シンリョクのターフ (ちー助)
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第1話「スター不在の時代」

一流の脚本家は
“赤”か“白”かという
単純な二項対立を好まず
第三の要素である“緑”を
彩として用意する

優れた語り部は
終止符が打たれたあと
その“緑”を主役に据えた
続編を紡ぎ出して
伝説に厚みをもたらす


――――JRA「名馬の肖像」2021



 トレセン学園創設当時、ウマ娘によるレースこと競バは、その規模に反してアングラでマニアックな趣味だとされ、さほど人々の注目を浴びるものではなかった。

 というのも、当時の人間社会は経済的な危機を抱え、とても娯楽に目を向ける余裕なんてなかったのである。

 しかし。そこに一人のウマ娘が現れ、競バ界は大きく躍進することとなった。

 地方の大井競馬場から中央へ殴り込みをかけ、皐月賞を制覇したエラボレート。

 まるでシンデレラストーリーのような……いや、そんな綺麗なものではなく、いわば下剋上とも言える大金星に、世間は沸いたのだ。

 それは、まるで当時の人間社会を反映したかのような活躍。地方出身者が不安を抱えたまま都会へ出て、活躍して成り上がる。多くの人々がエラボレートに自らの境遇を重ね、のめり込んでいった。

 もちろんそれは、長く続くものではない。ウマ娘は永遠に走り続ける存在ではなく、いつかはターフを去る時が来る。

 皐月賞を勝った後にもエラボレートは掲示板に残る活躍を続け、グランプリ宝塚記念ではレコードタイムでの優勝を飾るなど、稀代のアイドルウマ娘にふさわしい激走を経て、最後には有馬記念二着という輝かしい成績のままに引退した。

 後進の育成に励むための勇退ではあったものの、ターフの上を駆けるスターを失ったことで、レースファンの熱はあっという間に冷めていく。このまま競バは廃れてしまうかに思われた。

 

 これは、スター不在の時代に現れ、今なお語り継がれる伝説を残したウマ娘たちの軌跡。

 

「会長、これは……?」

 トレセン学園生徒会室。

 テーブルに広げられた三枚の写真に目を落とすウマ娘は、どこかもそっとしたような垂れ目がちな表情で、のんびり屋な印象を醸していた。短く切りそろえられた黒鹿毛で、やや肩幅が広く映る。

 彼女の名はイルミステンド。生徒会副会長であり、その風貌や雰囲気に反して、八大競争が整備される以前に初の三冠を達成した名ウマ娘である。

 一方で会長と呼ばれたウマ娘は、グラウンドの様子が一望できる窓の前に立っていた。やや小柄な体で、踵を浮かせて少し背伸びをするような姿勢は、彼女の癖である。靴は爪先部分に半球の飾りが施してあって、これは彼女のお気に入り。少々変わり者のようにも見えるが、不思議と何者も寄せ付けない威厳があり、神々しさすら備えていた。

「今年の、新入生の写真ですよね。もしかして、会長のお気に入り、ですか?」

 写っている三人のウマ娘。

 一人は大柄な体躯で力強さを感じさせる鹿毛のウマ娘。

 一人は非常に整った顔立ちが美しい栗毛のウマ娘。

 そしてもう一人は――。

 

「シンリョクメモリー。よろしく」

 黒鹿毛の髪を一結びにしたウマ娘は、小さくお辞儀して教室の席に着いた。

 入学式を終えたばかりの新入生たちは割り当てられた教室へ移動し、教員の指示によって一人ずつ自己紹介と称して教壇の前で挨拶をすることになったのだ。

 多くのウマ娘が、出身がどこであるとか、レースでの目標であるとか、趣味であるとか、何か付け加えて話していたのだが、このシンリョクだけは不愛想に名乗るだけ。

 クラスメイトたちが「何あれ」「感じ悪いね」などとひそひそと喋る声がそこかしこに上がるが、それは教壇を思い切り叩く音で静まり返った。

「ゴチャゴチャと……。気に入らねぇってんなら、レースでねじ伏せてから言えってんだ!」

 いつの間にか次のウマ娘が正面に立っており、教室の外にも響くような大声は、並みのウマ娘ならば震え上がるほどの迫力があった。

 黒鹿毛。肩口程度の長さで、特に手入れもされていないような乱雑さ。しかしかえってそれが彼女らしさを演出しており、一目見ただけでアウトローな印象を周囲に与えた。

「あたしはライズエンペラー! 言っとくけど、ダービーだけは絶対ェ譲らねェから。文句がある奴ァ実力でかかってきな!」

 自己紹介を終えたライズが周囲を威嚇するように睨みながら席へと戻る。窓際にある彼女の前の席が、先に挨拶をしたシンリョクであった。

 シンリョクは手に顎を乗せ、ぼんやりと外の様子を眺めていた。何人ものウマ娘たちがそこかしこでトレーニングに励んでいる様子が見てとれる。グラウンドを走る子、重量上げに励む子、販路を何度も往復する子……。

「おい」

 声をかけたライズに、シンリョクが振り向く。

 同時にライズは胸倉を掴むようにして引き寄せ、その髪に顔を寄せて大きく息を吸い込んだ。

 香りを堪能するかのようにしてシンリョクを解放したライズは、不敵な笑みを浮かべる。

 何か言いたげに不機嫌な視線だけを送るシンリョクに向かって。

「いや、同じ匂いがするなと思ってよ」

 得意気に言い放つライズに教室中がざわつく。

 先ほど教壇の前に立った時の様子からこの二人は変わり者であるといった印象はクラスメイトたちの中では揺るがぬものとなっていたが、それにしてもこの奇行はかなり目立った。

 それに言っていることも意味不明。

 頭上に疑問符を浮かべるシンリョクに再び顔を寄せたライズはというと。

「お前も、あたしも。そう、“選ばれない”ウマ娘だ。仲良くしようや、な、シンちゃん」

 まるで意味の分からないことを言って、ライズは自分の席にどっかりと座る。

 一方でシンリョクの方は少し言葉の意味を飲み込もうとして諦めたのか、また窓の外へ視線を移した。

 ざわつくウマ娘たちを教員がなだめ、自己紹介は続く。ウマ娘たちはひと悶着あって萎縮してしまったのか、名を名乗るだけの挨拶が続く。これではシンリョクの自己紹介とそう変わらない。

 だが、一人のウマ娘が前に立った時のことだった。

 美しい栗毛は短く切りそろえられ、一筋の流星にも見えるウマ娘特有の前髪模様。ツヤのある肌にぱっちりとした目つきは、群を抜いた美貌であると共に気品を備え、いわば男役をこなす女優のような凛々しさは、まさに女性にモテる女性の典型のようだった。

「ボクはダイモンジ。ははっ、ちょっと仰々しい名前だけど。みんなと一緒に走る日を、楽しみにしているよ」

 短くも歯切れの良い口調で挨拶を終えたダイモンジは、席へ戻る前に教室内をぐるりと見まわした。恐らく、注目を集めることに対する心構えがそうさせるのだろう。自分の言葉、立ち振る舞いが周囲にどのような影響を与えるのかを常に意識した者の立ち振る舞いだ。

 するとクラスメイトの中に、ほぼ上の空のような目でぼんやりとダイモンジに視線を送るウマ娘がいた。

 ダイモンジはニッコリと笑みを浮かべ、そのウマ娘へとウインクを投げかける。

「はぅわっ!」

 熱視線のウマ娘はあえなくダウン。鼻出血を起こして倒れ込んでしまった。

 随分と騒がしい世代に当たってしまったと教員が溜息を吐く。まだ自己紹介が残っているというのにダイモンジに心を射止められたウマ娘たちが群がり、シンリョクとライズはまるで他人の話を聞いていない。席につけと叫んでも彼女らは全く落ち着く様子を見せなかった。

 こうなったらチャイムが鳴るのを待つしかないのか。教員は自らの力不足を痛感していた、その時だ。

「すみませ~ん! 遅くなりました!!」

 ドアを蹴破らんばかりの勢いで教室に飛び込むウマ娘が現れる。鹿毛の髪を振り乱し、黒板の前で膝に手をついてゼェゼェと息を切らす彼女は、額の汗を手で拭いながらなんとか呼吸を整えようと必死だ。

 その姿を見て、教員は思い出した。体調不良のために遅刻すると連絡のあった子がいたはずだ。

 もう何もかもメチャクチャだと思いつつも、今ここで教室を静かにさせるにはこれくらいのキッカケがあった方が良い。

 せっかくだからと、彼女にその場で自己紹介を促す。

 大きく頷いて、ニッカリと笑った彼女は、どこか誇らしげに胸を張った。

「私はモノノフキッド。そして……」

 そこまで言って、手を高々と掲げると人差し指を空へ向けて伸ばす。

 つられてクラス中が首を上へと向けた。

「夢は、天!」

 キッドはその姿勢のまま教室中を見まわし、また大きな笑みを浮かべる。

 あまりにも堂々としたその立ち振る舞いに、全く意味が分からないと誰もが思いつつ、パラパラと拍手が沸いた。そうさせるだけの強い自信が、彼女には溢れている。

 シンリョクはまるで自分には関係ないとばかりに、ぼんやりと外の景色を眺める。だが、その肩をライズがつついた。

「面白ェのがいるじゃんか。な、アイツとあたし、どっちが強ェと思う?」

 ふ、とため息。面倒くさそうにシンリョクは振り返って、ぼそりと呟いた言葉は、「走れば分かる」という短いものだった。

 この言葉に、ライズは目をキラキラと輝かせ、にんまりとした笑顔を浮かべた。

「そうだな、走りゃァ分かるよな! よーっし、勝負勝負!!」

「まずはデビューしてからだ」

 これが、二人の初めての会話だった。

 ここに集った新入生。彼女らが、競バ界に大きな革新をもたらすことを予感できる者は誰も……。

 

ハレルヤ(祝福を)!」

 一人だけとなった生徒会室。

 会長は窓を開け、吹き込む風に両手を広げて叫んだ。

 緑のターフに、大いなる何かが芽生えようとしている。



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第2話「それぞれのデビュー」

 J組という括りは、主に入学したばかりのウマ娘が年度末まで所属する組のことである。

 シンリョクやライズらもここへ配属となったわけだが、実はJ組というのも人数が膨大なために、J-1やJ-2など細分化される。ちなみに彼女らはJ-1に振り分けられた。どういった基準でクラス分けがなされるかは、理事長の直感と気まぐれとされている。

 まずは一勝を目指すことが彼女らの大目標。もちろん、勝利することができなかったとしても進級は可能なのだが、あまりに成績が振るわないと、そのまま学園を去るウマ娘も毎年履いて捨てるほど。

 学園という和気藹々とした空間の中にあっても、その実態は厳しい競争社会の縮図とも言える。

 だからこそ。

「何だよぉ~、そう突っかかってこなくたって」

「だーかーらー、あたしと勝負しろってンだ! 『夢は、天』とか言いやがってさァ。え? 面白いじゃねェかってンだよ。だからどっちが天を掴むか、決めようじゃねェかよ!」

 教室内でのモノノフキッドとライズエンペラーのケンカ(といってもライズが一方的に食って掛かっている)も、J-1組の名物となっていた。

 全ては自己紹介をしたあの時に始まった。とにかく気に入った、あるいは気になった相手とは勝敗をつけずにいられない性分らしいライズは、最も大胆な夢を語ったキッドとの勝負をつけようと躍起だった。

 しかしトレセン学園の学則によると。現役ウマ娘同士のレースは、URA(中央)もしくはNAU(地方)それぞれのウマ娘レース協会主催のレースのみを正式なものと認め、私的なレースの開催を禁ずる、とある。

 つまるところ。

「ボクらはデビューすらまだの身さ。トレーニングと称した模擬レースだって、学園の許可がいるというのに。つい数週間前に入学したばかりのボクらが申請したところで――」

 不本意に絡まれるキッドに助け舟を出そうとするダイモンジ。自分の席についたままひらひらと手を振って、窓際に立つ二人をちょっと得意気に窘めた。

 これが良くなかった。

「ンなこたァわかってンだよ、お坊ちゃん!」

「なっ! ボ、ボクはれっきとしたウマ娘であって、お坊ちゃんと呼ぶくらいならせめてお嬢ちゃんと呼びたまえ!」

 ライズは噛みつく先を切り替えて吠える。

 騒がしい教室内。いつしかこれが日常の風景となっていた。

 傍から見れば、仲良くじゃれ合うクラスメイトたちに映るだろう。ただ友人同士で遊んでいるように感じられるだろう。

 しかしそれも、いつかは互いの身を削り合う宿敵になっていくのだ。今は彼女らに、その実感がなくとも。

「席に着けー。重大発表だ」

 入学式の日はすっかり空気のような存在だった、若い男性の教員が教壇の前へ立つ。

 すっかりクラスの雰囲気にも慣れた様子で、流石にパワー溢れるウマ娘たちを管理する学園の者というだけあって今ではクラスをまとめるのも朝飯前といったところだろうか。

 それに。

 入学後のウマ娘にとっての重大発表といえば、アレしかない。

 その時のために日々学業に励み、トレーニングに勤しんできた。誰よりも早く、認めてもらうために。

 ガタガタと音を立てて一斉に着席していくウマ娘たち。いつもは自分のペースを崩さないような彼女らも、この時ばかりは素直だった。

「お察しの通り。このクラスからデビューが決まったウマ娘を発表するぞ。呼ばれたら起立するように」

 そうだ。この時だ。

 ウマ娘にとって生涯に一度しか訪れぬ、デビュー戦。

 入学から数週間。まだ力をつけきらないウマ娘も多い中、この時点で出走が決まるのは今後進級していくにあたって大きなアドバンテージとなる。

 それはもちろん、J組所属というのは年度末までの期間であり、早い内にデビューできればそれだけレースに出走する機会が増え、翌年のクラシック戦線の候補へのし上がるチャンスが増えるわけだ。

 誰の名が呼ばれるのか。期待と緊張が飽和し、J-1教室内が静まり返る。

「えー、ライズエン――」

「ぃよっしゃァ!!」

 教員が名を呼び終えるよりも早く、ライズは渾身のガッツポーズと共に立ち上がった。

 クラスで最も早いデビュー。それは、レースに耐えうるだけの成熟が見られたと学園が認めたことに外ならず、誰よりも己の力を証明したかった彼女にとって、これ以上ない追い風だったことだろう。

「な、な? やっぱあたしがダービー最有力候補ってワケよ! おい、シンちゃんよォ、アンタもあたしが一番だって思うよな!」

「まだデビューが決まっただけだろう」

 喜びのあまりか、すぐ前に座るシンリョクメモリーの肩をバシバシと叩きながら豪快に笑うライズ。

 教員が何とか収めようとするも、舞い上がった彼女の耳には届かない様子で。

「おいおいおいキッドさんにお坊ちゃんよォ! 悪いケド先にデビューさせてもらうかンな! 来年の主役はこのあたし、ライズエンペラー様に――」

「いい加減にしろ」

 あろうことかモノノフキッドやダイモンジにまで絡み始めたライズを黙らせたのは、他でもないシンリョクであった。

 右手で顎から口を鷲掴みにし、左手はライズの右腕の下を通して背後から右肩を掴むように。そのまま下方へ体重をかけて強制的に着席させる。

 席が近いこともあり、また妙にライズから気に入られたシンリョクは、そのあしらい方や黙らせ方をすぐさま身に着けていた。

 不思議なことに、ライズは彼女にちょっかいはかけるものの、大人しく従うような素振りを見せていた。以前ライズ自身が言っていた、同じ匂いがするという感覚によるものだろうか。

 あまりにも一瞬でライズを鎮めたことで、教室内で小さなどよめきが起こる。が、これを教員が咳払いで一蹴。

「ともかく。デビューが決まったライズエンペラーには必要な書類を渡すので、後で取りに来るように」

 さぁ、次にデビューが発表されるのは誰だろうか。キッドか、ダイモンジか、はたまた。

 クラス中が固唾を飲んで教員へ視線を送る。

「じゃ、ホームルーム始めるぞ」

 次に出た言葉。これは、デビューが決まったJ-1組のウマ娘はライズエンペラーただ一人という事実。対戦相手はJ-2組やJ-3組のような、他J組のウマ娘たちだろう。

 これには納得のいかないウマ娘がいるのも当然だ。

「待ちたまえ!」

 机を叩くような勢いで立ち上がったのは、ダイモンジだった。

 どこか役者のような、優雅で品のある振る舞いが特徴の彼女が不満の声を上げるのは、実に珍しいこと。これが違う誰かであればすぐ宥められて終わりだろうが、彼女に関してはそうはいかない。

 もちろん、彼女の性格だけがそうさせたのではない。

 トレーニングで見せた速力はクラスどころかJ組全体でも頭一つ抜けているし、デビューが決まったライズエンペラーと比較しても一切見劣りするものではない。確かな実力を誰もが認めるところであるが故、彼女の抗議を咎められる者はいなかったのだ。

「ボクは……あぁ、少々思い上がりかもしれない。しかし! 少なくともトレーニングでは結果を出しているつもりだよ。だというのに、何故!」

 自らの胸に手を当てたり、額を押さえるように首を振ったり、かと思えばバッと腕を広げてみせたり。

 言葉に合わせた一つ一つの動作がどうにも芝居がかって大げさ。初めて彼女と接する者は驚いたり、嘲笑したりするものである。だがほんの少し接してみると、それがダイモンジらしさであり、これは彼女の言語なのだと理解できる。

 何より、彼女の言いたいことがストレートに伝わってくるのはどこか心地よさすらあった。

 要は、普段の結果を重視してデビューが決められたのであれば、何故自分が選ばれなかったのかという訴えである。

「その答えは、自分の体に聞いてみるといい」

「……ははっ、面白いことを言う。ま、いいとも。そう言うのならば仕方ないね。失礼、つい熱くなってしまったよ」

 教員の一言で大人しく引き下がるダイモンジ。

 一気に教室中が騒がしくなる。

 体に聞くとは。つまり、ダイモンジ自身、周囲に知られぬ不調を抱えているというのか。己の弱みを見せない彼女は、教員の言葉を上手くかわしたつもりだろうが、そうはいかない。

 監督者にしか知られていない問題があると露見してしまったのだから。教員の言葉というのは、ダイモンジ自身の言葉ではかき消せないほど強く印象付ける力を持つものなのだ。

「うるせェ!!」

 ざわつく教室内に響いたのは、ライズの声。先ほどシンリョクに取り押さえられたばかりだというのに、懲りないのだろうか。

 ……いや。今度はシンリョクが止めに入らない。ぼんやりと外を眺め、お好きにどうぞといった姿勢だ。

 ニヤニヤと笑みを浮かべたライズは椅子の上に立ち、片足を机に乗せて妙に勝ち誇ったように腰に手を当てる。

「お坊ちゃんはよォ、確かにトレーニングでは速いかもしンねェ。でもよ、どうせその鼻につく態度でウイニングライブの練習にばっかり熱を上げてンだろ。ほれ、ミンナー、キョウハボクヲオーエンシテクレテーアーリガトーゥ!」

 大げさな身振りを交えて、全く似ていない棒読みのモノマネ。

 忘れてはならないのは、このクラスにはダイモンジファンのウマ娘が一定数いるということ。このように小バカにする態度は、彼女らにとって到底許せるものではない。

 だが。

「あっはっは! いや、恐れいったよライズエンペラークン。確かに、キミの言う通り。ボクは些か、ライブの練習に力を入れすぎていたようだ。今回デビューに選ばれなかったのは、そこを見抜かれたからかな? もっとトレーニングに精を出さねばならないね!」

 当のダイモンジは手を叩いて笑っていた。

 そこかしこで「許しちゃうなんてダイモンジ様やさしー」とか声が上がる。

 一方でライズはどっかりと再び席に座って、不機嫌そうな表情を浮かべて窓の外へ視線を移した。

「わざとだね」

「何だよシンちゃん、気づいてたのか」

 振り向きもしないままシンリョクが声をかける。

 ライズは窓の外を眺めたままぶっきらぼうに応えた。

 この二人には分かったいたのだ。彼女、ダイモンジが抱える問題を。

「もちろん。自分にとっても、きっと超えるべきライバルになるウマ娘だから」

「へぇ。意外と意識してンだな。じゃあ、答え合わせといこうか」

 周囲に目を配り、誰もこちらを見ていないことを確認したシンリョクは、そっと背後に手を伸ばし、ライズの左膝をそっと撫でた。

 少しの沈黙の後。

「……ア・タ・リ♪」

 

 ホームルームが終わって、ほんの数分の休憩時間。トレセン学園に所属するウマ娘にとっては、レースに向けたトレーニングをするのが主たるカリキュラムである。が、一般的な教養を身に着けるため、最低限の座学も受けなくてはならない。

 というのも、J組の内に夢破れてトレセン学園を去ったウマ娘は、それぞれレースとは別の道を歩まねばならない。そんな時に一切の教養がなくては生きていくことも難しくなるからであった。

 次の授業は、それこそ座学だ。この休憩時間に教科書を用意したり、用を済ませたりと、休憩とは名ばかりのあわただしい時間である。

 J-1教室から離れた人気のない廊下。

 昼休みならまだしも、ホームルームと授業の間であるこの僅かな時間に、こんなところを訪れる者などいない。

 そこにたった一人、ウマ娘。

 共用の水道蛇口が並んでいる。ハンドルを捻って、水を出す。すると彼女は、迷うことなく水の流れに頭を突っ込んだ。

「そんなところで何してるの、キッド?」

 誰もいないはずの廊下。彼女――モノノフキッドに声をかける者があった。

 水を止めるのも忘れて、顔を上げる。キッドにとって、よく見知った顔だ。

「目、赤いよ。泣いてたの?」

「泣いてないよ」

「ウソ。相変わらずわかりやすいんだから」

 沈黙。

 長い黒鹿毛が美しくもどこか幼さを感じさせる彼女。優しさと包容力、娘のようでもあり、妹のようでもあり、姉のようでもあり、母のようでもあり。

 全てを肯定し、沈んだ心を溶かして消し去ってしまいそうな、不思議な魅力を放つ彼女は、キッドにとって、この学園で最も心を許せる存在であった。

「私のJ-2組からは五人もデビューが決まったの。聞いたよ、そっちは一人だけだったってね。それも、キッドは選ばれなかった」

 人目を憚り、こんなところで一人悔しさに打ちひしがれていたのは、それが原因。

 キッド自身、選ばれなかった理由など分かっていた。

 トレーニングでのタイムは決して悪くない。ライズにも、ダイモンジにも引けをとらない。だがどこかで、己の走り方に納得がいっていなかった。きっとそれを見抜かれたのだろうと。

 だが、どうしたら良いのか分からない。どう改善したら良いのか分からない。このままでは、きっと置いていかれてしまうと。

「ね、私が見ていてあげる」

 少女の手がキッドの頬を包む。

 俯きがちな顔を持ち上げられ、絡み合う視線の先に吸い込まれそうな感覚に、キッドの心臓が跳ね上がった。

「キッドの走り。私が一番傍で見ていてあげる。だからもう泣かないで。あなたは、天を駆けるウマ娘でしょ」

 それで何もかもが蒸発してしまったかのように、キッドの悩みや苦しみはすっと消えていってしまった。

 まるで脳も心も抜き取られてしまったかのように、ふわりと体が軽くなる。意識がぼんやりとしてくる。

 そうか、これだ。何故彼女には心を許すことができたのか。それはきっと、彼女こそが己を、そして未来をも大きく変える存在になると、いわば運命を感じたからだ。

「チーラヒメ……」

 彼女の名を呟いた時には、キッドの語る夢は、最早ただの夢ではなくなっていた。




ちょこっと解説。
読まなくてもいいよ!

【J組】
いわゆるジュニア級のこと。
舞台となる時代では3歳、現代では2歳の馬のことをいいます。
サラブレッドは毎年8千頭ほど生まれ、この内厩舎が決まるのが70%、デビューできるのが65%といわれています。
つまり、ウマ娘でいえばトレセン学園でJ組に所属するのはだいたい5500人ほどとなります。デビューできるのは5200人ほど。
とんでもない人数です。
じゃあクラス分けされてるとはいえ、J-1組に何人いるのかといえば、だいたい20人くらいの想定です。
単純計算でJ-275組まであることになってしまいますが、そんなにはありません。
ウマ娘界ではもっと狭き門であったり、地方所属のウマ娘はそもそも中央のトレセン学園には入学していない想定になるので、ぶっちゃけ本作においてはJ-10くらいまでしか想定していないです。
(だってオープン馬になれるのって3%程度なんだもん。地方も合わせて240頭くらいなのよ?)

なお、年明けに進級すると、以下2つの組に分かれます。

【C組】
現実における牡馬の区分です。いわばクラシック路線。
皐月賞やダービー、菊花賞を目指す組。
本作においては、より長い距離を走れるウマ娘が所属することになります。

【T組】
現実における牝馬の区分です。ウマ娘でいうティアラ路線。
桜花賞、オークス、エリザベス女王杯を目指す組。
この時代にはまだ秋華賞がなく、エリ女が牝馬三冠の最終レースとなります。
本作においては、マイル~中距離で力を発揮するウマ娘が所属します。

さらに進級すると、次のようになります。

【SC組】
シニアクラシック組。
クラシック組が進級した組であり、現実でいうところの古馬。
本作においては最も力をつけたウマ娘がこの組の所属となります。

【ST組】
シニアティアラ組
ティアラ組が進級した組であり、現実でいうところの古馬となった牝馬。
ST組限定のレースが制定されているが、これはST組のウマ娘ではSC組に太刀打ちが難しいからというちょっとネガティブな理由だったりする。
ただし、SC組の出走するレースにも参加が可能なので、下剋上みたいなことも可能。


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第3話「並び駆ける者あり」

 ライズエンペラーのデビューが決まってからの日々はあっという間に過ぎていった。が、J-1組ではちょっとした騒動が頻発するようになってしまった。

 というのも、クラスメイトからもファンの多いダイモンジを先にデビューさせるべきという声が度々起こったのである。第一、ダイモンジ自身が真っ先に抗議したのだから、取り巻きが騒ぐのも無理のない話。

 

「ダイモンジ様のデビューを!」

「「「ダイモンジ様のデビューを!!」」」

 六月も下旬に入った頃。ライズエンペラーのデビュー戦を数日後に控えたその日、複数のウマ娘が教員に抗議していた。

 夕刻も近くなり、これから終業のホームルームを開こうというタイミング。

 彼女らが必死になるのにも理由があってのこと。

 ライズエンペラーのデビューは、そのままJ-1組のデビュー戦でもある。要は、このクラスそのものがどういったクラスなのかを外部の目に晒すことを意味するのだ。レースぶりはもちろん、パドックでの様子や振る舞いがJ-1組の顔になることを思えば、確かに……少々大仰な言動ではあるものの、容姿端麗、品行方正のダイモンジが真っ先にデビューすべきというのも筋が通っている。

 しかしながら、幾度声を上げたところで最早スケジュールの変更などできるわけもない。己の予定ならばともかく、一介の生徒に、他のウマ娘の出走予定を変更するような権限などないのだ。

 それに。

「ダイモンジのデビューはまだ先だ。心配しなくても、いずれその機会は来る」

「そうじゃなくて、ライズエンペラーさんより先に!」

 教員とて、J-1の顔にするのならばやはりダイモンジが適任だと認識している様子。彼女でないとしたら、モノノフキッドだろうか。少なくとも、ライズでは外部からの印象が良くなるとはとても思えない。

 一方で、先陣切ってのデビューは相応しくないと暗に言われ続けるライズ自身はというと。

「お坊ちゃんよォ、ファンのしつけがなってねーンじゃねェのか? この期に及んでおーじょーぎわが悪いって」

 余裕の態度でニヤニヤとした笑みすら浮かべている。

 最初の内こそクラスメイトに食って掛かるような素振りも見せていた彼女だが、もう慣れたものといったところか。

 言われたダイモンジはというと、やれやれとため息を吐いて静かに席から立ち上がった。

「キミたち。その件は、ボク自身もう納得したことだ。そうやってボクを推してくれるのはとても嬉しいけれど、あまり諦めが悪い行いはキミたちの品位を落としてしまう。時には不本意に思えることも、甘んじて受け入れてこそウマ娘の美学。そう思わないかい?」

 水を打ったように鎮まる教室内。

 ダイモンジ自身がそのように言ってしまえば、外野が口出しすることはできない。これでようやくホームルームを進めることができるというものだ。

 そして。

「ったく。……こっちの気も知らねェでよ」

 不満を持っているのはライズ自身も同様であった。いや、デビューが決まった時の喜びようから、誰よりも先にレースを走ることができるというのは彼女としても歓迎すべきこと。

 しかし問題は、レースの条件にあった。

 ライズは改めて、教員に渡された資料を取り出して目を落とす。

 札幌レース場、ダート、一〇〇〇メートル。

 入学式の日。確かに宣言した。ダービーだけは絶対に譲らないと。

 正式には東京優駿。東京レース場、芝、二四〇〇メートル。

 一応、かつてのダービーウマ娘のデビューを辿ると、ダートが初戦だった例はある。それこそこの年にダービーを制したホイッスルアローが好例だ。

 それでも。

(この学園は、あたしを選ばないってのか。あたしなんかじゃクラシックは役者不足だってのか?)

 資料の紙は既にボロボロ。何度も何度も、同じ思考を繰り返し、同じ結論に至ったからだ。

 ぐしゃりと音が鳴るほど強く紙を握り、奥歯を嚙みながらギロリと空をにらむ。

(面白ェ。あたしの力は、あたし自身の走りで証明してやる)

 

「これが本当に会長の指示? イルミステンドさん」

 生徒会室では二人のウマ娘がレースのスケジュール表を広げて何やら相談をしていた。

 背の低いテーブルを挟んで向かい合う。腰掛けるソファは、触れるだけで沈み込みそうにも見えるが、実際にはやや反発があり、それがかえって程よい座り心地。

 副会長であるイルミステンドは、のんびりとした雰囲気ではあるもののシャンと背筋を伸ばして背もたれは使わず。

 対面に座るウマ娘は、姿勢が悪いとまではいわないが背もたれに体重を預けるような座り方だ。

「勿論。といっても、私もちょっと疑問なのだけど」

 視線を落としたスケジュールには、間もなく開催されるレースの出走メンバーがリスト化されている。

 その中のメイクデビュー、ダート、一〇〇〇メートル。九人のウマ娘の中で二人が注目するのは、やはりライズエンペラーだ。

「もっと、クラシックを意識したレースでデビューさせてもいいんじゃないかと私も思う。エラも同じ意見というわけね」

 トレセン学園の生徒会には、副会長が二人いる。

 一人はこのイルミステンド。そして向かいに座る彼女――エラことエラボレートは、つい先日就任したばかりの新任副会長だ。

 問いかけに頷いて、エラはスケジュール表を捲ってゆく。

 七月を飛ばして、まだ出走者欄が空白の八月。ここに貼り付けられた一枚の写真。

「こういう予定というのも、気になる。会長のお気に入りだって聞いたのに、なんで真っ先に走らせないんだろう。……確かに、今デビューさせるには早いよ。でもクラスのことを考えたら、ライズエンペラーのデビューを送らせてでも――」

 エラがそこまで自分の考えを述べたところで、生徒会室の扉が開かれた。

 咄嗟に顔をそちらに向け、飛び上がるように起立する二人。

 目の前に現れたのは、小柄な体躯で、艶のある鹿毛の長髪。半球のついた靴を見れば、誰もがそのウマ娘だと、見間違えるはずもない。

「「会長!」」

 トレセン学園生徒会長、ハレルヤ。

 彼女は無言のまま、自身の机へ向かう。

 靴の飾りは金属製で、歩く度に前後に稼働する。これが靴底の蹄鉄と接触してカン、カンと音が鳴るのだ。

 副会長の二人がハレルヤの存在に入室するまで気づかなかったのは、会長が音の鳴らない歩き方、爪先歩きをしていたことになる。

 その意味するところは、彼女が非常に上機嫌であるということ。

「や。二人ともご苦労」

 グラウンドを見下ろす窓の前。カーテンを勢いよく開くと茜になりかけた陽光が差し込んでくる。

 ここにスケジュール表を持って、エラが詰め寄った。

「あの、今イルミステンドさんとも話してたけれど。J-1組のスケジュールに、疑問の声が寄せられていて。ライズエンペラーより優先してデビューさせるべきウマ娘がいるんじゃないかって。今更、変更なんてできないけれども。そもそもこの予定は、会長が決めたって……いったい、どうして?」

 そう。何を隠そう、このスケジュールを組んだのは会長であるハレルヤだった。

 デビューさえ終えてしまえば、ある程度ウマ娘自身の意思で出走レースを決めることができる。しかし、精神や肉体が成熟するタイミングを見極めねばならないデビュー戦だけは、学園側が予定を組む仕組みになっていた。

 担任だけでなく学年主任や時には理事長らも、デビュー会議に顔を出す。実は生徒会メンバーも会議に参加して意見する権利を有している。それほど、最初のレースがウマ娘に与える影響は大きく、軽い気持ちでスケジュールを組むわけにはいかないのだ。

 とはいえ、生徒会は学園全体のウマ娘たちのことを考え、聖蹄祭などのイベント運営をしていかねばならない。デビュー戦という、個としてのウマ娘の事情にまで構っている余裕はほとんどないために、デビュー会議に生徒会が口を挟むことは極めて稀なことなのだ。

 だからこそ。会長自らが会議に顔を出して発言するということは、大きな影響を持つことになる。

 そこまでして新入生の……ライズエンペラーのデビュー時期に会長が関与したということは、何か大きな狙いがあるはずなのだ。

「エラ。君の時は、どうだったかな。引退するその時までずっと、世間は君だけを見ていたのかもしれない。君のライバルたちは、君の付属品だった。その時、君はどんな気持ちだったかい?」

「そんな」

 窓の方を向いたまま、少し視線を額の方に向け、思い出すように語る会長。

 ちょっと照れたように、エラは頬を掻く。現役だった頃を振り返れば、彼女自身もそんな自覚はあったようで。

「テレビも新聞も、確かにエラのことばっかり取り上げてくれた。だけど、なんていうか……ちょっと、居心地が悪くなった時もあったかな。ダービーの時だって、天皇賞の時だって、有マ記念の時だって。エラが戦ってきたウマ娘たちは、あんなに強かったのに」

「それさ!」

 回顧しながら語るエラの言葉を遮り、ハレルヤが振り返る。

 カーテンがふわりと揺れ、彼女の靴が一際高くカンと鳴った。

「周囲の声に推されて生徒会副会長になったエラボレート。君は、八大競争の内、いくつを制覇したのだっけ?」

「……一つ。皐月賞、だけ」

 エラの表情が翳る。

 これは、彼女が最も気にしていたことだった。

 確かに実力はある。しかし、彼女自身の力よりも、常に人気が上回っていた。レースに負けた時でさえ、いつだって世が注目するのでは勝者ではなく、エラボレートだ。

 実際、エラは人気の割に勝ちきれないことが多かった。いや、それだけ共に走ったライバルたちが強かったのだ。

 彼女と同世代のウマ娘たちを見ても、単純な成績ならばエラ以上に評価されるべきウマ娘も多い。

 そんなことは分かっている。エラ自身、それは痛いほど。

「会長、流石に――」

「変えたいとは思わないか!」

 フォローを入れようと口を開いたイルミステンド。

 これを制して、ハレルヤは両手を大きく広げた。

「ただ一人のウマ娘が注目されるのではなく。ある程度の実力さえ証明できれば、互いに命を燃やして走る多くのウマ娘が、それぞれが物語の主役に立つ時代を作りたいと、そう思わないか!」

 そう古い話ではない。

 エラボレートが現役だった頃。どれだけ力をつけても、どれだけ成績で証明しても。世間の評価はいつもエラボレートが中心だった。彼女が勝った、彼女が負けた、と。

 多くのレースファンは、エラに負けたウマ娘を労うことを忘れ、エラに勝ったウマ娘を称えることを忘れた。

 しかも。それは彼女自身が圧倒的な実力を持っていたからではなく、彼女の出自と世間の様相が嚙み合ったからに過ぎない。

「それは、エラも、そう思う。だけど、今回のデビュー戦に、いったいどんな意味が?」

「祝福だよ」

 返答に、エラとイルミは首を傾げた。

 会長は再び窓の方へ体を向けて、夕日に目を細める。

「私の勘がね、告げているんだ。後世にまで語り継がれる、大きな時代の本流が動き出そうとしているとね。物語のプロットは既に用意されているんだ。ならば、私は精一杯の演出で、歴史の門出を祝福する!」

 そう語る会長に圧倒され、思わず息を呑んで仰け反ったエラとイルミ。そこで、二人はあることに気づいた。

 トレセン学園の矜持を記し、生徒会室に掲示されていた立派な額がなくなっている。

 いや、ここまで聞いてしまえば、それが会長の仕業だと嫌でも気づく。

 唯一抜きん出て並ぶ者なし。即ち「Eclipse first, the rest nowhere」と書かれた標語は今の生徒会にはない。

 そして。彼女は誰に語りかけたのだろうか。

「夢の扉は、君たちの手で開きたまえ!」




本来は、今回がライズエンペラーのデビュー戦を描く予定だったのです。
しかし、その前に挿入しておくべき話が長くなったので次回に持ち越しです。
多分、割とすぐにアップします。


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第4話「北方の幸運娘」

 札幌レース場――。

 天気は晴れとの発表であるものの、やや暗い雲が見え隠れする。予報によれば、午後からは雨が降るかもしれないとのこと。

 どうにもすっきりしない。

 ダートコースしか整備されていない札幌では、数日前の天気ですらバ場状態に大きな影響を及ぼす。良と発表されたコースだが、数日前から降ったり止んだりを繰り返していた関係で少なくとも土煙が立つようには見えない。

「ったく、このライズサマがデビューするってのに、随分と客席がまばらじゃねェか。……ま、今日は重賞もねェし、こんなモンってか?」

 ついにデビューの日を迎えたライズエンペラーは、真新しい体操服に九と書かれた桃色のゼッケン。八人のウマ娘と競い合う大外枠。

 第二コーナー出口からスタートして一ハロン程度の直線。大きく緩やかなカーブの後、一ハロン半程度の直線を走った先にゴールがある。この札幌レース場の特徴は、まず高低差がほとんどない平坦なコースであること。そして、今回の条件に限れば、二回に渡る直線の距離とコーナーの距離がほぼ同じであること。

 小手先の策や奇をてらった戦術はほぼ意味をなさない。地力の強さがモノを言うだろう。

 ただ、この大きな曲線。最も外の枠に入ることがどう結果を左右するか。

 係員の誘導が始まる。

 一人、また一人とゲートへ収まってゆくウマ娘たち。

(いよいよこの時が来たンだ。散々バカにしてくれたクラスメイト連中のハナを明かしてやる)

 静かに闘志を燃やし、グッと拳を握ったライズは、静かに歩を進めた。

 

『さぁ間もなく、今年レースの世界へ足を踏み出す若駒たちが出走します。注目はやはり一番人気のサンコーファンでしょうか』

『トレーニング時の情報にはなりますが、前を行こうとする姿勢は、札幌との相性も良いので期待したいですね。一方で四番人気となりましたライズエンペラーですが、前情報と異なって随分と落ち着いていますね』

 学園ではちょうど昼休みに差し掛かった頃。

 J-1教室内には、電池式の携帯ラジオを机に置き、じっとそこから流れる中継に聞き入るウマ娘の姿があった。

 シンリョクメモリー。今頃北の地でスタートの瞬間を待っているであろうライズエンペラーから一方的に気に入られ、何かと絡まれることの多いウマ娘だ。

 普段から口数も少なめで、無意味なお喋りを好まない彼女も、クラスメイトのデビューはやはり気になるようだ。

 この時間は食堂へ向かうウマ娘が多く、教室にはほんの数人しか残っていない。それも、ライズのデビューを気にしている様子の生徒はいなかった。

 クラス初のメイクデビューに不満を持つ彼女らなのだから、それも当然だろうか。レースそのものは気にかけていても、応援しようというウマ娘は見当たらない。

「やっぱり、キミは聞いているだろうと思ったよ。隣、失礼しても?」

 そんな時、声をかけてきたのはダイモンジだ。いつもは親衛隊と化したクラスメイトにつきまとわれている彼女が、一人でいる。珍しいこともあるものだ。

「構わない。ちょっと待って」

 隣の席にダイモンジが腰掛けるのを横目に、ラジオのボリュームを上げる。

 自分だけに聞こえる音量だったので、彼女を気遣ってのことだ。

「取り巻きは?」

「ああ、今は外してもらっているのさ。悪いとは思うけれど、今日のコレだけは譲れない。昼休みに入ったと同時に、シンクンがラジオを出したのが見えたからね、きっとこのレースを聞くのだろうと思って。ちょうどよかったよ」

 きっと、誰よりも、このクラスで最初にデビューしたかったであろうダイモンジ。

 J-1のメイクデビューが気になってしまうのも無理のない話だ。

「ところで、シンクン。……勝てると思うかい?」

 声のトーンを落として、問いかける。

 時に、たった一つのレースが、ウマ娘のその後を大きく左右することだってある。

 ここを勝てるかどうかでライズエンペラーの、あるいはこのクラスそのものの未来が変わるかもしれない。

 しかしシンリョクの答えは。

「どっちでもいい」

 意外な答えに、ダイモンジが目を丸くする。

 ラジオからはゲートに収まり、と声が聞こえていた。

「それはどういう――」

「しっ、始まるから」

 真意は、スタートの合図に隠された。

 

 ゲートを飛び出し、砂の上を駆ける九人のウマ娘たち。

 先手を取ったのはホッポウセブンという三番人気。少し間を空けて、一番人気のサンコーファンが追走。この辺りに他三名のウマ娘が固まって番手争い。二バ身ほど開いてパップフラグメントでこちらは二番人気。ライズエンペラーはこれを見るような位置。さらに後方からは二人のウマ娘が追いかける。

 やはり土煙は立たず、視界は開けている。電撃一〇〇〇メートルの勝負は、仕掛けどころを誤ればあっという間に抜け出せなくなってしまうだろう。

 まだスタートを切ったばかりだというのに、先頭のウマ娘が早速コーナーに差し掛かる。

「今じゃねェ、タイミングを掴み損ねるなよ、あたし」

 第三コーナーから第四コーナーへ。番手争いをしていたウマ娘が、垂れ始める。

「何だ、スプリントだからって最初から飛ばしすぎたのか? もうバテ――じゃねェ!!」

 違う。垂れたのではない。先頭を走るホッポウセブンが早々とスパートをかけたのだ。これについていけているのは、二番手のサンコーファンだけ。

 慌ててライズが踏み込みに力を込める。

 置いて行かれてたまるものか。

 

『ここでホッポウセブンがリードを開き、後ろからサンコーファン、サンコーファンが必死の追走! あーっとここでライズ来たライズ来た、ライズエンペラー、三、四コーナーの中間からパップフラグメントを抜き去り五番手、四番手! 第四コーナー回ってセブン逃げる!」

「まだだ、ライズクンの末脚ならここから……!」

 レースの実況に興奮したダイモンジが思わず立ち上がる。

 何だかんだ、クラスメイトのことを応援しているのだろうか。いや、きっとそれは素直な気持ちではあるまい。自分を差し置いてデビューしたのだから、J-1の顔として、ここを負けることはダイモンジ自身の尊厳にかかわるのだろう。

 そんな彼女ほど露わではないが。

「行け……!」

 シンリョクは小さく呟いて拳を震わせた。

 

「チッ、ジャマだ!」

 最終コーナー。

 進撃を開始したライズの目の前には、スパートの遅れたウマ娘たち。

 彼女らをかわすには、外へ持ち出すしかない。この短距離ではほんの少しのロスが命取りになるが、群を抜け出すには確実な方法だ。

「開いたな。ヨォーッシ、ライズエンペラーサマのお通りだァッ!!」

 直線を向いた。気づけばライズは三番手。

 先頭を走るのは相変わらずホッポウセブン。内にはサンコーファン。パップフラグメントの追い上げる音も響くが、感覚としては遥か後方。

 末脚にかけては引けを取るつもりなどない。ここから一気に全力のスパートをかけて追い上げにかかる。

 ……が。

 

『セブンだ、セブンだ! ぐんぐんと差を広げてサンコーファンは追いつけそうにない。ライズエンペラーもやってくるがこれはどうか。ゴール版を駆け抜けてホッポウセブン! ホッポウセブン、見事メイクデビューを勝利で飾りました。二着争いは接戦』

 ラジオから流れる実況は、クラスメイトの敗北を告げていた。

 その様子から、少なくとも三着までには入っていることだろう。

 隣のクラスから歓声が聞こえる。あのホッポウセブンというウマ娘は、どうやらJ-2組の所属らしい。

 一つため息を吐いたシンリョクメモリーは、ラジオのボリュームを絞ろうと手を伸ばす。決着はついたのだから、これ以上聞くこともないと考えたのだろうか。

 制止したのは、ダイモンジだった。伸ばしたシンリョクの手を掴み、じっとラジオに視線を向けたまま。

「どっちでもいい、と言ったね。ボクは、そうは思えないよ」

 手が震えていた。

 いつも何かを演じているかのような彼女が、その手に感情を乗せている。

 これは、怒りか、悲しみか。

「ライズクンには、勝ってほしかった。いや、勝ってくれなきゃ、困るんだ。勝つべきだったんだよ。でも……そうだ、これは、何かの間違いだ。きっとライズクンは、レース中に不利を受けたりして」

「いい加減にしろ」

 手を振り払ったシンリョクは、相変わらずホッポウセブンの圧勝を伝えるラジオの電源を落とした。

 クラスメイトの敗北を受け入れられないダイモンジは、呆然として何か言いたげな表情のまま固まってしまう。

「そういうトコ、治した方がいい。何の仮面を被ってるのか知らないけれど、そういう道を選ぶなら、これくらいのことで仮面が脱げないように気持ちを鍛えるべき」

 シンリョクの見たダイモンジの表情は、今までに誰にも見せたことがないものだった。

 絶望、と形容できるだろうか。美貌の面影はそこになく、幼い迷子のような、まるで全く違うウマ娘のような、悲しくも情けない姿。

 言われてハッとしたのか、胸のポケットからハンカチを取り出して彼女は顔を覆ってしまった。今頃必死に己の心と戦い、表情を作っているのだろう。取り巻きを遠ざけたのも、他のクラスメイトがこのレースに関心を向けていなかったのも、ダイモンジにとっては幸運だったことだろう。

「自分が負けたわけでもないんだから。大げさなのは元々の性格ってわけか。……それより」

 ラジオをしまいながらシンリョクが呟くように、ダイモンジにだけ聞こえるような声で言う。

「少なくともライズにとっては、強くなって帰ってくるよ」

 

 控室に戻ったライズエンペラーは、用意された折り畳み式のパイプ椅子にどっかりと腰を下ろして俯いていた。

 めでたいはずのデビュー戦は、出走が決まった時からクラスメイトに非難され、見返してやるために走ったレースでは勝ち切ることができなかった。

 何がいけなかった? 末脚に頼って後方に控えたことか。いや、そうじゃない。確かに先行策が有利な条件ではあったが、己のスタイルを考慮すると腑に落ちない。作戦自体は間違っていなかったはずだ。

 では実力不足? それも、違う。一着でゴールしたホッポウセブンというウマ娘の走りを目の前で見ていたが、決して追いつけない脚ではないと感じられる。

 だとしたら。

「……そうか」

 あの最終コーナー。

 前を走るウマ娘を追い抜くため、外側へ持ち出した。

 このコース取りを加速しながら選ぶと体が振られ、必要以上に膨らんでしまう。だから、無意識に速度を押さえたコーナリングだった。

 さらには、距離のロス。

 何とか内を通ることができれば多少脚に負担はかかるものの、有利に走れるだろう。スパートも早くなる。

 つまり。

「仕掛けるタイミング、間違えちまったな」

 その場に応じた判断は重要だ。

 しかし、数秒先の状況をイメージしながら走ることがこれほど結果を左右するとは。

「あっ、ここだー! ライ、ライ……ズエンペラーさん? いますかー!」

 一人反省会を終えた頃、控室の扉がノックされた。

 少し気の抜けたような、舌足らずな喋り方。恐らく扉に貼られたネームプレートを読み上げたのだろうが、ライズの名を呼ぶイントネーションに自信がなさそうだ。

 こんな、今日デビューしたばかりで、勝利したわけでもないウマ娘に、誰がなんの用だろうか。ライズはだるそうに立ち上がって扉を開いた。

「やった、いたいた。えーっと、今日のレース、お、お疲れ様でした! あ、その、わたし、ホッポウセブンっていいます!!」

 ペコリと頭を下げる、鹿毛のおさげが少々幼く見えるウマ娘。

 その姿に見覚えが、名前に聞き覚えがある。いや、それどころじゃない。彼女こそ、デビュー戦を一着で駆け抜けたウマ娘だ。

「あー、何だよ。アンタに勝てなかったあたしを笑いにきたか?」

「そんなんじゃ、ないです! わたし、今日のレース、すっごく楽しくて! 走り出したらみんなに追いつく自信がなくて、先頭に出たんだけど。でも、うしろからドドドドって追いかけてくる音が聞こえて、ゾクゾクして、それから、もっと速く走りたくなって……と、とにかく、ありがとうございました!!」

 レースでの興奮を上手く言語化できなくとも、とにかく勝てた喜びよりも楽しんで走ることができた嬉しさが勝っているのだろうと理解できる。

 そんなことをわざわざ報告に来るのだから、本来なら嫌味だと捉えるべきなのだろう。

 しかしこのホッポウセブンなるウマ娘は、あまりにも屈託のない笑顔を浮かべている。ライズと同い年なはずなのにペコペコと頭を下げるその姿は、愛らしさすらあった。

「おい」

 ライズはセブンのおさげを掴んで顔を寄せた。

 ちょっと緊張した顔が目の前にある。本当に同い年とは思えぬほど、幼い。よくもこれで早期のデビューが認められたものだ。

「次はあたしが勝つ。楽しんでる余裕なんざねェくらい、全力で追ってやる。わかったら、さっさと行け」

 パッと手を放し、ライズはバタンと音を立てて扉を閉めてしまった。

 まるで追い払われたかのような形になったセブンは、その態度に何を感じただろうか。

「……ちゃんと、挨拶できた、よね? うん、大丈夫、大丈夫。えっと、次はパ、パップフ、ラグ、メントさんだっけ。って、あー! 急がなきゃウィニングライブ始まっちゃう! 全員に挨拶間に合うかなぁ。急げ急げー!」

 慌ただしく次の目的地へ駆け出すホッポウセブン。

 勝者でありながら、共に走ったウマ娘全員に声をかけるつもりのようだ。もちろんその声は、扉を隔てた彼女の耳にも届いていて。

「もしもし」

 部屋に備え付けられた電話を取り、ダイヤルを回す。

 一つの決意が、ライズエンペラーの中に宿ろうとしていた。

 

「いくら何でも急すぎます! 確かにスケジュールに問題自体はありませんが、あまりにも負担が大きすぎるかと。本当に認めるんですか?」

 数刻後。

 生徒会室に駆け込んだイルミステンドは、テーブルに向かって資料に目を通している会長に抗議していた。

 学園に届いた連絡。それは、つい先刻デビュー戦を走ったばかりのライズエンペラーがそのまま札幌に残り、中一週で次のレースに出走したいという申請だった。

 ウマ娘にとってのレースはかなり消耗が激しい。場合によっては、一度走ったら数か月単位の休養が必要となるケースすらある。それを、このタイトなスケジュールで走ろうというのは、無謀とも言える。

 会長のハレルヤは目線を上げることもなく。

「認める」

 そう呟くのみ。

 しかし、イルミは納得がいかない。

「会長……いえ、ハレルヤ。私は、この学園にはあなたより長くいるけれど、何人も見てきたの。無茶をして、二度と走れなくなったウマ娘を。それでも」

「祝福だよ」

 言葉を遮るハレルヤ。彼女の口癖は、不思議と向けられた疑問をその一言で解決してしまうような力がある。

「ライズエンペラーが走りたいというんだ。それ自体がウマ娘の本能。誰にも咎めることはできない。私は彼女を祝福するよ」

「では、もしも。万が一のことが起こったら?」

 すっと顔を上げるハレルヤ。

 少し思案するように顎に手を当て、やがて立ち上がる。

 棚からスケジュール表を取り出し、パラパラと遥か数年先のページまで捲って目を細めた。

「私が祝福する以上、そんなことは起こらないさ。今は、ね」




ライズエンペラーのモデルとなった競走馬は、資料が少なく性格やレーススタイルもいくつかの記録から想像で補っている部分が強いです。
今回描いたデビュー戦も、映像やレース展開の記録が残っていないので、当時の天候や着差、レース場の特徴などから、ほぼすべて推測で描いています。
当時のレースがどのような展開だったのか……。モデルさんは追い込みにかける走りでタイトルを手にしていますが、もしかしたらデビューの頃には逃げを打ったり番手につけたりしていたかもしれませんね。
しかし、色々と考えた末、「彼女の性格なら極端なスタイル変更はせずに、自分の走りをつきつめていくだろう」と結論付けてこのような展開となりました。
史実をご存じの方には申し訳なく存じます。


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第5話「泥だらけの皇帝」

「ねぇ、キッド。何それ、新聞?」

 昼休み。モノノフキッドは幼馴染のチーラヒメと食堂で過ごすのが日課になっていた。

 二人はクラスこそ別だが仲が良く、このことは周囲も公認するほど。

 しかしその実態は少し違っていて、キッドの行く先々にヒメがついてくるのが本当のところ。

 トレイに食事を盛って席についた時、キッドは鞄の中から折りたたまれた新聞を取り出して見せる。そこには翌日開催されるレースの枠順が記載されていた。

 札幌レース場第一レース。この二枠二番に収まるウマ娘を指さして。

「そう。また出るんだ、彼女が」

 ライズエンペラー。二週間前のデビュー戦では勝利を逃した、J-1組のウマ娘。

 それが、中一週で再び出走するという。

 実はメイクデビューで勝てなかったウマ娘がこの厳しいスケジュールでレースに出ること自体は、そう珍しくない。というのも、この頃の規定としては、デビューから一定期間内のレースであれば何度出走してもデビュー戦として扱う、というものがある。つまり、初レースを敗北しても、二回目のレースで勝つことができれば、デビュー戦に勝利した、と見られるのだ。

「前回負けてしまったのは私だって悔しい。クラスメイトだからね。だから、明日は勝ってほしい。でも……」

「心配しすぎよ」

 ヒメはキッドの不安を一蹴して、少し不機嫌そうに箸を取った。

 サラダを一口放り込むようにすると、目線だけで「新聞をしまえ」と訴える。

 しょんぼりしたように目を伏せて、キッドは鞄に新聞を押し込んだ。まるで母親に叱られた子供のように、食事にも目を向けることできずに居心地が悪そう。

「私のクラスからも同じレースに出る子がいるの。でも、私にとってはその子が勝っても、キッドのクラスの子が勝っても……二人とも負けたとしても、構わないわ」

「それは、少し薄情じゃないかな」

「いいえ」

 呟いたキッドの言葉に、ヒメはピシャリと返して、わざと音を立てるように箸を置いた。

 こっちを見ろ、という言外の圧力を感じてか、キッドが顔を上げる。

「私は、キッドがレースに出て、キッドがカッコよく勝つところを見たいの。それだけ。キッドが、自分の出ないレースに注目して、そこのウマ娘の心配をしているのが、私は許せない」

 わがままだ。

 ヒメにとっては、キッドが全てなのだろう。それ以外のことは、どうでもいいのかもしれない。

 だからこそ、キッドが自分以外のウマ娘に「よそ見」することが気に食わないのだ。

 ウマ娘同士にしても、いやウマ娘同士だからこそ、何か重たすぎる感情がそこにあった。

「それとも。その、ライズなんとか、ってウマ娘。キッドのライバルにでもなるの?」

 言いたいことを言って少し溜飲が下がったのか、いくらか表情が和らいだヒメが再び箸を持つ。相変わらず口に運ぶのはサラダだった。

「……うん。そうだね、ライズエンペラーは、ライバルだ」

 気持ちに整理ができた様子のキッドがようやく食事に手をつける。ライズエンペラーと己の関係、彼女に対する感情を頭の中で言語化しつつ、味噌汁を啜った後、グラッセしたニンジンの刺さるハンバーグを箸で切り分けた。

「ふーん」

 気のない相槌を打ったチーラヒメ。

 この時間の食堂はいつもガヤガヤと騒がしいものだが、いつの間にか随分と静かになっていることに気づく。

 さっと目線だけで周囲の様子を探ったヒメは、自分たちが注目を集めていたことを悟った。

 食事をしながらケンカをしているようにでも見えたのだろうか。

 それはいけない。ヒメにとって、そのように思われることだけは、あってはならないのだ。

「だったら、心配するのは間違いよ」

 ハンバーグを口に運んでいたキッドがヒメと目線を合わせる。キッド自身は周囲の注目を浴びていることに気づいていないようだった。

「ライバルなら、無事に勝って帰ってくるって信じてあげなくちゃ」

 

 七月も中旬に入った頃。

 曇天の札幌レース場は前日に降った雨の影響で、ダートのバ場状態は不良と発表。まるで水田のようだ。

 少し汚れのついた体操服を纏って、ライズエンペラーは控室を出てパドックへの道を歩む。

 二度目のレースだ。ここを逃せば、デビュー勝ちの称号を得ることは叶わない。

 あの日、逃げ切り勝ちをもぎ取って、わざわざ控室にまで挨拶をしに来たホッポウセブンの緊張した笑顔がちらつく。

 レースを楽しむ心構えは、ライズの価値観にはなかったものだった。勝利か、敗北かの二元論として捉えていた気がする。

 しかし、今は。

「待っとけよ、すぐに追いついて、リベンジしてやる。この――」

 

「ライズエンペラー様を見とけってんだッ!」

 パドック。

 ステージの上で見栄を切ったライズエンペラー。ここはその日までの仕上がりや、レースに向けるモチベーションの高さを見せる場である。

 マントを羽織って登場し、ここぞというタイミングで脱ぎ捨てて己の肉体を披露する瞬間には、時として歓声すら上がるほど。

 そのため、応援に駆け付けたファン、マスコミも特に注目する場面であるのだが。

『お知らせします。第一レース、一番カスミステルシップは、急病のため出走取消となりました』

 そういえば。先にパドックに現れるはずの一番枠に指定されたウマ娘の姿が見えなかった。あまり順番など気にしていなかったライズは、せっかくの啖呵が邪魔されたと感じてふくれっ面をしながら、マントを拾ってさっさとステージ奥へと引っ込んでしまう。

 本バ場へ移動しようと地下道へ。ここは“はなみち”と呼ばれ、観客も入ることが可能な空間。これからレースに赴くウマ娘に直接声をかけたり触れ合ったりすることができる場でもある。

 二週間前と同様、客席に人はまばらに見えたが、こうして少し詰まった空間になるとそれでも多くの人が集まっているようにも見える。格の高いレースが開催される時には観客でひしめき合うのだろうが、午前中に行われるメイクデビュー戦だということを思えば、よく人が集まった方だろう。

「ようよう、パパーッと勝ってきてやるからよォ、応援ヨロシクちゃん」

 ひらひらと手を振りながらはなみちを進むライズだが。

「こら、キミ! 勝手に抜け出したらいかんだろうが!」

「い、いやです。私、レースに……ここで、勝たなきゃいけないんです」

 後方。パドックに繋がる通路。控室と繋がる丁字路になっているあたりで、何かもめる声が聞こえてきた。

 振り向いてみると、警備員らしき男性たちが誰かを取り押さえようとしている。三人がかりだ。

 右手や肩を掴まれ、それでもパドックの方へ向かおうとしているのは、一人のウマ娘。白いゼッケンには、一の数字。

 あのウマ娘が先ほどアナウンスにあったカスミステルシップだろうか。

 

「かわいそうになぁ」

「お腹を壊したらしいね。緊張しすぎたんじゃないかな」

「あの子、二週間前にも走ってたよな。ほら、そこのライズエンペラーが走った次の日」

「あの時は一番人気で着外。ここで結果を出さなきゃってプレッシャーもすごいんだろう」

 

 騒ぎを目にした観客たちが口々に囁き合う。

 ライズの耳に届いた範囲の情報から推測するに、前走での惨敗から、デビュー戦勝利の評価を得られるラストチャンスとなる今回のレースにかける思いのあまり、体調を崩したようだ。見てみれば、左手で腹部を押さえているように見える。

 大事には至らないようだが、この状態ではまともに走れないと医者が判断したのだろう。

 さっさと本バ場へ向かおうと思っていたライズだが。

「おい、アンタ」

 気づけば踵を返し、レースを諦めきれずにもがくカスミの下へつかつかと歩み寄っていた。

 顔面蒼白なまま見上げるような姿勢で振り返る彼女に。

「勝ちたくて走るンなら、まずは体を管理しろ。そんな状態で出てこられても、こっちとしたって迷惑なんだよ」

「だ、だけど、うぅ、私のデビュー勝ちが……」

「ハッ! 勝てる気でいンのか!!」

 カスミの返事を、ライズは笑い飛ばした。

 誰がどう見ても、体調が悪いです、とても全力で走れません、といった様子なのに。このカスミステルシップというウマ娘は勝利するつもりらしい。

「ナメんのもたいがいにしろ。あたしはな、そんなボロボロのウマ娘にやられてやるほど間抜けじゃねェぞ!」

 怒鳴りつけられて黙り込む。

 誰だって、負けたくて走るわけじゃない。目指すのは勝利。その気持ちはどのウマ娘にとっても共通のものだろう。

 だからこそ。走ることもなくレースを終えることは、敗北以上に惨めさを覚えるものなのかもしれない。外から見れば今後生きていく上で大切な英断とも取れるかもしれないが、当事者の心情はそう簡単に割り切れるものではない。

「それでも、私……」

 腹部に添えていた左手を握り込み、とうとう涙まで流すカスミ。

 一方のライズは苛立ちが募ったと見えて片眉を吊り上げ、奥歯をギリと噛みながら。

「ガタガタ抜かすな!!」

 カスミに掴みかかった。

 

『あいにくのバ場状態となりました札幌レース場ですが、一番のカスミステルシップ出走取消のアクシデントもあり、波乱の展開となりそうですね』

『これで五人立てとなったわけですから、ダートの一〇〇〇メートルでどういったレースになるか楽しみですね。今回は二組のウマ娘たちが再戦という形になりますか』

『二番ライズエンペラーと三番ブロッサムベースは二週間前のメイクデビューで顔を合わせていますね。それから五番イレブンスノウ、六番ハナブサヴァジュラですか』

『メイクデビューではありますが、出走ウマ娘が全員二走目ということもあって――』

 

 中継ではアナウンサーらが出走までの時間を稼いでいる内に、ゲート入りは着々と進んでいた。

 空となった一番を飛ばし、二番の枠に早々と収まったライズはしきりに体操服の裾を伸ばして整えるようにしている。ダートというより沼のようになったコースだ。走り終える頃には真っ黒になっていることだろう。

 目を閉じ、精神統一。今回走るメンバーは、デビュー勝ちの称号を得る最後のチャンスとして出走しているウマ娘ばかりだ。気を抜くわけにはいかない。

 距離は前回と同じ。あの日の敗北から得られた反省さえ生かせば、勝機は必ずある。

 

 ガシャ。

 

 最後のウマ娘がゲートに収まる音。

 パッと目を開いたライズ、他の出走者たちも一斉にスタートの態勢を取る。

 

『スタートしました!』

 実況のアナウンスと共に五人のウマ娘たちが飛び出す。

 先頭は一番人気のハナブサヴァジュラ。これから二バ身ほどおいて二人のウマ娘が並んで追走。さらに一バ身差でライズエンペラーはここ。最後方から遅れてブロッサムベースといった出だし。

 隊列が整った頃には第三コーナーが見えている。

 前回とは違い、ぬかるんだコースは一歩ごとに足が食い込み、またとても滑りやすい。

 慎重に走らねば大きな事故になりかねないだろう。

 それに。

「うわっ!」

「ちょ、くぅ……」

 二番手、三番手のウマ娘がしきりに顔をぬぐっている。

 先頭を走る子が跳ね上げる泥が顔にかかって仕方ないのだろう。

 それでも、ライズエンペラーは前を走る三人の位置取りに鋭く目を光らせていた。

 仕掛けるタイミング、コース取りが勝敗を分ける。こんな泥に気を取られて、チャンスを見逃すわけにはいかない。

 気づけば第四コーナー。

 先頭のハナブサヴァジュラが少し外へ膨らんだ。追走する二人も同様、安全な位置を選んだようだが。

「待ってたぜェ!!」

 ギラリと不敵な笑みを浮かべたライズは、泥を蹴り上げてインコースをついて一気に加速態勢に入った。

 

『ここで動きましたライズエンペラー! しかしこの不良バ場で危険な内ラチ沿い、コースをものともしないとんでもない脚で追い上げる!』

 

 実況がこだまする。

 わずかな隙間を縫ってでも、多少の無理をしてでも、最短距離を選ばなければ、この条件での勝利は難しい。

 顔も体操服も真っ黒にしながら、駆け出したライズエンペラーは止まらない。

「先行くぜ! オラオラァッ!!」

「わ、私だって……!」

「無理ぃ!」

 グイグイと前へ出ていくライズ。

 他のウマ娘たちもつられて加速していく。ブロッサムベースは出足の遅れから弱音を漏らすものの、それでも必死に足を動かしている様子だ。

 直線を向いた頃には、ライズエンペラーが二番手。先頭とは全くと言ってよいほど距離がない。

 

『先頭ハナブサ、ハナブサ! ライズエンペラーが強引に迫る! 内へ切り込んでシダーブーケ、ここで抜き去ったライズ! シダーブーケが突っ込んでくる!』

 

 すぐ後方、必死に追ってくる音が聞こえる。

 もう前には誰もいない。足がダートに食い込むが、逆に蹴り上げる力が増しているような感覚だ。

 そしてゴール版。

 

『勝ったのは二番ライズエンペラー。真っ黒になった体操服をたなびかせ、勝利をもぎ取りました泥だらけの皇帝です! あぁ今、ライズエンペラーが客席に大きく手を振っ……おや、何でしょうか、あーちょっと!』

 

「見たか、これがライズエンペラー様の走りだ! それから」

 真っ先にゴールへ飛び込んだライズは、客席に向かって勝利を宣言。

 手を振って声援に応えると、その中から一つの影を見つけてニヤリと笑む。かと思えば。

「おーい、勝ってやったぞー!!」

 注目を一身に浴びる場で、体操服の上着を脱ぎ棄ててしまった。

 ウマ娘といえど、年頃の少女の肉体であることは間違いない。それがこのような行動をするのは問題とも言えるが、もちろんこれには意味がある。

 体操服の下には、まるでサラシのように一枚の布が巻かれていた。緑と黄のストライプ、縁を赤で囲んだ柄。跳ねた泥が染み込んで少し変色してしまっているが、誇らしげにそれを見せつけたい相手がいるのだ。

「ライズ、さん……なんてことを」

 頬を赤くして手で顔を覆い、指の隙間からライズを見る少女の姿が、客席にあった。

 それは、出走取消となったカスミステルシップ。

 ライズがその身に巻いているのは、先ほどはなみちで奪い取った、カスミがパドックで使うはずのマントであった。



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第6話「勝利の価値」

「それであたしの直感が冴えわたったっつーワケよ! あんな走り方、他のヤツにゃできねェって。これが未来のダービーウマ娘の走りってヤツ? しかも一走目より3.5秒も縮めたんだからよォ、あの泥沼を!」

「はいはい、凄い凄い」

 この頃のトレセン学園には四つの寮があった。

 規模としては栗東寮が最も大きく、次いで東京寮と中山寮の二つ。小規模なものとしては白井寮。後に東京寮と中山寮は合併して美浦寮となり、白井寮はトレーナー育成学校へと姿を変えていくのだが、それはまた別の話。

 遠征先の北海道から久しぶりに中山寮へと帰ってきたライズエンペラーは、荷ほどきしながらレースの様子をルームメイトに語っていた。

 スーツケースからは出るわ出るわ何着もの汚れ切った体操服たち。中には泥だらけで真っ黒になったものまで。

「……向こうでも洗濯くらいできなかった?」

「はン。あたしを誰だと思ってンだ!」

「要は、ほとんどやってなかったか。しょうがない、ちょっと貸しな」

 ルームメイト、そしてクラスメイトでもあるシンリョクメモリーは体操服をひったくる。

 実はお互いがルームメイトであることを、入学式のその日までしっかりと認識していなかった。そもそも入居したのも入学式前日。シンリョクは午前中に荷物を運びこんでさっさと学園内の見学へ行ってしまい、午後に入居したライズが部屋に入った時にはシンリョクは不在で顔を合せなかったのだ。

 その後はライズも学園の見学に出て、それぞれ夕食を済ませ、先に部屋へ戻ったシンリョクは入学式に備えてさっさとベッドに入ってしまった。後から帰ってきたライズも「よろしく」と声はかけたようだが、シンリョクは顔を出すこともなく「ん」と返事をしただけ。

 翌日の入学式はライズが起きるよりも早くに支度を済ませ、シンリョクは部屋を出ていた。

 つまり、ルームメイトでありながら、二人がちゃんと顔を合わせたのは教室が割り当てられてからであり、そこで一方的にライズが絡んだとはいえ交友関係になった彼女らは、部屋に戻ってから「まさかルームメイトだったとは」と驚嘆したのであった。

「何だよ、洗ってくれンのか? てか、寮母さんにやってもらうからいいって」

「洗濯機で落ちるような汚れじゃない。それにこの時間からじゃ、音が響いてみんなの迷惑。だけど、こんなモンを部屋に置いときたくない」

 そう言うとシンリョクは部屋を出た。若干の申し訳なさもあってか、ライズもついてくる。

 既に日が落ちた後。まだ他の部屋では多くのウマ娘たちが起きて談笑しているような時間ではあるが、早寝の子ならばもう横になっている頃だろう。門限も過ぎている。

 ではこの状況でどうやって洗濯するか。それはもちろん、古くより伝わる手法。

「これでやる」

 タライと、洗濯板。共用の洗濯場には、体操服やジャージを真っ黒になるまで汚すことも多いウマ娘のために、こういったものをちゃんと用意しているのだ。

「いや、まぁ、その、何だ。ありがてェケド……なんつーか、似合うな、アンタ」

「そう?」

 一結びにすることで毛先が肩甲骨くらいまでの長さになるシンリョク。緑色の耳カバーに、目つきはやや鋭く、言動のようにかなりサッパリとした性格。

 洗い場へ来るまでの間に、いつから用意していたのか割烹着を身に着けたその姿は、ライズの目にはいやに似合って見えた。

 

「そういえば、クラスメイト帰ってきたんやろ。もう会った?」

「いや、まだだよ。明日は教室に顔を出すんじゃないかな」

 一方、栗東寮。

 椅子の背もたれを抱えるような姿勢で一人のウマ娘がルームメイトに声をかけていた。

 同室のウマ娘は自分のテーブルに向かい、ノートに何か書き物をしている。勉強でもしているのだろう。

「ふーん。ウチんとこも何人かレースに出て、もう帰ってきたモンもおるけどな、いやー、レースの感想を聞くのも楽しいで!」

「そうかい。良かったじゃないか」

「何や、ダイモンジサマは興味ないんか?」

「意地の悪い言い方はよしてくれないか、ポール。ボクだって、実際にレースを走った景色がどう見えるものなのか、気になってはいるよ」

 ペンを走らせながら、ダイモンジは応える。

 ポールと呼ばれたウマ娘は、J-3組所属。正式にはジュブナイルポールという。鹿毛のショートカットが活発な印象。やや釣り目がちで、見るからにやんちゃそうだ。

 まだデビューにこぎつけていない彼女らが、レースの感想を聞くならばクラスメイトに尋ねるのが手っ取り早い。そこで聞いた言葉が、今後自分の走りに活かすヒントになるかもしれないのだ。

 それに。

 ダイモンジが、クラスメイトのレースに興味を持たないわけがない。

 あの日。ライズエンペラーのデビュー戦をラジオで聞いていた彼女にも、色々と思うところがあったに違いないのだ。

 J-1組デビュー一番乗りのライズ。その敗北を知った時、ダイモンジは共にラジオを聞かせてくれたシンリョクに短く礼を述べただけですぐに立ち去っている。中一週で形式上のデビュー勝ちをもぎ取ったライズエンペラーに対して、彼女はいったい何を思うのか。

「だけどね。それでも彼女は、一度負けたんだ。このボクを差し置いてデビューしておきながらね。ただ負けたんじゃない、二回目のレースの脚があれば――」

「なぁ」

 言葉を繋ぐごとに、だんだんと語気が荒くなっていくダイモンジに、ポールが待ったをかける。

 同時に、ずっとノートの上を滑っていたペンが止まった。

「負けるんがそんなに悪いことなんか? そりゃ勝った方がええ。でも勝負の世界やからな。負けたことから何を学ぶかが大事やと思うけどな」

「キミに何が!」

 叩きつけるようにペンを置き、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がるダイモンジ。

 何か怒鳴りつけるようにも思われたが、彼女はそのまま言葉を詰まらせてしまった。

 目の前には、手鏡。ポールは目を閉じ、ダイモンジに向けて、それを突き出していた。

「ヒドい顔しとるんとちゃうか。ファンが見たら泣くで」

 とっさに顔を覆う。

 彼女を様付けしてまで慕うファンには、決して見せられない形相。こんな些細な会話で、クラスメイトの敗北を思い出しただけで、心を乱してしまうとは。

 実は、彼女がそうなることを、ポールは知っていた。

 クールに気取って見せるダイモンジとて、一人のウマ娘。表に立つ性格が意図して演じているものだと、見抜いていたのだ。

 だから咄嗟に、こんな制止ができたのだろう。

「なぁダイモンジ。ウチには、何でそこまで勝ちにこだわるのか、よう分からん。クラスメイトを応援する気持ちは分からんでもない。せやかて負けたことを認められん理由は知らん。無理に聞こうとも思わん。でもな、もうちょい肩の力を抜いた方がええで」

 立ち上がりながら鏡をテーブルに置き、そのままベッドへ。

 未だにダイモンジは顔を覆ったまま立ち尽くしていた。

「寝よ寝よ。勉強もええけど、明日にした方がええで。それから、すまんかったな」

「……いや、いいんだ。ボクこそ、感情的になりすぎた」

「さよかー」

 横になったポールは背中を向けて布団にくるまってしまう。まるでミノムシのようだ。

 ようやく落ち着いたダイモンジも、開きっぱなしのノートを閉じて明かりを落とし、ベッドに腰掛ける。

 何か言おうと口を開き、やはり躊躇する。

 勝利に拘る理由はある。勝って、成し遂げなくてはならないモノがある。

 それを伝えるべきか、理解を求めるべきか。ダイモンジは悩んだ。

 その末に。

「おやすみ、ポール」

 やめた。

 誰かに、一緒に背負ってもらう勇気を出すことが、彼女にはできなかった。

 

 翌日のJ-1教室内では、デビュー勝ちを収めたライズエンペラーが話題の中心になるかと思われた。恐らく、ライズ自身がそうなることを一番期待していただろう。

 第一、レースを二度走ったとはいえ、そこで勝ちを得てくるウマ娘というのもそうそういない。二着でも三着でも敗北は敗北。一着でなければ勝利と言えないのだ。

 だから、クラスで最も早くデビューし、最も早く一着をもぎ取るということは、J-1の英雄と評されるに値する。

 ライズエンペラーがもてはやされ、その勝利を称える声で持ち切りとなってもおかしくないはずだ。

 が。

「じゃあホームルームの前に、連絡事項だ。このクラスからデビューが決まったウマ娘を発表するぞ。えー、来月中旬に、ダイモ――」

「きゃー--!」

「ダイモンジ様! 嗚呼、ダイモンジ様のデビューがついに!!」

「神よ……!」

 教員がその名を半分も口にするか否かというタイミングで、教室内は歓声に溢れた。クラスのアイドルがデビューするとなればこの反応もやむなし。中には手を組み涙を流す者すらあった。

 名簿で教卓を叩き、教員は騒然となる彼女らを鎮まらせようとするも、なかなか上手くいかない。

 当のダイモンジはというと、とうとう自分のデビューが決まってまんざらでもなさそうだ。が、チラリと視線を窓の方へ流した。

 それは間違いなく、そして向けられた当人しか感じ取ることができないほど一瞬。

(ボクは、キミのような失敗はしない。最初から華麗に勝ちきってみせるとも)

 胸の内に呟いたダイモンジ。

 そんな彼女を、ライズは不服そうに眺めていた。

 

 デビューが決まったウマ娘は三人。といっても、J-1ではダイモンジ以外のウマ娘が注目を集めることはなく、出走することを告げられた他の二人ですら、どこか夢見心地のままだった。

 昼休みにもなれば、いつにも増してダイモンジ親衛隊が彼女を取り囲む。大した人気だ、とシンリョクは呟いた。

 その一方で。

「どんな気分だった? 言いづらいかもしれないけれど、負けた時の感想も含めて、全部教えてもらえないかな」

 ライズにレースの感想を聞き出そうと詰め寄るウマ娘がいた。モノノフキッドだ。いつもなら、ぼちぼち幼馴染がやってきて食堂にでも拉致していく頃だろう。

 というよりは。

 教室と廊下を隔てる扉の向こう。

 恨めしそうにキッドの方へ視線を送っているウマ娘の姿があった。キッドを連れ去るタイミングを図っているに違いない。

 これに気づいてか、そうでないのか、ライズは。

「お、いいぜいいぜ。このあたしの武勇伝、たっぷり聞かせてやるからよォ、メシでも食いながらにしようぜ」

 食堂へ向かうために、ライズが席を立つ。その一つ前の席にいるシンリョクも同席できないかと尋ねて了承を得た。

 寮でもルームメイトの二人は、昨夜の内にライズのデビュー戦について語り合ったりもしたが、シンリョクはそれを改めて聞き、またキッドがどういった感想を持つのかに興味があったのだ。

 廊下へ出るなり強引についてきたキッドの幼馴染、チーラヒメも伴い、四人は食堂へと向かってゆく。

 彼女らが消えた扉へ向かい、ダイモンジはまた例の視線を送っていた。





当方、関西に住んだ経験がないために、割とエセな関西弁が出てきております。
その言い回しは間違ってる、みたいな突っ込みがあるかもしれません。ご指摘がありましたら修正します。

ちょっと忘備録的に、これまでに登場したウマ娘たちのクラス分けをここに記しておきます。

J-1組
・シンリョクメモリー
・ライズエンペラー
・ダイモンジ
・モノノフキッド

J-2組
・チーラヒメ(キッド大好きウマ娘)
・ホッポウセブン(第4話でメイクデビュー逃げ切り勝ちの子)
・ジュブナイルポール(ダイモンジのルームメイト)

J-3組
・カスミステルシップ(第5話で腹痛のため出走取消となった子)


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第7話「妖狐幻術」

 八月。

 ここ数日は雨がパラつくもこの日は止んで、バ場は乾いて良との発表。

 北海道のレース場では今も人がまばら。いわば本州で行われるレースが休止中とも言える夏の時期、北海道や九州の競バファンにとっては生でウマ娘が走る姿を見るチャンスが増えるわけだが。

 日付としてはお盆休み前であり、賑わいを見せるには少し早い。

 この日、札幌の地を踏むのは、ライズエンペラー。一度はトレセン学園へ帰ったものの、ほぼとんぼ返りのような形で札幌へ戻ったことには、もちろん彼女なりの理由がある。

 クラスメイト期待の星、ダイモンジのデビューだ。

 メイクデビューを勝ったとはいえ、ライズはまだ一勝。J-1組の期待を一身に背負うダイモンジが評判通りの実力を発揮すれば、あっという間に先を行かれてしまうだろう。だから、多少無茶でも連続で出走して、勝利を重ねなくてはならない。

 何故ならば。ダービーだけは絶対に譲れないからだ。

「すみませー--ん!」

 もう三度目のパドック。マントを羽織って歩く地下道で、背後からパタパタと走る足音が聞こえる。

 胸の内に闘志を燃やしていたライズが振り向くと、そこには見知った顔があった。

「あ、あの、パドックって、こっちでいいんですよね? えーっと、私、道を覚えるのが得意じゃなくて、えへへ……って、あれ?」

 小柄で幼い印象。鹿毛でおさげ。口を開くと夢中になって喋り、そのくせあまり言葉がまとまっていない様子。

 この少女と出会ったのは、もう一月以上前になるだろうか。

「あ、その。ちょっと、待ってくださいね。たしか、たしか……ら、ライズエンペラーさん!」

「おゥ、よく覚えてたな、おさげ娘」

 名は、ホッポウセブン。

 初のデビュー戦で逃げ切り勝ちを収め、その後出走者全員の控室を回って挨拶していたウマ娘だ。

 ライズはそのおさげを掴んでニヤニヤ。一方でセブンは「やーん痛いですー」と抗議。

 どうにも掴んでみたくなる髪型のようだ。

 こんなに早く再戦することになるとは、お互いに思ってもいなかったに違いない。前回の、「次はあたしが勝つ」という宣言を果たす機会だ。

 何だかんだ、予期せぬ再会にセブンも喜んでいる様子で、おさげを掴まれてもまんざらでもなさそうだ。もしかしたら、普段から色んな人に掴まれているのかもしれない。

 

 カラン。

 ……コロン。

 

 やり取りをする内。小気味の良い駒下駄の音が響いてきた。

 自然と二人の言葉が失せ、音の方へ目を向ける。

「ほっほ。仲がえぇんもよろしいが、レースで勝敗を争う敵同士。じゃれ合うんもほどほどにせぇ」

 膝裏まで伸びる長い鹿毛が美しく、ウマ娘特有の耳はやや幅広。シュッと締まったような顔のつくり、マントの下は体操服であることは想像できるが、何故駒下駄なのだろうか。

 いずれにせよ、ここにいるということは、これからレースに出走するウマ娘に違いない。

 ライズはおさげを引き寄せるようにして、小さく耳打ちする。

「なぁ、あいつ、誰?」

「サトリコンコさんですよ。今日の一番人気、ですって」

「なんだァ? ウマ娘なのかキツネ娘なのかハッキリしねーな」

 名前からキツネを連想したのか。言われてみれば、彼女の特徴的な耳は、まさしくソレに見えてくる。

 そんな話が聞こえているのかいないのか。サトリコンコなるウマ娘は静かな笑みを浮かべてカラコロと音を立てながらパドックの方へ消えていった。

 

「ちょっと! 何でキッドがいないのよ。どこ行っちゃったのよ。何か知ってるんでしょ? 素直に白状しなさいよ! ねぇキッドは!?」

 トレセン学園では、朝早くから走り込みのトレーニングをしていたシンリョクメモリーにチーラヒメが食って掛かっていた。

 曰く、朝起きたらルームメイトのモノノフキッドが姿を消しており、どこを探しても見当たらない。書置きもなかったとのこと。

 この頃は携帯電話なども誕生していないために、相手がどこにいるかが分からないと連絡も取れない。

 そうとなれば、事情を知っていそうなキッドのクラスメイトに聞いて回るしかない。

 寮を飛び出したヒメが、学園で最初に出くわしたキッドのクラスメイトがシンリョクだったのだ。

「教えてもいい。けど、ちょっとうるさい」

「うるさいって何よ!」

 金切声を聞きながらタオルで汗を拭くと、一つため息を吐いてまた走りに行ってしまう。

 慌ててヒメが追いかける。

 上は体操服、下はジャージという姿で走るシンリョクに対し、ヒメは制服にローファー。登校途中だったので鞄も持っている。どんどんヒメは遅れ始めた。

「分かった、ちょっと、分かったから……。うるさかったのは、謝るから、お願い、キッドのこと」

 ゼェハァと息を乱して降参するヒメの声聞いて、シンリョクは足を止めた。

 彼女とキッドは幼馴染であることは聞いている。その上でルームメイトなのだから、四六時中一緒にいるようなものだ。

 たまには離れていたいと思ったりしないのだろうか。

 そんな疑問を抱きつつ、シンリョクは。

「キッドなら、今頃ダイモンジと一緒」

「もしかして、トレーニング? どこで? 私も、すぐ行かなきゃ」

「似たようなものだけど。そんなにキッドに会いたい?」

 一言、キッドの行方を言ってしまえば済む話。

 だが、言ったところで面倒なことになりそうだ。行先を事前に伝えなかったことを責められそうでもある。

 まずは色々と予防線を張ってからにしなくては。

「もちろんよ。キッドはね、私がいなきゃダメなの。確かに走るのは早いし、夢を追う姿はかっこいいわ。でも、でもね? 誰かが支えてあげなきゃちょっと凹んじゃったり、焦って行動して失敗しちゃったりするから、そこは幼馴染のこの私がキッドの一番必要としているところを慰めたり励ましたり――」

 失敗だ!

 その感情や行動理念は、常軌を逸しているとまでは言わないが、まるでキッドのために生きているかのような考え方。

 逆に。キッドがいなくなったら生きていけなくなるのかもしれない。

 これでは予防線も何もあったものではない。こうなれば。

「……キッドの行先、北海道だから」

「時には私にもちゃんと甘えてくれたり――今、何て?」

「ちゃんと答えたから!」

 これ以上構っていたら一日中キッド語りをされかねない。

 シンリョクは小声かつ早口で回答すると、走り去ってしまった。

 

「しかし、キミがついてくるとはね。良かったのかい?」

「ライズの走りが気になるのと……それから、君のデビューも近いんだからね。この目で見ておきたいんだ」

 札幌レース場の観客席には、二人のウマ娘の姿があった。

 二週間後、函館でのデビューが決まったダイモンジ。隣にいるのはモノノフキッドだ。

 クラスメイトの走りは、未だラジオでしか聞いたことがない。実際にどんな走りをするのか、見学しておいて損はないだろう。

 もちろん、レースに出るダイモンジはともかく、キッドにはトレセン学園でのトレーニングや学業のこともある。あまり遠方まで数週間単位で出かけることは好ましくないのだが、それ以上に学べることがあると考えたのだろう。

 だが。ダイモンジが尋ねた言葉には別の意味があってのことだった。

「いやいや、そうではなくて。黙って出てきたんだろう?」

「あはは、うん。ほら、言っちゃうと……ね? でも、後のことは頼んできたから」

 そうは言うものの、本当に問題なかったのだろうか。キッドのためならトイレにまでついていきそうなチーラヒメの宥め役を、シンリョクメモリーに任せてしまって。

 だが、こうするしかなかった。他のウマ娘のレースを観戦していたら、彼女がどんな反応をするか分かったものではないから。

 先日、食堂でライズにレースの様子を尋ねていた時も、ヒメは終始ふくれっ面だった。寮に戻ってからもずっと不機嫌だった。もう少し依存を抑えるか、ウマ娘としてレースを走ることへの考え方が変わらない限り、共に観戦することはできないだろう。

「あ、ほら、出てきた。ライズー! 頑張れー!」

 パドックには一枠一番に指定されたライズエンペラーが出てきていた。

 もう三度目のレースということもあり、随分と落ち着いた様子。これまでのレースで汚れ切っていたはずの体操服は、まるで新品のように真っ白だ。

 今回のレース、ライラック賞はダートの一二〇〇メートル。五人立てだ。

 少人数。というのも、ライラック賞は基本的に未勝利のままでは出走できない。八月のこの時期にはまだデビューすらしていないウマ娘も多く、この人数もやむなしといったところだろう。

「四番人気、だそうだね」

「他の子たちは一走目で勝利してきたから……でもこの人数なら関係ないと思う。それに、勝ってほしいでしょう?」

「もちろんだとも。今のところ、彼女がJ-1の顔だからね」

 ダイモンジの視線が鋭くなる。

 そこには、ただ勝利を祈るものとは何か違う意味が込められているようにも見えるが、キッドはそれに気づけたのだろうか。

 

『スタートしました。第二コーナーを曲がりながら、中から抜き出てやはりハナを切りますホッポウセブン。一番人気サトリコンコは後方二番手から。最後方ではライズエンペラーが追走してバックストレッチを向きました』

 

 前回より少しだけ距離が伸びた今回のレース。後方から追走してチャンスを伺う走りは、やはりライズにとってしっくりくるものだった。

 とはいえ、最後尾を走るのは今回が初めて。離され過ぎては手遅れになる。距離感には気を配らなくてはならない。

 それに。

(あいつ、本気で走ってンのか? 読めねェな)

 目の前。やや外側を走るサトリギツネは、パドック前で出会った時のように、駒下駄で走っている。どう見ても全力で走れるようには思えないが、八大競争などの格の高いレースではブーツで走るウマ娘もいるわけで、案外ウマ娘によって走りやすい靴というのは違うのだろう。

 流石にこの砂の上ではあのカラコロとした音は鳴らないが。

 向こう正面を向いてから、先頭の様子が少し見えた。

 ホッポウセブンが先頭。一バ身か二バ身空いて二人のウマ娘が並んで走っている。そこからサトリコンコまでは三バ身以上の開きがあった。

(おいおい、一番人気サンよォ、この距離でその開き方はマズイんじゃねェか。マジで何を考えてやがる)

 隊列は変わらず第三コーナーが見えてきた。前回はここでまだ我慢。第四コーナーから仕掛けたが。

 後方に位置するということは、レースの状況がよく見えるということだ。タイミングを図る上でのアドバンテージがある。

(……ッ! こ、こいつ!!」)

 ライズが気が付いた時、サトリの背は笑っているように見えた。

 そう、走れば走るほど、先頭集団からの距離が開いてきている。要は、徐々に速度を落としているのだ。

 前方の状況を把握しようとするあまり、その走りに巻き込まれてライズもかなり離されている。これでは仕掛けが間に合わない。

 そうだ、初めから狙いはこれだったのだ。

 後方のペースが落ちるよう仕向けて、スパートを遅らせる気だ。

 

『さぁ隊列が長くなりました。先頭から殿まで七から八バ身ほどでしょうか。これはホッポウセブンの独壇場か。あぁっと第三コーナー前、ライズエンペラー動いた! 後方からぐいぐいと上がって現在四番手!』

 

「まずい、ダメだライズクン、落ち着くんだ!」

 観客席。

 展開を見ていたダイモンジは悲鳴にも似た声で叫んだ。

 それをキッドは不思議そうに聞いていた。

 双方、考え方が違うのだ。このタイミングの仕掛けを吉と見るか凶と見るか。

 しかしこの悲鳴の意味は、直後目の当たりにすることとなる。

 

「キツネに化かされてる場合じゃねェんだよ、オラオラどけどけェ!」

 右にカーブ。前の二人をかわせば、以前競い合ったホッポウセブンの背が見える。

 スパートは間に合った、はずだ。しかし。

(な、やべェ!)

 前の二人はほぼ横並びで走っている。間を縫っていくことは不可能だ。

 それに、スパートをかけて加速中。遠心力で体が振られて、インを突くこともできない。

 となれば外を回るしかないが、これが仕掛けのタイミングと被ったことで、彼女自身が想像していたよりもはるかに大きく……逸走にも近い形で大きく膨らんでしまっていた。

 何とか進行方向を修正しようとインコースへ目を向ける。

 そこには、いつの間にか最低限の力で緩やかな加速をしていたらしいサトリが、内ラチ沿いにするすると上がって二番手になっている。

「ち、きしょォッ!」

 弾き飛ばされるように外へ膨らんでいくライズは、軽く跳ねて地に強く踏み込み、まるで壁を蹴る要領で強引に体を内側へ向けた。

 こんな走り方、失敗すれば大怪我しかねない。それでも、術中にはまって惨めに負ける方が、耐えられなかったのだろう。

 本当の狙いはこれだ。仕掛けのタイミングを狂わせて、後方のペースを乱すことが、サトリの策だったのだ。

「今更焦っても遅いわ。ほれほれそこのおさげさん、先を譲ってもらおうかのぅ」

 無我夢中で先頭を走るホッポウセブンをサトリが捉える。第四コーナーを曲がり切って直線を向いた頃には最早勝敗が決したかに見えた。

 

『先頭はサトリコンコ、サトリコンコ! ホッポウセブン必死に粘るがこれはちょっと差し返せないか。ライズエンペラーは大逸走で脱落――な、こ、これは!!』

 

「待てやゴラァッ!!」

 濛々と土煙を上げ、とんでもない追い上げを見せるライズ。

 大外。目の前を邪魔する者は誰もいない。

 正直、状況は最悪だ。ゴールまではあと一〇〇メートル程度しかない。

 現在は四番手。届くかどうかは、正直分からない。

 だから。ライズにできることは、持てる力を振り絞って走ることだけだ。

「な、なんじゃ、モノノケかいな」

 轟音とも形容できる足音に振り返ったサトリが驚愕の表情を浮かべる。

 いっぱいいっぱいになりながらも必死で足を動かすホッポウセブンの後方。

 鬼の形相で追い上げてくるライズエンペラーの姿があった。

 その勢いからサトリが覚えた感情は、恐怖。

 ぶるりと身の芯が震え、蛇に睨まれた蛙のように、全身が硬直してゆく感覚。

 策にかかって沈んだはずのライズエンペラーが、まさか。こんなこと、計算にない。

 

『凄い足! 勝利への執念かライズエンペラー! 並ぶ間もなくホッポウセブン抜き去って迫る、迫る、迫る、迫る、並んだ、抜けた抜けた! サトリコンコをかわしてライズエンペラー堂々のゴール……まさかまさか、あの大逸走からの勝利だけでなく、掲示板にはレコードの赤い文字です!』

 

 ゴール版を駆け抜けたライズが客席に向かって手を振る。

 その後ろで、サトリコンコは苦々し気な視線をライズに向けていた。




今回のレースも、資料がなかったため想像で作り上げたものになります。
一応、サトリコンコのモデルとなったお馬さんはレース映像が残っていたので、そこから脚質を想像して展開を構築していきました。
ただ、大逸走からの勝利って、ちょっと無理があったかもしれません。
この辺り、いわゆる大外一気と捉えていただければ……。

この作品には、チームの概念が出てきていませんが、この世代でチームを組んでしまうととてもややこしいので敢えてオミットしています。
トレーナーも存在していませんが、これもわざと外しています。というか、話が煩雑になりすぎてしまうので……。


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第8話「札幌痴話喧嘩」

「ぼ、ボクにこれを食べろと……!」

「何だよ、お坊ちゃんはこンな庶民のモンは食えねェってか」

 ライラック賞の翌日。

 ライズエンペラー、ダイモンジの二人は昼食のため札幌の町に繰り出していた。

 せっかく遠征に出かけてきているのだから、その土地のものを食べるのも一興だろうとの考え。

 以前にもこの土地を訪れているライズが案内役を買って出て、連れてきたのがこの店だ。

 その昼食とは、札幌名物、味噌ラーメン。

 注文から数分で提供された、濃い目の茶色いスープに大きなチャーシュー、バターにトウモロコシが乗った、まさに典型的なソレ。

 ダイモンジは味噌ラーメンに目を落とすと、驚愕の表情を浮かべていた。

 ケタケタと笑うライズは箸を割り、レンゲでスープを掬って啜った。

「いや、その……ライズクン、これは、どうやって食べるんだい?」

「ブッ!」

 スープが気管が入ったか、盛大にむせるライズ。

 まさか、ラーメンの食べ方を知らないとは。

 欧米出身者なら、麺料理はパスタくらいしか馴染みがないだろうから、食べ方がイメージできないのも理解できる。

 しかしダイモンジは、そういうわけではない。

「ラーメン、食ったことねェのか?」

「こういうものは、身体に障るから食べない方が良いってママが」

「ママぁ!?」

「あんまり大きな声を出さないでくれたまえ!」

 これはライズにとっても意外だった。

 育ちが良いのだろうことは以前から想像していたことだ。

 とはいえ、ラーメンの食べ方も知らない。おまけにトレセン学園にも入学する歳になって母親をママと呼ぶし、その言いつけをずっと守っていたとは。

 もうライズは決めた。心に強く決心した。

 ダイモンジが度々嫌がって訂正してくる「お坊ちゃん」という呼び方。絶対に改めてやらねェ、と。

「その、キミに頼むのも何だが……、本当のことを言うと、ラーメンに興味がなかったワケじゃないんだ。それに、ラーメンの食べ方も知らないというのは、少し恥ずかしくもある。キミは食べ慣れているのだろう? どうか、食べ方を教示してくれないだろうか」

 面白い、とライズは笑みを浮かべた。

 普段からからかってやってはあしらわれたり、取り巻きに非難されたりと、お高く留まった態度が鼻に着いていたところ。

 それが、こうして申し訳なさそうに、頼み事をしてきている。優位に立つなら絶好のチャンスだ。

 少なくとも箸が使えれば問題あるまい。

「じゃあ。まずラーメンはな、このレンゲを使ってスープを一口飲むのが基本だ。ラーメンってェのは、スープで八割決まるからな」

「へぇ、そうなのかい。では」

 レンゲでスープを掬ったダイモンジは、音を立てることもなくするりと口へ流し込む。

 他の客もいてガヤガヤとした店内には少し似つかわしくないほど、妙に品がある。そういえばウマ娘にも名門と呼ばれる一族がいくつかあるが、そこの出身者たちもこんな風にスープを飲むのだろうか。

「味噌ラーメン、なるほどね。確かに味噌の風味が生きている気がするよ」

「んじゃ、麺だな。あたしのやり方だけどよ、上に具材が乗ってるだろ? こいつを崩さないように麺を引っ張り出して……そうそう。で、一気にだな」

 器用に具材を分けて麺を持ち出したライズが、ずるずると音を立てて麺を吸い込んでゆく。

 この様子にダイモンジは少し、目を丸くし、視線を周囲に走らせた。

 他の客も一様に、音を立てて啜っている。

「な、なぁ。本当に、そうやって音を出すのが、正しいのかい?」

「あァん? アンタ、何言ってんだ。こうやって食うからうめェんだろ」

 トレセン学園の食堂でラーメンを食べるウマ娘だっている。そばやうどんだってある。

 直接見たりしていなくとも、啜る音くらいは聞いたことがあるはずだ。

 何を当たり前のことを聞くのか、とライズが思っていると、ダイモンジは急にモジモジとして。

「しかし、これはその、なんだ。はしたないじゃないか」

「乙女かっ!」

「乙女で悪いか!」

 そりゃウマ「娘」なんだから乙女なのだろうけれども。

 よほど音を立てることに抵抗があると見えて、ライズは仕方なく、レンゲに麺を乗せてひとくちラーメンを作って食べる方法を提案した。

 ようやく妥協できたのか、相変わらず音も立てずに食べ進めてゆく。

 麺も半分以上胃に収まったところで。

「お坊ちゃんよ。ここらでもう一度、スープ飲んでみな」

「スープなら最初に飲んだが?」

「いいから」

 促されて、ダイモンジは怪訝に思いながらもレンゲにスープを掬って口へ運ぶ。

 少し味わって、その変化に気が付いた。

 最初はややしょっぱいスープに味噌の風味が溶け込んだ味だった。

 ところが今は、違う。甘味とまろやかさが染み出して、舌全体を包み込むかのようだ。

 先ほどと何かが違う。

「どうだ。バターが溶けてまた違うだろ」

「これは……確かに」

 ダイモンジが唸る。普段から食べているものとは全く違った味に感動を覚えている様子だ。

 ラーメン食べさせただけでこれだけ喜んでくれるのなら、連れてきた甲斐があったというもの。

 本当ならもう一人、彼女も連れてきたかったところだが。

「そんで。キッドのヤツはやっぱり、来れねェよな」

「流石にそろそろ解放されていても良いとは思うけれど」

 レース観戦に訪れていたモノノフキッドの姿がない。

 このままダイモンジのデビュー戦まで見届けると言っていたので、トレセン学園へ帰ったわけではないのだが。その辺の事情を、二人は知っていた。

 わざわざお忍びで北海道まで来たというのに、かわいそうなことである。

 

「それで、私に黙って出てきたの? へぇ~……」

 ウマ娘のレースを取りまとめるURAは各地にレース場を設けるだけでなく、その周囲にトレセン学園の在校生や関係者が宿泊できる施設も用意していた。レースに出走する者、付き添いの者、観戦を希望する者などには、事前に申請さえすれば自由に使う権利が与えられる。

 ホテルURA札幌支店の一室。

 そこには、正座をさせられる二人のウマ娘の姿があった。

 一人は、モノノフキッド。ベッドの上で目を伏せ、しょぼくれている。

 もう一人はシンリョクメモリー。こちらは床に座らされ、目をそらすようにしてふてくされていた。

「予め言われていたら、確かに私もついてきたわよ。キッドと離れるなんて、私、耐えられないから。でも私が納得するように言って欲しかったし、隠れてコソコソするなんてホント信じらんない」

 彼女らの前で仁王立ちするウマ娘は、チーラヒメだ。

 内密に札幌まで出かけてきたことはすぐにバレるであろうということ。学園に帰ったら一悶着あるだろうということ。

 ここまでは、キッドも覚悟の上だった。

 しかし。

 まさか、お目付け役を頼んだシンリョクを伴って、わざわざ北海道まで乗り込んでくるとは。

 お説教はかれこれ一時間以上続き、正座していた二人の足は限界だ。何とか許しを得るしかないのだが、こういう時は何を言っても焼け石に水どころか、火に油なのだということを、キッドはよく知っていた。

 それでも、何も言わずに嵐が過ぎるのを待っているわけにもいかない。

「黙って出てきたことは謝るよ。でもヒメのことが嫌いでそうしたんじゃ――」

「謝るってことはやっぱり後ろめたいってことよね。何で悪いことって分かっててそんなことしたの、本当は私のことなんてどうでもいいんだ! それに謝るのはそこじゃない! こんなに悲しい気持ちにさせて、わざわざ北海道まで来て怒らせるほど寂しい思いをさせてごめんなさいでしょ! ねぇ、私がかわいそう!」

 ダメだ、お説教タイム追加一時間コースだ。

 もう足が限界。お腹も空いてきた。

 どんどんヒートアップしてゆくヒメをどうにか宥める手段はないものだろうか。

「いい加減にしろ」

 呟いたシンリョクがふらりと立ち上がり、痺れた足を馴らしてゆく。

「自分まで引っ張ってきて何かと思えば、こんなところで正座させられていわれのないお説教されて。関係ないことに巻き込むな。それに、少しはキッドを自由にさせたらどうなの」

 ぐりぐりとつま先を床にこすりつけ、血流が戻ってゆくぞわぞわとした感覚に瞼がヒクつく。

 確かにこれはとばっちりだった。

 多少の世話を焼くことも構わないとは思っていた。

 だが首根っこを掴まれ、拉致され、飛行機に乗せられ、まぁ北海道まで連れてこられることは途中で分かったもののそれはそれでいいかと考えていたら、到着するなり幼馴染同士の喧嘩に巻き込まれてお説教。

 理不尽にもほどがある。

「キッドもキッドだ。どうせ説得できないって最初から諦めてこっちに全部押し付けて……。話して理解し合えないのに何が幼馴染だ。相手は自分に都合がいいだけの人形じゃないんだ」

 言いたいことを吐き捨てて荷物を手にシンリョクは出て行ってしまった。

 後に残されたのは、未だベッドの上で正座したままのキッドと、呆気に取られて固まるヒメ。

 口を挟む間もなく、気づけば扉が閉まった後。

 傍目に見れば、シンリョクが怒るのも無理のない話だった。

 

「で、それで飛び出したってワケか!」

「これは、しばらく部屋に戻れそうにないね。それにしても……」

 食事時も過ぎた頃になって、ライズとダイモンジはホテルから逃げ出してきたシンリョクを加えてブラブラと札幌の町を散策していた。

 部屋での一件を聞いた二人はもっと時間を潰そうと歩き出したわけだが。

 シンリョクの方へ視線を移すと、胴体に匹敵するサイズの惣菜袋を抱え、これでもかと詰め込まれたトウモロコシ。これにやけ食いよろしくかじりつく。

 無言で、歩く先を見つめ、取り出されるトウモロコシはあっという間に芯だけとなってゆく。

 苛立ったら食事で自分の期限を取るタイプのようだ。

「もしかしたら、本気で怒らせたらシンちゃんが一番怖いかもな」

 ケラケラと笑うライズに、これを諫めるダイモンジ。

 三人は駅の方へと向かっていた。

 ストレスを解消するために、癒しを求めるとしたら最適な場所があるというライズの提案だった。

 

 札幌駅近くのバスに乗って揺られること、約四十分。

 到着したのは小高い丘だった。

 夕暮れが近くなっており、地平線の方から茜が差してきている。

 この場所こそ、後にクラーク像が建立されることになる札幌屈指の観光名所。

「羊ヶ丘展望台! どうだ、札幌の町が全部見えンだぜ」

 開かれた視界に映る景色はまさに絶景。

 ……なのだが。

「ねぇシンクン! すごいよ、羊がいっぱいだ!」

「そろそろ厩舎に帰るんじゃない。この時期は毛が刈られているからあまりモフモフしてはいないね」

「だがこうしてスッキリした姿も愛らしいじゃないか」

「確かに、撫でてみたくなる。ぬいぐるみとか売ってないかな」

 連れてこられた方の二人は、町よりも手前に広がる放牧地。ここでのびのびと草を食んだり寝転んだりする羊たちの方に興味を向けていた。

 どちらかというと札幌ドームなどを見せたかったらしいライズはというと、羊にテンションが上がる二人に向けて。

「乙女かっ!」

「「乙女で悪いか!」」

 

 それからしばらくして。

 ライズは先ほどの乙女発言を撤回すべきかと悶々と考えていた。というのも。

「実はね、一度食べてみたいとは思っていたのだよ」

「ファンがついてきてなくて良かったんじゃない。幻滅されるよ」

「ボクのイメージは強く美しく高貴でなくてはならないからね。このことはナイショだよ」

 夕飯に二人が希望したものが、ジンギスカンであったからだ。

 先ほど放牧された羊を見てテンションの上がったダイモンジに、機嫌を直したシンリョク。そんな彼女らが、その肉を食らいたいとは。うすら寒いものを感じずにはいられない。

 ひとまずホテルの近くに戻ってきた一行は、手近なジンギスカン料理を提供する店を訪れていた。

 扉をくぐり、店員に人数を伝え、案内をされるまで待機。店内に客は多いものの、案内待ちは少なく、すぐ食事にありつけることだろう。

 だが。

「やべっ、ちょ、アンタら隠れろ」

 ライズは店内に見知った顔を見かけて、二人を柱の陰に隠した。

 そこにいた者というのが。

 

「ねぇ、見て見て。羊の写真いっぱい飾ってる。可愛いね」

「あ、うん。そうだね……はは」

 先ほどまでホテルの一室で喧嘩していたチーラヒメとモノノフキッドだった。

 いつの間に仲直りしたのか。特にヒメの方はやけに嬉しそうに料理が運ばれてくるのを待っているようだ。

 しかし。何がどうなってこんな風に関係を修復したのだろうか。

 この様子をこっそり覗き見たライズらは、彼女らの席の近くに案内されないことを願った。切に願った。

 何がきっかけでまたヒメの怒りに火をつけるか分かったものではないからだ。

 むしろこっそり店を抜け出して別の店舗へ移るべきだろうか。

「お待たせしました、三名様でお待ちのライズエンペラー様~」

 決断が遅かったようだ。

 

「いや、本当に助かったよ。おかげで仲直りもできたし、ヒメも機嫌を直してくれたし」

 悲しきかな。三人の祈りは届かず、よりにもよって案内された席というのが、キッドとヒメが座る席の隣であった。

 とはいえ危惧していたようなことは起こらず。キッドはシンリョクに感謝を述べて自分たちの席へ引っ張ろうとさえしていた。

 聞いたところによると。

 ホテルからシンリョクが出て行って、部屋に二人だけとなった後。キッドは黙って札幌へやってきたことを改めて謝った。その上で、ヒメを連れてきたらレース観戦どころではなくなりそうだと思ったこと、集中してクラスメイトのレースを目の当たりにし、いずれやってくる自分のデビューに活かしたいと考えたことを素直に伝えた。

 これは、シンリョクがちゃんと話し合うようにと怒って部屋を出たからこそ、ヒメにようやく伝えることができたことである。

 何より。

「レースで私にかっこいいところを見せたかったからだって言うんだもの。もう、それならそうって最初から言ってくれたら良かったのにこう見えてシャイなのよキッドって。シンちゃんも最初から分かってたんなら……あぁでもキッドは私のために頑張ってるんだからライバルとして切磋琢磨するのは構わないけれどあまり必要以上にベタベタするのだけは控えてくれると」

「これ、解決したと思うかい?」

「知らね。多分悪化したんじゃね」

 ひとまず今回の騒ぎが収まったとはいえ、ダイモンジとライズは食事前から胸焼けのような感覚を覚えたのだった。

 

その夜。

 

「ちょっと、何で私があなたと一緒の部屋なのよ! キッドは、ねぇキッドは?」

「事前申請もなしにいきなり来たんだから、URAのホテルは使えない。明日には申請を出すから、それが受理されるまでは実費。それくらいは諦めて」

「いーやーよー!」

 チーラヒメとシンリョクメモリーは、ビジネスホテルの一室に泊まることになった。

 出費を少しでも抑えるために、ダブルルーム。要するに。

「私はキッドと寝るの! 何が悲しくてシンちゃんと同じベッドで寝なきゃならないのよ!」

 ベッドはダブルサイズのものが一つだけ。これも旅費自体はURAが負担してくれるとはいえ学生の身分で宿泊費を捻出するためにわずかでも費用を抑える必要があったからだ。

 これにもヒメは難色を示したのだが、ほぼ着の身着のままで飛び出してきたために背に腹は代えられないのである。

「嫌なら床で寝て。じゃあお休み」

「ふん! いいわよ別に。この時間にもなれば人の目も少ないから、こっそり行けばキッドの部屋に忍び込め――」

「いい加減にしろ」

 普段、ヒメとキッドは寮の部屋でどう過ごしているのだろう。

 そんなことを考えて、少しはキッドに優しくしてやろうと考えるシンリョクであった。

 





あまり堅苦しい話ばかりでもよくないですし、
何よりライズエンペラーとダイモンジ以外のキャラクターがほとんど掘り下げられていないと感じたので、今回は閑話休題とさせていただきました。
レースの展開ももう少し面白く書けるようになりたいものです。


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第9話「函館の流星」

 この年の盆は土日に接続した関係でやや長く休みを取った社会人が多かったことだろう。

 世間の長期連休も最終日。函館レース場には多くの観客が詰めかけていた。

「昨日も多かったけど、今日も多いなァ。こっちに回ると全然違って見えるモンだな」

「あ、あの……本当に良かったんですか? お友達と別々の席のようですけど」

 スタンドにはライズエンペラーとホッポウセブンの姿があった。

 実はこの二人、前日にここ函館で三度目となる勝負を行っている。お互い初めての芝コースで距離は一二〇〇メートル。

 結果は、セブンの逃げ切り勝ち。ライズは三着と及ばなかった。

「あっちはあっちで騒がしいンだよ。それに、アンタとゆっくり話す機会もなかったからな」

 いよいよこの日はダイモンジのデビュー戦。この観戦でもしようとライズが誘ったのだ。

 少し視線を移すと、スタンド最前列には異様な熱気を放つ一団があった。

 この日のために押し寄せてきたダイモンジ応援団。J-1組総出だ。

 恐らく教室はもぬけの空だろう。

 もとよりファンの多いダイモンジのことだから、こうなることはなんとなく想像できたことだ。その熱気に巻き込まれたら、必要以上に疲弊するに違いない。

「ところでよ。アンタ、レースを走るのって、どう思ってンだ?」

「え? 楽しいですよ」

 初のデビュー戦ではまんまと逃げきられ、再戦した時は無我夢中で勝利をもぎ取り、昨日の三度目となる対決ではやはり楽な手ごたえで逃げられてしまった。

 実力でライズが劣っているようには思えない。だがどうしたことか、なかなか追いつくことができずにいた。その原因はどこにあるのだろう。

 セブンは、レース後にわざわざ他の出走者全員の控室を回って挨拶していくようなウマ娘だ。少なくともライズとは違った心持でレースに臨んでいるはず。

 そう考えての質問だが、その思惑はやはりというべきか。

 しかし本題はここからだ。

「ライラック賞の時もか?」

「あの、私が負けちゃって……ライズさんが勝った時のレースですよね。楽しかったですよ?」

 ニコリと、屈託のない笑顔を添えて、さも当たり前のように返答するセブンは、少し眩しくもあった。

 このウマ娘は、勝ち負けよりも、レースをどう楽しむかに重きを置いている節があるようだ。それはもしかしたら、勝負根性という面では弱さを見せるものかもしれない。一方で、常に自分のポテンシャルを高い水準で引き出す心構えを持ち合わせているようだ。

「悔しいとか思わねェの?」

「でも、楽しかったので! すーっと前へ滑るように走っていくサトリコンコさんはキレイでしたし、ものすごい勢いで追い上げるライズさんはかっこよかったです!」

 敗北した時ですら、他のウマ娘の走りに見とれたりして。

 ただ走ることが好きで。ただウマ娘の走る姿が好きで。

 それなら。毎回ハナを切って走るのは少し矛盾する。後ろから眺めていたって良いわけだ。

「じゃあ真っ先に先頭を走ろうとするのは何でだ?」

 これは大した意味を持たない、ちょっとした疑問だった。

 だから特に回答を期待したわけでもない。

 ところが。

「やっぱり、私より速いウマ娘さんの方が、かっこいいですから。だから私はいつでも前を――」

 きっと彼女自身は深い意味を持たずに、速く走るウマ娘を称賛するつもりだったのだろう。

 そんなことは分かっていても、ライズはどうしても素直に受け止めることができなかった。そしてセブンのおさげを少し乱暴に掴んで。

アンタより速いウマ娘(・・・・・・・・・・)? ナメてンじゃねェぞ」

 ギロリと睨みつける表情に恐怖したセブンがビクリと体を震わせ、小声でごめんなさいと漏らす。

 何故怒らせてしまったのか、彼女が理解しているのかは疑問だが。

 ライズはフンと鼻を鳴らしておさげを解放してやると、腕を組んで目を逸らしてしまう。

 丁度その時。スタンドの前方では黄色い声が上がった。

 次のレースのパドックに、彼女が出てきたのだ。

 

 九人立てメイクデビュー、芝一〇〇〇メートル。番号は八番。

 圧倒的な一番人気に支持され、パドックで颯爽とマントを脱ぎ棄てる姿。その一挙手一投足に歓声が上がり、チラリと見せた笑顔にはスタンドの乙女を悩殺する魅力が備わっている。

 彼女こそJ-1組の星、ダイモンジであった。

 

 ゲートに収まり、少し周囲に目を配ると、誰もが一様に緊張した面持ちでいた。

 当然だ。初めてレースに出るウマ娘ばかりなのだから。中には既に一度出走した者もいるのだろうが、少なくとも全員が未勝利である。

 しかし、ダイモンジの胸には確かな自信が宿っていた。

 追い風となる声援もあり、この日に向けての調整も万全だ。

 何より。

「ボクは……」

 ゲートが開かれる。

「負けていられないんだ!」

 

『スタートしました! ダイモンジ好スタートからぐんぐん前へ前へ後方九人を引き連れ、いや引き離してあっという間の逃亡劇!』

 

「キャー!」

「ダイモンジ様ー!!」

 スタンドの最前列に詰めかけたJ-1組が声援を送る背後で、レースにくぎ付けとなるウマ娘がいた。

 彼女らと同じクラスメイトであり、この日のためにわざわざお忍びで北海道を訪れたモノノフキッド。それに、強引に連れてこられたシンリョクメモリーだ。

 力強い踏み込みで先頭へ躍り出たダイモンジが誰よりも早く第三コーナーへ差し掛かろうとしている。

「ダイモンジ、飛ばしすぎ……でも」

「うん、この短距離なら、これしかないと思う。何よりも凄いのは、これを可能にするだけの実力があること」

 たった一〇〇〇メートルしかないレースでは、距離ロスが結果に大きく左右する。

 外枠というだけで不利。それでも八番で最も人気を集めたダイモンジへの注目度の高さは大したものだが、実際にこれで勝利するにはそれなりの策が必要になる。

 即ち、スタート直後から内ラチに向けて切り込むこと。だが、ゲートが開いてからすぐは当然内側に多くのウマ娘がいるために進路がない。

 ならば一気に先頭に立ってから内へ入るのが最善であるのだが、短距離であるが故に、誰もが最初からハイペースで駆け出すことは目に見えている。

 他の出走者よりも速く、誰よりも前へ。

 しかし先日ライズエンペラーが慌てて速度を上げたことでカーブを曲がり損ねたこともある。

 ペースをコントロールするのは至難の業だが。

 

『コーナーを曲がって後続も一気に追い上げてきます。差が詰まって直線を向いた! 一番人気ダイモンジもこれまでか!?』

 

「これまで? この程度の距離でボクがいっぱいになったとでも?」

 直線を向いた。

 途端、ダイモンジが強くターフに踏み込む。

 スタートにも見せた加速が再び。

 コーナーでは詰められたかに見えたが、その差はまたあっという間に開いてゆく。

 残り二〇〇メートルも残したところで大勢は決していた。

 

『とんでもない二の足! 他のウマ娘は遥か後方、ダイモンジ、ダイモンジ、これは圧勝ゴールイン! 函館のターフを栗毛の流星が駆け抜けました! これは脅威、一〇〇〇メートルで十バ身差の勝利でした』

 

 ワァァ――!

 

 ゴールの瞬間、函館レース場は一際大きな歓声に包まれた。

 その盛り上がりは、最早メイクデビューのそれではなく、今後のレースを盛り上げる絶対的なスーパースター誕生を確信させるものであった。

 J-1組の応援団だけでなく、この日観戦に訪れていた人々も、これだけ圧巻のレースを見せつけられれば、興奮せずにもいられないだろう。

「凄い、凄いよ……。これがダイモンジの走り」

 キッドはグッと拳を握りこんで、ゴール版の先で手を振るダイモンジに釘付けとなる。

 一方でシンリョクはレースの様子を考察していた。ダイモンジがいったい何を考えて走っていたのだろうか。どんな策を講じていたのか。

(一気にハナを切って、コーナーで速度を一気に落とした? この間のライズのレースは、外に大きく膨らんでしまった。同じ轍を踏まないようにペースを変えたのだろうけれど、こんなに短い距離で速度を上げたり下げたりして勝ち切るだけの力は、並大抵のウマ娘には、無理)

 結論から言えば、圧倒的に持って生まれた力が違うとしか言いようがない。

 いつか彼女と同じレースを走る時、その実力についていくことができるだろうか。そんな不安すら覚えさせる。

「ねぇ、キッド。キッドは、負けないよね? キッドの方が、もっと速いよね、そうだよね」

 当然のように、二人の間に収まっていたチーラヒメが、伺うようにキッドへ目を向ける。先日、怒り狂って北海道へ乗り込んできた時とは違って、レース中は大人しくしていたし、大騒ぎするようなこともなくなっていた。

 そういえばあの時、ホテルの一室に残されたキッドとヒメがどのような会話をしていたのか、シンリョクは知らない。だが間違いなく、その時を境にヒメは随分と丸くなったように思えた。

「いや。間違いないよ。ダイモンジの方が速い。きっと今のままじゃ勝てない」

 いつかデビューした先で、彼女とは勝敗を競うこともあるだろう。

 勝負における策の練り方、自らを熟知しきった走り方。加えるならば、レースの魅せ方。

 全てにおいて、今日までにデビューしたウマ娘の中ではトップだと確信できる。

「もっと強くならなきゃ」

 キッドは決意を新たに、表情を引き締めた。

 そんな時のこと。

「おい、見ろよこれ。あのダイモンジってウマ娘のプロフィール、ほら」

「母親のウマ娘? どれどれ……って、おいおいマジかよ」

「こりゃ、今後は期待できねぇな」

 シンリョクメモリーの背後に座っていた客が、新聞を手に何か話し合っている声が聞こえた。

 すかさず視線を走らせると、キッドもヒメもその声に気づいている様子はなかった。

 

「ああ。桜花賞を勝ったものの、それから食が細くなって病気がちだったウマ娘だ。さらにその母……あのダイモンジのお祖母ちゃんってのがな」

「確か、病気が原因で結婚が認められなかったって騒動があったウマ娘だよな。なんか、本で読んだことがある。治ったんだか、病気だってのは嘘だったのか、結局子供がレースに出てたわけだろ」

「でもこういう一族だってことを考えると、来年のクラシックまで体が持つのかどうか」

「今回は圧勝だったから、次も見てみたいと思うけれど。こういう親だとなぁ」

 

 そこまで聞くと、シンリョクはわざと大げさに物音を立てながら立ち上がった。

 そして強引にヒメとキッドを立ち上がらせる。

「食事。早く行かないと混むよ」

「え? あぁ、そうだね、見たいレースも見たし、うん」

 この話は、キッドに聞かせるわけにはいかないと感じた。

 いや、誰にも話すまいと決めた。

 ラジオ越しにライズのレースを共に聞いた時、ダイモンジの様子がおかしくなっていた。自分のレースでもないのに、クラスメイトの勝利に、いやJ-1組への注目度に拘っているような節があった。

 普段の振る舞いも、彼女本来の性格というよりは、どこか作られたものを感じさせる。

 あの観客の話が本当ならば。祖母の代から続く、病弱のレッテルを払拭するために、ダイモンジは強くあらねばならないのかもしれない。

 そんなこと。そんな想いがあること。シンリョクの予想が正しいのならば、きっとダイモンジ自身は、その想いを誰にも知られたくはないだろう。

 だって。

 こんな圧勝を見せつけてなお、彼女の母や祖母を知るファンからは、その一族である(・・・・・・・)というだけで、こんなにも落胆されてしまうのだから。



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第10話「誰がために」

「おや、どこかで見た顔かと思えば。この間はすごかったなぁ。鬼が追ってきたんかと思うたわぁ」

 函館レース場には薄く雲が広がるものの、夏の終わりを告げる風はターフをよく乾かして爽やかな芝の香りを運んでいた。

 八月末にもなると、お盆の時期ほどの活気は収まりつつある。それでも北海道でのURA主催レースは間もなく一区切りということもあり、客入りは上々。

 相変わらず駒下駄でターフに姿を見せたサトリコンコは知った顔を見つけて声をかけた。

「ゲッ、あン時のキツネじゃねぇか。なんだよ、アンタも出るのか」

「こんにちは、今日も、えっと、よろしくお願いします!」

 露骨に不機嫌そうな顔をするライズエンペラーと、律儀にぺこぺこと頭を下げるホッポウセブン。

 この三人はそろってライラック賞を競った間柄。今日の函館三歳ステークスでもまた顔を合わせることになるとは、随分と縁があるらしい。

「おさげさんもこんにちは。今日も仲がよろしいなぁ。敵同士とはいえ、普段はわっちも間に入れてもらいたいわぁ」

「フン、好きにすりゃいいだろ」

 クスクスと笑うサトリをあしらうように、ライズはさっさとゲートへ入っていってしまった。

 嫌われたやろか、と呟く声を聞きながら、セブンは不安そうにライズの背を視線で追っていた。

 

『本日のメインレースは二つ。みなみ北海道ステークに先立ちまして、函館三歳ステークスの枠入りが進んでいます。ホッポウセブンとライズエンペラー、四度目の対決にも注目が集まってそれぞれ一、二番人気に推されています』

 

 ゲートに収まった各ウマ娘は、精神を研ぎ澄ましてその時を待つ。

 今回は十人立て。芝の一二〇〇メートル。前半はずっと直線が続き、折り返し地点から第三コーナーに差し掛かる。コースとしてはシンプルだが、その分お互いの動きを絶えず気にして仕掛けどころを誤らぬようにしなくてはならない。

 どのような策を思い浮かべているか、それにどう対処していくか。

 勝負勘を養う良い機会ではあるが。

 

『スタートしました!』

 

 開いたゲートから一斉にウマ娘たちが飛び出してゆく。

 やはりというべきか、真っ先に先頭に立ったのはホッポウセブン――いや。

「今回はわっちも行かせてもらおうかの」

 競りかけていったのはサトリコンコだ。

 前回は後方からのレースとなった彼女だが、今度は果敢に前へ前へ。

「チッ、何を考えてやがる。させるかよ!」

 釣られてライズや他数名のウマ娘も先団につけた。

 すると途端に。

「やーめた」

 逃げたと思われたサトリは一気に速度を落として順位を下げる。

 単独の先頭はセブン。ほとんど差はなく二人のウマ娘。ライズは現在四番手付近。

 前半六〇〇メートルの直線。スタート直後からごちゃついてポジション争いが収まる気配がない。

 一度前目につけたところから後方へ。この動きを一二〇〇メートルの短距離でするにはリスクが高すぎる。

(いつもとは違う位置……。あのキツネがどこにいンのか知らねェが、この位置ならコーナーも問題ねェはずだ)

 一方でライズは、これまでの後方から一気に追い上げる走り方を捨てる形になった。

 後ろからのプレッシャーを感じながら走る。どうにも違和感がある。今までは追う側であって、追われる側ではなかった。何せ、今後方にいるのはサトリだ。どんな策を打ってくるか分からない。

 今度は、何を企んでいるのだろう。

 

『さぁ間もなく第三コーナー。先頭は変わらずホッポウセブンだがリードはそれほど開いておりません。続くウマ娘が距離を詰め、いえ、動かない、隊列動かず六〇〇標識を通過!』

 

 ようやくポジションが決まったかと思えばコーナーが目の前。今仕掛けるのはリスキーだ。

 先頭までの差もそれほどない。後は仕掛けるタイミングだけだ。

(第四コーナー。あたしの全力はそこからだ。キツネもおさげも、見てやがれ)

 虎視眈々と機を伺うライズ。その脳内には、仕掛けと同時に走り抜けるルート、どこで何番手に上がるかといったビジョンが浮かんでいた。

 最終直線は約三〇〇メートル。第四コーナーの下りを利用して加速しながら突き抜ければ、多少外へ膨らんでも抜き切ることができるだろう。

 ラスト一〇〇メートルで先頭に立ち、そこで後方をちぎってゴールだ。

 

『これから最終コーナーに差し掛かるところで動いた動いたサトリコンコ! ほぼ最後方から最内通ってグングンと前へ! ハナを切るホッポウセブンも粘って、二番人気ライズエンペラーは来ないのか、まだ動かない、ライズ動かない!』

 

 どこに控えていたのか。

 ライズが仕掛けようとしたタイミングで、すっと上がってきたサトリ。

 滑るような走りは、まるで内ラチをレールのようにして最もロスのないルートを駆けてライズに並びかけてきた。

「ほれほれ、早よせんと間に合わんぇ」

「うるせェ、言われなくたって!」

 挑発するようにニタニタと笑みを見せるサトリに苛立ったライズが、ここと決めたところで芝生を強く踏み込んだ。

 だが。

「――!」

 足が、前へ行かない。

 下りに差し掛かって、スピードに乗って前へ出る算段だったはずだ。

 だが思うような加速が得られない。いつものキレがない。

「む、無理ぃ」

 一人、前を走っていたウマ娘がバテバテになって垂れてきた。

 これをかわそうとしてライズが外へヨレる。

 その隙に、サトリはするりと前へ抜けていった。

 こんな短い距離で、そこまで体力を消費することがあるのか?

 

『最後の直線、ライズエンペラーようやく追ってくるが距離が縮まらない。先頭はホッポウセブンとサトリコンコの一騎打ち! サトリ迫る、迫る、迫る、ホッポウセブンの逃げ、並んだ!』

 

 残りは一〇〇メートル程度。

 このままの速度差ならば勝敗は決したも同然だ。

「おさげさん? お友達はアカンなぁ。この間はマグレ、わっちがちょいと本気になれば大したことないわぁ」

 並んだところでサトリはそう語りかける。勝ち誇ったような、ニタニタとした笑みと共に。

 いつも全力で前を走り続けるセブンは、ゼェゼェと息を切らせながら、チラリと声の方に視線を向けた。

「……で」

「ほん?」

「ライズさんを、バカにしないで」

 どこか頼りないような、おどおどとした態度が妙に庇護欲をくすぐる彼女。

 楽しいからレースを走っている、楽しいから先頭を走っている、そんな彼女。

 だがこの時は違った。

 真剣なまなざしで再びゴールの方に向き直したセブンは、ほんの少しの怒りを込めた声色だった。

「ライズさんはすごいウマ娘なんです。きっと私より速いウマ娘(・・・・・・・・)なんです。だから……」

 もうゴールは目の前。そこでセブンは思い切り前へと踏み込んだ。

 グンと姿勢を下げて、一度捕らえられたところから再び差し返しにかかる。

「私は、ライズさんの前で、待ってなきゃいけないんです!」

 こんなに真剣に走る姿を、彼女は見せたことがなかった。

 もしかしたら、今のセブンにとって、走る理由はそこにあるのかもしれない。

 そうだとしても。

「おさげさんは、そうなんかもなぁ」

 サトリは呟く。

 誰よりも前へ行きたいというのは、レースを走るウマ娘の本能みたいなものだ。

 しかし時として、それ以上の望みを持って走る者もいる。それをサトリは、理解したいとは思わない。

「わっちは違う。わっちは、ライズはんを超えたいんよ!」

 踏み込みを感じさせない滑るような走りが特徴のサトリは、まるで地を這うかのようにフォームを変えた。

 獣が獲物を狙うかのように。一瞬で捕らえにかかる時のように。

 

『お互い譲らない! 全く並んでの攻防! ゴール版目の前でホッポウセブンがとにかく粘る!!』

 

 二人の競り合いを、ほんの少しだけ後ろからライズは見ていた。

 二人の会話も、聞こえていた。

 情けないと思った。悔しいと感じた。

 こんなに自分が彼女らに影響を与えているというのに、自分はこの体たらく。

 走っても走っても、前に追いつけない。

 チクショウ、と呟いた。

 

『ゴールイン! サトリコンコがやや体勢有利に見えますが、確定までお待ちください』

 

 函館三歳ステークスは、ほんの僅かな差でサトリコンコ一着。二着に入線したのがホッポウセブン。

 ライズエンペラーはそこから三バ身離された四着に留まった。

 走り切ったサトリは徐々に速度を落とし、スタンドの方へ手を振る。

 間違いなく勝ったという自信があった。多少は応援してくれる人もいただろう。

 そうした、観客への感謝を右手に宿して。

「応援ありがとさん。ありがとさん。そっちのお客はんも……っと、なんしたん?」

 グイ、と体操服の裾を引く者がある。

 振り向くと、その正体はセブンだった。うつむきがちに裾を掴む姿は悲しそうにも見える。

 肩で息をしながら、小さく震える唇で、何か呟いているようだが。

 何度か聞き返し、少しずつ拾った言葉を繋げ合わせると。

「ライズさんは、すごいんです」

「ライズさんは、私の憧れなんです」

 そのようなことを、何度も何度も。

 レース中にからかったことが、よほど気に障ったようだ。

 こういったタイプは、自分がバカにされるよりも、信頼している人を傷つけられた方が苦しむ傾向にある。

 ゲート前で見た時には、そこまで依存しているようには感じられなかったが。

「よォ。どんな魔法使ったンだよ。ちっとも足が動かなくなっちまうし――」

「ラ゛イ゛ス゛さ゛ー゛ん゛!゛」

 レースを終えたライズが近寄ってくる。

 その声に反応したセブンは掴んでいた裾を放し、涙声を上げてライズの懐へ飛び込んだ。

 ワケが分からず、とりあえず頭を撫でながら視線でサトリに説明を求める。しかし彼女も軽く肩を竦めるのみだった。

 それよりも。

「タネは明かさんよ? 少しは頭を使うとえぇわ。例えば、そやなぁ……敵の嫌がる走り方、とか」

「嫌がる走り方、だって?」

「少々、ヒントを言い過ぎたなぁ。ほんなら、また一緒に走ってな。おさげさんも、もっと仲良くしよな」

 手で口を押えるように薄く笑うと、コンコは“はなみち”の方へ去っていってしまった。

 他のウマ娘たちもぞろぞろとターフを後にしてゆく。残されたのはライズと、未だに顔を埋めたまま泣きじゃくっているセブン。当然、観客もどよめきながら注目しているわけで。

「いつまで泣いてンだよ。おい、帰るぞ」

 声をかけても揺すってもセブンは離れようとしなかった。

 仕方なく抱え上げ、肩に担ぐような形でターフを後にする。

 ライズの背中を掴むようにしてぐずぐずと涙を流すセブンは、何かしきりに謝っているようだ。しかし。

「悪かったな、追いつけなくてよ。あたしの代わりに戦ってくれたンだよな」

 それは自分に言い聞かせているかのようだった。

 泣かなくて良い、と伝えたいのだが。彼女の涙があるから、自分のふがいなさを責めずに済んでいるような気がするのだ。

「もう、あのキツネにゃ負けねェよ。策だか何だか知らねェけど、そンなモンが通用しねェくらい、あたしは強くなる。だからよ」

 そこまで言って、負けた悔しさが込み上げてきた。

 今までに二度の敗北を味わっているが、その時とは違う。

 いつの間にか、このおさげのウマ娘を負かすことがライズの目標になっていたように思う。いつだかスタンドで会話したあの時、ライズの心は決まったのだ。

 だというのに、セブンはライズの走りを背負おうとしていた。後ろから見ていても、ライズにはそれが分かる。

 その気持ちを表現する言葉を、彼女は持ち合わせていない。

 だから震えた声で囁くことしかできなかった。

「今度も先頭で、待っててくれよ」




函館三歳ステークスも、やはり結果はデータとして残っていますが、展開までは資料を見つけられず……。
少しウマ娘たちの内面を深堀することにしました。

今回サトリコンコが用いた戦術については、次回以降に本編で語ることにします。


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第11話「走る者と走れぬ者」

 夏の暑さは鳴りを潜め、秋の便りがちらつく頃。

 トレセン学園J組所属のウマ娘たちにとって、ある意味で最も過酷な時期が訪れていた。

 というのも。

「あ、ライズだ!」

「ホントだ、この間なんて全然だったよね」

「ダービーを取るとか何とか言っちゃって、掲示板に残るので精一杯じゃ絶対にムリよねー」

 教室内では、こんな言葉が囁かれるようになっていた。

 競争では結果が全て。そこで何を得て、何を学んだかなど、第三者にとってはどうでも良い。

 傍から見れば、長いこと北海道に滞在していたくせに、結局勝ち切れないまま帰ってきた、「結果を出せないウマ娘」として、ライズは見られるようになっていたのだ。

 J-1教室に入るなり聞こえてきた陰口。ライズはチラリとそちらの方に視線を流しただけで、何も言わずに自分の席へ。

 先に来ていたシンリョクメモリーはその様子を見て立ち上がる。

「いい加減にしろ。ライズはいつだって全力だ。手を抜いて走ってなんかいない。それを嗤うのは……」

「全力だ、だって!」

「それで勝てないんだからもう底が見えたようなものよねー!」

 ルームメイトが、友人が悪く言われることに対し、流石のシンリョクも我慢がならなかったと見える。

 無言を貫くライズに代わって抗議するも、それは燃料を投下するに過ぎなかった。

 言わせておけば、と拳を握り、今にも殴りかかろうとするシンリョクを止めたのは、外ならぬライズだ。

「ありがとよ、シンちゃん。あたしの代わりに怒ってくれてンだよな。でもいーの。あたしは気にしちゃいない」

「悔しいと思わないの? レースで結果を出せなかったって、一番気にしてるのはライズ自身じゃないか。それでもライズは、ただ負けたわけじゃない。なのにこんなに好き勝手言われて、本当に悔しく――」

「悔しいさ!!」

 机を叩き、弾みで立ち上がる。

 教室内のざわつきが一斉に引き、数秒の間の後、クスクスとした笑いがそこかしこから漏れる。

「おうおういいぜ笑え笑え! どうせあたしゃロクな結果も出せてねェ。だが忘れンなよ、それでもデビューから二か月、今ンとこ二度勝ってンだ。文句がありゃダービーに出てこい! そンで……そンで、レースで負けたヤツを笑いたきゃ、あたしのことだけ笑え! いいな!!」

 啖呵を切ってなお、それなら遠慮なくといった様子で最早声を抑えることもなく教室中がライズのことを嗤っていた。

 フンと鼻を鳴らしたライズはどっかりと座り込み、シンリョクは何とかしてやりたくてもどうにもできずオロオロするばかり。

「……こんなのはあんまりだ」

「これ以上はいーンだよ、シンちゃん。あたしは、代わりに受け止めなきゃならねェんだ。あたしの代わりに戦ってくれたヤツも、あたしの代わりに怒ってくれたヤツもいる。だから、あたしも誰かの代わりに、この罵倒を受け止めてやりたいンだ」

 そう言いながらライズは教室内のとある席に視線を送った。

 空席。荷物はキレイに片づけられ、そこに着く者はもうこの学園にはいない。

 この夏、何人かのウマ娘がデビューした。中にはダイモンジのように華々しい勝利を掴む者もあり、ライズのように勝ち負けを繰り返す者もあり、あるいは惜しいところで結果を出し切れないウマ娘もいる。

 しかしその席の主は、デビュー戦でひどい負け方をしてしまった。

 短い距離でのレースだったというのに、先頭からは大差。圧倒的な最下位でこの先勝ち上がる見込みもなく、夢破れて早くも学園を去る者もいたのだ。

 陰口とは恐ろしいもので、二度と姿を見せない者よりも、本人に影響が及ぶところで囁かれやすい。

 だからライズは、涙と共に学園を後にしたウマ娘が負け組のレッテルを貼られないように、彼女らの名誉のために、敢えて自分が非難を受けようというのだ。

 視線の先を辿ってライズの意図を汲み取ったシンリョクは、寮に戻ってから少し優しく接してやろうと考えた。そんな時に。

「やぁみんな。随分と賑やかだけど、何かあったのかな?」

「ダイモンジ様! おはようございます!!」

 朝の練習メニューを終えたダイモンジが教室に姿を見せた。

 途端に、ライズを笑っていたクラスメイトたちが目の色を変えて彼女の周囲に群がってゆく。

 クラスメイトたちは口々に、ライズがいかに情けないか、結果が中途半端でかっこ悪いか、ということを訴えて、ダイモンジの共感を得ようとしていた。

 ふぅん、と声を漏らし、ダイモンジが教室内の様子を見まわすと、一つ頷いて口を開いた。

「では、まだ負けたことがない子だけが、ライズを嗤うといい。そして、一度でも負けたら、彼女に謝るといい」

「ち、違うんです! ライズは大見栄切ったクセに、ダイモンジ様みたいな勝ち方ができなくて、そんなんでダービーを勝ちたいなんて笑っちゃうよね、と」

「それならば!」

 大きく腕を広げて何か言いたげなクラスメイトたちを黙らせる。

 こういった時のカリスマ性は流石といったところか。教室内が一瞬で静まり返った。

「キミたちは、何のためにトレセン学園にやってきたのかな。今、この場で、夢を言えるかい? 言ってごらん。そしてキミたちが口にした夢を、このボクが一笑に付そう! よくも身の程をわきまえずに大口を叩けるものだ、と」

 また騒然となった。

 夢中になって慕っている彼女が言えば、その破壊力は計り知れないものだろう。

 恐らく誰もが、ダイモンジがライズを庇うとは考えていなかったはずだ。だから堂々と本人を目の前にして陰口を叩くし、同意を求めるかのように話すのだ。

 しかしその目論見は外れた。

 いや、その理由を、シンリョクだけは知っていた。ダイモンジには、ライズを嗤うことなんて決してできないのだ。

「ライズクン!」

「……何だよ、お坊ちゃん」

 ダイモンジが名指ししたことで、二人を結ぶ直線からウマ娘たちが捌ける。

 ライズは視線を合わせようとせず、窓の外を眺めていた。

「日本ダービーで待っているよ。キミの夢と力を、そこで見せてくれたまえ。それまでに、一緒にレースに出ることだってあるかもしれない。だが、ボクはキミと走り、キミと決着をつける場は、ダービーに決めた。全力でかかってきたまえ、ボクのライバル(・・・・・・・)!」

「おう」

 短い返事。彼女は決してその表情を見せることはなかった。

 何を思い、何を感じたか、それはきっと彼女自身にしか分からない。

 

「会長、その写真は?」

「ここに加えるべきか、迷っていてね。ちょっと花を飾るだけだと思っていたけれど、意外と頑張ってくれそうだよ。こっちの写真と入れ替えてもいいかな」

 生徒会室では、執務机に写真を並べたハレルヤが顎をしゃくりながら何か考え事をしているようだった。

 副会長であるイルミステンドは、雑務の片手間に声をかける。

 そういえば以前、会長のハレルヤは三枚の写真を並べて今後の展望を語っていた。

 役者が増える、もしくは入れ替え。ハレルヤの頭の中で何か予想外のことが起きているに違いない。

「この間は見事に罠にかかっていたけどね。スタート直後の上り坂、いつもと違うペースで走らされ、その後自分のペースや位置取りを惑わされ。最後にはスパートしたくても身体が今までよりも速く前へ出る感覚を忘れて上がり切れない。うーん、よくできた術だった」

「でしたら、その写真を加えるのは何故です?」

 疑問を投げかけられ、ハレルヤはニタリと笑みを浮かべた。

「忘れたかい? 彼女はどんな罠にかかろうとも、何かが弾ければ(・・・・・・・)フィジカルで押し切ってしまうだけの底力を持っている。それにね」

 机に並べられた写真を一枚手に取り、元々手にしていた写真をそちらに入れ替えた。

 役者の交代、ということだろう。

「彼女にとっては不本意だろうが、いずれ彼女は智慧を手にするよ。その時こそ、物語の主役に躍り出るのかもしれない」

「では、今入れ替わった写真のウマ娘は……」

 小さく首を横に振って、写真は机の引き出しにしまわれた。

 少なくともしばらく出番はない、ということだろう。

「しかし、どうにも胸騒ぎがしてね。祝福と呪いは表裏一体だよ」

 そこまで言うとハレルヤは席を立ち、カンカンと靴の飾りを鳴らしながら部屋を出て行ってしまった。

 見送った後、イルミは机の上に置かれたままの写真に興味を惹かれて視線を移す。

 今、会長が入れ替えて新たに並べられた写真。それには、何故かシミのような色の抜けた部分が点々と散っていた。

 これは、この入れ替えは、ただの祝福ではない。

 そう予感させるものであった。

 

 トレセン学園では当然、授業だけでなくトレーニングも行われていて、授業の合間やいわゆる放課後などに多くのウマ娘たちが走っている姿が見られる。

 その日もやや陽が傾き始めたグラウンドで走り込むウマ娘の姿があった。

「うん、すっごくいいペース! これならデビューももうすぐだね!」

 モノノフキッドは用意されたコースを一周。そのタイムを幼馴染のチーラヒメに図ってもらっていた。

 ウマ娘のデビュー時期に関しては学園がコントロールしているとはいうものの、当然ある程度の実力が認められなければ出走は叶わない。それはトレーニングで一定の距離をある程度のタイムで走りきる実力が試される。

 しかしながら。キッドは既にデビューに足るタイムを叩きだしている。後は学園の判断を待つだけ、なのだが。

「ありがとう、ヒメ。でも、なんというか……これじゃダメなんだ。今の走りじゃ、ダイモンジには追いつけない。もしかしたら、ライズにだって。しっくりこないんだ、どうしても」

 タイムを確認し、キッドは脚の具合を確かめるように地面を何度か踏む。蹴り上げる力に不足は感じない。脚は軽やかに上がる。しかし北海道でレースを見てからというもの、自分の走り方に大きな疑問を抱くようになっていたのだ。

 これは彼女自身にしか分からない感覚なのだろうか。走る様子を見ていたヒメには、違和感の解決方法も、ましてや何がキッドを悩ませているのかも、全く見当がついていなかったのだ。

「お、なんや、ダイモンジのツレとそのまたツレやないか。そろってトレーニングかいな」

 多くのウマ娘がトレーニングしているために、当然顔見知りと出くわすことも少なくない。

 声をかけてきたのはジュブナイルポール。J-3組所属で、ダイモンジのルームメイトだ。クラスが違うことで普段会話することは滅多にないが、こうしてたまに顔を合わせると、キッドとポールは妙に親近感を覚えることも多い。

 キッドが感じた、走りの違和感。これを相談してみるのも良いかもしれない。

 もしかしたら、第三者の立場から見て気づけるものだってあるはずだ。

「実は……」

「何や、そやったんか。ほんなら、ウチと一緒に走ろか?」

 それは良い提案だった。

 お互いの走りを見て研究することもできるし、自分では気づけない弱点を指摘してもらうこともできる。

 とはいえ夕暮れも近く、今から走ってお互いに指摘し合うのでは少々時間も足りない。

 そこで二人は改めて日取りを決め、ヒメが立ち会うことになったのだった。 



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第12話「病魔」

少し日常編が続きます。
レースを描写する機会はしばらく後になると思いますが、
ここでキャラクターたちを掘り下げていくつもりですので、
お付き合いいただきたく存じます。


「は、自分も?」

 朝、ホームルームが始まる前にグラウンドでストレッチしていたシンリョクメモリーは、突然の声に素っ頓狂な声を上げた。

 目の前にはモノノフキッドとチーラヒメ。

 話を聞くに、まだデビューが決まっていないキッド、それからジュブナイルポールが並走トレーニングをするという。それに参加してくれないか、ということだ。

 当然、誰かと共に走ることで得られるものもあるだろう。しかし。

「悪いけど、遠慮する」

「お願い、キッドのためなのよ。友達なんでしょ?」

 そう言われても、シンリョクは承諾しなかった。

 足を延ばし、背中を伸ばし。四肢の感覚を確かめるように丹念にストレッチしてゆく。

 既に数人のウマ娘が走っている様子が見える。遠くの方にはダイモンジの姿もあったが、こちらに気づいてはいても構う様子はない。

「自分は、キッドやライズとは違って、まだまだ力不足。役には立てない」

 それに。とシンリョクは付け加える。

「あまり体調が良くないんだ。今だって、身体が鈍らないようにほぐすだけだし。走るのはちょっと」

「そうは見えないけど、じゃあ、無理に付き合わせるわけにはいかないな」

 あっさりとキッドは引き下がった。

 本人が体調不良だというのならば仕方ない。どうにも元気そうには見えるのだが、もし仮病だったとしても、走りたくない理由があるのだろう。

 できれば多くの意見を取り入れ、また様々なウマ娘の走りを目の前で確かめたい気持ちもあったに違いないが、ひとまずはポールとの並走で何かしらのヒントが掴めるだろう。

 ヒメの方も、キッドが諦めたのならばと無理強いすることはしなかった。

 誘いに乗ってくれないと分かった二人は、さっさとその場を引き上げて教室の方へ向かってゆく。

 その背中を目で追いながら、シンリョクはジャージの裾についた土埃を払った。

「……コホッ」

 少し、咳が出る。

 ただ、それだけ。熱があるとか、だるいとか、そういったことは特にない。

 体調が悪いというのは言い過ぎかもしれないが、大事を取るに越したことはないのだ。

 やはり、走り込みは控えよう。

 その後もシンリョクは少しだけストレッチを続けた後、教室へ向かうのだった。

 

「ほんなら、八〇〇メートルな。目標は、五十五秒を切るタイムで走る。ええな?」

「分かった。ちなみに勝敗は?」

「負けた方がニンジン一本奢る、でどうや」

 授業も終わって放課後。

 日が傾くにはまだ時間がある。

 約束していた通り、ジュブナイルポールとモノノフキッドはグラウンドにある練習用コースで顔を合わせた。チーラヒメも交えて並走の段取りを決めてゆく。

 八〇〇メートルを五十五秒というのは、ウマ娘がデビューするに足る実力を身に着けたか否かを判断する基準だと噂されるタイムだ。

 ちなみにこの速度は、実際にデビューしたウマ娘がレースで走る時のものに匹敵するので、並走とはいうものの実戦にかなり近い形。

 キッドが「勝敗」という言葉を用いたのもそのためだった。

 距離、時間を確認すると、ヒメは合図用の旗を持ってゴール地点へと移動する。

 天候は晴れ。芝の状態は良。走りやすい条件がそろっている。

 今回の条件では、走り出してすぐ左回りのコーナーに差し掛かり、直線もそこまで長くはない。ならば内側についたポールの方がやや有利にはなる。とはいえ、賭けもしたがこれはトレーニングの一環だ。勝敗を強く意識する必要はないだろう。

 ゴール地点についたヒメがストップウォッチ片手に旗を上げる。

 合わせてキッドとポールがスタートの構えを取った。

 数秒の間。

 旗が振り下ろされた。

 同時に二人のウマ娘が走り出す。

 お互いの実力を探り合いながら。

 

 教室では、席に着いたままグラウンドの様子を伺うシンリョクメモリーの姿があった。

 クラスメイト達はトレーニングや各々の用事のために出払っていて、今ここには彼女しかいない。

 視線の先には、キッドとポールの姿があった。

 並走というよりもキッドが前を走り、この後ろからポールが追いかけているようだ。実戦形式だろうか。

 カーブを曲がってゆく。

(あの走り……そうか、キッドはそう走るのか)

 何を感じたのか。

 二人が直線を向いたところで一つ咳をすると、シンリョクは寮へ帰る身支度を始めた。

 その脳内には、いつか彼女らと走った時、どう立ち向かおうかと描いて。

 

「ゴール! 二人ともお疲れ様。キッドは五十四秒七、ポールちゃんは五十五秒一。うーん、惜しい!」

 展開としては終始キッドが前を走る形となった。コーナーを曲がりきったところからポールが追い上げにかかるものの、最後まで捕らえ切ることはできなかった。

 ニンジンを奢るのはポールに決まったわけだが。

「どうだったかな、私の走り。今の並走でも、やっぱり違和感があったんだけど」

「うーん、そうやなぁ」

 本来の目的は、互いの走りを間近に感じて、互いの弱点を指摘し合うことだ。勝ち負けではない。

 問われたポールは額に指を当て、走っている最中に見た光景を思い返す。

「負けたウチが言うのもなんやけど、なんちゅうか、ヨレるクセがあんで。こう、フラフラ、っとな。走っとって姿勢が安定しとらんわ。それでもこんだけ速いんやから、大したもんやけど」

 ポールが自分の腰に手を当てて、フラリと身体を揺らしながら足踏みする。

 簡単に言えば、体幹が不安定だ、ということ。

 指摘されて初めて、キッドは少し気づけたことがあった。脚を前へ出す時、身体がふわりと浮き上がるような感触を覚えたことがある。そして地面に踏み込んだ時には、どうにも踏ん張り切れないと感じたことも。

 フラフラ、とポールは言うが、キッド自身が感じるものとしてはフワフワ、といった方が近い。

 最大のヒントは、ポールの仕草にあった。

「そうやって、身体を揺すって走っているように見えた?」

「せやなぁ。なーんかこの辺が、ブレとるように見えてな」

 アドバイスをするポール自身も、見て感じたことをどう伝えるべきか考えあぐねているようだったが。

 そこにいち早く気づいたのは、二人の走りを見守っていたチーラヒメだ。

「もしかして、腰が甘い(・・・・)ってことじゃない?」

「そうや、それや!」

 ポールが手を打つ。

 途端にヒメとキッドは、なんだそういうことか、後日整体にでも行こうなんて会話を交わす。

 しかし。

「そんな甘いモンとちゃうで」

 声のトーンを落としてポールが呟いた。

 ウマ娘にとって、腰が不安定であるということがどれほど重大なことか、彼女には分かっていたのだ。

 そして、真後ろで見ていたからこそ気づいたこともある。

「そんまま走れば、身体壊すで。それも、二度と走れんくらいにな。せやかて、ちょっとやそっとのマッサージ程度で改善はでけへん。あんま詳しいわけちゃうけど、治療レベルのモンが必要やないか」

 大げさな、とキッドは笑った。

 一方で、ヒメは幾分か真剣な顔つきでその話を聞いている。彼女にとってはキッドが全てなのだ。もしも、キッドの抱える不安が競争生命に大きく関わるのだとしたら、看過することはできない。

 決してそれは、大げさなどではなかった。

 

「ゲホッ」

 深夜。

 ウマ娘たちは寝静まった頃。シンリョクメモリーは自分の布団を頭まで被った。

 苦しい。

 昼間は少し咳が出る程度だった。周囲から見れば体調が悪いようには思えなかっただろう。

 しかし今になって、胸が締め付けられるような苦しさを覚えるようになった。まるで肺を鷲掴みにされたかのような、首を絞められたかのような息苦しさ。一回の咳が重く、その度に意識を持っていかれそうになる。

 ルームメイトに心配をかけるわけにはいかない。こうして布団の中にいれば、眠っているライズエンペラーの耳に咳が聞こえることはないだろう。

 だが、暑い。そして酸素が入ってこないために、苦しい。

「ゥ、ごほっ」

 嗚咽も混じる。

 どうにかこの夜を越して、翌日には体調も回復していることを祈ろう。

 そのためには、多少無理にでも眠らなくては。

 眠らなくては……。

「ッ! ゥェ、ゴッ、カハッ」

「ゴソゴソうるせーぞシンちゃ――しっかりしろ、おい!!」

 喉に引っかかった痰と、内蔵ごと飛び出してきそうな咳に喘ぐと、途端に被っていた布団がはぎ取られた。

 眠っていたはずのライズが起きてしまったのだ。

 彼女は、まさかシンリョクがこんな状態になっているとは夢にも思わなかったのだろう。

 顔を真っ赤にして、寝巻までぐっしょりになるほどの汗をかき、虚ろな目で意識も朦朧としている様子を目の当たりにして、ライズの表情は変わった。

「何ですぐあたしに言わなかったんだ。いや、ンなこたァ今はいい。待ってろ、すぐ助けを呼ぶからな!」

 そう声をかけ、ライズは部屋を飛び出した。

 バタバタと駆け回る音が届いてくる。寮母を叩き起こし、看病に必要なものをあれこれと用意しているのだろう。

 シンリョクが最も避けたかった事態だ。己の体調のせいで、誰かに迷惑をかけることは耐え難いことだった。

 しかし悶えて縋るように握ったシーツは乱れ、長身痩躯な身体はひと際細く見える。今更ケロっとした表情を作って変わりない風を装っても無駄だろう。

 しばらくすると、ライズが濡れタオルを持って戻ってきた。何か色々と声をかけられたようだが、シンリョクにはそれを理解するだけの気力も残っていない。

 ライズは汗を拭きとってやると、シンリョクが通学に使っている鞄を取り出した。中に入っているもの(といってもノートと筆記用具だけだが)を机の上に取り出すと、代わりにシンリョクの衣装ケースから着換えになるものを詰め込んでゆく。

 ほどなくして、中山寮前に救急車が到着。

 シンリョク自身は何が何だか分からないまま、病院へと搬送されていった。

 もちろん、付き添いでライズエンペラーも同乗して。

 

 数日後。

「え……。私が、レースに出れない?」

 モノノフキッドの腰の状態を不安に思ったチーラヒメは、あまり乗り気でない彼女を強引に引っ張って病院を訪れていた。

 触診にレントゲン。筋肉の付き方や骨のバランスを加味し、数々のウマ娘を診察してきた医者が出した結論は、出走してはならない(・・・・・・・・・)というものだった。

 これはジュブナイルポールが指摘した通り、腰に不安が見られたから。筋肉のバランスが悪く、自動車並みの速度で走るウマ娘の力を支えきるには足りない。

 かといって、筋肉トレーニングで腰を鍛えるわけにもいかず、こればかりは持って生まれた体質と言わざるを得ないそうだ。

「先生、何とか、キッドがレースに出られる体になりませんか。ターフを走ることが、そして、『天』を駆けるウマ娘になることが、キッドの、私の夢なんです!」

 掴みかからんばかりの勢いでヒメがまくしたてる。

 当事者であるキッドは、思いもよらない宣告に呆然自失。

 狭い診察室で、医者は困ったように腕を組み、少し考えてから看護師に何か指示を出した。

「上手くいくかは分からない。これでダメだったら潔く諦めること。いいね?」

 看護師が棚から一冊のファイルを受け取った医者は、そこに収められた資料を取り出す。

 乱針手術。そう書かれていた。

 医者の説明によると、今回であればキッドの腰に太く大きな針を刺す。この時にできる傷を治そうと体の免疫が働く。すると、針を刺す前よりもその部位が強くなる。これを何度か繰り返せば、腰が強くなって状態が良くなるかもしれない、とのことだった。

 必ず成功するわけではないし、目論見通りになる保証もない。

 それに、かなりの痛みや出血を伴うし、施術したら月単位の静養が必要になる。

「もし、その手術をやりたくないと言ったら?」

「レースに出ることは諦めて、違う生き方を選んだ方がいいだろうね」

 暗い声でキッドは尋ねる。

 医者はあっさりと返した。

 沈黙。

 不安そうにヒメがキッドの横顔を覗く。

 キッドは俯いて考えを巡らせていた。

 この治療には時間がかかる。もしかしたら、皐月賞やダービーといったクラシックレースまでに戦績を積み上げることができないかもしれない。

 そうなれば、天を掴むという夢は破れてしまう。

 しかも、月単位で静養するということは、その間に鍛えてきた筋肉も衰えることだろう。仮に施術が上手くいったところで、身体を再び鍛え直すのは茨の道。

 さっさと夢を諦めて、故郷に帰るのも良いかもしれない。そういえば、デビューして間もなくトレセン学園を去ったウマ娘だって何人かいたはずだ。

「私は……」

 ギュ、と、膝の上で拳を握る。

 痛みも苦しみも、全てを受け入れ、乗り越える覚悟を固めて。

「それでも、夢を追いたい!」




乱針手術というのは、いわゆる笹針治療のことです。
ちなみに、この治療法は2022年4月から禁止となりました。
焼烙、ブリスター治療も同様です。
これらの治療方法というのは、馬の怪我や病気に合わせ、敢えて傷をつけたり出血させることで、この傷を治そうとする体の働きを利用して、
「傷を治すついでにこの病気も治っちゃったらいいな」と期待するものです。
こうした治療には、実は科学的な根拠がないとされ、言ってしまえば動物虐待に当たるとの考えもあって禁止となったそうです。
今回は作品に取り入れている乱針手術ですが、割と最近まで効果があると信じられていたようですね。


※ちょっとした日記
何頭かの引退馬に会ってきました。
一番の目的は、個人的に大ファンのタニノギムレット。ニンジンを献上したり、撫でさせていただいたり、大興奮でした。
心の中は限界オタクでした。

同じ牧場に静養されているローズキングダムやビービーガルダン、YogiboのCMでおなじみアドマイヤジャパン、スイープトウショウの息子であるスイーズドリームス、最強の1勝馬エタリオウ。彼らは間近で見たり触らせていただいたりしました。
スカーレットレディも近くで見たかったのですが、放牧地の遠いところにいて、カメラで最大望遠にしてもよく撮影できず。残念。

代わりに、レディとエルコンドルパサーの子であるヴァーミリアンには近くで会うことができました!
最近はウマ娘でダート路線の競走馬が次々と新規ウマ娘になっていますが、このヴァーミリアンもとんでもない成績の持ち主なんですよ。
それから、有馬記念を制したブラストワンピースにもお会いしてきました。馬房の中で首をゆらゆらと振っておりましたが、これって確かあまり良くない癖だそうで。

しかし名馬たちが引退して尚、静かに暮らしているというのは感慨深いものがあります。
またお金と時間を工面して、今度はこの作品でモデルになったお馬さんたちのお墓参りもしたいですね。
G1級9勝という、化け物です。


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第13話「新緑の夢」

 病室には窓もなく、ポツンとベッドが一台置かれているだけの個室。さほど広くもなく窮屈だ。

 時計もなく、手荷物として用意してきたわけでもないので、時間の感覚がどんどん希薄になってゆく。

 たまに届けられる食事だけが外の気配を感じさせるものの、自由に部屋を出ることは許されなかった。

 看護師が検温をしに来たり、点滴を取り換えに来たり……。それでも朝なのか昼なのか、それとも夜なのか。尋ねたら答えてくれそうだが、そんなことを知ったところでどうすることもできなかった。

 見舞いはない。いや、面会が認められていないのだ。

「ケホッ」

 相変わらず咳は止まらない。

 シンリョクメモリーが病院に担ぎ込まれ、診察を受けた結果、病の正体は肺炎との診断。

 風邪をこじらせたのだろう、とのことだったが、一晩眠れば良くなるようなものではなく、可能な限り外部との接触を断って、自然と回復するのを待つしかなかった。

 ウマ娘にとっては、多少の病やケガが命取りとなる場合が多い。肺炎の場合、大した処置もせずトレーニングやレースを続ければ、やがて肺に水が溜まって呼吸が困難になり、地上にいながら溺れた状態となる。

 ところが絶対安静と言われて尚、学園に登校してしまえば走ってしまうのがウマ娘だ。それに、ダートコースも引かれているため、実はかなり土埃も立っている。

 では寮で静養すれば良いかというと、集団で生活する空間であるため、他のウマ娘に病気を移したり、または外部から持ち込まれた病原菌の影響で症状が悪化することも懸念される。

 結局はこうして隔離するのが最善なのだ。

 それにしても、暇だ。

 病室でできることといえば、寝ることだけ。娯楽も何もなく、退院が許されるのを待つのみだった。

 予定では入院日から起算して十日で退院できる、とのことだが、時間の感覚を失ったシンリョクにとって、今は何日目であるのかもよく分からない。

 電灯の明かりだけが日中であることを告げる病室で、彼女は布団を剥いで自分の脚を眺めていた。

 細い。背の割にはひょろっとしている。以前から姿見で確認すると、キュウリに割り箸を刺したような体格だ、と自分でも感じていた。

 それでも、トレーニングでは悪くない成果を上げてきたつもりだ。

 ぐい、と脚を伸ばす。

 たった数日、安静にしていただけでかなり筋肉が衰えているような気がした。

 また咳き込むと、学園のことが気になってくる。

 クラスメイトたちはデビューが決まっただろうか、今度は誰が勝つのだろうか、またライズエンペラーが陰口を囁かれていないだろうか、ダイモンジは相変わらずクラスを引っ張っているだろうか、モノノフキッドは自分の走りを見つけられただろうか……。

 そういえば。

 何のためにトレセン学園にやってきたのだったっけ。

 ダービーを勝ちたいウマ娘、頂点に立ちたいウマ娘、それぞれに成し遂げたいものがあり、彼女らは学園へやってきた。

 では、自分は?

 何を求めて、トレセンの門をくぐったのだったっけ。

 

「シンちゃんすごいね!」

「あぁ、きっと八大競争も夢じゃないぞ!」

 草原を駆け巡る幼いウマ娘の姿に、一組の夫婦が目を細めていた。

 陽光の照らす芝は輝き、その照り返しが眩しく景色を白く映している。

 さっと一陣の風が吹くと、ウマ娘は立ち止まってキョロキョロと周囲を見回した。

「おーい、こっちだ! 早くおいで」

 呼ばれて、ウマ娘は父の元へと駆けてゆく。

 その中で、彼女はぐんぐんと背を伸ばしていった。草原の両親に辿りついたと思った時、気づけばいつの間にか懐かしき実家の居間に場面が切り替わっている。

 畳六畳の部屋にちゃぶ台。両親とウマ娘、三人分の座布団が敷かれ、それぞれが自分の位置を決めて座っていた。

 ウマ娘の前には山のように盛られたお米、そしてにんにく味噌、デザートに半分に切られたリンゴ。あとはいくらかおかずが並べられていた。

「シンちゃんも、いつの間にか背が伸びたね」

「あぁ、きっと八大競争も夢じゃないぞ!」

 先ほどと同じような会話があった。

 ウマ娘はそれを聞いているのかいないのか、貪るように食事を進めていく。

「アナタが応援してるウマ娘、ほら、何て言ったかしら」

「ははっ、あの子かい? 確かに応援しているよ。でも、俺の目に狂いがなければ、シンはあの子以上の素質があるさ!」

「もう、親ばかね」

 声が、徐々に遠くなってゆく。

 気づけば、場面はまた変わって、駅。

 電車に乗り込む時、ホームには送り出してくれる人がたくさんいた。

 両親に、近所の人たち。何人かの友人と、それまで普通の人間と一緒に過ごした学校の人たち。

 ドアが閉まる。出発の時だ。

 その瞬間、集まった人たちが幾重にも折りたたまれた横断幕を一気に広げた。

 

思い出の草原(シンリョクメモリー)に八大競争の夢を!】

 

 そうだ。

 そういえば……。

 

「あぁ、そうだった。ゲホッ、みんな、ごめ――ゥッ、ガハッ」

 夢だったのだろうか。

 古い記憶が一気に蘇ってきた。思い返せば、自分の意思でトレセン学園を訪れたわけではなかった。

 周囲に期待され、彼らが描く夢を押し付けられ、学園の入学も勝手に決められたのだ。

 だけど。

 悪い気はしなかった。

 故郷の抱いた希望を乗せて駆け出すのは、嫌ではなかった。

 八大競争の優勝レイを持って、故郷に凱旋したい。それを見て喜ぶ両親を見たい。

 そのためのはずだったのに。

「シンリョクメモリーさん、どうしましたか!」

 異変を察知した看護師が二人駆け込んできた。

 ベッドをシワクチャにし、胸を押さえてもがきながら、血の混じる咳がシンリョクを襲う。

 容体は悪化の一途を辿っていた。

 

「えっ、シンの入院が延長!?」

「今は落ち着いてるがな。あたしも会ったワケじゃねェけど、酸欠で意識を失う寸前だったらしいゼ」

 一方、モノノフキッドはいわゆる大部屋に入院していた。最大六人が収まる病室だが、現在は四隅のベッドに一人ずつ、つまりキッドを含めて四人のウマ娘が横たわっている。

 この日、見舞いに訪れたのはライズエンペラーだった。というのも、個室に隔離されているシンリョクメモリーの着替えを受け取りにきたついでである。持ち帰って洗濯し、新しい下着を届ける。

 ウマ娘はトレーニングで汗をかく機会の多いわけで、私服はともかく肌着の替えは多く持っているものだ。

 シンリョクに直接会うことはできないが、担当の看護師から近況を聞くことはできるので、この日も彼女の様子を伺ったのだ。

 前日の夕刻だった。突然激しく咳き込み、呼吸困難に陥って、縋るものを求めて手に触れるもの全てを掴んで引っ張り、点滴スタンドを倒したり、看護師に組み付いたり。落ち着かせるのにかなり苦労したそうだ。

 改めて検査をしたところ、肺の炎症が広がっており、薬の種類を変えたりと手を打って、入院期間も長くするとのことだった。

「無事に退院できるといいね」

「アンタもな」

 しかしキッドも数度に渡る乱針手術を受ける身。しかも無事に問題を解決して学園に戻ることができるかも怪しい。

 既に一度目の施術は終えたようで、今は安静にして針に開けられた傷が塞がるのを待っているようだった。

 寝る姿勢はうつ伏せ。枕を抱くような形だ。というのも。

「モノノフキッドさん、ガーゼ取り替えますよ」

 看護師が病室に入ってきた。運んできたガーゼは、ハンドタオルほどのサイズがある。

 布団を捲り、キッドは肘と膝で踏ん張って胴体を浮かせた。その下に看護師が手際よく紙でできたシートを敷く。

 その様子を眺めていたライズに、キッドは、

「見ない方がいい」

 と言った。

 看護師が入院着を捲って腰を露わにする。分厚いガーゼが貼り付けられていたが、サージカルテープと同時に剝がされると、そこには塞がりかけの傷が、リンパ液と血液が混ざったような液体が乾ききらない様子で、免疫のない者からすると少々グロテスクに思える。

 ウ、とうめき声をもらしてライズは顔を背けた。

 染みますよ、と一声かけた看護師は、消毒液で患部を拭いてゆく。

 堪らなく痛いだろうに、キッドは枕を抱く腕に力を込めるのみで、声も漏らさず耐えていた。

 ガーゼの取り換えが終わると幾分かキッドの表情も和らぎ、だらりと全身の力を抜いて頭を枕に沈める。これを一日に何度もやるというのだから、入院も楽ではなさそうだ。

「なぁ、その手術って、何度もやるのか?」

 おずおず、といった様子でライズが尋ねる。

 一瞬だけ目にした傷口は想像していたよりも大きく、痛々しかった。正直その手術とやらは、一度だって受けたくはない。

 答える方のキッドはあっけらかんとしていて。

「もちろん。状態が良くなるまで、何度だってやるよ」

 痛みに耐え、万全の状態で走ることができないキッドを思うと、大きなトラブルもなくデビューに漕ぎつけたライズの何と幸運なことか。

 勝ち負けのことでとやかく言われても、走ることができない事情を抱えることに比べたら、いくらでも我慢できる。

「でもよ、もし腰の具合が良くなったとして、そこからリハビリもあンだろ」

「そうだね。体の調子を整えて、それからレースに向けて仕上げていくことになるかな」

 入院中に衰えた筋肉を鍛えることも考えると、治療が終わってからも長い期間をかけてレースに向き合うこととなる。

 翌年から始まるクラシックレースに間に合うかどうかも怪しい。J-1クラスでもトップクラスの実力を持つと評判の彼女ですら、ゼロから再出発することのハンデは重くのしかかってくるだろう。

 それは、シンリョクにも言えることだ。

「後は自分次第。こんな体の歪みに負けてちゃ、天を掴むなんてできないから」

「前々から気になってンだけど、その“天”って何さ」

 初めて出会った日から、キッドはその夢を口にしていた。

 問われて彼女はニコリと笑って返す。

「ライズにだけは教えないよ」

 

 秋を迎え、トレセン学園は慌ただしい雰囲気に包まれていた。

 というのも、八大競争に数えられる菊花賞や天皇賞が近付いてきたからである。J組のウマ娘には縁のないレースではあるものの、やはり世間からの注目度も高いレースであることに間違いない。夏の間に鍛えてきたウマ娘がこの大舞台に向けて各々の調整をするためグラウンドは大賑わいだ。

 自分のトレーニングメニューをこなすために場所の取り合いでケンカするウマ娘もちらほらと見える。基本的には、いわば格が高いとされるレースに出走する予定のウマ娘が優先される傾向にあるようだが、そうは言っても丁度J組のウマ娘が次々にデビューしてゆく時期でもあるため、場所取り競争に敗れたウマ娘は学園の外周を走るなど各々工夫しているようだ。

「なんや、アンタも外周かいな」

「たまたま今日のトレーニングメニューで外周を選んだだけさ。デビュー戦は基本的に短距離だからね。長い距離も走れるように、スタミナをつけておかないとならないのさ」

 体操服姿でランニングするダイモンジを見つけたジュブナイルポールは少しペースを上げて追いつき、声をかける。

 寮ではルームメイトの二人。共に過ごす時間自体は長いものの、クラスが別なのでトレーニングが被る機会はさほど多くないのだ。

 学園の外周にはウッドチップが敷かれているため、アスファルトの上を走るよりは足の負担が少ない。故に長く走ることが可能で、長距離レースを見据えたトレーニングには打ってつけである。

 菊花賞は三〇〇〇メートル、天皇賞は三二〇〇メートルであるため、ここでスタミナをつけようというウマ娘もちらほらといるようだ。それでも、機材が豊富な学園敷地内でのトレーニングがどうしても人気を集ているので、八大競争に出走する予定のウマ娘は外周には見られなかった。

「ウチもスタミナは課題でなぁ。せっかくや、一緒に走らせてもらうで」

 チップを蹴り上げて進むのは、ちょうど裏門のあたり。

 特に返事もなかったので、勝手についていくことにした。

「クラスメイトの二人は大変やなぁ。一方で、たった一回走っただけであのレースぶり。来年の主役はアンタに決まったようなもんやな」

「さぁ、どうだろうね」

 一定のペースをキープして走るダイモンジは、どこか遠くを見ているようだった。

 彼女のデビューは、それは鮮烈なものであった。あの時の走りを続けていれば、皐月賞も、ダービーも、もしかしたら菊花賞だって狙えるかもしれないと思わせるものがある。

 もちろん、クラシックレースが開催されるまでの間にグングンと力をつけるウマ娘もいるわけで、一概にそうとは言い切れない。

 それに。実力はあるものの、未だデビューできずに体調を整えている段階のウマ娘だって。

 まだターフを駆ける姿を見ていないが、彼女らが万全の状態で出てきたらもしかしたら……。




シンリョクメモリーの出身地は青森県だったりします。
特に想定している町はにんにくが特産品。
昔は、馬の夏バテ予防ににんにく味噌にリンゴ酢、蜂蜜などを加えて食べさせていたそう。
そういった情報を元に、シンリョクメモリーの好物はにんにくとリンゴがいいかな、なんて考えてみた次第です。

ちなみに、この時代の天皇賞(秋)は三二〇〇メートル。
現在の距離体形に整えられるのは数年後になるため、長距離レースとして扱っております。


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第14話「突き刺す走りと弾む走り」

前話より少し時間が飛んで、冬です。
レースらしいレースは、次の次くらいになりそう、な気がしますので、
今はデビューに向けたシンリョクやキッドを追うような形で話をまとめていきます。


『やはり強い強い逃げて突き放す圧倒的なスピード! これまでの逃亡劇は伊達ではない、後ろは大きく離れてゴールイン! ダイモンジ、無傷の三連勝を達成しました。いやー、どうですか今回の走りは』

『これまでのレースと同じく、最初から先頭をキープしていますからね。逃げているというよりは、スピードがありすぎるために他のウマ娘と比較して前を走ってしまう印象を受けますね』

『ダイモンジはデビューから少しずつ距離を伸ばしてきましたが、一六〇〇メートルの今回、クラシックレースに向けてやはり主役になりそうですか』

『この距離で走るのはもったいないと思いますよ。どちらかというと、中距離や長距離のレースに適しているようにも見えますから、間違いなく来年のクラシックを盛り上げてくれるでしょう』

 

 阪神三歳ステークス。

 後に、J組の中でもティアラ路線へ進むことを申請したウマ娘のみが出走可能という条件が設定され、名も阪神ジュブナイルフィリーズと改称されるレースだ。

 ティアラ路線とは、桜花賞やオークスなど、世間的な注目度が皐月賞やダービーに比べて落ちる代わりに、ティアラ限定のレースが数多く設定された進路である。ちなみにティアラ路線に進むウマ娘は耳飾りを左耳に、もう一方のクラシック路線に進むウマ娘は耳飾りを右耳につけるよう指示される。

 この頃はまだ、阪神三歳ステークスに限って言えばそうした厳密な条件はなく、J組でありなおかつ一定の競争成績を収めたウマ娘であれば誰でも出走登録のできる決まりであった。

 ラジオから聞こえてくるレースの実況を耳に、シンリョクメモリーは昼間の公園で足を伸ばすストレッチに励んでいた。

 天気は晴れているものの、夜中に降った雨の影響で、未だに土がぬかるんでいる。

 

『結果が出ました。何と七バ身! 文句なしの――』

 

 ラジオの電源を切ると、シンリョクは鞄にそれをしまい、ベンチに置く。

 今度は軽く腕を抱えるようにして肩を伸ばし、腰を回して、その場で腿上げ。

 足が着地する度に泥が跳ねる。ジャージが汚れるも、そんなことは気にならないようだ。

「よし」

 一つ息を吐いて、公園の中を周るように軽く走る。

 特に広くもない、一般的な子供向けの公園だ。滑り台もあればブランコもあるし、砂場や小さなアスレチックも。何人か小さな子供を連れた母親もここを訪れていたが、シンリョクはお構いなしだ。

 一周、二周……。

 少し走ってベンチに戻って、首を傾げながらまたストレッチ。

 肺炎をこじらせて思わぬ長期入院することになったが、無事完治して退院してからというもの、走る感覚を取り戻すために人知れず自分のフォームを研究しているのだ。

「どうしても体がフラつく。体調は万全なのに、走り方のどこに問題が?」

 走ってみると、姿勢が安定しない。

 左右に揺さぶられるような、そんな感覚。

 力強いコーナリングや直線でのスパートが思ったようにできないのは、これからレースに出ていくにあたって大きな課題である。

 上体の角度や腕の振り方、目線、ストライドの長さ。様々に工夫をしてみるものの、どうもしっくりこなかった。

「わーん、たおれちゃったよぅ」

「あはは! ぼくのかちー」

 子供達の遊ぶ声が聞こえる。

 休憩がてら、また脚を伸ばしながら声の方へと目を向けた。

 砂場だ。少し水を含んだ泥混じりの砂を使って、二人の男の子が棒倒しで遊んでいた。

 砂で山を作り、そのてっぺんに棒を刺して、順番に山を崩していき、先に棒を倒してしまった方が負け、という子供の遊びだ。

「すぐたおれちゃうからつまんないよー」

「じゃあ、こうしようよ!」

 男の子たちはまた砂山を作って、その辺に転がっていた木の枝を刺す。

 何となくその様子を見ていたシンリョクは、直後に大きく目を見開いた。

 彼らが、すぐに棒が倒れないようにと施した工夫。それはとても単純なことで、枝を深く山に突き刺すことだった。

「ほら、これだけやったら、たおれないよ!」

「ほんとだ! じゃあこんどはまけないぞ!」

 そうだ。

 簡単な理屈だ。

 上体がヨレるのは、足元が不安定だからに相違ない。ならば、バ場に足先を食い込ませてバランスを取れば良いのだ。スポーツシューズによくある、スパイクと考え方は同じである。

「もう一度!」

 シンリョクがまた走り出す。

 今度は脚を大きく上げて、爪先を地面に突き刺すよう勢いよく踏み込む。

 一段と大きく泥が跳ねる。

 反動で体が前へ出る。しかし、フラつきはない。

 跳ねて、突き刺し、飛ぶように、どんどん前へ、前へ。

 これだ。この走りだ。

 今の自分にとって理想の走り方は、ここにあったんだ。

 

 生徒会室では分厚い冊子をめくりながら唸るハレルヤの姿があった。

 そこに収められた資料には、まだデビューを果たしていないウマ娘の、トレーニング成績がファイリングされている。

 季節は冬。もう年末に差し掛かろうとしているこの時期。翌年のクラシックを目指すウマ娘たちにとって、そろそろ初出走を果たしていなければ、皐月賞やダービーへの出走が間に合わないという頃合いだ。

 八大競争として格付けされたレースは、「出走したい」と言えば簡単に登録できるものではなく、それまでの競争成績、着順などを考慮して出走登録が認められる。

 当然、一度も勝ったことがないウマ娘はそもそも出走権がなく、一度勝ったくらいでは認めてもらえないのだ。

 数度の勝利を経てようやく、といったところか。皐月賞や桜花賞は四月に行われるため、今デビューしてから毎月レースに出走し、その度に勝利するような成績でもないとURAからの承認は下りないだろう。

「ハーレちゃんっ!」

「おぉっ!?」

 その肩越しに資料を覗き込んだウマ娘。

 いつの間に入ってきたのか。今まで全く気付いていなかったようで、ハレルヤは素っ頓狂な声を上げた。

「ノックくらいしたらどうだい。あぁ、驚いた」

 軽く咳払いして、ペタリと背後にくっつくそのウマ娘に離れるよう手をヒラヒラと振る。

 栗毛は長く美しく、全身スラリとまるでモデルのような体型。凹凸の少ないシャープなシルエット。くすくす笑う様子は少女の愛くるしさと淑女の気品を兼ね備えていた。

「ごめんごめん、大変そうだから邪魔しないようにって思ったけど、ついいたずらしたくなっちゃって。あ、金平糖食べる?」

「いや、今は……」

 そう、と残念そうに呟いて、ポケットから取り出した缶ケースから金平糖を取り出し、ポリポリと口に含む彼女。

 会長から離れ、ケースを持ったまま後ろで手を組み、ぶらぶらと歩くようにして壁に掛けられたカレンダーの前へ。既に十二月のページが開かれている。

「J組の子たちの出走計画で悩んでるんだよね。じゃあさ、一緒にデビューさせたい子達がいるんんだ」

「また何か、良くないことを企んでいるんじゃないのかな、メーベル?」

 溜息交じりに吐き出された言葉を聞くと、彼女――メーベルはまたニコリと笑んで、ステップを踏むようにまたハレルヤに寄り、顔を覗き込んだ。

「ハレちゃんにお気に入りがいるように、私にもお気に入りがいるの。それも二人。だけど一人はさっさとデビューしちゃったから……もう一人。ちょっと貸して」

 冊子のページをパラパラとめくり、J-2組の未出走ウマ娘から一人の生徒を選んで指を差す。

 その名を見て、ハレルヤは目を細めた。メーベルの企みを察したからだ。

「一応聞くが、誰と出走させようと?」

「分かってるクセに」

 返事に困り、ふむ、と息を漏らす。ハレルヤは額に指を当てて考えを巡らせた。

 考えをまとめながら、呟く。

 悪くない案だ、と思う。しかしその二人を同時に出走させてしまえば、互いに悪い影響が出るかもしれない。当人たちだけでなく、もしかしたら周囲にも。何か保険をかけねば。だとしたらやはり適切な方法は。そうか、彼女も合わせて三人でデビューさせてみたらどうだろうか。

「はい、決まったでしょ」

「むっ!?」

 伏していた目を上げると同時に、何かが口に押し込まれた。

 反射的に噛む。ポリ、と歯切れの良い音と共に、甘味が舌の上に広がった。金平糖だ、と理解するのに数秒を要したが、そんなことよりも。

「今回は、私の勝ち。じゃ、それでよろしくねー」

 息がかかるほど顔を寄せて、にこにこと勝利宣言をするメーベルの姿にドキリと心臓が跳ね上がった。

 かと思えば、さっと身をひるがえして、手をひらひらと振りながら部屋を出て行ってしまう。

 何だったんだ、と思いつつも。

「アイデア勝負をしたつもりはないが。ふむ、彼女の祝福に乗るのも悪くない、か」

 冊子を閉じると立ち上がり、カンカンと足音を鳴らして生徒会室を後にする。

 かつて一つのゴールを目指し、死闘を演じた相手も、今となっては気まぐれに生徒会室へ遊びにくるだけ。

 一時期はメーベルを副会長に、とも考えたが、彼女はそういう性分じゃない。

 きっと、あの時のリベンジを、今も晴らしたいと思っているのだろう。時として、意味のよく分からない勝負を吹っかけてきては、勝手に勝ち負けを決めてゆく。

 もしも正式に生徒会のメンバーとして迎えてしまえば、自分のために生徒会を私物化してしまいかねない。

 今回の提案も、彼女なりの挑戦状だったのだろう。何に勝ちを確信したのかまでは分からないが。

 

「よっし、こんなもんかな。今日はよろしくね、ダイモンジ」

「言っておくけど、本気は出さないよ。まだ本調子じゃないキミを打ち負かしたところで何の意味もない。いつか必ず……いや、クラシックの舞台で勝負しよう。だから今回は軽い調整をする程度。まずは走り方を思い出すことに徹するといい」

 放課後のグラウンド。

 秋シーズンのレースも終わり、年内の大きなレースといえば有馬記念を残すのみといったところ。

 多少は学園敷地内の設備も融通が利くようになったことを幸いに、モノノフキッドはクラスメイトでもあるダイモンジに並走トレーニングを依頼していた。

 腰の不調から入院し、乱刺手術を幾度も受けたキッドは、つい最近になってようやく退院を許された。というのも、骨格や筋肉のバランスに改善が見られたとのこと。

 もちろん、しっかりと体を作って、走ってみなければ結果が出ているかどうかは断言できない。

 いずれにしてもこれ以上入院期間を延ばしたところで、今以上に体が出来上がる保証はないのだ。

 ストレッチを済ませたキッドは、スタートラインの前に立つ。

 少し離れたフェンスの方から、ダイモンジに向けた声援が飛んでいた。相変わらずファンが多いらしい。当のダイモンジはそれに軽く手を振って、あまり気に留めない様子でキッドの隣に並んだ。

 スタートの構えを取ったところで、クラスメイトの一人がストップウォッチを持って手を挙げた。

 数秒の間。

 手が振り下ろされる。

 同時に駆け出す。

 先を行ったのはダイモンジだ。

 芝を蹴り上げ、力強い踏み込みで前へ体を押し出してゆく。

 元より圧倒的なスピードで他のウマ娘たちを置き去りにしてきたのだ。トレーニングといえども、やはりその力は伊達ではない。

 キッドは二バ身ほど後方から追走して第一コーナーへ。

「どうしたんだいキッド、やっぱりまだ体が戻っていないんじゃないのかい。少しペースを落とそうか?」

「いやいや、いいよ。このペースで走ろう」

 心配したダイモンジが振り返るが、キッドは提案を断った。

 今は自分の体と向き合う時。それに、こうして並走する機会もそうそうないだろう。

 第二コーナーを曲がって、互いの距離は一定のまま。

 バックストレッチを進むが、宣言していた通りダイモンジは多少手加減して走っているようだ。

 一方のキッドは。

(走っていての違和感はかなり薄れた気がする。力をセーブして走る分には何も問題がない。それに、以前より軽く脚が上がる。やっぱり、以前とは違うみたいだ)

 自分の体を確かめるように、一歩一歩踏みしめて走っていた。

 かつての走りとは違う。体の中心に一本の芯が通ったようだ。疲労も少ないように思える。

 第三コーナーが見えてきた。少しだけ、ペースを上げても良いかもしれない。

 少し外へ持ち出して、ダイモンジを内ラチ側に見る。

 ぐっと膝を曲げて、脚をバネにする要領で前へ。

 体が跳ねるような足運び。一歩ごとに大きく体が前へ出る。しかし次の一歩はすぐに着地。軽やかに蹴り出す。そのフォームは、足の回転を速くし、短い間隔でどんどん地を蹴るピッチ走法に見えるが、それにしては踏み込む度に随分と距離が延びる。

 前を走るダイモンジとの距離がぐんぐん詰まる。

 第四コーナーに差し掛かる頃にはもうほぼ並びかけていた。

 外へ持ち出したため、コーナリング中にはこれ以上距離を詰めることができない。

 直線を向いた。

 この、弾むような走りなら、もっと先へ行けるかもしれない。……が。

「あれ、え?」

 より強く踏み込んだはずだった。さらにスパートをかけたつもりだ。

 なのに。

 ダイモンジを抜かすどころか、どんどん置いていかれる。

 詰めたはずの距離が、離されてゆく。

 気が付けば、ゴール地点。

 駆け抜けた先、二人の差は四、五バ身にまで開いていた。

「ふぅ、どうだったかい? 少しは走り方の感覚は掴めたかな」

 息を整え、額の汗を軽く拭ったダイモンジが振り返る。

 振り返れば、悪くはない走りができたように思える。最終直線では思うような踏み込みができなかったが、ペース配分やフォームはかなり改善されている。

「うん。おかげで良い間隔が掴めたよ。はは、でも最後はダメだったなぁ。もっと鍛えるよ、今日はありがとう!」

 キッドはニカッと笑って立ち去ってゆく。

 そのタイミングを見計らってか、ダイモンジのファンがタオルを持って駆けよってきた。

 改めて汗をぬぐったダイモンジは、キッドの背に視線を送る。

(退院したてであの走り。まさか、ね)

 彼女が奥歯を噛み締め、タオルを握る手が震えていたことに気づいた者は、いない。



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第15話「迷走する夢」

 白い呼吸を繰り返し、ウマ娘は走る。

 辺りはすっかり暗くなり、寮の門限も迫る頃。静まり返った学園のグラウンドに、彼女はいた。

 ドドドと音を立てて駆け抜けるチーラヒメ。その表情にはどこか鬼気迫るものが滲む。

 そんな姿を眺めながら、ゴール地点に立つ二人のウマ娘。その内の一人は、ヒメにとっては大先輩にあたるティアラ路線覇者メーベルだ。

「どう? あの子、結構いいでしょ」

 ストップウォッチを片手にニコリと笑む。

 もう一方のウマ娘は、フンと鼻を鳴らしてウェーブのかかった肩甲骨までの髪を指先に巻くようにいじってそっぽを向いた。

 冬の学園では芝の香りも落ち着いて、頬を刺すような風が時折吹きつける。

 気づけばヒメがゴールラインを超え、徐々に速度を落としながら二人の元へ戻ってきた。頭からは湯気が出ている。

「お疲れ様。なかなかのタイムだけど……もう少しペース配分ができるといいわね。最後にバテて、時計がかかってるわ」

 ストップウォッチを見せるメーベル。

 一定の距離ごとにしっかりとラップも取られており、ラストスパートをかけるべき最終直線ではほとんどスピードに乗り切れていなかった。

「そう、ですか。でも、もう少しスタミナをつけて、距離にさえ慣れてしまえば――」

「およしなさい」

 己の走りと今後の目標を改めて設定しようというヒメの言葉を遮ったのは、ウェーブ髪のウマ娘だった。

「その程度の走りで、ティアラを目指す? 悪い冗談だわ。まだデビューもしていない、この距離でスタミナももたない。そんなことでは、そもそも八大競争への出走すら難しくてよ」

 相変わらずくるくると髪を指に巻いて、どこか勝ち誇ったようにニタニタと笑う彼女。名をディアナといった。

 ティアラへ進路を取ることを申請したウマ娘の中では唯一年内四勝を挙げており、この年におけるティアラ部門最優秀新入賞は彼女が獲得するだろうと誰もが認めている、実にとびぬけた実力の持ち主である。

 そんな彼女に目をつけたのがメーベル。ここへ誘い出して、デビューを控えたヒメの走りを共に観察していたのだが。

「勉強になるからと言われて、どんな凄い子の走りを見せられるのかと思えば。確かに多少は速いことを認めてあげてもいいわ。でも、期待外れね」

 ごめんあそばせ、と、言いたいことだけ言って、ディアナはさっさと立ち去ってしまった。

 残されたのは呼吸を整えながら立ち尽くすヒメと、困り顔を浮かべたメーベル。

 冬の風が汗を乾かし、体温を奪う。

 ぶるりと震えるヒメに、メーベルは帰ろうか、と声をかけた。

「先輩。私、やっぱり……」

 寮へ向かって歩き始めると、俯いて呟く。

 ハッキリと実力不足を指摘されて、落ち込んでしまったようだ。

「あの子は間違いなく、あなたの世代ではティアラ最強に名乗りを上げるわ。でもいつかあなたは、あの子と競うことになるはずよ。そして食らいついていくの。勝ち負けじゃない、結果さえ出せればあなたにとっても、私にとっても夢に一歩近づけるわ。だから顔を上げなさい」

 タオルで顔を覆うヒメは、小さく頷いた。

 彼女にとって、レースでの勝敗にそこまで大きな拘りがあるわけでもない。それでも近頃は余念なくトレーニングに励んでいた。今までは幼馴染の世話を焼くことが最優先だったようだが、心境の変化があったのだろうか。

 あるいは、誰かが変えたのか。

 言われて空を見上げた。陽はすっかり落ちて薄暗く、遠くに夕日の残す橙が帯のように広がっている。いくらか星も瞬いて見えた。

「それでも、勝ちたいです」

「ええ、そうでしょうね」

 走って、勝ちたい。

 ウマ娘の本能的欲求に背くことはできない。その想いが呟かせたのか。

 いや。彼女に限っては、そうではなかった。

「勝って、キッドの幼馴染として相応しいウマ娘に、なりたいです」

 やはり。

 チーラヒメの原動力は、モノノフキッドなのだ。

 未だデビューしていないとはいえ、キッドは同世代の中でも頭一つ抜けた実力の持ち主として注目されている。

 だからこそ。「あのスーパーウマ娘の幼馴染」と呼ばれて、キッドが恥ずかしい思いをすることがあってはならないと考えたのだろう。

 そんな呟きを、メーベルは静かに頷いて肯定した。

 

 数日後。

 有馬記念も終わり、世間が注目する八大競争は春のクラシックまでお預けとなった年末。

 間もなく学園がいわゆる冬休みに入ろうかというところ。

 その発表は突然だった。

「はァ? おいおい学園は何を考えてンだ!」

「自分は構わない」

「構えよ、ちっとはよォ!」

 昼休み。J-1組教室内ではシンリョクメモリーがプリントを眺めていた。

 とうとう彼女のデビューが決まったのである。年が明けた一月の末、東京レース場の芝一四〇〇メートル、十八人立てだ。

 しかし問題はそこではない。

 シンリョクが手にする出走者リスト。そこには、覗き込んだライズエンペラーもよく知る名が記されていたのだ。

 四番、チーラヒメ。そして十八番、モノノフキッド。

 あの幼馴染二人が、シンリョクメモリーと共にそろってのデビューだというのだ。

「分かってンのか、この中で一着になれるのは一人だけ。一月の末に初出走ってンじゃ、クラシックに出るにゃ一度だって負けてられねェだろ。あんたか、キッドか、あのおヒメさんか、誰かは春を棒に振るンだ。それでいいのか!?」

 胸倉を掴まんばかりの勢いでまくしたてるライズ。

 幾度かの勝利、そして実績を積まなくては、そもそもクラシックレースに出走することが認められない。

 常識的なローテーションで考えれば、敗北は即ち皐月賞への出走権を失うことと同義。

 体の不調があったためにデビューが遅れたシンリョクとキッドだが、それにしたって同じ日に、同じレースでデビューするというのはどこか作為的なものを感じずにはいられなかった。

 一方でシンリョクは、表情一つ変えることなく、小さな溜息を吐く。

「皐月賞、ダービー、桜花賞、オークス、菊花賞、有馬記念……あと、天皇賞が春と秋で二つ。八大競争はこれだけある。どれかに出走して、いつかどれか一つでも勝てたら、それで良い。皐月賞やダービーに拘りはないんだ」

「ダメだ、拘れ! なぁシンちゃん、あたしはな、あんたのこと結構好きなンだぜ? あのお坊ちゃんやキッドだって嫌いじゃねェ。誰が一番強いのか、クラシックで競いたいじゃねェか。あたしはダービー狙いだけどよ、三冠を賭けて全力でぶつかりてェんだよ!」

 どこまでもドライなシンリョクと、興奮して机を叩きながら訴えるライズ。

 教室に残っていた他の生徒は、そんな二人の様子をクスクスと笑いながら遠巻きに見ていた。

 また、シンリョクが溜息。

「いずれにしても、これは学園が決めたこと。自分はこれに文句はない。後は力を出し切るだけだから」

 リストをしまって、席を立つ。

 ライズはというと納得いかない様子で、何かブツブツと言いながらどっかりと自分の席に腰を下ろした。

 

 教室を出る。

 昼休みの時間も限られているので、ひとまず食堂へ。

 トレイに食事を受け取り、空いているテーブルを探す。と、そこへ。

「おや、シンじゃないか。今日は一人?」

 声をかけてきたウマ娘がいた。

 視線をそちらへ移すと、半分ほど食事を進めていたモノノフキッドの姿がある。いつもついて回っているチーラヒメの姿はなく、彼女も一人のようだった。

「まぁね。あ、ここいい?」

「もちろん。はは、やっぱり誰かがそばにいないとなんだか物足りないと思ってたんだ」

 対面の椅子を引いてシンリョクはそこへ収まった。

 しっかり手を合わせて、箸を取る。

「ヒメは?」

 大して視線も合わせず、味噌汁を啜るシンリョク。

 退院してからしばらく、そういえば二人が一緒にいるところをほとんど見かけない。

 彼女らはルームメイトでもあるので、寮では共に過ごしているのだろうが、学園内ではキッドはいつも一人だ。キッドは時々ダイモンジを誘って食事やトレーニングをしているという噂は聞くものの、ヒメの方はいったいどうしているのだろう。

「この頃、避けられているんだよね。入院中もさ、最初の内はお見舞いに来てくれてたんだけど、途中から全然。退院の時は迎えに来てくれたけれど。さっきも会いに行こうとしたんだけど、教室にいなかったんだ」

「ケンカでも?」

「そんな覚えはないけど……」

 以前、キッドはヒメに黙って北海道へ行ったことがあった。その時には何だかんだケンカになったもののすぐに仲直りしていたはず。

 いつもヒメの方から追いかけまわしていたのに、いったいどうしてしまったというのだろうか。

 そんな様子だったから、キッドもたまには一人になりたい時もあっただろうに、今は多少の寂しさを覚えていることが見て取れる。

「話し合ったりはしないんだね」

「いつも話をそらされちゃってね。でも、私も今は目の前のことに集中しなきゃいけない時期だから。部屋でも必要なことしか喋らないんだ」

 目の前のこと、というのは言うまでもない。

 翌月の末に控えている、デビュー戦のことだろう。腰の具合が良くなってからというもの、キッドは日々のトレーニングにかなり熱心に取り組んでいたのだ。

 クラシックレース出走を見据えるにあたって、ここを負けるわけにはいかない。今後の運命を左右するといっても過言ではないからだ。

「お互い、同じレースでデビューだから。今の自分にできる精一杯でぶつからせてもらう。でも、キッドは、気にすることが多いだろう」

 出走者のリストを受け取ったのは今朝のホームルームでのこと。

 その場では担任がデビューの決まったウマ娘の発表があっただけで、リストを受け取った当事者しかどのレースに出走するかは知らないはず。

 が、先ほど教室でライズが大いに騒いだおかげで、シンリョクとキッドが同じレースに出走することはその場にいたクラスメイトに知れ渡ってしまった。

 とはいえ、同じクラスメイト同士では遅かれ早かれ一着を競うことになる。それが、この二人にとってはデビュー戦であっただけのこと。

 シンリョクにとって、その覚悟はとっくにできていたのである。それよりも気がかりなのは、やはり話題に上げたヒメのこと。

「うん。きっと、彼女とレースに出るのは最初で最後になると思う。ヒメはティアラに進むからね」

「だとしたら、ヒメも、このデビューで勝てなかったら、桜花賞には間に合わなくなる」

 しばし、沈黙。

 サラダをつまみ、ニンジングラッセを頬張り、シンリョクはどんどん食を進めた。

 一方のキッドは、シンリョクが席に着いてから一口も食べていない。

 当人にしか理解できない、複雑な感情が胸の内に渦巻いているのだろう。友人と話すことによってその言葉にしきれない思いがより大きくなって、重くのしかかっているに違いない。

「キッドにとっての、“天”って何?」

「えっ?」

 唐突に、シンリョクが問いかける。

 何度となく問われてきた疑問だ。キッド自身、「天を掴む」と公言してきたが、その真意はいつもはぐらかしてきた。

 答えは常に明確に抱いていた。そのはずだ。

 だが今、キッドは言葉に詰まった。

「やっぱり。迷ってるんだ」

「いや、私にとっての、“天”は、その……」

 おかしい。

 気持ちが揺らいでいる。掴みたいと強く願ったものが、霞んで見えなくなってしまった。

 シンリョクはそれをよく見抜いたようである。

「あと一か月ちょっと。デビューまでにもう一度、夢を見直すと良い。今のままだと、ヒメががっかりするよ」

 ごちそうさま、と手を合わせてシンリョクはトレイを持って去ってしまう。

 何も答えられないまま、キッドは自分の食事に目を落とし、飲みかけの味噌汁に手を添えた。

「……冷めちゃったな」



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第16話「三人のデビュー(前編)」

ちょっとリアルがバタバタしていて、先週は更新ができず……。
もう少し安定して書いていきたいものです。

久々のレースシーンになります。
ようやく主要メンバーがデビューしきるので、様々な視点から描くために、
今回のレースは前後編に分けさせていただきます。


 年が明けた。

 お正月ムードはあっという間になりを潜め、どこかのんびりと時間が流れる一月の末。

 トゥインクルシリーズも注目度の高いレースは春までお預けとなり、オープン戦への出走権をかけたレースが開催される中。世間の注目は「どのウマ娘がクラシックレースを制するのか」といったところだ。

 まだデビューしていない、あるいはさほど勝利を積み重ねていないウマ娘でも、確かな実力が認められれば学園内で注目されたりもする。が、一般のファンから人気を集めるのはクラシック路線でダイモンジ、ティアラ路線でディアナの二人。

 鮮烈なデビューから、確かな実力と実績。それぞれクラシック部門最優秀新入賞、ティアラ部門最優秀新入賞に輝いていた。

 だから。これから初出走を迎えるウマ娘への注目度というのは低く、この日東京レース場で出番を待つ彼女らを応援する声も決して多くはなかった。

「緊張してる?」

「はは、もちろん。私は、人に見られてこそウマ娘は走れる、と思っているから。本当は、もっとお客さんが入ってくれていたら良いのだけど」

 パドックへ向かう地下道。

 並んで歩くモノノフキッドに声をかけたのはシンリョクメモリーだった。

 出走者としてこの道を歩くのは初めての二人。やや少ない観客数とはいえ、自分の意気込みやトレーニングで鍛えた姿を見せ、走る前からファンの注目を集めるためにパドックはある。

 デビューが決まる前にそれぞれ身体面の問題を抱えて入院したからこそ、不安は募る。

 それに。クラシックレースを走るのならば、互いに負けるわけにはいかない。

 昨日まではクラスメイトであり、友人であった彼女らも、この時ばかりは互いの未来を食らいあう敵同士。

 少なくともどちらかは、春シーズンを棒に振ることになるのだから。

 このレース、キッドのゼッケンは十八番。パドックに出るのも最後だ。

 間もなくシンリョクが係官に呼ばれるだろうというところ。

「あ、ヒメだ。どうだった、パドックは」

「……何とも思わなかったわよ」

 もう一人、彼女らに縁の深いウマ娘が同じレースを走ることになっていた。それがキッドの幼馴染、チーラヒメ。

 四番と比較的若い番号だったためか、早々とパドックを終えて戻ってきたのだ。

 キッドが声をかける。が、ヒメの返事はどうにも素っ気ない。

 短い返事だけ残して、ヒメはさっさと本バ場へと向かっていった。

「やっぱり、怒らせるようなことをしたんじゃ?」

「このところずっとあんな調子なんだよ。静かになったのは良いけれど、調子狂うなぁ」

 あのヒメが、どうしてこんな態度を取るようになったのか、この二人には到底分からなかった。

 授業は受けているようだが、自由時間にどこで何をしているのかも不明。キッドの方から事情を聞き出そうとしても、かわされてしまうばかり。

 同じレースで覇を競うことはやぶさかではない。しかし、どこかぎくしゃくとしたまま争うことは、本位ではないのだ。

 どうせなら、友として、幼馴染として、わだかまりなく正々堂々とぶつかりたいものだが……。

「あ、自分の番だ。それじゃ、行ってくるよ、キッド。悪いけど、自分も一着を譲るつもりはないから」

 呼び出しがあって、シンリョクがパドックの方へと歩いてゆく。

 その背を見送るキッドは、どこか心ここにあらずといった表情のままだった。

 

 一月三十一日。天気、晴。バ場状態は良との発表。

 本バ場に集まった十八人のウマ娘たちは、ゲート入りの時を待っていた。

 客席は、やはり満員といった様子はなく、どこかまばらな印象を受ける。

「で、そのカッコってワケかよ。人気があるってのも辛ェなぁ」

「頼むから、キミもそのサングラスと帽子を外さないでくれたまえよ」

 スタンドの中ほど。少々ぶかぶかに思えるコートを着込み、深めに帽子を被って、サングラスを着用した二人の姿があった。

 真っ黒なレンズの向こうからは、鋭くターフに集うウマ娘を見つめる瞳が覗く。

 一方のやや気取った喋りをするのがダイモンジ。もう一方はライズエンペラーだ。

 彼女らがレース場を訪れるにあたってこのような変装をしているのにはちゃんと理由があった。

「ほら来た。少し身を低くして。静かに」

 視界の隅に何かを捉えたダイモンジが、周囲の観客に紛れるようにして身を隠す。

 つられてライズもその場でしゃがんだ。

 数秒の間。

 呼吸も止めていたと見えて、ダイモンジが深く息を吐くと体勢を元に戻した。

「行ったみたいだ」

「なんでアタシまでこンなコトに付き合わなきゃなンねェンだよ」

 ヨレたコートの裾を払って、面倒くさそうにライズが呟く。

 先ほどダイモンジが見つけたのは、このスタンドをあちらこちらと駆け回るクラスメイトたちであった。

 というのも。

 この日は友人であるモノノフキッドとシンリョクメモリーがそろってデビューするのだ。J-1組の中でも突出した実力を持つと評されるキッドに、これに勝るとも劣らない能力が期待されたシンリョク。

 もしかしたら、この年のクラシックで覇を競うことにもなるかもしれない相手だ。友人といえども、本番での走りを研究しておきたいというのがダイモンジの考えである。

 しかしながら。

 ダイモンジは大変な人気を集めるウマ娘である。彼女の行くところ、必ずファンがついて回る。そうとなれば、落ち着いてレースを観戦する間もない。だからこうして周囲に見つからないよう、変装までしてこの府中まで訪れたというのだ。

 付き合わされるライズとしては堪ったものではない。の、だが。

「お、なんやなんやご両人! おもろいカッコして観戦かいな。かーっ! ちょっとレースに勝ったくらいで芸能人気どりっちゅうわけか。ライズエンペラー様もダイモンジ様も大したモンやなぁ!」

「なっ、ポールじゃないか。ちょっと、静かにしたまえ」

 彼女らを見つけて声をかけてきた者があった。

 ダイモンジのルームメイトでもある、ジュブナイルポールである。どうして変装までしたのに正体を見破ることができたのかは、彼女の洞察力の鋭さによるものだろうか。

 無遠慮に肩をバシバシ叩いて挨拶をしてくるポールだが、ダイモンジは迷惑そうだ。

「構へん構へん! ウチも一緒にここで見させてもらうさかい、ちょいとそれ貸してや、二人で楽しもうったってそうはいかへんで!」

 その意図が上手く伝わらなかったようで、ケタケタと笑いながらポールはダイモンジのサングラスを奪って、「どや、似合うか?」などとライズに話しかけている。

 こうなると展開はあっという間で。

「いた、ダイモンジ様!」

「本当だ、あんなところに!」

 先ほどやり過ごしたはずのクラスメイトが戻ってきた。しかも四人ほどいる。

 ポールの大声に反応した彼女らはあっという間にダイモンジを見つけ、嬉々として突撃してくるようだ。

 普段は彼女らの声援を受けて得意気にしているダイモンジだが、この時ばかりは顔面蒼白。

「きょ、今日は一人にしてくれたまえ!」

「えー! 何故ですダイモンジ様!」

「そうですよ、一緒にレース観戦しましょうよダイモンジ様!」

「そんなことより美味しそうなお店がレース場に入っていて、あ、ダイモンジ様待ってください!!」

 脱兎のごとく逃げ出すダイモンジに、追いかけまわすクラスメイト。

 あとに残されたのは呆然とするライズと、相変わらずケタケタと笑うポールだった。

 何か言いたげな表情のライズに、ポールは。

「さ、これでライズも落ち着いて観戦できるやろ」

「あ?」

 もう変装する必要もない。

 ライズは帽子とサングラスを外す。

 一方のポールは少し得意気に笑みを浮かべて。

「アンタも、ダイモンジも、去年はまぁまぁ成績を残した。だから、このレースを見ておけば、お互いにそれなりの意見が出せるやろ。せやけど、視点が違うんちゃうか」

 言われたライズは眉をピクリと動かし、視線を逸らす。

 確かに、この度デビューを果たし、クラシックレースでライバルとなるであろうウマ娘の研究をすることで、有意義な意見交換ができたはずだ。

 しかし、そんなまっすぐな気持ちを、ライズは持ち合わせていなかったのである。

 なんや図星かいな、とポールはまた笑って。

「シンリョクメモリーに負けてほしい。せやろ?」

「テメェ!」

 ポールの胸倉を掴むライズ。

 周囲が騒然となって距離を取った。

 レース観戦に訪れていた人々が、彼女らを見ながらヒソヒソと何かを話している。目の前で急にケンカが発生したのだから、迷惑がっているのだろう。

 しかし。ポールは急に笑顔を引っ込めて、ライズの拳に手を添えた。

「分かるで、その気持ち。もしもルームメイトが、自分よりも圧倒的に凄いレースをしよったら。もしもルームメイトが、自分にゃ追いつけない実力を持っとったら。しかも相手は、一番長い時間を一緒に過ごす相手や。こちらの手の内なんか、みーんな知りおるんやから。なぁ、怖いんやろ」

 掴む手に力が加わる。

 鬼のような形相でポールを睨むライズに、語り掛けるポールは穏やかな表情で。

 すっと、伏せた目から、涙が滲む。彼女、ジュブナイルポールは、ライズの目の前に指を三本立てて突き出した。

「何の数字か分かるか。これは、ウチと、ダイモンジが、去年レースに出た回数や」

「それが、何だってンだよ」

 必死に怒りが爆発するのを抑えながら、ライズが尋ねる。

 続いて出た言葉は、それこそ、彼女の胸に渦巻く感情そのものだった。

「アイツは、ダイモンジは。三回とも勝ちよった。ウチは、たったの一回や。それも、ダイモンジみたいな強い勝ち方やない。必死に追って追って、何とか拾った勝ちや。なぁ、惨めやろ」

 何が。

 その先の言葉は、それだけは絶対に聞きたくない。

 どんなに強がったって、どれだけ自信を膨らませたところで。

 心にたった一滴垂れた不安の絵の具は、急速に広がって塗りつぶしてしまいそうだった。

「アタシが、シンちゃんに勝てないとでも……。アタシがそう思っているからシンちゃんが負けることを願ってるとでも言うのか!」

「この手がそう言うとるやろが!」

 添えた手に力を籠めて一喝。

 やがてライズは力なく手を下ろした。

 目元に浮かんだ涙を指で払うと、またポールはニッカリと笑って。

「ホントはな、ダイモンジがアンタを誘ってここへ来るのを見とったんや。でもアンタらは、このレースへの視点が違う。まともな意見交換なんぞでけへんやろと思ってな。不躾やけど、引き離させてもろたで。余計なお節介やろけど」

 手をポンポンと叩いて、周囲に「見せもんやないでー」と言って回るポール。

 彼女は、時に恐ろしく周囲を観察している、賢いウマ娘だった。他者の心を読むことにかけては、恐らく同世代で随一だろう。

 そして。

 指摘されてようやく。

 ライズは、同室であるシンリョクメモリーを恐れていることを自覚したのだ。

 

『各ウマ娘、ゲートに収まって、係官が離れます。メイクデビュー東京、芝一四〇〇の船出です!』

 

 十八人のウマ娘がゲートを飛び出した。

 大外から先頭へと競りかけてゆくのがモノノフキッド。

 この後ろに一バ身離れてチーラヒメ。

 シンリョクメモリーは先頭集団から差の開いた八番手あたりの位置を、他のウマ娘と団子になって追走する形だ。

(今、インコースを取るのは危険だ。なるべく体力のロスなく回らないと)

 先を走るキッドはレースの展望を頭の中でシミュレーションする。

 四〇〇メートルほど走ったところからカーブだ。最初の直線からインに切り込むと、その後のカーブでコースの内側にあたる左足への負担が大きくなる。第三コーナー、第四コーナーで耐えきれず外へ膨らむ可能性が高い。

 ならば直線ではこのまままっすぐ進み、コーナーを回りながら徐々に内へ寄って行った方が疲労も少なくなるだろう。

 ハナを切って進むということは、レースの展開を自分で作り出せる反面、後方の様子を掴みづらいデメリットもある。

 だからこそ、コース取りで後方へ圧力をかけて優位な展開を維持することも作戦と言える。

 一方のシンリョクは。

(やはり行ったね、キッド。あまり距離が開くとこちらが不利……仕掛けどころを見失わないようにしないと)

 末脚で対抗する腹積もりだ。距離が短いレースでは、前を走る方が有利と言われる。

 しかし東京レース場の特徴は、最終直線にある。中央のレース場でも特に最終直線が長く、スパートをかけてから前を追い抜くだけの力を発揮しやすい。

 加えて、直線での上り坂もウマ娘のスタミナを奪う。一四〇〇メートルのレースとはいえ、スタート直後にダッシュをつけて体力を消耗していれば、最後に失速することだってありえる。

 だからシンリョクは、今は無理せず控えることにしたのだ。

 そして。

 

『大欅に差し掛かって二番手チーラヒメ動いた、先頭のモノノフキッドに襲い掛かる!』

 

 このレース、最も不気味な存在は誰であろう、彼女。チーラヒメだった。



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第17話「三人のデビュー(後編)」

今回は後編。
一月末の攻防、シンリョクメモリー、モノノフキッド、チーラヒメと三人がそろったデビュー戦。
その第三コーナーからとなります。


 スタンドから見て、走るウマ娘たちが大欅の向こうに消えた瞬間というのは、東京レース場の第三コーナーに差し掛かったことを意味する。

 一四〇〇メートルのレースではまだ中盤、勝敗を決するのは中央のレース場でも屈指の距離を誇る最終直線での差し合い、粘り合いだ。とはいえ、万全の形で勝負に挑むため、コーナリングでの位置取りは重要な意味を持つ。

 最も外のゲートからスタートしたモノノフキッドにとって、これは大きな不利である。無理にインコースを走ろうとすれば、脚への負担が大きくなる。だからこそ、余裕を持ったコーナリングで、最終直線に向けて徐々に内へ切り込んでいこう、というのが彼女の作戦だったのだ。

 しかし。

 

『勝負所のコーナー、何と五番人気チーラヒメ、先頭に並んだ! インを突いて一気に先頭へ躍り出ようというところであります。モノノフキッド少し外へヨレました。後続も追いすがる中、いやしかしこれは凄い気迫! ヒメが、チーラヒメがぐんぐん差を開いて行きます!』

 

「な……、くっ!」

 スタンドがどよめく。

 今回のレースでいえば、欅の向こうというのはまだ三分の一程度の距離しか走っていない。いかに短距離とはいえ、このタイミングで仕掛けるのは分の悪い賭けと言って過言ではなかろう。

 誰よりも驚いたのはキッドだった。

 少しずつ内ラチへ身体を寄せていったところ、その僅かな隙間をこじ開けるようにして、チーラヒメが飛び込んできたのだから。

 コースを外されたような、足元を掬われたような形で外へ膨らむ。

 この機を逃すまいとヒメは一気に強く踏み込んでさらに加速、あっという間に三バ身ほどの開きが生まれた。

(何を考えてる、チーラヒメ。無謀だけど……いや、まさか!)

 二人から後方。中団に控えていたシンリョクメモリーは、このタイミングで仕掛けたヒメの動きを考察。

 努めて冷静に。自分のペースを守って走ることに徹していたシンリョクは、周囲の動きも含めて、このコーナーに大きな罠が仕掛けられていたことに気が付いた。

 中団から一人、また一人とペースを上げてゆく。

 コーナリングの途中で加速するというのは、それなりに負担がかかるもの。負荷に負ければ身体が大きく揺さぶられて外へ外へと揺すられてしまう。

 そんなリスクを冒してまでペースアップする理由は、ただ一つ。

「何が一番人気だ!」

「クラシックへの切符は渡さないんだから!」

 このレース、最も注目を集めるのはキッド。最優秀新入賞を獲得したダイモンジに匹敵するトレーニング成績を叩き出しているだけあって、学園に在籍する者ならば彼女に注目するのも無理はない。

 当然、出走者はマークする。

 仕掛けるタイミングを計り、出し抜く好機を探し出す。

 それが、今なのだ。

 チーラヒメが思わぬ奇襲を仕掛けたことでペースを乱されたキッド。

 追いつき、追い抜くならばここしかないと考えたウマ娘は多かった。

 ところが。

「ちょ、邪魔!」

「アンタこそ、あぶ、危ないって!」

 初めて本番のレースを迎えた彼女らは、いかにトレーニングを重ねたとはいえ、経験に乏しい。加速しながらロスなく内へ切り込むことが上手くできずに外へ外へと膨らんでゆく。

 中団は団子状態になっていたこともあり、最内にいたウマ娘がヨレたことで他のウマ娘もその煽りを食らう。

 シンリョクもこの波に飲まれて外へ持ち出さざるを得なかった。

 

『さぁ横に広がって最終コーナー、これは大波乱! チーラヒメ先頭、しかし、モノノフキッドが懸命に追う形になりました』

 

 内ラチを頼りに駆けるヒメ。後続を振り払うように、この後の直線など捨てたかのように、全身全霊を以てカーブを左手へ。

 やや外、体勢を立て直したキッドは後方の混乱をよそに、必死で食らいついていく。

「ヒメ、何が君をそこまで駆り立てるんだ。全然ヒメらしくない、本当に、どうしたんだ」

 背に追いすがり、キッドは問いかける。

 ずっと疑問に思っていた。

 彼女は、ウマ娘にしては珍しい感性を持っている。

 誰よりも速く駆け抜けたい、走り続けたい本能よりも。幼い頃より共に過ごしてきたキッドの世話を焼くことに執心する。

 それが、彼女の生きがいを放り出してトレーニングに励み、今、こうして捨て身の全力疾走に己の全てを賭けている。

 彼女が、今、見据えているものは。

 

 ――。

 

 ねぇ、キッド。すごいね、おほしさまがいっぱいだね!

『ほんとだ! きょうのことは、パパとママにはないしょだよ』

 もちろん! あ、ほらあそこ、ちいさなおほしさまがあつまって、しろくなってるよ!

『あれはね、あまのがわっていうんだって』

 あまのがわ……?

『うん。天の川、とかいて、あまのがわ。えほんにかいてあったんだ』

 えー、まだえほんなんてよんでるの?

『いけない?』

 そんなことないよ。

『そっか、よかった』

 いつか、めのまえでみてみたいね、あまのがわ。ほしでいっぱいのかわなんて、きっととてもきれいよ。

『じゃあ、さ。みにいこうよ。いつか、あまのがわまでおおきなはし(・・)がかかったら、ふたりではしっていこう』

 いいけど、わたし、キッドみたいにはやくはしれないよ。それに、あんなにとおいところ、はしっていけないよ。

『だいじょうぶ! もしもヒメがはしれなくなったら、わたしがせおってあげるから!』

 

 ――。

 

 それで、具合はどうなのでしょう?

『経過は良好ですよ。問題だったところも、徐々に改善する様子を見せています』

 だったらこのままいけば!

『ええ。私の目から見ても、生まれ持った素質を感じさせますし、きっと素晴らしい活躍ができると思いますよ』

 ふふ、ありがとうございます、先生。

『ただし』

 ……。

  ……?

   ……!

 

 ――。

 

「キッド。私たちが、同じレースを走るのは、きっとこれが最初で最後ね」

 ヒメは、すぐ背後にいるであろう幼馴染へと語りかけた。

 その胸の内は、その表情は、キッドに見て取ることはできない。

 コーナーを曲がりながら。静かに、彼女の言葉へ耳を傾ける。

 これは久しぶりに聞いた彼女の声。そこに含まれたのは、深い悲しみと、堅い覚悟と、微かな希望。

「あなたはこれから、クラシックを走る。きっと世の中をアッと言わせる、時代の中心になるんだわ。ずっと見てきた私には分かるの。でも」

 言い淀む。

 その先の言葉を詰まらせながら、しかし、前を向いて。

「いつか、キッドの脚が、天に届いた時。モノノフキッドを追い詰めたのは、誰よりも最初にキッドの隣に並んだのは、最強の幼馴染だったって、私は言われたい。いえ、違うわ。私は、あなたとずっと……!」

 

『これから直線コースを向こうというところであります。この辺でモノノフキッドが先頭に立ちました。モノノフキッドが抜け出ました。四〇〇の標識を切って、モノノフキッドが抜け出ました。チーラヒメが二番手、いっぱいの感じであります』

 

 最終直線。

 気づけば、再びキッドがハナを取り返していた。

 ヒメはゼェゼェと息を切らしながら後退。

 他のウマ娘たちを置き去りに、ヒメとの差はあっという間に五バ身ほどにまで開く。 後続のウマ娘たちがコーナーを曲がりきる頃、キッドに追いつくのは絶望とすら思える。

「やっぱり凄い。皆がマークするのも分かる。けれど、勝負はこれから!」

 

『シンリョクメモリーが外から上がってまいりました。モノノフキッドが先頭であります。強い、これは強い!』

 

 大きく広がる一団を抜き去って、シンリョクが残した脚に全てを賭ける。

 やや長いストライドで走っていたところに、踏み込む力を加えて、ターフに突き刺すように。

 きっと、届くはずだ。弱点を克服するために生み出した走りを、土壇場で自分のモノにできれば、あるいは。

(これだ、この走り。きっと追いつけ……、ッ!?)

 確かな手応え。

 先頭までの距離は長い。だがどこか確信めいたものがあった。

 キッドに届く。そんな予感が。

 しかしそれは、大きな身震いと共に崩れ去った。

 脚がこれ以上前へ出ない。

 とてつもないプレッシャー。その正体を探して視線を走らせると、やはりというべきか。

 三番手、四番手と垂れてきたチーラヒメ。追い抜こうとするウマ娘をまるで射貫くような目で睨みつけている。

 口にせずとも分かる。キッドを追い抜いたらタダじゃおかないぞ、という、強烈な威嚇。

 それは、多少なりとも親交のあるシンリョクに対しても例外ではなかった。

 視線に射貫かれた瞬間に生じる違和感。蹄鉄が芝に刺さる感触が失せる。どこか空回りするようで、もつれて、つんのめるかのように。

「こんなことで、自分は!」

 

「なぁ、あのおヒメさん、ようやりおったな」

「勝つ気のある走りとは思えねェ。キッドのために、他の全員を道連れにしやがった」

 直線。最早勝敗は決したと見えて、スタンドのジュブナイルポールはチーラヒメに視線を送る。

 一方でライズエンペラーは腕を組み、少し不機嫌に呟いた。

 残り二〇〇メートル。必死にシンリョクらが追い上げるも、これは到底届かないだろう。以前ライズが起こした奇跡のような末脚というのは、そうそう目にかかれるものではないのだ。

 そして、このレース展開にはどこか覚えがあった。

 まるで狐につままれたかのような、キッド以外の全出走者が展開を惑わされて仕掛け方を誤ったこのレース。

 仮に、自分が出走していたらと思うと、ゾッとする。そして、傍観者だからこそ、ホッとしていた。

 そんな様子を、ポールは見透かしていたようで。

「シンリョクメモリーの皐月賞はお預けやろな。どや、安心したやろ」

 何故か嬉しそうに問いかける。

 フン、と鼻を鳴らしながらライズはそっぽを向いて。

「どっちみち、キッドに追いつけねェようじゃ大して怖かねーよ」

 と呟いてみせたが。

 二人とも、ちゃんと理解していた。

 このレース、勝敗はともかく、全てチーラヒメの掌で転がされていたのだと。

 

『モノノフキッドが先頭であります! シンリョクメモリーも追い上げますが届きそうにありません。モノノフキッド一着でゴールイン! 勝ち時計は――』

 

 キッドから離されることおよそ十バ身。

 シンリョクの着順は四位。完敗だ。

 展開を読む力、仕掛けるタイミング。精神面の問題か、それとも距離の問題か。全力を出したつもりではいたのだが、どうにもスピードに乗り切れなかったような感覚が残った。

 ただし、結果は結果だ。勝てなかったのは、己の未熟に違いない。

「見事な直線だった。キッド、次に走る時は――」

「ヒメ!」

 負けたら素直に勝者を称えるべし。

 キッドと握手の一つでも、と歩み寄る。が、その脇をすり抜けるようにして、彼女は幼馴染の方へと駆けていってしまう。

 そういえば、レース中、二人は何か言葉を交わしていたようだった。

 そこで、どんなやり取りがあったのかは分からない。

 二人の間でしか通じ合わない、何かがあったのだろうとは思われる。

 息も絶え絶えなチーラヒメに肩を貸すキッドを遠目に。シンリョクは、頭では理解しつつもどこか後ろ暗い感情が胸に湧くのを抑えるのに必死だった。

 

「やれやれ、結局まともにレースを見れなかったよ。ポールにも困ったものだね。後で様子を聞いておかなきゃいけないな」

 レース中、クラスメイトに追い回されていたダイモンジ。

 呟いている通り、どうやら観戦どころではなく、結局クラスメイトに囲まれている内に見るべきレースは終わってしまったようだ。

 ようやく解放された時にはこの日のウィニングライブの時間が迫っているため、彼女は速足に歩く。今日のデビューを駆けたクラスメイトを労おうという考えである。

 が。

「もう満足したでしょう。これで、思い残すことはないわね」

「……はい」

「本当に、これで良かったのね」

「……はい」

「じゃあ、後は私の提案した通りに」

「でも、それじゃあ!」

 声が聞こえてくる。片方はどこかで聞いたような。

 控室に誰かが訪れているだなんて珍しい。ファンが押し掛ける、なんてことは稀にあるものの、どうもそうではないようだ。

 何か、他人に聞かせてはならないような、相談事をしているように聞こえる。

 ふとそれが気になったダイモンジは、今度は足音を立てないようにそっと声を辿る。行きついたのは一つの控室。チーラヒメのところであった。

「天を獲るウマ娘の幼馴染として、恥ずかしくない成績を残したいんじゃないのかしら」

「それは、そうです。だけど私、キッドとは競うんじゃなくて、その……」

 扉に耳をピトっとつけ、中の会話を伺うダイモンジ。彼女のファンが見たら卒倒しそうな光景である。

 会話している片方はチーラヒメだろう。もう一人は、少し大人びたような、少なくとも自分たちよりも年上の女性が話しているようだ。

 その女性が、深くため息を吐いたのが分かった。

「残念ね。あなたがそのつもりなら、構わないわ。好きにしなさい。でも、もし。気が変わったら、今度はあなたの方から私を訪ねてきなさい」

 話を切り上げた女性の足音。

 扉に近づいてきている。退室する気だ。

 キッドは慌てて柱の陰へ駆け込み、身を隠す。

 出てきたのは、長い栗毛が美しい、細見のウマ娘だ。声の雰囲気から察していた通り、どうやら上級生らしい。

 コツ、コツ、と靴が床を叩く音と共に、彼女が柱を通り過ぎる。

 どうやら盗み聞きはバレなかったらしい、と安堵したダイモンジが、ついつい止めていた息をふぅと吐き出すと。

「あら、緊張したのね。あまり気を張るのも良くないわよ。はい、金平糖。甘いものを食べると、落ち着くわよ」

「はは、そうだね。それじゃあ折角だから一粒……」

 声をかけられ、手を差し出す。

 ハッとした。

 目の前にいたのは、たった今通り過ぎていったとばかり思っていた、先ほどのウマ娘だったのだから。

 彼女はニコニコと笑みを浮かべ、缶ケースから金平糖を一粒取り出すと、ダイモンジの手に乗せる。

 そしてそのまま、今度こそ去っていってしまった。

 いったい、ヒメと何の話をしていたのか。何故ここにいるのか。

 勝負服でも体操服でもない、私服であるところを見ると、レースに出るわけでもなさそうだというのに。

 それに、聞かれては困る会話ではなかったとでもいうのだろうか。

 掌の金平糖に視線を落とすと、何故だか、ここで見聞きしたことを他人に喋ってはならない、そんな気がした。



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第18話「大見出しに挑む」

 モノノフキッドがデビュー戦を圧勝してから二週間。

 二月の末に次のレースを控え、キッドも、シンリョクメモリーも、チーラヒメもそれぞれ調整を進めていた頃のこと。

 東京レース場には出走の時を待つ二人のウマ娘があった。

「キミとこうして争うことになるなんてね。クラシックまで勝負は預けるんじゃなかったのかい?」

「うるせェよ。ダービーにゃ、まず出走できなきゃ意味がねェ。何がどうなって成績が足りないなんて言われるか、分かったモンじゃないからな」

「ははっ、ではなおさら、ボクとの対決を選んだのは、失敗だったね」

 得意気に話すダイモンジ。

 一方で少し不機嫌そうにゲートを睨むのはライズエンペラーだった。

 二人ともこの時点でレースに勝利した回数は三回ずつ。ライズは年が明けてすぐの京成杯を制しており、ダイモンジとはいうと三戦三勝の負け知らず。

 無敗、と言えば聞こえが良いが、URAの評価自体は出走回数が多く、二着、三着とはいえ掲示板に残り続けたライズの方が高かった。

 だから、現時点で皐月賞や日本ダービーで成績を理由に除外される心配などない。むしろ、誰もが納得の上でクラシックへと推されることであろう。

「違ェよ。今、ここで勝とうなんざ思っちゃいねェって」

 腕を組み、目を閉じて、顔を背ける。

 その胸の内には、これまで走ってきたレースの記憶が駆け巡っていた。

 

『逃げる逃げるソウルトレード、二番手以下は総崩れになったか追い上げるも伸びがイマイチであります。ブレイブエンブレム抜けてきた! 前走快勝のマッコウショウブ、三番人気ライズエンペラーこれは苦しい。エンブレム、ソウルトレードを捉えた、並んで抜け出したところでゴールイン!』

 

『直線を向いて長い府中の直線であります。団子状態の大混戦、誰が先頭かも分かりません。抜け出るウマ娘はおりません! 四〇〇を過ぎてサトリコンコが脱落してゆきます。一人、また一人! 熾烈なハナ争い、最後に残るのは、ライズだ、ライズエンペラーだ、今ここでゴール! 根性勝負を最後に制したのはライズエンペラーであります』

 

 負けたレースも、勝ったレースも。

 ここしばらく、気持ちよく走れたものはなかった。いつもペースが乱れ、自分の走りができないまま、ようやく終わったと思った先に結果が待っているだけだった。

 その影には必ずあのウマ娘の存在があったのである。

 サトリコンコ。後方を走りながら全体のペースを操り、他のウマ娘を疲弊させ、コース取りや仕掛けのタイミングを狂わせ、レースそのものを搔き乱す走りが特徴。彼女自身、このところ勝ちを拾えていないようだが、どちらかというと展開を操ることに快感を得ているようにも見える。

 ライズは、初めて彼女と対峙した時から、出走者リストの中にサトリコンコの名があるだけで胃を掴まれた感覚を覚えるようになってしまった。このレースにサトリの姿はないが、これは狙って出走登録をしたからに他ならない。

 例えそこに、J-1最強格と目されるダイモンジが出走していようと。これに挑む方が、よほど気持ちの良い走りができるのではないかと感じたからだ。

 二月も中盤。クラシックの開幕までもう時間がない。少しでも自分の走りを掴んでおく必要があった。

 ゲート入りが始まる。たった六人の東京クラシックステークスが始まろうとしていた。

 

「こっち、こっちです!」

「なんや急に引っ張りおうて。ちょいと、許してくんなまし。あ、どうも、失礼」

 一方、観客席。

 このレースを一目見ようと、客の入りは上々だった。ダイモンジファンが声援に駆け付けたのはもちろん、ライズエンペラーだって人気では負けていない。むしろこの二人が人気を独占し、三番人気以下とは大きな人気投票の差があった。

 いわば世間の目から見るに、二強対決。

 サトリコンコは顔見知りに手を引かれ、スタンドを前へ、前へとつんのめっていく。他の観客にぶつかったり、足を引っかけたり。その度、律儀に謝るものの握った手に引かれるのだから仕方がない。

「だって、ライズさんが、ジュニア級で一番強いって言われているダイモンジさんに挑むんですよ。ちょっとでも近くで応援したいじゃないですか!」

「そない言うても、わっちは応援するつもりなんて……」

 しかし。あっという間に最前列。ウマ娘としても小柄な二人にとって、観客の隙間を縫って前へ出ることはそう難しいことでもなかったようだ。

 隣に並ぶのは、おさげが愛らしいホッポウセブン。スタンドの壁に手を乗せ、身を乗り出すようにして出走者の姿を探していた。

 サトリは、彼女に移した視線を下へ下へと送る。おさげのウマ娘は、左足に包帯を巻いていた。脛のあたりを保護し、隙間に保冷剤のようなものが押し込められている。トレーニング中に起こしたケガだと聞いた。

 こんな脚で、あれだけグイグイと引っ張って前へ出ようとしていたのだから、よほどこのレースを自らの目で見たいらしい。

 所属するクラスが違う関係で、普段学園内で顔を合わせる機会は少ないものの、ターフでは幾度となく競い合った相手だ。ライバルとして認めないわけでもない。

「ライズはんは、よう強ぉなりんした。せやけどなぁ、わっちが勝てたんは、函館で走った一回きり。いつかは超えたい、超えたいと思いつつ、様々に策を巡らせて、よぉ引っかけた思うても、そもそもライズはんが持ってる力でねじ伏せてきよる。わっちが一番苦手なタイプなんよ」

「だから、ライズさんは凄いんじゃないですか!」

 無邪気に、セブンは笑う。

 心の底から慕っていて、噓偽りなくライズエンペラーを尊敬しているのだ。

 その気持ちを共有したくて、ここに誘ったのかもしれない。

 あまりにも純粋な彼女の気持ちに、サトリは何となく、触れてはいけないような気がした。

「凄い……。確かに、凄いなぁ。もうわっちらじゃ、アレには勝てないんやろなぁ。せやから、今は。イジワルするんが精いっぱいやわ」

 そこまで言って、何かを思いついたのか。

 サトリは静かに口角を持ち上げた。

 

『六人、ゲートに収まりました。東京クラシックステークス……スタートしました! ぽーんと飛び出したのはやはり行きます一番人気のダイモンジ。他五人は一塊になって控えます。注目のライズエンペラーは三番手付近、まずは様子を見ようといったところでありましょうか。先頭からおしまいまで十バ身もない、ギュッと詰まった展開になりました。コーナー抜けての向こう正面、早くも隊列が固まろうかというところ』

 

 逃げを打ったダイモンジ。合わせてスタンドから歓声が上がる。

 後方集団は位置取り争いに決着をつけぬままスタートのコーナーを抜け、ライズは三番手、四番手辺り。内につけて走る。その外並んでゼッケン五番のウマ娘。彼女と展開を争う形だ。

(そんなところで牽制し合っていて、このボクに追いつけるとでも言うのかい、ライズくん?)

 ハナを切るダイモンジには、後方の様子が手に取るように分かっていた。どの程度のペースで走るべきかを瞬時に割り出し、己が勝利するビジョンを脳内に描く。

 ただ。今回の競合相手であるライズエンペラーは、いつ何をしでかすか分からない不気味さを備えているのだ。油断するわけにはいかない。

 バックストレッチを駆ける間、これといって展開に変化はない。ダイモンジに続く五人のウマ娘たちは、距離を詰めるでもなく離れるでもなく。己の仕掛けるタイミングを計っているようだった。

 第三コーナーに差し掛かる。

 ライズはほんの少しだけ前へ踏み込んで、並走する五番のウマ娘の前を横切るようにして外へ持ち出した。そこから少しずつ少しずつ、進出してゆく。

(簡単にゃ逃がさねェぜ、お坊ちゃんよ。直線向いてからが勝負だ!)

(やはりここで仕掛ける体勢に入ったね。いいとも、キミの挑戦、受けて立つさ)

 

『第四コーナーではまだダイモンジ先頭、ダイモンジ先頭。後続との距離を引き離しにかかりますが、外を回りこんでやはりこのウマ娘、ライズエンペラーが猛然と追走! 坂を駆けのぼって行きます!』

 

 直線を向いた。

 ここからは根性比べ。四〇〇メートル以上の長い道のり、高さ二メートルに及ぶ上り坂。気力の続いた方が勝つ。

 いかに苦しかろうと、勝利の瞬間を奪い取った快感は何物にも代えがたい。

 それに。ライズにとって、これほど純粋な力同士のぶつかり合いは久しいものだった。世代最強の称号を得た貴公子様に一泡吹かせる、またとない好機なのだ。

「ぬぉぉォォオオオオッ!!」

 坂を半分ほど登ったところ。ライズは足にありったけの力を込めてラストスパートをかける。

 先を行くダイモンジに並びかける。もう目の前にまで迫っている。

 届く。そうだ、届く……!

「ライズはーん!」

 声が響いた。

 スタンドから。どこかで聞いたような、少しおっとりとした、それでいて嫌味のような呼び声。

 ついそちらへ目が引かれる。

 客席の最前列でニタニタと笑みを浮かべて、肩のところで小さく手を振っているウマ娘があった。サトリコンコである。

「てめェッ、キツネ! 何でこんなところに……ッ、やべ、それどころじゃ!」

 一瞬の隙が命取り。

 客席に気を取られた束の間。ハッとして前を向くと、あれだけ距離を詰めたはずのダイモンジはトップスピードに乗ったままどこか余裕のあるフォームで走っている。

 気を取り直してもう一度スパートをかけるも後の祭りで。

 

『一時はダイモンジを追い詰めたライズエンペラー、しかしここから縮まらない。ダイモンジ譲りません。半バ身の差を保ったままゴールイン! 三番手以下を大きく離した叩き合いを制したのは――』

 

「なにが、叩き合いだ……っ」

 息を切らせて実況席の方をギロリと睨むも、そこに怒気が滲んでいることに気が付いた者は少なかった。何しろ、観衆の注目は一着で駆け抜けたダイモンジに集中していたのだから。

 もう少しで並べたというのに。ひょっとしたら追い抜けたかもしれないというのに。

 そうだ、あのウマ娘だ。ここからという時に余計な茶々を入れてくれたサトリコンコだ。

 視線を巡らし、スタンドからもう一度彼女を探す。ほぼゴール版の正面に近い位置でニタニタとした笑みを顔に張り付けたサトリを発見するのは容易く、その姿を確認したライズは一目散に駆け寄っていった。

「おやまぁお疲れさん。やっぱり相手は最優秀新入賞、一筋縄ではいかへんなぁ」

「冗談じゃねェ、誰のせいだと思ってやがンだ!」

「わっちはただ、声援を送っただけのこと。贔屓のウマ娘さんを応援するのが、どうしていけないん?」

 あっさりと言い返され、ぐぬぬと唸ることしかできないライズ。

 しかしサトリはこうなることを分かっていたに違いない。

 これまで何度も同じレースを走ってきた。ライズは着実に実力をつけ続け、それこそひょっとしたらジュニア級の代表にも追いつこうかという脚を見せるまでになっている。到底、正面から挑んで勝てる相手ではないとサトリ自身気が付いているのだ。

 だからこそ、サトリは己が勝利することよりも、レースを支配することに快感を見出しているのであろう。

 ライズがそうしたかく乱を好まないというのは承知済み。顔を見せれば何かと突っかかってくるわけで、レース中に自分が呼びかければ集中力を失うであろうことは容易に想像がつくのだ。

「あ、あのっ、ライズさん! さっき、ですね。レース中にサトリさんが言っていたんですけれど」

「これ、おさげさん。それは内緒ゆうたでしょうに。バラしたらいけませんわ」

 サトリの隣に控えていたホッポウセブンは、険悪な空気を変えようとでも思ったか、身を乗り出すようにして口をはさんでくる。

 それをサトリは諫めるが、彼女はおかまいなしのようで。

「ダイモンジさんの走りなんです。最後の直線で実は……」

 ここまで言ってしまえば、もう止めtることはできまい。

 いや。サトリに止める気はなかったのだ。ニタリとした笑みを浮かべるだけで、「まぁ、聞いておきなさい」といった様子。

 セブンが続けた言葉。

 聞いて、コースを振り返る。

 長い直線、緩やかながらも高低差の大きな坂。

 客席からレースを搔き乱そうという目で見ていたからこそ見つけられた、ダイモンジの弱点がそこにあった。

 

【快勝!ダイモンジ負けなしの四連勝】

【東京CSダイモンジが制する】

【ダイモンジ圧倒的逃亡劇】

 

 翌日に新聞には、華々しくダイモンジを称える見出しがついていた。

 目についた新聞を片っ端から買いあさり、当事者であるダイモンジは寮で記事をスクラップしてゆく。

 シワにならないようマット紙に張り付け、そのまま書類用封筒へと入れていった。

 ふと、手が止まる。

 どの新聞社も、この勝利は圧勝である、という見解だった。鮮烈に、そして華麗に。完璧な勝利だと。

 ただし、一社だけ見解の違うところがあったのだ。

 

【ダイモンジ辛勝】

 

 自分の名前が見えただけで手に取り、買い求めてきたのだから、中身まではしっかりと読んでいなかった。だがこの見出しは、他と違う。

 そしてドキリと心臓が跳ね、首を絞められるかのような息苦しさが襲ってくる。

 すぐ隣には副題がついていて。

 

【半バ身差の猛追!ライズエンペラー今年のクラシックに名乗りを上げるか】

 

 自然と、新聞を持つ手に力が入る。

 誰の目にも余裕の勝利に見えるよう走ったはずだ。苦しい顔なんてしたつもりはない。

 結果としては確かに半バ身差だが、いわゆる僅差圧勝として捉えられるはずだった。

 そうだ。この記事はただ着差だけに注目したに過ぎないはずだ。どこの新聞社も一着にばかり注目することだろうと見越して、二着に食い込んだライズエンペラーに焦点を当てて他社との差別化を図ったに違いない。

 ならば。わざわざこの新聞をスクラップにして残しておく必要などないはずだ。

 時計を見る。もうそろそろ騒がしいルームメイトが帰ってくる時間だ。

 わざわざ集めた新聞を見つけられては、どんな噂をたてられるか分かったものではない。

 急いで散らばった新聞紙をまとめて紐で縛り、スーツケースの中へ隠す。

 次のレースまでに処分する算段を立てながら、スクラップを入れた封筒に糊付け。送り先の住所は北海道であった。




本編ともいえるクラシックの開幕までは、もう数話ほど置かせてください。
キャラクターが増えてきた関係で、掘り下げておくべきことが次々と出てきたものですから……。


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第19話「妖精の追憶と流星の記憶」

 お母様。

 私は、お母様の子として生まれたことを悔やんでなどおりません。

 むしろ、この母の下に生まれたからこそ、今の私があるのです。

 例えあなたが、私を子として認めなくとも。

 走り続けてさえいれば、私を認めてくださるかしら。

 いつか、我が子としてその腕に抱いてくださるかしら。

 ……いいえ、こんな気持ちではいけないわね。

 あなたが私の母でなくなったのではなく、私があなたの子でなくなったのですから。

 だから、お母様。私は八大競走を勝ちます。お母様が走ることの叶わなかった大舞台で名乗りを上げ、ティアラを持ち帰ります。

 その時に。たった一度で良い。

 私の名を呼んで、あなたの手で私にティアラを被せてください。

 そしてもう一度、あなたをお母様と呼ばせてください。

 

「もうすぐクイーンカップね。あなたなら桜花賞への出走は間違いないけれど、それでもこのレースを選んだのには、何か理由があるのかしら」

 学園の中庭でベンチに腰掛ける。ちょうど昼休みのこの時間、多くのウマ娘は食堂で昼食を掻き込んでいる頃だ。

 ディアナのランチはというと、ハムサンドと牛乳。購買で買ったものだった。

 彼女の隣に座るのはメーベル。近頃、ティアラ路線へ進むウマ娘数人によく声をかけている姿が見られていた。

 中でもディアナは彼女のお気に入りのようで、授業中以外は二人で過ごす時間が長い。

「前回のレース、出遅れが響いて負けてしまいました。この課題をクリアするため、桜花賞前に一つ叩いておきたくて」

「じゃあ、私が一つ条件をつけてあげる。もしもクイーンカップで負けたら、桜花賞への出走はナシよ」

 ティアラ部門の最優秀新入賞を獲得した彼女にも、明確な弱点があった。もちろんそれは、彼女自身がよく実感していることであり、これを克服するにはやはり本番で感覚を掴むことが第一であろうとの考えである。

 これを聞いたメーベルは口角を吊り上げて人差し指を突き付ける。

 少し気圧されたかのようにたじろぐディアナだが、すぐに息を入れなおすと不敵な笑みを浮かべて。

「条件にもなりませんわ。次のレース、私に負けはなくてよ」

 ハッキリとそう告げ、左手に牛乳パックを持ちながら右手の指に髪を巻く。

 メーベルは少し目を細める。

 この仕草はディアナのクセであるが、この意味するところを恐らく彼女自身は気づいていないのだ。

 しかし、しばらく接してみれば分かる。

 髪を指に巻く時、どのように感情が動いているのかなど。

「無事、次に勝ったとして、桜花賞だけど。あの子は出てこないわよ」

「あの子、というのは?」

「忘れちゃったのかしら。ほら、以前あなたを連れ出して、走ってる様子を見せたでしょう、あの門限ギリギリの時間に」

 指がピタリと止まる。

 記憶を辿り、あの日の夜に見た光景を呼び寄せていく。確か、昨年の暮れだった。当時はまだデビューしておらず、トレーニングに励む姿。ペース配分に苦労して、なかなか思ったような走りができていない様子だった彼女。

 一月の末に初出走を終え、結局勝利を掴めなかったそうだが。

 何故この話に、彼女が出てくるのだろうか。

 指を髪から抜いて、言葉の先を促す。

「デビュー戦で、すっかり目標をなくしちゃってね。その気になればティアラ戦線であなたと良いライバルになれると思ったのに。はぁ、残念だわ……私は、ね」

 そんな話はどうでも良い、と思った。

 ライバルになったかもしれない存在。そんなものを意識した覚えはないのだ。

 話を半分聞き流しながら、ハムサンドを齧る。

 そんな様子を見たからなのか。メーベルはグッと耳元へ顔を寄せる。

「どう、ライバルが減って安心した?」

「なっ、冗談はよしてくださる!?」

 急に囁かれたからなのか、それとも言われた言葉が心外だったからなのか。

 ディアナは顔を真っ赤にして思わず立ち上がる。弾みで左手に持っていた牛乳パックを潰してしまい、ストローから飲みかけだった中身が噴き出る。

 これをまともに靴下へ被ったものだから、言葉にならない悲鳴と共にディアナは半分目を回したかのようなパニックに陥っていた。

 静かに笑ったメーベルはそのまま立ち上がると、ポケットからハンカチを取り出して差し出す。

 これをディアナが受け取ったのを見て、そのまま彼女は立ち去ってしまった。

 あとに残されたディアナは慌ててこぼした牛乳を拭き、一息つく。咄嗟に使ったとはいえ、借りたハンカチに牛乳が染み込んでしまった。すこし鼻を寄せると、やはり臭う。

 しっかり洗って返さなくてはならない。

 その時にふと思った。

「あんな、バテバテで走っていたウマ娘が私のライバル候補? 冗談じゃないわ!」

 

「本当に行ってしまうの?」

 うん、だってボクは、そのために生まれてきたんだから!

「だけどあなたは……私の母から続く家系に生まれてきたのよ。お願い、ここで私と一緒に静かに暮らしましょう」

 ダメだよママ。そうじゃないんだ。ずっとここにいたんじゃ、この血は呪われたままなんだ。

「それだっていいじゃない。私は、あなたが心配なの。世間様にあなたが、この家の子だって知れたら、どんな風に周りから言われるか分からないのよ」

 そんなの、とっくに覚悟してるよ。

 ボクは走らなきゃいけないんだ。

 走って、走って……ママや、おばあちゃんが、運命にだって負けなかったってことを、証明するんだ。

「そこまであなたが、決意をしたのなら。一つだけ。私のワガママを聞いてちょうだい。あなたが引退するその日まで、この家の出身であることは、隠しておいて」

 隠すわけがないじゃないか!

 大っぴらに言うつもりはないよ、でも気づいた人が、そこに注目してくれたらいいんだ。

 もしそれで、陰口を言われることがあっても。

 病気の家系(・・・・・)と言われても。

 ボクはそれを乗り越えて、八大競争を制覇してみせる!

 この時代の頂点に立ってみせる!

 だから、ママ。

 新聞を、楽しみにしていて。

「新聞?」

 そう。ボクの名前が大きな見出しになるよ。

 皐月賞も、ダービーも、菊花賞も。天皇賞も有馬記念も!

 みんな勝って、この時代で誰よりも強いウマ娘だって、新聞に載るんだ。

「本当に、そんなに勝てるものなの?」

 勝てるさ!

 だってボクは、大きな文字で栄光を称えられるんだ。

 最強のウマ娘、ダイモンジ、って。

「だけどトレセン学園には……」

 もちろん強いウマ娘がたくさんいる。

 でも大丈夫。ボクは誰よりも速くなる。流星のようにターフを走る。

 そして表彰台の上で宣言するんだ。

 ママと、おばあちゃんの子が、こんなに強くなったんだ、って。

 

 いつの間にか、ダイモンジの名は学園中が知るものになっていた。

 競バファンも一目置く存在になっている。

 クラシック部門最優秀新入賞。無敗のまま四連勝。

 同世代で、勝ち負けを繰り返しながらものし上がってきたライズエンペラーにも勝利した。

 この年のクラシックレースは、ダイモンジを中心に動くだろうと誰もが信じて疑わない。

 彼女の胸に、あの日の記憶が沸き上がってくる。

 母に誓った約束。

 きっと、実現不可能なものではないはずだ。

「流石ダイモンジ様、また特集されてる!」

「本当だ! すごい、表紙だよ表紙!」

 クラスメイトたちが雑誌を手に集まっている。

 ダイモンジの周囲にも多くのウマ娘が輪を作り、黄色い声を上げながら口々に話しかけてきている。

 正直、全員の言葉に返事をすることは難しい。

 聞き取れた言葉に、ありがとうとか、無難に応える。それだけでも彼女らは満足するようだった。

「おっと、もうこんな時間だ。そろそろ行かないと、お昼を食べ損ねてしまう。食堂へ行くけど、キミたちも来るかい?」

「もちろんです!」

「あの、私、ダイモンジ様のためにお弁当を……」

「うっそ、ズルい!」

 ちょっと移動するだけでこの反応だ。

 食事をするのも大騒ぎである。

 このように、お弁当など、ダイモンジに何か食べさせようと用意してくるクラスメイトやファンは必ず一人はいる。

 しかし毎回ダイモンジはこれを断っていた。

 というのも。複数人が作ってきたのであれば食べきれないし、仮に一人のお弁当を受け取ってしまえば、これまでに断ってきたファンが僻むことなど目に見えている。

 せっかく早起きして用意したのだろうが、気持ちだけ受け取ることにしているのだ。

 席を立って廊下に出れば、ダイモンジの後ろをファンがぞろぞろとついてくる。この日は七人ほどが続いてきていて、少し異様な光景だ。

 一部の生徒は、この様子をダイモン行列と名付けているのだとか。

 食堂へと向かう途中。

 ダイモンジも話しかけてきた声にいくらか返答をして歩いていると、一人のウマ娘とすれ違った。

 先頭にいたダイモンジはさっと身をかわしたものの、背後の続いていたファンは会話に夢中で避けることも忘れ、正面から歩いてきたウマ娘と肩がぶつかった。

「ちょっと、どこ見て歩いてるのよ! もしもダイモンジ様にぶつかってたらどうしてくれるの!」

 ファンのウマ娘は、尻もちをついたウマ娘にくってかかる。まるで自分が悪かったという意識はないらしい。

 が、ダイモンジ自身はそうではなかったようで。

「こら、キミだって前を見ていなかったじゃないか」

 と諫めてから。

「すまなかったね。立てるかい? 手を貸そう。ほら、掴まって」

 ウェーブ髪のウマ娘は差し出された手に目をやり、お言葉に甘えてと自分の手を伸ばした。

 が、直後にハッとした表情を浮かべると。

「あなた……ダイモンジね?」

「あぁ、いかにもボクはダイモンジさ。嬉しいね、知ってくれているなんて」

 今や学園でダイモンジを知らぬ者はいない。

 だがこうして名前を呼ばれた時には素直に喜んで、にこりと微笑みを返すのが礼儀。

 この時もそうしようとしたのだが。

 尻もちをついているウマ娘には、見覚えがあった。

 この髪型、それに美しく整った、少し神秘的な雰囲気すら纏う顔つきは、どこか上品ながらも勝気な気質を感じさせる。

 いったい、いつ会ったのだったか。

 同じレースを走った、というわけではない。

 かといって、日ごろ取り囲んでくるファンの一人というわけでもない。

 誰だっただろうかと考えていると。

「ディアナだ! ティアラ部門最優秀新入賞の、妖精女王だわ!」

「えっ、あ、本当だ。ごめんなさい、私そんなに凄いウマ娘だったなんて知らなくて、つい失礼なことを――」

 そうだ。

 名前を聞いて思い出した。

 昨年の最優秀新入賞をそろって受賞したウマ娘。表彰式の時、隣に並んでいたのだ。

 すっかり忘れていた。のだが、ダイモンジはまさに今思い出しましたという顔だけはしないように努めて、笑みを浮かべる。

「やっぱりそうだったんだね。はは、覚えてもらっているワケだよ。彼女たちには、ボクがもっと気を付けるように言っておくから、さぁ手を伸ばして」

「っ!」

 ディアナは、差し出された手をパシリと払った。

 自分で起き上がり、スカートを手で払ってさっさと行ってしまう。

 呼び止めようにも、振り返りすらしない。

 ファンたちが口々に、何よあの態度、などと愚痴を言い合っている。

 ぶつかってしまったことがよほど気に食わなかったのだろうか。次に会った時にはしっかり謝らねば、とダイモンジが考えていると。

「おや?」

 廊下に、何かが落ちていることに気が付いた。

 Mの字が刺繍されたハンカチだ。しかも湿っている。

 さっきのディアナが落としたものだろうか。それにしては、この字が縫い付けられているのもおかしな話だが。

 謝りながら、今度返してあげよう。と、ダイモンジが拾うと。

「ん、これは……」

 どういうわけだか、牛乳の臭いが染みついていた。

 

 何よ。

 何よ何よ、あんなにお供を引き連れちゃって。

 確かに貴公子様とか呼ばれているだけあって、レースの成績は申し分ないわ。

 だからって周囲にチヤホヤされて、気に入らない。

 ちょっと強いからって、ちょっと顔が良いからって、ウマ娘の本領はこれからなのよ。

 クラシックとティアラを走り抜けて、シニア級になっても活躍し続けなきゃいけないの。

 競バを芸能活動か何かと勘違いしているんじゃないかしら。

 どうせあのダイモンジとかいうウマ娘も、親から可愛がられてきたんだわ。

 何不自由なく育って、お決まりのエリートコースを進んで。

 冗談じゃないわよ。私には、あんなのに構っている暇なんてないわ。

 意地でも結果を出して、それで、お母様に誇れる私になるんだから。

 そのために、メーベル先輩に師事したのよ。これから結果をどんどん出して……。

「あら?」

 ない。

 嘘でしょ、さっきまでポケットに入れていたはず。

 メーベル先輩から預かったハンカチが、ない!

 そうだわ、さっきぶつかった時に落としたんだわ。

 あぁ、どうか、誰にも拾われていませんように!

 

 その夜。

「なんやダイモンジ、随分かわいらしいハンカチやな。そんなもんにまでアイロンをかけるんかいな」

 寮の部屋でダイモンジは丁寧に拾い物を洗っていた。

 臭いが取れたことを確認し、ある程度乾かしてからシワがつかないようにアイロンがけ。謝りながら返すのだから、とにかくキレイに整えることが礼儀だと考えたのだ。

「ボクのものじゃないんだよ。あぁ、そうだポール、ちょっと聞きたいことがあるのだけど」

 ルームメイトのジュブナイルポールはベッドに転がりながらダイモンジに目を向け、先を促す。

「おいしい牛乳を売っている店を知らないかな」

「はぁ?」

 その質問は、まさかダイモンジの口から出てくるものとは思えなかったのだった。



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第20話「皐月賞前哨戦」

『二番手から先頭を伺うディアナ、最終コーナーを大きく膨らんで外につけました。ここから坂を駆けのぼって、伸びる伸びる! 前走の敗戦もなんのその、これは文句なしの一着です! やはり今年のティアラ戦線主役は間違いなくこのウマ娘でしょう』

 

『後方から上がってきたのはやはりこのウマ娘、その名の通り坂を昇ってくる、ライズエンペラーだ! 居並ぶ者を次々抜き去って先頭、ブライブエンブレムに襲い掛かる! 粘るがしかしエンブレムここまでか、ライズエンペラー抜き出てゴール版に飛び込みました! 朝日杯の雪辱をここで晴らし、皐月賞への切符を手にしました!』

 

『直線を向いて内からスルスルっと上がっていきますシンリョクメモリー、土煙を上げて先頭へ迫ります。ダートへ切り替えての未勝利戦、坂で苦しくなったか、いいやまだ脚が残っている! 並んでこれは抜き去ったか、シンリョクメモリー念願の初勝利です!』

 

 二月の末から三月中ごろまで、ジュニア級に属する多くの実力派ウマ娘たちが次々と勝利を挙げていた。

 中でもティアラ路線へ進むディアナ、クラシックへ進むライズエンペラーの勝利はその積み上げてきた実力を見せつける結果となり、競バファンがこの年の八大競走は大いに盛り上がるであろうと予感するには十分であった。

 一方でシンリョクメモリーはというと、芝コースで敗戦を二度繰り返した後、ダートレースを選んでようやく勝利を掴んだところ。とても皐月賞には間に合わず、次第に世間からも学園からも注目されなくなっていった。

 年内最初の八大競走は桜花賞から。前哨戦に敗北すれば出走を取りやめる覚悟でクイーンカップに臨んだディアナは誰の目にも文句のつけようがない快勝。やはり最優秀新入賞は伊達ではなく、早くもティアラ路線のトップに名乗りを上げた。

 三月も下旬に差し掛かる頃である。

 中山レース場では圧倒的な一番人気を背負ってターフを駆けるウマ娘の姿があった。

 彼女は一八〇〇メートルの旅路を終始先頭で駆け続け、気が付けば最終コーナー。後続が一気に差を詰めてきた。

 

『間もなく直線を向きます。短いラストスパートにはしかし、心臓破りの坂がそびえています。ハナを切って回ってきたのはやはりこのウマ娘――』

 

「キッドー!!」

 スタンドで誰よりも声を張り上げて声援を飛ばすチーラヒメは、一番手を譲らず懸命に走るモノノフキッドに釘付けだ。

 周囲に連れ合いの姿はなく、彼女一人で応援に来たようである。

 デビュー戦を終えてからというもの、ヒメの態度はすっかり元通りになっていた。今では何かにつけてキッドの世話を焼きたがる幼馴染である。

 ヒメにはヒメなりの考えがあってのことだった。体質を克服してのデビューとなったキッドが、どこまで通用するのか目の前で確認したかった。そして、彼女自身、キッドの幼馴染として恥ずかしくない走りをするには、あらゆる未練や私情を捨てて走らなくてはならないと自覚していたからである。

 しかし、生涯で唯一であろうキッドと共に走るレースは終わった。目の前でキッドの強い走りを見ることもできた。

 だから、今は、一番身近なファンでいられる。彼女にとってこれ以上望むものは何もなかったのだ。

 

 キッドにとって、無敗の三連勝が見えてきた。

 この急坂を昇り切れば、皐月賞が待っている。

 天を掴むという夢のためには、こんなところで躓いてなどいられない。

 背後からは悍ましいほどのプレッシャーが突き刺さる。

 クラシックの舞台を賭け、勝ち上がりを賭け、一生に一度だけの舞台に立とうという渇望が、足音を通じて這い寄ってくるのだ。

 あぁ。ここで負けてしまえば、よほどの奇跡が起きない限り表舞台に立つことはできないのだろう。

 涙を呑んで学園を去る者だってあるだろう。

 かわいそうだとは、思う。

 しかし。生き残りを賭けたレースに臨んでいるのは、このターフを駆ける誰もが同じこと。

「悪いね、みんな」

 坂も中盤。キッドの呟きは届いたのだろうか。

「私の方が速いんだ!」

 

『なんとモノノフキッドここから伸びる! 一度は迫った後続をここから引き離して、ちぎれました、これは強い、三バ身、四バ身、なんという脚、これは圧勝です!!』

 

 ゴール板を駆け抜けたキッドは、息を乱した様子もなくスタンドへと手を振る。

 スタンドの歓声は割れんばかり。というのも、人気投票ではキッドへの投票が集中しすぎたといっても過言ではなく、二番人気と比べても十倍以上の差がついていたのだ。

 決まり切った結末、といえばそうだった。

 キッドとしては、負けるはずのないレースだった。

 しかし逆に、他のウマ娘にとっては、負けられないレースでもあったのだ。

「モノノフキッド!」

 背後から呼ぶ声がする。

 客席に向けて手を挙げたままキッドが振り返ると、まだゼッケンをつけたままのウマ娘が一人、噛みつかんばかりの形相で睨みつけていた。

 今日のレースを一緒に走った相手である。

「あ、えっと……。レース、お疲れ様。私に何か?」

 尋ねると、相手はゼェゼェと息を切らしながら詰め寄ってきた。

 そして視界を埋め尽くすほどグイと顔を寄せ、ツバを飛ばさんばかりの勢いでまくしたてる。

「アタシのこと覚えてる? 覚えてないでしょうね、今じゃスーパースターですもんね、まずは無敗の三連勝おめでとう。素直にすごいわ褒めてあげる。だけどアンタが強いから、強すぎるから、そのせいでアタシは、いいやアンタと走った誰もが、どれだけ惨めな思いをしていると思っているの。どうせ走ったって勝てやしない、一緒に走れば恥じを晒す。そんなことは分かってたけど今日こそはって思いでアタシは……。覚えてないでしょ、アタシのことなんて、どうせ覚えてないんでしょ!」

 あまりにもいきり立って詰め寄るものだから、キッドは呆気にとられて何も言い返せなかった。

 一方的に怒られている。しかもそれは、このレースに負けたから、いやキッドに勝てなかったからという逆恨みに近いものだ。

 他の出走者がこれは危険だと判断してか、食って掛かってきたウマ娘を取り押さえ、振りほどこうとする腕を締め上げるようにしながら退場口へと引きずってゆく。

「あの子……。そうか、見覚えがあると思ったら、あの時の!」

 まだ恨めしそうに睨んでくる彼女の顔。

 どこかで会っただろうかと必死に記憶を手繰り寄せ、気が付いた。

 あのウマ娘は、同じデビュー戦を走った子だ。

 シンリョクメモリー、何よりチーラヒメが出走してきたことにばかり意識を取られ、他の出走者のことはすっかり忘れていた。

 そもそも十八人も走っていたあのデビュー戦で、全員のことを覚えている方が難しい。負けた方が優勝者のことを覚えていても、勝った方が負かした相手、それも着外に沈んだウマ娘のことまで覚えているわけもない。思い出すことができただけでも奇跡みたいなものだ。

 それでも、このレースに出てきた。あの後、なんとか未勝利戦を勝ち抜き、一発逆転を狙って雪辱を晴らしに来たのだろう。

 どれだけ血の滲むトレーニングをしてきたのかは分からない。それでも、全く手も足も出ず、今回も着外に沈んでしまった彼女。

 きっと、二度とキッドに挑む機会はないだろう。

 それが悔しくて、認めたくなくて、あんな風に感情を爆発させたのだろう。

 哀れだ、とは思う。しかし。

「這い上がってみせなよ。そこから。せめてあと一回。先頭を切ってゴールしてみなよ。悔しいと思うなら、私が憎いと思うなら」

 危ないからと周囲が止めるのも聞かず、退場口へ引かれていくそのウマ娘へと歩み寄る。

 彼女はまだ、怒りに身を任せてなおも暴れようとしていた。

 しかしキッドは構わず。

「それだけの思いと覚悟があるのなら、表彰台の真ん中に立ってみなよ。私に挑んできたのは、こんなに凄いウマ娘だったんだって、見返してみなよ!」

 ここまで言われて、ぐぬぬと奥歯を噛みながら退場してゆく彼女。

 皐月賞への道は閉ざされ、ダービーへの出走も絶望的。

 彼女が表舞台で活躍するには、夏に勝ち上がって結果を出し続けるしかない。

 それが茨の道であることは間違いない。

 そして、勝てなかったのは己の実力不足である以外の何物でもないのだが、こうしてキッドのせいにでもしないと自我を保てないのかもしれない。

 ふぅ、とキッドは息を吐いてまたスタンドへと手を振った。

 

 後に。

 キッドに食って掛かったウマ娘は、ケガで一時期レースに出走できなくなったものの、年が明けてから不調を押して生涯最後のレースに臨み、アタマ差決着の劇的な勝利をもぎ取って引退することになる。

 この様子はもちろんキッドも観戦していたのだが、それはまた別の話。

 

「キッドは、あれだけの成績を出したんだから皐月賞に出てくるだろうね」

 週を置いて。

 今度はダイモンジが中山のターフに立っていた。

 オープン戦、スプリングステークス。一八〇〇メートルの攻防。

 スタンドにはどうやら、シンリョクメモリーやモノノフキッド、ライズエンペラーらも観戦に来ているらしい。

 なにしろこのレースは無傷の五連勝がかかったレース。年明けからデビューしたキッドと違い、前年から負けなしでクラシックの前哨戦に挑むのは嫌でも注目を集める。

 特に同じレースを走ったライズ、同じく負けなしで皐月賞に挑むキッドは、ダイモンジの走りを研究しようと必死だろう。

 呟いたダイモンジは、軽くストレッチを済ませてゲートへと収まった。

 六人立て。前回、ライズと競ったレースもそうだった。

 少人数でのレースは、周囲がダイモンジを恐れて回避していることの現れである。

 曇った空に、稍重のバ場。少し力のいるレースになるだろう。

 しかし、そんなことは問題にもならない。

 

『スタートを切りました。良いスタートです。ダイモンジ良いダッシュです。まずダイモンジが先頭へ立とうという感じ』

 

 スタートと同時に一気に先頭へ躍り出る。すぐに第一コーナーへ差し掛かる。

 これを内ラチに沿って走る。

 その外、五番のウマ娘がすっと伸びて先頭を奪っていく。

 ダイモンジは少し下げた形となった。

 バックストレッチを向いて、ギュッと詰まった隊列。

 中間地点を過ぎたところで、他のウマ娘がどんどん伸びて、気づけばダイモンジが三番手、四番手と下がってゆく。

 

「どうしたっていうんだ、ダイモンジらしくない……」

「いや、違ェな。アイツは、アタシとキッドに見せつけてンだよ。こんな状況からでも勝ってやるぞ、ってな」

 観客席ではシンリョクメモリーが呟く。

 隣で観戦するライズは眉を寄せて吐き捨てた。

 第三コーナーへ差し掛かったところ、再びダイモンジが前へ出た。

 六人のウマ娘がほぼ横並びで曲がってゆく。

 客席は大熱狂の声援が飛び交う。

 シンリョクがライズの表情を伺うと、「気に食わねェ」と言いたげな心情がダダ漏れである。

 クラシックを競う相手が、わざと難しい状況に身を置いて、そこからでも勝利を掴み取る様を見せようというのだ。常に全力勝負のライズからしたら、それは趣味の合わない走り方だろう。

 

「ねぇ、本当に負けちゃうんじゃ……」

「確かに、ダイモンジの位置取りは、ここからずるずると後退していくのはお決まりだね」

 少し離れたところでレースを見ていたチーラヒメは、心配そうに声を漏らした。

 腕を組んでターフの様子を伺うキッド。彼女もまたライズと同じように、ダイモンジの走りにどこか余裕を感じ取ったのかもしれない。

 通常、逃げを選ぶウマ娘は、後半になるとスタミナを使い果たしていて、どんどん後退していくのが定石である。

「それが、並のウマ娘なら」

 

『先頭は何か、先頭は何か、ダイモンジまだ先頭ではない。最後に、やや坂があります。懸命に足を伸ばしました。ダイモンジ苦しい、ダイモンジ苦しい、ダイモンジ苦しい、ダイモンジ苦しい、ダイモンジ苦しい、さぁ苦しい苦しい苦しい苦しい! ちょっと出ている、ちょっと出ている!! ほんの僅か!』

 

 実況では、スタミナを使い果たしたダイモンジが辛勝したと伝えられた。

 客席でこれを見ていた者の心境は様々。

 本当に苦しい中手にした勝利か、それとも余裕を見せつけた勝利か。

「ちょっと用ができちまった。シンちゃん、先に帰っててくれよな」

 結果を見届けたライズは、何か思い立ったようにして立ち去ってゆく。

 残されたシンリョクは頭に疑問符を浮かべたものの、きっと皐月賞のことをについて思うことがあるのだろうと放っておくことにした。

 しかし。

「あれが、無敗五連勝の走り、か」

 ようやく一勝を手にしただけのシンリョクメモリーにとって、ダイモンジの走りというのは今は全く次元の違うものに映ったことだろう。

 

「確かだった。大した観察力だな」

 中山レース場の施設内には違いないが、全く人気のない一角へと入ったライズは、そこで待ち合わせた者と何やら相談をしているようだった。

 相手の顔は、影に入ってしまってよく見えない。

「いや、まだだ。焦ってしかけちゃいけねェ」

 静かに首を振ったライズ。

 その背後を、数人の男たちがバタバタと駆けて行った。彼らの会話の内容まではよく聞こえなかったが、何やら相当苛立っている様子で、見送った背からこの中山レース場の職員たちであることが分かる。

 いったい何があったのだろう。

 肩を竦めて、改めて相談相手に向き直ると。

「何を笑ってんだよ。……え? いや、アタシは構わねェけどよ」

 クスクスと笑みを漏らした相手に少し呆れた様子のライズ。

 これが、翌月に迫った皐月賞に波乱を呼ぶ前兆であるとは、まだ彼女は思い至っていなかったのである。



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