

 あらゆる出来事に過去の未練を重ねてしまうのは、俺にとってはもはや仕方のないことだ。

 

 

 

 

 

 どうやら俺は、いかに健康な心を取り戻したとしても、罪の意識から逃れることなど出来ないらしい。

 

 

 

 

 

 何故なら心に深々と刻まれたこの傷は今や、俺という人間を端的に表す──()()のようなものになっているのだから。

 

 

 

 

 

「…………マックイーンさんは」

 

 重くのしかかるような澱んだ沈黙を懸命に振り払うように、対面するダイヤが唇を震わせる。

 

「マックイーンさんは、どうして……兄さまを頼ったのでしょうか」

「……」

 

 ダイヤが苦し紛れにこぼした疑問はまさしく、絶望に最後まで抗おうとする執念の現れであった。

 

「マックイーンさんへの理解を深める中で……これだけが、どうしても分からなかったんです。それは私がただマックイーンさんのことを……兄さまのことを、何も知らないからなのでしょうか」

「……」

「……兄さま。何か…………心当たりは、ありませんか?」

 

 今にも消え入りそうな、おずおずとした声音で、ダイヤが縋るように俺に問うてくる。

 

 

 

 

 

 心当たり。

 

 

 

 

 

 強かなウマ娘のメジロマックイーンが数多と存在する優秀なトレーナーの中から、わざわざ重大な欠陥を抱えた訳ありトレーナーの俺を頼った理由。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………ああ、()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなもの、一つしか思い浮かばない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………そう、ですか」

 

 本来のダイヤの性格であれば、どうか俺に彼女を救って欲しいと全力で乞うてくるだろう。

 

 だかしかし、彼女がこうしてらしくも無く押し黙ってしまうのはきっと、俺に対して深い負い目を感じているからなんだと思った。

 

 その傾向は、ダイヤが俺の過去を知ってしまった日から顕著であった。

 

「…………」

 

 それを俺に願うことが、一体何を意味するのか。

 

 聡明なダイヤのことだから……きっと、理解してしまっているのだろう。

 

 これ程までに優しいダイヤに気を遣わせてしまうのは、本当に申し訳ないばかりで心が痛むが……。

 

 

 

 

 

「俺は…………後悔しているんだ」

 

 

 

 

 

 俺の過去を知っているダイヤだからこそ。

 

 

 

 

 

 この心の中に止めどなく湧き上がり、溜め込み続けた底知れない後悔を吐き出したくなってしまった。

 

 

 

 

 

「俺は最初から、全部分かっていたんだ」

 

 ウマ娘の身体に触れるだけで、その者の身体の状態を把握出来てしまう特異な"体質"。

 

 しかし、身体能力の把握は特異な"体質"の付随的な恩恵に過ぎず、その本質はウマ娘に秘める潜在能力を余すことなく情報化してしまう恐ろしいものであった。

 

 故に、俺は見てしまったのだ。

 

 ミライというウマ娘の中に秘める、絶対に開花させてはいけない類の悍ましい才能を。

 

「ミライの身体がいつか、彼女自身の才能に耐えられなくなってしまうことを……俺は最初から、知ってたんだ」

 

 俺は知っていた。

 

 ミライの思い描いた夢の先に待つのが、救いようのない破滅であると知っていた。知ってしまった。

 

 おまけにこの特異な"体質"には、情報化の過程で対象者の思考すらも掠め取ってしまう厄介な副作用があった。

 

 だから俺は、ミライが自身の夢に注ぐ純粋な熱意を誰よりも理解していた。

 

 理解していたからこそ、余計に俺の心を蝕む罪悪感が大きくなった。

 

 

 

 知りたくなかった。

 

 

 

 こんな"体質"がなければ、俺は誰かの夢を壊そうだなんて最低なことを考えなくてよかった。

 

 

 

 こんな"体質"がなければ、俺は彼女の夢を純粋に応援することが出来たはずだった。

 

 

 

 こんなクソッタレな体質は俺にとって──もはや、"呪い"以外の何ものでもない。

 

 

 

「俺が選択を間違えなければ、ミライがあんな悲惨な結末を迎えることは無かったんだ」

 

 

 

 俺の口から、取り返しのつかない後悔がこぼれる。

 

 

 

「俺が選択を間違えなければ、ミライは今も笑っていられたはずだったんだよ」

 

 

 

 一度感情の蓋が開いてしまったらもう、自分自身ではどうすることも出来なかった。

 

 

 

「なのに、なのに俺は……っ」

 

 

 

 屈託のないミライの笑顔が脳裏を過ぎる。

 

 

 

 俺の心の底に沈殿した星の残滓が、際限なく罪の意識を駆り立てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ミライの熱意に絆されて、あいつの背中を………………押しちゃったんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 散々"体質"のせいだ、"呪い"のせいだと自分を正当化して、教え子の喪失に隠された本質から目を背け続けてきた。

 

 特異な"体質"がもたらす情報なんて、本当は判断材料の一つに過ぎないというのに。

 

 もっと視野を広く持って、その情報を有効に活用して上手く立ち回れば、破滅的な未来を回避することだって出来たかもしれないのに。

 

 いくらでも、やりようはあったはずだった。

 

 しかし俺はその本質を、たった一つの破滅的な結末だけに囚われ、愚かにも履き違えていたのだ。

 

 ”落ちこぼれ”のミライが癇癪を起こし、自身の決意が大きく揺らいでしまった後……。

 

 ”体質”が導き出した情報を駆使して、俺はミライに最適なトレーニングを施した。

 

 そうしたら彼女はメキメキと実力を伸ばして行って、次第にたくさん笑うようになった。

 

 罪悪感が膨れ上がる側で……俺はあろうことか、ミライの笑顔をもっと見たいと思ってしまった。

 

 ミライの素敵な笑顔をたくさん見たい。世界で一番輝いている姿を、特等席から見ていたい。

 

 そんな感情が心の中を満たす頃には……俺はもう、その欲求を我慢することが出来なくなってしまって。

 

 挙句の果てに、ミライの身体は限界を迎えてしまった。

 

 夢の終点へと行き着く片道切符を切ってしまったのは、紛れもなく──俺の意志によるものだった。

 

「俺が全部奪ったんだ。ミライの将来も、幸せも、夢も……俺が全部、彼女から取り上げてしまったんだ」

 

 あまりに手遅れな、罪悪感の告白。

 

「きっとミライは、全てを奪った俺のことを恨んでいるに違いない。だから、謝りたい。心の底から謝りたいのに…………ミライはもう、この世界のどこにもいないんだ」

 

 やり場のない感情の矛先を、俺は一体どこへ向ければいい。

 

「辛い、つらいよ……」

 

 際限なく湧き上がってくる罪の意識を、俺は一体どうやって償えばいい。

 

「…………、苦しいよ……っ」

 

 瞳からこぼれ落ちる涙は、過剰なストレスから心を守るための防衛本能であるとされている。

 

 教え子の前でみっともなく涙を流してしまうのは、これで何度目だろう。

 

 心の奥底まで沈んでいたものを余すことなく吐き出した今の俺には、情けない姿を取り繕う気力なんてこれっぽっちも残ってはいなかった。

 

「……」

 

 そんな俺の告白を、教え子であるダイヤはただひたすら受け止め続けてくれた。

 

 全てを曝け出した情けない指導者を前にして、ダイヤは何も言わずに俺の近くへとやってくる。

 

「……」

 

 視界の端にダイヤの姿を捉えた瞬間、俺の身体が柔らかな温もりに包まれた。

 

 ダイヤに抱きしめられたことに気付いた俺は、必死に引き締めていた緊張の糸を完全に緩めてしまい、彼女の胸元に顔を埋めたまま泣いてしまう。

 

 それからどれほど時間が経ったかは分からないが……心の奥底から込み上げてくる悲しみは到底、治まってくれそうになかった。

 

「……兄さま」

 

 泣きじゃくる俺を抱擁するダイヤが、感情を荒げる俺をあやすような柔らかい声音で、こちらに話しかけてくる。

 

「ごめんなさい。私の身勝手なわがままのせいで、兄さまに辛い思いをさせてしまいました」

「……良いんだ。これは俺が、ちゃんと向き合わないといけないことだから」

 

 言いながら、ダイヤが俺の背中を優しくさすってくれる。

 

「兄さま。もしよろしければ、私の話を聞いて頂けないでしょうか?」

「……このままでも、良い? 泣き顔を、見られたくないんだ」

「はい」

 

 ダイヤは俺の要求に応えるように、少しだけ体勢を変えてくれた。彼女の柔らかい温もりはそのままで、先程まで耳元にあったダイヤの顔が、俺の頭の上へと移る。

 

 俺の頭部を優しい手つきで包み込みながら、ダイヤは俺に向かって語りかけた。

 

「私は昔から、ミライさんの大ファンです。ミライさんと同じウマ娘に生を享けたものとして、その走りに強い憧れを抱くのは必然のことでした」

 

 世界的アイドルウマ娘に成長し、瞬く間に世界の”星”となったウマ娘──ミライ。

 

 悲惨な最期を迎えてもなお彼女を称賛する声は止まず、憧れを抱く者は後を絶たない。

 

「ミライさんの走りを見て、私は大きな夢と希望をもらいました。そのおかげで今の私がここにいるんだと、心の底からそう思います」

 

 誰かの憧れになることが、ミライの大きな夢だった。

 

 以前、笑顔でミライの魅力を語ったダイヤを見て、不思議と心が穏やかになったことを覚えている。

 

……ああ、ミライの夢は叶ったんだ。

 

 なんて、ダイヤの言葉を聞きながら俺は、そんな風に感じていた。

 

「兄さまは……ミライさんの背中を押してしまったことを後悔していると、おっしゃいましたよね」

「……ああ」

「私は思います。ミライさんは絶対に、兄さまのことを恨んでなどいません」

「どう、して……?」

 

 ダイヤの確信めいた発言を受けて、俺は疑問の声をこぼす。

 

 ダイヤはミライと面識なんて無かったはずだ。

 

 それなのにどうして、彼女は強く断言することが出来るのだろう。

 

「以前、風邪を引いてしまった兄さまを看病するために、トレーナー寮へ上がらせてもらった日のことは覚えていますか?」

「……うん」

「兄さまがお休みになった後、部屋の整理をしていたんです。その際に偶然、兄さまのアルバムを見つけてしまいました」

「アルバム……」

 

 それは約半年間に及ぶ闘病生活を乗り越えた後、俺が過去の思い出に浸るために新しく持ち込んだ私物であった。

 

「それで……少し気になった私は、アルバムの中を拝見してしまって」

 

 アルバムと言っても、大層な内容が刻まれているわけではない。

 

 ごくごくありふれた何の変哲もない日常の一瞬を切り取っただけで、俺以外の者がそれを眺めてもきっと退屈なだけだろう。

 

「兄さまと一緒に写るミライさんの笑顔を見ました。たくさんの仲間に囲まれて微笑む兄さまと、ミライさんの姿を見ました」

 

 記憶の中のミライは、いつも笑顔だった。それにつられて、周りの仲間達も笑顔になっていたことを憶えている。

 

「ミライさんがあんなに素敵な笑顔を浮かべていたのはきっと、兄さまがいたからです。兄さまと一緒に夢を叶えることが出来たから、ミライさんは幸せに笑うことが出来たんだと思います」

 

 ダイヤの言葉を受けて、俺の心に刻まれたミライの笑顔が脳裏に浮かび上がってくる。

 

 確かに、ミライの笑顔は素敵だ。

 

 彼女のそれには、周りを巻き込んで全てを笑顔に変えてしまう不思議な魅力があった。

 

「……それは、違う。ミライは強くて、とても優しいウマ娘だった。ミライの笑顔に、俺の存在は必要なかった」

 

 俺は結果的に、ミライから笑顔を奪った。

 

 俺が彼女の隣にいなければ、ミライは今でもずっと笑っていられたはずだった。

 

「……そうですか」

 

 何故ならミライは、とっても()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──でしたら、マックイーンさんとドーベルさんのお二人も、笑顔でいられているはずではないでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……。

 

 俺はダイヤの言及に、言葉を返すことが出来なかった。

 

「マックイーンさんとドーベルさんがチームを去ってしまう前、お二人の表情に笑顔はありませんでした」

「……」

「お二人はまだ、夢を叶えられていないんです。だから、あんなに苦しそうな表情を浮かべていたんだと思います」

 

 メジロマックイーンは、悲願達成の使命を堂々と背負い、どんな困難にも決して屈しない強かなウマ娘だ。

 

 メジロドーベルは、自身の夢と現実のギャップに葛藤しつつも、確固たる素質を宿した強かなウマ娘だ。

 

 だがしかし、別れ際に垣間見た二人の表情は堪え難い悲痛に歪んでいた。

 

 彼女達の表情に、笑顔なんて存在していなかった。

 

「兄さまがいなければ、ミライさんはあんな素敵に笑うことなんて出来なかったはずです」

 

 俺の元を去った二人を引き合いに出されてしまったら……これまで”ミライ”というウマ娘に抱き続けてきた先入観を、今一度改める必要があるのかもしれない。

 

 

 

──ミライを落ちこぼれのウマ娘に追い込み続けていれば、彼女は確実に幸せな未来を迎えることが出来たはずだ。

 

 

 

 以前までの俺であれば、その主張に疑いの眼差しを向けることすらしなかった。

 

 だが、実際に()()()()()()()()()()()()()()()()ウマ娘の姿を目の当たりにした俺は……果たして、以前と全く同じ主張を続けることが出来るのだろうか。

 

 心をズタズタにへし折られ、大切な夢を諦めさせられる選択肢を強いられた世界でも、ミライは本当に笑っていられたのだろうか。

 

 今となっては少し……分からないと、心が揺らいでしまう。

 

「兄さまは優しいですから、きっとご自身のことを強く責められているのだと思います」

「……ああ」

 

 仮にそれが揺らいでしまったとしても。

 

 俺の中に深々と根付く罪悪感は決して、消えることはない。

 

「ミライさんを喪ってしまったことで兄さまが周りの方々を、ミライさん本人を不幸にしてしまったと感じているのでしたら……それはきっと、大きな間違いです」

「まちが、い……?」

「お忘れですか?」

 

 まるで俺の心などお見通しだと言わんばかりに、ダイヤは俺の中で燻り続けている罪の意識を言い当てて見せた。

 

 動揺を隠せない俺に対して、ダイヤは終始穏やかな口調で……決定的な一言を放つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「兄さまが育てたミライさんは──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………ぁ」

 

 その言葉を受けて、俺はようやく気付いた。

 

「兄さまは決して、周りの方々を不幸になんてしていません。兄さまはミライさんを通して──世界中の方々を幸せにしたんです」

 

 過去の俺の選択を頑なに否定するということは。

 

「兄さまは決して、ミライさんを不幸になんてしていません。兄さまはミライさんを──世界で一番幸せなウマ娘に導いたんです」

 

──巡り巡って、ミライというウマ娘が遺したものを、ミライというウマ娘の存在そのものを……根本から否定してしまうことになるのではないか、ということに。

 

「兄さま。私に素敵な夢を下さって、ありがとうございます。兄さまからもらった希望は、今でも私の大きな原動力になっています」

「………………ああ」

 

 

 

 良い加減、俺は認めなければならないのかも知れない。

 

 

 

 純粋な夢に向かって直向きに駆けるミライの背中を、悲惨な結末を迎えると知った上で押してしまった──一度目の後悔。

 

 

 

 一度目の後悔を二度と繰り返さないと強く誓いながら、懸命に前を向いて夢へ駆けるダイヤに心を奪われた──二度目の後悔。

 

 

 

 そして今、”不治の病”と称される繁靭帯炎を発症し、救いようのない現実にもがき苦しむマックイーンの境遇を知り──俺はあろうことか、()()()()()()に苛まれようとしている。

 

 

 

 これほどまでに同じ後悔を繰り返そうとしてしまうのはきっと……これが俺という人間の、どうしようもない()()を表しているからなのだと思う。

 

 

 

 良い加減、俺は自分自身の心に根付いた本性と、向かい合わなければならないのかもしれない。

 

 

 

 それと同時に、俺のコンプレックスとも言えるこの特異な"体質"についても、今一度理解を深めなければならない。

 

 

 

 けれどその上で選んだ選択は、沖野先輩が下した苦渋の決断を棒に振ってしまうことに他ならないのも事実。

 

 

 

 そんな身勝手な真似をすることが、果たして本当に正しいのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうすればいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は一体、どうすればいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……なぁ、ミライ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの時に下してしまった選択で……俺は君を本当に、幸せにすることが出来たのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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47:嘘で塗りたくった心

 ウマ娘にとって”不治の病”と称される繁靭帯炎を発症し、文字通り全てを失った私に敬愛するおばあ様が示してくれた──最後の可能性。

 

 それは、常識では考えられない不思議な力を持った、とある()()()()()の存在であった。

 

 おばあ様が私に示して下さったトレーナーは、その不思議な力を用いて教え子を世界一のアイドルウマ娘に育て上げたのだそうだ。

 

……そう。

 

 過去に一度、本格化を迎える以前の私に走りの特訓をして下さった”あの人”である。

 

 あの人が持つ特別な力を借りれば、私はもう一度レースの世界に戻ることが出来るかもしれない。

 

 生家の悲願を果たせず、志半ばで前へ進む足を失い、信頼を寄せていた人から捨てられた私にとって。

 

 まさしく、藁にも縋るような思いであった。

 

「……」

 

 だがしかし、おばあ様が示したように……あの人という存在は本当に、()()()()()()()()()()のである。

 

 というのも。

 

 あの人は二年前に発生した史上最悪の故障事故”星の消失”以降、所属していたチームから失踪し、消息不明となってしまっていた。

 

 あの人は今、どこにいるのか。

 

 そもそも、あの人はまだ生きているのか。

 

 それすらも分からない状況だったのだ。

 

 でも、縋る前から潰えているような可能性をおばあ様は諦めなかった。

 

 私がもう一度レースの世界へ戻れる可能性を繋ぐために、おばあ様は持てる力の全てを駆使してあの人の捜索にあたってくれた。

 

 そして、決して諦めないおばあ様の執念が、一つ目の奇跡を起こしたのである。

 

 この広すぎる世界の中から、あの人の存在を辿ることに成功したのだ。

 

 その奇跡の背景には、おばあ様があの人の捜索にあたる遥か以前から同様の活動に着手していた、とある資産家の存在が大きく貢献していたのだという。

 

 何がともあれ、あの人が発見されたことで私に残された可能性はぐっと高まったと言えるだろう。

 

 あとは過去に面識があることを利用し、諸々の事情を説明して協力を願えば……!

 

……しかし、そんな虫の良い話など、残念ながらこの世界には存在しない。

 

 

 

 

 

 ”星の消失”後、約二年間におよぶ失踪を経て……あの人の心は完全に壊れてしまっていたのである。

 

 

 

 

 

 あの人の行方を辿る過程で、私は色々と彼に関する情報に触れる機会があった。

 

 あの人の生い立ちを調べ、経歴を知り、思い出を振り返り、担当ウマ娘を喪失した彼の心境を悟った。

 

 故に私は、気付いてしまった。

 

 これから私があの人に対してお願いしようとしていることが……心に深い傷を負った彼にとって、どれほど悍ましい意味を持つのか。

 

 私の自分本位な行動が、あの人の壊れた心に対する残酷な追い討ちに他ならないことに気付いてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 だから私は咄嗟に──()をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 それが、あの人に対する罪悪感から生じたものなのかは分からない。

 

……多分、打算だったのだろう。

 

 あの人に近づいた本当の目的をばか正直に打ち明けたら、絶対に断られてしまう。その時点でおばあ様が繋いでくれた可能性は潰えてしまう。

 

 私に残された可能性はもう、あの人しか残っていない。

 

 彼という可能性に縋らなければ、私はもう生きていていくことなんて出来ない。

 

 脚に特大の爆弾を抱えたウマ娘の面倒を見てくれるトレーナーなんて、この世界には存在しない。これは既に、身に染みて痛感していることだ。

 

 門前払いの窮地に立たされている状況の中で、私はまず何としてでも、あの人の懐に飛び込まなければならなかった。

 

 だから私は、嘘をついた。

 

 

 

 

 

『トレーナーになりたい』

 

 

 

 

 

……なんて、見え透いた嘘で彼を騙した。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 トレセン学園を休学し、メジロ家の療養施設で繋靭帯炎の治療に専念すること約八ヶ月。

 

 地獄のようなリハビリを何とか乗り越えて、ようやく私は来月の七月から学園へと復学する目処が立った。

 

 復学二日前。私は大変お世話になった療養施設を後にしたその足で、羊蹄山の麓に所在する本邸へと顔を出した。

 

 絶望の連続によって心が壊れた私に、可能性を示して下さったおばあ様へ感謝の気持ちを伝えるためだ。

 

「──失礼します」

 

 西日が差し込む荘厳な書斎の扉を数回ノックして、私はその中へと足を踏み入れる。

 

 息が詰まるような緊張感、秘めた思考が筒抜けになっているかのような錯覚を覚えることは相変わらずだが……。

 

 それらは全て、おばあ様がもたらす愛情の表れであることを私は知っている。

 

「マックイーン、足の調子はどうですか?」

 

 書斎の奥で静かにこちらを見つめるお婆さまが、故障を経験した私の左脚に目線を移して問いかけた。

 

「はい。療養に専念した甲斐もあり、問題なく日常生活を営める水準まで回復しています」

 

 表面上は繋靭帯炎を克服し、健康そのものに見える私の左脚。

 

 しかしその裏では悍ましい病魔に蝕まれ、起爆寸前の爆弾が無慈悲に埋め込まれている。

 

 いつ壊れるか分からない。

 

 もしかしたら、次に一歩を踏み出した瞬間に、私の可能性は潰えてしまうかもしれない。

 

「足のことなら、あなたが気にする必要はありませんよ」

「も、申し訳ありません……おばあ様」

 

 仕切りに足元へ視線を向けてしまう不審な私の様子を見て、おばあ様が労いの言葉をかけて下さった。

 

「以前あなたにお話しした件ですが。数日前……二人共々、彼から承諾の言葉を頂きました」

 

 死んだ足を抱えて今日を生きる私に、おばあ様は可能性を繋いでくれた。

 

 そして、おばあ様の言葉からも分かる通り、彼女はあの人に対して()()()()()()()()を見出そうとしていた。

 

 生家の悲願を果たすことなく力尽き、一族の期待を一身に背負った"名優"は志半ばで朽ち果ててしまった。

 

 行き場を失った一族の悲願は、必然的に私の後進へと引き継がれることとなる。

 

 その矛先は、”本格化の遅延”という現象に苦しみ、ステイヤーとしての適性がお世辞にも高いとはいえない私の実姉──メジロドーベルにも向けられていた。

 

 おばあ様が、私と共にドーベルを可能性(あの人)へ託した真意は定かではないが……正直、今の私には、自分以外の背景に気を配る余裕なんて残っていない。

 

「あなたの要望通り、本来とは異なる目的を彼宛の手紙に記しました。……本当に、よろしかったのですか?」

「はい。この件は私の口から、直接伝えるべきであると判断しました」

 

 私は門前払いになってしまう可能性を危惧し、口実をでっち上げた。

 

 私の提案に対して、おばあ様は当然のように渋った。

 

 けれど、今の私がバカ正直に魂胆を告白したところで受け入れてくれるはずがないと、過去の経験をもっておばあ様に強く提言した。

 

 結局、最後はおばあ様が折れる形で、あの人へ依頼の手紙を差し出すこととなったのである。

 

「……そうですか」

 

 この行為が後々、自身の首を絞めることになるのは明白であった。

 

 しかしそれでも私は、何としてでも可能性を繋げなければならなかった。

 

「彼が業務に復帰するまで些か時間を要するとのことですが」

 

……なんて。

 

 本当はこれもきっと、弱い自分を守るためについた()である。

 

 先の見えない長期療養の中で、私はひとり抱えきれない未練に押し潰され、八方塞がりの状況に狼狽し、他人と関わることに強い恐怖心を抱いた。

 

 高潔で強かな矜持に満ちた私の心なんて、とっくの昔に壊れている。

 

 自身の血筋を誇りに思い、一族の名に相応しい物腰と品格を備えたメジロマックイーンは、もうどこにもいない。

 

 じゃあ一体、ここにいる私は何者なのか。

 

「あなたならきっと大丈夫です。だからどうか、悔いの残らないように……」

 

 砕け散った心の破片にありったけの嘘を塗りたくり、かつて”名優”の異名を冠した過去の姿を演じて、壊れたそれを取り繕った。

 

 嘘と演技で作られた仮面を被ると、不思議と気持ちが穏やかになる。

 

 何故ならこの仮面があれば、鏡に映った自身の素顔ですら簡単に欺けてしまうのだから。

 

「──しっかりやりなさい、マックイーン」

 

 おばあ様の激励を受け、私は静かに口を噤む。

 

 私が死んだ足を抱えて明日を歩むために、壊れた心の奥底で強かな決意を固める。

 

 おばあ様が可能性を繋いでくれた。

 

 下を向くことなんて、私には許されない。

 

 何故なら私には……。

 

「はい、おばあ様」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──どうしても諦められない、夢がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 約八ヶ月間の長期療養が明け、私は晴れてトレセン学園へと復学を果たした。

 

 これだけ長期間学園を離れていれば自然と周りの状況は変化し、私だけが過去に置き去りにされたかのような錯覚に陥ってしまう。

 

 その最たる例として挙げられるのは、学年に関するものだろう。

 

 長期療養の間に学年が一つ繰り上がったことで、自覚は薄いが私は現在中等部三年生という扱いになっている。

 

 まるでトレセン学園入学初日を想起させるような緊張感を覚えながら、私は迷路のような廊下を歩いて割り当てられた自身の教室を目指した。

 

 しばらく進むと、新しくお世話になる教室の掛札が視界の端に映る。

 

「……」

 

 私は教室後方の扉に手をかけて、それを引く前に一拍置いた。

 

 なんてことはない。ただの心の準備である。

 

 メジロ家の令嬢として英才教育を施されてきた私といえども、環境の変化に緊張を覚えてしまうのは仕方のないことだ。

 

 深呼吸を一回挟んで、私は一思いに扉を引いた。

 

 割り当てられた教室へ入ってまず、私は周囲を一瞥する。

 

 学年が繰り上がったということは当然、クラスメイトの顔ぶれも一新されていた。

 

 見知らぬ生徒の数々に、私は新鮮な感覚と一抹の孤独感を覚える。

 

 新学期が始まってから既に三ヶ月が経過していることもあり、友人関係の輪は大方構築されつつあるだろう。

 

 ひと目見た感じでは、複数あるグルーブがそれぞれ別の雑談に花を咲かせているような印象だった。

 

 だがしかし、クラスの輪に上手く溶け込めるかといった俗っぽい悩みに心労を割く余裕など、今の私には残っていない。

 

 そもそもクラスにおける私の立ち位置なんて、療養前とさして変わらないのだけれど。

 

 教室の端でこのまま突っ立ているわけにもいかないので、私は自身の机が置かれた窓際後方へと歩みを進める。

 

 その途中に感じた周囲の視線は、おそらく気のせいではない。

 

 彼女達の認識としては、季節外れの転校生を見ているような感覚だろう。

 

 私は持参したスクールバッグから教科書やノートを机に移し替え、窓の外に広がる景色をぼんやりと眺めながら始業の鐘が鳴るのを待った。

 

 

 

***

 

 

 

 私がトレセン学園へ復学した当日の放課後。今日はこれから、チーム・アルデバランに所属するメンバーとの顔合わせが控えている。

 

 おばあ様の話によると、あの人は現在、秋川理事長が紹介した病院で自分自身の心と向き合っているのだそうだ。

 

 彼が退院するまでの期間は、理事長秘書のたづなさんがチームの代理監督を務めるとの情報を事前に受け取っていた。

 

 終業の鐘が鳴った後、私は姉のドーベルと合流し、チーム・アルデバランの部室がある別棟へと向かう。

 

 ドーベルとの合流場所は、三女神像の噴水が鎮座する中庭を選択した。

 

 教材を詰めたスクールバッグを肩に掛けて、私は静かに教室を後にする。

 

 トレセン学園は他の一般的な学校と異なり、放課後以降が最も活気づく時間帯となる。

 

 生徒達の活動が一層活発になり、がやがやと賑わう本校舎の廊下を歩いて、私はドーベルとの集合場所を目指した。

 

 

 

 

 

「──マックイーン」

 

 

 

 

 

 その道中である。

 

「……?」

 

 おもむろに目的地へ向かう私の前方から、一人の生徒が歩いてきた。

 

 その生徒は私の存在に気付くと、歩みを止めて私の名前を小さく呟く。人よりはるかに優れたウマ娘の聴覚が、その呟きを正確に捉えた。

 

 私の名前を呼んだ生徒へと意識を向けて、彼女の容姿を一瞥する。

 

 鹿毛の長髪を後頭部でまとめ、鮮やかな天色の瞳が特徴的な小柄のウマ娘。

 

……最後に彼女と顔を合わせたのは、約八ヶ月前だったか。少しだけ、身長が伸びたように感じる。

 

「テイオー」

 

 生徒の名はトウカイテイオー。チーム・スピカに所属するウマ娘で、私の元ライバルである。

 

 あ、そういえば。療養期間中に学年が一つ繰り上がったことで、彼女は私と別のクラスに振り分けられていたっけ。

 

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

 

 約八ヶ月ぶりの再会ともなると、何を話せば良いのか分からなくなってしまう。

 

 なので私はとりあえず、当たり障りのない挨拶から入ることにした。

 

「……」

 

 だがしかし、テイオーとの会話はすぐに途切れてしまう。

 

「……? どうかしましたか?」

 

 テイオーの態度に少し違和感を覚え、私は首を傾げる。

 

 特に用事が無いのであれば、集合時間が迫っているので道を開けてほしいのだけれど。

 

「…………噂」

「……?」

「噂、聞いたんだけど……」

 

 テイオーはどうやら、私に何か問い質したいことがあったようだ。

 

「噂……?」

 

 彼女が口にしたそれには、全くと言っていいほど心当たりがない。

 

 特に悪目立ちするような行動を取った覚えはないし、むしろ息を潜めるようにひっそりと授業時間を過ごしていたはずだ。

 

「マックイーンさ…………アルデバランに移籍したって聞いたんだけど、本当?」

「……? ええ。それが何か?」

 

 移籍なんてよくある話だろう。

 

 わざわざ復学初日に噂が流れるほど取り立てるような内容では無いと感じるのだが……。

 

「……そうなんだ」

「何かありましたか?」

「いや、べつに……」

 

 私の言及に対して、テイオーはらしくもなく歯切れの悪い反応を示した。

 

 以前の生意気だったテイオーと比較すると、現在の彼女からは随分と落ち着いたような印象を受ける。

 

 様変わりしたテイオーの様子に月日の流れを実感する側で、私はその噂が蔓延した理由について考えていた。

 

 私が移籍したチーム・アルデバランは、かつて世界の頂点に君臨した集団である。

 

 二年前の”星の消失”によって表舞台から姿を消した後、あの人が引き継いだことによって先日、日本のトゥインクル・シリーズに凱旋。

 

 現在のチーム・アルデバランには、あの人の昔馴染みであるサトノダイヤモンド──サトノさんが所属しており、メジロ家のウマ娘である私とドーベルの移籍が既に決定している。

 

 私とドーベルがチーム・アルデバランに移籍することは、世間には公にされていない。

 

 となると噂の出どころは……サトノさんか、ドーベル辺りだろう。別に隠していることではないので、その件は特に問題ない。

 

 かつての世界的アイドルウマ娘が所属していたチームが突然、トレセン学園のチームリストに掲載された。

 

 一世を風靡したチームなのだから当然、知名度は十二分。非常に激しい競争率となるのは想像に難くない。

 

 そんな風潮の中で、突然復学してきたウマ娘──あろうことか競走能力を実質的に喪失している──が、その席を横取りした。

 

 

 

 

 

……ああ。なるほど、()()か。

 

 

 

 

 

「……マックイーン」

 

 噂の背景をあらかた察知した私に、テイオーが不安げに唇を震わせて名前を呼んだ。

 

 道中で私を引き留め、言い出し辛そうに視線を彷徨わせる彼女だったが……。

 

 やがて意を決したように瞳の焦点を定めて、私を射抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……。

 

 テイオーの言葉に対して、私は何と返せば良いのか分からなくなった。

 

 テイオーの質問の意図は理解した。

 

 嘘で塗り固めた心の内側で、諦めるわけがないと、本当の私が叫んでいる。

 

 諦めていないからこそ、私はチーム・アルデバランへと移籍したのだ。

 

 だが、しかし……。

 

 ここで彼女に本心を曝け出してしまえば、私の魂胆があの人に伝わってしまうかもしれない。

 

 それは、私が現在想定しうる最悪の結末だ。

 

 絶対に私の口から打ち明けなければ、今度はあの人からも捨てられてしまう。

 

 だから私は、()をついた。

 

「……そうですわね。これ以上見苦しい姿を晒すことは、メジロの名に泥を塗ることと同義ですので」

 

 嘘をつかなければならなかった。

 

「………………そう」

 

 私の嘘を受け止めたテイオーの表情を、どうしても直視することが出来なかった。

 

 胸が締め付けられるような感覚に陥ってしまったけれど、私は仕方が無いと割り切った。

 

「それでは、私はこれで失礼します」

 

 テイオーの目的は、噂の真偽を当人に直接確かめることだったのだろう。

 

 時間も押しているし、何より今……彼女と向かい合うのがとても辛かった。

 

「……あ、マックイーン」

 

 私がテイオーの横を通り過ぎた後、彼女が私の背中を引き止めるように言葉を放った。

 

「まだ何か?」

「いや、その…………ちょっと、印象が変わったなって思って」

「そうですか?」

「うん………………ちょっと、怖い」

 

 怖い、こわい……か。

 

「……ごめん、今のは忘れて」

 

 テイオーは最後に自身の発言を撤回して、そのまま足早に去っていった。

 

「…………」

 

 私の思惑が周囲に露呈することを恐れて、少々意気込み過ぎてしまっていたのかもしれない。

 

 もう少し、柔和な笑みと穏やかな物腰で立ち回るべきだろうか。

 

 テイオーに指摘された通りなら、昔の私はもっと…………。

 

「………………えっと」

 

 過去の自分を振り返ろうとして、私はふと思った。

 

 

 

 

 

──昔の私って、どんな風に笑っていたんだっけ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

──お久しぶりですっ、マックイーンさんっ!

 

 テイオーの指摘のおかげで、過去の私を知っているサトノさんと再会しても怪しまれない程度には、性格を修正することが出来た。

 

 姉のドーベルと共にチーム・アルデバランの部室を訪れ、代理監督のたづなさんから今後の活動方針に関する説明を聞いた後、所属するウマ娘達による自己紹介へと移った。

 

 ここでも私は、()をついた。

 

「──私は既に自身の気持ちに折り合いをつけ、新しい目標を定めてゼロからスタートいたしましたわ」

 

 言っていて、よくこんなにもすらすらと言葉が出てくるなと……自分に少し呆れてしまった。

 

 あの人を支えるサポーターとしての移籍を希望した以上、彼からは事前に二人のトレーニングを支えるよう指示を承っている。

 

 門前払いの窮地を避けるためについた見え透いた嘘ではあるが……私は当然、嘘をつくための準備は完璧に整えてある。

 

 約八ヶ月間に及ぶ療養生活の中で、私はトレーナーとして要求される知識をひたすら詰め込んだ。

 

 時々把握漏れもあるかもしれないが、私は現在、見習いの立場に置かれている身。仮にぼろが出てしまった場合でも、それは仕方のない話だ。

 

 私はかつて、”()()”の異名を冠したメジロ家のウマ娘。

 

 嘘が嘘であると悟られないために、私はどんな姿であろうとも──完璧に演じてみせる。

 

 

 

***

 

 

 

 トレーナーという職業に就く者はもれなく、自分の芯に基づいた指導を行なっているということを学んだ。

 

 その芯は指導者としての教育方針や、担当ウマ娘達との関係性に現れる。

 

 トレーナーの数だけ多種多様な理念や信念が存在し、その中に確固たる正解は無い。

 

 強いて正解を導くとするならば、担当ウマ娘がレースで結果を残したものがそれに該当するだろう。

 

 自分の芯と言われても、いまいちピンとこない。

 

……そもそも、嘘に嘘を重ね続けている現状で芯を語るなど、トレーナーの方々に失礼だ。

 

 しかし一応、指導にあたる上で一貫性は担保する必要がある。

 

 そこで私は、自らの()()を基にした方針を打ち立てて二人のサポートを行うことにした。

 

「……コースを走る前に行う基礎トレーニングですが、サトノさん」

「はい、なんでしょうか?」

「サトノさんが普段取り組んでいるメニューを、私達に教えてほしいですわ。可能であれば、運動と同時に筋肉の動かし方とその効果を口頭で説明して下さるかしら?」

 

 教うるは学ぶの半ば、ということわざがある。

 

 これはかつて、私を担当して下さったトレーナーが担当ウマ娘のリハビリに用いていたメニューの一部であり、私も体験したことでその効果を実感した内容である。

 

 そして私は、これを逆手にとって自らの糧とすることにした。

 

「分かりましたっ!」

 

 サトノさんが取り組んでいる基礎トレーニングのメニューは、”星”のミライを育てたあの人が考案したメニューである。

 

 左脚に特大の爆弾を抱えている以上、私は負荷の大きいトレーニングを実施することが出来ない。

 

 そうなると筋力やスタミナの低下が心配になってくるので、どうにかして別の形でそれらを補うのが望ましい。

 

 あの人が考案した基礎トレーニングを理解すれば、私も彼女達と共に成長することが出来るはずだ。

 

 しかしそれだけでは、衰え続ける身体能力を補うには到底不十分である。

 

 その点に関しては、脚部不安を抱えるウマ娘がリハビリに用いる水泳トレーニングを多く取り入れて補完するとしよう。

 

 今年の夏は猛暑日が続くと予想されているので、水泳トレーニングの割合を多めに取り入れる口実はいくらでも作ることが出来る。

 

 あの人が戻ってくるまでに、せめて体づくりだけは徹底しておきたい。

 

 

 

***

 

 

 

 あの人の退院日が正式に決定した。十二月二十四日のクリスマス・イブだ。

 

 復学から冬休みに至るまで、私は自身の魂胆を誰にも悟られることなく過ごすことが出来た。

 

 私達は中途半端な時期にチームへ移籍したこともあり、キリの良いタイミングを見計らって三学期以降にあの人との顔合わせを行う運びとなった。

 

 嘘を塗り固めて作った仮面を半年以上かけ続けていると、自分に対してだいぶ自信がついてきているように感じる。

 

 だがしかし、そんな完璧に近い私の仮面が、不意に剥がれ落ちそうになってしまう瞬間があった。

 

 それは、毎年年末にメジロ家が主催するレセプションパーティーである。

 

 親戚や業界関係者を大勢招待し、社交や交流の場を設けるという意図のもとで開催されたそれは……はっきり言って、地獄であった。

 

 このレセプションパーティーには、上記の目的以外にもメジロ家のウマ娘をお披露目するといった重要な側面が存在する。

 

 華々しい成果をあげたメジロ家のウマ娘──私の姉妹達──が様々な方たちに囲まれて栄光を浴びる姿を、私は会場の隅からひっそりと眺めていた。

 

 果たしていつの日だったか、トレセン学園の倉庫裏でサトノさんに詰め寄っていた生徒達から浴びせられた──走れないウマ娘(オワコン)という言葉。

 

 多くの夢と希望が行き交うこの空間にいると、その言葉の意味がよく分かる。

 

 

 

 

 

 全員、私を腫れ物のように扱うのだ。

 

 

 

 

 

 繁靭帯炎を発症した私の姿が視界に入ると、みんな揃って視線を明後日の方向へ逸らし、身体を翻す。

 

 誰も彼もまるで、ここにいるはずの私があたかも存在しないかのように立ち振る舞う。

 

 私は終わった。

 

 かつての担当トレーナーから捨てられただけでなく、一族の期待を裏切った私にはもう、メジロ家の中にすら居場所なんてどこにもないのだ。

 

 そのことに気付いてしまった瞬間、ありったけの嘘で塗り固めた仮面が剥がれ落ちそうになってしまった。

 

 自分自身でもどうなっているのか分からない素顔をこの場で晒してしまえば、今まで積み重ねてきた努力(うそ)がすべて水の泡になってしまう。

 

 私は足早に会場を抜け出して、もう一度必死に嘘を塗りたくって仮面を付け直した。

 

 そして、やっとの思いで素顔を覆うことが出来た時には、レセプションパーティーなんてとっくに閉会を迎えていた。

 

 

 

***

 

 

 

 新学期を迎え、私と入れ替わるような形で休職していたあの人と、ついに対面する瞬間がやってきた。

 

 最後にあの人と会ったのは『メジロ家定例旅行』でアメリカを訪れた以来だろう。実に、五年ぶりの再会である。

 

「──ご無沙汰しておりますわ、トレーナーさん。改めまして、メジロマックイーンと申します」

 

 私は久々に目にしたトレーナーさんの姿から、過去の面影を感じ取った。

 

 わがままな担当ウマ娘に振り回されていて、ちょっぴり頼りない苦笑が似合う穏やかな青年といった印象は、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今後の私の立ち位置としては、私以外の担当ウマ娘を指導するトレーナーさんをサポートし、その姿勢を徹底的に学ぶこと。

 

 将来トレーナー職に就くことを目的とするウマ娘がチームに所属する最大の利点は、現職の方々の指導を間近で見ることが出来るといった点である。

 

 このような貴重な経験を得ることが出来るのは、トレーナー養成校と提携を結んでいるトレセン学園ならではの強みだ。

 

 

 

……というのが、私にとっての表向きの移籍動機である。

 

 

 

「自己紹介が一通り終わったから、次は──」

 

 ミーティングを順調に進めるトレーナーさんの姿を盗み見る限りでは、私に対して疑念を抱いているような様子は見られない。

 

 トレセン学園に復学を果たしてからの半年間は、誰からも怪しまれることなく立ち回ることが出来たと断言して良いだろう。

 

 だがしかし、私にとって本当に重要なのはここからだ。

 

 門前払いの窮地を脱するためについた嘘を洗いざらい告白し、私が胸に抱いている本当の目的を、彼に対して()()()()()()打ち明ける必要がある。

 

 この前提条件をクリアしないことには、現状で延々と足踏みを続けることになってしまう。

 

「…………」

 

 今後の算段と手筈を脳裏に思い浮かべて、私は膝の上に置いた両手を強く握り締めた。

 

 大丈夫だ。

 

 この分厚くなった仮面がある限り、私は絶対に大丈夫。

 

 諦められない夢を追いかけてここまで来たのだから、私はもう止まることなんて出来ない。

 

 チャンスは必ず訪れる。今は静かに息を潜めて、磨き上げてきた演技に徹底するのだ。

 

 私に残された可能性は、もう手の届くところまでに迫っている。



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48:身から出た錆

 新学期が始まり、私がチーム・アルデバランに移籍してから約一週間。

 

 あの人に本心を打ち明ける絶好の機会は、意外にもすぐに訪れた。

 

 私は昨日のトレーニングの際、あの人から教えてもらった内容を認めていたノートを部室へ置き忘れてしまったことに気がついた。

 

 本来であれば次に部室へ足を運んだ時に回収出来れば良いと思っていたのだが、不明瞭だった箇所を無性に復習したい衝動に駆られてしまったのだ。

 

 時刻はすでに十九時を回っているが、寮の門限を迎えるまで部室棟への出入りは許可されている。

 

 私は部屋着を脱いで制服に着替え、防寒対策にその上からコートを羽織って栗東寮を出た。

 

 普段の賑やかなトレセン学園とは異なり、夜の校舎は穏やかな静寂で満たされていた。

 

 周囲に人の気配はなく、上履きの足音が私の足遣いに合わせて一帯に響き渡る。

 

 他人の視線を意識して常に気を張り続けてきた私にとっては、まさしく安らぎのひと時であった。

 

 静まり返った校舎別棟の廊下を進んで、私はチーム・アルデバランの部室を目指す。

 

「……?」

 

 部室と廊下を隔てる扉に近づくと、私はその隙間から微かな光が漏れていることに気が付いた。

 

 誰かいるのだろうか。

 

 私は自身の仮面が剥がれていないかをしっかりと確認した後、静かに扉をノックする。

 

 しかし、どれだけ待っても部屋の奥から反応が返ってくることは無かった。

 

 そのことを怪訝に思った私は、顔を覗かせる程度の隙間を開けて中の様子を確認する。

 

「……あ」

 

 最初は電気の切り忘れかと思ったが、部室には施錠がされていなかったため、誰かがいるのは確実だった。

 

 周囲を見渡すと、普段の業務に取り組むデスクに突っ伏して、静かな寝息を立てているあの人の姿を捉える。

 

「トレーナーさん」

 

 暖房が付いているとはいえ。この季節に何も羽織らず突っ伏してしまっているあたり、きっと業務中に寝落ちしてしまったんだなと思った。

 

 今日はトレーニングがオフの日であったため、彼にとっては自身の仕事を片付ける絶好の機会だったのだろう。

 

 約半年に及ぶ休職期間の穴を必死に埋めようとしているのか、ここ最近のトレーナーさんは少々、根を詰めすぎているように感じた。

 

「トレーナーさん、起きて下さい」

 

 普段のスーツ姿のままで眠っていては、彼が風邪を引いてしまう。

 

 私はトレーナーさんの身体を優しくゆすって、起床を促した。

 

 しかし、残念ながらどれだけ身体を揺さぶっても、彼が目覚める気配はない。

 

 結局、私は連日の激務で疲弊しているトレーナーさんを無理やり起こすのは良くないと判断し、部室に備え付けてあるブランケットを彼の肩にかけてあげることにした。

 

 トレーナーさんの睡眠の妨げにならないよう、私は部室へ来た目的を淡々と果たす。

 

 しばらく部室を物色して、私は自身の忘れ物を見つけ出すことが出来た。

 

 このまま部屋を出て行っても良いのだが……そのとき私は、ふと思った。

 

 

 

 

 

 

 

──これはもしかしたら、()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 辺りに人がいないため会話を盗み聞きされる心配がなく、トレーニングがオフであるためチームメイトが部室を訪れる可能性もほとんどない。

 

 私の夢が眠る天皇賞(春)の開催は、今から約四ヶ月後。

 

 今年の開催を逃してしまったら、おそらく私に次はない。

 

 来年の天皇賞(春)を目標に掲げれば、確実に繁靭帯炎が再発してしまうだろう。

 

「……」

 

 だったら、今しかない。

 

 あの人に私の本心を打ち明ける絶好の機会は、今この瞬間だ。

 

 不意に訪れたまたと無いチャンスに、心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。

 

 私は自身の正念場を前にして、平静さを取り戻すために一度適当な席に腰掛けた。

 

 しばらく深呼吸を繰り返した後、私は彼が目覚めるまでの間、読書をして気を紛らわせることに。

 

 当然、内容なんて何も入ってこなかった。本に綴られた文章を目で追っていても、意識はずっと静かに寝息を立てるあの人へと向いていたからだ。

 

 そして、私が部室を訪れてから大体一時間くらいが経過した頃だろうか。

 

 デスクに突っ伏していたトレーナーさんの身体が、もぞもぞと動いた。肩に掛かっていたブランケットがするりと、地面に落ちる。

 

 寝ぼけ眼を擦りながら室内を見渡すトレーナーさんと、目があった。

 

「お目覚めですか?」

「……マックイーン?」

 

 彼の起床を確認した後、私は手にしていた本をパタリと閉じた。

 

「暖房が付いているとはいえ、何かを羽織らなければ風邪を引いてしまいますよ」

 

 床に広がったブランケットを手にして不思議そうな眼差しを向けるトレーナーさんに対し、私は優しく言及する。

 

「ありがとう、マックイーン」

「少々、根を詰めすぎではありませんか? 頑張ることは素晴らしいですが、身体を壊してしまっては元も子もありません」

 

 やっぱり、どんなことをするにも身体は大事にしなければならない。

 

 これは私が、身をもって経験したことだ。

 

「返す言葉がないよ」

 

 トレーナーさんは苦笑を浮かべながら、ブランケットを畳む。

 

「マックイーン。わざわざオフの日に部室に来るってことは、何か用事があったんじゃないか? もしかして……けっこう待ってた?」

「いえ、昨日部室に忘れ物をしてしまったので。それを取りに来ただけです」

 

 そう言って、私は先ほど回収したノートをトレーナーさんに見せる。

 

「じゃあどうして、こんな時間まで?」

 

 それは今この瞬間が、私の本心を打ち明ける絶好の機会だと判断したからです。

 

「トレーナーさんがあまりにも無防備でしたので、私が見守っていて差し上げようかと」

 

……なんて。

 

 素直に言えたら今頃、私はこんな風に葛藤を抱えてなどいないだろう。

 

「トレーナーの業務が多忙であることは重々承知ですが、しっかりと休息を挟んでいますか? 食事や睡眠は十分に摂れていますか?」

「……う」

 

 私の畳み掛けるような言及に、トレーナーさんは言葉を詰まらせて分かりやすく視線を逸らした。

 

「その様子を見る限りでは、聞くまでもありませんわね」

「じ、自炊もしているし、ちゃんとベッドの上で寝てる。何も問題はない」

「言い訳は結構です」

 

 トレーナーさんの絞り出したような弁解は、言い訳の域を出ない。

 

「休職されていた期間の埋め合わせをしようと、必死に努力されているのは理解できます。サトノさんが出走するきさらぎ賞まで三週間を切り、気性難のドーベルを担当してくださっているわけですから、大変であることも重々承知です」

 

 私は彼の苦し紛れの言い訳に呆れながらも、仕方の無いひとだなと、無性に微笑ましい気分になった。

 

「……ですが、それとこれとは話が別です」

「……おっしゃる通りで」

「どうしても休息が取れないというのでしたら、トレーナーさんを特別に、メジロ家の別荘へご招待しましょう」

「べ、別荘……?」

「本土から離れた無人島を開拓した、豊かな自然が溢れる素敵な別荘です。疲弊した心身を休ませるには、うってつけのスポットです。いかがですか?」

 

 私がトレーナーさんに紹介した無人島の別荘は、メジロ家が複数保有するそれの中でも、休養を取るには最適な場所である。

 

 透き通るような青い海に囲まれ、生い茂る緑に満ちた空間に建てられた大きな別荘。

 

 ちなみに、島の一角には簡易的なターフが整備されており、人目を気にせず悠々自適に走ることだって出来る。

 

 そんな、素晴らしい場所だ。

 

「い、いや……遠慮しておこうかな」

 

 だがしかし、私の提案に対してトレーナーさんは分かりやすく顔を引き攣らせた。

 

「……そうですか」

「こ、コーヒーでも淹れて一息つくことにするよ」

「ではその間、私がトレーナーさんの話し相手になって差し上げます」

「そこまで気を遣ってくれなくても良いんだけど……」

「これは監視です。チームのサポーターを務めるウマ娘として、当然の義務です」

 

 それらしい口実を作って、私は図々しく部室に居座った。

 

 この機会を逃すわけにはいかない。

 

「……それじゃあ、お願いしようかな」

「ええ♪」

 

 結局、私の圧に屈する形でトレーナーさんが折れてくれた。

 

 それからはトレーナーさんが淹れてくれたコーヒーが完成するまでの間、私の本心を打ち明けやすい状況を作るため、彼へ色々と話題を振った。

 

「……私、トレーナーさんにずっとお聞きしたいことがあったんです」

「ん?」

「何故、私達の移籍を認めて下さったのでしょうか?」

 

 その中には、彼に対する純粋な疑問も多く混じっていたような気がする。

 

「これはダイヤにも話していないことなんだけど……」

 

 

 

 そんな疑問を投げかけて……私は後悔した。

 

 

 

 私達の移籍を受け入れて下さった理由をトレーナーさんの口から直接聞いて、私の中に残っていた良心が微かに痛んだ。

 

 彼の過去と現在に至るまでの経緯を断片的に聞いて、不覚にも嘘で塗り固めた決意が揺らいでしまった。

 

「…………そう、ですか」

 

 私は今まで、こんなにボロボロの人を騙していたのか。

 

 私はこれから、こんなに優しい人を利用しようとしているのか。

 

「マックイーンはトレーナーを目指すためにチームへ移籍してくれたんだから、俺は当然、君の夢にも真剣に向き合う。分からないことや困ったことがあったら、何でも相談してほしい」

 

 何でも。

 

 なんでも、か……。

 

「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、何かあれば相談させていただきますわ」

「ああ!」

 

 そんな言葉をトレーナーさんから掛けられて、私はしばらく考え込む。

 

 その間に、どうやら彼が作っていたコーヒーが完成したようだ。

 

 コーヒーが注がれたマグを、彼から受け取った。

 

「ありがとうございます」

「砂糖やミルクはいるかい?」

「頂きます」

 

 実を言うと、私はあまりコーヒーを飲んだことがない。彼がコーヒーを好んでいることは事前にサトノさんから聞いていたので、ちょっと冒険してみたくなったのだ。

 

 しっかりと味を調整し、私はトレーナーさんと揃って一息ついた。

 

「俺が業務に復帰するまでの半年間、チームを任せる形になってしまったけれど。マックイーン、君は本当に優秀なウマ娘だよ」

「……っ!?」

 

 何の脈絡もなく彼から突然褒められて、私は手にしたマグを思い切り揺らしてしまった。

 

 喉を通って行ったコーヒーが、変なところに入ってしまった気がする。

 

「と、唐突に私を褒めるのはやめて下さいまし。びっくりしますでしょうが」

 

 ちょっと身体が熱ったように感じてしまうのは、きっとこの温かい飲み物のせいだ。

 

「誰かに物事を教えるのも上手だし、人に指示を出して器用に動くことも出来る。おまけに勤勉で、レース経験も豊富。非の打ち所がまるでない。君は必ず、立派なトレーナーになれるよ」

 

 ベタ褒めだった。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 これまでの行為はすべて本心を隠すための演技(うそ)であったのだが、ここまで褒められると……まぁ、悪い気はしない。

 

 それ以降の会話も私に対するベタ褒めが続いて、正直、聞いていて恥ずかしくなってしまった。

 

「──こ、コホンッ……この話題は、ここまでにしましょう」

 

 しかし、さすがに羞恥心が全身に巡ったので、私は強引に話題を逸らす。

 

 恥ずかしさを紛らわせるために別の話題を持ってきた私だったが、話の最後で雰囲気を暗くしてしまったことを少しだけ後悔した。

 

 私は対面するトレーナーさんから視線を逸らし、部室の時計を確認する。

 

 時刻は既に二十一時を回っており、私が寮を出てから実に二時間以上が経過していた。

 

 寮の門限も迫っているため、ここにいられる時間はあとわずか。

 

「…………」

 

 この絶好の機会を逃したら、次はいつ巡ってくるか分からない。

 

「…………っ」

 

 本心を打ち明けるのは──今しかない。

 

「あ、あのっ、トレーナーさん」

「うん?」

 

 デスクに広げていた荷物をまとめ、部室の戸締りを確認しているトレーナーさんに向けて、私は声を発した。

 

 こちらを振り返ったトレーナーさんが、穏やかな表情を浮かべながら私の言葉を待っている。

 

「えっと、その…………」

 

 

 

 

 

 

 

 言え。

 

 

 

 

 

 

 

 言うんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そのために、ずっとチャンスを窺っていたではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………今日は、ありがとうございました。私のわがままに、付き合わせてしまって」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わがまま……?」

 

……。

 

「いくら強引に休息を取るよう言いましたが、私と二人きりで話していては気が休まらなかったのではないですか?」

 

…………ああ。

 

「そんなことないよ。マックイーンとじっくり話すことって今まであまり無かったから、とても楽しかった」

 

……私にそんな度胸がないことなんて、最初から分かっていたはずなのに。

 

「そう、ですか…………それなら、良かったです」

 

 

 

 

 

 私なら打ち明けられるって……どうしてそんな、自分にまで()をついてしまったのか。

 

 

 

 

 

「辺りも暗いし、寮まで送っていくよ」

「……ありがとうございます。お気持ちだけ、受け取っておきますわ」

「……そうか、分かった」

 

 私は意外と、ヘタレだったようだ。

 

「じゃあ、マックイーン。また明日」

「…………ええ、また」

 

 私は本当に、何をやっているんだろう。

 

 

 

 

 

 

 自分の口から全てを打ち明けることが出来る、絶好の機会だったというのに。

 

 

 

 

 

 

 

 私の前に巡ってきた、最初で最後のチャンスだったというのに。

 

 

 

 

 

 

 

 後悔してからでは遅いと、私は身をもって経験したはずだったのに。

 

 

 

 

 

 

 

──一体どうして、私は同じ後悔を繰り返してしまうのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 千載一遇のチャンスをみすみす逃してしまったあの夜から、約一週間が過ぎた。

 

 あの人はどうやらその後、本当に風邪をひいてしまったようだ。

 

 グループチャットの中で、私達に対する謝罪のメッセージと共に、翌日のトレーニングメニューが送られてきたことを覚えている。

 

 疲労の蓄積によって低下してしまった免疫力に、仕事中の寝落ちが決定打となってしまったとのことだった。

 

 幸い熱自体は処方箋の服用によってすぐに下がったそうなので、大事に至りはしなかった。

 

 二日後、あの人は何食わぬ顔で出勤してきた。

 

 そんな彼を見て胸をホッと撫で下ろした反面、何故だかとっても気が抜けたというか、呆れてしまったというか……。

 

 どうしてそんな風に感じたのかは分からない。ただ、一人で熱に浮かされながら苦しむあの人の姿を想像してしまって、胸が締め付けられるような感覚に陥ったことが原因なのかもしれない。

 

 だから快復明けのあの人と顔を合わせた時、私は口を酸っぱくして小言をぶつけていたような気がする。

 

 私のありがた迷惑なお説教を受けて、あの人はばつが悪そうに視線を泳がせていた。

 

 ただ、こうしてあの人に不満をぶつけてしまうのは、単純に彼のことが心配だったから……というだけでは無いのだと思う。

 

 正直に打ち明けると……今の私は()()()()()()()()

 

 理由は当然、一週間前に起きた部室での一件だ。

 

 絶好の機会を棒に振ったあの日以降、私はひたすら仮面を被って演技に徹し、自白のタイミングを窺い続けた。

 

 けれどそんなチャンスが都合良く訪れるはずも無く、私は過去の好機を逃した後悔に苛まれ続けている。

 

 

 

 それに……私にはもう、時間が残っていないのだ。

 

 

 

 約八ヶ月間に及ぶリハビリによって、一旦は繁靭帯炎の病魔から逃れることが出来たと言っていいだろう。

 

 左脚に特大の爆弾が埋め込まれた状態であることに変わりはないが、一応は正常な機能を取り戻すことに成功している。

 

 天皇賞(春)の開催まで、約四ヶ月。

 

 今年の開催を逃してしまったら、おそらく私に次はない。

 

 八割超えの再発率を伴う中で、約一年間のトレーニングを乗り越えられるとは到底思えない。当たり前のように病が再発し、振り出しに戻されるのは目に見えている。

 

 だから本当に、あの夜は私にとって何としても物にしなければならないチャンスであったのだ。

 

「………………はぁ」

 

 それが分かっていたのにも関わらず、勇気を出せずに引っ込んでしまったヘタレな私。

 

 故に私は今こうして……昼休みの中庭でただ一人、激しい自己嫌悪に陥っていた。

 

 三女神像の噴水が中央に鎮座する中庭は普段から生徒達の憩いの場として利用されており、気分転換や昼食をとる目的で私も良く足を運んでいる。

 

 適当なベンチに腰掛け、私は購買で購入した昼食を一人で食べるのが最近の日課であった。

 

 昔は騒がしい友人と共に食堂へ足繁く通っていたけれど、今はぼろを出さないために他人との接触を極力避けて生活していた。

 

 当然、気の置けない友人などいない。最も、横取りのような形でチーム・アルデバランへと移籍し、クラスどころか学園から浮きまくっている私に対して好意的に接してくれる者がいるのかと自身に問うた時点で……お察しである。

 

 ちなみに、私の今日の昼食はサンドイッチとアップルパイだ。

 

 少し物足りないと感じてしまうこともあるけれど、最近は食欲不振で何を食べても味を感じなくなってきている。

 

 今の私にとっては、昼食を取っているという認識の方が重要だった。

 

 私は自動販売機で買った牛乳でそれらをゆっくりと胃に流し込み、午後の授業が始まるまでの時間を過ごす。

 

 そして、昼休みが終了する十五分前に差し掛かった辺りで、そろそろ教室へ戻ろうかと私は重い腰を上げた。

 

 途中で昼食をとった際に出たゴミをゴミ箱に捨てて、中庭を後にしようとした。

 

……その時である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………よう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこからともなく現れた一人の男性トレーナーが、私の進路を阻むように立ち塞がってきた。

 

 相変わらず棒付きの飴を咥え、ばつが悪そうに後頭部をかく締まりのない男性に、声を掛けられる。

 

 その容姿をひと目見ただけで。

 

 その声を少し聞いただけで。

 

「元気、だったか……?」

 

 

 

 

 

 

 

──自身の仮面に、亀裂が入るのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

「ええ」

 

 私は何の前触れもなく現れたこの人を前にして、必死に平静を装う。

 

「あなたも、お元気そうで何よりですわね」

 

 私は当たり障りのない言葉を取り繕って、この人に返事をする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沖野トレーナー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私を捨てた人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、この私に何か用事でも? 特に無いようでしたら、午後の授業が控えているので道を開けて欲しいのですが?」

 

 この人を前にしても、私は意外と冷静でいることが出来た。

 

 言葉の節々に棘があるように感じてしまうのは、多分仕方のないことだ。

 

「……あ、ああすまんすまん。中庭を通りかかったら偶然、マックイーンの姿を見かけたもんだからさ」

「そうですか」

 

 偶然、か。

 

 まぁ、そういうこともあるだろう。

 

「…………ぁあ、ぇっと」

 

 その発言の後、この人はしきりに視線を彷徨わせて、私にかける言葉を必死に探している様子であった。

 

「………………はぁ。どうせ声を掛けるのでしたら、話す内容くらい準備してきてはどうですか?」

 

 そんな姿をとうとう見かね、私はため息をこぼしながらもこちらから言葉を投げかけた。

 

「……すまん」

「どうせ、突発的に身体が動いたのでしょう? これでもあなたのことは、それなりに理解しているつもりですので」

 

 私を捨てた人であるとはいえ、この人は私の元担当トレーナー。

 

 私がトレセン学園に在籍している限り、このような機会がいつか訪れることはあらかじめ予測出来ていたことだ。

 

 だから私は、内面の動揺をひた隠し、冷静沈着な外面を装うことに徹底できたのである。

 

「それよりも、私は以前からあなたのことを心配していたんですよ?」

「……俺の?」

「ええ」

 

 この人とこうして取り留めのない会話に興じられるのも、そんな心構えがあったから。

 

 この人とどうせ話を交えるのなら、一度聞いておきたいことがあった。

 

 

 

 

 

「スズカさんの脚は、もう大丈夫ですか?」

 

 

 

 

 

 私がチーム・アルデバランへ移籍した後、去年の天皇賞(秋)で発生した故障事故──通称、”沈黙の日曜日”。

 

 レースの最中に左脚部粉砕骨折を発症し、競走能力の喪失が危ぶまれるほどの怪我を抱えてしまった元チームメイトのことが、どうしても心配だった。

 

 この人は見かけによらず、担当ウマ娘に対して強い情熱を注ぐトレーナーだ。

 

 私は過去に、テイオーの骨折の原因が自分自身にあると疑わなかった姿を目撃している。

 

 今回のスズカさんの一件で、この人は責任感に押し潰されて倒れてしまうかもしれない。

 

 しかし、風の噂によるとどうやら、スズカさんはこの人の献身的な態度によって危機的な状況を何とか乗り越え、元気な姿を取り戻しつつあるそうだ。

 

 スズカさんは誰よりも走ることが好きな方だったから、無事に快方へと向かっているようで本当に良かった。

 

「………………」

「……? どうかしましたか?」

 

 私が投げかけた質問に対して、この人は何故かその場で押し黙ってしまう。

 

 もうそろそろ教室へ戻らなければ、午後の授業に遅刻してしまう時間帯だ。

 

 この人には悪いが、私は一刻も早くこの場から走り去りたかった。

 

「要件が無いようでしたら、私はこれで失礼します」

「ま、待て……っ」

 

 そそくさと私が踵を返した瞬間。

 

 彼は慌てたように声を上げて、去り行こうとする私の背中を引き留める。

 

「まだ何か?」

「俺はずっと……お前に、聞きたいことがあったんだ」

「聞きたいこと、ですか?」

 

 本当はこの人の発言に耳を傾ける気なんて毛頭無かったのだが……変に引きずられるのはもっと嫌だったので、私は大人しく彼の言葉を聞くことにした。

 

「ああ。マックイーンがチーム・アルデバランに移籍したっつう噂を知った瞬間から、ずっと聞きたいことがあった」

 

 

 

 

 

……だが、しかし。

 

 

 

 

 

「新しい目標を見つけてもう一度歩み出せたお前のことを、俺は心の底からすげぇって思った」

 

 

 

 

 

 私はこの人の言葉に大人しく耳を傾けるだけであって、決して冷静な自分であり続けられているわけでは無かった。

 

 

 

 

 

「でも同時に、少しだけ気になることがあったんだ」

 

 

 

 

 

 この人の全てを見透かしているような言葉を受けて、嘘で塗りたくった分厚い仮面に入った亀裂が広がる。

 

 

 

 

 

「……なぁ、マックイーン」

 

 

 

 

 

 やがてその亀裂は、縦横無尽に私の仮面を駆け巡って。

 

 

 

 

 

「お前が新人のチームに移籍した目的って……本当はもう一度、レースに──」

 

 

 

 

 

 ついに、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──あなたには何も関係ないでしょうッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 壊れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今まで仮面の下に隠し続けていた一部の感情が、抑えきれなくなる。

 

 

 

 

 

「私がどのような意図でチームを移籍しようが、あなたには何も関係ないッ! そんなことを聞く権利なんて、あなたに残っているはずがないッ!!!」

 

 

 

 

 

 この人と言い争っている場所が一体どこだったのか。

 

 

 

 

 

 今が一体、どのような時間だったのか。

 

 

 

 

 

 それ以外にも、この人がどのような背景を抱えて、契約破棄という決断に踏み切ったのか。

 

 

 

 

 

 頭に血が上りすぎて理性を失った私には、そんなことに気を配る余裕なんてこれっぽっちも残っていなかった。

 

 

 

 

 

「あなたは走れなくなった私を無視して平然と捨てたッ!」

 

 

 

 

 

 これまで積み重ねてきた努力(うそ)も、磨き上げてきた演技(うそ)も。おばあ様が繋いでくれた可能性も全部……ただ一時の感情に流されて。

 

 

 

 

 

「あなたは夢を諦められない私を一方的に突き放したッ!!」

 

 

 

 

 

 自分の(うそ)で、跡形もなく壊してしまったのだ。

 

 

 

 

 

「私を捨てたあなたの顔なんて見たくないッ!! もう二度と、私に関わらないでくださいッ!!!!」

 

 

 

 

 

 吐き捨てるように言葉を投げ、私は踵を返してこの場所から走り去った。

 

 

 

 

 

 激情に身を委ねて中庭を飛び出した後のことは、正直よく覚えていない。

 

 

 

 

 

 強いて覚えていることを挙げるとするならば、生まれて初めて授業をサボったということだろうか。

 

 

 

 

 

 後悔に後悔を重ねた挙句、私の魂胆は考えうる限り最悪の形であの人に知られてしまった。

 

 

 

 

 

 トレセン学園から居場所を失った私は、そのまま逃げるように学園から失踪した。

 

 

 

 

 

 不思議と気分は晴れやかだった。

 

 

 

 

 

 こんな事態を招いてしまったのは全て、あの人を身勝手に利用しようと企んだ私のせい。

 

 

 

 

 

 身から出た錆……あまりに分かりやすい、ただの自業自得。

 

 

 

 

 

 初めて嘘をついた瞬間から、こうなることは目に見えていた。

 

 

 

 

 

 都合の良い現実しか見てこなかった自分に、ばちが当たっただけ。

 

 

 

 

 

 

 

 いい加減、夢を見るのはもうやめよう。

 

 

 

 

 

 

 

 もういい。

 

 

 

 

 

 

 

 もう、疲れた。

 

 

 

 

 

 

 



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49:私の素顔

『メジロ家定例旅行』という名目でアメリカを訪れてから約二週間が経過し、私達はついに明日、現地を発って日本へと帰国する。

 

「──へぇ〜! つまりマックちゃんは、家族に恩返しをするためにレースに出たいんだね!」

 

 最終日も普段と同じく走りの特訓に取り組み、使用した器具の片付けをしていた時の話だ。

 

 片付けの途中、チームのミーティングに参加する必要があると言ってトレーナーさんが席を外した。

 

 最近ではトレーナーさんとミライさんの中に私が混ざり、三人で行動することが多かったのだが……そういえば、ミライさんと二人きりになる機会もあまり無かったように感じる。

 

 ミライさんと共に片付けを進める中、彼女は私を退屈させないためにと様々な話題を振ってくれた。

 

 レースに関する内容であったり、チームで経験した思い出話であったり。

 

 あとはトレーナーさんに関する愚痴と、それを圧倒的に上回る惚気話。

 

 中でも特に盛り上がったのは、生きていれば誰しもが抱く──夢に関する話題であった。

 

 私はミライさんに夢を聞かれ、考えるまでもなく天皇賞の制覇であると答えた。

 

 ミライさんは人の話を聞くのが非常に上手な方で、気付けば私は、自身の大きな夢を意気揚々と彼女に語っていた。

 

 天皇賞というレースが、敬愛するおばあ様にとって思い入れのあるものであるということ。

 

 メジロ家が一丸となって、天皇賞制覇という悲願を果たすために一生懸命活動していること。

 

 そんな一族の期待を一身に請け負って、私は大切に育てられてきたということ。

 

「うんうんっ、とっても素敵な夢だと思う!」

 

 そんな背景の中で、私は自身の成長と共に天皇賞の制覇という夢を育んできた。

 

 この夢はもはや、私という存在の一部になっている。

 

「ミライさんは、どのような夢を持ってレースの世界へ飛び込んだのですか?」

「私? うーん、私はマックちゃんみたいに立派な夢じゃなかったからなぁ。強いて言うなら……みんなの憧れになりたかった、とか?」

 

 ミライさんに聞かれたことを私がそのまま聞き返す。

 

 すると彼女は恥ずかしそうに頬をかいて、自身の夢を打ち明けた。

 

「いいえ、とっても素敵な夢だと思います」

「えへへ、そうかなぁ〜」

 

 他者を寄せ付けない圧倒的な実力で世代の頂点に立ち、現在進行形で歴史に偉業を刻み続ける最強のウマ娘。

 

 今や”星”という異名で世界中から親しまれ、多くの人々に夢と希望を与え、多くのウマ娘にとっての憧れの存在となっている。

 

 ミライさんに憧れを抱くウマ娘からの返事を受けて、彼女は泥にまみれた屈託のない笑顔を浮かべていた。

 

「夢を叶えた時、ミライさんはどんな気分になりましたか?」

「うーん。それがね、最初は全然実感が湧かないの。私の夢が漠然としすぎてるっていうのもあったかもしれないけど」

 

 未だ夢を追いかける身である私は、夢を叶えた後の景色を知らない。

 

 だから、夢を叶えたミライさんに聞いてみたくなった。

 

「私、ファンと交流する機会があまりなくてさ。レースの後とか、ライブの間とか、それくらい。でもその瞬間に広がる景色を見て……あぁ、夢が叶ったんだなって実感が湧いてきて、嬉しくなっちゃって……見てたでしょ? 私の大号泣ライブ」

「もちろん、特等席から見ていました」

「……ぁあ! 恥ずかしいなぁ! 放送事故だよ、放送事故!」

 

 ミライさんがやけくそになりながら話題に取り上げた、大号泣ライブ。

 

 というのも、先日開催されたアメリカクラシック三冠の最終戦──ベルモントステークスで見事優勝し、偉業を成し遂げたミライさんが、全世界が注目する晴れ舞台で号泣してしまうという珍事件が起こった。

 

 ミライさんの言葉通り、確かに放送事故ではあるのかもしれないが……今となっては”ミライ”というウマ娘を象徴する瞬間として親しまれている。

 

「……まぁでも、あの瞬間はやっぱり忘れられないなぁ。夢を叶えて、たくさんの人から応援してもらって……あぁ、ここが私の居場所なんだなって思った」

「居場所……」

 

 ミライさんは夢を叶えて、自分の居場所を見つけた。

 

 私もいつか、見つけられるのだろうか。

 

 天皇賞の制覇という夢を叶えたその先にある、彼女のような素敵な居場所を。

 

「あとは……夢を叶えて、()()()()()()()()()()()()()()()

「え?」

 

 ミライさんの言葉を受けて、私は不思議に思った。

 

「新しい夢、ですか?」

 

 私達ウマ娘においてこれ以上ないほど素敵な夢を叶えたミライさんに、新しい別の夢があるだなんて。

 

 夢を追いかけて、夢が叶って、夢の実現を噛み締めて……それで終わりだと思っていた私にとって、ミライさんの発言は衝撃的であった。

 

「うん! 大きな夢を叶えた実感で心が満たされて、その感覚がそのまま新しい夢になったって感じ……かな?」

「それはとても、素敵だと思います」

「えへへ〜、そうでしょそうでしょ〜!」

 

 夢を叶え、再び夢を追いかける身となったミライさんの笑顔は、見ているこちらが微笑ましくなってしまうくらいの幸福で満たされている。

 

「ちなみに……ミライさんの新しい夢は、どんな内容なのでしょうか?」

 

 その笑顔を見て、私の中に眠る年相応の好奇心が刺激されてしまった。

 

「え〜、そうだなぁ……せっかくだから、マックちゃんには特別に教えてあげちゃおっかなー」

「本当ですか!」

 

 世界的アイドルウマ娘が秘める、未だ誰も知らない新しい夢。

 

 そんなの、気にならないわけがない。

 

「誰にも言わないって、約束できる?」

「はい、ミライさんとの秘密にします!」

「じゃあ良し! マックちゃん、ちょっと耳貸して」

 

 ミライさんに言われるがままに、私は彼女の口元に耳を近づけた。

 

「私の新しい夢はね…………」

 

 ミライさんの囁くような優しい声音が、私の鼓膜を揺らす。

 

 そして私は、ミライさんが抱く新しい夢の内容を聞き取った。

 

「……えへへ、どうかな?」

「……はい。とっても、とっても……素敵だと思います」

 

 この世界で私だけが知っている、ミライさんの新しい夢。

 

 私とミライさんだけで共有する、二人の秘密。

 

「えへへ……ありがと、マックちゃん。そう言ってくれて嬉しい」

「私、ミライさんが夢を叶えられるように、精いっぱい応援しています!」

「うん! 私も、マックちゃんの夢が叶うように、ずっと応援してるからね!」

 

 お互いの夢を心の底から応援し合ってからしばらくして、チームのミーティングに出席していたトレーナーさんがこちらの方へと戻ってきた。

 

「マックちゃん」

 

 トレーナーさんが私達のところへ辿り着くまでの間に、ミライさんがもう一度私の名前を読んだ。

 

「私、マックちゃんにどうしても伝えたいことがあるの」

「なんでしょうか?」

 

 私はそれに応えるように、隣に立つ彼女へと視線を向ける。

 

「夢を叶えるまでの過程は……多分、楽しいことよりも、辛いことの方が多いんだよね」

「当然、覚悟はしています」

「夢を見るのは、とっても素敵なこと。でもそれは、世界中のみんなが平等に与えられた幸せで……場合によっては、誰かが夢を叶えるために、誰かの夢を壊しちゃうことだってあるの」

「……」

「私達の世界なんて、まさにそう。本当に残酷で、苦しいよね。私が叶えた夢も、途中で破れていったたくさんの夢の上で輝いてる」

 

 ミライさんの着眼点は、客観的に見れば至極当然のことであり、ある意味仕方のない話であった。

 

「私が夢の実現に一歩近づくたびに、誰かの夢が破れて涙を流す人達をたくさん見てきた。それが、とっても辛かった」

「…………」

「……でもね、マックちゃん」

 

 だがしかし、ミライさんはそんな悲しい語りを一蹴するかのように、強かに言い放つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──絶対に、諦めちゃダメだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を叶えたウマ娘からおくられる激励が、私の芯に対して強烈に響く。

 

「遠慮なんかしちゃダメ。たとえそれが、誰かの夢を引き裂くことになったとしても……ううん、それだけじゃない」

 

 ミライさんが私の小さな手を握ってくれた。

 

「どんな困難にぶつかったとしても、もうダメだって思った時も、胸が張り裂けそうなくらい辛い現実を突きつけられたとしても……」

 

 その温もりを感じて、私は顔を上げる。

 

「絶対に、諦めちゃダメ」

 

 私の隣で、ミライさんが微笑みを向けてくれた。

 

「これが私の、夢を叶える大事な秘訣。一生懸命夢を追いかけるマックちゃんの役に立ってくれたら、嬉しいな」

 

 ありがとうございます。

 

 そんな気持ちを込めて、私はミライさんの手をぎゅっと握り返した。

 

「お互いの夢が叶うまで……一緒に頑張ろうね、マックちゃん」

「はい、ミライさん」

「がんばって、一緒に幸せ掴もうね」

 

 ミライさんから大切な言葉をもらった。

 

 憧れの方から夢を叶えるための大事な想いを受け取って、私はこれから夢に挑む。

 

「……よしっ、そろそろ片付け真面目にやろっか!」

「……あ、すっかり忘れていました」

 

 二人だけの秘密を共有し、憧れの方とかけがえのない約束を交わした最後の思い出。

 

 ミライさんが私の背中を押してくれた。

 

 ミライさんから貰った大切な言葉を心に刻んで、私の夢へ向かってひた走る準備が整った。

 

「ミライさん」

 

 だから最後に、ありったけの感謝の気持ちを言葉に込めて。

 

 私は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──私に勇気をくれて、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──私()、あなたと交わした大切な約束を守ることが出来ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 もういっそ、こんな世界から消えてしまいたいと思った。

 

 一族の期待を裏切って、志半ばで前へ進む足を失い、信頼を寄せていた人からも捨てられて……最後に残された可能性すら、自分自身の手で潰してしまった。

 

 愛情を注がれながら生まれ育ったメジロ家のウマ娘としての存在価値を喪失し、思い出がたくさん詰まったトレセン学園からは居場所を失った。

 

 弱い自分を覆い隠していた仮面が無くなってしまったことで、私はもう過去の強かだった”名優”の姿を演じることが出来なくなってしまった。

 

 その後、私は剥き出しになった過敏な心を守るように他人という存在から逃げ続け、都会を抜けて地図にすら載っていないような辺鄙な土地を目指す。

 

 自分の足が無意識に向かう行き先には、心当たりがあった。

 

 メジロ家が複数所有する別荘の一つで、本土から離れた無人島を開拓した、豊かな自然に囲まれる静謐な場所。

 

 アクセス手段が非常に不便であることから、別荘の管理を担う使用人以外はめったに訪れない場所である。

 

 しかし裏を返せば、他人との関わりを絶つことが出来る……現状の私にとっては、うってつけの空間であった。

 

 この過酷な世界を一人で生きていくことなんて、到底出来ない。

 

 だから私はおばあ様にお願いして、もう誰にも迷惑を掛けないことを約束し、特別に別荘へ住まわせてもらえる運びとなった。

 

 極端に本数の少ない地方の鉄道を乗り継ぎ、年季の入った田舎のバスに揺られること数時間。

 

 少し濁った海が広がる港町へ到着し、メジロ家が所有するクルーザーに乗船して本土を飛び出した。

 

 これでもう、私は自身を蝕む心の苦しみから解放されるんだ。

 

 そのことを理解した瞬間、私の中で張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたような音がした。

 

 そして私は、別荘が所在する無人島に到着するのを待たずして、まるで冬眠でもするかのように深い深い眠りの底へと落ちていった。

 

 次に目が覚めたのは、別荘へ到着してから大体三日後くらいの夜であった。

 

 

 

***

 

 

 

 私が全てを捨てて無人島の別荘へとたどり着いてから、一体どれほどの時間を過ごしただろうか。

 

 朝日を浴びて目が覚めて、朝食を摂ったら特に目的もなく自然の中を散策し、陽が沈んだら床に就く。

 

 平穏な毎日だった。

 

 鮮やかな緑が生い茂った山の小道を歩くと、どこからともなく爽やかな小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 

 どこまでも透き通った青い海を眺めていると、穏やかなさざなみが波打ち際を行き来して、私の足跡を静かにさらう。

 

 まるで、時間の流れが止まっているかのような空間だった。

 

 白い砂浜に何となく腰を下ろして、潮風を肌で感じながら物思いに耽る毎日。

 

 この空間で過ごしていると、ふとした瞬間に自分が誰だったのかを忘れてしまうことがある。

 

 自分がどこで、何を成すために生まれ、何を教わりながら育ち、何から逃げてきたのか。

 

「……」

 

 大きな夢があったような気がする。

 

 自分の全てを捧げてでも叶えたかった、大切な夢だ。

 

 大きな夢と前向きな希望で満たされた心に、憧れの誰かから一歩を踏み出す勇気をもらって、私は夢に挑んだ。

 

 生意気だけど憎めないライバル、無神経だけど優しかったトレーナー。一癖も二癖もある仲間達に囲まれて、懸命に夢を追いかけ続けていた。

 

 夢を追いかける日々は、新鮮な出来事の連続だった。

 

 ライバル達と切磋琢磨し、共に臨んだ晴れ舞台で鎬を削る瞬間の数々に、私の胸は際限のない高鳴りを覚えた。

 

 当然、幾度となく挫折を経験し、苦しい思いをしたこともある。

 

 だけどそれは私にとって大きな成長の糧であり、今となっては苦渋を味わった経験すらも愛おしいと感じていた。

 

「……」

 

 もはや、ため息すらこぼれなかった。

 

 夢を追いかける日常が当たり前だと疑わなかった過去の私は、受け止められない絶望の数々に押し潰されて、とっくの昔にいなくなっている。

 

 純粋に夢を追いかけていた生活が一転し、抱えきれない未練に追われる日々が、今の私にとっての当たり前。

 

 壊れた心にありったけの嘘を塗りたくって、過去の栄光を必死に演じて弱い私をひた隠しにし、残された唯一の可能性に縋りついた。

 

 そんな惨めな姿を晒してでも叶えたかった夢は……一体何だったのだろうか。過去の自分に問いかけてみても、返事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 私は抱えきれない未練から逃げてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 逃げれば楽になれると思った。

 

 

 

 

 

 

 

 今の私は果たして、楽になれたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 砂浜に身体を投げ出して、澄み渡った快晴をぼんやりと眺める。

 

 西側からどこからともなく現れた雲がやってきた。とても大きな雲だ。

 

 壊れた心はとても穏やかだった。これはきっと、楽になれている証拠だと思う。

 

 そのことを自覚した瞬間、一際大きなさざなみが砂浜に押し寄せて、そこに横たわる私目掛けて襲いかかった。

 

……ああ、お気に入りの服が海水でびしょびしょだ。下着までぐっしょり濡れてしまっている。

 

 別にこのまま海を眺めていても良いのだけれど、この島に吹きつける風は意外と強くて、濡れた身体では肌寒さを覚えてしまう。

 

 私は重い身体を捩って姿勢を上げ、一度別荘へと戻ることにした。

 

 砂浜を抜けて山の小道をしばらく歩き、私はやがて生い茂る木々の一帯をくり抜いた空間にたどり着く。

 

 私の視界に広がっていたのは、目的地としていた別荘がある場所では無かった。

 

 私が別荘へ戻ろうとする度に……何故だかいつも、壊れた足が私を()()()()へと連れてくる。

 

 本格化を迎えたウマ娘がトレーニングに使用するにはいささか不十分で、小さな子供が駆け回る遊び場としては十分過ぎるほどに広い──無人のターフ。

 

 ここに来ると、無性に心がざわつくのだ。

 

 私の壊れた心の中で燻る、()()()()()()()()()()()()()()が懸命に叫んでいる。

 

 普段は気のせいだと無視し続けていたけれど、今日のそれは鬱陶しいと感じるほどに主張が激しかった。

 

「…………はぁ」

 

 私は仕方なく、その声に身を委ねて無人のターフへと足を踏み入れることを決めた。

 

 そこに一歩目を踏み入れた瞬間、懐かしい芝の感触が足裏から全身へと突き抜ける。

 

 芝の状態はトレセン学園やレース場のものと比較するとだいぶ劣化しているように感じるが、決して悪いわけではない。

 

 芝の匂いが私の鼻腔をくすぐるせいで、先ほどから身体がむずむずとして落ち着かない。

 

……どうやら私の身体は、この芝の上を走りたいようだ。

 

 最近は特に運動もしていなかったし、ジョギング程度ならきっと、病が再発することはないだろう。

 

 運動不足の解消という大義名分を得た私は、ぐしょぐしょになった服を着替えるために一度、別荘の自室へと戻った。

 

 濡れた服を脱いで、身体から水滴を拭き取り、クローゼットの奥の奥にしまっていたジャージに着替える。

 

 化粧台の隣に置かれた姿見で違和感がないかを確認している途中、部屋の側面に飾られた日めくり式のカレンダーが目に留まった。

 

 二月七日、日曜日。

 

 使用人の方が毎朝めくってくれているので、日にちにズレはないはずだ。となると、私がこの島へ訪れてから二週間以上が経過したことになるのか。

 

 そして二月七日といえば、トゥインクル・シリーズのGⅢ重賞──きさらぎ賞が開催される日だ。

 

 きさらぎ賞は、後輩であるサトノさんが目標に定めていた重要なレースだ。現在時刻は十五時二十分と、出走までもう少し。

 

 きっと彼女なら、無事に勝利を掴み取ることが出来るだろう。私が今更心配する必要はない。

 

 身なりを整えた私は、水筒とタオルを持って別荘の玄関を出る。

 

「……雨」

 

 雲に覆われた空からぽつりぽつりと、私の身体に水滴が落ちてきた。

 

 先程までは晴れていたはずなのに、今日の天気は何だかとてもあまのじゃくだ。

 

 だがしかし、この程度の小雨なら運動に支障をきたすことはないだろう。

 

 私は小雨を無視してターフへ戻り、木陰に入って入念な準備運動を行った。身体に染みついたルーティンをこなした後、私は再びターフの中へと足を踏み入れる。

 

 最初は芝の感触を確かめるようにゆっくりと歩いて、慎重にも慎重を重ねて速度を徐々に上げていく。

 

 前後に軽く腕を振って、自分の足を駆使して前へと進む。

 

「……案外、何ともないではないですか」

 

 左脚を蝕む病に怯えていた私だったが、いざ走り出したとしても別にどうということはなく、普通に走ることが出来た。

 

 一度止まって左脚の状態を確認するが違和感や不調を覚えることはなく、ただただ普通という感想しか出てこなかった。

 

 ウマ娘にとって”不治の病”と称される繁靭帯炎だが、世間に流通する絶望的な認識に踊らされているだけで、本当は大したことないのかもしれない。

 

 得意になった私はそのまま、少しずつ速度を上げてターフを走った。

 

 自分の身体で風を切る感覚は、随分と久しぶりだった。運動不足を解消する目的で始めたジョギングだが、気付けばいつしか、私は走ることに夢中になっていた。

 

 そのまましばらく走った後、私は一度芝の上で立ち止まる。

 

 左脚の状態を仕切りに気にする反面で、身体の中にこもっていたモヤモヤが晴れるような爽快な気分を噛みしめていた。

 

 小さなターフを二周走った程度だが、運動不足を解消するという意味ではもう十分だろう。

 

 熱った身体に打ち付ける雨はとても心地良いが、このまま外にいては風邪を引いてしまいかねない。

 

 私は持参した荷物を持って、別荘へと戻ろうとする。

 

 

 

 

 

 

 

 だが、しかし……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もう十分でしょうに」

 

 先程から自身の心の中で燻る()()が、まだ足りないと私に駄々をこねてきた。

 

 段々とそれの主張が激しくなって、私にもっと走れと鬱陶しくせがんでくる。

 

 ターフを軽く走って晴らしたはずのモヤモヤが、より一層大きくなって私の全身に広がっていく。

 

 私の胸がそのモヤモヤに圧迫されるせいで、次第に息が苦しくなってきた。

 

 深呼吸を繰り返しても状態は変わらず、更なる圧迫感が追い討ちをかけるように押し寄せてくる。

 

「…………、……っ、あぁ、もうッ!」

 

 私は込み上げてきた苛立ちをついに抑えきれなくなり、手にした荷物を投げ捨ててターフへと戻った。

 

 胸にまとわりついた違和感を振り払うためには、さらに速度を上げて走らなければならない。そうやって、私の直感が訴えかけてきた。

 

 いい加減にしろと、私はそれの主張を一蹴した。

 

 私はもう、走れないウマ娘なのに。

 

 左脚を巣食う病魔はただ鳴りを潜めているだけに過ぎず、ふとした拍子に目を覚ましてしまうかもしれないのに。

 

 その瞬間がいつ訪れるかなんて、誰にも分からない。

 

 もしかしたら、私が次に一歩を踏み出した時がそうなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな絶望的な状況の中で、()()は私にまだ……走れとせがむのか?

 

 

 

 

 

 

 

「…………ッ!!」

 

 ついに私はモヤモヤとする全身の圧迫感に耐え切れなくなって、気づけばしがらみを振り払うように駆け出してしまっていた。

 

「くっ、うぅ……っ」

 

 その瞬間、私の脳裏に過去の苦痛がフラッシュバックして、あまりの恐怖に目尻から涙がこぼれた。

 

 怪我の再発という言葉が真っ先に浮かんで、私は咄嗟に、暴走する自身の身体にブレーキをかける。

 

 だがしかし、私の全身はまるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、言うことを聞いてはくれなかった。

 

 私の切実な意思とは裏腹に、どんどんと景色が加速していく。

 

「い、いや……っ、やめてっ…………」

 

 私はもう、走りたくないのに。

 

 とっくの昔に壊れた心が、もうやめてよって泣いているのに。

 

「はぁ……っ、はぁっ、はぁ……ッ!」」

 

 息苦しさを覚える私の身体は一体どうして、心の悲鳴を無視して走り続けるのだろうか。

 

 足りない、まだ足りないと訴えて、さらに速度が跳ね上がる。

 

「──ッ!?」

 

 脳裏に過ぎった悪夢のような恐怖達が、絶望を告げる意地悪な声に形を変えて私に襲い掛かってきた。

 

 

 

 

 

 

 

──お嬢様。どうか落ち着いて聞いて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 頭にこだまする、誰か声音を騙った恐怖の言葉。

 

 

 

 

 

 

 

──お嬢様は左脚に……繁靭帯炎を、発症いたしました。

 

 

 

 

 

 

 

 私が地獄の底へと突き落とされた瞬間が、恐怖を介して鮮明に蘇ってくる。

 

 

 

 

 

 

 

──マックイーン。どうか、落ち着いて聞いてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 壊れた心に刻み込まれた絶望が、再び私から冷静な思考を奪い取る。

 

 

 

 

 

 

 

──レースはもう、諦めよう。

 

 

 

 

 

 

 

 今度はさらに別の誰かを騙った声音で、私に絶望のどん底を突きつけてくる。

 

 

 

 

 

 

 

──やっぱり、諦められないのか?

 

 

 

 

 

 

 

「…………さい」

 

 

 

 

 

 

 

──もしお前がどうしても、レースを諦めきれないというのなら……。

 

 

 

 

 

 

 

「…………るさい」

 

 

 

 

 

 

 

──俺はお前との担当契約を、破棄する。

 

 

 

 

 

 

 

「………………うる、さいっ」

 

 

 

 

 

 

 

 趣味の悪い悪戯だ。こんな回りくどい真似で私を苛立たせて、一体何がしたいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 胸の中に生まれた不愉快な感情を炉にくべて、移り変わる景色がさらに、さらに加速していく。

 

 

 

 

 

 

 

──マックイーン。

 

 

 

 

 

 

 

 過去のトラウマを不躾に掘り起こすように、悪夢のような恐怖が私の大切なライバルの声を騙った。

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉と共に浮かんでいた悲しげな彼女の表情が、今でも網膜に焼き付いて離れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──諦めちゃったの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぁ、ああ……っ!

 

 

 

 

 

 

 

「うるさい……っ、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ!!!!!!」 

 

 激情に身を委ねて乱暴な言葉を吐き出しながら、私は不快感を振り切るようにがむしゃらに走った。

 

 足元から悍ましい恐怖が込み上げてきても、視界が止めどなくあふれる涙で塗りたくられても、私の足は止まらない。どうしても止まってくれないんだ。

 

 どれだけの距離を走ったのかは、もう覚えていない。

 

 私の心がとっくに限界を迎えていたとしても、身体は狂ったように動き続ける。

 

 それはまるで、今まで押さえつけてきたあらゆる鬱憤を、身体から根こそぎ吐き出し尽くすかのような勢いだった。

 

 降り続ける雨がより一層強くなって、私の全身に打ち付ける。

 

「はぁ……っ、はぁ、はぁ…………っ」

 

 でも、どうやらさすがに、ずぶ濡れになって冷え切った運動不足の身体にも限界はあったようだ。

 

 徐々に速度が落ちていく。いつの間にか私は両膝に手をついて、荒々しい呼吸を繰り返していた。

 

 私は咄嗟に、爆弾を抱える左脚の状態を確認しようと手を伸ばす。

 

「……っ!?」

 

 だがしかし、身体の主導権を奪い取った()()は左脚を労わる行為を許してはくれなかった。

 

 息が切れているにも関わらず、再び走り出そうと全身を突き動かす……その瞬間。

 

「ぃっ…………!?」

 

 私の意識と、私の身体を乗っ取る()()の意識が激しく衝突して、水気を含んでぬかるんだ芝に足を取られてしまった。

 

 鈍い衝撃が全身を襲う。跳ね返ってきた泥しぶきを頭からかぶって、容姿はもうひどい状態になっていた。

 

 そんな惨状になっていると言うのに、身体はまだまだ走ることを求めている。

 

「いい加減に……っ!」

 

 私は自身の左脚を強く押さえ付けて、身体の奥底から湧き上がってくる衝動を必死に抑え続けた。

 

 そのまましばらく葛藤を続けていると、やがてその衝動は疲れ果てたように抵抗が小さくなり、私の中へと引っ込んでいく。

 

 突然の発作のような症状は、ようやく落ち着いたかのように思えたが……。

 

 

 

 

 

「く…………っ、ぅ……、ぁあ……っ」

 

 

 

 

 

 その衝動が残していった爪痕は、私の壊れた心に大きな影響を与えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

──もっと、走りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな単純明快な欲求が、私の壊れた心になだれ込んでくる。

 

 

 

 

 

 走りたい。

 

 

 

 

 

 ただ思いっきり、大好きな芝の上を走っていたい。

 

 

 

 

 

 あまりにも純粋で、普通であれば簡単に満たせるような衝動的な欲求。

 

 

 

 でも、そんな欲求だからこそ、私の胸は張り裂けそうなくらいに苦しくなってしまう。

 

 

 

「う、ぅうう……っあく……っ、──あああっ!!」

 

 

 

 止めどなく溢れる涙を拭うたびに、私は再三思い知らされる。

 

 

 

 私は、走ることが好きだったんだ。

 

 

 

 どれだけ嘘を重ねて自分を騙したとしても、完璧な演技で自分自身を欺いたとしても。

 

 

 

 この気持ちに嘘をつくことだけは、どうしても出来なかった。

 

 

 

 

 

 走りたい。

 

 

 

 

 

 もっと走りたい。

 

 

 

 

 

 思いっきり走りたい。

 

 

 

 

 

 押し殺していたはずの感情が、諦めてしまった赤裸々な本心が、まるで堰を切ってしまったように溢れ出して止まらない。

 

 

 

 壊れた心を剥き出しにしながら、私は声を上げて泣きじゃくる。

 

 

 

「…………っ……、…………れ、か……っ」

 

 

 

 嘘で塗りたくった仮面を被り続けた反動が。

 

 

 

 かつての強い自分を演じ続けた代償が。

 

 

 

「……っ、ぁああ…………だれ、か……っ」

 

 

 

 見て見ぬふりをし続けてきた本当の私に……抱えきれない未練に押し潰された弱い私に、受け止められない現実を著しく助長させながら跳ね返ってきた。

 

 

 

「だれか……っ、ぅ、ぁあ…………っ、だれか……っ」

 

 

 

 ”不治の病”に侵された私の足ではもう、自分自身の存在価値を示すことは出来ない。

 

 

 

 特大の爆弾を抱え込んだ私の足ではもう、大切に育み続けた夢を叶えることは出来ない。

 

 

 

 ぼろぼろに朽ち果てた私の足ではもう、ただ走りたいという本能すらも満たすことは出来ない。

 

 

 

「誰でも、いい……っ、だれでもいいから………ぁ」

 

 

 

 私はもう、走れないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………私、を……………助けてよ………………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなの、辛すぎるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ねぇ、誰か……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だれでも、いいから…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──マックイーン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 優しい声音で誰かに名前を呼ばれ、私はぎこちない動きで背後を振り返る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………なん、で」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 視線の先に佇んでいた男性の姿をみて、私は思わず自身の目を疑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たい雨に全身を打たれ、傘もささずにずぶ濡れとなったスーツ姿の男性は……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっと見つけた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──今この場所に現れるはずの無い()()()に、不思議とよく似ていたような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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50:鏡写し

 抱えきれない未練と絶望に押し潰され、目の前で感情を剥き出しにしながら泣きじゃくる彼女の姿を見て、俺はふと思った。

 

 

 

 まるで──()()()のようだ、なんて。

 

 

 

「………………どう、して?」

 

 凍えるような冷たい雨に全身を打たれ、泥に塗れながらへたり込むマックイーンが、前髪のわずかな隙間から俺のことを覗いてきた。

 

 おずおずとした様子で、青ざめた唇を震わせながら彼女が問うてくる。

 

「サトノさんの……レースは…………?」

 

 マックイーンはどうやら、俺がこの場に立っているという現状に疑問を抱いているようだった。

 

 マックイーンの指摘通り、今日は俺の担当ウマ娘であるサトノダイヤモンドが目標としていた重賞レース──きさらぎ賞の開催日だ。

 

 彼女がそのことを疑問に思うのは、しごく当然のことであった。

 

「たづなさんに、ダイヤの引率をお願いしたんだ。突然のお願いだったけど、たづなさんは快く引き受けてくれてさ……本当に、あの人には頭が上がらないよ」

 

 きさらぎ賞が開催される二日前、それもレース場が所在する京都へ移動する前日のこと。

 

 ダイヤとの会話を終えた後、俺は以前までチーム・アルデバランの代理監督を勤めてくれていたたづなさんに連絡を取って、無理を承知で彼女に引率をお願いした。

 

 突然の申し出なので断られて当然だと考えていたが……蓋を開けてみれば、たづなさんは文句ひとつこぼすことなく俺の要求を聞き入れてくれたのである。

 

 左腕につけた腕時計で現在時刻を確認すると、すでにきさらぎ賞の結果が出ているような時間帯であった。

 

 ちょうどその時、ずぶ濡れになったズボンのポケットにしまっていたスマホが振動し、通知が届いたことを教えてくれる。

 

 俺に連絡を送ってきてくれたのは、つい先程きさらぎ賞に出走した担当ウマ娘のダイヤであった。

 

 その内容に一通り目を通して、俺は安堵のため息をこぼす。

 

「……ダイヤ、一着だってさ。しかも、勝ち時計はレースレコードだって」

 

 俺の心配はまったくの杞憂だったようだ。

 

 本当に、彼女はたくましい成長を遂げてくれた。この何物にも代え難い喜びは、トレーナー冥利に尽きる。

 

「…………そう、ですか」

 

 ダイヤからの報告を受けて、前髪で隠れたマックイーンの表情がわずかに柔らかくなったような気がした。

 

「…………トレーナーさん」

 

 だがしかし、それはあくまでも一瞬だった。

 

 必死に絞り出すように声を震わせて、マックイーンが再び俺に問いかける。

 

「どうして……私がここにいると、分かったのですか?」

「え? ああ、それは……」

 

 俺が今いる場所は、本土から離れた地図にも載っていないような無人島だ。

 

 どういった経緯で、俺がマックイーンの元へと辿り着いたのか。

 

 ちゃんと説明しなければ、彼女にモヤモヤを残してしまうことになる。

 

「しらみつぶしに探したんだ」

「…………え?」

「君の一族が所有している療養施設とか、娯楽施設とか。情報を集めて、片っ端から」

「……」

 

 俺はたづなさんにダイヤの引率をお願いした後、真っ先にマックイーンが以前利用していたという山奥の療養施設へと足を運んだ。

 

 療養施設に勤務する使用人の方々はどうやら、マックイーンが失踪したという事実は把握していても、失踪先の居場所までは知らないとのことであった。

 

 一つの当てが外れた俺は、使用人からメジロ家が管理する施設の所在を聞いて、手当たり次第に彼女を探した。

 

 しかし、覚悟していたことではあるが当たり前のように一筋縄ではいかず、時間的にも体力的にも限界が来てしまった。

 

「まぁでも……当然、何の当てもなく探し回ったところで痕跡すら掴めなくて。その時、痛感したよ。俺はマックイーンのことを、本当に何も知らなかったんだなって」

 

 これがもし、物語の主人公だったとしたら。

 

 失踪したヒロインの居場所には当然のように心当たりがあって、自らを顧みず、誰よりも先にその人のことを見つけ出していただろうに。

 

 俺は、マックイーンのことを何も知らずに接し続けていた自分を恥じた。

 

 彼女の心の叫びを聞き取ってあげられなかった指導者の自分が、本当に情けない。

 

「だから俺は、マックイーンの居場所を一番知っていそうな人に直接聞きに行ったんだ」

「それ、は……」

「君の婆さんだ」

 

 何の手がかりも掴めない状況で捜索を続けても埒が明かないと判断した俺は、思い切って彼女の実家である北海道に飛んでいった。

 

 北海道後志地方南部に聳える羊蹄山の麓へ赴き、俺はメジロ家の現当主であるマックイーンの婆さんを訪ねた。

 

「婆さんに事情を説明して、君の居場所を聞いたんだ。そして親切にも、俺をここまで連れてきてくれて」

 

 マックイーンの婆さんと最後に顔を合わせたのは、今から約五年前。

 

 彼女とコンタクトを取ったのは、去年の六月に手紙をもらったのが最後である。

 

「マックイーンの居場所を教えてもらったのと同時に……婆さんから、()()を聞いたよ」

 

 マックイーンに打ち明けた通り。

 

 婆さんは本邸を訪れた俺に対して、今回の騒動に関する全容を包み隠さず話してくれた。

 

 彼女に深々と頭を下げられた時は、どうすれば良いのかよく分からなくなってしまったけれど……。

 

「すべ、て…………そう、ですか」

 

 マックイーンが繁靭帯炎を発症してからの経緯を聞いて、彼女が一人で抱え込み続けてきた切実な想いを知った。

 

「…………」

 

 俺の言葉を受けて、ターフの上にへたり込んだマックイーンが自身の腕を弱々しく抱きしめる。

 

「……ごめんなさい」

 

 そして、マックイーンは小さく丸めた肩を震わせながら、謝罪の言葉を絞り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()……嘘だったんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は彼女の赤裸々な告白に、静かに耳を傾ける。

 

「トレーナーになりたいという目標も、あなたが認めてくれた強かな私も……全部、弱い自分を守るための嘘で…………演技だったんです」

「……うん」

「私にはもう……あなたしか、いなかったんです。あなたという可能性に縋らないと、私は立ち上がることすら出来なかった…………っ」

 

 一人では到底抱えきれない未練を背負ったマックイーンを前にして、俺は思った。

 

 未練はきっと、志半ばで破れてしまった大きな夢の成れの果て。

 

 晴らしようのない未練に絶望し、もがき苦しむ感覚は胸が締め付けられるくらいによく分かる。

 

 嘘で塗り固めた仮面の下で、壊れた心を必死に抱きしめていた本当のマックイーンは……まるで鏡写しのような存在だった。

 

 未練を抱えたマックイーンの姿に、”ミライ”という未練に縋り続けていた三年前の俺の姿がぴったりと重なる。

 

 俺の目の前で静かに涙を流す彼女を見て、同情を覚えてしまうのはもはや仕方のないことだ。

 

「ごめんなさい……っ、ごめんっ、なさい…………っ!」

 

 そして、幾度となく謝罪の言葉を繰り返すマックイーンの姿に重ねてしまっていたのは……未練に溺れる俺の過去だけでは無かった。

 

 マックイーンが抱く未練の正体は、大切な夢を失って、もう一度挑戦するという選択肢を剥奪されたが故に生まれてしまったやるせない心の叫び。

 

 そんな彼女の姿には、不思議と心当たりがあった。

 

 

 

 

 

──私ね、みんなが憧れるようなウマ娘になりたいんだ!

 

 

 

 

 

……そう。

 

 

 

 

 

 俺が抱えきれない未練の中で生み出していた、賢明な選択肢の先に進んでしまったミライの()()である。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 俺は今一度、未練に縋りついていた頃の俺自身に問いかけた。

 

 

 

 

 

 マックイーンの姿を前にした上でもまだ、お前は過去の選択が間違っていたと言えるのか?

 

 

 

 

 

 ミライの心をズタズタにへし折って、大切な夢を奪い取った後の世界で……彼女は本当に笑っていられたと言い張れるのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなの、()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全ては俺の未練が生み出した、都合の良い未来の押し付けだったのだ。

 

「…………」

 

 マックイーンはこれから、抱えきれない未練を背負って長すぎる余生を生きていく。

 

 未練に追われる日常の息苦しさと、終わりの見えない絶望を永遠に強いられながら生きていくのだ。

 

 そんな彼女を、全く同じ地獄を二年間経験してきた俺が果たして無視できるというのか。

 

 見て見ぬふりを、し続けるというのか。

 

 

 

……そんなこと、できるわけがない。

 

 

 

 未練に蝕まれて壊れてしまった俺の心は、ダイヤの健気な行動の積み重ねによって救われた。

 

 ダイヤというかけがえのない存在がいなければ、俺は今頃どうなっていたことだろう。それは、想像もしたくないことだ。

 

 俺の心はダイヤに救われた。

 

 

 

……じゃあ、マックイーンの心は誰が救う?

 

 

 

 抱えきれない未練に追われる彼女を、一体誰が解放してあげられるというのだろうか。

 

「…………」

 

 幾度となく後悔を繰り返しては未練を生み出してきた生涯を振り返り、俺はその中で、自分という存在を象徴するどうしようもない本質を悟った。

 

 その本質を受け入れなければ……俺はミライと過ごした幸せな日々を、ミライが叶えた大切な夢を全て否定してしまうことになる。

 

 もう俺は、俺自身の心に嘘をつけない。

 

 幾度となく後悔を繰り返してきた失敗の中で、俺は見つけたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

──誰かの笑顔に、寄り添える存在でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

──誰かの夢を、全力で支える存在でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

──誰かの苦悩を、共に背負う存在でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

 それが俺という人間のどうしようもない本質から導き出された、指導者としての理想の在り方。

 

 俺の抱いた想いが正しいということは、大好きだったミライの笑顔が教えてくれた。

 

 俺達に残された選択肢はきっと、どれを選んだとしてもやるせない後悔と未練が付きまとってくることだろう。

 

 そんな絶望的な窮地に陥るまでに、俺達の現状は追い込まれている。

 

 それでも当時の俺と決定的に異なるのは、マックイーンにはまだ──()()()()()()()()()()ということだろう。

 

 どの選択肢に進んでも、俺達は必ず後悔する。

 

 再び大きな未練を抱えることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

──だったらせめて、明日の俺達が少しでも笑っていられる選択肢を選ぶべきだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マックイーン」

 

 

 

 俺は目の前でへたり込むマックイーンの傍へと歩み寄り、濡れた芝に躊躇わず立膝をついた。

 

 

 

 泥に塗れたマックイーンの前髪を右手で少しかきあげて、雨と涙で滲んだ彼女の瞳を見つめる。

 

 

 

「今まで、よく頑張った」

 

 

 

 マックイーンへおくる言葉に迷いは無かった。

 

 

 

「たった一人で辛いことを全部背負って、本当によく頑張った」

 

 

 

 何故なら俺と彼女は、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「もう大丈夫だ。マックイーンはもう、一人じゃない」

 

 

 

「………………ぇ」

 

 

 

 俺の言葉を受け取ったマックイーンが、耳を澄ませなければ聞き落としてしまう程に小さい呟きをこぼして、ずっと俯いていた表情をゆっくりと上げた。

 

 

 

 マックイーンの憔悴した瞳に、俺の姿が映り込む。

 

 

 

 俺はもう、マックイーンの心から目を逸らさない。

 

 

 

「どうか、聞いてほしい」

 

 

 

 鈍色にくすんだ瞳を真っ直ぐに射抜いて、俺は彼女に覚悟を語る。

 

 

 

 

 

「抱えきれなくなったマックイーンの未練は全て、この俺が一緒に引き受ける」

 

 

 

 

 

 抱えきれない未練に追われるマックイーンのことを、心に同じ傷を抱える俺だけが救ってあげることが出来る。

 

 

 

 

 

「マックイーンが風を切るために不要なものは、この俺が全部背負ってやる」

 

 

 

 

 

 助けを求めるマックイーンの心の声を、同じ悲しみを叫んだ俺だけが聞き取ってあげることが出来る。

 

 

 

 

 

「もう大丈夫。マックイーンはもう、つらい思いを一人で抱え込まなくて良いんだ」

 

 

 

 

 

 俺の”体質(ちから)”があれば、”不治の病”にもがき苦しむ彼女を……再び夢の舞台へと送り出してあげることが出来る。

 

 

 

 

 

「だから──」

 

 

 

 

 

 未練を抱えたマックイーンへおくる次の言葉は、彼女がひた隠しにし続けた本心に対する素直な返事であり、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──今度は俺と、一緒に走ろう。マックイーン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時に、臆病な自分自身へ向けた強かな決意の宣誓である。

 

 

 

 

 

「…………ぁ、………………ぁあ」

 

 涙で滲んだマックイーンの瞳が、俺を覚悟を受けて大きく見開いた。

 

 激しく声を震わせながら、彼女が俺に再三問うてくる。

 

「……そ、それっ、が……っ、あ、あなっ、あなたにとって……一体、どういうことを意味するのか、分かっているのですか…………?」

「ああ、もちろん」

「こ、後悔は……しないの、ですか……っ」

「後悔は……すると思う。でもそれは、今の俺達にとって最善の後悔だ。だから、大丈夫」

「わたっ、私を……見捨てるという、賢明な選択肢があるはずです…………」

「それは俺が、真っ先に捨て去った選択肢だ」

「………………」

 

 俺の素直な言葉を受けて、マックイーンが押し黙ってしまう。

 

 マックイーンは自身の頬を伝う大粒の水滴を拭うこともせず、やがて意を結したように固く噤んだ唇を震わせた。

 

「私は……あなたにずっと、嘘をついていたんですよ…………? それなのに……な、何で、あなたは私に…………手を差し伸べて、くれるのですか?」

 

 その疑問に対しては、もはや考えるまでもなく口から答えが飛び出してきた。

 

「それは俺が、マックイーンの担当トレーナーだからだ」

 

 それ以外に、理由なんていらない。

 

「…………………………」

 

 止めどなく溢れ続けるマックイーンの涙を拭き取ってあげたいけれど、あいにく俺も全身ずぶ濡れで、それをしてあげることは叶わなかった。

 

「良いかい、マックイーン」

 

 だから俺は、自分から出せる言葉を使って、不安に怯える彼女を安心させてあげなければならない。

 

「今日から俺達の間には、絶対的な信頼関係が必要になってくる。今のマックイーンにとって、誰かを信じることはとても辛いことだと思う」

 

 俺は今後、自身の”体質”を駆使して”不治の病”に侵されたマックイーンの身体の状態を完璧に把握し、再発の恐れがある限界ギリギリを見極めてトレーニングのメニューを考案する必要がある。

 

「でもそれは……俺達が山積みの問題を乗り越えるために必要な、最低条件に過ぎないんだ」

 

 対するマックイーンは、俺が導き出した精密なトレーニングメニューを、寸分の狂いなく完璧にこなし続けなければならない。

 

 並大抵の信頼関係では、もう一度夢の舞台へ上がる前にマックイーンの病が再発することなど目に見えていた。

 

 鏡写しの俺達に必要なのは──()()()()を絵に描いたような、何があっても決して綻ぶことのない絶対的な信頼関係。

 

「俺達が築きあげる関係は、心に負った同じ傷の舐め合いじゃない──()を生きる俺達同士で、手を取り合って一緒に頑張るんだ」

 

 

 

 ミライという取り返しのつかない過去に囚われ、彼女の存在しない未来を恐れて蹲ることしか出来なかった俺と。

 

 

 

 戻れない過去に大切な夢を落とし、未練と後悔だけが積み重なった未来へ進むことしか出来なかったマックイーンで。

 

 

 

 

 

 

 

──底知れない絶望に塗れた、()という瞬間を覆すために立ち向かう。

 

 

 

 

 

 

 

「……でも、俺達を取り巻く現状はとても厳しい」

 

 

 

 担当ウマ娘達と触れ合う中で生まれた新たな視点に立ち、俺は過去の後悔を振り返る。

 

 

 

 大切な教え子を喪失した心の痛みを、俺は決して忘れてはいけない。

 

 

 

 大切な教え子が叶えたかけがえのない夢を、俺は絶対に否定してはいけない。

 

 

 

 大切な教え子と歩んだ宝物のような時間を、俺は受け入れなければならない。

 

 

 

 

 

 大切な教え子に注いだ情熱を再び心に灯して──俺は乗り越えなければならない。

 

 

 

 

 

「……仮にマックイーンを、レースの世界へ送り出せたとしても」

 

 いくら特異な”体質”を持つ俺であったとしても。

 

 担当トレーナーとして出来ることには、残念ながら限りがある。

 

「左脚に大きな怪我を抱えている以上、以前と同じような走りをさせてあげることは出来ないかもしれない」

 

 ありったけの情熱をマックイーンに注いだとしても、俺は彼女の抱える未練を()()()()晴らしてあげられないかもしれない。

 

 それほどまでに、俺達の状況は追い込まれている。

 

……それでも。

 

「マックイーンがもし、それでも構わないと言うのなら……」

 

 俺はマックイーンの意志を確認するために、へたり込む彼女へと手を差し出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──俺に、考えがある」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後日。

 

 一年以上前に繋靭帯炎を発症し、長期療養へと移行した菊花賞ウマ娘──メジロマックイーンが、三ヶ月後に開催を控えるトゥインクル・シリーズ最長距離GⅠ重賞、天皇賞(春)への出走を世間に表明した。

 

 長期療養の意向が公表されて以来、音沙汰が無いことから、それが事実上の引退宣言であったという見方が一般的だった。

 

 そのような背景も相まって、唐突に出された正式な声明は、世間から大きな注目を浴びることとなったのだと思う。

 

 そして、それとはまた別の視点からも、世間は大きな衝撃を受けているような印象であった。

 

 その原因はおそらく、出走表明の際に公開された文章の端に記載された短い一文。

 

 

 

 

 

 

 

──チーム・アルデバラン所属:メジロマックイーン──。

 

 

 

 

 

 

 

 



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51:想いを込めた勝負服

 失踪したマックイーンの元へ無事にたどり着いた俺は、その先で彼女がひた隠しにし続けていた仮面の下の素顔を目の当たりにした。

 

 抱えきれない未練を背負ったマックイーンに対して自身の覚悟を語り、俺は彼女の手を引いて本土へと帰還する。

 

 来たる目標を三ヶ月後の天皇賞(春)に定めた俺達は、トレセン学園へ戻って来た瞬間からその達成に向けて行動を開始した。

 

 まず最初に、俺はマックイーンの活動拠点をトレセン学園からメジロ家の療養施設へと移行した。

 

 というのも、繋靭帯炎を患った状態で負荷の掛かるトレーニングをする場合、俺の"体質"があるといえど常にリスクと隣り合わせな時間が続くこととなる。

 

 最悪の事態が発生した場合には、迅速な措置を施さなければならない。

 

 メジロ家の療養施設にはそれらの設備が一通り揃っているため、トレーニングの安全性を少しでも高めることが移行の最たる目的であった。

 

 それ以外にも、現状のマックイーンは様々な不幸が重なってしまったことが原因で、心身共に非常に不安定な状態が続いている。

 

 極力周囲からの干渉を避け、傷付いた心を少しでも癒すための憩いの場を設ける必要があった。

 

 これから俺は一心同体の覚悟でマックイーンの指導に臨むわけだが……俺にはまだ、彼女と同等の情熱を注いで支えなければならない教え子がいる。

 

「……マックイーンさん」

 

 マックイーンと同じく、来年度の春に開催されるクラシックレースの重要な開幕戦──皐月賞を次走に控える担当ウマ娘のサトノダイヤモンド。

 

 互いに大切な夢が眠るレースを前にして、俺は片方の担当ウマ娘だけに傾倒することなど出来ない。

 

 そこで俺は、ダイヤをメジロ家の療養施設に招いて、一時的に彼女の活動拠点すらもこちらへと移し変えてしまおうという決断に踏み切った。

 

 事の経緯を秋川理事長やマックイーンの婆さんに包み隠さず説明し、その点に関しては承諾を得ることが出来た。

 

 二人の学業面に関しては、メジロ家が専属の家庭教師を配属してくれるとのことなので、俺達はその恩恵に素直にあやかることに。

 

……そして今、療養施設に訪れたダイヤは、数週間ぶりにチームメイトと再会の瞬間を迎えていた。

 

「……サトノさん。私は、あなたに謝らなければならないことがあります」

 

 再会早々。

 

 チームへと戻って来たマックイーンが、ダイヤに向けて深々と頭を下げた。

 

 そしてそのまま、マックイーンはチームメイトに対して一連の騒動を謝罪すると共に、彼女がひた隠しにしていた真実を包み隠さず打ち明けた。

 

 このような謝罪の場を設けてほしいと願い出たのは誰でもない、マックイーン自身であった。

 

「……そう、だったんですね」

「私はずっと……サトノさんに、嘘をついていました。本当に、申し訳ありません……」

 

 一連の騒動を経て、マックイーンの性格は大きく変わってしまっていた。

 

 繋靭帯炎の治療に伴う長期療養を乗り越えて学園へと復学したマックイーンは、自身の壊れた心を守るために用意した()()であった。

 

 しかし、嘘で塗り固めた仮面が壊れてしまったことで、演技を続けられるような状態では到底無くなってしまったのである。

 

 今こうして俺達の前に立っているのは、憔悴した素顔を覆い隠す術を失ってしまった、本当のメジロマックイーン。

 

「マックイーンさん、どうか顔を上げてください」

「……」

 

 マックイーンから全ての告白を聞き入れたダイヤが、頭を下げる彼女に対して柔らかな声音で語りかけた。

 

「私、とっても嬉しいです。マックイーンさんと一緒に走ることが出来るなんて、夢みたいです」

「……怒って、いないのですか? 私はサトノさんをずっと、騙していたというのに」

「当たり前です。マックイーンさんはこれまでの姿を嘘だったと否定されましたが……当時の私を気にかけて下さったマックイーンさんの姿勢は、紛れもない()()でした」

 

 ダイヤの指摘に対しては、俺も全く同じ意見を抱いていた。

 

 本心を偽り、周囲を欺くために用意したマックイーンの目標が全て、嘘であったとしても。

 

 彼女から指導を受けたダイヤは、著しい成長を遂げるに至った。

 

 そしてその成果は、ダイヤがレースで残した優秀な戦績がきちんと証明してくれている。

 

「マックイーンさん。兄さまが不在の間、私達のことを導いて下さって、本当にありがとうございました」

 

 マックイーンが罪悪感に苛まれながら繰り返していた、サポーターとしての行為。

 

 だがしかし、別の視点から物事を捉えれば。

 

 マックイーンは顧問が不在のチームを半年間支え続け、そこに所属するウマ娘達をたくましく成長させていたのだ。

 

「…………そう、ですか」

「ですからこれからは、私がマックイーンさんの力になります。なのでどうか、これ以上ご自身を責めないで下さい」

 

 ダイヤはマックイーンの両手を優しく包み込んで、強かに言い放つ。

 

「…………ありがとう、ございます。サトノさん」

「これから、一緒に頑張りましょう。マックイーンさん」

「……はい」

 

 紆余曲折を経て、俺はバラバラになったチームの欠片を一つ回収することが出来た。

 

 その過程でチームとしての関係性はより一層親密なものへと成長し、さらなる躍進を期待することが出来るだろう。

 

「それじゃあ、二人とも。今日から改めて、よろしく頼む」

「はいっ! よろしくお願いします、兄さま!」

「よろしく、お願いします。トレーナーさん」

 

 ここから続く三ヶ月間は彼女達だけでなく、俺にとっても大事な正念場だ。

 

 この二人の担当ウマ娘の命運は、担当トレーナーの俺に全てがかかっている。

 

 

 

***

 

 

 

 メジロ家の療養施設にチーム・アルデバランの活動拠点を移して、約一週間が経過した。

 

 療養施設を利用させてもらう中で衝撃的だったのは、設備の充実度が俺の予想を遥かに上回っていたことだろう。

 

 様々な設備の中で特に驚いたのは、老朽化した簡易ターフを取り壊し、増設という形で作られた新緑のターフ。

 

 ターフには全国に所在するレース場と同等の規格が採用され、照明設備も完備されているという充実ぶり。

 

 どうしてこんなアクセスの悪い田舎の療養施設にターフを増設したのか、甚だ疑問ではあった。

 

……だがしかし、このターフの建設に取り掛かった時期を()()()()()に照らし合わせてみると、あっさりと腑に落ちてしまったことを覚えている。

 

 ターフの建設が開始されたのは去年の二月頃。その時期はちょうど、マックイーンが繁靭帯炎を発症してから約四ヶ月後と重なるタイミングだ。

 

 つまりこの施設は、マックイーンがレースに復帰出来る可能性を愚直に信じ続けた彼女の婆さんが、孫のために私財を投じて建設されたものなのだと想像がついた。

 

 さすがはレース業界の名門メジロ家というべきか。勝利に対する執着心の規模が常軌を逸している。

 

……いや、これはきっと、孫を想う婆さんの一途な愛情の表れなのだ。

 

 そのような背景を持つ療養施設のターフで二人を指導して、特に、決死の覚悟でトレーニングに臨むマックイーンに関して色々と分かったことがある。

 

 良い傾向と悪い傾向の、両方だ。

 

「マックイーン」

「はぁ……、はぁ……っ、…………はい」

「やっぱりまだ、走るのが怖いか?」

 

 マックイーンを指導する中で掴んだ悪い傾向は、彼女の心に備わる防衛本能が繁靭帯炎の再発を恐れ、走ることに対して恐怖心を抱いてしまっているということだ。

 

 俺の指示に従ってターフを数周走り、息を切らした様子のマックイーンに歩み寄る。

 

「……ごめん、なさい。分かってはいるのですが……どうしても、恐怖心が身体にまとわりついてしまうんです」

 

 申し訳なさそうに自身の気持ちを報告するマックイーン。

 

 それほど負荷が掛からないトレーニングを指示しているためスタミナの消費は少ないはずだが、発汗が普段よりも激しかった。

 

 マックイーンの走りが、無意識の内に左脚を庇うような姿勢へと変化していることからも、その傾向は明らかである。

 

「焦らなくて良い。木陰で少し休憩しよう」

「……はい」

 

 俺は疲弊したマックイーンを周辺の木陰に連れてきて、その根本に腰を下ろしてもらった。

 

「左脚、触ってもいい?」

「……お願いします」

 

 その行動には、マックイーンが心を休める時間を確保すると共に、俺自身が彼女の身体の状態を確認したいという意図があった。

 

 俺は着用していた薄手の革手袋を脱いで、マックイーンが差し出した左脚に優しく触れる。

 

「…………ん」

 

 こうして俺が身体を触ることに対して、最初の数日は羞恥心を覚えていたマックイーンだったけれど。

 

 今ではこうして、すっかり従順に脚を差し出してくれるようになった。

 

 俺の特異な"体質"を駆使することが目的ではあるが、やっていることは普通の触診と同じだ。

 

「……うん。今日は身体の調子が良さそうだから、もう少し頑張ってみようか」

 

 ”体質”による診察の結果、異常なしであった。

 

 俺はいつものように、マックイーンの身体に生じる微細な変化をノートに書き起こして、彼女と同様に木陰で休憩を挟む。

 

 トレーニングの最中は常に極限まで気を張り巡らせているため、メリハリを意識して休める時にはしっかりと休んでおきたかった。

 

「トレーニングを始めてから約一週間が経ったけど……最近、どう?」

 

 俺は彼女との心の距離を少しでも縮めるために、体操座りをしながらぼーっとしているマックイーンに話題を振った。

 

「……不思議な気持ちです。もう一度走ることが出来て、この上なく心が満たされるような感覚と……怪我の再発を恐れるあまり、走ることを怖いと感じてしまう感覚が入り混じっていて」

「……そうか」

「でもやっぱり……嬉しいです。私はまだ、夢を諦めなくて良いんだって……そう考えると、少しだけ殻を破る勇気が湧いてくるような気がします」

「それは、良い傾向だな」

 

 全身にまとわりつく恐怖心を払拭することは、まだまだ一筋縄ではいかないだろう。

 

 だがしかし、それでもマックイーンは少しずつ前を向き始めているため、恐怖心を克服する日はさほど遠くないように感じる。

 

「トレーナーさん、ありがとうございます」

「お礼を言うのはこっちだよ。俺と再会するまで、夢を諦めないでいてくれてありがとう」

「……どういう、ことですか?」

 

 俺の突然の言葉に対して、隣に座るマックイーンが疑問を浮かべた。

 

「マックイーンはずっと、もう一度走るための準備をしてきた。だから長期療養を挟んで現役から離れていても筋力の衰えは最小限だったし、体幹やバランス感覚、スタミナだって健在だ」

 

 マックイーンの身体に触れて分かったことだが……彼女はもう一度夢に挑戦するため、いつでもチャンスを掴めるようにと身体の状態を保ち続けていたのである。

 

 走ることが出来ない分、筋力は基礎トレーニングやトレーニング器具を用いて維持し、スタミナは主に水泳といった運動を駆使してそれの著しい低下を防ぎ続けていた。

 

 その血の滲むような努力が身を結んで、マックイーンの身体はすぐさまトレーニングに復帰することが出来たのである。

 

「そのおかげで、当初想定していたプランをかなり前倒しすることが出来たんだ。本当に、感謝しかない」

「…………ただ、諦めが悪いだけです」

「俺はそんな諦めない気持ちが希望だったり、奇跡に繋がるんだって思ってる。諦めの悪さはきっと、マックイーンの大きな武器だ」

「……トレーナーさんは、口がお上手ですのね」

「指導者って、大体こんな感じだよ」

「…………そうやって、ミライさんを口説いたんですね」

「……」

 

 マックイーンと共に長めの休憩を挟んだ後、俺は再び彼女に指示を出してトレーニングを再会する。

 

 休憩前よりも少しだけ明るくなった表情でターフを駆けるマックイーンを見て、この調子なら大丈夫そうだと俺はしばし安堵した。

 

 そして、マックイーンが俺の視界から段々と遠ざかっていく姿を見守っていると、

 

 

 

「──トレーナーさん。マックイーンさんの様子はいかがですか?」

 

 

 

 背後からふと、馴染みのある女性から声を掛けられた。

 

「そうですね……この調子が続いていけば近いうちに、走ることに対して恐怖心を覚えてしまう現状を打破出来そうです」

「それは本当に良かったです」

「たづなさん、ダイヤの様子はどんな感じですか?」

 

 俺に声を掛けてきたのは、以前チーム・アルデバランの代理監督を勤めてくれた理事長秘書の駿川たづな。

 

 たづなさんは以前から、休職明けである俺のことを何かと気にかけてくれていて、最近はこうして療養施設まで足を運んでくれることも多かった。

 

「皐月賞へ向けて、とても期待が持てる印象でした。特にスタミナと根性に関しては、さすがと言ったところです」

 

 たづなさんが療養施設を訪れた際は、今日のようの俺と二人掛かりでトレーニングを実施することもしばしば。

 

「ただ個人的にはもう少し、スピードと瞬発力が欲しいと思いました。先行策に出る場合は、末脚の切れ味よりもラップタイムを刻むことに重きをおいた方が良いかもしれません」

 

 理事長秘書という役職に就くたづなさんだが、中央のトレーナーライセンスも当然のように持ち合わせているため、ウマ娘の指導に関しても彼女は一流であった。

 

「あとはそうですね……皐月賞に出走する場合、中山レース場の特徴である約二メートルの坂を二回超える必要がありますから、バ群の先団で息を入れるタイミングは掴んでおきたいです」

「なるほど、今後の参考にさせてもらいます」

 

 そして、たづなさんの指導を受けていたダイヤなのだが……現在は近くの木陰でドリンクの入ったボトルを片手に突っ伏していた。

 

 スタミナと息の入りに秀でた彼女が、たづなさんの指導でまさかあんな姿になってしまうとは……この後少し、声を掛けに行こう。

 

 さて、それはそれとして、俺は隣に立つたづなさんに対してどうしても聞いてみたいことがあった。

 

「たづなさん。少し聞きたいのですが……」

「何でしょうか?」

「最近よくトレーニングに顔を出してくれていますが……理事長秘書としての業務は大丈夫なんですか?」

 

 こうしてダイヤの面倒を見てくれていたたづなさんではあるが、本来の業務はトレセン学園理事長の補佐である。

 

 トレセン学園からこの療養施設まで移動するだけでもかなりの時間を要するはずだが……彼女は一体どうして、チームの様子を見に来てくれるのか。

 

「問題ありませんよ、これでも仕事の手際が良い方なので。それに私は一応、チーム・アルデバランの代理監督……サブトレーナーみたいなものですから」

「……なんか、すみません」

「謝らないで下さい。トレーナーさんにそんな顔をされると……どういう言葉を返せば良いのか、分からなくなってしまいますから」

 

 たづなさんも色々と思うことがあって、わざわざ療養施設まで足を運んでくれているのだ。

 

 お互いのためにも、余計な詮索はしない方が賢明なのかもしれない。

 

「ですが、そうですね……。確かに今の私は少し、トレーナーさんのチームに対して傾倒してしまっているかもしれません」

 

 たづなさんはマックイーンが走るターフを見つめながら、自嘲するように言葉をこぼした。

 

「理事長秘書とは本来、中立の立場であるべき存在ですが……。繁靭帯炎を発症してしまったマックイーンさんを見て……何故だかどうしても、放っておけない気持ちになってしまって」

 

 まるで自身の心の声に耳を傾けるように、たづなさんは静かに語る。

 

「怪我や事故で苦しむ子達を、私はたくさん見てきました。満足に走ることすら出来ず、涙を流しながら学園を去っていった生徒達を……私はたくさん知っています」

「……」

「ただその中でも私は、マックイーンさんだけに特別な眼差しを向けてしまったんです……これでは、理事長秘書失格ですね」

「それは、どうして……?」

 

 故障を経験したウマ娘を数多く目にしてきたたづなさんが、何故マックイーンだけに対してそのような感覚を抱いたのか。

 

 果たしてたづなさんがマックイーンへ向けているのは同情なのか、それとも、共感なのか。

 

 たづなさんの心境を推し量ろうにも、俺は残念ながら彼女のことをまだ何も知らない。

 

「私自身でも、色々とその理由を考えたのですが。強いて挙げるとするなら、そうですね。私とマックイーンさんが……」

 

 たづなさんは静かに瞳を閉じて、ゆっくりと言葉を吟味する。

 

 その仕草はまるで、在りし日の記憶に想いを馳せているかのように純粋で……胸を締め付けられるような悲しみに暮れているかのようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──()()()()()()()()()、でしょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メジロ家の療養施設に活動拠点を移してから、さらに約一ヶ月が経過した頃のことである。

 

「──わぁ……っ!!」

 

 普段から明るい笑顔が印象的な担当ウマ娘のダイヤだが、今日に限ってはそんなテンションに一段と拍車がかかっていた。

 

 しかし、彼女が全身で喜びを表現する理由は明白である。

 

「とっっても可愛いです……っ!!」

 

 ダイヤは今朝方、彼女宛にトレセン学園から送られてきたそれ──特注の勝負服を抱きしめながら全力ではしゃいでいた。

 

 URAが運営するトゥインクル・シリーズにおいて、最高クラスに位置付けられるGⅠレースへ出走する場合に限り、ウマ娘は自身を象徴する特別な勝負服を着用することが許可されている。

 

 ウマ娘本人がデザインを考案し、それを基にして勝負服デザイナーの方々が特注の勝負服を製作する。

 

 そして今日、来月にクラシックレースの開幕戦であるGⅠレース──皐月賞へ出走するダイヤの元に、完成した勝負服が届けられた。

 

 丁寧に包装された一張羅の勝負服を夢中になって見つめるダイヤを、俺は微笑ましい気持ちになりながら眺めていた。

 

「ついに私も、勝負服を着ることが出来るんですね……っ!!」

 

 専用の勝負服を身にまとってGⅠレースに出走することは、全ウマ娘にとっての憧れであり、夢であると言っても過言ではない。

 

「サトノさん。もしよろしければ、早速試着してみませんか?」

「えっ良いんですかっ!?」

 

 俺の隣でダイヤのはしゃぐ姿を眺めていたマックイーンが、彼女に対してそんなことを提案した。

 

「療養施設のトレーニングルームには、ダンスレッスンをするために設置された大型の鏡があります。空間も清潔で広々としていますから、勝負服を汚す心配もありませんし」

「ぜひお願いしますっ!!」

 

 マックイーンの提案に対してダイヤが食い気味に返事をすると、マックイーンは療養施設に勤める使用人に話を通して、勝負服の試着を手伝ってくれることに。

 

 俺達は早速場所を移動して、試着をするためのトレーニングルームへと足を運んだ。

 

「兄さま、少しだけ外で待っていてくださいっ」

「分かった」

 

 ダイヤとマックイーンが使用人の方々と共に部屋の奥へと入って行って、俺はしばらくの間手持ち無沙汰となった。

 

 ダイヤの着替えが終わるまでの間、俺はぼんやりと外の景色を眺めながら時間を潰していた。

 

……ああ、そうだ。勝負服といえば。

 

 かつての担当ウマ娘であったミライが初めて勝負服に袖を通した時も、ダイヤみたいに思いっきりはしゃいでいたっけ。

 

──ねぇねぇ見てよトレーナー! 私の勝負服、すっごく可愛いと思わないっ!? 特にこの耳飾りとかっ!!

 

 その日のミライは一晩中勝負服を着用し続けて、デザインの魅力を何回も何回も聞かされた記憶がある。

 

 騒がしくも鮮明に刻まれた教え子との思い出に頬を緩ませていると、どうやら意外と時間が経っていたようだ。

 

「──トレーナーさん、お待たせしました」

 

 トレーニングルームの外で時間を潰していた俺に対して、部屋の扉から首を出したマックイーンが声をかけてくれた。

 

「もう入っても良い?」

「ええ。勝負服を着たサトノさん、とっても綺麗ですよ」

「それは楽しみだ」

 

 マックイーンの言葉を受けて、俺の胸の中にある期待が否応無しに高まった。

 

 実を言うと、俺はダイヤが制作に携わった勝負服のデザインを知らなかった。

 

 というのも、ダイヤが勝負服デザイナーにデザインの原案を提出する際、俺は闘病生活を送るために学園を一時期離れていたからである。

 

 自身の晴れ舞台を鮮やかに彩る勝負服に、ダイヤは一体どんな想いを込めたのだろうか。

 

 はやる気持ちの赴くままに扉を開けて、俺は彼女が待つ部屋へと足を踏み入れる。

 

「──あ、兄さまっ」

 

 部屋へと入ってきた俺の存在に気付いたダイヤが、嬉々とした様子でこちらを振り返った。

 

 その仕草に呼応して、彼女の纏う勝負服の裾が煌びやかに靡く。

 

「…………」

 

 初めて目にする教え子の勝負服姿に、俺は言葉を忘れて見入ってしまった。

 

 綺麗だと思った。

 

 全身を優雅に彩る豪華なフリルがふんだんにあしらわれた、ドレスのような勝負服。

 

 胸元で燦然とした輝きを放ち、彼女という存在を象徴する純粋無垢な金剛石。

 

 美しいと思った。

 

「ど、どうでしょうか……?」

 

 硬直する俺の反応を窺うようにはにかむ彼女を見て……まるで、お姫様のようだと思った。

 

「…………」

「……兄さま?」

 

 一向に感想を口にしない俺を不審に思ったのか、いつの間にか目前まで迫っていたサトノダイヤモンドがこちらをのぞき込んでくる。

 

 目と鼻の先に近づいた端正な容姿に、うすらと化粧が施されていることに気が付いた。

 

 期待と不安が混じり合う宝石のような瞳が、俺の心を貫くように揺れ動く。

 

 薄紅をさした瑞々しい唇に視線を釘付けにされた俺の姿が、彼女のつぶらな瞳に映る。

 

「……あ、ああ。よく似合っているよ」

「……む、それだけですか? もうちょっと、言葉を工夫して下さい」

 

 あまりに美しい教え子の姿に見惚れてしまい、俺は感想を絞り出すだけで限界だった。その反応は案の定、勝負服姿の彼女を不機嫌にしてしまう。

 

「サトノさん。トレーナーさんは今、あなたの姿に魅入られているんです。言葉も出せないくらいに」

「兄さま、私に見惚れてくれているんですか?」

 

 ダイヤのむすっとした圧力に突き動かされるように、俺は彼女の言葉に対してひたすら首を縦に振る。

 

「そうですか……ふふふっ、じゃあ良いですっ」

 

 マックイーンの気の利いたフォローのおかげで、俺はすぐに、損ねてしまったダイヤの機嫌を取り戻すことができた。

 

 ダイヤは俺達の前から数歩下がると、勝負服を見せつけるような所作を披露して、その着心地を確かめた。

 

「何でしょう……勝負服を着ていると、身体の奥底から不思議な力が湧いてくるように感じます」

「勝負服とは自身の想いが凝縮した、分身のようなものですから。自然と力が漲ることでしょう」

 

 部屋の側壁に設置された大型の鏡を眺めながら年相応にはしゃぐダイヤを見て、俺はようやく心の昂りを抑えることに成功する。

 

「とても素敵ですわ、サトノさん」

「ありがとうございますっ、マックイーンさん!」

 

 俺の考えていることを全て代弁してくれたマックイーンには、感謝してもしきれない。

 

「せっかくなので、写真の撮影をするのはいかがでしょうか? 実は既に、腕利きの良いカメラマンを手配しています」

「本当ですかっ!?」

「ええ」

 

 用意周到なマックイーンの提案に対して、ダイヤが食い気味に反応する。

 

「……あっ、でしたら! マックイーンさんも一緒に写真を撮りましょう!!」

「え?」

「一緒に勝負服を着て、()この瞬間を記録するんです!」

 

 気分が高揚したダイヤの提案に、マックイーンはきょとんとした表情を浮かべていた。

 

「わ、私も……ですか?」

「だめ、でしょうか……?」

「い、いえ、そういうわけでは無いのですが……それではサトノさんが初めて勝負服に袖を通したという記念を損なってしまうのでは無いでしょうか?」

 

 ダイヤの提案に対して、マックイーンはあまり乗り気ではないようだ。

 

「そんなはずありません! 私、勝負服姿のマックイーンさんと一緒に写真を撮りたいですっ!!」

「…………わ、分かりました。サトノさんが、そこまでおっしゃるのでしたら」

 

 だがしかし、そんなマックイーンも最終的にはダイヤの熱意に絆されて、撮影に参加することを決意したようであった。

 

「……あの、トレーナーさん。申し訳ありませんが、今一度席を外していただくことは可能でしょうか?」

「ああ、分かった」

「ありがとうございます。それでは私は、自室に仕舞っていた勝負服を取ってきます」

 

 俺はマックイーンと共に部屋を出て、彼女の着替えが終わるのをゆっくりと待つ。

 

 俺はその途中、自身の部屋に眠っていた勝負服を大事そうに抱えて部屋へと入っていくマックイーンの姿を見た。

 

 再び手持ち無沙汰になった俺は、先ほど網膜に焼き付けた教え子の勝負服姿を思い起こしながら、ひたすら感慨に耽っていた。

 

 ダイヤと再会を果たしてから、もうすぐ一年が経とうとしているのか……とか。

 

 選抜レースで悔し涙を流した彼女が、こんなにも立派に成長してくれたのか……とか。

 

 過去を想起してすっかりと感傷に浸っていた俺だったが、扉の奥から入室の許可が下りたため、一旦思考をリセットしてから再び部屋へと踏み込む。

 

 景色が変わった視線の先に、マックイーンはいた。

 

 

 

 

 

 黒を基調とした気品溢れる勝負服に身を包んだマックイーンは、鏡の中に映る自身の姿を一心に見つめて……静かに涙を流していた。

 

 

 

 

 

「…………ぁ、トレーナーさん」

 

 俺の入室からしばらく遅れて、マックイーンが自分の存在に気付いた。

 

「も、申し訳ありません……最近少し、涙もろくなってしまって」

「そんなこと、誰も気にしないよ」

 

 頬を伝う雫を慌てて拭き取って、マックイーンは言葉を続ける。

 

「もう二度と、私はこの服を着ることが出来ないんだと思っていました。ですが今……私はこうして、思い出がたくさん詰まった勝負服に身を包んでいる。その事実が、どうしても信じられなくて…………」

 

 この世界が現実であることを確かめるように、マックイーンは鏡に映る自身の姿を食い入るように見つめた。

 

 そして、彼女は在りし日の記憶に想いを馳せるように、静かに頬を緩めながら独りごちる。

 

「この勝負服のデザインは……私が小さい頃、尊敬するおばあ様と一緒に考えたものなんです。一族の悲願と、私の夢と、在りたい自分を詰め込んだ、大切な勝負服なんです」

 

 マックイーンの夢が眠る天皇賞(春)の開催を目前に、彼女はウマ娘にとって”不治の病”と称される繋靭帯炎を発症してしまった。

 

 繋靭帯炎の発症によって当たり前だった日常が一変し、マックイーンは抱えきれない未練に苛まれながら生きてきた。

 

 そして今、そんな彼女が絶望の淵からもう一度這い上がって、自身の夢を象徴する勝負服に身を包んでいる。

 

 鏡に映る自身の姿を見て、マックイーンがいかなる想いを感じているのか。

 

 それは決して、想像に難くない話だ。

 

「よく似合っているよ、マックイーン」

「はい……ありがとう、ございます。トレーナーさん」

 

 マックイーンの勝負服姿を見ることは、今日が初めてではない。

 

 だがしかし、あくまでそれは記録された映像越しの姿である。

 

 実際に生で彼女の正装を目の当たりにすると、やっぱり漂う気品が違う。

 

 華のような優雅さと、孤高の気品に満ちた本来の姿に、俺の視線が吸い寄せられてしまう。

 

「さぁマックイーンさんっ、早速一緒に写真を撮りましょうっ!」

「あ、ちょ、ちょっと待って下さい……化粧直しをさせていただけないでしょうか。今のままでは、さすがに恥ずかしいです」

 

 涙の影響で少し崩れてしまったマックイーンの化粧を直した後、二人の撮影会が始まった。

 

 積極的なダイヤに流されて撮影に参加したマックイーンだったが、それを続けるにつれて緊張がほぐれてきたようだ。屈託のないダイヤの笑みにつられて、彼女の表情が柔らかくなっていく。

 

 そんな微笑ましい二人の姿を、俺は傍目から静かに見つめていた。

 

 そして、撮影会が始まってから数十分が経ち、二人は満足した様子で俺の元へと戻って来た。

 

「兄さま、良い写真がいっぱい撮れました!」

「ああ、とても楽しそうだった」

「撮影した写真につきましては、後日印刷してサトノさんへお届けします」

「ありがとうございますっ!」

 

 未だに興奮が冷めやらぬ様子のダイヤを見て、やはり勝負服というのはウマ娘達にとってかけがえのない大切なもの何だなと実感した。

 

「……あ、兄さま」

「うん?」

「今、スマートフォンをお持ちですか?」

「え、うん」

「一瞬、お借りしてもよろしいでしょうか?」

「あ、ああ。別に構わないけど……はい」

 

 俺はスーツのポケットに入れていたスマホのロックを解除して、言われるがままにダイヤへと手渡す。

 

「少々、お借りしますね……マックイーンさんっ!」

「えっ、サトノさ──」

 

 俺からスマホを借りたダイヤが、彼女の隣に立っていたマックイーンの腕を突然、ぐいっと胸元に抱き寄せた。

 

 二人の距離が縮まった瞬間を狙って、ダイヤが右手を宙に伸ばしてスマホを構える。

 

 そして、画面を内カメに設定した状態で、パシャリとシャッターが切られた。

 

 そして、撮影した写真を見て満足そうに頷いたあと、ダイヤは少しだけスマホの画面を操作して、俺に返してくれた。

 

「ありがとうございます、兄さま」

「あ、ああ……」

 

 いたずらに微笑むダイヤについていくことが出来ず、俺はただただ言葉を返すだけで精一杯だった。

 

 ダイヤは一体、何をしたのだろうか。

 

 そんな俺の疑問は、スマホの画面を付けた瞬間、すぐに分かった。

 

「いかがでしょうか?」

「……うん、すごく良いよ」

 

 待ち受けに設定された世界に一枚だけの写真を眺めて、俺はしみじみと呟いた。

 

「兄さまにプレゼントです。私達だと思って、大切にして下さい……ね?」

 

 もしかしたらダイヤは、過去に俺がスマホを壊してしまったことを覚えていたのかもしれない。

 

「ありがとう……あぁ、でもちょっと恥ずかしいな」

「は、え? 今の写真壁紙にしたんですのっ!?」

 

 俺のスマホの画面を覗き込んだマックイーンが、顔を真っ赤にして声を荒げる。

 

「さ、サトノさんっ、それなら事前に一声掛けてくださいましっ! 心の準備というものが……ぁ、あぁ、なんて間抜けな…………」

 

 マックイーンの言葉通り、確かに撮影された写真に写る彼女は驚いたような表情を浮かべており、対照的に撮影を企てたダイヤの笑顔は完璧に決まっていた。

 

「どんな表情のマックイーンさんも素敵ですよ?」

「ん"ん"ん"ッ……そういうことでは無くってですね…………はぁ、もう好きにして下さいまし」

 

 今のダイヤに対して抵抗することが無意味であると、どうやらマックイーンは悟ったようだ。力無く項垂れて、俺達から少しだけ距離を置いた。

 

「でも、そうですね……マックイーンさんがどうしてもと仰るのであれば、撮り直しを検討しても良いかもしれません」

「珍しいな、ダイヤがそんなことを言うなんて」

「実は私も、この写真に物足りなさを感じていたんです」

 

 ダイヤはスマホの画面に映る写真を眺めて、ぽつりと呟く。

 

 

 

 

 

「次に写真を撮り直す時は……()()()笑い合える瞬間を切り取りたいです」

 

 

 

 

 

 三人。

 

 それは、俺が今に至る過程で取りこぼしてしまった、もう一つの大事な欠片。

 

「……あぁ、そうだな」

 

 幸せな瞬間を切り取った二人の写真にぽっかりと空いた、虚しい隙間。

 

 ダイヤの言葉を一度受けてしまうと。

 

 この写真がどこか未完成で、主要なピースが欠けてしまった物足りなさを覚えてしまう。

 

 俺はまだ、取りこぼしてしまった欠片を全て回収することが出来ていない。

 

 まだまだ問題は山積みで、一体どこから手をつければ良いのか分かりかねているような状態だ。

 

 それでも俺は、後悔や未練を繰り返してでも前へ進むと決めたのだから。

 

 俺はもう、取りこぼしてしまった欠片の一つも諦めたくない。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 私の夢が眠る皐月賞の開催まで、残り一週間を切った。

 

 今年も四月に突入したことでトレセン学園は新学期を迎え、私は中等部二年生へと進級した。

 

 ここ最近はメジロ家の療養施設を拠点にして生活を送っていたため、実を言うと、自分が進級を果たしたという実感はとても薄かった。

 

「──ん、んんん…………っ!」

 

 皐月賞へ向けた調整用のトレーニングメニューをこなし、今は療養施設に設けられた露天風呂で身体の疲れを癒していた。

 

 季節が春を迎えたということもあって、澄んだ空間に流れる夜風がだいぶ気持ち良いと感じるようになった。

 

「やっぱり、露天風呂って良いですよね……景色もすっごく綺麗ですし」

「ええ……サトノさんの、おっしゃる通りです」

 

 マックイーンさんと一緒に夜景を眺めながら、私はしみじみと言葉をこぼす。

 

 療養施設でお世話になる中で、私はこうしてマックイーンさんと共にお風呂に浸かることが多くなった。

 

 約二ヶ月もの間生活を共にして、私とマックイーンさんの関係はとても親密なものになったような気がする。

 

 いわゆる、裸の付き合いというやつだ。

 

「皐月賞の開催まで、ついに一週間を切りましたが……やはり、いくら強かなサトノさんといえど、緊張してしまうのですね」

「あ、当たり前ですよっ」

 

 マックイーンさんの指摘通り。

 

 私が抱いた夢に挑む瞬間はもう、間近に迫っている。

 

 それも、条件レースやGⅢ重賞と言ったステップではない。目の前に私の夢が眠る──本番のGⅠレースなのだ!

 

「ついに私も、憧れるだけだったGⅠレースへ出走するんですよね……」

 

 その事実に対して未だに実感が湧いておらず、私は口元まで深く湯船に浸かって、ぶくぶくと泡をこぼした。

 

「クラシックレースは、ウマ娘にとって生涯一度きりのレースですから。悔いが残らぬよう、サトノさんには思いっきり楽しんでほしいですわ」

「よ、余計な緊張を煽らないで下さいよっ!」

「ふふっ……ごめんなさい、サトノさん」

 

 二人で冗談を交わし合う中で、マックイーンさんが静かに微笑んだ。

 

 そんなマックイーンさんの姿を前にして、物申したい気持ちをすっかり忘れて私も一緒に笑った。

 

 同じ時間をマックイーンさんと共に過ごす中で、彼女の心にも随分と大きな変化が生じたように感じる。

 

 マックイーンさんの表情に笑顔が戻ってきたのは、ついつい最近のこと。

 

 マックイーンさんが自然な笑顔を取り戻しつつあるということは、彼女の心に刻まれた傷が癒えてきた証拠なのだと思う。

 

 それは、とても良い傾向であった。

 

「マックイーンさん」

「何でしょうか」

 

 そして、私がマックイーンさんと再会を果たした瞬間からタイミングを見計らって、彼女にずっと伝えたかった言葉がある。

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「……?」

 

 マックイーンさんにはずっと、感謝の気持ちを伝えたいと思っていた。

 

「兄さまのことを、見つけて下さって」

「……」

 

 かつて私達と共に、この世界から失踪した兄さまのことを探してくれたのは他でもない……メジロ家の方々だった。

 

「”星の消失”が原因で兄さまが失踪して……私は、死に物狂いで兄さまを探しました。ですが私の家の力では、一年以上捜索を続けても、兄さまを見つけ出すことが出来なくて」

「……」

「当時の私はもう、兄さまのことをすっかり諦めてしまいました。ですが、メジロ家の方々が兄さまを探されているとの情報が入って、それから一ヶ月も経たないうちに痕跡を掴んで……そして、今の私がいるんです」

 

 当時の私は、メジロ家の方々が兄さまの捜索にあたる目的へ目を向ける余裕がなかったが……今になって考えれば、お互いに切実な想いで彼に縋りついていたんだなと思った。

 

「ありがとうございます、マックイーンさん。私をもう一度、兄さまに会わせて下さって……本当に、ありがとうございます」

 

 メジロ家の助力がなければ、今の私は一体どうなっていたことか。そんなことは、想像もしたくない。

 

 兄さまが隣にいない世界なんて、胸が苦しくて生きていける気がしない。

 

「…………私には、誰かから感謝される権利なんてありませんよ」

 

 私の心からのお礼を言葉に込めたつもりだった。しかし残念ながら、マックイーンさんがそれを受け取ってくれることは無かった。

 

「全て……打算だったんです。あの人の力を借りれば、私はもう一度走れるかもしれない。藁にも縋るような思いで、私は心に傷を負ったあの人を…………利用しようとしただけなんです」

 

 マックイーンさんがこぼした、憂いを帯びる懺悔の言葉は。

 

 かつて兄さまの期待を身勝手に裏切った私の心に、いつの間にか薄れてしまっていた罪悪感を再び呼び覚ました。

 

「結果的に、あの人は私のことを助けてくれました。もう大丈夫だと声を掛けて下さって……足を失った私の手を引いて、導いて下さる」

 

 兄さまがマックイーンさんに施すトレーニングは、まるで魔法のようであった。

 

 繁靭帯炎の再発率が八割を超えている状態にも関わらず、二ヶ月間に及ぶトレーニングを経てもマックイーンさんの脚が壊れる気配は見られない。

 

 高い負荷のトレーニングを施したら、今度は軽いメニューを繰り返して身体に蓄積した疲労を抜き取る。トレーニング後のアフターケアも入念で、摂取する食事や睡眠時間すらも考慮してメニューを組んでいると、以前彼は言っていた。

 

 マックイーンさんの身体の状態を完璧に把握したような奇跡の芸当に、私は驚愕の連続だった。

 

 多分、今の兄さまはこの世界の誰よりも、マックイーンさんのことを理解しているのだと思う。

 

「あの人に対する感謝の気持ちが膨れ上がるたびに……私の中で、大きな罪悪感が芽生えてしまうんです」

「その気持ちは……私も同じです」

 

 兄さまは自分の身を粉にして、私達のために尽くして下さっている。

 

 それなのに私ときたら、兄さまの体調の異変に気付けずのこのこと危険に晒し、彼の優しさを享受するだけの存在になってしまっていた。

 

 そんなこと、あっていいはずがない。

 

「……()()()

「……え?」

「マックイーンさん。私、兄さまに恩返しをしたいです」

 

 だから今からでも、兄さまから貰ったものを少しずつでも返していきたい。

 

「兄さまに世界で一番相応しいウマ娘になって、感謝の気持ちを立派な結果でお返ししたい」

 

 私達はウマ娘だから。

 

 私達に出来る最大限の栄光を、最高の形で兄さまに届けたい。

 

「皐月賞に勝って、GⅠウマ娘になって、日本一のウマ娘になって、無敗の三冠ウマ娘になる。そしていつか……ミライさんに負けないくらい素敵な、世界一のウマ娘になります」

 

 私が夢を叶えて、兄さまに最高の恩返しをする。

 

 そうでもしないと、私は彼の無条件の優しさに報いることなんて到底出来ないから。

 

「…………私は」

 

 私の宣誓に続くように、マックイーンさんが慎重に言葉を吟味しながら決意を語った。

 

「私に出来ることは、そうですね…………レースに出て、無事にあの人の元へ帰ってくること……でしょうか」

 

 喜びと悲しみが複雑に入り混じった言葉をこぼして、マックイーンさんは無数の星が輝く空を見上げた。

 

「本当は……私を支えて下さったあの人に、レースに勝利して応えたい。ですがそれは残念ながら、現実的な話ではありません」

 

 マックイーンさんが兄さまの指導の下で二ヶ月間のトレーニングを積んだとしても、一年以上のブランクを完璧に埋めるにはまだまだ至らない。それでも彼女は、今あるもので戦わなければならない。

 

「何せ……私の相手は、未だ無敗のトウカイテイオー。レースの世界で偉業を刻み続ける、現役最強のウマ娘なのですから」

 

 絶望的な現状を客観視して言葉を選んでいたマックイーンさんだったけれど、その声音は不思議と軽やかで。

 

「だからと言って、負ける気は毛頭ありませんよ。天皇賞(春)の制覇は、絶対に諦められない私の夢なのですから」

 

 不敵に微笑むその姿は、私のよく知る憧れの方とそっくりだった。

 

「一緒に頑張りましょう、マックイーンさん」

「ええ、一緒に」

 

 星空が見守る世界の下で小指を交わした、小さな約束。

 

 私達はこれから夢へと挑む。

 

 その長い旅路を支えてくれた大切な人の存在を、私達は決して忘れてはならない。



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52:電光石火の皐月賞 上

 四月十七日、日曜日。

 

 雲一つない快晴の下、鮮緑のターフがそよぐ中山レース場に集った総来場者数、衝撃の十一万人。

 

 足の踏み場もないような間隔で往来する観客の目的は言わずもがな、今年のクラシックレースの開幕戦──GⅠ重賞:皐月賞。

 

 URAが運営するトゥインクル・シリーズにおいて、皐月賞は”五大競走”に指定される最高峰のGⅠレースだ。

 

 皐月賞の出走時刻は、本日の十五時四十分。現時点ではまだ第一レースの出走すら迎えていないというのに、会場は既に嵐の中の荒波と化している。

 

 俺達は会場が人の波でごった返すことを見越して、前日に宿泊した中山レース場付近の旅館から早急にチェックアウトを済ませていた。

 

 その甲斐もあって、俺とダイヤは人混みに巻き込まれることなく運営側が用意してくれた控室にたどり着くことが出来た。

 

 持参した荷物を一旦下ろして、俺達は控室に備え付けられたテーブルの椅子に腰掛ける。

 

「少し休憩を挟もう。皐月賞の出走時刻までまだまだ余裕があるから、ダイヤは控室でくつろいでいてくれ。俺はその間に、色々と準備を進める」

「分かりました」

 

 ちなみにダイヤに与えられたこの個室は、重賞レースに出走するウマ娘のみが使用出来るちょっと特別な控室である。

 

 空間は全体的に広々としていて、先天的に狭い場所を苦手とするウマ娘にストレスを与えないような設計となっていた。

 

 控室は外部との接触を完全に断つことが出来る場所に設けられているため、選手は心置きなく集中力を高めることが出来る。

 

 いくつかの修羅場を自身の足で切り抜けてきたダイヤといえど、さすがにGⅠレースともなれば緊張でガチガチになってしまうのも無理はない。

 

「パドックの開始は出走時刻の三十分前だから、勝負服を着るのは十四時を回ってからにしよう」

「そ、そうですよねっ」

 

 俺はそそくさと勝負服を抱えて部屋の奥に消えていこうとするダイヤを引き止めた。

 

 ダイヤの場合は特にそうだが、勝負服に袖を通す際にはスタッフの人達が着用の手助けをしてくれる。

 

「えっと、つまり……あと数時間は控室で手持ち無沙汰ってことでしょうか」

「まぁ、そういうことになるかな。ちなみに、控室の外へ出るのはやめた方がいい。最悪、観客に捕まったら戻ってこれなくなる」

「き、肝に銘じます」

 

……さて。

 

 緊張をほぐすためにくつろいで良いとは言ったけれど、忙しなく尻尾が揺れ動く状態では、肩の力を抜くことなんて出来ないだろう。

 

 マックイーンがこの場にいれば先輩からの助言を貰うことが出来たかもしれないが、彼女にはまだ精神的に不安定な面が存在する。そのため、彼女は現在、療養施設からダイヤのことを応援してくれていた。

 

「よし……それじゃあ一度気持ちを切り替えるために、作戦の最終確認をしよう」

「……っ」

 

 出走までの待機時間はなるべく有効に活用したい。俺は何か別の物事に集中させることで、彼女の緊張を和らげようと試みる。

 

 俺とダイヤはテーブルを隔てて対面する形で、その席へ静かに腰を下ろした。

 

 まずは簡単に、ダイヤが出走するレースの概要から。この辺りは何度も説明しているため、軽く流す程度に留めておく。

 

「GⅠ重賞:皐月賞。中山レース場:芝二千メートル右/内。バ場状態は非常に良好で、フルゲート十八人で出走する。ダイヤの枠番は六枠十一番だ」

 

 天気予報では明日から二週間程度、全国的に不安定な天候が続くとのこと。なので、快晴の空でレース本番を迎えることが出来たのは非常に大きかった。

 

「それじゃあ早速、本題の作戦について再確認していこう」

 

 ダイヤは今回、基本戦術を大きく変更して皐月賞へと挑む。

 

 具体的には、末脚を生かした差しの戦術から、序盤から好位につけて良い脚を長く使う()()()への転換である。

 

 中山レース場:芝二千メートルというコースの特徴として、最終直線が非常に短く、高低差約二メートルの坂路をスタート直後とゴール直前で二周するといったことが挙げられる。

 

 特にこのゴール直前の坂路が害悪で、終盤に突入するまでにスタミナとパワーを温存しておく必要がある。そのため全体を通してスローペースになりやすく、先行集団に脚が残っていることが多い。

 

 加えて最終直線の距離が三百十メートルとなっており、末脚を得意とするウマ娘がそれを活かしきれないといった展開も多く見られる。

 

 皐月賞の制覇に向けて、他のライバル達は必ずダイヤの末脚を対策してくる。ならいっそ、一番の武器を捨ててしまおう。相手の意表を突いてマークを弱らせ、電光石火のように二千メートルを駆け抜ける立ち回りが、俺達の作戦であった。

 

「トレーニングの成果を発揮できれば、ダイヤなら新しい戦術も難なくこなせるはずだ。去年の自分とは違うってことを、みんなに見せつけてやろう」

「はいっ」

 

 仮に当初の作戦が上手く決まらなかった場合でも、俺達は二の矢三の矢を抜かりなく用意している。盤石の布陣を敷いて、俺はダイヤを夢の舞台へと送り出すのだ。

 

 皐月賞を想定したトレーニングはこの数ヶ月間で散々行なってきた。もはや身体に染み付いているレベルと言っても過言ではない。

 

「そして……重要なのはここから。皐月賞に出走するウマ娘の情報について、今一度注意するべき相手を押さえておこう」

 

 俺はダイヤに対して、作戦の概要が記された書類とは別の書類──独自に偵察した出走ウマ娘の情報が記載された──を手渡し、最終確認作業に入る。

 

「一番警戒すべきウマ娘は、チーム・リギルに所属するドゥラメンテ。二番人気に推されたウマ娘だな。去年のホープフルステークスを見れば分かると思うけど……ドゥラメンテの末脚の爆発力は、ぶっちゃけヤバい。今回俺達が実行する作戦は、彼女の末脚を振り切るためのものと言っても過言じゃない」

 

 トレセン学園で最強集団の一角として名高い、チーム・リギルの新星エース。東条トレーナーが手塩にかけて育てたドゥラメンテは、皐月賞の前哨戦である弥生賞を圧勝し、今最も勢いのあるウマ娘と言えるだろう。

 

 ドゥラメンテ最大の武器は言わずもがな、その冠名を彷彿とさせる荒々しい強靭な末脚。

 

 地形やバ場状態、レース展開をものともしない彼女の追い込みをねじ伏せるためには、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()必要がある。

 

 ダイヤが皐月賞を制覇するためには、仕掛けどころは絶対に失敗できない。

 

 そして、ダイヤが警戒すべきウマ娘は他にも数多く存在する。

 

 先月のスプリングステークスで一着となった三番人気、リアルスティール。

 

 ジュニア級GⅠ重賞、朝日杯FSを制覇した四番人気、リオンディーズ。

 

 トライアルに指定された若葉ステークスを叩いて本番に臨んだ五番人気、マカヒキ。

 

 ホープフルステークス二着、スプリングステークス二着と善戦を続ける六番人気、チーム・スピカ所属のキタサンブラック。

 

 皐月賞制覇の有力候補として名前の挙がる彼女達は、ほとんどが後方からのレース展開を得意としている。

 

 後方集団に大きな団子が生まれれば、条件クラスの二の舞を演じてしまうのは目に見えていた。

 

 その点からも、ダイヤが先行策に打って出ることが出来たのはとても大きなアドバンテージだ。

 

「それで……今回の作戦では以前にも説明した通り、相手をマークする立場に回ってもらう。誰をマークして、彼女達をマークする目的が何か。もう一度、説明する必要はあるか?」

「いいえ、大丈夫です」

「なら良し」

 

 ダイヤ自身も俺が提案した作戦の要点を理解しているため、最終確認はこの辺りで終わっても良いだろう。

 

「……あとは、そうだな。中山レース場のバ場は基本的に、内ラチが荒れている傾向がある。良バ場といえど、進路選びは慎重に見極めた方が良い」

「分かりました」

「ミーティングで話すことはこれくらいだけど、何か聞いておきたいことはあるか?」

「大丈夫です」

 

 こうしてダイヤと共に入念な確認作業を終えたわけだが……時間にして、ようやく第一レースの出走時刻を迎えた程度だ。

 

 第十一レースに予定されている皐月賞の出走まで、五時間以上待機している必要がある。

 

「…………」

 

 先程からダイヤも緊張でガッチガチだし、一度座った椅子から立ち上がろうともしない。

 

 そんな彼女の姿を見ていると、現在大勢のファンから注目を浴びている強かなウマ娘といえど、こういうところは年相応の女の子なんだなって思ったりもする。

 

「…………」

 

 そして……そんな彼女を温かい眼差しで見守る俺も、実は内心バクバクだったりする。

 

 何故なら今日は、教え子の夢が叶うかもしれない本当の晴れ舞台。しかも、ウマ娘にとって生涯で一度きりのクラシックレース。

 

 ダイヤを支える指導者として、彼女に余計な心配を掛けさせないようしっかりしなければ。

 

「……兄さま」

「うん?」

「兄さまも、緊張されているのですか?」

「…………ごめん」

 

 しかし、俺の緊張はどうやら教え子に筒抜けだったようだ。

 

「隠していたつもりだったんだけど、よく分かったな」

「ずっと見ていましたから。兄さま、緊張すると左手の革手袋をくいってしますよね」

「……あ」

 

 ダイヤに指摘されて、俺は自身の左手に視線を落とす。

 

 確かに俺は、右手で反対の革手袋の付け根を引っ張ることがある(今もそうだ)。

 

 手袋をピシッと伸ばすと、何だか身が引き締まるような気がして。

 

「ふふっ。私達、お揃いですねっ」

「お揃いだな」

 

 お互いに笑い合って、少しだけ場の空気が軽くなったように感じる。

 

「だいぶレースには慣れてきたと思っていたんですけど……緊張して震えが止まりません。これが、GⅠレースというものなのですね」

 

 トゥインクル・シリーズで開催される年間レース数は、約三千四百レースあるとされている。

 

 その中で開催される重賞競走の合計は、百三十八レース。

 

 そして、世間が最も注目するトゥインクル・シリーズ最高峰のGⅠ重賞は──たったの、二十六レース。

 

 やはり、重みが違うのだ。知名度も、賞金額も、得られる名誉も……何もかも、GⅠレースは格が違う。

 

 だからこそ、多くのウマ娘がGⅠレースという晴れ舞台に夢を抱いて、世界中の人々がこぞって熱狂する。

 

「……ミライさんも、初めてGⅠレースに挑んだ時は……私のように、緊張を感じていたのでしょうか」

 

 以前は熱狂する立場にあったダイヤが、在りし日に抱いた胸の高鳴りを呼び覚ますようにしみじみと呟いた。

 

「世界中の方々を魅了して、誰よりも速くターフを駆け抜けて。そんな素敵な姿に魅せられた私が、同じ世界に飛び込もうとしているなんて……いまいち、実感が湧かないです」

 

 ミライ、か……。

 

「そうだな……あいつ、みんなが見ている場所では余裕があるように振る舞ってたけど、控室ではいっつも顔を真っ青にしながら緊張してたよ」

 

 あいつはどうも、見えっぱりな側面があったから。

 

 わがままな性格を周囲にはひた隠しにして、緊張を何とかしろと毎回せがんで来たっけ。

 

「メイクデビューの時ですら、緊張しすぎて泣きついて来るくらい。世界的アイドルウマ娘ってチヤホヤされて得意になっても、レース直前の姿はどこにでもいる普通の女の子だったよ」

「そう、なんですか……。ミライさんほどのウマ娘でも、やっぱり緊張はしてしまうんですね」

「ああ。それに、緊張するってことはそれだけ、真剣に準備を積み重ねてきたってことの裏返しだ。武者震いみたいなものだから、あまり重く受け止めすぎない方が良い」

 

 この手の緊張は、レース直前の返しに取り組む頃には案外、身体の中から消え去っているものだ。

 

「……そう、ですよね。せっかくのGⅠレースなんですから、楽しまなきゃいけませんよね!」

「ああ、そうだな」

「実はですね。昔、親友のキタちゃんと一緒のレースに出て勝負しようねって約束していたんですっ。その舞台がまさか、GⅠレースになるだなんて……っ!」

 

 そこからは少しずつダイヤの口数が増していって、彼女との雑談に興じている内に、いつの間にか昼食の時間帯を迎えていた。

 

 レースに支障をきたさない程度に空腹を満たして、もうしばらく二人で出走までの時間を潰した。

 

 そしてそろそろ、当初予定していた勝負服に着替える時間が目前に迫っている。

 

 

 

「…………」

 

 

 

……のと、同時に。

 

 ダイヤの全身を蝕む緊張も、最高潮に達しつつあった。

 

 先程までの穏やかだった様子が一変して、緊張による症状が目に見えて大きくなる。

 

 思い詰めたように視線を落として、膝の上で両手を揃えるダイヤの身体は震えが止まらなくなっていた。

 

 俺はそんな姿を見て、少しだけまずいなと思った。

 

 さすがに武者震いと言い聞かせるには無理があるレベルに達しようとしている緊張を何とかしなければ、この後のレースに影響が出てしまう。

 

 ダイヤを支える担当トレーナーとして、彼女をこのまま晴れ舞台へ送り出すわけにはいかない。

 

 今の俺に、何か出来ることは無いだろうか。

 

 とは言っても緊張を解きほぐす手段はあらかた試したし、既に万策は尽きている。

 

「…………っ」

 

 ダイヤの緊張や不安を和らげてあげるために、俺は何をするべきか……いや、逆に考えよう。

 

 俺が不安や緊張を感じていたとき、それらをどうやって解消させていただろうか。

 

 そこを辿れば、何か良い方法が見つかるはずだ。

 

「…………ぁ」

 

 ここ一年程度の出来事を振り返っている途中、俺はふと気がついた。

 

 自分が抱えきれない未練に押しつぶされそうになって、大きな不安を感じていたとき……俺は一体、どうやって乗り越えていたのか。

 

 だがしかし、それを実行するのは非常に勇気がいることであって、ヘタレな俺にはそんな甲斐性なんて当然備わっていなかった。

 

「……」

 

 俺は自分の中でしばらく葛藤を続けて。

 

 俺はついに、一つの結論を導き出した。

 

「ダイヤ。ちょっと、こっち来て」

「……え? は、はい」

 

 俺は椅子に座って思い悩むダイヤを手招きして、目の前まで来てもらう。

 

 そして、その手招きの意図を掴めずきょとんとするダイヤをよそに、俺は……。

 

「……失礼」

 

 

 

 

 

 ダイヤの背中と後頭部に両腕を回して、彼女を俺の胸元へと抱き寄せた。

 

 

 

 

 

「………………ぇ、ぁっ」

 

 

 

 

 

 突然のことでダイヤの重心が前方に傾いて、彼女の頭が俺の胸板にとすんと触れる。

 

 

 

 

 

……やっぱり。

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「俺が不安になった時、ダイヤはいつもこうしてくれたから。だから、今度は俺の番」

「……ぇ、ぁ、あっ、え、えとっ」

「心が不安定になった時は、誰かの温もりを感じると良いらしい。それは言葉とか、態度とかでも良いんだけど……こうして抱きしめてしまうのが、人の体温を直に感じることができて一番手っ取り早い」

 

 突然のことで動揺した様子のダイヤだったが。しばらく一方的な抱擁を続けていると……次第に抵抗は薄くなっていって、腕の中ですっかりおとなしくなった。

 

「今みたいに、ダイヤが俺のことを何回も抱きしめてくれて……あれ、ちょっと癖になってるんだよ。ダイヤの体温を感じていると、心の底から安心出来るっていうか」

 

 俺がこうしてダイヤを抱きしめているのはきっと、彼女の緊張を解きほぐしてあげたいと思うのと同時に、自分自身の不安も解消したかったからなんじゃ無いかと思う。

 

「ダイヤの努力は、俺が一番よく知ってる。ダイヤの力があれば絶対に夢を掴むことが出来る。だから、何も心配しなくて良い。ただただ思いっきり、ダイヤにはレースを楽しんでほしい」

 

 俺はダイヤに緊張を解きほぐすための言葉を送りながら、小さな背中を優しくさすった。

 

「…………」

 

 それから程なくして、ダイヤの宙に逆立った尻尾が穏やかに揺れ始め、俺の身体にも彼女の華奢な両腕が回された。

 

 ダイヤは俺の胸元に顔を押し当てて、身体に蓄積した不安を根こそぎ吐き出すように、深呼吸を繰り返した。

 

「…………兄さま」

「うん?」

「少しくさいです」

「え”っ”」

 

 ウマ娘は人間よりも格段に優れた五感を有しているため、体臭にはめちゃくちゃ気を遣っていたはずだったのだけれど……。

 

 俺は緊張に苦しむダイヤを楽にしてあげるどころか、彼女を苦しめてしまっていたようだ。

 

……あぁ。

 

 俺はまた、なんて余計なことを……。

 

 変な勇気なんて出さなきゃよかった。

 

 俺は教え子から逆に心を抉られるような指摘を受け、慌てて彼女を身体から引き剥がそうと試みる。

 

 だがしかし、俺がダイヤから距離を置こうと身を捩るたびに、身体にまとわりついた彼女の腕に力がこもって離れられないのだ。

 

「……えっと」

「…………すぅぅ………………はぁぁぁぁ……………………っ」

「臭いなら、早く離れた方が良いんじゃないか?」

「…………………………………………」

 

 内心、俺は後悔していた。

 

 くさいと文句を言っているはずなのに、今やっている彼女の行動が矛盾している。

 

「…………兄さま」

「……う、うん」

「もう少し、強く抱きしめてくれませんか? ちょっと痛いくらいが良いです」

 

 胸元に顔を埋めたまま、ダイヤが俺に要求してくる。

 

 俺から始めた抱擁だから、ダイヤが良いなら、別にいいんだけど……。

 

「兄さま……私、頑張ります」

「……ああ」

「頑張って、夢を叶えて来ます。マックイーンさんと交わした約束を果たして、兄さまに恩返しをします」

「うん、楽しみにしてる」

 

 お互いの温もりを感じながら言葉を交わしていると、控室の扉がコンコンコンッとノックされる音が響いた。

 

 もうそろそろ、準備を始める時間だ。

 

「兄さま。私、一番最初に帰ってきますから」

「ああ、ゴール前で待ってる。思いっきり、楽しんでこい」

「はいっ」

 

 ダイヤとの抱擁を解いた後、俺は控室を出てそのままターフがある会場へ足を運んだ。

 

 足の踏み場もないような人混みの隙間を何とか切り抜けて、俺は何とかゴール位置に一番近いメインスタンドの場所を確保することが出来た。

 

 途中の方からは、何故か俺の姿を見た観客達が自然に道を開けてくれたのだが……まぁ、都合が良かったので、彼らの厚意にあやかることにした。

 

 本当は皐月賞に出走するウマ娘達のパドックを直接見たかったけれど、それだと本命のレースを一番良い場所から観戦することが出来なくなってしまう。

 

 なので俺は仕方なくターフビジョンに流れる映像で、勝負服のお披露目となるウマ娘達の姿を確認した。

 

 人気順に出走ウマ娘達の紹介が行われて、ついに俺の本命である、一番人気のサトノダイヤモンドが高貴な勝負服に身を包んで姿を現した。

 

 ダイヤの勝負服をお披露目するのは、世間にとってはこの瞬間が初めてだったはずだ。

 

 元々非常に端正な容姿と驚異的な実力で人気を博していたダイヤの勝負服姿に、会場のボルテージがすごいことになった。

 

 出走すら迎えていないのにも関わらず、鼓膜が破れてしまうような熱狂具合だ。

 

 本当に、ダイヤはたくさんの人達から愛されているんだなと感じた。

 

 そんな大人気のダイヤがチームメイトと共に写ったスマホの待ち受けを確認すると、まもなく出走ウマ娘達が本バ場に入場する時間が迫っていた。

 

「頑張れ、ダイヤ」

 

 そんな俺の小さな呟きは、大観衆から湧き上がった歓声に容易くかき消されてしまう。

 

『──続きまして本日の第十一レース。クラシックレース開幕戦、GⅠ──皐月賞に出走するウマ娘達の入場です』

 

 大切な教え子が夢の舞台へ駆け上がる瞬間を、俺は大きな声援を上げて見守っていた。



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53:電光石火の皐月賞 下

『快晴の天候に恵まれた中山レース場。十一万人を超える大観衆の大本命。今年もついにこの季節がやってきました! 生涯一度の晴れ舞台、クラシックレース開幕戦──GⅠ皐月賞!』

 

 中山レース場を埋め尽くす大衆の大歓声に迎えられて、栄光の晴れ舞台に上がる十八名のウマ娘達が地下バ道から姿を現した。

 

『”最も速いウマ娘が勝つ”と言われる皐月賞。今世代の優駿ウマ娘達が一堂に会し、トゥインクル・シリーズ三冠路線の開幕戦を制すのは果たして、一体誰なのでしょうか。実況は私──』

 

 各々の想いを込めた勝負服に身を包んだウマ娘達がターフに降り立ち、返しを行いながら芝の感触を確認している。運命のゲートインまでは、もう少しといったところ。

 

「──あ、トレーナーさん。こちらにいましたか」

「ああ、たづなさん。応援に来てくれたんですか?」

 

 軽快な様子でターフを走るダイヤの姿を眺めていると、ふと隣から聞き覚えのある声がかけられた。

 

 緑色の事務服に身を包んだトレセン学園理事長秘書兼、チーム・アルデバラン代理監督の駿川たづな。

 

「はい、大切な教え子の晴れ舞台ですから。それに……この場にいないマックイーンさん達の分も、しっかりと応援しなくてはいけませんから」

「そうですね」

 

 たづなさんが俺へ向けていた視線をターフに移し、出走するウマ娘達の姿を微笑ましい様子で見守っていた。

 

『それでは改めて、皐月賞に出走するウマ娘達の紹介を行っていきます。一枠一番──』

 

 皐月賞の出走時刻まではあと、十分ほどの間がある。会場に訪れた観客や中継を視聴する人達を手持ち無沙汰にさせないために、実況席が出走ウマ娘の解説を行っていた。

 

 実況席の解説を聞いた限りでは、世間から注目されるウマ娘達は俺の予測と大方当てはまっていた。

 

 ダイヤを除く出走ウマ娘達の中で、最も皐月賞制覇を有力視されていたのはやはりチーム・リギル所属のドゥラメンテ。

 

 ジュニア級GⅠを制覇し、皐月賞の前哨戦である弥生賞を圧勝した彼女は今回、二枠四番での出走となる。

 

 ドゥラメンテの強靭な末脚を如何にして封じ込めるかが、皐月賞制覇の要となってくる。

 

 その他にも、逃げの作戦を得意とする八枠十六番のリオンディーズや、後方からの差し切りや捲りを得意とする二枠三番マカヒキ、三枠五番リアルスティール、四枠七番キタサンブラックなどなど。

 

 中山レース場の地形的特徴や出走ウマ娘の傾向からして、終始スローペースの展開になることは簡単に予測出来る。

 

 前走のきさらぎ賞から作戦と戦術を大きく変えて挑むダイヤだが、それが果たして吉と出るか凶と出るか。

 

『さぁそして、待ちに待った一番人気の紹介です。今年のクラシックレースの主役を飾るウマ娘といえば、彼女しかいないでしょう! 世界中の期待を一身に集め、かつての”星”をも超える存在となり得るのか。六枠十一番から世代の頂を目指す、チーム・アルデバラン所属──サトノダイヤモンドです!』

 

 実況席からダイヤの名前が取り上げられるのと同時に、会場が大いに湧き上がった。

 

『本レースにおいても圧倒的一番人気に推され、三冠ウマ娘の誕生は確実かと言われているサトノダイヤモンドですが……その一方で、世間からは偉業達成を不安視する声も挙がっています』

『と、言いますと?』

『サトノダイヤモンドを輩出した業界有数の一大コンツェルン──サトノグループには、不思議な()()()()があるとされています』

『ジンクス、ですか?』

『レース文化の発展に大きな貢献をもたらしたサトノグループですが……その一族からは未だ、GⅠタイトルを獲得したウマ娘が輩出されたことはありません。その事実が転じて、”サトノのジンクス”と呼ばれるようになりました』

 

 ダイヤが世間から注目されるのと同時に、彼女の一族に伝わる不名誉なジンクスが度々取り上げられるようになった。

 

 

 

──サトノのウマ娘は、GⅠレースに勝てない──。

 

 

 

 GⅠレースに勝利し、一族の悲願を果たすことこそ。

 

 サトノダイヤモンドがその身に背負った使命であり、彼女自身の夢だと語った。

 

「サトノさんのことが心配ですか?」

「レースに絶対はありませんから」

「そうおっしゃる割には、ちょっと楽しそうですね」

「俺も、ダイヤの熱烈なファンですから」

 

 一度教え子を晴れ舞台に送り出してしまえば、指導者である俺にはもう、何もしてあげることが出来ない。

 

 でも、それまでの過程で俺に出来ることは全部やったつもりだ。

 

「あとは、ダイヤが一番最初に帰ってくる瞬間を信じて待つだけです」

「ふふふっ、そうですね」

 

 たづなさんと会話を続けているうちに、いつの間にか出走ウマ娘達のゲートインが始まっていた。

 

 ダイヤが満を持して夢に挑む。

 

 出走の時間は近い。

 

 

 

***

 

 

 

『各ウマ娘のゲートインが始まります』

 

 トゥインクル・シリーズ最高峰のGⅠレースを華やかに飾る盛大なファンファーレの後、規則に従って各ウマ娘達が指定のゲートに収まっていく。

 

 皐月賞へ挑むウマ娘達がゲートの前に集合し、互いの様子を牽制し合うように確認している。

 

 ドキドキと落ち着かない心臓をよそに、私は精神統一を図りながら今一度頭の中で情報を整理していく。

 

(返しでバ場の状態を確認した感じ、ちょっと内側が荒れてて終盤は伸びにくそう)

 

 兄さまの警告通り、中山レース場のバ場は内ラチ沿いが非常に荒れている傾向にあった。

 

 最終直線では進路を少し外めに持ち出して、荒れたバ場を避けるのが賢明だろう。

 

(返しの様子を見た限り、どのウマ娘も完璧に仕上げてきてる。今までのレースとは雰囲気も緊張感もまるで違う。これが、GⅠ……)

 

 兄さまから事前に警戒するよう指示されていたウマ娘達を、私はこの場で一通り確認する。

 

 その中でも、チーム・リギルに所属するドゥラメンテさんは一人だけ別格のような印象を受けた。

 

 ドゥラメンテさんの前に立つのは、ただただ単純に怖いと感じた。彼女のことは警戒しなければならないと、私の本能が訴えかけてきている。

 

 だが私とて、彼女の武器を封じるための作戦はしっかりと立ててきている。

 

(このライバル達の中で、私がマークしなきゃいけない相手は……)

 

 私はチラリと目線を動かして、獲物を狙い澄ますように焦点を定めた。

 

(……うん、大丈夫。兄さまが信じてくれた私なら、絶対に大丈夫)

 

 ついに私のゲートインの順番が回ってきて、静かに息を吐き出しながら出走の瞬間を待つ。

 

 全てのウマ娘がゲートに収まって、爆発的な会場の喧騒が嘘のように凪ぐ。

 

 私は心臓の鼓動に身を委ねるように瞳を閉じて、おもむろに利き足を後ろへと引く。


 

『優駿ウマ娘達によるクラシックレース開幕戦──GⅠ皐月賞、ゲートイン完了』

 

 自分の意識が深く深く沈んでいくような感覚をひたすらに研ぎ澄ませて。

 

 静かに、ただ静かに前だけを見つめて瞳を開く。

 

 

 

 

 

『──今、スタートが切られましたッ!』

 

 

 

 

 

 さぁ、行こう。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

『──各ウマ娘が好調なスタートを切って飛び出していきます。十一番サトノダイヤモンドも軽快にゲートを出ていきました』

 

 十八名のウマ娘が揃ってゲートを飛び出して、二千メートルの戦場に開け放たれた。

 

 序盤に注目となる位置取り争い。逃げや先行を得意とするウマ娘達がバ群の好位につくために、脚を使って一斉に坂路を駆け上がっていく。

 

『バ群の先頭に躍り出たのは十二番と十六番のリオンディーズ。その後ろにピタリとつけて、十一番サトノダイヤモンド…………え?』

 

 実況席から届く声が突然途絶えると共に、中山レース場が一際大きなどよめきに包まれる。

 

 誰もが予想だにしなかったであろう展開に、至る所から驚きの声が上がっていた。

 

『な、なんとっ、十一番のサトノダイヤモンドが先行策を取っていきます! 逃げウマ娘をマークする形で、バ群好位からのレースを選択していきました!』

 

 チーム・アルデバランに所属するサトノダイヤモンドの武器は、切れ味のある圧倒的な末脚。

 

 自身にとって一番の長所を投げ捨ててまで先行策に出ると予想出来たものは、誰一人としていないはずだ。

 

『波乱の幕開けとなった皐月賞。バ群はやや縦長の展開となって、間もなく第一コーナーを曲がっていきます』

 

 だがしかし、この晴れ舞台はトゥインクル・シリーズの最高峰GⅠレース。

 

 ダイヤの奇策に動揺する様子を見せながらも、他のライバル達はすぐさま意識を切り替えて各々の走りに徹底していく。

 

「……よし、序盤の位置取りは完璧だ」

 

 ダイヤは俺が提案した作戦に従って、スタート直後に一気に脚を使い、バ群の先行集団に飛び込んでいった。

 

『第一コーナーを抜けて、各ウマ娘が続々と第二コーナーへ突入。ここで今一度、順位を確認していきます──』

 

 現在の状況を大雑把に確認すると、()()()()()()()()()()()()()と、終盤からの展開を得意とする後方集団の二つに分かれてレースが進んでいる。

 

 この状況において注目すべき点は、逃げウマ娘達と先行勢を”集団”として一括りにすることが出来て、なおかつ──バ群に目立った中団グループが形成されていないということ。

 

『先頭から十六番のリオンディーズ。隣に並んで十二番、その後方にピタリとつけて十一番のサトノダイヤモンド。彼女に続くように十七番、二番、六番、九番、十四番と先行していきます』

『先行集団は見たところ、かなり飛ばしているような印象ですね。終盤の末脚を武器とする後方集団から大きく距離を離していきます』

 

 少々異質な展開となった皐月賞に対して、困惑が入り混じったような歓声が湧き上がる。

 

『──三番マカヒキ、八番、そして四番のドゥラメンテが後方集団のしんがりを務め、レースは間もなく向正面へ』

 

 ターフビジョンに映し出されるバ群全体の映像を見て、俺は小さく握りこぶしを作る。

 

「ここまで作戦がうまく決まる瞬間を見ていると……ふふっ、何だか笑っちゃいますね」

 

 俺と同じくターフビジョンに視線を向けたたづなさんが、口元に手を当てながら微笑んだ。

 

 たづなさんの言葉通り。

 

 この少し異質な展開は全て、ダイヤが水面下で遂行している作戦の結果である。

 

「先行集団()()()ハイペースに持ち込んで彼女達のスタミナを根こそぎ奪いつつ、後方集団からありったけの距離を離して末脚を潰す。一見すればただの自殺行為ですが……サトノさんのスタミナと根性があれば、それも作戦に変わってしまう…………面白いことを考えましたね、トレーナーさん」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

──良いかダイヤ。皐月賞では、この二人の逃げウマ娘を徹底的にマークしてもらう。

 

 勢いよく開いたゲートを飛び出した瞬間、私は真っ先に兄さまの組み立てた作戦を思い浮かべてバ群の先団へと食らいついた。

 

 兄さまが立案した作戦を最初に聞いた時、とても強い衝撃を受けたことを覚えている。

 

──スタート直後に逃げウマ娘達の真後ろを陣取って、圧力をかけ続けるんだ。その場から、()()()()()()()()()()()()()()のを頼む。

 

 私はその作戦に従って、バ群を先導する逃げウマ娘達をマークし、常にサトノダイヤモンド()の存在を意識させ続けた。

 

「──ぇ、な、なんで……っ」

 

 彼女達も、私の末脚を警戒して何かしらの作戦を立ててきたことだろう。

 

 だがしかし、逃げウマ娘達は位置取り争いの途中で、バ群後方で息を潜めているはずの私が獰猛な牙を剥き出しにしながら背後に控えていることを知った。

 

 私に意表を大きく突かれたことも相まって、彼女達の動揺は凄まじいものであっただろう。

 

 そんな激しい動揺に理性を奪われたウマ娘は、一体どうなるのか。

 

「……ッ!!」

 

 当然、掛かってしまう。

 

 私のマークを振り払うため、逃げウマ娘達は脚を使って距離を離そうとする。これが、作戦を成立させるために必要な一つ目の種。

 

 この時点で彼女達が速度を上げなかった場合、私はすかさず背後へと後退し、従来の末脚を活かした二の矢を放つ予定であった。

 

──掛かったウマ娘達にペースメーカーの役割を担ってもらいながら、次はそのハイペースに先行集団を巻き添えにする。

 

 そして、作戦遂行に必要な二つ目の種……。

 

──巻き添え……ですが、一体どうやって?

 

 それは既に、レースに出走する前からばら撒かれている。

 

──ダイヤに対する警戒心と、レースの定石を逆手に取る。位置取り争いの段階で、末脚を武器に戦ってくるだろうという相手の先入観を砕いた。意表を突かれたウマ娘達は、真っ先に何を考えると思う?

 

──えっと……私が先行策に打って出た意図を探るのではないでしょうか。

 

──そうだ。そして、皐月賞に採用されるコースの地形的特徴から、スローペースになることが多い。スローペースを作れば終盤に備えてスタミナを温存出来て、末脚を武器とするウマ娘達の対策にも繋がる。先行組にとってその展開は定石だけど……驚異的な末脚を持つ相手が相手なだけに、今回ばかりは話が違う。

 

 私は逃げウマ娘達に徹底した圧をかけながら、周囲の様子をざっと確認する。

 

 ハイペースとなった先頭の展開に引き離されまいと、”先行”集団のウマ娘達が脚を使って食らいついてきていた。

 

──逃げウマ娘達をマークして、スローペースという定石を崩す。好位から展開を進めたい先行組にとっては、ハイペースについていくか否かで大きな選択を迫られることになる。

 

 おそらく先行集団のウマ娘達は、私から距離を置くことを嫌ったのだろう。

 

──普通だったら、自殺行為のような逃げウマ娘達のハイペースについていくっていう選択肢を取ることは無い。でも、この異質な展開の中心にいるのはチーム・アルデバランのウマ娘だ。それを理解した瞬間に、彼女達から”ついて行かない”という選択肢が頭から消え去る可能性が高い。

 

 先行策を得意とするウマ娘は、好位につけて長く良い足を使うことを武器に戦っている。

 

 その武器を磨くためのトレーニングを、彼女達は懸命に積み重ねてきたはずだ。

 

 この集団単位のハイペースについていかなければ、好位外からの展開を強要されてしまうかもしれない。

 

 このままサトノダイヤモンド()に先行させてしまったら、もう追いつけないかもしれない。

 

 混戦へ持ち込もうとするサトノダイヤモンドには、何か特別な作戦があるのかもしれない。

 

 先行策に打って出たウマ娘達はきっと、そんな風に邪推してしまう。

 

 そして案の定、彼女達は逃げウマ娘に追い縋る先行集団として、私が生み出したハイペースに巻き込まれていった。

 

 仮に先行勢がハイペースに便乗しなかった場合でも、実のところ、私達が考案した作戦にはさして影響は無い。それはあくまでも、作戦に付随する()()()といった側面が強かった。

 

──この状況を生み出すことが出来れば、流れは完全に俺達のものだ。

 

 先行集団が向正面中間を通過する頃には、後方集団から八バ身以上の差が形成されつつあった。

 

──後方集団が先行集団のハイペースについていこうとすれば、終盤に向けて温存しているスタミナを消費する必要がある。でもそうしたら、末脚に回せるスタミナが枯渇して本末転倒の事態を招く。だから彼女達は、先行集団と距離が開くことを許容せざるを得ない。

 

 ハイペースの先行集団についていかないという選択は、この場合における最適解である。

 

 だがその一方で、彼女達は自身の末脚が届かないかもしれないという恐怖心に苛まれながら、ゆっくりと展開を進めていくことを私に強要されてしまっている。

 

──ここまで来ればもう、相手のウマ娘達は詰んでいるも同然だ。

 

 その間にも先行集団はどんどん加速していって、後方集団をさらに突き放していく。

 

──最後にこの作戦を実行するにあたって、俺から言うことはただ一つ。

 

 この状況を一言で表現するならば、間違いなく……地獄であろう。

 

──良いかい、ダイヤ。

 

 そして、ライバル全員を地獄に引きずり込んだ私が立っているこの場所も……。

 

 

 

 

 

──自慢のスタミナと根性を、思う存分発揮してくれ。

 

 

 

 

 

 もれなく、地獄である。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

『先行集団が前半千メートルを通過していきます。その時計は何と──五十八秒二! とんでもないハイペースで展開を押し進めていきます!!』

 

 当初想定していた作戦が順調に進み、後方集団と十バ身近い差が生まれた状態で、ダイヤが向正面を駆け抜けている。

 

 早くも残り八百メートルの標識を通過し、外回りコースと接続する第三コーナーへと突入していく。

 

 そしてこの辺りから、この異質なハイペースについていけなくなったウマ娘達が、少しずつ少しずつ速度を落としていった。

 

『第三コーナーをなだらかに下り、ここでバ群の形が大きく縦長に変化していきます』

『序盤から続いたハイペースが影響していますね。ですが、十一番のサトノダイヤモンドにはまだまだ余裕がありそうです』

 

 ターフビジョンからダイヤの状態を確認した限り、彼女の脚色が衰える様子は無い。

 

 スタミナと根性に秀でたダイヤだが、ハイペースの展開を維持してなお余力を残すことが出来ているのには、また別の理由がある。

 

 それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ということ。

 

 ダイヤが行っているのはあくまで、逃げウマ娘達の徹底的なマーク。常識破りのハイペースを作り出しているのは、ダイヤの直前を走る逃げウマ娘達である。

 

 息を入れる暇もなく逃走を続けている逃げウマ娘とは異なり、ダイヤは彼女達の真後ろにつくことで風の抵抗を極限まで減らし、スタミナの温存を図ることが出来ていた。

 

 この作戦の本当の目的は、()()()()()()()()()()()()()()()()、最終直線に突入するまでに後方集団との距離をありったけ離しておくこと。

 

『先頭が残り六百メートルの標識を通過し、勝負は間もなく第四コーナー! 運命の最終直線に向けて、後続のウマ娘達も続々と生まれた差を縮めていきます!!』

 

 ダイヤが最終直線までに生み出した猶予はおよそ、十二バ身。

 

 後続が温存し続けた猛攻の末脚から逃れるためには、更なる距離が必要だ。

 

 そして、残り四百メートルを示すハロン棒を通り過ぎた瞬間。

 

 ダイヤのマークから逃げ続けていたウマ娘の進路が、わずかに外側へと膨れ上がった。

 

 

 

 

 

 

 仕掛けるなら──今しかない。

 

 

 

 

 

 

『さぁここで、サトノダイヤモンドがマークを外してハナを奪い取りますッ! 栄光のゴールを目指して、最終直線で堂々と先頭に立つッ!!』

 

 

 

 

 

 

 地鳴りのような大歓声を浴びながら、ダイヤが全身全霊を込めたスパートを仕掛けてライバル達を突き放しにかかる。

 

 

 

 

 

 

 ダイヤの脚色は未だ衰えることを知らない。自慢のスタミナと根性を存分に発揮して、自身の脚色に更なる磨きをかけている。

 

 

 

 

 

 

 これはもう、決まったか。

 

 

 

 

 

 

 鼓膜が裂けるような大歓声の中で、彼女の晴れ舞台を見守る誰もがそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 だが、しかし……。

 

 

 

 

 

 

 

『──後続のウマ娘達が少し遅れて最終直線へと躍り出るッ! 各々が磨き上げてきた末脚を炸裂させて、先頭を逃げるサトノダイヤモンドに猛然と喰らいついていきますッ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 栄光の座を巡るレースはまだ──終わっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 先頭をひた走る逃げウマ娘の進路がわずかに膨れ上がった瞬間、私はそれを好機と捉えた。

 

 ハイペースに巻き込まれた先行集団のウマ娘達が後方へと垂れていき、我慢せざるを得なかった後方集団が続々と牙を剥き始めている。

 

 バ群の陣形が縦長になり、もうしばらくすればそれは大きな団子へと変化していくことだろう。

 

 好位につける私の場所から、虎視眈々とスパートの瞬間を窺う怖いウマ娘達までは、およそ十二バ身といったところ。

 

「…………っ!」

 

 私は先頭を突き進むウマ娘の影で大きく息を入れ、強かな決意を改めて胸に灯して腹を括った。

 

 ハイペースな消耗戦の影響で、スタミナに自慢がある私といえどもさすがに限界が近づきつつある。

 

 少しずつ脚の反応も鈍りかけていて、思った以上に余裕が無くなってきていた。

 

 しかしそれらの厳しい現状を、私は努めてポジティブに捉える。

 

 ハイペースな消耗戦を経て、私は十二バ身というアドバンテージを獲得した上でスタミナを残すことが出来ている。

 

 レースの序盤から長いスパートを掛けてきたのにも関わらず、私の脚にはまだ余力が残っている。

 

 栄光が眠るゴールまでの距離は、残り四百メートル。

 

 そして、この先には高低差約二メートルを超える中山の坂が、絶望を突きつけるように聳えている。

 

 背後から怖い足音が聞こえてきた。

 

 獰猛な末脚で芝を抉りながら、殺気のような鋭い眼光を飛ばして私の背中を滅多刺しにする。

 

 あまりの恐怖に身の毛がよだつ。

 

 全身が竦んで、血の気が引いていくような脱力感に襲われる。

 

 

 

 

 

 

 

「…………ッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 だけどもう、私は後ろを振り向かない。

 

 

 

 

 

 

 

 だって私の夢はもう、目の前にあるんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 大切な夢を叶えるために、私は今この瞬間を走っているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 やってやる。

 

 

 

 

 

 

 

 負けてたまるか。

 

 

 

 

 

 

 

 差せるものなら差してみろ。

 

 

 

 

 

 

 

「──はぁああああああああああッ!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 誰であろうと、先頭の景色は絶対に譲らない。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

『──逃げて逃げてひたすら逃げるッ!! サトノダイヤモンドが懸命な粘りを披露していますッ!!!!』

 

 独走状態で中山の坂を駆け上がるサトノダイヤモンドに、終盤までずっと息を潜めていた恐ろしいウマ娘達が襲い掛かる。

 

 三百十メートルの最終直線へと突入した後続達が、音速の末脚を炸裂させて十バ二身近くあった差を瞬く間に縮めていく。

 

『二番手に躍り出たのはキタサンブラック!! リアルスティールとマカヒキもバ群を突き放して、坂道をものともしない剛脚でサトノダイヤモンドを追いかけるッ!!!!』

 

 ウマ娘達の魂がぶつかり合う激戦に、中山レース場が震え上がる。

 

 心臓が破裂するんじゃないかと思うほどの興奮が、大観衆のボルテージを極限まで引き上げ続ける。

 

『栄光のゴールまで残り二百メートルを切ったッ! 先頭は変わらず後続と八バ身差を離してサトノダイヤモンドッ!! さらに距離を縮めてキタサンブラック、リアルスティール、マカヒキが猛追ッ!! そして──大外からドゥラメンテッ!!!!』

 

 ライバル達の鬼気迫る強烈な追い込みに抗うように、ダイヤは全身全霊を振り絞って、夢へと続く直線(みち)を全力で駆ける。

 

『サトノダイヤモンドが四バ身のリードを死守して残り七十ッ!! キタサンブラックとドゥラメンテが瞬く間に距離を縮めて先頭に肉薄するッ!!』

 

 残り五秒の間に繰り広げられる、手に汗を握るデッドヒート。

 

 瞬きを挟んだ瞬間に、一バ身の距離が詰まる。

 

 時計の秒針が刻まれるよりも格段に早く、もう一バ身の猶予が削ぎ落とされる。

 

 誰もが呼吸を忘れ、心臓の鼓動を置き去りにして、五感の全てがウマ娘達の晴れ舞台に注がれる。

 

『サトノダイヤモンドが逃げ切るかッ! キタサンブラックが差し切るかッ! それもドゥラメンテが二人をまとめて撫で切るかッ!』

 

 電光石火の皐月賞に決着がつくまで、残り十メートル。

 

 二バ身というわずかな猶予も食い尽くされ、ついに三人が横一列に並び立つ──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間を、ほんのわずかに待たずして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──サトノダイヤモンドッ!! サトノダイヤモンドだッ!! クラシックレースの開幕戦、皐月賞を見事に制したのは……チーム・アルデバランのサトノダイヤモンドですッ!!!!!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アタマ差のリードを死守したサトノダイヤモンドが、堂々たる走りを貫いて栄光の勝利を掴み取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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54:わすれもの

 クラシックレース開幕戦──GⅠ:皐月賞を制覇し、ダイヤが見事一冠を達成した日から二週間が経過した。

 

 皐月賞の後から著しく不安定な天候が続き、連日の豪雨が過ぎ去ったばかりの曇天が、京都レース場のターフを覆い隠している。

 

 五月一日、日曜日。

 

 京都レース場第十一レース──GⅠ:天皇賞(春)。

 

 十万人を優に超える観客が会場へと押し寄せ、どんよりと澱んだ空気を吹き飛ばすような盛り上がり具合を見せている。

 

 天皇賞(春)の出走時刻は十五時四十分。

 

 パドックへの登壇を間近に控えたウマ娘達が待機する控室の一室。

 

 大切な想いが込められた勝負服に身を包み、彼女──メジロマックイーンは静かに座してその瞬間が訪れるのを待っていた。

 

「──お願いします。トレーナーさん」

 

 マックイーンの担当トレーナーである俺は今、そんな彼女の前に立膝をついて出走の準備を進めていた。

 

「自分で脱がなくて大丈夫なのか?」

「はい。トレーナーさんに、お願いしたいんです。ダメ、でしょうか……?」

 

 俺はマックイーンの足元から彼女の表情を見上げる。

 

 白磁のように透き通った肌をほのかに赤く染め、紫水晶の瞳を不安げに揺らしながらも、その提案は俺に対して強かな決意を示しているように見えた。

 

「分かった」

 

 俺はマックイーンの意志を受け取って、勝負服に包まれた彼女のおみ足へ手を伸ばす。

 

 黒を基調としたブーツと膝丈のハイソックスを丁寧に脱がし、マックイーンの柔肌を慈しむように触れる。

 

「もし痛かったら、その時は遠慮なく言ってほしい」

「……はい」

 

 俺は最後に一言断りを入れてから、改めてマックイーンの素足にそっと触れた。

 

 そして俺は、彼女の左脚の状態を確認するのと並行し……ゆっくりとした動きで、患部をテーピングしながら覆っていく。

 

 激しい運動に支障をきたさないよう伸縮性のある素材を選びつつ、怪我の再発を防止し、最大限に負荷を軽減できるような形で硝子の足を補強する。

 

 時間をかけて左脚への措置を終えた後、違和感がないかどうかを確認し、再びハイソックスとブーツを通す。

 

「ごめん。本当は、華やかな勝負服を汚したくは無かったんだけど……」

 

 続いて俺は彼女の()素足に触れて、先程とは別の箇所にテーピングの措置を施していく。

 

 繁靭帯炎の再発が危ぶまれる左脚とは異なり、マックイーンは右脚を怪我しているというわけではない。

 

 ただ、マックイーンは再発の恐怖心と向き合う過程で、無意識に患部を庇うような走り方の癖をつけてしまった。

 

 その影響で身体の重心が少しだけ右側に傾き、健康的だった右脚に皺寄せが来ているといった現状である。

 

 俺の”体質”を用いた診断によればさして問題はないのだが、他者の干渉を激しく受けるレースでは何が起こるか分からない。

 

 不測の事態を極力避けるためにも、着地のバランスを矯正し、怪我の予防は徹底しておきたかった。

 

 左脚の場合はテーピングした箇所をハイソックスで隠せるのでまだマシなのだが、右脚のそれは彼女の膝を覆ってしまっている。

 

 最近ではテーピング機能が施されたタイツもあるにはあるが、それこそ勝負服の華を著しく損なってしまうため、残念ながらその選択を取ることは出来なかった。

 

「良いんです。こうしているとなんだか、トレーナーさんに守られているような気がして……安心出来るんです」

「……そうか」

 

 テーピングの措置を終え、俺は再度両の足に違和感がないことをマックイーンに確認する。

 

 特に問題は無いとのことだったので、俺はその場から静かに立ち上がった。

 

「パドックの登壇時間まで……あと十分弱か」

 

 道具を片付けながら、俺は腕に巻いた時計を仕切りに確認する。

 

 もうそろそろ控室を移動し始める必要があるので、俺の心に少しばかりの焦りが募った。

 

……というのも。

 

 俺は今朝からずっと、この控室に()()()()()が訪れる瞬間を待ち続けていたからである。

 

 事前にメッセージを送り、返信がくることは無かったが既読はつけられていたため、相手が内容を確認していることは分かっていた。

 

 だがしかし、いつまで経っても彼女が控室に姿を見せる気配はない。

 

 残念だけどここは潔く諦めて、マックイーンをパドック会場へ連れて行こうとした……矢先のこと。

 

 

 

 

 

──コンコンコンッ。

 

 

 

 

 

 控室の外側から、扉を遠慮がちにノックする音が聞こえてきた。

 

 俺はそのノックに軽く返事をして、控室へ訪れた相手に入室を促す。

 

 おそるおそる、とびきりおもむろに扉を開きながら、制服姿の女性が姿を見せる。

 

 

 

 

 

「…………こんなところに呼び出して、一体何がしたいわけ?」

 

 

 

 

 

 怪訝な眼差しで俺を射抜き、身体の前で腕を組んだ鹿毛のウマ娘──メジロドーベル。

 

 これから天皇賞(春)に出走するメジロマックイーンの実姉であり……俺が取りこぼしてしまった、大切な元担当ウマ娘である。

 

「来てくれてありがとう、ドーベル」

「別に、来たくてきたわけじゃないから。変な勘違いしないで」

 

 棘のある言動で周囲を寄せ付けない性格は相変わらず……いや、以前よりもその態度に拍車が掛かっているような感覚を覚えるのは、気のせいではないだろう。

 

 聞いたところによると、ドーベルはチーム・アルデバラン脱退後から、未だに移籍先のチームを見つけられていないのだそうだ。

 

「……それで、アタシをここに呼び出した理由は何?」

 

 俺に突然呼び出された意図を掴みかねているらしく、不機嫌を宿した鋭い眼光がドーベルから飛んで来る。

 

「ああ、そのことなんだけど……応援してほしいと思ったんだ。マックイーンのこと」

「応援って……」

 

 俺の返答に心底呆れた様子で、ドーベルは深いため息をこぼす。

 

 そして彼女は俺から視線を少し逸らし、椅子に腰掛ける勝負服姿のマックイーンに意識を向けた。

 

「……ねぇ、正気なの? そんなボロボロの脚で、本気で走れると思っているの……?」

 

 マックイーンの右脚のハイソックスから覗く、勝負服の華を汚す無骨な布地。

 

 ドーベルの瞳に映ったそれは、彼女の端正な表情をいとも容易く苦悶に歪めた。

 

「俺に出来ることは全てやった。だからドーベルも一緒に、応援してくれないか? マックイーンが、無事に走れるように」

「……何それ。そんなの、無責任じゃん」

「無責任、か……。うん、確かに……そうかもしれない」

 

 一度教え子の背中を叩いて晴れ舞台へと送り出してしまったら、指導者()はもう、彼女達に何もしてあげることが出来ない。

 

 トレーニングという手段を用いて担当ウマ娘に徹底した教育を施し、レースという一番重要な舞台では彼女達自身の判断に全てを委ねる。

 

 そのような視点に立って考えると、トレーナーという職業はある意味で究極の無責任を体現したような存在なのかもしれない。

 

「でも……今の俺にはもう、マックイーンを信じてあげることしかできない。職業柄、それは仕方のないことなんだ」

 

 当然、左脚に特大の爆弾を抱えた状態でマックイーンを晴れ舞台へ送り出すため、彼女が背負うリスクは他の者達の比にならない。

 

 何度も繰り返しになるが……担当トレーナーの俺に出来ることは、晴れ舞台へ送り出した担当ウマ娘のその前と、()()()の責任を取ってあげることだけ。

 

 これはとても、難しい選択だ。

 

 選択の末には必ず結果が伴い、それを振り返って初めて、過去の選択に対する是非が導き出される。

 

 

 

 

 

 

 

 その選択の結果を、最初から知ることができれば良いのに。

 

 

 

 

 

 

 

 その選択の結末を知っていなければ、心が壊れてしまうほどの後悔に蝕まれなくて済んだのに。

 

 

 

 

 

 

 

 これはとっても、難しい選択なんだ。

 

「でも……そんな無責任なわがままだって分かった上で、ドーベルはここに来てくれた」

「…………」

 

 腕に巻かれた腕時計に、俺はチラリと意識を向ける。

 

 もうそろそろ、控室を出なければならない時間が迫っていた。

 

「マックイーン、そろそろパドックへ移動する時間だ」

 

 俺は一度ドーベルから視線を移して、椅子に腰掛けるマックイーンの足元でもう一度立膝をつく。

 

 俺が彼女に直接声を届けることが出来るのは、おそらくこれが最後の機会。

 

「良いかい、マックイーン」

 

 俺は緊張して微かに震えるマックイーンの両手を包み込んで、不安に揺れ動く彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「今まで本当に、よく頑張った。マックイーンが俺のことを信じてくれたおかげで、俺達はここまで来ることができたんだ」

 

 俺を静かに見下ろす彼女の瞳に、かつて”星の消失”と共に失ってしまった情熱を灯した男の姿が映り込む。

 

「今の俺がマックイーンにしてあげられることはもう、『頑張れ』って無責任な言葉を掛けることだけなんだ。その感覚がとてももどかしくて、とても心苦しい」

「…………」

「だから君はもう、自分のことだけを考えて走れば良い。自分自身のためだけに走って、あの世界に忘れてきた大切な夢を……もう一度、取り戻しに行くんだ」

 

 俺はもう、マックイーンに対して頑張れと言ってあげることしかできない。

 

 俺はもう、マックイーンのことを信じて送り出してあげることしかできない。

 

 だからせめて、俺は彼女のことを全力で信じて、心の底から応援をする。

 

「それじゃあ行こうか、マックイーン」

 

 俺は椅子に腰を下ろしたマックイーンの手を優しく引いて、姿勢を起こす。

 

 パドック会場を目指して控室を出る途中、勝負服を身にまとったマックイーンが制服姿のドーベルの前で立ち止まる。

 

「……ドーベル。私は、あなたにもたくさんのことを謝らなければなりません」

 

 そして、彼女はドーベルの前で深々と頭を下げた。

 

「私があなたに対して、嘘をついていたこと」

「……」

「私が、あなた達の知る『私』を演じ続けていたこと」

「……」

「私の使命を……あなたに押し付けてしまったこと」

 

 切実な嘘で塗り固めた仮面を被って素顔を覆い、輝かしい過去の姿を演じ続け、マックイーンは自身の心を必死に守っていた。

 

 だがしかし、血の繋がった姉妹にすら本当の姿をひた隠しにし続けていた彼女が今、こうしてありのままの自分をさらけ出している。

 

 そんなマックイーンを見て、ドーベルが果たして何を感じて、何を思っているのか。

 

 彼女のことをまだ何も知らない俺にとっては……残念ながら、想像することすら敵わない。

 

「……私、そろそろパドックへ向かいます。ドーベル。会場は大勢の観客が押し寄せていますから、私のことを無理に応援して下さる必要なんてありませんよ」

 

 最後にマックイーンは穏やかな微笑みを残して、控室から一人、パドック会場へと続く廊下を歩いて行った。

 

 静寂が訪れた控室で、俺はぽつんと佇むドーベルと向かい合う。

 

「……これが、アタシを呼び出した目的?」

「マックイーンにとっては、そうだったかもしれない」

「……そう。じゃあ、アンタは?」

「ドーベルと、話がしたいと思って」

 

 マックイーンの応援をして欲しいという名目でドーベルを呼び出したが、彼女が他人を……引いては不特定多数の観客が入り乱れる空間を苦手としていることは十分承知している。

 

 俺がこうしてドーベルと連絡を取った本当の目的は、彼女と直接話し合いをすること。

 

「この場所なら他人の視線を気にせず話し合いをすることが出来る。少しだけ、俺に時間をくれないか?」

 

 俺はマックイーンと同じように頭を下げて、ドーベルにわがままをぶつけた。

 

「……それはイヤ」

 

 今の俺とドーベルの関係は、元担当トレーナーと元担当ウマ娘。

 

 俺が彼女に何かをお願いする権利もなければ、彼女が俺のわがままを聞き受ける義理もない。

 

「……そうか」

 

 残念だが、失ったものを取り戻すのはそう簡単なことじゃない。これ以上執拗に迫ってしまえば、彼女のコンプレックスをさらに拗らせてしまう可能性だってある。

 

 色々と意気込んできただけに、俺は少しだけ肩を落としてしまう。

 

 そんな内心を悟られたくなくて、なんとか気丈に振る舞おうとする俺だったが。

 

「…………ねぇ、変な勘違いしないでよ」

 

 元担当ウマ娘には、付け焼き刃の態度などお見通しだったようだ。

 

 

 

 

 

「こんなところで話なんかしたら──マックイーンのレースが見れないって思っただけ」

 

 

 

 

 

 そそくさと控室から出ていくドーベルの背中姿をぼーっと見つめたあと、俺は慌てて彼女の後を追いかけた。

 

 

 

***

 

 

 

 シニア級最長距離GⅠ重賞:天皇賞(春)の出走を目前に控える京都レース場のメインスタンドは、相変わらず足が竦むような混雑具合であった。

 

 GⅠレースを観戦しにきた人々の往来にもみくちゃにされながらも、俺はドーベルと共に先頭を目指す。

 

「……あ、兄さまっ」

 

 俺達より一足先にスタンド入りしていた担当ウマ娘のダイヤが、こちらの存在に気付いて大きく手を振ってくれた。

 

 どうやらダイヤは、俺達のためにゴール板の真前の空間を確保してくれていたようだ。

 

「マックイーンさんの様子はいかがでしたか?」

「緊張はしていたけど、とても落ち着いている様子だった」

「そうですか……それは良かったです」

 

 俺からマックイーンに関する情報を聞いて、ダイヤは心の底から安堵したようなため息をこぼす。

 

「ドーベルさんも、お久しぶりです」

「……久しぶり」

 

 そして、ダイヤにとっても元チームメイトのドーベルと再会するのは数ヶ月ぶりだ。ダイヤは普段と変わらない態度で接しているが、対するドーベルはどこかバツが悪そうだ。

 

『──続きまして第十一レース、天皇賞(春)に出走するウマ娘達の紹介です』

 

 俺達がダイヤと合流を果たしたのと同時に、ターフビジョンにパドック会場からの中継映像が映し出された。

 

 曇天の空模様の中で開催されるパドックではあるが、各々の想いが込められた勝負服を身にまとって壇上へ上がるウマ娘達の表情は、とても晴れ晴れとしている印象だ。

 

『十六番人気を紹介します。六枠十二番──』

 

 ターフビジョンの映像を眺めながら、俺は今一度、天皇賞(春)の概要を整理する。

 

 会場に響き渡るアナウンサーの解説通り、今年の天皇賞(春)は合計十六名によるウマ娘達が春の盾を巡って争う構図となった。

 

 パドックに登壇する者達は皆、数々の重賞を制している優駿ウマ娘。

 

 トゥインクル・シリーズの傑物達が集結した天皇賞(春)の盛り上がり具合は、二週間前に開催された皐月賞にも引けを取らない。

 

『──続きまして、六番人気の紹介です。三枠五番、メジロマックイーン』

 

 彼女がパドックに登壇した瞬間、会場内から大きな歓声が湧き上がる。

 

「あっ、マックイーンさんっ!」

 

 黒を基調とした気品溢れる勝負服に身を包んだマックイーンが、穏やかな様子で静かに手を振っていた。

 

『かつて、ウマ娘にとって”不治の病”と称される繋靭帯炎を発症し、一時期は引退も危ぶまれていた名門メジロが誇る屈指のステイヤーです』

『彼女にとって、実に一年半ぶりとなる復帰戦。チーム・アルデバランへと移籍し、かつての"名優"がついに──メジロの悲願、春の盾へと挑みます』

 

 マックイーンの生い立ちが簡単に説明されてからしばらくして、彼女がパドックの奥へと戻っていく。

 

 マックイーンの走りに魅了されたかつてのファンにとっては、待望の瞬間を迎えているといっても過言ではない。

 

 メジロマックイーンに対して強い憧れを抱いていたダイヤも、隣で感極まって大はしゃぎしている。

 

「……マックイーン、六番人気なんだ」

「人気と評価は時に、合致しないことがある。でも逆に言えば、一年半ぶりにレースへ復帰したにも関わらず、六番人気に推されている。これはとても、すごいことだ」

「……それも、そっか」

 

 マックイーンの復帰戦に世間の期待が寄せられているとはいえ、やはり、長期間の空白(ブランク)を挟んだ彼女が勝利することは厳しいという意見が一般的であった。

 

『二番人気を紹介します。二枠三番、ホワイトストーン』

『先行策を得意とするウマ娘ですね──』

 

 メジロマックイーンは繋靭帯炎を発症したことによって、以前のような強い走りを体現することは出来ないと専門家達の間で評されていた。

 

 だがしかし、メジロマックイーンの天皇賞制覇が困難であると言われる根本的な要因は別にあり……あまりに単純な話であった。

 

『──そして、待ちに待った一番人気の紹介です。七枠十四番、トウカイテイオー』

 

 トレセン学園最強チームの一角と名高い、チーム・スピカに所属する無敗の二冠ウマ娘──トウカイテイオー。

 

 彼女はかつて、クラシック二冠を獲得する過程でメジロマックイーンを二度も圧倒した経歴を持っている。

 

 シニア級に主戦場を移した後、トウカイテイオーはシニア級最長距離GⅠの天皇賞(春)や、天皇賞(秋)の盾を立て続けに奪取。

 

 現役四年目を迎えてなお無傷のトウカイテイオーは、今や現役最強のウマ娘と言っても過言では無い。

 

『去年の天皇賞(春)を制覇したトウカイテイオー。トゥインクル・シリーズの歴史に偉業を刻み続ける彼女が、満を持して春の盾連覇を目指します』

 

 かつて、名門が誇る"名優"を二度も下した無敗の二冠ウマ娘。

 

 天皇賞春秋制覇という偉業を成し遂げた現役最強のウマ娘が、高すぎる障壁として立ちはだかっていた。

 

「……ねぇ」

「どうした?」

「マックイーンに、勝算はあるの?」

 

 パドックの壇上で堂々と佇むトウカイテイオーの姿を目の当たりにして、ドーベルがおずおずとした声音で俺に問うてきた。

 

「…………どうだろう」

 

 ターフビジョンに映されたトウカイテイオーの様子を確認する限りでは、身体のコンディションを完璧に仕上げてきたように見える。

 

 片や、決死の想いで現役復帰にこぎつけた、病み上がりのウマ娘。

 

 片や、日本のトゥインクル・シリーズが誇る、現役最強のウマ娘。

 

 どっちが優勢の立場にいて、どっちが劣勢の窮地に追いやられているかなど……そんなもの、火を見るよりも明らかだ。

 

「作戦はあるの?」

「……まぁ、一応」

 

 それでも俺は、メジロマックイーンを担当するトレーナーとして、彼女を勝利に導かなければならない義務がある。

 

 当然、レースに臨む以上、栄光を手繰り寄せるための作戦を考えなければならない。

 

 だがしかし、今回俺がマックイーンに施した作戦は……満身創痍の彼女に残されたわずかな選択肢を継ぎ接ぎして生み出した、()()()()に他ならなかった。

 

「それって、どんな作戦?」

 

 微かに興味を示したドーベルが、その詳細を問うてくる。

 

「……そうだな。言葉で説明するよりも、実際に走る姿を見た方が分かりやすいかも知れない」

 

 マックイーンに施した作戦は複雑な要因を継ぎ接ぎにした上で成立しているため、この場で説明するのは時間が掛かる。

 

「ただそれでも、極限まで噛み砕いてそれを説明するとしたら……」

 

 それでも俺は、作戦の概要を可能な限り突き詰めて、簡単な言葉でそれの全容を端的に表現する。

 

 

 

 

 

 

 

「──()()()()()()、かな」

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

『──曇天の天候に包まれる、荒れ模様の空景色。天邪鬼な鈍色の雲は、波乱をもたらす嵐の前触れでしょうか』

 

 京都レース場の会場に響き渡る、隠しきれない期待を含んだ実況席からのアナウンス。

 

『シニア級最長距離GⅠ重賞──天皇賞(春)。春の王者に君臨し、盾の栄誉を掴むのは果たしてどのウマ娘となるのか──』

 

 ここ二週間続いた悪天候が過ぎ去り、運よく曇り空での開催を迎えることとなった天皇賞(春)。

 

 偉業の更新、あるいは奇跡の復活劇の目撃者になろうと押し寄せた十万人越えの大歓声を受けて、十六名の傑物達が地下バ道から姿を表し、ターフの世界に降り立った。

 

『今年の天皇賞(春)は、レースファンにとって注目ポイントが目白押しです。まずはなんと言っても、繁靭帯炎の発症から約一年半に及ぶ休養期間を乗り越えてレースの世界に舞い戻った──メジロマックイーンの存在でしょう』

 

『彼女が元気に走る姿をもう一度見たいというファンも大勢いましたからね。かつての世界的アイドルウマ娘、”星”のミライを輩出したチーム・アルデバランへ移籍したという点も、熱狂的な注目具合に拍車を掛けているのでしょう』

 

 天皇賞(春)の出走時刻まで、残り十分程度。

 

 本バ場へと入場したウマ娘達が返しを行っている間、実況席が出走までの時間を繋ぐ。

 

『そして、トゥインクル・シリーズが誇る現役最強と名高いウマ娘──トウカイテイオーの存在も欠かせません。無敗でクラシック二冠を達成し、勢いそのままに翌年の天皇賞春秋を制覇。今年に開催された前哨戦の阪神大賞典も制覇し、満を持して偉業の更新に臨みます』

 

『トウカイテイオーが所属するチーム・スピカにはかつて、”TM対決”で日本中を熱狂させた因縁のライバル、メジロマックイーンが在籍していた過去があります。三度目となる世紀の対決は、非常に注目ですね』

 

 出走ウマ娘が返しを行う様子をスタンドから確認し、俺はふむ……としばし唸る。

 

「……どうかしたの?」

 

 そんな俺の仕草を怪訝に思ったドーベルが、率直に俺へ問うてきた。

 

「ん、ああ。返しの様子をざっと見た感じ、俺の予想通り悪天候の影響がもろに出てるなと思って」

「……?」

 

 俺の返答を受けて、ドーベルはしばし首を傾げる。

 

 そして、そんな彼女の疑問を解消してくれたのは、現在進行形で会場を盛り上げる実況席からのアナウンスだった。

 

『さて、今年の天皇賞(春)の注目点を一通り網羅したところで、本レースの特徴についてはいかがでしょうか?』

 

『やはり一番の特徴は、つい先程まで降り続いていた豪雨によるバ場状態でしょう。返しの様子に注目していただきたいのですが、ウマ娘が芝を踏み締めるたびに激しい泥しぶきが巻き上がっています』

 

 解説陣の言葉通り、駈歩程度の速度で返しが行われているにも関わらず、大きな水しぶきが飛んでいるのを確認することができる。

 

『それもそのはず。現在の京都レース場のバ場状態は、未だかつて類を見ないほどターフ全体が水浸しとなった”()()()()”であるという情報が発表されています』

 

 バ場状態は主に、コースに使用される芝下層の含水率によって四段階に分類されている。良バ場を基準とし、含水量が上昇するにつれて稍重、重、不良と変化していく。

 

 近年においては芝コース路盤に用いられる砂の品種改良が進み、排水性が非常に優れているため重バ場以下の状態が発表されることはほとんど無い。

 

『前走までの様子を確認する限りでは、特に第四コーナーのバ場状態が非常に悪く、”ノメり”を嫌って内ラチを避けながら通過する傾向が見られました』

 

 実際に、天皇賞(春)の開催が予定される第十一レース以前の結果を確認しても、不良バ場の影響は著しかった。

 

『非常にバ場状態が悪いことから慎重に進路を選択する必要があり、展開は確実にスローペースなものとなるでしょう。天皇賞(春)は三千二百メートルの長丁場ですから、スタミナ管理も重要です。これらの要素が掛け合わさった場合、先行集団による前残りが非常に起きやすい傾向にあります』

 

『先行策を得意とするトウカイテイオーやメジロマックイーンにとっては、それが逆に有利に働く可能性もありますね。差しや追い込みが決まりにくいバ場状態ではありますが、後続による仕掛けどころにも注目です』

 

 そして、解説陣による展開予測が行われている内に、いつの間にか出走予定時刻を間近に控え、盛大なファンファーレを鳴らす準備が行われつつあった。

 

『間もなく向正面にて、各ウマ娘のゲートインが始まります』

 

 メジロマックイーンの悲願が眠る天皇賞(春)の出走まで、あとわずか。

 

 この世界に忘れてきてしまった大切なものを取り戻すために、彼女は再び夢に挑む。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 ターフの世界に降り立った私の前に、こちらを真っ直ぐに見つめながら佇むウマ娘がいた。

 

 白を基調とした高貴な勝負服は、『帝王』という彼女の名を象徴するに相応しい意匠である。

 

 彼女の冠名は──トウカイテイオー。

 

 かつて、幾度となく私の前に立ちはだかった因縁のライバルにして、同じチームの下で苦楽を共にした大切な友達である。

 

「……」

 

 テイオーを前にすると、私の壊れた心の奥底で燻り続ける何かが……()()()()()()()()()()()()()()が、どうにも騒ぎ出して止まらない。

 

「……」

 

 私と彼女の間に、言葉はない。

 

 色々と伝えたいことはあったような気がするけれど……それは今、この瞬間にすることではない。

 

 出走時刻を告げるファンファーレが鳴り響き、規則に従って各ウマ娘達が指定のゲートに収まっていく。

 

 テイオーよりも一足先に、ゲートインの瞬間がやってきた。

 

 彼女へ向けた視線をスターティングゲートに移し、私は身体を翻してそこの中へと歩みを進める。

 

 私と彼女の間に、今は言葉なんて必要ない。

 

 今はただ、良いレースをしたい。

 

 悔いの残らないように、胸が躍るような勝負をしよう。

 

『二マイル先に眠る盾の栄誉を目指して今、トゥインクル・シリーズに春の王者が君臨します──GⅠ天皇賞(春)、ゲートイン完了』

 

 胸元で静かに手を合わせて、私の中で長い間眠り続けていた感覚を呼び覚ます。

 

 おもむろに利き足を後ろへ引いて、閉じていた瞳をゆっくりと開く。

 

 もう一度走ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──今、スタートしましたッ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの日に落とした大切なわすれものを、取り戻しにいくために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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55:それでも、私は

 アタシには、メジロマックイーンという優秀な妹がいる。

 

 幼少の頃からメジロ家の悲願を一身に背負い、その名に恥じない矜持と圧倒的な実力で、一族の期待に応え続けてきた優秀なウマ娘だ。

 

 だがしかし、今でこそレース界の名門メジロが輩出した”最高傑作”と評されるマックイーンだが……実を言うと、彼女は走るのがとびきり()()()()だった。

 

 年子の妹として生まれたマックイーンは先天的に病弱な体質で、昔は何かと怪我や病気に悩まされることが多かった。

 

 姉妹達と共に少しターフを走れば発熱を起こし、激しい運動を行った暁には必ずと言っていいほど怪我を抱えてしまうなど。

 

 マックイーンの病弱体質は身体が成長し、本格化の恩恵を授かるにつれて克服していったのだが……当時のマックイーンを側から見ていた者としては、どうしても疑問に思ってしまうことがあった。

 

 おばあ様達は一体どうして、病弱なメジロマックイーンに期待の眼差しを向け続けていたのか……それだけがどうしても、理解出来なくて。

 

 怪我や病気で寝込むことが多かったマックイーンは当然、走ることに対する教育が他の姉妹よりも格段に遅れていた。

 

 アタシの方が速く走れる。

 

 アタシの方が長く走れる。

 

 それなのにおばあ様達は……妹のマックイーンを手厚く支え、温かみのある期待と愛情を注ぎ続ける。

 

 どうして?

 

 アタシの方が速いのに、アタシの方が強いのに。

 

 お父さんも、お母さんも、おばあ様もみんなマックイーン、マックイーンって……。

 

 その頃だっただろうか。

 

 アタシが妹のマックイーンに対して劣等感を……()()()と、思い始めるようになってしまったのは。

 

 アタシだっておばあ様達の期待に応えるために、毎日まいにち一生懸命努力を続けていた。

 

 身体が少しずつ大きくなるにつれて、タイムも早くなって。少しずつ、長い距離も走れるようになって。

 

 認めてほしい。

 

 誰でも良いから、みんなの期待に応えようと頑張っているアタシに気付いて欲しい。

 

 たとえ今は認めてもらえなかったとしても、いつかトゥインクル・シリーズのレースに出場して結果を残せば……きっとみんながアタシを見てくれる。

 

 だからアタシは一生懸命走った。アタシを育ててくれる優しい男性コーチの元で、精いっぱい努力を重ねてきた。

 

 そしてついに、目標であったトレセン学園への入学を来年に控え、自分の活躍する姿を想像しては期待に胸を膨らませていた……矢先のこと。

 

 普段のようにコーチの指導のもとで走りの特訓を行い、少しだけ物足りないと思ったアタシはもうしばらく自主練を続けていて。

 

 しっかりと身体を動かしたことで満足したアタシは、汗でベタベタになった全身を綺麗にするためにシャワーを浴びようと本邸に戻った。

 

 大浴場へと続く廊下を、意気揚々と人気アイドルウマ娘の鼻歌を口ずさみながら歩いていると……視線の先にちらりと、アタシの指導を担当するコーチの姿が映り込んだ。

 

 アタシはコーチに駆け寄ろうとしたけれど、彼は何やら神妙な面持ちで誰かと話をしている様子だった。

 

 大浴場へ行くためには、この廊下を通らなければならない。だがしかし、それではコーチ達の重要な会話を邪魔してしまう可能性がある。

 

 しばらく悩んだ後、アタシは彼らの話が終わるまで待っていることにした。

 

 廊下の影に姿を隠して、着替えとタオルを抱えた状態でしばらくやり過ごす。

 

「…………それで、どうだった?」

 

 アタシがいるこの場所は彼ら以外に人はおらず、とても静寂な空間であった。

 

 そのため、人よりも優れたウマ娘の聴覚が自然と、コーチ達の会話を捉えてしまう。

 

「この前実施した担当ウマ娘の”適性検査”。そっちも結果が返ってきているんじゃないか?」

 

 会話の中で取り上げられた”適性検査”という単語には、心当たりがあった。

 

 それは確か、一ヶ月ほど前に実施した身体測定の中で、ちらほらと周囲の大人達が話題に挙げていた単語であったと記憶している。

 

 トレセン学園への入学試験を控えるにあたって、学力テストやタイム測定を実施し、確実な合格を掴み取るためという名目で行われた測定であった。

 

 アタシはその測定を実施した際、確かな手応えを感じていた。

 

 アタシは着実に強くなっている。メジロの名を冠するウマ娘として立派に活躍して、いつかおばあ様の悲願だって果たしてみせる。

 

「お前の担当は……ほら、昔から雲行きが怪しかっただろう?」

 

 コーチの担当……それはつまり、考えるまでもなくアタシのことだ。

 

 そして、相手の言う雲行きとは一体、何のことを指しているのだろうか。

 

「ええ、まぁ……あなたのお察しの通りかと」

 

 相手の言葉を受けて、アタシのコーチがため息をこぼして頭を抱えた。

 

 コーチに何か悩みごとがあるのなら、担当ウマ娘のアタシが力になってあげたい。

 

 今この場でコーチの悩みを知ることができれば、さりげなく彼のことを気遣うことが出来るかもしれない。

 

 そう思って、アタシは彼から放たれる言葉に、いっそう意識を集中させて耳を傾けた。

 

 

 

 

 

 

 

「──案の定、ドーベルの長距離適性は絶望的でした。もっとも、大奥様の悲願達成を……才能の乏しい彼女に期待していた者は少ないですから。大した問題にはならないでしょう」

 

 

 

 

 

 

 

……アタシは、コーチがこぼした言葉の数々を受け止めることが出来なかった。

 

 どうしても頭の理解が追いつかなくて、単語の一つひとつを噛み砕いて飲み込んでいくしかなかった。

 

 コーチが相手と笑いながら何かを話すその陰で……アタシは暴れる心臓を必死に押さえ付け、息を殺すように溢れ出る涙を堪えていた。

 

 アタシは誰からも期待されていなかった。

 

 アタシの血の滲むような努力の成果が、”適性”や”才能”といったありふれた言葉で掃き捨てられてしまった。

 

 アタシのことを大切に育ててくれていたコーチは、陰に隠れてアタシのことを嘲笑っていたんだ。

 

 そのことをようやく理解した瞬間。アタシの中にあった大切な何かが、音を立てて壊れてしまった。

 

 あまりのショックで、心がおかしくなってしまいそうだった。

 

 アタシはついに悲しみに耐えられなくなって、逃げるようにその場から走り去った。

 

 信じていた人達から裏切られたショックのせいなのかは分からないけれど、アタシはその日の夜、高熱を出して悪夢に魘され続けたことを覚えている。

 

 高熱は一週間程度続いた。

 

 そのことが原因で、アタシは以前から計画されていた『メジロ家定例旅行』に同行することが出来ず、憧れだったアイドルウマ娘のレースを現地で応援するチャンスを、みすみす逃してしまった。

 

 寝たきりの時間はとても退屈で、だけど今のアタシには走りたいという気力が全く湧いてこなくて。

 

 一族総出でアメリカへ旅行に行った姉妹達の帰りを、ぼんやりと外の景色を眺めながら待っていた。

 

 その時のアタシは、コーチが陰でこぼした”適性”や、”才能”という言葉の意味を色々と考えていたような気がする。

 

 その言葉達が指すものの意味を必死に考えたが、当時のアタシでは明確な答えにたどり着くことは出来なかった。

 

 けれど、アタシが風邪を引いてから二週間程度が経過し、姉妹達がアメリカから帰ってきた時。

 

 アタシは……その言葉が指し示すものの意味を、本能的に理解してしまった。

 

「…………なんで」

 

 

 

 

 

 アタシよりも格段に遅かった年子の妹が。

 

 

 

 

 

 アタシよりも落ちこぼれだったはずのメジロマックイーンが。

 

 

 

 

 

 

 

──二週間前とはまるで、別人のような存在に生まれ変わっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 旅行先で彼女の身に何が起こったのかは分からない。

 

 ただ一つだけ確かなのは……アタシが今、本物の”才能”を目の当たりにしている、ということ。

 

 ただ、それだけだった。

 

 その事実が、アタシの中で積もりに積もった劣等感に追い討ちをかけた。

 

 ただでさえ弱りきっていたアタシの心を、その事実が容赦無く抉ってきた。

 

 

 

……でも、それでもまだアタシには、長年努力してきた自分だけの武器がある。

 

 

 

 才能は無いかもしれないけれど、アタシにはまだ”努力”という大きな武器が残っている。

 

 トレセン学園に入学して、強いチームに所属して、必死に努力して結果を残せば。

 

 誰か一人くらい、アタシのことを見てくれるに違いない。

 

 誰でも良いから、アタシのことを褒めてほしい。

 

 頑張ったねって、頭を撫でてほしい。

 

 ただそれだけの切実な想いを抱いて、アタシはトレセン学園へ入学を果たしたというのに……。

 

「…………」

 

 “本格化の遅延”と呼ばれる現象に苛まれ、誰かを見返すチャンスすらアタシには与えられなかった。

 

 

 

 

 

 姉妹達が晴れ舞台に立って華々しく活躍する光景を、ただひたすら陰から眺めることしか出来ない日々。

 

 

 

 

 

 晴らしようのない劣等感と、やりどころのない嫉妬心になす術無く蝕まれ続けた結果……。

 

 

 

 

 

 アタシの擦り切れた心にはどうやら、限界が訪れていたようだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

『──各ウマ娘が一斉にゲートを飛び出しました。向正面で位置取り争いを繰り広げながら、まずは一周目の淀の坂を登っていきます』

 

 十六名のウマ娘達が鋭いスタートを切って、高低差約四メートルをほこる淀の坂を駆け上がっていく。

 

 各ウマ娘が激しい泥しぶきを巻き上げながら、不良バ場をものともしない速度で向正面を突き進む。

 

『濡れた芝に足を取られ、五番のメジロマックイーンが少し出遅れる形となったでしょうか』

『天皇賞(春)は三千二百メートルの長丁場ですから。彼女のスタミナと脚力があれば、バ群の好位につくことは難しくないでしょう』

 

 スタート直後、マックイーンが少し出遅れたようにゲートを飛び出したことで、周囲の観客からわずかに声が上がる。

 

『淀の坂を進んで、序盤の位置取り争いが落ち着きます。先頭からバ群を見ていきましょう。ハナに立ったのは四番ボストンキコウシ。二番、七番、十一番と続き、その後方に三番のホワイトストーン。十四番トウカイテイオーは先頭から六番手、外めの好位に落ち着きました』

 

 トウカイテイオーの背後に一番、六番、三番と続いて、ここまでが本レースの先行集団。

 

 先行集団から少し距離を置いて、後方からのレース展開を得意とするウマ娘達が続いていく。

 

『淀の坂を登り終えて間もなく第三コーナー、ゆっくりとしたリズムで坂を下っていきます』

『バ群がやや縦長になり、ウマ娘間の距離も開き気味ですね』

 

 京都レース場の第三コーナーから第四コーナーへと続く曲がり道は、淀の坂の頂上から一気に下降する急勾配となっている。そのため非常にスピードが出やすく、スパートによってポジションを上げやすい。

 

 だがしかし、現在の水浸しになったバ場状態で速度を出すのは非常に危険だ。それにまだ一周目ということもあり、全員が脚を抑えながら慎重にレースを進めている。

 

『バ群の中団、後方集団についても確認していきます。真ん中の位置につけてゆったりと進むのは十五番、十六番。先頭から大きく距離が開いて十二番、十番、九番。そして──』

 

 すらすらと続けていた解説陣が実況が一度、息を大きく吸うために遮られた。

 

 ターフビジョンに映し出されたバ群の中継映像を目の当たりにし、十万を超える大観衆の間に大きなどよめきが走る。

 

 それも、そのはず。

 

 

 

 

 

 

 

『──なんと……っ、()()()()五番のメジロマックイーンですっ。メジロマックイーンがなんと、バ群のしんがりを選択していきました!』

 

 

 

 

 

 

 

 持ち前の無尽蔵なスタミナを武器に先行し、バ群の好位から速攻を仕掛ける展開を得意としていたメジロマックイーンが……戸惑うそぶりを一切見せずに、最後方を走っているのだから。

 

『これは波乱の展開です! かつての菊花賞覇者メジロマックイーンが、戦い方を大きく変えて天皇賞(春)に挑むことを、一体誰が予想出来たでしょうか!』

 

 バ群のしんがりを走る理由が仮に、出遅れによる不利だったとすれば。

 

 マックイーンは第三コーナーから続く下り坂を利用し、改めて好位を狙っていくという選択をとっていただろう。

 

 バ場状態の影響を加味したとしても、最後方の位置取りが不本意なものであるとすれば、彼女は何かしらのアクションを起こしているはずだ。

 

 だがしかし、当のマックイーンに掛かったような様子は一切見られず、悠々とした足取りで展開を進めている。

 

「……これが、アンタの言っていた作戦ってこと?」

 

 ドーベルはマックイーンの奇想天外な一手に驚いた様子で、そして……極めて怪訝な眼差しを向けながら俺に問うてきた。

 

「まぁ、そういうことになるな」

「マックイーンって、先行策が得意なんじゃないの? それにさっき、実況が後方からの展開は厳しいって……」

 

 作戦とは普通、事の成り行きを都合良く押し進めるために弄する策のことだ。

 

 しかし、俺が今回マックイーンに施した作戦はその()()

 

 得意としてきた既存の戦術を塗り替え、よりにもよって、現状における最悪の選択肢をかき集めて作ったような愚策に他ならなかった。

 

 ドーベル達が疑問に思うのも無理はない。

 

 三千二百メートルの長丁場。

 

 過去に類を見ないほどの不良バ場。

 

 これらの要素を加味すれば、()()()()()()超スローペースな前残りの展開が発生することは容易に想像がつく。

 

 先行策に乗り出すのが圧倒的に有利な状況下で、好位からの速攻戦を得意とするマックイーンを、わざわざ一番不利を強いられるバ群の最後尾に配置する。

 

 誰がどう考えても、とち狂ったような選択肢だ。

 

 当然、こんなアホらしい作戦を提案した俺ですらも理解している。

 

……でも。

 

「現状のマックイーンに残された選択肢は……もう、これしか無かったんだ」

 

 繁靭帯炎を発症し、”不治の病”にもがき苦しむマックイーンをもう一度晴れ舞台へ送り出してあげるためには……この選択肢を用いるしか方法がなかったのだ。

 

「繁靭帯炎の治療に一度は成功したが、マックイーンは依然として大きな脚部不安を抱えている。そんな状態で先行策を講じれば、他のウマ娘達から激しい干渉を受けてしまうことになる」

 

 以前ダイヤにも説明した通り、レースは複数名の競走相手がいて初めて成立するもの。

 

 競走相手による干渉がもたらす身体的負担は、彼女がこの日のために積んできたトレーニングの比にならない。

 

 いつ千切れてもおかしくない綱を渡って、マックイーンはこの晴れ舞台に立っている。

 

 マックイーンの左脚に埋め込まれた爆弾は、いつ爆発してもおかしくない。そんな危険を背負った状況下で、彼女にこれ以上のリスクを与えたくない。

 

「それにこれは、他のウマ娘達を考慮した面もある。マックイーンが得意な先行策を取って、バ群の好位につけたとしよう。そんな状況下で、万が一怪我が再発して転倒を引き起こせば……どうなると思う?」

「…………」

 

 想像するまでもなく、大勢のウマ娘達を巻き添えにした大惨事に発展してしまう。

 

 時速六十キロを優に超える速度で走るウマ娘達が玉突きのように転倒すれば、受け身どうこうの話では無くなってしまう。

 

 傷ついてしまうのは……本人だけじゃない。

 

「俺が一生を捧げてでも責任を取れるのは、マックイーン一人が限界だ。不測の事態が発生してしまった場合……少しでも被害を抑えるためには、可能な限りバ群から距離を置かなければならない」

 

 マックイーンに残されたわずかな選択肢を継ぎ接ぎにして生み出した、苦肉の策。

 

 実行する本人の首だけを絞めてしまう、呪いのような作戦。

 

 それでもマックイーンは、俺の提案を嬉々として受け入れてくれた。

 

 もう一度、走れるのなら……そう言って、微笑みを浮かべながら。

 

「……そう」

「この作戦にはまだまだリスクが残っている。でもそれは、今の彼女にとって一番安全なリスクと言える選択肢なんだ」

 

 これは、仕方のないことなんだ。

 

 そうしないと、マックイーンはもう一度夢に挑むことすら出来ないのだから。

 

『間もなく第四コーナーを抜け、一周目のホームストレッチに差し掛かります』

『どのウマ娘達も、やはり内ラチを大きく避けるような進路を選択していきますね』

 

 京都レース場外回りコースの長い下り坂を通過し、縦長のバ群はスタート直後に形成された形を保ったままホームストレッチへとやってきた。

 

『先頭のウマ娘が前半千メートルを通過、その時計は六十四秒八。かなりのスローペースです』

 

 四番のボストンキコウシがハナを突き進み、十四番のトウカイテイオーは先頭から六番手の位置につけている。

 

 バ群の最後方を走るマックイーンだが、慣れない作戦にも冷静に順応し、とても集中できているように見える。

 

 この苦肉の策を講じる上で救いだったのは、マックイーンが長距離を走ることに長けた生粋のステイヤーであり、道悪のバ場状態を非常に得意としていたことだろうか。

 

 今回の天皇賞(春)ほどでは無いが、かつてマックイーンが制覇した菊花賞も重バ場での開催であった。

 

 同じ京都レース場で開催された長距離レースを制覇していることからも、レース場に対する適性は高いと言えるだろう。

 

 その他の要素で現状のマックイーンに勝機を見出すとすれば……最大の障壁であるトウカイテイオーが道悪のバ場を比較的苦手としていて、ウマ娘としての本質が”中距離”にあるといった程度だろう。

 

 ひとまずは順調に進んでいると判断し、俺は静かに胸を撫で下ろす。

 

「ねぇ」

 

 隣からマックイーンの様子を見守っていたドーベルが、俺に対して短い言葉を投げかける。

 

「アンタさ、アタシに何か話したいことがあってここに呼び出したんでしょ?」

「ああ。どうしても、ドーベルに聞いてみたいことがあって」

「じゃあ、今話して」

 

 俺の方を向いて、ドーベルが当初の目的を果たすよう催促してきた。

 

「あんまり長い話じゃないんでしょ? アタシ、マックイーンのレースが終わったらすぐに帰るから」

「分かった」

 

 ドーベルの指摘通り、俺は彼女とほんの少し話がしたいだけだった。

 

 ただでさえ人混みが苦手なドーベルに、長話を強いるようなことをするつもりは毛頭ない。

 

 だから俺は余計な前置きを一切せず、いきなり本題から切り出すことにした。

 

「ドーベルが天皇賞(春)にこだわる理由を、ちゃんと聞いていないなと思って」

「……それ、前にも言わなかったっけ? 天皇賞の制覇は、メジロ家の悲願だからって」

「うん。でも俺は、使命だけでは説明出来ない理由があるんじゃ無いかって一緒に言及したはずだ。あの時ドーベルが濁した本当の答えを、聞きたいと思って」

「……」

 

 ドーベルが掲げる使命の奥に隠れた想いを理解すれば、彼女の確信に迫ることが出来るかもしれない。

 

 ドーベルがチーム・アルデバランを脱退する直前、俺は意を決して彼女に問うてみた。しかし残念ながら、当時はあまり覚えていないと言って答えを濁されてしまったが。

 

「…………どうしてそう思ったの?」

 

 俺の指摘に対して、ドーベルは肩をすくめながらため息をこぼす。

 

 そして、観念したかのように俺へ再び問うてきた。

 

「俺が職場に復帰して、初めて一緒にトレーニングをした日のことは覚えているか?」

「……それは、まぁ」

 

 当時のことは俺も良く覚えている。

 

 警戒心を剥き出しにした状態のドーベルに対してどうやって距離を縮めていこうかと四苦八苦した挙句、大喧嘩に発展してしまった苦い思い出だ。

 

「その時に実施したタイム測定で、ドーベルはマイルから短距離において素晴らしい結果を出した」

「それが何……一番重要だった長距離のタイムは、目も当てられないザマだったじゃん」

「ああ。でも、この三つは全然違う。まだデビューしていない状態にも関わらず、中距離に至ってはその走破タイムがメイクデビューの基準を大きく上回ってすらいた。これは才能だけで出せる結果じゃない。血の滲むようなドーベルの努力が反映されていた数字だ」

 

 もしドーベルが本当に天皇賞(春)の制覇を最終目標に掲げていたのであれば、短距離から中距離にかけての脅威的な記録が生まれることは無かったはずだ。

 

「なぁ、ドーベル。本当はもしかして……」

 

 そして、それらの情報から導き出される結論はただ一つ。

 

 

 

 

 

「──天皇賞(春)を制覇する以外に……どうしても叶えたい、()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 メジロドーベルが想い描いた大切な夢は、偉大な悲願の中に存在しないということ。

 

「…………」

 

 俺はドーベルから言葉が返ってくるまでの瞬間を、ただひたすら待ち続ける。

 

 この沈黙はきっと、彼女が自身の気持ちを整理するために設けた、大事な時間だと思ったから。

 

「……………………はぁ」

 

 しばらく続いた沈黙の末、ドーベルは一際大きなため息をこぼしてスタンドの柵へと力無くもたれかかった。

 

「……夢とかそんな、たいそうなものじゃない。アタシはただ、誰かに認めて欲しかっただけ」

 

 そして、ドーベルは観念したかのようにぽつり、ぽつりと、自身が秘めていた内面を打ち明ける。

 

「アタシに長距離を走る適性が無いことは、ずっと前から分かってた。だったらせめて、自分の得意な距離を走っておばあ様達の期待に応えたい。そう思って必死に努力してきたけど……結局、誰もアタシのことを見てはくれなかった」

 

 切実な過去を告白するドーベルの悲痛な声に、俺は静かに耳を傾ける。

 

「誰からも期待されなくて、誰からも認めてもらえなくて、みんなを見返す機会すら与えてもらえなくて……そんな時、マックイーンが繁靭帯炎を発症して、レースに出れるような状態じゃなくなった」

 

 これまで一族から悲願達成の期待を注がれ続けてきたメジロマックイーンが、予後不良に等しい故障を患い、引退同然とも言える長期療養に入ってしまった。

 

 となると、マックイーンが背負い続けた一族の使命は、必然的に後進のウマ娘達へと引き継がれていくことになる。

 

「その時初めて、みんながアタシに期待の眼差しを向けてくれた。でも本当は妹のブライトが本命で……アタシはただのおまけに過ぎないんだって、分かっていたんだけどね。それでも、嬉しかった」

 

 その矛先の一つに立っていたのが、彼女の姉であるメジロドーベルだったのだろう。

 

「だからアタシは、その期待に応えたいと思った。春の天皇賞に勝ってみんながアタシを認めてくれれば、アタシは憧れのウマ娘みたいに……なりたい自分に、なれると思った」

 

 ドーベルの赤裸々な告白を聞いて……その瞬間、俺はようやく彼女という存在の本質を垣間見ることが出来たような気がした。

 

「それが、天皇賞(春)にこだわる理由…………これで満足?」

「……ああ、ありがとう」

 

 最後に投げやりな言葉をぶつけられて、ドーベルとの話し合いは終了した。

 

 そして先ほどホームストレッチに突入してきたばかりのバ群は既に、第二コーナーの手前を通過し始めている。

 

 もうすぐレースは向正面へと進み、二周目の淀の坂に差し掛かろうとしていた。

 

 

 

***

 

 

 

『──こう着した状態が続くレースは間もなく、第二コーナーを抜けて向正面へと突入していきます』

 

 メジロマックイーンが最後方からのレースを選択し、波乱の幕開けとなった天皇賞(春)。

 

 コース全体が水浸しとなった不良バ場の影響で超スローペースとなった展開に、向正面序盤でわずかに動きがあった。

 

 これまで六番手につけていた無敗の二冠ウマ娘──トウカイテイオーがいつの間にか順位を二つ押し上げ、四番手の位置を走っている。

 

 進路をバ群の外めに持ち出したことでこの瞬間、トウカイテイオーはいつでもハナを奪える好位につけたと見て良いだろう。

 

 その他のウマ娘達も最終直線へ向けて続々と準備を始め、向正面を進みながら虎視眈々と仕掛けどころを窺っている様子であった。

 

『しんがりを務めるメジロマックイーンは依然として最後方に……いやっ、ここでメジロマックイーンに動きがあった! 進路を外へ持ち出して、向正面中間から先団を目指してスパートを仕掛けていきます!!』

 

 そしてそれは、メジロマックイーンも同様である。

 

 マックイーンによる掟破りのロングスパートを目の当たりにした大観衆が、一際大きな歓声を上げて会場を沸かす。

 

「……こんな場所からスパートを仕掛けて、大丈夫なの?」

 

 ドーベルが強烈な追い込みに打って出たマックイーンを心配するのは無理もない。

 

 何故なら、マックイーンがスパートを仕掛けた場所から栄光のゴールまで、まだ千百メートル近い距離が残っている。

 

「マックイーンが持つ一番の武器は、長距離を走ることに特化した無尽蔵なスタミナだ。序盤から好位につけて戦うことが理想だけど、今回のような脚質を選択した場合、彼女は大きくスタミナを余すことになってしまう」

 

 追い込みという選択肢は、マックイーンがレースへ出走するために生み出された苦肉の策に他ならない。

 

 だが決して……苦し紛れの作戦だからといって、マックイーンが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 終始レース展開を支配して好位から一気に抜け出す先行スタイルが、メジロマックイーンの一番の武器であることは事実。

 

 しかし、その作戦を実践できているのは、彼女の”無尽蔵なスタミナ”という強靭な基盤が根本にあってこそ。

 

 今回の作戦は、その基盤を別の形に組み替えて応用しただけに過ぎない。

 

「最後方の位置からメジロマックイーンの本質を活かそうとすれば、この距離からロングスパートを仕掛けるのが最善だ。彼女の無尽蔵なスタミナがあれば、絶対に届く」

 

 これは、様々な要因を加味した上で俺の”体質”が導き出した一つの結論であった。

 

『すごい脚だっ、凄まじい脚だッ! 不良バ場をものともしない強烈な勢いで順位を押し上げ、メジロマックイーンが猛然と先頭に飛びついていきますッ!!」

 

 当然、ロングスパートを仕掛けることに対する身体的なリスクは大きい。それでも競走相手からの干渉がもたらす負担と比較すれば、全然マシな選択肢である。

 

 マックイーンはバ群最後方から瞬く間に順位を押し上げて中団へ浮上。二周目の向正面終盤に差し掛かった頃には、一気に六番手までのし上がっていた。

 

「マックイーン、もしかしてこれ……本当に、いけるんじゃ……?」

 

 逆境を容易く跳ね除けるようなマックイーンの追い上げに、会場のボルテージが指数関数的に上昇して熱狂の渦を巻き起こしていく。

 

 一年半ぶりの復帰戦という劣勢をまるで感じさせないマックイーンの走りを前に、興奮する心の奥底で誰もが思った。

 

 

 

──もしかしたら彼女は、()()を起こしてしまうのではないか。

 

 

 

 約一年半の空白を挟んだウマ娘が春の王者に君臨するという、偉業を成し遂げてしまうのではないか。

 

 

 

 俺達は今、偉大な歴史が刻まれる瞬間の目撃者になろうとしているのではないか。

 

 

 

 そんな予感をひしひしと肌で感じている間にも、マックイーンはさらに速度と順位を押し上げて、五番手の位置につくウマ娘を追い抜かしていた。

 

 

 

 捲土重来の如き勢いで猛攻に打って出た彼女を前に、もはやその予感を疑うものは誰一人として存在しなかった。

 

 

 

 メジロマックイーンは、奇跡を起こすかもしれない。

 

 

 

 かつての消えた"名優"が、最高の晴れ舞台で復活劇の主役を飾るかもしれない。

 

 

 

『そしてついにッ! 最後方からスパートを仕掛けたメジロマックイーンが、トウカイテイオーの隣に並び立ったッ!!』

 

 

 

 再発率が八割を超える”不治の病”を乗り越えて、マックイーンは今この瞬間のために、綱渡りのようなトレーニングを続けてきた。

 

 

 

 抱えきれない未練に苦しむマックイーンを決死の覚悟で導いて、俺はもう一度彼女を晴れ舞台へと送り出すことが出来た。

 

 

 

 手の施しようが無い、絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況を突き付けられても、マックイーンは決して諦めなかった。

 

 

 

 そんな彼女の弛みない歩みの果てに、ついに報われる瞬間が訪れたのだ。

 

 

 

 このまま行ってしまえ。

 

 

 

 この世界に忘れてきた大切な夢を、自分の足で取り戻して来い。

 

 

 

 マックイーンの走りに魅了された大観衆と共に、俺は懸命に夢へ駆ける彼女にエールを送る。

 

 

 

 そしてついに、第三コーナー手前でバ群のハナに食らいつこうとした瞬間……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──先頭を目指して突き進んでいたマックイーンの身体が、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………ぇ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのあまりにも不自然な挙動を目にして…………俺は、悟った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンの左脚に眠っていた、悍ましい病魔が……目を覚してしまったのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……っ、ぁ、──』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熱狂の渦に包まれた歓喜の瞬間が……一転。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──まっ、マックイーンにアクシデント発生っ! 懸命な追い上げを見せたメジロマックイーンがっ、左脚を庇いながら大きく後退していきます……ッ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あまりに救いようのない凄惨な結末に、誰もが目を覆い隠して、あちこちから絶望的な末路を想起させる悲鳴が飛び交う。

 

 

 

 

 

 

 

 綱渡りのようなトレーニングを奇跡的に乗り越え、晴れ舞台へと舞い戻ったメジロマックイーン。

 

 

 

 

 

 

 

 だが、しかし。

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンの身体は俺の想像以上に……限界だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 左脚を庇い、マックイーンは苦悶の表情を浮かべながら歯を食いしばって、バ群の後方へと沈んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 悲惨な未来が待ち受けるメジロマックイーンに、唯一の救いがあったとするならば。

 

 

 

 

 

 

 

 速度を落としながら後退していく間に、他のウマ娘を誰一人として巻き込むことが無かったということだろうか。

 

 

 

 

 

 

 ロングスパートを仕掛け、時速七十キロを突破した状態で走行していたマックイーンは、左脚を庇って重心が大きく傾いた状態にも関わらず、懸命に減速を図っていた。

 

 

 

 

 

 

 しかし、それでも……。

 

 

 

 

 

 

 

『──……っ、………………ッ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水浸しになった不良バ場に足を奪われて、()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 観客席からありありと確認出来るほど天高く巻き上げられた泥しぶきが、その転倒事故の凄惨さを痛切に物語る。

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………………………ぇ?」

 

 

 

 

 

 

 

 奇跡の復活劇を予感し、誰しもが期待に胸を高鳴らせた矢先の……あまりに唐突過ぎる”名優”の最期。

 

 

 

 

 

 

 

 歓喜の瞬間に包まれていた京都レース場全体が動揺し、重すぎる沈黙が会場内を支配する。

 

 

 

 

 

 

 

 メジロマックイーンは……夢の旅路を駆け抜ける半で、終わってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 絶望的な未来の景色が、レースを目撃していた人々の脳裏に浮かび上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 窒息するような沈黙が否応なしに最悪の結末を想起させ……もはや誰もが復活劇から目を背け、この場に佇む全員が"名優"の終幕を覚悟した。

 

 

 

 

 

 

 

 それでもまだ、沈黙の中でもレースは続く。

 

 

 

 

 

 

 

 向正面序盤でバ群の好位に持ち出していたトウカイテイオーが、第三コーナー突入直後に順位を押し上げる。

 

 後続のウマ娘達も不測の事態に動揺こそしたものの、既に気持ちを切り替えて仕掛けどころを見極める段階へと移っていた。

 

 縦長だったバ群がやがて一つの大きな塊となり、第三、四コーナーにかけての長い斜面を下っていく。

 

 歓声は上がらなかった。

 

 呆然とした沈黙が曇天のように重くのし掛かり、張り裂けそうな胸の痛みが非情な現実を突きつけてくる。

 

 彼女の最期を目撃してしまった者達はもれなく、抗いようのない”諦め”という感情に打ちひしがれた。

 

 この会場に居合わせた誰しもが諦めを受け入れ、目の前のレースから本能的に意識を背けてしまう。

 

 それは彼女の担当トレーナーである俺も例外では無く……呼び覚ましてはいけない類の何かから目を逸らして、必死に逃げていたように感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──故に、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バ群のはるか後方から迫る、泥に塗れた小さな影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天高く舞い上がった泥飛沫を切り裂いて駆け出す、満身創痍のウマ娘。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶望的な瞬間に立ち会った誰もが、一人残らず諦めることを受け入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………ぇ、ぁ…………ぅそ……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だけど──幾度となく絶望を被り続けた()()()()()、決して諦めることを受け入れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沈黙が続く真っ暗闇な世界の中から、俺達は”星”のように輝く小さなきらめきを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何度転んでも立ち上がり、度重なる不幸に打ちひしがれたとしても、決して夢を諦めない強かなウマ娘の姿を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真正面から困難に立ち向かい、自らの足で逆境を跳ね除ける──”不屈の名優”の姿を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶望の中から希望を見出し、自らの力で奇跡を手繰り寄せる少女の勇姿を……俺達は、確かに見たんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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56:不屈の名優

 向正面を駆け上がっていた身体が不自然に傾いた瞬間、私は悟った。

 

 

 

 

 

……これはきっと、嘘つきな私に跳ね返ってきた報いだったのだ。

 

 

 

 

 

『──まっ、マックイーンにアクシデント発生っ! 懸命な追い上げを見せたメジロマックイーンがっ、左脚を庇いながら大きく後退していきます……ッ!!』

 

 

 

 

 

 一族の期待を裏切り、ありったけの嘘と演技で自分を偽って。

 

 残された可能性に縋ることが何を意味するのかを分かった上で、親切な彼を騙して。

 

 大切な人達と交わした約束を散々裏切ってでも、強い自分であり続けることが正しいんだと言い聞かせ、壊れた心を慰め続けた。

 

 

 

……だって、仕方なかったのだ。

 

 

 

 そうでもしないと、私はもう生きていくことなんて出来なかったから。

 

 私の左脚に鋭く刺すような痛みがぶり返した瞬間……私は無意識に、隣を走っていたウマ娘に視線を向けた。

 

 その刹那に垣間見た()()の表情は……とても悲しそうで、それでも歯を食いしばって懸命に前を向いていたような気がする。

 

 少しずつ速度を落とすたびに、私と彼女の距離が大きく開いていく。

 

 いつの間に、彼女の存在があんなにも遠いと感じるようになってしまったんだろう。

 

 そのようなことを漠然と考えている内に、私はずるずると順位を落として行った。

 

 その途中、私の朽ち果てていく姿を見た者達は総じて、瞳に動揺の色を浮かべていた。それとも、同情の色だったのだろうか。

 

 残念だけど、これで私の夢は終わってしまった。

 

 全速力で風を切って走ることは、もう二度と出来ないんだと悟った。

 

 私は自身のスパートが生み出した速度を上手く殺しきれず、ついに傾いた重心が濡れた芝の上で滑り、体勢を大きく崩してしまった。

 

「……ぃ、……や、だ…………っ」

 

 咄嗟に出たその言葉は、果たして何に対する拒絶だったのだろうか。

 

 私の夢が終わってしまったことだろうか。

 

 私を救ってくれたあの人への恩を、責任という仇で返してしまうことだろうか。

 

 それとも……大切な人達と交わした約束を、全て台無しにしてしまったことだろうか。

 

 

 

 

 

──私を……おいて、いかないで…………っ。

 

 

 

 

 

 多分、全部だと思う。

 

 

 

 しかし、抵抗はすでに無意味だった。

 

 

 

 私の身体は迫り来る衝撃に備えて()()()()()()()()()、脳が私の意識をブツンと切ったことで視界はもう真っ黒に染まっている。

 

 

 

 身体の主導権を手放してしまったことで、私にはなす術が無くなってしまう。

 

 

 

 やがて居場所を失った私の意識は暗闇の中をさまよい、いつしか、とっくの昔に壊れてしまった心の中へと溶け込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 壊れた心の中で私が目にしたのは。

 

「…………」

 

 膝を抱えて弱々しく泣きじゃくる、本当(かつて)の私の姿であった。

 

 彼女の左脚は痛ましい包帯に覆われていて……とてもではないが、芝の上を走れるような状態ではなかった。

 

 怪我に苦しんでいた当時の私は、誰もいないところに隠れてよく泣いていたことを覚えている。

 

 悲しみから心を守るように泣きじゃくる彼女の背中に、私は何か声を掛けてあげるべきだろう。

 

「…………」

 

 抱えきれない未練に押し潰されている彼女へおくる言葉は、すらすらと私の心に浮かび上がってきた。

 

 慰めの言葉をたくさん用意し、私は意を決して彼女の背中へと近づいていく。

 

 

 

 

 

 

 

……しかし、その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

──え。

 

 両膝に顔を埋めて泣いていた女の子がふと、顔を上げたのだ。

 

 すると女の子は止めどなく溢れる涙を両腕で拭い払って、近くに落ちていた松葉杖を取るために身を捩った。

 

 そのあまりに無様で滑稽な姿を前にして、私は彼女へ届ける言葉を失ってしまった。

 

 女の子は慣れない様子で松葉杖を両脇に挟むと、たどたどしい足取りで私の真横を通り過ぎていく。

 

「…………」

 

 その瞬間、私は確かに見たのだ。

 

 絶望のどん底に突き落とされて、途方もない真っ暗闇の中を一人で歩いていく女の子の瞳に宿った──強かな決意の光を。

 

 壊れた心の中にいた本当(ほんとう)の私は……まだ、諦めていなかった。

 

 松葉杖をつきながら暗闇の中を進んでいく私の背中を見て、胸の奥に何かが染み渡るような感情を覚えた。

 

 ぼろぼろになった心の中で、私は愚直なほどひたすらに夢を追いかけ続けていたのだ。

 

 歩き疲れたらさっきのように立ち止まって、元気になったら先の見えない未来を信じてまた歩く。

 

「…………」

 

 段々と遠ざかっていく彼女の背中姿を見届けて、私は切に祈る。

 

 辛い現実や悲しい気持ちを乗り越えて進んだ先に待つ景色が、どうか素敵なものでありますように。

 

 どんな困難に直面しても決してめげずに自分を信じる強い姿を見て……あぁ、と私は悟る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──私にはやっぱり、夢を諦めることなんて出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 衝撃に備えて意識を手放してしまったが故に──。

 

 

 

 

 

 

 その行動を引き起こしたのは、私の意志ではなかった。

 

 

 

 

 

 

「──」

 

 宙へと投げ出された身体の主導権を奪い取ったのはきっと……骨の髄まで染み込んだ夢への未練と、私の壊れた心の奥底で燻り続けた──その本質を共にする■■■■■。

 

 速度を殺しきれずに身体が地面へと叩きつけられる寸前、()()は私の全身を繊細に突き動かし、局所的な衝撃を分散するための体勢を作り出した。

 

「──ッ!!」

 

 手前に畳んだ右腕を出して地面との間隔を測り、衝撃が全身に襲いかかるその瞬間を見極める。

 

 右腕が地面の感触を掴んだ刹那。限界まで背中を丸めた状態で回転する全身に衝撃を巡らせ、残った腕と脚を駆使して芝を思いっきり叩きつけるように蹴り上げる。

 

 力加減を一切しなかったことで柔らかい芝が豪快に抉れ、周囲一帯を浸していた泥水が爆発するように舞い上がった。

 

 全身を強く打撲しながらも、四肢で芝を蹴り上げた勢いとその衝撃で、私の身体は再び空中と投げ出される。

 

 身体の主導権を牛耳る()()は、この瞬間を好機と捉えた。

 

 平衡感覚の維持を司る耳と尻尾を駆使して投げ出された身体を即座に立て直し、着地のタイミングを極限まで見計らって利き足で芝を踏み締める。

 

 しかし、一度の受け身で体勢を立て直すには至らず、私の全身は再び激しい衝撃を経験した。

 

 まるで本能に突き動かされるように、私の身体がすかさず二度目の受け身を取る体勢を作り出す。

 

 その過程で全身が泥に塗れ、片方の視界が激しく霞んだ。

 

 痛覚が途絶えているせいで、身体の状態がどうなっているのかはよく分からない。

 

 でも、動いているからきっと大丈夫。

 

 そして、三度目の受け身によって身体が投げ出された状態で、私の利き足がついに芝の感触を掴んだ。

 

 複数回の受け身によって減速したスピードと、芝を蹴り上げる利き足の力が、まるで歯車が噛み合うかのようにピッタリと重なった。

 

 私は、身体が前へと倒れる寸前にすかさず()()()()()()()()()()()()、殺しきれなかった速度を逆手に取って更なる一歩を踏み出す。

 

 再び覚醒した私の意識はついに、置き去りにされたバ群の背中を視界に捉えた。

 

 人間離れしたウマ娘の運動神経を極限まで引き出したことで、私はこの瞬間、一つの窮地を脱出する。

 

 しかし私はそれでもまだ、絶望の渦から抜け出すことなど出来ていない。

 

 向正面終盤から再度追い込みを図った時点で、大きな塊となったバ群の既に第三コーナーへと突入している。

 

 絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況で、それでもその中から希望を見出そうとするのなら……。

 

 

 

 尋常でない速度が出た状態で受け身を成功させたことによって、私とバ群の距離がまだまだ捲れる範囲に収まっているということ。

 

 

 

 突然の事態に皆が動揺し、レース展開がわずかに遅れたということ。

 

 

 

 中盤まで可能な限りスタミナを温存していたことで、脚にはまだまだ余力が残っているということ。

 

 

 

 私が元々、道悪のバ場を得意としていること。

 

 

 

 私の身体を蝕む病魔が物理的な骨折ではなく、”不治の病”と恐れられている──繁靭帯炎であるということ。

 

 

 

 そして何より、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──私が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 苦難はひたすらに私を襲う。

 

 

 

 

 

 幾度となく失意のどん底に突き落とされ、度重なる不幸に散々打ちひしがれてきた。

 

 

 

 

 

 たくさん転んで、膝を抱えて涙を流して……それでも私は前を向き続けてきた。

 

 

 

 

 

 私が絶望的な窮地に立たされているのだとしても、それは山のように降り積もった不幸のほんの一部に過ぎない。

 

 

 

 

 

 どれだけ限界だと感じても……私にはまだ、前へと進むチャンスがある。

 

 

 

 

 

 どれだけ辛いと嘆いても……進んだ先には叶えたかった夢がある。

 

 

 

 

 

 たとえ、振り出しまで引きずり落とされてしまったとしても。

 

 

 

 

 

 

 たとえ、運命のいたずらに惑わされてしまったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──もう一度、最初(ここ)から…………っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は絶対に──()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

──奇跡、という言葉を意味を問われたら。

 

 

 

 

 

『いっ、一体何が起こっているのでしょうか……っ』

 

 

 

 

 

 今のアタシは間違いなく、”()()”だと答えるだろう。

 

 

 

 

 

『マックイーンは……っ、向正面で悲劇に見舞われたメジロマックイーンはまだ……ッ!』

 

 

 

 

 

 バ群のはるか後方から猛然と迫る、泥まみれの勝負服をはためかせたウマ娘。

 

 

 

 

 

 力強く芝を踏みしめる足音はまるで、烈々と打ち鳴らした心臓の鼓動のよう。

 

 

 

 

 

 お世辞にも優雅とは言えないがむしゃらな走りは、自らの意志で仮面を投げ捨てた”名優”の本質を映し出している。

 

 

 

 

 

 

 

『──まだっ、大丈夫です……ッ!!!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 目の前で巻き起こっている現実に、アタシの理解が追いつかない。

 

 愕然とした沈黙が瞬く間に会場全体をのみ込んで、心の中をぐちゃぐちゃにかき乱す。

 

 文字通り言葉を失った今のアタシに分かるのは、たった一つだけ。

 

 

 

 

 

 

 

──マックイーンが、走っている。

 

 

 

 

 

 

 

「…………ぅ、うそ……っ、そんな…………どう、して……っ」

 

 彼女はレース中に疾患が再発し、転倒という最悪の幕引きで競走を中止したはずだ。

 

 衝撃の激しさを物語るような泥しぶきが舞い上がる瞬間を見た。

 

 地面に幾度となく身体を打ちつけるたびに、絶望的な泥しぶきにのみ込まれていく瞬間が網膜に焼き付いている。

 

 それなのに、アタシの視界には歯を食いしばって懸命に走るマックイーンの姿が映っていた。

 

 その不可思議な現象を説明しようとするならば……もはや、()()という言葉で表現するしかないだろう。

 

『最後方から再びスパートを仕掛けるメジロマックイーンッ! しかし集団まではまだ、十バ身以上の差がある……ッ!!』

 

 向正面から再度強烈な追い上げを見せるマックイーンだが、大きな塊となったバ群は彼女のはるか先を進んでいる。

 

 序盤に温存していた末脚があるといえど、奇跡を起こした代償で彼女の身体はもうぼろぼろだ。

 

 第三コーナー手前で生じた大差をひっくり返すことなど……どう考えても、出来るはずがない。

 

 いくら長距離レースといえど、史上最悪とも言えるバ場状態の影響で生み出されたスローペースが、先行するウマ娘達に少なからず脚を残させている。

 

 不思議と歓声は上がらなかった。

 

 誰もがアタシと同じように手のひらを握りしめて、孤独にひた走る彼女の姿をただただ見ていることしか出来なかった。

 

『メジロマックイーンが懸命に追いかけるも、バ群の背中はまだまだ果てしないッ!!』

 

 マックイーンは諦めない。

 

 たとえ前との差が思うように縮まらなくても、彼女は全力でゴールを目指して走っている。

 

「…………なんで」

 

 アタシの知るメジロマックイーンは常に華麗で、優雅な姿勢を貫き、完璧な存在であることを心に刻んでいた。

 

 しかし、今のマックイーンはどうだろう。

 

 ボロボロの勝負服の上から全身に泥を浴びて、優雅とは到底思えないような不恰好な走りで、完璧には程遠い姿を曝け出してでも……不屈の心に底知れない執念を灯して、彼女はひたすらに足掻いている。

 

『ここでハナを奪ったトウカイテイオーが第四コーナーを大きく回って最終直線へ! 一足先に抜け出した彼女に続いて、後続のウマ娘達も勝負を仕掛けに行くッ!!』

 

 マックイーンの姉であるアタシだって、必死に足掻いてきたはずだった。

 

「…………」

 

 才能がなくて、誰からも期待されなくて、落ちこぼれて……それでもアタシは誰かに認めて欲しくて、褒めて欲しくて、見て欲しくて。

 

 アタシは必死に努力してきた。

 

 一族の期待を一身に背負ったマックイーンと同じくらい、頑張って生きてきた。

 

 それでも、常に評価されてきたのは妹の方で……アタシの努力は、”適性”や才能”といったありふれた言葉一つで簡単に掃き捨てられてしまった。

 

 一体何が違うんだって、アタシはずっと妹に嫉妬していた。

 

 羨ましかった。

 

 頑張りを褒めてもらえる姿があまりにも眩しくて……ただただ、ずるいと思っていた。

 

 アタシがマックイーンと接している時、その裏では常に煮えたぎるような嫉妬心と葛藤していた。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

……でも、それはお門違いだった。

 

 

 

 

 

 底知れない執念を宿してターフの世界を駆け抜けるマックイーンを見つめて、アタシは気付く。

 

 

 

 

 

 どうしてアタシ達の一族が、メジロマックイーンに悲願の成就を託したのか。

 

 

 

 

 

 どうして日本中の人々が、メジロマックイーンに対してたくさんの期待を寄せていたのか。

 

 

 

 

 

 彼らが見ていたのは、彼女の中に眠る”才能”では無かったのだ。

 

 

 

 

 

 彼らが見ていたのは、おばあ様達が見抜いていたのは……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──絶対に諦めないという不屈の心をその身に宿した、メジロマックイーンの()()だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 表面的な実力差や世間の評価に囚われて、アタシは根本的な部分を見落としていた。

 

 

 

 

 

 みんな、メジロマックイーンというウマ娘が生涯を通して貫いてきた──その()()()に惹かれていたのだ。

 

 

 

 

 

……あぁ。

 

 

 

 そのことに気付いた瞬間。

 

 

 

 アタシはもう、がむしゃらに走るマックイーンの姿から目が離せなくなっていた。

 

 

 

 こんなにすごい在り方を堂々と見せつけられて、嫉妬なんて出来るはずがない。

 

 

 

……あぁ。

 

 

 

 なんて、かっこいいんだろう。

 

 

 

 どんな困難に直面しても、マックイーンは前を向いて突き進む。

 

 

 

 その在り方に人々が惹かれ、その本質に多くのウマ娘が憧れを抱き、その走りを見ている者達に無限の勇気を届ける。

 

 

 

 絶望の中から一握りの希望を見出し、わずかな可能性を信じてひた走る。

 

 

 

 

 

 

 

 だから、マックイーンはその足で再び──とんでもない奇跡を巻き起こすのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 バ群から十バ身以上の大差をつけられた状態で突入した、第四コーナー。

 

 

 

 極限まで荒れた内ラチを避けるために、集団が揃って遠回りの進路を選択したその瞬間──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンはただ一人、何の躊躇いもなく──()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──ッ!?』

 

 道悪なバ場をものともしない豪脚に、沈黙の中から彼女の走りを見守る全員が度肝を抜かれた。

 

 ガラ空きになった内ラチの芝を泥しぶきと共に豪快に巻き上げながら、メジロマックイーンが突貫する。

 

 その迷いの無い進路取りはまるで、一瞬の隙をはなから狙い澄ましていたかのようであった。

 

 第四コーナーから最終直線へと至る刹那の間に、マックイーンは十バ身以上の差を嘘のように縮めてバ群の好位へと食らいつく。

 

 だがしかし、一足先にバ群から抜け出していたトウカイテイオーは、残り四百メートルの時点で集団から五バ身以上先を進んでいた。

 

 他のウマ娘達も消耗しているとはいえ、マックイーンの脚はきっともう限界だ。

 

 あの絶望的な窮地を乗り越え、目も背けたくなるようなロスを帳消しにしたのだから。

 

 それだけでも、十分奇跡だといえる。

 

 しかし、それ程の奇跡を目の当たりにしたとしても、会場を曇天のように覆う沈黙は続いている。

 

 

 

 

 

「…………れ」

 

 

 

 

 

 アタシの握りこぶしに、血が滲むくらいの力がこもった。

 

 

 

 

 

 トウカイテイオーの背中は果てしなく遠い。

 

 

 

 

 

「…………ば……れ」

 

 

 

 

 

 残り三百メートルを通過して、マックイーンは未だバ群の中。

 

 

 

 

 

 圧倒的なスタミナを誇るマックイーンといえど、懸命に歯を食いしばる彼女の表情には限界の色が浮かび上がろうとしている。

 

 

 

 

 

「…………ッ!」

 

 

 

 

 

 荒ぶる心臓の鼓動に駆り立てられるように、アタシはスタンドの柵から()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 普段は人前に出るのが苦手で、目立つことを極端に避けながら生きてきた。

 

 

 

 

 

 それはもはやアタシの根本に染みついてしまった恐怖心であり、今更どうすることも出来ない。

 

 

 

 

 

 だけどアタシは今、沈黙が帯びるスタンドの柵から身体を突き出し、あろうことか不特定多数の視線に自らの意思で晒されながら大きく息を吸っている。

 

 

 

 

 

 他人の視線が苦手とか、注目されるのが怖いとか……そうやって、思わないわけでは無いけれど。

 

 

 

 

 

 今はそんなことより、アタシは彼女にどうしても伝えたい言葉があったのだ。

 

 

 

 

 

 世界一かっこいいウマ娘の晴れ舞台を、沈黙なんかで終わらせないために。

 

 

 

 

 

 一生懸命走る妹の背中を、姉として精いっぱい押してあげるために。

 

 

 

 

 

 決して絶望に屈しない”名優”の限界を、取っ払ってあげるために。

 

 

 

 

 

 アタシは込み上げてくる感情の赴くままに──声を張り上げてひたすらに叫ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──頑張れぇええええええええッ!!!! マックイーンンンンンンンン──ッ!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アタシのちっぽけな声援が、マックイーンに届いているのかは分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 極限の集中状態に突入しているマックイーンには、アタシの声なんてきっと聞こえていないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 それでも良い。他人のことなんか気にしないで、マックイーンには自分の夢を叶えるためだけに走ってほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 会場内を覆い尽くしていた沈黙をかき消して、アタシはただひたすらにマックイーンへと声援を届ける。

 

 

 

 

 

 

 

 その一声に呼応するように人々は喧騒を取り戻し、再び地鳴りのような歓声を巻き上げてウマ娘達を迎え入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 熱狂的な大観衆の声援にかき消され、もはや、アタシの応援は意味を成さないだろう。

 

 

 

 

 

 

 それでも構わない。だって、アタシは誰よりも近くでマックイーンの姿を見つめて……気付いたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──奇跡はまだまだ、終わってなんかいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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57:メジロマックイーン

 初めて彼女と共に走った時も、私の前にはこうして彼女の背中があった。

 

 チーム・スピカへの加入を渋る私を強引に連れ回して、彼女は堅物の私を青春の世界へと引きずり込んだ。

 

 勝気な態度と生意気な言動が目立つ彼女だったけれど……走ることに関しては、常に背中で語るウマ娘だった。

 

 天才的な素質で他を圧倒し、弛まぬ努力の積み重ねによって、夢の実現まであと一歩というところまで迫った強かなウマ娘だった。

 

 そんな彼女の背中を追いかけ続け、唯一無二のライバルであると認められた瞬間は、言葉では到底表現出来ないような喜びがあった。

 

 短くも濃厚な青春をライバルとして共に駆け抜け、苦楽を共にした末に抱いた彼女への感情は……底知れない後悔だった。

 

 

 

 

 

──諦めちゃったの?

 

 

 

 

 

 嘘で塗りたくった仮面越しに見た、彼女の悲しみに暮れた表情が忘れられない。

 

 仕方無いんだと自分を正当化して彼女を騙し、それを真正面から受け止めた友達の顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 

「…………っ」

 

 波乱の展開が立て続けに巻き起こる天皇賞(春)は、早くも最終直線を残すのみ。

 

 はるか五バ身先を進む彼女の背中を、バ群の中から私は見つめる。

 

……あぁ。

 

 私達は常に肩を並べて走ってきたライバルだったのに、今では彼女の背中があまりにも遠いと感じてしまう。

 

 沈黙に包まれた世界を走っていると、研ぎ澄まされた私の五感が色々なものを無意識にとらえてくる。

 

 

 

 

 

 

 

──私の研ぎ澄まされた聴覚が、後悔と罪悪感に苛まれる心の声を聞き取った。

 

 

 

 

 

 

 

 ごめんなさいと、涙ながらに謝り続ける私の声が聞こえた。

 

 

 

 私に期待し、可能性を示してくれたおばあ様に謝りたかった。

 

 

 

 無条件の信頼を仇で返してしまったにも関わらず、再び私に手を差し伸べてくれたあの人に謝りたかった。

 

 

 

 私をライバルと認め、共に育んできた友情を裏切ってしまった彼女に謝りたかった。

 

 

 

 

 

 

 

──私の研ぎ澄まされた味覚が、口の中を刺激する鉄の味を感じ取った。

 

 

 

 

 

 

 

 激しい転倒を経験し、私の身体はすでに泥まみれ、擦り傷まみれの満身創痍であった。

 

 

 

 全身を強烈な衝撃で打撲し、不治の病が再発してしまったと自覚してもなおレースを続けられているのは……きっと、痛みを忘れてしまうくらい()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 その奇跡の代償があとで跳ね返ってくると思うと、ちょっとだけ怖い気もする。

 

 

 

 

 

 

 

──私の研ぎ澄まされた触覚が、鈍い風を逆撫でるような不快感を主張した。

 

 

 

 

 

 

 

 スタミナに自信がある私といえど、あれ程のロスを経た状態ではさすがに限界が近い。

 

 

 

 生ぬるいそよ風が、いつしか心にぽっかりと空いた穴の隙間を吹き抜ける。

 

 

 

 

 

 

 

──私の研ぎ澄まされた嗅覚が、自身の置かれた現状を冷静に分析した。

 

 

 

 

 

 

 

 極限まで荒れた第四コーナーの最内を突くことで、私は十バ身以上という絶望的な差を埋めることに成功した。

 

 

 

 だがしかし、バ群に飲まれる現状においては内側の進路を選択したことが逆に仇となり、末脚の伸びに拍車をかけることが出来ない状況に追い込まれている。

 

 

 

 もう少し進路を外に持ち出してからでなければ、先頭を進む彼女を捉えることは出来ない。

 

 

 

 でもその展開は残念ながら、一杯になりかけている隣のウマ娘が邪魔で実行することは難しい。

 

 

 

 ひたすらに焦りが募る。末脚に限界が近い状態では、どうしても進路を外側へ変更しなければならない。

 

 

 

 天皇賞(春)に決着がつくまで、残り三百五十メートル。まだ、外側は開かない。

 

 

 

……万事休す、か。

 

 

 

 最強の彼女を躱すためには、少しでも外目から攻め上がる必要がある。だから今は、ひたすら好機を窺うしかない。

 

 

 

 残り、三百三十五メートル。

 

 

 

 残り、三百二十メートル。

 

 

 

……残り、三百メートル。

 

 

 

 外は…………まだ、開かない。

 

 

 

(…………く、うぅ……っ)

 

 

 

 敗北という絶望的な未来が脳裏をよぎり、あまりの恐怖に目尻から涙がこぼれ落ちる。

 

 

 

(…………まだ……あきら、めない)

 

 

 

 瞳を濡らす水滴を、私の脳裏にまとわりついた恐怖と共に右腕で拭い払う。

 

 

 

(まだ、諦めない…………っ。諦めない、諦めないあきらめないあきらめないっ!)

 

 

 

 止めどなく溢れてくる雫を、今度は左腕で拭い取る。涙の代わりに泥が付いた。それを一緒に落とそうとして、さらに顔が泥で汚れる。

 

 

 

 それでも、私は諦めない。

 

 

 

 レースはまだ終わっていない。

 

 

 

 だから私は下を向かない。

 

 

 

 突きつけられた絶望にめげてはいけない。

 

 

 

 だから私は、ただひたすらに前を向く。

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 

 

 私はこの目で……確かに見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──私の研ぎ澄まされた視覚が、沈黙のスタンドから()()()()()()が身を乗り出す光景をとらえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのウマ娘の姿には心当たりがある。

 

 

 

 

 

──メジロドーベル。

 

 

 

 

 

 人前に出ることが苦手で、目立つような言動を極端に嫌うウマ娘。

 

 

 

 そして……私の使命を押し付けてしまった、血の繋がりを持つ姉妹である。

 

 

 

 そんな彼女が一体どうして、自ら注目を浴びるような行為に乗り出したのか。

 

 

 

 そんな疑問を思い浮かべる前に、ドーベルは沈黙を切り裂くような大声で私に言ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

──頑張れ、マックイーン。

 

 

 

 

 

 

 

 自身の荒ぶる息遣いとがむしゃらな足音だけが響く世界に、彼女の声がじんわりと染み込んでいくような感覚だった。

 

 

 

 周囲の視線を気にすることなく声援を送り続けるドーベルを見て……私は少し安心した。

 

 

 

 大きなコンプレックスを長年抱え、周囲から突然手のひらを返すように期待の眼差しを向けられたドーベルのことが、私はずっと心配だった。

 

 

 

 ドーベルは常に妹の私と比較され、その度に苦しい思いを強いられてきたことは知っている。

 

 

 

 姉妹としてドーベルの力になってあげたい気持ちはあったけれど、その同情が彼女を余計に苦しめてしまうことは目に見えていた。

 

 

 

 だから私はずっと、彼女の問題に対してさりげなく気にかける程度に留めていた。

 

 

 

……でも。

 

 

 

 あの様子だともう、私がドーベルのことを心配する必要は無いだろう。

 

 

 

 ドーベルは自分自身でコンプレックスの殻に亀裂を入れた。それは彼女にとって、あまりにも大きな成長だ。

 

 

 

 頑張れ、頑張れって……そんなに何度も言わなくたって、ちゃんと声は届いているのに。

 

 

 

 

 

 

 

──頑張って下さいっ! マックイーンさんっ!

 

 

 

 

 

 

 

 沈黙を食い破るドーベルの声援に連なるように、チームメイトのサトノさんが声を張り上げた。

 

 

 

 サトノさんは、かつて”名優”であったメジロマックイーンに対して強い憧れを抱いてくれていたウマ娘だ。

 

 

 

 トレセン学園に入学を果たし、後輩という関係になった彼女に対しても……私は嘘の仮面を被って接し続けていた。

 

 

 

 罪悪感はあった。それでも私はもう、後に引くことなんて出来なくて……。

 

 

 

 全ての魂胆が明るみになり、何もかもを捨てて逃げ出した弱い私を……サトノさんは、一緒に頑張ろうと励ましてくれた。

 

 

 

 罪悪感に苛まれる弱い私に……心の優しいサトノさんは、一緒に恩返しをしようと提案してくれた。

 

 

 

 その約束に、私が一体どれほど救われたことか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──マックイーン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドーベルと一緒にスタンドから身を乗り出し、彼女と共に沈黙を吹き飛ばす声量で私の名前を叫ぶ──あの人の姿を見た。

 

 

 

 あの人は、”不治の病”に苦しむ私に残された最後の可能性だった。

 

 

 

 教え子の喪失に傷心した彼をこの世界に引きずり戻してしまった後悔と罪悪感は、私の心に永遠と刻まれ、生涯消えることはないだろう。

 

 

 

 抱えきれない未練に追われる私に手を差し伸べ、あの人は嘘つきな私を受け入れてくれた。

 

 

 

 ウマ娘としての存在価値を無くし、壊れた心を守るだけで精いっぱいだった弱い私を助け、無条件の信頼を注いで導いてくれた。

 

 

 

 

 

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──走れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの人は足を失ったちっぽけな私に……もう一度夢へ挑むための、()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 あの人からもらった宝物のような言葉の数々は、壊れた心の中に残った本当の私が、絶対に忘れないようにと大切に抱きしめてくれている。

 

 

 

 ありがとうございます。

 

 

 

 本当に、ありがとうございます。

 

 

 

(……あぁ。私はなんて……なんて、()()()()()()()()()

 

 

 

 ドーベルの声援が、限界だと感じていた私の足をさらに先へと突き動かす。

 

 

 

 サトノさんの優しさが、満身創痍な私の身体を癒すように染み渡る。

 

 

 

 あの人の差し伸べてくれた手が、夢へと駆ける私の背中を押してくれる。

 

 

 

「………………っ」

 

 

 

 喧騒を取り戻した大観衆の歓声に迎えられ、私はバ群の中で一度大きく息を入れた。

 

 

 

 春の王者が君臨する瞬間まで、残り二百五十メートル。その時間にして──約十七秒。

 

 

 

 追いかけ続けた彼女の背中はまだ遠い。

 

 

 

 それでも私は今、彼女と同じ舞台に上がって、彼女と共に夢の続きを見ようとしている。

 

 

 

 私は決して俯かない。だって、前を見ていないとその瞬間を逃してしまうから。

 

 

 

 荒れた息遣いを整えながら、私はひたすら好機を待つ。

 

 

 

 その途中、孤独にひた走る彼女の背中が、心の声をぽとりと落として私に訴えかけてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

──”ついて来てよ”、って。

 

 

 

 

 

 

 

 いつか見た光景が、私の脳裏に鮮やかに蘇る。私は内心で静かに微笑んで、そしてついに……。

 

 

 

 

 

──その瞬間は、やってくる。

 

 

 

 

 

 バ群の中で外側を併走するウマ娘が一杯になり、後方へと垂れていく。

 

 

 

 栄光のゴールまで、残り二百メートル。この好機を──私は決して逃さない。

 

 

 

「──ッ!!」

 

 

 

 大きく息を止めて間を割り、限界を振り絞って私は駆ける。

 

 

 

『──ッ!! 残り二百メートルでメジロマックイーンが勝負に出たッ!!!! バ群を彼方へ置き去りにして、メジロマックイーンが不屈のラストスパートッ!!!!!!』

 

 

 

 

 

……あぁ。

 

 

 

 

 

 私はこの瞬間を、どれほど待ち望んでいただろうか。

 

 

 

 

 

(……トレーナーさん。本当に、ありがとうございます)

 

 

 

 

 

 あなたが手を差し伸べてくれたから、今の私はここにいる。

 

 

 

 

 

──良いかい、マックイーン。

 

 

 

 

 

 彼女の背中を追いかける途中、あの人がくれた宝物のような言葉の数々が、私の心の中で走馬灯のように蘇る。

 

 

 

 

 

──君はもう、自分のことだけを考えて走れば良い。

 

 

 

 

 

 あの人の言葉が繰り返されるたびに、私の心から無限の力が湧き上がってくる。

 

 

 

 

 

──自分のためだけに走って。

 

 

 

 

 

 強い想いが脚の回転数を爆発的に引き上げて……私は、ずっと孤独に突き進んでいた彼女の背中をついに()()()

 

 

 

 

 

──あの世界に忘れてきた大切な夢を。

 

 

 

 

 

 先頭をひた走るウマ娘との距離は、残り二バ身。限界を超えて生み出されたラストスパートに想いを乗せて、私は最後に大きく息を吸い込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──もう一度、取り戻しにいくんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、心に秘めたありったけの感情を込めて、私は叫ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──トウカイテイオォオオオオオオオオオオーーーッ!!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ねぇ、テイオー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今更だけど……やっと、戻ってこれたよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 約束したよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私がテイオーの夢を……()()()()、叶えてあげるって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 波乱の展開が巻き起こったトゥインクル・シリーズGⅠ重賞:天皇賞(春)。

 

 

 

 

 

 

 

 晴れ舞台の幕が下りる瞬間に訪れたその沈黙はまるで、主役の凱旋を迎え入れる喝采の前触れ。

 

 

 

 

 

 

 

『は、春の王者に君臨したのは……っ』

 

 

 

 

 

 

 

 五月一日、日曜日。

 

 

 

 

 

 

 

 澄み渡る快晴のターフに立ち尽くすウマ娘の瞳から、一筋の雫が静かに頬を伝う。

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間に立ち会ったものは皆、口を揃えてこう語るのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──”不屈の名優”、メジロマックイーンです!!!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺達はその日──()()を見たんだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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58:春の訪れ

「………………ぁあ、すごいなぁ……マックイーンは」

 

 困難に挫けず、不屈の心で奇跡を起こした"名優"の輝きに当てられて、アタシは胸の中に秘めていた気持ちが涙とともに溢れてきた。

 

 絶望のどん底から這い上がり、ターフの世界で燦然ときらめく彼女の堂々たる在り方に、アタシの瞳が釘付けになる。

 

 涙でぐちゃぐちゃになる視界を必死に拭って、アタシは世界一かっこいいウマ娘の存在を心に深く刻み込む。

 

 今のアタシはもう、彼女という存在に夢中だった。

 

 

 

 

 

「──ドーベル」

 

 

 

 

 

……ふと、情けなく泣きじゃくるアタシの前に誰かが立った。

 

「ありがとうございます、ドーベル」

 

 泥だらけで傷まみれの勝負服に身を包んだ”不屈の名優”が……メジロマックイーンが、いつの間にかアタシの前にいた。

 

「ドーベルの声、ちゃんと聞こえていましたよ」

「……っ」

 

 そう言って柔和に微笑むマックイーンの身体は、奇跡の代償と言わんばかりにボロボロで、いつ倒れてもおかしくないような状態だった。

 

「……ドーベル」

 

 マックイーンが再び、アタシの名前を呼ぶ。

 

 それと同時に、アタシの身体に彼女の体重がとすん……と預けられた。

 

「……あなたはもう、使命に縛られる必要はありません」

 

 アタシの胸元に顔をうずめ、朦朧としていく意識の中で、マックイーンは言葉をしぼり出す。

 

「あなたに使命を押し付けてしまったことが……ずっと、心残りでした」

 

 だんだんとマックイーンの声が小さくなっていく。その反面、預けられる身体の重みが大きくなっていった。

 

「……でも、良かった。これで、あなたはもう…………あなたの、なりたい……自分、に…………」

 

 そしてついに、マックイーンは言葉を紡ぐ最中で意識を手放してしまった。

 

 静かな寝息を立てる姿に少し安堵して、アタシは傷だらけの妹を抱きしめる。

 

「頑張った……っ、よく頑張ったね……マックイーンっ」

 

 その後の対応は非常に迅速だった。

 

 万が一の事態を想定して会場内に待機していたURAのスタッフ達が、意識を失ったマックイーンの身体を預かり、医療施設へと搬送していく。

 

 担架に乗せられた彼女の身体を目の当たりにして……本当に頑張ったんだなと、アタシは込み上げてくる感情が抑えられなくなった。

 

「ドーベル」

 

 担当ウマ娘の搬送に同行する寸前、マックイーンの担当トレーナーであるアイツがアタシに声をかけてきた。

 

「…………ねぇ」

 

 アイツが言葉を放つよりも前に、アタシはぽつりと言葉をこぼす。

 

「こんなアタシでも、なれるのかな……。なりたい、自分に……なれるのかな」

 

 止めどなく頬を伝う涙を拭うのは、もう無駄だった。

 

「ドーベルは、どんな自分になりたいんだ?」

 

 アタシの隣に立ったアイツが、かつての質問を今一度投げかけてきた。

 

「……あ、アタシは……っ」

 

 以前は一度、似たような問いに対して返答を濁していたけれど。

 

 赤裸々な本心が剥き出しになった今では到底、自分を偽ることなんて出来なかった。

 

「──キラキラしたウマ娘になりたかった……っ。ミライみたいな、みんなが憧れるようなウマ娘に……アタシは、なりたかった……っ!」

 

 アタシの口から、ひた隠しにし続けた想いがこぼれ落ちる。

 

「アタシは……、アタシは…………っ!」

 

 積もりに積もった苦しい気持ちを一緒に吐き出して、心の赴くままに私は叫ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──マックイーンみたいな、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を語る瞬間のアタシは素直だった。

 

 自分自身を偽ることを知らない、純粋無垢な心を宿してアタシは赤裸々な想いを打ち明ける。

 

 

 

 

 

……あぁ。

 

 

 

 

 

 言っちゃった。

 

 

 

 

 

 言っちゃったよ。

 

 

 

 

 

 

 

「──ドーベル」

 

 

 

 

 

 

 

 アイツが不意に、アタシの名前を呼んだ。

 

 

 

 

 

 アタシと向き合う不躾なアイツは、女の子の泣きじゃくる顔から片時も視線を逸らさない。

 

 

 

 

 

 剥き出しになったアタシの赤裸々な心が、強かな覚悟を灯したアイツの双眸になす術も無く射抜かれる。

 

 

 

 

 

「次は、ドーベルの番だ」

 

 

 

 

 

 アイツの決意に満ち満ちた言葉が、アタシの心をぐちゃぐちゃにかき乱す。

 

 

 

 

 

「君さえ良ければ……その夢をどうか、この俺に預けてほしい」

 

 

 

 

 

 底知れない指導者としての熱意を宿したアイツの姿を、アタシは知らない。

 

 

 

 

 

 こんな面倒くさいウマ娘と真摯に向き合ってくれる指導者の姿を、アタシは知らない。

 

 

 

 

 

「過去のしがらみも、未来への不安も……走るのに不要なものは、全部投げ捨てて」

 

 

 

 

 

 ただ、一つだけ分かるのは……。

 

 

 

 

 

 

 

「──()()()俺と一緒に、その素敵な夢を叶えよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 アイツという人間の本質から止めどなく湧き上がってくる情熱が……あろうことか、このアタシだけに注がれているということ。

 

 

 

 

 

 

……ねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな真剣な目で、アタシを見ないでよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だからさ、ドーベル」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな熱烈な声で、アタシを呼ばないでよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──俺の元に、戻って来い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなの……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──うん……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勘違い、しちゃうじゃん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 責任、取ってよ…………トレーナー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 温もりを運ぶ穏やかなそよ風が、静謐な病室の中に吹き抜ける。

 

 白磁のようなカーテンが静かにそよぐ窓際に立ち、俺はぼんやりと外の景色を眺めていた。

 

 天皇賞(春)が開催されてから実に、一週間の月日が流れた。

 

 現役最強を誇るトウカイテイオーにハナ差二センチという僅差で奇跡の勝利を遂げ、”不屈の名優”として世界にその名を轟かせた俺の担当ウマ娘──メジロマックイーン。

 

 トゥインクル・シリーズの歴史に刻まれた”奇跡の復活劇”。

 

 しかしその代償はあまりにも大きく、満身創痍の状態で俺達の元へ帰ってきたマックイーンは今も、その眠りから目覚めることはなかった。

 

 幸い命に別状はなく、時間の経過と共に彼女は目を覚ますだろうとのこと。

 

 俺はマックイーンが眠るベッドの縁に椅子を置いて、彼女の穏やかな寝顔を静かに見守る。

 

 今日は見舞いの品として、少しだけ物寂しい彼女の病室を鮮やかに彩る、ガーベラの花束を持ってきた。

 

 白磁の花瓶に水を注ぎ、俺はガーベラの花束を丁寧に移し替えていく。

 

 ガーベラという花には、その鮮やかな発色に由来した素敵な花言葉が付けられている。

 

 赤色のガーベラに込められた花言葉は、『いつも前向き』や『限りなき挑戦』。

 

 白色のガーベラに添えられた花言葉は、『希望』や『純粋』。

 

 桃色のガーベラに秘められた花言葉は、『思いやり』や『感謝』。

 

 そして、ガーベラは太陽を見上げてとびきり大きな花を咲かせることから、『光に満ちて』『常に前進』という花言葉を宿している。

 

 花束をすべて花瓶に移し替え、俺は物寂しかったマックイーンの病室にコトンと飾る。

 

 殺風景だった空間が……うん、花束一つで見違えるほど鮮やかになった。

 

 

 

 

 

 

 

「──とても、綺麗な花ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら、ガーベラの花束は彼女のお気に召したようだ。

 

「おはよう、マックイーン」

 

 俺は穏やかな表情でこちらを見つめるマックイーンに挨拶して、再び椅子へと腰掛けた。

 

「あの……私、どれくらい寝ていましたか?」

 

 マックイーンは眠りから覚めたばかりで、どうやらまだ意識がぼんやりとしているようだ。

 

「大体、一週間くらいかな」

「……そんなに」

 

 微かに目を見開いて、マックイーンは長い間横になっていた身体を起こそうとする。

 

「…………ぃっ」

 

 しかし、ベッドの上で少し身を捩った瞬間、彼女の表情が苦悶に歪んだ。

 

「まだ起き上がらない方がいい。今はとにかく絶対安静だ」

 

 天皇賞(春)という大舞台で奇跡を起こしたマックイーンだが……その代償は当然というべきか、非常に大きかった。

 

 レースの最中に発生した、マックイーンの転倒。幸い、奇跡的な反射神経と常人離れした運動能力によって窮地を脱することには成功したが、その過程で彼女は全身を激しく打撲していた。

 

 上手に受け身を取ったことで骨折には至らなかったが、身体に蓄積したダメージは相当な物である。しっかりとしたトレーニングで身体を鍛えていなければ、本当に危ないところだった。

 

 そして、マックイーンの転倒を招く原因となった、道中の不自然な挙動については……。

 

「……これではまた、振り出しですわね」

 

 無骨なギプスと包帯でぐるぐる巻きにされたマックイーンの左脚を一目すれば分かる通り……残念ながら、彼女は繋靭帯炎を再発させてしまったのである。

 

 マックイーンを担当する主治医達の見解によると、彼女の繁靭帯炎はレースの最中に再発を起こしてしまった可能性が高いそうだ。

 

 足の指先が地面に触れる、ただそれだけで激痛が全身を突き抜けると言われる中で、マックイーンは最後まで懸命に走り切ってみせた。

 

 その痛みは到底、我慢できるようなものでは無いはずだ。

 

 痛みを忘れて夢中になるほどの情熱と執念を宿したマックイーンの偉業は、もはや奇跡という言葉だけでは片付けられないような気がする。

 

「……無茶しすぎだ。正直、心臓が止まるかと思った」

「……すみません」

 

 結果的には無事に帰ってきてくれたものの、一歩間違えれば大変なことになっていた。

 

 レース直前に俺の”体質”を駆使してマックイーンの体調を把握した際は、特に問題無かったはずなのだけれど……正直、これ以上自身の力を過信してはいけないような気がする。

 

「本当に……ごめん。俺はマックイーンを、危険な目に遭わせてしまった」

 

 俺は心の底からマックイーンに謝罪して、深々と頭を下げた。

 

 これから俺は、マックイーンを夢の舞台へ送り出した責任を取らなければならない。

 

 それがメジロマックイーンを担当するトレーナーとしての義務であり、彼女を振り出しまで戻してしまった後悔への贖罪である。

 

「これを俺が言っていいのかは分からないけど……どうか、安心してほしい。俺は必ず、責任を取る」

「せ、責任……」

 

 俺の覚悟を含んだ言葉を、マックイーンが繰り返す。

 

「俺はマックイーンを必ず、健康な身体に戻してみせる。そしてもう一度、思いっきり芝の上を走らせてやる」

 

 掛け布団の隙間から覗くマックイーンの右手を取って、俺は彼女に決意を語る。

 

「俺は絶対に、マックイーンの身体を元に戻す。必ず、かならずだ。俺は必ず──自分の決断に責任を取る」

 

 俺は、不安を抱えるマックイーンを心の底から安心させなければならない。

 

 俺とマックイーンは一心同体のような存在であり、鏡写しである。

 

 だから、俺は彼女の身体に綻びがあることを許せない。

 

「……わっ、分かりました、分かりましたからっ」

「本当か!」

「分かりましたから…………あんまり、ジロジロみないで下さいまし……」

 

 俺はマックイーンに自身の決意と情熱を示す目的で、彼女に対して訴えかけたわけだけれど……どうやらもう、十分伝わっていたようだ。

 

「……それで、その。トレーナーさんはどうして私の病室へ?」

 

 当人のマックイーンが話題を強引に転換して、俺に疑問を投げかけてきた。

 

 自身の決意を語るためにマックイーンの病室に入り浸っていたことは事実だが、それだけであれば別に、彼女が目を覚ましてからで事足りる。

 

「ああ、それは……」

 

 俺がマックイーンの病室に足繁く通っていた目的は、彼女が目覚める瞬間を待っていたということもあるが……。

 

「マックイーンに、渡さなきゃいけないものがあったから」

 

 何よりも一番最初に、彼女に()()()()()()()()()()()()を預かっていたからだろう。

 

 俺は持参した荷物に腕を伸ばし、とびきり大きな箱を手に取った。

 

 努めて丁寧な所作をもって、俺は瀟洒な箱から中身を取り出す。

 

「マックイーン」

 

 そして俺は、しばしきょとんとする彼女へ向けて──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──おめでとう。これは、()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メジロマックイーンが育み続けたありったけの想いが込められた──大きな大きな『春の盾』を贈り届けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………………………ぁ、ぁあ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春の天皇賞を制覇した者のみに贈呈される、至上の栄光を盾の形に象った唯一無二の宝物。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メジロマックイーンが生涯を捧げてでも叶えたかった──大切な夢。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、の…………春の盾……っ。わ、私が叶えた…………春の、夢が……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大きな盾を両手で抱え、マックイーンが微かに声を震わせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 栄光に満ち満ちた春の盾を食い入るように見つめ、彼女の滲んだ瞳から大粒の涙が滴り落ちる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………ぁあ……、私の……大切な………………夢、が……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、彼女は自身の夢が実現した瞬間を噛み締めるように、春の盾を懸命に抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとう、ございます…………っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンの瞳から溢れるたくさんの雫と共に、彼女の心の奥底に沈んだ未練や後悔が流れ落ちていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に……っ、ありがとう…………ございます……っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の頬を止めどなく伝う温かい涙を目にして、俺は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これでもう、マックイーンは大丈夫だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンに大切な夢を贈り届ける使命を果たした俺は、目を覚ました彼女の検査の邪魔にならないように病室から退室した。

 

 しばらく手持ち無沙汰になった俺は、総合病院のエントランスに腰掛けて時間を潰していた。

 

 俺は最近、一人でいるとふと物思いに耽ることが多くなった。

 

 三年前に発生した”星の消失”を経て心が壊れる程の挫折を経験し、かつての情熱を失った状態で俺はこの世界に戻ってきて。

 

 たくさんの人に迷惑をかけて、散々後悔を繰り返してきた辛い過去。

 

……でも。

 

 昔馴染みのダイヤから前へと進む勇気をもらって、鏡写しのマックイーンから過去を振り返る新たな視点をもらったことで。

 

 俺はようやく、自分の後悔にもきちんと向き合えるようになった。

 

 健気な彼女達が支えてくれたおかげで、俺はきっと、これからもっと前へ進んでいくことが出来る。

 

 それはきっと、とても良い傾向だ。

 

 訳ありトレーナーの俺を信じてくれた強かな担当ウマ娘達には、感謝してもしきれない。

 

「──あ、兄さま!」

 

 そんな感じで感慨に浸っていると、とびきり元気な声音で俺を呼ぶ声がエントランスに響き渡った。

 

「ダイヤ達も、マックイーンのお見舞い?」

「はい! 先ほど、マックイーンさんが目を覚まされたと兄さまが教えて下さったので!」

「そうか」

 

 左腕に巻いた腕時計で現在時刻を確認すると、午後の授業が終了してからしばらくの時間が経過していた。

 

 俺がマックイーンの病室を後にしてからは、大体一時間程度が経っている。

 

「ドーベルも一緒なんだな」

 

 俺は腕時計に落とした視線を移し替え、ダイヤの身体に隠れるような形でこちらの様子を窺ってくる担当ウマ娘のメジロドーベルに声をかけた。

 

「………………まぁ。一応、マックイーンの姉だし」

 

 一週間前。

 

 俺はこぼしてしまった最後の欠片を取り戻すために、元担当ウマ娘のメジロドーベルを説得した。

 

 結果的にドーベルは”戻ってきてほしい”という俺の要求を受け入れ、チームへの再所属を認めてくれたわけだが……。

 

「………………………………」

「…………えっと」

 

 ダイヤの身体を盾にしたドーベルは、何故だか以前よりも格段と強烈な警戒の眼差しを飛ばしてくるようになった。

 

「ドーベル」

 

 俺がその原因に心当たりが無いのはきっと、メジロドーベルというウマ娘のことを何も知らないから。

 

 俺はマックイーンが出走した天皇賞(春)を通して、ドーベルが心に抱えるコンプレックスや葛藤を聞き取った。

 

 しかしそれは、メジロドーベルというウマ娘が持つ、たった一つの側面に過ぎない。

 

 俺はまだ、コンプレックスに思い悩む彼女の姿しか捉えることが出来ていなかった。

 

 

 

 

 

「……………………な、何よ」

 

 

 

 

 

 俺は担当ウマ娘のドーベルに対しても、一緒に夢を叶える決意を告白した。

 

 

 

 

 

 自分が放った発言には、きちんと責任を取らなければならない。

 

 

 

 

 

 俺はまだ、ドーベルとの関係を振り出しに戻したに過ぎない。

 

 

 

 

 

 俺はまだ、ドーベルのことを何も知らない。

 

 

 

 

 

 だから俺は、ドーベルのことを知りたい。

 

 

 

 

 

 最初の一歩を踏み出すには、とても大きな勇気が必要だ。

 

 

 

 

 

 でも俺は既に、大切な教え子達からありったけの勇気をもらっている。

 

 

 

 

 

 勇気を振り絞って関係を進展させることも、きっと成長のひとつ。

 

 

 

 

 

 

 

「──これから、一緒に頑張ろう」

 

 

 

 

 

 

 

 だから俺は、ドーベルの心からも絶対に目を逸らさない。

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………期待、してるから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 教え子達の手を借りて過去の未練を乗り越え、俺はついに指導者としての情熱を取り戻すことができた。

 

 

 

 

 

 かけがえのない教え子達に、大切なものをたくさん貰ったから。

 

 

 

 

 

 今度は俺が、彼女達にたくさんのものを送る番。

 

 

 

 

 

 心の奥底に宿した強かな決意があれば、俺はきっと大丈夫。

 

 

 

 

 

 

 

 だからさ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺はもう一度、ちゃんと前へ進むよ──ミライ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一週間ぶりに目を覚ましたマックイーンの検査が終わるまでもう少し時間が掛かるとのことなので、俺は気分転換に外の空気を吸いに行くことにした。

 

 一度ダイヤ達と別れた後、俺は病院のエントランスを出て、広々とした開放的な中庭へ足を運ぶ。

 

 不安や緊張の影響で凝り固まった身体をほぐし、少し散策でもしてみようかなと思った矢先のことである。

 

「…………ん、あれ?」

 

 俺はふと、スーツのポケットにしまっていたはずのスマホが無くなっていることに気がついた。

 

 どこかに落としてしまったのだろうか。

 

 俺は自身の行動を振り返り、スマホを落としてしまったとおぼしき瞬間を思い出そうと試みる。

 

 おそらくはマックイーンの病室か、病院のエントランスか。

 

 つい先ほどスマホを用いてダイヤに連絡を送っていたため、病院内で落としたことは間違いない。

 

 余程のことがない限りは大丈夫だと思うけれど、念のためすぐに探しに戻ったほうが良いだろう。

 

 俺は一度来た道を引き返して、だだっ広い中庭を後にする。

 

 そして、病院の正面エントランスへ入るために進路を左へ変えた瞬間、

 

「えっ──」

 

 俺の身体が何かに衝突した。

 

「きゃっ──」

 

 どうやら俺は、人とぶつかってしまったようだ。その衝撃で制服姿の女性が小さな声をあげて、身体の重心を崩してしまう。

 

「え、あ、す、すみません……っ」

 

 少し焦っていたせいで、勢いが出てしまったようだ。俺は慌てて女性の元に駆け寄った。

 

 見た感じ、女性は尻もちをついてしまっただけで、怪我を負ったような様子はない。

 

「だっ、大丈夫で…………、……」

 

 俺は慌てて女性の元に駆け寄り、倒れ込んでしまった彼女に手を差し出して……。

 

 

 

 

 

 

 

──俺はその光景に対して、強烈な()()()を覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あはは……こちらこそすみません。あたしもちょっと、周りが見えていませんでした…………、……ぁ」

 

 トレセン学園の制服を着用した女性は、おしりをさすりながらおもむろに起き上がろうとして……。

 

 

 

 

 

「……キタサンブラック?」

 

 

 

 

 

 俺は、きょとんとした様子でこちらを見つめる顔見知りのウマ娘と──キタサンブラックと視線が交錯する。

 

 このような場所で彼女と出会うのは予想外だった。

 

「…………あ」

 

 どうして君がここに……と、キタサンブラックへと投げかける前に、俺の口から異なる言葉が飛び出した。

 

「それって……もしかして、()()()()()……?」

 

俺は、キタサンブラックが右手に握りしめるそれ──スマートフォンを見て、一体どうして彼女が……と疑問に思ったが。

 

「あ、えっと……エントランスのソファーの隙間に挟まっていたのを見つけたんです。それで、トレーナーさんに届けてあげなきゃと思って……」

 

 キタサンブラックはどうやら、病院内で落としてしまった俺のスマホを回収してくれていたようだ。

 

 キタサンブラックは尻もちをついた状態から身体を起こして、持っていたスマホを俺に手渡してくれた。

 

「ありがとう、助かったよ」

 

 スマホを無くしたことに気付いて一時はとても焦ったけれど、彼女が見つけてくれたおかげでもう安心だ。

 

「それにしても……よく俺のスマホだって分かったな」

「え?」

 

 俺が使用しているスマホの外見は非常に一般的だ。

 

 特徴的なケースやアクセサリーを付けている訳ではないため、一目で判断するのはとても難しいと思うのだけれど。

 

「……あ、それは……以前、トレーナーさんが使われていたものと一緒だったので、もしかしたらと思って」

 

 どうやらキタサンブラックは、俺がスマホを操作していた際の記憶と照らし合わせて判断したようだ。

 

「本当に助かったよ。ありがとう、キタサンブラック」

「い、いえいえ。トレーナーさんのお役に立てたのでしたら、とっても嬉しいです」

 

 そう口にして、俺に微笑みを向けてくれるキタサンブラック。

 

 キタサンブラックは、本当に良い子だ。

 

 キタサンブラックに対する恩義と負い目が複雑に渦巻くせいで、彼女の純粋な笑顔を直視出来ないのが残念だったけれど……。

 

「そういえば……キタサンブラックは、どうしてこの病院に?」

「ダイヤちゃん達と一緒に、マックイーンさんのお見舞いに来たんです」

「そっか。ありがとう、マックイーンもきっと喜ぶよ」

 

 先程ダイヤ達と会話した際には、キタサンブラックの姿は無かった。

 

 おそらく、途中から合流したのだろう。

 

「……あの、トレーナーさん」

 

 ここで一度、会話が途切れる。

 

 俯きがちに視線をさまよわせたキタサンブラックが。

 

 やがて意を決したように表情を上げ、俺に向かって言葉を放った。

 

 

 

 

 

 

 

「──あたし、次は負けませんから!」

 

 

 

 

 

 

 

 それは、キタサンブラックからの()()()()であった。

 

「結果的に皐月賞は三着で、ダイヤちゃんの足元にも及びませんでしたけど……あたし、日本ダービーでリベンジします!」

 

 俺を見上げるキタサンブラックの瞳には、ライバルの打倒に燃える強かな情熱が宿っていた。

 

 今から約三週間後に開催される、クラシックレース第二戦──日本ダービー。

 

 世代の頂点を巡る争いはより一層白熱し、トゥインクル・シリーズに向けられる注目は右肩上がりで上昇している。

 

 情熱に満ち満ちたキタサンブラックの宣戦布告を受けたとなれば。

 

「それは、負けられないな」

 

 俺も彼女のそれに対して、しっかりと応えなければならないだろう。

 

「ダイヤちゃんに勝って、日本一のウマ娘になります。菊花賞だって、ライバルには譲りませんから!」

 

 打倒ライバルに燃えるキタサンブラックの熱意は、とても純粋だった。

 

 キラキラとした瞳で夢を語る彼女の姿を見るのは、不思議と初めてでは無いような気がする。そんな風に感じたのは、一体何故なのだろうか。

 

「ですから、トレーナーさん──」

 

 素敵な夢を抱いた瞳に俺を映して、キタサンブラックが言葉を紡ぐ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──あたしのこと、見ていて下さいねっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間に垣間見せた彼女の表情は、春の訪れを告げるかのような()()()()()()()()




 これにて、episode.2が完結となります。

 活動報告の方を更新させて頂きましたので、よろしければ目を通して下されば幸いです。

 episode.2完結までお付き合い頂き、本当にありがとうございます。

 よろしければ、ここまでの作品を評価して頂けると嬉しいです。今後のモチベーションに繋げさせて下さい。

 次回は、幕間 2となります。


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幕間 2
XX:キタサンブラック3


 新年からかなり時間が経過しましたが、明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。
 今後の更新に関してなのですが、申し訳ありません。リアルの都合でしばらく不定期になります。


 かつて、”星”という異名で一世を風靡した世界的アイドルウマ娘──ミライが所属していたチーム・アルデバラン。

 

 二年前に開催された凱旋門賞の悲劇、通称──”星の消失”と共に表舞台から姿を消した世界最強チームが突然、ひとりのウマ娘を引き連れて日本のトゥインクル・シリーズに凱旋した。

 

 トゥインクル・シリーズでの活躍を夢見る年頃のあたし達は特に、ミライというウマ娘への憧れが最も顕著な世代であった。

 

 日本中のウマ娘が”星”の輝きにあてられた。世界中の少女がミライの走りに魅せられた。

 

 当然あたし──キタサンブラックも、ミライさんに魅了されたウマ娘のひとり。

 

 チーム・アルデバランがレースの世界に戻ってきたという知らせを受けた瞬間、あたしは我を忘れるほどに歓喜した。

 

 だってあたしは昔、ミライさんを育てたあの人と約束したんだから。

 

 きっとあの人は、日本まで成長したあたしのことを迎えに来てくれたんだ。

 

 そうに違いない。そうに決まってる。

 

 逸る気持ちの赴くままに、あたしは阪神レース場のターフを一望出来る観覧席へと駆け込んだ。

 

 数万人越えの大観衆が押し寄せる荒波のようなメインスタンドへ視線を巡らせ、あたしはあの人の面影と重なる人物を血眼になって探した。

 

 観覧席とターフを隔てるガラス越しの世界から、あたしは食い入るようにあの人の痕跡を辿る。

 

「──っ」

 

 それからしばらくして、歓喜と興奮の渦に包まれるスタンドを縦横無尽に駆け回るあたしの視線がピタリと止まった。

 

 それはまるで、理屈では説明できない不思議な何かに導かれるような感覚であった。

 

 胸の奥からこみ上げてくる抑えきれない熱が瞬く間に全身を巡り、あたしの心臓が手綱を引き裂いて暴れ出す。

 

 その形容しがたい感覚に、強いて名前をつけるとするならば。

 

 

 

 

 

 きっと……。

 

 

 

 

 

 その感覚に明確な名前をつけてしまったら、きっとあたしは止まれなくなってしまう。

 

 でも、自分の気持ちに愚直なまでに正直で、本能的な衝動を抑えられない自身のコンプレックスから、あの人はあたしの長所を見出してくれた。

 

 キタサンブラック(あたし)というウマ娘から魅力を見つけてくれたあの人なら、きっとあたしの想いを受け止めてくれるに違いない。

 

 数年前に交わした子供の頃の口約束だけれど、あたしにはミライさんから貰った耳飾りがある。

 

 今は栗東寮の自室に眠っているけれど、それを渡せばきっと、あの人はあたしのことを思い出してくれるはずだ。

 

 思い立ったら即行動。あたしは即座に踵を返し、衝動に駆られるようにその場から走り出そうとして……。

 

「……あ、ダイヤちゃ──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしは、気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………ぇ……う、そ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おぞましいほどの熱量に取り憑かれた今のあたしの、おめでたいほどの──盲目さに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつて、成長したあたしを迎えに行くと約束してくれたあの人の──正体に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………なん、で?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熱に浮かされた夢見がちなあたしは、あまりにも盲目だった。

 

 過去の愛しい記憶に刻まれた面影を辿るあまり、目の前に広がる現実を直視出来ていなかった。

 

 今だってそうだ。

 

 数万人を超える大観衆の中からあの人の姿を見つけた。

 

 だけどあたしが見つけたそれは、”思い出”というフィルター越しの世界から眺めた”あの人”という記憶の曖昧な面影に過ぎなかった。

 

 思い出のフィルターを取り外し、全身が底冷えするような冷静さを取り戻した状態で、あたしは今一度目の前に広がる現実と向き合う。

 

 

 

 

 

 

 

 ターフの世界で輝く新たな”星”の光に照らされて泣き崩れる、スーツ姿の男性。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな男性を優しく抱きしめ共に涙する、彼の担当ウマ娘。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな彼らの絆が固く結ばれる瞬間を呆然と見つめていると、何故だか突然、足腰に力が入らなくなってしまった。

 

 

 

 

 その場にとすんと尻もちをつき、あたしは立ち上がる気力を失ってしまう。

 

 

 

 

 そんな状態でも、釘付けにされたあたしの視線は相変わらずふたりを捉え続けていた。

 

 

 

 

 心の中に沈殿した何かを根こそぎ吐き出すように泣きじゃくるスーツ姿の男性には、当然のように心当たりがある。

 

 

 

 

 かつて、世界的アイドルウマ娘を育成し、ちっぽけなあたしに長所を見出してくれたひと。

 

 

 

 

……あたしの身勝手なわがままによって、心をぼろぼろに壊されてしまったひと。

 

 

 

 

 

 そんな彼が再び立ち上がり、ひとりの担当ウマ娘を引き連れてターフの世界へと凱旋した。

 

 

 

 

 

 あの人のぼろぼろになってしまった心へ寄り添うように勝利を捧げた彼の担当ウマ娘にも……あたしはもちろん、心当たりがある。

 

 

 

 

 

 彼女の名前は──サトノダイヤモンド。

 

 

 

 

 

 この世界に数多と存在するウマ娘の中からあの人が手を差し伸べた、大切なパートナー。

 

 

 

 

 

 お門違いだと分かっていても、あたしは動揺を隠すことが出来ない。

 

 

 

 

 

 あたしはあの人に選ばれなかった。彼の心を追い詰める元凶となったあたしには当然、選ばれる権利なんて残っているはずがなかった。

 

 

 

 

 あの人が選んだ相手は。

 

 

 

 

 

 あの人が手を差し伸べた相手は。

 

 

 

 

 

 

 

──あたしの一番大切な、親友の女の子だった。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 誰もが予想だにしなかったチーム・アルデバランの凱旋劇に立ち会ったその後、どうやってトレセン学園へ帰ったのかは正直よく覚えていない。

 

 呆然とした意識のまま何とか栗東寮へ戻り、あたしはさながら亡霊のような足取りで自室のベッドに倒れ伏した。

 

 脳裏に焼き付いた衝撃的な光景がよぎるたびに、あたしは取り返しのつかない後悔に苛まれる。

 

 いつの日だったか、互いの意見がぶつかり合って言い争いに発展した苦い記憶。

 

 その中に出てくるトレーナーさんの姿が、今となっては愛しい記憶の中に存在していたあの人と重なってしまって仕方がない。

 

 どうして気付けなかったのかと、あたしは過去の自分自身に問い詰めた。

 

 どうして気付かなかったのかと、あの人の心を壊してしまった今の自分を捲し立てた。

 

 なんで、どうして……なんて後悔を繰り返したところで、本当は分かっている。

 

「…………」

 

 全部、夢見がちなあたしが招いた自業自得だった。

 

 あたしはただの、世界的アイドルウマ娘に憧れを抱いた数多と存在するファンのひとりに過ぎず。

 

 少しだけ特別なリップサービスを真に受けてしまった、本当に残念なウマ娘だったのだ。

 

 あたしはその日、手遅れとなってしまった後悔に苛まれ続け、結局一睡もすることが出来ずに翌日を迎えてしまった。

 

「──、……ちゃん? ──っ」

 

 翌日の学園は当然のように凱旋したチーム・アルデバランの話題で持ちきりで、注目の渦中にいるダイヤちゃんが登校してきた瞬間にクラスメイト達が彼女のことを取り囲んでいた。

 

 あたしもその輪に入って色々と聞きたいことがあったけれど、ガラス越しに眺めた前日の景色が繰り返し脳裏をよぎり、快活が取り柄だったあたしの身体を鉛のように重くする。

 

 それからあたしは散漫した注意力が原因で普段以上に多くのことをやらかし、その度に先生から注意を受けてしまった。

 

 トレーニングの時だって、集中力を欠いて危うく転倒しかける瞬間が何度もあった。

 

「──ちゃんっ。キタちゃんっ!」

 

 何をするにしてもどこか上の空で、全身がぼんやりとした浮遊感に包まれているような、お世辞にも心地良いとは言えない感覚。

 

……ほら、今だってそうだ。

 

「……わ、あわわっ!」

 

 夏休みを利用した、チーム・スピカでの約二ヶ月に渡る長期間の夏合宿。

 

 海岸沿いの長い砂浜を用いた往復ダッシュを終えた休憩時間、あたしはその一角に設けられたビーチパラソルの下で日差しを遮りながら膝を抱えていた。

 

 さざなみの音を聞きながら物思いに耽っていると、ついつい周囲への気配りがおろそかになってしまう。

 

「すっ、すみませんテイオーさんっ……ちょっと、ぼーっとしてました」

 

 声の持ち主をたどって視線をさまよわせると、あたしの頭上に見知った先輩ウマ娘の顔があった。

 

 あたしと同じ学園指定の水着に身を包み、明朗快活な性格が魅力的なテイオーさんが、少しだけむすっとした表情でこちらを見下ろしている。

 

「もぉ、どうしちゃったのさキタちゃん。最近、よくぼーっとしてるけど」

 

 テイオーさんはあたしにとって、昔から強い憧れを抱いているウマ娘のひとりだ。その熱量は、かつての世界的アイドルウマ娘に対するそれに勝るとも劣らないほど。

 

「夏合宿が始まってから一ヶ月くらい経ったけどさ。なんかキタちゃん、心ここにあらずって感じだよね?」

「え、ええっと……その…………」

 

 六月末の出来事からあたしは後悔に囚われ続けており、そのことが原因で周囲に迷惑をかけてしまっていることは自覚していた。

 

 でも、そんな簡単に割り切れるような問題でなければ、おいそれと他人に打ち明けられるような悩みでもなくて。

 

「何か、悩みごとでもあるの?」

 

 そんなあたしの苦悩は当然というべきか、残念ながら周囲に筒抜けだった。

 

 あたしのことを心配してくれたテイオーさんが、隣によいしょと腰を下ろす。

 

「な、悩みとかそんな、たいそうなものじゃないですよ! ちょっとトレーニングで疲れちゃって、ぼんやりしていただけですからっ」

 

 あたしは取り繕った言い訳と共に、笑顔を作ってテイオーさんに返事をする。

 

「……そっか!」

 

 少しの間を置いて、テイオーさんは納得したような笑みを返してくれた。

 

「まっ、何かあったら相談してよねー! 悩みごとの一つや二つ、このボクにかかればあっという間に解決しちゃうんだからさ!」

「それはとっても頼もしいです!」

 

 あたしの知っているテイオーさんはいつも快活な笑顔を浮かべていて、彼女のそれから元気を貰うことも少なくない。

 

 テイオーさんはすごいウマ娘だ。

 

 無敗の二冠ウマ娘としてトゥインクル・シリーズにその名を轟かせ、不幸な故障を完全に乗り越え、破竹の勢いで春の天皇賞を制覇した経歴を有している。

 

 昔はその背中にただただ憧れを抱くだけだったけれど……同じターフの世界に飛び込んでみて初めて分かった、彼女の強さ。

 

 そんなテイオーさんと同じチームに所属出来ていることは、今更ながら、奇跡に近いんじゃないかなって思う。

 

 そのことを自覚した瞬間。

 

「…………ぁ」

 

 あたしはふと、至極当たり前のことを思い出した。

 

 あたし──キタサンブラックは、チーム・スピカに所属しているウマ娘。

 

 チーム・スピカの顧問を務める沖野トレーナーにその脚を評価され、トレセン学園において非常に人気のあるチームに籍を置かせてもらっているウマ娘だ。

 

 そんな現状でこの悩みに心労を割くということは、あたしを選んでくれた沖野トレーナーに対していくらなんでも無礼が過ぎるのではないだろうか。

 

「……? どうかしたの?」

「い、いえっ! なんでもありません! たった今、悩みごとが吹き飛んだような気がします!」

「へぇ〜っ、そっか! これも、ボクが近くにいたおかげかな! にししっ」

 

 あたしはすでに、実力のあるチームに所属しているウマ娘。

 

 子供の頃の口約束や、昔の思い出を振り返って感傷に浸っている余裕なんて、今のあたしにはこれっぽっちも無い。

 

 今は沖野トレーナーやテイオーさん達の元で実力を伸ばし、トゥインクル・シリーズで結果を残すことを最優先に考える。

 

 そしていつかGⅠタイトルを獲得して、みんなから注目される立派なウマ娘になったら。

 

 あの人だって、きっと……。

 

(……っ、いやいや、たった今割り切ったばっかりなのに……っ。あたしったら…………はぁ)

 

 清々しい感覚を噛み締めていた矢先に込み上げてくる、どうしようもない自己嫌悪。

 

 あたしの中に根付いた複雑な感情と折り合いをつけるには、もうしばらく時間が必要なようだ。

 

「……あ、そうだ。キタちゃん、今日の午後って何か予定ある?」

「午後ですか? 特にはありませんけど……」

「だったらさっ、街の方に遊びに行こうよ! 気分転換の意味も込めてさ!」

 

 今日のトレーニングは午前中で終了するため、午後は完全にフリーの時間帯である。

 

 本当は溜めこんでいた学園の課題を消化しようと考えていたけれど、先輩の気遣いを無碍にする礼儀知らずな後輩ではない。

 

「あ、それ良いですね! あたしもぜひご一緒させて下さい!」

 

 この胸の中に溜め込んでしまったモヤモヤを吐き出すという意味では、テイオーさんの提案は最適だ。

 

「にししっ、それじゃあトレーニングが終わったら着替えて旅館の入り口で集合ね!」

 

 ちょっとした悩みを抱えてしまっている今のあたしには、気分転換が必要だろう。

 

 少しだけ狭くなった視野を広くするためにも、新鮮な刺激を受けることは重要だ。

 

 

 

***

 

 

 

 午前中のトレーニングが一段落した後、あたしは私服に着替えて約束の場所でテイオーさんと合流した。

 

 二人揃って旅館を出た後、あたし達はそこからしばらく離れた観光スポットへと足を運んだ。

 

 テイオーさんに連れられてやってきたのは、全国各地から観光客が集まる有名な大型ショッピングモール。

 

 昼食がまだだったのでフードコートで腹ごしらえをした後、あたしはテイオーさんと一緒に貴重なオフを満喫した。

 

 最近若者の間で人気が集中しているアパレルショップで流行のファッションに触れてみたり、ゲームセンターでテイオーさんが驚異的な無双劇を披露したり、一緒にプリクラを撮影して容姿を盛りに盛りまくってみたり。

 

 心に抱えた悩みごとを吹き飛ばす勢いで楽しみ尽くした後、あたし達は満足した感覚に浸りながら旅館への帰路についた。

 

 そのまま旅館に直行するのが少し切ないと感じたあたし達は、帰路の途中に見かけた商店街へ寄り道をすることに。

 

 既に太陽は西へと沈みかけ、夕日が景色を朱く染める時間帯になっているが、夏の季節は日没までの時間が非常に長い。

 

 そのため、夕方の時間帯であっても商店街は多くの人達で賑わっており、あたし達のお祭り気分はまだまだ終わらなかった。

 

 遊び疲れて小腹が空いたあたし達は、本能の赴くままに食べ歩きをすることにした。

 

 手始めに、テイオーさんの大好物であるはちみつドリンク、通称──ハチミー。

 

 はちみつレモン風味のすっきりとした味わいが魅力的なハチミーを片手に、各々の目にとまった食べ物をもう片手に握りしめる。とても幸福な時間だった。

 

 そんな感じでテイオーさんと雑談に耽りながら食べ歩きを繰り返していると……。

 

「──あ、あのっ」

 

 背後から不意に、あたし達を呼び止めるような声が掛けられた。

 

 声の聞こえた方向を辿って、あたし達は揃って背後を振り返る。

 

「えっと、トウカイテイオーさんですよね……っ」

 

 あたし達に声をかけたのは、三人組の女性であった。

 

「え、ああうん。そうだけど」

「やっぱり!」

 

 テイオーさんの返事を受けて、女性達が歓喜の声を張り上げる。

 

「うわぁ、本物だぁ……っ」

「ちっちゃくて本当に可愛い! 生テイオーちゃんが目の前に……っ!」

「あの、握手してもらっても良いですか!?」

 

 どうやら彼女達は、テイオーさんの走りに魅了されたファンのようだ。

 

「え、なになにっ、君たちもしかしてボクのファンなの〜っ?」

 

 そして、彼女達に迫られるテイオーさんも満更ではない様子。

 

「ふっふっふっ、握手くらいお安い御用ぞよ〜!」

 

 少し得意になったテイオーさんが、ファンを名乗る女性達と交流する。

 

……そういえばあたしも昔、彼女達と同じようにテイオーさんに迫っていたなぁ。

 

 そんな微笑ましいやりとりを側から眺めているうちに、いつしか人が人を呼ぶような形で周囲に大きな集団が形成されていた。

 

 テイオーさんは本当にたくさんの人達から愛されているんだなと、あたしはトウカイテイオーという存在の大きさを改めて認識する。

 

 彼女を取り囲む注目が一段落するまで、あたしは両手に持った食べ物を頬張りながら待つことに。

 

 それらを全て完食し、手持ち無沙汰になったあたしは時間を潰すために何をしようかなと視線をさまよわせた。

 

 その瞬間……。

 

「………………ぁ」

 

 あたしの視界に偶然、とある書店の入り口に並んだ複数冊の()()が映り込んだ。

 

 吸い寄せられるように身体が動いて、あたしは自身の意識を釘付けにしたそれに手を伸ばす。

 

 あたしが手に取った雑誌の名は『月刊トゥインクル』。レース業界の情報を発信する大手出版社が発行している雑誌記事だ。

 

 その表紙を目にした瞬間、この雑誌が月刊トゥインクルの最新号であると容易に判断がついた。

 

 何故なら、その表紙を堂々と飾っていたのは……。

 

「…………ダイヤちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

──あたしの一番大切な親友が、ターフの世界を一生懸命走る姿だったから。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしは無意識に雑誌の表紙を捲り、その一面を開く。

 

 ゴール前を駆け抜ける瞬間のダイヤちゃんの魅力を、極限まで引き立てるように飾られた大見出し。

 

「最強の凱旋、”星”を受け継ぐ至高の原石……」

 

 その大見出しを声に出して繰り返すのと共に、あたしは対談形式で綴られた文面に目を落としていく。

 

 最初は異色の登竜門となったメイクデビューに勝利したダイヤちゃんの心境が語られ、その内容は次第に彼女が所属するチームの話題へと移り変わる。

 

「…………っ」

 

 その中には当然、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あの人に関する情報が掲載されていると知った瞬間。

 

「…………」

 

 雑誌を握るあたしの両手に力がこもった。

 

 あたしは慌てて雑誌を閉じ、周囲の様子を仕切りに確認してから表紙が見えないように胸元へ抱え込む。

 

 そそくさと店内で会計を済ませ、今度はそれを持参したエコバッグに忍ばせた。

 

 決してやましいことをしているわけではないが……でも、なんでだろう。あまり、他のひと達には見られたくないなと思ってしまった。

 

「──いやぁ、お待たせキタちゃん。ごめんね、ファンのみんなが夢中になってボクをねだってくるから、つい時間を取られちゃって」

 

 あたしが書店を後にするのと同時に、人混みから解放されたテイオーさんがこちらへとやってきた。

 

「い、いえいえっ、全然大丈夫ですよ!」

「人気者はツラいよね〜、にししっ。それじゃあキタちゃん、そろそろ帰ろっか!」

「はい!」

 

 憧れの先輩と肩を並べて、あたし達は旅館への帰路に着く。

 

 心に抱え込んでしまった悩みを発散する目的で気分転換に来たわけだけれど。

 

 今のあたしは残念なことに、これ以上ないほど膨れ上がったあの人への気持ちでいっぱいだった。

 

 

 

***

 

 

 

「…………」

 

 ダイヤちゃんの特集記事が掲載された月刊トゥインクルを入手した日以降、あたしは雑誌に穴があくんじゃないかと思うほどに一言一句を熟読していた。

 

 客室として利用させてもらっている大部屋はチームメイトの視線があるためどうにも雑誌を開きづらく、それを読むのは毎回決まって、喫茶コーナーが併設された談話室の隅であった。

 

 時間帯的には、一日のトレーニングを終えて間近に就寝時間を控えているような頃合いである。

 

 静謐な談話室の空間に、おもむろにページをめくる音が響く。

 

 雑誌記事を読み進めるたびに、凱旋したチーム・アルデバランの全容があたしの中で鮮明になっていく。

 

 この記事によって得た一番大きな収穫は、ダイヤちゃんのトレーナーさんが、ミライさんを育てたあの人と同一人物であると確信が持てたことだろうか。

 

 どうやらあの人は以前のチーム・アルデバランにおいてサブトレーナーを務めていたようで、元チーフトレーナーから正式にチームを引き継いでいたことも分かった。

 

「…………はぁ」

 

 記憶の中にいたあの人の印象が補完されていく度に、あたしは重苦しいため息を我慢することが出来なくなっていった。

 

 色褪せた思い出の中で曖昧だった部分が、みるみると明瞭になっていく感覚。それは決して悪いものでは無かったけれど、ごわごわとした息苦しさが胸の辺りから込み上げてくる。

 

 あたしは一体、どうすれば良いのだろうか。

 

 昔のことはもう忘れよう。

 

 子供の頃の口約束を覚えてくれているはずがないんだから、すっぱり諦めよう。

 

……なんて、自分に言い聞かせるのは今日で何回目?

 

「…………………はぁ〜……」

 

 あたしは強張った肩の力を抜くように息を吐き出して、テーブルの上に突っ伏した。

 

 雑誌を枕がわりにするように頭の位置を少しずらして、側面を底につける。

 

 

 

 

 

 

 

「──こんばんは、キタちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

「えっ」

 

 その瞬間、いつの間にかあたしの横に立っていた誰かとバッチリ目があった。

 

「こんな時間まで、熱心ですね。お勉強ですか?」

 

 あたしと同じ旅館浴衣に身を包み、お風呂上がりなのかほのかに頬が上気した栗毛のウマ娘。

 

「ぐ、グラスさん……っ!?」

 

 穏やかな笑みを浮かべてあたしを見下ろすチーム・リギル所属の先輩ウマ娘──グラスワンダー。

 

 グラスさんはあたしのチームメイトであるスペシャルウィークさんと非常に仲が良いため、トレセン学園では昼食を共にしたりと、彼女とは以前から何かと面識があった。

 

 そういえば、今年の合宿はチーム・リギルもあたし達と同じ旅館を使用していたっけ。

 

「え、ええっと、その……勉強というか、なんと言いますか…………あは、あはは」

 

 あたしはテーブルに広げた雑誌をスーッと引っ張り、そそくさと膝の上に隠した。

 

「キタちゃん。ここ、よろしいですか?」

「え、あっ、はいっ、どうぞどうぞ!」

 

 グラスさんの要求に首を振って応じると、彼女はあたしと対面する席に腰を下ろす。

 

「月刊トゥインクルの新刊は、どの書店でも売り切れが続出しているそうです」

「……っ!?」

「すみません、月刊トゥインクルは私のお気に入りの雑誌なんです。ですが、今月の新刊を中々手に入れることが出来ず、つい気になってしまって」

「そ、そうなんですね……あはは」

 

 あたしは苦笑を浮かべながら、テーブルの下に隠してしまった雑誌を今一度卓上に広げる。

 

 決してやましいものを読んでいるわけでもないのに、どうして咄嗟に隠してしまったのだろうか。

 

「あ、よろしければ読みますか?」

「いいんですか!」

 

 あたしの提案に対して、グラスさんが珍しく食い気味に身を乗り出した。

 

「はい。あたしはもう、何回も読んでいますから」

 

 あたしがグラスさんに手渡した雑誌には、分かりやすいくらいの開き癖がついてしまっている。

 

 それが無性に小っ恥ずかしかったけれど、すでに彼女の手へ渡っているので諦めるしかない。

 

 はらりはらりと、夢中になって雑誌を捲るグラスさん。

 

 温厚篤実な性格で、大和撫子を彷彿とさせる清楚可憐な振る舞いが魅力的な彼女にも、このような雑誌を読む習慣があったことは少しばかり意外だった。

 

 グラスさんの異なる一面を垣間見ることが出来て、あたしは少し微笑ましい気分になる。

 

「……私が初めて月刊トゥインクルを読んだのは、トレセン学園へ入学するためにアメリカから来日した翌日のことでした」

「……え?」

 

 それからしばらくの時間が経過した後、グラスさんが雑誌を静かに閉じてあたしに語りかけてきた。

 

「この雑誌には、レース業界に関する様々な情報が掲載されています。中央を舞台とするトゥインクル・シリーズはもちろん、特別な催しや走行技術の解説。わずかではありますが、地方で開催されるローカルシリーズや、海外のレースに焦点が当てられたページも存在します」

 

 ありがとうございます、という感謝の言葉と共に、あたしはグラスさんから雑誌を受け取った。

 

「最新の情報に対しては、常に敏感であるべきだと私は考えています。日々移り変わっていく情報の波に飲まれぬように、時代の流れに取り残されぬように。そして何より、成長に対して貪欲であるために」

 

 グラスさんの言葉通り、最近はレースの世界のみに限らず流行の移り変わりが非常に激しくなっているように感じる。

 

「キタちゃんは、とても勉強熱心なのですね。ふふっ、素晴らしいです」

「え、えぇっとぉ…………はい、まぁ、そんな感じですね。あはは……」

 

 あたしがこの雑誌を読んでいた趣旨とは方向性が多少異なるけれど、()()()()()()()()という観点では一致しているのであながち間違いともいえなかった。

 

「もう読まなくて大丈夫なんですか?」

「ええ。欲しかった情報がようやく手に入って、とても満足しましたから。ここから先は、自分自身で雑誌を買って読みたいと思います」

「分かりました」

 

 手元に戻ってきた雑誌に、あたしの視線が無意識に落ちる。

 

「サトノダイヤモンドさん。とても、素晴らしい方ですね」

 

 グラスさんが、あたしの親友の名前を話題に挙げた。

 

「私も彼女のメイクデビューを現地で拝見しましたが、とても強い衝撃を受けたことを覚えています」

 

 ダイヤちゃんのメイクデビューと聞くと、もはや条件反射で当時の光景が脳裏に蘇ってくる。

 

「彼女は確か、キタちゃんのお友達でしたよね」

「……あれ? あたし、ダイヤちゃんと友達だってこと、グラスさんに言いましたっけ?」

「以前、トレセン学園のトラックでお二人が一緒にトレーニングしているところを見かけましたので。間違っていたら、ごめんなさい」

「…………い、いえ」

 

 網膜に焼き付いた苦い記憶が蘇る。

 

「彼女の力強い走りを目の当たりにして……なんと表現すれば良いのでしょうか。すごく、魂が震え上がるような感覚を覚えました」

 

 タイミングが悪く、あたしはダイヤちゃんのレースを生で見ることが出来なかった。

 

 ウマチューブにアップロードされた動画を視聴してダイヤちゃんの走りを確認したが……レースに臨んだダイヤちゃんは、あたしの知っている彼女とまるで別人だった。

 

 かつて、”星”という異名で一世を風靡した世界的アイドルウマ娘のミライが築き上げた、チーム・アルデバランという最強の肩書き。

 

 最強の凱旋を予感させるサトノダイヤモンドの強烈な逆転劇はまさしく、”アルデバラン(あとに続くもの)”という肩書きを背負うにふさわしい走りであった。

 

「私も彼女のように、力強く走ることが出来たら……あ、ごめんなさい。少し、脱線しすぎちゃいましたね」

 

 申し訳ありませんと一言断りを入れて、グラスさんは背筋を正す。

 

「キタちゃん」

「は、はい」

「これは私の勘違いかもしれませんが……何か、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「えっ」

 

 グラスさんの唐突な指摘に対して、あたしは過剰な反応を示してしまう。

 

 それが何よりも分かりやすい返答であった。

 

「最近よく、キタちゃんの口からため息がこぼれる瞬間を目にしていましたから。もしかしたらと、思いまして」

「あ、あはは……これでも周りのみんなには隠せているつもりだったんですけど……やっぱり、分かりやすかったですよね」

「こう言ってはあれですが……悩み事というのは案外、親しい間柄である相手ほど打ち明けるのが難しいものです。私でよければ、聞きますよ。雑誌を読ませてくれたお返しです」

「……いいん、ですか?」

「ええ、これでも先輩ですから。後輩がふさいでいる姿を見ると、どうしても放っておけないんです」

 

 正直、この悩みを一人で抱え込むことに対して限界を覚えていた頃合いだった。

 

「そ、それじゃあ……お言葉に、甘えさせて……下さい」

「ええ」

「できればその……ここだけの、秘密にしていただけると…………嬉しい、です」

「もちろん、心得ていますよ」

 

 決まり文句のような念押しを挟んだ後で、あたしはグラスさんに対して自身の悩みを打ち明ける。

 

 ただ、ありのままを告白する勇気を振り絞ることが出来なかったあたしは、少しだけ悩みを濁してしまった。

 

「……なるほど。子供の頃に交わした約束を相手が覚えてくれているのか不安で、それを確認したくても、複雑な事情があって本人に直接聞くことが出来ない、と」

「はい。そんな、感じです……」

 

 あたしがグラスさんに対して打ち明けた内容はこうだ。

 

 かつて、あたしはとある人気のウマ娘を担当していたトレーナーに対して、将来自分を担当してほしいと告白した。

 

 結果的にトレーナーはその要求を受け入れてくれ、あたしは彼と再会できる瞬間を心待ちにしていた。

 

 トレセン学園入学後、待望の瞬間が訪れた矢先に再会したトレーナーと関係が拗れてしまい、当時の約束を打ち明ける機会を完全に失ってしまった。

 

 そして、残念ながらすでにそのトレーナーの隣には、絆を深めた別の担当ウマ娘の姿があった。

 

「…………」

 

 現在あたしが抱えている悩みを要約したら、多分こんな感じになると思う。

 

 胸の中のモヤモヤを吐き出しただけで心が軽くなったような感覚はあるが、それでも八方塞がりな現状であることに変わりはない。

 

「全部、自業自得だって……分かってはいるんです。諦めよう、諦めようって思っていても…………その度に、胸が苦しくなってしまって」

「そう、だったんですね」

 

 この場の空気が重く澱んでいくのが分かる。口を開くのがだんだんと億劫になっていく雰囲気の中でも、グラスさんはあたしの悩みを真摯に受け止めてくれた。

 

「……実は私も、昔に似たような経験をしたことがあります。キタちゃんの言葉を借りて表現するなら……”独りよがり”、でしょうか」

「グラスさんも、ですか?」

「キタちゃんの場合とは多少、経緯は異なりますが……そうですね。胸の奥で育み続けた大切な想いが、ただの独りよがりであったと気付いた瞬間のショックは計り知れないものがありました」

「……」

「そんな後悔を引きずり続けて、私は常々考えるんです。私()の想いは一体どうして、相手に届かなかったんだろうって」

 

 グラスさんは在りし日の記憶に想いを馳せるような遠い目をしながら、あたしに語る。

 

「そうしてたどり着いた一つの結論なのですが……当時の私はきっと、相手がこちらを振り向いてくれることに期待しすぎていたんです」

 

 臆病だったんですよと、グラスさんは自嘲気味に微笑む。

 

「自分自身の胸に秘めた想いは、言葉にしないと相手には伝わらない。他人の気持ちをエスパーのように汲み取ってくれる人なんて……多分、いないんです」

 

 グラスさんが過去の後悔から学んだ教訓は、言ってみれば至極当然のことであった。

 

「待っていても、残念ですが何も始まりません。約束のことを本人に確かめたいのでしたら、キタちゃん自身が行動を起こさなければなりません」

「あたし、自身が……」

「……なんて。先輩風を吹かして偉そうに助言していますが、私には出来なかったことです。理想を並べても、私にはその一歩を踏み出す勇気を振り絞ることが出来ませんでしたから」

 

 しかし、そんな当然のことに気付くまでの過程でグラスさんがどれほど辛い想いを経験したのかは、彼女の切なげな表情がありありと物語っていた。

 

「何があっても決して挫けず、何があっても決して屈することなく突き進む……”不退転”という言葉は、過去の後悔を経て、臆病だった私自身を奮い立たせるために心へ刻んだ教訓です」

「不退、転……」

「もし仮に、再び過去を取り返す機会が訪れたとしたら……今度はもう、臆病な自分でいたくはありません」

 

 ありったけの勇気を振り絞って行動した結果、この現状がさらに悪化してしまう可能性だってある。

 

 だがしかし、行動することによって状況がわずかに改善される可能性だってある。

 

「キタちゃん、どうか勇気を出してみて下さい。そうしたらきっと、何かが変わるはずですよ」

 

 これらの憶測はあくまで、行動の結果がもたらす可能性の話に過ぎない。

 

 それでも、今この瞬間から()()()()()()()()()()()が一つある。

 

 それは……。

 

「ありがとうございます、グラスさん」

 

 

 

 

 

 

 

──勇気を出して行動を起こさなければ、現状は何も変わらないということだ。

 

 

 

 

 

 

 



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XX:キタサンブラック4

描写の一部に独自設定があります。


 約二ヶ月に渡る夏合宿が終了し、ウマ娘にとって重要なシーズンである二学期が始まった。

 

 ジュニア級メイクデビューを一着で快勝したあたしは、沖野トレーナーと相談して年末に開催されるGⅠ重賞──ホープフルステークスへ出走するという目標を定めていた。

 

 ひとまずは条件クラスに出走して昇格に必要な獲得賞金額を増やし、段階を踏んで進んでいこうというのが今後の方針である。

 

「…………はぁ」

 

 目標が明確になったことは良いのだけれど……残念ながら、前向きな方針に対してどうにもあたしの心がついて来てくれなかった。

 

 ここしばらく寝不足な状態が続いていて、何をするにしても集中力が持続しない。

 

 今日もベッドの上で横になり、浅く目を瞑ってただじっとしていただけ。

 

 自室で過ごすがなんだかとても億劫に感じるようになってしまったあたしは、朝のホームルームが始まる一時間以上前からトレセン学園に登校していた。

 

 スクールバッグから取り出した教材を机に移した後、手持ち無沙汰になったあたしは暇を潰す目的で例の雑誌を卓上に広げた。

 

 読み込みすぎてページに癖がついた月刊トゥインクルを開いて、そこに綴られている文字をぼんやりと目で追いかける。

 

 あの人に関する情報は、それなりに集めることが出来た。

 

 だけどあたしは、雑誌に記載された以外の情報をまだ何も知らない。

 

 なんでも良いから、あたしはあの人のことが知りたかった。

 

 例えば、あの人の好きな食べ物とか、休日にしていること……とか。

 

「……そういえば、ネットに記事とか上がってたりしないかな」

 

 あたしはスカートのポケットに忍ばせていたスマホを取り出して、あの人の名前をネット検索に掛けてみた。

 

「えっと、あの人の名前は……」

 

 苗字と名前を打ち込んだ後、複数の予測検索がアプリ側から提示される。

 

『アルデバラン』『誰』『正体』『都市伝説』『ミライ』『サトノダイヤモンド』などなど……。

 

 ダイヤちゃんのメイクデビューから二ヶ月以上が経過したこともあり、ネットの海は膨大な情報量でごった返していた。

 

 適当な記事に飛んで目を通してみるけれど、真偽不明の情報が玉石混交していて何を信じれば良いのかあたしでは判断がつかない。

 

 信憑性に欠ける情報を鵜呑みにするくらいなら、本人に直接確認した方が確実で手っ取り早い。

 

 そんなことは分かっている。

 

 分かっているんだけど……。

 

「勇気、かぁ…………」

 

 夏合宿の最中、談話室で先輩ウマ娘のグラスさんから貰った助言を思い出す。

 

 このまま何も行動を起こさなければ、現状が変化することはない。

 

 だがしかし、あたしに今を変えようと立ち上がる勇気があるのかと問われると、こうして顔を伏せている時点でお察しである。

 

 せっかくグラスさんがあたしの悩みに寄り添ってくれたというのに……こんなヘタレな自分が嫌になって仕方がない。

 

「というかそもそも、ちゃんと謝るところから始めなきゃだよね……出来るかなぁ、あたしに」

 

 何がともあれ、最優先で取り組むべきなのはあの人との間に存在するギクシャクとした雰囲気を払拭することだろう。

 

「はぁ…………」

 

 ため息が重い。それだけじゃない。身体も、心も、ぜんぶ……。

 

「──おはよう、キタちゃん」

「──ッ!?!?!?!?」

 

 周囲への注意が完全に散漫になっていたあたしは、横から突然掛けられた声に対して過剰な反応を示した。

 

 あたしの身体がビクンッと跳ね上がったあと、脊髄反射のような勢いで手にしていた雑誌を閉じる。

 

 挨拶の言葉が飛んできた方角へ慌てて視線を向けると、そこには少しばかりきょとんとした表情を浮かべるあたしの親友が立っていた。

 

「お、おはようダイヤちゃんっ」

 

 苦笑を浮かべて動揺を誤魔化しつつ、あたしは手に持っている雑誌をさりげなくダイヤちゃんの視界から隠そうと試みる。

 

「あ……それ、月刊トゥインクルだよね?」

 

 しかし、彼女の視界にバッチリ捉えられた状態でそれをしたとしても、逆に彼女の不審感を煽るだけだろう。

 

「う、うん……親友のダイヤちゃんが特集された記事だから、絶対に手に入れなきゃと思って」

「そっか。ありがとう、キタちゃん!」

 

 あたしは雑誌を机の上に戻した後、あらためて二ヶ月ぶりに再会したダイヤちゃんと向き合った。

 

「ダイヤちゃん、あっという間に有名人になっちゃったね」

「あ、あはは……」

 

 久々に言葉を交わしたダイヤちゃんと何を話せば良いのか少し迷った。

 

「……ねぇ、ダイヤちゃん」

「うん?」

「ダイヤちゃんのトレーナーさんって、すごい人だったんだね」

「……うん」

「ごめんねダイヤちゃん。あたし、何も知らなくて……二人に迷惑かけちゃった」

 

 断片的に二人の背景を知った今、真っ先に飛び出してきたのは彼女達への謝罪の言葉だった。

 

 親友と向き合っている状況ではあるけれど、あたしの目線はダイヤちゃんを直視出来ずに雑誌の表紙へと落ちている。

 

「迷惑だなんて、全然思ってないよ。それに兄さまも、キタちゃんに謝りたいってずっと言ってたから」

 

 気にしないでと、優しい言葉を掛けてくれるダイヤちゃん。

 

「…………そっか」

 

 そんな彼女達の優しさを、あたしは素直に受け取ることが出来なかった。受け取ってはいけないと思った。

 

 ダイヤちゃんは自身の担当トレーナーであるあの人のことを、『兄さま』と呼んでいる。

 

 ダイヤちゃんが選抜レースを走った翌日。彼女本人から聞いた話によると、どうやら二人は互いの過去を知る”昔馴染み”という関係なのだそうだ。

 

「…………」

 

 胸の中がもやもやした。

 

 ()()()()、という感覚だった。

 

 あたしはあの人のことを何も知らない。

 

 でも、ダイヤちゃんはきっと、あの人のことをたくさん知っている。

 

「……ねぇ、ダイヤちゃん」

 

 雑誌を握りしめるあたしの手に、ぎゅうと力がこもった。

 

「良かったら、トレーナーさんのことについて聞かせてくれないかな」

 

 そのお願いは、今のあたしが振り絞ることの出来るせいいっぱいの勇気だった。

 

「兄さまのこと?」

「どんな些細なことでも良いんだ。少しだけ、どんな人なのかなって気になっちゃって……あはは」

 

 勇気を振り絞ったあと、あたしは恥ずかしくなってダイヤちゃんから視線を逸らしてしまう。

 

 彼女の返答を待っているまでの間が妙に落ち着かなくて、自身の髪を指で梳かしながら気を紛らわせていた。

 

「好きな食べ物とか、休日にしていること、とか……本当に、何でも良いんだけど…………」

「え? んーっと、そうだなぁ」

 

 そんな些細な質問を投げかけて、あたしは少し後悔した。

 

 こういった状況では普通、どんなトレーニングをしているのとか、指導中に心掛けていることはあるのかとか。そういった方向性の質問を投げかけるのが一般的だろうに。

 

 案の定、ダイヤちゃんは一瞬虚をつかれたような表情を浮かべていた。

 

 変な風に、思われていないと良いんだけど……。

 

「うーん、好きな食べ物じゃなくて飲み物になっちゃうけど……」

 

 あの人のことを語る瞬間のダイヤちゃんは、胸が弾んで仕方がないといった様子であった。

 

 キラキラとした瞳であの人の話をする彼女の表情には、不思議と既視感がある。

 

 確か、三年前のジャパンカップであの人のことを紹介してくれた瞬間のミライさんも、こんな感じの表情を浮かべていた。

 

 ダイヤちゃんの口から嬉々として語られるあの人の情報は……当たり前だけど、あたしは何一つ知らなくて。

 

「……ぁ、ごっ、ごめんねキタちゃん。こんな話、聞いてて何も面白くないよね……っ」

「そんなことないよ……面白い人なんだね、ダイヤちゃんのトレーナーさんって」

 

 少しでもあの人のことを知ることが出来たのは、勇気を出したことによる大きな収穫だった。

 

「ありがとう、ダイヤちゃん。あたしのわがままを聞いてくれて」

「こんなことで良ければ、いくらでも聞いてくれて良いからね!」

「……そっか」

 

 ダイヤちゃんと話をしていると、いつの間にかホームルームが始まるような時間帯になっていた。

 

「良かったらまた今度……色々と聞かせてほしいな」

「うん!」

 

 自身の席へと戻っていくダイヤちゃんの背中を眺めながら、あたしは今後のことをぼんやりと考える。

 

 あの人はどうやら、砂糖をふんだんに入れたコーヒーを嗜むらしい。つまり彼は、微糖が好きということだろうか。

 

 次に学園であの人を見かけたら、勇気を出してあたしから話しかけてみよう。

 

 そうすれば、あたしは彼のことをもっと知ることが出来るかもしれない。

 

 あの人があたしと対面したら、彼はきっと居心地の悪さを感じてしまうだろう。

 

 そんなあの人にコーヒーを差し出せば、少しは彼の心が穏やかになってくれるかもしれない。

 

 そんなことを考えているうちに、あたしの胸の奥からじわじわと温かい勇気が湧き上がってきた。

 

 今のあたしは、あの人との間にあるギクシャクとした雰囲気を払拭出来るのかという悩みよりも、彼のことをもっと知りたいという好奇心の方が大きくなっていた。

 

 あの人と話がしたい。

 

……そうだ。彼と会話をする瞬間に備え、粗相の無いようにあらかじめ内容を整理しておこう。

 

 知りたいこと、聞きたいこと、話したいことを思いつくたびに、あたしはどんな些細なことでも手持ちのメモ帳に書き込んでいった。

 

 そして、こんな感じであの人に対する興味をメモ帳へ認め続けているうちに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか、二学期が終業していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十二月末に開催されるジュニア級GⅠ重賞──ホープフルステークスに出走し、あたしは二着という結果をチーム・スピカに持ち帰った。

 

 その後、チームメンバー達と開催した忘年会を楽しんだあたしは、残りの冬休みの期間を利用して実家へ帰省することとなった。

 

 あたしの実家はトレセン学園からそれほど遠い距離にあるわけでは無い。

 

 送迎云々でわざわざ家の人達に迷惑を掛けたくないため、あたしは公共交通機関を利用して実家へと帰省することに。

 

 帰省ラッシュで混雑する電車に揺られ、最寄駅からバスに乗り換え、荷物を抱えて歩くことしばらく。

 

 あたしは、去年まで生活していた趣のある実家のシルエットを遠目に捉えた。

 

 あたしの実家は演歌歌手を生業とする父さんのお弟子さん達がよく集まるため、それなりの大きさがある。

 

 瀟洒な正門の前で一度呼吸を整えてから家に入ろうとしたけれど、大きな正門はすでに開いていて。

 

 

 

 

 

「「「「「──お帰りなさいませ、()()!!!!」」」」」

 

 

 

 

 

 さすがは演歌歌手のお弟子さん達というべきか、寸分のズレもない完璧な挨拶であたしの帰省を迎え入れてくれた。

 

 こぶしの効いた力強い声でありながらも、人情味あふれる優しさがこもった彼らの出迎えに対して。

 

 あたしは「ただいま!」と、元気な挨拶を返した。

 

「お嬢、荷物をお持ちします!」

 

 お弟子さん達の厚意に甘えて、あたしは彼らに荷物を預ける。

 

 父さんを慕うお弟子さん達には小さい頃から可愛がってもらっていたため、あたしは成長した今でもついつい甘えてしまう。

 

「あれ? そういえば、今日は父さんいないんだね」

「師匠は紅白の会場へ移動しています!」

「あ、そっか。もう年末か」

「トレセン学園入学ぶりの帰省っつうことで、奥様がお嬢の帰りを心待ちにしていやしたよ! 身体を冷やさぬうちに、ささ、中へ中へ」

「うん!」

 

 辺り一帯はすでに日が沈みかけ、冷え込みも段々と激しくなってきている。

 

 お弟子さん達に促されるまま家の中へと駆け込んで、あたしは真っ先に母さんの元へ挨拶に走った。

 

「──母さん、ただいま!」

 

 時間帯的には夕食がもうそろそろ出来上がるかなという頃合いだったので、あたしは一目散に大きな台所へと駆け込む。

 

 鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いがしたので、あたしはそこに母さんがいると確信した。

 

 あたしの元気な声を受けて、台所に立つ女性のウマ耳がピクリと反応する。あたしと同じ毛色の尻尾を揺らしながら、彼女がこちらを振り向いた。

 

「おかえりなさい、キタちゃん」

 

 母さんと最後の顔を合わせたのは、トレセン学園の入学式が最後である。実家を離れてから一年も経っていないというのに、ここで暮らしていた頃がずいぶんと昔のように感じてしまう。

 

「あたしも何か手伝うよ!」

「帰ってきたばかりなんだから、少しはゆっくりしていけば良いのに……。それじゃあ、出来た料理を持っていってくれる? キタちゃんが帰ってくるから、ちょっと張り切り過ぎちゃって」

「はーい!」

 

 母さんのお手伝いをしていると、なんだか小さい頃に戻ったような気がして、ワクワクとした気持ちがあたしの胸に灯った。

 

 

 

***

 

 

 

「いやぁ〜食べた食べた! やっぱり母さんの作る料理は最高だよ!」

「ふふふっ、ありがとうキタちゃん。そう言ってくれて、母さんとっても嬉しい」

 

 家族やお弟子さん達と食卓を囲んだ楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、あたしは現在、母さんと一緒に食器洗いの手伝いをしていた。

 

「後片付けくらい、それこそ私一人で十分なのに。キタちゃんも疲れてるんだから、ゆっくりとお風呂にでも入ってきたら?」

「二人でやった方が早いから良いの! あ、あたし母さんと一緒にお風呂入りたい!」

「いつからそんなに甘えん坊さんになっちゃったの、もぉ……」

 

 母さんと他愛ない雑談に花を咲かせながら、料理が乗っていた食器を手際よく洗っていく。

 

 本格化の影響によって身体は大きく成長したけれど、あたしの心はまだまだ年相応の甘えん坊であった。

 

 やっぱり、若くして家族と離れ離れになって生活をすると、その温もりがどうしても恋しくなってしまう。

 

 水道から水が流れる音と、カチャカチャと食器が触れ合う音。台所の空間に置かれたテレビから飛んでくる特別番組の音を聞いていると、少し前まで当たり前だったことがとても新鮮に思えて仕方がない。

 

「ねぇ、キタちゃん」

「うん?」

 

 台所で隣に立つ母さんが、手にした食器に視線を落とした状態で藪から棒に問うてきた。

 

 

 

 

 

 

 

「──()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 

 その一言を受けて、食器洗いを続けるあたしの手がピタリと止まる。

 

「…………どうして?」

「何か、抱え込んじゃってるのかなって思って。キタちゃんの笑顔をずっと見てきたんだから、ひと目見ればすぐにわかるよ。私の娘だもの」

 

……実家に帰省してから、あたしはずっと笑顔で過ごすことが出来ていたはずだった。

 

 トレセン学園に入学する前と何一つ変わらない、明朗快活なキタサンブラックでいれたはずだった。

 

「……」

 

 だがしかし、娘のことなんて何でもお見通しだと言わんばかりに母さんから指摘されて、あたしは二の句を継ぐことが出来なかった。

 

 会話に空白を作ってしまったあたしは必死に言葉を探したけれど、頭の中は図星を突かれて真っ白だ。

 

 どうしようどうしようと思い悩むあたしだったが……。

 

「……あら?」

 

 そんな時、思わぬ助け舟が通りかかった。

 

『──今年のトゥインクル・シリーズ総振り返りのコーナー! 六月の注目ポイントといえばやはり、この瞬間でしょう!』

 

 台所の空間に設置されたテレビに流れている、年末年始の特別番組。ちょうどコマーシャルが終わり、番組内でピックアップされたトゥインクル・シリーズのレース映像が放送される。

 

「ダイヤちゃんのメイクデビュー……っ! 凄かったよね、本当! 私、見ていて鳥肌立っちゃったもの!」

 

 半年前に阪神レース場で開催された、ダイヤちゃんのメイクデビュー。

 

 異色の登竜門として人々の印象に刻まれている親友のレースは、特番で取り上げられるのに相応しい内容であった。

 

 ダイヤちゃんの姿がテレビに映ったことで、興奮した母さんは液晶画面に釘付けになっていた。

 

『二年前、表舞台から忽然と姿を消したチーム・アルデバランの凱旋劇。サトノダイヤモンドのメイクデビューは日本のレース界に限らず、世界中から大きな注目を集めています!』

 

 そして、ダイヤちゃんのレースが取り上げられたということは……。

 

「…………ぁ」

 

『かつての世界的アイドルウマ娘、"星"のミライを生み出した天才トレーナーによって受け継がれた、新星チーム・アルデバラン。彼女達の活躍には、今後とも目が離せません!』

 

 もちろん、ダイヤちゃんの担当トレーナーであるあの人の姿だって、画面に映し出されるはずだ。

 

「…………あら、あらあら、まぁ……少し見ない間に、あんなに立派になっていたなんて……」

「……母さん?」

「……ぁ、ごめんねキタちゃん。ちょっと、テレビに夢中になっちゃった」

 

 普段からとても手際の良い母さんが、皿洗いの手を止めてしまうくらい惹きつけられてしまうとは。

 

「レース、か……懐かしいなぁ」

 

 あたしの母さんはかつて、トレセン学園に在籍する生徒だった。

 

 ダイヤちゃんのレースを見て、母さんの記憶の中に残っている思い出が蘇っているのかもしれない。

 

 どこか遠くを見るような目をしながら、母さんはその表情に柔和な笑みを浮かべていた。

 

「ねぇ、キタちゃん」

「う、うん……」

 

 それからしばらくして、夕食の後片付けが一段落ついた頃。

 

 あたしに対して、母さんが提案を投げかけてきた。

 

 

 

 

 

 

「せっかくだから……今から一緒に、お風呂入ろっか」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 それなりの敷地を有するあたしの実家は、他の住宅と比較してお風呂場がとても大きい特徴がある。

 

 伸び伸びと湯船に浸かることが出来て非常に快適である反面、掃除がすごく大変だって母さんが嘆いていた。

 

 お風呂場の掃除に関しては父さんのお弟子さん達が担当しているため、雑用も率先してこなしてくれる彼らには本当に感謝している。

 

 あたしも実家に住んでいた頃はよく掃除のお手伝いをしていたのだけれど、本当に大変だったことを覚えている。

 

「母さん、あたしが背中洗ってあげるね」

「ありがとう、キタちゃん」

 

 風呂椅子に腰掛ける母さんの背後に回って、あたしはしっかりと泡立てたボディスポンジで母さんの背中を綺麗にしていく。

 

 たまに帰ってきた時くらい、親孝行はちゃんとしないと。

 

「……あのさ、母さん」

「うん?」

「さっきの、ことなんだけど……ほら、何かあったの? って」

 

 開口一番、あたしは率直に母さんへ問うた。

 

 本当は雑談か何かで場の空気を和ませた後の方が良かったのかもしれなかったけれど、今のあたしには気の利いた話題を考える心の余裕が残っていなくて。

 

「ごめんねキタちゃん。私の、余計な気遣いだったかな」

「そんなことないよっ。そんなこと、ない、けど……」

 

 母さんの指摘通り、今のあたしは簡単に割り切ることの出来ない大きな悩みを抱えてしまっている。

 

 グラスさんが以前、親しい間柄である相手ほど悩みを打ち明けるのが難しいと言っていた。

 

 家族のみんなに余計な心配をかけたくないからと、あたしは無意識に空元気を装ってしまう。

 

 これじゃあ、悩みを打ち明けることなんて出来るはずがない。

 

「今のキタちゃんを見てると……なんだか、昔の自分を思い出しちゃってね」

「昔の、母さん……」

 

 トレセン学園に在籍していた頃の母さんと聞いても、あたしはいまいちピンとこなかった。

 

 というのも、あたしは母さんの学生時代を全く知らないからである。

 

「私としては、キタちゃんがこの前のレースで負けちゃったことを引きずっちゃってるのかなって思ってるんだけど……」

 

 この前のレースというのは、数日前にあたしが出走したホープフルステークスで間違いないだろう。

 

 ゴール目前で惜しくもドゥラメンテさんに躱されてしまい、二着という結果に終わってしまった。

 

 レースに対して全く後悔が無いのかと言われたら嘘になるが、あたしの悩みの大きな原因は……もっと他にある。

 

「ま、まぁ……そんな感じ、かな……」

 

 ただ、あたしは自身の悩みの本質を母さんに打ち明けることが出来なかった。

 

 罪悪感はあったけれど、母さんを心配させたくないという気持ちがどうしてもあたしの中で勝ってしまう。

 

「あ、母さん。背中流すね」

 

 風呂桶に注いだお湯を優しく流して、母さんの身体についた泡を落としていく。

 

「ありがとう。じゃあ、次はキタちゃんの番ね」

「ええっ、あたしは良いよ別にっ」

「良いから良いから」

 

 母さんと入れ替わるような形であたしが風呂桶に腰掛ける。背後から、ボディーソープを泡立てる音が聞こえてきた。

 

「私が言うのもアレかもしれないけど……キタちゃんは、本当にすごいと思う」

 

 あたしの背中を母さんが優しく洗ってくれる。背筋に伝う少しくすぐったい感覚が、小さい頃の記憶を想起させた。とても懐かしくて、心がぽかぽかと温かくなる。

 

「まだデビューから一年も経っていないのに、勝負服を着てGⅠレースに出走できるなんて……十分、自信を持って良いと思うんだけどなぁ」

「そ、そうかな……」

「そうだよ。さすが、私の自慢の娘!」

 

 母さんに褒められて、別の意味でも少しくすぐったい感覚を覚えた。

 

「あ、あのさっ。あたし、母さんの学生時代の話が聞きたいなっ」

 

 あまり褒められることに慣れていないあたしは、気恥ずかしさを紛らわせるために強引な話題転換を図る。

 

「私の? あんまり、面白い話は出来ないけど……」

「別に良いの! あたし、母さんのことをもっと知りたい! レースのこととか、友達のこととか、あとは……恋のこととか!」

「……仕方ないなぁ。そこまで言うならまぁ、良い……かな」

「やった!」

「ただ先に言っておくけど、あまり明るい話は出来ないからね。私、全然強くなかったから」

 

 母さんに背中を洗い流してもらった後、その場にいては身体が冷えてしまうため二人揃って湯船に浸かった。

 

 湯船の側面を背もたれ代わりに身体を預けた母さんが、あたしに向かってぽつりぽつりと過去を語ってくれる。

 

「キタちゃんが生まれた頃よりもだいぶ昔だから……今からもう、三十年くらい前のことになるかな」

 

 母さんがあたしを産んだのは確か、三十路を迎える少し前だから……確かに、母さんの現役時代ってそれくらい前の話になるよね。

 

 あたしの母さんはウマ娘ということもあって、今もかなり若々しくて綺麗だから正直驚きだ。

 

「今は廃止になっちゃったんだけどね。二十年くらい前までは、担当トレーナーと担当ウマ娘が専属契約を結んでレースに出走することが主流だったの」

 

 当時は現在と異なり、トレセン学園の生徒数がかなり少なく、対照的に学園側の人材には余裕があったのだそうだ。

 

 この業界が今のような注目を集めるようになったのはつい最近だし、トレーナー採用試験の難易度も現在と比較するとかなり優しかったとのこと。

 

 そのような背景も相まって、多くのウマ娘達が専属契約を結んだ状態でトゥインクル・シリーズに出場することが出来ていたのだろう。

 

「そうなんだ。じゃあ母さんも、トレーナーさんと二人三脚で頑張ってたの?」

「ううん。私はチームに所属していたウマ娘だった。チームっていう制度には色々なメリットがあったんだけど……当時はどちらかというと、"受け皿"っていう認識の方が一般的で、あまり好まれてはいなかったかな」

 

 遠い目を浮かべながらあたしに過去を語る母さんの表情は、心なしかウキウキとした印象であった。

 

「私のチームには当時、三人のウマ娘が所属しててね。そのひとりが、ダイヤちゃんのお母さん」

「えっ、そうなの!? あ、そういえば昔、ダイヤちゃんがそんなことを話してた気がする」

「トレセン学園を卒業してからしばらく疎遠になって、小学校の入学式で偶然再会したの」

 

 唐突に知っているひとが登場して、あたしはとても驚いた。

 

 あたしがダイヤちゃんと出会ったのは、小学校の入学式の日。

 

 やんわりとした記憶だが、入学式後に移動した新しい教室で、あたしとダイヤちゃんの母さん達が仲睦まじく話していたようなことを覚えている。

 

 アレって、そういうことだったんだ。

 

「それじゃあ、もう一人のチームメイトってどんなひとだったの?」

「もう一人はね、当時は誰もが知っている超名門のお嬢様。今で言う、メジロ家みたいな立ち位置かな」

「すごい! 母さん、そんなひとと同じチームだったんだ!」

 

 メジロ家という単語によってあたしが真っ先に想起したのは、メジロ家の最高傑作と称される、”名優”メジロマックイーン。

 

 それじゃあ母さんは、一昔前のチーム・スピカと同等のチームに所属していたってことか……っ。

 

「うぅ〜ん……すごかったのはダイヤちゃんのお母さんとその子だけで、私はどちらかと言うと落ちこぼれだったからなぁ」

 

 ダイヤちゃんのお母さんは発足から間もないサトノグループの令嬢で、とても強いウマ娘だったとあたしの母さんは語る。

 

 当時のトゥインクル・シリーズで名を馳せていた超名門のお嬢様と、今やレース界の一大コンツェルであるサトノグループの令嬢。

 

 一般家庭の出身である母さん曰く、どうして彼女達と同じチームに所属出来たのかは未だに謎、とのことであった。

 

「あたしはGⅠの舞台で奮闘する二人と違って、重賞に一勝するのがやっと。だから、私はデビューした瞬間から大活躍してるキタちゃんが本当にすごいって思ってる」

 

 ダイヤちゃんが一族にとって初となるGⅠ制覇を目標に掲げていることから察せられる通り、彼女のお母さんは善戦こそ続いたものの、悲願のGⅠタイトル獲得まではあと一歩及ばなかったのだそうだ。

 

 ちまたでは、ダイヤちゃんのお母さんは"シルバーコレクター"という称号で親しまれていたらしい。当人はとても複雑な心境を抱えていたと教えてくれて、あたしは苦笑した。

 

 ダイヤちゃんのお母さんに続いて、母さんは残りのチームメイトのことを嬉々とした声音で語る。

 

「私達のエースはとっても強くてね! 三歳年上の先輩だったんだけど、GⅠレースを二度も制覇したんだよ! 私の憧れの先輩だったなぁ……。あ、そうそう。先輩の性格は超堅物なお嬢様って感じだったんだけど、それがまた面白くって!」

 

 過去を振り返った母さんが、軽快な思い出し笑いを浮かべた。

 

「最初はレース以外に興味ありませんって澄ましてたのに、現役終盤ではもう私達のトレーナーに骨抜きにされちゃって! 最後は駆け落ちまでしちゃったんだから!」

「か、駆け落ち……っ!?」

 

 母さんの口から予想だにしない単語が飛び出して、あたしは顔が赤くなった。

 

「ちなみに、私とダイヤちゃんのお母さんは駆け落ちの共犯者だったり。ふふっ」

「え、ええっ」

「っていうのは半分冗談……あ、駆け落ちしたのは本当なんだけどね」

 

 駆け落ちって、ドラマとか漫画の中にしか出てこないと思っていたから、とてもびっくりした……。

 

「由緒ある家柄だと、やっぱり婚約者は親に決められちゃうものなのかなぁ」

「あ、あたしはよく分からないけど……それだけ、母さんのトレーナーさんが魅力的だったってことだね!」

「そうね……」

 

 現役時代を共に駆け抜けたパートナー同士が恋に落ちて、そのまま結婚するといった例は過去にもいくらか存在する。

 

「落ちこぼれの私を見捨てずに……最後まで可能性を見出そうとしてくれた、カッコよくて優しい人だったなぁ」

 

 母さんの意識が遠い過去へと遡っているのか、言葉尻が段々と小さくなっていく。

 

「母さんは当時、どう思ってたの? トレーナーさんのこと」

 

 母さんに投げかけた質問は、単純な興味本位だった。

 

「ん……それはまぁ、好きになっちゃうよね」

「わぁ……っ! それでそれでっ、告白はしたの!?」

「あはは、さすがに告白はしなかったかな。身の程は弁えていたし、何より先輩の邪魔をしちゃいけないなって思っていたから」

 

 あたしは母さんの言葉に少しだけ引っ掛かりを覚えた。

 

 その発言を解釈すると……本当は、トレーナーさんに対して想いを打ち明けたかったのではないだろうか。

 

「……母さんは、それで良かったの?」

「え? ……んん〜、まぁ、悔いは無いのかって言われたら嘘になるけど……いや、それなりに引きずったかな。ううん、めっちゃ後悔してた」

 

 今となっては良い思い出だけどね、と付け加えて母さんは笑った。

 

「二人がトレセン学園を去った当時、私はまだ高等部一年生でね。ダイヤちゃんのお母さんは他のチームに移籍して、私は自分の実力に見切りをつけて引退したんだ」

「そう、なんだ」

「そこから都内の大学に進学して、今のあの人と出会ったの」

「父さんと……あ、そういえばあたし、二人の馴れ初めとかまだ聞いたことない」

「あの人ひどいんだよ? 彼が告白してきたとき、私を好きになった理由を聞いたの」

「うんうんっ」

「真っ先に口走ったのが『顔』だった」

「……うわぁ」

 

 確かに母さんはとっても綺麗な人だけれど、それを告白の理由にするのはちょっと……。

 

「まぁ、そこから色々あって社会に出て、あの人と結婚して……キタちゃんが生まれてきてくれたの」

「話が飛躍しすぎだよ母さん……」

 

 あたしは正直、その過程に興味があるのだけれど。

 

 母さんはあまり、その辺りを話すつもりはないようだ。

 

「楽しかったこととか、辛かったこととか、後悔したこととか……色々なことがあったけど、今となっては良い思い出」

 

 熱いお風呂に浸かり続けていたことで、少し身体がのぼせてしまった。

 

 久しぶりに母さんと一緒の時間を過ごすことが出来て、あたしはとても満足だった。

 

「今のキタちゃんは何か、辛いことを抱えちゃっているのかもしれないけど……時間が経てばきっと、たくさんのことが素敵な思い出に変わると思う」

 

 最後に貰った母さんからの言葉で、彼女が昔話を通してあたしに何を伝えたかったのか分かったような気がする。

 

「これから頑張ってね、キタちゃん。私、一生懸命応援してるから」

「……うん。ありがとう、母さん」

 

 後悔も、辛いことも、いつかは思い出に変わる……か。

 

「……あぁ。昔の話をしていたら、なんだかまた会いたくなってきちゃったなぁ」

「会いにいけば良いと思う!」

「そうだね。せっかくのお正月なんだから、綺麗なお花を持っていかないとね」

 

 今のあたしが抱いている苦しい想いも、いつかはきっと、愛しい思い出になるのだろうか。

 

 

 

***

 

 

 

 帰省した実家で残りの冬休みを過ごし、今日からついにトレセン学園の三学期が始まろうとしている。

 

 ジュニア級を善戦という結果で締めくくり、あたしは今後、クラシック級に属するウマ娘としてトゥインクル・シリーズに出場していくこととなる。

 

 色々と割り切れない想いを抱えてはいるものの、せっかく新年を迎えたのだから少しは気持ちを切り替えるべきだろう。

 

 多少強引にでも心機一転とした想いを抱いて、あたしは栗東寮を後にする。

 

 制服の上からコートを羽織っているとはいえ、一月の朝方はかなり冷え込む。

 

 かじかんだ指先を温めるために息をはくも、気霜のせいであまりぬくもりを実感できない。手袋をつけてくるべきだったか。

 

「──あっ、キタちゃんおはよーっ!」

 

 一人で通学路を歩いていると、背後から快活な挨拶が飛んでくる。

 

「あっ! あけましておめでとうございますっ、テイオーさんっ!」

「あけましておめでとう! キタちゃん、今年もよろしくね!」

 

 年末以来の再会となるテイオーさんは、新年から元気いっぱいだった。

 

 寒さなんかに負けないと言わんばかりの笑顔を浮かべるテイオーさんを見ていると、何だか元気を分けてもらっているような感覚を覚える。

 

「そういえば、今年はテイオーさんも実家に帰省していたんですよね」

「うんっ。だってボクが帰ってあげないと、パパとママが泣いちゃうからさー」

「素敵なご両親ですね!」

「にししっ、まぁね〜!」

 

 先輩のテイオーさんと雑談に耽りながら通学路を歩いていく。

 

 トレセン学園の校門へ近づくにつれて、学園の生徒やトレーナーさん達の姿が周囲に段々と増えてきた。

 

「キタちゃんも今年からクラシックかぁ。目標はもう決めてたりする?」

「はいっ。あたしはテイオーさんと同じ、クラシック三冠を目指します!」

「うんうんっ、それでこそボクのキタちゃんだよ!」

 

 クラシック級の狙いを三冠路線に定めたあたしの次走は、三月に開催されるGⅡ重賞──スプリングステークス。

 

 皐月賞トライアルとして定められているスプリングステークスは、上位三位までのウマ娘が優先出走権を獲得することが出来るレースだ。

 

 皐月賞が開催される中山レース場を舞台としたレースであるため、スプリングステークスは何としてでも獲っておきたい。

 

「テイオーさんは今年でシニア二年目になりますけど、次走の予定とかは考えているんですか?」

「ん…………とりあえず、阪神大賞典あたりかな」

「おおっ! 長距離ですか!」

 

 阪神大賞典は、トゥインクル・シリーズ最長距離GⅠ重賞──天皇賞(春)の前哨戦だ。

 

 つまりテイオーさんは、天皇賞(春)の連覇を目標に掲げているということだろう。

 

「あたし、テイオーさんのことを応援しています!」

「ありがと、キタちゃん」

 

 憧れの先輩とお互いの目標を宣言しているうちに、トレセン学園の校門が目の前までに迫っていた。

 

 外の空気はとても寒いから、早く教室へ行って暖まろう。

 

 二人揃って校門を通過し、校舎の昇降口へ向かおうとした矢先の出来事。

 

「──あっ、カイチョー! おはよ〜っ!!!」

 

 あたしの隣を歩いていたテイオーさんが唐突に、ルドルフ会長の名前を叫んで駆け出して行ってしまった。

 

 そんなテイオーさんの背中姿に、憧れの存在を追いかけ続けていたあたしの記憶が重なった。

 

 テイオーさんがルドルフ会長を前にした時のように。

 

 ミライさんやテイオーさんを前にしたあたしもきっと、彼女と同じく夢中になって尻尾を振り回していたのだろう。

 

 テイオーさんから少し遅れて、あたしは今一度歩み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………ぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしは、呼吸のしかたを忘れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 瞬きを忘れた視界に映った()()()()()姿()に、あたしの意識が釘付けにされる。

 

 

 

 

 

 

 

 先程までの寒さが嘘のようにかき消され、心をやき焦がす灼熱が全身にほとばしった。

 

 

 

 

 

 

 

……最後に彼と言葉を交わしたのは、一体いつだったか。そんなことを思い返している余裕など、今のあたしに残されていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 熱に浮かされた頭を働かせ、やっとの思いで理解出来たのは……たった一つの事実のみ。

 

 

 

 

 

 

 

「……………………ぁ……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──あの人が今、あたしの前にいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳を塞ぎたくなるほどうるさい心臓の鼓動が自分のものだと気付くまで、どれほどの時間を要したのかは分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 やっとの思いで我に返ったあたしの視界には、もはやあの人の姿しか映っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……あっ」

 

 

 

 

 

 

 

 視線の先に立っていたあの人が校舎の方角へと走り去っていく瞬間、あたしは咄嗟に右手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 

 

 当然のように虚空を掴んだ右手へ視線を落とすと、突然、全身が溺れてしまうような息苦しさに襲われた。

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 

 

 

 

……この半年間で、あたしはきっと()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 憧れの存在から夢をもらった、感謝の気持ちとか。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしを見出してくれた恩人に対する、底知れない罪悪感とか。

 

 

 

 

 

 

 

 複雑な感情でぐちゃぐちゃになった心に、そのまま蓋を被せて放置し続けた結果……。

 

 

 

 

 

 

 

「………………トレーナー、さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拗らせ過ぎてしまったあの人への想いはもう、手の施しようがない段階まで至っていたようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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XX:キタサンブラック5

 半年ぶりにあの人の姿をトレセン学園で見かけて以来、あたしは彼と接触する機会をひたすらに窺い続けていた。

 

 理想としては、学園の敷地内でさりげなく接触することが一番良いだろう。

 

 出会い頭を装えば、わずかな動揺につけ込んで会話に持ち込むことが出来るかもしれない。

 

「…………」

 

 しかし残念ながら、二千名以上が在籍するトレセン学園の敷地内において、都合の良い偶然がそうそう起こってくれるはずも無く……。

 

「……? キタちゃん。ここ最近元気ないけど、何かあった?」

 

 あの人の元へ直接赴く勇気を出せないヘタレなあたしは、何も行動を起こせないまま無為に時間を浪費していた。

 

 あの人の姿を学園で見かけてから、早くも一週間が過ぎている。

 

「……ぇ、あ、ああっ、ごめんねダイヤちゃんっ。少し、ぼーっとしてた……あはは」

 

 午前の授業が終わったお昼休み。

 

 昼食を共にするダイヤちゃんからも、あたしは心配の眼差しを向けられてしまう。

 

「キタちゃん、あんまりお腹空いてないの?」

 

 ダイヤちゃんの視線が、あたしの前に置かれた料理──ほとんど手がつけられていない──に落とされる。

 

 ダイヤちゃんと同じ料理を頼んでいたはずなのに、皿の上に乗っているその量には半分近い差が生まれつつあった。

 

「う、ううんっ。ちょっと、考えごとしてただけ」

 

 慌てて料理を口に運ぶあたしだけれど、ダイヤちゃんの指摘通りあまりお腹は空いていなくて。

 

 箸を動かす右手が、少しだけ億劫だった。

 

「ダイヤちゃんは最近、よく食べるよね」

「えっ、そ、そうかな……」

 

 あたしとは対照的に、ダイヤちゃんは注文した料理を軽快に口へと運んでいく。

 

 三学期の始業式辺りから、ダイヤちゃんは毎日がとても楽しそうだった。

 

 その理由は何となく察していたけれど、本人に直接聞いてみようとは思えなかった。

 

「キタちゃん。もし何か思い悩むことがあったら、気分転換とかしてみると良いんじゃないかな」

「気分転換……」

 

 ダイヤちゃんの提案は最もだ。

 

 心が沈んだ状態で何かに取り組んだとしても、パフォーマンスが低下してロクなことにならない。

 

「散歩とか、カラオケとか、ゲームセンターとか。クレーンゲームとか楽しいよ!」

「あ、あたしはゲームとか、あんまり上手じゃないからなぁ……」

 

 そういえば、テイオーさんもゲーム上手だったよね。

 

 ダイヤちゃんはチームが違うから予定とか合わないだろうし、また今度テイオーさんに連れて行って貰おうかな。

 

「じゃあ私が教えてあげる! キタちゃん、今日の放課後って何か予定ある?」

「今日、は……あ、トレーニングかも」

「あ、そっか。……やっぱり、小学校の頃みたいにはいかないね」

「仕方ないよ。でもありがとう。あたしのこと、心配してくれて」

 

 ダイヤちゃんの心優しい気遣いを噛みしめながら、あたしは料理を一口含む。

 

「ダイヤちゃんはトレーニングがオフの日って、何やってるの?」

「ん〜、基本的にはレースの勉強とか、授業で出された課題とかかな。あ、でも今日はゲームセンターに遊びに行こうと思ってて!」

 

 ダイヤちゃん曰く、行きつけのゲームセンターに新しい筐体(きょうたい)が導入されたらしい。

 

「兄さまも誘ったんだけど、仕事しなきゃーって断られちゃって。せっかく勇気を出したのに、兄さまのいけず……」

「あ、あはは……。中央のトレーナーさん、みんなとっても忙しそうだからね」

「そうだよね……はぁ。少しは、休んで欲しかったんだけどなぁ」

 

 さりげなく惚気をこぼすダイヤちゃんに苦笑を返しながら、あたしは皿の上に乗った料理に箸を伸ばす。

 

「…………あ」

 

 残りの料理を口に運ぶダイヤちゃんを見ていた時、彼女の言葉が今一度あたしの脳裏をよぎる。

 

 

 

 

 

 ダイヤちゃん、今日()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 なるほど。

 

 

 

 

 

……そっか。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 チーム・スピカでのトレーニングを終え、制服に着替えてチームメイトと別れた後、あたしは校舎別棟のとあるフロアへと足を運んだ。

 

 少しだけトレーニングが長引いたため、時刻はもうじき十九時を迎えようとしている。

 

 真冬の季節であるため日没も非常に早く、足元は窓から差し込む月光だけが照らしていた。

 

 普段の賑やかなトレセン学園とは異なり、夜の校舎は少し不気味だ。

 

 防寒対策として制服の上からコートを羽織っているとはいえ、寒さが堪える。

 

 凍える指先を吐息で温めながらも、あたしは目的地への歩みを止めなかった。

 

 静まり返った校舎別棟の廊下を進むことしばらく。

 

「…………」

 

 隙間から微かな光が溢れる扉の前で、辺りに響き渡るあたしの足音が止んだ。

 

 目線を少し上げると、『アルデバラン』というチーム名が記された掛札が視界に飛び込んでくる。無意識に、スクールバッグの持ち手を握るあたしの指先に力がこもった。

 

「…………」

 

 

 

……ダイヤちゃんのトレーニングがお休みだと分かった瞬間、あたしは内心でチャンスだと考えた。

 

 

 

 トレーニングがオフである以上、あの人のチームに所属する担当ウマ娘達は各々の時間を過ごしている確率が非常に高い。

 

 加えてトレーナーという職業に従事する方々は、担当ウマ娘を指導するほか、トレセン学園の事務作業をいくらか請け負っているとのこと。

 

 沖野トレーナーの話によると、学園の事務作業はトレーニングがオフの日に集中して片付けることが多いそうだ。

 

 以上の要素を組み合わせると……あの人は大半の生徒が下校した時間帯でも、自身のトレーナー室に残って仕事をしている可能性が高い。

 

 あの人と接触する機会を窺い続けていたあたしだったが、この一週間で”偶然”に頼ることの無力さを痛感した。

 

 周囲の視線を気にしなくて良い時間帯ということも相まって、この瞬間はまさしく絶好のチャンス。

 

 "勢い"に任せてあの人のトレーナー室へ足を運ぶと、案の定その扉からは照明の光が溢れていた。

 

 扉の取手に手を伸ばし、あとはなけなしの勇気を振り絞って一思いにそれを引くだけ。

 

「……すぅ…………はぁ…………っ」

 

 深呼吸を繰り返して緊張を和らげる。暴れる心臓を必死に宥め、あたしはついに決意を固めた。

 

 

 

 その時である。

 

 

 

「──ッ!?」

 

 極限まで敏感になったウマ娘の聴覚が、はるか遠くから響き渡ってきた足音を捉えた。

 

「だ、誰か来たっ」

 

 カツンカツンと穏やかな足音が背後の階段を登って、こちらの方向へと近づいてくる。

 

 あたしは極力物音を立てずにその場を離脱し、咄嗟に突き当たりの角へ身体を隠した。

 

 その場で息を潜めて足音に注意を向けていると、廊下の奥からひとりの女性が現れる。

 

 トレセン学園の制服にコートを羽織った生徒には、心当たりがあった。

 

「マックイーン、さん……?」

 

 レース界の名門、メジロ家の令嬢──メジロマックイーン。

 

 菊花賞出走後に繋靭帯炎を発症し、約八ヶ月間の長期療養でトレセン学園を休学していた先輩ウマ娘。

 

 復学を果たしたその後、あの人が顧問を務めるチーム・アルデバランへと移籍し、新たな目標に向けて邁進している立派な方だ。

 

 マックイーンさんが、つい先程まであたしがうじうじと佇んでいた扉の前に立つ。

 

 数回のノックを挟んだ後、彼女はあっさりと部屋の奥へ入っていった。

 

「……行っちゃった」

 

 廊下の角から顔を出し、あたしは部屋の様子を外から窺う。当然、中がどうなっているのかなんて分かるはずがなかった。

 

 こんな時間帯にトレーナー室を訪れたマックイーンさんのことだから、何か大事な用事があるに違いない。

 

 残念だけど、寮の門限もあるため今回は諦めるしかないか。

 

「…………い、いやでも、せっかくここまで来たんだし」

 

 しかし、この瞬間に訪れた絶好のチャンスが次にいつ回って来るか分からない。

 

 今の勢いを失ってしまえば、きっともう勇気なんて振り絞れそうにない。

 

……決めた。少し寒いけれど、マックイーンさんの用事が終わるまでしばらく待っていよう。

 

 あたしは持参したスクールバッグからあの人への興味を認めたメモ帳を取り出し、今一度彼と話したい内容を頭の中で整理した。

 

 窓から差し込む月光とスマホのライトを併用して、メモ帳に記された文字に視線を巡らせる。

 

 隠しきれない期待感と暴れ回る緊張感がせめぎ合う中で、あたしはペラペラとページをめくった。

 

 それから大体、一時間以上が経過した頃だろうか。

 

「……ぅ、けっこう寒いなぁ」

 

 最初は無視することが出来ていた寒さだったが、いつの間にか我慢出来ないくらいまで身体が冷え切っていた。

 

 厚着した上半身はまだしも、下半身から覗く素肌は凍ってしまいそうなほどに冷たい。

 

 トレーニング後に急いで着替えたものだから、ちゃんと汗を拭き取ることが出来ていなかったようだ。今更になって、汗に体温が奪われていく。

 

……あ。あたし今、ちょっとにおうかも? 対策はちゃんとしてるはずだけど……大丈夫かな。

 

 寒さを必死に我慢していると、今度は無性にお手洗いに行きたくなってしまった。

 

 最後にお手洗いへ行ったのはトレーニングが終わった直後だったし、一瞬ならこの場所を離れても平気だろう。

 

 あたしは屈んでいた身体を起こして、一番近くのトイレへ駆け込む。手早くお手洗いを済ませたあたしは、すっきりとした感覚を抱いたまま先程の場所へ戻った。

 

 水で洗った手をハンカチで拭きながら、あたしはあの人のトレーナー室へ視線を向ける。

 

「……え?」

 

 その瞬間、あたしはトレーナー室から照明が消えていることに気がついた。

 

 どうしてこんなタイミングで……っ、と、あたしは()()()()()が入ったスクールバッグの持ち手を掴んでその場から飛び出す。

 

 トレーナー室の扉を確認するも、案の定それは施錠された後であった。

 

「追いかけないと……っ」

 

 あの人達が部屋を出てから、それほど時間は経っていないはず。今から追いかければ、ギリギリ間に合うはずだ。

 

 あたしは焦燥に駆られた勢いを使って走り出す。

 

 階段を下り、昇降口でローファーに履き替え、大慌てで校舎を飛び出した。その段階ではまだ、あの人の背中姿を捉えることは出来なかった。

 

 校門を抜けたあたしは、このチャンスを逃してはいけないと、迷わずトレーナー寮がある方角へ走る。

 

 そして、素早く行動したことが功を奏したのか。

 

「あっ」

 

 あたしの視線の先で、求め続けていたあの人の背中姿をついに捉えることが出来た。

 

 心臓の鼓動が暴れ出すのを感じた。

 

 この半年間で、あの人と対面する際のシミュレーションは完璧だ。

 

 あとは勇気を振り絞ってあたしから話しかけるだけ。

 

 ここで行かなきゃ、あたしはヘタレな自分のことが本当に嫌いになってしまう。

 

 勢いに任せた足を止めてはいけない。うじうじして蹲っているくらいなら、もういっそ()()()押し切ってしまえ。

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 そして、あの人との距離があと僅かに迫った頃だろうか。

 

「……?」

 

 厚手のコートを右腕にかけて歩くあの人の様子に、あたしは違和感を覚えた。

 

 肌寒さが最高潮に達しつつある時間帯にも関わらず、あの人はスーツの上に何も羽織っていない。彼はもしかしたら、暑がりなのかもしれない。

 

 帰路に着くあの人の足取りもどこか覚束なくて、今にも倒れてしまいそうな…………。

 

 え。

 

「──っ!?」

 

 突然、あたしの前を歩くあの人の身体が大きく傾いた。

 

 不自然に左右に揺れるその様子は、倒れてしまう自身の身体を必死に支えているようであった。

 

 しかし、そんな抵抗も虚しく、重力に逆らえなくなったあの人の身体がゆっくりと倒れていく。

 

「と、トレーナーさん……っ!?」

 

 あたしは走る速度を限界まで引き上げ、地面に倒れ込む寸前だったあの人の身体を支えることに成功した。

 

「あ、あのっ、大丈夫ですか、トレーナーさんっ!」

 

 血相を変えて声をかけるあたしだったが、荒々しい呼吸を繰り返す彼には届いていないようだった。

 

 様子がおかしい。あたしの身体に支えられている彼は今、意識を失ってしまっている。

 

「ど、どうしよう……っ」

 

 あの人の身体に触れていて気がついたのだが、全身が異常なまでに熱っていた。

 

 彼の額に手を当てると、発熱の症状をありありと確認することができる。

 

 あたしはひとまず、彼を安静な場所へ送り届けなければならない。

 

 真冬の季節に屋外で身体を横にすることは論外だ。トレーナー寮へ付き添うことが最善の選択だが、あたしはあいにく、あの人が住まう寮の部屋番号を知らない。

 

 それなら、あたし達が普段生活している栗東寮はどうだろうか。いや、それだと間違いなく騒ぎになってしまって、彼だけに限らず大勢の人達に迷惑を掛けてしまう。

 

 となると残された選択肢はもう、学園の保健室しかない。あそこなら、彼の身体を安静にするためのベッドがあるはずだ。

 

「すぐ楽になりますからね、トレーナーさん」

 

 焦燥に駆り立てながらもしばらく考えた末、あたしは意識を失ったあの人の身体を横抱きにし、来た道を急いで引き返した。

 

 

 

***

 

 

 

 保健室のベッドにあの人の身体を下ろしたあたしは、近くに置いてあった背もたれのない丸椅子に腰を下ろして彼の様子を見守っていた。

 

 寝苦しそうに唸されている彼の身体に毛布と布団を重ね掛け、襟元のボタンをそっと外す。

 

「……………………」

 

 その途中、あたしは彼の顔が目と鼻の先にあったことに気付いてしまう。

 

 いつの間にか彼の整った顔立ちを食い入るように見つめていたことに気付いたあたしは、ハッと我に返って距離を離した。

 

 熱に魘されている彼が自然に目を覚ますまでは、少なくともあたしが見守っていなければならない。

 

 彼を保健室まで運んできたあたしには事情を説明する義務があるし、何より、苦しんでいる彼を放っておくことなんて出来なかった。

 

 掛け時計の秒針が大仰に響く中、あたしはただ静かにあの人のことを見つめ続ける。

 

 ここ一週間ほどあの人の様子を遠目から見ていたあたしだったが、その過程で彼の()()に気がついた。

 

 一番大きな変化としては、彼のまとう雰囲気だろう。

 

 半年前と比較すると表情がとても豊かになって、担当ウマ娘のダイヤちゃんと話している瞬間なんかは特に嬉しそうに微笑んでいた。

 

 今の彼から感じ取った雰囲気は、あたしの記憶の中に残っているあの人と瓜二つ。

 

 あの人がミライさんに向けていたそれと、全く同じ眼差しだった。

 

 少し、親友のダイヤちゃんが羨ましかった。

 

「……あ、ダイヤちゃんに連絡しないと」

 

 彼はダイヤちゃんの担当トレーナーなのだから、このままだと彼女も心配してしまうだろう。

 

 スカートのポケットからスマホを取り出して、あたしはダイヤちゃんに連絡を送った。

 

 幸いすぐに返信が来て、大急ぎでこちらに向かってきてくれるとのこと。

 

 彼が目を覚ました際、あたしだけでは気まずいと思う。彼が意識を取り戻す前にダイヤちゃんが来てくれたら、大人しく入れ替わるべきだろう。

 

 彼の様子を見守る傍ら、あたしは改めて手帳を広げて時間を潰す。

 

 部屋の電気は付けずとも、周囲を照らすのは窓から差し込む青白い光でこと足りる。 

 

 本当はこんな状態の彼と話すのは良くないと分かってるけれど、二人きりという絶好の機会はもう二度と訪れない可能性が高い。

 

 少しだけ、少しだけでもいいから話がしたい。

 

 そんな想いで手帳をめくり、あたしは彼と話したい内容を整理していった。

 

 それから、大体三十分程度が経過した頃だろうか。

 

 緊張のせいか、あたしは先程から喉の渇きを感じていた。

 

 普段から持ち歩いている水筒の中身はトレーニングの最中に飲み干してしまったし、追加で買ったスポーツドリンクもとっくに空っぽだ。

 

 ベッドに横たわる彼がいつ目覚めるかは分からないけれど、発熱してしまった彼が意識を取り戻した後のことに備え、何か飲料水を用意しておいた方が良いかもしれない。

 

 あたしは足元に置いたスクールバッグから財布を取り出して、保健室を後にする。購買は当然のように閉まっているため、あたしは保健室から一番近い自販機を探した。

 

 少し歩いた先で見つけた自販機の前で立ち止まり、あたしはひとまず自身のお茶と彼用の飲料水を手に入れた。

 

「……あ、そういえば」

 

 その場から踵を返した瞬間、あたしはふと思い出す。

 

(あの人って、たしか……コーヒーが好きだったよね)

 

 ダイヤちゃんから教えてもらった、あたしの知る数少ないあの人の情報。

 

 風邪をひいてしまった状態で渡しても良いのか少し迷ったけれど、あるに越したことはないだろう。

 

 そこから、あたしの優柔不断が始まった。

 

「う、う〜ん……コーヒーの種類ってどれが良いんだろう。とりあえず全部の微糖を買って、一応無糖と……あ、ホットとアイスの二種類ある。んん……とりあえずどっちもかな」

 

 小銭を投入して、ボタンを押す。

 

「風邪をひいた時はスポーツドリンクが良いって聞くけど、もしかしたらお茶の方が好きかもしれないよね。いや、それなら水? 白湯とか? 炭酸水だって好きかも……」

 

 ピッ……ゴトンッ。

 

「熱があると口の中が不味く感じるから、暖かくて甘いおしることかが良いかも……? あ、トレーナーさんコンポタの方が好きかな」

 

 ピッ……ゴトンッ。

 

 ピッ……ゴトンッ。

 

 ゴトンッ、ゴトンッ、ゴトンッ、ゴトンッ……………………。

 

 

 

***

 

 

 

 

「…………やっちゃった」

 

 両腕に抱えきれないほどの飲み物を抱えたあたしは、トボトボとした足取りで来た道を引き返す。

 

 こんなはずでは無かったのだけれど、買ってしまったものは仕方がない。それに、これだけ種類を用意すればあの人だって好みの飲み物を選べるはずだ。

 

 購入した飲み物を落とさないよう、努めて慎重に廊下を歩く。そのため、保健室へ戻るまで少し時間が掛かってしまった。

 

 扉を開けるのに苦労しながらも何とか部屋の中に入る。

 

 余った飲み物をどうしようかと考えながら空間を隔てるカーテンを開けて、ベッドに横たわるあの人の様子を確認しようとした。

 

……その矢先のことである。

 

「………………あっ」

 

 ベッドに預けていた背中を起こし、物憂げな表情で遠くを眺めるあの人が、あたしの視界に飛び込んできた。

 

 青白い月明かりに照らされた彼の横顔を見て、心臓の鼓動が暴れ出すのと共に声がこぼれる。

 

「…………え?」

 

 そんなあたしの呟きを捉えたのか、困惑の色を浮かべた彼がぼんやりとこちらを見つめてきた。

 

 初めて彼と視線が交錯した瞬間、あたしの心に込み上げてきたのは強烈な安堵だった。

 

「……目を、覚まされたんですね。あぁ、よかった……」

「…………キタサン、ブラック?」

 

 意識を取り戻したばかりで状況を把握しきれていないのだろう。少し震えた声音で、彼があたしの名前を呟いた。

 

「あっ、あたしのこと……覚えていて、くれたんですね」

 

 彼があたしの名前を呼んでくれた。ただそれだけのことなのに、あたしの心はどうしようもなく舞い上がってしまう。

 

「どうして、君が……?」

「ぁ、あっ、えっと……そ、それは……っ」

 

 冷静に状況を理解しようとしている彼とは裏腹に、あたしは緊張で声が裏返り、言葉を分かりやすく詰まらせた。

 

……落ち着いて、あたし。この瞬間のために、あたしはちゃんと準備してきたではないか。

 

「……ぐ、()()トレーナーさんの姿を見かけたんです。そしたら突然身体がよろめいて、倒れてしまいそうだったので」

 

 あたしは声が裏返らないよう努めて冷静に、彼を保健室まで運んできた経緯を説明した。

 

「そう、か……ありがとう。俺のことを助けてくれて」

 

 彼があたしに、お礼を言ってくれた。とても、とても嬉しい。

 

「意識が戻って何よりです。本当に、ほんとうによかった……っ」

 

 涙ぐんでしまうほど舞い上がってしまうなんて、やっぱり今のあたしはおかしくなってしまっているに違いない。

 

 このまま彼の前に突っ立っているのは失礼だと感じたあたしは、先程まで腰掛けていた丸椅子に体重を預け、勇気を出して積極的に話しかけた。

 

「あ、あのっ、喉は乾いていませんか? 飲み物をその、少し……かっ、買い過ぎてしまって」

 

 あたしの言葉を受けた彼は、両腕に抱える飲み物の量に驚愕している様子であった。

 

「コーヒーがお好きだとっ、ダイヤちゃんから聞きました……っ」

「……うん。でも、その量は……?」

「どれが良いかなって悩んじゃって、気付いたらその…………あ、あは、あはは」

 

 落ち着こう、一旦落ち着こう。

 

 相手の気持ちを考えずに突っ走ってしまうのは、あたしの悪い癖だ。

 

「…………」

 

 ほら見ろ、あたしが突っ走ってしまったせいで彼が思いっきり困惑しているではないか。

 

「…………ぁ、ご、ごめんなさい。あたしがこんなことしても、迷惑なだけでしたよね……」

 

……あぁ、またやっちゃった。

 

「迷惑だなんて、全然思ってない。……ありがとう、俺のことを気遣ってくれて」

 

 体調不良の彼に気を遣わせてどうするの。トレーナーさん、苦笑しちゃってる……。

 

 ジェットコースターのように揺れ動く感情に弄ばれながらも、あたしは彼に対して微糖のホットコーヒーとスポーツドリンクを差し出した。

 

……絶対、こんな量いらなかったよね。

 

 スポーツドリンクに口をつけた後、彼があたしに向かって申し訳なさそうに声をかけてきた。

 

「その、俺が言うのもアレかもしれないけれど……寮の門限は、大丈夫なのか?」

 

 栗東寮の門限は二十二時に設定されている。

 

 トレセン学園を出たのが二十一時を過ぎた頃だったので、今の時間は確か、えっと……………………。

 

「……あ、あぁ〜…………はい、大丈夫です!」

「……ごめん」

「大丈夫です、本当に気にしないで下さい。こう見えて、反省文は書き慣れているんです!」

 

 以前も栗東寮の門限を破ってしまったことがあったけど……あの時の寮長さん、怖かったなぁ。

 

……でも、彼を助けることが出来たのだからあたしは満足だ。

 

 彼と対面して余計に緊張してしまったせいか、余計に喉が乾いた。

 

 あたしは右手に握っていた缶が何かも知らずにタブを開け、喉を潤すために一口含んだ。

 

「──ッ!?!?」

 

 その直後、瞬く間に広がった強烈な苦味があたしの脳天を突き抜けた。

 

 慌てて手にした缶を確認すると、それは彼のために用意していた無糖のコーヒーであった。

 

「くぅっ、──ッ! ……ぅぅ〜っ!! に、苦いぃっ」

 

 無糖のコーヒーを飲んだのは初めてだったけれど、こんなにも苦いだなんて思ってもみなかった。

 

「…………大丈夫?」

 

 あたしがコーヒーの苦味に悶えるせいで、またしても彼に余計な心配をかけさせてしまう。

 

「俺が貰ったのは微糖なんだけど……交換する?」

「……ぉ、おねがいします」

 

 あたしは涙目になりながら手にしたコーヒー缶を渡して、彼から未開封のそれを受け取る。

 

 口の中に蔓延る苦味を払拭するような勢いで、あたしは微糖のコーヒーを流し込む。幸い、これは微糖の中でもかなり甘い種類に分類されるもののようで、先程のような刺激を感じることはなかった。

 

 そんな醜態を晒したあたしを見て、あの人は子供を見守る親のように苦笑していた。

 

 落ち着きの足りていないあたしに続いて、彼が飲みかけのコーヒー缶に口をつける。

 

 

 

「…………」

 

 

 

……ん、ぁ、そういえば。

 

 

 

「──ッ!?!?」

 

 

 

 これって……アレだよね。

 

 

 

「ぉっ、ぉおお──っ、……ッ!? ぐぅ”……ぅ”ぅ”う”」

 

 

 

 間接、キス。

 

 

 

…………………………………………え。

 

 

 

 う、うわわ……っ!?

 

 

 

「ゲホッ、げほ……っ! に、にが……っ」

 

 缶に残ったコーヒーを根こそぎ流し込む彼の様子を見つめる傍ら、あたしは先程のそれとはまた別の意味で悶々としていた。

 

「はぁ、はぁ……ふぅ……………」

 

 このまま感情が暴走してしまうのではないかと思うほどに内心で悶絶していたあたしだったが、ベッドに質量のある何かが倒れるような音が聞こえた瞬間、すぐに我に返った。

 

 荒っぽい呼吸を繰り返す彼を見て、今一度浮かれていた自身の気を引き締める。

 

「と、トレーナーさん……大丈夫ですか?」

「……大丈夫。変な心配かけさせて、ごめん」

 

 彼の返答を最後に、勢いに任せて続けていた会話が途切れてしまった。

 

 あたしと彼の二人きりの空間に、気まずい沈黙が訪れる。

 

 あの人と再び顔を合わせるまでの半年間で、あたしは彼と話したいことをしっかりと整理してきた。

 

 だから後は、勇気を出してあたしから話しかけるだけ。

 

「……半年ぶり、ですよね」

 

 最初はまず、他愛ない話題から。

 

「少し、印象が昔にもど……かっ、変わりましたね」

「そうかな……そうかも」

 

 しかし、ここで一度会話が途切れた。

 

……これじゃあダメだ。あたしが彼から聞きたかった()()を切り出せない。

 

「…………トレーナーさん。つ、つかぬことをお聞きしたいんですけどっ」

「うん?」

 

 先程から尻尾が忙しなく揺れ動いて落ち着かない。

 

 彼にその話題を切り出す勇気は準備出来ていないが……もう口に出してしまったのだから、後は勢いだ。

 

「あの……あたし達、昔どこかでお会いしたことって…………ありませんか?」

 

 他愛ない話題の中でさりげなく探りを入れるのが理想だったけれど、勢いに任せたせいで直球になってしまった。

 

 この質問はずっと、それこそダイヤちゃんのトレーナーさんが過去のあの人だと気付いた瞬間から聞きたかった内容だ。

 

 もはや、この質問にあたしの全てが詰まっていると表現しても過言ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドキドキと返事を待つ時間すら無く、答えは簡単に返ってきた。

 

 あまりに即答すぎて、あたしはポカンと口を開けたまま微動だにすることが出来ない。

 

「………………ぁ、ああえっとっ……あれですっ!」

 

 不自然な間を作ってしまった後、我に返ったあたしは慌てて言葉を取り繕った。

 

「トレーナーさんの印象が、昔出会った人に似ていたので。つ、つい…………」

「それって、何年くらい前?」

 

 彼がベッドから身体を起こして問い返してくる。

 

「え、えっと…………三年から、五年くらい前だった…………はずです」

 

 本当は違う。四年前だ。

 

 四年前の、十一月二十五日。

 

 世界的アイドルウマ娘が日本のレースに出走した、忘れられるはずのない特別な一日。

 

「…………ごめん」

 

 明確に分かっていても回答を濁してしまったのは、きっと……()()()()()()()()()()()()

 

 しばらく時間をおいた後、彼はあたしに対して申し訳なさそうに謝った。

 

「あたしこそすみません、突然こんなことを聞いてしまって。あたしの失礼な勘違いだったので、どうか気にしないで下さい」

 

 元々淡い期待だったと覚悟は出来ていたのだろう。少しだけショックを受けたことは実感しているけれど、上手に笑ってごまかすことができた。

 

「…………」

「…………」

 

 再び訪れた沈黙は、心なしか先程よりも重いと感じた。

 

 申し訳なさそうに俯くあの人を見るに、あたしはまた余計な迷惑をかけてしまったのかもしれない。

 

 この沈黙は彼にとって、とても居心地の悪いものに感じていることだろう。

 

 あたしが何か、話題を振らなくちゃ。

 

 なんでもいいから、話題を……。

 

「…………」

 

 視線を彷徨わせながら真っ白になった思考を働かせ、あたしは必死に場を繋げようと話題を見繕う。

 

 その途中……足元に置いていたスクールバッグの中身が偶然、あたしの視界に止まった。

 

「………………ぁ」

 

 四年前のあの日、憧れの存在から託された彼女の形見。

 

 いつか、いつか渡そうと大切に預かっていた、ミライさんの耳飾り。

 

 再び学園であの人を見かけた瞬間から肌身離さず持ち歩いていたそれを見て……あたしの中に、大きな衝動がなだれ込んでくる。

 

 

 

 

 

 

 

「──あ、あのっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 誰かが背中を押してくれたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あたし! 実は、あなたに……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 大きな勇気を握りしめたあたしは、椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がって。

 

 

 

 

 

 

 

「ずっと……っ、お渡ししたかったものが──」

 

 

 

 

 

 

 

 きょとんとするあの人へ向けて、あたしは大切にしていた宝物を──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──兄さまッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 差し出す寸前、血相を変えて保健室に飛び込んできた少女の登場によって、あたしの声は遮られてしまった。

 

 空間を隔てていたカーテンが凄まじい速度で開かれ、息を切らした親友のウマ娘──ダイヤちゃんが姿を見せる。

 

「………………ぁ、ダイヤちゃん」

 

 あの人へ向けていたあたしの眼差しが、制服姿のダイヤちゃんに移る。

 

「ダイヤ、どうして……?」

「キタちゃんから連絡を貰ったんです。兄さまが、倒れてしまったって」

「そうだったのか」

 

 ダイヤちゃんの方へ向けれらていたあの人の視線が、今度は反対側に立つあたしに向けられた。

 

「あ、あたしと二人きりだとトレーナーさん、気まずいかなって思っちゃって…………ぁ、あはは」

 

 大切なものを持った手をさりげなく背後に回して、あたしは彼の疑問に答える。

 

 ダイヤちゃんの登場によって、この空間に漂っていた重苦しい雰囲気が嘘のように霧散した。

 

 あの人とダイヤちゃんが会話する様子を傍観し、彼の表情をこわばらせていた緊張が和らいでいく瞬間を見届ける。

 

 ダイヤちゃんが駆けつけて来てくれたため、あたしは自身の役目を果たしたと考えていいだろう。

 

……そういえば、”彼が風邪をひいている”という認識がいつの間にか、頭からすっかりと抜け落ちていた。

 

 ずっと自分のことを話してばかりで……余計な迷惑を、掛けてしまったかもしれない。

 

「さてと……ダイヤちゃんが来たので、あたしはもう行きますね」

 

 後ろ手に隠した耳飾りを足元のスクールバッグにしまって、あたしは今一度椅子から立ち上がる。

 

 最後に彼へ一礼した後、あたしはそそくさと保健室を後にした。

 

「…………トレーナーさん、無事で良かった」

 

 窓から差し込む月明かりを頼りに廊下を進み、門限を過ぎてしまった栗東寮への帰路に着く。

 

「うぅ、絶対寮長さん怒ってるよ……まぁでも、困ってるトレーナーさんを助けることが出来たし、罰掃除くらいどうってことないよね」

 

 栗東寮へ戻る足取りが重く、億劫だと感じているのは残念ながら気のせいではないだろう。

 

 調子に乗って買い過ぎた飲み物がバッグに詰まっていることも、その要因の一つかもしれない。

 

……ついさっきコーヒーをがぶ飲みしたせいか、またお手洗いに行きたくなってしまった。

 

 学園から寮まで少し距離があるし、ここを出る前に済ませておこう。

 

 正直、夜のトイレって一人だと怖いよね。

 

 幸い、設置された照明が人を感知して点灯する仕組みになっているため、そこまで不気味では無いのだけれど。

 

 現在地から一番近いトイレに寄って、手短にお手洗いを済ませる。 

 

 水道の水で手を洗い、ポケットに忍ばせていたハンカチで水分を拭き取った。

 

「…………あれ」

 

 その時ふと、あたしは()()に気付く。

 

 濡れていた手をしっかりと拭き取ったにも関わらず……右甲の辺りには何故か、()()()()()()()()

 

 おかしいなと思いながら水滴を拭うも、また上からそれが落ちてくる。

 

…………上?

 

 不思議に感じて頭上を見上げるも、この学園の校舎で雨漏りはさすがに考えられない。

 

 じゃあ一体、この水滴は何なのか。

 

 その答えは、あたしの目の前に設置された鏡を見た瞬間……すぐに分かった。

 

 

 

 

 

「…………あ、れ。何、なにこれ」

 

 

 

 

 

 両手の甲を止めどなく濡らす水滴がまさか、自分の目尻からこぼれ落ちた()だったなんて。

 

 拭っても拭ってもそれが止まることはなく、自分が泣いていると自覚した瞬間に全身の力がふわりと抜けて、そのまま地面にへたり込んでしまった。

 

 身体の過剰な反応に対し、心に込み上げてくる感情が全くと言っていいほど追いついていなくて。

 

 その不可思議な感覚はまるで、泣きじゃくる自分自身を側から傍観しているようであった。

 

 あたしの嗚咽が周囲に響き渡る中、どうしてあたしは泣いているのかと自身の心に問いかけた。

 

 淡い記憶に想いを馳せ、無駄だと分かっていても期待してしまったどうしようもない自分を振り返って、あたしはようやく気付く。

 

 

 

 

 

 長年見続けてきた大切な夢は……全部、あたしの勘違いだったのだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 最後にぐっすりと眠ることが出来たのは、一体いつだっただろう。覚えている限りだと、ダイヤちゃんを自主トレーニングに誘った前日くらいだろうか。

 

 ここ半年程度、不安や緊張で眠れない日が続いている。

 

 ベッドに入って浅く目を瞑り、ただただその場でじっとしているだけ。ようやく眠れたと思って瞼を開くと、大体一時間も経っていないことが大半だった。

 

 あの人と半年ぶりに会話をした日から、今日で二日。

 

 保健室から退室したその後、門限を破ったあたしは案の定寮長のフジキセキさんにこっぴどく叱られた。

 

 だがしかし、門限を破ったあたし達に罰が課せられることは無かった。そのことを不思議に思ったあたしだったが、共に門限を破ったダイヤちゃん曰く、あの人が一通りの事情を説明してくれたとのこと。

 

 今日もいつものように朝早く目が覚めてしまったあたしは、ベッドから出て寝巻きを脱ぎ、学園指定のジャージに着替える。

 

 睡眠という行為に対して億劫な感覚を抱くようになっていたあたしは、いつの間にか早朝にジョギングをすることが日課になっていた。

 

 ジョギングの場所は気分によって様々で、今日は何となく河川敷の方向へ行くことにした。

 

 どうせ眠れないのだから、身体を動かしていた方が気分が紛れる。

 

 時間帯的には多くの人々が深い眠りについているような頃合いで、日が昇るにはまだまだ程遠い。

 

 同室の子を起こさないように部屋を出て、憂鬱な感情を払拭するように暗闇の中をひたすら走る。

 

 そして、ジョギングを始めてから一時間以上が経過した頃だろうか。

 

 少し身体が疲れたと感じたあたしは、周囲にあった自販機で飲料水を購入し、併設されていたベンチで休憩を挟むことにした。

 

 身体が心地良い疲れを感じているものの、残念ながら眠気が訪れることは無い。

 

 ペットボトルを握りしめて、あたしはぼんやりと物思いに耽る。

 

 モヤのかかった思考で考えるのは、漠然とした自分自身の今後について。

 

 長年見続けてきた夢から覚めたあたしだが、それは結局、憧れという存在に盲目的だったあたしの勘違いに過ぎなかった。

 

 あたしは数多と存在するミライさんに憧れたファンの一人で、少しだけ特別なリップサービスを真に受けてしまった残念なウマ娘。

 

 故に、あの人があたしのことを覚えていないのは当たり前のこと。

 

 あたしに耳飾りを託してくれたミライさんには申し訳ないけれど、これ以上図々しく彼に迫る気力は残っていない。

 

……ミライさんの耳飾りといえば。

 

 最近、少し考えるようになったことがある。

 

 長年大切に預かっていたミライさんの耳飾りだけれど……それを貰った人って、本当は、あたし以外にもたくさんいるのではないだろうか。

 

 よくよく考えてみれば、あれってどう考えてもファンサービスの一種だったよね。

 

 世界的アイドルウマ娘のファンサービスを本気にして、あたしはミライさんから想いを託されたんだって意気込んで……。

 

……あぁ、あたしってほんと、バカだなぁ。

 

 それに。

 

 それにもう、あの人の隣にはかけがえのない相棒が存在している。

 

 二人の間に割り込むことなんて、負い目を抱えたあたしに出来るはずがない。

 

「…………はぁ」

 

 あたしの口から白いため息がこぼれる。

 

 人気の少ない河川敷のベンチに一人で腰掛ける自分が、惨めに思えて仕方がなかった。

 

「──あ」

 

 そんな時である。

 

 手元のペットボトルに視線を落としていたあたしの頭上から、少し驚いたような男性の呟きが聞こえたような気がした。

 

「え?」

 

 誰だろうと思って、あたしは俯いていた顔をおもむろに上げる。

 

 

 

 

 

……まさか、こんなタイミングで彼と出会うことになるとは思ってもみなかった。

 

 

 

 

 

「ぁ、き、奇遇ですね……っ」

 

 普段のスーツ姿とは異なる、運動しやすいジャージに身を包んだダイヤちゃんのトレーナーさんがあたしの前に立っていた。

 

 少し汗をかいているは、彼もあたしと同じようにジョギングをしていたからだろう。

 

 右手に持ったペットボトルを見るに、彼は今から休憩しようとしているに違いない。

 

「あっ、ここ座りますか? すみません気が利かなくて」

 

 あたしは肩幅を限界まで小さくしてベンチの端に寄り、周囲に一つしかないそれを彼へ譲った。

 

 本当はどこか別の場所に行った方が良かったかな。あたしって実は、結構気遣い苦手なのかも……。

 

 ダイヤちゃんのトレーナーさんはあたしと反対側の端に、遠慮がちに腰を下ろす。

 

「……」

 

 彼が飲料水を口にする姿を、あたしは横目でちらちらと盗み見ていた。

 

 二人きりの空間に沈黙がやってくる。とても息が苦しくて、全身に激しい緊張が駆け巡った。

 

 勇気を出して、あたしから声を掛けなきゃダメだよね。

 

 でも……何を話せば良いのか、全然分からないよ。

 

「──キタサンブラックは、朝練?」

 

 あの人を隣にして頭が真っ白になっていると、彼が唐突にあたしの名前を呼んだ。

 

 彼からあたしに話しかけてくれたことって、そういえばあまり無かったような気がする。

 

「え、は、はいっ。最近、早く目が覚めてしまうことが多くて……トレーナーさんは?」

 

 たったそれだけのことで、あたしは内心舞い上がってしまう。

 

「最近、運動不足だったから……ジョギングをやろうと思って」

「そ、そうなんですね……」

 

 だがしかし、会話は再びすぐに途切れてしまった。

 

 話が続かない典型のような返事を繰り返してしまうあたり、本当にどうしようもないなと思った。

 

「キタサンブラック」

「は、はい……っ」

 

 今度もまた、あの人の方から話しかけてきてくれた。彼の視線がこちらに注がれている。

 

 次は一体何だろうと、あたしは両膝の上で握り拳を作った。

 

 

 

 

 

「──()()()()()

 

 

 

 

 

 何の脈絡もなく、突然、彼があたしにお礼の言葉を言った。

 

「…………ふぇ?」

 

 あたしの口から、変な声がこぼれる。

 

 突然彼からお礼を言われるなんて……あたし、彼に感謝されるようなことを何かしてたかな……。

 

「二日前のお礼が……まだ言えてなかったから。それを、伝えたくて」

 

 二日前……ぁ、あぁ……。

 

「い、いえいえそんな……っ。当然のことをしたまでですからっ!」

 

 そういえばトレーナーさん、体調を崩して風邪をひいちゃったんだよね。

 

「体調の方は……もう大丈夫ですか?」

「お陰様で、あの時は本当に助かったよ。キタサンブラックがいなかったら、俺は今頃どうなっていたか分からない」

 

 彼があたしに向かって、頭を下げてくる。純粋な彼の感謝を、素直に受け取っても良いのかなとあたしは少し悩んでしまった。

 

「そう、ですか……。こんなあたしがトレーナーさんのお役に立てたのでしたら……とても、嬉しいです」

 

 鏡を見るまでもなく、今の自分がだらしなくニヤけているのが分かる。頬をかいて気恥ずかしさをごまかした。

 

「朝練の邪魔になったら悪いから、俺はもう行くよ」

 

 トレーナーさんがベンチから腰を上げる。

 

「それじゃあ」と最後に別れの言葉を残して、偶然出会った彼はその場所から走り出そうとする。

 

 とても短い時間だったけれど、彼と話すことができて満足だった。

 

 もしかしたら今日のように、”偶然”彼と話す機会がまた訪れるかもしれない。

 

 次にその偶然が巡ってきたら、今度は時は何を話そうかな。

 

 

 

 

 

……次、つぎ…………か。

 

 

 

 

 

 それって、いつなんだろう……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──あ、あのっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……気付いたら、あたしは慌ててベンチから立ち上がって駆け出す瞬間の彼を引き留めていた。

 

 

 

 

 

「うん?」

 

 

 

 

 

 彼の背中を図々しく引き留めたくせに、頭の中が真っ白なあたしは次に放つ言葉を何も考えることが出来ていなかった。

 

 

 

 

 

 そんな状態にも関わらず彼を呼びとめてしまったのは……たぶん、あたしの中に未練が残っていたから。

 

 

 

 

 

……やっぱりあたしは、諦められなかったんだと思う。

 

 

 

 

 

「トレーナーさんさえよろしければ、その…………()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 気が付けばあたしは、彼に対しておかしな提案を口走っていた。

 

 

 

 

 

 当然、あたしの提案を受けた彼の表情には困惑の色が浮かび上がっている。

 

 

 

 

「せっ、先日のように誰もいないところでトレーナーさんが倒れてしまったら……ダイヤちゃんが、心配しちゃうかもしれません」

 

 

 

 

 

 あたしは咄嗟に、親友の名前を引き合いに出して発言の意図をでっち上げてしまう。

 

 

 

 

 

 本当はただ、トレーナーさんと話がしたいだけ。

 

 

 

 

 

「気持ちは嬉しいけど……俺とキタサンブラックじゃ、走る速度がまるで違う。トレーニングの時間を割いてまで、君に迷惑をかけるわけにはいかないよ」

 

 

 

 

 

 慌てて取り繕った言い訳なんて、彼の口から語られた常識という正論で一撃だった。

 

 

 

 

 

「………………………………そう、ですか」

 

 

 

 

 

 思えばこの提案は、あたしが苦し紛れに振り絞った最後の勇気だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 あっけなく砕け散ったあたしの全身は脱力感に苛まれ、そのまま倒れるようにベンチへ腰を落としてしまった。

 

 

 

 

 

 今回の玉砕は二日前と違って、はっきりとした悲しみがあたしの心を蝕んだ。

 

 

 

 

 

「……………………ぅ、ぁ」

 

 

 

 

 

 あの人が見ている前では、絶対に涙を流してはいけない。せめて彼がここから走り去るまでは、何としてでも我慢しないと……。

 

 

 

 

 

「……ぁ、くぅ……ぅう…………っ」

 

 

 

 

 

 

 胸元でペットボトルを握りしめた両手に力を込めるけれど、込み上げてくる悲しみは止まってくれなくて、むしろどんどん大きくなっていって。

 

 

 

 

 

 

 

…………もう、無理だよ。

 

 

 

 

 

 

 

 ねぇ、トレーナーさん。

 

 

 

 

 

 

 

 なんで……なんで、気付いてくれないんですか。

 

 

 

 

 

 

 

 言ってくれたじゃないですか。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしをスカウトしてくれるって、言ってくれたじゃないですか……。

 

 

 

 

 

 

 

 自業自得だと分かっていても、あなたから避けられると胸が苦しくて仕方がないんです。

 

 

 

 

 

 

 

 ねぇ、トレーナーさん。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしは一体、どうすれば良いんですか…………っ。

 

 

 

 

 

 

 

「──実は」

 

 

 

 

 

 

 

 泣き顔を必死に隠すように俯くあたしに向かって、突然……。

 

 

 

 

 

 

 

「俺、病み上がりで運動したせいなのか、さっきから身体が妙にフラフラしてて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの人が何かを言おうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「もしかしたら、俺……寮へ戻る前に、倒れてしまうかもしれなくて」

 

 

 

 

 

 

 

 明後日の方向を見ながら革手袋の付け根を引っ張る彼の言い回しは、何だかとても不思議で。

 

 

 

 

 

 

 

「迷惑をかけちゃうかもしれないけれど……もし君さえ良ければ、俺のことを──()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

……そのお願いが彼の優しさであると気付くまで、あたしは一体どれ程の時間を要したことか。

 

 

 

 

 

 

 

「……………………ぇ、ぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 思わず呆けた表情のまま顔を上げると、恥ずかしそうに頬を紅潮させた彼と視線が交錯する。

 

 

 

 

 

 

 

 羞恥心に染め上げられた彼の瞳に射抜かれたあたしは、少し遅れてその弱々しい言葉に隠された意図を悟った。

 

 

 

 

 

 

 

「は、はいっ、はい……! どうかあたしに、任せてくださいっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 病み上がりの彼を寮まで送り届けるという大義名分を手に入れたあたしは、すぐに涙を拭って彼の()へと駆け寄った。

 

 

 

 

 

 

 

 あの人と並んでトレーナー寮までの帰り道を走る途中、あたしは少しだけ彼と話をした。

 

 

 

 

 

 

 

 会話と言っても大半はすぐに途切れてしまうし、緊張で声は裏返るし言葉も終始噛みまくるし、何なら沈黙していた時間の方が圧倒的に長かったように感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、次に何を話そうかなと必死に考える沈黙の瞬間は……おかしな話だけれど、ずっと心が踊っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな不思議な感覚を覚えたのは、彼と一緒の時間を過ごした今日が初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 



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XX:キタサンブラック6

 四年前に開催されたトゥインクル・シリーズ国際招待競走──ジャパンカップ。

 

 世界最強と名高いチーム・アルデバラン、その中でも”星”という異名で一世を風靡したアイドルウマ娘──ミライが出走するということもあり、当時のトゥインクル・シリーズの中でも異例の注目を浴びることとなったGⅠレースである。

 

 全ウマ娘の憧れと言っても過言ではないミライさんの素敵なレースを見届けたあと。

 

 あたしは彼女のウイニングライブを一番近くで見届けようと意気込み、会場で道に迷って、親切な男性に助けられ……そして、特別な思い出を経験した。

 

 まさか、レースに出走していた本物のミライさんと話すことが出来たなんて。今でもちょっと、信じられない程の幸運だ。

 

 ミライさんの控室を訪れ、そこであたしはなんと、彼女の宝物を貰ってしまった……っ!

 

 ミライさんから()()()()宝物の耳飾りを大切に抱え、あたしは束の間の幸福を噛み締める。

 

 だがしかし、残念ながら幸せな時間というのは得てしてあっという間に過ぎ去ってしまう。

 

「──ミライさんっ!」

 

 夢のような時間はもう終わり。

 

「あたし、これからもミライさんのことを応援しています!」

 

 こんな幸運はもう二度と巡ってこないだろう。

 

「今日のウイニングライブ、とっても楽しみにしていますからっ!!」

 

 だからせめて、悔いが残らないように自分の気持ちを伝えたい。

 

 

 

 

 

──あたしに夢をくれて、ありがとうござますっ!

 

 

 

 

 

 ミライさんの控室を後にする寸前、あたしはめいっぱいの感謝を込めて言葉を放った。

 

 言い残したことは無いか、思い残したことは無いか。

 

 本当はもっともっと、話したいことや聞きたいことがたくさんある。だけど、あたしの心はもう十二分に満たされていた。

 

 一足先に控室の外へ出ていたトレーナーさんのあとに続いて、あたしはミライさんに背を向ける。

 

 その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

「──ねぇ、ちょっと待って!」

 

 

 

 

 

 

 

 ミライさんが部室から去っていくあたし達を引き留めるように、大きく声を張り上げた。

 

「……ん、どうかしたのか?」

 

 ミライさんの声を受けて、あたしの先を進んでいた彼女のトレーナーさんが引き返してくる。

 

「せっかくだからさっ! 私、この子と写真撮りたい!」

 

……え、写真?

 

 ミライさんの口から飛び出した突然の提案に、あたしの頭は再び真っ白になる。

 

「私の夢が叶った記念にさっ、ねぇ、良いでしょトレーナーっ?」

「気持ちはまぁ、分かるけど……写真は控えた方が良い、かな……流出とか、怖いし」

「ええ……そんなのつまんないじゃん! ねぇ、良いでしょ!?」

「……んん、で、でもなぁ。チーフからそういうことはあまりしないようにって言われてるし」

「はぁ〜っ! お母さんは心配しすぎなんだよもぉ! 良いじゃん別に、私だってファンともっと交流したい!」

 

 ミライさんが判断を渋るトレーナーさんに近づいて、言い争いをしている(どちらかというと、ミライさんの一方的なわがまま)。

 

「──分かった、じゃあ私のスマホで撮る! それなら流出もしないし、私以外の誰かが見ることもないよね」

「………………まぁ、それなら」

 

 痴話喧嘩のような言い争いをしばらく続けた後、どうやらミライさんのわがままにトレーナーさんが折れたようだ。

 

 ミライさんはトレーナーさんから視線を外すと、満面の笑みを浮かべながらこちらに駆け寄ってきた。

 

「ねぇっ! せっかくだから私と写真撮らない? トレーナーがああ言ってるから、君には渡せないかもしれないけど……」

「い、いえっ、撮るっ、撮ります! あたし、ミライさんと一緒に写真を撮りたいですっ!!」

「よしっ! それじゃトレーナーっ、撮影よろしく! 可愛くとってよねっ!!」

 

……あぁ、何ということだ。

 

 あの世界的アイドルウマ娘のミライさんと、流れでツーショットを撮ることになってしまうとは。

 

 ミライさんからスマホを渡されたトレーナーさんが、仕方ないなと苦笑しつつ、それを構えてあたし達の前に立つ。

 

 あたしとの身長差を気遣ってか。

 

 ミライさんはあたしと同じ目線まで姿勢を低くし、とびきりの笑顔を浮かべた。

 

「あははっ、表情固いよっ。ほら、もっと笑って!」

「は、はひっ」

 

 あたしも頑張って笑顔を作るけど、緊張しすぎて上手に笑える気がしない。

 

「それじゃあ、撮るよ」

「うんっ!」

 

 ミライさんの耳飾りを手にしたまま、あたしは一生懸命表情筋を動かす。しかし結局、あたしははにかみ程度の笑顔しか作ることが出来なかった。

 

 トレーナーさんが手にしたスマホから、パシャリとシャッター音が鳴り響く。

 

「これでどう?」

「……うん、ちゃんと撮れてる。ありがと、トレーナー!」

 

 トレーナーさんが撮影した写真を確認した後、ミライさんは満足そうに微笑んだ。

 

「ごめんね、本当は君にもこの写真を渡してあげたいんだけど……」

「い、いえいえっ、あたしは一緒に写真を撮ったという思い出だけで十分ですから!」

「あははっ、そっか! じゃあ良かった、これは私の宝物としてちゃんと大事にするからね!」

 

 ミライさんのスマホの中に、あたしの姿が刻まれている。

 

 もうそれだけで、あたしはお腹いっぱいだ。

 

「ミライ。本当に申し訳ないんだけど、もう時間が無い」

「あ、そっか……引き留めちゃってごめんね」

 

 ミライさんがあたしに対して、申し訳なさそうに謝った。

 

「い、いえっ、とっても素敵な体験をさせてもらいましたっ! 今日の出来事は、一生の宝物にします!!」

「あははっ、一生だなんて大袈裟だよ! ……でも、ありがとう」

 

 最後に二人で笑いあった後、あたしはトレーナーさんに連れられて今度こそ控室を後にする。

 

 それが、憧れのミライさんと出会った最初で最後の愛しい記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 四年前に体験した素敵な思い出は、今でも決して色褪せることなく胸の奥で輝き続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

「…………ん、んん……っ」

 

 ぴたりと閉じた瞼越しに差し込む温かい日光を受けて、あたしはゆっくりと目を覚ます。

 

 まだ少しだけ眠気が残っていて、うとうととした感覚が寝起きのあたしに襲い掛かる。

 

 そのまましばらくぼーっとしていると、口から涎がこぼれていることに気がついた。

 

「………………ん……」

 

 どうやらあたしは、知らないうちに熟睡していたようだ。

 

 変な姿勢で寝続けていたのか、少し身体が凝っているように感じる。

 

 それでも、こんなにぐっすりと眠れたのは随分と久しぶりだ。

 

「……あ、お、おはよう」

「はい……おはよう、ございます…………」

 

 あたしの起床に合わせて、頭上から()()()()が飛んできた。

 

 その声の持ち主には心当たりがある。

 

 えっと……彼は確か、親友のダイヤちゃん達を担当するトレーナーさんで……。

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

…………………。

 

 

 

 

 

………………………。

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………?」

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば、目が覚めた時から枕の質感が少し変だなって思ってたんだよね。

 

 柔らかさもあるんだけど少しゴツゴツしてるっていうか、枕自体が熱を持っているように温かいっていうか。

 

 あたしは少し身体を捩って頭を動かし、得られた感触を駆使してコレの正体を探る。

 

…………んん、なんだろこれ。

 

「あっ、ちょっ」

 

 試しに顔を擦り付け、匂いを嗅いでみる。

 

 とても安心する匂いだ。この包まれているような感覚のおかげで、あたしはぐっすり眠れたのかもしれない。

 

「ん、んん……っ、んふふ…………っ」

 

 んぁ、分かった……これ、膝だ。

 

 膝、ひざか……。

 

「…………………………、………………? …………??」

 

 

 

 

 

………………あ、あれ?

 

 

 

 

 

 そういえばあたし、なんで膝の上で寝てるんだろう……。

 

 

 

 

 

 そんなことを疑問に思った瞬間、あたしの中に残っていた眠気が一瞬で吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

 あたしは今一度身体を捩り、誰かの膝に深々と埋めていた顔を上向きにする。

 

 

 

 

 

「……あ、えぇっと…………おはよう」

 

 

 

 

 

 その膝の持ち主と、ばっちり目があった。

 

 

 

 

「……えっと、これはその…………枕代わりになるものがこれしか無かったっていうか、さすがに()()()()()で眠った君をそのままにするわけにはいかなかったというか……」

 

 

 

 

 

 視界に飛び込んできた情報を整理してから、実際に身体が動き出すまですっごいタイムラグが生じた。

 

 

 

 

 

 一体全体どうして、あたしは野外のベンチであの人に膝枕されているような状況に至ってしまったのか。

 

 

 

 

 

 濁流のような緊張や動揺に意識を持っていかれそうになるあたしだったが、もはや一周回って冷静だった。

 

「えっと、その…………ここしばらく、ずっと気を張り詰めていたんじゃないか? よく見ると、目元に大きなクマがある」

「…………」

「相当疲労が溜まっていたんだろう。ベンチに腰掛けた瞬間、もうぐっすりだった」

 

 膝元のあたしに落としていた視線を恥ずかしそうに逸らして、あの人が現在に至るまでの経緯を順を追って説明してくれる。

 

 以前、病み上がりのトレーナーさんを寮まで送り届けるという大義名分を手に入れたあたしは、彼の優しさに甘えて帰り道を一緒に走った。

 

 あの人の隣でジョギングをするということに味を占めてしまったあたしは、その日以降、偶然を装って彼と接触する機会を窺い続けていた。

 

 幸い、彼は毎朝決まったルート──トレセン学園付近の河川敷周辺──を走っていたため、接触すること自体はそこまで難しくなかった。

 

 あの人に極力怪しまれないよう数日の間隔を空け、ばったり出会う時間帯を巧みにずらし、「せっかくだから」と勇気を出して彼の隣にいそいそと並ぶ。

 

 ちなみに今日、こうして彼と早朝ジョギングを共にしたのは()()()()だ。

 

 あたしがあの人と話せるタイミングは、この瞬間しか無い。

 

 だからどうしても、今日は気持ちを我慢できなかった。

 

 トレーナーさん曰く、休憩の途中に寄った河川敷のベンチに腰掛けた瞬間、あたしはそのまま寝入ってしまったのだそうだ。

 

……そういえば、あたしってどれくらい寝てたんだろう。

 

 枕代わりにしていたあの人の膝から身体を起こして、寝ぼけ眼を擦りながら彼に問うた。

 

「あ、あの……今って、何時でしょうか…………」

「えっと……十二時三十分かな」

 

 彼が腕時計を確認して、あたしに時間を教えてくれる。

 

 十二時三十分。早朝に寮を出たのが五時辺りだったから、六時間くらい眠っていたってことか……。

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

………………。

 

 

 

 

 

……………………えっ。

 

 

 

 

 

「ぁ、ああっ! もうとっくに授業始まっちゃってる……っ!?」

 

 今日は普通に平日であるため、あたしは学園で授業を受けなければならない。

 

 時間帯的にはすでに四限目だし、何ならもうすぐ昼休みだし、ベンチで寝落ちしたあたしを見守ってくれていたトレーナーさんだって、本当は仕事をしなきゃいけない時間で…………ぁ、ぁぁ。

 

「ごっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っ!」

 

 一体あたしは、どれだけ彼に迷惑をかければ気が済むのだろうか。

 

 いっつも自分のことを考えてばかりで……そんな自分が本当に嫌になる。

 

 あたしはすかさずベンチから立ち上がって、あの人の前で平謝りを続けた。

 

「お、落ち着いて……」

「すみません、本当にすみません……っ」

 

 今更になって膝枕されていたことに対する羞恥心が込み上げてきた。眠気はもう完全に吹き飛んでいる。

 

 度重なる罪悪感と極度の羞恥心に苛まれ、あたしはもうどうにかなってしまいそうだった。

 

「と、とりあえず顔を上げて……一旦、落ち着こう」

「で、でも……あたしは……っ」

「あぁっと……そうだ、喉乾いているんじゃないか? これ、良かったら飲んで。この前の、お返し」

 

 あたしはベンチに腰掛けるトレーナーさんから、半ば強引にペットボトルを押し付けられる。

 

 少しぬるくなった清涼飲料水を貰って、あたしは喉に流し込む。

 

 勢い余って普通にむせた。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

 

「……落ち着いた?」

「はい……すみません。迷惑ばかり、かけてしまって」

 

 ベンチの端に寄り、あたしは限界まで肩幅を狭くして腰掛ける。

 

 この時点でようやく、あたしは失っていた冷静さを取り戻すことが出来た。

 

 彼に迷惑をかけてしまったという罪悪感が、あたしの身体に大きくのしかかる。

 

 そんなあたしの心境は、間隔を空けて隣に腰を下ろす彼に筒抜けだったようだ。

 

「……トレーナーの仕事ってさ、基本的に休みが無いんだよね」

「……え?」

 

 彼が突然、脈絡のない話題を話し始めた。

 

「朝から夜までずっと働き詰めで、休日なんて無いし、トレーニングがオフの日は部屋にこもって学園の雑務を処理してる」

 

 結構大変なんだよねと口にしながら、トレーナーさんが苦笑する。

 

「指導者の俺が言うのもあれだけど……少しくらいサボったって、何も問題ないと思うんだ」

「え、えっと……」

「それに俺、こう見えて結構優秀だから」

 

 会話に冗談を交えて、トレーナーさんは場の空気を和ませようとしてくれていた。

 

 この話題を振ってくれたのは、彼なりの優しさだったのだろう。

 

「だから、その……キタサンブラックは何も気にしなくて良い。君の事情についても、学園にはちゃんと連絡してある」

「あ、ありがとうございます……。何から何まで、本当にすみません」

 

 結局最後まで、あたしは彼に迷惑をかけてばかりだった。

 

 あたしの謝罪を最後に、しばらく続いていた会話が途切れる。複雑な沈黙があたし達の空間に訪れた。

 

「…………ぁ、あの、さ」

 

 沈黙の中で話題を必死に見繕っていたあたしであったが、先にそれを食い破ってくれたのは隣に腰掛けるトレーナーさんであった。

 

「は、はいっ」

 

 彼は少々気恥ずかしそうに視線を右往左往させながら、あたしに声を掛ける。

 

 対するあたしは、緊張して裏返った声を返した。

 

「キタサンブラックとこうしてゆっくり話す機会って、今まで無かったから……その、どうしても、聞きたいことがあったんだけど」

「き、聞きたいことですか……っ」

 

 トレーナーさんは目線を正面へ固定して、あたしに問うてくる。

 

「あ、ああ……半年前から、ずっと思ってたんだけど」

 

 優秀な彼がこんなにも口をもごもごさせるだなんて。

 

 相当切り出しにくい話題なのかもしれないと、あたしは何となく悟った。

 

「キタサンブラックは、その、俺のことを……」

「……っ」

 

 彼の口から先走って出てきた言葉を受けて、あたしはドキドキした。

 

 だって、トレーナーさんがこんな表情で言い淀むってことは……つまり、()()()()()()……かも、しれないし。

 

 やばいっ、急にすごく緊張してきた……っ。

 

 あたしは姿勢をピンと正して、彼の気持ちをひたすら待つ。

 

 そして、彼は意を決したように手のひらを握りしめ、ついに言葉を放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──本当は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………は?」

 

 彼が何を言っているのか、ちょっとよく分からない。

 

「だ、だってさ……半年前に俺はキタサンブラックに嫌われることをした自覚があるし、それから名誉を挽回する機会も無く休職して……そんな現状で、なんで俺のことを助けてくれたのかなって思って。ああいや助けてくれたことは本当に嬉しいんだけど、そんなに無理して俺に関わろうとしなくて良いっていうか、もっと自分の時間を大切にして欲しいっていうか。……あ、もしかして俺、ジョギングのコースがキタサンブラックの朝練と丸かぶりだったりする? ごめん、ちょっと配慮が足りていなかったかもしれない」

 

 トレーナーさんがすっごい早口で捲し立てている。

 

「…………」

 

 トレーナーさんは顔を真っ赤にしながら、先程までの沈黙がまるで嘘のように喋り続けていた。

 

 対するあたしは、ポカンと空いた口が塞がらない。

 

「──って感じなんだけど……その、変に我慢せず、正直に言ってくれて良い。俺はこれ以上、キタサンブラックに迷惑をかけたくないから……さ」

 

 一通り勢いに任せた彼の自論を聞いて、あたしはベンチからスッと立ち上がる。

 

 同じベンチに腰掛けていたトレーナーさんの前に立って、「正直に言って良い」という彼の言葉に甘えることにした。

 

 大きく息を吸い込んでいる間に、あたしは彼へ投げかける言葉を吟味した。

 

「……な」

「な……?」

 

 あたしの全身に巡っていたはずの緊張感や羞恥心が、いつの間にかどこかに消えていた。

 

「……な……、……で──」

 

 その代わりに湧き上がってくるのは、沸々と煮えたぎってくるような感情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──なんでそうなるんですかっ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今のあたしは多分、ちょっと怒っている。

 

「あ、あたしは全然っ、トレーナーさんのこと嫌ってなんかいないです!!」

 

 彼の指摘は見当違いも甚だしい。

 

 むしろ、あたしは……。

 

「それならっ、トレーナーさんの方こそあたしのことが嫌いなんじゃないですかっ!?」

「な、何でそうなる……っ」

「だって、それは……あ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 あたしは彼にとって、過去の辛い記憶を呼び覚ます引き金になってしまった女だ。

 

 普通に考えて、彼は問題ばかり引き起こすあたしのことを嫌っているに違いない。

 

「そ、それは……っ」

 

 あたしの言葉にすかさず反論しようと、トレーナーさんもベンチから立ち上がろうとする。

 

 だがしかし、膝を長時間あたしの枕代わりに使っていたせいで足が痺れているようだ。

 

 少々気まずそうにベンチへ再度腰を下ろし、視線を逸らして小さく呟く。

 

「……これ以上、迷惑かけたくなかったんだよ……」

「迷惑だなんて思ってないです。どうして信じてくれないんですか?」

「どうしてって……俺は君に、手を上げてしまったわけだし。嫌われる要素しか、持っていないだろう……俺は」

 

 どうやら彼は、意外と女々しい一面を持ち合わせているのかもしれない。

 

 あたしと同じで、過去の後悔や未練を引きずってしまうタイプの人なんだと思う。

 

 あたしがどれだけ嫌いではないと主張しても、簡単には信じてくれないだろう。

 

 あたしが彼の言葉を、素直に受け取れないように。

 

「…………」

「…………」

 

 あたしと彼は、変なところで似たもの同士なのかもしれない。

 

 そう考えると、彼と対面した時の肩の荷が少しだけ下りたような気がする。

 

「……あ、あのさ」

「……は、はい」

 

 再びベンチに体重を預けるあたしだったけれど、隣に座る彼との距離が以前よりも心なしか近くなっていた。

 

「ずっと思っていたことがあるんだけど……」

「な、何でしょうか……」

 

 先程までの会話がブツンと途切れ、すらすらと言葉が出てきていた雰囲気が嘘のように霧散した。

 

 相変わらず、あたしと彼と間に漂う気まずい空気に飲み込まれてしまう。

 

「今の俺達には、多分……話をする時間が必要なのかもしれない」

 

 それでも、今回ばかりは少し違った。

 

「お互いの言葉を信じられないのは……きっと、相手のことを知らないからなんだと思う」

 

 左手に着用した革手袋の付け根をしきりに引っ張るトレーナーさんの姿を見るに……多分、彼もあたしと同じで緊張してるのかもしれない。

 

「キタサンブラックさえ良ければ、その…………俺は、君のことをちゃんと知りたい」

「……っ」

 

 彼がこうして『あたしのことを知りたい』と口にするのに、一体どれほどの覚悟と勇気を要したことか。

 

 あたしは隣に腰掛けるトレーナーさんの横顔をちらりと盗み見る。

 

 視線の動きがあまりにも忙しなくて、頬どころか耳まで真っ赤にした様子で、彼はあたしの返事を待ち続けていた。

 

 ドキドキした。

 

 勇気を振り絞った彼の呟きが、あたしの胸の奥に突き刺さってしまった。

 

「あ、あたしもっ……」

 

 彼が恐怖を振り払ってあたしに歩み寄ってきてくれた。

 

 だったらあたしも……こんなダメダメなあたしだって、頑張って勇気を出さないと。

 

 

 

 

 

「トレーナーさんのこと…………たくさん、知りたいです」

 

 

 

 

 

 彼へ向けたあたしの想いは、いつまで立っても届かない。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 お互いに勇気を振り絞って関係を一歩前進させたあたし達の最初の会話は、半年前の出来事に対する謝罪から始まった。

 

 あたしは、彼の厳密な教育方針を無視して親友のダイヤちゃんを自主トレに誘ってしまったこと。

 

 対するトレーナーさんは、担当ウマ娘の親友であるあたしに手を上げてしまったこと。

 

 当時の出来事について触れるのは、これで何回目になるだろうか。

 

 お互い相手のことはとっくに許しているというのに、自身の中に込み上げてくる罪悪感同士が邪魔をして、結局ずるずると引きずり続けてしまう。

 

 あたし達の性格上、込み上げてくる罪悪感を完全に拭い去ることは不可能に近いだろう。

 

 そこで、二人揃ってちゃんとした話し合いをした結果。

 

 あたし達同士で罪悪感を軽減し、より良好な関係を築くための”()()()”を作ることになった。

 

 折衷案と言っても、端的に換言すると『お互いに助け合おう』というものである。

 

 相手を助け合う中でお互いのことを理解し、心に抱える罪悪感の払拭を目指す。これが、折衷案の大まかな概要だ。

 

 期限については特に設けず、相談する内容も常識の範囲内で基本自由。ただし、トレーニングに関する相談の場合は、チーム・スピカの顧問である沖野トレーナーの了承を必ず頂くこと。

 

 以上の条件を設けた上で、トレーナーさんが早速一回目の折衷案を提案してきた。

 

 その内容は、二日前に倒れてしまったトレーナーさんを助けたお礼として、今日あたしが欠席してしまった授業の補習を行なってくれるとのこと。

 

 中間、期末、小テストにおいて常に赤点ギリギリを彷徨うあたしにとって、彼の提案はまさに幸甚の至りであった。

 

 彼曰く、補習はあたしのトレーニングがオフの日に実施してくれるのだそうだ。

 

 折衷案の内容を取り決めた後、あたし達はベンチに腰掛けたまま少しだけ話をすることに。

 

 お互いベンチの端に腰掛けるのは相変わらずだが、以前のように漂っていた気まずい雰囲気は多少和らいだように感じる。

 

「あの、トレーナーさん。一つ、聞いても良いでしょうか」

「うん?」

 

 相手のことを知るために始めた会話の中で、あたしはどうしても、彼に聞いてみたいことがあった。

 

「ダイヤちゃんのメイクデビューが終わった後、トレーナーさんは半年ほど学園にいらっしゃらなかったですよね」

「あ、あぁ……えっと、それは……」

 

 ダイヤちゃんのメイクデビューが開催された六月末から翌年一月の始業式まで、彼はトレーナーとしての仕事を休職していたと聞いている。

 

 担当ウマ娘の衝撃的なデビューも相まって、これからというタイミングで休職したその理由を、差し支えなければ聞いてみたいと常々思っていた。

 

 あたしの質問に対し、横に座るトレーナーさんは少しバツが悪そうに言葉を詰まらせる。

 

「あっ、す、すみません……いきなりこんなこと聞いちゃって、失礼でしたよね……」

 

 もっと別の話題にすれば良かったなと、彼の反応を見た後であたしは後悔した。

 

「いや、全然そんなことない…………そう、だな。キタサンブラックには、きちんと説明しなきゃいけない義務がある」

 

 そう口にしながらぼんやりと空を眺めるトレーナーさんの目線が、隣のあたしに注がれる。

 

「……少し、長くて重い話になってしまうかもしれない。それでも良ければ……ちゃんと話すよ、俺のこと」

「それでも、あたしは……知りたいです。トレーナーさんのこと」

「……分かった。それじゃあ……どこから、話すべきかな」

 

 それからトレーナーさんは、自身の過去をぽつりぽつりと打ち明けていった。

 

 告白の冒頭は、三年前の凱旋門賞。史上最悪の故障事故──”星の消失”直後の内容であった。彼が体験してきた出来事を、時系列に沿って丁寧に教えてくれる。

 

 トレーナーさんにとって最愛の担当ウマ娘であるミライさんが亡くなった後、彼はその絶望に耐えられず、心に深い傷を負ってしまった。

 

 心に刻まれた傷はやがて複数の精神疾患に形を変えてトレーナーさんの人格を蝕み、約二年間に及ぶ失踪を経て自殺未遂を起こすまでに発展した。

 

 心の病気を抱えたままこの世界に戻ってきてしまったトレーナーさんは、些細な出来事が引き金となってトラウマを再発させてしまい、件の問題を引き起こしてしまった。

 

 そして彼は心に異常をきたした状態で職務を継続するのは困難であると判断し、周囲の多大な協力のもと、この半年間を闘病生活にあてていたのだそうだ。

 

「…………そう、だったんですね」

 

 彼の口から語られた真実はとても重く、簡単に整理出来るようなものではなかった。

 

 彼の言葉の節々から滲み出る過去への後悔と、かけがえのない教え子への想いが、痛いくらいに伝わってくる。

 

 トレーナーさんの告白を聞いて、あたしは彼の掲げる教育理念の根底にあるものを悟った。

 

 半年前、トレーナーさんが担当ウマ娘の自主トレを禁止していた本当の意味。

 

 彼はそれを、自身の心の弱さを象徴する行為であったとして猛省していた。

 

 そしてあたしも、彼の事情を知らなかったとはいえ、本当に悪いことをしてしまったなと猛省を繰り返してしまう。

 

「……」

「……」

 

 案の定、この場の空気が重く澱んでしまった。

 

 お互い話せば話すほど罪悪感が増すばかりで、折衷案を作った意味が無いなと二人揃って苦笑する。

 

「その……俺が休職していた半年間については、これで大体説明出来たと思う」

「はい。教えて下さって、本当にありがとうございます」

 

 込み上げてきた罪悪感を整理するのはもう少し時間が掛かるかもしれないけれど、彼の本質的な部分を知ることが出来たのはとても嬉しかった。

 

「……ああ、いけない。もうこんな時間だ」

 

 トレーナーさんは自身の腕に巻かれた時計を確認して、わずかに驚きの声を上げる。

 

「もうすぐ午後の授業が始まってしまう」

「……えっ、あ!」

 

 彼との会話に夢中になるあまりすっかり失念していたが、今日は何でもないただの平日。

 

 午前の授業はサボってしまったが、今から学園へ戻れば午後のそれにはギリギリ間に合うだろう。

 

「そろそろ学園へ戻ろうか。君は少し、急いだ方が良いかもしれない」

「そっ、そうですよね……っ」

 

 この特別な時間が終わってしまうのは名残惜しいけれど、あたしはもう十二分に満足している。

 

 午後の授業が目前に控えているため、残念ながら彼と同じ速度で学園に戻ることは出来ない。

 

 最後にトレーナーさんへお礼の言葉を口にして、彼に背を向けた直後。

 

「キタサンブラック」

 

 背後に立っていた彼が、去りゆくあたしの名前を呼んでその背中を引き留めた。

 

「もし次に同じようなことがあったら……その、今度は君のことを教えてほしい」

「えっ」

「聞きたいこととか、知りたいこととか……俺も、たくさんあるから」

「…………っ」

 

 彼から飛んできた言葉を受けて、あたしは今が去り際で良かったと心の底から安堵した。

 

「…………はいっ」

 

 あたしは彼の耳に届くように相槌を打ったあと、慌ててその場から走り去る。

 

 少し、そっけない態度を見せてしまったかもしれない。

 

 だって、仕方ないよね。

 

 

 

 

 

……こんな()()()()()()、あの人には絶対に見せられない。

 

 

 

 



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XX:キタサンブラック7

 トレセン学園の三学期が明けてから、今日で約一か月。

 

 あたしは現在チーム・スピカのトレーナー室で、チームメンバーと共にきさらぎ賞へ出走するダイヤちゃんのレースを観戦していた。

 

 今年のきさらぎ賞はチーム・アルデバランに所属するサトノダイヤモンドと、半年前のメイクデビューで激戦を繰り広げたロイカバードの再戦ということもあり、世間から大きな注目を集めている印象だった。

 

 ウマチューブのLive映像が表示されている液晶画面を、あたしの他に先輩ウマ娘のスペシャルウィークさんとテイオーさん、ゴルシさん、沖野トレーナーが見つめている。

 

 ダイヤちゃんが出走するレースを観戦する目的は、親友の応援と同時に、共に競い合うライバルとしての偵察である。

 

 お互い順当に成績を残していけば、ダイヤちゃんとは来年度のクラシック戦線──三冠路線で激突するはずだ。

 

 強力なライバルに打ち勝ち、数多のウマ娘が目標とするGⅠタイトルを獲得する。

 

 そのためにはダイヤちゃんの特徴や武器を研究し、勝利を掴み取るための戦略を練り上げる必要があった。

 

 現在時刻は十五時三十五分。

 

 ゲートにはすでに九名のウマ娘達が指定の場所に収まっており、出走直前独特の静寂と緊張感が画面越しにヒシヒシと伝わってきた。

 

『──回、きさらぎ賞。スタートしました!』

 

 京都レース場第二コーナー奥のポケットからレースはスタートし、ダイヤちゃんは洗練された身のこなしでゲートを飛び出していく。

 

 ダイヤちゃんは基本的に後方からのレース展開を得意としていて、きさらぎ賞においてもそのスタンスは変わらなかった。

 

 ダイヤちゃんは後方から四番手の位置に落ち着き、メイクデビューの雪辱を狙うロイカバードは彼女の背後を追走している。

 

 向正面から高低差約四メートルをほこる淀の坂を順調に駆け上がり、外回りコースの第三コーナーへと突入していく。

 

『ここで先頭のウマ娘が前半千メートルを通過、その時計は五十九秒六。平均よりもやや早いペースで流れているでしょうか』

 

 淀の坂頂上から第四コーナーにかけて形成される緩やかな斜面を下っていき、残り六百メートルを通過した直後、展開に大きな動きがあった。

 

 後方四番手を担っていたダイヤちゃんが、進路を外目に持ち出しながら順位を二つ押し上げ、先頭集団へと食らいついていく。

 

 この展開は、ダイヤちゃんが現状もっとも得意とする戦術だ。

 

 下り坂の勢いと、最終コーナーの遠心力を利用して温存していた末脚に拍車をかける。

 

 進路を外目に持ち出したのは、前を走るウマ娘達が壁になることを嫌ったため。これはおそらく、彼女が前走の反省を活かした立ち回りなのだろう。

 

 満を持して最終直線に躍り出たダイヤちゃんは、温存していた末脚を解放してグングンと順位を押し上げていく。

 

 瞬く間にバ群のハナを奪い取ったダイヤちゃんは、爽快感すら覚える速度で最終直線を駆け抜ける。

 

 残り二百メートルを切った時点で彼女の勝利を疑うものは誰一人としておらず、映像越しに伝わる会場の熱狂具合は凄まじいことになっていた。

 

 トレセン学園のトレーナー室からダイヤちゃんを応援するあたし達も例外ではなく、もはや偵察の目的を忘れて彼女の走りに釘付けだった。

 

 しかし、ダイヤちゃんの晴れ舞台はこれだけでは終わらなかった。

 

 残り百メートルを通過した瞬間、ダイヤちゃんはまだまだ余裕と言わんばかりに()()()()()()()()()()()()()()()

 

「えぇっ!?」

 

 ダイヤちゃんが更なるスパートを仕掛けた事実に、あたしは愕然とした。

 

 脚の回転数が爆発的に引き上がり、彼女のストライドが更に大きく広がっていく。

 

 その明確な変化を確認した瞬間、先程まで見せていた彼女の加速が本当のスパートでは無かったということを直感的に理解した。

 

『完全に抜け出したサトノダイヤモンドッ! これぞ煌めく新星の逸材だッ、サトノダイヤモンド完勝ッ!!』

 

 その事実に驚愕したあたし達はポカンと口を開けたまま、ダイヤちゃんがバ群を突き放してゴール板を通過する瞬間を見つめることしか出来なかった。

 

 きさらぎ賞の走破タイムは一分四十六秒九と、ダイヤちゃんはレコード記録を塗り超える堂々たる結果で公式レース三連勝を飾った。

 

「わぁ……す、すごいレースでしたね」

 

 あたしの隣で共にレースを観戦していた先輩ウマ娘のスペさんが、ダイヤちゃんの走りに感嘆の声をこぼす。

 

「私も去年走りましたけど、勝ち時計に四秒以上の差が生まれるなんて……」

 

 去年のダービーウマ娘であるスペさんは、ダイヤちゃんと同じくきさらぎ賞を制している。

 

 同じレースに出走した選手だからこそ、ダイヤちゃんの生み出した記録がいかに圧倒的であるかを痛感しているのかもしれない。

 

「…………これは」

 

 そして、ダイヤちゃんのレースを目の当たりにして驚愕しているのは、顧問である沖野トレーナーも同様であった。

 

「メイクデビューの時もそうだったが……終盤の末脚が本当に凄まじい。これが、新人の育てたウマ娘か……」

 

 最終直線で彼女が見せた驚異的な末脚に着目し、沖野トレーナーがおとがいに手を当て、ふむ……と唸る。

 

「……あのおみ足、一度で良いから触れてみたいもんだ」

「オメェは相変わらず変態だな、ぶっ飛ばすぞ」

「あ、あはは……」

 

 沖野トレーナーの意味深な発言を、ゴルシさんが冷静な一言で一蹴した。

 

 彼はウマ娘の足(特にトモの辺り)に対して、並々ならぬ執着心を持っている。

 

 あたしも彼からスカウトの声がかけられた時は、突然スカートの内側を弄られたので思い切り蹴り飛ばしたものだ。

 

 非常に頑丈な身体を持つ沖野トレーナーだが……実は最近、あまり元気が無かったりする。

 

 普段から飄々としていて掴みどころの無い性格をしているが、以前よりも窶れているように見えるため少し心配だ。

 

「…………」

「……? テイオーさん、どうかしましたか?」

「……ぇ、ぁあ、ううん。なんでもないよ。チーム・アルデバランって、やっぱり強いんだなーって思って」

 

 沖野トレーナーと同じく、先輩ウマ娘のテイオーさんも最近あまり元気がない。

 

 以前の明朗快活とした性格が嘘のようになりを潜め、とても大人しい雰囲気をまとうようになった。

 

(あの沖野トレーナーとテイオーさんが揃って元気を無くすなんて……ちょっと心配、何かあったのかな)

 

 二ヶ月後に開催を控える皐月賞へ向けてライバルへの対策を考える一方、あたしは覇気を失った二人のことが気になってしまう。

 

「キタサン」

 

 そんなあたしの心配は案の定顔に出ていたらしく、いつの間にか背後に立っていたゴルシさんに軽く肩を叩かれた。

 

 ゴルシさんは周囲に気を遣ってか、あたしの耳元まで口を近づけて小さく囁いた。

 

「あいつらも、お前と同じで抱えてるもんが色々あるんだよ。今は、そっとしておいてやってくれ」

 

 ゴルシさんは現チーム・スピカに所属する最年長のウマ娘であり、メンバーのことを一番よく知っている先輩だ。

 

 普段の破天荒すぎる奇天烈な行動の数々に意識を奪われがちだが、その実彼女は誰よりも観察眼に長けている方だった。

 

 あたしの耳元でそう口にしたゴルシさんは、帰り道が分からなくなったおじいちゃんを探しに行ってくると、よく分からない発言を残してトレーナー室を出て行ってしまった。

 

 ゴルシさんの言葉に対して色々と思うことはあるけれど、それを考えることはきっと今じゃない。

 

 そう結論付けたあたしは、気持ちを切り替えて来年度のクラシックレースへ向けた準備を進めるのであった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 きさらぎ賞の翌日。朝早く目を覚ましたあたしはいつものようにジャージに着替え、ジョギングを行うために栗東寮を飛び出した。

 

 今日のコースは河川敷周辺を選択し、その目的は今更語るまでもないだろう。

 

 最後にあの人と会話をしたのは三日前と、最近にしては珍しく期間が空いている。

 

 というのも、彼はここ数日、きさらぎ賞に出走するダイヤちゃんの引率で京都の方へ赴いていたからだ。

 

 開口一番の内容は既に考えてある。彼の担当ウマ娘であるダイヤちゃんのお祝いだ。

 

 河川敷の脇道にあるベンチに腰掛けて、あたしはジョギング中のあの人と接触するタイミングを図る。

 

 現在時刻は五時三十四分。あたしの予想が正しければ、彼はもうすぐこの辺りを通りかかるはずだ。

 

 ベンチに併設された自販機で飲料水を購入し、緊張する心を落ち着かせながらその瞬間を待つ。

 

 そわそわと期待に胸を膨らませながら、今日は彼と何を話そうかなって考える。

 

 例えばそうだな……この前に授業で受けた小テストの話をするのはどうだろうか。

 

 普段は赤点ギリギリを彷徨っているあたしだったけれど、トレーナーさんが補習をしてくれたおかげで点数が平均点を超えたこととか。

 

 この調子で期末テストも頑張りますとか、最近食堂に追加された新メニューがとても美味しいんですとか、息抜きに読んだネットの漫画がすごく面白かったんですとか。

 

 あ、そうだ。トレーナーさんが補習をしてくれたおかげで小テストに合格することが出来たのだから、あたしは彼に何かお礼をしなきゃだよね。

 

 だけどお礼と言っても……今のあたしには、彼の役に立つことなんてほとんど出来ないと思う。

 

 んん……あ、マッサージなんてどうかな。

 

 三日前に顔を合わせた時、彼の表情には疲労の色が浮かんでいた。当時の彼は何でもないよと口にしてあたしからの言及を避けていたけれど、中央に勤務するトレーナーの方々は仕事柄、ストレスを溜め込みやすいと耳にしている。

 

 昔はよく父さんや母さんにマッサージをしてあげたことがあるし、腕にはけっこう自信がある。会話の中で、このことについてもさりげなく触れてみよう。

 

 頭の中で話したい内容を整理し、さらにしばらく待つ。

 

 そして、あたしがベンチに腰掛けて三十分くらいが経過した頃だろうか。

 

「…………トレーナーさん、遅いなぁ」

 

 普段だったらとっくに顔を合わせているような時間帯にも関わらず、彼は未だに姿を現さない。

 

 別に落ち合う約束をしているわけでは無いし、あくまでも”偶然”という体で会話に興じていたに過ぎない

 

 もう三十分待つが彼が姿を見せる気配は一向に無く、どうしたんだろうなと考えている間に、さらに五十分が経過した。

 

 もう少しだけ待ってみようを何回も繰り返している内に、そろそろ寮へ戻らなければ朝のホームルームに間に合わなくなる時間帯へ突入していた。

 

「何か、あったのかな……」

 

 これ以上は限界だと判断したあたしは、重い腰を上げてその場から駆け出す。

 

 大慌てで栗東寮へ戻ることになってしまったあたしは、急いで身支度を整えて学園へ登校する。

 

 始業のチャイムが鳴る寸前に教室へ駆け込んだあたしは、何とか遅刻を免れたのであった。

 

 

 

***

 

 

 

「……え、今日ダイヤちゃんお休みなんだ」

 

 遅刻寸前で教室に飛び込み、自身の座席についたあたしは、教室にいるはずのダイヤちゃんの姿が無いことに気がついた。

 

 前日のきさらぎ賞を制覇したダイヤちゃんにおめでとうと言葉を伝えたかったのだが、担任の先生曰く、彼女はチームの都合で来年度の五月まで学園を公欠するとのこと。

 

 ダイヤちゃんの身に何かあったのかもしれないと、不安になったあたしはスマホを取り出して彼女に連絡を送った。

 

 しばらくすると、ダイヤちゃんから返信が送られてくる。『心配しなくて大丈夫だよ』という文字と共に、可愛らしい子犬のスタンプが添えられていた。

 

 その後のやり取りでダイヤちゃんは現在、チームメンバーと共に()()()()()()()()()に滞在していることが分かった。

 

 どうして彼女がメジロ家の療養施設に……と疑問に思っていたあたしだったが、スマホでウマッターを確認していると見知ったウマ娘の名前がトレンドに上がっていることに気がついた。

 

 ネット上で話題になっているのは、一年以上前に繋靭帯炎を発症し、長期療養のため長らくトレセン学園を休学していたメジロマックイーン。

 

 長期療養の意向が公開されて以来、それが事実上の引退宣言であるという認識でいたあたし達にとって、その情報は衝撃的だった。

 

 

 

 

 

 なんと……チーム・アルデバランに移籍したメジロマックイーンが、三ヶ月後に開催を控えるトゥインクル・シリーズ最長距離GⅠ重賞──天皇賞(春)への出走を表明したのだ。

 

 

 

 

 

 天皇賞(春)の開催は、来年度の五月一日。

 

 次にダイヤちゃんと会うことが出来るのは、おそらく四月十七日の皐月賞当日だろう。

 

 ダイヤちゃん達がメジロ家の療養施設に滞在しているということは、彼女達の担当トレーナーである彼も当然、そちらへ同行しているに違いない。

 

「…………」

 

 手にしたスマホに、ぼんやりとしたあたしの視線が落ちる。

 

 

 

 

 

 あたしはその事実を受けて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 一体どうして、あたしの心にモヤがかかってしまったのか。

 

 

 

 

 

 その理由は、あたし自身でも分からなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 ダイヤちゃん達がメジロ家の療養施設へ活動拠点を移してから約二ヶ月が経過した、四月十七日。

 

 今日はトゥインクル・シリーズの中でも注目度が非常に高いGⅠレースである、クラシックレース開幕戦──皐月賞の開催日だ。

 

 先月に開催されたスプリング・ステークスで二着という成績をおさめ、あたしは無事に優先出走権を得た状態で皐月賞へ臨むことが出来た。

 

 総来場者数が十一万人を超える中山レース場の選手控室にて、あたしは現在、顧問の沖野トレーナーと共に作戦の最終確認を行なっていた。

 

 中山レース場の特徴を今一度押さえた上で、皐月賞に出走するウマ娘達の情報を再度頭に叩き込む。

 

 最も警戒すべきは当然、チーム・アルデバランに所属する親友のサトノダイヤモンド。

 

 先日のきさらぎ賞で垣間見せた異次元の末脚を対策しなければ、皐月賞を獲ることは絶対に叶わない。

 

 次点で注意する必要があるウマ娘は、チーム・リギルに所属するドゥラメンテ。

 

 ドゥラメンテとは去年のホープフルステークスで一度相まみえているが、彼女の末脚も同様に警戒する必要があるだろう。

 

 そして、当然のように本レースの一番人気に推されたダイヤちゃんだが……沖野トレーナーが独自に偵察した情報を整理した結果、彼女が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 沖野トレーナーから偵察結果がまとめられた資料を受け取り、その内容にあらためて目を通す。

 

「以前も説明したことだが……これは新人がトレーナー業務に復職して以降、サトノダイヤモンドが昨年度の一月に実施していたトレーニングの内容だ」

 

 偵察によって入手した情報であるため鵜呑みにすることは出来ないが、沖野トレーナーはこの資料からダイヤちゃんが前走までとは異なる作戦──先行策に打って出る可能性があることを導き出していた。

 

「依然として、サトノダイヤモンドは末脚を武器に戦ってくる可能性が一番高い。だが一応、彼女が意表を突いて先行する展開も念頭に置いておくと良い」

「分かりました」

「たとえサトノダイヤモンドがどんな作戦を仕掛けてきたとしても、キタサンは常にバ群の後方に控えてスパートの瞬間を見極めることに徹底しろ。中山の直線は短い。歩幅一歩分の判断が、勝敗に直結する」

「はい!」

 

 沖野トレーナーと作戦の最終確認を終えた頃には、皐月賞の出走時刻まで残り一時間を切っていた。

 

 一足先に控室から退室した沖野トレーナーを見送った後、あたしは自身の想いが込められた勝負服に袖を通す。

 

 法被を模した情熱的な勝負服を身にまとうと、身体の奥から不思議と力が漲ってくるように感じる。

 

 出走時刻の三十分前からパドックが始まるため、あたしは遅刻しないよう時間に余裕をもって会場へ移動することにした。

 

「…………」

 

 パドック会場へ続く関係者用の通路は不気味なほど静寂で、一人で歩いていると、その先がどこまでも続いているんじゃ無いかと思わず錯覚してしまう。

 

 意識が飲み込まれそうになるのをぐっと堪え、あたしは努めて毅然に通路を進んだ。

 

 そして、突き当たりの一つ手前で進路を左に変えようとした時のことである。

 

 

 

 

 

 

 

「「あ……」」

 

 

 

 

 

 反対側から歩いてきたスーツ姿の男性と、あたしの視線が交錯した。

 

 両手に薄手の革手袋を着用した少し変わったファッションの彼とは、もちろん面識がある。

 

 彼は、あたしの親友であるダイヤちゃんを担当するチーム・アルデバランのトレーナー。

 

「お、お久しぶりです……トレーナーさん」

 

 実に、二ヶ月ぶりの再会であった。

 

「う、うん……久しぶり」

 

 不意にあたしと対面した彼は、少し恥ずかしそうに視線を逸らして頬をかいた。

 

 彼を前にするとあたしはどうしても、激しい緊張で言葉が詰まってしまう。

 

 こんな場所であの人と出会うことになるとは思ってもみなかったため、会話の内容を何一つ準備出来ていないあたしはおどおどしながら俯いてしまった。

 

 あの人に会えた嬉しさや緊張感が心の中でぐちゃぐちゃに渦巻いて、上手に彼へ視線を向けることが出来ない。

 

 トレーナーさんを前にして押し黙ってしまったあたしを見かねてか、今日は彼の方から話題を振ってきてくれた。

 

「生で見るのは初めてだけど……その勝負服、とても似合ってると思う」

「……っ!」

 

 彼の言葉を受けて、あたしはそういえばと気が付いた。

 

 自身の勝負服を彼に直接披露したことって、当たり前だけど今日が初めてだよね……。

 

「あ、あぁ……っ、ありがとう、ございます…………えへへ」

 

 彼に似合っていると褒められて、お世辞だと分かっていても内心では舞い上がってしまう。

 

 全身が茹で上がるように熱くなり、彼の視線を受け止めるのが途端に恥ずかしくなってしまったあたしは無意識に勝負服の裾を引っ張った。

 

 そういえば、この勝負服ってかなりスカート短かったよね。胸元も結構大胆に開いてるし、そんなまじまじと見られると……うぅ。

 

 スカートの丈、ちょっと攻めすぎたかな……と今一度思い直すあたしだったけれど、それはさすがに今考えることじゃないと首を振ってかき消した。

 

「キタサンブラックは、これからパドックか」

「は、はいっ。時間には、余裕があった方が良いと思いまして」

「そっか」

 

 今のあたしは彼を前にすると、気まずいというよりも()()()()()と言った感覚を抱くことが多くなったように感じる。

 

 その証拠に、今のあたしは俯くばかりで彼の顔を直視することが出来ていなかった。

 

「引き留めてごめん。それじゃあ俺は、もうスタンドに行くよ」

 

 偶然の再会を密かに噛み締め、垂れた前髪の隙間から彼の表情を盗み見るのも束の間。

 

 反対側から通路を歩いてきた彼にだって当然、教え子の晴れ舞台を見届けるという大切な使命が控えている。

 

 お互い今後に重要な用事を抱えているのだから、こんな場所で立ち止まるのは両者にとって不都合だ。

 

 色々と話したいことがあったけれど、今回ばかりは仕方が無い。

 

 最後に彼は別れの言葉を残し、押し黙って佇むあたしの横を通り過ぎていく。

 

 あたしもそろそろ、パドックへ行かなくちゃ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──あ、あの……っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな彼の去りゆく背中を、無意識の内に飛び出したあたしの声が呼び止めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼が着用するスーツの左袖に……いつの間にか、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………ぁ、えっと、そのっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしは一体何をやっているんだと、頭が真っ白になった状態で後悔に塗れた自問を繰り返す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも彼の袖へ伸ばしてしまった指先を離そうとしないのだから……本当に、どうしようもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 不躾に彼を引き留めているにも関わらず、あたしは何も言えぬまま俯いてしまった。

 

 彼はきっと、担当ウマ娘の晴れ舞台を一番良い場所から見届けたいに違いない。会場はただでさえ大勢の観客で溢れかえっているのだから、これ以上は彼に迷惑をかけてしまう。

 

 そんなことは分かっている。

 

「…………」

 

 分かっている、はずなのに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 ごめんなさいと、あたしは内心でひたすらに繰り返す。胸中で発せられた言葉は当然、あの人には届かない。

 

 自分が引き起こした行動の意図を理解出来なくて、あたしの心はその苦しみで今にも押し潰されそうだった。

 

 そして、そんなどうしようもないあたしをとうとう見かねたのか。

 

「……なんでだろう」

 

 今まであたしに背を向けていた彼が、身体を翻して言葉をかけてくれる。

 

「今の君を見ていると……ふふっ、何だかミライのことを思い出すよ」

「……ぇ」

 

 彼の口から唐突に憧れのウマ娘の名前が飛び出してきて、釣られるよう顔をあげた。

 

 ようやく目の前に佇むあの人を見ることが出来た瞬間。

 

 あたしの視界に飛び込んできたのは、優しさに満ちた彼の苦笑だった。

 

「本番直前になると、ミライはいつも緊張で顔が真っ青になる。チームを背負う重圧に耐えられず、陰で君のように泣いてしまうことだってあった」

「……っ」

 

 あたしは反射的に、勝負服の袖で目元を拭う。

 

「相当、()()()()()()()()()()。指先の震えがすごい」

 

 彼に指摘されて、あたしは気付く。ついさっきまでは何とも無かったのに、一体どうして……。

 

 彼は取り乱す寸前まで緊張していたあたしをあやすように、優しい声音で語りかけてくれる。

 

「皐月賞はウマ娘達にとって、生涯で一度きりの晴れ舞台だ。緊張するのも無理はないよ」

「…………」

「緊張が止まらない時は、深呼吸を数回挟むと良い。まずは身体に残った息を吐ききって、胸がいっぱいになるまで新鮮な空気を吸い込む…………うん、そんな感じ。そうしたら次は、長い時間をかけてゆっくりと吐き出す………………そう、とても上手だ」

 

 極度の緊張でがんじがらめになったあたしは、縋りつくような勢いで彼の言葉に全身を委ねた。

 

 深呼吸を何回か繰り返したことで、真っ白に染まったあたしの思考が少しずつ冷静さを取り戻していく。

 

……けれど。

 

「……どう?」

「……ごめんなさい。それでもやっぱり、震えが止まらないです」

 

 全身を強張らせる緊張は、残念ながら治まってくれそうに無かった。

 

「そうか……ふふっ。そんなところも、やっぱりミライそっくりだ」

「み、ミライさんに似ているところがあるのはとても嬉しいんですけど……ちょっと、複雑な気持ちです」

 

 垂れた前髪の隙間から、あたしは彼の表情をちらりと窺う。

 

 穏やかな苦笑は先程と変わらずだが、その双眸にはおそらく彼の大切な教え子が映っているのだろう。

 

 優しさの中に少しだけいたずらな感情がこもっていて、あたしは思わず視線を奪われてしまった。

 

「トレーナーさんは……えっと、その……。ミライさんの緊張を、どうやって解していたんですか?」

「え?」

 

 ミライさんを担当していた彼ならばきっと、彼女の緊張を完璧に解きほぐす手段を持ち合わせているはずだ。

 

 何故ならあたしの知っているミライさんは常に笑顔で、緊張とはまるで無縁のスーパーアイドルウマ娘なのだから。

 

「もしよろしければ…………その、ミライさんにしていた、緊張を和らげる方法を教えて……欲しい、です」

 

 彼はあたしを見て、かつての教え子であるミライさんにそっくりだと言った。

 

 それなら、緊張の解消法だってミライさんと重なる部分があるのでは無いだろうか。

 

「……緊張を和らげる方法は、ウマ娘ごとに大きく異なってくる。下手をすると、緊張を和らげるはずが、かえって逆効果になってしまう可能性だってあるんだ」

「で、でも……っ、あたしだけじゃもう……この緊張をどうすれば良いのか、分からなくて……っ」

 

 このままでは、あたしは世界中が注目するGⅠレースという晴れ舞台でみっともない姿を晒してしまうかもしれない。

 

 あたしに期待してくれている人達を、情けない走りのせいでがっかりさせてしまうかもしれない。

 

「…………」

 

 それなのにあたしは、複雑な感情が混ざり合って生まれたこの頑固な緊張を解消する術を何一つ持ち合わせていなかった。

 

 このままパドックへ向かってしまえばもう、あたしは一人だ。

 

「……そうか」

 

 だからあたしは、目の前の彼に縋るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──キタサンブラックは今、()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然、彼があたしに向かって分かりきった質問を投げてきた。

 

 どうして今更、彼がそんなことをあたしに今一度問うてきたのか。

 

 理由は分からない。

 

「……はい。とても、困っています」

 

 だからあたしはあの人の言葉に込められた意味を考えるよりも早く、()()()()()()()()()()

 

「…………分かった。それじゃあ一つだけ、約束して欲しい」

「約束、ですか……?」

「今から俺がすることは……その、君にとってあまり心地良いものじゃないかもしれない。こうすることでしかミライは落ち着かなかったから、俺は他のやり方を知らないんだ……あんまり怒らないでくれると、嬉しい」

 

 とても律儀な彼が緊張を解きほぐす具体的な方法を事前に語らない点に関しては、何か理由があるに違いない。

 

 緊張に対してなす術の無いあたしにとっては、彼の警告など無意味に等しい状態だった。

 

「あ、あたしは全然大丈夫ですっ! トレーナーさんの手を借りることが出来るのでしたら、あたしはどんなことだって──」

 

 あたしが彼へ向けて放った決意の言葉は、最後まで続かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 目の前に佇む彼に突然手を取られ、あたしの重心が大きく前方に傾く。

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………ぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 何が起きたのか理解が追いつかぬままあたしの身体が熱を持った何かにぶつかり、背中にゴツゴツとしたものが強引に回されて、身動きが完全に取れなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「……ミライはとてもわがままで、臆病なウマ娘だった。だからこうやって緊張から意識を逸らさないと、彼女は勝負服に袖を通すことすら出来なかった」

 

 

 

 

 

 

 

 あまりに予想外の出来事で頭が真っ白になったあたしは、衝撃のあまり言葉を失ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

「……ぁあ、だめだな。こんな…………、……ような真似なんて」

 

 

 

 

 

 

 

 あたしの身体をぐいと()()()()()彼の腕が微かに震えて、力がこもった。

 

 

 

 

 

 

 

「それでも……なんでかな。緊張に苦しむ君の姿を見ていると、無性に心が苦しくなってしまう。どうしても、放っておくことなんて出来なかった」

 

 

 

 

 

 

 

 あたしの鼓動が際限なく高鳴り続けているのは、どう考えても先程の緊張だけが原因では無いはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 もしかしたらその鼓動の正体は、あたしのものですら無いのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 暗く塞がれた視界の中で、優しさに満ちた温もりと安心する匂いに包まれながら、誰かの鼓動にひたすら耳を傾ける。

 

 

 

 

 

 

 

「……嫌だったらすぐに離れる。そのまま突き飛ばしてくれて構わない」

「…………」

 

 あたしは彼の胸板に押し当てられた頭を()()()()()、一生懸命自分の意思を伝えた。

 

「……しばらくこうしていると、ミライはいつも、俺の背中を右手で三回叩く。それが、彼女の中から緊張が抜けた合図だった」

「…………」

 

 今度は首をこくこくと()()()()()、耳元で囁かれる彼の声に身体を委ねる。両腕を彼の背中に回し、縋るように力を込めた。

 

 それ以降互いに言葉は無く、あたしは彼が教えてくれた方法でひたすら深呼吸を繰り返し、緊張をほぐすことだけに集中する。

 

 無意識に踵が浮き上がるほど彼へ体重を預けていたあたしだったが、しばらくすると暴れ狂っていた心臓の鼓動が規則的なリズムを取り戻していった。

 

 胸の奥でつっかえていた息苦しさが段々と薄れていく。

 

 それからさらに時間が経ち……もう大丈夫だと思ったあたしは寄りかかっていた姿勢を元に戻して、彼の大きな背中をとん、とん、とんと、三回叩いた。

 

「……よし」

 

 あたしの合図を受けて、彼が抱擁を解く。

 

 再びいつもの距離感であの人と向き合うあたしだが……()()()()()をしていた直後なのだから当然、彼の顔を直視できずに俯いたままだった。

 

「指先の震えが止まっている。その様子なら、きっと大丈夫だと思う」

「……ぁ」

 

 言われて自身の両手を確認すると、恐怖を感じる程に震えていた指先がすっかりと元通りになっていた。

 

「荒療治みたいな方法になってしまったけど、少しは効果があって良かった」

「…………」

「……ああ、いけない。もうすぐパドックが始まってしまう時間だ」

 

 あの人の呟きを受けて気付いたが、あたしは体感時間以上に彼の温もりを求めていたようだ。

 

「それじゃあ俺も、そろそろ移動するよ」

 

 彼があたしから身体を翻し、会場のメインスタンドへと歩みを進める。

 

 段々と遠ざかっていく彼の背中に、その場で佇むあたしは何も返事をすることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

「──キタサンブラック」

 

 

 

 

 

 

 

 すでに進み出していた彼が一度、歩みを止めて遠目からあたしの名前を呼んだ。

 

 あの人との会話はもう終わってしまったと思っていたあたしは、少し驚いて俯いていた顔を引き上げる。

 

「ダイヤは君と一緒に走ることを、心の底から楽しみにしていた」

「……っ」

「どうか、良い勝負をしよう。キタサンブラックの()()()()()()、君の走りが見れることを楽しみにしてる」

 

 そう口にして微笑んだのを最後に、通路を進む彼の歩みが止まることは無かった。

 

 去りゆく彼の背中を眺めるあたしは未だ、パドックの時間が迫っているというのにここから一歩も動くことが出来ないでいる。

 

「………………………………行かなきゃ」

 

 妙に熱った全身をそれでも何とか突き動かして、あたしはパドックへと続く通路を歩き出した。

 

 あの人が助けてくれたおかげで、あたしをがんじがらめにしていた緊張()彼方へと消え去っている。

 

 

 

 

 

 

 

 それ、なのに……何でだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「…………心臓の音、止まらないよ」

 

 

 

 

 

 

 

 全身に駆け巡る心臓の鼓動があまりにもうるさくて、身体の火照りが治らない。

 

 

 

 

 

 

 通路の壁にもたれ掛かるように体重を預け、我慢出来なくなった身体の熱をなんとかしようとする内に、ずるずると姿勢が落ちていく。

 

 

 

 

 

 

 

 胸元に両手を押し当てて暴力的な熱の鼓動を鎮めようとしたけれど……きっと、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

……あぁ、本当だ。

 

 

 

 

 

 

 

「…………トレーナー、さん」

 

 

 

 

 

 

 

 彼の、言ったとおりだ。

 

 

 

 

 

 

 

「こん、な……、こんなの…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 今年開催されたクラシックレース開幕戦の皐月賞は、相手ウマ娘全員の意表を突く形で先行策を実行したチーム・アルデバランのサトノダイヤモンドが制覇した。

 

 出走直後に仕掛けたダイヤちゃんの影響で展開が大きくかき乱され、彼女以外のウマ娘達は終始劣勢を強いられることとなってしまった。

 

 事前にダイヤちゃんがレースで先行する可能性を考慮していたあたしでも、まさか彼女が、掛かった逃げウマ娘達を嬉々として追いかけていくとは思わなくて。

 

 曲芸じみたダイヤちゃんの仕掛けについて行きたい気持ちをグッと堪えて好機を窺い続けるあたしだったが……十バ身以上の差が生まれた状態で疾走する道中は正直、地獄を味わっているような感覚だった。

 

 レース終盤においてもはや独走状態であったダイヤちゃんを捉えるため、第四コーナーから温存していた末脚を解放して猛攻を仕掛けるも、序盤の貯金を残していたダイヤちゃんにはわずかに届かず。

 

 あたしは最終的に皐月賞三着と奮闘し、表彰台に登ることは出来た。

 

 普段の地道なトレーニングによって着々と成長しつつあることを実感した一方で、やっぱり負けてしまったことに対する悔しさはとても大きかった。

 

 二千メートルの戦場を走り抜け、芝の上に倒れ伏したくなる気持ちをグッと堪えて乱れた呼吸を整えていると……。

 

「はぁっ、はぁっ…………はぁ……っ」

 

 不意に、皐月賞を獲ったダイヤちゃんの姿があたしの視界に飛び込んできた。

 

 ダイヤちゃんは自身の夢であったGⅠレースを制覇し、感極まっていたのだろう。

 

 ダイヤちゃんは大観衆が押し寄せていたメインスタンドの中から担当トレーナーの姿を瞬時に見つけ出し、あの人目掛けてすごい速度で突っ込んでいった。

 

 彼と共に夢を叶えた喜びを分かち合うダイヤちゃんの姿が、あたしの目にはとても眩しく映った。

 

「…………」

 

 幸せそうに彼を抱きしめるダイヤちゃんのことが、あたしはとても羨ましかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 電光石火の皐月賞から二週間が過ぎた、五月一日。

 

 トゥインクル・シリーズ最長距離GⅠ重賞──天皇賞(春)の開催に立ち会ったあたし達はその日、本物の奇跡が巻き起こる瞬間を目撃した。

 

 かつて、ウマ娘にとって”不治の病”と恐れられている繋靭帯炎を発症し、実に一年半ぶりの復帰戦へと臨んだメジロマックイーン。

 

 後に、”不屈の名優”たるメジロマックイーンを象徴する瞬間として語り継がれることとなった衝撃的なレース。

 

 その道中で疾患が再発し、それでも自らの足で絶望を跳ね除け、不屈の心に底知れない執念を宿してターフの世界を駆け抜けるメジロマックイーンの勇姿に……あたし達の魂は釘付けにされた。

 

 泥まみれの勝負服をはためかせ、剥き出しになった闘志で満身創痍の身体を突き動かし、がむしゃらに足掻いてゴールを目指す。

 

 度重なる絶望に決して屈しない”名優”の在り方が、あたし達の心にたくさんのものをもたらした。

 

 ある者はメジロマックイーンから、憧れというかけがえのない大切な夢を。

 

 ある者は”不屈の名優”から、前を向いて突き進むありったけの希望を。

 

 そしてあたしは彼女から、臆病な自分に立ち向かう無限の勇気を。

 

 ”不屈の名優”が巻き起こした奇跡の復活劇をこの目でしかと見届け、未だ興奮冷めやらぬまま早くも一週間が過ぎ去った。

 

 先輩ウマ娘のマックイーンさんは現在、大きな奇跡を巻き起こした代償なのか、満身創痍の身体を癒すために都内の総合病院へ入院していた。

 

 天皇賞(春)が開催された翌週の月曜日、マックイーンさんのチームメイトであるダイヤちゃんから朗報を受け取った。

 

 一週間ほど前から意識を失っていたマックイーンさんがついに、目を覚まされたのだそうだ。

 

 あたしはかつて、ダイヤちゃんと共にお互い憧れのウマ娘であるテイオーさんやマックイーンさんを追いかけていた。

 

 その過程でマックイーンさん達からは何かと良くしてもらっていたため、放課後、彼女のチームメイトと共にお見舞いへ行こうという話になった。

 

 本来であればダイヤちゃん達と放課後すぐにお見舞いへ行きたかったのだが、あたしは生憎先日の課題テストで赤点を取ってしまい、担任の先生から補習用のプリントを受け取りに行かなければならなくて。

 

 ダイヤちゃん達とは現地で合流することを約束し、あたしは少し遅れてトレセン学園を出発した。

 

 公共交通機関を乗り継ぐこと数十分。

 

 総合病院に到着したあたしは、下手に動き回るよりも見晴らしの良い場所で待っている方が良いと判断し、エントランスホールのソファーに腰を下ろして彼女達と合流を図った。

 

 少し慣れない病院特有のにおいにソワソワしているあたしだったが……忙しない視線の先にふと、あたしは気になるものを見つける。

 

 それは現代人であれば誰もが手にしている便利な道具で、所有者の個人情報が詰め込まれたプライバシーの塊。

 

 最新型のスマートフォンであった。

 

「誰のだろう」

 

 ソファーの隙間に挟まるような形で落ちていたスマホは、ソフトタイプのケースで背面のみを覆ったごくごく一般的な特徴をしている。

 

 このスマホを落としてしまった持ち主は今頃、とても困っているに違いない。早く受付に届けてあげよう。

 

 そう意気込んだあたしは椅子から立ち上がり、拾ったスマホを抱えて受付へ向かっていた矢先のこと。

 

「あっ」

 

 スマホを手にしていた指が偶然、右横の電源ボタンに触れてしまった。

 

 暗転していた画面がパッと明るくなり、持ち主が設定していた待ち受けが表示される。

 

 プライバシーの関係で見るのはあまりよろしくないのだが、視界に飛び込んできてしまったので仕方がなかった。

 

「………………」

 

 

 

 

 

 その()()()()を見た瞬間、あたしはこのスマホの持ち主が誰であるかを瞬時に悟った。

 

 

 

 

 

 自撮りの角度で画面の中に映り込む、二人のウマ娘。

 

 二人は共に一張羅の勝負服を身に纏い、一人は重心を崩して動揺した表情を浮かべており、もう一人は対照的に完璧な笑顔でポーズを作っている。

 

 微笑ましい日常の一瞬を切り取った待ち受けに映るウマ娘達の姿には、当然のように心当たりがあった。

 

 二週間前に開催された皐月賞を制覇し、見事GⅠウマ娘に輝いたあたしの親友──サトノダイヤモンド。

 

 先日開催された天皇賞(春)において、奇跡の復活劇を果たした”不屈の名優”──メジロマックイーン。

 

 両者は共にチーム・アルデバランに所属するウマ娘達で、この特別な瞬間を切り取れるひとなんて、少なくともあたしは一人しか知らない。

 

「……届けてあげなきゃ」

 

 マックイーンさんはつい先程目を覚まされたとのことなので、彼女の担当トレーナーである彼が病院を訪れていている可能性は非常に高いだろう。

 

 使命感に駆り立てられたあたしはすぐさまその場から立ち上がり、エントランスホール一帯をぐるりと見渡す。

 

 彼は普段からスーツを着用しているため、視界に映ればあたしだってすぐに見つけられるはずだ。

 

 エントランスホールには……いない。

 

 心当たりがあるとすれば、マックイーンさんの病室かそれともお手洗いか……そういえば、この病院では確か開放的な中庭を自由に散歩することが出来たはず。

 

 あたしの取り柄は勢いだ。それが裏目に出ることも多々あるけれど、彼が認めてくれた確固たる長所であることに変わりはない。

 

 あたしはひとまず中庭へ移動するため病院の正面エントランスを飛び出し、進路を右へ変えた瞬間。

 

「えっ──」

 

 あたしの身体が何かに衝突した。

 

「きゃっ──」

 

 どうやらあたしは、誰かとぶつかってしまったようだ。その思わぬ衝撃であたしはバランスを崩し、背後に尻もちをついてしまった。

 

「え、あ、す、すみません……っ。だ、大丈夫で…………」

 

 少し勢いを出しすぎていたのかもしれない。あたしの元に駆け寄ってきてくれた男性が、申し訳なさそうな声をこぼした。

 

「あ、あはは……こちらこそすみません。あたしもちょっと、周りが見えていませんでした……」

 

 地面についたおしりをさすりつつ、あたしは手に握りしめたスマホに傷がついていないか確認しようとして。

 

「……………ぁ」

 

 

 

 

 

 あたしの視界に、探し求めていたあの人の姿が映り込んだ。

 

 

 

 

 

「……キタサンブラック?」

 

 あたしとばったり出会った彼は意外そうに目を丸め、確認するように名前を呟く。

 

 こんなにすぐ見つけられると思っていなかったあたしは、動揺して事前に用意していた言葉を忘れてしまう。

 

 それでも何とかあの人に話しかけようと奮起した瞬間、彼の方から声が飛んできた。

 

「それって……もしかして、()()()()()……?」

 

 彼の視線が、それを握りしめたあたしの右手に集中する。

 

 どうしてあの人のスマホをあたしが持っているのか、彼はきっと疑問に思っていることだろう。

 

「あ、えっと……エントランスのソファーの隙間に挟まっていたのを見つけたんです。それで、トレーナーさんに届けてあげなきゃと思って……」

 

 あたしは彼に事情を説明し、身体を起こしてスマホを手渡した。

 

「ありがとう、助かったよ」

 

 彼は手にしたスマホを一通り確認して、安堵のため息をこぼしていた。

 

 突然の出来事だったけれど、彼の役に立つことが出来て良かった。

 

 そうやってあたしが胸を撫で下ろしていると、

 

「それにしても……よく俺のスマホだって分かったな」

「え?」

 

 彼があたしに向かってぽつりと、純粋な疑問を投げかけてきた。

 

 あの人の疑問は最もだ。彼の使用しているスマホの外見は非常に一般的で、特徴的なアクセサリーなどは何もついていないため、一目で判断するのはとても難しい。

 

 このままでは、不可抗力とはいえあたしが彼のプライバシーを勝手に覗いてしまったことがバレてしまう。

 

 何とかして上手く取り繕わなければ、あたしは彼に嫌われてしまう……っ。

 

「……あっ、それは……い、以前、トレーナーさんが使われていたものと一緒だったので、もしかしたらと思って……っ」

 

 少々見苦しい言い訳になってしまったが、彼に勘付かれていないだろうか。

 

 俯きがちになった前髪の隙間から、あたしは彼の表情を盗み見る。

 

「本当に助かったよ。ありがとう、キタサンブラック」

「い、いえいえっ。トレーナーさんのお役に立てたのでしたら、とっても嬉しいです」

 

……良かった、何とかごまかせたみたい。

 

「そういえば……キタサンブラックは、どうしてこの病院に?」

「ダイヤちゃん達と一緒に、マックイーンさんのお見舞いに来たんです」

「そっか。ありがとう、マックイーンもきっと喜ぶよ」

 

 お互いに少し言葉を交わして、ここで一度会話が途切れた。

 

 そういえばと振り返るが、彼と対面したのは二週間前の皐月賞が最後だったか。

 

「……っ」

 

 あたしの脳裏に刻まれた当時の記憶が突然、鮮明に再生される。

 

「…………」

 

 皐月賞のあの日。静まり返った通路の死角で過ごした、誰にも言えない秘密の時間。

 

 極度の緊張で凍えるほどに強張ったあたしの身体を溶かしてくれた、あの人の優しい温もり。

 

 いけないことだと分かっているのに、この身体はあたしを助けてくれた彼の優しさを覚えてしまった。

 

 最近は軽減されつつあるとはいえ、普段は寝不足なあたしの身体が、彼の温もりがあると安眠できることに気付いてしまった。

 

 それでも彼はあたしの親友を担当するトレーナーさんで、彼にとってあたしは、担当ウマ娘の友人という立場にすぎなくて……。

 

 あたしは四年前のあの日、世界的アイドルウマ娘を担当していた彼に迫って、ありふれた約束を交わした。

 

 数多と存在するミライさんのファンの一人と交わした口約束なんて、彼が覚えていないのは当然のこと。

 

「……あの、トレーナーさん」

 

 以前、あたしはあの人から彼自身の過去を聞いて、その心に抱える底知れない後悔や大きな未練を知った。

 

 そんなあの人が大切な教え子達と手を取り合って、前を向いて進み始めているというのに。

 

 過去の思い出を抱えたあたしが、彼の決意に水を差すことなんて出来るというのか。

 

「…………」

 

 幼いながらに芽生えた夢の最期は……本当に、あっけない幕引きだった。

 

 それでも、たとえあっけない終わり方だったとしても、愛しい夢に想いを馳せていた瞬間は決して無駄ではない。

 

 何故ならあたしは、ミライさんから貰った夢のおかげで未来に大きな希望を抱くことが出来たのだから。

 

 あたしも良い加減……勇気を出して、前に進まなくちゃ。

 

 

 

 

 

 

 

「──あたし、次は負けませんから!」

 

 

 

 

 

 

 

 彼へ向けて放ったその一言は、過去の自分への決別の意志であり、未来のライバルへ向けた宣戦布告である。

 

「結果的に皐月賞は三着で、ダイヤちゃんの足元にも及びませんでしたけど……あたし、日本ダービーでリベンジします!」

 

 ライバルの打倒に燃える情熱を瞳に宿し、あたしは目の前の彼を見上げた。

 

「ダイヤちゃんに勝って、日本一のウマ娘になります。菊花賞だって、ライバルには譲りませんから!」

 

 皐月賞で惜敗を喫したライバルとの再戦は、三週間後のクラシックレース第二戦──日本ダービー。

 

 彼に語りかけるあたしの言葉は、トゥインクル・シリーズを駆け抜ける途中で新たに生まれた、かけがえのない大切な夢。

 

 あたしは絶対に、今度こそ自分の夢を叶えたい。

 

「ですから、トレーナーさん──」

 

 ダイヤちゃんに勝って、日本一のウマ娘になって、世界一のアイドルウマ娘になるんだ。

 

 だからもう、彼のことは諦めなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──あたしのこと、見ていて下さいねっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 諦めなきゃ、いけないのに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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episode.3
59:空欄の宛名


前回から随分と期間が空いてしまい、申し訳ありません。
相変わらず不定期ではありますが、作品を更新していこうと思います。
こちらのあとがきにて、簡単なアンケートの方を作成させていただきました。興味のある方がいらっしゃいましたら、回答してくださると幸いです。
それでは、episode.3をよろしくお願いします。

描写の一部に独自設定があります。


 これは今から、少しだけ前の話になる。

 

 常日頃から仕事に追われるトレーナーを強引に引きずって、私は彼と二人で恋愛映画を観に行った。

 

 観に行ったのは最近公開されたばかりの新作で、堅物な教師と天邪鬼な生徒が惹かれあって禁断の恋に落ちるという……内容的にはまぁ、とてもベタなやつ。

 

 用意された客席が世の中のカップル達で連日満員になるほど盛況する中、初心なトレーナーをからかいながら揃って座席に腰掛ける。

 

 上映を今か今かと待ち望む私と違い、トレーナーは恋愛映画の鑑賞にあまり乗り気では無さそうだった。

 

 彼は周囲の人々に対して気を配っているのか、先程からソワソワと落ち着きがない様子。

 

 だがしかし、映画が始まるや否や、彼はスクリーンにすっかり釘付けとなった。

 

 その切り替えの早さに感服する私だったが……上映中、トレーナーの意識が私から逸れているようで、なんだか面白くない。

 

 映画を鑑賞するトレーナーの表情をちらちらと横目で窺いながら、スキを突いて彼の無防備な手に自身の指を絡めてみる。

 

 すると彼は面白いくらい赤面するから、調子に乗ってついついからかい過ぎてしまう。

 

 上映中の館内はとても暗いから、私の顔が見られる心配をしなくて良い。いたずらし放題だ。

 

 私から映画に誘っておいてアレだけど、作中のヒロインに対して鼻の下を伸ばすだなんて……浮気は良くないと思う。

 

 まぁ、それはそれとして。

 

 今回私が語りたいのは、トレーナーと観てきた恋愛映画の感想だ。

 

 透明感あふれる甘酸っぱい青春の日常と、社会的立場に囚われる二人の葛藤を描いた傑作に、私は強烈な感動と底知れない興奮を覚えた。

 

 特に印象に残っているのは何といっても、天邪鬼なヒロインが秘めたる想いを告げるために行動を起こしたワンシーン。

 

 口では素直になれないヒロインの生徒が勇気を振り絞って教師へ送った、一通の()()()()()

 

 ネットが普及する現代において、恋文というのはあまりにも古典的で非効率だ。

 

 だがしかし、ラブレターという文化は『恋愛』というテーマに扱う作品において非常に重宝される要素である。

 

 素直になりたいヒロインの純粋無垢な気持ちを全面に認めた、ラブレターという古典的な概念に……私は、衝撃を受けた。

 

 端的に換言すると、私も書いてみたいと思ったのだ。ラブレターなるものを。

 

 映画鑑賞を終えたその日以降、私はトレーニングの傍らで、密かにラブレターを書くための練習を始めた。

 

 ラブレターを書く際に注意することを一通り抑えつつ、とりあえずペンを握って用紙に向き合う。

 

「……大事なのは、とにかく素直な気持ちを文字にすること」

 

 勉強したことを口に出して繰り返しつつ、最初の一文を真剣に考える。

 

……だがしかし、その途中で私は考えた。

 

「…………うーん、でもやっぱどうせならロマンチックな文章にしたいかな〜」

 

 とても繊細で情緒に富んだ感性を持つ私の手にかかれば、もっと読み応えのあるラブレターを書けるのではないか……と。

 

 初っ端から直球を投げても面白みがない。絶対に変化球を飛ばした方が、オリジナリティに富んだ傑作となるはずだ。

 

 そんなこんなでラブレターの制作に奮闘すること一週間。

 

「──『あなたに、未来を届けたい』っと……いやー完璧でしょ!」

 

 ようやく、ラブレター()()()()()()が完成した。

 

 試行錯誤の過程で丸められた無数の紙を費やして練り上げた、至高の一文だ。まず間違いなく、これで初心な彼はイチコロだろう。

 

 この調子で二文目の執筆に取り掛かるべく、私は意気揚々とペンを握り直したのだが……。

 

 

 

 

 

──コンコンコンッ。

 

 

 

 

 

 部屋の扉を誰かからノックされ、慌てて背後を振り返る。

 

「──そろそろ時間だけど、出発の準備はちゃんと出来てるのか?」

 

 部屋を訪ねてきたのは、見慣れたスーツに身を包んだトレーナーだった。

 

「今回はさすがに遅刻できないからな。次の便に乗り遅れたら、今後の予定が全部狂う」

「分かってるわかってるー」

 

 書き途中のラブレターを机の引き出しにしまって、私は席を立つ。

 

 ベッドの上に投げてあったカバンに手を伸ばして、それを肩からぐいっと背負う。

 

「めっちゃ部屋散らかってたけど、何してたんだ?」

「んー、ないしょ♪」

「……まぁいい。今はもう時間が無いけど、日本から帰ってきたら、ちゃんと後片付けするように」

「はーい」

 

 頭の片隅でラブレターの続きを考えながら、私は彼の元へいそいそと駆け寄る。

 

「それじゃ──行こうか、ミライ」

「うん!」

 

 トレーナーに名前を呼ばれ、私は元気一杯に言葉を返す。

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間に垣間見える彼の優しい笑顔が、私はとても好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 満開の花畑によって彩られた特別な霊園の中で、彼女──ミライは今も安らかな眠りについている。

 

 どこか神秘的な透明感を覚える霊園の中央へと歩みを進め、俺は静寂の中で佇む無機質な墓石と向き合った。

 

 彼女が眠る地へ足を運ぶのは……あの事故が起きてしまった日から実に、三年ぶりになるだろうか。

 

 かつての教え子に会いに来るだけだというのに、我ながら随分と時間が掛かってしまったものだ。

 

 墓石の前で立膝をつき、俺は静かに掌を合わせる。

 

「……ただいま、ミライ」

 

 ミライが眠る場所に自分がいる。その事実に感慨深いものを覚えながら、俺は手のひらを解いておもむろに立ち上がる。

 

 墓石に刻まれた文字を、何気なく指のはらで撫でる。返ってきたのは、ひんやりとした冷たさだけだった。

 

 本当は彼女の居場所を綺麗にしようと道具を色々持ってきていたのだが、指先には埃ひとつ付いていない。

 

 生前、ミライは部屋の整理があまり上手では無かったはずだったんだけど……。

 

 なんて、下らないことを思い出しながら苦笑する俺だったが、彼女の世界が綺麗に保たれている理由はすぐに分かった。

 

 

 

 

 

「──お久しぶりです、トレーナーさん」

 

 

 

 

 

 こうして彼女と直接顔を合わせるのは、ミライ同様三年ぶりになるだろう。

 

 チーム・アルデバランを長年率いてきた元チーフトレーナーにして、しがない俺を育ててくれたかけがえのない恩師である。

 

「三年ぶり、ですね。お元気でしたか?」

 

 "星の消失"以前と何も変わらない彼女の柔和な笑みを受けて、俺の心は懐かしさに包まれる。

 

「ご無沙汰しています、チーフ」

 

 異国の地……いや、俺にとっては第二の故郷であるアメリカの地で、俺は改めて恩師の方と向き合った。

 

「あなたの活躍は常々、私の耳に入ってきます。とても立派に、成長しましたね。」

 

 俺が今日こうしてアメリカへ戻ってきたのは、担当ウマ娘のメジロマックイーンが意識を取り戻してから数日後のことである。

 

 マックイーンの件を経て、俺はようやく過去の後悔と向き合うことが出来るようになった。

 

 教え子の一人であるサトノダイヤモンドの日本ダービーを約二週間後に控える状況ではあるが、区切りの良いタイミングで、俺は自身の成長を直接報告しておきたいと思ったのだ。

 

 過去の後悔を散々引きずり、多大な迷惑をかけてしまった恩師に今一度謝罪と感謝を伝えるため、俺はこうして彼女の元へ赴いた。

 

「突然の連絡になってしまい、申し訳ありません」

「大丈夫ですよ。むしろ、あなたに会えて嬉しいくらいです」

 

 チーフはそう言って微笑むと、ミライの墓石の前で姿勢を低くし、両手を合わせて静かに祈る。

 

「……定期的に、霊園を綺麗にしていた甲斐がありますね」

 

 先程ミライの墓石に触れた際、指先に埃ひとつ付かなかったのはなるほど、そういうことか。

 

「あの子の一番綺麗な姿を、あなたに見せてあげることが出来ました」

「…………」

「今日は霊園の花が一際鮮やかに咲いています。ミライもきっと、あなたに会えたことを心の底から喜んでいるのでしょう」

「……そうであったら、嬉しいです」

「ええ、きっとそうです」

 

 とても耳に馴染むチーフの言葉を素直に受け取れなかったのはきっと、俺の中にまだ、ミライに対する負い目が残っているからなのだろう。

 

「…………ミライは」

 

 過去の後悔に向き合うというのは決して、それまでの歩みを水に流すということではない。

 

 俺はもう、ミライが歩んだ道を否定しない。

 

 ミライが叶えた夢を、彼女と過ごした幸せな日々を、無かったことになんてしたくない。

 

 だけど、こうして一方的にミライと向き合うと……やっぱり少しだけ、弱気になってしまう。

 

「ミライはやっぱり、俺のことを……恨んでいるのでしょうか」

 

 ミライの思い描いた夢の先に広がる景色が、救いようのない破滅であると知った上でその背中を押してしまったことを、彼女はどう思っているのだろうか。

 

 恐ろしい未来を見たとミライに伝えず、一人で抱え込んでしまった俺のことを……彼女はやっぱり、怒っているのだろうか。

 

 こうしてミライの前に立つことで、何か掴めることがあるかもしれない。

 

 そんな淡い期待が、無かったわけではないが……。

 

「……それは、あの子に聞いてみなければ分からないことです」

 

 チーフがこぼした呟きは当然、分かりきっていたことだった。

 

「ゆえに私達は、生涯をかけて考え続けなければなりません。生前に抱えていたあの子の想いを汲み取るのは、残された私達が果たすべき使命なのです」

 

 弱音をこぼしてしまった俺を諭すように、チーフが強かに言葉を放つ。

 

 しかし彼女の指摘は決して、弱気になってしまった情けない俺を咎めるようなものでは無く……。

 

「答え合わせをするのは……その使命を全うしてからでも、決して遅くはありませんよ」

 

 

 

 

 

 むしろ、その()だった。

 

 

 

 

 

「トレーナーさん、こちらを」

 

 

 

 

 

 目の前に立つチーフがおもむろに、中身のぎっしり詰まったトートバッグを俺に向けて差し出てきた。

 

 

 

 

 

  彼女から何気なくそれを受け取ると、ずっしりとした質量が俺の腕に襲いかかる。

 

 

 

 

 

「……これは?」

 

 チーフに疑問を投げかけながら、俺は手元のバッグに視線を落として中身を確認する。

 

「あの子は昔から、写真を撮ることが好きでした。これはきっと、その延長線にあったものでしょう」

 

 その中に隙間なくぎっしりと詰まっていたのは、非常に上質な素材で作られた複数冊のアルバムであった。

 

 俺も一応、過去の仲間達との思い出を綴ったアルバムを持ってはいるが……ミライのそれと比較すると、あまりの差に圧倒されてしまう。

 

「持ち主を失ってしまったアルバムではありますが……これがきっと、あなたの悩みに寄り添ってくれるはずです」

「……良いんですか? 俺がこれを受け取ってしまったら、チーフのものが……」

「私は私で、別のアルバムをたくさん持っていますから。心配しないで下さい」

 

 チーフから遠慮がちにアルバムを受け取ってしまったが、彼女はもう返却を受け付けるつもりが無いらしい。

 

「ありがとう、ございます。後日、ゆっくり目を通したいと思います」

「ええ♪」

 

 トートバッグを丁寧に肩からかけて、俺は彼女にお礼を言った。

 

「……さてと。あなたは確か、この後すぐに日本へ帰国するんでしたよね」

「はい。仕事の合間を縫ってこっちへ来たこともありますし……何より、教え子達がとても大切な時期を迎えていますから」

「そうですか。私としては、食事でも一緒にどうかと思っていたのですが……残念です」

 

 チーフはどうやら、俺との再会をとても楽しみにしてくれていたらしい。

 

 恩師のことを落胆させてしまい、少しだけ申し訳ない気持ちになる。

 

「……ああ、そうです」

「どうかしましたか?」

 

 しばらく沈黙が続いた後、チーフが何かを思い出したように口を開いた。

 

「来週のプリークネスステークスに、()()()が出走する予定です。あなたにもぜひ見に来てほしいと、伝言を預かっていました」

 

 チーフの口にしたプリークネスステークスとは、アメリカで開催されるクラシック級限定のGⅠレースである。

 

 等級としては日本で開催されるクラシック三冠レースに相当し、アメリカにおいて最も注目度の高い重賞の一つであった。

 

「……ああっと」

 

 俺はチーフの放った言葉に対し、分かりやすく返答を詰まらせる。

 

 チーフの口から出てきた『あの子』というのは、かつてミライと交流のあった幼馴染の一人である。

 

 ミライとは少し年齢の離れた女の子であったが……いつの間にか、そんなに大きくなっていたのか。

 

「すみません。自分はちょっと、仕事の方が…………」

「そうですか、残念です」

 

 プリークネスステークスの開催日は、教え子がクラシック二冠目に臨む日本ダービーの一週間前。

 

 重ね重ね申し訳ないのだが、こればかりはどうしても譲ることが出来ない。

 

 正当な理由をもってチーフの提案を断ったのだけれど……どこか()()()のような響きに聞こえてしまうのは、仕方がないのかもしれない。

 

「地上波でも放送されますから、良かったら応援してあげて下さいね」

「もちろんです」

 

 彼女は先日開催されたアメリカクラシック三冠初戦──ケンタッキーダービーを見事に制覇している。

 

 この調子を維持することができれば、ミライが成し遂げた三冠の称号も夢ではないだろう。

 

「ああ、それと……トレセン学園には確か、失踪してしまったあなたの手がかりを探そうと、日本へ飛び立った子が在籍しているはずです」

「………………」

()()とは今でも定期的に連絡を続けているのですが……まだ、声をかけていないのですか?」

 

 目の前の恩師から、非常に鋭い眼差しが飛んでくる。

 

「……今のあなたの様子を見て、大体は察しました」

「た、タイミングが悪かったんです……」

 

 これはもはや完全に言い訳だが、俺がトレーナー職に復帰した当時はとても視野が狭く、担当ウマ娘のダイヤと自分自身以外に意識を向けることがまるで出来なかった。

 

 故に、俺が彼女の存在に気付いたのは、約半年の休職期間が明けてからしばらく後。

 

 ミライのもう一人の幼馴染である彼女に声をかけるタイミングを失ってしまった俺はむしろ、無意識に彼女との接触を避けながら行動している節もあった。

 

 端的に換言すると、ただのヘタレである。

 

「帰国したら、その……彼女ともしっかり、話をします。心配をかけてしまったことを、ちゃんと謝ります」

「ええ、ぜひそうして下さい」

 

 穏やかな口調ながらも厳しい指摘を受け、俺はチーム・アルデバランのサブトレーナーとして活動していた頃を思い出す。

 

 そういえば……当時活躍していた俺の同期や先輩達は、今も元気にやっているのだろうか。

 

 俺の身勝手で多大な迷惑をかけてしまった彼らにも、いずれはきちんと謝罪をしなければならない。

 

「すみません。自分はそろそろ、空港へ戻ります」

「どうかお気をつけて。お盆の季節になったら、今度は私が日本へ赴こうと思います」

「……ありがとうございます。両親も、きっと喜びます。それでは」

「ええ、また」

 

 抱え込んだ課題はまだまだ山のように存在し、俺はその一つ一つを地道に処理していかなければならない。

 

 だがしかし、それら全てと向き合う心構えを持てているのは間違いなく、自分自身が成長している証である。

 

 そうやって物事を前向きに捉えると、自然に顔が上を向くものだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 場面は少しばかり遡り、現在は天皇賞(春)の開催から約一週間が経過した、メジロマックイーンの病室にて。

 

 ウマ娘にとって”不治の病”と称される繋靭帯炎を発症したマックイーンが、GⅠ重賞──天皇賞(春)において奇跡的な勝利を遂げたことはとても記憶に新しい。

 

 奇跡を起こした代償だと言わんばかりに身体を休めていたマックイーンだったが、つい先ほど、彼女は無事に目を覚ました。

 

 身体検査のために少しばかり席を外していた俺だったが、無事にそれも終了したということで、結果が出るまではこうしてゆっくりと話をすることができる。

 

「──あら、みなさん勢揃いですわね」

 

 マックイーンの病室に入室した際、彼女はベッドから背中を起こした状態でぼんやりと外の景色を眺めていた。

 

 俺と共にマックイーンの病室を訪れたのは、チームメイトのサトノダイヤモンドとメジロドーベル、そして、ダイヤの友人であるキタサンブラックだ。

 

「こんにちは、マックイーンさんっ! お目覚めになったのですねっ!!」

 

 入室直後、マックイーンの姿を視界に捉えたダイヤが彼女の元へ一目散に駆け寄っていった。

 

「お身体は大丈、夫……では、無いかもしれませんがっ、マックイーンさんが無事で本当に嬉しいですっ!!」

「余計な心配をかけさせてしまい、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですから……ふふっ、少し落ち着いてくださいまし」

 

 マックイーンの手を取って喜びを表すダイヤを見ると、心がとても穏やかになる。

 

「…………なんだ、意外と元気じゃん。ま、無事で良かった」

 

 続いて、マックイーンの実姉であるドーベルが少しそっけない言葉と共に、ベッド付近の丸椅子に腰掛ける。

 

「ドーベル。あなたにも、余計な心配をかけさせてしまいましたね」

「……別に、心配なんかしてないし」

 

 妹に対してツンとした態度を貫くドーベルだが……彼女の赤裸々な()()を知っている身からすると、何だかとても微笑ましい光景だ。

 

 椅子の下に垂れた尻尾が先程からしきりに振れている。言葉とは裏腹に、マックイーンのことを相当気にかけていたのだろう。

 

「てかさ、マックイーン。あんた、なんか目元赤くない?」

「気のせいですわ」

「……ふーん、ま、良いけど」

 

 マックイーンの一件を経て、二人の関係性に亀裂が入ってしまったのでは無いかと心配していたが、この様子ならとくに問題は無さそうだ。

 

「え、ええっと……この場所に、あたしがいても良いんでしょうか……」

 

 そして、残りの一人であるキタサンブラックは遠慮がちにマックイーンの元へと近づいていく。

 

「キタさんも、私のためにわざわざありがとうございます。来て下さって、とても嬉しいです」

 

 キタサンブラックはチーム・スピカに所属するウマ娘だが、どうやら彼女はトレセン学園に入学する以前からマックイーンと面識があったらしい。

 

 少々遠慮がちに頬をかきながら、彼女も会話の輪の中へと入っていった。

 

 生徒達の談笑の邪魔にならないよう気を遣いながら、俺は近くの丸椅子を取ってきて静かに腰を下ろす。

 

「……ぁ、トレーナーさん」

「体調はどう?」

「え、ええ……何も、問題はありません」

「そっか、良かった」

「……」

 

 俺の姿を見かけるや否や、マックイーンの目がわずかに泳いだ。

 

 先程からマックイーンと視線が合わないのは、もしかしたら、先ほど俺に泣き顔を見られてしまったことを気にしているのかもしれない。

 

 何がともあれ、一度振り出しに戻ってしまったチームがこうして元通りになって本当に良かった。

 

 目の前の微笑ましい光景を眺めていると、心の底からあたたかい気持ちが込み上げてくる。

 

「あ、そういえば兄さま。先程、今後の活動について話がしたいとおっしゃっていましたよね?」

 

 彼らの会話に耳を傾けていると、ダイヤが途中で俺に話題を振ってきた。

 

「ああ。チームメンバーが全員揃ってるから、最初は丁度良いなって思ってたんだけど……」

「あ、それでしたらあたし、皆さんの邪魔にならないよう席を外しますね」

「いや、せっかくマックイーンの見舞いに来てくれたんだから、それはまた後日に回そうと思う」

 

 今後についての話といっても、内容は簡単なミーティングだ。決して急を要するものではない。

 

「ねぇ、それって他のチームにあまり聞かれたくない内容なの?」

「いや、特には」

「じゃあ別に、今でも良いんじゃない? これからしばらくマックイーンは学園に通えないわけだし、それが目的で病院に押しかけるのもあまり良くないと思う」

「……確かに」

 

 ドーベルの指摘は最もだ。こうしてチームメンバー全員が揃うためにはマックイーンの病室へ赴く必要があるし、何より病院側に迷惑をかけてしまう。

 

 ミーティングをオンラインで実施するという選択肢もあるが、どちらかと言うと、俺は教え子達の顔を見ながら話がしたかった。

 

「キタサンブラック」

「は、はいっ」

「ごめん、少しだけ時間をもらっても良いかな。手短に済ませるから、退室なんてしなくて良い」

「わ、分かりました! では、あたしは部屋の隅で大人しくしていますっ」

 

 俺がキタサンブラックに声をかけると、彼女は快く受け入れてくれて、いそいそと病室の端に椅子を持っていった。

 

 せっかくここまで来てもらったのに、キタサンブラックを蚊帳の外に置いてしまっているようで申し訳ない。

 

 チームメイト達にいち早く、俺が考える『今後』について伝えてしまおう。

 

「よし、それじゃあまずは改めて……マックイーン。天皇賞(春)の制覇、本当におめでとう」

「……ええ。こちらこそ本当に、ありがとうございました」

 

 まずは、先日の天皇賞(春)にて、”奇跡の復活劇”を果たしたマックイーンの今後に関してだ。

 

「マックイーンと話すことはまず、退院後のリハビリについて」

「……」

 

 現役最強と名高いトウカイテイオーを下して見事『春の盾』を獲得し、マックイーンは自身の生家であるメジロの悲願を達成した。

 

 しかし、その代償として彼女の身体に潜んでいた”不治の病”が再発し、今後はまた左脚の治療やリハビリに時間を費やしていくこととなる。

 

「目を覚ましたときにも話したけど、俺は今後、マックイーンの身体を元に戻すために全力を尽くすつもりだ。ただ、レースに関しては……」

「──()退()、ですわよね」

 

 マックイーンはとても聡明なウマ娘だから、俺が言葉にするまでもなく自覚していたのだろう。

 

 教え子に対して『引退』という言葉を切り出すのは、仕方のないことだと理解していても胸が苦しくなる。

 

「トレーナーさん、どうか気を落とさないで下さい。私は今、とても満足しているんです。あなたのおかげで、私は夢を叶えることが出来ました。レースの世界に思い残すことはもう、何もありません」

「……そっか」

 

 本人が自分の結果に満足しているというのなら、この話題をこれ以上掘り下げる必要はないだろう。

 

「辛いリハビリになると思うけど、これからまた一緒に頑張っていこう」

「……ええ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 

 リハビリを無事に終えた後についてもある程度考えているが、それはまた別の機会に話すとしよう。

 

「それじゃあ次は、ダイヤ」

「はいっ!」

 

 俺の言葉に反応し、ダイヤが食い気味に身を乗り出した。

 

「わざわざ確認する必要もないかもしれないけど、次の目標は三週間後の──」

「──日本ダービーですよね!」

 

 俺の言葉に被せるように、ダイヤが前のめりな姿勢で言い放つ。

 

「ああ、そうだ」

「はぁ〜っ! ついに私も、憧れていた日本一の舞台に上がることが出来るんですよねっ! もうとっても楽しみですっ!!」

 

 三週間前に開催されたクラシックレース開幕戦の皐月賞を制覇し、ダイヤは自身の悲願であったGⅠタイトルを獲得することが出来た。

 

 それ以来ダイヤのモチベーションは絶好調を維持しており、マックイーンが無事に目覚めたことも相まって、現在の彼女のメンタルは無敵に等しい。

 

「トレーニングに関してはその都度調整していくとして……出端を挫くようで申し訳ないんだけど、今週末のトレーニングはオフにさせて欲しいんだ」

「オフですか? 私は全然かまいませんが、何か重要な用事があるのですか?」

「ちょっと、アメリカへ行こうと思ってて」

 

 俺はトレーニングをオフにする理由を簡潔に説明する。

 

 本当は自主トレーニングにしても良かったのだが、万が一の事態に発展してしまった場合、海外からではすぐに駆けつけることが出来ない。

 

 これはある意味俺の弱さが全面に現れている選択だったが、ダイヤは快く受け入れてくれた。

 

「私はむしろ……嬉しいです。兄さまから、その言葉を聞くことができて」

 

 俺の過去を知ってしまってから、ダイヤは常に俺のことを気にかけてくれていた。

 

 心の底から安堵したような笑みを浮かべてくれるダイヤは、本当に心の優しい女の子だ。

 

「あっ、せっかくですので、私は兄さまにお土産を期待します!」

「ああ、たくさん買ってくるよ」

 

 俺のわがままに付き合わせてしまうのだから、これぐらいの埋め合わせはきちんとしなければならないだろう。

 

「そして、最後に──ドーベル」

「……っ」

 

 マックイーン、ダイヤと今後の予定について話し合い、残るはドーベル一人となった。

 

 俺に名前を呼ばれたことで、ドーベルの表情に分かりやすく緊張が走る。

 

 右手で自身の左腕を掴み、以前よりも一層強烈な警戒の眼差しが飛んでくる。

 

 他人という存在に苦手意識を抱くドーベルだが……よくよく観察すると意外にも尻尾の動きは可愛らしく、表情に反して素直だった。

 

「な、何よ……」

 

 先程の二人と違い、言葉の合間に沈黙が生まれてしまったことが原因なのか。ドーベルが怪訝な面持ちを浮かべている。

 

「あ、ああ……いや、すまない」

 

 ドーベルは以前に一度、方向性の違いという理由で俺のチームを脱退していた。

 

 結果的にはこうしてチームへの再所属を認め、俺の元へと戻ってきてくれたわけなのだが……。

 

「えっと……ドーベル」

「何よ……そんなに切り出しにくいことなの?」

 

 そんな彼女に対して、俺はどうしても伝えなければならないことがあった。

 

「……はぁ、別に良いわよ。大体アンタの言おうとしていることは予想出来るし……戻るって決めた時点で、気持ちの整理は出来てるから」

「…………ぁ、そのこと、なんだけど」

「……?」

 

 ドーベルに対して()()()()を伝えるのは、本当に申し訳ないばかりで心が痛むが……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──一度脱退したチームへの再所属が認められるのって、実は……()()()から、なんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………………………は?」

 

 

 

 

 

 こればかりは規則として定められているものなので、俺の力ではどうすることも出来ないのである。

 

 

 

 




以下、作者のあとがきとなります。

ここまで私の拙作を読んで下さり、本当にありがとうございます。
連載当初の構想として、episode.3を投稿する前に一度、番外編を挟む予定でした。
内容としては作中におけるチーム・スピカの沖野トレーナーやトウカイテイオーに焦点を当てたものだったのですが、既に幕間2を挟んでいるということもあり、そろそろ話を進めるべきなのでは無いかと判断しました。
もし、番外編の内容に触れてみたいという方がいらっしゃいましたら、本編更新の合間に投稿していこうかなと思います。
よろしければ、アンケートの回答をよろしくお願いします。

また、もしよろしければ、高評価やお気に入り登録の方もよろしくお願いいたします。感想もお待ちしています。作者のモチベがめっちゃ上がります。


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60:その後

半年近く間隔が空いてしまいました。本当に申し訳ありません。
前話では、たくさんの方からアンケートの回答をいただくことが出来ました。本当に、ありがとうございます!

描写の一部に独自設定があります。


 チームメンバー全員が揃ったマックイーンの病室でふと、俺は数ヶ月ほど前の出来事を思い返していた。

 

 あれは確か、俺がトレセン学園に復職し、マックイーンやドーベルと顔合わせを行った日のこと。

 

 対面初日のトレーニングでドーベルと口論に発展し、担当ウマ娘との距離感に四苦八苦していた俺は、チーム・スピカの顧問を務める沖野先輩に助言を求めた。

 

 沖野先輩は俺の悩みを真剣に聞き、多くの解決策を一緒に模索してくれたことを覚えている。

 

 その中でふと、彼が冗談まじりにこぼした一言が突然、俺の脳裏に蘇った。

 

『──まぁなんだ。やっぱアレじゃね? 複雑な乙女心を理解することから始めるとか?』

 

 ベテラントレーナーの口から語られるにしてはあまりにも俗っぽくて、妙に耳に残っていた。

 

 当時の俺は何気ない気持ちで、彼の俗な話に耳を傾けていたが……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ふ…………ふ、ざけないでよ……ッ!!!!!!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 顔を真っ赤にして憤慨したドーベルに胸ぐらを捕まれ、激しく身体を揺さぶられていて思うのだ…………沖野先輩の助言はやっぱり、間違っていなかったんだなって。

 

 俺は激しく後悔した。

 

「ふざけないでっ、ふざけないでふざけないでふざけないで──ッ!!!!!!」

 

 狂った機械のように同じ言葉を繰り返し、ドーベルが半狂乱になって俺に迫ってきた。

 

「アタシにあ、んなっ……()()()()()かけたくせに…………っ!! 半年間チームに戻れないってどういうことよッ!!!!」

 

 ドーベルはまだ高等部二年生の少女だが、大の大人でもウマ娘の膂力(りょりょく)に抗うことは出来ない。

 

 胸ぐらを掴まれたまま壁際に追い込まれ、羞恥心で半泣きになったドーベルが、意識の飛びかけている俺を更に捲し立てる。

 

「……お、おい……っ、…………ま”、まてっ──」

「うるさいっ! アンタなんて大っっっっ嫌いっ!!!!!!!! もう一生口聞いてあげないんだからっ!!!!!!!!!!」

 

 苦し紛れに絞り出した説得の言葉も虚しく、俺は取り乱したドーベルに意識を刈り取られそうになった。

 

「ど、ドーベルさん……っ、それ以上は兄さまが危険ですっ!」

「あ、あわ、あわわ……っ、た、助けてあげないと……っ」

 

 しかし、その寸前で近くにいたダイヤが暴走するドーベルを引き剥がしてくれたことによって、俺は一命を取り留める。

 

 病室の床に両手をつき、酸素を求めて肩を激しく上下させる俺の身体を、今度はキタサンブラックが支えてくれた。

 

「と、トレーナーさん……大丈夫、ですか?」

 

 首を何とか縦に振って彼女の言葉に答えるが、回復までにはもう少し時間がかかりそうだ。

 

 呼吸を整えるまでの間、キタサンブラックが無言で俺の背中を優しくさすってくれた。

 

「ど、ドーベルさんも落ち着いて下さい……っ。兄さまがきっと、事情をちゃんと説明して下さいますからっ」

「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ………………」

 

 ダイヤに身体を拘束されたドーベルだが、彼女は肩で息をする途中も、心底恨めしそうに俺のことを睨み続けている。

 

……まぁ、彼女の気持ちは十分に理解できるし、今回の一件はどう考えても俺に落ち度がある。

 

 俺はもしかしたら、ドーベルの乙女心を弄んでしまったのかもしれない。

 

「……えっと、ドーベル」

「…………」

 

 今はまだ息を整えている途中だが、俺にはいち早く事情を説明する義務がある。

 

 俺はその場からそろりと立ち上がり、乱れたスーツを整えながらドーベルに言った。

 

「チームの再所属の件に関しては……本当に、申し訳ない。これは完全に、俺の落ち度だ」

「…………」

「チームとしての正式な加入は七月以降になるけど……俺は今でも変わらず、ドーベルがチームの一員だと思ってる」

「…………」

 

 ドーベルからの返事は無い。だがしかし、語りかけるにつれて彼女の刺すような眼差しが少しずつ和らいできているように感じる。

 

「ちゃんとトレーニングにも参加してもらうし、部室にも顔を出してもらう。チームに所属していない期間も、扱いは絶対に変わらない」

「………………」

「だから……その…………一週間前に言った言葉は、嘘じゃない。ちゃんと本心だ」

 

 天皇賞(春)が開催された一週間前のあの場所で、俺はドーベルの夢を一緒に叶える約束をした。

 

 約束をしたのならば、俺はきちんと彼女の想いに応えなければならない。

 

 そして、俺の必死の説得が教え子の耳に届いたのか。

 

「……………………あっそ」

 

 少々そっけない返事だったが、どうやらドーベルは納得してくれたようだった。

 

 態度は相変わらず反抗的だが、彼女の耳や尻尾はとても素直だ。

 

「…………まぁ、移籍の一件に関しては、アタシのわがままだったし。アンタのせいじゃ、ないけどさ……」

「な、ならもう少し穏便に──」

「それとこれとは話が全っ然違うから!!」

 

 俺としては似たようなものじゃないかと思ったりもしたが……そう思ってしまうのはそれこそ、『乙女心』に対する俺の理解が及んでいない証だろう。

 

 時間があるときに、乙女心について勉強する必要があるのかもしれない。しかし、一体どうやって……。

 

「……まぁ、チームの件は一旦置いておくとして。アンタはどう考えているのよ、アタシの今後について」

「ああ、そうだった。良い加減、本題に入ろう」

 

 ドーベルが一度会話の流れを断ち、今回の本題を振ってきた。先程までの話はあくまで、今後についてを切り出す導入にすぎない。

 

 今一度気を取り直し、俺はドーベルと向き合う。

 

「ドーベルのデビュー戦は現状、夏休みが明けた九月を予定している。今後はこのメイクデビューを目標にトレーニングを組んでいく方針だ」

「うん」

「トレーニングの方向性は次の機会に詳しく説明するとして……メイクデビューに出走する前に、ドーベルにはもう一つの目標を用意しようと思う」

「もう一つの目標っていうのは?」

「一ヶ月後の()()()()()だ」

「……今更?」

 

 俺の口から飛び出した言葉を受けて、ドーベルの表情に困惑の色が浮かび上がった。

 

 彼女が俺の発言を怪訝に思う理由は十分理解できる。

 

 選抜レースとは、チーム未所属のウマ娘達がトレーナーのスカウトを貰うために出走するトレセン学園の一大行事だ。

 

 一年に合計四度実施される選抜レースだが、その二回目の開催が来月末に控えている。

 

 ドーベルは既に俺のチームへ再所属することが決定しているため、本来の目的で選抜レースに出走するわけではない。

 

「二回目の選抜レースはどうやら、去年から一般の人達も観戦することが出来るらしい。最近、俺も知ったんだけど」

「…………」

 

 二回目以降の開催は、一回目と比較して出走するウマ娘の母数が少ない傾向にある。そのため、一般の人達が観戦するスペースにいくらか余裕があるのだろう。

 

 選抜レースの件についてたづなさんに聞いたのだが、これはどうやら秋川理事長による提案なのだそうだ。

 

 選抜レースに観客を招き入れることによって、ウマ娘達により本番に近い雰囲気を体験してほしいという意図があるのだろう。

 

 それ以外にも、一般人がウマ娘に触れる機会を増やすことによって、業界の更なる盛り上がりを期待しているような側面もある。

 

「今の実力を考えると、選抜レースでも十分に結果を残すことは出来ると思う。でも、本番に限りなく近い雰囲気の中で走ることは、とても貴重な経験になるはずだ」

「…………アンタの目的は、なんとなく分かった」

 

 俺がドーベルに選抜レースを勧める目的はそれ以外にも、彼女の気質的な要因が本番にどのような影響をもたらすのかを事前に把握しておきたかった。

 

 人前に出ることを極端に苦手とするドーベルがチーム・アルデバランの肩書きを背負ってレースに出走する以上、世間からの注目は避けられない。

 

 去年の選抜レースの結果だけを見れば、さほど影響は出ないのかもしれない。しかし当時は観客が学園の生徒やトレーナー陣のみであったため、過去の情報を鵜呑みにすることは出来なかった。

 

 周囲の環境がドーベルの走りに悪影響を及ぼす場合、俺はその点に関しても対策を取っていく必要がある。

 

「もちろん、選抜レースへの出走は強制じゃない。レースよりもトレーニングに集中したいって考えていれば、俺はドーベルの意思を尊重する」

「…………いや、良い」

 

 しばらく思考を続けた末、ドーベル自身の中で答えが出たのだろう。

 

「アタシ……出る。選抜レース」

 

 ドーベルの口から確かに、彼女の意思を受け取った。

 

「いい加減、自分のコンプレックスと向き合わなきゃいけないって……自覚はあったから。だからきっと、選抜レースは……良い機会になると思う」

「ああ」

「なりたい自分になるために……自分の力で、乗り越えなきゃ」

 

 一瞬、ドーベルの目線がチラリと動く。

 

 全身にはまだズキズキとした痛みが残っているが……とにかく、ドーベルが肯定的な意思を示してくれて本当に良かった。

 

 以上の内容が、今後の活動について俺が教え子達と共有しておきたかったことだ。

 

 最後に伝え忘れがないかを確認して、俺は丸椅子から立ち上がった。

 

「……よし。それじゃあ俺はもう行くよ。みんなの邪魔をしてすまなかった」

 

 マックイーンのお見舞いに来てくれた子達の時間を割いているのだから、これ以上の長居はよろしくない。

 

「……別に、邪魔ってわけじゃないと思うけど」

「え、ええっ。ドーベルの言う通りです。せっかくトレーナーさんもこちらへ足を運んで下さったのですから、もう少しゆっくりされていっては……?」

「気持ちは嬉しいけど……すまない。この後、予定が色々と立て込んでて」

「予定って?」

 

 本当はマックイーンの様子を見守りたい気持ちもあるけれど、彼女を担当するトレーナーとしてやらなければいけないことが多く残っている。

 

「マックイーンの主治医と今後の生活やリハビリについて、色々と」

「……そう、ですか」

「あとは……そうだな。それが終わったら、マックイーン達のご両親と面会する予定が控えてる」

「……私のお父様と、お母様に?」

 

 俺の言葉に対して、マックイーンが微かに首を捻った。

 

「天皇賞の一件で、色々と話がしたいって言われて」

「アンタって、アタシ達の両親と面識あったんだ」

「ああ。最初に会ったのはマックイーンがアメリカへ旅行に来た頃だったけど、ちゃんと接点を持つようになったのは数ヶ月前かな」

「数ヶ月前……あぁ、そっか」

 

 マックイーン達の両親と明確な接点を持ったのは、彼女が天皇賞(春)への出走を正式に表明する少し前のことだ。

 

 "不治の病"を抱える愛娘がレースに出走する以上、彼女の両親には大きな精神的負担が付きまとう。

 

 マックイーンを迎えに行った時点で出走の許可自体は貰えていたのだが、俺は定期的に経過を共有して、彼らの負担を少しでも軽減できるように動いていた。

 

「マックイーンの意識が無事に戻って、ご両親はとても安堵している様子だった。色々迷惑をかけたから、ちゃんと謝らなきゃいけないと思って」

 

 無事に天皇賞(春)を制覇したマックイーンだが、その過程でマックイーンは繋靭帯炎を再発させてしまっている。

 

 彼女が再び自分の足で走れるようになるまで支えるのが、メジロマックイーンのトレーナーを務める俺の責任である。

 

「彼らと話していると、二人のことを本当に大切に思っているのがよく伝わってくる」

「……あ〜、確かに。アタシ達の両親は、けっこう過保護なとこあるし」

「……その。私の両親が何か、トレーナーさんに迷惑をかけていませんでしたか?」

「いや、全然。むしろ気さくで、とても話しやすかったよ」

 

 マックイーンのご両親は元々、選手として活躍していたウマ娘と専属トレーナーの関係にあったそうだ。

 

 俺達の決意に理解を示してくれたのは、そのような経歴もあってのことだろう。

 

 何がともあれ、マックイーンの夢を無事に叶えてあげることが出来て本当に良かった。

 

「それじゃあ俺は予定が押しているからもう行くよ。何かあったら、また連絡してほしい」

 

 一際大きな山場を乗り越えた俺達だが、本当に大事なのはここからだ。

 

 今一度緩みかけていた気を引き締めて、俺はマックイーンの病室を後にした。

 

 

 

***

 

 

 

 私のお見舞いに来てくれた方々が学園へ戻ると、あれほどまで騒がしかった病室が嘘のように静まり返った。

 

 暇を持て余してしまった私は、さして変わらない外の景色でも眺めようかとベッドの上で身をよじる。

 

「…………ぃっ」

 

 けれどその途中、無骨なギプスと包帯でぐるぐる巻きにされた私の左脚に鋭い痛みが走り、自身の足元へと視線が逸れた。

 

「……あぁ。やっぱり、とても痛い」

 

 繋靭帯炎の痛みを経験するのは初めてでは無い。"不治の病"と向き合うための心構えは出来ているけれど、この全身をめった刺しされるような痛みは慣れられそうにない。

 

 でも……今の私にとっては、その痛みを覚えることがただただ苦痛というわけでは無かった。

 

 ベッドの上で身体に鞭を打ち、縁の棚に置かれた『春の盾』へと両手を伸ばす。

 

「…………」

 

 春の天皇賞を制覇した者のみに贈呈される、メジロ家の……私の夢が盾の形に象られた唯一無二の宝物。

 

 繋靭帯炎の痛みが走るたびに、目の前の光景が本当の現実であることを私に教えてくれる。

 

「……夢が叶った瞬間というのはやはり、実感が湧かないものなのですね」

 

 かつて、世界一のアイドルウマ娘として名を馳せたミライさんも、夢を叶えた瞬間は実感が湧かないと言っていた。

 

 憧れの存在を前に瞳を輝かせていたかつての私が、今はそんな彼女と同じ気持ちを味わっているなんて……すごく、不思議な感覚だ。

 

 思えばここまで本当に、本当に長い道のりだった。けれどこうしていざ振り返ってみると、何だかあっという間だったようにも感じる。

 

 感慨深い思いに耽りながら『春の盾』を眺めていると、その表面に反射した私の顔と不意に目が合った。

 

「…………」

 

 盾の中に映り込んだのは、嘘で塗り固めた仮面が外れた、メジロマックイーン()()()であった。

 

 以前の私は、仮面で覆った自身の素顔と向き合うことに強い恐怖心を抱いていたはずなのに。

 

 今ではこうして『春の盾』を眺めて、自然な表情を浮かべることが出来ている。

 

 それもこれも全て、嘘つきな私を受け入れてくれたあの人の……トレーナーさんのおかげだろう。

 

「…………先程はやはり、素っ気ない態度を取ってしまったでしょうか」

 

 春の天皇賞以降──と言っても目覚めたのは今日なのだが──、私は彼と視線を合わせることが妙に小っ恥ずかしく感じるようになった。

 

 ここ数ヶ月間、私は彼と共に決死の覚悟でトレーニングに臨んできた。

 

 その影響で必然的に距離感はぐっと近くなり、もはや一心同体と言っても過言ではないほど私達の関係性は濃密なものとなった。

 

 結果的に私は彼の導きによって夢を叶えることが出来たのだが……いざ冷静になって振り返ってみると、今更になって羞恥心が込み上げてくる。

 

 彼の特異な"体質"を用いた指導がトレーニングの軸となっていたため、私達の間では必然的に身体の接触が日常となった。

 

 当初は殿方へ素肌を晒すことに少しばかり抵抗があった私だったが、慣れというのは非常に恐ろしい。

 

 羞恥心を感じていた行為がやがて当たり前の日常となり、私はいつしか、その温もりに強い安心感を覚えるようになっていた。

 

「…………っ、ぅ」

 

 そんな彼との歩みを振り返る過程で、私の脳裏にふと、今となっては若気の至りとしか言えない光景が蘇る。

 

……あぁ、思い出してしまう。

 

 いくら心が弱り切っていたからとはいえ……不安に怯えて眠れなくなった挙句、精神(こころ)の拠り所としていた彼に無理を言ってそ、()()()を求めてしまったあの夜を……。

 

「……くっ、うぅ……なんてっ、はしたない…………っ」

 

 思い出すだけで顔の火照りが止まらないし、さらには余計な記憶まで連鎖的に蘇ってくる。

 

 彼は存外押しに弱くて……我慢してと言い聞かされても最後は結局、教え子達のお願いに屈してしまうわるい人だから。

 

 晴れない不安を言い訳にして、いつしか後輩であるサトノさんも交えて川の字になり、衰弱した心と身体で人肌の温もりを存分に味わってしまった暁には、もう……。

 

「ぁ、ぁぁあ……………っ!!」

 

 ここ数ヶ月の私ははっきり言って、どうかしていた。

 

 だってこんなの絶対おかしい……っ。

 

 何故なら私は、名門メジロのウマ娘──メジロマックイーンだ。

 

 私は昔から常に華麗で、優雅な振る舞いを貫き、完璧を体現した存在であったはずなのに……。

 

「……このままでは、いけません。早急な対策が必要です」

 

 人前に晒せないほど紅潮した表情を両手で覆いつつ、私は努めて冷静に問題の解決策を模索する。

 

 彼の中に生まれているであろう私の不本意な印象を、どうにかして普段の完璧な私に塗り替えなければ。

 

 そうすればきっと、視線を合わせられない現状を打破することにも繋がってくるはずだ。

 

「私は名門、メジロのウマ娘。いかなる困難にも決して屈しない在り方こそ、私の本来あるべき姿なのですから」

 

 なんて、一人きりになった病室で密かに決意を固めていると、不意に枕元に置いていたスマホが振動した。

 

 スマホへ手を伸ばして通知欄を確認すると、誰かからメッセージが送られてきたことに気付く。

 

 ロックを解除し、メッセージの差出人を確認する。

 

「……お父様と、お母様から」

 

 続けて私は、何気ない気持ちで彼らから差し出された内容に目を通す。

 

 メッセージによるとどうやらこの後、仕事を終えたお父様とお母様が、私の病室までお見舞いに来てくれるのだそうだ。

 

 更に画面をスクロールし、メッセージの内容を一通り把握していく。

 

……はず、だったのだが。

 

 

 

 

 

 

 

「…………ぇ、ぁ、っ……ん、ん”ん”ん”ん”っ!?!?!?!?」

 

 

 

 

 

 

 

 その途中に綴られていた衝撃的な内容を思わず二度見し、私はものの見事に冷静さを欠いてしまうのであった。

 

 

 

 

 

 

 




Q どうしてこんなに更新期間が空いたのですか。

A 当時流行していた某病気にかかってしまいました。あと、仕事の納期が被りました。

更新頻度はこの有様ですが、よろしければお気に入り登録や高評価を何卒お願いいたします。感想もお待ちしています。

作者のモチベがめっちゃ上がります。


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61:懐古の朝 上

時系列が前話と異なります。ご注意ください。


 今は亡き教え子が眠るアメリカから無事に帰国した翌朝のこと。

 

 俺は普段通りの日常をおくるため、きびきびと身体を動かしてベッドから起床する。

 

 朝日が昇り始めたばかりの午前五時。

 

 運動しやすいジャージに着替えて、俺は静かにトレーナー寮を出る。

 

 最初こそ眠気との葛藤があった早朝のジョギングも、今ではすっかり健康的な習慣となっていた。

 

 ここ数ヶ月間はメジロ家の療養施設を拠点に活動していたためか、近所に広がる河川敷の景色が何だかとても新鮮に感じる。

 

 冬から春へと季節が移り変わったこともあり、最近では気温の上昇が著しい。

 

 軽く走っただけでも汗が出てくるし、すこぶる喉も乾く。

 

 俺は普段折り返しの休憩場所で飲料水を購入するのだが、以前よりも目に見えてその頻度が増えている。

 

 いい加減水筒を持参し、節約を図るべきだろうか。一回の出費は微々たるものでも、積み重なればそれなりの額になる。今度空いた時間に店へ寄って調べてみよう。

 

 しかしとにかく今は喉が渇いたので、俺は乱れた息を整えながら自販機の元へと歩み寄る。

 

 その途中、

 

「──ぁっ」

 

 視界の端に映ったベンチに腰掛ける少女が、俺の姿を見て小さく呟いた。

 

「ぉ、おはようございます! トレーナーさん……っ」

 

 濃い鹿毛の髪をツーサイドアップでまとめ、情熱を灯したルビーのような瞳を持つウマ娘。

 

 緊張で微かに表情をこわばらせつつも、尻尾を高く振りながら駆け寄ってくる少女──キタサンブラック。

 

 俺が担当するサトノダイヤモンドの親友であり、トレセン学園でも最強と名高いチーム・スピカに所属するウマ娘だ。

 

「おはよう、キタサンブラック。今日も朝練?」

「ぇ、あっ、はい! 朝練です!」

 

 早朝ジョギングの場面において、朝練に打ち込むキタサンブラックと出会うことは多々あった。

 

 けれど、前述したように俺は先日までメジロ家の療養施設で活動していたため、この時間帯で彼女と顔を合わせたのは二月初旬が最後だったと記憶している。

 

 過去のいざこざによって、複雑な状況下にある俺とキタサンブラックだが。時間が経つにつれて、現在ではこうして軽く挨拶を交わす程度には良好な関係性を築くことが出来ていた。

 

 以前に二人で交わした"折衷案"のおかげも相まって、俺達の間に漂っていたギクシャクとした雰囲気はだいぶ和らいだように感じる。

 

 当然、キタサンブラックに対する負い目が無くなったわけではないが……。

 

「そっか。キタサンブラックは努力家だね……あ、これ良かったら」

 

 一足先にベンチに腰掛けていたことから、キタサンブラックは朝練の休憩中だったのだろう。

 

 自分用の飲料水と一緒にキタサンブラックのものを自販機で購入し、彼女に手渡した。

 

 余計なお節介かもしれないが、俺だけぐびぐびと水を飲むのは何だか気が引けてしまう。

 

「あっ、ありがとうございます! いただきます!」

 

 俺のお節介を笑顔で受け取ってくれたキタサンブラックに内心安堵しつつ、揃ってベンチに腰掛ける。

 

 ペットボトルに口をつけて、彼女と共に一息つく。

 

「こうしてお会いするのは、えっと……ひ、久しぶりですね」

「そうだね……三ヶ月ぶりくらい?」

「な、何だか緊張しちゃいますね……えへへ」

 

 キタサンブラックは恥ずかしさをごまかすように笑みを浮かべながらも、俺に対して積極的に話しかけてくれた。

 

 数ヶ月前と比較すると、俺はキタサンブラックの笑顔を見る機会が目に見えて多くなったように感じる。

 

 以前のキタサンブラックは目元に大きなクマを抱えていたりと疲弊した様子が目立っていたが、ここ数ヶ月の間で彼女は年相応の快活さを取り戻しているように見えた。

 

 キタサンブラックの中で何か、気持ちに変化があったのかもしれない。

 

 それはきっと、彼女にとって良い傾向に繋がっているのだと思う。

 

「あ、あの……トレーナーさえよろしければ、一緒に戻りませんか? 寮の方向も、ここからなら一緒ですし……」

 

 しばらく雑談を続けた後、隣に座るキタサンブラックが遠慮がちにそう提案してくれた。

 

 この河川敷から帰路に着くとなると、俺が住まうトレーナー寮と栗東寮は同じ方角に位置している。

 

 キタサンブラックが俺に気を遣ってくれているのなら申し訳ないと感じるが、提案自体は合理的で断る理由は特に無かった。

 

「そうだね。せっかくだから、一緒に戻ろうか」

「……っ、はいっ!」

 

 空になったペットボトルをゴミ箱に捨て、簡単なストレッチを挟んだ後に俺達は一緒に駆け出した。

 

 雑談に興じる余裕を残しつつ、帰り道は先程よりも少しだけ速度を上げる。

 

「あ、あの、トレーナーさん。以前よりもペースが速い気がしますけど……大丈夫ですか?」

「最近、頑張って身体を鍛えてるんだ。体調不良で教え子達にこれ以上迷惑をかけたくないし……何より、君が退屈してしまうだろうと思って」

 

 これは以前にも述べたことだが、人間とウマ娘でジョギングの平均速度を比較した場合、ウマ娘は軽く走っても人間の二倍近い速度が出る。

 

 速度を意図的に抑えてまで鈍い風を切りたいと考えるウマ娘など、まず存在しないだろう。

 

……本当にキタサンブラックのことを思うのなら、先程の提案を断るのが最善なのかもしれないが。

 

 せっかく良好な関係性が形になりつつある状況で、彼女からの提案を断るのは少々、気が引けてしまう。

 

「以前までは向こうで……あ、少し前までメジロ家の療養施設にいたんだけど。設備が充実してたから、体力作りの一環でよく運動に使ってたんだ」

「……あ、そういえば確かに。マックイーンさんの病室で触れたトレーナーさんの身体、()()()()()がっちりしていたように感じます」

 

 教え子達と心の距離を縮める目的で、トレーニングの一環である身体作りを一緒にしていたのだが……まさか意外にも、このような場面で生きてくるとは。

 

「それでもウマ娘の速度には到底及ばないんだけどね……やっぱり、退屈じゃないか? 俺と走ってて」

「い、いえいえ! あたしからこうしてお願いしているわけですから! あたしはとても嬉しいです!」

「……そっか、ならよかった」

 

 隣を走るキタサンブラックに視線を向けると、彼女は心の底から楽しそうに微笑んでいた。

 

 本当に走るのが好きなんだなぁと思いつつ、俺は彼女と共にトレーナー寮までの道のりを走る。

 

 そして、寮まで残り半分程度の距離に至った頃だろうか。

 

 頭の片隅でこの後の動きについてぼんやりと考えていたら、俺はふと()()()()()に気がついた。

 

「……あっと。すまない、キタサンブラック」

 

 俺はその瞬間から徐々に速度を落とし、一緒に走るキタサンブラックに対して断りを入れた。

 

「は、はい……えっと、どうかしましたか?」

 

 突然立ち止まった俺を見て、キタサンブラックは案の定困惑した様子で問うてきた。

 

「ごめん、少し用事を思い出してしまって……今日はここまででも良いかな」

「……ぇ、ぁ、わ、分かりました」

 

 キタサンブラックの両耳が分かりやすく垂れ下がる。

 

 ジョギングを楽しんでいた彼女に対して、俺は水を差すような発言をしてしまったのかもしれない。

 

「ちなみに、その……用事というのは?」

 

 申し訳ないことをしてしまったかなと思いつつ、俺はキタサンブラックの疑問に答えた。

 

()()()()

「……え?」

「ちょっと今、冷蔵庫が空っぽでさ……週末、アメリカに行ってたから。買い出ししてなかったの、すっかり忘れてて」

「……ぁ、ああっ! なるほど!!」

 

 河川敷から少し離れた場所に二十四時間営業の業務スーパーがあるため、ジョギングのついでに寄っていこうと考えていたのだが……キタサンブラックと出会ったことで、俺の頭からすっかりと抜け落ちてしまっていた。

 

「──あのっ! もしよろしければ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「え?」

「冷蔵庫が空っぽということは、それなりの量を買いますよね? ひ、人手は多い方が良いと思います!」

「いや、でも……わざわざ荷物持ちなんてお願いするわけには……」

「心配しないで下さい! あたしはウマ娘ですから、荷物はたくさん持つことが出来ます!」

 

 人助けは当然だと言わんばかりに荷物持ちを申し出てくれるキタサンブラック。

 

 その積極性はとても嬉しいが……俺としては少々、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

 ただでさえキタサンブラックの朝練を潰してしまっている状況で、この後トレセン学園で授業を控える教え子の親友に対して、雑用をお願いするなんて。

 

「目の前でトレーナーさんが困っていたら、あたしは見過すことなんて出来ません。だって、その……それが、あたしとトレーナーさんの関係……じゃないですか」

 

 キタサンブラックの発言を受けて、俺は二人の間で交わした約束を思い出す。

 

 互いに抱える罪悪感を減らし、より良好な関係を築くために結んだ、俺とキタサンブラックの”折衷案”。

 

 キタサンブラックの厚意を無碍にして余計に罪悪感を抱えるのは……確かに彼女の指摘通り、俺達の関係性に反しているのかもしれない。

 

「……そう、だった。それじゃあ、えっと……お願い、しようかな」

「……っ! はいっ!」

 

 改めてキタサンブラックに付き添いをお願いすると、彼女は嬉々としてそれを受け入れてくれた。

 

「時間も迫ってきていますし、早速向かいましょう! えっと、ここから近い業務スーパーといえば、あそこしかないですよね!」

 

 キタサンブラックは先程のジョギング以上に軽快な身のこなしで俺の手を取り、勢いよく駆け出す。

 

 突然のことで一瞬バランスを崩しかける俺だったが、最近鍛えた体幹を駆使して姿勢を立て直しつつ彼女に続いた。

 

 困っている人を見たら、放ってはおけない。ダイヤはキタサンブラックのことをしばしば”お助け大将”と称しているが、しがないトレーナーの俺にも手を差し伸べてくれるなんて。

 

 彼女は本当に、心の優しいウマ娘だと思った。

 

 

 

***

 

 

 

 キタサンブラックに荷物持ちをお願いし、俺は彼女と共に行きつけの業務スーパーにやってきた。

 

 時刻は午前五時五十分。

 

 二十四時間営業の業務スーパーとはいえ、この時間帯の店内はやはりとても空いている。

 

 店舗前に置かれたカートは「あたしが持ちます」と言って譲らないキタサンブラックに任せ、俺は彼女と揃って店内を見て回った。

 

「早朝のスーパーって、何だか新鮮ですね。トレーナーさんは、この時間帯によく行かれるんですか?」

 

 人気のない店内を物珍しげに見渡しながら、キタサンブラックが問うてくる。

 

「基本的には休日だけど、トレーニングとかで行けなかった時はジョギングのついでに寄ることがあるかな……お、もやしが安い」

 

 キタサンブラックに付き添ってもらっている以上、長居は禁物だ。スマホのメモ帳に書き記した食材を効率よくカゴに入れつつ、陳列された特売品などをチェックする。

 

「……トレーナーさん、食材を選ぶのが上手ですね。手練れって感じがします」

「自炊を続けてると、同じ値段でもやっぱり良いものを選びたくなる。特にこの業務スーパーは生鮮食品の品質がとても良いんだ。例えば、この林檎とか」

 

 林檎は一般的に秋から冬にかけてが旬の食材であるが、産地や品種によってはこの時期に出回っていることも少なくない。

 

「色が深く鮮やかで、形の綺麗なものが揃ってる。値段もさることながら、旬の季節に負けないくらい甘くて美味しいんだ」

 

 昔はよく、美味しい林檎を使って教え子の好物であったアップルパイを焼いていた。

 

 せっかく良い林檎が手に入ったのだから、今度マックイーンのお見舞いにパイを焼いて持っていこう。彼女ならきっと、喜んでくれるはずだ。

 

「すごいです! トレーナーさん、食材にとっても詳しいんですね! 他の食材は何を基準に選んでいるんですか? あたし、もっと聞きたいですっ!」

 

 ただ食材を選んでいるだけであまり面白くは無いと思ったが、キタサンブラックはとても興味深そうに瞳を輝かせて話題を掘り下げてくれた。

 

 キタサンブラックが抱く興味の矛先が食材の選び方だと分かっていても……その輝く瞳を向けられると何だか、俺自身に興味を持ってくれているのでは無いかと錯覚してしまって。

 

「ん、そうだな……例えば──」

 

 

 

 

 

……俺はついつい、調子に乗ってしまった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「──これだけ食材を揃えれば、しばらく買い出しに行く必要はありませんね!」

「…………すまない」

 

 大量の食材で今にもこぼれ落ちそうになっているエコバッグを両手に下げ、キタサンブラックが嬉々としてこちらを振り返った。

 

「こんなに買うつもりじゃなかったんだけど……本当に、助かるよ」

 

 かくいう俺もキタサンブラック同様両手が塞がれており、やってしまったと内心深く反省していた。

 

「いえいえ! トレーナーさんのお話をたくさん聞くことが出来て、とても勉強になりました!」

 

 一人では到底持ち運べないほどの食材を買い込んでしまった要因は、俺の目の前で無邪気に微笑むキタサンブラックにあるといえる。

 

 しかし、それは決して悪いというわけではなくて。

 

 むしろ根本的な原因は、聞き上手なキタサンブラック相手についつい饒舌になってしまった()()()であった。

 

 俺が売り出された食材を一つ手に取ると、キタサンブラックは興味津々といった様子で問うてくる。

 

 すると彼女は俺の話を本当に楽しそうに受け止めてくれるため、職業柄、ついつい一を聞かれて十を教えたくなってしまったのだ。

 

 その度に俺は手にした食材をポイポイとカゴに放り込んでしまったせいで、ふと我に返った時にはこの有様……。

 

 想定よりも多くの時間を買い出しに要してしまったが、早起きしたおかげでまだ時間には余裕がある。

 

「これだけ買い込んでしまうと、走って帰るのは少し危ないかもしれませんね。トレーナーさんの寮まで大した距離ではありませんし、ゆっくり歩いて帰りましょう!」

 

 キタサンブラックと並んで業務スーパーを後にし、トレーナー寮への帰路についた。

 

「トレーナーさん。荷物、重くないですか? もしよろしければ、あたしがお持ちしますよ?」

「いや、さすがにそれは遠慮しておくよ……大の大人が女の子に荷物を全て持たせるのはなんて言うか、体裁が……」

「あははっ、そんなの誰も気にしないと思います! だってあたし、ウマ娘なんですよ?」

「そうは言っても……プライドがあるんだよ、男には」

 

 それ以降も、彼女との会話は続く。

 

 キタサンブラックとの接点は早朝ジョギングでたまに顔を合わせる程度であったが……俺は内心、本来快活であるはずの彼女が笑顔を取り戻しつつある現状にとても安堵していた。

 

 キタサンブラックは俺の教え子であるダイヤの幼馴染であり、かけがえのない親友だ。

 

 俺のような存在が原因で、彼女達の尊い関係性に亀裂が入ることなど決してあってはならない。

 

 以前におかした自身の失態を繰り返さないためにも、彼女とはできる限り良好な関係性を築いておきたかった。

 

「トレーナーさんって、結構食べる人なんですか?」

「んん、どうだろう。最近は健康を意識してそれなりに食べるようにしてるけど、平均くらいだと思う」

 

 俺は特に健啖家というわけではないし、一日の食事量も成人男性の平均程度だと思っている。しかし、ひと一人では到底食べきれない量の食材を買い込んでいる様子を目にすれば、誰だってそのような疑問を抱いてもおかしくはない。

 

 今回は特に例外的だが……まぁこれだけ買っても案外、来週にはまた買い出しに行く必要があったりする。

 

「キタサンブラックは、よく食べるの?」

「あ、あたしですか? えっと、昔はそれなりに食べてたんですけど……最近はちょっと控えめで……あはは」

 

 苦笑を浮かべてそれとなく言及を避けるキタサンブラック。

 

……あまり考えないで発言してしまったが、年頃の女の子に対してこの手の話題は振らない方が良かったかもしれない。

 

 キタサンブラックと会話を続けながらしばらく歩くと、目的地であったトレーナー寮に到着した。

 

 エントランスを通ってエレベーターに乗り、トレーナー寮の最上階へ。

 

 俺の部屋はその突き当たりに位置しているから、特に迷うこともなかった。

 

「ここが……トレーナーさんのお部屋……」

「ああ。ここまで付き添ってくれてありがとう、本当に助かったよ」

 

 扉の前に荷物を下ろしてもらい、俺は改めてキタサンブラックに感謝の気持ちを伝える。

 

「い、いえいえっ! また何か困ったことがありましたら、何でも言って下さいね! いつでも、どこにいても、あたしはすぐに駆けつけますから!」

「それはとても頼もしいな」

 

 キタサンブラックの厚意に何もお返しできていないのが少し気掛かりだが、彼女にも予定がある。キタサンブラックに対するお礼は、また今度の機会にするとしよう。

 

「あ、トレーナーさんすみません。今何時かお聞きしても良いですか? あたし今、時計を持っていなくて」

 

 キタサンブラックと別れる寸前、俺はポケットに忍ばせていたスマホを取り出して現在時刻を確認する。

 

 画面に表示された時刻は、午前六時五十五分。

 

「分かりました! 教えて下さってありがとうございます!」

 

 歩いて帰宅したせいか、体感以上に時間が過ぎているような気がした。

 

「……んん、どうしよ。この時間だともう、食堂は混んじゃってるよね。まぁ、購買で簡単に済ませればいっか」

 

 キタサンブラックとの別れ際に、俺はその耳で彼女の独り言を捉える。

 

「それじゃあトレーナーさん、あたしはこれで失礼しますね!」

 

 その言葉を最後にキタサンブラックは踵を返し、扉の前から去っていく。

 

 彼女の独り言を耳にして、俺はふと考える。

 

 アスリートにとって食事は非常に大切なものであり、中にはトレーニングの一環として重要視する人も少なくない。

 

 以前、俺は偏った食生活を繰り返したことで体調を崩し、その重要性を痛感している。

 

 しかし、俺の雑用に付き合わせてしまったことが原因で、今まさにキタサンブラックの食事が疎かになろうとしているわけで……。

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

「──待って」 

 

 

 

 

 

 

 キタサンブラックの左手を咄嗟に取って、去りゆく彼女の背中を引き留める。

 

「は、はい。どうか、しましたか?」

「あのさ。キタサンブラックは今、沖野先輩から食事制限とか受けてたりする?」

「沖野トレーナーからですか? い、いえ。そういった指示は特に受けていないですけど……」

「そうか。……それじゃあ、キタサンブラックさえ良ければなんだけど」

 

 背後から突然俺に手を取られ、わずかに目を丸くしながら振り向いた彼女へ向けて、俺は言う。

 

 

 

 

 

 

 

「──朝ごはん、一緒に食べない? 買い出しに付き添ってくれた、お礼をさせてほしい」

 

 

 

 

 

 

 




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作者のモチベがめっちゃ上がります。

少し仕事に余裕ができたので、頑張って書きます。


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