戦国異聞〜偽物・慶次郎〜 (ちょろいん)
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転生

 

 前田慶次郎。後の世に名を残す男がこの日生を受けた。

 彼はこの時代には有り得ない知識を持ち得ている、いわゆる転生者であった。

 転生を果たした世界は『戦国恋姫』 。歓喜した。ついに自分にも転生というチャンスが訪れたことに。そして誓った。無印に続き『X』までも死ぬ運命が変わらない、彼女を救うことを──。 

 

   +++

 

 新緑の淡い緑炎が揺れる四月中旬。昨夜の物珍しい大雨はすっかり上がっていた。

 蒼穹澄み渡る。空を仰げばそんな言葉が似合うほどに青々とした空が広がっている。

 

 胸元が見えるほどに着崩し、模様の入る腰巻きと瓢箪をつり下げた、一風変わった格好の男は、空を見上げ不敵な笑みを浮かべていた。

 

 前田慶次郎利益。現前田家当主の養子にして次期当主の男であった。

 (こりゃあ、幸先良い旅立ちになりそうだねえ)

 そう心の中で呟きながら、彼は自分の愛馬の手綱を引き歩き出した。

 

「……本当に出て行くのか」

 慶次郎の背に声が掛けられた。

 

 義父のものだった。慶次郎は振り向きもせず、軽く手を上げただけだった。

「もう決めた事ですからな」

「お前はそれでいいのか?」

「何の事でしょうかな」

「この屋敷を出て行く事に決まっておるのだぞ」

「はい」

 義父はそれ以上何も言わなかった。

 

 慶次郎の方でも特に言いたい事がある訳ではない。ただ黙って頭を下げただけだ。

 そしてそのまま門を出た、そのとき。

「慶ちゃん!」

 幼い声が聞こえ、振り返れば駆け寄ってくる一人の少女がいる。槍の又左こと前田利家その人だった。 通称は犬子という。通称とは恋姫シリーズにおける真名のようなものだ。こちらの世界では恋姫とは逆に通称を呼ぶ方が通例で、本名を呼ぶ方が無礼にあたる。

 

「どうしたんだ? そんな顔して」

「だって……寂しいよぉ」

 犬子は泣きそうな顔をしていた。それを見た瞬間、慶次郎は思わず苦笑してしまった。まだ子供なのだ。慶次郎が去っていく事が余程辛いらしい。だがそれが嬉しくもあった。こんな小さな女の子にまで自分は慕われているのだという事実が胸を熱くする。

「大丈夫さ。また会える」

「本当!?」

「ああ。だから泣くんじゃない」

「うん! 約束だよ!!」

 犬子の笑顔を見て安心すると、慶次郎はもう一度だけ深く礼をしてその場を去った。

 こうして『傾奇者』前田慶次は旅に出た。

 戦国乱世の始まりを告げる風のように―――。

 

    +++

 

 いずれは森一家に仕えるつもりであるが、今すぐにというわけではない。二、三年くらいはのんびりしても罰は当たるまい。

「とりあえず、どこかで腰を落ち着けるとするか」

 屋敷を後にした慶次郎は草原に走る獣道を進んでいる。道などと云うほどのものではない。草が風になびいて自然に出来たものだ。

 

 この時代の街道が整備されていることは殆どない。とはいえ恋姫の世界線なので多少は思いもしない技術が使われていることはままあるのだが殆どがこの時代で培われた技術である。この道もそうだ。道幅は馬一頭が通れるほどしかないが一応踏み固められているし、雑草も生えていない。誰かが定期的に手入れをしている証拠だった。

 

「親父さん、いつものを頼む」

 慶次郎はとある飯屋へ訪れていた。

 尾張にある「一発屋」と言う老舗である。その名の通り、一発勝負の賭けに出るような料理を出すことで有名だった。

 

 慶次郎はその店で一番高い『天むす』という料理を注文した。これは海老の尻尾を入れた御握りに味噌をつけて揚げたもので、その味と歯ごたえからして津島の港あたりで獲れたものを使っていると思われた。

 

 これが実に美味い。酒の肴に最適だが、慶次郎は昼日中から酒を呑まない。その代わり必ずこれを頼んだ。

 

 店主は慶次郎が常連客であることをよく知っていた。だから今日もまた同じものかと思いつつ注文を受けた。

「あんたも飽きねえな。いっつもそればっかだ」

 

「まあな。他じゃ食えない味なんでね、こいつは」

 実際そうなのである。ここ以外で食べたことも見た事もなかった。そして何より美味いのだ。

 

「ははっ。そりゃ料理人冥利につきるってもんだ」

 髭面の店主が嬉しそうに笑った。ここで提供される料理の殆どは前世と比べてそこまでの差異がない。

 

 揚げ物の定食などがある辺りかなりの技術進歩がある。こちらに関して言えば戦国時代の一歩二歩先を行っているようである。

 

 やがて給仕が運んできた「天むす」が卓上に置かれた。舌鼓を打とうとして――そこではたと気づく。座敷に座る慶次郎の側で身を乗り出しながら「天むす」を見つめる少女がいたのだ。

 

「なんだい、お嬢さん」

 慶次郎は愛想よく訊いた。

 

「これ何?」

 少女は無邪気に問うた。どうやらこの店は初めてらしい。

 

「これは『天むす』という食べ物だよ。米を丸めて油で揚げたものさ」

 慶次郎は親切に教えてやった。

 

「へえー」

 感心したように声をあげると「美味しそう……」と呟いた。

「どうだい、少し食ってみるかい?」

「いいのー!」

 ぱぁっと少女の笑顔が輝いた。

 そのとき。

「こらあ!! キヨ、客の飯を食うんじゃねえ!」

 突如響き渡った怒声に店内が一気に静まりかえる。少女はやや面食らっていたが、やがて涙を孕みはじめる。

 

「お、おとうさ、ご、ごめんなさい……ぐすっ」

「おいおい親父さん。そんな怒鳴る事でもないだろうよ」

「いんやだめだ。客は客。領分は守んなくちゃなんねぇ」

 

「まだ子供だ。少し位多めに」

「悪いなあんちゃん。それでもダメだ。領分ってもんがあるんだよ」

 

「……おじちゃん、ごめんなさい。お腹空かせて来てるのに、ご飯貰っちゃうのはダメだよね」

 

「気にすんな。オレは大丈夫さ」

「うん……」

 キヨはこぶしを握り締め涙を流さまいと必死に堪えていた。

 若干の居心地の悪さが漂う中、店主の親父がパンッと両手で快活な音を立てた。

 

「いやすまねえな、みんな。今日は半額にすんぜ! 沢山食っていってくれや! 」

 一瞬の間を置いて店内は賑わいを取り戻す。やんや、やんやと喧騒が戻りつつある中、親父がキヨへ手招きした。キヨが厨房に戻ると「怒鳴ってごめんな」と親父が謝り、キヨはついに泣き出してしまい感極まって抱きついたのだった。

 

    



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天誅!

 慶次郎は山奥の村に辿り着いた。迷ったのではない。道なりに進んでいたら辿り着いたのである。

 

 そこは山の谷間を左右に切り拓いた辺鄙な村である。聚落と呼べるような大きな集落はなく、百軒ほどの家が寄り集まっているだけだけだった。

 

 緑の生えた茅葺き屋根が点在し、山の輪郭とよく重なった。子供のように頭を出した稲穂の群れが一面に広がり、あぜ道で子どもたちの駆け回る姿があった。

 

「いい所だ」

 慶次郎の言葉通り、空気も水も澄んでいる。何れはこんな所にひっそりと隠れるようにして住むのも良いかもしれないと思った。

「あの寺の住職小坊主共に決まってるべ……」

 

「んだんだ。おら達見てくすくす笑いおるに。ありゃあ知ってる笑いだべ」

 

「家族におまんま食わせていかなきゃいかんのに。どうしたらいいんだ……」

 民家の前を通る度に村人達が口々にそんなことを言った。慶次郎は黙って聞いているだけだが井戸端会議の内容はとても興味を唆った。

 

 ――何やら面白い話しをしているねえ。

 邪魔する気はなかったがついに欲に負けてしまい、たむろしている村人たちに近寄った。

 

「お、おおおお役人様で!?」

「いやいや。オレは旅の浪人おかめ丸紋次郎。それよりもなんだか興味深い話してるではないか。聞かせてくれよ」

 村人たちは目を丸くした。ちなみにおかめ丸は慶次郎の偽名である。通称おかめ丸紋次郎だ。

 

「どうする?」

「まあ、いいんでねえか」

「あまり面白くない話だけんどな」

 

   +++

 

 事の発端は新たに赴任した僧にあった。

 辺鄙な村には寺がなく、隔週で近辺の林泉寺から住職小坊主が訪れては村を周り仏の何たるかを説くという。

 

 しかしあるときからその僧の教えに違和感を抱きはじめた。

 この村の前任者は天室光育という名僧であった。彼は仏の教えを知悉しており、その彼と比べ、その僧の仏の教えに随分と齟齬があったそうなのだ。

 

 ずさんな仏の教えを説く僧に対し、やがて住民たちは不信感を抱きはじめ、耳を貸さなくなった。すると住民たちの態度に立腹した僧は仏の怒りがあるだの何だのと言い出しはじめたという。

 

 当初は信じていなかった村人たちであったが次第に身の回りでおかしなことが起こりはじめる。

 

「枕元に隠してあった簪が突然無くなっちまったんだよ!」

「銭が、銭が全部きえちまっただよ……」

 

「へえ」

 慶次郎は最初自分たちの管理不行き届けではないかと思った。大切なものならば自分しか分からない所に隠して然るべきであるが、彼らが主張するにはしっかりとした隠し場所があったようだ。

 

 簪は枕元にある板敷の下に保管しており、銭は肥壺に見せかけた壺の中に隠していたのである。他の住民も日々を生きるための糧が忽然と消えてしまったという。

 

 そうして何の脈絡なく起こり始めた異変が仏罰であると信じ、恐れ、訪れる僧たちの話にしっかり耳を傾けるようになったそうだ。

 それでも日に日に消えていく物品や食料。あまり実りがない土地柄なので住民たちに更なる貧窮が迫ることに。

 

 あるとき住民のひとりが盗人を捕らえた。作物を懐にしまい、逃走しようとしたところであったそうだ。下手人は仏の教えを説いたそうに付き従っていた小坊主であった。

 

 小坊主を囲み、話を聞くと僧から命令された事だと涙ながら口にした。さらに住民たちからあれこれ物を盗んでいたとも白状した。

 

 その証拠に小坊主は住民のひとりが家宝として大切にしていた簪を差し出す。

 住民たちは訪れていた僧に対し、これはどう言うことなのかと詰問した。

 

『寺の小坊主たちへ、仏の教えではなく盗みの教えを説いていたのか』

 

『ほ、仏に仕えるものが盗みを働くことはありえない。我らが林泉寺は為景公の庇護を受けた由緒ある寺なるぞ。出任せを申すな、それは為景公の敵となると同義であるぞ!』と激昂したそうである。

  

 林泉寺は長尾家に縁のある寺であった。難癖つけて殺されてしまっては堪らないと住民達は急ぎ謝罪したそうだ。

 

 そうして今に至る。一連のやり取りにより異変には仏様ではなく住職たちが関与しているであろうことは周知の事実となった。それから井戸端会議を開催しては鬱憤をどう晴らすべきか考えていたようだ。

 

「はーん、なるほど、ひでえ話だ」

 その住職は激昂している時点で黒だろう。まごう事なき確信犯だ。虎の威を借る狐共め。何と見下げ果てた奴らか。仮にも仏に仕える者たちならば民を救ってみせて然るべきだろう。

 聞けばその住職、名を公庵といい、細身で吊り上がった目をし、口元に大きな黒子があるという。

 

 ──ちっとばかし懲らしめてやるかね。

 そう心に決めたものの、如何せん相手が悪い。下手に手を出せばこちらが罪に問われかねないのだ。そこでまずは下調べから始めた。

 

 この寺では僧侶たちが交代で夜の番を務めている。そしてその当番表を入手したところ、なんと件の公庵の名はあった。近日中に夜の番が回ってくるはずだろう。そこで公庵を仕留められる。

 

 だが油断はできない。なにせ相手は為景公の庇護受けている。念のため公庵の私室を確認しておこうと思ったのだが、これがなかなか上手くいかなかった。

 

 なにせ夜中の十二時を過ぎても本堂の方からは灯りが漏れているからだ。恐らく寝ずに読経でもしているのだろう。これでは中に入れても物音でバレてしまいそうだ。

 

 しかし諦めるわけにもいかない。慶次郎は朝まで張り込むことにした。

 

 そして翌朝、ようやく姿を現した公庵は寺の一室から出て来た。あそこが公庵の私室らしい。これだけ分かれば充分だろう。

 

 夜になるのを待ってからコッソリと公庵の私室に忍び込んだ。今夜の夜の番は公庵ではない。戸棚を開けてみると綺麗な簪や壺一杯に入る銭が目に入った。

 

 ──ふんっ、こいつぁ貰っておくか。

 それから文机の上に日記を見つけた。悪いとは思ったが中を開いてみる。するとそこには悪行の数々が書き連ねられていた。やはりこいつは悪党だったのだようだ。

  

 慶次郎は翌日、またその寺に出向いた。

 林泉寺の黒塗りの門扉は立派だ。門には『林泉寺』と墨書された扁額が掲げられている。慶次郎がこれ迄に泊まらせて頂いたどの寺よりも荘厳であった。

 

 為景公の庇護を受けていることは事実である。しかしだからといって村人たちへ仕打ちは許せるものではない。

 

「たのもー、たのもー」

 山門扉の前で声を大にして叫ぶ。山門脇の通用口から僧が出て来て出迎えた。

「はいはい、何か御用でございますか」

 

 細身で目の吊り上がった法衣袈裟を着込む男である。口元には大きな黒子があった。件の僧かもしれない。

 

「おお突然すまない、オレは旅の浪人、全国行脚旅をしているおかめ丸紋次郎という。実は今夜宿がないので泊めていただきたいのだ」

 

「そうですか。拙僧は公庵と申します。我が林泉寺は来るもの拒まず、去るもの追わずを信条にしています。どうぞお入りくだされ」

 やはり彼が公庵で確定だ。

 

「おおそうか、助かるぞ。貴殿は話の分かるお方のようだ」

 僧は軽く会釈をした。

「ここに来るまで幾つか寺に寄ったのだがどこもかしこもこの身なりを見て拒否をするのだ」

 

「そうでしたか。たしかに些か、かぶいて、もとい、派手に見えますからな」

 公庵は上から下まで一瞥した。慶次郎の格好は一風変わっている。

 黒い髪を後ろに撫でつけ、胸元が見えるほど衣服を着崩し、腰には虎模様の腰巻きと瓢箪をつり下げている。一見するとこの時代の装いにしては派手であった。

 

「はっはー。どうだろう公庵殿、ここに酒があるのだが今から如何か?」

「いえ。私は御仏に仕える身なれば酒は嗜みません」

 

「なに、貴方のような徳ある僧を仏様は見逃してくれるだろうよ」

 

「はぁ。…………そうでしょうか」

 

「おうとも! きっと見逃してくれるに違いないさ」

 

「………」

「某のような者を泊めてくれるのだ。オレが保障する。そら、やるぞやるぞ、部屋に案内せい」

 

「……わ、分かりました」

 チョロいもんだ。

 慶次郎はほくそ笑んだ。意思も弱いようで、見た目からして小物臭がぷんぷんする。

 

 案内された一室は畳の部屋で、障子があり、部屋の隅には火鉢がある。日当たりが良いようで格子の窓から陽の光が差し込んでいる。

 慶次郎は部屋の片隅に碁盤が置かれている事に気づき「折角だから碁を打ちながら飲みたい」と願い出た。

 

 公庵は二つ返事で快諾した。

 瓢箪と徳利を用意し、酒を満たして、さてと云う時になって慶次郎は更なる提案をした。

 

「なあ公庵殿。ただ指しているだけではつまらん。どうだろう負けたらしっぺをしようではありませんか」

 

「うむ。たしかに。やりましょうか」

 

「やろう。負けた方は鼻を出すことにしましょうかね」

 二人はたちまち大童になった。二刻(四時間)ほども経った頃である。

 慶次郎が俄かに頓狂な声を上げた。

 

「あっ! しまった!」

 あわてて碁盤を見つめたがもう勝負はついていた。慶次郎がわざと負けてやったのだ。

 

「おっと。オレの負けだ。さあ、公庵殿やってくだされ」

 自分の鼻にシッペするように促した。

 

「ははは。無理ですな紋次郎殿、私は未だ修行中の身。人を傷つけることはできんのだ」

 そう言って公庵は固辞した。その態度言葉に慶次郎は内心憤る。

 

 ――なにを言うこの野郎め。人心は簡単に傷つける癖して、何が人を傷つけることはできないだ。二枚舌野郎め!

 

「おお。流石は公庵殿でございますな! ですが約束は約束。さあオレにシッペを!」

 

「いえいえ遠慮しておきます」

 

「何をおっしゃいますか。武士に二言はないでしょう」

 

「いや、私は武士ではありませんから……」

 慶次郎のしつこさに根負けしたように、やっと公庵は慶次郎の鼻に手を当てた。

「さあやっておくれ、な?」

 ぺしっ。渋々だったが公庵は軽く小突く。

 

「これでいいですね」

 だが慶次郎は大仰に顔をしかめて見せた。

 

「なんですかこれは? 蚊でも叩いたようなものではないですか。これでは勝負しがいありませんよ。もう一回やって下さい」

「ええ……」

 明らかに迷惑そうな表情になった。

 

「さぁ、どうぞどうぞ」

「はぁ……仕方ありませんね」

 今度こそ公庵は強めにしっぺをすると、慶次郎は満足気に頷いた。

 

「では続きをやりますかな」

 公庵は赤い顔で頷いた。酔いがかなり回って来ているようだ。

 

 続く二戦目の途中、慶次郎はふいに話を降った。

「そう言えば公庵殿、御本堂の仏さまをご覧になったことはありますかな」

 

「ええ。それは勿論何度もね」

 

「ほう。詳しく聞きたいね、仏様はどんなお姿だったんです?」

 

「それはもう大変ご立派でございました。御仏の身体に散りばめられる黄金はまるで後光が差しているかのような神々しさがありましたから」

 

「それは凄い、それでその仏様、服は着ていたのですかな?」

 

「ははは、紋次郎殿、これは異な事をおっしゃりますな。何処の御仏さまが服を着てらっしゃるので」

 

「おお、たしかにそうでしたな。……うむ、よし、オレの勝ちだ」

 

「ああ負けてしまった。では紋次郎殿、どうぞ」

 公庵は鼻をつんと前のめりに出す。

 しかし慶次郎は「待ってくれと」と言った。顎に手を当てて考える素振りを作る。

 

「公庵殿、果たしてオレは仏に仕える僧をぶっていいものか不安になって来たぞ。なんと恐れ多いことなのだろうか」

 

「なにをおっしゃる。私は未だ修行中の身なればしっぺをしていただいても問題はない。それに不公平ではないか、遠慮なくやるといい」

 

「ほう! 遠慮なくとな。あい分かった、このおかめ丸紋次郎、全力を賭してしっぺさせていただく」

 慶次郎は見せつけるように拳をぎゅうと固く握り締めて掌の肉に爪を立てる。

 

「え? あのそれ違、ぐわばらっっ!??」

 バゴォッ!!!

 風を切る鉄拳が公庵の顔面に直撃した。あまりの衝撃に公庵はふっ飛んだ。

 

「おお良い吹っ飛び具合だ。すまんな、遠慮なくと言うのでな、全力を出させてもらった」

 公庵は鼻から夥しい血を流し伸びてしまっていた。彼の耳には何一つ言葉は届いていないようであった。

 

「やや公庵殿、どうして服を着ているんだ。御仏様は服を来ていないそうじゃないか。御仏様が衣服を着込んでいないのに仕える貴方が服を着ているようでは格好がつかないぞ。どれ脱がしてしんぜよう」

 わざとらしく芝居がかった口調で公庵の法衣袈裟を剥ぐ。剥いだ衣服はたたんで懐にしまった。どうせだから売って銭へ換えるつもりである。公庵はどの道、飲酒してしまったので破門は間違いない。もう彼に法衣袈裟は必要ないだろう。

 

 いい気味だ。部屋中を漁り始め、目ぼしい物品を拝借していく。

「はっはー、さらばだ悪僧公庵」

 ついでに公庵は部屋の外にある木に縛りつけておいた。

 続いて慶次郎は公庵の法衣袈裟を着込み、小坊主共が修行している境内へ向かった。

 小坊主共は落ち葉を掃きながら境内にてたむろしている。

 

 そこに堂々とした足取りで法衣袈裟を着込む巨漢が現れた。慶次郎である。なまじコソコソ臆すことのない足取りなもので、小坊主共は僧たちのいずれかの関係者かと勘違いした。

 

 小坊主共は怪訝な視線をぶつけてくる。

 

「貴殿らが公庵殿から指導を受けている小坊主共か」

「い、いえ、その者らはあちらでございます」

 竹箒を持った小坊主はたむろしている彼等へ目を移動させた。

 礼を述べ、慶次郎は彼等の元に近寄る。

「初めまして。拙僧はおかめ丸。公庵殿の実弟である。公庵殿が体調不良故、今日の修行は拙僧が持つ故、さあ参るぞ」

 

「お待ちください。修行とは何のことです?」

 

「修行は修行だ。そうだな、秘密の鍛錬とでも言っておこうか」

 にやりと慶次郎は口角をあげる。これで察してくれると助かるんだが。

 

「秘密の、ですか?」

 

「中々に察しの悪い。村のこと、と言えば分かるだろう」

 

「!」

 漸く察したようである。

 彼等を連れて御本堂へと移動した。

 

「村に行くのではないのですか?」

 

「その前に貴殿らには修行が必要である。座禅を組むのだ」

 

「はあ」

 小坊主たちは言われた通り座禅を組んだ。

 御本堂の隅に置かれていた警策を手にし、ひとり一人の肩に触れていく。

 

 如何せんやり方が分からないのでほぼほぼ適当である。

 小坊主どもは微動だにせず、目を瞑り手を組んでいる。

 慶次郎は仮にもここでは住職であるので、住職として振る舞い彼なりの人生観を説いた。

 

 やがて慶次郎は「ときにあの村である噂が流れている事はご存知か」と静かに告げた。

 

「何でもある寺の僧や小坊主どもがやってきては住民たちへ悪さをしているらしい」

 びくり。小坊主の身体が少しだけ揺れ動く。警策を当てた。

「仏の名を借りては民の物を我が物しているそうな」

 家宝であるという大切な簪。

 家族を養うための銭。

 その悉くを奪い我が物とせんとする行為を慶次郎は「仏に仕える者として許せざる行為であり賊と変わらん」と言い切った。

「知ってるかい。家宝であった簪を奪われた娘は嫁入りが立ち消えたそうだ。そのせいであらぬ噂を立てられ石女と蔑まれているのだというぞ」

 

「まだあるぞ。銭を盗まれた者は家族が養えずして乳飲み子が死んだそうだ。あってはならんことよ、オレは目の前でそれを見た。命の灯火が消える瞬間をな!」

 すべて即興で作った嘘である。

 慶次郎は良心の呵責を攻めた。ほどなく小坊主のひとりが滂沱の涙を流し出した。

「心が揺れているぞ。どうしたのだ、その方らがやったわけではないだろう」

 小坊主共の肩は揺れ動いていた。呼吸が少し乱れはじめている。

 

「我が愚弟は為景公の庇護を盾にこの件を揉み消そうとしたそうだ。果たしてこの人道外れた行為を為景公は赦してくださるのか」

 良くて追放だろうが下克上の代名詞である彼のことだ。処刑ないし酷ければ一族連座で処刑かもしれない。

 

「人は死せると極楽浄土に行くと言う。その方らは果たして逝けるのだろうか。オレとしちゃあ仏の名を盾に悪さをする者を極楽浄土へ導こうとは到底思えんね」

 

 再び小坊主共の肩を警策で触れる。

「いいか小坊主ども、仏の顔も三度までだ。覚えがあるのなら下を向け」

 小坊主共は一斉に下を向いた。

「喝っ!!!」

 

  +++

 

 ある村人が畑仕事に出ようとすると家の前に壺が置かれている事に気がつく。

 

 見覚えのある壺であった。不審に思いながらも近寄ると中身は銭で埋め尽くされていた。

 それは奪われたはずの、彼が家族を養うための銭であったのだ──。

「源蔵! おっかあの簪もあるべ!」

 



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寺の小坊主

 

 

 寺を後にした慶次郎は風来坊だ。

 時節は初夏。肉厚の葉をみっしり付けた木々が左右から覆い被さるようにして行く手を阻んでいた。木漏れ日さえもまともに通さない、暗い道だった。

 

 澄んだ空気をしているが、あられもない蒸し暑さがあるせいでじっとりした汗が滲み出てくる。少し行った所に沢があり、汗でも流して行こうと足を向けた。小休止したところで再び歩き出した。

 

「どうもおかしいな」

 そう思ったのは三十分ばかり歩いてからだった。道らしい道そのものがいつの間にか無くなっていたのだ。気が付けばただ木立の間を縫って行たのである。

 

 しかしここまで来て引き返すわけにも行かない。もう少し行ってみて駄目なら引き返そうと決心し、さらに二時間ほど歩いた。

 

 そして遂に、慶次郎は道に迷ったことを確信したのである。慶次郎は元来方向感覚には自信があった。それがこの山ではまるで役に立たない。目印になるようなものが何一つないからだ。

 

「参ったな……」

 独り言を呟きながら、それでもまだどこかに救いの道はあるはずだと信じて進んだ。

 

 だが日射病になりそうなほどの炎天下である。水分だけは充分摂っていたが、さすがに疲労感を覚え始めた頃、前方に小屋らしきものが見えた。藁葺屋根の古びた小さな家だ。

 ——やっと出たか。

 と、思ったのも束の間。ポツリポツリと夕立ちが襲い始める。

 どこか雨が凌げる所は――目を移動させると茅葺き屋根が目に止まる。

 ぽつんと佇む山小屋に急いだ。見た目とは裏腹に戸の建てつけは良く、すんなりと中に入りこむ。埃臭いが小綺麗で、土間は狭く床の間は五畳ほど広さだった。

 

 囲炉裏端に腰を下ろし一息つく。

 外を見ると激しい雨になっている。

 

「こんな所で野宿か……」

 思わず溜息が出た。慣れたものではあるが布団があるのと無いのとでは疲労の感じ方が異なる。当然あった方が良い。

 

「ふぅむ。坊さんを殴った罰でも当たったかもな」

 

 その途端、雷鳴と共に稲光が走った。

 随分と心の狭い仏様だ。そんなことを思いながら水を吸って重たくなった衣服を近くの物干し竿へ吊るし、髪紐を解いた。

 

 そのとき、ふっと気がついた。

 おあつらえ向きに土間の隅に薪が積んであった。幾つか投げ入れて火をつける。

 

 煙が立ち上りはじめたところで、ようやく人心地ついた思いになった。

 

 そうしていると酷く腹が空いてくる。そう言えば余りの蒸し暑さに食欲を失くしてしまい、何も口にしていなかった。

 不味そうな兵糧丸と川魚の干物を早速口に放り込む。塩気が強いが美味かった。

 

 それから半刻ほどして辺りが完全に闇に包まれるころ、ようやく雨が上がった。雲間から月明かりが見える。その淡い光を頼りに寝床の準備をした。と言っても雑魚寝するだけである。

 

 キュルキュルキュル〜……。

 どこからか小気味の良い音が耳に届く。慌てて視線を凝らすと部屋の片隅に身を潜める子どもと目が合った。白い髪をした子どもだ。小暗い中でもくっきりと白が浮かび上がっている。

 

「……」

「おまえさんかい。いまの音は」

 声を掛けると小さな身体がビクリとはねた。そして恐る恐るという風にこちらを見上げてきた。

 

「なぁに心配することはないさ。別に取って食いやしないよ」

 安心させるように微笑んでみせるも、少年の顔色は変わらない。それどころか益々怯えているように見える。

 

 ――これは参ったねぇ。

 どうしたものかと考えあぐねていたその時だった。再びあの腹の音が響いたのだ。今度は先程よりも大きな音で鳴り響く。

 思わず苦笑してしまった。

「くくっ」

「っ!」

 キッとこちらを睨みつけてきた。

「すまんすまん。オレは旅の浪人でね。一晩泊まらせて貰えると嬉しい」

 

「……別にいいわよ。けど変なことはしないでね」

 

「しないしない。……あまりもんだが、どうだい」

 余っている兵糧丸と干物を差し出した。慶次郎の言葉に彼女は一瞬息を呑んだように思われる。子どもの顔は小暗いことも相まってよく見えなかった。

「ふぅ……」

 空きっ腹もやや埋まり始めたころ、夜も深まり、冷たい空気に包まれはじめる。

 

 流石に初夏といえ、ふんどし一丁では肌寒く囲炉裏の火から離れられない。

 

 一方先程の子どもは床の間の片隅に身を寄せたままだった。薄手の装いで、それも寺の小坊主が着るような服を着ている。寒くはないのだろうか。いや十中八九肌寒いだろうけど我慢しているのだ。

 

「なあ」

「……何よ」

 不機嫌そうに彼女はこちらを見る。敵意満載である。どうにも何か気に障るような事をしてしまったようだが、皆目検討がつかない。

 

 とはいえ放っておくわけにもいかずに慶次郎は言った。

「寒くないか?」

「……別に」

 本当に寒くないのか。それとも興味がないのか彼女は興味なさげに答えた。

 

「そっか。しっかしどうしてこんな山奥にいんだい。父ちゃん母ちゃんはどうしたんだ」

 心配してるんじゃねえの? と付け加える。

 

「……」

 おっと。これは、地雷を踏んでしまったらしい。

 そう言えばこの時代、捨て子や親を亡くした子どもが多かったと聞いたことがある。

 ——やっべ。変なこと聞いちまった。

 慌てて言い直すことにした。

 

「あー。やっぱいまの無しだ。それより何でオレのこと泊めてくれるんだい?」

 

「気遣いはいらない。両親はちゃんといるし、元気よ……たぶん」

 やはり地雷だったようだ。

 

「……っくしゅん!」

 

「ほら見たことか、こっち来いよ、風邪引くぞ」

 

「大丈夫」

 沈黙が返るのみ。しかし小坊主は、じっと慶次郎を見たかと思えば視線が合うと逸らした。

 

 そのとき初めて慶次郎は自分の装いに気づく。

 

 ふんどし一丁なのである。

 そんな男が子どもを傍に呼ぶことはあられもない行為を連想させた。無論、慶次郎はそんな趣味は一切合切持ち合わせおらず優しさで声を掛けたのである。

 

 しばらくすると、子どもは囲炉裏の向かいにちょこんと座った。やはり寒かったらしく座るそばから囲炉裏の火にあたる。

 

 子どもの全貌が囲炉裏の火によって露わになる。

 純白を象ったような白髪。燃えるような紅い瞳。その姿に既視感を感じられずにはいられない。

 そんなねっとりした慶次郎の視線に子どもは何を思ったのか、そっと顔をそむけた。

 

(……こいつ、たぶん景虎だ)

 ──長尾景虎。通称美空。後の上杉謙信である。

 既視感といい、覚えのある特徴は紛れもなくそうだ。異なる点と言えば髪型くらいか。小坊主の装いなので当然髪は短い。一見すると少年にしか見えなかった。

 

「……虎千代」

 試しに幼名を呟く。

「っ!」

 その息を呑むような反応。やはり彼女は長尾美空景虎のようだ。

「ど、どうして……」

 信じられないものを見たような顔つきで彼女は呟いた。

「ん? 」

「惚けるな! 今あんた私の名前を……っ!」

 慶次郎の声を遮り、彼女はすくっと立ち上がった。余りの威圧感に若干腰を引かしながら「ままま、落ち着け落ち着け」と慌てて告げる。

 

 彼女は眉を顰めたが耳を貸してくれるようだ。

 さて言い訳を考えねばと慶次郎はおもった。

 

 後先考えずに彼女の名を呟いてしまったことが悪かった。よくよく考えれば見ず知らずの人間が自分の名を知っていることは気味が悪いだろう。ましてや有名でもなく悪名が轟いているわけでもないのだから尚更。訝しむのも無理もないことだ。

 

「越後には美少女がいるって聞いたんだよ」

 

「……は?」

 

「すまん、嘘だ」

 何だよ、美少女がいるって。いやまあ何れ美少女引いては美女になるのだからあながち間違いではないのだが。

 

 そんなことよりも早く言い訳を考えねばならない。

「……オレの妹が千代って名前でな。可愛いんだが噛み癖があるから、虎になぞらえて虎千代って呼んでんだ」

 おお。中々良い言い訳じゃないか。

 

 自分で言うのも何だがかなり信憑性というか現実味を帯びているようである。

「もう暫く会ってないからな。つい呟いちまったらしい。まさかお前の名前だとは思わなかったよ」

 

「……」

 

「誤解させたようで悪かった」

「……そ。なら一先ずそれでいいわ」

 一先ずではあったが、ともあれこの場は収まったようだ。

 どこか居た堪れない空気の中、ふと彼女が尋ねてきた。

「貴方の妹は、私に似ているの?」

 

「い、いや」

 ──あーっ! 不味い不味い。嘘なのに、嘘なのにーっ!

 

「じゃあ、似てないの?」

 

「ええっとな」

 ──よ、よし。こうなったら犬子を……!

 とはいえ目の前少女と犬子は似ても似つかない。いやまあ性別は同じではあるが……。

 慶次郎は咄嗟に「似ているよ」と口にした。口に出してから後悔したが遅かった。口は災いの元、口は禍の門と良く言ったものだとしみじみ思う。

 

 ぐいぐいと聞いてくる彼女を無下に出来ず。慶次郎は犬子と彼女の共通点を探すために頭をフル回転させるのだった。

 

 

 こうして今宵は二人の談笑と共に更けていった。

 

 翌朝、慶次郎は凝り固まった身体を伸ばしに外に出た。

 まだ未明の空であるが雲は見当たらない。

 

「いい日和になりそうだ」

 思わず声に出していた。天気が良いと自然、朝稽古にも身が入るというものだ。軽めに運動して汗をかいた後で、近くにあった井戸から水を汲むことにした。

 

 昨日は急いでいたこともあり井戸がある事に気づかずにいたが、この古屋にはしっかりとした井戸があった。水の豊富な土地柄なのだろう。

 

 滑車の先に付く釣瓶を井戸奥へと投げ入れる。ぽちゃんと水の音が井戸奥から響いたことを合図に滑車に括られる縄を引っ張った。

 

 顔を洗う。ついでに頭も濡らし、手拭いで身体をざっと拭き上げる。最後に残った水で口を濯いだ。そうしてから、ようやく一息ついて顔を上げた時だった。

 

 眼の前に小坊主がいた。言わずもがな昨夜の小坊主こと美空である。寝ぼけ眼を擦りながらぼけーっとした顔で慶次郎を見ていた。

 

「お早よう」

 無邪気そのものの挨拶だ。昨夜の大人びた口調が嘘みたいである。

 

「お早よう」

 つい釣られて同じ言葉を返してしまった。だがすぐに思い直して言った。

 

「まだ早いぞ」

 未だにお天道様は半分も顔を出していない。とはいえ寺の小坊主となればこのくらいに起床しているのかもしれない。なにしろ朝のお勤めがあるのだから。

 

 半裸の慶次郎を一瞥した美空は別段恥ずかしそうな様子もなかった。それどころか興味津々といった表情になって近づいて来た。

 

「傷だらけね」

しみじみと言って、いきなり左の腕に触れた。

「痛い?」

 

「いや別に……」

 実際痛みなど感じなかった。ただ触れられるとひどくくすぐったいというだけだ。

 

「肩にも刀創があるわ」

 今度は右の二の腕に触れる。

 

「背中一面よ」

 自分では見られないが、多分背筋に沿って同じような痕がついている筈であった。

 

「どうすればこんなになるのかしら……」

 不思議そうに見つめるその視線には好奇心があった。同時に何か哀れむような色もあったように思う。

 

「……可哀想」

 不意に涙ぐんだかと思うと、ぽろりと落涙した。

 

 慶次郎としては呆気に取られたというよりない。女子供というものは泣くことを恥とはしないらしい。ましてや男の前で泣けば情けないと思われることも知らないようだ。

 

 ふと、そんなこと思ってしまったが、随分と戦国時代に思想が染まっていたようである。

 

 ――……まぁいいさ

 心の中で苦笑したが、それでも女の泣き顔を見るのはあまり愉快なことではない。

「何処へ行くの?」

「朝飯だよ」

「私も行っていい?」

「好きにしな」

 ぶっきら棒に答えた。

 

 朝食の間中、美空は始終傍を離れようとしなかった。

 慶次郎にしても慣れぬ土地に来ている以上、多少神経質になっていることは否めない。見知らぬ土地の見知らぬ宿では熟睡出来るものではないのだ。眠りが浅い上に夢見が悪いことが多い。今朝もその種の悪夢を見てしまって目覚めさせられたのだが、そんな時は気分転換が必要だと思っている。だから特に追い払うつもりもなく放っておいた。

 

 それにしても本当に美空なのだろうかと慶次郎には疑問が湧いて出た。というのも慶次郎の知っている美空とは余りにも違うのだ。子どもだからというのもあるだろうが、刀創に触れて、涙ぐむ姿をどうしても想像出来なかったのだ。

 

 ふと、彼女の姿が見えない事に気づく。

 

 外からぽちゃんと音がした。外を覗いて見ると、顔を紅くしながら釣瓶を引いている美空の姿がある。

 

 全く動かせていない。昨夜の語らいと言うか談笑で分かったのだが彼女は一丁前に大人ぶる癖があるようだった。

 

 天命だの何だとの言うものだから可愛げがあるし、まあ丁度背伸びしたいお年頃なのだろう。

 

「手伝うぞ」

「ん……ありがと」

 彼女の警戒心は昨夜の語らいで大分薄らいだように思える。

「……ねえ」

「なんだい」

「臭わなかった?」

「あん? 何も感じないが……」

「そ、ならいいわ」

 どこかほっとしたような表情をして、彼女は古屋に戻っていった。

 

 朝食を摂った後、慶次郎は古屋を発つべく荷物を纏めた。吊るしていた服はすっかり乾いている。袖を通すと路銀が入る巾着が袖の下から落ちた。

 

 拾い上げて中を確かめると路銀が半分に減っている。中身を出して見れば無情なものだった。道理で軽いわけだ。

 

「もう行くの?」

「ああ。泊めてくれて助かった」

「別にもっと居てくれてもいいのよ?」

 そう言う彼女の声音は寂しげであった。慶次郎はそれを察してはいたが、だからと言ってこれ以上この娘と一緒に居る気はなかった。

「オレは根無草さ。何処へでも行くさ」

 

「ふふっ。何よ、格好つけちゃって」

 

「本当だ。風来坊なんだ」

 

「判ったわ。じゃあね」

 美空の手が伸びて来た。握手を求めているのだ。

 慶次郎はその手をじっと見つめていたが、やがて言った。

 

 「悪いが……男とは握らないことにしているんだ」

 美空の顔から表情が消えた。そしてその顔のまま言う。

 

「ふーん。そ、ならい――」

「冗談さ」

「……貴方、性格悪いって言われない?」

「よく言われるなぁ」と慶次郎は笑った。

 慶次郎は差し出された手を握った。柔らかくしなやかな掌だった。その手が急に強く握り返して来て、次の瞬間には両の手で握られていた。

 

「……お別れだもの。これぐらいいいでしょ」

「まぁ……そうだな」

 一晩共に過ごしただけであったが彼女には情が湧いたようだ。とはいえ少なからず慶次郎も同じだ。寂しさはあった。

「達者でな」

 それだけいうと慶次郎はくるりと背を向け、振り向きもせずに出て行った。

 

 



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あの女性は……

 

 

 慶次郎は路銀が心許ないので切実に食い扶持を稼がねばならなかった。下手すればこのままだと餓死しかねない。転生してからの死因=餓死は避けたいところであった。

 

 そこで手っ取り早く銭になる仕事を探した。幸い春日山の城下町には様々な職がある。金さえ払えば何でもやってくれる便利屋のような商売から荒事専門のヤクザまがいのものまで多様だった。

 

 賑わいを見せている春日山城下町の店々を転々とし、雇ってくれそうな店を探していると黒山のように集まっている人混みが目に止まった。

 

 背の高い慶次郎は人混みの頭上から立札を覗き込む。

『腕ある者求む、我こそはと思わん者は機会を与ゑん。長尾家に尽くすもののふきたれ』とある。どうやら兵士を募集しているらしい。しかも越後でも有力な御家のひとつ長尾である。

 

 ――なるほどな。これはいいかもしれん。

 立札の下には大きな木板があり、その脇で女性が声高らかに口上を述べていた。

 原作キャラのひとり、柿崎景家。通称は柘榴であった。

 

「この度、春日山城主、長尾為景さまよりお呼びがかかったっス。これは大出世であるっスよ! なんたって武士ならば誰もが憧れる長尾家の足軽として召し抱えられるっスから!」

 集まった群衆の中からどよめきが起こり、やがてそれは喚声に変わった。中には涙を流して喜んでいる者もいる。どうやら彼女はかなりの名士らしい。

 

「さあ、まだ間に合うっス! 今すぐ城へ出向き、登城を申し出た方がいいっスよー!」

 彼女がそう言うと群集の中の一人が進み出て叫んだ。

 

「儂も行くぞー! 必ず召されに行くぞ〜!」

 男は狂ったように叫びながら駆け出した。他の男たちもそれを追うようにして走り出す。その男はちらりと振り返り、後続の様子を確認するような素振りを見せた後で、浪人たちを引き連れ、往来の奥に砂塵と共に消えて行った。

 

「待てい! 俺だって行くんだ!」

「わしだ! わしが一番乗りじゃ!」

 たちまちあたりは修羅場となった。男同士が掴み合い、殴りあい、果ては刀を抜いて斬り合ったりしている。

 

 慶次郎はその騒ぎの中で一人平然と立っていた。別に怖気づいたわけではない。むしろ面白そうだと思ったくらいだがこんなところで喧嘩しても意味がない。まして相手を殺してしまっても益はなかった。

 

 なによりあの柿崎景家が気になる。一歩離れた位置で意味ありげに視線を張り巡らせているようで――――いやそんなことはなかった。慶次郎の勘違いであったようだ。彼女はこんなはずじゃ無かったとでも言いたいような表情をしている。心なしか冷や汗をかいているようだ。

 

 すると騒ぎを聞きつけたのか、眼鏡をかけた女性が兵士たちを引き連れ、詰所からやって来た。

「何の騒ぎ」

「あぁん? 何だぁてめえ!」

 浪人の一人が殴りかかろうとした。眼鏡の女性は紙一重で躱すと、首筋に刀の鞘を叩きつけて卒倒させる。

 

 ――おお、鮮やか!

「引っ立てて」

「はっ」

 彼女も原作キャラのひとり、名を甘粕景持という。通称は松葉。慶次郎が彼女に気を取られているうち、いつの間にやらあの柿崎景家は音もなくその場を立ち去っていた。

 

 残るのは乱闘騒ぎとなった往来だけである。騒ぎの元凶である浪人たちは次々と捕縛され、連行されていった。

 

 慶次郎はそっとその場を離れた。刀を帯刀している以上、下手な騒ぎに巻き込まれる前に逃げるのが一番だと思ったのだ。乱闘の場を離れれば離れるほど人影は少なくなってゆく。ようやく人気のない裏路地に入ると春日山の方角へ歩き出した。

 

 幸いにも春日山へはこの道からでも繋がっている。半刻(一時間)ほど歩いたろうか。

 民家の陰に女性がうずくまっていた。服が乱れており、大きく肩で息をしている。

 

「おい、大丈夫か?」

 慶次郎が声をかけた。女性は顔を上げた。まだ若い女性だ。

「み、みぃ、……ずぅを……」

 何か言おうとしたが言葉にならないらしい。

「飲むか?」

 瓢箪を差し出す。女性はこっくりと肯くと、ひったくるようにして奪い取った。そのままごくごくと飲み干す。よっぽど渇いていたに違いない。

 

 もう一杯欲しいという仕草をした時、慶次郎は新しい瓢箪を取り出して渡してやった。それもすぐに空になった。最後の一滴まで飲み干した後、こちらを見上げた。

 

「た、助かりました……」

 やっとまともに喋れるようになったらしく、ほっとした表情を浮かべていた。

 

「一体、何があったんだ」

「そ、それが……」

 聞けば、浪人に襲われたそうである。乱闘騒ぎの件だろう。春日山を目指して駆け出していたはずだが、そのうちのひとりが、魔が差して襲ったようである。

 

 彼女は見目が麗しかった。そのため浪人に狙いをつけられてしまった。路地裏に引き摺り込まれ矢先、例の詰所の兵たちがたまたま警邏に来て、相手が手を離したため何とか難を逃れることができたものの、危うく恐怖で失神しそうなところを必死になって堪えたという。その後は呼吸も無視して全速力でその場から逃走したそうだ。

 

「何というか。凄まじいなあ」

 慶次郎は感心してしまった。この女性には気概がある。意志の力で踏み止まらせるとは大したものだ。さすがは原作キャラというべきか。その気概は途轍もないものに思える。

 

 まだ少女特有のあどけなさが残る彼女はおそらく十八歳ぐらいだろう。細い身体つきに白い肌の色が印象的だ。しかもかなりの美人である。

 だがそれだけにさっきのような行為を受けたショックが大きかったのかも知れない。

 

 しばらく呆けたようになっていたが、やがて我に返ると慌てて立ち上がろうとして慶次郎の胸に倒れ込んだ。

「ぁ、す、すいません。足が痺れたみたいで……」

 見上げる顔は困惑の色が浮かんで見える。言い訳しながら立とうとするが立てない。相当長い間しゃがみ込んでいたのだろう。

 

「どれ、見せてみろ」

 慶次郎は自分の胸の上にいる彼女を片手で支えて立たせた。もう一方の手で足首を握ってみる。腫れ上がって熱を持っていた。これでは歩けない筈である。

 

「痛むか」

 彼女が顔をしかめたので訊いてみた。

「いえ、それほどでもないです。少しびっこを引くかも知れませんけど……きゃっ!」

 いきなり抱き上げられたので驚いたのである。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。わたし重いですよ。それに恥ずかしいし……」

 真っ赤になっている。

 

「ははっ、軽いなぁ。まるで羽根のようだ」

 お世辞ではなかった。本当に羽根のように軽かったのである。だが彼女の方はそう思わなかったようだ。ますます赤くなって俯いてしまった。

 

「家まで送って行こう。どこだい?」

「え? そんなご迷惑をおかけするわけには……」

 遠慮しているのではない。本気で困っているようだ。

 

「このまま放っておく方が、よっぽど迷惑だがね。家はどの辺かな」

「あの、春日山の麓です。父がいますので大丈――」

 

「分かった。しっかり掴まっていろよ」

 慶次郎は歩き出した。

 

「ち、近いんですよ? 歩いて十分くらいなんです」

「なんだ。それなら最初から乗せて行ってやればよかったな」

 慶次郎は笑った。

 

 長尾家の居城・春日山は越後平野の真ん中にある小高い山だ。天然の要害で、頂上は広く平になっており、そこに本丸が築かれている。麓から山の中腹にかけて大小の曲輪が複雑に入り組んで造られている。山全体が一つの城といってもいい。

 

 その山の麓の一番下の郭に小さな屋敷があった。それが彼女の父の屋敷なのだと言う。門の前まで来て、彼女から「あの……そろそろ降ろしていただけると助かります」とか細い声をかけてきた。

 

「足の方は大丈夫か」

「はい。少し痛みますが歩けないほどではないと思います」

 

「分かった。じゃ、降ろすぞ」

 ゆっくりと地面に足を着かせると、彼女は慶次郎の顔を見上げて礼を言った。

「ありがとうございました」

 

「ああ。だが無理はせんことだ。それではな」

 

「お待ちになってください。もう夜も更けて来ています。どうでしょう、今夜はお泊まりになってくださいな」

 

「しかし……」

 

「ではせめて父に会っていただけませんでしょうか。見たところ士官先を探しに来たと推測致します。もしかしたらお力になることができるかもしれません」

 

「ふむ……あんたの名は?」

 

「直江景綱と申します。通称は秋子です」

「オレはおかめ丸紋次郎だ」

 

「まあ、素敵なお名前ですね!」

 ――し、正気か!?

 ヘンテコな偽名を名乗る自分も人のことは言えないがこの女性、大丈夫だろうか。にこにこ屈託のない笑顔を浮かべている。心なしか頬も染まっている。

 

 慶次郎は苦笑して、もう一度訊いた。

「で、どうしろというんだ」

「まずは父に会っていただきたいのです。それからでも遅くはないでしょう」

 

「わかった」

「では、こちらへ」

 門の前で秋子が声をかけると、中から初老の男が現れた。

「おお、お前か。ずいぶんと遅かったな。そちらの方は?」

 

「遅くなってしまい申し訳ありません。実は……」

 彼女はこれまでのことについて初老の男に話した。

 

「そのようなことが……。あれは無理してでも止めるべきだったか。いやともかく大切な娘を助けていただきありがとうございます。某は直江大和守親綱、この子の父です」

 

「おかめ丸紋次郎だ」

「ほう、変わった名ですな。ああいや、馬鹿にしているわけではないのです。ここらでは中々聞かん名なので驚きました」

 この反応が普通だ。慶次郎は秋子にちらりと視線をやる。相変わらずにこにこしながら慶次郎を見ていた。

 

 ――うぅむ。一体何を考えているのやら……。

「仕官のお口添えをしてあげて欲しいと言われましたが、分かり申した。某のほうから口添えしておきましょう」

 

「それはありがたい」

「では早速。明日、登城していただくように手配を致すとして、今日は我が家に泊まっていただいたほうが宜しいでしょう」

 

「はい。私もそう思います」

「ではこちらへ」

 案内されたのは屋敷の奥まった一画にある離れであった。

 

「母屋とは離れておりましてな。何分お客人を迎えるには粗末な家ですが、どうかご辛抱下さい」

 通された部屋は六畳の書院造りで、床の間には見事な花鳥の軸がかかっていた。違い棚には水墨の山水が飾られ、部屋の隅には香炉が置かれている。畳は変えたばかりなのか綺麗な色合いをしており障子も新鮮な白一色であった。

 

 ――どこが粗末な部屋だよ。十二分過ぎるぜ……。

「今、酒を持って来させます。それまでごゆるりとお寛ぎ下され」

 親綱が出て行くと、慶次郎は荷物を解き、どかっと腰を下ろした。

「やれやれ、やっと落ち着いたかな」

「すみません。こんなところで」

 

「なに、いいさ。むしろ十分過ぎる」

 慶次郎からしてみれば外見と中身のギャップの差に驚くほかない。親綱はこの離れを粗末だと言ったがそれは間違いだろう。たしかに見てくれは御世辞にも綺麗とはいえなかった。正直山小屋とおなじだ。しかしいざ通されると、名工の掛け軸や違い棚の水墨画、新鮮な香炉は客人を迎えるには十分過ぎる代物ばかりである。親綱は何かしらの思惑があって言ったのだろうが今いち読めない。

 

「それより足は大丈夫なのか」

「はい。大分痛みは引きました」

 

「それならいい。さっきも言ったが、無理をすることはない。ゆっくり養生すればいい」

「はい」

 

「それにしても立派な家だ」

「そうでしょうか」

 

「ああ。あの掛け軸はどこぞの名工の作品じゃないか」

「ええ、よく判りますね」

 

「これでも一応、目利きの端くれなんでね」

「凄いんですね」

 

「まあ、多少の心得はある。だが所詮、多少だよ」

 何となくの、これは名工の作品だなみたいな直感である。真の目利きには到底敵わないだろう。

 

 やがて親綱が戻って来た。盆の上に徳利と杯を載せている。

「これは当家の自慢の銘酒で御座います。是非一度味わってみてくだされ」

「お酌致します」

「これは有り難い」

 慶次郎は喜んで酒を注いで貰った。確かに旨かった。芳烈でいてしつこくなく、いくら飲んでも酔わない。慶次郎はたちまち一本を空にした。

 

 翌朝、慶次郎は秋子に起こされた。

「――――起きてください紋次郎さん。出仕のお支度をしなくてはなりませんよ」

「……うぅ、朝か……?」

 いつの間にか酔い潰れてしまったようである。記憶がない。頭がガンガンする。いくら飲んでも酔わないとたかを括っていたらこれだ。完全に二日酔いである。

 

「紋次郎さん」

「……わかった」

 まだ半分眠ったまま、慶次郎は返事をしたが、ふと思いついて訊いた。

「昨夜あんたに頼んだ仕官の件だが……」

「今日にでも返事があると思います」

 

「……そうか。済まんな」

「いいんです。お気になさらないでください」

 

 

 

 



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美しい女

 
 


 

 景綱の屋敷を後にして春日山城に向かう。屋敷のすぐ隣が山を登る道になっていて、これを登れば城に達することが出来る。

 

 

 門番はいなかった。勝手に入ればいいのかと思いきや、そんな筈はなかった。槍を持った二人の屈強な侍が立ち塞がった。

「何用あって参られた?」

 案外丁寧な口調だったので少し驚いた。

 

 

「雇われに来たのだが。大和守殿から聞いてはいないのかね」

 慶次郎は何時もの調子で答えた。

「大和守殿から? 雇って欲しいと言うことで宜しいか、何故だ」

 

 

「食わねばならんのよ。仕事がなければ餓え死にするだけだ。それに城下町の立札を見てきた」

 

 

「なるほど。では少し待たれよ」

 やがて通用口の扉から少女と言っても過言ではない女性が顔を出した。

 

 

「おお、そなたが。大和守から話は聞いておる。奴の娘が世話になったそうじゃの。儂からも礼を言うぞ」

 

 

 随分小柄な女性だった。背丈は慶次郎の腹部あたりほど。花魁のように着物を着崩している。その上、兎耳のようなリボンで長い髪を纏めていた。

 

 

「別に礼を言われる筋合いはないさ。当たり前のことをしただけだ。それより士官願いたいのだが」

 

 

「かっかっか、そう急くなよ若人。城に通すよう仰せつけられておるから、ついて参れ」

 

 

「ありがたい」

 広い廊下を渡り、幾つか角を曲り、階段を昇り、また降り、ようやく一つの部屋に通された。

 

 

「さて。儂はこの度の募兵について全権を任された宇佐美定満、通称は沙綾じゃ。お主、名はなんと申す」

 彼女は観察するかのように鋭い視線を全体に配った。頭から手に。手から腰に。そして足下に視線が行く。

 

「おかめ丸紋次郎」

 

「……ふざけておるのか、主は」

 誓ってふざけているのでないと伝えると女性は呆れたように言った。

 

「では本名か」

「ああ」

「変わった名前じゃの……」

「よく言われますな」

 それが普通の反応なので、別に腹も立たない。

 

 ところで慶次郎は彼女を知っている。原作キャラの一人だ。長尾家が誇る『越後の怪人』である。良い歳して兎耳のような髪結をした、見た目だけは少女の属性てんこ盛りの女性だ。

 

 

「主はどこより参ったのじゃ」

「陸奥より北のそれはそれは遠い蝦夷の地から参りました者にございまする」

 

 

「…………なに? 蝦夷の民じゃと。ううむ」

 一瞬、間があった。少女は考え込む仕草をみせる。まさか蝦夷の地から士官が来るなど思っても見なかったのだろう。ほどなくして顔を上げ「詳しく話してみよ」と言った。

 

 慶次郎はもの○け姫になぞらえて話した。その方が面白くなりそうだと思ったからだ。

 

 

 ――大和の王朝との戦いに破れ、北の地の果てに隠れ住む我等が蝦夷の一族。獅子神、タタラ場云々は省いた。なお蠣崎ではないので、そこはしっかりと説明した。

 

 

「しからば我が名『おかめ丸紋次郎』は蝦夷の民の文化なれば、ふざけている訳ではないのです」

 

 即興で語った物語ではあるが慶次郎はさも事実であるかのように真剣に話した。少女も分かってくれたのか「相わかった」と納得してくれた。

 

 

「儂の配慮不足じゃったな。許しておくれ」

「気にしておりませんよ」

 そもそも名前事態嘘っぱちだ。赦すもくそもなかった。

 

「うむ。では早速だが、主の力を見せて貰おうかの」

 

「ここですかな」

 

「いや外に出る。案内するゆえ、ついて参れ」

 山道を下り、城の前の広場に出た。既に大勢の人が集っている。皆、これから何が始まるのかと興味津々の顔つきだった。

 

 よく見れば覚えのある顔つきばかりである。往来で春日山に駆け出した連中や騒ぎを起こした奴等だ。それと立札の近くで口上を述べていた柿崎景家や浪人共を引っ立てた甘粕景持もいる。他にも直江景綱こと秋子やその父・親綱もいた。

 

 

「あの連中を相手取って一騎討ちをして貰う。存分に力を見せるがよい」

 慶次郎は呆れたように笑った。

 

「冗談でしょう……」

 いくらなんでもそれは―――弱すぎる。とても勝負にならない。慶次郎は槍使いだ。戦場ならともかく、こんな素人たち相手に槍を使うまでもなかった。

 

「かっかっか。手加減は無用じゃ」

「何故です」

「あれらは昨日の騒ぎで連行した浪人崩ればかりじゃ。どうせ役に立たん」

 

 

「なるほど」

 確かに、腕に覚えのある者ならばあんな騒動には巻き込まれることもないだろう。大方、腕に自信のない腰抜けどもが暴れ出したというところであろうか。そう考えると哀れでもあった。

 

 

「でしたらオレからもひとつ宜しいでしょうか」

「なんじゃ」

「一騎討ちとは言わず纏めて相手してご覧に入れましょう。その方が時間の節約にもなりますからな」

 

 

「ほう。面白い……」

 一度、浪人たちを睨め廻し、次いで慶次郎を見た。

「よかろう。やってみせい」

 

「と、言うことだ。纏めてかかって来られよ。全員を相手に勝って見せよう」

 

 

「あぁん? 何だぁてめえ!」

「なめやがって!」

 たちまち凄まじい怒号が返ってきた。慶次郎は涼しい顔である。この程度の連中などまともに相手をする気にもならない。

 

 

「やめんか! 」

 沙綾が怒鳴るとぴたりと止まった。

 

 

「儂はこの男の強さを知らん。故に貴様らが束になってかかるのを許す。なに、大言壮語を吐く男であればそれまでのこと。笑ってやればよい。じゃが儂の予想が正しければ貴様らは、いやみなまで言わん。もし勝つことが出来たのなら、一人頭、金十両与えるぞ」

 その言葉はある意味、慶次郎の武が確かなものであると確信している証左であった。

 

 

「ひゃっほう」

 あちこちから歓声が上がった。

 

 ――気前の良い女だな

 

「ただし負ければ、全員、切腹を申し付ける」

 どよめきが起こった。

 

「当然じゃ。貴様らのような無頼の輩を野放しにしては、越後の恥となるだからのぅ」

 なるほど。騒ぎを起こした連中を合法的に処分するつもりのようだ。金をちらつかせたのもそう言う事らしい。

 

 

「ま、待ってくれ。そりゃあんまりだ」

「そうさ。俺達だって好きでやったんじゃねえ」

「命あっての物種って言うぜ」

 口々に喚き出すのを見て、慶次郎は心の中で嘆息した。

 ――馬鹿な連中だ。

 

 

 所詮は素浪・破落戸である。根性がないのだ。だがこういう連中にも生きる権利はある。

 

「ではこうしよう。オレに一太刀でも浴びせることができれば切腹を不問とするように宇佐美殿に掛け合おう。無論、オレに勝てば金も手に入る。どうだ、やる気になったのではないかな?」

 

 慶次郎は不敵に笑うと、見物人であった浪人たちに向って叫んだ。

「さあ、誰ぞ前に出ろ!」

 

 誰ひとりとして慶次郎の前に出て来る者はいない。

「誰もいないか…………。ふむ。死が怖いか」

 慶次郎は静かに訊いた。すると浪人崩れの連中の一人が言った。

 

 

「……あたりめえよ」

「じゃあ、こうしよう。オレは木刀しか使わん。貴様らは持ち前の得物を使うと良い」

 とはいえ相手は真剣。殺す気であるならば相応に相手するつもりだ。詰まるところ、沙綾の思惑に乗ってやるのだ。

 

「いいね」

「乗った」

 やる気になったらしい。

 

「じゃ、始めよう」

 慶次郎は木太刀を拾い上げた。浪人たちも刀を抜いた。慶次郎を囲むように広がる。

 

 

 慶次郎の身長は約六尺少し(185cmくらい)ある。体重も百キロ近くあるから並の男よりずっと重い。そんな男が振り回す木刀は凶器以外の何ものでもなかった。

 

 

 だが浪人達は臆することなく、一斉に飛びかかって来た。なまくらもいいところだった。まるで豆腐でも斬るように簡単に叩き伏せられる。

 

 半刻もしないうち、広場はたちまち浪人たちの死体で埋まり、立っている者はひとりもいなくなった。

 

「もう終わりか」

 慶次郎はつまらなそうな顔をした。

 

「強い……!」

「……!!」

 近くで見ていた者たちが息を呑むのが分かった。あまりにも一方的過ぎたのだ。

 

「お見事! これ程の遣い手は久しく見ておらなんだ」

 沙綾は心底感嘆したように言った。

 

「まぁ、こんなもんだろう」

 慶次郎はあっさり言った。

 

「まだやるかね」

 沙綾は首を振った。

 

「いや。お主の力は良く判った。その腕を長尾の為に役立てて貰えないかの」

 

「承知」

 

 

「うむ。それでは早速だが近いうちお前には働いてもらう事になるゆえ。ひとまず住む場所は此方で用意するのじゃ、貞子、此奴を長屋に案内せい」

 沙綾が命じると、彼女の側に侍っていた貞子と呼ばれた女性が恭しく頭を下げた。

 

 

「はい、畏まりました」

 この後特に何も聞かれるまでも無くトントン拍子で長尾家にお世話になることが決まる。一先ずは仕事を確保する事ができ一安心である。

 

 

「紋次郎殿、こちらへどうぞ」

 貞子と呼ばれる女性は顔立ちが上品でおっとりしている。

 色白の肌に整った目鼻立、豊かな胸元が印象的である。着ているものはこの時代の女性としては余りにも目に毒ではあるが、よく似合っている。

 

 

 彼女も原作キャラの一人であり、名は小島弥太郎貞興。通称"貞子"。史実にて『鬼小島』として名を馳せる勇将であった。

 

 

 彼女はつい一週間ほど前に士官したばかりだと言う。

「仕官なさる前は何をなされていたのですか?」

「うん? 無職だ」

 慶次郎は事もなげに答えた。この時代、農民ならともかく武士が無職など中々いない。だが『おかめ丸紋次郎』の場合はれっきとした無職である。

 

 

「無職ですか!?」

 貞子は驚いている。

 

「そうだ。オレは旅の浪人、全国行脚の風来坊なのさ」

 慶次郎が平然と答えると、貞子の目が丸く見開かれた。

 

 

「風来坊……」

「ああ。各地を放浪しながら国を見て回っている。時には用心棒なんかもやったな」

 

「それは凄いですね」

「大したことじゃない」

 慶次郎は軽く言った。

 

 

『勝ち戦よりも負け戦こそ揶いくさ人。人は皆、生まれながらにして流浪の身なのだ』これは史実の戦国期の武将・前田慶次の口癖だがこの言葉はこの慶次郎自身にも当てはまるといえる。 

 

 前田慶次郎は本来、武将でありながら戦場に立ったことは数えるほどしかない。しかも常に劣勢な陣の中に身を置いている。そしてそんな場合の方が遥かに多かった。つまり慶次郎とはそういう男だった。

 

 

 貞子に先導されて、慶次郎は後に続く。貞子はまだ信じられないという表情のままである。彼女は慶次郎の凄まじい武を目にしたが、そんな男が無職だったとは些か信じられていないようであった。

 

 

「どうしてまた仕官しようと思われたのです」

「女の為だ」

「えっ!」

 貞子が思わず足を止めた。振り返りざま慶次郎を見つめる眼差が妙に艶っぽい。慶次郎はその視線を受けとめ、ニヤリとした。

 

「嘘だよ」

「あ……」

 貞子の顔が見る間に紅潮した。

 

「おかめ丸殿はひどいお方ですね」

 拗ねて見せる様子が可愛い。

 

「すまん、すまん」

 慶次郎は全く悪びれない。

 

「何故、女の為だとおっしゃったんです」

「女に惚れられる為だ」

 

 今度は貞子も笑った。

「正直なお方です」

 

「それが取り柄なんでね」

「いいと思います」

 

「あんたも綺麗だからな」

 貞子が立ち止まった。まじまじと慶次郎を見る。

「本当ですか」

 

「本当だとも」

「嬉しい……私、褒められたのは初めてかもしれません」

「そうなのか」

「はい」

 

「そいつらは見る目がないね。こんなに美しいんだ。だが誰も気づかないなんて漢冥利に尽きるな」

 

「どうしてですか?」

「オレがお前さんの魅力に気づいた初めての男だからよ」

 貞子が俯いた。頬を染めたままである。

 

「お世辞でも嬉しいです……」

「ふむ……世辞を言ったつもりはないのだがね」

 

「ありがとうございます」

「礼を言われるような事は何も言っちゃいない」

 

「いいえ。本当に嬉しかったのです」

 再び歩き出す。

 

 慶次郎が訊いた。

「ところであんたの名は何というのだ?」

「申し遅れました。私は小島弥太郎貞興、通称を"貞子"と申します。貞子とお呼びください」

 

 

「わかった」

 そんなこんなで長屋に着く。六畳ほどの板の間があってそこに蒲団を敷いて寝るみたいだ。台所はあるが風呂はない。井戸端に行けば水を汲むことが出来るし、薪代さえ払えば湯も沸かせる。北側に井戸があって反対側に厠がある。どちらも共用である。

 

 

 貞興は手際よく部屋の掃除をし、火を熾し、米を研ぎ、水瓶の水を入れ換えた。

 その間、慶次郎は荷物を解き、部屋の中でぶらぶらしていた。

「どうぞ」

 飯が出来たようだ。

「ありがとう」

 慶次郎が腰を下ろした。その横に貞子が座った。些か距離が近い。しかし指摘する意味もないのでそのまま放っておいた。

 

「熱いうちに召し上がって下さい」

「頂こう」

 一口食べて慶次郎の目が大きく見開かれた。

「うまい! 驚いたな、こりゃ」

「まあ」

 貞子の顔に喜色が浮かぶ。

「本当においしいと思って下さったんですね」

「勿論だ」

「よかった」

 貞子は心底からほっとしているようだった。

 

 

 食事が終わると、貞子が再び立ち上って、洗い物を始めた。

「何から何まですまん」

「気になさらないでください。好きでやってることですもの」

 

 言いながら、ふと手を休めて慶次郎を見た。じっと見つめている。

 慶次郎は落ち着かない。

「何かオレの顔についているか」

「いいえ」

 

「じゃあ何故見る」

「ご迷惑でしょうか」

 

「いや」

「ではもう少しこのままでも宜しいでしょう」

 貞子の眼差しには心なしか、熱が籠っているようである。

 

「あなたのような殿方は見たことがありません」

「そうかい」

 

「はい。強いのに偉ぶらず優しいのに無頼ではない。それでいてとても男らしくて、魅力的です」

 

「ありがたいね」

「それにとてもお洒落です」

「この服のことか」

 

「はい」

「巷ではかぶいてるという」

 

 

「私は粋だと思います」

「そうかな」

「そうですよ」

 貞子が初めて微笑した。花が咲くように美しい笑顔であった。

 

 

 

 

 

 



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長尾家に仕える

 

 

 翌朝。空が赤みを帯び、明るみはじめた時間帯に起き出した。

 まだ少し眠気が残っていたが、気分はとても爽快だった。昨日一日の疲れが完全に抜けている。布団で寝るというのはいいものだなと改めて思った。

 

 ──よし!

 気合いを入れて立ち上がった。

 

 慶次郎はそのまま外に出た。明け方の空気はひんやりとして、肌を切るように冷たかった。だがそれが心地好い。全身の細胞一つ一つが活性化するような感じだ。大きく深呼吸して冷たい大気を吸い込むと、肺臓の中に溜った熱いものが押し出されて出て行きそうな錯覚を覚えた。

 

 慶次郎は手ぬぐいと木棒、それと長巻を引っ提げて、軒を連ねる長屋一帯から広場に来た。長尾家が所有している剥き出しの地面が広がった空き地だ。

 

 

 早朝の広場は閑散としている。誰もいない。ただ早起きの小鳥だけがさえずっているだけだ。慶次郎はその真ん中に立った。

 

 

 早速、木棒を手に取った。素振りを始める。突き、払い……どれもこれも一心不乱に打ち込んだ。三百回も振らぬうち、汗が噴き出してきた。全身が燃えるようである。

 

 戦国時代における戦の主流は槍だ。扱いが容易でリーチもある。基本戦法は突きや払いの他に石突きによる打撃だが、槍術は柄の長さを変えると戦術も変わってくる。槍を長く持って斬れば槍の長所である長射程はそのままに攻撃範囲の広さを確保できるし、短く持てば懐に飛び込まれても対応出来るのである。

 

 

 慶次郎は朱槍を得物としていた。長さ二間半(約四.五メートル)重さ六貫目(十八キログラム)。慶次郎はこれを巧みに用いた。相手の攻撃を紙一重でかわしながら、槍を突き入れる。相手にとってこれほど厄介なことはないだろう。

 

 

 第二の得物である長巻の鍛錬も欠かさない。一太刀ごとに稲妻のような斬撃が疾り、空気さえも切り裂くような音を立てる。

 

 この得物は長い柄のついた刀である。その刃渡りは約二尺(六十センチ)余り。重さは三貫目以上あるだろうか。普通の人間が持つと振り廻すことはおろか、構えることさえ出来ない代物だ。だが慶次郎はこれを軽々と扱うことが出来た。

 

 朱槍と長巻ともに並の武将なら腕の筋肉が耐え切れずに千切れてしまうに違いない重量物である。それを信じられないことに慶次郎は素手で掴んで自在に操る。何より恐ろしいことはこの大業物をまるで棒きれのように振り廻すことであった。

 

 普通なら手首が折れるか腱鞘炎になる筈なのだ。しかし慶次郎はそれを平然とやってのける。事実、慶次郎の腕は鋼のように鍛え上げられていた。筋骨隆々たる肉体には無駄なものは一切ついていない。贅肉など一切なく、引き締まったしなやかな筋肉だけがついている。

 

 これがいわゆる武芸者という人種だった。

 

 

 だが鍛錬は素振りのみにあらず。無論、武器の心得も重要だがそれ以上に身体を鍛えなければならない。武士足るもの身体が資本である。

 

 

 広場の外周を駆けはじめる。スピードとリズムを意識しながら一周して戻って来るまで五分とかからなかった。

 

 

 三周、四周する間に日は完全に昇り、朝の喧騒が始まる。

 

 井戸端で顔を洗ったり、朝飯を食べたり、仕事に出かける用意をしたり、長屋の住人は様々だが慶次郎のすることは同じである。つまりひたすら走ること。走り終わると今度は腕立て伏せ、腹筋と続く。

 

 汗びっしょりになって滴る汗を手ぬぐいに吸わせ、再び広場の土の上に戻る。

 今朝はここら辺にしておこう。

 慶次郎は井戸から水を汲み上げ、頭から浴びた。冷たい水が心地よい。ついでに顔も洗った。これでやっと人心地がつく。

 

 

「ふぅ。気持ちいい〜……」

 汗をかいた後の水浴びは格別だ。思わず声が出る。

 そのとき、ちょうど広場に入って来た女性がいた。貞子だ。

 

 

「おはよう」

 慶次郎が挨拶をすると、寝ぼけ眼を擦りながら「ほえ?」と可愛らしい小声を出す。暫くの間、ぼんやりと慶次郎を見ていたが、やがて目を丸くした。裸体を凝視している。

 

「どしたい。そんな食い入るように」

「あっ、いえ申し訳ありませんっ。じ、時間をズラしてからまた来ますっ」

 すぐさま身を翻すと、はたはた駆け出してしまった。

 

 

「初心だねえ〜」

 慶次郎は苦笑した。色々とからかい甲斐のありそうな娘だ。

 このところ女性ばかり見ているせいか、若い女性に対する審美眼が出来上がっている気がする。詰まるところ彼女は良い女ということである。もっとも男にとって一番よい女とは千差万別なのだが。

 

 

 助平な慶次郎はそんなことを考えながら身体を拭き終えた。

 彼女の長屋に寄ってみる気になったのは当然の成り行きである。

 貞子の長屋を訪ねてみた。「終わったぞー」と一声かけておく。返事はなかった。

 

 しばらくしてから慶次郎の長屋に頬を染めた貞子が訪れ、おずおずと謝罪をしてくる。

 慶次郎からすれば裸を見られたとて何ともないので「気にするな」とだけ言って、その話は終わった。

 

「紋次郎さんはいつも朝早くから鍛錬を?」

「まあな。もののふたるもの初心忘れずべからずってね」

 我ながらそれらしい事を言えた。実際に腕が鈍ると戦に影響するは事実である。そのため腕が衰えないよう日頃から鍛錬は欠かせなかった。

 

「なるほど……」

 何か思う所があったらしい。考え込む仕草を見せる。

 

「あの、紋次郎さん」

「なんだ?」

「もしよろしければ、明日からの鍛錬にご一緒してもよろしいでしょうか?」

「構わないが朝早いぞ?」

 彼女は二つ返事を返すのだった。

 

 

 +++

 

 

 月日が経つのは早いもので長尾家のお世話になり始め、早四ヶ月が経とうとしていた。

 

 沙綾の言った通り慶次郎たちはしょっちゅう戦に駆り出されていた。それもかなり激しい戦ばかりである。はじめは国人衆との小競り合い程度のものだったがそのうち一城、二城の合戦の様相を呈するようになっていた。

 

 

 ある年の八月の下旬、越後国人衆との大規模な合戦があった。この時、長尾の軍勢が敗北を喫したのである。しかもただ負けただけではない。敵の大部隊に包囲され、退路まで断たれてしまったのだ。絶体絶命の危機であった。その時、先頭に立って戦ったのが他ならぬ慶次郎だった。

 

 

 慶次郎はこの窮状を見かねると自らが部隊を率いて敵陣に突入し、大暴れを始めたのである。

 

 

 馬上にあっても朱柄の朱槍を振り回し、敵をばったばったとなぎ倒す。馬蹄にかけ踏み潰す。槍で突いて撥ね飛ばす。

 

 

 とにかく派手だった。

 

 しかも強い。

 

 

 槍をかいくぐられれば、そのまま馬上で蹴りを入れる。それも当身ではなく、本気で蹴るのだ。慶次郎は体格に恵まれた巨漢である。首の骨ぐらい簡単に折ってしまう。しかし馬が慶次郎の動きについて来れず潰れてしまうことが常であった。

 

 

 だが慶次郎は馬から下りても強かった。朱槍を風車のように振り廻して近寄る者を片っぱしから叩き殺す。まさに暴れ馬そのものといった戦いぶりだったが、慶次郎には何時でも余裕があった。味方の窮地を救ったばかりか、返す刀で敵部隊の一部を殲滅させ、名うての首級まで挙げてしまったのである。

 

 

 当然のように慶次郎の名は越後中に知れ渡った。

 

 

 この活躍によって国人衆に大きな打撃を与えることができた。その後暫くして長尾軍は態勢を整え直すことに成功すると、今度は一転して攻勢に出た。こうして長尾家は窮地を脱し、以後ますます勢いづいて行ったのである。

 

 

 慶次郎が戦場に出るようになって以来、優勢だったことは言うまでもない。決して無理はしなかったのだ。危ないと見ればさっと馬首をめぐらせ、退却してしまう。だから味方の兵も安心して戦うことが出来た。

 

 それでも慶次郎たちの強さは際立ったものであった。誰もが慶次郎たちの強さに舌を巻き、一目置くようになっていたのだ。

 

 この日の戦は慶次郎たちが到着したとき殆ど勝敗が決していた。特にやることもなくお役御免となった慶次郎が帰路につこうとすると見知った顔と目が合う。

 

「あ! 紋次郎さん、貞子ちゃん」

「ん? おお、秋子殿!」

「お疲れ様です、秋子さま」

 

 慶次郎はひらりと馬を飛び降りると、秋子に近寄った。

「久しぶりだな」

「はい、ご無沙汰しております」

 

「お礼の言葉ひとつも無く申し訳なかった」

 

「? えっと、何のことでしょうか」

 

「口添えの件だよ」

 

「そのことでしたら私からのお礼なので気にしなくて良いですよ。むしろお互い様ですから」

 そう言って彼女は破顔した。相変わらず明るい娘だ。笑うだけでぱっと花が咲いたようになる。

 

「そうか。ありがとう秋子殿」

 

「いえ。それより最近ますますのご活躍をされているようですね。お二方の噂が私の耳にも入って来ていますよ」

 

「オレたちの名が轟いているのか」

 

「それはもう、『朱槍の紋次郎』と『鬼小島』の名を知らない者はおりませんよ」

 

「ほう。そんな名がついているのか」

 

「あら。ご存じではなかったのですか?」

 

「ああ。だがそいつはいいな」

 慶次郎は満更でもない顔つきだった。

 

「お、鬼小島……ですか」

 貞子が口籠った。

 

 『鬼小島』の由来は貞子の技の冴えにある。彼女は抜刀術を得意としている。『抜き打ちに人の首三つ、四つ落せる』そう自負していた。事実、彼女の腕は確かである。並の相手ならば、まず一刀のもとに切り伏せられる。一対多の戦いにおいても敵を瞬殺することができた。一度抜き放たれた刀身は、相手の命を奪うまで止まらない。そんな貞子の戦いぶりを評した『鬼小島』であった。

 

 

「なんだ。気に入らないのか」

 

「そういうわけでは……」

 

「いいじゃないか貞子。『鬼小島』いい響きだよ。なあ秋子殿」

 

「はい。とても良いと思います。……紋次郎さんと並び立てるなんて、とても羨ましい限りです」

 

「何を言う。秋子殿こそ、その若さで家老にまでなったではないか」

 

「でも若輩者ですよ。もっと年上の人が沢山います。それに比べたら、私なんてまだまだで……」

 秋子が謙遜しているわけではないことは慶次郎にも分かった。家老といっても単なる飾りではなく実務を取り仕切る立場にいる。それも極めて有能な部類に入る。

 

 実際、秋子はよくやっている。まだ二十にも届かないのに家老職に昇るのは異例といってよい。それだけに家中の嫉妬や反感も大きい筈だが、それを跳ね返して頑張れるところが、彼女の凄さだと慶次郎は思っている。実際、現在進行形で頑張っているのだろう。

 

「秋子殿はよくやっていると思うぞ」

 

「そうでしょうか……」

 秋子は浮かない顔である。自分に自信がないのだ。自分の能力に対する評価が低いとも言える。

 

「秋子殿は人柄がいい。その上、利発だし頭もいい。誰一人としてお前さんの代わりは出来んよ」

 これは本心だった。事実、秋子の処理能力は抜群に高く、その仕事ぶりを見ただけで他の者は舌打ちするほどだと言う。

 

「人は人、自分は自分さ。自分の出来ることをすればいい。あんまり他人と比べることはないと思うがね」

「はい」

 素直に肯くところを見ると、やはり相当気になっているらしい。

 

 

「そうだ、秋子殿、今度一緒に酒を飲まないか?」

 話題を変えるために言った言葉だったが、これは思いの外効果があったようだ。秋子は見る間に顔を輝かせ、

「えっ、私なんかを誘っていただけるんですか」

 と訊き返した。

 

「もちろんさ。是非にと言って貰えると嬉しいね」

 

「はいっ! 勿論です。絶対行きます。約束しますっ!」

 秋子は嬉しさの余り、声が上ずった。

 

 慶次郎はこういう話術にかけては天才的である。

 相手に喋らせ、自分が話しているようでいて実は相手を自分の思うとおりに動かしているのだ。

 

 しかし慶次郎は天然自然のままに振る舞っているだけである。だから相手は慶次郎の言葉の一つ一つに感動し、一喜一憂するのである。慶次郎はこの方法で女を口説いた例は枚挙暇がなかった。当然のことながら、口説かれた女たちは必ず慶次郎の誘いに応じることになる。これが『おかめ丸紋次郎』改め前田慶次郎という男の不思議な魅力となっていた。

 

 ちょうどそこに兵士の一人がやってきた。

「秋子様、ご歓談中失礼致します。準備が整いました、どうされますか」

 

「分かりました。持ち場に戻りなさい、私もすぐに行きます」

 

「はっ」

 兵士が去った後、慶次郎が訊いた。

「これから何かあるのか」

 

「残党狩りです。それが済み次第、引き揚げる予定でいます」

 

「そうか。それは大変そうだな」

 

「はい。ですからこれで失礼させて頂きます」

 

「判った。武運を祈る。ではまたな」

 

「はい、また後日に」 

 ぺこりとお辞儀をして、手を振って立ち去った。

 部隊を引き連れた秋子は馬首をめぐらして、帰路とは真逆の方向に進んで行った。

 

「……紋次郎さん」

 突然、声をかけられた。慶次郎は振り向く。そこには淀んだ瞳をした貞子がいた。

 

「……あの、随分と親しげなご様子でしたが、秋子様とはどういった関係なのでしょうか……」

 

「おい、貞子」

 慶次郎は呆れたように貞子を見た。

 

「何を考えているか大体見当がつくぞ。秋子殿はただの顔馴染みだよ」

 

「本当ですかぁ……」

 貞子の目に光が帰ってきた。

 

「勿論だとも。嘘だと思うなら、秋子殿に直接聞いてみろ」

 

「えー、嫌ですよぅ」

 

「それじゃ聞くな」

 慶次郎は苦笑しながら、馬に跨った。馬がいななく。

 

「オレは帰る。お前はどうする」

「もちろん一緒に参りますとも。あなたと離れるのは死ぬより辛いことなのですから」

 貞子の目の中に、一瞬、妖しい光りが宿ったが、慶次郎はそれに気づいていなかった。

 

「大げさだな。よし、それでは行こう」

 慶次郎たちは再び馬首をめぐらすと、帰路についた。

 

 

 

 



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京へ行く

 

 

 越後国内が農繁期を迎えてから長尾の戦はめっきり減った。

 それでも時折小競り合い程度の戦闘はある。どれもこれも形だけのもので、しかも短時間のうちに勝敗がつくような小さいものばかりである。雇われ兵士である慶次郎はフットワークが軽かった。何処へでも出かけて行って、誰とでも戦った。そのくせ必ず勝つのだ。当然のように連戦連勝であった。

 

 

 この国の武将たちはいずれも勇猛果敢で知られていたが、慶次郎ほど異彩を放っている者はいない。誰もが一目置く存在であることは間違いなかった。

 

 背が高く、肩幅も広い。筋骨隆々たる体つきをしている。後ろに撫で付けた髪はいわゆる総髪で眉毛の下の大きな眼といい何処か猛禽を思わせる顔立ちをしていた。しかもただ大きいだけではない。全身から発散されているものは強者の威圧感であり、それは彼が並大抵の男でない事を告げていた。

 

 

 一見して荒々しい印象を受ける男だったが、よく見るとなかなかどうして整った貌立ちをしている。女性達は彼を見れば色めき立つだろうし、男達でも惚れ込む者は少なくないだろう。

 

 だが慶次郎に対する評価の中で最も大きいものは、『人間離れした強さ』と言うものである。確かに慶次郎の動き方は尋常ではない。敵の間合いに入る前に槍を一閃させて敵の首を飛ばすことなど日常茶飯事だし、騎馬に乗ったまま矢のような速度で疾走して来るかと思うと、次の瞬間には遥か後方で馬を降りていることもある。

 

 並外れた反射神経を持っていることだけは確かだろう。だがそれにしても限度というものがある筈なのだ。まるで忍者ではないか。いや、それとも妖術使いだろうか。そんな声さえあった。それほど異常な動き方をするのである。

 

 

 しかし最も強い意見はこうだった。

『あれはもう化物の領域に達している』

 慶次郎の戦いぶりを見知っている者は例外なくそう言った。そして言われるたびに慶次郎は大声で笑った。

『オレが化物ならお前らは何だ? 幽鬼かなにかか?』

 そんな冗談まで言って笑い飛ばしたと言う。

 

 慶次郎は一介の傭兵に過ぎない。身分も低いし、俸禄も多くはない。金に不自由することはないが、贅沢が出来るわけでもない。質素で清潔好きな生活を送っている。女好きで派手な言動が目立つ割には、実はかなりの倹約家でもあるのだ。何れ出奔する身の上であるので、路銀はできる限り貯めておきたいからである。

 

 そんな彼だが今は着流し姿で、城下町の茶屋の店先でぼんやりと雲の動きを追っている。そこでゆったりとした時間を過ごしていた。

 

 茶が来るまで手持ち無沙汰なので団子を注文した。空を仰ぐ。青い大海に白い雲がゆっくりと流れている。その様子があまりにも悠然としていて、今が乱世であることを忘れさせてくれる。風情があるとはこう言う事を言うのかもしれない。

 

 慶次郎の外見から受ける粗暴な雰囲気は、実はこの泰然自若とした態度によって相殺されていたりする。用は「大人の男」の雰囲気があったのである。

 

「遅すぎる……」

 慶次郎は思わず呟いた。茶が来ないのだ。

 

「まあ、そう焦らずとも良いだろうよ」

 

「……居たんなら声くらい掛けてくださいよ」

 慶次郎が苦笑した。いつの間にかとなりには初老の男──長尾家臣の本庄実乃が座っていたのだ。

 

「何、おまえさんのことだ、どうせすぐに気づくと思ってね」

 実乃は笑った。

 

「……しかし、あんたがこんなところにいるとは思いませんでした」

「ここはワシの行きつけの茶屋でな。時々こうして来るんだ」

 慶次郎が頷く。すると看板娘が盆に乗ったお茶を運んできた。団子も一緒だ。礼を告げてお茶を啜る。実に美味い茶だ。素朴な味わいだがこれがまた良い。

 

「なるほど、確かにこの店の茶はうまい」

「だろう?」

 団子も美味い。茶と団子。これは実に良い組み合わせだ。注文して正解だった。一本食べ終えたところで、実乃が切り出した。

 

「ところで紋次郎、頼みたいことがあるんだが、頼まれてはくれんかな?」

 慶次郎は眉根を寄せた。実乃は越後の軍師格の武将だ。その軍師の頼みとなると、どう考えても厄介事に違いない。

 

「話によりけりですな」

 実乃は頷いた。

 

「うむ。しかしここでは話せん。ワシの邸にて話そう」

 

「御免蒙ろう。女人のいない処へ男二人だけで密会というのは、いささか品位に欠ける行為だと思うがね」

 ふざけた調子で慶次郎が言うと、実乃が破顔した。

 

「ほほほ。しつれいな男だ。なに、心配しなさるな、そう言うと思ってお前さんが好きそうな娘を呼んでいるわ」

 

「ほう。オレが好きそうな娘と。興味が湧きました、是非お会いしたいものだ」

 実乃はますます笑う。この男、慶次郎の扱い方を知っているようである。まるで手のひらの上だが慶次郎は敢えて乗ってやる。

 

「そうか。あの娘は年頃の娘。きっと気に入るよ、お互いにな」

 

「どういう意味です?」

 おかしな物言いに慶次郎は不審そうな顔をした。

 

「じきに判るさ」

 実乃はそれ以上説明しようとしなかった。

「さあ、行こう。ぐずぐずしてはいられん」

 実乃は立ち上がった。慶次郎も残りの団子を頬張って、腰を上げた。

 

「こっちだ」

 実乃が先に立って歩き出し、慶次郎は無言で後に続いた。

 

 実乃の邸は城下町の外れにあった。かなり大きな敷地の中に、これまた大層立派な屋敷が建っている。実乃は家老格の武将なのだから、このくらいの家は当然かもしれない。

 

 実乃の屋敷に着くと奥の一間に案内された。そこで待つように命じられる。暫くして実乃が入って来た。さらに家老の直江景綱こと秋子も続いて入ってくる。

 

 慶次郎が実乃に目線をやるとにっこり微笑まれた。なるほど。そう言うことらしい。どうやらいっぱい食わされたようだ。

 

「こんにちは、慶次郎さん」

 慶次郎を見て秋子が微笑んだ。相変わらず胸が大きい。思わず目が行ってしまいそうになる。慶次郎はごほんと咳を立てて誤魔化した。確かに慶次郎の好きなタイプの女性ではあった。

 

「それで頼みとは一体なんでしょうかな」

 家老格が二人もいるので並大抵の内容では無いと推測はできる。

「実は折り入ってお願いしたいことがありまして……」

「ほう」

 

「あなたに警護を頼みたいのです」

「警護?  誰の?」

 

「私です」

「ふむ。お引き受け致す」

 

「まだ理由もお話ししていないのですが」

 

「アンタに頼まれれば否やはない」

「まあ」

 秋子は嬉しそうに笑顔を見せた。

 すると実乃が笑い出した。

「ははは。ワシの言った通りでしょう秋子殿」

 

「はい、本当に。何となく分かってはいましたが改めて言って頂けると安心しました」

 何から何まで実乃の手のひらの上であったらしい。この男、油断ならない。

 

「ところで何処まで行く予定なんだ」

「京です」

 

「へえ」

 慶次郎は目を丸くした。

「それはまた随分と遠い」

 

「どうしても必要な旅なのですが、如何せん女子の身では無理がありまして」

 確かに無茶な話だった。道中は山越えの道程になる。しかも女の一人歩きは危険きわまりない。盗賊・追い剥ぎの類から始まって狼や熊といった猛獣にまで襲われかねないからだ。

 

「それで護衛を」

「そうなんです」

 

「引き受けるが、詳しい訳を話していただきたいね」

「もちろん。ワシから話そう。他言無用で頼むが、晴景さまが芸事に傾倒しておいでのことは知っているか」

 小耳に挟んだ事はある。家督を譲られたものの実権は未だ父・為景にあり晴景は半ば傀儡と化している。それを不満に思ったのかどうかは分からないが晴景が芸事に凝り出しはじめたと聞く。

 

「最近では和本や小説集に興味がおありなようで、有名所の写本を所望するようにまでなっておられる」

 

「なるほど。しかしそれなら別に京でなくとも、越後にだってあるでしょうに」

 

「それがそうでもないのだ」

 実乃の言葉に今度は秋子が口添えする。

「都の書物でなければ意味がないと仰せでして……」

 

「ふうん。そういうものかね」

 この時代、書籍といえば主に三種類あった。一つは経書、即ち仏典である。これは僧侶たちの専売特許だ。僧籍にある者以外が手に入れることは出来ない。

 

 次に、漢詩集、和歌、連歌などを記した『和本』と呼ばれる製本。これは公家たちが愛好したもので、誰でも読むことが出来る。但しこれらは非常に高価であり、庶民の手には殆ど届かない。

 

 そして最後に、小説である。これは僧侶以外の一般の人々が好んで読んだもので、特に貴族階級の人々が競ってこれを蒐集した。これもまた高値で取引されている。中でも有名なものは、『源氏物語』『伊勢物語』『落窪ものがたり』『徒然草』などである。

 

 この中のどれもが晴景が求めているとすれば、確かに京の都に行かないわけにはいかないだろう。

 

「晴景さまは何の小説をご所望なのかね」

 

「紫式部の『源氏物語』です」

 

「また大層なものをお望みであらせられる」

 

「お陰で私達は京まで参らねばなりません」

 秋子は困ったように眉尻を下げた。その顔が妙に色っぽい。その顔を見れただけでも実乃の言葉に乗った甲斐があるものだ。

 

「他にもあるのかい?」

「はい。和歌集の類です」

 

「なるほど。そりゃ大変だ」

「ええ。本当に」

 

「だが問題も幾つかある。まず前提として素直に写本を売ってくれるかと言うところだ」

 実乃が腕を組み険しい顔で言う。

「はい。『源氏物語』の写本で有名な三条西家は特に怪しいですね……」

 実は長尾家と三条西家の間では青苧を巡ったトラブルが起きていた。

 

 青苧は衣服の原料になる。青芋は、越後では量産が盛んで『越後青苧』といった風に完全なブランド化を確立しており、越後における青苧は経済を支える柱である。

 

 対して三条西家は畿内最大の天王寺青苧座を取り仕切る公家だ。その力は絶大で『越後青苧』を専横してしまうほど。その越後青芋の専横が目に余るもので、長尾氏が介入することになる。長尾氏は生産地である越後の青苧座による特権的な移出や更に青苧取引の統制管理を現在進行形で交渉していた。

 

 そうなると、当然、三条西家の収入に関わることなので三条西家は長尾家に対して良い思いを抱かなくなるわけで……。

 

「何とか穏便に話を持ち込みたい所ですが……。あちらが足元を見るようでも、こちらにも譲れない理由がありますからね。はぁ、骨が折れそうです」

 ため息をつきながらトントン…と肩をたたく。そう言えば最近、肩凝りが酷いとぼやいていた事を思い出した。後で肩でも揉んでやろうと慶次郎はひそかに思った。

 

「難しいことをお願いして申し訳ない。金はいくらかかってもいい。秋子殿、頼んだぞ」

 それから路銀やら移動経路について話す。路銀に関してはそれなりの額の金子を晴景から預っていたようである。移動は陸路と海路があったが今回は陸路の越中・飛騨を経由することとなった。

 

 そんな話し合いも程々に、ふいに実乃が「そう言えば」と慶次郎を肘でつついた。

「お前さんのことだ。暇なんだろう」

 

「さあ。護衛がありますからな、なんとも」

 

「ずっと気を張り詰めていては疲れるだろう。息抜きも必要だよ。護衛ついでに京見物でもしてきたらどうだ」

 実乃の言葉に秋子が顔を輝かせた。

 

「さすがは本庄殿。良いお考えです。どうでしょうか紋次郎さん」

「そうだな。それも悪くない」

 

「はい! そうですよね、よかった……」

 ほっとしたように胸を撫で下ろした。

 

「それでいつ出発いたしますか?」

 

「……早い方がいいだろうな。明日明後日辺りにでも行こう」

 

「分かりました。それではすぐに準備して参ります」

 秋子は弾むような足取りで部屋を出て行った。よほど楽しみなようだ。

 

 慶次郎はその後ろ姿をじっと見送っていたが、ふと視線を感じて振り向くと実乃が意味ありげに笑って見ている。

 

 慌てて咳払いし誤魔化したつもりだが、実乃は笑ったままだ。

「全く。アンタにはいっぱい食わされましたよ」

「はて。何のことやら」

 

「油断も隙もないね」

「ははは。それより紋次郎、京の女はみんな美人だって言うぞ」

 

「それがどうしたんです」

 

「気をつけろよ。あの辺りは公家どもの巣窟だぞ、あいつらは贅沢好きで気位が高くて自尊心が高い。おまけに嫉妬深いときてる。厄介な土地だよ」

 

「ほほう。そいつは面白い」

 

「何が面白いんだ」

「つまり京の都には一途な女が沢山いるってわけだ。是非ともお目にかかってみたいものですな」

 

「……贅沢好きで自尊心が高いが抜けとるぞ」

 

「京の女は皆そうなんでしょう? だったら大した問題じゃない」

 

「これだから色男は……どうなっても知らんからな」

 実乃はやれやれと呆れたように言った。身を案じてくれてのことだが慶次郎には女を見る目があるつもりだ。良い女とそうでない女の匂いは嗅ぎ分けられる自信がある。

 

「ところで……」

 実乃は声をひそめて、慶次郎を睨むように見た。真剣な表情になるとかなりの迫力がある。慶次郎が思わず居住まいを正す。すると実乃がいきなり切り出した。

 

「貞子とはどうなのかね」

 慶次郎は苦笑して答えなかった。身構えていたらこれだ。どの時代でも他人の色恋沙汰は気になってしまうらしい。

 

 貞子はこの数ヶ月ですっかり慶次郎に惚れ抜いていた。しかも尋常一様ではない。狂信的な思慕といってよい。うちに秘めた情は並大抵のものではなかった。それが故に、物陰に潜んで、慶次郎を監視していることもあった。

 

 それは感情故の行動であると慶次郎は理解している。その上で度々目にしていたものの、敢えて見逃し、挙げ句の果てにはのらりくらりと好意を躱しているのだ。

 

「ふむ。では秋子殿はどうかな?」

 彼女も明け透けではないが思慕の感情を言葉の節々に見せることがある。当然、女性の機微に敏感な慶次郎は気づいているが、敢えて何もしていなかった。

 

「何事にも機というものがある」

 

「それでよく我慢出来るものだな」

 

「別に我慢しているわけじゃない。本当に機を窺っているだけですよ」

 実乃がまじまじと見つめてから、にやりと笑った。

「なるほど。それが流儀という奴か」

 

「違うね。オレのやり方だ」

 慶次郎は平然と答える。果物が熟れるのを待つように。機が熟してから頂くことこそ慶次郎のやり方である。

 

「面白い男だ」

 実乃は感心したように言ったが、やがて真顔になると、

「だが女は袖にされたとき、何を仕出かすか分からんと聞くぞ」と言い渡した。

 

 慶次郎は肩をすくめただけで返事をしなかった。

「そうだ、貞子も連れていったらどうだ」

 実乃が思い付いたと言う風に言い出した。

 

「京まで行くんなら、一人ぐらい増えたって同じことだろう」

 

「元よりそのつもりです」

 実乃の屋敷を出た後、慶次郎はすぐに貞子を捜しに行った。

 彼女の長屋は奥まった一画にあって、そこに一人で暮らしている。実は慶次郎の長屋の向かいだったりするのでお隣さんでもあった。

 

 慶次郎が訪ねて行くと、貞子はとても嬉しそうな顔をしたが、すぐに不安げに眉を寄せた。何かを察したらしい。大方、盗み聞きでもしていたのだろう。

 

「……お出かけになるんですか」

「ああ。京へ行く」

「京へ……」

 貞子は黙り込んだ。言葉を失ったかのように何か考えているらしい。胸中には様々な想いが交錯していることだろう。

 

 しばらくして、

「私もご一緒させて下さい」と言い出した。

 

「そのつもりだが」

「お願い…………え」

 信じられないといった表情だった。そんなに信用ないのだろうか。

「まさか嫌とは言わんだろう」

「いいませんよ」

 

 貞子の顔がぱっと輝いた。

「行きます。絶対に行きます。嬉しい……」

 慶次郎の手を取り、手のひらで包むようにして握った。

 

「そんなに喜ぶほどのことかね」

 

「勿論ですよ。だって、一緒に居られるんですよ」

 

「……まあ、そうだがね」

 とはいえ京に行って帰ってくるまでの間だけだ。

 

「……ずっと、ですよ」

 低い声で念を押すような口調だった。

 

「あ、ああ」

 あまりの変化っぷりに慶次郎は曖昧に頷くしかなかった。

 

 ふと、実乃の言葉を思い出した。

『女は袖にされたとき、何を仕出かすか分からんと聞くぞ』

 

 この娘の慶次郎への慕情は狂信的で依存性がある。慶次郎もそれはなんとなく肌で感じ取っていた。もしその依存先が無くなってしまったらと考えるだけでも恐ろしいことである。

 

 慶次郎はこの娘に対して責任があった。だから自分の方から離れていくことはないだろう。だがそれは裏返せば、自分が去れば、貞子は必ず追ってくるということではないか。しかも二度と引き離されることのないよう、狂気じみた手段に訴えてくるに違いない。

 

 ――やれやれ。

 慶次郎は内心溜息をついた。貞子に惚れられたことが不運だとは思わないが、面倒臭いことは確かである。むしろ自分で蒔いた種であったので自業自得だ。だが原作キャラ中でもお気に入りのひとりなので嫌な気はしない。

 主人公には悪いが彼女は貰い受けようか。

 

「では支度しちゃいますね」

 貞子はてきぱきと動いたのだった。

 

 

 

 




下げて上げる曇らせが大好きです。(←


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道中

 

 

 応仁の乱以降、度々戦火に染まる京の都は地獄絵図のような有様だったと言われている。町中で人々が血みどろになって戦い、屍がごろごろ転がり、死体には無数の槍が突き立てられていたと言う。以降も戦乱が絶えず京の都は荒れ果てた土地となっていた──。

 

★★★

 

 紋次郎は貞子と共に旅装を整え秋子と落ち合った。

 

 貞子はともかくとして秋子の方はいかにも頼りなげだった。

 着ているものは上等だったが腰回りはほっそりし過ぎていてまるで合わない。帯の上に乗った乳房がひどく目立ち、目のやり場に困った。

 

「大丈夫かね、着物」

 心配して尋ねると、秋子が恥ずかしげに微笑んだ。

 

「うぅ。あ、あまり見ないでください」

 この時代は平均身長が低く、女性は痩せていた方が美しいとされていた。ましてやこの時代は栄養状態が悪く、食糧事情が悪いだけに尚更だ。だからこの時代の女人は痩せ型が多く、中には骨と皮ばかりという者も珍しくなかった。

 

 秋子は武将たちの中ではふくよかな方だった。その上、色白で肌がきめ細かく、肉感的な魅力に溢れた豊満な肉体を持っているくせに、顔立ちはまだ少女めいて幼ない。そのアンバランスさが、何とも言えない艶っぽさを醸し出している。

 

 紋次郎ならずとも思わず目を奪われてしまいそうだ。実に眼福である。

「むぅ……紋次郎さん、紋次郎さん」

 貞子に呼ばれて、我に返った。

 

「なんだい」

「なんだいじゃないですよ。どうしてそんな風にぼうっとなさっておいでなのか、理由をお尋ねしてもよろしいですか」

 貞子が口を尖らせている。本気で怒っているらしい。案の定冷たい目で睨まれている。この女がこんな目をするのは決まって他の女に目を奪われたときである。

 

「別に大した事じゃあない。少し考え事をしていただけでね」

「……どんなことを考えていらしたのです?」

 

「ああ。京の情勢だよ」

 咄嵯に嘘が出た。

 

「と言うと先日起きました公方様と三好の争いですね」

 秋子が不安そうな顔をする。

 

「京の町は変わらず荒れ果てたままと聞き及びますけど……」

 

「荒れ果てるどころじゃないさ。周辺は戦火を逃れ、逃げて来た人々で溢れているそうだ。それに加えて難民の群れだ。治安なんかありゃしない。強盗・殺人の類は日常茶飯事で、毎日のようにどこかで誰かが殺されてる。まるで地獄絵図だよ」

 

 紋次郎の言葉に秋子は息を呑んだ。顔色も心なしか悪くなった様に見える。少し脅かすつもりだったが、やり過ぎてしまったようだ。

「ふっ。だが心配御無用。このおかめ丸紋次郎、身命を賭しまして秋子殿を必ずや守り通して見せましょうぞ」

 

「ふふっ。それは心強いですね。お願いします紋次郎さん」

 如何にも芝居がかった紋次郎の大仰な言葉に秋子はくすりと笑った。すると貞子が横合いから突っ込んだ。

 

「……紋次郎さんは酷いお人です。手弱女な私は眼中にないようで」

 貞子が頬を膨らませた。その仕草は子供じみていて可愛らしい。

「んもぅ何を言っているんですか。貞子ちゃんも護衛する側の一人でしょう。そもそも、かの鬼小島が手弱女ってどんな冗談ですか」

「むぅ。秋子様が羨ましいです」

 

「貞子そこまでだ。御役目を忘れるな、此度は若君のために京へ行くのだ」

 紋次郎はきっぱりと貞子に言い渡した。

 

「でもぉ……」

「でももヘチマもない。全てはお前の思い過ごしだよ。なあ秋子殿」

「ええ、まぁ……そうですね」

 秋子が曖昧な返事をした。貞子は不満そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。

 

 そんなこんなで話は終わり、一向は京へ向けて出発。と、同時に紋次郎はほっと胸を撫で下ろしたのだった。

 

 京までは百六十里(約五百七十六キロ)ある。

 急げば二週間ほどで着く距離だったが、山越えの道程を考えると無理は出来ない。加えて秋子や貞子もいるので尚更無理は禁物だった。

 

 五日目には越後と信濃の境を越え、越中に入った。この辺りになると平野が拡がりを見せ、北越地方特有の荒涼とした大地が現われる。平野といっても山間の土地だった。木立の中に道が通っているような感じで、所々に農家が点在しているだけだ。

 現代で言う限界集落の様な有り様である。とは言え戦国時代の農村ではこの様な光景は珍しくない。

 

 日暮れ近くなった頃、紋次郎が立ち止まった。その視線の先には何時の間に来たのか複数人の男が立っていた。

 

 紋次郎が立ち止まったので、それに気づいて二人も立ち止まる。

「秋子殿、貞子から決して離れんようにな」

 男たちは浪人のように見え、それでいて雑兵とは違った雰囲気を持っていた。手には小刀、背中には弓を背負っている。どちらにしてもそこら辺の農民の出立ちではなかった。

 

 顔色は悪く、頬骨が高い。眼ばかりギラついていた。紋次郎は油断なく男を眺めた。腰の大太刀に手をかけてすらいない。ただ立っているだけだ。

 男たちのほうでも紋次郎たちに興味を覚えたらしい。近づいて来ると、いきなり訊いた。

「あんた方、何処へ行かれる?」

 

 紋次郎が微笑した。

「京だ」

「名は?」

「紋次郎。おかめ丸紋次郎だ」

 男はじろりと紋次郎を見た。値ぶみするような視線だった。自分で言うのも気が引けるが、かなりヘンテコな名だろう。

 

「女連れでか」

 紋次郎は肩をすくめた。

「それがどうかしたか」

 

 男は嘲るように笑った。それが波のように伝播して取り巻きたちも薄く笑う。

「死ぬぜ、そんなことをすると」

 紋次郎は不思議そうな顔をして訊き返した。

「何故だ」

 男は呆れたように首を振って見せた。

 

「俺がここで殺すからだ」

 紋次郎の顔色が僅かに変り、その視線が鋭くなった。

「やってみろ」

 紋次郎は一歩前に出た。男たちは一瞬ひやりとしたようだったが、すぐにまた嘲笑を取り戻した。

 

「馬鹿か、お前は」

 男が刀を抜いて紋次郎に向けた。

 

「俺たちは五人いるんだぞ。しかもこっちには刀もある。勝てると思うのか」

 紋次郎は無造作にもう一歩前に出た。

「思っている」

 男たちの間に動揺が走った。まさかこれほど堂々と挑んで来るとは思ってもいなかったようだ。

 

「死にたいらしいな」

 男は怒りに眼を剥いた。

「死なんさ」

 紋次郎は平然と応じ、ゆっくりと鞘を払って大脇差を抜いた。大脇差とはいえ刃渡りは一尺半近くある。その長さが並ではない。

 

 男たちの顔に恐怖が浮かび上がった。

 紋次郎は一足飛びに間合いを詰めると、先頭の男の胴を薙ぎ払った。

 

 血飛沫が舞い、絶叫が上がった。肋骨の下半分と内臓の一部が宙に飛び散った。即死だった。

 

 紋次郎は振り向きざま次の一人を袈裟懸けにした。これも一撃で致命傷を負い、悲鳴を上げる間もなく絶命した。

 三人目の男が恐慌を来たして逃げ出した。刀を捨て、両手で腹を抱えて一目散に逃げて行く。

 

 紋次郎はその背を深々と斬って捨てた。

 

 四人目がようやく気を取り直し、上段から斬りかかってきた。

紋次郎がひらりと身をかわすと、男はまともに自分の頭上に太刀を振り下ろしてしまった。頭蓋を割られ、声もなく倒れた。

 

 五人目は腰を抜かし、泡を吹いてへたりこんでいる。

 紋次郎は容赦なくその首を叩き落とした──。

 

 そんなてんぷれ盗賊との邂逅もありつつ、一行は村外れにある廃寺に着いた。そこで一泊することにした。

「そろそろ野宿は辛くなってきましたねえ……」

 翌朝になり、しんみり秋子が言うと、貞子も相槌を打った。 

 

「そうですね……。早く布団のあるところで眠りたいものです」

 さすがに疲れが溜まって来たのだろう。二人は肩を揉みながら首を回している。この五日間歩き通しだったのだ。いくら健脚を誇る二人だって、そろそろ限界に近いはずだ。

 

「あと四日ほど歩けば大津に着く。そこまで行きゃ宿が取れる。それまでの辛抱だよ」

「本当ですか」

 秋子が嬉しそうな声をあげた。顔も輝いている。

 

「ああ。淡海が見えるぞ」

 その後の紋次郎たちの道程は平穏そのものであった。

 

 とはいえ慣れない山道を歩くため足取りはかなり遅い。だが話しながら歩いていればそれも気にならない。秋の日射しも爽やかな好天気に恵まれて旅路としては申し分のない一日だった。

 

 紋次郎たち一行が大津まで後一歩に迫った夜のことである。

 

 秋子が食事の用意をしていると、いきなり後ろでどしんと言う大きな音がした。驚いて振り向くと、そこには倒れ伏す薄汚れた武者の姿があった。

 

 髪を振り乱し、顔は垢じみて土色になっていた。よく見れば鎧に矢が何本も突き立っている。息も荒く、全身傷だらけだ。

「何奴!」

 貞子が叫んで太刀の柄に手をかけた。

 

 紋次郎も素早く立ち上って秋子を背中に庇う。刀は抜かない。いつでも背負って走れるように構えているだけだ。

 

 ──むむ。この武士の顔、見覚えのある気がするぞ。

 咄嵯にそんなことを思った。秋子が駆け寄ろうとするのを制して、代わりに近づく。

 

 武士は血走った眼で紋次郎を見上げた。唇の端から泡が吹き出ている。

 ──こいつは……! か、一葉だとぅ!?

 一葉。正確には足利一葉義輝──時の足利幕府の将軍であり剣豪将軍の異名をとる当代随一の女武将である。

 紋次郎は原作の中でも一葉を自分(剣丞)の女にしたものだ。

 

 ──しかしこれは現実だ。

 しかも目の前の一葉はゲームの中とは似ても似つかない。汚れて痩せこけ、見る影もない。まるで別人だ。だが面影はある。

 

 ──そういえば、一葉と言えば……

 ふと気づいた。一葉の腰には大般若長光が佩かれている。

 ──本人みたいだ。いや考えている場合じゃないか、直ぐに手当てせねば。

 

「秋子殿、手当を頼む。あんたオレたちは敵じゃあない、手当するから安心めされよ」

 出来るだけ優しく言ってみる。一葉が僅かに警戒心を解いたように思えたからだ。

 

 秋子は紋次郎の意図を理解したらしく、こくりと肯くと一葉の前にしゃがみこんだ。

 

 紋次郎は素早くあたりを見廻した。

ここ周辺は木立に囲まれていて、身を隠せそうな所が沢山ある。そして一葉を襲ったであろう者たちの姿は、紋次郎たちのいる位置からは見えない。

 

 ──どこにいるんだ……?

 そもそも、そのような追手が近辺に身を潜めているかすら定かではない。貞子を見ると相変わらず太刀に手を掛けたままである。用心するに越した事はなかった。

 

 ──一葉を連れて逃げるか。しかし無理に動かせば命に関わる……。

 ここに留まるべきかと一瞬迷ったが、やはり一葉を連れて逃げるべきだと思った。

 

 紋次郎はそっと一葉の身体を抱え上げ、秋子に言った。

「秋子殿、今直ぐ火を消せ。そして貞子の側にいろ、決して離れんようにな」

 

「わかりました」

「秋子様、お側に」

 一葉は瀕死だがまだ息はある。一刻も早くこの場を離れる事が先決だろう。

 

 一葉が微かに眼を開けた。何か言おうとしている。唇の動きを読むと、 ──ありがとう と礼を言っているようだ。

 

 ──気丈な女よ

 

 紋次郎はにやりと笑って首を振った。

 一葉がほっとしたように気を喪い、紋次郎の肩口へ頭を預けた──。

 

 結局、追手らしき存在は現れないまま、一葉を背負った紋次郎は、一刻(二時間)ほど歩き続けて、ようやく街道に出た。彼女は意識を失ったままだが顔色は良く、呼吸も安定している。

 

 紋次郎は背の一葉をそっと降ろして木立の中に寝かせた。

「大丈夫でしょうか」

 秋子が心配そうに訊いた。

 

「わからんね。だが死ぬような傷じゃない。じきに眼を醒ましてくれるさ」

 紋次郎はあっさり言った。

 

「それよりこれからどうしますか?」

 貞子が言った。

 

「まずは予定通り大津へ行こう。そこで船を調達すれば京へ向かえよう。近江からなら京へは船で半日もかからん。それから先は、その時考えればよい」

 まあ行き当たりばったりである。ある意味旅の醍醐味であろう。

 

「わかりました。じゃあ急ぎましょう。夜になると危なくなります」

「同感だ」

 小休止の後、三人は歩き出した。

 紋次郎は背の一葉を気遣って、ゆっくり歩いている。そのせいで遅れがちになる。

 

 貞子が紋次郎の前に出た。

「紋次郎さん、変わりましょうか」

 紋次郎は笑って手を振った。

 

「大丈夫だ。このくらいはなんでもない」

 実際、大した重さではない。それに、一葉の身体は柔らかかった。女らしいふくらみといい、しなやかな筋肉のつき具合といい、申し分のない肢体だった。何より温もりがある。紋次郎自身の温もりと合わさって若干熱いくらいだ。だがそれがいい。一葉が生きている証拠のような気がして、紋次郎はむしろ嬉しかった。

 

 そんな下心満載のやましい考えに気付いたのか、貞子の眼が一瞬細くなった。とはいえ彼女たちは一葉の性別を知らない筈だ。

 伝えてもいないので勘違いと思いたい紋次郎であった。

 

 

 



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女と足軽崩れ

 一葉が目覚めたのは宿について少し経ってからであった。

 

 まだはっきりとしない意識の中で、一葉は、あぁ、そういえばと、ようやく先ほどの出来事を思いだした。

 

 足軽の襲撃に遭ったのだ。それは恐ろしい体験であった。自分は危うく殺されるところだった。

 

 自分を殺そうとした足軽がどうなったのかまでは分からない。一葉はとにかくあの場から逃げた。無我夢中で、必死に走って逃げた。あの足軽の仲間たちは追ってきて、ついには戦闘

になった。

 

 ただ戦闘というにはあまりにも一方的な展開であった。一葉は、その足軽たちを殺して、ようやく逃げおおせたのである。

 しかし油断して殺し損ねてしまい、その結果としてこうして今、生きていることが不思議なくらいの傷を負ってしまった。その傷は脇の下や、太股など数カ所に及ぶ。

 

 一葉は、ぼんやりと目を開けた。天井の木目がはっきりと見えた。

 今、自分がいるのは部屋の中だ。自分は殺されずに済んでいる。身体のあちこちに痛みがあるが幸い死んではいない。

一葉はゆっくり上半身を起こした。その瞬間、傷口に激痛が走った。

 

 痛みに顔を顰めて、自分の身体を見た。改めて見てみると、その有様は凄まじいものであった。血で真っ赤に染まった服がはだけ、包帯の代わりの布きれも、血と汚れている。

 

「よう。起きたかい」

 突然、一葉の背後から声がした。ハッとして声のした方を見ると、一人の男が、壁を背に胡座をかいていた。

 

 一葉は、その男の顔に見覚えがあった。確か足軽に追われていたとき、突然現れて助けてくれた男であった。

 

 一葉は、警戒しながら男を見た。この男が自分を助けてくれたのは間違いないであろう。歳は二十代半ばくらいであろうか。服装は、浪人のような着物に袴姿だ。腰には脇差を差している。髪はぼさぼさで後ろでひとつに纏めている。顔は一見すると優男風だが、眼光が鋭い。手には竹筒を持ちそれを一葉の口元に当ててきた。

 

 突然のことに一葉は、

「な、何を!」

 と、慌ててそれを手で払った。男は、そんな一葉を見てニヤリと笑った。そして竹筒の中の水をぐいっと飲むと、プハーッと息を吐いた。

 

「おいおい。毒なんか入れてないさ」

「な、なら」

 

「ただの水だ。安心されよ」

 男はそう言うと竹筒を床に置いた。一葉は竹筒を一瞥すると、再び男を見た。

 

「そ、そなたは」

 一葉は、やや掠れた声で男に問いかけた。男はそんな一葉をじーっと見ていたが、やがて口を開いた。

 

「まずは飲みな。ずっと寝ていたんだ。喉も枯れてる」

 

「え?」

 ずっと寝ていた? そのとき一葉の腹の虫がぐぅっと鳴った。男はそれを聞くとフッと笑った。そしてもう一度竹筒を差し出す。今度は何も言うことはなかった。 

 

 一葉は、竹筒を受け取り、口に当てた。少し傾けると水が流れ込んできて乾いた喉を潤した。血が随分と失われていたのだろう。身体が水分を欲していたらしく、その水は美味かった。

「……すまぬ。助かった礼を言う」

 

「なに。気にすることはないさ」

 

「…………余はどれほど寝ていた?」

 一葉は、竹筒を男に返しながら尋ねた。

 

「二日ほどだな」

 

「そんなに……」

 

「それだけの傷なんだ、当たり前さ。だが運がいい。傷が化膿することもなく、治りかけている」

 

「……お主が助けてくれたのか?」

 

「いいや。オレの主だよ」

 

「主……とな」

 

「あぁ。お前さんを助けてくれたのもオレの主さ」

 

「そうであったか……」

 

「とりあえず粥でも食って腹ごしらえしな」

 

「うむ。……そうだな。そうしよう」

 一葉は、頷く。確かにこの男の言う通り何か食べ物を腹に入れた方が良さそうだ。とにかく今は、傷の回復に体力をつけなければなるまい。

 

「お主のあるじは何処に?」

 

「ああ、それなんだが野暮用で出かけてる。まあすぐに戻るだろう」

 

「そうか……」

「粥を貰ってくるから待ってな」

 

 男は立ち上がると部屋から出ていった。一葉は、改めて自分の身体を見る。布団は、包帯代わりの布きれが巻かれた腹を中心にして真っ赤に染まっている。

 

「これは……、酷いな……」

 

 この状態でよく生き延びられたものだ。もしかしたらあの男が助けてくれたときすでに死んでいて、今見ているのは幽霊か何かかもしれないと馬鹿な考えが浮かぶほどである。

 

 一葉が再び外を見ると、日は既に暮れていた。

 

「そういえば、お主の名は?」

 一葉は、粥を運んできた男に尋ねた。

 

「おかめ丸紋次郎だ」

 

「? おかめ丸か……中々変わった名じゃ」

 

「よく言われる。結構気に入っているんだがね。まあ親しみと愛を込めて呼んで紋次郎と呼んでくれ」

 

「うむ。紋次郎だな。分かった」

 一葉は頷いた。確かに変わった名だとは思うが、今はそんな些細なことを気にしている余裕はなかった。

 

「では余からも自己紹介しておこう。余は……」

 と、言い掛けたところで果たしてここで自らの名を明かしても良いのだろうかと疑問に思った。一葉は足利将軍の嫡子であった。

 

「どうした?」

 一葉が、名を口に出さずに躊躇していると紋次郎が聞いてきた。

 

「いや、何でもない」

一葉は、笑って誤魔化した。素性の知れない男に自らの名を明かすなど危険なことはないとも思えたのである。

 

「そうか、ならいいが」

 

「うむ。それで余の名は一葉じゃ」

 

「ほう、どこから来たんだい」

 

「うむ、駿河の者じゃ」

「駿河か、また遠くから来たもんだ。それで旅の途中で襲われたのかい?」

 

「………その通りじゃ。それも立派な武士にな」

 

「そりゃあ災難だったねえ。行き先どこだい?」

 

「京じゃ。一刻も早く向かわねばならぬ」

 

「へえ、京か。色々ときな臭い場所だけど、それでも行くのかい?」

 

「うむ。余はどうしても京に向かわねばならぬのだ」

 

「そいつはまたどうしてだい?」

 紋次郎が不思議そうに聞く。

 

「それは……」

 一葉は言葉を詰まらせた。自分の素性を明かすわけにはいかない。まさか現将軍の嫡子であるなどとは、たとえ命の恩人であろうとも言えるはずがない。

 

「すまぬ……言えぬ」

 

「そうかい。ま、なら聞かないでおくさ」

 紋次郎は気を使ってくれたのかそれ以上聞こうとはしなかった。一葉は、少しホッとした。ここで自分の素性を明かしたらどうなるのか想像がつかないからである。

 

 それから二人は少し話をした。お互いの身の上やこれから行く京の話などである。一葉も自分が将軍の息子であるということは伏せて、ただ京に向かわなければならないとだけ伝えた。

 紋次郎もそれ以上のことは聞かなかったし、自分も言わなかった。

 

「良かった。気が付かれたんですね」

 一葉のいる部屋に一人の女性がやって来た。彼の主である女性だろう。女は部屋に入るなり安心したような表情でそう言った。

 

 一葉は、上半身を起こしながら礼を言った。

「お主のおかげで助かった。かたじけない」

 

「いえ、お気になさらず。それよりも具合はどうですか?」

 

「うむ。大分良くなったようだ」

 

「そうですか、それはよかったです」

 女はそう言うとニコッと微笑んだ。一葉は、彼女の笑顔を見てどこかホッとするものを感じた。

 

「用事は済んだのかい?」

 紋次郎が女に尋ねる。

 

「はい。もう大丈夫です」

 

「そいつは良かった。貞子は?」

 

「おつかいです」

 

「そうかい」

 

「それで……」

 と、彼女はそこで一旦話を止めた。そして一葉に向き、じっと彼女の顔を見た。なんだというのだろうか? 一葉は首を傾げる。

 

「貴方はこれからどうなさるおつもりですか?」

 満足な体調でないことは一目瞭然である。どうするか、と問われても一人ではどうしようもなかった。

 

「……」

 

「盗み聞きするつもりは無かったのですが京に行くというお話が聞こえて来ました。そこでどうでしょうか。ご一緒しませんか?」

 

「それは……」と言いかけたところで紋次郎が横から口を挟んだ。

「そいつはいい」と頷いている。一葉は困惑気味に言った。

 

「……よいのか?」

 

「オレたちも京に向かうところだったんでな。同道がひとり増えたところでどうってことないさ」

 

「彼の言う通り。私たちも京に向かう所でしたから問題はありませんよ」

 と、彼女はにっこりと笑って言った。

 

「ほんとうに……?」

 

「旅は道連れ世は情けと言うじゃないか。それもこれも何かの縁さ。見たところお前さん頼る宛も金も無い、まさに無い無い尽くしとみたが如何に?」

 

「む……」

 

「それにその足じゃ歩くのも難儀なんじゃあないかな?」

 一葉は黙った。図星である。

 

「なら素直にオレたちと同道した方が良い。京にたどり着くのも早くなること違い無しさ」

 紋次郎は、一葉に言う。

 

「どうだい? 異論あるかい?」と主である女にも尋ねた。

「ありませんね」

 女は、笑って言った。

 

「そうか。すまぬ。……世話をかけるがよろしく頼む」

 

「おうとも。たっぷり世話を焼いてやるから心配しなさんな」

 紋次郎はあくまでも気楽に言った。

 

 彼らは見知らぬ自分に命を救い食事や薬を与えてくれたうえに寝床まで用意して施してくれたお人好しの者たちだ。決して悪人ではないだろうし自分を騙すような真似をするとも思えなかった。

 

 一葉は紋次郎という男の顔と声を見た。紋次郎は、ニッと笑った。笑うと意外と人懐っこい表情になる男だと一葉は思った。彼は紋次郎は奇抜な恰好をした、どちらかというと怪しげな風体の男である。だが中身は恐らく善人であろうと一葉は見ていた。

 

 主であると言う女もおそらくは同じだろう。二人は、自分を騙すようなことはするまいという確信があった。ならばこの二人と共に行くことにそれ程の危険はないだろうと思った。

 

 そんなこんなで翌日、京へ向けて出発した。

 

「ついでだ、金も少しばかり稼いでおこう」

 道中で、紋次郎が前を歩く秋子に声を掛けた。

 

 秋子は不思議そうな顔をして振り返る。

「はい? 金を稼ぐ、ですか?」

 

「ああ、そうだ」と紋次郎が頷いた。

 

「何かと金が必要になるだろうからな。オレぁ刀以外にも算盤も弾くんだ、ひと一人分の旅費くらいは稼いでみせよう」

 

 次の宿場町まではまだ少し距離がある。近くの村に立ち寄って今晩の宿泊地を借りると同時に路銀を稼ぐ必要があると判断していたのである。同道者が一人増え、その分だけ稼ぐ必要性も増えるというわけだ。

 

「え、ええと、なるほど?」

 秋子は眉尻を下げて困惑しながら答える。

「その路銀ってどのくらい必要なんです?」

 貞子が尋ねる。ちなみに一葉は紋次郎におぶ

られたまま眠っていた。傷の回復と疲労で、旅を始めてからの数日は眠り続ける日々が続くだろう。

 

「あるだけいい」

 紋次郎が淡々と答えた。

 

「ですがどうやって稼ぐんですか?」

 さらに貞子が尋ねてきた。紋次郎は、その質問に対してはにやっと笑うだけで答えた。

 

 秋子と貞子は顔を見合わす。二人は不思議そうに首をかしげた。

 

 日暮れも近づいた頃、一行の前に複数人の男たちが現れた。

一団の中には刀を持った男もいる。一目で堅気ではない男たちだと察せられた。よく目を凝らせば足軽が装備するような貧相な胴丸を着ているのが分かる。

 

 一団の中でも髭が目立つ男が進み出て

「女と荷物を置いて消えな」

 と、凄んだ。女たちというのは秋子や貞子のことだと思われた。

「見たところ足軽崩れか。オレからも尋ねたいのだがな。アンタらこそ金目の物さえ置いていけば命までは取らんが如何かな?」

 紋次郎が普段のふざけた調子で言う。すると男たちはおおいに笑った。そしてしばらく笑い続けた後に、やがて一団の中から髭を生やす男が口を開いた。

 

「阿保が。何いってんで、状況分かってんのかてめえ。女と金だけ置いてとっとと消え失せろって言うとんのや!」

 訛りから察するに彼らは京近辺の連中だろう。方言でまくし立てるのは流暢な標準語を操るよりもよほど印象が悪くなる。格好が悪いという方がより正確かもしれない。

 

「ほう。ならば致し方なし。敗者に情けはかけんぞ、貰えるものを貰わねばならんからな」

 芝居がかった口調でやれやれと大げさな動作を見せる紋次郎。しかし口元には笑みを湛えていた。

 

「秋子、この娘を任せた」

 紋次郎は一葉を秋子に預けた。秋子は無言で承諾する。

 貞子の刀が鍔鳴りの音を立てると同時に男たちは腰の刀を引き抜いた。

 

 紋次郎がずいっと、一歩前に出た。すると彼の前には髭男が立ちふさがる。紋次郎たちを囲むように他の男たちが散らばった。現れた足軽崩れの数は総勢七名である。

 

 各々が刀を手に持っていたり棍棒を持っていたりと、てんでんばらばらだった。

 髭男の手には大振りの刀が握られ、刀身は鈍く輝いている。もっとも侍というわけでもないのか形は粗悪なナマクラ刀であった。

 

 髭男は刀を正眼に構えた。そして無造作に踏み込んでくる。

同時に他の足軽崩れが横に回り込み、背後から貞子を捕まえようと迫った。

 

 成程、手段としては悪くはない。数に劣る集団ならば効果も相応にある。賢明な判断だろうと紋次郎は思った。京近辺で足軽をしている連中だと考えれば荒事には慣れている相手だが今回は相手が悪かったと言わざるを得ない。

 

 貞子は、素早く気配を察してくるりと後ろを向いた。

「ひぃ!」

 向かってくる男との間合いを瞬時に計る。敵の刀が届く範囲から確実に外れると同時、迷う暇もなく抜き身の刃で肉を断つ。

 

 彼女は抜刀術の遣い手だった。素早く距離を詰めてきた男の首に間髪入れずに刃を返す。ぼとりと首が地に落ちる。落ちた首は物も言わずに転がったままで、それに気付いたのか男の身体は足がもつれ地面に倒れこむ。

 

「う、うわぁ!?」

 死の現実に直面した男は叫ぶ。それを一顧だにせず貞子は次の獲物を視界に収める。

 

 男たちは慌てて逃げ始めるも恐慌に陥ったその動きは陸に上がった魚のように鈍い。たちまち追ってきた刃の錆となった。彼等は、たった二名を残し全てが首を落とされ絶命した。

 

 貞子は武器を懐紙で拭った後、腰に戻した。

「も、ものの一瞬で……貴様ら何者だ」

 髭男の言葉が終わらない内に紋次郎が刀を肩に担ぐように構え、刃を返すと横に凪いだ。呻き声ひとつ立てず男は倒れた。

 

「み、見えなかった……。余があやつの剣筋を捉えることができなかった……!」

 いつの間にか眠りから醒めた一葉は、その一部始終を黙って見ていた。彼女は知らず知らずのうちに身を硬くして戦闘に見入っていたことに今更ながらに気付いた。

 

「貞子といい紋次郎といいとんだ手練れだな。このような剣技を身に着けている者が余の領国に幾人もおったとはのう。どこぞの家に仕えていたのか……?」

 

「ふふ、さてどうでしょうか……」

一葉の呟きを聞き取った秋子が妖しく微笑みながら言う。

 

「……素っ気ない返答よな」

 一葉は眉を顰めた。秋子は微笑するだけで答えなかった。一葉もそれ以上聞くのは止めた。

 

「お二人ともお見事でした。あっという間のことで何がどうなったのか全くわかりませんでしたよ」 

 秋子は駆け寄りながら一葉と貞子に言葉をかけた。

 

「それにしても一体何者だったのでしょうか? 突然襲いかかってくるなど穏やかではございませんね」

 

「おおかた足軽崩れのゴロツキだろうさ。金に困って身をやつしたんだろう」

 紋次郎は秋子の言葉に答えると刀を軽く振って鞘に収めた。

 一葉はその流れるような動作をまじまじと見る中で気付く。

「あっ」

 小さく声を上げた一葉に気付いた貞子と紋次郎が振り返った。

 

「なんと! 紋次郎よ、その男は殺しておらぬのか!」

「おお、一葉殿。起きなすったか」

「暢気に返事をしておる場合ではなかろう! そいつはゴロツキ共の親玉、始末しておかねば何が起こるか分からぬぞ!」

 

「うん? ああ、まあ慌てなさんなよ。このオレに考えがあるのさ。言ったろう路銀を稼ぐとな」

 そう言うと、紋次郎は武器を構えたまま動くことができずにいる残りの足軽崩れの男たちの元へ悠然と歩み寄っていく。男たちからは恐怖と緊張が窺えた。

 

「さて、お前さん方に尋ねるんだがよお……。オレたちとやり合って命を失うか。それとも条件を飲んで生き永えるか、どちらを選べば良いと思う?」

 紋次郎の問いに男たちは震え上がった。死の恐怖に直面すると誰もが似たような反応をするものだ。だが彼らはまだマシな部類であった。小便を漏らしながらも必死の覚悟で「条件とはなんだ! み、見逃してくれて」と言い返した者もいる。彼等の態度にはそれなりの必死さも感じられた紋次郎はニヤリと笑ってみせる。

 

「そうさな、取り敢えず服と武器は置いて行って貰おうか」

「……たったそれだけで見逃してくれるというのか?」

 男が訝しげに返した。どうやら生に対する執着が人並み外れて強い男らしい。

 

 ──ふん、意外と小心者だな。

 再び笑みを浮かべて紋次郎は言葉を続けた。

 

「もちろんだとも、信じてくれよ。それともこのまま斬り合いを続けたいのか?」

 男たちは大きく目を見開いた。彼我の戦力差を正確に推し量ったのであろう。

 

「わ、分かった。従う」

 紋次郎は満足げに頷くと「おい」と気絶している髭男の顔をぺちぺちと叩いた。髭男の意識が戻ったようだった。

 

「よう、久しぶりだねえ」

「うぅ……お、お前は」

 

「単刀直入に言う。命が惜しくば服と武器を置いていきな。急げよ」

 紋次郎は刃を光らせながら念を押した。

 

「わ、分かった。言う通りにする」

 髭男が慌てて武器と衣服を脱ぎ始めた。もう考える気力も失せていたのかもしれない。彼らは最早一刻たりともこの場に居たくなかったに違いない。武器を持たず褌姿のままではあるが何とか身形を整えた三人組の足軽達は一目散に逃げ出していった。

「はーはっはっ、情けない姿よ」

 大分この世界に染まってしまっまな、と紋次郎は思った。

 

「よおし貞子、後は死んだ奴等の武器をいただくとしよう」

 

「はい分かりました」

 

「私もお手伝い致します」

 紋次郎たちは身ぐるみを剥ぎ、次々と武器を巻き上げていった。中には刀もあったがいずれも手入れが行き届いていない粗悪な品物であり戦闘に使うのにも不安を感じる代物であったのでそれらは後に売り捌くことになった。貞子は倒れた者の死体を改めると彼らの財布を抜き取っていったが、殆どが空であった。

 

「……仕方のないこととは言えあまり気分の良いものではないな」

 一葉が眉根に皺を寄せながら言った。

 

「オレにおぶられながら言う台詞かね」

 

「し、仕方ないであろう! 怪我の所為で身体に力が入らぬのだからっ」

 

「だがこれが戦国の倣いよ。生きる為には他者を蹴落とさねばならぬこともある。この乱世に足を踏み入れた以上、一葉殿も覚悟を決めねばなるまいよ」

 一葉は唇を嚙みしめ、苦悶の表情を浮かべたものの、やがて小さく頷いた。

 

「……そんなことは言われずとも分かっておる。だが彼等が賊に身を落としてまで生き足搔いておることが気にかかってしまうのだ。ううむ……」

 

 一葉はそう言って悲しそうに目を伏せた。それを見て紋次郎も口を閉ざした。まだ幼い時分とはいえ未来の足利将軍である。治めるべき民たちの現実を見て何を思ったのだろうか。

沈黙がその場を支配していたが、それは次の貞子の一言で掻き消された。

 

「……お二人はとても仲睦まじくって、私なんだか嫉妬してしまいますよ……」

 軽口を叩いた彼女であったがその表情はどこか哀しげであったように見えた。こころなしか瞳に光が宿っていない気がする。

 

「貞子! そなたは斯様な目で余を見ておったのか!?」

 一葉は驚いて叫んだ。

 

「いいえ違いますよ。単に紋次郎さんとくっついているのが羨ま……こほん、何でもありません……」

 いじらしくちらちらと、紋次郎に視線を送ってくる貞子に吹き出した。その姿はまるで小動物が物欲しそうにこちらを見ているかのようだった。

 

 秋子はくすくすと笑った後、貞子に向かって言った。

「もぅ貞子ちゃんたらそんなに拗ねないでください。ね?」

 

「むぅ秋子殿、別に拗ねてなどは……」

 貞子はもごもごと口の中で言い訳しながら赤面した。その仕草がますます小動物のようだったため紋次郎はさらに笑ってしまった。

 

「何が可笑しいんですか~? どうして笑うんです〜?」

 むくれたような顔を見せる貞子。そんな表情もまた魅力的だなと紋次郎は思った。

 

 そして笑いながら言った。

「いやすまなんだ。ついな……ククッ」

 悪びれた様子のない態度に対してなおも頬を膨らませる貞子だったが、やがて諦めたようにため息をついた。それから再び口を開いた。

「……まったくもう意地の悪い人ですね」

「ま、まさか。紋次郎と弥太郎殿はそう言う関係……?」

 するどい女よなと紋次郎は思った。

 



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