神の一手 (風梨)
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第一部
1話



風梨と申します。
よろしくお願いします。





 

 

 東京にある一軒家。

 小さな庭先もある和風な家屋の縁側で、『パチリパチリ』と硬質な音が鳴っていた。

 足付きの碁盤が、石や貝殻で作られた碁石を木材の身で受け止めている音だった。

 

 そんな幾つかの打音が連続した後に、悔しさから『フルフル』と身体を震わせた少年が耐えきれないとばかりに立ち上がる。まなじりを上げて、頭を掻きむしった後に勢いよく目の前に座る対戦相手──お爺ちゃんに向かって『ビシッ』と指を差しながら。

 

 

「──だぁああ! じいちゃん手加減しろよ! 可愛い孫イジメて楽しいかよ!?」

 

「はっはっは、ヒカル。勝負事ってのは本気でやるから楽しいんだぞ? まだまだヒカルには負けられんなぁ」

 

「ドケチ! 帰る!」

 

「あらあら。お爺さんったら、またヒカルを怒らせて。スイカ食べない?」

 

 身支度を終えて、すぐにでも帰ろうとしていたヒカルに居間の方で家事をしていたお婆さんから声が掛かった。

 スイカと聞いてヒカルは一瞬だけ動きを止めるが、それでも機嫌は治らず、もう一度同じ言葉を続けた。

 

「……帰る!」

 

「そうよね〜、じゃあお土産に持たせてあげるから、お母さんに渡しておいてね」

 

 予期していたとばかりにネットに入ったスイカを持ってきたお婆さんからスイカを受け取って、『ズンズン』と子供ながらに縁側の板を軋ませながら、でもしっかりとスイカを両手で抱えながら帰っていく孫の姿にコロコロとお婆さんが笑った。

 その横で、孫にヒヤリとさせられながらもまた勝利を拾ったお爺さんが孫の成長を喜んで嬉しそうに笑っていた。

 

 

 

 

「──ヒカル! あんた、またお爺ちゃんのところにお邪魔してたの? まったくもう、言ってくれないとお母さん困るわよ」

 

「いいじゃん別に」

 

「スイカまで貰ってきちゃって、お礼の電話しないとね」

 

「いーって。また行くし、そん時にでも言っとくよ」

 

「そうじゃないでしょ、お母さんからも言わなきゃいけないんだから、あんたも電話に出なさいよね」

 

「めんどくさいなー」

 

「ヒカル!」

 

「あーもう! はいはいわかったよ!」

 

 玄関先で靴を脱ぎながら小言を聞かされたヒカルはその後電話をしてスイカのお礼を言った後に、母親からスイカを受け取って自室に戻ってきたヒカルは行儀悪く寝そべりながら、真っ赤な実に水滴を滴らせるスイカを口に運んだ。

 

「ったく、母さんもいちいち大袈裟なんだよ。たかがスイカじゃん。……うめぇ」

 

 左手で持ったスイカを『シャクシャク』と食べながら、ヒカルはもう一方の手で床の上にあるマグネットの碁盤をパチパチと触っていく。

 

「んー、やっぱ、爺ちゃん家にあるやつみたいに、足付きの奴ほしーよな。マグネット盤なんてダサくてやってらんないぜ」

 

 そうぼやきながらもプラスチックの碁石を触るヒカルの手付きは澱みなく、今日の棋譜を次々と並べていく。

 全て正確に再現される棋譜。

 ヒカルは気づいていないが、それは類い稀な才能だった。

 

「……そういや、爺ちゃん家の蔵になんかねーかな? この際ボロでもいいや」

 

 パチリパチリと碁盤に石を置きながら、ヒカルはそんなことを考えていた。

 その選択がヒカルの運命を大きく変えることなど思いもせずに。

 

 

 

「──ヒカル〜! あかりちゃんが来てるわよー!」

 

 翌日早朝。

 チュンチュンと小鳥が囀る音が聞こえる中で、ヒカルは目を覚ました。

 ただし、母親の大声付きだったが。

 そんな爽快とは言えない朝。ぼんやりと寝起きの視線を彷徨わせて小首を傾げる。

 

「んぁ。……あかり? なんかあったっけ?」

 

 起きてお腹をボリボリ掻いて、ぼやっとした顔で適当に着替えて下に降りればいつも通りのあかりが居た。

 

「おはよ」

 

「うん、おはよう。今日だったよね、フリーマーケットの日?」

 

 まったく準備の整っていない様子のヒカルを見て、あかりが少し自分の記憶に自信をなくして小首を傾けた。

 あかりから聞かされて、ヒカルは目を見開いた。ようやく今日が何の日だったかを思い出して、大声を上げながらハッとしたように口元を押さえた。

 

「……ああ!! そうだった!」

 

「忘れてたの……?」

 

 少し涙目になったあかりに焦って、勢いであかりの手を掴んで玄関の扉を開いた。もうぼやっとした表情は消え去って、いつもの溌溂とした、というには焦りの色が濃かったが、押しの強い雰囲気を取り戻していた。

 

「母さん! フリーマーケット行ってくる!」

 

「ちょっと、朝ごはんは!?」

 

「いいよ適当に済ませる!」

 

「適当にってあんた、お金持ってないでしょ……」

 

 母親が言い終えるのも待たず、ヒカルはあかりの手を掴んだまま走り出した。開いた玄関から眩しい朝日が飛び込んでくるが、僅かに目を細めながら光の中に飛び出していく。

 釣られて走り出しながら、あかりが少しだけ頬を赤く染めた。

 掌から伝わってくる体温にドキマギしながら困惑と嬉しさの滲んだ声を掛ける。

 

「ちょ、ちょっと、ヒカル?」

 

「いいからいいから。うちの母さん、ああ成ると長いの知ってるだろ? さっさと行こうぜ」

 

 そう言って走り出したヒカルに連れられて、あかりも一緒に駆け出した。まだ早朝、一緒にいられる時間はたっぷりとある。

 駆けていくあかりの足取りはまるで羽のように軽かった。

 

 

 

「──へぇ〜、結構いっぱいあんじゃん」

 

「大きなイベントみたいだよ。公園全部貸し切ってるみたいだもん」

 

「ふ〜ん、詳しいな」

 

「う、うん。まぁそこはほら、ね」

 

 事前に下調べしたなんて、ちょっと恥ずかしい。頬を染めて視線を外して、そう匂わせるあかりにも気がつかず、ヒカルは立ち並んでいるフリーマーケットを物色していた。

 

「おお〜、なんだこれ? 見ろよ、あかり。変な仮面があるぜ」

 

「もう! そんなこと言っちゃ失礼でしょ!」

 

 これってデートなんじゃないかな、と『ドキドキ』してるあかりにも気が付かず。

 ヒカルは好奇心の赴くままに、あかりを連れてフリーマーケットを歩き続けた。見渡す限りの品々が広がる光景にワクワクとした気持ちを抑えられないように瞳を輝かせる。

 

「でもヒカル、お金あるの? フリーマーケットってタダじゃないんだよ?」

 

「失礼な奴だな、それくらい俺だって知ってるさ。──じゃーん、これなんだ?」

 

 そう言ったヒカルが取り出したのは3枚の人の描かれた紙幣。

 小学生なら紙幣を持っているだけでも驚くほどの大金なので、あかりも思わず大きな声を上げた。

 

「……え!? せ、千円札が3枚も!?」

 

「ふふん、軍資金は十分! さ、他の見に行こうぜ」

 

『ズンズン』と進んでいくヒカルに慌ててあかりがついて行って、少し心配そうにヒカルを見た。

 

「ヒカル、さっきのお金どうしたの? 正直に話せばお母さんだって許してくれると思うよ?」

 

 心配そうな視線も相まって、ヒカルがあまり良くない類の行為に手を染めたのを確信しているかのような言い方だった。

 

「だぁああ! なんでそーゆー発想になるんだよ!」

 

「だ、だって、あのヒカルだよ!? お年玉なんてその日に使い切っちゃうもん!」

 

「それは! ……否定しねぇけど。これは! 俺が稼いだお金!」

 

 堂々とヒカルがそう言い切ったが、それでもあかりの疑念が全て晴れた訳ではなかった。

 ヒカルのことを疑っているというよりも、ヒカルを()()()()()からこそ、お金なんて貯められる訳がないと思っているからだった。そんなヒカルが聞けば脱力感からずっこけてしまいそうな事を思いながら、あかりはすごく心配そうに言葉を続ける。

 

「……何したの?」

 

「……まだ疑ってんのかよ。接待料だよ、接待料! 爺ちゃんと囲碁打ったら貰えるんだ。ま、腕上げたって思われたらとか、何回かやったらとか、色々ルールはあるけど、ちゃんとしたお金だよ。……これで安心したか?」

 

「うん! なーんだ、そういうことだったんだね」

 

 正論であれ、疑われたことで大声で怒鳴って機嫌を悪くすることもある年齢が小学生だ。

 あかりの追求は十分にそれに近い行為だった。

 けれど、ヒカルはそれ以上は怒らずにきちんと説明した。

 言ってしまえば、それだけのある種普通の行動だが、ヒカルがその行動を無意識にせよ選んだのはあかりが疑念を持っているとフリーマーケットが楽しめないと判断したからである。あかり自身はそこまで詳しい考察をしていないが、雰囲気でなんとなく感じ取った。

 

 なんだかんだ言って、ヒカルは察しが良いのをあかりは知っているから。

 それに優しい。

 そんなヒカルだから、あかりも離れられないのだ。

 ニコニコと機嫌を良くして笑いながら、あかりはヒカルの後に付いて行った。

 

 

 

「──ねぇほんとにいいの?」

 

「いーのいーの。けど、どれもこれもパッとしないなぁ」

 

「もう! ちょっと見直したと思ったらすぐこれなんだから!」

 

 フリーマーケットで、あっという間に三千円を使い切ってしまったヒカルはお爺ちゃん家の蔵に来ていた。

 碁盤を探す、なんて目的が頭の隅に残っていたのも理由だが、何よりの理由は明らかだった。

 そう。軽くなった財布がヒカルに言うのだ、太らせろーと。とどのつまり、古物商で売るための品物を物色するために蔵に入っていた。

 

「お、これって碁盤じゃん。へぇかなり古そうだな。じーちゃんが昔使ってたヤツかな? お宝ブームに乗って売っちまってもいいけど、俺が使ってやってもいいかもな」

 

「ふーん、それは売らないんだ」

 

「んー、こないだ社会のテストで8点しか取れなくてこづかい止められてんだけど、碁盤は欲しいんだよなー」

 

「もう……」

 

 呆れたと肩を竦めるあかりをよそに、ヒカルはその辺にあった布を手に持って碁盤を『ゴシゴシ』と拭いていた。

 けれど、いくら拭っても取れない汚れに怪訝な表情を浮かべた。

 

「それにしても全然落ちないぞ、この汚れ」

 

「……? 汚れてなんかないよ?」

 

「えー!? きたねーよ。ほら、こことか血のアトみたいに点々と……」

 

 ヒカルが指差す場所を見るが、あかりには何も見えない。

 だから、困惑を強めてヒカルに場所を聞き直した。

 

「どこ?」「ここ」「どこぉ!?」「ここだってば!」

 

 そんなやりとりの中。

 あかりに()()()新しい声が混じった。

 女のような、若い男のような。不思議な声音だった。

 

『見えるのですか?』

 

「だーかーらーさっきからそう言って……」

 

『私の声が聞こえるのですか?』

 

「へ?」

 

『私の声が聞こえるのですね』

 

「ヒカルー、やっぱりそんなアトなんて……」

 

 知らない声。

 あかりではない、誰かの声。

 

『ゾッ』としたヒカルは碁盤を背にして、辺りを見渡す。

 だが、当然ながら誰の姿も見えない。

 ヒカルの背中に冷や汗が流れた。

 

「あかり、この蔵の中に誰かいるぞ……。誰だ? じーちゃんか? かくれてないで出てこい!」

 

「ぇえ! やだぁ! もう! ヒカル変なこと言わないでよ! ……わ、わたし帰るよ!」

 

 ヒカルの言葉にも、あかりの言葉にも、その『何か』はまったく反応しない。

 

『あまねく神よ。感謝します』

 

 背後からその一言が聞こえて、再び『ゾクリ』とヒカルの全身に震えが走った。

 振り返れば、烏帽子を被って白い袴を着た、女なのか、男なのか、よくわからない幽霊が立っていた。

 

 喉の奥が『キュッ』と閉まる。

 足が竦んで動けない。

 見上げるようにしてヒカルは幽霊を見ていた。

 

 そして。

 

 幽霊がヒカルの中に『入ってきた』

 

『今一度……、現世に戻る』

 

 微かな意識の中で、そう聞こえた気がした。

 暗転する視界。

 視界と音で自分が倒れたのがわかる。

 

 遠くからあかりの声が木霊のように聞こえてくる。

 

 ヒカルの中に、囲碁の霊が宿った瞬間だった。

 

 

 

 

 しばらく経って。数日を掛けて紆余曲折、ヒカルとその幽霊はある程度打ち解けた。

 お互いに碁が打てることがわかってから、一局打ってみるか、となるのは当然の流れだった。

 そして、実際に対局した後にヒカルは思わず盤面をひっくり返さんばかりに、自分自身がひっくり返った。

 

 

「──だぁああ!! 佐為、お前めちゃくちゃ強いじゃねーか!! なーにが大昔の碁打ちだよ! 騙された!!」

 

『そ、そんなことを言われても、御城碁を打っていたとも、ちゃんと言いましたし……、もしかしてヒカル。もう御城碁はなくなってしまったのですか?』

 

「知らねーよ! 俺、爺ちゃんとしか打ってねーもん。囲碁になんて興味ないね」

 

『そ、そんなぁ』

 

 佐為の悲しみがヒカルに伝播してきて、急激に気持ちの悪さが込み上げてきて口元を両手で抑える。

 

「うっ!! ……わかった、わかったから落ち込むなって……。もう学校の教室の時みたいなことは勘弁しろよ」

 

 脳裏に思い描いたのは、今日の昼頃に学校で起きた、ヒカルのゲロ吐き事件だった。思い出したくもない記憶なので早々に掻き消して、ため息を吐きながらヒカルは立ち上がる。

 

『ひ、ヒカルぅ!』

 

「えーっと、じゃあ、爺ちゃんなら知ってるだろ、たぶん。会いに行こうぜ」

 

 

 

 

 

 

「──御城碁ぉ? はー、お前からそんな言葉が飛び出すなんて驚いた。急にどうした? こづかいは増やさんぞ?」

 

「うるさいなー、いいだろ別に。で、もうないの?」

 

 不機嫌そうに顔を顰めたヒカルに、呆れた祖父がため息を吐きそうな雰囲気で続ける。

 

「そんなの、とっくに無くなっとるわ。いつの時代の話をしとる? 数百年も前の話だぞ?」

 

「ふーん、それってすごかったの?」

 

「そりゃ、すごいも何も。その時代の最高の舞台よ。碁打ちの中で知らない者は居ないってくらい有名な、あの『本因坊秀策』が打っていた事もある、それはそれはすごい舞台だわ」

 

「ふーん……。爺ちゃんくらいの実力じゃ、出れるわけないか」

 

「阿呆! レベルが違うわ!」

 

「……ねぇ爺ちゃん。勝ったらって約束。まだ有効だよね? お金はいいからさ、勝ったら碁盤買ってよ、足付きのやつ」

 

 悪どい事を思いついたように、ヒカルが『ニヤリ』と笑った。

 お金のためならいざ知らず、碁盤のためなら佐為が実力を抑えるなんて事はない。

 順当に楽しみながら佐為が打てば、ヒカルでもわかるくらいの盤面が展開された。

 

 そして。

 その圧倒的な棋力を以って作り上げられた碁盤を眺めながら祖父は唸った。

 その声を聞きながら、ヒカルは冷や汗を『タラタラ』と流す。

 やべえ、勝ちすぎた、と。

 

「……ヒカル。お前、昨日の今日で、これか?」

 

「あー、そう。成長期っていうじゃん? 閃いたんだよね、うん」

 

(さすがにバレたか? 佐為ってば、いや。『本因坊秀策』ってば、ほんとに強いんだな……)

 

 冷や汗を頬から垂らしながら言い訳のようにそう言ったが、祖父は俯いて碁盤を見つめたまま動かない。

 結果は白番の7目差でヒカルの勝ち。

 コミを入れれば12目半の差が付いている。

 ただ内容は囲碁暦の長くないヒカルでもわかるくらいの、完勝に近い。それこそ12目差なんて目じゃないほどの隔絶とした差が隔たっているのがヒカルには理解できた。

 

 久しぶりの囲碁である。

 ノリにノリすぎた佐為が全力で打っていることに気がついて、慌てて『指導碁』を打つように言ったが、時すでに遅い。

 

 歴然とした実力差を見せつけてしまった。

 どうなる、と恐る恐る祖父を見れば、まだ俯いたままだったが、ヒカルのそんな視線に合わせるように『ガバっ』と顔を上げた祖父を見て思わず目を閉じた。

 

 そして。

 

「ヒカル!! お前、すごいぞ!? 才能があると思ってたが、ここまで成長が早いとは思っとらんかったわ!! いやぁすごい! ──ばあさん! ばあさん! これを見ろ! ヒカルがすごいぞ!」

 

 呆気に取られて、縁側から居間に駆けて行った祖父を見送って、ヒカルは思わず足を崩した後に安堵して笑った。

 

「ははっ、そりゃそーだ。幽霊に取り憑かれて、そいつが代わりに打ってるなんて誰が想像できるんだっての。あー、びびったー!! 佐為、お前さー、ちっとは手加減しろよ。バレたらめんどーだろうが! 程々に勝つんだよ!」

 

『そ、そんなぁ。私としては精一杯頑張りましたし、きっとヒカルのお爺さまにも満足して頂けたと思うのですが……』

 

「満足も何もないの! バレたらもう打てなくなるんだからな、気をつけるよーに!」

 

『うぅ、わかりましたよぅ』

 

『しくしく』と背後で泣いている佐為に少し居心地悪くしながら、ヒカルは爺ちゃんが戻ってくるまで縁側に座っていた。

 微風(そよかぜ)が頬を撫でる。

 足を投げ出して座って、両手を左右の後ろに突いて、そのまま体重を後ろに傾けて。

 

 季節は冬。

 肌寒い風に晒されて、けれどヒカルは身を縮める事もなく受け止めていた。

 何となく、そんな気分だった。

 

(なぁ佐為。お前ってどれくらい強いんだろーな)

 

『どうでしょうか。140年の歳月が流れていますから、定石も変わっているでしょうし……』

 

(ま、そりゃそーか。……囲碁教室でも行ってみるかぁ)

 

『囲碁教室!? 今ではそんなものがあるのです!?』

 

 興奮し始めた佐為を適当に宥めつつ、ヒカルは祖父が帰ってくるまで、冬風を感じていた。

 もしかしたらそれは、大きな時代の風を感じていたからなのかもしれない。

 

 佐為という、囲碁界に訪れる新たな風を。

 

 

 



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2話

約4000字



 

 

「──けど、阿古田さんには笑ったなー。昨日と違って、そういう系統でくるとは思わなかったもん」

 

『もう。それで囲碁教室から追い出されちゃったんですから、反省してくださいね、ヒカル』

 

 爺ちゃんに勝って碁盤を買ってもらう約束をしたは良いものの、すぐに届くものでもない。それにあんまり爺ちゃんとやりすぎるとバレて面倒になるかもしれない。

 そう思って爺ちゃん家には行かずに、佐為とマグネット盤で何回か打ってみたが、本当に強かった。

 けど、ヒカルが碁を始めたのはお小遣いのためだ。

 ずーっと佐為とだけ打つ気にもなれなかった。

 何せ手加減ってものを知らないし、佐為に手加減されるのはそれはそれでムカついた。

 

 だから、適当な囲碁教室に行ったのだが、初日は弱い者イジメの阿古田さんのカツラを見抜いて笑いを掻っ攫ってしまい。

 二度としないという約束で許されたが、二日目は囲碁教室が始まる前に、阿古田さんにジュースを吹いてしまってカツラをまたも暴いてしまうというアクシデントに見舞われて、二度目は許さないと先生に怒られて追い出されてしまっていた。

 

 その時に一緒にいたおばちゃんから教えてもらったのだ。

 教室には入れなさそうだから、それなら代わりにここならどうかしら、と。

 

 

「駅前の碁会所って、ここか」

 

 目の前に聳えるビル。

 そのビルの中程に『囲碁サロン』と書かれた看板を見つけて、さっそく中に入ってみる。

 

『わくわくしますね、ヒカル!』

 

「あーそう、よかったよかった。まぁ適度に遊んで帰ろーぜ」

 

『はい♡』

 

 

 

 

 

「──あら、こんにちは。……どうぞ?」

 

 扉を開いて中に入ってみた光景。

 

(ジジイばっか!!)

 

 そう思って『ギョッ』としたが思えば当然だ。

 囲碁といえば、お爺ちゃんが好きなもの。

 そういう一般的なイメージに沿うくらい、一室にはジジイが詰め寄せていた。

 

「名前書いて下さいね。ここは初めて?」

 

「あ〜〜〜ウン。ここもなにもウチの爺ちゃんとばっか打ってたから、碁会所がまるっきり初めて……、ここなら誰でも碁が打てるの?」

 

「打てるわよ。棋力はどれくらい? あ、ここね」

 

「ありがと。棋力? よくわかんねーや。あ、でも、色々賞取ってる爺ちゃんには勝ったぜ」

 

「あらそう。じゃあ、君って結構強いの?」

 

 そう言われてふとヒカルの脳裏に思いついたのは、昨日言われた佐為の言葉だった。

『本因坊秀策』という名で棋譜が残っているはずだ、と。

 ヒカルもその名前は聞いたことがある、それくらいの有名人だった。

 だから、聞かれたのでつい答えてしまった。

 

「──『本因坊秀策』くらいかな」

 

「ふふ、それは相当強いわね」

 

(まァ、そういう反応になるよなー。俺だって信じらんねーもん。幽霊だぜ、幽霊)

 

 微笑ましげに笑っている受付のお姉さんを尻目に碁会所を見渡せば、一人だけ少年がいた。

 しかも、自分と同じくらいの年齢だ。

 それで思わずヒカルは声を上げた。

 

「あ! なんだ。子供いるじゃん!」

 

「え……ボク?」

 

 育ちの良さそうな綺麗な顔立ちの子供だった。

 活発なヒカルとは正反対の落ち着いた雰囲気を持っていた。

 

「あいつと打てる?」

 

「あ、うーん。あの子は……」

 

「対局相手さがしてるの? いいよ、ボク打つよ」

 

「あらそう? じゃあ、アキラくん。この子『本因坊秀策』先生みたいに強いっていうから、頑張ってね?」

 

「……秀策? ふふっそうなんだ」

 

「でもラッキーだな子供がいて! やっぱ年寄り相手じゃ、盛り上がんねーもんな!」

 

 元気よくヒカルがそう言ったが、少年はふと周りを見渡して優しげに笑みを浮かべた。

 年寄りと言われて、碁会所の雰囲気が多少気が立った。

 大人が少年相手に怒るほど浅慮ではないとは思っているが、少年がその雰囲気を感じてしまって萎縮してしまうかもしれない。

 だから、ここだとあまり良くなさそうだ、と少年──塔矢アキラは思った。

 

「そうだね。──奥へ行こうか。ボクは塔矢アキラ」

 

「オレは進藤ヒカル。6年生だ」

 

「あっボクも6年だよ」

 

 奥に続こうとするヒカルの背中に、『ハッ』と気がついた受付のお姉さんが慌てて声をかけた。

 

「君ちょっと待った! お金がまだよ」

 

「ええ!? お金いるの?」

 

「もちろん! 子供は五百円!」

 

 ビシッと手のひらを向けて五百円! と示す受付のお姉さんに、アキラが仕方なさそうに笑った。

 

「ここ初めてなんでしょ。市河さん今日はサービスしてあげてよ」

 

「ヤ〜〜〜ン♡アキラくんがそう言うなら……」

 

「ど、どーも」

 

「ありがとう」

 

 にこやかに笑みを浮かべるアキラの姿に、ヒカルは若干気後れした。

 助かった、とは思いつつも別の感想もあったから。

 

(真面目な顔して、意外と軟派なやつ?)

 

『対局♡対局♡』

 

 ヒカルのちょっとした感想なんて耳にも入っていない様子で佐為は小躍りしていた。

 

 

 

「──さっき言ってた『本因坊秀策』って、どれくらい本気なの?」

 

 お互いが席についた後。

 少しだけ冗談めかして、楽しげにアキラがそう言った。

 碁会所は静かであることもあるし、少年が声量を全く落としていなかったから、たぶん碁会所中に聞こえていただろう。

 だから、受付から少し離れたところに座りながらも、アキラにも声だけは届いていたから聞こえてしまったのだ。

 

「ん? ああ、本気っていうか、まぁオレは『本因坊秀策』の生まれ変わりみたいなもんだから。さ、打とうぜ!」

 

 思っていた返事とは違って、少し困惑しながらも打つことに否はない。

 アキラも笑って頷いた。

 

「いいよ。じゃあ、置き石はなしでいいよね?」

 

「当たり前だろ? いらねえよハンデなんか。おまえとオレ同い年じゃん」

 

「え? うん……、まァそうだね」

 

 同い年。改めて言われるとそうなんだけど。

 そう思いながら少し照れるアキラに周囲の大人たちが囃し立てた。

 

「『塔矢アキラ』に置き石なし? とんでもないボウズだな……。おっと『本因坊秀策』先生だったか」

 

 そんな声も、ヒカルには聞こえていた。

『ムッ』としながらも何も言わない。

 

 お小遣いのためとはいえヒカルはもう1年以上も碁を打ち続けている。

 継続は力であり、そして活発なヒカルがそれだけ長く続けられていたという事は少なからずその魅力に気がついていたからだ。

 だから、ヒカルも少し楽しみだった。

 自分と同い年のアキラが『佐為』相手にどの程度打つのか。

 そっちが気になって、外野の声なんてもうヒカルには気にならなかった。

 

(佐為。なんか、塔矢って結構強いのかも。それでも指導碁行けるか?)

 

『どうでしょうか、打ってみねばわかりませんが、出来る限りやってみましょう。……さあヒカル! 早く対局対局!!』

 

(あーはいはい、わかったよ)

 

「じゃあ、塔矢。最初だし、先手の黒番貰うな」

 

「いいよ」

 

「よし。じゃあ」

 

『お願いします』

 

 二人は揃ってそう言い、頭を下げた。

 

 

『パチパチ』と石が並べられてゆく。

 気負いもなく、打つのにも慣れている。

 

 そんな二人の序盤はあっという間に駆け抜けていった。

 

 中盤に入って塔矢は少しだけ思考が増えた。

 チラリと対面に座る同い年の少年を見る。

 

(古い定石だ。最初は『本因坊秀策』の真似をしているだけかと思ったけど、意外と石の筋はしっかりしている。相当深く勉強してないとここまで打てない。……伊達で言った訳じゃなかったのか)

 

 少しだけヒカルの事を見直しながら、アキラは盤面を進めていく。

 

(……言うだけのことはある。この子、相当に強い。ボクの打ち込みにも動じないし……、いや。動じないどころか、軽やかに躱していく? 局面を、ずっと彼がリードしている!?)

 

 そして、ヒカルからの一手。

 置かれた黒石の位置を見て、アキラの総身に痺れるような驚きが走った。

 

(これは。これは最善の一手ではない。最強の一手でもない……。 ボクがどう対処するのか、どう打ってくるのか試している一手だ! ボクの力量を測っている!! 遥かな高みから……)

 

 思わず視線を盤面からヒカルに向けた。

 そこには不敵に笑みを浮かべて、アキラを見ている活発な少年の姿があった。

 

「……塔矢の手番だぜ?」

 

 ヒカルにもわかっていた。

 佐為がどれほどの打ち方をしているのか理解していた。

 初めから佐為の実力を知っていたヒカルは観察に専念していたから、尚更だった。

 

 だからこそ、ヒカルは笑っていた。

 ここから塔矢がどうするのか。

 自分ならこうする、と思いながらも、塔矢ならどうするんだろうと『ワクワク』している自分を無意識に楽しみながら。

 

 

 

 

 

「……ボクの、負けだ」

 

 アキラの、苦渋とも呼べる一声。

 その瞬間に一室の空気が騒めいた。

 

「ま、負けたのかいアキラくん!?」

 

「7目半差で?」

 

「そんなバカな!!」

 

 ざわめく周囲とは裏腹に、当人たちは静かだった。

 塔矢はショックを隠しきれない様子で口元を手で覆って、盤面をただ見つめている。

 

 ヒカルもヒカルで、まさか同い年の少年が自分よりも遥かに強かった事を知ってショックを受けていた。

 

(オレも、そこそこ強いと思ってたんだけどな……。ま、お小遣いのために始めた囲碁だし、しょーがないか)

 

 塔矢に比べれば、今までのヒカルの努力など微々たるものだろう。

 懸けた時間と覚悟を考えれば歴然とした差が生まれるのは仕方のない事だ。

 だが、ヒカルはそんな慰めが受け入れられるほど大人ではなかった。

 

 そして。

 上手に言い訳できるほど成熟していなかった。

 時に子供は大人よりも潔い。

 周りから見れば、あまりにも勿体無い決断を容易く下してしまう事もある。

 

 故に。

 

 自分には、塔矢ほど囲碁の才能がない。

 事実としてヒカルはそれを受け入れた。

 

 そして自分を超える才能を持ったアキラをも容易く下した佐為の事を、今まで以上にすごいと思った。

 しかし、そんな佐為は自分の後ろで歓喜乱舞していたので尊敬もへったくれもなかったが。

 

『ヒカルぅ! どうでしたか、私の碁は! この子『も』非常に良い碁を打ちますね。未熟ながらも輝くような一手を放ってくるのです! 彼の一手に私自身が覚醒していくのを感じるほどでした! この子供。成長したら獅子に化けるか、龍に化けるか──非常に楽しみな逸材ですね!』

 

(ふーん、そりゃよかったなっと)

 

「わりー塔矢。今日はここまででいいか?」

 

「……え? ああ、うん。もちろん」

 

「じゃーな」

 

「ま、待ってくれ! ……君は、君は何者なんだ?」

 

「──『本因坊秀策』そう言ったろ?」

 

 ヒカルは進めていた足を止めて、振り返りながら笑ってそう答えた。

 

 

 

 

 

『──ヒカルぅ! ヒカルぅ! 急にどうしたんです? もう一局くらい打っても良かったのでは……』

 

「いーの。ちょっと疲れたんだよ、慣れないところ行ったし」

 

『そ、そうでしたね。ついヒカルのことを考慮せず……、すみません、ヒカル』

 

 嘘だった。

 慣れない環境とはいえ、一局くらいで疲れるほどじゃない。

 理由は何となくわかっていた。

 

「なァ佐為。アイツ、めちゃくちゃ強かったな」

 

『そうですね、今までに凄まじいほどの鍛錬を積んだはずです。そして彼自身にも鍛錬に応えるだけの才能があった。並みの打ち手ではありませんでした』

 

「……そーだな。あーあ、世の中すげー奴ばっか」

 

『ヒカルも凄いですよ』

 

「へいへい」

 

 何気ない風を装いながら、佐為にそう言って欲しかった自分を少し自覚して、ヒカルは『ガシガシ』と頭を掻いた。

 こんなの自分らしくないと思いながら。

 

「あー! 佐為! これからもいっぱい打たせてやる! ……だから、社会のテストな!」

 

『ズルはいけませんよ! ヒカル!』

 

「いーんだよ!」

 

 ワイワイと佐為と話しながら、ヒカルは帰路に着いた。

 本来のライバルである塔矢アキラとの邂逅。

 佐為と塔矢アキラの実力を見抜けるほど、囲碁を理解しているヒカル。

 その変化はより大きな変化を産み、物語は形を変えてゆく。

 

 小さな変化。

 しかし、それは確かな変化だった。

 

 川の小石が、大きな流れを変えてしまうように。

 それもまた運命だったのかもしれない。

 

 



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3話

約5000字

題名変えてしまいました><
すみません。


 

 

 

 

『──ええ〜!? もう囲碁教室に行かないんですか!? バカ! ヒカルのばかー!!』

 

「うっさいなー! オレにだって予定があんの! それに阿古田さんに会うと気まずいだろ」

 

『それは……そうですけど……』

 

 と言いつつ、予定なんて本当はない。

 ただ佐為に打たせてやる、と豪語したはいいものの、打つ相手なんてヒカルくらいしか居ない。

 だから、しょうがなく届いた足付きの碁盤で佐為と打っていたのだが、やっぱりムカつくのだ。

 強いのはわかる。

 それは認めるし、佐為の打つ碁を見たいとも思う。

 けど、それとボコボコにされても許せるか、というと話は別なのだ。

 気分転換も兼ねて『ブラブラ』と歩いて、ふと思いついたようにヒカルは今まで来た道を戻るために足を動かした。

 

『ヒカル?』

 

「いい事思いついた」

 

『ニヤリ』と笑って、ヒカルは佐為に振り返った。

『初心者相手でも打てるならいいだろ?』と言いながら。

 

 

 

 

「──囲碁?? なにそれ?」

 

「こないだ爺ちゃん家の蔵で見たろ? 足付きの盤。あれ使ってやるゲームだよ」

 

「あっ! ヒカルが倒れちゃった時の?」

 

「ウン、まぁそう、それだよ」

 

「……それはわかったけど、でも、どうして急に誘ってくれたの?」

 

 心底不思議そうにヒカルを見るのは、あかりだった。

 いい事思いついた、とヒカルが言っていたのはあかりの事だった。

 佐為が相手の力量に問わず、打てれば楽しい奴であるのはこの数日間で十分に理解できた。

 ならば、ヒカル以外に気軽に打てる相手を育てれば良い。

 

 名案だと思ったヒカルはさっそくあかりの自宅に訪問して、あれよあれよとそのまま自分の家にまで引っ張ってきて、自宅に招き入れて爺ちゃんに買ってもらった足付きの碁盤を広げていた。

 

「別になんだっていいだろ、やらねーの?」

 

「やるやる! でも少し意外だなーって。ヒカルが誘ってくれるとは思わなかったから」

 

 反故にされては堪らないと焦りながら『やる』と言った後で、やっぱり不思議そうにあかりはそう言った。

 

 あかりが碁盤を触る仕草は少し小動物染みていた。

 いかにも高級です、と主張する木製の碁盤は新品であるため樹木の断面から香る良い匂いがする。

 囲碁の事は知らないながらも、何だか凄そう、というのはあかりにもわかった。

 だから、手つきにもその感じたままの仕草が反映されていて、恐る恐る触るようなあかりの姿がヒカルから見れば小動物っぽく見えた。

 佐為が延々と誘ってくる、無限囲碁の環境から解放されて、気が緩んでもいたために無意識に言葉が出た。

 

「ん〜、なんて言うか癒されに……?」

 

 佐為から解放される、という意味が8割方を占めていたが、そんなことはあかりにはわからない。

 そして何故か佐為にも伝わらなかった。

 

『お〜〜、ヒカルってば大胆〜』

 

『ボッ』とあかりは赤面する。

 佐為に大胆と言われて、あかりの様子を見て、慌てたようにヒカルが付け加えた。

 

「いや!! 別にそう言う意味じゃねーよ!? ただ、最近すげー奴みてさ。ちょっと自信なくなったかなーなんて」

 

 珍しく弱気な発言だった。

 目をまん丸にさせて自分を見るあかりの様子に気がついて、冗談にするためにヒカルはいつものように快活に笑った。

 

「ウソウソ! お前と最近遊んでなかったからだよ! ほら、ルール教えてやる」

 

 そう言われてあかりは慌てて集中した。

 買ったばかりの欠けなど一切ない、綺麗な碁石を並べていくヒカルを見ながら、次々に説明される難しい内容に必死に聞き入って、あかりはいつの間にかそんなヒカルの様子のことなど忘れてしまった。

 

 

 

「──だから、囲まれたら石が取られるんだ。ここまではいいな? じゃあ、この時はどうする」

 

 

「こーやって逃げる!」

 

 ヒカルが置いたのは4つの石。

 黒石を3つ、白石を1つ。

 三方向を白石が黒石に囲まれていて、四方に黒石が置かれれば後一手で白石が取られてしまうという場面。

 

 そう聞かされて、じゃあ逃げるためにはどうすればいいのか、という問題に対して、あかりの出した答えは囲まれた白石をツツツーと動かして逃す、という可愛らしいものだった。

 ただヒカルに女の子に対する甲斐性を期待するのは少し難しい。

 頭を抱えて大声で叫んだ。

 

「だぁあああ! お前才能ねーよ!!」

 

「だってー!!」

 

『やーん、楽しそうー!!』

 

 ワイワイと話し合う二人の姿を、佐為は自らも立ち上がって踊るように忙しなく動きながら一緒になって楽しんでいた。

 ちなみに正解はもう一つ新しい白石を四方を囲まれないように置く、というものだ。

 

 

 

 

「──あかり、こっちこっち」

 

「ちょっとヒカル、早いってばー!」

 

「しょーがないだろ、だいぶ遅れちゃったんだからさ」

 

 囲碁を教え始めて、二人が話し合った後で。

 やっぱり実際に打っているところを見てみたい、とあかりが言うものだから、佐為との対局を見せる訳にも行かないヒカルは以前碁会所で受け取っていたチラシを思い出して、あかりと一緒に全国子供囲碁大会に足を運んでいた。

 何たって一人で二役を熟しながら囲碁を打ってるように見えるからだ。

 それは少し、いや、かなりの変人だからそう思われるのはさすがに躊躇した。

 

 

「──すっごい。これみんな囲碁打ってるの? 私たちと年齢もそんなに変わらないのに……」

 

「そーだよ。……アイツいねーかな」

 

「アイツ?」

 

 塔矢アキラのことだった。

 しかし、それを説明するためには佐為とヒカルという関係も説明する必要がありそうで。

 

「……誰だっていいだろ。ほら、いくぞ」

 

「もう! 勝手なんだから」

 

 ヒカルは説明を避けた。

 面倒臭い気持ちもあったが、理解されないだろうとも思っていたし、何よりちょっとズルいよなと自分でも思っていたからだった。

 何たってヒカルに取り憑いているのは140年前の公式戦不敗の棋士。

『本因坊秀策』なのだから。

 

『そこの盤面。右上スミの戦い。黒が打ち損じると死にますね』

 

 佐為に声を掛けられて、ヒカルは足を止めた。

 佐為の言う盤面を見つけて眺めてみるが、確かに死にそうだが、何とかなりそうな気はした。

 

(あ……コレか)

 

 ヒカルのニュアンスで、急所がどこかわかっていないと察した佐為は言葉を続けた。

 

『1の二が急所です』

 

(……わかってるよ)

 

 ヒカルは仏頂面でそう言った。

 そんな短いやり取りの間に、盤面が動いた。

 黒を持った少年が話題の局面に打ち込んだ。

 しかし、その場所は急所から僅か一目分ズレている。

 ついヒカルは口を滑らせた。

 

「おしい! そこじゃダメだ。その上なんだよ」

 

「え? あ」

 

「……あ」

 

 ヒカルに言われて、対局していた2人も気がついたようだった。

 気まずげな沈黙が訪れて。

 ヒカルはゾッと顔色を悪くした。

 対局中の助言はマナー違反どころではない。

 明確なルール違反で、悪質な場合では大会出禁になるくらい重い失態なのだから。

 何より少し考えればわかるはずだ。

 真剣に打ち合っている少年たちに割って入って助言するなんて、あまりにも無遠慮だった。

 

「あ……」

 

「きみっ!!」

 

 係員の男性がヒカルの肩を掴んで、焦ったように言葉を続けた。

 

「何考えてるんだ!! 対局中にクチ挟むなんて! 遊びじゃないんだぞ!」

 

「ご、ごめんなさい」

 

 そう言われてヒカルも慌てて敬語で謝る。

 そこにもう一人の男性が割って入った。

 

「森さん騒がないで」

 

『森』と呼ばれた男性に話しかけたのは白いスーツを着て、胸元にプロ棋士の証である花の飾りを着けた男だった。

 白いスーツの男性──緒方は盤面をチラリとみて、その後、『森』に奥へと連れていかれるヒカルとあかりを見て、しょうがなさげに鼻息を一つ吐いた。

 

「……困ったな。君たち、状況を教えてくれる?」

 

「ボクがここに打ったらあの子が『おしいその上だ』って言ったんです」

 

「……これか」

 

(ナルホド、プロの私でもちょっと手が止まるな、ムズカシイ形だ)

 

 そう思いつつ緒方は言葉を続けた。

 

「で、キミは言われて気づいてしまった?」

 

 緒方がまず声を掛けたのは黒番の少年に対してだった。

 少年はプロに話しかけられている状況に少し興奮しながらも正確に説明した。

 

「……はい『あ、そうか』……って」

 

「キミは? ここが急所だってわかってた?」

 

 次に緒方が声を掛けたのは白番の少年に対してだ。

 ヒカルが示した一手に気がつかなかった、という色を強く表情に出していた。

 

「……いいえ。なにか手がありそうなカンジはしてたけど……」

 

「でも、キミも言われて気づいてしまった、と……」

 

「……ハイ」

 

 素直にそう言った少年たち。

 その結果を鑑みて出した結論は一つだ。

 

 ──無勝負にして再戦させるしかない。

 

「あの子は参加者だったのかな?」

 

「ちがいますよ!」

 

 緒方の少年たちに向けての言葉に答えたのは保護者の女性だった。

 そのまま女性は緒方に捲し立てる。

 

「全然カンケーない子ですよ! 名札をつけてなかったもの! 私、見てたんです。ついさっき会場に入ってきて。それで女の子を連れながらウロウロこっちに近づいてきて、うちの子のところで足を止めたと思ったら! チラッと見て『おしい。その上』とか言ってうちの子の対局をムチャクチャにしたんですっ」

 

 女性が言いたかったのはヒカルの無責任さに関しての苦言であったが、緒方が着目したのは囲碁のプロらしく囲碁に関することだった。

 

「今、なんとおっしゃいました? チラッと見て?」

 

 緒方は再度盤面を見る。

 もう一度見ても、プロである緒方でも手の止まる難しい形だ。

 コレを即答したとなれば相当な棋力がなければ到底不可能。

 偶然にしては考えづらい形だ。

 

(……あの子、まだ子供だったな。ちょうどアキラくんくらい、か? なら小学6年生。……まったく、近頃はとんでもない小学生ばかりだな)

 

 薄く笑った緒方は保護者の女性に向き合って今後の予定を話し合った。

 一刻も早く奥へと連れていかれた少年と再び話すために。

 

 

 

「──すみません、ゴメンなさい!」

 

「まったく! ついクチを挟んだじゃ済まないんだよ? これは大会なんだからね、それも全国大会だ。この日のためにみんな頑張ってきたんだから、当然みんなこの大会に真剣に臨んでいる。それをキミの『つい』で台無しにされてしまったんだ。この意味がわかるね?」

 

「……ハイ」

 

「あの! ゴメンなさい、ヒカルも悪気があったわけじゃないと思うんです。もう二度とこんな事させないので許してあげてください」

 

 ヒカルを庇うように、頭を下げてそう言ったあかりの姿を見て、黒い服の壮年の男性──柿本は仕方がなさげに息を吐いた。

 

「……キミの彼女さんかな? 彼女にいいところを見せたい気持ちはわかるが、だからって人の対局にクチを出しちゃいけないよ。今回は彼女に免じて許してあげるから、もうこんなことしちゃいけないよ」

 

 彼女じゃないです。

 そう言っていい雰囲気じゃないのはヒカルもわかるのであえてクチを噤んで、あかりごめん、と思いながらもう一度謝った。

 彼女と言われて、赤面してまんざらでもなさそうなあかりの事に、ヒカルは気がつかなかった。

 

「あ──、ハイ。すみません……」

 

 そこにヒカルとあかりをここまで連れてきた、『森』という係員の男性がクチを挟んだ。

 

「もういいから。こっちの裏から帰りなさい。柿本先生、よろしいですね」

 

「はい、しょうがありませんね」

 

「おさわがせしましたーっ、さよならーっ」

 

「お騒がせしました! 失礼します。……ヒカル、ちゃんと挨拶しなきゃダメだよ」

 

「あーっと、失礼しますー」

 

 少年少女が去った室内で、柿本が肩を竦めながらタバコを取り出した。

 

「ヤレヤレ、それで……、その局面というのは……?」

 

 もし先に局面の検討をしていれば。

 ヒカルはあの一室に残ったままだっただろう。

 そして少しだけ早く対局の機会を得るはずだった。

 生きている者の中で『神の一手』に最も近い男との対局の機会を。

 

 少し時間が経過する。

 ヒカルが道の途中で人にぶつかって。

 それから少し後の大会運営委員の者達が集う一室での出来事だった。

 緒方も合流しており、先ほどの盤面を囲っていた。

 そこに一人の男性が入室してくる。

 着物を着こなした壮年の男性だった。

 鋭い眼差しは見つめられれば背筋が伸びるほどに凛としている。

 

「……トラブルがあったそうだな」

 

「あ、塔矢名人……」

 

「とにかくコレを見てください」

 

 柿本が初めにそう言い、緒方が言葉を引き継いだ。

 

「我々プロでもちょっと考えるこの局面を助言したそうです。それもチラッと見て即答です」

 

 塔矢行洋が、緒方が言う局面を見る。

 そして一瞬で佐為と同じ結論に達した。

 

(1の二が急所……か。なるほど、コレを即答できる子供は尋常ではない。彼らが動揺しているのはコレが理由か……)

 

「なるほど……。この黒の生き死にの急所をひと目でな。そんなことができる子供が息子のアキラ以外にもいたか……」

 

 誰もが認める名人。

 その塔矢行洋も同じ意見。

 それは非常に重い意味を持つ。

 

「それを名前も聞かずに帰すとはね……」

 

「す……すみません……」

 

 緒方は『ネチネチ』と性格の悪さを示すように係員にそう言っていた。

 それを聞きながらも塔矢行洋の思考に乱れはない。

 ただ一点。

 彼の思考は囲碁にのみ注がれていた。

 

 碁笥(ごけ)に手を差し入れた行洋の指先には黒の碁石が挟まれている。

 

「まあいい……。彼がそれほどの打ち手なら」

 

 言葉を区切り、そして力強く碁盤の『1の二』へとその黒石を鋭く置いた。

『ビシッ』と厳しい音が室内に響き、行洋は平然と言葉を続けた。

 

「遅かれ早かれ、いずれは我々棋士の前に現れることになる」

 

 見据えるは新たな芽との出会いか。

 はたまた、まだ見ぬ好敵手への渇望か。

 

 それは行洋自身にもわからない事だった。

 

 

 

 



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4話

約5000字



 

 

 

「──わりーあかり。オレのせいで会場入りづらくなっちまった」

 

 パンと手を合わせてヒカルは頭を下げた。

 それは言葉通りの意味でもあるが、『彼女』と言われてコレ幸いと否定しなかった事への謝罪も含んでいた。

 蒸し返すのも恥ずかしいので彼女云々に関しては言葉にしなかったが。

 

「いいよ! ……ほんとはもう少し見たかったけど」

 

 悪戯っぽく微笑んでそう続けたあかりに、バツが悪そうに笑いながらヒカルが答えた。

 

「悪かったって! ……けど、みんな真剣だったなー、邪魔しちまったのは、ほんと反省しなきゃなんねーや……」

 

「ほんとだねー、私、想像もしてなかったもん。中学生だったからお兄さんお姉さんばっかりだったけど、それでもあんなに大勢の私たちくらいの年齢の子たちが囲碁打ってるなんて……。ヒカルに誘ってもらわなきゃ一生知らなかったかも。……だから、ヒカル。連れてきてくれてありがと」

 

「……おう」

 

 小学生でも女の子だ。

 早熟なあかりはヒカルにフォローの意味も込めて感謝の言葉を形にした。

 

 ヒカルが照れ臭そうに『ポリポリ』と頬を掻いて。

 それを佐為が袖で口元を隠しながら微笑ましそうに見ていた。

 ヒカルを揶揄うなんて事はしない。

 眺めているだけでお腹いっぱいだからだ。

 

 囲碁大会からは追い出されてしまったが、あかりという新しい囲碁を学ぶ意欲のある者に出会えて、その者がより囲碁に対して興味を持ってくれたように思う。

 それは囲碁が大好きな佐為としても非常に喜ばしい出来事だった。

 

 

 

 

(この一手も、この一手も)

 

 ヒカルが棋院の全国子供囲碁大会で怒られて、あかりとの帰宅の最中だった。

 以前碁会所でヒカルと打って、完膚なきまでに負けた塔矢アキラはもう既に何度も並べている前回の対局の棋譜をまた並べていた。

 

(まるで指導碁だ。……彼は、小学6年生だと言っていた。ボクと同い年……。これが彼の実力? いや、そんなハズがない。そんな子供いるワケがない。けれど、この対局がそれを否定する……。わからない。さっぱりわからない。……『本因坊秀策』彼はそう言っていたけど、まさか本当に……)

 

「アキラくん」

 

 思考の迷路に迷い込んだアキラを止めるように、碁会所の受付お姉さんである『市河』が話しかけた。

 

「広瀬さんが指導碁をお願いしにみえてるんだけど、どうかな?」

 

「あ、ムリにとは」

 

 碁会所に入ってきた当初は指導碁をしてもらいたい意欲満々だった中年男性の広瀬だったが、真剣にそして少し深刻そうに盤面を見つめるアキラの姿を見て、さすがに気を遣ってそう言った。

 

「……スミマセンが……」

 

 アキラは少し間を空けてそう答えた。

 それがよりアキラの内面の深刻さを市河に伝えた。

 普段のアキラなら微笑みを浮かべながら了承していたであろうから、あの衝撃が未だアキラの中に残っているのだろう、と。

 

「アキラくん、あの子を待ってるの? 名前しかわからないから、ここで待つしかないものね」

 

「……」

 

 同意を示すかのような沈黙。

 それを見かねた市河は少し記憶を辿って、ある事を思い出して『ポン』と手を叩いた。

 帰り際。

 そそくさと帰ろうとする彼が一枚のチラシに目を止めていて、せっかくだからと押し付けたのだ。

 

「あ、そういえば! 私、あの子に帰り際、全国子供囲碁大会のチラシあげたんだわ」

 

「今日棋院でやってる?」

 

 アキラは間髪入れずに聞いた。

 少し驚きながらも、市河は頷いた。

 

「え、ええ。さして興味もないようだったけど、もしかしたら見に行ってるかもしれないわ」

 

 アキラの思考は刹那だった。

 ガタンと椅子から立ち上がって、碁会所の出口に向かって行儀悪く駆け出した。

 普段から礼儀正しいアキラの、常なら考えられない行動に市河が思わず驚きの声を上げた。

 

「あ……アキラくん!?」

 

「市河さんお願い! ボクのいない間に彼が来たら、ひきとめておいて!」

 

 そう言い残して、アキラはあっという間に碁会所の扉を開けて出て行った。

 唖然としながらその姿を見送って、市河は思わずといった様子で言葉を漏らした。

 

「……変わったわねアキラくん……」

 

「そりゃあ、変わりもしますよ。今までライバルらしいライバルなんかいなかったんだもの。……いやぁしかし、アキラくんと同い年でそんなに強い子供なんて、ほんとに先々が楽しみでしょうがありませんよ」

 

 アキラくんの変わった姿に少しの寂しさと深刻な様子を見続けて不安を感じていた市河は無責任に楽しんでいる大人の広瀬の言葉にムッとして答えた。

 

「……広瀬さんの伸び代はもうそんなにないようですからね!」

 

「あ、あはは。市河さんそう怒らないで」

 

 広瀬は焦りを滲ませた。

 市河の機嫌を取るために話しながらも、広瀬は気難しい若い女性の扱いに苦笑いを浮かべていたのだった。

 

 

 

「──そういえばヒカル。誰か探してたけど。誰を探してたの?」

 

「……あー。ウン、まぁあれだよ」

 

 言うか言うまいか、少し悩んだヒカルだったが、先ほどの彼女云々で少しだけ負い目がある。

 それを清算するつもりでクチを開いた。

 

「さっき家で言ったろ? ちょっと自信無くしたって。塔矢アキラってやつが居てさ。そいつオレよりずっと才能あるんだ。そいつもオレと同じ小6だから、あそこに居ないかなーって探してたんだよ」

 

「……そっか」

 

 先ほど見ていた大会は中学生の部だから、ヒカルと同じ小学校6年生なら居るはずがない。

 なのに、ついつい探してしまうほど意識している相手なのだろう。

 あかりはそこまで察して少しだけ『ムッ』とした。

 可愛らしい『嫉妬』という感情だったが、その感情を『嫉妬』であると理解する事は早熟なあかりにも出来なかった。

 

 そこに。

 

 

「進藤……進藤ヒカル!!」

 

 噂の張本人である塔矢アキラが姿を現した。

 息を切らせて、汗を滴らせる姿はヒカル一筋のあかりでも少し『キュン』としたほどカッコいい。

 誰だろう、そう思ったあかりの耳にヒカルの声が届いた。

 

「塔矢……?」

 

 けど、そのヒカルの言葉を聞いた瞬間にその気持ちも冷めた。

 びっくりという表情であかりはその塔矢と呼ばれた少年を改めて見てみる。

 

 ヒカルとは正反対の、落ち着いた顔立ちの少年。

 普段のアキラを見ればあかりもそう思っただろうが、今あかりが見ているのはヒカルを追いかけてきたアキラの姿だ。

 だから、印象は全く違ったものになった。

 

 つまり、ヒカルとどっこいどっこいの活発な子に見えた。

 

「えっと、塔矢? なんでこんなとこに。どーしたんだよ」

 

「あ……いや……」

 

 勢いで出てきて、目当てのヒカルを見つけたので思わず叫んでしまったが、生来のアキラは非常に落ち着いた少年だ。

 だから、自分の言動と行動を思い返して少し恥ずかしげに頬を染めた。

『ここにいる理由』『どうしてここに来たのか』

 その問いかけに答えるには自分の無謀に近い行動を説明せねばならないから、その恥ずかしさもひとしおだった。

 

 そんなだんまりのアキラにも、ヒカルは怯まなかった。

 好奇心の赴くままに問いかけた。

 

「……囲碁大会には出なかったのか?」

 

 その問いかけを説明するには、家庭の事情だったり、自惚れていた過去の自分を話さなければならない。

 それを避けたくてアキラは問いかけに対して、問いかけで答えた。

 あかりはそれを聞いて、また少し『ムッ』とした。

 

「キ……キミは?」

 

「オレ? オレはチラッと覗いただけなんだけど……。あ、ほら、コイツ。あかりって言うんだけど、コイツが囲碁大会見てみたいって言うからさ。それで来たってワケ」

 

「あ、はじめまして。藤崎あかりです。いつもヒカルがお世話になってます」

 

「あ、いや、こちらこそ。塔矢アキラと言います」

 

 私のヒカルだ、とでも示すように保護者のような事を言いながら深々と頭を下げるあかりに、ついつい塔矢も頭を下げて答えた。

 父兄の挨拶のような光景。

 それを見て、ヒカルが腕を組みながら呆れ顔で言った。

 

「お前ら、こんな道の真ん中で何やってんだよ……」

 

 ヒカルの表情を見て、己の行動を鑑みた二人が同じように赤面した。

 確かに少しおかしいな、と。

 

「……で、塔矢。お前何しに来たんだ? 囲碁大会にも出てなかったんだろ?」

 

「……あ、いや。そ、そうだね」

 

 聞かれたくない事だった。

 キミに会いたかった、なんて勢いが削がれたアキラからは恥ずかしくって言えない。

 冷静に考えればどうかしている。

 待っていれば碁会所に来たかもしれないのに、1週間と待てずに探しに行くような真似をするなんて、礼儀の厳しい家庭で育ったアキラからすれば『はしたない』行動だったから。

 

 そんな『箱入り娘』みたいな事をアキラが考えているなんて、ヒカルの想像力で察せるわけがなかった。

 

「えっと、塔矢くんはヒカルと対局したの?」

 

 沈黙が続きそうな気配を感じ取ったあかりが二人の様子を見かねて助け舟を出した。

 それに待ってましたと言わんばかりにアキラが頷いた。

 

「あ、ああ! そう、そうなんだ。ちょうど1週間前の日曜日かな? ボクの居る碁会所に進藤が来て、それで初めて打ったんだ」

 

 その時のことを思い出して、ヒカルは少しばかり不機嫌になった。

 あかりはその様子に話題を間違えた、と思いながらもニコニコ笑って続けた。

 

「そうなんだ。それでヒカルが負けちゃったんだよね。……でも」

 

 フォローの言葉を続けようとしたあかりを、アキラが怪訝な表情で遮った。

 

「え? いや、負けたのはボクだよ。……完敗だった。──進藤がそう言ったのか?」

 

 アキラはヒカルのことを見た。

 信じられない、と怪訝な表情を隠せない様子だった。

 

「言ってねーよ! ……あかりがちょっと勘違いしただけだよ! もういいだろ、いこーぜ」

 

 勝ったのに不機嫌。

 そんな事を事情の知らないあかりが察せる訳もなく、あかりはヒカルが塔矢アキラに負けたから『不機嫌』なのだと、言いたくなかったのだと思っていた。

 だから、あかりも驚きの表情でヒカルを見ていたが、それ以上その話題を続けたくないと示すようなヒカルの行動に慌てて着いて行った。

 

「あ! 待ってよ、ヒカル」

 

「ま、待ってくれ進藤!」

 

 思わずヒカルの肩を掴んで、アキラは止めた。

 それに今度はヒカルが怪訝な表情を浮かべてアキラを見る。

 

「な、なんだよ。お前スッゲー怖いぞ」

 

「あ、いや。ごめん……。だが、何故だ? 何故、彼女はそんな勘違いをしたんだ? あの対局は指導碁だった……。ボクとキミとの間には隔絶とした実力差があるだろう? なのに、何故?」

 

 アキラがここまで食い下がるのは、そこにヒカルの秘密が隠されているのではないか、と無意識に思ったからだった。

 常であればここまで必死な様子をアキラが見せるのは考えられない。

 

 けれど、ヒカルもあかりもそんな事は知らない。

 ただただ、必死な様子のアキラにびっくりしていた。

 

「なんでって、オレが知るかよ。……あー! もう! 何が不満なんだよ! オレに負けたのがそんなに悔しいのか!?」

 

「ヒ、ヒカル!?」

 

 乱暴なヒカルの言葉に、あかりが悲鳴に近い声を上げた。

 けど、ヒカルにも事情があった。

 

 あかりに聞けよ、そう続けよう思っていたヒカルだったが、もしそれを言えば、自分が才能云々といった話が出てきてしまう。

 それを嫌って、ヒカルはつい喧嘩を売るような言葉を言ってしまっていた。

 しかし、塔矢は乱暴な言葉を受けても態度を変えなかった。

 ヒカルの言葉を真剣に受け止めて、自分の中で消化した。

 

「キミに負けたのが悔しい……。そうだ、確かにその通りだ。……手を見せてくれ」

 

「いっ!?」

 

 喧嘩を売るような言葉を言ってしまったと少し後悔しながら、アキラが怒るだろう、と半ばヒカルは覚悟していた。

 なのに、その喧嘩を売った相手に手を掴まれてヒカルは動揺を隠しきれない。

 

「な、なんだよ! いきなり手なんか握って!」

 

 なんだか気恥ずかしくて顔を赤くしながらヒカルがバッと手を振り払えば、呆然としたアキラが目に入った。

 

 あかりは驚きとショックのあまり『ムンクの叫び』のように表情を変えていた。

 私から握った事ないのに! と思って。

 そんな二人の様子はアキラの目に入っていなかった。

 ヒカルの手を見た感想だけが脳裏を反芻していた。

 

(特にツメが磨り減っているわけではない。碁石にいつも触れている手とは到底思えない)

 

 小さなマグネット盤の碁石では、アキラの基準で判別する事は出来ない。

 とはいえ、お小遣い稼ぎに程々に自分の棋譜を並べているヒカル程度の努力なら本物の碁石を触っていても結果は変わらなかったであろうが、ヒカルの実力を知るアキラからすれば信じられない結果だった。

 

 アキラの基準とはプロの基準だ。

 忍耐・努力・辛酸・苦渋。

 果ては絶望まで乗り越えて、なおその高みに届かなかった者達の基準だ。

 

 そんな者達を容易く上回る者の手には到底思えない。

 

 信じられない。

 あんな対局を、そんな者が行えるなんて信じたくない。

 それは努力の否定だから。

 数多の棋士たちが命すら削りながら努力していたことを知っているから。

 性根が善であるアキラは、それに憤った。

 

 その憤りには物心付いた時から努力し続けてきた自分も含まれる。

 

 悔しい。

 悔しい。

 そうだ、あの時負けたのは油断していたせいだ。

 

 同い年だと思って侮り焦り、ボクが自滅していったんだ。

 

『オレに負けたのがそんなに悔しいのか!?』

 そうヒカルに指摘された言葉がアキラの心に突き刺さっていた。

 アキラは強く強く、握り拳を作った。

 

「今から一局打たないか」

 

 それは鋭い一声だった。

 聞いていた者が『ハッ』とするような声音だった。

 

「キミに負けたのが悔しい。その通りだ。だけど、ボクにもプライドがある。物心ついた時から、ずっと囲碁に接し続けてきた。キミがもし『本因坊秀策』を名乗るなら、こんなところでボクに負けては話になるまい。逃げるなよ、今から打とう!」

 

 右手を差し出し、断られるなど微塵も思っていない澄んだ瞳。

 それを正面から受けてヒカルは思わず一歩引いた。

 

(……佐為)

 

 伺うように背後を見れば、真剣な眼差しで扇子を握る白い袴の『最強の棋士』が居た。

 

『いいでしょう』

 

 雨が降り始めた。

 引っ張られてアキラに引き連れられるヒカルに続いて、あかりも追い縋る。

 あかりとヒカルが何かを言っているが、アキラの耳には入らなかった。

 この後の対局に、全神経が集中していた。

 

(ボクとて神の一手を極めようという志に生きるのならば、こんなところで負けるわけにはいかない!)

 

 初めてのライバルを得たアキラは無我夢中で足を進めた。

 向かうのは、ヒカルと初めて対局した場所。

 碁会所だった。

 

 

 

 

 



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5話

約4000字



 

 

「──ちょっともう! 信じられない! 雨が降ってるのに、無理矢理連れて行くなんて!」

 

「……いや、まァそうなんだけど。……なんか真剣じゃん。それってあの大会みたいで、ちょっと断れないや。わりーあかり。先帰っててもいいぜ」

 

「……帰らないもん! こんなところに、ヒカルを一人で置いていけないもん」

 

 ビルの中を進みながら、ヒカルとあかりは話していた。

 少しの涙声を溢したあかりだったが、仕方がない部分があった。

 明るい内部の装いだったが、見るからに大人が入っていくような雰囲気に飲まれて、ヒカルよりもあかりの方が緊張していたからだった。

 

 そしてそれは、碁会所の中に入るとより顕著になった。

 

 明るい室内は見渡す限り大人ばっかり。

 そんな空間に尻込みするあかりを他所に、アキラとヒカルはどんどんと奥に入って行く。

 

「アキラくん!」

 

「奥の空いてるところ借りるね」

 

 市河との会話も最小限に、アキラは対局が待ちきれないように奥へ奥へと進んでいく。

 ヒカルもそれに続こうと思ったが、ふと背後を見ればあかりが少し怯えた表情で立ち竦んでいた。

 

「……しゃーねーなー」

 

 初めてきた時は自分も少しびびった。

 つい1週間前の事を思い出して、ヒカルは自然にあかりの手を握って中に引き入れた。

 

『お〜』と市河が口元に手を当てながら声を上げたが、ヒカルは反応せずにあかりと手を繋いだまま、アキラを追いかけて奥に進んだ。

 あかりの顔は雨に濡れたのとは違う意味で、真っ赤だった。

 

 イレギュラーの登場で碁会所が騒然とした。

 

「おい」

 

「あの子……」

 

「そうだあの時の」

 

「後ろの子は彼女か?」

 

「かーっ最近の子供が進んでるねぇ」

 

「よしなよ、可哀想だろう」

 

「あ……あの子か!」

 

「アキラくんに勝ったっていう?」

 

「そうそう! あの子だ!」

 

 ゾロゾロと大人たちが付いてくる。

 それを見て、さすがにヒカルもちょっと慌てた。

 ギャラリーを背負うとは思っても見なかったのだ。

 

「え……ちょっと……」

 

「どうぞ座って」

 

 ヒカルを見ながら、周囲を歯牙にもかけずにアキラは座るように勧める。

 

「あかり、ちょっと待ってろよ。対局すっから」

 

「あ、う、うん。ごめんね」

 

「? ああ、いいよ。たぶんお金取られないと思うし……。まぁその時はその時だな」

 

 席料を払えるお金を持ってきてないのだろう、とヒカルは思った。

 あかりとしては手を引っ張ってもらって足手まといになった事に対してだったが、少し鈍感なヒカルは気が付かなかった。

 

 そしてヒカルの意識はもう『塔矢アキラ』に向けられていた。

 

(にしてもコイツ……。全然まわりを意識してないっつーか、平気でギャラリーしょってるっつーか。ただの子供じゃねーよ佐為)

 

『ええ。以前に言った通り、将来有望な子供ですね』

 

(……そーゆー事じゃねーんだけど、まぁいっか。頼んだぜ、佐為。……オレじゃコイツには勝てないからさ)

 

『もちろんですヒカル! 私に任せてください! 私がいくらでも打ちますよ!』

 

 勝てないから。

 佐為にはそう言ったが、勝ち負けなんてヒカルはそんなに気にしない。

 だから、その気持ちを正確に言うなら『塔矢の期待に応えられない』になる。

 無意識に、ヒカルはその言葉を避けた。

 

『さて、どうしたものか。このすがすがしい目をした将来有望な子供……。しかし、今、私にキバを剥いている。紙一重の差でこの子のキバをひらりと躱し、よしよしと頭を撫でてやるのが良いか、それとも。──この子なら、もしや挑戦を仕掛けてくるやもしれない。……そうなれば面白いですね』

 

「互先でいいよね、ボクが握ろう」

 

「ああ、いいぜ」

 

 結果はヒカルの黒番。

 

「念の為言っておくけど、コミは五目半で」

 

「わかってるって」

 

 ヒカルは佐為と打った時にコミの事も教えている。

 だから、佐為も今更驚くようなこともなく、めらっと闘志を燃やした。

 

『黒を持ったら負けたことがありませんよ私は!!』

 

(そりゃ昔はコミがなかったからな……。頼むぜ、佐為)

 

『ええ、任せてください!』

 

 一呼吸を置いて、ヒカルとアキラは視線を合わせた。

 

『お願いします』

 

 お互いの声が反響して再びの対局が始まった。

 

『右上スミ小目』

 

 佐為の言われるがままに、ヒカルは人差し指と中指に黒石を挟んで鋭く置いた。

 

『パシッ』と乾いた音が鳴る。

 静寂の一間。

 思考が巡る沈黙は痛いほどに静かだった。

 

 アキラは初手に時間をかけた。

 前回の棋譜を思い返していたからだった。

 アキラの狙いは一つ。

 妙に古い定石。

 

(進藤ヒカルは『本因坊秀策』を名乗るだけあって、妙に古い定石を打つ……。『秀策のコスミ』もそうだ。あの手は現代とはルールの違うコミのない時代だから好手とされた──。そこに彼を突き崩すスキがある──)

 

 アキラの脳裏では前回の棋譜が次々に盤面を切り替えて並べられ続けていた。

 ヒカルからその古い定石を自らに最も有利な形で引き出すために、アキラは丁寧に思考する。

 

 そして。

 3分ほどの思考を掛けて、アキラの1手目を打った。

 

『パチリパチリ』と盤面が進む。

 そして。

 ターニングポイントとなる局面を迎える。

 

『次の一手。ここでコスむのはやや緩いかもしれない。するとハサミの方がアシが速いか……』

 

 そこまで思考して、佐為は対面のアキラの表情を見た。

 表情から、アキラの内面を読み取る。

 

『……私のコスむ手を待っているのか?』

 

 来い、と言いたげなアキラの視線。

 眼差しを受けて。

 佐為は薄く笑った。

 

『ならば、それもよかろう』

 

 佐為はあえて最善の一手の追求を脇に置いた。

 先達として受けてたつべく、あえて相手の土俵に立った。

 

『15の十六。コスミ』

 

 佐為はヒカルにそう告げた。

 ヒカルが鋭く碁石を盤面に打ち込む。

 佐為の様子を見てとって、ヒカルも状況を理解した。

 その上でアキラがどう打ってくるのか、佐為と同じようにヒカルも楽しみで仕方がなかった。

 

『さァ来るがよい!』

 

 真剣に、けれどどこか楽しさを滲ませる佐為の表情はアキラには見えない。

 

 しかし、その一手を待っていたと言わんばかりに、アキラが表情を一変させる。

 鋭く睨む眼光で盤面を見ながら、少しの緊張感を持って白石を挟んで『最強の棋士』に挑みかかった。

 

『ヒカル、いきますよ!』

 

 今度はどんな碁を見せてくれるのか。

 期待感すら持ちながら、ヒカルは佐為の示す一手を打ち据えた。

 

 

 

 

 雨が降り続いていた。

 時間はまだ30分と経過していない。

 僅か20分と少し。

 それだけの時間で既に大勢は決した。

 

 ──アキラの完敗だった。

 

 アキラは読みが正確であるため、先が見えすぎる。

 往生際悪く、相手のミスを望んで挑み続ける事は出来る。

 しかし、結果が見えてしまっているアキラにこれ以上打つ事は出来なかった。

 

 何度検討しても結果は変わらない。

 数十回以上にも及ぶ脳裏での検討を経て、自らの敗北が揺るぎない事を察したアキラは顔を俯けたままに、息も絶え絶えに、言葉を溢した。

 

「……ありません……」

 

 ヒカルも、その対局を観察していた。

 対局中の佐為の様子を感じ取って、途中で話し掛ける事はしなかったが、それでも戦況は理解していた。

 

(……佐為。理由はオレにもわかるし、そうするしかなかったのも理解できるけど、もう少しうまくやれなかったのか?)

 

『……すみません。一太刀で首と胴を切り離すしかなかった。頭を撫でる余裕など、この子は与えてくれませんでした』

 

(まァ、そうだよな。……やっぱ、コイツすげーよ。佐為にここまで言わせるんだからさ)

 

 改めて畏敬の念を込めて、ヒカルはアキラを見た。

 初めての対局では嫉妬した。

 自分にはない実力を持っていて、佐為にも認められるアキラにたぶん嫉妬してた。

 ヒカルは今になって冷静に自分をそう思い返した。

 

 何故なら、ヒカルはアキラを認めることができたから。

 あの佐為に手加減を捨てさせるなんて。

 そんな事は自分には出来ない。

 戦況と自分の実力を理解しているヒカルにはそれが良くわかった。

 

 だから、素直にアキラのことを認めることができた。

 コイツはすごいやつだ、と。

 

 だけど、それを自分が言っても何の慰めにもならない事はヒカルにだって判っていた。

 

 けど言わずには居られなかった。

 それが性分だから。

 

「塔矢、お前すげーよ。お前の真剣さって、お前の実力って怖いくらいだぜ。一手毎にお前の気迫がぶつかってきてさ、正直震えたもん。すげーよお前。全国大会のあいつらもすごかったけど、特にお前なんて……」

 

 そこまで言って、ようやくヒカルは気がついた。

 自分の言葉が、届いていないと。

 

 俯いて、言葉を聞く余裕すらない様子のアキラを見て、ヒカルは悲しげに目を伏せた。

 

(聞いちゃいないんだ……。『オレの』言葉なんか……)

 

 ヒカルはアキラのことを認めた。

 すごい奴だと思った。

 それこそ嫉妬を忘れるくらいに。

 だけど、当人であるアキラはヒカルの言葉なんて聞いていなかった。

 そう思って、ヒカルも目を伏せた。

 

 しかし、それはヒカルの勘違いだ。

 アキラの認識ではヒカルが打ったと思っている。

 だから、ヒカルの声が届かなかったのはあまりのショックでアキラが心を閉ざしてしまったからに過ぎない。

 自分と同い年なのに、圧倒的とも呼べるほど高いカベを感じて、アキラが絶望に近い想いを抱いてしまったからに他ならない。

 

「……オレ帰るよ。じゃあな。……行こうぜ、あかり。付き合わせて悪かった」

 

「え。う、ううん。全然だいじょうぶだけど、その、もういいの? 塔矢くん……」

 

 気遣わしげにアキラを見やるあかりに、寂しげにヒカルは笑った。

 こんな時だったけど、その表情はあかりが『ドキリ』とするくらい大人っぽくて切ない色を含んでいた。

 

「いいんだ、行こう」

 

 二度の邂逅を経て、ヒカルとアキラ、双方共に大きな変化を齎した。

 この経緯が与える影響は計り知れず。

 一つの運命が決まる『キッカケ』と言っても過言ではなかった。

 

 運命が定まるのはまだ少し先。

 だが、それほど遠くない未来の事だった。

 

『4人』の運命が交差する、とある一局。

 本人たちの思惑がどうであれ、その素晴らしい一幕を経て大きな転換期を迎える。

 だが、そこに至るのはまだ少し先。

 半年以上も先にある一幕である。

 

 



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6話

約8000字



 

 

 

『お父さん、ボク囲碁の才能あるかなあ』

 

 それは、とある日の親子の会話だった。

 小さなおかっぱの子供が、父親に手を引かれながら頬を子供らしく朱に染めて父親を見上げながらそう聞いていた。

 

『囲碁が強い才能か? ハハハ、それがお前にあるかどうか、私にはわからんが……。そんな才能なくっても、お前はもっとすごい才能をふたつも持っている』

 

『えぇ〜? そんなにすごいもの、ボク持ってるかなあ?』

 

 恥ずかしげに、もじもじと上目遣いするおかっぱの子供に、父親は背を屈めて子供の視線に合わせて優しげに微笑んだ。

 

『持っているとも。ひとつは誰よりも努力を惜しまない才能。もうひとつは限りなく囲碁を愛する才能だ』

 

 言いながら、父親は子供の艶やかな黒髪をゆっくりと撫でる。

 気遣わしげな手つきで愛情をたっぷりと乗せた掌から伝わる温もりと、ふたつの才能があると断言する力強い父親の言葉に、子供──幼い日の塔矢アキラは満面の笑みを浮かべた。

 トロけるような幼い無垢な笑顔だった。

 

『えへへ、ボクお父さんみたいになる! いっぱいタイトル取ってお父さんに自慢するんだ!』

 

『ハハハ、それは私も負けていられないな』

 

 遠い日の、思い出だった。

 

 場面は戻る。

 真っ暗な闇の中だった。

 何かが聞こえているが、それはアキラの耳には入らない。

 

(お父さん……。ボクは今までお父さんのその言葉を誇りに、まっすぐ歩いてきた)

 

 誰かが去っていく音が聞こえる。

 しかしそれも、アキラにはそれを意味ある音として認識できない。

 

(でも今、何か見えないカベがボクの前にあるんだ。見えない大きなカベが……)

 

 暗雲の中だった。

 アキラはその中で藻がいていた。

『最強の棋士』

 彼が齎したカベは限りなく厚く険しかった。

 

 

「──でね、おかしいんだ。お母さんがね、オサカナ咥えたドラネコ追っかけてはだしで駆けてったのよ。……ってねえさっきから聞いてる? ……ヒカル?」

 

「……ん、わりー。ちょっとボーッとしてた。……なぁあかり、真剣って何なんだろうな」

 

「……塔矢くん?」

 

「うん。アイツ、きっとこれまですっげー努力してきたと思うんだ。それこそオレなんかに負けて、あんなにショック受けるくらいにさ」

 

「オレなんかにって、思わない方がいいんじゃない?」

 

「……え?」

 

「だって、私だったら、私よりすごい人にそんな風に思って欲しくないもん。私に勝ったんならもっと堂々としてろー! って思うもん。でしょ?」

 

「……あー、そーだな。そーだよな〜〜〜」

 

 そう言われて、ヒカルは自分の言動を思い返した。

 自分を負かした相手に気遣われる。

 それはすっごく屈辱的ではなかろうか。

 屈辱、という言葉をヒカルは知らないのでニュアンスではあったが、ヒカルはそれに近いイメージを持った。

 

「うん。お前の言う通りかも」

 

「でしょ?」

 

 真剣に頷いたヒカルはニッカリと笑った。

 いつも通りの活発な笑顔だった。

 

「わりー、先帰っといてくれ! オレ寄るとこ思い出した!」

 

「もう! 塔矢くんに迷惑かけちゃダメだからねー!」

 

「わかってるって! あかり!」

 

「なに?」

 

「ありがとな! お前が居てくれてよかった!」

 

「んなゅ!」

 

 唐突に笑顔でそんなことを言われて、あかりはボンっと赤面した。

 

 

 

 

 

「……ちわーっす。塔矢、いる? ……ぅぉ」

 

 ガラガラと碁会所の扉を開きながらヒカルが入ってみれば、碁会所すべての視線が自分に一斉集中したのを感じて、ヒカルは思わずたじろいだ。

 そんなヒカルに真っ先に反応したのは白いスーツを着た男性──緒方だった。

 全国子供囲碁大会で見かけた少年であり、先日アキラを二度も倒した少年と外見的な特徴が一致していたこともあって、塔矢行洋の研究会ではその少年の話題で持ちきりだった。

 そんな渦中の人物が碁会所に入ってきたのを見て、一目散にヒカルに駆け寄った。

 

「キミ!! やっぱりキミだ!!」

 

「おわっ!? な、なんだよ!?」

 

「塔矢名人! この子です! あの男の子で間違いありません!」

 

「あたた! オレ何も悪い事は……! あー、ちょっとしたかもしんないけど……」

 

 全国子供囲碁大会での出来事を思い出して、ちょっと尻すぼみになったヒカルだったが、その言葉も途切れた。

 まさにその大会で。

 怒られて帰る道すがらに、ヒカルとぶつかった男性。

 そして、テレビを見た佐為が『神の一手に一番近い』とまで言った者。

 

 

「……その子か、アキラに勝ったというのは」

 

 塔矢行洋が、そこに立っていた。

 碁会所の者に指導をしていたのか、その手には碁石が挟まれている。

 区切りをつけるように『パチッ』と黒石を置き『ギロリ』とヒカルに視線を投げた。

 行洋にヒカルを睨んだ意図はなかったが、相手に伝わるかどうかは別だ。

 実際にヒカルは睨まれたように感じて『ゴクリ』と生唾を飲んだ。

 

「それも二度も、あのアキラに……」

 

 佇まいを正して、着物の袖に腕を差し込んで腕組みをしながら、行洋は静かで真剣な眼差しをヒカルに向けた。

 

「キミの実力が知りたい。座りたまえ。……ここで対局するのは初めてではないだろう?」

 

「あ、いや……、オレは塔矢に、だと解りにくいか。塔矢アキラに会いにきてて……」

 

『ヒカルッ!!』

 

 あんまりの重圧に思わず釈明のような物言いで続けるヒカルに、背後から佐為の鋭い声が掛かった。

 今までにないほどの気迫を漲らせる声音に、周りの目も気にせずにヒカルは背後を見た。

 真剣な表情。

 深い海を思わせる瞳から伝わってくるのは限りないほどの『打ちたい』という意欲だった。

 

『彼と打たせてください。『本因坊秀策』であった私に挑んできたあまたの好敵手たち。この者の気迫はまさしく彼らと同じ! ヒカル!!』

 

 目の前の、行洋からの重圧。

 背後からの、佐為からの懇願。

 

 その二つに背中を押されて、仕方なくヒカルは席に座った。

『ザワザワ』と碁会所が騒がしくなる。

 

「石を三つ置きなさい。アキラとはいつもそれで打っていた。……名人の私に石たった三つだ。わかるかね、それがアキラの実力だ」

 

 言われるがままにヒカルは石を置いた。

 だが、こんなことをしに来たのではない。

 あかりに言われて、ヒカルは気づいたのだ。

 

 己がすべきだったのは、もっと勝ったことに喜ぶべきだった。

 佐為が打っていた。

 けど、そんなこと塔矢が知るわけがない。

 なら、佐為は自分だと思って、代わりに喜んでやるべきだった。

 

 だって、『本因坊秀策』の生まれ変わりだって言い始めたのは、ヒカルなんだから。

 

 それに仮に佐為が打っていたんだとしても、それは『本因坊秀策』も一緒だ。

 きっと『秀策』は佐為の凄さに気がついたんだろう。

 それこそ自分の一生を懸けてまで佐為に打たせてあげるくらい、その腕前に惚れ込んでいたんだろう。

 

 気持ちは理解できた。

 佐為の凄さを知るたびに、ヒカルも段々とそんな気持ちになっていた。

 

 だから、嘘みたいで本当は嫌だったけど、ヒカルは覚悟を決めてここに来たのだ。

 秀策もやっていたことだから、と言い訳しながら、けど、佐為は自分にしか見えないから代わりになってやろうと思って。

 塔矢アキラに会いに来たのだ。

『強いだろオレ』って言いたかったのだ。

 

 それをこの塔矢の親父は邪魔してくる。

 少しだけヒカルはムカついた。

 

 名人、へぇなんか凄そう。

 そう思うくらいの知識しかヒカルにはない。

 だから、名人というタイトルに座る者がどれくらい凄いのか、あまり理解してない。

 

 だから。

 ヒカルは佐為にとんでもないオーダーをした。

 

(佐為。本気で打てよ。中押しするくらい、本気でやってくれ)

 

 普段の佐為がその要望を受け入れる事は基本的にはない。

 中押しを狙う、狙わないにせよ、全力で可能な限り打つのが佐為の打ち方だからだ。

 打ち始める前から勝ち方にオーダーを受け入れる場合は、相手が囲碁を悪用していたり、悪いことに使っていたり、そういう場合のみだ。

 だから。

 ヒカルのその言葉に対して佐為が頷きを返したのは、先ほどのあかりとのやりとりを佐為が聞いていて、ヒカルが自分のために、そして塔矢アキラのために動いていたのを知っているからこそ、佐為は今回ばかりは自分の打ち方を飲み込んだ。

 塔矢行洋と打つにあたって、全力で囲碁を楽しむ打ち方ではなく、圧倒的に打ち負かす打ち方を選択した。

 

『……やるからには、勝ちますよ。黒を持った私は負けたことがありませんからね!! 普段は相手にあまりにも失礼なので絶対に言いませんが、ヒカルたっての希望です。置き石を最大限に活かして、やってやろうじゃありませんか!』

 

(頼んだ!)

 

『いきますよ、ヒカル!』

 

 ヒカルが意志を示して、佐為がそれに応えて。

 

 ヒカルの準備が出来たのと同時に、行洋が一手目を打った。

『バチッ』と鋭い音が鳴る。

 ヒカルのことを確かめるために、実力を見極めるために、アキラと普段打っている時。

 いや、それ以上の気迫を漲らせて行洋は打っていた。

 

 自慢の息子だった。

 その息子の心を折りかけるほどの子供。

 そんな存在を確かめるために、行洋は置石こそ許したが、臨む気持ちはタイトル戦にも引けを取らない。

 普段から、囲碁に関しては手抜きできない性格であることも理由の一つだが、そこには明らかに息子に対する愛情があった。

 

『五の三。カカリ』

 

 すぐさま2手目を行洋が返す。

 

『3の三 ツケ』

 

 佐為の返答を受けても行洋の手に澱みはない。

 すぐさま応手を返す。

 

「アキラには2歳から碁を教えた。私とは毎朝一局打っている。既に腕はプロ並みだ。アマの大会には出さん」

 

『4の四 星』

 

 行洋が語るのは息子アキラのことだった。

 ヒカルが打ち負かした相手がどれほどの実力を持っているのか、客観的な意見を伝えるための言葉だった。

 

「アイツが子供の大会に出たら、まだ伸びる子の芽を摘むことになる。それほどにアキラは別格なのだ」

 

『3の二 サガリ』

 

 日本で最強の小学生。

 行洋自身言葉にせずとも、そう確信していた。

 今までは。

 

「だからこそ、そんなアキラに勝った子供がいるなどと、私には信じられん」

 

 そこでまで告げて、行洋は言葉を切った。

 変わらず真剣な眼差しでヒカルを見続ける。

 

「だから、私に見せてくれ。キミの実力を」

 

「お望み通り、本気で打つよ。塔矢の親父」

 

 ヒカルの乱暴な一言に周囲で様子を見ていた緒方が物言いたげにしたが、対局中であるために『ぐっ』と言葉を堪えた。

 対局中に声を掛ける行為は、当人たち同士なら別であるが、外野が口を挟むのは明確なマナー違反だ。

 相手を精神的に動揺させようとしている、と指摘されても何も反論ができない。

 それ故に緒方は沈黙を保った。

 これで下手くそだったら承知しないぞ、と視線での圧力は掛け続けながら。

 

 しかし、ヒカルはそんな視線を感じてもいなかった。

 盤面にだけ意識が注がれている。

 

(佐為。次は?)

 

『はい。10の十六 星』

 

 ヒカルは一手を打ち据えて『パシィッ』と今日一番の快音を響かせた。

 石から指を離して、ヒカルは自らの希望を伝えた。

 

「もしオレが勝ったら、塔矢に、塔矢アキラに会わせてくれよ」

 

「……いいだろう。だが、子供が私に勝てると思っているとは、少々驚きだ。そこまでの大言を吐くのなら、相応の実力を見せてもらいたい」

 

 侮る様子はない。

 ただ純然たる疑問として述べているに過ぎない。

 だが、子供は敏感だ。

 その言葉に含まれている多少の見下しとも呼べない微かな残滓も、ヒカルは受け取ってしまった。

 例えそれがヒカルの実力を引き出すためにあえて取っている立場だったとしても、そんなものは関係がない。

 

(……佐為。マジで頼んだぞ)

 

『ヒカル、そろそろ私も全力で集中します。……大丈夫です、言ったでしょう。黒を持ったら』

 

(負けたことはない。……だよな!)

 

『はい! さァどんどんいきますよ! ──10の十七 ノビ』

 

『パシッ』と音を鳴らして、ヒカルの次なる一手が放たれた。

 重なる一手一手に重みが増していく。

 作り出される棋譜は美しい。

 佐為の定石は古い。

 だが、その読みと打ち筋までは現代に劣るものではない。

 互先ではまだ敵わない相手であっても、今回は置石が3つもある。

 ざっくりとではあるが、置石一つで20目の差があると言われるほどだ。

 

 それ故に、結果など語るべくもなかった。

 

 

 

 

「──ここまで、か。ありません」

 

 そう言い、行洋がヒカルに向けて頭を下げた。

 一つの礼儀としての行いだった。

 

 まさかの、名人塔矢行洋の敗北。

 しかも、置石があるとはいえ前代未聞の中押しである。

 あまりの事態に場は騒然とした。

 

「そんな! 置石があるとはいえ、あの名人が小学生に!?」

 

「だ、だが、アキラくんも同じ置石なんだろう? あの子はそのアキラくんに勝ってたんだから、何もおかしくないだろう……」

 

「違うって! 置石はあくまでハンデだろ? なら、アキラくんでも3子じゃ名人といい勝負になる程度ってことだ! それを中押しって……」

 

「い、いや。たまたまかもしれないだろう」

 

「バカな! あの名人だぞ!? たまたまで勝てるもんか!」

 

 騒然と喧しい周囲とは裏腹に、周囲で行洋を除き、唯一のプロである緒方は一筋の汗を流した。

 

(……ありえない。小学生の強さではないぞ、これは。オレは夢でも見ているのか? 下手をすれば、オレでも彼に2子置かせて勝てるかどうか……、い、いや。それはさすがにないだろう。甘く見積もって五分、だな。つまり、1子を置かせる、あるいは互先(たがいせん)なら絶対に負けない。……いや、小学生相手に互先(たがいせん)と言っている時点で、か。──これまた、とんでもない逸材が現れたものだ)

 

 しかも。

 彼の定石は古い。

 もし最新の定石を彼が学べば、どれほどの伸び代があるのか末恐ろしさすら感じる。

 それこそ緒方を一瞬で超えて行きかねない。

 目眩を覚えるような事実に緒方は思わずメガネを外して目頭を押さえた。

 

 

 

「……キミを疑ったことを、心から謝罪しよう。申し訳なかった」

 

 行洋の、投了とは異なる、謝罪の意味の込められた深々としたお辞儀にヒカルは慌てて手を振って気にしていないと示した。

 

「あ! いや! あー、アハハ」

 

 ただ言葉までは気が回らずに、誤魔化すように笑っていた。

 

「聞かせてほしい。その年で、どうやってこれほどの実力を身につけたのか。正直にいえば、私はキミを疑っていた。アキラが敗北したと聞いても信じられない気持ちだったが、こうして目の当たりにすれば納得せざるを得ない。信じがたいほどに、キミは強い。アキラが負けるのも納得の行く強さだ。だからこそ、私はキミの実力の秘訣が知りたい。どこかの門下生なのかね?」

 

「あー、まぁ何というか。あ、そうそう! 『本因坊秀策』が師匠みたいな? 感じかな? アハハ」

 

「……確かにキミの定石は、言って終えば古い」

 

『はうっ!』

 

「骨董品と言っていいほどだ。いまだにこの定石を使っている者は相当な物好きだろう」

 

『ひぅ!』

 

「時代に取り残されていると言ってもいい」

 

『ふぐぅ!! ──ぇ、えぇ、そうでしょうとも……。何せ140年も待ってましたからね……!! けど、何もそこまで言わなくてもいいじゃないですかぁ!?』

 

 涙目で訴える佐為の言葉が聞こえるのはヒカルだけだ。

 あー、と察したような達観したような目でヒカルは行洋の言葉を聞き続ける。

 

「だから、どうだろうか。もし決まった師匠が居ないというのなら、是非に私の研究会に参加してみないかね? もちろん、無理にではない。だが、きっとキミにとっても実りある日々が提供できる筈だ。……どうだろうか?」

 

 再び場は騒然とした。

 見込みのある院生なら、まだ理解が及ぶ。

 しかし、ヒカルは小学生で、緒方が調べた限り院生ですらない。

 その事をこの場の者達は緒方と行洋の会話を聞いていた事で大半が知っていた。

 

 だからこそ、驚きの波は強く強く広がった。

 

「名人の研究会に!? 一般の小学生がか!?」

 

「い、いや。不可能では、ないだろう?」

 

「そりゃあ研究会と言っても謂わば個人的な集まりをそう呼んでいるに過ぎないんだから、可能だろうが……」

 

「それでも普通は呼ばないだろう!?」

 

「普通じゃないからだろう? あの名人に3子というハンデがあるとはいえ、中押しでの勝利だぞ? 例外にするには十分すぎるだろ」

 

「い、いや、だからって小学生だぞ?」

 

 その研究会の一員である緒方は行洋に真っ先に話しかけた。

 

「先生。確かに彼は強い、それは紛れもない事実です。しかし、小学生を参加させては、いらぬ憶測を産むと思いますが……」

 

「憶測? それが、何か囲碁に影響があるとでも言うのかね?」

 

 鋭い眼光。

 本人としてはただ見ているだけと、緒方は経験上知ってはいるが、それでも思わず怯みかけてしまう。

 それでも気持ちを新たに言葉を続ける。

 

「いえ、囲碁には関係しません。しかし、先生に対する悪評には繋がります。前代未聞ですよ、色々な意味で、です」

 

 院生ではない小学生に、名人が中押しで負けた事。

 そのキッカケは息子が破れたと知ってからという事。

 その小学生を研究会に誘う事。

 

 なるほど、それだけを切り取れば名人が息子の仇を打とうとして、あえなく返り討ちにあってしまい、研究会に誘うことで証拠隠滅を(はか)っているように受け取れなくもない。

 あまりにも荒唐無稽だが、人の噂とはそういうものが好まれるから、似たような噂は流れるだろう。

 だが、囲碁を打つには関係がない事だ。

 ヒカルを研究会に迎える行為には、高い価値しかないと行洋は思った。

 

「全て事実だ。隠すような事ではないな」

 

「いえ、それはもちろんそうなんですが……」

 

「無論、緒方くん。キミがどうしても嫌というのであれば、私も無理強いはしたくない。キミも研究会の一員なのだからね」

 

「あ、いえ。嫌というわけではありませんが……」

 

「では、こうしよう。進藤ヒカルくん……だったね。しばらく時間をくれないか。研究会のメンバー全員に承諾を得よう。そして、棋院にも正確な事情を公表してもらおう。それならば、緒方くんも心配せずに済むだろう」

 

「そ、そこまでしますか先生!?あなたの敗北が公式に残るのですよ!?」

 

「するとも。彼には迷惑を掛けた。これが罪滅ぼしになるのであれば、私に躊躇はない。……進藤くん、どうする? キミが嫌がるのなら、今言った話は全て白紙に戻そう。これはキミを買っている私の意見であると同時に、キミを疑ってしまった私の罪滅ぼしでもあるのだからね」

 

 ヒカルは目まぐるしい展開に目を白黒させながらも、行洋からの提案に対してもう結論は決めていた。

 

「あ──、ウン。たぶん凄い話だとは思うんだけど……、断らせてもらおっかなー、なんて思ってたり……」

 

「なっ!? キミはこの話を断るというのかい!?」

 

 さっきまで強硬に反対していた緒方がそう言った。

 あんたはどっちの立場なんだよ、と言いたくなるくらい、信じられないと表情を顕にする緒方の姿にヒカルはげんなりとした表情を浮かべた。

 

 同時に佐為が叫んだ。

 

『ヒカルぅ!? 話を聞く限り! 研究会とは、囲碁の研究会ですよね!? いきますよね!? いかない!? ありえませんよヒカルぅ!! この者と今のような碁ではなく、楽しい碁が打てるのですよ!? いえ、今の碁も最善を追求するのは楽しかったですが!!』

 

「だぁああ! もう! うっさいなー! オレの勝手だろ!?」

 

 つい、ヒカルが堪えきれずにそう言ってしまって、文脈的に緒方に向けて言ってしまったようになってしまった。

 目を丸くする緒方にちょっぴり悪いと思いながら、いいキッカケだとヒカルはランドセルを掴んで肩に掛けて出口に向かって足を向けた。

 

「じゃあ! そういうことで! さよならーっ!」

 

 場の静寂を縫うように、スタコラと持ち前の軽やかな動きでヒカルは外に出て帰路に着いた。

 自宅に到着して、ようやく一息付けるとベットに横になれば『ふよふよ』と浮いた佐為が真上から話しかけてきた。

 

『ヒカルぅ、ほんとに研究会に行くつもりがないんですか?』

 

「ない! そんなとこ行ったら四六時中囲碁漬けじゃんか! そんなのオレはノーセンキュー!」

 

 元々はお小遣いのために始めた囲碁だ。

 さっきは、ノリで佐為のために、とか思っていたが、まるっきり拘束されるなら話は別だ。

 ヒカルはまだ小学生なのだから、当然遊びたい盛りだった。

 塔矢行洋も、緒方も、塔矢アキラを基準にしてしまっていたものだから、ヒカルもきっとそうだと無意識に考えてしまっていた。

 

「お前はいいけど、オレは、まぁ確かに少し興味あるけど、そんなとこまで行くほどじゃねーよ。だって、お前打てないし喋れないじゃん。全部オレが代わりにやるんだぜ? 流石にそれは勘弁だって」

 

『……うぅそうでした……。ヒカルにそこまで迷惑は掛けられませんね……』

 

『しくしく』と部屋の隅に移動して泣き始めた佐為の姿にうっとうしいと思いながらも、けど、代わりに研究会に行くとも言えず。

 しばらくした後に、いつまでも泣き続ける佐為にヒカルがしょうがなく佐為を対局に誘って機嫌を直したのだった。

 

 

 

 






低評価は心に来ますね。
理由も記載があるので納得できますし、言って貰えてありがたいのですが、そう思うと同時に凹みます・・・。
だって人間だもの。

第一部(12話分?)までは書き終えているので推敲終わり次第投稿します。
高評価、応援のお言葉頂けたら大変嬉しいので、良いと思っていただけたらぜひお願い致します。


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7話

約6000字



 

 

『──ヒカル、そんなとこ女の子と行ったら笑い物だ、とか言いそうなのに、よく承諾しましたね』

 

「……うるさいなー、いいだろ別に。オレが誰と何処に行こうがさ」

 

『それはもう、もちろんそうなんですが。──あ、ほら見てヒカル! あんなところに碁盤が!』

 

「後で! あかり待ってんだから──」

 

「ヒカル! ごめんね、待たせたかな?」

 

 葉瀬中の門前に2時集合。

 あの塔矢名人と打った後に、ヒカルが誘われた研究会に参加するつもりが一切ないと知って『しくしく』泣いた佐為としょうがなく対局していたら、夜にあかりが自宅に訪ねてきて、そういう約束をしたのだった。

 あかりには助言を貰ったから借りがある。

 そう思って素直に行くと返事をしたら、ヒカルが思った以上にあかりは喜んでいた。

 

 そんなあかりを驚きながらも受け入れていたヒカルの事を思い出して、『若いっていいですねぇ』と佐為は袖で口元を隠しながら微笑んだ。

 

「ん、早く行こうぜ。たこ焼き奢ってくれるんだろ?」

 

「うん、お姉ちゃんに食券貰ったから! ……でも、そこは今きたとこって言うんだって、ドラマでやってたよ」

 

「お前、またドラマばっか見てんの?」

 

「そういうヒカルは最近囲碁ばっかりだもん」

 

「……そういや、そうだなー。で、いつもお前居るよな」

 

「え!? ……そ、そうかな?」

 

「そーだよ。あ、たこ焼きの後であそこ寄るけどいいか?」

 

「あそこって、あ、また囲碁? ヒカルってば本当に好きだよね」

 

「……嫌なら別にいいけど」

 

「いーよ! 付き合ったげる! ──ほ、ほら、行こ?」

 

 そう言って、あかりはヒカルの手を掴んだ。

 たこ焼き屋も素通りして、そのまま碁盤の方に。

 ついこの間の塔矢アキラに対抗して、あかりは初めて自分からヒカルの手を握った。

 たったそれだけで、もういっぱいいっぱいだった。

 

 ヒカルもまさか手を握られるとは思っていなくて。

 けど、やっぱり恥ずかしい。

 手を振り解きたい気持ちが強いが、ここで手を振り解くのは、と躊躇するくらいの好意はあかりに対して抱いていた。

 

 双方ともがぎこちなくて、どこか遠慮し合っている。

 そんな初々しい二人の様子を見て、また佐為が袖で隠しながら微笑ましげに笑った。

 

 

 

 

「──あーっと『塔矢名人選・詰碁集』?」

 

 あかりに連れられて、『碁』と書かれた小さな四角い看板のある場所にやってきて、真っ先に目に入ったのが『塔矢名人選・詰碁集』だった。

 そんなヒカルの一言を聞いて、座っていたこの出し物をしている中学生の先輩がニッコリと笑って言った。

 

「詰碁の正解者に景品あげますよ」

 

 景品。

 そう聞いて、あかりが少し屈んで上目遣いでヒカルを見上げた。

 カッコいいところを見てみたいな、という女心だった。

 

「ねえねえヒカル、やってみたら?」

 

 可愛(かわい)らしいあかりの仕草だったが、ヒカルは背後から押し掛かる幽霊に気を取られて動揺する余地は幸いな事になかった。

 

『ヒカル! ほしーっほしーっ!』

 

「あーもー、ったく。やってみるか」

 

「うん! いいとこ見せてね」

 

「……おう」

 

『きゃーきゃー!』

 

 佐為の『きゃー』がどっちの意味でのきゃーなのか、聞いて見ようとも思ったが、どうせ囲碁のことなのでヒカルは聞くのを辞めておいた。

 

「次、いい?」

 

「どうぞ。じゃ、いくよ」

 

 中学生の先輩の並べた詰碁は思ったより簡単だった。

 これなら佐為に頼らなくても解ける。

 そう思ってヒカルは一瞬だけ考えて、『トントントン』と3手を示した。

 周囲の大人たちがヒカルの解答に反応を示した。

 

「お──っ」

 

「正解正解。早いじゃないか」

 

「えらいえらい」

 

「わーっ。私、まだわかんないかも……」

 

 周囲の大人達や最後のあかりの声に少し気をよくして、ヒカルは景品を受け取る。

 

 が。

 

「ぶっポケットティッシュ!? 詰碁集じゃないの?」

 

「あはは、今の問題じゃ詰碁集はあげられないよ。もっと難しいのやってみる?」

 

 中学生の先輩が笑ってそう言って、ヒカルは何度も頷いて答えた。

 

「オッケー、もっと難しいのね。ほんとに大丈夫?」

 

 チラリと先輩が見るのは背後のあかりだろう、とヒカルは当たりをつけた。

 問題ない、と示すようにもう一度大きく頷いた。

 

「わかった。じゃ有段者の問題だ。ボクでもこれは梃子摺るかな。3手まで示してね」

 

 示された問題に、ヒカルは少しだけ思考する。

 そして3手を示した。

 解答はまた正解だった。

 

「おお! また正解か」

 

「やるじゃないか坊主」

 

「いいぞ坊主、その調子だ」

 

「……やっぱり、ヒカル凄いかも」

 

 正解したヒカルに、先輩が良い笑顔で缶ジュースを渡した。

 

「うん、正解。キミ、小学生だろ? 中々やるじゃないか。はい、缶ジュース」

 

「ええ? 缶ジュース!?」

 

「えっと、不満?」

 

「不満っていうか、詰碁集がもらえる一番ムズカシイのやってよ。オレが欲しいのそれだし」

 

「一番難しい……って、こんなの解けたら塔矢アキラ並みだよ? 本当にいいの?」

 

 また背後のあかりを見て言う先輩に『ムッ』としながら頷いた。

 

「いいの! って、塔矢アキラ? あいつってそんなにスゴイの?」

 

「え? うん、もうプロ試験に受かるんじゃないかとか。大人相手に指導碁みたいなことやってるとか、ウワサだけは聞くよ。彼はアマの大会には出てこないから、情報が少ないんだ」

 

「あー、そういや大会出たのかって聞くと変な顔してたっけな……」

 

 ヒカルのまるで塔矢アキラを知っているかのような口ぶりに先輩は疑問を表情に浮かべた。

 

「……キミ、塔矢アキラと知り合いなの?」

 

「知り合いっていうか、まぁ。オレ2回アイツに勝ったし」

 

「に、2回?! 塔矢アキラにかい!?」

 

「え? うん。まぁ1回目はあいつも油断してたかもしれないけど、2回目はマジだったぜ」

 

 信じられないと顔に描いてある先輩の表情だった。

 掛けているメガネの位置を『クイっ』と直して、気を取り直すように先輩が続けた。

 

「……それなら、この難問も解けるよね。さぁどうぞ。第一手が鍵だ」

 

 信じてなさそうな様子に少しムッとしたが、言ってもしょうがない。

 そもそも佐為が打ったのだし、固執(こしつ)するほどの事でもないと思い直して盤面を見る。

 

 ……中々の難問だ。

 ヒカルはそう思って長考に入ろうとしたが、その前に。

 

「第一手は……ココだろ」

 

 唐突にだった。

 フラリと訪れたであろう人物が、咥えていたタバコを碁盤に押し付ける。

 そしてその場所は正解だ。

 

「おめー、こんなのも即答できねーのに、塔矢アキラに勝っただぁ? ケッ、やめちまえやめちまえ、囲碁なんて辛気くせーもん!」

 

「ああっっ! 何をするんだ!」

 

 中学生の先輩が、慌ててタバコが押しつけられた位置を布で拭う。

 

「ふん! 塔矢アキラなんざ、あんなヤツ、オレに負けたサイテー野郎だ! しかも、どうやらお前みたいなザコにも負けてるらしいな? 随分下手くそになっちまったみたいだが、まぁ当然か。石ころの陣取りなんてくだらねー。将棋の方が1000倍オモシロイぜ」

 

「な、なんだと!!」

 

 ヒカルは新たな乱入者に対して食ってかかった。

 

 ヒカルは塔矢に勝った。

 佐為が打ったからだが、それでも勝ったのは事実だ。

 その時にヒカルは塔矢の事を認めていた。

 だから、塔矢のことをバカにされて、囲碁のことまでバカにされて、ヒカルは頭に血を昇らせた。

 

 けれど、ヒカルがそれ以上の言葉を続けるよりも前に、またタバコを押し付けてきた将棋の駒が描かれた和服を着た男が中学生の先輩に向けて話し出した。

 

「んで、筒井。囲碁部をつくるってのはどうなったんだよ。三人揃えて団体戦に参加できれば部として認めてくれるって必死だったじゃねーか。条件次第で出てやってもいいぜ。オレの囲碁の腕は知ってるだろ、お前の1000倍強いぜ」

 

「碁盤にタバコを押し付けるようなヤツの助けなんているもんか!」

 

「ケッ、よくゆーぜ! このあいだ大会に出てくれって頭下げにきたのは誰だよ」

 

 その通りだった。

 中学生の先輩──筒井はつい先日この男に頭を下げてまでお願いしていた。

 けどそれも、過去の話だ。

 碁盤を大切にしないヤツに頼んだ自分が情けない。

 筒井はテーブルに置いてあった詰碁の本を掴んで、将棋の駒の描かれた和服の男──加賀に押しつけた。

 

「ホラ! 詰碁の景品! これ持って、さっさとあっち行け!」

 

「へいへい。……『塔矢名人選詰碁集』?」

 

 それまで飄々としていた態度を崩さなかった加賀が、それを見て表情を一変させた。

 どこか余裕の無さすら感じさせる様子で『ギリっ』と奥歯を噛み締めて。

 次の瞬間には手に持った詰碁を『ビリビリ』に破き始めたものだから、それを目の前で見たヒカル、あかり、佐為、筒井の4人は悲鳴のように驚きの声を上げた。

 

「くだらねェっ! 言ったろが! オレは囲碁と塔矢アキラが大っ嫌いなんだ!!」

 

 そんな加賀の様子に今まで頭に血を昇らせたまま黙っていたヒカルが口を開いた。

 

「塔矢アキラが大嫌い? なんだよ、お前、塔矢に勝ったんだろ? なのに、なんで嫌いとか言ってるんだ! ……アイツの才能に嫉妬してるのか!」

 

「このオレが、あいつに嫉妬だと……? よく知りもしねえガキが、調子に乗るんじゃねえよ」

 

「ふん! お前みたいなヤツに塔矢が負けるもんか!」

 

「くっくっく、バカな小僧だな。オレが嘘なんざ吐くわけねーだろが。おい、いいかよく見てな」

 

 そう言い放った加賀が、白い碁石を一つ手にとって曲芸染みた手つきでジャグリングを始めて、両掌の中に碁石を隠した仕草をした。

 

「どっちだ? 石はどっちの手に入ってる? 当てたら何だって話してやらあ。その代わりハズしたら今度は碁盤じゃなくお前の手にタバコを押し付けてやる!」

 

「……ああ! 当ててやるよ!」

 

「キ、キミ!? やめるんだ、加賀はやるといったらやるヤツだぞ!?」

 

「ほぉ、覚悟しろよ? 筒井が言ったが、オレはマジで、やるといったらやるぜ? その覚悟があるんなら当ててみろよ。人を嘘つき呼ばわりしやがったんだ、そのくらい覚悟してるよなぁ?」

 

 加賀の目は本気だった。

 勝負事の経験が浅いヒカルでもそれはわかった。

 背後からあかりがヒカルの手を掴んで、止めるように促すが、ヒカルに止まるつもりはない。

 こんなヤツ相手に退いたなんて、自分がきっと許せなくなる。

 

 ヒカルは塔矢アキラに勝ったのだ。

 そんな自分が塔矢をバカにする相手に退いたら、塔矢のことまでバカにされた事を許すようで、それは到底受け入れられない。

 佐為の力を借りたとはいえ、いや。だからこそ、自分がこんな奴相手に引くわけにはいかないと闘志を燃やした。

 

 最初は塔矢の才能に嫉妬してた。

 だけど今は認めてるから。

 

 ヒカルは半ばヤケクソに加賀の左手を叩いた。

 

「こっちだ!!」

 

 驚いた顔で、加賀は左手を開いていく。

 そしてそこには『何もなかった』

 

「……お前の度胸は認めてやるよ」

 

 そして右手も開いた。

 そこにも『何もなかった』

 筒井が悲鳴のように叫んだ。

 

「あっ石がないっ!?」

 

「こんな手に引っかかるとは……。ギャハハ、揶揄い甲斐のある奴だぜ! 囲碁なんかやめて将棋にこいよ。オレが一から教えてやっからよ!」

 

 インチキでまともに勝負するつもりすらなかった加賀に『ムカムカ』とした気持ちが湧き上がってくる。

 その気持ちのままにヒカルは糾弾した。

 

「お前に習うくらいなら一生将棋なんか覚えるもんか!」

 

「んだと!?」

 

「塔矢に勝ったって? どーせ今みたいにインチキしたんだろ! それとも塔矢が本気じゃなかったんだ! お前なんかどーせ囲碁から逃げて、将棋に行ったんだろ! このペテン師!」

 

「言いやがったな小僧! そこまで言うならオレの実力を見せてやる! ──どけっ筒井!」

 

「ああっ!?」

 

「ほら打てよ! オレが負けたら土下座でも何でもしてやらあ! その代わりお前が負けたら、インチキ呼ばわりした事を謝罪しながら、冬のプールにでも飛び込みやがれ!」

 

「ああ! プールでもなんでもやってやるよ!! その代わり負けたら土下座だからな!?」

 

(佐為!!)

 

『わーい、対局対局♡』

 

 佐為はこんな時でも対局が出来るのが何よりも嬉しいらしいが、ヒカルはそんな佐為にも目もくれず、盤面に向き合って集中しながら一手目を放った。

 

 

 

「──……マジかよ」

 

 加賀は冷や汗を流して盤面をじっと見つめる。

 途中までは多少押されながらも、引き離されない程度の戦いになっていた。

 それが変わったのはヨセに入る少し前の段階。

 ある局面での一戦だ。

 複雑な盤面だったこともあるが、ちょっとした一手からいとも簡単にハメられた。

 そのせいで石の流れが完全に断ち切られて、そこから一気に崩された。

 戦場となった右辺の加賀の石が、尽く死んでいく様に冷や汗が抑えきれない。

 

(ハメ技だと……?! このオレが、こんなガキにハメられるなんざ! 情けねえ!)

 

 プロとアマの違いを挙げるのならいくつも候補が挙げられるが、その一つがこの『ハメ』である。

 相手の手を誘導して、逃れられない必殺の形にしてしまう。

 読みと知識がなければ不可能な技である。

 プロの対局はこのハメ合いを制したものが勝つと言われるほどの技術である。

 それを、ヒカルは使っていた。

 

 そして一度ハメられて崩されたのなら、囲碁のルール上挽回するのは困難を極める。

 他の局面で勝つしかないからだ。

 だが、もう終局に近い状態。

 ここから取り戻すのは仮に佐為であっても不可能。

 

「……くっ!! ……ありません……」

 

 加賀の実力は中学生にしてかなり高い。

 アマとしては有段者レベルである。

 それでも佐為には当然ながら勝てない。そんな彼が、佐為ですら覆せない盤面を勝利に導くことなど当然出来ない。

 そして、加賀は不可能を不可能と判断できるだけの棋力を持っていた。

 それ故の投了。

 

 佐為は一局を終えて『るんるん』と楽しげに跳ねながらヒカルに話しかけていた。

 

『ヒカルぅ! この者との一局は楽しかったです! 私の一手一手に面白い手を返してきました! ……けれど、本当はハメなんて使いたくなかったのですが……、どうしてもダメでしたか?』

 

(ダメ!! こいつは塔矢のこともバカにしやがったし、何より碁盤にタバコ押し付けたんだぜ? これくらいのお仕置きは必要だっての)

 

『……それは、確かにそうなのですが……』

 

「くそォ!!」

 

『ダン』と加賀がテーブルに両手を打ちつけた。

 負けは負け。

 勝負事の結果は絶対だ。

 そういう意識があるからこそ、加賀は悔しさに拳を振るわせた。

 ヒカルはその様子を見て、性根の悪い奴じゃないんだろうな、と思った。

 だから、純粋な疑問として加賀に声をかけた。

 

「なぁお前、なんでこんなに強いのに、塔矢のことバカにするんだよ。……オレの一手一手に面白い手も返してきたし、ほんとになんでだ?」

 

「……負けは負けだ! いくらでも話してやらあ!」

 

 不機嫌そうに仏頂面を浮かべながら、加賀は約束通りに語り出した。

『土下座』を有耶無耶にするためでもあったが。

 

 昔、父親に言われて将棋をやりたかったのに、囲碁教室に通わされていたこと。

 そこで加賀はNo2だったこと。

 No1には塔矢アキラが居て、どうしても勝てなかった事。

 父親にはNo1になれと言われ続けていたが、塔矢アキラのことは内心で認めていたこと。

 そんな塔矢アキラに、父親との『塔矢に勝てなければ家に入れない』という会話を聞かれて、勝ちを譲られたこと。

 

 そんな事を、加賀は不機嫌に顔を歪めながらも正直に語った。

 

 

「……そっか。やっぱお前も塔矢のこと認めてるんだな、うん。あいつはやっぱりスゴイ奴だ」

 

「アホか!! 今の話を聞いてなんでそういう結論になる!? お前はアホか! オレはアイツが大っ嫌いなんだよ! 理由は言っただろが! ……他に聞きたいことはねぇのか」

 

 大嫌いとは言っても、認めてないとは言わない。

 そんな加賀にヒカルはもう一つだけ質問した。

 

「もう囲碁はやらないのか?」

 

「……あー。そうだ、オレに勝ったんだ。お前ちょっと耳貸せよ」

 

 加賀はそう言ってニヤリと笑って、ちょいちょいとヒカルと筒井を手招きして3人で顔を寄せた。

 

 

「団体戦ん!?」

 

「そう。オレに、筒井に、コイツ。認めたくねーが、実力順ならコイツが大将。オレが副将。筒井が三将だな」

 

「小学生に大将をやらせるわけにはいかないよ! バレたらどうすんだ!」

 

「じゃ、コイツ三将な。で、筒井が副将。大将はもちろん、このオレだ」

 

「ちょっと待て加賀!」

 

「た、大会!? そんなの出ねーよ! オレ、小学生だぞ!?」

 

「んだよ、オレの実力は認めてくれたんだろ? なら、一肌脱いでくれてもいいじゃねーか」

 

「うっ! まぁ、それはそうだけど……」

 

「よし!! 決まりだ。筒井、どーせ部員なんか一人も集まってないんだろ、よかったな大会参加で部ができるぜ」

 

「か、加賀……! でも、そんなこと……!」

 

「それにお前、コイツの力見てみたいだろ? ……塔矢アキラに勝ったってのも恐らくマグレじゃねえ。もしかすればマジで本気の塔矢に勝ったのかもしれないだろ。あの海王には塔矢アキラもどきみたいなのがゴロゴロしてんだ、見てみたいだろ? ──で? いつだよその大会は」

 

「うっ。……今度の日曜日。10時からだよ」

 

「場所は?」

 

「──海王中学」

 

 それを聞いて、加賀はニヤリと笑った。

 面白くなってきたと思いながらの笑みだったし、なんやかんやで『土下座』を有耶無耶に出来たという安堵の笑みでもあった。

 そして、舞台は海王中学へと移る。

 





高評価、感想ありがとうございます。
引き続きお楽しみください!


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8話

約8000字



 

 

「──うひょー、ここがかの海王中学か」

 

 加賀と筒井に誘われた、中学囲碁大会。

 その会場にヒカルは訪れていた。

 

『ヒカルヒカル、有名なんです?』

 

「ああ、全国有数の進学校だぜ。こんな機会でもなきゃ一生来ることないよなァ」

 

『へぇ〜、頭の良い子たちがいるのでしょうか? どんな碁を打つのか、楽しみですね!』

 

 佐為と話をしながら会場の看板の立っている教室に入って見渡してみるが、まだ葉瀬中のメンバーは誰も来ていなかった。

 

「えーっと、ここか。ちょっと早かったな、筒井さんたちまだ来てないや」

 

『今日はどういった大会ですか?』

 

「3人1組で2勝した方が勝ちらしいよ。──あ、トーナメント表はこれか。えーっと、葉瀬中もあるな。男子8校に女子6校? 少ないんだな」

 

『ワクワクしますね……、ああ早く打ちたい』

 

『ドキドキしますぅ』と頬を染めながら言う佐為に向かって、トーナメント表の前に立ちながらヒカルが何気ない風に言った。

 

(あ、今日オレ打つから)

 

『えぇ!?』

 

(最近、お前ばっか打ってるじゃん。たまにはオレに打たせろよ。オレだってさ、お前の碁を見てちっとは刺激受けてるんだぜ?)

 

『ヒカル、ヒカルが碁を打ちたくなる気持ち、私もとてもとても嬉しいですし、よく理解できるのですけど、でも昨晩『あー明日は大会だな佐為』とか言って歴史の宿題させましたよね、私に!! あれは!?』

 

(別にお前に打たせてやるなんて、一言も言ってないし)

 

 そんなヒカルの屁理屈に佐為が愕然とした表情を浮かべた。

 

『ヒカルズルイっ! 加賀のことをどうこう言えませんよ!?』

 

(オレはいーんだよ。大体オレは数合わせのおまけなんだから、好きに打ったって良いだろ)

 

『うぅぅ!! ヒカルのバカッ!! もう宿題手伝ってあげませんからね!!』

 

(うっ、それはちょっと困る……。げっ!! あの人うちのはす向かいの高田さんちの兄ちゃんじゃないか! やっべーッ!! 佐為、逃げるぞ!)

 

『ヒ、ヒカル!? 話しは終わっていませんよ!』

 

 それからしばらく逃げ回って、加賀と筒井がやってくる。

 ヒカルは二人に駆け寄って『知ってる人がいるから、あまり騒がないで目立たないで』と話し合って、そして囲碁大会が始まった。

 

 

 

 席順を決めて、組み合わせ通りに座っていく。

 そんな中で時計が目に入ってヒカルが思わず『ポン』と押した。

 

「何すんだ、まだ始まってないのに!」

 

 対局相手にそう言われて、ヒカルは慌てるがどうしていいかわからない。

 そんなヒカルに助け舟を出すように、筒井が相手側の時計を押した。

 

「進藤くん、対局時計は押すと動き始めるから……」

 

「た、対局時計?」

 

「持ち時間一人45分。一手打つごとに押すんだよ、これを。わかった!?」

 

「おいおい、騒がずに目立たずにじゃなかったのかよ?」

 

 ニヤニヤと笑いながら加賀がそう言って、ヒカルは思わず赤面した。

 

(しょーがないだろ、大会なんて初めてなんだからさ!)

 

『やーいやーい、ヒカル怒られてるぅ』

 

(お前も知らなかっただろーが! 秀策の時代に時計なんてないだろ!)

 

『私はそんな迂闊な行動には出ませんよーだ』

 

(このやろ……! もういい! お前なんか一切出てくんな!)

 

 ヒカルが佐為に告げたタイミングで、係員の男性が話し出した。

 開始を告げる合図だった。

 

「時間です。では、始めてください」

 

 

 その後、加賀の対戦相手が吠えて加賀が罵倒しながらマウントを取って宣言通りに加賀が10分で対戦相手を下した。

 そして、興味津々にヒカルの対局を見に行って。

 何とも言えない表情で首を傾げた。

 

(う〜〜〜ん。いや、弱くはない。石の筋のしっかりしてるし、面白い形にもなってるんだが……。コイツこんなに弱かったか?)

 

 矛盾した物言いは比較対象を加賀にした場合の話だからだ。

 ヒカルの碁は加賀と比較すれば、それよりもどう見ても弱い。

 だが、ヒカルは互先で互角の勝負を繰り広げた後にハメ技で加賀を倒した。

 これからが本番なのかと思い見続けたが、結局そのまま終局してギリギリでヒカルの勝ちになった。

 

「お前!! オレの時にあんだけ綺麗にハメやがったのに、なんで今回は使わねーんだよ!? アホか!?」

 

「うるさいなー! いいだろ、オレの勝手じゃないか!」

 

「筒井が勝ったからいいものの、お前次やったら承知しねーからな!」

 

「イーッだ! 勝ったんだからいいだろ!?」

 

「オレはお前の本気が見たいんだよ!!」

 

「それこそオレの勝手だろ!」

 

 向き合って歪み合う二人を、筒井が『まぁまぁ』と宥める。

 そんな光景を見ながら、佐為は一人だけ別の人物のことを考えていた。

 

(……ヒカルも囲碁に目覚めかけている。そのキッカケはやはりあの子供。塔矢アキラ、やはり彼は特別なのかもしれない。……今、どうしているか)

 

 そう思う佐為。

 思い人である塔矢アキラは、奇遇なことにちょうど同じ建物の中に。

 海王中学に訪れているなんて思ってもいなかった。

 

 

 

 

「──わざわざ足を運ばせて申し訳なかったですね。キミがうちを受験すると聞いて……」

 

 校長室の中で、塔矢アキラは海王中学の校長と対面していた。

 いくつかの言葉のやり取りの中で、校長はアキラに囲碁部に入部してくれるように勧めていた。

 

 キミのような人物がいるだけで周りの刺激になるから、と。

 大会などに参加を強制するつもりはなさそうな様子だった。

 ただでさえ海王は囲碁の優勝常連校だ。

 今更塔矢アキラの力が必要であるとは思えない。

 

 だから、これは純粋に指導者として、部内に良い影響を望んでの提案だろう。

 それはアキラにも理解できた。

 

 しかし。

 素直に頷くことは難しかった。

 

「校長先生……。校長先生がおっしゃられる程、ボクは強くありません」

 

 校長はそれを謙遜と受け取った。

 当然だ。

 プロでも通用する、そう言われている塔矢アキラの言葉である。

 

「ははっ、いや謙遜されずとも……」

 

「いえ。本当にボクは……」

 

 しかし。

 その後に続いた深刻そうに吐露された言葉に、只事ではないと校長は察した。

 その時、アキラの脳裏には進藤ヒカルという少年の姿とその棋譜が浮かび上がっていた。

 あまりにも強大なカベとして、未だにアキラの心に残り続けていた。

 

 暗雲は、まだ晴れない。

 

 

 

 

 

「──ほら大将。結果報告してきて」

 

「ったく、アイヨ。葉瀬中、3戦全勝で勝ちっス」

 

 筒井に背中を押された加賀が結果を報告して、2回戦が始まる。

 

 加賀は再び圧勝で中押しで勝利した。

 その後に加賀はまず筒井を見る。

 その結果、5目ほど足りずに負けるな、と判断できた。

 

 そして、本命のヒカルの碁を恐々と見てみれば。

 

「う〜〜〜ん。前回とおんなじ……。いや、勝ってる? ギリギリがほんとに好きだなあ! お前!」

 

「うるさいなー! オレの勝手だろ!?」

 

「あのなァ、お前の実力はこんなもんじゃないだろ? 遊んでんのか?」

 

「遊んでなんかいないさ。本気だよ」

 

「じゃあ、これはどういう結果なんだよ!? オレん時だけマジになりすぎだろ!?」

 

「良いだろ別に。加賀の時はその理由があったってだけさ」

 

「……ほぅ」

 

 その時、筒井が中押しで負けた。

 ヒカルと加賀の会話を聞いていて、ヒカルが本気を出すつもりがないと知って。

 しかし、無理やり参加させた身で実力を出してくれとは、筒井から言うことはできずに席を立って去っていった。

 

「……おい、実はお前には黙っていたんだが、この大会に優勝できなきゃ、葉瀬中の囲碁部は認めてもらえねえんだ」

 

「え!? 参加するだけでいいって、筒井さんが……」

 

「お前に負担をかけまいと筒井がナイショにしてたんだよ。まぁ結果としては逆効果だったみてーだが」

 

 そう言って加賀は次々に理由を付け足していった。

 

「それだけじゃないぜ。えーっと、将棋部の連中がよ──」

 

 あることないことツラツラと並べる加賀。

 佐為はそれを聞いて、ああ、嘘だろうな、と思いながらも、まだ純粋なヒカルは思いっきり騙されていた。

 

「つ、筒井さんは囲碁部作りに熱心なだけだろ!? そんなの加賀が止めてやれよ!」

 

「だったらお前、真剣に打て! さァ、ホントの実力を見せてくれ! 早く打たねえと時間切れの負けになるぜ!」

 

 このまま打っても、もしかしたら負けないかもしれない。

 だが、加賀が見たいヒカルの碁はこんなものじゃない。

 もっと鮮烈で美しい棋譜だった。

 それが、加賀は見たかった。

 

 

 ヒカルは気にせずに打とうとした。

 何より自分のために。

 塔矢アキラと佐為の一局を見て、思ってしまったのだ。

 自分も、もっと打ちたいと。

 導かれるようにヒカルの心は動いていた。

 

 ──けれど、その手は止まってしまう。

 

 ヒカルは加賀に勝った。

 塔矢にも勝った。

 それだけじゃない。

 名人にも、置石があるとはいえ勝った。

 

 筒井さんは、その強いヒカルを頼って大会に誘ってくれたのだろう。

 加賀もそれを見越して誘ったのだろう。

 

 求められているのは自分ではない。

 佐為だ。

 

 そう気がついただけなら、まだヒカルも強い気持ちで悩みを振り払ったかもしれない。

 あるいは涙に瞳を濡らしながら、佐為に今だけは打つように願ったかもしれない。

 けれど、ヒカルの脳裏にあるのは佐為が齎した数多の勝利だった。

 

 もし自分が負ければ、これまで自分が打ち倒してきた相手にとって、あまりにも酷い仕打ちではないだろうか。

 これまで積み重ねてきた、数多の棋士たちに勝利した上で成り立っている。

 ヒカルの敗北は、ヒカルたった一人の敗北ではない。

 爺ちゃんの、塔矢アキラの、塔矢行洋の、加賀の、敗北なのだ。

 ヒカルの力は借り物だ。

 全力を出して負けたのならまだ納得できる。

 精一杯やったんだと胸を張れる。

 

 しかし、佐為の力を借りずに負ければ、その結果に自分は納得できないと思ってしまった。

 そう気がついて、ヒカルは俯いた。

 

 立ち上がるための火種はもうあった。

 あの日。

 塔矢行洋と打った日。

 ヒカルは確かに佐為の代わりになろうと打った。

 それが、新たなヒカルの心の支柱になった。

 

(佐為……。打って……)

 

『……ヒカル?』

 

(オレじゃダメだ……。オレじゃ佐為みたいには勝てないよ)

 

『私に出てくるなって言ったくせに』

 

 ちょっとした意地悪のつもりだった。

 佐為だって打ちたかったのに、除け者にされたから。

 何より昨夜の宿題を手伝ったのにインチキみたいな言い方で騙されたから、ちょっと拗ねてそう言ってしまった。

 

 それを聞いて、ヒカルは思わず涙を瞳に溜めた。

 

『わぁあ!! ヒカル! ごめんなさい、ごめんなさい!』

 

 大慌てで『ワタワタ』とヒカルの周囲を動き回る佐為も目に入らず、『ポロポロ』と涙を零したヒカルに佐為は気遣わしげに微笑んだ。

 

『悔しいんですねヒカル……。自分の力『だけで』勝てないことが……。大丈夫、2人で力を合わせれば逆転できます。絶対! 涙を拭いて打ちマチガイをしないで。いきますよ。──10の三 ツケ』

 

 ヒカルは袖で目尻を拭った。

 絶対に負けない。

 ヒカルに、不敗の心得が芽生えた瞬間だった。

 

 

 

 

「──筒井、やっぱアイツ只者じゃないぜ」

 

「あ、加賀。ごめんトイレ行ってたんだけど……」

 

「安心しろよ、アイツが勝った」

 

「ホント!? 勝った!?」

 

「ああ、やっぱ実力隠してやがったな、あんにゃろめ。決勝戦が楽しみだ。ひょっとしたら優勝できるかもな」

 

「し、信じられない。ここまで来れるなんて、夢みたいだよ! ──え!? 次は海王だよね?!」

 

「ああ、海王だ。んで、筒井。お前は本を捨てろ」

 

「えぇっ!?」

 

「お前に本はいらん。ジャマなだけだ! 捨てろ! 忘れろ! そんなもんに頼ってっから序盤負けるんだよ!」

 

「そ、そんなぁ! これはお守りみたいなもので……」

 

「いいか筒井。お前にはそんなもんに頼らないで良い実力がある。──ま、このオレほどじゃないけどな」

 

「……ちょっと良いこと言ったなって思ったのに、その一言で台無しだよ」

 

「なっはっは、このオレだぞ? ──何より楽しみなのは、やっぱりアイツだよ。くっそ、今からでも大将替えたいくらいだぜ」

 

「そんなに凄かったの?」

 

「凄いなんてもんじゃねーよ。僅差の局面をあっという間にひっくり返して中押し。只者じゃねえよ」

 

「……そうなんだ」

 

「だから、海王に勝てるとすれば、お前が序盤離されない事だ。さすがのオレも、海王の大将に勝てるとは言い切れねーからよ。アイツだけが勝ってもウチは優勝はできねーんだ。──頼んだぜ、副将」

 

「……ああ! ここまで来たんだ、頑張るよ!」

 

 そこに係員からの一声が掛かった。

 

「男子決勝。海王中・対・葉瀬中。開始してください」

 

 ヒカルたち葉瀬中メンバーは真剣な眼差しで対局に臨んだ。

 そしてその頃、塔矢アキラも動いていた。

 

 

 

「──今日は悪かったですね、塔矢くん。わざわざ来てもらったのに、私の話ばかり聞いてもらって」

 

「……いえ。父が校長先生によろしくと言っておりました」

 

「ああ、行洋くんが。彼が海王の生徒だった時、私が担任でしたからねぇ。時々対局してもらったなァ、ハハハ。懐かしい思い出です」

 

 お父さんの話題となったことで、アキラは思い出す。

 碁会所に訪れた際に、アキラを待っていたかのような緒方から聞いた話を。

 

『えっ……。お父さんが進藤と打った!?』

 

『ああ、名人からは聞いていないようだね。彼はキミを探して、この碁会所にまで来たんだよ。その時にちょうど塔矢名人も居てね。名人たっての希望で対局したんだ』

 

『そ、そうでしたか。……で、結果はどうなったんです!?』

 

『……聞きたいかい? おっと、そう睨まないでくれ、教えるよ。……キミが彼に二度も敗れたのは、マグレなんかじゃなかった。中押しで、進藤ヒカルが勝ったよ。もちろん、キミと同じく3子のハンデはあったけどね』

 

 衝撃的な事実だった。

 もしかしたらとアキラも思っていたが、まさか本当に勝ってしまうなんて。

 口元を押さえながら、アキラは鎮痛な面持ちで言葉を溢した。

 

『……お父さんが、負けた……』

 

『名人が研究会に誘うほどの逸材だった。残念ながら、断られてしまったけどね。──それに、キミを怖気付かせるほどの子でもある。うかうかしていられないのは私や名人の方かもしれないな』

 

 

 

 不意にアキラはそんな回想を思い返す。

 だから、その掛け声に気がつけなかった。

 

「──矢くん、塔矢くん」

 

「あ、はい!?」

 

「あはは、大丈夫ですよ。今日は中学の囲碁大会をやってるんです。どうですか、是非一目見ていって頂けませんか」

 

「海王の囲碁部のレベルが高いことは存じています。でも、ボクは──」

 

「まァそう言わずに。ホラ、あそこですから」

 

 気乗りしないアキラを連れて、校長は大会を行っている会場に入っていく。

 そして。

 アキラは驚愕の人物を見つける。

 先ほどまで考えていた、進藤ヒカルが、彼が大会に出ていた。

 

(進藤……! 進藤ヒカル!? なぜ、彼がこんなところに!?)

 

 校長に一声掛ける事も忘れて、アキラは『スイスイ』と人の波を縫ってヒカルの対局を見にいく。

 同い年であると名乗った彼が嘘を言ったとは思えない。

 だから、彼は小学生なのに中学生の大会に参加していることになる。

 どんな経緯を経ればそんなことになるのか、とアキラの脳内は大混乱だったが、それでも足は止まらない。

 そこに彼の対局があるならアキラは火の中でも飛び込んでいっただろう。

 

(中学生の大会に、制服を着て!? いったい、キミは何をやっているんだ……!!?)

 

 

 

 

 

 

『──ヒカル。いいですか、今まで直接言ったことはありませんでしたが、ただ観察するのではなく、私の一手一手に石の流れを感じなさい』

 

(石の流れ?)

 

『ハイ。ヒカルは今まで囲碁に携わって来たと思いますが、明確な師匠は居なかったでしょう? ──私が導きましょう、寅次郎のように。彼は私の碁を非常に楽しんでくれていました。ヒカルにも、是非楽しんでほしい。そして、私と一緒に打ってほしいのです』

 

(って言われても、結構楽しんでるぞ?)

 

『ふふっそうですね。では、それをもっと楽しくしていきましょう。ヒカルがもっともっと夢中になってくれるくらいに。私はこれからヒカルに見せるための一局を打ちましょう』

 

 そう言って、佐為は次の一手を次々と指し示す。

 

『この一局の石の流れをそのまま見つめなさい。ヒカルは今までにも経験があるはずですが、意識してではなかったと思います。今回はそれを意識して、やってみましょう。──きっと、もっともっと、囲碁が好きになりますよ』

 

 輝くような指先とは、まさにこのことだった。

 ヒカルは佐為が導くままに、海王の三将に相対しながら素晴らしい一手を重ね続けた。

 

 

 

 その後に、加賀は敗北して、筒井は本を見なくなった事もあって海王に奇跡の勝利を得た。

 そして。

 ──この場の視線は全てヒカルの盤面へと注がれていた。

 教本としても良いほど、対面した相手の実力を引き出す懐の深さを感じさせる一局だった。

 その上で容易に石の流れが想像できるほどに美しい軌跡を盤面に描いていた。

 

『これで終局です、ヒカル。──この者もよくここまでついて来ました。そなたの力があって初めてこの棋譜は出来たのです。誇りなさい』

 

 佐為の言葉は聞こえない。

 だから、代わりにヒカルが口を開いた。

 

「ありがとな、オレと打ってくれて。あんたが対局相手で良かった。──感謝してる」

 

「……こちらこそ、ありがとう」

 

 そう悲しげに、けれど堪えきれないような嬉しさを滲ませて言う海王の生徒に、海王の先生であろう者が肩に手を置いた。

 

「よく打ちましたね」

 

「ハイ……。(ユン)先生……」

 

 海王の三将が悔しそうに涙を零した。

 

 

 

 

 優勝は葉瀬中。

 2勝1敗という素晴らしい結果で全国の頂点に立った。

 

 と思ったら。

 

「──あれ……? あの子、進藤さんちの……」

 

「え?」

 

「あ、やっぱり! ヒカルくんじゃないか! キミ確か小学6年生のハズじゃ……」

 

「げぇ! 高田さんちの兄ちゃん!」

 

「……どういうことかね? キミ、葉瀬中の生徒じゃないのかね?」

 

 審査員の男性にそう言われて、こうなったかと空を仰ぐ加賀とは裏腹に、ヒカルを庇うように筒井が前に出た。

 

「スミマセン! ボクが無理に彼に頼んだんです!」

 

「……そうですか。では、葉瀬中は失格! 優勝は海王中!」

 

 失格。

 となれば、優勝しなければ囲碁部を作れると言う約束がどうなるのか。

 ヒカルは『オロオロ』とするが、そんなヒカルの視界に塔矢アキラが映った。

 思わず、今までの事も忘れて言葉が口をつついた。

 

「塔矢!? な、なんでお前がここに!?」

 

「──美しい一局だった」

 

 晴れ晴れとした表情で、薄く微笑みすら浮かべながらアキラはそう言った。

 もう暗雲を感じさせる姿ではなかった。

 清涼な風すら感じさせる、少し早い春すら感じるほどの清々しさを漂わせていた。

 軽く悔しげな色を滲ませながら塔矢は微笑んだ。

 

「悔しいよ。対局者が何故ボクじゃないんだろう」

 

 塔矢との会話が始まるな、と察した加賀が、とりあえずヒカルの疑問を解消するために耳打ちした。

 

「いい碁だったと思うぜ。ま、オレはとっとと将棋に戻りたいけどな。あと、優勝しなかったらどうとか、色々お前に言ったが、アレみんなウソだから」

 

「え!?」

 

「じゃーな」

 

 そう言い放って去っていく加賀をヒカルが見送って、一呼吸置いてからアキラが話しかけた。

 

「進藤くん。キミを超えなきゃ、神の一手に届かないことがよくわかった。だから……」

 

 真剣に、ヒカルの目を見つめてアキラは言った。

 もう春風の気配はない。

 剣呑と言ってもいい。

 それほどに研ぎ澄まされた真剣さのこもった瞳でアキラはヒカルのことを射抜いていた。

 

「ボクはもう、キミから逃げたりしない。──いつでも打とう。ボクはあの碁会所に居るから、キミの都合がいい日にでも。……じゃあ、ボクは帰るね。ほら、校長先生を待たせてるから……」

 

 そう言って指差した方向では、ふくよかな丸みのある男性が優しげに微笑んでいる。

 塔矢の視線に合わせて軽く挨拶するように手を振っている。

 

「じゃあ、進藤くん。また会おう。いつか、必ずキミに追いついてみせるよ」

 

 そう言い残して、アキラは去っていった。

 その足取りは軽い。

 今までの暗雲の気配など微塵もない。

 

 そんな塔矢の姿を見て、ヒカルも気が晴れた。

 これでいいんだと自然な気持ちで思えた。

 

『ヒカル。今の一局、どうでしたか。……感じるものはありましたか?』

 

 アキラが去った後で、佐為がヒカルに問いかける。

 それを聞いて、ヒカルの脳裏に蘇るのは先ほどの一局。

 対局中を思い返して。

 爽やかな風が通り抜けたような心地良さを覚えながら、ヒカルは力強く頷いた。

 

「うん……。佐為、やっぱ、お前って凄いやつだ」

 

 そんなヒカルの声に、佐為はとても嬉しげな微笑みを見せた。

 佐為は何よりも囲碁が大好きだ。

 ヒカルがもっと囲碁を好きになってくれたと思っての微笑みだった。

 

「──囲碁って、思ってたよりもずっと面白いかもな」

 

 脳裏に蘇る黒石と白石の星々。

 まるで、神様にでもなった気分だ。

 煌めく思考を感じながら、ヒカルは神様のような全能感に浸って満足げに鼻息を漏らした。

 

 季節は巡る。

 冬が過ぎ去って新しい季節が訪れる。

 

 ──門出を祝福する季節が訪れようとしていた。

 

 

 

 



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9話

約5900字



 

 

 そして季節は巡って春──。

 うららかな季節の訪れだった。

 

 桜が舞い散って、新入生たちが門をくぐる。

 真新しい制服に袖を通した去年までの小学生たちが興奮と緊張を胸に秘めながら、中学校に登ってくる。

 

 何を望んでいるのか。

 新たな出会いか。

 それとも今までと変わりない環境なのか。

 

 なんにせよ、大きな変化の訪れだった。

 それはヒカルも例外ではなかった。

 

 去年は小学六年生。

 つまり、今年でヒカルも中学生になっており、ヒカルが佐為と出会ってから早半年近い時間が過ぎていた。

 

 授業が終わって部活動の時間。

 いわゆる放課後の時間にヒカルはあかりと連れ立って歩いている。

 

 中学生の制服に袖を通したあかりは非常に可愛らしい。

 昔から接してきた間柄であるため、ヒカルが今更何かを恥ずかしがる事はなかった。

 けれど、可愛いものは可愛い。

 なので多少の戸惑いはあったが、それを表に出すのは癪なのでヒカルは平然を装っていた。

 

 あかりもあかりで、ヒカルの学生服にドキドキしていた。

 言わずもがな乙女のフィルターを通せば、という事である。

 

 そんな弾ける若さから生まれる素直な可愛さを振り撒きながら、あかりがいつものように無意識で少しだけ屈んで上目遣いしながらヒカルに尋ねた。

 

「ねぇヒカル。囲碁部のメンバー集まりそう?」

 

「いや、それが中々見つかんなくってさ。──筒井さんとお前と、オレ。まだこんだけだよ」

 

「そっかぁ。じゃあまだ6月の大会には出られないね。男子が3人必要なんでしょ?」

 

「そう! ……あーあ、海王はすっげー部員数いるらしいじゃん。ウチは大会に出れるかどうかも怪しいってのにさ、ちょっとくらい分けてほしいよ」

 

「海王は部員が何十人といるんでしょ? 羨ましいよね。私も女子部員欲しいな〜〜」

 

「んー、また何人か当たってみるか」

 

「あ、女子は私が声かけてみてもいい?」

 

「いいんじゃないか? あかりも囲碁部員だろ?」

 

「えへへ、うん」

 

 あかりとヒカルは中学入学とほぼ同時に囲碁部に入部していた。

 入学してすぐに筒井さんに会いに行き、三人という定員を満たしたので仮ではあるが部を作れたのだ。

 佐為と出会ってすぐにあかりを弟子にしていたので、この半年ほどであかりの囲碁の腕はメキメキと上達していた。

 

 持ち前の聡明さで、あかりは既に筒井さんにも勝ったことがある。

 ヒカル(佐為)がこの半年近く付きっきりで教えた成果だった。

 

『本因坊秀策』の付きっきりの指導を受けて、当初は石の逃し方も覚束なかったあかりは既に一人前以上に打てるようになっていた。

 

 ヒカルもその指導を通して囲碁を改めて学んでいた。

 当初は延々と囲碁に誘ってくる佐為にげんなりして、ずっと打ち続けるのが嫌だ、という理由であかりを誘っていたはずだったが、今ではあかりへの指導を通してヒカル自身も囲碁への理解を深めていた。

 

 人に教えるという行為は学びになる。

 佐為だけではなく、ヒカル自身の言葉を伝えたりすることもあって、有意義な時間の使い方だった。

 それだけの時間を共に過ごせば、当然仲も良くなる。

 ヒカルとあかりは半年ほど前より、ずっと親密になった距離感で楽しげに笑い合っていた。

 

 

 

 

 

「──うわ、進藤くん。やっぱりキミって……」

 

「ん? 何?」

 

「いや、何でもないよ」

 

 首を振って、筒井は少し緊張しながら次の一手を打った。

 場所は理科室だった。

 囲碁部はまだようやく三人が集まった程度で、大会に参加するには男子3人か、女子3人が必要だ。

 だから一応部として認められてはいるけれど、部室などが貰える立場にはないのだ。

 

 筒井が先ほど『やっぱりキミって』に続けようと思った言葉は『囲碁部にいるのが勿体無いくらいに強い』だ。

 でも、もしそう言ってしまってヒカルが退部などしてしまったら。

 そう思うと口にすることが出来なかった。

 

 ヒカルと打つと自分の100%以上の力を引き出してもらえる気がする。

 だから、筒井はこの心地良い関係を壊したくなかった。

 それがヒカルに対する甘えだと理解していながら、行動には移せなかった。

 思い返すのは冬季囲碁大会の光景だ。

 

 素晴らしい打ち回しで、見守る全ての者が感嘆の息を漏らすような一局。

 あの光景を思い起こして、ついで審判長から言われた『来年も期待していますよ』という言葉も思い出した。

 怒られるんじゃなくて、期待しているという言葉を贈られる。

 偽って参加したのはイケナイことではあったが、ヒカルを誘って良かったと筒井は改めて思う。

 

「あの大会。失格になったけど、審判長のあの一言は嬉しかったね」

 

「うん。次はちゃんと中学生として参加しなきゃね」

 

「……あ、そうだ。そういえば進藤くん、加賀に土下座してもらってないよね?」

 

「あ!! そーいえば大会で有耶無耶になってた!! くっそー、これも作戦のうちだったのかな」

 

「あはは、あの加賀が土下座するなんて、ボクには想像すら出来ないよ。きっと凄い表情するんだろうなぁ。きっと鬼だよ、鬼」

 

『くすくす』と日頃の鬱憤が伺えるくらい笑っている筒井にヒカルもおかしくなって釣られて笑った。

 一頻り笑った後に、ふと思いついたヒカルが『ポン』と手を叩いた。

 

「……そうだ! 土下座許す代わりに、次の大会に誘えないかな? そしたらまた前回と同じメンバーで挑めるよ、筒井さん!」

 

 ヒカルの悪魔的発想に『ハッ』とした筒井が思考に入った。

『もう囲碁はやんねー』とニベもなかった加賀ではあるが、筒井の結論としては可能性がある、だった。

 

「……試す価値はあるかもしれない。だって、あの加賀だよ? 土下座なんて死んでもしそうにないから、そういう方向で使ってみるのはありかもね」

 

 思考に耽って、一考の余地ありと気がついた筒井は表情を明るくした。

 将棋一本で行くと言いつつも、土下座するよりはたった1日囲碁大会に参加したほうがいいと加賀も思うハズだ。

 

 そんな二人の会話を聞いて、あかりが不思議そうな顔をした。

 順番待ちで二人の対局を眺めながら詰碁集を読んでいたのだが、気になる話題に興味を惹かれた。

 

「大会って、ヒカルが中学生のフリして出た、あの冬季囲碁大会ですか? ……やっぱりヒカルって強いんだ」

 

「まー、結構強いと思う」

 

 鼻の下を指で擦りながら、伸び切った鼻が見えるくらいのヒカルの姿に目もくれず、筒井が強すぎるくらいに強く頷いて語り出した。

 

「いや! 藤崎さん、彼は強いなんてもんじゃないよ。ボクはここ最近進藤くんに毎日打ってもらってるけど、今までの人生の中で一番幸せなくらいさ。藤崎さんは進藤くんに囲碁を教えてもらってるんだろ? すごく幸運な事だよ。この時間を大切にしたほうがいい。この先の人生で後悔しないようにね」

 

『この先の人生』

 そこまで強い言葉が出てくるとは思わず、あかりは怯んで唖然としながらも頷き、そして嬉しそうに破顔した。

 

「そ、そんなにですか? ──でも、そっかぁ。ヒカルって凄いんだ」

 

「……ほら、多面打ちしてやるから、マグネットの碁盤持ってこいよ」

 

「え、ウソ! やるからちょっと待っててね!」

 

『ヒカル、照れてます?』

 

(照れてない! ほら、佐為多面打ちだぞ)

 

『わぁい♡』

 

 平気な顔しながら少しだけ照れているヒカルには気が付かず『ガサガサ』と鞄を漁るあかりと、終局して検討に入った盤面を見ながら話し合うヒカルと筒井の三人に新たな客人が訪れた。

 

 その来客は窓から訪れた。

 春ということもあって、気持ち良い風が通るように窓は開け放たれていたから彼の声は室内によく通った。

 

 海王中学の制服を着た少年。

 ──塔矢アキラだった。

 

 

「進藤!!」

 

「と、塔矢?」

 

 ヒカルが自分を呼ぶ声に慌てて窓の方向を見れば、そこには塔矢が居た。

 この場所は葉瀬中学校の中だ。

 塔矢の制服は海王中学のモノ。

 だから、葉瀬中の生徒ではない。

 何故ここにいるのだろうか、という疑問がヒカルの中で首を(もた)げる。

 

 そんな疑問に答えた訳ではないのだろうが、窓越しに身を乗り上げんばかりに塔矢が気炎を吐いた。

 

「進藤!! どうして碁会所に来ないんだ!? あれから、ボクがどれほどキミに会いたいと思っていたか……!! 夜に君の姿を思い起こすほどだった……!!」

 

 そこだけを聞けば、熱烈な愛の告白にも聴こえる。

 しかし、そんな言葉を美形の塔矢から言われるとは光栄だ、なんて思えるほどヒカルの感性はポジティブではない。

 げんなりとした表情でその言葉を聞いていた。

 

「あー、いや。行こうと思えば行けるんだけど、前塔矢の親父と打っただろ? あれからなんか行きづらくってさ」

 

「そんな! ……わかった。ボクから父さんにもう来ないようにお願いする。さすがに連日は難しいかもしれないが、曜日さえ指定してくれれば必ず約束は守ろう」

 

 とりあえず塔矢でもどうしようもないことを、と名人を引き合いに出してみたがトンデモナイ提案をしてきやがった。

 普通、自分の親父を押し込めてまで約束を取り付けようとするだろうか。

 相変わらず囲碁の事になると普段の冷静さが鳴りを潜めて、形振り構わない表情が顔を見せてくる。

 

「い、いや。さすがに名人を追い出すのは気が引けるっていうか……」

 

 そこに筒井が思わずと言った様子で間に入った。

 

「ま、待ってくれ、進藤くん。名人って、その、塔矢名人のことだよね? 名人と打ったことがあるの!?」

 

「え、あぁうん。確か囲碁大会の少し前くらいだったかな?」

 

 空かさずアキラが口を挟んだ。

 

「ああ、ボクも研究会のメンバーの人から顛末は聞いたよ。……お父さんにも勝ったそうだね。やはり、キミは『こんな場所』に居ていい人じゃない。さあ、進藤。今からでもいい、打とう! キミに恥じない打ち手となるために、ボクはあれからさらに精進している。だから、碁会所でキミを待ってる。──今日は、それを言いに来たんだ」

 

「か、勝った……? 名人に……? 進藤くんが……」

 

『オロオロ』とする筒井を余所に塔矢はヒカルのことしか見えていない。

 澄んだ瞳で見つめる塔矢に対して、ヒカルは薄く微笑んで首を振った。

 

「オレまた囲碁大会に出るつもりだし、あかりや筒井さんと打ってるのが今は楽しいんだ。だから、ごめん。また今度な」

 

「ま、待ってくれ! どういうことだ? 囲碁大会だって? 囲碁部『なんかに』どうしてキミほどの人が──」

 

「……囲碁部だって、捨てたもんじゃないんだ。悪いけど塔矢、オレ、今のお前とは打ちたくない」

 

『ピシャリ』とそう言い放ってヒカルは窓を閉めてカーテンを敷いた。

 カーテンで視界を区切られた窓の向こうから、叫ぶような声が聞こえた。

 

「進藤!!?」

 

 その声にヒカルは答えない。

 代わりに、筒井とあかりに向かってバツが悪そうに笑った。

 

「アイツ、悪い奴じゃないんだけど、囲碁になると見境ないっていうか……。そんな訳だから、何言われたって気にすんなよ。さ、打とう。あかり、マグネット盤は用意できたか?」

 

「え! う、うん。でもいいの? 一局くらい打ってあげても……」

 

「アイツが一局で満足するよーに見えるかよ? 絶対勝つまでやるとか言い始めるって」

 

 嘘だった。

 一度打てば塔矢も落ち着きを取り戻すとは思う。

 けど、囲碁部を馬鹿にされて黙って打ってやるほどヒカルは大人ではなかった。

 塔矢にそんな意図はなくっても、だ。

 

「あー、うん。なんかそんな気がしてきたかも?」

 

「だろ?」

 

「ま、待って進藤くん。ちょっと頭が追いつかないんだけど、キミって、名人に勝った事があるの!? 小学生で!?」

 

「ウン。まぁでも、3子置かせてもらったから、互先じゃないけどね」

 

「いや!! キミは何を言ってるんだい!!? 名人相手に3子なんて、とんでもないことだよ!? 普通のプロ以上の、タイトル戦一次予選に出れるプロレベルの実力ってことじゃないか! ……キミは、本当に囲碁部に居ていいの?」

 

「筒井さん。そういうの言いっこなしだって。さっきも言ったろ? オレは今、囲碁部で打ってるのが楽しいの。だからいいんだ。とゆーか、別にプロなんて目指してないし」

 

 黒石を碁盤に打ち据えながら何気なく言ったヒカルに、筒井が悲鳴のような声を上げた。

 

「プロ目指してないの!? それだけの実力があるのに!?」

 

「あーもう! 筒井さんの手番だよ! ほら、打って打って!」

 

 有無を言わさぬヒカルに押されて、ドギマギしながらも筒井は打っていく。

 しばらくは『チラチラ』とヒカルのことを伺うのをやめられなかったが、盤面が進むにつれて次第にそちらに集中し始めて、そんな疑問なんて飛んでいってしまった。

 

 

 

 

「──大会だぁ? おい筒井、オレはもう将棋一本で行くって言ったよな、もう忘れちまったのか?」

 

「それに関しては、進藤くんから話があるんだ」

 

「話ぃ?」

 

 怪訝そうな顔で、加賀がヒカルを見やる。

 ヒカルはその視線を受けて意地が悪そうに『ニヤリ』と笑みを浮かべた。

 嫌な予感が()ぎったが、加賀に聞かない選択肢はない。

 少しだけ顔を引き攣らせながら、堂々と腕組みをした。

 

「……おう、言ってみろよ、小僧」

 

「おほん! ──加賀って、約束守る男だよね」

 

「当たり前だろーが」

 

「勝負で決まった事は絶対だよね」

 

「そーだな、負けたんなら二言はねえよ。……おい待て、もしかして、アレのことか!?」

 

「にっしっし、土下座。忘れてないよね!!」

 

「んぁあああ!! くそ! 有耶無耶に出来たと思ってたのに! ってか、時効だろ時効!」

 

「あれれぇ、おかしいぞぉ〜。加賀って約束守る男だったはずなんだけどなぁ、オレの勘違いかなぁ」

 

 某名探偵風な癪に障る言い回しに青筋を浮かべた加賀だったが、言っていることは最もだ。

『ぐっ』と奥歯を噛み締めて手が出るのは堪えたが、声には漏れた。

 

「ぐっ!! ……くそっ、んだよ、何が望みだコラ」

 

 冗談ではない神妙な表情でヒカルが続けた。

 

「大会参加してくれるんなら、土下座はなしでいいよ。たった1日だけいいんだ、加賀の力が必要だから手を貸して欲しい」

 

「……ったく。はぁ、しょーがねえな。やるからには勝ちに行くぞ? 小僧ども」

 

 加賀の了承の声に『パァッ』と表情を輝かせたヒカルが真っ先に喜んだ。

 

「うん!! 去年のリベンジだね!」

 

「小僧って、ボクと加賀は同い年だろ!」

 

「おめーなんざ小僧で十分。ヘボはなおったか? ん?」

 

「む! これでも、毎日進藤くんと打ってるんだ。以前のように簡単にやられたりはしないさ」

 

「お、いいねぇ。久々に打ってやるか。んで、そっちは新入部員か?」

 

「あ、うん。藤崎さんだよ。進藤くんの幼馴染なんだって」

 

「はーん、そう。ああ、そういえば前もこいつに引っ付いてたっけか」

 

「あ、ハイ。初めまして。藤崎あかりです」

 

「おう、よろしくな。んじゃ、さっそく打つか。おら、行くぞ筒井」

 

「あ、おい加賀! 引っ張るなよ!」

 

『ワイワイ』と新たな大会メンバーを引き連れて、去年の雪辱を晴らすために理科室での特訓が始まった。

 時は瞬く間に過ぎ去って、6月。

 中学囲碁大会が始まった。

 

 そこには、塔矢アキラの姿もあった。

 

 





三谷のお姉さんは第二部で登場予定です。
つまり──ということですね。



お伝えしたいこと。

完コピ。質の悪い原作の焼き増し。内心以外同じなら全部削って欲しい。
そういった、類似する意見を『評価』で3ついただきました。
内容はしっかりと確認させていただいております。
ご意見ありがとうございます。

その上で批判を覚悟で言わせていただくのですが、私は文章を書くくらいしか能のない人間です。
しかし、面白いと思った内容しか書きません。

あえて言いますが、私は、この小説が面白いと思う。
だから、書きます。

声援に背を押してもらうことはあっても、書くという意志は私だけのものです。
読者の方には申し訳ないのですが、忖度して内容は変えません。
自分の中で面白いと感じる気持ちに嘘をつきたくありません。

ご意見は歓迎しますが、その点はブレません。
申し訳ございませんが、ご了承ください。
朝から長文乱文失礼しました。

願わくば、今後とも皆様のお時間を割いて頂き、ご愛顧頂ければこれに勝る喜びは御座いません。
季節の変わり目ですので、お身体にお気をつけて本日をお過ごしください。

風梨


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10話

約8000字



 

 

 

 

「──名人」

 

 その一声(ひとこえ)に気がついて、塔矢行洋は振り向いた。

 そこには現在の『本因坊』の座を守り続けている桑原仁が飄々としたいつもの表情で歩いてきていた。

 

「おや、桑原先生。おはようございます」

 

「久しぶりだね、顔を合わせるのは。ちょうどいいから、挨拶もしておこうか」

 

 そう言い始めた桑原は碁聖戦の挑戦者に自らが決まったと言い放ち、飄々と『ヨロシク』と言った。

 その後もいくつかのやり取りを経て、話題は塔矢行洋の一人息子の話へと移った。

 

「そういえば、キミの息子さんはどうしてる? 院生じゃないんだろう?」

 

「私とはよく打っています。家に来る棋士たちとも打っていますし、碁の勉強には事欠きませんよ」

 

「ほぉそうかい。そりゃあ良かった。で、プロ試験はまだ受けないの? 随分と前からプロ並みだって噂が聞こえてたけどねぇ。彼、今どうしてるの?」

 

「ええ……」

 

 行洋は思い返す。

 つい先日の息子とのやりとりを。

 

 

 

 自宅の和室での一幕だった。

 月明かりが照らし出す中で、夜の春風が頬を撫でる。

 据えてある碁盤には棋譜が並べられている。

 目の前の盤面から視線を逸らさず、行洋は静かに語り出した。

 

『アキラ。海王中で囲碁部に入ったと聞いた時、私は何も言わなかった。お前の存在が、部の励みになると校長先生に言われた事もあり、お前の好きにさせた。……だが、大会に出るとはどういうわけだ。お前のウデでたかだか部活の大会に出るなどいかにも配慮に欠けよう。お前らしくもない……。いったい何があった?』

 

『周りを思いやる余裕が、今のボクにはありません』

 

 自身を状況を理解しているアキラの言動に、行洋は棋譜を並べていた手を止めて聞き入った。

 

『進藤ヒカルが部活で大会に出るという限り、ボクは彼を追うだけです。──お父さん。生意気に聞こえるかもしれませんが、ボクの目標はお父さんです。ボクはその自信と自負をボク自身の努力で培ってきた。でも、違ったんです』

 

 言葉を切って、手のひらを見つめながらアキラは言葉を続けた。

 

『真っ直ぐ歩いて行けばいいと、そう思っていました。真っ直ぐ歩いていれば、神の一手に近づけるのだと思っていたんです。けど、それはあまりにも甘い考えでした。──ボクは手も足も出なかった。あの、進藤ヒカルに。お父さんとも違う。緒方さんとも違う。彼の存在がボクに重くのしかかる。……今は、彼を追うことだけしか……、ボクの頭の中にはないんです』

 

『彼は強い。この私に勝つほどだ』

 

『わかっています。けれど、それが追うのを辞める理由にはなりません』

 

 真っ直ぐとした瞳。

 その眼光を正面から受けて行洋は少し満足げな笑みを浮かべた。

 

『恐れながらも立ち向かっていくのか……。いいだろう、お前の好きにしなさい。私はお前を応援しよう』

 

『! ……はい! ありがとうございます!』

 

 

 恐れながら立ち向かっていく息子の姿に、行洋は深い満足感を抱いていた。

 それこそが人を成長させる。

 以前のアキラにはなかったものだ。

 震えながらも追い、怯えながらも、挑もうとするアキラの姿こそが。

 

 神の一手に近づいていく唯一の道であると、行洋自身が知っている。

 

 

 

「……息子は今、中学校の囲碁部にいますよ」

 

「はて、学校の囲碁部? またなんでそんなところに?」

 

「はは、近々部活の大会にも出るらしくて。なんでも、私を負かした少年も参加するようなのです」

 

「……あの噂か。ほぉホラかと思っていたが、本人の口から出たとなれば真実か。……出来れば詳しく聞きたいが、タイトル戦が控えているこの状況では流石に難しいか」

 

「ハハハ、おっしゃる通りですね。どうかご勘弁を」

 

「まったく、中々に活きの良いのが育ってるじゃないか」

 

 桑原と会話しながらも、行洋の脳裏にあったのは進藤ヒカルのことだった。

 盤面で向かい合った際の、歴戦の棋士を前にした時のような圧迫感。

 凄まじいまでの気迫が伝わってくる姿を。

 

(それにしても、私にも勝ち、アキラをより高みへと導いていく。進藤ヒカルとはいったい、何者なのだろうか)

 

 天才の一言では片付けられない人物の出現に、行洋自身戸惑いを覚えながらも、どこか興奮している自分を自覚する。

 己を諌めながらもその眼差しには今まで以上の眼光が宿っていた。

 

 彼ならば、遅かれ早かれ棋士の前に姿を現すだろう、と。

 行洋はその機会がいつ何時訪れても良いようにその時に備えていた。

 

 

 

 

 

「──けど、良かったな。あかりも大会出れてさ」

 

「うん! 津田さんが初心者だけど、やってみてもいいって言ってくれてよかったぁ。金子さんもバレー部との兼部で大会に出てもいいって言ってくれて。私たちも優勝目指して頑張るね!」

 

「ああ、目指せ打倒海王! だな!」

 

「お弁当も作ってきたから、みんなで食べようね」

 

「おぉ! お前えらい!」

 

「えへへ、でしょ」

 

 ヒカルとあかりが仲良く談笑していると、葉瀬中メンバーが続々と集合してきた。

 

「おうおうおう、相変わらず来るのが早いじゃねーか、小僧」

 

「あはは、おはよう。進藤くん、昨日は眠れた? ボク、今日が楽しみすぎてちょっと寝不足だよ」

 

「ったく、お前は遠足前の小学生かよ」

 

「しょ、しょうがないだろ! 去年は僕たちが海王を倒したんだ……。失格になっちゃったけど。でも、今回も前回と同じメンバーだし、ボクは去年と比べてもずっと強くなってる。また勝てるかもって思ったら、もう楽しみでしょうがないよ!」

 

「……ま、小僧が負けるとこは想像できねーから、1勝は確実だからな。とゆーか、前回と同じがいいって理由で大将じゃなく三将を選ぶなんざ、変な小僧だぜ、まったく」

 

 悔しげに顔を歪めながらもヒカルのことを認めている加賀の物言いにヒカルが嬉しそうに破顔した。

 

「へへっ、海王戦が楽しみだね、加賀、筒井さん! 海王の三将ってどんな奴かな?」

 

「おまっ、前から思ってたけどよ、なんでオレだけ『さん』が付いてねーんだよ!」

 

「あいたた! だって、加賀は加賀だろ!?」

 

「理由になってねーだろが!」

 

 ワイワイと話し合う葉瀬中メンバーに近寄る一人の少年がいた。

 彼はヒカルの一言に応じて、覚悟を持って言葉を告げに来ていた。

 この日を長らく待ち望んでいた、その本心を滲み出すような眼差しで。

 

「──ボクだよ。海王の三将はボクだ、進藤」

 

「塔矢!? な、なんでお前が? そうだ、前に筒井さんが言ってた。プロを目指す奴は囲碁部になんか入んないって。なのに、お前が海王にいて、しかも三将……?」

 

「ボクと打たないと言ったのを覚えてるか?」

 

「あれは! ……お前が、囲碁部をバカにしたようなことを言うから……」

 

「……それに関しては全面的にボクが悪かった。ごめん。……でも、だからこそ、ボクもキミと同じ立場になったんだ。キミは言った。囲碁部で大会に出るんだと。だから、ボクも海王の囲碁部として大会に参加した。──やっとここまで来た」

 

「……塔矢」

 

 

 ヒカルと相対しながら、アキラは今日までの記憶を辿る。

 本来ならアキラは大将だった。

 

 しかしそれを、先生に無理を言って三将に変えてもらった。

 この大会が終われば退部するという、厳しい条件を付けてまで。

 全てはヒカルともう一度対局するために。

 

 ただそれだけのために、アキラは前回の対局からの約半年間努力し続けてきた。

 二度の敗北で得た経験を元に、必殺の刃を研いできた。

 全てはこの日のためだけに。

 

「今度は前のような負け方はしない」

 

 鋭い眼光で力強く宣言する塔矢の背後から、大勢の新たなメンバーが顔を見せた。

 総勢が海王中学の制服を着ている。

 海王囲碁部の面々だった。

 

「へぇそう。キミだったのね、塔矢のいう進藤ヒカルって」

 

 そう告げたのはショートカットの美少女だった。

 彼女は魅力的な余裕の微笑みを浮かべながら続ける。

 

「塔矢が追いかける相手がいるなんて。キミと塔矢の一戦が楽しみだわ」

 

 毅然とした立ち振る舞い。

 王者としての風格すら漂う海王中の姿に、葉瀬中のメンバー。特に女子であるあかりは『ゴクリ』と生唾を飲んだ。

 海王囲碁部の女子。

 つまり、あかり達の対戦相手だからだ。

 

 そんな彼らの邂逅を目にした周囲が騒ぎ立てる。

 

「おい、あれ塔矢じゃないか。って、海王の制服着てるぞ?! あいつプロ並みなんだろ? なんで囲碁部にいるんだよ」

 

「前にアイツ囲碁雑誌で見たぜ、名人相手に3子で打ってるって。バケモンだよ」

 

「プロ入りが待たれる期待の星とかって奴だろ? 俺も見たぜ、それ。けど、なんでそんな奴がこんなとこにいるんだ? 院生じゃないの?」

 

「バッカ。院生なら、アマの大会には出られないハズだろ」

 

「おい、俺たち一回戦海王じゃん。……終わったな」

 

「さっき塔矢三将とか言ってたぜ。俺じゃなくて良かったぁ」

 

「さ、三将〜〜!!? なんで三将!? 海王どーなってんだよ! 実力順なら塔矢が大将だろ!? オレやだよ!」

 

『ワイワイガヤガヤ』と喧騒が室内に溢れかえる。

 そんな音声を背負いながら、葉瀬中のメンバーは海王と向き合っていた。

 筒井が思わずといった様子で口を開いた。

 

「三将……。まさか、進藤くんを追って……」

 

「あいつの言い方を考えるに、間違い無いだろうな。……けっプロなんざいつでも成れるってか。相変わらず嫌味なやろーだぜ」

 

「でも、さすがの進藤くんも塔矢アキラが相手じゃ厳しいんじゃないかな?」

 

「どーだか。進藤のヤツも桁違いに強え。……どうなるか見ものだな」

 

「あっ、でも、進藤くん。名人にも勝ったって言ってたんだった……」

 

「んなっ、名人だ!? そりゃお前、さすがに置石はしただろうが、進藤もプロ並みってことじゃねーか。……ますます結末が見えねえ」

 

「進藤くん……」

 

 心配そうに呟く筒井を余所に、向かい合うヒカルとアキラの二人。

 前哨戦として舌戦の矛が交わるかと思いきや、アキラはそれ以上何も言わずに、ヒカルに背を向けた。

 

 後の全ては盤上で語る、とでも言いたげな様子にヒカルは思わず一筋の汗を流した。

 

 半年前。

 塔矢アキラは佐為に一刀両断された。

 けれど、それはアキラが弱かったからではない。

 むしろその逆だ。

『あの佐為』が手加減すれば負けると判断したから手を緩められなかったのだ。

 

 あの時点でそれほど佐為に迫った塔矢が半年間打倒ヒカル……いや。打倒佐為を目標にその牙を磨き続けてきた。

 そんな恐ろしい事実を今更ながら認識して、ヒカルは背後を仰ぎ見た。

 

(佐為。……勝てるよな?)

 

『さて、どうでしょうか。私はこの半年間でヒカルとあかりの指導に力を入れてきましたが、彼はその間ずっと己の力を磨いてきたハズです。楽しみですね』

 

(楽しみっちゃあ楽しみだけど、負けるのだけはごめんだぜ、佐為)

 

『ええ、もちろん。やるからには勝つつもりでやりますよ、私は』

 

『メラメラ』と闘志を燃やす佐為の姿にヒカルは少しだけ余裕を取り戻して苦笑いした。

 

 そして、係員の男性からの声が掛かる。

 

 

「大会を始めます。1回戦男子。川萩中・対・田井中。葉瀬中・対・岩名中。海王中・対──」

 

 葉瀬中の1回戦は順当に勝ち上がった。

 3・0で快勝での勝利。

 当然という顔をする加賀。

『ホッ』と一息を吐いた筒井。

 この後に控える塔矢を見据えて少し固い表情のヒカル。

 三者三様の様子を見せる。

 

 そして、塔矢アキラ。

 彼は1回戦では非常に丁寧な碁を心がけていた。

 少しでも、高ぶる気持ちを鎮めるために一手一手に時間を掛けて打った。

 付け入る隙を与えれば、途端に首が胴から離れるだろう。

 アキラにはその確信があった。

 積み重ねたものをぶつければ良い。

 そう思いながらも心とは不思議なもので、気にしないようにしよう、と思えば思うほどに強く意識してしまう。

 

 掌を固く握りしめる。

 今日こそは、進藤ヒカルに勝つ。

 その一念を掴むように。

 

「随分と一手一手がゆっくりだったな、塔矢」

 

(ユン)先生。……少し気持ちを落ち着かせようと、思いました」

 

「そうか。葉瀬中は3-0で勝ったよ。さすがは去年私たちを下したメンバーだった」

 

「進藤の対局を見られたんですか!? どうでした?」

 

 その返答に尹は苦慮した。

 強かった。

 そう言ってしまうのは簡単だ。

 しかし、ヒカルの碁を再び目にした尹は前回のヒカルがマグレなどではなかったと再確認した。

 つまり、塔矢以外に勝てる者は海王中に存在しない。

 三将になるために退部まで懸けたアキラの判断が正しかった。

 

 伝統を守るため塔矢を大将に任命した、自らの間違いを認める事に否はない。

 王者は堂々としていなければならないからだ。

 だが、他でもない自分が塔矢に厳しい条件を突きつけた。

 そんな自分が塔矢を純粋に応援しても良いものかという迷いが生じた。

 

「……そうだな。キミを三将にした判断は正解だった、と言わざるを得ない。まるで去年の進藤くんを見ているかのような、それほどの対局だったよ」

 

「……では!」

 

「心して掛かった方がいい。いや、私に言われるまでもないだろうが……。それほどの打ち手だったよ、彼は」

 

 緊張感すら伴って、そう告げる先生の姿を見て。

 アキラは『ブルリ』と武者震いが止まらなかった。

 退部のことも既に頭にはない。

 今、アキラの頭の中にあるのは進藤ヒカルのことだけだ。

 彼と三度相見えることが嬉しくて仕方がなかった。

 震えながらも、恐れながらも、塔矢が浮かべる表情には喜色が滲んでいた。

 

「先生。ボクはこの日のために修練を積んできました。必ず、必ず勝利して見せます!」

 

 その純粋なまでに勝利を求める姿は尹の心残りを振り払うのに十分だった。

 応援しよう、心から。

 その気持ちで尹は精一杯の言葉を繋げた。

 

「ああ、彼に勝てるとすれば、それは塔矢。キミだけだ。……初めはキミを大将に任命した者が、こんなことを言うのは筋違いかもしれない。だが、海王中が優勝するためにはキミの力が、塔矢アキラの力が必要だ。──頼んだぞ」

 

「ハイ!!」

 

 勢い良く、戦意漲らせて塔矢は答えた。

 

 そしてお昼の時間となった。

 一人で席に座ったままの塔矢に、海王中学3年のショートカットの美少女である日高がお昼のために声を掛けた。

 

「塔矢、お昼食べないの?」

 

「あ、日高先輩。ボクはちょっと」

 

「そう?」

 

 塔矢に断られて少し残念そうにする日高に、同じく3年の囲碁部の大将である岸本がひっそりと話しかけた。

 

「日高。お昼の前にちょっといいかな。内密で聞いておきたいことがある」

 

「? ええ、いいわよ」

 

 物陰に消えていく二人。

 そしてヒカルはと言うと、あかりとちょうど話していた。

 

「ヒカル、お弁当! みんなで食べよ。葉瀬中は男子も女子も一回戦突破だもん! 次に備えなきゃ!」

 

「おー、おめでと。けど、んー、いや。オレいーわ。わざわざ作ってくれたのに、悪いな」

 

「え。いいって……」

 

 ショックを受けたようなあかりの表情に思いを巡らせる余裕はヒカルにはなかった。

 塔矢を意識してのことだった。

 佐為が負けるとは思わない。

 だが、この半年間で塔矢がどれほど強くなったのか。

 無策で向かってくる奴じゃない。

 きっと腹案(ふくあん)がある。

 純粋な実力だって向上させただろう。

 

 ヒカルも強くなった。

 だが、佐為にはまだ勝てない。

 もし塔矢が佐為に勝ってしまうようなら。

 あるいは、さらに隔絶とした才能の差を見せつけられてしまったら。

 

 そう考えてしまって、とてもではないが食事は喉を通らないだろう、と思っての行動だった。

 考え込みながら当てもなく海王の校舎を歩けば、とある会話が耳に入った。

 

 

「──岸本くん話って。もしかして、告白とか?」

 

「バカなことを言うな、日高」

 

「あはは、ごめんごめん。塔矢がイジメにあってたことでしょ?」

 

「……塔矢は確かに部では浮いた存在だったが、やはりホントだったか」

 

「ええ。三人がかりで塔矢に目隠し碁をさせて、恥をかかせるか、囲碁部から追い出すかしたかったらしいわ。私がたまたま止めに入ったんだけどね、運が良かったわ。私も、塔矢も」

 

 強気な姿勢を漂わせながら、日高が続けた。

 

「でもね。仮にどんなに恥をかかされたって、塔矢は囲碁部を辞めなかったでしょうね。彼ってアレでいて頑固なところがあるから」

 

「ふっ、だろうな」

 

「ただただ、進藤ヒカルのためにね。……対局を見たわ。女子の部とは少し時間がズレてたから見れたんだけど、途中までね。……塔矢があそこまで執着するのもわかる気がするわ」

 

「何? オレは残念ながら間に合わなかったが、それほどだったのか?」

 

「もちろん。……すごく、すっごく強かったわ。対局相手がそこまで強くなかったから、正確なところまではわからないけれどね。恐らく塔矢と5分の実力。だけど、希望的な事を言えば塔矢の方が有利かしらね。彼ってなぜか妙に古い定石を使っていたから、あれじゃあ序盤にかなり追い込まれそうなのよねぇ。……でも、その実力は十分。終盤以降のオオヨセ(終盤戦の初期で十目以上の大きいヨセ)が凄まじかったわ。──進藤ヒカル、塔矢アキラ。きっと、これから先の時代を担う二人なんでしょうね。嫉妬しちゃうわ」

 

「キミらしくもない。竹を割ったような普段の振る舞いからは想像もできない言葉だね」

 

「あら、私だって乙女なのよ? 少しナイーブな気持ちになることもあるわよ」

 

「そうだな、失礼した」

 

「いいわ、他ならない岸本くんだもの」

 

「……塔矢は、今回の大会。(ユン)先生に逆らってまで、進藤と同じ三将になった。今日限りで囲碁部をやめることを条件にして。自分の身勝手さを承知しているものだから、塔矢も辛かっただろう。心中を察するよ。──それでもなお、『一度きりでいい!』と尹先生に食ってかかった塔矢の顔。今でも鮮明に思い出せるよ」

 

「……それ、ちょっと見たかったかも」

 

「おや、日高が年下好きだとは思わなかったよ」

 

「あら、乙女の秘密を暴こうなんて、いけない人ね。岸本くん」

 

「いや、すまない。──だがまァ何にせよ、塔矢が居なくなれば囲碁部も落ち着くだろうが」

 

「そんなこと言って、岸本くんが一番残念がってるくせに。知ってるのよ? 塔矢と誰よりもあなたが打ちたがっていたってね。立場上どうしても難しいってボヤいてたんでしょ?」

 

「参ったな、誰に聞いたんだ?」

 

「内緒。さ、そろそろ戻りましょう。もーお腹ペコペコよ」

 

「そうだな、早めに昼食を済ませてしまおう」

 

「ええ、そうね」

 

「途中の自販機でよければ、何か買おうか」

 

「あらいいの? 気が利くわね」

 

「貴重な時間をもらったせめてものお礼だよ。『いちごオレ』でよかったかな?」

 

「……あなたも中々の情報網を持っているようね? 岸本くん」

 

「ははは、キミほどじゃないよ、日高」

 

「はははは」「うふふふ」

 

『仲良く』笑い合う男女を見送りながらも、ヒカルの内面は塔矢のことでいっぱいだった。

 

「イジメねえ、まあ当然かもな。アイツ、自分のことしか考えてねーから。……それくらい、佐為のことを追いかけてんだ」

 

『三将だって、頭を下げてなったんですね。あの子なら当然、大将でしょうからねえ』

 

「そこまでしないよ、フツー。お前のことしか頭にないんだ、アイツ」

 

 それを改めて自覚して、ヒカルは少し寂しいような気持ちになった。

 少しだけ、ほんの少しだけ、自分で打ちたいとも思っていた。

 佐為には悪いと思いながらも、ほんの少しだけ。

 

 だけど、そこまでして佐為を追いかけている塔矢のことを知ってしまえば、もうそんなワガママなんて言えない。

 

 ヒカルはそれでも伸び伸びと笑った。

 他でもない、佐為を信じているから。

 

 佐為はすごいヤツだ。

 いっぱい、いっぱい、コイツに打たせてやろう。

 そう思って『ニヤリ』と挑発的な笑みを佐為に向けた。

 

「佐為。負けらんねえ理由が増えたな。ここまで追っかけて来たんだ、生半可な打ち方じゃ塔矢は納得しねーよ、大丈夫か?」

 

『ええ、心して掛からねばならないでしょうね。彼のこれまでの努力に応えるためにも、『私たち』も全身全霊で立ち向かいましょう。さぁヒカル、準備はいいですか?』

 

「ああ」

 

 佐為はヒカルに深い感謝の念を抱いていた。

 打ちたい欲求を堪えている事を察していたから、尚のことその感謝は深かった。

 

 ヒカルは佐為のことを尊敬して、信じていた。

 始めはただ強さに圧倒された。

 対局を重ねる都度、次第に尊敬に変わった。

 そして。

 あの海王戦での素晴らしい一局を契機に、純粋な凄いという感想が良い変化を促して、気の置けない親友のような存在になっていた。

 それこそ思わず『ポロッ』と言葉を漏らしてしまうくらいには。

 

 ヒカルは一歩を踏み出していた。

 色々な意味で重要な『神の一手』に近づくその一歩を、人知れずに。ヒカル自身ですら気が付かないうちに。

 

 

 

「──第二回戦を始めます。海王と葉瀬。阿由と田井。浜地と──」

 

 ヒカルは向き合っていた。

 対面に腰掛ける、海王の三将、塔矢アキラと。

 

 アキラは真っ直ぐな瞳でヒカルを見つめている。

 ヒカルも、その瞳を真っ直ぐに見返した。

 

 佐為の代わりになる。

 そのつもりで、力強い瞳を返した。

 

「──始めてください」

 

 そして、三度目の戦いの火蓋が落とされた。

『四人』にとっての、運命の一戦が始まる。

 

 そして塔矢アキラは初めて目にするだろう。

『ヒカルの碁』を。

 

 

 



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11話

約7000字
第一部・最終話


 

 

 

「──やっと、やっとキミと対局できる」

 

 真っ直ぐにヒカルの目を見つめながら、アキラはそう告げた。

 待ち望んでいた。

 長らく待った。

 そして、全てはこの日のために。

 

 そんな意志を感じさせる澄んだ瞳に射抜かれて、ヒカルは固唾を飲んだ。

 

 アキラは碁笥(ごけ)を開き、そして。

 

 ──碁笥(ごけ)の蓋を床に落とした。

 

 驚くヒカルを余所に、アキラはゆっくりとした動作で屈み込んで蓋を拾い上げる。

 机の上に蓋を置くアキラの手は震えていた。

 

 緊張。

 そして『恐れ』による震えだった。

 武者震いなどではないことは、アキラ自身が一番分かっていた。

 ヒカルを前にして、あまりにも巨大なカベを感じた相手を前にして、アキラの身体は震えという形でその内面を表していた。

 

 深呼吸を一つ。

 アキラはいつもの、あの真剣な眼差しで挑む。

 震える身体は想定通りだった。

 だから、恐るるに足りないと、今までの全てをぶつけるつもりでアキラは口を開いた。

 

「お願いします」

 

 ヒカルも応える。

 佐為の代わりに、目の前の同い年でありながら才能溢れる存在に気圧されながらも、しっかりとした口調で。

 

「お願いします」

 

 三度の邂逅。

 そして対局。

 

 佐為の黒番。塔矢アキラは白番。

 コミは5目半。

 運命の一戦が始まろうとしていた。

 

『いきますよ、ヒカル』

 

 佐為は指し示す。

 この、若き才能を受け止めるために、何より自分のワガママを聞いてくれるヒカルに勝利を捧げるために。

 全身全霊を以って勝利すべく。気迫を漲らせた。

 

『右上スミ 小目』

 

 ヒカルが鋭く打ち据えた。

『パチリ』と鳴る碁盤。

 

 その音を合図に三度目の戦いの火蓋が切られた。

 

 ヒカルが打った直後。

 アキラは碁笥(ごけ)に手を差し入れて素早く自らの一手を盤面に放った。

 あまりにも早い一手。

 

 二度目の対局では一手目に3分を掛けた事を思えば早すぎるほどだ。

 恐らくもう何度も佐為との対局を頭の中で試みたのだろう。

 身が引き締まる思いでヒカルが次の一手を打ち込んだ。

 

 一手一手の応酬が行われる。

 真剣な対局は時が過ぎるのも早かった。

 ヒカルは佐為の手の意味を推測しながら、そしてアキラの一手の意味を考えながら、冷静に俯瞰して見ていた。

 

 打っている者にしか一番深い所は見えない。

 

 ヒカルは当事者として打ちながら最もニュートラル、中立的な位置に立つことが出来ていた。

 現在のヒカルはまだまだ力不足ではある、しかし。

 違った未来では、『とある真剣勝負』において佐為すら、塔矢行洋すら気がつかなかった一手を見極める才能の原石を持っている。

 

 淀みなかった佐為の手が止まった。

 長考。

 佐為が長考するのは珍しい事だ。

 

 ヒカルは自分なりに考えてみる。

 左上隅の戦いは最も盤面の中で多くの手を使っていた。

 三線(盤面の端から数えて3本目の線のこと)に置かれた佐為の黒石を覆うように、アキラの白石が伸びている。

 絶妙なバランスで分断されており、佐為の三線に置かれた黒石は中央との合流を果たさせない。

 

 だが、かといって佐為の黒石が死ぬこともないだろう。

 三線に伸びる布石を崩すのは非常に困難を極める。

 三線のメリットの一つに地が安定していることが挙げられるからだ。

 ましてや番手は佐為である。

 アキラがもし無理に地を荒らそうとすれば忽ちに返り討ちに遭うだろう。

 

 故にこの局面は硬直している。

 しかし、碁の面白いところは全ての盤面がつながっている事だ。

 中央で戦っていたはずが、気が付けば右辺、左辺に重大な影響を及ぼす事などままある。

 硬直したのは現時点で重要な一手が別の局面にあるというだけである。

 

 次の舞台となるのは、右上隅。

 先番の有利を用いて中央に構える佐為の黒石を、アキラがどう崩していくか、という戦い。

 

 佐為の長考はどのように中央の地を作るのか。あるいは右上隅の塔矢の地を荒らしに打って出るのか。

 恐らくはその検討だ。

 

 ここまでの戦況は、ヒカルの見立てでは佐為の分が悪い。

 押されている印象すら受ける。

 半年前は成す術なく敗れたアキラが、佐為と互角以上に渡り合っているという事実。

 そんな事実に鳥肌が立った。

 あまりの成長速度に対する驚愕だった。

 

 そんなヒカルにアキラが話しかけた。

 

「……少しは成長しただろうか、ボクは」

 

「……ああ。お前、強くなったなぁ」

 

「あ、え。う、うん」

 

 聞かれたので、思った事を答えたら急にアキラが赤面し始めたので思わずヒカルが恥ずかしげに叫んだ。

 

「なんだよ、もう!」

 

「いや、ごめん。素直にそう言ってもらえるとは思わなくって……」

 

「そこ! 私語は慎みなさい」

 

『す、すみません』

 

 ヒカルもアキラも、それぞれ違った恥ずかしさで赤面しながら盤面に向き直った。

 

『ヒカル、塔矢と仲良くするのも良いですが、これは真剣勝負ですよ? まったくもうっ』

 

(わ、わりー佐為。いや、そんなつもりはなかったんだけどさ……、うん)

 

『集中してください。厳しい戦いが始まる予感がします。──いきますよ、ヒカル』

 

(ああ、頼んだ)

 

『13の四 ツケ』

 

 意識を新たにヒカルは一手を放った。

『本来』の流れなら、ヒカルはここで佐為の指示を振り切って自分の一手を生み出した。

 けれど、ヒカルはそうしなかった。

 同じ手を思いついていたが、ヒカルは打たなかった。

 

 それはヒカルの碁に対する意欲が薄れた、という意味ではない。

 むしろ逆だ。

 碁に対する興味、意欲は佐為に出会った頃と比べて格段に増している。

 

 だから、その理由を一言で言うならば『信頼』だった。

 佐為の強さを知って、それを時間をかけて理解した。

 

 佐為は次にどんな手を打つのだろう。

 塔矢は、どういった手を返してくるのだろう。

 誰よりも間近で対局を感じることが出来る、誰よりも近い距離で観戦できる特等席。

 肌で感じる生の真剣勝負の気配。

 自分に向けられる、塔矢の闘志。

 佐為から放たれる、論理の究極とでも表現すべき美しい一手。

 

 そしてその一手を積み重ねて、塔矢との間で生み出される、美しい棋譜。

 

 まるで自分の中を経由して生まれるそれらの積み重ねに、ヒカルは『ドクンドクン』と脈打つ心臓のような鼓動を感じていた。

 棋譜に通っている血を、息遣いを、感じるような心地だった。

 

 ヒカルは思った。

 ああ、本因坊秀策も、こんな気持ちだったんだろうな、と。

 好きな碁を、誰よりも素晴らしい棋士の碁を最前線で感じることができる。

 

 虎次郎は優しい人だったのかもしれない。

 けれど、何より佐為の碁が大好きだったんだろうとヒカルは思った。

 

 

 

 

 盤面は進む。

 終局に向けて、美しい一手が応酬され続けていた。

 

 しかし。

 美しい石の流れとは裏腹に盤面では凄まじい攻防が繰り広げられていた。

 

 そして。

 ──アキラは渾身の出来栄えに拳を握る。

 

 佐為は、額に汗を垂らした。

 

 

 

 佐為が古い定石を使い、アキラが最新の定石を使っている状況。

 それは果たし合いに例えるなら、刃渡りの見えない刃をアキラだけが使っている状況に近い。

 佐為がその刃渡りを見極めるにはその身を引き裂かせて確かめる他なく、それはつまり序盤での優位を塔矢アキラに引き渡すことに他ならない。

 

 そしてこれまでの2度の対局でアキラは佐為の定石をしっかりと確かめた上で対策すら練っている。

 

 それらの相乗は火縄銃で武装して堅固な陣を敷いた安土桃山時代の若き将(塔矢アキラ)の籠る本陣に、馬と弓と歩兵のみで攻めかかる平安時代の源義経(佐為)が如きハンデだ。

 

 経験と知恵では攻め手である佐為が勝る。

 しかし、それをアキラは最新の技術で補っており、なおかつ研究し尽くして佐為に応じる対処法を用意している戦況。

 

 戦略で完敗しているにも関わらず、戦術を以って挑み掛かる愚か者と言わざるを得ない立場。

 それが佐為だ。

 挑む事を止めて、守りに入ることは出来ない。

 定石で負けているということは、最適化がなされていないという意味である。

 つまり、ここから先、佐為が守りの一手を打てば打つほどアキラが有利になる。

 無為な時間は佐為の敵でもあった。

 

 巧みな用兵と戦術を以って延命を続けて隙を探す佐為。

 そうはさせじと、有利を保っているうちに決定的な敗北を刻むため采配を振るうアキラ。

 

 雷の如き音を発する筒に兵を失いながらも、一度下がって竹盾を用意して再度挑むような分の悪い勝負。

 それが成り立っているのは佐為の類稀な読みと打ち回しによるものだ。

 

 しかし、それでもジリジリと兵を失い不利になるのは佐為である。

 機を待たねば勝てぬ、そう判断しながらも差が広がってゆくのを歯噛みしながら耐えるしかない。

 

 ──我々の現代。

 2022年。

 AIが台頭を果たした時代では、2017年よりも以前の定石は一変している。

 たったの5年で、定石が覆ったのだ。

 今までの悪手が好手とされるほど、変遷の激しい混沌とした時代だった。

 そして2017年に人類が『DeepLearning』によるブレイクスルーを果たしたAIに完全なる敗北を喫して5年。

 この5年で培った定石があれば、『人類』が5年前に完全敗北を喫した、そのAIにも勝てるだろう、と言われるほどに、定石の持つ価値は飛躍的に進化している。

 

 それが140年。

 AIは存在していないが、あまりにもその時間の隔たりは長い。

 学べば一瞬で我が物とする『最強の棋士』も、知らなければ手の施しようがない。

 この半年をヒカルとあかりの指導に充てたのが強烈な打撃として戦況に響いていた。

 加賀や筒井と打つ際にも導くことに重きを置いたが故の不利だった。

 何よりプロとアマでは基準値が格段に異なる。

 プロとの練磨を経ているアキラの一手は限りなく鋭い。

 

 佐為は序盤から中盤初期にかけて厳しい状況に追い詰められようとしていた。

 

 

 その流れの中でヒカルは一手一手を積み重ねる。

 厳しい状況はヒカルも理解していた。

 そこら中に白石で切られた死にそうな黒石の塊が点在する中で、何とか流血を最小限に止める佐為の打ち回しに手に汗を握りながら、何も口は挟まずに一手を重ね続けた。

 佐為なら何とかする、そう信じていた。

 

 けれど。

 ふと気がついてヒカルは手を止めた。

 佐為の指示する一手。

 

 それよりも面白い一手を、ヒカルは見つけてしまった。

 最善ではない。

 それは佐為の指示する一手だろう。

 実利(地を作る事を優先する考え方)は定石で劣る現況で求めれば致命的な崩壊を招く。

 後手に回っては実利は得られないからだ。

 故に厚み(将来の利得を重視する考え方)を増すことに専念すべきという佐為の判断は正しい。

 今は苦しくともオオヨセにまで持ち込めば読みの差で挽回する芽が生まれるからだ。

 劣勢ながらもアキラより実力が上手である佐為の挽回の芽は逆に言えばそこしかない。

 ヒカルは正しくその形勢を理解していた。

 

 だが、どうしても好奇心に抗えずにヒカルは佐為に伝えた。

 『ポロッ』と溢してしまうほどに佐為の事を信頼していたから。

 

 これが運命の契機となった。

 

 ヒカルは『自分で』打たなかった。

 佐為に任せた。

 その心境の変化はヒカル自身でもわからない。

 打ちたいという気持ちは胸の中に秘めている。

 だというのに、見つけた輝くような面白い一手を自分で打たなかった。

 

 様々な変化と積み重ねが齎した偶然でありながら、そうなるべく積み重ねた必然だった。

 

 ヒカルの思う一手を佐為が熟考する。

 非常に面白い一手だった。

 それこそ囲碁が大好きな自分が、この一手を使ってどのように展開させていくのか、強い興味を惹かれる程に。

 

 二人の案を束ねて打つ。

 卑怯であるという思いが脳裏に過らなかった訳ではない。

 だが、それ以上にヒカルの示した一手は魅力的に映った。

 勝てる可能性があるからではない。魅力的なのは、佐為にはない発想だったからである。

 むしろ、その手を打てば勝てる可能性はより低くなるだろう。

 ハイリスクハイリターンの一手である。

 

 その一手は大きな危険を孕んでいる。

 面白い一手ではある。

 しかし、たった一つでも読み誤れば、アキラを誘導し損ねれば、数十手後には佐為の敗北が決定付けられてしまうほどに危うい手。

 

 勝敗は重要だ。

 勝つべくして打つべき、という考えは佐為の中にもある。

 ましてや今回は黒を握っている。

 佐為は今まで黒を持って負けたことがない。

 しかも、いまは形勢が不利。

 とてもではないが面白い一手を模索できる状況ではない。

 

 強烈な不敗という自負と、面白い碁を打ちたいという欲求。

 それを自身の中に感じて佐為は微笑んだ。

 

 比べるまでもない、と。

 

『ヒカル、あなたの示した一手。私が使っても良いでしょうか?』

 

 佐為の選択は面白い碁を打ちたいという欲求に従うことだった。

 今までにないヒカルの視点すら自身の中に昇華して、佐為は新たな一手を打ち出した。

 

 それは初めて打つ碁。

 佐為とヒカルが本当の意味で力を合わせて打った、最初の一手だった。

 云うならば、これは『ヒカルの碁』。

 悪手を好手に変貌させる一手。

 

『2の十三』

 

 思慮の外にある一手。

 一見は悪手に見える一手だった。

 思わず『ハッ』としてアキラは手を止めた。

 長考すべきか。

 そう思うが、流れのままに打つべきとアキラはすぐさま次の一手を返した。

 

 そして、その一手から数手目。

 先ほどは無意味と思えたその思慮の外にある一手が、強烈な存在感を放った。

 コウを狙った一手であると、ようやくその時に気がついた。

 実利を狙えず、厚く厚く打っていた各所にある佐為の布石がここに来て活きる。コウ当てを作れる布石は十二分に用意されていた。

 

(こ、これは……!)

 

 ハメに近いが、それだけではない。

 ヒカルの発想を実現可能なまでに落とし込んだ佐為のウデがあってこそではあるが、その一手は今まで不利であった一局面を覆しかねない程の一手に変貌した。

 アキラの陣地内に飛び込んだ活路がないように思われた一手が活きる。

 

(くっ! このコウ争いは負ける……! 先ほどの悪手と思わされた一手で8目ほどボクが損をした……! 序盤に作った差が、これでもう。いや、それでもまだまだボクが有利! だが、オオヨセ(終盤戦の初期で十目以上の大きいヨセ)のことを考えれば戦況はまた五分になった……!)

 

 細かすぎる読みを求められる未知の領域へと突入する、接戦と呼べる様相を呈し始めていた。

『ヒカル』の『悪手を好手に変える』一手でリズムを崩され、差はそれ以上に広がらない。

 逆に佐為が息を吹き返してオオヨセに向けて着々と一手を重ね続ける。

 

 アキラは未だ成熟していない。

 故に失着なく完璧に盤面を進めることは難しい。

 だが、それでも序盤と中盤に掛けて作った優位は大きい。

 少しずつ優位を削られながらも必死で応戦する。

 

 より真剣に、より集中して両者譲らない一手を打ち続ける。

 

 そして。

 盤面は半目を争うコヨセに入る。

 整地を終えて、両者の地の数を比較する。

 

 

 コミを入れて。

 

 

 ──『黒』の2目半差での勝利。

 

 つまり、進藤ヒカルの、佐為の勝ちである。

 

 持ち時間を、両者共にほぼ全て消費した上での大接戦。

 周りには対局を既に終えた者達や大会の係員で溢れ返っていた。

 口々に賞賛や驚きの声が溢れる中で、塔矢は。

 

『ホロリ』と涙を流した。

 

 ただ無言で、俯いたまま。

『ボロボロ』と落ちる涙が止まらない。

 

 激昂する訳でもなく。

 悔しさに震えるでもなく。

 ただただ、静かに『ボロボロ』と涙だけを流した。

 

 確かに届いたと、超えられると思った瞬間があった。

 超えられないカベに手をかけた瞬間があった。

 途中まで、塔矢が勝っていた局面すらあった。

 だが、結果は敗北だ。

 

 誰も声をかけられない。

 そんな状況の中で、唯一ヒカルだけが動いた。

 かつて言えなかった言葉を伝えるために。

 

「塔矢。──強いだろ、オレ」

 

 勝ち気に、ともすれば空気が読めないとも言えるタイミングでヒカルはそう言った。

 アキラは顔を上げた。

 そこにはまるで太陽のような笑顔で笑っているヒカルが居た。

 涙に濡れた顔を袖で拭って、悔しそうに、けれど憑き物が落ちたような顔で苦笑いした。

 

「ああ、君は強いよ。でも、まだ『たったの』三回負けただけだ」

 

「そーだな」

 

 この負けず嫌いめ、と今度はヒカルが苦笑いした。

 

「ズルい、ズルいよ。ボクはこんなにキミと打ちたいのに、もう打つことが許されないなんて」

 

『ゴシゴシ』と顔を拭って、鼻を『ズズズ』と鳴らして目を真っ赤に腫らしながらも、塔矢はいつものあの澄んだ瞳でヒカルを見つめていた。

 

「……ボクはもう、この大会に出る事は出来ない。今回限りという約束で、先生に三将にしてもらったから。……だから、進藤。ボクは先に行くよ。これ以上厳しい環境なんて、それこそもうプロしかない。キミならいずれこっちの世界に来るだろう? ボクよりもずっと強い人たちがいっぱい居るんだ。お父さんや、緒方さん、桑原さんや倉田さん。キミの知らない強い人たちが大勢いる。……ボクは、一足先にその世界に行く。キミを追いかける事は止める。でも、いつまでも待ってる。キミがプロ棋士になって再び対局出来るその日まで、ずっと」

 

「どうかな、オレはプロにならないかもしれないぜ?」

 

「なるさ。キミなら絶対に。──だって、このボクのライバルだから」

 

 相変わらず、囲碁の事になると自分のことしか考えていない。

 身勝手だけど、どこか憎めない物言いにヒカルは苦笑いした。

 

 2人の少年が作り上げた棋譜は長く残るだろう。

 まさに全身全霊をぶつけ合って作られた美しい棋譜。

 きっと、アキラも、ヒカルも、佐為も。

 

 そして。

 この対局をまるで宝石箱を見つめるように眺めていた藤崎あかりも。

 

 この『四人』は事あるたびに思い起こして、この対局に思いを馳せるだろう。

 140年も前の棋譜が残っているように、もしかしたら、2人の若き天才が作り上げた記録として、この棋譜も後世に渡って残り続けるかもしれない。

 

 色々な人の目に、触れるかもしれない。

 

 だが、そんなことは今の彼らには関係のない話だ。

 より神の一手に近づくために。

 少しでも前に進むために、ただただ、目の前だけを見つめているから。

 

 

 ヒカルは決めた。

 佐為とアキラの対局を通して感じた煌めくような感覚を信じることにした。

 今のヒカルでは発想があっても佐為のように打つことは出来ない。

 佐為は物凄く強いがヒカルのような柔軟な発想力は持っていない。

 

 この対局を経て、ヒカルは自分の役割を理解した。

 

 本因坊秀策のように。

 佐為に打たせながらも、けれど、秀策の焼き直しではつまらない。

 だから、ヒカルも一緒に打ち続ける。

 

 

 そして。

 いつか『二人で』神の一手に近づくのだと、ヒカルは決めた。

 

 ヒカルは振り返る。

 そこには変わらずに佐為がいる。

 不思議そうに、どうしました? とでも言いたげに首を(かし)げている。

 きっと、佐為は消えないだろう。

 

 二人で、神の一手を目指すのだから。

 

 

 ──『神の一手』

 

 ──『第一部・完』

 

 

 

 

 To Be Continued.

 

 

 



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第二部
第1話


約4900字



 

 

 

 駅前の碁会所。

 受付の市河はお客の対応をしていた。

 お茶を汲んだり、レジ打ちをしたり、指導碁の案内や初めてきたお客が打つ相手の選定などが主な業務内容だ。

 今は来店した常連客の受付業務をしている。

『フンフン』と鼻歌を歌いながらご機嫌な様子だった。

 

 

「──どうしたの、いっちゃん。随分とご機嫌だね」

 

「やっぱりそう見える? ふふふ」

 

「あ、ああ」

 

 少し赤に染まった頬に手を当てて、思い出すようにそう言う市河の姿はちょっと関わり難い。

 なんだか、話しかければ最後、理由を聞くまで止まらない暴走列車を思わせる仕草だったから。

 常連客は危険を察して何も聞かずに受付を離れた。

 

 

 そこに犠牲者1号が現れた。

『塔矢アキラ』のことを以前から先生と呼び、指導碁を受けていた広瀬だった。

 良い人ではあるのだが、少し『のほほん』としている。

 

 しかし、今日は打って変わって興奮したような様子だった。

 入口を潜るなり、市河の普段と少し違う様子にも気がつかないくらいに急いで、一刻も早く確認したいとばかりに口を開いた。

 

「ちょっとちょっと、今朝室井さんから聞いたんだけど! ホントなのかい? 市河さん! アキラ先生がプロ試験受けるって! 私はそれを聞いていてもたっても居られなかったよ!」

 

「あら、広瀬さんこんにちは。ええ、本当よ。アキラくんから、私も聞いたわ」

 

「ホントなんだ! うわーっ、ビッグニュースじゃない! これは来年から囲碁界が楽しみだ! 何せずっと前からプロ並みって言われてたのに、アキラ先生の希望でプロになってなかったからね! いやー、それにしても突然だね! てっきり今年も受ける気がないと思ってたのに」

 

「ホントにそうよね。でも、アキラくん、最近スゴく近寄りがたい雰囲気あったじゃない? それがね、もうまったくゼロよゼロ。昔に戻ったみたいに、いえ、それよりもずっと接しやすくなったの」

 

「へぇ何かあったのかな、アキラ先生」

 

「ふふふ、いいわ。広瀬さんには話してあげる」

 

「え! 市河さん、事情を知ってるの!? ぜひ聞かせてよ!」

 

『ワクワク』とした面持ちでそう聞いた広瀬に、周囲の人たちも聞き耳を立てた。

 聞きたいとは思っていた。

 ただ、自分が犠牲になるのは避けたいとも思っていただけで。

 

 そんな思惑で今の今までずっと待っていたものだから、周囲の耳も興味津々だった。

 

 得意げな市河が話し始めたのは、進藤ヒカルを追いかけた塔矢アキラの話だった。

 1年ほど前の敗北から始まって、修練を経て三度の再戦。

 そして敗北。

 

『悔しいけど、でも、確かに差は縮まっていたんだ。ボクの努力は間違っていなかった。彼というカベを超えるために必要なものも理解できたから、ボクは進むよ、市河さん。彼のライバルとして、より相応しい打ち手になるためにもね』

 

 堂々と言い放ったアキラの瞳には少年特有の輝きが含まれていた。

 それを思い出して市河は嬉しそうに笑った。

 

 そしてその時に提案して了承を貰った、長い長い話が始まった。

 

「それでね、広瀬さん。アキラくんったら──」

 

 ただその話はあまりにも長いので、割愛する。

 終始頬を赤く染めながら、10分以上にも渡るその話の最後に、市河はそれだけ言えば大体の話の内容がわかる言葉を続けた。

 

「『市河さんにはこれまで通り呼んでほしいよ。碁会所に行きづらくなっちゃうから』って言うの♡──イヤ〜〜ン♡もちろんよ、アキラくん〜〜♡♡♡」

 

「へ、へぇ。そうかい、そりゃよかったねえ」

 

 ようやく口を挟むことができた広瀬のその言葉に、市河の説明はループした。

 

「そうなの! アキラくんったら──」

 

 あ、これ終わらないやつだ。

 

 ようやくその危険に気がつき、思わず遠い目をした広瀬を尻目に、市河の話に聞き耳を立てていた周囲の人たちはそそくさと盤面に向き直った。

 

 触らぬ神に祟りなし、である。

 

 

 

 

 

「──佐為。お前最近、ちょっとワガママじゃないか?」

 

『そんなことありませんよ! ヒカルが言ってくれたんじゃないですか、いいもん経験させてくれたから、好きなことさせてやるって! だから、こうして筒井さんに誘われたプロの大盤解説を見に来たのに、ヒカルってば途中で席を離れちゃうんだから! もうっ!』

 

「あー、悪かったって。だって、塔矢と佐為の碁に比べたらさー。あんまり面白くねーんだもん」

 

『それは、贅沢なこと言いますね、ヒカルも。けど、きっとそれだけじゃありませんよ。あの者の闘志とでも呼べるものに感化されて、きっとそれがヒカルは楽しかったんだと思います』

 

「……そーかもな」

 

 あれから、風の噂で塔矢がプロ試験を受ける、と聞いた。

 宣言通りプロになろうとする塔矢に相変わらずだと苦笑いしながら、けれどヒカルにプロになる気はほとんどなかった。

 今は囲碁部で打っている方が楽しいから。

 そう、自分の気持ちを誤魔化していた。

 

『でもでも、ホントに碁会所にも顔を出さないんですか? ちょっとくらい、塔矢と打ってもいいと思いますケド……』

 

「あのなー、あんな堂々とプロで待つ宣言した奴のとこに、どの面下げて院生でもないアマチュアのオレが打ってくれ、なんて言いに行けるんだよ! そりゃ断られやしないだろうけど、恥ずかしすぎるだろ! オレはそれがやなの!」

 

『もうっ! ヒカルの方がずっとワガママじゃないですかっ』

 

 やいのやいのと騒ぎながら、ヒカルはロビーに出た。

 

 色んな人と打ちたい気持ちはある。

 佐為がどんな碁を打っていくのか、興味がある。

 だけど、もしそうなれば。自分が夢中になってしまえば、きっと囲碁部のことが疎かになってあかりとの距離が開いてしまう。

 そんな事を、無意識に、漠然と恐れていた。

 そう思ってヒカルは碁会所にも足を運べなかった。

 

 恥ずかしがり屋なヒカルがもしそんなことを自認していたら、あまりの恥ずかしさに囲碁部にも顔が出せなくなるかもしれない。

 恋心というにはあまりにも淡い、甘酸っぱい気持ちだった。

 

「お、あっちではパソコンで碁打ってら」

 

 少し興味を惹かれて、ヒカルは足を運んだ。

 そこには小学生くらいの子供がいて、パソコンに向き合って囲碁を打っていた。

 

 その様子を見るヒカルに係員の男性が話しかけた。

 

「お父さんか誰かと来たの?」

 

「ううん、友達」

 

 ヒカルも気がついて、対局画面を見ながら答えた。

 その返答に少し驚きながら係員の男性が続ける。

 

「へェその歳で友達と? 珍しいね。ねぇキミ、家にパソコンある?」

 

「あー、ないです」

 

「そっかぁ。じゃあ、インターネットとかにはキョーミないかな? あはは」

 

 男性は誤魔化すように笑ったが、ヒカルは単語の一つが気になって問いかけた。

 

「いんたーねっと?」

 

「うん。ホラ、これ。今この子がちょうどインターネットで対局してるんだよ。この子が黒で……、ホラ、今相手が白石を打ったろ? 次にこの子が黒石を打つ。ね?」

 

 そんなことが出来るのか、と感心していたが対局内容がちょっと酷かった。

 次の瞬間に打った男の子の一手にヒカルが顔を引き攣らせた。

 あんまりの大ポカだったものだから『げっ』と思った。

 

(おいおい、そんなとこ打ったら大石取られるぞ。あ、ホラ取られた。ったく何やってんだよ)

 

 子供はそのことが頭に来たようで『バン』とパソコンを叩いてゲームを中断してしまった。

 ヒカルが『あっ』と言う間もなくそのままどこかへと走り去っていく。

 子供の悪い面を見せられたような光景だった。

 

「ああっ! 何するんだ! これはTVゲームじゃない! 相手がちゃんといるんだぞ!! ああもう! すぐ謝らなきゃ、えーっと『すみません、勝手にゲームを中断し──』……あ。先に書かれた……」

 

 係員の男性がそう言うので覗き込んでみると、そこには相手が書いたであろう発言が載っていた。

 

『テメーッ! オオイシトラレタカラッテキルナ! バカヤロー!!』

 

「うわーっ、オモシロいね!」

 

「ははは、そう言って貰えてよかったよ、うん。──向こうの人は子供かな?」

 

「子供? コイツ子供なの?」

 

「ああいや、実際のところわからないけどね。このセリフといい、登録名といい、子供じゃないかなと思っただけだよ」

 

「登録名?」

 

「インターネットの中で使う名前さ。ほら、これが相手の登録名」

 

「Zelda? ふーん、確かに子供っぽいかも」

 

「──だけど、インターネットはカオも年齢も本名も表に出ないから、本当のところはわからないんだよ。もちろん、子供も利用するけど……。子供だけじゃなく外国の人だってホラ……、JPNが日本、CHNが中国、CANがカナダ、USAがアメリカ、GERがドイツ、たくさんいるだろう? それに大半はアマだけど、中にはプロの人がお忍びで打ってたりもするんだ。そう考えると、ネット碁も面白いだろ? ネット碁で強くなりすぎて、アマの人が、あなたはプロですか、なんて聞かれる、っていう夢物語もあったりするんだよ」

 

「あはは、それは確かにオモシロそうだね」

 

「まぁ現実的じゃないけどね。ところで、どう? キミもやってみないかい? パソコンがあればどこでも出来るよ。最近はインターネット喫茶も増えてきたし、手順や操作はカンタンで……」

 

 プロとも打てるかもしれない。

 それに不特定多数の世界中の相手と名前を隠して打つことが出来る、というのはヒカルには魅力的に映った。

 そこでなら、ヒカルも打つことが出来る。

 

 詳しく説明を聞いてみれば、ネット碁の中にも段位があって、勝てば勝つほど強い人と打てるシステムになっているようだった。

 それを聞いて、ヒカルは表情を明るくさせた。

 

 碁会所に行く必要もない。

 匿名だから前みたいに塔矢名人に捕まったりすることもない。

 時間の都合も自分に合わせる事が出来て、何ならあかりと一緒に遊ぶことも出来るかもしれない。

 

 そう思ってヒカルは佐為がびっくりするほど熱心にネット碁のやり方を聞き始めた。

 

 

 

 

 

 

「──ワールド囲碁ネット? ここにアクセスすればいいの? でも私、パソコンは出来ても碁のことはさっぱりよ。手伝えないわ、きっと」

 

「大丈夫。対局の仕方はオレ教わってきたから、世界中の人と碁が打てるんだ」

 

「世界中って……キミ英語できるの?」

 

 訝しげに尋ねるお姉さんに、ヒカルが自信満々に言った。

 

「英語なんて出来ないよ。オレ、中学生だよ?」

 

 堂々とそう言い放ったヒカルだが、発言が自慢げに言う内容ではない。思わずお姉さんは苦笑いした。

 

「ああ、うん。そうよね。私の弟もちょうど中1なんだけど、勉強してるのかしら?」

 

「へぇそうなんだ。オレ葉瀬中の1年だよ」

 

 パソコン画面と向き合いながらのヒカルの一言に、お姉さんは『びっくり』と言わんばかりに表情を一変させた。

 

「え、嘘。私の弟も葉瀬中よ。三谷裕輝って言うんだけど、知らない?」

 

「う〜〜ん。中学も結構クラス分かれてるから、ごめん。わかんないかも」

 

「そっかぁ。学校でどうしてるか気になってるのよね〜。あ、そうだ」

 

 そう言って、お姉さんはこそこそっとヒカルに耳打ちした。

 

「今は夏休み中でしょ? その間、ナイショでお金なしでインターネット使わせてあげる。私のいない日はダメだけどね。だから、夏休み終わったらこっそり私の弟の様子見てきてくれない? ちょっと気になるのよね」

 

「えーっと、ウン。そんなのでよければ、全然いいよ」

 

「お、契約成立だね。じゃあ、世界中の人との囲碁を楽しんでね」

 

 そう言って、背中越しに手を振って去っていくお姉さんを見送って。

 ヒカルはさっそくパソコンに向き合った。

 表情は『ワクワク』と輝いていた。

 ヒカルの後ろで佐為も目を『キラキラ』させながらはしゃいでいる。

 

『ねえねえヒカル。好きなだけ!? ホントに!?』

 

(ああ、もう。そう言っただろ? 碁会所は勘弁だけど、このくらいはな。あと! オレも打つからな! ……名前は変えるけど。とりあえずお前のアカウント作るか)

 

 名前は『s』『a』『i』を並べて。

 

 ──『sai』

 

 

 その日から、三谷のお姉さんが居るときはインターネット喫茶に入り浸って、お姉さんが居ない日はあかりと打ったりして。

 ヒカルの囲碁尽くしの夏休みが始まった。

 

 そして。

 世界中がインターネットを通じて、一人の存在に気がつき始める。

 ネット上で生まれた、伝説的な棋士の存在。

『sai』の存在に。

 

 アメリカ。オランダ。中国。韓国。

 国境を超えて世界中にその存在が知れ渡ってゆく。

 そして、国際アマチュア囲碁カップの開幕が間近に迫っている現在。

 様々な思惑を胸に日本に世界中の棋士たちが集まってくる。

 

 その誰もが『sai』という名を心の片隅に秘めながら。

 

 

 

 






お待たせしました。
最短で22日予定でしたが、勢いで書いてしまおうと思います。
隔日更新予定です。
よろしくお願いします。


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第2話

約7800字



 

 

 

 夏休みが始まって、もう2週間以上が経過した。

 ヒカルは今日もインターネット喫茶に入り浸って『sai』として、或いは『hikaru』としてインターネットの海で好きなだけ囲碁を打っていた。

 そんな最中のことだった。

 以前に『ワールド囲碁ネット』を教えて貰った時に聞いた展開が訪れた。

 

『to good! you professional player?』

 

「──おわっ!?」

 

「どうしたの?」

 

「あっ、三谷の姉ちゃん」

 

「あはは、そう言われるとなんか照れ臭いね。で、どうしたの?」

 

「あー、えっと。英語でイキナリ話しかけてきたんだ。どうしたらいい?」

 

「ふーん。──へぇ『アナタは強すぎる、プロですか?』だって。スゴイじゃなーい! もしかして、進藤くんって碁がすっごく強いの?」

 

 少し悪戯っぽく聞いてくる魅力的な年上のお姉さんにも動揺せず、ヒカルは得意げに笑って答えた。

 幸いな事にヒカルはまだ色気より食い気である。

 

「へへっ、まぁね」

 

「あら、生意気ね。返事はしないの?」

 

「しない! しない! んなの恥ずかしいもん」

 

 恥ずかしい。

 それはインターネットに慣れ親しんだお姉さんからすれば、少し不思議な印象を受けた。

 普通は面と向かって言う方が恥ずかしがるのに、自分には得意げに答えて、ネット上では恥ずかしがっている。

 ウブな少年らしいヒカルの姿に微笑みが溢れた。

 

「ふふふ、おかしな子ね。ネット上での方が恥ずかしがるんだから。じゃ、カーソルをここに合わせて『カチッ』と……、返事をしたくない時はこの操作でね」

 

「う、うん。覚えてみる。アリガト」

 

「はいはい、また何かあったら呼んでね」

 

「ウン」

 

 颯爽と仕事に戻るお姉さんを見送るヒカル。

 そんなヒカルを尻目に、初日からずーっと目を『キラキラ』させっぱなしの佐為が、もう楽しくて仕方がないといった様子で着物の袖を『パタパタ』と(しき)りに動かしていた。

 

『ねぇねぇヒカル。不思議ですね、なぜこんな箱で色んな人と碁が打てるのでしょーね!』

 

(知らねーよ。オレに聞くなって。なんかこう、すごい技術なんだよ)

 

『今は人が月に行く時代ですものねぇ』

 

(そうそう。月に行くことに比べたら大したことないって。──お)

 

 ヒカルに目に飛び込んできたのは『ワールド囲碁ネット』を知ったときに見た名前。

 子供かもしれないと係員の人が言っていた『zelda』という名前だった。

 対局が空いていた事もあって、ヒカルはカーソルを『zelda』に合わせた。

 

「よし! コイツと対局だ!」

 

『わーい! 対局対局♡』

 

(楽しそうだな、佐為)

 

『ハイ! それはもう♡』

 

 そこまで喜ばれるとヒカルもインターネット碁を始めた甲斐があるというものだ。

 最初は程々に遊ぶつもりだった。

 しかし、今では『コレ』なしの夏休みなど考えられない。

 

 始めは『hikaru』という自分のアカウントも作って打っていたのだが、ここ1週間近くは『sai』で打っている。

 自分で打つのは楽しいが、それ以上に佐為に打たせていた。

 

 理由はわからない。

 何となく佐為に打たせていた。

 

 言語化の難しい感情ではあったが、仮に名前を付けるなら、やはり『楽しい』になるだろう。

 自分で打つよりも『楽しい』のである。

 佐為が打っているはずなのに、何故か自分が打ったような満足感も残る奇妙な感覚だったが、ヒカルは『楽しければ良いや』と特に深くは考えずに佐為に打たせていた。

 

 ──それは佐為の指し示す場所が、ヒカルが打ちたいと思った箇所と『偶然』にも一致していたからであったが、それが何を意味するのか、この時点でヒカルは気がついていなかった。

 

 ただ一つ言える事は、この出来事がキッカケとなって二人の笑顔が曇る事はないだろう、ということだ。

 楽しく心地良い『この感覚』は佐為とヒカルの味方だった。

 

 

 

 ネット碁の中では弱い者も多い。

 しかし、新しい定石を学び、そして試すには打って付けの場である。

 学んで試す。

 それは囲碁が好きな者にとって垂涎の遊び場である。

 佐為が思った以上に喜んでいる理由の一つだ。

 

 けれど、それよりも大きな理由があった。

 ヒカルがネット碁ばかりやっている理由。

 

 それは、あかりが関係していた。

 

 夏休みに入ってから遊ぶ機会が減ったのだ。

 それもガクッと。

 ちょっと時間が取れなくなったと謝られてしまった。

 今までヒカルにベッタリだったあかりが急に離れていったから、ヒカルは少なからずショックを受けた。

 そんな気持ちを誤魔化す目的もあって、最近はネット碁に熱中している、という訳だった。

 

(……オレと遊ぶより大事なことってなんだよ。ちぇ)

 

 理由のわからない『モヤモヤ』としたものを抱えながらも、けど、佐為と碁を打っている間は忘れられる。

 没頭するようにヒカルはネット碁を打ち続けていた。

 

 そうこう考えているうちに『zelda』との対局が始まった。

『zelda』の黒番。佐為の白番。

 コミは5目半。

 持ち時間は30分。

 

 意気揚々とヒカルはマウスを握った。

 その表情は明るい。囲碁を心から楽しんでいる表情だった。

 

(佐為。日本人だぜ。しかも、子供かもしれないぞコイツ。前に子供っぽいセリフ言ってたの見たんだ)

 

『子供ですか? いいですね。あっヒカル、打ちマチガイはしないで下さいね! このあいだも大ポカをしてしまって危うく負けそうになったんですからねっ』

 

(だから、パソコン慣れてないんだよ、オレ! ついこないだから使い始めたばっかだぞ!? 意外と難しいんだって!)

 

 そうボヤキながらも、ヒカルは一手一手を丁寧に打ち込んでいく。

 カーソルを合わせてポチリ。

 それだけで遠くにいる見ず知らずの人と碁が打てる。

 

 ヒカルも佐為ほどではないが、それを不思議に思う。

 そしてこれも佐為ほどではないが、ヒカルにとって嬉しいことだった。

 

 ヒカルは飛躍的に実力を伸ばしてゆく。

 佐為と共に導かれるように高みに昇っていく。

 その実力は優にプロレベルにまで到達していた。

 

 

 

『zelda』相手に打ちながら、ヒカルの表情は次第に真剣になっていく。

 形勢は終始佐為が有利。

 

 しかし、佐為は普段から全力を出さない。

 棋力が上回る者が、下の者を一方的に痛めつけるだけの碁など言語道断。

 故に大差を付けて突き放しはしない。

 だが、指導碁、というほど丁寧ではない。

 所謂楽しむための碁。

 伸び伸びと色んな手を試すような、楽しめる碁を打っていた。

 

 そんな佐為が『ワクワク』しながらも、少しずつ真剣味を帯びてゆく。

 同調するようにヒカルの表情も変わっていった。

 

(なぁ佐為。コイツ……)

 

『ええ、強いです。今までの誰より』

 

(だよな。えっと、子供だよな? 実は大人だったのか? わかんねーよな、ネット碁ってさ)

 

 そう言いながらも『ヒカル』の手付きに淀みはない。

 相手を試すような一手をどんどんと盤面に放っていく。

 

 こういう時は、どう対処するのか。

 まるで教師が生徒に対して質問するかのような展開。

 佐為がそのレベルを次第に上げていくが、対局相手は必死にそれに食い下がってくる。

 

 伸び伸びと打っていた碁が、形を変えて指導碁染みてくる。

 珍しいことだった。

 定石を学んでいた初めの頃こそ多かったが、今では少なくなった試合運び。

『こう打たれたら、どうしますか?』

 そう、語りかけるような碁。

 

 そしてついには相手の限界を見定めるように、痛烈な一手を放って厳しい展開を押し付ける。

 もしこれに応じられるようなら、塔矢アキラに近い実力がある。

 

 ある意味相手に期待しての一手。

 もしかしたら、隠れた実力者かもしれないと思っての展開だったが、対局者にそこまでの実力はなかった。

 幾つか用意してある模範解答から外れて、二人の意図しない方向に盤面が流れてゆき、そして。

 

(──あ、投了してきた)

 

『強いからこそ、形勢判断が早く正確なのです。『私たち』の力量を知り、これ以上は無理だと思ったのでしょう。力のない者ほどそういった判断ができず、もう勝てない碁を打ち続けるものです。そういう意味では、形勢を正確に判断した上で終始読み切ったヒカルの実力は、この者よりも数段上にある、ということになりますね』

 

(へへっ、まぁオレもここ最近ずっと佐為に付き合ってるからな。──やっぱ、子供かな、コイツ)

 

 何となくではあるが、ヒカルはそう思った。

 もし子供なら、話しかければ何か反応を返してくるかもしれない。

 そう思ってヒカルはお姉さんを探して呼びかけた。

 

「三谷のおねーさん」

 

「はーい、どうしたの?」

 

「『強いだろ、オレ』って向こうに送ってよ」

 

「あら、また勝ったの? スゴイじゃない。──いいわよ、やったげる」

 

(なぁ佐為。おもしれーなインターネットって)

 

『ハイ♡私もたくさんの者と対局できて幸せです♡』

 

(あはは、そーだな)

 

 顔も年齢も、何もわからない相手と会話できる。

 ヒカルはそんな環境にも楽しみを見出していたのであるが、佐為はただただ対局が出来る事が楽しいみたいだ。

 佐為ならそう言うか、とも思いつつ返事を待てば『zelda』から驚きの返事が返ってきた。

 

『オマエ ハ ダレダ! コノ オレハ ''インセイ'' ダゾ!』

 

 院生。

 セミプロとも呼ばれる、日本棋院が運営する囲碁のプロ育成機関である。

『zelda』がプロを目指しているヤツだと知って、ヒカルは塔矢を連想した。

 そして納得の表情を浮かべる。

 塔矢ほどじゃなかったが、強かったのも頷ける、と。

 

 そして、ヒカルは楽しげな笑みを浮かべる。

 

(’’院生’’か。なったらなったで、おもしれーんだろうな)

 

 佐為がセミプロ達と戦う姿を想像して、ヒカルは楽しそうに席を立った。

 

 

 

 

 その翌日。

 プロ試験予選 初日。

 

 リーグ戦形式で戦う予選は予選参加者たちが幾つかのグループに分かれて対局する。

 対局は合計5回だ。

 

 その1日目。

 つまり一局目の試験前半が終わり、食事の時間になって、『zelda』もとい和谷義高は悩ましげに腕を組んで『イライラ』していた。

 そんな和谷を見て、のんきに福井裕太──愛称『フク』は声をかけた。

 

「……和谷くん。和谷くんてば。何考えてんの?」

 

「ん……あ?」

 

「あ、もしかして。前半にポカでもやったの? 和谷くんらしいなー」

 

「やってねーよ! ウルセーな」

 

 そう答えつつ、フクに若干感謝していた。

 多少であれ気が紛れたからだ。

 

(ちっ、プロ試験の予選の真っ最中だぞ? 我ながら、ったくよー。こんなにイライラしてちゃマズイだろ、落ち着け、オレ)

 

 ふと視線を上げれば、少し離れた場所に、眉間にすごいシワを寄せている男性が居た。

 

(すっげー眉間のシワ。ま、1年に一度のチャンスだもんな。他人事じゃねーや。……あーくそっ。アイツのことでイラついてる場合じゃねーよ。……なんか、一人『詰碁集』なんか読んでスマしてるヤツがいやがるけど……って、え?)

 

 その人物に気がついて、和谷は思わず言葉が漏れた。

 黒い髪。整った顔立ち。

 何より印象的な『のほほん』とした雰囲気。

 しかし、一度対局となれば、それが凄まじい切れ味に変貌する少年。

 

「塔矢……アキラ……?」

 

「ハイ。──なんでしょう?」

 

 本を読んでいた黒髪の少年が顔を上げる。

 和谷が考えた通り、その人物は塔矢アキラだった。

 この場はプロ試験の予選だ。

 居てもおかしくない人物だが、だからといって平然と受け入れられる人物ではない。

 何せ──

 

「アイツが? オレ見た事ないや」

 

「塔矢名人の息子が今年受けるってのは聞いてたけど、塔矢アキラってアイツか」

 

「ああ、あんまりカオ知られてないんだよな、滅多に大会にもカオ出さないし、かなり昔から知ってるヤツだけだろ? ほら、昔は囲碁教室に通ってたらしいし」

 

「ああ、オレも通ってた。時間が経ってて気がつかなかったけど、言われれば面影あるな。アイツだよ、塔矢アキラって」

 

 ──何せ名人の息子で、プロ並みの腕前を持っているともっぱらの噂だからだ。

 

 ざわめき始めた周囲を他所にマイペースなフクが思い出したように呟いた。

 

「ボク知ってたよ。塔矢くんだって」

 

「……なんで? オマエ、コイツの顔知ってたっけ?」

 

「ううん、顔は知らなかったけど、名前はホラ、有名人だからさ。今日の対戦表見たときに、あ、あの塔矢くんだって気がついたんだ」

 

「ってことは、フクの相手って」

 

「うん、そう。ボクの今日の相手だよ。対局してみたけど、もう全然敵わないよ」

 

「おめー、プロになろうってヤツがそんな泣きゴト言ってどーする!」

 

「うっ! そーだけどぉ、ほんとに強いんだってぇ」

 

 和谷が気合を入れてやるつもりで『わしっ』とフクにヘッドロックを仕掛ける。

 本気ではないのでフクもさほど抵抗せずにされるがままだ。

 そんな仲が良さげな様子に、アキラが割って入った。

 

「お二人は院生ですか? あ、その、随分仲が良さそうなので」

 

「嫌味かてめー」

 

「うん、ボクは今年が初めての受験なんだ。和谷くんはね、3回目なんだって。ね?」

 

「ね、じゃない! 何バラしてんだ!」

 

「えー、いいじゃん、そのくらい。あーあ、今日はもうボク負けるー、初戦黒星かー」

 

「まだ前半だろ。対局も終わってないのに諦めんなよ。逆転勝ちしろよ、こんなヤツなんか!」

 

「和谷くん、カリカリしすぎー。何かあったの?」

 

 和谷は普段から気が強いが、それでも初対面に近い人物にこうまで言う人じゃない。

 フクはそれを知っているからこそ、聞いていた。

 このままでは、フクも気を悪くするかもしれない。

 そう思って恥を偲んで和谷は口を開いた。

 

「……昨日、インターネットで碁やってたら、やたら強いのに負かされたんだ。あの強さは絶対プロだ。なのに、そいつが『強いだろオレ』って書いてきたんだ! ありえるか!? プロだぜ、プロ! めちゃくちゃ悔しいぜ!」

 

 そんな和谷のボヤキに、塔矢がクスリと笑った。

 とある発言を思い出しての事だった。

 その『誰か』の発言内容が、あまりに彼のようだったから。

 

「……ふふっ」

 

「オマエ、何がおかしいんだよ!」

 

「あ、いや。ごめん、キミを笑ったつもりはなかったんだ」

 

 まったく納得しておらず、眉を怒り上げて自分を見つめてくる和谷の姿に、口元を押さえながら『参ったな』と思いながら、しょうがなくアキラは続けた。

 

「ボクの知り合いに、すっごく似てるから。最近、彼と対局したんだけど、負けちゃってね。同じセリフを言われたから、ちょっと思い出しちゃって」

 

 同じセリフ。

 いや、それよりも気になる事が。

 そう思ったのは和谷だけではなかったようで、フクがびっくりして言った。

 

「ええ!? 塔矢くん、負けちゃったの?」

 

「ハイ。互先の手合いでしたが、負けてしまいました」

 

 顔を恥ずかしそうに僅かに背けて、頬を『ポリポリ』と掻きながら塔矢がそう言った。

 それを見て和谷が苛立たしげに言った。

 

「けっ! どうせ塔矢名人の研究会に参加してるプロとかいうオチだろ? プロにしか負けないっていう自慢かよ」

 

「……いえ。彼はアマチュアの囲碁部ですよ、院生ですらありません」

 

「い、囲碁部!!?」

 

「それに、ボクと同い年です」

 

「同い年ぃ!!?」

 

 思わず和谷は驚愕の声を二度も上げてしまった。

 

 アマチュア。

 塔矢と同い年。なら中1だ。

 

 和谷はフクに向けて、心当たりあるか、と視線で聞いてみるが、フクは『フルフル』と首を振ってきた。

 

(だよな、そんなヤツがいたら、噂になっても、おかしく……)

 

 噂。そう思い返して、たった一人だけ思い当たる人物がいた。

 名前も知らない。

 顔も、もちろん知らない。

 ただ噂でだけ聞いたことのある、眉唾ものの人物。

 

 随分前に流れた噂話。

 あの塔矢名人に勝ったという、小学生の話だ。

 

「……あっ。もしかして、塔矢名人に勝ったっていう……」

 

 記憶を探った結果として溢れた和谷の言葉に、塔矢は少し驚きながらも頷いた。

 

「……ご存じなのですか。それほど広まっていないと思っていましたが、やはり人の噂というものに戸は立てられないのですね」

 

「いや、マジなのかよ!?」

 

 虚言の類だと思っていた和谷の驚きように『塔矢名人の息子』が、キョトンとした顔で頷いた。

 

「ハイ。本当ですよ。ちなみにですが、ボクも彼には全敗しています。その一局以外に二度対局していますが、通算で3戦全敗ですね」

 

 心底嬉しげにそう言い放つ塔矢の頭がおかしいんじゃないかと思いながら、和谷は聞いていく。

 

「なんで負けたオマエが嬉しそうなのかは置いておくとしてだ! なんでそんなヤツが無名なんだよ? 噂ですら、名前も出てこなかった! いや、もしかして知ってるヤツなのか……?」

 

「ええっと、たぶん、知らないと思いますよ? 彼が囲碁を始めたのは2年くらい前と聞いていますし、アマの大会にも出た事がないそうですから」

 

「に、二年……?」

 

 たった二年で、あの名人に勝利。

 そして塔矢アキラ相手に三戦全勝。

 しかも、塔矢アキラと同い年なら中学一年生だ。

 

 どんなバケモンだよと和谷は冷や汗が止まらなかった。

 そして、さらにトンデモない事実に和谷は気がついた。

 

「……いや、待てよ? 確かその噂が出たのは一年くらい前だ。ってことは、囲碁歴一年で、名人に、勝ったのか……? お、置き石は!? さすがに置き石くらいはしてるよな!?」

 

「え、ハイ。昔のボクと同じく、3子置いたと聞いています。なんでも『中押し』で彼が勝ったとか」

 

「……いや、理解が追いつかねえ」

 

『ヘナヘナ』と座り込んだ和谷を誰も責められない。

 その話を聞いていた、この場の者達全員が、あまりの内容に絶句していた。

 信じ難い話だ。

 しかし、仮にも塔矢名人の息子である、『塔矢アキラ』が話しているとなれば信憑性は高い。

 

「でもさ、そんな子がいるなら、もっと噂になってなきゃおかしくない? ボク、そんな噂聞いたこともないや」

 

 フクがそう言ったが、和谷は首を振った。

 

「いや、オレだって先生から聞いたから知ってたんだ。眉唾だし、そもそも大会に出てこないんなら、噂にならないのも納得だ。そもそも、その噂も一年も前の話だしな。……けど、確かにちょっと不自然だよな。──いや、だって、そんなに強いんならプロの師匠がいるはずだろ? 弟子をなんでワザワザ隠してるんだ?」

 

 フクからの、なんで? という視線に応えて和谷はそう続けたが、またしても塔矢が否定した。

 

「いえ、彼に師匠はいないようですよ。これは又聞きで申し訳ないのですが、父と彼が対局した時に同席していた緒方さんが言うには、彼は師匠がいないと言っていたそうです」

 

「……マジで、何者なんだよソイツ」

 

 もはやなんと言っていいのやら。

 腰が抜けたように『ドサリ』と背中を地面に降ろした和谷が、天井を眺めながら顔を押さえて、吐き捨てるように続けた。

 

「……で。そんなトンデモヤローの名前くらいは知ってんだろ。なんてヤツなんだよ、ソイツ」

 

「……進藤。進藤ヒカル。彼はこうも名乗っていましたが。──『本因坊秀策』の生まれ変わり、と」

 

 場には静寂が広がった。

 冗談だろ、とは誰も言えなかった。

 今語られた内容が真実であることは、当事者から語られたために疑いようがない。

 

 しかも。

 あの『塔矢アキラ』が言ったのだ。

 

『本因坊秀策』を名乗るなんて冗談だろ、なんて。

 誰がそんなことを言えるだろうか。

 

 乾いた笑いを漏らして、和谷が続いた。

 

「ハハッ、進藤。進藤ヒカルね……。いいぜ、ソイツの名前、覚えといてやる」

 

 和谷の脳裏に『sai』への苛立ちなんて、もはや残っていなかった。

 それよりも鮮烈な名前が和谷の脳裏には刻まれたから。

 

 しかし、『sai』=進藤ヒカルであるとも言える。

 つまりその実、和谷の脳裏を占める人物は変わっていないが、そんなことを和谷が知る由もない。

 

 お昼が終わる。

 気持ちを新たに和谷はプロ試験予選、初日に挑んでいく。

 一室に集まっていた者達も『ゾロゾロ』と対局室に戻っていく。

 その、あまりの衝撃に隠しきれない疲労を浮かべながらも、彼らは真剣な表情でプロ試験予選に(のぞ)んだ。

 

 

 



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第3話

 

 

 

 アメリカ某所。

 そこでは二人の男がパソコンの画面に向き合って、興奮した様子で口々に感想を言い合っていた。

 彼らの手にはワイングラスが用意されている。

 観戦を楽しむ気満々といった風情で、肴には画面に映る対局画面。

『sai』と記された名前と記譜がリアルタイムで対局模様を伝えている。

 

『アメージング! 素晴らしい。インターネットの世界にこれほどの棋士がいるなんて、驚愕だよ。彼はプロなのか?』

 

『いや、プロがこんなに素人と打つなんて考えられない。……本当に意味不明だよ、彼は。その強さも含めてね』

 

『ハハハ、確かに、理解し難いほどに彼は強いね。今ではインターネット碁を開くたびに彼の名前がないか確認している自分がいるよ』

 

『それは僕もさ。彼の素晴らしい一戦を見逃すかと思うと、仕事にも身が入らないくらいだ』

 

『ハハハ、それは私も同感さ』

 

『いったい、彼は何者なのだろうか』

 

『それを確かめに、日本に行くのだろう?』

 

『ああ。……もちろんアメリカに優勝杯を持ち帰るつもりだけれどね』

 

『もちろんだとも。期待しているよ』

 

 男たちは向き合って笑っている。

 グラスを打ち合わせて響く音色が、涼やかに室内に広がった。

 

 

 

 

「──こんなに頻繁にシロウトと対局するなんて、やっぱりプロじゃないんだ。……プロじゃなければなんだ? それこそプロ並みの実力を持ったアマチュアか……?」

 

『zelda』こと和谷は自宅のパソコンの前に座って、口元を片手で覆って考え込んでいた。

 対局画面を再び見れば、そこには対局中である『sai』の名前。

 敗北してから可能な限り『sai』の対局を追いかけてきた。再戦は叶わなかったが、その棋譜は何十と目にしている。

 そして理解出来たのは『sai』の桁外れの強さだ。

 

「……にしても、コイツ。マジで強えぞ……。もしかしたら師匠(せんせい)より強くねーか?」

 

 和谷が初めて『sai』を目にしたのは7月末。

 それから時間がある限り追いかけているが、昼間っから居る事が多い。

 つまり、()しくも現在夏休み中である和谷の行動時間と被ることが多い。

 それは、日中に仕事をしてるならあり得ない時間帯。

 

 だから、だろう。

 二人の人物が和谷の脳裏で繋がった。

 

「……7月末から? 今は8月だろ……。夏休み? まさか!」

 

 ──『sai』の正体は『子供』

 

 あまりの強さに今まで考えすらしなかったが、出現した時期だったり、昼間にいることを考えれば和谷と同じく夏休み中の子供と考えられなくもない。

 一度思いついてしまえば強い説得力を持っているように思えた。

 

 そして桁外れに強い子供に、和谷はたった一人だけ心当たりがあった。

 

「『進藤ヒカル』……。まさか、オマエなのか?」

 

 和谷はパソコン上に『sai』とデジタル表記された名前を、食い入るように凝視していた。

 

 

 

 

 

 

 都内某所。

 国際アマチュアカップというイベントが執り行われていた。

 面倒だと思いながらも、和谷も師匠(せんせい)に言われてしょうがなく参加しており、各国のアマチュア代表がこぞって参加するイベントの最中にセミプロとして、対局の終わった外国人選手を相手に指導碁を打つ、という仕事を任されていた。

 

 そんな対局をしている真っ只中。

 和谷の耳に『sai』の名前が届いた。

 

 

 

 勝者がいれば敗者が存在する。

 また一つの勝者と敗者が生まれた盤面を片づけている最中、JPNを背負った青年に対して、海外の男性が『インターネット』に関して質問をした。

 それに対する返答にその名前は含まれた。

 

 日本のアマチュア代表である島野は察したように微笑みながら静かに告げた。

 

「……『sai』ですか?」

 

「まさか……あなたが『sai』!?」

 

「いえいえ、今朝他の選手の方に私が『sai』かと聞かれたんです。私ではありませんよ。ただ、私もそこまで話題になる存在なら知っておきたい。『sai』って、なんですか?」

 

 

 その一言をキッカケとして大会中に波紋が広がった。

 

 国際アマチュアカップは4日間に渡って行われる。

 1日2局で計8局の対局がある。

 まだ対局の最中の者もいるが、1日目の対局は前半である1局目が終了した者が大半となっており、その会話に参加するものは多かった。

 

 口々に話題に上るのはその『強さ』である。

 この場にいる様々な立場の者が『sai』と対局をしていると口にするが、しかし、勝者は誰一人として存在しない。

 圧倒的な強さを誇る、インターネットに実在する無敗の棋士。

 

 一度流れが出来てしまえば、囲碁好きが集まるこの場において主題となるのも当然だった。

 それだけの存在感を放っている名前が、『sai』だった。

 

 インターネットに、非常に強い人がいる。

 

 それだけの話題から始まった流れは容易には留まらず、中国、韓国はもちろんのこと、その他の国々の代表がどんどんと会話に参加した。

 それに困ったのは大会運営委員会の者だ。

 1局目の大半が終わったとはいえ、まだ途中の者もいる。

 加えて2局目が控えている現状、騒ぎが大きくなるのは本意ではなかった。

 

 しかし、そんな希望や対処を跳ね除けるように話題はどんどんと膨らみ、収拾がつかない事態にまで発展する。

 

 そこに白いスーツを着た男性がやってきた。

 胸元に棋士であることを示す造花は着けられていない。

 大会運営に携わっている者ではないという意味になる。

 しかし、その男の名前は日本の碁打ちなら知っている者の方が多いほどの人物。

 

 怜悧な表情と整った顔立ち。

 メガネ掛ける冷静沈着を思わせる男。

 緒方九段だった。

 島野という、日本のアマチュア代表の者は以前塔矢名人の勉強会にも参加したことがある縁で、応援のために駆けつけたところだった。

 しかし、そんな目的も騒然とする会場に到着してしまえば薄れてしまい、島野に対する簡単な応援や挨拶をした後に疑問が先に口をついた。

 

「……何かあったんですか?」

 

「いえ、それがインターネットに非常に強い人物がいる、という話題で持ち切りになってしまって……」

 

困ったように笑う島野の背後から、新たな人物が顔を見せて緒方に話しかける。

中国のアマチュア代表の冷たい雰囲気を覗かせる男性だった。

 

「『sai』という者をご存知でしょうか? ……私は中国の()臨新(リンシン)です。彼と打って中押しで負けました」

 

そこに便乗して韓国の代表であるおかっぱメガネの男性も緒方の周囲に集まる人々に話しかけた。

 

「韓国の(キム)です。私は『sai』を知りませんが、日本に来る前日友人から電話を受けました。韓国のプロ棋士()七段です。彼は『sai』と対局したそうですが、私が頼まれたのは日本で『sai』が誰なのか聞いてきてほしいということです。『sai』は絶対に日本のトップ棋士だから、と彼は強く断言していました。──しかし、今までの話を聞けば、彼がプロではないと理解出来ます。しかし、それでは理解が及びません。彼は、韓国のプロ棋士は、いったい誰に負けたというんです?」

 

 

 韓国の囲碁のレベルが非常に高いことは国際的にも有名である。

 国別対抗戦の結果から見ても明らかであるから、この場にいる者でそれを知らない者は居ない。

 その韓国のプロすら敗北を喫している。

 

 その事実はより一層『sai』という存在を混沌の中に埋もれされる。

 プロではない。

 しかし、その実力は日本のトップ棋士どころか、韓国のトップ棋士にも打ち勝つほどの桁外れの強さを持つ。

 

 一瞬の静寂が訪れるほどの衝撃を持って、その事実は場に受け止められた。

 

 そんな会話の切り口。

 そこにようやく指導碁を切り上げた『和谷』が参戦した。

 鼻息荒くこんなビッグイベントは逃せないとばかりに会話に入った『和谷』は『緒方九段』に対して順序立てて説明した。

 日本人の中で『sai』に注目しているのは自分だけ、ということが会話の中でよく理解できたからこそ、その語り口にも熱が入っていた。

 森下九段、つまりは和谷の師匠から紹介されて前面に出された和谷は少し緊張しながら、自分が知っている限りの話を始めた。

 

「打ったのは1ヶ月前なんスけど、打ってみて、手筋とかなんとか、フッと秀策みたいなヤツとか思ったんス。オレ、秀策の棋譜よく並べるからかもしれないですけど」

 

「本因坊秀策?」

 

緒方の疑問符に頷きで答える。

 

「っていうか、それくらい強いってカンジもあって。その後もずっと対局を追いかけたんです。いやホントに何局も、時間が許す限り全部っス」

 

「……院生であるキミがそこまで夢中になる程の強さ、ということか。──で?」

 

「強くなってるんスよ。オレと打った時より、遥かに。打ち方も変わって、秀策が現代の定石を学んだみたいに」

 

そこで森下九段が大袈裟に笑った。

それくらい荒唐無稽な話だったからだ。

 

「ははは、秀策が現代の定石を? そりゃ最強だ」

 

「もしそうなら、同感ですが。──しかし、キミが確信しているのはそれだけじゃないんだろう?」

 

 まだ何か言いたげな様子の『和谷』に、『緒方』は再度問いかける。

 言いたいことがあるなら言っておきたまえ、と言わんばかりの視線。

 その視線に背中を押されて、和谷は言うか言うまいか悩んでいた『名前』を出した。

 

「……心当たりが、あります。『sai』って夏休みに入ってから出てきてるんですよ。手合いの日もいるし。だから、物凄い強さを持った子供。オレの中でそのイメージがしっくりきてて。んで、そんな子供にたった一人だけ心当たりがあります」

 

「……まさか」

 

緒方は息を呑む。

その脳裏ではたった一人の存在がくっきりと浮かび上がっていた。

 

「そうっス。緒方九段もご存知みたいですが、『塔矢アキラ』と『塔矢名人』を負かした当時小学生の怪物。──『進藤ヒカル』です」

 

 少しの汗すら浮かべながらの和谷の発言。

 それを受けて緒方は全身に痺れが走ったような心地だった。

 

 プロではない。

 古い定石を使っていた者。

 しかも、子供という立場。

 そして、圧倒的な強さを持った棋士。

 

 全てが当てはまる。

 

「ソイツが言ってたらしいんス。『オレは本因坊秀策の生まれ変わりだ』って」

 

 和谷はそこまで言い切って、自らの発言が水面に石を落としたが如く騒然を産んだ事を理解しながらも、その身に熱く煮えるような興奮を抱いていることを自覚していた。

 もし自分の予想が正解だったなら。

 

 改めて思うが途方もない事だ。

 それこそ囲碁界が揺れるほどの事実。

 

 それを囲碁界の最前線を張る人物に伝えたと言うことが、その興奮をより深いモノに変えていた。

 場はさらに変異する。

 

『Shindo Hikaru?』

 

『Shindo? 誰だそれは。プロ棋士にそんな者が居たか?』

 

『覚えている限り、そんな者は居ないはずだ。……いや、日本の棋士全員の名前は覚えていないが、彼はトップ棋士並みの実力なのだろう? なら聞いたことはない』

 

『HONINBO? それはEdoの時代のHONINBOか?』

 

『そんな昔の人間が生まれ変わり? いつから日本はファンタジーの国になったんだ?』

 

『ははは、Disneyなら日本にもあるようですがね。彼は日本人から見てもそれくらい強いのでしょう』

 

 広がる、広がる、広がる。

 騒めきは固有名詞が出たことでさらに大きく火種が点いた。

 もはや収拾など不可能な状態。

 

 

 

 そして、ここに来て新たな人物の来訪が、騒めきをさらに大きくする。

 さながら火の中に注ぎ込まれたガソリンの如く。

 

「──どうかしたんですか?」

 

「おや、真打の登場、といったところかな」

 

 緒方はそう軽口を叩きながらも、熱気に中てられて興奮していた。

 視線の先には『塔矢アキラ』が歩いてきている。

 場の異様な雰囲気にどこか戸惑った様子ではあるが、彼の名前を出せば豹変するだろうことは想像に難しくない。

 想像して緒方は微笑んだ。少し、意地の悪い笑みだった。

 

「あの、緒方さん?」

 

「ああ、いや。すまない、ちょうど『彼』の話題で盛り上がっていたものだからね」

 

「彼、ですか?」

 

「そう、『彼』だよ」

 

 名前は言わない。

 確かなことではないからだが、もし違っていても『彼』だと勘違いさせた方が面白そうだと思ったからの判断だった。

 こんな時でも、いや。

 こんな時だからこそ揶揄わねば面白くないと緒方は少し性格が悪そうに微笑みながら思案していた。

 

 

「ケッ、おめーは呼んでねーっての。帰れ帰れ」

 

「キミは……、そうだ。プロ予選の時の。この騒ぎはいったい?」

 

「だーもう! 関係ない……こともないけどこっちくんな!」

 

「えーっと……?」

 

騒ぎ立てる和谷に、混乱しきりのアキラは頭上にたくさんの疑問符を浮かべる。

しかし、そんな戸惑いも一瞬で消え失せた。

『名前』が聞こえたから。

 

 

Shindoの名前はやはり誰も知りませんね』

 

『子供なのだろう? ならば我々が知らないのも無理はないと思うが』

 

『だが、本当に子供なのか? そのShindoという人物は』

 

『そう言っていただろう? だがまぁ『sai』が子供というのは俄には信じ難いね、彼は強すぎるよ』

 

 

 もの凄い速さで振り向くと、その会話を丹念に耳で拾っていく。

 中学一年生ではあるが、簡単な英語くらいなら理解できる。

 

 アキラは耳ざとく名前を拾った。

『進藤』そして『sai』。

 

 記憶の中から思い出す。

『sai』は目の前の少年、和谷に勝利した際に一言を告げた事を。『強いだろオレ』という発言。

それはアキラが、海王戦でヒカルに言われた言葉と一致する。

根拠としては薄い、だが。

 

 再び緒方に対して振り返ったアキラの表情は、対局の際などのように真剣な雰囲気を滲ませていた。

 

「緒方さん。彼とは、進藤のことですか?! そうなんですね!?」

 

「おいおい、落ち着けよ。そうと決まった訳じゃない、まだ可能性というだけの話さ」

 

 薄らと余裕を持たせて微笑みながら緒方がそう言っているが、アキラの中でその考えは確信に近いところにまで推移していた。

 アキラは興奮に身を熱くする。

 

 彼だ。

 彼がインターネットの中にいる。

 周囲の話題を掻っ攫っている事も、強いと言われていることも、アキラの興奮とは関係がない。

 

 ──打ちたい。

 拳を握りしめるアキラの心中にあるのは、ただその一念のみ。

 そこに『パタパタ』と係員の男性が駆け寄って来る。

 

「──お待たせしました! インターネットのできるノートパソコンがあります」

 

 パソコンを受け取った緒方は早速起動させて、席をアキラに譲った。

 内面では揶揄う気持ちもあったが、何より。もし『sai』が『進藤ヒカル』ならば現在の実力を確かめたい。

 そういう思いが席を変わるという行動に移させていた。

 そして。

 

「ほら、アキラくん。開いてみるといい」

 

「はい! ありがとうございます!」

 

「ふふっ、構わないさ。『sai』がいるかもしれない。……キミと彼は運命的な存在かもしれないからね」

 

 後半部分に関しては、ささやくように言った。

 運命などとそんな可愛らしいことを真面目に言うつもりはない。

 だが、そうとしか思えない事が起きるのもまた事実。

 願掛けにも似た思いがそう発言させた。

 

 そして。

 

 

「──いた」

 

 

 アキラ自身、驚きに目を見張りながらその名前を見た。

 そこには『sai』という、話題のインターネット上の棋士の名前が記されていた。

 

 

 






急いで書き上げたため推敲が甘いかもしれません。
申し訳ございません。

追記
感想返し遅れてしまってすみません泣
時間作ってちゃんと全部返すのでその点はご安心ください。
頂ける感想は私の原動力なのです。


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第4話

ぴったり6000字


 

 

 

『──アキラ? ヒカル、今アキラと言いましたか?』

 

「そーだよ、あのアキラだよっ! 本物かどうか、わかんねーけど」

 

『カチカチ』と次々に入ってくる対局申し込みを断りながら、ヒカルは何度も聞いてくる佐為にぶっきらぼうに答えた。

 

 次々に入ってくる対局依頼を断っているのは『akira』という名前のプレイヤーと打つためだった。

 海王戦と比べて佐為の実力は飛躍的に向上している。

 その事をヒカルは誰よりも理解しているからこそ、現時点での塔矢アキラとの距離感を確認したかった。

 ただまぁ。ネット上の『akira』という名前であるというだけだから、別人だろう、とは半ば以上に思っているのだが。

 

『おぉお! 塔矢もこの中にいるのですか! ぜひ、ぜひ打ちましょう!』

 

(だからさァ、アキラなんて珍しくもない名前だろ? たぶん違うって)

 

『え? え? 違う? 違うのですか?』

 

「わかんねーって。あっ対局OKしてきた」

 

 その一声に佐為は喜んで踊り回り、そして思いついた事を楽しげに続けた。

 

『試してみましょうか、ヒカル。この者が塔矢かそうでないか』

 

『ワクワク』と楽しそうに提案した佐為。

 しかし、ヒカルから返ってきた返事は予想外の拒絶だった。

 

「……え? やだよ」

 

『ぇ!ええ!? た、確かめる流れですよね、今のは!?』

 

『がーん』と擬音が付きそうなほど凹んだ佐為が慌てて気を持ち直してヒカルにそう言ったが、当のヒカルは呆れ顔で答えた。

 

「いや、だってさ。アレだろ、前の対局なぞるとかだろ? そんなのオレ興味ないって。……もしこれが本物の塔矢なら、そんな対局したらアイツ絶対言うぜ。『ふざけてるのか、本気で打て、進藤』ってさ。『sai』って名前でもアイツなら気づくだろうし」

 

 ヒカルに自分が『sai』というハンドルネームで活動している事を隠すつもりは全くなかった。

 バレたところで困らないと思ってるから。

 ある意味危機感がないとも言えるが、ヒカルの中で特に違和感は生まれなかった。

 

 そして。

 それ以上に佐為の言動が気になった。

 仏頂面のヒカルが佐為に厳しい口調で続ける。

 

「──そもそも、アイツを相手に序盤の有利捨てるって、相当舐めた事言ってる自覚あるのかよ、佐為」

 

 ヒカルの言葉に佐為は『ハッ』として着物の袖で口元を覆った。

 

 前回の対局で序盤に差を付けられた事は記憶に新しい。

 それでも負ける事はなかっただろう。

 当時も、そして今振り返っても改めて思うが、ヒカルの輝くような発想から生まれた一手を使わずとも勝っていた自信はある。

 

 しかし、問題はそこではない。

 仮に『akira』が別人であれ、塔矢本人であれ、本気でぶつかってくるであろう相手に対して、『塔矢アキラ』であることを確かめる1局を作るなど、言語道断(ごんごどうだん)

 知らず緩んでいた気持ちを引き締める心地で佐為は瞳を閉じた。

 

 塔矢と再び打てるという喜び。

 そして自分の実力が飛躍的に伸びているだろう、と感じているからこその油断。

 ヒカルが自分にたくさん打たせてくれている事への感謝。

 自分を通じてヒカルが成長している、深い満足感。

 

 様々な感情が要因となって絡み合って佐為の内面を覆っていた。

 だからこそ、ある意味で調子に乗っていたのだろう、と佐為は自己分析した。

 

 しかし、それはあまりに不甲斐ない。

 碁打ちである自分が本分を忘れてしまっては本末転倒。

 囲碁が最も楽しいと感じる時は、真剣に全力で打つ時なのだから。

 

 気を引き締めた佐為が再び目を開いた。

 その眼光は鋭い。

 刺すような鋭利(えいり)さを覗かせる。

 楽しむために碁を打つ普段の様子は微塵もない。

 

 そこに立つのは、一人の棋士としての『藤原佐為』だった。

 

『……不覚でした。ヒカル、感謝します。どうやら私は知らず知らずに慢心していたようです。棋士たるもの好敵手には全力を出さねばなりません。弱いモノを(なぶ)るならいざ知らず、相手は塔矢。そのような配慮など無粋でしかありません。……ヒカル、改めてあなたに感謝を。──行きましょう、ヒカル。成長した私たちの姿を、塔矢に見せてやりましょう!』

 

「ああ。打つぞ、佐為!」

 

『はい!』

 

 知らず二人の中に、画面越しの相手が『塔矢アキラ』ではない、という仮定の可能性は消えていた。

 第六感が察知したのか、はたまた忘れてしまっただけなのか。

 佐為は、ヒカルは、全力で画面に向き合い、白番を握って第一手目を盤面に放った。

 

『右上スミ 小目』

 

 佐為の涼やかな声が走る『前』に、ヒカルは無意識にカーソルを動かして、佐為の指示した通りの場所を打った。

 表裏一体。

 その片鱗を見せる対局が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

「──来た」

 

 その一言に会場がどよめいた。

 言葉の意味するところはただ一つ。

『sai』からの対局申し込みが行われたという事だ。

 

『sai』から対局を申し込む事など今となっては殆どない。

 ネット上で有名になりすぎたために、無数の対局依頼が『sai』に舞い込むようになった結果、相手を選り好みしない佐為が手当たり次第、と言うと言葉が悪いかもしれないが、相手を選ばずに対局し続けた結果だった。

 

 その『sai』が対局を申し込んできた。

 偶然にしては些か出来すぎではあるものの、周囲の思考は何故、ではなく。

 今後の対局に対して期待を寄せた。

 

『あの『sai』が対局を申し込むなんて、珍しいな』

 

『そんなことはどうでもいい。リアルタイムで、しかもこのJPNで『sai』の対局が見られるんだ。これ以上のことは望まないよ』

 

『同感だね、彼が何者であれ、私たちが興味を引かれているのは彼が生み出す一手だ。……対戦相手の少年は、Toya名人の息子なんだろう? 期待が膨らむね』

 

『ザワザワ』とした会話が背後で行われる中、ギャラリーを背負いながらもアキラの思考に曇りはなかった。

『スルスル』とカーソルが動く中で手番とルールが決まっていく。

 アキラの黒番。ヒカルの白番。

 コミは5目半。

 

 対進藤ヒカル戦でアキラが握る初めての黒だった。

 目を瞑ったアキラは自らの気持ちを確かめるつもりで言葉を漏らした。

 

「──キミとまた打てる。今はそれだけでいいと思っていた。だけど──」

 

 そこから先は言葉にはしない。

 逃さぬように、胸の内だけで吐露した。

 強い決意を秘めた胸の中で、言葉が溶けるように染み込んだ。

 

(進藤、今日こそボクが勝たせてもらう)

 

 

 (まぶた)を『カッ』と開いた。

 真剣な眼差しで見据えながら、先手をノータイムで塔矢は打った。

 塔矢の脳裏では碁盤を挟んで対面にヒカルが居た。

 実際の対局のように、ヒカルがいつもの真剣な表情を浮かべながら一手を放ってきた。

 応手はいつもの『右上スミ 小目』。

 

 ただその一手だけでアキラは悟る。

 相手は間違いなく進藤ヒカルであると。

 

 画面を隔てても伝わってくる気迫。

 まだ一手目。

 それは錯覚であるはずだが、塔矢の中に疑問は生まれなかった。

 

 彼の中では確信があった。

 向こう側に座るのは進藤ヒカルである、と。

 そう感じた瞬間。

 感化されるように、碁笥に素早く手を差し込むつもりでアキラはカーソルを操った。

 

 

 重ねる、一手を重ね続ける。

 流れるように打つ手は止めどない。

 夏休みに入る前、約3ヶ月前にも対局したとはいえ、アキラにとってヒカルとの対局は待ち遠しいものだった。

 あっという間に終わらせてしまうのは惜しい。

 けれど、我慢できる物でもない。

 心の赴くままに、打ちたい一手を積み重ねていった。

 決して油断ではなく、手加減でもない。

 

 それこそが自分の実力を最も発揮できると理解した上での選択だった。

 しかし、その自信は序盤の時点で揺らぎ始めていた。

 

(強い! 前回敗れた時以上……、明らかにウデを上げている!! 定石を学んだからか!? いや、それ以上に何か……根本的に何かが違う!! これは、あまりにも……)

 

 強すぎる、あまりにも。

 

 あの海王戦での進藤は確かに全力だった。

 その確信がある。

 ならばこれは、前回以上に高いカベを感じるこれは、この3ヶ月間で進藤がウデを飛躍的に上達させたことに他ならない。

 

 そんな事実を前にして、アキラの(おもて)に隠しきれない動揺が走った。

 僅かに強張った表情がそれを物語る。

 

 ライバルがより強大となって立ち塞がる。

 手が届きそうだった相手が離れてゆき、置いていかれる。

 

 離れてゆく背中を連想する。

 暗闇の中、光り輝く進藤の背中が遠のく。

 暗い道が広がって飲み込まれて、視界が狭窄(きょうさく)して、それでも前に手を伸ばし続ける塔矢に大きな絶望感が襲いかかる。

 足元は見えている。

 だからこそ理解できてしまう。

 進藤の背中が、あまりにも遠すぎる、と。

 

 動揺を抑えるようにアキラは打つ手を止めた。

 そして自分でも気がつかない無意識の内に、掌で胸元を押さえて服ごと握りしめた。

 

 絶望など一側面でしかない。

 見方を変えれば、いくら欲しても得られなかった同年代のライバルが自分を先導するかのように前を歩いているだけだ。

 ならば。

 自分はその背に置いていかれぬように、ただその背中だけを見て追うだけだ。

 

 それだけが今の自分に出来ることだから。

 ライバルとして、進藤ヒカルに追い縋る者として唯一の存在証明。

 それすら放棄してしまえば、もはやそれはライバルとは呼べない。

 アキラは自分で自分を許せなくなる。

 そう、思いながらも。

 

 だが。

 それは、明らかな強がりだった。

 

 歯を食いしばる。

 それでも、それでも。

 直視したくないと閉じかけた心の(まぶた)を無理矢理にでも開く気持ちで、アキラは気炎を吐く勢いで果敢に攻めた。

 

 

 

 彼は知っている(傷ついている)

 半年間という修練を経て届きそうだった壁を。

 

 届きそうな手が再び突き放された事実。

 それは寒々しいほど鋭い風となって塔矢の心を覆っている。

 

 当然だった。

 無力感に打ちひしがれて芯が砕けても無理はないほどの差。

 たったの数ヶ月。

 それだけの修練で再び突き放された衝撃と絶望は如何程のものか、想像に余りある。

 

 しかし、それでも塔矢の心は折れない。

 不屈ではない。

 苦しさも、挫折感も、悔しさも、余す事なく感じている。

『屈しているか』と聞かれれば悔しながらに頷く他ないだろう。

 

 だが、『立ち上がれるか』と聞かれれば。

 その問いにも『力強く』頷くだろう。『必ず』と答えるだろう。

 

 何度挫けようとも、何度屈しようとも。

 芯ある者はそう易々と諦めない。

 

 ──いや、諦められないのだ。

 

 何故なら

 

 

 

 場面は戻る。

 

 アキラは思考を回す。

 少しでも、ほんの少しでも追い縋るために、全力を出し切るために。

 そのためにまず観察から入った。

 

 進藤の古かった定石は一新され、こちらの考えを見透かしたかのように、読みはより深くなっている。

 意図の読めなかった一手が目が覚めるような鮮烈さを持って盤面で効力を発揮し始める。

 放たれる一手一手に振り回される自分を自覚せざるを得ない。

 厳しい、厳しすぎる現況(げんきょう)

 改めて感じる力の差に冷や汗すら流れる。

 

(形勢は……まだ、戦える!! なのに。か、勝てる気がしない……!!──くそッ!!弱気になるな、そんな暇があれば活路を見つけろ!!どこだ、どこにある!?)

 

 圧倒的な強さ。

 以前の進藤に感じた隙のある強さは一切ない。

 実力という『物量』で『押し潰される』感覚。

 言うならば、そのような容赦のなさを感じる。

 

 本気、全力。

 これが今のオレだと言わんばかりの猛攻。

 持てる技量の全てを曝け出すような全力全開の攻撃を受けながら、塔矢アキラは炎を宿すかのような瞳で立ち向かい、脂汗を流しながらも。

 

 限界ギリギリの状態で、その口角だけを。

 歓喜で形作っていた。

 

 

 進藤ヒカルの本気。

 それは絶望であり恐怖でもあったが、歓喜でもあった。

 手が届いたと思えば離れていくその姿に悔しさを感じると同時に、そうでなくては、と喜んでいる自分も確かに居るのだ。

 

 どれほど欲しただろう。

 自らと同じ位置に立って、共に歩んでいく同年代のライバルを。

 

 贅沢は言わない。

 たった一人だけでもライバルとなってくれる存在が欲しいと、何度そう願ったことか。

 

 プロにならなかったのは不安があったからだ。

 このまま何の障害もなくプロになることに一抹の不安と疑問を抱いたからだ。

 

 そのかつての願い。

 それは想像を上回る好敵手の存在で塗り替えられた。

 

 ようやく得られたその存在を、自らの実力不足で手放すなど有り得ないとアキラは断言出来る。

 改めてその事実を自認したアキラは、今持てる全てを一滴残らず絞り出そうと全身全霊を懸けて、再び挑み掛かる。

 その姿勢は対面に居るヒカルのみならず、周囲にも伝播した。

 

 あまりの真剣さに静寂が場を支配している。

 痛いほどの沈黙の中で、会場に居る全ての者の視線が画面だけに集中する中で、盤面は動いてゆく。

 

 

 苦しい局面。

 進藤の中央への合流を許してしまい、アキラの中央と左辺、どちらかしか助けられない盤面に突入する。

 だが、それでも両方を助けねば負けが確定してしまう。

 

 苦しい中でもアキラは諦めない。

 活路を見出すためにシツコク、丁寧に一手一手を重ねていく。

 アキラは必死に食らいついていくが、進藤の容赦のない追撃は続き、左は生きたが中央の黒を完全に殺されてしまう。

 

 交互に打つ関係上、基本戦術としては、両者は互いに四隅のうち2つを占拠して地を作り合う。

 そのため相手の陣地を崩す以外には、中央を制したものが勝利すると言われるほどに、中央の地の価値が大きい。

 黒番が有利な理由の一つだ。

 

 初手天元が珍しいのはこの理由が大きい。

 中央を確定地とするために要する手数は四隅の倍以上掛かると言われているためだ。

 そしてそれはイコール中央の重要性を、地の大きさを意味する。

 

 それ故に四隅が互角ならば、中央が死ぬことは致命的な敗因となる。

 

 

 完敗。

 かつての2戦目の如く、その文字が再び脳裏に過ぎって塔矢は歯を食いしばった。

 先ほどの、言葉の続きを連想する。

 

 

 

 何度挫けようとも、何度屈しようとも。

 芯ある者はそう易々と諦めない。

 

 ──いや、諦められないのだ。

 

 何故なら

 

 何故なら。

 塔矢アキラは囲碁を誰よりも愛しているから。

 

 

 絶望と希望は表裏一体。

 誰かが言ったその言葉は、今この瞬間にも当て嵌まる。

 

 掴めたはずのカベ(背中)が遠く離れた絶望。

 それは確かに心を折るほどの衝撃だろう。

 

 しかし、それすら糧として受け入れよう。

 絶望するほどに強いライバルを見上げれば、絶望という影を作り上げた彼自身が光り輝いているのが見える。

 思わず、手を伸ばさずに居られない程に鮮烈な光。

 

 だから、『笑って』みせよう。

 

 むしろこれを待ち望んでいたと『言って』みせよう。

 『強がって』みせよう。

 今は強がりでも、いつかそれが本当に変わるまで。

 

 塔矢は、囲碁を愛している。

 だから打つのだ。

 果てのないその時まで。

 

 ──神の一手に、限りなく近づけるその時まで。

 

 

 そして。

 いつか必ずキミに並んでみせる、と確固たる決意を秘めながら。

 

 塔矢アキラは『投了』にカーソルを合わせる。

 その表情は悔しげでありながら、成し遂げる者だけが発する熱い闘志が篭っていた。

 

 

 

 ──『akira』が『投了』しました。

 

 

 

 

 



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第5話

約8500字



 

「──緒方さん、本当に、その、お願いしてもよろしいのですか?」

 

「ええ、構いませんよ。アキラくんはあんな調子ですから。ここは私が持ちます」

 

「そ、そうですか。しかし、この会場を借りるための費用や光熱費、人件費も込みでの延長料、清掃業者への遅延料金などなど、結構な金額になりますが……」

 

「構いませんよ。……普段偉そうにしているのでね、これくらいは大人である私が持ちます。それに、私も『sai』との対局は中断させたくない。むしろ、私の無理を聞き入れてくださった事を感謝していますよ。本来ならば、優先すべきは大会ですから」

 

「はぁ、そう言ってくださると助かりますが……」

 

 そう思うなら中断して欲しかった、と言いたげな瞳から視線を逸らして、緒方は未だ対局を続ける少年とその周りに集まる世界各地の棋士たちを見る。

 

 金で買える光景ではない。

 一つの対局を見るためだけに、これだけの数の人間が言語を超えて観戦している。

 そしてそれを作り出しているのは、日本の若き二人。

 これからの日本囲碁界の明るい未来を予期させる光景を改めて実感して、気分良さげに緒方は微笑んだ。

 

「──まったく、オレも混ぜて欲しいもんだよ」

 

 そう、少しばかり本音を漏らしながら。

 

 

 

 緒方はその後に『sai』とアキラの一戦を観戦した。

 気迫を溢れさせる塔矢アキラに面食らいながらも一部始終を観た。

 そしてその結果を受けて一筋の汗を頬に垂らして、口々に称賛の言葉が飛び交う会場を後にした。

 

 緒方とアキラは共に一台の車に乗って帰路を進んでいる。

 車の中での道中。

 助手席に座る塔矢アキラは目を瞑って、静かに沈黙していた。

 

 意気を落としているのではない。

 むしろその逆。

 さらなる成長を遂げるために深く深く思考を巡らせている。

 その様子を見取って、緒方自身も先ほどの対局を思い返した。

 

(『sai』……。もしやとも思ったが、しかしどう見ても子供の打ち方ではない。どんなに素質のある子でもミスが出る。それがオレの持論だったんだが……。あるいは進藤ヒカルが子供という枠に収まる逸材ではないから、か)

 

『sai』=進藤ヒカル。

 その可能性が高いと対局が始まるまでは考えていた。

 しかし、蓋を開けてみればどうだ。『sai』はあまりにも強すぎる

 その打ち方からは熟練の棋士特有の、悠久の時を感じさせるほどの練達さが感じ取れる。

 弱冠13歳の少年が出せる深みではない。

 

 車を走らせながらも、同じ車に乗る二人の思考は『sai』と進藤ヒカルに関してのみ巡った。

 会話はない。

 しかし、互いに互いが何を考えているのか手に取るように理解できた。

 理解できる故に、そこに会話はない。

 今は会話など邪魔でしかないという、暗黙の了解がそこにはあった。

 

 アキラを塔矢宅まで送り届け、自宅に戻ってきた緒方はスーツを脱ぎ、ラフなシャツだけの格好になって、乱暴な姿勢で椅子に腰掛けた。

 その手にはロックグラスが握られており、器に注がれたブランデーの琥珀色に染まった球体にクリ抜かれた氷が、『カラン』と音を立てて器の中で転がった。

 

 しばしの沈黙。

 ロックグラスに口が触れることすらなく、氷が室温とブランデーの常温に溶かされるだけの時間が過ぎる。

 溶けた氷がグラスのフチに触れて『カラン』と音を鳴らす。

 

 そして、ようやく時が動き出した。

 

 緒方は軽く唇を湿らせるようにロックグラスに口を付けて、再び離れたグラスを手首を使って回す。

 一回り小さくなった氷が器の中で『カランカラン』と軽やかな音を立てるが、緒方の思考は重みを持ったままだった。

 

「……いや。やはり、強すぎる。一年。たったの一年で、人はあそこまで強くなれるものなのか……?」

 

 何度思考を巡らせても結論は変わらない。

 強すぎるのだ。

 片鱗はある。

 癖というものはそう簡単には変わらないものだ。

 1年前に見たあの対局を彷彿とさせる打ち筋は感じられた。

 しかし、それ以外にも……。

 

 まるで別人のような顔を見せる事がある。

 一見何故そこに? と思えるような一手を放ったかと思えば、十数手を重ねた先で効力を発揮し始める。

 1年前に緒方が見たのはたったの1局だけだ。

 しかし、塔矢行洋を相手に手札を隠していたとは考えづらい。

 それがたとえ中押しだとしても、だ。

 

 緒方は思考に区切りを付けるように立ち上がって、自室の水槽に近づいた。

 テーブルの脇に置いてある魚の餌を手に取って、慣れた手つきで蓋を開き、熱帯魚を眺めながら餌を水槽に振り撒いた。

 

「どちらにせよ、もしこれが進藤ヒカルの『現在の』実力なら尋常ではない。──上がってこい、進藤。オレは、オレたちはお前が来るのを高みで待っているぞ」

 

 その緒方の口調は、まるで『sai』が進藤ヒカルであると確信しているかのような言い方だった。

 進藤ヒカルなら、あるいはありえる。

 子供ながらに練達している可能性を、緒方は否定し切れないで居た。

 

 

 

 

 

 

「──ねぇヒカル」

 

「ん? なんだよ」

 

 塔矢とネット碁で対局した日の夜。

 ヒカルはあかりと打っていた。

 もう夏休みも残すところ十日(とおか)前後となっていた。

 いつものようにヒカルの指導で打っていたが、今日は少しあかりの様子が違っていた。

 どこか緊張感を持って、対局していた。

 そして終局を迎えてヨセに入り、ヒカル相手に5子を置かせて貰ってではあるが、いい勝負が出来ていた。

 

「私、院生になろうと思うの」

 

「ぶっ!!」

 

 飲んでいたお茶を吹き出して固まったヒカルに、あかりはそれでも真剣な表情を崩さなかった。

 

「この夏休みでね、お母さんとも話し合って、塾である程度の成績が残せたらいいよって言われて。それでヒカルにあまり会えなかったの。黙っててごめんね」

 

「い、いや、うん。まぁちょっとは気になってたけど、そーゆーことか……って、院生!? マジで!?」

 

「うん。お母さんにも許可は貰ったの。だから、あとはヒカルから貰うだけ」

 

「いやいや! 囲碁部はどうすんだよ! 院生になったら大会にも出れねーんだぞ!?」

 

「もう、私決めたの。ヒカルみたいに強くなりたい、もっと碁を打ちたいって。塔矢くんとヒカルが打ったみたいな、あんな碁が打ちたいの」

 

 海王囲碁部との大会。

 今年の夏休み前の大会で、男子は2-1で海王の勝利。女子は3-0で海王の勝利だった。

 男子の一勝はヒカル。

 葉瀬中のメンバーで勝利を拾ったのはヒカルだけだった。

 あかりは大将として打って、日高という海王三年の女子に敗北していた。

 

 あかりが本格的にプロを意識し始めたのは、ヒカルとアキラの大会での三将戦だ。

 長い長い戦いだったために、女子大将戦が決着しても、まだ決着が付いていなかった。

 途中からではあったがあかりはずっと見ていたのだ。

 あの、両者の作り上げた美しい棋譜を。

 

 それはあかりの価値観を一変させるほどの衝撃を持っていた。

 二人ともあかりの知る人物で、その一人はあかりの想い人であるヒカルだった事も一因かもしれないが、それは囲碁を始めた理由にはなっても、プロを目指した大きな理由ではない。

 

 ──初めて棋譜を美しいと思った。

 目の前で一手一手と生み出される珠玉のやり取りが輝いて見えた。

 だから、あかりは本気になった。

 

 その時、心に決めた。

 囲碁のプロになろう、と。

 そのために必要な事を調べて、今の自分では到底難しい事がわかった。

 だから、院生になるつもりだった。

 

 ヒカルに置いていかれたくないという思いで始めた碁が、こんな形に変化するなんて、あかりは想像もしていなかった。

『真剣』という言葉の意味を考えるくらい、あかりは碁に夢中になったのだ。

 あの棋譜を見た瞬間から、本当の意味で碁に向き合い始めた。

 

 元々直向(ひたむ)きであるあかりだ。

 飲み込みは早かったが、あの一件以来急激に実力を伸ばしていた。

 海王囲碁部の日高に決勝戦であっという間に負けてしまった悔しさも、そのバネとなっていた。

 

 ヒカルの置石の数が『夏休みを経ても』変わっていないのだ。

 それは急激な成長を遂げた佐為と同等の速度で成長し続けたという意味だ。

 もちろん、実力差が極端すぎるため、一概に同じ速度とは言えない。

 高いレベルになればなるほど成長速度は緩やかになるからだ。

 だが、それでもヒカルと佐為に付いて来たあかりもまた尋常ではない。

 

 佐為はそれに気がついていた。

 ヒカルも気がつかないフリをしていただけで、本当はあかりが急激に腕を伸ばしている事には気がついている。

 その理由にも、少しだけ見当は付いていた。

 あの1局はヒカルにとっても特別な1局だったから。

 

 だから、表情と言葉では驚きを見せていたが、内心では『やっぱりな』と思っていた。

 そんな内心を察したのか、佐為が囁くようにヒカルの背中を押した。

 

『認めておあげなさいよ、ヒカル。こんなにも真剣に頼んでるんですよ?』

 

(わぁってるよ、コイツが真剣なのは。──目を見ればわかる。あかりのヤツ、塔矢とおんなじ目をしてる)

 

 だから、『ガシガシ』と頭を掻いた後で柄じゃないと思いながらも佇まいを正して、碁盤を挟んでヒカルはあかりに向き合った。

 真剣な瞳同士が絡み合う。

 あかりには佐為なんて憑いてない。

 本当に純粋な実力だけで、プロになろうとしてる。

 

 ヒカルの中での院生。

 いや、セミプロの基準は塔矢アキラだ。

『zelda』の事は印象が薄いので基準にはならなかった。

 塔矢アキラの印象が強すぎるとも言える。

 つまり、ヒカルの中で、あかりが超えるべき最初の壁は塔矢アキラになっている。

 ヒカルは厳しく視線を投げつけた。

 

「院生って。本気なんだな」

 

「うん」

 

 見つめ合う。

 そこに甘い空気は一切ない。

 固唾を呑むような固い空気が流れている。

 甘く見積もっても、あかりは塔矢の足元にも及ばない。

 今日、それがよく理解できた。

 

「今日、塔矢と打った。アイツまた強くなってるぞ。これからだって、どんどん強くなる」

 

「うん」

 

「お前じゃ、アイツにはまだ勝てない。ずっと追いかけ続けられんのか?」

 

「違うよ。私の目標は塔矢くんだけじゃない。ヒカル『も』私の目標だから。ううん、プロになるならその先まで行きたい。止まるつもりなんてないから」

 

 あかりは自分のように無鉄砲ではない。

 少なくない年月を共にしたから、そのことをよく知っていた。

 単なる思いつきなら夏休みが始まる前に自分に言っていただろう、とも思う。

 

 だから、目の前の真剣な眼差しで自分を見る姿からも、本気なんだな、というのが伝わってきた。

 

 ヒカルに囲碁界のことはよくわからない。

 碌に調べてもいないし、出会ったプロも数えるほどだ。

 

 そして対局したのは超一流の『塔矢行洋』だけ。

 だから、ヒカルのプロ棋士の基準は『塔矢行洋』になる。

 周りが聞けば、冗談だろ、と顎が外れるような基準だが、ヒカルが出会ったのは囲碁教室の先生、緒方九段、塔矢行洋だけ。

 肌でその凄みを感じたのは、やはり『塔矢行洋』だけになる。

 

 本気じゃなきゃ無理。

 感覚ではあったが、ヒカルはそう思っていた。

 だから、ちょっとプロになってタイトルの一つでも取るか、なんて微塵も思っていない。

 人生を懸ける覚悟なんて、そう簡単に決められる筈がない。

 

 だけど、幼馴染の女の子がこれだけの覚悟を見せているのに、自分だけが日和(ひよ)るなんて論外だった。

 今までのヒカルは踏ん切りが付かなかっただけだった。

 実力も、資格も十分に持っている。

 ヒカルに必要なのは一歩踏み出すキッカケだけだった。

 それが例え、幼馴染に負けてられるか、という周囲から微笑まれるような動機だったとしても。

 

「わかった、許可する。けど、お前が院生になるんなら、オレもなる。──これからはライバルだな」

 

『ニヤリ』と笑ったヒカルにつられてあかりも笑、えなかった。

 

「ええ!? ライバルになるの!?」

 

「当たり前だろ? これからは互先な」

 

「ちょっとヒカル!? それ無理! 無理だって! 勝てるわけないじゃん!」

 

 慌てふためいているあかりに、機嫌良くヒカルが笑っていた。

 院生も面白そうだと思いながら、どんな奴がいるんだろうと少し『ワクワク』していた。

 

『ヒカル、いいんですか!?』

 

(塔矢みたいな奴がいればいいな、佐為)

 

『ハイ♡』

 

 唐突な院生になる宣言に、佐為も踊るほど喜んだのは言うまでもない事だった。

 

 

 

 

 

「──アキラくん♡ね、どうだった? 大事な対局」

 

「え? どうして市河さんが知ってるの?」

 

「知ってるのって、当たり前じゃなーい! アキラくんのプロ試験初日よ? 忘れるわけないじゃない!」

 

 1週間近く前の『sai』との対局のことをどうして知っているんだろう、とドキリとしながら市河に聞けば、返って来た答えはそういえばと思い出すものだった。

 

 昨日のプロ試験初日。

 大事な1局だ。

 それは塔矢も重々承知している。

 けれど、それよりも進藤との対局の方が重かった。

 その方が絶対に神の一手に近づけると確信していたから。

 

 だがそんなことを市河に言うわけにもいかず、アキラは誤魔化すように苦笑いした。

 

「あ、ウン。そうだよね、そっちだよね」

 

「で、どうだったの?」

 

「うん。勝ったよ」

 

「きゃー! さっすがアキラくんね!」

 

「おいおい、(いっ)ちゃん。若先生が初戦でコケる訳ないだろ? これから20何戦ってあるのに、イチイチ聞いてちゃ若先生も辟易しちまうよ」

 

「いいじゃない! 20何戦分! 私は喜びたいの!」

 

「お、おう。……そうかい」

 

 なんか文句あるか、とでも言いたげな市河の言動と表情に押されて常連客の北島は黙ってタバコを吹かせた。

 そこから少しだけ会話をして、アキラは今日来た理由を話した。

 

「それでね。緒方さんって今日みえられるかな? 一局お相手してもらえたらと思って来たんだけど……」

 

 その時、ちょうどタイミング良く碁会所の扉が開いた。

 緒方かと思い期待して振り向いたアキラの目に、アキラを先生と以前から呼んでいる広瀬の姿が入った。

 そして広瀬はアキラの姿を見つけると、表情を一気にファンのものに変化させて鼻息荒く聞いた。

 

「アキラ先生! どうでした!? 初戦の結果は!?」

 

「え、あ」

 

「や! アキラ先生に勝敗を聞くなんて失礼でしたか」

 

「広瀬さんっ! プロ試験のことはアキラくんに任せておけばいーの! さっさとおカネ払って!」

 

「ハイハイっ、わかりました。──ああ、そうそう。ここにくる途中であの子を見かけましたよ。前にアキラ先生に勝った──えーと」

 

「進藤ですか?」

 

「そうそう、彼です。パソコンがたくさん置いてあって、インターネットとかが出来るお店ってあるでしょう? まぁ私はあまり詳しくないので、何をしていたのかよくわからなかったんですが、ハハハ」

 

「へぇあの子がそんなところに? やっぱり若い子は機械に強いのねぇ」

 

「ホントですね、私なんてサッパリで。何か熱心にやってましたよ」

 

 インターネット。

 パソコン。

 そう聞いて、居てもたっても居られずアキラは広瀬に問い詰めた。

 

「──場所は!?」

 

 進藤は明らかに強くなっていた。

 自分との接戦が理由なのか、あるいはネット碁を始めた事に理由があるのか。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 会って言いたいことがあるアキラは思わず広瀬に場所を聞いていた。

 

 

 アキラは再び対局して理解した。

 

 進藤はあまりにも強すぎる。

 もし、もしも彼がプロにならなかったら。

 それはもう、囲碁に対する冒涜であるとすら感じる。

 人に強制するものではない。

 それはアキラも理解している。

 だが、それでも、それでも誘い続けるべき人だとアキラは思った。

 

 自分の身勝手だともわかってる。

 それでも誘うことを止められない。

 

 広瀬から聞いた場所に向かうための電車に乗りながら、アキラは強い想いを改めて確認していた。

 

(進藤。やはり、キミはプロになるべきだ! 一刻も早く! こっちに来い、進藤!!)

 

 広瀬が教えてくれたインターネット喫茶に辿り着いた。

 透明なガラスの向こう側には進藤らしき人物の背中が見える。

 それを目にした途端に、ドアを開けて塔矢は走った。

 

 そして、肩に手をかけて振り向かせた。

 

 驚いて、若干引き攣ったような進藤の表情。

 そして画面には、『sai』と書かれた名前と、現在打っている盤面が映っている。

 『sai』=進藤ヒカル。

 間違いないとは思っていたが、それが確定した瞬間だった。

 

『ビクン』と震えて驚きを浮かべていたヒカルの表情が、自分の肩を掴んで引っ張ったのがアキラだと理解して怒りに染まった。

 

「だぁああ! 塔矢、お前な! いっつもイキナリすぎるぞ!? せめて先に声くらい掛けろよ! ビックリするだろ!」

 

 そう指摘されて、その通りだ、と思いながらアキラは誤魔化すように笑った。

 

「あ、いや。ごめん、つい……」

 

「そんな可愛い顔しても許さねーからな! ……ったく、ちょっと待ってろよ、終わらせっから」

 

 そう言って、画面に向き直ったヒカルは再び対局に戻った。

 アキラはその対局を進藤の左肩側に立って眺めた。

 

 対戦相手もそこそこの強さだった。

 プロほどではない。

 しかし、アマの中では上位に位置する強さだろう。

 

 対して、進藤の打ち筋はしっかりとしたものだった。

 ネット碁で置石は基本的にしない。

 それ故に進藤は指導碁を心がけているようで、相手から反応を引き出すような打ち方をしている。

 

 まるでプロがアマに対して打っている盤面を見ているかのようで、思わずアキラは苦笑いが溢れた。

 アキラにも同じことが出来るが、わざわざ指導碁をするためにネット碁を開いて、インターネット喫茶に来てまでやるか、と言われれば遠慮したい。

 碁会所で事足りるからだ。

 それに、自分の勉強に時間を使いたいアキラからすれば、目の前の光景は人が良すぎると言っても何ら不思議のない光景だ。

 

 しばらくの時間を掛けて、ヒカルは打ち終えた。

 ヨセまで行うという念の入れようにアキラは笑ってしまった。

 笑われても、ヒカルは『なんだよ』と恥ずかしそうにするだけで打つ手は変えない。

 それを見て、改めて思う。

 

 彼こそプロに相応しいと。

 実力も、アマに対する姿勢も、碁に対する姿勢も、その全てが基準を容易に上回っている。

 もし仮に彼がプロに相応しくないと言うならば、今棋院に所属しているプロの大半が資格を返上しなければならないだろう。

 

「──進藤」

 

「ん? あぁ、もう終わったからいいぜ。──三谷のおねーさん、ゴメン。ちょっと外出てくる」

 

 心配そうに進藤の様子を『チラチラ』と見に来ていたお姉さんに、進藤が軽くそう言った。

 

「え、ええ」

 

 お姉さんが頷くのを見るや否やアキラを連れて外に出て、進藤はアキラと向かい合った。

 腕組みをして、少しばかり不機嫌な様子だった。

 いきなり肩を掴まれればそうなる、と少し前の自分の行動を少し反省するアキラに進藤が疑問を投げた。

 

「──で、どうしたんだよ。なんか聞きたい事でもあんのか?」

 

 反省は後にしよう。

 アキラはそう思い、今日来た目的を話した。

 何度も言い続けた事ではあるが、それでも、彼にはプロになって欲しいから。

 

「進藤。キミはまだプロになるつもりがないのか?」

 

「いや? なるよ、プロ」

 

 進藤は平然と答えた。

 アキラは頷いた。

 

「ああ、そうだろうな。キミはまだ……ってなるのか!?」

 

「お、おう」

 

 驚きに今までにないほど表情を一変させた様子のアキラに、進藤が少しビビっていた。

 だが、そんなことは気にしていられない。

 いつまでもキミを待っている、と改めて言うつもりだったアキラは面食らった気分で叫んでいた。

 

「い、いつから!?」

 

「きょ、今日から?」

 

「今日!? 何があったんだ!? ボクが誘っても頑なに頷かなかったのに!!」

 

「いいだろ別に!!」

 

「いや、良くない! 聞かせろ、進藤! 聞かせてもらうまでボクはここから動かない!」

 

「そーかよ、じゃあ、オレ帰る!」

 

「あっ待て、進藤!」

 

「動かないんじゃなかったのかよ!」

 

「それは! キミが動くなら話は別だ!」

 

「あーもう! めんどくさいな!」

 

「なっ! 友人に対してその言い方はないだろう!?」

 

「あーほんともう! お前はオレのかーちゃんかよ! 人の恋愛に首突っ込んでくんな!」

 

「恋愛!? キミは恋愛でプロになると決めたのか!?」

 

「うるさいなー! あっ、三谷のねーちゃん。ゴメン、オレ帰る!」

 

「あらそう? お友達とは……、随分仲が良さげね」

 

「良くねーよ!」

 

「……進藤、それは、少し酷いんじゃないか……?」

 

「うっ! いや、その……」

 

「うふふ、ごめんなさいね。二人は仲良しだと私は思うわよ? ──あと、もうすぐ夏休み終わるんだから、進藤くん、約束守ってね」

 

「ウン」

 

「よろしくね〜」

 

「進藤。約束って何だ?」

 

「お前には関係ねーの」

 

「あれもダメこれもダメと……、何ならいいんだ?」

 

「一局打ってやるよ、オレん家でいいか?」

 

「えっ! いや、それは、願ってもないが……」

 

(くっくっく、コイツちょろいな)

 

『もうっ! ヒカルってば、悪い顔してますよっ』

 

(けど、お前も塔矢と打ちたいだろ?)

 

『それは、まぁ、そうですけど……』

 

(ならいいじゃん。オレは文句言われなくて嬉しい。塔矢は佐為と打てて嬉しい。佐為も嬉しい。だろ?)

 

『……今回だけですからねっ』

 

『プリプリ』としながらも、喜色の浮かんだ表情までは隠せない。

 そんな佐為に忍び笑いを溢しながらヒカルは塔矢の手を取って駆け出した。

 

「ホラ、行くぞ塔矢!」

 

「あっ、待ってくれ進藤!」

 

 二人の少年が仲良く連れ立って駆け出して。

 その背後には一人の幽霊がこれからの対局に想いを馳せて、機嫌良さげにスキップしながら続いていた。

 

 



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第6話

約6000字



 

 某所会議室。

 二人の男性が向かい合い、その周囲でも複数名が発する意見が『ガヤガヤ』と交わされていた。

 それは今期院生試験に合格した、一人の少年に対する議題だった。

 

「──では、本当に?」

 

「はい。これが、その棋譜です」

 

「……信じられん。これが今年中学生になったばかりの子供の棋譜だと? ……タイトルホルダーだと言われても、頷いてしまいそうな……」

 

「私も同じ気持ちでしたが、これは紛れもない事実です」

 

「キミのことは信頼している。こんな嘘をつくとも思えないから、その点は安心したまえ。だが、いくら何でも強すぎる……」

 

「そうですね。私もその点が気がかりで」

 

 そう頷いたのは進藤ヒカルと藤崎あかりの試験を監督した、院生たちから『先生』と呼ばれる立場の男だった。

 メガネを掛けた優しそうな風貌を、今は深刻そうな色で染めている。

 

「今年のプロ試験合格を決めた『塔矢アキラ』は若い芽を摘まぬように遠慮していた。なにを言いたいか、わかるかね?」

 

「……辞退させよ、ということでしょうか?」

 

 深刻そうな色が、怒りに変わる兆候があった。

『院生』とは、実力があって年齢制限に引っかからないのならば、誰でも成ることができる。

 塔矢アキラのように望んでいないのならまだしも、望んでいる子供を拒絶するなど信じられない選択だ。

 

 そんな気持ちで対面に座る役員を見つめれば、仕方なさげに首を振った。

 

「ふぅ、今年のプロ試験はもう終わっている。今からもう一人、という訳にはいかん。彼がどれほど強かろうとね。しかし、若い芽を摘ませる訳にもいかん。彼はあまりにも強すぎる」

 

「ですから、私にどうせよと?」

 

「この子に思慮ある行動を願いたいが、キミから見てどう思う?」

 

「……辞退は恐らくしません。それに、そんな理由で辞退させてしまえば棋院の信頼がどうなるか!」

 

「わかっている。だから、そのような指示は出していない。それほどの人物に悪感情を抱かれたくはないから、そのつもりもない。落ち着きたまえよ。これほどの実力があるのなら、という提案がある」

 

 喧騒に近いほど喧々轟々と交わされる議論の中で、一枚の書類がテーブルからこぼれ落ちた。

 そこには『進藤ヒカル』という名前が記載されていた。

 

 

 

「──はぁ? 試験受けに来たやつが、先生より強いって? しかも塔矢アキラのライバルぅ? ……ソイツなんで院生になるんだ?」

 

「いや、オレもそう思うけど、本当なんだって。受付の人が言ってたもん」

 

「ねえねえ、それって今日から来る新しい子のことでしょ? 何でも二人いて、二人一緒に試験受けて合格したらしいよ」

 

「聞いたことねえよ、同時受験なんてさ」

 

「だろ。けどさ、一人がそれだけ強いなら、もう一人も相当強いんじゃないか?」

 

「うっわ、ここに来てまたライバル増えるのか……」

 

「しかも、二人ね。私たちもウカウカしてられないわ」

 

「でさ。これ噂なんだけど。あんまりに強すぎるからって院生にするかどうかで揉めたって……」

 

「なにそれ? 嘘でしょ?」

 

「でも火のないところにって言うし、本当だったら凄いよね」

 

「じゃあ、院生にはせずにプロにするって話?」

 

「ううん、プロ試験以外に特例は設けられないから、制限を設けるとか何とか……」

 

「……制限?」

 

「うん。何でも本気出しちゃダメって──あ」

 

 話し合う院生たちの視線が一点に集中した。

 エレベーターから降りてきた、二人の男女。あかりとヒカルだった。

 まさに自分達の話題が噂になっている、と察してしまって二人とも顔を少し赤らめながら靴を脱いでそそくさと対局場に移動した。

 あかりが『ひーん』と言いたげな表情で弱音を吐いた。

 

「ひ、ヒカル。なんか凄い噂になってるよぉ!! 私そんなに強くないのに!」

 

「お、落ち着けって。打つだけだろ? いつもと変わんねーよ」

 

『そういうヒカルも緊張してません? 声が少し上擦ってますよ』

 

「ぐっ!!」

 

 佐為の言う通り、ヒカルは少し緊張していた。

 何せ棋院からの依頼を断ってまで、きちんと打つことに拘ったからだ。

 

『けど、意外でしたね。ヒカルってば、てっきり依頼を受けてオレが打つ! とか言うと思ったのですが』

 

(やんねーよ、そんなこと。打つのは楽しいけどさ、佐為の見てる方がもっと楽しいもんな)

 

『……ひ、ヒカル……!! そんなに私の碁を買ってくれて──』

 

(それに負けまくったら恥ずいだろ。あかりになんて言われるかわかんねーもん)

 

『……ええ、そうでしたね。ヒカルはまだまだ子供……。私、失念してました』

 

(なんだよ)

 

『いーえ、何でも。私は未来ある若人と好きなだけ打てる訳ですから、文句など出ようはずもありません。……はぁ早く打ちたいものですね』

 

(もうすぐ打てるって)

 

 深呼吸を繰り返して少し落ち着きを取り戻したあかりが、ヒカルに背を向けながら言った。

 

「じゃ、じゃあ。ヒカル、また後でね」

 

「おう、トイレの場所は確認しとけよ」

 

「も、もぉ!! ヒカルのばか!!」

 

 あかりは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに言った後で『プリプリ』と怒りながら、けれど廊下に出てちょっとだけ確認していた。

 素直である。

 

『ヒカル。女性に対してあの物言いは如何なものでしょう。緊張を解す目的とは言え、少し言い過ぎでは?』

 

(いーんだよ、実力出せない方がカワイソウだろ)

 

『それは……そうですが。可哀想なあかり』

 

 しんみりとした瞳で廊下の先を見据える佐為が、ふと振り返ってヒカルに鋭い視線を向けた。

 続々と入室してくる院生の姿に感化されて、その身に研ぎ澄まされた気配を纏いつつあった。

 

『──ヒカル、本当に私が打っていいんですか?』

 

(いいって言ってんじゃん)

 

『……院生のレベルに棋力を合わせて、その上で勝率を8割以下で抑えるように。それだけの指示ですが、本当に守らなくていいんですね?』

 

(いいよ。だって、負けるのは好きじゃない)

 

『……ですね。私も好きではありません。──ですが! もちろん、若人の芽を摘むのは本意ではありません。そこは『私たち』が全力を尽くして、皆を引き上げるとしましょう!! ね、ヒカル!』

 

(ほどほどにしてやろーぜ……)

 

 毎日毎日、嫌と言うほど佐為と打っているヒカルは普段の数倍気合いの入っている佐為の姿を見て苦笑いした。

 こりゃあ、えらいことになりそうだ、と。

 

 

 

 

「──あ、ありがとうございました」

 

 院生2組で5位。

 院生の中ではそこそこと呼べるウデを持った少女である内田はまるでプロとの指導碁を終えた後のように深々と頭を下げた。

 

 自分の実力をまるっきり全部引き出せたとき特有の、胸の芯に残る、熱いけれど爽快感のある疲労が心地良かった。

 

 その心地良さとは別に、気持ちが高揚して頬は僅かに赤らんでいる。

 打ち初めて定石の段階でもう理解できた。

 あ、この人は格が違う、と。

 

 定石なんて知っていれば誰でも打てるもの。

 だから、内田が感じたそれは錯覚に過ぎないが、その後の戦いと死活、オオヨセから終局までを迎えて、その直感は間違っていないと確信出来た。

 

 だから理解できる。

 あえて力量を内田のレベルの少し上まで落として、導くように一手一手の反応を引き出してくれているのが。

 内田の数段上の実力がなければ不可能な芸当。

 アマチュアがプロに指導碁を打って貰い喜ぶのと同じように、あまりにも隔たった実力差は悔しさよりも感嘆を生んだ。

 同年代で、ここまでの碁を打てる人がいるんだ、と純粋な驚きと尊敬があった。 

 

 だから『負けました』ではなく『ありがとうございました』という言葉が口を突いた。

 それを眺めていた周りの女子たちが『キャイキャイ』と口々に話題にした。

 終局までを丁寧に打ったために、その間に終局していた大勢が集まって来ていた。

 

「す、すごいね。進藤くんって」

 

「うん。内田さんがあんなに気持ちよく打ってるの久しぶりに見たかも……」

 

「いーなー。私も打ってもらいたいー」

 

「……顔も、悪くないよね」

 

「あ、コラ。そーゆーのなしでしょ。ここは囲碁するための場所なんだから」

 

「あはは、ごめんごめん」

 

 囲碁に集中しているときは、外野の声は聞こえない。

 けれど、終局してしまえば聞こえる。

 

 そのため顔を赤らめたヒカルがそそくさと盤面を片付けて立ち上がった。

 

「お、オレ次行くから」

 

「う、うん。また打ってね」

 

「──ああ、いい碁だった。また打とうぜ」

 

『ニカリ』と笑ってそう言ったヒカルに、内田は『コクコク』と何度も頷いた。

 そんなヒカルの姿を遠巻きに見ていたあかりが、頬をぷっくら膨らませていた。

 

 第二局。

 

「……。ありません……」

 

 ヒカルと同年代の少年が、顔を伏せながら投了を告げた。

 盤面はまだオオヨセが残っている。

 形勢はまだ五分五分であるので投了の判断はあまりにも早計。

 しかし、相手が投了するなら勝者は受け入れるのがルールだ。

 少し動揺しながらもヒカルは頭を下げた。

 

「えっ、あ、うん。ありがとうございました」

 

「……ありがとうございました」

 

 少年はそう言い残してお昼のために席を立った。

 盤面には石がそのまま残っている。

 少し釈然としない気持ちでヒカルが片付けていると、別の少年から声がかかった。

 

「──アイツ、負けそうになると不貞腐れるんだよな。もうちょっと粘れば上にいけるってのに、勿体無い奴。さ、メシだメシ。片付けちまおう」

 

「ああ、そりゃ勿体無いよ。打てるだけで十分だろーにさ」

 

「あはは、なんだオマエ。爺さんみてーなこと言うじゃん。──オレ、和谷って言うんだ。進藤って呼んでいいか?」

 

「いいよ。って、和谷は、1組だろ? 2組のオレのとこ来てていいのか?」

 

「お、きちんとライバルのチェックはしてるってわけか。そういう奴は嫌いじゃないぜ。けど、別に1組と2組で分ける必要もないだろ? それに、オマエならすぐ上がってきそうだし。メシは決まってんのか?」

 

「あー、どーしよっかな」

 

 あかりが一緒に行くだろ、とそう思って視線を巡らせれば、茶髪の女の子と楽しそうに会話しながら玄関口に消えていくところだった。

『ピクピク』と眉間を動かしながら端的に答えた。

 

「……行く」

 

「そうこなくっちゃな。──おーい、伊角さーん。メシいこーよ」

 

「おお? 一緒行くか。けど、奢らないぞ?」

 

「そんなの期待してないって!」

 

「ははは、ならいいぞ」

 

「ったく。進藤、オマエなに食う? 弁当でいいか?」

 

「あ、うん。コンビニで買うつもりだけど」

 

「じゃ、決まりだ。──色々話聞かせろよ」

 

 大魚が釣れたとばかりに、和谷が自信満々に『ニヤリ』と笑みを浮かべた。

 

 

 

「──はぁ!? 囲碁歴二年ってマジなのか!!?」

 

「ウン。じーちゃんにお小遣い貰うために覚えてさ。そっから一年くらい後かな? そん時に塔矢と打って。いやー、びっくりしたぜ。同年代ってこんなつえーんだって思ったもん」

 

「そこまでオマエを育てたって、おまえのじーちゃん何者だよ……。てゆーか、同年代の基準をそこに持っていくなぁああ……!! ──塔矢は、アイツは例外!!」

 

『ビシッ』とヒカルを指差す和谷に笑って答えた。

 

「あはは、わかってるよ。アイツがすげー奴ってことくらいさ。──あと、別にじーちゃんは強くないぜ。オレの師匠は秀策だから」

 

『生まれ変わり』って奴か。

 そう聞こうとも思ったが、まだ出会って1日目だ。ブッ込むのも違う。

 一息入れて和谷は好奇心を押し殺した。

 

「……秀策ねぇ。棋譜でも並べたのか?」

 

「まー、そんな感じかな」

 

「ふーん。……ま、オマエの強さは1組に上がってくれば嫌でも分かるか。その時を楽しみにしてるぜ」

 

「おいおい、和谷。そろそろオレも会話に入れてくれよ」

 

「あ。ごめん、伊角さん。オレばっか盛り上がっちゃって」

 

「いいよ、気持ちはわかる。──なあ進藤。オレも聞きたかったんだけど、まぁ塔矢とのことなんだけどさ。どこで会ったんだ? そう簡単に会える奴じゃないだろ?」

 

「ええっと、そう。うちの近所に囲碁教室があって──」

 

『ワイワイ』と興味津々な二人に質問攻めにされながらも、囲碁が好きな同年代との会話を思う存分に楽しむヒカルと一緒になって、佐為は楽しげに笑っていた。

 そんなこともありましたねぇ、とヒカルと一緒に思い出しながら、自分も会話に混ざっているような心地で楽しんだ。

 囲碁で繋がっていれば、ヒカルと共に過ごした日々は他の者とも共有できる。

 そんな温かい日常の風景がそこにはあった。

 

 

 

 それから数週間が経った。

 院生が集まるのは毎週日曜日と第二土曜日。

 ヒカルの対戦記録には白星が12個並んでいた。

 

「──うっひゃあ、マッシロだな。こりゃ本当に1組にもすぐ上がって来れそうじゃん」

 

「へへっ、1組が長い和谷先輩に胸を借りる日も近いかもね」

 

「こんのヤロー。来たら叩きのめしてやるよ。──って言いてぇけど、返り討ちに遭いそうなんだよなー。ねぇ伊角さん」

 

「おいおい、そこでオレに振るなよ。まぁ、和谷と同意見なんだけどさ……」

 

「負けるな1組! 新参者の進藤に目に物見せてやる! ……くらいの意気込みでさー、ひとつ頼むよ伊角さん」

 

「それなら、オレよりも最適な奴がいるだろ? ──ほら、越智とかさ」

 

「院生順位1位がなに気弱なこと言ってんのさー」

 

 そんな会話をしていると、一人の神経質そうなメガネを掛けた少年がやってきた。

 

「ボクのこと呼んだ? ──ねぇハンコ押すから、そこ退いてくれるかな」

 

「あ、ごめん」

 

 素直に退いたヒカルに、ハンコを用意しながら越智が話しかけた。

 

「キミ、塔矢のライバルなんだってね」

 

「ウン。なんか、そういうことみたい」

 

「そういうことみたい? ふーん、なんだ。塔矢も嫌味な奴だったけど、キミも相当嫌なヤツだね。無自覚って一番タチが悪いらしいよ」

 

 それだけ言い放って、自分の名前の下に白のハンコを押して越智が去っていった。

 少し不機嫌そうにヒカルが聞いた。

 

「アイツ、誰?」

 

「越智。お前の3ヶ月前に入って来て、1組3位。ま! いっつもあんな調子なんだ、気にすんなよ。……まぁ塔矢が嫌味な奴ってのには同意するけどな!」

 

「アハハ。塔矢ってここだとそんな感じだったんだ?」

 

「ここっていうか、プロ試験で、だよ。全勝であっという間にプロになりやがったんだ。今までプロになる素振りも見せなかったくせにさ。──塔矢のライバルだったオマエなら、知ってるだろ?」

 

 軽い話題。

 そんな調子でヒカルに問いかけた和谷だったが、興味津々だった。

 

「あぁ。どうだったかな? そういや聞いたことないや。アイツと会うと打ってばっかだもんな、オレ。……こないだもオレん家で打ったんだけど、時間忘れるくらい打ってさ。気付いたら夜で慌てて塔矢に電話させて、迎えの車来るまで早碁打って。打ってばっかだよ、ほんと」

 

「そ、そうか」

 

 今まで名前しか知らなかった『進藤ヒカル』。

 塔矢とライバルというのも本当。

 囲碁歴二年も、塔矢名人に勝ったのも本当。

 なら。

 進藤ヒカルが『sai』だという予想も当たりだろうか。

 

「なぁ進藤。お前──」

 

「席についてください。対局を始めますよ」

 

「あ、やべ! 和谷、オレ行くからな」

 

「お、おう」

 

『sai』って知ってるか。

 そう聞こうとした言葉は形になる前に溶けて消えた。

 進藤ヒカルの背中を名残惜しげに見つめた後、和谷はかぶりを振って自分の席に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 





三谷に関しては本編からズレてしまうため省きますが、囲碁部に入っています。
その経緯は二部完結したらいずれ間話で出すかも・・・?


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第7話

約9500字



 

 

 ヒカルの自宅。

 いつものように碁盤を挟んでヒカルと向き合って、終局を迎えた盤面を見ながらあかりが悔しげな声を漏らした。

 

「──ありません……」

 

「ここでちょっと踏み込みが甘かったよな。オレの厚みを恐れての一手だと思うけど、それならこっちに効かせてる一手を伸ばした方がよかった。ここにお前の黒があると、オレはどうしても少し固い打ち方になるから、それを狙いつつ、石を伸ばしていくべきだったな。あるいは、さっき踏み込みが甘いとこをキビシク攻めていくべきで、理由は……、ってあかり。聞いてんのか?」

 

「うん、うん。聞いてるよ、聞いてる。……ううん、ごめん。やっぱり集中してなかった……。ちょっとだけ聞いてもいい?」

 

「いいけど、どした?」

 

 集中しようとして、集中出来ていない。

 あかりはそんな自分を叱咤するように顔を『パンパン』と叩いて、ヒカルに真剣な表情で聞いてきた。

 

「次の週から、ヒカルってば1組なんでしょ?」

 

「ああ、そう言われてるけど」

 

「……私、まだ2組で。最初の連敗からは抜け出せたけど、白星もチョコチョコしかないじゃない? 勝てるようになったって思ったら、また負けが増えたり……。成長してるのかなって少し不安なの。ヒカルから見てどう思う?」

 

 ソレを聞いて佐為は少し悩ましい表情をした。

 ──少し、ヒカルに甘えすぎていますね。

 真剣勝負の場で、この甘えは致命的に成り得る。その懸念が拭えなかった。

 

 けれど、あかりは真剣な表情だった。

 改善するために何かないかを探している瞳。

 ヒカルは甘えとは思わなかったようで、佐為に確認するように聞いた。

 

(佐為。あれだよな?)

 

『……はい、アレですね。今日の対局で確信しました』

 

 佐為にも確認が取れたので、ヒカルも佇まいを少し正して言葉を続けた。

 

「お前って、ほぼ毎日オレと打ってるよな」

 

「う、うん」

 

「囲碁部に顔出すこともあるけど、最近はもっぱらオレとばっか打ってる。お前の実力は伸びてる。けど、僅差で勝ち切れないのは、オレとばっか打ってるからだ」

 

「ええっと、でも、強い人と打てば打つほど強くなれるでしょ?」

 

「打ち方にもよるんだよ。──お前、オレの一手が恐いだろ」

 

「えっ」

 

「ここに打ったら、こう来るかもしれない。そういう危機予測は大事さ。けど、恐がってちゃ打てない手もある。前のお前なら、その、指で石逃がすみたいに突拍子もないことも果敢にやってきたけどさ。院生になって周りのレベルが上がったのもあるか? まぁそれに合わせてお前も強くなって、そういう果敢な手の恐さが見えるようになってきてるんだよ」

 

「うっ、あれは、忘れてくれると嬉しい、かも……?」

 

「忘れられっかよ。伊角さんなんか、それは個性的だねって苦笑いしてたぜ。和谷は食いかけの唐揚げ落とすくらい呆然としてたけど。あの、嘘だろ、って顔。あれは傑作だった」

 

『くっく』と忍び笑いを溢すヒカル。

 恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤に染めながらあかりが悲鳴を上げた。

 

「ヒカル!? もう話しちゃったの!?」

 

「話を戻すとだ。お前がやるべきことはハッキリしてる。見極めてギリギリまで攻めるんだ。お前は強くなってる。その上で果敢さを取り戻せよ、お前ならやれるだろ」

 

「……うん。やってみる!」

 

「よし! もう一局打つぞ」

 

「はい!!」

 

『わぁい♡対局対局♡』

 

 佐為の懸念は今は指摘されなかった。

 まだその時ではないからだ。

 今は伸び伸びと打たせて、実力を伸ばすべき時だった。

 

 その日は夜遅くまで対局を続けた。

 部屋の明かりがいつまで経っても消えずに、ついに自宅にあかりの母親から電話がかかってきてようやく解散した。

 終わる頃には脳を酷使しすぎて『ヘトヘト』になっていたあかりだったが、少しずつ、少しずつと手応えを掴み始めていた。

 

 

 

 

 

「──新初段シリーズ?」

 

「ああ。って知らねーの……?」

 

「うっ。いや、アハハ」

 

 呆れた顔で和谷が続けた。

 

「ったく。今日だよ、今日。『幽玄の間』であるんだ。お前のライバルと座間王座の新初段シリーズ。マジで知らねーの?」

 

「いやぁ、オレってば打つことしか興味ないからサー」

 

「ふーん。まぁ新人とトッププロが対局するイベントってワケだ。逆コミで新人が5目半貰って黒番を握る」

 

『ほー、面白そうですね』

 

「へぇ、それなら塔矢が勝つんじゃないか?」

 

「ああ、新人に花持たせる事もあるし、勝ったり負けたりって感じだよ。観戦もできるし、後で寄ってみるか?」

 

「お、いいじゃん。行く行く」

 

「対局室は、やめとくか。観戦だけで勘弁しろよな」

 

「ああ、サンキュー」

 

「ん。そんじゃ、ようこそ1組へ」

 

 和谷の背後には、今まで見えない仕切りで隔たれていた向こう側。

 1組のメンバーたちが続々と集まって対局の準備をしていた。

 

 その光景に新しいメンバーとの手合わせを想像して、ヒカルは強気な笑みを浮かべた。

 

 

 

「──ありません」

 

 奈瀬明日美が初戦だった。

 ついに来たかという気持ちで、簡単に負けるもんですか、と挑んだ対局は呆気なく奈瀬の敗北で終わってしまった。

 それでも意気は全く落としていなかった。

 

「ん〜〜〜!! ここ、さすがに入りすぎじゃないの!? 私、応手間違えた?」

 

「だなー。ココとココを、このタイミングで切ったのがマズイ。まぁそれがなくても、コウ争いに持っていく手もあるし、今回みたいに伸ばしていく手順もあるから、左辺に展開する前にこっちを守るべきだった」

 

「……うん。いや、そっかー、見落としてたなー。でもでも、ここで受けたのは上手かったと思うんだけど、進藤から見てどう?」

 

「ああ、奈瀬のそれは良い手だったよ。オレの狙いを読めてたよな」

 

「だよね!? ──って負けてるんだけどね〜」

 

「でも、楽しかったろ?」

 

 奈瀬は盤面を見ながら対局中を思い返す。

 そして、澄んだ微笑みを見せた。

 

「うん。楽しかった。──っあ〜、あかりちゃんは毎日進藤とこんな碁打ってるの?」

 

「まぁ基本毎日だよな。家近いし、学校終わりとかでも時間あるからさ」

 

「ナニソレ。めっっちゃ羨ましいんですけど……。ねぇねぇ、もう一人さ、可憐な美少女を参加させるつもりとか。あったりしない?」

 

 コソコソっと口元に筒のような掌を形作りながら冗談っぽく奈瀬がそう言って、ヒカルは軽く笑った。

 

「アハハ、まぁあかり次第だな。考えとくよ」

 

「うっ! 笑って流されると心にくるわね〜」

 

 苦笑いする奈瀬とそのまま検討に戻って、幾つかの手順を解説する。

 中押しで終わった事もあって、2局目までの時間がまだあるからだった。

 そんなこんなで話し込んでいると、周囲も集まってくる。

 

「……進藤って、マジで強いな……」

 

「本田、お前ビビったのか」

 

 本田に声を掛けたのは飯島だった。

 七三にした髪型にメガネをかける姿は神経質な印象を与える。

 頬を掻きながら、言い訳するように本田が答えた。

 

「まぁ、気後れはするよ。あの塔矢のライバルだぜ。オレなんて塔矢の雰囲気にのまれちゃって、前回の試験で完敗だったよ」

 

「バカ言うなよ」

 

 そこで会話に入って来たのは和谷だった。

 盤面を見ながら、少しの汗を流しつつも強気の笑みを浮かべていた。

 

「上に行こうと思ったら、才能より努力より、とにかく強い人に1局でも多く打ってもらう事! これが一番なんだよ。プロになるんなら、こんなとこで足踏みするわけにゃいかねーよ。頼れるもんは何でも頼ってやる。──進藤、今日の二局目はオレだぜ。手加減なんかしたら許さねーからな」

 

「……ああ。胸を借りるぜ、先輩」

 

「コイツ、言いやがって!」

 

「あいたたた! ぎぶぎぶ!」

 

 軽いプロレスごっこを始めた二人を見ながら、飯島は拳を握っていた。

 

(……1局でも多く打ってもらう事? バカ言え、それで自信を失ったら元も子もないだろ。そんなに強いんなら、さっさと外来受験でもしてプロになれば良い。なんだって院生なんかになったんだ、コイツは。……オレは、好きになれない)

 

 ヒカルを認める者がいる一方で、認められない者もいる。

 各々が若い反応をする中で、『進藤ヒカル』という起爆剤をどのように扱うか。

 その一点が問われる流れが出来つつあった。

 

 その実力に真っ向から立ち向かう者。

 打てることに喜びを見出す者。

 悔しさを胸に奮起する者。

 才能の差を知って膝を折る者。

 碁の内容ではなく、ソレ以外の粗を探してしまう者。

 

 

『院生』がプロ棋士となれる確率は大凡5%であると言われる。

 つまり、95%は夢破れて一般社会に戻る。

 非常に狭き門が、プロ試験だ。

 

 そして、その他の職業と違って『碁打ち』は潰しが効かない。

 故にこそ、こう言われる。

 

 諦めるなら、早いほうがいい、と。

 その道の苦渋を知る者ほど口々にそう助言する。

 

 これしか道がない、という限られた者。

 あるいは桁外れの才能を持つ者にしか成れない職業。

 それが芸能職である。

 

 若い時間の全てを懸けてもプロ棋士に成れる者は極僅か。

 一体誰が、そんな可能性の低い夢を追いかけろと無責任に言えるだろうか。

 夢を追いかけた結果として、一人の若人の人生が潰れるかもしれないと言うのに。

 

 夢は追いかけなければ叶わない。

 若いうちは夢を追い掛けろ。

 

 そのような耳触りの良いスローガンは毒にも薬にもなる。

 

 奮起できる内はまだいい。

 しかし、それに縋るようになっては引き時を見誤る。

 

『進藤ヒカル』という劇薬は、プロを目指す『院生』たちにとって毒でもあり、薬でもあった。

 このキッカケを活かせるか否かは本人次第。

 それもまた、才能なのかもしれない。

 

 

 

 

「──会話だってさ、塔矢くん」

 

 棋院の玄関前で、若い棋士とトッププロの会話が始まっていた。

 他でもない『塔矢アキラ』と『座間王座』だった。

 

「今日は精一杯戦わせていただきます。よろしくお願いします」

 

「ああ。こちらこそよろしく」

 

 塔矢名人の息子。

 鳴り物入りの新初段。

 そういう評価が気に障らないか、と聞かれれば多少は引っ掛かる部分がある。

 だが、そうした思いとは別に、仕事は仕事だ。

 この注目度の高いイベントでこの新初段をペシャンコにする訳にも行かない。

 大人しく手を抜いてやるつもりで、多少の慢心から出た言葉を告げた。

 

「私の王座というタイトルにビビることはないよ。プロになったらみな一緒だ。気後れすれば絶対に勝てやしない。同じ初段だと思ってどーんと向かって来なさい」

 

 トッププロから声を掛けられれば、ましてや気遣う言葉を掛けられれば、新初段の大半は表情を綻ばせる。

 負けてやるから、せめてそのくらいの可愛げのある表情は見せろ、といった無言の圧力ではあったが、塔矢アキラは気づかなかったのか。

 あるいは意図的なものだったのか。

 

「そのつもりです」

 

 整った顔立ちの上に微笑を浮かべながらそう答えた。

 塔矢の内面はただ一言に尽きる。

『挑戦』

 それだけである。

 今現在の自分がトッププロに対してどの程度戦うことが出来るのか。

 

 進藤ヒカルが院生になったことは既に知っている。

 ならば、リアルタイムで自らの対局が見られる可能性も重々承知していた。

 

(……進藤。キミはまだプロではないが、ここでボクが良い結果を残せば、よりキミの強さが浮き彫りになる。……いや、何よりキミに見せたい。この世界で戦っていくボクの覚悟を、キミに)

 

(……そのつもりだと? ナマイキなツラで言いやがる。……予定変更だ、全力で叩き潰す。可愛げのない坊主に灸でも据えてやる)

 

『座間王座』vs『塔矢アキラ』の一戦が『幽玄の間』にて始まった。

 

 

 

 場面は院生たちの対局室にまで移る。

 ちょうど和谷とヒカルの対局は中盤に差し掛かっていた。

 

 思い悩むように和谷は顎に手を当てて考え込んでいる。

 そして、碁笥に手を差し込んで一手を放つ。

 

 対してヒカルに気負いはない。

 予期していた、と言わんばかりに即座に応手を返す。

 的確な対処に和谷が再び唸った。

 

(……やっぱ、進藤のヤツめちゃくちゃにつええ……。マジでコイツが『sai』なんじゃねーかってくらいだ。けど、今は対局に集中しねーと。あんだけの事言った後でポカして負けるのだけは勘弁だぜ)

 

 和谷は丁寧な碁を心掛けた。

 内容は終始押され気味だが、それでも立ち向かう意思は捨てない。

 棋力の差を盤面から感じつつも、実力を引き出されるがままにしっかりと打った。

 

(くっ、ギリギリで食らいついてるけど、それももう限界か……? 手加減なしとは言ったけど、それでもオレの応手を引き出してくるのはさすがってとこか。全力のオレを正面から受け止めて戦うっつー意志を感じる……)

 

 重ねる一手一手は次第に重くなってゆく。

 堂々とした打ち方で受け止められる。

 まるで大地に根ざした巨木と押し相撲をしている気分だった。

 

 そして、満を持したヒカルから一手が放り込まれる。

 和谷の数少ない隙を突いた一手は、急所を抉る。

 対処のために受け手を重ねるが、状況の改善の見込みがない。

 これ以上の対局は結果が目に見えている。

 和谷は悔しながらに口を開いた。

 

「……負けました」

 

「ありがとうございました」

 

 ヒカルがペコリを頭を下げて、盤面の片付けに入る前に和谷に聞いた。

 

「さ! 塔矢の見に行こうぜ、検討するんなら付き合うけど」

 

「進藤、いっこ聞かせてくれ」

 

 真剣な瞳で、和谷はヒカルを見ていた。

 悔しさを滲ませる様子はもうない。

 ただ聞きたいことがあった。

 

「な、なんだよ。急に改まってさ。……いいけど、ナニ?」

 

「去年の夏休み。インターネットにすげー強いやつが居たんだ。色々噂はあったけど、結局正体は不明のまま。──なぁ進藤。『sai』って、お前なのか?」

 

「……」

 

 その質問にヒカルは口をつぐんだ。

 塔矢に言われたのだ。

 プロになるまでは『sai』のことは黙っていたほうがいい、と。

 

『緒方さんが言っていたけど、キミは話題になりすぎた。プロになれば棋院が対応してくれるけど、今のキミには無理だ。だから、今は黙っていたほうがいい。取材とか特集とか、指導碁の依頼とか、そんなの御免だろう? ……ボクも、結構悩まされたからね』

 そう言って『はにかんだ』塔矢の言葉を思えば、ここで認めてしまうのは拙い気がした。

 

 だが、ヒカルは和谷のことを友人だと思っている。

 嘘を吐くのは嫌だったから、沈黙という回答になってしまった。

 

「……いや、悪い。忘れてくれ」

 

 和谷はそう言って苦笑いしながら質問を取り下げた。

 ヒカルの表情から全てを読み取った訳ではないが、言えない事情があるんだろう、と察することは出来た。

 

「お前は強い! オレが知ってればいいのは、それだけだよな。さ! 塔矢アキラの碁を見にいこーぜ」

 

「あ、ああ! ……わりー、和谷」

 

「気にすんなよ。遠慮なしに聞いたのはオレの方なんだし。……また打ってくれよ。お前の碁、オレは好きだぜ」

 

 そんな和谷の言葉を聞いてヒカルは嬉しげに、けれど少し恥ずかしそうに笑った。

 

 

 

 

「──失礼します。あ、真柴さん」

 

「おう、和谷か。……そっちは誰?」

 

「ど、ども」

 

 少し居心地悪そうにヒカルが挨拶したのを見て、和谷が代わりに紹介を始めた。

 

「進藤ヒカル。前期で院生になった奴で、今のとこ全勝で1組入った奴っす」

 

 院生になってから全勝。

 中々聞くことのない戦績に真柴が若干怯みながら初対面の挨拶をした。

 

「そ、そう。よろしく」

 

「ども」

 

「『ども』じゃねーだろ! よろしくお願いしますだろが!」

 

「よ、よろしくお願いします」

 

「ウン。よろしく」

 

 室内には『週間碁』の記者である天野と真柴、芦原(あしわら)、伊角、奈瀬が既に集まっていた。

 

「あ。伊角さんと……え。奈瀬も来てたのか」

 

「ああ、俺たちの方が早く終わったからな。奈瀬はオレが誘ったんだ」

 

「何よ、和谷。私が居たら悪いわけ?」

 

「い、いや。そんなことないって。けど、奈瀬ってこういう場所に居るイメージないじゃん」

 

「んー、そう言われれば、そうかもね」

 

 奈瀬がここに居るのは伊角に誘われた事だけが理由ではなかった。

『進藤ヒカル』のライバルだという、『塔矢アキラ』に興味があった。

 

 強いというのは知っている。

 前期プロ試験で対局したこともある。

 だから、今更見る必要もないかもしれないが、『進藤ヒカル』と対局した記憶に新しく、奈瀬の感覚では進藤の方が強かった。

 

 プロ入りを決めた塔矢アキラよりも、院生の進藤ヒカルの方が強い。

 そんな事があるのか、という思いがあった。

 もしかしたら自分の感覚が間違っているのか。

 

 だから、気になった。

 改めて塔矢アキラという棋士の実力を確かめるためにこの場所に来ていた。

 黙り込んだ奈瀬の様子に和谷が首を傾げた。

 

「まぁいいや。今ってどんな感じですか?」

 

「ホラ、初手から並べてあげるよ」

 

「あ、白は僕がやりますよ」

 

「頼むよ、芦原くん」

 

 天野と芦原が並べる棋譜に見入る二人を置いて、会話が続けられた。

 

「塔矢アキラは注目度が高いですね。──けど、ボクがいま一番気になっているのは、進藤くん。キミなんだけどね」

 

 芦原がそう言い、棋譜を並べながら視線をヒカルに向けた。

 

「お、オレ? ──ですか?」

 

「あはは、敬語なんていらないよ。うん、そう。キミだよ。アキラくんを負かしまくったんだって? 彼、研究会ですごく悔しがってたよ」

 

「あー、ウチに来た時の対局かな? 5、6局打ったもん」

 

「──で、その全部にキミが勝ったと。ぜひボクもキミと手合わせしてみたいね」

 

「あー、機会があれば」

 

「ははは、そうだね」

 

「おいおい、芦原くん。進藤ヒカルってあの、進藤ヒカルかい?」

 

「天野さん。はい、たぶんその進藤ヒカルですよ、彼」

 

「そーか。いや、緒方先生と塔矢名人に釘を刺されていてね。プロになるまでは、と。……キミがプロになるのを楽しみに待っているよ」

 

「あ、はい。……どもです」

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。緒方先生と塔矢名人って、彼何者なんです? ボク、名前を聞いたことすらないんですケド」

 

「真柴くんが知らないのも無理はないよ。前回の国際アマチュア大会で知られるようになった名前だし、まだ彼が中学生って事もあって良識的に名前を広めるのは、という判断だったからね。ボクらのような編集者か、相当な事情通じゃないとまだ知らない名前だよ。──ま、一年後には彼が新初段シリーズに出ている事が確実視される程の逸材、とだけ今は言っておこうかな」

 

「……確実視、ですか」

 

 畏れが混じったような視線で真柴がヒカルを見る。

 奈瀬も伊角も、まさかそこまで評価されていたとは思っておらず、驚きの表情でヒカルを見ていた。

 そんな流れを断ち切るように、芦原が口を開いた。

 

「えっと、ボクから始めた話ですけど、今は塔矢アキラでしょう? ホラ、座間先生必死ですよ。二段バネです」

 

「……おぉ。たかが新初段相手に王座の打ち方じゃないね。たしかに必死だ。だけど、座間先生らしくないね。あの人こういった記念対局みたいなのは手を抜くのに」

 

「ははは、座間先生に嫌われたかな? アキラくん」

 

「黒の塔矢くんがよく打っているよ。これには座間先生も本腰を入れるだろうね」

 

「ええ、逆コミのハンデがある白が勝とうと思ったら、とても手はゆるめられませんよ。今頃、扇子の先をかじってるかも」

 

「ああ! 真剣になった時の座間先生のクセ! いいね、よし! ちょっと見てくるよ」

 

 

 そこから『座間王座』と『塔矢アキラ』の戦いは熱戦という雰囲気を帯びてくる。

 塔矢アキラは勝ちに拘るか、さらに強手を放つかの選択を迫られる。

 

 このまま守り切れば勝てる。

 だが、本当にそれで良いのか。

 進藤ヒカルに追いつこうと言うのなら、果たしてここで守るのが正解なのか。

 

(……ボクは、前に進まなければいけない。目前の勝利よりも、一歩先に進むための糧が欲しい。……挑戦させて頂きます、座間王座)

 

 アキラの選択はさらに攻めるというモノだった。

 それは逆コミというハンデを捨てて、それ以上の勝利を目指すという事に他ならない。

 自陣のスキを塞ぐのではなく、より果敢に攻める。

 

 アキラは幾つもの対局を経た。

 強くなろうと思えば、より強い者に打ってもらうのが一番である。

 つまり、今のアキラの実力は『本来』よりも洗練されていた。

 

 恐れを勇気に変えて突き進む意志の力。

 心が折れる場面でなおも前に踏み出した覚悟の力。

 それは紙一重の差を潜り抜ける勝負強さとなって、盤面に現れる。

 

『本来』ならば、スキを突かれる塔矢アキラであった。

 軍配(ぐんばい)が上がるのは座間王座だった。

 

 しかし、塔矢アキラにスキは生まれない。

 ここぞという盤面では手堅く打ってゆく。

 

『塔矢アキラ』にスキは生じない。

 そう判断した『座間王座』がこのまま終局に向かうなどあり得ない選択肢。

 これまでに作り上げた厚みを活かすべく、敗北を回避するための強手を放り込む。

 

 ほぼ終盤。

 これを凌げば塔矢アキラの勝利となる。

 互いにその認識がある故に最後の戦いは熾烈を極めた。

 

 そして、終局を迎える。

 

 結果。

 塔矢アキラの2目半での勝利。

 投了をしなかったのはせめてもの王座の意地か。

 

 しかし、逆コミを含めての勝利である故に塔矢アキラに満足した様子はない。

 それ以上の勝利を狙ってなおギリギリにまで迫られた、むしろ課題の残る1局。

 タイトルホルダーの意地を見せつけられた1局となった。

 敗北した座間王座が重々しく口を開いた。

 

「……塔矢アキラ、か。ふん、今日のところはオレの負けか」

 

「ありがとうございました」

 

「ナマイキ言うだけの実力は見せつけた訳だ。……改めて言おうか。──プロになれば、みな一線。さっさと最前線に上がってくるんだな」

 

「──はい。そのつもりです」

 

「くっく。なんでぇ日本の囲碁界も面白くなってきやがったじゃねーか」

 

 座間王座が、塔矢アキラを認めた。

 その光景に『幽玄の間』に座る一同は驚きの表情を見せる。

 鳴り物入りの新初段が、『王座』に勝利したという報は瞬く間に世間に広まった。

 

 新しい時代はすぐそこにまで来ている。

 誰もが期待するその流れの中で、続々と新しい光たちが芽を出してゆく。

 

 

 奈瀬明日美も、その中の一人だった。

 

(守れば勝てた場面で、それでも攻める……。逆コミありだけど、それでも本気の『王座』相手に勝つなんて。進藤はこんな相手のライバルなの?)

 

 思わず進藤を見れば、瞳を輝かせながら未だに盤面に見入っていた。

 あんなに凄い対局を見た後。

 ライバルに差を付けられたと凹んでもおかしくないのに、進藤はただただ嬉しそうだった。

 

(進藤。あんたは驚いてすらないんだね。進藤の中で、塔矢アキラならこれくらい打ててもおかしくないんだ。だから、そんな相手のライバルって言われても、堂々としていられる。……それが、進藤の実力)

 

 それに対して、同じ院生である自分はどうだろうか。

 1組には居るものの、結果は奮わない。

 弱くはないが、かといって1組の上位8位に入る事も出来ない。

 

 奈瀬も研究会に参加しているが、伸びは緩やかだった。

 もう高校一年生。

 院生の間にプロになるなら残りはたったの3回しか機会がない。

 いや、大学受験に切り替える事も有り得るなら、実質残りは1回か2回。

 

 可能なら、今年受かってプロ入りを決めたい。

 誰もが思うその願望を奈瀬も持っていた。

 

(そういえば、和谷が今朝言ってたっけ。『頼れるもんは何でも』……って。その気持ち大事かもね)

 

 自分の立場を再認識して、残り時間を考えて。

 今の自分の実力でプロに成れるのか考えて。

 

 奈瀬は一つ行動を起こす事を決めた。

 断られるかもしれない。

 それでも、何もしないよりはマシだから。

 

(あかりちゃんに相談しなきゃね。進藤も、あかりちゃん次第って言ってたし)

 

 幸いと言って良いのか、奈瀬はあかりと仲が良かった。

 ただお願いをすると言うことは、二人っきりの空間にお邪魔してしまう、という事になるのだが。

 奈瀬はぐっと拳を握った。

 

(──や、やってやろうじゃないの、女は度胸よ度胸!)

 

 すぐ側で奈瀬がそんな決意を秘めているとも知らず、ヒカルは呑気にアキラの棋譜を眺めて目を輝かせていた。

 

 






次回29日更新は夕方になりそうです。
ストックなくなってしまいました。


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第8話

約8500字



 

 

 棋院での一幕。

 1組の対局が終わった後に、後片付けを終えた和谷がヒカルに話しかけていた。

 何気ない会話の切り口でありながら、今後の誘いも兼ねた質問だった。

 

「──お前、碁の勉強とかさ、どうしてんの?」

 

「ん。勉強?」

 

 ヒカルの、なんだそれ、というような反応に和谷が引き攣った表情を見せる。

 

「……おいおい、まさか。勉強してねーとか言うんじゃねーだろな……」

 

「あー。なんてゆーか、あはは」

 

 誤魔化すのが下手くそな笑い方をするヒカルの様子に、和谷は呆れたようにため息を吐いた。

『火曜日に森下九段の研究会がある、お前も来ないか』

 そう声をかけるつもりだった。

 せっかくなので進藤を誘おうと思っていたが、和谷は思い直した。

 進藤は確かに強いが、努力せずにこの強さかと思えば多少なり和谷も思うところがある。

 それ故の反発心で誘うのを考え直した。

 ──それが、自身の成長を遅らせることになるとは夢にも思わず。

 

「ん。ならまぁ関係ないか」

 

「何? なんかあったのか?」

 

「知らねーよ。ホラ、さっさと帰ろうぜ」

 

「……なんだよ、変なやつ」

 

 唐突に声を掛けられて、勝手に不機嫌になった和谷。

 その背中を見送りながら少しの不満を漏らすヒカルに、様子を窺っていた奈瀬が意を決して話しかけた。

 満を持して、進藤に許可して欲しい提案があったから。

 

「進藤ってば、ほんとに師匠いないんだ」

 

 ただ和谷との会話内容を聞いていた身として呆れ顔になるのは止められなかった。

 

 奈瀬の呆れを含んだ声音に少しだけムッとしたが、よくよく考えればおかしな事ではない。

 

 ──まぁ、そういう反応になるか。

 師匠がおらず、独学と棋譜だけでここまで強くなれるはずがない。

 ヒカルも同意見だが、佐為のことを言うわけにはいかない。

 信じてもらえるとは思えないから話すのがイヤだった。

 少し複雑な心境でヒカルが苦笑いした。

 

「ああ。師匠ってか、秀策の棋譜だもんな、勉強してんの。後はここで打ってるのが一番勉強になるよ。色々試せるし」

 

「げっ。色々試してる上に全勝なの……? やっぱ、あんたオカシイって」

 

「……うっ。確かにそうかも」

 

 言われて気がついたが、確かにそうだ。

 そんな気持ちで背後を見上げれば、佐為が明後日の方向を向いて下手くそな口笛を吹いていた。

 奈瀬がまた呆れ顔を見せる。

 

「自覚あったのね……。……話は変わるんだけどさ」

 

「ん?」

 

「ちょっとこっち来て」

 

 進藤の袖を引っ張って部屋の隅に移動して左右を見渡して、誰も聞いていない事を確認した上で奈瀬は一息を吸って。

 気持ちを整えた真剣な表情の奈瀬が、ヒカルのことを真っ直ぐと見つめた。

 

「私も、進藤の研究会に混ぜて欲しいの」

 

 自分の研究会。

 そう言われて思い当たるものは一つだけだ。

 

「……っていうと、あかりとの?」

 

「うん。あかりちゃんには許可貰ったわ。だけど、あかりちゃんから進藤に言ってもらうのも違うじゃない? だから、まず私から進藤に話そうと思って。──もちろん、無理にとは言わない。図々しいお願いだとも思ってる。でも、私も強くなりたい。だから、お願いします。鍛えてください」

 

 正座しながら両手を付いて、深々と頭を下げる奈瀬の様子にヒカルは少し渋い顔をした。

 真正面から真剣に頼まれる事に、ヒカルはどうにも弱い。

『塔矢』然り『あかり』然り、である。

 視線は奈瀬に向けたまま、少し困った顔で背後に話しかけた。

 

(……佐為。どーする?)

 

『良い機会だと私は思います。『私たち』と打つのも悪くはありませんが、実力を等しくした高め合える相手というものは得難いものです。あかりのためを思うなら、私は賛成です』

 

 佐為の言葉をヒカルは腕組みをしながら聞いていた。

 

(……やっぱ、そーだよな)

 

『はい。囲碁とは、二人で作り上げるものですから』

 

 ヒカルは唸る。

 事があかりに関して言えば。

 もっと言うならば弟子の育成に関して言えば、ヒカルは全く経験がない。

 だから、佐為の意見を全面的に受け入れるべきだ。

 

 だが、それとは別にヒカル個人の気持ちがある。

 

 以前『恋愛』とつい勢いで言ってしまったヒカルではあるが、まだ真正面から、その、そーゆー事を認めるのは無理だ。

 相手が幼馴染ということもあって、一歩進めばこの関係を壊すことにも成りかね無いから、少し斜に構えてしまうのは仕方のない部分がある。

 だから、これ以上何かを進めるつもりもなかったし、意識を変えるつもりもなかった。

 

 とはいえ。

 これ以上の関係に進むつもりがないからといって、今の関係の間に誰かを入れるのを歓迎出来るか、と言えばそれも難しい。

 モニョモニョしてしまいそうな、絶妙に難しい心境ではあったが、しかし奈瀬の真剣さを受け止めた上で拒絶するほどの拒否感はない。

 そして佐為の勧めもあって絶妙に複雑な気持ちながらヒカルは同意を示すために頷いた。

 

「……わかった。けど、手加減しねーからな」

 

「……うん!!」

 

 奈瀬が顔を綻ばせた。

 眩しいくらいに輝いた笑みを見て、ヒカルも釣られて仕方なさそうに、けれど少しだけ『嬉しそう』に苦笑いした。

『そこまで喜ばれるなら、まぁ悪くないか』と思って。

 

 

 

 

「──ほら、上がれよ」

 

 ヒカルの声かけに、おずおずと落ち着かない様子で奈瀬が玄関口をくぐった。

 

「お、お邪魔します」

 

「自分の家だと思って寛いで大丈夫だからね、奈瀬ちゃん!」

 

 そんな緊張気味の奈瀬に対して、あかりが天真爛漫に笑って『ぐっ』と胸の前で両手を握った。

 輝くような笑顔にまったく陰はない。

 いつも通り、いや。いつも以上に嬉しそうなあかりの姿だった。

 

「なんでお前がゆーんだよ! ここオレん家!」

 

 吠えたヒカルにも構わず、心底嬉しそうにあかりが顔を綻ばせている。

 進藤もあかりも、奈瀬が来たことに隔意を抱いてない。

 そんな事実がダイレクトに伝わる様子に少し安堵して奈瀬も微笑んだ。

 あかりが続ける。

 

「えへへ、でも嬉しいな。まさか奈瀬ちゃんと一緒に勉強できるとは思わなかったもん」

 

「ごめんね、あかりちゃん。私が無理にお願いしちゃってさ」

 

「ぜんぜん! 私、ほんとに嬉しいもん」

 

 あかりは終始『ニコニコ』していた。

 心境としては、囲碁部での楽しい思い出が蘇っていた。

 短い間ではあったが、女子三人で『ワイワイ』と打って団体戦に出た情景は楽しい記憶として色褪せずにあかりの中に残っている。

 それでも心配そうに奈瀬が聞く。

 断られてもしょうがない、と思っていただけにトントン拍子で話が進んで、喜ばしいとは思いながらも少しだけ動揺していた。

 

「頼んだ私が言うのもアレなんだけど、本当に、その、参加しても良かったの? あかりちゃんも、進藤も嫌じゃなかった?」

 

「ぜんぜん! むしろ嬉しいもん! 一緒に強くなろうね、奈瀬ちゃん!」

 

「まぁ一人二人くらいなら大丈夫だろ。多面打ち出来るし」

 

 改めて確認をして、ほっと一息をついた奈瀬だった。

 そんな奈瀬を尻目にヒカルは佐為と話していた。

 階段を上って自室に入れば、2つの碁盤が目に入る。

 一つは足付きだが、もう一つは小さなマグネット盤だ。

 

(問題ない、よな。佐為)

 

『ええ、問題ありませんよ。以前言ったように、あかりには高め合える相手が必要ですし、それに多面打ちは大歓迎です。──しかし、碁盤がアレでは少しやり辛いかもしれませんね……。すごく小さなマグネット盤ですし。今日は仕方がありませんが、追々場所を変えた方がいいかもしれません』

 

(……確かに。まぁとりあえず打とうぜ)

 

『ですね。さァ今日は『私たち』もとことん打ちますよ〜〜!!』

 

(へいへい)

 

 部屋に入って、碁盤と碁石を用意する。

 奈瀬は少し遠慮していたが、純度100%の善意が(ほとばし)るあかりの笑顔に絆されて、時間が経つにつれて楽しそうに顔を綻ばせることも増えていった。

 そのまま時間を忘れるくらい、その日はたっぷりと多面打ちと検討を行って過ごす。

 

 そんな最中に奈瀬が悔しそうに口を開いた。

 

「──う〜〜ん。ここ、うまく処理できなかったなぁ。下を押さえてくると思ったんだけど、上を切られちゃって、そこで完全に隅に押し込められちゃったよね」

 

「だな。奈瀬の狙いは明白だったから、その手を打つならココに、先に打っとくべきだな。ここで効かせてたらオレも容易に切る選択肢が出てこない。ちょっと覚悟のいる一手になる」

 

「そこかぁ、気づかなかった。あー、悔しい!」

 

「まだ初日だしな。徐々に慣れていけよ。で、あかりだけど、この手はケイマじゃなく、ツケの一択だろ」

 

「でも、ここからこう打っていけば……」

 

「そんな手はない。ここでツケてこう打っていくのが凄くデカいんだ」

 

「そっかぁ。じゃあここは?」

 

「……その手を打つなら、その前のここで、ハネておくべきだな。これでオレがここに打つしかないから、次の手で左辺を覗ける。一手分有利になる」

 

「むむむ、ナルホド」

 

 顎に手を当てて、さながらどこかの教授のように唸り始めたあかりを置いて、佐為は感心したようにヒカルに話しかけた。

 

『しかし、ヒカルも言語化が上手くなりましたね、私の狙いもちゃんと読んでいる。素晴らしい成長です』

 

(こーいうの向いてんのかもな。打ってる当事者でもあるから、相手が何しようとしてるのかも凄く良く見えるんだ。佐為が打とうとする手はある意味これしかないっていう最善手だから、わかりやすいよ。まァこれは指導碁だから、少し勝手が違うけど)

 

 事もなげに言っているが、それは凄まじい事だった。

 佐為の手が読める、と言う事は佐為と近しい実力がある事と同義である。

 もちろん完璧ではないが、それでも十分にすごい事だった。

 

『……それが、とてもすごい事なのですよ、ヒカル。今のあなたなら私ほどではないとはいえ、1組でも十二分に。いえ、もしくは『全勝』出来るでしょうね』

 

(一人で打つ気はないって。オレは佐為と一緒に打ってる方が楽しいんだ)

 

『……はい♡』

 

 何気ないヒカルの一言。

 それが何よりも嬉しくて佐為は胸が温かくなる。

 (ほころ)んだ顔を誤魔化すように佐為が声を上げた。

 

『さァもう一局! ……と言いたい所ですが、時間が大分遅くなってしまいましたね。あかりはともかく、奈瀬はここから少し遠いのでしょう?』

 

 佐為の一言に『ハッ』と時計を見ればかなり危うい時間だった。

 慌ててヒカルが奈瀬に話しかけた。

 

「奈瀬って電車で帰るのか?!」

 

「え、うん。さすがに徒歩だとキビシイ距離だから、電車かなー。明日は日曜日だから棋院に行くけどね」

 

「ヤベッもう9時だぞ?! 改札まで送ってくから支度しねーと!」

 

「ええ! も、もうそんな時間? ヤバっ電話、電話借りていい!?」

 

「あわわ! わ、私も一緒に行くよぉ!!」

 

『ドタバタ』と支度をして、慌てながらヒカルの母親に奈瀬が『お邪魔しました』と挨拶して、『あらあらまぁまぁ』と可愛い女の子がさらに増えたことに驚くヒカル母を置いて、ヒカルたちが駅に向かう道すがら。

 三人は連れ立って歩きながら話をしていた。

 

「──ああ、奈瀬んちそこなんだ。なら駅近(えきちか)の碁会所とか行った方がいいかな、けど、金掛かるんだよなー」

 

「うん、そう。結構遠いんだー。あっ棋院で場所借りるとか……うん、無理かー。私たち院生だもんね」

 

「さすがに無理だろ」

 

「あはは、うん。難しいね。先生たちが研究会している場所とは別に、棋院に一般の人が打つ場所もあるけど、そこで私たちが研究会したら常識ないって思われちゃうと思う。というか、先生に呼び出しされちゃうかなー」

 

「だよなー。……あっ塔矢んとこなら、タダにしてもらえるかも。あそこなら駅前だし、オレんちよりいいだろ、碁盤もあるし。……アイツも誘ったらくるかな」

 

 ヒカルが思いついたように呟いて、あかりが追従した。

 

「塔矢くん……、元気にしてるかな。海王の時以来だよね?」

 

「あー、ウン。そうだな」

 

「ヒカル何か隠してる? わかるんだからね、付き合い長いんだから」

 

「別に隠してねーよ。ただ、あの後打つ機会があったってだけさ」

 

「あっそうなんだ。勝ったの?」

 

「勝ったよ。──うん、思いつきだったけど意外とありかも。今度行ってみるか」

 

 頷きを繰り返すヒカルに、焦ったように奈瀬が両手を突き出した。

 

「ちょ、ちょっと待って!? 塔矢って、あの塔矢アキラのことだよね!? 平然と言ってるけど相手は4月からプロなんだけど……?」

 

「ああ、奈瀬には話してなかったっけ? 今んとこ4戦全勝。……いや、10戦全勝か。まぁオレの全勝ち。碁会所行けばアイツも打ちたがるだろーけど、碁盤なら山ほどあるだろうし。お前らと打ちながらの3面打ちくらいなら大丈夫だろ、奈瀬とあかりもアイツに打ってもらえよ」

 

『はい♡その気になれば6面でも7面でもやってみせましょう! ……あぁ、また塔矢と対局が出来るのですね。ヒカル、素晴らしい思いつきですっ!』

 

「……えっと、進藤。それマジ?」

 

 愕然としたような、引き攣った奈瀬の表情。

 プロ相手に多面打ち。

 言い方としては自分達と打ちながら、さらに塔矢アキラと打つという意味不明な発言。

 

 塔矢アキラが相手なら、奈瀬では一対一でも到底敵わないだろう。

 ましてや相手は先日、あの『座間王座』に逆コミありとは言え勝利した鳴り物入りの新初段である。

 それをまるで子供扱いするヒカルの様子に、自分は本当にトンデモない人に師事したのかもしれないと、今更ながらに奈瀬は思った。

 

 

 

 

 

 

 

「──なるほど。そう打つのか」

 

「ああ、そこでツグよりも、右上隅を覗いた方がデカい。後々の布石になるだろ? けど、塔矢ならこっちでノビるのもありかもな」

 

「そ、そこをこの局面でノビるのか? ……なるほど。確かに応手が難しい、か。白の応手としては、黒を分断すれば白を繋げることになり、逆も然り、だね。うん、進藤と打つのは勉強になる」

 

「ただノビる手は黒のど真ん中から伸ばす一手だからな、読み違えれば死ぬ。……一回試しでここから打ってみるか」

 

「ああ、是非やってみたい」

 

「こう来たら、こう行くだろ」

 

「ならこうだろうな。そしてこういう形になって」

 

 そのまま着々と手数を重ねる。

 さらに数手を積み上げてアキラが思わず唸った。

 

「……なるほど。ここで黒の地をこれほど荒らせるのは大きい。しかも白も生きる、か。進藤、キミはあのノビる手の時点でここまで見えているのか……?」

 

「ああ。それ以外にも幾つか手はあるけど、ある程度は見えてるよ」

 

「……やっぱり、キミは凄い。ボクも負けていられないな。もっともっと強くなってみせる」

 

「お前の碁はその『力強さ』が持ち味だから、オレも打ってて楽しいよ」

 

「そ、そうかな? キミにそう言われると嬉しいな……」

 

 少し頬を赤らめる年相応の子供らしい、言ってしまえば可愛らしい年下の男の子っぽい様子を見せる塔矢アキラの姿を見て。

 奈瀬明日美は『アングリ』と開いた口が閉じられなかった。

 

 プロ確実。

 幼少からそう言われてきた天才少年棋士が、そのさらに上をいく天才少年棋士に褒められて高揚している。

『もう意味わからん』と言いたくなるような状況。

 

 しかも、プロ試験ではその塔矢アキラに奈瀬はボコボコにやられたのだ。

 それも踏まえれば、目の前に広がるのは信じがたい光景だった。

 

 そこにあかりが嬉々とした様子でヒカルに話しかけた。

 結んだ左右の髪がまるで犬の尻尾のように揺れている。

 

「ヒカル、ヒカル。私はどうかな? この一手凄く良くなかった?」

 

「おお、その手はオレもいいと思ったんだ。面白いよ。ただ惜しいんだよ、その後にこう続いただろ? ここはこうじゃなくってこう行った方がデカい。で、こう展開させていけば、ホラ。これで左辺の地は確定したようなもんだろ」

 

「ああ〜〜〜!! そこかぁ〜! 見逃してた……」

 

「けど、あかりもこの数週間で相当伸びたよ」

 

「え、えへへ。そ、そうかなぁ?」

 

「マジマジ。やっぱ環境を変えるっていいな。改めてになるけど、塔矢、ありがとな」

 

「ああ、いいんだ。お礼なら市河さんに言ってよ。無理を聞いてもらったからね。それにボクも凄く勉強になっているし、刺激になってるから、むしろボクからお礼を言わせて欲しいくらいだよ」

 

「そ、そうか? まぁ今度の『若獅子戦』じゃ負けねーけどな」

 

「それは、もちろんボクだって。キミと公式戦で当たれる事を嬉しく思うよ」

 

「お前、相変わらず自信家だな。オレ以外の奴に負ける気がないって聞こえるじゃん」

 

「負ける気はないよ。もちろん、進藤にもね」

 

「……言ったなコイツ」

 

「何度でも言うさ。キミはボクのライバルだ」

 

 真剣な瞳で睨み合う、いや。高め合う二人の姿を見て、奈瀬は負けてられないと拳を握る。

 そして自分と同じく意気を高めているあかりを見て思わず提案した。

 

「……あかりちゃん、1局どうかな?」

 

「うん。私も打ちたい」

 

 二人の天才少年棋士に感化されるように、二人の少女も真剣さを増して囲碁に向き合って取り組んでいく。

『パチパチ』と碁石が奏でる旋律は青くも美しい棋譜を作りながら、青空に(ほど)けていった。

 

 

 そして。

 進藤ヒカル。藤崎あかり。奈瀬明日美。

 3名ともが1組16位以内に入る。

 進藤ヒカル1組1位。奈瀬明日美1組8位。藤崎あかり1組16位。

 

 それが意味するのは、3名ともが若獅子戦に参戦するという事だった。

 若き芽が現役プロに勝つために牙を研ぐ。

 迎え撃つ塔矢アキラも、追いかけてくる2名(藤崎あかり、奈瀬明日美)追っている1名(進藤ヒカル)に影響を受けながら、来たるべき時に備える。

 

 

 激突は5月。

 もう間も無くのことではあるが、それよりも少し前。

 少しだけ時は巡って3月の出来事。

 

 塔矢アキラの免状授与を少し先に控えて、とある一室ではその話題と。

 その少し先にある5月の若獅子戦の話題で盛り上がっていた。

 

 緒方が少し記憶を探りながら問いかける。

 

「……芦原くんは去年の若獅子戦に出ていたかな?」

 

「出てますよっ! ──倉田ですよ、倉田。優勝したのも倉田。その倉田に負けたせいで2回戦負けですよ……」

 

 芦原が情けない顔で天井を仰ぎながら言った言葉に、『くすり』と微笑んだ塔矢行洋が軽口を言った。

 

「そりゃあ緒方くんの記憶に残らんのも無理はない」

 

「先生! そう言わないでくださいよ〜」

 

「去年の記憶はトンとなくてね、悪いね芦原」

 

「ぜったい悪いと思ってませんよね、緒方さん」

 

「ハハハ」

 

「ほらぁ! 笑って誤魔化してる!」

 

「──それはそうとして」

 

 区切りをつけるように緒方がそう言い、そのまま面白げに塔矢行洋に向けて視線を投げた。

 

「今年の若獅子戦。注目はやはり、例の子ですか。『本当』の実力を垣間見れる瞬間を、恐ろしさを感じながらも楽しみに感じている自分を自覚しますよ、先生」

 

『sai』としての実力は見た。

 しかし、進藤ヒカルであるとも確信はあるが、確定ではない。

 故に『本当』のことがわかるのは若獅子戦である。

 緒方の物言いに塔矢行洋も微笑みを返す。

 

「……キミもか、緒方くん。私も非常に興味深いと思っているよ。この腰は少し重いが、現場で見定めたいと思うほどにね。名人位というものは良いことばかりではないと、こういう時はつくづくそう思うよ」

 

「ご冗談を。先生以外がその位に相応しいとは思えませんよ。まぁ今は、ですが」

 

 まるで奪ってみせると宣言するかのような言い方。

 緒方の横で芦原が表情を慌てさせるが、言われた張本人である塔矢行洋は薄らと楽しげに微笑んでいる。

 

「キミの名人位への挑戦を楽しみに待っていよう。話は戻るが、残念ながら私はスケジュールが空かない。非常に勿体なく思うが、現場には足を運べそうもない。代わりに見てきてくれるかね、緒方くん」

 

「もちろんですよ、先生」

 

「──それには及びませんよ、お父さん」

 

 そこに、飲み物を盆に用意した塔矢アキラが障子を開けて入ってきた。

 相変わらずの力強い視線で宣言する。

 

「彼はボクと決勝で当たります。直接対決した者の意見を、お伝えできますよ」

 

「ふっ、それは確かにオレじゃ無理だな。なら、オレは一介の観戦者に徹させて貰おうか。……彼との再びの対局を楽しみにしているよ、アキラくん」

 

「はい。公式戦での彼は、ボクも初めて当たりますから。楽しみですね」

 

 楽しみと言いながら、その表情に笑みなどはない。

 真剣に研ぎ澄まされた刃を思わせる様子に、緒方は肩を竦めた。

 

「──やれやれ、今からそんな調子で身体が保つのか心配になるね。少しは肩の力を抜いたらどうだい」

 

「あ、いえ。そ、そうですね」

 

 途端に真剣な気配を霧散させて苦笑いする塔矢アキラの様子に、緒方は心底面白げに微笑んだ。

 

(あのアキラくんが、こうまで表情を変えるか。──本当に楽しみだよ、進藤。ケツは持ってやるから、存分にプロ相手に暴れると良い)

 

 タバコを吹かせたい心地だったが、室内で吸うわけにもいかない。

 一声を掛けて外に出て、廊下から縁側に向かって煙を吹かせる。

 

 タバコの煙が青空に向かって伸びてゆく。

 紫煙を肺に潜らせながらも緒方の意気は収まらない。

 塔矢アキラ。進藤ヒカル。

 日本の囲碁界に新しい時代が訪れようとしている。

 その事実が衆目に晒される刻限が、今か今かと近づいてくる足音を実感して、緒方は思わず口角が上がるのをヤメられなかった。

 

 







来月のお休み少ないデス。
悲しいデス。


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第9話

約8300字



 

 

 若獅子戦。

 その歴史はまだ九年と新しい。

 今回が第9回目となる、20歳以下のプロ棋士と院生がトーナメント形式で戦うイベントである。

 当初から若手の盛り上がりを期待されており、狙い通りに若手の育成と発見を目的とされた大会は若い棋士たちの間で大いにモチベーションとなって来た。

 

 そして。

 今回に関しては重要な役割、目的があった。

 

 

 ──『塔矢アキラ』が会場に入る。

 若輩ながらスーツを着こなし背筋を伸ばして歩いている。

『カツカツ』と革靴を鳴らす姿は堂に入っていた。

 

 若獅子戦はスーツの着用が必須ではない。

 だというのに、タイトル戦に臨むかのような正装で会場に入った塔矢の姿は並々ならぬ意気込みを感じさせる。

 その若手の姿を見て、既に会場入りしていたプロ棋士の面々が囁き合った。

 

 そう。

 若い棋士たちの目的とは、新たにライバルとなる強敵の視察も兼ねている。

 プロの世界は弱肉強食。

 弱者が淘汰される中で、どれだけ頭角を現せるかに掛かっている。

 強力なライバルの出現に影響されて、今までどこか緊張感の薄かった若手の中でも『ザワザワ』とした予兆が現れていた。

 

 

「──塔矢アキラって、アイツか」

 

「ああ。まだ手合いは先だけど、今のうちに様子見しておきたいよな」

 

「3月の免状から大体4月には初手合い。アイツ、今のところ4戦全勝だっけか」

 

「可愛げなく、な」

 

「おまけに新初段シリーズでは、座間王座に勝ったって言うんだから、まさしく鳴り物入りだよ」

 

「……今のうちに実力を測っておきたいってのは、みんな同じだな」

 

 その意見に同意を示すように、集まった複数名のプロ棋士が顔を見合わせて苦笑いした。

 

 

 

 そんな会場の一角に院生たちも(たむろ)していた。

 思い思いの格好で、けれど、胸元には棋士の証である花飾りを付けている。

 普段着に花飾りをつける進藤ヒカルも、当然のことながらこの場に集まっていた。

 

「──なー、和谷。村上プロってどの人?」

 

「ん? ああ、あのスーツ着た人だよ、メガネ掛けてる長髪の」

 

「ああ、あの人か」

 

「進藤の初戦は村上プロだったか」

 

「そうそう。和谷は?」

 

「お前、予定表に書いてんだろーが」

 

 呆れ顔の和谷だった。

 けれど、面倒見の良い和谷が『つっけんどん』な対応をする訳もなく。

 そのまま普通に対局相手を進藤に伝えた。

 

「中山さんだよ、二年前まで院生だった人だから、オレ面識あるんだ」

 

「へぇ、やっぱ院生長いと顔広くなるんだな」

 

「広くなっても、あんまり意味ねーけどな。プロになれなきゃさ」

 

「ま、確かに。今日はがんばろーぜ」

 

「ああ。腕試しには持ってこいだ。まずは1回戦突破しねーとな。進藤もヘマすんなよ」

 

「するわけねーだろ。オレってば、決勝まで行くつもりなんだから」

 

 決勝。

 対戦表を見れば、それが塔矢アキラと対局するという意味だとすぐに理解できる。

 ライバルと打つという発言に嫌味はない。

 平然と言ってのけるヒカルになんとも言えない悔しさを感じるが、その悔しさはこれまでバネにしてきた。

 だから、和谷は激励も込めて『ワシャワシャ』と進藤の頭を洗った。

 

「……こんのヤロー!!」

 

「あいたた!! いででで!」

 

「打倒塔矢アキラは任せた!!」

 

「わかった! わかったから手ぇ離せって! ──あーもう、髪めちゃくちゃになったじゃんか!」

 

「任せたぜ、1位。会場全員の度肝抜いてやれよ」

 

「……おう」

 

 そう言いながらも、和谷に勝負を諦めるつもりはない。

 まずは一勝。

 その思いで対局に臨む。

 プロとの対局は現在の自分との距離感を測る良い機会だ。

 和谷はプロになる目標を全く翳らせずに、目の前の対局に集中しようとしていた。

 

 

 そんな和谷の近くでは、女子二人が予定表を開きながら顔を突き合わせていた。

 

「──あかりちゃんの相手は、冴木四段ね」

 

「よ、四段……!? やっぱり表記ミスじゃなかったんだ……」

 

「ウン。そりゃそうでしょ……」

 

 項垂れるあかりに対して、苦笑いする奈瀬がそのまま続ける。

 

「たぶん、この中では一番段位が高いかも……?」

 

「嘘ぉ〜!?」

 

「何驚いてるの。いっつも進藤とか塔矢くんと打ってるんだから、こんなことで怯んでちゃダメ! 良い、あかりちゃん。まず気持ちで負けちゃダメだからね? ──食らいつくの! いつもみたいにね」

 

「……うん! 粘って粘って勝ってくるね! 段位に怯んでちゃプロになんか成れっこないよね……!!」

 

「そうそう。四段くらい倒しちゃえ!」

 

「うん!! 奈瀬ちゃんの相手は田島二段だよね、奈瀬ちゃんもファイト!!」

 

「まかせなさい! 進藤の研究会での成果を見せないとね。これに勝てば、2回戦で塔矢くんと当たるからそれも楽しみ。やってやるわよ」

 

「私は冴木四段に勝てればヒカルだね。……ヒカルなら勝つもん、私も頑張る!」

 

 進藤研究会の女子2名が意気を高めて対局に臨む。

 あかりは初めての公式戦に舞い上がっており、少し気合が入りすぎているようにも見える。

 奈瀬は逆に非常に落ち着いていた。

 今までにないほど穏やかな気持ちで、対局を待つ自分を客観視出来ている。

 

 そんな奈瀬の耳に、あまり聞きたくない類の声が入ってきた。

 発生源を見れば真柴が嫌味ったらしい仕草で歩いて来ていた。

 

「──どーも、伊角さん。今日はよろしくぅ」

 

「……ああ、よろしく」

 

「プロはいいですよぉ。院生の時のあのイヤな切羽詰まったカンジがなくなって伸び伸び打てますから。さっさと伊角さんもこっち側来てくださいよ。──じゃ」

 

 悠々と背を向けて去っていく真柴の背中に、伊角は何も言わない。

 去年の試験で自分はプロになれなかった。

 そんな自分が何を言っても負け惜しみにしかならないと理解しているからだった。

 

 しかし、そんなことは周囲には伝わらず。

 真っ先に和谷が頭を抱えながら吠えた。

 

「あああ!! ムカツク〜〜!!」

 

「ほんとイヤよねー。プロになったからって威張っちゃって。──伊角くん、勝ってよね」

 

 奈瀬が便乗して伊角に発破を掛ける。

 その一声を契機に『ギン』と音が鳴りそうなほど自分に集中する院生たちの視線に少しばかり驚き、伊角が硬い表情のまま答えた。

 

「……ぜ、全力を尽くします」

 

 和谷がブスッとしながら言う。

 

「イマイチ迫力に欠ける……」

 

 本田がドウドウと和谷を抑えるように両手を向けながら言った。

 

「まーまー。対局が始まればってやつさ」

 

 越智が関係ないとばかりに平然と言った。

 

「人のことより自分のことだよ。ボクはプロに勝つからね」

 

 奈瀬が少し呆れ気味で言う。

 

「まー、そうなんだけどね。……不思議と負ける気しないのよねー」

 

 奈瀬の最後の一言は誰にも聞かれずに空に溶けた。

 自信というには力みがない。

 言うなれば自然体の言葉だった。

 

 その出来事を契機にしてか、若獅子戦が始まりを告げる。

 各々が席につき、対局前の準備時間に入る。

 そこでも真柴の軽口は止まらなかった。

 

「──えー? 院生のギャラリーこんなにつくの? 力入っちゃうなー。だって、伊角さんは院生でボクはプロだから、カンタンにやられたらカッコ悪いですもんね。その分伊角さんは気楽かな? 負けても言い訳できますから。でも、伊角さんはギャラリーのこと気にしちゃうかな?」

 

「……お願いします」

 

 それ以上の対話は盤面で。

 そう言わんばかりに伊角は真柴を真っ直ぐに見つめた。

 睨んでいるのではなく、ただ真っ直ぐな瞳。

 

 そんな眼差しを向けられれば、意地の悪い真柴といえど口を閉じざるを得ない。

 少し居心地悪そうに座り直して真柴も答えた。

 

「お願いします」

 

 先番は院生である伊角。

 碁笥に手を差し込んで、第一手を盤面に向けて放った。

 相手はプロになった、去年の競争相手。

 だが、伊角は真柴に負けているとは思わなかった。

 迷いのない一手が放たれた、院生対元院生のプロという注目の対局は堂々としたいつもの伊角の一手から始まった。

 

 

 

 伊角が真柴との対局を開始した一方で、和谷も旧知の中山と対面していた。

『ニコニコ』と人の良さそうな笑みを浮かべる中山が、仲が良さそうに和谷に話しかけていた。

 

「──おー、和谷。久しぶりじゃん、元気してたか? 調子どうよ」

 

「中山さん、久しぶりです。元気っちゃ元気ですけど、これから対局する相手にソレ聞きます?」

 

「ははは、悪い悪い。今日は和谷もライバルだもんな。──よし、気を取り直して。お願いします」

 

「お願いします」

 

 和谷と中山の対局が始まる。

 伸び伸びとした様子を見せるプロと、少し固さのある院生。

 若獅子戦ではよく見られる光景がそこにはあった。

 

 しかし、和谷も意気込みは十分。

 悔しさをバネに今日まで実力を伸ばしてきた和谷の第一手が盤面に放たれた。

 今の自分とプロの距離感を確かめるために、一歩でも少しでもプロに近づくための一手だった。

 

 

 

 同時刻に越智も対局を開始した。

 しかし、そこに弾んだ会話はない。

 

「……お願いします」

 

「お願いします」

 

 越智は口数少なくそれだけを言って、碁笥から黒石を取り出して打った。

 気負っているのか、気負っていないのか。

 周りから見てもよくわからない。

『ムスッ』と口を結んで、淡々と『ビシバシ』と碁を打つ姿は普段通りだった。

 

 対面するプロ棋士もそれ以上は気にせず、応じるままに対局に入る。

 全ては盤面で決着がつく。

 勝敗以外は不要。

 院生とプロの対局というよりも、どちらかと言えばプロとプロの対局のような雰囲気で対局は進んでいく。

 

 内面を覗けば、越智に気負いはなかった。

 気合は篭っているが、それは自分の実力を周囲に示したいという欲求から来るものだ。

 気持ちが盤面に悪影響を及ぼすことはなく。

 越智は小学六年生という若さにして真剣勝負における気持ちの向け方を身に付けていた。

 

 淡々と、十二分に自分の実力を安定して引き出す力。

 その点においては越智は伊角にはないモノを既に持っている。

 

 小学生棋士はプロ相手にも怯むことなく、一手一手を積み重ねていった。

 

 

 

 

 緊張で張り詰める。

 背筋を伸ばしながら、一手一手を丁寧に積み重ねる。

 碁盤を挟んで対面に腰掛ける双方の手が盤面の上で交錯する。

 

 乱れのない手と、僅かな動揺の滲む手。

 それは即ち、形勢とイコールだった。

 

 乱れのない手は女性らしい柔らかさを持っている。

 僅かな動揺の滲む手は若い男性らしい無骨さがあった。

 

 ──奈瀬は、プロ棋士相手に優勢を保って終盤に突入していた。

 

(……うん。落ち着いて打てる。ヨセは進藤と嫌ってほど打ったんだから、普段通りに打てば間違えようがないもんね。……大丈夫、終局まで見えてる)

 

 気負いのない自然体だった。

 普段から進藤や塔矢という数段上の力量を持つ相手と本気でぶつかり合っているからか、あるいは生来のモノか。

 こういった場面での度胸は並外れていた。

 奈瀬はゆっくりと打ちながら、自身の成長を身をもって実感していた。

 

(すごく打ちやすい。去年までとは全然違うのが、自分でもわかる。和谷の言う通りね、1局でも多く強い人に打ってもらうのが大事。……まさか、こんなにすぐ強くなれるなんて思ってなかったけど)

 

 そう思いながらも奈瀬の手つきは穏やかだった。

 柔らかな所作で一手を積み重ねている。

 

 メンタルコントロール。

 プロでも難しいとされるその技術を、奈瀬は身に付けつつあった。

 

 恥を承知で行動に移した事。

 それが正しいと思って行動した事。

 結果が明確にプラスとなって現れた事。

 

 そして、今現在プロと相対して終始有利に進めている事。

 

 要するに、奈瀬は根幹になる自信を身に付け、類似する副産物としてメンタルコントロールを手に入れた。

 まだ未熟ではあるが、キッカケを手に入れれば後は磨くだけ。

 このチャンスを物にするべく奈瀬は一層気合を入れながら、けれど所作は穏やかなままに打ち続けた。

 

 奈瀬が揺らぐことはないと判断したのだろう。

 対面に座る田島プロは頭を下げた。

 投了の宣言である。

 

「──ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 項を垂れるプロ棋士を目前にしながら、奈瀬が喜色を滲ませることもない。

 自分でも驚くほどに落ち着いていた。

 精神的な余裕があった。

 自分はここまで出来るんだ、プロ相手に勝てるんだ、という新たに得た自信が奈瀬を強く支えた。

 

 奈瀬は今まで、本当にプロになれるのかという不安と共に打ってきた。

 稀に打てる『良い碁』に縋ってプロになる夢を諦められないだけじゃないか。

 そう思ったことも一度や二度じゃない。

 上には上がいる。

 伊角さんや和谷、越智、本田、飯島。

 院生の中だって、これだけの壁がある。

 プロも含めればもっとだ。

 

 塔矢アキラ、進藤ヒカル。

 自分より年下の圧倒的な強さを持つ天才も目にしてきた。

 下の世代からどんどん出てくる超新星に怯えていた事実は否定出来ない。

 表面上は明るく振る舞っていても、奈瀬の精神はギリギリだった。

 

 カラオケやボウリングでストレスを発散しても、累積する不安とプロを諦めなければならない恐怖は消えてはくれないから。

 

 

 そんな日々が変わったのが、進藤に師事を仰いでからだった。

 縋る先を得た、というような甘えた理由ではない。

 指導碁ではあるものの、圧倒的な強さで奈瀬を引っ張り上げて『本気』で強くするため厳しく攻め立ててくる進藤ヒカル。

 進藤ヒカルから得た発想を試すように、様々な手管を駆使してくる塔矢アキラ。

 

 そんな二人の天才と向き合う日々は、そんな不安や恐怖を考える余裕を奈瀬に与えなかった。日々食らいつく事だけに必死で奈瀬にソレ以外のことを考える余裕を与えなかった。

 

 稀に打てる『良い碁』とは、奈瀬の100%を出せた時である。

 つまり、元々それだけの実力は持っていたのだ。

 蓄積した知識と経験が噛み合いさえすれば、驚異的な成長を遂げる下地は出来上がっていた。

 

 進藤と塔矢という天才達と本気でぶつかり合う事で磨かれた『奈瀬という原石』はようやく『曇り』を晴らした。

 その視界を遮るモヤは消えている。

 

 余裕は安定を齎し、安定は広い視野を与える。

 広い視野は奈瀬に落ち着きを与えていた。

 

 見据えるのは少しだけ先。

 第二戦目に対局する、塔矢アキラの事を。

 奈瀬は改めて気合を入れながら、穏やかなままに瞳の奥を滾らせた。

 

 

 

 

 盤面は移る。

 少しだけ時間が巻き戻って、重要な局面を映し出す。

 進藤ヒカルという天才棋士が、初めて衆目のプロ公式戦で姿を現した瞬間。

 その姿を遠目で見ていた天野は、その光景を思わずカメラのフレーム越しに見ていた。

 

 

 対面する村上は(おのの)くように(うめ)いた。

 膝の上で握る両拳はあまりにも硬く握られている。

 緊張による硬直だった。

 

(……これが、院生だって? 冗談だろ……?)

 

 村上の頬に冷や汗が垂れる。

 それにも関わらず、盤面から視線を動かせない。

 上着は既に脱いで机に掛けていた。

 それでもじっとりと嫌な汗が背中を伝うのを感じる。

 

(進藤、ヒカル。こんな、こんな奴が出てくるのか……。塔矢アキラといい、この世代はどうなってる!?)

 

 必死に最善手を模索して、固まった手を解しながら応手を返すが、早碁の如くすぐさま打ち返される。

 ノータイムでの応手に動揺するほど柔ではない、と言いたい村上だったが、圧倒される盤面も相乗して動揺が隠しきれない。

 事あるごとに身体を解すような動作が増える。

 集中できていない証拠だったが、しかし。

 

(集中……? いや。これは、そんな事でどうこう出来るレベルじゃない……!! 軽く見積もっても高段者クラスの実力だぞ!?)

 

 圧倒的。

 まさしくその言葉が相応しい。

 こちらが考える間に、応手を考えているのだろうとは思う。

 だが、だからといって普通は即座に返せる物ではない。

 完全に村上の手を読み切っていなければ到底不可能な芸当だからだ。

 

(このオレが、プロのオレが、院生相手に良いように転がされてる……!? ──くそッ、諦められるか! まだ、まだ終わってない!!)

 

 粘りに粘る盤上の戦いが繰り広げられた。

 それは完全にプロと院生の立場が逆転している盤面である。

 何とか粘って隙を待つプロと、堂々と応手を返す院生。

 

 常ならば逆である光景がそこにはあった。

 

 ヒカルの表情に変化はない。

 目指すのは決勝戦。

 早く塔矢と戦いたいという気持ちの乗った碁だった。

 それは、相手である村上プロを押し潰すような実力差を盤面で見せつける結果となった。

 

 ヒカルにつられて、村上も打つ手がどうしても早くなる。

 それでも、ミスらしいミスはない。

 仮にもプロである意地だった。

 しかし、形勢も良くならずそのまま『ゴリゴリ』と押されて終局。

 

「……ありません」

 

 肩を落とす村上プロの言葉が発せられたのは、僅か20分弱での中押し宣言だった。

 あまりに早すぎる終局。

 村上は『ガラガラ』と自分の中の自信が音を立てて崩れるのを感じる。

 若獅子戦の初戦に院生相手に敗北なんて、あまりにも恥ずかしすぎる、と。

 

「ありがとうございました」

 

 だが、村上が恥じる必要は全くない。

 ヒカルのそれは、普段の院生としての対局姿勢ではないのだから。

 

 プロ棋士と戦う。

 その意識で臨んだ対局はヒカルが普段掛けている無意識下でのリミッターを外していた。

 つまり、仮に対局者が塔矢行洋であっても全力で臨む必要がある状態の『進藤ヒカル』として打っているのだから、恥じる必要は全くない。

 村上も追々その事実を知ることになるだろう、負けたのは自分だけではなかった、という安堵の念と共に。

 

 

 

 

 

 緒方は進藤ヒカルの第1局を余す事なく目にしていた。

 華麗な打ち回しも、ノータイムでの応手も素晴らしいものだった。

 

 だが、何よりも緒方が着目したのは一年前との決定的な違いであり、先日との類似点だった。

 

(……強い。やはり『sai』は進藤ヒカルだったか……。だが、これほどの実力を見せつけるとは。以前の碁会所で打った時とはまるで別人のようだ。定石は一新されて読みはより鋭く深くなっている。何より一手があまりにも厳しい。抉り込むような一手には見ているオレですら背筋が寒くなる……。村上二段には気の毒だが、役者が違いすぎるな。以前にも感じたが、改めて認めよう。このオレですら危うい。──くっく、冗談みたいな話だ。たかだか院生が、九段と同等か、それ以上の実力を持っているなんてな)

 

 緒方の思考は一旦そこで止まった。

 あるいは、と思った。

 

(進藤に対抗できるとすれば。……いや、あまりにも荒唐無稽だが『塔矢名人』だけか? ……なんてな)

 

 戦う前から敗北を認めるなど、有り得ない。

 緒方は眼前で行われる対局を見つめながら、より意気を新たにしていた。

 

(勝つさ、オレが。お前と対局できる日を楽しみに待っているよ、進藤。──が、今はお前の一手を楽しませてもらうとしよう)

 

 若獅子戦は合計5回戦。

 本日執り行われるのは2回戦までである。

 緒方はたっぷりと進藤ヒカルの碁を目にした。

 それは同時に、緒方九段が院生の対局を熱心に見ているという客観的な事実を生み出した。

 

 事前にその名前を知っていた者も、今日までその名前を知らなかった者も、引き寄せられるように対局を目にする。

 そして対局を観戦する全ての者の記憶に刻まれることになる。

 第二局目にして、進藤ヒカルの名前が大きく知れ渡る。

 

 その相手は。

 藤崎あかりか、はたまた冴木光二か。

 

 ──その結果が出る。

 

 

 

 

 

「──ありません……!」

 

 悔しさの滲んだ声で、藤崎あかりが投了した。

 対面に座る、軽薄そうな風貌ながらも実は面倒見の良い人物である冴木が対局内容を思い返して称賛を込めてあかりに話しかける。

 

「ありがとうございました。えっと、藤崎さん、だっけ。良い碁を打つね。何より思い切りが良い。見ていて気持ちがいいよ」

 

「あ、ありがとうございますっ」

 

「はは、そう固くならないでいいよ。プロって言っても、院生の君たちとそう年齢は変わらないんだし。囲碁歴は何年目?」

 

 年齢、という括りでの軽い会話のつもりだった。

 しかし、藤崎から飛び出した年数は想像を絶した。

 

「えっと、まだ1年と少し、です」

 

「え?」

 

 冴木が固まる。

 碁笥に戻そうとしていた白石が手から零れ落ちてしまったため慌てて拾った。

 その年数は、ちょっと予想外すぎた。

 再び片付けの作業に戻りながら、驚きから捗らない手つきで白石を集めながら冴木が再度問いかけた。

 

「……もう一回聞いていいかな?」

 

「は、はい! 一年と数ヶ月です!」

 

 緊張しながらも真っ直ぐに冴木の目を見るこの少女は本当のことを言っている。

 それが確信できた。

 信じられないという思いもあったが、冴木はこの真っ直ぐな瞳を向けてくる少女が嘘をついているとは思わなかった。

 故に、冴木の胸には素直な感嘆の念が湧きあがった。

 

「……そりゃ凄い。キミ、倉田プロ並みだね。名前覚えとくよ」

 

「あ、ありがとうございますっ」

 

『ペコペコ』と冴木に頭を下げる姿はとても一年弱で院生上位にまで上り詰めた人物には見えないが、たった今行った対局が明確に『ソレ』を証明している。

 微笑みながら、森下九段門下生でもある冴木は内心での高揚があった。

 新しい時代が来ているのかもしれない、と。

 

 その回答をするかのように、第二戦目が始まる。

 冴木の対戦者は『進藤ヒカル』だった。

 

 

 







余談ですが、
私今、『アリスフィクション』なるゲームにハマっております。
オススメです。若ちゃんかわいい。


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第10話

約6700字



 

 

 第二回戦。

 

 勝ち上がった院生たちと、プロ棋士たちの更なる熾烈な戦いが繰り広げられる。

 

 準備時間はさほど与えられない。

 1回戦の対局が終わって、2回戦の対局が始まるまでの間。

 その時間だけが、二回戦に進んだ者たちに与えられる猶予時間だった。

 

 その中でも比較的早く対局を終わらせたヒカルも、その足であかりや奈瀬、伊角、和谷、越智、本田。

 目に付いた対局に顔を出して盤面を見守った。

 

 奈瀬は勝利して、次の対局に塔矢を見据える。

 あかりは敗北したが、冴木四段に褒められた。

 

 ヒカルはその二人以外の盤面を覗いていた。

 

 

(──佐為、伊角さんってやっぱ強いよ)

 

『はい。非常に落ち着いた打ち方をする若者ですね。先ほど対局した村上という者よりも、おそらくは伊角の方が強いでしょう』

 

(だよなー。なんで去年プロに成れなかったんだろ、伊角さん。この真柴ってのより、ずっと良い碁を打つよ。すっごい真剣で筋が通った、真面目な打ち方してるもん)

 

『その真面目さ故に、かもしれませんね』

 

 佐為はそこで一度言葉を区切って、心の内で言うべき言葉をまとめてから再度語り出した。

 

『……彼は、その真面目さ故に些細な事でも受け止めてしまうのでしょう。それは心が未熟という事ですが、しかし、真面目さ故の強さも持っている。彼が安定した実力を引き出せるように成れば、先ほど見た奈瀬でも危ういでしょうね』

 

(……うん。そーだろな、奈瀬もすっげー成長したけど、それでもまだ伊角さんの方が上だ)

 

『はい。奈瀬の穏やかな一手は私もその成長の喜びに震えるほどですが、それでも。──プロ試験では、この者が最大の関門かもしれませんね』

 

(もっと鍛えてやんねーとな)

 

『はい。まだ時間はありますからね』

 

 佐為とヒカルがそんな会話をしている最中でも、伊角の優位は揺るがない。

 そう判断したヒカルはその場を後にした。

 

 

 

(──和谷、か。和谷も良い碁打つよな、オレ好きだよ。友達って事とは関係なくそう思う)

 

『はい。私も同意見です。彼の碁は一言で言えば若い。それは未熟さという意味ではなく、溌剌とした活気に満ちています。和谷は好奇心が強いのでしょうね』

 

(あー、何となくわかるよ。虫取り少年感っていうかさ、そんな感じ)

 

『……ヒカル。それ、和谷本人に絶対言っちゃダメですよ? きっとすごく怒られますから』

 

(わ、わかってるよ、そんくらい。──でも、相手の中山プロ、だっけ。和谷の勢いを上手く凌いでるよ)

 

『そうですね。腕試しのような気配を和谷からは感じます。それを受けて立ちつつも、要所要所でしっかりと締めている。プロのお手本のような碁ですね』

 

(けど、それはまだ和谷と中山プロとの力量差があるってことだ)

 

『それは仕方のない事、と言えれば良いのですが、和谷もプロを目指す身ですからね、そうも言っていられません』

 

(んだな。この対局を活かせるかどうか、って感じか)

 

『大丈夫。彼はいつもヒカルに立ち向かって来ていますから。この対局も糧にして、これからきっと伸びますよ』

 

(だといいなぁ)

 

 

 しみじみと心の内で呟いたヒカルの声は外には漏れない。

 観戦していたヒカルにも気がつかない程に集中して打っている和谷から離れて、ヒカルは別の盤面の観戦に移った。

 

 

 

(……越智も、何だかんだ強いよ。オレから見たら脇が甘いって思うこと多いけどさ、最近はそれも少なくなって来たもんな)

 

『そうですねぇ。『私たち』に散々地を荒らされたからかもしれませんが、あえて地に拘らない事も増えて来ましたね。良い傾向です』

 

(地に拘りすぎだったんだよな、越智って。だから、最近は一皮剥けたって感じだ)

 

『まだまだですけどね。しかし、成長は著しいです。奈瀬ほどではありませんが、越智も伸びています』

 

(めちゃくちゃ負けず嫌いだもんなぁ。甘い手を咎め続けたら、面白いくらいにちゃんと修正してくるもん。指導のやり甲斐があるよ)

 

『……でも。ちょっと、やりすぎちゃったかもしれませんね』

 

(ウン。それはオレも思った。でも、あれくらいで心折れるんならプロになんかなれねーって。現にプロ相手に堂々と打ってるし、大丈夫だろ)

 

『そうですねぇ。ヒカルってば、最初は『根に持って』ネチネチと攻めてましたけど……』

 

(オレじゃねーって。打ったのはお前だろ)

 

『……そう言えば、そうでしたね』

 

(だろ? ほら、次いこーぜ)

 

 ヒカルは佐為に打たせている。

 それは間違いない。

 では、佐為が打ったのに、ヒカルが打ったように感じた錯覚はなんだったのか。

 不思議に思い首を傾げながらも、佐為はヒカルの背を『トコトコ』と追いかけた。

 

 ──『本当』の意味で、二人が共に打つ時はそれほど遠い未来の話ではないのかもしれない。

 

 

 

 ヒカルが次に足を向けたのは本田のところだった。

 院生の中で、ヒカルが注目している内の一人。

 その実力は院生の中では上位に入るが、あまり目立ってはいなかった。

 

(──地味にさ、本田さんも強いよな。他の院生たちの影に隠れてるけど、しっかりした碁を打つよ)

 

『そうですね。派手さはありませんが、堅実な碁を打ちます。彼も未だ自らの完成形が見えていないのでしょうね』

 

(いや、そりゃそーだろ。奈瀬だって、ようやくそのカケラを掴んだくらいだぜ?)

 

『ふふ、そうでしたね。しかし、この道で生きてゆくのなら、いずれ見つけねばなりません。つまり、どのように打ちたいか、です』

 

(……ま、オレはシンプルだよ)

 

『おや。そういえば、直接は聞いたことがありませんでしたが、ヒカルはどんな碁が好きですか?』

 

(決まってんじゃん。シビレるような碁だよ。ギリギリで戦わないと勝ちを拾えないような、ヒリつくような碁が打ちたい)

 

『奇遇ですね、私もです』

 

 二人は顔を見合わせる。

 佐為は嬉しそうに微笑んで、ヒカルは少年らしく破顔する。

 和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気だった。

 

 

 

 全ての対局が終了すれば、当然第二回戦が開始される。

 ヒカルもそのアナウンスに従って席に着き、対面に座る、あかりに勝利した冴木四段と向かい合った。

 整った顔立ちに興味深げな色を滲ませる冴木と視線が交わる。

 

 スピーカーから流れる音声が始まりを告げた。

 

『──始めてください』

 

 

 

「お願いします」

 

「うん。お願いします」

 

 ヒカルの一声に、落ち着いた様子で冴木が返答を返した。

 院生とプロの対局であるため、ヒカルが黒番を再度握る。

 気合は十分。

 けれど、急くような碁はもう必要ない。

 初戦は気が逸ったが、2戦目は落ち着いて打つ心算だった。

 

 視線は既に盤面に向いている。

 ヒカルは視線をそのままに、碁笥に手を差し込んで盤面に第一手目を放った。

 

 鋭い手つき。

 迷いのない盤面への向き合い方から、冴木はヒカルへの警戒度を一段上げた。

 プロと対局するなら、多少であれ気負いがある。

 だが、ヒカルにはそれがない。

 まるで絶対に勝てると確信しているかのような気配すら滲んでいる。

 

 冴木はそれを、舐められているとも、若者特有の無謀とも受け取らなかった。

 塔矢アキラの存在。

 それが冴木に『もしかしたら』という可能性を。

 つまり、進藤ヒカルが強者である可能性を脳裏に過らせた。

 

 冴木は微かに緩んでいた気持ちを引き締め直す。

 碁笥から手を出して、解すように握って開いた。

 再び碁笥に手を差し込んだ冴木に油断はない。

 

 冴木がまるで何かを予感するように、しっかりと打つスタンスに切り替わる。

 意気を新たに冴木は握り直した白石を盤面に打った。

 進藤ヒカルに負けない、鋭い手つきでの一手だった。

 

 そこから応酬が始まる。

 一見穏やかに見える盤面も、手数を重ねるごとに複雑に変化してゆく。

 僅か十数手の段階で冴木は自らの直感が誤っていなかったことに気がついた。

 

 冴木は森下九段門下生である。

 その研究会で森下九段とも打ったことが当然ある。

 それ以上の圧力を、盤面から感じた『気がした』。

 

 一瞬だけ手を止めた冴木だったが、その時に周囲の状況を観察する余裕ができた。

 軽く見渡せば、2回戦とは思えない豊富なギャラリーが周りを埋めている。

 緒方九段、記者の天野、1回戦で敗退した村上プロ、先ほど対局した藤崎あかり。

 それ以外にも、ギャラリーが付く事によって興味を引かれた面々が集まって来ていた。

 

 冴木はプロだ。

 ギャラリーを背負っての対局に動揺などする理由がない。

 だが、そのギャラリーの中に緒方九段が混じるとなれば話は別である。

 

 普段から塔矢門下を目の敵にしている森下九段の研究会メンバーの一員であることもあって、その行動原理(興味のない対局は一切見ない)はよく知っている。

 冴木はここまで油断などしていなかった。

 全力ですらあった。

 しかし、『全力』と言い切れるほどの気合は込めていなかった。

 邪魔をしていたのは『院生』であるというフィルターだった。

 それも緒方九段の存在、そして盤面から感じる、先を見通せない朧げな圧力を前に霧散する。

 

 冴木が手を止めたのは一瞬だけだった。

 瞬く間に気を取り直し、闘志を身に宿した冴木は碁笥に手を差し入れる。

 

 この勝負。

 一瞬たりとも気の抜けない戦いになるかもしれない。

 

 冴木は内面でそう直感して、引き締めた表情で盤面に向き合う。

 右手で掴んだ白石の冷たさが伝わる。

 興奮しているのか、掌の熱さがそう感じさせた。

 ひんやりとした心地よい冷たさと共に、冴木は盤面に新たな一手を放った。

 

 

 数十手の手数が積み重ねられた。

 盤面では四方に石が散りばめられ、そこらかしこで黒石と白石がぶつかり合っていた。

 重要である形勢は、やはり黒番優勢で推移し続けていた。

 

 1回戦のような押し潰す気魄(きはく)をヒカルは発していない。

 落ち着いた碁を打っているが、それでも滲み出る強さに冴木はひたすらに押されていた。

 

(強い……。これが院生だなんて。冗談みたいな強さだ。──そういえば、和谷が塔矢アキラのライバルが院生の中に居る、って言ってたか。……それが、この子か)

 

 打てば打つほど、その確信が深まった。

 いや、これは。

 

(これは、塔矢アキラなんてレベルじゃないぞ……!?)

 

 打つほどに圧力が増してゆく。

 徐々に徐々に抑えきれない闘志が溢れるように、ヒカルの碁は厳しく変化してゆく。

 隅の戦いを有利に進めながら、空いた手番で中央に進むための布石を積み重ねていく。

 咎める冴木の一手もヒカルは軽やかに躱して、なおも先手を保ったまま隅の戦いに戻っていく。

 

 盤面が、完全に支配されていた。

 ヒカルが打つたびにその対処に追われてしまい、冴木は応じる形でしか戦うことが出来ていない戦況。

 苦しい思いを抱えながらも冴木は諦める事なく打ち続けた。

 

 展開は緩やかではあるが、真綿で首を絞められるような戦いが続いている。

 何とか打開策を模索しながら打つが、冴木の想像を上回るタイミングで予想外の一手が放たれる。

 この局面でそう打つのか、と唸らざるを得ない一手は一度ではなく複数に上る。

 応手を積み重ねながら、まるで玉手箱から飛び出してくるような興味深い一手の数々ではあったが、観戦しているならまだしも冴木は今、対局しているのだ。

 呑気に喜んでも居られない。

 

 少しでも打開の可能性を探るべく、必死の思いで粘り続けるがヒカルの碁は厳しさを増すばかり。

 そのまま緩めることなく、黒番の圧倒的な優勢で盤面が決定付けられる。

 これ以上の対局は引き際を誤った判断になる。

 素直に冴木は頭を下げた。

 

「……ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 要した手数は163手。

 冴木四段の完敗での終局となった。

 対面のヒカルは落ち着きを払った仕草でペコリと頭を下げた。

 対局結果を受けて、周囲は騒めいていたが、冴木はそれに構わず話しかけた。

 微笑んでいるが、少し苦味も混じったような表情だった。

 

「良い対局だった。……院生っていうには、ちょっと強すぎたけどね」

 

「あー、あはは」

 

「悪い悪い。こんなこと言われても困るよな。──進藤ヒカル、か。今日は覚える名前がいっぱいだな、ははは」

 

 そんな会話を皮切りに、これまで沈黙を保っていた周囲の者たちが口々に碁の内容に関して語り出した。

 興奮した様子で、一斉に詰め寄って来て話し出したものだから人が壁のように作られて盤面の周りを埋めていた。

 

「いやぁ! 凄かった! 冴木くんもよく打ったね、特にここなんて、ホラ。中央との連絡を上手いこと取ったじゃないか。あの状況でここまで打てるんだ、私はシビれたね」

 

 篠田先生が興奮したように感想を述べて、それに追従して緒方も所見を続けた。

 

「冴木くんも良い内容だったが、それよりも進藤くんでしょう。四段相手に、圧倒的と呼べる内容ですから」

 

 まるで忖度せずに、本人がいる目の前で『圧倒的』と言い放つのは緒方にしては配慮の欠ける珍しい発言だったが、言い訳をするなら、それだけ進藤ヒカルの打った碁の内容に興奮していたからだった。

 そんな緒方はヒカルに問いかける。

 

「──私を覚えてるかな? 進藤くん。塔矢名人との対局を傍で見ていた男だよ」

 

「あ、ああ! あの時の! ……えーと、塔矢の親父も来てんの?」

 

『キョロキョロ』と周囲を見渡し始めたヒカルに緒方は薄く微笑みながら首を振った。

 

「いや、名人はどうしても予定が空かなくてね。代わりに私が来た、という訳さ。改めて名乗らせて貰うが、緒方精二だ。段位は九段を名乗らせてもらっている」

 

「ど、ども。進藤ヒカル……。い、院生です」

 

「ははは。──いや、すまない。キミを笑った訳じゃないんだ、気を悪くしないでほしい。ただつい、キミほどの実力者が院生だと言うのが少しツボでね。……良い対局だったよ、私が対面に座りたいと『願う』ほどにね」

 

 常ならば、緒方は『思う』と言っていただろう。

 しかし、今回緒方の口から出てきた言葉は『願う』だった。

 それだけ強い興味と関心をヒカルに対して抱いていた。

 

「どうかな? この後一局打たないか?」

 

「い、今からぁ!?」

 

「ああ、そうだ。何なら景品でも付けようか。……そうだな、キミくらいの歳なら寿司……なんてのはどうだろう?」

 

「うぇ!?」

 

「良いところを知ってる。ああ、言っておくが、回らない方の寿司だよ」

 

「……回らない、寿司……」

 

『ジュルリ』と唾液を流しそうな様子のヒカルを見て、焦って両手を『ワタワタ』させていた保護者目線の佐為が、誘惑に駆られそうなヒカルを見てさらに慌てふためいてヒカルの背後から話しかけた。

 

『ひ、ヒカル!? こんな見え見えの誘いに乗っちゃいけませんよ!? ……あ、いえ。打ちたいですが、すごく、すごく!! 打ちたいですけどぉ!! でも、初対面の人にホイホイついていっちゃダメですよ!?』

 

(しょ、初対面じゃないやい。ほら、前に塔矢の親父さんも居たし。悪い人じゃねーよ)

 

『でも! 結局それってヒカルがお寿司食べたいだけですよね!?』

 

(うっ、いや、そーだけどさ……)

 

 迷っている様子のヒカルを察して、緒方がさらにダメ押しの一言を告げた。

 

「ふむ、そうだな。もし一人が不安だと言うなら、アキラくんも誘ってみるかい? 彼なら喜んで付いてくると思うが」

 

「……それなら、良いかな?」

 

『……まぁ、それなら良いかもしれませんね。塔矢がこの者の身を保証してくれるなら、恐らくは大丈夫でしょう』

 

 佐為も打ちたい気持ちが強かった。

 塔矢がいい子であるのは周知であるし、これほどの面前で誘うのだから問題はないだろう。

 ヒカルと佐為は緒方の提案に頷きを返して、どよめく周囲を置いてその場を後にした。

 

「──という事ですから、篠田さん。進藤を借りていきますよ」

 

「あ、え? わ、わかりました。──進藤くん、失礼のないようにね!」

 

 院生師範である篠田も、ヒカルの対局を観戦していたために、緒方から声を掛けられてすぐに応じた。

 そこにさらにもう一つの声が掛かった。

 一回戦で負けたため、同じく観戦していた藤崎あかりだった。

 

「あ、あの! ……私も、私も連れて行ってくれませんか!」

 

「キミは、院生かな? 進藤くんの友達かい」

 

「ウン。えっと」

 

(緒方、だったよな)

 

『はい。その名前で合ってますよ』

 

「緒方。さん、ソイツ、あかりも一緒に連れてってよ。オレの弟子なんだ」

 

「……弟子? ほぅ、それは面白そうだ。いいとも、キミも付いてきなさい」

 

「は、はい! ありがとうございます!」

 

「やれやれ。少し大所帯になりそうだが、まぁいいか。キミと打てるなら安いもんだ」

 

 その後に塔矢アキラを誘って、その場に居た奈瀬明日美も参加する事になって、合計5名の大所帯で一行は移動を開始した。

 現役のトッププロ。

 緒方とヒカルの対局を前に、少女二人と少年一人は興奮と期待に頬を高揚させていた。

 

「──さて。先に腹ごしらえでもしようか。構わないかな?」

 

 ヒカルに否がある訳がない。

『ブンブン』と首を縦に振ったヒカルを見ながら、余裕たっぷりに微笑んだ緒方に連れられて、一行は回らない寿司屋に向かうのだった。

 

 

 






・・・あれ?
どうしてこうなった?


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第11話

6800字



 

 

 

 

「──天野さん、彼は一体何者ですか?」

 

「ああ、キミは初めて見るか」

 

 紙とペンを持ちながら、今しがた目にした光景を書き留める天野にカメラマンの男が話しかけていた。

 天野はメモから視線を上げる。

 今はもう居ない、先ほどまでこの場にいた少年の影を見るように。

 

「彼の名は『進藤ヒカル』。詳しくはまだ言えないが、トップクラスの特ダネだよ。キミも間違っても取材なんかしちゃーいけないよ。口酸っぱくまだダメだって言われてるんだから。──ま、彼が優勝すれば話は別なんだけどね、ははは」

 

「っていうと、優勝者の記事を作るから、ですよね?」

 

「そう。『それだけ』の記事なら許されてる」

 

「……それ以上の何かが、あるって言うんですか?」

 

「あるよ」

 

 天野はそれだけ断言して、顔を綻ばせながら続けた。

 

「いや、しかし。『塔矢アキラ』そして『進藤ヒカル』。続々と新しい風が吹いてくるね、碁界の記者として鼻が高いよ。これで日本の囲碁はもっともっと面白くなる。あるいは彼なら最年少でのタイトルホルダーにも……。いや、それは言い過ぎだな」

 

「天野さんがそこまで言うって、相当っスよね」

 

「……そうかもしれないね。だけど、どうしても期待してしまう自分がいるんだ。記者としては失格かもしれないが、囲碁ファンとしての血が騒いでしまってね。どうにも仕方がないんだ」

 

 天野は困ったように笑いながら、しかし屈託のない表情だった。

 

「さて。若獅子戦の2回戦までが終わったんだ。残りの対局は3週間後に持ち越しだけど、楽しみだね」

 

 再び仕事人の表情に引き締め直した天野は今日の結果と取材報告のために管理委員会の元へと足を運ぶ。

 今後の根回しも兼ねた行動は恐らく決勝戦でぶつかり合うであろう、両雄の取材に関する内容。

 紙面を飾るだけのビッグニュースを是非とも報道するために、天野は苦労を惜しむつもりはなかった。

 

 

 

 

 

「──お、おい。ほんとにそんなに食えるのか?」

 

「だいじょーぶ!」

 

「そ、そうか」

 

『バクバク』と音が付きそうな勢いで口に寿司を放り込んでいくヒカルに若干引きながら、緒方はゆったりと湯呑みを傾けてお茶を啜った。

 そんな緒方を尻目に奈瀬がご機嫌に笑みを溢しながら、ヒカルを横目で見て、ゆったりとお寿司を口に入れた。

 

「ん〜、美味しい〜♡──進藤ってば、せっかくのお寿司なんだから、もうちょっと味わって食べなきゃ」

 

 思い思いに過ごすそんなヒカルと奈瀬とは異なって、あかりは着いてきたのは良いものの『あわあわ』しっ放しだった。

 

「な、奈瀬ちゃんなんでそんなに落ち着いてるの!? ヒカルは食べ過ぎ……! あわわ、ね、値段が書いてない……書いてないよぉ!!」

 

「時価って言うらしいよ。時期で値段が変わるから、あえて値段は書いてないんだ。──藤崎さんも食べたら? 美味しいよ」

 

 慣れた様子で、行儀良く寿司を口に運ぶ塔矢。

 奈瀬が機嫌良く言葉を引き継いだ。

 

「そうそう。こんな時でもなきゃ、こんなに良いお寿司食べれないんだから。ん〜、付いてきて良かった〜♡」

 

 奈瀬にそう言われてから、ようやく目の前のお寿司に手をつけ始めたあかりを見ながら塔矢が続けた。

 

「藤崎さんは予想通りだけど。少し意外だね。奈瀬さん、もっと慌てるかと思ってた」

 

「そう? ──うん、まぁちょっと心境の変化はあったかもね」

 

「そうなんだ。……話は変わるけど。さっきの対局も凄く良かったと思うよ。勝ってやるって気持ちが伝わってきた」

 

 そう言われて奈瀬の脳裏に蘇るのはつい先ほどの、塔矢アキラとの対局内容だった。

 苦笑いしながら続ける。

 

「あはは、そう言われると恥ずかしいね。まぁ負けちゃってるんだけどね。──次はもっと追い詰めてやるんだから」

 

「うん、楽しみに待ってる」

 

 自信有りげな笑みを浮かべた奈瀬と、その笑みを受けて嬉しそうに頷いた塔矢。

 仲の良さそうな二人を見ながら、緒方はふと疑問を尋ねた。

 

「──奈瀬くん、だったね。キミに聞きたいことがあったんだが、そこの藤崎って子も含めて、進藤くんの弟子なんだって?」

 

 緒方にとって『さん』付けは目上の人に対して使う敬称だ。

 だから、女性である少女たちに対しても『くん』を使う。

 目下に対しては『くん』、目上に対しては『さん』である。

 大人らしい敬称の使い分けだった。

 

「あ、ハイ。えーっと、いつからだったかな? 確か、塔矢くんの新初段シリーズの後だから──。1月後半くらい?」

 

「そうですね。ボクは2回目で遅かったですから。ちなみに1月28日ですよ」

 

「そっか。──うっわ、もう4ヶ月近く経ってるの? はっや」

 

「キミとアキラくんの対局は見れていないが、なるほど。1月と比べてウデは上がったのかい?」

 

「ハイ。それはもう。別人ってくらい強くなってると思います。──出来るなら、緒方九段とも打ちたいです」

 

「ははは、良い気迫だね。……構わないよ。後で打とうか。──アキラくんも久しぶりにどうだい?」

 

「いえ、ボクは遠慮しておきます。代わりにと言っては何ですが、藤崎さんとも打ってあげてもらえませんか、緒方さん」

 

「彼女とも? まぁオレに対して本気で向かって来れるだけの気持ちがあるなら、構わないけどね。自信の程はどうかな?」

 

 挑発するような緒方の視線に対して。

 あかりはそれまでの『オドオド』としていた雰囲気を一変させて向き合った。

 交わされる眼差しは緒方の御眼鏡に適うだけの気持ちが篭っている。

 

「お願いします!」

 

「おっと、小さな獅子を怒らせてしまったかな。──さて、進藤くん。そろそろ食い納めてくれよ」

 

「ふぁ、ふぁい」

 

 奈瀬に言われて少し味わいながら食べていたヒカルだったが、慌てて握りたてのお寿司を『バクバク』とお口に放り込んで恍惚(こうこつ)の表情を浮かべる。

 

(う、ウメェ……)

 

『ヒカル。お寿司もいいですが、緒方が待っていますよ?』

 

(お、おう)

 

 既に席を立って会計を済ませている緒方の姿にヒカルが慌てて立ち上がった。

 

 

 

 駅前の碁会所。

 ヒカルたちにとっても馴染みのあるこの場所で、多数のギャラリーが集まる一角があった。

 一応は礼儀として碁会所の邪魔にならないよう、隅の方に座っているが、そんな配慮も虚しく碁会所の者たちのほぼ全員がその一角に集まっていた。

 

「──さて。メインディッシュは最後、と言いたいところだが、待ちきれなくてね。打とうか、進藤くん」

 

「お願いします」

 

「……お願いします」

 

 それまでは、どこか子供っぽさの抜けきれない様子だった。

 それがどうだ。

 対局となればまるで別人のように切り替わった。

 ゾクゾクとした興奮を感じながら緒方は握る。

 

 手番は緒方が黒番、ヒカルが白番となった。

 

 

 緒方は手番が決まった途端に上着を脱ぎ、畳んで横の椅子に被せる。

 対面するだけで理解できる。

 尋常ではない圧力。

 今までは観戦する側だった。

 だからこそ気がつけなかった。

 この、対面に座らねば伝わって来ない気迫に。

 

 じっとりと嫌な汗が背中に流れる。

 ネクタイを緩めて、緒方は碁笥に手を差し入れた。

 意気は十分。

 少し先では、本因坊戦に挑むことも決定している。

 だが、重要なタイトル戦に向けての威勢を削がれる可能性があるとしても、今この場で挑まねば気が済まない。

 

 

 緒方の『ソレ』は可笑しな事に挑戦とも呼べる心境だった。

 

 それまでの、ともすれば軽薄な雰囲気はそこにはない。

 研ぎ澄まされた刃の如き気迫が瞳の奥に渦巻いていた。

 

 当人は自覚がない。

 しかし、緒方は塔矢行洋が認めるほどの『囲碁バカ』である。

 良い車にスーツを着こなし、タバコを吹かして静かに高い酒を呷る。

 碁打ちながらスタイリッシュな格好を気取って、周囲に見せている姿は本人からすればそれが本性であるが。

 

 しかし、彼は『囲碁バカ』である。

 先にも述べたが自覚がない。

 きっと、現『本因坊』である桑原が執拗に緒方を揶揄うのも、そこに理由の一端があるのだろう。

 

 囲碁に前のめりになってのめり込んでいる緒方は、進藤ヒカルという存在を知ってその心を熱くしていた。

『グツグツ』と湧き立つマグマの如き興奮。

 若獅子戦で、進藤ヒカルの対局の全てをその場で観戦していたのだ。

 その過剰なのめり込み具合が良くわかる。

 

 緒方は九段である。

 それは段位の最高位である。

 それ以上はタイトルである十段しか存在しない。

 つまり、タイトルホルダーには劣るものの、日本棋院の中では最上位に近い立場。

 

 そんな彼が、一介の院生の打つ全ての対局を観戦する。

 その影響力なんて糞食らえ、と言わんばかりに黙って進藤ヒカルを観戦し続けるほどに、緒方は『囲碁バカ』だった。

 

 だが、黙って観戦し続ける価値はあった。

 緒方の内面には新しい時代に対する期待感があった。

 これから日本の囲碁界はもっともっと面白くなっていく。

 その確信があった。

 

 確信を思い出して、緒方は獰猛な笑みを浮かべる。

 進藤ヒカルから伝わってくる圧力を前に、まだ一手すら放っていない盤面を前に『ゾクゾク』するほどの興奮を覚えていた。

 

 その思いが命じるがままに緒方は第一手目を盤面に放った。

 冷静沈着な緒方には珍しく、甲高い音を盤面から響かせた。

 

 ヒカルも応じる。

 佐為は、その背後で扇子を用いて指し示す。

 

 緒方の気魄(きはく)は『二人』の闘志をも呼び起こす。

 

 やっと。

『全力』を出せる時が来たと、そう言わんばかりに。

 

 奇しくも、この時三人は全く同じ表情を浮かべていた。

 

『『右上スミ 小目』』

 

 佐為とヒカルの声が重なる。

 ヒカルは打つ。

 

 一度戦いが始まれば無我の境地に入る。

 全力での戦いともなれば、その域も普段の姿勢とは比べ物にならない。

 

 緒方は未だタイトルを所持していない。

 だが、実力はタイトル所持者と同等と言っても良い。

 

 その解る者にしか解らぬモノが、佐為とヒカルに察せられぬ訳がなかった。

 

 盤面から鳴る音以外、全てが無音だった。

 アキラも、あかりも、奈瀬も、みな固唾を飲む事すら惜しんで盤面を見守った。

 

 いつもの『進藤ヒカル』ではない。

 この場の誰もがそう思った。

 

 何かが違う、決定的な何かが。

 

 だが、誰もソレを言語化できない。

 それは鬼神か、はたまた棋神か。

 

 想像もつかない程の高みに登ろうとする者が発する気魄(きはく)に場の空気は完全に呑まれていた。

 

 

『ヒカル。不思議ですね』

 

(ああ、何だろうな、この感じ)

 

『わかりませんが、しかし、心地良いのも確か。未だ掴みきれていませんが、全力を尽くしましょう』

 

(だな。こんなおもしれー対局。楽しまなきゃ損だ。・・・この感覚にも慣れたいしさ)

 

 しかし、呼応するように拓けた視界は未だ不安定。

 ヨミの鋭さと一手の厳しさは増している。

 だが、どことない不安定さも未だあった。

 

 その隙を緒方に突かれる。

 

 勝負勘。

 つまり、ここぞという場面での底力は十二分に緒方は持っている。

 吠えるように緒方が猛攻を仕掛ける。

 ここで取らねば先はないと決死の覚悟で踏み込んだ。

 

 右下隅から始まった戦いは右辺を飲み込み、中央にまで伸びる。

 事の発端は中央に置かれた四つの白石の死活。

 少し左辺に進めば、3つの白石がある。

 だが、そこは既に緒方は潰している。

 活路は上辺にしかないが、黒番である緒方は一手分の猶予を極めてギリギリで効果的に用いて、僅か一手分の差で中央の白石を八つ殺す事に成功する。

 

 

 食いつかれた。

 そう判断したヒカルは即座に致命傷を避ける術がない事を察するが、焦りとは無縁だった。

 視えていた。どこまでも。

 

 ここまでの手数は155手。

 盤面は黒番が優勢となっている。

 

 しかし、まだ盤面は空きが多い戦況。

 ヒリつくような局面が訪れた事が、却って『二人』の闘志に火をつける。

 

 打ち込んだのは左辺。

 右辺での戦いが主戦場となった事で、左辺は全体的に手が薄い。

 挽回の余地は十二分に残されていた。

 緒方としては、中央と右辺で作った地をキープすれば勝ちに持っていける盤面の状況。

 

 しかし、相手が相手であるために、一切の油断なく慎重に一手を重ね続けた。

 

 何より左辺は白石の厚みが極めて大きい。

 全体としてみれば黒番の優勢ではあるが、左辺に限定して言えば未だ白番が優勢である。

 この左辺の拡大を許せば、十分に逆転も有り得る。

 

 緒方は果敢に攻める。

 左上隅、周りが白石しかない盤面で、しかし『三々(盤面四隅にある、縦横三線が重なったオセロでいうところの四隅のような存在)』という格好の位置が空いている。

 

(進藤、これは誘いだな? ……いいだろう、乗ってやる。どうせお前の地を荒らさねばならんのだ。あえて隙を作ったのだろうが、それをオレが食い破ってやる)

 

 そこからは読み合いの応酬である。

 右辺、左辺、上下、中央。

 

 隙はどこにも存在する。

 探り読んで隙を作るべく戦略が蠢き合う。

 

 左上隅に2手打ったかと思えば、右上隅に数手を重ねる。

 かと思えば、再び左上隅に戻って乱戦。

 

 上辺では白石が死ぬ寸前まで陥りながらも、ギリギリで生き延びながらその石を伸ばしに伸ばしてゆく。

 一つ読み違えれば十数の大石が死にかねない危険な動きにも、『二人』の手が澱むことはない。

 

 そして。

 流れるような石の流れに翻弄されるがまま、上辺が『二人に』支配される。

 

 対面する緒方は冷汗を流しながらも、笑みが抑えられない。

 

(これほど上手く生きるか。まさか、こんなシビれる対局が、タイトル戦以外で経験出来るとは思わなかったぞ、進藤……!)

 

 上辺の白を囲み殺しに行ったはずの黒が『死に掛ける』。

 辛うじて回避した緒方だったが、中央で作った有利が潰されそうな状況にまで陥る。

 

 果敢に攻めた左上隅は早々に捨てざるを得ない判断を迫られた。

 荒らす事は難しいと悔しながらも、即座に緒方は切り上げる。

 

 ヨセで挽回すべく緒方は懸命に打った。

 しかし、左辺から伸びる白と、右下隅から伸びる白に、作ったはずの中央の地にまで圧力を掛けられてしまい、『ジリジリ』と差がつめられてゆく。

 

(ギリギリ、勝っている……か?)

 

 途中経過は未だ緒方がギリギリで綱を渡っていた。

 しかし、『二人』の怒涛の追い上げは止まる所を知らず、1目、1目と徐々に迫る。

 そして。

 

 ──緒方は悔しげに唇を食んだ。

 

「……ここまで、か」

 

「ありがとうございました」

 

 周りにもわかるよう、整地を行う。

 残った目は白番がコミを入れて2目半の勝利。

 

 進藤ヒカルの2目半勝ちである。

 

 間違いなく緒方は本気だった。

 途中では会心の出来で中央を制した。

 しかし、それでもなお『進藤ヒカル』に上を行かれた事に疑いようはなく、盤面がそれを否応なく証明してしまっている。

 

「……この一局はしばらく忘れられそうにないな」

 

 緒方の言った意味合いとしては、悔しすぎるから、という意味だったが、対面に座るヒカルは真逆の意見を言った。

 

「はい。オレ、こんな良い碁打てたの数えるくらいしかないって、今ようやく気がつきました。──もっと、もっと打ちたい。こんな碁が打てるなら、オレ。──誘ってくれてありがとうございました。やっと理解できた気がします。オレがプロにならなきゃいけないってワケが、今更ですけどわかった気がします」

 

 この一戦を経て、ヒカルは急速に大人びて見えた。

 どこか浮ついた気持ちだった。

 振り返ってヒカルはそう思う。

 

 佐為と一緒に楽しみながら打てれば良い。

 ヒリつくような対局が打ちたいと言いながらも、内心はそう思っていたのだ。

 

 だが、今日ハッキリとわかった。

 

 打ちたい。

 こんな碁が、もっともっと打ちたい。

 

 ──佐為と一緒に。

 

 聞かなくても同じ気持ちだとわかった。

 背後の佐為が、静かに沈黙して喜びに浸っていたから。

 

 ヒカルと佐為は思い出した。

 ギリギリの戦況で全力を出し切ることの面白さを。

 

 それがこれからにどう影響を及ぼすのか。

 ヒカルにも、それは分からない事だった。

 

 

 緒方は少し呆けていた。

 ヒカルのあんまりにポジティブで、自分とは正反対の意見を、敗者である自分に向けて堂々と言ってきたものだから。

 しかし。

 言っている事はもっともだ。

 

 これほどの対局。

 タイトル戦でも経験できないかもしれない、とは対局中にまさに自分が思っていたことだ。

 それを悔しいなどという気持ちで楽しむ前に蓋をしてしまうなんて、あまりにも勿体無い。

 そう気がつかされて。

 

 それを教えられたのが、一回り以上も年下の院生であると思い出して。

 

 ツボに入って、おかしくなって緒方は大笑いした。

 捩れる腹を押さえながら笑う緒方の姿は塔矢アキラですら見たことがない姿で、あんまりの変わりようにあの塔矢が目を剥かんばかりに驚いていた。

 

 佐為とヒカルは余韻に浸って、緒方は大笑いして。

 周りは検討したり、対局者たちの思わぬ様子に困惑したりしながら、その日は幕を閉じた。

 

 奈瀬明日美と藤崎あかりの両名との対局は後日に流れる。

 今日はこの余韻に浸っていたいと言われてしまえば、二人が無理を言えるはずもなかった。

 

 

 時は進んで3週間後。

 若獅子戦の最終戦が行われる。

 

 もちろん、緒方はまた楽しげな足取りで若獅子戦に顔を出していた。

 タイトル戦を控える棋士とは思えないフットワークの軽さだったが、本人にソレを気にした様子は微塵もない。

 

 第5回戦。

 つまり、決勝戦。

 

 順当に勝ち上がった『塔矢アキラ』と。

 

 そのライバルである『進藤ヒカル』の名前が、対戦者の欄に並んでいた。

 

 

 

 









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第12話

約4000字



 

 

 

 若獅子戦。

 若手にとっての登竜門ではある。しかし、タイトル戦などと比較すれば、その意味合いは真剣勝負というよりも、お祭りやイベントに近い性質となる。

 だが。

 今期現場に漂う空気感はとてもではないが、そのような軽いモノではなかった。

 

 ヒリつくような、対局者同志の気迫がぶつかり合うような空気感。

 一言すら交わす事なく対面に座り合う両者を、誰が子供と侮れるだろうか。

 

 片や逆コミとはいえ、王座を打ち破った期待の新星である塔矢アキラ。

 片や院生にして、決勝戦にまで駒を進めるという、未だ誰も成し遂げた事のない偉業を達成したダークホースである進藤ヒカル。

 

 両者が旧知の仲であることは、この対局の可能性が生まれた準決勝の時点で話題が広まっていた。

 当然のように、決勝戦ともなれば誰もが知る事実となっていた。

 

 塔矢アキラのライバル。

 未だ全てに勝利する天才少年。

 タイトル戦を控える緒方九段までもが、興味深げに観戦している事すらも、この場においては熱狂を盛り上げる材料にしかならない。

 

 これから一体どんな対局が繰り広げられるのか。

 この場にいる者たちは一様に興奮しながら、その開始を今か今かと待っていた。

 

 

「──若獅子戦、決勝を始めます。両者、始めてください」

 

 プロ対院生の対局である。

 互先ではあるが、黒番は院生である進藤ヒカルが握る。

 

『塔矢アキラ』の脳裏にはつい先日に観た、緒方九段との対局が過ぎった。

 ──あの、息を呑むような空気感は今でも思い出すだけで興奮に震えが走る。

 

 それは喜びだった。

 これほどの相手がライバルとして対面に座っている。

 何よりも得難いものを自分は目前にしている。

 

 ともすれば、萎縮しかねない強烈な対局を予感しながらも、しかし、それを塔矢アキラは強靭な意志で跳ね除ける。

 塔矢は頭をゆっくりと下げた。

 その動作の一つ一つにすら、並々ならぬ気迫が篭っていた。

 

「お願いします」

 

「お願いします」

 

 ヒカルも呼び声に応える。

 頭を下げる動作に、塔矢と比べて気負いはない。

 しかし、その身から発する気配は深い集中力を持って対局に臨んでいる事が窺えた。

 

 ヒカルが、尋常ではない覇気すら漲らせながら碁笥に手を差し込んだ。

 

 

 

 

 

 ──某所ホテルでの一室。

 対局用に整えられたその場では、一つのタイトルを懸けた激突が繰り広げられていた。

 その対局を記録する立場の真柴は今日までのことを思い出す。

 

(それにしても、7番勝負のこと本因坊戦。あのトンデモない若獅子戦のあった、2ヶ月前の第一局目から三局続けて連勝した時は、緒方先生がそのまま勢いに乗ってタイトルを奪うかと思ったのに、とうとう今日の第七局にまで(もつ)れ込んだ……。本当にこの爺さん何者だよ。元気過ぎるって……)

 

 そのボヤキは以前新初段シリーズでボコボコにされた事もあるだろうが、この場の全ての者が思うことでもあった。

 

(けど、あと2分で1日目が終わる。桑原先生の封じ手になりそうだな)

 

 真柴は軽くそう考えた。

 そして、時間が迫る。

 横に座る時刻を告げる男、柿本が口を開いた。

 

「じか──」

 

 その一声を待っていたとばかりに、桑原が次手を盤面に放った。

 そうなれば次の手を緒方が封じる事となるが、これはタイトル戦である。

 すぐに応手を決めるはずもなく、30分以上の時間が経過する。

 

 無言のままに過ぎる時間の中で、ようやく、と言っては語弊があるかもしれないが、緒方が棋譜に封じ手を行った。

 

 対局室から全員が退出して、桑原の提案でみなで夕食会に行く流れとなった。

 緒方は誘われたが、タイトル戦を控えて呑気に食事会など考えられる質ではない。

 調子を崩さないためにも丁寧な断りを告げた。

 

 部屋に帰って、軽く夕食を摂った後に『あの日』の棋譜でも並べるか。

 そう思い自室に向けて足を向けた緒方の背中に桑原が声をかけた。

 

 盤外戦を仕掛けるべく桑原が意地悪げに微笑んでいた。

 

「緒方くん、どうかねこの本因坊戦は。中々慣れないことも多いだろう?」

 

「はは、そうですね」

 

「ふむ、気持ちはもう本因坊、と言ったところかな。──だが、緒方くん。キミは封じ手をするのは今回が始めてだろう? そう気楽に構えていていいのかね?」

 

「……は?」

 

「なにしろ本因坊戦は二日制の対局。確かキミは初めてだったろう。1日間フルに頭を回転させて疲労は溜まっている。封手をするときに、キミの脳裏には幾つもの手が浮かんでいただろう。こっちにするか、いや、それともこっちか。──キミが封じた手は、はたして今キミが思う一手だろうか。迷った果てにもう一方を書いていないかね?」

 

 動揺させるための策。

 あっち、か。

 こっち、か。

 悩ませてやろう、という意地の悪い質問。

 

 それに対して。

 

 ──緒方は鼻で笑った。

 

「……何を言うかと思えば、そんなことですか。『本因坊』」

 

 考え込むように伏せていた顔を、緒方は緩やかに上げる。

 その眼差しは鋭く冷たい。

 怜悧に整った顔立ちも相俟って貫禄すら感じさせる。

 

「私が覚えている一手をお知りになりたいようですが、あいにくと私の口はそう軽くはありませんが」

 

「いやいやいや、それには及ばんよ。キミがしっかりと記憶しているのか、と老婆心を出したまで」

 

 少し慌てたようにそう告げる桑原に、薄らと緒方が微笑みを返す。

 

「そうでしたか。であればご安心ください。私には終局まで見えていますから」

 

 悠然。

 そう表現するに相応しい緒方の立ち振る舞いと発言に、桑原が意図的に破顔した。

 

「──かっかっか! 終局! そうきたか! ……明日の対局が楽しみでならんわ。のう、緒方くん」

 

「そっくりそのままお返ししますよ。『本因坊』」

 

 身長差の関係で、緒方は桑原を見下ろす形での対話となる。

 しかし、今日までこの二人の関係性は桑原の一言に翻弄される緒方が押される形と言って過言ではなかった。

 だが今はどうだ。

 この老骨の言葉に何ら心を動かさず、冷静に来るべき時に備えている力強さを感じる。

 

(いかんな、貫禄が出てきおったわ)

 

 明日の戦いは全力を尽くさねばならない。

 久しぶりに、力碁で捻じ伏せる必要すらあるかもしれない。

 そんな先のことを想像して、桑原は再び『カッカ』と楽しそうに笑った。

 

「キミは以前、囲碁界に新しい波が来る──。そんな予感がすると言ったな。オモシロそうじゃの、まだまだ去るには惜しいわい」

 

「ご安心を。私が代わりを務めますから」

 

「かっか!! ほんに、変わったのう、緒方くん。じゃが、キミがそうであるように、ワシもその波を待ちたいもんでな。この『本因坊』の椅子に座って、な」

 

「……明日が楽しみですよ」

 

「奇遇じゃな、ワシもじゃよ」

 

 両者の視線は交わらない。

 桑原は既に、緒方に対して背を向けている。

 

「──おやすみ、緒方くん」

 

「おやすみなさい。『本因坊』」

 

 まるで、あなたをそう呼ぶのは今日が最後だ、とでも言いたげな物言いに、桑原は張本人に対して背を向けながら。

 その裏で獰猛な笑みを抑えられなかった。

 

(はてさて、この老骨の『本気』を見せる時が来たやもしれんのう)

 

 重ね上げた年月は決して裏切らない。

 これまでの6戦全てが力半分であった、とでも言いたげに桑原は内心でそう漏らした。

 

 それは気持ちの問題である。

 実力を出し渋って第七局にまで持ち込めるほど、緒方は安い相手ではない。

 だが、得てして真剣勝負とは気持ちが大きく左右するのは間違いない。

 

『本因坊』の座を争う両雄が、1日を挟んで再び激突した。

 

 

 

 

 

 

「──オレ、今来てるぜ。なつかしい所だよ。団体戦、お前のせいでコケたよな、はは」

 

 ラフな格好の男だった。

 3枚目とも2枚目とも呼べそうな、ある程度の顔立ちの整った花柄のTシャツを着た男だった。

 その手には一つの茶封筒。

 もう片方の手にはガラケーを握って電話をしていた。

 

「だから言ったろ。プロ試験受けるってさ。ホントホント、必要な書類もちゃんと揃ってる。今から出しに行くよ」

 

 話しながらも足は止めずに歩き続けた。

 

「おお、来年はプロ棋士になってるからよ、今のうちならサインしてやってもいいぜ。バーカ、何言ってんだ。特別扱いしてやろうってんだから、大人しく受け取っとけよ。──じゃーな」

 

 

 電話を切った門脇の向かいから、院生であろう少年たちが歩いてきていた。

 会話をしながらだった。

 真向かいですれ違う形になった男には、その会話がよく聞こえてきた。

 

「──手強そうだな、門脇」

 

「でも、ホントにプロ試験受けんの?」

 

「『受けるかも』ってネットにあったんだよ」

 

「そーかぁ。オレたち院生ガンバんないとな、去年、院生の合格者真柴だけだぜ。塔矢はまだしも、外来も強いのが来るからさァ」

 

「まー、今年は院生にもバケモンみてーなのが居るけどな」

 

「おい、和谷。また進藤の話か? 確かに若獅子戦は凄まじかったけど、あの後の院生手合いはいつも通りだっただろ」

 

「伊角さんだって、あの後すぐはアイツにビビってたじゃん」

 

「うっ! いや、まぁそうなんだけどさ……」

 

「しっかりしてよ、伊角さん」

 

「いやいや、この流れ始めたのは和谷だろう? ──あ、そうだ。実は進藤から、夏休み誘われてるんだ、和谷もくるか?」

 

「夏休みぃ? まー、オレは予選があるから、その後ならいいケド」

 

「拗ねるなよ、9位だって立派なもんじゃないか」

 

「オレは去年も9位で予選免除を逃したんだよー! しかも、奈瀬のやつはきっちり5位にまで上がってやがるし、くっそー」

 

「奈瀬は最近調子いいよな、若獅子戦でもプロ相手に勝ってるし、オレも最近は油断できない相手になってるよ」

 

 そんな会話が後ろに流れてゆくのを聞きながら、門脇はエレベーターを待った。

 

(院生にバケモンみたいなのが居る、か。──ちょっと興味あるが、まぁ今は申し込み優先だな)

 

 そう、思考したからか。

 エレベーターから降りてきた、金髪に黒髪が混じった、特徴的な髪の子供に声を掛ける事はなく。

 門脇はそのままエレベーターに乗り込んだ。

 

 運命のイタズラとしか言いようのない、出来事だった。

 エレベーターはそのまま昇ってゆく。

 

 本来なら交錯した二人が、別れてゆく。

 

 さらなる波乱が巻き起こる要素を取り込みながら、今期プロ試験が始まろうとしていた。

 たったの三枠という少ない椅子に座るため、星を奪い合う熾烈な戦いの幕が開ける。

 

 様々な変化を内包しながら、物語は進んでゆく。

 果たして誰がプロ棋士として『日の目』を見ることとなるのか。

 

 それはまだ、誰にも分からない事だった。

 

 

 







面白くなってきやがったぜ。


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第13話

約5000字



 

 

 

「──すぅはぁー、すぅはぁー……。よしっ!」

 

 日本棋院。

 いつもの場所、いつもの時間帯。

 だけど、雰囲気は全く違う。

 訪れる外来の人たち。緊張して固まった院生たちの表情。

 張り詰めたような空気感が、棋院の中に広がっていた。

 

 そんな中で、藤崎あかりも空気に飲まれないよう、気合を入れ直していた。

 

 今日はプロ試験の予選。

 その初日だった。

 

 普段は見慣れない大人たちが続々と集まっており、普段の対局室とはまた異なった雰囲気を出している。

 モジャモジャの髭の男や、神経質そうな大人の男性。仕事の出来そうな雰囲気の女性など、様々な人たちが、普段はお昼ご飯などを食べる時に集まる一室に集まっていた。

 

(う〜! 緊張する! でも、ここで普段通りの実力を出せなきゃ、プロなんて夢のまた夢だよね。……よしっ! がんばれ、私! ファイト!)

 

 仲の良い奈瀬と幼馴染のヒカルも今日はいない。

 二人とも院生順位8位以内に入っているから、予選を免除されているのだ。

 だからこそ、その二人と一緒に勉強していた自分が予選で落ちるわけにはいかない。

 

 あかりは不安げに『ぎゅっ』と両手を握り締めた。

 

「あっ、藤崎さん。オハヨ〜」

 

「ひゃい! ……フクくん?」

 

 後ろから声を掛けられて身体を跳ねさせたあかりだったが、振り向いた先に居たのは顔馴染みのフクだった。

 その後ろにもう一人。

 

「お、藤崎はもう来てたか。どうだ? 外来も来るって、普段と違って緊張するだろ」

 

 言いながら『ニシシ』と笑っている和谷だった。

 惜しくも院生順位9位で、予選免除にならなかったとボヤいていたのを思い出した。

 あかりは最近成績を伸ばして順位を1組7位まで上げていたが、3ヶ月の平均で言えば10位。和谷の一つ下だ。

 

 だからということもあって、和谷のことは少しライバル視していた。

 順位で考えても、実力で考えても、この中で一番警戒すべきなのはこの少年。和谷なのだから。

 最近調子を落としているとはいえ、油断できる相手じゃない。

 だが、それとは別に同じ院生のプロを目指す仲間だ。

 知り合いに会えたということもあって、あかりは表情を輝かせて普段通りに明るく笑った。

 

「あっ二人ともおはよう! もう、ほんとに和谷くんの言う通りで、私めちゃくちゃ緊張しちゃってるもん。二人がいてくれて良かった〜」

 

「あのな、オレは予選免除で次行きたかったって」

 

「まァまァ、和谷くんそう言わないで。和谷くんも初めての時は緊張したでしょ? 仲間だよ仲間、みんなで緊張すれば怖くないよー」

 

「おいフク。オレは別に緊張なんかしてないし、初めての時もそうだよ。普段通り打てば良いんだ、それだけで勝てる。むしろここで勝てなきゃ次はないんだぜ。本戦に行けば、上位八人が待ってるんだからな」

 

 厳しい意見だが、その通りだ。

 ここで勝てなければ次はない。

 あかりも表情を改めて頷いた。

 

「……うん! 和谷くんの言う通りだね! 私、がんばるよ!」

 

「ウンウン、その意気だよ藤崎さん。ボクもがんばろーっと」

 

「ね! 一緒に頑張ろうね、フクくん!」

 

 そう言って両手を繋いで軽く踊るように手をブラブラさせる二人。

 

「うん。和谷くんも、ほら」

 

「んな部屋のど真ん中で手なんか繋げるかって!」

 

 年頃の少年である和谷にとって、友達と手を取り合って輪になるなんてあまりにも恥ずかしい。

 困って焦ったように言う和谷に、あかりとフクの二人は顔を見合わせて不思議そうに首を傾げた。

 

 

 

 

「──椿くん」

 

はぁい

 

 組み合わせの抽選。

 そのためのクジ引きが始まっていた。

 中央には対局のための席が用意されているので、部屋の端に寄って列になって並び、呼ばれた者がクジを引きに行くスタイルだった。

 

 そんな中で一際大きな返事をしてクジを引きに行く髭の大男の姿を、あかりはドキドキしながら見守っていた。

 

(び、びっくりしたぁ〜! そんなに大声出さなくってもいいのに)

 

 少しだけそんな不満を抱きながら、順番を待つこと数十分。

 あかりの対局相手はその髭の大男に決まってあかりは顔を引き攣らせていた。

 

(しょ、初戦がこの人!? ……ううん、この人が強ければいずれは戦った相手だもん。ここで怯んでちゃダメ、ヒカルに追いつくなんて出来っこない。……まずは白星を掴む! 今日はそれだけを考えていれば良いの! よしっ!)

 

 気合を入れ直したあかりに動揺の色はない。

 手番はあかりの白。

 意気揚々と黒の一手を待つが相手は一向に打ってこない。

 ふと気になって盤面から視線を上げれば、髭の大男が立ち上がって部屋から出ていくところだった。

 

(え、えぇええ!!? 一手も打たずに席立っちゃったよこの人!? い、いいの? それでいいの!? ……大人の考える事ってわかんないよ〜〜!!)

 

 待ちぼうけて席に座る事30分後。

 戻ってきた髭の大男がようやく最初に一手を打った頃には、当初は極めて良い状態だったあかりの集中力も(そぞ)ろになってしまっていた。

 

 

 

「──よぉ、飯一緒に行くか? 嬢ちゃん」

 

「いっ!? い、いえ!! 結構です!!」

 

「そうか? まぁ勝手だけどよ。オレはさっそく一勝貰えそうで気分がいいから奢ってやろうと思ったのに。まぁいいか」

 

『よっこいせ』とまるで勝利が決まったかのように立ち上がって去っていく髭の大男の姿に、悔しいながらあかりは何も言い返せなかった。

 

 形勢は悪い。

 あかりの持ち味を何も活かせないまま序盤が終わってしまった。

 自分の実力の2割すら出せているかどうか怪しい盤面を見返して、あかりは『ぐっ』と両手の拳を膝の上で握り締めた。

 

 お昼休みが明けて再開。

 気を新たに打ち続けるが、序盤の負けを引きずって思うように打てない。

 

 苦しい。

 緊張での苦しさもあるが、何より盤上で石が息をしづらい。

 打ちにくさを引き摺って必死に打つが差は縮まらない。

 

 そして焦りから応手を誤る。

 普段なら攻めている箇所で躊躇が生まれる。

 あかりのリズムは完全に崩れてしまい、何とか手を探すうちに盤面を目算すればもう挽回が難しいところにまで進んでしまった。

 

 ──悔しさに奥歯を噛んだ。

 

「……ありません」

 

「ありがとうございました。まぁまだ初戦だ、初戦。こっから勝てば良いんだよ。ま、最初は勝ちたかっただろうが、相手が悪かったな」

 

 悔しい。悔しい。悔しい。

 それだけの想いが胸の内を巡っていた。

 涙だけは見せないように、ぐっと堪える。

 まだ終わっていない。

 戦いは始まったばかり。

 プロ予選は5回戦中3回勝てば良い。

 まだまだこれからなのだからと、そう気持ちを奮い立たせた。

 

 そう思い翌日を迎えて、対局相手は──

 

「──最近は勝ったり負けたり、だよな。今日ばっかりは勝ちを譲らねーから、覚悟しろよ藤崎」

 

 強気な笑みを盤面を挟んだ向こう側で浮かべているのは和谷だった。

 

 この予選での最大の難関である和谷と、このタイミングでの対局。

 事前のクジ引きでわかっていたこととはいえ、どうしてもタイミングが悪いと言いたくなる。

 

 昨日の敗北を引きずったままのあかりの一局は思うようにはいかない。

 あかりが得意とする型破りな一手で差を詰めようとするも、読みを誤って入り込みすぎてしまい、入り込んだ石が分断されて狙った効果を発揮できない。右上隅の和谷の地を荒らすために、他の隅が多少おろそかになっている。

 そこに楔のように打ち込まれた和谷の一手。

 応手を続けるが防ぎきれず、自らの地も良いように荒らされてしまった。

 

 他で挽回しようにも和谷の実力はよく知っている。

 手堅く打たれれば正着の誤りは考えられない。

 ……詰みだ。

 

「……ありませんっ」

 

 顔を伏せるあかりは涙を流さない。

 けれど、悔しくて噛み締める唇からは僅かに血が流れていた。

 

 これで2敗。

 もうあかりに後はなくなった。

 

『本来』のヒカルには佐為が居た。

 フクと対局するという幸運にも恵まれた。

 

 だが、あかりには佐為は居ない。

 明日の対局者は外来の者。

 

 暗雲が立ち込めようとしていた。

 

 

 

 

 棋院でのプロ試験の予選結果はホームページで確認することができる。

 パソコンがあれば操作手順はそれほど難しくない。

 だが、慣れていないヒカルには少し難しかった。

 

『だから、棋院に行こうと言ったではありませんか! ヒカルも院生なのですから、少しお願いすれば教えてくれるはずです! それに、他の参加者に聞くと言う方法だって……』

 

(あーもう! うるさいなー! いいだろ、どこで確認したってさ!)

 

 佐為と言い合いながら、ヒカルはインターネット喫茶に来ていた。

 確認したいのはあかりの試験経過だ。

 しかし、パソコンに不慣れすぎて中々確認することが難しかった。

 何度も何度もリトライしてようやく目的のページを見つけた時にはもう夕方になっていた。

 

(……お! あったあった、これだこれ)

 

『結果はどうでしたか!?』

 

(うわっ、押すなよ、今見てるから……って、コレ)

 

 そこには藤崎あかり2敗の文字がある。

 もう後がない状況。

 

 ヒカルと佐為は顔を見合わせて、あわあわと混乱したように席を立った。

 

 

 

 

 

 場所は碁会所だった。

 いつも、ヒカルや明日美、塔矢と一緒に勉強会をしている碁会所。

 その奥の隅で、たった一人で石も並べずに座り込んでいるあかりの姿があった。

 意気消沈している姿はとてもではないが、話しかけられない。

 碁会所の大人たちが心配そうに眺めるが声は掛けられなかった。

 

 そこに、一人の少女がやってきた。

 彼女もあかりが二連敗して後がないことを知っていた。

 

「──やっほ。差し入れ」

 

「……あ。『明日美』ちゃん」

 

「そーだよ奈瀬明日美だよってね。……暗い顔してるね、もう諦めちゃった?」

 

「そんなこと! ……そんなことないけど、でも。もう一回も負けられない。負けたら、負けたらヒカルに置いていかれちゃう……」

 

「うん、置いていかれちゃうね。……あかりちゃんは、そう言って俯いてれば満足? 進藤が助けに来てくれるの、待ってるの?」

 

 予想もしていなかった、厳しい言葉。

 顔を上げたあかりが見たのは真剣な表情の明日美だった。

 

「私はね、あかりちゃんに感謝してる。1組の中でそこそこの位置しかキープできなかった私が、あかりちゃんに無理言って進藤の勉強会に参加させてもらってから、もう上位8位にも入れてる。私も自分ですごく伸びたって思うし、今すごく調子がいい。プロになってやるって気持ちも十分にある。だから、絶対に今回のプロ試験でプロになる。そう、思ってる。……これはね、進藤のおかげでもあるけど、あかりちゃんが許してくれたから、今の私があるの」

 

「そんなこと、ないよ。明日美ちゃんががんばったからで……」

 

「もちろん、私だってすごく頑張ったわ。進藤も塔矢も指導碁でも厳しい手を打ってくるし、このくそって思った事だって一度や二度じゃない。でもね、キッカケはあかりちゃんなの。あなたが凄く頑張ってるのを間近で知って、私も頑張らなきゃって思った。だから言うの。──あかりちゃんはこんなところで立ち止まるつもりなの? 俯いて、メソメソして、進藤が助けに来てくれるの待ってるだけでいいの? あかりちゃんは、そんな中途半端な気持ちでプロになりたいの?」

 

「違う。違う!! 私だって、本気でプロになりたい! 明日美ちゃんにだって、ヒカルにだって負けない!!」

 

「なら、今俯いてないで! やるべきことがあるでしょ!?」

 

 二人は睨み合った。

 歪み合いではない。

 お互いに真剣さを滲ませて、本気でのぶつかり合いだった。

 

 用意したのは同時。

 碁笥の蓋を開けて握る。

 並べられた石で先番が決まって、心の中を曝け出すようにあかりが気炎を吐いた。

 

「負けないからね!」

 

「こっちのセリフだから!」

 

 それ以上の言葉は要らない。

 二人が碁盤を挟んで向き合って、真剣さをそのままに口を開いた。

 

「「お願いします!!」」

 

 あかりの黒番。

 気持ちの入った良い一手が盤面に放たれた。

 

 

 

「……あら、進藤くん。見ていかないの?」

 

「ううん、いいや。オレってば今行ったら邪魔者じゃん」

 

 二人が向き合って、気持ちの入った良い一局を作り上げているのを尻目にヒカルは安心したように笑って碁会所から出て行った。

 あの様子なら絶対に本戦に来る、とそう確信して。

 

「う〜ん、青春ねぇ〜」

 

「あはは、市河さんお年寄りみたいなこと言うね」

 

「広瀬さん!?」

 

「は、はいぃ! すみません! すみません!」

 

 

 そして3戦目で初めての勝利を収めた後に、改めて抽選を行なっての対局。

 あかりは三連勝を飾って本戦へと駒を進めた。

 

 この経験は得難いものだった。

 

 あかりにとって、初めての逆境。

 それをヒカルに頼らず、奈瀬という友人の力を借りてとはいえ、対等な相手と向き合って乗り越えた経験。

 一段まだ一段と、あかりは一歩ずつ着実に強くなっていた。

 

 そして。

 ほんの少しだけ時は過ぎ去って、夏休みの最中。

 

 ──『伊角』は想像もしていなかった環境に身をおいて必死に食らいついていた。

 

 







プロ試験が始まりました。
あえて言えば、誰が合格しても物語の結末は変わりません。

なので。
プロット破壊するために門脇に参加してもらいました。

合格者は決めずに書きます。

誰が成長するのか、誰が伸び悩むのか。

想像しながら一緒に楽しみましょう!

──もしかしたら、ご意見が物語に影響するかもしれません。
(活動報告へお願いします)


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第14話

約4900字



 

 

 碁会所の隅で、複数の男女が碁盤を挟んで向かい合っていた。

 パチリパチリと碁石が立てる音が静けさの中に響いており、みなが真剣な表情で打っている。

 その席の一つで、青年と少年が向かい合って対局を行なっていた。

『伊角』と『塔矢アキラ』だった。

 

 しばらくの対局を経た後、青年の方。

 伊角が頭を下げた。

 

 

「──ありません」

 

「ありがとうございました。──確か、院生の方でしたよね?」

 

「ああ。進藤から誘われたんだが、まさか塔矢アキラがいるとは……」

 

「えっと、すみません」

 

「いや!! 責めてる訳じゃないんだ、むしろオレからしたらありがたいくらいで。──まぁ、和谷はキミの事を見た瞬間に捨て台詞吐いて帰っちゃったんだけどね」

 

「そんなこともありましたね」

 

 少し困ったような表情を塔矢が見せたので、伊角は慌てて話題を変えた。

 

「そ、そうだ。検討してもいいかな?」

 

「もちろんです。──であれば、まずこの一手ですね。厳しい良い手でした。ここに打たれるとボクとしても中央を守らざるを得ませんから、少し差をつけられてしまいましたね」

 

「ああ、そこは我ながらよく打てたと思う」

 

「はい。あのまま進めばボクも苦しかったと思います。──しかし、この後に続く手が甘かったです。ボクは中央を守るために厳しい戦いを考えていましたが、ここで乱戦を避けたのは何故ですか? あなたの実力なら良い勝負ができたと思いますが」

 

 囲碁に関する事となると、この塔矢アキラは目力が違う。

 普段の穏やかな雰囲気は鳴りを潜めて、苛烈な真剣さが顔を見せる。

 そんな塔矢に押されたからか、伊角は素直に内心を吐露した。

 

「……いや、評価してもらって嬉しいんだが、オレにそこまでの力量はないよ。塔矢アキラ相手にそこまで踏み込む自信はない」

 

「……そう、ですか。──いえ、失礼しました。ボクとしてはこう来られた方が厳しい手と感じた点はお伝えしておきますね」

 

「だが、そこから展開すると逆に左辺が薄くならないか?」

 

「もちろん、ボクが挽回を狙うとしたら左辺です。その辺りのバランス感覚は重要になってきますね。それでもボクは厳しく来られた方が嫌でした」

 

「……考えてみるよ」

 

 そこからいくつかの検討を経て、塔矢アキラは席を立った。

 さすがは塔矢アキラだ、と思わせる検討内容に思わず唸る。

 

 ここは良い環境だ。

 進藤から伊角さんなら大丈夫、と言われた時は少し覚悟をしていたが、まさかプロになった塔矢アキラと打てるとは思わなかった。

 内心では『ひぃひぃ』言いながら打っているが、やはり上手と打つのは勉強になる。

 そう思い見上げれば。

 

 しかし、塔矢の瞳は真っ直ぐに次に向けられている。

 いや、次というのは正しくない。

 その瞳は、進藤ヒカルにばかり向けられていた。

 

「──進藤、次はボクと打とう」

 

「えぇ……? 今、奈瀬とあかりとも打ってんだけど」

 

「キミなら3面程度どうってことないだろう? それとも、ボクに負けるのが怖いのか?」

 

「……後悔すんなよ、またけちょんけちょんにしてやる!」

 

「いつまでも以前のボクだと思わないことだな、進藤!!」

 

「毎回そう言ってお前が勝ったことねーだろが!」

 

「くっ! それは、そうだが! ……だが、負けるつもりはない! つい先日、父から定先(石は置かないが常に黒を持って打つこと)で良いと言われた。ボクは確実に強くなっている! だからこそ、今日ここでキミに勝ってみせる!」

 

 やいのやいのと騒いだ二人が新しい盤面を用意して握って打ち始める。

 進藤も強気の発言をするが、打つ碁は丁寧で決して疎かにならない。

 毎回勝ちすぎず、けれど決して負けない。

 ということは、進藤ヒカルは塔矢アキラよりもまだ数段上に居る事を意味している。

 前回の若獅子戦では、それが顕著に出ていた。

 

「──塔矢くんってば、ヒカル相手によくそこまで踏み込めるなぁ」

 

「うんうん。でもあかりちゃん、そういう私たちだって負けてないわ。──せめて進藤を楽に打たせないわよ!」

 

 藤崎と奈瀬がそう言い合っているのを聞きながら、伊角は拳を握った。

 この環境は正直ありがたい。

 自分よりも強い者が二人もいて、さらに他の二人も自分と同等の実力に加えて、強いモチベーションとビジョンを持って打っている。

 この環境に参加できたことは朗報以外の何物でもない。

 

 だが、強気で誤魔化しても。

 溢れ落ちる内心では『どうして』という思いが捨てきれない。

 

 人一倍努力してきた。

 真剣に碁に向き合ってきた。

 そんな自分を軽々と超えていく二人の天才を前にして、伊角は恵まれた環境に自分が今居ることを理解しながらも、素直にそれを喜べずにいた。

 落ち着くように深呼吸をするが、けれど、漠然とした不安が首を擡げてくる。

 

 伊角は少し真面目すぎるきらいがあった。

 良い面も十分すぎる程あるが、勝負事の際にはそれが良くない方向で表に出てしまう。

 

 自分の気持ちを誤魔化せないのだ。

 天才二人に恐怖している自分。

 

 その事実と向き合う事を恐れてしまうのは人として当然であるが、かといって、オレはオレ、他人は他人。と開き直る事は真面目すぎて出来ない。

 真面目すぎるが故に、真正面から向き合うことしかできない。

 だが向き合っても、怯むな、挑めと自分を鼓舞するだけで、恐怖を認めることができない。

 

 自分が悪いと思い込んでしまう伊角に『恐怖を認める』という思考は過ぎらない。

 そんな不器用さが、伊角の魅力でもあったが、同時に障害にもなっていた。

 知らず知らずのうちに、伊角は自分を追い込んでいた。

 

 中途半端な気持ちのままで、伊角はそんな思考に蓋をした。

 

 怯んでもいられない。

 多少の無理をしてでも、この場に食らい付かなければ。

 だから今は、二人の天才の対局を観戦することに専念すべく足を向けた。

 

 決意を秘めながら、けれど。

 壊れてしまいそうな危うさを抱えたまま。

 

 

 

「──え? 碁会所で団体戦?」

 

 伊角のそんな問いかけに、奈瀬は冷たい汗をかいた缶ジュースに口をつけながら、瑞々しく滴る唇でそんな疑問符に答えた。

 

「あはは、急でごめんね。でも、進藤と塔矢くんと打つのはさ、そりゃー勉強になるけど。──ちょっとだけ気が滅入るじゃない?」

 

 冗談めかして奈瀬が言ったが、真面目な伊角は渋い顔のままだった。

 そのまま固い返事を返した。

 

「……いや、だからこそ挑む価値があると思うんだ。ここで壁を乗り越えれば、きっとプロになる道が拓けてる」

 

「え!? 団体戦!? うわぁ面白そう!」

 

 掌を握りながら思い詰めたようにそう呟いた伊角の言葉を、瞳を輝かせたあかりがぶった斬った。

 内心で奈瀬が『グッジョブ!あかりちゃん!』と親指を立てる。

 

「でしょ?」

 

「久しぶりだよ、団体戦なんて! 早く行こ! 明日美ちゃん、伊角くん!」

 

「え? お、おい」

 

「ほら、伊角くん! 女の子を先に行かせて良いの? ちゃんとリードしてよねっ」

 

「え? お、おい!? ──押すな!? そんなに背中を押すなって!」

 

「なにー? 伊角くん、照れてるのー?」

 

「コケそうになってるだけだよ!!」

 

 慌てふためいて、その結果。

 今までの険しさが薄れて、普段の伊角らしさが顔を見せているのを察して、奈瀬はそのまま笑顔で背中を押し続けた。

 

 

 落ち着きを得た奈瀬は今まで以上に周りがよく見えるようになった。

 だから、伊角の少し思い詰めた様子に碁会所の中でたった一人だけ気がついていた。

 

 伊角は長らく院生の中で1位だったライバルだ。

 手助けなんて必要ないかもしれない。

 だけど、奈瀬にはどうしても我慢できなかった。

 

 伊角はその真面目さ故に、周囲から好かれる。

 奈瀬が我慢出来なかったのも、偏に伊角のこれまでの人徳故だった。

 

 真面目さは時に自分を追い詰める事がある。

 しかし、その真面目さ故に味方も多いのだ。

 

 物事には良い面と悪い面がある。

 ただ、それだけのこと。

 

 久方ぶりに、伊角の表情には普段通りの笑顔が戻っていた。

 

 

 

 幾つもの碁会所を経由して、三人は団体戦をこなしていく。

 初日は快勝で終わった。

 

 その後にさらに翌日も、という話も出たが予定が合わず。

 翌週に予定を合わせてまた団体戦のために集まった。

 

 

 待ち合わせの駅構内で、奈瀬がジーンズ生地のハーフパンツに薄手の白いオフショルダーを着ながら、駅の壁に向かって斜めに背中を預けて、水滴の滴るペットボトルを片手で傾けながら水分を摂る。

 ゴクゴクと嚥下する喉が軽快に規則正しく動いていた。

 

「ぷはぁ〜、蘇る〜。──で、あかりちゃんってば、あの碁会所に先週からずっと通ってたの?」

 

 淡いピンク色のロゴの入ったTシャツに黒いウエストマークスカートを組み合わせて着こなしているあかりが満面の笑みで頷いた。

 

「うん! あ、でも。ヒカルが一人だと危ないだろって付いてきたけど」

 

「あー、そう。大事にされてんじゃ〜ん。この〜。うりうり〜」

 

「あっ、もぉやめてよ明日美ちゃ、んん! くすぐったいよぉ!」

 

「お、おほん」

 

 目を背けて、少し顔を赤くしながら気まずげに咳払いした伊角に、奈瀬がヒラヒラ手を振りながら笑った。

 

「あはは、伊角くんごめんってば」

 

「もう、明日美ちゃんってば!」

 

「ま、その辺の話は後でくわ〜しく聞かせてもらうとして、ね。──伊角くん、今日は任せて良いんだよね。やっぱり前と同じところ行く?」

 

「いや、場所は変えるつもりだよ。前のところでもいいんだけど、出来れば色んな人たちと打ちたいからね。ダメか?」

 

「ぜーんぜん! 私もその方がいいと思うよ。あっそうだ、ただ団体戦やるだけじゃつまんないし、何か賭けない? そーだ、お昼ご飯とか!」

 

「おいおい」

 

 苦笑いして続けた伊角に構わず、あかりがテンションが上がった様子で追従した。

 

「いいかも! その方が緊張感でるもんね! さすが明日美ちゃん、わかってる!」

 

「でっしょ〜!」

 

「……オレ、年食ったのかなぁ」

 

 若々しい女の子の『キャッキャ』した雰囲気についていけず、思わずそう溢した伊角に目敏く気がついた奈瀬は『ニンマリ』と笑みを浮かべながらさっそく賭けの条件を決めてしまった。

 

「ほら、伊角くん黄昏てないで。碁会所行くんでしょ? 負けた人がみんなに奢るって条件で、ね」

 

「いつの間にそんなこと決めたんだ!? いや、待て。それだと大将のオレが一番不利だろう!?」

 

「へえ伊角くんってば、女の子に大将任せちゃうんだ? ──私は自信あるから、不安なら私が大将代わってあげるけど?」

 

「ああもう! オレが大将でいいよ!」

 

「うんうん! じゃあ、私は三将だね!」

 

 明るく元気に飛び跳ねたあかりが先導して目的地の碁会所に入る。

 そして、そのまま三人が鮮やかに3勝を決めた。

 

「「いえーい! 3-0で勝利!」」

 

 そう高らかに宣言した女の子二人は本当に楽しそうにハイタッチしていて、伊角は思わず苦笑いして、けれど眩しそうに眺めた。

 

「席料浮いたし、二人にはオレが奢るよ」

 

「マジ!? さっすが伊角くん! わかってる〜! よっ、お大尽! 両手に花だもんね!」

 

「いいの、伊角さん?! ありがとうございます!」

 

 少しワザとらしく喜んでいる奈瀬は置いておくにしても、輝くような笑顔で天真爛漫に喜んでいる藤崎あかりの姿を見れたので、まぁ奢ってやるのも悪くないかな、と思えた。

 

「奈瀬。揶揄うならお前だけ奢らないぞ?」

 

「あはは、ゴメンなさい。冗談です、奢ってください、お願いしますっ!」

 

「寿司でいいか?」

 

「もちろん!!」「はい!!」

 

 回るお寿司屋さんに入って、三人は仲良く談笑しながら舌鼓を打った。

 競い合う男の子二人なら熾烈なお寿司争いが起きたであろうが、女子二人では起きるはずもない。

 のんびりと穏やかに昼食を終えて、小さなお腹をいっぱいにした二人が手を合わせてお礼を言った。

 

「「伊角さん、ご馳走様でした!!」」

 

「うん、お粗末さまでした。けど、もっと食べても良かったんだぞ?」

 

「あはは、まぁ伊角くんのお財布の心配も少しはしたけどね。……女の子って色々大変なの」

 

 お腹を押さえながら少し重めのため息を溢した奈瀬に、目を輝かせたあかりが詰め寄った。

 

「大丈夫! 囲碁で頭を使えば、カロリーゼロだよ、明日美ちゃん!」

 

「ん。そーね! さっそく打ちに行きますか! ……伊角くんはどーするの? 最後まで付き合ってくれる?」

 

「はいはい、最後まで付き合うよ」

 

「えへへ、じゃあ、またみんなで団体戦やろーよ!」

 

 その日は疲れ果てるまで囲碁を打って解散した。

 伊角も、奈瀬も、あかりも、みんなが一様に笑顔を浮かべて、束の間の休息を楽しんだのだった。

 

 

 







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第15話

約8700



 

 

 今日も、あかりは行きつけの碁会所で碁を打っていた。

 ヒカルは居らず、碁会所の大人達に囲まれながら和気藹々と囲碁を楽しんでいた。

 そんな折に、ちょっとした話題が出た。

 

 

「──持碁、ですか?」

 

「そうそう。あかりちゃんもやってみたらどうだい? ──もちろん、ただ持碁にすればいいってもんじゃない。打つ速さが遅くなってはダメだよ。いつも通りの速さで打ちながら、目算し続けるんだ」

 

『持碁』

 置き碁はコミがないため、引き分けがある。

 つまり、それが『持碁』である。

 

 それを、意図的に作ってみたらどうか。

 

 囲碁サロン『道玄坂』のマスターからそんな提案をされて、あかりは不安そうに頬をかいた。

 

「う〜〜〜ん。出来るかなぁ」

 

「ははっ、誰でも初めてはあるさ。やってごらんよ、ここなら誰もキミのことを笑いやしない。もしそんな奴がいたら叩き出してやるからね」

 

「おいおいマスター、店主が客にそんなこと言っちまっていいのかい?」

 

 ニヤニヤとそんな軽口を言った客に、堂々と胸を張ってマスターが答えた。

 

「構わないとも! 何せ、あかりちゃんはボクの碁会所のアイドルなんだからね!」

 

 その一声に碁会所がドッと湧いた。

 

「ははは、違いねぇ」

 

「まったくだ。こんなむさ苦しいところによく来てくれるもんなぁ」

 

「華やかさが違うよ、華やかさが!」

 

「居るだけで空気が潤うよ、なぁみんな」

 

 うんうん、と碁会所にいる全員が強く頷いた。

 その数は普段の、あかりが通い始めるまでの5割増しだった。

 

「──まったく、いい年した大人が揃いも揃って何言ってんだか」

 

 ため息を吐きながらボヤいた店主の妻に、苦笑いしながら客の一人が続けた。

 

「マスターの奥さん、そう言わないでよ。みんなの孫みたいなもんさ」

 

「そうそう。で、肝心のワシらの実の孫は囲碁にちっとも興味を持っちゃくれないんだ」

 

「ははは、違いねぇ違いねぇ」

 

 そう言って一頻りみんなで笑った後で、あかりもそういうことなら、と持碁をやってみるべく碁盤に向き合った。

 

 打ちながら、マスターが世間話として話題を出した。

 

「そういえば、今日は進藤くんは来ないんだね?」

 

「あ、はい! ヒカルってば、最初はすごく心配して付いて来てくれたんですけど、もうここが大丈夫な場所だってわかったんだと思います。それで、今日はまた緒方さんと打ってるみたいです。──タイトルを惜しくも逃したって、緒方さんがすごく悔しがってて。それを見たヒカルがなんでかムキになって緒方さんに7番勝負挑んだりして……。それからずっとですね。たぶん、自分と良い碁を作った相手がタイトル戦で負けちゃって、それが嫌だったからだと思うんですけど。──う〜ん、自分で言ってて意味わかんないんですけど、そんな感じだと思います」

 

 その光景を思い出して苦笑いするあかりに、碁会所の者たちは感嘆の息を溢した。

 マスターが代表して口を開いた。

 

「いや、あの子は別格だったものね。そう言われても驚きはするが、どうしてか納得も出来るよ」

 

「ふふ、はい。ヒカルってば不思議なんです。それに、ヒカルは私の師匠だから」

 

 だから、負けるところが想像できないとでも言いたげに言葉を切って、そんなあかりにマスターはニコニコと笑顔を向けた。

 

「ほんとに、あかりちゃんは進藤くんのことを話す時は表情が明るいねぇ」

 

「そ、そうですか?」

 

 ポッと顔を赤らめた若い子を見て、目敏くマスターの奥さんが旦那に注意した。

 

「こらこら、若い子を揶揄うもんじゃないよ」

 

「わはは、女将さんの言うことに違いねぇや」

 

 そう言って和気藹々と話しながらも、あかりの手は淀みなく。

 ちょうど同じ頃に、塔矢アキラも持碁を成立させるべく、とあるイベントで奮闘して。

 議員相手に4面持碁を達成していた。

 

 

 そしてあかりも。

 

「──う〜〜〜ん! ──やった! これで4面全部持碁ですよね!?」

 

「お、おぉ。これは、凄いな……」

 

「ああ、これは本物だよ」

 

「ちっちゃくても、院生なんだなぁ。こりゃたまげたわ」

 

 碁会所の者たちが唸りあげるほどの出来で、あかりは持碁を4面同時に成立させた。

 それはあかりが十二分以上に実力を身につけていることに他ならず、碁会所での団体戦の経験は劇的なまでに実力を伸ばしていた。

 何よりも、その記憶に刻まれている中学団体戦の時の『運命の一戦』を呼び起こしたからかもしれない。

 褒められる話題の中心で、あかりは嬉しそうに笑っていた。

 

 

 

 アスファルトの照り返しが眩しい真夏日。

 再び駅前に集合した3名の内の一人。

 奈瀬が、今日はかなりラフな文字Tシャツに厚地の短パンを履いて、ストローを刺したオシャレドリンクを美味しそうに吸い上げていた。

 飲みながら、奈瀬の横であかりが今日までの出来事を楽しそうに語って、奈瀬は頷きながら相槌を返した。

 

「──へえ、持碁? そんなことやってたんだ。いーなー、私もやりにいこーかなぁ」

 

「えへへ、うん! 楽しかったから、明日美ちゃんもやってみてよ!」

 

 そう言いながら。

 キャップ帽を被って、ジーンズ生地の短パンに黒とピンクのTシャツという、少年っぽさのあるファッションのあかりが満面の笑みを浮かべた。

 

 そんな二人の会話に、ゆったりとした口調で伊角が口を挟んだ。

 

「うん、それも面白そうだけどさ。──二人とも、今日はここに行ってみないか?」

 

「ん? どこどこ?」

 

 奈瀬が興味津々で伊角の手元の小さなメモ紙を覗き込んだ。

 

「いや、前に一人で碁会所を巡ってたんだけどね。その時に強い人と打ちたかったらここにいけってメモを貰ったんだ」

 

「へえ、そんな場所があるんだ」

 

「うん。オレ、昨日までこのメモのこと忘れててさ」

 

 恥ずかしそうに頬をかいた伊角に、奈瀬が同意を示す様に頷いて苦笑いした。

 

「あはは、あるある。ポケットから出てきて気がつくのよね〜」

 

 盛り上がっている会話にあかりがテンションを上げて便乗した。

 

「面白そう! 伊角さん、そこに行こ! 私、この夏休みですっごく強くなったと思うの。だから、強い人と対局できるなら大歓迎だよ!」

 

「わかったわかった、ここに行こう」

 

「あかりちゃんたっての希望だもんね〜」

 

 この中で一番幼いあかりの仕草や行動は年相応。

 高校生の奈瀬と18手前の伊角から見れば子供っぽく見える。

 純粋さを感じるほど綺麗に目を輝かせているあかりを見て、奈瀬と伊角は顔を合わせて軽い調子で笑いあった。

 

 

 

「──あそこだね」

 

「あっ、ちょっと待って! 私、飲み物買ってくる! 二人は何かいる?」

 

「いや、オレはいいよ」

 

「私も大丈夫かな〜、ホラ、駅前でもう買っちゃったから」

 

「そっか?」

 

 二人を待たせているので、少し急ぎながらあかりはコンビニに飛び込んで飲み物を探す。

 

 目についたのは『C.C.Lemon』

 

 ヒカルっぽいから好きだった。

 手に取ってレジを通して購入して、さあ行くぞとドアから出る、その時。

 一人の少年の肩がお菓子に当たって床に落ちたのを見た。

 

 少し迷って、けれど放置するのも気が咎めて声を掛ける。

 

「ねえ! お菓子落ちたよー!」

 

 けれど、あかりの声は届かない。

 絶対に聞こえている距離なのに、少年は振り向きもせずに奥に入って行こうとしていて。

 むっとしながら『パタパタ』と駆け寄ってお菓子を元に戻して、そのまま少年の肩を掴んだ。

 

「ねえってば! 落としたら戻さないとダメなんだよ!」

 

 肩を掴まれてようやく振り返った少年。

 けれど、不機嫌そうに顔を歪めて、手を叩いて振り払われた。

 

 不機嫌そうにゴメンなさい、と言われるくらいは想像していたが、手を振り払われるなんて思っても見なかった。

 だから、ついあかりは固まってしまって、呆然と少年の背中を見送った。

 

「──ちょっと、あかりちゃんー? 何してるの? 外で伊角さん溶けちゃうわよ」

 

「え、あ、うん! そうだよね、ゴメンね!」

 

「ん? ……何かあったの?」

 

「ううん! 何でもない! 行こ、明日美ちゃん」

 

「そっか?」

 

 左手の人差し指を頬に当てながら首を少しだけ傾げる。

 そんな疑問符を浮かべながらも、奈瀬はそれ以上の追求はせずにあかりの後を追った。

 

 

 

 碁会所の中に入ると、今までのお店とは少しだけ雰囲気が違っていることに伊角は気がついた。

 何故だろうと思い、見渡せばすぐにわかった。

 

 店内のお客さんの多くが日本人ではない。

 

 その光景を見て伊角はメモを貰った時の言葉を思い返す。

 

(強えのと打ちてえんだろ、って言ってたな。ナルホド、これは確かにワンランク上だな)

 

 顎に手を当てて頷いた伊角。

 その後ろに続く二人も、今までとは少し違う雰囲気を感じ取って二の足を踏んでいた。

 

「どうしたんだい? 突っ立ってないで、どうぞ」

 

「あ。は、はい! すみません!」

 

 伊角が慌ててそう答えて、その背後で再びドアが開く音が聞こえた。

 思わず振り向けば、そこには少年が立っていた。

 

 

 あかりを無視した、つい先ほどコンビニでお菓子を落とした少年だった。

 彼の姿を見て、あかりが指を差しながら大声を上げた。

 

「あー! さっきの!!」

 

「さっきの? 『秀英(スヨン)、何かあったのか?』」

 

『別に何も。お店でいきなりボクに掴みかかってきたんだ、ソイツ。変な奴だよ』

 

「『そうか』──あの子がどうかしましたか?」

 

 韓国語での会話を終えて、あかりに向かって問いかける。

 それを見れば事情が理解できて、あかりはなんでもないと示すためにも手をワタワタと振った。

 

「あ、いいえ! 何でもないです!」

 

 話している言葉が、日本語じゃない。

 そりゃあ、自分の知らない言葉で話しかけられながら肩を掴まれれば機嫌を悪くする、と思うし、お菓子を落としたことも気が付かなかっただけだと理解できて、けれど、あの時にムッとしたのは事実なのであかりは曖昧に微笑んだ。

 

『ホント、変な奴』

 

秀英(スヨン)

 

『はいはい。でも、日本で碁会所に来る子供を初めて見たよ。日本の囲碁なんてもう終わりだと思ってたのに、意外とそうでもないのか?』

 

『ははは、そりゃちゃんと居るよ。この碁会所は少し特殊だしね。そうだ、秀英(スヨン)。打ってあげたらどうかな?』

 

『ん〜〜、まぁ石を置かせれば暇つぶしくらいにはなるかな』

 

 退屈そうな表情を浮かべながら、けれど『ニヤリ』と笑った秀英(スヨン)に打つ気があると判断した受付の男が伊角たちに話しかけた。

 

「どうだろう、君たち。彼と打ってみないか? 彼は洪秀英(ホン・スヨン)。歳は12歳。私の甥っ子でちょっと日本に遊びにきてるんだ」

 

 12歳。そう聞いて不思議そうにあかりが問いかけた。

 

「えっと、私よりも2つも年下ですよ?」

 

「ははは、年齢は関係ないよ。彼は韓国でプロを目指してるんだからね」

 

 韓国でプロを目指している。

 その言葉を聞いて、奈瀬と伊角が表情を驚愕一色に変えて口々に言葉を発した。

 

「えっ! 韓国でって、研究生ってこと!? 韓国の院生じゃない!」

 

「お、オレたちも院生なんです!」

 

 二人の驚きのこもった声を聞いて、受付の男性も目を見開いた。

 

「院生!? ほぉこれは驚いた! 君たちも院生だったなんて! いい巡り合わせかもしれないね!」

 

『オジサン? 何? そんなに盛り上がってどうしたの?』

 

『ああ、秀英(スヨン)。この人たちは、自分達が院生だと言っている。日本での研究生のことだよ。秀英(スヨン)と同じように日本でプロを目指している子供達らしい』

 

『……ふーん』

 

 韓国の院生。

 そう聞いて、あかりは納得したように頷いた。

 伊角さんはこの場所のことを『強い人と打ちたいなら』と言われて教えてもらったと言っていた。

 

「あ、そっか。だから強い人たちがいるって事なんだね」

 

「ああ、そういうことだろう」

 

『誰からでもいいよ。どうせ誰でも同じだし』

 

 秀英(スヨン)の言葉は解らずとも、雰囲気で伝わるものはある。

 つい先ほどの確執があるあかりが真っ先に反応した。

 

「私が打ちます! 韓国は確かに強いけど、あなたが強いと決まった訳じゃないもん。強いって言うなら、私に勝ってからにしてよ」

 

秀英(スヨン)。あの子はこう言ってる。韓国は確かに強いが、秀英(スヨン)の実力はまだ分かっていない。偉そうにするなら私に勝ってからにしろ、とね』

 

『ハン! いいよ、身の程ってやつを教えてやるさ』

 

 そう言ってバカにしたように笑う秀英(スヨン)を、あかりは睨んだ。

 

 対面に座って向き合う二人。

 握りは秀英(スヨン)の黒番。あかりの白番。

 コミは5目半。

 

 双方共に意気込みは十分。

 秀英(スヨン)からの第一手を受けて、あかりは鋭く碁笥から盤面に一手を放った。

 

 序盤は軽やかに進んでいった。

 パチパチと応手を繰り返す手は双方共に澱みがない。

 秀英(スヨン)は対面に座るあかりをチラリと見る。

 

(……コイツ。一手一手に気が抜けない。女だからって侮る気はなかったけど、予想外に強い)

 

 応手を続けながら、秀英(スヨン)の脳裏にはあかりの事が気に掛かっていた。

 日本の研究生。

 確か院生と言ったか。

 

 所詮は韓国の後塵に配している日本のセミプロ。

 大したことはないと対局してみればどうだ。

 想像よりもずっと迫ってくる。

 

(もしかしたら……)

 

 それ以上は思考を止めた。

 もしかしたら、『負けるかもしれない』なんて。

 一瞬でもそんな思考に過ってしまったことが許せない。

 

 秀英(スヨン)はぐっと口元に力を込めた。

 

 韓国では順位を落として、負けが続いている。

 勝ち方を忘れてしまったと、こんな碁打ちたくないと諦めることが多くなっていた。

 だからと言ってこんな異国の地の、しかも母国よりも劣っていると考えていた日本という国の少女に負けるのだけは御免だった。

 

(負けない。負けるもんか。ボクは洪秀英(ホン・スヨン)だぞ!)

 

 弱気を叱咤する。

 挑発するような強気な言葉に変える。

 それは秀英(スヨン)が自分の心の弱さを自覚する第一歩だった。

 

 秀英(スヨン)は手を止めた。

 自分を追い込むために、本気を出すために秀英(スヨン)は口を開いた。

 

『……こんなところで負けたらボクも終わりだ。もしボクが負けるようなら、お前の名前を覚えてやるよ』

 

 翻訳されて、あかりにもその言葉が伝わる。

 油断なく表情を緩めずに打っていたあかりの口元が僅かに弧を描き、表情の中に挑戦者の如く嬉色を滲ませた。

 

「うん。私の名前。覚えてもらうからね。韓国に帰っても覚えてもらえるくらいに」

 

 あかりには珍しいほどに強気な言葉を続けて、盤面に応手を打ち込んだ。

 

 

 

 応手が続く。

 その最中に、海王中学の教師である(ユン)も碁会所に訪れる。

 碁会所の中がいつもと違うことにはすぐに気がついて、人だかりの中心を見れば。

 

 ──見覚えのある少女が座っているではないか。

 

 彼はあかりの事を微かに覚えていた。

 故の驚きが総身に巡った。

 つい周りの知人に向かって韓国語で問いかけた。

 

『あ、あの。彼女はどうしてここに?』

 

『ん? ああ、(ユン)さんじゃないか。いや、日本の院生だという女の子と、秀英(スヨン)くんが打ってるんだよ、互先でね。日韓の研究生対決だな』

 

(あの子は、確か以前の中学囲碁大会で日高に負けていた筈だ……。それが、もう日本の院生だと!? そこから、この短期間でここまでウデを上げたのか)

 

 進藤ヒカル。

 彼のことはよく覚えている。

 塔矢アキラを下した一戦は今でも記憶に新しい。

 紛れもない名局だった。

 

 そんな彼と同じ部に所属していた少女が、ここまでのウデを身に付けたとは。

 

(……一人の天才によって新しい芽が生まれようとしているのかもしれない。彼女を見ていると、そんな一場面を見ている気分になる)

 

 進藤ヒカルという少年が齎す影響は一体どこまで広がってゆくのだろうかと、少し先の未来を想像して。

 尹は対局を観戦しながら、日本という国が強敵になる未来を想像して冷や汗を垂らした。

 

 

 あかりは意気を保ったまま打ち続けていた。

 瞳は爛々と輝いて、思考は目まぐるしく回る。

 

(──このままだと私の形勢が悪い。だけど、厚みは十分に作れてる。何か一つ。何か一つでもキッカケがあれば引っ繰り返せる……!)

 

 あかりのヨミが盤面を巡る。

 4面を『持碁』としたほどの正確無比なヨミ。

 そして持ち味である型破りな一手の発想力。

 

 か細い針の穴のような可能性。

 けれど、あかりらしいその一手を見逃さなかった。

 

(ここ!!)

 

 ともすれば無謀なタイミング。

 間隙を縫うような、絶妙なタイミングであかりの一手は今まで争っていた左下隅から外れて、右下隅に打ち込まれた。

 

 周囲がどよめいた。

 対面に座る秀英(スヨン)も厳しい表情を見せる。

 

 左下隅の戦いが激化するに従って厚みが増していた。

 下辺に石が増えた結果として、右下隅に先ほどまでは有効ではなかった手が生まれていた。

 

 

 

 伊角はその対局を見ながら、驚きの表情を浮かべていた。

 口元を手で覆って、可能な限り表情が周囲には見えないようにはしていたが、驚愕の思いが強かった。

 

(藤崎さん……。ここまで、打てる子だったのか。もしこれがプロ試験でも打てるなら、オレも危うい。──いや、何を弱気になってる)

 

 かぶりを振って伊角は視線を碁盤に向けた。

 盤面はあかりの一手によって、一気に形勢を覆そうとしていた。

 

(オレだって、渾身の一局の一つや二つある。この一局だけで判断するのは早計だ。……だが、今までの藤崎さんとは一線を画す強さなのも確かだ)

 

 伊角は変化する盤面をしっかりと確認しながら、プロ試験に向けて思考を練り上げていた。

 

(彼女は、進藤から指導を受けてここまで伸びた。信じ難いが、まだ囲碁を初めて1年半ほどだという。……試験中に伸びることも、あるかもしれない)

 

 伊角の思考はあるかもしれない、よくない方向に流れようとした。

 

 だが。

 それに歯止めを掛けるように。

 

 秀英(スヨン)の力強い一手が盤面を鳴らした。

 

 

 

 ──その一手は思いつかなかった。

 秀英(スヨン)はあかりから放たれた予想外の一手を見ながら歯噛みした。

 

 しかし、打たれてみれば確かに有効な一手。

 

 下手を打てば右下隅が死ぬ。

 苦渋の決断で地を削られながらも秀英(スヨン)は守りに入る。

 応手を間違えなければ死なない。

 だが、この一手でさらに厚みを増した右辺の白が脈動を始めて中央に羽を伸ばしてゆく。

 

 それを、守りに入った秀英(スヨン)はただ見ているしか出来ない。

 下手に右辺に一手を差し込もうとしても、右下隅が危険だから手を抜けない。

 

 形勢が徐々に徐々に、白有利に傾いていく。

 右辺の戦いは秀英(スヨン)の不利から始まる。

 そう判断しながらも、秀英(スヨン)は諦めずヨセの手を緩めない。

 どれほどの好手を放っても囲碁は地で勝ったものが勝者。

 

(まだだ!! まだ、勝負はわからない!)

 

 秀英(スヨン)は意気をさらに増して盤面に挑み掛かった。

 お互いにヨセを誤らなければまだまだ勝敗は分からない。

 細かい、相当細かい碁が続けられる。

 

 

 

 ──伊角は、その果敢に挑む少年の姿に自分を重ねていた。

 怖がるのではなく、さらに前へ前へと突き進むような気持ちが伝わってくる一手。

 食い入るように、伊角は秀英(スヨン)の対局姿勢に見入った。

 

 

 

 ──奈瀬も、そのライバルの成長を目の当たりにする。

 共に成長し続けてきたライバルの姿を。

 マグレだとは思わない。

 奈瀬はヒカル(と佐為)の次にあかりを一番近くで見てきた。

 だからわかる、このキッカケであかりが急激に成長を遂げたのだということを。

 ライバルが成長した姿を目の当たりにして。

 

 奈瀬は、ともすれば獰猛にも見える力強い笑みを浮かべていた。

 

(そうこなくっちゃ。私もキッカケは掴んでる。後は、本番で勝負だね)

 

 プロ試験では激突は必定。

 自覚しつつある仄かな思いには蓋をしながら、奈瀬は二重の意味でライバルである、あかりのことを強く強く見つめていた。

 

 

 

 その後も、あかりと秀英(スヨン)はお互いに一歩も譲らない。

 あかりが良いキリで突き放すかと思えば、秀英(スヨン)はツケでうまくヨセてカバーする。

 一進一退の熱戦と呼べる様相を呈した対局にも、しかし終わりはある。

 

 ヨセを終えて整地に入った。

 数えること数分。

 

 

 ──結果は、白番勝利。

 1目半の差で藤崎あかりの頭上に白星が輝いた。

 

 

 秀英(スヨン)はその結果を前にして。

 

 大粒の涙を溢した。

 

 

 その結果を認められないのではなかった。

 全力を出し切った。その上で敗れたのが悔しかった。

 

 負けるかもしれない、そんな思いが過ぎった事もあった。

 だけど、盤面が進むにつれてそんな心配は消え去って、絶対に勝つんだ、という気持ちだけで打っていた。

 強気な発言で自分を奮い立たせて、脇目も振らずに全力で勝ちに拘った。

 

 本気で打った。

 久しくない事だった。

 

 秀英(スヨン)は思う。

 こんなに悔しい対局はここずっとなかった、と。

 投げやりな碁ばかり打って、初めてクラスを落としたくらいで不貞腐れた。

 

 こんなの自分の碁じゃないとムシャクシャしながらイライラして。

 楽しい碁にまで当たり散らした。

 どうでもいいとすら言い訳して逃げた。

 

 そんな自分が本気で打った。

 打てた。

 勝てるはずだった。

 本気を出せば負けるなんてありえない。

 そう思っていた。

 

 だけど、この女の子は、日本の院生は互角に渡り合ってきた。

 韓国で上位にいる自分に、互角だった。

 涙を拭う事もせず、ボタボタと垂らしながら秀英(スヨン)はライバル心を顕にした。

 

(そう! 互角さ!! 負けなんか認めるもんか! ボクはまた日本に来る! お前と勝負しに今度はプロになって!!)

 

『お前の名前! 名前を教えろ! ……覚えてやる!!』

 

 秀英(スヨン)は韓国語でそう言った。

 伝わるはずはない。

 だが、一局を終えたばかりだからか、あかりには言葉の意味がなんとなく理解できた。

 

 真っ直ぐに相手の瞳を見ながら答える。

 新たな壁を乗り越えた者が放つ特有の、自信の光を宿しながら。

 

「──藤崎あかり。私の名前は、藤崎あかり!」

 

「……ふじさき。あかり……」

 

 胸に刻み込むように、しっかりと秀英(スヨン)はその名を日本語で口にした。

 

 そして。

 

 ついに、プロ試験本番が始まる。

 

 

 







三者ともにキッカケを得ましたが、どうなる・・・?



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第16話

3700字
少し短いですが、満足です。


 

 

 

 

「──塔矢の碁会所で勉強会かぁ。参加もそりゃあさ、考えたよ。オレだって参加してみたいっちゃみたいけど……」

 

「けど?」

 

「ただでさえオレの所属してる森下先生の研究会は塔矢一門を目の敵にしてるんだ。倒しにいくんならまだしも、勉強しにいくって知られたらどうなることか……。オレの研究会よりそっちの方がいいってのか!? って言いながらシゴキ回されるって」

 

「ははは、それはそれでいいんじゃないか?」

 

「冗談よしてよ伊角さん。いくらなんでも進んで先生を怒らせるのはゴメンだよ。普段もおっかないけど、怒るともっとオッカナイんだぜ」

 

 冗談めかして、指を鬼のツノに見立ててそう言う和谷に伊角が声を上げて笑った。

 

 場所は日本棋院囲碁研修センター。

 普段院生たちが打っている棋院ではない場所だ。

 

 ここでプロ試験が執り行われる。

 参加人数は28名。

 総当たりで火曜日と土曜日に対局が行われる。

 つまり、1ヶ月以上時間を掛けてプロとなる者を決める試験である。

 

 

 ある者は不安と、ある者は期待と、ある者は平常心を抱きながら最難関の試験に挑戦する。

 合格者は3名。

 泣いても笑っても、28名中3名だけがプロ棋士となれる。

 

 藤崎あかりはウズウズと。

 奈瀬明日美は落ち着きを持って。

 伊角慎一郎は深呼吸をする。

 和谷義高はやる気を漲らせている。

 越智康介は普段通りに。

 本田敏則は手を擦り合わせて息を吐いた。

 飯島良は緊張して顔色が悪い。

 福井雄太はのほほんと。

 門脇龍彦は扇子を握る。

 椿俊郎は真剣な様子で指を組んでいる。

 

 進藤ヒカルは正座して、目を閉じて座っていた。

 

(……ヒカル、時間のようです)

 

(ああ、わかった)

 

 

 プロ試験初戦。

 

 進藤ヒカルvs門脇。

 初戦の幕が上がろうとしていた。

 

 門脇は目の前に座る、少し前から知っている少年に少し興奮しながら話しかけた。

 パチリと開いていた扇子を閉じる。

 

「──キミ、若獅子戦で大暴れしたんだって? 調べてビックリしたよ、院生がプロを差し置いて優勝するなんてさ、大金星だろ?」

 

「大したことじゃないよ。塔矢以外は正直、敵じゃなかったし」

 

 なんの気負いもなく平然と言ってのける進藤ヒカルの様子に、少し怯みながら答えた。

 

「……へぇ。そりゃスゴい」

 

「いいの? そんなに気を抜いてて。オレ、プロ試験でも手加減しないぜ。それが礼儀ってもんだろ?」

 

 澄んだ瞳で射抜かれて、門脇は生唾を飲んだ。

 やはり、何かが違う。

 そう思わせる瞳と風格があった。

 

 院生で化け物がいる。

 そう聞いてから気になって調べれば、若獅子戦で優勝した院生が出てきた。

 コイツのことだと目星は付けていたが、どうやら冗談ではなく本気で『化け物』なのかもしれない。

 冷や汗がタラリと垂れる。

 

 試験開始の合図を告げるブザーがなった。

 当初以上の緊張感を扇子と共に握って、門脇が目前の少年を見ながら頭を下げた。

 

「……お願いします」

 

「お願いします」

 

 黒を握ったのは門脇だった。

 挑むような気持ちで、盤面を見据えて第一手目を放つ。

 

(若獅子戦優勝の棋譜は見た。……あの塔矢アキラ相手に中押しで圧倒。トンデモない強さだったが、打ってみなくちゃわからんだろう?)

 

 敵う訳がないなどと思えば、呑まれる。

 門脇は意図的に強気な言葉を想いながら、真剣な表情で盤面に向き合う。

 

(実際のところを見せてもらおーじゃないの。天才少年棋士の実力って奴をさ)

 

 強気な言葉とは裏腹に、表情は険しく真剣。

 緊張感から一筋の汗すらタラしながら、門脇は全力で仕掛けた。

 

 

 

 門脇は碁から長く離れていた。

 約3年間ほどの期間ではあるが、多少のブランクは彼自身認めるところだった。

 自覚している彼は当然、そのブランクを埋めるべく行動に移す。

 

 通い慣れた碁会所に顔を出す事や、ネット碁にも多少の時間を割いた。

 仕事はプロ試験のために既に辞めていたため、囲碁に費やす時間は十分に取る事ができた。

 

 彼はその中で十分すぎるほどの錆を落とした。

 囲碁は時間を空けても力量が落ちにくいと言われていることもあって、学生本因坊を取った頃と変わらないほどの棋力に戻すことは容易かった。

 

 これなら問題なくプロになれるだろう。

 そんな見積もりがあった。

 

 そして、彼は客観視したとしても、十分にプロ試験に合格できるだけの力量を備えていた。

 

 加えて、事前の情報収集で若獅子戦を制した院生の存在も知っていた。

 彼の存在は門脇にとってのモチベーションとなって、より効果的な学びの時間を門脇に提供した。

 

 つまり、多少の驕りはあったが、決して油断していなかった。

 過去の実績に胡座をかいたのではなく。

 純然に必要なだけの準備を整えた。

 

 その結果、プロ試験の予選は3勝をストレートで決めて本戦に進み。

 そして今日、本戦の初日。

  

 彼は、自分よりも途方もないほど遥か先を歩く存在に。

 

 

 ──もてあそばれた。

 

 

 冷や汗が止まらない。

 なんだこれは、と。

 全神経と細胞が震えるが、今、出来ることは、言える言葉はただ一つしかない。

 

「……負けました」

 

 頭を俯かせ、喘ぐような声を漏らせば、対面から涼しげな声が返ってくる。

 

「ありがとうございました」

 

 見上げれば、自分よりも遥かに年下の少年が白石を片付けている。

 

 遥かな先を歩いている、眩しいほどの輝きを放つ憧れが。

 

『天才』

 いや、そんな言葉すら生温い。

『尊敬』と不自然な形容で呼ぶのが相応しいほどの、圧倒的な実力差が隔たっている。

 

 ブルリと思わず震えた。

 

(なんだよ、おい。こんな怪物が、待ってるのかよ、プロには)

 

 学生本因坊を取って、社会人を経験して。

 プロになってやるのもいいか、などと軽く考えていた少し前の自分が脳裏に過ぎる。

 

(とんだ勘違いやろーだな、オレは。甘ちゃんすぎだろ)

 

 そう思うと笑えてくる。

 手を握れば、反発するように返ってくる扇子の感触。

 

 それを見れば、購入するときに売店で夢想した『プロになって圧勝する自分の姿』という、今思えば苦笑いせざるを得ない記憶が蘇ってくる。

 眺めていた少年が立ちあがろうと畳に手を着いたのを見て、つい声をかけた。

 無意識のうちだった。

 あまり意味はなく、咄嗟に。

 

「──お、おい。お前、本当に院生なのか……?」

 

「え? うん、院生だよ。外来じゃねーって」

 

 違う、実はプロが何かの間違いで紛れ込んだんじゃねーかって事だ、と言いたかったが、苦笑いで誤魔化した。

 言おうとしたが、あり得ないと自分でも思ったから。

 

 もう少し会話を続けたかったが、思い当たる事がない。

 それでふと手元にある、今の自分には荷が重すぎる扇子が目に入った。

 

 ──何故か脳裏に、扇子を持っている『誰か』の姿が浮かんで。

 

「──コレ、やるよ、お前に」

 

「……え? ……扇子ぅ?」

 

 怪訝そうな顔を見せる進藤ヒカルに、無理やり押し付けた。

 

「オレに勝ったご褒美だよ、ほれ、受け取れって」

 

「い、いらねーって! これおじさんのだろ」

 

「お、おじさ……。いいから受け取れよ」

 

 おじさん呼びにショックを受けたが、逆に火がついてそのまま押し付けた。

 戸惑ってこちらを見てくる少年の手には扇子がある。

 妙にシックリくるその姿に微笑みながら続けた。

 

「お前が持ってる方がさ。オレが持ってるより似合うんだよ。受け取れ」

 

「は、はぁ。まぁ、そこまで言うんなら、貰ってもいいけどさ……」

 

 そう言いながらも、少し満更でもなさそうに扇子を触って、左右の羽を両手で摘んでバサッと広げ始める、結構ダサい進藤ヒカルに思わず笑った。

 

「ちげーよ。貸してみろ」

 

 扇子を奪って、勢いを付けて片手でバサッと広げてやれば、『おおー』と少年らしい驚きの声が返ってきて気を良くした。

 すぐに扇子を返した。

 

「やってみろよ」

 

「こ、こうかな?」

 

 思い切りが良い性格なのか、一発でバサリと成功させた進藤ヒカルに、笑って頷いてやる。

 

「いいねぇ、似合うじゃねーの」

 

「へ、へへ。そうかな?」

 

 はにかんで、嬉しそうに笑う姿は年相応に見えた。

 碁から感じた、悠久の年月を感じさせる様ではない。

 

 だから、つい。

 変なことを聞いてしまった。

 

「──お前、碁を始めてどのくらいになる?」

 

 答えは端的だった。

 それが自然で、当たり前であるかのように、門脇には聞こえた。

 

 

 

「──千年」

 

 バサリ、と再び扇子を仰いで。

 透明な微笑みを浮かべた進藤ヒカルが堂々と言う。

 

 その瞬間。

 時が止まったようにすら感じた。

 

 時代の風を感じるような、この瞬間だけタイムスリップしたような、そんな不思議な無重力感が身体を覆った。

 

「──気に入ったぜ、これ。おじさんありがとな!」

 

 進藤ヒカルはそう言って、嬉しげに笑って去っていった。

 座ったまま、しばらく呆然と後ろ姿が消えていった廊下を眺めた。

 

「千年って。お前、何歳だよ」

 

 そう思わず呟きながら、けれど、何故か嘘だとは思えなかった。

 

 素晴らしい碁だった。

 本当だと、信じてしまいそうになるくらいに。

 

「……ふっ、なんだよ。世の中すげー奴がいるもんだな」

 

 ボヤキながら、門脇は盤面に残ったままだった黒石を片づけ始めた。

 

「ああ、くそ。あと一年早く鍛えてりゃーな」

 

 ジャラジャラと碁石を片付けながらまたボヤいて、カコンと碁笥の蓋を閉める。

 その胸に生まれた想いを、逃さないように。

 

「本気で、本気でプロ目指して。オレもプロになってアイツとまた打ちてぇ……」

 

 悔しげに苦笑いを浮かべて。

 けれど、どこか晴れ晴れと門脇は笑った。

 







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第17話

約3900字



 

 

 プロ試験第2戦目。

 序盤も序盤から、知る人ぞ知る、注目の戦いが始まろうとしていた。

 

 黒番:伊角慎一郎

 

 白番:門脇龍彦

 

 両者は盤面を挟んで向き合っていた。

 

 

「門脇、さんですよね。お名前は存じ上げてます。学生本因坊を取られた、とか」

 

 伊角が、静かにそう切り出した。

 少しの緊張感と興味を含んだ声音に門脇が恥ずかしそうに笑った。

 

「ははは、いや、まぁ。──そういう伊角くんこそ、院生順位2位なんだって? 立派なもんじゃないか。胸を借りる気持ちで挑ませてもらうよ」

 

 確かに以前学生本因坊は取ったが、今思えば昔の話だ。

 あの『進藤ヒカル』のことを思えば、過去に目を向けたいとは思わなかった。

 ただ前に進み、プロになることを目指したい。

 門脇は先日の一戦を経てから、今はそう考えていた。

 

 伊角はそんな門脇の様子を見て、油断できない相手だと気を引き締め直した。

 内面を掴ませない飄々とした門脇の姿が、伊角の瞳には映っていた。

 

(……明日は進藤だ。ここで負ければ序盤で黒星を二つ貰うことになると考えた方が良い。長い試験を思えば、それは避けたい。……負けられない)

 

 伊角は内心で状況を整理して、一息を吸って吐いた。

 開始のブザーがなった。

 

「お願いします」

 

「お願いします」

 

 生真面目な『お願いします』と、軽い調子の『お願いします』が応酬された。

 黒番は伊角。

 碁笥に手を差し込んで、果敢に挑んでいった。

 

(調子は悪くない。……今日ここで勝つ! 黒番を握ったなら、序盤から有利を取って一気に攻めるべきだ)

 

(どうしたもんかね、あの『進藤ヒカル』を一番に置けば、二番手に甘んじるのは、むしろ当然だろう。この伊角って子も相当に打つのか? ……序盤は慎重に打つか)

 

 両者ともにざっくりとした展望を抱いて臨む。

 

 戦いはまだ始まったばかり。

 この対局も、そして長いプロ試験も、どちらも。

 

 

 

 序盤に有利を作った伊角は安定した打ち方を目指す。

 一歩引いたように打ち回す門脇に少し不気味さを感じていたが、それでも序盤に作った有利を崩すのは難しい。

 そう思い一息をついた。

 

(よし、ここまで良い形で進められた。これなら一勝は固い。……いや、油断しちゃダメだ。集中するんだ。相手はあの門脇なんだ)

 

 一息をついた伊角とは裏腹に、門脇は扇子の失せた両腕を組んで盤面を見つめていた。

 

(強い。この子も思ってた通り相当に打つ。だが、やはり『進藤ヒカル』に比べれば温すぎる。……まぁ当然か。あのレベルを覚悟してた、って言えば嘘になるが、この子は敵わない相手じゃないな。さてっと、様子見は終わりだな、巻き返すとするかね)

 

 初戦の敗北。

 それは門脇の囲碁に対する姿勢を大きく変化させる効果を生んでいた。

 どこか気持ち半分であったプロになりたいという気持ち。

 それが、あの一戦を経ることで確固たる目標。

 揺るぎない夢に変わった。

 

 もう一度、あの子と打つために。

 

 今の門脇にはそれしか見えておらず。

 それはプロ試験の重圧を物ともしないメンタルに変化していた。

 

 加えて言えば、そのメンタルは『挑戦』という、非常にパフォーマンスを発揮しやすい状態に門脇を導いた。

 塔矢アキラ状態、と言えば分かりやすいだろうか。

 

 漠然としたイメージしか持っていなかった者が、唐突に目標を得た瞬間に化ける。

 勝負事の世界ではよくある事例である。

 

 門脇は、このプロ試験を経験として化けようとしていた。

 

 序盤の有利を維持したい伊角と、それを崩さんとする門脇の攻防。

 狼煙が上がったのは左下隅からだった。

 

 黒石が守る陣地に、白石がポンと打ち込まれる。

 冷静に対処する伊角だったが、調子良く打ち込まれる白石に、つい手拍子で受けていく。

 

 そして。

 

(……こ、これは。しまった、左下と見せかけて、下辺を取るつもりだったのか……!? 3子に気を取られて、下辺が疎かになった……!?)

 

 楔のようにポンポンと打ち込まれた三つの白石が、左下にはあった。

 それを活かす流れを予想した伊角だったが、その予想が覆されて下辺を大きく割かれてしまう。

 

(ま、まずい。何とか傷を抑えないと)

 

 後手後手に回ってしまう伊角を翻弄するように打ち続ける門脇。

 そこから徐々に大勢を崩されて、下辺だけであった損傷は中央、右上隅にまで及んだ。

 一手分の有利は非常に大きい。

 交互に打つ関係で、先手が有利なのもそのためだ。

 

 伊角は負けられないという焦りから下辺に手を重ねすぎた。

 敗因を述べるなら、その一点に尽きるだろう。

 

 大勢は決した。

 

 

「……ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 項垂れる伊角と、飄々とした門脇が対照的な対局は幕を閉じる。

 

 

 

 プロ試験第3戦目が始まった。

 

 既に対局室に入って、腰掛けている奈瀬に、近づいてきた和谷が声をかけた。

 今日の、対局者同士の会話だった。

 

 プロ試験第3戦目:奈瀬vs和谷。

 

 

「──最近調子良いみたいだな」

 

「うん。和谷にも勝つつもりだから、油断しないでね」

 

「お、おう。……ほんと、奈瀬変わったな」

 

「そう?」

 

「なんつーか、大人びたってゆーか……。いや、なんでもない」

 

 それっきり和谷は黙って盤面に集中した。

 初戦と2戦目を順当に勝利した和谷ではあるが、まだプロ試験は序盤である。

 白星を掴むためにも、奈瀬の言う通り油断は出来ない。

 言葉を重ねて動揺する訳にもいかないし、何より相手を動揺させるつもりもない。

 これ以上の言葉はそうなりかねないと思ったから、黙った。

 

 奈瀬も和谷の沈黙の意味を察して口を閉じる。

 プロ試験。

 それは純粋に実力を競う為に、白星を奪い合う総当たり戦である。

 奈瀬も、盤外戦を否定する訳ではないが、出来るなら実力でプロ棋士の資格を勝ち取りたいと思っていたから。

 開始のブザーは間を空けずに鳴った。

 不本意な沈黙が続かなかった事に両者とも安堵しながら、気持ちを切り替える。

 目の前に立ちはだかるライバルを、両の(まなこ)で見据えた。

 

「「お願いします」」

 

 裂帛(れっぱく)する意志がぶつかる対局が始まった。

 

 

 黒番は奈瀬だった。

 脳裏に描いている展望はやはり序盤先行だった。

 着実な一手を積み重ねて確定地(地になると確定した場所)を作ってゆく。

 

 和谷はじっくりと臨む。

 序盤は仕掛けず、石を交互に打ち合って地を作り合う応酬。

 

 しかし、奈瀬が黒番で地を重視する打ち方である以上は、和谷から仕掛けるしかない。

 奈瀬の打ち回しから、地を優先する対局に臨んでいる事を察した和谷は覚悟を持って黒石が集まる隅に打ち込んでいく。

 

 右辺の星2つを取った黒番の奈瀬に、挑んでいく。

 星の近辺にある黒石に対してケイマから三線に入った右上隅の白石を、奈瀬は順当に陣地へ侵入されないよう塞いでいく。

 

 和谷が仕掛ける攻防は決着が付かない。

 双方ともに大きな仕掛けを行うこともなく、手数が消費されてゆく。

 

 奈瀬としてはこのまま横綱相撲で維持すれば徐々に勝ちが近づいてくる。

 和谷が追いかける形だった。

 

 白石が追撃するように放たれる。

 奈瀬は的確に、そして冷静に対処する。

 落ち着きを得た奈瀬に隙はなく、逆に和谷の薄くなった左辺に対しても仕掛けていった。

 

 和谷は黒の陣地を荒らすことが出来ず、自陣の損傷を塞ぐために手を重ねる。

『ジワリジワリ』と差が広がってゆき、凡戦と呼べる、ありふれた一局が出来上がった。

 

 しかしありふれているということは、それだけ有効な戦術が機能したという事。

 

 つまり、序盤先行という奈瀬の戦術がハマったと言えた。

 

 ヨセと整地を終えて、6目差で奈瀬が勝利を飾る。

 

 和谷は僅かに意気を落とすが、まだこれからだと自分を奮い立たせる。

 

 奈瀬は目論見通りに盤面が推移した事に満足感を抱いたが、まだ序盤である。

 この結果に慢心することは出来ない。

 気を引き締めて次戦に臨む。

 

 

 

 

 そして、本日残った注目の対局は一つ。

 

 プロ試験第3戦:伊角vs進藤。

 

 結果は語るまでもないほどの圧勝で進藤の勝利となる。

 若獅子戦を彷彿とさせるほどの進藤ヒカルに圧倒されて、何とか粘るも押し潰された結末が盤面にはあった。

 

 伊角は、緒方九段と進藤ヒカルの7番勝負を目にしたことがある。

 ヒカルの『本気』を見たことがある。

 若獅子戦も直接目にしている。

 そして、普段の『進藤ヒカル』も知っている。

 

 だからこそ、ヒカルのその真意にも気がついた。

 節々に見える、こう打てば良いと示すかのような一手が輝いて見えていた。

 

 佐為は、ヒカルは、若い芽を潰す事など本意ではないから。

 

 

 導かれるように打つ中で、悔しい思いもある。

 だが、今このプロ試験期間中は是が非でも力に変えなければならない。

 伊角は微かに見える光を必死に追いかけて進藤ヒカルに挑んでゆき、そして限界ギリギリまで打った。

 晴れ晴れとした言葉が伊角から出た。

 

「ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 敗北したのに、それが気にならないほどの充実感。

 プロ試験期間中だというのに、こちらを気遣うようなヒカルの打ち方に思うところもあるが。

 だが、先日門脇との対局で敗北を喫していた伊角にとっては、冷静になる機会を得られるありがたい配慮だった。

 自然と感謝の言葉が口を突いた。

 

「進藤、ありがとう」

 

「……オレは真剣に打っただけだよ。伊角さんじゃなくたって、オレは真剣に打つぜ」

 

 視線を逸らして言う、照れ隠しのようなヒカルの台詞に、伊角はクスリと笑みを浮かべた。

 

 序盤にして黒星二つを背負う事になった伊角だったが、幸いにも意気は十分。

 巻き返しを狙うことも十分に可能な立ち位置にはまだ立っている。

 腐らずに打っていこうと決めて、その日を終えた。

 

 しかし、伊角が序盤3戦目終了時点で、黒星を二つ握った事実は変わらない。

 強者が揃い踏みする今回の試験では、一つの黒星が命取りになりかねない状況。

 まだ追い詰められてはいない。

 しかし、安心もしていられない。

 

 追い込まれた時にどうするか。

 プロ試験の序盤から、伊角はそのメンタルの真価を問われようとしていた。

 

 

 

 






対戦表を作っていたら時間がなくなりました・・・。
短くてゴメンなさい。

今後全対局(主要メンバー)を書くなら最低20〜最大56局分くらい書く必要があるのですが、さすがにキャパオーバーなのでダイジェスト多めになるかと思います。ざっくり飛ぶ事もあると思います。

それでも面白くできるよう試行錯誤していきますので、よろしくお願いします。


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第18話

約3000字



 

 

 伊角は非常に緊張した面持ちで、今日の対局に臨んでいた。

 余裕のない張り詰めた雰囲気で対局場に入れば、同じように少し緊張した面持ちの藤崎あかりと視線が交わった。

 

『第5戦目』

 

『伊角vs藤崎』

 

 ここまで2勝2敗の戦績の伊角にとって重要な一局だった。

 

 先日の進藤ヒカルとの対局の後、4戦目は勝ち星を拾って、連敗は2で止めた伊角だったが序盤時点で黒星を二つ握っている。

 ここで敗北を喫すれば、3敗。

 始まったばかりのプロ試験がかなり厳しい戦いとなってしまう。

 そのため緊張感を持っていた。

 

 

 藤崎は3勝1敗ではあるが、ここで敗れることがあれば序盤から2敗を背負う事になる。

 加えて、『第7戦目』には進藤ヒカルが控えている状態。

 つまり、現時点では黒星は一つだが、伊角、進藤と敗北すれば、黒星は3つ。

 到底許容できるボーダーを超えてしまう。

 

 序盤から黒星3つを抱えるのは何としても避けたい場面。

 だというのに、昨日、門脇に僅か半目足らず敗北した記憶はまだ新しい。

 怒涛の追い上げを行ってもギリギリでたったの半目が届かなかった悔しさは簡単には忘れられない。

 

 深呼吸をする。心を落ち着けるように。

 昨日の敗北を引きずらずにいつもの自分通りに打つことが出来るのか。

 藤崎あかりも、メンタルを問われる局面となっていた。

 

 

 視線の交わりは一瞬だった。

 両者ともなく視線を逸らして、あかりは対局場に入ってゆき、伊角もそれに続いた。

 続々と他の候補者たちも席に着いていく中で、二人は向き合っていた。

 真剣な面持ちの中に僅かな警戒すら滲ませて、伊角は口を開いた。

 

「……良い碁にしよう」

 

 それだけの言葉だったが、藤崎にはそれで十分だった。

 何かに気がついたようにハッとした表情をして、その後に笑顔を浮かべて頷いた。

 

「うん。──いい碁にしようね、伊角さん」

 

 その内面は藤崎しか知る由がないが、非常にシンプルだった。

 藤崎の心に残る最近の対局と言えば、洪秀英(ホン・スヨン)との対局。

 真剣にぶつかり合わなければ生まれなかった碁を思い出して、初心に返った藤崎は意気を上げた。

 

 それを見て伊角はより緊張してしまう。

 伊角の脳裏に浮かんでいるのも、やはり先日の洪秀英(ホン・スヨン)との対局だった。

 藤崎あかりの打ち回しに『ここまで打てる子だったのか』と驚愕した思いはまだ色褪せていない。

 だが、同時に思い出す。

 藤崎あかりの好手にも、負けじと反撃を繰り返した洪秀英(ホン・スヨン)の姿を。

 

 その類い稀な『負けん気』を思い出して胸に秘める。

 

 伊角は思い出すために閉じていた瞼を開いた。

 未だ緊張はあるが、もう怯んではいない。

 弱気になってはいけない。そう考えるまでもなく、気持ちを持ち直していた。

 

 両者ともに同じ対局の記憶を思い返して、非常に盤面に集中できる状態となった。

 メンタルでは互角。

 ならば、後は実力の問題だった。

 

 力強い瞳の奥に闘志を宿して、雑念を振り払うように伊角は第一手目を盤面に放った。

 

 

 

 非常に難しい戦いとなった。

 黒番は伊角。

 先日、黒番を握って序盤に有利を作ったにも関わらず、門脇にひっくり返された記憶は新しい。

 それでも伊角は集中して打っていた。

 一手の鋭さも、サエも、普段通りの伊角だった。

 

 対しての藤崎もその実力を遺憾無く発揮している。

 しかし、未だ実力という部分では伊角に劣っている。

 

 囲碁を覚えてようやく一年半。

 囲碁部の大会や、若獅子戦などに参加した経験はあるが、プロ試験のプレッシャーを背負いながら打つのは初めての経験。

 それを考えれば脅威的な程によく打てているが、やはり伊角の方が上手だった。

 

 そして優勢を維持しながら、盤面を進めていく伊角に油断はなかった。

 

 

 一旦のお昼休憩を挟む。

 双方共に席を立って、伊角は休憩室で指を組んで考え込んでいた。

 その脳裏はこれからの盤面の予想図が目まぐるしく浮かび上がっている。

 

 藤崎あかりと、洪秀英(ホン・スヨン)の一局。

 伊角すら予想しなかった一手から劣勢をひっくり返したあの驚き。

 マグレと考えるのはあまりにも相手を過小評価している事になるだろう。

 あれは、狙っていなければ到底不可能な一手だと、伊角は思っている。

 

 つまり、この先の展開でも仕掛けてくる可能性がある。

 伊角はジッとこの先の盤面を考え続けていた。

 少しでも勝率を上げるため真剣に。

 

 そんな伊角に声を掛ける者がいた。

 越智だった。

 

「──伊角さん、調子良さそうだね。藤崎も大変だ、序盤から好調の伊角さんと戦うなんてさ」

 

 少し小馬鹿にしたように言う越智に、伊角は静かに答えた。

 

「いや、油断はできないよ。今だって藤崎さんとの一局が頭を離れない。……彼女は何をしてくるか、読めないからね。少しでも油断すれば食われるくらいの気持ちで臨んでるよ」

 

「……意外だな。伊角さんがそこまで評価してるなんて思ってなかったよ。所詮は進藤の腰巾着でしょ?」

 

 怪訝そうに言った越智に、伊角は自身の考えを整理する意図も含めて口を開いた。

 

「オレは、予選と本戦の隙間の期間中に、進藤の研究会に参加したんだが、そこにはあの塔矢アキラも居たよ。もちろん、藤崎さんや奈瀬も。──お前も油断出来ないんじゃないか? 昨日はその奈瀬に負けたんだろ?」

 

「あ、あれは! ……ボクが、つい平静を欠いただけさ。今日は本田さんを相手に中押しで勝てそうだし、たまたまだよ」

 

「油断しない方がいい。……藤崎は、強いぞ」

 

 実感が篭ったように告げる伊角の言葉に、越智もそれ以上の言葉は返せずに、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 

 

 お昼休憩が終わって尚も、藤崎は苦しい戦いを強いられる。

 逆転を狙っている手はあるが、それがハマるか不安は拭えない。

 

 伊角は鋭い手を放って、藤崎を引き離そうとする。

 それに負けじと、差をつけられないように必死に追い縋る藤崎。

 

 両者の実力が明確に盤面に出ながら進んでゆき、ついに藤崎から逆転を狙う一手が放たれた。

 

(ッ!! ……やはり、狙ってたか。藤崎さんの型破りな一手は常に警戒していたが、それでも気がつけなかった……。いや、それはいい。今は、どう対処していくかだ)

 

 藤崎の一手は痛烈ではあるが、伊角はここまでに十分すぎる程に備えてきた。

 冷静に、真剣に、一手一手を積み重ねてゆく。

 脳裏に過ぎるのは、洪秀英(ホン・スヨン)の姿。

 怯まずに相手が好手を打つのなら、自分もそれに応じて打っていくだけだと言わんばかりに向かってゆく。

 

 向かう合う両者は手に汗握る戦いを繰り広げて。

 

 

 そして。

 藤崎あかりが表情を見せないよう顔を伏せながら呟いた。

 

「……負けました」

 

「ありがとうございました」

 

 

 ──勝者は、伊角だった。

 この激戦を制した意味は大きい。

 内心で強く喜びの拳を握る。

 

 しかし、ふと視線を上げれば藤崎の姿が。

 悔しさからか、『フルフル』と震えている藤崎の姿に思うところはある。

 声を掛けたい気持ちと、そんな資格はないと思う気持ち。

 

 伊角は何とも言い難い気持ちになりながら、口をつぐんだ。

 

 真剣勝負の、勝者と敗者。

 プロ試験という一世一代の大一番で、今まで切磋琢磨してきたライバルたちと競争する厳しさ。

 それをまざまざと感じさせる光景だった。

 

 表情には出さないようにしながら、伊角が立ち上がる。

 喜びも、哀れみも、どちらも藤崎を侮辱する事になると思っての、何も浮かべていない表情だった。

 そんな伊角に、未だ座ったままの藤崎が声を発した。

 か細いながら、気丈な芯のある声音だった

 

「……伊角さん、いい碁だったね」

 

「あ、ああ。……いい碁だった」

 

「うん、いい碁だった。──でも、次は負けないから」

 

 はにかんで、藤崎が笑った。

 少し赤い目尻には涙を堪えた痕が見えた。

 

 グッと来る思いを隠しながら、伊角は真面目な表情で真剣に答えた。

 

「ああ、次に戦う時を楽しみにしてる」

 

 勝者と敗者。

 明確に立場が分かれながらも、ライバルたちは互いに影響を与えてゆく。

 

 負けを糧に出来るかどうか。

 それもまた、プロ試験で問われる真価の一つなのかもしれない。

 

 伊角は、気丈に振る舞う藤崎の姿から、そんな真剣勝負の場での一面を学んだ気がした。

 

 

 



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第19話

約3900字



 

 

 藤崎を相手に勝利を飾って、伊角は勢いに乗っていた。

 

 第6戦目、第7戦目を制して、三連勝となった伊角は小さくガッツポーズを握る。

 明日の第8戦目に控える和谷との対局でも、普段通りの力が発揮できるだろうと確信できた。

 

 そして、普段通りに打てば負けないと強い自信を漲らせる。

 

 第7戦目は比較的スムーズに終わったため、時間に余裕ができた。

 ここで帰ってしまうのはあまりにも惜しい。

 ライバル達の様子を観戦すれば何か得られるものがあるかもしれない。

 

 伊角は油断なくそう考えて、周囲を見渡せば。

 注目の対局が目に入った。

 しかし、その二人の対局は今後のプロ試験を勝つため、という意味では伊角にとって確認する価値は低い。

 

 だが、抗えない引力に惹かれるように伊角はその一局の観戦を始めた。

 

『藤崎vs進藤』

 

 先日伊角に敗れた藤崎が、進藤ヒカルに挑戦している碁だった。

 

 丁寧に進んでいるようで、まだ展開は序盤を少し過ぎた辺りだった。

 ここから変化が複雑になるだろう、と思った伊角の予想通りと言うべきか、黒番を握っている藤崎が先に仕掛けた。

 

 進藤ヒカルを相手に守っていても勝てない。

 そんな強い意志を感じる一手。

 恐れはないのかと驚く伊角ではあったが、両者の対局は加速したように手数を増してゆく。

 

 お互いによく打つ間柄であるからか、凄まじい読み合いの応酬だった。

 伊角では一瞬意図の読めないと思った手が、応手によって何を意味していたかが理解できる。

 

 まるで、高段位同士の対局を見ているかのような光景に背筋が震えた。

 

 ままある事ではある。

 当事者同士でしか見えない手筋というものは存在するためだ。

 しかし、伊角を心胆寒からしめたのは、院生の中でも上位に位置していると自負する自分が、先日勝利した相手に、その状態に陥ってしまった事だった。

 

 アマチュアが、プロの解説がなければ盤面を理解できないのと同じ理由。

 つまり、レベルが高すぎて、内容が理解できない状況。

 

 そんな有り得ない現実を前にして愕然とする伊角を置いて、盤面は次々に推移してゆく。

 

 

 

 プロ試験本戦が始まってから、ヒカルとあかりは研究会を休止していた。

 お互いがライバルである。

 その認識で、距離を置いていた。

 

 久しぶりの対局。

 打ちたかったという思いもあれば、真剣勝負の場で向き合う恐怖もある。

 そんな藤崎の思いは、実際にヒカルと向き合った事で霧散した。

 

 緒方九段と対局した時に勝るとも劣らない気迫で向き合ってくるヒカルの姿に、全力で向かってくる想い人の姿に感化されるように、あかりはその意気を高めていった。

 

 人生を懸ける大一番で、真剣勝負の場で、ぶつかり合う事。

 剣が研がれて鋭さを増すように、激しい研磨は人を成長させる。

 

 藤崎は、覚醒の兆しを見せていた。

 

 

 

 

 食らいつくように、勝てると確信しているかのような怒涛の追い上げを、以前あかりは門脇相手に見せつけて迫った。

 結果は敗北となってしまったが、それでも。

 

 スヨンとの対局を経て、持てる力の全部を出し切り勝利した経験。

 打ち勝ったという自信があかりを強く強く支えていた。

 

 それは門脇、伊角との敗北を経ても失われる事なくあかりの根底を支える一つの柱となっている。

 

 自分の力を試したい。

 もう一歩先に行ける。

 もっと上へ。

 

 そしてヒカルに届くまで、歩みを止めない。

 強い『思い』があった。

 

 それは『想い』ではない。

 

 藤崎あかりにとって、進藤ヒカルは目指す目標であると同時に『想い人』である。

 自覚したのはいつだったか。

 早熟な女の子らしく、小学生の頃には既に自覚していた。

 

 長年連れ添ったその『想い』はあかりの一部と言っても過言では無い。

 塔矢アキラとヒカルの一戦を目にして、囲碁に対して『真剣』になったとはいえ、その芯まで変わったわけでは無い。

 今は置いておく、と心の隅に大切に置いてあるだけだ。

 

 プロ試験はそう簡単に挑めるほど容易いものではないから。

 

 そして。

 今のあかりにある『思い』とは、真剣に囲碁に対して向き合うからこその思いである。

『想い』とはまた異なる感情だ。

 

『想い』を一時忘れて真剣に挑む。

 

 その判断は正しい。

 もし仮にその恋心を主軸としたままであれば、あかりがここまでの実力を身につけるには至らなかっただろう。

 恋の力は凄まじいが、真剣勝負の場においては雑念にも成りかねない、諸刃の刃だからである。

 

 だが、片隅に置いておいたその『想い』は無駄になっていない。

 確固たる自分の『好き』を保持しているということは精神的な安定に繋がる。

 自己肯定感が高まると言い換えても良いほど、藤崎あかりのメンタルに強く作用している。

 

 そしてその『恋心』と『真剣勝負の目標』が合致した時、その感情は練磨された針にも似た鋭さを宿す。

 無意識、意識の二つが相乗する。

 片隅にあるはずのそれも、ここに来て類い稀な集中力の源泉へと変化してあかりに宿っていた。

 

(もっと! もっと厳しく攻められる。ここも、あそこも、幾つも手がある。どのタイミングで、どの一手を打つのが最も効果的? ……ううん、直感でいい。私は、今までの私の努力を信じる!)

 

 つまり、全身全霊である。

 

 勝負事において直感を信じられるか否かは、非常に重要な点である。

 現在囲碁界にその名を轟かせた倉田プロなどはその直感冴え渡る内の一人である。

 あかりはここに来て、その片鱗を発露していた。

 

 その全身全霊の『あかりの碁』を正面から受け止めながら、『二人』の師匠は微笑んでいた。

 

 

 

(佐為。すげーな、オレちょっと感動してる)

 

(本当ですね。弟子の成長というのは、本当に喜ばしく心が震えるほど尊い光景です。あかりのためならば、ここで一つ黒星を握ってもよいと、一瞬ですが、そんな不躾な考えが過ぎってしまうほどに)

 

(冗談。思ってもねーこと言うなよ、佐為)

 

(すみません、つい。……そんな感慨に耽ってしまいたくなるほど、素晴らしい碁です、と言いたかったんです)

 

(オレは決めてんだ。絶対に誰にも負けないって)

 

 以前ヒカルは心に誓った。

『不敗の心得』

 今まで破ってきた棋士全てを背負って、ヒカルはこの場で打っている。

 相手があかりといえど、そしてこの大一番といえど。もし仮に自分に敗北することであかりがプロに成れなくなるとしても、その誓いは破らない。

 

 それはあくまでも心得だ。

 半目差を競い合う事になるであろう、塔矢行洋相手に全勝を狙えると確信している訳ではないが。

 今ここで、ヒカルがわざと負ける選択をすることは絶対にあり得ない。

 

 だから、この場でのヒカルの選択は。

 

(……こいよ、高みへ)

 

 進藤ヒカルは、意図的に抑えていたリミッターを『僅かに』外した。

 

 

 

 怒涛とも言える展開を経て、二人の対局は終局に向かった。

 結果としては進藤ヒカルの2目半勝ち。

 

 しかし、内容は凄まじいの一言だった。

 

 見ている伊角も、片時も目の離せない一手の応酬。

 冷や汗を流しながらその光景を目にしていた。

 

(強い……。強すぎる……。これが、藤崎さんだって? こないだとは別人のようじゃないか)

 

 伊角は内心でそう呟いた。

 以前の藤崎なら、苦戦は免れないが十分に勝機はあった。

 だがもし今の藤崎ともう一度打てと言われたら。

 

 伊角の脳裏に浮かんだのは、敗北するイメージだった。

 

 それほどの対局だった。

 洪秀英(ホン・スヨン)の時も僅かに過ぎったが、その比ではない。

 

 藤崎あかりがキッカケを掴んだ事。

 真剣勝負の場での経験値。

 そして、同格よりも僅かに上を更新しながら演じる事ができる進藤ヒカルの極めて高い技量。

 

 その三つが合わさって、トンデモない成長を遂げている。

 

 伊角はその事実を認めて、心から思った。

 また一人の怪物が生まれた、と。

 

 

 

 

『第8戦目』では、重要な対局が行われた。

 

『門脇vs越智』

 

 ここまで奈瀬にしか敗北していない越智と、進藤にしか敗北していない門脇。

 一敗の両者が対決する。

 

 

 越智は、的確に要所を締めていた。

 以前は地に拘るきらいがあったが、進藤ヒカルに執拗に攻められて以降から変更を余儀なくされて、一時期は調子を崩していたが、プロ試験開始までに調整を間に合わせていた。

 

 故に越智は弱くない。

 むしろプロ試験に参加している候補者たちの中では上位に位置する。

 進藤ヒカルに影響されて、実力も伸ばしている。

 

 門脇は強敵だった。

 

 だが、一進一退の攻防を繰り広げて、勝ちを拾ったのは越智だった。

 際どい勝利でも、白星には違いない。

 僅かな安堵の息を漏らしながら越智は明日の戦いへ。

 

 伊角との対局に備えていた。

 

 

 

『第8戦目』

 和谷に勝利した伊角は帰り道の途中で考え込んでいた。

 

 昨日の『第7戦目』での藤崎あかりのトンデモない成長を目にして、愕然とした思いはある。

 だが、それで調子を崩すほど柔では無い。

 

 伊角がメンタルを崩しやすい理由は責任感が強すぎるからだ。

 だから、自分を責めてしまってリズムを崩してしまう。

 

 伊角はメンタルに課題があるが、他人の成長を僻んでメンタルを崩すほど、負の面に感情は動かない。

 

 だが、衝撃的だったのは事実。

 今日は普段通り打てた事にホッと一息を漏らすも、今後の展望を考えていた。

 

(藤崎さんは3敗(門脇●伊角●進藤●)。本田も3敗(藤崎●和谷●越智●)。和谷は3敗(奈瀬●門脇●伊角●)。福井2敗(越智●飯島●)、飯島2敗(奈瀬●本田●)、門脇さんは2敗(進藤●越智●)。越智は1敗(奈瀬●)。奈瀬は無敗。進藤も無敗。──そして、オレは2敗(門脇●進藤●)だったな)

 

 伊角が残りの対局で白星を落としかねないのは、後3局。

 明日の越智。

 第25戦目の奈瀬。

 第26戦目の本田。

 

 対戦表を思い返して、今回のプロ試験の黒星を換算すれば、ある程度が見えてくる。

 

(たぶんだが、このまま進めば、黒星3つが合格ギリギリのライン……。オレはまだ1敗は出来るが、それでも気が抜けないな……。だが、勝ってみせるさ)

 

 まずは目の前の白星を掴む。

 その思いで、伊角は前を向いて歩き出した。

 

 再戦を誓った相手(藤崎あかり)の成長を見て、伊角も柄になく燃えていた。

 

 

 

 

 

 



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第20話

約4800字



 

 

 

 

 プロ試験とは長い期間での対局を行う。

 大凡2ヶ月間かけて戦う一世一代の大勝負の場である。

 

 忘れがちではあるが、参加者たちは相応の覚悟を持ってこの場に挑戦している。

 

 社会人であれば、仕事を辞める。あるいはそもそも定職に就かない者すら居る。

 その全てがプロ棋士になるためである。

 

 そんな中で、若い院生は比較的挑戦しやすいと言えるが、プロ棋士になりたいという一念は劣るモノではない。

 むしろ貴重な若い時間を消費しながらライバルと切磋琢磨し続ける事で、才能に触れてその道を諦めることすらある険しい道である。

 

 そんな厳しいライバル関係でありながら、仲間でもある二人の対局が、今終わった。

 

「……ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 平静な表情で頭を下げて、白星を得たのは伊角だった。

 山場である一戦を制したことで安堵しながら、しかし、まだまだ先の続くプロ試験に備えて表情は緩まない。

 

 対面に座るのは、この対局で2敗となって二つ目の黒星を握る事となった越智だった。

 悔しげに拳を握っているが、敗着を理解しているからか、それ以上何も言う事はなく盤面の片づけに入っていた。

 

「……ふん、最近は調子がいいよね、伊角さん。けど、ボクだってまだ2敗さ。こんな場所で終わるつもりはないよ」

 

「ああ、そうだな。……越智、油断するなよ」

 

「? 何をさ」

 

「藤崎さんだよ。……彼女は、もうオレよりも強いかもしれない」

 

 怪訝そうに越智は表情を動かした。

 先日の対局で伊角が敗北していたなら、まだ理解できる。

 だが、伊角は先日の対局で藤崎に勝利している。

 だというのに、何故そのような事を言ったのか理解できず聞き返した。

 

「わからないね。前は伊角さんが勝ったんだろ? ……確かに、今日は負けたけどね。悪いけど、ボクと伊角さんに大きな差があるとも思わなかった。次はボクが勝つさ。藤崎にだって──」

 

「そんなレベルじゃない」

 

 越智の言葉を遮ってまで、伊角は静かに告げた。

 今の藤崎あかりがどれほどの高みに上っているのか。

 

 越智ならその実力は伊角もよく知るところだ。

 本気の越智と藤崎がぶつかれば、ある程度の力量は見えてくる。

 

「……確か越智と藤崎さんが当たるのは『第11戦目』だったか、楽しみにしてるよ」

 

 あの、側から見ても読めないほど実力を高めた藤崎の現在地が微かに見えてくる事を期待して。

 そしてライバルである越智に、油断などという要因で負けてほしくないという思いから、伊角はそう伝えていた。

 

 それを正確に察したわけではないだろうが、越智は鼻を鳴らしてそのまま席を離れた。

 悔しげに口元が歪んだままではあったが、伊角は自分の言葉が届いただろうと思うことにした。

 

 答えが出るのは、『第11戦目』。

 

 碁笥を碁盤の上に置きながら、伊角は予見するようにその身を震わせた。

 

 

 

 

 瞬く間に数日が流れて、『第11戦目』が始まる。

 あまりにも圧倒的な力量を見せつけた藤崎と、その猛威に晒されながらも怯むことなく応戦した越智の対局を経て。

 

 越智は藤崎に敗れる。これで越智と藤崎の黒星は双方共に3つとなった。

 

 さらに対局は進む。

 

『第20戦目』

 

『奈瀬vs進藤』

 

 ここまで無敗で19連勝と絶好調の成績で勝ち進む奈瀬と。

 

 同じく無敗。

 敗北の兆しが微塵も見えない進藤の対局が始まっていた。

 

 奈瀬は打ちながら思う。

 自分の強みを考える。

 

(──私の強みは理解してる。視野の広さを活かして、乱戦に持ち込む事。先手先手で入り方を変化させて、盤面全体のバランスを取って進める事)

 

 奈瀬の強みは落ち着いた視野であり、そこから生まれるバランス感覚だった。

 攻めと守りのバランスが絶妙に上手い特徴。

 

 深いヨミと型破りな一手を用いて攻めと荒らしに傾倒する藤崎とは異なる打ちまわしだった。

 同じ師匠から学んだとは思えないほど、二人の打ち方は対照的である。

 

 変幻自在の打ち方が可能なヒカル。

 いや、佐為だからこそ導けた結果ではあるが、奈瀬もその棋力をノビノビと伸ばし続けていた。

 

 バランスの良さとは安定感と同義である。

 奈瀬がここまで順調に勝ち進んできたのもある意味当然の帰結だった。

 

 しかし、それは成長出来る機会を逃したという意味でもある。

 そんな奈瀬は今回のプロ試験期間中において初めての、そして最大級の壁に挑みかかっていた。

 

(進藤は強い。でも、強すぎる自覚があるからか、悔しいけど私たちに『全力』は出してこない。……でもね。だからって、一歩二歩を出し抜くなんてツマラナイ打ち方はしないわ。進藤がまだ油断してる内に仕掛けてやるんだから。……全体のバランスを見極めて。ローリスクハイリターンの盤面を探す。そして、あえて隙を作って進藤を誘い込む。私の得意な戦場にね。──乗ってくるでしょ? こういうの、進藤が好きだって知ってるんだから)

 

 奈瀬が誘い込みを掛けた一手に、当然のように進藤は気がついた。

 そして、微笑みすら浮かべながらその誘いを受ける。

 

 入り込む進藤の白石を、奈瀬が防ぎ切れるかという盤面。

 もし防ぎ切る事ができれば、薄くした分を攻めに回した数々の手が生きて有利を保ったまま中盤に入る事ができる。

 しかし、もし潰されれば挽回が困難な展開。

 それでも、奈瀬は意気を高めながら挑んでいった。

 

 周りが成長している事は察していた。

 その中で、自分だけが安定感を保ってはいるものの、劇的な変化は訪れずにプロ試験終盤にまで進んでしまっている事を理解していた。

 

(……今年こそ、私は絶対にプロになる。そして、進藤に追いつく! 負けっぱなしで居られるもんですか!)

 

 淡い恋心。

 進藤ヒカルに対して抱いていないか、と言われれば、奈瀬は否定できないだろう。

 

 そうなのだ。今更ではあるが、奈瀬は進藤ヒカルに対して少なからず好意を持っている。

 夏休み中に、藤崎あかりを心配して碁会所に同行した話を聞いた時も実はドキリとしていた。

 

 けれど、聞かなくては不安という気持ちがあって、必要以上に藤崎あかりを揶揄いながら話を聞く流れになってしまったのは、少し反省しなければいけない所だったが。

 

 それはさておいて、奈瀬は少なからず、いや。

 明確に言葉にはしていないものの、キュンとしたことが多々ある。

 

 例えば、指導してくれている時の横顔であるとか。

 例えば、輝くような一手を放った指先を見た時であるとか。

 例えば、モリモリとお寿司を食べている時であるとか。

 例えば、物凄く真剣な表情で、とある高段位者と対局した時であるとか。

 例えば、と挙げればキリがない。

 

 その気持ちを指し示す言葉は理解しているが、けれど、奈瀬は決して言葉にはしなかった。

 藤崎あかりに対する罪悪感もあったが、何よりもプロ試験に挑む緊張感の中において、たった一つでも雑念が混じれば途端にバランスが崩れて目も当てられない状態に自分がなってしまう姿が容易に想像できたからだった。

 

 この歳になるまで囲碁一筋だった奈瀬である。

 器用に立ち回れる自信は皆無だ。

 いや、むしろ狼狽して空回りする自信しかないし、認めてしまえば自分がブレてしまう。

 二つのことに全力が出せるほど、奈瀬は自分のことを器用だとは思っていなかった。

 

 それが強さになる可能性も重々承知しているが、不安定さを呼び起こす事にも成りかねないから。

 

 全てはプロになってから。

 そう、覚悟を決めていた。

 

 表に出すだけが『恋』ではないのだから。

 

 

 覚悟というモノは心身に多大な影響を与える。

 区切りを自ら作ることで、いわば誓約のような形で作用する。

 覚悟の力と呼ばれるものである。

 それは逆境においてこそ強く現れる。

 

 例えそれが、世間から浮ついたモノだと言われる類だとしても、奈瀬がそれを覚悟と確信できるのなら強い効力を発揮する。

 

 目標であり想い人。

 奇しくもライバルである藤崎あかりと同様の条件を満たして、奈瀬もまた覚醒の兆しを見せ始めていた。

 

 

 盤面の激しい攻防を経て、奈瀬は打ち込まれた右下隅の防衛に成功する。

 それはあの進藤ヒカルに対して中盤に入る前の時点で10目以上の有利を作るという、値千金の結果に他ならないが、しかし不敗を誓っているヒカルが挽回に向かって『僅かに』本気を見せる事にもなった。

 

 結果としては奈瀬の2目半負け。

 しかし、奈瀬が自信をさらに漲らせるに足るだけの内容だった。

 

 

 奈瀬がヒカルと出会うまでに続けた努力。

 それは決して奈瀬自身を裏切らない。

 

 若獅子戦で得た自信を糧に大きく成長を遂げた奈瀬であったが、プロ試験本番の場において19連勝を決めた事。

 そして、この大一番の場で進藤ヒカルに対して一矢報いた事。

 

 大きな自信を得て、奈瀬も飛躍的な実力の向上を見せる。

 さらには翌日の『第21戦目』に行なわれた本田との対局では『正史』同様に、いや。それ以上の渾身の一局を披露した。

 

 プロになってもやっていける。

 確固たる自信を得て、奈瀬はさらなる対局に臨む。

 

『第24戦目』の門脇との一局。

 一切の危うげを見せない安定した打ちまわしで奈瀬が勝利を飾る。

 これで門脇は進藤●越智●奈瀬●の3敗となった。

 

 そして『第25戦目』。

 

『奈瀬vs伊角』の一戦。

 

 奈瀬が勝利すればプロになることが決定する対局に伊角は臨む。

 伊角は序盤に2連敗を喫してからこの日まで21連勝で進んできた。

 後たったの3戦勝てばプロが決定する。

 

 奈瀬は強敵ではあるが、勝てない相手ではない。

 そう、思っていたが。

 

 盤面では、その予想を覆すほどの差を付けられる。

 

 バランスの取り方が上手かった。

 伊角が攻めればやんわりと手を咎めてくる。

 打った一手を活かすために手数を使えば、打てば打つほどに緩やかに奈瀬が有利になる。

 まるで川の流れのように違和感のない展開であったが、奈瀬の誘導する流れが良くないと思いつつも脱却出来ずに添えば、いつの間にか伊角が不利な盤面が作り上げられていた。

 

 それを見て挽回すべく手を変えて、局面を変えて挑むが、それすらも予想の範疇であると言うかのように的確な対処をされる。

 必死に応戦して活路を探し続ける内に終局。

 

 白番:伊角の5目半負けという結果となった。

 

 圧倒的に打ち負かされたのではない。

 だが、攻略の取っ掛かりを掴むことすら出来なかった。

 伊角が連想した奈瀬のイメージは、鉄壁。

 壁自体はさほど高くはないものの、まるで掴み所のない鉄の壁だった。

 

 悔しさを感じながら、これで伊角も3敗(門脇●進藤●奈瀬●)となる。

 残るプロ試験は2戦。

 

 越智は4敗(奈瀬●伊角●藤崎●進藤●)。

 門脇は3敗(進藤●越智●奈瀬●)。

 藤崎は3敗(門脇●伊角●進藤●)。

 

 進藤と奈瀬は既にプロ試験合格を決めている。

 つまり、残りひと枠を掛けた戦いが始まる。

 

 最後に残った対局は

 

『第26戦目:本田vs伊角』

 

 そして。

 

『第27戦目:奈瀬vs藤崎』

 

 伊角が『第26戦目』で敗北しなければ。

 そして藤崎が奈瀬を破れば、3敗の三人でのプレーオフ。

 

 奈瀬は既に合格を決めている。

 伊角の予想では、ライバルであるが仲の良い二人の関係を考えると、藤崎に花を持たせる可能性は高い。しかしその予想は悲観的な推測に基づくものだ。普段なら考えもしなかったであろうその予測を伊角がしてしまっているのは、偏に伊角の弱い部分が出てしまったと言える。

 加えて、進藤ヒカルとの対局を経た藤崎あかりは別人のように強くなっている。

 

 再戦の予感を感じながら、この大一番で最後の最後まで結果がわからないというプレッシャーを背負いながら、伊角は『第26戦目』に本田との対局に臨み勝利。

 強い安堵を胸に抱きながら最終戦へと駒を進める。

 

 藤崎あかりの再戦を脳裏で予想しながら、果たして自分が彼女に勝てるのかと不安を抱きながら、伊角は最終戦に臨む。

 

 

 そして。

 既に敗退が決定している外来の杉下から『第27戦目』での白星を得て、伊角は急いで注目の対局を観戦するために移動する。

 

 多くの人が集まっていた。

 けれど、伊角が最終戦に勝利した事を知って、自ずと道が開いて観戦が出来る位置に付く事ができた。

 

『藤崎vs奈瀬』

 

 そこでは、忖度などが微塵も見えない、本気と本気の、全力と全力の、大激戦が繰り広げられていた。

 己の信念と磨き上げてきた実力を、大一番でぶつけ合う両者の姿があった。

 

 盤面は未だ序盤。

 

 伊角が観戦する前で。

 藤崎あかりが、渾身の一手を盤面に叩き込んだ。

 

 



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第21話

約9000字



 

 

 総当たり戦での『最終戦』

 その言葉の重みはトーナメントとは異なる。

 

 当然である。

 トーナメントであれば『最終戦』とは決勝戦。

 絶対に負けられない戦いとなるが、総当たり戦であれば、『最終戦』の時点で既に敗退が決定付けられている者も残念ながら存在する。

 

 そんな中にあって、極めて高い緊張感を持って視線を交す少女たちが居た。

 

 ──片や、肩より少し長い程度に茶髪を伸ばして、榛色(はしばみいろ)の瞳を真っ直ぐ正面に向ける少女。

 落ち着きを払った様子で、始まりの時を待っていた。

 

 ──片や、濡れ羽のような嫋やかさを持つ黒髪を左右で括ってツインテールにしている少女。

 黒々としながらも燦々とした光を含んだ瞳を前に向けて、膝の上の掌を真剣な表情で握り込んでいる。

 

 奈瀬明日美と、藤崎あかりだった。

 

 

 奈瀬は既にプロ試験合格を決めている。

 この最終戦で勝たずとも、プロ棋士になる道が拓けている。

 最終戦で勝ち星を落としたとしても、『成績』に限って言えば何の痛痒もない。

 

 藤崎はこの最終戦に勝たねば望みが絶たれる。

 逆に言えば、この最終戦を制すれば藤崎はプレーオフに進出して望みを繋げることが出来る。

 あまりにも、あまりにも重い最終戦。

 勝ち星を譲ってくれと懇願したくなるような場面。

 相対する者は同情心から勝ち星を思わず譲ってしまいたくなるような、そんな場面。

 

 

 しかし、対面する奈瀬は口をつぐみながら、今日この日まで考え続けて、その間一度もブレる事のなかった結論を胸に抱いていた。

 プロ試験に挑む前から、語り合い、助け合い、競い合い、ライバルとしても仲間としても切磋琢磨した仲である藤崎あかりに対する思い。

 

 ──『浅い』関係であったなら、譲った未来もあったかもしれないが。

 

 今日この場に座る奈瀬から。

 負けても失うものはないはずの奈瀬明日美から、油断という文字はまるで辞書から消えてしまったかのようだった。

 奈瀬がゆっくりと口を開いた。

 

「──あかりちゃん」

 

 静かに、そして厳かさすら感じさせる声音で奈瀬が言葉を紡ぐ。

 

「手加減、しないからね」

 

 迷いはない。それは嘘ではない。

 だが。

 奈瀬自身に葛藤があることを窺わせる言葉だった。

 

 もし仮に『藤崎あかり』との関係が、縁の『薄い』友人であったのなら、奈瀬は悩みながら勝ち星をそれとなく譲ったかも知れない。

 

 真剣勝負の場での勝ち星一つが、どれほどに重いのか、去年もプロ試験に臨んだ奈瀬もよく知るところだ。

 それこそ比喩ではなく、人生や命を懸けるに足るほどの重みを持つことすらある。

 

 そして既に必要のない勝ち星すら取りに行くなど、生半可な覚悟で出来ることではない。

 場合によっては、相手に一生恨まれるかもしれないのだから。

 

『正史』で、進藤ヒカルがとある局面で極限まで迷ったように、いや。それ以上にただ一つの勝ち星が途方もなく重いのだ。

 

 奈瀬は十分に勝ち星の重みを理解している。

 それでも奈瀬は一切迷わなかった。

 葛藤して内心でせめぎ合いながらも、心が出す結論は常に一つだけだった。

 

 真に(ライバル)と呼ぶのであれば、忖度など不要。

 手加減はあまりにも無粋とする、この道に骨を埋める者としての心構えから生まれる本音。

 真剣に向き合う故に融通が利かない思いから生ずる覚悟は奈瀬に手加減を許さなかった。

 

 ──とはいえ、ソレを勝ち星を失えば敗退する本人を前にして伝えるのは非常に勇気の要る行動だった。

 

 奈瀬の望みは本気でぶつかり合う事であるし、奈瀬のよく知る『藤崎あかり』は真剣勝負を望むはずと思っていても。

 しかし、奈瀬がどれほど渇望して予測して考え抜いたとしても、人の心を読むことは出来ない。

 

 目の前に座る唯一無二の友人が、勝ち星を譲ってほしいと微塵でも思っていたのなら、奈瀬の発言は友情に僅かな、けれど、決定的な亀裂を生じさせるに十分すぎる圧力を持っている。

 それほどに、勝ち星の一つが重いと奈瀬は知っている。

 

 

 だが、それは杞憂だった。

 奈瀬の言葉を受けた藤崎はまるで躊躇した様子も、動揺した様子も見せることなく、それが当然であると即座に頷いた。

 

「うん。──明日美ちゃん(ライバル)を倒して、私もプロになるから」

 

 そう、言い切った。

 真っ直ぐな瞳に揺らぎは一切ない。

 手加減も忖度も望まず、本気の真剣勝負を『最終戦』で望む、爛々とした輝きを含んだ瞳から発せられる視線が奈瀬を射抜いた。

 

 思わず奈瀬は震える。

 興奮から生じる武者震いだった。

 口元を微かに歪めて、興奮から来るブルリとした震えを拳を握り潰す事で抑える。

 

 ──最高の友(ライバル)

 そう断ずるに些かの躊躇も必要ない。

 

 高まり合う気迫が唸りを上げるような空間の中で、競い合い高め合う好敵手同士が、『最終戦』という大一番で激突する。

 

 

 ──失うものはない。

 だが、それでもライバルのため、そして何より『明日に繋がる碁』のため、プロ棋士として生きていく誇りのため、己の全てを駆使して勝利を得んと落ち着きを払った姿勢の中に烈火の如き闘志を燃やす奈瀬。

 

 ──負ければ道を失う。

 常に共に居た幼馴染と袂を分つ事となり、一年間という長きに渡って準備を強いられる敗退という結末が待ち受ける藤崎。

 勝てば天国、負ければ地獄。

 ここで勝てねば、秘めた想いすら遂げる事が困難になるかもしれないと思考に過ぎる藤崎の対局姿勢はまさしく不退転。

 

 両者ともに動機、気迫は十分。

 

 

「「お願いします」」

 

 激戦必定の『最終戦』の火蓋が切られた。

 

 

 黒番:奈瀬明日美

 

 白番:藤崎あかり

 

 第一手目を握る奈瀬から対局は始まった。

 互いに一手ずつを打ち合う、隅の星を取る定石に沿って展開する。

 

 このまま盤面はゆったりと進むかと思われた。

 

 ──しかし、藤崎第3手目。

 いきなり局面が動いた。

 

 藤崎が、厳しく真剣な眼差しで右上隅に打ち込んだ。

 

 そこは黒石の陣地内。

 右上隅の星に付けている黒石に対して、左から白石をケイマで当てていく。

 三線に打ち込まれた白石は『上辺(じょうへん)と右上隅』の左右を睨む、防ぎにくい強手であった。

 

 奈瀬はその一手にも冷静さを崩さない。

 入り込まれた白石をそのままに、上辺の地合いが大きいと見て、少し石を離して上辺を獲るため星に付けた。

 

 藤崎は先ほど侵入した三線の地を確定させる手を打つかと思われたが、ここでさらに攻めた。

 孤立する形となった右上隅にある奈瀬の黒石を囲うように、先ほど打ち込んだ白石からケイマを伸ばす。

 

 右辺にまで侵入しようとする白石を、奈瀬も堪らず黒石で塞いだが、藤崎はさらに伸びて圧力を掛ける。

 奈瀬はここでムキになって戦う選択肢もあったが、しばらく長考した後にあえて一歩譲る形で二線に下がった。右辺を厚くする構えだった。

 

 無理に追いかけても有利は作れない。

 藤崎は早々に見切りをつけて、左辺に展開する。

 自陣の白を補強する藤崎の一手だったが、それを見て、次は奈瀬から仕掛けた。

 

 やられたらやり返す。

 

 そう言わんばかりの『右下隅』に深く深く入り込む一手。

 先ほど藤崎が入り込んだのは三線であるが、上辺を睨むため左に寄っていた。

 

 だが、今回の奈瀬の一手は違う。

 同じく三線ではあるが、その中でも四隅にそれぞれ四つしかない『三々』と呼ばれる、地を作りやすいがあまりにも深く入り込むため、生きるか死ぬかの一手を藤崎の白石がある陣地内に放り込んだ。

 

 つまり、隅を寄越せとカチコミを仕掛けたに等しい。

 

 先ほどの藤崎の一手は攻めではあるものの、対処法に複数の手順があった。

 だが、ここまで入り込まれたなら、手順は戦闘開始以外にない。

 即座に対処しなければ地合いが大きく削られる事が必定の一手を打ち込まれたのだから、藤崎としても望むところだった。

 そして、藤崎は少しの長考の後に応手を返す。

 

 右下隅を起点に、激戦のゴングが鳴った。

 

 

 

 石同士が激しくぶつかり合う。

 奈瀬の狙いとしては、右上隅にある、先ほど二線に下がった黒石に繋げるか、下辺に侵入した黒石に『二眼(囲めば石が取れるルールであるため、目が二つあれば石を殺せない)』を作れば良い。

 侵入された側の藤崎としてはそのどちらも防ぎたい。

 

 お互いに譲らない激しい攻防が繰り広げられた。

 

 

 結果として、藤崎は下辺への直接的な侵入を防いだ上に、右上隅との合流も抑え込んだ。

 完勝である。

 

 しかし、それでも藤崎は侵入してきた黒石を殺し切る事が出来ない。

 奈瀬の黒石は周りを白石に囲まれながら、ジワリジワリと命脈を落としかねない盤面ではあるが、奈瀬の巧みな打ち回しで生き残っていた。

 

 碁とは石が繋がっていない場所にも打ち込むことが出来る。

 

 流れは遮断されたが、抵抗の術が消えた訳ではない。

 奈瀬はここまでは予想通りとでも言うかのように『右下隅に侵入させた黒石』の『左を埋める白石』を挟み込むため『下辺の隙間』にポンポンと奈瀬が二手、三手を放り込んだ。

 藤崎は流れを遮断することを優先したためそれらの黒石の台頭を許した。

 一進一退の攻防が続く。

 

 そこまで手を尽くしても右下隅から始まった戦いは終わる気配を見せず、右辺を埋めて、中央にまで石が流れてゆく。

 右下隅にある黒石が流動して下辺に地を作るために動き始める。

 それを藤崎が防ぎながら、主戦場は徐々に左に流れる。

 

 

 盤面を評価するなら、白番の藤崎が優勢。

 とはいえ、油断できない局面が続く。

 

 藤崎が勝利を狙うように、対面の奈瀬も未だ気力衰える事なく貪欲に勝利を求めて打ち続ける。

 

 左辺から上辺に展開が変化して、互いに再び黒石と白石がぶつかり合う攻防を繰り広げる。

 重なる手数が増えるたびに複雑な石の流れが生じる。

 それらに的確に対処しながら、一手一手と勝利を目指して両者が打ち続ける。

 

 

 奈瀬が『左辺の白』に対してヨセていく局面。

 思わず手拍子でウケた藤崎の一手から、優勢に揺らぎが生まれた。

 その失着とも呼べない僅かな差を生む一手から徐々に変化が生まれる。

 

 揺らぎを逃すまいと打ち込まれた奈瀬の一手。

 連続して紡がれる奈瀬の一手が、ヒシヒシとした圧力を伴って盤面を覆い始める。

 藤崎も負けてはいない。

 応手を繰り返す手は間断なく、的確に返している。

 

 しかしそれでも、奈瀬は一歩だけ上を行った。

 

 そして。

 複雑化する盤面では、たったの一手。

 ただ一度の好手が行く末を左右する事がままある。

 

 非常に、非常に複雑な盤面だった。

 プロ棋士ですら正確な応手が難しいほど複雑化した展開の中で。

 

 ──奈瀬は的確に急所を突いた。

 

 藤崎の手が止まる。

 衝撃を受けたように一瞬身体を震わせて、盤面を読み進めるにつれてジットリと嫌な汗が背中を伝った。

 

 地合いを制するには『ここしかない』という一手だった。

 

 プロとして生きる覚悟を決めた奈瀬の渾身の一手に藤崎の優勢は崩されて、奈瀬に盤面が傾いてゆく展開が読めた。

 

 しかし、まだその差は数目あるかないか。

 十分に挽回可能ではあるが、優勢を崩された衝撃は大きい。

 

 落ち着くために一息を漏らして、藤崎はより強い気迫を漲らせて白石を盤面に打ち込み続けるが。

 

 藤崎の未来に暗雲が立ち込めようとしていた。

 

 

 

 ──負けられない。

 

 藤崎あかりは負けられない。

 塔矢アキラ。進藤ヒカル。奈瀬明日美。

 共に勉強をした仲である者たちが続々とプロへの道に進んだのを見て、焦燥を感じていた。

 

 序盤の負けがなければ、と脳裏に過ぎったこともある。

 長い試験中だ。どうしてもその類の思考は増えてしまう。

 

 それでも藤崎は勝ち続けた。

 負ければプロに手が届かない。

 崖っぷちでそれでも気力を振り絞って勝ち続けた。

 

 それは大きな自信にもなったが、同時に色濃い疲労を蓄積することにもなった。

 連日に渡る気の抜けない対局が、2ヶ月間も続いたのだ。

 未だ中学生であることを加味すれば、むしろその間に集中力を切らさなかった事こそ賞賛に値する。

 

 藤崎は強い気持ち、勝ちたい気持ちだけで、ここまで打ってきた。

 優勢を保っている内はまだ良かった。

 碁の内容に集中することができた。

 

 だが、優勢を崩されてしまえば、気力だけで保っていた集中力も徐々に減退する。

 それでも気力を振り絞って、精神的にギリギリの状態で何とか食らいつき続けるが、見えてきたのは無情にも『敗北』の二文字だった。

 

 その二文字が見えた瞬間。

 恐ろしい程に冷たい風が心の間隙(かんげき)を吹き抜けた。

 

 それまでの気持ちが急激に冷めてゆく心地。

 あまりの冷たさに思考が叫んだ。

 身体が感応して、食いしばった奥歯が嫌な音を立てた。

 

 息が張り詰める。

 呼吸は荒くなって、手先は僅かに震える。

 落ち着こうと無理に吸い込んだ空気が痛かった。

 

 重圧。

 それが、ここにきて藤崎に襲い掛かっていた。

 

 恐ろしい。負けたくない。置いていかれたくない。

 

 全て投げ出したくなるほどの重圧が襲い掛かる。

 心の壁を引き剥がされて、芯にある柔らかい部分をジクジクと苛む。

 

 

 心中察するに余りあるほど、手を止めた藤崎の顔色は悪かった。

 

 そんな藤崎の様子に気がつき、グッと息を呑んだ奈瀬が、その姿を見て初めてブレる。

 迷いなど既に無い筈の心に再び葛藤が生まれる。

 

 互いを良く知る両者だからこそ生まれる心の綱引きに、声を掛けられる者など誰もいない。

 

 

 それは伊角も同様だった。

 観戦しながら、痛いほどに両者の気持ちが理解できる中で沈黙を守るしかない。

 

 藤崎のあまりの強さに圧倒されて、次に藤崎と戦うかもしれないと、そんな事ばかり考えていた先ほどまでの自分。

 自分を恥じるように伊角は顔を伏せる。

 

 ギリギリの精神状態で、ここまでの対局を作り上げた藤崎に対する尊敬に近い感情。

 このまま負けてくれれば、と一瞬だけ過ぎってしまう弱すぎる己の思考。

 

 盤外から対局を見つめる伊角にも、この『最終戦』はプロ棋士になるための資質を問おうとしていた。

 

 

 

(逃げちゃダメ……。ここで逃げたら。ここで逃げたら、ダメ。絶対に戻ってこれなくなる……)

 

 そう、理解しながら。

 それでも藤崎は次の一手が打てなかった。

 

 心とは非常に難しい。

 理性とは異なって、良い悪いで判別できる類のものではない。

 

 様々な要因が重なって藤崎の心を追い詰める。

 その重圧はあまりにも多くのモノを心から引き剥がしていった。

 

 そして。

 藤崎の芯にある大切な一つに触れた。

 

 心の奥底に取っておいた、淡い恋心に。

 

 ──水滴が水面を揺らすように、ジワリと熱が戻ってきた。

 暖かな気持ちが香るように心中に溢れた。

 

(違う……。逃げたいんじゃない)

 

 藤崎自身にもよくわからない。

 何故気がついたのかもわからない。

 けれど、自覚した瞬間に恐れが淡い雪のように溶けて消えていた。

 

(私が怖いのは、囲碁と、そしてヒカルに向き合えなくなる事なんだ)

 

 藤崎は恐れていた。

 この対局に敗北して、プロになれない事が怖いのだと思っていた。

 

 けれど、そうじゃない。

 本質が見えていなかった。

 

 一番怖いのは、これから続く人生の中で、指針を失ってしまう事だ。

 

『進藤ヒカル』という想い人を追いかけられなくなってしまう事。

 そして、囲碁と向き合えなくなってしまう事。

 

 プロ試験の『最終戦』で、藤崎が思い描いたのはプロになれないという恐れではなかった。

 

 藤崎が恐れていたのは、もっと根本的な部分。

 

 囲碁に真剣になっているのは間違いない。

 プロになりたい気持ちも本当だ。

 

 けれど。

 やっぱり、自分の本質はそこにあるのだなあと気がついて、藤崎はこれまでの震えや恐れが嘘のような、柔らかな微笑みを浮かべた。

 

 別に敗北など恐れる必要はない。

 だって。

 

 あのヒカルが。

 

(私の好きな人が、これくらいのことで置いていく訳ないもん)

 

 次は頑張れよ、と言いながら、また手を引いてくれる姿があまりにも容易く想像できて。

 想いは途切れないと確信出来て。

 

 いや、もし仮にそうでなくても。

 ──また全力で追いかければ良いだけだから。

 

 あの日見た色褪せない記憶が、『塔矢アキラ』と『進藤ヒカル』の煌めくような対局が、その脳裏には繰り返し映し出されている。

 

 藤崎あかりは、ここにきて、ようやく本当の意味で『覚醒』した。

 

 

 

 今までの動揺した様子から、打って変わって鋭い一手を藤崎が放った。

 だが、盤面はもう終盤。

 ヨセに入る直前である。

 

 ここからの巻き返しは、仮に『進藤ヒカル(佐為)』であっても不可能だ。

 藤崎はそのことを理解していた。

 澄んだ思考を取り戻した藤崎には終局までの一本筋が見えていた。

 

 それでも打った。

 もう少し、ほんの少しだけ早く動揺を鎮めていれば勝てたかもしれない。

 そう思いながらも一手に淀みなかった。

 

 打ちながら思う。

 ああ、やっぱり好きだなあ、と。

 

 その敗北を見据える瞳を、涙で潤ませながら。

 

 

 

 奈瀬は応手する。

 己の勝ちが揺るがないと確信している奈瀬も、藤崎の切り替わった様子に合わせて一手を積み重ねた。

 

 ブレてしまった奈瀬ではあるが、それでも。

 それでも真剣に打つことが藤崎のため、そして『明日に続く碁』になると思って、涙を堪えて険しい表情で打ち続けた。

 

 

 終局を迎える。

 その差はたったの半目。

 

 ほんの僅か、ほんの少しの差で、奈瀬明日美が白星を掴んだ。

 けれど、奈瀬の表情に喜びはなかった。

 

 勝敗が決して。

 整地をしながら、対面の藤崎が泣いていたから。

 

「……奈瀬ちゃん、ありがとう」

 

「ううん、ううん。私の方こそ……ッ」

 

「うん、大事な対局だから。──ありがとう」

 

 泣きながら、藤崎は笑っていた。

 負けても道は失われないと理解している。

 でも、それはそれとして、やっぱり負けるのは悔しい。プロになれなかったのは悔しい。

 清々しい気持ちがあるのと同時に、やっぱり悔しい。

 

 これまでの努力もあって、目前で逃したプロ棋士の道を思って。

 それ以上に、自分でも何故だかわからない涙が次から次に溢れてきた。

 

 奈瀬も、そんな藤崎の様子を見てから、気がつけばもう目も当てられないくらいの大号泣をしていた。

 

 それでも『ごめんね』とは言わずに『ありがとう』と言い合う少女たちの姿だった。

 その『ありがとう』は『打ってくれてありがとう』でもあり、色々な意味を含んだ『ありがとう』だった。

 

 

 

 

 

「──藤崎さん」

 

 泣きながら向き合う二人が落ち着いた頃を見計らって、伊角は声をかけた。

 奈瀬に向けていた泣き顔がこちらを向いて、涙の跡の残る表情が痛々しかった。

 胸が詰まるような思いで伊角は思わず言葉を切ってしまったが、藤崎は悲しそうに表情を綻ばせた。

 

「ごめんね、伊角さん。……再戦の約束守れなかった」

 

 その一言に伊角は思わず自責の念に駆られた。

 

 違う、違うんだ、と。

 そう胸の内で激しく吐き捨てた。

 

 藤崎が敗北したのを見て、一瞬でも戦わなくて済んだことに安堵してしまった自分がいた。

 信じられない気持ちだった。

 再戦を誓った相手が敗れて、それを一瞬でも喜んでしまった自分が、あまりにも無様で情けなかった。

 

 自分に藤崎に謝ってもらうような資格はないと、激しい自己嫌悪が心中を覆った。

 

 しかし、自責の念を引き出したのが藤崎の言葉だったように、その言葉を吹き飛ばしたのもまた藤崎の言葉だった。

 

 

「──伊角さんはプロ試験、合格してね。私の分まで、プロの世界で暴れてきて」

 

 一筋の涙を流しながら。

 それでも微笑んでそう言ってのけた藤崎あかりの姿に、伊角は胸を貫かれた。

 この状況で相手を気遣えるその精神性は信じ難いほど大きな衝撃を伊角に与えた。

 

 ライバルとの全力の勝負に敗れて、プロになる事が出来なかった直後。

 そんな時、他ならぬ自分が藤崎のように振る舞える自信が欠片もないからこそ衝撃は大きかった。

 

 戦わずに済んで良かったと一瞬でも考えた自分に対する自責の念。

 プレーオフに勝てるかわからない不安。

 あと一勝でプロになれるという浮つくような高揚感と期待感。

 

 不安定だった多くの感情を抱えた伊角の心中は藤崎のたった一言が綺麗に押し流した。

 

 切磋琢磨したライバルであり、共に歩んだ仲間でもある藤崎あかりの言葉を、真面目な伊角は真正面から受け止める。

 受け止めざるを得ない。

 

 それが『伊角慎一郎』だから。

 

 目を伏せて、目頭を押さえながら伊角が頷いた。

 

「……ああ、オレは、藤崎さんの分まで打つよ。オレ自身の碁で、キミに恩を返す時が来るように」

 

 道半ばで倒れた仲間の言葉を、バトンを引き継ぐようにしっかりと受け取った伊角は釣られて涙を流す。

 僅かな一筋だった。

 だが、その涙には様々な気持ちが含まれていた。

 

 伊角の気持ちを阻害する、色々な感情が涙と共に流れていった。

 

 後に残ったのは『プロになる』という強い気持ち。

 メンタルさえ落ち着けば、伊角は類い稀なパフォーマンスを発揮する。

 

 ようやく。

 プレーオフを目前にして、伊角の実力を阻害する障害が全て消えた。

 

「──オレは、プロになる」

 

 再戦を誓う日に、その時こそ堂々と再戦を喜べるように、固く固く心に誓った。

 強くなったライバル達に負けないくらい、自分の碁も強くしてみせると。

 

 顔を上げた伊角はそれまでとは別人のように精悍な顔つきになっていた。

 

 

 

 プレーオフは『最終戦』が行われてすぐに実施された。

 以前勝利を得た伊角が相手であることもあって門脇に緊張は少ない。

 十全に実力を発揮したと言って良い。

 それでも伊角はその上を行った。

 

 実力は申し分のない伊角が全力を発揮すれば、一年間の修行を行っていない今の門脇では敵わない。

『第2戦目』とは別人のようなサエを見せた『伊角の碁』だった。

 

 門脇は拳を握って、悔しながら血を吐くように敗北を宣言した。

 

「……ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 

 

 ここにプロ試験合格者三名が決定した。

 

『進藤ヒカル』:27戦27勝0敗(無敗)

 

『奈瀬明日美』:27戦26勝1敗(進藤●)

 

『伊角慎一郎』:28戦25勝3敗(門脇●進藤●奈瀬●)

 

 

 

 そして、少しだけ時は巡る。

 新年早々に『龍』が手ぐすねを引いて待っていた。

 

「──天野さん」

 

「ハイ?」

 

 塔矢行洋。

 言わずと知れた碁界最強の男が、鋭い真剣さすら滲ませて言葉を発した。

 

「新初段シリーズ、と言いましたか。例の対局は」

 

「え!? ──ええ! そうですが、もしや出て頂けるんですか!?」

 

 期待に頬を高揚させて質問した天野に、塔矢行洋が厳かに頷きを返した。

 その眼差しは今ここには居ない『一人の少年』を見据えている。

 

「その代わり相手を指名させてもらいたい。……彼と会うのは、もう二年ぶりになるか。この時をどれほど待ち侘びたことか」

 

 ビリビリとした気迫すら伝わってきそうな双眸に、天野は生唾を飲んだ。

 伝えられた対局相手に、天野はあの噂は本当だったのか、と仰天することになるが、それはまた別の話。

 

 

 新年早々からビッグニュースが碁界に流れた。

 口々に噂するのは、その『一人の少年』の実力を知って新しい時代を感じさせる予感に胸を弾ませる大人たち。

 

『塔矢行洋』vs『進藤ヒカル』

 

 若獅子戦で名を売った少年棋士が『龍』に挑まんと、ついにその牙を衆目の場に晒す瞬間が近づいていた。

 

 

 

 






活動報告にて。


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第22話

約4200字



 

 

『塔矢行洋』vs『進藤ヒカル』

 

 緒方はその一報を心待ちにしていた。

 両者との対局経験がある緒方だからこそ、より一層その至高とも呼べる対戦カードに興奮が隠せない。

 意気揚々と車を走らせて、さっそくと言わんばかりに塔矢宅にお邪魔していた。

 

 そして。

 静寂の中に威厳すら漂う、和の一室の中で緒方と塔矢行洋は碁盤を前に向き合って、パチリパチリと硬質な音を鳴らして小気味良く打ち合っていた。

 

「──驚きましたよ。まさか先生から対局を申し込むなんて」

 

「ふふ、年甲斐もなく騒いでしまったかな。すまないが、囲碁に関しては遠慮する気持ちを未だ持ち得なくてね」

 

「若々しいご様子で安心しますよ、名人塔矢行洋は安泰ですか」

 

「……さて、それはどうだろうね。勝負は始まってみなければわからない。そうだろう、緒方くん」

 

「……はは。いや、その通りです」

 

「キミやアキラから時折棋譜を見せてもらっていたが……、実に面白い子が出てきたものだ。あの日、研究会に誘えなかった事が悔やまれるほどだった」

 

「……私も、同じ気持ちです」

 

「緒方くんはいいじゃないか、私なんて二年ぶりだよ」

 

「名人に嫉妬されるとは、私も随分といい立場を得たものですね」

 

「はは、嫉妬、嫉妬か。そうだな、そうかもしれないな。……久しく覚えていない感情だったせいか、忘れていたよ」

 

「対局を、楽しみにしています」

 

「ああ、期待してくれたまえ。彼とはもう何年もの付き合いに感じるほど、その棋譜を並べさせてもらったからね。実に良い刺激になった。……逆コミとはいえ、そう簡単に白星を譲るつもりはない」

 

 凄まじさすら感じる眼光を受けて、緒方は冷や汗を流しながら応手した。

 

「……本当に、楽しみですよ」

 

 その言葉は、嘘偽りのない緒方の本心だった。

 未だ緒方ですら、連戦に連戦を重ねても一勝も奪えていない『怪物』進藤ヒカル。

 緒方の感覚では、もはや読めない領域に棲んでいる者が二人。

 

 『塔矢行洋』。

 

 そして『進藤ヒカル』。

 

 この二人が紡ぎ出す対局に、プロ棋士として血が騒がない訳がなかった。

 

 

 

 

 

 風が冷たい日だった。

 あかりの家から帰る道すがら、コートを羽織ってヒカルは帰路を歩いていた。

 スニーカーが微かな靴の音を闇夜に響かせる。

 ザリザリと音を立てる、闇と同化しているように暗いアスファルトの道路がひたすらに続いている道を歩きながら、ヒカルは佐為の言葉を聞いていた。

 

『思ったよりもあかりが元気で安心しましたね。プロ試験に落ちてしまった事は残念ですが、けれど、あかりならきっと来年は受かりますよ!』

 

「──佐為」

 

『はい、ヒカル』

 

「お前、打てよ」

 

 長らく考えて出した結論であろうことは、自分を見つめる真摯なヒカルの視線から察することが出来た。

 その言葉が意味するのはたった一つだ。

 先日電話で知らされた、『塔矢行洋』との一局。

 その対局に関する言葉だと、佐為には理解できた。

 

 佐為の中に生まれたのは、動揺という気持ちが最初だった。

 次いで不安、その後に喜びが溢れてくる。

 

 動揺はいつものように『二人』で打つものだと思っていたから。

 喜びは、碁が打てる喜びだった。

 不安は──、佐為自身もイマイチわからず、まぁいいかと喜びの感情に従って表情を明るくさせた。

 

『い、いいんですか? その、いつもみたいに打たなくって』

 

「いーよ。まぁオレも一緒に打ちたいっちゃ、そりゃ打ちたいけどさ。お前、ずっと塔矢の親父と打ちたがってたもんな、譲ってやるよ」

 

 サッパリとした笑顔を向けるヒカルに、感極まってブワッと佐為が大粒の涙を滝のように流し始めた。

 

『ひ、ひ、ヒカルぅぅぅぅ!! わ、私は、私は幸せ者ですぅぅぅ!!』

 

「おいおい、大袈裟な奴だなー。……勝てよ、佐為。逆コミなんてないくらいのつもりで、勝てよ」

 

『ぐすっ、はい……! それはもう、私はいつだって全力で打ちますよ……!!』

 

 今からメラメラと燃えるような闘志を燃やし始めた佐為に、ヒカルは苦笑しながらも足取り軽く帰路に着いた。

 これでいいんだと、そう思い込みながら。

 

 

 

 

「──えっと、一番手は進藤? しかも、相手は塔矢名人って……、進藤ってば、塔矢一家に好かれ過ぎでしょ」

 

「ははは、まぁその気持ちはオレたちにも理解出来るだろ?」

 

「うー、まぁそうなんだけどさー。なーんか釈然としないのよねー」

 

 奈瀬と伊角は日本棋院に顔を出していた。

 幽玄の間で行われる、『塔矢行洋vs進藤ヒカル』の一戦を控え室で観戦するためだった。

 

「伊角さんは、桑原本因坊とだったよね」

 

「奈瀬は一柳棋聖だろ?」

 

「そう! 今回の新初段シリーズは豪華よね、みんなタイトルホルダーが相手してくれるんだもの、滅多にないよね? こんなことって」

 

「それだけ、期待されてるのかもな。……こないだの週刊碁見たろ?」

 

「新しい時代って奴? 見たわよ、ちょっと恥ずかしかったケド」

 

 少し頬を染めながら髪を弄る奈瀬に伊角が笑った。

 

「はは、まぁ奈瀬はそうなるか。なんたって『女流の超新星』だもんな」

 

「あーもー! 思い出さないようにしてたのに! 私って、去年の今頃はウダツあがらないで唸ってたって言うのに、そんな急に持ち上げられたら恥ずかしいのなんのって……」

 

「けど、実力は本物だ。……それは、プロ試験で奈瀬と戦った全員が認めてるよ」

 

「ん、ありがと。──でも、それとこれとは話が別なのー!!」

 

 そんなことを言い合いながら二人が控え室の扉を開ければ、そこではバチバチに火花を散らせる『緒方九段』と飄々とした『桑原本因坊』が座っていた。

 

 

 

 

「──どれ、最近は随分と調子がイイみたいじゃの、緒方くん。敗戦の苦味はイイ経験になったかね? あの倉田くんにも勝つとは大したもんじゃないか」

 

「お陰様で、とお答えしたいところですが、少し違いまして。本因坊のご期待には添えなさそうですね」

 

「ほほぉ! もっといい経験を積んだか、それは上々。まぁ、それでもまだまだ若いもんには負けられんが。──緒方くんの好調にはこの小僧が関係していると見たが……、その表情を見るに正解か。ふぉっふぉっ」

 

「相変わらずの察しの良さですね」

 

『妖怪ジジイ』という副音声が聞こえてきそうな声音で緒方が答えれば、また楽しそうに桑原が笑った。

 

「ふぉっふぉっ、わしのシックスセンスも捨てたもんじゃなかろう? ……まぁ今一番気になるのは、あの小僧だが」

 

 それまでとは打って変わって、真剣な眼差しでここではないどこか。

 恐らくは幽玄の間を思い描いているであろう視線を感じて、緒方はタバコを取り出しながら頷いた。

 

「……同感ですね」

 

「これ、緒方くん。そんなアメしゃぶってどうする。こっちにしたまえ」

 

「結構」

 

「ふぉっふぉっ」

 

 

 

 そんな会話を尻目に奈瀬と伊角は既に入室していて、トップ棋士の二人が居る事に驚きながら隅に移動してコソコソと話し合っていた。

 

「……やっぱり、進藤って只者じゃないわね、普通あの二人が観にくる!? 緒方九段は別としてだけどさ」

 

「まぁ進藤が只者じゃないっていうのは以前からわかっていたことだが、緒方九段はやっぱり進藤に注目してるんだな」

 

「そりゃそうよ! だって……」

 

 そこで奈瀬が言葉を区切ったのは、言うな、という無言の圧力を背後の緒方から感じたからだった。

 咄嗟の機転で思いついた記憶を口走った。

 

「だって、回らないお寿司奢るくらいだもんねぇ!」

 

「……オレ、それ知らないんだけど」

 

 少し寂しそうにした伊角が居たが、被害はそれだけに収まって、二人のトップ棋士は会話を続けた。

 

 

 

 

「……キミや名人が気にかけているところを見るに、やはり只者ではないな、あの小僧」

 

「……どこかで会ったことがお有りで?」

 

「いんや。若獅子戦で優勝した院生がいると、チラッと見た時に只ならぬ気配を……。そう、背筋がゾクゾクとするほどのモノを感じて、な」

 

「ふっ、そうですか」

 

「おや、緒方くんは随分と詳しそうじゃないか。自慢ついでに、あの小僧の事をこの老骨に教えてくれんかね。ん?」

 

「……始まれば、嫌でもわかりますよ。私と名人が注目する理由がね」

 

「ふぉっふぉっ、それもそうか」

 

 そんな会話の節目で新しい人物が顔を見せた。

 この場にいるのに最もふさわしいと言えそうな人物。

 塔矢アキラだった。

 

「え、っと。緒方さんに、桑原先生?」

 

「あ、塔矢くん。こっち来て、ホラホラ」

 

「奈瀬さん。こんにちは」

 

 落ち着いた様子で挨拶するアキラに、桑原が興味深そうに問い掛けた。

 

「キミは確か、名人の息子だったかな?」

 

「はい。桑原先生、はじめまして。塔矢アキラと言います」

 

 礼儀正しくお辞儀したアキラに桑原が続けた。

 

「キミは確か、若獅子戦で小僧とやり合った……んだったかな? ふぉっふぉっ、ライバルの視察というわけか、感心感心。緒方くんもこれくらいの熱心さがあれば、わしから本因坊を奪えたかもしれんの」

 

「随分と話を蒸し返しますね」

 

「おや、気に障ったかね?」

 

「とんでもありませんよ、『本因坊』」

 

「ふぉっふぉっ、これこれ、年寄りを興奮させるもんでないわ。つい、イジらしくて『笑って』しもうた」

 

「ははは」

 

「ふぉっふぉっ」

 

 まるで狐と狸の化かし合いを見るかのような光景に、さすがにアキラも少し困って表情を苦笑いに変えていた。

 

 

 

 

「──進藤くん」

 

「……はい」

 

 

 幽玄の間に移動する最中の会話だった。

 廊下を通って、一室に入る前の軽い会話。

 塔矢行洋は落ち着いた声音で、長らく待った邂逅を経ていつもより少し軽くなった口で言葉を続けた。

 

「私が言えた義理ではないかもしれないが、キミは二年前から随分と成長したようだ。……今日の一戦は、実は私からキミを指名させてもらったんだよ」

 

「……!」

 

「アキラと緒方くんが世話になっているようだね。……あの子には良い刺激になっただろう。緒方くんも、最近の調子を見るにアキラと同じだろうね。果たして私がどうなるのか、少し興味があるが。──何より、キミの力を知りたい」

 

 幽玄の間の前に辿り着いた。

 澄んだ風が身体を吹きつける。

 場の雰囲気が、神聖さすら感じさせる威厳に満ち溢れている。

 

 真剣勝負の場。

 本来ならば、重要なタイトル戦などでしか使用が許されない一室。

 

 そんな厳かな雰囲気の只中でそう告げた塔矢行洋は、返事を待たずに碁盤の前へと足を進めた。

 

 ──さァ今すぐに打とう。

 

 そんな言葉にならない意志がヒカルの身体を打った。

 ブルリと武者震いが身体を通過して指先までを温めた。

 

 (うずたか)く積み上げられた歴史。

 その最前列に加わる心地で、ヒカルは対面に腰掛けた。

 

 盤を挟んで向かいには塔矢行洋が座っている。

 鋭い眼光が正対するヒカルを見据えている。倒すべき強者として、見据えている。

 

 ようやく。

 待ちに待った最高位の戦いの幕が上がろうとしていた。

 

 

 






予定では、あと2話か、3話で完結します。
もうしばらくお付き合いくださいませ。


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第23話

約3000字



 

 

 

 幕が上がる前に、両者は盤面を挟んで向かい合う。

 張り詰めた空気を感じる。

 ヒカルはそんな中で、どうするか、少しだけ迷っていた。

 

 佐為は強い。

 それは誰よりもヒカルが知るところだ。

 これまでの経験を通じて、塔矢行洋に勝るとも劣らないと確信している。

 

 それこそ半目差を競い合うほどの激戦になると、漠然とした感覚で理解できた。

 だからこそ惜しい。

 この戦いが逆コミという、大きすぎるハンデを塔矢行洋が背負わなければならない事実があまりにも惜しい。

 

 プロとなってからも負けるつもりはない。

 タイトル戦の予選から勝ち上がれば、二年後には互先で対局できるだろう。

 

 だが、もっと早くに実現できるのに、この状況を甘んじて受け入れるのか。

 今日この日、この幽玄の間で対局が出来るというのに、それを逆コミというハンデを含んだ状況で打つのか。

 

 せっかくの機会を逃しても良いのか。

 ヒカルは迷いに迷いながら、チラリと背後を仰ぎみた。

 

 そこには真っ直ぐに好敵手を見据える、ヒカルの知る中で最強の棋士の姿があった。

 覇気の溢れる表情で微笑む佐為の姿があった。

 

 それをみて、ヒカルは少し微笑んだ。

 迷うまでもなかったな、と。

 

 

「名人。あの、少しお願いがあります」

 

「……何かね? 言ってみなさい」

 

「オレと、互先で打ってもらえませんか」

 

 その一言は周囲の静寂に溶けた。

 記録席に腰掛ける天野や、女流の棋士の発する『この子は何を言っているんだ』という静寂だった。

 

「それは、この場で、という意味か。それとも場を設けてほしい、という事かな」

 

「今です。今、この場所で、互先で打ってくれませんか」

 

「し、進藤くん!?」

 

 ようやく事態を把握した天野が声を荒げたが、塔矢行洋はスッと手を上げて天野を下がらせた。

 落ち着きを払った声音でヒカルの要望に応えた。

 

「──いいだろう」

 

「「先生!!?」」

 

「だが、他の者たちへの示しをつけるためにも、こうした記念戦でのルールを変えることは難しい。公式にはキミが逆コミを持った状態での棋譜として残るが、それで構わないね?」

 

「……ッ!! はい!」

 

「キミねぇ!? 記録だけでも名人に勝ちたい気持ちはわかるが、そんな提案は失礼だよ!?」

 

「オレ、負ける気はないです。互先でも」

 

 気迫の篭ったその一言に天野は黙った。

 言葉にというよりも、進藤ヒカルから発せられる迫力に押されて口をつぐまざるを得なかった。

 

 だが、あまりにも常識を脱した提案だ。

 それこそ、逆コミでも勝てないから、記録上は勝利で収めるために実際は互先のつもりで打ってくれと言っているようにも取れてしまう。

 ヒカルが意志を変えるつもりはないとみて、代わりに天野は塔矢行洋に向かって苦言を呈した。

 

「名人……。公式記録では、逆コミとして残りますよ? そこはどうしても変えられません」

 

「無論だとも。私は一向に構わない。……この少年と、進藤くんと本気の対局が出来るならば」

 

 その程度安いものだと言わんばかりに塔矢行洋は表情を緩ませた。

 

「キミには以前迷惑を掛けてしまった。少し遅れてしまったが、その代わりとでも思ってほしい。キミに侮りの言葉を投げ、そして敗北を喫した事実を前には軽いだろうが、せめてもの償いだよ」

 

「ま、負けた? 名人が?」

 

「そ、そういえば噂で聞いたことが……。当時小学生の少年に名人が中押しで負けたとか、何とか」

 

 天野と女流棋士の視線がヒカルに集中した。

 その中で堂々と、ヒカルは縦に頷いた。

 

「オレ、前みたいに勝つ気しかないです」

 

「き、キミねぇ!? いくら何でも名人に対して失礼すぎるよ!!」

 

「いや、構わない。彼にはそれを言うだけの権利も、実力もある。……キミたちには、彼の発言はタイトル戦での舌戦とでも思ってくれればいい。私の発言に関してもね。リップサービスと言ったかな」

 

「いや、先生。確かに進藤くんは実績もありますが、タイトル戦って、新初段相手に何を仰るのか……」

 

「私はこうも思うのだよ。彼がこういう言葉を使うのも、必要だからではなかろうか、とね。万が一にも私が全力を出さない、などという可能性を排除しようとする意志を感じる。……安心したまえ、進藤くん。キミとの対局を願ってから、いや。キミとの敗戦を経てから、一度たりとも私はキミを侮ったことなどない。──名人として、全力で打たせてもらおう」

 

 塔矢行洋。

 五冠を誇る、日本が産んだ世界にも通用する最高位の碁打ちである。

 そんな彼が新初段に対して、一切容赦しないという宣言を行う。

 

 それがどれほどの異常事態であるのか、理解できない者はこの場には居ない。

 

 駒は進められる。

 対局は既定路線である。

 誰が何を言おうが、この対局は行われる。

 

 進藤ヒカルは──いや。

 藤原佐為は、ヒカルの背に立ちながら只ならぬ気配を漂わせる。

 この時代において、自らに迫り得る者との、待ちに待った対局。

 それも当初の逆コミではなく、互先での本気での勝負。

 その事実に昂らない訳がない。

 

『ヒカル。あなたに深く、深く感謝します。これまでもですが、今日ここに至れたのはあなたが共に居てくれたからこそ。本当にありがとうございます』

 

(そういうのは、勝ってからでもいいんじゃないか? ……魅せてくれよ、佐為)

 

『ええ、必ずや。ご期待に応えてみせましょう』

 

 そこでふと、佐為は違和感を感じた。

 ヒカルを上位に置くことに否はない。恩を考えれば足りないほどだ。

 

 そこではなく、もっと根本的な部分での違和感。

 まるで何かが足りないと感じるような不思議な心地。

 

 ふと塔矢行洋から視線を外して、ヒカルに視線を下ろした。

 そこに座る、未だ年若い愛おしさすら感じる少年の姿を視界に収めて。

 

 ああ、そうか、と佐為は微笑みを浮かべた。

 不足していたものがわかった。

 以前に感じた『不安』の正体も理解できた。

 

『……ふふ、いえ。違いますね。共に行きましょう、ヒカル』

 

(・・・佐為?)

 

『──私だけで打っても良いというヒカルの提案はとても嬉しく思いました。それは本心です。しかし、それでは物足りなくなってしまったようです。幾つもの対局を経て、私とヒカルは共に進んできました。成長を、糧を、目標を共有してきました』

 

 再び佐為は目の前の碁盤を見据えた。

 その先に腰掛ける好敵手の姿も見える。

 

 素晴らしい一局が待ち受けているだろう。

 心躍る戦いがそこにはあるだろう。

 

 自分一人だけで打つ選択肢も、ある。

 

 けれど。

 何よりも碁が大好きな佐為だったが、ほんの少しだけ、現世で過ごす中で変化していた。

 ヒカルと共に生きる中で、僅かばかりの変化を迎えていた。

 

 囲碁が好きだ。その気持ちに微塵も偽りはない。

 それは今までと変わらないけれど、少し、その中に少しだけ新しい存在が加わっていた。

 

 進藤ヒカル。

 

 目の前の一局も良い。心が惹かれる気持ちに嘘はつけない。

 けれど、灯に惹かれながらも佐為は足を止めて振り返る。

 

 ヒカルと共に生きたい。

 共に『神の一手』を、目指したい。

 

 確信的なその想いを抱いてしまったからには、無視する事など出来るはずがなかった。

 囲碁も大好きだが、ヒカルのこともまた、大好きだから。

 これがあらゆる意味での最善手。

 

『……既に私とヒカルは一心同体。表裏一体とも呼べる間柄ですから、どちらかが欠けては辿り着けないでしょう。──共に行きましょう、ヒカル』

 

 神の一手を求める、その道を共に。

 

 言葉にはならぬ思いを胸に秘めて、ヒカルに思いが伝播した。

 驚きながらも、ヒカルは嬉しげに頷いて黒石を握る。

 何の不安もない全能感がヒカルの全身を柔らかく包み込んでいた。

 佐為が示すように、ヒカルが思うように最善の一手は追求される。

 

 カチリと互いの歯車が噛み合い──

 

『『右上スミ 小目』』

 

 二人の()が重なった。

 

 

 



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第24話

約9000字
本日2話投稿の1話目


 

 

 

『塔矢行洋vs進藤ヒカル』

 

 最高峰の戦いであってもルールは変わらない。

 囲碁とは交互に打ち合い、地を競い合う戦いだ。

 

 故に右上隅から始まったこの最高峰の対局も例に漏れず、互いに四隅を取るところから始まった。

 

 左上に○。右上に●。

 左下に●。右下に○。

 

 対角線上に互いの石が配置される至ってスタンダードな配置だった。

 

 そして、進藤ヒカルの第3手目。

 ──盤面が動いた。

 

 戦いが待ちきれないとばかりに、左上隅にある白石に対してボウシ(中央方向から被せるような手)の一手をヒカルが放ったが、牽制も込めた一手は互いに睨み合うような距離感で数手を打ち合うに留まって、戦いには発展せずに双方ともに手を引いた。

 

 この二人は実質の初戦と言ってもいい。

 互いに棋譜を知っているが、盤面で向き合い、鎬を削り合うからこそ見えてくるモノがある。実践で得る情報量は桁が違う。

 

 両者ともにその力量は最高峰。

 故に見えるレベルもその水準である。

 

 僅か三手の邂逅で、互いに互いの力量をほぼ正確に把握し合う。

 そこで感じ取ったイメージは双方共に似通っていた。

 

 つまり、好敵手であるという確信である。

 

 塔矢行洋はその確信を胸に秘めながら独白を続けた。

 

(……棋譜から、彼のことは知っているつもりだった。しかし、やはり向かい合わねば見えないものもある。──特に、この気迫だ。まるで古豪と向き合ったかのような威圧感。弱冠14歳の少年が、これほどの迫力を滲ませるとは)

 

 手を重ねながら、塔矢行洋の視線は正面を向いていた。

 足を崩して胡座をかいている少年は真剣な眼差しで盤面を見据えている。

 

 淀みのない手付きは風格すら感じさせる。小さな筈の身体が異様な程に大きく見える。

 思わず少しだけ口角を上げた。

 

(相手にとって不足なし。だが、想像だけで相手を大きくしてしまうなど、私らしくもない。……それだけ、期待してしまっているのかもしれないな)

 

 単に大きく見えているだけなのか。

 それとも大きくあって欲しいという願望が反映されたが故なのか。

 

 それを確かめるべく『最高の棋士』は勝負を仕掛ける。

 塔矢行洋の握る白石が盤面に鋭く切り込んだ。

 

||

左|   ●

辺|   

||  

 |

 |   ○←

 |         ●

 |   ●

 |

  ─────────

ー左下隅ー ー下辺ー

 

 

 

『ヒカル』

 

(ああ、さすが塔矢の親父。良いとこ打ってくる)

 

 思わず佐為とヒカルは手を止めた。

 打ち込まれた場所は、左下隅。

 それも、黒石が3つ連携し合って厚みがある場所に、ここしかないというタイミングで打ち込んできた。

 

『二人』のヨミでも、この先は未知数。

 手順があまりにも多いため、終局図を予想することは不可能だ。

 それでもある程度の予想は付けられる。

 

(左辺に侵入するつもりか、下辺に圧力を掛けながら活路を探るつもりか……)

 

『序盤によくある一手ですね。二者択一の選択を相手に委ねる手ですが、かの者ならどちらでも構わないと考えているでしょう』

 

(んだな、オレたちもよくやるもん)

 

 入り込んだ場所が良い。

 この位置なら地合いを作れる余地がありながら、二辺に圧力も掛けられる。

 とはいえ、注目すべきはここからだ。

 この後の複雑な手順を(こな)せると確信するからこそ入り込んできた一手。

 

 どのように対処するか、迷うところだったが。

ヒカル(佐為)の意思は既に統一されていた。

 

 無言で意思疎通した二人は上辺を守るため塞ぎに掛かる。

 

 当然その後には下辺に攻め入るべく白石が伸びてくる。

 その対処をつつがなく行いつつ、左下隅は黒石と白石が交錯し合う。

 

||

左|    ●

辺|    

||  ●

 |

 |    ○●←

 |    ○●    ●

 |   ●●○○

 |

  ─────────

ー左下隅ー ー下辺ー

 

 

 

 中々見られない石の形を形成しつつ、互いの石は分岐した。

 左辺に近い白石二つは孤立しているが、そこから『白番』は一間に飛んで左辺の黒石に付ける。

 

 黒は白石を殺すために動けば左辺に嫌な形で侵入される。

 それを嫌ってヒカル(佐為)は左辺を守る打ち方で応えた。

 

 その後も中央に伸びる姿勢を見せた後に、再び左下隅に入り込む動きを見せる白石。

 攻守のバランスの良い碁で塔矢行洋は盤面を進めていく。

 

 ヒカル(佐為)も負けていない。

 左辺を守りながらも、下辺に侵入されない打ちまわしで容易に荒らさせず、地合いを守る。

 それでも幾らかは削られるが、戦況は拮抗していた。

 

 そのまま幾つかの手を左下隅で応手を繰り返し、そして盤面が展開する。

 

 隙を見て置いてあった右上隅の『白石』が脈動を始める。

 

 それを見て位置の関係上として、このまま上辺を維持することは難しいと判断。

 ヒカル(佐為)は右辺の厚みを作るために『一旦』上辺から手を引いて縦長に右辺を埋めていった。

 

 

 ー上辺ー       ー右上隅ー

 ────────────

              |

         ○    |

           ●  |

          ○●  |

          ○   |

          ○●  |

          ○●  |

           ●← |

 

 

 縦に伸ばす石を追いかける基準は人によって異なるが、塔矢行洋はある程度の白の厚みを形成した後に上辺を強めるべく手を変えた。

 上辺星付近に布石を打ち、これによって白は左上隅、上辺星、右下角と地合いを作るための三角形を形成する。

 

 

 入り込むなら、今しかない。

 荒らしとはタイミングが肝要である。

 

 ヒカル(佐為)がそれを見逃す訳もない。

 即座に咎める一手を白陣地に打ち込み、乱戦が始まった。

 

 

 ー上辺ー       ー右上隅ー

 ────────────

              |

○     ●← ○    | 

    ○      ●  |

          ○●  |

          ○   |

          ○●  |

          ○●  |

           ●  | 

 

 

 入り込んできた黒石の逃げ場を無くすように、塔矢行洋はさらにボウシで黒石に被せる。

 これで黒石が生きる道は乱戦しかなくなるが、これを望んでいたと言わんばかりにヒカル(佐為)は上辺で手を重ね続ける。

 

 複雑な石の絡み合いに、もはや余人が入り込む余地がない。

 

 ー上辺ー       ー右上隅ー

 ────────────

   ●   ●○     |

○ ○○● ●→●○    | 

    ○● ●○  ●  |

     ○○   ○●  |

          ○   |

          ○●  |

          ○●  |

           ●  | 

 

 

 コウ争いと呼ばれる戦いがある。

(『コウ』とは→●のように互いに『当たり』になっており次の手で取ることができるが、ルール上取られてすぐの石は取り返すことが出来ない。そのために生まれる一種の膠着状態)

 

 互先の一局では石一つが戦況を左右する。しかし、地合いもそれ以上に重要である。

 そのため石は取りたいが、それ以上に打たれてはマズい場所を探して重箱の隅を突くように牽制して、石を取られては取り返す、という根気のいる勝負の事である。

 

 そして、コウにはもう一つ意味がある。

 それがコウ弾きと呼ばれる戦略であり、通常であれば殺されかねない石もこの形に持ち込めば生き残る事ができる。

 

 が、今回の形はそれとも異なる。

 死路が幾重にも見えるほど危険な状態になりながら、それでも生きている。

 常人には理解不能な鬩ぎ合いを行って、ギリギリのところでバランスを取っている状態。

 

 

 ──死線を見切って打つような碁である。

 

 踏み込み、相手の懐に飛び込んだヒカルの頬を塔矢行洋の刀が撫でる。

 薄皮一枚を切り裂かれながらも止まらず、ヒカルは刀を振るうが、塔矢行洋は足を入れ替えて決死の攻撃を避ける。

 

 しかし、踏み込んだヒカルが立つ場所は死地だ。

 気を整えて正眼に構える塔矢行洋の連撃が襲い掛かり、しかし覚悟していたヒカルはその全ての致命傷をすんでのところで避け切る。

 が、それすら見越した塔矢行洋の会心の一撃が見舞われる。

 

 甲高い、刀が奏でる快音が鳴り響いた。

 

 鍔が競り合っている。

 刀身ではなく、鍔で斬り合うような至近距離で向かい合っている。

 両者ともに不敵な笑みを浮かべ合い、尚も激しく斬り合い続ける。

 

 まさしく死闘。

 踊るように、しかし確実に相手の命脈を削るべく心血を注ぐ真剣勝負がそこにはある。

 

 そして。

 塔矢行洋が新たな一手を仕掛ける。

 

 

 左辺に位置する黒地。

 そこに放り込む一手だった。

 コウダテ(コウを取るために牽制する一手)として放り込まれた手ではあるが、『二人』の思考は手拍子で受けるのではない方向に飛躍した。

 

 お互い阿吽の呼吸で理解する。

 二人の心が一つになる。

 お互いの打ちたい手を理解して、語らずとも、ヒカルの碁の中には佐為が。佐為の碁の中にはヒカルがいる。

 言葉など無粋であるとばかりに以心伝心する二人の思考は直結している。

 もはやどちらが思い付いた発想であるのかも判らない程に溶け合っているけれど、そこに不快感はない。透き通った思考がひたすらに最善を追求していた。

 

『……ヒカル』

 

(ああ、『左辺を捨てる』)

 

 あまりにも大胆な戦略だった。

 ほぼ確定地と言って良い30目ほどの地を捨てる判断。

 

 しかし、『二人』のヨミではその方が勝率が高くなった。

 手数は僅かに70手目。

 その時点で、脳裏に終局図のパターンがほとんど浮かび上がっていた。

 

 盤面で言えば序盤を脱して中盤に差し掛かった辺りである。

 尋常ではない思考の飛躍だった。

 

『ここを捨てれば、かの者は取るために必ず隙が生まれるでしょう。それを突けば、確実に有利を取れる。……しかし、ヨミ誤れば奈落への一本道』

 

 例えるならそれは、奈落に架かる一本のロープの上を進むが如き難題。加えて相手はただの打ち手ではない。最高の棋士である塔矢行洋である。

 勇気を通り越して無謀であるほどの挑戦に、ヒカルと佐為は挑まんとしていた。

 

(見えちまったら、試さずには居られない。──それが、『神の一手』に近づく唯一の道だろ?)

 

 それでも尚、ヒカルと佐為は笑みを浮かべている。

 挑戦出来る事が何と心躍ることか。

 無謀に近い挑戦ではある、しかし。

 

 打ち手は『最強の棋士』。

 

 佐為はゾッとするほど妖艶な笑みを浮かべていた。

 

『ええ、私たちなら、この細い光明すら辿れるでしょう。行きましょう、ヒカル』

 

(ああ。行こう、佐為)

 

 もっと、もっと先へ。

 遥かな先に見える一手を目指すため、二人は歩みを止めるつもりは毛頭なかった。

 

 

 

 ──ヒカルの才能は成長を続けていた。

 

 塔矢アキラとの中学囲碁大会での一局から始まり、『sai』としての対局。

『sai』として、再びの塔矢アキラと対局。

 若獅子戦でのプロたちとの真剣勝負。

 緒方との心躍る対局。

 プロを目指す卵たちから受ける挑戦心溢れる対局。

 

 そして、今日この日の塔矢行洋との一戦。

 

 全てが大いなる糧となった。

 それはヒカルのみならず、佐為にも大きな影響を与える。

 

 現代の定石を学び得て、最善の一手を追求する日々。

 虎次郎に勝るとも劣らない才能ある若人が、進んで自らに打たせてくれる幸福を噛み締める日々。

 弟子を持って育てる日々。

 共に打つようになって、どんどんと成長するヒカル。

 互いに強い影響を与え合う。

 

『本来』の二人の関係であったのなら。

 佐為のあらゆる累積はヒカルに『吸収』される運命にあった。

 次代に繋ぐため、神が与えた己の使命が『ヒカルに遺す事』だと気がつき、佐為は己の天命を知った故に消えた。

 

 だが、運命のイタズラか、そうなってしまう余地は消えた。

 

 ヒカルは『吸収』しながらも、それだけに止まらず佐為にも与える道を選んだ。

 与えるだけであった『藤原佐為』という人物に、ヒカルは受け取るだけでなく、あらゆるモノを返還した。

 さながら『二人』の間で尽きぬ水が回るように。

 

 与えては与えられ、いつしか循環する流れが出来上がっていた。

 流れは『縁』と『円』を強固にする。それは運命すら打ち砕く力となった。

 

 奇跡とも必然とも呼べる二人の関係性は新たな怪物を生み出した。

 

 無限の竜は尾を噛み合う。

 際限なくどこまでも、果てなく高め合う竜の誕生だった。

 

 

 

 

 当然のように塔矢行洋も異変に気がついた。

 しかし、何を狙っているか、さすがの塔矢行洋を以ってしても読めない。知る由もないがそれほど常軌を逸した戦略である。

 左辺を取った塔矢行洋としては十分に有利と言っていい状況である筈なのに、意図が読めないため不気味な展開だった。

 

 だが、譲られた左辺を取らない選択肢はない。

 釈然としない心持ちで警戒しつつ、シッカリと地合いを固めながら、塔矢行洋は盤面を進めてゆく。

 

(……今の展開であれば、常道ならば左辺を守る。だが、進藤くんはあえて守らず右上隅に数手を重ねた。……私が有利となった筈だ。だが、なんだこの漠然とした不安感は。足元が揺らいでいくような感覚。……これが目的か? いや、何かを狙っているのは間違いない)

 

 そんなハッタリをかます人物ではない事は、これまでに得た棋譜と対面から伝わる圧力から重々把握している。

 故にその思考は盤面を探る。

 

 しかし、どう考えても左辺を取る方が大きい。

 まるでその意図が読めなかった。

 

(……だからといって、打つ手を緩める訳にも行くまい)

 

 より一層の警戒と覇気を漲らせて、塔矢行洋は打ち続ける。

 

 そして、謎が解けたのは中盤の中頃だった。

 中央に進出した黒石を追いかける中で、思わず手を止める。

 

(……こ、れは)

 

 ゾワゾワとした衝撃が足元から這い上がってくる心地だった。

 読めば読むほど、そうとしか思えない。

 

 左辺から右下隅に向けて中央を横断するかのように黒石が伸びている。

 それだけなら良い。

 だが、結果として伸びた先にあるのは右下隅の地合いであり、黒石が繋がればここまでに作り上げた地合いが削り取られると理解したが。

 

 ──それだけである。

 

(……これを見越していたと考える方が自然。だが、それでもまだ私の方が有利。中央を潰されたが、それは進藤くんも同じ事だ。両者ともに地合いを中央で作るのは難しい。……まだ、何かあるというのか?)

 

 読みながら塔矢行洋は手を打ち続ける。

 そして、冷や汗を垂らした。

 徐々に、徐々に全貌が明らかになっていく。

 

(右辺にも、左辺から伸びた黒石が邪魔をしてくるか。だが、私もタダでやられる訳にはいかん)

 

 打ち続ける塔矢行洋の地合いをジワリジワリと黒石が削り取っていく。

 右辺での乱戦は厳しく、ほとんどの地合いを残せない。

 厳しい表情で見据えるが、まだ左上隅と左辺がまるまる白地として残っている。

 そう思い、視線を向ければ。

 

 左辺を捨てる判断。

 その目的がようやく、ようやく明らかになった。

 

 満を持して、ヒカル(佐為)は一手を繋げる。

 

 その一手を見た瞬間に塔矢行洋の直感が告げた。

 妙手だ、と。

 

 同時にこれまでの進藤ヒカルが打ち続けた布石を理解した。

 

(……左辺を捨てる事で、四方中央全てを荒らす……判断……?)

 

 凄まじい脈動だった。

 荒らしを意識して読めば、なるほどこの形を作りたかったのだと理解できる。

 

 しかし、それを、30目の地合いを捨ててまで挑むかと言われれば到底理解出来る筈がない。

 あまりにもリスクが高すぎる。

 バランスを重視する塔矢行洋からすれば、攻めに特化しすぎていると首を横に降らざるを得ない危険な碁。

 

 だが、実際に自分は罠を仕掛けられ、気づく事もなくここまで打たされた。

 そう、打たされたのだ。完全に術中にハマっている。

 

(なんという、ヨミだ。あの時点でここまでの局面が見えていた、と……?)

 

 信じ難い事実。

 しかし、目の前の盤面がそれを否応なく証明している。

 ここからの巻き返しが果たして可能であるか、塔矢行洋の脳裏は目まぐるしい程に思考を続ける。

 

 手を止めて冷や汗を流す塔矢行洋を、脇で見る女流棋士と天野は不思議そうに首を傾げていた。

 

 

 

 

「──何かに気がついたか」

 

「……何か、ですか」

 

「ふぉっふぉっ、さァて、当事者にしか見えないモノがあるのが真剣勝負。観戦者の立場では、このワシにもわからん。……が、あの小僧が捨てた左辺の地合いはあまりにも不可解。何かカラクリがあると見るが、どうかね? 緒方くん」

 

「奴は、進藤は無駄な事をする奴じゃありませんよ」

 

「ふぉっふぉっ、であれば。そのカラクリに名人が気がついたと考えるのが自然。……さて、ワシらも頭を捻ろうか」

 

「……ええ、それが良いでしょうね」

 

 気がつけなかった自分に苛立つようにそう述べる緒方に、再びおかしげに笑う桑原の姿。

 そんなトッププロの姿を見ながら、その隅で新人プロたちがここまでの流れをお浚いしていた。

 奈瀬が考え込むように唇を指で押さえて言った。

 

「──じゃあさ、進藤が左辺を捨てて中央を取ろうとしてて、それを名人が防いで、進藤大ピンチって流れじゃないって事?」

 

 奈瀬の質問は的を射ているように思える。

 だが、それでは説明が付かないと塔矢アキラは首を振る。

 

「わからない。だけど、あの進藤がわざわざ左辺を捨ててまで挑んだ事が、中央を取る程度の些事だとはどうしても思えないんだ」

 

「それは、そりゃあ私もそう思うけど、相手は塔矢名人だし。さすがの進藤も苦戦してるんじゃない?」

 

「……それはないよ。ボクが思うに、進藤と父さんは互角だ。苦戦というよりも接戦になる筈だった。なのに、盤面は父さんの有利一色だ。それもポカなんかじゃなくワザとそうしたようにすら感じる。絶対に、絶対に何かあるんだ」

 

 固く信じるようにそう告げた塔矢アキラの姿に、伊角と奈瀬は顔を見合わせて頷き合った。

 

「だよね、よしっ! 絶対に私たちの力で気づいてやるんだから!」

 

「ああ、俺も協力する。……右上隅を安定させようとしているとか、どうだろう? 左辺を捨ててからまず打ったのはここだったろ?」

 

「それはボクも考えましたが、あまりにも複雑に絡み合いすぎていますから、あの数手で安定するとは思えません。断点(石と石を切る事ができる点。急所に成り得る)があまりにも多すぎますから」

 

 観戦する天野たちも、トッププロたちも、若い棋士たちも、誰も気がつけない。

 理解し苦悩するのは名人塔矢行洋のみ。

 

 あまりにも高度すぎる戦略。

 それは、『左辺から伸びる黒石』が、盤面全てを支配する尋常ではない打ちまわしだった。

 

 囲碁とは地合いを競うゲームである。

 基本的に必要となるのは目と呼ばれる地であり、これを競い合う。

 これを作らせないように打つのが荒らしと呼ばれる行為である。

 

 ヒカル(佐為)の狙いは左辺を中央に進出させ、その流れで盤面の白地全てに干渉する事だった。

 丁寧にそれとない打ち方で誤魔化す。狙いは中央にあると見せかける。コウ争いを仕掛けて、四隅をバラバラに攻めても不自然でない形を作り上げる。

 その結果として塔矢行洋は致命一歩手前になるまで、違和感を覚えながらもこの戦略に気が付くことが出来なかった。

 

 圧倒的なヨミ。

 それに付随する大胆な発想力。発想を現実と成す理不尽な程の棋力。

 

 机上の空論とでも呼べる発想を、今ここにヒカル(佐為)は実現させていた。

 残る白の地合いは右下隅と左上隅。

 

 その両隅は黒石に両断の王手を掛けられていた。

 

 目に見える形になるまでは、さらに数十手を重ねる必要がある。

 だが、塔矢行洋には見えている。

 故に腕を押さえながら、真剣な眼差しで活路を探し続ける。

 

 結論としては、左上隅のみならばまだ守ることができる。

 左辺を重視した考え方から厚みを増していたことが不幸中の幸いと言えた。

 だが、それでも5目以上は削り取られる。

 

 中央で地合いを稼ぐ事は出来ない。

 完全に黒石と白石がぶつかり合って、硬直状態となっている。

 これを殺す事は不可能。

 

 左下隅に黒地はあるが、そこは既に荒らしを仕掛けて防がれてしまっている。

 ここからさらに大きく削るのは不可能だ。

 

 二つあったコウも既に解消されている。そこから有利を持ってくる事も難しい。

 

 ならば、残る選択肢は『右上隅』にある黒地を中盤の今から荒らしに入るしかない。『左辺を捨てたと同時に進藤ヒカルが数手を重ねた黒地を』白地を削られるのと同等に削るしかない。

 あまりにも不利な遅すぎる選択だが、それしか活路がなかった。

 

 圧倒的な優勢はもはや見る影もない。

 

 塔矢行洋の目には足りぬ地合いが見えている。

 不足しているのは二目半という小さな数字。

 しかし、それが途方もなく遠い。

 

 あまりにも、遠い。

 

 だが、厳しい戦いに身を投じてこそ、『神の一手』に近づくと塔矢行洋が誰よりもそれをよく知っている。

 座るのは『五冠』の棋士ではなかった。

 

『挑戦者』塔矢行洋が燃えるような闘志を宿して最後の最後まで足掻いてみせると言わんばかりに力強い一手を盤面に放った。

 

 熾烈な戦いだった。

 手に汗握るような攻めを、あの塔矢行洋が見せている。

 観戦する者たち全員が驚く中で、その理由を探って、数十手後にようやく理解する。

 

 それほどの戦略を仕掛けた進藤ヒカルに慄くと共に、抗い続ける塔矢行洋の姿に自らを重ねる。

 

 しかし、ヒカル(佐為)は油断なくしっかりと要所を締める。

 荒らしと地合いのバランスが絶妙だった。塔矢行洋が渾身の一手を打てば、それを跳ね返すように同等の一手を返答する。

 

 詰めては離され、詰めては離される苦しい展開。

 それでも塔矢行洋は諦めない。

 完全にヨセに入るまで決して諦める事なく打ち続けた。

 

 そして。

 記念戦であるからか、敗北を悟っても塔矢行洋は打ち続ける。

 その敗北を胸に刻むように、一手一手を丁寧に重ねた。

 

『塔矢行洋vs進藤ヒカル』

 その軍配は『進藤ヒカル』に上がった。

 

 互先としては半目の勝利。

 逆コミとしては11目差を付けての勝利だった。

 

 あまりにも遠い『二目半』を限界にまで詰め寄ったその勇姿は知る人ぞ知る名局として残る事となる。

 

 

 時は流れて、紙面に載せられるのは先日の新初段シリーズの結末だった。

 数多の碁打ち達がそれを見て仰天して、棋譜はないのかと探し求める。

 週間碁に載せられた棋譜を見て、誰もが驚愕の表情を浮かべた。

 

『──『五冠』塔矢行洋、大差で新初段シリーズ敗れる。囲碁の塔矢行洋名人(十段・天元・王座・碁聖)に進藤ヒカル新初段(暫定)が挑戦していた新初段シリーズは1月10日午前九時半から、日本棋院・幽玄の間で打たれ、同日午後十三時二十四分、292手までで進藤が11目(逆コミ5目半)の差で勝利した。『五冠』が新初段に敗れるという前代未聞の一件ではあるものの、逆コミであることを配慮すれば『五冠』が新初段に花を持たせたとも──』

 

 

 そしてさらに時は流れて4月。

 免状を授与されて『最強の初段』が誕生する。

 

 誰もが感じる時代の流れを背負い牽引する者として、その名は碁界を賑わせる。

 

 既にプロとなった者も、そしてまだプロではない少年少女たちも。

 若き才能達が芽吹いてゆく。

 

 それを待ち受けるのは老練な『本因坊』か。

 タイトルを虎視眈々と狙う『九段』か。

 塔矢門下に負けるものかと気炎を吐く『九段』か。

 直感で碁を打つぽっちゃりとした『六段』か。

 お喋りで陽気な『棋聖』か。

 はたまた敗北を身に刻んで、大火の如き闘志を宿した『五冠』か。

 

 あるいは島国の外に目を向けるのか。

 

 そんな大人たちも、子供たちも。

 囲碁に携わる者たちは否応なくその名を知ることになるだろう。

 現代に蘇った『最強の棋士』の名と共に。

 

『本因坊秀策』の生まれ変わりを名乗る少年。

『神の一手』に、最も近いその者の名は。

 

 

 ──『進藤ヒカル(藤原佐為)』という。

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ

約1900字
本日2話投稿の2話目。前話必読。
最終話


 

 

 

 

「──だぁあ! つっかれたぁ……」

 

『ヒカル、お疲れ様でした』

 

 ベッドにスーツのままで寝転がって、ヒカルが大きなため息を漏らした。

 

「ああもう、倉田さんってばオレにすっげー絡んでくるんだもんな、一局打ったらもう一局って、結局三局も打たされたのにまだ打つって言うんだから、もう勘弁してよ」

 

『すごく負けず嫌いな方でしたねぇ』

 

「オレも負けらんねーっての! 結局勢いで帰っちゃったけど、別に良いよな、オレの仕事はもう終わってたし」

 

『そういえば、和谷が中国に行ったらしいですね?』

 

「ああ、伊角さんが言ってただろ? 九星会のイベントかなんかで行く予定だったけど、無理言って和谷を連れて行って貰ったって。……ま、和谷なら大丈夫だろ」

 

『はい♡和谷が戻ってきたら打ちましょうね。そういえば、あかりとの約束は明日ですか?』

 

「ああ、明日だよ。まぁアイツのことだから碁会所巡って適当に飯食って、最後はオレんちで対局だろ?」

 

『そうですかねぇ。私は、ちょっと違うと思いますケド。そうだ、奈瀬と伊角は残念でしたね』

 

「……ああ。新初段シリーズか。結局勝ったのはオレだけだったよな、噂だと名人に感化されてマジになったタイトルホルダーにボコボコにされたらしいけど、二人ともそんなことでへこたれる性格じゃないし、大丈夫だろ?」

 

『そうですねぇ、奈瀬は弟子ですし、慰めてあげないんですか?』

 

「いや、付き合ったじゃん。カラオケとか、ボウリングとか、スケートにも連れてかれたじゃん。オレも奈瀬も転んでケツが痛いの何のって……。まぁ楽しかったけどさ。──ホラ、オレは寝るぞ、もう無理。ねむいもん」

 

『ヒカル、着替えないと美津子(お母さん)に怒られますよ』

 

「……ああ、めんどくさいなー」

 

 そうボヤキながら、のそのそとヒカルが着替えている。

 着替えながら暇だったのだろうか、唐突にこのあいだの事をヒカルが話し出した。

 

「そういえば、ウチの蔵に泥棒入ったって。碁盤が盗まれてなくてよかったけど、やっぱウチに持ってくるか? 『血の跡』がしっかり残ってるのは気になるけど、秀策との思い出の碁盤なんだろ」

 

『いえいえ、あれは蔵に置いてもらいましょう。……私は、ヒカルの側に居られれば十分に幸せですから』

 

「……ぉ、おう」

 

 少し恥ずかしそうに顔を逸らして、着替えを続けるヒカル。

 そして傍に置いてあった週間碁を見つけて、着替えも途中なのにバサリと開いて読み始めた。

 そんなヒカルの姿に佐為はクスリと微笑んだ。

 

(私がヒカルのために存在しているのなら。ヒカルもまた、私のために存在してくれているのでしょう。そして、私たちもまた他の誰かのために)

 

 脈々と千年、二千年と受け継がれてゆく意志に佐為は想いを馳せた。

 

 瞼を閉じる。

 脳裏に思い描かれるのは虎次郎の姿。

 優しく聡明な友人だった。

 彼の遺した軌跡があればこそ、そこから何かを得た者もいるだろう。

 

(繋ぐため。私たちはそのために碁を打っている。……なんてね、少しキザでしたか)

 

 クスクスと上機嫌に佐為が笑った。

 

 先のことはわからない。

 だけど、一つだけ確かな事は、ヒカルと二人で共に歩む道が眩しいほど輝いていて。

 ヒカル(佐為)として、『神の一手』を目指す未来がこの先に広く長く続いているという事。

 

 そう思えば、言葉は自然と佐為の口から溢れ落ちた。

 

 

『──ヒカル、あなたに出会えて本当によかった。心から感謝しています』

 

「な、なんだよ急に」

 

『ふふっ、いえ。なんだか今言わねばならないような気がしてしまって。不思議ですね?』

 

 外では鯉のぼりが靡いていた。まるで何かを知らせるように揚々と。

 背景の透き通った空色が溶けてしまいそうなくらいに眩しい。

 

『本来』の佐為が──。実は、そんな日だった。

 

 けれど、『今の』佐為はその胸に何の心配も不安も抱いていない。

 期待と希望とヒカルへの感謝を胸いっぱいに抱えて、心底嬉しそうに笑っていた。

 

 そんな嬉しそうな佐為を見て、ヒカルは眩しそうに目を細めた。

 

「……あー」

 

 そう言いながら、ガシガシ頭を掻いて、塔矢アキラの棋譜が乗っている『週間碁』の雑誌をベッドに放り投げたヒカルが碁盤の前に座った。

 

 疲れ切っていたから、打つ気はなかったのに。

 そう言われたら、そうだよな、と何故か自然に思えた。

 ヒカルは少し疲れた顔だったが、けれど落ち着きのある微笑みを浮かべて、ちょいちょいと佐為を手招きした。

 

「一局打とう、佐為」

 

『ふふっ、はい♡──何度でも、何度でも打ちましょうね、ヒカル。まだまだ時間はたっぷりありますから』

 

「なーに当たり前のこと言ってんだよ。ほら、お前の黒番。今日こそはオレが白星を掴む!!」

 

『簡単には負けませんよ〜! 行きますよ、ヒカル! ──右上スミ 小目!』

 

 

 ヒカルの部屋の窓は開け放たれて、カーテンのレースが穏やかに靡いている。

 

 碁盤から響いた快音が、春風に乗って。

 

 風薫る晴れた日の空に運ばれていった。

 

 

 

──『神の一手』

 

 

──『完』

 

 

 

 

 

 






活動報告
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