Mercenary Imperial Japan  〜幕府〜 (丸亀導師)
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用語集

 家光百年の計

現実の世界にはありません。確かに台湾に対する領有を画策したものは家光の時代に存在しましたが、家光本人がそれを否定しています。

 

 徳川学校

現実にはありません。今で言う士官学校のようなものだと考えてください。

 

 復国令

現実にはありません。大阪陣での敗残した者たちの中で徳川に近く改易をくらった者たち。または譜代の中で、家督を継げず家臣へと落ちる者たち等に、蝦夷地を与え国を起こさせる。

 

 大学寮

律令制の中での管領育成機関。中身は別物。昔の制度を新たに作り直し、公家、武家、農、商に関わらず優秀とされた者たちを集め、国をより大きくしようとした。ここを出たものは、その代限り士族を名乗れる。

 

 大船建造の令

史実での大船建造の禁の劣化版。幕府の許可なく大型の軍船、商船の建造を行ってはならないという制度。

武器を持たない国内用の内航船は、この令に触れない。

 

 島原の計

島原でポルトガル商人達が武器の横流し、を行って現地の反乱勢力に加担していたもの。しかしながら、数が揃うまもなく直ぐに見つかり国外追放された。

 

 出島

所謂長崎で有名な出島であるが、この世界では防疫拠点であっても貿易拠点ではない。即ち、国内の港へと入港する際必ず入らなければならい。もし、入らない場合は接収される。

 

 第一次遠征軍

オランダへと送った傭兵、としての正規軍。半同盟のような状態であるが、現地の将軍の命令に従いつつも独自の裁量権を認められた部隊。皆教育が行き届いており、基本的な読み書き算術が出来る。

 

 もやし

言わずとしれた野菜。日本には平安時代の書物「本草和名」に「モヤシ」として記載される。

また、南北朝時代には楠木正成によって籠城戦の際に使用されたようである。

 

 明清交替

歴史上に起こった事実であり、この世界でも予定通りに起こった。

 

 救荒作物

代表的な例として薩摩芋がよくあげられる。蕎麦や薩摩芋は、栄養価が低い土壌でも育つので、荒れ地や田が出来ない場所では良く栽培された。なお、薩摩芋はこの時代日本にはまだ広く普及していない。また、薩摩芋は寒さに弱い為に北海道の作付には適さない。やはり、蕎麦または小麦が望ましい。

 

 甜菜

現在の国産の砂糖は基本こいつから取られている。ビーツなどと呼ばれることが多いが、シュガービートから採られている日本名は砂糖大根。

 

 石狩藩

これは歴史上存在しない藩です。北海道を統治する場合、藩の数は東北と同等の量が必要なほど広いため偽造しました。

 

 長平公主

実在した明の最後の直系の血をひく人物。彼女の生涯はあまり知られておらず、その姿はたいへん美しかったようである。

 

 第12回遣欧使節団

信長から数えて、12回目の使節団である。もっとも、こんなの現実には存在しません。

 

 40年戦争

この世界での日明vs清朝鮮の戦争のことを表す。大規模な戦闘が散発的に行われるが、双方共に自然災害等で休憩しながら戦争を行った結果グダグダと長続きした。結局決着は付かなかった。

 

 クニ

小規模な村社会の上位種のようなもの。ある程度のコミュニティであるものの、その人数は決して多いわけではない。代表もフワッとしたものであり、村等が分裂したりして簡単に崩壊することがある。初期の国家体系とでも言える。日本で言うところの弥生時代である。

 

 

 松平長七郎 

史実でも架空の人物。一応、駿河徳川の嫡子という設定。こちらでは実在の人物であり家光の温情のもとに、スペインの真似をして、海外植民地を作ろうと派遣された。

 

 

 手旗櫓、小屋 

実際に大阪へと各地の米相場が手旗信号で送られており、その時間は数十分であったという。

 

 ロシア・ツァーリ ロシア帝国の前進組織。この時点で既に一部商人がアラスカへと到達しているが、まだ完全な統治には至っておらず。結果、日本にユーラシア東端及びアラスカを取られる。

 

 

 

 大日本沿海輿地全図 

1650年代の技術をかき集めたもので作られた。以後30年おきにその時々の技術で測量を行なわれ、次第に精度が向上していく。

 

 崇哀王

架空の人物である。初代明王朝国王

 

 明暦の冷争

所謂、冷戦のようなもの。互いに殺し合うよりは、牽制し合ったほうが良いのでは?という判断があったとか。

 

 東方白書

オランダから見た日清戦争のことが書かれている書物、どちらがより強いか、弱点などが記されている。

 

 鄭氏の乱

当時の明の役人の鄭氏によって、日本軍に対して行われた紛争。

日本軍として、清との戦争のいい準備運動になると思われ、実際にこの後、このときの戦訓を生かして清との戦闘が行われた。

 

 京葉姿学

京都の文化、喋り方等を全国の標準として普及しようとした。もっとも、新しい物の名等の表し用の無いもの等はそのままの名で呼ぼれたりと、もはや京言葉の姿かたちもなくなっていく。この世界の日本語。

 

 国内馬車道

家綱の戦略の一つで、長い間の戦によって物流が弱くなることを懸念して、計画実行された。後にこれを元に、バスや電車等の道が整備されていく

 

 光国の軍制

徳川光国による、日本国の〘備〙と言われた戦闘隊形への一つの答えである。元来各大名によってバラバラだったそれは、槍を完全に廃止し銃と一体化した銃剣を生み出した。 

 

 

 顕微鏡

現実の世界で日本に伝わったのは1750年頃のようだ。

 

 地動説

地動説が日本に入ったのは1606年頃、なんとイエズス会が日本に持ち込んだ。

 

理衆(ことわりのしゅう)

日本国内で存在した物理学者集団という設定。物理学というよりも数学や科学、化学もこの中には入っており、幾つかの集団で分かれていた。

 

 比街の乱

フィリピンはルソン島に存在していた日本人街の商人たちによる、スペインのフィリピン総督府に対する大規模な反乱。このとき、総督府内の多くの役人がスペインへと逃げ帰り、凡そ半数が現地人と日本人に置き換わった。

 

 三藩の乱

現実の世界にも存在しているが、この世界の場合は清によって焚き付けられた労働者階級。特に貧しかった、農民達が中心となって、行われた。まともな武器も戦術も持ち合わせておらず、周囲の街や村から煙たがられた者達は、まともな抵抗もなく敗北した。

 

 武士

この世界での1673年以降の定義。

軍事に特化した者=軍士

警察行動いわゆる町奉行などの治安維持関連=警士

国庫の会計、文官のようなもの達=公士

幕府直轄の学寮の研究者並びに学者たち=学士

道路の保全並びに測量、地図作成=測士

 

 

 平壌の約定

戦争によって溢れた双方の民間人の捕虜を交換する事を記されたもの。

あまりに多いため、互いに捕縛しておく場所もなく。かと言って、放置すれば疫病の原因にもなるため致し方なく制定された。

 

 

 紅島沖海戦

日本 フリゲート5 ジャンクフリゲート2

清 ジャンク4

の規模で起こった海戦。名称の通り、朝鮮半島に存在する紅島近海で勃発した小規模な海戦。

 

 

 黄海海戦

日本 艦艇数60隻

清     72隻

で行われた、黄海で行われた大規模な海戦。

 

 

 東からの衝撃

これまで西洋に日本という国が存在することは解っていたが、その版図はオランダによりひた隠しにされており、それが始めてフランスの手によって世界に流布された。

強大な東アジアの国家の存在に、西洋は警戒を強めていく。

 

 

 北京条約 日清の定め(さだめ)

長きに続いた日清戦争の終結を宣言すると共に、双方の版図の限界線を記されたもの。

また、このとき日本は消費された戦費の1.5倍を清国へと賠償請求を行い、それの支払いには20年を費やした。

 

 樺太人民政府

樺太に存在した(存在しない)自治政府。幕府と清双方の影響を受け、ロシアによって破壊されるまで長きにあいだ、議会によって運営された政府。

 

 日仏同盟

スペイン継承戦争の終結まで続いた、中立同盟。これによって、東南アジアに植民地を保持していた国々は、戦争の力を緩めるほかなくなった。

なお、このとき日本へと送られた

カロリーヌ・オーギュスト・ド・ブルボンは、こちらの歴史では存在しない。

 

 

 神道下日本正教

どうしてもキリスト教から降りたくないカロリーヌ嬢が行った苦肉の策。基本的な部分は神道であり、他の神を否定することなく聖書の内容を絶対的な唯一神から、数多くいる神の中で偉大なる存在としての神とすることで対応した。

 

 地震、富士山の噴火。言わずとしれた宝永噴火と、宝永地震である。

 

 軍士、警士、学士の階級。

要するに現実の世界での基本的な階級区分。

なお、学士においては学者→助教→講師→准教→教授となっている。博士はまだない。

 

 蝦夷光

寒さに強く、少ない水で作ることができる米の品種。なお、虫に弱いため、蝗などが本当に少ない北海道でしか適さない。

 

 エチュベ 

フランスの一般的な蒸し野菜料理。野菜の水分を使用して作られるそれは非常にヘルシーである。

 

 船付勘定方 

 この世界の日本の商船並びに外洋船舶に専任して乗船する船賃並びに船員、係留費用等の諸々を行うもの。この役職は銭勘定では船長よりも高い位を持って、船員の働きに対する差配を行った。

 

 なまこ壁 

平瓦を漆喰などと共に外壁として用いる建設方法。時代劇などに見る網目状の壁の造りがこれにあたり、防火防寒に優れていた。

この世界の建物は2階建てのものが主流であり、長屋ですら木造2階建て、外層に大火用の漆喰を塗られている。

 

 江戸城天守解体 

 城内の不要な建造物の解体と、時節による天守閣の形骸化をと家信は嘆いており、それによって行われた。より政庁としての機能を持たせやすくすることによって国内の情報整理を簡潔に行えるよう、各部署を城内の各所へと配置した。

 

 

 2季戦争

日本とロシアとの間に行われた5月上旬〜11月上旬まで行われた戦争。

 

 ヤクーツク条約

日本とロシアの国境線の確定をこれによって行われた。仲介として、清が間に入りこれにより日清の間も若干修復された。

 

 日土友好条約

日本とオスマントルコとの間に締結された非軍事的な条約。スペイン継承戦争の集結により団結するであろう、欧州を危険視した結果その対立者としてのオスマントルコとの間に行われた。

 

 京都から江戸東京への遷都

幕府にとって朝廷が京にあるのは非常に煩わしく、また天皇からしてみてもっとも繁栄する場所こそ都に相応しく、京の寂れもありこれを気に遷都した。住居はこちらで言う国会議事堂辺りに建てられ、江戸城よりもより強固ななまこ壁を使用した伝統的な寝殿造りとなった。

 

 日仏通商条約

互いの国の商人に対して多額の税を吹っ掛けるような事を無くし

互いの国を対等なものと定めるもの。

 

 燃水

所謂石油、ただし学名よりも石のように黒い油という石油という名前のほうが多く広まっていく。

 

 

 日英茶道

長らく緊張状態が続いている日本と英国の間にあった、一つのお茶という共通点から始まった小規模な貿易関係。

 

 イースタン・パラサイト

ターヘル・アナトミアのような解体解剖学書ではなく、人体の何処へどんな寄生虫が寄生するのか、というものを纏めた書物。

内容は西洋でも称賛されるが、最後の謎多き風邪の仮説の部分に肉眼では判別不可能な、顕微鏡でのみ見つけることのできる小さな寄生生物が、様々な病の元になっているという仮説が大いに笑いものとなった。

 

 

 大日本海洋教室

それまで漁業でしかなかった、魚類の研究を中心に様々な魚類の習性。それからくる、漁獲の仕方。一度の出産数などの研究を行った組織。

 

 

 日本神学会

日本国内に広く存在する様々な神々、失われた神話や伝承を一つの書物へと纏める者たち。

 

 ユリウス・フランソワ・デュプレクス 

元海運業者の男、フランス法服貴族の対日本外交官兼フランス大使。

物心ついた頃から日本を相手に貿易についていた事もあり、アジア各所に対して広い知識を持っていた。日本に着任したのは1720年このとき35歳妻子持ち。



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家光の治世1

西暦1633年寛永10年、徳川家光より全国の大名に対して、ある勅がくだされた。

 

キリシタンに対する弾圧を更に強める事、スペインに対する備えを行う事、そして外洋船舶の建造である。

 

このときの世界は、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス等によるヨーロッパ勢の海外進出が盛んに行われ、そして多くの対立構造を作り出していた時代。

スペインとオランダは長きにわたって行われていた戦争〔80年戦争〕の真っ只中であり、互いに国力をすり減らしていた。

そして、アジアに目を向ければもう各地に欧州の植民地支配構造ができ始めていた頃である。

 

ちょうど同じ頃、東アジアの北東部現在で満州に当たる付近では、後金が勢力の拡大を行い明との対立が激化し戦争へと突入していた頃である。

 

そんな中、一足先に戦乱から抜け出した日本、当時徳川幕府はそれらの国際情勢を鑑み一大決心を行った。

スペインへの事実上の宣戦布告である。何故スペインなのか、それは日本へのキリスト教の強要があまりにも横暴であったこと、キリシタン達を先導して、内乱を画策しているという内部情報が存在していたからだ。1626年には日本国内からのスペイン勢力の一掃が実行されており、後は残党狩りの様相を体していた。

 

そして戦争への前段階として、国内に存在している不満を国外へと逸らすことを重要と捉え、国中に存在する浪人達の職業の斡旋も伴いオランダへと直接交渉を行った。

浪人達の集団を国家として、オランダに派遣しオランダに対する義勇兵という建前の傭兵として現地へと送る。

 

その見返りとして、台湾に存在するオランダの商館。それが現在幕府にかけている関税を撤廃せよ、というものだ。家光百年の計《①》という。

最初オランダはそれを渋っていたのだが、本国での戦況の変化等に左右され渋々それを受諾することになる。

ただし、これにオランダは条件を付ける。

寄せ集めよりも、正規軍を欲したというところだ。

 

 

戦国の世、最後の大規模な戦は1614年に起きた大阪の陣以来、久しく大きな戦が起きていない。1633年での実戦経験のある者たちは、基本的には国外にいたもの達や年老いた者達ばかり。

一見すれば烏合の衆に他ならない。

それをオランダは見透かすように見ていた。

 

しかし、それを見越したかのように、二代目将軍秀忠はある集団を結成していた。

名を徳川学校《➁》

名君ではあるが、関ヶ原、大阪の陣と父親である家康と比較されていた彼、決して軍の才能は良いものとは言えない。それ故に、後の世で軍というものを指揮するものの能力を少しでも底上げしようと、画策したものだ。

これには各国の軍師を招き、大名の軍事能力的な弱体化と〘日本〙としての軍事的な強化とより深い結束を招いた。

 

そして、オランダの提案にニコニコといった顔で了承した幕府。

数年後の第4次ブレダの戦いに参加することとなり、活躍をするがそれはまた別の話。

 

 

家光は1630年代に多くの事を行った。

 

例えば、

蝦夷地沿岸部の主要民族との公益を松前藩抜きに、幕府中心で行いかつて豊臣方で戦い、御家取り潰しになった大名達に新しい土地での開墾を行う、復国令(ふっこくのりょう)《③》

 

様々な学問を習得し、内政、外政、算術等に携わる大学寮《④》の復興

 

武家の規範となる武家諸法度への参勤交代、並びに軍船建造に関わる大船建造の令(おおふねけんぞうのりょう)《⑤》の加筆

 

である。

 

また、朝廷と幕府の冷え込んだ中を取り持つために30万の軍を率いて上洛をし、自らを天皇の臣下と見せることによる天皇の神聖化を行ったのも1634年のことである。

これは、対キリスト教という体を成すために神道をより強く推し進めるという事を、固く決意したという意志の現れであると思われる。

 

また、この頃からポルトガルとの間に深い溝ができ始めており、ポルトガル商人の行き過ぎた態度に腹を立てていたという。

後にポルトガル商人がキリシタンを使い島原で事変を画策していた事が発覚すると、ポルトガル人の入国を完全に遮断した。

これを島原の計《⑥》という。

 

徳川による外征が始まる前には、内部の引き締めがかなりの頻度で行われていたようである。

 

 




①家光百年の計
現実の世界にはありません。確かに台湾に対する領有を画策したものは家光の時代に存在しましたが、家光本人がそれを否定しています。

➁徳川学校
現実にはありません。今で言う士官学校のようなものだと考えてください。

③復国令
現実にはありません。大阪陣での敗残した者たちの中で徳川に近く改易をくらった者たち。または譜代の中で、家督を告げず家臣へと落ちる者たち等に、蝦夷地を与え国を起こさせる。

④大学寮
律令制の中での管領育成機関。中身は別物。昔の制度を新たに作り直し、公家、武家、農、商に関わらず優秀とされた者たちを集め、国をより大きくしようとした。ここを出たものは、その代限り士族を名乗れる。

⑤大船建造の令
史実での大船建造の禁の劣化版。幕府の許可なく大型の軍船、商船の建造を行ってはならないという制度。
武器を持たない国内用の内航船は、この令に触れない。

⑥島原の計
島原でポルトガル商人達が武器の横流し、を行って現地の反乱勢力に加担していたもの。しかしながら、数が揃うまもなく直ぐに見つかり国外追放された。


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家光の治世2

 

1640年代の家光の治世は“激動の時代”と呼ぶのが相応しいだろう。

 

1640年 家光はオランダ商館を出島《①》、に移設しこれによって防疫体勢にの確立に向かっていく。

基本的に防疫に最も適しているものは、孤立し外界から遮断された孤島が好ましく、埋め立て地であった出島はそれに合致した。

 

翌年には、伊豆諸島の利子島、蝦夷最北端の利尻島、対馬にも開設され、日本の防疫最前線と言われる強固な防疫システムを確立する。なお、蝦夷利尻島は最北端なため、非常に名誉な事にそこに派遣される者たちは特別に冠位を制定され、他の者よりも優遇された。

 

この防疫拠点は、長らく日本という国を疫病から守り更には、病の研究拠点として活躍し、蒸気船の発達に伴う貿易速度の発展とともに幕を降ろすのだが、時折発生する海外の疫病にもっとも強く生物兵器の試用地とされ現在も運用されている。

 

 

 

1641年 オランダへの第一次遠征軍《➁》の帰還とそれに伴う凱旋祭りが全国で催された。オランダに渡った者達の総勢は2000、地球半周という長距離の航海は、彼等に航海の厳しさと戦訓を持ち帰ってきた。

勿論、オランダの地で死した者達も降り2割が未帰還となる。

 

しかしながら、不思議なことにこの当時船旅につきものであった壊血病、その症例があまりに記録されておらず当時としてはあまりにもおかしなものである。

同時期の西洋ではこの壊血病によって数多くの船乗りが死しており、オランダ商館にもこの異例さを日記に残している。

 

一説によると航海時もっとも頑丈かつ、塩の影響を受け辛い船内で漢方薬である“もやし《③》”の栽培が行われていた。という、仮説がある。どうしてもやしの栽培を行おうとしたのかは、未だに謎であるが、辛い旅を乗り越える為に新鮮な野菜を振る舞う為にやったのではないか?という、一種の嗜好品として入れられた可能性がある。

 

ともかく世界を半周する大航海の末に、戻ってきた彼等は非常に持て囃された。

 

 

同年東アジア情勢は複雑怪奇なものとなる。明と後金(後の清)との戦闘の激化とともに、明の大敗が伝わってくると家光は危機感を覚えることになる。所謂、明清交替《④》

もしも、明が完全に敗北した場合、清が海を渡ってこちらを攻めてくる危険性を孕んでいたからだ。

 

よってこれにより明朝への支援が始まるが、このときはまだ深入りしておらず、清へと服属する朝鮮への倭寇を行うことが決定された。

 

 

1642年 40年の頃から発生していた飢饉、それに対する救荒作物《⑤》として蕎麦並びに小麦が奨励され、この年は年貢の取り立てを例年よりも少なくするだけでなく、商人からも税をとるようになる。いわゆる所得税、その始まりでもある。もっともこの場合の商人は米問屋等の大問屋のみにかせられ、農民の負担は減った。

 

また、朝鮮内部における南部の貴族達の掌握が大凡1割ほど進捗する。李氏朝鮮の内部の腐敗に対する抵抗として、密かに日本と通じる組織が結成された。 

 

 

1643年 北海道で甜菜《⑥》の栽培が始まる。通常の大根よりも甘く、煮つめ汁を集めそれを固めたものが砂糖になると、誰かよくわからないものが発見した為に、当時の石狩藩《⑦》が中心となって栽培を開始する。

 

この年の飢饉は前年よりも改善されて来てはいるものの、収穫量からくる年貢料の減衰により、年貢米による財政の悪化が懸念される。ここから財源の米本位制から金本位制へのシフトが始まっていく。鉱山開発がより盛んになっていった。

 

また、火薬の製造に関してより効率化するために専門の部門が設立される。硝石の確保を最重要とし、古土法を改め培養法と硝石丘法との両方が、各地で行なわれる。

 

 

1644年 国内の造船業に対して、西洋の技術を取り入れ当時の日本としては画期的な造船システムを開始し、1600年初頭のものよりもより生産性が上がった。

オランダから西洋船造船のノウハウとその技士を輸入し、規範とした。もっとも、その艦船は外見はガレオンのようであるが、帆の形状はジャンク船であり、下部に隔壁構造が存在する所謂折衷船である。

 

なお、内航船と外航船のニ種類の型の船舶の建造はその構造故に全くの別物であり、内航船の船大工と外航船の造船技士棲み分けが行われていく。

 

 

時を同じくして明王朝では李自成による反乱と、彼によって建国された順によって、皇帝である崇禎帝が北京に押し込まれ、南京への逃亡まがいの遷都を拒否。それとともに全てを悟ったか自害を行い、ここに正式な明朝が滅亡する。しかしながら、皇帝の娘である長平公主《⑧》が生き延びる。

 

これには当時、明朝に入り込んだ日本の素破が関与しているとされ、後1653年に長平公主は日本へと亡命し遅まきながら天皇の側室として、迎え入れられる。

生き残った明の優秀な官僚たちを抱き込もうと、南朝へと落ち延びるよう説得し回ったようでもある。

 

 

1645年 第12回遣欧使節団《⑨》、オランダ以外の国との外交目的に秘密裏に派遣される。欧州方面へと派遣されていたが、途中英国艦船と交戦、同年オスマントルコへと漂着する。

 

朝鮮に対して外交的圧力を強め、倭寇の取り締まりをするからと港の割譲要求を提案する。そのかわり清への帰順をやめ、日本へと帰順せよとする。天皇の印及び将軍の印のある書状を李氏朝鮮へと送付。

結果 清国日本へと警告の使節を派遣する。

 

明国の長平公主の供回りとなる戦力大凡200を現在の上海で合流させる。

これによって後の世に起こり得る、清への対抗手段としての正当な明朝を作り出そうという画策が始まる。

 

同じ頃、朝鮮半島南部の掌握率が6割を超える。

 

 

 

1646年 朝鮮を巡る交渉の決裂という題目の元、清国との戦争が始まる。同時に書面上の明国との同盟が確立され、名実共に

 

日・明対清・朝鮮

 

の大規模な戦争が勃発する。

 

開戦劈頭、釜山へと上陸する日本軍を釜山の兵達はたいそう歓迎した。歓迎とは正しく、快く受け入れたという意味だ。彼等は野蛮な清朝に対する不満を持っており、それを払拭するためならばどんな手でも使った。これは日本を利用しようという画策であり、逆に利用されたとも言える。

 

これと時を同じくして、南朝鮮では李氏に対する反乱が発生する。これも、長きに間行われてきた調略の賜であった。

この戦争を日本側から見た40年戦争《⑩》という。

 

 

1647年 日本軍漢城まで到達するも、そこから攻勢を停止する。

河川等の自然物を使用し、永久要塞による要塞線を構築し始める。

河川近辺に点在的に駐屯地を設立し、必要最低限の軍を配置しつつ、現地民の懐柔を開始する。

 

日本、明に対して兵の派遣を提案するもこれを拒否されるも、朝鮮との2つの戦線を継続して清を疲弊させるよう提案される。これを日本側了承する。

 

日本国内、蝦夷地その中でかつて征討されたと言われていた蝦夷、その残党と思われる集団がクニ《⑪》と呼ばれる集団を形成していた。日本に帰順することを約束する。

 

この年北海道全土の略図が完成する。

 

 

1648年 オランダ商館から、80年戦争終結が正式に日本国へと通達される。これにより、日本国はオランダとの貿易により力を入れる。

 

オスマントルコから、遣欧使節団が帰国すると共に国交の樹立を行うために再度遣土使節団を行う。多角的な外交を展開していく。

 

 

1649年 朝鮮、臨津河の戦いで大敗する。

日本軍、臨津河以北への破壊工作。山賊等を懐柔し、村落の襲撃を行い、朝鮮北部の兵站線の破壊を開始する。

 

清軍の本隊10万が臨津河へと進軍するも、兵站線のあまりの脆弱性により進軍進まず、平壌で進軍をとめる。

 

日本国、千島列島への移住を開始編入を開始する。

 

大学寮、土壌と作物の関連性を元に、菜作の理《⑫》という本を発表する。

 




1.出島
所謂長崎で有名な出島であるが、この世界では防疫拠点であっても貿易拠点ではない。即ち、国内の港へと入港する際必ず入らなければならい。もし、入らない場合は接収される。

2.第一次遠征軍
オランダへと送った傭兵、としての正規軍。半同盟のような状態であるが、現地の将軍の命令に従いつつも独自の裁量権を認められた部隊。皆教育が行き届いており、基本的な読み書き算術が出来る。

3.もやし
言わずとしれた野菜。日本には平安時代の書物「本草和名」に「モヤシ」として記載される。
また、南北朝時代には楠木正成によって籠城戦の際に使用されたようである。

4.明清交替
歴史上に起こった事実であり、この世界でも予定通りに起こった。

5.救荒作物
代表的な例として薩摩芋がよくあげられる。蕎麦や薩摩芋は、栄養価が低い土壌でも育つので、荒れ地や田が出来ない場所では良く栽培された。なお、薩摩芋はこの時代日本にはまだ広く普及していない。また、薩摩芋は寒さに弱い為に北海道の作付には適さない。やはり、蕎麦または小麦が望ましい。

6.甜菜
現在の国産の砂糖は基本こいつから取られている。ビーツなどと呼ばれることが多いが、シュガービートから採られている日本名は砂糖大根。

7.石狩藩
これは歴史上存在しない藩です。北海道を統治する場合、藩の数は東北と同等の量が必要なほど広いため偽造しました。

8.長平公主
実在した明の最後の直系の血をひく人物。彼女の生涯はあまり知られておらず、その姿はたいへん美しかったようである。

9.第12回遣欧使節団
信長から数えて、12回目の使節団である。もっとも、こんなの現実には存在しません。

10.40年戦争
この世界での日明vs清朝鮮の戦争のことを表す。大規模な戦闘が散発的に行われるが、双方共に自然災害等で休憩しながら戦争を行った結果グダグダと長続きした。結局決着は付かなかった。

11.クニ
小規模な村社会の上位種のようなもの。ある程度のコミュニティであるものの、その人数は決して多いわけではない。代表もフワッとしたものであり、村等が分裂したりして簡単に崩壊することがある。初期の国家体系とでも言える。日本で言うところの弥生時代である。


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家光の治世3

 

1650年 家光、水戸徳川藩主徳川光国に対して、明国主長平公主の元へ軍を率いて合流するよう命ずる。

光国、自らが推挙する者達を連れて行くよう家光に物申す。家光これを快く受諾。

光国1万を率いて、南京へと入城するも荒廃したその有り様に絶句する。

 

雲南の呉三桂、広東の尚可喜、福建の耿継茂。中華南部の3大勢力、中立を宣言し戦の静観を諮る。幕府これら3つの調略に労力を取られる。

 

幕府軍、朝鮮での河川の防備を固め境界線の街等に奇襲を敢行し焦土とかす。

 

松平長七郎《①》家光の命により新大陸へと家臣及び百数名の領民と共に出港する。

 

 

1651年 家光《➁》、突如として意識を失い倒れる。大学寮の医師、家光に治療を施し一命を取り留める。これを気に、人体に対する理解ある医師を育てるために、年に数度どの解剖とそれらを記録するように制度改革を始める。

 

脚気に対する医学的アプローチが始まる。動物を使用する実験を行う学者が対照実験を行い、脚気の原因が白米の過剰摂取であるという結論を見出す。結果様々な食べ物を共に食べるようにという御触書が、各地へと出される。

 

順の皇帝、李自成。北京を巡る清との戦争に敗北、落ち延び南京へと残党を率いて現れる。長平公主、自らの仇である李自成に対しその所業を許し、明の軍を率いる事を命ずる。自成、感激し公主に対して忠誠を誓う。

 

光国、自成に対しての処遇に公主へと強烈な意見を行うも、公主それに折れる事なし。光国、北京を制した清が南下することを察知し家光へ軍を派遣するよう使者を送る。家光、来年の春までの増援を約束する。

 

 

1652年 江戸〜唐津間、手旗櫓・小屋が完全開設。最盛期には江戸からの伝聞を片道1時間で到達した。《③》

 

南京を巡る戦いが始まる。初戦、明が防衛に成功し、長江北部と南部で中華が完全に分断する。

 

日本、大陸の北部。黒竜江で謎の勢力と清が戦争をしている事を察知する。これを利用しない手はないと考え、接触を計ろうと画策し、一部使節が接触をはたす。

ロシア・ツァーリ(以後 露国)との不可侵条約を締結すると共に、国境線の確定を了承する。《④》

 

南朝鮮半島、検地と測量を行いつつ一部禿山への植林を始める。

 

日本軍光国の元へと凡そ1万の増援を送る。

 

 

 

1653年 南京を巡る戦い熾烈を極める。明、一部で離反の動き出るも首謀者の打首、並びに清の将数名を捕える。

 

公主の命が危険だと判断され、日本国へと移送される。明、それを数年隠す。

 

日本、北朝鮮への兵糧攻めを敢行する。田畑の凡そ1割を刈りばたらきし、徹底的に兵糧を圧迫し国境線付近北部10里は、不毛の地とかす。また、このとき塩を撒いたようである。

 

 

 

1654年 松平長七郎 スクワミッシュ族の族長シアクスと友好関係を宣言し、文化の協調と互いの交配を願い、城塞を建築する。

また、この地を沙港(シアトル)《⑤》 と命名する。

 

家光、大日本沿海輿地全図の編纂を命ずる。《⑥》

 

民間商人、カムチャッカ半島へと上陸し中継基地として利用し始める。

 

ルソン島の日本人居留民がスペイン人居留民の人数を超える。

 

南京を巡る戦い、双方長き戦いに嫌気がさし始める。現地の部隊同士が長江で、自然と見てみぬふりをし散発的な戦のみが行われ始める。

 

朝鮮半島、清軍が撤退を始める。李氏それを止めようとするも、それにいかず事実上の日本軍の勝利となる。

 

 

1655年 明軍将 鄭芝龍。日本軍将光国と対立する。これにより、慎重派光国と、強硬派鄭芝龍によって明国軍が分裂の危機に瀕する。

 

清 南部を半ば諦め征西を本格的に始める。そのため、明への軍の派遣を見送る。

鄭芝龍空きを突き攻勢を結構するも、軍の統率を光国に掌握され明国軍の実質的支配権が日本軍のものであることを知る。

 

 

1656年 家光、厠で脳卒中にて帰らぬ人となる。遺言状にとり、家綱4代目将軍となる。

家光の死に場所偽装され、厠ではなく寝床での死とされる。

家綱、日清戦争の終結の目算と戦費の形状を元に軍の再編を行う。

 

公主、親王との間に嫡子を儲ける。《⑦》

 

 

 




①松平長七郎 史実でも架空の人物。一応、駿河徳川の嫡子という設定。こちらでは実在の人物であり家光の温情のもとに、スペインの真似をして、海外植民地を作ろうと派遣された。

➁家光 この年史実であれば家光は死没している。


③手旗櫓、小屋 実際に大阪へと各地の米相場が手旗信号で送られており、その時間は数十分であったという。

④ロシア・ツァーリ ロシア帝国の前進組織。この時点で既に一部商人がアラスカへと到達しているが、まだ完全な統治には至っておらず。結果、日本にユーラシア東端及びアラスカを取られる。

⑤シアトル 史実のシアトルの場所にある。

⑥大日本沿海輿地全図 1650年代の技術をかき集めたもので作られた。以後30年おきにその時々の技術で測量を行なわれ、次第に精度が向上していく。

⑦明次代王 崇哀王架空の人物である。初代明王朝国王


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家綱の治世1

1657年 家綱、徳川の財政に関して考えを巡らす。そもそもの話、この日清戦争への戦費は非常に高いもので、短期で終わらぬのもその原因であるという所に、家綱は考えた。戦を負けに終わらさず、時期を稼ぐ方法はないものかと。

そして、それは清も同様であることから双方の利は一致した。

4月に共に合意の元に行われたそれは、明暦の冷争《①》といわれる。所謂停戦協定のようなものだ。

 

一方でこの停戦交渉に参加できない国があった。それは、戦争当事国の李氏朝鮮であり明であった。実質的にこの二国はどちらかが一方的に攻められ、バックにある清と日本との戦争に置いていかれている。当事国であるにも関わらずだ。

 

この休戦交渉は、明にも朝鮮にも寝耳に水であり、勿論これに対する反発は大いに存在した。よってこれらの事から必然的に、日本に対する反抗勢力が出来上がり、そしてそれは鄭氏であった。

 

無論のこと、朝鮮の清への反抗勢力も存在していたが影響力の低さからか、清の征西に嫌がらせのように国土の開発を手伝わせる事を行っている。足を引っ張っていると言っていい。

 

また、この年オランダの使節の者たちはこの戦争の事をこう綴っている。

『東の果ての大国の覇権を争うその姿は、滑稽のように見えるがその記された長い歴史の中では、当然の行いである。

 もし、我々がこのことに頭を入れればきっと国が滅びるまで尽くさねばならないのだ。故に我々は静観しなければならない。』

 

東方白書《➁》

 

清と日本の戦いは当時の欧州でも無視できないものとなっていた。

 

 

 

1658年 鄭氏と光国の間の亀裂は深まり、このとき完全に日本と明国鄭氏の間で戦闘が勃発する。

このときの戦いは、所謂〘鄭氏の乱《③》〙と言われる一連の数年間に及ぶ戦いの幕開けとなる。

 

このとき日本側に付いたのは南京中央政府に付いていた大凡の者たちで、鄭氏側に付いたのは福建や広州の役人たちばかりであった。

 

このとき、朝鮮では朝鮮人の日本人化が行われ始める。まず、日本国内だけでも数多ある方言の撤廃から始まる、京葉姿学《④》要するに京言葉の全国への普及を行ったわけである。

 

また、防諜の観点から公文書への仮名文字の導入を行うとともに、数文字である0〜9に至るアラビア数字を取り入れるとともに、それに漢数字を組み入れより計算のしやすいものへと変える試みがなされ始めた。

 

 

1659年 鄭氏と日本の戦いにおいて鄭氏は広州から戦力の大半を、撤退させ福建に立て籠もるようになっていた。

ジワジワと、真綿で首を絞めるかのごとく国外からの食料の調達もままならない状況に、次第に人心も離れていったようである。

 

この年、朝鮮半島で天皇への服属を誓う忠誠の儀が行われた。神道の祭事の長であり、日本国の所謂皇帝の立場である天皇の力を国外へと持ち出し、あまつさえそれを徳川は利用した。

 

 

一方でオランダは、これに対しある種のアクションを取ろうとした。今までは将軍こそが、日本国の王であるという認識をしていたにも関わらず、実はこちらこそが王であるという寝耳に水の出来事に慌てふためいた。

 

つまりは今までは徳川へとしたためた手紙や公式文書が、日本国の王へと届いておらず一臣下へとしたためた手紙になってしまった。ということで、オランダが天皇が存在する日本よりも下の立場となってしまうのだ。

 

このとき、オランダは一つの判断を誤り、本国への通達が一年ほど遅れ、そしてそれが帰ってくるまでの一年間で日本という国がより盤石となり、手のつけようがない国家へとなってしまう。

 

 

1660年 鄭氏の敗走と共に台湾南部へと彼等は逃げ込んだ。これは日本にとっては、鴨が葱を背負ってくるようなものであった。それは、丁度鄭氏が潜んでいる場所はオランダの統治領であり、それを理由に日本は、オランダ領への武力侵攻を開始する。

 

さて、このときオランダの商人たちは鄭氏と蜜月出会ったようであるが、それを知ってか知らずか日本は彼等商人たちを斬殺しつつ前へと進んでいく。

これによって、一時期オランダ領事との関係が悪化するが本国から遥か東の彼方の出来事で、武力の少ないオランダがこれに対して何かできるわけではなかった。

 

この年、国内で初めて大規模な幹線道路の整備が行われ始めた。大凡百年を用いて、全国の平地で馬車道が作られる。国内馬車道《⑤》が建設され始めた。

これは、村や田畑からのより効率の良い運搬によって軍事により貢献出来るようにと、家綱たっての力作であったと言われている。




① 明暦の冷争
所謂、冷戦のようなもの。互いに殺し合うよりは、牽制し合ったほうが良いのでは?という判断があったとか。

➁ 東方白書
オランダから見た日清戦争のことが書かれている書物、どちらがより強いか、弱点などが記されている。

③鄭氏の乱
当時の明の役人の鄭氏によって、日本軍に対して行われた紛争。
日本軍として、清との戦争のいい準備運動になると思われ、実際にこの後、このときの戦訓を生かして清との戦闘が行われた。

④京葉姿学
京都の文化、喋り方等を全国の標準として普及しようとした。もっとも、新しい物の名等の表し用の無いもの等はそのままの名で呼ぼれたりと、もはや京言葉の姿かたちもなくなっていく。この世界の日本語。

⑤国内馬車道
家綱の戦略の一つで、長い間の戦によって物流が弱くなることを懸念して、計画実行された。後にこれを元に、バスや電車等の道が整備されていく。





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家綱の治世2

1661年 家綱はこの年のはじめ頃長きにあいだ明への派兵を行っていた、徳川光国を本国へと帰還させ本国にある軍師等へと、西洋の戦と此度の戦の相違点の洗い出しを命じた。

これは、様々な戦場へと赴いた生きた情報を得て、より軍の力を集中できないものかというものであった。

 

帰国した光国の顔は見るからに疲れたものがあった。一人の将として向こうに派遣されたかと思えば、結局国を運営しなければならず。お飾りの明国の王、公主をたてるように振る舞わなければならない。気疲れは、並の大名の比ではない。

 

この帰国で彼は水戸藩を継ぐことになり、日本国の陸軍の完成形を組み立てた。光国の軍制《①》

 

この年、甲斐国でとある疫病から来る嘆願書が幕府の目付けへと届けられた。

その疫病が媒介している村は酷く腹が膨れ、痩せ細ったものばかりとなり、もはや村として機能するのが不思議なほどに荒れていた。

ここに、蘭方医 漢方医関わらず多くの医者がそれに派遣される。《➁》

 

鄭氏の長である鄭成功、台湾島南部にて日本の追討部隊との交渉にて、日本の軍門に下る。

 

1662年 

明の官僚のその悉くは日本の傘下へと下り明は、帝国としての歴史に幕を下ろし、王国としての歴史を歩み始めた。

このとき、国王は女系とする旨が日本国から提案される。

 

この年、中東等で外交を行っていた使節団が帰国をすると、オランダへの反応が硬化する。これは、オランダが幕府へと行っていた銀や銅の相場が法外なものだと言うことが、知れ渡ったからだ。このとき、オランダ商館は冷や汗を流し打首になるのかと思われたが、一部台湾への利益を奪取することでこれを免れた。これによって台湾は、事実上日本の帰属。直轄領へとなる。

 

 

1663年 幕府は各地の藩へ地図の作成を命令する。決められた単一の方法による検地と、それによる大規模な図への作図。

後の世に、大日本沿海輿地全図と呼ばれる地図の作成が始まった。もっともこれは家光の時代に行われたものの、より精確な図面への書き起こしである。《③》

 

この年に導入された、三角測量法による緻密なそれは向こう百年以上、繰り返された。

 

 

1664年 日本国内にて寛文印知が行われる。これは所謂土地の確定であり、これによって日本各地にあった村どうしの水の取り合いや、藩どうしのいざこざを無くすことに成功する。

また、これを朝鮮にも適応し見事、両班の汚職の実体と確定していなかった土地の所有者が判明し、名実共に朝鮮半島へと大名の配置が行われた。

 

 

1665年 日本国内で顕微鏡を使用した小動物実験が行われた。これは、主に土の中に存在していた未知の小さな虫。茸等に行われ、細胞というものが日本国内で初めてスケッチされた。これは同じ頃のロバート・フックによる著書顕微鏡図譜が刊行される一月前であった。《④》

 

同じ年、オランダから万有引力の法則が伝えられる。噂程度のものではあったが、合点のいった者たちがいたのだろうそれを、彼等は計算で導き出そうとした。またこのとき、同じく地動説が日本国内の天文学者間での主流となった。《⑤》

 

 

 

 

 

 




① 光国の軍制
徳川光国による、日本国の〘備〙と言われた戦闘隊形への一つの答えである。元来各大名によってバラバラだったそれは、槍を完全に廃止し銃と一体化した銃剣を生み出した。

➁ 日本の盆地に多くあった、日本住血吸虫症そのものである。

③ 大日本沿海輿地全図
現実でも年代によって地図が異なっており、同じようなことは行われていたようだ。

④ 顕微鏡
現実の世界で日本に伝わったのは1750年頃のようだ。

⑤ 地動説
地動説が日本に入ったのは1606年頃、なんとイエズス会が日本に持ち込んだ。


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家綱の治世3

仕事の関係上遅くなりました。申しわけありません



1666年 日本と明の間に相互防衛条約である、南京条約が締結され、清との徹底抗戦がこれにより確定した。もっとも、既に戦端を開いて20数年が経過しているがため、もはやそれはあまり意味のないものとなる。

 

それと同時に、日本は東南アジアの方面への力を強め始めた。これは、清が西侵を続けていく中で背後に存在する現在のベトナムやラオスが、此の基に乗じて戦端を開く可能性を秘めていたからである。それ故に、いかにして味方に付けるかを真剣に考え始めていた。

 

1667年 アメリカ西海岸に第二回移民船団が上陸する。これ以降、土地を追われたものや流刑者。大学寮で居場所を無くした者たち等が定期的に往来し、発展を始める。日本の大航海時代である。

 

清の後ろ盾を失った李氏朝鮮が、渡河作戦を行おうとするも南鮮守備隊によって悉く討ち取られる。また、このとき討ち取られた者たちの耳が塩漬けにされ、李氏朝鮮へと送り届けられる。突如として、居城の門前に現れたそれに李氏は恐慌状態に陥ったという。

 

 

1668年 この年は学問の年と言われる。洋の東西に関わらず多くの学者が学寮内で意見の交換を行った。

特に注目を浴びたのは、回転する物体。つまりはコマ等の玩具から、真っ直ぐに直進する矢の特性に関するものだ。

此れ等を、数字に当てはめた。

 

これが、ある種の始まりとなった。天文学だけに留まらず、様々な物理現象に対して、数字で答えを導き出そうとした者達。彼等は理衆(ことわりのしゅう) 《①》と呼ばれる。

 

清との戦は、この後数年間の間大きなものもなく。ただただ、長江を挟んで対立を続けた。

 

 

1669年 フィリピンに存在した日本人街がフィリピン総督府に対して、抗議活動を開始する。比街の変《➁》これによって、フィリピンで行われていた、日本人商人に対する重課税金を禁止に追いやり、逆にフィリピン人の商人は課税がより多くなる。

 

家綱日本国内の大名へ、石高制から徴税制への段階的な変更を始める。一部国内での反乱分子が現れる。

藩と幕府による多重課税によって、国内の割合が多くなるとともに、一部承認による藩との癒着の原因となった。

 

 

1670年 欧州から燐の発見が日本国へと伝えられると、それの製造方法で作り出されるものと、国内にある自然燐が同様のものかという議論と実験が行われる。これによって、自然にあるものを人間が作り出せるということを理解した理衆は、同様に様々なものを作り出そうとする。

神話にある神々の行った事を立証することとなるが、これによってより皇室に対して信仰が増えていく。

 

この年、日本国内で一人の無名の絡繰師が初期の蒸気タービンを使用して、川や澤の遠い村に水を引き貯水池を作り出す。大量の薪を使用するそれは、実用性に乏しいものであったが日本の産業革命の先駆けとなる、偉大な実験であった。

 

 

1671年 明の統治する長江以南の土地で不穏な動きが始まる。反乱の兆しか、はたまた一揆か。ともかく、この出来事で明国内への軍事的なプロセスをより強力なものへとしていった。

 

清国が第一次征西を完了する。 

 

日本国内で、武士の影響力の低下が見られるようになるとともに、幕府自体の政体へ商人が絡んでくる。金を忌避した政治が金を中心とする政体へと、変化をし始める。

金本位制の導入が決まった。

 

 

1672年 明国内の大領三藩内部で大規模な反乱が発生する。三藩の乱《③》

乱の鎮圧後、この乱が清によって行われていたことが発覚すると、日本国内に存在した日本海軍が出撃し、北京の港に対して大規模な襲撃を行う。

 

長江に存在する、日本城式石塁が清によって一部突破され武漢が占領される。

 

 

1673年 日本軍がその保有する戦力の三分の一を中国大陸へと差し向ける。国内での治安は、新しく警察組織である警邏隊が組織され、大まかな武士という存在に軍人として軍士、警士、に分けられることとなる。《④》

 

武漢に対して攻勢を開始し、軽微な損害を出しつつも再占領する。ことここに至って、明と清で国民の相違が現れ始めていた。

また、日本はこのとき既に一つの大きな国としての意識が芽生えていた。

 

 

1674年 各地にて、清国との戦闘が継続的に行われる。

日本領南朝鮮において、日本軍攻勢を開始する。李氏朝鮮、頑強に抵抗を始めるも、数ヶ月のうちに平壌まで前線が後退するが冬季での攻勢が断念される。

 

 

1675年 清軍、北部朝鮮にて日本軍へ攻勢を行う。このとき、日本はすぐに後退し、再び暫定国境へと後退する。

 

戦争での捕虜の取り扱いに対して、日清の間で秘密協定が始まる。捕虜交換を北部朝鮮にて行われるようとする条約が制定される。平壌の約定《➄》

 

 

 

 

 




① 理衆(ことわりのしゅう):日本国内で存在した物理学者集団という設定。物理学というよりも数学や科学、化学もこの中には入っており、幾つかの集団で分かれていた。

➁ 比街の乱:フィリピンはルソン島に存在していた日本人街の商人たちによる、スペインのフィリピン総督府に対する大規模な反乱。このとき、総督府内の多くの役人がスペインへと逃げ帰り、凡そ半数が現地人と日本人に置き換わった。

③ 三藩の乱:現実の世界にも存在しているが、この世界の場合は清によって焚き付けられた労働者階級。特に貧しかった、農民達が中心となって、行われた。まともな武器も戦術も持ち合わせておらず、周囲の街や村から煙たがられた者達は、まともな抵抗もなく敗北した。

④ 武士:この世界での1673年以降の定義。
軍事に特化した者=軍士
警察行動いわゆる町奉行などの治安維持関連=警士
国庫の会計、文官のようなもの達=公士
幕府直轄の学寮の研究者並びに学者たち=学士
道路の保全並びに測量、地図作成=測士


➄ 平壌の約定:戦争によって溢れた双方の民間人の捕虜を交換する事を記されたもの。
あまりに多いため、互いに捕縛しておく場所もなく。かと言って、放置すれば疫病の原因にもなるため致し方なく制定された。




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家綱の治世4

 

1676年 日本国内で、米の増産の為の間伐が始まる。また、同時に森林資源の管理を行うために、国有地というものを設定し違法間伐の厳罰化を行った。

 

国内の人口が1700万人に到達する。 

 

 

清国との戦闘は継続的に行われていたが、やはり長江を渡河することは叶わず、より一層のこと要害が構築されていく。

 

 

1677年 前年に行われた間伐によって出来た、材木などにより艦船の建造が活発に行われる。

これによって後の百年の中でもっとも多い海軍を保有することとなる。

 

この年、清どの間に小規模な海戦 紅島沖海戦〘①〙が起こる。

日本国の制海権を奪取するために、清国が初めて外海へと進出した。

 

 

1678年 日本国海軍人員の増強を謀る。同時に清国、国内への焼き討ちの計画を企図するも、清国の海軍力の急速な増強により、沿岸部への接近が出来なくなる。

同年、オランダ商人が阿片を日本国内へと持ち込もうとし、摘発されオランダ商人の発言権を剥奪するとともに、日本国内での公益が一時禁止にされる。

それと同じくフランスが日本国と接触する。このとき、日本国の天皇をempereur(皇帝)、明国女王をその属国の(reine)と紹介する。

 

 

1679年 樺太への入居が始まる。(1683年の日清中立の定によって日本国への編入見送られる。)

同年、黄海にて日清における一度目の大規模な海戦、黄海海戦が行われる。〘➁〙

 

日本国内へ、パイナップルが初輸入される。琉球藩において、栽培され、特産品となるも後に台湾北部での大量生産が行われることで、琉球藩の産地としての機能が損なわれる。

 

 

1680年 台湾島に海軍城が設置される。これによって、本土、沖縄、台湾の制海権を確立し、清国の海軍を完全に内海へと追い込む作戦へと転換された。

 

家綱、各大名へ戦費の負担額の概算請求を出すように発布する。

 

 

1681年 日本測量隊カムチャッカ半島が半島であることを測量によって見つけ出す。また、その凍土の中で育てることができる、製品作物を探すべく各地へと探索隊が派遣される。

 

千島列島の日本への編入が終わる。蝦夷地、名を北海道へと改められる。

 

 

1682年 フランス国王ルイ14世に対して親書と陶磁器等が日本によって贈呈される。

このとき、日本国の世界地図での位置と一連の支配領域を記した官書が贈られ、日本国の規模がオランダを通らずに始めて世界へと公表される。東からの衝撃〘③〙と言われる。

 

同年、清国黒竜江へとロシアが接近していることを、日本は察知し、清がそれに対して軍を派遣したことを間報によって知る。

 

 

1683年 日本国海軍、清国港湾都市渤海へと進出し一大決戦を仕掛ける。奇襲的な行動と、黒竜江のロシアでいっぱいいっぱいとなっていた清国は、海岸線を疎かににした為にこのとき迎撃が散発的となり、迎撃に出た艦艇の過半数が撃破される大損害を出す。

 

日本はこれと同時に再度、朝鮮、長江の渡河を行う。

これはたまらずと、清国は日本へと講話を持ち出す。四面楚歌の状態の清は、日本へと賠償を払うこととなる。〘北京条約 日清中立の定〙〘④〙

 

 

1684年 日本国国家として樺太を発見、地続きでないとわかると編入しようとするが、清との定によって編入を見送る。このとき、樺太に一時的に国家、樺太人民政府が、樹立する。

なお、このときの国家の名称としては諸説あるものの、概して同様の意味がある。〘⑤〙

 

 

1685年 日本国、明を正式に衛星国として認定する。上下関係として、日本は上位となるものの国防を日本が担うこととなり、税の一部を日本へと払うこととなる。それでも、明として単独で存在したときよりも、財政は安定した。

 

日本、国内で山岳地帯の行き来の為にトンネルの掘削工事が始まる。長い年月がかかる大きな事業への投資に様々な、企業ができ始める。

 

 




① 紅島沖海戦

日本 フリゲート5 ジャンクフリゲート2
清 ジャンク4

の規模で起こった海戦。名称の通り、朝鮮半島に存在する紅島近海で勃発した小規模な海戦。

➁ 黄海海戦

日本 艦艇数60隻

清     72隻

で行われた、黄海で行われた大規模な海戦。
 

③ 東からの衝撃

これまで西洋に日本という国が存在することは解っていたが、その版図はオランダによりひた隠しにされており、それが始めてフランスの手によって世界に流布された。
強大な東アジアの国家の存在に、西洋は警戒を強めていく。


④ 北京条約 日清の(さだめ)
長きに続いた日清戦争の終結を宣言すると共に、双方の版図の限界線を記されたもの。
また、このとき日本は消費された戦費の1.5倍を清国へと賠償請求を行い、それの支払いには20年を費やした。

➄ 樺太人民政府
樺太に存在した(存在しない)自治政府。幕府と清双方の影響を受け、ロシアによって破壊されるまで長きにあいだ、議会によって運営された政府。


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家綱の治世5

大変長らくおまたせしました。
最近、精神的な不安定さもあり執筆が滞っておりました。鬱というものは怖いものであります。


 

1686年 日清両国の戦争が終結したのだが、一つ大きな問題が浮上する。兵士のその後の職業の斡旋だ。

軍士であるがゆえに、それを維持するだけでも莫大な費用がかかる。余剰となった火薬、銃砲等々平時に使い道がないものばかり。

 

それらを、公共事業に振り分けるにも限界がある。ではどうするか、海外に向ければよいのだ。ではどこに?余った土地は、北部にたんまりとある。屯田兵が生まれた。

 

 

1687年 屯田兵となるものの、それでもなお足りない者達は再び欧州派遣軍として、欧州へと旅立った。彼等は、国を離れ再びこの地を踏むことはない者たちも多い。殆どが三男坊や四男坊等の家督を継げない者たちであった。

 

また、この年北米大陸へと更に派遣される者たちがあった。それは、武勲を立てたものの中で志願した者たちだ。彼等は日本の為に忠誠を持って北米へと移住した。

 

 

1688年 日本国内にて、識字率調査が実施された。このときの全国的な国民。士農工商すべてのものを対象としたこれに、大凡6割の人物が、読み書き算盤を行えた。これは世界的に驚異的であり、軍事国家であるゆえの強みとなった。

『高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に戦闘を行う』《①》という戦闘教義があった。

 

同年、欧州で巻き起こった大同盟戦争《➁》において日本はフランス側として参戦。この件によって日本とオランダとの間に、利益目的のパートナーとしての役割を終えることとなる。この頃からオランダとの間には貿易摩擦が置き始めていたのが、原因と言われる。

 

 

1689年 日本が勘察加半島の領有を決め、軍を正式に派兵した。同時に、当時係争していた民族がロシア帝国の将、ウラジーミル・アトラソフと激突する。

質量共に優れていた日本側が有利に進め、この年の8月にはチュクチ半島にまで追い詰める。

 

この年の冬までにアトラソフは降伏するも、日本がロシア帝国を認識し、清との不可侵をいかにきて無きものとし国土の防備をするのかというものに、思考が向き始める。

 

 

1690年 徳川家綱、鷹狩りの最中落馬する。

日本初の脳外科手術、頭蓋骨内の硬膜下血腫の切除、世界初の公式記録に残る全身麻酔による大規模な手術によって一命を取り留めるも、後遺症により左半身に若干の麻痺が残る。

 

将軍職の全うが難しいこととなることが確定したため、将軍を辞職しようとするも叶わず、弟である綱吉が執権として肩を並べることとなる。

 

 

 

1691年 綱吉、家綱の行った改革に生類憐れみの令《③》の追加を行う。

光圀これを見て、綱吉をその豪胆な態度で問い詰めた。『人の上に獣が立つか』綱吉答えて曰く『人も獣の内、故に行き倒れたるものから物を盗むなかれ』

 

オランダ商館長将軍と謁見し、フランス側に傭兵たちが付いたことを抗議する。オランダの独占品目であった磁器等を、フランス

との貿易産物に指定し、オランダの独占が崩れる。

このとき『我々は貴国の植民地をいつでも攻撃する用意はできている。』と言われる。

 

国内のキリシタンの数は最盛期の1%を割り込む。国家神道は、末端まで行き渡り、完全にキリスト教との対決となるもその考えはあくまでも唯一神を否定するだけとなる。

 

 

1692年 家綱、欧州で行われている魔女裁判というものに対して関心を示し、魔女と疑われている者たちを日本国内へと誘導するよう、欧州派遣軍へと打診する。魔女の海渡《④》

 

一方で北アメリカ大陸へと上陸し都市を形成していった者たちは、その人口は5万となっていた。

そして、丁度この頃になるとスペインが中南米から北米へと進出を本格化させていたため、日本との激突は時間の問題となっていた。

 

 

1693年 フランス大使が日本へと到着し、家綱と謁見する。このとき、半身不随の家綱に対してempereur(皇帝)と呼ぶも、家綱自らそれを否定し、日本国大君(Japon Général Roi)と自ら訳した。

 

将軍にも限らず自らを王とする称号にフランスの使節は戸惑う、それもそのはず皇帝がいるのに更に別に王がいる。

更には外交は内政は王が執り行い、皇帝はそれに対して権威を貸すという摩訶不思議な政体、そして軍事行動に至っては皇帝の名の下に行われるというのだから、困惑必至。

 

大同盟戦争のフランス側として、スペイン・ポルトガル両者の植民地に対して大々的に攻撃するよう要請され、それを実施する。

 

勘察加鎮守府の設立

 

 

1694年 家綱次期将軍に綱吉を選出する。また、綱吉の後に実子である竹千代《➄》(後の6代目家信)を将軍とするよう勅令を発す。

この年から家綱の容態は悪化するようであるが、翌年まで持ち堪える。

 

オランダ商館長、フランス施設長との間に軋轢が生ずる。幕府これに対して仲裁し、国内での無礼千万を行わないよう治外法権を認めない旨を強調し、西洋に対して声高々に宣言する。

 

 

1695年 11月頃から家綱意識不明となり、翌12月初頭無くなる。なお、死因としては落馬による後遺症ではなく、後遺症によって衰えていた免疫機能に対して、季節性の風邪による最後の一撃を加えられたものであるようだ。

 

この年、綱吉は直ぐに将軍職につき政治の混乱を治め幕府中央のより強固な地盤を作り出そうと奔走する。

 

 

1696年 家綱の計画した国土強靭化の結果がこの年から出始め、識字率が7割を超えるという国民総文民化が実現する。

これに伴い、朝鮮や台湾等の二等領地の民衆に対して教育が強化されていった。

 

綱吉、飢饉というものに対して学士らへ研究を行うよう発布する。しかし、既に飢饉というものに対してある程度の研究を行っていた、佐野右衛門正隆《⑥》というものから飢饉というものにも種類があること。大まかには、大規模な火山の噴火、冷夏、日照不足が深く関わっていることを聞く。

 

 

 

 

 

 




① 高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に戦闘を行う。
これは要するに、兵を少数の単位によって運営し各々の判断で突撃、防御、撤退の判断をくだせ。というもので、行き当りばったりというよりかは、作戦に対して大まかな戦術を取るから更に細かくは兵士達に任せる。というもの。

② 大同盟戦争 
フランスに対して欧州西側各国が同盟を行って対抗した戦争。
これに対して、日本は欧州に首を突っ込み北アメリカで自由に動きやすいように、スペインと敵対することでフランスの支援を期待した。

③ 生類憐れみの令
悪法とも良法とも言われる、犬とか小動物並びに人の死体に対して酷いことをするなよ?という、法律。これによって日本人は、化け物から人間になったと思われる。それ以前のそれは、実際の光圀のような人間が多かったのであろう。

④ 魔女の海渡
欧州の知識層たる魔女と言われた者たち、またはそういった差別された者たちを、島流しという体で日本国へと連れてきて、自分達に協力させたこと。これによって、日本人との混血が進む。

➄ 竹千代 徳川家信
実際には死んでしまっていた、徳川家綱の息子、嫡男。
この世界では白粉が身体に悪い事が広まり始めており、この頃から上流階級では白粉花で作った7色白粉、中流では白粉花を原料とした物が中心となった。

⑥ 佐野右衛門正隆
一般的な農民として生まれ、その洞察力から学士となった気象学者。統計学的に纏められたそれは、後の時代にまで残されていく。




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綱吉の治世

遅くなり申し訳ありません。


1697年 家綱の治世より2年、綱吉の治世はこの頃から始まった。それまでの2年間、家綱のやり残したものを片付けをするかのごとく、周辺各国との関係改善を行ってきた。

関係の改善というと聞こえは良いが、暴力を背景に力を見せつけた後の東南アジアの属国化が正しいものだろう。

 

それを表すかのごとく、この年ラーンサーン朝〘①〙(以後ラオス)へと使者を遣わした。民を経由して行われたこれは、当初明の使節団であるとラオスでは認識されていたが、全く異なる言語を使用し日本人てあるということが伝わると、ラオス内部で大きな問題へと波及する。

 

当時のラオスでは、王位継承権争いにより国内が分裂していた。そこに彼は目をつけ、割高で軍を派遣した。火薬等はこちら持ちとしながらも、衣食に関してはラオス持ちとしつつ更に料金も採る。悪どいが、実に巧妙であった。

 

また、欧州でのフランス優位という状態から一転フランスが事実上の敗戦という報告が本国にもたらされた時、欧州情勢があまりにも意味のわからないものであった。と、幕府を困らせた。

大同盟戦争の終結〘➁〙

 

 

 

1698年 綱吉はこの年、日本本国の大名達の改易を行った。これは度重なる戦争による、国内の大名の力の増大を防ぐとともに徳川、その後ろ盾となる朝廷へと力を集約するために行われ、大小15の大名がこの年だけでその地位を追われた。

 

勿論、不当なものだと直訴するものもあったが、戦争の際真っ先に戦場から逃亡しようとしたもの等、大名にあらず。と切り捨てられた。保身に走るものほど、このとき処罰されたという。

 

また、この年ラオスにおいサイ・オン・フェが、この国の王となるもこのときの、日本に対する債務は国家予算の8割にまで及び、その返還で国内の情勢はますます逼迫していた。

 

また、このとき既に綱吉は一つ手をうちラオス国内の反乱勢力に旧式となった鉄砲の譲渡をするなどを行い、ラオスの国内は表向きには安定していたが、裏では反政府勢力が跳梁跋扈していた。

 

 

 

1699年 北米大陸との大規模通商路が確立される。また、この頃になるとアメリカンとの混血が進みつつあり、独自の文化形態が確立され始めていた。通商での基本的な物は、バイソンの毛皮やメープルシロップ等が日本に送られ、逆にそれらが日本で生産された銃。または、陶磁器に変わって帰る。

 

この頃になるとスペインとの激突は避けられないものとなっていたようで、度々現地で小規模な小競り合いを引き起こしては、日本側がスペイン居住地へ行っては焼き討ち首狩りを行っていたようである。

 

綱吉はこの年、北米へ更に使節特に宮大工や城等の建築士を送るなど、積極的にこれらに対して取り組んでいた。

日本式の城、この頃はもはや天守など設計にないそれどころか、石垣すら存在しない。〘③〙

 

 

1700年 北米大陸の西海岸で大規模な地震が発生する(カスケード地震)〘④〙この影響により日本本土へも津波が到達し、日本人居留地には甚大な被害があった。

しかしながら、支配層が武士という見栄が必要な階級であったことから、迅速に対応しその後の復興に力を入れた。

 

この地震から、日本では地質学というものが活発になっていく。何故、日本人の住む場所は地震が多いのかその共通点の探索が始まった。

 

北米大陸スペイン人居留地が壊滅、一部生存者は日本に助けを求める。キリスト教の信仰に対して、一部を認めるも特権を許さず多神教たる神道に組み込む形で彼等に信仰の自由と住を認める。

 

 




①ラーンサーン朝 
この頃に実在したラオスの王族、歴史的にはこの後分裂を繰り返して滅亡する。

➁大同盟戦争の終結
戦闘自体はフランス優勢であったが、周囲すべてを敵に回し財政的に厳しくそれによって戦争の継続が困難となった。また、海軍が決して強いというわけでもないため、海外との貿易が非常に立ち行かなくなっていた。

③日本式城
現実では日本の城は戦国終結後建てられていないが、この世界では数々の戦いの中から大砲に対して、石造りの壁や天守が的となり逆に進行を容易にするという結論から、寧ろある種の原始的に巨大な溝と地形を利用した山城のようなものへと退化した。
有事の要塞であり、政務では使用されない。寧ろ、戦闘部隊用の詰め所である。


④カスケード地震 
現実でもこの頃起こった巨大地震。その津波は、日本にまで到達し記録に残っている。現地での記録がないため、日本の記録から導き出されこの地震が発覚した。



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綱吉の治世2

1701年 欧州でスペイン継承戦争が勃発するという報告が入ると、綱吉はいち早く行動を開始した。まず、現在北米でいがみ合っているスペインの勢力、それのさらなる弱体化を予想しより強固に北米への投資を決行する。フランス・スペイン連合vsそれ以外の国々という構図だ。

 

それとは別に戦争そのものへの介入は、中立という立場を取り比較的にフランスとの戦闘へ積極的ではないオランダを介して、いつでも講話のテーブルに座れるよう、フランスにほど近い英国のジャージー島へと仮の領地の租借をオランダの仲介のもと、英国へと打診した。

 

この出来事は、何も政策の転換というものではなく単に目の上のたん瘤であったカムチャッカでのロシアとの激突が原因であった

。この頃、頻繁に日本と小競り合いを起こしてきたロシアが本格的に軍の派遣を検討している。という、噂が流れてきたからだ。

他国にそれも地球の反対側の出来事への関心などほおって起きたくなるほどである。

 

もっとも、フィリピン総督府を手中に収めるよりかは簡単なようだ。流行病が始まり、そこに住む日本人やスペイン人にもそれらは流行り、いっときの間にそれは熱帯地域に瞬く間に広がった。

 

マラリアと呼ばれるこれは古くから世界にあったが、この年は普段よりも酷いものであった。

 

 

 

1702年 ロシアとの国境線確定のためにユーラシア大陸東端の地図の作成が開始される。

 

ロシアとの戦闘、雪原の血事件が起こる。〘①〙

 

北夷征討軍の派遣が行われる。北夷征討将軍に上杉が任命される。

 

前年に取り潰しとなった、赤穂藩の浪人たちによる吉良上野介に対する夜襲、赤穂の浪人事件が起こる。〘②〙

 

 

1703年 江戸にて大地震が発生する。これによって、都市型要塞から脱却し、経済都市として再建が始まる。

 

ロシアとの間に存在する山脈を天然要塞とするように計画がなされ、それとともに沿岸部への浸透を開始する。周辺の部族等との関係を良好とし、ロシア人に対する嘘や噂を流布を始める。

 

竹千代元服し家信と名を改める。

綱吉、家信への将軍位の譲位を進めようとするも家信により数年間の猶予を与えるよう、嘆願される。

 

初の穢多出身の学士によって雷酸水銀の化合が行われる。

 

家信、新型の銃と真鍮製の中入式早合を開発する。〘③〙

 

1704年 綱吉病に倒れる。荒れ狂う姿から、狂犬病への感染が疑われる。なお、これに対して奇跡的な生還を果たす。

小動物に対して異様な程の警戒を持つようになり、後遺症として半身不随となってしまう。

 

家信への譲位を今度こそと、家信へと伝えると自らは病人であるため、政務から身を引く。

 

この年、綱吉へと木製の車椅子〘④〙が家信から送られる。また、屋敷等へ緩やかな坂のある玄関を家信将軍自ら設計し、綱吉に驚嘆される。

 

綱吉、犬に自らの車椅子を引かせる構造を作らせ犬馬車様と呼ばれる。

 

 




①  雪原の血事件
日本人居留地に対してロシア側が突如として行った襲撃。駐在していた武士、並びに屯田兵が迎撃に参加し防衛に成功するが、双方に多くの犠牲者が出た。

②  赤穂の浪人事件
世に有名な忠臣蔵。こっちでは見事に失敗するが、これによって、吉良上野介に対して厳罰が下され、官位並びに武家としての格を失う。

③  新式銃 真鍮製中入れ早合
隔螺式のボルトを持った後装パーカッション式と初期の真鍮製薬莢である。後装銃として未熟であり、耐久性としては200発が限界であるが、元々ライフリングが刻まれており球形弾を使用するため、それ程の持続性はない。ミニエー弾の登場によってその力は発揮される。

真鍮製薬莢は、薬莢としては側だけで後部は油和紙が糊付けされている。ボルトが押し込まれ回転する際に、先端部の導火筒がそれを突き破って火薬に火が到達し発火する。
使用後は膨張の度合いによって基本的には再利用される。

④ 綱吉の車椅子
なんの変哲もない車椅子、ただこの時代存在し得ないもの。よって世界で初めて作られた。


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家信の治世

遅くなって申し訳ない。



 

1705年 徳川家信は徳川幕府、ひいては日本国の外交という観点において重大な決断をこの年行った。

この頃の日本という国は世界的に見て、孤立していたと言っても過言ではない。東アジアでは清と対立し正式な国交もなく、互いに互いを牽制しあい。明に至っては属国化し、南鮮は完全に自国へと編入した。

 

東南アジアでは対等な貿易関係のある国は、もはやオランダやスペインの植民地しかなく、その殆どの国は格下となっていた。

更に言えばオランダの海上交通は既に日本のテリトリーと言っても過言ではなく、スペインに至っては没落傾向がある。

 

インドに至っては多くの国に分裂し、どこもかしこも日本との対等な同盟などできる状況ではなし、まともな貿易相手国になる者たちは東にある国を見下している。

 

故に日本は宿敵を欲した。ロシア等はあまりにも本国が遠いことが判明しているがため、まともに取り合う相手ではない。では、どこが良いか?味方は遠方の方が良い、領土的な軋轢のない国で力もある。更には相手国の周辺は敵だらけフランスはそれにうってつけであった。

 

フランスにとってもこれは幸いで、もし日本がフランスと同盟を結ぶのならば、オランダの貿易が完全に終わってしまう。そのため、オランダは戦争から早期に退場する他なくなる。

 

 

同年、日本はラオス北部に武力侵攻を開始する。建前上は内戦からの自国民の保護であったが、実体としては完全な領土拡張を目指しての事だ。家信の政権では拡張後、その領土の民衆に対して日本人化。つまりは同化政策をより積極的に行い、完全に独立の野心を根絶やしにするという計画が行われた。

 

欧米の植民地主義と違う点があるとすれば、絶対に内部での分断政策を行わなかったところであろう。全ての恨みを買う、腹を括って統治する。

 

また、この年ベトナム国内で内乱となりそこへ傭兵団を派遣する。

 

北米大陸派遣団、シアトル近郊を国際上の日本国保有地であると宣言するとともに、日本国徳川幕府に対して一部の自治権。税金等の取り扱いに関して、意見書を送付する。

 

 

 

1706年 かねてよりの計画の元この年、日本とフランスの間で同盟が結ばれる。《①》

フランス王族カロリーヌ・オーギュスト・ド・ブルボンが、家信の側室として、日本へと渡航を命じられる。

 

同じく徳川家の親族から一人、嫁いでいくがこのとき徳川としてはしてやったり。という感情が多数をしめていたであろう。

方や王族、方や形式上でも皇帝の家臣。それが同列として迎え入れるということは、日本がフランスよりも『上』である。と、日本国の内情に詳しいものは捉えるだろう。そう、幕府はあくまでも、朝廷の下部組織であって国のもっとも大きな権威を保持しているというわけではない。

 

 

日本、シアトルの自治権を認めるも『大日本帝国』という枠組みに留まるよう命令書を送る。また、独立した軍の保有を認めつつも本国の命令無く勝手な戦闘を、防衛のみに限定する。

 

 

 

 

1707年 フランスよりカロリーヌ嬢が日本は江戸へと到着する。

カロリーヌ嬢へキリスト教から神道への改宗を行うように、このとき幕府迫る。

カロリーヌ嬢これを受けて、神道下日本正教《②》と改め信仰の許可を求めてこれを許諾される。

 

第一回大日本帝国共同宣言、日本本土・シアトル・明において発布される。これにより大日本帝国という、天皇を最上位とする強制力のある連邦国家が形成される。

 

江戸にて地震が発生する。

年末、富士山が噴火する。《③》町民や一般市民による天変地異の起こりは、家信の統治に問題があるのではないかという声を受け、学士達この自然現象に対する見解を、全国的に展開しそれを否定する。

 

 

1708年 家信とカロリーヌの間に長子である初姫が産まれる。

日本、オランダに対して最後通牒を突きつける。オランダこれに対して、対フランス戦に対して戦争の継続を不可能と断定し、スペイン継承戦争より脱落を宣言する。

 

アウデナールデの戦いにおける戦闘に、対仏同盟は兵站に苦慮するところによって不戦敗へと終わる。

 

9月オゼロ・チストエ湖畔の戦い

 

日:3200

露:1300

 

損害

日:130

露:620

 

日本軍による夜襲によって露軍野営地は焼き討ちされ、物資を完全に破壊された露軍は散り散りとなった。

 

 

 

1709年 家信とカロリーヌに第二子、春姫が産まれる。

男児が産まれぬことを憂い、家信側室を娶る。カロリーヌそれに憤慨し、皇族へそれを直訴するも文化の違い。郷に入っては郷に従えと、嗜める。

 

学士である新井白石を学士長と家信定める。

軍士において、階級を16階級と正式に定める。

警士において、階級を10階級と正式に定める。

学士において、階級を5階級と正式に定める。

《④》

 

新米・蝦夷光が初の収穫を迎える《➄》

 

反射炉が各地に建造される。

 

 

 

1710年 家信と側室の八代姫の間に待望の男児が産まれる。

 

新井白石等によって、寄生虫であるサナダムシの感染経路が発見される。これによって、人糞肥料に対して加熱処理を行うよう厳命がくだされる。

 

 

チェロムジャ川の戦い

 

日:4200

露:1200

 

損害

日:32

露:920

 

 

 




① 日仏同盟

スペイン継承戦争の終結まで続いた、中立同盟。これによって、東南アジアに植民地を保持していた国々は、戦争の力を緩めるほかなくなった。

なお、このとき日本へと送られた
カロリーヌ・オーギュスト・ド・ブルボンは、こちらの歴史では存在しない。


②神道下日本正教
どうしてもキリスト教から降りたくないカロリーヌ嬢が行った苦肉の策。基本的な部分は神道であり、他の神を否定することなく聖書の内容を絶対的な唯一神から、数多くいる神の中で偉大なる存在としての神とすることで対応した。

③地震、富士山の噴火。言わずとしれた宝永噴火と、宝永地震である。

④軍士、警士、学士の階級。
要するに現実の世界での基本的な階級区分。
なお、学士においては学者→助教→講師→准教→教授となっている。博士はまだない。

➄蝦夷光
寒さに強く、少ない水で作ることができる米の品種。なお、虫に弱いため、蝗などが本当に少ない北海道でしか適さない。



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次回はカロリーヌ視点でお送りします。


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〜異邦の目〜 カロリーヌ

 

 

1711年

 

ジリジリと陽射しが肌をやき私の白い顔を紅く焼き付ける。ムシムシとした湿気は、祖国とはまるでエチュベ《①》のように私の身体を内側から、煮ていってしまうようだった。食事も肉は鳥ばかり、豚肉や牛の肉はもうどれほど口にしていないだろうか、魚の肉を食べることに慣れては来たが。

 

この国に来て早くも5年、私は18になり長女もそろそろ人の区別がつく頃になった頃だろう。仕切りにこちらの言葉で母上様と呼ばれることに、私もやっと慣れてきた。一緒についてきた侍女達もこちらの暮らしになれたようで、正直に嬉しい。

 

私の生まれ育った国フランス。私の家だけかもしれないが、母とあまり話をした記憶がなく、共に朝の食事をした記憶すらない。どこかに行くことも、遊ぶことも無かった。だが、この国では母親が子供と共に居ることこそ良きことなのだろう。

 

実際にして、子供たちの遊ぶ姿というものは見ていて悪いものではないし、何より気晴らしになる。

 

小さい頃乳母から良く聞かされていた、『貴族の恋模様』もこの国では無いに等しい。まず、将軍の妃である私に声をかけるものなど無いに等しい。それどころか、私はここに来て自由に外に出掛けることも出来ていない。『かごの中の鳥』という表現がしっくり来るだろう。

 

あぁ、外に出てこの国を旅して回りたい。きっと、私が見たことも聞いたこともないものが、多く存在しているはずなのに。

 

 

私がこの国に来たのは、追い詰められた祖国をなんとか体をなすように、体外政策の一環としての政略結婚だった。

父は国父、ルイ14世の息子の一人として王族としてこれを計画し、貴族として王族として私をこの国に送り出した。

私は、国と国を結ぶための道具。

それは古今東西例外のない、女という政治の道具だったというだけだ。

 

私の教育を行っていた先生曰く、この国は東の大国。神すら恐れることを知らない人々の気性は荒く、獰猛でなお且つ死を恐れない、悪魔のような国。

隣国と100万という、桁違いの国家どうしの軍隊の衝突を経験しそれでもなお、国家が疲弊しない国。

 

それが、私達の国でのこの国の印象。もっとも、この多くが創れたものだというのを私は、教育によって知っている。

ただ獰猛なだけでは、あのような白い磁器を作ることはできないし。

 

同盟国にあるにも関わらず、故郷の国民は彼等を嫌う。宗教の妥協が受け入れられずに。にも関わらず、この国は私達の国に軍を派遣しその見返りとして、金銭を貰う。何方のほうが寛容であろうか。

 

 

 

私が初めてこの国に来たとき、長き船旅の中で彼等は定期的に生野菜?の類である、というのが解る得体のしれないヒョロヒョロとした、ものを食べさせられた。

船員一人一人に分けられていたようで、乳母や先生たちの言う危険で汚らしい船旅とはまるで違った。

 

基本的に彼等は身なりを清潔に保つために、毎日身体を洗っていた。私が乗船しているからか、はたまたそれこそがこの国の根幹なのか?それとも、宗教の違いというものなのだろうか?と、そのときの私は思っていた。結論を言えば、この国の置かれた気候に起因した。

 

更に船内の物資が無くなると、基本的には航路上の都市へと寄港して取引を行うのだが、このときに『船付勘定方』《②》と呼ばれる者が差配するのだが、これがまたすごい速さで計算をするものだから大概2日で港を出る。それでも、航海でかかった日数は一月。

英国からの妨害にあいながらも彼等は私を、無事に送り届けた。

 

 

 

この国に到着して、最初に目に入ったものは街並みだった。海運栄える港湾都市、特徴的な黒ます白地の壁の独特な重厚感のある建物たち。なまこ壁《③》とかいうそれは石造りのそれとはまた違った美しさが見えた。

 

建物は高層のものが殆どなく、一階はなまこ壁を使用して二階部分は漆喰を中心に建てられていた。中には木枠に硝子を凝らしたものまであり、文明の高さが見られた。

 

それでも本土への上陸に一週間、出島にて待機を言い渡された。病気を持ってきていないか、隔離して身体検査を徹底するためだそうだった。

 

そうした中、私は上陸した。その時の彼らは私に対して大いに歓迎の軍によるパレードを街中が執り行っていた。後で知ったことなのだけど、実際はパレードだけで街のそれは単に便乗して祭りを開いていただけであったそうだ。

 

 

 

寒暖差はフランス以上、夏はジメジメとし冬はカサカサとしてとてもではないが最初の年は、体を壊した。それでも、次第に慣れていくと私の夫である家信様は、私と寝屋を共にした。

 

彼は、私のことを最初奇妙なものだとおっしゃってその目で色々とその、色々と観察された。その後、私が身籠るとそれを日記というか観察誌のようなものに事細かに書き記し、その時の私の身体の採寸すら行う。非常に厄介な趣味を持っていた。

 

それどころか、私が子供を産んだあと子供に非常に興味を持って、子供が娘であるにも関わらず溺愛している。

私には男の子を産むことが求められていたのに、私にはなんのことも言わずに男の子を産めない私のことを、まだ愛してくれている。

 

この国には側室という制度がある。フランスには勿論無い。自由恋愛の禁止された貴族間では、不倫が横行していたからどちらがより健全であるだろうかは、私が述べられることではない。

 

側室へも私と同様に接しているのだから、女たらしとでも言えるのかもしれない。だけれども、女よりも銃の方が彼は興味が惹かれるらしく、いつもいつも火薬を比率を変えつつ調合したりして、自分の作ったマスケットで的を撃っている。

 

子どもたちがこんな人に育たないよう神に祈るばかりだ。

 

神といえば、この国には私のようなクリスチャンは殆どいない。この国は私達の神とは対立?ているから、というのは聞いたことがある。この国の規範に則って私は神に祈ることを許された。他の者たちもどうか、と頼んでみれば私のものに改宗するならばというところで、私のもとにこの国のクリスチャン達が集められた。

 

彼等多神教の中に私達の神を組み込むという荒業、そんなことをして神はお許しになるだろうか?民のためならば致し方無いと、思ってくれるだろうか?

子どもたちはそんな事知りもせず、私達の神を知らない。どうか、子どもたちの未来に幸あらんことを。

 

 

 




①エチュベ フランスの一般的な蒸し野菜料理。野菜の水分を使用して作られるそれは非常にヘルシーである。

②船付勘定方  この世界の日本の商船並びに外洋船舶に専任して乗船する船賃並びに船員、係留費用等の諸々を行うもの。この役職は銭勘定では船長よりも高い位を持って、船員の働きに対する差配を行った。

③なまこ壁 平瓦を漆喰などと共に外壁として用いる建設方法。時代劇などに見る網目状の壁の造りがこれにあたり、防火防寒に優れていた。
この世界の建物は2階建てのものが主流であり、長屋ですら木造2階建て、外層に大火用の漆喰を塗られている。



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家信の治世2

1711年 夏の祭りに使用されなかった火薬の消費を行うため、花火が催される花火士並びに火薬士として鍵屋が、政庁から独立し花火屋・火薬屋として日本初の株式会社が設立される。

 

オスマン帝国への特使より、プルト条約締結が知らされる。また、ロシア軍の極東への派兵が予想されたため、幕府は北方将軍へ軍備の増強を送る。

 

江戸城天守閣解体《①》、並びに江戸御殿の設計が始まる。

 

学士より地中内における極小生物と茸類の菌類という区分が発表される。

 

 

 

1712年 ロシア軍ヤクーツクへと到着する。それを受け日本軍透破部隊ヤクーツク周辺の農村へと焦土作戦を決行する。これにより、周辺の複数の開拓村が相次いで壊滅状態となる。これを重く見たロシアは、日本へと通告を行うも日本はこれを無視する。

同年 ロシア軍は南下を開始し、日本人居留地に対して大規模な襲撃を行う。ここに2季戦争勃発する《②》

 

家信、対露のために交渉団を北方軍へと派遣を決定する。

 

戦時による米価の高騰が始まる。トウモロコシ、日本国内の市場経済に経済作物として姿を表し始める。

 

家信、ピョートル1世と和解。ヤクーツク条約《③》が締結される。以後、レナ川以東を日本国領土以西をロシア領土と確定される。

なお、樺太に関してはロシアの不凍港への夢からか共同参画地域として日露の共同運営が行われる。

 

またこれに対して清国を合わせた三国により、共同署名がなされる。

 

 

1713年 日本国スペイン継承戦争における条約の仲介として、フランスよりの要請を受諾する。

 

武家諸法度並びにそれぞれの法度を現状変更をしやすいよう、日本国内法の制定を行われる。またこれを、17条の憲法になぞらえて日本帝国憲法と定める。

また、これらの法を取りまとめる為に学士達による立法機関である、参議の間が開かれる。

 

ベトナム莫朝の貸与金変換不履行により、莫朝の政府官邸並びに採掘利権等を差し押さえる。また、内政への干渉を一層強める。

 

 

1714年 日本国仲介によるスペイン継承戦争の集結。なお、これにより弱体化したスペインに変わり事実上フィリピンを日本が実効支配する。

 

日本、オスマン帝国との間に日土友好条約〘④〙を結ぶ。

 

日本、ロシアを通じてロシアと戦争中のスウェーデン=ノルウェーとの初の接触。また、ロシア、スウェーデン双方の依頼により交渉の仲介を行う。

 

 

1715年 江戸御殿の建設が終了する。

中御門天皇、江戸へと都を遷都することを幕府へと了承を得る。

 

都が京から江戸へと遷都する。これにより、京は京都となり江戸は東京へと改名される。〘⑤〙

 

大日本沿海輿地全図の更新が行われる。

 

 




①江戸城天守解体 
 城内の不要な建造物の解体と、時節による天守閣の形骸化をと家信は嘆いており、それによって行われた。より政庁としての機能を持たせやすくすることによって国内の情報整理を簡潔に行えるよう、各部署を城内の各所へと配置した。


②2季戦争
日本とロシアとの間に行われた5月上旬〜11月上旬まで行われた戦争。

③ヤクーツク条約
日本とロシアの国境線の確定をこれによって行われた。仲介として、清が間に入りこれにより日清の間も若干修復された。

④日土友好条約
日本とオスマントルコとの間に締結された非軍事的な条約。スペイン継承戦争の集結により団結するであろう、欧州を危険視した結果その対立者としてのオスマントルコとの間に行われた。

⑤京都から江戸東京への遷都
幕府にとって朝廷が京にあるのは非常に煩わしく、また天皇からしてみてもっとも繁栄する場所こそ都に相応しく、京の寂れもありこれを気に遷都した。住居はこちらで言う国会議事堂辺りに建てられ、江戸城よりもより強固ななまこ壁を使用した伝統的な寝殿造りとなった。



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2季戦争

1712年6月7日 その出来て間もない街に大勢の人影が現れた。彼等は紅と青からなる服を着ており、街の人々は彼等を歓迎した。彼等の肩には一様にマスケットが掛けられており、その後ろからは馬にサーベルを携えた騎兵がいた。更にはその後ろには野砲を引く馬群がおり、これこそ正にロシア正規軍である。

 

彼等が派遣された場所はヤクーツク、要塞をぐるりと囲むように造られた貿易の街だ。

人口は多いとは言い難く、多く見積もっても2万が良いところだろう。

 

そんなところに、ロシア軍は1万もの人数が派遣された。これは、この都市の防衛のために送られたものではない。れっきとした戦争のためだ。

彼等は極東に存在する、ある蛮族の集団によって奪われたかつて存在していた居留地を取り戻すべく、遥々サンクトペテルブルクから、河を遡って来たのだ。

 

たかだか二万の街に彼等を食わすだけの食べ物があるのか?いや、無い。だが、彼等はそれを気にすることなどない。戦争をしているからだ。

この時代、補給線という概念自体が根付いていない一部の天才達くらいしか気にも止めないようなもの。

ならば、どうして彼等は気にもとめないのか。それは、攻撃する側は、敵より略奪することができるからだ。

 

敵地までの分さえあれば、後は敵地の村々を焼き払い馬や牛は屠殺して食い物とし、女は嬲り犯し。子供は、売りに出せば良い。さもなくば野垂れ死にさせ、獣が寄ってくるための疑似餌とすれば食い物に事欠くことはない。

 

しかしそれは、攻めているときのみに適応される。このとき、彼等は思い違いをしていた。自分達は決して守る側ではないと。

 

 

6月10日ごろ彼等はある事を知らされた。ヤクーツク周辺の開拓村が何者かにより襲撃され、村は焼き払われ略奪され。男・女問わず、皆殺しにされたという。少なくない数がヤクーツクへと逃げ込み、それを知らされた。

 

普通こういう場合、無理に動き出してはならない。小規模な村が野盗に襲われるのは珍しい事ではない。しかし、今回はそうでもない。野盗とは思えない、マスケット銃で武装した集団が火薬を用いて、破壊の限りを尽くしたというものだ。この時期の国というものは基本的に感情的な部分がある。

 

特に今回の場合、完全にロシアをコケにしたようなものであるから、いかに冷静な司令官といえど民衆はこれに怒りをあらわにする。そうなったら戦わないという選択はできない。直ぐに出立の準備が始まる。

 

だが、このときロシア軍は少しこの土地を甘く見ていた。起伏と針葉樹林のこの土地に野砲等という重量火器を持っていたらどうなるか。この季節、道を行く以外に進む道はない、一度森に入れば泥地帯と草原の区別はなく、最悪野砲は泥濘にはまり隊列から落後する。

 

結果、彼等は道なき森を抜けるという選択肢が取れず、一つの塊となって動くことしかできない。これでは、散開し戦列歩兵としての戦闘は難しく一度襲撃があればたちまち、餌食となるだろう。

そして、それは案の定であった。

 

6月26日彼等は、ヤクーツクより南東に約100キロ程離れた場所にあるアムガという町への道中に野営した。寝ずの番を立て、少なくない人数での野営は非常に疲労が貯まるもの。夜間まだ寒さに震えながらも、その日の夜は過ぎていった。

 

朝日が昇る数刻ほど前のこと、静寂に包まれていた森の中に突如として〘ピー〙という音が鳴り響く。それとともに、射撃音が森の中を駆け巡りヒュルヒュルとなにかが野営地の上空十米程で炸裂した。

眩い閃光と共に、何かの破片が彼らに降り注ぐと、それによって体中穴だらけになったりするものもいる。

 

数十回それが炸裂した後は直ぐに静かな森が後には残る。そして、その後には数百人の惨たらしい負傷兵が残っている。

そして、それは次の日もそのまた次の日も行われた。黙って指をくわえる訳もなく、周囲をくまなく探そうともその存在したはずの敵の姿は無かった。

 

ロシアの将軍は、考えた。確実に敵はマスケット以上小型野砲並の火力のあるものを保持している。にも関わらず、奴等のいたであろう場所には、車輪跡がなく馬の蹄の跡もない。あったのは、不自然な窪みと丸いなにか四足歩行の生き物の痕跡だけだ。

 

 

さて、ここまで来て日本軍がどういった編成でことに当たっていたかといえば。単純に少数による不規則な襲撃、それも機動性が無ければ直ぐに接近を許してしまうことから、騎馬であるということ。更に、少数なら火力が足りない、ならば火砲が必要となる。そう、彼等の編成は騎馬砲兵。もっと言えば騎馬小砲兵、ハンドキャノンのような花火筒それを地面に突き刺し、3号玉を500メートル程の距離で撃って逃げる。そんな、兵科だ。

 

そんな彼等が神出鬼没に現れ、夜間。ロシア軍を眠りにつかせない、そしてそれに痺れを切らさせるためにワザワザ足跡を残し、痕跡を辿らせる。

決戦はロシアの小さな村、トロイツク。

そこには河を挟んで睨み合う日本軍本体と疲弊したロシア軍がいた。

 

 

8月13日 両軍は河を挟み南北に展開した。

このときの日本軍は、

マスケット兵七千,

野砲隊三十(百八十)

騎兵(小砲兵)千五百

輜重隊六千(内三千戦闘員)

 

対してロシア軍は

マスケット兵八千二百

野砲隊110(六百六十)

輜重隊五千(内千戦闘員)

騎兵五百

 

互いに睨み合いをするもどちらが仕掛けるかを伺いながら、戦闘が開始されない。

睨み合いは6昼夜続き、互いに砲を撃ち合うが中々近付けられない。それもそのはず、この河川一帯は湿地帯であるため野砲を川岸に近づけたら最後、待っているのは沈下しかない。

 

このとき、日本軍の騎兵はロシア側河岸より東に20キロ程の森林地帯に待機していた。彼等の装備はマスケットと太刀へと変化しており、その部隊の実体が見てとれる。正しく先祖返りとも取れる、特殊な戦闘集団だ。

 

 

7日目の早朝つまりは8月20日、日本軍の砲撃がロシア軍陣地司令部付近で始まった。これを予期していたロシア軍は急ぎその方向へ騎兵を突撃させる。基本的に砲兵は高速で接近する騎馬に弱く、歩兵に守ってもらわなければならない。しかし、このとき対岸に展開していた日本軍歩兵の数は以前減っておらず、別働隊の砲兵が“また”砲撃をして気を逸している。と、誤認した。

 

悲惨なことにこれを待ち構えていたのは、穴を掘り腰を低くし下馬した日本の騎兵の三段の戦列。彼等はその銃撃を諸に受けてしまった。

たったの三段数は3倍であるものの下馬した騎兵に力は無いはずだった。しかし、露騎兵はあるものとぶつかっていた。射撃の間隔が短いのだ。従来のマスケットと比べれば、約半分の時間で次々と撃ってくる。

 

露軍は、長い時間の中で慣れてしまった。少数による砲撃と脱兎の如く逃げ姿をくらます敵に、そしてそれに対する対処をそれがいけなかった。

 

動揺が広がるのはそれ程長い時間は掛からない、露軍は騎兵が駄目と解ると直ぐに密集を始め、騎兵による突撃を防ぐために方陣を敷き始める。

それと同時に何処からか重低音の楽器の音が鳴り響き、日本軍の渡河が始まる。

 

バシャバシャという音は、響き渡る銃声と馬や人の鳴き声にかき消され、日本軍の渡河を許してしまう。

水深のある河を銃を水に触れさせずに泳ぐその姿は、滑稽に見えて凄まじきものである。あるものはそこから射撃を行うという離れ業まで繰り広げる。

 

対岸に到着すると直ぐに背に背負っていた荷物を自らの前に起き簡易的な土嚢を作り上げる。

もしも露軍にボムケットがあったのなら、ここに砲撃することが可能だったろう。しかし、野砲だけの部隊では味方を道連れに射撃するしかない。

 

よって戦いは、日本軍有利のまま夜が明ける。日が出るとともに、露軍は撤退を始めた。歩兵の数もいつの間にか少なくなっている。正規軍といえども、戦列歩兵とは元々士気の高くない者たちを集めたもの。自ずと劣勢になれば、戦列を離れる者たちが出てくる。

 

荷馬車をおいてバラバラと逃走を開始するときには、露騎兵を潰した日本騎兵が今度は太刀を振りながら、命を刈り取っていく。

結果として露軍は野砲と、2割の兵を討ち取られ騎兵は、四散するという大敗北を喫する。

 

しかし、日本軍はこれを追うことなくその戦場から忽然と姿を消し、まるで戦争などはじめからなかったかのようにヤクーツク周辺は静まり返る。ヤクーツクの住人は露軍が勝ったのだと思い祝勝を祝うが、軍の人間は沈鬱であったという。

 

この年、大北方戦争がより激しくなってきており、露軍にこれ以上の極東での勢力拡大は不可能となっていた。これにより、ピョートル1世は日本と発生した一連の戦闘に対して形式上痛み分けという形で戦争を、終わらせるためにヤクーツクでの条約締結を日本へと送った。それが9月。

極東での寒さが厳しくなる10月の頭にヤクーツクでの条約が締結された。

 

この戦争において日本という国に旨味はあったのか、というところであるが露軍の自勢力における力の減少と、自らの確固たる力を誇示しもしもの場合は攻め入るぞ。という脅しの為というのが有力なものである。

 

 



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家信の治世3

遅くなって申し訳ございません。


 

 

1716年 

日仏通商条約が締結される《①》

日本、フランス両国に大使館が設置される。

キリスト教カトリック、日本へと再度上陸を果たす。

キリシタンとカトリック対立し殺し合いに発展、カロリーヌの名のもとに神道下日本正教へと、キリシタンは改宗される。カトリック再度日本国内での布教を禁じられる。

 

日本アラスカ探検隊、アラスカで燃える黒い水を採取。日本書紀から同様のものの発見をもとに、その物に燃水《②》と呼称が与えられる。

 

 

1717年 清がチベットへと侵攻を開始する。それを受け明は軍の動員を開始し、防御を固める。

其れ等を重く見た家信は、軍の派遣を決定するも広くなった国土に合わせた軍の編成に難色を示す。

このとき、日本本土並びに各地へ赴いている軍士の内半数は農民出であり、即ち戦国からの武家階級の尽くは没落する傾向にあった。

 

京都御所にて霜月の反乱が起きる。桜町天皇これに対し激怒し、徳川幕府に対して、反乱の鎮圧を命令するとともに幕府という部門の体制に対して朝廷の意向の反映を強烈に指示する。

 

これに対して家信、即座に国内の反乱する武士への処断を決行する。

 

これによって、天皇≫将軍の構図が色濃くこの国に定着するとともに、幕府の権威、権力が朝廷からもたらせられたものだということを、日本国ひいては諸外国が認識される事となる。

 

 

1718年 

 オランダ王国が日本国へ大使館を設置し出島に存在していた、オランダ商館の廃館がなされる。

日本オランダと通商条約を締結。

出島、防疫拠点として再度建造物の改修が行われる。

貿易拠点としての出島はあまりにも手狭であり、国内の需要を満たしていると言うことでもなかった。これにより、日本各地に小規模な防疫所が設置され各地に国際港が開かれる。

 

スペイン王国との関係が悪化を始める。キリスト教カトリックの国外追放からくるこれは、西欧と極東という文化の違いを世界的に知らしめるものであり、フランスはこれに対して板挟みとなる。

 

英国との間に日英茶道《③》が提案される。

 

 

1719年 

日本国内での寄生虫学が、各国へと紹介される。これはオランダ語に約され、イースタン・パラサイト(東の劣った寄生虫学)《④》と呼ばれる本として出版される。

このとき、西洋での医学会にて鼻で笑われる。

 

大日本海洋教室《⑤》が開設される。魚類を研究対象としていた学士達による、魚類の家畜化の研究が始まる。

 

植松一茂という一人の学士による、物質分類説が提唱される。

 

 

1720年

フランスとの協議により日本国の新大陸での獲得可能範囲が制定される。

 

禁書令の大規模な緩和が始まる。

 

日本神学会《⑥》が開設される、日本神話、土着神話の変遷がこの組織によって開始される。

 

 

 




① 日仏通商条約
互いの国の商人に対して多額の税を吹っ掛けるような事を無くし
互いの国を対等なものと定めるもの。

② 燃水
所謂石油、ただし学名よりも石のように黒い油という石油という名前のほうが多く広まっていく。


③日英茶道
長らく緊張状態が続いている日本と英国の間にあった、一つのお茶という共通点から始まった小規模な貿易関係。

④イースタン・パラサイト
ターヘル・アナトミアのような解体解剖学書ではなく、人体の何処へどんな寄生虫が寄生するのか、というものを纏めた書物。
内容は西洋でも称賛されるが、最後の謎多き風邪の仮説の部分に肉眼では判別不可能な、顕微鏡でのみ見つけることのできる小さな寄生生物が、様々な病の元になっているという仮説が大いに笑いものとなった。


⑤大日本海洋教室
それまで漁業でしかなかった、魚類の研究を中心に様々な魚類の習性。それからくる、漁獲の仕方。一度の出産数などの研究を行った組織。


⑥日本神学会
日本国内に広く存在する様々な神々、失われた神話や伝承を一つの書物へと纏める者たち。


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異邦の目〜ユリウス・フランソワ・デュプレクス フランス大使

1721年 10月

 

『許し難いことこの上なく!』

 

いつにもなく、スペイン外交団のマルケスがそう告げた。

奴は根っからのカトリック教徒、この日本という国の政策に非常に鶏冠にキているようだ。

 

無理もないだろう、我等が神を否定するのではなく多神教の神として一括りすることによって、絶対的な者ではないとある種の否定をされてしまわれている。

教会の人間がいたら卒倒するのではないだろうか?宗教だ神だというものは、存在するのかすら怪しいものを信奉するある種の浪費だろうて。いっときの安定には寄与するだろうが。

 

それはさておき、枯れ葉は皆紅く、山々がまるで炎に包まれたようになっている。この国独自の山間部の景色は実に見ごたえのあるものだ。

《侘び寂び》なるものがこれなのだろう。

このような景色と、今回この国に赴任できたのは幸いだ。勤勉に仕事に励んだかいがあった。この国にいる間だけは私は貴族…、なんとしてでもこの地位を確固たるものにしなくてはならない、家族の為にも。

 

手始めにマルケス、コイツの不正だとかそういうのをありったけ探し、本国へ送還願おう。一緒に仕事をしていても、宗教で足を引っ張ってくるのだから本国も納得するはずだ。その後その証拠を持っていけば万事うまく行くか?

 

私には後10年しか時間がない。なんとしてでも、この国に我が国が絶対に必要なものだと認識させ成果をあげなければならない。

 

 

〜一月後〜

寒さも増していき、次第に草木が枯れ世界が眠る時がやってくる。最近私は、短歌というものに興味が湧いてきている。

歌のような、楽器と音楽によるものではなく、短い意味のある文の集合。所謂、短詩のようなものだ。ただ、この国での五・七・五・七・七の一定のリズムがあるものは、あまり記憶にない。教養不足かな?

 

さて、私は今日横須賀という港町に来ている。横須賀と言っても、軍港があるほうだが。

何を見に来ているのかといえば、観艦式だ。勿論賓客としての招待だから、非常に眺めの良い場所かつ望遠鏡を使用しての観覧だ。

 

とはいえ、この国の軍艦はそれほどの威容は無い。たかだか44門フリゲート、それが主力で60門以上の戦列艦の姿は影も形もない。いるとすれば、一際巨大なジャンク船くらいなものだろう。

2年程前にこの国に訪れたときには心底驚いた。何せ80門戦列艦の倍はある巨大な船体だ、こんな軍艦がいるのかと思ったものだ。

 

だが、蓋を開ければ何てことはないあれは旗艦だという。直接的な戦闘には使われず、前線停泊池での司令船だと。

戦闘に直接関係しない軍艦とは、正直驚いた。旗艦とは艦隊の正面を張り、矢面に立って艦隊の指揮を取るはずだとも。だが、この国の戦争の歴史を見るに陸軍が主体であって、海軍は海上輸送の要であるという認識のようだ。

 

傭兵として雇われていた者達の船も、皆好んで44門艦を使っていたのも、同じ島国である英国の弱みを実によく理解していたからの判断なのだろう。直接艦隊での戦闘を行わず、武装商船や商船のみを襲っていたのも頷けた。

 

暫くすると、広場に大勢が集まり皆一様に敷かれた御座に正座をして座り、まずは天皇による感状。天皇に対して将軍からの返状、更に将軍から他大名達への感状がある。実に格式張ったものではあるが、ここ最近の天皇>将軍≧大名という図式に完全に当てはめる為に行っているという、噂がある。

 

さて、来賓の挨拶の番が来た。関係が深い国(もしくは序列という)からの挨拶となるが、まずは私、フランス、次いで明→南鮮→土→露→羅→沙→蘭→比→西の順番であったが、ここで重要なことがあった。比の代表と西の代表を別個にしたということだ。

これは暗に、比と西は別の国であって西には比との関係に口を挟ませないという、ことである。

 

これ程までに日本とスペインの間に軋轢が生まれていたとは解るまい。だが、無理な布教活動が原因だというのは一目瞭然で、だからこそ日本はそれに対して怒りを持っているようだ。

 

さて、そんな長い儀式的なものも終わり会食となった。この国の持て成し方は、まさに無礼講。酒を飲んでどんちゃん騒ぎ、こんな事一度経験したらもう祖国の会食が堅苦しくて仕方が無い。食べ物も一流の肉や魚、中華料理やトルコ料理、フレンチもある。味は少々違うが悪くない。

 

そして、その時一人のブロンドの髪の女性が目に入った。あれがルイ・オーギュスト・ド・ブルボンの娘

カロリーヌ・オーギュスト・ド・ブルボン

いや、今は徳川 華露理嬬 だったか。娘達を連れて歩く彼女、美しいその姿が目を引く。

その後ろを、家信の側室達が次いで歩いているところを見るに不遇な目にはあっていないようだ。

 

そして、将軍と談笑を交わしその後何やら音楽隊(雅楽隊)の醸し出す奇妙な音楽と共に、ハープを弾き始めた。奇妙な音に可憐な音が合わさり、絶妙な空間を作り上げる。音楽とはこのような、国の垣根を超えるものなのだろうか?

 

最後に艦隊の内の一席が号砲を鳴らす。それも1門ずつの後、統制射撃と彼等が名付けた一斉射。その雷鳴のような音で式は終わりを告げた。

 

後に聞いたのだが、来月には犠牲祭(イスラム教)復活祭(キリスト教)と大晦日(神道)の除夜の鐘(仏教)、1月には初詣(神道)があるという。

 

この国は祭事を開きたいだけなのか?

 




ユリウス・フランソワ・デュプレクス 
元海運業者の男、フランス法服貴族の対日本外交官兼フランス大使。
物心ついた頃から日本を相手に貿易についていた事もあり、アジア各所に対して広い知識を持っていた。日本に着任したのは1720年このとき35歳妻子持ち。


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家信の治世4

 

1722年 清と露の対立が日本各地へとその影響が波及し、各地から両国への軍事物資の供給による所謂バブルが始まる。

特に露相手の余り物の食料の供給により、蝦夷や南樺太の住人の懐が温まると、停滞気味であった南樺太の整備が大々的に行われる。

 

日清・日露間にまじ合わされたヤクーツク条約により、日本の参戦はあらず変わりに武装商人《①》達による、戦争の形態と戦術等のあらゆる情報の収集に努めた。

この頃から、日本軍では機動力偏重の兆しが現れ始め火砲の軽量化と大型化の停滞が始まる。

 

日の本薬剤師会《②》が設立される。

 

 

1723年 露の陰湿な軍事力と清内部での腐敗と皇帝の死去が合わさり露はウラジオストクまで占領を行い。ここに停戦が行われる。以後清はこれに対しての接触を控えると共に、内部での粛清がはじまる。

 

5年間続くフィリピン動乱《③》の始まり、フィリピン総督府は日本人傭兵団にその鎮圧を依頼するが、民衆側がその部隊が傭兵に依存するというところを逆手に取り、逆に傭兵団を雇う。

これによってフィリピン総督はミンドロ島へと脱出する。

 

この機に乗じて、日本はフィリピンの領有化を本格的に進め始める。一つの部隊を送り込み、そこで一つの勢力を作り上げた。

ラプ=ラプの子孫と言われる人物を王に見立て、セブ島を本拠地に北部を目指して進軍を開始した。

 

スペイン遣亜艦隊が暴徒の中マニラで焼き払われ、スペインは焦り本国艦隊の派遣を余儀なくされる。

スペイン継承戦争のあおりをもろに受けていたスペインは、このとき派遣できた艦隊で既に国力の限界に近づく。

 

幕府は執拗で陰湿な手、即ち民衆の煽動を行った。言葉が統一されていないフィリピンにおいて、日本語という商人がよく使う言葉がそれに拍車をかけた。

 

 

1724年 日本領沙市に天皇より舎路公国という国号が与えられる。これにより、事実上日本は衛星国を持つ連邦制国家であり同君を持つ北太平洋という広大な海域を支配すると宣言する。日本国本土を皇国とし、明等の影響下にある国を王国とする連合性の帝国。大日本帝国が誕生する。

これにラプ=ラプ2世の組織しているマハルリカ王国《④》が加盟を行う。

 

この年コルベットを中心としたスペイン先遣艦隊がマニラ湾へと侵攻を開始する。武装蜂起した住民等によって彼等は上陸することもできず、唯一反乱の起こっていないパラワン島へと脱出に成功する。ここで、本国からの戦列艦による艦隊を待つことになった。

 

一方で日本はその動きに呼応するかのごとく、ルソン島各地に存在する日本人街の有力者、傭兵団(大名)、へと勅令を出した。

一致団結の元島を天下の名の下に統一せよと。

ラプラプが簡単にこの国を乗っ取ることができるように、芝居を打った。

ラプラプが各地へと文を出し、それが到着したと同時に動き出す。各地で親マハルリカ王国派であると誤認させるためだ。

 

 

1725年 学士達によるルソン島の学術調査が始まる。測士達による港湾施設や、島の地図の作成が始まる。

 

スペイン主力艦隊がスペインより出発する。

オランダ、秘密裏にスペイン艦隊への補給の手助けを行う。

日本艦隊、江戸湾より出港マニラへと停泊する。

 

フランスより乳牛が日本に輸入される。なお、種別はジャージーである。複数頭輸入され、群馬を中心に牧畜が始まる。

 

 

1726年 スペイン艦隊補給の為日本は横須賀へと寄港する。その際、日本国から食料と水を渡されるも火薬類等の受け渡しは拒否される。仕方なく、そのままマニラへと出港する。

 

スペイン艦隊マニラへと到着するもまたもや、民衆から攻撃される。多勢に無勢であり、海上封鎖によって周辺からの一切の貿易を遮断する動きを見せる。

ラプラプはこれに乗じて、ルソン島の全島へと武装蜂起を呼びかける。これに呼応するかのように、各地でスペイン人居留地の破壊が行われる。

 

スペイン艦隊はまたもやパラワン島へと脱出する。

 

ラプラプは天皇より戴冠の儀を行われることとなる。

 

マハルリカ王国の正式な大日本帝国加盟が宣言される。

 

 

1727年 業を煮やしたスペイン本国が本格的な艦隊のさらなる派兵を決定。反乱軍に味方する国に対して警告するとともに、その国に対して宣戦を行うとした。

欧州各国はこれに対して不干渉を約束する、またフランスは食料と弾薬をスペインより銀での支払いにより得る。

 

この年に唯一反乱軍に味方する日本国へと先んじて大使館か最後通告を行い、これにより一年間の日西戦争が始まる。

日本国は堂々とフィリピンへと艦隊を入城させ、スペイン艦隊を待ち受ける。

奇襲を行い、パラワン島に存在していたスペイン居留地を焼き払い見せしめとして、領主の首を大使へと送りつける。

 

日本国内の昆虫学者等が適者生存理論《⑤》を発表する。

 

学士医学科において外科と内科に別れる。

 

カロリーヌ妃、第7子を出産するもこれまで全員が女性である。

 

 




① 武装商人 
傭兵のような積極的な戦闘には参加せず、武器を売りさばく武器商人のような者たち。ただし値段のいかんによっては、山賊のようなこともする。

②日の本薬剤師会
それまで口伝や効き目の解らない、または定まっていなかった薬剤の効能を全国で一律にするために作られた組織。また、状況と場合によって薬剤の分配等を行い各地の取り分を決めた。

③フィリピン動乱
5年間に及ぶスペインに対する動乱。反乱。最終的にはマハルリカ王国として独立することとなる。

④マハルリカ王国
フィリピンで、現実に名前を変えようという動きがあったときに候補に上がった名称。意味はサンスクリット語で高貴に誕生した。という意味。

⑤適者生存理論

所謂進化論の一形態。現在では運者生存が比較的正しいとされるもある程度の適応もあるよね〜と、言われている。


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1728年 3月 ミンドロ海峡の戦い

海であるのに乾燥している。ここ数日、雨が降っていない水が欲しい…誰もがそう思う。にも関わらず、この日照りは私達の体を痛めつけもはや目も開けていられないほど眩しい。

こんな辺境の海に我々は何のために来たのだろうか。

 

全ては祖国の利益のため、我等が天より授かりしフィリペの土地を我らの手に取り戻すためと、意気揚々に国を出たのが去年の事到着してみれば血みどろの歓迎会が待っていた。奪われた武器で武装する者たちによって、我々は港に停泊することも叶わずパラワンへと逃げ込んだ。

 

それでもこの人数とこの船を整備し続けるのには限度がある。年に一度は陸に上げ、乾燥させなければ船底に水が溜まり木が腐り始める。

既に崩壊が始まりつつある艦隊を率いて、我々の息の根を止めようと現れる小船を武力で征しつつなんとか生き延びている。これならまだ、海賊をやっていたほうがマシかもしれない。

 

 

ところがここ一月、その小船が現れない。疑心暗鬼に陥りつつも我々は帆を進めた。丁度パラワンが見えるか見えないかくらいに、来たところ其れ等は現れた。

 

帆船だ、それも背が低いシップ型帆船。我々はそれに目を見開いた。10隻の帆船が等間隔でまるで線を引かれたかのように一列に並んで我々と並行に移動している。いや、それは違った。10隻ではない、2列複縦陣だ。船の形は皆一様に足並み揃えて、進んでいる。

 

望遠鏡で国籍旗を確認するに白地に太陽とその光を表した日本の旗だ。要するに我々をぶちのめす為に、わざわざここに来たというところだろう。しかし、たかだかフリゲート艦で良くも戦列艦に挑もうとする。

 

こちらの旗艦から手信号が来たらしい。このまま真っ直ぐ進み、敵が仕掛けてくるのを待つという。堂々とした戦いになれば我々が負けることはまずない、数の上で互角ならばフリゲートは我々に不利であるからだ。

 

暫くすると、向こうに動きがあった。痺れを切らして出て来たか、帆の数が増え更に増速し徐々に近づきつつ前へ出つつある。

奴等が何を思ったのか解らないが、それは悪手だ。海戦というものは、敵の後ろから攻撃する事こそ最も有効であるにも関わらず奴等は。

『我らの前を塞ぐか。』

自然と口から漏れた。本当にどういう意図があるのだろうか、そのように行動したところで、船を破壊することなど出来ないだろうに。そんなもの、載せられるわけがないのだから。

 

奴等はニ列だった艦隊を一列にし、十隻1隊として尚も前進を続けた。見事な操船を見るにかなりの練度であろう。

 

数刻の内に奴等は距離を詰め、だいたい1海里程にまで詰められた。砲戦は更に詰めなければ当たりようもないが、奴等はこの距離から仕掛けなければ我々に対して勝ち目はない。砲門数はこちらが上なのだ。

 

そうこうする内に敵艦が舵を左に大きく切り、我々の先頭の旗艦の目の前で横っ腹をさらけ出しモクモクと煙を吐いたかと思えば、

ズシューという音とともに何かが多数旗艦目掛けて突っ込み、旗艦は炎に綴れた。

 

帆は破れ火にまかれ船の上は油を撒かれたように燃え広がり、まるで地獄のようである。

操船もままならず旗艦は大きく左に舵を切ると、そのまま回転するかのように周り始める。

 

急いでそれから避けるために各艦各々の方向へと舵を切るが、それがいけなかった。

数隻が奴等の方へと致し方なく避けると、其れ等に鳥のように奴等は群がり、四方からの先程の攻撃と砲撃が始まる。

船上は恐らくパニックに襲われ、反撃するものもなく無惨に戦列艦が高々フリゲートに潰されていく。

 

一隻づつでの戦いをこちらが強要しようとすれば奴等は足を生かして逃げに転じ、やはりあの煙の物を使って甲板を火の海とする。貫徹能力が無いのが幸いだが、マストが燃やされるのは非常に不味い。動けぬ船は的になるだけだ。

ここはいったん反転し離脱を視野に入れる。

 

いつの間にか我々は10隻となり、奴等は数の優位を活かして各個撃破する構えだ。

だが、奴等が使っていた物をあまりこちらに使用しなくなってきた。数に限りがあるのだろう、しかしそれでも戦況は覆らない。

 

動けぬ味方を背にして我等の港へ帰らなければ、完全に沈黙させられればパラワンですら奴等の手に渡るだろう。それだけは、阻止しなければ。撤退の旗を掲げ、各船にそれを知らせるが果たしてどれだけが見ているだろうか。

 

我々に遅れてやってくるはずのコルベット達、それこの旗を見て反転してくれるだろうか?

 

だが、奴等も我々を逃がすつもりは無いらしい。こちらを無傷のうちに半数を火の海にしたことは褒められるが、真正面からぶつけに行ったらどう反応するのかな?覚悟を決めよ、奴等の動きから察せればおそらくは奴等は10隻で一つの戦闘単位、ならば殿は少なくて済む。

 

風は真後ろから吹いている、足で勝てないのはわかり切っている。だからこそ最後尾は戦わねばならない。

思い切り面舵を切り、側面を敵艦に向ける船体が右舷を上に持ち上がる。頂点に達したところで、砲を撃った。

 

当たったかどうかは解らない、だがどうやらアレは船首には取り付けられないらしい。噴煙が出ることから、ジブに引火しやすいのだろう。

もはや敵とは目と鼻の先、横っ腹から船首を敵に向け風を真逆に受ける。

向こうが取舵をとった、だがもう遅い。左舷最前列のボートホイッスルにアンカーボルトを装弾し撃ち込めば、向こうとこちらが一つとなる。 

左舷の砲を撃ち放ち、命のやり取りが始まる。

 

向こうは特徴的なカットラス、いや俗に言う“刀”という代物だろう。昔、陸の日本軍の装備を見たときの物とは少々短く感じるそれを手に、我々と鍔迫り合いを行い流血する。

数の上ではこちらが上にも関わらず、連中はどうやら左腕に何かを付けているのだろう、巧みにそれで剣撃を防いでは反撃に繋げている。

 

カットラスの刃がなにかに止められる、よくよく見れば奴等服の下にチェインメイルのようなものを着込んでいる。

落ちたら溺れるだろうに、頭がおかしいのだろうか?

周囲を見渡せば、大混戦の最中右舷から衝撃が走る。衝角攻撃だ、船体に大穴が空けられただろうか。

 

そんなことを気にできない、したらば最後殺される。あれよあれよと傾斜していく船体に、皆一様に覚悟を決めるも敵は一目散に海へと飛び込む。なんてことだろうか、奴等は重りを着てなお海を泳いでいる。

 

傾斜する船とともに私は海へと投げ出され、シュラウドに足を取られ海の中でもがくそして、意識を手放した。

 

 

 

声が聞こえた、私の名を呼ぶ女の声だ。少し訛のある、そんな声が私を眠りから呼び覚ました。

気がついた時、私は牢にいた。船内牢だろうことは明らかで、グラグラと地面が揺れている。私は捕まったのだろう、周囲を見渡せばクルーのうち何名かが私を見ている。

 

Buenos días.(おはようございます) ¿Dormiste bien(よく眠れましたか)?』

 

この声だ。声の聞こえた方を向くと、そこにはブロンドの髪の女がいた歳は妙齢だろう。階級を表すものをつけているであろう『中佐』胸にと書いてあるどういった階級なのだろうか。

 

『¿Dónde está este lugar?(ここは一体どこか?)y quien eres tu(そして、貴官はなにものか)

 

Esto está dentro de la nave [Kongo] que mando.(ここは、私の指揮する艦〘金剛〙の中。)Soy el capitán de este barco. saya yamanaka(私はこの艦の艦長、山中 さや)Su rango es teniente coronel.(階級は中佐)Un poco por encima de la clase media(ちょうど、真ん中より上くらいの階級)

貴方は?』

 

私のことを聞いているのだろう。

 

Soy Cecilio Zerbino,(私は、セシリオ ゼルビーノ)|Miembro de la Fuerza Expedicionaria de Recuperación de Filipinas《フィリピン奪還派遣軍所属》|Soy el capitán del navío de 60 cañones de la línea España.《60門戦列艦エスパーニャの艦長だ》|No me importa lo que pase, quiero que salves la vida de los marineros.《私はどうなっても構わない。船員達の命を助けてほしい》』

 

 

Es una preocupación sin fundamento.(それは杞憂です。)

|Ustedes serán transportados a su país de origen y serán tratados allí.《貴方達は、本国へと輸送されそこで沙汰をくだされます。》それ以上は私の裁量外。』

 

 

本国、あの日本という国か。悪魔の国か、屈辱以上に何をされるのかわかったものではないな。皆、顔に恐怖が浮かんでいる。私が折れる訳にはいかないな。

 

『|Hasta entonces, disfruta de tu viaje, ¿de acuerdo? cliente (risas)《それまで航海を楽しんでね?お客様(笑い)》』

 

まったく運のない事だな。艦隊は逃げ切っただろうか?

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――

 

 

ミンドロ海峡の戦いは

日本軍20隻のフリゲート

スペイン軍20隻の60門戦列艦

の戦いが行われた。日本海軍のフリゲートは、加木式噴進砲という当時としては長射程のロケット砲を使用し戦列艦の有効射程外から一方的に攻撃を行い、スペイン艦隊を火の海とした。

 

スペイン艦隊は主力を失い東南アジアでの貿易能力と影響力が消失した。また、艦隊の船員達はパラワン島に定住し白人でありながら、独自の国家としてパラワン島を維持していった。

 

 




加木式噴進砲 薄い鉄製の砲身と内部のレールに乗っている金属筒の飛翔体によって構成される。

木製4枚の矢羽根によるジャイロ効果と火薬を徐々に燃焼する噴進装置。弾頭部にはエタノールが封入された陶器が入っており蝋によって糊付けされていた。着弾すると陶器が割れ、内部のエタノールが周囲に拡散撒き散らされ噴煙の残りによって引火する。


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家信の知世5

1728年 神道の神職の家計、秦義興によって〘生類加減の書〙①が出版され数年の間、学士の生類研究者達の間で物議を醸す。

 

日本海軍整備拡張計画第一号②が発布される。

 

スペイン艦隊と日本海軍第二艦隊との間で戦闘が起こり、これに日本が勝利する。ミンドロ海峡の戦いが起こる。

 

 

日本軍、スペイン・フィリピン総督の降伏を受諾。これに従い、スペイン総督の首並びに主犯格の首を連座にて晒す。

スペイン人宣教師達、急ぎ足でフィリピンからの脱出を行う。

フィリピン改めマハルリカ王国の建国が宣言され、大日本帝国加盟国がこれに列席する。

 

馬より天然痘に類似した症状、馬痘感染の馬より接種された物を人体に接種させる種痘始まる。

生物を構成する要素を仮想し、それの不足による病気こそ壊血病であると、日本医学士が仮定。長期航海する者たちに注意喚起を投げかけるとともに、船主にそれを命令する。

 

三井 住友 鴻池が出資する日本海上組合③が発足する。

 

 

1729年 家信より御一新の幕令④が発せられる。幕府、突然の表明に将軍の乱心を疑う。

 

江戸公方屋敷襲撃事件が発生、家信襲撃が起こるも実行犯である松平頼方が捕縛される。このとき、家信38歳。正妻であるカロリーヌを狙っての襲撃に果敢に自ら敵を斬り殺す。

反家信派の粛清が始まる。

 

謄写版⑤が開発される

謄写版で最初に印刷された本〘サナダムシの一生〙⑥という本が出版される。

 

家信5年後に将軍位を側室の子、信康へと譲位することを公言する。

 

 

1730年 日本へイタリア料理である様々なパスタが輸入されると、日本国内で各国の料理と融合し様々な料理がジャポニズムによって薄味へと変えられていく。また、このとき観賞用として流入していたトマトをベースとしたトマトソースも広まる。

 

本土での全国平均で80%の識字率に到達。植民地、外地での識字率は日本人のみで90%、現地民を入れると30%となる。

 

日本で実用的な蒸気機関が商業利用される。(タービン式)

鉱山への給気に用いられたそれは、人が数人係で行っていたその作業を1台で賄った。

 

農村一括精米所の建立が始まる。

 

 

1731年 ミジンコの解剖が貴族の間で流行る。

ミジンコの解剖中更に小さな生物がその周囲で蠢いているところを、藤原斉彬によって見つかる。

 

尾張徳川家、将軍家信の命を狙ったとして御家取り潰しを言い渡される。連座式に多くの家が潰される。

それと同時に下手人の捜索に尽力した長州、薩摩、土佐等の外様を重役へと取り立てる。

関ヶ原より続いた禍根を取り除くべく、公平な裁きを行う。しかしながら、昔ながらの家臣等からの反発が強くなる。

 

これらの出来事から『武家の終焉』という時代の始まりとも言う。

 

 

1732年  日本で最初の工場、製糸工場が群馬の富岡で始まる。

また、産業革命⑦というのがこの時期に始まる。タービンの応用により風力での揚水、水車での揚水や木材の加工。果ては鍛造ハンマーの機械化等が続々と開発が始まる。

 

各地に様々な似たようなものが、同時期に出現すると同時に似たようなものを売る場合、それが騒動の元となっていく。

 

大日本沿海輿地全図編纂北方測量隊、測量の結果大陸の東端であろう場所を発見しここを、東終岬と名付ける。

 

電気という呼称が学術書の中に見え始める。

 

 

 

1733年 専売特許法が制定される。これは、先のタービンの発明者が幕府への訴えとして、自らの手元には鐚銭一文入って来ず。次々と自らのそれが使われているのにも関わらず、礼すら無いことに対しての答として制定された。

 

ポーランド継承戦争に中立参戦。500人規模が停戦監視団として派遣され、戦闘の判定と略奪行為に対する所管を纏める。

 

徳川家信宣言通り、この年を最後に将軍職を辞職。その後、信康が将軍を引き継ぐ。家信このとき40歳、早すぎる隠居と呼ばれる。なお、隠居後は国外へと行ったようである。

 

 




① 生類加減の書 
魚類、両生類、鳥類、爬虫類、哺乳類等の骨骼動物の骨格から散見される類似点、骨格の相同を検証した書物。それから導き出せる、『生物は元々一つから変化したのではないか?』という仮説の論拠、を謳った。
適者生存理論の補強を行った。

② 日本海軍整備拡張計画第一号
この計画によって造船された船型の者たちは通称一号艦艇群と呼ばれる。
大型二層式フリゲートを中心に高速化した70門戦列艦
一層式50門フリゲート等を新基準とより抗堪性を併せ持つ船体とする事によって、広大な北太平洋の制海権を手中に収める。艦船整備計画

③ 日本海上組合
連合の長距離海上輸送路に対する保険を取り扱う保険会社。


④御一新の幕令
藩主の無期限の期限を最大20年とすることにする旨、後継者の選定を急ぎ行うべし。という条文。
家信と家臣たちの間での意見の隔たり、時代感覚の齟齬がこれを生み出したと言われる。


⑤ 謄写版 所謂ガリ版印刷機。日本のような漢字を扱う国にとって活版印刷機は非常に扱いづらいため、より民衆が簡単に書物を書けるようにと、つくりだされる。


⑥サナダムシの一生 その名の通りサナダムシが何処からどういうふうに体内に入り、成長し排卵し死滅するのかをわかりやすく図解で説明した書物。


⑦産業革命 要するに作業の機械化が始まった。と言っても、効率の良いものはまだまだない。





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信康の治世

1734年 徳川信康、征夷大将軍を拝命する。

日本海軍整備拡張計画第一号の一部改定による、70門大型フリゲートの新規建造の取り止め。44門フリゲートの建造の増加。

戦列艦という戦闘艦艇の取り止めによる、無思慮な砲術戦から大砲と噴進砲の交雑による榴弾を用いた、精密射撃への移行。これにより日本軍艦の重防御、低火力化が始まる。

 

江戸北街奉行所、商人出の武士が初めて代官となる。

キュラソー島にて、初の日本人居留地が建てられる。

 

 

1734年 臨時官職、方位四大将軍位①の文書化。

オスマン帝国と日土兵役契約②が締結。

エチオピア帝国イヨアス一世に対して、天皇より書簡が発送される。

 

1735年 土御門天皇が桜町天皇へ譲位を行う。

清の新皇帝乾隆帝へと、祝辞を送る。明の女王桜王、日本国将軍信康へ抗議の使者を送る。

 

フランス科学アカデミーの地球楕円形調査へと、協力する。

 

露土戦争が始まる。これに対してトルコ側へと3000名の兵の貸与を行う。

 

 

1736年 徳川家信、在仏日本大使としてフランスへと渡仏する。また、カロリーヌ妃及び側室を同乗する。日本人初のフランス社交界へと参加する。

北アメリカ大陸、西海岸沿いに断続的に村落の形成による太平洋北部航路が完全整備される。

 

舎路にて神宮が建立される。舎路に、舎路府が設置される。

 

国府学院設立、数学、科学、国学、語学、外学の5教科が選出される

 

1737年 徳川信康 トルコへの追加派兵を決定する。5000名

北太平洋にて、商業捕鯨の本格操業が始まる。(3種総計年間600頭)

北太平洋航路にRoute des baleines(鯨道)③という別称が、欧州地図にて書き加えられる。

 

南部朝鮮にて、脱北者返還法が施行される。

 

バニャ・ルカにて土軍と共に墺太利軍を撃破。

 

 

1738年 舎路にて舎路現地軍の創設。

探検家、琢磨以蔵。大西洋からオオウミガラス④を複数匹日本へと持ち帰る。

 

皇歴法の制定が行われる。

 

『傀儡の将軍』という詩が詠まれる。

 

露国太平洋岸港ウラジオストク、日露浦塩非武装条約が締結される。

 

 

1739年 舎路近郊、セコイアの森にて凶鳥⑤が発見され、竜馬(りゅうま)と命名される。

 

露土戦争の終結。日本、トルコから派遣料と一部地域の租借の交渉を行う。港湾税の無償化と派遣料の取得。

 

探検家、琢磨以蔵。太平洋横断中に島を発見。現地の母国という言葉からハワイ諸島と命名。航路の明記と、再来航を約束し日本へと帰国する。

 

大使の有り無しに関わらず各国へと皇紀2400年式典への招待を行う。

 

 

1740年 皇紀2400年式典を開催。

 

清との正式な国交の回復。明との同盟から臣従関係への移行。

琉球王朝の解体。 

朝鮮、台湾、樺太南部、千島列島の内地指定。

天皇中心の大日本帝国法制定される。




① 方位四大将軍

征夷大将軍の任命する。地方へと本土軍派遣時陸海軍の総司令官もっと言うと、責任を押し付けられる生贄。日本より見ての方位より、東西南北に編成される臨時官。

② 日土兵役契約

日本、オスマン間で締結された、兵力の貸与契約。貸与であるからして、資金は勿論のこと兵の食事や下の世話等の全てはオスマン持ちである。

③鯨道 日本を出発点として北太平洋をぐるりと一周する程の巨大な捕鯨地帯。様々な種類のクジラの中から髭鯨のみを選別して漁を行う。


④オオウミガラス ペンギンの語源となった飛べない海鳥。勿論絶滅種

⑤ 凶鳥竜馬 竜のような頭部を持ち高い知性、鋭い腕の爪
全長2m 体高70cm、人懐っこく興味に溢れる。犬よりも賢い。集団で狩りを行う。



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