絶えぬ炎と赤い糸 (ふみどり)
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1

 全国に別邸は数あれど、やはり落ち着くのは京都の本家だった。

 湯浴みの支度は出来ております、と気を利かせてくれた《花》に礼を言って、気に入りの座椅子に身を預ける。ゆっくり息を吐けば、少し離れた庭の鹿威しが耳についた。

 幼い頃から全国を飛び回っていれば出張なんて慣れたものだが、こうも連続すればさすがに骨も折れる。湯浴みよりも先に茶でも煎れてもらおうかな、とふすまの外に声を掛けようとしたとき、騒々しい足音が屋敷に響いた。何を、とか、お待ちください、とか、うちの可愛い《花》たちの慌てふためく声が聞こえる。その下品な足音は迷うことなくこの部屋にまっすぐ向かっていて、なるほど彼が来たのかと思わず苦笑を浮かべた。

 やれやれと座椅子に座り直し、そのふすまに向けて姿勢をただす。洋服の上に羽織った艶やかな羽織を払うと、畳の上に鮮やかな花車が踊った。

 足音の主は、一切の躊躇なくふすまを一気に開けた。すぱん、と空気が破裂したような音に、もう笑うしかない。

 

「やあ《許嫁》殿。夜半の訪れとはずいぶん情熱的だ」

 

 金を乗せた黒い髪、彼の家系特有の鋭いながらも整った顔。わかりやすくそこに不機嫌を乗せた彼は、やっぱ帰っとるやん、と低い声で呟いた。

 若、と困り果てた顔の《花》たちに下がるよう手を振って、傍の座椅子を彼に勧める。彼女たちが部屋から離れたことを確認して、呆れたように座椅子にふんぞり返る彼に目をやった。

 

「まったく、うちの《花》たちをいじめるのはよしてくれないか。可哀想に、あんなに困らせて」

「わざわざこの俺が足を運んだったんに、『若は不在です』の一点張りで追い返そうとするからやろ。殺さんかっただけ優しない?」

「ふふ、冗談でも聞きたい言葉ではないね。彼女たちは例外なくこの花房(はなぶさ)家の《花》だ、手出しは許さないよ」

「せやからしてへんやん。いちいちうっさいわ」

 

 ここ茶も出ぇへんのと傍若無人を崩さない彼、禪院直哉とはもう長い付き合いだった。この最低最悪のクズっぷりもどこかで矯正されるだろうかと期待してもう十年以上、彼は少しも変わることなく。術師という名のクズの坩堝のような禪院家においても、彼はひときわ目立って性格が悪かった。いやはや、何故私に目を付け、私が目を付けてしまったのが彼だったのか、運命の悪戯にしてはタチの悪い。

 花房家の当主たる母に連れられ、禪院の本家に足を踏み入れたのが十のころ。禪院家の当主、禪院直毘人に連れられた彼と目が合ったと思ったら、無遠慮に歩み寄られて顔を覗き込まれて。ぱちくりと目をしばたたかせると、次の瞬間には勢いよく両手を取られた。

 

『君、俺のヨメな!』

 

 この傲慢過ぎるプロポーズが、直哉との縁の始まり。このとき腹を抱えて笑い転げた直毘人さんと、袖で口元を隠し必死に笑いを堪えていた母のことはよく覚えている。

 もちろん私は「嬉しい」と返した。「是」でも「否」でもなく、「嬉しい」と。そして手を握り返したときの、幼い直哉の嬉しそうな顔といったら。

 今思い出しても抱腹絶倒、死ぬまで笑ってやれるネタと言えよう。

 

「……何にやにやしとるん? きしょ」

「おやご挨拶。それで、今日はどうしたの? 来るなら一報入れてくれれば、私もそのつもりで待っていたのだけれどね」

「連絡入れたわアホ。取り次がんかったんはソッチ」

「ふふ、直哉ときたら本当に嫌われてるね」

 

 ええ加減スマホ持ちや、とジト目で見られるが知ったことではない。そのうちね、とだけ一言返して、小首を傾げた。

 私の無言の催促に、直哉は舌打ちをして懐から紙切れを取り出す。

 

「わかっとるやろ、仕事や。そいつの情報寄越し」

「およそひとにものを頼む態度ではないね、相変わらず」

「そないいけず言わんといてや、紅緒(べにお)ちゃん。長い付き合いに免じて頼むわぁ、教えてくれたらデートの一回くらい付き合うたるし」

「ふふ、直哉のその声は好きだよ。媚び媚びで可愛いね」

 

 あ、と低い声が出た直哉に構うことなく、その手から紙切れを抜き取った。

 そこに書かれていたのは、このところオイタが過ぎると評判の呪詛師の名前。なるほど、たいした呪詛師とは聞いていないが、直哉に仕事をまわされたところを見ると手を出してはいけない相手にでも喧嘩を売ったか。

 手を伸ばしてふすまの裏に控えていた《花》に紙切れを渡す。万事を心得た彼女は、すぐに下がった。

 

「私の耳にも入っている呪詛師だ。居所くらいはすぐにわかると思うよ」

「さよか。近場におってくれたら話は早いんやけどな。あ~めんど」

「特別サービスに足止めもつけてあげようか」

「紅ちゃんは優しゅうて可愛えなぁ。……ホンマ惜しいわ、」

 

 何でそのツラで男やねん、と嫌味ったらしく言われ、ふふふと私も肩を揺らす。

 生憎の諸事情で男としての機能が停止している私は、どうも男性には見えないらしい。といっても生まれたときからそうなので、私自身、男だ女だという意識に乏しかった。

 ただ確かなのは、私が少し笑いかければ男も女も頬を染めてしまうということと、私が女ばかりに囲まれて生きてきたということ。

 花房家は、極めて珍しい女系の術師の家系である。

 

「すまないね、男なのに君の初恋を奪ってしまうほど可憐な私で」

「とっとと忘れんかいドアホ。俺の人生でいちばんの汚点や」

「忘れられるわけないだろう? 私の人生でいちばんの愉快なできごとなんだから」

「そのお綺麗な顔叩き割ったろか?」

「ああ怖いね、やれるものならやってごらん。君の顔も火炙りしてあげる」

 

 数秒にらみ合い、先に目をそらしたのは直哉のほう。静かな部屋に響く舌打ちにすら愉快で仕方ない。小さく肩を揺らすと、またひとでも殺しそうな目で睨まれる。

 嗚呼、本当にからかいがいのあって可愛いこと。

 

「まあ、そう拗ねないで。君が私を見誤ったのも無理からぬことだよ、何せこの歳になっても私を即座に男と断定できたひとはいないんだから」

「そもそも男としては半端モンやもんな~紅緒クンは。男と言ってええんかもしらんけど」

「一応身体構造としては男なんだがねえ。いや全く、女として生まれていた方が何かと便利だったろうに」

 

 まあ、そうだったらきっと君なんて歯牙にも掛けなかっただろうけど。

 そう言おうとしたところで、ふすまの裏の気配が帰ってきた。そっと耳打ちされた情報に、ふうんと頷いて直哉を見る。

 

「まだ京都にいるようだよ。運がいいね」

「どこ?」

「祇園のあたり。どうやら間抜けにもうちの《花》に入れ込んでいるらしい。ふふ、彼女に貢ぐ金を荒稼ぎしていたのかもしれないね」

「なんや、芸妓遊びにでもハマったんか? カスやん」

「愚かで可愛いじゃないか。まあ、金ごときでうちの《花》を買えると思っているなら、随分と舐めてくれたものだと思うけれど」

 

 いくらかふすまの裏に指示を出して、さてと、と私は改めて直哉の顔を見る。

 花房は、女系の術師の家系だ。いや、もはや家系と表現するのも正しくないだろう。花房家を柱として、呪力がありながら行き場のない女性たちや、術師の家に生まれながら虐げられた女性たちを保護し、家族として受け入れてきた家だ。血の繋がりがあろうがなかろうが、私たちは花房の《花》たる家族を守るためにここに在る。何の因果か女系の花房の家に生まれながら男である私も、その心は変わりない。

 だからこそ、この時代錯誤の男尊女卑クズ野郎が花房の《花》たちに死ぬほど嫌われる理由も、まあよくよくわかるのだけれど。

 私は苦笑しつつ、仕方ないかと息をついた。

 

「私も同行してあげよう、直哉。いつ向かうんだい?」

「なんや、話が早いな。今や今、早よ支度し」

「私はついさっき出張から帰ったばかりなんだけど?」

「祇園ならすぐやろ。どうせ花房のオンナは俺の言うこと聞かへんし、紅が来んと情報提供の《花》、俺がいじめてまうかも」

「ふふ、クズ野郎。そのカスのついでに燃やしてあげようか」

「紅緒たってのオネダリやから、今までどんだけ腹立っても《花》には手ェださんといてやったんやで? 俺のオネダリも聞いてくれるやろ?」

 

 にーっこりと両手をあわせてみせたクズに、ふふふと軽く笑ってみせる。

 そもそも女性蔑視の気がある禪院家とはいつ縁を切っても良いのだけれど、敵に回したら回したで面倒なのが御三家だ。今のご当主、直毘人さんはまだ会話の成り立つひとだから母も上手くうわべの付き合いをしていたけれど、次期当主候補筆頭がこれなのだから困ったもの。

 一応花房の次期当主と目される私としては、少しは上手く付き合って、可能ならその性格の矯正も、と思っていたけどまあ無理は無理。残念ながらこのクズ、骨身の随まで腐っている。

 しかしその直哉とある程度対等な関係を築き、花房家の有用性まで認めさせたのだから、いっそ褒めてほしいというのが正直な。

 

「紅緒?」

 

 なあ、と甘ったるくも毒々しい、気色の悪いその言葉。

 いやまったく本当に、何故この男が私の《縁》。ねえ私の《おひいさん》、もう少しマシなひとはいたでしょう。そう私の《中》にいる彼女に声を掛けて、綺麗さっぱり無視された。いやまったく、これだから《女》は意地の悪い。

 

「……ところで、デートの一回くらい付き合うと言った言葉に相違はないね?」

「何や、行きたいとこでもあるん?」

 

 めんどくさ、という顔を隠しもしない自己中野郎に、私は袂の裏で小さく笑う。私が逢瀬に誘ってみれば、喜ばぬひとはないというに。かつては私に見とれたこのクズ野郎、今は興味を示さない。

 これだから少しは構ってやろうという気になるのだと、直哉に言ったことはないけれど。

 

「君のためにスマホを買ってみようと思ってね。付き合ってくれるだろう?」

「……しゃーなし。とにかく祇園を片付けてからや。行くで」

 

 はいはいと立ち上がり、薄暗い廊下に歩み出た。

 直哉よりいくらか背の低い私には、直哉の歩みははやすぎる。少し小走りになって、その隣に並び出た。ちんまくて可愛いなぁ、と鼻で笑われ、三歩後ろから刺してあげようかと笑い返す。こわいこわいと余裕で笑うその顔、灰になるまで燃やしたいとこれまで幾度思ったことか。

 せやけど、とそのクズ男は気色の悪い猫撫で声でこう続ける。

 

「俺の隣を歩くことを許可したったんや、泣いて喜んでもええんやで?」

 

 これを本心から言っているのだから、どこまでも救えない。禪院家の跡継ぎ教育はいったいどうなっているのだろう。脳裏に浮かんだ爆笑する直毘人さんを燃やし尽くし、それはそれはと袖で口元を隠した。

 

「こんなのが許嫁とは、まったく私も運がない」

 

 いや許嫁ちゃうけど、と即座に言い返されたその声は、笑って聞こえないふりをした。

 



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2

 正直なところ、性別にこだわりがあるわけではなかった。

 祇園から戻って数日、今日は直哉に約束を取り付けている。いつもの羽織は封印し、今日は適当な洋服を身に纏った。気分によって男物も女物も着る私だが、今日は女物のブラウスにロングスカートを合わせている。例によって直哉への嫌がらせだ。

 私が男であると言うことを知って以来、あれは私が「女らしく」あることを嫌がった。自分の目が節穴であったということを思い出してしまうのだろう、私にはそれが愉快でならなかった。

 

「……若、本当に出向かれるのですか」

 

 運転席でハンドルを握る《花》が、心底嫌だという顔でそうぽつりと呟く。笑いながらそれに「誘ったのは私やからね」と返すと、ますます眉間に皺が寄っていく。

 相変わらず直哉は《花》たちに死ぬほど嫌われている。

 

「わざわざ若が禪院の本家にまで迎えに行く必要はないでしょう。借りがあるのは向こうなのですから、向こうから出向かせればいいんです」

「まあ、そう言わんと。車出させて堪忍なぁ、禪院着いたら帰ってええから」

「私のことはいいんです。……御三家だか何だか知りませんが、我ら花房には関係のないことでしょう。しかもあんな下品で下劣な……若はあの者に甘すぎます」

「そう?」

「そうですよ。アレの前ではわざわざ話し方まで変えて」

 

 ふふふ、と今は袂がないのも忘れて口元を手で隠した。

 私が直哉に甘い? どうだろう。これを「甘さ」と捉えるのはどうも正しくないような気がした。確かに私は出来るだけ直哉のオネダリは聞いてあげているけれど、それは決して直哉への好意からくるものではない。

 どちらかというと、わがままなペットを転がすような。

 

「うちの京言葉はどうも女性らしく聞こえるらしいからねぇ。みんなの言葉聞いて覚えたんやから当然やけど」

「上品でよくお似合いだからいいんです。若がなさりたいようにしたらいいんですよ」

「言葉かて身だしなみのひとつみたいなもんやろ? 状況状況において付け替えるのは当然や、うちにとってはたいしたことやあらへんよ」

 

 そう、たいしたことではない。直哉に言われて言葉遣いを直したり、逆にこうして女物の服を着て嫌がらせをしたり。どちらも私の気まぐれで、それによって直哉が機嫌を直したり損ねたりするのが愉快なだけだ。いつだって私は、私のやりたいようにやっている。

 うちの《花》たちはどうもそれが気に入らないようだけれど、それすらも私には関係なかった。直哉の男尊女卑も、《花》たちの花房至上主義も、私にとってはどうでもいい。

 私を大切にしてくれる《花》たちには悪い(とはあまり思っていない)けれど、どうぞ私と直哉のことは放っておいてくれと思っている。

 全ては最後のお楽しみのための前菜(オードブル)に過ぎない。

 

「……ああ、着いたんやね」

 

 横目に見えた、古めかしい大きな門。見る人が見れば、そこにはあらゆる呪いが刻み込まれていることがわかるだろう。張り巡らされた結界と呪霊避けは、そこに住まう一族の業の深さを表していた。

 

「……いってらっしゃいませ、若」

「おおきに。……そないふて腐れんの、可愛い顔が台無しや」

 

 不満そうな《花》に苦笑を残して、私はその門をくぐる。

 迎えてくれた禪院家の可愛らしい家人は、仰々しい態度で私に頭を下げた。「お話は伺っております」と告げた後頭部を一瞥し、くすりとひとつ笑みを零した。

 

「どうせ直哉、支度してへんやろ? 中で待たせてもらえるやろか」

 

 少しの沈黙のあとに彼女はうなずき、ようやく頭を上げる。

 その顔は、禪院家特有の鋭くも整った顔をしていた。

 

 

 ***

 

 

 私の前を歩く少女は、やけに思い詰めた顔をしていた。くわえて連れられて歩く廊下はいつもの客間へ向かうルートと異なっている。ときどきわかれ道で悩むような仕草をみせ、そのたびに彼女は私の様子を探った。敵意がある様子ではなく、まるで私を恐れているような、けれど計りかねてもいるような。

 さて、この年端もいかない少女は私に何を求めているのか。

 

「……お嬢さん、ええかな」

「、は、はい」

「怖がらんでええよ。お嬢さん、うちのこと知っとる?」

「は、なぶさ、紅緒さまと、伺っています」

「うん、合うとるよ。ということは、花房家のことも知っとるんかな?」

 

 彼女の肩が揺れた。返事を待たず、そっとその頭に手を添えた。目を見開いた彼女はばっと私の顔を見る。

 その真っ黒の瞳を、ただ見返した。柔い笑みを口元にのせて。

 

「言うてごらん。何も怖いことはないんよ」

 

 うちを連れていきたいところがあるんやね?

 みるみるうちに瞳に涙をためた少女は、堪えるように唇を噛む。助けを求める《女》の顔はとっくに見慣れていた。

 

 

 *

 

 

 実を言うと、案内などしてもらわずとも禪院の本家の間取りはおおよそ把握している。幼少時からよく母に連れてこられていたし、直哉に手を引かれて屋敷中を走り回ったこともあった。さすがに屋敷の深部にまで足を踏み入れたことはないが、ある程度の場所であればひとりで動いても禪院の家人は口を出さない。誰しも生命は惜しいということだろう。

 案内の彼女を下がらせ、悠々とひとりで廊下を進む。その先で誰が何をしているかは、とっくにわかっていた。

 ひとの肉をなぶる殴打の音が、ひどく耳に障る。

 

「―――良いご身分だね、直哉」

 

 廊下に面した日本庭園は綺麗に整えられている。そのなかには少し開けた場所があった。きっといつもは鍛錬に使っているのだろう、踏み固められた地面には小石のひとつも落ちていない。

 その中心に立つ、我が許嫁殿。伸ばされた片足の下にはひとの形をした黒いものが転がっている。何や来とったんか、と悪びれない言葉が落ちた。

 靴がないことも構わず庭におりる。直哉には目も向けず、足をどけさせ、転がっていた黒いものを抱き上げる。

 傷や土埃でわかりにくいが、なるほど、確かに先ほどの彼女と同じ顔。

 

「出向いてきた私を待たせるばかりか、こんなに可愛い女の子をいじめているなんてね。まったく君ときたら、どこまでも呆れるよ」

「呪術も使えん、呪霊も見えん、親からも見放された可哀想なオンナノコに稽古つけたってたんやろ? 感謝されてもええくらいや」

「ふふ、この状況で随分と生意気な口を利くじゃないか、直哉」

 

 あ、と直哉の低い低い声が地に落ちる。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。私よりも、私の中に在る《おひいさん》が騒ぎ出す。身体の奥底で炎が滾り、聞こえるはずもない火花の弾ける音が脳に響く。

 ぞわりと私の身体を這う、おぞましい呪力。背に束ねたお下げ髪がしゅるりと意志をもって動いたような気がした。

 膨れ上がった呪力に、思わずと言った様子で直哉が半歩下がる。その様子にひとつ笑って彼女を抱き上げたまま立ち上がった。

 

「あまり《おひいさん》を怒らせないでくれないか」

「、」 

「前にも言ったはずだよ。私は君の時代錯誤な男尊女卑思想に口を出すつもりはないけれど、私の目の届く範囲で女性を虐げるなら黙ってはいられないと。それとも君は、私を花房の家ごと敵に回すかい? 禪院家現当主が結んだ家同士の縁を、その嫡子たる君が叩き切ると?」

 

 当主を目指す君にとって、それは大きな減点なのではないかな。

 熱い何かが頬をなでた。私の肩に手を置く炎の塊のようなそれ。ずる、と太い胴体が私を閉じ込めるようにとぐろを巻く。

 

「今ならまだ《おひいさん》を止められるけど―――やるかい? 私の愛しい、許嫁殿」

 

 炎を纏い、蛇の尾をもつ私の《おひいさん》。

 彼女だけでなく、花房の声に応えてくれる《女性》は皆、女性を虐げるものを許さない。()()()()()()の有無に関わらず、彼女らの敵意は女を虐げる男に向いていた。花房家の先祖との《縛り》によるものだというけれど、その詳細はわかっていない。

 ただ言えるのは、ひとたび彼女たちが本気になったならば、たとえ相手が相応の術師だろうが何だろうが、死は免れないということ。

 彼女たちは、そういう《呪い》なのだ。

 

「ねえ、直哉」

 

 どうするのと私が問う前に、すっと直哉は両手をあげた。こういうときの判断の早さだけは評価してやってもいいと思っている。 

 

「ホンマに稽古に力が入っただけや。ジョーダンやろ冗談、俺がオンナノコいじめるわけないやんか。せや、スマホ買いに行くんやったな。ちゃんと付き合うたるし、機嫌なおし?」

 

 にこやかにそう言ってのける、薄汚れた魂。《おひいさん》がもっとも嫌う二枚舌も、今は見逃してあげよう。この報いを受けさせるのはまだ早い。

 ねえ《おひいさん》、もう少しだけ私の好きにさせておくれ。そう心の中で語りかければ、まるでため息のような熱風が耳を掠り、気配が消えた。

 わずかに安堵したような気配とともに、直哉は一歩前に出る。

 

「うちのに車出させたるわ」

「そう。ところで直哉、随分と綺麗な格好だ。血と汗の匂いで男ぶりも上がっているよ」

「ハイハイ、いつも綺麗な紅緒ちゃんの隣に立つんやったら身だしなみくらい整えんとな。茶でも出させるし、大人しゅう待っとり」

 

 そう言ってスタスタと去って行く直哉を横目で見送り、気配が完全に離れたのを確認してから、腕の中の彼女に目を向けた。

 気を失っているわけではないことには、最初から気がついていた。

 

「寝たふりがお上手やね、お嬢さん」

「……口を挟むとややこしいことになりそうだったから」

「ええ判断や」

 

 なるべく振動を与えないように歩き出す。下ろせという彼女の言葉は無視させて頂いた。廊下の隅で隠れるようにこちらを伺っていた家人の男性(こしぬけ)に救急箱を頼み、彼女を下ろして廊下に座り込む。

 すぐさま救急箱を持ってきてくれた彼に礼を言い、そのもの言いたげな視線に構うことなく下がるように伝えた。そんな娘にわざわざ手当をしなくてもと言いたかったのだろうが、それを口にした瞬間に燃やされることもわかっているらしい。

 清潔な布で顔の汚れと血を拭うと、彼女は初めて痛そうに顔をしかめた。堪忍なと笑いながら名を尋ねると、彼女は小さな声でぽつりと言う。

 

「……まき。禪院、真希」

 

 媚びる様子も嘆く様子もないその声色には、素直に好感を覚えた。

 

 

 ***

 

 

 真希ちゃんと同じ顔の女の子に頼まれたのだというと、真希ちゃんはちょっと申し訳なさそうな顔でそれは自分の双子の妹だと教えてくれた。名前は真依ちゃんというらしい。

 

「へえ、扇さんの娘さんやったんやね。ふたりとも禪院家特有の顔立ちしてはるけど、お父様にはあんまり似てへんなぁ」

「……あいつのことも知ってんのか」

「そらね。ほら、目ェ閉じて」

 

 まぶたの上の傷の血を拭い取り、順番に消毒していく。思ったほど傷は深くない。この様子なら縫うまではしなくてもいいだろう。

 反転術式を使える術師がいたらええんやけどな、と思いながらガーゼを当てていく。せっかくの綺麗な顔だ、傷が残らないに越したことはない。

 大人しく手当を受ける真希ちゃんは何か考え込んでいるようだった。

 

「……アンタ、紅緒って呼ばれてたよな」

「そう、花房紅緒。真希ちゃんも花房(うち)のことは知っとるかな?」

「女系の術師の家系だろ。……今、史上初の男の術師がいるって聞いたことあるけど……」

「うちのことやね」

「マジで男か? 見えねーよ」

「天与呪縛の関係でね。身体の構造は男やけど、男としては機能してないんよ」

 

 天与呪縛と繰り返した真希ちゃんに、まあそうでなくてもうちは美人やけどという言葉は軽くスルーされた。哀しい。

 そういえば確か、扇さんの娘にも天与呪縛を受けた子がいると小耳に挟んだことがあるような。そしてさっき直哉は、真希ちゃんは呪術が使えず呪霊も見えないと言った。つまり、そういうことなのだろう。

 私は手当を続けながら、ホンマに面倒やんなと心から言う。

 

「うちの相伝の術式は女性しか受け継げんって言われとるから、まあ間を取らされたんやねえ。男でも術式を持って生まれてしまった結果、男としての機能は失われたんよ。ほかにもいろいろと事情があって、まーうちは花房でも特例の特例いうわけ」

「めんどくせーな」

「ホンマにね」

 

 けれど、嘆いても変わらぬのなら利用するまで。そう開き直れたのはそれこそ直哉にプロポーズされたころだったような。

 無条件で女性が優遇される花房。女性を庇護する術師の家系。女性を守るために、女性のカタチを受けた呪霊を身に宿す相伝の術式。()()に従わなければ、《縛り》を破ったと見なされていったいどんな末路を辿るやら。それくらいならば、男の身でも《花房》として生きてやろうと。たとえ表面だけでも、《女性》を守る私であろうと。

 わかりやすく女性を下に見ているうえに私にプロポーズなんてものをしてみせた直哉は、そんな私にとって格好の()()()()()()()()だった。

 

「……まあ、うちのことはええんよ。ほら真希ちゃん、顔は終わったし、次は腕や」

「ん、……って、何でアンタ私の手当してくれてるんだ?」

「そら、うちが花房やからや。ああもう古傷もようさん拵えて……ホンマ真希ちゃん、このままうち来てもええんよ? 真依ちゃんも一緒で構へんし」

「、」

「真希ちゃんや真依ちゃんみたいな子たちのために、うちはあるんやから」

 

 貴方たちみたいな子を守るという名目で私は無事に生き残っているのだから。そんな心の内を恥じる気はない。内心がどうであれ、確かに私は《花房》たる役割を果たしている。

 それに《花房》という名目がなくとも、直哉よりよほど綺麗な心根をもっているらしいこの双子に手を貸してやりたいという気持ちも別に嘘ではなかった。直哉に虐げられている姉を何とか助けようとした優しい妹と、虐げられても泣きもせず心も折れない芯の強い姉。どう考えても禪院家にはもったいない。子どもふたり保護するくらい何てことないし、と言いながら細い腕に包帯を巻いていく。

 しかし、真希ちゃんの返事は「否」だった。

 

「いつか家は出ると思うけど、まだ早い。だいたいひとに守られる気もねーし」

「……そう」

「……けど、ありがとな」

 

 そんなこと言ってくれたひとは初めてだと、はにかむように笑った彼女がとても可愛らしい。思わず素の顔でくっと笑いそうになり、いけないいけないと口元を改める。

 彼女の左腕の包帯をきゅっと結び、労るように腕を撫でた。

 

「真希ちゃんは強い子やなぁ」

「まだまだだ。そのうち直哉だってぶっ潰せるくらい強くなってやる」

「あら心強い。ええね、ぎったぎたにしてしまい。呪力がなくても関係あらへん」

 

 実際、今は禪院家を出たという()()()()も、その気になればここの人間くらい皆殺しにできただろうに。あれだけ虐げられながら、どうしてやり返すこともなく去ってしまったのだろう。少しだけ話したことがあるけれど、そんなに大人しい気性のひとにも見えなかったのに。

 呪力がなくとも、天与呪縛によって与えられる人間離れした身体能力を磨き上げれば、術師相手でも十二分に渡り合える。是非とも力をつけて禪院家を潰すべく頑張ってほしい。

 ああ、けれど、と笑いながら真希ちゃんに語りかける。近くに誰の気配もないことを確認し、それでもそっと声を潜めた。

 

「……ぎったぎたにしてくれて構へんけど、直哉のことは殺さんといてね」

「え、……そういやアンタさっき直哉のこと許嫁って言ってたけど、もしかしてマジであいつのこと……?」

「嫌やわ真希ちゃん、真希ちゃんやなかったら灰になるまで燃やしたるところやで?」

 

 あのドブ以下のクズ野郎にそんな感情もつはずないやろ、と笑顔で言ってやれば、だよな、と心底安堵したように真希ちゃんは頷いた。

 まあ私はほかの誰に対してもその感情を抱くことはできないのだけれど、それは置いておくとして。

 どうして直哉を殺されては困るのかって、理由は簡単。それは、私の楽しみだから。

 

「真希ちゃんは、『安珍・清姫伝説』って知っとるかな。『道成寺縁起』でもええよ」

「? 知らない」

「和歌山のお寺に伝わる、平安のころのお話なんやけどね」

 

 いくつか説はあるが、おおよそのあらすじはこうだ。

 醍醐天皇の時代、熊野に参詣にきた美しい僧、安珍は道中にとある庄屋に宿を借りる。その庄屋の娘であった清姫はこの安珍に一目惚れし、それはそれは熱烈に迫ったという。困り果てた安珍は、熊野を参詣した帰りにきっとまた立ち寄るからと言って、庄屋を後にした。しかしそれは真っ赤な嘘で、安珍は参詣を終えた後、庄屋に寄ることなくさっさと立ち去ってしまう。

 騙されたことを知った清姫は怒り、裸足でその後を追ったという。ついに道成寺までの道の途中で安珍に追いつくが、安珍は自分は別人だと知らんぷり。どころか熊野権現に助けを求め、清姫を足止めした隙に逃げだそうとした。

 ここで清姫の怒りは頂点に達し、炎を吐く大蛇に身を変える。

 

「炎に、蛇? ……さっき、直哉に《おひいさん》がどうとか言ってたとき、やけに熱かったのはもしかして、」

「ふふ、どやろなぁ。そして清姫はまた安珍を追い、安珍は道成寺に逃げ込んで鐘の中に身を隠してね。蛇となった清姫は決して安珍を許すことなく、その鐘にぐるぐる巻き付いて鐘ごと安珍を焼き殺すんよ。怖いお話やろ?」

 

 古来より、女は怖いと男は言う。それがどこまで真実かはさておいて、それだけ怖い怖いと言われれば呪いは籠もり、それを裏付けるような逸話にもさらなる力が込められる。そうなれば、呪霊が生まれるのも無理からぬことというもので。

 本当にその魂や感情を元とした呪霊なのか、それとも「恐怖」をかき集めて成った仮想怨霊なのか、そんなことはどうでもいい。重要なのは、怖いと言われれば言われるだけ、彼女らの力が跳ね上がるということ。

 そして、彼女たちの本来の力を発揮できる条件さえ揃ってしまえば、仮に相手があの「最強」と名高い呪術師であったとしても、決して無傷ではすまないということだ。

 ふふ、と笑ってみせると、庭からの冷たい風が頬をなでる。

 

「うちの《お(ひい)さん》はね、嘘が大嫌い。特に、約束を破られることがホンマに嫌いなんよ。それが将来を誓うような約束やったらなおさらや」

 

 かつて、私にプロポーズをした直哉。けれど、きっと私が男と知った瞬間に手のひらを返すだろうと直感した。だから私は本心から「嬉しい」と言った。

 本当に、何て愚かで可愛いのだろう。自ら《おひいさん》に呪い殺される条件を揃えてくれるなんて。

 私がひとこと《おひいさん》にいいよと言えば、その瞬間に直哉の命は終わる。

 いつものように、自分の肉体に呪霊を降ろして力を借りる《花房》の術式とは話が違う。これは《おひいさん》自身のもつ呪いとしての特性だ。マーキングが済んでいる以上、解除も回避もできるものではない。

 

「どんな救いようのないクズでも、いつでも殺せる思たら何や可愛(かい)らしく思えてきて。人間の感情ってわからんもんやねぇ」

 

 いつか、無様に、無意味に、理不尽に殺す。天上から奈落に落とすように、絶望の中で燃やし尽くして殺す。その日を想って、今日も私は直哉に笑いかけるのだ。

 自業自得で私の《おひいさん》の呪いの対象になってしまったあのドアホ。あんなやつが私の《安珍さま(いいなずけ)》なんて全くもって冗談ではないけれど、《おひいさん》がそう捉えてしまった以上は仕方がない。

 仕方がないから、その命は私が握っていてあげる。

 

()()の命はうちのもんや。ちゃんと死ぬときまで責任もって面倒みたるし、いじめるのはええけど命は残しといてね?」

「……あんた実はやべーやつか?」

「何言うてはるの、呪い呪われで生きる術師がやばくないわけないやろ」

 

 ドン引きした様子の真希ちゃんに笑いながら、最後の包帯を巻き終えた。服の下は女の人に見てもらうんよ、と救急箱をその手にもたせる。

 驚き覚めやらぬ様子でも、小さく「ありがとう」と言える真希ちゃんに、感動に近い感情を覚える。ホンマにこの子、真性のドクズの巣窟、禪院さんちのお子さんやろか。

 いっそ双子で連れ去って保護してやろうかとも思ったが、彼女の「強くなる」という想いは尊重してやりたい。

 せめて、とその頭を撫でた。

 

「ホンマに、何かあったらいつでもおいで。これでもうち真希ちゃんのこと気に入ってもうたし、いくらでも《花房》は利用してくれて構へんからね。真依ちゃんにもそう言うといてな」

「わかったよ。真依にも言っとく」

「ホンマのホンマにやで。あと直哉についてもな。残しとくのは命だけでええから」

「それ、たとえば手足はいらねーの?」

「好きにもぎ取ったり。心臓動いとって意識があればそれでええよ」

「アンタまじで頭やべーな」

 

 正直、直哉よりも真希ちゃんと買い物に行きたかったなあと、心の奥底から思った禪院家での昼下がり。

 結局さらに一時間以上私を待たせたクズに「もっとゆっくり来てくれてよかったんやけどなぁ」と言えば「何や寂しんぼか?」と返されて、心の奥底からこいつ殺すのが楽しみやなぁと思いました。

 ホンマ、今日にも鐘に放り込んで蒸し焼きにしてやろかしら。

 

 

 ***

 

 

 ―――昔、そんな言葉をかわしたこともあったなと、ふと思い出す。しかし、今となっては。

 一瞬だけ目を伏せ、かつて手を差し伸べてくれたあのひとに、心の中で呟いた。

 悪ィな、紅緒。あんたの獲物は、私がもらう。

 そう、《竜骨》を握る手に力を入れたそのときだった。

 

「こーら真希ちゃん、命は残しといてって言うたやろ?」

 

 高くもなく低くもないその声音が、ふいに鼓膜を揺らした。

 



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3

「まったく、愛ほど歪んだ呪いはないね」

 

 怖い怖い、と首を振った最強と名高い呪術師。あの百鬼夜行の後たまたま顔を合わせた彼の言葉を、何故このタイミングで思い出すのだろう。

 無様に地面に伏せる愛しの許嫁の姿を見て、そう思った。

 

 

 ***

 

 

 それは、確か一年ほど前のことだ。

 花房の家は、基本的に呪術界の権力闘争になど興味はない。それは早々に母の後を継ぎ当主となった私も同じことで、禪院との縁がなければ上層部の会合などにも参加することはなかっただろう。禪院家のご当主に適当な言い訳をして、古めかしい屋敷のなかをゆるりと歩く。

 上層部の会合は定期的に開かれるが、毎回たいした議題があるわけでもない。それぞれの近況の報告と、あとは醜い権力誇示。日々塗り変わる勢力の動向を確認するためだけのもの。何て時間の無駄だろうと心から思うけれど、心底嫌そうな顔を隠しもしない「最強」すらも一応出席はしているのだからその重要性はわかるというもの。

 さて何か暇つぶしは、と思ったところで小さな鞠を抱えた幼い少女の姿が目に入る。拗ねた顔をした可愛らしい彼女は、おそらくはこの屋敷の主人の血縁。呪術師(クズども)の目に入らないよう奥にいろと言われたけれど、退屈が過ぎて抜け出してしまったというところだろうか。

 女性を大事にする花房の主として、ぶすくれた少女を放っておくわけにはいくまい。そう自分に言い訳をして、私は鞠つきをして遊ぶ少女に声を掛けた。

 これでしばらく時間を潰し、術師どもの顔を見ずに済む。そう思っていたのだが、少しばかり私の見通しは甘かった。

 

「―――あら、あら。これは五条の方、大変失礼いたしました」

 

 少女と一緒に鞠遊びをしていた最中、明後日の方向に飛んでいってしまった赤い鞠。その鞠を拾ってくれたのは、まさかまさかの「最強の呪術師」だった。

 

「これ、君の?」

「いえ、この子のです」

 

 どう出てくるかと思いきや、想像していたよりも毒の少ないひとのように見えた。はい、とわざわざ目線を合わせて少女に鞠を返してやり、お礼を言われれば「どういたしまして」と軽い一言。

 ほかの呪術師であれば最低でも眉をしかめるなり雑言を飛ばすなりのところだと思うのだが、はて、高専の教師になってから少しだけ丸くなったという噂は本当だったか。まあ丸くなったはあくまでも「丸くなった」であり、「まともになった」とは聞いていないけれど、そこは呪術師なので。

 探しに来た女中の足音に焦って去って行く少女に手を振って、改めて今世の「最強」―――五条悟に向き合った。

 

「この家のお嬢さんやそうで。今日はお客さんが多いから奥にいなさい言われたのが退屈やったみたいなんです」

「ああ、それで。にしても君、わざわざ遊んであげるとか女に甘いってのは本当なんだ?」

 

 向けられた眼は、まるで宝石のような。

 私の中に在るおひいさんまで見通されているのだと思うと、さすがに少し居心地の悪さはある。けれど、それを表に出すようでは呪術師など務まらない。

 あら、と少しわざとらしく驚いて見せた。

 

「うちのことご存知なんです? 五条の方に覚えて頂いているなんて光栄やわぁ」

 

 そう言うと五条悟はわずかに口角をあげる。

 他家に感心などなさそうなのに、さすがに花房のことは知っていてくれたらしい。花房紅緒だと名乗ってみれば、呼び方は「ちゃん」なのか「くん」なのかと確認される始末。妙に気をつかってくれるものだと首をひねると、五条悟はわずかに苦い笑みを浮かべ、生徒が恩人と呼ぶ相手なら少しは気にする、とまともが過ぎる言葉が返ってきた。

 

「あの家で手を差し伸べられたのは後にも先にもあれだけだったって。十年くらい前のことらしいけど、覚えてる? 禪院真希。高専で今僕が担任をもってる」

「まあ、真希ちゃんの!」

 

 久しぶりに聞いたお気に入りの名前に、ついつい声が大きくなる。

 話を聞いている限り、真希ちゃんはこの男のもとで順調に成長しているらしい。家の対立や性差などのつまらないことに囚われる人間には見えなかったが、なるほどこれは予想以上の。普通に嫌味も投げてくるあたりやはり性格に難はあるようだが、真希ちゃんを庇護してくれるならこの程度。

 たとえ彼には彼の思惑があるのだとしても、その結果として私のお気に入りを大事に育て守ってくれるというのなら何の文句があるだろうか。私のことも、もちろん「花房」だって、好きなように利用すればいい。かわりにこちらも存分に利用させて頂くだけのこと。

 ならば、とりあえず恩でも売っておくことにしよう。私にとってはどうでもいい、けれど彼にとってはきっと重要な甘い甘い毒の餌。

 

「お近づきの印にサービスしましょ」

 

 花房のネットワークは多岐にわたる。特に呪詛師に関わる情報など、調べようとしなくてもいくらでも聞こえてくるのだ。

 

「ぼちぼち動きますえ、貴方の()()()()()

 

 

 *

 

 

 その「オトモダチ」について改めて彼と話したのは、その全てが終わった後のことだった。

 東京だけでなく京都でも行われた「百鬼夜行」、その掃除には残念なことに花房家も駆り出された。ホンマ面倒やなあと思いながらも、禪院家を通しての要請となれば一応は動かなければならない。

 次々と湧き出る雑魚を燃やし尽くすのはひどく退屈だった。五条悟の後輩だという術師の「黒閃」や、真希ちゃんの先輩にあたるという学生が一応味方の術師をボコボコにしていたこと、学生の割には見込みのある筋肉達磨の常識外れの戦闘なんかを見るのは少し面白かったが、せいぜいがその程度。やってられるかと適当に燃やしているうちに、東京の方で片がついたという情報が回ってきた。

 五条さんのお友達の「大義」は、彼の生徒の「愛」の前に敗れ去ったらしい。

 

「五条さんの周りには素敵な術師の方が多くてええですねえ。他はもう、退屈も退屈で。早々に帰らせて頂きました」

「あーそうそう、紅緒ちゃんてばいけないんだ~。呪霊が残っているのにいつの間にかいなくなってたってウチの後輩がブチ切れてたよ」

 

 そのしばらく後にあった会合で、五条さんはいつものように飄々と笑っていた。かつての親友を殺した悲哀など、わずかほども感じられない。

 くすり、と零れた笑みを袂で隠した。今日の羽織には、鮮やかな赤い彼岸花の刺繍が施されている。

 

「オシゴトはちゃあんとこなしましたえ? 二級以上の呪霊がいなくなるまではたぁくさん燃したったんやから、残ったもんくらいは他のひとらで何とかして頂かんと」

「ま、向かうだけ向かってろくに役に立たなかった術師もかなりいるみたいだし、それは同感だけどね」

 

 普段ふんぞり返って偉い顔をしているクズが、実際の戦闘で役に立つとは限らない。態度に見合う実力を示した者が、さて何人いたことだろうか。当然、命を失ってしまった術師もそれなりに多い。しばらくはまた上層の責任の押し付け合いで呪術界が荒れるかも知れないが、まあ花房には何の関係もない話。

 真希ちゃんの怪我も癒えたようで良かった、とだけ零せば、そうだねと五条さんも軽い調子で頷く。

 

「僕の生徒は優秀だよ」

「ええ、まさかホンマに貴方の『お友達』相手に生き残ってくれるやなんて」

「そういや紅緒ちゃん、真希助けようとかしなかったね?」

「必要なかったでしょう。真希ちゃんは強い子ですから」

「そりゃ真希は強いけどさあ」

 

 ひょっとして、と全てを見通すような瞳がこちらに向けられた。

 

「真希は殺すなとか、アイツと『約束』でもしてた?」

 

 その言葉に、つい小さく肩を揺らす。絶対にそんなことは有り得ないとわかっていながら言うのだから、やはりこの男は性格が悪い。オトモダチがどれだけ「大義」に拘っていたか、よくよくわかっているだろうに。

 とはいえ、ひとつ見抜かれたことは認めてやるとしよう。

 

「あら、あら。貴方のお友達がうちに接触してきたことは認めますが、そんなん言うても頷かんお方なのは貴方の方がご存知でしょうに」

「やっぱ花房にも乗り込んでたのかよアイツ。よく殺されずにすんだね、紅緒ちゃん」

「ふふ、お話のわかる方でしたよ」

 

 袈裟姿の呪詛師が花房家に乗り込んできたのは、五条悟と接触した数日後のことだった。前触れもなく乗り込んできた無礼を彼は軽く詫び、話をさせて欲しいと朗らかに宣う。

 供も連れずひとりで来た彼の手には、菓子折すらあった。

 

「ホンマ、殺そうとする相手の家に和菓子片手てどういう神経してはると思います? それがまた美味しいんです、どこのお菓子か聞いても教えてくれへんくて」

「食べたんじゃん」

「美味しゅう頂きました。特級の方に命狙われるなんて初めてでしたし、最期のお菓子くらい味わっても構へんでしょう」

 

 彼の狙いはわかっていた。百鬼夜行で五条さんの生徒から特級呪霊を奪おうとしたように、私の中に在る《おひいさん》を手中に収めること。その察しがついた時点で、つい袂が口元に寄った。

 よくもまあ、ただの男の分際で《花房》の呪霊(ちから)をモノにしようなどと。

 

「うちを殺しても無駄やとお話ししたら無礼を詫びてお帰りくださいました」

「へえ。無駄なの? 呪霊操術でも?」

「女性のために在るという《縛り》は、花房(うち)だけでなく呪霊の力の底上げもしてるんです。呪霊操術でその《縛り》を無理矢理破らせても、結局は呪霊の格が落ちるだけ。うちの中にいる間は特級に等しい力をもちますが、《おひいさん》があの方の下で同じ力を発揮できるとはとてもとても。何ならうちみたいにオトコを捨ててから試してみますかと尋ねたらあの方、もう笑うしかないご様子で」

 

 夏油傑への印象は「ちぐはぐ」だった。妙に軽薄な態度で振る舞うくせに、その口が語る「大義」は妙に重い。私を殺して《おひいさん》を奪うためにやってきたと言いながら、多くの女性術師を救ってきた花房家を褒め称えてもみせた。もっとも、術師でもない女性までも助けてきたことには苦言を呈されたのだが。

 

『私は呪術師の楽園を築きたい。それだけなんだ』

『そのために君の呪霊の力を借りたかったのだけれど、それは無理なようだね』

 

 ならば花房は花房のまま協力をしてくれないかと問われたが、それも同じこと。

 花房の術師は呪霊と同様、「全ての女性」のためにある。手を差し伸べる女性を術師か否かで選り分けようものなら、花房は破滅の道を辿ることだろう。だから「大義」に協力は出来ないが、どうだろうとかわりの言葉を投げた。

 

『花房は助ける女性を選びません。貴方の身に何かあったとき、貴方のご家族の女性がうちに助けを求めることがあれば、全力でお守りいたしましょう』

 

 結局花房が見逃されたのは、この《縛り》があってのことだ。もっとも、うちに身を寄せる彼の「家族」など、今のところひとりもいないわけなのだけれど。

 まったく可笑しな方ですねえと、彼の「親友」の前で微笑んでみせる。

 

「ご大層な『大義』を語るには、どうも生温(やさし)すぎたようで」

 

 もっと手段を選ばなければ、もっと酷薄であれば、もう少しは足掻けただろうに。

 五条悟は私の言葉にくくっと笑い、そうかもね、と小さな声で零した。実際、彼のもつ呪霊全てを東京に集めて京都を捨て石に使えば戦況はまた違うものになっていただろう。

 乙骨憂太と特級呪霊「里香」の愛の前に夏油傑は敗れたなどと五条さんは言ったが、結局のところ彼の敗因は、おそらく。

 

「『大義』やなんて大仰な言葉で飾らんでも素直に自分の大事なモン守りたかっただけや言うたらええのに。夏油さんて実は結構ええかっこしいやったりします?」

 

 そう言ってみれば、今度こそ五条さんは噴き出した。紅緒ちゃん大正解、と大笑いされるが、うちはそんなにおかしなこと言うたかしら。

 ひとしきり笑った五条さんは目元の涙をぬぐい、改めて渡すを見た。そしてにんまりと笑いながら、言う。

 

「まったく、愛ほど歪んだ呪いはないね」

 

 左様(さよ)ですか、と首を傾げた私を見た最強の呪術師は、また肩を震わせて目を伏せる。

 長い睫に縁取られた空色の宝石が、妙にきらきらと輝いていた。

 

 

 ***

 

 

 愛とは呪いだと、彼は言った。

 五条悟ほどの呪術師が言うのなら、きっとそうなのだろう。私が知らないそれは、ひどく歪で厄介な呪いだという。

 男の身体でありながら花房の呪霊を身に宿した私は、ほかの花房の術師よりもいくらか《縛り》が多い。そのひとつが、この身から男としての機能を失うこと。それは別に構わなかった。自分自身、自分の性別なんてものにとんと興味はない。私はただ「花房紅緒」である、それ以上のことは必要なかった。

 もうひとつの《縛り》は、そう、呪霊との同調を強くするために、呪霊の逸話に限りなく寄り添わなければならないこと。―――より簡潔に言えば、《安珍》と定めた人間以外に愛を抱くことが出来ないこと。

 ボロ雑巾同然で地面に伏せるコレ以外を愛せないなんて、何て非道い呪いだろう。まあコレ以外を愛せないだけで、コレを必ずしも愛さなければならないわけではないことがせめてもの救いだろうか。

 微かに聞こえる虫の息同然の呼吸に、一応生きてはいるようだと安堵の息をつく。

 

「……如何しよ。なぁ、《おひいさん》」

 

 真希ちゃんは私を見ても特に驚く顔を見せなかった。やっぱり来たのか、という顔にすら見えたような気がする。

 火傷の痕が残る彼女の眼は、痛々しくも覚悟に溢れていた。

 

『そのボロ雑巾、譲ってくれへん?』

 

 逃がすようなヘマはせんから、と笑って言えば、少し考えた真希ちゃんは頷いて私に背を向ける。

 紅緒、と私を呼ぶ声は平坦だった。

 

『真依、死んじまった』

 

 知っていた。そうでなければ、この強さは有り得ない。

 渋谷で起きた異変、それによる勢力図の変遷、そして禪院家の動向。もともと京都にいた真依ちゃんとはたまに連絡を取る仲だった。嫌な予感がして真依ちゃんに連絡を取ってみれば、彼女はこれから実家に戻るという。花房は、私は彼女に手を差し伸べた。いい加減意地を張るのをやめて花房に来なさい、と。

 けれど彼女は、それを拒んだ。

 

『ありがと、紅緒さん。……でもアナタ、私がその手を取ったら私のこと見損なうんでしょう?』

 

 頑張る子が好きだものね、と柔らかい声で紡がれた言葉。それが最後の言葉だった。

 痛いのも怖いのも嫌いな臆病な子だった。何度も涙を流し、いやだいやだと嘆きながらも結局は逃げない子だった。自身の半身を恨みながら、ひたすらに愛し想っている子だった。術師には不釣り合いな確かな優しさをもつ子だった。

 無理矢理でも連れ去れば良かったのかもしれない。けれど、私は女性の意に沿わないことをするのは許されない。

 

『……真依ちゃんは、最期までうちの手を取らんかった』

 

 私みたいな美人振るなんてホンマいけず、と言ってみれば、少しだけ真希ちゃんの肩から力が抜けたような気がした。けれど、彼女が纏う気配に一切の変化はない。

 そのまま無言で歩き出した彼女の背は、すぐに見えなくなった。彼女がこれから何をするのか、それを邪魔するつもりは一切ない。

 真希ちゃんは真希ちゃんのやりたいように。私は私の許嫁(ケジメ)にしか興味はない。

 

「とはいえ、……このままただ燃すのも、退屈やね」

 

 そうやろ《おひいさん》と問いかければ、肯定するように腹の底で熱が巡る。

 二枚舌のクズ野郎、この薄汚れた薪を燃やし尽くすのは当然としても、気を失っている間に死んでしまうなんてそんな、全くもって面白くない。鐘の中で恐怖し苦しみながら死んだであろう安珍のように、直哉だってもっと無様に苦しんで死ぬべきだろう。

 遠く響くつんざくような悲鳴を聞き流しながら、さてどうしたものかとぼんやりと割れた顔を眺めていれば、ひくりと痙攣した血まみれのクズ。あら、と思わず胸が躍る。虫けらのように地面を這う直哉は、私に気づくそぶりすら見せない。もはや周囲に気を払う余裕すらないらしい。

 

「あ、の……クソ(アマ)ァ……!」

 

 獣のように興奮しきった息づかい。それは生への執着か、はたまた自身が見下す女にやられた屈辱か。どちらにせよこれ以上なく見苦しい。

 ずり、ずりと血の轍を残しながら進む芋虫を愉快に眺めていると、ふとこちらに近づく気配に気づいた。呪力は感じられないが、はて、いったい誰が。

 反射的に地面を蹴り、近くの瓦礫に身を隠す。

 

「……あら、」

 

 その姿を捉えたとき、あまりに意外すぎて思わず声を漏らした。見覚えのあるその顔、厳格で知られていた禪院扇の妻。

 首元から流れ落ちる血は彼女に残された時間が残り少ないことを示していた。足下をふらつかせながら懸命に進む先には、禪院家筆頭のクズ野郎。

 彼女の手に握られた刃に、その真意を理解する。

 

「……《おひいさん》、なあ、うち決めたわ」

 

 直哉がもっとも屈辱に震える最期。それはきっと、私に燃やされることではなく。もっともっと、あのクズには堪えられない終わり方がある。

 私はそっと、その終わりに炎を添えてあげることにしよう。間違っても直哉の穢い魂が、呪いとなることのないように。

 

「降霊術《般若》、―――いでませ《清姫》」

 

 花房家の相伝の術式は降霊術、その身に飼う呪霊を自身の肉体を媒介に顕現させてその力を借りる。

 ちり、ちりり、と髪の先から燃えるように色が変わる。全身に纏う呪力はまるで炎のように熱が滾り、吐いた息はまるで熱風の。伸びた爪は毒々しいほどに朱く染まり、頭蓋には鬼のような角が二つ。自分の目から見えるほどに伸びた舌の先は、二股にわかれてちろりと揺れた。

 愛しの《安珍さま》を焼き殺した大蛇は、逸話のごとく炎と熱を操る。

 

「……ああ、違うんよ《おひいさん》、自分で燃やしたい気持ちはよぅくわかるんやけど」

 

 手を下すのは、彼女。私はその刃に呪力(ほのお)を添える。

 ゆらりと包丁をもつ彼女の背後に立ち、その両手に手を添えた。もはや直哉しか目に入っていない彼女は、私になど気づかない。普通ならば手を離してしまうほど熱い呪力(ねつ)を、彼女の手から刃へと送り込む。じわ、とその刃先が熱で赤く光った。

 堪忍な、貴方の手のひらも焼けてしまうけれど、と心の中だけで謝るが、やはり彼女はその熱にすら気づかない。

 

「……最期に、最期やから、ここに来たんやね。貴方がずうっと抱えてきた呪いを、自分の手で祓いに来たんやね」

 

 さすがはあのふたりのお母上と言ったところだろうか。

 ええやろ《おひいさん》、このひとになら譲ってあげても。心の内で呟いた言葉はどうやら《おひいさん》にも届いたらしい。その人の手に添えた呪力に、さらなる力が込められる。

 さあ燃や(ころ)しましょう、貴方の心に秘めた「愛」のもとに。

 

「べ、に……!」

 

 ようやく私に気づいた直哉と目が合った。そう、私はずっとその顔が見たかった。驚愕と屈辱、そして絶望に満ちたその顔が。

 

「……直哉、うちな、貴方を愛したいと思ったときもあったんよ」

 

 貴方だけしか愛せないなら、どうにかその魂を愛しくは思えないかと。この花房の術式(のろい)に打ち勝ちたいと思うくらい愛することは出来ないかと。

 今にして思えばそれが本当に私の心だったのか、それとも《安珍》を一途に想う《清姫》の()いだったのか、もはやわからないけれど。

 それでも確かに、直哉を恋い慕う未来を夢見たことも一瞬くらいはあったのだ。残念なことに、それは叶わぬ夢だったけれど。

 

「さよなら、うちの愛しい《安珍さま》」

 

 そっと彼女に添えていた手を離すと、彼女の身体はもつれるように倒れ込む。しかしその手に握られた刃は、しっかりと直哉の身体をつらぬいていた。

 汚らしい直哉の最期の言葉は軽く聞き流し、ふたりの命が消えていくのを見守る。

 

「……ふふ、」

 

 愛ほど歪な呪いはないとあのひとは言った。愛なんてものを知りもしない自分には結局のところ理解しようがない。

 しかし少なくとも、この呪力ももたない女性は母の「愛」によって禪院家筆頭の呪術師を見事呪い殺して見せた。産んでよかったと言い遺して果てた彼女の手は、死してなお包丁を強く握りしめていた。

 

「……ええなぁ」

 

 自分の口からこぼれ落ちた言葉に、自分で驚いた。いったい私は何を羨ましく想っているのだろう。こんなに歪で理解もできない《呪い》、抱えているだけ厄介だろうに。

 包丁を握る彼女の指をひとつひとつ丁寧に外す。全てを外し終えると、そっと彼女を抱き上げて比較的綺麗な畳の上に横たえた。瞼を閉じさせ、申し訳程度に身なりを整える。この状況で出来ることは少ない。せめてと思い、死に顔を隠すように手巾を広げた。

 それが済むと直哉のところに戻り、うつぶせになっていた身体をひっくり返す。この身体は別に丁寧に扱わんでもええやろと適当に庭に放り捨てた。その傍らに下り立ち、半分潰れたその顔をじっと見つめる。禪院家特有の綺麗な顔をしていたが、こうなってはもはや見る影もない。

 膝をついてその両頬に手を添えた。事切れて間もない遺体にはまだ温もりが残っている。その中途半端な体温に思わず眉をひそめた。嗚呼死んでいるのだ、と改めて理解する。まあ、そんなことはどうでもいい。

 身体を傾けて、血に濡れた唇にそっと口付けた。直哉の血の匂いがゆるゆると肺を満たし、血塗れの直哉に抱きしめられているような心地さえ覚える。

 数秒経って、唇を離した。

 

「……やっぱりうちにはわからへん」

 

 うえ、と苦々しい気持ちで舌を出す。直哉に口付けても、この心はほんの僅かも揺らがない。

 頬に添えた手から呪力を送る。一瞬で直哉の肉体を満たしたそれは、一気に朱い炎をあげて燃え上がった。この炎は対象を燃やし尽くすまで消えはしない。赤から黒へ、黒から白へと変わっていくソレを最後まで見届けることなく背を向ける。

 きっと今、私の唇は直哉の血で紅く彩られているのだろう。それが気持ち悪くて、思い切り袖で拭いとる。やれやれ、折角の綺麗な刺繍が直哉のせいで汚れてしまった。ホンマに最期まで面倒を掛けてくれる。

 本懐を遂げて昂揚する《おひいさん》の熱に反して、私の心はひたすらに冷えていた。

 

 

 ***

 

 

 真依ちゃんの遺体を箒をもった少女に預け、先に進もうとした彼女の前にふらりと立った。にこりと微笑みかけても、真希ちゃんの表情はぴくりとも動かない。

 

「真希ちゃん、この後どうするん?」

「……」

「今日外に出とる禪院(ひと)らの居場所、花房(うち)ならすぐにわかるえ」

「……!」

「今の真希ちゃんなら残穢も残らんやろけど、一応それ以外の痕跡も消しとかんとね。まだ騒がれるには早いやろ? 任しとき、この屋敷もそのひとらも綺麗に燃してあげる」

「……紅緒、お前、」

「真希ちゃん」

 

 愛ほど怖い呪いはないなぁと、確かに呪わ(あいさ)れている彼女に微笑みかけた。

 




お付き合いありがとうございました。
この話のテーマでアリサブタイトルは「恋を知らない赤い糸」だったりします。


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番外SS
最強と花房


五条先生と初対面。五視点。


 一応とは言え当主をしていれば、さすがに逃れられない会合くらいある。

 こんなもんわざわざ僕が来るほどのもんじゃないだろうに、と着慣れすぎた和装を身につけて古くさい日本家屋を歩いた。今日は御三家を中心に、主だった呪術の家が集まる会合が行われている。といっても特に何を話し合うでもなく、情報交換なんて名目で変動する勢力争いの結果を確認するためだけのもの。どうせ僕がいる限り一番上は揺らがないのだから、地べたでの争いなんて僕抜きで勝手にやっていて欲しい。

 そういうわけなので、最強の僕はジジイどもの相手なんて端からする気がない。する必要がない。適当な口実をつけて会場を抜け出し、その辺の廊下を適当に歩いた。顔を見せただけ感謝しろってんだ腐ったミカンどもめ。

 もうさっさと帰っちゃおうかな、と思ったところで、足下に何かが転がってきた。とん、とんと軽い音を立てて弾んだそれは、鮮やかな細工の手鞠だった。この時代にまだこんな古くさいものが、と思ったところで、軽やかな声が耳に飛び込んだ。

 

「あら、あら。これは五条の方、大変失礼いたしました」

 

 六眼にうつる、毒々しいほどに真っ赤な呪力。それを腹の奥に秘めたそいつは、呪力と同じ艶やかな着物を纏っていた。緩く結われたおさげ髪はたおやかなはずなのに、どこか不気味にも見えた。

 たぶん、顔を合わせたのは初めてじゃない。だが、相対して話すのは初めてだった。

 

「これ、君の?」

「いえ、この子のです」

 

 もじもじと絢爛な着物の後ろに隠れる小さな影。五歳かそこらの少女だが、こちらは知らない顔だった。

 足下の手鞠を拾い、その小さい影に視線をあわせて鞠を差し出してやる。女の子はこわごわとしながらもそれを受け取り、小さな声で「ありがとう」と呟いた。

 

「どういたしまして」

「ちゃんとお礼言えて偉いなぁ。……ああ、お女中さんいらしたよ」

 

 少し離れた場所からぱたぱたとせわしい足音。ぴゃっと慌てた女の子は、ぱっと頭を下げて駆けだした。途中で思い出したように足を止めて、多分遊んでくれていたそいつに笑顔を向ける。ありがとお、と声を残して、その影は屋敷の奥に消えた。

 

「この家のお嬢さんやそうで。今日はお客さんが多いから奥にいなさい言われてたのが退屈やったみたいなんです」

「ああ、それで。にしても君、わざわざ遊んであげるとか女に甘いってのは本当なんだ?」

 

 そう言ってみれば、あら、と柔い垂れ目が少し見開かれる。

 

「うちのことご存知なんです? 最強と名高い五条の方に覚えて頂いてるなんて光栄やわぁ」

 

 袖で口元を隠し、鈴が転がるように笑うそいつ。なるほど、確かにこれは男には見えねーなと少し口角を上げた。

 他家にさしたる興味のない僕でも、さすがに知っている。呪術界で唯一の、女系の術師の家系。そして少し前にその頂点に立った史上初の男の術師。どこをどう見ても女にしか見えない術師だが、その実力は折り紙付き。男の身でも女性を守る「花房」の信条は変えることなく、虐げられた女性には無条件で手を差し伸べているという。

 頭の堅い呪術界の重鎮には軽んじられることも多い家系だが、それでも潰されることなくここまで生き残ってきた実力は本物だ。何故だか今は禪院家の庇護を得ているようだが、おそらく本来はそんなものも必要ないほどの。

 

『禪院家の人間ですら、何で花房がウチとつるんでるのかわかんねーってのが本音だよ』

 

 自慢の生徒のひとりの言葉を思い出し、目の前の毒々しい呪力を見て確かに、と内心で頷いた。これは、かなり面倒なものを飼っている。

 

「えーっと、花房、……なんだっけ」

「花房紅緒と申します。お話させて頂くのは初めてですね」

「そうそう、紅緒ちゃん。……ちゃんでいいの? くん?」

「ふふ、お好きなように。何や、変なところ気にしてくださるんですねぇ」

 

 すこし意外です、とゆるく首を傾げる彼。彼と表現していいのかもわからないが、この様子だと本当に自分の性別に関心がないらしい。

 僕は軽く肩をすくめて苦笑してみせた。

 

「生徒が恩人だって呼ぶ相手なら、僕だって少しくらいは気にするよ」

「恩人、ですか?」

「あの家で手を差し伸べられたのは後にも先にもあれだけだったって。十年くらい前のことらしいけど、覚えてる? 禪院真希。高専で今僕が担任をもってる」

「まあ、真希ちゃんの!」

 

 ぱあっと花開くように顔を輝かせた彼。その目元には確かな慈愛が感じられ、さきほどまでの仮面のような笑顔とは全く違っていた。

 

「話は聞いてたんです、真希ちゃんの入学のこと。高専なら寮にも入れるし、腕も磨けるし、ホンマに良かったと思てて。そうでしたか、真希ちゃんの御担任を……真希ちゃん、元気にしてますやろか。強い子やけどすぐに無茶してしまいそうで、心配もしてたんです」

「元気に毎日呪具振り回してるよ。どんどん強くなってる」

「何よりの知らせです。教えて頂いてホンマおおきに」

 

 心から嬉しそうに眉尻を下げる彼の様子は、嘘には見えなかった。けれど、だからこその疑念も湧いて出る。ふうん、と思いながらストレートにそれを口にした。

 

「真希のこと気に入ってるくせに、禪院家には尻尾振るんだ?」

 

 術式(さいのう)至上主義で、男尊女卑で、クズの坩堝の禪院家。呪術界全部がそうだと言われれば否定はできないが、禪院家は特にそれが顕著だ。そんな環境で育った真希を心配だと言いながら、禪院家の庇護を受ける花房家の当主。

 彼はきょとんと目を大きくして何度か瞬きを繰り返す。そして、堪えきれないというように笑った。

 

「ええホンマ、仰るとおり。禪院家と繋がりを作ったんは先代ですけど、何でそないアホなことしたんか私にも教えてくれへんくて。うちとしてはいつ縁を切っても構へんのですけど、愉快な玩具も見つけてしもたし、今縁を切るのも惜しくて……絶賛お悩み中なんです」

「愉快な玩具?」

「ああ、真希ちゃんもそこまではお話ししてないんですね。ええ、良い玩具がいてるんです。これまた八つ当たりに最適の、よう燃えそうな薪が」

 

 いつか燃やし尽くすのがホンマに楽しみで、とどこか恍惚とした顔で言った彼に、あれちょっとこれヤバいやつではと認識を改める。いや待てよ、そういえば真希も言っていた。

 

『紅緒はヤバい。何がどうヤバいとかじゃなくて、とにかくヤバい』

 

 いや呪術師なんて皆ヤバいもんでしょ、とそのときは深く考えもしなかったが、あ~こういう意味ね~これは確かにヤバいね~とちょっと引いた。ちょっと? いやかなり。

 

「今はまだ時期尚早なんです。いつかそれを綺麗に燃したら、禪院家との縁もそれまでやろか。そのときまでは適当に転がして遊んだろ思て」

「僕が言うのも何だけど、きみ頭大丈夫?」

「あら心配されてしもた。ご心配なく、すこぅしネジが緩んどるだけです」

「自覚あんじゃん。ウケんね」

 

 顔を合わせて互いに軽く笑い飛ばす。禪院家の傘下なんて気にも留めていなかったが、なるほどこれは面白い。呪力のない真希に手を差し伸べたと聞いたときは、単純に「花房」として女性を守る家の《縛り》に従っているだけなのかと思ったが、話していればわかる。

 花房紅緒は、自分の心にしか従わない人間だ。こういう人間は、仮に家の《縛り》に反しようとも筋は通す。心から真希を気に入っているなら、「禪院」も「花房」も、それこそ「五条」だって関係なく真希に手を貸すだろう。

 僕に「一筋縄ではいかない」と思わせたこと、それだけで術師としての才覚は十分。何より、こういう人間は嫌いではなかった。

 ごそ、と懐をさぐり、スマホを取り出す。そうでなくても「花房」は使い道が多い。日本各地で男を食い物にしながら生きる「花」のネットワークは決して侮れないと聞く。真希が繋いだ縁のひとつくらい、解かず結んでおくのは悪くない。

 

「ところで紅緒ちゃん、この最強のグッドルッキングガイにナンパされてみない?」

 

 そうスマホを揺らしてみれば、あらあらと京美人は柔和に笑う。

 

「うち、一応禪院家に操を立てとる身なんですけど」

「今なら特別サービスに真希の近況報告も付けちゃおっかな」

「こない男前に誘われたら断れへんなぁ」

 

 さっと取り出されたスマホに、肩を揺らす。この僕に敬意は見せつつも畏れは見せないこの態度。これが、御三家すらも鼻で笑って切り捨ててきた花房家の現当主。

 嗚呼、面白いものを見つけてしまった。

 

「うちをナンパやなんて、五条の方も物好きやわぁ」

「そ? ていうか何、五条の方って。普通に呼んでいいよ」

「ほな五条さん。ふふ、せやけど真希ちゃんが強うなっとる聞いて安心しました。ああ五条さん、もし真希ちゃんが禪院家に帰りたくない言うたらいつでもウチに連れてきてくださいね。大歓迎や」

「紅緒ちゃんマジで真希気に入ってんだ?」

「もちろんです。男でも女でも、頑張り屋さんは可愛(かい)らしいでしょう?」

 

 連絡先を交換し、彼は丁寧な手つきでスマホをしまった。頑張る子は応援したなるもんです、とあまりにも術師らしくなく繰り返す彼に、つい苦笑してしまう。

 まあ、真希の味方でいてくれるなら何でもいい。

 

「ま、真希のことは任しといてよ」

「ええ。よろしくお願いします」

 

 花が綻ぶように微笑んでいた彼は、ほな、とすっと笑みを消した。いや、笑みを消したわけではない。その口角は確かに上がっている。だが、先ほどまでの真希への慈愛に満ちた笑みはどこにもなく、そこにあるのはおそらく術師としての。

 

「うちには関係のないことですし、興味もなかったんやけど」

 

 試すような、煽るような、酷薄というに相応しい表情。

 呪術界をその才覚で泳いできた花房家の現当主は、お近づきの印にサービスしましょ、と恩着せがましい声色を袂で隠した。

 

「ぼちぼち動きますえ、貴方の()()()()()

 

 僕たちを探す誰かの声が、遠くに聞こえた。

 



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