血の医療は救いとなるのか (4R1ES)
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過去編
#1 星の娘(懐玉1)


アニメ2期の話から始まります。
2期(懐玉・玉折)→映画→1期 の流れです。


 

 

 

 

 

 真っ暗な場所で、一人うずくまる小さな女の子がいる。

 声を殺して泣く少女の後ろに立った天内理子は、それが幼い頃の自分だと、霧がかる思考の中で理解した。

 

 ふと、正面に人が立っていることに気がついた。

 足元まである黒衣に、ゆったりとした白のローブを羽織り、胸元には鮮やかな水色のリボンが結ばれている。

 随所に刺繍が施された衣装は、クリスマスの時期にテレビで見た“聖歌隊”のものに似ていたが、顔の上半分を覆い隠す仮面のような飾りをつけた目隠し帽子が異質だった。

 

 その人物が帽子を脱ぎ、幼い自分と視線を合わせるために屈む。

 顔立ちからは、性別が判断できない。ただ、星空を閉じ込めたような美しい瞳が、幼い自分をみて一段と輝くのが不思議だった。

 少女が顔を上げれば、薄く笑みをたたえていた口が開かれる。

 

 その声は、焦がれた相手に愛を囁くよりも甘く。

 愛おしい我が子に語りかけるように優しい。

 

――美しい娘よ、泣いているのだろうか?

 

 慈愛と……狂気に満ちた声だった。

 

 

 

 

 

 東京都立 呪術高等専門学校――呪術高専の教室に、三人の少年少女が正座で並んでいる。

 教師を務めている1級術師、夜蛾正道は、昨日の任務で騒ぎを起こした生徒たちの前に座り、ため息をつきたい気分になった。

「この中に『“帳”は自分で降ろすから』と、補助監督を置きざりにした奴がいるな。そして“帳”を忘れた……。名乗り出ろ」

 夜蛾が男子生徒二人のほうを見る。すると、左右に座っていた家入硝子と夏油傑の二人が、真ん中に座る白髪の少年――五条悟を指さした。

「先生! 犯人捜しはやめませんか!?」

 元気よく手を挙げた五条を、やっぱりかと言いたげな夜蛾が見る。

「悟だな」

 もはや見慣れた光景となった“指導”が入り、スケジュールを確認してくると言った夜蛾が教室を後にした。

 

 

「そもそもさぁ。“帳”ってそこまで必要?」

 頭にたんこぶをつくり、ふてくされたように机に肘をつく五条が同級生を見る。

 呪霊も呪術も見えない一般人(パンピー)に見られたって構わないだろうと言う五条を、夏油がいさめた。

「駄目に決まってるだろ」

 呪霊は人間から流れ出た負の感情によって生まれる。呪霊の発生を抑制するのは、何より人々の心の平穏だ。

 そのためにも、目に見えない脅威は極力、秘匿しなければならない。

「それだけじゃない……」

 さらに続けようとした夏油を、五条が遮る。

「分かった。分かった。……弱い奴等に気を遣うのは疲れるよホント」

 五条はこの話題に興味を失ったようだが、夏油の話はまだ終わっていない。

「“弱者生存”それがあるべき社会の姿さ」

 弱きを助け、強きを挫く。

「いいかい悟。『呪術は非術師を守るためにある』」

「……それ正論?」

 聞いていないかと思った五条が反応したため、夏油が顔を上げる。

「俺、正論嫌いなんだよね」

「……何?」

 不穏になってきた二人を見て、家入は静かに教室を出る。

 五条の反論が始まった。

 呪術(ちから)に理由や責任を乗せるのは、それこそ弱者のすることである。

「ポジショントークで気持ち良くなってんじゃねーよ。オ゙ッエー」

 馬鹿馬鹿しいと、舌を出して挑発してくる五条の顔を見て、夏油が席を立った。

「外で話そうか……。悟」

 優等生の皮を脱いだ夏油に、五条が笑みを浮かべる。

「寂しんぼか? 一人でいけよ」

 一触即発。

 五条も立ち上がり、相手を黙らせるついでに校舎が破壊されようとした時、教室の扉が開いた。

 

 

「……硝子はどうした?」

 夜蛾が入室すれば、適当な返事をする男子生徒二人が大人しく座っている。

 自分が来る直前に喧嘩を辞めたことに若干の成長を感じつつ、夜蛾は教壇に立った。

 

 今回の任務に天元様が指名したのは、呪術高専二年、五条悟と夏油傑。

 “帳”を降ろすのを忘れたり建物を破壊したりと、色々と問題は起こすが、これについては歳を重ねれば落ち着くだろう。術師としては優秀だ。

 今回任務にあたるのはこの二人のため、家入を捜すのは後にして、先に説明を済ませることにする。

 任務内容は“星漿体(せいしょうたい)”――天元様との適合者の少女の護衛と……“抹消”だ。

 

 

 天元様は“不死”の術式を持っているが、“不老”ではない。

 ただ老いる分には問題ないが、一定以上の老化を終えると、術式が肉体を創り変えようとする。

 つまり人でなくなり、“意志”さえ持たない、より高次な存在へと“進化”する。

 高専各校、呪術界の拠点となる結界。多くの補助監督の結界術。それら全てが天元様によって強度を底上げされており、その力添えがなければ防護(セキュリティ)や任務の消化すらままならない。

 さらに最悪の場合、“意志”を失くした天元様が人類の敵となる可能性もある。

 そのため500年に一度、天元様と適合する人間、“星漿体(せいしょうたい)”と同化し、肉体の情報を書き換える。

 肉体が一新されれば術式効果もふり出しに戻り、“進化”は起こらない。

 

 

「その星漿体(せいしょうたい)の少女の所在が漏れてしまった……」

 深刻な顔をした夜蛾が、二人の生徒を見る。

「今、少女の()()狙っている輩は大きく分けて2つ!」

 

1.天元様の暴走による現呪術界の転覆を目論む、呪詛師集団「(キュー)

2.天元様を信仰・崇拝する宗教団体、盤星教(ばんせいきょう)「時の器の会」

 

「……だが、最も警戒すべきは、医療教会の上位会派『聖歌隊』に表立った動きがないことだ」

 天元様と星漿体(せいしょうたい)の同化は、2日後の満月。それまで少女を護衛し、天元様の下まで送り届けること。

 失敗すれば、その影響は一般社会までに及ぶ。

「心してかかれ!」

 

 

 

「でもさー。呪詛師集団の『Q』は分かるけど、盤星教(ばんせいきょう)のほうはなんで少女(ガキんちょ)殺したいわけ? あと『聖歌隊』って何? クリスマス?」

 星漿体(せいしょうたい)の少女が滞在するホテルへ続く街道を歩きながら、五条が夏油を見る。

 相変わらず、周囲の面倒ごとには興味がないらしい五条のために、夏油は説明を始めた。

 盤星教(ばんせいきょう)が崇拝しているのは“純粋な”天元様である。そのため星漿体(せいしょうたい)――不純物が混ざるのが許せず、同化を阻止するために少女の命を狙っている。

 だが、盤星教(ばんせいきょう)は非術師の集団。特段気にする必要はない。

「『聖歌隊』のほうは……“星の娘至上主義”とも揶揄されているね。彼らの表向きの組織は、『医療教会』を名乗る教会併設の医療法人グループだ」

 症例の少ない病気の治療・研究にも力を入れており、病み人たちが最後の望みをかけて訪れる場所とも言われている。

 不治の病だと言われていた罹患者の中には、病気ではなく“呪われていた”パターンもあるだろう。

 医療教会の信者には病み人だった者や親族も多く、教会の歴史が長いこともあって信者の層が厚い。

「その裏で、教会には高専傘下にいない術師――“狩人”と呼ばれる者たちが所属しており、フリーの呪術師だけでなく、呪詛師についても例外なく門戸を開いている。……警戒すべきだ」

 

 

 

 

 

 髪を三つ編みに結い、ヘアバンドで飾った少女が、制服のセーラー服にそでを通して姿見の前に立つ。

 天元様との同化の日まで、あと2日。

 手が震えそうになるのを、天内理子は()()()()()()()()()()()を握って誤魔化した。

 宇宙のような、星空の輝きを閉じ込めた石が嵌め込まれたペンダント――星の瞳の狩人証を、窓から差し込む光にかざす。

 誰にもらった物かも覚えていない、それの美しい輝きは、今朝に見た夢の人物の瞳に似ている気がした。

「お嬢様ー! 支度は終わりましたか?」

 ドアの外から呼ぶ黒井の声を聞いて、天内は慌ててペンダントを服の中にしまう。

 最後に前髪を整えてからドアを開けたとき、玄関の方から爆発音が響いた。

 

 

 

 

 

「始まったな」

 ホテルの一室から煙が上がっているのを展望台から遠目に見ながら、“殺し”の仲介役である(コン)時雨(シウ)は隣に立つ男を見た。

 少しヨレたスウェットの上下に、サンダル。平日の朝から競馬場をうろつくガタイのいい男は、とても堅気には見えない。

 ……子供と手を繋いでいなければ。

「……誘拐か?」

「俺のガキだよ。教会に寄るの面倒だから連れてきた」

 そう言った男に、父親らしいところがあったと驚けばいいのか、自分の仕事の内容を考えろと呆れればいいのか、孔は微妙な気持ちになる。

 その子供の方を見れば、お辞儀をした後に名前は「恵」だと教えてくれた。

「父の仕事のことは知っています。どうぞお構いなく」

 大人びた対応をする子供が心配になりつつ、父親との違いに誘拐疑惑を確信に変えてから、孔は依頼内容を伝えた。

 

 依頼主:盤星教(ばんせいきょう)

依頼内容:星漿体(せいしょうたい)の少女の暗殺

 

盤星教(ばんせいきょう)には呪術師や狩人と戦う力がねぇ。でも金払いはいいぞ。それは保証する」

「死にてぇなら一人でどうぞ。それか、聖歌隊(あいつ)を殺せる()()を捜してこい」

「無茶なこと言うなよ。……では本題。今回は“術師殺し”への依頼だ」

 

 依頼主:()()()

依頼内容:盤星教(ばんせいきょう)の解体

 

「それから……。星漿体(せいしょうたい)の少女と、その世話係の女の“誘拐”だ」

 

 

 

 自分には興味がないレースが始まるのを、恵は父親の隣に座って大人しく待つ。

 いくら空いている自由席とはいえ、前の座席に足をかけて座るのは非常識だろうと思いながら、恵は父親の胸元で揺れるペンダントを見た。

 鴉の狩人証――鳥の頭蓋骨を模したそれは、狩人狩りが代々1人だけにひっそりと受け継いできたもので、すり減っているのが見て取れる。

「父さん。“狩人専門の殺し屋”だって、勘違いされてるだろ」

 不服そうに恵が言うのを、甚爾(とうじ)が横目に見た。

「別に間違ってねぇだろ」

「違う」

 狩りに、血に酔った狩人――かつての仲間を狩る者は、まず強く、血に酔わず、また仲間を狩るに尊厳を忘れない。

 毎日のように通っている医療教会で、星空の瞳の人から聞いた言葉を反芻する。

 意味が分からずに首を傾げた自分に、あの人は嫌な顔せずに教えてくれた。

 父親は確かに強い。それに他の狩人たちと違って“血に酔う”こともない。

 だが、お金のために戦う父親には、尊厳というのはないと思う。

「その証は俺がもらうから」

 

 急に自分を超えると宣言した息子に、甚爾が笑って噴き出す。

 息を整えてから、まだまだ見下ろす位置にある小さな頭に手を置いた。

「やってみろ」

 不機嫌になった恵の頭を甚爾が撫でまわしていると、仕事を放ってきた自分たちを捜す時雨の足音が近づいてきた。

 

 

 

 

 

 




■補足
「伏黒の苗字について」
“伏黒”は津美紀の母の苗字かと思いますが、ここでは恵の母の苗字ということにします。


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#2 星の瞳(懐玉2)

今はまだ“狩人”の存在感が無いですが、次話くらいからヤバさを出していきたいです。


 

 

 

 

 

 廉直(れんちょく)女学院 中等部

 登校すると言って聞かない天内を授業に送り出した五条、夏油、黒井の三人が、学院の敷地内で隠れるように待機する。

 星漿体(せいしょうたい)を狙う輩に天内の居場所が割れている今、最も安全に過ごす方法は同化の時間まで高専の結界内に居ることだ。

 しかし、同化後は()()()()()()高専最下層で結界の基となる彼女のために、それまでは自由に過ごさせてやれというのが天元様のご命令。“家族”の黒井も同意見である。

 

 夏油が手持ちの呪霊を出し、校内と周辺を監視させる。

 天内を狙う輩、呪詛師集団の「Q」は、五条が今朝の襲撃時に最高戦力の術師を倒したため、組織としての機能はない。

 動きを見せない「聖歌隊」は天内の命を狙っている訳ではないが、天元様との同化も良しとしていない。

 目的が誘拐だとすれば、護衛役の三人のほうが危険に晒されていると言えるだろう。

 夏油が黒井から天内の話を聞きつつ、敵の情報を整理していた時、校内に放っていた呪霊の異常を感じ取った。

「……悟。急いで理子ちゃんの所へ」

「あ?」

 黒井に目配せをした夏油が、怪訝そうにする五条の肩を叩いて歩きだす。

「2体祓われた」

 襲撃者は「Q」の残党か、「盤星教」の差し金か……。半端に金や権力(ちから)を持った奴らなら面倒だ。

 特段気にする必要はないと思っていた非術師でも、金さえ積めば術師を動かせるのだから。

 

 

 

 

 

 学院襲撃の数時間前。

 呪詛師御用達の闇サイトに天内の情報を載せ終えた孔が、ターゲット写真と掲載内容が一致していることを確認する。

 それから、恵と共に昼食をとっているであろう甚爾に連絡を入れた。

 

天内理子(アマナイ リコ)

廉直女学院 中等部2年

生死問わず

 

 期限は2日後の午前11時までと短いが、居場所は割れている。この条件で非術師の中学生を相手に3000万円の懸賞金は破格と言えるだろう。

 ……五条悟がいなければ。

 五条が近くにいる限り、天内理子――星漿体(せいしょうたい)はまず殺せない。世話係の女についても、高専の連中が見殺すことはない。

 だから()()()()手付金を賞金にして、釣られた呪詛師を使い五条の周りの術師と五条本人の神経を削る。

 時間制限を短く設けるのも、“期間限定”だと、呪詛師に思わせることだけが目的ではない。

 電話越しに甚爾の計画を聞いていた孔が肩をすくめた。

依頼者(クライアント)を利用するだけ利用して潰そうとか、プロ失格だな」

 そんなことは欠片も気にしていない様子の孔の言葉を聞いて、甚爾が鼻で笑う。

「どうせ潰すなら、最期に役立てる。……まあ、今後の仕事のために上手く根回ししとけよ」

 依頼者殺しのうわさが立たないように。

「簡単に言うね」

「それに俺は役員だけで済ませてやんだから、お優しいもんだろ。“処刑隊”なら末端の一族まですり潰すぞ」

 医療教会が庇護せんとする、星漿体(せいしょうたい)に手を出した。処刑隊に粛清されるには十分すぎる理由だ。

 正義を掲げる奴らほど、狂っている者もいない。

 

「……恵。それ食ったら移動すんぞ」

 携帯電話を肩と耳で挟んだまま割り箸を割った甚爾が、テーブルの向かいに座る恵の持つたこ焼きの器に箸をのばす。

 器を両手で抱えた恵が身を引き、通話しながら姿勢悪く座っていた甚爾の箸は届かなかった。

 

 

 

 

 

廉直女学院 校門前

 襲撃者は、Qの残党でも、盤星教に雇われた術師でもない。

 呪詛師御用達の闇サイトで、天内の首に3000万円の懸賞金が懸けられている。

 

 夏油と合流し、状況を聞いた黒井は、先に天内の元へ向かうよう夏油を促した。

 五条の強さは聞いているが、万が一ということもある。

「……お嬢様からは何も奪わせない」

 彼女が小さいころから、事あるごとに胸に誓った言葉を呟いた黒井は、小さくなった夏油の背中を追いかける。

 しかし住宅街に入り、交差点に差し掛かったところで記憶が途切れた。

 

 

「めんそーれー!」

 元気な天内と五条の声がビーチに響く。

 自分が拉致されるという失態を犯してから、丸一日が経った昼。

 水着に着替えた黒井は、なぜか天内、五条、夏油の三人と共に沖縄の海にいた。

「まさか盤星教信者……非術師にやられるとは……」

「不意打ちなら仕方ないですよ」

 情けないと落ち込む黒井に、夏油が自分の責任でもあると声をかける。

 なぜ拉致犯が取引場所を沖縄に指定したのか、考えるべき点はあるが、楽しそうに遊んでいる天内を見ていれば、些細なことのように思えた。

 

 

 ナマコやヒトデを捕まえていた五条が、ふと天内が首から提げている星の瞳の狩人証(ペンダント)に目を向けた。

「……それ、どこで手に入れた?」

 片手でサングラスをずらし、現れた青空の瞳が、星空の石を捉える。

 鋭くなった五条の視線から守るように、天内がペンダントを握りしめた。

「ずっと前から持ってたから……。何かあるのか?」

 何か、と聞かれれば、今まで感じたことがない違和感がある。……気がする。

 だが、呪具や呪物という訳でもない。

「いや……。変わってんなって、思っただけ」

 サングラスを掛け直し、微妙な空気になってしまったことに五条が視線を逸らした。

 そんな五条の珍しい様子を見て、気まずいとか思うことがあるのかと驚いた天内は目を瞬かせる。

 それから、隙ありと叫んで五条の顔にナマコを投げた。

 

 

 

 

 

同化当日 15:00 (天内理子 懸賞金取り下げから4時間)

都立呪術高専 (むしろ)(ふもと)

 

 鳥居の立ち並ぶ階段を上り切った夏油は、五条、天内、黒井の三人を振り返って一息をついた。

「皆、お疲れ様。高専の結界内だ」

 高専に入るのは初めてなのか、少しはしゃいだ様子を見せる天内に苦笑して、一昨日から術式を解かず、睡眠もとっていない五条に向き直る。

「悟。本当にお疲れ」

「……二度とごめんだ。ガキのお守りは」

 夏油が声をかければ、憎まれ口を叩くのを忘れない五条が術式を解いた。

 今の五条になら、天内のビンタがよく効きそうだと、五条の言葉に反応した天内の声を聞きながら思う。

 夏油が三人を先導するために背中を向けようとしたとき、目の前で刃物の刺さる音が響いた。

 

 結界の内側に入っても感知されず、五条の背後をとった襲撃者。

 それは、報奨金が目当ての呪詛師とは比べ物にならない存在だった。

 

 

 

 

 

高専最下層 薨星宮(こうせいぐう) 参道

 襲撃者の相手は自分がすると言った五条の言葉に従い、夏油は天内と黒井を連れて天元様の元を目指す。

 昇降機の扉が開き、数歩進んだところで、黒井が立ち止まった。

「理子様。……私は、ここまでです」

 そう言って頭を下げた黒井を、天内が振り返る。

「理子様……どうか……」

 声を震わせて立ちすくむ黒井に、天内が抱き着いた。

「黒井。大好きだよ。ずっと……! これからもずっと!」

 泣きながら想いを伝える天内に、抱きしめ返した黒井も涙をこぼす。

「私も……! 大好きです……」 

 

 

 黒井を昇降機の部屋に残し、続くトンネルを抜ける。

 そこに広がるのは、天元様の膝元。国内主要結界の基底。薨星宮(こうせいぐう) 本殿。

「階段を降りたら門をくぐって、あの大樹の根元まで行くんだ」

 夏油の指さす先を、目をはらした天内が見る。

 そこは、高専を囲う結界とは別の特別な結界の内側。招かれた者しか入れない。

「同化まで天元様が守ってくれる」

 大樹を見据えたまま何も言わない天内に、夏油も一度、口を閉じた。

 今回、夏油と五条の二人が夜蛾から聞かされた任務は、星漿体(せいしょうたい)の“抹消”。

 “同化”ではなく、“抹消”。言葉を変えるだけでは誤魔化せない、ひとりの少女を犠牲にしようとする罪の意識を持てという、担任からの回りくどいメッセージ。

 それが分かっているから、星漿体の少女が同化を拒んだらどうするか。何ができるか。

 天内と会う前に、夏油と五条の間で話し合いは済ませている。

 夏油が隣に立つ少女を見た。

「それか引き返して……」

 黒井さんと一緒に家に帰ろう。

 そう伝えようとした少女が、視界から消えた。

 

 

 乾いた破裂音が響き、天内が居なくなったと認識すると同時に、左足に痛みが走る。……撃たれた。

 夏油が固まりかけた頭を回し、盾にするための呪霊を出したところで、次の銃声が鳴る。

 今度の銃弾は防ぎ、トンネルを振り返った夏油が見たのは、五条が相手になった襲撃者の男。

「なんで、オマエがここにいる」

「なんでって……。あぁ、そういう意味ね」

 絞り出すように声を出した夏油を、首を傾げた男が見返す。

「五条悟は俺が殺した」

「そうか……死ね」

 それは嘘だと、叫んだ方が楽だったろうか。

 だが、“俺達”は最強である。それを証明しなければならない。

 手持ちの呪霊の中から、夏油が特に強力なものを複数召喚する。決死の戦いが始まった。

 

 

 

 

 

医療教会 大聖堂

 信仰の高さに関係なく、一般人の立ち入りが許されていないその場所は、細かな彫刻が施された祭壇や大理石の柱に、絨毯の赤が映え美しい。

 しかし、参列者用の椅子もなく、ただ広い空間には、人を寄せ付けない何かがあるような、不気味な気配がある。

 荘厳よりも物々しいという言葉が似合うようだった。

 

 祭壇の前に立つ、“聖歌隊”の装束に身を包んだものが、親し気に甚爾(とうじ)に話しかける。

「誰も殺しませんでしたね」

 隣で見ていたかのような相手の発言に、甚爾はいつもながら得体の知れない気味悪さを覚える。

「呪霊操術のガキは、死後、取り込んでた呪霊がどうなるか分からん。……五条のガキは殺したぞ」

「そうですか?」

 楽し気に笑う様子に顔をしかめてから、甚爾が長椅子に横たわる二人の女性を示した。

星漿体(せいしょうたい)……“星の娘”天内理子と、その世話係の黒井美里。じゃ、もう一つの依頼も片付けて来るわ」

 これ以上話すつもりはないと背中を向け、大聖堂の入口へ進む。

 甚爾は礼拝のために教会を訪れたことは一度もないが、妻や息子がここに来ていれば、祈りの言葉を口にするだろうと考えた。

「……君たちは弱く、また幼い」

 礼拝に訪れたことはない。だが、二人の声でほぼ毎日聞いているせいで、祈りの言葉は覚えてしまった。

「恐れを失くせば、誰一人君を嘆くことはない……」

 それは、誰への警句だろうか。

 

 

 

 

 



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#3 聖歌隊(懐玉3)

 

 

 

 

 

――美しい娘よ、泣いているのだろうか?

 どこか懐かしい、優しい声がする。

 天元様の膝元、薨星宮(こうせいぐう)の本殿を進み、皆と会えなくなることに涙を流していた天内は、目元をなぞられる感触に意識を浮上させる。

 しばらく目を閉じたまま柔らかなクッションに身を任せ、ゆっくりと瞼を開いた。

 視界いっぱいに、たくさんの蝋燭(ろうそく)に照らされた祭壇が広がる。

 学院にある礼拝堂より数倍大きく、年季の入ったその場所――大聖堂は、人々に忘れ去られたような寂しさがあった。

 大きな窓から差し込む光に、高専に着いてから時間はあまり経っていないと分かる。

 身体を起こすと、隣には自分と同じように長椅子で眠る黒井がいた。

 そして、祭壇の前で祈りを捧げるのは……幼いころの夢で見たのと同じ、聖歌隊の装束に身を包んだ人物。

「どうしてここに居るの……?」

 どうして自分がここに居るのか。どうしてあなたがここに居るのか。

 少女の出した小さな声に、星空の瞳が振り返った。

 

 

 大聖堂の膝元にあった孤児院は、かつて医療教会による学習と実験の舞台となり、幼い孤児たちは、やがて医療教会の密かな頭脳となった。

 上位者――人智を超えた存在との一致を、人類の“進化”を試みた結果、やはり人の思考の次元を超えられなかったものたち。

 それが“聖歌隊”。教会の最上級聖職者たちの始まりである。

「聖歌隊は見捨てられた上位者――“星の娘”と共に空を見上げ、星からの(しるし)を探しました」

 そうしていつか、超越的思索に至ることが聖歌隊の(よろこ)び。悲願だと信じていた。

「……彼女を失うまでは」

 失って初めて、星の娘と共に在ることこそが歓びだったと、聖歌隊は気が付いた。

 しかし、嘆きの祭壇で祈る彼女の望みが何であったかを知る(すべ)もない。

「君をここに連れて来たのは、“星漿体(せいしょうたい)”と呼ばれる君に、彼女の姿を重ねた私のエゴです」

 天内が幼いころから持っていたペンダント――星の瞳の狩人証を握る手を、黒の長手袋をした手でそっと包まれる。

「さぁ、聞かせてください。……君はこれから、どうしたいですか?」

 恭しく片膝をつき見上げてくるその人は、下手(したて)に出ているように見えて、答えるまでは手を離さないと思わせる迫力がある。

「あの少年たちも、君に同じことを聞きますよ……」

 美しい星空の瞳が、一段と輝いた。

 

 

 知らない場所で、自分と黒井を攫ったであろう人物が、自分の手を握っている。

 異常事態であるはずなのに、天内は自分に語り掛ける声に、見つめてくる瞳に、なぜか安心感を抱いていた。

 その瞳が肌身離さず着けていたペンダントと同じ、星空の輝きをしていたからだろうか。

 もしくは天元様とは関わりのない、それでいて天内の境遇を知っている相手だからか……。

 これからどうしたいのかという問いに、黒井にさえ吐露できなかった気持ちがこぼれた。

 

 天内は生まれた時から星漿体(とくべつ)で、皆とは違うと言われ続けていた。

 そんな彼女には星漿体(とくべつ)が普通で、同化の日のためだけに、危ないことはなるべく避けて生きてきた。

 でも、ある日……両親との思い出が途切れた。

「お母さんとお父さんがいなくなった時のことは、覚えていないの。もう悲しくも寂しくもない」

 だから同化によって、皆と離れ離れになっても大丈夫だと思っていた。

 どんなに辛くても、いつか、悲しくも寂しくもなくなると……。

「でも、やっぱり……もっと皆と、一緒にいたい……。もっと皆と色んな所に行って、色んな物を見て……もっと!」

 ペンダントを握る手に力が入る。そうするのは、美しい星の輝きが自分を導くと信じているから。

 何かを決めるとき、自分を奮い立たせたいときには、その輝きを眺め、握りしめていた。

 今もそうして――不意に、このペンダントを貰った時の、幼いころの記憶がよみがえった。

 声を上げずに泣く自分の前に現れた、輝く三つの星。

 それは、今、目の前にいる人物と()()()()()姿で……胸元には星の瞳の狩人証(ペンダント)が揺れていた。

 天内が息をのみ、星空の瞳の輝きを見つめ返す。……目の前のものが何であるか、気づいてはいけない。

「“星漿体”としての君は死に、この“夢”を忘れ……誰に庇護されることもない、一人の少女として目覚める」

 そう囁いたのは、狂気が隠された甘く優しい声。

「すべて、長い夜の夢だったように……」

 

 

 微睡(まどろ)んでいた天内の耳に、大好きな人の声が届く。

「……理子様!」

 はっとして目を開ければ、黒井が自分の手を握ってくれているのが分かる。

 何かを掴んでいた気がするが、繋がれた手の中には何もない。

 起き上がって祭壇の方を見ても誰もおらず、灯りの消えた蝋燭が並んでいた。

「理子様。どうかなさいましたか?」

「黒井……私は……」

 困惑する天内を見て不思議そうに首を傾げていた黒井が、繋いだ手にこめる力を強める。

「帰りましょう。理子様。……皆と色んな所に行って、色んな物を見るために」

 そう話す優しい声に、天内は肩に入っていた力を抜いた。

 ここに夏油が迎えに来るらしいと話す黒井にうなずき、大聖堂を見渡す。

 あの襲撃者の手から逃れるため、二人だけここに転移させられたのだろうか。

 それにしては変なタイミングだったし、高専に西洋風な建物があるとは知らなかった。

 本当は、ここに誰かいたか、何かなかったか、聞かなければならないことがたくさんある。

 でも、隣に座る黒井の横顔を眺めていれば、ただ“長い夢を見ていた”と、そう思うのが一番いい気がした。

 

 

 

 

 

 都内にある“医療教会”の敷地内を、夏油が駆ける。

 襲撃者は、あの場で天内を殺さなかった。

 そのため医療教会が関係していると当たりをつけて来たが、五条が先に来た様子はない。

 そもそも、五条は医療教会と盤星教のどちらに向かった?

 教会の扉を開き、中には熱心に祈りを捧げる信者たちしか居ないのを確認して、元来た道を振り返った。

「“星の娘”は、大聖堂に居ますよ」

 焦り始めていた夏油が、急にかけられた言葉に足を止める。

 他の信者とは明らかに違う、聖職者らしいその人は、通りがかった信者たちに深々と頭を下げられていた。

「呪術高専の方ですよね? ……かつては私も、呪術師をしていました」

 

 

 夏油は大聖堂までの案内を申し出てきた、その人の服装を後ろから観察する。

 肉弾戦を好むのか、腕は分厚い手甲で覆われており、教会の装束らしく聖布が厚く垂らされている。

 顔を覆えば外見から人物を推察するのが難しい、着ぶくれして見えるその装束は“処刑隊”のものであった。

 そんなことは知る由もない夏油が、前を歩く人物に声をかける。

「……なぜ、狩人になられたのですか?」

 夏油たち高専生は、夜蛾から「狩人とは極力、関わるな」と言われていた。彼らは人の道理で生きていない、とも。

 だから任務中に狩人らしき者とすれ違ったことはあるが、話すのはこれが初めてだ。

「私は、それ以外に生きる道がなかったので……。君は? 何のために呪術師をしているんですか?」

「『非術師を守るため』です。それが強者(じゅつし)としての責任であり、“弱者生存”こそが、社会のあるべき姿かと」

 数日前、五条にも話した内容を伝える。

「なるほど。でも……“狩人”のほとんどは、その“弱者”である非術師ですよ」

「えっ……?」

――医療教会には、高専傘下にいない術師――“狩人”と呼ばれる者たちが所属している。

「いや……あなた方は、呪霊を祓うでしょう?」

 呪いは、呪いでしか祓えない。

 信じていない様子の夏油を見て、その人が自嘲気味に笑った。

「我々は“呪われて”います。……“呪物”を取り込むことで呪霊を視認し、祓える力を得ているようなものです」

 医療教会は“血の医療”により、新たな狩人を迎える。

 上位者――人智を超えた存在の血の“輸血”により、呪霊を含めた人ならざるものを知覚し、その身に宿した呪いによってそれらを祓う。

 ……そしていつか、自らも(呪い)に身を(やつ)すのだ。

「しかし、最初から“持っていた”私と違い、彼らが呪力や術式を得ることはありません」

 普通は3級程度の呪霊が祓えれば御の字。

 だが、人の理を外れた狩人は、主に呪霊――“獣”を狩り、血を浴びることで、その遺志を力とする。

 ()()()()()、狩人の武器と肉体を変質させる。

狩人(ひじゅつし)は弱者ではない。だから、たまに現れるんですよ……。経験と執念だけで、特級呪霊を殴り殺すような豪傑が」

――我ら血によって人となり、人を超え、また人を失う。

 それは、狩人たちの間で語り継がれる警句。

「知らぬ者よ……かねて血を恐れたまえ……」

 

 

 かける言葉の見つからない夏油が、気まずい沈黙を耐えて歩いていれば、先ほど見た教会より二回りは大きい大聖堂が見えてきた。

「……少し、話し過ぎてしまいましたね」

 先導していたその人が振り返り、こちらに手を伸ばす。

「これを……。“強者”であろうとする君に、先輩からの餞別です」

 そう言って差し出されたのは、狩人が協力を求める際に鳴らす神秘の鐘――狩人呼びの鐘。

「困った時に鳴らしてくれれば、君の元へ()()()いきますよ」

 受け取った夏油が試しに鐘を揺らすが、音の鳴る気配はない。この“お守り”を渡す際の決まり文句なのだろうか?

「自分で言うのもなんですが……。私が勝てない相手をどうにかできる人なんて、ほとんどいませんよ」

「ええ。だから()()()()に鳴らしてください」

 いや、そもそも音が鳴らないだろう。

 言い返そうとした夏油だが、その人が恭しく、どこか芝居がかった一礼をとったため言葉を飲み込む。

「では、私はここで失礼します。……君に会えてよかった」

「こちらこそ……。案内、ありがとうございました」

 深く礼をしてから大聖堂へと足を向けた夏油の背中に、また声がかけられる。

「獣狩り……呪術師は貴い業です。お互い、この街を清潔にいたしましょう……」

 そう言って笑う姿は、白の装束に包まれているはずなのに、全身が暗い血の赤に塗れているように見えた。

 

 

 

 

 



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#4 狩人狩り(懐玉4)

 

 

 

 

 

盤星教(ばんせいきょう)本部 星の子の家

 広大な敷地内に建てられた施設の中でも特に目を引く建物の廊下を、甚爾(とうじ)と孔が並んで歩く。

「あれで全部だな?」

 武器庫である呪霊を身体に巻いた甚爾が問えば、孔は煙草に火をつけながら返す。

「各支部長、代表役員、会長。その他、太客……。こうも集まってくれるとは、“術師殺し”への信頼が厚いな」

「……ありがたい事で」

 欠片も嬉しくなさそうに言う甚爾が続ける。

「教徒への報告から戻った会長が『皆にも紹介したい』とか言いだした時は、マジで終わってると思ったね」

 顔出しして喜ぶ殺し屋がいるかよ。

 今回みたいな例外を除いて、殺し屋と依頼者(クライアント)が直接会うことなんて滅多にない。何のために仲介役がいると思っているんだ。

「それと、一人になったメイドが殺されないよう、一度回収した時のあれ」

 捕らえた人間を沖縄へ連れて行ったのも意味が分からんとぼやく甚爾に、孔が笑って答えた。

「なんとプライベートジェット。会長の私物だとよ」

「だとしても、だろ」

「金持ちは考え方のスケールが違う」

 茶化す孔に、呆れていた甚爾も乗ることにした。

「その金で飯食おう。接待に使ってる店、連れてけよ」

「嫌だよ。家で家族と食ってろ。……オマエと関わるのはな、仕事か地獄でだけって決めてんだよ」

 家族を引き合いに出された甚爾が、舌打ちをして孔と別れる。

 別に苛立った訳ではない。だが、一人で寂しく食ってろと、遠ざかる背中に声をかけてから、二人の待つ医療教会に足を向けた。

 

 

 

 

 

「よぉ。久しぶり」

 石畳を歩く甚爾の前に立って声を掛けてきたのは、先ほど天逆鉾(あまのさかほこ)で刻み、殺したはずの五条。

 驚きを表面に出すことが少ない甚爾でも、これには目を見開いた。

「……マジか」

「大マジ。元気ピンピンだよ」

 そう言って前髪をかき上げた五条の額には、確かに自分の付けた刺し傷が残っている。

 治療なんて間に合うはずがない。確実に死ぬように刺した状態から、不完全ながら再生している。

「……反転術式!」

「正っ解っ!」

 負の力である呪力では、肉体の強化はできても再生することはできない。

 だから負の力同士を掛け合わせて、正の力を生み出す。

「それが反転術式」

 ハイになっているのか、目を爛々とさせた五条はよくしゃべる。

「オマエの敗因は俺を首チョンパしなかったことと、頭をブッ刺すのに()()()()を使わなかったこと」

「……敗因?」

 五条の言い草に、黙って聞いていた甚爾が言葉を返した。

「勝負はこれからだろ」

 強者との戦いが始まる予感に、自然と笑みがこぼれる。

 天逆鉾(あまのさかほこ)――発動中の術式を強制解除する呪具を呪霊から引き抜き、一気に加速した。

 

 

 高専で戦ったときには使われなかった衝撃波――“赫”に、甚爾の身体が数百メートルは弾き飛ばされる。

 五条は死に際に呪力の核心を掴んだことで、術式反転も会得していた。

 背後にあった建物――星の子の家の天辺に衝突して止まった甚爾の額が切れ、傷口から左目にかけて血が流れる。

 それを拭うことはせず、まずは腕を伸ばして骨が折れていないことを確認した甚爾は、天逆鉾に呪霊から引き出した万里ノ鎖――際限なく伸びる鎖を繋ぎ、慣らすようにそれを回した。

 

 五条の使用する力は、次の3つ。 

1.“止める力”ニュートラルな無下限呪術

2.“引き寄せる力”強化した無下限呪術「蒼」

3.“弾く力”術式反転「赫」

 止める力は元より、引き寄せる力は鎖のリーチを得た今、天逆鉾でかき消すか、甚爾自身の足でちぎれる。

 弾く力も、タイミングさえ外さなければ天逆鉾を盾にしのげる。

 全て……“問題なし”。

 そう判断して仕掛けようとした甚爾と、五条の目が合った。

――違和感

 いつもの自分なら「タダ働きなんてゴメンだね」と言って、さっさと帰っているこの状況。だが……。

「……いや、これでいい」

 久しく感じていなかった()()()に身を任せる。

 目の前には、覚醒した無下限呪術の使い手。恐らく現代最強となった術師。

 それを否定して、ねじ伏せる。

 ……自分を肯定するために、いつもの自分を曲げる。

 自分を否定した禪院家、呪術界。その頂点を――。

「殺す」

 突き動かすのは、捨ててきたはずの“自尊心”。

 天逆鉾を投げた甚爾に、五条が印を結んだ腕を伸ばした。

 空いた左手に甚爾が握ったのは、使い慣れたもう一つの武器。“狩人狩り”が代々受け継ぐ、二種の曲刀を重ねた希少な隕鉄の刃――慈悲の刃。

 それを五条の攻撃に備え、構えた瞬間。

「“狩人狩り”が、狩りに酔ってはいけませんよ」

 得体の知れない聖歌隊(あいつ)が目の前に現れたことで、反射的に一歩下がった。

 

 

 五条が放った“茈”の衝撃で舞った土煙が晴れた。

 確実に捉えたと思った男と五条の間に、知らない人物――“聖歌隊”の装束を身に着けたものが立っている。

 二人の足元には、天内のペンダントに似た違和感のある黒刀と、仮面のような飾りのついた帽子が落ちていた。

 乱入者に驚いているらしい男に、左腕はない。そして乱入者には……右腕と、胴体の半分がなかった。

 平然と立って何かを話している乱入者に、五条は当惑する。

 一般人程度の呪力しかないようだが、()()()()術式なのかと相手をよく視ようとして……振り返った星空の瞳と目が合った。

 人間でも、呪霊でもない。理解が追いつかないその中身に、思考が停止する。

 頭に流れ込むのは、人間が生きているうちに知り得ることのない知識。至ることのない思索……。

 相手から視線を逸らすことができず、知りたくもないそれらを六眼を通して理解しようとしてしまう。

 酷使しすぎた脳が、悲鳴を上げていた。

 

「まだ、視てはいけませんよ」

 いつの間にか近づいていたらしい乱入者の()()が、五条の両目を覆う。

「人の身でありながら、そのような“瞳”を授かるとは素晴らしい……。でも、君はまだ幼い」

 悪戯した子供に言い聞かせるように話す乱入者の手が離れ、俯きながら膝をついた五条は止めていた息を吐く。

 ゆっくりと瞼が閉じられる青空の瞳を見据えるのは、奥行きの見えない星空の瞳だった。

 

 

 

 

 

 医療教会の大聖堂にて天内と黒井の無事を確認した夏油は、ひとまず二人を連れだすことはしなかった。

 天内が天元様との同化を拒んだ時は、同化はしない。

 五条と決めたそれを実行するなら、高専には連れて帰れない。

 あまり気が乗らないが、同化の期限が過ぎるまでは医療教会に居るのが最適だった。

 二人にそのことを説明した夏油が五条を追って訪れたのは、盤星教本部、星の子の家。

 至る所が崩れ落ち、明らかに戦いの跡が残る建物だが、内部に被害は無いように見えた。

 案内表示を確認し、ホールを迂回した奥の廊下へ向かう。

 その先にある控室の扉に、高専の制服を着た人物が入っていくのが見えた。

 

 扉を開いた先に広がっていたのは、刃物で突き刺されたらしい人々の遺体。それらには目もくれずに進む五条を、夏油が呼び止めた。

「悟……」

 声が聞こえなかったのか、ホールと書かれた扉を開いた五条が、幕の下りた舞台を進む。

 近寄りがたい雰囲気の五条に気圧され、数歩遅れた夏油が慌てて舞台を進めば、五条の手によって幕が取り払われた。

 

 拍手と共に笑顔で二人を迎えたのは、盤星教の信者たち。

 何を勘違いしたのか、「星漿体(けがれ)を排した恩人だ」と口々に言われ、五条の顔が強ばる。

 それを見た夏油が天内は生きていることを告げようとして……。

「傑。コイツら……殺すか?」

 向けられた五条の暗い視線に、息を止めた。

「今の俺なら、多分、何も感じない」

 喧噪の中でもよく通る五条の言葉に、一瞬でも魅力を感じてしまった自分に嫌気がさす。

 ……誰かの死を喜ぶような連中であっても、非術師は守らねばならない。

「いい。意味がない……。理子ちゃんも黒井さんも無事だ」

 やっと告げられた二人の無事を聞いて、五条の目に光が戻り、その後すぐに伏せられる。

「そうか……。でも、意味ね……。それ、本当に必要か?」

「大事なことだ。……特に術師にはな」

 五条に目配せをした夏油は、道を空ける信者たちの間を通り、出口を目指す。

 ……人々の手を打つ音がうるさい。向けられる視線が目ざわりだ。

――お互い、この街を清潔にいたしましょう……。

 ふと、脳裏に響いた言葉を忘れるように、額を手で押さえて頭を振った。

 

 

 

 

 

 医療教会の傘下にある都内の病院。その病室で、ベッドに寝転がった甚爾がため息をつく。

 自分も他人も尊ぶことない。

 そういう生き方を選んだはずなのに、分不相応に家族を持って、捨てたはずの自尊心で死にかけて。

「だっせぇ……」

 そう呟けば、ベッド横の椅子に座って船を漕いでいた恵が、眠たげな目をこちらに向けた。

 この息子は、今、医者から説明を受けているであろう妻にはあまり似ず、自分と同じ禪院らしい顔立ちに育ってきている。

 そのことを残念なような、少し嬉しいような複雑な思いで見ていた。

 

 首から提げていた鴉の狩人証を右手に取り、その革紐に、瞼を擦る恵の頭を通す。

 驚いてこちらを見上げた頭に手を置くが、先日のように嫌がられることはなかった。

――まず強く、血に酔わず、また仲間を狩るに尊厳を忘れない。

 それは、狩人狩り――辺境の異邦者たちが、狩人証と共にひっそりと受け継いできた理念。

 前々から、自分に狩人狩りは似合わないと思っていた。

 それでも後継に選ばれたからと、今まで何となく続けていた。

 しかし、強くあろうとして戦いに酔い……家族を忘れた自分には相応しくない。

「俺は自尊心を持つとロクなことにならねぇ。……だがオマエは、自分も他人も尊ぶことを忘れるな」

 そうして……この呪われた証が任せられるように、早く大きくなればいい。

 

 

 

 

 



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#5 血の医療(玉折1)

 

 

 

 

 

 あの日……天元様と星漿体の少女の同化の日。

 満月を迎えた時、“天内理子”は、この世にいなかった。

 

 そして同じ日、ある教会では一人の少女が()()()()()

 目覚めた少女の名前も素性も、知る者はいなかった。

 だが、彼女は確かに“医療教会の孤児院で育った”と、その記録だけが残されている。

 

――“星漿体”としての君は死に、この“夢”を忘れ……誰に庇護されることもない、一人の少女として目覚める。

 これは、誰の記憶にも残らない言葉。

――すべて、長い夜の夢だったように……。

 

 

 

 

 

2007年 8月 星漿体(せいしょうたい)の少女の()()()()から一年後

 

 髪も整えず、部屋着のまま高専内の休憩所にあるベンチに腰かけた夏油が、ポケットから携帯電話を取り出す。

 今日の日中は、任務の予定は入っていない。少しでも睡眠をとるべきかと思ったが、ひとり自室で過ごす気分にもなれなかった。

 開いた携帯の画面に「新着メッセージあり」の文字が表示されるので、無視して画面を閉じそうになる。

 急な任務かと思って眉間にしわを寄せていた夏油は、差出人の名前を確認して表情を緩めた。

 先ほど届いたらしい写真付きのメールは、自分や親友を兄のように慕っている少女からのもの。

 “特別”なところなんて何もない女の子。「また、皆で海に行こう」と、“家族”に撮ってもらったであろう写真に添えられた文字を指先でなぞる。

「皆で、か……」

 自分以外の人間がいない空間に、夏油の声が響いた。

 

 

 あの時の襲撃者――伏黒甚爾(とうじ)との戦いを経て、五条悟は最強となった。

 最近、夏油が彼に会ったのはいつだったか……。今の五条は、任務も全て一人でこなす。

 家入が危険な任務で外に出ることがないのは、前から変わらない。

 だから必然的に、夏油も一人で過ごすことが増えた。

 

 夏油の術式、呪霊操術は降伏した呪霊を取り込み、自在に操る。

 毎日、毎日。蛆のように湧く呪霊を祓い、取り込み、自身の力とする。

 その繰り返し。

 だが、皆は知らない。呪霊の味……。

 吐瀉物を処理した雑巾を丸飲みしている様な……。

 

――呪術は非術師を守るためにある。

 

 親友に言った言葉を、自分自身に言い聞かせる。

 全ての人間を、守りたいと思えるはずがない。醜悪な人間というのは存在する。

 それを知った上で自分は、人々を救う選択をしてきた。

 これは強者(じゅつし)としての責任。……ブレてはいけない。

 

 夏油が一年ほど前に思わず受け取ってしまった小さな鐘――狩人呼びの鐘をポケットから取り出す。

――困った時に鳴らしてくれれば、君の元へ()()()いきますよ。

 何となく持ち歩いているそれを揺らすが、いつも通り音は鳴らない。

 この鐘の渡し主――後に医療教会に仇なす者を粛清する“処刑隊”だと知ったあの人は、狩人は“主に”呪霊を狩ると言った。

――お互い、この街を清潔にいたしましょう……。

 あの日から時折、脳裏に響く。……()()()する。

 対象は、呪霊と呪詛師。そして恐らく――。

“猿”(ひじゅつし)……」

 誰が言ったかも覚えていない言葉がでた。

 それは狩人(かれら)の言葉を借りるなら……“獣”だ。

 

 

 

「あ! 夏油さん!」

 自分の思考とは真逆な、明るい声に夏油が顔を上げれば、一年後輩の灰原が駆け寄ってくるのが見える。

 名前を呼ぶと、姿勢を正した彼が元気よく挨拶をくれた。

 肩に入っていた力を抜き、夏油は休憩所の自動販売機に目を向ける。

「……何か飲むか?」

「えぇ!? 悪いですよ……。コーラで!」

 言葉でのみ遠慮して、素直に缶を受け取る手を出してくる後輩に笑いが漏れる。

 隣に座った灰原が話すのを聞いていると、嫌な考えが消えてありがたかった。

 

「それって、何かの呪具ですか?」

 手の上で遊ばせていた物を気にする灰原の問いかけに、夏油が答える。

「悟が言うには、呪具とは違うらしい。でも、誰にでも鳴らせるわけじゃない」

 そう話しながら、夏油は握った鐘を灰原に差し出した。

「私と悟と硝子の三人で試したが、この鐘を鳴らせたのは悟だけだった。……何も起こらなかったけどね」

 五条悟には鳴らせた。その事実が、自分と彼とでは立っている場所が違うと言われたようで引っかかる。

 今さらだが、律儀に持ち歩いているのも馬鹿らしくなってきた。

「……明日も任務かい?」

 話題を変えようと思って問いかければ、同期との任務が楽しいらしく、笑顔で返される。

「はい! 明日の任務は、結構遠出なんですよ」

「そうか……。なら、移動中に七海と二人でこの鐘を調べて、鳴らし方を探してくれないか?」

 五条にだけ鳴らせるというのも悔しいと、適当に手放す理由をつけて灰原の手に握らせる。

 帰ってきたら結果報告を頼むと続けた夏油に、灰原が大きくうなずいた。

 

 

 受け取った鐘を丁寧にポケットに仕舞う灰原と、その様子を眺める夏油が口をつぐむ。

「……灰原。呪術師、やっていけそうか? ……辛くないか?」

 沈黙を破った夏油の唐突な質問に、灰原は少し驚いてから、口元に手を当てて考える。

「自分はあまり、物事を深く考えない性質(タチ)なので……。自分にできることを精一杯頑張るのは気持ちがいいです」

 そう言って向けられたのは、自分がいつの間にか忘れてしまった想い――ただ目の前にいる人を、家族や友人を守りたいという純粋な想いに満ちた瞳。

 夏油がまぶしさに顔を背け、視線を落とした。

「そうか。……そうだな」

 なんとか返事をしたところで、誰かが靴音を響かせて近づいてくるのが分かる。

「君が夏油君?」

 目の前で立ち止まり、声をかけてきたのは、会ったことのない長身の女性。

 不敵な笑みを浮かべる彼女が、口を開いた。

「どんな女が……好み(タイプ)かな?」

 返答に困る質問をする人だが、天元様の結界に反応がないということは、おそらく高専の関係者だろう。

 だが、何の警戒もしていない後輩との間にいつでも入れるように、夏油は壁に預けていた身体を起こした。

 

 

 灰原と入れ替わるように夏油の隣に座ったのは、特級呪術師の九十九(つくも)由基(ゆき)

 高専とは方針が合わないと言う彼女が語るのは、呪霊の原因療法――発生した呪霊を狩るのではなく、呪霊の発生しない世界を作ることについて。

 そもそも呪霊とは、人間から漏出した呪力が(おり)のように積み重なり、形を成したもの。ならば、呪霊の生まれない世界の作り方は二つ。

 

1.全人類から呪力をなくす。

2.全人類に呪力のコントロールを可能にさせる。

 

 ちなみに、今の九十九の方針は「全人類に呪力のコントロールを可能にさせる」ことである。

「知ってる? 術師からは呪霊は生まれないんだよ。……もちろん、術師本人が死後呪いに転ずるのを除いてね」

 術師は非術師と比べて、呪力の漏出が極端に少ない。つまり、全人類が術師になれば呪いは生まれない。

 その言葉を聞いて、夏油の頭に呪いを生むことしかできない、醜悪な“猿”(ひじゅつし)たちの顔が浮かんだ。

「じゃあ……非術師を皆殺しにすればいいじゃないですか」

 思わず出た声に、口を滑らせたと夏油が焦る。

 しかし、返ってきたのは「それは“アリ”だ」という肯定の言葉だった。

 驚きで固まった夏油を気にせず、九十九は「非術師を間引き続け、生存戦略として術師に適応させる“進化”を促す」ことが一番簡単(イージー)な方法だと語る。

 「だが残念ながら、私はそこまでイカれていない。それに“狩人”たちを皆殺しにするのは、骨が折れると思うよ」

 そう言って肩をすくめる九十九は、狩人たちの何を見たのだろうか。

 

「彼らは……“狩人”とは、何なのでしょうか」

 夏油の呟きを聞きながら、九十九は一度、姿勢を正し、後ろの壁に背中を預けて足を組みなおす。

「“呪い”だよ」

 人の道を捨て、怪しい医療に頼ってでも、叶えたい何かを抱えていた呪い。

「その中でも、呪いと戦うことを選んだ“獣”(のろい)かな」

 非術師が狩人になるには、血の医療を受ける必要がある。だが、血の医療を受けたもの全てが、狩人になる訳ではない。

「普通に生活する傍ら、高専で言う“窓”のようなことをしている者も多いからね。でも……」

 血の医療を受けた者は、いつか必ず“獣”(のろい)に身を(やつ)す。

「だから信者たちは、獣を狩る“狩人”たちに礼を尽くすのさ」

 だが、どれだけ呪われていようと、呪術規定に基づけば狩人は“非術師”である。

「……夏油君。君は呪詛師になった友人を、その場で殺すことができるかい?」

「何を……?」

 ある狩人は獣となった友を狩り、その血も乾かぬうちに友の頭皮・獣皮を被った。

「イカれてるで済む話じゃないだろう? 親兄弟についても、例外はない」

 それでも彼らは“非術師”である。そして……最も呪いの近くにいるのは、呪術師ではなく彼らだ。

 

「非術師は嫌いかい? 夏油君」

「……分からないです」

 呪術は非術師を守るためにある。

「昨年まではそう考えていましたが、今は私の中で非術師の定義と……価値のようなものが揺らいでいます」

 非術師には弱者故の尊さと醜さがある。

 その考えが根底から覆される、非術師でありながら呪いと戦う“狩人”という存在。

「非術師を見下す自分、それを否定する自分……何が本音か分からない」

 頭を抱えた夏油に、九十九から結論を出すには早計だと声がかけられる。

「非術師を見下す君、それを否定する君……これらはただの思考された可能性だ」

 視線だけを寄こした夏油に、九十九が食えない笑顔を向けた。

「どちらを本音にするのかは、君がこれから選択するんだよ」

 

 

 

 

 

 夕刻に差し掛かった高専の廊下を、任務へと向かう夏油が重い足どりで進む。

「夏油さん」

 名前を呼ばれて振り返れば、任務帰りなのか、あちこちにガーゼや包帯を巻きつけた七海が立っている。

 一人で声を掛けてくるのは珍しいと夏油が思っていると、七海が何かを握った右手を差し出してきた。

「これ、お返しします」

 そう言って夏油の手にのせられたのは、昨日、もう一人の後輩に渡した小さな鐘。

「……灰原はどうした?」

 声が震えなかったのは、先輩としての意地だ。

 視線を合せた後輩の、その瞳に映るのは悲しみか、怒りか。

「なんてことはない、2級呪霊の討伐任務のはずだったんです……」

 自分に言い聞かせるように呟いた彼が、これほど感情を表に出しているのを見たことがない。

「……呪術師、灰原雄は死にました」

 

 

 

 

 

 産土神(うぶすながみ)信仰。生まれる前から死後の世界まで、いつも助け、見守って下さると信じられている、「生まれた土地」に根付いた神様への信仰。

 相手が1級以上の案件――土地神だと灰原たちが気づいた時には遅かった。

 血を流し過ぎたのか、思考がまとまらない。自分の身体にすぐ動かせそうな感覚はなく、友は敵を挟んだ向こう側に倒れている。

 

 今までも、死というものを知っていた。

 だが、死とは何か、本当の意味で理解してはいなかった。

 自分の死に際になって初めて理解する。

 それは、人として生きている限り、おおよそ知り得ることのない知識。

 死を、“己の理解を超えた知識”を認識する。

 人の身でありながら……狩人たちと同じく“啓蒙”を得る。

 

 敵が七海の方を向いたのを見て、灰原はこちらに気を引こうと投げられるものを探す。

 手の届く範囲に小石などは落ちていない。だが、夏油から預かった鐘――狩人呼びの鐘がポケットに入っているのを思い出して、震える手で掴んだ。

 この神秘の鐘を鳴らすため、人の身では“啓蒙”を必要とする。

 故に、灰原の手を離れ、宙を舞う鐘は鳴り響く。

 決して大きな音ではないのに、時空を超えてしまうような、そんな有り得ないことをやって退けそうな、どこまでも響く繊細で不気味な音色。

 誰も逃がさないと言うように鐘を中心に白い霧が立ち込め、警戒した敵が灰原を振り返る。

 灰原のすぐ側の地面が波打ち、青白く発光すれば、聖布をまとう“処刑隊”の姿が現れた。

 

 

 

「“君は正しく、そして幸運だ”」

 意識が朦朧とする灰原に声を掛けたのは、虫の息となった敵に背中を向ける、血塗れの聖職者。

「向こうに倒れている彼は、すぐに手当てをしなければ危険ですよ。君が動くしかない」

 それのどこが幸運だと言うのか。動けない灰原に酷なことを告げるその人は、薄い笑みを浮かべている。

「しかし君は動くことが出来ず、このままでは死んでしまう。故に……」

 ヤーナムの“血の医療”、その秘密だけが……君を導くだろう。

「だから君。その身を呪いに(やつ)しても叶えたい望みがあるなら……。まずは我ら、ヤーナムの血を受け入れたまえよ……」

 狂気の血に塗れた手が、灰原の前に差し出される。

「さあ、契約書を……」

 友を助けることができる。

 その甘い誘惑に、握られた一枚の紙に考えることなく手を伸ばす。

 

 

――“呪術師”、灰原雄は死にました。

 

 



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#6 墓守(玉折2)

過去編はここまで。次から0巻です。


 

 

 

 

 

2007年9月 

■■県■■市(旧■■村)

 村落内での神隠し、変死が複数発生したという報告を受けて、特級呪術師となった夏油はその地に足を踏み入れた。

 宗派は不明だが教会のある村らしく、夜蛾からは狩人にも警戒するよう言われている。

 自分が出張るほどではない呪霊を祓い終わり、交通機関の整っていない僻地まで遣わされたことにため息をついた夏油は、依頼主を探して夜の村を歩きだした。

 

 住居の並ぶ区画まで来たところで、夏油は村に入ってからの違和感が気のせいではなかったことを確認する。

 まばらにある街灯が照らす家々はシャッターが下ろされ、窓には板が打ちつけられている。

 不在なのか、息を潜めているのか……。中に人がいる気配はない。

 空気の淀みもひどく、いたるところの排水管から覗く白い胞子はカビだろうか。

 ドブネズミの腐った血肉に生えているらしいそれは、劣悪な環境を含め、任務であらゆる場所を訪れてきた夏油も見たことがない。

 厄介事に巻き込まれたのは間違いなかった。

 もう一つため息をつき、遠くに見える灯りのついた建物を目指して坂を上った。

 

 

 集落から離れた位置に建てられていたのは、年季の入った教会。

 遠目からでは確認できなかったが、随所に医療教会のものに似た意匠が見て取れる。

 よく手入れがされているその建物は、村の規模からすれば大きすぎるように感じられた。

 教会に連なる門の前に、何かが落ちているのに気づいて足を止める。

 てるてる坊主に似た、小さな子供が抱えるのにちょうどいいサイズのぬいぐるみを見て、参拝者の落とし物だと当たりをつけた夏油は教会に届けてやろうと手に取った。

 それから灯りの漏れる扉に手を掛けようとして……壊れた鍵と血のにおいに気付いて動きを止める。

 呪霊の気配がないのを確認してから、夏油は教会の扉を開いた。

 

 奥の祭壇から扉の前まで、床に引きずられた血の跡が二つ残っており、それとは別に、入口から足を引きずった跡も奥まで続いている。

 だが注目すべきはそこではない。

 確かに、呪霊の気配はしなかった。

 しかし、夏油は今……祭壇の前にうずくまる狼のような巨大な異形を見上げていた。

 

 教会の扉や窓に壊された部分はないのに、あれはどうやって中に入ったのか。

 夏油が思考を巡らせていれば、彼が入ってきたことに気分を害したらしく、うなり声を上げた獣が振り向く。

 目が合った獣の溶けた瞳孔の奥に理性の光が見えて、夏油は息をのんだ。

――血の医療を受けた者は、いつか必ず“獣”(のろい)に身を(やつ)す。

 なぜか、九十九(つくも)の言葉がよみがえる。

 獣の首元には褪せた赤色の布が垂れており、動きに合わせて揺れる血に塗れたぼろ布は、人間の衣服のようにも見えた。

 

 姿勢を低くした獣が夏油を――夏油が手にしたぬいぐるみを注視する。

 それまで敵意を感じなかったことで反応が遅れた夏油に、獣が飛びかかった。

 咄嗟に手にしていたぬいぐるみを獣の方へと投げ、相手の背後に回った夏油は呪霊を召喚しようと構える。

 しかし、獣は急に興味を失ったように夏油から離れ、入口の扉を突き破って外へ飛び出した。

 

 

 

 呪霊とは違う異形との邂逅。それも理性的な瞳をもった獣の存在に、夏油は少なからず動揺する。

 だが獣を外に出してしまった今、呆けている場合ではない。自分で両頬を叩いて気を引き締めた。

 

「あれ? 夏油さんですか?」

 背後から聞きなれた……聞こえるはずがない声がして、夏油は勢いよく教会の入口を振り返った。

 高専の制服とは違う、黒を基調とした神父服に似た装束。その背中には、医療教会の聖布が翻っているのが見える。

「……灰原?」

 “教会の黒装束”を身にまとうのは、1ヶ月前に亡くなったはずの後輩。

 持ち手の部分を折りたたんだ無骨なノコギリ――ノコギリ鉈を掴んだ腕には、血に塗れた手術用の白い長手袋をはめている。

 着用している本人も知らないことだが、手袋に施された細かな刺繍は、「直接触れ、取り出す事こそが重要」とした医療者たちを守る呪いだった。

「お久しぶりです! ……ちょっと瘦せました?」

 長期休暇明けのノリで話しかけてくる後輩に、困惑していた夏油の顔が引きつる。

「いや……そうじゃないだろ……」

 幽霊でも見たような夏油の反応に、灰原も不思議そうに首を傾げた。

「もしかして、七海から聞いていないですか?」

 

 1ヶ月前。等級違いの任務にあたり、灰原雄は死体も残さずに死んだ。……死んだはずだった。

「あの時、自分と周囲の安全を考えて……()()()方が都合がいいと判断しました」

 産土神(うぶすながみ)信仰という、その土地について少し調べれば分かる情報が、任務にあたる二人には伏せられていた。

 1年以上も高専に通っていれば、一般家庭から入学した二人にも呪術界の歪んだ考えはなんとなく分かる。

 現代最強と言われる五条の世代で彼に並ぶ実力をもつのは、一般家庭出身である夏油。

 その後輩である灰原と七海も一般家庭の出身。入学して――呪術に触れて一年ほどで2級術師となった。

 あと数年も経験を積めば、1級術師となるのは間違いないと言われている。

 そこに問題があった。

 人手不足を嘆いていながら、血筋と伝統を重んじる“呪術師”たちは、この面白くない状況を放っておかない。 

 誰かが消えるまで、任務での()()()は続くだろう。

「ここで七海の出番です」

 彼が目の敵にされているのは、他の術師たちに実力を認められている証拠でもある。

 真面目で優秀な彼が「灰原は死んだ」と言えば、上にも大して疑われない。

 それに、死んだという表現も嘘とは言い切れない。

 獣に身を(やつ)す瞬間まで獣と戦うという“契約”により、灰原は生き永らえているからだ。

 “血の医療”を受けた者は、いつか必ず獣に身を(やつ)す。……“獣の病”を発症する。

 灰原がまとう装束は“予防の狩人”のものであり、獣の病の罹患者、その疑いのある者――瞳孔が溶けて崩れた者を探し、病の発症する前に()()()()役割を担う。

 つまり、血の医療を受けた時に、彼らは必ず誰かの手により最期の時を迎えると決まっている。……黒装束は、ヤーナムの昏い狂気そのものだった。

「でも、輸血を受け入れたのは七海のためではないですよ。……人は、自分の為になる事しか行わない生き物ですから」

 何かを思い出すように呟かれた言葉は、誰かの受け売りだろうか。

 

 

 夏油に自分の置かれた状況を話し終えた灰原が、ここに来た目的を明かす。

「今日は“ハサバ”さんという、教会(ここ)の“墓守”の方に会いにきたんですけど……」

 そう言って、血塗れの祭祀道具と赤い布の切れ端が散らばる祭壇――地下の霊廟への入口の前に立った灰原は、周囲に飛び散った血の跡を見まわした。

 墓守は褪せた赤色のローブをまとい、無数の祭祀道具を背に下げていると聞く。

 既に乾いている血の跡は、()()()()()()()ように、灰原の足元を基点に全方位に広がっていた。

「……夏油さん。“獣”を見ましたか?」

 それを聞いて、夏油もあれが何だったのかを察する。

「狼に似た、溶けた瞳孔の……」

 そこまで聞いて、灰原は外へ続く扉へと駆けだした。

「すみません! 自分は行きます。……急がないと先輩が死ぬ」

 

 

 夏油の任務内容は、「村落内での神隠し、変死の原因となった呪霊の祓除」だ。

 だからこれは、完全に任務外の異常事態。本来なら放っておいても構わない面倒ごとである。

 そう分かっていながら、夏油は駆けだした灰原に続く。

 彼の言う“先輩”は、村の異変を引き起こしている教会地下の霊廟――“地下遺跡”と呼ばれる場所の専門家であるが、戦闘は不得手な非術師である。

 ここまで話を聞いてしまったら、夏油も放っておくことはできない。

 それに“後輩”を助けるのも、先輩の特権の一つである。夜蛾の説教は甘んじて受けいれよう。

 夏油が捜索用の呪霊を放ってすぐに、豪快な破壊音が響く。小さな村のため、場所の特定は容易かった。

 

 

 

 

 

 湿気った空気の漂う暗い座敷牢に、幼い双子の少女――“枷場(はさば)”菜々子と美々子はいた。

 二人の顔には殴られた痕がいくつもあり、血の滲んだそれらが痛々しい。

 身を寄せ合う二人の()()()の下にも、同じように無数のアザが広がっているのだろう。

 襖の開く音を聞き、二人は檻の外へと顔を向ける。

 そこには、村では見かけたことのない人物――灰原が先輩と呼んだ“墓暴き”が、村人と共に立っていた。

 

 地下遺跡に眠る人智を超えた存在、古い上位者たちの神秘を探求するのが、医療教会の“墓暴き”たちである。

 その装束は厚く垂らされた聖布に細かな刺繍と、豪奢な部類に入る。

 しかし全体的に煤け、裾がボロボロになった様子から聖職者らしさは感じられなかった。

 そのためか、村人たちも彼が教会の関係者だとは気づいていないようだ。

 「少女たちが不思議な力で村人を襲う」のだと説明する声を聞き流し、墓暴きは座敷牢に近づく。

 続けて「二人の親も不思議な力を使う“化物”だ」と騒ぐ村人の声をかき消すように、彼の振り下ろしたノコギリ鉈が錠前ごと扉を破壊した。

 

 手ぶらだったはずの人物が握る凶器と、こちらを見る目の物々しさに、村人たちも口を閉じる。

 冷や汗を浮かべる村人たちの瞳は、瞳孔が崩れて溶け始めていた。

「“墓守”は地下遺跡を守り、遺物(のろい)を外に出さないために存在している」

 村人に“霊廟”だと伝えられていた教会地下の遺跡には、現代人たちにとって金銭的な価値のあるものは存在しない。

 だが時代と共に教会への信仰心は薄れ、霊廟に向けられていた畏怖の念は好奇心へと変わった。

「それをお前たちは……。“彼女”と娘たちを害して()()()()()

 村中に広がった“墓所カビ”は、地下遺跡で腐った死肉に生えるものであり、呪いが持ち出された証拠。現に村人たちは“獣の病”を発症しつつある。

「自ら呪いを招いた。……お前たちこそが“獣”だ」

 そう言って手に握るノコギリ鉈が村人へ向けられた時、天井が崩れて大きな影と小さな塊――てるてる坊主に似たぬいぐるみが降ってきた。

 

 

 巨大な獣が畳を踏み荒らし、襖や壁が破壊されるのを、扉の開いた座敷牢の中から菜々子と美々子は息を潜めて見つめる。

 村人だったものの姿は判別がつかず、獣の爪で切り裂き、弾き飛ばされた墓暴きが座敷牢に肩からぶつかった。

 うめき声をあげる彼を追って歩いてくる獣から……なぜか安心できる気配を感じられる。

 獣の首に、大好きな人の装束と同じ褪せた赤色の布が引っかかっているのを見て、双子の少女は叫んだ。

 

 

「お母さん!」

 少女の声を聞いた獣が、ピタリと動きを止める。その姿を、空中に浮かぶ呪霊に乗った夏油は自分の目で確認した。

 同じく呪霊に乗っていた灰原が、座敷牢と獣の間に飛び降り武器を振りかざす。

 危なげなく獣の爪を避け、ノコギリ鉈で斬りつける様子から、呪霊なら2級相当の相手であると推察できた。

 

 少女の声を聞いてから明らかに動きの鈍った獣が、目を瞑って倒れ伏す。とどめを刺そうと近づいた灰原が、大きく横へ跳んだ。

 彼の立っていた場所に、先端を輪の形に結んだ縄が落ちる。

 灰原の右腕を背後から狙ったそれは、ぬいぐるみを抱えた黒髪の少女の術式らしい。彼女の前には、金髪の少女が庇うように立っていた。

 視線だけを灰原が寄こせば、二人は肩を震わせる。それからおずおずと口を開いた。

「私たちの手で……お別れすることは叶いませんか?」

 涙ぐむ幼い少女の言葉に、苦痛をこらえた表情で戦っていた灰原が、悲し気に眉尻を下げる。

「お願いします。……狩人様」

 祈るように跪く二人に、灰原はどう対応するべきか悩んで視線を彷徨わせる。

 そんな灰原の代わりに、大怪我をしていたはずのもう一人の狩人が、二人の前に出て膝をついた。

 灰がかった装束にはおびただしい量の血が滲んでいるが、怪我を庇う素振りは見られない。爪痕の形に裂けた装束から覗く肌には傷がなかった。

 それは“血の医療”に使用される特別な血液の輸血により回復したものだが、今の夏油の知るところではない。

 

 黙って成り行きを見守っていた夏油が地上へ降り、眠るように静かに息をする獣を間合いに入れる。

 しかし、できるだけ灰原たちから離れた位置で足を止めた。

 

 血に塗れたノコギリ鉈を少女に差し出した墓暴きが口を開く。

「“夜にありて迷わず、血に塗れて酔わず”……呪いの枷となり、呪いを枷とする“墓守”の娘たちよ」

 彼の意図を理解して、不本意そうな灰原も得物を少女に差し出した。

「“獣は呪い。呪いは(くびき)”そうして――」

 

 ノコギリ鉈の柄に、小さな少女たちの手がのせられる。

 “軛”は自由を束縛するもの。……“枷”を名前に持つ少女たちが、ふらつくことなく重い武器を持ち上げる。

 呪力で強化することなく、片手でノコギリ鉈を握る彼女たちの姿に、すでに“血の医療”を受けた狩人なのだと分かった。

 瞼を開けた獣の瞳に、幼い狩人――涙でぬれた、ぎこちない笑顔の愛する娘たちが映る。

「……大好き」

 

――そうして、君たちは教会の剣とならん。

 

 

 

 

 

 残暑も衰えかけた高専内で、休憩所のベンチに腰かける七海の前に人影が立った。

 目の前に差し出された“缶入りのコーラ”を確認してから、人物の顔を見上げる。

「元気そうだっだよ。……それなりにね」

 そう言って力なく笑う夏油からコーラを受け取り、普段は口にしないそれを開封した。

 隣に夏油が座るのを待ってから、七海が口を開く。

「私はあなたも五条さんも、家入さんのことも信用しているし、信頼しています」

 そこで言葉を区切った七海が、短く息を吐いた。

「上層部にも一目置かれるあなたたちが“彼は死んだ”と認識している。……その事実が欲しかったんです」

「……彼のため、か」

「違います。……これで自分は大丈夫だと、安心したかっただけです」

 自分の発言に嫌悪感を抱いた表情を浮かべる不器用な後輩に、夏油も困り顔になる。

「……人は、自分の為になる事しか行わない生き物ですから」

 目の前の後輩に、同じことを言いながら“誰かのため”に動くもう一人の後輩の姿が重なった。

 

 うつむいていた七海が顔をあげ、「狩人の“呪い”について知っているか」と問う。

 うなずく夏油を見る七海の瞳に、仄暗い意志が宿った。

「いつか彼が“獣”になる時がきたら……私の手で殺します」

 そう宣言する七海の言葉に、先月に聞いた九十九の言葉がよみがえる。

――君は呪詛師になった友人を、その場で殺すことができるかい?

 あの時……()()自分にできていない覚悟が、そこにあった。

 

 

 

 

 

「傑、ちょっと痩せた?」

 ぬるくなったコーラの缶を持つ夏油の隣に、今度は数週間ぶりに見る顔が座った。

「……大丈夫か?」

 何が起きようと変わらない五条の態度に、苛立ちを感じることもある。だが、今はそれが有り難い。

「これからどうしようかと思ってね……」

 自分に呪術師が続けられるのか。

 守りたくもない“猿”(ひじゅつし)のために戦えるのか。

「何? 暇ならマリカでもする?」

「今、真面目な話をしているんだ。……後でやろう」

 自分の大切だと思える人を助ける。高専で呪術師をしていては、これを成すのが難しい。

 それに、()()()()“猿”は嫌い。不満は他にもある。

「とりあえず、私は上の連中が嫌いなんだ」

「それは俺もだけど……呪術師やめんの?」

 普段から飄々とした態度を崩さない五条の顔に影が落ちる。

 彼は望むと望まざるとに関わらず、最強の呪術師であることを――五条悟をやめられない。

「呪術師はやめないさ。ただ自分のやりたいことだけやろうかな、と……」

 “人は、自分の為になる事しか行わない生き物”なのだから。

 ……今さら気づいたが、五条はまさにこれである。

 

 夏油から呪術師をやめるつもりはないと聞いて、五条が表情を明るくする。

 それから悪だくみをするように、にやりと笑った。

「傑、やりたいことだけやるには?」

「そうだな……。高専、やめるかい?」

 飽きるまでマリカができると夏油が冗談で付け足せば、五条が夏油の腕を掴んで勢いよく立ち上がった。

「よっし! 夜蛾先生に言えばいい?」

「いや、悟……さすがに冗談……」

 そのまま五条に掴まれた腕を振り払う気にもなれず、夏油は意気揚々と職員室を目指す親友について行く。

 担任の雷が落ち、たまたま通りがかった同級生の笑い声が響くまで、あと数分。

 

 

 

 

 

 



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0巻~原作前
#7 血族(憂太と里香)


高専入学は次話になります。
呪いの“女王”か……どうしてこうなった。


 

 

 

 

 

聖血を得よ。

祝福を望み、よく祈るのなら、拝領は与えられん。拝領は与えられん。

密かなる聖血が、血の乾きだけが我らを満たし、また我らを鎮める。

聖血を得よ。

だが、人々は注意せよ。君たちは弱く、また幼い。

冒涜の獣は蜜を囁き、深みから誘うだろう。

だから、人々は注意せよ。君たちは弱く、また幼い。

恐れを失くせば、誰一人君を嘆くことはない。

 

 

 祈りの声が届く教会の庭で、楽しげに笑う子供たちの声が響く。

 孤児院で暮らす、あるいは参拝者に連れられてきた……そして、退院していった子供たち。

 その中に“聖歌隊”が姿を現せば、遊びの手を止めた子供たちが「先生」と呼んで集まった。

 屈んだその人の美しい()()()()が、口々に話そうとする子供たちと順番に視線を合わせる。

 時折現れる、()()()知っていて、優しく教えてくれる先生。

 子供たちの笑顔を映す瞳は、それぞれの未来を視ているようで恐ろしくもあった。

 

 

 

 

 

2012年 3月7日

 

「こっちよ憂太!」

 早く、と急かしながら手を取って走り出す少女を、少年が慌てて追いかける。

「待ってよ里香ちゃん」

 そんな二人の様子を、教会の参拝者たちが微笑ましく見守った。

 仲良く駆けているのは、乙骨憂太と祈本里香。

 二人は小学校に入学して間もなく、お互いが入院していた病院内で知り合い、すぐに一緒にいるのが当たり前なほど仲良くなった。

 退院から数年が経った今も教会に通うことを続けているのは、“医療教会”が、保護者達が二人だけで遠出するのを許した唯一の場所だからだ。

 二人の首元には、おそろいのチェーンに通された結婚指輪――乙骨への誕生日プレゼントとして渡された、里香の母の形見が光る。

 大きくなったら結婚する……“ずっと一緒にいる”と、今朝に約束を交わした証だった。

 

 繋いだ手と反対の手には、今日も子供たちの前に姿を見せた星空の瞳をもつ不思議な人――大人の参拝者たちの前には殆ど姿を現すことがないという“聖歌隊”からもらった“招待状”が握られている。

 それは高級そうな封筒に、乙骨には何語か読めない文字が書かれ、血のように赤い封蝋がされていた。

 少し怪しい雰囲気はあるが、映画の中でしか見たことがないアイテムに心が躍る。

 だた、この招待状を差し出された時に見た星空の瞳の奥に、()()()()()()()()何かが見えた気がしたのが引っかかった。

 

 

 “先生”に言われた通りに、二人は参道の石畳を外れて森の中を進む。

 しばらくすれば芝草の色が濃くなり、この辺りには人の出入りが多くないことがわかった。

 時折、木々の間を流れる風が心地よいとはいえ、今日は3月にしては日差しが強く暖かい。

 家を出るときはノースリーブのワンピースでいる里香を心配したが、今は長袖で来た乙骨の服装が失敗だった。

 乙骨が暑さで弱音を吐きそうになっていると、木々に遮られていた視界が開け、石レンガのアーチが見えた。

――……その先で、君たちの“ずっと一緒”を叶える一つを見せてあげましょう。

 二人に招待状が渡された際に、行き先と共に伝えられた言葉。

 ここにあるのは建物の出入口だったものらしいが、最初からこの部分しか存在しなかったように、周りの地面はまっさらだ。

 アーチ以外はほとんどが崩れてしまった石壁の向こうに、こちらに背面を向ける玉座が見えて、乙骨は目を瞬いた。

 彼が“呪術師”であったならば、この場所が“領域”との境であると警戒して、これ以上進むことはなかっただろう。

 アーチを通り抜けた先の芝草を、二人が踏んだ。

 

 

 踏みしめた地面の感触に、なぜかこれ以上進むのはよくない気がした乙骨が立ち止まる。……肌を撫でる風が変わった。

 汗で張り付いていた服が急激に冷え、吐く息が白くなる。

「里香ちゃん、戻って!」

 半ば叫ぶようにして里香の腕を掴み、急いで来た道を引き返そうと思った乙骨が振り返れば、濃い霧が流れてきて二人を包んだ。

 数秒、肌を刺す痛みに耐え、閉じてしまった瞼を開く。

 ずっと芝草の上を駆けてきたはずなのに、足元は雪に覆われた石畳に変わっていた。

 周りを見渡せば、荘厳だがどこか見捨てられた雰囲気のある中世の城――廃城カインハースト。その中心に位置する建物の屋根の上に立っている。

 そして目の前には、かつて“処刑隊”に……()()()()()()()()粛清された穢れた血族。その“血の女王”の間へと続く扉が現れていた。

 

――君たちそれぞれの“血”が、離れ難い業となるでしょう……。

 

 不安げに乙骨の肩を掴んで寄り添っていた里香が、扉の意匠を見て一歩前に出る。

「この場所、来たことがある。……“夢”の中で」

 そう呟いて扉に触れる里香の手は、吹雪の中に居ても震えていない。

 少しの力を加えて押せば、二人を迎え入れるように重い扉が開いた。

 

 

 中へ入れば暖かく、隅々まで磨き上げ、手入れが行き届いた様子に驚いた。

 窓からの淡い光だけに照らされた、騎士像の並ぶ薄暗い上り階段を前にして、乙骨の足がすくむ。

 しかし、ここまで来ては進むしかなく、生き物の気配がしない中、二人は一段ずつ階段を上がった。

 

 少しうつむきながら里香に手を引かれていた乙骨は、目の前に影が迫ったことに気づいて立ち止まった。

「どうしたの憂太?」

 心配する里香に言葉を返す余裕もなく、乙骨が階段の下を凝視している。

 金糸の刺繍を細部にまでほどこし、黒と赤を基調にした中世の貴族のような出立ち。

 フリルタイに留められたブローチの宝石は、血のように赤かった。

 美と名誉に彩られたそれは、獣の処理を“血塗れの退廃芸術”としたカインハーストの“騎士装束”だ。

 その騎士――“血の狩人”が自分の体を()()()()()ことに驚いていた乙骨は、里香には見えない亡霊なのだと分かって、急いで里香に振り返った。

「なんでもないよ里香ちゃん。……進もう」

 

 

 階段を上り切った先に広がっていたのは、大理石の石像と燭台が数多に並ぶ玉座の間。

 紋章の入った絨毯をたどって最奥を見上げれば、ステンドグラスを背景にした三層の壇の上に、二つの玉座が並んでいる。

「ちょっと暗くて恐いけど、素敵な場所でしょ?」

 慣れた様子で乙骨に笑顔を向ける里香は、どうやってここに来たのかを忘れてしまっているように……“夢”でも見ているように落ち着いていた。

 ふらふらと玉座のほうへ歩いていく里香を引き留めるため、乙骨が繋いだ手を引く。

 自分の勘なんてあてにならないと知っているが、今回は違う。これ以上、進んではいけない。

 ……知ってはいけない。

「里香ちゃ……」

――訪問者よ。

 不意に落ち着いた女性の声が聞こえて、乙骨は口をつぐんだ。

 誰もいないはずの玉座から聞こえるその声は、心をかき乱されるような、不思議な魅力がある。

――人無きとて、ここは玉座の間……故なくばそのまま去り、あるいは我が前に跪くがよい……。

 声に引き寄せられるように、乙骨の手を抜け出した里香が壇を上がった。

 その背中を追って手を伸ばすが、足が縫い留められたように動かない。

 座する者のいない玉座の前に立った里香の足元に、おびただしい量の血が溢れ出た。

 ……知ってはいけない。

 乙骨が玉座から視線を外せずにいれば、すり潰され、肉片となった誰かの姿が里香と重なる。

――如何にお前が不死だとて、このままずっと生きるのなら、何ものも誑かせないだろう!

 医療教会の聖布をまとう誰かが、血肉に塗れた姿で笑い声をあげるのが見える。

 自分にしか見えないそれが……繰り返されてきた“悪夢”のように思えて背筋が凍った。

 

 

「……そろそろ、帰る時間ですよ」

 優しく頭を撫でていた手が離れると同時に“先生”の声がして、ゆっくりと瞼を開ける。

 何か長い夢を見ていたようで、身体を起こした乙骨と里香はまだ呆けていた。どうやら、教会の庭の木陰で居眠りをしていたらしい。

 結婚指輪が手元にあるのを確認してから、強く握りすぎて少しよれた招待状を鞄に仕舞う。

「……どこからが夢だったんだろう」

 どちらともなく呟き、帰りの挨拶をした二人は手を繋いで歩き出す。

 互いに握った手が、なぜかいつもより冷たく感じた。

 

 

 

 

 

 いつも通りの、教会から駅までの帰り道。

「……里香ちゃん?」

 渡り慣れた横断歩道で“夢”のことを考えていた乙骨は、里香よりも歩き出すのが()()()()()

 

 救急車を、もう助からないと騒ぐ人々の言葉が理解できない。

 さっきまで繋いでいた手の持ち主が血の海に沈んでいることに、声が震える。

「……死んじゃダメだ」

 助けなきゃと思うのに、何ができるかなんて分からない。ただ「死んじゃダメだ」と繰り返し、彼女の“死を拒む”。

 そうして立ち尽くし、呼吸の荒くなっていた自分の足を……何かが掴んだ。

 周囲の人々にも見ることができたなら、恐ろしいと口をそろえるであろう姿を――“里香”がそこにいるのを見て、乙骨はなぜか安心するとともに冷静になった。

 ……どうすればいいかなんて、()()()いるじゃないか。

 身体の震えが止まり、呼吸が落ち着く。

――まだ、やることがあるでしょう?

 聞き慣れた幼馴染の声が、血の香りのように甘く魅惑的に響く。

「“悪夢”の続き……」

 人々の騒々しい声が、時が止まったように聞こえなくなった。

 

 

 

 

 

 いつも訪れる教会よりも大きい、近づいてはいけないと言われていた“大聖堂”に、乙骨が足を踏み入れる。

 どうやってここまで来たのか、彼の記憶は“夢”を見ていたように曖昧だ。

 だが、血塗れの手にのせられた肉片――呪われたように熱い“里香”が、夢ではないと告げていた。

 息を切らせて大聖堂を進む乙骨を、“先生”――医療教会の上位会派“聖歌隊”が振り返る。

 少年の手に握られたものを見てうっすら笑うと、導くように聖堂の奥の扉を開いた。

 

 暗い空間の奥に安置された、“墓所カビ”の生える巨大な何か。

 それは、かつて聖歌隊が星の娘と共に祈りを捧げた“嘆きの祭壇”。

 いつもの乙骨なら逃げだす見た目のおぞましい死骸が、今は輝いて見える。

 台座にのった頭らしき部分の横に“里香”を捧げる乙骨の背中を、星空の瞳が楽し気に見つめた。

 

「……“素晴らしきかな不死、(呪い)の女王よ”」

 

 カインハーストの血族の身に流れるのは、元を正せば医療教会が“拝領”として施す血の医療と同じ、禁断の血。

 ある時、裏切りによってもたらされた禁断の血は、古くから血を嗜む彼らにひどく馴染んだ。

 それが、教会の血の救いを穢す存在だと……“穢れた血族”だと呼ばれた彼らが不死と称される理由。

 どれ程すり潰されたとしても……その“肉片”の時間は()()()()

 だが遠縁とも呼べないほど血の薄れた少女は、その血の恩恵を得られないはずだった。

 ……愛するものに“呪われて”いなければ。

 肉体の形は、魂の形に引っ張られる。

 肉体に魂が宿るのではなく、魂に体が肉付けされている。故に……。

 

 ひとりの少年が「ずっと一緒にいたい」と願った姿が、縛り付けた魂の形が――少女と、その身に流れる血の時間を()()()()()

 

 

 

 

 

 再び訪れた玉座の間では、迎えを待つ里香が物憂い気に血濡れの玉座に腰かけている。

 儀式の流れに沿い、形式的に拝謁の姿勢をとる乙骨を真っ直ぐに見つめる瞳は、自分に流れる血が何なのかを理解していた。

「里香が憂太の呪いを受け入れたのだから……憂太も里香の呪いを受け入れてくれるでしょう?」

 サイズの合わない指輪をはめた少女の小さな左手が、ゆっくりと乙骨に伸ばされる。

 彼女が求めるのは、狩人の死血から女王に捧げる「穢れ」を見出す、カインハーストの“血の契約”。

 差し出された手をとった乙骨が跪き、口づけるようにそっと、魅惑的な甘い香りに舌を伸ばした。

「これで本当に“ずっと一緒”よ憂太。だから、ほら……」

 

――穢れた我が血を啜るがよい。

 

 

 

 

 

 

 




■補足
「血の女王と医療教会」
医療教会によって粛清された“血の女王”は、その肉片を“医療教会”の工房の奥、聖堂街上層の嘆きの祭壇に捧げることで復活します。

「里香が指輪を渡した日について」
・指輪は乙骨の誕生日にプレゼントした(3月7日)
・里香 享年11歳(誕生日不明)
・2016年11月 ロッカー詰め事件(乙骨 高校一年生 15歳)
・2017年 乙骨が高専一年に転入(乙骨 留年 16歳)
・2018年 10月31日 渋谷事変(キャラブックで17歳)
・里香が亡くなった年:2017年の回想で「6年前」→2011年
なのですが、2011年3月7日だと乙骨が10歳になる年のため、2012年にしました。
(※乙骨と里香ちゃんは同い年とする)

「血の女王と呪いの女王」
“血の女王”は肉片となった姿に「このままずっと生きるのなら、何ものも誑かせないだろう」やら、他にも色々と“魅惑的だった”のだと推察される暴言を吐かれています。
“呪いの女王”である里香も「自分の容姿に自覚的で、時折、意図的に大人でさえ操るような言動がみられた」とあるので、魅惑的なんだろうなと。


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#8 血の穢れ(相互利益)

2017年(0巻)は狩人乙骨の入学理由と、平和な日常でお送りする予定です。……予定です。
書きながら設定変更することもあるため、質問や疑問に返信はしておりませんが、本編中で答えられるよう努力します。よろしくお願いします。



 

 

 

 

 

2017年 4月

 東京都立呪術高等専門学校。その教室へと続く廊下を、少し緊張した面持ちで禪院(ぜんいん)真希(まき)は歩いていた。

 彼女が事前に聞いた情報によれば、今年の入学者は呪言師、パンダときて、一般家庭の出身が二人。同級生が四人……三人と一匹もいるとは、常に人手不足の呪術師にしては珍しい。

 そんなとりとめのないことを考えながら、真希は教室の扉を開いた。

 前列の奥に、制服の襟で口元を隠した、おそらく呪言師の少年。手前にパンダ。 

 そして後列には……鎧と、黒いドレスに鉄面をつけた少女が座っていた。

 少女のドレスは落ち着いたエンパイアラインのもので、かつての血の女王、アンナリーゼが愛用したものに似ている。

 もう一人の、鎧と呼ぶには厚みのない“カインの鎧”は、血の女王を守る近衛騎兵のものであり、布のように薄い銀製の鎧は、悪意ある血を弾くとされていた。

 そんなことは知らない真希が踏み出していた足を教室内の床につけたところで、もう一度、後列を見る。

 二人が揃いで着けている“カインの兜”は、鳥の(くちばし)のように頤先が尖った形状に、細かく施された彫刻が美しい。

 のぞき穴が見当たらないが、視界は確保できているのだろうか?

 異彩を放つ二人を見て、一般家庭の出身というのはガセだったかと結論付けた真希は、視線を前に戻す。

 ガセネタを流した男には文句を言ってやろうと考えた真希の後ろに、担任教師となるその男が立った。

「あれ? なんで憂太も里香も鎧なの? ウケるね」

 真希の頭上から教室をのぞき込んだ五条が声を掛けると、鎧が立ち上がり、少年の頼りない声が返る。

「五条さんが『正装で来い』って言ったんじゃないですか!」

 その様子に、ただの真面目バカかと拍子抜けした真希は、何事もなかったように黙って空いている席に着いた。

 

 

 

 ひと悶着あったが、一年生の全員を教壇の前に集めた五条が口を開く。

「自己紹介なんてやったことない奴もいるだろうし、僕がちゃちゃっと紹介するね」

 そう言って五条が最初に視線をやったのは、兜を脱いだ虫も殺さない顔をしている少年。

 手には、つい先ほど支給された白い上着の制服を持っている。

乙骨(おっこつ)憂太(ゆうた)。隣にいる里香のことが大好きすぎて、魂を呪って縛り付けてるよ」

 ……初手からぶっ飛んだやつがきたな。

 人間と同級生になるのも、自己紹介も初めてなパンダがそんな感想を抱いているうちに、次の生徒の紹介に移る。

祈本(おりもと)里香(りか)。同じく憂太のことが大好きすぎて、自身の血で呪って眷属にしてるよ」

 乙骨と同じデザインの上着を手にした少女が微笑む。その年齢に合わない妖艶さに、長く目を合わせてはいけない気がした。

 可憐な少女が、そこら辺にいる術師よりも危険人物らしく思えるのはどういう事だろうか。

「禪院真希。呪具使い。素の(パワー)はこの中で一番かな? ナメてかからないように」

 女性にかける言葉ではない。だが本人は五条の性格を知っているのか、気にしていない様子なので一応よしとする。

狗巻(いぬまき)(とげ)。呪言師。おにぎりの具しか語彙ないから、会話がんばって」

 五条の言葉を受けた少年が、親し気に軽く手を挙げて「こんぶ」と口にした。……こんぶ。

「最後に……。パンダ」

「パンダだ。よろしく頼む」

 自身の紹介が終わり、特に質問も出なかったため、互いに距離感をつかめない微妙な空気のままホームルームが終了した。

 

 

 

 

 

 生徒たちにグラウンドへ向かうよう指示を出した五条は、一度、職員室に戻って任務票を確認する。

 今日は、生徒間で互いの特性を確認させるための簡単な任務と……乙骨に呪詛師の討伐指令 。

 呪術高専は2()()()()()()()乙骨憂太と祈本里香の入学を許可した。

 しかし戦闘レベルにおいては、乙骨はすでに五条や夏油に並ぶ域に達している。

 だからこそ、都合よく邪魔者を排除したい上層部が与えたのが、この等級にしてこの任務内容。

 乙骨の入学目的の一つは「死血に“血の穢れ”を見出し、集めること」のため、本人は気にしていないようだが……。

 術師としての活動記録が無いことを理由に2級術師にしておきながら、任務は彼の()()()()()()()1級以上に相当する案件。

 人間の“(おり)”を固めたような奴らが。狩人を毛嫌いし、恐れているくせに。

 ……ある日に見た()()()の狩人が、呪詛師だったものたちを踏み潰し、“虫”の巣食う汚物だと言い切ったのを思い出す。

「本当に……“虫”のいい話だよね」

 隣に立った人物に、乙骨の任務票を見せた五条が声をかけると、彼の親友――夏油が苦虫を嚙み潰したような顔で応えた。

「……悟。間違ってもあの“連盟員”だけは高専に入れるなよ。……血の海になる」

 

 

 廊下を歩きながら自分の任務票を取り出し、掲げた紙をひらひらと振る五条が口を開く。

「傑、もっと任務受けてよ。僕の負担が減る」

「私は菜々子と美々子の引率もあるし、嫌かな……。悪いね」

 「無理」ではなく「嫌」と言うあたり、余裕はあるのだろう。……選り好みしてやがる。

「二人とも()()に入れば解決するじゃん」

 夏油が呪術方面の指導をしている狩人の姉妹は、術師としても優秀だ。

「あの子たちも基本的に非術師が嫌いだから。無理だよ」

「……あー。そうだった」

 外へ移動するまでの雑談として話をふっていた五条は、それほど残念がった様子もなく天を仰いだ。

 

 

 五条との会話に笑顔を見せていた夏油が、表情を引き締める。

「それにしても……。夜蛾学長が“狩人”の入学を許すとは思わなかったよ」

 狩人と友誼を結べば、いつか我を忘れ、“獣”となった彼らを殺す時がくるかもしれない。

「私達に『狩人とは極力、関わるな』と言っていたのは、そんな経験をさせないためだろ?」

「だろうね……。でも、上の連中にしてみれば、そんなの気にしてる余裕なんてないでしょ」

 呪術師は常に人手不足。人数だけで見れば、おそらく呪術師よりも狩人のほうが多い。

 とはいえ、ほとんどの狩人には3級術師以下の力しかなく、彼らの所属する医療教会が重きを置くのは、「人類の進化を目的とした探究」。病院を経営するのは、その手段の一つに過ぎない。

 そのため、組織としての彼らは基本的に、呪術界には不干渉だ。

 しかし、()()()()とされる呪術師の何割かは、“血の医療”を受け入れ、狩人として活動を続けている。

 自分たちが排除した()()()()()が、確実に力を蓄えて生き延びている。……彼らが呪術界に関わるつもりがあるかは、知らないけど。

「狩人だろうと、使える奴は引き入れたいんだよ。ところで……菜々子と美々子の()()()()()は元気?」

 大切な後輩の一人を思い浮かべながら問えば、五条にとっては予想外な答えが返る。

「昨日、七海と三人で飲みに行ったよ」

「えっ? 僕、呼ばれてないんだけど……」

「飲めない悟を誘うのは、悪いかと思ってね」

 にっこりと、手本のような笑みを浮かべた夏油が五条を見る。

「誘えよ!」

 今日、高専に来たのはこの報告をするためかと、相手を肘で小突きながら昇降口を抜けた。

 

 

 

 

 

 一年生たちがグラウンドへ移動すると、桜の木の下に置かれたベンチに誰かが腰かけているのが見えた。

 金色に染めた髪をお団子に結った少女と、艶やかな黒髪を肩の上で切りそろえた少女。

 一つのスマホを二人でのぞき込み、楽しげに話している少女たちは一年生たちと同じ年頃に見えたが、高専の制服は着ていない。

 こちらに気付いたらしいリボンタイのブレザーをまとった金髪の少女が、セーラー服姿の黒髪の少女の肩を軽く叩いてから手を振った。

「里香! 憂太! 久しぶり!」

 

 二人と知り合いらしい乙骨と里香に続きグラウンドへと下りたパンダは、会話もそこそこに女子高生二人に詰め寄られ、たじろいでいた。

「パンダだー! かわいー!」

 そう言ってスマホのカメラで連写している金髪の少女が、菜々子。隣に立つ美々子は何も言わないが、目がキラキラと輝いている。

 楽しげにはしゃぐ少女たちの勢いに気圧されていると、後ろから落ち着いた男性の声がかかった。

「菜々子、美々子。その辺にしておきなさい」

 五条と並んで登場した夏油の言葉に、名残惜しそうにしながら二人はパンダから離れる。

 乙骨と里香にいくらか話しかけてから、夏油のもとへ駈け寄った。

 

 嵐のような少女たちを連れていく特級術師を見送り、真希が五条を振り返る。

「あいつら誰だ?」

枷場(はさば)菜々子と美々子。フリーの術師だけど、学年は君たちと一緒で……医療教会の“狩人”だよ」

 何でもないように話す五条に、狩人に陰気なイメージを持っていた真希は驚く。

「あの二人が狩人ってことは……」

 一般家庭の出身らしい同級生を見やる真希に、五条が不思議そうに首を傾げた。

「憂太と里香も狩人だけど……。言わなかったっけ?」

「聞いてねぇよ!」

 狩人を一般家庭の出身と言っていいのかは疑問であるが、確かに、“呪術師”の家系ではない。

 頼りない雰囲気に似合わぬ身のこなしをしている乙骨にも、合点がいった。

 

 

 気を取り直し、手を叩いて全員の注目を集めた五条が、依頼書を配りながら話す。

「これから任務があるけど、憂太にはご指名が入ってるよ」

 里香と二人で行ってくるようにと指示した五条が、二人だけに聞こえるよう近づいて声を潜めた。

「……()()()よろしく」

 高専を通して呪術師に出された依頼ではなく、あくまで“狩人”個人による粛清。

 呪詛師界隈を刺激しないよう、そういう形をとっておきたい上層部の薄っぺらい偽装。

 従うのは癪にさわるが、学生たちを守るためには仕方ない面もある。

 少し複雑そうに話す五条に、依頼書を受け取った乙骨が言葉をかけた。

「僕にとって“獣”の処理は、“穢れ”を得るための名誉ある行いであり、最も優先すべき事です」

 聞き慣れぬ単語が出たことで、自分たちの依頼書に目を通していた真希、狗巻、パンダの三人も視線を上げる。

 狩人の中でも異端とされる、カインハーストの装束に身を包んだ二人が笑みを見せた。

「だから、僕らを送り出す時は、心配するよりも願ってください」

 

――カインハーストの名誉のあらんことを。

 

 

 

 

 



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#9 連盟(矜持と教示1)

ブラボのキャラ、敵対者への罵倒が辛辣な暴言で好きです。


 

 

 

 

 

2017年 7月

 呪術師たちの任務もいくらか落ち着いてきた頃。

 飲み歩く人々で賑わう通りから一筋外れた、雑居ビルの一室。

 ガタついたローテーブルに積もった埃が、衝撃を受けて舞い上がる。

 無人のはずの廃ビルの三階で、締め切られた一室に充満するのは、不快な鉄の臭い。

 その発生源である()()()()()()()()の隣に、二つの影が立った。

 鈍く輝く銀の鎧と、黒のロングドレスという、この場に似つかわしくない装い。

“カインの兜”を脱いだ片割れの銀の鎧には、おびただしい量の返り血がついている。

 特に赤く染まったその右手は、遺体から何かを引きずり出したのか、絶え間なく血が滴っていた。

 

 

 血溜まりの前で、スマホを耳に当てたドレス姿の少女――里香が、現場の状況を通話相手に述べていく。

「壁は元から崩れていました。……はい。後の処理はお願いします」

 話を終え、()()()と表示された通話画面を切る。これで()()()()()()ことになると、一息をついた里香が乙骨を振り返った。

「早く帰ろう。憂太」

 差し出された里香の手をとり、エスコートするように一歩前に出た乙骨が、手すりの傾いた階段をゆっくりと降りる。

 錆びた鉄の扉の軋む音がして、灯りの消えた非常口のランプの方へ視線を向ければ、ビルの裏口が外側から開かれた。

 

 裏手にあるビルの街灯で逆光になったスーツ姿の男が、ドアノブに手をかけた状態で固まっている。

 目を凝らして顔を見れば、酔いのせいか赤く染まっているのが確認できた。

 彼が裏道を通ったのは近道のためか。酔いで気が大きくなり、聞き慣れぬ物音が気になったのだろうが……立ち入り禁止のテープが貼られたビルの扉を開くとは藪蛇だった。

 血に塗れた怪しい二人の姿を前にして酔いが覚めたらしく、目を見開いて凝視してくる男を、乙骨たちもこのまま帰す訳にはいかない。

 狩人として活動している今の自分たちにはどうしようもないが、呪術師たちが“帳”を降ろすのは、こういったトラブルを避けるためでもあるのか。

 そう納得しながら、とりあえず教会に連れて行くしかないと乙骨が足を踏み出したとき、別の誰かが目撃者の肩に背後から触れた。

 

「君……。嫌なものを見たな」

 這い寄るようにまとわりつく、心底同情しているようでいて、どこか他人事のような気怠げな声がかけられる。

()()()市民が殺されたとあれば……君は警察に通報しなければならない。それが市民の務めでもある」

 逃げないように掴んだ肩に体重をかけながら、後ろにいた人物が男の正面に回り込んだ。

 その身にまとうのは、学ランに似た上着の上からベルトを締め、丈の短いマントを羽織った官憲隊の制服――“連盟員”が好んで着用するものだ。

「だが、死んだのは人殺し……。君が危険を犯し、時間を割いてまで何かしてやる必要のない糞袋野郎だ」

 肩を掴む連盟員の手に力が入り、目撃者の男が顔をしかめる。その様子を見て、連盟員はすぐに力を緩めた。

「ああ、すまない。……君、酔いが覚めてしまったのだろう? ならば君がすることは一つだ。“悪い夢を見た”と思って、また酒でも飲んで忘れるといい……」

 そう言った連盟員が、男の胸ポケットに何かを押し込む。ポケットが膨れるほどに詰められたのは、すべて一万円札に見えた。

 掴んでいた肩を離し、路地裏から追い出すように男の背中を押した連盟員が、すぐに落とし物があると声をかけて呼び止める。

 緊張して振り返った男に、使い込まれた財布が差し出された。

「それから……これは君に出会った記念に貰っておこう」

 震える手で自分の財布を掴む男の前に掲げられたのは、名前と住所、顔写真の載った手のひらに収まるサイズのカード――運転免許証。

努々(ゆめゆめ)、忘れぬことだ……君は“悪夢を見ていた”ということをな……」

 

 声にならぬ悲鳴をあげて走っていった男を見送り、連盟員が廃ビルから出てきた二人を振り返る。

「君たちは“血の狩人”だな」

 射殺さんばかりの視線を受け止めた乙骨と里香に、連盟員が言葉を続けた。

呪詛師(クズ)が何人死んだところで、呪術師も警察も動きはしない……」

 だが、一般人に怪我を負わせたり、通報されるような事態になれば、彼らも黙っている訳にはいかない。

「迂闊にも捕まれば、嘆かわしいことに法はクズ共の味方だ。……慎重に行動したまえ」

 乙骨たちが“仕事”をした辺りを見上げた連盟員が、興味を失ったように踵を返す。

「あの……」

 声を掛けようとした乙骨に被せて、相手の言葉が発せられた。

「一般人に見られた時には、適当に金を握らせて脅しをかけるといい。これは先代の“狩人狩り”……殺し屋(プロ)の手口だ」

 

 

 

 

 

 高専に戻り、昨日の任務内容を報告する乙骨と里香を、五条が(いぶか)しげに見た。

「あの場所に“連盟員”がいた?」

 連盟員が狙うのは、主に一般人の呪殺を請け負う呪詛師。彼らの言葉を借りれば、「糞のような汚物」のいる場所である。

「今回の標的が潜伏していた以外の報告は、受けていないんだけどね……」

 ()()()一般人を相手に派手な行動をとった呪詛師は、ことごとく連盟員たちに潰されてきた。

 だが昨晩の呪詛師は、彼らの怒りを買うような呪殺はしていないはずだと、そう言ってあごに手を当てて考える五条に、同じく考え込んだ乙骨が声をかけた。

「……事故や事件も、あの辺りでは起きていないんですか?」

「それは何件かあるけど、残穢は確認されていない。……気になる?」

 何か企んだ顔をして身を乗り出してくる五条に、乙骨と里香がたじろぐ。

「気になっているのは、五条先生のほうでしょう?」

 五条がこの顔になった時には、いつも面倒ごとを押し付けられると、里香が少し不機嫌そうに返す。

 バレていることを笑って流した五条が目を伏せ、真面目な顔をしてから二人を見た。

 “連盟の狩人”は、乙骨の“血の狩人”と同じく、本来は狩人狩りを行うものであり――今は“呪詛師殺し”を行っている。

「“狩人”として、二人が高専のバックアップなしで活動する必要がある以上、同じ狩人である彼らから学ぶべきことは大いにある」

 久しぶりに教育者らしい風格を見せる五条に、二人も姿勢を正す。その緊張した様子を見て、五条がふっと息を漏らした。

「……というのは建前で、ちょっと行ってきてよ」

 急に軽くなった五条の態度に、乙骨と里香の反応は追いついていない。それを面白そうに眺めながら、五条は不敵な笑みをたたえた。

「今回は“呪術師”として、ね……」

 

 

 

 

 

 それぞれの任務を終え、一年生全員の顔がそろったため、交流を兼ねて呪力なしでの鍛練が行われる。

 竹刀を持つ乙骨との打ち合いを終えた真希が、グラウンド端の芝生に腰を下ろして狩人の二人を見た。

「お前ら、呪霊相手の時より動きがよくねぇか?」

 懐に潜り込んで短期決戦を仕掛けてくる乙骨と、逃げ回るように攻撃を避けて時間を稼ぐ里香。

 実戦での里香は飛び道具も使ってくるため、どちらかに気をとられ過ぎると、もう一人に仕留められる。定番の組み合わせだが、連携がよくて厄介だ。

 悔し気に声を掛けてきた真希に、乙骨が答えた。

「真希さんって、荒っぽく見えても型がきれいだから対応しやすいんだよね」

 本人に悪気はない。狩人として、人間の(なり)をしていながら人間ではない動きをする“獣”を相手にしているために出た、正直な感想だ。

 だが、それを理解していても、納得してくれるような相手はここにはいない。

「真希を挑発するとは、憂太も言うようになったな」

 しみじみとうなずくパンダに、里香と狗巻も悪ノリする。

「頼もしいわね憂太」

「高菜」

「……えっ?」

 すぐに腰を上げて前方に飛んだ乙骨の背後に、棍棒が振り下ろされる。

 怒気を帯びた真希の攻撃に、乙骨が慌てて言葉を並べた。

「いや違うよ! 僕の相手って、人間辞めてるようなのが多いから素敵だなって思ったって意味で!」

「私を人外と同列に並べるとは、いい度胸じゃねぇか……」

 清々しいほどに墓穴を掘る乙骨に、見ている三人もあきれ顔になる。

 追いかけっこの始まった二人を見守っていると、担任の男が気配もなく現れた。

「いやー。楽しそうで何よりだね」

 愉快そうな五条が明日の任務票を手にしているのを見て、パンダは狩人の二人が初日から鎧着用で登校し、学年そろっての任務後に、個別の任務も受けていたことを思い出す。

 異例の数々に最初こそ警戒したが、本人たちの気性はいたって大人しい。

「そういや狩人って危ない奴なイメージだったけど、憂太や里香を見てると普通だよな」

 パンダの言葉に、里香が不思議そうに目を瞬かせる。

「憂太は優秀な狩人よ?」

 同じようにパンダも疑問符を飛ばし、会話のずれが生じていることを解消する前に、五条が口を挟んできた。

「優秀な狩人――“よい狩人”っていうのは、『狩りに優れ、無慈悲で、血に酔っている』ものらしい。それとね……」

 素直に自分を注視した三人に、五条がにこやかに述べた。

「これは呪術師の僕が言うのはおかしな話だけど……“まとも”に見える狩人ほど、狂っているものだよ」

 

 

 

 

 

 

 



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#10 淀み(矜持と教示2)

この連盟員との話は、元は吉野順平の原作登場前に入れる予定でした。
ネタが被ってしまうのと、時系列の関係でここに挟みます。
そのため乙骨と里香も出てきますが、今回は順平と連盟員がメインです。


 

 

 

 

 

――僕には、人の「澱」が見える。

 

 

 

 里桜高校に入学して、しばらくが経った頃。僕――吉野順平は、友人たちと共に映像研を発足した。

 所属するのは、学校を卒業すればクラスメイトにも忘れられそうな、主張の強くない一年生が三人。

 だから、暇つぶしに丁度良い“弱者”だと判断されたのだろう。

 部室を不良たちのたまり場にされることに反抗した僕らは……いや()()、そいつらのいじめの標的になった。

 自分の努力で得たわけじゃない。たまたま親が“持っていた”地位(ちから)を使う、金と時間を持て余した奴ら。……それに媚びへつらう奴ら。

 反抗なんてせずに、ヘラヘラと笑って調子を合わせるのが賢い生き方なのかもしれない。

 でも、それで……自分があいつらと同じ存在になるのが嫌だったんだ。

 

 

 

2017年 7月

 順平がいつも通りに学校へ行く支度をし、いつも通り、憂鬱な気分を顔に出さないよう気をつけながら玄関へ向かおうとしたとき。母――吉野凪に呼び止められた。

「ねぇ順平。今日さ、学校サボって遊びに行かない?」

「えっ」

 唐突な提案に、学校へ行きなくないと思っているのが……いじめを隠しているのがバレたのかと内心焦る。

「……いや、来週から夏休みなのに何を言ってるんだよ母さん」

 焦りながらも順平が取り繕っていると、母は酔っ払いのように絡んできた。

「テスト終わったんだからいいじゃん! 夏休み前だから、今なら空いてるって!」

 ね、と念押ししながら、無駄に上手いウィンクをきめる母に、強張っていた順平の表情が緩む。

 高校に入ってから素気なくなったと不満を訴える母に、渋々了承した体を装って「今日だけ」だと答えてから自室に戻る。

 着替えるために向かうその足取りは、先ほど玄関へ向けたものよりも軽かった。

 

 

 

 人気店や有名店の立ち並ぶ通りには、平日の昼間だというのに人が溢れる。

 自分たちのように遊びに来ている人。仕事中なのか、足早に歩く人……。

 すぐ側にある交差点には車通りも多く、信号待ちをしている間に大型のトラックが何台も通り過ぎていく。

 赤信号で立ち止まっていた順平たちの前に、身なりの良いスーツ姿の青年が立つ。

 スマホを片手に通話するその人が、楽し気に週末の予定を立てているらしいのが聞こえる。

 高校に入学したころは、自分もあんな風に友人と映画館に行く予定を立てたものだと、少しうらやましく思った。

 そんな暗い気分に浸っていると、不意に右足から“虫”が這い上がってくるような……悍ましい感覚がして誰もいないはずの右隣を振り向いた。

 目深にかぶった灰色のパーカーに、濃い色のジーンズ。視界に入っているのに、そこには誰にもいないと錯覚する。

 透明人間のように気配のない人物が、ポケットに入れていた手を胸の前に掲げ……目の前の青年を()()()

「あっ……」

 声を漏らした自分と、青年を突き飛ばした人物の目が合う。フードに隠れていた顔が、自分と同じ年頃の少年のものだとわかる。

 ……気付いたことに、気付かれた。

 そう思ったときには、自分の背中も()()()()道路に飛び出していた。

 大型トラックのクラクションが鳴り響き、事態に気付いたらしい周囲の人々の喧騒が静まる。

「順平!」

 近くで叫ぶ母の声が遠くに感じて――腕を掴んだ誰かに身体を引き戻された。

 自分と入れ替わるように母が道路へと飛び出し、トラックの側面に当たって跳ね飛ばされる姿が目に焼き付く。

――何だこれは?

 うつぶせに倒れた母に訳も分からず駆け寄って、名前を呼ぶ。

――何が起きている?

 そっと触れた母の身体の下に、赤い水溜まりができていくのが分かる。

――これは……現実なのか?

 手足が震え、動けずにいる自分の視界の端に、うずまきのボタンをした白い学生服が映った。

 

 

 

 

 “医療教会”。そこで治療を受けた母の眠るベッドの側に順平が座るが、ここまでの記憶が夢でも見ていたかのように曖昧だ。

 先に()()()()()青年はまだ治療中だと言ったのは、自分に話を聞きに来た警察官だっただろうか。

 周囲に居た人から聞いたという話と、自分の見たものが全く違ったことに、返事をする気力も起きなかったけれど……。

 

 歩行者用の信号機の色は赤。横断歩道へ大型トラックが差し掛かった時、青年が道路へと()()()()()

 怪我をした女性は、青年に()()()()()()前のめりになった少年をかばった。

 

 ……誰も見ていないのか? 誰にも……見えていなかったのか?

 あの青年は、フードを目深にかぶった少年に()()()()。そして、自分も……。

 母の眠るベッドの縁を握って考えに沈もうとしたとき、病室の扉をノックする音がして、看護師が面会時間の終わりを告げに来たのかと振り返る。

 しかし扉を開けて立っていたのは、あの時、救急車を呼んでくれた白い学生服の少年と少女だった。

 

 

 お辞儀をした少年が病室に入り、順平の視線が向けられたのを見てから口を開く。

「初めまして。呪術高専の乙骨と祈本です。吉野順平さん、あなたに確認したいことがあって来ました」

「……呪術?」

 そう言った少年の言葉に困惑していると、乙骨が椅子に座る自分の前まできて片膝をつく。

「お母様が大変な時に申し訳ありません。ですが、少しでも思い出してください」

 彼の行動は上から見下ろす威圧感を与えないためのものだろうが、洗練された動作が本物の騎士のようだと、状況も忘れて場違いなことを考えた。

 そんな少年に続いて病室に入ってきた美しい少女が、扉を閉めてこちらに歩み寄る。

「例えば……誰かに()()()()、とか」

 

 

 

 日本国内での怪死者・行方不明者は年平均一万人を超える。

 その殆どが、人間から流れ出た負の感情――“呪い”による被害だ。

 多くの人間には見ることもできない“呪い”。人々を襲うそれらを見つけ出し、祓うことを生業にしているのが、乙骨たち“呪術師”である。

「僕たち呪術師は、呪術……超能力のようなものを用いて呪いを祓います」

 その力は強力なものも多く、“呪術”と呼ばれるだけあって、他者を呪い殺すことも可能だ。

「今回、吉野さんが見たのは悪質な呪術師……“呪詛師”だと思われます」

 あの呪詛師……。吉野順平に()()()()瞬間だろう。動揺したのか、完全に隠れていた気配が現れた。

 その後、すぐに消えて居なくなったことから、恐らく“存在を消す術式”を持っている。

 同級生に「呪力探知が超ザル」と言われる乙骨だが、呪霊や生物の“気配”には聡い。

 そして呪力コントロールにより呪力量を一般人程度に抑え、周囲に紛れていたなら里香には感知できる。

 それが、二人とも気配を追えなくなった。

 一見、強力に思える術式だが、呪具を持ったり、拳や得物に呪力を籠めれば探知され、術式で気配を消した意味がなくなる。

 “呪術師”として生きていくには、使い勝手がいいとは言えない術式。だが“非術師”が相手となれば、話は変わってくる。

 人が人を()()()瞬間を、“事件”を目撃した者はいない。押した者は姿を消し、押された者は帰らぬ人となる。

 そこに残るのは、人が“飛び出した”という不幸な“事故”のみだ。

 呪術師としての素養が高いとは言えない“窓”では、“事故現場”の、時間が経過してさらに薄くなった残穢を見ることは難しい。

 放っておけば、呪詛師はこれからも()()()人殺しを続けたことだろう。……呪術師たちに気付かれることなく。

 連盟員(かれら)が呪詛師を汚物呼ばわりするのも……呪術師をあまり好いていないのも、当然のことに思えた。

 

 

 

 

 呪い。呪術師と呪詛師。呪術……。

 人間を呪う化物と、化物を呪う人間。それから、人間を呪う人間……。

 それらは順平にとっては突拍子もない話で、意味も理解できていない。けれど――。

「母がこんな目に合う原因を作った奴を、あなたたちは追うんですよね?」

 表情の読み取りにくい乙骨と里香が小さくうなずくのを確認して、順平が視線を下げる。

 怪我をしたのが自分だったなら、相手にこれほどの怒りを覚えることはなかっただろう。

 怒りを覚えるどころか、情けなく怯え、震えていたかもしれない。

 だから、こんなことを口走るなんて……きっと気が動転していたんだ。

「僕にも……できることはありますか?」

 

 

 非術師である吉野順平が「呪詛師の討伐に協力したい」と申し出るのを聞いて、乙骨と里香が困った顔になる。

 彼は今回の事件の被害者であるため、呪術についても説明をしたが、あまり深入りさせては乙骨たちが呪術規定に違反する。

 呪術師として、彼の協力や任務への同行を許可することはできない。

「申し出はありがたいですが、協力をお願いすることは――」

 ない。と続けようとしたとき、病室の扉が開くと共に声がかけられた。

「“連盟”は君の協力に感謝する」

 音もなく現れた狩人に順平は驚き、乙骨と里香の表情が強ばった。

 里香の呪力探知の範囲には一般人しか居らず、乙骨にも気配を悟られていない。

 先日は相手の雰囲気にのまれて気にする余裕がなかったが……技量が高いだけの“非術師”だ。

「許可も得ずに入室して申し訳ない……。しかし、すぐに伝えねばと思ってね」

 そう続ける連盟員の雰囲気は、規律正しい官憲隊のそれであり、先日の薄気味悪い姿は鳴りを潜めている。

 順平が連盟員に注目すると、その人が残念そうに乙骨と里香を見ていた。

「そこの()()()()、呪詛師を相手にするのは本職ではないのだよ」

 

 

 

 

 

 一般人の殺しを請け負ったあの呪詛師は、標的である治療中の青年と、目撃者である吉野順平を消すつもりでいる。

 吉野凪は事情を知る訳ではないが、彼女も目撃者として消される可能性は高い。

 だが入院中の二人については、“医療教会”にいる限り危険に晒されることはない。

 吉野順平についても、ほとぼりが冷めるまで教会が保護することを約束し、彼が望むのであれば、見てしまった「嫌なものを忘れる」こともできる。

 その申し出を断り、乙骨たちが止めるのも聞かずに呪詛師をおびき出すことに協力すると決めたのは順平自身だった。

 自身が危険に晒されることだけは、理解したつもりになっていたのだが……。

 

 囮の役割を終えた順平と里香が待つ古いガレージで、積まれた瓦礫が派手な音を上げて崩れる。

 その原因を作った連盟員が、慌てた様子の乙骨を押しのけ、外から引きずってきた何かを順平に投げ寄こした。

「君……。先程この呪詛師(クズ)が少年であるからと、『更生の余地はないのか』と言ったな?」

 重苦しい雰囲気に息をのんだ順平の前に、血塗れになった呪詛師の少年が倒れ伏す。力の入っていないその背中を、連盟員が踏みつけた。

「この“人殺し”が、いくらであの青年を()()()か分かるか?」

 異常な空間の中、予想していなかった質問の内容に順平が固まるが、連盟員は気にせずに話を続ける。

「50万だ」

「……は?」

 金額が高ければ許されるという訳ではない。

 だが、明らかに安すぎるだろうと、後ろで聞いていた乙骨と里香も、順平と似たような顔をしている。

 その50万円という金額は少年の取り分だ。仲介役が相当な上前をはねていたため、さすがに依頼料は何倍にもなるが……。

「一流の“殺し屋(プロ)”に依頼すれば、0(ゼロ)が7つは付く。依頼主も仲介役も殺し屋も……捕まれば極刑だろうと自覚しているからな」

 だから依頼主は大金を積んで優秀な仲介役を探し、仲介役は依頼に最も適した殺し屋を雇う。

 殺し屋は依頼失敗のリスクを下げるために大金と時間を使い、あらゆる策を講じて確実に仕事をこなす。

 見られたからと、己の不手際で無関係な人間を殺すのはただの“人殺し”。“殺し屋(プロ)”は金にならない殺しはしない。それに比べて――。

「自覚がないんだよこいつらは! それだけの事をしているという自覚が!」

 たまたま“持って生まれた”だけの呪術という才能で、何も考えずに他人から奪っていく。

「私が()()()()()()……!」

 踏みつけられた呪詛師の作る血だまりが広がったことで、さすがに止めようと動いた乙骨を連盟員が振り返る。

()()()()もだ“血の狩人”! 呪術師だったとはな……。先日の醜態も納得がいく」

 あのくらい、呪術師なら()が何とかしてくれると高を括っているのだろう?

 

 

 

 恨みがましく吐きだされる連盟員の言葉が、乙骨と里香の胸に刺さる。

 二人は“狩人”として呪詛師の討伐依頼を受けているため、連盟員が言うように呪術師として高専に守られることはない。

 だが、狩人としても呪術師としても……「殺す」ことが日常となり、「死」への忌避が薄くなっているのは事実だ。

 「人の命を奪っているという自覚が無い」というのは、他人ごとに思えなかった。

 

 

 

 血だまりの中に大きな百足が――「虫」が跳ねたのを見て、使命を思い出した連盟員が口を閉ざす。

 威圧感が収まり、熱くなってしまったと詫びる相手に、順平は曖昧に返事をした。

 視線を落とすと広がる血だまりの中に、日常でも時折見かける何かがうごめくのが見えて、逸らそうとした顔がそちらへ向く。

「君……この『虫』が見えているな?」

 そう囁いた連盟員の靴先が血だまりを跳ね、溺れながら這うそれを踏み潰した。

 

 力を求める狩人は、人ならぬ上位者の声を表音した秘文字――カレル文字を脳裏に焼き、神秘の力を得ることがある。

 血族である乙骨が、里香との“血の契約”により「穢れ」をその身に宿したように。

 連盟員は「汚物の内に隠れ轟く、人の淀みの根源」――すべての「虫」を踏み潰し、もはや「虫」などいないと分かるまで、狩りと殺しを続けることを「淀み」に誓う。

 契約によって「虫」を見ることは、目標を失った狩人たちへの慈悲なのだろうか。……()()()()()()それは見え、尽きぬ使命を与えるのだから。

 

 それ故に、「淀み」を宿すことなく「虫」が見えるとは、彼は()()である。

「吉野順平。君には三つの選択肢ができた」

 そう語る連盟員は、いつになく機嫌が良さそうに見える。

1.このまま母親の待つ病院へ戻り、今までと同じ生活を続けること。

2.今夜見た「すべてを忘れ」、昨日までの日常を取り戻すこと。

3.連盟の仲間として、共にすべての「虫」を踏み潰すこと。

「ひとまず今夜は病院まで私が……。いや、そちらの二人が適任か。君たちに彼の送迎を頼みたい」

 緊張した面持ちで乙骨と里香がうなずくのを確認して、連盟員が順平に向き直る。

「何かあれば教会を訪ねるといい。目的が何であれ、我々は君を歓迎する……」

 

 

 乙骨と里香に並んで歩きながら、順平は連盟員が去り際に呟いた言葉を心の内で反芻する。

――我々は人の内に、何を見ているというのだろうな……。

 あの呪詛師が隣に立った時に感じた、虫が這いあがってくるようなおぞましい感覚。

 特別な状況下におかれた、願う者にだけ見えるらしい「虫」が、以前からなぜか自分には見えていた。

 このことに意味や理由なんて、ないかもしれないけれど……。

 今わかっていることは、ただ一つ。

 

 

 

――僕には、人の「澱」が見える。

 

 

 

 

 



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#11 同志(矜持と教示3)

次回から原作開始です。


 

 

 

 

 

2017年 8月

 ステンドグラス越しに夕日が差し込む静かな教会で、乱れの一切ない官憲隊の制服を身に着けた狩人が祈りを捧げている。

 祭壇に置かれているのは“連盟の杖”で、握りの中には、連盟員の名を記した名簿が隠されていた。

「“血の医療”を受けても狩人になる必要はなく……狩人となっても連盟に名を連ねる必要はない」

 唐突に声を上げた連盟員が意識を向けるのは、入口に佇む一人の少年。

 学校帰りに訪ねてきたのか、吉野順平は半袖のシャツにスクールバッグを提げており……左腕には止血用の包帯が巻かれている。

「それでも僕は、見えていないことを理由に、目を逸らさないと決めました」

 矛盾して聞こえる言葉を紡ぐ少年に、狩人が振り返った。

 

 

 現時点で、高専が特に動向を注視している狩人は三人いる。

 星漿体(せいしょうたい)誘拐の首謀者であり、人ならざる身の星空の瞳には未来が視えると噂される“聖歌隊”。

 呪術師を狩人に引き入れることにも、呪霊の蔓延る街を()()()()()ことにも積極的な、元呪術師の“処刑隊”。

 そして、術師と非術師に関わらず、()()()市民を傷つけるものを粛清する、非術師の“連盟員”。

 今、順平の目の前にいる連盟員がその一人であり、呪術を使えない身でありながら、見えない人々にとっての危険を数え切れぬほど取り除いてきた。

 今までもきっと、自分たちは知らぬ間に助けられてきたのだろう。

 ()()()いなくとも、誰かのために行動を起こすことはできる。

「僕にも……同じことができますか?」

 覚悟を決めた、真剣な顔をする順平に、連盟員が突き放すように返した。

「もう一度言う。『虫』が見えるからといって、君が連盟に名を連ねる必要はない」

 仲間へ誘うように話しかけていた以前との違いに、順平がなぜなのかと言いたげな顔をする。

 その様子を見ながら、連盟員が興味なさそうに続けた。

「大勢が進む流れに乗って生きるというのも、人間の美徳だ」

 あの夜の苛烈さの欠片もない姿に、順平は落胆のような、苛立ちのような……何とも言えない感情が湧く。

 人間の美徳?

 最初から流されて生きることができていたら、理不尽に目をつぶることができていたら……。自分がここに立っていることも、母が事件に巻き込まれることもなかった。

 そして自分が()()()()()()、あの呪詛師があの場で行動に出ることもなかったのだ。

 不愉快さを表情に出した順平に、連盟員が笑みを浮かべた。

「……先ほどよりは、よい目になったな」

 

 “連盟”とは、狩りの夜に轟く汚物すべてを根絶やしにするための協約。

「『虫』を潰し、潰し。潰し潰し……君も汚物塗れの人の世を知るだろう」

 そこに正義感など必要ない。

 絶えず狩りと殺しを続ける血濡れの使命の中で、ただ折れぬ狩人であればいい。

「それでも君が連盟の使命を受け入れ、仲間になるなら……」

 いつか、自らの内に「虫」を見出し、自らの手で引きずり出すであろう道を進むというなら――。

「『淀み』をその身に刻むといい……」

 

 

 “秘文字の工房道具”を頭に当て、脳裏に連盟のカレル文字を、人ならざるものの声を刻む。

 その大それた行いにより、()()()()()()()()()()()ような不快感と、ひらめきを得たような快感が生まれる。

 生まれながら()()()()()が、脳の構造(デザイン)が非術師であったために使えなかった才能が開花する。

 「淀み」を刻んだ痛みに肩で息をしていた順平が、不意に頭に浮かんだ言葉を口にした。

「……“澱月(おりづき)”」

 少し掠れた声で呟けば、手のひらほどの大きさの、淡く発光するクラゲが現れる。

 宙に浮かぶ式神の姿に、出した本人である順平が驚きに目を見開いた。

「……素晴らしい」

 感嘆の声を上げた連盟員に驚いた様子はなく、満足そうに手にしていたものを順平に差し出す。

 持ち手の飾りが外された“連盟の杖”を、順平は反射的に受け取った。

 杖から覗く紙を引っ張り出せば、異国の文字で名前らしきものが書き連ねてあるのが分かる。

「新しい同志を、皆歓迎するだろう」

 そう言われて何枚にも及ぶ名簿の最後を確認すれば……すでに吉野順平の名が記されていた。

「存分に励んでくれよ……」

――同志たち、連盟の狩人が協力するのだから。

 

 

 

 

 

 京都の姉妹校との交流会を一カ月後に控えた東京の高専では、一年生でありながら交流会へ参加する“狩人”乙骨に注目が集まった。

 校内を訪れている先輩呪術師たちの視線を意に介さず歩き、乙骨は教室の扉を開く。

 「自習」と書かれた黒板を見て、一応、教科書を開きながらも、一年生たちは話に花を咲かせた。

 

 自分や里香には「人の命を奪っているという自覚が無い」と、連盟員に言われた言葉を思い出す。

 “狩人”としての乙骨の目的は、「血の穢れ」を集めることだ。

 呪詛師を殺すことに疑問を持つ必要はないが、これが利己的で、忌避される行為であることを忘れてはいけない。

 それを忘れた時、人間の(なり)をしていようと自分は“獣”となり……“狩人狩り”がやってくるだろう。

 “呪術師”乙骨の任務内容も、呪詛師の討伐がほとんどのため、やることは狩人の時と大して変わらないが……。

「皆は、呪術師として誰かを助けたいとか……高専に来た目的があるのかな?」

 ペンを走らせる手を止めて投げかけられた質問に、真希が怪訝な顔をする。

「あ? 別に私のおかげで誰が助かろうと知ったこっちゃねぇよ」

 聞かなきゃよかった。

 笑顔のまま固まった乙骨の頬を、里香が指先でつつく。

 いつも通りな二人を慣れた様子で眺めてから、真希は誰にも話していなかった入学理由を語った。

「……私は性格(わり)ぃかんな。一級術師として出戻って、家の連中に吠え面かかせてやるんだ」

 尊大ともとれる発言だが、ひたむきな努力を続ける真希が言えば、不快に思うことはない。

「そんで内から禪院家ブッ潰してやる……」

 不敵な笑みを浮かべる真希の瞳は真っすぐで、強い意志が表れていた。

 

 真希に続いて、高専から出ることが少ないパンダも過去を振り返る。

「俺も助けたいとかは特にないなぁ……。ぶっちゃけ、オマエら以外の人間って、よく知らんし」

「ツナマヨ……」

 それもそうかと、納得してうなずいた狗巻が乙骨と里香を見た。それに続いて、パンダと真希の視線も集まる。

「オマエらが高専(ここ)に来た理由は?」

 聞くまでもなく呪詛師の討伐だろうと思っている同級生に、乙骨が入学した一番の理由を答えた。

「僕が里香ちゃんに贈る、“婚姻の指輪”を探しに行くためだよ」

「……はぁ?」

 

 上位者と呼ばれる人ならぬ何者かが、特別な意味を込めた“婚姻の指輪”。

 古い上位者たちの眠る“地下遺跡”のどこかにあるとされるそれは、狩人が“血の女王”に求婚する際に贈られたともいう。

 国内の遺跡はすべて回ったため、見逃していない限り、指輪があるとすれば海外の遺跡だ。

「高専からの任務を受けるなら、来年には海外への渡航費が出るって五条先生が」

「遺跡に潜る合間に、呪霊討伐ツアーね」

 にこにこと、乙骨に続いて答える里香はハネムーン気分である。……物騒すぎないか?

「あとは、そうだな……」

 同級生の驚く顔を見て満足した乙骨が、五条の誘いに乗って呪術師になることを決めた日を思い出す。

 

 教会に所属する狩人たちに派閥はあるが、組織的には敵対していない。

 しかし、血にまつわる記憶というのは厄介なもので、カレル文字を刻んだ者たちの間では、何となく気が合わないというか……気に入らないといった意識が芽生えやすい。

 特に、乙骨たち“血の狩人”――異端とされるカインハーストの装束と、“穢れた血族”に対する態度は顕著だった。

 時代が時代なら、“処刑隊”とは殺し合っていただろう。

 呪いと戦うという少数派(マイノリティ)の世界において、同じ“獣の病”を抱える狩人でありながら、同志となることは決してない。

 では、“呪術師”としての乙骨憂太と祈本里香は、何がしたいと思ったか。

 何が欲しくて、何を叶えたいと思ったのか。

 人によっては「ささやかな願い」になるであろうそれは……「自分たち以外の、誰かと関わりたい」。

「誰かに必要とされて……生きてていいって、自信が欲しかったんだ……」

 そう呟く乙骨に、狩人としても呪術師としても上位の強さを誇りながら、頼りない雰囲気だった初日の姿が重なる。

「……で、その自信はついたのか?」

 机に片肘をつきながら問いかける真希に、乙骨と里香は下げていた視線を向ける。

 両隣で同じように微笑みを浮かべる狗巻とパンダも合わせて、出会ってから半年にも満たない付き合いであるのに、彼らには敵わないと思った。

 

 

 

 

 



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原作開始
#12 拝領(両面宿儺)


原作開始です。
この小説の悠仁君は、狩人ではありません。
“鴉羽”の狩装束で、“烏羽”の狩人で、“鴉”の狩人証。


 

 

 

 

 

2018年 6月

宮城県仙台市 杉沢病院

 部活を終えた杉沢第三高校の一年生。虎杖悠仁が、祖父への見舞いの花を抱えて受付の前を通る。

 病室へ向かう彼を、スタッフルームにいた看護師の一人が慌てた様子で呼び止めた。

「ねえ、悠仁君。最近……肝試しとか行った?」

 その言葉を聞いて、数日前に部活の先輩たちと夜の神社へ行った虎杖は、驚きながらも好奇心の溢れる瞳を看護師に向ける。

「なんで分かんの!?」

 カウンターに身を乗り出して聞いてくる虎杖に、()()()()()()が見えるのだと答えた看護師が真面目な顔で尋ねた。

「何か持って帰ってきたり、してないよね?」

 ゴミ掃除のつもりで拾った物も駄目だと話す看護師の迫力に、虎杖がカウンターに乗せていた身を引く。

「何も拾ってないよ」

 肝試しをした場所では、という注釈を心の中で付け足しながら笑う虎杖を、看護師が疑わしげに見る。

 しかし、ここで長く引き留めても意味がないため、「肝試しは控えるように」とだけ告げ、病室へ向かう彼を見送った。

 虎杖の背中が見えなくなってから、少し席を外すと言って看護師はある場所に連絡を入れる。

 呪いが憑いているようには見えないが……「悍ましい気配がする」と。

 

 

 

 短気で頑固者で……優しかった爺ちゃんが死んだ。

 最期だからってカッコつけて、オマエは強いから人を助けろだとか、大勢に囲まれて死ねとか。……俺みたいにはなるなよ、とか。

 他にも好き勝手に言い残して、虎杖倭助(わすけ)は眠ってしまった。

 実感がわかないまま受付で書類の記入を済ませ、泣きはらした目を擦った虎杖に、知らない少年の声がかけられる。

「虎杖悠仁さんですね?」

 喪中にすみません、と続けて話す相手を、虎杖が振り返った。

 

 ダブルボタンの軍服のような黒いロングコートに、鳥の羽を模して裂かれた布を重ねたマントを羽織った少年。

 何かのコスプレかと思っている虎杖から見えない背面には、施術道具を収めたポーチが装飾品としてベルトに括られている。

 本来であればペストマスクに似た白の“嘴の仮面”と共に着用するそれらは、“鴉羽の狩装束”。

――仲間の遺志が、せめて天に、あるいは狩人の夢に届くように。

 そう願って“血に酔った狩人”を、正気を失ったかつての仲間を狩る鴉の姿には、鳥葬の意味がこめられていた。

「医療教会の伏黒です。あなたに話があってきました」

 

 

 伏黒と名乗った真面目そうな少年は、風変わりな服装も相まってか、対面しているだけで只者ではない――強者であるのが伝わってくる。

 そんな彼が“呪い”について説明し、看護師と同じく「最近、何か拾わなかったか」と聞いてきたため、虎杖は学校の百葉箱で拾った怪しい箱をおずおずと差し出した。

「……中身は持っていませんか?」

 空箱を見て深刻そうな顔で問う伏黒に、不安になってきた虎杖が答える。

「中身は先輩が持ってて……。今日の夜、学校でそれのお札剝がすって……」

 そこまで言って、本当にヤバいものなのかと伏黒の様子を窺う虎杖に、丁寧な口調を捨てた彼が告げた。

「……ソイツ、死ぬぞ」

 

 

 呪物の回収は伏黒の専門ではないため、あの箱の中身が何かは知らないが、こびりついた呪力の残穢から特級クラスの呪物であることも考えられる。

 もし札が剝がされれば、その強い呪力を得るために中身を喰おうと呪いが集まってくるだろう。

 そして呪いが集まれば……伏黒の“獲物”も、狩りのためにやってくるかもしれない。

 学校までの道を走りながら話を聞いていた虎杖は、まだ“呪い”について半信半疑である。

 ただの痛い人だったらどうしようと、失礼なことを考えながら校門を見上げると、今まで感じたことのない(プレッシャー)が放たれたのが分かった。

「オマエはここにいろ。先輩の居そうな場所は?」

 そう言った伏黒の手に、二種の曲刀を重ねた希少な隕鉄の刃――慈悲の刃が握られる。

 突然、取り出された黒刀に驚きで固まったが、校舎に入っていこうとする伏黒を慌てて呼び止めた。

「待てよ! 俺も行く! やばいんだろ!?」

 友達は放っておけないと訴える虎杖に、伏黒が鋭い視線を寄こす。

「呪いは呪いでしか祓えない。……呪力のないオマエは足手まといだ」

 取り付く島もない言葉と、どこからともなく取り出した“嘴の仮面”で顔を覆った現実味のない伏黒の姿に、何も言い返すことができなかった。

 

 

 

 伏黒を見送ってから数分が経ち、校舎前に立つ虎杖は震える自分の手を見ながら自問する。

――俺は何にビビッてる?

 答えは簡単だ。今も学校から色濃く漂う、嫌な予感……「死」。

 死ぬのは怖い。だが、祖父が死んだときは、それほど怖いという感じはしなかった。

 自分が泣いたのも、怖かったからじゃない。……少し、寂しかったからだ。

 今、目の前にある「死」と、祖父の「死」に何か違いはあるのか?

――オマエは強いから、人を助けろ

 数時間前に聞いた祖父の声が、鮮明に聞こえた気がした。

 人はいつか、必ず死ぬ。

 見舞いに来るのが孫である自分一人だろうと、ベットの上で穏やかに眠りについた祖父が「正しく死ねた」とするなら……。

 ここにあるのは、「間違った『死』」だ。

 手の震えが止まった虎杖が、校舎に向けて駆けだす。彼の恵まれた身体能力は、短い助走からは考えられない跳躍を引き出した。

 

 

 

 

 

 二頭の大型犬の影と共に鴉羽のマントが舞い、異形たちが切り裂かれる。

 校舎四階の廊下の曲がり角で、生徒二人を飲み込もうとしていた低級呪霊の塊がはじけ飛んだ。

 それと同時に、窓の外からガラスを蹴破って新たな少年が侵入してくる。

 呪霊が消失したことで支えを失った生徒たちが身体を床に打ちつける前に、窓から入ってきた少年――虎杖が二人を抱きとめた。

 虎杖が頭部に怪我をした男子生徒、井口を床に寝かせ、佐々木を抱え直せば彼女の手から何かがこぼれ落ちる。

 掴んだそれを確認すると、人間の指のミイラのようだった。

「これがさっき言ってた呪物?」

「ああ。何で来たと言いたいところだが……。二人を連れて走れるか?」

 校舎奥へ続く廊下の先を見据えた伏黒が、慈悲の刃を握りなおす。

「できるけど……。その犬は?」

「俺の式神だ。見えてるなら丁度いい」

 呪霊も呪術も、今回のような特殊な場や死に際でなければ、一般人には見えないものだから。

「この二匹をオマエにつける。その指は呪いが寄るから捨てていけ。……俺の“本命”が来た」

 闇に包まれた廊下の突き当りがきらりと光り、短く空を切る音がする。

 虎杖の視界を遮るように一歩踏み出した伏黒が、慈悲の刃を振るった。

 金属音を響かせたのは、弾かれて廊下の壁に刺さったスローイングナイフ。

 次々に起こる非日常的な事に虎杖が驚いている間に、呪霊よりも不気味で獰猛な「死」の気配を漂わせる何かに向けて、伏黒が駆けていった。

 

 

 

 伏黒の式神――玉犬(ぎょくけん)がパーカーの裾をくわえて引っ張ったことで、呆けていた虎杖が慌てて先輩二人を抱える。

 指は捨てていけと言われたが、危険な物なら置いていって失くしたらまずいだろうかと、どうするかを悩む。

 逡巡したのは十秒にも満たない時間。しかし、一般人がむき出しの呪物を……“両面宿儺の指”を持っているには長すぎる時間だった。

 急に吠えた玉犬が虎杖の背中に体当たりをするが、よろめかせるには至らない。

 どうしたのかと振り返った虎杖の前に、天井を突き破って四つ目に六本の手足を生やした爬虫類のような呪霊が降ってきた。

 

――もし札が剝がされれば、その強い呪力を得るために中身を喰おうと呪いが集まってくるだろう。

 伏黒の言っていた通りだ。指は捨てていけと言われたのに、自分がためらったためにヤバいものが来てしまった。

「二人を守ってくれ!」

 急いで先輩たちを壁際に降ろした虎杖が、玉犬に声を掛けて呪霊の元へ走る。

 廊下いっぱいの大きさをしている呪霊の左下に空いた隙間に、両面宿儺の指を握った虎杖が滑り込んだ。

 その姿を左腕で追って反転した呪霊が、虎杖を捉えて壁に叩きつける。

 なんとか受け身をとった虎杖に、呪霊が巨体をぶつけて一緒に外へと飛び出した。

 

 幸いにも三階の渡り廊下の上に着地できた虎杖が、呪霊に向き直る。

――呪いは呪いでしか祓えない。……呪力のないオマエは足手まといだ。

 校舎の外で、伏黒に言われた言葉を思い出す。

 今さら指を捨てても、先輩二人を抱えてコイツから逃げるのは難しそうだ。

 ここで自分がコイツを何とかできなければ、先輩たちも襲われてしまうのだろうか。

 あの式神の犬たちは、伏黒が助けに来るまで守っていてくれるだろうか。

 伏黒が追いかけていった何かは、自分の目の前にいるものよりも危険な気配だった気がする。

 あれを倒すために来たらしい伏黒なら、コイツのことも倒せるはずだ。だが……。

 

 人に頼ってばかりでいいのか? 爺ちゃんは何て言っていた?

 

 呪霊にぶつけた拳に手ごたえはあるのに、効いている様子がまるでない。

 自分には“呪力”というやつが無いから。

「……そうか。呪力」

 この呪霊が襲ってくるのは、自分が持っている呪物の指を喰って“強い呪力”を得るためだ。

 呪いは呪いでしか祓えないなら――。

「俺に呪力があればいい!」

 両面宿儺の指を虎杖が顔の前に掲げれば、呪霊も釘付けになったように動きがとまる。

――人を助けろ。

 それを飲み込む瞬間、爺ちゃんの声が聞こえた気がした。

 

 

 

 虎杖――受肉した両面宿儺が右手を一振りすれば、あれほど苦戦していた呪霊の顔面が簡単に吹き飛んだ。

 呪霊の残骸には目もくれず、千年ぶりに光を浴びた呪いの王が笑い声をあげて街を見下ろす。

 蛆のように湧いている人間をどうやって殺していこうかと、思考を巡らせようとしたとき、視界の端に黒鳥の羽のようなものが映った。

 

 黒く輝く隕鉄の刃を軽く受け止めた宿儺の腕に血が滲む。

 食い込んだ刃は骨に届いていなかったが、対のもう一振りが刀身に叩きつけられる直前、腕を払った宿儺が一歩距離をとった。

「オマエ、受肉体だな?」

 鳥の嘴を模した白い仮面の下から発せられる声は、少年らしさの残るものだ。

 受肉して間もなかったとはいえ、気配を悟らせずに仕掛けてきた鴉を宿儺が観察する。

「呪術師か? 心地よいほどに呪われているな……」

 呪われているのは家系。いや……受け継ぎ背負った業だな。

 切れた腕を反転術式で治した宿儺は、目覚めて早々、それなりに楽しめそうな相手が現れたことに笑みを浮かべた。

 

 身にまとう気配の変化と、初対面のような虎杖の反応に、狩りの対象と定めた伏黒が追撃にでる。

 しかし、虎杖に宿った何かの気配が揺らいだかと思えば、迎え撃つために掲げられていた彼の手が、彼自身の顎を掴んだ。

「うわっ! 危な!?」

 間一髪。側頭部に突き刺さる直前で止まった慈悲の刃に気付いた虎杖が驚きの声を上げる。

 一人の身体に二つの人格が宿ったように、顔をしかめて何かと会話をしていた虎杖から、もう一つの気配が消えた。

 それを目の当たりにして、刃を突きつけた状態で止まっていた伏黒が感激の声を上げる。

「呪物の影響を打ち消した、“拝領”による呪力の取得………」

 受肉できるほどの強力な呪物であれば、間違いなく特級クラスの猛毒。

 それを呪術師でもない虎杖が、何を思ったのか喰ってしまった訳だが……。死ぬどころか、呪力を得て正気を保っている。

 呪力を持たないものが呪力を得るという、ある種の“進化”。これは“獣の病”を解き明かすヒントになるかもしれない。

 

 慈悲の刃と嘴の仮面を仕舞った伏黒に、状況がいまいち分かっていない虎杖が話しかけた。

「俺、結構ボロボロなんだけど……。今からでも診てもらえる病院、知ってる?」

「ああ。入念に検査するぞ。費用は気にしなくていい」

 予想以上に鬼気迫る表情で返してきた伏黒に、虎杖が慌てる。

「俺、そんなヤバい怪我してんの!?」

 一番、血のついている腕を触り、傷らしきものも見当たらないことに虎杖がほっとしていると、二人の間に第三者が忽然と現れた。

 

「本当に恵いるじゃん。今、どういう状況?」

「五条さん……」

 アイマスクで目元を覆った長身の男に警戒した虎杖だが、伏黒の反応で知り合いだと察して緊張した肩の力を少しだけ抜く。

 二人の会話を聞いていると、五条が“両面宿儺の指”――恐らくさっき自分が飲み込んだ指を回収しに来たのだと分かる。

「恵も仙台(こっち)に来てるって聞いてさ。指の回収ついでに顔を見とこうかなって」

 君にしては派手にやったねと、校舎に開いた大穴を見て笑った五条が伏黒に向き直った。

「で、指のこと何か知ってる?」

 ポケットに両手を入れ、お土産らしき紙袋を提げて余裕そうに立つ五条に、小さく手を挙げた虎杖が話しかける。

「あのー……。ごめん。俺、それ食べちゃった」

 あまり気にしていなかった少年から伝えられた衝撃的な話に、さすがの五条もアイマスクの下の目を点にした。

「……マジ?」

 

 

 

 

 



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#13 鴉羽(秘匿死刑)

原作と同じ流れの場面は、だいたい飛ばします。


 

 

 

 

 

 両腕に重しを吊るされているような違和感を覚えて、虎杖はゆっくりと意識を浮上させた。

「おはよう」

 知らない男性の声が聞こえるが、瞼を開いても視界は薄暗い。

 視線を彷徨わせれば、壁一面に御札が貼りつけられた部屋の中にいるのがわかった。

「今の君は、()()()なのかな?」

 やっとはっきりしてきた意識を声の主に向ければ、目元をアイマスクで覆った黒づくめの男がにこりと笑う。

 状況の飲み込めていない虎杖に、目の前の男――五条悟が話を始めた。

 

 

 

 あの夜。両面宿儺の指を喰った少年、虎杖悠仁が“宿儺を制御できる”のか、五条はテストを持ちかけた。

―― 十秒間、両面宿儺に体を代わること。

 それは、彼に“器”の可能性があるのかを確かめるための第一段階。

「でも……」

「大丈夫。僕、最強だから」

 心配をして渋る虎杖に余裕で返した五条は、言葉通り、自由になった宿儺の攻撃を軽々といなした。

 そして十秒が経ち、虎杖が戻ってきたことを確認した五条は、次のテストとして虎杖の額を指先で軽く突く。

 意識を失って倒れる虎杖を支える五条に、不機嫌さを隠しもしない伏黒が声を掛けた。

「虎杖は医療教会で預かります。勝手しないでください」

「“両面宿儺の指”は高専(うち)の所有物だよ? 高専で預かるのが道理でしょ」

 わかってないなと言うように、五条が伏黒に向けた手の人差し指を立てて左右に振る。

 本人に自覚があるかは知らないが、小馬鹿にして見える仕草に、伏黒の眉間にしわが寄った。

「管理できていないのに所有物とか、よく言えますね。最低でも二人は死ぬところでした」

「“獲物”を優先した恵には言われたくないなぁ。その二人が死んでも、自己責任と言って終わりだったでしょ。……君も、守る相手は選ぶタイプだもんね?」

 狩りに、血に酔った狩人を狩る。あまねく狩人に悪夢の終わりもたらす“汚れ役”を引き受けることが、鴉の狩人証を受け継ぐ者の使命。

 狩人が校舎の四階に現れたとき、伏黒にはその場で殺す手段がいくらでもあった。

 あえて戦うために非術師たちの側を離れ、場所を変えたのは、彼の目的がただ殺すことではないから。

 伏黒は非術師の命よりも、狩人が人の姿であるうちに――獣に身を(やつ)す前に、()()()()()の最期を与えることを優先した。

 ……戦い抜いた。狩人としての「死」を。

「僕はそういうの、嫌いじゃないよ? でも……」

 伏黒が使命をまっとうしている間に、虎杖が受肉した。

「後から興味が出たからって、囲い込むのはダメでしょ」

 しばらく黙ってにらみ合った二人が、ため息をついた。

 

 医療教会に身を寄せた場合、虎杖は即刻、死刑対象として呪術師たちに追われることになる。

 しかし高専預かりにするなら、五条がわがまま……融通をきかせて、実質無期限の執行猶予をつける形に持ち込むことも可能だ。いや、必ず持ち込む。

「彼の受肉について知りたいなら、君や誰かが高専に来ればいい。……そっちも通してあげるよ」

 術師の狩人は学生にも何人かいるだろうと、軽い調子で聞いてくる五条に伏黒が顔をしかめた。

 ほとんどの狩人は“非術師”であるが、彼らは呪霊を認識し、祓う手段をもっている。

 そんな彼らのことを、呪術界の上層部は呪詛師扱いとはいかないまでも、よくは思っていない。

 半端な実力の狩人では、嫌がらせの延長で消される可能性が高い。

 それに、呪術規定に照らし合わせれば呪詛師と変わらない活動をしている者もいるため、誰にでも任せられる事じゃない。

 伏黒の活動も、狩人の大半は非術師のため黒。だが、相手が“狩人”に限定されているため、黒に近いグレーとなるだろうか。

「高専に入るとなると、俺の“仕事”の調整も必要です。……先代を探して復帰させるので、二週間以内に俺が()()()()()()転入できるようにしといて下さい」

 今まで何度も勧誘され、しかし全て無視してきた伏黒本人が来るつもりでいる発言に、五条は笑みをこらえた。

 ……()()、二級術師の狩人が増えることになる。

「虎杖、殺させないでくださいよ」

 そう言った伏黒の瞳に映る挑発的な態度が、彼の父親と重なって見える。今度こそ五条は笑い声を漏らした。

 相伝を持った術師が外部にいて、しかも狩人をしていると知ったら、禪院家はどうなることやら。

 騒がしくなりそうな予感に、五条は親指をびしっと立てて笑みを深くした。

「任せなさい!」

 

 

 

「ってなわけで改めて……。君、死刑ね」

「……結局、死刑なん?」

 万事解決した雰囲気で話していた五条からの死刑宣告に、虎杖が幻滅した顔を向ける。

「いやいや、頑張ったんだよ? さっきも言ったように、君には執行猶予がついた」

 そう言った五条が、見覚えのある物に似た何かを取り出した。

 

 虎杖が食べた呪物、両面宿儺の指は全部で二十本ある。

 この呪物は壊すことができず、日に日に呪いが強まっている上に、現存の術師では封印が追いついていない。

「そこで君だ」

 虎杖が死ねば、中の宿儺も死ぬ。

 今すぐ虎杖を殺せと、上層部の臆病な老人共は騒ぎ立てたが、今後生まれてくる保証のない「宿儺に耐えうる器」を殺してしまうなんて勿体ない。

――どうせ殺すなら、全ての宿儺を取り込ませてから殺せばいい。

 そう提言した五条に、上層部は渋々了承した。

「君には今、二つの選択肢がある」

 今すぐ死ぬか。

 全ての宿儺を見つけ出し、取り込んでから死ぬか。

 両面宿儺の指を差し出した五条が、にこりと笑った。

「好きな地獄を選んでよ」

 

 

 

 

 

 東京都立 呪術高等専門学校

 一週間前に虎杖が転入した呪術高専は、多くの呪術師が基点として活動している呪術界の要。

 ただ、一年生が自分と釘崎野薔薇という女生徒の二人しかいないことから、呪術師というのはかなりの少数派(マイノリティ)らしい。

 来週あたりには伏黒が転入してくると聞いているので、もう少し賑やかになるだろうか。

 そう考えながら引率の呪術師を待つ虎杖の視線の先には、話に花を咲かせる三人の少女がいた。

「じゃあ、次の日曜日の十時に駅前集合ね!」

 そう言って、今日、初めて会ったとは思えない様子で釘崎と約束しているのは、フリーの呪術師だという枷場(はさば)菜々子と美々子。

 高専の制服を着ていない二人は普通の女子高生にしか見えないが、優秀な呪術師らしい。

 行きたい店のピックアップを始めた三人に虎杖が疎外感を感じ始めていると、肩を誰かに叩かれた。

 急なことに驚いて振り返ると、長い黒髪をハーフアップにした若い男性がにこやかに立っている。

「やあ。君が虎杖君だね?」

 そう言って首を傾げた男の、額に一筋だけ垂らされた特徴的な前髪が揺れた。

 

 

 

 予定の時間になっていないからと、引率の自分が来たことに気付かず、楽しそうにしている少女たちを見守っているのは、特級呪術師の夏油傑。

 そんな夏油に、虎杖は五条から聞いた話をそのまま質問としてぶつけた。

「夏油さんって、めっちゃ強いけど任務はあまり受けないってホントですか?」

 全ての宿儺を自分が喰らい、消すことで、少しは呪いに殺される人も減らせるかもしれない。

 自分にしかできない「宿儺を喰う」という使命の裏に、そういう思いを抱いている虎杖には――“他人を守るために”強くなろうとしている虎杖には、純粋な疑問だった。

「悟から聞いたのかい? ……私は、非術師は基本的に嫌いなんだ」

「俺、最近まで非術師だったんですけど……」

 冷汗をかいて一歩下がろうとする虎杖に、夏油が小さく笑う。

「私が嫌いなのは、弱者であることに甘んじる非術師。恐怖から目を逸らす弱者だよ」

「恐怖から……目を逸らす」

「“恐怖”というのは人間の重要な感情で、時には逃げる事も必要だ。でも、目を逸らしてはいけない」

 何が言いたいのかと見上げてくる虎杖の額に、夏油が指先を向けた。

「君は現状を打開するために『宿儺の指を喰う』という選択をした。そして賭けに勝った。……君は弱者ではないよ」

「ありがとうございます?」

 おそらく褒められていると判断した虎杖が礼を述べれば、夏油が遠い目をした。

「自己犠牲精神の溢れる君に伝えておこう。……他者を頼ることも、逃げる事も恥ではない。自分の為になる事しか行わなくても、誰も君を責めはしない」

――私がそれに気づけなければ、今頃は呪詛師にでもなっていたかもね。

 最後に小さく呟かれた言葉を聞き返した虎杖に、夏油が何でもないと答えた。

 

 やっとこちらに気付いた少女たちに手を振った男の背中に、なぜその話を自分にしたのかと虎杖が問う。

 振り返った夏油は先ほどの頼れる姿から一転して、五条のように軽薄な態度で片目をつぶった。

「『ゲテモノ喰い』のよしみだよ」

 

 

 

 

 



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#14 葬送(呪胎戴天)

いつもはセリフやネタを書き溜めたメモを見ながら、間のシーンを埋める感じで書いています。
しかし、今回の話のメモはゼロだったので、捻り出すのに時間がかかりました。
順平くんに言わせたいセリフが大量にある……。


 

 

 

 

 

2018年 7月

西東京市 英集少年院

 雨の降り続ける中、その場所を見上げるのは、呪術高専一年の虎杖と釘崎。

 特級仮想怨霊の呪胎が確認される緊急事態のために派遣された二人だが、彼らはまだ入学してから二週間ほどしか経っていなかった。

 

 今回の任務内容は、呪胎と共に宿舎に取り残された5名の生存確認と救出。

 特級に相当する呪霊に成ると予想される中、「絶対に戦わないこと」を補助監督である伊地知が念押しした。

「今回の任務も、伏黒君がいればよかったのですが……」

 やるせない表情で呟いた伊地知の声を、釘崎が拾う。

「伏黒って、明日、転入予定の?」

「はい。彼は狩人のため()()()()とされますが、五条さん曰く『今の宿儺を()()()()なら楽勝でしょ』とのことです」

 それは、彼が「死んでも勝つ」ことができる術師だと、五条が言外に示したものだったが、三人が知ることではない。

「特級に楽勝って……どんなバケモンよ」

 顔を引き攣らせる釘崎に、不思議そうに話を聞いていた虎杖が声をかけた。

「俺、イマイチ分かってねぇんだけどさ、その二級とか特級って何?」

 

 

 通常兵器が呪霊に有効だと仮定した場合、4級呪霊は木製バットでも祓える余裕な相手で、1級呪霊となれば戦車でも心細い。

 特級呪霊はそれ以上の存在であり、まず間違いなく術式を扱う知性があると見ていい。

 伊地知の説明を受けた虎杖が、神妙な顔になる。

「つまり、今回のは五条先生とか夏油さんの受ける任務ってこと?」

 同じく神妙な顔でうなずく二人に、虎杖が遠い目で呟いた。

「……無謀じゃね?」

「呪術師は人手が足りないんだから、相手が特級でも下見ぐらいは私たちでやれってことでしょ」

 普段は気の強い釘崎が表情を硬くするのを見て、釈然としない気持ちを訴えようとしていた虎杖は言葉を飲み込んだ。

 

「残念ながら、呪術師が手に余る任務を請け負うことは多々あります。とはいえ、今回は緊急事態で異常事態です」

 そう言って眼鏡のフレームを指で押し上げた伊地知に、二人の視線が集まる。

「『絶対に戦わないこと』。特級と会敵した時の選択肢は、『逃げる』か『死ぬ』かです」

 固唾をのんだ二人に、少し逡巡してから伊地知が告げた。

「あと……高専を基点にしている術師ではありませんが、個人的に頼れる先輩を呼びました。……ですが、あまり期待しないでください」

 来てもらえるかは分からないと言う伊地知に、釘崎は過去に問題を起こした術師なのかとあたりをつける。

 期待するなと言いながらも伊地知が告げたのは、何があっても諦めるなと、二人に希望をもたせるためだ。

 しかし、失意の中で見る不確かな希望ほど、残酷なものはないのも確かだった。

 

 

 

 2階建ての寮内に足を踏み入れた虎杖と釘崎の前に広がるのは、雑然としたビルの路地裏のような空間。

 明らかに2()()()()で収まらない高さと奥行きのあるそれを見て、釘崎が領域だと呟いた。

 

 術式を付与した生得領域を呪力で周囲に構築したもの――呪術戦の頂点と言われる「領域展開」。

 今の自分たちでは、領域に入った瞬間に死んでいてもおかしくないが、まだ生きている上に呪霊も見当たらない。

 数時間前まで相手が呪胎だったことから、不完全な領域なのだと考えられた。

「呪霊を祓えば、外に出られるんでしょうけど……」

 もし遭遇すれば、今度こそ自分たちは死ぬだろう。

 伊地知の言う“頼れる先輩”が、どれ程の強さなのかは知らないが、彼が呼ぼうと思ったのなら勝算はあるはずだ。

 それなら、来てくれることに賭けて大人しく待っていた方がいい。

 そう言って口元に手を当てた釘崎は、呪術師の先輩として冷静に状況を分析しているように見える。

 しかし、その手がわずかに震えていることに気づいた虎杖は、自分のために無理して気丈に振舞わせてしまっていることに唇を嚙んだ。

 

 領域に入ってから数十分が経ち、無言で歩く二人が振り返れば、来た道がなくなっている。

 この空間に出口があるとは思えないが、立ち止まっているよりは気持ちが楽だからと、気配を殺して歩いた。

 呪霊がどこから来るか分からないため、周囲の物陰や上空を常に警戒する。

 そんな慣れないことを続けたせいだろうか。足元に現れた黒い水溜まりに気付くのが遅れた釘崎は、穴に落ちるように()()()()()()

「釘……崎?」

 振り返り、姿の消えた仲間の名前を呼ぶ虎杖の声が広い空間にむなしく響く。

 その直後に巨大な気配が背後に現れたことで、硬直した虎杖の頬を冷や汗が流れた。

 

 

 

 まだ呪力の使えない虎杖が呪霊を祓う唯一の手段、呪具は彼の左手と共に()()()()()

 簡易的な止血しかできていないため、傷口は酷く痛んだはずだが、今は感覚があるかも分からない。

 相手は“狩り”でも楽しんでいるつもりなのだろう。断続的に特級呪霊から与えられる苦痛の中で、先日、夏油から聞いた言葉が虎杖の脳裏をかすめる。

――自分の為になる事しか行わなくても、誰も君を責めはしない。

 自分の為……。宿儺と代われば、確かに自分は助かるだろう。

 あの五条が「宿儺を使えばその辺の呪霊なんて瞬殺だ」と言ったのだ。目の前の特級呪霊だって難なく祓えるに違いない。

 ……その後は?

 呪霊を祓い、領域から出られたとしても、自分が宿儺を抑えられなかったら?

 それ以前に、宿儺が特級呪霊を祓う保証もない。

 呪霊が祓われることもなく、釘崎をさらに危険に追い込むだけではないのか?

 気まぐれで呪霊が祓われたとしても、釘崎や伊地知が危険に晒されることに変わりはない。しかも辺りは市街地だ。

 “宿儺を殺せる”存在が近くにいないのに、無責任なことはしたくない。

 来るかも分からない助けを待ち、耐えることを選んだ虎杖が前にかざす右手の先を、呪霊の呪力が塵にした。

 

 

 

 

 

 真っ暗な空間の中で、不思議と呪霊の姿だけはっきりと見える。

 落とし穴に吸い込まれてからすぐに始まった大量の呪霊との戦いは、多少の怪我はあるものの釘崎の優勢で進んでいた。

 その証拠に、辺りには消滅しかけた呪霊の残骸と、大量の釘が散らばっている。

 しかし、呪霊を見据えながら腰に付けたポーチの中身を探っていた釘崎の指が、ため息と共に戻された。

 ……釘が尽きた。

「近接戦って、あんまり得意じゃないのよね……」

 そう呟いて右手に持った金槌を握りなおし、構えた釘崎の隣で銃声が響いた。

 

 音に驚いて息を止めた釘崎の前で、時折、銃弾を放つ槍――“銃槍”を手にした人物の灰に塗れた装束が翻る。

 全体的にささくれた装束――“灰の狩装束”はみすぼらしく見えそうなものだが、獲物を狩る力強い姿が狼のように魅せた。

 残っていた全ての呪霊を祓った人物が“灰狼の帽子”をずらし、隠されていた顔を出す。

 歳は五条と同じくらいだろうか。

 連れていた式神らしき白の大型犬が遠吠えするのをなだめ、人好きのする笑みを浮かべた顔は、同級生を思わせる。

 高専を基点にしている術師ではないが、伊地知の個人的に頼れる先輩――灰原雄だった。

 

 

 

 

 

 満身創痍で振るった拳が呪霊に受け止められ、悪態をついた虎杖の耳に犬の遠吠えが届く。

 呪霊の出した声かもしれない。だが「伏黒の式神だ」と、なぜか確信できた。

 

 宿儺と代わって誰かが死ぬくらいなら、自分が死んだ方がいい。

 

 ……死にたくない。

 

 自分と他人の命を天秤にかけて、自分では選べなくて、頭がぐるぐるする。

 でも、宿儺を殺せる狩人、伏黒がいるなら……。自分を()()()()()止めてくれる人がいるなら。

 ……今だけは、彼を頼りにしたい。

 

 

 

 

 

 玉犬が遠吠えをしてから数分も経たないうちに、生得領域が閉じた。

 怪我をした釘崎を伊地知の待つ車まで運び、見送った灰原は、宿舎の前に立つ後輩を振り返る。

 烏羽の狩人――伏黒恵がうなずいたのを見て、自分は生得領域から街に放たれた呪霊を狩るために駆けだした。

 

 

 

「暫くぶりだな。……鴉」

 少し話そうと声を掛けてきた虎杖――宿儺に、伏黒がゆっくりと向き直る。

 灰原につけた玉犬のあげた救出完了の合図、遠吠えの直後に膨らんだ呪力は、やはり両面宿儺のものだった。

 機嫌よく話す宿儺の話を聞けば、なんの()()もなく宿儺の力を借りた虎杖は、戻ってくるのに手こずっているらしい。

「しかしまぁ、それも時間の問題だろ」

 そう言った宿儺が自身の胸に手を突き刺し、大切な心臓(もの)を抉り出す。

 “嘴の仮面”の下で目を見開いた伏黒の前で、脈打つそれは投げ捨てられた。

「俺は心臓(コレ)なしでも生きていられるがな。虎杖(こぞう)はそうもいかん。俺と代わることは死を意味する」

 虎杖自身を人質とした宿儺が、見覚えのあるものを取り出す。

 特級呪霊が取り込んでいたらしい両面宿儺の指を、一息に飲み込んだ。

 

 狩人狩りの“仕事”をする時に、仲間を狩る時には必ず着用している“嘴の仮面”を、伏黒が外した。

 仮面を()()()()()()()、代わりに仕掛け武器を影から引き出す。

 その手に握ったのは“慈悲の刃”ではなく、身の丈以上の大鎌――“葬送の刃”。

「虎杖。俺は特級を相手に時間稼ぎをしようと考える程、自分の力に(おご)っていない」

 そう話す伏黒の視線は宿儺に向いているが、彼を見てはいない。

「だから、“せめて安らかに眠り、二度と辛い悪夢に目覚めぬように”……オマエを送ろう」

 最初の狩人が獣を弔うために振るった武器を、()()()向ける。

「それが嫌なら、人として死にたいなら……()()()()戻ってこい」

 

 

 

 

 



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#15 目覚め(ある夢想)

戦闘描写は難しいです。
この書き方で伝わるのかな、と思う部分はありますが、力尽きたのでこれでいきます。


 

 

 

 

 

 両面宿儺の指を“拝領”してなお自我を保ち、呪力を取得した希有な存在。虎杖悠仁。

 彼について知ることは、伏黒を含む“血の医療”を受けた――上位者の血を“拝領”した者たちが抱える呪い、“獣の病”を解明する足掛かりとなる可能性がある。

 

 強者らしく伏黒が動き出すのを待つ宿儺の、虎杖の胸は文字通り“空っぽ”だ。

 心臓を抜き取られた今の状態で虎杖に身体の主導権が戻れば、彼は間違いなく死ぬ。

 それを避けるには宿儺自身に心臓を治させるしかないのだが……。

 宿儺に殺されず、自分も相手を殺さないように立ち回るなんて器用なことは、残念ながら伏黒にはできない。

 それならせめて、虎杖の受肉についての情報を一つでも多く得ることに力を尽くそう。

 

 

 

 少年院のグラウンドに、小さな鐘の音が響き渡る。

 “狩人呼びの鐘”。その音の共鳴により、狩人が世界を超えて共闘したという鐘が、伏黒のまとう鴉羽のマントの影に吸い込まれた。

 

 狩人が所持するアイテムには、使用者や使い道が限られる奇異なものが多く、中でも狩人呼びの鐘を使()()()()()者は特に少ない。

 使用者が少ない理由は明白で、狩人呼びの鐘の使用条件を満たす者は、死の淵に立っているのと同義だからだ。

 その使用条件は、おそらく三つ。

 

1.使用には“啓蒙”を必要とする

2.敵対する“呪い”が、呪術師の基準で1級相当以上である

3.周辺の()()()()()()()“人間”が二人以下である

 

 “啓蒙”は未知との遭遇により得ると言われており、己の死を覚悟する――“理解する”ような強敵と出会った時や、“領域”に足を踏み入れた時がそれにあたる。

 しかし、「3級呪霊が祓えれば御の字」と言われている狩人が大半なのだ。1級相当の呪いと遭遇した時点で、鐘を鳴らす間もなく殺されるだろう。

 ……鳴らせたとしても、共鳴した者が現れるまで耐えられなければ無意味だ。

 今、この場には“人間”の伏黒と、特級の“呪い”である宿儺――あるいは“人間”の虎杖がいる。

 そして学校や病院といった、ある程度の広さがあり敷地の境界が明確な場所は、狩人呼びの鐘が影響する“範囲(エリア)”として認識されることは検証済みだ。

 少年院(ここ)にいる伏黒が鐘を鳴らせば、敷地外にいる狩人を呼ぶことができる。

 先ほど呪霊を追って、すぐに呼び出しに応えられるように敷地外に出た狩人。……灰原だ。

 

 

 

 宿儺に向けて振るう伏黒の大鎌には、彼の愛用する“慈悲の刃“と同じく、星に由来する希少な隕鉄が用いられている。

 工房武器のマスターピースと呼ばれる“葬送の刃“は、より強い獣を狩る力を追求した後継の仕掛け武器とは違う趣があった。

 

 宿儺の後を追うように、刃が鈍い輝きを放つ。

 身の丈以上の大鎌を振るう伏黒は鍛えているようだが、その武器のサイズと重量を考えると振りが異様に速い。

 宿儺の眼で見ても呪力で肉体を強化している様子はないことから、彼の呪われた業に関係するであろう()()があるのが分かる。

 並の呪霊ならば易々と葬ることができる攻撃だが、宿儺を相手にするには、少々、大振りで鈍いようだ。

 

 両の手をポケットに入れたままの宿儺が、後ろへ一歩下がる。

 自分の攻撃がかすりもしていないというのに、宿儺と対峙する伏黒は笑みを浮かべていた。

――狩人呼びの鐘は、共鳴していない。

 呪術師たちが何と言おうと、()()()から見た虎杖悠仁は……“受肉体”は“人間”。それが知れただけでも、大きな収穫と言っていいだろう。

 

 無表情に戻った伏黒の動きが変わる。

 横薙ぎに振り抜いた大鎌がギミック音を響かせ、驚くほどあっさりと刃と柄の二つに分かれる。

 半ばから折り畳んだ柄を背中に担いだ伏黒が、外された鎌の刃を剣のように振るった。

 

 伏黒が武器の形状を変え、姿勢を低くして距離を詰めてきたため、宿儺はポケットに入れていた左手を伸ばす。

 鴉羽のマントの襟首を掴もうとすれば、不自然に(ひるがえ)ったマントが手を()()()()()

「あ?」

 怪訝な顔をする宿儺の隣で、ステップを踏んだ伏黒の手が式神を召喚するための印を組む。

 呪力の流れを読んだ宿儺が、飛び掛かってくる大蛇(オロチ)を半歩下がってかわせば、蛇の巨体と重なった伏黒の姿が視界から消えた。

 

 やっと術式を攻撃に使ったかと思えば、ただの目くらまし。 

「……つまらん」

 そう呟く宿儺の隣を大蛇(オロチ)が通り過ぎると、伏黒の構えた教会の連装銃――1度の射撃で水銀弾を2発を発射する、威力重視の短銃が宿儺の眼前に迫る。

 音もなく向けられた銃は、呪具ではない。呪力が()められているわけでもない。

 普通なら、かすり傷一つ負わせることはできないと気にも留めないが――。

 

 舌打ちした宿儺が、すんでのところで上体を反らして水銀弾をかわす。

 銃声と共に()が鳴ったのを耳が捉えた直後、式神に劣らぬサイズの巨大な()()()()が、地面から生えて宿儺に食らいついた。

 

 

 呪具ではない、()()違和感のある武器。

 先程の不自然な回避に、術式ではない式神の召喚――“マダラスの笛”による毒蛇の召喚。

 強さを求めた狩人たちに与えられる、上位者からの恩恵(呪い)の一部だ。

「これが“狩人”か……」

 奇異な道具であろうと問題は無いし、脅威にもならないが……対処するのは少々面倒だ。

 それを扱う伏黒自身も、式神使いのくせに体術だけで大抵の呪いを祓うだけの能力がある。

 それに、見知った者と対峙すると、大抵の奴は攻撃をためらうものだが……。

 伏黒は確実に殺すため、迷いなく頭を狙って撃ってきた。

――前言撤回だ。

「面白い」

 霧のように消えた毒蛇の噛み傷を治した宿儺が、右手を軽く振る。

 見えない斬撃が無数に放たれ、目の前の人物を巻き込んで周囲の木々と建物をなぎ倒した。

 

 

 大きくステップを踏んで宿儺から距離をとった伏黒は、素早く取りだした何かを太ももに刺す。

 宿儺が確実に()()()はずの伏黒は、細かい傷から血を流しているが軽傷。

 その傷も“輸血液”によって即座に癒やし、ボロ切れとなった鴉羽のマントを脱ぎ捨てた。

 

 

 気分がのってきた宿儺は笑うが、虎杖が戻るまでの“時間”も迫っている。

 予想より厳しい相手だが、心臓を治すのはなしだ。

 術式を使って道具を出し入れしやすい“影”を作っていたマントを放り投げた伏黒は、手に持つ刃に呪力をまとわせ、近接戦に切り替えるつもりらしい。

 特級呪霊と違い、自分の斬撃に耐えた相手と打ち合いができることに、宿儺は気分を高揚させた。

 そんな宿儺と距離を詰める伏黒との間に、マントが――“影”が落ちる。

 その影から、白と黒の二匹の玉犬が飛び出した。

 

 右腕に嚙みつこうとする黒い式神を、宿儺が裏拳打ちで弾き飛ばす。

 気を散らすために放たれた二匹の式神は、確かに相手を不快にさせるのに効果的だった。

 時間まで適当に伏黒の相手をして遊ぶつもりでいたのも忘れて、宿儺が舌打ちと共に横なぎに斬撃を放つ。

 しまったと思った時には、飛び掛かってきていた白の式神が細切れとなって破壊された。

 

 邪魔な式神が消え、視界の開けた宿儺の目に、半身を自分の()()()()()伏黒の姿が映る。

 影に入れることができるのは、物や式神だけではない。

 生物にも使用できるとなれば、対人戦での攻撃の幅も広がる。

 回避、潜伏……相手の不意を衝くにも。

「いい術式だ」

 そう言った宿儺の足元に、()()()()影が落ちる。

 呪力で足場を作るため、伏黒へ向けていた意識をほんの少し割いた宿儺に、大鎌へと形を戻した“葬送の刃”が迫る。

 腕を伸ばし、大鎌の柄を掴んで動きを止めようとした宿儺の手が触れる直前、大鎌は()()()()()()一対の黒刀――“慈悲の刃”と入れ替わった。

 

 

 

 二人の呪力がぶつかった衝撃で砂埃が舞い、互いに距離をとったまま視界が晴れるのを待つ。

 抉れた肩から血を流し、慈悲の刃を構える伏黒は、今の衝撃でついた火傷のような傷とあわせて、癒やすために輸血液を刺した。

 そんな伏黒を、目立った傷のない宿儺が見やる。

「小手先の戦術はどうかと思うが……。すぐに離れたのは正解だったな」

 武器の入れ替えによって間合いを変え、タイミングをずらしたはずの伏黒の攻撃は、宿儺に届かなかった。

 伏黒が高校の屋上で仕掛けた時を除けば、宿儺は狩人と戦うのは初めてのはずだ。

 それなのに、「狩人は何の媒介もなく狩り道具を出し入れできる」ことを知っていたのは……。

「オマエ、小僧の前で影を介さずに物を出し入れしただろう?」

 受肉の時に、身体の持ち主から記憶や知識を得ていたということか。

 

 この入れ替えによる攻撃が防がれてしまった今、伏黒の打てる手はほとんどない。

 宿儺の斬撃は、並の相手ならとっくに切り刻んでいるものだ。

 現状維持は死に向かうだけ。速さと技量に長けた“狩人”である伏黒にも、何度も避けられるものではない。

 全盛ではないとはいえ、明らかに格上の相手に領域展開を使う選択肢は、最初からなかった。

 ……虎杖に「死んでも戻ってこい」と言ったのは自分だ。だったら自分も、「死んでも殺してやる」。

 

 

 伏黒の次の出方を見る宿儺が待っていれば、慈悲の刃を消した伏黒が無手で構えた。

 その身にまとう呪力が爆発的に跳ね上がる。

 今まで最低限の呪力だけを使用していたのは、呪力量が少ないからではなかったらしい。

 

 呪術戦において、勝敗を分けるのは素の力や能力ではない。

 「才能がほぼ8割」と言われる呪術師の()()――術式を存分に発揮できなければ、宝の持ち腐れ。

 命を燃やし、肌を焼くほどの呪力の圧を持つ伏黒は、まさに“呪術師”だ。

 伏黒の呪力に引っ張られるように出力を上げた宿儺が、高揚に身を任せて叫んだ。

「魅せてみろ! 伏黒恵!」

 

「布瑠部由良由良……」

 切り札を出そうとしていた伏黒が、不意に言葉を紡ぐのを止める。

 呪力を抑えて構えも解き、宿儺に――虎杖に向き直った。

 

「死は終わりではない」

 伏黒の声が、ただ事実を告げるように発せられた。

「次の“目覚め”を迎えるために必要なことだ」

 表情を見せず、淡々と、決まり文句のように話し続ける伏黒の様子に、()()が苦笑した。

「……そっか」

 共有した時間は一時間にも満たないかもしれないが、自分の死を尊び、同情することなく看取ってくれる人物がいるのは、不思議な気持ちにさせられる。

「伏黒にそう言われると、また会える気がしてくるな」

 虎杖の言葉に、伏黒が微笑みを見せる。

 それにつられて、今度はにこりと笑った虎杖が、そろそろだと呟いた。

「伏黒も釘崎も、五条先生……は心配いらねぇか」

 力の抜けた虎杖の身体が、ふらりと傾く。

「……長生きしろよ」

 その言葉を最後に、目を閉じた虎杖が倒れる。すぐ側に片膝をついた伏黒が、胸の前で手を組んだ。

「“いってらっしゃい”、虎杖。……貴方の目覚めが、有意なものでありますように」

 

 

 

 

 

 翌日。

 ()()()、死んだことになった虎杖を伊地知に任せた五条が、家入と別れて高専の構内を歩く。

 また虎杖が狙われることのないよう、念のため、釘崎にも彼が生きているとは伝えられない。それが釘崎自身を守ることにもなる。

 今日が転入予定だった伏黒のほうは、「意味がない」から来ないかと思ったが……。

「五条()()

 名前を呼ばれ、笑みを浮かべた五条がゆっくりと振り返る。

「恵。入学してくれるんだ? 意外だね」

 嬉しそうに声を掛ける五条とは違い、高専の制服を着た伏黒はしかめっ面で立っていた。

「“先生”からの伝言です」

 そう言った伏黒に、五条の表情が強ばる。

 

――あの子の目覚めが、有意なものでありますように。

 

 ()()()いるらしい“先生”の言葉を聞いて、五条の機嫌が目に見えて悪くなった。

 それに動じず、伏黒は言葉を続ける。

「それに、『君はまだ幼い』と……」

「本当に……()()()()()ね」

 礼をして踵を返した伏黒の背中に、聖歌隊(あいつ)は暇人なのかと文句を言いながら五条は唇を噛む。

 

 一部とはいえ、狩人たちの力は呪術師を凌ぐほどに大きくなっている。

 近年、生徒のレベルも急激に上がっているが……。()()が狩人となった。

 そして現れた宿儺の器。

 呪霊も含めて、今までの「特級」なんて物差しでは測れなくなるだろう。

 まだ保守派の術師たちは分かっていない。

 

――“目覚め”の時だ。

 

 

 



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#16 命(情)

一番、大切なもの。


 

 

 

 

 

 夏の暑さが感じられるようになった高専の境内で、一人の少女が拝殿の石階段に腰かけている。

 俯く少女の視線は、手に乗せた小さな鐘に向けられていた。

 その小さな鐘――“狩人呼びの鐘”を釘崎野薔薇が揺らしたのを、待ち合わせのために向かっていた伏黒は遠目に確認した。

 

 あの鐘は昨日、病院で手当てを受けた釘崎に、灰原が「どうにもできない状況がきたら、鳴らしてほしい」と言って渡したものだ。

 彼が狩人になった経緯を考えれば、今回のような目に遭った釘崎にあれを持たせようと思うのも無理はない。

 特級呪霊の領域に入ったことで、釘崎も鐘を鳴らすための“啓蒙”を得たと思っていたのだが――鐘の音は鳴らない。

 領域に入ることで啓蒙を得るのは狩人だけなのかと、伏黒は狩人と非狩人が啓蒙を得る条件の違いを情報に追加する。

 何か思案していた釘崎が伏黒の足音に気付き、顔を上げたため、改めて挨拶を始めた。

 

 

 

 軽く挨拶は済ませたが、釘崎はほぼ初対面の相手と会話をする気分ではなく、伏黒も場を和ませようなどと考えるタイプではないため、二人の間に沈黙が落ちる。

 しかし、伏黒が少し距離を空けた上段に――釘崎からは話しかけにくい位置に腰かけたことで、彼なりの気遣いを感じた釘崎は黙っていることにした。

 

 釘崎は自分が術式を使い、なんとか祓っていた呪霊たちを一瞬で消し飛ばした灰色の狩人の姿を思い出す。

 伊地知の言っていた“頼れる先輩”は、術式を使わなくても、呪力すら使わなくても自分や虎杖より強かった。

 彼も高専に通う術師だったらしいが、名乗らなかったということは何かあったのだろう。……自分たちのように、何か。

 

 病院で優しく笑いかけてくれた狩人の顔が、任務終わりに見ていた友人の笑顔と重なる。

 彼にもらった鐘を強く握りしめ、虎杖のことへ考えを巡らせたとき、ずっと黙っていた伏黒から声をかけられた。

 

「釘崎。“全ての人間に平等に与えられている、不平等なもの”って、何だと思う?」

 沈黙を破ったかと思えば、最初の話題がそれか。

 言葉が喉まで出かかったが、釘崎も相手の意図を汲み取るために、ひとまず考える。

 「与えられている」ということは、自分で買ったり作ったりはできないもの、という意味だろうか。

 自分で手に入れることができないのに、全員が持っているもの。

 不平等なもの。均一でないもの。

 自分や伏黒が持っていて、虎杖も持っている……()()()()()もの。

「……命」

 デリカシーがない男だと、上段に座る伏黒を釘崎がにらむと、こちらを見ていた伏黒と目が合った。

 

 

 

「そう。“命の時間”」

 人間だけではない。全ての生物には、命の時間が不平等に与えられている。それが現実。

 だが、医療教会は人ならざる存在の血の輸血により、“獣の病(のろい)”と引き換えに“命の時間”を延ばすことがある。

 同じものは一つもない、一番大切で特別な命の時間を……。

 

 命の時間は、その人だけの特別なもの。

 だから、もし。消えゆく“命の時間”を、他の誰かが伸ばしたとしたら。

 例えば、“拝領“により別のナニカをその身に宿したのだとしたら。

 あるいは願いによって、その魂をこの世に縛り付けたのだとしたら。

 ……それはもう、元の“誰か”ではないかもしれない。

 

「呪術師に狩人や医療教会を忌諱する者が多いのは、教会の“血の医療”が、虎杖の受肉に近い行為だからだ」

 伏黒自身は狩人となるために血の医療を受けた部類だが、自分が()()()()()ことは自覚している。

 いつか、獣に身を(やつ)すであろうことも。

「呪術界の上の連中は虎杖を消したがっていた。釘崎は不運にも巻き込まれたことになるが……()()()()には命の時間がある。自棄(やけ)は起こすなよ」

 話が見えずに眉をひそめていた釘崎が、伏黒の言葉に目を見開いた。

「それって……」

 虎杖は生きているのかと確認しようとした釘崎が、口をつぐむ。

 口元に人差し指を当て、“静かに”のジェスチャーをする伏黒を見て、似合っているのが逆に腹が立つと考える余裕が出てきた。

()()()()は、もういいだろ」

 そう言って話を切り上げる伏黒が、強い日差しを浴びる木々に目を向けた。

「……暑いな」

 無理やりな話題の転換に、思わず笑みをこぼした釘崎が返した。

「そうね。夏服はまだかしら」

 

 

 

 

 

 先ほどより雰囲気の和らいだ二人の間で、少しずつ言葉が交わされる。

 まだぎこちない二人の前に、一人の女子生徒が立った。

「なんだ今年の一年は辛気臭いな」

 そう言って発破をかけてきたのは、二年生である禪院真希。

「そんなんじゃ交流会でボコられんぞ」

 この人は誰なのか。交流会とは何か。

 状況が飲み込めていない二人に言葉を続けようとした真希が、近くの木陰に隠れるパンダに呼び止められた。

 

 

「いやー。スマンな喪中に」

 許して。と言いながらおねだりポーズをするパンダの姿に、釘崎の中で可愛さよりも疑問が勝る。

 先ほど声をかけてきたのが、禪院真希。

 おにぎりの具しか語彙がない狗巻棘。

 ハネムーン中で海外に行っている乙骨憂太と祈本里香。

 パンダ。

 以上が東京校の二年生だ。……疑問しかない。

 パンダの話を聞けば、高専の東京校、京都校の二、三年生メインで行われる“京都姉妹校交流会”に参加するメンバーが足りないため、一年生の二人にも声がかかったらしい。

 交流会は、「殺す以外なら何をしてもいい呪術合戦」。

 それに向けての特訓のお誘いだ。

「やるだろ? 仲間が死んだんだもんな」

 挑発するような笑みを浮かべる真希に、二人の視線が鋭くなる。

「やる」

 即答する二人の声が重なった。

 

 誰にも殺されないよう、誰も殺させないよう強くなる。

 ……そして必ず、仲間を()()()奴らに目に物見せてやる。

 

 

 

 

 

2018年 8月

 特訓の日々が過ぎ、生徒同士の中も深まってきた頃。

 真希を相手にやり過ぎた伏黒は、お詫びとして休憩所の自販機に飲み物を買いに来ていた。

 自分も喉が渇いたからと、釘崎も同行している。

 

 自販機から缶を取り出しつつ、釘崎は伏黒を横目に見る。

 “烏羽の狩人”

 狩人の中でも特別な役割をもつという伏黒は、体術だけでも頭一つ抜けている。

 そこに術式の強さも上乗せされるというのに、()()()()なのは詐欺だろう。

 雑談をしながらいくつか飲み物を選んでいると、見慣れない人物が二人、休憩所の入口に現れた。

 

「コイツらが、乙骨と三年の代打……ね」

 値踏みするように見てくる筋骨隆々の男と、静かに立つ華奢な女性。

 高専の制服を着ているので、京都校の生徒だろうか。

 不審そうに二人を見ていた釘崎は、女性の顔立ちが真希と似ているのに気が付いて顔をほころばせた。

「もしかして、真依さんですか?」

 

 接点のないはずの少女たちが楽しそうに話す姿に、さすがの東堂も虚をつかれる。

 しかし直ぐに気持ちを切り替え、咳ばらいをして注目を引いた。

「真依。その話は後にしろ。俺はただ、コイツらが乙骨の代わり足りうるのか。それが知りたい」

 そう言って一歩前に踏み出した東堂には、体格に見合った力強い闘志がある。

「伏黒……とか言ったか」

 丸腰の釘崎を庇うように立った伏黒を、東堂の真剣な目が見据えた。

「どんな女がタイプだ? 返答……」

「津美紀」

「えっ?」

 伏黒が迷わず答えたことで、質問した東堂よりも先に釘崎が驚きの声をあげた。

「……誰よそれ」

「幼なじみだ」

 東堂から視線を外さず、照れる素振りも見せない伏黒に、聞いているこちらの方が恥ずかしい気分になる。

「乙骨といい、あいつといい……なぜお前たち狩人は、『好みのタイプ』を聞かれて『好きな相手』の名を答えるんだ?」

 俺がしたいのは恋バナではないという不満の声が、休憩所に響いた。

 

 

 

 

 

2018年 9月

神奈川県川崎市 キネマシネマ

 

 封鎖された映画館の入口に、一級呪術師 七海建人が立つ。

「凄惨な現場です。覚悟はいいですか?」

 彼がそう声をかけたのは、赤いフードのついた制服の少年――。

「虎杖君」

 

 

 

 

 

 




■補足■
「静かに」
烏羽の狩人が教えてくれるジェスチャー

「一年生、二年生の初対面について」
真希の「お通夜かよ」は、気心の知れている伏黒が相手だから言った冗談だと思います。
ほぼ初対面の狩人伏黒に言ってしまうと、伏黒がキレそうなのでやめました。
真依のセリフも同様。「半分呪いの化物でしょ」とか。

「真希と真依、釘崎の仲について」
菜々子と美々子が自由にしているので、それぞれと仲良くなる。→一緒に出掛けるようになる。
そのため、真希と真依の仲はこじれていない。
釘崎と真依は会ったことがなかったけど、お互いに存在は知っていた。
この後、三人で出掛けるけど、話が脱線するし、書ききれなかった。(三輪は仕事があるから不参加)


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#17 友誼(幼魚と逆罰1)

順平君に言わせたかったセリフの一つ目、最後になんとか入れられて安心です。
彼は術式も想像の余地があるので、次回は術式の開示をやってもらいたい。


 

 

 

 

 

2018年 9月

呪術高専 東京校 某所

 

 久しぶりに制服に袖を通した虎杖は、「信用できる後輩を呼んだ」という五条の指示で待ち合わせ場所に向かう。

 到着してから五分も経たないうちに、白いスーツを着た男を連れた五条が現れた。

「一級呪術師の、七海君でーす!」

「肩を組むのやめてください」

 機嫌よく後輩の紹介をする五条と、冷めた対応をする七海。

 コントのようなノリで始まった二人の会話を、呆気にとられた顔のまま虎杖が聞く。

「七海は狩人についても詳しいから、気になることがあれば聞くといいよ。呪術師は変な奴が多いけど、狩人はヤバイ奴が多いからね」

「他の方も、アナタには言われたくないでしょうね」

 これが塩対応かと、親しそうに話す二人を見ていた虎杖は、さっそく質問を投げかけた。

「ヤバイ奴って……伏黒も?」

 言葉遣いが荒い場面はあったが、彼はどちらかといえば紳士的な印象を受けた。

「恵はかなり大人しいほうだよ。“家系”で狩人になったようなものだし」

 しかし、狩人には何らかの事件に巻き込まれて“呪い”を知り、その事件のために心に空いた穴を埋めようと力を求めるも者もいる。

 呪いや呪詛師、()()()への恨みを募らせながら、()()()()()()()戦い続けている者が。

「特に“連盟員”と呼ばれる狩人には気をつけてください。何が彼らの怒りを買うかはわかりません」

 ほとんどが“非術師”であるのは他の狩人たちと変わらないが、連盟員は術師に対しても好戦的な者が多い。

 しかし相手が非術師であるため、呪術師としては手が出しにくいのが現状だ。

「こっちは本気でやれないのに、あっちは殺す気でくるから。もし襲われたら気合い入れて逃げてね!」

「俺、襲われる前提なの?!」

 宿儺を喰っているから襲われそうだと不安をあおる五条に、虎杖が冷や汗をかいた。

 

 本気なのか冗談なのかわからない話をしていた五条が、改まって真剣な顔になった。

 連盟員には好戦的な者が多いとは言ったが、彼らが狙うのは基本的に、一般人の呪殺を請け負う呪詛師だ。

「でもね。傑も殺されそうになったことがあるんだ」

 だから気を付けるようにと言う五条の言葉に驚き、固唾をのんだ虎杖がたずねる。

「夏油さんが襲われた理由は……?」

 緊張した空気の中、サングラスを指で押し上げた七海が、ため息とともに答えた。

「……謎です」

 

 そんなはずはないだろうとツッコミを入れる虎杖を、七海がいなす。こればかりは、襲った本人にしかわからない。

 話を切り上げた七海が、呪術師の都合で複雑な立場に立たされている少年、虎杖に向き直る。

 虎杖は呪術高専の生徒として過ごしているが、上の連中は彼を術師とは認めていないし、これからも認めることはないだろう。

 そんな上のやり口に賛同している訳ではないが、七海も規定側の人間だ。

 ()()()()()()()、七海も虎杖を術師としては認めていない。

 押し黙ってしまった虎杖に、七海が術師にしてはあたたかい言葉を――宿儺という爆弾を抱えていても、己は有用であると示せと伝えたところで、任務の説明に移った。

 

 

 ここ一年の間に、今回の任務で向かうエリアでは呪霊の発見報告が激減している。

 呪術師の任務では基本的に各地を飛び回るため、局所的な呪霊の討伐に高専が関わっていることは、まずない。

 何か目的を持った呪詛師か、狩人による仕業である可能性が高い。

「このエリアでは、術師の狩人が活動しています」

 そう言って七海が取り出したのは、一枚の写真。路地裏を背景に、学ランのような制服を着た少年が写っている。

 高専の“窓”が望遠カメラで隠し撮りをしたらしいが……顔の右半分を長い前髪で隠した彼の視線は、真っ直ぐこちらを向いていた。

「名前は吉野順平。そして、彼の装束が……」

 七海が官憲隊の制服を指し示す。これを着用する者は――。

「“連盟員”です」

 

 

 

 

 

――人間の最大の罪は“支配”だ。いつの時代も、人間は“支配”(コントロール)できないものを認められない。

 師の言葉を思い返しながら、官憲隊の制服を身に着けた吉野順平が地下の排水トンネルを進む。

 ……今朝のホームルームで、自分の嫌いな人間が死んだと聞かされた。

 だが、被害者の彼らについては、何も思う所はなかった。

 自分が考えたのは、それを行った犯人のこと。

 呪霊であろうと呪詛師であろうと、自分の生活圏に「虫」が出たのであれば潰さなければと、そう考えただけだった。

 こんなことを話せば……「心」がない()()()()とでも言われるのだろうか?

 

 

 人々は昔から、大地を、森を、海を。自分たちの力の及ばぬ天災を恐れて生きてきた。

 人々は今も、思想、宗教、人種……容姿に能力。自分と違う者を拒み、憎みながら生きている。

 支配するために、支配されないために争いを起こす。それが人間というものだ。

 もしも人間に、誰かを思いやる「心」があるというなら……争いなんて起こらないだろう。

 

 

 そこかしこに転がされた、息絶えた人だったもの――“改造人間”に少年の手が触れる。

 点々と続く血痕をたどって歩けば、狩り武器の側に倒れる“獣”の姿が目に入った。

 ()()の隣に片膝をついた吉野が、胸の前で手を組み目をつぶる。

 ……人に心なんてない。少なくとも自分は、そう考えている。

 けれど仮に、人間に「心」があるとすれば――。

「貴方たちの目覚めが、有意なものでありますように……」

――憎しみを抱く「心」を持つことこそが、人間の本性なのだろうか。

 

 

 

 

 

 通話画面のスマホをのせたテーブルを囲むように、七海と虎杖がソファに座る。

 二人が映画館の屋上で戦った呪霊()()()()()。あれらは何だったのか?

 スピーカー越しに、家入から二人が戦った相手の正体が伝えられた。

『人間だよ。……いや、元人間と言った方がいいかな』

 呪力で体の形を無理やり変えられた人間。彼らは呪霊の様に呪力が(みなぎ)っていた。

 そして、彼らが改造されていたのは表面的な形状だけではない。

 錯乱状態を作り出すためか、脳幹の辺りをイジられた形跡も確認している。

『脳までイジれるなら、呪力を使える様に人間を改造することも可能かもしれん』

 現代においても、脳と呪力の関係はまだまだブラックボックスだ。

 

 報告が終わり、三人の間に沈黙が落ちる。

『……そうだ。虎杖は聞いてるか?』

 急に名前を呼ばれて慌てて返事をした虎杖に、二人の死因は「体を改造されたことによるショック死」だと家入が告げる。

 虎杖たちが殺したわけではないと。

『その辺り、履き違えるなよ』

 電話越しでもわかる心配する声に、虎杖は平静を装って返事をした。

 

 七海が通話を切ったところで、虎杖に今までこらえていた怒りが込み上がる。

 改造された彼らの死因が何であろうと、虎杖にとっては同じ重さの他人の死だ。それでもこれは……。

「趣味が悪すぎだろ……」

 膝の上に置かれた両手が、強く握りしめられた。

 

 

 ()()のために本気で怒る虎杖を見て、七海の彼に対する評価も少し変わる。

 だが、やはりまだ学生の身。術師としては未熟。

 “怒り”は術師にとって大切な原動力の一つではあるが、冷静さを失ってはいけない。

 整理した犯人の情報を話しながら、七海は映画館に到着してからの虎杖の言動を思い出す。

 元気よく、「気張ってこーぜ」と言いながらやる気を見せる姿は親友にも似ていた。

 それなら、自分のとるべき行動もわかっている。

「……虎杖君。これはそこそこでは済みそうにない」

 そう声をかけて立ち上がる七海に、怒りに向いていた虎杖の意識も逸れる。

「気張っていきましょう」

 一線を引いた雰囲気のあった七海の態度が変わった。

 

 

 

 

 

 “ある程度”進んだ犯人のアジトの調査をする七海と別れ、虎杖は伊地知と共に吉野順平のもとに向かう。

 映画館の監視カメラの映像には被害者たちしか映っていなかったため、呪霊の犯行である可能性が高い。

 しかし、彼が映画館の被害者たちと同じ高校に通う同級生だったとなれば、話を聞くしかない。

 最近の街の様子や、被害者たちに呪殺の予兆はなかったか。それから――。

 

 

 車をとばしたおかげで下校時刻前に里桜高校に着くことができたが、吉野は午前中に早退したらしい。

 被害者たちのことを聞いてからの行動なら、まだ自宅には帰っていないだろうか。

 ひとまず、吉野の自宅には伊地知が車で向かい、虎杖は通学路周辺で彼が居そうな場所――呪霊の出そうな場所を回ることにする。

 虎杖がいくつかの廃ビルを確認し、水路横の団地を通って河川敷を目指していると、知らない少年の声に呼び止められる。

 少し緊張しながら振り返る虎杖の前に現れたのは、高校の制服姿の吉野順平だった。

 

 

 五条に脅されたせいで必要以上に緊張する虎杖だったが、河川敷の階段に座って街の事情を話す吉野は、普通の学生と変わらない。

 吉野が発見した()()の位置を、虎杖が複雑な表情で伊地知に送った。

 これで虎杖の任務は終了。

 浮かない顔をする虎杖に、今度は吉野から話しかけた。

 

 部活は一年ほど前に辞めたが映像研だったと言う吉野に、虎杖は狩人としての活動が忙しいのかと当たりをつける。

 自分も最近は映画をよく見ると言えば、予想以上に話が盛り上がった。

 

 修行のため、虎杖が部屋にこもって映画を見ていると知った吉野は、映画館で映画を見る醍醐味を語る。

 そんな吉野に、高専の外に出ることさえ久しぶりだった虎杖は、もうじき“死んだふり”をする必要がなくなるのもあって明るい調子で頼んだ。

「じゃあさ、今度オススメあったら連れてってよ」

「えっ?」

 相手が“狩人”だと忘れているのか、当然のように誘う“呪術師”の虎杖に、吉野が息をのむ。

「あ、連絡先?」

 ほい、と言ってスマホを差し出してくる虎杖を止めるように、吉野が問うた。

「虎杖君は……僕が“狩人”だって、知っているんだよね?」

 今さら何を言っているんだと言いたそうな顔でうなずく虎杖に、質問を重ねる。

「僕が()()()()()も、知っているんだよね?」

 連盟の狩人の協約は、狩りの夜に轟く汚物すべてを――()()()一般人を害するものすべてを根絶やしにすること。

 “非術師”の狩人が何を狩ろうと誰を狩ろうと、高専が介入することはできない。それは警察の仕事だ。

 だが“術師”の狩人であれば――“呪詛師”であるなら、高専としては放っておくことができない。

 吉野の言葉を理解して、今度は虎杖が息をのむ。

――狩人が狩りの対象とするのは、呪霊だけではない。

 七海から狩人について聞かされていたが、自分と年齢の変わらない相手にまで当てはまることを、頭から排除していた。

 自分が宿儺を受肉した夜に見た伏黒の“獲物”は……()()()()()()()()()というのに。

 

 今日、一番の緊張をして、虎杖が吉野に質問を返す。

「吉野は、人を……殺したことあるのか?」

 悩んだ素振りを見せた割にストレートにたずねてきた虎杖に、吉野が困ったように笑う。

「その質問には、意味がないんじゃないかな? だって、僕が“やっていない”事を証明するのは不可能なんだから」

 これは「悪魔の証明」だ。

「それに……僕が“やった”と証明するのは、虎杖君の仕事だよ」

 気を許そうとした虎杖を突き放すような、挑発的ともとれる言葉。

 だが、それを発した彼の笑顔は、何かに耐える寂しさを隠せていなかった。

 

 

 

 

 




■補足
「虎杖の“吉野”呼びについて」
伏黒、釘崎の呼び方からして、虎杖が“順平”と呼んでいたのは、母親の凪さんとも会っているからだと思います。
そのため、ここでは“吉野”呼びです。

「狩人の術師、呪詛師とかの分類について」
・伏黒
術師・非術師どちらの相手もするが、“狩人”限定のため、呪詛師ではないことになっている。

・灰原
“予防の狩人”として獣の病の罹患者である非術師を狩っていたこともあるので(#6)、呪詛師にあたる。
でも、死んだことになっているし、そうでなくても目撃者の夏油が報告しないから、術師のまま。

・処刑隊(#3,#5)
術師・非術師どちらの相手もする術師なので、呪詛師。
でも、たぶん死んだことになっているから関係ない。

・連盟員(#9,#10,#11)
術師・非術師のどちらの相手もするが、本人は非術師のため、分類するなら呪詛師ではなく“人殺し”。
高専としても対処できないから厄介。


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#18 心象(幼魚と逆罰2)

術式「澱月(おりづき)
クラゲの様な式神を呼び出し、呪力で精製した毒を式神の触手から分泌。

順平君の術式の解釈は色々あると思いますが、自分の好みはこんな感じです。



 

 

 

 

 

「あれ? 順平?」

 黙り込んでいた虎杖と吉野の間に、女性の声が割って入った。

 友達かと二人に問いかけながら階段を下りてくる女性は、吉野の母親らしい。

「さっき会ったばかりだよ」

 そう返してすぐに立ち上がった吉野が、母親が提げている買い物袋を受け取るために階段を上がる。

 どこか気まずそうにこちらをうかがう吉野を見て、虎杖も立ち上がり、二人に駆け寄った。

「さっき会ったばかりだけど、友達になれそうです!」

 虎杖の言葉を聞いて、吉野順平の母親――凪が嬉しそうに微笑み、夕飯を食べていかないかと誘う。

 うろたえる順平を無視して、虎杖の吉野家への招待が決まった。

 

 

 買い物袋から出したものを冷蔵庫へ入れる凪が、虎杖をリビングへ案内する順平を振り返った。

「ゴメン、順平。醤油切らしてるの忘れてた……。ひとっ走り行ってきてくれない?」

 申し訳なさそうな凪の言葉に素直にうなずいた順平がこちらを気にするので、虎杖もついて行こうかと踵を返す。そんな虎杖を、凪が慌てて呼び止めた。

「悠仁君。君はお客さんなんだから、テレビでも見て待ってて」

 招待者である凪にそう言われてしまえば、虎杖も従うしかない。

 順平が玄関を出たのを見送った凪が、落ち着かない感じで立っている虎杖に向き直った。

「今日は無理に誘っちゃってごめんね? 少し……二人で話したかったんだ」

 

 

 ダイニングテーブルの向かいに座る凪が、虎杖の制服のボタンに目を向ける。

「悠仁君は呪術師だよね。……あの子のことは知ってるのかな?」

「知ってます。凪さんは……見えてるんですか?」

 虎杖の言葉にうなずいた凪が、視線を逸らすようにテーブルを見た。

「でも、君たちみたいに呪力は無いし、狩人として呪いを祓うつもりもない」

 一年前。凪は“人殺し”の呪詛師が起こした事件に巻き込まれ、生死の境をさまよう大怪我を負った。

「幸い、自力でもなんとか生活できる程度の後遺症では済んだけどね」

 医療教会の医療技術が最高峰だと言われているのは、伊達ではないらしい。

「でも……()()()()()()とはいかなかった」

 無いものねだりをしてはいけないと、頭ではわかっていた。

 それでも、あの子と同じ目線に立って、同じものを感じていたい。

 あの子が苦難にぶつかり、乗り越える姿を、隣に並んで見守っていたい。

 叶うなら……あの子にとって喜びの溢れる世界で、一緒に歩いていきたい。だから……。

――“血の医療”を受け入れた。

 獣の病の罹患者として……()()()()()()の生活に戻った。

 順平が“連盟員”となったのも、その時期だ。

 

 悠仁が唇を噛むのを見て、テーブルに頬杖をついて目を閉じた凪が呟いた。

「“人は目を閉じたまま生まれ、目を閉じたまま死んでいく”……」

 この世の不公平も不条理も、目にしたところで、知ったところで何も出来ない。だから人々は目を閉じ、何もしない。

 “呪い”という理不尽な現実を、その瞳に映すこともない。

 まぶたを開き、悠仁の顔を映す凪の瞳が憂いを帯びたものになる。

「私たちは、そんな世界の中で目を開けてしまった。そして君たちは、見て見ぬ振りができなかった。……私と違って」

 “獣の病”という、凪が元の生活を取り戻す代わりに……()()の代わりに授かった呪い。

 順平も血の医療を受け入れたのは、その呪いを母にだけ負わせまいと思ったのか。他に理由があったのか……。

 狩人となった順平が求めるものは何か。……同じ場所に立つことを選べなかった凪には分からない。

 幸か不幸か。狩人としての才能があった順平は、教会の信者や術式を持たない狩人達からは一歩引かれる存在だ。

 それに加えて、個人個人で粛清の基準が違う“連盟員”に不用意に近づく狩人は少ない。

「だから、あんなに楽しそうに話している順平を見たの、久しぶりだったんだ」

 その言葉で、虎杖は彼女がタイミングをみて声をかけてきたのだと気がついた。

 

 いつか必ず獣に身を(やつ)すのなら……。

 せめて今だけは。呪いを忘れて笑っていてほしい。

「悠仁君。……あの子と仲良くしてあげてね」

 

 

 

 

 

 映画館の最終上映にギリギリ間に合うということで、夕食を終えた虎杖と順平が住宅街を駆ける。

 走りながら伊地知への一方的な連絡を終えた虎杖は、結構なスピードを出している自分と並走する順平を横目に見た。

 同じ狩人と言っても伏黒と違い、順平の見た目は鍛えている感じがしない。

 しかし、こうして息切れせずに走っている様子を見れば、本当に戦えるのだろうと思うしかなかった。

 

 よくあるパターンで始まった映画も、話が進めば俳優たちの姿に自然と惹きつけられる。

 そろそろ最初の見せ場が始まろうかというところで、通路側に座る順平がガタリと音を立てて立ち上がった。

 同時に、映画の効果音とは思えない静かな鐘の音が響いて、まばらな客席も色めき立つ。

 突然の行動に驚いた虎杖も、スクリーンを出る順平の後を追い、劇場の外に出た。

 どうしたのかと尋ねようとした虎杖の前で、順平の身体が淡い光に包まれて透けていく。

 奥歯を噛みしめる順平が胸の前で握っているのは、手のひらサイズの鐘――“共鳴する小さな鐘”だ。

 それは時空を超えて、狩人の呼び出しに応えるためのもの。

「母さんが呼んでるから……行ってくる」

 硬い声でそう言った順平の姿が消えて、状況が分からない虎杖は急いで七海に連絡をとった。

 

 

 順平が応えた呼び出しは、一級相当以上の呪いと敵対した時にのみ起こせるものである。

 七海からそう聞いた虎杖は、危険な呪霊と対峙している凪と、迷わず向かった順平の身を案じて走り出そうとする。

 そんな虎杖を、「彼なら問題ない」と言い切った七海が引き留めた。

 その後、数分も経たずに再び姿を現した順平が持ち帰ったのは、ここにあるはずのない品。

――特級呪物。両面宿儺の指。

 呪霊の返り血を滴らせる順平からそれを受け取った虎杖は、いまだに官憲隊の制服を着た順平の姿が信じられずに彼を凝視する。

「僕はやることができたから……またね。虎杖君」

 それだけ告げて、走って自宅へ戻る順平になんと声をかけていいかが分からず、曖昧な返事になる。

 ……自分では何もできない。

 今も、あの時も。……足手まといにしかならないのか?

 暗い気持ちに浸りながら、虎杖は指の保管のために簡易な結界の張られた高専の拠点へ向かう。

 電話越しに、七海からそこで指の見張りと待機を言い渡されて、順平からの連絡を待ちながら一夜を明かすことになった。

 

 状況もよく分からず、何もできない自分にやきもきしながらソファに寝転がる虎杖が、スマホの着信音に反応して飛び起きる。

 凪は医療教会に避難し、手当てを受けているという文字を見て、張り詰めていた息と嫌な気持ちを、少しだけ吐きだした。

 

 

 

 

 

 

 夜が明けて、人々が活動を始めた頃。

 秘密基地のように物が置かれた地下水道にあるハンモックの上で、人型の呪霊は伸びをする。

 肩が凝るなんてことはあり得ないが、自分が“人間の呪い”だからか。時折、人間臭い行動をとってしまう。

「今日も暇……ではないか」

 最近、目を付けていた“狩人”に、昨日はあいつと仕込みをしたのだった。

 何かニュースにでもなっていれば面白いのにと考えながら、真人はハンモックから飛び降りる。

 着地の瞬間、影の落ちた通路から鋭い何かが迫った。

 

 

 地面を砕き、自分にかすり傷を負わせた元を視線でたどれば、クラゲのような式神。

 その式神の後ろから、風を切る音と共に銀色の矢が飛来する。

 それも後ろへ大きく跳んでかわせば、通路に隠れていた襲撃者が姿を現した。

 真人たちが目を付けていた狩人の少年――吉野順平が、美しい曲線をもつ金属製の弓をこちらに向けながら言葉を紡ぐ。

「お前、“人間の呪い”だろ」

 一目見ただけで言い当てられたことに、さすがの真人も瞠目する。

「へぇ……君、そういうの分かるんだ?」

 笑みを浮かべる真人に、彼より背が低いはずの順平が見下すように蔑んだ目を向けた。

「『虫』が蠢いているぞ……糞袋野郎」

 

 

 真人が改造人間を変形させて撃ち出せば、クラゲのような式神に防がれる。……打撃が効かないのか?

 相手の分析をしながら、真人は順平に話しかける。

「君、よく教会に出入りしてるよね。狩り装束を着て呪霊を狩って……いかにも教会に傾倒してる狩人って感じ」

 それに術師だ。

「信心深い者ほど、君らは“恐ろしい獣”の姿になるんだろ?」

 狩人が獣に身を(やつ)すのは、病の進行によるものか、耐えられない絶望に落とされた時か……。

 自然に発生させた方が面白く、何より強大な獣になるらしいのだが、今の状況となっては仕方がない。

 反応を返さない順平には構わず、真人が話を続ける。

「俺の“術式”。狩人に使うと獣化を進めるみたいなんだ」

 魂を変質させる術式――“無為転変”。

 特級レベルの呪霊である真人の力でも干渉しきれない、狩人に……獣の病の罹患者たちに科せられた獣化の末路。

「この間の奴はショボくてつまらなかったんだけどさ……君はどうかな?」

 

 近接戦は苦手だと言うように、真人が隙を見せても順平は矢を放つだけで踏み込んでこない。

 完全に誘われているのは分かっているが、こちらから近づいてみるか?

 彼の師匠は厄介だと聞くし、戦闘を長引かせても良いことはない。

 そう考えた真人が加速のために足を変形させようとした時……自身の唇の端から血がひと筋、垂れた。

「……は?」

 順平から攻撃を受けたのではない。

 そもそも、己の魂の形を保っている真人には攻撃なんて意味がない。

 決定的なダメージを与えられている訳ではないが、確実に効いてくる“呪い”の気配。

「よかった……。お前にも少しは効くみたいで」

 その声に視線を上げれば、相変わらず感情が読めない表情と、静かな魂の形をした順平がいる。

「僕の式神、“澱月(おりづき)”は呪力で精製した毒を使う」

――最初の攻撃で受けたかすり傷。

 術式の開示を始めた順平の言葉にあわせて、感じるはずのない痛みが押し寄せる気がした。

 

「毒の効果はイメージした『毒性のもの』に依存し、自分で指定することはできない」

 魚類のフグがもつ毒を例に挙げれば、「フグの毒」を使うことはできるが、フグ毒の主成分である「テトロドトキシン」を指定して使用することはできない。

「そして、毒の強さは人々がもつイメージと、名称などにこめられた畏怖の念に左右される」

 猛毒のキノコで知られる「ドクツルタケ」であれば、英語圏の別名にならって「殺しの天使」とした方が毒性が上がる。

 だが、これらの毒が効くのは“生物”が相手であった場合。

 呪霊相手に用いても、大した効果は得られない。

「お前に使った毒は、植物の『ベラドンナ』」

 別名、魔女の花。悪魔の草。

 実際の毒性を比べれば、おそらく先に挙げた2つが勝るだろう。

 しかし、真人が――“人間の呪い”が相手であれば、これ以上のものはない。

「イタリア語で『美しい女性』の名をもつ、この花の花言葉は……」

 

――“汝を呪う”

 

 

 

 



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#19 行く末(幼魚と逆罰3)

ベラドンナの花言葉
「汝を呪う」「男への死の贈り物」「人を騙す者の魅力」「沈黙」

頭空っぽにしてギャグが書きたいと思って、マッシュルの小説を始めました。
テイストが違う話を考えていると、こちらの話のアイデアも浮かんでいい感じです。


 

 

 

 

 

 眠れないままソファの上で夜を明かした虎杖が、拠点に戻ってきた七海と顔を合わせる。

 並んで歩こうとする虎杖を、七海が制止した。

「ここからは私と猪野君で対応します。虎杖君はここで待機を」

 そう言って振り返った七海の顔を、眉根を寄せた虎杖が見上げる。

「順平だって動いてんだろ? 友達が死ぬかもしれないって時に、無関心でいるなんて俺はゴメンだ」

「ダメです。知っての通り、敵は改造した人間を使う」

 どうしようもない人間というのは存在する。

 呪術師をしている限り、虎杖もいつか人を殺さなければいけない時がくるだろう。

「でも、それは今ではない。……理解してください」

 自分のことを考えてくれているからこその七海の言葉に、虎杖が唇を噛んで視線を下げる。

「それと……。いや、()()()今の君に、狩人の友人はおすすめしません」

 七海は自分を救うために狩人となった親友の顔を思い浮かべる。

 いつか彼が獣に身を(やつ)した時は、自分の手で――。

「友を殺すことになりますよ」

 

 

 

 

 

 順平と向かい合う真人が、口の端に垂れた血を手の甲で拭う。

 効くはずがない“毒”の影響が出ていることに、平静を装いながら真人は原因を考えた。

 そうして周囲への警戒が薄らいだ彼の背後で、地面を擦る音がする。

 振り向き、迫る拳にとっさに腕を上げたが、勢いを殺しきれないそれがガードを破って真人の頬をとらえた。

 

「いいタイミングだね……虎杖君」

 口ではそう言いながら、虎杖の登場に順平は渋面を作った。

 ベラドンナの毒による症状は、吐き気やめまい、幻覚を見ることだと言われている。

 しかし、真人の動きからは、そのような症状がでている様子は見受けられなかった。

 先ほどの吐血は花言葉にこめられた畏怖による副次的なものであって、毒自体は効いていない可能性が高い。

 新しい矢をつがえながら、一見、優勢に見える順平は自分が不利であると理解していた。

 物理攻撃も、術式による攻撃も通用しないとなれば……虎杖を捨て置いても逃げるしかない。

 

「あの呪霊の術式、恐らく()()の掌で触れるのが発動条件」

 そう声をかけた虎杖は、順平の嫌そうな表情に驚きながら隣に並ぶ。

 弾き飛ばされた真人を観察していた順平は、起き上がった彼が鼻血を垂らすのを見て表情を変えた。

 虎杖の拳は、効いている。

 理由は分からないが、祓える手段をもった人物が現れたことに順平は笑みを浮かべた。

「ありがとう虎杖君」

 先ほどの嫌そうな顔から一転して機嫌の良くなった順平に、さすがの虎杖も恐ろしさを覚える。

 虎杖の様子は気にせず、順平は状況の説明を始めた。

「君の拳と違って、僕の攻撃はあいつには効かない」

「は!? なん……」

「理由は知らない。でも、僕の攻撃も動きを止めるくらいはできる」

 冗談で言っている訳ではない様子に、虎杖が真剣な顔をしてうなずく。

――これが、足手まといにしかならないと思った自分にできること。

「……前衛は任せろ」

 

 

 

 嫌なタイミングでの宿儺の器――虎杖の登場に、真人が表情を歪める。

 虎杖の拳は、人間には知覚できないはずの魂の形ごと自分を叩いてきた。

 優先して仕留めたいところだが、計画のために虎杖は殺せない。

 しかしこれは、宿儺を仲間(コチラ)に引き入れる確率を上げるチャンスでもある。

 虎杖と宿儺の間で、宿儺有利の“縛り”を科させる。それに必要なのは、虎杖を痛めつけることではない。

 自分の優位を見せつけながら、虎杖の仲間を――吉野順平を殺すことだ。

 

 打撃や刺突を受けて血を流す虎杖の脇をすり抜け、式神の毒針と銀の矢が飛来する。

 放つタイミングを間違えば虎杖に刺さりかねない軌道に、呪霊である真人も狩人(あいつ)はイカレていると再認識する。

 矢が刺さるのは受け入れ、決定打になりうる虎杖の拳と毒針を避けて後ろへ退いた。

 口元に両手をかざした真人が、何かを吐きだす。吐きだしたものに呪力をこめると、形を変えたそれらを虎杖に向けて放った。

 イカレた狩人はどうか知らないが……バカな呪術師には()()は殺せない。

「短髪のガキを殺せ」

 命令を受けて飛び掛かってくる三人の改造人間に怯んだ虎杖が、数歩退く。

 その隙に真人は順平の方へ駆けだした。

 

 

 

 狩人の武器の変形は基本的に、片方の特化した性質の不得手を補うようにできている。

 “教会の石槌”であれば、威力重視で振りの大きい巨大な石の鈍器と、扱いやすい銀の剣といった具合だ。

 順平が扱うのは、美しい彫り模様の入った幅が広い鉄製の弓――“シモンの弓剣”。

 真人はその名前を知っている訳ではないが、弓の形状と遠距離武器という性質からして、変形するなら近接武器であろうと予想している。

 懐に誘い込んだ敵に変形後の一撃を当てるのは、常套手段となるだろう。

――狙うなら、武器変形時にできる一瞬のラグ!

 馬の蹄のような形状に変えた足で勢いよく走り出した真人に、順平が左手に持った弓から矢を放つ。

 わずかに身体を右に傾けた真人の左腕に矢が刺さるが、進む真人の勢いは衰えない。

 新しい矢をつがえる時間はない。()()()()を使用している狩人には、“縛り”なのか銃を持つこともできない。

 武器を変形して反撃するにしても、矢を直接刺すにしても、真人の右手は確実に順平に触れる。

 そう考えて伸ばされた真人の腕が、向きを変えて握られた弓と弦の間に通された。

 ……これは、様式美にこだわる狩人なら非難するであろう邪道。

 弓がギミック音を響かせ、変形機構に巻き込まれた真人の腕は刈り取られた。

 

 想定外の状況に、真人の動きが鈍った。

 すかさず構えられたシモンの弓剣が、すれ違いざまに矢が刺さった左腕も切り飛ばす。

 これで魂に干渉する術式は使えない。仕留めるには虎杖の力が必要だが……彼なら問題ない。

 順平と入れ替わるように立った虎杖が、その拳を叩き込んだ。

 

 

 

 絶え間なく繰り出される二人の攻撃に、真人の中で「死」のイメージが膨らむ。

 腕を修復する暇も、術式を使う暇もない。詰みだ。

 だが……窮地に立たされた時に覚醒するのは、人間の術師に限った話ではない。

 開いた真人の口の中で、小さな腕が二組、印を結ぶ。

 それは、呪力で構築した生得領域内で必殺の術式を()()必殺へと昇華する、呪術の極致。

――領域展開 自閉円頓裹

 網目のように組まれた無数の腕が、二人の術師を包み込んだ。

 

 

 新たな“啓蒙”を得る感覚に、順平は息をのむ。

――俺の“術式”。狩人に使うと獣化を進めるみたいなんだ。

 そう言って笑った呪霊の言葉を思い出して、冷汗が流れる。

 しかし、せめて脆弱な獣になりたいと願う順平の前で、この空間の支配者であるはずの真人が血を流した。

 それは、触れてはならない“(もの)”に――両面宿儺の怒りに触れてしまった真人の失態。

 領域が閉じ、呪力を消耗した真人が肩を押さえて膝をついた。

 

 目の前の弱った呪霊が、わずかに残った呪力で威嚇するように体を膨らませる。

 急にできたチャンスを黙って見ているほど、二人は呆けていなかった。

 一足先に真人を射程にとらえた虎杖が、攻撃を仕掛ける。その拳が風船を割るように相手を散り散りにした。

 手応えの無さに驚く虎杖の横を、順平が通り抜ける。

 地下水道に張り巡らされたパイプの一本を曲剣で叩き切り、取り出した銃で柱に沿ったパイプを壁に潜るまで撃ち抜いた。

「ゴメン虎杖君! 逃した!」

 振り返り、すぐに追いかけようと言いかけた順平が、口をつぐむ。

 虎杖は傷口から血を流している。致命傷は受けていないようだが、このまま失血量が増えれば危険な状態だ。

 対して順平は、怪我の跡はあるが輸血によって傷は癒えている。

 真人を追って先へ進もうとする虎杖の前に、順平が立った。

 

 

 

 

 

 納得のいかない顔をする虎杖が、診察室から出てきた。

 待合室に一般人はおらず、順平と七海たちがソファに座っている。

 虎杖に気付いた順平が駆け寄り、その顔を見て困ったように笑った。

「『まだ戦えた』って……顔してるね」

 その言葉にうなずく虎杖の頭の中は、呪いへの怒りで満ちているようだ。

 しかし、順平の怪我の跡を見て、七海たちが無事でいる姿を見て、別の想いが込み上げる。

 改造人間にされた、小さな三人の姿。

「俺は今日……人を殺した」

 自分の掌に視線を落とし、感情を殺して話す虎杖は、返答を求めている訳ではない。

 順平に「人を殺したことあるのか」と問うた時とは別人のように見えて、実は変わっていない。

 それを見て安心した順平が、願うように語りかけた。

「“血の医療”を受けた者は、いつか必ず獣に身を(やつ)す……」

 七海からも聞いたことのある言葉に、虎杖が顔を上げる。

 こちらを見る順平は、出会ってから一番、穏やかな表情を浮かべていた。

「ねえ。虎杖君」

 他人のために本気で怒り、悲しみ……命を奪うことに後悔できる。そんな君に。

「いつか僕が獣になったら……君の手で殺してほしいな」

 

 

 

 

 



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