空想的あめりか旅行記 (sinsin)
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旅の前:砂漠と悪魔と放火

 砂漠というのは本来人がいていい場所ではない。夏でなくても日中の気温は五十度をこえ、さらに夜は一転、氷点下近くまで下がる。大地の放熱はすさまじく、日が沈んで数時間のうちに地面は昼間の熱をすべて散らし、石は氷と同じになる。日暮れ前のぬるま湯のような外気に油断して眠り込めば、朝までにアイスキャンデーのお化けになれるだろう。とくに真冬の野宿は推奨されない。

 そんな砂漠にありながら、朝起きて、外に出ると、その日の我が家は炎上していた。クリスマスまで、もう一月。煙柱、巻き上がるほど天高く、家燃ゆる秋。かくして私は危機にある。

 

◆ ◆ ◆

 

十九世紀半ばの大移民団、ゴールドラッシュの波に乗ったフォーティナイナーズによって、私と父の住む町は開かれた。石と砂ばかりの西海岸の金坑町。隣町まで馬車で三日、住人はトカゲとハゲワシ、シロアリにサボテンが少々。そんな場所でも彼らは逞しく切り開き、金鉱が生きていた頃は百人ほどが生活していた。金鉱脈で財を築いた彼らは、毎晩のようにたき火を囲んで飲んで浮かれ、一時はこの枯れた大地に華が咲いたようだったと聞く。

 しかし鉱脈はすぐ枯れた。人々はさっさと財を持って東海岸へ移り、無人となった町はじわじわと砂に戻っていった。町が拓かれ二十年、町が捨てられ十年。木造家屋はシロアリの餌となり、唯一の石造りだった教会も砂に呑まれようとしていた、そんな頃に、まだ幼い私を連れて放浪していた父が住み着いたのだった。

 

「なんでわたしたちはこんなすなばにすんでるの」

と、幼い私は父に尋ねたことがある。

 

「ここの地面の下には金が眠っているからだよ。それを掘り出して僕たちは一攫千金、大金持ちさ。でもこれには大変な根気と労力がいるからね、焦ってはダメなんだ。誠実さと継続に幸運の女神は微笑むのだよ」

 

 当時の私は賢明だった。六歳にして円周率を下十二桁まで言えたうえ、二桁のかけ算まで修得していたため、隣町に出かけた際には「ローレンツさん家のミランダちゃんは歩く才女」とまで言われたほどだ。あそこの八百屋は才女が歩かないと思っていたらしい。

 ともあれたいへん聡明だった当時の私は、父の「一攫千金」と「誠実」という相反単語が両立する計画の破綻を予見していた。

 そこで父が外で働く間、私は内職に徹した。内職とは見せ物屋である。当時の私はまだころころといたいけな一美少女にすぎなかったため、ストリップなどという破廉恥な見せ物はいただけなかった。そういう需要はなかった。しかし私には一風変わったペットがあった。名をアイボという。いつの頃からか私につきまとい、餌も食べず糞もしない、変わった生物だった。くぐもった銀白色の液状で、コロコロ転がって移動するかわいいやつだった。生物図鑑で見たどんな生き物よりも、IVORYのような科学雑誌に載っている、表面張力で丸くなった水銀玉に似ていた。あるとき父はその生き物について焚き火のそばで語った。

「お前の”ヌルテカ”な」

「変な名前にしないでよ。アイボよ」

「うむ。あれは実はトカゲやハゲワシとは違うものだ。おとぎ話に言う妖精に近いのだよ」

「嘘。妖精は羽が生えて飛んでるものじゃない」

「そういう妖精もいるということだ」

 父は焚き火を前にして法螺を吹くことが多々あったので、私は図鑑をめくったが、確かにアイボのような生き物の話は出てこない。しかしアイボのような妖精の話もない。そこで私はアイボを見せ物にして稼ぎながら、情報を集めるという、未だかつて誰も思いついたことのないような画期的な作戦に打って出た。てきめん、結構いい収入になった。いつの時代も神秘的なものに金を落とす人々はいるもので、こんな辺境にも月に二回くらいはそういう人がきてくれるようになった。

 それで当時流行っていたニュースペーパーもとれるようになった。これは毎日届けると配達屋が過労死してしまうか、流行のストライキやらサボタージュやらに走ることが判明したので、月に一度、一息に届けることとなった。しかしアイボについての決定的な情報は今日まで見つかっていない。

 

 父は根気と粘りの男であった。さらさらと水気のないこの砂漠において彼ほどねっとりとねばり強い生き物は存在しなかった。しかし阿呆だった。年頃を迎えた私は何度か彼に進言した。

「こんな砂漠になんて住んでいられないわ。金鉱脈だって何十年も前の話じゃない。東海岸のもっとキュートでポップな町へ引っ越そうよ」

 しかし彼は折れなかった。

「いや、金鉱脈はたしかにあるはずなんだ。今日にでも、明日にでも堀当てられるかもしれないんだよ。誠実さと根気に幸運の女神は微笑むのだよ」

 そんなに女神に会いたいなら東海岸に最近ふらんすから贈られてきたらしいから行けばいい。幸運にはならずとも自由になれる、主に私が。父が私のようにさっぱり潔い人間だったなら、きっと私も父も幸せだったに違いない。

 その頃から私は砂漠を出て行くことにあこがれていたが、最寄りの町まで馬車で三日という立地のためそれは叶わぬことだった。それに父を一人置いていくのも気が引けた。阿呆な父ではあっても十余年連れ添えば情も湧くのだ。むしろ阿呆な父ほど子からすれば愛しいのかもしれない。

 

 そんな父であったから、焚き火のそばでいろいろな話をしたが、夢物語のような話が多かった。中でも妖精、魔法使い、悪魔の話が大好きだった。

「妖精にもいろいろあるが、悪魔にもいろいろいる。しかし恐ろしいことにアレは人を食う」

 父の悪魔の話はおどろおどろしかった。明らかに私を怖がらせようとしていた。何故父親というのは威厳のために魔物の類を利用するのか。

「この家にも悪魔はいるのだよ」

 

 次の日から私は悪魔の不存在を証明することにつとめた。これはまさに悪魔の証明となったため、すぐに頓挫した。代わりにアイボを見に来た客からは悪魔についての話も集め、ニンニクを食べたり銀の食器を常に持ち歩いたり十字路に灰を撒いたりした。水は貴重だったので聖水には頼らなかった。その甲斐あって私はその後六年にわたり、悪魔的存在には出会うことなく平和に過ごした。私は心身ともに成長し、多くの子供たち同様そういうオカルトをおそれる時期を通過した。父の話も妖精以外のものは嘘と思えるようになっていた。

 

しかし悪魔は実はいたのだ。それは私の最も大切とも言えるものを奪って失せてしまった。

 

◆ ◆ ◆

 

 十六の誕生日が過ぎ、もうすぐ冬になるかというころ、奴は現れた。その日、私が目を覚ますとなんだか視界が白っぽい。視界のもやが晴れないので何度も目をこすっているうちに、脳と嗅覚が覚醒してきた。そして導き出される解答。ああ、アレだ。火事だ。

 私はゴミ箱に手近にあった本をひっつかんでぶち込み、ドアを蹴破り、表へでた。避難訓練なんてしたことがなかった割には迅速で賢明な判断だったというべきだ。

 表では朝っぱらだというのに焚き火がされていた。焚き火の前には六歳くらいの子供がいて、なぜかもうもうと煙を教会の中に扇ぎ入れていた。私の町に知らない子供が一人でいるというのも不思議だった。

「なにしてんのよ!」

 私が叫ぶと子供はこちらをぎょろり向いた。その真っ赤な目と、およそこの世の者とは思えないほどグロテスクな顔を見て、これが父の言っていた悪魔かと確信した。

 子供悪魔はどこからかマッチを取り出した。どこにでもありそうな普通のマッチ。それを彼が手の甲で擦った瞬間、爆炎が教会の一部を消し飛ばした。爆風と砂埃でしりもちをついて、顔を上げるともうそこには子供はいなかった。あとには石の焦げる臭いと舞う塵芥。

「放火魔! 火事場泥棒!」

 私は立ち上がることもできずに、立ち上る煙の先に罵詈雑言を浴びせるだけだった。

 

◆ ◆ ◆

 

 この出来事は「放火悪魔事件」としてこの町の話題をさらった。この町には町人といえば私と父しかいないが、とにかくそれほどの影響を私の生活にもたらした。半焼した教会の復旧には三日ほどかかった。不幸中の幸いと言うべきか、被害を受けたのは私の部屋だけだった。そして幸い中の不幸と言うべきか、部屋は全焼だった。

 私の絶望はもう書き表せないほどなのであえて書かないが、そもそも復旧というのは、被害を知ったときに私が暴れたことによる損壊の回復が主だったとだけ述べる。それほど私の部屋は回復不能であり、他の区域は回復不要であった。その日から私はすきま風吹きすさぶ台所の石畳の上に、砂袋を敷いて寝ることを強いられた。父の部屋で寝る案もあったが、自分の部屋にこだわりのない父は、砂袋に類似の寝床しか持たなかったためメリットも無く、私は乙女のプライバシーを優先した。

 ところで寝床というものは空気のようなもので、そこにあるときはわからないが、なくなって初めてそのありがたみに気づく。私は本来慎み深い淑女であったが、それもひとえにあの羽毛布団の包容力のためだったと言えよう。例えば寝る前にどんなに怒り高ぶっていても羽毛布団にすっぽりくるまればそんな感情は薄れてしまい、朝になれば落ち着きを取り戻すことができる。アレにはストレスをリセットする効果があるのだ。

 しかし当時の私のストレスは蓄積される一方だった。砂袋のうえに転がされた私の精神は限界突破し、攻撃性は日に日に増していった。かのフランスの英雄ナポレオンは、日に三時間しか眠らなかったという。私の見立てでは、彼の戦争の才能はその短時間睡眠による攻撃性の増長の末、目覚めるべくして目覚めたものだ。私は部屋の壊滅を知ったときの大暴れで生まれて初めての脱臼を経験し、外部に攻撃性を向けることに懲りていた。そこで攻撃性は、うちに秘めた火の悪魔への憎悪へと変え、毎晩を堪え忍んでいた。かつて私と同じように、あえて薪の上で寝て、復讐をとげた王が中国にいたという。この無為で疲れのとれない日々は延々続くかに思われた。

 

 「放火悪魔事件」から一週間経ったころの夕食の席で、父が私の寝床の確保について言及した。

「しかし、いつまでも台所で寝るわけにもいかないだろう。もうすぐ完全に冬になる。そうしたら台所だって相当寒い」

 あと一月もすれば冬を迎えるが、そうなると台所も霊安室と化すだろう。寒いというか死んでしまう。思ったより事態は深刻だった。

「じゃあ急いで復旧しないと。どれくらい時間がかかるものなの?」

「うーん、この町には材料も人手もないから、今年中は無理だろう。どうしたって時間がない。タイミングが悪かったな」

 では私はこの冬中父の部屋で厄介になるしか無いのか。それはダメだ。そうなるくらいなら鍋底のような砂漠を渡ってバーベキューとなってしかるべきだ。

「じゃあ、冬の間ここを離れるのはどうだろう。実は昔馴染みに孤児院をやっている奴がいて、そいつが君を預かってくれるらしい」

 齢十六にして孤児となるのだろうか。

「馬鹿な。アルバイトだよ。そこで面倒見てもらう代わりに、何か手伝いをしたらいい。場所は結構離れているが、旅費くらいは出せる貯金はある。帰りは自分で稼いできなさい」

 それは渡りに船な提案だった。父が行ってもいいというなら行くしかない。我、大義を得たり。

「クレーターレイクというところにある。そこまで一人じゃ行けないだろうから、もう案内人も手配してあるよ」

 クレーターレイクというのはここより北に千五百キロほど行ったところだ。父はこれまで行きあたりばったりを地でいく男だったのでその要領の良さには驚いた。

「意外と顔が広いのだよ、僕は」

「それで私はいつ出発できるの?」

「案内人がきたらすぐにでも行けるのだけど、これがいつかわからない。一月以内にくるのは間違いないから、いつでも行けるように準備だけはしておきなさい」

 そう言って父は食べ終えると、台所を出て行ってしまった。わたしもパンをねじ込み、勢い込んで物置へ入った。

 まず皮水筒の補強をした。砂漠を渡るのに必要だ。次に靴にもう一枚皮をかぶせて補強した。途中で破けたら困る。あとは生き残りの服と干物を皮袋に入れると、ものの三十分で準備が終わった。

 しかしなんだか眠れる気がしない。私は補強したばかりの靴を履き、夜の砂漠へと繰り出した。

 冬も近いとあって、外気は新鮮な冷たさだった。三日月が出ていて外はそんなに暗くはない。月光に照らされて、かつて隆盛を誇った町の残骸が浮かび上がる。強者どもが夢の跡。少し出る分には、夜のこの町には幻想的な魅力があった。ここを拓いた移民たちも、イングランドを出るときは私のような心境だったに違いない。かすかにくすぶる不安と緊張、それを消し飛ばすほどの期待と高揚。今は足を動かさずにはいられなかった。行くのだ、新天地へ。砂漠を越えて、山野を越えて、千五百キロも彼方の未知なる土地に。走り回ると冷えた外気は火照った体に心地よかった。この町で育った私にも、きっとそういう冒険者の熱血が通っているのだ。今なら機会を作ってくれた火の悪魔を許せるかもしれない。なんなら拝火教に転身するかも。

 そうやっていつまでもずぼずぼ砂原を散歩していたが、二十分もするといい加減寒さが勝ってきたので教会に帰った。これだから砂漠は怖い。もういつも寝ている時刻をだいぶ過ぎていたので着替えて台所に転がった。その日は不思議とすぐに寝付けた。

 



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0日目:悪魔と妖精

 案内人とやらが来たのはそれから一週間も後のことだった。私は台所で八十日間旅行記を読んでいた。二十年も前の小説だが、生き残った本の中で旅行の予習になりそうなものはこれしかなかった。

 砂袋でカウチポテトしながら活字を眺めていると、がらがらと外に馬車が止まる音がした。中くらいの幌馬車であったのは見えたが、中身については判然としない。私はそれまでに二回透かしを食らっていたので、今更馬車が来たくらいではしゃいだりはしないのであった。一度目は新聞屋、二度目はアイボを見に来た客だった。そういう訳で硬派にカウチポテトを継続していると、父から応接間に来いと呼ばれた。待ち人来たれり、と。

 私は勇んで応接間へ向かった。そこは普段アイボの見せ物を行うときに使う場所である。必要最低限のスペースしかなく、小さな机とイスが三つ入ったらいっぱいとなるような部屋だ。かつては懺悔室として機能していたらしい。

 部屋にはいるとすでに人は待っていた。待ち人は二人いた。一人は私と同い年くらいの青年、もう一人はまだ子供とでも言うべき少年だった。私が来たと見ると、青年の方はすぐに立ち上がってにこやかに右手を突き出した。

「やあやあ、どうも。僕はウィルバーという者だ。しばらくの間だが、どうぞよろしく」

 彼は少しもったいぶったような口調で言った。ウィルバーと名乗る青年はこの砂漠の辺境で背広を着込み、さらにはフォーマルな黒のオーバーコートを重ねていた。そんな丁寧な服装とは反対に、少し赤みがかった髪はトルネーディに乱れ、目元も人が良さそうに少しだけ垂れている。先ほどの口調も併せて、全体的に彼は没落貴族のような雰囲気を纏っていた。

「私はミランダです。ミランダ・ローレンツ」

 私が差し出された手を握ると彼は満足そうにうなずいた。外界の人はこうしないと気を悪くするのだ。

「こっちの小さいのはヤンソンという。僕の付き人だ」

 小さいのと言われ彼はむっとしたようだったが私に軽く会釈をした。ワイシャツに緑のチョッキを着込んでいる。小粒でもぴりりと辛い目つきをした少年だった。

 私も会釈を返したが、照れてしまったのか顔を背けてしまった。ういやつめ。

 それにしても彼らのうち年長者のウィルバーでさえ私と変わらないくらいの年に見える。つまり彼らは父がこの砂漠に住み着いてからの知り合いということだ。そんなことがあるだろうか。

 ヤンソン君は黙ったままで、ウィルバーはなぜか満足そうにうんうん頷いたり手帳になにやら熱心に書き込みをしたりしていた。しばらくかりかりと鉛筆の音だけがあったが、沈黙も毒となってきたので私から話した。

「あの、父とはどういったご関係で?」

 ん? とウィルバーは書き込みを止め、ぱたんと手帳を閉じた。ゆっくりとそれらを鞄にしまった。じつにもったいぶった動作である。彼はこちらに向き直すと言った。

「君のお父様は実にすばらしい方だ」

「はい?」

十余年父と住んで彼のことはわかったつもりだったがそんなことは初耳だ。というか質問の答えになっていない。彼は鞄からしわしわになった紙を取り出した。どうやら隣町の広報紙らしい。

「君のお父様がここに案内人の募集をかけていてね。それで彼と出会ったのだ。ほらここ」

彼は広報紙の右下を指し示した。

 二、三ヶ月くらいいなくなってもだれも困らない人、旅行慣れしている人などのいくつかのなかなかハードな募集要項の最後に奇妙な文言がある。

 

――当方妖精ノ同伴アリ。詳シキ者歓迎。

 

なぜこんなことを。

「僕たちはこういうオカルトでオモシロイものを探して旅行していてね。先日この地方の妖精の話を聞いて隣の町にたどり着いたのだが、そのときにこの記事を見つけた。妖精と同伴で旅行できるなら大変オモシロイ」

 父の無用な文言は、この町によくないものを運んできてしまったようだ。しかし贅沢もいえない。この条件を満たす人間はそういないだろう。

「もしかして民俗学の先生とか、ですか」

 これは私の精一杯の抵抗というか、現実逃避というか、とにかくそういう類の質問だった。

「ただのオカルトマニア」

 ヤンソン君がぼそりと独り言のように言った。

「しかも下等の下等。調べ始めたのも旅行し始めたのも半年前だから、大して旅行慣れしてるわけでもないし」

現実は非常だった。

「しかし、オカルトマニアというのはそこらの民俗学者なんかよりはオカルトについてなら上等なものだよ」

ヤンソン君に反論して、ウィルバーは大胆な自説を展開した。

「民俗学者という連中は昨今の無神論に飛びついて、悪魔とか、妖精とか、そういうのがいないことを前提に研究しているのだよ。己の信じていないもののために人生を捧げるとは、なんとも馬鹿馬鹿しい連中だと思わないかね。

古今人類は己の信ずるものについて時に舌戦を交わし、時に刃を交えた。信仰というのは己の主義信条、ひいては実存に関わるものだから当然だがね。“われ思う、故に我あり”、コギト・エルゴ・スム、だ、分かるかね。

それが今の民俗学者ときたら、東に奇跡の泉があれば、温泉の薬効だと説き、西に悪魔に憑かれた村があれば、行って麦芽菌の仕業だと抜かす。そしてあらゆる伝承伝説、フォークロアを先人の教訓、訓戒、まあ要するに法螺だとするわけだ。それは余りにも早計だと思わんかね。

それだけならまだしも奴ら僕にそれを押し付けるのだ。“君、今時悪魔や妖精なんて古いよ。神は死んだのさ。これからは超人の時代だよ”だとあの高慢ちきのとんとんちきめ。あいつら神がいないことを布教してくるのだ。奴らは信仰しないことを信仰しているのだ」

 だんだん彼は白熱してきた。そして脱線している。ヤンソン君は火に水を差す。

 「でも実際そういうことばっかじゃない。ほら、聖人の遺体が腐らないのも奇跡じゃないらしいよ。死蝋化現象とか言って――」

「それは、まあ、そうだったとしよう」

ウィルバーはヤンソン君を止めた。

「悪魔は存在している。妖精もだ。妖精についてはこの娘さんが証明してくれるらしいし、悪魔の証明は僕ができる。やはりオモシロイものは未だ健在なのだ」

 なんとこの私が六年前に断念した悪魔の証明を彼がやってのけるというのか。

「驚くなかれ、僕には悪魔が憑いているのだ」

「そんなまさか」

彼については何かにとりつかれているにしても、それが悪魔とは限らないだろう。それに先日見た火の悪魔は見目おどろしい姿をしていたが、彼はまるきり人間である。

「君、信じていないな」

私が頷くと、彼は残念がってはいたが、自分から証明しようとはなかなか言い出さなかった。

「君が妖精を見せてくれたらば、私も証明してあげよう。妖精の同伴は案内の条件でもある。君から見せてくれたまへ」

ふむ、ならばおののけ。私は立ち上がり、机の下でぷるぷるしていたアイボの腹? を両手で掴んでよっこらせと持ち上げた。さながら子猫を持ち上げるかのような登場である。実はこの部屋に入った時から付いてきていたのだが、特に話題にのぼらなかったのでずっと足元でふよふよしていたのだ。

彼らはまるで未知の生物の登場に目を見張っていた。ウィルバーはまた手帳を取り出し、書き込みをしている。

「どう? びっくりしたでしょう?」

私はヤンソン君に話しかけた。彼はかぶりを振った。

「確かに変わった生き物だけど、妖精かというと、違う気がする。妖精ってのは羽が生えて、ふよふよ浮かんでいるものじゃないと」

 ウィルバーとは打って変わって彼は懐疑的だった。ウィルバーと同種だと思っていたから驚きだ。しかし小生意気だ。

「そういう妖精もいるということよ」

「砂漠の秘密成分を取り込んだナメクジじゃない?」

「でもこの子、何も食べないし、糞もしないし、普通じゃないでしょ」

「どこかでつまみ食いしてるんじゃないかな」

 そんなナメクジは存在しない。しかしウィルバーの付き人がこのような態度で務まるだろうか。二人が共に旅していることは不思議だった。そうやって見ていると、ヤンソン君はこちらの思考を読んだように言った。

「僕はウィルの付き人じゃない」

「じゃあどういう関係?」

「もともと一人で暮らしてたんだけど、あいつに家を壊された。どうしようもなくなったから弁償してもらうまでつきまとってたかってる」

「それはひどい」

 年齢や性別、ひょっとすると人種も違うかもしれないが、寝床のない悲しみは万人共通のものだ。しかもまだ自称とはいえ、悪魔に寝床を奪われた同志にここで出会えるとは。これは羽毛布団の天使の導きであろう。

「悪魔とは、夜中の安寧を奪う存在と見たり。少年、私も君と戦おう」

彼はきょとんとしていたが、私の出した手を取ったので共感してくれたはずだ。

 

「なんだか大変な誤解が生まれていないかね」

横からウィルバー。眼中にアイボしか入っていないと思われたが、一応話は聞いていたようだ。

「僕が彼の家を壊してしまったのは不可抗力で、それは彼もわかってくれているはずだよ。さらに家なき彼の面倒を見ている僕には、感謝と畏敬の念を抱いているはずだ。それよりも――」

途中でヤンソン君が物言いたげだったが彼はさっさと話を変えてしまった。

「これはあんまり妖精っぽくないね。確かに見たことはない生き物だけれども。羽ないし、なんかテカテカしてるし」

「そういう妖精なんです」

「でもそれだけでは犬猫とあんまり変わらないよ。やはり何かしらオモシロイことができないと。僕が南の方で見た妖精は人知の及ばない芸当ができたよ」

 どいつもこいつも注文の多い客だ。ねずみを獲らない猫もいるし、吠えない犬だっているのだ。羽根がなくて飛ばないヌルヌルテカテカした妖精がいてもいいではないか。彼らの言い分に、私は友人を貶されているような腹立たしさを覚えた。友人はいないのでわからないが。それにこの出来損ないにも、オモシロイかは分からないができることはあるのだ。私はアイボを驚かせることができれば、驚きの芸当を披露すると言った。

 ヤンソン君とウィルバーはしばらくこそこそ相談していたが、やがてウィルバーがアイボに向き直った。

「ならばとっておきを、ひとつ」

彼はそう言って両手の拳を突き合わせると、俯いて何やらブツブツ唱えだした。

「なにしているんです?」

「お静かに。変身するには集中が必要なのだ」

 そう言ってまたブツブツ言い出した。私はヤンソン君にいつも変身するときはこうなのかと尋ねたが、いつもはすぐできるのだけど、今日はもったいぶって演出にこだわっているらしい。

「彼、本物なの?」

「一応、たぶん」

まだ会って三十分くらいだが、あの懐疑的かつ寝床消失の同志である彼が言うならそうなのかもしれない、と思って見ていると異変が現れた。

突き合わせた拳にみるみる黒銀の毛が生えだした。ものの数秒で彼の手は真っ黒に美しく覆われた。禍々しさはあまりなく、光を浴びて鈍く輝くその拳は、鋼鉄の持つ冷気を帯びているように見える。毛並みの下の肉質も変化して見え、金属のしなやかさと頑強さを兼ね備えているかのようだ。

彼は拳を解くと立ち上がり、言った。

「今からこの生き物を殴るフリをする」

彼は私に、後ろに回るように指示した。私は先程までとは違う真面目口調に重々しく頷いて、それに従った。ヤンソン君も一歩下がって私に並んだ。机の上のアイボにはウィルバーのみが対峙した。彼はゆっくりと、冷気をまとった鉄拳を挙げる。満身の力を込めた握り拳からは、焚き火越しに火の悪魔と退治した時と同じ妖気が感じられた。室温が冷たく感じる。机の上ではアイボが明らかに警戒した様子で全身にさざ波を立たせていた。

 

これは、来る。

 

私はウィルバーが本物であることを確信した。一瞬のち、悪魔の拳が振り下ろされた。私は両手でヤンソン君の目を塞ぎ、自分も目を伏せた。部屋に眩い閃光が走った。

 

◆ ◆ ◆

 

 「聖ペテロの解放」という、十六世紀のラファエロの絵画を知っているだろうか。ヘロデ王の命によって投獄され、2本の鎖につながれて二人の兵士の間に寝ていたペテロのもとに突如として神の御使いが現われ、同時に光が牢を照らした。天使の発する光を浴びた二人の兵士は、深いまどろみに誘われる。天使はペテロの脇腹を叩いて起こし、「急いで立て」と言った。すると鎖が手から落ちた。ペテロを助けるにあたって迫害の尖兵たるローマ兵さえ傷つけないという天使の光は、神の深い愛を表しているといえる。

 大昔にこの絵を図鑑で見た私は、この光をなんとも素晴らしい力だと思った。まつらふ者を解放し、逆らふものには睡眠を。描かれた兵士の寝姿は無邪気なもので、私もいつまでもこのように寝られたらと思った。天使の名はつまびらかではないが、それ以来、私はこの天使を「羽毛布団の天使」として信仰している。

 

 何故このような中世西洋画の講義をしたかといえば、アイボのオモシロイ能力はこの光と似ているからだ。アイボはびっくりすると体全体から虹色の閃光を発し、その光を見たものを眠らせてしまう。これだけなら羽毛布団の天使に似たありがたい能力に思えるが、この光で寝ると延々悪夢を見てうなされ、起きたあとにも頭痛に苛まれる。一度だけ見てしまったときは、水牢の中で座ることもできずに、ひどく眠りを誘うような素人無声映画をずっと見せられる夢を見た。

 本当なら是非二人共救ってあげたかったけれども、塞ぎたい目は四つに対して私の手は二本なので仕方がない。私とヤンソン君は、うーうー唸るウィルバーの両手両足を持ち、えっちら外の幌馬車の荷台まで運んで放り込んだ。凍えるといけないので毛布で三重に簀巻きにする。

 そうするとヤンソン君は明朝、夜明け前に出発だと言った。随分早い。到着した昨日の今日で疲れはないのだろうか。

「でもウィルはその妖精を嫌がると思うんだ。それだったら起きる前に出発しちゃえばいいでしょう。あんなことができるなんてたぶん妖精だけだから、少なくともウィルの条件は合格だよ」

なるほど。まだ話そうかとも思ったが、寒いし、ヤンソン君もおやすみを言ってさっさと荷台に引っ込んでしまったので、私も家へ入った。

 

◆ ◆ ◆

 

家に引っ込んだ私はおやすみの挨拶がてら、明朝出発の報告をしに父の部屋へ行った。ノックして入ると、彼は珍しく書き物をしていた。クレーターレイクの友人に、娘をよろしくという手紙を書いているという。

 父の部屋は今時なぜかキャンドルなので薄暗い。地図や不気味な標本が飾られていて、なかなかの迫力だった。テーブルには一応私の買った電気スタンドがあるので書き物で目を傷めることはない。私は父に明朝出発であることを伝えた。

「随分早いな。でも台所で寝るのももう嫌だろうし、それでいいか」

父は書き物を続けながら言った。

「食材の来る日とか、新聞やら雑誌やらの来る日とかは台所の机の上に書いといたから」

「わかった」

「新聞とか、捨てないで取っておいてよ。後でまとめて読むんだから」

「ああ、それな」

 父は手紙を書き終わったらしく電気スタンドを消して言う。

「新聞はいいんだが、IVORY? だっけ、あれは潰れたらしい。先月ので終わりだ」

「嘘。そんなワケ、ないじゃない」

「これも時勢だな。もともと科学者の道楽でやっているような雑誌だったから、出版部数も少なかったし、いつ終わってもおかしくはなかったよ」

 IVORYというのは私が懇意にしている科学雑誌である。こんな砂漠で私に知識を授けてくれた先生のようなものだ。最新の技術や学説について分野に関係なく幅広く紹介しているのだが、およそ購買層を考慮していないのではないかと思うほど、難解な公式と専門用語をこれでもかというくらい詰め込んでいる。しかし記述は正確で、信頼の置けるものだ。絵や図を入れるくらいなら数式をかけ、専門用語の注釈を入れるくらいならデータを羅列しろという商業主義に媚びない硬派な姿勢は一部のマッドでコアなファンから定評があった。

 わたしも、そのまま邪道を突っ走れと応援しながら定期購読していたが、だからといって読者になんの断りもなく、販売終了していいはずがない。だいたい、進化論の連載も連続付録の鉱石時計もまだ全然途中じゃないか。古代ローマ時代からボストン紅茶に至るまで、いつだってこういう大資本の横暴の影響をまっさきに受けるのはか弱い消費者なのだ。

 かくなる上は出版社と執筆者に謝罪と賠償と復刊を求める所存。私が意見書の内容をぐるるると考えていると、父はアイボについての注意を始めた。人目につくことを避けるのはわかるが、奇妙なことに日光も避けろという。

「なんで日光を浴びせるのはダメなの?」

「ああいう水っぽい生き物は日光が苦手なものだ」

「でも妖精でしょう。そんなジメジメした妖精いるかしら」

「そういう妖精もいるかもしれない。多分大丈夫だとは思うが、一応気をつけなさい」

そういう父もアイボについてはまだよくわかっていない様子だった。そういえば私は父の昔もよく知らなかった。内面や性格は知っていても、過去は知らない。特に詮索する気も起きなかったので、家族とはそういうものなのかもしれない。

「アイボの正体も今度の旅行できっとわかる」

父は言った。

「外の世界はおまえが思っているよりずっと恐ろしく、自由で、その分オモシロイことに溢れている。向こうさんにはいつ到着するとかは言ってないから、自由に寄り道しなさい。

僕は、だからあの二人を選んだのだ。ウィルバー君は悪魔にとりつかれているし、ヤンソン君もオモシロイ子だ。彼らに付いていけば嫌でもオモシロイことに巻き込まれるだろう。そうなったら、流れに身を任せて、目一杯無茶をすることが大事だ。お前はまだ若いから、精一杯無茶しなさい。若いうちは少しくらい無茶しても大丈夫なように、人は出来ている」

 珍しく説教臭い。

「わかったわ。旅の恥は書き捨てだもの」

「うむ。しかしお前は女だから、余り破廉恥なことはするなよ」

「じゃあよく見てからするわ」

「ならば良し。これを院長先生に渡しておくれ」

父は先ほどの手紙に蝋で封をして手渡した。

「明日は早いから、もうおやすみ」

 彼はひどい低血圧だから、明日は起きられないかもしれない。そうすると今が私の見納めなのにもったいない。こちらから粘るのも癪なので私も挨拶をして、部屋を出た。台所に戻って転がった。砂袋の寝床とはこれでお別れだが、ちっとも惜しくない。明朝に希望を託してさっさと寝ることにした。

 



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