恋愛は謎解きのあとで (滉大)
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かぐや様は解かせたい

お目汚しではございますが、お楽しみ頂ければ幸いです。


 午後の麗かな日差しが降り注ぐ中庭。青々とした芝生が目に優しい。

 その中心を横切るレンガの小道を、四宮(しのみや)かぐやは白銀(しろがね)御行(みゆき)と共に歩いていた。

 

「長引いてしまったな。すまん四宮、付き合わせてしまって」

 

 白銀は鋭く釣り上がった目をかぐやに向ける。常人であれば萎縮する視線を、かぐやは涼しい顔で受け止め、楚々とした笑みを浮かべた。

 

「いえ、私も副会長ですから当然です」

 

 昼休みに生徒会を代表して会議に出席していたかぐや達は、その足で生徒会室に向かっていた。役職はかぐやが副会長。白銀は生徒会長である。

 生徒会長に代々受け継がれる純金飾緒が、きっちりと一番上までボタンを掛けた学生服の胸で、光を浴び輝いている。

 

 渡り廊下の外に広がる中庭を眺め、かぐやは先日の出来事を思い出した。

 長椅子に並んで座る恋人同士であろう二人の男女。「一口くれよー」とねだる少年に、少女は笑いながら爪楊枝に刺した食べ物を少年の口元に近づけた。所謂「あーん」と呼ばれる行為。

 あの時は物乞いとしか思えなかった行為だが、今は「あーん」に戦略的価値を見出していた。

 通常の距離感の相手とは、決して行われることのない行為。裏を返せば、相手と親密である事を証明する儀式ともいえる。白銀から「あーん」をして来れば、もしくはさせる事ができたなら、それは自分と親密になりたいと思っている──ひいては告白しているも同然。

 準備は万全。白銀と二人きりになるため、生徒会室には誰も入れないよう指示してある。弁当箱の中は爪楊枝に貫かれた数多の食材たちで、針山が形成されていた。

 一刻と迫る昼食を前に、かぐやは内心ほくそ笑む。

 

 

 

 しかし、これから始まるは、四宮かぐやと白銀御行が、恋愛頭脳戦を繰り広げる物語ではない。

 

 

 

「早く飯を食わんと……ん?」

「どうかしましたか? 会長」

 

 白銀の視線を追うと、そこには屈んで長椅子の下を覗き込んでいる男女の姿があった。二人は立ち上がると、困った顔で下を見ながら、それぞれ長椅子の周りを回っていた。

 

「探し物か?」

「そのようですね」

「少し見てくる。四宮は先に行っててくれ」

「いえ、会長。困っている生徒を助けるのも生徒会の責務です。私も行きますよ」

 

 困っている人を放っておけない白銀は、持ち前の人の良さを発揮する。白銀がいない間に食べ終わっては元も子もないと、かぐやは白銀の後に続いた。

 余程集中しているらしく、白銀とかぐやが近づいたのにも気付かない。白銀が声を掛けるまで、二人は一切顔を上げなかった。

 

「どうかしたのか? なにやら探し物でもしているみたいだが」

 

 はっと、顔を上げた男子生徒は、いつのまにか人が近くにいたからか、声を掛けてきたのが生徒会長だったからか目を丸くした。

 

「せ、生徒会長!? どうしてここに?」

「通りかかっただけだが。それより、なにかあったんじゃないか?」

 

 男子生徒の上擦った声に、白銀は苦笑した。

 

 おや? とかぐやは首を傾げる。二人に見覚えがあったからだ。数秒後、かぐやの優秀な頭脳は答えを導き出した。

「あーん」をしていた二人だ。

 緊張している男子生徒を見兼ねて、女子生徒がおずおずと答えた。

 

「あの、彼のスマホが盗まれたみたいなんです……」

「盗まれた!?」

 

 スマホは個人情報の塊である。入っているアプリなどから連絡先、住所、趣味嗜好すら特定される。盗まれたとあっては、悪用されるのは必至であった。

 平和な学園に降って湧いた大事件。白銀は慌てた様子だ。

 一方未だにガラケーな上、連絡以外に使用しないかぐやは、ことの重大さがいまいちピンとこない。

 

「何故盗まれたと? どこかで落とした可能性もあるのではないですか」

「はい。俺もそう思ったんですが。足元にこれが落ちていたんです」

 

 男子生徒が、緑色のシリコン製スマホケースを、かぐや達に差し出す。表面には薄らと土が付着している。

 

「これ、俺のスマホケースなんですけど、飲み物を買いに行こうとした時に踏んだんです。それでスマホがなくなってることに気付きました」

「スマホだけがなくなるなんて、盗まれたとしか思えません。一応この辺りを探してみましたけど、ありませんでした」

 

 白銀は、顎に手を当て黙考する。

 

「なるほど。中庭に来るまであったのは間違いないんだな」

「はい。彼女が来るまで暇だったので触ってました」

「中庭に来たのはいつだ?」

「昼休みが始まってすぐなので、十二時五十五分くらいです」

「なくなったのに気付いたのは?」

 

 どれくらい前だっけと、男子生徒は隣の女子生徒に聞いた。急に話を振られた女子生徒は少し慌てた様子で、きょろきょろと周囲を見た。

 

「えっと、五分くらい前なので……」

 

 時計を探しているのかしら? 

 残念ながら中庭に時計は設置されていないので、彼女の目的が叶うことは永遠にない。かぐやは助け船を出すことにした。

 

「それなら丁度会議が終わった頃なので、一時二十分頃ではないですか」

「そ、そうです! そのくらいです!」

 

 ほっと、安心した様子の女子。そのやり取りを聞いていた白銀が、感心したように頷く。

 

「よく時間まで確認していたな。四宮」

「終わり際、偶然時計が目に入っただけですよ。たまたまです」

 

 偶然とたまたまの部分で声音が強くなる。それだと、まるで

 

 私が会長と一緒にお昼を食べたくて、何度も何度も時計を確認していたみたいじゃない! 

 

 そんなかぐやの内心を知らない白銀は、状況を整理する。

 

「つまり、スマホが盗まれたのは、十二時五十五分から一時二十分の間ということだな。スマホはどこに置いていたんだ?」

「座った直ぐ横に置いてましたよ。再現してみましょうか」

 

 言うやいなや、自分達が座っていた位置を再現した。長椅子の右から男子生徒、スマホ、女子生徒という位置関係だ。

 前には二人の目、右には男子生徒、左には女子生徒。死角になるのは後のみだが、椅子の背もたれには隙間がないので、後から盗むのも無理だ。

 

「前後左右どこからでも盗むのは困難だな」

「ええ、下手な金庫より安全な場所ですね」

「他に誰か、スマホに近付いた人物はいなかったか?」

「いませんでした。俺達だけです」

「となると……」

 

 チラリと、白銀が一瞬視線をある人物に向けたのが、かぐやには分かった。かぐやも同じ考えだったからだ。盗むのが困難であるが故に、選択肢は狭まる。

 視線を敏感に感じ取った人物、女子生徒は勢いよく口を開いた。

 

「私を疑っているんですね!」

「い、いや。そんなことはないぞ」

「疑ってなければ、そんなに鋭い目で睨みません!」

「俺の目は元からだ!」

 

 急にヒステリックになった女子生徒に、かぐやは違和感を覚えた。

 

 まるで自分から疑われようとしているみたい。

 

「身体検査をして下さい」

「いや、そこまでする必要は……」

「そうだよ。誰も疑ってないって」

 

 なんとか宥めようとする白銀と男子生徒だが、女子生徒の意志は硬く、なんとしてでも自分への疑いを晴らそうとしている。

 白銀はなんとかしてくれと、目でかぐやに助けを求める。

 

「分かりました。そこまで言うのであれば、私が検査しましょう」

「ありがとうございます!」

「では、持ち物を椅子の上に全て出して下さい」

 

 高級ブランドのロゴが入った折り畳み財布、学生証、スマホと、女子生徒がポケットから取り出した品が椅子の上に並んだ。特に変わった物はない。強いて言うなら、スマホの色が変わっている。

 

 なんなの!? このキューバリファカチンモみたいな色のスマホは! 

 

 去年のバレンタインに降臨した異物を彷彿とさせる、黒と紫が混じった反吐が出そうな色にかぐやはたじろぐ。既に身体検査をするのが嫌になったが、自分から言った手前止めるわけにはいかない。恐る恐るポケットなど、物を隠せそうな場所を触って確認する。

 かぐやは白銀から告白の言葉を引き出すため、様々な作戦を用意している。時には小道具が必要とする場合もあるので、密かに生徒会室や制服に隠す事がある。

 そんな物を隠すことに慣れているかぐやから見ても、女子生徒が盗んだスマホを隠しているとは考えられなかった。

 とはいえ、女子生徒以外にスマホを盗めたとも思えない。釈然としなかったが、かぐやは事実を伝えた。

 

「確認しましたが、何もありませんでしたよ」

 

 心底安堵した表情になる女子生徒。椅子の上の持ち物を手早くポケットにしまう。

 

「そうか……疑ってすまない」

「いえ、自分でも怪しい自覚はありましたから」

 

 白銀の性格を考えれば単に可能性として考慮したに過ぎず、本気で女子生徒を疑ってはいなかったのだろう。事実、白銀は女子生徒を疑う発言はしていない。それでも罪悪感を憶えて、素直に謝る辺りが彼らしさといえる。

 

「しかし、そうなるとどうやって盗んだんだろうな」

「なんか刑事ドラマみたいですね。ちょっとドキドキしてきましたよ!」

「おいおい、盗まれたのはお前のスマホなんだぞ……」

「まあ、パスコードも設定してますからね。大丈夫でしょう。スマホケースが残っただけでも良かったです。新品だったし」

 

 スマホケースの土を払いながら、脳天気に笑う男子生徒に、かぐや達は呆れる。

 程なくして中庭に、昼休みの終わりを告げるチャイムが響いた。白銀は学園側に報告するよう提案したが、変に大事にしたくないとの、男子生徒の申し出もあり、この件は一旦様子見となった。

 

 

 

 放課後、生徒会の仕事も終わりかぐやは一人校舎を出て歩き出した。

 活気に満ちた昼間とは打って変わり、夕焼けに染まって静かに佇んでいる校舎は、まだ夕方であるにも関わらず一日の終わりを感じさせた。

 それにしても今日は昼間の事件のせいで、用意していた計画が水泡へと帰した。

 会長も意地を張らずにさっさと告白して来てくれれば、毎度毎度面倒な計画を立てる必要もないのに。かぐやは心中で愚痴る。

 最近は計画の度に邪魔が入ってしまうのだ。映画を観に行くだけなのに『とっとり鳥の助』だの『ペンたん』だのと。

 かぐやは腹立ち紛れに道端の小石を蹴る。弾き飛ばされた石は二、三回跳ねて、校門の前で路上駐車していた黒塗りのリムジンに命中。鈍い金属音を発生させた。

 かぐやは口元を片手で覆った。

 

「あら」

 

 すぐさま後部座席の扉が開き、金髪の少女が現れた。

 歳の頃なら十代半ば。かぐやと同じ制服を着ているが、校則を遵守しているかぐやと違い、襟を外しており、スカートを折っているので丈も短い。両手の爪は青色のネイルが鮮やかに彩る。表情の無い顔を除けば今風のギャルのようにもみえる。

 少女はアイスブルーの瞳でかぐやの方を一瞥すると、そのまま一切表情を変えることなく、車の側面に屈み車体の確認に移った。

 

「修理代はいくらかしら?」

 

 かぐやは一応訪ねた。

 

「せいぜい七、八十万程度ですね」

 

 少女は何事もないように静かに立ち上がると、かぐやのほうを向いて恭しく一礼した。

 

「ほんのかすり傷です。かぐや様」

「そう」

 

 かぐやは無関心に返事を返すと、凛とした瞳で少女を見据えた。

 

早坂(はやさか)、誰かに見られてないでしょうね?」

「周囲に人がいないのは確認済みです」

 

 早坂と呼ばれた少女は、淡々と答えを返す。

 早坂(あい)は四宮家の使用人で、かぐや専属の近侍(ヴァレット)である。かぐやの命令で白銀の周りに度々出没しているので、繋がりがあると知られるのは好ましくない。その為、学校内での接触は稀であった。

 

「とにかく、お乗りください。かぐや様」

 

 早坂は使用人らしい無駄のない動きで、リムジンの車内にかぐやをエスコート。

 乗り込んだかぐやは、退屈な帰り道を思い窓の外に視線を向けた。エンジン音の後、徐々に窓の景色が流れだす。

 走り始めた車は港区の某所にある豪勢な西洋屋敷──四宮別邸へと進んでいった。

 そう、四宮かぐやは普通の女子高生ではない。誰もが知る大財閥『四宮グループ』の総帥、四宮雁庵(がんあん)の一人娘。生まれながらにしての正真正銘のお嬢様なのである。

 

 

 

 四宮かぐやは、ベットに腰掛けくつろいでいた。無駄にダブルサイズなあたりが、金持ちのお嬢様らしい。

 普段は副会長として校則通りに堅すぎる程きちんとした服装で、長い髪も結い上げて頭の後ろで留めているが、今はゆったりとしたワンピースを着て、髪も下ろしており、リラックスした格好だ。側にはかぐやが呼び出した二人の使用人控えている。

 

 

「昼休みは生徒会室にいらっしゃらなかったようですが、問題でもありましたか?」

 

 呼び出された一人、早坂が尋ねる。

 

「ええ、ちょっとした事件があったの」

「そうでしたか。ご命令どおり、白銀会長以外誰も入らないよう、生徒会室近くで待機していたのですが、──」

 

 早坂は何食わぬ顔で、さらに一言付け加えた。

 

「私は」

 

 倒置法。

 文を構成する語や文節を、あえて普通とは逆の順序にする表現方法。語勢を強めたり、印象を強める効果がある。

 詩や俳句、小説で多く用いられる修辞技法の一つである。

 

 かぐやは早坂が、わざわざこの表現方法を使った意図を察した。

 

 彼女以外は、自分の命令どおりに行動していなかった、と。

 

 かぐやが命令を出したのは2人。早坂を除くのであれば、残るは一人。

 射るような視線が、早坂と共に控えていた人物へと突き刺さる。

 

「言い訳を聞きましょうか?」

 

 視線の先には、喪服と見紛うようなダークスーツを着こなした、ひょろりと背の高い少年の姿。高貴な家柄の人物のようにも、キャバレーの呼び込みのようにも見える。

 少年、讃岐(さぬき)光谷(こうや)は表情を変える事なく、慇懃に応じた。

 

「誠に申し訳ございません。お嬢様」

 

 長身を折るようにして、音もなく(こうべ)を垂れる。

 頭を上げ、再びかぐやと向き合った讃岐は、「ですが」と続けた。

 

「誤解があるようでございます。(わたくし)はお嬢様にお仕えする身。決してご命令に背くことなどございません」

「じゃあ昼休みに、何をしていたの?」

「世界を救っておりました」

「──」

 

 いたって真面目な顔で言い放った讃岐に、かぐやは絶句する。変人だとは思っていたが、これ程までに重症だとは。

 こんな使用人を雇っていたとあっては、四宮家末代までの恥だ。

 讃岐の処遇については後で考えるとして、まずは

 

「早坂。今すぐ病院に連絡して」

「残念ながら診療時間外です。かぐや様」

 

 早坂は恭しく答えると、冷めた目で讃岐を一瞥する。

 

「人間的な感情が欠落している傾向にありましたが、さらにとんでもない病魔が巣食っていたみたいですね」

 

 主人と同僚の息のあった連携攻撃にダメージを受けながらも、讃岐はなんとか弁解する。

 

「ひどい。あんまりでございます。私はお嬢様の質問に、嘘偽りなくお答えしただけでございますのに」

「嘘偽りないから問題なんでしょう! 貴方藤原(ふじわら)さんと同じくらい、知能指数の低い発言をしているわよ」

「…………」

 

 ショックで二の句をつげない讃岐だったが、藤原の名前が出た瞬間、納得の表情で数回頷く。

 

「失礼しました。先程の言葉は、説明が不足していたようです。私、お嬢様のご命令を実行すべく生徒会室へ向かっていたところ、藤原さん──TG(テーブルゲーム)部の方々と遭遇したのでございます」

「はぁ、それが世界を救う事とどう繋がるの?」

「御三方はTRPGをプレイしていたのですが。人数が多い方が楽しいからと誘われたのです。かくして私は、旧校舎に眠る竜を退治する旅に出かけたのでございます」

「なに言ってるの」

 

 かぐやの視線と声音は絶対零度に達していたのだが、讃岐はゲームの思い出に浸っていた。

 

「【銀河探偵】という職業でプレイしたのですが、たかがゲームと侮れないものでございます。意外と奥が深く……」

 

 これに釣られたんだなと、かぐやと早坂は同時に思った。

 讃岐光谷は外面こそ、ミステリアスな使用人といった感じだか、中身はただのミステリマニア。ミステリ専門誌を定期購読し、たまの休みには本屋を巡る。部屋の本棚には古今東西の推理小説が並んでおり、教科書や参考書の類が入るスペースは圧迫され、無惨にも床に放られている。

 

「最後は時空震により消滅した都道府県の力が抜けた竜が……」

 

 いつの間にか、意味不明さを増している讃岐の話をかぐやは打ち切る。

 

「もういいわ。全く興味ないから」

「かしこまりました」

 

 えー、ここからがいいところなのに、と言いたげなのが顔に出ている。こういうところが本物の使用人と違う。早坂との差をひしひしと感じるかぐやだった。

 

「つまり、貴方は私の命令をほったらかして藤原さん達と遊んでいた、という事ね。覚悟はできているのでしょうね?」

 

 讃岐はとんでもないと、首を横にブンブン振り、早口に釈明を続行する。

 

「藤原さんは行動の読めないお方。いつ何時お嬢様の居られる生徒会室へ突撃するかわかりません。ならば行動を共にし、生徒会室へ行かぬよう誘導するのが最善だと、判断した次第でございます」

 

 ただの屁理屈でしかないが、これまでの藤原の実績を考えると一概に否定できない。

 こういう小賢しいところが、藤原さんと通じる点なのでしょうね。

 どうでもよくなって、かぐやは大きなため息を吐いた。

 難を逃れた讃岐は、すかさず話題を変えた。

 

「ところでお嬢様。事件とはいささか不穏な響き。何事でございましょう」

 

 明日もスマホが戻っていなければ、また探すことになるかもしれない。

 ふとある考えがかぐやの頭に浮かび、讃岐の顔を見た。【銀河探偵】だった男の顔を。

 かぐやに見つめられた讃岐は「お嬢様?」と眉根を寄せる。

 

「事件の詳細を話してあげるわ。きっと貴方も気に入るでしょうから」

「は、はあ……」

 

 讃岐はこの日初めて、無表情を崩し困惑した表情になった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 昼休み、早坂は中庭にある長椅子に腰掛けていた。視線は油断なく目前の渡り廊下注がれている。本日もかぐやのため、生徒会室へ人を入れないように監視しているのだ。

 

「いいのかい? こんなところに座ってるだけで」

 

 隣には讃岐が座っていた。かぐやに対する慇懃な口調は鳴りを潜めて、年相応の砕けた口調になっている。

 早坂も讃岐相手には、学校でのギャルの皮を被る必要がないので、淡々とした敬語で返答する。

 

「かまいません。生徒会室へ行くには、必ずこの道を通る必要がありますから」

「それなら、ゆっくり昼飯を食べれそうだ」

 

 包みを解いて、弁当箱を開ける讃岐。その中身が早坂の目に入った。

 付き人としてかぐやと共に学校へ登校する二人は、朝に四宮家の料理人より弁当が手渡される。必然的にメニューは同じものになる。だが、讃岐の弁当には早坂の弁当には入っていない品──爪楊枝に刺さったミートボールが数個あった。

 早坂が凝視しているのに気付いた讃岐は、爪楊枝を摘んでミートボールを持ち上げた。

 

「昨日、頼んで作って貰ったんだよ」

 

 図々しい。早坂は心の中で毒づいた。

 讃岐はミートボールを食べながら横を向く。長椅子が等間隔に並んでおり、その一つに男女が隣り合って座っていた。件の男女である。仲睦まじげな男女は、虫が寄って来そうな程に甘い空気を発していた。

 その様子を観察する讃岐の表情がいつになく真剣だったので、早坂は気になった。

 

「うらやましいんですか?」

 

 しばらく返答はなかった。讃岐は質問が自分に対してだと、思わなかったようだ。

 

「どうかな。シャーロック・ホームズを気取るわけじゃないけど、あの手の色恋沙汰は僕の理解の外にあるからね」

「その割には、あの女子生徒がスマホを盗んだ理由はわかるんですね」

「論理的に思考した結果、残った解がそれしかなかっただけだよ」

 

 なんでもないことのように語る讃岐を横目に、早坂は昨夜の出来事を回想する。

 

 

 

 ○

 

 

 

「お嬢様のご推察どおり、犯人は女子生徒であると思われます」

 

 かぐやが事件の詳細を話し終えた後の、讃岐の第一声であった。控えめな言葉とは裏腹に、声は断言するような力強さがある。

 だが、女子生徒がスマホを盗んでいないことは、かぐやも確認しているのだ。

 事件の謎を解かせようと画策して話したであろうかぐやも、納得できていないようだ。

 

「貴方は、彼女が盗んだスマホを持っていなかった理由も説明できるの?」

「はい。それにつきましても、意見を述べるのは可能かと」

「そう、では説明を聞きましょう」

 

「承知致しました」讃岐は礼儀正しく一礼した。

 

「盗まれたスマホは、所謂、心理的密室と呼ばれる状況下にありました」

 

 心理的密室とは実際には密室ではないが、状況や証言により現場が密室と同じ状態になることを指す。

 今回の場合、前と左右は二人の証言、後は長椅子に背もたれがある状況。それらによって、スマホの四方を囲む密室が完成していた。

 

「ですが、密室における犯行とは、完璧な密室でないからこそ起こるのでございます。したがって、今回の密室にも抜け穴があるのです」

「その抜け穴が、女子生徒という訳ね」

「仰るとおりです、お嬢様。女子生徒──仮に女子生徒を須磨穂(すまほ)盗子(とうこ)、男子生徒を須磨穂無男(なしお)としましょう」

「それだと彼等は婚姻関係になるわ」

 

 予想外の反論に、讃岐の目が(しばたた)

 

「……携帯(けいたい)無男としましょう」

「適当ね」

「そもそも名字はいりませんね」

「……」

 

 コホンと咳払いを一つ。讃岐は気を取り直す。

 

「盗子であれば難なくスマホを盗めたでしょう」

 

 それは飛躍し過ぎではないかと、早坂は思う。確かに盗子は密室に関係なくスマホを盗める立場にあるが、盗めたかどうかは別問題だろう。スマホは無男の真横にあったのだから。

 かぐやも同じ疑問を持ったのか、讃岐に聞いた。

 

「その、盗子さん、ですか? はどうやって、無男さんに気付かれずにスマホを盗んだの?」

 

 讃岐はO型に口を大きく開き、

 

「あーん、でございます」

「あーん?」

 

 わけが分からず、おうむ返しした早坂とかぐやの声が重なる。

 

「盗子は自分の弁当のおかずを無男に食べさせる行為のさ中、スマホを盗んだのでしょう。無男の意識が盗子が掲げる食材に向いた瞬間を狙った犯行です」

「そんなに上手くいくでしょうか? かぐや様の話を聞く限り、彼らはその行為に慣れていたようですが」

 

 初めてであれば、緊張や恥ずかしさで視野が狭くなることもあるだろうが、慣れてしまえば余裕ができる。相手の不自然な行動に気付かない程意識が逸れるとは考え難かった。

 

「慣れているからこそできる事もあります。スマホが死角になるよう、身を寄せたかもしれません。少し不自然ですが、キスを迫った可能性もあります」

「あんな場所でですか!? なんてはしたない!」

 

 反応するポイントがズレている。今どきキス程度で顔を赤くする主人に早坂は呆れた。キス以上の性的情報を遮断する四宮家の方針には、疑問を抱かずにはいられない。

 

「あ、あくまで私の推察ですので、誤解されませんよう」

 

 かぐやの男女への認識が物乞いから、飢えた獣に変わらぬよう讃岐は慌ててフォローする。

 変な方向に話が逸れたので、早坂は軌道修正を図った。

 

「盗子がスマホを盗むことが可能なのは、一応理解しました。ですが彼女は盗んだスマホを持っていませんでした。いったいどこに隠したのですか?」

「ここで重要なのは、盗子が自分から身体検査を申し出たことです」

 

 いくらか顔から赤みが引いたかぐやが「そういえば」と、思い出したように言った。

 

「彼女は自分から疑われようとしているみたいだったわ」

「彼女は当然、自分が一番に疑われると自覚していました。なので自分が無実である証拠を提示し、疑惑を晴らそうとしたのです」

 

 無実である証拠──盗んだスマホを持っていない事実こそが、盗子の犯行を否定していた。

 

「実際、盗子さんは無男さんのスマホを持っていなかったわ」

「果たして、本当にそうだったのでしょうか? スマホを隠した場所として、可能性は三つあります。

 一つ目は、制服に忍ばせた可能性。

 二つ目は、椅子の下など、中庭に隠した可能性。

 三つ目は、自分の持ち物の中に隠した可能性」

 

 讃岐は右手の人差し指、中指、薬指と三本の指を立てた。最初に薬指を折る。

 

「一つ目の可能性ですが、これに関しましては、お嬢様がお調べになったとおりなので除外して良いでしょう」

 

 中指を折る

 

「二つ目も除外して良いかと思われます。隠すとすれば長椅子の下くらいですが、その場所は無男も確認しています」

 

 最後に人差し指を折った。右手が握り拳になる。

 

「三つ目の可能性。これは検討に値します。話を聞いた限りでは、盗子の持ち物を確認はしましたが、詳しく調べてはいないご様子」

 

 早坂はかぐやの話を思い返して、盗子の持ち物を頭の中に並べた。

 

 ブランド物の折り畳み財布、スマホ、学生証。

 

「持ち物にもスマホを隠せる物はなかったわ」

「ある意味、隠してはいないのでございます。それは堂々とお嬢様の目の前にありました」

 

 かぐやとて、テストでは学年二位の成績を誇る天才である。讃岐の言わんとすることは理解できた。

 

「彼女のスマホが、盗んだスマホだったと言いたいんですか? それなら彼女がスマホを出したときに、無男は何故黙っていたの? 色の違いで分かるでしょう」

 

 反論するかぐやに、讃岐は何故か憐れむような眼差しを向ける。

 

「未だに、2000年代の文明圏から脱しておられないお嬢様には、馴染みがないかと思いますが」

「ねえ、早坂。もしかして、この男は私を馬鹿にしているの?」

「かぐや様、落ち着いてください。()るなら人気がない場所にしましょう」

 

 推理を披露し、テンションが上がっている讃岐。光が消え失せた瞳で睨まれようとも、目の前で自分の暗殺計画が練られていようと、全く意に解さない。

 スター状態の讃岐は、重大な事実を告げるように、言葉を区切って言う。

 

「この世に、キューバリファカチンモ色のスマホなど、存在しません」

 

「そんなの当たり前では」と言いかけ、早坂は気づく。

 

「スマホケース……」

「そのとおりです」

 

 ぽつりと、漏れた早坂の呟きに、讃岐は薄く笑みを浮かべた。

 かぐやは話について行けず、頭上には疑問符が連なっている。

 かぐやは生粋のアナログ人間である。携帯電話は今や絶滅寸前のガラケー。なまじ能力があるので、計算や調べ物は機械に頼らず、自力で済ませてしまう。そんなかぐやには、一般的なスマホの知識すら欠如していた。

 

「スマホには端末に傷がつくのを防ぐため、スマホケースという保護具が存在します。耐久性重視の無骨な物から、ファッション性の高い物まで、さまざまなな種類があります。盗子がスマホに装着しているのは、後者でございましょう」

「あれがファッション……」

 

 主がスマホに対して妙な偏見を持った気がしたが、早坂は面倒臭いので訂正することを放棄した。

 かぐやが正気に戻るのを待ってから、讃岐は結論を口にした。

 

「盗子の犯行を順に追って説明しましょう。盗子は無男のスマホを盗み、同時にスマホケースを外します。シリコン製のケースなので、簡単に外せます。外したケースを無男の足元に放る。芝の上なので、落下音はほとんどしなかったでしょう。

 その後、ポケットの中で無男のスマホに自分のスマホケースを装着する事で、あたかも自分は無男のスマホを持っていないかのように偽造したのです」

「でも、全部貴方の想像よね」

「根拠はございます。盗子が携帯電話を探す時、一番に思い着く方法を試さなかったのは何故でしょうか?」

 

 携帯電話を探すことも、連絡先を交換している相手も少ないかぐやに、今の質問は難しい。早坂は代わりに答える。

 

「探しているケータイに電話をかけ、着信音で場所を特定する方法ですね。ですが、忘れていただけでは?」

「そうかもしれません。では、何故彼女は、無男から時間を尋ねられた時、自分のスマホで時間を確認しなかったのでしょうか。恐らく、起動時の画面を見られると、無男のスマホだとバレるからでしょう」

 

 かぐやと早坂はハッとして思い返す。盗子は時間を尋ねられた時、慌てて時計を探した。かぐやが時間を教えると、盗子は安心した様子を見せた。

 今どきケータイを時計代わりにする人は多く、盗子は腕時計を着けていなかった。ケータイを時計代わりにしていたであろう事は、想像に難くない。

 

「付け加えるのであれば、彼女以外が犯人であるなら、スマホケースを外すという行動は不可解です。無駄でしかありませんし、外すにしても現場を離れてからでいい」

「なるほど、貴方の推論に一定の正当性があるのは認めましょう」

 

 もう一つ気になる点があった早坂は、かぐやに確認した。

 

「かぐや様、一ついいですか?」

「ええ、何かしら?」

「盗子は盗んだスマホ以外に、他のスマホは持っていませんでしたか?」

「持っていなかったわ。一台だけよ」

 

 そうなると、おかしな事になる。

 早坂は姿勢良く佇んでいる讃岐の方を向く。

 

「自分のスマホを持っておらず、ケースだけを用意していたのなら、犯行は事前に計画された事になります」

「そうですね。計画的犯行と見て間違いありません」

「だったら何故、自分が最も疑われる場所で犯行を行ったのでしょうか? 例えば教室で盗んだのなら、自分だけが容疑をかけられることはなかったでしょう」

 

 再び讃岐は薄く笑みを浮かべた。若干口角が上がっただけの笑顔だったが、不思議と少年のような純粋さを感じた。

 

「確かに、スマホを盗むだけならば、中庭である必要はありません」

「スマホを盗む以外の目的が、盗子さんにあったということ?」

「さようでございます、お嬢様。恐らく、無男にスマホケースを踏ませたかったのではないかと」

「踏ませる? 中庭なら踏ませる事ができるの?」

「確実に踏む保証はありません。ですが中庭なら、その確率は格段にアップするのでございます」

「何故かしら?」

「下が芝生だからです。無男のスマホケースの色は緑、芝生の上では気付き難くなります」

 

 それなら、誤ってスマホケースを踏む可能性は高いだろう。納得したかぐやはこの疑問の核心に迫る。

 

「中庭を犯行現場に選んだ理由は分かったわ。でも、彼女がスマホケースを踏ませたかった理由は何?」

 

 讃岐は言い淀んでから「ここからは、想像に頼る部分が大きくなりますが、ご容赦ください」と前置きした。

 

「盗子がスマホを盗んだ理由は、中を見たかったからだと思われます」

「中を見たいだけなら、無男さんが席を立った隙にでも見ればいいでしょう」

「スマホは個人情報の塊でございます。席を立つ時でも、手放す人は少ないでしょう。さらに、彼のスマホには他人が勝手に使えないよう、パスコードが設定されていました。ところでお嬢様、恋仲にある男女が、相手の携帯電話の中を見たがる動機とは、何でしょう?」

「そんなの決まってます。不貞行為がないか確認するためでしょう」

 

 かぐやは迷いなく、キッパリ断言した。

 

「そう考えるのが妥当かと思います。彼氏の不貞行為──ありていに言えば浮気を疑っていた盗子は、スマホを盗み見る決意をします。そこに新しくなった無男のスマホケースが登場。彼女はそれを、浮気相手から贈られた品だと考えた。疑いが確信に変わると共に、ある復讐方法が頭に浮かびました。それも江戸時代から続く古風な方法です」

 

 流石というべきか、かぐやはすぐにその解答へ辿り着いた。

 

「踏み絵ね」

「慧眼でございます、お嬢様。彼女はスマホケースをキリストに見立て、無男に踏み絵をさせる事で、ささやかな復讐心を満たしたのでございます」

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 讃岐の推理が正しい保証はないが、筋は通っていたので、的外れではないだろう。

 

「矛盾している気がしますね」

 

 浮気している確証を得るためスマホを盗む。浮気していると確信したから踏み絵をさせた。

 前者を成すなら、後者には至らない。後者を成すなら、前者は不要である。

 

「人に感情がある以上、その程度の矛盾はありふれているよ。残念ながらね」

 

 論理主義を掲げる讃岐は退屈そうに吐き捨て、早坂にも馴染み深い具体例を挙げた。

 

「自分に告白させようと策を巡らせる癖に、その相手のことは好きではないと言う。この矛盾さえなければ、僕の仕事も減るんだけどね」

「あー」

 

 讃岐の見解に、珍しく、本当に珍しく早坂は全面的に同意した。

 

「まあ、今回の件に関しては、さ程矛盾してもないけどね。優先順位がややこしくなっているだけで」

「スマホを盗む、踏み絵をさせるの順では?」

「時系列としてはそうなる。実際途中までは、スマホを盗むのが最優先だったろうね。だけど、新品のスマホケースを見た時点で、彼女の中で疑いは確信に変わっていた。同時に優先順位の一番も変わった、復讐にね。スマホを盗むのは更なる攻撃材料を手に入れるため」

 

 早坂は、可愛いさ余って憎さ百倍の実例を目の当たりにした気がした。気がしたというのは、早坂にはその気持ちが分からないからであった。

 ともあれ、

 

「あの様子では、ただの勘違いだったようですね」

「迷惑な話だね。おかげで僕達は二日続けて、生徒会室を監視するはめになったんだから」

「僕達?」

「……瞳孔開いてるよ」

 

 誰のせいだ。

 わがまま放題の主に、隙あらばサボろうとする同僚。その内、過労か心労で倒れるのではないだろうか。帰ったら転職サイトを検索してみよう。

 

 とりあえず、私を労らない人間全員に天罰が下ればいいのに。

 

 そんな事を考えていたせいか、ニョキっと目の前に球体の肉の塊が現れた。刺さった爪楊枝を辿っていくと、見慣れた同僚の顔。隣には一人しかいないので、わざわざ辿る必要もないのだが。

 

「はい」

「何ですか?」

「説明させるなんて無粋だね。分かりやすく言い直そうか。はい、あーん」

 

 あぁん? 

 

「私も言い直しましょう。何のマネですか?」

 

 ついに頭が沸いてしまったのだろうか、この男は。

 なおも讃岐はミートボールを差し出したままだ。

 

「深い意味はないよ。ただ、理解できない事実があるのは癪だからね。てわけで体験してみようかと」

 

 讃岐は言葉を切ると表情を挑発的に変える。

 

「それとも、普段から頭がおかしいだの、趣味が悪いだの、感情欠陥だのと言って貶めている僕相手でも、こういった行為は意識するのかな?」

「そこまでは言ってませんが……」

 

 思っているだけなので、早坂の言葉に間違いはなかった。

 見えすいた安い挑発だが、讃岐が何を企んでいるにせよ、ここで引くのはとても癪だった。

 差し出されたミートボールを見つめる。きれいな球体に形成された肉。肉を包み込むあんかけソースが、てらてらと輝く。

 誓って、早坂愛は讃岐光谷に対して特別な感情を抱いてはいない。怒りか殺意を抱くのがせいぜい。意識するなど、もっての外だ

 なんて事はない。あちらからわざわざ差し出して来ているのだ。下僕が献上していると思えばいい。何も意識することはない。

 いたって冷静に、平常心を保ちながら早坂はミートボールを口にした。

 

 味はまったく感じなかった。

 

 きっと病気だろう。そういえば今朝から調子が悪い気がしなくもない。

 背後からは讃岐の得意げな声。

 

「先に謝っておくよ。さっき言ったのは嘘でね。君は昨日、本当にこんな事で注意が逸れるのか疑ってたろう。だから実践したのさ。結果はこの通り、君のポケットにあったスマホは僕の手に……って、聞いてるのかい?」

「はい」

「じゃあ何で顔を逸らしてるんだい」

「あそこに猫がいたので」

「無関心過ぎない!?」

 

 讃岐は肩を落とし「説明のしがいがないなあ」等と不満げ。

 早坂はそれどころではなかった。体温が上がり、顔が暑い。間違いない風邪である。

 風邪を移さないよう、讃岐の方を一切見ずに話す。

 

「スマホを返してください」

 

 讃岐がスマホを、伸ばされた早坂の手に乗せる。

 

「いつまで猫を見てるんだい。……そういえば君、犬派じゃなかった?」

 

 讃岐は長身を乗り出して、早坂の視線の先を覗き込もうと腰を浮かす。讃岐の意識を存在しない猫から逸らすべく、早坂は急いで質問を投げる。

 焦っている人間の思考は単純になる。およそ万能と呼べる能力を持った早坂とて、例外ではない。つい、普段から頭にあった疑問が飛び出す。

 

「そんな事より、貴方はいったい何者なんですか?」

 

 去年の夏、四宮家本邸より現れた使用人。

 かぐやの命令で身辺調査を行ったが、両親は健在で、父親が大手食品会社の社長である事、一年前その食品会社が四宮グループの傘下に加わった事以外、目ぼしい情報はなかった。通っていた学校も普通の学校だ。並外れた推論能力を有しているなど、知りもしなかった。

 讃岐は浮かせた腰を落とし、椅子に深く座り直すと生真面目な顔で言った。

 

「僕、将来はプロの棋士か、探偵になりたかったんだよね」

 

 答えになっていないのではないか? 早坂は熱が治まるのを感じつつ、不満に思った。




中庭の描写は原作を参考にしています。原作だと下は芝生に見えたので。


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白銀御行は解読したい

2022/7/7
図書記号に誤りがあった為、一部内容を変更しました。


 四宮かぐやは放課後、生徒会室の長机で書類仕事をこなしていた。

 生徒会室には他に白銀しか居らず、その白銀も窓際の生徒会長用の事務机で、同じように書類と向き合っていた。書類の上を走るペンの音だけが室内にBGMとして流れている。

 

「四宮は友人とケンカをした事があるか?」

 

 唐突に白銀がそう言って尋ねたのは、仕事がひと段落して、かぐやが淹れた紅茶を飲んでいる時だった。

 聞かれて思い浮かべるのは、いつもふわふわとした笑みを絶やさないピンク髪の友人だ。

 彼女とケンカをした事はなかった。つい、憎悪を込めた視線を送ったりはするが、関係は中学から変わらず良好だ。

 

「ないですね。とはいえ、私は友人が多い方ではありませんから」

 

 そうか、と物憂げに呟く白銀。こんな様子の白銀は珍しかった。

 

「どうかなさったんですか、会長?」

 

 逡巡しているようだったが、鋭い目をかぐやに向けると「例えばの話なんだが」と始めた。

 

「これまで仲良くしていた友人が、急に余所余所しくなったとする。その場合、原因は何だろうか?」

「はあ。これまでとは、どの程度の期間ですか?」

 

「そうだな、去年の夏くらいだから……」例え話にしては具体的だ。薄々勘づいてはいたが、白銀自身の話なのだろう。

 

「十ヶ月くらいだな」

 

 約一年、交友を深める期間としては充分だ。夏を七月と仮定して十ヶ月後は翌年の五月。

 白銀の体験である以上、相手が存在する。原因を探るには、まず相手を特定する方が効率が良い。

 白銀が去年の夏に出会った人物。最初に挙げられるのはかぐや自身である。だが自分ではないと、かぐやは断言できる。出会ったばかりの頃は、お世辞にも仲が良いとは言えなかった。むしろその逆だ。

 いきなりテストの点数で勝負しろと、言われた時は驚いたものだ──そうかと、かぐやは確信した。

 かぐやは白銀と出会った日、もう一つの出会いがあった。その人物なら去年の夏からという条件に一致する。最近疎遠になっていたのは知る由もなかったが、後で問い詰めればいい。

 

「クラスが変わったり環境に変化があって、話す機会が減っただけかも知れませんし、少し様子を見てはどうでしょう」

「確かに他のクラスには、何というか独特の入りづらさがあるからな。気軽に話しに行くにはハードルが高いか」

「何でしたら、私の方から話をつけておきましょうか?」

「ん!? い、いや! これは、あくまで例えばの話だからな!」

「はい、そうでしたね」

 

 誤魔化すように紅茶を啜る白銀。そんな白銀を見たかぐやは、くすくすと上品に笑った。

 どこにでもある平和な日常の一コマ。

 

 しかし、往々にして平和は破られるものである。大抵は碌でもない理由によって、それも唐突に。

 バタンと、大きな音を立てて生徒会室の扉が勢いよく開いた。扉とはドアノブを捻って押すだけで開く構造であり、力を込めてど突く必要はない。よって、このようにわざわざ無駄に労力を消費し、生徒会室の扉を開くのは、慌てているか生徒かピンク髪の女子生徒しかいない。ほとんどの場合は後者であり、今回もその例に漏れていなかった。

 

「ラブ探偵チカ参上です!! 事件発生ですよ!」

 

 藤原(ふじわら)千花(ちか)は扉を開け放った手をそのままに、騒々しく捲し立てた。

 ピンクの前髪の下にある大きくつぶらな瞳が輝いており、走って来たのか、頬に赤みが差し発育の良い胸が上下している。何故か頭にはリボンの付いた鹿撃ち帽、手には虫眼鏡を装備している。

 ラブ探偵と中等部からの付き合いであるかぐやは、彼女が理解不能な言動をしている時程厄介であると、経験則で知っていた。

 

「なんだその格好?」

「フッフッフ、探偵ですよ。ワトソン君」

「誰がワトソンだ」

 

 頬が引き攣った白銀の問いに、不敵な笑みを浮かべて得意げに答える藤原。うちの使用人のせいで、探偵っぽい語彙が増えてしまっている。先日もクイズ雑誌を持ってきていたので、謎解きが好きなのかも知れない。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。

 

「そんな事より、図書室で事件が起きたんですよ」

「また盗難じゃないだろうな」

「また? 何かあったんですか」

「前に、ちょっとな……」

 

 怪訝そうな表情を浮かべた藤原だったが、事件の話をしたくてたまらない様で、すぐに明るい笑顔に表情を変えた。

 

「さっき、図書室に行ってきたんですけど──」

 

 藤原の語った内容を要約すると、こういう事だった。

 藤原が図書室へ行くと、カウンターで二人の図書委員の女子生徒が額を突き合わせていた。司書教諭の姿は見当たらなかった。

 藤原は迷わずカウンターへと向かった。図書委員の不真面目な職務態度を咎めよう──等と考えた訳ではない。そんな考えは、頭の片隅にすら存在しなかった。単に面白そうな気配を感じ取ったからだ。

 二人は返却された、四六判の本三冊を熱心に調べていた。何をしているのか藤原が尋ねると、図書委員はたった今返却された奇妙な三冊の本について語った。

 三冊の本を返却したのは、三年の男子生徒だった。一度に三冊も借りる生徒は珍しいが、図書室の本は一度に四冊まで貸し出しが許可されているので、それは事態は奇妙ではない。

 変に思ったのは、一枚の紙が本から落ちたからだった。紙は本の裏表紙の裏に付いている、貸し出しリストだった。貸し出しリストには借りた日、返却日、名前を記入する欄がある。問題は返却日の欄で、今日ではなく一昨日の日付になっていた。他のリストも確認すると、一冊は今日の日付、もう一冊は昨日の日付と三冊の返却日が異なっていた。更に昨日の日付になっているリストには、名前の横に14と数字が記されていた。

 パソコンで過去の男子生徒の貸し出し履歴を確認しようとしたところで、司書教諭が現れて注意されたので、それ以上調べる事はできなかった。

 

「四冊同じ日に返却しているのはギリギリ見えたんですけど、本のタイトルまでは分かりませんでした」

 

 話を聞き終えたかぐやは、返答に窮した。事件なのだろうか、これは。むしろ、人の貸し出し履歴を簡単に部外者に見せている方が事件ではないだろうか。プライバシーの保護も何もあったものではない。

 

「きっと何かの暗号です。大事件の前触れに間違いありません!」

 

 暗号。

 軍事機密を伝える手紙、見られたら恥ずかしい日記と、人類は様々なものを暗号化させてきた。それはミステリーを語る上でも欠かせない。犯人からの手紙、腹部を刺された被害者のダイイングメッセージ、紳士的な怪盗の予告状等々、手を変え品を変え暗号は今なお生み出され続けている。

 

「返却された本のリストを印刷してもらいましたので、見てください」

 

 藤原はポケットから折り畳まれたA4サイズの用紙を取り出し、長机の上に広げた。白銀も椅子から立ち上がり長机へ移動する。

 

「上から返却日の新しい順に並べています」

 

 今日 『カミュ全集2』/958C2

 

 昨日 『シャーロック・ホームズ全集2』/938D2

 

 一昨日 『ハメット短編集1』/938H1 名前の横に14の文字

 

 タイトルが印刷された用紙に、女の子らしい丸みのある字で返却日と補足が書き込まれている。用紙を覗き込んでいた白銀が、タイトルの横の数字を指差した。

 

「これはどういう意味なんだ?」

「請求記号って言うらしいですよ。本の背表紙に貼ってあるラベルの事です」

 

「ああ、あれか」と納得する白銀に、かぐやは説明を付け加えた。

 

「ラベルは三段あって、一段目が本をグループ分けするための分類記号、二段目は著者名の頭文字を記した図書記号、三段目は巻冊番号で全集やシリーズ物に付けられます。図書館によって細かい違いはありますが、うちの図書室はこの付け方で合っていると思います」

 

 かぐやは用紙の『シャーロック・ホームズ全集2』の部分を指で示して、

 

「この本なら、分類記号が938、図書記号がD、巻冊番号が2となります」

 

「ほう、そんな意味があったのか」

 

 説明を聞いて感心している白銀に、かぐやは気を良くした。対照的に藤原は首を傾げた。

 

「でも、前に借りた漫画は、一段目が数字じゃなかったですよ」

「漫画や文庫本は例外として、一段目に出版社の頭文字を付ける事になっているんです」

 

「そうだったんですねー」藤原は何度も頷いた。

 

「で、どうですか?」

「どう、とは?」

 

 期待を込めた瞳をした藤原の、主語の抜けた質問にかぐやは首を傾げた。

 さも当然と、藤原は答える。

 

「暗号は解けましたか? 会長はともかく、かぐやさんは謎解き得意じゃないですか! この前のクイズも全問正解でしたし」

 

『懸賞クイズ』なる雑誌を持ち込んだ時の事を言っているのだろうが、答えが用意されているクイズとは違う。なにより、貴重な放課後を解答があるのかも分からないクイズに費やしたくはなかった。

 

「藤原さんが得た情報だけで、答えが導き出せるとは限りませんよ」

「考えてみないと分からないじゃないですか!」

「仮に答えを出せたとして、合っているか確認するすべがありません」

「本人に直接聞けばいいんですよ」

 

 しぶとい。

 

「藤原さんの友人に、この手の謎解きを尋常ではないくらい好んでいる人がいませんでしたか? その方に相談してみては」

 

 かぐやは使用人を売った。

 

「光谷君の事ですか? 探しに行ったんですけど、用事があるとかで帰っちゃったみたいです」

 

 肝心な時に役に立たない使用人である。

 このままでは謎解きコース一直線だ。かぐやが状況を打破するため思考を巡らせた瞬間、ゆらりと白銀が紙から顔を上げた。

 

「残念だが、俺はまだ仕事が残っている。仕事がなければ考えられたんだがな、本当に残念だ」

「そうですか。それは仕方ありませんねー」

 

 大袈裟に残念を強調しながら、白銀は事務机に戻ると、熱心に書類と向き合った。

 

 逃げましたね、会長! 

 

 かぐやは恨みがましく睨むが、書類に集中している白銀は気づきもしない。

 結局断り切れず、かぐやは帰るまでの間、藤原の謎解きに付き合わされたのだった。

 

 

 

 ○

 

 

 

「かぐや様がお呼びです」

 

 早坂が告げた途端に、讃岐の顔色が青ざめた。心当たりを探して視線が宙を漂う。暫くして、照準を宙から早坂に合わせた。

 

「今日は真面目に仕事してたのに……」

「普段不真面目な自覚はあったんですね」

 

 早坂がかぐやに呼ばれる事は多いが、讃岐が叱責以外の理由で呼ばれたのは数える程しかない。なので、讃岐の言うとおりだとすれば、理由は明白だった。震える声で、讃岐はその理由を口にした。

 

「クビか」

「クビですね」

「……いや、そういえば、図書室で借りた本の貸し出し期限が過ぎてたな。それの事かも」

「かぐや様より図書委員に呼び出されるのが先でしょう」

「…………」

 

 讃岐の現実逃避は一瞬で両断された。

 後に残った重たい沈黙をものともせずに、今にもスキップしそうな軽やかさで踵を返した早坂は、かぐやの部屋へと歩み出した。讃岐も憂鬱そうに後を追った。

 

「君さ、勤続二年目にして、退職の危機に打ち震える同僚を気遣うつもりはないのかい」

「無理ですね」

「まあ、それはいいんだ。それより頼みがあるんだけど、僕がクビにならずに済むよう、かぐや様に取りなしてくれないかな」

「無理ですね」

「頼むよ、明日からは真面目に働くから!」

「無理ですね」

「……さっきから適当に返事してない?」

「無理ですね」

「……」

 

 あらゆる会話に「無理ですね」を自動返答する、低レベルなBOT(ボット)と化した早坂に、讃岐は交渉を諦めざるを得なかった。

 そうこうしている内に、かぐやの部屋の扉が見えた。背後のどんよりした気配を無視して、扉を手の甲で軽く三回叩いた。

 

「入っていいわよ」

 

 返事があったので、早坂は扉を開いて中に入る。讃岐も無表情で姿勢正しく、最低限使用人らしさを保って入室した。

 かぐやは勉強机の椅子に座って待っていた。勉強は既に済ませており、机の上は綺麗に片付いていた。

 

「連れて参りました、かぐや様」

 

「ありがとう」かぐやは礼を述べ、讃岐に悠然と視線を向けると、いきなり本題を切り出した。

 

「貴方、最近会長を避けているみたいね」

「……!」

 

 用件が解雇通知ではないと分かり、讃岐は拳を握り小さくガッツポーズ。早坂は舌打ちした。事情を知らないかぐやは、二人の使用人を不思議そうに見比べた。

 かぐやが何か言うより速く、讃岐は慌てて答える。

 

「はじめに言っておきたいのですが、白銀君のことは、友人としても人としても尊敬しております。混院の私が学園に自然に溶け込み、お嬢様の指令を遂行できるのも、ボッチという学園生活において、最も不名誉な称号を頂かずに済んでいるのも、全て彼のおかげでございます」

 

 かぐやの通う私立秀知院学園は、中高一貫校というのもあり、グループが早い段階で出来上がる。そのためか、小学生から秀知院に在籍するサラブレッドを「純院(じゅんいん)」。一般受験等の外部入学者を「混院(こんいん)」と呼ぶ風習が根付いている。いうまでもないが、混院の生徒は輪から外れる傾向にある。

 讃岐光谷も、去年の夏に外部から秀知院に入学した混院である。

 そういった経緯があるとはいえ、讃岐の言い分は怪しい。彼の外面を取り繕う能力は、早坂にも引けを取らない。混院というハンデを負ったところで、必要な人間関係を築くのは容易だったはずだ。

 

「それなら、避ける必要はないでしょう? 去年は普通に接していたはずよ」

「一身上の都合でございます。こればかりはお嬢様といえど、申し上げられません。どうかご容赦を」

 

 何を聞かれても失礼な言葉か、当たり障りない言葉を返す讃岐にしては珍しい。讃岐の言う都合が一体何なのか、言動からは窺い知れない。

 かぐやも珍しく思ったようで、探るように目を細め質問した。

 

「都合というのは、貴方が本邸から派遣された事と、関係があるのかしら?」

 

 早坂は讃岐の表情の変化を注意深く観察した。それが自身の使命だったからだ。

 四宮家と一括りにいっても、一枚岩ではない。だからこそ、見極めなくてはならなかった。讃岐光谷が主の敵であるかどうかを。

 だが、讃岐の表情筋は一切動かない。感情を窺わせない使用人らしい無表情を保っている。

 

「私、一介の使用人でございます。旦那様方のような高貴な方々から、信用いただく立場にはございません」

 

 はぐらかすような返答の後、

 

「とはいえ、お世話になっているお嬢様に対して、隠し事ばかりでは、あまりに不義理というもの。答えられる範囲で申し上げますと、雇用上の条件なのでございます」

 

 先程の言をあっさり翻して申し上げると、これでおしまいと言わんばかりに、讃岐は話を打ち切った。早坂は煙に巻かれたような気分になった。

 かぐやも聞き出すのは無理と悟ったのか、追求をやめて本来の目的に軌道修正した。

 

「まあ、いいわ。話を戻すけれど、会長が貴方との交友関係に悩んでいる状態は好ましくないわ」

「はい。白銀君の苦悩に御心を痛めるお嬢様の心中、お察しいたします」

 

 かぐやは固まった。言葉の意味を咀嚼するような間を置いて、声を荒げた。

 

「べ、別に痛めていません! 私が会長のために心を痛める理由がないでしょう! 違います。私は副会長として、生徒会長の仕事に支障が出ないか、心配しているだけです」

「そうですね、かぐや様。会長の事がとても心配なんですよね」

「副会長としてって言ってるでしょう!」

 

 散々叫んだかぐやは、乱れた呼吸を整えるのに数十秒の時間を要した。落ち着くと、ルビー色の瞳をじっとりと二人の使用人に向けた。

 

「なんなの貴方達。普段は仲が悪いくせに、こんな時だけ息が合うわね」

 

 讃岐は肩をすくめ、早坂は露骨に嫌そうな顔をする。

 

「仲が悪いのは否定しませんが、私は彼女を嫌ってはおりません。嫌われているだけでございます」

「私も嫌っていませんよ。嫌う程の関心もないですから」

「仕事に差し支えないのなら、もう、それでいいわ……」

 

 かぐやは額に手を当て、大きなため息を吐いた。そして投げやりな口調で讃岐に命じた。

 

「貴方に話題を提供してあげるから、明日会長と話してきなさい」

 

 かぐやは、今日生徒会室で藤原から聞いた出来事を語り出した。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 六限目が終わると、生徒たちはそれぞれの目的地に散って行った。部活動に励む者、新作ゲームをプレイするためいち早く教室を飛び出す者、教室に居座り井戸端会議を開催する者。

 友人の風祭(かざまつり)(ごう)豊崎(とよさき)三郎(さぶろう)に持ちかけられた合コンの誘いに断りを入れ、生徒会室に向かおうとした白銀の前に、狙ったかのようなタイミングで、讃岐光谷は現れた。

 ひょろりとした長身に、地味ながら整った顔立ち、瞳には理知的な光が宿っている。しかしその全てを、頭に被ったシャーロック・ホームズのような鹿撃ち帽が台無しにしていた。

 

 要するに、凄くバカっぽかった。

 

 既視感のある格好をした少年は、気やすい調子で白銀に声をかけた。

 

「やあ、白銀君。久しぶりだね。隣のクラスとはいえ、一年の時と違ってクラスが別だと話す機会も中々ないね。それに僕、放課後は用事が多いから」

 

 彼らはクラスが分かれてから疎遠になったんだなと、誰が聞いても分かる説明的な台詞。違和感しかない。

 

「あ、ああ。というより、その格好はどうしたんだ讃岐」

「いいだろ、これ。演劇部から借りて来たんだ」

「アホと思われるからやめた方がいいぞ」

「ご忠告どうも。それより、面白そうな話を聞いたんだけど。君達、暗号を解読してるんだって? 生徒会の仕事ってのは幅広いね」

 

 何で知ってるんだ? と思ったが、讃岐は藤原と仲が良いようだった。彼女から聞いたのだろう。ついでにいえば、鹿撃ち帽を演劇部で借りられる事も、藤原から聞いたのだろう。

 隠す理由もないので、白銀は素直に頷いた。

 

「生徒会とは関係ないがな。藤原書記の持ち込み企画だ。俺は仕事に集中していたから、謎解きには参加しなかった。いや、できなかったが」

 

 ずっと考えていて仕事が手につかなかった上、帰ってからも勉強時間を削って夜遅くまで考え、妹に怒鳴られるまで唸り続けた結果、いつもより寝不足であるとは口が裂けても言えない。

 

「なるほど、それで家で夜遅くまで考えてたから、いつにも増して、世の中が気に食わない不良少年のような目をしている訳だ。妹さんに止めてもらって良かったね」

「誰か不良少年だ。俺の目はそこまで……え!?」

 

 白銀は口元を手で押さえた。良かった、裂けてはいない。

 

「なんで知ってるんだ!?」

「君が分かりやすいんだよ。残念だけど、今日はホームズごっこをやりに来た訳じゃないから、説明は割愛させてもらうよ」

 

 ホームズごっこをしているとしか思えない格好だが、どうやら違うらしい。

 

「暗号の謎が解けたから、ぜひ聞いて欲しくてね。ここじゃ何だから、場所を変えようか」

「それは構わんが、一つ条件がある」

「何かな?」

 

 ジロリと、鋭さが増した目で白銀は讃岐を見据える。キョトンとしていた讃岐だったが、真剣な雰囲気を感じたのか表情を引き締める。

 

「その帽子はやめてくれ。俺までアホと思われる」

 

 

 

 ○

 

 

 

「解読できたかしら。これが本当に暗号なら、だけど」

「はい、解読するのは可能かと思われます」

 

 お嬢様らしい尊大さで問うかぐやに、讃岐は言葉上だけは謙虚に応じた。

 

「そう、では会長に話して恥をかかないよう、聞いてあげるわ」

「御心遣い感謝いたします」

 

 胸に手を当て、慇懃な態度で頭を下げた讃岐は推理を開陳する。

 

「同時に返却された三冊の本は、セットで暗号としての役割を果たす、と考えてよろしいかと思います」

「そうね。そうでないのなら、貸し出しリストの日付通りに、一冊ずつ返却すれば良いだけ」

 

 かぐやの同意を得て、讃岐は満足そうに頷く。口元には薄らと笑みが浮かび、瞳は爛々と輝いている。

 普段はのらりくらりと感情を表に出さないが、謎を解いている時だけは感情を隠そうともしない。常にそうなら楽なのに、早坂は内心で愚痴る。

 

「手紙等ではなく図書室の本を選んでいることからも、解読の鍵は図書室の本特有のものでしょう」

「それが、裏表紙の裏にある貸し出しリストね」

「左様でございます。しかし、それだけではございません。それ以上に重要な役割を果たす鍵がございます」

「他に? 貸し出しリスト以外、変わったところはなかった気がするけど……」

 

 返答日の日付、謎の14という数字。妙な点がリストに集中しているため、目が行きがちであるが。図書室の本ならではの特徴が、もう一つあったのに早坂は思い至った。

 

「請求記号ですね」

「そうです。請求記号が解読の鍵とすると、更なる疑問にも答えが出ます」

 

「話を聞いただけで、よくそこまで疑問が出るわね」かぐやは呆れたように言った。

 

「疑うのは得意なもので。更なる疑問点とは、借りている本が作品集ばかりである点です」

 

『シャーロック・ホームズ全集』『ハメット短編集』『カミュ全集』ばかりというか全て作品集だ。だが、それが請求記号とどう繋がるのだろう。

 顔に出ていたらしく、讃岐はこちらを向いて言った。

 

「請求記号の巻冊番号は作品集、シリーズ物の場合のみ付けられ、それ以外の場合は空欄になるのです」

「巻冊番号が必要なら、わざわざ嵩張る作品集にせずに、書記ちゃんみたいにシリーズ物の漫画を借りればいいのでは?」

「シリーズ物として最初に思い付くのは、漫画もしくはライトノベルといった書籍ですが、それらの大半は文庫本であり分類記号が通常とは異なるのです」

 

 これで伝わるだろうといわんばかりに、言葉を止めた讃岐。ここまで言われれば、早坂にも讃岐の言いたい事は理解できた。

 

「暗号には分類記号と巻冊番号が、正常に記載されている本が必要だった」

 

 讃岐はゆっくりと頷き、肯定の意を示した。

 

「厳密には図書記号も必要ですが、これは一旦置いておきます」

「それだけ説明するのに、ずいぶん回りくどいやり方をするわね」

「急がば回れと、ことわざにもございます。お嬢様も退屈なされておられるようですので、早速暗号の解読に参りましょう」

 

 讃岐はかぐやの方へと向き直って、

 

「請求記号に重点を置いて本を選んでいる事から、暗号は請求記号と貸し出しリストのみで完結するものと思われます。ではまず、貸し出しリストの日付ですが、これは単純に順番を表しています。

 次に分類記号と巻冊番号ですが──」

「3、9、5」

 

 かぐやが突然言い放った数字の羅列を聞いた讃岐は、少し驚いたように眉を上げた。

 

「お気付きになられておりましたか。流石はお嬢様、慧眼でございます」

 

 歯の浮くような賛辞に、かぐやは不愉快そうに眉間に皺を寄せた。

 

「このくらい、藤原さんのクイズと変わらないわ。巻冊番号は分類記号の何番目の数字が必要かを示している。『シャーロック・ホームズ全集2』の分類記号は938で巻冊番号は2だから、分類記号の2番目の数字を抜き出して3になる」

 

『ハメット短編集1』の分類記号は938、巻冊番号は1なので必要な数字は9となる。同様の方法で『カミュ全集2』は5となる。

 それを返却日の早い順に並び替えると、

 

『935』

 

「でも、これでは意味にならないわ。見え透いたお世辞を言うくらいなのだから、解読方法はこれで合っているのよね?」

 

「いえ、決してお世辞では」讃岐は困ったようにボソボソ。

 

「解読方法は間違いないかと。ただし、これで終わりではございません。数字が意味を成すには、区切らなければなりません。お嬢様、藤原さんの言葉を思い出してください」

 

 かぐやは顎に手を当て、考える仕草をする。少しして、思い付いたようで顔を上げた。

 

「怪盗が秀知院のどこかに隠した財宝の在処を示していると、言っていたわ。まさか本当に!?」

「違います。藤原さんがそのようなトンデモ推理をしたとは、存じ上げておりません」

 

 讃岐は藤原の推理を冷めた口調で切って捨て、「そのような愚にも付かない妄言はお忘れください」と毒を吐いた。

 

「藤原さんは、件の男子生徒の返却履歴を見て、四冊同じ日に返却されていたと、仰っていました。今回は三冊で暗号が完成しますが、四冊で暗号を作る事も可能なのでございます。さて、数字四つで構成され、なおかつ区切りが存在するものとは何でしょうか?」

 

 かぐやは一点を見詰めたまま、目を見開いた。早坂は主の様子を不審に思い、その視線の先を辿った。

 天蓋付きの大きなベッド、枕元には目覚まし機能付きのデジタル時計。はっと息を呑んだのが自分でも分かった。

 一足先に結論に辿り着いていた讃岐だけが、泰然とした態度を崩していなかった。

 

「そう時間です。したがって935は9と35に区切られます。時間に直すと、9:35になります。9ではなく09と表す方が正確ですが、意味は伝わるので、10時以降の時間を伝える時以外は省いているのでしょう」

 

 説明し終えたような雰囲気を出しているが、まだ疑問は残っているし、9:35が何の時間なのか分かっていない。

 

「貸し出しリストの数字が残っているわ。何の意味もない訳ではないのでしょう?」

「勿論でございます。この謎が解けたからこそ、三冊の本が時間を表していると、気付くことができたのでございます。お嬢様は疑問に思われなかったでしょうか? 何故ホームズ全集の1巻ではなく、ハメット短編の1巻を借りたのかと」

 

『シャーロック・ホームズ全集1』と『ハメット短編集1』の分類記号、巻冊番号は共に同じである。ホームズ全集の1巻と2巻を借りた方が自然であり、ハメット短編集を探す手間も省ける。それらのメリットを放棄してまで選んだのだから、そこには何かしらの意味があるはずだ。

 讃岐の問いに、かぐやは答えをもって返した。

 

「図書記号がDではなく、Hでなくてはならなかったのね」

「そう考えてよろしいかと。そして、図書記号のHと貸し出しリストの14を合わせますとH14となります。私はこれが座席番号なのではないかと考えました。そして935の数字が座席番号に付帯すると考えた時、時間を表しているのではないかという結論に至ったのです。時間と座席番号が必要なものといえば」

 

 強調する効果を狙ってか、間を開けて讃岐は告げた。

 

「映画でございます。この暗号は、映画の時間と座席番号を伝えているのです。恐らく伝えられた側は、暗号で伝えられた席の隣の席を予約して、一緒に映画を観る計画なのではないかと思います」

 

 解答を聞いたかぐやは、理解できないと言いたげな表情を浮かべた。

 

「映画の誘いを暗号に? それくらい普通に約束すればいいでしょう」

 

 早坂は自分の主を見る視線が、冷めていくのを自覚した。

 かぐやは以前に白銀を普通に映画に誘う事ができず、当日偶然出会った風に装って、一緒に映画を観に行ったのだ。

 もう忘れてしまったのだろうか? 記憶力は良かったはずだが。

 

「そうできない事情があったのでしょう。お嬢様は暗号が誰に宛てられたものだと思いますか?」

「図書委員の誰かでしょう。本の貸し出し履歴は、図書委員でないと確認できないのだから」

「無論その可能性もございます。ですが、共に映画に行くのを公にできず、図書室に関わる人間という前提の元推理を進めますと、もっと相応しい人物が存在するのです」

 

 貸し出し履歴を見れる図書委員以上に相応しい人物、早坂には検討もつかなかった。

 そんな早坂を嘲笑うかのように、淀みない口調で讃岐は言葉を続けた。

 

「その人物とは──」

 

 かぐやと早坂は言葉を失った。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 秀知院学園の図書室を利用している生徒は、白銀と讃岐以外に居なかった。テスト期間であればまた違ったのだろうが、教育機関としては嘆かわしい限りである。

 横向きに並んだ長机の内、カウンターから離れた机に白銀と讃岐は陣取っていた。

 白銀は図書室のカウンターに備え付けられた、パソコンのキーボードを操作している司書教諭を見た。

 年齢は二十代半ばか後半。長い髪は後ろで束ねている。銀縁の眼鏡が、知性的な印象を引き立たせていた。

 白銀は向いに座る讃岐に顔を近づけた。

 

「本当なのか?」

「あくまで推理だよ。確証はない」

 

 確証はないと言いつつ、間違っているとも思ってないようだ。白銀も推理を聞いて納得したので、間違っているとは思わないが、再度確認するくらいには信じ難い内容だった。

 

 三冊の本が司書教諭に宛てた暗号だったとは

 

 その事実が指すところは、

 

「男子生徒と先生は、その……そういう関係ということだな」

「何回言わせるんだい。まあ、気持ちは分かるけどね。僕もこの結論に達した時は驚いたよ」

 

 教師と生徒の恋愛など、フィクションだと思っていたが、事実が小説よりも奇なる事も、たまにはあるらしい。

 

「謎は解けたが、藤原書記には言わない方が良いだろうな」

「そうだね。たぶん、きっと、彼女が言いふらしたりはしないと思うけど、何が起こるか分からないからね」

 

 仲が良い割に、藤原はあまり信用されていないようだ。ついでに、白銀は讃岐の推理について疑問を口にした。

 

「男子生徒は何でハメット短編集の2巻ではなく、ホームズ全集の2巻を借りたんだ?」

 

 ハメット短編集が暗号に必要だったのは分かるが、それならハメット短編集の1巻と2巻にすればよかったのではないか。それだけが、推理に対する疑問点だった。

 讃岐は何でそんな事を疑問に思うのか分からないというように、キョトンとした顔。

 

「そんなの決まって……。ああ、そうか!」

 

 讃岐は納得と共に鞄に手を入れた。

 

「僕にとっては疑問でもなんでもないから、言い忘れてたけど」と前置きして、鞄から一冊の本を取り出す。

 

『ハメット短編集2』

 

「借りられなかったんだよ。僕が二週間前から借りてたからね」

 

 とっくに貸し出し期限過ぎてるじゃねぇか。さっさと返してこい。

 

 

 

 図書室で讃岐と別れ、生徒会室へと向かっている途中、白銀はふと疑問に思った。

 

 図書室の暗号を讃岐に話したのは、四宮かぐやではないか。

 

 藤原から暗号の話を聞いたのが昨日。讃岐が知る機会があったのは今日だけだが、藤原と同じクラスである白銀は、休み時間に藤原が教室から出ていないのを知っている。昼休みは生徒会室で昼食を共にした。

 讃岐が白銀の前に現れたのは放課の直後。讃岐が藤原から暗号の話を聞くのは時間的に不可能だ。

 話したのが藤原でないなら、消去法でかぐやとなる。かぐやと讃岐は同じクラスなので、話す機会はいくらでもある。

 やはり、昨日相談したからだろう。どうして白銀自身の事であるとバレたのかは分からないが、かぐやが讃岐との仲を取り持とうとしたのは間違いない。もっとも、白銀の悩みはただの杞憂ではあったが。

 自然と白銀の口元に笑みが溢れた。

 生徒会室に着くと、白銀は気合を入れて扉を開け放った。

 

 本日も恋愛頭脳戦の幕は上がった。



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マスメディア部は調査したい

 マスメディア部。

 校内新聞の出版しか、部の活動内容を知らない部外者からすれば「新聞部でいいじゃん」と思わずにはいられないが、実際のところマスメディア部の活動は新聞作成以外にも、SNSから裏サイトの噂調査など、多岐に渡って校内の情報管理を行っている。

 マスメディア部の部員である(きの)かれんは、部室で親友である巨瀬(こせ)エリカと共に、裏サイトに寄せられた投書を確認していた。

 木々は瑞々しい新緑に色づき、日もすっかり長くなった。夏の到来を感じさせるのはそれだけでなく、かれんやエリカを含む大多数の秀知院学園の生徒は、制服を長袖から半袖へと衣替えしていた。

 夏の風物詩といえば、プール、かき氷、海と様々だが、裏サイトに集まるのはそんな明るい話題ではない。

 

【動く絵画】

 

【首吊りの木】

 

【十三階段】

 

 秀知院に伝わる七不思議を筆頭に、ポルターガイスト、金縛り。扇風機に代わって身体と肝を冷やしてくれる、実用的な話題で溢れていた。背筋の冷やし過ぎには注意をした方がいいだろう。

 数ある怪談話の中でかれんが目に留めたのは、今秀知院で最も話題になっている七不思議の一つ【無人のピアノ・ソナタ】であった。

 

「これ本当だと思う?」

 

 一緒にパソコンを覗き込んでいたエリカが意見を求めた。

 

「それを調査するのが(わたくし)達の仕事ですわ」

「でも悪戯かも知れないでしょう。ここの投書ただでさえ変なのが多いんだから」

 

 かれんの返答に、なおも食い下がるエリカ。おやおやとかれんは思った。もしかして、

 

「エリカ、調査するのが嫌なんですの?」

 

「うっ……」とバツが悪そうに呻いたエリカだったが、その後一転して開き直った。

 

「だって、怖いの苦手なんだからしょうがないじゃない!」

 

 エリカはパソコンを掴むと、かれんの方に向けた。画面には【無人のピアノ・ソナタ】に遭遇したらしい生徒からの投書が映し出されていた。

 

「こんなの見たら怖くて調査なんてできないわよ!!」

 

 かれんは映し出された投書の内容に目を通した。

 

 

 

 

 私が演奏とはいえない、不規則で不気味なピアノの音色をを聞いたのは夜の学校でのことでした。

 授業で出た課題に使う教科書を学校に忘れた私は、少し怖かったのですが夜の学校に取りに行きました。時刻は午後八時くらいだったと思います。

 校内は暗くて、今にも何か出てきそうな雰囲気でした。教室に鍵が掛かっているだろうと思ったので、最初に一階の職員室を目指しました。

 職員室には明かりが灯っており、何名かの先生方の姿がありました。私はそれを見て、安心すると共に勇気が出てきました。鍵を貰い職員室を出る頃にはしっかりとした足取りで二階の教室に行きました。廊下の電気は自動で点くので明るく、次第に恐怖心は薄れました。

 教室に着く頃には、なぁんだ夜の学校なんてこんなものかと、余裕すらできていて、何か起これば話の種になるのにと、邪な期待すら抱きました。今になって振り返ると、変な期待なんてしなければ良かったと後悔しています。

 目当ての教科書を持って教室を出ようとした瞬間

 

「!?」

 

 ピアノの音が聴こえました。規則性の欠片もない子供が適当に鍵盤を叩いているみたいでした。

 背筋にぞわぞわとした悪寒が走り、腕には鳥肌が立ちました。

 気のせいだと願いながら耳を澄ますと、再びピアノの音色がかすかに、しかしハッキリと聴こえました。

 この時、真っ直ぐ帰っていれば、吹奏楽部の人が居残ってピアノの練習をしていたんだなと、自分を納得させられたと思うのですが、好奇心に駆られた私は、音楽室へと足を運んでしまいました。

 音楽室は渡り廊下を通った、向かいの校舎の三階にあります。三階の廊下に立つと、自動で照明が点灯しました。その時ばかりは、白い光も恐怖を紛らわしてはくれませんでした。

 一歩、また一歩とゆっくり足を進めて、ようやく音楽室へ辿り着きました。

 恐怖を抑えつけるように、一気に扉を開こうとしましたが、ガタンと音を立てるだけで扉は開きませんでした。鍵が掛かっていたのです。ここで私の恐怖は頂点に達しました。

 廊下の照明はセンサーが人を感知すると、自動で点灯するのですが、私が三階に着いた時点で照明は点いていませんでした。私がピアノの音を聞いてから音楽室に到着するまで、一分もかかっていないので、ピアノの奏者が音楽室から出たのなら、三階の照明が点いていないとおかしいのです。

 その上、教室へ向かう途中校舎の窓から外を眺めていましたが、向かい側の校舎で、明かりが点いている教室はありませんでした。

 つまり、私が来る前にも後にも音楽室に人はいなかったのです。それにも関わらず、ピアノは音を奏でていたのです。

 私は急いで職員室に戻り、鍵を返して学校を飛び出しました。

 

 後日、先生方にこの事を話しましたが、ピアノの音は聞こえなかったとの事です。

 

 

 

 

 自分が同じ状況に置かれれば間違いなく恐怖するだろうが、読んだ限りでは、怖いというより不思議に思う気持ちが優先される。エリカが怖がっているのは、怪談の舞台が身近な音楽室なのも理由の一つだろう。

 とはいえ、噂の調査は(れっき)としたマスメディア部の活動である。あっさり投げ出すのは気が引ける。それに、調査をするにしろ、かれんとしても怖いのが得意ではないので、エリカと二人では心許ないのも事実。

 どうしたものかと、頭を悩ませていたかれんだったが、突如アイデアがひらめいた。

 

「助っ人を頼むのはどうでしょう」

「助っ人って? マキは私以上に怖いの苦手だから無理よ」

 

 エリカが挙げた共通の友人の名前に、かれんは首を振った。そんな惨い事はできない。ただでさえ最近の彼女は、不幸に拍車がかかっているのだから。それはもう、神の意思が働いているのではないかと思うくらいに。

 

「じゃあ誰なの?」

 

 首を傾げるエリカにかれんは、その人物の名前を告げた。

 

 

 

 

「それで、ウチにー?」

 

 間伸びした口調で陽気に尋ねるのは、かれん達が自称するかぐや様ファンクラブの一員である早坂愛だ。ちなみにファンクラブの会員数は三人のみである。

 放課後なので帰っているだろうと諦めかけたが、校庭でぶらついているのを発見できたのは幸運だった。

 

「はい! 是非私達の調査に協力していただきたいのです」

 

 かれんの勢いに気圧されたように、早坂は身を引いた。

 

「それっていつやるの?」

「今夜です。一応これから事前に、音楽室の下見に行こうと思っていますが」

「今夜かー」

 

 悩むような呟きを漏らす早坂。気を遣わせてしまっただろうかと、かれんは慌てて口を開こうとしたが、早坂の返事が先だった。

 

「オッケー! じゃあ見にいこっか」

「本当にいいんですの!?」

「いーよ。ウチもあの噂気になってたんだー」

 

 かれんとエリカは喜びのあまり、ハイタッチした。

 

「早坂さんが来てくれるなら心強いわ! 絶対に幽霊の正体を暴いてやるんだから!」

 

 興奮して意気込むエリカを横目に、かれんは申し訳なさそうに尋ねた。

 

「よかったんですの? もしかして、バイトがおありになったのでは……」

 

 外部入学の混院ならともかく、金持ちだらけの純院の生徒にしては珍しく、早坂はアルバイトをしていた。金銭に困っているとは思えないので、社会経験が目的なのだろうか。どんなバイトをしているかまでは、かれんも知らない。

 

「平気平気。いつもウチが働いてるから、少しくらい頑張ってもらわないとねー」

 

 黒さを伴った早坂の発言。バイト先での人間関係に苦労しているんだろうか。

 

 

 

 

 音楽室に入って右手には、音楽準備室があり、ピアノは入り口正面に置かれていた。

 カーテンは開け放たれており、年季の入った黒いグランドピアノが、夕日の光を浴びて滑らかに輝いていた。

 

「あれが噂のピアノですわ」

 

 かれんがグランドピアノを指差した。

 三人はピアノの屋根や鍵盤蓋を開けてみたり、適当に鍵盤を叩いてみたりしたが、特に異常は見られなかった。

 

「変わったところはありませんね」

「仕掛けはなさそうだよねー。本当に幽霊の仕業だったりして」

「怖い事言わないでください。またエリカが……あら、エリカ?」

 

 いの一番に怖がって喚き出しそうなエリカが、話に入ってこないと思ったら、熱心に窓から外を眺めていた。

 かれんが声を掛けようと近づくと、エリカが振り返って、真剣な表情で二人を手招きした。

 

「早くこっちに来て!」

「何ですの一体……」

 

 渋々ながら窓際に移動したかれんは、息を呑んで固まった。

 マスメディア部二人の異変に気付いた早坂が、「どしたしー」と声を掛けながら近づいた。

 早坂が側に来ると、かれんとエリカは同時に勢いよく振り向いて、まるで練習していたかのように声を揃えて言った。

 

「かぐや様ですわ!!」

「かぐや様よ!!」

 

 それだけ言うと、すぐさま一階の渡り廊下をあるくかぐやの観察に戻った。

 艶のある烏の濡れ羽色の髪、凛としたルビーの瞳、気品溢れる佇まい。間違いなく四宮かぐやだった。夕日に照らされた横顔も美しい。

 かぐやを舐め回すように見詰めるかれんとエリカは、自他共に認めるかぐや信者である。

 カプ厨のかれんは白銀が隣にいないのを歯噛みし、かぐやの信奉者であるエリカは目の前の幸福に浸った。

 それだけで終わらないのが、彼女達が信者である所以だ。おもむろにエリカは窓を開けると、深呼吸を始めた。

 

「巨瀬ちん、何してんの?」

「もちろん、かぐや様と同じ空気を吸っているのよ!」

「ここ三階だし! 絶対、同じ空気吸えてないし!」

 

 早坂のツッコミが聞こえていないのか、かぐやの肺活量を過信しているのか、エリカは深呼吸を繰り返す。

 エリカには言っても無駄と考えたようで、早坂は矛先をかれんに向けた。

 

「紀ちんは友人の奇行を前に、何でそんな平然としてんの?」

「この程度の奇行は日常茶飯事ですわ」

「この程度!? しかも常習犯なの!」

 

 ツッコミを連発させて息を荒げる早坂に、エリカの奇行を見慣れていないからしょうがないと、自分の事を棚に上げて思うのだった。

 窓から強い風が吹き込み、カーテンがはためいた。その様子を目にしたかれんは「あら?」と声を上げた。

 かれんは黒色のドレープカーテンと、下にあるレースカーテンを手に取った。

 

「かれん? どうしたの?」

 

 いつの間にか犯行を終えていたエリカが尋ねる。

 かれんはしゃがんでドレープカーテンとレースカーテンの裾を引っ張った。

 

「見てください。二つのカーテンの大きさが違い過ぎませんこと?」

 

 引っ張られて張り詰めた二種類のカーテンの長さを比べると、ドレープカーテンの方が十センチ程長かった。レースカーテンよりドレープカーテンを長くするのは普通だが、十センチとなると長過ぎる。

 

「買う時に間違ったんじゃない? 流石に今回の事件とは無関係だと思うわ」

「……そう、ですね。カーテンをいくら長くしても、ピアノは演奏できませんもの」

 

「てかさー」と早坂が声を発した。

 

「音楽準備室のピアノを弾いたんじゃない?」

「どういう事?」

 

 理解ができず首を捻るエリカに、早坂は音楽準備室を指差し説明する。

 

「女子生徒は、音楽室に明かりが点いてないから、室内には誰も居なかった、って思ったんでしょ。でも準備室のピアノを使えば、明かりを点けるのは準備室だけでいいから、音楽室自体は真っ暗なままピアノが弾けるじゃん。まー、そんな事した目的は謎だけど」

「それだわ! それなら辻褄が合う。ねぇ、かれん。もう解決したんじゃない」

 

 早坂の推理通りなら、面白い記事になっただろうが、残念ながらかれんは反証を投稿者の女子生徒から得ていた。

 

「女子生徒はグランドピアノの音だったと、証言していますわ」

 

「あー、なるほど」納得する早坂とは対照的に、困惑するエリカ。かれんは親友が理解できるよう丁寧に説明する。

 

「音楽室にあるピアノはグランドピアノですが、音楽準備室にあるのはアップライトピアノで、両者の音には違いがあるのですわ」

「そうなの? そんなのよくわかるわね」

「女子生徒は中学までピアノ教室に通っていたので、違いがわかったそうですわ」

 

 それからも三人寄って考えたが、文殊菩薩が知恵を授けてはくれなかった。

 

 

 〇

 

 

 一流の高級食材をふんだんに使い、一流の料理人がふんだんに腕を振るった料理。それらを盛り付けた、ふんだんに金を使い購入した食器が食卓に並んだ。

 四宮かぐやが食事を終えたタイミングで、すかさず側に控えていた讃岐は下膳(さげぜん)に取り掛かった。

 かぐやは聞きたいことがあったので、讃岐が戻って来るのを食卓に座ったまま待った。

 再び現れた讃岐は驚いたように片方の眉を上げたが、ハッと察した表情になり、かぐやの耳元でヒソヒソと尋ねた。

 

「マトウダイのソテーとシタビラメのムニエルが用意できますが、いかがいたしますか?」

「いらないわ」

「では、ラーメンですか?」

「違うわよ! 食べ足りないから待ってたわけじゃないわ!」

 

 変な勘違いをした使用人にかぐやは言った。「申し訳ございません」と丁寧に頭を下げた。この男、わざとやっているんじゃないだろうか。かぐやはそう思えて仕方がなかった。

 

「それにしたってラーメンはないでしょう、ラーメンは」

「偶には庶民の味をご賞味されたいのかと。では、お嬢様は何のご用件で、ボケっとお座りになってお待ちなされておられたのですか?」

 

 天下の四宮財閥の令嬢ともなれば、無礼な発言をする使用人を怒鳴りつけるような、品のない真似はしない。かぐやは花のような笑顔を見せた。

 

「長く働きたいなら、言葉遣いには気を付けた方がいいですよ」

「お待ちいただき光栄でございます。何なりとお申し付けください」

 

 礼儀正しい使用人の態度に満足したかぐやは、夕食の時から居ない人物について尋ねた。

 

「早坂はどうしたの? 姿が見えないようだけど」

「早坂さんなら、学校で怪談の調査を行なっております」

 

 耳がおかしくなったらしい。意味不明な幻聴が聞こえた。いくら讃岐が変人でも、怪談の調査なんて出鱈目を真顔で言うはずがない。

 かぐやは何事もなかったかのように再度問いかける。

 

「早坂はどうしたの? 姿が見えないようだけど」

「……お嬢様、聞き間違いや幻聴ではございません。早坂さんは現在、夜の学校に居られるのです」

 

 自分の耳は正常だったらしい。となると別の問題が発生する。早坂が意味不明な調査をしている理由は何なのか。

 

「どういう事なの? 全く理解できないわ」

「最近、秀知院で噂になっている怪談は、お嬢様もご存知かと思われます」

「ええ、知っているわ。自分の理解を外れた出来事が起こると、すぐに怪奇現象に結びつけるのだから困ったものね。まるで江戸時代の人間だわ」

 

 ピアノが勝手に鳴るなんて物理的にあり得ない以上、ただの聞き間違いか、それこそ幻聴だ。大方夜の学校の雰囲気にあてられたのだろう。

 かぐやは幽を信じていないので、この噂も一笑に伏していた。一方で自分が音楽室にいる間、絶対に一人でに音を奏でるなと、ピアノに念を送っていた。霊を信じないが、怖いのは苦手という複雑な心境がなせる技である。

 

「全面的に同意いたします。マスメディア部が怪談の調査に乗り出したのですが、助っ人として、早坂さんに白羽の矢が立ったようです。おかげで私の仕事はずいぶん増えました……」

 

 最後の一言で、早坂が怪談調査なんかに同行した一番の理由を、かぐやは理解した。

 前向きに捉えれば、任せられるくらいには仕事に対して信用があるのだろう。捻くれた信頼関係だと、かぐやは思った。

 

「しかし残念ながら、本日幽霊は現れないでしょう」

 

 既視感を覚える断言の仕方。かぐやはこれまでの讃岐の実績から察した。

 

「貴方は怪談の正体がわかっているようね」

「見当はついております」

 

 癪に触る程、自信に満ちた返答。

 

「どうせ、話したいのでしょう。聞いてあげるわ」

「御心遣い感謝いたします。その前にお願いがございます。怪談に関しましては当初から、ゴシップ好きの後輩に聞いておりますが、内容に相違があるかも知れませんので、お嬢様の知る怪談の内容をお聞かせ願えないでしょうか」

 

 隙を生じさせない徹底ぶりである。使用人の仕事にこそ、その熱意を向けてくれないものか。

 かぐやは呆れながらも、要望通り【無人のピアノ・ソナタ】の怪をかぐやは語り聞かせた。

 

 

 ○

 

 

「昨夜は収穫がありませんでしたわね」

 

 かれんが口元を隠しながら、小さく欠伸をした。

 昨夜、早坂達は音楽室に張り込んでいたが、結局幽霊は現れなかった。なので、今日も調査のために音楽室に向かっているのだが、早坂は既に知っていた。【無人のピアノ・ソナタ】の真実を。

 音楽室の扉にかれんが手を掛けようとした時、扉が開いた。そこには見慣れた長身の姿。

 

「おや? 珍しい組み合わせだね。何の集まりかな」

 

 右手をズボンのポケットに突っ込んで、音楽室から出て来た讃岐は、早坂とかれんとエリカを、まじまじと見比べた。

 早坂は、今にも答えそうなエリカの口を塞ごうとしたが、遅かった。エリカは胸を張って返答した。

 

「当然、かぐや様ファンクラブよ!」

 

 何が当然なのかわからないが、エリカは自信満々だ。

 讃岐は薄らと笑みを浮かべた。嘲笑ではなく、労わるような笑みだ。

 

「君と紀さんはともかく、早坂さんも? とうとう頭の味噌まで、発酵させてしまったのかな」

「頭の味噌? 何言ってるの」

「エリカ、貴女ものすごくバカにされていますのよ! 気付いて下さいまし!」

 

 かれんがエリカの両肩に手を置き揺さぶる。

 エリカに皮肉は通用しないらしい。頭上に大きな疑問符を浮かべている。ある意味無敵だ。

 

「とにかく、私達はかぐや様ファンクラブの仲間なの!」

「まさか……本当に?」

 

 未だに早坂が否定をしないので、讃岐はまさかという目を早坂に向けた。

 一番嫌な人物に、バレてしまった。かぐや信者達と同類と思われるのは些か不本意だが、否定するとキャラが崩れるので、否定はできない。

 

「そーなんだっ。かぐやちゃんに、ちょーあこがれててーっ!」

 

 語尾に星がつきそうなハイテンション。遺憾無くギャルの演技を発揮する。

 讃岐は顎に手を添え、数秒沈黙した後、

 

「……なるほど。君も大変だな」

 

 と全てを理解したかのような一言。

 バレたのは最悪だが、讃岐の察しが良すぎるのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。

 

「私に片付けを押し付けて、何楽しそうに話してるんですかー」

 

 音楽室の中からまた別の声が聞こえた。その声に、振り向いた讃岐が反論する。

 

「人聞きが悪いな、藤原さん。罰ゲームなんだから、演奏するだけな訳ないだろう」

 

 今まで音楽準備室にいたらしい藤原が、恨みがましく讃岐を睨んでいた。

 藤原は早坂達に駆け寄ると「聞いてくださいよー」愚痴り始める。

 

「片付けって?」

「吹奏楽部が使ってたんだけど、貸してくれてね。お礼に楽器の片付けを申し出たんだよ」

「てか、音楽室使って何してたのー」

「あっ、それはですねー」

 

 愚痴を言い飽きたのか、藤原が経緯を説明し始めた。

 TG部でゲームをしていた藤原と讃岐は、ゲームに負けた方が勝った方の命令を聞くという、なんともありきたりな罰ゲームを設けた。結果は見ての通りで藤原の負けだった。

 勝者となった讃岐は、かつて天才ピアニストと呼ばれた藤原に、ピアノの演奏を聴かせるよう命じた。

 

「それで音楽室にいたのですね」

「君達こそ何で音楽室に?」

 

 知っているくせに、平然と言ってのける讃岐の白々しさに、早坂は感心した。

 

「讃岐さんと藤原さんも、音楽室の怪談は知っていますでしょう。私達はその調査に来たのですわ」

 

 面白そうと、つぶらな瞳を輝かせる藤原。また面倒な事態を引き起こす

 のではないかと、早坂は警戒した。彼女は対象Fと呼ばれる危険人物なのだから。

 予想に反して先に口を開いたのは讃岐だった。

 

「それなら、藤原さん。またピアノを弾いてみてはどうかな」

「え? 何でですか」

「君の演奏は、予想に反して素晴らしいものだった」

「予想に反して?」

 

 にこやかな笑顔を浮かべた藤原の瞳からハイライトが消えた。分かりやすく言えば、目が笑っていない。

 

「きっと幽霊も、釣られて出て来てしまうだろうね」

 

 数秒前に讃岐が発した失礼な言葉など、忘れたかのように天真爛漫そのものの笑顔になる藤原。「そんな〜、大袈裟ですよ。確かに音楽の授業で、先生に演奏を頼まれますけど」と鼻を鳴らして、発育の良い胸を張る。

 一方でかれんとエリカは、意味不明な発言に困惑して顔を見合わせる。

 唯一早坂だけが、その発言の真意を理解していた。

 

 

 ○

 

 

「ありがとうございます。私の知る怪談と、遜色ないようでございます」

 

 かぐやの話で確認作業を終えた讃岐は、満足そうな声音で礼を述べた。

 夕食時は異様に長い食卓の脇に控えている讃岐だが、今はかぐやの側まで踏み込んでいた。

 

「前提として、この世に霊などは存在しないとして、話を進めても構いませんでしょうか?」

「いいわよ。実際に霊なんていないのだから」

 

 無言で慇懃に礼をする讃岐。

 

「霊が存在しないのであれば、ピアノが勝手に音を奏でる訳はありません。屋内で自然現象の入り込む余地はないので、一昨日発生した【無人のピアノ・ソナタ】は人間の仕業となります」

「そうね……」

 

 良く言えば徹底した。悪く言えば回りくどい口上に半ば呆れながら、かぐやは先を促した。

 

「では、無人の音楽室から、ピアノの音が聞こえたのは何故か。この謎は二つに分けて考えられます」

「音楽室が無人である事。ピアノの音が聞こえた事の二つね。人の仕業を前提とするなら、前者はどうやって、音楽室が無人だと錯覚させたのか。後者は夜の学校で、ピアノを弾いた理由は何かという謎」

「後者の謎ですが、この手の話でよくあるパターンとして、怪談をでっち上げ、怖がらせようとした愉快犯の可能性は消去できます」

 

 あっさり宣言する讃岐に、かぐやは疑問を差し込んだ。

 

「そうかしら? 夜に学園のピアノを弾くなんて、愉快犯でなければしないわ」

「おっしゃる通りですが、愉快犯だとすれば計画が余りにも不確実です。女子生徒がピアノの音を聞いたのは、たまたま教科書を取りに学校へ戻ったからです。犯人には予測できません。さらに、音楽室は防音設備が整っており、そうそう音は外に漏れません。女子生徒の教室が音楽室の真下でなかったなら、ピアノの音を聞き逃していたでしょう。この事から謎が一つ、明らかになるのですが、お分かりになりますでしょうか?」

「職員室にいた教師が、ピアノの音を聞いてない事でしょう。音楽室があるのは三階で、職員室は一階。そもそもピアノの音が聞こえる筈がない」

「流石のご慧眼。その通りでございます。職員室程離れていては、ピアノの音は届きません」

 

 心霊現象のほとんどは、認知バイアスによるものだ。一皮剥けば、枯れ尾花より虚しい正体が発覚する。

 少し話が逸れたが、女子生徒がピアノを聞いたのが偶然だった。というだけでは、愉快犯説を否定するには少し弱い。かぐやは追求した。

 

「他に怖がらせようとした相手がいたんじゃないかしら。例えば、見回りをする教員とか」

 

 反論を予想していたかのように、讃岐は淀みなく答える。

 

「恐怖心を抱かせるなら、秀知院の誰もが知る七不思議の一つ【無人のピアノ・ソナタ】をベースにした方が、怪談を連想させ易く効果的です。ですが、そうはしなかった」

「しなかった? 無人の音楽室から、ピアノが聞こえたのでしょう」

 

「ああ」と、讃岐は嘆き、子供に言い聞かせるような慈愛に満ちた声音で、悪意に満ちた言葉を発する。

 

「お嬢様は何の為に、選択科目を音楽にしたのでございますか? ピアノ・ソナタとは、適当に鍵盤を叩くだけでは奏でられません」

 

 讃岐は慇懃な、いや慇懃無礼な物言いをした。

 幸いにもかぐやは、怒りより驚きが勝った。女子生徒は『子供が適当に鍵盤を叩いているみたい』と表現していた。聞こえて来たのは『月光』でも『エリーゼのために』でもないのだ。

 とりあえずかぐやは言った。

 

「貴方の言葉は忘れませんよ。次の給料日を楽しみにしていなさい」

「…………」

 

 成長しない男だ。讃岐を雇っているのは雁庵なので、かぐやが讃岐の給料をどうこうできはしないのだが。

 

「と、とりあえず、この謎は一端横に置き、音楽室が無人であった謎の解明に移ります」

 

 誤魔化す為か、慌てて推理を進める讃岐。らしくもない動揺した様子に、かぐやは溜飲を下げた。

 

「音楽室の入り口側の側面には、窓が無く中を覗けません。反対側の側面に窓がありますが、夜はカーテンが掛かっておりますので、音楽室内部の様子は見れないようになっていました。ですが、人が居るかはカーテン越しに、明かりが点いているかどうかで分かります」

「向かい側の校舎から見た時、明かりは点いていなかった。ピアノの音を聞いてから、音楽室へ駆けつける間に誰かが音楽室から出た形跡も無し」

 

 ピアノは窓際に設置されているので、小さい明かりを使ったとしても窓から光が漏れる。ピアノを使おうとすれば、どうしても光が漏れる。

 だが、

 

「ピアノの音を鳴らすだけなら、暗闇でもできるのではないかしら」

 

 先程、讃岐の推理を補強した事実が、今度は牙を剥いて跳ね返った。

 

「左様でございます。その点は更なる事実により、説明が可能になります。まずは、早坂さんから聞いた情報をお伝えします」

「情報?」

「はい。音楽室のカーテンですが、ドレープカーテンがレースカーテンより十センチ程長かったそうです」

 

 讃岐はさも重要であるかのように語る。今回の謎と関係があるのだろうが、相変わらずこの使用人の真意は測れない。

 

「カーテンが長かったらどうなるの?」

「音楽室を無人にできます」

 

 今度こそかぐやは、讃岐の言う事が理解できなかった。

 

「正確には、音楽室を無人に見せかけることが可能です」

「どっちでもいいわ。方法を教えなさい」

 

 讃岐は二ヤリと口の端を歪めると「承知致しました」

 

「ドレープカーテンの長さが十センチも違えば、取り付けの際に気付くはずです。秀知院であればカーテンの百個や千個苦も無く買えるので、いつまでもそのままとは考えづらい。やはり、犯人がカーテンを取り換えたと考えた方が蓋然性が高いでしょう」

 

 讃岐の発言は誇張ではない。カーテンを千個買ったとしても、毎年寄付される額からすれば雀の涙程度の出費だろう。

 

「おそらく犯人は"遮光カーテン"に、取り換えたのではないかと思われます」

「……そういう事ね」

「御理解いただけたかと存じますが、一応説明させて頂きます。遮光カーテンは光を遮る機能に優れたカーテンです。性能が1級、2級、3級の三段階あり、1級は全くといっていい程光を通しません。一般的には、外からの光を遮断するために使用しますが、必然的に内側からの光も遮断します。犯人はこの性質を利用し、内側からの光が外に漏れないようにし、中に人が居ないと錯覚させたのです。これなら部屋の電気を点けていても、外からは真っ暗に見えるので、室内の明かりを抑える必要はありません。流石に女子生徒が近づいて来た時は、電気を消したでしょうが。

 サイズを大きくしたのは、隙間から光が漏れないようにする為でしょう。テープ等で壁に貼り付けて、隙間を埋めたのではないかと思われます」

 

 讃岐の推理通りならば、カーテンの長さが違う事にも説明が着くし、かぐやが言ったような、明かりを使わないままピアノを弾く必要すらない。

 納得したかぐやは、推理を次の段階に進める。

 

「愉快犯でないのなら、無人だと思わせた理由は何なの?」

「誰にも見られたくない作業を、音楽室で行っていたのでしょう。そこで、ピアノの謎に戻ります。犯人はピアノの音を鳴らしましたが、演奏はしませんでしたので、ピアノを弾くのが目的ではないと考えました。ピアノを弾くのが、目的の過程だったとした時、私の脳裏にある推論が浮かびました。

 

 ICレコーダーにピアノの音を録音し、録音された音の音質を確かめていたのではないか。

 

 つまり犯人は、ICレコーダーを秘密裏に設置する為、音楽室を無人に錯覚されるトリックを使ったのです」

 

 

 ICレコーダーは、会話や音楽を録音する際に使われる機器だ。置く場所によって多少音質が変わるので、犯人はピアノを鳴らして、良い設置場所を探したのだろう。

 ピアノを弾いたのが、そんな理由だったとは。かぐやは真相を見抜いた讃岐の頭脳に、素直に感心した。

 

 

 

「ICレコーダーで何を録音したのかも、分かっているの?」

「もちろんピアノの演奏でございます。なにせ秀知院学園には、稀代の天才ピアニストがいらっしゃいますから」

 

 含みのある物言いに、かぐやはハッとして驚いた。普段の彼女を見ていると、忘れそうになるが、一時はピアニストとして名を馳せていた。

 

「藤原さんね!」

「そう考えてよろしいかと。おまけに彼女は現在ピアノを辞めており、公の場で演奏しておりません。ですが、演奏する可能性が高い時間はあります」

 

 秀知院学園において音楽は誰しもが受ける授業ではない。だが、かぐやも藤原の演奏を耳にする時間があった。それは、

 

「選択授業」

「女子生徒がピアノを聞いたのが一昨日。選択授業があったのは、その翌日──昨日の事ですので、タイミング的にも間違いないかと」

 

 話が終わった合図のように、讃岐は姿勢を正した。がらんとした部屋に、沈黙が降りた。かぐやは無言で推理の蓋然性を熟慮した。

 推理へ評価を下す前にかぐやは尋ねた。

 

「音楽室にはどうやって入ったの? 使わない時は施錠されている筈よ」

「所詮は学園の音楽室ですので、学生であればどうとでもなるかと。例えば、音楽室の鍵を借りて音楽室と音楽準備室の鍵を開け、鍵を返却した後、音楽室に戻り内側から鍵をかける。あとは、人が少なくなる夜まで、準備室で待機すれば良いのです」

 

 疑問は解消した。かぐやは沈黙したまま頷き納得を示した。

 座っているかぐやに長身を折って、合わせた讃岐は、

 

「対処はいかが致しましょう。詳しく調べれば、犯人の特定は容易でございます」

 

 藤原の演奏を無断で録音した犯人への対応を尋ねる讃岐に、かぐやは首を横に振った。

 

「今回は必要ないわ。私としても藤原さんのピアノの腕は、認めざるを得ません。何度も聴きたくなる気持ちは理解できます。なので、今回は静観しましょう」

 

 わざとらしく"今回は"を強調すると、性格の悪い使用人は、すぐさま意図を理解して「承知いたしました」と静かに一礼した。

 

 

 ○

 

 

 早坂と讃岐は、夕暮れの柔らかい光が差し込む廊下を、並んで歩いていた。人の居ない廊下に、リノリウムと上履きが擦れる音がキュッ、キュッと反響する。

 あれから、藤原の演奏会が開かれ調査どころではなくなった。最も既に怪談は暴かれ、枯れ尾花と化している事をかれん達は知らない。

 なんだかんだで、早坂と讃岐が出会ってから一年になる。一年間、嫌でも顔を突き合わせていれば、嫌でもそれなりにお互いの事が分かる様になる。

 早坂は讃岐が単に藤原の演奏を聴くために、音楽室を訪れたとは到底思えなかった。

 至って何気ない調子で、見上げる位置にある横顔に声をかける。

 

「収穫はありましたか?」

「何の事かな?」

 

 本当に何を言っているのか分からない、という顔をしている。一年前ならともかく、今更安い演技に騙される早坂ではない。

 

「ICレコーダーを回収したのではないですか?」

「設置された日から四日間もの間、回収されず残っていると?」

「怪談の噂を聞いた学校側は、鍵の管理を強化していて、音楽室に侵入するのは困難になっています。残っていたとしてもおかしくありません」

 

 讃岐は肩をすくめると、両手をポケットに突っ込んだ。その瞬間、早坂は讃岐に詰め寄り右手首を掴んだ。

 突然の出来事に思わず足を止めた讃岐は、手首を掴む手を一瞥すると、そのまま早坂に視線を移す。

 

「入っているんじゃないですか?」

「……」

 

 ピリピリと張り詰めた空気が、黄昏時の廊下に広がる。

 意外にも沈黙を破ったのは、早坂でも讃岐でもなかった。

 

「早坂さん、伝え忘れた事が──はっ!?」

 

 廊下の曲がり角から現れたかれんは、途端に顔を赤くして固まった。

 早坂はかれんが固まった理由を一瞬考え、今の自分の状況を客観視した。

 讃岐と早坂の間には数センチの隙間しかなく、異様に距離が近い。手首を掴んだ手は、側から見れば仲良く手を繋いでいるように見えなくもない。勘違いを引き起こす効果は充分だった。

 今度は早坂が赤面する番だった。掴んだ手首から、ドクン、ドクンと脈の打つ音が伝わる。

 早坂が弁解しようとするより早く、かれんが早口に言った。

 

「も、申し訳ありません! そ、その、私はとてもアリだと思いますわー!!」

 

 わー、わーとドップラー効果を伴った謎の叫びを残して、かれんは高速で退場した。

 完全に誤解されてしまった。それも、学園一のカプ厨と名高い紀かれんに。目撃者がエリカならどうにかなったのにと、早坂は益体もない考えを浮かべる。

 面倒くさい事になった。それもこれも全て、

 

「睨まれてもね。手を掴んだのも、迫って来たのも君の方だからねぇ」

 

 何が面白いのか揶揄うように笑った後、讃岐は観念したように、ポケットから手を抜いた。手には棒状の機械が握られている。ICレコーダーだ。

 ICレコーダーを讃岐の手からひったくると、その場で再生した。

 

「フットペダルの裏に隠してあった。四宮家に不都合な音声は入ってなかったよ」

「信用できません」

「仕事熱心だね」

 

 感心と呆れ入り混じった讃岐の言葉を黙殺し、音声に集中する。明るく美しい旋律が、早坂の耳に届いた。

 

 

 ○

 

 

「やあ、来てもらって悪かったね。えっ、要件は何かだって? せっかちだな。まあ、座りなよ。……分かった、手短にするよ。昨夜起きた怪談については知っているね? 【無人のピアノ・ソナタ】。話を聞いて疑問に思ってね。音楽室を調べに行ったら、これを見つけたんだ。このICレコーダー君のだよね。

 脅し? まさか、この程度の事実じゃ大した脅しにならないのは、君にも分かるだろう。ただ少し、お願いを聞いて欲しいんだ。内容? それはまた連絡するよ。おっと、そろそろバイトの時間だ。じゃあまた。連絡を楽しみにね」



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柏木渚は突き止めたい

 目が覚めて一番に視界に映ったのは、見慣れた白い天井だった。

 身体の節々が筋肉痛のように痛み、じっとりとした汗が気持ち悪い。どうやら、今朝飲んだ解熱剤の効果が切れたらしい。

 取りに行こうとしたが、身体が怠く起き上がる気にならない。

 誰か持って来てくれないだろうかと、そんな風に考えてしまうのは、体調に精神が引っ張られているからか。風邪を引くと弱気になるというのは本当らしい。

 弱り目を狙って、ネガティブな思考が次々に到来する。

 孤独や罪悪感。普段は押さえ付けている感情が、掘り立ての温泉のごとく湧き出る。ドロドロとした温泉になりそうだ。

 つまらない考えで気を紛らわせながら目を閉じる。

 無理にでも寝てしまおう。所詮は唯の風邪、次に起きた時にはすっかり治っているだろうし。

 

 

 ○

 

 

「四宮さんに相談があるんです」

 

 四宮かぐやが友人の柏木(かしわぎ)(なぎさ)にそう切り出されたのは、放課後の生徒会室での事だった。

 柏木とは恋愛相談をする為に、柏木が生徒会室のかぐやの下を訪れたのがきっかけで知り合った。それからも相談されたり、時には相談したりする仲だ。

 生徒会室に他の役員は居なかった。白銀は会議に出席しており、書記の藤原は部活動に、会計の石上(いしがみ)(ゆう)は手早く仕事を終わらせて帰宅した。

 奇しくもいつものように、かぐやと柏木は一対一で相談する形となった。

 

「友達の話なんですけど」とどこか身に覚えのある前置きで、柏木の話は始まった。

 

「太陽が刺されたんです!」

「…………」

 

 何かの比喩かしら。

 

 また恋愛相談の類だろうと予想していたのだが、予想を遥か斜めに上回っていたので、かぐやは反応できなかった。

 副会長としての威厳を保つ為、相談の意図を汲み取ろうと、かぐやは優秀な頭脳をフル回転させた。

 

「それは一大事ですね。太陽がなくなれば地球の気温は一気に下がり、気体は液体に変化しますし、植物は光合成で酸素が生成できなくなります」

「…………」

 

 唐突に始まった太陽がなくなった後の地球講座に、柏木は呆気に取られ固ったが、自分の説明不足に気付いたようだった。

 

「すみません、気がはやって説明が抜けていました。最初から話しますね」

 

 柏木は膝の上で手を重ね礼儀正しく頭を下げると、『太陽が刺された』経緯を語った。

 

「土曜日の話なんですけど、美術部員の女子生徒が美術室で水彩画を描いていたんです」

「運動部でもないのに、休日に部活をしていたんですか?」

「コンクールが近いので、休日も学校に来て絵を描いていたそうです」

 

 かぐやの質問に答えると、柏木は話を戻した。

 

「美術室にはその子の他に、同じ理由で登校していた友人の彫刻部の女子生徒が居ました。彫刻部の部室は他にあるんですけど、美術室に美術部員しかいなかったので、美術室に道具を持って来て作業していたんです」

 

 彫刻部。副会長という役職柄部活動は全て把握しているが、TG部といい相変わらず変わった部活の多い学校だ。彫刻も美術なのだから、いっそ美術部にまとめられないだろうか。

 

「水彩画で夕暮れ時の山間(やまあい)の景色を描いていたみたいなんですけど、集中力が切れてきて近くの机で友人と雑談していたそうです。その時、画用紙には太陽と半分ほどの山が描かれていました。喉が乾いたので、二人で自販機に飲み物を買いに行って戻って来ると、画用紙の太陽が描かれた部分に、先が尖った物で刺したような穴があいていたんです」

 

 一息に話し終えた柏木は、控えめに息を吐き出した。そして、かぐやが内容を把握するだけの間をとってから言った。

 

「という事件があったんです」

「はぁ、つまり相談というのは、画用紙に描かれた太陽を刺した犯人を突き止めるのに意見が欲しいと。ですが、どうして生徒会に?」

「成績優秀な生徒会の方々なら、事件の真相を突き止められると思ったんです。あっ! 突き止めるといっても、犯人の目星はついているんです」

 

 犯人が分かっているなら、教師に対応してもらうなり、本人に追求するなりすれば良いだけだ。他に何を突き止めるのだろう? 

 かぐやの内心を見抜いたかのように、柏木が答えた。

 

「犯人は恐らく彼女のストーカーだと思います」

「ストーカー?」

 

 オウムのように言葉を反芻するかぐや。

 犯人がストーカーだとすれば、凶器のような物を所持していた事になる。昨今ストーカーの暴行騒ぎは珍しくない。物騒な話に、雲行きが怪しくなったのを感じた。

 

「以前に他校の男子生徒から告白されて、断ったみたいなんです。それから付けられている気配がしたり、無言電話がかかって来るそうです」

「警察に連絡はしたのですか?」

「はい。でも証拠もないし、実害もないので本格的に動いてはいません」

 

 まあ、そんなところでしょうね。

 

 警察の人員にも限りがある。現状の被害で人員を割くのは無理だろう。

 とにかく、相談内容はハッキリした。ストーカーが美術室に侵入した方法を、明らかにすればいい。単純なハウダニットだ。

 むしろ恋愛相談より簡単かもしれない。こっちには、この手の問題に特化した秘密兵器があるのだから。

 

「そういう事でしたら、いくつか質問してもよろしいですか?」

「はい、もちろんです!」

 

 意気込む柏木に、簡単な確認から入った。

 

「彼女達が美術室を空けた間、美術室に侵入は可能でしたか?」

「はい。窓は鍵が掛かっていましたけど、扉の鍵は掛かっていませんでした」

 

 それなら、誰でも例え他校の生徒であっても侵入は可能だ。これで鍵が掛かっていたのなら、もっとややこしくなっていた。

 

「飲み物を買いに行ってから、戻って来るまでの時間は何分くらいでしたか?」

「十五分くらいです」

「十五分? 少し長いですね」

「美術部員の子が飲み物を何にするか迷っていて、時間がかかったみたいです」

 

 画用紙に穴を開けるだけなら、十五分で充分すぎる時間だ。今のところ難しい点は特に見受けられない。

 

「ストーカーを目撃した人はいませんでしたか?」

「練習していた運動部にも聞きましたけど、怪しい人物の目撃証言はありません」

「では、美術室に近づいた人はいましたか? 美術室が無人になった十五分の間に」

 

 すると柏木は、困ったような表情になり、悩ましげに眉根を寄せた。

「そこが問題なんです」と前置きして、かぐやの質問に対する答えを語った。

 

「当日、美術室に行く方法は、昇降口から二階に上がるか、向かいの校舎から入って二階の渡り廊下を通る二つしかありませんでした。四宮さんは生徒会役員なので知っていると思うんですけど、その日昇降口の扉の修理で、作業員の方々が作業していました」

 

 昇降口の件ならかぐやも把握していた。経年劣化と錆で扉が開き難くなっていたので、扉の取り替えを業者に依頼していたのだ。

 都合が良いなと、かぐやは思った。工事は長時間に渡って行われたはず。作業員が、出入りする人間を目撃している可能性がある。

 

「作業員には聞いてみたんですか?」

「はい。美術室が空いた時間帯に出入りした生徒は一人いましたが、秀知院の生徒だったそうです」

「すると、ストーカーは向かいの校舎から、美術室に向かったようですね」

 

 侵入経路が絞れたというのに、柏木の反応は芳しくなかった。再び困った表情を浮かべ、おずおずと申し訳なさそうに口を開いた。

 

「いえ、その線もありません。向かい校舎から美術室のある校舎に行くには、渡り廊下を使う必要があるんですけど、先生が渡り廊下の電球を交換していたんです。それで、不審な人物を見かけなかったか尋ねたら、秀知院の生徒しか見てないと言われたんです」

 

 あら? とかぐやは内心首を傾げた。

 美術室には侵入できるが、美術室までの道は二つとも人の目があった。これでは、美術室に鍵が掛かっているのと、状況的には大差ない。

 かぐやは他の侵入経路について検討した。

 

「一階の教室の窓は開いていませんでしたか?」

 

 そこからならば、作業員や教師に見つからずに出入りできる。

 しかし、かぐやの推理は無情にも打ち砕かれた。

 

「窓が開いていたかは分かりません。でも、教室の扉は全て鍵が掛かっていました。内側から鍵は開けられますが、それなら入って来た教室の鍵が開いているはずです」

 

 かぐやは表面上涼しい顔を装いつつ、心の中で唸った。仮に二階か三階の窓が開いていたとしても、見つからずに侵入するのは無理だろう。

 どう考えても、侵入経路は二つの道しかない。ストーカーはどうやって人目を掻い潜って、美術室へ辿り着いたのか。

 どうやら、更に雲行きが怪しくなってきたようだ。例えるなら今にも雨が降りそうな、黒々とした空模様。

 

 やはり、秘密兵器を使うしかないわね。癪ではあるけれど。

 

「すみません。お手洗いに行きますので、柏木さんはここで待っていてください」

 

 柏木に断りを入れ、かぐやは席を立った。

 怪しい空模様に有効な秘密兵器は、てるてる坊主と相場が決まっているのだ。

 

 

 

 

 生徒会室を出たかぐやが向かった先はお手洗い──ではない。

 生徒会室から離れた場所に来ると、ポケットから絶滅危惧種の二つ折り携帯電話、通称ガラケーを取り出した。

 短縮ダイヤルで、てるてる坊主、もとい自身の使用人である讃岐光谷の番号に電話を掛ける

 

 遅いわね、早坂ならワンコールで出るのに。

 

 かぐやは使用人に不満を抱いた。

 五、六回の呼び出しコールを経て電話が繋がった。

 

『……ふぁい?』

 

 ふぁい!? 

 

 寝起きのように気の抜けた、というか、間違いなく寝起きの第一声にかぐやは絶句した。

 

『あ、──なんのご用件でございますか、お嬢様』

 

 何事もなかったかのように声音を取り繕っているが、もう遅い。

 

「貴方、もしかして寝ていたの?」

『まさか。お嬢様に不貞の輩が近づかぬよう、目を球のようにして監視しておりました』

 

 皿のようにして欲しい。球なのは当たり前だ。

 

「じゃあさっきの『ふぁい?』は何なの?」

『「ファイ!」でございます。野球部の掛け声が、電話に入ったのでございましょう』

 

 平然と主人に嘘を吐く。流石は権謀術数渦巻く本邸の使用人、忠誠心の低さが一味違う。いや、讃岐と本邸の使用人を一括りにするのは失礼か。

 

「そう、やる気を感じない掛け声ね」

『全くでございます。部費を削ってみては如何でしょう』

 

 そしてまんまと墓穴を掘る。これに任せていいのだろうか? かぐやは不安になった。

 

「それじゃあ今、貴方は野球部の近く、つまり運動場にいるのよね。そこから、生徒会室に不貞の輩が近づくのが見えるかしら?」

『…………』

 

 自分の置かれた状況に気付いた讃岐は、一転して黙り込む。

 

 ふふん、お可愛い事ね。

 

 讃岐を追い詰めて満足したかぐやは、通話終了ボタンに指を伸ば──そうとして急停止。危うく本題を忘れるところだった。

 

「その事は後でいいわ」

『そのまま忘れて頂けると、ありがたいのですが……』

 

 絶対に忘れない。

 

「生徒会に奇妙な事件の相談があったのよ」

 

 かぐやは柏木から聞いた内容を、そのまま伝えた。

 讃岐は黙ったまま、かぐやの話に一切口を挟まなかった。真面目に聞いているのか、今後を思い意気消沈しているのか判断がつかない。

 話終わっても返事がないので、かぐやは焦ったそうに語気を強くした。

 

「讃岐、聞いているの?」

 

 讃岐は普段の平坦な声で『はい』と返した。

 

『もう終わりでございますか?』

 

 かぐやは讃岐の言葉に疑問を持ちつつも肯定した。

 

「そうよ。私が聞いた内容は全て話したわ」

『して、お嬢様はストーカーの侵入方法を、お知りになりたいのでございますね』

「ええ、貴方の率直な意見を聞かせなさい」

『では僭越ながら申し上げますと』

 

 そこで一旦、スピーカーから声が途切れた。次にスピーカーから発せられた言葉は、かぐやの想像していないものだった。

 

『私にはサッパリでございます。皆目見当も付きません』

「──え?」

 

 使い古されたガラケーが、かぐやの手をすり抜け、綺麗に磨かれた廊下へと吸い込まれるように自由落下運動を開始した。

 遅れてカシャンと乾いた音が、かぐやの耳に届いた。

 

 

 ○

 

 

「時にお嬢様。病気からの復帰、おめでとうございます」

 

 かぐやは数日前、風邪を引いて学校を休んでいた。幸いにも一晩寝たら体調は回復したのだが、その間、白銀がお見舞いに来たり、白銀と同衾したりとイベントがあったのだが、わざわざ伝える必要はないので割愛する。

 讃岐は慇懃な態度で、抜け目なく賛辞を述べた。それはいいのだが、少し時期がずれている。

 

「風邪を引いたくらいで大げさね。というか、いつの話よ」

 

 言った後、ここ数日の間讃岐は本邸に戻っていたので、完治したのを知らないのだと気付いた。

 

「お父様に呼ばれていたのでしょう。何の用だったの?」

「ただの業務報告でございます。お嬢様が気にかけるほどの用件ではございません」

 

 たかが業務報告で、京都にある本邸まで行くとは考えられないが、目の前の男は簡単に尻尾を出さないだろう。

 かぐやは早々と探るのを諦めて、机の上のカップを手に取った。

 

「しかし、納得がいきました。早坂さんは、お嬢様の風邪が移って寝込んでおられるのですね」

 

 紅茶が急に苦くなった。かぐやはバツが悪そうに顔を顰める。

 確かに早坂が付きっきりで看病していたのが要因の一つではあるが、お嬢様の風邪が移ったとは人聞きの悪い。まるで、早坂が風邪を引いたのは、全て自分が悪いみたいだ。

 かぐやは、澄ました顔で突っ立っている使用人を見上げ反論した。

 

「風邪の原因はウィルスだけじゃないわよ。疲労やストレスだって蓄積されると、風邪の原因になる。貴方が迷惑ばかりかけるから、早坂のストレスが溜まって免疫力が低下したのではないかしら」

「否定はしませんが」

 

 正確にはできないだ。

 

「でしたら、お嬢様も胸に手を当てて、日頃の行いを顧みた方がよいのでは?」

 

 何を言っているのだろうか、この男は。

 早坂は幼い頃からかぐやに仕え、姉妹同然のように育ってきたのだ。そんな早坂に、過度な負担をかけるなどあり得ない。

 

「手を当てるまでもないわね、私はそんな事しないわ。早坂が万全の状態なら、私が撒き散らしたウィルスくらいで風邪を引いたりしないでしょうし、客観的に考えて原因は7:3ね」

「客観的にと申しますと、お嬢様が7でございますか?」

「そんなわけないでしょう! 貴方が7よ」

 

 かぐやが物凄い勢いで、カップをソーサーに置く。衝撃でカップの中の紅茶が宙に浮いて、再びカップの中に着地する。

 着地の際に、机に飛び散った水滴を、讃岐がハンカチで拭き取る。

 

「7:3とは大人気ない数字でございます。百歩譲って6:4ではないかと」

 

 自分が譲歩される立場なのが気に入らないが、

 

「貴方が6で、私が4よね」

「私が4でお嬢様が6でございます」

 

 さらりと責任を押し付けるかぐやと、流れるように責任を押し付け返す讃岐。

 両者は暫し無言で牽制し合う。先に口火を切ったのはかぐやだった。

 

「6:4よ!」

 

 負けじと讃岐も言い返す。

 

「4:6でございます」

 

「6:4!」「4:6」「6:4!」「4:6」「6!」「4!」と、どちらが6なのか4なのか、分からなくなるくらい繰り返された、責任を押し付け合う世にも醜い争いは、痺れを切らしたかぐやによって終戦を迎えた。

 

「ああ、もう! その事はいいの。貴方を呼んだ理由、忘れたんじゃないでしょうね?」

「勿論でございます」

 

 讃岐は頷いて、ニヤリと口角を上げた。

 

「では、謹んで拝聴致します。その後について──」

 

 ようやく本題に入れる。そう、讃岐を部屋に呼んだのは、つまらないコントをする為ではない。

 かぐやは今しがたランニングを終えたかのように、グッタリと椅子に背を預けた。

 

 

 ○

 

 

 手から滑り落ちた携帯電話を拾ったかぐやは、スピーカーに向けて捲し立てた。

 

「どういう事なの!? いつもならここで、自信満々で偉そうに推理を語る流れでしょう」

『……その様に思っておられたのですか?』

 

 慌てるかぐやに、讃岐は諭すような口調で、

 

『落ち着いてください、お嬢様。私はなにも、絵を刺した犯人が分からないと申したのではありません』

「じゃあ、勿体ぶってないで教えなさい」

 

 だが、かぐやが求める返答は、スピーカーから返ってこない。代わりに讃岐はこんなふうに言った。

 

『現状では情報が少なすぎます。そこで、お嬢様には、柏木さんが伏せている情報を聞き出していただきたいのです』

 

 聞き出すのは構わないが、それ以前に、

 

「伏せている情報? 柏木さんが隠し事をしている様子はなかったわ。そもそも伏せるくらいなら相談には来ないでしょう」

 

 四宮家の教育により、かぐやは人の表情や行動などから、ある程度感情を読み取れる。そのかぐやからしても、柏木が隠し事をしているようには感じられなかった。

 

『隠しているのではありません。ですが、人は話をする際、情報の取捨選択をしています。当然、不要と判断した事柄については話していないでしょう』

「その不要な話の中に事件解決の糸口がある、というわけね。……本当でしょうね?」

『おや? 疑問がおありですか?』

「サッパリ分かりせんとか申した男の言葉を、鵜呑みにしていいのか疑問なだけよ」

 

 皮肉がたっぷりこもった言葉も、讃岐には効果がないようで、確信しているかのように告げる。

 

『ご安心ください。情報さえ出揃えば、お嬢様が満足できる結果を提供できるかと存じます』

 

 

 

 

 讃岐との通話を終え、かぐやは生徒会室へと戻った。

 

「すみません。お待たせして」

 

 柏木は手持ち無沙汰に弄んでいたスマホから、顔を上げた。

 かぐやは長椅子に座らずに、壁際に備え付けてある、食器棚に足を運んだ。

 

「そういえば、お茶も出していませんでしたね」

「いえ、そんな。お構いなく」

 

 慌てて申し出を断ろうと腰を浮かせる柏木に、かぐやはやんわりと、

 

「少し長くなりそうなので。柏木さんにもいくつか質問がありますし、そのお礼だと思ってください」

 

 そこまで言われれば、柏木も強いて断ろうとはしなかった。

 二つのティーカップに、紅茶を注ぎ終えるとかぐやはさっそく質問した。

 

「質問というのは、作業員と先生が、美術室に人が居なくなった十五分の間に、何人か秀知院生が通ったのを目撃していますよね。その人達についてです」

 

「分かりました」と柏木が応じたのに、かぐやは驚いた。先程の質問は讃岐が指定したものだったからだ。ストーカーの仕業だと断定するからには、それらの生徒も調べているはず、という讃岐の予想は当たったようだ。

 

「通った人物は昇降口から一人、渡り廊下から二人の計三名です。

 昇降口から通った一人は、サッカー部の男子生徒でその日は日差しが強く、グラウンドには影もないので、涼む為に校舎に入りました。ちなみに、練習はサボっていたみたいです。

 渡り廊下を通った二人は先に通った方から、フェンシング部の男子生徒で、練習に遅刻したんですけど、そのまま練習場には行かず、遅刻を誤魔化せないか頭を捻っていました。ちなみに、遅刻常習犯です。

 次はTG部の女子生徒。校内でポケ○ンの探索をしていたそうです。ちなみに、でんきねずみを捕獲したそうです」

 

 サボり、遅刻魔、ポケ○ントレーナー。碌な奴がいない。更にいえば、追加情報が全体的に役に立たない。

 かぐやは三人について、更なる追求をした。

 

「三人は物を持っていませんでしたか?」

「全員持っていました。サッカー部員はポカリの入ったペットボトルを、フェンシング部員はエペ(フェンシングで使用する剣の一種)と防具を、TG部員は杭を持っていました」

「杭!? どうしてそんな物を?」

 

 ポケ○ンを攻撃する気だったのだろうか? 

 何にせよ、そんな物を持ち歩いていたなら、犯人はTG部員で決まりではないか。

 

「さあ、理由までは。ですがTG部員は犯人ではないと思います。確かに杭は、映画で吸血鬼の心臓を刺すのに使われるような、太く尖った品でしたけど、渡り廊下を通る時、見かねた先生が没収しようとしたので、足止めをくらっていました。なんとか没収は免れたみたいですけど、解放された時には犯行が終わっていました」

 

 当然といえば、当然の対応だ。これでTG部員は、犯行の手段はあったが、機会がなかったことになる。

 かぐやはホッと胸を撫で下ろした。見知らぬ相手とはいえ、藤原と同じTG部の生徒なのだ。疑うのは心苦しい。

 

「次に怪しいのはフェンシング部の生徒ですが、彼も犯人ではない根拠があるのですね?」

 

 柏木はすぐに頷いた。

 

「画用紙に開けられた穴から、ある程度太さのある物で突き刺されたと思われます。エペでは細すぎるんです。あと、これは三人に共通するのですが、夏服にユニフォームと薄着だったのでポケットや服の下に物を隠すのは無理でした」

 

 可能性は低いが、念のため最後の一人についても確認する。

 

「サッカー部員について、何か情報はありますか?」

「彼については、怪しい持ち物もなかったので特には……、長々とサボっていたくらいですね」

「長々と?」

「サッカー部の渡部(わたべ)君の証言なんですけど、出て行く時ペットボトルに付いていた水滴が、戻って来た時にはなくなっていたかららしいです」

 

 水滴が付着するのは結露が原因だ。

 結露とは空気中の水蒸気が冷やされて起こる現象。今回の場合、水蒸気がポカリによって冷やされ、ペットボトルの表面に水滴が付着した。

 水蒸気が冷やされて起こる関係上、戻って来た際のポカリは常温程度には温くなっていた事になる。冷たい飲み物が常温になるまで、どれだけの時間が掛かるか分からないが、最低でもそれだけの時間サボっていたと推察される。

 

「困ったものですね」

 

 どこぞの使用人を彷彿とさせるサッカー部員の行動に、かぐやは嘆息した。

 

「サボるのは良くないですよね」

「そうですね。サボるだけならまだしも、隙あらば失礼な言動をしますし、隠し事も……」

 

 ペラペラと不満を語るかぐやに、柏木が疑問を差し込んだ。

 

「四宮さんの周りにもそんな人が居るんですか?」

 

 かぐやは口をつぐんだ。四宮家の長女である自分が使用人に、舐められていると思われるのも、碌でもない使用人を雇っていると知られるのもかぐやの自尊心が許さなかった。

 

「いいえ、居ませんよ。知人が雇っている使用人の話です」

「そうなんですか。そんなに不満があるなら、何でクビにしないんでしょう?」

 

 言われてみれば、何故自分は讃岐光谷を解雇しないのだろうかと、かぐやは自問した。

 讃岐の雇い主は父親の四宮雁庵なので、かぐやが直接解雇を命じるのは無理だが、不真面目な言動を伝えれば何らかの処置は下るはずだ。しかし、それをしないのは……。

 やはり一番に考えつく理由は、あの推理能力だろう。それ以外の理由がかぐやには思い当たらなかった。

 考え込んでしまったかぐやに、柏木が声を掛ける。

 

「あの、四宮さん。どうかしましたか?」

「ああ、すみません。それはともかく、今は事件の話ですね。最後の質問です。美術室内部の様子を教えてください。特に犯行前後で変わった点などあれば」

「絵はイーゼルに立てかけられていました。イーゼルの前に椅子があって、横にパレットなどの道具を置いた机がありました」

「机の上に、正確には何が置いてあったのか分かりますか?」

 

 柏木は記憶を探るように、視線を宙に彷徨わせた。

 

「確か、パレットに筆洗、筆箱……あと、彫刻刀です!」

「彫刻刀が?」

「雑談している時に、彫刻部員が置いたまま気付かなかったそうです。そういえば、犯行後彫刻刀は床に落ちていたと聞きました。恐らくストーカーが誤って落として行ったと思うんですけど」

 

 こんな事が事件と関係あるのだろうかと、首を傾げる柏木。それは、かぐやも同じ気持ちだった。

 讃岐に言われるがまま、あれこれ探ってはみたものの、余計分からなくなった。

 かぐやが明日また生徒会室に来るように伝えると、柏木は安堵した表情で生徒会室から退出した。

 

 

 ○

 

 

 目が覚めると体調はほとんど回復し、熱は微熱程度まで下がっていた。

 上半身を起こし、ぐっと伸びをした。一日中寝ていたせいで身体が凝り固まっており、パキパキと音が鳴った。

 これなら仕事に戻れるだろう。もう夜なので、大した仕事はないだろうが。

 ベッドから出ようとした瞬間、部屋の扉が開いた。

 

「ノックをしてください」

 

 早坂は眉を顰めながら、扉から覗く見慣れた長身に言った。

 

「ああ、悪いね。寝てると思ったんだよ」

 

 寝ていればノックをしなくていい、とはならない。

 讃岐は悪びれる様子もなく言い訳にならない言い訳をした。

 

「何の用ですか?」

「そりゃあ、お見舞いだよ。体調はどうだい?」

「十秒前までは良かったです」

「元気になったようでなによりだよ」

 

 二人は言葉のドッチボールで会話をする。普段からキャッチボールよりドッチボールをしている彼女達ならではの会話法だ。

 一応お見舞いに来たらしい讃岐が差し出したポカリを受け取り、一口飲んでから聞いた。

 

「残っている仕事はありますか?」

 

 早坂が尋ねると、讃岐は呆れたように肩をすくめた。

 

「もう仕事する気なの? 君も白銀君に劣らずのワーカーホリックだねぇ」

 

 讃岐は問いかけには答えず、こんな提案をした。

 

「元気になったのなら、ちょっと僕の話に付き合ってよ」

 

 断りたいのは山々だが、どうせ勝手に喋り出すのは目に見えている。早く終わらせるには、大人しく聞いていた方がいい。早坂はこれまでの経験からそう判断した。

 

「……手短にお願いします」

「そうするよ。土曜日学校で事件が起きたらしいんだけど──」

 

 讃岐は美術室で起きた事件の詳細と、かぐやが柏木から聞き出した情報を詳細に説明した。

 ポカリを飲みながら聞いていた早坂は、話が終わると口を開いた。

 

「それで、解決編をやりたいんですか? かぐや様相手にやったのでは?」

「一人より二人に納得してもらった方が確実だからね」

 

 付き合わされる方は良い迷惑なのだが、間違った推理がかぐやから柏木に伝わるのは避けねばならない。幸いにも体調は回復しており、寝起きの頭の体操には丁度いい。早坂は讃岐の推理を聞く体制をとった。

 讃岐はわざとらしく空咳をしてから、推理を始めた。

 

「お嬢様はストーカーの侵入経絡を相談されたようだけど、この前提は成立しない。何故なら、この事件がストーカーの仕業ではないのだから」

 

 かぐやに相談された際に、全く分からないと言ったのは、ストーカーが犯人ではないからだったようだ。

 続けて讃岐はストーカーが犯人ではない根拠を述べる。

 

「一階の教室には鍵が掛かっていたし、美術室への道には教師と作業員の目があった。かといって、教師もしくは作業員の目を掻い潜るのは無理だ」

 

 いくら作業をしていたとはいえ、渡り廊下を歩く人物に気付かないとは思えないし、作業員は扉の修理をしていたので、人の出入りは嫌でも目に入る。

 

「そもそも、美術室の鍵が空いているかも分からないのに、他校に侵入して犯行を行ったと考えるのは現実的じゃない」

「では犯人は他にいると?」

「そうなるね」

 

「候補は五人」讃岐は手をじゃんけんのパーにして突き出した。

 

 五人? 

 

 美術室が無人になった間に、美術室への道を通ったのは三人ではなかったか。早坂は疑問に思った。

 

「サッカー部員、フェンシング部員、TG部員そして、美術部員と彫刻部員だ」

「美術部員と彫刻部員もですか? 犯行の動機はともかく、彼女達はお互いのアリバイを証明できます」

「念を入れてね。遠隔で動く仕掛けがあれば、犯行は可能だ」

 

 犯行に使用された物は、ある程度の太さがあるので、仕掛けがあればすぐに見つかると思うが、ひとまず納得して先を促した。

 

「犯行を行うには、二つの条件がある」

「美術室に侵入する機会があったか。絵を刺した凶器を所持していたかの二つですね」

 

 讃岐は満足そうに肯定した。前者は言わずもがなであり、後者は美術室に該当する凶器がなかったので、凶器を持ち込まなければ犯行は不可能だ。

 

「一人ずつ条件に当てはまるか検討しよう。まずは美術部員。さっきあんな事を言った手前だけれど、美術室に遠隔で作動するような仕掛けはなかった。つまり彼女は前者には当てはまるが、後者には当てはまらない。この条件は彫刻部員も同じだね」

 

 じゃあ何でその二人を容疑者に入れたんだと、讃岐に冷ややかな視線を送ったが、気にする様子もなく推理を続行する。

 

「サッカー部員とフェンシング部員も同様に、犯行の機会はあったが、手段がない。TG部員は手段はあったが、機会がない」

 

 ん? と早坂は首を傾げた。条件に当てはめると容疑者の内、犯行が可能だった者はいない、という結論になる。

 困惑する早坂を、讃岐は面白そうに眺める。ムッとしながらも、顔に出ないよう冷静さを保って、

 

「犯人は五人以外の人物なんですか?」

「まあ、そう怒らないでよ」

 

 怒ってない。

 

「犯人は容疑者の五人以外有り得ない。だからもう一度検討し直してみよう。五人の内、一つ目の条件に該当しない人物は除いていいだろう。美術室に侵入できなければ犯行は行えないしね。持ち物を持っておらず、遠隔の仕掛けがなかった事から、美術部員と彫刻部員も外していい」

 

 残るは二人。サッカー部員とフェンシング部員だ。

 早坂はサッカー部員が持っていた物と同じ、ポカリのペットボトルに目を落とした。これよりは、エペを持っていたフェンシング部員の方が怪しい気がする。何にせよ早坂には、どちらが犯人なのか分からなかった。

 

「フェンシング部員のエペは絵の傷跡と一致しなかった。とすると、残るはサッカー部員だけど、彼が持っていたのはペットボトルのポカリだ」

 

 讃岐は自分が渡したポカリを指差した。

 

「君ならどういう風に、ペットボトルをつかうかな?」

 

 早坂はポカリの入ったペットボトルを、横に向けたり、反対にしたりして考えたが、良い方法は浮かばない。

 

「キャップに尖った物を付ける、とかですか?」

「なるほど。でもその方法なら、他のサッカー部員の目を誤魔化すために、ペットボトルの先端を隠すなどの工夫をしたはずだ。だけど目撃者は一目でポカリと断言している。この事から、サッカー部員はラベルが付いたペットボトルを、そのまま持ち歩いていたと考えられる。ではどの様な方法を用いてサッカー部員は、凶器を持ち運んだのか……」

 

 手品の種明かしを待つ様な気持ちで、早坂は讃岐の次の言葉に耳を澄ませた。

 

「僕が思うに、犯人はペットボトルの中に、凶器を入れて持ち運んだんだ」

 

 飲み口からは入らないだろうから、ペットボトルの真ん中辺りを切って、凶器を中に入れる。その後、テープなどでペットボトルを元の形に戻す。この方法ならば、凶器を持ち込める。その上、ラベルを貼れば切れ目を隠せる。

 しかし、ペットボトルの中に隠す方法には、複数の疑問点があった。

 

「二つ質問があります。その方法をとったとしても、中に入った凶器をドリンクカバー等で隠すのではないですか?」

 

 意味を噛み砕くように、ゆっくり頷いた讃岐は「他には?」と質問を促した。

 

「他のサッカー部員の証言で、ペットボトルが結露していたとありました。では、やはりペットボトルに入っていたのは、冷たい飲み物なのでは?」

「あの渡部君の証言だね。流石はサッカー部のエース! 目の付け所が違う」

「……」

 

 あのと言われても。早坂は讃岐とテンションが、反比例するのを感じた。

 そして想定通りなのか、讃岐は早坂の反論にもスラスラと答える。

 

「最もな質問だね。だけど、その二つの条件に当てはまり、かつ尖った凶器になる物があるんだよ」

「どんな物ですか?」

「氷だよ。正確には凍らせたポカリだ」

 

 ああ、と知らず知らずの内に言葉が出ていた。

「氷の凶器なんて、今どき推理小説でも見ないけどね」と讃岐は妙な感心をしながら、犯行の全容を語った。

 

「サッカー部員は家で凍らせたポカリを用意して部活へ。頃合いを見計らって、練習から抜け出した。既に氷は溶け始めていただろうけど、凶器にするには充分な量の氷は残るはずだ。そして、堂々とペットボトルを持って校舎に入り、美術室に向かった。中に入って、お目当ての絵の前に行く。そこで彼は、机の上にあった彫刻刀を見つける。これ幸いと彫刻刀でペットボトルを切って、氷を取り出す。今の状態では当然、尖っていない。だから彫刻刀で削って尖らせた」

「待ってください」

 

 早坂は疑問が抑えられずに、推理を遮った。

 

「今の推理を聞いていると、犯行には彫刻刀のような、氷を尖らせる物が必要不可欠です。ですが、彫刻刀があったのは偶然彫刻部員が置いていったからです」

「君の言う通り、本来なら氷を研ぐのは、彫刻刀以外の物を使う予定だった。これについては後で説明するよ。とりあえず、このまま話を進めてもいいかな?」

 

 納得できなかったが、早坂は同意した。

 

「出来上がった氷の凶器で絵を突き刺した。犯行後不要になった氷は砕くか、削るかして筆洗の中に入れる。筆を洗うのに使って濁っていたから隠すには最適だったし、溶けてしまえば氷があったなんて誰も気付かない」

「ペットボトルはどう処分したのですか? それにサッカー部員が戻って来た時、ポカリの入ったペットボトルを持っているのが目撃されています」

「それは簡単だ。新しく自販機で買えばいい。自販機の横には、ペットボトル専用のゴミ箱があるしね。買った後、結露が発生する前に素早く戻れば、あたかも持って行ったポカリが常温になったかのように見える」

「そこまでしますか?」

 

 持って出た時と戻った時のポカリを、同じに見せる意味はない。素直に新しく買ったと言っても怪しまれはしないだろう。

 

「犯人の心理ってやつじゃないかな? 自販機のゴミ箱には決定的な証拠があるんだから、犯人としては自販機に行ったと思われるのすら避けたかっただろうね」

 

 確かに、証拠から遠ざかろうとするのは、人間として至って普通の反応かもしれない。

 

「さて、君が指摘したように、この犯行にはまだまだ穴が多い」

 

 彫刻刀の件だ。それ以外にもいくつかある穴を、早坂は指摘した。

 

「サッカー部員も美術室の鍵が空いたまま、無人になるとは予想できなかった。先程も言いましたが、彫刻刀がなければ犯行は不可能。そして、何故美術部員は事件の相談を柏木さんにしたのか」

 

 最後の指摘を聞いた途端、讃岐は目の色を変えた。

 

「──へぇ、そこに気付くとは。素晴らしい着眼点だね」

 

 珍しく純粋に誉めている讃岐の言葉に、早坂は照れ臭くなって顔を背けた。

 讃岐は上機嫌に声を弾ませる。

 

「そう! それが今回の犯行の最も重要な点だ。君が指摘した点を全て解決する方法は一つ。共犯者の存在だ」

 

 早坂はずっと単独犯だと考えていた。というのも、共犯はお互いに利益がなければ成立しないからだ。未完成の絵を台無しにするだけで、それだけの利益が生まれるだろうか。

 

「共犯者は美術部員。美術室が出入り自由になる時間をコントロールできるのは彼女だけだし、サッカー部員の機転により結局は使わなかったけれど、氷を研ぐための道具は、机にあった筆箱の中に入っていたんだろう。使った氷の処理も、彼女ならあらかじめ筆洗の水を濁らせる事ができる」

「ですが、何故自分の絵を?」

「それこそが、彼女が柏木さんに事件の相談をした理由さ。僕の推理が正しければ、動機はストーカーにある」

「ストーカー?」

 

 早々にフェードアウトした人物が、ここに来て再び舞台に上がった。

 

「美術部員とサッカー部員の関係性は想像するしかないけど、親しい仲ではあっただろう。美術部員はストーカーに悩まされていた。警察は動いてくれない。そこで、どちらが持ちかけたかは分からないけど、二人は今回の事件を計画した」

「事件をストーカーの犯行に仕立て上げ、警察を動かそうとした?」

 

 被害が大きくなれば、警察は動く。そして、ストーカーの犯行にするには、他に犯人がいてはならない。だから、氷の凶器なんて手垢の付いたトリックを使った。そう考えれば辻褄が合う。

 

「いや、それならすぐに警察へ連絡すればいい。彼女達は警察を信用していなかったみたいだね。だから柏木さんに相談した。ある人物に伝わると期待してね」

 

 柏木と繋がりがあり、かつストーカー被害に対処する能力もある人物。早坂の頭にある人物が浮かんだ。

 

「柏木さんと同じ秀知院学園VIP枠の一人。警視庁警視総監のご子息殿だよ」

 

 江戸時代を起源とし、かつては貴族や士族の教育機関として創立された由緒正しき秀知院学園には、VIP枠と呼ばれる生徒達が存在する。

 彼等を敵に回せば、国内での生活も危ぶまれると、専らの噂である。早坂は噂が事実であると承知していた。

 柏木がかぐやに相談したのは、美術部員としても想定外だっただろう。更なる誤算は、四宮かぐやに讃岐光谷が仕えていた事だ。

 

「なんだか、疲れましたね」

 

 寝起きの頭には、難しい問題だった。早坂は軽い疲労感に襲われた。

 

「おお! それは困ったね。もう少し休んだ方が良さそうだ!」

「は?」

 

 何を思ったか、芝居がかった大袈裟な口調になる讃岐に、早坂は呆然とした。まさか最初からこれを狙っていたのだろうか。

 隙を見逃すほど相手は甘くない。畳み掛けるように讃岐は続けた。

 

「後の仕事はやっておくから、今日はゆっくり休むといい」

「……どういう風の吹き回しですか?」

「風邪だけにね」

 

 讃岐は面白くない冗談で場を冷やした後、

 

「好意は素直に受け取りなよ。君には早く良くなって、僕のフォローをしてもらわないといけないからね」

 

 邪な理由だ。でも、その方が安心する。親切心からの行動であれば気味が悪い。

 無理にでも止められそうなので、早坂は讃岐の好意に甘んじた。

 

「……すみません。では、お願いします」

「任せてよ。じゃあね、後でお粥でも持って来るよ」

 

 ひらひらと手を振って、讃岐は出て行った。

 その後届けられたお粥は、辛くなく甘くない、熱くもなく冷めてもいない、濃くなく薄くない、全ての中間を取った可もなく不可もない、絶妙な調整が施されていたが、早坂には少しだけ美味しく感じられた。

 お粥を食べながら、思い返すのは『警視庁警視総監のご子息殿』という讃岐の言葉。言い方からは、親しみとはいかないまでも、含みが感じられた。

 

 それとは別にもう一つ。知ってて当然の雰囲気をだされたので、言い出せなかったが、

 

 サッカー部の渡部って誰? 

 

 

 ○

 

 

「今回の件、お願いしますね」

 

 かぐやのパソコンの画面には、黒い短髪の鋭い目付きをした少年が映っていた。少年の背後には暖簾や掛け軸があり、和風な内装なのが見て取れる。

 少年の眉間に刻まれた深い皺が、強面な顔を三割増しで凶悪にしている。

 

『──氷の凶器か。ふざけた事件だ』

 

 吐き捨てると、少年は鷹のような瞳で、獲物を見定めるような視線をかぐやに向ける。

 

『この真相はお前が見抜いたのか?』

 

 かぐやは画面越しにも伝わる圧力を物ともせずに、楚々とした笑顔で対応する。

 

「はい。それが何か?」

 

 少年は面白くなさそうに鼻を鳴らして、

 

『ストーカーの件はこっちで処理しておく。少し脅せば収まるだろう。事件の方は大事にならないようにしろ』

「分かりました」

 

 理由はどうあれ、冤罪をでっち上げようとしていたのだから、本格的な捜査を行うような事態になるのは非常に不味い。

 ビデオ通話を切ったかぐやの口から、思わずため息が出た。

 讃岐から自分が謎を解いた事は秘密にして欲しい、と頼まれたので自分が解決したかのように振る舞ったのだが、

 

「事件よりも、讃岐の方が謎ね」

 

 とにもかくにも、本日やるべき事は終わった。

 かぐやは頭を切り替えノートを開いた。明日に備えて、白銀に告白させる策を練らなければ。

 寄り道は終わり、四宮かぐやの日常は本来の姿へと立ち戻った。



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石上優は正したい

 午前8時55分。

 秀知院学園において、1限目の授業開始5分前の時刻である。50分にSHR(ショートホームルーム)が終わってから、1限目までは10分の間がある。学生の本分からすれば、予習や勉強に使うのが利口であるが、テスト前でもないのにそんな事をすれば『ガリ勉』の謗りを免れない。その覚悟がある猛者だけが、ノートにペンを走らせている。

 大半の生徒はスマホのアプリで遊んだり、友人と雑談して各々時間を潰している。

 石上優はそのどちらにも該当していない。机の上に突っ伏して、唯々時が過ぎるのを待っていた。

 

 寝たふり。

 

 石上のように勉学に励む気力がなく、かといって親しい友人もいない悲しき隠者達の常套手段である。

 石上はいかにも寝起きですという雰囲気を醸し出して顔を上げ、黒板の上にある時計で時間を確認した。

 時計の長針が丁度11を指していた。

 普段はチャイムを目覚まし時計代わりに使う石上が、わざわざ時計を確認したのには理由があった。

 数日前、東京に台風が上陸した。特別大きな被害を出す事なく台風は過ぎ去ったが、激しい雷雨の影響で秀知院学園の放送設備が故障した。放送ができないので、始業のチャイムも鳴らない。その為、自分で時間を確認して行動しなければならなかった。

 あと5分もある。暇を持て余した石上は、窓際の席に視線を向けた。

 石上の横の列の男子生徒は身長が高く、体格も良い。横幅もそれなりにあった。我ながらどうかと思うが、名前は覚えていない。

 対照的に後の席の女子生徒は小さかった。机にはノートと教科書が広げられており、ペンがスラスラとノートの上を移動していた。耳にイヤホンを着けていて、配線は机の中に伸びていた。彼女の名前は覚えていたし、我ながらどうかと思うが、覚えられてもいた。伊井野(いいの)ミコは校則違反者を取り締まる風紀委員なのである。

 相変わらずのクソ真面目。自分とは根本から違う人間なのだろう。

 石上は再び掛け時計に目を向けた。58分。もう直ぐ教師も現れる時間だ。石上は頬杖をついて、授業の開始を待った。

 時計の針が12を指すのとほぼ同時に、教室の扉がスライドして教師が現れた。慣れた足取りで教壇まだ行くと、眉を顰めた。

 

「伊井野、休み時間は終わりだそ」

「えっ!?」

 

 驚いたように声を上げる伊井野。驚いたのは彼女だけではなかった。伊井野の真面目さを知るクラスのほとんどが驚いていた。石上も例外ではなく、振り返って伊井野の席を見た。

 机の上には先程見た時と変わらず、ノートと教科書が広げられていた。イヤホンを着けていたので、教師が入って来たのに気付かなかったのだろう。

 

「え、まだ時間が……」

 

 小さく呟いた伊井野は、何故か窓の外に視線を移した。そして顔を青くした。

 

「す、すみませんでした!」

 

 勢いよく頭を下げて、急いで授業の準備をした。

 

「まあ、勉強熱心なのは悪い事じゃないがな」

 

 普段から真面目なのが幸いして、教師は気にした様子もない。

 クスクスと静かな笑い声が、波紋のように教室内へと広がった。さぞかし気分がいいのだろう。

 伊井野ミコは正真正銘のクソ真面目だ。自由な学園生活を望む者にとっては、目の上のたんこぶのような存在。そんな奴が醜態を晒しているのだから、この反応も当然の成り行きといえる。

 石上は冷めた目で周囲の反応を観察する。

 それにしても、伊井野は何故、時間を勘違いしていたのだろうか。

 チャイムが鳴らないのが原因だとは考え難い。普段からチャイムが鳴る前には授業の準備をしているような真面目ちゃんだ。そもそも、チャイムが鳴らないのは昨日も一昨日も同じである。

 窓越しにあるものを目にして、石上は伊井野が窓の外を見た理由が分かった。

 それは校庭にある時計だった。ひょろりと長い棒の先端に、丸い時計が付いている。

 時計の長針が動く。授業開始から1分が経過した。

 

 

 

 生徒会室の真下にある通路は、人通りが少なく風通しも悪くない。おまけにこの時間帯は影ができるので、茹だるような暑さの日でも、エアコンが設置されていない生徒会室よりは快適に過ごせる。

 石上は暇を潰したい時、怖い先輩から逃げたい時に、この場所を利用していた。

 空には雲一つない。目に沁みるほどの青空だった。

 レンガ造りの柱を背もたれに座っていた石上は、ゆったりと吹き込む風に、片目を隠すように垂れた前髪が揺られるのを感じながら、両手で握った携帯ゲーム機のディスプレイに目を落とした。

 ディスプレイ上では、人間が身の丈程もある大剣を振り回して、竜のような巨大モンスターを攻撃していた。石上が操作しているキャラクターだ。

 モンスターの背後、石上の視線の先には、棍を持った人物が攻撃の機会を伺っている。

 そして、その人物は現実でも石上の目の前にいた。

 

「もうすぐ夏休みだね。君は予定とかあるのかな? ──いや、失礼。あるわけないよね」

 

 讃岐光谷は視線をゲーム機に落としたまま、余計なひと言を付け加えた。

 モンスターの素早い突進攻撃にタイミングを合わせて、石上は回避ボタンを押す。

 

「流れるように毒を差し込みますね。……まあ、確かにほとんどないですけど、生徒会で花火を見に行くくらいです」

 

 石上も視線を一切上げずに、数日前に決まったばかりの予定を伝える。

 回避が間に合わなかったらしく、キャラクターの体力を表す緑色のゲージが削れていた。

 

「寂しい夏休みだね。……はい、これ」

「まあ、彼女どころか、友人も碌にいませんからね。……ありがとうございます」

 

 讃岐がアイテムを使って、石上の体力を回復させる。緑色のゲージが満タン近くまで回復する。

 会話は途切れて、お互い手元の画面に集中する。石上と讃岐は強力なモンスターを、様々な武器を用いて討伐するゲームの協力プレイをしていた。分かりやすい表現をするなら、一狩り行っていた。

 

「そういえば先輩に相談があるんですけど──」

 

 順調にモンスターへのダメージが蓄積していった矢先、讃岐の操作するキャラクターが、動きを止めて棒立ちになった。

 その隙をモンスターが見逃すはずはなく、棍を持った戦士はあえなくモンスターの凶刃にかかって倒れた。

「先輩?」石上が不審に思い視線を上げると、目の前には讃岐以外にもう一人別の人物が立っていた。

 

「げっ!」

 

 思わずうめき声が漏れるのを、石上は抑えられなかった。

 小さい体で座っている石上を見下ろす少女。両肩から下がる茶色いおさげ。意志の強い瞳は力強く、まっすぐに石上へと注がれていた。

 

「うめきたいのはこっちよ。見回り中に石上なんかに会ったんだから。それと、学校にゲームを持って来るなって、何回言えば分かるの!?」

 

 伊井野の聞き慣れた怒鳴り声が石上を襲う。

 珍しく1人で見回りをしているんだなと、現実逃避したところで、片割れは学校を休んでいたのを思い出した。

 このままでは、自分にとっては嬉しくない伊井野のマシンガントークが始まってしまうので、石上は伊井野の意識を逸らす作戦に出た。

 

「僕にばっかり言うけどな。讃岐先輩だって持ってるだろ」

 

 石上は対面で同じように座る讃岐を指差した。だが、讃岐の両手には先程まで握られていたゲーム機がなかった。

 讃岐は両手をヒラヒラと振って、自分が何も持っていないのをアピール。

 伊井野は、じろじろと疑わしげに讃岐を観察した後、石上を一瞥した。

 

「何も持ってないじゃない」

「……」

 

 裏切り者!! 

 

 石上は心の中で叫んだ。再び矛先が自分に向くと覚悟した石上だったが、何故か伊井野はチラチラと横目で疑惑の視線を讃岐に向けていた。盗み見るように視線を送っているが、讃岐は目敏く気が付く。

 

「まだ怪しいところがあるかな?」

 

 立ち上がって両手を開き一回転。その後ポケットを裏返して見せる。疑わし気だった伊井野も、身を以って潔白を証明されては素直に認めざるを得なかった。

 一緒に一狩り行っていた身としては、疑問符を浮かべるばかりだった。

 

 一体何処に隠したんだこの人。

 

「疑いは晴れたようだね。ところで、最初から僕を警戒していたようだけど、風紀委員に目を付けられるような事したかな?」

「……先輩は早坂先輩と仲が良いですよね」

「ああ、彼女は校則の穴を突いてるだけとか言ってるけど、実質校則違反みたいな服装だからね。風紀委員としては目を付けていた。で、僕も同類疑惑があると」

 

 たった一言で疑惑の理由を言い当てられた伊井野は、目を丸くした。

 

「そ、そうです」

 

 戸惑ったように返事をする伊井野だが、次の瞬間には瞳に強い意志が宿る。毅然とした態度で讃岐を見上げた。

 

「分かっているなら、先輩からも注意してください!」

 

 讃岐はお叱りを受け流すように肩をすくめて「会ったら伝えておくよ」と返答した。

 賭けてもいいが、讃岐は絶対に伝えないだろう。

 

「伊井野あまりその先輩を信じない方がいいぞ。発言の七割は嘘だから」

「安心していいよ。潔白は言葉ではなく、身を以って証明したからね」

 

 ああ言えばこう言う。口から生まれてきたとは、この人のためにある言葉だ。

 

「人にどうこう言う前に、自分がちゃんとしなさいよ」

 

 伊井野が蔑むような目で石上を見()ろす。いや、見(くだ)している。

 逃げ道をなくした石上は、観念してお説教を聞こうと腹を括った。しかし、予想に反して伊井野はそれ以上何も言わずに踵を返した。

 

「今日は見逃してあげるわ。アンタに構っている暇はないから」捨て台詞を残して伊井野は立ち去った。

 元より女子の中でも小柄な伊井野ではあるが、遠ざかる背中はいつもより小さく見えた。

 今朝の一件が尾を引いているのは明白だった。

 

「……」

「いい子だったね」

「度が過ぎてるところはありますけどね」

 

 やれやれと、石上は大袈裟にため息を吐く。

 讃岐は地面に貼られた茶色いタイルの一つを持ち上げた。下はタイルと同じ大きさの空洞があり、黒色の物体が入っていた。

 讃岐は物体を持ち上げると、表面を撫でるようにして埃を払った。

 

「あっ、それ」

「正解はここでした」

 

 石上が声を上げると、讃岐は手に持った黒いカラーのゲーム機で空洞を示した。

 

「だから毎回そっち側に座ってたんですね」

「ご明察。流石の観察眼だね」

 

 パチパチと小さな拍手で、讃岐は石上に賞賛を送った。

 褒められているような、小馬鹿にされているような複雑な気分になり、石上は顔を顰めてそっぽを向く。

 石上の向いた方向には、こちらを見ながらひそひそと話している二人組の女子生徒の姿があった。彼女達から嫌悪と嘲笑を感じたのは被害妄想ではないだろう。

 知らず知らずのうちに険しい表情になっていたのか、讃岐が意味不明な弁明をする。

 

「いや、君の言いたい事は分かるよ。密室ものにおける秘密の抜け穴のごとく、卑怯な手を使った自覚はある。でも、ゲーム機を探せゲームなんてするつもりはなかったんだ」

「何の話ですか?」

 

 シリアスになっていたのが、馬鹿馬鹿しくなってくる。今のテンションを継続するのが嫌になっていたが、讃岐にも関わる事柄なので気力を振り絞って重い空気を作る。

 

「……先輩が良くしてくれるのは嬉しいんですけど、あまり僕と関わっていると変に思われますよ」

「根暗オタクストーカーと仲良くしてると、品行方正な僕のイメージに傷が付くって?」

「先輩が自分を客観視できていないのは良く分かりました。茶化さないでくださいよ。……その言い方だと、僕が中学の時やらかした事知っているんですよね」

 

 ああと、讃岐は肯定した後、薄らと笑みを浮かべて付け加えた。

 

「君が思っているより、ずっとね」

 

 意味深長な返答に、石上がどういう事かと尋ねるより先に、「そんな事より」と讃岐が石上に尋ねた。

 

「相談があるとか言ってなかったかい?」

「え、ええ。確かに言いましたけど」

「珍しい、というか初めてだよね。君が相談なんて。それ程切羽詰まった様子にも見えないけど」

 

 石上の忠告が届いたのかも分からないまま、讃岐のマイペースに流されて話題が変わってしまった。釈然としないものを感じながらも石上は、讃岐の質問に答えた。

 

「ちょっとした謎解きみたいなものです。先輩その手のゲーム得意でしたよね」

「比較対象がないから、得意かは分からないけど好みではあるね」

 

 なんだかんだと言いながら、自信はある様子である。それなら、と石上が相談内容を話そうとした時、ピピッと無機質な電子音が鳴った。

 音源は讃岐の携帯電話らしかった。讃岐はポケットから取り出すと、画面を見た。その後急いでスマホをポケットにしまうと、石上に向かって手刀を切った。

 

「言ってなかったけど、鬼ごっこの途中だったんだよね」

「は? 鬼ごっこ?」

「そう、見つかったら労働させられるタイプの鬼ごっこ」

 

 ずいぶん物騒な鬼ごっこだ。

 

「そういう訳で、相談は明日でいいかな?」

「それは構いませんけど……」

 

 讃岐は立ち上がると、思い出したように言う。

 

「謎解きなら、君のとこの副会長さんが得意だから話してみたら? 僕よりずっと頼りになるよ」

 

 讃岐の言葉は、生徒会の副会長を指しているのだろう。生徒会副会長、つまりは四宮かぐやである。

 

「四宮先輩に、相談……」

 

 石上は一気に絶望のどん底へと叩き落とされた。

 かぐやは石上が最も恐怖する存在である。以前よりはましになったが、今も思い浮かべただけで体が勝手に小刻みに震えていた。

 どん底に落ちた石上の様子に、讃岐が気付くはずもなく気安い調子で言葉を投げかけた。

 

「さっきの事だけどね」

「……さっき?」

「君に関わらない方が良いって話」

 

 そういえばそんな話もしたな。とっくに忘れていたのかと思っていた。讃岐は黒く澄んだ目を石上に向けた。

 

「心配しなくても、僕はあの風紀委員の女の子みたいにお人好しじゃないからね。厄介な事になりそうなら適当に距離を置くよ。だからそれまでは、清く正しい友人付き合いをしようじゃないか」

 

 じゃあねと、讃岐はヘラヘラとした笑顔で手を振って走り去って行った。

 人の眼球は脳に直結した器官であり、脳の半分は視覚処理に使われているという。

 目は口ほどに物を言う。昔の人はよく言ったもので、石上は目を見れば、人の本性の5、6パーセントが判ると自負している。

 その石上でも、讃岐が言った言葉を額面通り受け取っていいのか、それとも裏があるのか、はたまた何も考えていないのかすらも判別できなかった。判ったのは、あの奇妙な先輩との友人関係はまだ続く、という事だけだった。

 やはり、精度5、6パーは信用できない。

 

 

 ○

 

 

「早坂! 今すぐ讃岐を連れて来てっ!」

 

 たいそう御立腹な主人の命令を遂行するため、早坂は讃岐を探していた。

 探していたといっても、この時間の仕事は決まっているので、探し出すのは容易だ。サボっていなければの話だが。

 無駄に長い食卓がある部屋を抜けて、厨房がある部屋に入ると、見るからに高価な食器を慎重に洗っている同僚の後姿があった。

 人の気配を察したのか、讃岐が振り返った。

 

「やあ、早坂さん。僕に何か用かい?」

「用もなく貴方に会いに来た事がありましたか?」

「歓迎するよ」

「かぐや様がお呼びです」

 

 軽口には取り合わず、早坂は用件だけを告げる。

 讃岐は食器と手に着いた泡を手早く洗い流すと、水に濡れないよう捲っていた袖を下ろした。

 

「ところで、私の靴にこんな物が着いていたのですが」

 

 早坂は小型の機械のような物を、指先で摘んで見せた。

 

「調べたら発信機のような物でした。発信機が一定範囲に入ると、特定の端末に知らせが入る仕組みです」

 

 さりげなく讃岐の表情を観察するが、変わった様子はない。

 

「どこかの変態が仕掛けたのだと思いますが、心当たりはありませんか?」

「ハハハ、奇遇だね。僕のスマホにも変なアプリが入っていたよ」

 

 讃岐は早坂に自分のスマホの画面を見せた。

 

「盗聴用のアプリみたいなんだよね。どうりで充電の減りが早いと思ったよ。きっと僕のファンが入れたんだと思うんだけど、心当たりはないかな?」

「ハハハ、まさか、貴方にファンがいるはずありません」

「そっちの否定が先なんだ……」

 

 そう簡単にはいかないか。早坂は心中で舌打ちした。

 早坂と讃岐の間では日常的に、この様な情報戦が水面下で行われていた。

 正体を知りたい早坂と、サボりたい讃岐の知性の限りを尽くした勝負。今の所、勝者は出ていない。

 決して、やり口がセコイと言ってはいけない。

 

 

 

 

「お連れしました。かぐや様」

 

 讃岐を連れてかぐやの部屋へ戻ると、椅子に座ったかぐやが尊大な態度で出迎えた。

 ルビーのように赤い瞳が、讃岐を見据える。

 

「石上君に妙な入れ知恵をしたでしょう」

「いえ、悩みがあるようでしたので、微力ながらアドバイスをして差し上げただけでございます」

「それが妙な入れ知恵だと言ってるの! おかげでまた変な謎解きを頼まれたわ」

 

 早坂はニヤリと讃岐が笑みを浮かべたのを見逃さなかった。

 讃岐は一歩前に出ると、胸に手を添えた。

 

「お嬢様。お話をお聞かせいただければ、何か意見ができるかと存じます」

 

 言い終わった瞬間、間髪入れずにかぐやは言い放った。

 

「嫌よ」

 

 プイッと頬を膨らませて、そっぽを向くかぐや。

 予想外の反応に讃岐は戸惑い固まった。しばらくして、絞り出すように声を出した。

 

「理由をお聞きしても?」

「決まっているでしょう。主人を伝書鳩のように使う使用人がどこにいるというの? 何でも自分の思い通りにいくとは思わない事ね」

 

 かぐやはにべもなく突き放した。

 讃岐は顎に手を添え、考えるような間を開けた後、申し訳ございませんと素直に謝罪した。珍しく殊勝な態度に、早坂は嫌な予感を覚えた。

 

「私が間違っておりました」

「分かればいいのよ」

 

 素直な使用人の態度に満足して、溜飲を下げたかぐやに讃岐は続けた。

 

「石上君の悩み事が、解決せず終わるのだけが心残りでございます。悲しまなければいいのですが」

 

 ほらきた。

 

「うっ……」

 

 痛い所を突かれたと、かぐやは言葉を詰まらせた。

 

「彼は優しいので、きっとお嬢様を、後輩の悩み1つ解決できない役立たずな先輩とは思わないでしょうし、心配する事は何もありませんね。私、非常に深く反省しました。この件に関して、一切お嬢様から聞き出すことは致しません」

 

 そう言って、讃岐は一歩下がって元の位置に戻った。

 早坂は目の前の主の思考が手に取るように分かった。

 かぐやが自力で真相にたどり着く可能性は、大いにあり得る。かぐやは腐っても天才なのだ。だが一方で、たどり着いた真相が間違っている可能性があるのも確かだ。間違った推理を披露したとあれば、四宮の名に傷が付く。プライドの高いかぐやはそれを許容しない。このリスクを最低限に抑える手は簡単である。讃岐に推理させればいい。推理力という一点において、讃岐光谷は確実に四宮かぐやを上回っているのだから。

 しかし、ああ言った手前素直に頼むのは、これまたプライドが許さない。かぐやがどう出るのか、早坂は興味深く見守った。

 

「早坂」と黙っていたかぐやが呼びかけた。

 

「はい、何でしょう。かぐや様」

「石上君から受けた相談の内容を今から伝えるわ。いい、貴女によ。隣の腹黒男ではなく、あなたに言うの」

 

 セコイ。

 

 早坂は主の姑息さに愕然とした。

 讃岐は嬉々としてこの展開に乗っかる。

 

「近くに控えている都合上、話を聞いてしまうかもしれませんが、どうぞ気にせずお話ください」

 

 相談内容を語るかぐやの声は、心なしか大きく感じた。

 

 

 

「注意された女子生徒は、普段から時間には厳しかったそうよ。つまり、何故時間を勘違いしたのかを石上君は知りたいようね」

 

 話を終えると、かぐやはチラリと期待のこもった視線を讃岐に送った。

 視線の先の当人は、顎に手を添えぼんやりとした様子。やがて、添えた手を下ろすと、瞳に理知的な輝きが宿った。

 

「誠に僭越ながら、意見を申し上げてもよろしいでしょうか。お嬢様」

 

 かぐやは白々しく気のない風を装う。

 

「あら、聞こえていたの? 構わないわ」

 

「ありがとうございます」讃岐は胸に手を当て、慇懃に一礼した。

 

「相談の性質上、注意された女子生徒が時間を勘違いしたのには、原因が存在するという前提で進めさせていただきます」

 

 早坂とかぐやが同意したのを認めて、讃岐は推理を語り始めた。

 

「女子生徒が教師に注意されるに至った原因は3つあります」

 

 讃岐は早坂に向けて問うように言うと、人差し指、中指、薬指の三本を立てた。

 

「チャイムが壊れていて、始業時間に気付かなかった事と、イヤホンをして、教師の入室に気付かなかった事の2つではないのですか?」

 

「当然、その2つも入ります」指を2つ折り、残りは人差し指だけになった。

 

「もう1つは校庭の時計を見ていた事です」

 

 校庭の時計を? 

 

「時間を確認していなかったらからではなく、校庭の時計で時間を確認してたからの? そもそも、確認するのに校庭の時計を見る必要があるかしら。教室にも時計はあるでしょう」

「単純に教室の時計より、校庭の時計の方が見やすかったからではないかと思われます。お嬢様、彼女の席がどこにあるか思い出してください」

 

 かぐやは記憶を探すように、目線を宙に向けた──りはしなかった。かぐやにとって、その程度の記憶を思い起こすのは1秒も掛からない作業だ。

 

「窓際の席よ。石上君から見て左斜め後ろにあたる」

「では、石上君の横列の窓際の席は?」

「は? …………なるほど、そういう事ね」

 

 なにやら納得した様子のかぐや。理解が追いつかない早坂は眉間にしわを寄せた。そのしわを消したのは、讃岐の解説だった。

 

「石上君から見て横の窓際には背が高く、がたいの良い男子生徒が座っていました。女子生徒は小柄だったので、前の男子生徒が壁になり、教室の時計が見難かったのです。そこで女子生徒は窓から見える校庭の時計で時間を確認する事にしたのです」

 

 女子生徒が教室の時計ではなく、校庭の時計で時間を確認していただけでは勘違いをした理由にはならない。何故なら、

 

「でも、校庭の時計は正常に機能していたわ」

 

 教室の時計を見ていようと、校庭の時計を見ていようと時間は同じなのだから、勘違いは発生しない。

 

「学園の時計は電波時計で、全ての時計の時間が同じになるよう管理されています」

 

 早坂はかぐやの言葉に補足して伝える。

 

「そこが、今回の事件の肝でございます。電波時計の時間が正確なのは何故でしょう?」

「電波を受信して時刻を修正するからでしょう」

 

 分かりきった質問にかぐやは答える。

 電波時計は送信局の電波を受信することで、自動的に時刻を合わせる時計だ。受信頻度は機種によるが、秀知院学園で使用している時計は、1日に1回電波を受信しているはずだ。

 

「しかし、受信から次回受信までの時間の精度は、その時計に依存します」

「貴方の言いたい事は理解したわ。校庭の時計だけ時間がずれていたと言いたいのでしょう? でも、それはないわ。女子生徒が注意された後、石上君が校庭の時計を偶然目にしていて、教室の時計と同じ時刻を示していたのよ」

「では、時計が電波を受信する時刻が、1限目開始と同じ9時だったとしたらどうでしょう?」

 

 息を呑む早坂とかぐやをよそに、讃岐は詳しい解説を続けた。

 

「流れとしてはこうです。なんらかの影響で、校庭の時計は遅れていた。遅れ過ぎていたら気付くでしょうから、2、3分といったところでしょう。

 女子生徒は校庭の時計で時間を確認していた。何故なら、教室の時計は見難く、スマホは机の上に置くスペースがなく机の中に入れていたからです。実際の時間が9時になったのを、遅れた時計を指針に行動している女子生徒は気付かなかった。そして9時になった時点で、校庭の時計は電波を受信して正常な時刻に戻る。なので、教師に注意されて校庭の時計を見た時、時計は正常な時刻を示していました」

 

 かぐやは讃岐の推理を吟味するように黙り込んだ。少してから疑問を口にした。

 

「時計が遅れていたのは何故?」

「前日の天気は快晴で原因となりそうな落雷もなく、自然と時計の時間がずれたとは思えません。やはり、どなたかが手動で秒針を操作するなりして、故意に時間を遅らせたのではないかと思われます」

「女子生徒を陥れるため、時計に細工をしたということ?」

「彼女と全く関係のない理由で細工された可能性もあります。ただ、チャイムが故障しているタイミングで女子生徒の見ていた時計の時間が遅れる、というのは些か出来過ぎではないかと」

 

 偶然が重なった時、奇跡的だと思うか、作為的だと思うかは人によるが讃岐は後者のようだ。そしてそれは、早坂とかぐやも同じだった。

 かぐやが言った通りの目的なら、普段から女子生徒の行動を把握できる同じクラスの人物である可能性が高い。

 

「時計を遅らせた人物の目的がどうであれ、認めさせるのは難しいでしょう。取り敢えず石上君の疑問には答えは出ました。後は彼がどうしたいかでございましょう」

 

 

 ○

 

 

 石上は本日も懲りずに、生徒会室下の通路でゲームに興じていた。レースゲームである。石上は赤い車で道なき道を行き、コースのショートカットをした。

 向かい側には当然のように讃岐が座っていた。

 毎度思うのだが、部活をしているわけでもないのに、何故この時間まで残っているのだろう。

 石上の素朴な疑問をよそに、讃岐は手元のゲーム機に目を落としたまま言った。

 

「君の相談の件、四宮さんから聞いたよ。生徒会から周知したみたいだね」

 

 かぐやの推理を聞いた石上は、校庭の時計について調べる事にした。といっても、石上だけでなく生徒会で調査したのだが。

 時計に細工をしたとすれば、人が少なくなる放課後の可能性が高い。そう考えた生徒会は、部活動や委員会で放課後残っていた生徒を重点的に聞き込みを行った。結果として、複数の生徒から時計が遅れていたとの証言はあったものの、時計を操作した人物の目撃証言はなかった。

 苦肉の策として、全校集会で校庭の時計が悪戯され遅れていたと発信して、犯人への牽制とした。

 

「女子生徒の様子はどうかな?」

「さあ? 原因が分かったんで反省してるんじゃないですか」

 

 とぼけた石上だが、女子生徒──伊井野が元気に校則違反を取り締まっていたのを知っていた。なにせ取り締まられたのは自分なのだ。

 原因が分かった事で、納得できたらしく普段の調子に戻っていた。

 もう少し大人しくてもいいのだが。石上は余計なお節介をしたと少し後悔した。

 

「それにしても、雑な犯行ですね。チャイムが故障したタイミングを狙ったとしても、女子生徒が必ず校庭の時計を見るとは限らないじゃないですか」

「所謂、蓋然性の犯罪だね」

「何ですかそれ?」

 

 聞き返しながらも、手は巧みなボタン捌きで、ゲーム機のディスプレイに映るレーシングカーを操っていた。

 車はコーナーをドリフトする最中、コースに落ちていたバナナの皮を踏んでスリップした。

 

「今のバナナを例にすると」

 

 讃岐は石上の画面を見ていたかのように語った。

 

「AはBに殺意を抱いた。方法として、バナナの皮を踏みやすそうな場所に置き、Bの乗る車をバナナの皮で滑らせて事故死させようとした。

 バナナの皮は踏まれるかも知れないし、踏まれないかも知れない。踏んだとしても死ぬ程の事故にはならないかもしれない。方法としては不確実だ。殺害が成功したとしても、通行人がバナナの皮をポイ捨てしたのだろうと考えられるので、自分が疑われる心配はない。

 このように、上手くいけばそれでよし、失敗しても自分が疑われる心配はない、という犯罪方法を蓋然性の犯罪と言うんだよ」

 

 例えがゲームに寄り過ぎているせいか、現実味が全くない。石上のような人間にしか理解できない例えだ。

 バナナの皮を踏んだせいで順位が下がったが、石上の操る車は再び1位に躍り出た。

 

「失敗したっていいのだから、余計なリスクを冒す必要はない。だから今回の一件みたく証拠が残りにくいのさ」

 

 讃岐の解説が終わると、2人は暫しゲームに集中したので、沈黙が続いた。

 再び沈黙を破ったのは讃岐だった。

 

「君は、時計を遅らせた犯人に心当たりがあるんじゃないかい?」

 

 讃岐の指摘通り、石上は伊井野が注意を受けた時、周りの反応を観察していたので、その反応からある程度目星は着いていた。

 隠していたわけではないが、心中を覗かれたようでドキリとした。

 

「候補が絞れているだけですよ。でも、結局証拠がないんじゃ、どうしようもありません。またやらかさないか見張るのが精々です」

 

「へー、面白そうな話してるね。ウチも混ぜて欲しいしー」

「げっ!」

 

 突然割って入って来た明るい声。それを聞いた讃岐は顔を青くして呻いた。

 石上が顔を上げると、讃岐が背もたれにしていた柱の横に、金髪を頭の横で束ねた女子生徒が立っていた。

 女子生徒の装いは、明らかに校則で定められた範疇を逸脱しており、爪には空色のネイル。この場に伊井野がいたら飛びつくに違いない。

 いつも飄々としている讃岐だが、女子生徒が現れてからは蛇に睨まれた蛙のように微動だにしない。

 

「呻きたいのはコッチだし。全然約束の場所に来ないんだから」

 

 女子生徒の顔は笑っていたが、その裏で怒りの炎が燃え上がっているのを、観察眼に長けた石上は見抜いた。

 讃岐とはどういう関係なのだろうか。友人や恋人という感じではなさそうだが。

 

「い、いや悪いね、早坂さん。今から行こうとしてたんだよ」

 

 早坂。前に伊井野が言っていた人物だ。

 早坂は讃岐の見えすいた言い訳に一切耳を貸さずに、石上に向き直った。

 

「ごめんねー、会計君。コイツ借りてくね」

 

 何とかして欲しそうな、縋るような目で讃岐がこちらを見ている。

 仲良くしている先輩と、怖いオーラを出している先輩。2人を天秤にかけた石上の行動は迅速だった。

 

「どうぞ、遠慮なく持って行ってください」

 

 縋るような目を恨むような目に変化させた讃岐は、そのまま早坂に引き摺られて退場した。

 石上には最後まで2人の関係性が分からなかった。

 入れ替わりで、新たに2人の人物が石上の前に現れた。今自分は嫌そうな顔をしているだろうなと、石上は自覚した。

 

「また持って来てるわね! 今回は見逃さないわよ!」

 

 2人の内小さい方、伊井野が番犬のように吠えた。

 隣には野暮ったい丸眼鏡をかけた黒髪の女子生徒、大仏(おさらぎ)小鉢(こばち)が静かに立っていた。

 大仏は首を傾げて伊井野に質問した。

 

「前回は見逃したの? ミコちゃんが石上を?」

「ち、違うの! 前回は変な先輩に気を取られて」

 

 一度会っただけの後輩に変と言われるのには同情するが、石上は全面的に同意した。

 伊井野は誤魔化すためか、さらに勢いを増して石上に吠え立てた。

 次々と繰り出される正論口撃に、石上は屁理屈を返しながら対抗する。

 すっかり本調子に戻った伊井野を見て、やはり余計なお節介をするんじゃなかったと後悔する反面、どこかホッとした気持ちになる石上だった。



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かぐや様は守られない

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。特に東京都多摩地域中部に位置する市とは一切なんの関係もありません。


「お嬢様、今なんと?」

 

 名門が集う秀知院学園といえど、一般の学校と同じように夏休みがある。

 四宮かぐやが夏休みを迎えて少し経ったある日の事。四宮家と親しくている家柄の令嬢からパーティーの誘いを受けた。かぐやとしては、四宮との繋がりを強くしたいという思惑が透けて見えるパーティーなど行かずに、白銀とどうすれば連絡が取れるか策を練っていたかったのだが、そうもいかない。出席する旨の連絡を入れた。

 会場、もとい令嬢の家は国立市にあるらしい。前日かぐやが行き先を告げると、使用人の讃岐光谷は目を丸くして聞き返した。

 

「明日、国立に行くと言ったのよ」

「クニタチ。あのクニタチでございますか?」

「どの国立を指しているか分からないけど。私が行くのは東京都の国立市よ」

 

 途端に讃岐は顔を青くして、真面目くさった表情になった。

 嫌な予感がした。この不真面目な使用人が真剣な表情をする時は決まって、どうでもいい事か、バカな事を言い出す時だ。

 

「どうかお考え直し下さい。お嬢様は、国立がどんな所かご存知ないのでございます」

 

 失礼な男だ。幼い頃より英才教育を受ける、もしくは甘やかされてきた生徒が集う秀知院学園において、学年二位の成績を誇るかぐやだ。国立市くらい当たり前のように知っている。

 

「馬鹿にしないで。谷保天満宮や兼松講堂、大学通りがある所でしょう」

 

 得意げに語るかぐやに、もう一人の使用人、早坂愛が横槍を入れた。

 

「全部付箋が貼ってあるスポットですね。デートにしてはお堅いのでは」

「ちょっと、勝手に見ないで!」

 

 早坂は何故か、かぐやの私物である観光雑誌を勝手に捲っていた。毎度毎度どういう神経をしていたら、主の物を勝手に見れるのだろうか。

 

「別にそんなんじゃありません。明日時間があったら行ってみようと思っただけです」

 

 かぐやは早坂の手から取り返した観光雑誌を机の上に放った。

 讃岐は放られた観光雑誌を見つめながら、やれやれと肩をすくめた。

 

「お嬢様、その程度の雑誌で知った気になっているとは。片腹が痛うございます」

 

 丁寧な口調で発せられた汚い言葉を受けたかぐやは、その意味を咀嚼して、自分が罵倒されたのだと理解するまで数秒の時間を要した。

 

「そこまで言うなら聞かせて貰おうかしら。貴方の知る国立市を」

 

 承知いたしましたと、讃岐は慇懃に一礼した。

 

「国立市とは、知る人ぞ知る犯罪都市でございます」

 

 言うまでもないが、国立市は知る人ぞ知る都市ではない。知る人ぞ知るのは国立市が犯罪都市である事実だ。

 世界的にも治安の良い日本では、耳馴染みのない物騒な単語である。かぐやと早坂は顔を見合わせた。

 

「何で国立が犯罪都市なのよ」

「最近の国立市における犯罪発生率は増加傾向にあり、月刊誌と同様、月一の頻度で難事件が発生しています。さらに去年発売された雑誌『この犯罪都市がすごい』では、米花(べいか)町、杯戸(はいど)町、烏賊川(いかがわ)市と数々の犯罪都市が名を連ねる中、見事トップ10入りを果たした今注目の都市なのでございます!」

 

 市町村の名前を次々と挙げて盛り上がる讃岐と対照的に、かぐやと早坂の反応は冷たかった。

 

「国立以外聞いた事もないわ」

「貴方の知識も雑誌じゃないですか」

 

 鈍感な讃岐も流石に温度差を感じ取ったようで、ゴホンと誤魔化すように空咳をした。

 

「とにかく、国立はお嬢様が思っている以上に危険な場所です。もし、どうしても行くというのならば、是非この私を──」

「貴方は留守番よ」

 

 全て言い終わる前に、かぐやは言葉を放った。

 讃岐は普段接している者にしか分からないくらいに肩を落としたが、一度自室に戻って御守りを二つ持って来ると、それをかぐやと早坂に手渡した。

 

「私にはこれくらいしかできませんが、お嬢様が事件に巻き込まれないよう祈っております」

 

 どこまでも犯罪が起こると信じて疑わない様子。

 かぐやは御守りの刺繍を視線でなぞった。

 

 学業御守

 

 事件から身を守る気概は一切感じられなかった。

 

 

 ○

 

 

 翌日、かぐやは予定通り国立市にある会場へ向かっていた。

 車窓からの景色は、何百回と見た学校の行き帰りの景色と違い新鮮だった。重い瞼を無理やり押し上げている学生や、人生に疲れたようなサラリーマンが亡者のように行進する景色はなく、学生たちの目は溌剌としていて輝いており、営業回りのサラリーマンの顔には滝のような汗が輝いていた。

 楽しそうに笑みを浮かべながら話している男女の集団に、かぐやは眩しいものを見るように目を細めた。

 車窓から目を背け、かぐやは使用人として同行している早坂に尋ねた。

 

「今日のパーティーは令嬢の妹の旦那の従兄弟の友人の兄の誕生日祝い、だったかしら」

「違います。妹の旦那の従兄弟の兄の再従兄弟です。興味がないのは分かりますが、ちゃんと覚えてください」

「大差ないじゃない。要するに他人でしょう」

 

 何故金持ちは祝い事を盛大にやりたがるのか。憂鬱な気分を紛らわすように、再び車窓の景色に目を向けた。

 かぐやにとってパーティーとは楽しいものではない。「四宮家の娘」に近づいて来るのは、腹に一物抱えた人間ばかりだからだ。波風を立てないようにいなすのも気疲れする。

 かぐやの気分とは裏腹に空は雲一つなく澄み切っていた。

 

 

 

 

 会場は大きな西洋風の屋敷だった。広大な敷地を迂回して正門から入ると、直ぐ右手に駐車場があった。

 駐車場にはかぐや達が乗って来た可愛げのない黒塗りの高級車以外には、ほとんど車が止まっていない。

 

「早く着き過ぎたかしら?」

「遅いよりは良いかと」

 

 早坂の言い分はもっともだ。かぐやとしては、むしろ遅く着いてくれた方がありがたかったが。

 庭には数多くの植木があり、そのどれもが動物やキャラクターの形に刈り込まれていた。まるでテーマパークのような庭だった。屋敷は庭を通った先に堂々とその威容を晒していた。

 かぐやが早坂を伴って庭を進んでいると、植木にハサミを入れていた初老のダークスーツの男が慌てた様子で駆け寄って来た。

 

「四宮様、お早い御着きで。出迎えが遅れて申し訳ございません」

 

 使用人もしくは庭師らしき男は、白いものが混じった頭を深々と下げて謝罪した。

 

「いえ、私も少々早く着きましたから」

 

 かぐやは微笑んでそう言った後、「本物ね」と感心した様子で早坂にそっと耳打ちした。

 

「はい。やはり本物は一味違います」

 

 早坂も同じく感心したように同意した。

 落ち着いた態度、一部の隙もない服装、そして何より礼節の籠った謝罪。どれを取ってもウチの無礼な使用人とは格が違う。アレに勝っている部分があるとすれば、図々しさと、主人を小馬鹿にする腐った根性、推理力くらいのものだろう。

 

「どうかなさいましたか?」

 

 不思議そうに二人を見比べる初老の男に、かぐやは「いえ、なにも」と答え、誤魔化すように植木を指差した。

 

「これは全て貴方が?」

 

 男は自分がハサミを持っていることに今気付いた、といった様子でハサミをポケットにしまった。

 

「はい。最初は趣味でやっていたのですが、今では執事の仕事の他に庭師のような仕事も任されまして」

 

 どうやら男は使用人であり庭師でもあったようだ。それから、かぐやと早坂は執事に先導され屋敷へと向かった。

 屋敷に入ってすぐに大きな玄関ホールがかぐや達を出迎えた。床は白一色で天井からはシャンデリアが吊り下がっている。正面の二階へと続く階段は幅が広く、両端にある手すりは格子手すりになっている。

 階段の頂上から真っ赤なドレスに身を包んだ女性の姿が現れた。この屋敷の令嬢にしてパーティーの主催者である。

 

 派手なドレスね。

 

 金持ちというのは何かと目立ちたがる人種であると、かぐやはこれまでの経験から学んでいた。

 令嬢は悠然と歩いていたが、階段の手に差し掛かると突如としてバランスを崩して、上半身から階段へと突っ込んだ。そのまま階段を、まるで漫画のようにゴロゴロと転がりかぐや達の目の前で、潰れたカエルのような格好になり停止した。

 

「お、お嬢様ぁぁぁー!」

 

 唖然としてその場に固まるかぐや達だったが、執事の叫び声で我に返った。

 そう、ギャグ漫画もかくやという見事な転倒を披露したからといって、結果までコミカルになるわけではない。

 

「早坂!」

「承知しました」

 

 早坂が令嬢の状態を確認する。

 あの不自然なバランスの崩し方、誰かに押された可能性もある。かぐやは階段の方に目を向けた。階段に敷かれてある絨毯が目に入った途端、ある考えが浮かんだ。

 かぐやは一足先に階段へと向かっていた執事に向かって言った。

 

「上に人がいたら、階段に近付けないようにしてください! 特に絨毯を踏ませないように」

 

 執事は何故そんな事を言うのか分からないという顔をしたが、頷いて階段を駆けあがった。

 それを見届けると、振り返って再び階段から令嬢に向き直った。

 

「早坂、様子はどう?」

「命に別状はありません。骨折もしていないようですが、頭を打って意識を失っています」

 

 死んではいないと知って、かぐやはホッと胸を撫で下ろした。

 だが、早坂の表情は険しいままだった。

 

「どうしたの、早坂。何か気掛かりでもあるの?」

「はい。意識を失う前に御令嬢がこう言っていたのです」

 

 かぐやは嫌な予感を覚えながら、緊張して言葉の続きを待った。

 

「やられた、と」

 

 早坂に令嬢を任せて、かぐやは階段を上った。毛足の長い絨毯は掃除をしたばかりなのか、令嬢が転がり落ちた部分以外は綺麗に毛並みが揃っていた。絨毯は階段からそのまま廊下まで伸びていた。

 階段の一番上では執事が、二人の人物に近づかないよう注意していた。一人は若い使用人。若いといってもかぐやよりはひとまわり歳上で、三十代くらいだろう。二人目は、二十代半ばと思われるメイドだった。

 

「悲鳴が聞こえましたが、何があったのですか!?」

 

 三、四メートル離れた位置から、若い使用人が勢い込んで執事に尋ねた。追従するように、メイドもコクコクと何度も頷く。

 

「二人とも落ち着きなさい。お嬢様が階段から転倒なされた」

「何と!?」

「ええ!?」

 

 使用人とメイドは驚きを露わにして、階段の下を覗こうと一歩踏み出そうとしたのをかぐやが制した。

 

「動かないでください。御令嬢の様子は私の従者に看させています。恐らく、命に別状はないでしょう」

 

 使用人は突然現れたかぐやに面食らった様子だった。

 

「それは分かりましたが、何故我々が行ってはならないのですか?」

「事件の可能性があります」

「つまりお嬢様は、階段から突き落とされたと?」

「断定はできません。ですが、可能性がある以上、警察が来るまで無闇に現場を荒らさない方が良いかと」

 

 警察と聞いて、使用人とメイドは絨毯を恐れるように後退りした。

 階段と同様に廊下に続く絨毯も清楚されたばかりで、綺麗に毛並みが揃っている。

 かぐやは歩いて来た階段を振り返った。深紅の長い毛を押し潰した自分の足跡がある。

 状況から考えて、令嬢は背後から押されたかしてバランスを崩して転倒したと考えられる。

 しかし、絨毯には令嬢の足跡が一筋あるだけで、それ以外の足跡は一切存在していなかった。

 

 

 

 数時間後、屋敷の階段には制服姿の鑑識官が集い、砂糖に群がる蟻のように熱心に手掛かりを探していた。

 かぐや達の証言もあって、警察は事故ではなく事件として捜査していた。かぐやと早坂も警察の取り調べを受けたが、二人ともアリバイがあり容疑者の線は薄いようで簡単な質問だけで早々と解放された。

 令嬢はその後病院へと搬送された。意識はまだ戻らないままだ。

 取り調べの後、帰宅の許可が降りなかったので、かぐやと早坂は屋敷の客間に通された。

 

「かぐや様、何故あの時、絨毯を踏まないよう言ったのですか?」

 

 早坂に聞かれ、かぐやは口ごもった。あの場において正しい判断ではあったのだか、咄嗟にその判断が頭に浮かんだ時点で、ミステリマニアの使用人の影響を受けているようで癪だった。

 

「……足跡よ」

「足跡ですか?」

「絨毯は綺麗に清掃されていて、毛並みも一切乱れていなかった。その状態の絨毯を踏んだら、毛が押しつぶされて毛並みが乱れるから足跡が残る筈。被害者は背後から押された可能性が高いし、階段の上には犯人の足跡が残っていると思ったの」

「そういう事でしたか。かぐや様、探偵みたいですね」

 

 早坂の賞賛を、かぐやは複雑な気持ちで受け取った。探偵とはつまり、讃岐と同類ということである。アレとは一緒にされたくない。

 

「ですが」と早坂は続けて口にした。

 

「絨毯には被害者の足跡しかありませんでした」

 

 そうなのだ。犯人が被害者を突き落としたのなら、犯人の足跡がなければならない。だが、絨毯に残っていたのは被害者の足跡のみ。

 棒のような物で遠くから押したのかとも思ったが、二階にいた使用人とメイドの持ち物に棒の代わりになる物はなかった。

 かぐやは悶々と考えているのが馬鹿らしくなった。使えるものは何でも使うのが四宮の人間だ。

 かぐやはポケットから携帯電話を取り出して、未だに事件現場にも現れない、遅かりし名探偵に連絡を入れようとボタンを押した。

 後は通話ボタンを押すだけ。その時、かぐやの頭に天啓のごとく言葉が降りて来た。

 

『事件に巻き込まれた? だから私は忠告差し上げたのでございます。案の定、容疑者となられた御様子。で、私に何をしろと? 謎解きでございますか? 昨日申し上げた通り私を連れて行っていれば、こんな無駄なやり取りをせずに──』

 

 かぐやは通話を開始してもいないのに、通話終了ボタンを力強く押した。

 携帯電話を折り畳んで仕舞うと、早坂に命令した。

 

「早坂、讃岐に電話して」

 

 

 ○

 

 

『事件に巻き込まれた? だから言ったんだよ。しかも案の定容疑者だなんて。で、僕に何をして欲しいの? 謎解き? やれやれ、お嬢様も素直に僕を連れて行っていれば、こんな無駄なやり取りは──』

 

 開幕早々たらたらと垂れ流された文句に、早坂はウンザリして通話を切った。

 数秒後再度かけ直す。

 

『ひどいじゃないか。いきなり切るなんて』

 

「すみません、つい」鬱陶しくて

 

「まぁ、いいや。それで、どんな事件が起きたのかな?」

「それが──」

 

 早坂は駐車場に着いてから事件発生までの経緯を、余す事なく讃岐に語って聞かせた。

 最初の方は合槌を打っていた讃岐だったが、後半は黙り込んでしまった。

 話が終わり、考え込むような沈黙の後にようやく讃岐は反応を示した。

 

『雪密室か。面白いね』

「雪密室? 何ですかそれは」

『雪山にある山小屋の中で殺人があった。山小屋の入口は一つだけしかないから、犯人はそこから入るしかない。だけど、入口近くに積もった雪には足跡がなく、人が出入りした痕跡がない。このように雪がある事によって出来た密室を雪密室と呼ぶんだよ。今回の場合は絨毯が雪の代わりだね』

 

 蘊蓄を披露し終えた讃岐は、早速事件の調査に取り掛かった。

 被害者が転落した階段の様子が知りたいと言うので、早坂はかぐやに断りを入れて階段に向かった。

 道すがら讃岐は他の容疑者のアリバイについて尋ねた。

 

「容疑者は執事と、被害者が転落した際階段の近くに居た使用人とメイドの三人です。アリバイがあるのは、私達と一緒に被害者が転落するのを見た執事だけです。使用人はパーティーの準備で屋敷中を駆け回っていたようで、アリバイを証言できる人はいません。メイドも同様です」

『使用人とメイドは、階段の近くで何をしていたのかな』

「使用人はパーティー会場へ行くのに通りかかった。メイドは一階にある花瓶の水を替えようとしていました」

『聞いておいてなんだけど、ずいぶん詳しく知っているね。今どきの警察は、そこまで丁寧に教えてくれるのかな?』

「四宮の名は日本において多大な影響力がありますから」

 

 皆まで言わずとも意味は伝わったようで、怖い怖いと、讃岐は電話口で囁いた。

 

「一応、伝えておきます。動機の面で怪しい人物が一人います」

『へえ、僕はあまり動機を重要視しないんだけど……。誰なんだい?』

「御令嬢の姉です。家督を継ぐ筈でしたが、病弱で体調を崩しがちだったので、妹が家を継ぎました。その事を恨んでいるようです」

『金持ちの犯行動機ってそんなのばっかりだね。まあ、事件に関係しているか判断するのは現場を見てからだ』

 

 階段のあるホールに着くと、讃岐は階段の一番上に上がるよう早坂に指示した。

 

「上りましたが、ここに手掛かりがあるんですか?」

『僕の考えている通りならね。階段の右端に寄ってもらえるかな』

 

 首を傾げながら右端の手摺へと移動する。

 

『手摺から身を乗り出して下を見ると何が見える?』

 

 言われた通りに、手摺から顔だけ出して真下を見る。そこには真っ白な床が広がるだけだった。

 

「床が見えます」

『じゃあ、逆側は?』

 

 何がしたいのか全く理解できなかったが、早坂は大人しく讃岐の操り人形に徹した。

 階段の左端から下を覗いた。どうせ床だろうと思っていたがそこには、

 

「花があります」

『花ね。花だけが置かれてるわけじゃないよね。正確には何があるんだい?』

 

 細かい男だ。室内に花だけが存在していたなら、それは置いているのではなく、捨てられている。

 早坂が見た花は生けられていた。室内で花を生けるのに使われる物といえば決まっている。

 

「花と、花瓶があります」

 

 真上からではどういうデザインか分からないが、棚の上に置かれた花瓶は、口が広くなっていて沢山の花を挿せそうだ。

 

『なるほどね。よし、もう階段はいいよ』

「これだけですか。絨毯は見なくていいのですか?」

 

 絨毯こそが事件の肝である。讃岐も絨毯足跡がなかったと聞いて、事件に興味を持ったのではなかったか。

 

『もう君に聞いたからね。他に手掛かりになる物があったとしても、既に警察が回収してるさ』

「それはそうですが……」

 

 

 気のない讃岐の返事に、なんだか釈然としないものを感じながら、早坂はホールを後にした。

 

 スマホ片手に歩いていたせいか、曲がり角で人とぶつかりそうになった。

 

「きゃっ!」

 

 ぎりぎり接触は免れたが、相手は驚いて声を上げた。

 

「こちらの不注意ですみません」

「いえいえ、私こそ」

 

 恥ずかしいと、メイド服の女性は口元に手を添えた。相手は容疑者の一人であるメイドだった。

 スマホのスピーカーから音が聞こえたので、スマホを耳に寄せた。

 

『もしかして近くに容疑者のメイドがいるのかい?』

「そうですが」

『聞いて欲しい事があるんだ』

 

 讃岐は質問を早坂に託して通話を切った。通話を終えた早坂は、「ではではー」と隣を通り過ぎようとしているメイドを呼び止めた。

 

「少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「はい。何ですか?」

 

 早坂は質問内容を頭の中で反芻した。

 

「花瓶の水換えは、いつも貴女がやっているのですか?」

「はい。あっ、でも今日は違いました」

「ですが、貴女は水換えの為にあそこにいたのでは?」

 

 するとメイドはバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「私がやる予定だったんですけど、執事さんがついでにやるからって変わってくれたんです。それをすっかり忘れてて……」

「そうでしたか。貴女と階段にいたもう一人の使用人の方は、悲鳴を聞いてホールの階段に駆けつけたと伺いました」

「私はもともと階段に向かっていたんですけど、彼はパーティー会場に行く途中で悲鳴が聞こえたので、ホールの方に来たみたいです」

「階段の前に着いたのはどちらが先でしたか?」

「ほぼ同時でしたね。……どうしてそんな事を?」

 

 訝しげに聞き返すメイド。早坂は「いえ、気になっただけです」とはぐらかすように答えて別れた。

 聞かれて不味い話ではないが、何となく周囲に人が居ないのを確認して讃岐に電話を掛けた。

 

『どうだった?』

 

 単刀直入に電話口で尋ねる讃岐に、早坂はメイドの回答を伝えた。

 今まで指示通りに動いてきたものの、解決に近づいている気が全くしなかった。

 

「それで、犯人は分かりそうですか?」

『まあ、大体ね』

「本当ですか?」

『嘘ついたってしょうがないだろ。でも、証拠がないな』

 

 しばらく電話口で唸って悩んでいたが、何か思いついたようで声に覇気が戻った。

 

『早坂さん、お嬢様に代わってくれるかな』

 

 

 

 ところ変わって四宮別邸。

 

「お帰りなさいませ。お嬢様。ご無事で何よりでございます」

 

 ようやく警察から解放され、屋敷に帰宅したかぐやと早坂を讃岐が恭しい態度で迎えた。

 

「貴方の言う通りにしたわ。説明はしてくれるんでしょうね」

「勿論でございます。しかし、その前にやる事があります」

「何をすればいいのよ?」

 

 讃岐の勿体ぶった態度に、かぐやは苛立ち交じりの声をだす。そんなかぐやは次の讃岐の言葉を聞いて、苛立ちを忘れる程驚愕した。

 

「国立に戻りましょう」

「はあ!?」

 

 二の句を告げなくなって口をポカンを開いたかぐやに代わって、早坂が理由を聞いた。

 

「それなら、わざわざ戻って来る必要がありましたか?」

「犯人に屋敷から外部の人間が去った、と思わせるのが重要なのです。お嬢様、警察は引き上げて行きましたでしょうか」

「ええ、引き上げさせたわ」

 

 ありがとうございます。讃岐は慇懃に頭を下げて、車に向かって歩み出した。

 

「待ちなさい。貴方まさか、本当に何も説明しないつもり?」

 

 讃岐は立ち止まって振り返ると、表情のない顔をかぐやに向けた。

 

「お嬢様は、私がお願いした内容を覚えていらっしゃるでしょうか?」

「当たり前でしょう。警察を引き上げさせる。意識は戻っていないけど、令嬢の容態が安定したから今夜屋敷に戻すと全員に伝える。その二つよね」

「はい。とりあえずは、それだけ分かっていれば充分でございます。それ以上の情報は、今夜の冒険の醍醐味を著しく損なうかと」

 

 かぐやは胡散臭い訪問販売を見るような目をした。

 

「一体何をするつもりなの?」

「心配には及びません。此度の冒険は、今までで一番刺激的な冒険になると保証いたします!」

 

 

 〇

 

 

「もうちょっと離れてください」

 

 暗く狭い一室。早坂の隣には肩がくっつくくらいの近さに讃岐がいた。早坂は肘でグイグイと讃岐を遠ざける。

 

「無理な相談ですね。……まあ、ここまでスペースがないのは私の誤算ですが」

「二人とも騒がないで! 気付かれるでしょう」

 

 現在かぐや、早坂、讃岐の三人は国立の屋敷、その中でも令嬢の部屋にあるクローゼットに身を潜めていた。クローゼット自体は大きいが、物が大量に詰まっており、早坂達は隙間に入り込むようにして収まっていた。

 クローゼットの扉を少し開けて室内を監視する。視線の先のベッドには人一人分盛り上がりがある。

 時刻は午前の0時を回ろうとしていた。普段は午後9時に就寝するかぐやも、緊張と興奮のためか眠気は襲ってこないようだ。

 午前1時を5分過ぎた頃、ゆっくりと部屋の扉が開き人が一人、懐中電灯を持って入って来た。もう一方の手にも何が持っているようだった。

 隣のかぐやが身を固くするのが分かった。讃岐は落ち着いたようすで、目だけが人影を追って、獲物を追い詰めた猟犬のようにギラギラと輝いている。

 人影が懐中電灯の灯りを消した。室内が再び暗闇に包まれるが、目が暗闇に慣れていた早坂には、謎の人影の行動が全て見えた。

 人影はベッドの側へ行くと立ち止まり、懐中電灯を持った手と逆の腕を大きく振りかぶった。手の先にきらりと怪しい光が宿った。刃渡り二十センチ程の刃物だった。

 振り下ろした手に握っていた刃物が、深々とベッドの盛り上がった部分に突き刺さる。ボフッと布を叩く鈍い音がした。

 そこで、讃岐はクローゼットの扉を勢いよく開いた。

 

「残念ながら御令嬢は留守ですよ。あっ、お嬢様明かりをお願いします」

 

 何とも緊張感のない声と共に部屋の明かりが点灯した。部屋は一瞬にして白い光に包まれ、謎の人影の姿を白日の元に晒した。

 撫で付けられた白い髪に、整えられた髭。シワひとつないダークスーツ。

 

「誠に勝手ながら、貴方の御主人は取り替えさせていただきました」

「あ、貴方は……?」

 

 突然見知らぬ男がクローゼットから飛び出してきたら、例え殺人犯であったとしても困惑するだろう。

 困惑した様子の殺人を企てた男は、側にかぐやと早坂の姿があるのを認めて状況を把握した。

 

「貴方が犯人だったのですね。執事さん」

 

 自分の罪が暴かれたと知った執事の行動は早かった。

 凶刃をベッドから早坂達に向けた。早坂はかぐやを庇うように前に出た。

 だが、執事の突進が早坂に届くことはなかった。讃岐が取り出した伸縮式の特殊警棒でナイフを塞いだ。耳障りな金属音が響く。

 

「何でそんな物持ってるんですか?」

「君のおか……私の教育係に教わったのです。暗器は使用人の嗜みだと」

 

 力では若者に勝てない執事は徐々に押されていった。執事は持てる力を使って警棒を弾いた。そのまま追撃か、と讃岐は身構えたが執事はそうはせず部屋の窓へと駆ける。

 讃岐はハッとして、警棒を放り捨て全力で追いかけた。

 執事は窓に肩から追突した。部屋は二階にあるので、落ちたら無事では済まない。一瞬遅れて讃岐は窓から上半身を乗り出した。

 唯ならぬ事態に早坂とかぐやも窓際に駆け寄って、讃岐の体が窓から落ちないよう腰を掴んだ。

 

「讃岐、犯人は!?」

「ギリギリ間に合いました」

 

 讃岐はダークスーツの襟を両手で掴んでいた。

 一件落着かと思われたが、執事はジロリと上を向くとナイフを持つ手に力を入れた。

 

「ここまで邪魔されるとは予想外でした。であれば、貴方に一矢報いて死ぬとしましょう」

「えっ!? 私に一矢報いる必要あります?」

 

 襟を掴んだ腕を狙って、後ろ手に振り上げられたナイフ。讃岐は咄嗟に腕を捻って凶刃を回避した。

 

「まあまあまあまあまあ、落ち着いてください。刺されたくらいで手を離すとは限りませんよ!」

「離すまで刺すだけです!」

「分かりました。貴方の要求を飲みましょう。この手を離します。なので貴方もナイフを捨ててください」

「信用できません。そっちが先に離してください」

「……」

「……」

 

 怪しく光る刃が風を切って、讃岐の腕を狙った。しかし、不安定な体制では狙いが定まらず、少し逸れて腕に掠った。讃岐のダークスーツがナイフによって切り裂かれた。

 

「十秒数えます。それまでに離してください」

 

「十、九」執事が無慈悲にカウントダウンを始めた。

 

 打開策はないかと、早坂は周囲に視線を巡らせた。床に放られた讃岐の特殊警棒が目に入った。

 早坂は警棒を取りに行く為、讃岐の体から手を離した。

 

「かぐや様。少しの間、彼を頼みます」

「えっ、早坂!? うっ、お、重い」

 

 一人分の支えがなくなり、讃岐の体はさらに窓から乗り出した。

 

「お嬢様、重いとは御言葉が過ぎます。私の体重は、高校二年生の平均体重と同じです」

「つまらない事言ってないで! 自分の状況が分かってるの!?」

 

 くだらない言い合いをしている間にも、執事によるカウントダウンは進む。残り五秒を切った。

 

「ところで、早坂さんは何を? ハッ、やはり私を見捨てて──」

 

「三」

 

 執事は握り締めたナイフをゆっくり持ち上げた。

 

「ニ」

 

 顔を上げて自分の襟首を掴んでいる腕に狙いを定める。

 

「一」

 

 最後のカウントと共にナイフを振り上げる執事。

 早坂は讃岐の背後から身を乗り出すと、ナイフを握った手を目掛けてコンパクトなサイズに縮んだ警棒を投擲した。

 警棒は鈍い音を立てて指に直撃した。執事は痛みで、思わずナイフを取り落とした。ナイフは暗闇に飲み込まれるようにして地面に落ちた。

 やがて隠れて待機していた警察が現れ、地面にマットを敷いたのを確認して讃岐は執事のスーツから手を離した。

 早坂は窓の外から室内に上半身を戻した讃岐に一言。

 

「私を見捨てて──、何ですか?」

「ナイスアシストです。私は助けてくれると信じていましたよ」

 

 嘘つけ。

 

 

 ○

 

 

 その後、執事は警察署へと連行された。

 事後処理を警察に任せてかぐや達三人は、刺激に満ち満ちた冒険を終えて別邸に戻った。

 

「腕は平気?」

 

 ナイフが掠った方の手をかぐやが取ろうとすると、讃岐はその手を上げて無事をアピールした。

 

「服が破れただけですよ。御心配には及びません。それより、気になる事があるのではありませんか?」

 

 白々しく尋ねる讃岐に、かぐやは眉を吊り上げた。

 

「あるに決まっているでしょう。犯人は分かったけど、肝心の謎が残ったままよ」

 

 事件は確かに解決した。だが、かぐやには犯人が被害者を転落させた方法も、執事が犯人だと推理した過程も検討がつかなかった。答えを知っているのは、目の前に静かに佇む男のみ。

 

「夜も更けて参りましたが、夜更かしは学生の特権。僭越ながら只今より、推理の過程を語らせていただきます」

 

 讃岐は姿勢を正し腕を後ろで組んだ。

 

「初めに被害者が転落した時の、容疑者の行動を整理しましょう。執事はお嬢様と一緒におりました。他の二人は悲鳴を聞いてホールへ駆けつけてました。駆けつけてたタイミングは同時だった、で合ってますね、早坂さん」

「そうメイドが証言していました」

「そして、階段の絨毯には足跡がなく、被害者に近付いた者がいるとは思えない状態だった。これらの事実から考えられる事は一つです。お嬢様、分かりですか?」

 

 かぐやは暫し考え込んだが、ゆるゆるとかぶりを振った。

 

「分からないわ。誰も被害者を突き落とす機会がなかった、としか思えない」

「流石はお嬢様。正解でございます」

 

 また皮肉かと讃岐を睨んだが、讃岐はいたって真面目な様子だ。かぐやは更に訳が分からなくなった。

 

「あの場で被害者を突き落とせる人物は居なかった。被害者は一人でに転落したのです」

「事件ではなく事故だと?」

「いえ。事故であれば、犯人は今夜あの場所には現れなかったでしょう。被害者の意識が戻れば、トリックがバレる恐れがありますからね。被害者は犯人のある仕掛けによって転落したのです」

 

 仕掛けは事前に設置されたに違いない。だとすれば、容疑者のアリバイは全て無意味になる。犯行は事前に仕掛けを設置する機会のなかったかぐやと早坂以外、誰にでも可能だった。

 

「執事が犯人である根拠は何なの? アリバイがないのは他の二人も一緒でしょう」

「いえ、執事以外にはあり得ません。何故なら、仕掛けを現場からなくさなければならないからです」

 

 なるほど、当然だ。しかし、かぐやが警察から聞いた話では、変わった物を所持している人物は居なかった。

 

「犯人の仕掛けについてお話ししたいと思います。といっても仕掛け事体は単純です。細い糸を足元くらいの位置で、左右の階段の手すりに通して一周させ輪っか状にします。御令嬢を転落させる為の仕掛けはこれで完成です。後は令嬢が糸に引っ掛かってこけるのを待てばいい。ただ、これで済ませないのが、犯人の狡猾なところです。犯人は糸に錘を吊るしました。錘の場所は左の手すり側だったと考えられます」

「何の為に錘を? それに場所まで……」

「糸を安全に現場から消し去る為です。犯人は被害者が転落した後、急いで階段を上りました。そして輪っか状になった手前の糸を持っていたハサミで切断。すると糸は錘で引っ張られて下へと落下します。階段な左側には花瓶があったので、その中に入るように調整したのでしょう。糸が花瓶の中に入りきるとは思いませんが、元々見えづらい事に加えて、犯行現場は階段の上です。当分は隠し切れると踏んだのでしょう。花瓶の水換えを自ら買って出たのも、糸が見つからないようにする為です」

 

 早坂から聞いた事件の調査内容が、点と点で繋がって明確な意図が浮かび上がった。

 階段から下を覗かせたのも、絨毯の足跡に関心を示さなかったのも、メイドに質問させたのもこの推理に基づいての指示だったのだ。

 

「犯行が絨毯を掃除した後だったのは偶然?」

「その可能性が高いかと。むしろ執事が待っていたのは、お嬢様の方です」

「私を?」

「正確には一番最初に屋敷に来た人物、ですが。執事である彼は、御令嬢が屋敷を訪れた客に挨拶をする為、ホールに下りると知っていた。執事はお嬢様を、自分の無実を証明する善意の第三者として利用したのです」

 

 犯罪者に利用されていたとは腹立たしい話だ。だが、その犯罪者も逮捕された。讃岐の推理通りである確証はないが、大方間違ってはいないと思う。

 讃岐の言う冒険は刺激的過ぎて二度と体験したくないが、全員怪我もなく無事。まさに大団円、一件落着だ。

 それはともかく。かぐやはポケットから学業御守りを取り出した。

 

「やっぱりこの御守り、全然効果がなかったわね」

 

 

 ○

 

 

 早坂は讃岐と共にかぐやの部屋を出た。並んで屋敷の長い廊下を歩く。

 視線だけで早坂は隣の讃岐を見た。長い右腕は力無くダラリと垂れ下がっていた。

 

「じゃあね。おやすみ、早坂さん」

 

 早坂の部屋に着くと讃岐は左手を軽く振った。何事もないかのような飄々とした振る舞いに、早坂は呆れたような、苛立つような気持ちが湧いた。

 

「待ってください」

「おや、まだ何か?」

「部屋に入ってください」

 

 そう言って、早坂は自室の扉を指差した。讃岐は目を丸くして、珍しく素直に驚いた表情を浮かべた。

 

「お誘いは嬉しいけど、今日は疲れて──」

「治療をするので、部屋に入ってください」

「……バレてた?」

「バレバレです」

 

 諦めたように、讃岐は肩をすくめた。

 かぐやに腕を触られないように避けたり、腕を見られないように後ろに組んだりすれば、いかに平然を装うのが上手くても怪我をしていのは見抜ける。

 

「……お言葉に甘えようかな」

「最初からそうしてください」

 

 部屋入ると早坂は、棚から手早く包帯や消毒液を用意した。その間、讃岐は物珍しそうに室内を眺めるという、デリカシーを落っことした男に相応しい行動に出た。

 

「ジロジロ見ないでください。大体、入るのは初めてじゃないでしょう」

「前は推理しに来ただけだからね」

 

 準備が整うと讃岐はダークスーツを脱いで、シャツを捲って傷口を見せた。

 傷は布で雑に縛られていた。白い布に赤い血が滲む。

 布を取って傷口を消毒する。幸い傷は浅く、数日安静にすれば治りそうだった。

 

「どうして、あんな無茶を?」

 

 身を挺して他者を助ける行為は尊い。だが、自分の身を危険に晒してまで、他者を助けるというのは讃岐の人物像と合致しない。善良は人ならともかく、相手が犯罪者なら尚更だ。

 

「確かに、二階からの紐なしバンジーを止める程酔狂ではないね」

「…………」

 

 案の定はぐらかそうとするので、無言で睨んでやる。讃岐は逃げるように視線を外した。

 

「投身自殺なんてショッキングな光景を、君やお嬢様に見せる訳にはいかないだろ。僕もそれくらいは気を遣うんだよ」

 

 これはこれで予想外の理由だった。この男に、他者を気遣う心が残っていたとは! 

 気遣われるのはありがたい筈だが、何故か早坂は気に食わなかった。

 

「お嬢様はともかく、私にまで配慮する必要はありません。私と貴方の立場は対等ですから」

「君の方が圧倒的に先輩だけどね」

 

 それからはお互い無言になって、黙々と治療を進めた。酷い怪我でもないので数分後、治療が完了した。

 讃岐は包帯が巻き終わり、治療が終わった腕をしげしげと眺めた。

 

「ふーむ、素晴らしい手際だ。これだけ優しく治療して貰えるなら、腕を切られた甲斐があったってものさ」

 

 一歩間違えれば大怪我だったというのに。早坂は大きなため息を吐いた。

 傷口に付ける薬はあっても、馬鹿に付ける薬はないようだ。

 

 

 ●

 

 

 とある通信記録から抜粋

 

「妹様がご無事であった事、並びに犯人が逮捕された事。誠に目出たく存じます」

「ありがとうございます。ところで、アナタはどなたですか? 何故私に電話を?」

「前者は申し上げられません。後者に関しては、今回の事件について少々気になる点がありまして」

「それなら、警察に連絡すべきではありませんか」

「いえ、まずは貴女に連絡した方が良いかと判断した次第でございます」 

「……どういう意味ですか?」

「気になる点とは、犯行の動機についてです。犯人は長らく貴女の家に仕える生粋の執事でした。忠義に厚い彼が犯行を行ったのだとすれば、やはりその動機も、忠誠心によるものではないかと推察しました」

「忠誠の対象が私だと? だとしても私には関係ありません。彼が勝手にやった事ですから」

「そうでしょうか? 執事は追い詰められ際、自殺を試みたそうです。何故自殺する必要があったのでしょう。私はこう思います。死人に口なしと」

「…………」

「年老いた執事は、自分が警察の尋問に耐え切る自信がなかった。なので、自らの命を絶つことで自分の口を封じようとした。万が一にも忠誠を誓った主に被害が及ばないように」

「私が執事をけしかけて、妹を亡き者にしようと画策した。面白い妄想ですね」

「はい、証拠も一切ない妄想です。ですが、私がこれを警察に伝えたらどうなるでしょう」

「どうにもなりませんよ。私は一切関わっていないのですから」

「とはいえ、痛くもない腹を探られるのは、貴女にとっても不都合でしょう。悪い噂が立てば貴女の復権も遠のくのでは?」

「脅しているのですか、この私を」

「まさか、交渉ですよ」

「その程度の材料で対等な立場に立てるとでも?」

「こちらが下なのは重々承知しています。なに、簡単な仕事をお願いするだけです。話を聞いてから判断していただいて構いません」

「……取り敢えず話を聞きましょうか」

「ありがとうございます──」




実在の国立市は良い町です。しょっちゅう難解な犯罪は起こりませんし、国立警察署もありません。
米花町、杯戸町、烏賊川市はとても危険な町です。しょっちゅう難解な犯罪が起こります。訪れない事を強く推奨します。


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花火の音は遠過ぎる

※今回謎解きはありません


 出会って24時間で早坂愛は理解した。

 

 私は讃岐光谷が嫌いだ、と。

 

 全てを見透かしたような黒い瞳も、『人は演じなければ愛されない』その考えを鼻で笑うかのような自信溢れる態度も、自分は何でも分かっていると言いたげな口も、その全てが嫌いだった。

 

 

 ○

 

 

 夏休みも後半に差し掛かった。連日の猛暑は衰えを知らず、コンクリートで覆われた街を巨大なサウナへと変えていた。

 そんな中でも早坂愛は長袖のメイド服を着込み、庭の清掃に勤しんでいた。

 

「うーん……」

 

 早坂と同じく庭の清掃を命じられた讃岐光谷は、見ている方が暑くなるようなダークスーツをきっちりと着こなし、悩ましげに唸っていた。

 脳天気がスーツを着ているような男が悩んでいるのは珍しい。唸り声にそんな感想を抱いたが、興味もなかったので掃き掃除を続けた。

 相変わらず広い庭だ。木を植えた庭師は、もう少し自重できなかったのだろうか。

 

「ねえ、早坂さん」

 

 唸るのに飽きたのか讃岐が話しかける。

 

「もう10日くらい前になるんだけど、僕変なことしてなかった?」

「それなら昨日も一昨日もしていましたよ」

「記憶にないね。10日前だよ、10日前」

 

 讃岐は持っている竹箒で地面に10を書いた。

 早坂は面倒だと思いつつ記憶を探った。とはいえ、10日も前の記憶など咄嗟に出て来るものではない。早々に諦めて、憶えてないと口にしようとした早坂だったが、次の讃岐の一言でその日の記憶が海馬に急浮上した。

 

「あれはそう、君が女性従業員用の浴室を勝手に貸し切っていた日だ」

 

 ピタリと固まった早坂には気付かず、讃岐は話を続けた。

 

「貸し切りと貼り紙された浴室の前で呆れている従業員に、僕が『彼女もお嬢様のおもりでいろいろ溜まってるんでしょ。好きにやらせておきましょう』と言ったら、従業員は呆れた目をそのままに僕を見た。何故だろうと思ったけど、僕は気にせず自分の仕事を終わらせる為に浴室を後にした」

 

 少しは気にして欲しいものだ。早坂はいろいろ溜まっている元凶に半眼を向けた。

 

「その後、お嬢様が花火大会用に頼んだ浴衣を部屋に持って行こうとして…………うん、やはりこの辺りからの記憶が不鮮明だ。君心当たりはないかな?」

「サー、ワカリマセンネ。マッタク、ココロアタリガアリマセン」

「そうかい? 君には会っていたような気がするんだけど」

「キノセイデスヨ」

「……どうしたんだい、エリア51に捕獲されている宇宙人のモノマネして」

 

 月間のオカルト雑誌のように胡散臭い例えを、月間のオカルト雑誌より胡散臭い男が言った。

 エリア51に宇宙人がいるのを見たことがあるのか、と問いたい。

 確かに讃岐の言う通り、早坂と讃岐は会っていた。ただし、ほんの1秒にも満たない邂逅を会っていたと表現するのならば。

 

 

 

 

 その夜早坂は、ワガママな主と不真面目な同僚のせいで溜まった疲れを、文字通り洗い流すべく浴室を貸し切りにしていた。別邸とはいえ金持ちの御屋敷。従業員用の浴室も規模が違う。

 早速衣服を脱ぎ棄てる。引きずってきたビーチチェアを風呂に投入、入浴剤をふんだんに振りかけスピーカーを置き、音楽流せば準備は万端だ。

 普段の無表情をだらしなく緩めて入浴しようとした瞬間、脱衣所と浴室を隔てる扉が勢いよくスライドした。

 

「早坂! 今すぐ来て!」

 

 ワガママな主の声が浴室に響いた。

 そんなこんなで、早坂はバスタオル一枚巻いただけの姿で、浴室とかぐやの部屋とを行ったり来たり、二往復半した。その間、インターネットが壊れたり、ツイッターアク禁にされちゃったりしたのだが、ここで語る必要はないだろう。インターネットが壊れたのがニュースにもなっていないところから結末は察していただきたい。

 さて、本題はここからである。長々と前置きをしたのも全てはこの為だ。

 主のあまりのIT(アイティー)オンチぶりに、早坂はツイッターの件を教えたのを後悔し始めた。それさえなければ今頃、風呂でゆったりくつろげていたというのに。

 パソコンと睨めっこを続けるかぐやに早坂は問いかけた。

 

「そろそろ戻ってもよろしいでしょうか。夏とはいえ、いつまでもこの格好では風邪をひきます」

 

 かぐやはバスタオル一枚の早坂に気を遣ったのか、こう言った。

 

「そうね、今は讃岐だって屋敷にいるのだから鉢合わせたら大変ね」

「まあ、アレに見られたところで、どうということはありませんが」

 

 冷めた表情で呟く早坂。仮に目の前に讃岐が現れたとしても、赤面してビンタをかますようなラブコメのお約束など起きない。

 

「そう、ところで早坂、ここなのだけど」とパソコンの画面を指差すかぐや。

 

 まだ帰してはくれないようだ。ため息を吐きながらパソコンに目をやった。

 それから、次々と飛んで来るかぐやの質問に答えていた。

 ふと、扉の前に人の気配を感じた。扉のドアノブが回転すると同時に、「失礼します」と落ち着いた声が聞こえた。

 聞いた瞬間にアレの声だと判断した早坂は、かぐやの机に並んでいた「百科事典」を手に取った。その分厚さは人類の叡智の結晶と賞賛するべきか、重いと嘆くべきか意見の分かれるところである。

 早坂は後者の人間であったが、この時ばかりはずっしりとした重さに感謝した。

 開かれた扉の先に立つ人物に向かって、毎年甲子園に出場する強豪校のピッチャーもかくやというスピードで百科事典を投擲する。

 百科事典はクルクルと回転しながら、入って来たばかりの讃岐の顎に直撃。ばたりと床に崩れ落ちた。

 

「ふぅ」

 

 満足げに息を吐く早坂。かぐやはパソコンの前で愕然としていた。

 かぐやは席を立つと、まず、手裏剣のように投げられた自分の百科事典を拾って、傷がないか確認した。大きな傷がない事を確認すると、讃岐のそばにしゃがみ込んで、使用人を心配する優しい主を演じた。

 

「讃岐、大丈夫!?」

「それで、心配しているつもりですか」

 

 最初に確認するのが百科事典な時点で、とても心配しているとは思えない。

 立ち上がったかぐやは、ジトッとした半眼で早坂を見た。

 

「どうということはないんじゃなかったの?」

「そうですが?」

「この状況でよくとぼけられるわね。気にしてなかったら、私の百科事典を投げつけたりしないでしょう」

 

「私の」の部分を強調するかぐや。

 自分の百科事典を投げられたのが気に入らないらしい。他に気にする事があると思うのだが……。

 

「百科事典を投げたのは、半裸が見られそうになったからではありません」

「では何?」

「教育です」

「教育?」

 

 オウムのように言葉を返すかぐや。早坂は大きく頷いた。

 

「はい。主の部屋に入るのに、ノックもなしとは言語道断。使用人の恥です」

「そ、そう。ノックはダメで主人の私物を勝手に投げるのはいいのね」

 

 なにらやもごもご言っていたが、早坂は聞こえないふりをした。

 かぐやは未だに倒れたままの讃岐を見下ろしながら尋ねた。

 

「本当に大丈夫なの?」

「はい。顎に横から衝撃がいくように当てましたので。脳震盪で少しの間気絶しているだけです」

「教育にそんな高度な技を!?」

「では、お風呂に戻らせていただきます」

 

 有無を言わせぬ口調で言うと、今度は本当に心配そうにかぐやが頷いた。

 

「え、ええ。顔も赤くなっているし、早く戻った方がいいわ」

「…………」

 

 どうやら、風邪の引き始めとでも心配しているらしい。早坂は何ともいえない表情で、かぐやの部屋を出て浴室へ急いだ。

 

「あっ。これ、どうしようかしら」

 

 床に倒れ伏した讃岐を見下ろしながら、思い出したようにかぐやは呟いた。

 

 

 

 

 思い返してみると、なるほど確かに、あられもない姿をみられて赤面し百科事典を顎に直撃させ意識を奪うのは、ラブコメのお約束とはかけ離れている。どちらかといえばバトル物に近い技術だ。

 

「大体、なんで10日も前の事をそんなに気にするんですか?」

「僕だって普通なら、たかだか数時間記憶が抜け落ちているくらい気にはしない」 

 

 記憶の欠落をここまで意に介さない人間も珍しい。早坂は楽観的な思考に呆れたが、この話を一刻も早く切り上げたかったので好都合だった。

 

「それなら、もう忘れるのですね」

 

 しかし、讃岐は断固とした決意で首を横に振った。何がそこまで彼を駆り立てるのだろうか。

 

「そうはいかない。予感がするんだ」

「はぁ、予感ですか」

「そう、何かとってもいいものを見逃したような予感が! 気絶する直前に、素晴らしいものを見たような気が──」

 

 早坂は箒を持っているのも忘れて、讃岐の両肩をがっしりと掴んだ。讃岐は突然の早坂の行動に目を白黒させてのけぞった。

 

「は、早坂さん? 痛い痛い」

「思い出しました。貴方は廊下に落ちていたバナナの皮で転んで、盛大に頭を打って気絶したんでした」

「そんなベタな。今時ギャグマンガでもそんな展開──」

「貴方は、バナナの皮で、転んだんです!」

 

 信じていない様子の讃岐だったが、早坂の剣幕に押されて「わ、わかったよ。顔を真っ赤にして怒ることないじゃないか」と渋々ながら頷いた。難所を乗り越えた早坂は心の中で安堵した。

 

「私はお嬢様の外出の準備がありますので、後はお願いします」

「ああ、明日、藤原さん達と買い物に行くんだっけ。前日から気合がお入りになっているようで」

 

 残りの仕事を讃岐に任せて早足に屋敷へと戻る。

 

「おやおや」

 

 垣根の向こうを見て呟いた讃岐の言葉は、早坂の耳に届かなかった。

 

 

 〇

 

 

 翌日、かぐや達一行は四宮家当主であり讃岐光谷の雇い主でもある四宮雁庵に呼び出され、京都にある本邸に赴いていた。もちろん買い物の予定はキャンセルとなった。

 かぐや、早坂、讃岐の三人は縁側の和室に通された。本邸行くのに普段の服装をするわけにはいかない。早坂もメイド服ではなくスーツを着ていた。

 襖が少し開いており、その間から庭に植えてある松の木が覗く。襖の間から見えるのは松だけで、人の姿は一切見受けられない。

 四宮家の令嬢であるかぐやがこのように避けられているのには、かぐやの出生に理由があった。四宮雁庵には子供が四人いる。長男の四宮黄光(おうこう)、次男の四宮青龍(せいりゅう)、三男の四宮雲慶(うんけい)、そして四宮かぐやである。

 かぐやは雁庵と夜職の女性との間にできた妾の子。そういった事情も相まって、四宮家の人間から腫れ物扱いされている。似た境遇の四宮雲慶も避けられてこそいないが、四宮での立場は低い。四宮家とはそういう家なのである。

 

「呼び出しがあるの、知っていたんじゃないですか?」

「うん? そこまで意地が悪いつもりはないけどね。知ってたら教えるよ」

 

 微塵も変わった様子を見せずに答える讃岐。その様は早坂に、讃岐光谷が本邸から遣わされた使用人なのだと思い出させた。

 廊下から静かな足音が聞こえた。足音は和室の前で止まると、襖に手をかけスライドさせた。

 現れたのは本邸の使用人だった。

 眼鏡をかけた冷たい雰囲気の使用人は「お休みのところ申し訳ありません。お嬢様」と断りを入れて要件を切り出した。

 

「讃岐、貴方に仕事があります」

 

「承知しました」と素直に頷くと讃岐は立ち上がり、かぐやに一礼した。

 

「申し訳ございません、お嬢様。少し席を外します」

「ええ、分かったわ」

 

 去って行く讃岐の後ろ姿を、少し寂しそうに見送るかぐや。

 早坂は讃岐に対して苛立ちを覚えた。そして、かぐやを顧みない讃岐の態度に苛立つくらいには、彼に心を許していた自分自身にも。

 

 

 

 

「当主様、お連れしました」

「ああ」

 

 四宮雁庵は無関心に言葉を返して、使用人と共に部屋へと入室した少年に鋭い目を向けた。

 雁庵の側に控える使用人、早坂奈央(なお)は久しぶりに見る讃岐の佇まいに問題がないか詳しく観察した。

 乱れのない服装、真っ直ぐに伸びて微動だにしない姿勢、恭しい態度共に及第点だろうと評価を下す。

 

「私に仕事があると伺いました」

「いつものだ。事件の犯人が分かれば、ウチにとってはいい交渉材料になる」

「つまり、私に事件を解明せよと。光栄でございます」

 

 奈央は主の意を酌んで、手に持った資料を讃岐に手渡した。

 

「ありがとうございます」と礼儀的に感謝の言葉を述べて讃岐は資料を受け取り、すぐさま確認を始めた。

 その口元には薄らと笑みが浮かんでいる。事件の内容が殺人事件であるにも関わらず。

 讃岐光谷には人間として重大な欠陥が存在する。

 讃岐光谷は謎に対して平等である。讃岐にとって本屋で500円で買えるクイズ本の謎も、実際に起きた事件の謎も、等しく謎でしかない。謎であるなら嬉々として解き明かす。

 とてつもなく不謹慎であるが、かといってその態度が不真面目と結びつくかというとそうではない。むしろその逆だ。謎解きに関して、讃岐以上に真面目な人間を奈央は今までに見たことがなかった。

 きっと、クローズドサークル的な展開で自分が命を狙われる可能性があったとしても、謎を前に笑みを浮かべるだろう。

 このような讃岐のある種の異様な性向を斟酌して、奈央も諫めるだけにとどめている。それに、性格はともかくとして、能力は本物なのだ。

 社会不適合者的マイナスを、社会正義的行動でゼロに戻している。それが讃岐に対する奈央の評価だった。

 ペラペラと資料を捲っていた讃岐は、手を止めずにさりげなく口を動かした。

 

「ところで旦那様、お嬢様とはお会いになられないのですか?」

「は?」

 

 雁庵は信じられないものを見るような目で讃岐を見た後、探るような目つきになった。

 

「どういう風の吹き回しだ?」

 

 雁庵の声音は疑惑に満ちていた。今にも「何を企んでいる!」と口にしそうだ。

 讃岐がどういう意図で発言したにせよ、ちょっと他人を気に掛けただけでこの疑われようは同情するべきかも知れない。

 

「いえ、大した意味はございません。出過ぎた事を申しました。どうかご容赦を」

「読み終わったならさっさと取り掛かれ。案内は早坂に任せてある」

 

 これ以上話すことはない、と言わんばかりに雁庵は鼻を鳴らした。

 

「承知いたしました。では奈央さん、よろしくお願いします」

 

 奈央と讃岐は雁庵の部屋を辞して、屋敷の駐車場へと向かった。事件現場には車で行くからだ。

 

「やれやれ、仕事にしてもタイミングを考えて欲しいものですね」

 

 疲れた様子の讃岐は助手席のシートに背を預けた。

 奈央はハンドルを操作しながら返答した。

 

「問題がありましたか?」

「大いにありますね。仕方ないとはいえ、お嬢様をほったらかした形になりますからね。娘さんに物凄く睨まれましたよ。視線で人が刺せるならとっくに僕は串刺しです。この上、お嬢様を差し置いて旦那様と会っていたと知られたら──考えたくもないですね」

 

 そういって肩を抱いて大袈裟に震えた。

 娘さんとは、奈央の娘である早坂愛の事だ。どうやら讃岐は娘に頭が上がらないらしい。面白そうな気配を感じたが、奈央は別の質問をした。

 

「随分かぐや様を気に掛けていましたが、どういう心境の変化ですか?」

「僕が敬愛する主人のために動くのがそんなに変ですか?」

 

 質問に質問で返す讃岐。奈央は露骨にはぐらかされていると感じた。

 

「変ですね。ホームズが実在していたと言われた方がまだ信じられます」

「シャーロキアンは狂喜乱舞するでしょうね。親子そろって僕に手厳しいのは遺伝ですか」

「貴方自身の問題を人のせいにしてはいけませんよ」

 

 讃岐は肩をすくめてナビに目を向けた。目的地まではあと10分もなかった。

 

「そろそろですね」と笑みを浮かべる讃岐に、奈央は何度目か分からない注意をする。

 

「現場に着いたらその不謹慎な顔はやめてください」

「分かっていますよ。まぁ、神妙な顔してれば謎が解けるのなら喜んでそうするんですけどね」

 

 やがて車は現場へと到着する。そして讃岐は今回も無事、名探偵の責務を果たしたのだった。

 

 

 〇

 

 

 四宮家本邸から早坂とかぐやが別邸へと戻って来て、数日が経過していた。讃岐はまだ仕事が残っているとかで、京都の本邸に留まっている。

 そんなことより、今日は東京湾花火祭に行く日である。中央区まで出向かずとも花火など、自宅の庭で何百発も打ち上げられそうな家柄のかぐやであるが、今日という日をずっと前から楽しみにしていた。なぜなら初めて友達と花火を見に行くからである。以前のように窓から花火を眺めるのはもう終わりだ。

 うきうきと胸を躍らせていたかぐやは朝から、浴衣姿に違和感がないか早坂に確認してもらったり、他に予定がないか早坂に確認してもらったり、浴衣の裾が短くないか早坂に相談したりと大忙しだった。その割には疲れていない気がするけど、とにかく大忙しだったのだ。

 早坂に呼びかけると、今度は何ですか、と疲れた返事が返って来た。

 

「そういえば、讃岐はいつになったら帰って来るの。もう何日か経つけど」

「彼なら今日の昼頃、向こうを発つそうです」

「そう。仕事って何なのかしら。早坂は知ってる?」

 

 そう聞くと早坂は不機嫌そうに素っ気なく答えた。

 

「知りません。彼は秘密主義ですから」

 

 そんなものかと、納得したかぐやの関心は讃岐から、再び花火大会へと戻って行った。

 

 とあるツイッターに「みんなと花火が見たい」との投稿される約九時間前の出来事である。

 

 

 

 

 その日の夜、かぐやは中央区の花火大会会場──ではなく、港区の四宮別邸で枕を、正確に表現するならシーツを涙で濡らしていた。

 楽しみにしていた花火大会に行く許可が下りなかったかぐやはしばらくの間、自室のベットに顔を埋めていたが、早坂の励ましにより立ち上がった。白銀御行の欲望を解放させるために。いや、みんなで花火を見るために。

 直後にネガティブな思考が頭をもたげた。

 

「……でも今日は、本家の執事が二人もいるのよ? なんの準備もなしにここから抜け出すなんて、出来る筈……」

 

 後ろ向きだが正鵠を射たかぐやの発言に、早坂は不敵な笑みを浮かべた。

 

 

 こうなる事を想定して、あらかじめ早坂が準備していた策は単純だった。

 早坂がかぐやに変装して影武者となり、かぐやは屋敷を抜け出す。その後、外に待機している人物に花火会場まで送り届けてもらう。

 当然正門から堂々と出て行く訳にもいかないので、出口は部屋の窓となる。

 窓辺に立ったかぐやは振り返った。

 

「行って来るわ」

「行ってらっしゃいませ、かぐや様。ご武運をお祈りしています」

 

 決然としたかぐやに、変装した早坂は普段通りの淡々と頭を下げた。淡々としていたが、温かみのある声音に押されてかぐやは自室の窓から飛び出した。

 窓付近から屋敷の外壁近くの木とを結ぶワイヤー。ワイヤーには滑車の付いたロープが吊るされていた。簡易的なターザンロープである、

 かぐやはロープにぶら下がって外壁まで滑降した。思わず「アーアアー!」と叫びたくなるようなシチュエーションだが、慎み深いお嬢様は黙々と外壁に到着するのを待った。

 外壁に到着すると、そのままの勢いで外壁を飛び越え地面に着々する。

 ここから会場へ送ってくれる人物がいる筈と、かぐやが視線を巡らせると黒いライダースジャケットを着たフルフェイスヘルメットの人物がバイクに跨ったまま立っていた。ヘルメットで顔は見えないが、体のラインから男なのが分かる。

 

「貴方が早坂の言っていた人?」

 

 ライダースジャケットの男はコクリと頷いて、かぐやにヘルメットを手渡した。

 

「東海道を飛ばして来たのですが、遅れてしまい申し訳ありません、お嬢様」

「貴方、讃岐なの!?」

 

「左様でございます」そう言って讃岐はヘルメットのシールドを上げた。中からは見慣れた理知的な黒い瞳が現れる。

 ヘルメットを装着し、バイクに跨りながらかぐやは尋ねた。

 

「バイクの免許を持っていたのね」

「はい。殺人犯とのカーチェイスを想定して取ったのですが、まさか花火大会の送迎に使うとは思いもしませんでした」

「殺人犯とカーチェイスする方が思いもよらないと思うけど……」

 

 相変わらずとんちんかんな発言をする讃岐。なるほど、確かにこの人物は讃岐光谷以外に有り得ない。

 かぐやが乗ったのを確認した讃岐は、しっかりと掴まっておいて下さいと、忠告してバイクを発進させた。

 花火が終わる前に着くだろうか。着いたとして合流出来るだろうか。

 そんな不安が頭の中を渦巻いていたせいか、ここ数日何一つ上手くいかなかったジンクスを打ち破るためか、風を切ってバイクが疾走する中、かぐやは普段ならプライドがねじ伏せていたであろう質問を讃岐にぶつけた。

 

「ねえ、讃岐。貴方の主人はやっぱりお父様なの?」

 

 ピクリと讃岐の体がわずかに動くのを掴まった腕から感じた。顔がヘルメットに包まれているので、感情は伺い知れなかった。

 讃岐は前を見たまま一言。

 

 

「何を当たり前の事を仰っているのですか、お嬢様」

 

 やっぱりと、かぐやは内心で呟いた。

 大丈夫だ。自分には早坂だっているし、使用人は他にも大勢いる。そもそも、元より本家から讃岐の事は信用していなかったのだ。だから、何も問題はない。

 つまらない質問をするんじゃなかったと後悔した。

 

「雁庵様は──」

「え?」

 

 讃岐の言葉には続きがあったらしい。終わったと思って聞き逃したかぐやはもう一度聞き返した。

 風の音で聞こえなかったと勘違いした讃岐は、声のボリュームを上げた。

 

「雁庵様は私の雇い主ではございますが、主人ではありません。私が仕えるよう命じられた主人は、四宮かぐやお嬢様ただ一人でございます」

 

 讃岐の答えを聞いたかぐやは、何を言われたのか分からないというように呆然としていたが、徐々に言葉の意味を理解すると自分がした質問の恥ずかしさと安堵でいつもの調子を取り戻した。

 水を差すようで悪いが、よくよく考えれば讃岐は唯単に事実を述べただけである。それでもこの時のかぐやにとっては嬉しい言葉だったのだ。タイミングとは恐ろしい。

 

「そ、そうよね! 貴方のように主人に暴言を吐きまくる使用人をクビにしないのは、相当心の広い私くらいのものね」

「はい。お嬢様の海よりも広く、()よりも浅い御心には深く感謝しています」

 

 早速の一発にかぐやは面食らった。何故人がしみじみとしている時にそんな事を言うのか。自分の台詞をを棚に上げてかぐやは憤慨した。

 

「いつか絶対クビにしてやるわ」

「おや、先程と仰っていることが違いますが」

 

 花火会場が近くなり交通量も増えたが、バイクは車の間を縫うように疾走した。

 そうこうしている内にバイクは会場の近くに着いた。車だけでなく、歩行者も道を覆い尽くさんばかりだ。

 讃岐はバイクを路肩に寄せて停めると振り返った。

 

「この辺りがよろしいかと」

「ええ、助かったわ」

 

 バイクを降りたかぐやに讃岐はバイクに乗ったまま頭を下げた。

 

「それではお嬢様、私はこれで失礼いたします。陰ながらご武運をお祈りしております」

「ふふっ」

「お嬢様、どうなさいました?」

 

 一日に二度も武運を祈られたのがなんだか可笑しくて、かぐやは笑みをこぼした。

 

「いえ、何でもないわ。貴方も気を付けて帰りなさい」

 

「承知いたしました」と頷いて讃岐はバイクを発進させた。

 

 早坂と讃岐の頑張りを無駄にはできない。かぐやはケータイを片手に雑踏の中へ踏み込んだ。

 

 

 〇

 

 

 かぐやに変装していた早坂は、手持ち無沙汰になってスマホをいじっていた。

 トークアプリを起動しており、京都を出発した旨と、30分後に到着する旨を伝えるそれぞれ短い一文が記されている。

 会話する時は無駄話をこれでもかと盛り込む癖に、メッセージだと素っ気ないくらいに無駄がない簡素な文章。今度からこれで会話しようかなと、早坂は本気で検討していた。

 コンコンと扉をノックする音が聞こえた。返事をする間もなく扉が開いた。変装している早坂に返事をさせない配慮だろう。

 

「御命令通り送り届けて参りました。お嬢様」

 

 部屋に入って来た讃岐は慇懃な態度で、かぐやの変装している早坂に頭を下げたので、早坂もかぐやのような態度で応じる。

 

「ええ、助かったわ」

 

 変装が珍しいのかジロジロと真剣な目で観察していた。

 

「なんですか?」

 

 居心地の悪さを感じて早坂が聞くと、讃岐はふむと、顎に手を添えて二、三度頷いた。

 

「アルセーヌ・ルパンは変装の際、見た目を変える事より仕草や歩き方、話し方を変える事を重視したというけれど、なるほどこういう事か」

 

 早坂とかぐやは背丈や体格が似ているとは言い難い。それでも本家の執事を誤魔化せたのは、演技力と気付かせない為の立ち振る舞いがあってこそであった。

 

「かぐや様は間に合いそうですか?」

「どうかな。バイクで行ったとはいえ、出るのが遅かったしね。これなら、タクシーでも呼んで行った方がよかったかもね」

「そうですか……」

「まあ、出来るだけのことはやったさ。後は白銀くん達に任せるしかないね」

 

 持ち前の楽観さで丸投げした。実際これ以上やれる事がないのは事実だが。

 ところで、と讃岐が話題を転換させる。

 

「本邸での事、まだ怒ってるのかい?」

「別に怒っていませんが」

 

 早坂の返答を一切信じていない様子で讃岐が続けた。

 

「それなら、こっちを見て話して欲しいんだけどね。そっぽ向いてないでさ」

 

 早坂はツーンという擬音がぴったりな表情を、プイッと背けていた。

 

「しょうがないだろう。僕だって本意ではなかったけど、仕事なんだから」

「そうですか? 割と乗り気に見えましたが」

「ソンナコトナイデスヨ」

「どうしたんですか? エリア51に捕獲された宇宙人のモノマネをして」

 

 早坂としてもかぐやを無下に扱ったのを、とやかく言うつもりはない。その資格が自分にないのは早坂自身充分理解していた。

 本邸での事はもういいのだ。讃岐がかぐやの味方をしてくれれば安心できたが、讃岐にも事情があるので仕方ない。

 それとは別に唯一つだけ、讃岐光谷と初めて会った日から、どうしても知りたい事があった。

 出会った当初なら聞かなかった。聞いたところで、真実を話すとは思えないし、信じなかった。

 現在も関係は大して変化していないけれど、聞くだけ聞いてみるか、とは思えるようにはなっていた。今はかぐやも居ないので、聞くには丁度いいタイミングた。

 

「貴方はどうして、四宮家の使用人になったのですか?」

 

 早坂は一年越しの疑問を口にした。

 花火の明かりが窓の外に見える。しかし、音は耳に入らない。今の早坂は讃岐光谷の発する音以外の音は聞こえなくなっていた。

 

「ゲームをしようか」

 

 讃岐の返答は、早坂の質問とは全然関係がない上、唐突だった。早坂は何と答えていいか分からない。

 

「ルールは簡単。僕が使用人になった目的を当てられたら、君の勝ち。外したら、僕の勝ち。チャンスは一回。期限は、そうだな……高校卒業までにしよう」

「何ですか、唐突に」

「気に入らないかな。確かにこれだけだとゲームっぽくないな。じゃあ、商品を付けよう。君が勝ったら何でも言う事を聞いてあげるよ」

 

「いや、そういう意味では──」言いかけて早坂は口をつぐんだ。

 

 面倒臭いが、これでも讃岐なりに早坂を尊重しているのだ。目的は言えないが、ゲームとして当てれられたなら嘘はつかずに認める、と。それにヒントもある。

 

「それでは、貴方は目的を持って四宮家の使用人になった、と考えて良いのですね?」

「そうなるね。ま、ゆっくり考えてみてよ」

「私にだけ賞品があるのは不公平ですね」

「言う事を聞いてくれるの?」

「ジュースを奢ってあげましょう」

「価値が釣り合ってないなー」

 

 讃岐は楽しそうに口角を上げた。

 讃岐光谷という謎に満ちた人間の一端を知れた気がして、早坂は何故か分からないが気分が高揚した。

 

「これからどうしようか?」

「かぐや様が帰って来てからの作戦も練らなければなりません。もちろん貴方も手伝ってくれますよね」

「仰せのままに」

 

 また、窓の外で花火が瞬いた。やはり音は聞こえない。花火の音は遠過ぎるようだ。

 

 

 ○

 

 

 出会って約一年で早坂愛は理解した。

 

 私は讃岐光谷が嫌いだった、と



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龍珠桃は崩したい

 同じ場所であっても昼と夜とでは、全く違う印象を受けた経験のある人は多いだろう。例えば学校。昼間はいくら教師が注意してもうるさいくらいに賑わっているのに、夜になると不気味なくらいに静まり返る。他にも昼はシャッターで閉ざされたシャッター街は、夜になると煌びやかなネオンが怪しい光を放つ大人の街へと変貌を遂げる。このように例を挙げると多岐に渡る。

 東京都某所の住宅街にひっそりと存在する公園も、そのような場所だった。

 親に連れられた子供が砂場で山を作る光景も、滑り台を滑り落ちるやんちゃ小僧の姿もそこにはなく、墨を塗ったような闇が覆っていた。

 闇から浮き出るようにして、園内にある縦長の長方形の建物から光が漏れている。

 一般的に用を足す、あるいはお花を摘むのに使用される建物内には3人の男性がいた。勿論、お花を摘む方ではなく用を足す方に。

 三人の髪はそれぞれ赤、青、黄色。信号機かよ、とツッコミたくなる色に染め上げられている。だらしなく腰まで下がったズボンはぶかぶかで、首や指に光るじゃらじゃら音を立てるアクセサリー。

 格好からも分かる通り彼等はチンピラである。

 

「おい、本当に大丈夫なんだろうな?」

 

 緑髪の男は心配そうに何度も入口を振り返る。挙動不審な仲間を赤髪の男が笑った。

 

「なんだよお前、ビビってんのか?」

 

「別にそんなんじゃねぇけどよ……」そっぽを向きながら呟く姿は、どこからどう見てもビビっていた。

 

「それにしても遅いな。イタズラだったんじゃないのか?」

「前回も買ったんだ。間違いない」

 

 とはいえ黄髪の言う通り確かに遅い。赤髪は自分のスマホを確認した。

 画面に映っているのは所謂闇サイトと呼ばれるサイトの掲示板だった。悪い大人御用達のアンダーグラウンドで彼等が手を出した品が、ここに届けられる予定だった。

 予定の時間から既に10分が経過していた。こちらからの連絡手段はないので待つしかない。

 砂を踏む音が聞こえた。おっ、と黄髪が期待を帯びた声を上げる。緑髪は緊張した面持ちになる。

 現れたのは40代くらいの男だった。黒いスーツにネクタイ。絵に描いたようなビジネスマンだ。鋭い目元に縦に入った刀傷のある顔を見なければ。

 息を飲んで言葉を発せない3人に向けて、スーツの男は鋭い目が弧を描い。

 

「君たちかな。体に悪い薬が欲しいって子は」

「あ、ああ」

 

 赤髪は返事をしてから気付いた。前に買った奴と違う。

 

「そうか」

 

 男の声が低くなり、目がナイフのように鋭く光る。

 

「生憎とウチのシマじゃあクスリはやってねぇんだよ」

 

 男が赤髪の胸ぐらを掴んで引き寄せた。赤髪は「ひいっ!」と情けない声を出す。

 引っ張られた衝撃で、透明な袋が薄汚れたトイレの床に落ちた。袋の中には粉末状の白い粉が入っていた。素敵な幻覚を見せる粉なのか、はたまた小麦粉であるのか見た限りでは定かではない。

 落ちた袋をスーツの男が拾い上げる。

 

「持ち歩いてんのか。バカだねぇ」

 

 呆れたように嘆息するスーツの男。

 黄髪と緑髪はもはや泣き出す寸前で、目の端に涙を溜めていた。ちなみに掴まれている赤髪は失禁寸前だった。悪ぶっても彼等は所詮、不良に毛が生えた程度の存在なのである。

 

「おじさんも鬼じゃないからね。何でこんな物持ってんのか、じっくりお話を聞かせ貰おうか。そしたら無事帰してあげるよ」

 

 その言葉は言外に語っていた。嘘を吐いたら無事では済まさないと。

 

 

 

 

「お疲れ様です、アニキ!」

 

 チンピラ3人を解放してトイレから出たスーツの男もといアニキは、調子良く現れた若い部下を睨んだ。

 

「テメェ今まで何処にいたんだ?」

「いやぁ、ちょいとお手洗いに」

「直ぐそこにあんだろうが。チッ、ガキなんぞにビビりやがって。よくそれでヤクザが務まるな」

 

「最近のガキは何しでかすか分かりませんからね」などとのたまう部下を無視して歩き出す。

 

「収穫はありましたか?」

「これだけだ」

 

 後から追いかける部下にアニキは、赤髪から取り上げた袋を見せた。

 袋に手を伸ばした部下の手が触れる前に、アニキは袋をポケットに締まった。

 

「意地悪しないで見せてくださいよー」

「ダメだ。テメェに触らせると碌なことにならねぇ」

 

 落とすか、袋が破れて中身がなくなるか、袋ごと無くすかのどれかに決まっている。クスリの販売ルートの手がかりなのだ。簡単に失う訳にはいかない。

 事務所に連絡する為、アニキはスマホを取り出した。

 

「あっ! アニキ、ようやくスマホに変えたんですね」

「ん? ああ。まあ、俺みたいなおっさんには使いこなせんがな。ジョギングの時に使うくらいだ」

「今度教えてあげますよ」

「余計なお世話だ」

 

 アニキは適当に部下の相手をして、通話ボタンを押したのだった。

 

 

 

 翌日アニキは後頭部を鈍器で強打された状態で発見された。

 場所はアニキがいつもジョギングに使っている公園。ジャージ姿であった事からジョギング中に後ろから襲われたと思われる。

 命に別状はないが、未だに意識は戻っていない。

 

 

 ○

 

 

 同類とは同じ種類、同じたぐいのものを言い表す言葉である。

 同じ種類といっても様々で、うどんとラーメンは麺の括りで同類といえるし、麺類の中にあってもカルボナーラとペペロンチーノはパスタという括りで同類となる。

 ミステリにおける探偵にもハードボイルド、安楽椅子探偵、本格派、社会派など様々な種類が存在しジャンルによって分類されるらしい。だが、それらも結局は探偵という大きな括りで同類視される。

 このように、大きな括りの前では多少の個性などないに等しい。だからこそ、大きな枠組みに囚われるのではなく、その中にある方向性の違いを大事にするべきでなのである。

 何が言いたいかというと、名探偵とラブ探偵は別ものなのだから住み分けするべきなのだ。

 早坂愛は益体もない思考で、現実からの逃避を図っていた。

 しかし悲しいかな現実は今もそこにあり続けて、決して逃してはくれないのだ。

 早坂は改めて目の前にいる二人の男女に目を向けた。

 女の方はリボンの付いた鹿撃ち帽を、ふわふわとしたピンク髪の上に乗っけている。

 男の方はひょろりとした長身が特徴的で、リボンの付いてない──つまりは普通の鹿撃ち帽を被っている。

 二人の頭上にあるそれは、19世紀のイギリスにおいては名探偵の象徴であり、21世紀の秀知院学園においてはアホの象徴である。

 それを恥ずかしげもなく被っている二人、藤原千花と讃岐光谷はアホという括りで同類にしても問題ないだろう。早坂は妙な思考に至った原因である二人に判決を下した。

 

「私ですよね早坂さん。いえ、答えは聞かなくても分かりますけど!」

「僕だよね早坂さん。いや、答えは聞かなくても分かるけど」

「じゃあ聞かないでほしー」

 

 何しに来たのだろう、この二人。

 

 内心の冷めた様子とは裏腹に、早坂の顔には笑顔が張り付いていた。引き攣った笑顔が。

 新学期も始まって数日が経ったある日の昼休み。特に当てもなく廊下を歩いていると、唐突に現れたアホ2人。そして何の説明もなく藤原はこう言ったのだった。

 

「私と光谷くん、どっちが探偵に相応しいですか?」

 

 意味が分からなかった。質問の意味がではなく、そんな問いを発するに至った経緯が。

 取り敢えず、まだ話が通じそうな方のアホに早坂は目で訴えた。

 

 どういう事態ですか? 

 

「ああ、それはね──」

 

 讃岐が語った内容は要約する必要もないくらい単純だった。

 原因は覚えていないが、どちらが探偵らしいかで口論になったらしい。曰く「ラブ探偵ね……それってコスプレしてるだけだよね」「そっちこそ、探偵っぽい態度をとってるだけじゃないですか!」らしい。

 2人とも自分の方が探偵であると言い張って譲らない。埒があかないので第三者に審査してもらう運びとなった。そこで審査員として、自分に白羽の矢が立ったのだった。実に迷惑な話である。

 早坂は自分が審査員に選ばれた理由が何となく理解できた。

 厄介なことに彼等はアホではあるが、バカではないし利口でもない。負けたくない勝負であれば、自分に有利な条件を整えた上で勝負を開始する人種なのである。

 讃岐と藤原の思惑は同様で、共通の知り合いの内、自分を選ぶであろう人物を選んで審査員にした。それが早坂愛なのだった。

 今もチラチラと期待を込めた2人の視線が早坂に突き刺さっていた。鬱陶しいことこの上ない。

 

「で、どっちですか?」

 

 正直にいえばどんぐりの背比べ、目くそ鼻くそでしかないのだが。さて、どちらにするか。

 

 悩んだ挙句「どっちもかな」と早坂は本音を隠してそう答えた。目くそか鼻くそを選べと言われたら、どちらも選びたくないのが本音だ。

 

「どっちもですか。それでは勝負がつきませんね」

 

 むむむ、と唸っていた藤原だったが、ハッと顔を上げ笑顔になった。

 

「そういえばピッタリな問題がありました。解決するところを早坂さんに見てもらって勝敗を決めていただきましょう!」

「いい考えだね」

「勝手に決めるなし!」

 

 こうなるなら適当にどっちか選べばよかった。早坂は後悔した。

 

「でも問題って?」

「ある人が悩んでいると聞いたので、その悩みを解決するというのはどうでしょう」

「なるほど。その人は誰なんだい?」

「それはお楽しみです」

 

 藤原は可愛らしく片目をつむる。

 

「今からだと時間がないので、放課後はどうでしょう?」

「ああ、構わな──」

 

 い、と続けようとした讃岐の襟首を早坂は引っ張った。ぐぇっ、と讃岐は潰れたカエルのような鳴き声を発した。

 

「ごめんね、書記ちゃん。放課後はウチとコイツ用事があって」

 

 早坂は襟首を引っ張るのと逆の手で、申し訳なさそうに手刀を切った。

 すると藤原は何かを悟ったように頰を染めた。

 

「そ、そうですよね。お2人は……」

 

 みなまで言わずとも藤原が言わんとするところは分かっていた。というか分かっていたから利用したのだが。

 早坂と讃岐は四宮かぐやの近侍である。その任務を遂行するため何かと連携を取る必要があるので、2人は一緒にいることが多かった。話題に飢えた獣達がそれを見逃す筈もなく、必然的にとある噂が生まれる。

 

 早坂愛と讃岐光谷は付き合っている。

 

 最初は厄介だと思ったのだが、これが意外と使える。

 学生と近侍の2足のわらじを履くにあたって困るのが、友人からの遊びの誘いだ。今まではバイトと言って断っていたが、噂が流れ始めてからは「ちょっと今日は予定があって……」と思わせぶりな態度を取れば、勝手にデートかと納得してくれるのだ。

 それに学校で2人になりやすいのは仕事上都合が良かった。

 

「まあ、私はとっくに気付いていましたけどね!」

 

 藤原は得意げに指先を早坂に突きつけた。

 とっくに、がどの時点か不明だが、実際は付き合っていないのでラブ探偵の推理は大外れだった。早坂は何も言わずに笑顔を持って応じる。

 あくまで肯定もしないが否定もしない。そうすればそっちが勝手に勘違いしたと言い張れる。なにせ噂が一人歩きしただけで、讃岐とは恋人らしい行為など一切していないのだから。

 そういう行為をしていれば、いくら否定しなかったところで意味がない。だからこそ以前紀かれんに誤解された時、もうこの手は使えないかと諦めていた。しかし幸いにも、かれんはあの日の出来事を吹聴したりはしなかったようだ。

 

「では明日の放課後はどうですか?」

「明日なら大丈夫かな」

 

 予定を取り付けると藤原は「そういえば、まだご飯食べてなかったんでした!」と慌ただしく走り去ってしまった。

 藤原の後姿に笑顔で手を振った後、氷のような無表情になって襟首を掴んだ腕をぐいぐい引いた。

 

「貴方の脳味噌は今朝言った事も憶えていられないんですか? 無駄なものばかり詰めてないで、少しは必要なものを詰めてはいかがでしょう」

 

 襟首が解放されると讃岐は首を手でさすった。

 

「ちゃんと憶えていたよ。嘘じゃない本当さ。屋敷に帰って掃除と洗濯、庭の手入れ、その他諸々。労働基準法を鼻で笑うスケジュールはしっかりと僕の頭に叩き込まれている。ただ何というか……売り言葉に買い言葉で咄嗟に口から出たんだ」

「脊髄の反射で会話をしないでください」

 

 冷たい視線を注ぐ早坂をまじまじと見返して讃岐は首を傾げた。

 

「おや? いいのかい、ギャルモードを辞めて」

「周囲の人も少ないですし問題ないでしょう」

「それは残念、僕はアレ嫌いじゃないんだけどね。面白くて」

「……馬鹿にしてるんですか?」

「褒めてるんだよ」

 

 どこがだ。

 

 教室への帰り道、思い出したように讃岐が聞いた。

 

「そういえば実際のところ、どっちが探偵っぽかった?」

「聞かなくても分かるんでしょう」

「まあそう言わずに」

「そんなの当然……」

 

 言いかけて早坂は口を止めた。開いたままの口をどうしようかと考え、 ──ため息を吐いた。

 

「いつまでもどうでも良いことに拘らないでください」

「どうでも良くないんだけどなぁ」

 

 讃岐は肩をすくめた。

 早坂はまたしても本音を隠した。本音を言えば、この男が調子に乗るのは目に見えていたからだ。

 

 

 ○

 

 

「準備はいいですか?」

 

 聞いたくせに返事を聞かずに藤原はドアノブに手をかける。讃岐がその手を上から押さえて止める。

 

「いや待ってよ。藤原さん、この扉が何処に繋がってるか分かってる?」

「屋上ですよ」

 

 約束通り次の日の放課後、早坂、讃岐、藤原の3人は屋上に、厳密には屋上の扉の前にいた。

 放課後の屋上は天文部が使っているので、鍵がなくても入れる。

 

「天文部は1人だけ。つまり君の言う、悩んでいる生徒は彼女しかいない」

「そうですよ。早く行きましょう」

 

 扉を押し開けようとする藤原。だが扉はびくともしなかった。答えは簡単、扉が開かないよう讃岐がドアノブを引いていたからだ。

 

「確認するけど、これって探偵っぽさを競う勝負だよね」

「はい、そうです」

「だったら人選間違ってるよ。彼女の悩みを聞いたって殺し屋っぽさしか競えないよ」

「心配いりません。私が聞いた限り、悩みは恋の悩みです」

 

 これ以上ないくらい怪訝そうな顔をする讃岐。恐らく自分もそんな感じだろう。彼女がその手の話とは無縁に思われたからだ。

 早坂は藤原に尋ねる。

 

「聞いたって誰から? 本人じゃないよね」

「エリカさんから聞きました!」

「ピンポイントで最も信用できない情報源を引いたね」

 

 巨瀬エリカは筋金入りの恋愛音痴である。そのエリカが恋の悩みと言うのならば、きっと彼女の悩みは色恋沙汰ではないのだろう。

 

「僕は反対だね。うっかり指を詰める、なんて事態になったら目も当てられない」

「心配しすぎですよ〜」

 

 藤原が押し、讃岐が引く。ガチャガチャガチャガチャ、攻防を繰り広げていると扉のすりガラスに人影が映った。

 人影が扉を引いたのだろう。拮抗は崩れて扉が開く。

 

「うわっ!」

「うひゃあ!」

 

 突然扉が開いたことで、讃岐と藤原が外に投げ出され顔から地面に倒れる。屋上側のドアノブを握った人物が不機嫌そうに見下ろす。

 整った顔立ちに、凛々しく釣り上がった目。頭にはトレードマークのニット帽。

 

「ガチャガチャうるせえと思ったら……」

 

 讃岐は倒れた状態のまま顔だけ上げた。

 

「やあ、龍珠(りゅうじゅ)さん。奇遇だね」

 

 龍珠(もも)。天文部部長にして、広域暴力団「龍珠組」組長の娘。

 

「奇遇もクソもあるか。放課後に屋上使うのは天文部だけだぞ。お前ら何しに来たんだ?」

 

 倒れていた藤原が勢いよく立ち上がった。制服を叩いて埃を落とすと、

 

「貴女は今悩んでいますね!」

「悩み? ……なくはねぇな」

「それは恋の悩みですね?」

「違う」

 

 一切迷いなく否定され固まる藤原。

 

「恥ずかしがる事はありません。誰にも言いませんから!」

「ないもんはない。あいつと一緒にすんな」

 

 いつの間にか立ち上がっていた讃岐は、ここぞとばかりに得意げに割って入った。

 

「藤原さん、だから言っただろう。龍珠さんがロマンス溢れる悩みを抱える訳がない」

「ブッ殺すぞ」

「やっぱり悩みってのはあれだよね? 誰を()るか」

「今悩みが増えたな。お前を()るかどうか」

 

 龍珠は突き刺さすような眼差しで讃岐を睨んだ。しかし一転して表情を変え口角を上げた。

 

「そんなに聞きたいなら話してやるよ。私の悩み」

「遠慮しておくよ」

「黙って聞け」

 

 こうして龍珠はとある暴力団員が襲われた一件を語った。

 

 

 ○

 

 

「是非とも協力したいのですが、私は生徒会の仕事が残っていますのでこれで……」

 

 話が終わった途端、藤原は青い顔で颯爽と屋上から退出した。物騒な話しだとは思わなかったのだろう。聞かれて都合の悪い部分は伏せたとはいえ、一般人には刺激が強すぎたようだ。秀知院に通う生徒を一般人と呼ぶかは知らないが。

 龍珠としては藤原はどっちでもいい。重要なのは目の前の男だ。

 

「いいの? あれ」

「見逃してあげなよ。恋愛相談のつもりが、まさか社会の暗部を覗くとは思わなかったんだ」

 

 早坂が半眼で問いかけると、讃岐は肩をすくめた。既に興味が事件に移っているのが分かる。狙い通り、讃岐は興味津々といった体で餌に食い付いた。

 

「ことがことだけに警察には頼れねぇ。一応言っとくが、他言はするなよ」

「善良な一般市民ってわけでもないし、僕は構わないけど……」

 

 讃岐は言葉を切ると横目を隣の早坂に向ける。「私も言わないよ」と早坂も笑顔で答えた。

 

「アニキを襲った容疑者は絞れているのかな?」

「アニキ?」

「被害者はアニキだろう?」

「アニキは名前じゃねえよ。あー、そうだな。田中だ、田中」

「適当だね」

 

 仮にも暴力団員。善良でなくとも、一般市民相手に本名は明かさない。

 

「容疑者は公園にいたチンピラ3人だ」

 

「ん?」讃岐が疑問の声を上げた。

 

「確かに一悶着あったみたいだけど、それだけで街のチンピラが暴力団員を襲うかな?」

「事件前夜の出来事だけが理由じゃない。田中の家が荒さられていて、チンピラから奪った粉の入った袋がなくなってた」

「チンピラが袋を取り返す為に被害者を襲撃した?」

「そう考えてる。悩ましいのはここからだ。田中が襲われたと思われる時間──普段ジョギングに出る時間のチンピラ3人の行動を調査した結果、全員にアリバイがあった。これがどうやっても崩せねぇ」

 

「へえ」讃岐は興味深そうに先を促した。「というと?」

 

「簡単な話だ。夜公園を出てから、近くのファミレスにずっと朝までいたんだとよ」

 

 ファミレスのウェイトレスに確認を取ったので間違いない。

 

「トイレに行ったりして席を外したのも5分から10分程度。田中が殴られた公園までは車でも片道10分はかかる。田中の家なら片道5分で往復可能だけどな」

 

 徒歩や自転車は論外。バイクであっても往復10分で戻るのは不可能。どうやっても10分で公園とファミレスを往復できず、龍珠組の捜査は暗礁に乗り上げたのだった。

 

「家が荒さられていたらしいけど、袋以外に盗まれた物はないのかな?」

「ない……いや、待てよ。家じゃなく田中本人からだと思うが、スマホが盗まれてた」

「ジョギング中に落とした可能性は?」

「それはない。スマホは既に公園の噴水で見つかってる。ぶっ壊された状態でな。中のデータも破損していた」

「スマホね。他に持ち物はあったのかな?」

「いや、スマホだけだ」

 

「スマホね」と再度呟いて讃岐は顎に手を添えた。目は次第に焦点を失い、無意味に前方へ向けられていた。そのまま眠ってしまうのではないかと心配になる。

 早坂は慣れた様子で静観していた。

 黙考開始から数十秒後、讃岐の瞳に光が戻った。

 

「念の為聞いておきたいんだけど、田中さんは独り身なんだよね?」

「はぁ?」

 

 何だその質問は。

 

「僕が知りたいのは同居人の有無だよ」

「同居人は居ねえけど、だったら何なんだよ?」

 

 讃岐は不敵に口角を上げるとこう言った。

 

「だったら、犯人が分かるのさ!」

 

 

 

 

 相変わらず鼻に付く芝居がかった態度だ。それが様になっているがまたムカつく。

 

「勿体ぶらずにさっさと教えろ」

「焦らないでよ。僕だって好きで勿体ぶってるんじゃないんだ。今犯人を挙げたところで、君達は理解できないだろう。理解を完璧なものにするには説明の順番が大切なんだ」

「もっともらしい理屈並べてるけど、君はただ推理ショーがやりたいだけだよねー」

「否定はしないよ」

 

 龍珠と早坂は呆れた視線を讃岐に注いだが、特に異論は挟まなかった。

 

「この事件には不自然な点が多くある。1つ目は家に侵入したにも関わらず、目的の袋しか盗まなかった点だ」

「目的の物を手に入れたなら、さっさと立ち去った方がいいだろ」

「そうかな? 目的の物だけを盗むより、金品も一緒に盗んだ方が空き巣の仕業に見せかけられるし、目的を隠すカムフラージュにもなる」

 

 讃岐の言う事にも一理ある。チンピラ達なら袋だけ盗めば、真っ先に疑われるのは自分だと分かる筈だ。

 

「2つ目は犯人の狙いがよく分からない点」

「田中さんの襲撃と袋の回収。狙いは明確じゃない?」

 

 疑問を呈した早坂に龍珠は頷いて同意した。

 讃岐はゆるゆると左右に首を振って否定する。

 

「犯人の狙いが早坂さんの言った通りだと仮定する。その場合疑問なのは、何故、犯行現場を家と公園に分けたのかだ。わざわざ公園に出向くのを待たずとも、家から出て来たところを待ち伏せすればいい」

「襲撃した後、住所が分かったからだろ」

 

 即座に龍珠が反論するが、讃岐は余裕を持って答えた。

 

「残念ながら、被害者の持ち物はスマホだけ。身元が分かる物は所持していなかった。犯人は最初から被害者の住所を把握していたんだよ。犯行現場を分けた理由は不明。かといって、どちらか一方が目的で不測の事態が起こり、両方行った可能性も低い。何故なら、回収が目的ならジョギングに行っていた被害者と出会わなかっただろうし、襲撃が目的なら事前に住所を調べる必要がないから家には辿り着かない」

 

 龍珠の頭の中で複数の糸が複雑に絡み合った。

 早坂が「犯人の目的が3つの内のどれか分からないけど、行動が矛盾してるってこと?」と要約したので要点は理解できた。

 こいつら手慣れてるな。2人のやり取りを見た感想だった。そういえば、彼等は付き合っていると耳にした事がある。類が友を呼んだのか。

 

「龍珠さん、どうかしたのかい?」

「何でもねぇよ。次の疑問点は?」

 

 龍珠はひらひらと手を振って話を進めた。

 

「3つ目は説明の必要もないけど、スマホが壊されていた点。犯行目的から考えてもスマホを壊す必要性は感じない」

 

 3つ目の疑問をあっさり終わらせた讃岐は、最後にと、メインディッシュを差し出す料理人のように、事件において最大の謎を提示した。

 

「4つ目は犯行時刻と思われる時間、容疑者全員にアリバイがあった点だ」

 

 厳密には短い時間ならアリバイはあるので、そこにトリックがあるのではないかと疑っていた。

 

「容疑者が席を外した時間はそれぞれ10分程度。どの移動方法を使っても公園とファミレスを往復できない。で合ってるかな? 龍珠さん」

「ああ、法定速度を無視したって無理だ」

 

 龍珠は法律違反を堂々と断言した。尤も今から犯罪を犯そうとする人間が、本番の前に捕まるような計画を立てるとも思えないが。

 

「だとすれば答えは1つ」

 

 龍珠は迷いなく紡がれる言葉の続きを息を飲んで待った。讃岐の隣で推理を聞いていた早坂は変わらず無表情だったが、続きが気になっているのは明らかだった。

 

「袋の回収と被害者の襲撃はそれぞれ被害者宅と公園で行われたのではなく、被害者宅でのみ行われていたんだよ」

 

 讃岐が言い放ってから数秒の後、口を開いたのは早坂だった。

 

「被害者宅での犯行の後、被害者を公園に移動させたから犯行現場が2つになった……」

 

 被害者を公園に移動させるのは後でもいいから、ファミレスから出た後でも──そこまで考えて龍珠は眉間に皺を寄せた。

 

「待て。公園で田中が発見された時間にも、チンピラ達はファミレスに居たんだぞ。襲撃はできるだろうけど、公園まで運ぶ時間がないなら結局アリバイは崩せない」

 

 致命的な点を突かれても、讃岐は涼しい顔のままだった。

 

「君の言う通りだよ。これらの推論から導き出されるのは、チンピラ達に犯行が不可能だったという事実さ」

「はあ!? それじゃあ誰がやったんだよ!」

 

 讃岐は詰め寄った龍珠を、まあまあと、両手で押すようにして制した。

 

「般若みたいな顔したら、難題女子から外れてしまうよ」

「誰が般若だ。それより、ここまで聞かせておいて、犯人は通り魔でしたとか言う気じゃないだろうな?」

「そんな消化不良なオチにするつもりはないよ。言っただろう? 犯人が分かるって」

 

 龍珠が落ち着いて引き下がったのを確認してから、讃岐は流れるような口調で推理を再開した。

 

「さて、これまでの推理を踏まえて、最初に挙げた4つの疑問点にもう一度目を向けてみよう」

 

 龍珠は4つの疑問を頭の中で整理した。

 1つ目は疑われる可能性が高くなるにも関わらず、袋しか盗まなかったこと。

 2つ目は犯人の目的と行動がちぐはくなこと。

 3つ目はスマホが壊されていたこと。

 4つ目はチンピラ達の犯行は不可能なこと。

 

「龍珠さん、1つ目の疑問にはどういう説明が付くかな?」

「他に犯人がいるなら、チンピラ共に疑いを向けたかったんだろ」

「そう考えるのが論理的だね。補足すると犯人はチンピラ達が疑われやすいと分かっていた。夜の公園での出来事を知っていた人物になる」

 

 頷いて、讃岐は指を2本立てた。

 

「2つ目はどうかな? 早坂さん」

「回収と襲撃が被害者宅で行われたんなら、行動に矛盾はないよね。被害者を公園に移動させた理由が分かんないけどー」

「疑問については、被害者がスマホしか所持していなかった事から、説明ができる。ジョギングした後に欲しくなる物といったら何だろう?」

 

「飲み物だろ」龍珠が答える。

 

「僕も同意見だよ。でも被害者の持ち物はスマホしかなかった。これじゃあ飲み物も買えない。電子マネーという手もあるけど、被害者はスマホ初心者で使いこなせていなかった」

 

 飲み物はともかくとして、不測の事態に備えて財布くらい持つのが一般的ではある。

 

「犯人は被害者を殴った後、ジョギング中に襲われたと誤認させる為ジャージに着替えさせた。だから持ち物が何もないんだ。スマホを持っていた風には見せかけていたけど、他の物にまで頭が回らなかったみたいだね」

 

 残る疑問点は2つ。龍珠は複雑に絡まり合った糸が、徐々に解けていく感覚を憶えていた。

 

「被害者は移動させられていたという推理を補強するのが、3つ目の疑問点。スマホが壊されていたのは、スマホに見られたくないデータが入っていたからだと考えられる。ではそのデータとは?」

 

 問いかけるように言葉が投げかけられた。龍珠と早坂は答えられずに首を捻った。

 讃岐はポケットからスマホを取り出すと、アプリを起動して龍珠達に画面を見せた。

 

「ジョギングでよく使われる物は万歩計だけど、スマホにも万歩計アプリがある」

 

 画面を龍珠達の方に向けたまま操作して、ある画面に辿り着く。画面を見た龍珠は目を見開いた。

 

「アプリには便利な機能があってね。時間帯別に歩いた歩数が記録される。犯人はこれを見られたくなかったんだ。ジョギングしている筈の時間に歩数が記録されていなかったら、襲ったのがジョギングの最中ではないと分かるからね」

 

 最後に、と讃岐は4本目の指を立てた。

 

「4つ目は……といっても、さっき説明した内容と変わる点は、チンピラが犯人ではないところだけ。これで犯人の条件は出揃ったね。夜の公園での出来事と被害者宅の住所、被害者がジョギングを日課にしていて、スマホのアプリを使っているのを知っている人物」

 

 チンピラは住所を知らなかった可能性が高い。仮に知っていたとしても、田中がジョギングを日課としている事まで把握しているとは考えられない。

 龍珠の脳内で段々と犯人の姿が輪郭を帯びてきた。

 

「…………」

 

「非常に言いづらいんだけど」と前置きしながらも、讃岐は軽やかな口調で冷静に犯人を指摘した。

 

「犯人は田中さんの部下だよ」

 

 

 ○

 

 

 早坂は階段を登っていた。

 あの後事件がどうなったのかは知らないし、知る気もない。自ら深淵を覗き見る趣味はなかった。

 犯行の動機は何だったのだろうか? 気になって讃岐に問うと、興味がなさそうに投げやりな態度で答えた。

 

『公園での一件で、部下はチンピラの前に姿を見せずに後から現れただろう。袋を秘密裏に売っていたのが彼で、チンピラから取り上げた袋に自分へと繋がる何かがあったから、とかじゃない? 想像でしかないけど』

 

 なるほど、と納得できる理由であった。

 階段を登り終えると目の前に扉が現れる。数日前も訪れた屋上の扉である。ただし、今日は讃岐や藤原はおらず早坂1人だった。

 扉の先にはやはり昨日と同じように、龍珠が寝袋の上で寝そべってスマホでゲームをしていた。扉が開いた音で顔だけを上げた。

 

「また何か用か?」

「今日は龍珠さんに個人的に聞きたい事があってー。彼の事なんだけど」

「彼……ああ、讃岐か。お前ら付き合ってるんだろ。本人に聞けよ」

 

 龍珠は首を傾げてから、思い出したように言った。

 

「いやー、昔の話したがらないんだよね……」

「それでも知りたいって? お熱いこって」

 

 その勘違いは少し気恥ずかしいが、そういう役所を演じているのだから仕方ないと割り切るしかない。

 実際は未だに謎の多い讃岐光谷を調査しているだけなのだが、正直に言える筈もない。

 

「だけど何で私なんだ? 白銀とか他にいるだろ」

「昔の事だからねー。それに彼は自分の能力が他者に知られるのを避けてるみたいだし」

 

 理由は定かではありませんが。早坂は心の中で付け加えた。その行動は寧ろ積極的にひけらかしそうな讃岐の性格と付合しない。

 

「龍珠さんが事件について話したのは、彼の推理能力について知っていたからでしょ? でもあのレベルの事件って、ちょっと頭が良いくらいの人に言う内容じゃないよね。だから以前から知り合いで、何度か謎解きをする場面に遭遇してるんじゃないかと思ったんだよねー」

 

 龍珠は珍獣でも見たかのように、パチパチと目を瞬かせた。

 いや、気持ちは分かる。普段から知性の感じられない言動をするギャルが、急にベラベラ推論を述べたのだ。驚くなという方が無理だろう。

 

「それで私か…………讃岐には事件の借りもあるし、どうすっかな」

 

 龍珠は内心の葛藤を表すように、面倒くさげに頭をかいた。情報提供は期待できないかと諦めかけた時、龍珠が口を開いた。

 

「最初に言っとくが私は秀知院に讃岐が転校して来るまで、一切の関わりはない。だから殆ど言える事はない、ってか1つだけだ。それでも良いなら聞け」

「聞く聞くー」

「私が讃岐の推理能力について知ってるのは。あのクソ……人から聞いたからだ」

「それって誰?」

「そこまでは言えねぇな。自分で探してみろ」

「ふぅん、まぁいっか。ありがとう、龍珠さん」

 

 役目は終わったとばかりに、寝袋の上でうつ伏せになりスマホに目を落とした。

 

「まあ、せいぜい頑張れ。知ってどうするつもりか知らねぇけど」

 

 

 

 

 屋上を出た早坂の胸に、龍珠の最後の言葉が引っかかっていた。

 

 どうするつもりなのだろうか? 

 

 早坂は自問する。もしも、讃岐光谷が四宮かぐやに害をなす存在だったとしたら、その時は……。

 主人の敵をどうするかなど、分かりきっている。だが今の早坂にはその言葉が出て来なかった。

 スマホの振動で我に返った。どうやら適当に校内を歩き回ってしまったようだ。

 スマホの画面にはこの2年間飽きる程見た名前。電話に出るとやはり、聞き飽きた声が耳に届いた。

 

『やあ、早坂さん。今どこにいるんだい? サボりは良くないよ、サボりは』

 

 普段の自分の行いを棚に上げて、讃岐は声に不満そうな色を滲ませていた。

 

「その言葉、普段の貴方にそっくりそのまま返します」

『僕は信頼して仕事を任せているんだよ。君は僕の代わりが出来るからね。でも僕は君の仕事が出来ないんだ。能力が足りないからね。だから早く来てよ』

「よく堂々と言えますね」

 

 いつも交わされるくだらない会話だったが、話している内に頭を悩ませているのが馬鹿馬鹿しくなって、鬱屈した気分はいつの間にか綺麗に霧散していた。



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白銀圭は相談したい

「『次はお前だ』って話知ってる?」

「知らない。何それ?」

 

 放課後、担任に頼まれた用事を済ませ、生徒会室への道すがら。白銀(けい)は友人である藤原萌葉(もえは)の質問に首を傾げた。

 

「ええー! 知らないの!?」

 

 萌葉は大袈裟に驚いた。友人のオーバーリアクションに慣れている圭は、淡々と頭の中を探った。

 しばらくしてから、頭の隅にあった記憶の断片を探り当てた。朧げな記憶を頼りに圭は言った。

 

「怪談、だっけ?」

「どっちかというと、都市伝説だねー」

「都市伝説……どんな内容?」

 

 萌葉は声を潜めて、とある事件について語り始めた。

 

 

 

 

 大学生のA子さんはサークル仲間と、一人暮らしをしているBさんのアパートに遊びに行きました。

 日も落ちると飲み会が始まり、深夜近くまで楽しく飲み明かしました。お開きになりA子さんはサークル仲間とアパートを後にしました。1人は別の方向に、A子さんを含む残りは一緒の方向へ向かって帰路に着きました。

 帰り道ふとポケットを探って、部屋にスマホを忘れてきたと気付いたA子さんは、先に帰るよう友人に伝えBさんのアパートへ引き返しました。

 戻ってきたA子さんは首を傾げました。アパートの扉が開きっぱなしになっていたからです。違和感を覚えましたが、Bさんも大分酔っていたので閉め忘れたのだろうと考えました。「失礼しまーす」と小さく声だけ掛けて中に入りました。

 もう寝てしまったのか、部屋の電気は消えていました。こうも暗くてはスマホを探せません。起こすのは悪いと思いましたが、部屋の明かりを点けました。

 部屋に入って正面にテーブルがあります。自分が座っていた辺りにスマホが置いてありました。

 直ぐに見つかって良かった。A子さんは安堵しながらスマホを手に取ると、Bさんが寝ているであろうベッドに目を向け、

 

「ひいっ!」

 

 A子さんは引き攣ったような悲鳴をあげました。

 壁の方に体を向け、死んだように微動だにしないBさん。そして壁には血のように赤い文字でこう書かれていました。

 

『まずは1人目、次はお前の番だ』

 

 A子さんはもつれる足で部屋を飛び出しました。その後何処をどう走ったか覚えていませんが、交番へ駆け込み「助けて下さい! 殺される!」と大声で叫びました。

 唯ならぬ気配を察した警察官は、半狂乱になっているA子さんを宥めて事情を聞きました。

 全て聞き終えた警察官は、A子さんに尋ねました。

 

「何故自分が殺されると? 君が部屋に戻ったのは偶然だろう。部屋にあった文字が、君を指しているとは限らないのでは?」

 

 しかし、A子さんは震えて首を横に振るだけでした。

 仕方なくA子さんを交番に残して、2人の警察官が現場へ急行しました。そこには証言通り、Bさんの死体と真っ赤な文字がありました。それを見た警察官は、A子さんが殺されると言った意味を理解しました。

 文字の横には奇妙な形のマークが描かれていました。

 

 そのマークはA子さんが使っているスマホのカバーと、同じデザインだったのです。

 

「その後、A子さんがどうなったのかは、誰にも分かりません」

 

 怖っ。

 

 普通に怖い。怪談の類なら幽霊なんていない、と突っぱねられるが、この手の所謂『人怖』系の話は実在している人間が相手なだけにタチが悪い。やはり幽霊なんかより人間の方がずっと怖い。

 

「それって本当にあった事件なの?」

 

 表面上はクールに取り繕って、圭は会話を続けた。

 

「作り話だと思うよ。都市伝説ってそういうものだし」

 

 内心ホッとして、注意が散漫になったせいか、圭の肩が向かい側から歩いてくる男子生徒とぶつかった。

 

「あっ、すみません……」

 

 謝罪と共に頭を下げたが、男子生徒はぶつかった事実などなかったかのように、何も言わず早足に歩き去った。

 圭は振り返って、その後ろ姿を見送った。

 

「何あれ、感じワルー」

 

 萌葉が頬を膨らませる。

 

「…………」

「圭ちゃん?」

 

 無言で眉を顰める圭の顔を、萌葉は心配そうに覗き込んだ。

 

「ここ、変な匂いがしない?」

 

「そうかな?」鼻をひくひくさせて匂いを嗅いでいたが、萌葉には分からないようだった。

 

「まぁいいや。早く生徒会室に行こう」

「うん!」

 

 変だと思いはしたが、それ以上深く追究せずに圭と萌葉は生徒会室へと足を運んだ。

 

 

 

 

 流行とは読んで自の如く流れ行くもので、決して留まりはしない。どんなに流行(はや)った事柄も一年後、早ければ数ヶ月で流れ去り過去になる。そう考えると儚いものだ。圭は秀知院学園中等部から、約5分の距離ある高等部の廊下を歩いていた。

 萌葉によれば流行っていたらしい『次はお前だ』という都市伝説も、今や別の話題に取って代わられていた。圭が萌葉から話を聞いてから、たった3日しか経っていないにも関わらず。

 圭の行き先は高等部の生徒会室だった。手には生徒会の仕事で提出する書類が握られている。分からない箇所があったので聞きに来たのだ。もっとも理由はそれだけではない。あわよくば、という気持ちがないでもなかった。

 

 相談だけでもしてみようかな。

 

 廊下の壁に貼ってある赤を基調とした火の用心を呼びかけるポスターが目に入り、ぼんやりとそんな考え事をしていた。

 

「おや、君は」

 

 それが自分に向けられた言葉だと、はじめは気づかなかった。

 すれ違いざまに、思わずといった様子で長身の男子生徒が立ち止まった。制服からして高等部の生徒だ。

 しかし、圭は高等部の男子と面識が殆どない。兄の白銀御行か、生徒会の会計──名前は知らない──くらいだ。

 目の前の男子生徒はそのどちらでもなかった。

 

「えっと、何ですか?」

「いや、失礼。何でもないんだ。ところで、生徒会に用事かな?」

 

 男子生徒は圭が持っている書類に視線を落とした。

 

「はい」

「それは邪魔をしてしまったね。ああ、そうだ。生徒会は生徒の様々な相談にも乗っているらしい。君が頭を悩ませている『カバディ部の赤い壁』についても相談してみるといいよ」

「はぁ、ありがとうござ──え?」

 

 圭はびっくりして男子生徒を二度見した。

 

「『カバディ部の赤い壁』の話を知っているんですか?」

 

 圭が驚いたのはそこではなかったのだが、咄嗟に別の疑問が口をついて出た。

 通称『カバディ部の赤い壁』事件は、中等部で起こった出来事だったからだ。

 

「人から聞いたんだ。中等部といっても、5分と離れていない所だからね。噂話くらい流れてくるのさ」

 

 噂が広まるスピードは、圭の想像を遥かに超えていたようだ。

 前座の問答が済んだところで、圭は自分が驚いた理由について質問した。

 

「何で私が頭を悩ませてるって分かったんですか? 先輩とは初対面で、事件のことは一言も言わなかったと思うんですけど」

「君の言う通り、僕は君と初めて会ったし、事件の話なんて一切聞いていない。けれど、観察とそこから得た情報を論理的に処理すれば、君が何を考えているか推測するのは難しくない」

 

 難しくない、と語る割にドヤ顔なのは何故だろう。

 男子生徒は通行の邪魔にならないよう、圭の正面に移動して道を開けた。

 何やら語りはじめる様子。生徒会室に行くのが遅くなるな、圭は時間が気になった。

 

「例えば君が手にしている書類。すれ違う時に内容が見えたけど、わざわざ高等部の生徒会を訪れなくとも、教師に聞けば分かる内容だ。にも関わらず高等部へ赴いた。別にそれ自体は不自然ではない。教師より親しい先輩の方が聞きやすいだろうし、同じような理由で高等部を訪れる生徒は多い」

 

 つらつらと流れるように言葉が紡がれる。不思議とすんなり頭に入るのは、単に圭の理解力が良いから、というだけではないだろう。

 

「ここから君は高等部の生徒会に、親しい人物がいると推測できる」

「言われてみれば確かに……」

「それと、僕は向かいから見ていたんだけど、確かな足取りで歩いていた君が、突然心ここに在らずといった感じで歩調を落とした。考え事をしていたのだろう。何故急に考え事をはじめたのか。原因はなんだろうと君の行動を思い返すと、直前に壁に貼られたポスターを見ていた」

 

 男子生徒の言葉はまるで、圭の行動、心理をなぞっているかのようだった。

 ポスターにはポイ捨てされたタバコから、赤々と立ち昇る炎が描かれていて、上の方に「ポイ捨て、ダメ、絶対!」と使い古された言い回しでキャッチコピーが添えられていた。

 

「ポスターを見て何かしらを連想し、頭を悩ませた。そう考えると生徒会を訪れる、という行為に別の可能性が出てくる。書類はあくまで口実に過ぎず、他に相談事でもあるのではないか。そこで思い浮かんだのが、中等部で起きた部室の壁が赤く塗られるという妙な事件。君はポスターの赤色から『カバディ部室の赤い壁』を連想したのさ」

 

 この仮説から、男子生徒は「事件について相談するといい」なんて、まるで圭の心を読んだかのようなアドバイスをしたのだった。

 最初は驚いたが、説明されるとそんな事かと納得できる。圭は手品の種明かしをされた気分になった。

 

「向かいを歩いていただけの人を、よくそこまで観察してますね」

「癖みたいなものだよ。意識してやってるわけじゃない」

 

 言葉に呆れるような感情が篭っているのに気付かないのか、男子生徒は得意げな様子だ。

 別に褒めてないのに、圭の男子生徒に向ける目が半眼になる。

 

「やあ、すっかり話し込んでしまった。邪魔して悪かったね。じゃ、さようなら。白銀圭さん」

「な、何で私の名前を……!? やっぱり妖怪……!」

 

 今度こそ圭は、目の前の生き物が(さとり)と呼ばれる妖怪なのではないかと疑った。

 

「やっぱり?」男子生徒は首を傾げたが、すぐに圭の驚きようを見て薄く笑みを浮かべた。

 

「驚く様なことじゃないさ。我らが生徒会長の妹の顔くらい、知っていても不思議はないだろう? 白銀くんには僕も世話になっているしね」

「え、お()ぃいさんの知り合いなんですか?」

 

 つい出てしまった家での「お兄ぃ」呼びを、強引に「お兄さん」へ修正する。

 

「ああ、僕も混院でね。君のお兄ぃさんには良くして貰った」

「お兄さんがそんな事を……」

「お兄ぃさんは──」

「お兄さん」

「お兄ぃさん」

「お・に・いさんです! わざとやってるんですか!」

「いや、失礼。冗談だよ」

 

 男子生徒は、全然失礼したと思っていない飄々として口調で言った。圭は確信した。この人は相当性格が悪いと。

 今度こそ男子生徒は、ひらひらを手を振って歩き出した。

 

「じゃあね、お兄さんによろしく。君の悩みが解消されるよう願っているよ」

 

 変な人だったな。

 

 白銀圭は遠ざかる高い背中から視線を外した。

 

 

 

 

「失礼致します」

 

 圭は生徒会室の扉を開いて中へ入った。

 以前来た時とは違い、今日は4人の生徒会メンバーが揃っていた。

 窓際の机に座って書類と格闘していた兄の白銀御行が、いち早く反応して顔を上げた。

 

「ん、圭ちゃん。珍しいなこっちに来るなんて」

 

「あー圭ちゃんー!!」と続いて萌葉の姉で生徒会書記の藤原千花が、満面の笑みで圭を出迎えた。こちらは仕事をしているようには見受けられない。

 他にも横長のソファには長い前髪の人が座っていて、卓上でパソコンを開いている。役所は圭と同じ生徒会会計。

 その対面にあるソファに座っている人物を視界に捉えると、圭は頬を染めた。

 艶のある長い黒髪を頭の後ろにあるリボンで纏めている。楚々とした佇まいで振り返って、圭を見つめる瞳はルビーのように赤い。憧れの先輩、四宮かぐやである。

 

「こんにちは、圭」

「こ、こんにちは」

 

 憧れの先輩に微笑かけられて、圭は言葉を詰まらせる。

 

「もしかして、書類について聞きに来たのか?」

「ええ、兄さん」

 

 実の兄に話かけられて、圭は冷たいくらいに淡々と返す。14歳とはそういうお年頃なのである。

 謎の男子生徒から生徒会は様々な相談に乗っている、とアドバイスを受けたが、やはりいきなりは切り出しづらい。書類について尋ねながら機会を伺う。

 

「ここはだな……」

 

 テーブルで書類に向かって、白銀の懇切丁寧な説明を聞く。

 

 真面目か! 少しは脇道に逸れてよ! 

 

 圭は理不尽な不満を抱いた。

 このままでは、事件の話をする切っ掛けなど一切ないまま終わってしまう。危機感を募らせる圭に、救いの手が差し伸べられた。ただ1人、真面目に仕事をしていない人物によって。

 

「そういえば萌葉から聞いたんですけど、中等部で変わった事件があったそうですね」

「事件、ですか……」

 

 ナイス、千花()ぇ!! 

 

「そうなんですよ!」

 

 腹を空かせたハイエナの如く、圭はその話題に飛びついた。

 会計の人がキーボードを打つ手をビクリと跳ねさせ、白銀は「圭ちゃん……?」と困惑を露わにする。

 

「もしかして知っているんですか? 圭」

「はい。事の発端は一昨日の放課後なんですけど……」

 

 

 

 

 放課後、風紀委員のC子さんは活動の一環として、部室内に不必要な物が持ち込まれていないか見回りをしていました。

 部室が多いので手分けして見回るようになりました。C子さんと、同じく風紀委員のD男さんは、体育館で活動している部の部室を見回るよう割り振られました。

 体育館を使用する部は、バスケットボール部、バレーボール部、バトミントン部、カバディ部の4つです。一番人数の多いバスケットボール部の検査に手間取りましたが、それ以外は違反になるような物もなく、順調に進みました。

 残るはバトミントン部とカバディ部のみです。バトミントン部とカバディ部の部室は隣り合うように建っていました。

 バトミントン部の部室に入ろうとして、おや、とC子さんは首を傾げました。

 カバディ部の扉が開いていたからです。カバディ部は現在部員が居らず、部室は物置き代わりになっている筈ですし、部室の鍵はC子さんが持っていました。

 不審に思いましたが、C子さんは早く仕事を終わらせる為、バトミントン部は自分に任せて、カバディ部を検査するようD男さんに伝えました。

 それから少しの間、部室内を検査していました。

 検査の途中でC子さんが手を止めたのは、「うわぁぁ!」と悲鳴が聞こえたからでした。

 カバディ部の方からだと判断したC子さんは、急ぎ部室を出て、D男さんの居るカバディ部へ行きました。

 ドアノブに手を掛けようとした瞬間、中から慌てたようにD男さんが出て来ました。

 

「何かあったの?」

 

 尋ねましたが、D男さんは「え、何が?」と惚けた様子でした。

 

「悲鳴を上げてたじゃない」

 

 少し苛立って口調が強くなります。

 D男さんは視線をおろおろと彷徨わせて、取ってつけたように、

 

「こけそうになって、声が出ただけだって。物が多くてさ」と言い訳して、後ろ手に扉を閉めました。強めに閉じられた衝撃で、部室内の空気が外に漂いました。嗅いだことのある刺激臭が鼻を突きます。

 怪しさ満点でしたが、疑り深いと思われるのも嫌なので、その場は納得して風紀委員の仕事に戻りました。

 

 翌日の放課後、見回りを終えたC子さんは、昨日のD男さんの様子がどうしても気になり、カバディ部の部室を覗いてみることにしました。

 

「えっ……」

 

 室内には空気の抜けたサッカーボール、脚が壊れた椅子、古く薄汚れたテント等が散乱していました。

 C子さんは絶句しました。

 ゴミ捨て場と化した部室に、ではありません。これはこれで閉口しますが……。

 C子さんが驚いたのは、部室に入って正面にある壁の真ん中辺りが、血のような赤色で染められていたからです。

 

 結論からいえば、もちろん血ではありませんでした。

 後に教員が調べたところ、壁を染め上げていたのは赤いペンキでした。ペンキと聞いてC子さんは、D男さんが扉を閉めた時に嗅いだ刺激臭が脳裏に浮かびます。あれはペンキの臭いだったのです。

 発見時ペンキはまだ乾いておらず、塗ってからそう時間は経っていませんでした。

 使用されたペンキは、部室内に元からあった物で、使わなくなったのを誰かがカバディ部の部室に放置していたようです。

 

 一体誰がこんなイタズラをしたのでしょうか? D男さんが驚いたのと関係はあるのでしょうか? 関係があるとしたら、隠すように部室の扉を閉めたのは何故? 

 

 様々な疑問は未だ、壁のペンキと共に残ったままなのでした。

 

 

 ○

 

 

 生徒会の面々は圭が話し終えても、しばらくは誰も言葉を発さなかった。

 ゆっくりと口を開いたのは白銀だった。

 

「作り話じゃないんだよな」

「中等部で実際に起きた事件だよ」

「私も萌葉から聞きました」

 

 藤原が援護する。圭だけならともかく、2人に言われれば作り話という線はないだろう。白銀は悩ましげに唸った。

 

「このまま妙な噂が出回ると外聞が悪いから、生徒会で調査するよう頼まれたんですけど、全く進展がなくて……」

 

 これはチャンスですね。

 

 かぐやは厚い面の下でほくそ笑んだ。この事件を解決すれば、白銀の妹である圭との距離を縮められる上に、白銀の好感度も稼げる。まさに一石二鳥。

 そうと決まれば善は急げ。かぐやが事件の気になる点について、尋ねようと口を開く──より早く藤原が動いた。

 

「任せて下さい! その謎、私達生徒会探偵団が解き明かしてみせます!」

「千花姉ぇ、ありがとう!」

 

 藤原の頼もしい言葉に、圭は目を輝かせる。

 藤原と圭の距離が縮まった。

 先を越されてしまったかぐやは、ルビーのように赤い瞳で藤原を睨んだ。

 

 相変わらず藤原さんは、そういうことをするんですね。他者に取り入る術に長けた下衆な女。

 

「達って、仕事はどうするんだ?」

「生徒の悩みを解決するより大切な仕事がありますか?」

 

 藤原がただ面白そうな事件に飛びついただけなのは、白銀も分かっているだろうが、強力な建前を前に反論できない。

 

「石上君も一緒に考えましょう」

「はぁ、いいですけど、力になれるか分かりませんよ」

 

 控えめな石上に、藤原は心配ありません、と胸を張った。

 

「かぐやさんもいますから!」

「かぐやさんが?」

 

 疑問符を浮かべる圭に、藤原は自慢げに語った。

 

「かぐやさんは謎解きが得意なんです。かぐやさんがいれば百人力ですよ〜」

「そうなんですか!?」

 

 圭は尊敬の眼差しでかぐやを見る。

 

「得意という訳ではありませんが、最善は尽くすつもりです」

 

 流石ね藤原さん。やっぱり貴女は1番の友達よ! 

 

 かくして、生徒会探偵団は結成された。

 生徒会メンバー4人と圭は、向かい合わせのソファに分かれて座った。

 

「現時点で事件について考えのある人はいますか?」

 

 全員が首を横に振る。予想通りの反応だ。あの探偵気取りのように、話を聞いたら即解決編とはいかないのが普通だ。

 

「では事件の疑問点を挙げていきましょうか、会長」

「そうだな。どんな些細なことでもいいから言ってくれ。何が事件解決に繋がるか分からんからな」

 

 藤原がコクコクと、赤べこのように首を動かす。

 

「石上君、メモはお願いしますね!」

「それって藤原先輩の仕事じゃ……」

 

 藤原千花、生徒会書記。

 文句を言いながらも石上は、パソコンでメモを取る用意をした。

 

「俺が思う疑問点は2つだ。1つはD男の行動だな。彼の証言通り、こけそうになって悲鳴を上げたとは考え難い。それに部室内を見られたくない様子だった。2つ目は言うまでもないが、壁が赤く塗られていた事だな。犯行には動機がつきものだが、壁を塗る事による犯人のメリットはなんだ?」

 

 白銀の疑問について、かぐや達が思考している間に石上が記録する。キーボードを叩く音だけが、少しの間生徒会に流れた。

 

「D男さんの行動が変だったのは、赤い壁を見たからじゃないですか?」

「発見時に塗り立てだったから、それはないだろう」

 

「その件ですが」藤原と白銀の会話を聞いた石上が、新たな疑問を提示した。

 

「そもそも部室の扉が開いていたのって、変じゃないですか。鍵はC子が持っていたんですよね」

「あっ、鍵に関しては調べがついています。随分前からカバディ部の部室は、鍵が壊れていたそうです。盗まれて困る物もないし、部員も居なかったので、ずるずると放置していたようです」

「そうですか。でも鍵が掛かっていなかったとしても、扉が開いていたとしたら変ですよ」

「鍵が掛かっていないなら、誰でも開けられるじゃないですか?」

 

 藤原がその場の全員の疑問を代弁した。

 石上はパソコンから顔を上げて答える。

 

「扉が開いていたのなら、風紀委員が来る前に部室に入った人がいた筈です。D男の態度からして、その時既に室内に異変があったと思われます。その人は何の為に部室に入ったんですかね」

 

 新たに浮上した謎の第三者の存在。考えれば考える程謎は深まっていく。再び生徒会室に沈黙が訪れた。

 全員が謎解きで頭を悩ませる中、かぐやは別の事で頭を悩ませていた。

 

 不味いですね。

 

 かぐやは内心、少し焦りを感じていた。白銀が成績優秀なのは言わずもがな、妹の圭も同じく成績優秀だ。石上は成績こそ良くないものの、観察力と洞察力は鋭い。これだけの面子が揃っているのだから、もしかすると誰かが自分より先に、謎を解き明かしてしまう危険がある。

 圭の信頼を勝ち取りたいかぐやにとって、それだけは避けたい。

 

 こちらも早めに切り札をきるべきでしょうか。

 

 ポケットの携帯電話にそっと手を触れた。

 

「謎は全て解けました!」

 

 突然藤原が大声を上げた。

 

「ええっ!?」

 

 驚いてかぐやの肩が飛び跳ねた。大声もそうだが、あの藤原が謎を解いたというは更に驚愕だった。

 

「一連の事件はD男さんのイタズラだったんですよ」

「C子を驚かせる為に仕掛けたイタズラ、と言いたいんなら、可能性は低いですよ」

「何でですか!?」

 

 即座に否定して、石上は呆れたように目を細めて藤原を見た。

 

「学校の壁にペンキを塗るのって結構な大事ですよ。普通イタズラでそこまでしません」

「え? そうですか?」

「……まあ、藤原先輩には分からないかも知れませんが、普通はしません」

「人を異常者みたいに言わないでください! 私だってしませんよ!」

 

 手を振って猛抗議をする藤原を、軽く受け流して石上は続けた。

 

「謎の人物についての説明もできませんし、D男が犯人なら、最初にカバディ部に入った時、部室に異常はなかった事になるので、悲鳴を上げたりするのはおかしいです」

「それはC子さんに『カバディ部に何かある!』と思わせる為の伏線ですよ」

「それならC子と別れた後、直ぐにでも壁を塗りに行くべきじゃ? 壁にペンキが塗られたのは翌日、それも放課後ですよ。それまでにC子が怪しんで部室に来たらアウト。計画が杜撰過ぎますね」

 

「ぐぬぬ」自説を否定されて悔しそうに唸る。

 

「そういう石上君は何かないんですか?」

 

 自説が退けられた腹いせにではないだろうが、藤原が頬を膨らませて尋ねた。

 目線だけをパソコンのディスプレイに向けて、石上は自分が撃ち込んだ文章に目を通した。

 

「そうですね……2つ目の疑問点についてなら、仮説はあります」

「壁にペンキを塗った動機だな。どんな仮説だ?」

 

 全員に注目され恥ずかしくなったのか、石上は居住まいを正した。

 

「ペンキを塗ったのは隠す為だったと思うんです」

「隠す? 何をだ」

「それは僕にも分かりません。順を追って説明すると、D男が最初に部室に入った時、既に壁に何か書かれていた。恐らく書いたのは先に部室に入った謎の人物でしょう。その人を庇うためか分かりませんが、D男はそれを隠したかった。そこで思いついたのが、ペンキで上から塗りつぶす方法です。翌日になってから塗ったのは、方法を思いついたのが学校を出た後だったからでしょう」

 

 なるほど、と誰からともなく声が上がった。確かに藤原の説よりは論理的で筋が通っている。とはいえ部分的に解決しただけで、まだ謎が残っている。D男は何を塗りつぶしたのか、そして謎の第三者の存在。これらに解が出ない限り解決とはいえない。

 そろそろこちらも手を打つべきだろう。先程は藤原の発言に驚いたが今度こそ。かぐやはポケットの上から携帯電話に触れた。

 

 

 

 

 かぐやは適当な理由をつけて生徒会室を抜け出した。離れた場所で携帯電話を開いて電話を掛ける。

 

『御用でしょうか、お嬢様?』

 

 かぐやの近侍、讃岐光谷の物静かな声が待ち構えたように尋ねた。

 

「喜びなさい。また、貴方の出番よ」

『承知致しました。申し訳ありませんが、場所を移しますので、少々お待ちください』

 

 讃岐は通話口から離れて誰かと話しているようだ。相手は恐らく、もう1人の近侍である早坂愛だろう。

 

『ねぇ、早坂さん。この辺りで人目に付かない場所知らない?』

 

 2人の会話が漏れ聞こえる。讃岐の普段の喋り口調は、従者としての態度しか知らないかぐやには新鮮だった。

 

『いや、何も企んでないって。お嬢様からの命令だよ。ここじゃ誰に聞かれるか分からないし。いやいや、嘘じゃないってば。……疑り深いなぁ、分かったよ。監視してていいから、早く行こうよ』

 

 次に聞こえた声は、再び鮮明に戻った。

 

『お待たせしました、お嬢様。移動しながら話を聞かせて頂きます』

 

 

 

 

「事件の概要と生徒会での推理は以上よ。どうかしら?」

『どう、とは?』

「意見や質問はないのか、ということよ」

『意見ですか……』

 

 珍しく讃岐が言い淀んでいた。生徒会が束になっても解けなかった謎だ。流石の讃岐も自信がないのだろう。だが今は圭の信頼を勝ち取る為──もとい事件解決の為、何でもいいから手掛かりが欲しい状況だ。

 かぐやは柔らかく言葉を発する。

 

「あくまで意見よ。間違っていたとしても、文句は言わないから安心しなさい」

『そこまで仰るのであれば遠慮なく』

 

 耳を澄ませて、讃岐の言葉を待つ。

 

『お嬢様は全く意見を出されておりませんでしたね。やる気はあるのでございますか?』

 

 ミシリ。どこからともなく、そんな音が聞こえた。自分の携帯電話が軋んだ音だと気付き力を抜く。

 実際やる気はあったが、解く気はなかった。最終的には讃岐に丸投げする気満々だったからだ。

 図星を突かれたようで、恥ずかしくなったかぐやは、誤魔化すように電話口で叫ぶ。

 

「貴方に譲ってあげたんでしょう! いいから、さっさと推理しなさい!!」

 

 対する讃岐は口調を崩さず平然と対応する。あの慇懃な──いや、慇懃無礼な態度が目に浮かんだ。

 

『御心遣い感謝致します。それではお嬢様のご希望通り、私の考えを述べさせていただきます』

「えっ、待って。もう解けたの?」

『はい。今回の一件、皆様は少々難しく考え過ぎなのではないかと存じます』

 

 生徒会での話し合いでは謎が深まるばかりだったが、特に難しく考えた印象はない。

 

『皆様の推理を聞く限り、一連の事件が全て繋がった出来事とお考えのようですが、それは間違いでございます』

「どういう事?」

『この事件には2つの思惑が介在しています。しかしそれらは、全く別の方向を向いているのです』

 

 更に疑問が増えたが、もたもたしてもいられない。そろそろ生徒会室に戻らなければ、不自然に思われてしまう。

 かぐやは先を急かした。

 

「時間がないから前置きは結構よ。早く事件の謎について話して」

『承知致しました。今回の事件は大きく2つに分けられます。仮に、風紀委員の見回りがあった日の放課後から、部室の扉が開いているのが発見されるまでが前半、D男が部室に入ってから、C子が赤い壁を目撃するまでを後半としましょう』

「それが、それぞれ別の人物によって行われたのね」

 

 かぐやは携帯電話を持ち替えて、柱にもたれかかった。

 

『そう考えてよろしいかと。後半に関しては石上君の推論が正しいと思われます』

「そこまでは私達と同じね。残る謎は何を隠したかったのかと、謎の人物についてね」

『2つの謎は前半に含まれます。C子の証言に、D男が部室の扉を閉めた時、室内から刺激臭がしたとあります。それがペンキの臭いだったとも。この時にはペンキが使われていたのが分かります。この事から、D男が目撃したのは、赤いペンキで何かが記された壁と考えられます。そして記したのはD男より先に入っていた謎の人物です』

 

 D男が壁を塗るまでもなく壁にはペンキが塗られていた、というのは讃岐程論理的に考えなくとも想像がつく。重要なのは、

 

「壁に記されていた何かが知りたいのだけど」

『「次はお前だ」と記されていたのでございます』

「…………?」

 

 何だそれは。というか何故そこまで分かるのか。D男が隠すほどの意味があるのか。様々な疑問がかぐやの脳内を駆け巡った。

 

『お嬢様が驚かれるのも無理はありません。この言葉は数日前まで、中等部で流行っていた都市伝説で使われていました』

「どうして貴方が中等部で流行った都市伝説を知っているの?」

『後輩から聞きました』

「中等部に知り合いがいるの?」

『いえ、高等部の後輩です。高等部の一部にも浸透しているようですね』

 

 そういえば以前、怪談の噂が出回った時も後輩に聞いたとか言っていた気がする。

 話が逸れてしまった。時間はかけられないというのに。

 

「『次はお前だ』と書くことにどんなメリットがあるの?」

『都市伝説の内容を話すと長くなるので、必要な点だけ抜き取りますと、部屋の扉が開きっぱなしだったという部分です。謎の人物は、部室の扉が開け放たれていても不自然でない状態を作り出す為、そしてペンキを使う為、壁に「次はお前だ」と記したのです』

 

 讃岐が挙げた2つがどうしてメリットになるのか、かぐやは形の良い眉を寄せた。

 開け放たれた扉、刺激臭のするペンキ。ふと、ある考えが浮かんでかぐやはこれまでの推理を振り返る。

 

「……臭い。謎の人物は室内の臭いを消す為に、扉を開けて換気した。それだけでは不安だったから、臭いのきついペンキで誤魔化したのね」

 

 採点を待つような気持ちで、携帯電話を耳に押し当てる。

 

『お見事でございます。流石のご慧眼感服いたしました』

 

 電話から聞こえる声は、相変わらず感情を伺わせない声音で、歯の浮くような賛辞を述べるのだった。

 

『臭いを消した理由は、どこぞの非行少年が煙草でも吸っていたからでしょう。普段誰も使わない部室でくつろいでいたところ、風紀委員の見回りに気付き慌てて策を講じた。自分に付いた臭いまでは消せなかったでしょうから、当日変な臭いをさせている生徒がいなかったか聞き込みを行えばよろしいかと』

 

 ご丁寧に今後の方針まで讃岐は添えた。本当に煙草を吸っていた生徒がいたのなら大問題である。ここら辺の対応は中等部の教師に任せるしかない。

 

「D男が塗りつぶす必要はあったかしら」

『都市伝説にビビッて、情けなく悲鳴を上げたのを隠したかったのではないでしょうか』

「それだけで壁にペンキを塗るかしら?」

 

 石上が藤原に言ったように、軽い理由で学校の壁にペンキを塗る人はいない。

 

『心理的なハードルは低かったと思われます。D男が見た時、既に壁はペンキで塗られていました。自分が塗ろうと塗りまいと、壁がペンキで汚れている事実は変わりません。最初に塗った人物も驚いた事でしょう、自分が書いた言葉が全く別の言葉に変わっていたのですから。まさに、ホラ──―むぐっ!?』

「讃岐……?」

 

 変な声を出して讃岐が黙った。それから何度か呼びかけたが、返答はなく通話が切れた。

 どうしたのだろうか、しばらく無言で携帯電話を見詰めていたが、早坂も付いているし大丈夫だろうと踵を返した。

 今回も讃岐の推理が大きく外れる事はないだろう。これで圭の悩みは解決するし、かぐやは圭との距離を縮められる。かぐやは足取り軽く生徒会室へと戻った。

 

 

 〇

 

 

 早坂愛は突然のピンチを迎えていた。

 とりあえず、ピンチに気付かない讃岐の口を背後から塞いで部屋の奥に移動する。無駄に身長が高いのでそれだけでも一苦労だった。

 讃岐が無言で早坂の腕を軽く叩いた。早坂は口から手を放した。

 口を開こうとする讃岐に、人差し指を自分の口に当て静かにしろ、と伝える。

 

「どうしたんだい? 急に」

 

 顔を近付けて囁くような声で讃岐が聞いた。

 今の危機的状況が理解できていないようだ。こういうところは鈍い。いや興味がないだけか。

 

「ここがどこだか分かっていますか?」

「体育倉庫だろう?」

 

 なんでそんな当たり前の質問をするのか、と言いたげだ。

 

「私がここを選んだ理由は?」

「一般生徒立ち入り禁止だから」

「正解です」

「何のクイズ?」

「いいから、耳を澄ませてください」

 

 先程まで止んでいた雨がまた降り始めて、絶え間なく雨音が聞こえる。加えて体育倉庫の前から話し声が聞こえて来る。

 

『タイミングさいあく。靴の中びしょびしょー』

『私達が出た瞬間降ってきたね……』

『止んだからいけると思ったのに』

 

 声からして2人の女子生徒が、体育倉庫の前で雨宿りしているらしかった。

 

「人がいるみたいだね」

「誰も使っていないはずの体育倉庫から、私達が出て来たら彼女達はどう思うでしょうか?」

「なるほど。下衆の勘繰りは免れないだろうね。それ以前に立ち入り禁止だから、出るのを見られるのも避けたい」

「やっと分りましたか」

 

 そう早坂愛のピンチとはつまり、突発的な体育倉庫イベントの発生である。進んで密室に閉じ込められたがる者がいない以上、突発的でない体育倉庫イベントなんてないのだが、それはともかく。

 

「でもさ、僕達対外的には恋人関係なんだから、そう思われてもダメージ少ないんじゃない?」

「少なくはないでしょう。それに何か嫌です」

「何か嫌か。じゃあ仕方ないね」

 

 讃岐はきょろきょろ室内を見回して、早坂に手を差し出した。

 

「書ける物持ってないかな? ペンでなくてもいい。できれば赤色、線の太いやつで」

 

 注文が多い。早坂は確認するように、制服とスカートのポケットを触った。ポケットに触れた時、手に硬い感触を感じだ。書ける物か微妙だが、一応取り出す。

 取り出したのは小型のポーチだった。

 

「何だいそれ」

「簡易的な変装セットです。カラコンや、付けまつ毛が入っています」

 

 ポーチから円柱状のスティックを取り出して、讃岐の手に乗せる。

 讃岐はスティックを指で摘んで、上から下まで観察していた。

 

「ペンじゃないよね」

「口紅です。赤とまでは行きませんが、線の太い書ける物といったらこれだけです」

 

 初めて見たのだろう。キャップを開けて珍しそうに先端を確認する。使えそうと判断したようで、嬉しそうに讃岐は口角を上げた。

 

「流石メイドさん。要望通りだね」

「これで何をするんですか?」

 

 讃岐は質問には答えずに、不敵な微笑を湛えた顔で言った。

 

「フォークロアの実用的活用法を教えてあげるよ」

 

 嫌な予感しかしなかった。

 

 

 

『今音が聞こえなかった?』

『うん。どこからかな?』

 

 ガタガタとまた微かに音がした。

 

『体育倉庫からね』

『立ち入り禁止じゃないの?』

『猫でも入り込んだんじゃない?』

 

 扉に手を掛ける音がする。

 

『あっ、開いてる』

『ちょっと! 立ち入り禁止って……』

『本当に猫だったら可哀想でしょ』

 

 好奇心に満ちた声は、普段立ち入れない場所への高揚感が、隠しきれていなかった。

 扉の間から薄っらと体育倉庫に光が差し込むが、外が曇っている為以前として室内は暗い。

 

「あれ? 誰もいないなー」

 

 室内に踏み込んだ女子生徒が、物を踏んだのに気付いて足元を見る。

 次の瞬間女子生徒の顔が青くなり、悲鳴を上げて体育倉庫から飛び出した。

 

「えっ、どうしたの!?」

 

 外にいた女子生徒が慌てて走り去る友人を追った。

 

 体育倉庫から人が消えたのを確認して、早坂と讃岐は物陰から出た。

 

「まさか本当に上手くいくとは……」

「彼女が都市伝説を知っていて良かった。また人が来る前に行こうか」

 

「証拠は隠滅しないとね」讃岐が女子生徒が踏んだ石灰の空袋を拾った。袋にはピンク色で『次はお前だ』の文字があった。

 

 体育倉庫から出た早坂達は渡り廊下を歩いていた。時折入り込む雨粒が制服を濡らす。

 

「これがフォークロアの活躍法ですか」

 

 折りたたまれてコンパクトになった袋を見る。

 

「本来の使い方に最も近い方法だよ」

「本来の使い方?」

「元になった都市伝説のね。内容は知っているかな?」

「いいえ、知りません」

 

 讃岐は『次はお前だ』と題した都市伝説の内容を語った。

 

「都市伝説の事件で犯人が『まずは1人目、次はお前だ』と壁に記したメリットは2つある。今の僕達みたいに、A子さんを部屋から追い出して逃げ道を確保する。そして犯行時刻の誤認」

「被害者の血で文字を書いたのなら、殺害された時間はA子が発見したより前にしかならないのでは」

「真っ赤な字でとしか描写されていないからね。血文字であるとは限らない。次はお前だ、という文面でBさんは既に死んだと思わせておいて、実際にはA子さんが立ち去った後に殺害したのさ。事前にアリバイを作っておけば疑われないって寸法さ」

「……やけに、断定的ですね」

 

 この男、都市伝説の元になった事件について知っているのではあるまいか。早坂は疑惑の視線を送った。

 

「所詮は都市伝説だからね。無責任に断言してもバチは当たらない」

 

 讃岐はポケットを探って、早坂が渡した口紅を取り出した。

 

「ダメにしちゃって悪いね。新しいの買って返すよ」

「店で見てこれと同じ物が分かりますか? 結構種類ありますよ」

「そうなの? 自信はないなぁ。じゃあ君も一緒に来てよ」

「かまいませんよ。……休みが合う日があれば」

 

 言った後で遠い目になる早坂。讃岐も同じ目をした。

 かぐやの従者としての仕事は多忙を極める。朝は早いし夜は遅い。金払いの良さだけで、ブラック化を免れているような職場だ。休日なんてそうそうない。

 

「万に一つくらいは可能性もあるでしょ。もしダメなら、自分でなんとかするよ」

 

 讃岐は手持ち無沙汰に、手の中で口紅を転がした。

 流れで了承してしまったが、何やら恥ずかしい約束をした気がしないでもない。幼少期から仕事ばかりしている早坂でも、休日に男女が2人で出掛ける事の意味は理解していた。

 

 かぐや様にあてられたかな、と思う。

 

 讃岐にしても、そして自分にもそんな気はないのだから、意識し過ぎというものだ。

 

「考え込んでどうかしたのかい?」

 

 普段と寸分変わらぬ能天気な表情に、早坂はため息を吐きたい気分になった。



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ワガママを叶えたい

※謎解きはありません


 今日も今日とて早坂愛と讃岐光谷は、主人である四宮かぐやの唐突な呼び出しを受けていた。

 普段と違っていたのは、かぐやの自室ではなく厨房に呼び出された点。

 かぐやは特注であろう巨大な冷蔵庫を背にしていた。早坂と讃岐は、かぐやの前に並んで立っている。

 

「これを明日の放課後に、生徒会室まで運んでちょうだい」

 

 かぐやは厨房の巨大な冷蔵庫を開いて、自分の腰くらいの箱を指した。

 

「運ぶのは生徒会に人が集まる前でなければダメよ。溶けるから注意するのと、崩れやすいから慎重に。あと怪しまれないようにしなさい」

「注文が多い」

 

 たまらず早坂が割って入った。

 

「何が入っておられるのでございますか?」

「ふふっ、秘密よ」

 

 かぐやは笑って答える。

 明らかに様子がおかしい。会った時からおかしいとは感じていたが、話す事で違和感はより明確となった。

 今のかぐやの状態を漫画的に表すなら頭に花が咲いているだろうし、小説的な表現であれば『彼女は春の陽気に頭をやられたような、のほほんとした様子だった』と一文添えられるのは免れない。

 早坂は目の前にある巨大な箱に目を向ける。白い長方形の箱は赤いリボンで、如何にもプレゼントです、という風に包装されていた。誰に渡すつもりなのかは容易に想像がついた。明日は9月9日。白銀御行の誕生日なのだ。

 

「お願いね」とだけ言い残してかぐやは厨房を去った。頭を下げて主を見送り、「後はお願いね」と片手を上げて厨房を出ようとする同僚の手を捻って止めた。

 

「イテテテ。捻る必要あった?」

 

 あった。

 

 手首をさすりながら恨みがましい視線を寄越す讃岐を無視して言った。

 

「出ていく必要はありませんよ。これをどう搬入するか、計画を立てるので」

「ムリでしょ」

 

 にべもない返事だ。気持ちは分かるが、これも立派な仕事……いや、立派ではないかもしれないが、仕事だ。はいそうですか、とはいかない。

 

「主人のワガママを叶えるのも私達の役目です」

「じゃあどうする? 生徒会室の棚を、冷蔵庫にでも作り替えるかい?」

「今からでは間に合いません」

 

 讃岐の冗談には取り合わずに考える。

 かぐやの要望は、

 ・生徒会役員が現れる前に生徒会室へ運び込む。

 ・中に入っているものが溶けないようにする。

 ・中に入っているものが崩れないようにする。

 ・怪しまれないように運ぶ。

 

 讃岐がムリと放り投げるのも分かる。

 かぐやの無茶振りには慣れている。ゆえに、早坂は理解していた。無理だと嘆く時間が無駄でしかないと。

 早坂は黙ってひとつひとつ検討した。

 生徒会役員が来る前に生徒会室に運び込むのは、難しいことではない。早坂が生徒会室に生徒会役員が来ないよう誘導している間に、讃岐が運び込めばいい。

 溶けないようにするのは、入っているものによる。まさか氷像ではあるまいが。中身を確認するのが一番だが、主人が秘密というからには確認できない。

 崩れないようには、慎重に運べばいいだけだ。問題は次の要求にある。

 これだけ大きな箱を、放課後の学校で怪しまれず運ぶのは困難だ。ましてや崩れないよう慎重にとなれば難度は跳ね上がる。それでなくとも様々な要求を突きつけられているのだ。さて、どうしたものか。

 隣の讃岐が退屈そうに欠伸をした。

 

「案はないんですか?」と聞こうとして、やめた。ふと思い浮かんだ質問をする。

 

「貴方も白銀会長にプレゼントするんですか?」

「貴方もって、白銀君へのプレゼントで確定なの? これ」

 

 讃岐は白い箱を指差した。

 かぐやの様子からして、白銀へのプレゼントなのは間違いない。かぐやがアホになるのは、大抵白銀が関わっている。そう伝えたら、讃岐は「君が言うなら、そうなんだろうね」と納得した。

 

「白銀君とは友人といって差し支えない間柄だけれど、誕生日に凝った物を送り合うほど深い仲ではないね。せいぜいジュース奢るくらいだ」

 

 早坂は讃岐と白銀が、いつ知り合い、どう友人になったのかを知らない。だから讃岐がそう言うのであれば、そうなのか、と頷く他ない。

 思い返せば、讃岐は交友関係こそ広いが、誰かと特別仲良くしているのを見たことがない。

 

「深い仲の人はいないんですか?」

「おや、気になるのかな?」

 

 揶揄うような笑みを浮かべる讃岐には、冷たい視線を浴びせておく。

 

「微塵も気になりませんね」

「冗談だから拗ねないでよ。淡交を好むタイプでね、浅いくらいが丁度いいんだよ」

 

 話が逸れてしまった。何の話をしていたんだったか、と早坂は考えて、どうやって箱を運ぶかだと思い出す。

 

「そもそも、こんな箱持ってたら、どうしたって怪しまれるよ」

 

 アイデアは出さない癖に、文句を出すのは得意なのだ。讃岐が愚痴る。

 普段なら真面目に考えろと注意するのだが、讃岐の言葉で早坂の脳内にあるアイデアが浮かんだ。

 箱を持っていて怪しまれるのなら、怪しまれない物を持てばいい。

 

「箱を偽装するのはどうでしょう」

「何に?」

「生徒会室にある棚にです。1日くらいなら、入れ替わっていても気付かないでしょう」

「達見だね。だけど、生徒会室にあるのと同じ棚を、明日までに準備するのは無理じゃないかな」

 

 讃岐はかぐやのワガママを甘くみている。いつなんどきどんな無茶を言い出すか分からない。それに備えて色々と用意はしてある。

 早坂は讃岐を屋敷の一室に案内した。広い室内には、家具から何に使うか分からないバカでかい壺と、様々な物が雑然と並んでいる。掃除はしているので物自体には埃一つない。

 早坂と讃岐の前には、身長より高くシンプルなデザインの両開きの棚。

 

「感心するべきかな。それとも呆れた方がいい?」

「ご自由に。私は呆れますが」

「そうだよねぇ」

 

 目の前には生徒会室に置かれている棚と全く同じ棚があった。それだけでなく、机、ソファ、照明と室内には生徒会室にあるのと同じものが揃っていた。

 

「これに入れて運べば怪しまれません」

「箱のまま運ぶよりは、ね」

 

 崩れないよう移動させるには、移動用のキャスターでも使えばいいだろう。溶けないようにするには……保冷剤を大量に詰めておこう。

 

「棚に入れるだけじゃあ心許ないね」

 

 讃岐の指摘で、早坂の思考は断ち切られた。

 確かに棚を運ぶだけでも怪しまれるだろうが、他に良い方法が浮かばないので仕方ない。

 案を出そうともしなかった奴に、ケチをつけられるのはあまり愉快ではない。怒るとまではいかないけれど、次の自分の言葉にはトゲがあったかも知れない。

 

「他に怪しまれないようにする方法がありますか?」

「やらないよりはマシって程度だけどね。演劇部に衣装を借りよう」

「棚を運んでいて、不自然でない衣装でも?」

「そんな都合のいい衣装はないよ。演劇部の衣装なのが重要なのさ。ただの生徒が棚を運んでいたら不自然だけど、演劇部が運べば劇の小道具だ」

 

 確かに。でも衣装を着ていたからといって、必ずしも「あれは演劇部だ」と思う人ばかりではない。だから、「やらないよりはマシ」と讃岐は前置きしたのだ。

 これでかぐやの要求は全てクリアできる。

 讃岐が口元に手を当てて、またあくびをした。

 

「作戦は決まったね。僕はもう寝るよ」

 

 腕を掴んで部屋を出て行こうとする讃岐を止める。

 

「なんで帰ろうとしてるんですか?」

「? まだ何か?」

 

 早坂は棚を指差す。

 

「棚を事前に体育倉庫に隠しておきます。ここから運ぶわけにはいきません」

「えぇー、今から?」

「今から」

 

 9月なので暑さも和らいできた。何が入っているのか不明ではあるが、ドライアイスを一緒に入れておけば溶けないだろう。

 深夜、早坂と讃岐は学園に忍び込み、白い箱とドライアイスを入れた棚を体育倉庫に隠した。体育倉庫の鍵は讃岐が手際よくピッキングで解錠した。

 

「泥棒でもやってたんですか」

「何度も侵入してる君に言われたくはないね」

 

 倉庫の端にひっそりと設置する。仮に体育倉庫に入った人がいたとしても、目には付かない。移動用のキャスターも近くに置いておいた。

 長居は無用だ。体育倉庫の鍵を掛け直して、早坂達は早々に退散した。

 

 翌日、6限目の授業が終わり、ホームルームが始まるまで5分の休憩時間がある。

 休憩時間を有効活用すべく、早坂と讃岐は人気のない廊下に集合した。

 昨夜遅くまで仕事をしていたとは思えないくらい、讃岐の瞳は溌剌としている。理由は単純。授業中に寝ていたからだ。

 

「計画の確認をします。貴方は演劇部に衣装を取りに行って、着替えた後に棚を運ぶ。棚を運び終わるまでの間、私は生徒会役員の足止め」

「そんなところだね。僕の方は万事任せてよ」

 

 ドンと、讃岐が胸を叩く。

 残念なことに、讃岐は無根拠で無責任にドンドンドン胸を叩く。ゴリラのドラミングの方がまだ考えて行われている。なので、あまり当てにはならない。失敗する事も視野に入れておく。

 表情に出したつもりはなかったが、讃岐は半眼になっていた。

 

「何だい? 信用できないかな」

「私の口からそんな酷いことは言えません」

「……なるほど、君の気持ちは十分に理解できたよ」

 

 言葉にしなくても意思疎通ができるのは良いことだ。

 讃岐は憮然としていたが、スマホを取り出し時間を確して、

 

「そろそろ教室に戻ろうか」

 

 と提案した。

 

「そうですね。……手抜かりのないように」

「大丈夫だって」

 

 そう言って軽い足取りで教室に戻る。

 早坂はその後姿に、不安を覚えずにはいられなかった。推理をしている時はそうでもなく、むしろ頼もしいくらいなのだが。

 こればっかりは実績の差という他ない。

 

 放課を告げるチャイムを聞きながら、早坂はかぐやを除く生徒会役員達の動向を予測した。

 生徒会長の白銀御行。今日は会議が入っていたので、当分生徒会室には来ない。

 藤原千花には昼休みそれとなく探りを入れた。TG部に行くと言っていたが、彼女の行動は予測不可能。用心するに越したことはない。

 石上優は……まあ、恐らくなんの予定もないだろうから生徒会に来るだろう。

 目下警戒すべきは石上だけとなる。直接1年の教室に行こうかとも考えたが、藤原の行動が予測できない以上、生徒会室で待ち伏せするのが賢明と思い直す。

 讃岐も行動を開始したようで、教室から姿が消えていた。続くように早坂も、教師が消えてにわかに騒がしくなってきた教室を出た。

 

『緊急事態発生、役割の変更を求む。演劇部には話を通してある』

 

 1階の渡り廊下に差し掛かったところで、スマホにメッセージが届いた。相手は見なくても分かる。讃岐光谷だ。

 やっぱりという呆れ。サボっているのではあるまいかという疑念。役割を変るだけでいいのかという心配。様々な感情が早坂の胸中を駆け巡って足を止めた。

 結局、早坂が出した答えはこうだった。

 

「はぁ、演劇部ですか……」

 

 部室の場所は知っている。早坂は足早に歩き出した。

「役目を遂行できない」ではなく「役割を変われ」と讃岐はメッセージで伝えた。ならば、生徒会役員の足止めはできる状況にあるのだろう。

 讃岐光谷がいくらサボタージュの化身でも、任せろとまで言って請け負った仕事をあっさり放棄するほど無責任ではないと、早坂は信頼していたのだった。

 

 校舎の3階には、普段使わない教室が連なっている。それらの多くは、文化系部活の部室として提供される。

 演劇部もその例に漏れない。早坂は部室の前に立った。

 他のクラスの教室に入りづらいのは、形成されたコミュニティに入っていく自分が、異物のように感じるからではないだろうか。ここは自分の居場所ではないと、はっきり示されているような気がする。自分が所属していない部の部室に入る時も、その感覚は変わらない。

 もっとも、何度も何度も学校に不法侵入を繰り返している早坂は、そんな繊細さをとうの昔に捨てていた。作り物の笑顔を貼り付けて、扉をスライドさせる。

 

「すみませーん」

 

 教室の1番前の机で眼鏡をかけた男子生徒が、文庫本を読んでいた。他に部員の姿はない。教室の後ろにはダンボールがいくつかあった。衣装が入っているのだろう。

 男子生徒は本から顔を上げて、無愛想に視線を早坂に向けた。

 

「君が讃岐の言ってた代理人?」

「そうそう。なんか衣装取ってこい、って頼まれてー」

 

 用意していたのだろう。男子生徒は隣の机にある紙袋を取って、早坂に手渡した。

 

「ありがとー」

「いいけど、いつもの鹿撃ち帽とインバネスコートはいらないのか?」

「いつもそんなの借りてるんだ……」

 

 教室に他の部員の気配がないのが気になって、早坂は男子生徒に聞いた。

 

「部員は君だけ?」

「今日は部活休みでね。俺は讃岐に頼まれたから居ただけ」

 

 図々しい男で申し訳ない。讃岐の代わりにすまなそうな顔をする。

 

「気にしなくていい。あいつには脚本のアドバイスを貰ってるからな」

「脚本……?」

「そ、俺は脚本をよく任せられるんだけど、自分の目だけじゃ不安だ。他の奴に読んで貰おうにも、知り合いは漫画ばっかで、長い文章をろくに読んだ経験がない」

 

 讃岐は大層な読書家で、別邸に越してきた時も荷物の殆どが本だった。とはいっても、

 

「……でもあいつ、読んでるジャンルが偏ってない? 脚本のアドバイスとかできるの?」

 

「いや、全然」男子生徒は迷いなく首を振った。

 

 これには早坂の方が面食らった。じゃあなんでアドバイスを乞うのか。

 

「あいつはすぐ人を殺したがるからな。この前なんか、恋愛モノの脚本を作ってたのに、アドバイスを聞いてたら、三角関係の末にドロドロ愛憎サスペンスに仕上がった」

 

「あれはあれで良かったけど」と苦虫を噛み潰したような表情。

 

 男子生徒は苦り切った顔のまま、だけどと付け加えた。

 

「重箱の隅をつつくというか、話の矛盾点を見つけるのが得意だからな。そこだけは助かってる。ストーリーに整合性が取れる」

 

 讃岐らしい頼られ方だ。早坂は納得した。

 

「それより、早く行かなくていいのか?」

 

 時間を確認すると、入ってから5分が経とうとしていた。長居しすぎたようだ。

 早坂はもう一度、演劇部の男子生徒に礼を言い、教室を後にした。

 

 袋から取り出したのは紺のつなぎと、同じ色の帽子だった。この衣装をどんな演目で使ったのか、興味をそそられた。

 サイズが大きめだったので制服の上から着込み、目深に帽子を被る。長身の讃岐に合わせたサイズなので大分裾が余った。

 棚の方は準備が完了済み。ドライアイスが取り除ぞかれた棚は、キャスターの上に乗っている。

 人通りの少ない道を選んだとはいえ、何人かの生徒とすれ違った。

 すれ違った人々はもれなく、物珍しそうな視線を早坂に向けるだけで、声をかけたりはしなかった。衣装は演劇部だというアピールにはならなかったが、学校に出入りする業者と勘違いさせる効果はあったようだ。

 

「待ってください!」

 

 棚を押して運んでいた早坂に、とある人物が待ったをかけた。

 栗色のおさげに、低い身長。腕には風紀委員の腕章を着けている。

 

「今日こそは見逃しませんよ!」

 

 伊井野ミコは、絶対に逃すまいという決意を小さい体にみなぎらせながら、早坂の前に立ちはだかった。

 伊井野の背後には石上優がいた。縄に繋がれた状態で。

 この場を切り抜ける言葉より、まず疑問が先に出た。

 

「会計君はなにしてんの?」

「売られました」

 

 誰に、とは聞かない。石上と交友のある人物で、平然と人を売るのは1人しかいないからだ。

 石上には気の毒だが、早坂としてはこういう足止めの方法もあるのか、と感心した。

 

「そんなことより先輩。これは明らかな校則違反です!」

「あー、この棚は──」

「なんですかその服装は!」

 

 そっちですか。

 

 客観的に見て、運んでいる棚の方が明らかに怪しいと思うのは、自分が棚の中身を知っているから、というだけではない筈だ。側から見たって怪しいに決まっている。

 にも関わらず、伊井野は真っ先に服装について指摘した。

 普段から制服を着崩しているからだろうけれど、自分は伊井野に、学校につなぎで来てもおかしくない人物だと認識されているのでは? と危惧した。

 なにはともあれ、棚を無視してくれるなら都合がいい。少し校則の穴をつくのは控えた方がいいかもしれない、という思考を一旦端に追いやる。

 

「ん、このつなぎ? これ演劇部の衣装なんだよねー。助っ人頼まれて」

「い、衣装?」

 

 伊井野は早坂の反論にたじろいた。石上がこれみよがしにため息を吐く。

 

「理由もなくつなぎ着るわけないだろ。考えたら分かると思うけどね」

「うるさい。石上は黙ってて」

 

 石上を黙らせた伊井野は棚に目を向けた。

 

「それも演劇で使うんですか?」

「そうだよー」

 

 それが何か、という意味を込めて笑みを深める。

 伊井野はじいっと棚を見つめていた。時間にして数秒だったのだろうが、早坂には長く感じた。

 

「分かりました。引き止めてすみませんでした」

「じゃ、お仕事頑張ってね〜」

 

 ひらひら手を振って、早坂は伊井野と石上を見送った。

 

 生徒会室までもう少し、というところで厄介な相手に捕まった。

 

「なにしてるんですか? 早坂さん」

 

 嫌な予感を抱えながら振り返ると、藤原千花が花のような笑顔を咲かせていた。

 

「書記ちゃん……部活じゃないの?」

「はい。今から行きますよ」

 

 藤原はじろじろと早坂の格好を見た。

 

「もしかして演劇部の助っ人ですか?」

「そだよー。よくわかったね」

「前に私も助っ人したんですよ!」

「……もしかしてサスペンスホラーの?」

「そうです! かぐやさんに何回も殺されちゃいました」

 

 えへへと藤原は笑う。

 リハーサルでという意味だろうか。劇中に何回も殺されたのなら、ジャンルが変わってきそうだ。どちらにせよ、笑顔に似合うセリフではない。

 …………本当にそうならないのを願うばかりだ。

 

「そういえばさっき──」

 

 さて困った。早坂は押している棚の表面を撫でた。

 藤原のエピソードトークを聴き流しながら、頭を回転させる。

 足止めにも限度がある。もたもたしてはいられない。しかし、藤原の話を聞きながら移動しては、生徒会室に行こうとしているのがバレる。棚が生徒会の備品だと分かれば、藤原は好奇心に任せて棚を開ける可能性が高い。

 といって、話を最後まで聞いていては、リスクが高まる。話を遮るのが1番手っ取り早いが、どうしても不自然さが残る。

 考えた結果、早坂はポケットに手を入れ、スマホの電源ボタンを押した。

 そもそも足止めは自分の役目ではないのだ。

 ポケットに入れたまま、トークアプリを起動してメッセージを送信。

 藤原のスマホに着信が入ったのは、それから15秒程経ってからだった。

 

「光谷くんですか? 電話なんて珍しいですね。えっ!? ……はい……ふむ、ふむ。分かりました。すぐに行きます。待っててください! 絶対ですよ! 絶対ですからね!」

 

 フリですか。

 

 何度も何度も念を押す姿からは、相手への信頼のなさが伺えた。

 讃岐と藤原はあまり仲が良くないのかもしれない。早坂は認識を改めた。

 

「すみません、早坂さん。金の卵を産む鶏を捕まえたらしいので、行ってきます! ではでは!」

 

 手を振りながら、藤原は廊下を爆走した。

 廊下を走ってはいけません。さっきの風紀委員と出くわさなければいいのだが。

 藤原が去った廊下で早坂はひとり呟いた。

 

「……嘘が雑すぎる」

 

 これで飛んで行くのだから、やはり讃岐と藤原は仲が良いのかもしれない。

 

 

 

 

 多少のアクシデントと遭遇を乗り越えて、早坂は生徒会室の棚を交換し終えた。

 元から生徒会室にあった棚は、近くの教室に放り込んでおいた。数時間後にはまた取り替えるのだから問題ないだろう。

 つなぎを脱いで制服姿に戻った早坂は、生徒会室に引き返す。生徒会室への一本道となる廊下に差し掛かったとき、背後から声がかかった。

 

「やあ、上手くいったみたいだね。助かったよ」

 

 讃岐は能天気な顔に、ほんの少し申し訳なさそうな色を滲ませていた。

 

「金の卵はどうしたんですか?」

「テニス部に丁重に返却したよ」

 

 なんて適当な。テニスボールはどう見ても金色ではない。

 早坂に追いついた讃岐は、ゆるゆるかぶりを振った。

 

「やれやれ。社交界のマナーには、儀礼的無関心の追加が急務だね。なにもすれ違っただけで、話しかけてくることないだろうに」

「なにがあったんですか」

「新聞部に記事のレイアウトがどうのと意見を求められて、石上君と伊井野さんのケンカに巻き込まれ、龍珠さんに因縁をつけられ、白銀君と立ち話をした」

 

 新聞部ではなくマスメディア部。面倒なので訂正はしない。

 

「広く浅い交友関係が幸いしましたね」

 

 思うに、讃岐の言う「広く浅い」は、確かに深くはないのだろうが、本人が自認するほど浅くはないのだ。少なくとも、割とどうでもいい話を聞かせるのに丁度良い相手、くらいの深度はある。

 深くはないが浅くもない、といったところか。無論、早坂とて例外ではない。

 

「間違ってるよ。正確には災いした、だ」

 

 讃岐はくたびれた顔をして肩を落とした。

 もっとも、本人に自覚はないようだけれど。他人への感心が薄いのも困り物ではある。

 

 

 生徒会室に入った早坂と讃岐を、主であるかぐやが出迎えた。相変わらず頭に花の咲いたような表情だ。

 普段白銀が使っている机には、早坂が運び込んだ白い箱が置かれている。

 

「無事運べたようね」

「はい。ところで、本当に何が入っているんですか?」

 

 どっしりと机の上に鎮座する箱。白銀へのプレゼントなのは分かるが、なにせこのサイズだ。中に何が入っているのか想像もできなかったし、自分ならこんなサイズのプレゼントはしない。

 

「あなた達には特別に見せてあげるわ」

「光栄でございます」

 

 讃岐の返事に気をよくしたかぐやは、リボンを解いて箱に手をかけた。ゆっくり慎重に箱の側面を持って上にあげる。

 かぐやは蓋を横に置く。かぐやの立ち位置と被って、中身がなんなのかはまだ分からない。

 かぐやが横に移動して、

 

 デーーン

 

 と姿をあらわにした箱の中身。

 それは巨大な誕生日ケーキだった。

 下から大、中、小3つのホールケーキが積み重なっており、全てのケーキに宝石のように赤く輝く苺がたくさん乗っている。

 苺も買い付けから行って、糖度17でうんぬんと、嬉しそうに語るかぐやの声は耳に届かない。

 最上段のケーキには『ハッピーバースデイ白銀』と記されたホワイトチョコ。チョコの両脇には1と7の形をしたロウソク。

 

「このスポンジにも秘密があって……」

 

 まだなにか言ってる。

 自分から聞いておいてなんだが、このケーキの存在を秘密にして欲しかった。

 ケーキを目の当たりにした早坂の率直な感想は、

 

 重い。超引く。超恥ずかしい。

 

 となる。

 讃岐は珍しく状況を飲み込めていないようで、ポカンとしている。讃岐は恋愛が絡んだときのかぐやのポンコツ具合を知らないのだ。

 

「お嬢様、どなたかここで披露宴でも行うのですか?」

「いきなりなにを言っているの。まあ、貴方が意味不明な発言をするのは、今に始まったことじゃないけど」

「さして的外れな発言をしたつもりはございませんが……」

 

 私の主人はもう駄目かもしれない。

 

 嘆息する早坂と唖然とする讃岐。

 かぐやはさも不思議そうに首を傾げて尋ねた。

 

「どうかしたの2人とも?」

 

 こっちのセリフだ。

 

「いえ、かぐや様がそれでいいなら、私は特に口出しをしませんが……」

「何よ歯切れが悪いわね〜。あっ、男性の意見も聞くべきよね。貴方はどう思うかしら?」

「どう思うか、ですか」

 

 迷いの表情を見せる讃岐を安心させるように、かぐやは力強く言った。

 

「ええ、率直な意見を聞きたいわ」

「よろしいのですか、お嬢様、思ったことを申し上げて」

 

 問いながらも、讃岐の目はかぐやではなく、判断を仰ぐように早坂へ向いている。

 今日ばかりは止めない。むしろやってしまえ。大きく頷き後押しした。

 

「では、率直に意見を述べさせていただきます」

 

 宣言した従者は、深々と一礼して、主人を真っ直ぐに見つめる。

 そして率直な意見をストレートな言葉で伝えた。

 

「失礼ながら、お嬢様はアホでいらっしゃいますか?」




拙作をお読みいただきありがとうございます。
感想、評価、お気に入り登録、誤字報告などいつも励みになっております。
今回謎解きしませんでしたが、今後もこのような回を2、3話に1回くらい挟もうかと思っております。理由としては、不甲斐ないことですが、トリックを考えるのに時間がかかるからですね……。
謎解き回だけでいい、という意見があれば受け付ける所存。なんとか頭を絞り尽くします。

今年の投稿はこれで最後となります。
少し、というか大分早いですが、皆さん良いお年を。

クリスマス? 私は仏教徒ですので。


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従者達は特定したい

 他者の行動をコントロールするのは、方法が物理的か、精神的であるかに関わらず難しい。

 気心知れた仲なら、行動パターンも読めてくるのでやり易いのだろうが、相手が変人、それもミステリアスな変人とくれば行動パターンなんて読める筈もない。ただ唯一分かるのは、鎖で繋いでおかないと逃げ出すという事だけだった。

 早坂愛は机の前に立った。

 場所は秀知院学園2年A組。3限目が終わった後の休憩時間。次が移動教室ではないので、生徒達は集まって雑談に花を咲かせる者多数、静かに読書する者少数、黙々と予習をする者皆無、と各々短い休憩を学生らしく満喫していた。

 

「ねーねー」

 

 早坂が笑顔で声をかけると、机の主は、少数派らしく開いていた文庫本から顔を上げた。本にはブックカバーがかかっていて、何を読んでいるのかは不明だ。

 讃岐光谷は今気づいた、というように惚けた顔で応じた。

 

「やあ、早坂さん。僕に用件があるのなら光栄だけれど……今いいところなんだ」

 

 本を手にした腕を軽く持ち上げた。

 みくびってもらっては困る。言いながらも、讃岐の視線が周囲を見渡すように動いたのを、早坂は見逃さなかった。

「今いいところ」なんてのは真っ赤な嘘。讃岐は早坂の狙いに気付いて、自分に不利な状況だと悟ったからこそ、話を打ち切ることで逃亡を図ろうとしているのだ。

 構わず強行突破する。

 

「ふーん、そうなんだ。ところで今日の放課後なんだけど──」

 

 雑談に勤しんでいた多数の生徒たちが、聞き耳を立てる。高校生とは娯楽に飢えている。他人の恋愛話など最たるモノであり、早坂愛と讃岐光谷の交際関係は暗黙の了解として認知されていた。実際には互恵関係でしかないのだが、それはともかく、今の状況は必然の上に成り立っていた。

 早坂は内心ほくそ笑んむ。ことは順調に進んでいる。その証拠に、讃岐は浮かべた笑みを引き攣らせている。

 

「駅前に新しい喫茶店ができたんだけどー、付き合ってくれない」

「ああ、確か『珈琲屋(コーヒーや)』とかいったかな。でも僕カフェインが苦手なんだよね」

「カフェインレスもあるらしいよ」

「紅茶の方が……」

「丁度いいじゃん! 紅茶もあるし」

 

 店のホームページが表示されたスマホを、ズイッと目の前に突きつける。

 讃岐はカフェイン入りの飲料を飲めるし、理由は知らないけれど、最近紅茶派からコーヒー派に乗り換えたのも早坂は知っていた。

 では何故、簡単に看破される嘘を吐くのか。それはこの場での返答を避ける為に他ならない。

 この場とは、周囲の人間が聞き耳を立てている状況を指し、これによって、早坂と讃岐が放課後に喫茶店に行く、という予定は周囲に伝播する。

 もし讃岐が放課後1人でいる所を見られようものなら、後ろ指を刺されるのは必至。引いては完璧に偽装された交際関係にひびが入る。即ち互恵関係の崩壊にも繋がる。讃岐としても避けたい事態には違いない。

 残された選択肢は1つ。

 突き出された画面をぼんやり眺めていた讃岐は、諦めたように背もたれに身を預けて、白旗のつもりか手に持った文庫本をひらひら振った。

 

「そうだね。暇だし、行こうか」

「オッケー! じゃ、また放課後」

 

 勝った。教室で話しかけられた時点で讃岐の敗北は決まっていたので、少々有利すぎる勝負ではあったのだが。

 ともあれ、目論見通り讃岐がサボることは困難になった。

 ささやかな勝利の余韻に浸って席へ戻る途中、呆れの色を多分に含んだ視線が早坂に突き刺さった。主人である四宮かぐや視線だった。

 半分閉じた瞳から覗くルビーのように赤い目は、何をしているのと、口ほどにものを言っていた。

 

 かぐや様の為にやっているのですが。

 

 反論を心の中に留めて席についた。

 

 

 ○

 

 

 目的の店は栄えた駅の周辺……の狭い路地を抜けた先の通りにあった。

 雑居ビルに挟まれた路地は、ビルに陽光を遮られている為薄暗いく、ギリギリ2人並んで入れるくらいの幅。

 並ぶと狭いので、讃岐は早坂から半歩下がって歩いた。

 

「聞いていなかったけど、どうして喫茶店に行くのかな?」

「かぐや様からの指令です。白銀会長のバイト先を特定せよ、と。珈琲屋でバイトをしているという情報は得ましたが」

「確証がない?」

 

 言葉の続きを讃岐が引き取った。早坂は首を縦に振って肯定する。

 白銀本人に直接聞くという手もあるが、聞いた数日後にかぐやが来店しては、自分達とかぐやとの繋がりを勘ぐられる可能性も否めない。

 店に行って確かめるのが安全かつ、確実な方法だった。だが、早坂愛か讃岐光谷が店に行くのでは直接聞くのと変わらない。そこで早坂は一計を案じた。

 

「これで大丈夫かな? もう少し時間をくれれば、老人に成りすませるんだけど」

 

 讃岐は黒縁の眼鏡を人差し指で押し上げた。

 

「老人と女子高生が来店したら逆に目立つでしょう」

 

 同僚の発言に呆れながら、早坂は肩にかかる自分の髪を払った。

 2人の格好は秀知院学園の制服姿ではない。早坂はサイドテールを解いて、髪を下ろしている。制服も他校のセーラー服。讃岐は伊達眼鏡に、ウイッグで髪を茶髪にしている。秀知院の黒い学ランではなく、紺のブレザーを着用していた。

 どこからどう見ても、四宮家御令嬢とは縁のない普通の高校生。この姿なら、かぐやとの関係を勘繰られる心配はまずない。

 路地を抜けた先の通りも、なんだか薄暗く感じた。路地と違って、陽光を遮るビルもないのに暗く感じるのは、寂れた店が並んでいるからだろう。

 駅から一本道を挟んだだけなのにこの違い。天と地。陰と陽。栄枯盛衰を体現したようだった。

 件の喫茶店に着いた早坂と讃岐だが、どちらともなく入るのを躊躇していた。

 

「本当に新しくできたんだよね……」

「情報に間違いがなければその筈です」

 

 重厚な木の扉は所々黒く霞んでいて、年季の入った白い壁は少し黄ばんでいる。『珈琲屋』と商売っ気のないシンプル過ぎる店名が記された看板だけ輝くほど白かった。

 

「僕は日頃から紳士的であろうと心がけている」

 

 何を思ったのか、讃岐は唐突にそんな事を言った。

 

「何ですかいきなり。心掛けだけは立派ですね。性別が男であるところとか、とっても紳士的です」

「紳士の最低条件はクリアしているみたいで安心したよ」

「で、何が言いたいんですか?」

 

 讃岐は愛想のいい笑顔で、紳士的に道を譲った。

 

「お先にどうぞ」

 

 都合の良いレディーファーストもあったものだ。

 

 飴色の扉を押すと、備え付けられていたベルがチリンと鳴って、来客を知らせた。

 研修中と書かれた札を胸元に付けた店員が2人を出迎えた。

「何名ですか」「2人です」「テーブルとカウンターどちらがよろしいですか」「テーブルで」お決まりのやり取りをして、窓際の席に案内される。

 外観から想像するほど、店内は汚くなかった。むしろ、清掃が行き届いている方だ。

 カウンターには、渋い髭面の如何にもマスターですといった風貌の男が立っている。

 

「ご注文が決まりましたら、そちらのボタンでお呼びください」

 

 テーブルに設置された、呼び出しボタンにはローマ数字で『II』と記されていた。恐らく席の番号なのだろう。

 案内された席は店の角から1つ手前で店内がよく見渡せた。見張るには都合が良い。

 ざっと見たところ、他に客は2人だけだった。そこまで大きくない店なのを考慮しても少ない。

 カウンターとテーブル席に1人づつ。カウンターでは、ビジネスマン風の男性が、パソコンを開いて熱心にキーボードを叩いている。テーブル席の男性は、顔を埋めるようにして新聞を読んでいた。

 

「僕は決まったけど、君は何にする?」

 

 差し出されたメニュー表に目を通す。白銀が働いているかの確認が目的なので、どれでもいいのだが、

 

「貴方は何にしたんですか」

「僕? このオリジナルブレンドってやつ」

 

 讃岐が指差す先には、何の変哲もない珈琲の写真。ケーキが付いてくるセットもあるらしい。

 

「私もそれで」

「セットか確認しなくていいのかな?」

 

 問いかける讃岐の口角は揶揄うように上がっている。お株を奪うわけではないが、セットにしたか否かは、聞くまでもなく推理できた。

 

「セットにしたんですか」

「まさか。当分ケーキは勘弁願いたいね」

「でしょうね」

 

 数週間前にかぐやが思い人である白銀御行に巨大ケーキを用意した。渡す直前で、ケーキが巨大すぎることに思い至ったかぐやは、ショートケーキサイズに切り分けて渡した。

 サプライズの誕生日祝いは見事に成功したのだが、巨大ケーキは依然、巨大ケーキとして残ったままだった。

 残念ながら『後でスタッフが美味しくいただきました』とテロップを入れておけば消失する都合のいい代物でもなく、誰かの胃の中に入れて処分するしかなかった。

 結論としてかぐや、早坂、讃岐に加えて石上優、マスメディア部の紀かれんと巨瀬エリカの計6人の胃に巨大ケーキはおさまった。

 しかしそれは、等分に収まったという意味ではない。使用人の悲しき性として、大半は早坂と讃岐の胃袋で消化されたのである。

 かぐやが気合を入れて用意しただけあり、ケーキは絶品の一言に尽きる代物ではあったのだが、全て食べ終えた早坂達の心境としては、もうケーキは食べたくない、だった。

 

「ちょっとトイレ」

 

 注文を終えると同時に讃岐は席を立った。

 ただ座っているだけでは不自然なのでスマホを弄る。操作しながらも、いつ白銀が現れても見逃さないように、油断なく店内に視線を走らせる。

 

 ピンポーン。

 

 チャイムの鳴る音がした。テーブル席の男性が注文をしたようだ。

 

「ご注文は何でしょうか?」

 

 早坂達が入ったときに対応した人とは別の店員だ。

 注文する声が聞くともなしに聞こえて来る。

 

「珈琲かき氷1つ」

 

 10月に入り風が冷たく感じるようになってきた。この時期にかき氷とは少々季節外れな気がする。

 夏には期間限定で様々な飲食店のメニューに乗っていたが、ここではまだ現役らしい。

 店員が厨房に引っ込むのと入れ違いで、讃岐が戻って来た。

 席に着いて鞄から文庫本を引っ張り出した時、ベルの軽やかな音が店内に響いた。

 入店したのは高校生くらいの男女2人だった。仲睦まじい様子からカップルであるのは容易に想像ができた。

 カップルは早坂達の席から空席を1つ挟んで隣に座った。

 

「暖かいの飲みたい気分なんだよね」

「最近寒いしな。ホット珈琲でも頼んだら」

「そうそう、ここのオリジナルブレンドおすすめだよ」

「へぇ、どんな味」

「普通」

 

 普通らしい。来る前に期待値を下げられてしまった。

 

「えぇ……」

「でもクセになる味。まあ、飲んだら分かるよ!」

 

 さっさと注文を決めたカップルは、お冷を持って来た店員にそのまま注文をした。

 少しして、早坂と讃岐が注文した珈琲が届いた。珈琲から白い湯気が立ち昇る。

 讃岐は砂糖を入れて、早坂はそのまま珈琲を飲んだ。

 

 ふむ、これは。

 

「どう?」

 

 カップをソーサーに置いた讃岐は、味について感想を求めた。

 

「忌憚なく述べるのであれば、普通ですね」

 

 本当に可もなく不可もない。あまりに普通すぎて記憶に残るくらい普通の味だった。

 

「この普通さは、もはや達人芸の域に達しているね。味だけなら、この前君が淹れた珈琲の方が上だけど」

「屋敷にあるのは高級品ばかりですからね」

 

 褒められて内心得意になったが、あくまで謙虚に対応する。

 

「ご命令の件だけどさ。ここでいつ現れるか分からない白銀君を待つより、後をつけて、店に入るところを確認する方が楽だったんじゃないかな」

 

 言ってから讃岐はカップを口に付けた。

 無論その方法を考えなかった訳ではない。けれど、

 

「その方法だと、白銀会長がホールで働いているのか、キッチンで働いているのか判別が付きません。恐らくかぐや様は会長のバイト先で偶然遭遇する、という絵を思い描いているでしょう」

「奥手だからね」

「奥手という次元ではない気もしますが……とにかく、白銀会長がホールで働いている確証がなければ、かぐや様の望みは叶いません」

 

「ふぅん」と讃岐は気のない返事をしたから、また珈琲を啜った。どうやらクセになる味という評価は妥当らしい。

 

「君はあれだね、何というか」

 

 適切な言葉が探すように、讃岐の視線が宙を巡る。

 

「熱心だよね」

 

 褒めるとも貶すとも取れない讃岐の発言。言葉に裏があると思うのは勘ぐりすぎだろうか。僅かな違和感が早坂の頭を掠める。

 

「ご主人様想いだね、と言いたかっただけだよ」

 

 讃岐の口調は言い訳をするようだった。

 そんなつもりはなかったが、知らず知らずのうちに、疑惑の視線を向けていたらしい。

 ふと、漠然とした違和感が形を成した。早坂は確認しようと前を向く。讃岐は取り出した文庫本に視線を落としていた。

 見間違いか。早坂も再びスマホを弄り始めた。その後も違和感はしこりとなって頭の中に残り続ける。

 見間違いでないのなら、讃岐光谷が憂鬱そうな表情を浮かべたのは、出会ってから今日までの間で初めてだった。

 

 それから数十分。未だ白銀は現れず、特筆すべき出来事もなく、ただただ珈琲を口に運んでいた。

 

「珈琲かき氷です」

 

 横から声が聞こえて、早坂の意識はカップルがいる席に向いた。

 研修中の札を付けた店員が、珈琲かき氷なる商品を机に置こうとしていた。スタンドに立て掛けられたメニュー表に遮られ、机の上に見えるのは湯気の立った珈琲が2つのみ。

 席には男だけで片方の席が空いている。トイレにでも行っているのだろう。

 かき氷の皿を差し出され男は戸惑っている様子。それから早坂の予想に反し、男はかき氷を受け取った。

 

 ん? 

 

「すみません、かき氷用のスプーン貰えますか?」

「あっ、すみません! 直ぐにお持ちします!」

 

 おやおや? 

 

 これは、どういう事なのだろうか。

 早坂は向かいに座る少年が、自分と同じくカップルの席に視線を向けているのに気付いた。

 視線だけでなく顔まで傾けている。口元に浮かんだ薄らと弧を書く笑みは、新しい玩具を手にした幼子を思わせた。

 早坂達が入店してから1時間が経過した。数分前にカップルが店を出たので、店内に居る客は早坂と讃岐のみ。

 他の客が出払うのを待ち望んでいたかのような、というか実際待っていたであろう讃岐が口を開いた。

 

「ねぇ、早坂さん。2人で来ているのに、会話もしないのは不自然だと思うんだ」

「今更ですか」

 

 人は本音と建前を使い分ける。それは相手を納得させる為であり、自分を守る手段であり、会話を円滑に進めるツールでもある。

 何にせよ、本来の目的を建前に使うあたりが讃岐らしいと言える。建前の裏には本音がある。早坂にはそれが分かる気がした。

 

「会話するにしても、話題がありません」

「話題ならあるよ」

「というと?」

「君も気になっていることさ」

 

 チラリと視線を横に動かす。先にはカップルが座っていた席。テーブルは綺麗に片付けられている。

 

「何故彼は珈琲かき氷を受け取ったのか」

 

 眼前の男は満足そうに頷いた。

 

「さて、状況を整理してみよう。あの2人は入店してから、オリジナルブレンド2つと男の方がナポリタン、女の方がグラタンを注文した。ここまではいいかな?」

 

 早坂の席からは珈琲が2つあるのしか見えなかった。讃岐の席からでも見えない筈。

 

「……盗み聞きしてたんですか」

「聞こえて来ただけだよ」

 

 どうだか。

 

 概ね間違いはないだろう。早坂は先を促した。

 

「それから珈琲かき氷が来るまで、男は追加の注文をしなかった」

 

 その通りなのだろうけど、ここは慎重に進める。

 

「常に彼らに意識を割いていた訳ではありません。追加注文をしなかった根拠はありますか?」

「良い慎重さだね。この店は呼び出しボタンを押して注文を行うシステム。注文したなら音で気付いた筈だ。店員に声を掛けて注文したとしても同じ」

 

 早坂は首肯した。

 

「言うまでもなく、珈琲かき氷は他の客が頼んだ物だ。正確にはあの席に座っていた」

 

 指差した先は新聞を読んでいた客のいた席。

 

「そうですね。……いや、何で貴方が知っているんですか?」

「ん?」

「あの客が珈琲かき氷を注文した時、貴方はトイレに居ましたよね」

 

「ああ、そういうこと」と讃岐は軽い反応を示し、人差し指で机をトントン叩いた。

 

「かき氷が他の客が注文した物だとすれば、店員が届ける席を間違えた事になる。席を間違えたとすれば、この席やカウンターではなく、あの席である可能性が1番高い」

「相変わらず回りくどいですね。つまり、どういうことなんですか?」

 

 早坂の半眼を肩をすくめて受け止めた讃岐は、呼び出しボタンを手に取った。

 

「ボタンにある小洒落たローマ数字は、席を識別する為の番号だと考えられる。トイレに立った時に見たんだけど、隣の席の番号は『III』だった。僕達の席は『Ⅱ』。Ⅱ、Ⅲとくれば順番的に、Ⅲ席の隣のカップルは『Ⅳ』だろう。ⅡとⅣを間違えるとは思えない。カウンター席にはそもそも呼び出しボタンがない。近くにマスターがいて、ボタンで呼ぶ必要がないからね。残るはあの席しかないのさ。恐らくあの席の番号は『Ⅵ』なんじゃないかな」

 

 ⅣとⅥの間違い。ローマ数字に馴染みがなければありそうな話だ。

 

「更に言えば、珈琲かき氷を持って来た店員は研修中の札を着けていた。経験が少ないからか、あの店員は少しそそっかしいみたいだね。その証拠に他の机にあって、僕達の机にない物がある」

 

 それについては早坂も気になっていた。そういうシステムの店なのかとも思ったが、後に来たカップルには届けられていた。

 

「お冷ですね。もう1人の店員が対応した時には運んでいました」

「なんだ、気付いてたのか。お冷がない事自体は、どうせ珈琲を注文していたから、別に構わないんだけど。

 話が逸れてしまったね。まあ、この推理の当たり外れは本筋にさほど影響しない。合っていたら、カップルが珈琲かき氷を注文しなかった、という確証が増えるくらいだ」

 

 呼び出しボタンを定位置に戻した讃岐は、机の上で指を組んだ。

 

「話を戻そう。間違えて届けられたかき氷を男は受け取った。この時、男は間違いに気付いた筈だ」

 

 店員からかき氷を差し出された際の戸惑っていた様子からも明らかだった。その上、かき氷なんてこの時期にしては珍しい商品。間違いに気付かなかったとは考え難い。

 

「では何故、店員に間違いを伝えなかったのか。どんな理由があるかな」

 

 少し考えて早坂は答えた。

 

「かき氷を食べたくなったから。

 間違っていると言い出せなかった。

 何らかの理由でかき氷が必要だった。

 店員を不憫に思って間違いを指摘しなかった。

 思いつくのはこれくらいですね」

 

 これは違うだろうな、と思う理由もあるが一応挙げておく。

 

「それらの可能性を一つ一つ検討していこう。かき氷を食べたくなったかどうかは本人しか知りようがないし、ひとまず保留しよう。

 間違っていると言い出せなかった。これは否定できる。彼は受け取った後に、スプーンを要求している。スプーンを要求できるのに、間違いを指摘できない事はないだろう

 何らかの理由でかき氷が必要だったは、何らかが分からない限り判断が下せないね。これも保留。

 店員を不憫に思ってミスを指摘しなかったのだとすれば、行動に矛盾が生じる」

「はい。もしそうなら、スプーンがないのを指摘しないでしょう」

 

 残る理由は2つ。かき氷を食べたくなったか、かき氷が必要だったか。

 早坂には答えがどちらであるか分かる気がした。前者が答えだとすると、衝動的に過ぎる。もっと言えば、讃岐光谷の好みではない。

 このような問答を仕掛けてくるくらいなのだから、論理的な筋道を持って解答に辿り着くに違いなく、そうなれば、消去法的に答えは後者となる。

 

「後は単純にどちらの可能性が高いか。10月にいきなり差し出されたかき氷を食べたくなる可能性は低いと、僕は思う」

「それには同感ですが、残る1つ──かき氷が必要だったというのは漠然としすぎていて、可能性云々以前の問題です」

「そうだね。では、可能性を論じられる域までに押し上げよう」

 

 そう言って、讃岐は呼び出しボタンを押した。

 何をしているのか、と聞く間もなく店員が現れた。

 

「ご注文を承ります」

 

 男の声だった。研修中の店員でも、もう1人の店員でもない。見上げると、獲物を狙う狩人の如く鋭い瞳と目が合った。

 店のロゴが入ったエプロンを身につけた白銀御行だった。

 

「オリジナルブレンド2つ」

「オリジナルブレンド2つですね。かしこまりました」

 

 オーダーを確認しながら、白銀がチラリと自分達に視線を向けているのを早坂は感じた。

 どこかで会った事があるような、とでも思っているのだろう。幸い良識のある白銀は仕事中に疑問を口にはしなかった。

 

「ラッキーだね。ついでに、白銀君も確認できた」

「ついでに?」

「いや、言葉の綾だよ、勿論。当然じゃないか。僕達はそれが目的で来たんだから」

 

 白々しい言葉が並べ立てられる。

 

「気に入ったんですか? 2杯も頼んで」

「いや、ホットコーヒーなら何でもよかった。というか、僕1人で飲む訳ないだろう」

「そうですか。では当然、代金は貴方持ちですよね?」

「え?」

 

 え、の口をしたまま讃岐は固まった。この展開を予想できなかったのだろうか。興が乗ると後先考えない性格は、いつまで経っても治らない。

 

「相談もなしに勝手に私の分まで注文しておいて、あまつさえ金まで払わせると?」

「ま、まさか、まさか。そんな事しないよ。僕が払うつもりだったさ」

 

 そうこうしている内に、注文した珈琲が届いた。

 初めに頼んだ物と寸分違わない。白いカップに入った黒い液体から、ゆらゆらと湯気が立ち昇る。

 

「ほら、冷める前に飲んだ方がいいよ」

 

 妙に急かすな。疑問に思いながらも、早坂はカップに口を付ける。次の瞬間、天啓が降りた。

 見開いた早坂の目に、これで分かっただろうと言わんばかりの讃岐の顔が映った。

 なんだか手のひらで転がされているようで、非常に癪だった。

 

 

 ○

 

 

 喫茶店に長居したおかげて、歩道は既に夕日で赤みがかっていた。

 指令を無事に遂行した早坂と讃岐は、四宮別邸へと歩みを進めていた。2人とも変装は解いており、早坂は着崩した制服にサイドテール。讃岐は黒髪に学ランと普段通りの格好だ。

 傍迷惑にエンジンを吹かせて車道を走るバイクが通り過ぎるのを待ってから、早坂は口を開いた。

 

「珈琲を冷やす為に、かき氷を使ったんですね」

 

 男は熱々の珈琲にかき氷を入れて温度を下げた。これが早坂の辿り着いた結論だった。

 

「正解。僕も奢った甲斐があったよ」

「まだ根に持ってるんですか? これを機に、芝居がかった言動を控えては?」

「善処するよ」

 

 その気がない人間の言葉は一概にして軽い。

 冷たい風が横から吹きつける。讃岐は両手をポケットに入れた。

 

「彼は猫舌だった。そんな彼に試練が訪れた。親しい女性から珈琲をオススメされた。届いたのは熱々のホット珈琲、猫舌には天敵だ。いつまでも飲まずにいれば、無理して自分に合わせたんだなと、彼女に気を遣わせてしまう。熱せられた液体と闘う覚悟を決めた時、店員がかき氷を持って来た。彼にしてみれば、天から降りた蜘蛛の糸だったろうね」

「お冷の氷では駄目だったんですか?」

「氷は浮くからね。お冷を注いで冷ます方法もあるけど、量が増えるから怪しまれる。かき氷なら、食べたくなったとかなんとか適当に誤魔化せばいい。怪しまれはするだろうけど、そこから珈琲に疑惑が向く事はないだろう」

 

 相手に合わせて自らを偽る。早坂には男の気持ちが理解できた。

 人は偽る事で自分を飾る。ダメな部分誤魔化し、嫌なところを隠し、本音を留める。そうやって見られたくない部分を、自分の奥底に閉じ込めて、見栄えの良い自分になる。

 偽るのが悪いとは思わない。ありのままを曝け出せる関係性は理想だけれど、現実的ではない。他者に受け入れてもらう為には、大なり小なり嘘も必要なのだ。飾らない人がいるとすれば、それはきっと、他者からの愛情を必要としない人種なのだろう。早坂の身近にも1人その手の人物がいた。

 その人物は非常に上機嫌だった。その内スキップをして鼻歌を歌いだしてもおかしくないくらいに。

 

「相変わらず謎解きマニアですね」

 

 フッと、讃岐は短く笑った。

 

「舐めて貰っては困るね。あの程度の謎を解いたくらいで浮かれるほど、僕の素人探偵歴は浅くないよ」

「貴方の探偵歴は知りませんけども。それならどうして、地面から足が離れそうなくらい浮かれているんですか?」

 

「そんなに?」讃岐は下を向いて足元を確認した。

 

「どうしてと聞かれれば、そうだな…………理想的な放課後だったからかな」

 

 早坂は疑問符を浮かべた。謎解きができたから、理想的な放課後なのではないのだろうか。

 伝わっていないと察した讃岐は、再び口を開いた。

 

「探偵の真似事は好きだよ。でも理想を語るなら、シチュエーションにもこだわりたいね。学校の帰り道、立ち寄った喫茶店で謎と出会う。なかなか悪くない」

 

 なるほど。よくわからない。

 

 疑問符を増やす早坂に、人差し指が突き付けられた。

 怪訝そうに眉を顰めて指先を見詰める。取り敢えず、人を指差すのは褒められた行為ではない。

 突き出された指を曲げようと腕を伸ばしたのと、「最も重要なのは」と讃岐が言ったのは同時だった。

 

「君だよ」

「は?」

「聞き手の存在さ。今回の様なシチュエーションは中学時代にも何度か経験した。だけど聞き手がいた事はなかった。推理への反論もなければ、思わぬ真相へ驚く事も、賞賛もない。全く持って張り合いがないね。魅力的な謎に推理を聞いてくれるワトソン役。まさに僕の求めていた青春という奴だね!」

 

 だから、と讃岐は続けた。

 

「君との放課後は、僕にとってとても有意義な時間だったよ」

 

 歯の浮くような、気障ったらしいセリフを恥ずかしげもなく吐いて、讃岐は前を向いた。早坂はどう反応すればいいのか分からなくて黙り込んだ。

 たまにこういう発言をする。口にするのも憚られるような、恥ずかしい発言を。

 早坂愛は理解していた。それらの発言が、他人にどう思われても構わないという、ある種の無関心から来ていると。

 そして、無関心であるが故に、一切の嘘や虚飾が入り込む余地がないのだと。

 だからむず痒いような、何とも表現できない気分になって、言葉が出て来なくなるのであった。

 学校の帰りに友達と喫茶店に寄って雑談に興じる。かぐやからの指令はあったし、雑談の内容が謎解きだったとはいえ、普通の高校生のような放課後で、楽しくなかったかと聞かれれば──。

 

「寒くなってきたねぇ」

 

 ひんやりとした空気に、ポケットに手を突っ込んだまま体を縮こませる。

 同意はできそうになかった。頬に当たる冷たい風が心地良い。

 残暑は消え去り、本格的な秋の到来を感じさせた。




新年明けましておめでとうございます。
今回が1番『日常の謎』らしかったのではないかと、自己評価しています。
拙い作品ですが、今年もお付き合い頂ければ幸いです。


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生徒会を続けたい

 さっさと終わって欲しいものほど長く感じる。授業中に時計を眺めても針は遅々として進まない。有象無象との会食はあまりの長さに苦痛すら感じる。

 であれば、この1年を長く感じなかったのは、早く終わってしまえと思っていなかったからなのだろう。──いや、もっと続いて欲しかったのだ。それこそずっと。

 

 

 

 

 秀知院学園高等部の一角。生い茂っている木々が陽光を遮るので、森に面した廊下はいつも薄暗い。廊下は校舎の角に向かって伸びており、途中に普段使われている教室が少ない為、訪れる生徒は少ない。活気のなさが視覚で捉えている以上に、一帯を暗くしていた。

 暗い場所には後ろ暗い輩が集まるもので、今も3人の生徒の姿があった。

 四宮かぐやは窓側の壁を背中を近づけて、姿勢良く直立していた。直ぐ隣の窓が少し開き、そこから2人の人影が見える。染めていない金髪を頭の横でまとめ、制服を着崩した少女は、かぐやの近侍である早坂愛。

 早坂の隣に立つ人物もかぐやの近侍で、180センチを超える細長いシルエットの少年。讃岐光谷は、早坂とは対照的でお手本のように正しく制服を着用していた。

 2人は中には全く興味がありません、といった様子で校舎に背を向けていた。

 

「伊井野ミコ。父親は高等裁判所裁判官。母親は国際人道支援団体の職員」

 

 早坂が資料を手にしながら、調査によって得たプロフィールを述べる。淡々と報告する様は、主人に仕える忍びを思わせた。

 

 伊井野ミコ。

 

 かぐやが一学年下の少女について探っているのには理由があった。

 2週間前第67期秀知院生徒会が活動終了した。新たに生徒会長を決めなくてはならない訳だが、色々あって前生徒会長白銀御行も生徒会選挙に立候補した。『色々』の主な要因であるかぐやは、白銀の当選を手助けすべく、あらゆる手を尽くす心づもりだった。

 選挙の対抗馬である、伊井野の情報を集めているのもその一環。

 もう1人の立候補者である2年C組の本郷(ほんごう)勇人(はやと)は、話し合いの結果快く出馬を取り下げてくれた。

 それにしても、伊井野の両親は清廉潔白と呼ぶに相応しい人物のようだ。早坂が報告を終えたタイミングを見計らって言葉を発する。

 

「こういうのは大抵、叩けば埃が出るものですが」

「偶に居るんですよね。清廉潔白な仕事に命を賭ける人種」

 

「飛び道具は使えないかもしれません」と早坂が忠告する。

 

 今まで沈黙を守っていた讃岐が口を開いて進言した。

 

「埃をでっち上げる、という方法もございますが。揺さぶり程度の効果はあるかと」

 

 慎ましやかな小さいため息が口から漏れる。相変わらずこの男の発言には苦労させられる。早坂も呆れたように首を振っていた。

 

「貴方、よくそこまで悪辣な考えが浮かぶわね」

「人の心はないんですか」

「…………失礼致しました」

 

 主従に矛先を向けられた讃岐は、目を瞬かせた後、無表情に納得できないという感情を張り付けて押し黙った。困った男だ。

 

「何にせよ、問題はありません。出会ってきた悪人の数が違います」

「おや、お嬢様。何故私を見るのでございますか?」

 

 悪人は無表情ですっとぼける。

 

「引き続き調査します」

「ええ、頼んだわ」

「私も1年生の知人をあたってみます」

「それって石上君の事でしょう? 伊井野さんを会長に紹介したのは彼よ」

 

 石上からこれ以上の情報は引き出せない、と暗に伝える。

 讃岐はかぶりを振った。

 

「いえ、知人は石上君だけではございません」

 

 そうなの? 確認するように早坂を横目で見る。早坂は何も言わずに首肯した。

 

「本人曰く、交友関係が浅く広いとか」

「寂しい男ね」

 

 かぐやの憐憫のこもった視線を気にする風もなく、讃岐はスマホを取り出して操作した。

 しばらく親指を動かした後、薄らと笑みを浮かべた。

 

「お嬢様。タイミングの良い事に、件の知り合いから連絡がありましたので行って参ります」

「本当にタイミングが良いわね。くれぐれも目的を忘れないように」

「承知致しました」

 

 

 ○

 

 

 小野寺(おのでら)(れい)は中庭のベンチに腰掛けて、手持ち無沙汰にスマホを弄っていた。何の気なしに開いたトークアプリの1番上には、先程連絡を入れたある先輩の名前。

 

『真実は正義ではないし、凶器にもなり得るけれど、物事を客観的に判断しようとするのなら明らかにしておくべきだろうね』

 

 その先輩は、いつだったか、そう訳知り顔でそう嘯いていた。どういう話の流れで言ったのかも、自分が何と返したかも憶えていない。ただその時は、あまりピンと来なかったように思う。

 秀知院学園がエスカレーター式というのもあり小野寺は上級生にも友人が多い。にも関わらず知り合って半年程度の先輩に相談を持ちかけたのは、あの言葉が頭の中に残っていたからだった。

 軽やかな足音に顔を上げる。視線の先で、ひょろりとした長身の男が軽く手を上げた。

 

「やあ、君から呼び出しとは珍しいね。面白い噂話でもあるのかな?」

「先輩が好きそうなのはないですね。突然すみません。予定とかありました?」

「ないから期待して来たんだけどね。やれやれ、君は何の為に井戸端会議を開いているんだい?」

「開いてませんし、仮にしてたとしても、先輩の為ではないです」

 

 讃岐光谷。

 何となく知り合って、何となく話すようになったよく分からない先輩。よっぽど暇なのか、放課後も校内をうろついていて、偶に変な噂話をせびりに来る。讃岐は勘違いしているようだが、小野寺に噂話を収集する趣味はない。友人が多い分その手の話が舞い込みやすいだけだ。

 校内で流行っている怪談話や都市伝説を面白そうに聞いていたが、オカルト趣味はなさそうだ。小野寺は先輩が好きそうなのはない、と答えたが、そもそも讃岐の好みが分からないのだ。

 小野寺の隣に腰を下ろして讃岐は切り出した。

 

「それで、相談って?」

「大した事じゃないんですけど……」

「助かるね。自慢じゃないけど、良いアドバイスができるとは思えないし」

 

 何とも不甲斐ないお言葉。この人の場合、謙遜ではなく本心に違いない。小野寺は今になって、相談相手の人選を後悔し始めた。

 聞かせるだけなら損にはならない。そう自分を納得させて話を続ける。

 

「先輩は石上と仲が良いですよね」

「どうかな。一般的な友人関係にあたるとは思うけど」

 

 友人か親友かはこの際どっちでもいい。重要なのは、讃岐が自分より石上優の人柄に精通しているという事だ。

 

「その様子からすると、彼は相変わらず評判悪いみたいだね」

 

 讃岐は視線を小野寺に向けて苦笑した。見透かすような瞳から視線を逸らす。そんなつもりはなかったが、顔に出ていたのだろうか。無意識に刺々しい言い方になっていたかもしれない。

 讃岐の言う通り、石上優は大半の1年生に嫌われていた。原因は石上が中学時代に起こした事件にある。

 聞いた限りでは、好意を寄せていた女子生徒にストーカーした挙句、彼女が付き合っている男子に暴力を振るったらしい。実際、噂が出回った頃、石上は停学になっていた。

 噂を聞いた小野寺も石上には良い印象を持っていなかった。そんな小野寺の心情が揺らぎ始めたのは、讃岐光谷という先輩に出会ってからだ。

 きっかけは何気ない噂話。

 

『石上優と讃岐光谷がよく一緒に居るのを見かける』

 

 よく耳にする嫌われ者にまつわる噂。

 小野寺にとって違ったのは、その片方が知っている人物だっただけ。

 親しいと言える間柄ではないとはいえ、悪い噂の的になっているのは気分がよろしくない。小野寺は忠告の意味も込めて、石上の所業を知っているか尋ねた。すると、意外にも答えはイエス。

 それなのに何故仲良くしているのか。讃岐は答えになっていない回答をした。

 

『噂、伝説、伝承。悪意のあるなしに関わらず、人から人に伝わる話とは、往々にして歪んでいくものだからね』

 

 この時から、小野寺は石上の噂を聞くたびに、喉に小骨が引っ掛かったような感覚を覚えるようになった。

 

「どうかしたのかい? 難しい顔して」

 

 能天気丸出しの顔で讃岐は首を傾げた。

 

「先輩は石上が物を盗むと思いますか?」

「さあ? 絶対にないとは言い切れないね」

 

 否定するだろうと質問した小野寺は、出鼻を挫かれた気分だった。

 

「友達じゃないんですか?」

「僕が石上君の友人である事と、彼が盗みを働いた事に因果関係はないと思うけど? ──君、先輩に対して向けるべきではない目になってるよ」

 

 讃岐が割と人間失格気味なのは知っていたが、友人を疑うのに何の疑問も罪悪感も持たないのには流石に引く。

 視線にたじろぎながらも、讃岐は弁明するように付け加える。

 

「誤解のないよう言っておくけど、可能性は低いと思っているよ。0でない限り視野に入れているだけで」

「分かってますよ」

「とてもそうは見えないけど……」

 

 気まずさを紛らわすように、空咳をして讃岐は相談の続きを促す。

 

「石上君が窃盗の容疑をかけられていると」

「そこまで大袈裟ではないですが」

「君の考えはどうなんだい?」

「……分かりません」

 

 嘘偽りない気持ちだった。石上の肩を持つつもりも、そんな義理もないが、讃岐が語った通り石上の噂が歪んているのだとすれば、自分には判断を下す材料が足りなすぎる。

 何が面白いのか讃岐は微笑して、

 

「僕に相談するくらいなんだから、そうだろうね。さて、とりあえず話を最初から聞こうかな。どうして石上君に窃盗容疑をが掛かったのか」

「盗まれたのはハンカチです。持ち主は他のクラスの女子」

「その子と石上君が一緒のクラスなのかな?」

 

 讃岐は頭が悪い方ではない。けれど偶に小野寺が思ってもみない発言をする。

 

「……先輩。石上のクラス知らないんですか?」

「下級生のクラスまでは把握してないね」

「私と同じッス」

「君のも知らないんだけどね。まあ、分かったよ。その女子と石上君の関係は薄い」

「多分話した事もないです」

 

「それなのに彼が盗んだと?」当然の疑問に小野寺は頷いてから答えた。

 

「石上がハンカチを持っているのを、彼女の友達が目撃したからです」

「見ただけでよくその子のハンカチだと分かったね」

「有名ブランドの限定品なんで」

 

 それだけでは伝わらなかったのか、讃岐は続きを待っているようだった。小野寺はハンカチについて、どれだけ希少か、どれだけカワイイか、どれだけ自分も欲しかったかを語った。

 語れば語る程讃岐は首を傾げていき、最終的には両手を挙げて降参した。

 

「ストップ、ストップ。僕がそっち方面不勉強だって事はよく理解できた。一目でハンカチの判断は可能。これで話を進めよう」

 

 強引に話を戻して質問する。

 

「目撃された場所は?」

 

 小野寺は視線を宙に這わせて、聞いた場所を脳内に想い描く。場所は分かるのだが、どう説明したものか。

 

「委員会が使う教室が集まってる校舎があるじゃないですか。その校舎の1階です。目撃した子は美化委員で、活動日だったんで教室に行く途中だったそうです」

 

 迷った挙句大雑把に伝えた。

 細かく聞かれた場合に備えて答えを考えていたが、幸いそれ以上追及されなかった。

 

「小野寺さんは、ハンカチが盗まれた時の状況を知っているのかな?」

 

 知っている。というのも、最初からハンカチが盗まれたと疑っていた訳ではないからだ。当初はハンカチが忽然と消えた話として小野寺は聞いていた。盗まれた話に変わったのは、数日後に目撃証言が出てきたからだ。

 そう伝えると讃岐は嬉しそうに声を弾ませた。

 

「素晴らしい! 事前にこちらの知りたい情報を用意してくれるなんて、依頼人としては100点だよ」

「依頼人って何すか」

 

 小野寺の冷たい視線を物ともせず讃岐は急かしたてる。

 ため息混じりに一息ついた後、話を再開する。

 

「少し前、白銀先輩が四宮先輩に告白するって話が出回ったじゃないですか」

「ああ、あったね」

 

 多くの生徒がビックカップル誕生の瞬間を目の当たりにしようと集まり、特等席である校舎裏に面する教室の窓には、人のカーテンができていた。

 

「その子も教室から見てたんですけど、その時に落としたみたいで」

「それまでハンカチを持っていたのは確かかい?」

「はい。ショートホームルームの前にトイレで使った後、ポケットに入れたのでそれまであったのは確かです。ホームルームが終わってからは窓に張り付いていました」

「ハンカチがなくなったのに気付いたのはいつ?」

「告白を見物してた最中『おい、お前達』って先生に注意されて、ギャラリー全員慌てて逃げたらしいです。気付いたのはその後ですね。急いで教室まで引き返したんですけど、ハンカチは見つからなかったそうです」

 

 なるほど、と相槌を打つ声には、今までの事務的な問いとは違って熱が入っていた。「出歯亀は感心しないよね」などと付け加えていたが、つい感情が昂ったのを誤魔化しているように小野寺は感じた。

 

「ハンカチを落としたのはホームルームが終わって、自分の席から窓際に行くまでの途中だと考えられる。盗むとしたら、人が窓際に集まり外に注目していた時である可能性が高いよね。その子は何か言ってなかった? 怪しい動きをしている人がいたとか、不自然な音が鳴ったとか」

 

 小野寺は最初に彼女が絶対怪奇現象だ、と興奮して話して来たのを思い出した。

 内容はとても不思議な話だった。小野寺が石上窃盗犯説に賛同できなかった理由の一つでもある。彼女が語った通りなら、少なくともあの教室に居なかった石上に犯行が可能だとは思えないからだ。

 

「教室の扉は閉じていて、中に居る生徒は全員窓に張り付いていました。放課後なんで他のクラスの人も集まって覗いてたんですけど、彼女はギャラリーの後方で全員が見渡せる場所に居ました。彼女が言うには、ハンカチが盗まれた時間──つまり窓際に移動してから担任に注意されるまでの間、怪しい動きも、教室の扉が開く音もなかったらしいです」

 

 顎に手を添えた讃岐は「ふむ」と一言呟いた。あっさりした態度に、本当に理解できているのか心配になる。

 

「確認だけど、ハンカチが盗まれたと思われる時間に、机の方に行く生徒は居なかった、と言っていたんだね?」

「はい」

「石上君がハンカチを持っていたらしいけど、どういう持ち方だった?」

「持ち方は…………持ち方?」

 

 今まで言われるがままに答えていた小野寺が初めて戸惑った。質問の意図が全く理解できなかったからだ。讃岐は涼しい表情で回答を待つ。

 

「それ、関係あるんですか?」

「あるかもしれないし、ないかもしれない。今は情報を集めてる段階だからね。結論を出すのは早計だ」

 

 釈然としなかったが、どちらにせよ小野寺が返せる答えはなかった。

 

「そこまでは分かりません。後で聞いときます」

「悪いね」

 

 悪びれずに、というより呆然とした様子で、讃岐はうわ言のように返事をした。

 焦点の合わない瞳を薄く開き、顎に手を添えた体勢からフリーズしたように身じろぎ一つしないので、小野寺は心配になって顔の前で手を振ったが反応はなかった。

 どうしたものか。讃岐の前に立ち見下ろしていると、黒目だけがスウッと上に動いた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 主に頭が。

 

「うん? なに、問題はないさ。寧ろスッキリしているよ」

 

 まさか結論がでたのだろうか。小野寺は興奮と緊張がない混ぜになって唾を飲んだ。

 

「これは僕の手に負えないね」

「え?」

 

 あっさりと讃岐が言ってのける。さっきまでの思わせぶりな態度は何だったのか。あまりに拍子抜けして、問い詰める言葉も出て来なかった。

 落胆が顔に出ていたらしい。讃岐は宥めるように、

 

「まあまあ、この件を放り出したりしないから安心してよ。僕には無理だけど、解決できる人に心当たりがあるんだ。今の話、その人にしてもいいかな? 勿論、細かい事情は抜きにして、事件の概要を話すに留めるよ」

「はぁ、まあいいですけど……」

 

 小野寺から了承が得られるた讃岐は長い足を組んで、両手を膝の上に置いた。なまじスタイルが良いので、様になっているのが癪である。

 

「僕からも相談、というか取り引きを提案したいんだけど」

「何ですか?」

「今回の件、君が納得できる結論を出せたなら、是非白銀君に清き1票を投じて欲しいんだ」

 

 小野寺は讃岐が生徒会選挙に興味を持っているのを意外に思った。この手の学校行事には、関心がなさそうだったからだ。

 

「取り引きで得た1票って清いんですか?」

「さぁ? 政治には詳しくないからね。でも──」

 

 讃岐が椅子から立ち上がる。身長差の関係で小野寺は讃岐を見上げる格好になる。上から見下ろされているからか、口元に怪しげな微笑を浮かべているからか、こういう時に讃岐が歳上なのだと実感する。

 

「清かろうが汚かろうが、1票の重みに違いがない事は理解しているよ」

 

 もっとも、口から出る言葉は碌でもないものばかりなのだが。

 

 その夜、ハンカチについて聞いた小野寺は、讃岐にメッセージアプリで1枚の写真とメッセージを送った。

 写真には四つ折りになった、正方形のハンカチを掴んでいる手が写っている。

 

『こんな感じです』

『ありがとう。明日の放課後同じ場所で』

 

 

 ○

 

 

 室内はいずれも、高級なアンティーク調の家具で揃えられている。色もシックな色の物が多く、落ち着いた雰囲気が漂う。

 雰囲気に違和感なく溶け込んだ穏やかな声を、早坂は隣で、かぐやは天蓋付きベッドに座ったまま聞いていた。

 

「──といった次第でございます」

 

 要約すると、知人の悩みを解決する代わりに、投票をお願いしたという事だった。事件をかぐやが解決した扱いにして欲しいとも。

 

「話は分かったわ。でも、私の名前を出す必要があるの?」

「当然でございます。取り引きしたとはいえ、油断してはいけません。より確実に票を獲得するには、白銀陣営であらせられるお嬢様が、恩を売っておく必要があります──どうかしましたか、早坂さん」

 

 隣からの冷たい視線を敏感に察知した讃岐が白々しく問いかける。早坂は讃岐が人前で推理しないのは、自分の能力を隠しているからだと考えていた。その癖推理はやりたがる。毎度毎度主人を利用する姿勢には視線の温度低下が止まらない。

 

「いえ、別に。伊井野ミコについての情報は得られたんですか」

「残念ながら伊井野さんとはあまり交友がないようでした」

 

 嘘だ。声や表情に違和感はないが、経験から早坂はそう直感した。讃岐は人格面で偽らないかもしれないが、それは嘘を吐かないとイコールではない。損得勘定に基づいて虚偽や秘匿を使い分ける。そうでなければ早坂もここまで警戒していない。

 大方、相談が謎解きだった時点で、本来の目的は頭からすっぽ抜けていたのだろう。

 

「……まぁ、貴方の言う事にも一理あるけれど」

 

 かぐやも不振には思っただろうが、最優先は白銀の当選なので深く追及せず讃岐の話に乗った。かぐやと伊井野の交渉が決裂した以上、正攻法で勝負する方が勝率が高い。正直、白銀と伊井野の差は歴然としているので今のままでも勝てるだろうが、万全を期すなら1票でも多いに越した事はない。

 かぐやがすんなり讃岐の案に乗ったのは、後輩の石上にあらぬ疑いが掛かっているのもあるだろう。

 

「四宮の名を使うのなら、無様な失敗は許されないわ。讃岐、貴方の推理を聞かせなさい」

「承知致しました。お嬢様」

 

 讃岐は慇懃な態度で胸に手を添えて頭を下げた。

 

 

「今回の事件で重要なのは、全ての情報を人づてに聞いている点です」

「証言が嘘であると?」

 

 讃岐は首をゆっくり横に振ってやんわり否定した。

 

「嘘と言うと誤解が生じます。私が申し上げたいのは、証言が事実と異なっていたのではないか、という事です」

「確かに意図せず証言が間違っている可能性はあるけど、嘘でないとは言えないでしょう」

 

 ルビー色の瞳が鋭く輝く。なんだかんだでかぐやは面倒見が良い。石上が故意に濡れ衣を着せられたとあれば、内心穏やかではない筈だ。

 視線を受け止めた讃岐は無表情で淡々と語る。

 

「確証はありませんが、可能性は低いと思われます」

「どうして?」

「現在も石上君の評判は変わらず芳しくない様子。嘘を吐いてまで貶める必要性を感じません」

 

 納得したようで、かぐやはふうっと一息付き肩の力を抜いた。かぐやに変わって早坂が質問する。

 

「貶める意図がないのなら、証言が間違っていると考える根拠は何ですか?」

「その前に話は変わりますが、お二人はチェスタトンの『見えない人』という短編をご存知ですか?」

 

 早坂とかぐやは同時に首を振った。かぐやは元来漫画もテレビも見ない無趣味人間であり、早坂はかぐやよりは娯楽に精通しているが、讃岐とは方向性が違っていた。

 

「透明人間でも出てくるんですか?」

「無論違います。細かい説明は省きますが、人の意識は認識を歪めてしまいます。時には透明人間さえ産み出す程に。今回の事件はそれが連続してしまったが故に起きてしまったのです」

 

「では最初に」讃岐はベッドに座るかぐやを見下ろした。

 

「お嬢様が心配なされている、石上君が犯人でない根拠を述べさせていただきます」

「……別に心配なんかしてないわ。後輩の濡れ衣を晴らすくらい、先輩として当然でしょう」

 

 かぐやは恥ずかしそうに頬を染めて、そっぽを向いた。

 

「仰る通りでございます。証言によると、石上くんはハンカチを四つ折りにして手に持っていたそうですが、これは些か不自然です」

 

 かぐやはあらぬ方向を向いていた顔を戻して答えた。

 

「そうね。盗んだ品を隠しもせずに、堂々と所持しているのは不自然だわ」

「私も同意見です。堂々と持つにしても、手を拭いて自分の物であるアピールをするなど細工をするでしょう」

「ですが事実として会計君が持っていたのは、なくなったハンカチですよね? 何故彼が持っていたのですか」

「質問に答えるには、先に教室で消えたハンカチの問題を解決した方が良いでしょう」

 

 落としたハンカチが忽然と消えた事件だ。教室に入った者は居らず、窓からハンカチに近づいた者も居ない。犯人はどうやってハンカチを盗んだのか。

 疑問の答えを既に讃岐が持っているのは分かっている。早坂は黙って続きを待つ。

 

「教室の扉が開く音はしなかった。ギャラリーは窓から離れていない。これらは事実でしょう。しかしながら1点だけ、彼女の意識から外れた事柄がございます」

 

 讃岐はかぐやと早坂を順に見た。答えが返って来ないと分かると、再び推理を語り始めた。

 

「それは教師の存在です」

 

 かぐやが形や良い眉を歪めた。何故そんな簡単な事に気が付かなかったのだろうと言いたげに。早坂も無表情の裏で納得した。

 

「担任教師に注意されるまで扉の開く音はしなかった。という事は、教師はホームルームを終えた後も教室に残っていたのでしょう。ギャラリーに不可能であった以上、教室内でハンカチを手にする機会があったのは教師のみとなります」

 

 教師が犯人なら筋は通るが、事実とは信じ難い。早坂は讃岐に疑問を投げかけた。

 

「特別な動機もなく、教師が生徒のハンカチを盗むとは思えません」

「ここにもまた認識の歪みが存在します。教室でハンカチを拾った。この行為は窃盗になるでしょうか?」

 

 質問ではなく反語。当然拾っただけでは窃盗にならない。

 

「教師はハンカチを拾いましたが、誰の物か判断がつかなかった。なので生徒達に尋ねたのです。『おい、お前達』と」

 

 なるほど、と思う。教師は注意する為に声を掛けたのではなく、純粋に質問する為だったのだ。出歯亀をしている罪悪感と、教師に声を掛けられる時は碌な事がないという経験則から来る悲しき誤解だ。慌てて逃げ出した女子生徒は、教師が持っていたハンカチに気付かなかったのだろう。

 

「でも自分が担任しているクラスの落とし物でしょう? 次の日にでも聞けばいいじゃない」

「教室に居たのが自分のクラスの生徒だけであればそうしたでしょう。ですがあの日、白銀君の告白ショーを見物するべく、他のクラスからも生徒が集まっていた為、自分のクラスの落とし物だと確証が持てなかったのでございます」

 

 かぐやは頷いてから、人差し指を立てた。

 

「1つ訂正があるわ。あれは告白ではなく、応援演説を頼まれただけよ。貴方も知っている筈よね」

 

 ジロリと睨まれた讃岐は、バツの悪そうに言った。

 

「も、申し訳ありません。お嬢様の古傷を……」

「そこじゃありません! 大体古傷になんてなって──」

「まだ癒えていないのでございますね。重ね重ねご無礼を」

「本当に無礼よ、不調法者! 傷じゃないって言ってるの!! 会長の事だから、そんな事だろうと思ってたのよ! 全然微塵もガッカリしたりしてないの!」

「思ったより深い傷だったんですね。かぐや様」

 

 叫び終えたかぐやは、ぜぇ、ぜぇと深い深呼吸を繰り返した。讃岐は涼しい顔で「失礼致しました」と謝意の篭っていない謝罪をして頭を下げた。

 

「時にお嬢様。お嬢様は白銀君を会長とお呼びしていらっしゃいますね?」

「何ですか藪から棒に」

 

 息を整えたかぐやが怪訝そうに眉を顰める。

 

「ですが現在白銀君は生徒会長ではありません」

「言われなくても分かってるわ」

「お嬢様が理解なさっている事は私も承知しております。今回の事件においても、似たような現象が起こったのです」

 

 讃岐は不貞腐れた様子のかぐやから、早坂の方に顔を向けた。

 

「ハンカチを拾ったのは教師であると推論を述べましたが、早坂さんが言ったように、石上君がハンカチを持っていたのも事実です。ハンカチは教師から石上君の手に渡ったと考えるのが妥当でしょう」

「何故彼にハンカチを? 関係性が見えて来ませんが」

 

 早坂の知らない意外な事実を突き止めたのかと思いきや、讃岐はあっさり否定した。

 

「教師と生徒という以外、彼らの間に関係性などございません」

 

 呆気に取られる早坂とかぐやをよそに、讃岐はすらすら推理を語る。

 

「しかしそれは現在の話。1ヶ月前に同じ状況になったとしたらどうでしょう」

「1ヶ月前…………ああ、そういう事ですか」

「理解していただけたようですね。1ヶ月前はまだ生徒会が解散していませんでした。お嬢様が白銀君を会長と呼ぶように、教師も常からの癖で石上君を生徒会役員として見ていたのです。落とし物の保管は生徒会の仕事の内ですから」

「待って。石上君は現状生徒会役員ではないのだから、断ればいいだけでしょう。何でそうしなかったの?」

「簡単な事でございます──」

 

 

 ○

 

 

 地面に仰向けになって倒れているかぐやの上を、讃岐の長い足が通り過ぎた。

 

「光谷くん! 何平然と跨いでるんですか!」

 

 倒れたかぐやの側に居た藤原千花が、讃岐の無礼極まりない行為を注意する。

 

「いや、申し訳ない。で、どういう状況なの?」

 

 讃岐がぐるりと首を周囲に巡らせる。一瞬だけスマホを手にして柱にもたれかかっている早坂と目が合った。

 

「胃がやられて倒れちゃったんです!」

「胃が、ね。もしかして選挙で?」

「そうなんですよ。私も会長が前に出た時、どれだけ心配したか」

 

 生徒会が解散してから、藤原は白銀を『みゆき君』と呼んでいたが、今は『会長』になっている。切り替えの早さが藤原らしい。

 

「へぇ意外だね。君はストレスを感じる感性を持ち合わせていない人種なのかと思っていたよ」

「どういう意味ですか!? というか、光谷君だけには言われたくないです!」

 

 ぷんすこしながらかぐやを抱き起こす藤原に讃岐は手を貸した。起こす際に、さっと讃岐の手がかぐやの後頭部をさするのを早坂は見逃さなかった。こういう時だけは目敏い。早坂は小さく舌打ちした。

 

「1人で大丈夫かい?」

 

 かぐやをおんぶした藤原に、讃岐が声を掛ける。

 

「心配いりません。私こう見えても鍛えてますから!」

「へぇ」

 

 胸に手を当てて自信満々に主張する藤原の言葉を、讃岐は信じていないようだった。

 藤原を見送った後、讃岐は柱に佇む早坂の方へと近づいた。

 

「胃がやられたらしいね」

「みたいですね……何ですかその目は?」

「いや別に。ただこの位置から人を突き飛ばしたら、あの辺になるかなと。タンコブできてたし」

「そうですか。ところでハンカチはあったんですか?」

「逸らし方が露骨だね。予想通り風紀委員会の教室にあったよ。落とし物を管理するのは、生徒会か風紀委員だからね。生徒会が無い以上、選択肢は風紀委員しかない」

 

 石上は落とし物のハンカチを、落とし物を管理する場所に届けたに過ぎない。勘違いした教師と違って、自分が生徒会役員ではないと分かっている石上は、風紀委員にハンカチを渡したのだ。石上がハンカチを受け取った理由は、目撃された場所からも分かるように、偶々委員会の集まる校舎──言い換えれば、風紀委員の教室の近くに居たからだ。

 

「解決したようで何よりです。私はかぐや様の体調を見てきます」

「はいはい。じゃあそっちは任せたよ」

 

 そっちは? 

 

 詮索されると厄介なので、早坂は早々と保健室の方へ一歩踏み出したが、讃岐の発言が引っかかり足を止めて振り返った。

 

「念には念を入れるだけさ。僕は色恋沙汰に疎いけれど、誘われるなら格好よく誘われたいって事くらいは分かるつもりだよ」

 

 讃岐は仕方ないという風に肩をすくめた。

 

 

 ○

 

 

 一波乱あった生徒会選挙。無事に再度当選を果たした白銀生徒会長は、新生徒会の初仕事である体育館の椅子の片付けを終え、1人廊下を歩いていた。

 キュッ、キュッと音を立てながらリノリウムの廊下を進む白銀の胸中は、当選したというのに暗かった。目的地へと足早に動く足が普段より重く感じる。

 右手の曲がり角から、長身の影がふらりと姿を現す。知っている人物だったので声を掛けた。

 

「讃岐? 何をしているんだ、こんなところで」

 

 廊下を進んだ先には保健室しかなく、白銀は保健室に用があった。讃岐も保健室に用事があるのだろうか、具合が悪そうには見えないが。

 

「おや、奇遇だね白銀君。君も暇つぶしにぶらついているのかな? 新生徒会長としてはいただけない行為だけど」

 

 讃岐は普段と変わらず薄らと笑みを浮かべて、流暢に返事の言葉を紡いだ。

 校内をぶらつくのは暇つぶしになるのだろうか。疑問に思ったが、讃岐の奇行はいつもの事。一々首を捻っていてはキリがない。

 

「一緒にするな。俺は見舞いに来たんだ」

「ああ、そういえば藤原さんが騒いでたね。四宮さんが胃をやられたとかなんとか。まさか本当だとは思わなかったよ」

「お前は藤原書記の発言の何割を信じているんだ?」

 

 讃岐と藤原はお互いに、お互いの事を自分よりアホだと思っている節がある。側から見ている感想としては、どっちもどっち。どんぐりの背比べでしかない。

 四宮の名前が出て、白銀は顔を曇らせた。四宮かぐやが胃をやられた原因は、恐らく白銀の行動にあったからだ。

 生徒会選挙において、かぐやは白銀を当選させるべく、応援演説を始めとして様々な尽力をした。にも関わらず自分は選挙で、敵に塩を送るような真似をしてしまった。その事に後悔はないし、そうするべきだと思った。だが、自分の行動に腹を立てたかぐやが、副会長をしてくれなかったらと考えると、何とも陰鬱としたモヤモヤが心に入り込んで来るのだった。

 白銀が自分の表情の変化に気付き、しまったと顔を引き締めた時にはもう遅かった。

 目の前の男は、全てを理解したとでも言いたいのか、人の神経を逆撫でするような不適な笑みを口元に湛える。

 

「随分と顔色が優れないじゃないか」

「そ、そんな事はない! 当選したばかりだぞ」

「いや全くその通り。学年1位の天才にして、異例の2期連続当選を果たした白銀御行生徒会長ともあろうお方が、副会長の勧誘に二の足を踏んでいるなんて事は、あり得ないだろうね」

 

 ああ、クソ。バレている。

 

 内面をきれいさっぱり見透かされた白銀にできるのは、悪態をつくのが精々だった。

 

「うるせぇ。俺はお前ほど、無根拠に自信の持てる人間じゃないんだ」

「酷い言いようだなぁ」

 

 尚も微笑を口に張り付けたまま、讃岐は肩をすくめた。

 

「つまり根拠があれば、君は自信を取り戻せるのかな?」

「どういうことだ?」

「自信家の先立として、ささやかながら道を示してあげよう。ということさ」

 

 コホンと、讃岐はわざとらしい空咳を挟んだ。

 

「特別注目していた訳ではないけれど、同じクラスだからね。四宮さんが応援演説を頼まれた日から、白銀君の当選に尽力している様子は目に入った。応援演説の準備以外にも……」

 

 そこまで言って讃岐は口を閉じた。一度視線を宙に彷徨わせてから、白銀に戻す。

 

「……まあ、色々と手を回していたよ」

「何なんだ? 今の間は」

 

「とにかく!」讃岐は追及を避けるように語気を強めて、

 

「色々やってたんだよ。頼まれたのは演説だけだというのに、一体何故だろうね」

「それは……」

 

 言いかけて口を閉じる。白銀にはかぐやが尽力した理由が分かっていた。

 生徒会が解散した日の夜、選挙に出馬して欲しいと頼んだのはかぐやの方なのだ。責任感の強いかぐやは、自分から言い出しておいて何もしないのは、筋が通らないと考えたのだろう。それをそのまま讃岐に伝える訳にもいなかい。

 

「四宮は責任感が強く面倒見も良い。応援演説を引き受けたからには、俺の当選に力を尽くすべきだと考えたのだろう」

「それも可能性の1つだね。けれど、人はある程度の損得勘定を持って行動するものだ。彼女の行いは余りにもリターンが少ないように思える。だから僕はこう考えた。君の生徒会長就任が、即ち彼女のリターンなのではないか、と」

「言いたい事は分かるが、俺に心当たりはない」

「生徒会長になった君が、副会長に四宮さんを選ぶのは想像に難くない。君は四宮さんの隣に立つ為に生徒会長になったのだと言っていたけれど、生徒会長の隣に立てるのもまた副会長だけなんだよ」

「するとお前はこう言いたい訳か、四宮は俺の隣に立つ為に選挙活動に尽力したと」

 

 ふむ、四宮は俺に惚れているのだから、順当な成り行きだな。

 

 白銀の自信が少し回復した。

 あくまでも讃岐の推測。そもそも、一方的に演説を頼んだのではなく、かぐやが白銀に出馬を要請していたのだから、リターン云々は成立しない。だからといって、讃岐の言い分を否定できないのも確かだった。

 

「勿論それだけじゃないだろうけどね。君が生徒会長に相応しいとか、色々ある理由の内の1つに、そういうのもあるかもしれない」

 

 讃岐の言う根拠が正しいかどうかは分からないが、自信を取り戻すという目的は達成したと言っていい。

 

「心遣いには感謝するが」

 

 白銀は少し気になっていた。

 

「損得勘定といえばお前もだろう。基本的に自分の利になる事しかしない讃岐光谷が、意味も無く俺を励ますとは考え難い。かといって生徒会がどうなろうと益はない。もしかしてお前は、誰かの為に動いているんじゃないか?」

 

 今日の讃岐の言動は、白銀が知っている讃岐光谷の人物像と合わない。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」とは呉の武将呂蒙の故事から来る慣用句だ。白銀は讃岐と毎日顔を合わせる程の機会はなく、三日会わざる時も多い。だから讃岐が人の為に行動する人間になっていたとしても何ら不思議はない。けれど、そうだとしたら何が讃岐を変えたのか。白銀は興味がそそられた。

 視線の先にいる讃岐は、きょとんとした顔で2、3度瞬きをした。

 

 無自覚の行動だったのか? 

 

 そう思っていると、フッと笑うように讃岐の口から小さく空気が漏れた。

 

「そんなことか。その問いに対する解答は明白だよ」

「ほう?」

 

 普段より明確に讃岐の口元が弧を描いた。

 

「君の見立て違い。僕は利益より友情を優先させる、心の温かい人間だったのさ!」

「言ってろ。まぁいい、どういうつもりであったにせよ、お前のお陰で腹が決まったのは事実だ。感謝する」

「どう致しまして。僕は散歩を続けるよ。頑張ってね」

「ああ、校内徘徊も程々にしておけよ」

 

 ひらひらと手を振る讃岐に背を向ける。足取り確かに四宮かぐやの居る保健室への道を進んだ。

 

 

 

 翌日、白銀御行を生徒会長とした新生徒会は、続投した副会長、四宮かぐや。書記、藤原千花。会計、石上優に加えて、会計監査に伊井野ミコを迎えて活動を再開した。



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ディテクティブ♡アクアリウム

 水族館。

 水中や水辺で生活する生物を展示、収集する施設。

 

 早坂愛が脳内で辞典を引いたのには訳があった。

 主人である四宮かぐやが、想いを寄せている白銀御行から水族館デートの誘いを受けた。しかし、かぐやは誘いを断ったらしい。

 理由を聞いたら、

 

「ここが水族館だったの!」

 

 意味が分からない。

 

 かぐやの言う「ここ」とは誘いを受けた学校の廊下を指しており、当然ながら教育機関である私立秀知院学園は水族館としての機能を有する施設ではない。鼻持ちならない金持ちの育成はしても、水性生物の飼育はしない。

 

「仰る通り、珍妙な生物が多いという点では、秀知院学園も水族館と大差はございません」

 

 鼻持ちならない金持ちの代表格であり、早坂と同じく、かぐやに使える近侍の讃岐光谷が適当に首肯する。

 かぐやに色々言いたい事はあるけれど、先にこの男の口を封じた方がいいかもしれない。物騒な考えが早坂の頭に浮かんだ。

 

「大体、会長は──」

「仰る通りでございます」

「また藤原さんが邪魔を──」

「仰る通りでございます」

「いい加減に意地を張ってないで素直に──」

「誠に仰る通りでございます」

 

 やはり黙らせた方が良いようだ。

 早坂は讃岐の肩を叩いた。

 

「どうなさいました? 早坂さん」

「屈んでください」

 

 突然の要求に讃岐は眉を顰めながらも、膝を曲げてその長身を屈めた。

 一方早坂はどこからともなくガムテープを取り出す。ガムテープを伸ばす音がしてから、讃岐の口が封じられるまで1秒とかからなかった。

 かぐやはバツが悪そうに空咳をする。「ふご」という鳴き声しか発せなくなった讃岐を見て、落ち着きを取り戻したようだ。

 

「して、かぐや様。私だけでなく、コレも呼び出したという事は何か用件があったのでは?」

 

 隣を指差しながら、かぐやに問いかける。隣からふごふご抗議の声が上がったが、生憎と早坂は人語しか解さない。

 愚痴を聞かせるだけならば、無意味に首を縦に振るだけの男を呼び出す必要はない。何かしらの指令があるのだろうと早坂は予想した。碌でもない指令だろう、とも。

 

「貴方達を呼んだのは調査の為よ」

「調査?」

「ふご?」

 

 かぐやはチラリと讃岐に視線を向けたが、そのまま話を続けた。

 

「また会長が水族館に誘って来るかもしれないでしょう? その時に備えて会長の好みを把握しておく必要があるわ」

 

 取らぬ狸のなんとやら。かぐや程の天才ともなれば計算のみならず、皮算用も得意らしい。

 

「会長は石上君と水族館に行くらしいわ。貴方達には水族館へ行って会長の好みを探って来て欲しいの」

「承知しました。チケットは翌朝手配します」

「ふごふっごごふごふごふご」

「水族館に行く時間までは分かりませんね。白銀家を監視しておきましょうか」

「その必要はないわ。仕込んだチケットの日付は明日。恐らく放課後ね」

「ふごふごふご」

 

 早坂とかぐやは面倒臭そうに讃岐を見た。

 

「何か言ってるわよ」

「そのようですね」

 

 早坂は何処からともなく、ペンとメモ帳を取り出して讃岐に渡した。

 

「喋らせてあげたら?」

「彼の発言はかぐや様にとって毒にしかなりませんので」

 

 2人が沈黙して待っている間、ボールペンを動かす音だけが室内に流れた。

 数十秒後、書き終えた讃岐は三つ葉葵の入った印籠のようにメモ帳を掲げた。国家の心臓たる四宮家令嬢とその部下は跪いたりせずに、紙に書かれた文字を目で追った。

 

『チケットなら持っております』

「そうなの?」

 

 メモ帳を持っている手と逆の手にチケットが2枚握られている。

 何故持っているのか、かぐやは聞かなかった。単に興味がないのだろう。

 

「チケットを用意する手間が省けたわね。当日は頼んだわよ」

「承知しました。かぐや様」

 

 頭を下げる早坂の隣で、讃岐はサラサラとボールペンを走らせる。数秒が経ってメモ帳を再び掲げる。

 

『承知致しました。お嬢様』

 

 

 

 

 かぐやの部屋を退出した早坂と讃岐は、四宮邸の長く広い廊下を歩いていた。本日の業務はまだ終わっていないのだ。

 

「どうして水族館のチケットなんて持っていたんですか? 貴方が自分で買った訳ではありませんよね」

 

 直ぐに返事は返ってこない。代わりというように、紙の上を走るボールペンの音が耳に届く。

 

『勿論僕が買ったんじゃないよ。貰ったんだ』

「ペアチケットですよね? いいんですか、使っても」

 

 三度ボールペンがメモ帳の上を軽やかに移動する。早坂はその手を制した。

 

「いつまでやってるんですか。テンポが悪いので普通に喋ってください」

 

 讃岐は口に張られたガムテープを剥がすと不満顔で、

 

「横暴だ。君がやった癖に……。このチケットは元より、君と一緒に半券を切るか、燃えるゴミとして燃えるかの末路しか選べないんだよ」

 

 だから使っても問題ない、と。事情があって貰った物らしいが……。腑に落ちていない早坂をよそに、讃岐はガムテープを丸めて手の中で転がす。

 

「そういえば、君の奇行は治ったようだね」

「奇行? 覚えはありませんが」

「まぁ、あれだけ頭を打ちつけてたら、記憶の1つや2つ飛ぶかもね」

「…………」

 

 いや、忘れた訳ではない。……忘れたかったけど。

 発端は、かぐやが『今日は甘口で』という少女漫画を購入した事。

 感動的なストーリーに加え、砂糖にシロップをかけたかの如く甘い恋愛描写のダブルパンチ。あっさりKOされてしまった早坂とかぐやは我先にと読み漁った。結果、少女漫画によって引き出された「恋したい」欲求が2人の脳髄を蝕み、少女漫画脳へと変貌を遂げた。

 少女漫画脳になった彼女達は必然的に、身近な異性を意識してしまう。

 身近な異性。かぐやにとっては言わずもがな、白銀御行や石上優である。早坂はというと、同僚であり、ほぼ毎日飽きるくらいに顔を合わせている讃岐光谷だった。

 そう、讃岐光谷だったのだ。良さげな外見と、産業廃棄物的な内面を併せ持つ男。いくら少女漫画に感化されたとはいえ、いくら消去法であるとはいえ、この男を意識してしまうのは早坂のプライドが断じて許さない。故に屋敷で出くわした讃岐の周囲に、謎のキラキラした背景効果を幻視した瞬間、壁に頭をぶつけてなんとか正気を保ったのだった。

 

「ほっ」テーブルを囲んで椅子が置かれた談話スペースを通りかかった時、短い声と共に讃岐が丸めたガムテープを投げた。ガムテープは山なりに弧を描いて、ゴミ箱目掛けて落下。縁に当たって弾かれたガムテープは、讃岐の元に戻って来る。

 

「惜しい」

「ゴミくらい普通に捨てられないんですか? 投げるなら、ちゃんと入れてください」

 

 早坂は足元に転がっているガムテープを拾って無造作に放った。ガムテープはゴミ箱の縁に一切触れず、吸い込まれるようにして中へ収まった。

 鮮やかなシュートを、讃岐は口笛を吹いて称賛した。

 

 

 ○

 

 

 白銀御行は基本的に生徒会活動やアルバイト、もしくは勉強をして放課後を過ごす。そんな彼にしては珍しく、今日は後輩の石上優と共に、水族館を訪れていた。

 東京都豊島区に所狭しと並び立つ4本のビル。その内3番目に高いビルの最上階に目的の『sunlight水族館』はある。

 

「残念でしたね。四宮先輩来られなくて」

 

 石上がそう言ったのは、最上階へと昇る専用エレベーターの中。青い壁と、天井から降り注ぐ青白い光。まるで海中にいるかのような内装は、何度見ても心が踊る。

 

「仕方がない。昨日から体調が良くなかったみたいだからな」

 

 白銀の返答にはささやかな嘘が混じっていた。厳密には嘘ではなく、意図的に語らなかったのだが。

 昨日、熱があるかもしれないかぐやを保健室に連れて行ってたのは、紛れもない事実。だが、水族館に来れなかったのは体調不良のせいではなく、誘いを断られたからだ。

 白銀はこの事実を隠した。デートスポットとしても名高い水族館に誘ったと知られれば、白銀御行は四宮かぐやが好きなのではないかと勘繰られてしまう。白銀としては、なんとしても避けたい事態である。あくまでも好意を向けているのはかぐやの方であり、白銀は告白されたら付き合ってやらんでもないと考えているだけ、さっさと告白して来いと常々思っているだけなのだ。

 最上階に到着してエレベーターを降りると、直ぐにチケットカウンターがある。平日だからか、殆ど待たずに入場できた。連休中などは長蛇の列ができるのは石上も知っていたようで、「ラッキーでしたね」と喜んでいた。

 

「何処から回ります?」

 

 入口付近にある館内マップを見ながら石上が尋ねた。

「ふむ」と唸ってから、揶揄うような笑みを石上に向ける。

 

「順番通りに行くか。魚に詳しい解説役もいる事だしな」

「任せてください。余計な知識は詰まってるんで」

 

 石上は大袈裟に応じた。

 

 廊下を道なりに進むと最初の水槽とご対面。

 水槽の底には白い砂が満遍なく敷き詰められており、いたる所で砂底から細長いにょろにょろした生き物が顔を出す。

 

「チンアナゴだな」

「チンアナゴですね」

 

 チンアナゴ。ウナギ目アナゴ科に属する水性生物。丸みのある顔や、くりくりした目、細長い体を彩る綺麗な模様。様々な特徴を持つチンアナゴであるが、1番に目が行くのは名前だろう。

 可愛さと前衛さが奇跡的相性(マリアージュ)によって融合を果たした名称は、決して、酔っ払ったおっさんが適当に付けたのではない。由来は日本犬の(ちん)に顔つきが似ているから。

 狆に似ているアナゴだから、チンアナゴ。やはり適当に名付けたのかもしれない。

 安直に付けられた名前は、現代において小学生の男子や、頭の悪い男子中・高生に絶大な人気を誇る。彼等は親愛と敬意を込めてこう呼ぶ。

 

 チン──。

 

「会長、小学生みたいな事考えませんでした?」

「ははは、まさか。俺はもう高二だそ。それに生徒会長だ」

「生徒会長関係ありますかね」

「ああ。生徒会長はそんな低俗な事を考えない」

「低俗とは一言も言ってませんけど」

 

 自分の失言に気付いた白銀は口を噤んだ。石上もそれ以上追求しない。2人の間に沈黙が流れた。

 

「よし、ここはもう十分堪能したな! 次に行こう!」

 

 全国模試上位の頭の悪い高校生は、逃げるように提案した。

 

 順番に見て周り、1階では最後となる巨大な水槽の前に立った。

 シマウマ模様の魚が身を翻す。映画の主役にもなったオレンジが特徴の魚は4匹の群れで遊泳している。様々な種類の魚が縦横無尽に泳いでいる姿は滅多にお目にかかれない。

 石上に魚について質問したら、打てば響くように答えが返って来た。魚に詳しいと自負するだけはある。

 

「男2人で水族館て、悲しすぎると思いましたが」

「思ったより楽しいな」

 

 ふと石上が水槽から目を離して横を向いた。そのままじっと一点を見つめていたので、白銀は気になって聞いた。

 

「どうかしたのか?」

「あれ讃岐先輩じゃないですか」

 

 振り向いた石上は、指先で先程まで見ていた隣の水槽を指した。ひょろりとした長身に秀知院学園の制服。間違いなく讃岐光谷だった。

 あちらも白銀達に気付いたようで、軽く手を上げ向かって来る。

 

「やあ、お2人さん。男2人で水族館かい? 随分残念な放課後の過ごし方だね」

「余計なお世話だ。それも悪くないって話してた所だよ」

 

 開口一番に飛んで来た寸鉄を、白銀は慣れた様子ではたき落とした。

 

「1人で来てる先輩がそれを言いますか」

 

 反撃のつもりはないだろうが、石上の言い分はもっともだ。

 讃岐はゆるゆると首を振った。

 

「僕がそんなに魚好きだと思うかい。一緒に来た人とはぐれちゃってね」

「はぐれたって、相手はケータイ持ってないんですか?」

「連絡は入れたけど返信がなくてね。しょうがないから、1人で見て回ってたんだよ」

 

 何をひらめいたのか、そうだ、と讃岐は話を続けた。

 

「君達もまだ見て周るだろう。1人寂しく魚を見る羽目になった僕を、仲間に入れてくれないかな?」

 

 意外な申し出に、白銀と石上は顔を見合わせた。

 

「それは構わんが、一緒に来た人が居るんだろう。いいのか、俺達と周って」

 

 何の根拠があるのか、讃岐は「大丈夫、大丈夫」と楽観的に頷いている。

 本人がそう言うのであれば、断る理由もない。

 

「先輩はどこまで見たんですか?」

「1階は殆んど見たかな」

「じゃあ僕らと一緒ですね。2階に行きましょうか」

「2階って何か居るんだっけ?」

「水辺に生息する生物が主だな」

 

 3人は雑談を交わしながら上階へ続く階段に足を掛けた。

 

 2階の通路は上から見ると、漢字の口になっている。白銀達が登って来た階段は全フロアを繋ぐ唯一の階段で、口の左辺の真ん中に当たる。そこから下に行った、突き当たりに河川をモデルにした大きな水槽がある。

 水槽では熱帯魚が、自らの美麗さを見せびらかすかのように、身を翻しながら泳いでいる。

 

「ほう」白銀は思わず感嘆の声を漏らした。

 

「観賞魚なだけあって綺麗ですね」

 

「君の方が綺麗だよ」

 

「……讃岐先輩、ゲロ吐きそうなのでやめてください」

「白銀君も居るのに、どうして僕なのかな? 生憎と嘘を付いてまで、君の機嫌を取ったりしないよ」

「さらっと毒を吐きますよね。先輩じゃないなら、誰がそんなふざけた…………」

 

 讃岐の方を向いた石上の瞳から、光が消えた。視線は讃岐を通り越し、熱帯魚を仲睦まじく観賞している2人の男女を見ていた。

 

 

「もう、またそんな事言ってー」

「本当だって。ネオンテトラより輝いてるよ」

「何それー」

 

 手を繋いだ男女は囁き合う。

 全てを察した石上は、いっそう暗い声になり、

 

「讃岐先輩、すみませんでした」

「いやいや、お気になさらず」

「次、行くか」

「そうですね……」

 

 次の水槽は左に曲がり、少し歩いた所にあった。途中、石上がトイレに行くと言って道を引き返した。トイレはフロアの左上の角にあるのだ。

 先に行ってていい、と石上に言われたので白銀と讃岐は滅多に見られない生物を楽しみながら廊下を歩いた。

 途中、トイレブラシやビニール手袋が入ったバケツを手にした従業員とすれ違った。歳は白銀より少し上くらいに見えるので、アルバイトだろう。

 それを見たからか、讃岐はこんな質問をした。

 

「君はここでバイトした事あるのかい?」

「いや、無いな。お前も知っての通り、俺は1つのバイトを長く続けるつもりはない。辞めたバイト先には行きづらいから、よく行く場所でバイトはしないようにしている」

「バイト戦士にはバイト戦士なりの苦労があるんだね。よく来てるなら、お気に入りとかあるのかな?」

 

 讃岐は小さな亀の入った水槽を見ながら聞いた。白銀も同じように亀に目を向けたまま少し考えて、

 

「1番はペンギンだな。屋上の水槽で泳ぐペンギンは何時間でも眺めていられるし、ペンギンショーはよく見に行く」

「ああ、あのペンギンが空を飛んでいるように見える水槽ね。確かに、鳥でありながら飛べない悲しき性を抱えたペンギンに、空を飛ぶ気分を味わってもらおうというのは粋な計らいだね。まぁ、空に近くなったことで、自由に飛び回る鳩や鴉を見たペンギンが、鳥類としての格の差を感じないか心配ではあるけれど」

「そんな捻くれた見方してねぇよ! 大体ペンギンが劣ってような言い方だけど違うからな!」

 

「そう?」と理解してなさそうな讃岐に対して、白銀は鼻息を荒くする。

 

「そうだ。お前はペンギンについて何も分かってない。ペンギンは空を飛べないが、水中を自由自在に泳ぐ姿は水中を飛ぶと形容される程だ。中でも最速とされるジェンツーペンギンは、時速36キロの速さを誇る。

 更に、ずんぐりむっくりした可愛らしい体にも秘密がある。水に浮かないよう、体に骨がぎっしり詰まっていて密度が高くなっている。楕円形のフォルムは流体学的にも、水中での水の抵抗は理想的と言えるくらい小さい。そして……」

「分かった。もうペンギン教室は十分だよ。僕が悪かったよ」

 

 白銀の熱弁を遮った讃岐は、慌てて話を変える。

 

「そういえば、石上君遅いね」

 

 今日はこれくらいで見逃してやろう。白銀は讃岐の話題に乗った。

 

「言われてみれば、そうだな」

 

 石上がトイレに行ったのは、最初の角を曲がった辺りだった。現在白銀達は次の曲がり角に差し掛かかろうとしていた。丁度、口の右下の角の部分である。

 魚を観賞しながら歩いていたので、それなりに時間は経っている筈だが。そう思って歩いて来た通路を顧みると、石上が歩いて来るのが見えた。

 

「おや、噂をすれば。腹でも下していたのかな」

「そんな感じしなかったが……」

 

 合流した石上は後頭部を掻きながら、

 

「すみません。遅くなりました」

「いや、気にするな」

 

 曲がり角まで進んで次の水槽を見た。小さめの水槽の中で、鮮やかな黄色のカエルが跳ねていた。

 特別な展示らしく、派手なポップが水槽下の台に貼ってある。期間限定で飼育員が解説してくれるらしい。名前はモウドクフキヤガエルとある。

 

「モウドクフキヤガエル。名前からして毒を持ってそうだが」

「持ってますよ。それも生物の中で最強の猛毒です」

「へぇ、展示してて大丈夫なのかな?」 

「自分で毒を作り出しているのではなく、毒性のある生き物を食べて毒を蓄積するので、食べ物を変えれば毒性は失われます。ペットとしてもよく飼育されてますよ」

 

 石上の流暢な解説を、白銀と讃岐は関心しながら聞きていた。

 しばらく、カエルが跳んだり、泳いだりしている様を眺めていた白銀達だったが、「おや」と讃岐が声を上げた。

「どうした?」白銀がそう口にする前に、別の場所から声が飛んで来た。

 

「あー、やっと見つけたし!」

 

 親しげな声色。女子に親しく呼び掛けられる覚えのない白銀と石上は、自分達の一行には関係ないと思い、特に反応を示さなかった。

 しかし、そんな白銀と石上の予想に反して反応を示す者が居た。

 

「君、何処に居たんだい? 連絡したのに返事もないし」

 

 讃岐は突如現れた、金髪をサイドテールにした女子と気安く言葉を交わす。校則違反すれすれまで着崩しているが、秀知院学園の制服だ。話の内容からして讃岐が一緒来た人物だろう。

 白銀にも見覚えのある人物だった。かぐやと同じクラスの生徒で、名前は早坂愛。

 

「えっ、連絡?」早坂はポケットからスマホを取り出して画面を確認する。「ホントだ」

 讃岐はやれやれといった様子で肩をすくめた。

 その光景を眺めていた白銀と石上は、壁を作るように肩を組んで小声でコソコソ話す。

 

「会長、なんか敗北感凄いんですけど」

「奇遇だな石上、俺も同じ気持ちだ」

「彼女と来てるのに、僕達と周るってどういう神経してるんですか、あの人」

「分かり切ってたろ。まともじゃないのは」

 

 負のオーラを募らせる2人に、讃岐は「どうしたの?」と呑気に問いかける。

 早坂も白銀と石上に気付いたらしい。

 

「あれー、会長に会計君じゃん」

「あ、ああ。讃岐とはぐれたのは君だったか」

 

 早坂は唇を尖らせて抗議した。

 

「はぐれたのはあっちの方だし。挙句、ほったらかしで楽しんでるし、酷いと思わない?」

 

 早坂は半眼で睨みつけたが、讃岐はカエルの水槽に夢中で気付いていない。

 早坂が少し不機嫌になった気がしたのは、白銀の気のせいではないだろう。自分よりカエルを優先しているのだから無理もない。

 白銀は、早坂が来る前に讃岐が何か言いかけていたのを思い出す。

 

「何か気になる事でもあったのか?」

 

 ようやくカエルから目を離した讃岐は、ゆっくり振り向いた。

 

「1匹多い」

 

 言葉足らずに過ぎるが、何が言いたいのか、理解できない者は居なかった。白銀達は水槽に近づきカエルの数を数えた。

 

「5匹だな」

「5匹だねー」

「えっ、6匹じゃないですか?」

 

 讃岐は水槽の一点を指さして、

 

「石上君が合ってるよ。木の陰に1匹隠れてる」

 

 水辺を再現して置かれた木の陰から、鮮やかな黄色がはみ出ていた。讃岐や石上のように観察眼が優れている人でなければ、気付かないだろう。

 讃岐は指先をそのまま下げて、水槽下のポップに向けた。水槽内には5匹のカエルを飼育している、との表記。

 

「ポップが間違ってるんじゃない?」

「特別展示のポップを間違えるかな……」

 

 考え込んでいると背後から声が掛かった。

 

「君達、カエルに興味があるゲコ?」

 

 振り返った白銀達は、その人物の姿を見て固まった。カエルを模した緑色の帽子を被った中年の男性。白衣の下に、水族館のスタッフTシャツを着ているので、かろうじて不審者ではないと分かる。

 石上は小声で囁いた。

 

「会長、何ですかこの人。露骨にハコフグ帽子の人をパクってますけど」

「ああ、さかなク──」

「私はかえるクン。以後よろしくお願いしますゲコ」

 

 是非とも遠慮したい。

 語尾の「ゲコ」は元ネタとの差別化を図った結果だろうか。だとしたら明らかに失敗している。

 

「かえるクン、この水槽に居るカエルの数は、ポップに書いてある通り5匹で間違いありませんか?」

 

 讃岐は早くもこの状況に順応する。

 

「はい、間違いありませんよ…………あっ、間違いありませんゲコ」

 

 忘れてんじゃねぇよ。

 

「でも6匹いますよ」

「ゲコッ!?」

 

 石上に指摘され、かえるクンは慌てて水槽を覗き込んだ。目を見開き、上から横から視線を巡らせる。

 

「本当だ、6匹居る。何でぇ?」

 

 驚きですっかりキャラを忘れてしまったかえるクン。そうすれば5匹になるとでもいうように、顔を近付けてカエル達を凝視している。

 水槽から顔を離したかえるクンは、大きなため息を吐いた。

 

「教えて頂きありがとうございます。確認してみます…………また管理が甘いって怒られるなぁ」

 

 苦労が伺える一言をボソリと呟いて、水槽を後にするかえるクンを、讃岐が呼び止めた。

 

「すみません。お伺いしたいのですが」

「何ですか?」

「飼育員による解説があるようですが、具体的にはどういったイベントなんですか?」

 

 かえるクンは少し考える間の後、

 

「特徴、生態の解説や、私が水槽から1匹取り出して間近で見せたりします。まぁ見てもらうというより、毒性が無いのをアピールするのが主な目的ですね」

 

 自分から聞いたにも関わらず、讃岐は考え込んでいて返事をしない。代わりに返事をしたのは早坂だった。

 

「ありがとうございましたー」

「では、私はこれで」

 

 肩を落としたまま、かえるクンはとぼとぼ歩いて行った。

 

「さて」白銀は水槽の前で固まっている讃岐を視界に捉えて、口を開いた。

 

「無事合流できたようだし、讃岐は返そう」

「ごめんねー。迷惑かけちゃって。……いつまでそうやってんの!」

 

 スクールバックで、ぼうっとしている讃岐の背中を叩く。子供と保護者みたいだ。見かけによらずしっかり者なのかもしれない。

 

「やあ、お邪魔したね。結構楽しめたよ」

「どちらかというと、俺達の方がお邪魔した気もするがな」

 

 白銀と石上は、これ以上お邪魔にならないよう、2人を置いて先に行く。途中振り返ると、再び水槽を覗き込んでいる讃岐と、その背後で呆れたように見守る早坂が目に入った。何だかんだで相性の良さそうな2人の姿に、白銀は安心した。

 

「よし、次はペンギンを見に行くか!」

「おっ、いいですね」

 

 

 ○

 

 

「行きたい場所があるんだ!」

 

 白銀達と別れてから、讃岐は真っ先に宣言した。

 魚の水槽に目もくれず讃岐が向かった先には、青い男性のシルエットとピンクの女性のシルエット。有り体に言えばトイレである。

 

「……早く行って来たらどうですか」

「残念ながら行けないね」

 

 トイレの入口には貼り紙があり、「故障中。立入禁止。1Fのトイレをご使用ください」とある。

 

「思った通りだ」小さく呟いた。目まぐるしい展開に、早坂はとっくに思考を放棄していた。どうせ後から解説したがるのだし。ぼんやり突っ立っていた早坂に、讃岐が手のひらを差し出した。

 

「ペンと紙持ってない?」

「ありますけど……」

 

 早坂はペンとメモ帳を差し出された手に置いた。受け取った讃岐は何故か、手を出したままの姿勢から動かない。

 黒い双眸が早坂の全身を探るように射抜く。

 

「な、何ですか?」

「昨夜も思ったんだけどさ、こういうのどこから出してるの? バックじゃないよね」

 

 普段の訳知り顔はどこに行ったのか、讃岐にしては珍しく困惑した表情。

 早坂は精々不敵に笑ってやった。

 

「無粋な質問ですね。答えは当然、どこからともなく、ですよ」

 

 

 

 

 それから讃岐は、メモに何事か書き記すと、近くを通りかかった水族館の従業員と二、三言葉を交わしてメモ用紙を渡した。そして一仕事終えた後のような晴れやかな表情で、早坂に「僕達もお魚観賞と洒落込もうか」と提案した。

 トイレから真っ直ぐ階段に向かい下に降りた。屋上だと白銀達と遭遇する可能性があるからだ。

 

「あのカエルね」歩きながら讃岐は言った。

 

「はい」

「ロシアンルーレットだったんだよ」

 

 物騒な単語だ。水族館にはとてもじゃないが似合わない。色鮮やかなカエルにも。

 

「犯人は毒を持ったモウドクフキヤガエルを、1匹水槽に加えた。飼育員がカエルの解説をする時、実際に取り出すって言ってたよね。毒性が無いのをアピールするのが目的だとも。という事は、取り出す時、飼育員は素手でカエルに触る筈だ」

「繰り返していればいずれ弾に当たる、と。確率も6分の1、ロシアンルーレットに例えたのは的確ですね」

「まぁ、触っただけなら死にはしないだろうけどね」

 

 会話の内容とは裏腹に、周囲の水槽では魚は優雅に泳いでいる。そのギャップに早坂は妙な気分を味わった。

 

「カエルを入れるのは難しくない。蓋を開けて入れるか、配線用に空いている蓋の穴から落とせば良い。小さな子供でもない限り、誰にでも可能だ」

「それだと犯人の特定は困難に思えますが」

 

 デートスポットであり、観光名所でもある水族館。平日で人が少ないとはいえ、容疑者の数は膨大だ。

 

「そうだね。だけど、偶然にも僕は犯人を特定できるだけの情報を手に入れた。水槽に入れる以上、犯人は毒性のあるモウドクフキヤガエルに触らなくてはならない。これは犯人を絞り込む上で重要なヒントになった」

 

 犯人が自然界最強の猛毒をものともしない程毒への耐性があった。当たり前だが、この可能性は無視して良い。つまり犯人は、触れても問題ない状態だった。

 

「手袋やハンカチを介してカエルに触れた」

「そう、手袋かハンカチなら、犯人は手袋の方を使いたかっただろうね。今の時期に手袋をしているのは不自然だけど、こうも考えられる。犯人は手袋をしていても不自然でない立場を利用したのではないか?」

 

 早坂はぐるりと周囲を見回す。やはりと言うべきか、手袋をしている人は見受けられない。

 

「僕だけ白銀君達と合流したから、君は見ていないと思うけど」

 

 讃岐と早坂がはぐれたのは、偶然ではない。一緒に見て周った方が、白銀の好みを探り易いと考えた2人は、はぐれたふりをして白銀と合流したのだった。

 

「2階を歩いている時に、掃除道具を抱えた従業員とすれ違ったんだ。彼が持っていたバケツの中にはビニール手袋があった」

「ではその彼が」

「結論から言えばね。でもその時点では、少し違和感を感じただけだった」

「少し?」

 

 その時はまだ、事件を認識していなかった。にも関わらず、違和感を感じたというのが、早坂は気になった。

 

「2階の位置関係をおさらいしようか。廊下は漢字の口の形になっている。僕達が従業員とすれ違ったのは、右下の角の少し手前だ。トイレは左上で、階段があるのは左辺の真ん中。トイレ掃除を終えて他の階に行くのだとすれば、僕達とすれ違う移動ルートは非効率的と言わざるを得ない」

 

 言われてみれば、早坂は素直に感心した。

 フロアを移動するには階段を使う必要がある。階段からトイレに行くなら、上に行くだけなので、そもそも讃岐達とはすれ違わない。トイレ掃除を終えたのなら、その階に留まる理由がないので他の階に移動したと思われるが、トイレから讃岐達とすれ違って階段に行くルートは遠回りになる。

 

「そして、次の事実と合わせる事により、違和感は疑惑に変わった」

 

「これも君が居ない時の出来事だけど」と讃岐は断りを入れる。

 

「2階に着いて少ししてから、石上君がトイレに行ったんだ。トイレから戻って来たのは、10分後くらいだった。僕は石上君がウン──悪くトイレに行列ができているからだと思っていた。……そんな目しないでよ。軌道修正したし、ギリギリセーフだろう?」

 

 冷たい視線に耐えられなくなったのか、最後には言い訳がましく弁明する。

 

「ほぼアウトと言うべきですね」

 

 ギリギリセーフだと問題がなかったかのような印象を受ける。讃岐は大袈裟にゲフン、ゲフンと咳払いをして続きを話す。

 

「僕は前後の石上君の様子から、行列に捕まったのでも、大きい用事を済ませていたのでもないと考えた。何らかの理由で2階のトイレが使えず、他の階のトイレを使っていたので、遅くなったのではないかと」

「それで確認したんですね。ですが、トイレが故障していたのは犯人にとっても周知の事実。自分が怪しまれるのは分かっていたと思いますが」

「それでも実行する必要があったんだよ。飼育員の解説は期間限定だからね。トイレが直るまで待ってられなかったんだ」

 

 讃岐は水槽を泳ぐ魚に目を向けて、呟くように言った。

 

「掃除するトイレが無いフロアで、彼は一体何をしていたんだろうね」

 

 彼はシリンダーに一発だけ、弾丸を装填していたのだ。

 

 

 

 推理が終わってから、早坂と讃岐は特に会話もなくぶらぶら歩いていた。海月のエリアに入った所で早坂は口を開いた。

 

「先程書いた紙には、その推理が?」

「うん。ただの高校生の言葉だと信じないだろうから、大人に渡すよう頼まれた体で渡したよ」

「信じるでしょうか」

「ダメなら、有り余ってる権力に任せるさ」

 

 冗談めかして肩をすくめる。投げやりだなと思ったが、同時に同意もした。確かに四宮家の権力を使えば、期間限定の展示を辞めさせる事など造作もない。

 早坂は高い位置にある讃岐の横顔を見上げた。正確にはそこにある黒い瞳を。

 最近気付いたのだが、讃岐光谷の優れた観察眼は、石上優のそれとは決定的な違いがある。石上の観察眼は先天的な才能であり、感覚的に違和感を捉えられる。一方、讃岐は経験と努力を積み重ねて獲得した後天的な能力。常に違和感を見逃すまいと周囲に目を向け、得た情報を脳で処理して初めて、異変を認識できる。

 早坂愛は讃岐光谷の過去を知らない。けれど、誰もが意識して見ないものを見ようとする彼だからこそ救えた人は、案外多いのではないかと思う。それこそ、今日の様に。もっとも、本人にそんなつもりがないのは、十二分に承知してはいるのだけれど。

 早坂が讃岐の過去を探っているのは仕事だからだ。かぐやに危害を及ぼす人物ではないかを見極める、それ以上の意味はない筈だった。けれど、今は──。

 

 讃岐の黒い瞳が澄んだ輝きを見せる。

 

 ……いや、おかしい。だって人の目は輝いたりしない。「目が輝いている」とはあくまで比喩的な表現方法であり、実際に輝いている訳ではない。

 疑問の答えは直ぐに出た。キラキラ輝いているのは目ではなく、讃岐の周辺。つまり、早坂自身が謎のキラキラ効果背景を幻視してしまっているのだ。

 キラキラに加えて、水と魚に囲まれた水族館特有の幻想的な雰囲気が上乗せされる。

 何故か再発してしまった「少女漫画脳」早坂は据わった瞳のまま、ふらふらと水槽の前に進み出た。そして両手をガラスに付いて、頭を振りかぶる。

 

「うぇっ!? 何してるんだい、早坂さん!?」

 

 水槽目掛けて振り下ろされた頭部は、素っ頓狂な声を上げた讃岐の手によって、寸前の所で直撃を免れた。未だ水槽に向けて突撃をやめない頭部と、必死に押し返す右手は膠着状態に陥る。

 不幸だったのは、この状況が百歩譲れば、おでこを触られていると言えなくもないからだ。早坂は百歩譲れる寛容な人間なのだった。

 

「強っ! このタイミングで奇行が再発するなんて! 別邸の壁をへこませるのと、水槽のガラスを破壊するのとは訳が違うのに……」

 

 早坂の頭蓋への過大評価が混じった悲痛な叫びに返答する余裕は、今の早坂にはない。

 どうしてこんなアホな醜態を晒す羽目になってしまったのか? 早坂には答えが分かる気がした。

 それはきっと、

 

 

 ここが水族館だった、からだ。



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火ノ口三鈴は裁きたい

 探偵といえば、意味深な発言でさんざん周囲を煙に巻いた挙句、最後は関係者を集めて「さて」と偉そうに推論を語り出す姿を思い浮かべる人が大半だろう。しかし、それはあくまでフィクションに於ける探偵像。名探偵と呼ばれる者の姿に過ぎない。ミステリーという謎を中心とした物語において、謎を解き明かす役目を担う「名探偵」という舞台装置の姿である。

 そんな名探偵に誤った憧れを抱き、推理を披露する為、わざわざ関係者を集めるのに四苦八苦する人間も居るとか居ないとか。

 

 閑話休題。

 

 今回はそんな名探偵ではなく、現実の探偵。浮気調査や犬探し等の地道な探偵活動を主題としたお話。謎解きどころか謎すら無い事は言うまでもない。現実なんてそんなもんである。

 

 

 ○

 

 

 case1 中等部の女子生徒

 

「やあ、こっちに来てるなんて珍しいね」

「あっ、先輩。こんにちは……」

 

 讃岐光谷は、中等部の生徒らしき女子と短く挨拶を交わした。背中まで伸びた長い銀髪。整った顔は色白で、鋭い目は欠点にならないどころか、クールな雰囲気とマッチしている。

 本当挨拶をしただけらしい。そのまま立ち去ろうとした讃岐を、女子生徒は少し考えてから引き止めた。

 

「先輩、今お時間ありますか?」

「親愛なる友人の妹さんの頼みなら、無くたって作るさ」

 

 わざとらしい大袈裟な物言いに、女子生徒は何と返していいのか分からず困っている様子だった。女子生徒はまだ讃岐と付き合いが浅いようだ。少しでも付き合いのある人物なら、この手の発言は適当に聞き流す。返答の言葉を探しているのは、慣れていない証拠だ。

 

「ベンチに座って話そうか」

 

 答えあぐねている女子生徒に讃岐は提案した。女子生徒も提案に賛成し、場所を移動した。

 

「それで、どんな要件かな?」

 

 女子生徒は言いづらそうな間を置いてから「兄の事で」と言葉を発した。

 

「これは別に兄の恋愛事情が気になるとか、本人に直接聞くのが恥ずかしいとかじゃなくて、私の今後の将来設計にも関わるから聞きたいだけなんですけど……」

 

 前置き長っ。

 

 予防線を張りすぎて逆に興味津々なのが露呈している。女子生徒は意外とブラコンなのかもしれない。

 

「分かっているよ」と讃岐は二重、三重に張られた予防線に触れない懸命な判断。

 

「最近兄は恋をしているみたいなんです。先輩は相手が誰だか知りませんか?」

 

 讃岐は困ったように眉を寄せた。

 

「恋ねぇ……。心当たりはないね。君はどうなんだい?」

「私は生徒会の人達が怪しいと思っています」

「あそこは美人が多いからね。でも、どうかな。生徒会以外にも交友のある女子はいるだろうし。石上君……生徒会の会計に聞いたら? 僕よりお兄さんと親しいよ」

「できません」

 

 にべもない返事。讃岐は訝しんで首を傾げた。

 

「何で?」

「兄と近しい人だと、私が聞いた事が兄に伝わる可能性が高いですよね」

「問題あるの?」

「大ありです! それだと私が、兄の恋愛模様に興味津々みたいじゃないですか!」

「違うのかな?」

 

 

 

 

「──その後も、被疑者は長々と女子生徒の話に付き合っていました」

「有罪だね〜」

 

 放課後、空き教室を貸し切って、ごくごく私的な裁判が行われていた。

 罪状を読み上げたのは、火ノ口(ひのくち)三鈴(みりん)。教壇で裁判長よろしく座っている、のんびりした雰囲気の茶髪の女子生徒は駿河(するが)すばる。

 

「異議あり。本裁判は民事に当たるので、『被疑者』ではなく『被告』と表現するべきです」

 

 椅子だけ持って来て教壇の前に座っている長身の男子生徒、讃岐光谷は、あっさり有罪判決を下されたにも関わらず、腹が立つくらい冷静に指摘した。

 

「細かいことはいいの!」火ノ口は一括して異議を退ける。

 

「ねぇ、駿河さん。僕もこのノリに合わせなきゃ駄目なの?」

「ダメだよ」

「圧が凄い。火ノ口さんはともかく駿河さんまで……」

 

 取りつく島もない。讃岐は何故そんなに真剣なのか分からない、といった表情だ。

 

「てかこれ何の裁判なの?」

 

 火ノ口と駿河は顔を見合わせてから、口を揃えて言った。

 

「讃岐くんの浮気裁判」

 

 讃岐はツチノコを発見したとでもいうように、キョトンとして目を瞬かせた。

 

「……浮気? 昼ドラにでも影響されたのかな?」

「誤魔化そうったってそうはいかないよ! 全く、早坂というものがありながら」

「早坂さん? まあ、仲良くさせて貰っているね」

 

 この後に及んでしらを切り通すつもりか。

 

 直接聞いた訳ではないが、火ノ口と駿河の友人である早坂愛と、ふてぶてしく椅子に座っている男が付き合っているのは周知の事実。にも関わらず、この男、やたらと女子と居る場面を目撃されている。

 火ノ口は讃岐光谷という人間が、友人を任せるに足る人物か見極める必要がある、と使命感に燃えていた。

 

「浮気云々はともかくとして、裁判の趣旨は理解したよ。君達は僕が早坂さん以外の女性と、親密な関係になっていないか心配しているんだね」

 

 教科書を読み上げるような語り口で、讃岐は問題点を述べた。火ノ口と駿河は黙って頷く。

 

「で、さっきの話みたいに、僕の行動を探っていたと。数日前から視線を感じると思っていたけど、君だったとはね」

「余裕ぶっていられるのも今の内だよ」

「余裕ぶるも何も、僕は相談に乗っただけだよ。お世辞にも彼女と仲が良いとは言えないし」

 

 被告は無罪を主張。火ノ口はすかさず言及する。

 

「仲良くない高等部の先輩に、中等部の子が相談する?」

「彼女の兄とは面識があるから、他の人よりは気安いだろうね」

 

 動揺した様子もなく、もっともらしい反論を行う讃岐。

 返答に窮した火ノ口は讃岐の左側、裁判で言えば検察官の位置に立ったまま、机の上にある書類を手に取った。

 讃岐は物言いたげな視線を書類に向けて、

 

「そんな小道具まで用意して……」

 

 物言いたげ、ではなく物語った。

 火ノ口が教卓に目で合図を送ると、駿河は手にした「そんな小道具」で教卓を叩いた。ガンガンと鈍い音が鳴る。

 

「静粛に」

「裁判長を引き入れてるのズルいなぁ」

 

 裁判長と徒党を組んで讃岐を黙らせてから、次なる罪状を読み上げた。

 

 case2 ヤクザの娘

 

「いやぁ、まだ日中は風が心地いいね」

「失せろ」

 

 龍珠桃は寝袋の上に寝転んだ状態で上半身だけ起こして、鋭く、そして端的に言葉を放った。

 不機嫌を隠さず顔に出していたが、秀知院において美少女の代名詞「難題女子」に数えられる龍珠の美貌に一切の翳りは無い。

 龍珠の不機嫌丸出しの態度もどこ吹く風。讃岐は口元に笑みすら浮かべて、秋の風を堪能していた。

 邪魔者扱いされながらも讃岐が止まっているのは、この場所に原因があった。讃岐達が居るのは学校の屋上、風を感じるには絶好の場所だ。もっとも、本当に涼むのが目的なのか、甚だ疑問ではあるが。

 

「そう言わないでよ。屋上は共用スペース。僕が居ても問題ないだろう」

「放課後は天文部のスペースだ。鍵も私にしか貸し出されてねぇ」

 

 讃岐は高い位置から龍珠を見下ろし、観察するように視線を動かす。メンチを切られたとでも思ったのか、龍珠は「あぁ?」とガラの悪い威嚇。

 

「とても部活動をしている様には思えないね。スマホばっかり見てたら、流れ星を見逃してしまうよ」

「うるせぇ。流れ星に願い事するような柄かよ」

「どうかな。白銀君から聞いた話や、君が抱えているやたらとファンシーなクマさんクッションから推測するに、案外……」

 

 バフっ。

 

 讃岐の言葉は、可愛らしいクマさんが顔面に叩きつけられた事によって中断された。使い方がちっとも可愛くない。

 

「それ以上妄言吐き散らすなら、白銀諸共沈めるぞ」

 

 知らないところで白銀は命の危機に陥った。

 龍珠に恐れをなした讃岐は、投げつけられたクマさんを持ったまま、逃げるようにそそくさと屋上の手すりへと移動した。それから、何かに気付いたらしく視線を眼下の校庭に巡らせた後振り返った。

 

「ほら、部活動に励むとはああいうのだよ」

 

 讃岐はクマさんの手を操って、校庭で練習中のラクロス部を指差した。

 心底面倒くさそうに立ち上がった龍珠は、校庭には目もくれず讃岐のてからクマさんを取り返すと、直ぐ様定位置の寝袋の上に戻って、

 

「私はコレに励んでるからいいんだよ」とスマホを振って見せた。画面には何かしらのゲーム画面が映っている。

 

 処置無し。讃岐は諦めたらしく、無言で肩をすくめた。

 

「お前、どうせ暇なら飲み物買って来いよ」

「何で急に……パシリにされる覚えはないと思うけど」

 

 いきなり使いっ走りを命じられ、流石の讃岐も怪訝そうな表情を浮かべる。

 

「私に借りがあるだろ。お前のアレが探りに来た時喋らなかった」

 

 抽象的過ぎて何の事かからない。讃岐には伝わったらしく、言葉を返す。

 

「感謝はするけど、別に頼んでないよね」

「確かにそうだな」

 

 そう言って龍珠は立ち上がる。

 

「じゃあ、全部話して来るわ」

「さて、飲み物でも買って来ようかな! 龍珠さんは何がいい?」

「コーラ」

 

 鮮やかに態度と体を翻して讃岐は屋上の扉に向かって歩き出した

 扉の隙間から様子を観察していた火ノ口は、慌てて飛び退き、目にも止まらぬ速さで階段を駆け降りた。

 

 

 

 

「──という訳で、被告は屋上で女子と密会していました」

「有罪だね〜」

 

 再びあっさりと有罪判決を受けた讃岐は、相も変わらず呆れた表情で椅子に腰掛けている。

 

「そういう見方をするから、やましく感じるんだよ。ありのままの事実に目を向けるべきだね。僕は脅された挙句、使いっ走りにされたんだよ。親密な関係とは程遠いね」

 

 

 火ノ口は目を凝らして観察したが、讃岐の態度は隠し事をしているようにも、嘘をついているようにも見受けられない。

 今回のケースについて、最初に質問したのは駿河だった。 

 

「龍珠さんに借りがあるの?」

 

 ヤクザの娘に借り。火ノ口は警戒を露わにして耳を澄ました。

 

「借りというより、弱みを握られてるようなもんだね。君達にだって、人に言えない恥ずかしい秘密の1つや2つあるだろう?」

「ほうほう、秘密を共有する仲と」

「そう来たか……一応言っておくけど、好きで共有してるんじゃないからね」

 

 グレーだな。そう判断した火ノ口は更なる罪状を突き付ける為、資料をめくった。しかし、次は罪状を読み上げる必要もないと思い直し資料を置く。何しろ次の人物は行動だけが問題なのではない。

 

「讃岐君、一年生にも仲が良い後輩がいるよね。女子で」

「何人かいるね」

「金髪で」

「小野寺さんかな? 先に上げた2人よりはよく話すね」

 

 讃岐は誰のことか思い当たったようだが、尚も女子生徒の特徴を並べる。

 

「目が青い」

 

 そんな火ノ口の言動に、それがどうしたと、讃岐は首を傾げた。

 

「そしてギャル!」

「いや、だから分かったって」

 

 全然分かってない! 

 

 讃岐は火ノ口が何を言いたいのか全く理解できていない。重要なのは、女子生徒が金髪碧眼のギャルである事。つまり、

 

「有罪だね〜」

 

 またもや有罪判決をくらった讃岐は、長い足を組んで顎に手を添える。少しの間そのままの姿勢で固まってから、再び口を開いた。

 

「なるほど。要するに君達は僕が金髪碧眼好きだと、言いたいんだね」

 

 さも苦労して導き出した事実であるかのように語る。

 

「そんなに考え込む必要あった?」

「要するにって、最初からそう言ってるけど」

 

 長々と考えなければ分からない事だろうか。何でもそつなくこなすタイプではあるものの、変な所で抜けている。

 

「別にその手の容姿が嫌いとは言わないけどさ、君も盗み聞きしてたなら知っているだろう? 体育祭が近いから、その話をしただけだよ」

「話しただけ? あれが!?」

 

 火ノ口は机を叩いて身を乗り出した。予想に反して大袈裟な反応だったらしい。「何かあったかな……」と讃岐は思い返すように視線を宙で彷徨わせた。

 火ノ口が聞いた2人の会話とはこうである。

 

『先輩、制服貸してください』

『唐突だね。別に構わないけど、多分サイズ合わないよ』

『余った部分は折るんで大丈夫ッス』

『そういうの気にするタチじゃないけど、少しは人の制服折るの躊躇った方がいいね』

 

 話を聞いた駿河はおっとりと教壇に腰掛けていたこれまでと違って、俄かに警戒の色を滲ませた。火ノ口も同様、警戒メーターを引き上げた。

 異性に制服を貸すなどただ事ではない。

 

「これでも話しただけ? さあ、白状してもらうよ!」

 

 睨みつける様な視線を受けても、讃岐は何とも能天気な様子で、「あれか」と呟いた。

 

「君達、紅組の応援団が何するか知っているかい?」

「応援団? 体育祭の?」

 

 讃岐は椅子に座ったまま顔だけ向けて頷いた。

 

「彼女は応援団の一員なんだけど、応援服が男子は女子の制服、女子は男子の制服に決まったらしくてね。僕に借りに来たんだ。結局、僕の制服だとぶかぶか過ぎたからやめたんだけどね」

「へぇ〜、面白そうな事やってるんだね〜」

「面白いかどうかは判断しかねるけど、僕が制服を貸したのにやましい理由がないのは、理解してくれたかな」

 

 身の潔白を示すように両腕を横に伸ばす。

 制服を貸したのに理由があるからといって、親密な関係ではないと証明されてはいないが、こちらにこれ以上追及する術がないのも事実。火ノ口は大人しく引き下がった。何より弾はまだまだある。

 改めて次弾を発射しようとした直前、讃岐は開いた手を火ノ口に突き付けて待ったをかけた。

 

「ちょっと待って。まだあるの?」

 

 少々困惑気味に問う讃岐に、火ノ口は資料をペラペラめくって見せた。

 

「まだまだあるよ。藤原さんとか、TG部の1年生とか、TG部の3年生とか」

「それってつまりTG部でしょ。分けなくていいよ、一纏めで。彼女達とは一緒にゲームしただけだよ」

「でも、結婚したり、愛してるって言ったりしてしたよね?」

「……ゲームのチョイスが悪かったな」

 

 讃岐によると、「パッピーライフゲーム」や「愛してるゲーム」なるゲームに興じていたらしい。

「パッピーライフゲーム」は早い話人生ゲームのようなもの。「愛してるゲーム」は面と向かって「愛してる」と発言し、照れたら負けという一風変わったゲームらしい…………嘘にしてももう少しマシな嘘を付いて欲しいものだ。

 疑惑の視線に晒された讃岐は顔の前で手を振った。

 

「嘘じゃないよ。藤原さん達に確認してもいいし、何なら実際にプレイしてもいい。『愛してるゲーム』とか強いよ、僕。無敗だったし」

 

 いつの間にか弁明を自慢にすり替えて、讃岐は堂々と張った胸元に手を置く。

 今までの流れでそのゲームを選ぶあたりが、讃岐光谷の讃岐光谷たる所以と言える。

 

「聞いてないし。羞恥心捨ててるから強いだけでしょ。とにかく! 今後そのゲーム禁止!」

「はぁい」

 

 間延びした返事。本当に分かっているのだろうか? 

 

 弾も出尽くしたので資料を机の上に置く。讃岐の罪状が多くて長引いた所為で、厳かな雰囲気で進行した裁判ごっこもだれてきた。讃岐はあくびを漏らしながら組んだ足をプラプラ揺らし、駿河は手に持った木槌──ガベルという名前らしい──を珍しそうに観察している。

 ゴホンと、空咳で注意を引いた火ノ口は、場を引き締める為、重々しい声音で裁判長に判決を促した。

 

「裁判長、判決を」

 

「うーん」顎に人差し指を当てて悩ましげに唸ったのも一瞬のこと。駿河はガベルを振り下ろした。鈍い音が教室に響く。

 

「有罪」

 

「異議ありですわ!!」

 

 八百長裁判に讃岐が文句を言うよりも早く、その声は響いた。声と共に勢いよく開いた扉の先には2人の人物。

 絵に描いたようなお嬢様言葉で異議を唱えたのは、長い栗色髪の少女、紀かれん。そして隣の艶やかな黒髪の少女を認めると、火ノ口ははっとした。

 

「巨瀬エリカ……」

「……火ノ口三鈴」

 

 真剣な表情で対面する2人。あわや一触即発…………ではない。

 

「みそっ」

 

 エリカは両手の人差し指と中指を繋げてMを作る。

 

「みりんっ」

 

 同じポーズで応じる火ノ口。

 最後は2人腕を合わせて大きなMを形作り、

 

「調味料M〜〜ッ!」

 

 一連の流れを駿河は慣れた様子で教卓から見守り、讃岐は切れ味鋭く切り込んだ。

 

「君達は、出会ったら必ずそれやらないといけない呪いにでもかかっているのかな? せっかくタイミングを見計らって、カッコよく登場した紀さんの努力が台無しじゃないか」

「そこは触れないでくださいまし!」

 

 顔を赤らめながら、かれんが讃岐に抗議する。

 調味料Mの内、みその方が呆れた様にため息を漏らす。

 

「かれんが突然教室の扉に張り付いたと思ったら、ずっと盗み聞きしてたのよ」

 

 マスメディア部コンビの乱入で騒がしくなった室内。

 どこから聞いていたのだろうかと疑問に思ったが、それ以上に気になるのはかれんの発言だ。

 

「異議って?」

 

 自分の発言について聞かれたかれんは、表情を引き締めて大真面目に言い放った。

 

「勿論、讃岐くんの不貞行為についてですわ。私には分かっています。彼はどのような困難からも身を挺して早坂さんを守り抜き、一生幸せにする覚悟があるのだと」

「讃岐くんって普段の軽い感じと違って、意外と重いタイプだったのね」

「らしいね。僕も初めて知ったよ」

 

 かれんの隣で頬を赤く染めるエリカに、讃岐は皮肉っぽく返した。

 学園一のカプ厨と名高い、紀かれんがここまで言うのだから侮れない。火ノ口と駿河はひとまず判決を取り消し、理由を尋ねる事にした。

 

「何でそう言い切れるの?」

「私は見たのですわ……」

 

 かれんは夢見る乙女のようにうっとりした目をして、胸の前で手を合わせた。

 

「夕暮れの廊下。向かい合うお2人の距離は徐々に縮まってゆき、やがて影が重なって……」

 

「ええぇ──!!」火ノ口と駿河は顔を赤くして叫んだ。

 

 2人は、自分には無関係とばかりに椅子に座っている讃岐に大股で詰め寄り、同時に肩持って興奮気味に激しく揺すった。

 

「ほ、本当なの? 今の話!?」

「もうそこまで行ってたの!?」

 

 火ノ口も駿河も軽い見た目に反して、男性との交際経験は無い。秀知院学園に通う大半の生徒と同じく、大切に育てられた箱入り娘。恋のABCすら経験がない。

 そんな彼女達だからこそ、友人が思ったより早く大人の階段を──ABCのAを済ませていると知って、好奇心と動揺が混ざった感情を爆発させた。普段はぼんやりしている駿河ですら興奮を隠せないでいる。

 

「2人共落ち着いて! それじゃあ喋れないわよ」

 

 エリカに諌められ、我に返ったように手を止める。

 脳みそを激しくシェイクされた讃岐の首がカクンと折れて上を向く。しばらくして頭が持ち上がり、意識をはっきりさせる為か、頭を左右に振った。

 

「ありがとう巨瀬さん。おかげで僕の脳みそは事なきを得たよ」

「そんな事より、かれんの話は本当なの?」

「んー、まあ、いつもの妄想でしょ」

「騙されてはいけません!」

 

 何故か弁護しに入ったかれんが、讃岐を追い詰める構図に変わる。かれんは指先と言葉を被告に突きつける。

 

「私はこの目で目撃しました。言い逃れの余地はありませんわ!」

 

 8つの瞳に見詰められた讃岐は、両手を挙げて観念したように深く息を吐いた。

 

「はいはい、降参降参。確かに紀さんの言うようなシチュエーションはあったよ」

 

 じゃあ、と再び前のめりになる火ノ口と駿河をすかさず制する。

 

「但し、君達が思っているような事はしていないよ」

 

 讃岐はかれんの方に顔を向ける。

 

「君が見たのは廊下で向かい合ってる僕達で、そこから先は見ていないだろう? 君の証言は正確性に欠けるよ」

「どうせその後やられたのですから、問題ないのでは?」

 

 かれんは頭に疑問符を浮かべる。悪気が無いのが恐ろしい。

 

「やってないんだけどね。その考え方でよくマスメディア部が務まるね……」

「では、その後はどうなさったのですか?」

「普通に帰ったよ」

「一緒に?」

「うん」

「何故です?」

 

 かれんの意図不明な質問攻めに困惑した様子を見せながらも、讃岐は淡々と答えを返す。

 

「何故って言われてもね。特に理由はないけど……」

「つまり、一緒に居るのに理由はいらないと! そういう事ですね!」

「前向きな解釈だね」

 

 被告を追い詰めた後にも関わらず、かれんは弁護人らしく堂々と火ノ口と相対した。

 

「お分かりいただけましたか? このあり方こそ『本物の愛』ですわ」

 

 したり顔で「本物の愛」等とこっちが恥ずかしくなるような、ピュアワードを平然と口にするかれん。

 

「紀さんは男性に求めるハードルが高いね」

「かれん、一途な男の人に夢見がちだから」

「僕は彼女が虚偽の報道をしないか心配になって来たよ」

「大丈夫よ! かれんの妄想が暴走した時は私が止めるから!」

「君は君で心配だけどね」

「何で!?」

 

 真実の愛がどうのと、語り続けているかれんを横目に、讃岐とエリカは呑気に会話している。正直聞いている方が恥ずかしいので、話してないで早く止めて欲しい。

 

「でも、讃岐くんが女の子と会っていたのは事実だよ」

「それは全て事情があったからです!」

「言い切るね」

「私はハピハピイチャラブが好みですから。ドロドロ三角関係とかは遠慮したい主義ですので!」

「好みの問題だし、押し付けが凄い」

 

 駿河にツッコまれても、かれんは全く動じない。

 

「証明する方法ならあります」となにやらポケットから紙を取り出した。

 長方形の2枚の紙には『sunlight水族館』の文字が印刷されていた。水族館のチケットのようだ。

 

「sunlight水族館のペアチケットです。お父様の会社の雑誌で特集した縁があっていただきました」

 

 言葉遣いからも分かるように、紀かれんも秀知院の生徒らしくお嬢様。大手出版社社長令嬢だ。

 

「これを差し上げます」

 

 讃岐は差し出されたチケットを見て、かれんを見上げて、またチケットを見た。

 

「えっ、何で?」

「讃岐くんには早坂さんとデートに行っていただきます。早坂さんがデートに満足した場合は無罪、不満に感じていたのなら有罪、というのはどうでしょう?」

 

 かれんは裁判長である駿河に判断を仰いだ。駿河は少し迷ってから、火ノ口に尋ねる。

 

「私はいいと思うけど〜、どうする?」

 

 趣旨とずれている気もするが、これはこれで判断材料にはなる。火ノ口はかれんの提案に乗った。

 

「いいよ。そうしよっか」

 

 話が纏まったところで、讃岐がチケットから顔を上げた。

 

「君達、随分真剣なんだね」

 

 何を言うかと思えば、

 

「そりゃあ、友達の事なんだし、当たり前でしょ」

「付き合い長いしねー」

 

 マスメディア部コンビも同じ気持ちのようだ。

 

「勿論ですわ。私達早坂さんの事が大好きですから」

「そうそう、大事な仲間でもあるし」

 

 それを聞いた讃岐は口の端に笑みを浮かべて、かれんの手からチケットを受け取った。

 

「ありがたくいただいておくよ。精々期待に添える様頑張るさ」

 

 椅子から立ち上がり、教室を出ようと扉を開いたところで、不意に立ち止まって振り返った。

 

「ああ、そうだ。言い忘れてた。僕は君達ほど、早坂さんと付き合いが長い訳ではないけれどね──」

 

 

 

 

 じゃあね、とチケットをひらひら振って、讃岐は教室から出て行った。

 

「今の冗談だと思う?」

「冗談でも言いそうだし、本気でも言いそう。クサイ台詞真顔で言える人だし」

 

 悩む火ノ口と駿河の横で、かれんは頬を両手で包むようにして何やら興奮していた。

 

 

 ○

 

 

 火ノ口と駿河と早坂は弁当を持ち寄り、一つの机を囲んでいた。教室では火ノ口達と同じように仲の良い友人同士でで集まっているグループが幾つか見受けられた。いつもと変わらぬ昼休みの光景。

 弁明を開けて、さっそく火ノ口は行動に出た。朝からずっと我慢していたのだ。正直弁当どころではない。

 

「で? どうだった?」

「何がー?」

 

 早坂が玉子焼きを掴んだ箸を止めた。

 

「水族館行ったんでしょ。讃岐くんと」

「……何で知ってるの?」

 

 早坂は怪訝そうに眉を寄せる。

 

「まーまー、それはいいから。で、どうだったの?」

 

「どうっていわれてもー」玉子焼きをひと口食べる。飲み込んでから続けた。

 

「普通に魚見たり、モウドクフキヤガエル見たりしただけだし」

「モウドクフキヤガエル?」

「黄色いカエルで、毒持ってる」

「へぇー、そんなカエル居るんだ……って違う!」

 

 火ノ口と駿河は身を乗り出して顔を早坂の方に寄せた。まどろっこしいので、直接的な聞き方に変える。

 

「讃岐くんとはどうなの?」

 

 讃岐が早坂の彼氏として相応しいか見極める意図も当然あるが、それはそれとして、火ノ口も駿河も女子高生らしく恋バナには非常に関心がある。ワクワクしながら返答を待った。

 

「アイツとー? いや別に何も……」

 

 言いながら早坂は讃岐の席に視線を向けた。讃岐も火ノ口達と同じように、弁当を食べながらクラスメートと談笑していて、視線には気付いていない。

 うっすらと白い頬に朱が刺した。

 じいいっと見られているのに気付いた早坂は、焦ったように早口で、

 

「いや、ホント別に何も無かったしっ!」

 

「……」

「……」

 

 火ノ口と駿河は無言でお互いを見た。考えている事は同じらしい。

 

 思ったよりガチっぽい反応だ──! 

 

 友人の思わぬ反応に動揺する一方、アヤツ一体何をしたと、呑気に笑っている讃岐を睨んだ。

 讃岐が教室から出て行く前に、不敵な笑みを浮かべて言った言葉が頭に浮かぶ。

 

『僕は君達ほど、早坂さんと付き合いが長い訳ではないけれどね。仲の良さで君達に負けるつもりはないよ』

 

「判決は?」

 

 昨日とは逆に駿河が判決を促した。

 まだ完全に見極められた訳ではないが、取り敢えず今のところは。火ノ口は判決を下した。

 

「無罪!」

 

 ただ1人、事情を知らない早坂が首を傾げた。



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早坂愛は伝えたい

「荷物をお預かりします」

 

 四宮かぐやは学高生活での必需品が入った鞄を、差し出された手に置いた。

 かぐやの使用人である讃岐光谷は、まるで宝石でも扱うかのように繊細な所作で、丁重に鞄を受け取った。

 そのまま広い、いや広大なとすら表現できる玄関をかぐやは進んだ。四宮かぐやは大財閥の長女。大財閥ともなれば別邸ですら巨大。

 その背後を讃岐が付かず離れずの距離で歩く。黒々とした衣服も相待って影法師のようである。学園から帰宅直後なので仕事着のダークスーツではなく、秀知院学園指定の黒い制服を着用していた。

 ふと気になって、かぐやは立ち止まり振り返った。

 

「貴方だけ? 早坂はどうしたの」

 

 普段は護衛も兼ねて一緒に車で帰宅しているのだが、今日車に乗っていたのは讃岐だけだった。

 主人の問いに従者は答える。

 

「他の仕事を済ませる為、私より先に帰宅しております。先程もお伝えしたのですが、思索に耽っておられるご様子でしたので、聞き逃したとしても無理はございません」

 

 些か皮肉げに聞こえるのはかぐやの被害妄想か、普段の行いがそう思わせるのか。

 

 後者ね。

 

 かぐやは決めつけた。何せこの男、国家の心臓たる四宮家長女であり、奉仕するべき主人である四宮かぐやに対して、ある時は暴言を吐き、ある時は伝書鳩代わりに使い、ある時は傀儡にして自分の言葉を代弁させたりと、とにかくやりたい放題なのだ。

 それだけなら、主人の権限を行使してクビにしてしまえばいいのだが、かぐやがそうしないのは讃岐の唯一の長所、名探偵顔負けの推理力と、極々ほんの稀に少しだけ頼りになる時があるからだった。

 従者が「思索に耽っておられた」と慇懃無礼に宣ったので、かぐやは学校での出来事を思い出した。

 

「はぁ、まったく困ったものね」

 

 ため息と共に呟いたかぐや。意を汲んだ讃岐がすかさず応答する。

 

「どうかなさったのですか? お嬢様」

 

 予想通りの反応。かぐやは続けた。

 

「今日会長にソーラン節を教えたのですけど」

「それはそれは。お嬢様の慈悲深いお心遣いには感服致します」

 

 過剰なまでの賛辞をかぐやは慣れた様子で受け取る。

 

「それはいいのよ。大した労力でもないですから」

「では何がよくないので?」

「邪魔が入ったのよ」

 

 放課後の出来事を思い出したかぐやのボルテージが上がる。対照的に讃岐は「はぁ」と気の抜けた相槌。

 従者の反応が芳しく無かろうと、かぐやは構いはしない。

 

 予定通り事を運べば、会長は絶対に私を意識する筈だったのに! 

 

 踊りを教えるとなれば、立ち姿や所作を中心的に指導する。そしてそれらを正そうとすれば、ボディタッチが発生するのは必然。白銀も健全な男子高校生、ボディタッチで意識しない筈がないというのがかぐやの思惑だった。

 

「お嬢様の邪魔をするとは、命知らずな方でございますね」

「藤原さんはいつもそうなのよ。会長は私が育てるとか、訳の分からない事を言って……」

「彼女でしたか。であれば命知らずなのも納得です」

「……藤原さんも貴方には言われたくないでしょうけどね」

 

 この男の言動は、最早命を捨てに来ているとしか思えない。仕えているのがかぐやではなく、兄達だったなら20回は死んでいる。かぐやは自分の寛大さを再認識した。

 ツッコミによりボルテージが下がって、落ち着きを取り戻したかぐや。そこに驚くべき言葉が投げかけられた。

 

「で?」

 

 で!? 

 

 その対応は、かぐやにとって人生で初めての経験だった。

 かぐやの使用人は四宮家が厳選に厳選を重ね選抜される。仕事の質は勿論、教養と礼節を兼ね備えたプロフェッショナル。それがかぐやの知る使用人である。

 怠惰、姑息、毒舌、無礼、そして……無駄に高身長。

 屋敷の内外、場所を問わず、やりたい事、言いたい事をとにかく実行する腐った性根。

 まるで主人への敬意を忘れたかのような自由さが、かぐやの腸を煮え返らせた。

 

「お嬢様、如何なされたのですか?」

 

 讃岐が心配そうにおずおずと尋ねる。

 

「どうもこうもないわよ!! 『で?』って何よ! でって!?」

「お、落ち着いて下さい、お嬢様! 他の者達が驚いてしまいます」

「誰のせいよ!」

 

 そこでかぐやはある可能性に思い至る。  

 

「貴方もしかして、私がまた妙な事件を持ち込んだと期待したの?」

「いえ、決してそのようなことは……」

「それなら『で?』にはどんな意味があったのよ」

「……正直に申しますと、その様な気持ちが無かったとは言えません。ですが私、お嬢様のどの様なお話にも耳を傾ける所存です。……ただ」

「ただ?」

「何と言うか、少々、本当に少しだけですが、真面目に聞いて損したと言いますか……」

「ぶん殴るわよ」

 

 申し訳なさそうに何ふざけた事言ってるのかしら、この不調法者は。

 

 その声が聞こえたのは、かぐやが思わず握り拳を作り、視線の先に讃岐の顔面を捉えた瞬間だった。

 

「えっ、本当に来れるの!?」

 

 喜色を帯びた声音。普段聞き慣れている筈の声だが、かぐやは一拍遅れて声の主が誰か理解した。

 

「あら?」

「おや?」

 

 讃岐も珍しそうに片眉を上げた。

 かぐやにとっては姉のような存在であり従者。讃岐にとっては同僚に当たる彼女の普段からは考えられない歓声。かぐやと讃岐の野次馬根性は大いに刺激させられた。

 2人は廊下の角からひっそり顔を出した。廊下の先では早坂愛が笑顔で電話していた。

 

「嬉しそうね。……まさか彼氏かしら。讃岐、貴方は何か知ってる?」

「いえ、存じ上げておりません。というか変わり様が凄いですね」

 

 満面の笑みを浮かべる様に、クールで完璧な近侍の面影は無い。

 

「うん! 約束だよ、ママ」

 

 マザコン……。

 

 電話の相手は早坂の母親、早坂奈央であるらしい。

 早坂の知られざる一面を目の当たりにしたかぐやと讃岐は、目の前の光景を見なかった事にして、その場を静かに離れた。

 

「奈央さんはお嬢様にとって義理の母のようなものだと伺いました」

 

 幅の広い廊下を進みながら、讃岐が口にする。

 

「ええ、そうね」

 

 かぐやの母親は、かぐやが産んですぐに心臓病で他界している。以降は奈央が母親代わりとしてかぐやを世話していた。

 

「ではやはり、幼い時分から命をすり減らすようなスパルタ教育を?」

「何がやはりなのか全く分からないのだけど。貴方は奈央さんと何だと思っているの?」

「鬼か妖魔ですね」

 

 讃岐は間をおかずに即答した。

 

「随分な言いようね。というか鬼は妖魔に含まれるでしょう?」

「では悪鬼羅刹です」

「ランク上がってるわよ」

 

 頭痛を抑えるように額に手をやったかぐやは、深くため息を吐いた。

 

「どうせ貴方が無礼な言動で奈央さんを怒らせたのでしょう? 少しは自分の行いを省みなさい」

 

 讃岐は心当たりがない、と言わんばかりの惚けた顔で首を傾けた。

 

 

 ◯

 

 

「誠に申し訳ありません。本邸より呼び出しがありましたので、明日は留守にさせていただきます」

 

 讃岐がそうかぐやに伝えたのは、体育祭を翌日に控えた夜だった。

 最近では早坂だけでなく讃岐も、かぐやの自室に呼び出される頻度が多くなった。当初よりは信頼しているからなのだろう。それが良い事なのか悪い事なのかは判断できない。

 髪を下ろし、服装もワンピースと寛いだ様子のかぐやは、椅子の肘掛けに手を置いた。

 

「それは構わないけれど。明日の体育祭は欠席するのね」

「はい。お嬢様の勝利に貢献できないのは、私としても非常に残念でなりません」

 

 体育祭は紅白対抗で行われる。かぐや達が所属する2年A組は白組に配置された。白銀と藤原の居るB組は赤組、石上、伊井野のクラスもも赤組なので生徒会では唯一の白組。

 会話を聞いた早坂は、悪い予感に襲われた。

 自分の母親である早坂奈央と讃岐が、仕事で行動を共にしているのは既知の事実。讃岐に仕事があるのなら、奈央も同様の可能性が極めて高い。

 

「早坂? どうかしたの?」

 

 心配が表情に出ていたらしい。早坂は心配事を頭の隅に追いやって、持ち前のポーカーフェイスを作った。

 

「何でもありませんよ。かぐや様」

 

 尚も怪訝そうな表情だったが、かぐやは「そう」とだけ呟く。讃岐の黒曜石のように澄んだ瞳が、一瞬、早坂に向いた気がした。

 

 早坂の主観として、讃岐光谷は体育祭なんて下らないと吐き捨てる程、捻くれてはいない。かといって、積極的に参加するかといえば、それ程素直でもない。過度に手を抜いたりはしないけれど、全身全霊を持って競技に臨んだりはしない。程々に楽しむスタンスであるのは読み取れた。

 讃岐は体育祭に深い思い入れはない。そこまで分かっていても、早坂は踏ん切りがつかないでいた。

 体育祭に参加できなくなった讃岐に対して、自分の母が体育祭に来れるか尋ねるのは申し訳がない気がしたからだ。

 聞こうか、聞きまいかと迷いながら、黒い背中を追う。何も言い出せないまま、とうとう玄関に到着した。

 ダークスーツの背中が180度回転する。

 

「君が見送りなんてね。明日は雪かな?」

 

 失礼な言いようだ。確かに見送りが目的ではないけれど。

 

「認識に誤りがあるようですね。私だって見送りくらいしますよ。一般的な礼儀として」

「そりゃあ、どうも」

 

 皮肉っぽく返した早坂に、わざとらしく大袈裟にお辞儀をして、薄く笑みを浮かべる讃岐。

 

「明日は体育祭だし、実際雪が降ったら困るよね」

「そう、ですね」

 

 ポーカーフェイスには自信がある。だから表情は変わらなかった筈。しかし、声音は僅かに沈んだ。

 聞くなら今しかない。意を決した早坂が口を開くより早く、讃岐は声を発した。

 

「体育祭には奈央さんもくるんだろう? 偶には家族水入らずで楽しむといいよ」

 

 保っていた鉄仮面が崩れ、青い瞳を見開いた。

 この男は人の心が読めるのだろうか。そう思えるくらいに、適切なタイミングで望んだ言葉が送られた。

 

 ズルいし。

 

 内面を見透かされた気恥ずかしさと疑問も相まって、早坂は思っている事とは別の言葉が口を突いて出た。

 

「……母が来るの、よく知ってましたね」

「あー、えっと、風の噂とか?」

「何故疑問形? まあ、何でもいいですけど」

 

 讃岐は気まずそうに逸らした視線を戻す。安堵して胸を撫で下ろす。そして軽く右手を持ち上げて、

 

「それじゃ、明日頑張って……や、前言撤回。君が頑張りすぎると一方的になっちゃうから、奈央さんの前とはいえ程々にね」

「そんなヘマしませんよ。…………貴方も気を付けて」

「そうするよ。じゃあね」

 

 ひらひらと手を振りながら、讃岐は玄関扉を開けて出て行った。早坂は扉が閉まった後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 

 ◯

 

 

 体育祭当日、早坂奈央は朝早くから電車に揺られていた。揺られていた、とは適切な表現ではないかもしれない。新幹線なので揺れは少なかった。

 カチカチと時折、向かいの席からマウスをクリックする音がする。ノートパソコンを真剣な顔で睨む部下の讃岐光谷は漆黒のスーツではなく、くたびれた紺色のスーツに上まできっちりと閉めたネクタイ姿。入社したてのビジネスマンにも、うだつの上がらない探偵にも見える。

 車内は奈央と讃岐の他に、誰一人として乗客が見受けられないのは、偶然などではなく四宮家が金に物を言わせた結果だ。

 

「大袈裟ですね。座席全て買い上げるなんて」

 

 ノートパソコンから顔を上げ、半眼で周囲を見渡す。

 

「必要がなければ、こんな無駄遣いしませんよ」

 

 奈央の物言いたげな視線が讃岐を射抜く。

 

「仕事は早く終わらせたい主義でして」

 

 電車での移動を提案した張本人は、バツが悪そうに目を逸らした。

 

「そもそも仕事を伝える為だけに、本邸まで呼び出す必要は無いと思うのですが」

 

 情報化社会の現代において、遠方への連絡手段は数多に、それもお手軽に存在する。

 携帯電話1つ、パソコン1つでやり取りできるのに、わざわざ京都まで足を運ばされたのだから、讃岐の遠回しに苦情には目を瞑る。

 

「電話やパソコンでは、傍受される可能性がありますから。結局古典的な方法が1番有効なんですよ」

「確かに、それもあるでしょうね」

 

 奈央は幾許か鋭さの増した瞳で、目の前の男を見据えた。

 

「それ以外に何があると?」

 

 うんざりするという感情を全面に出してネクタイに指を掛けた。まるできつく絞められた首輪を緩めるように。

 

「事あるごとに手綱引っ張らなくたって、自分が四宮家の走狗であると自覚はしていますよ」

「そうだと助かりますね」

 

 毎回本邸まで出向かせるのは、讃岐光谷が四宮家の従属下にあると意識させる為。そう言いたいのだろう。

 実際、呼び出した張本人、四宮雁庵の狙いは大方讃岐の言う通りに違いなかった。雁庵自身、大した効果を期待して行っている訳ではない。やらないよりはマシなら、やる。

 その程度にはまだ少年と呼べる年齢の男の特殊な才能を警戒し、それ以上に重宝していた。

 

「無駄話はこれくらいにして、仕事の話に移りましょう。現場を見たいと言うくらいですから、資料には目を通していますね?」

「無論です」

 

 頷いて、讃岐は事件の概要を語った。

 

 2日前とある屋敷で悲劇が起きた。その日、父親の遺産についての話し合いで一家は勢揃いしていた。事件当時家に居たのは長男とその妻、次男、長女の4人に家政婦1人の計5人。

 話し合いが纏まらず、一旦夕食を摂ることにした。長男の妻と長女、家政婦が用意した料理とグラスを広いテーブルに並べる。照り焼きチキンの甘い匂いが食欲を誘った。

 ふとした切っ掛けで、長男と次男の間で議論が再発。ちょっとした騒ぎになったが、すぐに収まった。異変が起きたのは食べ始めてから20分が経過した頃だった。突然長男がめまいを訴えた。長男の顔は紅潮しており汗も浮いていた。ウイスキーの飲み過ぎか、興奮し過ぎたのだろうと周囲は思った。

 トイレで激しく嘔吐する長男の姿に違和感を抱き、救急車を呼んだ時には既に遅く、病院に搬送されたが長男は帰らぬ人となった。

 後の警察の捜査で長男のグラスに入っていたウイスキーから致死量を軽く超えるアコニチンが検出された。瓶の中のウイスキーも同様。警察は長男は毒殺されたとして調査を続けている。

 

 事件の簡単なあらましを語り終えた讃岐は、奈央に問いを投げかける。

 

「この事件がどう四宮の利益と繋がるんですか?」

「貴方が知る必要はありませんよ。長男以外に毒入りウイスキーを飲まずに済んだのは、不幸中の幸いでしたね」

「家族の中でウイスキーを嗜むのが長男だけなのは、家政婦を含めた全員の共通認識だったようなので、被害者だけに毒を飲ませるのは容易だったでしょう。警察も計画的犯行を疑っています」

「計画的というと?」

「アコチニンの中毒症状は10~20分以内に症状が発現します。被害者の症状が発現した時間から考えても、事前にウイスキーに毒が入っていた可能性が高い」

「毒物の入手経路は分かっているのですか?」

「ええ。極めて近くに植えられていました」

 

 アコニチンを含有する植物。真っ先にある植物の名が思い浮かんだ。

 

「トリカブト」

「はい。被害者の父親は園芸が趣味で、生前様々な植物を育てていたそうです」

 

 被害者一家の家族関係を知っている訳ではないが、遺産の話合いの最中に父親が残したトリカブトが原因で死亡するとは、何やら怨念めいたものを感じる。

 

「警察は誰を容疑者として疑っているのですか?」

「長男の妻と家政婦です。ウイスキーに事前に毒を入れられるのは屋敷に住んでいる被害者とその妻、そして家政婦くらいです。家を出て暮らしている次男と長女は事件当日に屋敷を訪れており、毒を仕込む時間的余裕はありませんでした。もっとも、証言からウイスキーの瓶が未開封であった可能性が高く、事前に仕込んだとは考え難いのが現状です」

 

 淡々とした口調で讃岐は説明した。そんな様子から讃岐には違う考えがあるのが分かった。

 

「貴方は誰が犯人だと考えているのですか?」

 

 思った通り讃岐は自信を覗かせる笑みを口の端に浮かべて、奈央の質問を煙に巻いた。

 

「それを今から確かめにいくんですよ!」

 

 

 

 

 四宮本邸ほどではないが、大きな和風建築の屋敷。屋敷の前で奈央と讃岐は黒光するリムジンから降りる。

 事件において部外者でしかない2人を出迎えたのは、正真正銘の警察官だった。

 

「事件のあった現場を見たいのですが」

 

 部外者の提案に警察官は何の文句も言わず、2人を事件現場へと先導した。

 警察官に連れられて、奈央と讃岐は和室に着いた。部屋の中央には飴色の大きなテーブル。壁にはいかにも高級そうな掛け軸。部屋の隅には座布団が重ねられている。事件当夜容疑者達が使っていたのだろう。

 讃岐はテーブル目がけて脇目も振らず歩み出した。しゃがみ込んで畳に顔を近付け、這いつくばるようにしてテーブルの周りを這い回る。

 

「刑事さん。ウイスキーが零れた跡はこれですか?」

 

 警察官はこくりと顎を引く。部外者を現場に入れ、捜査状況を明かす。ミステリに付きもののご都合主義を実現させるのが四宮家の権力だ。

 

「ウイスキーが零れた?」

「ああ、説明していませんでしたね。夕食時のちょっとした騒ぎというのがこれです。興奮して瓶を倒してしまったみたいですね」

 

 説明した後、讃岐は警察官に指示を出した。

 

「この畳は保存しておいて下さい」

「分かりました」

「それと、次男夫妻に聞いて欲しい事とお願いがあるのですが──」

 

「はぁ……それはどういう?」

 

 質問内容を聞いた警察官は生真面目な顔に戸惑いが混じる。奈央にも質問の意図が分からなかった。

 

 

 

 

 リムジンの扉を閉じて、奈央は切り出した。

 

「説明して貰いましょうか。貴方の質問と事件の関係を」

 

 夕食に出た照り焼きチキンは切り分けられていたか? そう讃岐は質問した。全く意味不明な質問にも律儀に対応する警察官は流石だ。警察官は切り分けられていたと答えた。

 

「おや、奈央さんは照り焼きチキンがお嫌いですか?」

「……」

「さ、さて。では僕の推理を聞いて頂きたく存じます」

 

 奈央の冷たい青い瞳にじっと見つめられた讃岐は、怯えたように軽い口を震わせた。

 次の言葉を待つ奈央の耳に、低いエンジン音が響く。

 

「僕は警察の捜査能力を侮ってはいません。常道の捜査で解決できる事件であれば、僕の出る幕はありません」

 

「まぁ、僕としてもその手の事件に出張るのは御免ですが」と讃岐は続ける。

 

「そんな彼らでさえ、どうやってウイスキーに毒を入れたか分からない。だとすればこう考えざるを得ません。事件の鍵は別にあるのではないか?」

「言いたい事は分かります。けれど被害者が毒入りウイスキーを飲んで死亡した事実は動かせません」

「何故ですか?」

 

 奈央は推理を円滑に進める為、分かり切った問いに答えた。

 

「被害者が飲んでいたウイスキーと、瓶に入っていたウイスキーに毒が入っていたからです」

「奈央さんの言う通り、ウイスキーには致死量を超える毒が入っていました。僕はここに疑問の余地があると考えました」

 

 意味が分からず、奈緒は首を傾げた。

 

「トリカブトの毒は即効性があります。致死量を軽く超えた量を経口摂取したのなら、被害者は数十秒で死亡したとしてもおかしくありません。ですが、中毒症状が出たのは20分後」

「ウイスキーの毒は無関係だと?」

「まさか! 被害者が同じ毒で死亡している以上、無関係ではありません。ただ被害者の死亡した原因が毒入りウイスキーでは無いだけで」

 

 讃岐の推理通りだとすれば、犯人は何故ウイスキーに毒を入れたのだろうか。他にも疑問はある。

 

「ウイスキー以外から毒が検出されていない事実に対しては、どう考えているのですか?」

 

「無くなったからです」と指先で自分の腹部を指した。

 

「まさか」言わんとするところを察した奈緒は思わず呟いた。

 

「だから照り焼きチキンが切り分けられていたか尋ねたのですね」

「はい。犯人は切り分けられた内の1つに毒を仕込んだ。切り分けられた照り焼きチキンは一口で食べられるでしょうから、毒が仕込まれた一切れを被害者が食べてしまえば、食卓から毒は消え失せます」

 

 一口サイズの料理でなければ、食べ終える前に毒で死んでしまう可能性があった。そうなれば毒を仕込んだ本当の場所が判明してしまう。

 

「ウイスキーに毒を入れたのは、本当に毒を仕込んだ場所を隠す為の偽装工作です。被害者に中毒症状が発症し、一家が慌ただしくなったタイミングを狙えば、毒を入れるのは容易だったでしょう。一家が入手し易いトリカブトを用いたのも、偽装工作の一部です」

 

 容易とはいっても、グラムを測って悠長に入れる時間は無かっただろう。だからこそグラスのウイスキーから過剰な毒物が検出された。

 

「ここまで分かれば犯人は絞り込めます。犯人は照り焼きチキンに毒を仕込んだ事を知られないよう偽装工作を行った。つまり犯人は料理をしていた女性陣3名の中に居ます」

 

 長男の妻、長女、家政婦。顔も知らない3人の女性が、奈央の脳内に姿を見せた。

 

「次の絞り込むポイントはウイスキーに毒を仕込んだという偽装方法。長男の妻と家政婦は、ウイスキーに毒を仕込んだとして警察に疑われていましたが、せっかく偽装して疑いを逃れたというのに、また自分に疑いが掛かる方法を取るとは思えません。よって2人は除外。残るは1人」

 

 讃岐はゆっくりと自信を持って宣言した。

 

「被害者を毒殺した犯人は長女です。トリカブトは庭の物ではなく、持参したのでしょう」

 

 暫くの間、車内は静かになった。何度も事件の解明には立ち会って来たが、推理を聞き終えた後は何故だか直ぐに言葉が出てこない。本来発言すべき犯人がこの場に居ないからだろうか。

 

「動機は何だったのでしょう?」

「さぁ? 僕はあの一家と四宮家の関係も教えて貰っていませんからね」

 

 奈央は嫌味ったらしい発言を受け流す。主人が望んでいるのは犯行の証明。動機は重要ではない。

 

「証拠としてウイスキーが零れた畳を保存させたのですね」

「ウイスキーが零れたタイミングで、毒は入っていなかったでしょうからね。何にせよ現状結果待ち。僕達の仕事はこれで終わりです」

 

 ブレーキ音が耳に届き、リムジンはゆっくりと停車した。

 そういえば車は何処を走っているのだろう。目を向けた窓の先には高い壁。そして壁に囲まれた西洋屋敷。

 いつの間にか四宮別邸に到着していた。

 

「何故別邸に?」

「仕事も早めに終わりましたし、空いた時間はゆっくりしようかと。奈央さんもせっかく浮いた時間ですから、ご自由になさっては? 今日は何かとイベントもありますし」

 

 奈緒は耳を疑った。イベントが秀知院学園の体育祭を指しているのは明らか。そして今日のやたらと急いで仕事を終わらせようとする態度。まるで奈央を体育祭に行かせようとしているかのような。

 以前、讃岐がかぐやを気遣う発言をして、雁庵に疑惑の視線を向けられた時、奈央は多少不憫だと感じた。

 しかし、いざ自分がその立場になって思う。

 

 何を企んでいるのかしら、この子。

 

「……僕が友人に気を使うのはそんなに変ですか?」

「変ですね。とても」

「僕だって手短に済んで、気が向けば、思い出作りの手伝いくらいしますよ」

 

 讃岐はハァと、深いため息と共に肩を落とした。

 

「奈央さんには借りがありますからね。借りを返す為とでも思って下さい。身軽に生きたい僕としては、貸すのも借りるのも嫌いなので」

 

 貸すのも借りるのも嫌い。讃岐がこの主義を掲げているのは知っていた。なるほど。案外本当に気遣っているだけかもしれない。

 もし何らかの企みで奈央を体育祭に行かせようとしたのなら、最初からこの理由を使えば良かったのだ。友人の為なんて、疑われるであろう理由を使うより自然だし信憑性が高い。

 

「それでは遠慮なく返してもらいます」

「そうして下さい」

 

 一足先にリムジンから降りた讃岐に続いて、奈央も車のドアを開けた。

 

「貴方も今ならまだ間に合いますよ」

「生憎と途中参加するだけの熱意は持ち合わせていませんねぇ。今回の件、娘さんには内密にお願いしますよ。貸しを作るのは嫌なので」

 

 残念だが讃岐の願いは叶わないだろう。口止めした程度で娘を欺けると思っているのなら、それは甘く見過ぎというものだ。

 

 

 

 平時は硬く閉ざされた箱庭の黒い門も本日は開け放たれ、来訪者を歓迎している。

 門の傍には警備員が待機していて、招かれざる客に目を光らせている。何ら後ろ暗いところのない奈央は、警備員達を横目に門を潜り、私立秀知院学園へと足を踏み入れた。

 天気は快晴。半袖でも心地よいくらいの日差しは、体操服の着用を義務付けられている生徒達からしたら喜ばしいだろう。

 校庭の運動場にあるトラックの外側には椅子から並べられた生徒用の席と、見学に来た保護者用にテント付きの席がある。今は昼休憩中でどちらの席にも人はまばらだった。

 奈央は周囲に視線を巡らせた。お目当ての人物はあっさり見つかった。

 不安気に揺れる金色のサイドテールが目に映る。早坂愛は学校指定の体操服の裾をへその上辺りで結んでいる。似たような着こなしをしている生徒は道中何人か見かけた。親としては些か心配になるが、娘の学校でのキャラは知っているので、上手く溶け込めていると良い風に考える事にした。

 母親譲りの絹のような金色の尻尾がピタリと止まる。早坂の方も奈緒を見つけたらしかった。

 早坂は奈緒に駆け寄ると、喜色満面の笑顔を浮かべた。

 

「ママ! 来てくれたんだ」

「約束しましたからね。少し遅くなりましたが、弁当も用意しましたよ」

「ありがとう! ママのお弁当久しぶりだから楽しみ!」

 

 奈央は弁当箱の入った畳を早坂に手渡した。受け取った早坂は、不意に運動場へと視線を向けた。

 その先に居るのは四宮家の長女、四宮かぐや。かぐやは先程の奈央と同じく、誰かを探しているように見えた。

 

「ママ。雁庵様は……」

 

 奈央は返答に窮した。娘の問いは、淡い期待を込めて父親を探す主人をおもんばかっているに違いなく、そこにある娘の気持ちも、父親を求める娘同然に世話をした少女の期待も、少女の父親であり自身が仕える主の心境も、それら全てを察しているだけに奈央は安易に答えを返せない。

 表情の暗くなった娘の頭を撫でて回答を誤魔化す。手に持ったもう1つの風呂敷を持ち上げて、

 

「かぐやお嬢様の分も用意してあるから、私の方で届けておくわ」

「うん。ありがとう……」

 

 昼食を取る場所を探し移動しようと一歩踏み出した時、早坂が再び、今度はためらいがちに口を開いた。

 

「ねぇ、ママ。えっと、その彼は……」

「彼?」

「あー、いや、やっぱり何でもない!」

 

 早坂は慌てた様子で目を逸らし、話を打ち切った。

 どうやら讃岐の口留めに意味は無かったらしい。娘の反応を見て奈央は悟った。

 

「讃岐なら仕事を終えて別邸に戻っている頃でしょうね」

 

「別にそれを聞こうとしたわけじゃ……」早坂は口ごもる。

 

「ママは知ってるんだよね。その……アイツの昔の事とか」

 

 讃岐光谷。一般的な富裕層の家に生まれ、紆余曲折あって四宮家の使用人となった少年。奈央は少年の特殊な経歴を知っていたので、早坂の質問に答えるのは難しくない。

 けれど、質問の答えを自分が与えるべきではない気がした。

 

「そうね」

 

 呟きながら、頭の中で伝えるべき言葉を整理する。ただ単に過去を知りたいだけなのか。1人の人間を理解する為に過去を知りたいのか。後者だと判断したからこそ、奈央は言葉を選ぶ。

 足を止めると、早坂も同じように立ち止まった。奈央は娘と向かい合う。

 

「もし讃岐光谷の真実に近付きたいのなら、1つだけアドバイスをあげるわ」

 

 娘は魅入られたように黙ったまま、母親の言葉を待つ。

 

「鋭い観察眼に高い推理力、特殊な精神性。確かに讃岐は探偵の素質を有しており、実績もある」

 

 言葉が浸透するまでの間を置いてから口を開く。

 

「でも、例え彼が灰色の脳細胞の持ち主だったとしても、所詮は十数年生きただけの少年に過ぎないの。彼は決して、推理小説に出てくる完全無欠の名探偵(ヒーロー)ではありません」

 

 

「大丈夫。それは多分、私が1番分かってるから」

 

「そう」短く柔らかい返事。

 

「だって隙があれば仕事サボるし! ちょこちょこミスるし。何度私が尻拭いしたことか……。この前だって──」

 

 娘の口から滝の如く同僚への愚痴が溢れ出る。腹立たしそうに、そしてどこか楽しそうに語る様子を前に、奈央は複雑な心境だった。娘とあの少年を引き合わせたのが吉と出るか凶と出るか。

 

 願わくば良い方向に向かって欲しいですね。

 

 それはそうと讃岐には、元教育係として改めて勤務態度について、お話する必要がありそうだ。

 

 

 〇

 

 

 体育祭も終わり、四宮別邸に戻った早坂が仕事を終えて自由な時間を確保した頃には、時計の針は22時を回っていた。

 本来なら自室で色んな物をプレス機で潰す動画を鑑賞しているであろう時間に、早坂はとある人物を探して屋敷内を徘徊していた。

 長い廊下を進みながら考えるのは昼間の出来事。実のところ、体育祭に母親が来るとは思っていなかった。母親との約束を疑っていたからではなく、讃岐が仕事で本邸に戻ると聞いたのが切っ掛けだ。

 早坂とて、ただ讃岐についての情報を集めていた訳ではない。数少ない情報から讃岐の仕事とは探偵のようなものであり、監視の為自分の母親が同行しているのではないかと推測した。

 讃岐と奈央がセットで仕事に当たっているのなら、奈央が体育祭に来れる筈がなかった。しかし早坂の予想はいとも簡単に覆され、母は体育祭に来た。

 代わりのお目付け役を出したのか? 否。お目付け役自体、使用人として高い地位にいる奈央がするような仕事ではない。それでも奈央が付いているのは、奈央にしか務まらないからだ。

 讃岐が屋敷を出発する前に交わした会話を思い出す。『体育祭には奈央さんも来るんだろう』と讃岐は事も無げに言った。

 早坂の脳内に信じ難い推論が浮かぶ。讃岐は奈央を体育祭に送り出す為、仕事を手早く終わらせたのではないか。

 我ながら有り得ないと思う。あの男が他者を慮るところなど想像もできない。だが、どんな思惑があったにせよ、讃岐のおかげで奈央が体育祭に来られた事実に対して、自分は彼に伝えなければならなかった。

 屋敷を彷徨う事約10分。早坂の瞳はようやく、黒い長身の後姿を捉えた。

 讃岐はまだ気付いていない。一歩づつ距離を詰める度に脈が速くなる。

 早坂はこれから行おうとしている行為に、特別な意味を見出した事はなかった。かぐやは軽薄だなんだと騒ぐが、早坂はかぐやは堅すぎるのだと苦言を呈していた。

 足音が聞こえたのだろう。讃岐が振り返る。早坂だと分かると足を止めた。声をかけるのに適切な距離まであと3歩。

 向かい合い、高い位置にある顔へと目線を上げる。心拍数が高くなった。ここまで来たら、もう後には引けない。

 

「やあ、お疲れ様。遅くまで大変だね」

「いえ、もう仕事は終わりましたので」

「相変わらず仕事が早い。体育祭はどうだった? 白組は勝ったかい?」

「負けました」

「そりゃ残念。やはり僕の抜けた穴は大きかったようだね」

 

 飄々と漏れる小憎らしい軽口。自然体な友人の様子に肩の力が抜ける。本題に入る前に早坂は確認の意味も込めてジャブを放つ。

 

「ですが、楽しめましたよ。お陰様で」

 

 讃岐は一瞬真顔になったが、次の瞬間には表情を緩めて肩をすくめた。

 

「お陰ねぇ。何かした憶えはないけれど、礼なら受け取っておくよ」

 

 讃岐は極めて無関心を装う。本当に格好が付く時はカッコつけないのだから捻くれている。

 

「ではついでにもう1つ受け取ってください」

「遠慮して──」

 

 意を決した早坂は、讃岐の返答を遮って言った。

 

「今日はありがとうございました────光谷君」

 

 沈黙が降りた。

 他者の名前を呼ぶ事を特別視しない早坂にとって、讃岐光谷は唯一の例外。讃岐が特別なのではない。言うなれば自分への戒めだった。

 本邸からやって来た異物を受け入れないという拒絶の意思表示であり、彼我の間にある境界線を目に見える形で示す方法として、早坂は讃岐を彼やアイツと呼称し、名前呼びを避けていた。けれどその枷も徐々に綻び始めていた。

 昼休みに弁当を食べた。夜の危険な冒険に出かけた。主人に花火を見せるのに協力した。放課後喫茶店や水族館に行った。様々な経験を重ねたからこそ分かってしまう。讃岐は不明な点こそ多いが、拒絶する程の人物ではないと。

 受け入れるのが自分にとって良い選択では無いと早坂は自覚していた。讃岐がどの様な人物であったとしても、必ず後悔する。けれど早坂は彼我の境界線を一歩踏み出した。讃岐光谷という存在に近付く為に。

 讃岐はきょとんとした表情で目を瞬いており、全く言葉を発さない。そんなに驚かなくても、と思いつつ、自分の行為がどれだけ珍しかったかが如実に反応に現れていて、猛烈に気恥ずかしくなった。

 

「……それだけです。では」

 

 赤くなっているであろう顔を隠すように一礼し、俯いたまま足早に讃岐の横を通り抜けた。

 

「早坂さん」背後から呼び掛けられて足を止める。

 

 言葉の続きを待つ時間が、妙に長く感じた。

 

「おやすみ」

 

 なんて事のない夜の挨拶を返せずに、早坂は前を向いたまま小さく頷いた。



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灰かぶり姫は◯◯◯たい

 人生は決断の連続であり、決めてしまえば後戻りはできない。あの時ああしていれば、この時こう考えていれば等と上げれば枚挙にいとまがないが、後悔とは読んで字のごとく後にしかできない。ならばせめて、今後の決断はよく考えて行うよう心がけるのが、利口な態度というものだろう。

 だから、早坂愛も彼がこの決断に至るには、それなりの苦悩があったのだと思わずにはいられなかった。否、そうであって欲しいと願った。

 

「……正気ですか?」

「至って正常だよ。これしかない。これに決めた」

 

 何度も念を押し、自分に言い聞かせるかの如く唱える。

 

「ですが、その、高校生にもなってそれは……」

 

 早坂の反論も歯切れが悪い。

 

「高校生だからこそだよ! 心が穢れ、大人への一歩を踏み出す過渡期の少年少女にこそ、このロマンスが必要なのさ」

 

 穢れた言葉を発しながら、腕を振り上げ机の上に置かれたそれを叩いた。乾いた音が室内に響く。

 

「屋敷の物を叩かないでください。それに今何時だと思ってるんですか」

「や、失礼」

 

 謝罪をしながら、手をひょいと引っ込める。早坂は引っ込められた手の下にあった物を手に取った。そして呆れを隠さずに、

 

「もう一度言いますが、高校生にもなって、読書感想文の題材に選ぶのが『サンドリヨン』なのは如何なものかと」

 

 早坂は本の表紙を讃岐に向けた。煌びやかな衣装を纏った女性の絵が描かれており、美しい靴が一際目を引く。

 深夜に入ろうかという時間帯。仕事を終えた早坂愛と讃岐光谷が、壁一面を本が埋め尽くす屋敷の書斎で向き合っていたのには、こういう経緯があった。

 

 

 

 

「えっ? そんなのあったっけ?」

 

 初めて聞いたと言わんばかりに、讃岐が疑問の声を上げる。

 かぐやの呼び出しを受けた帰り、かぐやの机に置いてあった本から連想して、何気なく早坂はその話題を振った。

 現代文の授業で課題として出された読書感想文は終わったのか、と。

 案の定というべきか、課題は讃岐の脳内からすっぽ抜けていた。

 

「まあ、初めからまともに授業受けているなんて、思ってはいませんでしたけど。提出明日ですよ」

「明日なの? ……もうちょっと早く教えてよ」

「それくらい自分で把握しておいてください」

 

 上から注がれる恨めしそうな視線を、早坂は無表情で切って捨てた。そんな早坂に讃岐はわざとらしいくらいに明るい声で、

 

「ねぇ、早坂さん!」

「嫌です」

「まだ何も言ってないけど」

 

 早坂はため息を吐いた。冷たい色の瞳を同僚に向ける。

 

「大体予想は付きますが、聞いてあげましょう。何ですか?」

「手伝ってくれない?」

 

 絶対に嫌。

 

 

 

 

 なんだかんだで図書探しを手伝っているあたり、自分の心は太平洋よりも広い。自賛しながら本のページを捲り、見るともなく文字を追う。

 

「わざわざ書斎に来なくても、本なんて自分の部屋にいくらでもあるのでは?」

「君はワトスン博士の結婚回数や、ホームズがライヘンバッハの滝に落ちてから復活するまでの大空白時代、謎の格闘技バリツについての研究論文を書けといっているのかな? 残念ながら感想文の規定枚数を大幅に上回る上に明日までには終わらない」

「何言ってるのか全く分かりません」

 

 要するに読書感想文に使えそうな本は皆無らしい。

 讃岐が手を差し出したので、本を閉じて手渡す。受け取った讃岐は、書斎の机の縁に浅く腰掛け本を開いた。

 

 主人の書斎の机に、こうも遠慮なく座るとは……。

 

 含みのある視線を向けるも、本に集中している為、讃岐は全く意に解さない。ページを捲ったタイミングで声を掛ける。

 

「根本的な話、何故サンドリヨンなんですか?」

「ん? ページ数少ないから」

「よくロマンスだ何だと言えましたね」

 

 返事をしながらも、讃岐の視線は本に向いていた。1ページまた1ページと手が動く。思いの外集中している。サンドリヨンなんて、今更じっくり読まずとも内容は分かりそうなものだが。

 しばらく読書をしている讃岐の様子を眺めていると、ページを捲る手が止まり、その手をそのまま顎に添えた。早坂にはそれが考え込んでいる時の讃岐の癖だと分かっていた。

 だからこそ、疑問に思った。サンドリヨンに考え込む要素などあるだろうかと。

 内心首を傾げていると、不意に黒曜石のように黒い瞳が早坂に向いた。急に目が合ったので鼓動が大きく弾んだ。

 

「やあ、遅くまで付き合わせて悪かったね」

「いえ」

「目的も達成したし、戻ろうか」

 

 大きく伸びをして机から立ち上がり、讃岐は扉へと踏み出す。その手にはサンドリヨンの本。

 

「持って行くんですか?」

「内容は覚えたけど、一応ね」

 

 自室への戻る途中、早坂は先程の讃岐の様子が気になって尋ねた。

 

「その本に何か仕掛けでも?」

「仕掛け? どういう事?」

「何も無いんですか? 随分熱心に読み込んでましたが」

 

 讃岐は本の表面と裏面を交互に見た。

 

「財宝の隠し場所が記されているとか? 無い無い。正真正銘、唯の本だよ。熱心に見えたのならそれは、そうだな……」

 

 何やら言いかけた讃岐だったが、次に出た言葉は打って変わり疑問だった。

 

「早坂さんは確かディズニーにうるさ……見識が深かったよね?」

「うるさいって言いました?」

「言ってないよ。で、質問なんだけどさ。ガラスの靴といえばどんな物を思い浮かべるかな?」

 

 ガラスの靴とは、サンドリヨン物語のキーアイテム。魔法使いの老婆が、舞踏会へ行くサンドリヨンに授けた靴だ。

 

「ガラスで造られたハイヒールですかね」

「ハイヒールね。僕は履いた事ないけど、ガラスで出来てたら履き心地が悪そうじゃない?」

「ハイヒールでなくとも、ガラス製の靴なんて履くだけで痛いでしょう。あくまで物語の中の産物です」

 

 へぇ、と讃岐は興味深そうに相槌を打つ。

 

「ありがとう。おかげでちょっと面白い感想文になりそうだ。書き終わったら1番に見せてあげるよ」

 

 讃岐は自信ありげな様子で、不敵に口角を上げた。

 

 

 ◯

 

 

 新体制になった生徒会。新たに加入した伊井野ミコも環境に慣れて活動は順調。今日も今日とて仕事に励む生徒会の面々。室内に流れるペンを動かす音、軽やかにキーボードを叩く音を、のんびりとした声が遮った。

 

「会長。これ何ですか〜?」

 

 お魚に釣られた猫のように、藤原千花は白銀御行が使っている生徒会長用の事務机の前に移動し、脇に退けられた裏返しで重ねられたB4サイズの紙を指差す。生徒会の仕事で使用する紙はA4サイズ。普段使わないサイズの紙に藤原の好奇心はくすぐられたのだろう。

 白銀は書類にペンを走らせたまま藤原の質問に答える。

 

「少し前に課題で出た読書感想文だ。廊下に落ちてたのを、校長が拾ったんだと」

「それを会長に?」

「ああ。そういえば、藤原書記は知り合いだったな。この読書感想文は讃岐が書いたものでな。丁度いいから返しといてくれって押し付けられたんだ」

 

 予想外に聞きなじみのある名前が飛び出したので、四宮かぐやの手が止まった。

 

 讃岐の? そういえばやたら眠そうにしてた日があったわね。

 

 讃岐の事だから徹夜して課題を済ませたのだろうと、かぐやは納得した。

 藤原は黙ったまま、じぃーっと裏返しになった原稿用紙を穴が空きそうなほど凝視する。書類と向き合っている白銀は気付いていない。

 

「会長、読んでもいいですか?」

「いや、勝手に読むのは不味いだろう」

 

 顔を上げた白銀に続いて、ノートパソコンのキーボードを叩いていた石上優も反対した。

 

「そうですよ。いくら讃岐先輩の物といえど、一応確認くらいはしとかないと」

 

 大した言われようだ。

 

「あれ? 石上君も光谷君のこと知ってたんですね」

「讃岐は意外と顔が広いからな。四宮とは同じクラスだから、この中で面識がないのは伊井野だけか」

 

 白銀に話を振られた伊井野は首を振った。茶色のおさげが左右に揺れる。

 

「いえ、少しだけ話した事があります」

 

 どうやら讃岐はこの場に居る生徒会役員全員と面識があるようだ。本人が自負するだけ合って、交友関係は広く浅い。

 

「じゃあ、光谷君に確認してみますね」

「そんなに見たいのか?」

「だって、気になるじゃないですか!」

 

 確かに。かぐやは心の中で藤原に同意した。

 讃岐にとってかぐやは主人なので、読書感想文を見せろと言えば、頭を垂れて差し出すのは目に見えているが、その際こちらの神経を逆撫でする発言を連発するのは、想像に難く無い。

 

 藤原さんが許可を取ってくれるのなら、それに越した事はないでしょう。

 

 かぐやは成り行きを静観した。

 携帯電話を耳に当てた藤原が数秒後に声を発した。

 

「お願いがあるんですけどー。えーっ! なんでですか!? まだ何も言ってないじゃないですか! ……はい、光谷君の読書感想文読んでもいいですか? ……分かりました!」

 

 通話を終えた藤原は携帯電話をポケットにしまった。

 

「見ていいそうです。全米が鼻で笑う傑作だ、って自信満々でした」

「映画の広告か」

「嘲笑われてるじゃないですか」

 

 まったく、あの男は。かぐやは漏れ出てしまいそうなため息を堪えた。

 

「ではさっそく読みましょう」藤原が原稿用紙を手に取って表にする。

 

「タイトルは、サンドリヨン?」

「シンデレラのフランス語表記ですね」

「それなら分かります。へぇー、そうだったんですね」

「シンデレラですか。いいチョイスですね…………何よ?」

 

 表情を明るくした伊井野だったが、石上の含みを持った視線を受けると、一転して睨みつける。

 

「いや、別に。そういうの好きそうだよな」

「悪いの?」

 

 呆れたような石上と今にも吠え出しそうな伊井野。またケンカが始まりそうになったので、白銀が空咳で制する。

 

「四宮はサンドリヨンの内容を覚えているか?」

「幼い頃に読んだきりですが、一応。サンドリヨン……作中で名前が記述されていないのでそう呼称しますね。父親の再婚相手である継母と、サンドリヨンにとっては姉にあたる継母の娘2人に虐げられる日々を、送っていたサンドリヨン。ある日国の王子様が催した舞踏会に2人の姉が招待されました。綺麗なドレスも無く、舞踏会に行けないサンドリヨンの前に教母が現れます。教母の正体は妖女で魔法を使い馬車やドレスをサンドリヨンの為に用意しました。最後にガラスの靴を渡した妖女は、魔法の効果が切れる夜中の12時までに帰って来るよう忠告しました。

 しかし、舞踏会2日目。サンドリヨンはうっかり12時直前まで王子と話し込んでしまいます。何とか12時までに王子の前から去るのには成功しますが、靴を片方だけ落としてしまいました。サンドリヨンに心を奪われた王子は、サンドリヨンが落とした靴を大事に仕舞い、後日おふれを出して靴の持ち主を探しました。靴の持ち主がサンドリヨンと判明。2人は婚礼の式を行い物語は終わります。と、こんな感じでしょうか」

「ふむ。これで全員サンドリヨンのあらすじは理解できたな。では藤原書記」

 

 組んだ手の上に顎を乗せた白銀は視線で藤原を刺す。

 

「了解しました!」

 

 敬礼のポーズをして生徒会長の指示を了解した書記は、手にある感想文を音読し始めた。

 

 

 

 

 サンドリヨンを読んで

 二年A組 讃岐光谷

 サンドリヨンの元となった話は古くから伝わる民間伝承であり、類話も含めればそれこそ世界中に存在している。その為、シャルル・ペロー、グリム兄弟、ジャンバッティスタ・バジーレ等様々な人物によって語られてきた。今回題材にしたのは、日本で最も有名なペロー版のサンドリヨンだ。

 灰をかぶっていた主人公は、妖女に美しいドレスと豪華な馬車、そしてガラスの上靴を授けられ、最終的には一国の王子と結婚するに至る。どん底から一気に頂点まで登り詰めるストーリーは痛快で、今なお多くの人々に愛されている。

 読んでいて疑問に思ったのは、妖女が主人公にガラスの上靴を渡した場面だ。魔法で服を変え、馬車や御者をも生み出した癖に靴だけは本物。靴だけ本物にしたところで、魔法が解ければドレスは元の服に戻るのだから、舞踏会の場に居られなくなるのは想像に難く無い。どうせなら靴も魔法で変えればいいのに、本物を用意する妖女の行動は非合理的に思えてならない。靴が物語のキーアイテムであり、本物でなければ靴を手がかりに王子が主人公を見つけられないのは理解できる。けれど、それなら魔法の効果が夜中の12時で切れる設定は不要に感じる。原点に近いとされるグリム版ではドレスも靴も正真正銘の本物だ。

 ガラスの靴と聞けばガラスで出来たハイヒールを想像するが、年代的に現在のようなハイヒールは存在しない上、ガラスの上靴はガラスで出来た靴ではなく、英語に翻訳する際に「verre(ガラス)」と「vair (リスの毛皮)」の発音が同じヴェールであり翻訳家が間違えた為生み出された産物。実際にはリス皮の上靴だったとされている。リスの毛皮は当時大変高級な素材。そのように高価な靴を一介の教母でしかない妖女が持っているのも不自然に思う。

 作者であるシャルル・ペローはこれらの展開に違和感を覚えなかったのか。ペローは幼い頃から成績優秀であり、エリート校で学び、弁護士にまでなった知性の持ち主。作者の経歴を鑑みる限り、違和感に気付かない筈はないと思った。

 余りにもご都合主義的産物であるガラスの上靴。私はこの靴をペローが登場させたのには、何か意図があるのではないかと考えた。靴が本物である事による影響は、王子がガラスの靴を手掛かりに主人公を探せる点だ。

 舞踏会2日目の夜。主人公は王子との会話に気を取られて、12時までに帰って来るよう妖女に戒められていたのを忘れてしまった。12時を知らせる鐘の音を聞いた主人公は、慌ててその場から去る。何とか無事に城から出られたが、脱出の際、脱げた片方の靴を城に残して来てしまう。

 後の主人公がガラスの靴を履く場面では、ろうでかためたようにぴったりくっついたと表現されている。それほどまでに主人公の足に合った靴が簡単に脱げるだろうか。疑問の答えは主人公が靴を落とした場面の一文にあった。

 

「王子もすぐ後を追いかけましたが、とうとう追い付きませんでした。けれど、サンドリヨンも、慌て紛れに、金の上靴を片足落としました」

 

 慌てて逃走した主人公が、靴を落としてしまった場面。私はこの文章を読んで、別の解釈をした。

 主人公は慌てていたから靴を落としたのではなく、慌てて靴を落としたのではないだろうか。つまり、主人公は意図的に靴を残していったのだ。

 煌びやかなドレスを身に纏い、華やかな舞踏会を楽しんだ主人公の先に待つのは、灰にまみれた惨めな生活。きっと嫌だっただろう。自分が同じ立場でも喜んで歓迎はできない。

 だから主人公は自分に繋がる唯一の品、ガラスの上靴を残した。魔法が解ければ服が元通りになる以上、残すのは靴でなければならなかった。咄嗟にその判断を下し、実行できる主人公は、とても賢く機転が効く人物だと思った。思惑通り王子はガラスの上靴を拾い、国中におふれを出して主人公を探し当てた。

 妖女のおかげで主人公は王子と結婚するという幸運に恵まれた。しかし、あくまで妖女は機会を与えたに過ぎない。そこから幸運を掴み取ったのは主人公自身だ。

 考え、自ら行動を起こさなくては、幸運などやって来る筈もない。ペローがガラスの靴を登場させたのは、この教訓を伝える為ではないかと思った。

 明確に記さなかったのは、サンドリヨンが子供に向けて作った作品だからだろう。物語を読み解こうと頭を働かせ考えた者にのみ伝わるメッセージを作品に隠した。

 私はペローのメッセージが、彼の子供や、後の読者にも伝わっていればいいと思った。

 

 

 

 

「すごいですね。ここまでシンデレラを読み込んでいる人は初めてです」

 

 伊井野が感心した様子で呟いた。

 

「というか、これ何でしたっけ?」

「読書感想文ですよ」

 

 余りにも奇天烈な感想文だったせいか、石上は分かり切った質問をした。

 

「感想文なんですか? まぁ、読み物としては良かったですけど」

「感想といえば感想だな。……少々奇抜ではあるが」

 

 かぐやは立ち上がって藤原の持っている原稿用紙を手に取った。はっきりした字で、原稿用紙4枚に渡り感想がしたためられている。

 

 ご都合主義ね。どの口が言っているんだか。

 

 文章を目で追いながら、かぐやは内心鼻を鳴らした。

 

「四宮はどう思う?」

 

 讃岐の読書感想文について問われたかぐやは、困ったような笑みを浮かべた。

 

「そうですね。もし全米にこの感想文を公開したのなら、きっと鼻で笑われるでしょうね」

 

 

 ◯

 

 

 通話を終えた讃岐は携帯電話をポケットに突っ込んだ。椅子の背もたれに体重をかけ、退屈さを隠そうともしない目で窓の外へと視線を向けた。教室から外を見たところで退屈に変わりはないだろう。

 

「誰からですか?」

 

 教室には早坂と讃岐の他に誰も居ない。次の期末試験が近づくまでは、わざわざ教室に残ったりする生徒は居ないだろう。

 

「藤原さん。僕の読書感想文読みたいんだってさ」

「あぁ、あのふざけた感想文。書記ちゃんも物好きですね」

「酷い言い様だなぁ。少しふざけたのは間違いじゃないけど」

「少し?」

 

 全部ふざけているとしか思えない。

 

「そう、少し。あの感想文には致命的な欠陥というか、都合の良いように解釈した部分があるんだ。お嬢様あたりは気付いているかもしれないけど」

「はぁ、欠陥ですか。欠陥だらけの気もしますが」

「そんな事ないさ。サンドリヨンを論理的に読み解く、立派なエンターテイメントだよ」

 

 この男は読書感想文を何だと思っているのか。最早何も言う気が起きない。早坂も退屈していたので、半眼を向けつつも話の続きを促した。

 

「それで、欠陥とは?」

「シャルル・ペローがガラスの上靴の違和感に気付かない筈が無い。ってところ」

「大前提の部分じゃないですか」

 

 僅かに驚いた表情を見せると、讃岐は悪戯が成功した子供を思わせる笑みを浮かべた。

 

「ペローがサンドリヨンを含む童話集『寓意のある昔話、またはコント集〜がちょうおばさんの話』を出版したのは1697年。69歳の時だ。ペローといえど、晩年になれば頭脳の衰えもあっただろうし、設定の齟齬に目が届かなくなったとしても不思議はない」

「そこをシャルル・ペローの隠されたメッセージという筋書きに利用した訳ですか」

 

「正解」讃岐が指を鳴らす。「だからといって僕の説が否定されるとは限らないのがミソだね」

 

「サンドリヨンの感想というより、シャルル・ペローについての感想文ですね。サンドリヨン自体に感想はないんですか?」

「僕がサンドリヨンから教訓を得たとすれば、不運には気をつけろ、という事だね。サンドリヨンが王子と結婚して幸せな生活を送ったのは、さほど幸運ではない」

「そうですか? 突然妖女が現れ手を差し伸べたりと、運が良いように思えます」

 

 早坂は異を唱えた。

 

「過程はね。けれど、結果だけ見ればどうかな?」

 

 結果とは、物語の結末。サンドリヨンと王子の幸せな婚礼。

 

「誰もが振り返る容姿、綺麗な心根。なにより貴族の娘で地位もある。どれだけ容姿と心根が美しかったとしても、貴族の娘でなければ王子も簡単に結婚を決めなかっただろう。これだけの要因が揃っていれば、国の王子とはいかないまでも、普通に結婚して幸せな生活を送れたに違いない」

 

 つらつらと紡がれる言葉は自然と耳に馴染み、早坂は聞き入った。

 

「幸せになる要因を多く持ち合わせながら、灰をかぶる生活を送っていたのは、ひとえに父親の再婚相手の性根が褒められたものではなかったからだ。類稀なる才能を持った人物でも、不運1つで最底辺にまで落ちる」

 

 サンドリヨンの感想としてはこんなとこだねと、讃岐は話を締め括った。

 讃岐が語った内容に思うところがあって、無意識に口をついて出た。

 

「貴族でなければ王子も結婚しなかった……」

 

 脳裏に浮かぶのは主人の四宮かぐやと、白銀御行。立場的にはかぐやが貴族で白銀が庶民。彼女達が恋仲になったり、その先を望むのなら身分の差は壁として必ず立ちはだかる。

 かぐやに幸せなって欲しいと思う反面、それが難しいのも理解していた。

 

「あくまで当時の価値観に合わせた話だけどね」

 

 心情を察した讃岐が言い添える。四宮家の時代錯誤な家風を知っている讃岐なら、自分の発言がなんのフォローにもなっていない自覚はあるだろう。慣れない役回りをさせてしまった。

 

「ポーカーフェイスには自信があったんですけどね」

「僕の目を持ってすれば……と言いたいところだけど、残念ながら君の表情は完璧だったよ」

 

 では何故? 早坂の碧眼が訴える。

 

「君のお嬢様への忠誠心は知ってるからね」

 

 威厳のある声色に変えて言葉を続けた。

 

「『父親から息子へと送られる豊かな遺産を受け継ぐのがいかに恵まれたこととはいえ、ふつう若者にとって、世渡りの術とかけひき上手がもらった財産より役に立つ』シャルル・ペローの言葉さ。お嬢様と白銀君は、仮にも秀知院学園のトップ。かけ引きの手段は心得ているし、なんとかなるよ」

 

 何の根拠もなく自信満々に言い放つ。余りにもあっけからんと言うので、こちらまでなんとかなると思えてしまう。

 讃岐光谷が、かぐやや白銀に絶大な信頼を寄せているとは思わない。讃岐自身にどうこうできる力があるとも思えない。一体彼の自信は何処から来ているのだろう。

 それはともかく、「かけ引き」というワードに反応して、様々な記憶が早坂の脳内を暴馬のように駆け巡る。

 

 白銀にスマホを買わせようとするかぐや。クイズ雑誌を暗記するかぐや。白銀を車に乗せようとするかぐや。コーヒーをカフェインレスコーヒーに差し替えるよう命じるかぐや。白銀と同じ選択授業を受けようとするかぐや。映画館や水族館のチケットを仕込むかぐや。

 早坂は遠い目をした。

 

「さっさと恋のかけ引きも成功させて欲しいものですね」

「……誰にでも苦手分野はあるさ」

 

 言い終わって少しして、讃岐は下を向き大きなため息を吐いた。

 

「やれやれ。だからこういうの苦手なんだよ、僕は」

 

 拗ねて視線を外す様子が可笑しくて、早坂はポーカーフェイスを少し緩めた。




サブタイトルの◯◯◯に入る言葉は「告らせ」になります。そのままタイトルにするとオチが直ぐに分かりそうなのでこのような形にしました。
童話や昔話を題材にした話は書いてみたいと思っていたので、個人的には楽しく書けました。少々時間が掛かったのが反省点ですが。
ここまで読んで頂きありがとうございます。


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怪盗は盗みたい

『ちょっと、ちょっと! 何適当な嘘ついてるの!!』

『適当じゃないですよ。男装の時は、飛び級の天才で道楽で執事やってる泣き虫僕っ子、という設定なんです。あと戦争孤児』

『ややこしいキャラ付けはやめて……!』

 

 イヤホンから聞こえて来る会話に笑みを浮かべて、キーボードに指を踊らせた。

 文字を入力して、思い直して消して、再び入力して、やっぱり消して、かと思ったら同じ文字を入力し直して。入力と消去を反復横跳びの要領で繰り返し、キーボードを叩く音が止んだのはタイピングを始めてから3時間後の事だった。

 これで準備は万全。我ながら完璧だと口から笑い声が漏れる。笑い声は次第に大きくなり部屋中にこだました。

 

 あー、疲れた。寝よ。

 

 

 ◯

 

 

「最近、見られているような気がします」

 

 早坂愛の発言に、庭に置かれた丸テーブルを拭きながら讃岐光谷が顔を上げた。

 

「人気者は辛いね。学校でかい?」

「いえ屋敷で、です」

「へぇ……」

 

 布巾を動かす手が止まり、僅かに目を細める。

 学校なら誰かに見られていたとしても特に不思議はないが、早坂と讃岐の居る場所、四宮家別邸となると話は変わる。様々な人々が在籍する空間である学校とは違い、屋敷には四宮家に雇われた人間しかいない。彼らに早坂を監視する理由はないので、見られているとすれば、外部の人間の仕業になる。

 不穏な沈黙が屋敷の庭園に降りた。辺りに何者かが潜んでいるような気がして、無意識に視線が庭園を彷徨う。

 先程まで四宮かぐやが来客と歓談していた丸テーブルは、目に優しい緑の生垣に囲まれている。生垣の先には庭師の手によって整えられた、海外から取り寄せた色鮮やかな季節の植物が顔を見せ、甘い匂いが風に乗ってやって来る。

 かさかさと、葉っぱが擦れ合う音が聞こえた気がした。気のせいではなかったようで、「おや?」と讃岐も反応を示した。

 がさり。今度は明確に聞こえた。

 讃岐は揺れ動く生垣の前に立ち、右手をダークスーツの胸の合わせに手を入れ、内ポケットから黒い棒状の物体を取り出した。以前早坂も目にした伸縮式の特殊警棒だ。

 流れるような動作で、讃岐が右手を一振り。黒い棒はたちまち長さ50センチほどの物騒な武器に早変わりした。

 手にしていた2つのティーカップが乗ったお盆をテーブルに置き、早坂も生垣から現れる侵入者に備えた。

 更に一際大きい音を立てて、緑の中から漆黒の影が飛び出した。手には鋭い煌めき、瞳は獲物を狙っているかのようにギラギラしていて、赤い舌がペロリと口元を舐める。艶のある頭頂部の黒い毛が、降り注ぐ日光を反射させ輝いている。

 そして、侵入者は甲高い声を上げた。

 

「にゃーん」

 

 気が抜けたように肩の力を抜く讃岐。伸ばした警棒を元の形状に戻し、内ポケットに仕舞う。

 飛び出して来たのは、白、茶、黒3色の毛を持つ三毛猫だった。首輪を着けていないので、野良猫だろうと推測できる。

 

「これはこれは、愛嬌のある侵入者だね」と同意を求めて早坂の方を振り返り、

 

「あれ?」

「どうしました?」

「うわっ!」

 

 驚いて肩が跳ねる、という大袈裟な反応を讃岐は示した。

 

「……『どうかした?』は、こっちの台詞なんだけど……何でそんな所にいるの?」

「至って普通の場所に立っていますが」

「よく表情を変えずに言えるね」

 

 早坂は讃岐の背後に立っていた。讃岐が驚いたのは、あと数センチ近付けば密着してしまいそうな距離だったからだ。

 讃岐が一歩横に動くと、合わせて早坂も横に移動して背後霊のようについて行く。その行動に首を傾げながらも、讃岐は庭に入り込んだ野良猫に歩み寄り屈んだ。

 

「お嬢様には見つからないようにしないと。毛皮を剥いで鍋敷にした後、鰐の餌にされかねない」

 

 抱えようと伸ばした手に、猫のカウンターパンチが炸裂した。

 

「痛っ……」

 

 思わず両手を引っ込める。右手の指先には一筋の赤い線が走っていた。讃岐は立ち上がって猫から離れると、引っ掻かれた手とは逆の手で頭を掻いた。

 

「嫌われたなぁ」

「動物は良い人と悪い人を見分けるといいますからね」

「お嬢様から助けようとしたのに?」

「自分の主人を悪しざまに言うからでは」

 

 血が出ている人差し指にハンカチを当てながら、讃岐は呆れた視線を背後に向ける。不名誉な視線を送られた早坂は、泰然自若とした態度のまま口を開く。

 

「何ですか?」

「いや、良いんだけどね。僕は」

 

 いつでも讃岐を盾にできるよう背後に立つ早坂。2人の距離は更に縮まっている。近くに居なければ盾にならないのだ。

 猫は変わらず讃岐を警戒していて、黄金色の瞳を逸らさない。

 

「抱えるのは無理そうだし、どうしたものかな。これだけ広い庭なのに猫じゃらしの1つも無いのは問題だね」

「仕方ありません。光谷君の手を犠牲にしましょう」

「仕方ないって程、手は尽くしてないと思うんだけど……。その結論に達するのはもう少し迷ってからにして欲しいね」

 

 再び猫に近付こうとする讃岐のスーツの袖を、慌てて掴んで止める。

 

「急に動かないでください」

「君さ、もしかして……まぁ、いいか」

 

 次の一歩を踏み出した途端、三毛猫は鋭く唸って威嚇した。

 

「シャァァァァ!!」

 

 驚いた早坂は咄嗟に近くにあるものを握りしめる。

 

「おっと」讃岐の上体が後に傾く。握ったのは讃岐の左腕だった。

 

「ねぇ、早坂さん」

「何か?」

「素敵な鉄仮面だけど、流石にこの流れで誤魔化すのは無理があるよ。君が犬派なのは知ってたけど、まさか──っ!」

 

 得意げなしたり顔が僅かに歪んで、何かを耐えるような表情に変わる。讃岐は自分の腕を鷲掴みにしている早坂の手を、自由な方の手で指差した。向けられた人差し指がぷるぷると震えている。

 

「き、君の反応は大変可愛いらしくて結構だし……っ、僕としても役得なんだけど、少し力を緩めてくれるかな。折れそう」

「す、すみません。…………そんなに強くないですよ」

 

 慌てて左腕から手を離し引っ込める。乙女の細腕を、まるでゴリラ並みの豪腕のように語る讃岐に反論する声は、バツの悪さもあって小さくなった。

 握力が可愛らしくない、などと宣い、讃岐は左腕を摩っている。

 

 力が強くて悪かったですね! 

 

「猫が嫌いなのは知ってたけど、苦手だとは思わなかったよ」

「子供の頃に腕を引っ掻かれた事があるんです。それ以来苦手意識が」

「猫嫌いもそれが原因か。猫は僕がどうにかしておくから、先に戻ってなよ。おや……?」

 

 ついさっきまで居た猫は、跡形も無く消え去っていた。

 

「残念、雄かどうか確認できなかった」

 

 猫の毛色を決定する遺伝子がX染色体に起因する為、三毛猫のほとんどは雌である。雄も存在するが、雄の三毛猫が産まれる確率は3万分の1程でしかない。雄の三毛猫はとても貴重なのだ。

 

「雌だったらホームズと名付けて、屋敷のマスコットにしてもよかったな」

「三毛猫ホームズですか……。そもそも光谷君にマスコットの指名権はありません」

 

 思わぬ侵入者の出現もあったが、使用人としての仕事はまだまだ山積みだ。テーブルに置いたお盆を手に取って屋敷へと戻る。

 

「どうぞ」屋敷への道すがら、早坂から差し出された品に讃岐は目を丸くした。

 

「本当に色々持ってるね、君。有り難く使わせて貰うよ」

 

 讃岐は呆れ半分感謝半分といった体で、早坂から受け取った絆創膏を、猫に引っ掻かれた指に巻いた。

 

 

 ◯

 

 

 本日も毎度お馴染みの知能と策略を駆使した頭脳戦を終えた四宮かぐやは、屋敷へ帰宅し豪勢な夕食に舌鼓を打ち、のんびりと湯に浸かり、いつものように使用人の早坂を部屋に呼び寄せた。

 

「会長にまた女友達が増えたのよ」

 

 長年かぐやに支えている早坂には分かっていた。彼女は愚痴を聞かせたいのだと。

 

「友人が増えるのはいい事では?」

「ええ、そうね。でも、会長は優しいさを勘違いしてしまう困ったさんが出てくるかもしれないでしょ」

「またその話ですか……」

 

 以前もかぐやは似たような事を言って、浮気防止ホルモンを分泌させる作戦を実行した。

 フリーの白銀が誰と付き合っていようと浮気ではない、というツッコミは置いておくとして、作戦の成否は定かではないが、その日のかぐやはやけに上機嫌で、珍しく優しさに溢れていた。

 

「取り敢えず、私は勘違いしないのでご安心を」

 

 数日前、ひょんな事から白銀御行と変装時の早坂、所謂ハーサカは友人関係になった。そんな事情もあり、目の前の困ったさんと同類扱いを避けたい早坂は、念の為目の前の困ったさんに釘を刺した。

 

「そうでないと困るわ。……というか貴女、男友達が欲しいって言ったけど、讃岐は違うの? 前ほど仲が悪い訳でもないでしょ」

 

「光谷君ですか?」言ってから少し考える。

 

 現状の早坂と讃岐の関係は友人と呼んで差し支えないのだが、普通の友人関係には当て嵌まらないだろう。

 

「光谷君は同僚という感覚が強いので、友達とはまた別枠な気もしますね」

「そういうものなの。……ん? 貴女今なんて言ったの?」

 

 引っかかるところがあったのか、かぐやは聞き返す。

 

「普通の友人関係には当てはまらないと」

「その前」

「同僚という感覚が強い」

「その前! 変わった呼び方をしたでしょう!」

 

 かぐやの言わんとしている事が理解できた早坂は、面倒臭くなりそうな確信に近い予感を覚えながら口を開いた。

 

「……別に変わってませんよ。光谷君と、普通に名前で呼んだだけです」

 

「変わってない」と「普通」を強調したが効果はなかったようだ。赤い瞳を丸くしてかぐやは驚きを顕わにした。

 

「アイツとかコレって呼んでたからてっきり、名前を知らないのかと思ってたわ」

「知ってますよ。というか、これだけ一緒に仕事してて知らなかったらアホですよ」

「何で急にそんな軽薄な…………軽くて薄い呼び方を?」

「言い直せてませんよ」

 

 お堅いかぐやは、異性を下の名前で呼ぶ行為が、恥じらいがなく軽々しいと思っているに違いなかった。

 

「今時それくらい普通ですよ。書記ちゃんだって光谷君って呼んでるじゃないですか」

「それはそうだけど……それにしたって何で急に」

「かぐや様の前で彼を名前で呼ぶ機会がなかっただけです」

 

 早坂はさらりと嘘を吐いた。個人的な考えの元、讃岐の名前呼びを避けていたのは事実。今更名前で呼ぶという行為は、急に距離を詰めたようで多少の気恥ずかしさを感じていた。

 

「それはともかく」

 

 これ以上この話題を続けるのは避けたい早坂は、2通の封筒を取り出した。

 

「かぐや様宛に差出人不明の封書が2通届いています」

「差出人不明? 気味が悪いわね」

 

 かぐやが差し出した右手に、早坂が封筒を手渡す。黒色のいかにも怪しげな洋封筒は封蝋で閉じられていた。

 宛先は2通とも「四宮かぐや様」となっており、早坂の言う通り差出人の名前はない。切手は几帳面に真っ直ぐ張られていて、立川郵便局の消印が押されていた。

 

「封蝋なんて古風ね。早坂、開封してみて」

「かしこまりました」

 

 恭しく一礼した、早坂はぺーパーナイフで渡された封筒の上部を切った。現れたのは一枚の白い便箋のみ。封筒を逆さにして振ったが、特に怪しい物は入っていなかった。

 早坂は便箋をかぐやに手渡した。便箋を読むかぐやの眉間に次第に皺が寄っていった。

 

「何なのこれ」

「いかがしましたか?」

 

 ため息を吐いて、かぐやは便箋を早坂の方へ向けた。「読んだら分かるわ」

 

「『明日、鼠が活動を始める頃、四宮家に眠る、黄金色に輝く原初の御玉は失われる。是非ともお気を付けを。怪盗ゴールド』……何ですかこれ?」

「さあ? 分かるのは、これが犯行の予告状って事だけね。本気か悪戯かわからないけど」

「いかがなさいますか?」

 

 そうね、と腕を組んでしばらく黙考したかぐやは、嫌そうに顔を顰めて早坂に告げた。

 

「早坂、讃岐に連絡して」

 

 

 

『怪盗ゴールドですか』

 

 数日前から本邸に出向いている讃岐に連絡を繋げた早坂は、携帯電話をスピーカーにしてかぐやに向けた。

 

「知っているの?」

『いえ、さほどは。私が存じているのは、最近怪盗界に現れた新進気鋭の怪盗で、価値の高い金製品をターゲットにしている。というくらいです』

「妙な世界の情報ばかり詳しいわね」

 

 穏やかに努めているが、早坂達には声音に嬉々とした色が混じっているのが明白だった。

 かぐやは頭痛がするというように左手で額を抑えた。

 

「そのゴールドから古風な予告状が届いたの」

 

 早坂はビデオ通話に変えて、携帯電話の画面に予告状を写した。

 讃岐が無言で便箋に目を通している間、室内は沈黙が流れた。

 

『予告状の割には、時間も何を盗むのかも漠然としておりますので、予告状の解読から始めるのがよいかと』

「というかこの予告状は本物なの?」

『私からは何とも申し上げられません。それを確認する意味でも、解読の必要があると思われます』

「はぁ……そうするしかないようね」

 

 改めて予告状の内容を思い返す。最初に出て来るのは時間だ。

 

「鼠が活動を始める頃」

 

「時間に関係していて鼠だから、()の刻を指しているんじゃないかしら」

 

 子の刻とは近代以前の中国や日本で用いられた、1日を2時間ずつ12の時辰に分ける時法、十二の内の一つ。現在の午後23時から午前1時までを指す。

 

「割と幅がありますね」

「そうねぇ……」

『午前0時でよろしいかと』

「根拠があるの?」

『怪盗は大抵の場合午前0時に現れたがるという、帰納的推理です』

「ふざけてるの?」

『いえ。悩めるお嬢様の前でふざけるような無礼、私は一切致しません。次は「黄金色に輝く原初の御玉」でございますね』

 

 主に嘘を吐く。主の問いを煙に巻く。一言で2つの無礼を重ね、讃岐は話を進めた。

 「黄金色に輝く原初の御玉」これもまた曖昧な表現であるが、早坂にはこの品物に心当たりがあった。

 

「〈金の卵〉の事ではないでしょうか? 御玉は鶏卵の事ですし」

「金の卵?」

「とある有名彫刻家の作品です。現在別邸にある物の内では1番値打ちがあるでしょう」

『それなら聞いた事があります。昔旦那様が「払えねぇってんなら、こいつを貰っていくぜ」と口汚く吐き捨て、彫刻家から借金の方に頂いたとか』

「お父様が、そんなチンピラみたいな真似する訳ないでしょ」

 

 手を振って有り得ないと、讃岐の話を断じた。

 

「そもそも予告状は暗号なの? ただ曖昧な言い方をしているだけじゃない」

『はい、暗号と呼べる代物ではございません。天下の四宮家を相手にする大舞台。せっかくなら洒落た予告状にしようという、怪盗の心意気を感じます』

「感心しないで」

 

 かぐやはハッと顔を上げて、早坂の掌に乗っている携帯電話に声をかけた。

 

「明日の0時って、あと4時間後じゃない?」

 

 早坂は部屋の時計に目を遣る。現在の時刻は20時10分。約4時間後には0時になる。

 

『いや、さすがに4時間後ということは……』

「だって今から4時間後はもう明日じゃない」

「いくらなんでも、予告状が届いてから犯行までが短すぎでは? この場合、一晩明けた明日の夜の午前0時。つまり、今から28時間後のことかと」

「でも、貴女の言う午前0時は、厳密には明後日でしょう?」

「それはそうですが」

 

 早坂が困ったように眉根を寄せていると、携帯電話から声が聞こえた。

 

『そういえば、もう一つの封筒がありましたね』

 

「そうでしたね」早坂は手に持ったもう1通の封筒を開け、中の便箋を自分の手で広げた。

 

「読み上げます……『念の為言っておくが、鼠が活動を始める頃は、午前0時。黄金色に輝く原初の御玉は、金の卵の事だ。PS.ちなみに明日の午前0時とは、今日の深夜という意味ではなく、明日の深夜0時。つまり厳密には明後日になる。常識的に考えれば分かるだろうが、念の為記しておく。怪盗ゴールド』……2度も念を押していますね」

「身の程を知らない怪盗ね」

 

「常識的に考えれば分かるだろうが」という部分が引っかかったようで、かぐやは静かに青筋を立てた。

 

『全くです。上流階級であるお嬢様が、世間一般の常識から外れてしまうのは仕方がない事でございます』

「火に油を注いでますよ」

 

 讃岐の迂闊な発言でかぐやの堪忍袋が爆発しないうちに、早坂は話題を逸らした。

 

「ここまで念を押している以上、つまらない悪戯では無いでしょう。明日の午前0時までに手を打たなければなりません。いかが致しますか、かぐや様?」

「その為に讃岐に電話したのよ。あっ、その前にお父様に話しておいた方がいいわよね。本邸に居るんでしょう?」

『旦那様ですか……』

「? どうかしたの?」

『いえ、今代わります』

「その必要はないわ。貴方から聞いておいて」

『……承知致しました』

 

 ほっと胸を撫で下ろすかぐや。讃岐も父親との関係が上手くいっていないかぐやの内心を察してか、何も言わず了承した。

 それから数分後、再び携帯電話から声が聞こえた。

 

『欲しいならくれてやれ、とのことです』

「えぇ……」

 

 別邸に置いてあるくらいなので、そこまで愛着もないのだろう。かぐやの父親、四宮雁庵の返事はなんとも雑だった。

 

「いくら要らない物でも、怪盗に差し出す訳にはいかないでしょう。警察を呼ぶべきかしら?」

 

 最後の言葉は携帯電話に向けて投げられた。

 

『警察に知られるのはお勧め致しかねます』

「どうして?」

『〈金の卵〉を守る人の人数が多くなるからです』

「多い方がいいじゃない」

『怪盗と名乗るからには、変装の技術が卓越しているのは間違いありません。人が多ければその分、変装に気付き難くなります。即ち怪盗の侵入が容易になるのです』

「そういうものなの?」

 

 怪訝そうな顔でかぐやは早坂に尋ねる。早坂もよく分からなかったので首を傾げた。

 

「じゃあどうするのよ? 貴方まだ帰って来ないのよね。私と早坂だけじゃ危険だと思うけど」

『このようなおいしい場面に立ち会えないのは、私としましても一生の不覚でございます。怪盗程度なら早坂さん1人でもどうとでもなるでしょうが、一応もう1人くらいは検討の余地があるかと』

「他の使用人を残しましょうか」

『それでもいいですが、他に適任がおります』

「適任?」

『変装が難しく、かつお嬢様に協力的。なにより怪盗に興味を示す人物です』

 

 

 

 

 怪盗への対策も纏まり、自室に戻った早坂が最後の仕事を終えたのは、時計の針が午前0時を回ろうとしていた頃だった。明日の今頃は怪盗が屋敷にやって来るだろう。

 タブレットでネットの動画を見ながら布団をかぶる。そのまま眠気が襲って来るのを待っていると、不意に携帯電話の着信音が鳴った。

 

 こんな時間に誰が? 

 

 疑問に思いながら画面に表示された名前を確認した早坂は、思わず首を傾げた。

 

 

 ◯

 

 

「もうそろそろですね。かぐやさん」

 

 珍しく神妙な顔をする友人に、かぐやは「そうですね」と応えた。午後23時。怪盗が指定した時刻まで残り1時間となった。

 

「怪盗なんてさすがは四宮家ですねー。ですが、心配いりません! 私が来たからには、絶対に捕まえてみせます!!」

 

 昨夜讃岐が指名した助っ人、藤原千花が高らかにそう宣言した。讃岐が提案した時は何を考えているのかと呆れたが、喜んで事件解決に協力する上、見た目だけならともかく、不規則で突拍子もない言動まで真似るのは身近な人間でなくては困難だ。

 

「かぐや様と僕だけでは些か不安だったので、千花お嬢様に来て頂き大変心強いです」

 

 イケメン執事に頼りにされた藤原は、えへへ〜と顔を緩ませる。

 別邸に執事のような上級使用人は居ない。藤原に分かりやすいお世辞を述べたイケメン執事は、早坂愛が怪盗よろしく変装した姿である。

 早坂は学校で四宮家の使用人である事を隠している。なので屋敷に白銀御行や藤原千花など、秀知院学園の生徒でかぐやの友人が来た際は、変装して彼らの目の前に姿を現している。黒髪に眼鏡の美少年。天才執事ハーサカ君もその変装の一環。

 

「これが怪盗の狙っている〈金の卵〉ですか……」

「はい。私も初めて見ました」

「かぐやさんも初めて見たんですか?」

 

 藤原の疑問にはハーサカが答えた。

 

「無理もありません。四宮家には金の卵以上に価値のある芸術品が数多くありますし、予告状が届いてから確認しましたが、金の卵は物置の奥の方にありましたから」

 

 ハーサカは〈金の卵〉をケースから取り出して藤原に見せる。18金なだけあって、ずっしりとした重量感が見て取れる。

 

「こんなに綺麗な物が物置に……」

 

 黄金色の輝きを放つ、高さ30センチの楕円体に目にしながら藤原が呟いた。綺麗だと評した藤原と反対に、かぐやはなんだか安っぽく感じた。

 屋敷の一室。その中心に金の卵はあった。腰の高さほどの円柱状の台座に乗った金の卵はガラスケースに覆われていて、ケースの一箇所にある鍵付きの扉以外からは出し入れ出来ない構造になっている。

 部屋の窓と、唯一の出入り口である扉には鍵が掛かっていて、それぞれ赤外線センサーを新たに設置。センサーが反応すると警報が鳴るようになっている。中にはかぐや、ハーサカ、藤原の3人が待機している。金の卵を盗むどころか、部屋に侵入するのも困難に思われる厳重な警備だ。

 常に監視できるよう、3人は金の卵を取り囲んで椅子に座っていた。

 0時までは特にする事もないので、まるでお泊まり会のように3人は雑談に興じていた。といっても主に喋っているのは藤原だった。

 お得意のマシンガントークが炸裂している時、突然マシンガンがジャムった。

 コホコホッ、と藤原が咳き込む。

 

「大丈夫ですか? 藤原さん」

「すみません、昨日から喉の調子が……。でも、大丈夫です! このくらい宝を守るのになんの支障もありません!」

「……それならいいのですが、無理はしないでくださいね」

 

 来た時から少し声が低いと思ってはいたが、花粉症か何かだろうか? 体調不良という程ではなさそうだったので、かぐやも強いて止めたりはしなかった。

 

「予告状の時刻までまだ時間がありますので、眠気覚しにコーヒーでもどうですか?」

「ええ、お願いするわ」

 

 ハーサカの提案に藤原が掌を突きつけて待ったをかけた。

 

「待ってください!! 今ドアの鍵をを開けるのは危険です。それにハーサカ君がコーヒーを用意している途中、隙を見て怪盗が睡眠薬を入れるかもしれません。そうなったら私達はまとめて夢の中です」

 

 藤原さんにしてはまともな事を言いますね。

 

 かぐやは密かに感心した。

 

「それなら安心してください。事前にポットを持って来ていますから」

 

 ハーサカは壁際にある机を指差した。机の上にはポットと未開封の紙コップが置いてある。

 

「ポットのコーヒーは僕が用意しましたし、紙コップは未開封なので睡眠薬を仕込む余地はありません」

「それなら安心ですね〜。私の分もお願いします」

 

 あっさり態度を翻して藤原は緩んだ笑みを浮かべた。ハーサカは恭しく一礼して、ポットのコーヒーを紙コップに注ぐ。

 香ばしい薫りと上品なコクを堪能しながら、かぐやは部屋の扉へと視線を向けた。

 

「扉の外には誰も居ませんが、1人くらい外に立っていたほうがいいんじゃないですか?」

「怪盗は扉の外の人物を真っ先に狙うでしょう。そして私達に向かって『怪盗が現れたぞ!』と叫ぶ。私達がドアを開けて怪盗を探している内にお宝を盗み出す。怪盗の典型的な常套手段ですよ、かぐやさん!」

 

 常套手段になるくらいこの世界には怪盗が出没しているのだろうか? 疑問に思ったが、かぐやが口にすることはなかった。

 

「ご安心下さい。対策として扉と窓にセンサーを設置しています。センサーが反応すると警報が鳴り、別室に待機している警備員が駆け付けます」

「むっ。警備員に怪盗が紛れている可能性が……」

「抜かりありません。僕自ら全員確認しました」

「さすがハーサカ君です!」

 

 かぐやは抗いがたい急激な睡魔に襲われ、意識は夢の世界へと旅立って行った。

 

 

 

 

「かぐや様!! 起きて下さい! かぐや様!」

 

 体が揺れる感覚と共にかぐやの意思は浮上した。ハーサカの心配そうな声が耳朶を打つ。

 

 体が痛い。何で椅子なんかで寝ているのだろう。──あぁ、そうだ怪盗……怪盗!? 

 

「ハーサカ、今何時!?」

 

 慌てて尋ねるかぐやにハーサカは力無く首を振って答えた。

 

「午前0時です」主人の問いに答えたハーサカは、かぐやに台座が見えるよう横に移動した。

 ポカンと口が開くのが自分でも分かった。

 

「〈金の卵〉が……」

 

 ガラスケースの扉は鍵が刺さりっぱなしで開いており、ケースの中には粉々になった金色の破片が散らばっていた。

 破片の上には便箋が置いてあった。差出人は怪盗以外にいない。

 

『約束通り四宮家から金の卵は消失した。怪盗ゴールド』

 

「すみません、かぐや様。寝ている間に鍵を取られてしまいました」

「仕方ないわ私達全員眠らされていたんだもの。藤原さんは?」

「室内を調べています」

 

 うーん、と唸りながら藤原が室内を歩き回ったり、壁を叩いたりしていた。

 

「藤原さん、何をしているんですか?」

「うーん。かぐやさん、この部屋に隠し通路とかありませんか?」

「ありませんよ、そんなもの。それより、今からでも怪盗を追った方がいいんじゃないですか?」

「でもおかしいんです! 窓や扉からは怪盗が逃げた形跡がありません! 怪盗は一体どうやって逃げたんでしょう?」

 

 言われて気づく。かぐやは窓と扉の鍵を確認した。全て鍵は掛かっている。警備員が来ていない事実から、センサーも反応していない。つまり、怪盗は窓や扉を通らずに部屋から脱出したという事。

 3人は途方に暮れ、誰一人声を出す者はいなかった。

 そんな中、電子音が室内に響いた。聞き慣れた音量だったが、部屋が静かだった分、大きな音に感じた。

 かぐやは音源である自分の携帯電話を取り出した。普段なら興味の無さからつい携帯を放り投げてしまっただろうが、今は画面に表示された名前が希望の光に思えた。

 

『お嬢様、怪盗ゴールド様はいらっしゃったでしょうか?』

 

 腹立たしいくらい落ち着いた声。言いたいこと、聞きたいことは色々あるが取り敢えず、

 

「怪盗相手に様は必要ないわ」

『失礼致しました。そのご様子から察するに、金の卵は破壊されたのでございますね?』

 

 かぐやの不機嫌さが滲み出た声音で讃岐はそう判断したようだ。かぐやはそのまま電話口で今までに起きた出来事を伝える。

 

「──という訳で、金の卵は壊されてしまったわ」

『状況は把握しました。ご安心下さいお嬢様。怪盗はまだ屋敷から出てはいません』

 

「どういうこと?」と疑問を口にする間もなく讃岐が続けた。

 

『そして、怪盗の居場所にも見当が付いております』

「えっ、そこまで分かっているの!?」

『はい。お嬢様、お手数ですが、早坂さんと藤原さんにも聞こえるよう、携帯をスピーカーにしていただきたいのですが』

「藤原さんも? いいの?」

『構いません。電話口の声ですので、私だとバレる心配はないでしょう』

「それならいいけど……」

 

 讃岐の指示に従い、室内を調査していたハーサカと藤原を集めて、スピーカーのボタンを押す。

 

『では僭越ながら四宮家お抱え探偵である私から、今回の怪盗騒ぎについて見解を述べさせて頂きます』

 

 お抱えの医者や料理人は聞いたことがあるが、お抱えの探偵は聞いたことがない。

 早坂はともかくとして、藤原は唐突に現れた怪しさ満点の声に何の疑問もないのだろうか。大人しく話を聞いている藤原を見ながらかぐやはそう思った。

 

『怪盗の予告通り、金の卵は「破壊される」という形で四宮家から失われてしまいました。予告状に盗むとは書かなかったのは、怪盗なりのフェアプレー精神といったところでしょう』

 

 かぐやは不愉快そうに鼻を鳴らした。

 

「どこがフェアプレーですか。怪盗は物を盗む者を指す言葉でしょう。そう名乗っておきながら、破壊活動だけして帰るなんて」

『さすがはお嬢様、実に鋭い目の付け所でございます。昨日連絡頂いた時、私もその点が気になり早坂さんに〈金の卵〉を調べて貰いました』

 

「ちょ、ちょっと!」かぐやはスマホを持ったまま、慌てて少し離れた場所まで離れて、藤原達に背を向けた。

 

「早坂の名前は出さないで! 藤原さんも居るのよ!」

『申し訳ありません。私とした事が迂闊でした』

 

「かぐやさーん」背後からの声にかぐやは肩を震わせた。

 

「ど、どうしましたか? 藤原さん」

「いえ、何かあったんですか?」

「いえ、なんでもありませんよ! 少し電波が……」

 

 早坂とハーサカの発音が似ていて助かった。藤原は気づいていないようだ。

 

「次間違えたら切るわよ」

『承知致しました』

 

 小声で讃岐に警告して藤原達の元へ戻る。

 

『お嬢様、〈金の卵〉の残骸を手に取っていただけますか?』

「残骸を?」

 

 ケースの中に散らばった輝く破片のうち、湾曲した一片を指先でつまむ。破片を手にしたかぐやは違和感を覚えた。

 

『思ったより軽い、と思われたのではございませんか』

「! そうね、18金にしては軽いわ。とても……」

『はい、おそらく金メッキで加工された物でしょう。怪盗は破壊という手段で、〈金の卵〉を失わせたのです』

「金メッキ……」

 

 18金ではなく、金メッキで加工されていたとすれば、〈金の卵〉の価値は地に落ちる。

 

「いや、待って。ハーサカが〈金の卵〉を持った時は重そうでしたよ」

「はい。不自然に軽くはなかったです」

『ケース内に残っているのは、あくまで卵の殻の部分でしかありません。殻自体に重量がないのであれば、中身が存在した、とは考えられないでしょうか?』

「言いたい事は分かるけど、今のところ想像の域を出ないわ」

 

 少し間が開いて『仰る通りです』と返答があった。

 

『ですので〈金の卵〉を破壊した張本人にお伺いしようと思います』

 

 それができたら苦労しないわよ。

 

 

『中身はありましたでしょうか? ハーサカ君──いえ、怪盗ゴールドさん』

 

 

 かぐやが讃岐の言葉の意味を理解するのに些かの時間を要した。

 

「なにを馬鹿なこと言ってるの? ハーサカが怪盗だなんて……」

 

 ハーサカからの反論はなかった。美少年の天才執事はただ無表情でスマホを見つめる。

 

「ハーサカ。貴女からも何か言ってください」

「何か、ですか。……そうですね」

 

 すっとハーサカの口角が釣り上がった。爬虫類のように狡猾な笑みは、かぐやの知る彼女からは考えられない表情だった。

 

「いつから気付いてました?」

 

 口調こそ今までと変わっていないが、声音はより低く男性的になった。見下すように上からスマホ問いかける。

 

『藤原さんが〈金の卵〉の警護にあたると決まってからですね』

 

 余裕を見せつけるかのように、冷静にそしてゆっくりと讃岐が答える。

 

「あぁ、なるほど。まんまと嵌められたって訳か」

 

 吐き捨てるように舌打ちする怪盗ゴールド。首元から顔にかけて皮膚を引っ張ると、皮が剥がれていきその中にある素顔が見えた。現れたのは堀の深い青年の顔だった。

 2人は了解し合っている様子だがかぐやは何が何だか全く分からない。

 そんなかぐやに説明する為ではないだろうが、讃岐は続けて語った。

 

『数日前早坂さんが、誰かに見られている気がすると言っていました。そしてその数日後に予告状が届いた。私は貴方が下準備の為、屋敷の調査をしているのではないかと思いました。恐らく監視と盗聴くらいはしていたでしょう』

「設置には苦労したんだがな。バレてるとは」

 

 設置というのは、監視カメラや盗聴器だろうか。かぐやの存在を忘れたかのように探偵と怪盗は会話を続ける。

 

『この屋敷には変装していても怪しまれない人物がいます。それがハーサカ君です。なにせ彼自体変装した姿なので、変装をまず疑われない。これほど変装に適した対象もいません。ですがハーサカ君は、対藤原さん用に作られた存在。彼女がいなければ登場しません。なので藤原さんを屋敷へ呼び、貴方がハーサカ君に変装するよう誘導したのです』

 

 怪盗は早坂が早坂愛からハーサカに変わるタイミングで、入れ替わっていたらしい。

 黙って聞いていれば讃岐の口からポンポンと、ハーサカに関する重大な秘密が飛び出す。まさか本当に怪盗しか意識にないのではあるまいか。

 横から口を挟むのも躊躇わらたので、かぐやは横目で藤原の様子を盗み見る。

 藤原は表情らしい表情を浮かべず、成り行きを見守っていた。

 おかしい、とかぐやは思う。あれだけ興味を示していた怪盗を目にしているにも関わらず全くの無表情。藤原であれば鼻息荒く目を輝かせているに違いないと、思っていたのだが。

 かぐやの中で徐々に違和感が膨らむ。

 

「俺が自分の計画をそのまま実行したらどうするつもりだったんだ?」

『私の計画に乗る自信はありましたが、貴方が実際にどちらの計画を取るかは分かりません。ですがどちらにせよ、早坂さんに何事もなければ私の計画、何かあれば貴方の計画を実行したのだと、事前に把握できる立場にありました。貴方がご自身の計画を実行したのなら普通に〈金の卵〉を守るだけです』

「酷い奴だなぁ。女の子を囮に使うとは」

『予告状を送るだけあって紳士的でございますね』

 

 変だ、とかぐやは本日何度目かの違和感を覚えた。いくら讃岐が人間として褒められた感性の持ち主ではないとはいえ、何の対策もせずに早坂を囮にした挙句、危害を加えられた可能性があるのに平然としていられるような、どうしようもない人間だとは思えなかった。

 

「で、本題は俺が金の卵の中に入ってた物を持っているか、だったな」

『見せていただけますか?』

 

 どうしようかな、と怪盗は顎に手を当て首を捻った。

 

「俺も怪盗の端くれだ。証拠を提示されるまでは降参できないな」

『貴方の身体検査をすれば、証拠は出て来ると思いますが』

「それは彼女達にやらせるのかな?」

 

 かぐや達を横目で見る怪盗の姿に背筋が寒くなる。讃岐があまりにも平然としているので勘違いしそうになるが、目の前の人物は正真正銘の犯罪者なのだ。

 ふっ、と楽しげな息遣いがスマホのスピーカー越しに伝わる。

 

『では、証拠を見せましょう。──お願いします』

 

 呼びかけに呼応して、藤原が一歩前へ出た。その姿を見てかぐやは違和感の正体を確信した。

 藤原は小型のタブレットを手にしている。隠し持っていたのであろうそのタブレットをかぐやと怪盗へ向ける。画面から動画が流れ始め、怪盗は目を見開いた。

 

 一際甲高い音の後に、カラ、カラと小さい落下音が連続する。

 

『思った通りだ。卵自体には何の価値もない』

 

 斜め下からのアングルで映っているのは、怪盗が〈金の卵〉を破壊する一部始終だ。

 割れた卵の頭から手を突っ込む怪盗。次に卵から引き抜いた手には、眩い金色の光を放つ鳥の彫刻があった。

 そこで藤原が動画を止める。動画の内容はまさに、怪盗が要求した証拠に他ならなかった。

 かぐやは無表情の藤原を見据えて口を開く。

 

「やはり貴女だったのね──早坂」

 

 ウィッグを外し、変装を解く早坂。藤原の発達した胸部を再現する胸のパットがいくつも床に転がるのを見て、かぐやは場違いにも絶望を味わった。

 

「騙すような形になって申し訳ありません、かぐや様。光谷君がどうしても秘密にしろと言うので」

『おや、さりげなく売られたような気がするのですが。早坂さんには、わざと眠らされたふりをしてもらい、その後藤原さんとして屋敷へ来訪していただきました。さて、いかがですか? 怪盗ゴールド様』

「なんで寝たふりなんてしたんだ? その場で捕まえればいいだろ」

 

 まぁ無理だっただろうけどな、と怪盗は付け加えた。

 

『予告を受けた以上、正々堂々相対するのが礼儀ではないかと』

「へぇ、話が分かるなアンタ」

 

 何故か意気投合する使用人と怪盗。怪盗は肩をすくめ、投げやりな口調で、

 

「はいはい。全部アンタの推理通りだよ、名探偵。これが〈金の卵〉改め〈金の鳥〉だ」

 

 怪盗はスーツの内ポケットから、金製の鳥の彫刻〈金の鳥〉を取り出した。黄金色の輝きにかぐや達が見惚れていたのも束の間、怪盗は再び〈金の鳥〉を懐にしまった。

 観念したのかと思ったら、怪盗は性懲りも無く言った。

 

「さて、お宝も手に入れたし、ここら辺で失礼しよう」

『逃げ切れるとお思いですか?』

「そりゃまあ、怪盗だからな。屈強な男数十人に囲まれた事だってあるんだぜ。こんなお嬢様2人じゃ到底────!」

 

 最初に動いたのは早坂だった。タブレットを怪盗目掛けて手裏剣のように投げつける。

 綺麗な縦回転し飛来するタブレットを顔を横に振るだけで回避する。タブレットを目眩しにして、一瞬で怪盗の目前へ迫った早坂。そのまま忍者さながらに、袖口から取り出したナイフを横に一閃。

 怪盗は早坂の身のこなしに驚いた表情を見せるも、冷静にバックステップしナイフを躱す。ナイフは虚しく空を切り、スーツの胸元を裂く止まる。

 返す刀でいつの間にか手にしていた拳銃を早坂に向ける怪盗。早坂は僅かに身を硬くしたものの焦る様子もなく銃口を見据える。

 次の瞬間、嘲笑うかのような笑みを顔に張り付ける怪盗。銃口を早坂から逸らし横に向けた。その先に居たのはかぐやだった。引き金を引く指に力がかかる。

 

「っ! ──かぐや様!」

 

 慌てた早坂が自分の身も顧みずかぐやを押し倒し、拳銃の射線から逸らしたのと銃声が屋敷に轟いたのは同時だった。

 恐る恐る瞼を開ける。かぐやの目の前に広がったのは、予期していた凄惨な光景ではなく、

 

「なんちゃって。怪盗紳士が人殺しなんてする訳ないだろ」

 

 憎たらしい笑みを浮かべる怪盗の手には、銃口から花が飛び出たパーティグッズのような拳銃。

 かぐやと早坂が倒れている隙を逃さず颯爽と窓を蹴破る怪盗。ガラスが割れる音と警報音が屋敷内に響く。

 

「それでは失礼しましたお嬢様方。そして名探偵」

 

 怪盗はかぐや達に向かって慇懃に頭を下げてから窓の外へ消えた。

 この部屋は屋敷の2階。飛び降りればただでは済まない。かぐやと早坂は怪盗が破壊した窓から身を乗り出した。

 窓からは黒い闇が広がるのみ。どこに行ったの? というかぐやの声を、突如鳴り響いたモーター音がかき消した。

 

「モーターパラグライダー……」

 

 夜空に広がる湾曲した白い長方形。モーター音の正体は、謎の人物が背負っている大きなプロペラが発する回転音だった。ハーネス部分には人影が確認できる。

 パラグライダーからは一本の縄梯子が垂れ下がっており、その縄梯子を怪盗が掴んでいる。

 なんて大胆不敵な逃走劇だろう。月をバックに遠ざかる怪盗を力無く見送る事しかかぐやにはできなかった。

 

 

 

 

 警報音を聞き別室から駆けつけた警備員に自身の無事を伝えたかぐやは、ぐったりと椅子に座り込んだ。

 

「まんまと盗まれたわね。共犯者がいるなんて思わなかったわ」

 

 見かねたように早坂が声を掛けた。

 

「かぐや様、〈金の卵〉については心配いりません」

『〈金の卵〉も所詮は旦那様が不要と断じられた代物。どうかお気を落とされぬよう』

 

 続いた讃岐の言葉に「いえ、そうではなく」と早坂は否定の意を示し、ポケットに手を入れる。ポケットから取り出された手が開いた瞬間、かぐやは目を細め、あっ、と声を上げた。

 鋭く凛々しい嘴に大きく広げられた翼。それら全てが黄金に輝いている。そう、早坂の手のひらに乗っていたのは〈金の鳥〉だった。

 いつの間に、と言いかけてやめる。思い当たる節があったからだ。

 

「スーツを切った時ね。相手が泥棒とはいえ、物騒な物を取り出すから変だと思ったのよ」

 

 早坂がナイフで怪盗に襲いかかったのは、怪盗を戦闘不能にするのが目的ではなかった。初めから〈金の鳥〉が仕舞われたスーツの胸元にある内ポケットを切るつもりだったのだ。

 さすがの讃岐も早坂の手際の良さに「ほう」と感心の声を漏らした。

 

「盗まれていないのなら一安心ね。怪盗には逃げられたけれど」

『しかし、パラグライダーで逃走するとは……。彼こそまさに怪盗と呼ぶに相応しい人物。現代に蘇ったアルセーヌ・ルパンでございます』

「貴方はどっちの味方なんですか?」

 

 怪盗を称賛する発言を聞き咎めた早坂が、冷たい視線をかぐやのスマホに送る。

 

『勿論、四宮かぐやお嬢様の味方でございます』

 

 一切の迷いなく素早い返答が、妙に白々しく聞こえるのは日頃の行いに違いない。

 

「そう。じゃあ、この部屋の後片付けをお願いするわ」

『片付け、でございますか?』

「ええ。明日には帰って来るのよね」

『それは仰る通りですが…………ガラスの割れる音が聞こえた気がするのですが』

「よく聞こえたわね。怪盗が蹴破ったわ」

『……』

「どうかしたの?」

『いえ、少々電波が。……承知致しました。不肖ながらこの私、お嬢様の為「粉骨砕身」の決意で「一生懸命」に「骨を折らせて」いただきます』

 

 嫌な言い方! 

 

 

 ●

 

 

 時は遡り四宮別邸に予告状が届いた日の夜。

 和室の内装は簡素で、中央に飴色のローテーブルがあるのみ。テーブルを挟んで2人の男が座っている。禿頭の男性は座布団の上に胡座をかいている。もう片方の男は長身ではあるが、まだ少年と呼べる歳の頃だ。

 

「こんな所にいらっしゃってよろしいのですか、黄光様。旦那様が倒れられたと伺いましたが」

 

 声をかけられた男は淡々と応答する。その声音から感情は伺えない。

 

「こんな時だから来たんだ。誰に聞かれるか分からんからな」

「私のような一介の使用人ごときと会うのに随分手が込んでいますね」

 

 くっくっ、と黄光は喉を鳴らす。

 

「謙遜するな。俺はお前を買ってるんだ」

「光栄でございます。して、私にどのようなご用件で?」

 

 少年の質問に答えず、黄光は独り言のように呟く。

 

「今回の件で確信した。オヤジの帝国はもう終わりだ。病床に伏せた今のオヤジに、昔ほどのカリスマはないだろう。四宮の時代を終わらせない為には、誰かが帝王になるしかない。青龍は使い物にならない。雲鷹の腹黒野郎は何を考えているか分からない。かぐやは女だ」

「無論、次の四宮を率いるに最も値する人物は、黄光様以外にはおりません」

 

 殊勝な言葉を返す少年に、こいつもこいつで何を考えているか分からない、と黄光は心の中で苦虫を噛む。しかし所詮は四宮に尻尾を振った犬。犬には餌を撒けばいい。

 

「そうだ。賢いお前なら誰に付くのが最善か理解できるだろう」

「勿論そうなった場合、私は最善を選択します。ですが……」

 

 少年の言葉を黄光が遮る。

 

「あぁ分かっている。お前はかぐやの使用人だ。今すぐかぐやから引き離せば、妙な勘ぐりをする奴も出て来る」

 

 少年の頭脳があれば、どんな不正を行おうと暴く事ができる。それが賄賂だろうと、殺人だろうと。

 黄光にとって少年は相手の弱みを握る為のジョーカーだ。隠し持ってこそ切り札は輝く。黄光の父がそうしたように。

 

「お前は今までと何ら変わらず仕事をしていればいい。ただ少し知恵を借りるがな。そうすれば四宮における地位は約束される」

 

 黄光の提案が自分とって益があるのか否か。考えるのに時間は掛からなかった。

 

「悪い話ではありませんね」

 

 少年は年不相応に不敵な微笑を浮かべた。

 

 

 

 

 ──やれやれ、王子様のお陰で少し遠回りしたけれど、ようやく次の段階へ進めそうだ。



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四条眞紀は従わせたい

 12月。本格的に冬の寒さを肌で感じる頃。私立秀知院学園の生徒はとある行事の準備に追われていた。

 

「衣装はー?」

「裁縫部から借りて来たよ」

「どんなのどんなの?」

 

 放課後の2年A組の教室から賑やかな声が飛び交う。四宮かぐやが所属するA組の文化祭の出し物は、綿密な協議の結果コスプレ喫茶に決定した。

 看板に衣装と着々と文化祭の準備が進行する中、教室前の廊下右手の突き当たりを右に曲がった、人気の無い場所に2人の男女が向かい合っていた。

 真っ赤なリボンで、烏の濡れ羽色の髪を頭の後ろで纏めた少女は少し、いや控えめながらもかなり怒っている様子で、長身の少年に言葉を放っている。

 

「さっき私のことを何て呼んだのかしら?」

「四宮さんと、お呼びしました。お嬢様に対して大変不敬だとは思ったのですが、学園内でしたのでやむを得ず」

「貴方に不敬なんて感情が残っていたとは驚きね。で、何て呼んだの?」

「……かぐやさんと」

「嘘を吐くのは不敬だとは思わないの?」

 

 誤解でございますと、前置きして恐る恐る讃岐は言葉を続ける。

 

「私としましてもその様な呼称を使うつもりはなかったのですが、藤原さんに引っ張られたといいますか……」

 

 もごもご言い訳しながら、ようやくある呼称を口にした。

 

筋肉姫(マッスルクイーン)と──勿論敬意を込めての事でございます。生徒会の面々をことごとく捩じ伏せたお嬢様の上腕二頭筋は凄まじく」

「ああもう、うるさいわね。そもそもマスクまで渡そうとしておいて、敬意もなにもないでしょ! 私に覆面レスラーの格好で接客しろって言うの?」

「いえ、そのような。私は決してお嬢様に覆面ヒールレスラーに扮して欲しかった訳では……」

「誰もヒールなんて言ってませんけど!」

 

 廊下の端で静かに言い争う主人と使用人の声に、新たに1人の声が加わった。

 

「あら、おば様。四宮家の長女ともあろうお方が、使用人1人手懐けられないなんて情けないですね」

 

 かぐやは驚いて背後を振り返る。現れたのはかぐやと同じくらいの身長で、茶色い髪をツインテールにした美少女。

 

「眞紀さん……」

 

 四条眞紀。四宮家の分家、四条家の長女でありかぐやの再従姪孫にあたる。

 驚いた様子がないので讃岐は眞紀の出現に気付いていたのだろう。讃岐は恭しく眞紀に一礼した。

 

「ご無沙汰しております、お嬢様の二番煎──いえ、四条眞紀様」

「今何か煎じなかった?」

「文化祭では茶を煎じる予定でございます。よろしければ、A組にお立ち寄りを」

 

 コスプレ喫茶のメニューにコーヒーや紅茶はあれど、お茶はない。彼は一体何を煎じるつもりなのだろうか? 

 誰が相手でもポロリと溢れてしまう腹黒ノッポの毒舌。もっとやれ、もっとやれと、かぐやは街中で始まった喧嘩を煽る野次馬のように心の中で何度も拳を突き上げた。

 

「眞紀さん、四宮の使用人は主人の命令がなければ何も出来ない木偶の坊には務まらないんですよ。四条家の貴女には分からないかも知れませんが」

「その優秀な使用人を使いこなせない様では、四宮の行末も心配ですね。私達としては有難いですけど」

 

 本家と分家の人間は往々にして仲が悪い。かぐやと眞紀もその例に漏れず、2人の間には熱い火花が散っていた。

 貴女の発言なんて気にしていませんよ、という風に笑みを浮かべるかぐやだが、プライドの高いかぐやが気にしない筈はなく、その頬は怒りで引き攣っている。

 

「では眞紀さんは、腹黒くて不調法で、怠惰な上に慇懃無礼な態度で主人を見下したような笑みを浮かべる使用人でも、全く腹を立てずに手綱を握れると……?」

 

 かぐやは隣を指差した。

 

「約1年間と数ヶ月、お嬢様に誠心誠意尽くした結果がそのような評価とは。私涙を禁じ得ません」

 

 全部事実でしょ! 

 

 白々しくもハンカチで目元を拭うフリをする使用人を、かぐやは横目で睨む。

 フンッと鼻を鳴らして胸を張る眞紀。

 張った胸に手を添えると、

 

「当然でしょう。私は学年3位の天才にして、正当な四宮の血を引く人間。不調法者の言葉の1つや2つ、あっさり受け流すくらいの度量はあるわ」

 

 学年2位のそれも四宮家長女の前でその謳い文句はどうなのだろう、と思ったがかぐやは口には出さず、

 

「言いましたね。では讃岐、放課後は眞紀さんに付いていなさい」

「はあ……お嬢様のご命令であれば構いませんが、校内で使用人のような振る舞いは今後の学園生活に支障が」

「貴方、今自分がどんな格好しているか忘れたの?」

 

 讃岐の衣服は学生服ではなく、コスプレ喫茶の扮装として用意された燕尾服を着用していた。その格好はまるで一流の執事のよう。屋敷でのダークスーツ姿より使用人らしさがある。

 

「適当にキャラ作りの為とか言えばいいわ」

 

 我ながら名案と思ったが、何故か讃岐は浮かない表情。

 

「しかしお嬢様、事情を知らない第三者が私の姿を見たら、校内で執事ごっこをするイタい変人と受け取られかねません」

「普段の自分がイタくない健常者だと思っていたの?」

 

 変人が変人だと思われたところで何の問題もない。こうして全ての問題がクリアされた。

 かぐやは讃岐と共に眞紀に背を向けて、小さい声で耳打ちした。

 

「いい、相手が四条の娘だからって遠慮する必要はないわ。どんどん毒舌を浴びせて、無礼な態度をとりなさい。あっ、でもいくら貴方が生粋のサディストとはいえ暴力はダメよ」

「……いくらなんでも私の評価歪みすぎでは?」

 

 

 ◯

 

 

 どうしようかしら。

 

 四条眞紀は廊下を歩きながら、顔を前に向けたまま目だけを周囲に走らせていた。自分から遅れてキュッキュッとリノリウムの音がする。

 眞紀の少し後ろから付いて来る人物、四宮かぐやのもう1人の近侍、讃岐光谷だ。

 売り言葉に買い言葉で妙なゲームに乗ったが、そもそも眞紀は讃岐光谷という男と殆ど接点がない。四条家の令嬢と四宮家の使用人という間柄を考えれば無理もない。

 とはいえ全く知らない訳でもなかった。友人の紀かれんや巨瀬エリカと話しているのを見かけた事はあるし、同じクラスの白銀御行、藤原千花とも関わりがあるらしい。

 多少知っているとはいえど、いきなり会話を試みるのは難しい。なにか切っ掛けを探して眞紀の視線は右往左往を繰り返す。

 ふと、廊下の壁の掲示板に貼られた校内広報が目に入った。記事には「奉心祭直前特集」と見出しがある。

『文化祭初の試み──仕掛け人の2人に迫る』『奉心祭の所以、奉心伝説』と文化祭に関係の深い記事から、『ハートの意味は色で変わる!? ハートアクセサリー各色(赤、黄、青、茶)販売予定!』『秀知院饅頭・秀知院煎餅、当日販売。お買い求めはお早めに!!』など下心が見え隠れどころか丸出しの記事まで様々だ。

 発行者の名前を見ると友人2人の名前が並んでいた。眞紀はかぐや信者の友人達が校内広報で、妄言を発信していない事に内心安堵しながら記事に目を通した。

 

「あのアクセサリー色違いがあったのね」

「今年から販売するようでございます。眞紀様はハートの色の意味をご存知でしたか?」

 

「いいえ」と答えて記事の内容を読んだ。

 

 日本では馴染みないが、海外ではよく使われる表現らしい。

 赤色は『愛情』、黄色は『ユニーク』、青色は『信頼』、茶色は『親友』と、これらが販売されるアクセサリーの意味。紫や黒、他の色にも意味があるようだが、販売するのに赤、黄、青、茶の4色を選んだのはアクセサリーの用途が関係している。

 広報にもあった奉心伝説。1人の若者が愛する姫を救う為、天からのお告げに従い、自らの心臓を捧げる。若者の心臓を火に燃べ、その灰を蘿蔔の汁に溶いた薬で姫の命は助かった。

 伝説の舞台が現在秀知院学園高等部のある場所らしく、その話が奉心祭の由来となった。

 そして奉心伝説になぞらえて、奉心祭にはとあるジンクスがある。

 曰く、

 

 奉心祭でハートの贈り物をすると、永遠の愛がもたらされる。

 

「灰を飲ませて病が治るなんて、似非医療も良い所ね。どうせ当時の支配者を権威付ける為の創作でしょ。……大体、そんな簡単にハートが渡せたら苦労しないわよ」

「ハートを渡す予定がおありなのですか?」

「はあぁー? ある訳ないでしょ! 私は四条家の長女よ。そこら辺の男に心臓を捧げる女に見えるの?」

「誠に仰る通りでございます」

 

 恭しく同意する讃岐に「まぁ、でも」と眞紀は続けた。

 

「渡された場合は考えなくもないわね……!」

「非常に既視感のあるスタンスでございます。渡されたら誰でも良いので?」

「尻軽女みたいに言わないで」

 

「翼君……」と、明らかな固有名詞を出した後、慌てて眞紀は言い直した。

 

「あたたかくて包容力があって、私の家柄に吊り合う男なら、考えないこともないわね!」

「ボロの出し方が瓜二つですね……。流石は四宮の家系といった所でしょうか」

「ん? 何か言った?」

「いえ、何も」

 

 会話の切れ目を狙ったかのようなタイミングで、新たに2人分の足音が廊下に響いた。

 栗毛色の長髪を揺らして眞紀に近付いた紀かれんは、育ちの良さが伺える上品な動きで首を傾けた。

 

「あら、珍しい組み合わせですわね」

「讃岐君の衣装はコスプレ喫茶の?」

 

 隣の巨瀬エリカが執事服の讃岐を指差した。

 

「その通りでございます。キャラ作りの為、正真正銘のお嬢様である眞紀様にご協力して頂いているのです」

「へぇ〜、意外と熱心なのね」

 

 大袈裟な敬語で応じる讃岐。エリカはキャラ作りという言葉を信じたようだった。

 

「他クラスの出し物も把握しているとは、流石マスメディア部。お耳が早くていらっしゃる」

 

 おだてられたエリカはフフーンと胸を張った。

 

「それに、早坂さんの衣装を決めるのにも協力したのよ!」

 

「それは大変でしたね」と返す讃岐の言葉は、何故かエリカにではなく、同僚に当たる早坂愛に向けているように感じた。

 

「そういえば、この記事アンタ達が作ったのよね。もっと御行とおば様の妄言で埋め尽くされるかと思ったけど、普通の記事で安心したわ」

「心外ですわ。文化祭は3年生と一緒に出来る最後の行事。記事にも気合が入るというものです」

 

 エリカも頷いて同意する。熱い友人の想いに、珍しく眞紀は関心した。

 

「かれんはともかく、よくエリカがおば様の前で正気を保てたわね」

「取材に向けてルーティーンを習得したのよ」

「ルーティーン?」

「スポーツ選手とかがよくやるメンタルコントロール法よ。一定の行動を行う事で、精神状態をリセットしてリラックスさせる効果があるの。早坂さんに教えて貰ったわ」

 

「またルーティーンですか……」隣の讃岐が小声でボソリと呟いた。意味は分からなかったが、早坂愛は四宮かぐやの近侍、讃岐にとっては同僚に当たるので、何かしらルーティーンが必要な事態が以前にもあったのかもしれない。

 

「いやはや、それは誠にお疲れ様でございました」

 

 讃岐の労いはやはり、かれんやエリカに向けているようには思えなかった。

 

 

 

 

「ウチのクラスに行くわよ」

 

 やらないといけない作業もあるし、とマスメディア部の2人と別れた後、眞紀はそう宣言した。

 

「というと、B組でございますか……」

「問題でもあるの?」

「いえ、問題はありませんが……この格好で人前に出るのは」

 

 問題ないと言う割に歯切れの悪い返答。

 執事服くらいで恥ずかしがるような人物には思えない──というか、変な帽子を被って歩いているのをそれなりの頻度で見かけるので、羞恥心とは無縁の人物なのだろうと考えていた眞紀は違和感を覚えた。

 

「何を気にしているのか分からないけど、安心しなさい。今日は殆ど残っている生徒は居ないわ」

「はぁ……本当でございますか?」

「こんなので嘘吐かないわよ」

「本当に嘘偽り無い事実だと誓って頂けますか?」

「本当よ」

「本当の本当に?」

「本当の本当よ」

「本当の本当の本当……」

「しつこいわね! どんだけ疑り深いのよ。ホントだって言ってるでしょ!」

 

「いいから行くわよ!」と眞紀は身を翻し自分のクラスへと足を進めた。先程の口論などなかったかのように、讃岐は薄い微笑みを湛え慇懃に頭を下げた。「承知いたしました、眞紀様」

 

 

 

 

 眞紀が所属する2年B組の出し物はバルーンアート。アートの展示だけでなく、客が希望した動物や植物のバルーンアートを提供する。準備といえば看板程度で、後は個人でバルーンアートの練習をするだけなので、他クラスに比べて放課後まで出し物の為に残る必要がない。

 思った通り教室に残っている生徒は少ない。教室で作業しているのは2人の男女だけだった。

 扉をスライドさせる音に反応して、ヘアピンを着けた女子生徒が、膨らみかけた風船が付いた空気入れを動かす手を止めて振り返った。

 

「あっ、マキ。やっと帰って来た」

「ちょっと色々あったのよ。でも面白い拾い物をしたわ」

 

 友人の柏木渚にそう言って、眞紀は親指で後方を刺した。

 

「拾い物とは、もしかして私の事でございますか?」

「アンタじゃなかったら何があるのよ」

 

 茶色い髪を遊ばせた男子生徒、田沼翼は眞紀に続いて教室に入った長身の執事を見て驚いた声を上げた。

 

「讃岐君? その格好どうしたの? 口調も……」

「コスプレ喫茶の衣装でございます。眞紀様にはキャラ作りに協力いただいております」

 

 そうなんだ、と人の良い田沼は笑顔で納得する。一方柏木は、そうなんだ……と苦笑いした。

 他クラスの教室が珍しいのか、文化祭用の飾りや、立て掛けられた看板に目を取られたのか、讃岐はぐるりと一周、視線を巡らせた。

 

「あれもバルーンアートなのでございますか?」

 

 讃岐が指差した机の上には、風船で作られたカニやクラゲ等海の仲間達が並んでいた。それも素人が作ったとは思えない精工さで。極めつけには、巨大な魚の生首が隣の机に乗っかっていた。

 

「ああ、それ。展示用のバルーンアートを試しにちょっと作ってみたのよ。ジンベイザメを作ろうと思ったんだけど、今から作っても当日には萎むだろうから、途中で辞めたわ」

「ちょっと作ってみた? これを?」

 

 眞紀はなんでもない事のようにさらりと言う。

 

「流石は四宮の血筋、末恐ろしい才能でございます」

 

 讃岐は驚愕した様子で呟いた。

 気分を良くした眞紀はフフンと鼻を鳴らす。そして慈悲深い精神を発揮し、

 

「せっかくだし、アンタにも作ってあげるわ。クラスでも1~2番を争う腕だから期待していいわよ」

「どう考えても1番では?」

 

 机にあったパッケージから、1つだけ残っていた白い風船を取り出した。元は7色の風船が入っていたであろうことが、パッケージの柄から分かる。

 風船を空気入れで膨らませる。ソーセージのような形になった風船を、テキパキとした動作で捩じり、伸ばし、曲げる。あっという間に、白くモコモコしたフォルムの動物が誕生した。 

 悪戯っぽい笑みを浮かべた眞紀は、目の前の執事にバルーンを差し出した。

 

「羊ですか……執事だけに」

 

 球体が集まったような体から、ちょこんと出た可愛らしい手足。顔の部分には目玉のシールが貼られている。

 讃岐の薄い反応に、眞紀は唇を尖らせた。

 

「つまらないわねぇ。『超ウケル!』くらい言ったら? 私の冗談が滑ってるみたいじゃない」

「いえ、決してそういうつもりでは。しかし『超ウケル!』はちょっと……」

 

 ふと、眞紀はある事に気付いた。

 

「そういえば渚達だけなの? 残ってた他の子達は?」

 

 教室を出る前は、柏木と田沼の他に4人の女子グループが残っていたと眞紀は記憶している。

 

「もう帰ったよ……」と答えてから、柏木と田沼は顔を見合わせた。

 

 歯切れの悪い返答に眞紀は眉根を寄せた。

 

「どうしたのよ。なにかあったの?」

「んー、あったといえばあったんだけど、ないといえばないというか……」

 

 柏木は顎に人差し指を添えて言った。

 今度は眞紀と讃岐が顔を見合わせる番だった。何が何だか分からないと讃岐は肩を竦めた。

 

「風船が無くなったんだよ」

 

 眞紀と讃岐の困惑は、穏やかな声によって解決された。

 

「風船が無くなった!? 大問題じゃない!」

 

 風船が無ければ、当然だが、バルーンアートは作れない。焦った眞紀だったが、教室に入った時柏木が風船を膨らませていたし、自分も柏木と田沼が使っている机の上にある白い風船を使った。

 眞紀は再び困惑に陥った。

 

「前に会長が使ってた風船があるでしょ。倉庫から持って来た」

「えぇ、確かゴムが劣化して割れやすくなってるとか」

「うん。使えないから捨てるつもりだったのが、今日まで残ってたんだけど……」

「無くなった、と」

 

 コクリと柏木は頷いた。

 

「それで、その風船はその子達の内誰かが持って行ったの?」

「持ち出せたのは彼女達だけだったと思う。使う予定もないし、ただ捨てるよりは良いんだけどね」

 

 ボランティア部の柏木らしい発言。

 使い道のない風船が無くなった事自体は問題ないが、持ち出した人物は風船を何に使うつもりなのか甚だ疑問だ。

 

「なんで持って行ったのかしら?」

「僕達も考えてたんだけど、全く分からなくて。マキちゃんは心当たりある?」

「新しい風船と間違えたとか……は、ないか」

 

 新しい方は、7色の風船が入っている長方形のパッケージがいくつもある。古い方も同じようにパッケージに入った風船がいくつもあるが、使う予定が無いので全てまとめて茶色い袋に入れていた。間違えたとしても、袋ごとは持って帰らないだろう。

 

「練習に使う為に持って帰ったとか?」

「うーん。古い風船は、彼女達の机から遠い場所に置いてあったし、そもそも手元には新しい風船があったから、わざわざ古い風船を持って帰ったりしないと思う」

「膨らませる以外の方法で風船を使ったとか? 繋げてロープみたいにしたり」

「袋ごと持っていくほど量が必要なのであれば、風船など使わず、他の物をロープ代わりにするでしょう。2、3個で十分であれば、それこそ近くにある新しい風船を使えば良いかと」

 

 讃岐は中身のない風船のパッケージを手に取って質問した。

 

「お聞きしたいのですが、元々古い方の風船を使う予定はあったのですか?」

「いいえ。元々はバルーンアートをするにあたって購入した新しい方を使う予定だったわ。古い風船は生徒会の活動中に見つけたとかで、後から御行が持って来たのよ」

「なるほど」

 

 顎に握り拳を添えながら生返事をする讃岐。思索に耽るその姿は、ロダンの彫刻を思わせ、不思議と期待感が沸き上がった。

 数秒に渡る思索が終わるのを待ってから眞紀は尋ねた。

 

「何か分かったの?」

 

 手を顎から外した讃岐は、白旗のつもりか、白い羊のバルーンアートを左右に振った。

 

「いえ全く。私には見当もつきません」

「……まぁ、そうよね」

 

 自分は会って間もない人物に何を期待を抱いたのだろうか。

 眞紀は無駄に拍子抜けした気分になった。

 

 

 

「じゃあ、私達は帰るね」

 

 田沼と柏木は揃って手を振り、眞紀達と別れを告げた。

 2人は仲睦まじげに──実際恋人同士で仲睦まじい男女は、肩を揃えて廊下を歩いて行った。

 途中ハートの形をした赤い風船を手渡していた。その光景を視界に収めた瞬間、眞紀は胃を紐で括られ、さらに天井から吊り下げられた感覚に囚われた。

 頭部への衝撃で、自分の頭が壁にぶつかったのと、両足が自重を支えられなくなったのを理解した。左右の足と頭の3点で体を支え、辛うじて立つ事が出来ていた。

 

「眞紀様、如何なされたのでございますか?」

 

 結果として、変人から変な目で見られるという、大変不名誉な事態となる。

 

「如何なされたって? そんなの決まってるでしょ! そんなの……」

「……」

「……」

「…………如何したんだろうね……」

「えっ、私に聞かれましても……」

 

 困惑しながらも、讃岐は教室から椅子を運び出た。眞紀は壁に頭を付けたまま、ずるずると椅子に崩れ落ちた。

 

「懸想した男性が、他の女性と仲良くしている場面を目にしてしまった眞紀様の心中、深くお察し致します」

「はぁー? 懸想? 別に好きじゃないわよ」

「まぁまぁ、恥ずかしがらず。私と眞紀様の仲ではないですか」

「アンタと仲を深めた記憶がないわ」

 

 会話している内に精神が徐々に回復する。頭を壁から離して背筋を伸ばす。

 

「そういえばアンタ、おばさまのお付きの子と、付き合っているのよね? お堅い四宮のことだから、職場恋愛禁止なのかと思ってたわ」

「四宮家の使用人が恋愛禁止かは存じておりませんが、早坂さんの事を仰っているのなら誤解でございます。お互い都合が良いので、恋人同士という皮を被っているだけでございます」

「へぇ、そういうものなの」

「そういうものでございます。私産まれてこの方、お付き合いした女性はおりません」

 

 目の前の男を見上げ、「ふぅん。意外……」と言いかけた眞紀だったが、目の前の男の言動を思い返し「でもないか」と納得。

 

「まあ、万が一アンタに気になる相手ができたら、うじうじ怯えてないで、さっさと自分から行動する事ね」

「お言葉痛み入ります。して、その心は」

「分かりきった事よ。いつまでも受けの姿勢でいたら……」

 

 言いながら悲しみが胸に降り注ぐのを感じた。どうして自分はこんなアドバイスをしているのだろう。己が吐く言葉が刃の付いたブーメランとなって自分に突き刺さった。

 

「いつの間にか手遅れになるわよ……」

 

 グスン。

 

「何故自ら傷付きにいくようなお話を……?」

 

 ハッと讃岐は何かに気付いたように目を見開いた。表情を引き締め正面から眞紀を見据える。

 

「眞紀様。先程からのお話『超ウケル!』でございます」

 

 眞紀は口をポカンと開けて固まった。此奴今なんと言った? 

 

「ま、眞紀様? どういたしましたか?」

 

 一時停止したビデオのように、微塵も動かない眞紀を心配した讃岐が声をかけた。

 

「う」

「う?」

 

 呻くように、はたまたゾンビのように眞紀は一言声を発した。讃岐が耳を近づける。

 

 

「ウケないわよ!!」

 

 

 四条眞紀渾身の叫び。讃岐は勢いに負けて後退りした。

 

「どこにウケル要素があったのよ! そもそも、『超ウケル!』なんて高貴な家の使用人が使う言葉ではない筈よ!」

「私もそう思ったのですが、冗談を仰ったようでしたので」

「いつ!?」

「先程から自虐ネタを仰って──」

「仰ってない! 何で私が身を削ってまで、笑いを取らないといけないのよ! そんな芸人魂持ってないわよ!」

「で、ではなぜあのように情緒が不安定に……」

「ショックを受けてたの!!」

 

 

 

 

「なんなのよ、コイツは!」

 

 眞紀はビシッ、と聞こえそうな勢いでコイツを指差した。

 かぐやは少しホッとしたように息を吐き、やっぱり無理だったでしょう、と言わんばかりに勝ち誇った表情を浮かべた。

 

「そういう男ですから。あの不調法者を相手に、よく耐えた方だと思いますよ」

「ホント何であんなの雇ってるのよ……」

 

 各々文化祭準備に奔走しており、A組の教室に人の姿は殆どない。

 椅子に座っている眞紀とかぐやの側に、すっと長身の影が現れ、机の上にソーサーとティーカップを静かに置いた。

 

「文化祭でお出しする時計草(パッションフラワー)ハーブティーです。どうぞお召し上がりください」

 

 パッションフラワーはアルカロイドなどの有効成分が入っており、鎮静作用、抗うつ作用、ヒステリーやノイローゼに効果がある。と友人の石上優から聞いた。

 わざと出してるんじゃないでしょうね。そんな思いを込めて、無駄に高い位置にある顔を睨みつけた。

 

「助かるわ。私は情緒不安定で、突然自虐ネタをかますような女だから、このハーブティーがよく効くのよ」

「い、いえ決してそのような意味では……」

 

 おろおろする讃岐の様子を見て、眞紀は少しだけ溜飲を下げた。

 2人の様子を見ていたかぐやが、面白くなさそうにカップに口を付けているのを見て、眞紀は何となく察しがついた。

 

 カップを空にして、讃岐が再びハーブティーを注ごうとするのを手で制し、眞紀は立ち上がった。

 

「そろそろおいとまするわ」

 

 一歩踏み出してから、あっ、と声を上げる。

 

「そうそう、使用人も返却するわ。いつまでも独り占めしてたら、おば様達も気が休まらないでしょうし」

 

 ピクリ。かぐやと、遠くの席で作業をしていた早坂の肩が小さく跳ねた。

 

「……よく分からない事を言いますね、眞紀さん」

 

 眞紀は答えずにひらひらと手を振って教室を後にした。

 

 四条眞紀と四宮かぐやは非常に近似した存在だ。何でも高いレベルでこなす才能も、大企業の令嬢という立場も。だからこそ、四宮かぐやが無礼極まりない使用人をクビにしない理由が理解できた。

 誰もが羨む才能。誰もが頭を垂れ、媚びへつらう権力。天から二物を与えられた自分に毒を吐き、見せ付けるかのように慇懃無礼な態度をとる人物が現れたとしたら。

 それは自分の特別性を揺るがしたに違いない。

 四宮かぐやは無礼な使用人と話している時、自分が四宮家の長女である事実を忘れ、普通の人間でいられるのではないか。だから自分の側においているのではないか。四条眞紀は確信に近い推測をした。

 

 お互い面倒くさい天才の相手は苦労するわね。

 

 眞紀は讃岐に妙な親近感を抱いた。

 

 まぁ讃岐の場合、隠しきれない性根の悪さが滲み出てるだけだろうけど。

 

 もっとも、あの四宮かぐやがそれだけの理由で側に置いているとは考え難い。恐らく讃岐光谷にはかぐやが利に思うだけの何らかの才能が──。

 ポケットのスマホの振動で思考の海から浮上する。取り出したスマホの画面には、天才の対義語『バカ』と表示されていた。

 

「こんな時間に珍しいわね。何の用よ、バカ」

『いきなり罵倒!?』

 

 スピーカーから聞こえて来る文句を聞き流しながら、眞紀は夕日が差し込む廊下を歩いた。1人分のリノリウムの音が廊下に響いた。

 

 

 ◯

 

 

 かぐやと早坂は後部座席に讃岐は助手席。学校から帰宅する車内はいつもの配置だった。退屈そうに車窓からの景色を眺めていたかぐやが口を開いた。

 

「それで、アレはどういう事なの?」

「アレと申しますと?」

 

 讃岐がバックミラー越しに、後部座席のかぐやと目線を合わせる。

 

「風船が持ち去られたって騒いでいたでしょ」

「騒いではおりませんが。何故お嬢様がその件をご存知なのですか?」

 

 しまった、とかぐやは口を噤んだ。

 何故かぐやがB組で起きた事件を知っているのか。それを説明するには、少し時間を遡る必要がある。

 

 

 

「おかしいわね。そろそろ罵声の1つや2つや3つ、聞こえてきてもいい頃なのに……」

 

 かぐやは怪訝そうに眉を寄せた。

 

「確かに光谷君は毒舌ですけど、そんなにポンポン毒を吐かないですよ」

「讃岐は貴女には甘いから、そう思うだけよ」

 

 曲がり角に隠れながら、廊下の先を覗くかぐやが短く早坂に反論した。

 

「そんな事はないと思いますが……」

 

 ひょっこりと、かぐやの頭の上から早坂も顔を出す。

 2人の視線の先には、校内広報を眺めながら話している四条眞紀と讃岐光谷の姿がある。その光景をじっと見つめるかぐや。

 

「後を付けるくらい気にするなら、変な提案しなければよかったじゃないですか」

 

「別に気にしてなんていません」プイッとかぐやはそっぽを向く。「眞紀さんがあっさり根を上げる姿を見に来たのよ」

 

 仕返しとばかりにかぐやが問いを投げる。

 

「早坂こそ気になっているんじゃない? わざわざ着いて来たりして」

「まさか。私は同僚が眞紀様に無礼を働かないか、監視しているだけです」

「ふぅん」

 

 物言いたげなかぐやが余計なことを言い出す前に、早坂は廊下を指差した。

 

「あっ、移動しましたよ」

「えっ!? 早く追うわよ早坂」

 

 

 

 

 このように、2人でこっそり後を付けていたから、かぐやは風船がなくなった事件を知っていたのだった。

 

「……眞紀さんから聞いたのよ。持ち去られた理由、貴方は分かっているんでしょう」

 

 不審に思っている様子だったが、讃岐はそれ以上追求しなかった。

 

「おおよそは」

「犯人は風船を何に使うつもりだったの?」

 

 ゆるゆると首を横に振るのがミラーに映った。

 

「風船を使う為に教室から持ち去った、という思い込みが今回の一件で皆様の目を曇らせているのでございます」

「使いもしないのに風船を持ち出したっていうの?」

「さようでございます。ただ風船が欲しいだけなら、手元にあった風船を使えばよかった筈です。疑いが掛かるリスクを負ってまで、遠い席にあった古い風船を選んだのは、持ち出すのがその風船でなければなかったからに違いありません。

 さて、お嬢様。2つの風船の違いとは何でしょう?」

 

 そうですね……、とかぐやは虚空を見つめて考えを巡らせた。少ししてから口を開く。

 

「ゴムが劣化している事と、保管状態ね。新しい方は7色の風船が入ったパッケージがいくつもあるのに対して、古い方のパッケージは茶色い袋にまとめて入っていたわ」

「ゴムが劣化していようといまいと、近くにある風船を使えば良い事に変わりありません。1つの袋に纏めて入っていて、持ち出すのが容易だったのは原因の1つですが、まだ重要な相違点が残っております」

 

 かぐやの隣に座って、大人しく推理を聞いていた早坂も、A組の教室の様子を思い浮かべてみたが何も思い付かなかった。手が無意識にサイドテールの毛先を弄ぶ。

 

「? どうかしましたか、かぐや様」

 

 かぐやの視線は早坂の横顔に釘付けになっていた。正確には毛先を弄る早坂の指先に。

 

「色が違うわ」

「はぁ、ネイルしているので違うとはおもいますが……」

 

 空色の自分の爪と、ナチュラルな白いかぐやの爪を見比べる。

 

「はい。お嬢様が仰られたように、色が違ったのでございます」

 

 かぐやの言う色とは、爪の色ではなく風船の色の事だったようだ。

 

「色、ですか……。風船を持ち去ったのは、その色の風船を使いたくなかったからだと? でも光谷君は、持ち去られた風船を見たことがないですよね」

「それどころか、新しい方の風船だって、全部の色を確認していない筈よ」

 

 ごもっともです、と讃岐は憎らしい程落ち着いてその事実を認めた。

 

「私も持ち去られた袋に入っていた風船の色を、全て言い当てる事はできません。ですが眞紀様達のお話と、風船が持ち去られた事実を鑑みるに、一色だけそうではないかと思われる色があるのです」

 

 リムジンが交差点を右折する。運転手が手慣れた様子でハンドルを回転させる。一流の運転により、車内は右折で掛かる重力を殆ど感じる事はない。

 車が再び直進するのを待ってから、讃岐は足元から白い物体を取り出した。

 

「眞紀様から頂いた羊です」

「……それが何なの?」

 

 讃岐はポンポンと、子供のように胸の前で羊のバルーンアートを弾ませる。早坂とかぐやは呆れて半眼になった。

 

「眞紀様は最後に残っていた白色の風船で、この羊をお造りになられました。つまり、白色を含めた7色の風船は、全て使われている事になります」

「それはそうでしょう。わざわざ使わない色が入っている物を買ったりしないでしょうし」

「そうですね。さらにこの羊には、新しい風船の7色に入っていない色のヒントが隠されているのです」

 

 ポンと、讃岐が羊を後部座席へトスする。ゆっくりと浮上した羊は、天井すれすれを通って早坂の手元に落ちる。

 普通に渡せと思ったが口には出さず、羊をかぐやにも見えるように差し出す。

 羊は1つの風船で造られている。白いボディに黒いつぶらな瞳。バルーンアートでも簡単な部類になるだろう。

 

「黒ね」

 

 短く言って羊の瞳の部分を指で示す。

 

「なるほど。目玉をシールにするなら、黒色の風船は必要ありませんね」

「その羊くらい小型のものであれば、風船ではなくシールを使った可能性もありますが、眞紀様の造ったジンベイザメの巨大バルーンアートも目玉はシールでした」

「という事は、黒色の風船を持ち去りたかったの? 何故?」

「バルーンアートに黒い風船を使わないようにする為です。ところでお嬢様。奉心祭ではなにかとハートを見かけますが、ハートの色に意味があるのをご存知でございますか?」

 

「え!? いえ、全く知りませんよ! ハート? ハートがどうかしましたか?」いきなり話題が変わったから……だけではないだろう。ハートという単語に過剰反応を示し、声が上ずるかぐや。予想外の反応だったようで讃岐の方が首を傾げている。

 

「それはマスメディア部の?」

「早坂さんは紀さん達と親しいのでご存知でしたか。マスメディア部の広報にそういう記事があったのです」

 

「そして」と人差し指を立てる。

 

「黒いハートの意味は『嫌い』」

 

 早坂とかぐやは同時に息を呑んだ。

 

「奉心祭といえば奉心伝説。例に漏れずバルーンアートの中にもハートはあるでしょう。客として来た人に渡したハートの色が黒色なんて事態になれば、縁起の悪い事この上ありません。それを回避する為に、間違っても黒色の風船が使われないよう、古い風船を持ち去った。恐らく犯人はここ数日欠席していて、古い風船が使えないと発覚したのを知らなかったのでしょう」

 

 出席名簿を見れば犯人の特定は容易だ。まぁ、わざわざ突き止めるほどの問題でもないが。

 

「白い風船もあったようですが。白色のハートの意味は『好きだった』ですよね。これもあまり良い意味ではありません」

「黒い風船と違い、新しい風船は全て使う予定があります。ハートを造る際に、白色を避けたとしても不自然には映りません」

 

 視線を窓へと向ける。そろそろ屋敷に着きそうだと、景色を見て思う。讃岐の推理は、帰り道の退屈を紛らわすのに大いに役立った。

 

「そういう事情なら、風船を持ち出すなんて手段を取らずに、説明すれば良かったでしょうに……」

「おや、そうですか? お嬢様なら共感できるかと思いましたが」

「どういう意味よ?」

「黒いハートは縁起が悪いと提案をした女子生徒が、赤いハートを男子生徒に渡したとしたら──」

 

 讃岐は頭だけ回転させ、かぐやを振り返る。少しだけ口角が上がっているのは、人を揶揄っている時の表情だ。

 

「好きだと公言しているようなもの、だとは思われませんか?」

 



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『文化祭と2つの告白編』舞台裏①

 私立秀知院学園は、かつて貴族や士族を教育する機関として創立された。貴族制が廃止された今でなお、富豪名家に産まれたお坊ちゃん、お嬢様が多く就学している。

 その影響もあってか、秀知院学園は部活動には特別力を入れていない。とはいえ、部活動で好成績を残す生徒が居ないかというと、そうではない。

 真っ先に思い付くのは、サッカー部のエースである渡部神童。

 藤原千花は高校でこそTG部なる怪しい団体に身を置いているものの、小学校、中学校時代はピアノで数々の賞を受賞している。

 高校に入ってからは、ちょっと事情があって全国大会には出場していないが、中学時の大会では連続10射的中という異常な成績を誇った弓道界ユダ──もとい、四宮かぐや。

 血筋が良いのか、金にものを言わせた英才教育の賜物か秀知院には天才が多く集まる。

 文化祭も目前に差し迫り、準備の為殆どの部活動が活動を中止している中、目の前の建物からは微かに床を叩く音が聞こえた。

 四角い建物の白い外壁は所々黒ずんでおり年季を感じさせる。茶色い屋根のすぐ下には、光を取り込む為の大きい窓が並んでいる。この建物は普段剣道部が使用している武道場だった。

 ずっしりと重たい扉を開けて中へ入る。赤味がかった杉の床は、丁寧にワックス掛けされていて光を弾く。

 武道場には防具を着けて竹刀を振っている人物が1人。外で聞こえたのは足を踏み込んだ時の音らしい。

 防具の垂れに小島(こじま)とある。剣道部の小島といえば、1年生ながら剣道部の部長を務める実力者。入部していきなり当時の部長から一本取ったという話は、運動部の誰もが知るところだ。

 扉の音で人が入って来たのには気付いていたらしく、素振りをやめて竹刀を下げた。

 早坂愛は笑顔を作って明るく声をかけた。

 

「活動休止中にも練習なんて熱心だねー」

 

 小島は面を取って脇に抱えた。短く切り揃えられた黒髪に鷹のように鋭い瞳。背筋は真っ直ぐ伸びていて、立ち振る舞いにも下級生とは思えない風格を感じる。1年生ながら部長に選ばれたのも納得だ。

 

「早坂愛か。四宮かぐやの付き人が何の用だ?」

 

 上級生に一切敬語を使う様子がないのはともかく、自分の名前と立場を知られているとは思わなかった。

 主人であるかぐやとは少なからず繋がりもあるだろうが、早坂は小島と話すのも初めてだった。

 何にせよこちらの事情を知っているなら、仮面を着ける必要もない。早坂は笑顔を引っ込めて、氷を思わせる無表情に早変わりした。

 

「さすがは警視総監のご子息ですね」

「四宮には何度か、鬱陶しい横槍を入れられているんでな」

 

 四宮に与する者は警察組織の中にも存在する。それでなくとも上から圧力をかけて捜査を妨害もできるだろう。皮肉っぽい口調から、かぐや個人に対してどう思っているか分からないが、四宮家そのものには良い印象を持っていないのが分かる。

 もっとも、今回の件に四宮家は何の関係もない。聞きたいのは、

 

「もう1人の付き人の事か?」

 

 思考を先回りされたようで少し驚いた。しかし考えてみれば驚く程ではない。早坂と小島の唯一の接点は、小島が口にした『もう1人の付き人』だけなのだから。

 

「話が早くて助かります」

 

 早坂は緊張を隠すように無表情で続ける。

 

「貴方は秀知院学園に入学する以前の光谷君と、関わりがありますね」

 

 小島は表情一つ変えなかった。

 

「何故そう思った?」

 

 聞かれた早坂は、頭の中を整理する間を置いてから、ゆっくり息を吸った。

 

「光谷君は自分の推理能力を隠していますが、誰もが知らない訳ではありません。私の調べた限り学園内では5人。私とかぐや様、白銀会長、龍珠さん、そして貴方です。私もかぐや様も光谷君が屋敷に来るまで面識はありませんでした。白銀会長は秀知院での友人第一号。龍珠さんは以前から面識はないと言っていました。消去法的に残るのは貴方1人です」

「苦しいな。白銀は関係を隠す為の演技かもしれないし、龍珠の発言は嘘かもしれない」

 

 早坂にとってもこの程度の反論は想定の内。淡々と頭の中から言葉を選ぶ。

 

「その可能性は否定できません。なので3人の中から、最も可能性の高い人物を選ぶ事にしました。まず白銀会長ですが、演技をするくらいなら最初から関わらなければいいだけです。龍珠さんの発言は、嘘というには示唆的です。本当に嘘なら知らないと一言で済んだ筈。そして光谷君の推理力について尋ねた時、龍珠さんは『あのクソ……人から聞いたからだ』と言いました。言い直していますが、あのクソ野郎から聞いた、とでも言いたかったのでしょう」

 

 早坂の言いたい事を小島は理解したようだった。

 

「それで龍珠と関係の悪い俺の可能性が高いと。根拠としては弱いな。口が悪い龍珠なら、誰に対してでもクソ野郎くらい言いかねない」

 

 警視総監の息子とヤクザの娘。肩書からも分かるように、小島と龍珠は険悪な関係だ。一触即発のところを風紀委員会に止められているのをよく目にする。

 少し主観が入りすぎている気もするが、小島の言い分も分からない事もなかった。

 

「では次に、光谷君の証言があります」

 

 初めて小島は表情を歪めて、短く舌打ちした。

 

「彼は貴方のことを『警視庁警視総監のご子息殿』と親しげに呼びました」

「親しげだと? 気味の悪い言い方をするな」

 

 小島は更に表情を歪めた。その反応が何よりの証拠な気もするが、ここで辞めるのも収まりが悪い。早坂は推論を続けた。

 

「……何でもいいですけど。光谷君の言い方は知人に対するものでした。では彼は一体いつ貴方の事を知ったのでしょうか? 光谷君は貴方を秀知院のVIP枠……つまり部活連の一員だと認識していました。貴方は1年生なので部活連の一員になったのは今年の4月、私が光谷君から話を聞いたのが7月の上旬。仕事柄光谷君と行動を共にすることが多かったのですが、3ヶ月の間貴方と話している姿は見た事がありません」

「部活連の会合に出席している白銀から聞いたんだろう」

「理由は分かりませんが、光谷君は2年になってから白銀会長を避けていました。なので貴方の事を聞くタイミングはなかった筈です」

 

 冬のひんやりとした空気が武道場を包んでいたが、小島の返答を待つ間、感覚が麻痺したように早坂は寒さを感じなかった。

 長く感じたが、それほど時間は経っていないだろう。小島は諦めたように口を開いた。

 

「……確かに俺は過去にあいつと関わりがある」

 

 十中八九間違いないとは思っていたが、本人の口から聞くと改めて安堵する。

 

「では聞かせていただけますか? 彼の過去について」

「聞かせるほどの話はない。あいつの探偵ごっこに一枚噛んだ事はあるが、それだけだ。そもそも俺はあいつが嫌いだ。自己中心的で傲慢で自己評価ばかり高いクソ野郎」

 

 小島は吐き捨てるように讃岐への罵倒を並べた。

 仮にも友人を罵倒されては、早坂も気分が良いとはいえない。ムッとして言い返す。

 

「いくら光谷君でもそこまで言われる謂れは……」

 

 言い返そうとはした。

 自己中心的、傲慢、自己評価が高い。全くもってその通り。言い返す言葉が見つからない。

 

「謂れは…………なくはないですけど」

 

 なんて庇い甲斐のない男なのだろう。早坂の頭に同僚の能天気なへらへらした笑顔が浮かんだ。

 話は終わったとばかりに小島は再び面を被った。

 

「自己中心的だろうと傲慢だろうと、昔のあいつは一目置くに値する男だった。だが今はその価値すらない」

 

 

 ◯

 

 

「やあ、お揃いで」

 

 屋上の扉を開けて入って来た人物を、龍珠桃は鋭い瞳で睨みつけた。

 

「遅刻しておいて何が『お揃いで』だ」

「これでも頑張って抜け出して来たんだけどな。ほら、ウチのメイドさん厳しいから」

 

 A組はコスプレ喫茶をするので、メイドというのはその扮装だろう。

 

「早坂さんにコーヒーの淹れ方を教わってたんだけどスパルタでね。所詮は学生の出し物なんだから、そこそこでいいと思わない? 金を払う客側だって期待はしてないでしょ」

「生徒会長の前で言うか、それを?」

 

 讃岐の言い訳に対して、龍珠は憮然として鼻を鳴らす。

 

「彼女とイチャイチャしてて遅れたってだけだろ」

「羨ましい?」

「死ね」

 

 讃岐に好き勝手喋らせておくと、本格的に龍珠が機嫌を損ねて帰りかねない。危機を感じた白銀御行は表面上は至って冷静に、内心焦って仲裁に入った。

 

「そこまでだ2人共」

 

 讃岐と龍珠は口を閉じて白銀の方へ顔を向けた。2人が自分に注目した事に白銀はホッと息を吐いた。

 生徒会役員も個性派揃いだが、目の前の2人も負けず劣らず個性的だ。まとめるのには骨が折れる。

 

「今日集まって貰ったのには理由がある」

 

「お前らが勝手に来たんだろ……」屋上の主である龍珠がひとりごちる。讃岐は興味深そうな色を瞳に浮かべたが、黙って続きを待っている。

 次の言葉が出ないまま数秒が過ぎて、待っている2人の表情が訝しげなものに変わった。

 自分の目的の為に協力者は少しでも多い方が良い。そして讃岐と龍珠は協力者に適任だった。何にせよ言わない事には始まらない。白銀御行は腹を括って宣言する。

 

「文化祭最終日までに四宮から告白されなければ、俺から告る」

 

 2人の瞳が丸くなり2、3度瞬く。それからそっけなく、

 

「そうか。せいぜい頑張れよ」

「そうなんだ。頑張ってね」

「反応薄いな! 興味なしか!」

 

 せっかく勇気を振り絞って言ったのに。白銀は不貞腐れたような気持ちになった。

 

「応援してやっただけ感謝しろ。大体、それを聞いて私にどうしろってんだ?」

「それなんだが、四宮に告白させる作戦がある」

 

 白銀は後ろを向いた。そこには大きめの風船がある。

 白銀は大きめな風船の口を開いた。

 

「文化祭初日の後、学校中の風船を集めて、この大きな風船に入れて欲しい」

「はぁ!? いやだよ、なんで私が……?」

 

 龍珠が嫌がるのは想定出来た。白銀は迷わずカードを切る。

 心底呆れた様子で、ハァ──、とわざとらしく大きなため息を吐いた。

 

「そうかよ、恩知らずめ」

「〜〜!!」

 

 龍珠は何か言いたげだったが、反論が出ないようだった。

 これで意外と龍珠は義理堅い。昔作った貸しが思わぬところで役に立った。

 

「僕にも指示があるのかな?」

「ああ。計画の為にまず藤原の動きを封じたい」

「1番厄介だろうし妥当だね」

「その通り、1番厄介だ」

 

 言いたい放題の2人に、龍珠が冷たい視線を送って来たが無視する。

 

「何か策はあるのかい?」

「ある」

 

 白銀は力強く頷いた。

 

「藤原はお前と同じで謎好きだ。そこで、文化祭に怪盗を出現させる」

「へぇ、いいね。定番だ」

「怪盗といえば予告状。予告状といえば謎だ。讃岐には予告状の謎を考えてもらいたい」

「面白そうだね。だけど……」

 

 少し考える素振りを見せてから、讃岐はスマホに指を走らせた。そして白銀と龍珠に画面を向けた。

 

 ⬜︎告+1◯=⬜︎○

 

「どういう意味か分かるかな?」

 

 四角と丸に漢字が入るということか? いや、○には数字の可能性もある。告が入る2文字の単語……被告……勧告……。

 

 スマホの画面を睨みつけながら、必死に思考を巡らせる白銀。龍珠も少しは考えていたようだが、面倒臭くなったらしく画面から視線を外した。

 

「意味不明な謎解きに付き合ってる暇はねぇんだ。さっさと答えを言え」

「さすが龍珠さん。正解だ」

「はぁ?」

 

 讃岐はスマホを白銀達の目の前から離し、ポケットにしまった。

 

「この文字の羅列に意味なんてない。でもそれっぽい文字や数字が並んでいれば、謎があると思うのが人ってものさ。頭を捻って答えがある謎を生み出すより、答えのない謎の方がよっぽど足止めに向いていると思うね」

「なるほど、逆転の発想というやつだな」

 

 解けない謎だったと知り、白銀は心の中で安堵の息を漏らした。

 一方龍珠は、先程いいように丸め込まれたのが気に食わないようで、不機嫌そうにジロリと白銀を睨む。

 

「結局どうやって四宮のお嬢様に告白させるんだ? 私達をこき使うくらいなんだから、大層な計画なんだろうな」

「私達……?」

「お前も手伝うんだよ、風船集め」

 

 龍珠の一方的な命令に、讃岐が露骨に嫌そうな顔をした。相変わらず先が思いやられるチームワークの悪さだ。

 

「それはひとまず置いといて、白銀君の計画を聞こうじゃないか」

 

 白銀は集めた風船の使い道、藤原以外の生徒会役員の足止め方法など、入念に計画した告白作戦を2人に語った。

 

「お前って顔に似合わずロマンチストだよな」

「顔は余計だ」

「告白の為だけに文化祭を私物化するなんて、君は思った以上に強かだね」

 

 人聞きの悪い。元々ある出し物の場所や時間を、ちょっと自分の都合の良いように変更しただけに過ぎない。散々文化祭の成功に尽力してきたのだから、これくらいのご褒美はあってもいいだろう。

 

「ところで、それは何だい?」讃岐は白銀の足元にある黒い袋に、視線を落とした。

 

「あぁ、これか」と袋の中に手を突っ込む。

 袋から取り出されたのは、黒いシルクハットに同じ色のマント。

 

「せっかくの文化祭だし、何かお祭りっぽい雰囲気があってもいいと思ってな」

 

 シルクハットを被り、マントを羽織る。シルクハットのつばを掴みポーズを決める。

 

「どうだ? 怪盗に寄せてみたんだが」

「うん、大分アリだね」

「フッ、やはりそうか。俺もそう思っていた」

「どこからどう見ても立派な怪盗紳士だよ!」

 

「ダセェ……」キャッキャと盛り上がっている男子達に、龍珠の言葉は届かなかった。

 

「それにしても、こうして君達と何かするのも久しぶりだね」

「1年の頃以来だな。選挙の時は世話になった」

「あの頃からとんだ狸野郎だったな、お前は」

「酷いなぁ。それだと僕が嘘吐きみたいじゃないか」

「『みたい』じゃねぇんだよ」

 

 讃岐はいつも飄々としていて、そんな態度に苛立った龍珠が噛みつく。その度、白銀は2人の仲裁をする。そんな昔の光景を思い出し、目の前で繰り広げられている光景と重なった。

 昔と変わらない友人達に白銀は頼もしさを覚える。友の協力に応える為にも、必ず作戦を成功させるのだと、白銀は改めて決意を胸にした。

 

 

 ◯

 

 

 この時期にしては珍しく暖かい日差しが差し込んでいた。こんな日は日向ぼっこでもしながら、睡魔と戯れるのも一興。そう思ってはいても、学校という敷地で実行する人物は少ない。

 居ないではなく少ない。何故なら中庭のベンチを堂々と占領して寝転がっている人物を、現在進行形で目にしているのだから。

 小野寺麗、石上優、伊井野ミコの3人は、文化祭実行委員としての活動中にその光景を目にした。

 石上は見なかったふりをして素通りしようとしたが、ずんずんとベンチに向かって行く伊井野を見て諦めたようにその後を追った。

 人の気配を感じたのか、寝転がっていた人物は緩慢な動きで上体を起こした。

 

「やぁ、伊井野さん。おはよう」

「おはようございます……ってそうじゃありません!」

「失礼、この時間ならこんにちはだね」

「そんな事どうでもいいです! 何でこんな所で寝てるんですか!? 先輩のクラスも文化祭の準備ありますよね」

 

 讃岐は椅子の上に乗っけていた足を下ろした。

 

「僕が居たって大して役に立たないしね。出来る人に頑張ってもらうよ」

「そういう問題じゃありません。クラスの出し物ならみんなで協力するべきです」

「全くもって正論だ。一言も言い返せない。それにしても石上君と伊井野さんはともかく、君も一緒なのは珍しいね」

 

 話を振られた小野寺は、なんとなく逃げ道に使われたような気がした。

 

「文実のヘルプで生徒会に手伝ってもらってるんですよ」

「それは大変そうだね。陰ながら応援してるよ」

「応援はいいんで、先輩も手伝ってください」

「僕はほら、自分のクラスが忙しいからさ」

「サボってた人が言うセリフじゃないっスね」

 

 小野寺と讃岐の会話を後ろで聞いていた伊井野と石上は、驚き半分、感心半分といった様子だった。

 

「讃岐先輩、小野寺さんとも知り合いなんですね」

「相変わらず顔広いですね」

「そうでもないよ。別に友達100人ってタイプでもないし。石上君と知り合ったから、君のクラスに知人が多いだけさ」

 

 文実といえば、と讃岐は椅子から立ち上がる。顔が見下ろす位置から、一気に見上げる高さにまで変わる。

 

「今年はキャンプファイヤーをやるらしいね」

「はい。今も近隣に周知して回ったところです」

「ほほう、それは順調そうでなにより。僕も楽しみにしてるから頑張ってね」

「楽しみに? 讃岐先輩何か悪いものでも食べたんですか?」

「失礼な反応だね石上君」

「先輩がこういう学校行事に積極的なイメージはないですね」

 

 追撃とばかりに小野寺が同意した。

 讃岐は肩をすくめて、

 

「やれやれ、冷たい文化祭実行委員だね。それじゃ、あまり引き留めても悪いし、僕は失礼させてもらうよ。お仕事頑張って」

 

 ひらひらと手を振って歩き出した讃岐を、伊井野は直ぐに引き留めた。

 

「待ってください。先輩の教室はそっちじゃないですよね」

「おや、覚えてた? 上手く話を逸らしたと思ったんだけど」

「全然逸らせてません。先輩は早く教室に戻って作業してください!」

「うーん……ああ、そうだ! 君達のクラスは何をやるのかな?」

「お化け屋敷ですけど……。また話を逸らそうって魂胆ですか?」

 

 厳しい目つきで長身を見上げる伊井野。讃岐は顔の前で手を振った。

 

「違う違う。でも残念だなぁ」

「残念? 何がですか?」

「ウチみたいにコスプレ喫茶だったら、色々な扮装姿を見れたのに。伊井野さん可愛らしいから、きっと似合うよ」

「……煽てても何も出ませんよ」

「いやいや、本心だよ。確かサンタ服やブレザー、ナース服にメイド服とかあったかな。伊井野さんならどれを着ても可愛いと思うよ。看板娘間違いなしさ」

「本当ですか……? じゃあ先輩はどのコスプレが似合うと思いますか?」

 

 当初の怒りはどこへやら、伊井野は柔らかい口調で頬を染めながら尋ねた。

 

「えっ、どれが……? あー、そうだな…………まぁその、あれだよ……どれも似合いそうだから、どの服がってのは無いけど…………とにかく、全部だよ!」

 

 全く中身の無い回答だったが、手放して褒められた伊井野は満更でもない様子。

 そんな伊井野を見た讃岐は満足そうに笑みを浮かべた。

 

「それじゃ、またね」と讃岐はそのままの方向に歩き去って行った。

 

「いい加減で適当な人だと思ってたけど、意外といい人かも……」

 

 いい加減で適当な賞賛を間に受けた伊井野は、讃岐が注意を聞かずそのまま歩いて行ったのに気付いていなかった。

 

「先輩教室とは別の方向に行ったけど」

「えっ!?」

「多分逃げる為に適当に煽てたんでしょ」

「クズじゃん!!」

 

 小野寺はふと周りを見回した。

 

「あれ、石上は?」

 

 

 

 

 石上は逃亡に成功した讃岐を追った。中庭の渡り廊下から校舎に入った辺りで、讃岐も石上に気付いたようで足を止めて振り返った。

 

「藤原さんからチョロいとは聞いていたけど、あれはちょっと心配になるね」

「じゃあ煽てないでくださいよ。先輩も露骨な上に結構ボロが出てましたけど……」

「やぁ、あれは焦ったね。いや、彼女の容姿が可愛いというのは嘘じゃないよ。ただまぁ、可愛いにも種類があるだろう?」

「はぁ、先輩の彼女とは真逆なんで、先輩の好むタイプではないかもしれませんね」

「そう、それそれ。そういう事。さすが石上君、理解が早くて助かるよ」

 

 まるで助け舟でも出されたかのように、讃岐は大袈裟に石上を褒める。

 

「それで、わざわざ追って来るなんて、僕に何か用かな?」

「先輩にちょっと相談が……ここじゃ話しづらいんで場所変えてもいいですか?」

「構わないよ。喜んで相談に乗ろうじゃないか」

 

 石上と讃岐は校舎から離れた場所にある、一本の大きな木の下に移動した。組んだ両手を枕にして芝生の上に寝転ぶ。

 夏の薄着だと芝がチクチク背中に当たるが、今は学ランも来ているので芝生の柔らかな感触だけが背中に伝わった。

 

「正気かい? 僕に恋愛相談って」

「いえ恋愛相談というか、讃岐先輩の経験談を少々伺いたいというか……」

「ふぅん。そういう事なら任せてよ。僕、恋愛マスターだから」

「恋愛マスターは第一声に『正気かい?』なんて言いませんよ」

「そうだね嘘ついた。でも本は結構読んでるから。惚れた腫れたって話はミステリーでも定番だよ。大体片方は浮気してるし、死んでるけど」

「それ殺人の動機の話ですよね」

「あまり参考にならないか。というか何で僕なの? 白銀君の方が適任だと思うけどね」

 

 石上とて相談するのに讃岐が適任だとは思ってはいなかった。しかし尊敬する先輩である白銀を差し置いてまで、讃岐に相談したのには理由があった。白銀と讃岐には一つだけ明確な差がある。

 

「先輩彼女いますよね?」

 

 実績の差。

 人間性、誠実さ、人望、その全てにおいて白銀御行は讃岐光谷に勝っている。それも比べるべくも無く圧倒的に。ただ、白銀には彼女が居なかった。

 彼女持ちということは、そこに至るまでのあらゆる出来事を経験済み。経験者と未経験者では言葉の説得力に天と地ほどの差が生まれる。

 

「ああ、だから白銀君じゃなくて僕なんだ」

「そういう事です。告白は讃岐先輩から?」

「そりゃ勿論。男らしく決めてやったよ」

「へぇ、一応聞きますけど、どんな感じでしたんですか?」

「そうだなぁ……」

 

 当時を思い出しているのか、返答がしばらく途絶える。そしておもむろに讃岐は立ち上がった。

 背中を叩いて草を落とすと、木のすぐ手前まで行って顔を石上に向けた。

 

「ここに彼女が居るとするでしょ」讃岐は木の前の人一人分のスペースを両手で示す。

 

「えっ、実演するんですか……?」

「その方が分かりやすいからね。で、それを、こう!」

 

 言葉と共に右手の手のひらを、先程示したスペースの横に突き出した。ドンと鈍い音をたてて木の幹に鋭い掌底が突き刺さる。

 ふぅ、と息を吐いて讃岐は幹から手を離した。石上の隣に戻って再び両手を枕にして寝転んだ。

 

「という風に『壁ダァン』して、耳元で愛の言葉を囁けばイチコロさ」

「イチコロ……! マジっすか」

「マジマジ。練習する?」

「はい…………いや、やっぱやめときます。それは先輩みたいなイケメンがやるから成功するのであって、誰にでも真似できる技じゃありません」

「そうかな? まぁでも石上君の相手を考えると、この技は向いてないかもね。同級生や下級生ならいいけど、上級生にやるのは失礼と捉えられても文句は言えない」

 

 ピタリと石上は固まった。

 

「なっ、なんで上級生だと?」

「君が子安先輩に惚れているのは前から気付いていたよ」

 

「うそおおおお!」石上は叫びながら、バネのように上半身を起こした。

 

 讃岐は寝転んだまま、視線だけ石上に向けて薄く微笑んだ。

 

「なに、恥ずかしがる必要がないよ。なんせ相手は3年のマドンナだ。君と同じような生徒は腐るほどいる」

 

 まだ恥ずかしさは抜けなかったが、諭された石上は背中を芝に着けた。

 

「しかしこれがダメとなると、僕からはアドバイスのしようがないね」

「いや、まだ何かある筈です」

 

 石上は確固たる口調で言い切った。

 

「えぇ、そんな事言われてもね。何でそう思うんだい?」

「讃岐先輩って藤原先輩とタメを張るレベルの変人じゃないですか」

「本人を前にして言うかい? そういう風に見られる事があるのは否定しないけど」

「その先輩に彼女がいるって事は、何か相当な強みがあると思うんですよね」

「なるほどねぇ。君、藤原さんに告白するような人を見た事ある?」

「いや、ないですけど……」

「類は友を呼ぶという言葉があるように、変人を好きになるような人はね、大抵どこかズレているんだよ」

 

 ふと人の気配がして石上は視線を下に向けた。「あっ……」

 

 人が近づいているのを知らない讃岐は、つまり、と意気揚々と結論を述べる。

 

「君の言うところの変人である僕と付き合うような人も変人なんだよ。だから一般論には当てはまらない」

「誰が変人なのー?」

「ん? そんなの決まってるじゃないか。早坂さんだよ」

「へー、そうなんだ」

「そうそう…………あれ?」

 

 錆び付いたロボットのような動きで讃岐は首を起こした。

 笑顔は主に喜びを表す場合に使われる表情だが、時として怒りを伝える事もある。目の前の早坂愛はまさにそのような表情だった。

 ちらりと讃岐が視線を石上に寄越す。

 気付いてたなら教えてよ、と黒い瞳が雄弁に語る。

 教える前に先輩が喋ったんですよ。石上も目だけで返答する。

 

「や、やぁ、早坂さん。文化祭の準備はどうしたの?」

「どっかの誰かさんが逃げるから探しに来たんだー」

「へ、へぇー。見つかったかい?」

「たった今」

 

 早坂はぞっとする笑顔を貼り付けて、寝転んでいる讃岐の足首を掴んだ。足首を腰の高さまで持ち上げ、クルリと回転、そのまま前進した。

 

「早坂さん、気遣いは嬉しいんだけど、僕は自分の足で歩けるんだ」

 

 ずるずると引き摺られながら讃岐は口にする。

 

「光谷君の足は信用できない」

 

 にべもなくバッサリと早坂は切り捨てた。

 相談されておいて手ぶらで帰らせるのは、格好がつかないと思ったのだろう。讃岐は少し早口で言った。

 

「僕が君にアドバイスできるとしたら一つ、相手を知る事だね。相手と対話を重ねるという意味じゃないよ。言葉に注意を払い、行動を観察して得た情報から推測する。そうすれば、相手が欲している物くらいは分かるかもね」

 

 もっともらしいアドバイスが出来て満足した讃岐は、一切抵抗せず大人しく引き摺られていった。

 

「あれ絶対見栄の為に、適当なアドバイス見繕ったよなぁ」

 

 石上は時間を無駄にしたようでいて、少しだけ有意義なような妙な感覚を覚えたのだった。

 

 

 ○

 

 

 ペーパーフィルターをドリッパーにセットし、挽いて粉末状になったコーヒー豆を入れる。ペーパーフィルターに乗っているコーヒー豆は、定規で引いたように水平で偏りが一切ない。

 コーヒー豆の表面が荒れないよう、そっとドリップポットのお湯を注ぐ。そのまま20秒程蒸らす。

 その後、再びお湯を注ぐ。中心から優しく「の」の字を書く。2度、3度と繰り返し、ポットを脇に置く。

 そうして抽出したコーヒーを2つのカップに注ぐと、湯気と共に豊かな香りが立ち昇った。

 

「幼い頃から使用人をしているだけあって手際がいいね。僕じゃ10年経っても追いつけそうにない」

 

 コーヒーを淹れる様子を、頬杖をつきながら眺めていた讃岐が感心した様子で言った。

 

「光谷君の場合、やろうとしない事が一番の原因だと思いますが」

「……適材適所ってやつさ」

 

 言い訳がましく言って目を逸らす。

 讃岐は何をやらせてもある程度までは直ぐに上達するが、そこからはちっとも成長しない傾向にある。ここら辺は本人の気持ちの問題なのだろう。

 カップを讃岐の前に置く。自分の分のカップを持って、そのまま讃岐の対面の椅子に腰掛けた。

 

「やぁ、いつも悪いね」

 

 早坂と讃岐は仕事が終わった後、コーヒーを飲みながら適当な雑談をするのが恒例になっていた。何でこうなったかは、あまり覚えていない。讃岐の情報を得る手段としてとか、そこら辺の打算があったのだろう。

 カップから口を離した讃岐は、リラックスしたように一息ついた。

 

「相変わらず素晴らしい出来だね。流石は四宮家の使用人だ」

 

 事実をありのまま述べられるのは讃岐の数少ない長所でもある。

 

「今年最大のニュースがあります」

 

 早坂は席につくなり切り出した。早く言いたくてウズウズしていたのだ。

 

「今年も残りわずかだけど、いいのかい? 残り約20日の間に、恐怖の大王が降ってくるかも」

「いえ、これ以上の事は起こりません。間違いなく今年最大です」

「そこまで言われると興味を唆られるね。聞かせて貰おうかな」

 

 元よりそのつもりだ。早坂は息を吸った。

 

「かぐや様が認めたんです」

「何を?」

「白銀会長の事が、その……す、好きだと」

 

 早坂は背中がムズムズするような感覚に襲われながらも言い切った。

 

「何で君が照れてるの?」

「……うるさいですね。光谷君と違って、歯の浮く事平気で言える人種じゃないんですよ」

「そうかな? しかし一体、あのお嬢様にどんな心境の変化があったのやら」

「さぁ、そこまでは私には何とも……卒業を目前に控えるくらいじゃないと、認めないと思ってました」

「今までの態度からしたら無理はないね」

 

 椅子に深く腰掛けて、讃岐は顎をしゃくった。

 

「それで、どうしたの?」

「というと?」

「何かしらしたんじゃないの? アドバイスとか」

「素直に告白した方が良いとは言いました」

「ごもっともな進言だ。問題は……」

「実行に移せるか、ですね」

 

 今までのかぐやの行動を思うと、早坂はため息が抑えられなかった。こてんとテーブルの上に突っ伏す。

 おやおや、と讃岐は同僚のだらしない姿を見下ろした。

 

「お疲れかい? 高名な四宮家の使用人とは思えない姿だね。奈緒さんに見られたら叱られるよ」

「今ここには光谷君しか居ないので、問題ありませんね」

 

 指摘したものの咎める気はさらさら無いようで、讃岐は何も言わずカップを持ち上げた。

 突っ伏したまま顔を横に向ける。頬から伝わるテーブルのひんやりとした温度に背筋が震えたが、今更起き上がるのも億劫だった。

 

「一説によると、この時期フリーの人への告白成功率は60パーセントだとか」

「クリスマスが控えてますし、秀知院は文化祭準備の真っ最中ですからね」

「文化祭準備中だと何かあるの?」

「文化祭マジックって知らないんですか?」

 

 讃岐は首を横に振った。

 文化祭マジックとは、文化祭準備を経て急速に接近した男女が、祭りの熱に浮かされるまま交際に発展する現象。早坂がそう説明すると、讃岐はふぅん、と興味がなさそうに相槌を打った。

 

「光谷君はそういうのありました?」

「そりゃもう。どっかのメイドさんに、付きっ切りで教育を受けたからね」

「それは羨ましいことで」

 

 讃岐は肩をすくめ、親指でカップの取っ手を撫でた。

 早坂は上半身を机から離した。何でもない風を装って、不意打ち気味にその言葉を口にする。

 

「そういえば、小島さんに会いました」

 

 注意深く讃岐の反応を観察する。一瞬だけカップの取っ手を撫でる指が止まったような気がしたが、それだけだった。少なくとも表面上動揺は見られず、返答も不自然な間が開いたり、早すぎたりしなかった。

 

「へぇ、元気だった?」

 

 武道場での小島との会話を思い返す。

 

「……元気なんじゃないですか? 普段の彼を知らないので、私には判断できませんけど」

 

 くすくすと讃岐は笑った。

 

「その様子だと、余り良い印象は持たなかったみたいだね。気持ちは分かるよ。あいつクソ生意気だからね。まぁ悪い奴じゃないんだけど」

 

「それなら、あそこまで人を悪く言わないと思いますけど」早坂はボソリと呟いた。讃岐には聞こえなかったようで首を傾げている。何でもありません、と言いながら早坂はある可能性に気付いた。

 

 もしや親しいと思っているのは、光谷君の方だけなのでは? 

 

 何だか可哀想になってきた。

 

「どうしたの、早坂さん? 慈愛に満ちた目をして」

 

 早坂はポットを掲げた。

 

「おかわり要りますか?」

「あ、うん。貰おうかな」

「私は光谷君の事、友人だと思ってますよ」

「あ、ありがとう……えっ、急にどうしたの!?」

 

 讃岐はこれでもかと動揺していた。

 

 時刻は午後11時を回った。既に2人のカップの中身は空になっている。

 

「会計くんに『相手を知る事だ』って言ってましたよね?」

「言ったね」

「……」

「……」

 

 この沈黙で察する程度には、讃岐は早坂の事を知っていたし、これで察するだろうと分かる程度には、早坂も讃岐の事を知っていた。

 

「片付けはやっておくから、先に休んでなよ」

「ありがとうございます。ではお先に」

 

 こうして今日も使用人達の夜は終わりを迎えた。

 

 

 

 

 舞台上、舞台裏の人物が様々な思いを抱えながら、秀知院学園は文化祭初日の朝を迎える。




剣道部部長の名前、学年は原作で明言されていませんので、公式ファンブックの情報等から推測しました。

今年も拙作にお付き合い頂きありがとうございます。
来年もよろしくお願いしますします。


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『文化祭と2つの告白編』舞台裏②

 月はラテン語でルナ。ルナを語源とする英語のルナティックには、狂気という意味がある。言葉の成り立ちからも分かるように古来西洋では、月が人間を狂気に引き込むと考えられていた。満月に変身する人狼や、黒ミサを開く魔女達はその典型といえる。

 また、満月になると犯罪の発生率が高くなる、という俗説もしばしば唱えられている。

 月の引力が満潮時と干潮時で数メートルの海面差を生じさせ、その引力が人間の体内の水分に何らかの影響をもたらすとされる。

 この研究は幾度か重ねられたが、月の満ち欠けと犯罪発生率の有意な関連性は見いだされず、科学的な証明はされていない。

 月が人を狂気に引き込むというのは、何の根拠もない迷信に過ぎない。

 けれど、魅せられたように月を見上げた彼の瞳に浮かんだ光は、紛れもなく狂気と呼ばれるそれだった。

 きっと月が人を狂わせるのではない。狂気に蝕まれるのは、月に魅せられ手を伸ばしてしまったからだ。決して届かぬものに手を伸ばし、それを自覚してしまったとしたら、きっと正気ではいられない。

 

 だとしたら、彼にとっての月とは一体何なのだろうか? 

 

 

 ◯

 

 

 奉心祭当日の朝、開幕を目前に控えた2年A組の教室では、華やかに仮装した生徒達がお互いの衣装を見せ合い、非日常の雰囲気を楽しんでいた。

 魔法使い、小悪魔、猫耳、ドレス、見知ったクラスメイトが見慣れない衣装に身を包む中、早坂愛も仮装衣装を身につけていた。

 

「すごく似合っているよ。それはもう毎日着てるんじゃないか、ってくらい完璧に着こなせている。全く違和感がなさ過ぎて、見飽きたような感覚さえ覚えるよ。もしかして本当に毎日着て──」

 

 うるさい。

 

 早坂はペラペラペラペラ軽薄に動く口の両端をつねって、横に引っ張った。

 

「いふぁい、いふぁい」

「何て言ってるか分かんないー」

 

 痛がる声を無視して、摘んだ頬を引っ張っる角度を変えたり、回したりする。しばらくして飽きたので手を離した。

 讃岐光谷は両手を僅かに赤くなった両頬に当てる。

 

「痛い……僕の頬に何の恨みがあるんだい? ちょっとした冗談じゃないか」

「日頃の恨みかなー。その迂闊な口を閉じる気になった?」

「なりました」

 

 などとやっていると、背後から聞き慣れた声が耳に届いた。

 

「ほらそこ、イチャつかない!」

「愛ちゃんメイド服似合ってるねー」

 

 黒い猫耳を付けた火ノ口みりんと、ドレス姿の駿河すばるだった。

 

「いや、イチャついてないし」

「夫婦漫才みたいだったよー」

「それは普通にやだ」

 

「やぁ、2人とも。衣装似合っているよ」2人の格好を目にした讃岐は流れるように賛辞を述べた。こういう所は抜け目のない男だ。

 火ノ口と駿河は顔を見合わせて、困惑を表情に浮かべた。

 

「それはいいんだけどさ……何なのそれ?」

 

 火ノ口は讃岐を指差した。正確には讃岐の衣装を。

 首から下をすっぽりと覆う白い布。讃岐の衣装を説明するとすればそれだけ。白い布には何の柄も文字も無く、正真正銘真っ白な布だった。

 

「てるてる坊主のコスプレ? だったら超似合ってるけど」

「困ったね。てるてる坊主の姿さえ似合ってしまうなんて」

「せっかくだし紐も着けたら?」

 

 早坂はいつの間にか手にしたロープを、見せつけるように両手で引っ張った。ピンと張ったロープに他の3人が視線が集まる。

 

「……紐を着けてどうするつもりかな?」

「てるてる坊主見た事ないの? 吊るすに決まってるじゃん」

「てるてる坊主って、どこに紐を着けるんだっけ」

「丸い部分の下」

「僕が着けるとすると?」

「頭の下ー。窓から吊り下げたら完璧だし」

 

 ロープを持った早坂がにじり寄る。讃岐はそそくさと逃げ出し、火ノ口と駿河の背後に隠れる。

 情けなく逃げ出した讃岐に対して、火ノ口は呆れた視線を向けた。

 

「君の提案は素敵だけれど、我らがA組の出し物はお化け屋敷じゃないから遠慮しておくよ。それにこれは、てるてる坊主のコスプレじゃないしね」

「じゃあ何なの」

 

 呆れた目のまま火ノ口が質問する。

 アレを頼むよ。讃岐は近くの男子生徒に命じる。男子生徒の表情には、面倒臭いという感情がありありと浮き彫りになっていた。

 

「何で俺が」

「どうせやる事ないだろう」

「お前もないだろ。自分で持って来い」

「それだと格好がつかないんだけど……」

「知るか」

 

 話し合いの末、アレとやらがある場所まで行く事になったらしい。

 仕方がないという風に、讃岐は早坂達を教室の隅に案内した。

 案内された先にあったのは、ヴィクトリア朝時代に造られたような、シックなデザインの椅子。

 椅子の正面に立った讃岐は、満を辞して体をすっぽり覆っていた白い布を脱ぎ捨てた。

 バサリと派手な音を立てて、宙を舞った白い布が床に落ちる。

 

 背面の両脇から緩い下り坂のように降りている肘掛けの上には、茶色いインバネスコートに包まれた腕。手にしたレトロなパイプは、健康と法律に配慮したレプリカ仕様。頭には深く被った鹿撃ち帽。

 

 早坂達の前に現れたのは、ストランド・マガジンから抜け出したかのような名探偵だった。

 

「どうかな、諸君」

 

 名探偵のコスプレをした讃岐は、気取った態度で足を組んでパイプを口に咥えた。

 自信満々の讃岐を前に、早坂、火ノ口、駿河の3人は額を突き合わせた。

 

「どうって……」

「まぁ、ねぇ」

「そうだね〜」

 

 3人は再び讃岐に視線を向ける。

 似合っていないとは言わない。スラリとした長身にコートは合っているし、恥じらわず堂々としている姿もコスプレとしては上出来。ただ、まぁ……。

 

「目新しさがないし」

「想像の範疇を超えない」

「引っ張った割にはねー」

 

 そもそも讃岐は藤原千花と同様に、鹿撃ち帽を着用した姿が散見されている。それに趣味嗜好から考えれば、名探偵のコスプレをすることは容易に想像ができた。

 コスプレ自体は様になっているのだが、面白味には欠けると言わざるを得ない。

 当人にとっては思わぬ冷めた評価だったのだろう。讃岐は固まった。

 

「……ねぇ、火ノ口さん」

「どうしたの?」

「衣装変えてもいいかな?」

「もう時間が無いから駄目」

 

 それからすぐに火ノ口の言葉通り、文化祭開始のチャイムが響き渡った。

 

 

 

 

 看板娘に見目麗しい純血大和撫子女学生を据える人選が功を奏し、2年A組のコスプレ喫茶は行列が出来るほど盛況だった。

 スペースの関係上、客の前で珈琲や紅茶を淹れるシステムになっており、接客を担当するのは殆どが女子生徒。必然的に客層が男性に偏るのは分かり切っていたが、ちらほらと女性客も見受けられるようになった。

 原因は明らかだった。チラリと早坂は目を横に動かす。

 

「君達はここに来る前、2年C組でチュロスを買い、半分こして食べた」

「えぇーっ! どうしてそこまで分かったんですか!?」

 

 学ラン姿の生徒は高い声で驚きを露わにした。

 

「なに、初歩ですよ」

 

 これくらい簡単な事だ、と客2人の前で椅子に腰掛けている探偵姿の讃岐光谷はパイプに口を付けた。

 同学年の女子生徒から「中身を考慮しないなら結構アリ」との評価を受けるだけあって、整った顔立ちにスラリとした長身と、讃岐の外見はそこそこ良い。最大の欠点である奇天烈な性格も、コスプレ喫茶のコンセプト上、うまく溶け込んでいる。

 好条件がそろっている今、女性客が彼を目的として訪れるのも無理はないのかもしれない。もっとも、今対応しているのはそういった目的の客ではないようだ、と学ランと文化祭Tシャツの2人組の客を見て思う。

 

「コスプレだけかと思ったら、本当に名探偵だったなんて!」

「誇るほどの推理ではありません」

 

 感心している文化祭Tシャツの男子生徒に、探偵は謙遜した言葉で応じる。

 意外にもそれなりの演技力で、発言自体は通常とそう変わらないが、声に威厳が感じられる。

 

「ただの観察から導き出した推理です。誰にでも出来る事ですよ。もっとも他の人は私ほど観察という行為をしようとしないらしい。私にとっては不可解でなりませ──」

 

 つらつらと御高説を並べる様子を少し前から見ていたが、我慢の限界に達した早坂は探偵の頭を引っ叩いた。衝撃で鹿撃ち帽が顔に掛かり、言葉が途中で途切れる。

 讃岐は顔から帽子を取ると涼しい顔で早坂を見上げた。

 

「やぁ、どうしたんだい?」

「仕事してください」

 

 看板娘、もといかぐやのシフトが終わって、当初より勢いが落ちたとはいえ、コスプレ喫茶は行列が出来るほど盛況ぶりを見せていた。つまり忙しいのだ。とっても。

 上から見下す早坂の冷たい視線に怯んだのか、讃岐は顔を青くして言い訳を並べた。

 

「ほら僕探偵のコスプレだしさ。依頼人にお茶を出すだけなんて、探偵と呼べるかい? コスプレ喫茶に従事する者として、僕はキャラクター性を大切に……」

「私は探偵に出会ったことがないので何とも。キャラ作りだけでなく、接客も熱心にしていただきたいものですね」

 

 大体、と讃岐を見下ろしたまま続ける。

 

「今の推理でも何でもないですよね」

 

 2人組の客は、そろって疑問符を頭上に浮かべた。

 

「あれ、バレちゃった?」

「バレバレです」

 

「えっと……どういう事なんですか?」学ランの生徒が聞いた。

 

「チュロスを食べたというのは、Tシャツのお客様の口元に付いているパウダーで分かります」

 

 指摘されてTシャツの生徒は口元を手で拭った。その手には白いパウダーが付いた。

 

「でもそれは俺だけですよ。何でこいつに半分あげたのまで分かるんですか?」

「それに関しては非常に簡単です。学ランのお客様から聞いたのです」

「ええっ!? 話した覚えはありませんけど」

「僕も話して貰った覚えはありません。ただまぁ、開きっぱなしだと聞こえてきたりしますからね」

 

 讃岐は手に持ったパイプで、開け放たれた教室の扉を指した。廊下の声が教室の中まで聞こえていたのだ。

 

「お客様に対して大変言いづらいのですが、バカデカい声で喋るのは控えた方がいい。今のご時世、どこの誰が君のバカデカい声を聞いているか分かりませんからね。何かあってからでは遅いと思い、心を鬼にして進言させて頂いた次第です。いや全くもって本当に言いづらいし心が痛む」

「バカデカいって2回も言いました!? 言いづらいどころかイキイキしてる気がするんですけど!」

 

 羞恥と怒りで学ランの生徒は顔を真っ赤にした。

 謎解きと他人の神経を逆撫でする事を、生き甲斐とする店員に当たったばっかりに。可哀想な目に合った学ランの生徒に同情しつつ、早坂はフォローに回る。

 

「お客様、この男が失礼致しました。確かにお客様の大きな声には『バカデカい』という表現がピッタリ当てはまりますが、文化祭の浮かれた雰囲気の中では目立った声量ではありません」

「メイドさんも失礼致してますけどね……」

 

 早坂のフォローに学ランの生徒は顔を赤くしたまま、隣のTシャツの生徒に「そんなに大きかった?」と尋ねる。聞かれたTシャツの生徒は、曖昧な苦笑いを浮かべた。

 肯定も否定もされなかったが、反応を見ればどうだったかは一目瞭然。学ランの生徒は恥ずかしそうに艶やかな短髪の頭を掻いた。

 ピコンと近くで携帯電話の電子音が鳴った。失礼と断って讃岐は、やっと準備し始めたティーカップとポットを机の上に戻して、携帯電話を取り出した。

 メッセージが届いたのだろう、携帯の画面を見つめていた。その姿を珈琲を淹れるのを待つ客と早坂が見つめていると、讃岐は携帯電話をポケットに仕舞って立ち上がった。

 ようやく仕事を始めるのかと思ったが、讃岐の表情を見て早坂はそうではないと確信した。

「お客様」と讃岐は名探偵に成り切っていた時の声音に変わった。再び役に入った讃岐に客は困惑の表情を浮かべる。

 

「申し訳ありませんが依頼が入りましたので、私はこれから事件現場に向かわなければなりません。つきましては……」

 

 一歩下がり、スッと讃岐は早坂の方に手を添える。

 この後、早坂は自分にかけられる言葉が手に取るように分かった。

 

「後の対応は彼女に引き継がせて頂きます」

 

 思った通り。堂々とした立ち振る舞いとは裏腹に、懇願するような視線が横目でチラチラと早坂に注がれる。

 返事代わりに早坂は1つため息を吐いた。讃岐の口角が僅かに上がる。

 すれ違い様に讃岐は耳元で囁く。

 

「ありがとう。埋め合わせは必ずするよ」

「埋め合わせはいいので、早く終わらせて戻って来てください」

「善処する」

 

 ポンと早坂の肩を叩き「後は任せたよ、ワトソン君!」と、最後まで名探偵っぽく讃岐は教室から飛び出した。

 教室で接客をしていた火ノ口や駿河の何事? という視線に早坂は、何でもないと肩をすくめ、讃岐が対応していた客に洗練された所作で頭を下げた。

 

「では僭越ながらご主人様、彼に代わって珈琲を淹れさせて頂きます」

 

 早坂はポットに手を掛けた。

 

 

 ◯

 

 

 保護者への文化祭案内がひと段落した白銀御行は、特に当てもなく校内を見て回っていた。

 普段は1年生の教室が並ぶだけの堅苦しい廊下も、現在は明るくカラフルな飾り付けが施されており、文化祭の雰囲気を一層華々しいものにしている。

 

「生徒会室でひと休みするか」

 

 保護者への対応や仕事で疲弊した体を休めようと、生徒会室へと歩いていた白銀にとある店から声が掛かった。

 

「あっ、会長」

「伊井野か。頼んだ俺が言うのも何だが、文実の仕事もあるのに大変だな」

「いえ、会長ほどではありません」

 

 怪しげな黒いローブに身を包んだ伊井野みこは首を振った。肩に乗ったおさげが揺れる。

 

「よかったら寄って行きませんか? 2人組を推奨していますけど、1人でも入れますので」

「えっ……あ、ああ、そうだな」

 

 白銀は改めてホラーハウスの入口を見た。入口の先には待機場所があって、それより先は暗幕が降りていて見通せない。「このアトラクションは不純異性交友の場ではありません」と注意喚起する生真面目な立て看板が、おどろおどろしい雰囲気とアンマッチだった。看板の下に男性は左側、女性は右側で別れるよう矢印がある。

 ホラーといえばスプラッタの定番であり。スプラッタといえばグロテスク。グロテスクといえば流血。血が苦手な白銀としては、ホラーハウスは手放しで歓迎できる催しではなかった。

 入り口付近の『立体音響ホラーハウス』と記された看板には、いかにも物騒なハサミのイラスト。

 体の一部を切断されたお化けが飛び出して来るであろう事は、想像に難くない。

 しかし、後輩からの誘いを無碍にするのも憚られる。それにお化けにビビっていると思われたくない。気遣いと見栄が、お化け屋敷に対する恐怖心をかろうじて押し留めていた。

 

 文化祭のお化け屋敷だし、リアリティにも限界があるだろう。腹を括って入れば俺でもいけるか。

 

 思わぬ形で、藤原との特訓の成果を発揮する機会がやってきた。

 

「結構よく出来てるって評判なんですよ。さっき石上とつばめ先輩が来たんですけど、つばめ先輩も涙目で怖がってました」

「石上と子安先輩が?」

 

 気になったが、それ以上に今の白銀には言わなければならない事があった。

 

「ふむ、俺も入ってみたかったんだが、残念ながらこれから仕事が入っていてな」

 

 自分より1学年上の先輩が涙目になるくらい怖い。その事実は白銀に効いた。

 恐怖心の勝利──恐怖心に敗北と言うべきかもしれない──だった。

 

「そうなんですね。お仕事頑張ってください」

「ああ、伊井野もな」

 

 あー、残念だ。ともう一度呟きながら逃亡を計ろうとした時、ホラーハウスの入口が開いて、黒髪の女子生徒が出て来た。

 

「伊井野ちゃん、ちょっと聞きたいことが……あれ、生徒会長?」

「君は確か藤原と同じ部活の……」

「槇原さん?」

 

 TG部永久部長、槇原こずえは白銀と伊井野を見比べる。そしてしたり顔で、

 

「ははーん。さては、リーダー自ら部下の仕事ぶり視察に来たんだね。伊井野ちゃんの働きは私が保証するよ。彼女の働きはホラーハウスの完成に大きく貢献してる」

「本当にね……」

 

 心当たりがあるらしい。伊井野の目から光が消え、疲れ切った顔で呟いた。

 

「それで聞きたいことって何?」

「そうだった。ちょっとした事件があってさ」

 

 事件? 白銀は気になって足を止めた。

 

「10分前くらいに入ったグループあるでしょ」

「うん。確か8人のグループだったわね」

 

 生徒会長の役職柄各クラスの出し物には目を通す機会があったのと、石上から話を聞いていたので、白銀は1年A組とB組の合同企画であるホラーハウスの大まかな構造を知っていた。前半パートがお化け屋敷、後半パートが立体音響の体験。

 立体音響体験に使用するヘッドホンにも限りがあるので、一度に入室する人数は制限されている。

 

「やっぱり8人だった?」

「? どういう意味」

「それがさー、出て来たのは6人だけだったんだよね」

「行方不明ってこと!?」

 

 半ば悲鳴のような声を伊井野が上げる。対照的に槇原に焦った様子はなかった。

 

「そんな物騒な話じゃないでしょ。一応明かりをつけて室内を確認したけど、誰も居なかったから勘違いかと思ってさ。でも伊井野ちゃんも8人か……」

「8人で間違いないと思う。でもそれじゃあ2人は一体どこに……?」

「教室に居ないなら、2人は他の6人と違うタイミングでホラーハウスを出た可能性が高いな。伊井野は見かけなかったか?」

「いえ、出口の方にはあまり注目していなかったので……」

 

 申し訳なさそうな顔をする伊井野。

 白銀としても芳しい答えを期待してはいなかった。伊井野は入口側で売り子の仕事があったし、文化祭で人通りも多い。注意して見たとしても見逃す可能性は高い。

 

「教室のドアを開けたら光が差し込むから、むしろ中に居た人の方が分かるんじゃない? 私はその時お化け屋敷担当だったから分からないけど」

「そうね。ちょっと聞いてみる!」

 

 ホラーハウスの扉に伊井野が手を掛けるより先に、扉が開いてまた生徒が現れた。

 

「麗ちゃん!」

 

 伊井野と同じローブを着た金髪の女子生徒は、不思議そうに伊井野を見下ろした。

 

「どうかした?」

 

 麗ちゃんと呼ばれた女子生徒は白銀に気付いて軽く会釈をした。白銀も軽く頭を下げる。

 

「途中で教室から出た人居なかった?」

「ああ、消えた2人組の事? その時出口の案内してた人に聞いたけど、途中で出て行く2人組は居なかったらしいよ」

「そっか……」

 

 期待していただけに、あっさり否定された伊井野は途方に暮れたようだった。

 

「謎だねぇ」と槇原がワクワクした表情で言った。

 

「よし、チカに教えてやろう!」

 

 チカ? ……千花か! 不味い!

 

 白銀は元気よく駆け出そうとする槇原を慌てて引き止めた。

 

「待つんだ槇原君」

「生徒会長?」

「こう見えて、俺も謎解きには多少自信があるんだ。ここは俺に任せてくれないか」

「そういえば生徒会長は、1年の頃何度か校内の事件を解決したって聞いたことがある」

 

 事件の解決したという点では、あながち嘘でもない。事件の謎を解き明かしたのは白銀ではないのだが。

 当時はまだ高等部に入学していなかっただろうに、よく知っているなと思う。白銀が表立って事件に関わったのは、数える程しかなかったからだ。

 中等部に在籍する妹の白銀圭も、生徒会長である白銀御行は名は知られていると言っていた。中高一貫という性質の問題か、思った以上に高等部の噂は中等部に流れているのかもしれない。

 

「そうなんですか? 全然知りませんでした」

「へぇー、これはお手並み拝見だね」

 

 第三者から語られた実績の説得力は大きく、期待のこもった視線が後輩達から注がれる。

 どうやら藤原を呼びに行くのはやめさせられたようだ。白銀はホッと胸を撫で下ろす。藤原には明日の謎解きに集中して貰わなければならない。今日謎解きで満足されては困るのだ。

 藤原であれば、昨日の今日でも喜んで謎解きに飛びつくとも考えられるが、大事な計画の為に念には念を入れる。

 

 

「まずは状況を整理しよう。2人組はいつ消えたのだろう? 確かホラーハウスは案内役が客を先導するシステムだったな」

「はい。案内役の人に聞きましたけど、後半ロッカーに隠れるまでは8人だったみたいですね。前半パートのお化け役も8人を目撃してます」

「俺は詳しく知らないんだが、ロッカーに隠れるのか?」

「後半は立体音響の体験なので、2人で1つのロッカーに隠れて、そこでヘッドホンの音を聞くというアトラクションなんです。消えた2人も1つのロッカーに入っていました。当然ですが、男女は別々で入って貰います!」

 

 最後の言葉には力がこもっていた。ロッカーに隠れるとなれば、至近距離で2人っきりになる。語気の強さから察するに、伊井野の逆鱗に触れてしまった輩がいたのだろう。

 

「その為の看板か」入口の注意書きを思い出しながら、文化祭といえど変わらぬ伊井野らしさに苦笑する。

 

「いつ2人が居ないと気付いたんだ?」

「気付いたのはヘッドホンの回収係で、回収したヘッドホンの数が6人分しかなかったので変だと思ったみたいです」

「2人が使っていたヘッドホンはあるのか?」

「あるよ。正真正銘私達が用意したヘッドホンが」

「でもヘッドホンは6人分しかなかったって……」

「どうしてかは分からないけど、ヘッドホン置き場には全部のヘッドホンがそろってたよ」

「初めから6人分しか渡していなかったのか?」

「いや、渡したのは8人分だったらしいよ」

 

 ヘッドホンか。白銀は引っかかる部分があって質問した。

 

「2人はヘッドホンを回収係に渡したのではなく、自分達で返却したことになるな。ヘッドホンを置いている場所は客からも見えるのか?」

「ヘッドホンは目立たないように教室の隅に置いています。一応お客さんから見える位置ではありますけど、室内は暗いので見つけるのは難しいと思います」

 

 2人が自分達でヘッドホンを返却した可能性は低い。ではどのようにしてヘッドホンは返却されたのか? 白銀は別の角度から考えてみた。

 

「ヘッドホンを渡すのも回収係が?」

「ヘッドホンを渡すのは案内役の仕事です」

「だったら回収係は、使用されているヘッドホンの数を知らないんじゃないか?」

 

 だとしたら回収したヘッドホンの数に疑問を持つのは不自然だ、という意味を込めて白銀は聞いた。

 

「当初回収係はヘッドホンの回収するだけの仕事だったんですけど、それだけだと余裕ができたので、ヘッドホンの準備もしているんです。なのでヘッドホンの数についても知っていた筈です」

 

 白銀の疑問は難なく氷解した。回収係の方に謎を解く鍵があるのかと思ったがどうやらハズレだったようだ。

 白銀の頭脳は天才と呼ばれる領域にあるが、それは日々の積み重ねで得たもの。今回のように、柔軟な思考と一瞬の閃きがものをいう謎解きとは相性が悪い。

 

「そういえば会長、この後仕事があるって言ってましたけど、まだ行かなくていいんですか?」

「トラブル解決も仕事の内だ。だがそうだな、連絡を入れて来るから少し待っていてくれ」

 

 もっともらしい理由を付けて白銀は席を外す。ホラーハウスが見えなくなったところで携帯電話を取り出した。

 

 頼むから気付いてくれよ。

 

 祈るように白銀は送信ボタンを押した。

 白銀がメッセージを送信してから、1分と経たず携帯電話に着信が入った。

 

『メッセージ読んだよ。事件を引き当てるなんてラッキーだね。流石アルセーヌを名乗るだけはある』

「こんな事態を喜ぶのはお前だけだ。突然悪いな、仕事中だったか?」

『変わってもらったから大丈夫だよ』

「それ本当に大丈夫なのか……」

『むしろお客様方は僕に感謝するべきだね。僕が淹れた毒にも薬にもならないコーヒーではなく、一流のコーヒーを堪能できるんだから。まぁ、それはいいや。あまり遅いと怒られるから、事件の話を聞こうかな』

 

 そうだな、と讃岐の言葉に同意する。白銀としても早く戻らなければ怪しまれてしまう。

 事件に遭遇した時点で、讃岐に相談する想定はしていたので、伝える内容は頭の中でまとめてあった。そのおかげか讃岐も言葉を挟まず、大人しく白銀の説明に耳を傾けていた。

 

『ホラーハウスに相応しい、実に奇怪な事件だね』

「あぁ、こっちは完全にお手上げだ」

『しかし残念だね。せっかくシャーロック・ホームズ風のコスプレをしているのに、やってる事はまるで安楽椅子探偵。ネロ・ウルフになった気分だよ』

「その口振りだと、謎は解けたようだな」

『もちろん。ただ君に推理を伝える前に確認したい事があるんだ』

 

 讃岐の推理を聞いた白銀は、安堵と共に事件の終わりを確信した。




解決編は1週間後に投稿します。


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『文化祭と2つの告白編』舞台裏③

「遅くなってすまない」

 

 ホラーハウスの前に戻った白銀を待っていたのは伊井野だけで、他2人の姿は無かった。

 

「お客さんが来たので、2人は仕事に戻りました。槇原さんは残りたがってましたけど」

「そうか。じゃあ伊井野も早く仕事に戻れるように、謎解きを始めるとするか」

「もしかして分かったんですか!?」

 

 探偵役は堂々と偉そうにしていればいい。以前讃岐から受けたアドバイスに従い力強く肯定する。

 

「今回の事件、消えた2人組が自ら行ったと考えるのは、非常に難しいと言わざるを得ない」

「確かに難しいですが、だとしたら誰が何のために?」

 

 伊井野は首を傾げた。

 

「結論から言うと、誰がというのは1年A組、もしくはB組の生徒だろうな」

 

 2人組が自発的に消えたのでないなら、ホラーハウスの運営に関わっている人間が2人を秘密裏に教室の外へ出した可能性が高い。伊井野も白銀の言葉から回答を予想していたのだろう。神妙な面持ちで話の続きを待つ。

 

「2人組の消失を手助け、または偽装できる人物は多くない。ロッカーに入るまで2人の姿は確認されている。それ以降で2人と接点があるのは、案内係とヘッドホンの回収係くらいだろう」

 

 白銀は伊井野の反応を伺った。同意を表すように伊井野も頷く。

 その様子に安心して精神的に余裕が生まれた。やはり探偵役というのは心臓に悪い。

 

「もし回収係が犯人なら、自分からヘッドホンの数が合わないなどと言い出したりはしない」

「という事は案内役の人が?」

「そう考えるのが妥当だな」

「ではヘッドホンを元の場所に戻したのも、案内役だったんですね」

「ああ。元の場所に戻してはいたが、6人分しか回収していないのはいずれ発覚するし、強いて元の場所に戻す必要はなかった。ホラーハウスの運営に支障がないようにしたんだろうな」

 

 この犯人側にとってリスクにしかならない行動も、内部犯説を補強する材料になった。

 

「結局どのタイミングで2人を外に出したんですか?」

 

 この質問こそが、今回の事件を解き明かす上で最も重要なポイントだった。

 白銀は一呼吸置いて答える。

 

「立体音響のアトラクションが終わった後だな」

「なぜそう思うんですか?」

「その質問に答えるには、先に『何のために?』という疑問を解消する必要がある」

「つまり、立体音響のアトラクションが終わってロッカーから出た時に、2人を誰にも気付かれず教室から出さなければならない問題が発生した、とうい事ですか? でもそんな急に……」

「いや、急という訳ではない。問題自体は立体音響以前から存在していたんだ。ただそれに気付いたのが、ロッカーから出たタイミングだっただけで」

 

 もどかしそうに伊井野が唸った。

 探偵の代役を何度もやっていたせいか、無意識に婉曲的な言い方が癖になってしまったたようだ。

 讃岐は人を食ったような焦らす言い方を好むが、焦らされる側の気持ちに理解がある白銀はそうではない。なんとなくバツが悪くなり、コホンと空咳をして話を続けた。

 

「2人がロッカーに入っていたとして、問題になるのはどんな事態だ?」

「問題……」

 

 問題になる事とは、本来なら伊井野が真っ先に気付いてもおかしくない事柄だ。

 だが、伊井野は勉強は出来るが頭が柔軟な方ではない。それに、彼女の思い込みの激しい性格を鑑みれば、気付かないのも無理はないのかもしれない。

 

「入口に看板があっただろう?」

 

 ほぼ正解に近いヒントを口にする。

 

「看板……まさか! いや、でも……」

 

 白銀の言わんとすることが理解できた伊井野だが、信じられないようで言葉を詰まらせた。

 

「そう、1つのロッカーに男女2人で入っていたんだ」

「確かにそれは大問題ですが、納得できません! だって入口で男女別々に別れるようになってるんですよ!」

「ああ、だが当初ホラーハウスは男女別々ではなかったよな?」

「それは、そうですけど」

「男女別々のルートを用意する時間も無かった。あの看板はあくまで、案内する際に男女が分かりやすいようにする為のものだ」

「だとしても、ロッカーに入る時に案内役が気付くと思います」

 

 伊井野の言う通り、普通なら気付いて然るべきだ。しかし、今日の秀知院学園は普通ではない。文化祭というイベントの最中なのだ。

 

「俺は役職柄、文化祭で行われるクラスや部活の出し物について、全てに目を通している」

 

 全ての出し物に目を通し認可したのは他でもない白銀。そしてそのおかげで讃岐が電話で口にした質問にも答える事ができた。

 

「伊井野は、男女逆転喫茶という出し物があるのを知っているか?」

「体育祭で応援団がやっていたようなのですか? どこかで聞いた気もしますけど……ああ!」

「分かったようだな。案内役は男子と男装をした女子を同じロッカーに案内したんだ」

 

 ホラーハウス内は暗かった。短髪の女子が男装をしていたとしたら、男子と間違えるのも無理はない。

 

「立体音響のアトラクションが始まり、ロッカーの中から聞こえて来る悲鳴で、案内役は自分の勘違いに気付いた。今回の件は事故みたいなものだが、もし他の人に男女でロッカーに入っているのがバレたら、男装を利用した意図的な行為と思われるかもしれない。だから案内役は秘密裏に2人を外に出した。以上が俺の推理だ」

「運営側が協力していれば、気付かれずに外に出るのは簡単でしょうね。でもそれなら、ロッカーに入る前に言ってくれれば……」

「案内された手前、言い難かったのだろう」

 

 とは言ったものの白銀の考えは違った。

 ロッカーの中で男女2人きりというシチュエーションは、思春期真っ只中の高校生にはあまりにも魅了的だ。あえて言わなかった可能性も充分有り得る。

 これは伊井野には言わない方がいいな。白銀はその推測をそっと胸の内に止めた。

 

「男女逆転喫茶だなんてよく気付きましたね! まるで本当の名探偵みたいです」

「まぁ、な……」

 

 純粋な称賛が白銀の胸に突き刺さる。探偵の代役をする中で、この瞬間が白銀は最も苦手だった。

 謎を解き明かしたのは自分ではないので、嘘を付いている気分になるのだ。

 

 全く。本物の名探偵が出て来てくれれば、俺がこんなことする必要はないんだがな。

 

 ここには居ない友人に向けて、白銀は心の中でぼやくのだった。

 事件を解決してお役御免になった白銀は、伊井野と別れて当初の目的地である生徒会室に向かった。

 

 よく気付きましたね、か。俺も同じ事を聞いたな。

 

『男女逆転喫茶か、よく気付いたな』

『僕のクラスにも来たんだよね』

『お前のクラスというと、コスプレ喫茶だったな。何が来たんだ?』

『学ランを着た女子生徒さ』

 

 

 ◯

 

 

『きゅーぴっどたこやき』と柔らかいフォントで書かれた看板に、四宮かぐやは魅了されていた。

 看板の下にはハート型のかまぼこ入りと表示がある。もはやたこ焼きではなく、かまぼこ焼きなのでは? という疑問も、無理矢理過ぎる奉心伝説への便乗の仕方も、今のかぐやにはとても些末な事柄だった。

 

 こ……こんなものが……。

 

 渡すだけで永遠の愛が得られるたこ焼き。なんて素晴らしい。

 しかしかぐやはすぐ我に返った。便乗しているだけあって、たこ焼きはハート型の容器に入っていた。

 

 でも流石に、これを会長に渡す勇気なんてないわ……! 

 

 ふと視界にある看板が目に入る。

 

『元祖たこやき』

 

 数軒隣にあるそのたこ焼き屋は、きゅーぴっどたこやきと違い、一般的なたこ焼きを販売している。

 たかだか文化祭の出店に元祖も何もない。何故かルーツを主張するたこ焼き屋。その存在に気付いたかぐやの頭脳に閃きが走った。

 2つの出店からそれぞれ1パックづつたこ焼きを購入したかぐやは、携帯電話を取り出した。

 

 人気の少ない校舎の裏、周囲を気にしながら讃岐光谷は現れた。

 

「お嬢様、どうなさいましたか?」

「聞きたい事があるのよ。これを見てどう思うかしら?」

 

 かぐやは6個のたこ焼きが入った透明の容器を、呼び出した讃岐の目の前に出した。

 

「1つだけ違和感があります」

 

 讃岐は長方形容器の左手前にあるたこ焼きを指差した。

 相変わらず目敏い男だ、とかぐやは思う。だが、聞いておいて正解だった。讃岐が違和感を感じるなら、観察眼の鋭い石上優にも見破られてしまうだろう。

 

「改善が必要ね……」

「これはもしや、ロシアンたこ焼きというものでございますか? 一体何をお盛りになられたので?」

 

 お盛りになられたと来たか。慇懃無礼もここまで行くと清々しい。

 

「人聞きが悪いわね。貴方に渡す訳でもあるまいし、そんな事しないわよ。でも貴方の言った通り、このたこ焼きには1つだけ中身が違うたこ焼きが入っているわ」

 

 かぐやはきゅーぴっどたこやきで買ったハート型の容器を取り出した。

 

「入れたのはこっちのたこ焼きよ。このたこ焼きの中にはハートが入っているの」

「ハートですか。それを白銀君に渡すと?」

「そうよ、会長に気付かれる事なく永遠の愛を手に入れられる。完璧な作戦だわ!」

「流石はお嬢様。素晴らしい完璧な作戦でございます」

「当然ね」

 

 従者の称賛を受けてかぐやは自信を深めた。

 

「ですがお嬢様、何故ロシアン形式なのでございますか? 全てハート入りでも問題ないように思えますが」

「その場に居るのが会長だけなら、それでも問題ないわ。私の予想通りなら会長は生徒会室に居る。けれど、他の役員も一緒の可能性が高い」

 

 藤原か石上か伊井野か、もしくは全員集合しているかもしれない。

 

「その場合、会長だけに渡すのは困難。藤原さんなんかは、絶対強請(ねだ)ってくる。ハートを渡すのは会長だけでないと意味がないの」

「他の生徒会役員に渡す為のノーマルたこ焼きという事ですね。そこまで先を見通しておられるとは……」

「それだけじゃないわ。讃岐、頼んだ物はあったかしら」

「はい、ここに」

 

 讃岐が差し出したビニール袋の中身を確認する。袋の中に入っていたのは、旗の付いた爪楊枝、アメリカンドッグ、紅生姜。

 注文通りだ。かぐやはほくそ笑む。

 

「もし他の人が居たらこれが役に立つわ」

 

 何の役に立つのかと、讃岐は怪訝そうな顔をしているが、生徒会役員の特徴をよく知るかぐやには確信があった。

 作戦の準備を整えたかぐやは、きゅーぴっどたこやきが余るのに思い当たる。

 

「これは貴方にあげるわ」

「ありがとうございます」

 

 従者を労う心優しい主人。

 

 いや、待って。

 

 差し出したハート型容器に讃岐の受け取る手が触れる直前、かぐやは驚異的な反応速度──僅か0.11秒──を発揮し讃岐の手を叩き落とした。

 

「待ちなさい。そうがっつくものではないわよ」

 

「……申し訳ありません」叩かれた手の甲をさすりながら、讃岐は首を傾げる。

 

 危ない危ない。うっかりこの男にハートを渡すところだったわ。

 

 かぐやはホッと胸を撫で下ろす。直接渡さなければ問題ない筈。しゃがんで、ハート型の容器を地面に置く。

 

「これでたこ焼きはもう私の物ではなくなったわ! 貴方の好きにしていいわよ」

「よく分かりませんが、有り難く頂きます」

「もう私の物ではないのだから、頂くも何もないでしょう。貴方は『誰の物でもない』、『何故か地面に置かれていた』たこ焼きを手に入れただけ」

 

 かぐやの行動の意図が理解出来ないのか、讃岐は拾ったたこ焼きを見てからかぐやに視線を向けて、またたこ焼きを見て、再びかぐやに視線を向けた。

 

「お嬢様」

「な、何よ」

 

 長身を折って顔を近付けた讃岐の顔に浮かんでいたのは、既視感のある生真面目な表情。

 そう、主人を小馬鹿にする時に使う慇懃無礼な無表情。

 

「今のはどういった黒魔術の儀式でございますか? もしやまた私を呪うおつもりで」

「出来るなら今すぐそうしたでしょうね! それにまたって何よ、またって!」

「去年のバレンタインの時も、呪物を送り込みましたよね」

 

 負目のある一件を出されてかぐやは言葉に詰まる。詰まりながら出るのは苦しい言葉ばかり。

 

「あれは……その、渡したのは早坂でしょう?」

「お嬢様方が協力して作成したのは存じ上げております」

 

「まっ、まぁ昔の話よ……」とかぐやは逃げの一手。

 

「とにかく、そのたこ焼きは貴方の物よ」

「承知致しました」

 

 では私はこれで、と去って行く讃岐の背中にかぐやは声を掛ける。

 

「呼び出した私が言うのも何だけれど、良い機会だから貴方も学生らしく文化祭を楽しむといいわ」

「学生らしく、と言われましても私は学生なのですが……」

「そういう意味じゃないわよ。早坂だってなんだかんだで楽しんでるみたいでしょう。貴方も少しは気分転換になるんじゃない?」

 

 生き生きとコスプレ喫茶の仕事をする、もう1人の従者姿を思い浮かべる。かぐやには、何故仕事をするのが楽しいのか分からなかったが。

 讃岐は呆気に取られたように目を瞬かせて、

 

「彼女の楽しみ方は特殊な気もしますが……お心遣いありがとうございます。私も色々見て回る事にします」

「ええ、そうしなさい。秀知院学園が誇る文化祭、きっと捻くれ者の貴方でも楽しめるでしょう」

 

 

 ◯

 

 

 ピークが過ぎ、コスプレ喫茶の客足も落ち着きをみせていた。

 接客を終えた早坂愛に火ノ口みりんが声を掛けた。

 

「お疲れっ! そういえば讃岐君は何で出て行ったの?」

「さぁ? 何だろうねー。急用が出来たとか言ってたけど」

 

 火ノ口は、はぁーと大きくため息を付き「あの男はホントに」と静かな怒りが籠った声で呟いた。

 讃岐は火ノ口の怒りを買ってしまったらしい。途中で抜け出したのだから当たり前ではあるが、それだけではないような気がする。

 何をしたのだろうか? 何かしたのだろうな。早坂は理由もなく納得した。

 

「愛ちゃんもうシフト終わりでしょ? 客も少ないし、少し早いけど行っていいよ」

「え? でも……」

 

「いいから、いいから!」と早坂の背中をグイグイ押して教室を出る。

 

「讃岐君も今日は終わりでいいから。仕事サボったんだし、しっかり埋め合わせさせといて!」

 

 親指を立ててそう言った後、火ノ口はさっさと教室に戻って行った。

 

「埋め合わせ……」

 

 火ノ口の言葉は奇しくも讃岐と同じだった。

 

 

 

「やぁ、早坂さん。待ってたよ。悪いね戻れなくて」

「いえ、大丈夫です。戻って来るとは思っていなかったので」

「そこは信じて欲しいんだけどね。いや、僕の日頃の行いが悪いのは、重々承知しているんだけど。とりあえず座らない? お詫びの品もあるし」

 

 文化祭なだけあって、外のベンチは殆ど埋まっていた。座れるベンチを発見したのは、5分程歩いてからだった。

 

「仕事ばかりでお腹が空いただろう。ちょっとした経緯で手に入れたたこ焼きだよ」

 

 そう言って手渡された品を見て、早坂は固まった。

 たこ焼きはたこ焼きでも、ハート型の容器に入ったたこ焼き。このたこ焼きが、文化祭で数多く出回る奉心伝説の便乗商品の一部であろうことは容易に想像がつくし、当然ながら文化祭でハートを送る意味も理解していた。

 

 なるほど、これが文化祭マジックというやつですか。

 

 早坂は正常な思考能力を失った。

 

「食べないのかい?」

「いえ……」

 

 容器の蓋を開ける。中には6個のたこ焼き。購入してから時間が経っているようで、踊っていたであろう鰹節は元気無く萎びている。

 文化祭でハートを送ると永遠の愛が手に入る、という奉心伝説に準えたジンクスを讃岐は知っているのか。答えはイエスだ。

 では、讃岐がそのジンクスを信じているのか。答えはノー。

 讃岐は単に食品として、たこ焼きを渡しただけに違いない。それなら自分もただたこ焼きを食べればいいのだ。早坂は精神の平穏を取り戻し、たこ焼きを口にした。

 

「どう?」

「文化祭で出すたこ焼きとしては、可もなく不可もなくですね」

「いや、味じゃなくてさ。中に何が入ってた?」

「たこですよ」

 

 それ以外に何があると言うのか。

 

「おっ、アタリだ」

「アタリ?」

「それロシアンたこ焼きでね。1つはたこ、それ以外にはハート型のかまぼこが入っているんだ。お見事、6分の1を引き当てたね」

 

 おめでとう、と讃岐が拍手を送る。ノーマルなたこ焼きを食べただけなので、おめでたさは全く感じない。

 世界一無駄な祝福を他所に、たこ焼きに爪楊枝を刺そうとして、その手が止まる。

 

「…………」

 

 6分の1を引き当てたのであれば、残りのたこ焼きにはハートが入っている。

 チラリと隣の男に顔を向ける。讃岐は「どうかしたのかい?」と不思議そうな表情。

 その普段と微塵も変わらない態度が、早坂にはとっても癪だった。

 別にそういう対象に見られたい訳ではないが、秀知院学園の文化祭において異性にハートを渡しているのだから、少しはそれらしいリアクションがあって然るべきではないだろうか。奉心祭のジンクスを信じていなかったとしても。

 ましてや自分だけ変に意識してしまっているなんて不公平極まりない。早坂は胸の内に煮えたぎる理不尽な怒りを発散する方法がないか、考えを巡らす。

 そして、ある過去の出来事に思い当たった。

 

「光谷君」

「何だい──っ!?」

 

 讃岐は目を丸くした。

 口の中には爪楊枝の刺さったたこ焼き。それを持っているのは当然早坂だった。所謂「あーん」というやつである。

 

「……大胆だね」

「どうですか?」

「たこに比べると、かまぼこは味気ない気がするね」

 

「まぁ、でも」と続ける。

 

「悪くはなかったかな」

 

 早坂の持つ爪楊枝の先端を見詰めながら、讃岐はそう言った。

 

 たこ焼きを食べ終えた早坂と讃岐は、容器を備え付けのゴミ箱に捨てた。

 

「結局残り全部僕が食べたけど、君は食べなくてよかったのかい?」

「はい。その方が精神衛生上良いので」

「へぇ、ダイエットでもしてるの?」

「そんなとこです」

「粉物は太り易いっていうからね」

 

 讃岐は疑う様子もなく、デリカシーに欠ける物言い。

 

「今更だけど、僕は戻った方がいいんじゃないかな? もうシフトの時間は終わってるけど」

「本当に今更ですね。今日は上がりでいいそうですよ」

「お咎め無しとは意外だね」

「しっかり埋め合わせさせといて、だそうです」

 

 言葉の真意を理解した讃岐は「気を遣わせてしまったみたいだね」と納得する。

 早坂と讃岐は対外的には交際関係になっている。その2人に配慮して火ノ口はそう提案したのだ。

 そして讃岐はその配慮を甘んじて受け入れた。

 

「それじゃあ、デートしようか」

 

 

 

 

 校舎内だけでなく、校舎の外にも多くの出店が軒を連ねていた。主に室内だと難しい、火器を扱う飲食物の店が多い。

 出店で買ったおえかいせんべいを片手に歩いていると、突然讃岐が声を上げて足を止めた。射的屋に視線を向けて口角を上げる。

 

「僕、銃の腕にはちょっと自信があるんだよね」

「へー、初耳」

 

 周囲に人が居るので、早坂は学校でのギャル口調に変える。

 

「奈央さんに色々教育された中で、唯一怒られなかったからね」

 

 褒められたからではなく、怒られなかったから自信が付くとは、よく分からない思考回路だ。

 

「僕の腕前を見せてあげるよ!」

「いいけど……」

 

 意気揚々と射的屋へ向かう讃岐を横目に、早坂はせんべいを齧る。

 銃と一口に言っても種類や形状は多岐に渡る。讃岐が奈央にどういう教育を受けたのかは知らないが、いくら四宮家の使用人といえど、日本でそうやすやすと銃をぶっ放したりはしない。使うとすれば精々拳銃くらいのもので、射的で使われるコルク銃とは勝手が異なる。

 そう思ったが、興を削ぐのも躊躇われたので黙っていた。

 射的は1回5発まで撃つことができ、ひな壇に並べられた箱状の的を狙う。的にはそれぞれポイントが付いており、倒した的の合計ポイントに応じた景品を獲得できる。

 1発目の弾を込めた讃岐は店員に質問する。

 

「1番ポイントが高い的はどれかな?」

「最上段の赤い箱です。一気にマックス10ポイント獲得できます!」

 

 ひな壇に並んだ的の中で一際大きい赤い的を店員が示す。ポイント上限の10ポイント獲得できるので、赤い的を倒せば景品を選び放題になる。

 ありがとう、と礼を述べてから、讃岐はコルク銃のレバーを引いて弾を装填した。

 コルク銃は空気の圧力で弾を飛ばしている。弾を込める前にレバーを引いた方が、内部の空気が圧縮され弾の威力が増すのだ。

 両肘をしっかりと台につき、脇を締めて狙いを定める。

 自信があると豪語するだけあって、思いの外要点を抑えている。

 早坂がせんべいをモグモグしながら見守る中、ポンと心地いい音がこだまし1発目が発射される。

 コルク玉は勢いよく飛び出し的の右上の角を掠めた。

 

「もう少し左か」讃岐は淡々と狙いを修正する。狙いは的の角。

 

 2発目。狙っていたポイントからは下に当たった。的は僅かに動いただけだった。

 3発目。的の角に命中。大きく揺れたが、的はギリギリで踏み止まった。

 4発目。再び角に当たる。3発目より当たりが良く、的はくるりと回転して倒れた。

 

「10ポイント獲得です!」

 

 最高点数の的が見事射止められ、店員達から感嘆の声と拍手が送られる。

 

「ま、こんなもんさ! 4発かかってしまったし、褒められる程のことじゃないけどね」

 

 と言いつつ得意げな顔。褒められる程のこと、だと思っているのは間違いない。

 

「すごいねー」

 

 変な自己顕示欲を発揮し始めた讃岐を雑に褒める。

 とはいえ5発以内に最高難易度の的を倒したのだから、早坂が思っていた以上に讃岐の銃の腕前は達者だった。

 上限の10ポイントを獲得したので景品は何でも選べる。これ以上ポイントを獲得する理由は無いが、台の上にはまだ1発のコルク玉が残っている。

 

「私もやっていいー?」

 

 せんべいを食べ終えた早坂が聞いた。「構わないよ」と讃岐は弾を込めて、銃を早坂に手渡した。

 あたかも銃の持ち方が分からないという風を装って、受け取った銃を片手で持つ。残った中で一番大きい──つまり2番目に大きい──的に狙いを定める。

 銃に慣れていない女の子を演じながら狙いを定めて、引き金を引く。

 弾は吸い込まれるように箱の角に直撃。クルクルと回転した後、パタリと箱が倒れた。

 

「わー! すごいです! 1発で倒すなんて!」

「うちもビックリ! ビギナーズラックってやつ?」

 

 店員と話す早坂の後ろで、讃岐は膝を折って地面に手をついていた。それはまさに敗者の姿。

 

「何してんの?」

「完敗だ……」

「別に勝負じゃないでしょ」

「僕は片手打ちで、あんな正確に的は狙えない」

「1番大きいの倒したじゃん」

「4発も使ったけどね……」

 

 軽い気持ちでやってみただけなのだが、ここまで打ちひしがれているのを見ると、悪い事をした気分になる。

 

「ほ、ほら、10ポイントも獲ったんだし、景品選びに行こ!」

 

 讃岐は地面から手を離し立ち上がる。遠い目をして、早坂にだけ聞こえるくらいの小声で呟いた。

 

「君達一族に勝てるなんて、初めから思っていなかったけどね……」

 

 店員が景品の入った段ボールを持って来る。中にはキーホルダーや手作りのお菓子。

 様々な景品の中でも目立っていたのは、手のひらサイズのテディベア。裁縫経験者が作った物なのか、とても出来が良かった。

 同じ感想を讃岐も抱いたようで、

 

「随分良い出来だね、そのテディベア」

「ありがとうございます! うちの裁縫部員の力作なんですよ」

「へぇ、じゃあそれにしようかな」

 

 店員から景品を受け取って早坂と讃岐は射的屋を後にした。

 次はどこに行こうかと出店を見て回る道すがら、讃岐が早坂の方に手を出した。

 

「はい、これ」

 

 早坂は讃岐から渡された物を受け取った。先程射的で手に入れたテディベアだった。

 

「いいの?」

「君が要らないのではなければね」

 

 手のひらに乗った、少し重みのあるクマと目が合う。自然と口元が緩んだ。

 

「じゃあ貰っとくし。ありがとー」

「これも埋め合わせの一部さ。さて、次はどこに行こうか?」

 

 それからも早坂と讃岐は、様々な出店を回り文化祭の1日目を終えたのだった。

 

 

 

 

 文化祭2日目の朝、早坂がかぐやの着替えを手伝っていると、かぐやが口を開いた。

 

「文化祭2日目に仕事ね。体育祭も出られなかったし、あの男はイベント事を楽しめない宿命なのかしら」

「日頃の行いが悪いのでしょう。そういえばかぐや様に伝言を残して行きましたよ」

「どうせ碌な伝言じゃないのでしょう……」

「『捻くれ者の僕でも楽しめる、素晴らしい文化祭でした』と」

 

 かぐやはすぐに言葉を返さなかった。背後で髪を結んでいる早坂には、かぐやがどういう表情をしているのかは分からない。

 

「碌でもない伝言ではなかったみたいね」

 

 讃岐の伝言がかぐやの機嫌を損ねなかったのだと、顔を見なくても容易に想像ができた。

 

 

 

 

 文化祭2日目は事件から始まった。

『秀知院に怪盗現る!!』秀知院新聞の見出しだ。

 朝から号外を出していて、マスメディア部は慌ただしかった。

 記事によれば、犯行推定時刻は未明から朝方にかけて。飾り付けに使われていたハートの風船が、一夜にして失われた。

 昨夜は飾り付けの関係もあって各教室の施錠はされておらず、警備員の巡回はあったものの、校舎の中に忍び込めさえすれば犯行は誰にでも可能であった。

 そしてハートの盗まれた出し物、出店からは「ハートを頂きに上がった」のメッセージと共にArsene(アルセーヌ)と著名が入った犯行声明が残されていた。

 怪盗は盗んだ風船の替わりの風船を置いていっており、金銭目的や害意はないと考えられる。

 よりによって来れない2日目に限って事件が起こるなんて、タイミングが悪いにも程がある。讃岐を捜査に誘いに来た藤原や、情報収集に来た紀かれん、巨瀬エリカから話を聞いて、早坂はそんな風に思った。

 新たな予告状の登場で、怪盗騒ぎは現在も一部の人を虜にしていた。

 

 昼前には「家柄と性格が良くて、今フリーの女子を何人かリストアップして頂戴!」とかぐやから焦った声で連絡があった。

 合コンでもするのかと詳しく尋ねると、どうやら石上優が子安つばめに告白したらしい。だがつばめは告白を断るつもりらしく、かぐやは告白の断り方を相談された。

 かぐやは石上が告白したとは露程にも思わなかったので、その際バッサリいくようアドバイスをした。その後告白したのが石上と発覚。フォローはしたようだが、自分の所為で振られる気配濃厚となった石上の為に相手を探そう、という経緯であった。

 それからまた状況が変わり、石上の件は何とか穏便に済みそうとのことだった。

 

 そして白銀が1年飛び級で、スタンフォード大学に進学するという大事件。それ自体も大事件だが、何よりその宣言を受けてかぐやが告白を決意したのだ。

 校庭で行われる後夜祭のキャンプファイヤー。火矢での点火を終え、それから第3の犯行声明など一悶着あったが、現在かぐやは1人で白銀を探している。白銀探しに1人で挑むかぐやの成長を感じながら、告白が上手くいくように早坂はただ祈った。

 星1つ無い真っ黒な夜空に、色鮮やかなハートが舞ったのを、早坂は校庭から見上げた。

 校舎の時計台を中心に夜空に浮かぶ無数の風船は、怪盗に盗まれた物に違いなかった。

 

「もしかしてさ、あの時計台の上に怪盗居るんじゃない?」

「どゆ事ー?」

「風船があそこに向かうようにキャンプファイヤーの位置とか、風向きとか全部計算してたんじゃない?」

「えー、何の為に?」

「そりゃ、誰かに告る為のシチュ造作りでしょ」

「あはは、それはすごいロマンチックだけどあり得ないよ〜。そんな計算できる人、うちの学校でもトップクラスに頭いい人だけだし、キャンプファイヤーの位置を変更出来る権限持つ人なんて何人いるの? 大体時計台への鍵持ってるの先生か生徒会の人達くらいで──」

 

 早坂は自分の動悸が激しくなるのを自覚した。目の前の少女達が話しているのは全て図星で、その条件に当てはまる人物が2人時計台に居る。

 

「やぁ、メイドさん。一曲どうかな?」

 

 後夜祭のキャンプファイヤーで、ダンスに誘われるのはおかしくない。変なのはここに居る筈のない人物の声がしたから。振り返った早坂は、制服姿の讃岐光谷を認識して目を丸くする。

 

「何故ここに?」

「僕としても結末は見届たかったからね」

 

 勿論仕事は終わらせて来たよ、と讃岐は付け加える。

 讃岐の口振りは、この出来事を予見していたように聞こえる。とすれば、

 

「白銀会長に協力していたんですね」

「お嬢様の方には君がついてるし、白銀君にも誰かついた方がフェアだろう? ミステリー愛好家ってのは、フェアプレーを重んじるんだよ」

「暗号も貴方が?」

「内容だけね。暗号で藤原さんの足止めをする案自体は、白銀が考えたんだ」

「キャンプファイヤーの配置や、犯行声明に難燃性の紙を使ったのも?」

「いや、それは全部白銀君の案だ」

「……光谷君がやったの暗号の内容だけですか?」

「そうだよ」

「よく協力者面ができましたね」

「いや、ほぼプランが固まった状態で相談されたから仕方ないんだよ!」

 

 あたふたと言い訳をする讃岐。最初から相談されていたとしても、謎解きにしか興味を示さない男なので、大したアドバイスが出来るとも思えない。

 

「ですが意外ですね。光谷君が他人の恋愛の結末を見届ける為に、わざわざ蜻蛉返りするなんて」

 

 讃岐は空を見上げる。澄んだ黒い瞳に映るのは、華々しく浮遊するハートではなく、怪しく光る白い月。

 

「そうだね。偉そうな言い方をするなら、白銀君には一目置いているんだ」

 

 讃岐が白銀を人として尊敬できる、と言っていたのを思い出す。大袈裟な物言いは毎度のことなので、本気にはしていなかった。

 

「一般家庭の彼が、日本でも4本の指に入る財閥の令嬢の隣に立とうとするのは、月に手を伸ばすが如き所業だ」

 

 告白の結果がどうであれ、身分が違いすぎる2人が現実的に結ばれるのは難しい。かぐやが古い価値観が支配している四宮の娘であれば尚更。両者の間には、それこそ地上の石ころと天上の月ほど距離がある。

 

「それでも手を伸ばし続けて、そして掴み取ろうとしている。僕には出来ない事だ」

 

 そう言った讃岐の姿が、早坂には朧げに見えた。ピースの欠けたパズルのように全体像が掴めない。

 欠けているのはまだ早坂愛が知らない部分。出会って1年以上経った今でも讃岐光谷には謎が多い。調査はしたし、探りを入れたりもした。共に過ごして分かった事もあった。けれど核心にはまだ遠い。

 

「貴方にもそれくらい切実な目的があったんですか?」

「どうだろう。僕は月だと思っていたけど、実際は水面に映った虚像だったのかもしれない」

 

 偏執的な光が、月を見上げる讃岐の瞳に浮かぶ。月に手を伸ばすほどの執着は、もはや狂気でしかない。けれど、ただそれだけだった。

 傲慢なまでの自信はそこにはない。傲慢は罪であり、罪がなくなるのは良いことなのだが、小さな棘が胸に刺さったような感覚が抜けなかった。何故こんな感覚に陥るのかは分からない。でもその棘が無くなるのを、早坂は強く望んだ。

 

「アホですね」

「あれ? 今の罵倒される流れだっけ?」

「水面に月が映っているのなら、顔を上げればいいだけです。水面に映る月は虚像でも、月が無くなる訳ではないのですから」

 

 そんな簡単な事も分からないからアホなのだと、早坂は伝える。

 讃岐は目を瞬かせて、フッと口から笑い声を漏らした。しばらく声を殺して笑い、

 

「これは一本取られたね。僕はそんな単純な事にも思い当たらなかった! アホと言われても文句は言えないね」

 

 何が面白いのか、讃岐はまだくすくすと笑い続けていた。

 

「君にしてはいやに前向きな意見じゃないか」

「いつもお気楽な誰かさんが側にいるせいですね」

「その誰かさんには感謝しないとね」

 

 誰かさんの調子が元に戻ったので、早坂は再び意識を時計台の上に移す。

 

「上手くいくでしょうか」

「さぁ? いくら手を尽くしたところで、結局決めるのは本人だ。祈るしかできないのが裏方の辛いところだね」

「他人事ですね。貴方も裏方じゃないんですか」

「僕は君ほど、彼らの恋愛事情に入れ込んでないからね。上手くいったら御の字だ」

 

『まもなく閉会式を始めます。皆さま校庭にお集まりください』

 

 文化祭閉幕を告げる校内放送が流れる。

 生徒達は名残惜しそうに、校庭の中心で燃え盛る炎を眺めていた。

 

「さて、人が集まる前に帰らないと。じゃあね早坂さん、ダンスはまた次の機会に!」

「はいはい。ではまた後ほど」

 

 ひらひらと手を振って讃岐は走り去った。遠ざかって行く背中が闇に消えるまで、早坂はその場に佇んでいた。

 

 

 ────

 

 

 文化祭終わりだろうと、四宮家使用人の仕事は変わらない。屋敷に戻った早坂は普段と同じようにメイド服に袖を通した。

 

 学校でもメイド服だったので、普段とは違うかもしれませんね。

 

 そんな事を考えていたからか、机の上のある物に視線が及ぶ。机の上には、讃岐に貰ったテディベアが可愛らしく座っている。

 早坂はテディベアを手に取る。家族以外の誰かに物を貰ったのなんていつぶりだろうか。そう考えると、何とも妙な心持ちになるのだった。

 ふわふわした茶色い毛皮の中、硬い感触が指に伝わった。最初に持った時もぬいぐるみにしては重いと感じた。

 改めてテディベアを観察する。目立たないようにしているが、背中の部分にチャックがあった。

 

「何でしょう?」

 

 疑問に思いながらチャックを下ろす。

 中から出て来たのは、赤いハートだった。恐らく、文化祭で販売されているハートのキーホルダーのハートの部分だけを、テディベアの中に入れたのだろう。

 奉心祭の出店の景品、それも最高得点の景品が、ただのテディベアである筈がなかったのだ。

 

 奉心祭でハートの贈り物をすると、永遠の愛がもたらされる。

 

 聞き飽きた、そして自分には縁の無いと思っていたジンクスが頭に浮かぶ。

 ジンクスに則るならつまり……。

 変な考えを振り払うため、早坂は頭を左右ブンブンに振った。

 そもそも、ハートを送ると永遠の愛がもたらされるというのが良くない。これでは双方の了解も無しに、一方的に永遠の愛が約束されてしまう。愛の押し売りのようなもの。

 そこまで考えて、1日目の自分の行為に思い至る。ハート入りのたこ焼きを渡した。愚かにも「あーん」などという形で。

 

 私もあげたんでした──!! 

 

 どうしてあんな事を。自分の行いを悔やんでも文字通り後の祭り。様々な思考が脳内を駆け巡り、そして早坂は考えるのをやめた。

 何事も無かったかのように、手にしたハートをテディベアの中に戻し、再び机に飾った。

 

 取り敢えず今日は、讃岐と会わないようにしよう。仕事の方針を決めて、自室の扉を開いた。



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