股座粉砕兎 (やるおーん)
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さらば息子よ

 ──グシャリ

 

 致命的な何かが潰れる音がした。

 

 「グアアアアアッ!」

 

 途方もない激痛が僕の体を駆け巡り、脳に針をぶちまける。今まで味わったことのない深大な痛苦。膨大な刺激は洪水となって、僕のありとあらゆる感官の堰を切っていく。チカチカと赤へと染まって行く視界は、身の危険をこれでもかというほどに知らせている。

 

 点滅する僕の目に映るのは獰猛な笑みを讃えるミノタウロス。上層にいるはずのない恐怖の大型モンスターである。そいつは僕という獲物を血祭りにあげることを心待ちにしている。紛れもない絶体絶命の窮地。しかし、僕は恐怖心を感じることはなかった。

 

 人生一番の盛大な苦痛に占有されている僕には、生物としての適切な本能すら浮かびあがらせる余裕がないのだ。もう死ぬに決まっていると確信するほどの痛みの奈落にあっては、そりゃあ壊れもするだろう。気になるのはこの痛みから解放されることだけ。衝動的にその源、僕の股倉を見下ろす。

 

 そこには何とミノタウロスの重厚な蹄があった。直下の地面には放射状のヒビ。中心に座する黒塊は赤黒く濡れている。とても嫌な予感がする。血と黄色の液体が1mほど扇形に飛び散っていた。買ったばかりのズボンは蹄の下敷き。その破けた生地の内側を覗いて見る。

 

 金玉。僕の金玉が平に潰されている。

 

 「アアアアアアッッ!!」

 

 激痛がぶり返す。目から荊が突き出たような馬鹿げた痛みは、とても現実のものとは思えない。ありえない衝撃を受けて、軌道を外れた脳が暴れ出す。

 

 何でだよ!?金玉!?よりにもよって何で金玉なんだよ!!終わりだ。終わり。何もかも終わり。もはやハーレムの夢は叶わない!破砕された睾丸。玉無しベル・クラネルはセクロスのできない体になってしまった。さらばオラリオ!

 

  というかそもそも生きて帰れないよな。歯茎むき出しの満面の笑みを浮かべるこの怪物にみっともなく殺されて、今ここでベル・クラネルの人生は幕を閉じるのだ。あまりに滑稽すぎて笑えてくる。アルゴノゥトだってここまでおっちょこちょいではなかった。

 

 途端に吐き気が込み上げてきた。ショックで止まっていた体が反応し始めたのだろう。寒気が全身に走り出す。腰はガクガク震え始め、地面に撒き散らされる血と小便の量が増えていく。痛み、嘲笑、悔恨、無念。止めどなく溢れる激情がごちゃごちゃになって涙を押し出す。

 

 ミノタウロスが剛腕をゆっくりと僕の首へと伸ばしていく。首をもぎ取ろうとしているのか?一思いに横殴りにして、一瞬で殺してくれればいいのに。僕が怯えているところを見てこいつは楽しんでいるんだろう。悪趣味極まりない。邪悪が目と鼻の先まで近づいているのに、僕の体は硬直して動かなかった。やはりこのまま死ぬのか。

 

 …何でこうなったのか。薄れゆく意識のなかで、ふと疑問に思う。

 

 故郷の麦畑が視界を一面金で埋め尽くす。何気ない日の帰り際、畦道を行く僕に亡き祖父は鼻を鳴らして語ってくれた。曰く、「オラリオには何でもあるぞ〜」と。名声、富、力、そして花の美女・美少女たちとの出会い。男なら、ましてや英雄譚に憧れる青い少年なら、夢を見ずにはいられない耳寄りの教え。

 

 祖父を突然の事故で失ってしまった僕は、彼が残してくれたその言葉を寄るべとした。幼い僕の目からしても、かなり適当なところが散見された祖父の言葉をよく考えず鵜呑みにしてしまった。そしてダンジョンに出会いを求めてこの地、オラリオにやって来たのだった。いや、馬鹿野郎にも程がある。現実はミノタウロスに金玉をぶっ潰されて終わりだ。祖父と違ってひ弱な僕にはどうしようもできないのだから──

 

 「っどうしてここに!?」

 

 突如、女性の声が頭に響き渡った。麦の中へと沈みかけていた意識が急浮上する。瞳をパッと開けて、現状を確認する。声の出どころ、真前のミノタウロスの背後には女性の冒険者がいた。防具は軽装、武器は支給品。僕と同じく駆け出しの彼女は、運悪くこの場に出くわしてしまったのだろう。

 

 ミノタウロスの口がにやけた笑みに裂ける。蹄を僕の股間から離し、反対側の地面を踏みしめて彼女の方を向く。一匹目の餌はもう碌に動けないと判断したミノタウロスは、二匹目の餌が逃げないように先に潰すことにしたのだろう。事態を察した彼女の顔が、蒼然と染まっていく。

 

 「ひっ!?」

 

 「っ!!」

 

 怯えた悲鳴を耳にした瞬間、僕の体は反射的に動いた。横に転がり落ちていた支給品のナイフを咄嗟に掴む。そして、僕に背を向けるミノタウロスの足を全力で切りつけた。

 

 「ヴモオッ!?」

 

 予期せぬ反撃を喰らったミノタウロスは、彼女から僕の方へと向き直る。僕自身、驚いている。さっきまでピクリとも動かなかった自分の体が即座に反応したからだ。痛みは、全く引いていない。しかしナイフを握る手が恐怖で震えることはなかった。ナイフの切先は、僕の闘志を表明するが如く、怪物の胸へと一直線に向けられていた。

 

 ミノタウロスの腕がバネのように折り曲げられ剛速の掌打が発射される。

 

 僕は倒れたまま地面を蹴り飛ばし、既のところで股間に迫り来る漆黒の影を前へと回避した。転がり込んで、ミノタウロスと彼女の間に割って入る。今のを喰らっていたら、睾丸からの痛みの急流がとんでもなく勢いを増していただろう。よく動いた僕の体。それにしてもこのミノタウロス、金玉を狙いすぎじゃないだろうか?もしかして男の弱点を知り尽くした強化種か?

 

 女性の悲鳴を聞いて枷がはずれたためか、体が少しは動くようにはなった。こんなときでも実に僕は単純なやつである。しかし、今回ばかりは上出来も上出来である。ぐしゃぐしゃになった頭でも、女性を助けるためなら僕は立ち上がれるのだ。なんだか、それは英雄っぽくてかっこいい。

 

 それで、次はどうする。動くといっても、運動機能は著しく低下している。僕がミノタウロスから逃げられることはまずない。僕が生き残る道筋としてありうるは、彼女と共闘してミノタウロスを撃退することだが、双方駆け出しの身では土台無理な話だ。つまり、僕が死ぬのは予定調和で変わらない。なら残された選択肢は一つだけだ。僕がなんとか囮になって、彼女を逃す。

 

 下から彼女の顔を眺める。僕がダンジョンで出会った最初で最後の女の子。どうせ死ぬなら、この人のために死んでやろう。決意を、固めた。絶え絶えに息を切らしながら、腹に力をこめて掠れ声を捻り出す。

 

 「逃げて…逃げてください」

 

 「でも、あなたがっ!?」

 

 「いいから、はやくっっ!!」

 

 「っ〜〜!?」

 

 悲痛な表情に顔を歪めた後、彼女は振り返って走り出した。その背中が遠ざかっていく。これでいい。がむしゃらにダンジョンを逃げ回っていた僕と違って、彼女は上層までの道筋を正しく把握しているはずだ。あとは、十分な距離をミノタウロスから取れるよう、僕が時間をほんの少し稼げば、彼女は助かる。

 

 頭上に迫る濃密な死の気配を感じ、咄嗟に体を捻る。刻蹄が目と鼻の先に落ちてきた。判断が一秒遅れていたら、僕の脳漿が花を咲かせていただろう。まだ早すぎる。あと数撃分は時間を稼がなくてはならない。

 

再び地面を蹴ってミノタウロスから距離を取ろうと足を伸縮した瞬間、横っ腹に強烈な蹴りがめり込んだ。

 

 「ガッ!?」

 

 僕の体はまるでボールのように吹っ飛び、ダンジョンの壁に叩きつけられる。一撃でアウト。そもそも、死に体で2回攻撃を逃れられたことが奇跡だったのだ。Lv.2の怪物の攻撃を避けるなど僕にはそもそも不可能なのだ。

 

 まずい。彼女の方へとミノタウロスを行かせてしまう。無能にも程がある。叱咤を禁じ得ない僕はそこで気づいた。僕へと向かって歩いてくるミノタウロスはだいぶ遠くにいた。蹴り飛ばされた時に相当な距離を飛んだらしい。そして幸運なことに、先の僕の攻撃に苛立ちを覚えたミノタウロスは今度は僕から仕留めるつもりなのだ。

 

 威圧的に一歩一歩地面を踏みしめて僕に近づくミノタウロス。そいつが僕を殺すまでにかかるわづかな秒数は、おそらく彼女が怪物から行方を晦ますのには十分な時間だ。非力なこの身が大きく吹き飛ばされたことが、皮肉にも本来なら存在しなかった時間を生み出したのだ。できればもう少しかっこのついた時間稼ぎをしたかったものだが、まあ贅沢は言うまい。

 

 役目を終えて安堵した僕の脳が再び赤になっていく。体のそこかしこが痛みで震えている。呼吸をするだけでも辛い。多分、蹴られたせいで相当数の骨が折れた。内臓もいくつか潰れた気がする。買ったばかりの戦闘服は体中から溢れ出す血が染み込んで、真っ赤に染まっていた。

 

 「ヴモォォ・・・」

 

 ミノタウロスの黒ずんだ鼻から生臭い呼気が僕の顔に吹きかけられる。怪物との間にあったはずの距離はいつの間にか消え去っていた。殺意が肌に刺さる。今度こそ終わりだ。もう、足も腕もピクリとも動かない。体の感覚は徐々に遠くなっていく。痛みと世界が滲み、意識は混濁の中へと引きずり込まれる。

 

 心残りが、最後にぽつぽつと湧いてきた。

 

 結局、憧れた英雄達のようにはなれなかった。モンスターを華麗に切り裂き、へたり込む可愛い女の子の前で、クールにたたずむ僕。そんな自分の姿をよく夢想したものだが、それがどうだ?このあまりにかけ離れた状況は。残念極まりない。

 

 世間知らずの青臭い妄想に囚われた子供の末路。祖父は、こんな僕を見てどう思うだろうか?失望されるだろうか?…いや、あの人のことだ。きっと、間抜けな死に方をした僕のことをひとしきり笑ったあと、褒めてくれるだろう。「よくぞ、女子を守り抜いた。男を見せたなベル」、と。

 

 今際の際の夢に浸る僕に、死のの蹄が振り落とされる。

 

 

 ──神様、ごめんなさい。

 

 

  次の瞬間、ミノタウロスの胴体に一線が走った。

 

 「へ?」

 

 「ヴモ?」

 

 雄牛の体躯に刻まれる線の数は、一瞬の内に夥しく増していく。それはあまりに滑らかな切断線だった。絶たれた肉の間隙で、銀の剣光が煌めいていた。閃く軌跡は目で追うことができないほどに速く、残像が美しい幾何模様を描く。気づいた時には、ミノタウロスの巨体は物言わぬバラバラの肉塊と化していた。

 

 赤黒い血飛沫がシャワーのように降り注ぎ、血染めの体を全身隈なく上塗りしていく。

 

 「・・・大丈夫ですか?」

 

 

  時が止まった。

 

 

 崩れ落ちる肉塊の向こうから現れたのは、女神様と見紛うような美しい少女。儚げな白磁の肌に覆われた、華奢でなめらかな肢体。そよ風の吹く草原を思わせるような清涼とした雰囲気は、殺伐としたダンジョンの中で存在感を発している。腰までまっすぐ伸びる混じり気の無い金髪は、極上の黄金すら叶わない輝きを讃えている。僕を覗き込む、瞳の色は金色。

 

 【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタイン。オラリオ最強の冒険者の一角と謳われるLv.5。この地に来たばかりの僕でも知っている至高の第一級冒険者。眼前の人物はその人に他ならない。今を生きる憧れの英雄たちの一人だ。噂はよく聞いていた。だが、これほどまでに美しい人だとは僕は知らなかった。死にかけの胸に息吹が吹き通る。

 

 「この怪我…大丈夫ですか!?」

 

 全然大丈夫じゃない。機能不全を起こす内臓、肉に突き刺さる骨、潰れた金玉、とても助かりようがない。けど、本当に大丈夫じゃないのは心臓だ。こんな状況なのに爆発するんじゃないかってくらい高鳴っている。この胸の炎の正体はなんだろうか?彼女の顔を見ればすぐに分かった。

 

 ほんのりと染まる頬、相手の姿を移す潤んだ瞳、芽吹く淡い……いや、盛大な恋心。妄想は結実、配役は逆転、想いはド頂点。死に際で、僕の心は見事に奪われた。

 

 

 この美しい人に出会えたのなら。

 

 

 闇に落ちゆく意識の中、その金色を最後まで目に写しながら、馬鹿なことを考える。

 

 ミノタウロスに金玉を踏み潰されるのは間違っているだろうか?

 いいや、間違っていない……

 



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