星よきいてくれ (陸一じゅん)
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【最下層】大墳墓フェルヴィン
1(裏)サリヴァン・ライト


ナルニアやハリー・ポッターで育ちました。
昨今の流行りとは逆行したような、泥と涙と汗にまみれたレトロなファンタジーになります。
よければ評価をお願いします。


 

 まどろみから浮上する。世界がゆらゆら揺れて、(にじ)んでいる。

 波紋状に光が歪んで、サリヴァンの黒い瞳を覗き込んでくる。

 背中が痛い。

 

「うう……」

 うめき、息を吸った瞬間、舞い上がった砂埃が鼻孔に入った。

 ギュシュンッ

 

 自分が出したクシャミの衝撃で、サリヴァンの意識はようやく地上に舞い戻った。

 薄暗い視界。冷たい地面を、身体の下に感じている。

 口から零れた唾液(だえき)が顔の下を濡らし、ひどく不快である。

 冷え切った体を縮めてみて、腕が背中で縛られていることに気が付き――――サリヴァンは、ため息をかみ殺した。

 積もった砂埃の上、片耳を敷くように頭を転がして、目を閉じる。

 サリヴァンの足元、コンクリートの地面に、西日らしき黄色の光が差していた。そこから人ひとりぶん開けたところに、飼い葉のブロックが積み木のように重ねてある。

 視界は遮られていたが、尖らせた聴覚と第六感が、その向こうにさざめく波のような人の気配を感じていた。

 

 次に、自分の調子を探る。

 頭ははっきりとしていて、吐き気も無い。薬の類は使われていないと見ていい。節々の痛みは、固い地面に転がされていたためだ。

 

 誘拐犯たちは歩き回っておらず、汎用品(はんようひん)のパイプ椅子の軋む音がしていた。

 話す言葉は潜められて聞き取れないが、人数はそれほど多くないだろう。少なくとも倉庫内にいるのは五人ほど。

 

 ……とまで理解をして、サリヴァンは横たわったまま、ぎょろりと目を見開いた。

 

 猛烈に、嫌な予感がする……。

 

 記憶を探った。

 最後は、そう、自分の寝床に潜り込んで目を閉じたところで途切れている。

(……いや、ほんとうに、()()()そうか? )

 自問する。

 

 そういえば、誰かの声を聴いた気がする。そのときは、確かにまだ自分の部屋にいた。シーツの感触が、記憶の中の肌に残っている。

 

 自慢じゃあないが、サリヴァンは常人よりも気配に(さと)い。

 師にそうなるよう仕込まれたのだから、枕もとでゴソゴソやられたら、確実に飛び起きる。

 体に触れられたら、まどろみの中でも反射的に武器を握るだろうとも確信できる。

 だから、そのときは夢だと思っていた。

 

 前髪をかきわけて、優しく、宝物のように額を撫ぜられるなんて恥ずかしいことは、この年になってしまっては何年もご無沙汰であった。

 今のサリヴァンに、そんなことをする人はもういなかった。されたとしても、(前述のとおり)勝手に意識が浮上する体になって久しいのだから、確かなことだった。

 

 ……と、いうことは。

 十中八九、師の計らいの誘拐であるのだろう。

 

 合格基準は不明。攻略方法は無限大。

 それが彼の仕える師が、きまぐれに与える『試練』の概要である。

 

 ……そこまで考えて、サリヴァンは今度こそため息を吐いた。吐息で砂埃が舞い上がり、顔を地面に押し付けてクシャミを殺す。

 

 憂鬱。

 今のサリヴァンの心を表す単語は、これにつきる。

 

(な~んだってあのヒトは、俺にこういう嫌がらせをするかなぁ。いやいや、わかってんだよな。あのヒトのすることに『無意味』なことは一つもないって。ああ、でも、今回のミッションの成功条件は難しそうだなぁ……(しょ)(ぱな)からとっ捕まってンだからなぁ……)

 

 しかし、このままジッと助けを待つわけにもいかないのだろう。経験からサリヴァンは知っていた。

 合格基準については不明だが、個人的な好みというものはある。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 思い直したサリヴァンは、押し込められた舌をどうにか動かして、小さく「それ」を呼んだ。

 

「……うぅっ。ううぅー……ううぅ………」

 うつ伏せになった腹の下で、黒い影が、無数の虫のように蠢く。

 

 それは粘的に地面へと体積を伸ばし、やがてそう経たないうちに、人影の姿を取った。

 黒影は立ち上がり、伏せるサリヴァンに語り掛けながら、冷たい床へ横たわる背中に腰掛けて足を組む。

 きれいに粒のそろった歯列の中で、ちいさな犬歯だけがやけに尖っていた。

 

「ヒヒヒッ……」

「うぅうー」

「ずいぶん無様な恰好じゃないか。ねえ? 坊ちゃん」

「ううぅーっ! 」

 

 継ぎの入った灰色の帽子、擦り切れた裾の黒い上着から、枝のように細いふくらはぎから続く、生白い裸足がのぞいている。

 浮浪児そのものの姿をして、『それ』は帽子の隙間から、わずかな肌と三日月形に歪んだ瞳と唇を覗かせ、芝居がかった仕草で細い顎を撫でた。

 

「お困りのようだねェ。ボクをお望み? 」

 

 

 ✡

 

 

 さて、現状把握だぜ。サリヴァン。

 キミはサリヴァン。ライト家の長男坊として生まれ、六歳から杖職人に奉公中。

 今年で一七歳になる童貞野郎。

 ……ってことは憶えてる? ふっふっふ。そんなに吠えるなよ。今の自分の間抜けな姿、わかってる?

 

 ここは『魔法使いの国』。

 これは正式に一国家を示す名前として、世界各地の首脳施設に記録されている由緒ある国名だ。

 第18海層の中心、エルバーンの島国。天気はいつも、くもりのち雨。ときおり晴れ。洗濯物には注意しましょう……ってところかな?

 夏はぼんやり涼しく、冬にはぼんやり寒い。日暮れが早く、夜が長いのがお国柄。

 暦が始まる以前、ここに魔女が降り立った。その時から『魔法使いの国』は現在まで存在する。

 魔女は人々に魔術を与え、海の果てに去っていった。

 以来、ここは『魔法使い人種』が生まれてくる唯一の土地であるとされている。

 

 例にもれず、キミも魔法使い種。『魔法の杖』の老舗工房、『銀蛇(ぎんへび)』の奉公人の身分だ。

 そして『ボク』は、そんなキミの陰に潜むもの。

 

 『魔人』と人は()うけれど、魔法のランプに潜むわけでもない。

 契約内容を復唱して? そう、それを忘れられちゃア、ボクもキミも困るからね。

 ボクの望みはただひとつ。『キミがボクを裏切らないこと』。

 魔法使いと契約した魔人は、契約者の所有する大いなる魔法。魔人の名前は呪文と同じ。ボクの助けを借りたいっていうのなら、それを口にするのがセオリー。

 ボクは魔人。自由と享楽と平穏を望む、質量なき昼行燈。

 

 さあ、ご主人様! ご唱和あれ!

 

 ――――ボクの名は?

 

 

 

「―――ジジ! 」

 

 猿轡から自力で抜け出したサリヴァンは、青筋を立てて、ボクの瞳をまっすぐ睨んだ。声に気が付いた飼い葉の向こうが、とたんに騒がしくなる。

 

 舌打ちをしたサリヴァンは、身体をよじって陸に上がった魚のように跳ねてボクを振り落すと、鮮やかに縄を解いて立ち上がって見せた。

 うなじで束ねられた長い赤銅色の毛束が、尻尾のように跳ねて背中の上をうねる。

 刻まれた縄は、ばらばらと長虫じみた物体となり、拘束の用をなさなくなった。

 

「ボク、いらないんじゃなァい? 」

「いるなら使うに決まってんだろ。ほら! もう来るぞ! 」

 

 飼い葉の影から顔を出したのは、どれもこれも屈強な体格の男たちだ。とくに特徴のない旅装を纏っていたが、やけに身綺麗で旅疲れしている様子がない。口にする罵倒の言葉は、唄うような発声と力強い濁音の語尾をした『上層』のもの。

 サリヴァンが視線だけで、ボクに意味を問いかける。

 

「『ざるくぶぁふぇんどん』の『くしゃぇにゃ』を『ざりばん』しようって言ってる」

「……どういう意味だ? 」

「ざるくぶぁふぇんどんは『肥溜めで足を折ったロバ』。くしゃぇにゃは『ケツの穴』。ざりばんは『脳天からまっすぐ串刺し』」

「意訳すると? 」

「『もう用済みだから、コイツらバラしてすっきりしようぜ』」

「『くにぃゃんすなばー』は? 」

「ボク、スラングしか覚えてないんだよね」

「役立たず! 」

「知っての通り育ちが悪いもので」

「おい。あいつら『ざりばん、ざりばん』って同意したぞ」

「サリー。こんなおじさんたちに攫われる心当たりは? 」

「黒幕は確定。心当たりは三通りくらいあるかな? 」

「三つもあるの? ばかじゃない? 」

「……そういうお前は? 」

「二十四通りそれぞれに、きみが想定した以外の黒幕を三パターン予想できるかな? 」

「ばっかじゃねえの? ちっとは日頃の行いを改めろ」

 

 

 男たちは声を上げ、ボクらを囲むように素早く動いた。全部で五人。ナイフを取り出し構える仕草にも淀みはなく、『組織』としての熟練度を感じさせる。服装に統一感はないが、明らかに訓練された兵士。しかし銃器のたぐいを取り出さないということは、サリヴァンの予想通り、あちらはボクたちに対して、最低限の怪我しかさせたくないらしい。

 

 サリヴァンはニヤリと笑う。

 

 サリヴァン……サリーの脚が、積まれた飼い葉を強く蹴った。

 ボクは一拍遅れて床を蹴り、サリー二人分の高さにある飼い葉の上に足を付ける。とうぜん倒れつつある飼い葉は落下する。

 飼い葉の壁が崩れたと同時、ボクは壁の向こうにいた『立派な身なりの紳士』の羽がついた帽子を蹴り飛ばし、現れた禿げ頭を踏みにじってより高く跳んだ。ずっこけた紳士の姿に、兵士たちが動揺する。

 

「アハハ! サリー! きっとこいつが飼い主だよ! 」

 ボクが纏う擦り切れたコートが大きくはためく。兵士たちが空中でコマのように踊るボクを指差して、「クスヴァーラ! 」と叫んでいた。『不吉な魔物! 』もしくは『地獄からの使者! 』という意味だ。こいつらにとっては間違いじゃアない。

 

「―――どうせ魔法なんて大した事ねえ、相手は杖職人のガキだって思ってたんだろうけど……」

 兵士の視線をボクから奪うように、サリヴァンが口を開いた。

 左足を前に一歩、地面を擦りながら、軽く踏み出す。

 

 

「……ザァンネンだったなあ」

 

 振り上げた左手には、一振りの銀色の刃。刃渡りは男の上腕ほど、濡れたように輝く銀色の、惚れ惚れするほど美しい片刃のダガー。

 

「我が国の最高の『魔法使い』ってのはな……」

 

 ばかだねえ。

 あの女になんて言われてこんなことをしたのかは分からないけれど、こいつらは魔法使いというものを舐めている。

 こんなやつらに、サリーがどうこうできるわけがないのに。

 

「杖職人なんだよォッ! 」

 

 敵は、「バカな!? 武器なんて持っていなかったはずだぞ!? 」というような感じで動揺している。そんな可哀想な誘拐犯たちを一笑して、ボクは蝙蝠のように天井にぶら下がって目と耳を塞ぐ。

 『魔法の杖』を、その輝く刀身を、サリーは一閃。

 

「『銀蛇』! 今だ! ブッぱなせ! 」

 

 閃光。爆音。そして暴風。

 きっと彼らは、気を失う寸前に思ったはずだ。

『とんでもないものを誘拐してしまった』。

 まず誘拐できたことを褒めてあげたいもんだ。

 

 このご時世。この誘拐犯たちも、火薬を扱うことがあるだろう。だとすれば、おそらく彼らはサリーを爆弾魔だと思ったろうから、眼が覚めて破壊のあとが無いことに驚くに違いない。

 ただの目潰しの魔法も、鼓膜が破れるほどの爆音と風があれば、『爆弾』を知っている頭は『爆発』だと誤認する。

 ちょっと起源は古いけれど、世界大戦時、火の粉が降りかかった当時の魔法使いが外国人向けにブレンドした、安全性ぴかいちの魔法なのだ。

 

 サリーは、着々と白目を向いて折り重なる男たちの身ぐるみを剥がしにかかっていた。

 追剥ではなく、敵の身分や目的を探るためと、彼らに傷を負わせていないかの確認だ。肌に傷があれば簡単な治癒の呪いをかけ、豚をさばく肉屋みたいに、サリーは男たちの裸をコンクリートの上に量産していった。

 極悪非道で知られるこの魔人の眼から見ても、おそろしくトラブル慣れしている行動力だ。

 

 




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1(裏)サリヴァン・ライト

 

 さて、この世界の物語は、『混沌の夜』というものから始まる。

 

 二陣営に分かれた神々の戦争により、一つの大きな大地だった世界は、二十の地に分割された。

 太陽や光を司るあらゆる神々は幽閉され、永遠の夜が続く。

 何年も闇の中で二十の大地を巡る壮絶な陣取り合戦が繰り広げられ、地上は雨と氷に覆われて、あらゆる作物は枯れ果て、人間の文明は崩壊する。

 そんな滅びの道を歩んでいた人類のもとに、一人の魔女が現れ、戦争に一石を投じた。

 彼女は次々と神の中に協力者を得ていき、彼らを率いて戦争を終わらせ、地上には太陽が戻ったのだ。

 

 神々は、照らし出された地上の惨状に嘆き、大地から天上にある楽園へと帰っていき、二度とみだらに地上を乱すことはしまいと、楽園の門に鍵をかけた。

 

 魔女が最初に降り立った土地。

 それがこの『魔法使いの国』。世界で唯一、魔法が使える人種『魔法使い人種』が産まれる地。

 国民は魔女の子孫であるとされ、神秘を忘れかけた現代に至ってもなお、世界中が認める聖地なのだ。

  くわえて、森から成る肥沃な大地と温暖な気候、島国という独立性、そこで育まれた技術―――神話の中の未知の力『魔術』。

 

 そりゃあ鎖国するでしょうってもんで、六百年、『魔法使いの国』は閉ざされた。

 上層世界から押し寄せてくる産業革命。武器の発達。物流の改革。

 波に乗る各国に乗り遅れまいとしたかたちで開国したのは、ほんの百二十年前のこと。

 

 開国後の『魔法使いの国』は、好奇心旺盛な国民性を発揮した。

 ばりばり留学を繰り返した結果、学者や研究者を多く輩出することとなる。

 開国百二十年目の現在、『魔法使いの国』は、牧歌的な歴史ある街並みが、観光客に人気の永久中立国である。

 

「……ふーん。やっぱり、こいつら外国人だな」

 サリーは、下着に縫い付けられていた旅券をボクに差し出した。

「バッチイからいらない。どこの人? 」

「わからん。上層を抜けたときのハンコしか残ってない。こりゃまっとうな旅券じゃあない。最後の入国ハンコは……フェルヴィン皇国」

「おんなじ中立国じゃん。平和だし、テロリストのイメージは無いけどな」

 『フェルヴィン皇国』は辺境も辺境、世界の端にある小国で、魔女が最期を過ごした国といわれる隣国だ。

 同じく聖地だけれど、ゲルヴァン火山を中心とした険しい自然に覆われていて、辺境ゆえに国交ひとつにも大きな危険と莫大な費用がかかる。そのため、何もしていないのに何百年もほぼ鎖国状態だった国だ。

 始まりと終わり。同じ魔女ゆかりの土地ということで『フェルヴィン』との仲は上々のはずだけれど。

 

 サリーは、難しい顔で考え込んでいる。そういえば彼の曾祖父は、大恋愛の末に押しかけ婿となったフェルヴィン人だということを思い出した。

「……きみのひいお爺さんに関係があると思う? 」

「まだわかんねえな。とりあえず店に戻ろう。……店の近くだったらいいけど」

 そこは牧場主が持つような倉庫らしく、ものものしい滑車式の巨大な鉄板を思わせる扉だったが、下の方にひとり出入りできるだけの大きさの、くり貫いたような扉があった。

 見張りを警戒して、どんなに星のない夜でも目の利くボクが斥候として外に出た。

 外にはただっ広い丘が広がっている。どうやらあいつらはあれで全員だったようだ。

 

 けれど、ボクの視線を釘付けにしていたのは、外に広がるその光景だった。

 目に刺さるのは、赤と金色と黄色の光。肌に触れるのは、とびきり暑い日の雨上がりのような、仄かに温かい外気。

 ボクは、指先で瞼を揉む。

 

「……ジジ? ジジ、どうした。何かあったか? 」

 いつまでたっても戻ってこないボクに痺れを切らしたサリーが顔を出す。

「ああ……いや、なんにもないよ。ないない。ありえない……」

 諸君。ボクは、語り部として描写を訂正しなければならない。

 外には、赤く火口を爛れさせた墨色の尖った火山があった。

 ボクらは、その火山に連なるささやかな山脈の丘陵のひとつにいるようだった。

 真っ黒なインクを溶いたような雲が幾重にも重なり合い、そのわずかな隙間を縫って朱色を溶かした金色の陽光が帯になって差し込んでいた。光はモノクロの世界を飴を透かしたように、とろりと甘そうな金に色付けている。

 輝く輪郭を持った長大なゲルヴァン火山は、さながらこの小さな島国に君臨する王冠だ。なだらかに背の低い木々の梢や、建物の屋根もまた、金色をした永遠の黄昏の陽に輝いている。

「なんじゃこりゃあ! 」

 眩い金色と黒の景色に目を剥いてサリーが言い―――――その瞬間、後ろの倉庫が爆発した。

 

 

 ボクらは知っている。かつて人々は、その場所に様々な名前をつけた。

 第20海層の先。たそがれの地。地底の国。魔界の底。魔女の墓。

 魔女の墓守の子孫である『魔法の加護を受けしもの』が治めるド辺境国家。

 

「……ねえサリー」

 ……ああ、我が契約者。ボクの間違いを訂正しよう。

 

「……ボクたち、いつのまにか海を越えてたみたいだ」

 

 

 

 

「はあ!? なんで!? なんで爆発した!? おいジジ、おまえ何かしたか!? 俺? 俺は何もしてないぞ!? 」

 

 神代の終わり、人々は、神の怒りに沈んだアトランティス帝国の名残りを、奈落を意味する『タルタロス』と蔑称した。世界が切り分けられたあと、奈落の門を開いた魔女が、『奈落』を『出会い』を意味する言葉で塗り替える。

 

「ちょっとー。サリーうるさい」

 

 その地。名をフェルヴィン。

 

 ボクらの旅は、ここから始まる。

 

 

 




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1 アルヴィン・アトラス

二日目です。


 フェルヴィン皇国。

 多重海層世界第20海層。国土面積約900㎢。平均気温24度。首都はミルグース。総人口は19万人ほど。

 荒涼とした海に囲まれた弓なりに細長い島国で、ゲルヴァン火山から為るフェルヴィン山脈が形成する起伏の激しい土地。

 

 いくつか希少な金属が出るために、鉱山と鍛冶細工の国として知られる。

 魔法使いの生活の必需品『魔法の杖』もまた、このフェルヴィンから掘り出される魔銀を纏わせて完成する。魔銀は魔法使いの持つ魔力をよく通し、その形を千差万別、個性と意志にあわせて変える。神話では、これらの金属は魔女の遺骸から生まれ出でた副産物だという。

 

 気候は慣れれば過ごしやすいと云われる。四季の移り変わりは激しくない。

 激しい海風が山脈にぶつかることで成る気流により、分厚い雲が常にかかり、そのせいで日照時間が極端に短く、陽が出ても黄昏時を思わせる陽光が斜めに差し込むだけ。

 

 『魔法使いの国』以上に閉鎖されたこの国は、かの国に倣うかたちで留学制度を採り入れ、もともと優れた職人が多いこともあって、ゆるやかに、しかし確実に、近代化が進んでいる。

 フェルヴィン人は、樹木のように背が高く、蝋のように白い肌と、故郷の黄昏の空を映しとった髪と瞳、何より特徴的な長い耳を持つ。

 薄暗い国だけれど、その国民性は穏やかで素朴。温泉と読書の時間を何より好み、空想好きで、試行錯誤を苦にしない。

 

 

 神話では、神々が天上へ鍵をかけたあと、魔女と共に安息の地を捜し歩いた罪人や、流民たちが興した国とされる。実際近代の研究でも、フェルヴィン人の先祖は様々な人種が入り乱れたものだと証明がされたそうだ。

 

 神秘と秘密に彩られたフェルヴィンは、御伽噺の妖精になぞらえて『土のエルフ』とも、その鍛冶の腕と穴倉のような住処を指して『ビッグ・ドワーフ』とも称される。

 現皇帝の名はレイバーン・アトラス。背が高くしっかりとした体躯は、空を穿つ槍のごとき杉の木を思わせる偉丈夫である。

 

 

 昨年還暦を迎えた皇帝には、五人の若く健康な皇子と皇女がいた。

 

 

 ✡

 

 

 長兄のグウィンが連れて行かれて、もう五日は経っただろうか。

 アルヴィン・アトラスは、もうすっかり慣れてしまった寝台で、壁に向かって横たわりながら考えた。

 

 ここはおそらく地下だろうと、アルヴィンは思う。

 フェルヴィンの首都、ミルグースの今ごろの季節なら、シャツ一枚で昼夜を過ごせるはずなのに、気温はやけに肌寒い。部屋には窓が無く、呼吸音すら響く静寂にはだいぶ慣れた。

 

 ここに監禁されてから、七日は経っている。

 

 その日の昼下がり。アルヴィンと姉ヴェロニカは、王城にいくつもある応接室のうちの一つで、三男のヒューゴ帰国の知らせを今か今かと待っていた。

 その応接室は、今は亡きアルヴィンの母がお気に入りの調度品を集めた一室で、五人の兄弟の団欒の場所であった。

 アルヴィンと上の兄弟たちは、いちばん歳が近いヒューゴでも十四歳も年が離れている。兄も姉も末っ子にはめっぽう甘く、しかしアルヴィンは捻くれたところの無い素直な少年へと成長した。

 

 そんなアルヴィンも十四歳。兄姉たちは、国で父王の秘書をしている次兄ケヴィンを除き、全員国外を飛び回っている。

 

 それというのも、兄弟全員が『皇子』『皇女』とは別に、副業を持っているためだった。

 

 長男グウィンは、二十四歳まで軍人であった。一念発起して退役し、ずいぶん遠い国の有名大学へ留学して、言語学と歴史学の学者になって帰って来た。ここ数年は、皇太子としての執務で忙しくしているが、持ち歩く鞄にはいつも紙の束がずっしり入っていることをアルヴィンは知っている。

 

 長女ヴェロニカは、地質学者である。とある高名な地質学者に気に入られ、十九歳のときに二十ヶ月のフィールドワークに同行し、そのまま弟子入り。他の兄弟に比べれば故郷で机仕事をしていることが多い彼女だが、ひとたび呼ばれれば数か月単位で帰ってこないということもざらにある。

 

 さらに次男ケヴィンは数学と統計学、三男のヒューゴは美術大学。フェルヴィンの皇子たちは、それぞれ違う形の才能を抱えた若者たちであるのだ。

 

 

 皇帝レイバーンは、我が子たちの教育には惜しまない男だった。近年まで鎖国体制を敷いていたフェルヴィンは、今、急速に近代化している最中である。

 レイバーンは上層にならって、教育というものの影響を重視し、皇子たちも積極的に留学に出すことにしたのだ。

 

 家族が全員集まるのは、まるまる四年ぶりだった。

 

 長兄であり皇太子のグウィンは、今回婚約者をともなって帰国した。今回皇帝一家が全員そろったのは、この兄の婚約を公的に知らせるためだ。

 次期皇太子のグウィンは、国で父王の秘書と皇子を兼任する次男のケヴィンと職務的にもプライベートでも積もる話があるようで、帰国そうそう休む間もなく視察にあいさつ回りにと忙しく飛び回っていた。

 

 これで兄弟は四人まで揃ったわけだが、残った三男ヒューゴは、兄弟一活動的な男だった。

 一日刻みで海を越えることも珍しくないが、かといって仕事人間というわけでもなく、やれ知人のパーティーだ、友人の出る舞台が、と言って、分刻みで遊びと仕事を両立させている華やかな文化人である。

 

 ヒューゴの帰国予定は、昨夜遅くのはずだった。

 

 第十八海層と最下の二十海層フェルヴィンとの間には、『魔の海』と呼ばれる障害がある。慣れた船乗りでも慎重に慎重を重ねる、かつて踏破不能と謡われた伝説の海だ。

 とうぜん、不測の事態で船の到着が遅れるということはざらにあった。そう案じることは無いと分かってはいても、それでも心配はしてしまうのが、家族というものである。

 

 紅茶を飲みながら、アルヴィンとヴェロニカは思い思いに暇をつぶしていた。

 アルヴィンの母は、リリオペの花を好んだ。この、紫色をした房状の小花を咲かせる一見地味な野草は、多湿で日が差さないフェルヴィンでは、珍しくそれなりに育つ植物である。母はその柄をした布をわざわざ探し、自分でクロスを縫うくらいには好きだった。

 どこから探してくるのか、王妃のために茶器やらランプやらが集まり、応接室を飾ることができるようになるまでになったのだ。

 

 そんな大切な一室に向かって慌ただしい足音が廊下からしたとき、アルヴィンは「ヒューゴ兄が帰って来たんだ」と思った。視線を向けた扉が、けたたましく蹴破られたその瞬間、アルヴィンは予想が裏切られたことを知ったのだ。

 

 

 男の怒号(今思えばそれは、他でもない兄ヒューゴのものだったのかもしれない)と暴力の気配に、アルヴィンの意識はあっというまに遠くなった。

(……ああ、最悪の()()()だ)

 

 そして気が付けば、兄弟五人、地下室らしき窓の無い部屋に押し込められていた。

 緑色のローブで身形を隠した、不気味なものどもによって。

 

 

 

 

 最初に見張りと交渉しようとしたのは、長兄のグウィンであった。

 

 次兄のケヴィン、その下のヒューゴ兄も、死刑囚が順番に椅子に座るように、ベッドとテーブルだけのこの窓のない部屋からいなくなった。残ったのは長女のヴェロニカ、末のアルヴィンの二人きりだ。

 

 

 今年三十歳になる姉は、長く兄弟の母親代わりを務めたためか、男勝りで気が強い。そんな彼女が泣き腫らす様を見たのは、父の後妻であるアルヴィンの母が死んだその日、一度きりだった。小さな子供のように身体を丸めて、十六も年の離れた弟の背中に張り付いて眠る姉を、さてどうしようかと壁に向かってアルヴィンは考える。

 

 生まれた順番でいくなら、姉は次兄の前に連れて行かれているはずであった。姉と抱き合って怯えた数日前が嘘のようだ。『おそらく明日は自分だろう』と思い当たると、不思議と頭がすっきりと凪いで落ち着いている。

 

 

 『怒りと悲しみほど消耗するものはない』と、以前読んだ本で主人公が言っていたが、なるほどその通り。並みの男よりタフな姉がこんな様子なのだから、自分は疲れ切ってしまったのだと思う。

 助けが来るなどという期待は、もう捨てていた。

 

 そもそも、皇太子を含めた王族が、こうして王城の地下に監禁されているのだ。

 こうも易々と国の中心が押さえられていて、誰が助けに来られるというのだろう。そもそも、皇太子である長兄がいなくなってしまえば、それだけでアルヴィンにとっては最悪に思える。

 

 アルヴィンの目にも、『王』となるべき人は長兄だけに見えた。

 長女ヴェロニカは王にするには優し過ぎ、次兄ケヴィンは体が弱く、三兄ヒューゴは健康だが敵を作りすぎる気質である。何より、一つの場所に留めることはできない男だ。

 

 

 

 ――――こういう時、ジーンとコネリウスならどうするのかな。

 

 何度も読んだ伝記小説を思い出し、アルヴィンは深く息をつく。

 

 

「……ミケ。ミケ、いるか、ミケ」

 壁紙の白い花に向かって小さく呟く。その壁の向こうからは、見慣れた姿が顔を出す様子はない。

「やっぱり駄目、か……」

 

 ジーンとコネリウス。

 先代皇帝であるジーン・アトラスと、その双子の弟コネリウスの青年期を描いた伝記小説だ。国を飛び出し、各国を旅してまわったという二卵性双生児の見聞録は、近代の王族伝記の中で飛びぬけた人気を誇る。

 

 

 フェルヴィンの王族には、代々独特の慣習がある。

 その人生が終息した後、その一生を脚色した『伝記』が国をあげて発行されるのだ。

 

 物語は、読者の身分も性別も年齢も、いっさいのしがらみを脱ぎ捨てさせる。読者はその伝記を読んでいるあいだ、その物語の主人公であり、語り部であり、協力者であり、敵対者である。

 

 どんな悪政をしいた王であっても、死んだあとに発行されるこの神聖な伝記の役割は変わらない。むしろ、悪名とどろいた人物の伝記のほうが、よく売れるというものだ。

 

 しかしその筆力の真骨頂は、波乱万丈の人生においてのみ、振るわれるわけではない。

 

 ありきたりな穏やかな日々も、陰鬱とした敗北の日々ですら、ドラマティックに切り取り、虚飾(フィクション)を廃して、読者に欺瞞を使わずに演出する。

 

 その伝記を書くためだけに産まれてきた存在。

 それが、『語り部』と呼ばれる王家に仕える『意志ある魔法』……つまり、魔人の一族である。

 

 

 その系譜は遡ると、神話の魔女の使い魔にあたるらしい。

 

 彼らは王族一人につき一人現れ、生まれた時から死ぬその瞬間まで一刻一秒を克明に記憶し、伝記を書き上げる。

 

 彼らは丸い耳と黒い髪、黄昏の瞳を持ち、あのゲルヴァン火山の真っ黒な煙のように現れては消えるが、常に離れることはない。

 過去、何らかの力で彼らを宿主から遠ざけたという話も聞いたことが無かった。

 

 歴代のあらゆる伝記を読みふけったアルヴィンが断言するのだから、間違いない。

 

 

 姉の語り部であるダイアナも、アルヴィンのミケも、もちろん兄たちの語り部だって、この部屋に監禁されたその日から見ていない。

 

 

 語り部は、主となるものの誕生と同時に生まれてくる。そして死のその瞬間までを語り部は見届け、記録に残す。ミケもまた、アルヴィンが産まれた瞬間に誕生した。

 生まれたその日から、眠りにつくときには必ず隣にミケがいた。十四年間、片時も、誰よりも長く。

 姉の憔悴の理由のひとつにも、確実に、語り部がいないストレスがある。フェルヴィンの王族、アトラスの一族にとって、語り部とは、下僕であり、協力者であり、ときに共犯者であり、なにより自らの影そのものであった。

 

「いないと静かなものなんだなぁ……」

 壁に向かって呟いた声に、返事はなかった。

 



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1 アルヴィン・アトラス

二日目 二回目


 

 夜。嫌な夢を見た。

 

 無人の学校をアルヴィンは歩いている。斜陽がさしこむ窓を避けるように、アルヴィンは見慣れた学舎を歩いていた。

 

(……図書館に行かなくちゃ)

 

 腕の中には、ずっしりと分厚い本が三冊もある。返却期限は二週間も先だったけれど、アルヴィンは早く次の物語に溺れたかった。足並みはしぜんと早くなる。

 

 このつらい日々から逃れることができるのは、寮の部屋にこもって、物語を読んでいるときだけだったから。

 

 ――――物語は、なんびとも差別しません。

 アルヴィンのつらい日々を見て、ミケがそう言ったから。

 

 

 この学校には、いろんな子供がやってくる。王族も、商人も、貴族も、外国人も。なにを学ぶかも、それぞれ違っている。共通しているのは、幼い彼らが、保護者の意志で学費を持たされてここに閉じ込められているということだ。その子供の意志ではない。

 

 アルヴィンにとって、この学び舎は、望まない競争を強要され、欺瞞(ぎまん)と虚飾(フィクション)で身を固めることを推奨する、汚泥の沼のような場所であった。

 

 最初は同級生や勉強への期待があったが、皇子であるアルヴィンに近づいてくるのは、権力に鼻が利く生徒ばかりで、やがてアルヴィンが四男だと知ると、「たいしたことがない」などと勝手に言って去っていった。

 

 それでも、いくらか気軽に挨拶できる友達未満のようなクラスメイトはいたのだ。

 しかし、気付けばアルヴィンは孤立していた。図書館と教室と寮の往復の日々の中、決定的だったのは、ミケと話しているところを見られたことだった。

 

 

 自分の影と話す。その行為は、アルヴィンの故郷を知らない子供たちには奇異に映った。―――――アルヴィンが想定したより何倍も。

 

 

 

 すぐに誰とも会いたくないと思う日常になった。鏡越しの自分の視線すら煩わしい。

 悪意ある噂は、悪意ある人を呼び寄せた。暴流する頭の中を鎮められるのは、物語に触れているときだけだ。

 

 語り部であるミケは何もできない。アルヴィンが頼んだから、アルヴィンが部屋にひとりでいても姿を見せない。ときおり陰から手だけを伸ばして撫でてきたり、目覚めるともう一人ぶんの温もりがあったりする。

 

 勉強どころではなくなって、成績がどんどん落ち込んでいった。体調を悪くして、ベットから出られない日も多くなった。

 

 ある日、とつぜん頭の中がすっきりと静かな日がやってきたと思ったときがあった。

 

 沈黙しかない世界のなかで、本のページを繰る手だけが止まらない。閉じられたカーテンの向こうが、朝か夜かも気にならなかった。

 

 そうしていると、とつぜん『バツン』と弾けるような音がして、強い光に照らされた。そう、それは、この夢のような、黄昏の斜陽で。椅子から床に転がったアルヴィンの肩をかかとで踏みつけたその人物は、こう言ったのだ。

 

 

 ―――――……この、役立たず。

 

 

 ……ああ。

 もう僕を見ないで――――!

 

 

 

 

 

 おそらく六日目の朝が来た。

 

 ひどい悪夢が尾を引いて、脳幹の奥を締めあげている。

 いつか砕かれた右肩の骨は、もうすっかり治っているはずなのに、にぶく感覚がない。

 

 ドアが開くのは一日にきっかり三度。朝食を運んでくる深い緑色のローブの何者かは、必ず食事が終わるまで扉の脇に直立で張り付いている。

 

 ヴェロニカは、朝食が終われば、奴がアルヴィンを連れて行くことが分かっているので、小鳥が啄むように口に運ぶ。四日前、食事を突っ返して反抗したヒューゴ三兄が、引きずられるように連れて行かれたことは記憶に新しい。

 

 

 一口ごとに毒を飲むような顔で食事を進める姉を前にして、アルヴィンは食器を置いて立ち上がった。

 

「……アル」

 

 ヴェロニカが、優しく垂れた眦を釣り上げて弟を見る。いつもの弟たちを叱りつけるときの表情だったが、ひどく青ざめて、頬骨のラインが頭蓋そのものの形を思わせるほどに強張っている。白く握りしめられた手の中で、握った銀食器がぐにゃりと曲がったことにアルヴィンは仄かに笑う。本来の姉は、肉体的にも精神的にも兄弟でいちばん強靭な人間だ。

 

「姉上。ぼくに任せて座っていて」

 姉が見上げてくる。噛み締めた唇から血が滲んでいる。ぶるぶると体を震わせて、彼女は冷たく燃え上がる怒りの衝動に耐えていた。

 

 王族は、しかるべき時に死ぬことも役目であると知っている。

 

 もしかしたら……最悪のことを考えるのなら……皇女である姉は、生き残らなければならない。父も兄もいないかもしれない今、もしもがあるなら幼い末皇子よりも、三十年、国家に尽くす一族として、素養を磨き続けた皇女が生き残るほうが混乱も少ない。

 

 

 いや、とアルヴィンはそれらをすべて、自分で否定する。

 

 違う。自分には、そんな崇高な思惑は無い。自分はただ、アルヴィン・アトラスという存在が煩わしいだけだ。

 

 

 長男、グウィンは熊のような大男。二十三まで従軍し、世界有数のゲプラー大学に留学し、博士号を取った文武両道のひとである。

 

 長女、ヴェロニカもまた武道を究め、地質学で十分すぎる成績を取った。

 

 次男ケヴィンは体が弱いが数学に造詣が深く、その実力は皆が認めるところである。

 

 三男ヒューゴも粗野なふるまいで軽く見られるが、天才肌の男で、独学でやっていた彫刻や絵画で評価されている一方、スポーツ万能としても知られ、顔の広さでは兄弟一だ。

 

 ここ二十年の下層世界では、それなりの家庭の子息なら、他国への留学が当たり前になっている。

 

 アルヴィンもまたその一人であり、兄弟で初めて発生した落第者だった。

 

 フェルヴィン人の多くは、先祖に多くの民族が混ざった結果、背が高く耳が長く色白で端正な顔立ちで、しかし決して虚弱ではない。見た目以上に頑強で生命力が強く、少しだけ長生きだ。

 それは、先祖に交じる獣人や巨人、あるいは、上層世界にある国『コクマー』に今もいるという龍人の血がそうさせる。アルヴィンの四人の兄姉も例外ではない。しかしアルヴィンだけが、父の胸の高さにも届かない。

 

 ――――そう、例外はアルヴィンだけなのだ。

 つい三か月前、一年ともたずに留学先から逃げ帰ったアルヴィンに、兄や姉は優しかった。

 

 

 

(でも僕は、父の期待には応えられなかった……)

 祖父のように年の離れた父レイバーンは、何も言わなかった。事情を尋ねるでもなく、優しく慰めるでもなく、叱咤するでもない。

 当たり前だ。ほとんど会話などしていないのだから。

 

 百年に一度ほどの頻度で、フェルヴィン王家には『先祖返り』と呼ばれるものが産まれるという。体が小さくて、とくべつ虚弱だとかいうことは無いというのに、短命で終わる。

 

 アルヴィンの前は、かの前皇帝であるジーン・アトラスだったが、彼には卓越した勇気と才能があり、半世紀にも届かない半分以下の人生で、世界に名を遺す英霊になった。

 

 アルヴィンは、父が言葉少なに留学を勧めてきたとき、初めて父に与えられたチャンスだと思ったのだ。

 あのゲルヴァン火山が吐き出す煙のように、天を衝くほどの意欲がわき上がってきたのを感じた。

 

 それが半年ほどで消費しつくされ、枯れた意欲は負債となり、自分の中のいろいろな感情を削った挙句、アルヴィンは赤ん坊のように泣いて帰った。

 

 父はさぞ落胆したことだろう。兄姉だって、やがて離れていくかもしれない。そんなことはありえないと自分で否定してみても、疑惑の声は同じところから湧き出てくる。

 

 

『ほんとうに? 』『まだ一度。でも失敗は何度まで許されるかな? 』

 

 

 もしかしたら父は、期待からではなく、そもそもアルヴィンが疎ましいから遠ざけようと留学の話を持ってきたのかもしれない。

 アルヴィンは兄弟で一人だけ母親が違う。面差しは姉に似ていると言われるが、もっと似ている人がいるのも知っている。

 

 アルヴィンは、若かりし頃のジーン・アトラスに似ているのだ。

 

 前皇帝は、フェルヴィンに多大な貢献をした。ジーンが夭折したのち、皇帝となったレイバーンの苦労は計り知れない。堅物の現皇帝が、破天荒だった前皇帝を疎むのもおかしいことではない。父は、きっとこの貌が嫌いなのだろう。同じ貌をしているくせに、たいして役にも立たないから、余計に疎ましいのだ。

 

 

 ああ、それなら、顔を合わせる気が無いのも辻褄が合う。

 アルヴィンの精神に鑿(のみ)を入れたのは、十ヶ月の異国生活ではない。その後、ほんの一瞬、廊下ですれ違った時に向けられた、実の父の眼差しだった。

 

 

 だからアルヴィンは、自分から扉をくぐることにした。

 そう、自分は幼いから……蓄えた力がこんなにも小さいから……役立たずだから……。

 だからせめて、自分の足で、扉を開けることにした。

 

 

 アルヴィンの思う英雄には程遠い行いだけれど、きっとミケは素晴らしい伝記を書き上げる。これが後の世で称賛を浴びる行為になることを夢想して、立ち上がった。

 

(この苦しみを利用しよう)

 アルヴィンは薄く笑う。笑うことができた。

(今の僕が役立てる最善。兄さんたちを生かすためなら、どんなに情けない命乞いだってできる。今以上の屈辱は無いんだから……)

 

 傍らに並んだ見張りの、蝋細工のように冷たい骨ばった手が、アルヴィンの両手首に触れて真鍮の手錠をかけた。

 

 

 

 

 

 

 だから私は、その瞬間に、誓約を忘れることにした。



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1 ミケ

二日目更新 三回目。(ブックマークいただいて嬉しかったので)


 だから私は、その瞬間に、誓約を忘れることにした。

 

 

 魔人とは、かの偉大なる魔女が発明した『意志ある魔法』である。

 無機物を肉のかわりにし、呪文を魂のかわりにして、誓約を与えることで命が宿る。

 フェルヴィン皇国のアトラス王家に仕える『語り部』は、かの魔女が創造した二十四枚の銅板から()った最も古き魔人である。

 我々は、そんなフェルヴィンの語り部である。

 

『我々は主の生誕の瞬間からこれらの文句を誓約とし、約定の証としてアトラスの民を記録するために文字を操る意志と、物語る腕と、見つめる瞳と、詩を紡ぐ舌を得た』

 

 我々が魔女と交わした百八の誓約は、この文句から始まり、こう締められる。

 

『誓約を守れぬ語り部は語り部にあらず。語り部にあらざるものは、約定により一族の原初たる宇宙の一部となる』

 

 この誓約により、我らはフェルヴィンの末までを見届けるのだ。

 

 語り部の本分は陰である。

 我々は物語の傍観者であらねばならない。

 我々にとって、主となる彼らは、生涯の主人公。

 傍観者たる語り部は、決して物語には浮上しない。

 語り部は自己を描写しない。

 主人公の運命に干渉してはならないからだ。

 主人公の睫毛の影として、その瞳に映る世界を記録する装置でしかないのである。我々はその小さく微かな影から出てはならず、主が最期を迎えれば、睫毛の影を滑り落ちて、ただのインクとして、物語に……我らが主人の生そのものを、文字列として編み上げる。そしてピリオドを打つ。その生に意味を与えるために。

 

 魔女が創ったのはそういう魔法。それだけの魔法。

 それが誓約。誇りある役目。

 

 物語の前に貴賤(きせん)はない。アトラス王家に選ばれた彼らは、たしかに神々の血を引いてはいるけれど、もともとはアトランティスに住むただの漁師だった。

 

 主がこの世に産まれたその瞬間に、私は『私』として、この世界にまろび出た。

 以降、本日までの十四年と九十八日間、瞬きも惜しんで彼を見つめてきた。

 誓約は、我々にとっての血液だ。これによって、我々の存在は元始たる宇宙の法則から抽出(ちゅうしゅつ)され、この世に顕現(けんげん)することができる。

 もし誓約を破ればどうなるか。血液が流れ落ちて、肉体を維持できず、消えるしかない。

 

 誓約では、たとえ目の前でアルヴィン様の首が刎ねられようとも、私はそれを黙って見ていることしかできない。

 ……でも、そんなの、耐えられるわけがないじゃあないか。

 

 アルヴィン様が恐怖に身を捩ることも自分に許さなかったその時、私は、()の何もかもを忘れた。

 

 私の胸に溢れるのは、アルヴィン・アトラスという、ただ一人のこと。

 たった十四歳しか生きていない生命のこと。

 私が十四年と九十八日、ずっと一緒にいた、たった一人しかいない貴方のこと。

 

 だって、おかしいじゃあないか。十四歳が抱える悩みなんて、十年もすれば教訓になる。間違いで人は成長する。なのに貴方にだけ、その十年後が無いなんて。そんな悲しい覚悟を抱えて死ぬなんて。あの十四年が、悲劇で終わるなんて。

 

 ジーンとコネリウスのようにならなくていい。先祖のような勇者でなくていい。

 

 あなたの生の意味を、私はとっくに知っている。あなたが産まれたその日から知っている。

 

 これが運命だというのなら。

 

 悲劇の少年として死ぬことが、あなたに宇宙(せかい)が与えた役割だとしても!

 

 それでも、それなら―――――わたしはあなたの運命を否定だってしてみせる!

 

 ―――――貴方がいなくなるくらいなら、ミケはなんだってできる!

 

 

 

 

「お兄様たちは生きておられます」

 かたわらを歩く見張りから掛けられた言葉に、彼ははっと顔を上げた。

 床を踏む自分の爪先がようやく見えるほど、かすかな灯火しかない地下の回廊。

 自分よりも頭一つ高い位置にある素顔は、ローブの奥の陰に沈んでいる。アルヴィンは先ほどまでの明るい牢獄で垣間見た、この人物の髑髏のように痩せた頸を確かに覚えていた。

 その血の気のない薄い唇から紡がれたはずの声に耳を疑う。

 それは確かに、誰よりも聴き慣れた、少年と少女の間のような声。

 

「……ミケ、か? 」

「もちろん。貴方様のミケでございますとも」

 涼やかな声が、笑いを含んで言う。

「今ならば、誰が聞いているということもございません。よくぞ辛抱なさいました。ミケは誇らしゅうございます」

「おまえ……おまえ……。い、今までどこにいたんだよ」

「もちろん、貴方様のお側におりましたとも」

「じゃあ、なんで……っ」

 アルヴィンは語尾を強くしかけ、荒ぶる感情を千切るように首を振った。

 

「ご命令をくださいませ。語り部は、命じられなければ動くことができません」

「そんなのわかってる! まず、そうだ。……兄上たちの行方はわかっているのか? 」

「語り部は繋がっております。おのずと情報は共有されるのです。語り部として、仔細(しさい)まで漏らすことなく描写するために供えられた機能でございます」

「そうか。逃げるといっても、算段はどうなっている? 」

「このミケにお任せください。活路はございますれば」

「……語り部には誓約があるだろう」

 自分で言ってすぐ、アルヴィンは顔を歪めた。嫌いなものの匂いを嗅いだ猫のような顔だった。

 

「おまえ……誓約を破るつもりではないか? ぼくのために」

「御心配にはおよびません」

 闇に沈んだ口元が、明るい声で言った。

 

「語り部とは慎重であるものなのです、アルヴィン様。また大変不便なことはご推察のとおり。同胞共は慄きながら、それぞれの主人より御指示を待っております」

「お前たちに指示ができないような、危険な状況ということか!? 」

「いいえ。いいえ。アルヴィン様」ミケは指を立て、アルヴィンの口をふさいだ。

「わたしの言葉を今一度、思い出してくださいませ。お兄様はご無事です。ただ、深く眠っておられるだけとミケは推察いたします」

「嘘は無いな? 」

「もちろんでございます」

 アルヴィンは柳眉をひそめた。

「……なあ、ミケ。あまり僕に喋りすぎるなよ。『誓約』に触れるぞ」

「いいえ、アルヴィン様。『舌の誓約 第五条』にはこうありますでしょう。『主の意志にみだりに口を開くべからず』……しかし、この『お喋りミケ』が、今まで罰せられたことがありましたでしょうか? 誓約とは、はたして何がどこまで禁忌に障るのか、それは我々にもハッキリしたことは分かりません。しかしこのミケ、語り部とは主の一の従僕であると心得ておりますので、貴方様に命じられさえすれば、私が掴んだ情報のひとつやふたつ―――――」

「誤魔化すな! 『舌の誓約 第二条』には、『語り部はあらゆる虚偽とごまかし、曖昧で誤解を招くような文言を禁ず』とある! おまえは嘘をついているな!? ぼくを騙せるつもりでいるのか? 語り部の誓約が甘いものではないのは知っているぞ! コネリウス皇子の語り部は、死にかけた皇子に水を運んだばかりに誓約に触れて死んだ! 語り部は主の運命を変えたら死んでしまう生き物なんだ! もっと慎重になってくれ! 」

「皇子。らしくない間違いをなさいましたね。我々は『死に』ませんよ?」

 悪戯が成功した子供そのものに笑う声が、囁くようにそう訂正する。

「我々は意志ある魔法……生命あるものではありません。魔法は解ければ、宇宙の法則に戻るだけ。それは死ではない」

「今さらぼくが……兄さんや姉さんが、お前たちをそんなふうに見ているわけがないだろう? 語り部を亡くした、数多(あまた)の先祖たちがどれほど悲しんだと? 」

(……あぁ)ミケは笑顔の奥で嘆いた。

 アルヴィン・アトラスは、(さと)い人である。感情の機微には、とくによく気が付いた。「早くお別れをしなければ」なんて思ったから、この主人は察してしまったのだ。

 

「―――――意志があるなら、それは命というんだ! 」

「貴方様なら、そのように仰ると思っておりました」

「主人を泣かせておいて、何が可笑(おか)しい! ぼくはもう、十四歳だぞ! 」

「アルヴィン様、しばし、ミケにお付き合いくださいませ。これが最後なのです」

「最後なんて言うな! 」

「いいえ。いいえ。それは聞けません。よくお聞きください。大切なことです。ここは、王城の地下にある空間です。縦に連なる二十二の世界のうち最も深い、最も冥界に近い場所。ここでの一年は、外での半日にも百年にもなります。ひどく時間が曖昧なのです。少しならあの『死者の王』をも欺くことができましょう。さあ、一語一句ミケの言葉を逃さずに。いいですか」

 真剣なミケの声が、すべての首尾を話し始め、アルヴィンはひとつひとつに頷きながら聞いていく。

(ああ、やはり、この方は賢い。ここまで追い詰められているのに、自分がパニックになってはいけないと分かっている。上に立つものの責任感。率いる立場の作法。すべて、ちゃんと分かっている)

 

 

「姉さんたちは、うまく逃げられるんだな」

「皇子の功績です! 皇子があそこで部屋を出たから、見張りが分散してうまく皇女を逃がすことが叶ったのです! 」

「そうか……よかった」

 

 やがて一瞬の間が空き、言葉に迷うアルヴィンの肩に、やおら灯を床に置いたミケが手を置き、ふたりはしばしの時、闇に浮島のように浮かんだ灯火の中心で向かいあった。

 

「……アルヴィン様」

「……ききたくないなぁ」

「お願いです。きいて。これがきっと最後なのです」

「………」

「アルヴィン・アトラス様。わがあるじ。運命とはつかみ取るものではございません。向こうからやってくるものです。歴史上数々の英傑が、英傑たる者になったきっかけとは、運命という暴走車に正面衝突されたようなものでございます。そして、危機となれば救けの手がどこぞより降ってくる。……ですから貴方は、この身勝手なミケに、勝手の『手』に救われて生き続ける運命なのです。いいですか、私は今から、とても残酷なことをします。貴方は傷つくことでしょう。傷が癒えた後も、ふとした時にミケがいなくなって、困ることもあるでしょう。貴方から見える現実は、物語のように脚色されません。数々の心無いものたちが、貴方の心を(くじ)かんと待ち伏せています。しかしどんな困難も、これを乗り越えた先にいる貴方なら、何一つとして恐れることは無い。アルヴィン様は類まれなるイケメンで、勇敢で優しく、頭がいい! アルヴィン様の語り部であることは、ミケの最大の誇りなのです」

「くそ……! くそっ! ぼくは、ぼくは――――」

「……まったく。子猫のようかと思えば、今度は猟師に耳を掴まれた兎のようですね。今こそ悪に抗い戦うべき時。勇者に涙は似合いません」

「……そんなのは、自分の目玉にも言え! 」

「おや……これは私に許された最後の褒美ですもの。……さあ、もうすぐです。行きましょう」

 

 回廊が終わる。

 アルヴィンの目の前には、見慣れぬ扉がある。

 ミケが掲げた灯火で、ひととき粘的に闇が退き、神話の巨神が剣を持って立ち塞がる姿が浮かびあがる。荘厳であったのだろう、こんな煤けた地下には不釣り合いな、立派な鉄扉であった。

 それを見て今さらながら、アルヴィンはこの場所を居城の中のどこかだと確信する。巨神アトラスは、フェルヴィン王家の始祖神であるからだ。

 

「……お連れいたしました」

 別人の皺がれた声で、ミケが扉の向こうに告げた。



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1 ミケ

三日目 一回目。


「……お連れいたしました」

 別人の皺がれた声で、ミケが扉の向こうに告げた。

 

 やがて(ひと)りでにゆっくりと扉が開き、淡い明かりが、無数の帯になって広がる。

 明かりの奥は、扉の様相から想像できる通りのがらんどうの広間となっていた。

 アルヴィンは、こんな空間が王城にあったことに驚いた。空調機器なんてものを知らない石造りに、吐いた息が白む。

 

 もともと、フェルヴィンは険しく聳え立つ山岳地帯を開拓してできた鉱山の街だ。

 長い歴史のあいだ、どことも知れず無数の坑道跡がいくつもあり、落盤の危険が無い穴は、市民の住居として使用されていることもある。

 アルヴィンは知識として王城地下にもそれが届いているのは知っていた。そういった『忘れられた道』のいくつかは発見され、水道や、有事のときにだけ機能する避難路として整備されている。

 

 しかしこの空間は、隠されていたにしては、あまりにも広大すぎた。

 幾本もの柱に支えられた丸いアーチを描く天井は、アルヴィンが十人いても届きはしない。

 広間全体は、磨かれた白灰色の岩石でできている。

 煌々と明かりが焚かれていたが、しかしそれでも、かつての栄光より積年の闇が強く空間に残留していた。奥にある玉座のような台座に、裸で跪いて星図を描いた巨球を抱えた巨神アトラスの像がある。その頭上には一つきりの小さな天窓があり、夜闇らしき黒雲の空が透かし見えた。

 先ほどの食事は、朝食ではなく夕食だったのかもしれない。いつしか地下の牢獄で時間の感覚を失くしていたのだろう。

 いや……『失くすように仕向けられていた』のか。

 

 

 明かりの中で改めて、アルヴィンは語り部の顔を下から一瞥(いちべつ)した。その、頭蓋骨に皮が張り付いたような、男かも女かも分からない死体のような顔は、一滴の涙も情の名残りもない。先ほどこれと涙を流したことが、目を開けて見た夢のように感じられる。

 人の気配を感じない。広間にいるのは、呼吸をしているのは、アルヴィンと姿を偽ったミケだけだと断言できる。

 

「ああ、お待ちしておりました」

 しかしその人物は、アルヴィンの目線の先に立っていた。

「お会いできて光栄です。アトランティス末裔の子。アルヴィン・アトラス皇子殿下」

 アルヴィンは思わずのけぞって後ろに半歩足を引いたが、改めて目を凝らすと、『それ』は、互いに手を伸ばしても届くはずがないところに立っていた。

 

 纏うのは広間に同化している白灰色のローブ。それは銀と黒の糸で縁取りと意匠を施された布を引きずって、持ち上げた指の先まで、同色の手袋に覆われている。

 鼻の下まで垂れ下がったフードの下で、『それ』が笑う気配がする。

 背面に伸びる長い影と白い床とのコントラスト、広間全体の高い天井と、その灰色に溶け込む肌を晒さない衣装のせいで遠近感が掴めず、ひどく大きいようにも、幼児ほどに小さいようにも感じた。

「アア……なんてこと……」

 広げた腕を緩慢に引き寄せ、胸の前で拳を握り、『それ』はうっとりとした声色で、身体を震わせる。

 

「その月の化身のごとき髪……瞳…………。『これ』ならば間違いない。あの御方も、これならばきっと求めに応じて下さる」

 

 押し込められるような静かな声だというのに、それは静寂によく響いた。

「とても良い……神々は時に、驚くべきことをなさります。わたしはとても嬉しい……そうとても! 」

 『それ』はもう一度「とても素晴らしい! 」と叫んで、アルヴィンに向かって、手を打ち叩いた。

 纏わりつく違和感が気味の悪さとなり、さらにそれが、恐怖になって、再びアルヴィンに忍び寄る。

 

「ねえ、ここは王城のどこだと思います? 」とうとつに、それはアルヴィンに問い、自分で解答した。

「墓場なんですよ」ローブの下の影が笑う。

 

「この講堂の正体は、王城の地下にある、アトラス王家の(いにし)えの墳墓。……とはいっても、アトランティス王国では火葬したあとの散骨が慣習だとか? なんでも、人は水から生まれて火に還るとか? ()()()()()()()()、今の人類は炉から取り出された土塊から創造されたとかで? ええ、なんとまあ。泥から生命が生まれるとは、なんとも馬鹿げた……いえ、口が過ぎました」

「アトランティス王国……? ここは今、フェルヴィン皇国だ。アトランティスは……そんなのは神話の時代の名前じゃあないか」

「ふむ。そういえば今は、フェルヴィンというのでしたか。まあいいでしょう。時代は変わる。しかし、すべての枝を辿れば根に集束するように、ここに遺骸が無い事実が君の不運。あればあなたの出番は無かったのですけれど。大切なのは、ここがアトラス王家の墓場だということです。ここはアトランティスの皇帝のためにある斎場(さいば)。儀式上の『墓』。肉体は火にくべられ、材料たる土に還り、魂はこの『場』にあるとして、人は祈る。祈るための……そういう名目の『墓場』。魂がここへと至ると()()()のならば、わたしはここに立たねばならない……」

「おまえは何が目的だ? 」

「目的? そんなものは決まっている。準備ですとも。準備に決まっているじゃあありませんか。魔女との誓約。この世を創造した神々の試練を果たすがため、約束された世界改変を賭けた大戦! 」

 とうとつに狂乱した『それ』は、大きく腕を広げ、天を仰ぐと、裾を翻して広間の中心で踊るように回った。

 

「神々の試練に挑むのは、蘇りし『死者の王』―――――」

 

 『それ』は(うた)う。

 

 

「神の怒りに触れたアトラスの国アトランティス。地の底、タルタロスに沈んだ魔女の墳墓より、雲海を抜けた天空の神殿へ――――()()()()の今こそ、魔女と神々が交わした約定が果たされる! 」

 広大な広間に反響したそれが、アルヴィンの肌に凍みて粟立たせていく。

「それこそが! 我があるじへと捧げる王道への筋書きッ! 魔女の預言をくじき、天上の神々を地に落す、あの御方が歩むべき覇道を特等席で見届ける! それこそが涸れ果て摩耗したこの身の悲願――――――ッッッ! 」

 

 そのときだった。

 『それ』の言葉をさえぎるように、広間にいやな匂いのする大風が渦巻いた。

 灰色のローブがはためき、上がっていた腕が『興が覚めた』というようにパタリと落ちる。硫黄の臭気をまき散らし、床に積もった埃を舞い上げながら、新たな姿が渦巻く風の中から編まれる。

 その醜悪な巨体に、アルヴィンは畏れ慄いた。

 

「いつまで道化を続けるつもりだ。神官(ピューティア)よ」

 ―――――頭は馬に似ている。しかし、アルヴィンの知る馬とはかけ離れていた。

 巨躯に()()()()とまとわりつく硫黄の臭気のする黒い(もや)。脂光りするような黒い馬頭に、昆虫のような黒いだけの瞳と口を持ち、胴も、腕脚も、三股に分かたれた大木のような蛇身である。

 醜悪な赤黒いまだらのある鱗は、毒のある茸のようだ。腹は倦んだような黄色みを帯びていて、そこから鋭い棘のついた甲虫の肢が、無数に生えている。背中から床へ黒い皮膜が垂れ下がっているが、それはおそらく、翼のようだった。

 

「……まあ。出番はまだ先ですよ。アポリュオン様」

「不遜にも我が名を口にするか? 神官ふぜいが」『アポリュオン』は吐き捨てた。「いつまで待たせる? わが軍は腹ぺこだ! いつまで我が子たちにひもじい思いをさせねばならない? 」

 

 それはねっとりとした卑屈な声色で、アポリュオンに投げかけた。

「三千年待たれたのでしょう? あと二日ほどお待ちいただけませんか」

「不遜な! 」

「しかしあなた様は、もはや奈落の王ではありませんでしょう」

「貴様―――――」

 

 床に垂れ下がっていた黒い皮膜がバサリと広がった。

 息が止まるほどの硫黄の臭気がたちこめる。馬頭にある濁った黒い瞳が見開かれ、臼のような切れ目のある口が、がりがりと恐ろしい音を立てて鳴った。

 

「そしてわたしは、『神官ふぜい』などでもない」

 相対する『神官』は、何かを持ち上げるように差し出した腕をアポリュオンに向ける。

「あの御方の下僕といわれるのなら本望でございますが。よりにもよって、()官などと―――――どちらが不遜なのか! 」

 

 ローブの腕が、持った何かを叩き落すように振り下ろされた。アポリュオンの白目のない瞳が、青紫に濁って『ぐしゃり』と皺が寄る。臼のような歯が、奇妙に歪んで、バグパイプを滅茶苦茶に吹き鳴らしたような断末魔が響いた。

 アルヴィンが目を逸らす暇もなく、見開かれた目に映ったのは、アポリュオンが捻じられながら、『圧縮』される姿だった。

 空間にまき散らされる水分に乗って、いままでにない硫黄の臭気と、はっきりと腐臭と取れる悪臭が混じり合い満たされる。

 『神官』が苛立つ様に肩を上下させ、袖をひるがえすと、あたりに立ち込めていたアポリュオンの名残りともいえる霞と臭気は、なにごともなかったように消え去った。

 

「わたしのことは、ぜひとも『魔術師』とお呼びください」

 

 おそらくそれは、アルヴィンに向かって言われたのだろう。しかしアルヴィンには、頷くほどの余裕もなかった。

 膨れ上がる恐怖の殻に穴をあけたのは、やはり、隣に立つミケの存在である。

 ローブの下、見慣れたミケの黄金の瞳。その視線だけが、アルヴィンを現実に引き上げる。考えろと言ってくる。

 

「いや、いや、わたしは誇り高きアトラスの民である、神々の末裔と、もっと語らいたいのです。しかし、そろそろ潮時というのも確か……」

 また音も無く、手袋の手を打ち鳴らして『それ』は宣言した。

 

「せっつかれたことですし、儀式を始めましょう。さあ、こちらへ。殿下」

 

 ミケが後ろから肩を柔らかく押す。温度の無い手。しかしミケの手だ。

「……時を待つのです」

 アルヴィンは項垂れるふりをして頷いた。

(……大丈夫。ぼくは必ず生き延びる――――)

 

 しかし、そのミケが言った。

『現実は物語のように脚色されない』と。

 

 

 両手を広げた『魔術師』を中心にして、溶けだした氷像の姿を逆再生したように、何もない床から『それら』は現れた。

 

 



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1 ミケ

三日目 二回目


 

 その場に現れた四人の男は、まるで息を吹き返したように、背中を丸めて咳き込んでいる。懐かしいほどに見慣れた姿。

 息をしている。

 ――――生きている!

 

「――――兄さん! 父上……! 」

 

 踏み出そうとしたアルヴィンの腕を、ミケが強く引いて留めさせる。

 腕を鎖で拘束され、血の気が引いた顔は憔悴(しょうすい)してはいたが、傷らしい傷は見当たらない。そのことに、まずアルヴィンは安堵した。

 フェルヴィン王家たちは、幼い末のアルヴィンを除いて、姉のヴェロニカですら全員しっかりとした体躯をしている。その中でも、野性の熊を思わせる体の大きな男が、最初に息を整えて顔を上げた。

 長兄・グウィンは常に整えられていた髪が乱れ、前髪が秀でた額の上にかかり、眼鏡もかけていない。髭が伸びた姿はずいぶん野性味を増してはいるものの、赤銅色の瞳の奥に湛えられた理知的な輝きは失われていなかった。

 

「こ、ここは……ア、アル……!? 」

「っおい! てめえ、その汚ねえ手を離せ! 」

 三兄のヒューゴが吠える。彼は四日前に見張りに歯向かって連れて行かれた。兄と違って若々しく見える童顔を茶色い無精ひげが覆い、疲れは見られたが、父や長兄に比べれば格段に元気そうだった。虚弱体質の次兄、ケヴィンは、なかなか息が整わないが、淡い金髪の隙間から、針のように油断のない視線があたりを観察している。

 

 問題は、誰より長く拘束されていたはずの父。

 皇帝・レイバーン・アトラスは、白髪が混じり、埃で汚れ、くすんでしまった金髪を顔の前に垂らしたまま、ぐったりとうつむいて膝をついている。裸足の足の裏は泥で汚れ、襟に垢が染み、レイバーンが過ごしたこの七日間は、息子たちとは比べ物にならないものだったに違いない。

 

「……どういうことだ」

 その、斬首刑を待つ囚人のように、首を垂れたままの皇帝が、おもむろに獣が唸るような声を発した。

 

「この身一つで、貴様らの目的は達せられたはず! 息子らに何をさせようというのだ……! 何を考えている! 」

 

 (つね)は凪いだ泉のように静かな父の激昂する姿を、アルヴィンは初めて目にした。

 アルヴィンは、父が性根から【王】であることを改めて認識した。その男は、折れぬ剣たるフェルヴィンの王であった。五人の息子娘たちの父であった。

 囚われの皇帝は、足枷の鎖を引き摺りながら立ち上がる。

 『魔術師』はじっと、人形のように立っていた。

 

「……立て。グウィン。この魔術師の前で膝を折ってはならない。ケヴィン、ヒューゴ、アルヴィン――――兄を守れ。グウィンが倒れたら、必ずや、次に引き継ぐのだ。絶やしてはならぬ! 」

 次兄ケヴィンが、いまだ整わない調子を押して顔を上げた。

「ゲホッ……陛下……!? 何を仰っているのです……! まるで、そんな……! 」

「ケヴィン、頭のいいお前なら分かるはず。時が来たのだ。始まってしまうのだ。我が一族は役割を果たさねばならん。我が国の名誉とお役目を、あの不埒者から守り抜くのだ! この国は堕ちた! ()()()()必ず選ばれる! 」

「今なのですか! 」ケヴィンは悲鳴のように叫んだ。「三千五百年! そのあいだに何も起こらなかったのに! よりにもよって今……私たちの世代なのですか! 」

 長兄グウィンが小さく唸った。顔は厳ついが、無口で優しい兄だ。しかし今の兄は、鞘から解き放たれた刃のように恐ろしい。そしてそれ以上に、憔悴しきっているはずの父の、尋常ではない眼孔の強さが恐ろしい。

 

「父上」

 長兄と父の、白刃のような視線が交差する。そこではアルヴィンには分からない『何か』が交わされた。

「……わたしはもう駄目だ。グウィン、()()はおまえだ」

「そうはさせませんよ。()()()()()()()()()()()()

 

 フードの下で『魔術師』が満面に笑みを浮かべたのがわかった。

 

「今夜、予言は果たされる……人類の選定が今、この夜、始まるのです。『皇帝』に座るのは、息子のほうではない。貴方だ。もう手遅れなのですよ、レイバーン。あなたは『最悪』で『最後』の『悲劇的な』皇帝として人類史に刻まれる……」

 魔術師が父にむかって、招くように腕を持ち上げた。

 魔術師が手のひらを下に向けると、広間に無数の青い炎が灯った。いくつもの青い火の玉は、儚げに揺れながら、おのおの縦に伸びて、人型の陽炎をつくりだす。

 最初、魔術師と皇帝以外は、その意味を理解できなかった。

 

「貴ッ様ァァァアアアア――――ッ! 」

 

 咆哮のような怒声を上げたのは、沈黙を保っていた長兄グウィンだった。ケヴィンが額を掻きむしり、三兄ヒューゴは青ざめて膝をついた。

 

 ――――見慣れた顔がある。

 皇帝一家が年月をともにしてきた城の住人たちが、青い陽炎となって、死の瞬間のままの姿でそこにいた。

 

「冥界の、青い炎……」

 

 アルヴィンの喉の奥から何かがせり上がる。唇を引き結んで飲み込み、アルヴィンは爪が食い込むほど拳を握った。

 少年の胸には決意がある。

 ついさきほど、死ぬ気で牢を出た。あのときとは違う決意が、あの浮島のような灯りのなかで、ミケと交わした決意がある。

 

 魔術師に向かって足を踏み出そうとした、そのとき。当の魔術師の顔が、アルヴィンを向いた。

 

 魔術師はフードの陰で、笑んだ。

「そう……次はあなたの番だ」

 

 魔術師がさっと手を上げる。その指先から()()が出て、隣を通り抜けたように感じた。

 風切り音に導かれるように首を回したアルヴィンの瞳に遅れて、右の二の腕に痛みが奔る。

 見開いた瞳に、起きたすべてのことが、(つまび)らかに晒される。

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「アアアアア……―――――」

 電池の切れかけた玩具のようにアルヴィンの舌が震える。

「ミケェ―――――ッ! 」

 

 彼が視たのは、アルヴィンの二の腕を掴んでいた手首が、弧を描いて皇帝の足元へと落下するところだった。深緑のローブに包まれた矮躯が二つ折りに曲がりながら飛んでいく。

 両断され、二つに分かたれた断面から、血の代わりとなって黒い霞が溢れた。

 遅れて、鉄を叩いたような硬質な音が広間に響いた。アルヴィンは足を踏み出し、手枷のついた両腕を伸ばす―――――。

 

 目に映るすべてのものが緩慢になった。

 

 胴と足が分かたれたミケは、金色の瞳を見開いて、アルヴィンをまっすぐに見つめている。

 

 ぽっかりと開かれた口の中で、舌が何かを言わんと動いた。

 その口からも泥のような霞が吐き出される。

 代わりに、千切れた右腕が持ち上がって、アルヴィンに伸ばされた。

 深緑のローブが、アルヴィンの肌に触れた端から塵となって空気に溶けていく。

 魔法が解けていく。ミケを作っていたものが崩れて消えていく。

 鼻の先から黒い霞の中に顔を押し付けると、微かな肉体の名残りの抵抗と、古紙とインクと金臭さの混じった嗅ぎ慣れた体臭、その持ち主の囁くような最後の息吹が耳に触れた。ミケの解けかけた体にも、少年の肌の感触が、名残りのようにかすめる。

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 あなたが泣くことを知っていた。

 

 最期にあなたの笑顔を見たかった。

 

 こんな顔をさせたことが、わたしの一番の罪だった。

 

 

 ああ―――――どうして神様。この子にこんな試練をお与えになるのですか。

 この涙がこの子の運命(さだめ)だというのなら、わたしはその運命を否定したい。

 

 だってわたしは、どうしようもなくこの人を愛しているのだから。

 

 



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1 ミケ

三日目の三回目。


 

 両断された銅板がアルヴィンの膝を打ち、カラカラと音を立てて床に転がる。

 霞を掻き集めるように虚空に両腕を伸ばしかけ、それがもうどこにも無いことに気が付いたとき、アルヴィンは膝を折って、語り部の亡骸に――――魔法が解けた銅板に覆いかぶさって慟哭(どうこく)した。

 

 魔術師が手を掲げる。

「っ! 返せぇッ! 」

 銅板の片割れが、見えない糸に引かれるようにして、魔術師の手に収まった。

「返しませんよ。()()は、大切な材料ですもの」

 

 魔術師の足の裏が、地を離れた。巨神の像を背にして、魔術師はミケの生れの果てを掲げる。

 

「この国は魔女の墓。魔女の亡骸はここにある。墓守の血もここに五人……あとは魔女の末裔だけ。……ははっ、ははははははっ! 」

 

 魔術師は膝をつくフェルヴィンの王族たちを眼下に望み、高々と哂った。「はははははははは……! 」

 笑い声にあわせ、躍るように亡者たちの青い炎が燃え上がる。

 アルヴィンは、目蓋を掻きむしりながら床に額をつけた。視線が勝手に犠牲者たちを数えてしまうことが恐ろしかった。

 

「さあ……選定が始まる。審判が始まる。我が主が蘇る…………」

 

 魔術師はローブを脱ぎ捨てた。

 眼孔に青い炎を宿した()()()()()がそこにあった。

 亡者は笑う。その手の中で、銅板(ミケ)が鼓動を打つように波打った。

 掲げられた手の中で、銅板はその(こぶし)を包み込むように形を変える。魔術師の口が開き、その青い炎が宿る咥内に銅板は、()()()と吸い込まれた。

 

「……くっ、くふふふふふふふ……」

 噛み締めた歯列の隙間から、青い炎が吹き上がる。

「ふふふふふふふふふふ………はははははははは…………! 」

 

 アルヴィンは涙に濡れたまま、ぼんやりとそれを見上げていた。

 「逃げろ」と父の声が言う。アルヴィンの身体は氷像のように固まって動かない。動きたくないと思った。ミケを失って得た感情が体を重くした。

 今度は下から風が吹いた。

 いいや、それは風というよりも波だ。押し寄せ砕ける冬の海の大波に似ていた。

 氷のように冷たい冷気を乗せた衝撃。屈強なフェルヴィンの男たちの呼吸が止まる。

 アルヴィンは、自身の軽すぎる身体が渦に巻かれながらもがいた。顔をかばって突き出した自分の指越しに、激しく揺らめく青い炎を見る。

 その炎の中に見上げるほどの巨大な髑髏(どくろ)が浮かび上がり、揺らめきながら、屍の手足が溺れて漂っている。

 アルヴィンはつい、その小枝のような指先へ手を差し伸べ――――髑髏の眼孔と視線を交してはじめて、(はし)った本能からくる悪寒に、それが間違いだったと知った。

 その髑髏の腕は、いつしか立派な剣を握りしめている。剣先が上がり、ぬらぬらと煌めく鋼が、アルヴィンの顎の下へとなめらかに添えられた。音のない世界で、炎の向こうで叫ぶ父や兄の姿。

 そして――――――。

 

 ……魔術師の声が響く。

 

「冥界より来たれ! わが手駒! ――――月白の金の髪。青銀の瞳。乙女にも勝る白磁の肌……!肉体は滅びても魂はこの墳墓に! 今こそ新たな物語を刻む時! おいで! この手を取るのだ!

 

 

 

  ジーン・アトラスッ! 」

 

 

 

 視線を(かわ)している髑髏に、肉を持った肌が重なっていく。がらんどうの眼孔に、輝くような青い瞳が収まり、白い瞼がその上に降りた。瑞々しい白い頬から続く首から下は、老人のままに乾いている。

 

「老いて病に屈した貴様に、再びの美貌と栄光を与えよう! 蘇るのだ! 虚無と絶望の生者、アルヴィン・アトラスの頭蓋骨を糧として! 」

 

 アルヴィンは炎の中に見た。

 かの皇帝が、微睡みから覚めるように再び瞼を開き、アルヴィンに向かって悲しげに青い瞳を揺らめかせて遠ざかる。

 交差し、結ばれた視線は、アルヴィンの意識が闇に閉ざされていくことで離れ、アルヴィンの意識は銅板の片割れと共に、無音の暗黒を切り裂くように、どこまでも果てしないところへと落下していった。

 

 

 



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1 レイバーン・アトラス

ブックマークありがとうございます。

四日目 一回目。



 

 ジーン・アトラスは、辺境フェルヴィン皇国の出身でありながら、死後に出版された伝記小説の人気により、近代でもっとも尊敬される英雄のひとりである。

 双子の弟コネリウス・アトラスとともに、病で侵された母国救済のために世界を踏破し、晩年は優れた王としてフェルヴィン文化の近代化に尽力した。伝記として書き上げられたのは兄弟で旅した青年期のことで、天使のような容姿の賢い兄と、おおらかで勇気ある弟の凸凹コンビによる、使命を帯びた冒険活劇は、八十二の言語に翻訳されて多くの子供たちの心を魅了している。

 

 生前の彼を知る人々は、彼のことを、講義上手の優秀な教授のようだったと称した。

 美貌は最後まで衰えることはなく、顔に似合わず毒舌家で、弁舌家。立ち姿は神々しいまでに威厳があり、魅力的な人であった、と。

 

 フェルヴィン人は大柄なものが多い。壁のようにそびえる宮廷人たちに向かって、頭二つも小さな王は、誰よりも大きな口をきいたが、誰も王の理路整然とした意見に逆らえなかったという。

 

 彼は、長命人種としては三分の一ほどしかない五十六年という人生を、生涯独身のまま幕を降ろした。

 彼の研究命題は、いつだって人民のためにあった。

 『先進国より五百年も遅れている』といわれた国は、ジーンの代で法律が一新され、夢ある若者が旅立てるほどには豊かになった。

 

 そのジーン・アトラスの葬儀には、その功績をかえりみると驚くほど少ない人数の参列者が並んだ。

 とはいっても、五百名はゆうに超えている。

 フェルヴィンは最下層の辺境であるがゆえに、彼が旅した国々への訃報が届くのは、まだまだ先になるであろうと予想された。

 しかし、隣国にあたる第十八海層『魔法使いの国』からは、二人の国王のうち、『影の王』から葬儀へ参列の申し入れがあった。それも、儀式を執り行う祭祀として。

 

 『魔法使いの国』は、政務を司る『陽の王』と、魔術を司る『影の王』という、陰陽二人の王がたつ国である。

 『陽の王』は、原初の魔女の子孫とされる一族から選出される一般的な『王族』であるが、『影の王』は、その魔女と旅をしたという()()()()()が、三千五百年の建国以来ずっと務めているとされる生き神のごとき最高司祭である。

 フェルヴィン皇国は魔女絶命の地。その関係上、フェルヴィン皇帝の戴冠式には必ず招かれる『影の王』ではあるが、しかし、祭祀として()()を執り行うというのは、じつに八百年ぶりのことであった。

 

 葬儀はしめやかに執り行われた。

 『影の王』は、みずからジーンの棺の脇に立ち、その手にまじないと冥界の船頭への渡し賃などが収められた青い袋を握らせ、冷たい額に口づける。

 棺に火がくべられると、それが燃え尽きるまで祈りの言葉を絶やさず唱えた。

 火葬ののちは、神聖な森へつくられた祭壇に遺灰をいれた皿を安置し、風逝くまま灰が消えるのに任せる。そのため、祭壇のある森は七十二日間封鎖されることになる。

 

 ―――――それは葬儀の後のことだった。

 森を背に、影の王は言った。

 

「レイバーン・アトラス。ひとつ、あなたについての預言を授かっている」

 

 レイバーンは、()()()()のまっすぐの黒髪に縁どられた白い顔を見返しながら、『かちり』と胸の内で何かを予感した。

 

 ―――――……ああ、彼女はわたしに、この預言を告げに来たのだ。

 

 『影の王』は、神々の去ったこの地上において最も神々に近しい存在である。

 しかし、ジーン・アトラスが天使だったならば、この女はまさしく魔女であった。声色に少女らしい果実のような甘さはなく、年を経た賢女の恐れ多いばかりの静謐さがある。

 不老不死の魔術の祖は、血の雫のように真紅の瞳を老獪(ろうかい)に細め、当時ようやく三十路と少しになったばかりの新皇帝に、不自然なほど赤く塗られた唇を開いた。

 

「おまえの子は健やかに育つ。苦難もあるだろうが、まっとうに育てればまっとうに育つだろう。そして、どうあっても、おまえは息子より先に死ぬ」

 その二年前、レイバーンは最初の結婚をしたばかりだった。子供はまだ無い。

 親が子より先に逝く。それは喜ばしいことだ、と思ったが、魔女の舌はその先を紡ぐようだった。

 

「しかし、おまえは末の息子の死を見ることになる。おまえが死を見ることになるのは、末子が十五になる直前だと覚えていればいい」

「……末の息子」

 レイバーンは青くなった。

 もし子供が生まれたとしても、それがいつか、肝心なところが分からない。

 

「この預言は、ついでの警告(おせっかい)だ。わたしも近々、子を得て母になる運命(さだめ)だから、今のおまえではなく、そのとき父であるおまえにこの預言を授けている。預言(さだめ)を回避したくば、どうにか知恵を巡らせることだ」

 

 森から風が吹いた。

 木々から乾いた木の葉がいくつも舞い上がり、渦を巻いて、黄昏の国(フェルヴィン)の薄暗い空へと飛んでいく。

 風を背に、魔女が言った。

 

 ―――――おまえはそのとき、もう死んでいるだろうけれど。

 

 ✡

 

 

 それは確かに、『ジーン・アトラス』であった。

 

 ジーン・アトラスは、青い冥府の炎に編まれるように再び現世の地を踏んだ。

 葬儀の日、棺に納めた宝剣を手に、ジーンの痩躯がゆっくりと持ち上がっていく。

 青銀の燐火を纏わせて、三十年前の皇帝はゆっくりと瞼を開き、青白い炎の混じる息を吐く。

 その足元には、抜け殻のように、()()()()()()()()()()が血溜まりに沈んでいた。

 

「――――叔父上……! 」

 皇帝の眼に涙が溢れる。足枷を引き摺りながらレイバーンは足を踏み出した。その青い炎が湧き出る足元に跪いて細い肩に触れ、小さな体を膝の上に抱き上げる。

 

「アルヴィン……! 」

「お前の息子か」

「そう……! そうです……! ああ……アルヴィン……どうして……」

 

 グウィン。ヴェロニカ。ケヴィン。ヒューゴ。

 あれから、毎年のように子宝に恵まれた。ヒューゴが生まれてすぐ、王妃は病に倒れ、それから長く妻はいなかった。二番目の妻を迎えたとき、レイバーンは子を成すつもりはなかった。まだ幼い子供たちに、とくに、母の顔を知らない下の息子たちに、母親が必要と思ってのことだった。実際、何年も子供はできず、預言のことなどすっかり忘れていた。

 アルヴィンが産まれたのは、ヒューゴが十三歳のときだ。

 アルヴィンはジーン・アトラスの生き写しだと、誰かが言った。

 脳裏に浮かんだ不吉な預言に、半信半疑ではあったが、預言を回避するために何らかの行動が必要だと考えたレイバーンは、アルヴィンを自分から遠ざければ良いのではと思い至った。

 『十五になる前に死ぬ』ことを、レイバーンが『見る』のならば、十五のそのときまで自分が傍にいなければ良い。

 留学を切り出したとき、甘えん坊の末っ子が存外乗り気になり、ことは予想以上にうまく進んだが……それまでであった。

 見えない力が働いたかのようだった。

 穏やかで純粋な末の息子が、身も心も傷付いて帰ってきた姿を見たとき、レイバーンは運命(さだめ)の恐ろしさに直面した。

 

(預言が成就されることが運命(さだめ)なのか……! なぜこの子が! )

 

 アルヴィン・アトラスは、一週間後に十五歳になる()()()()()

 

 

 ジーンの伏せた瞳の奥で、青い燐光がこぼれて落ちていく。

「……そうか。そうだったんだな……」

「……叔父上」

「老けたな。レイ(おまえ)。すっかり爺さんだ」

 ジーンは少し笑って、レイバーンの白い頭を撫でる。その手はあの葬儀の日のまま、年相応の皺が寄っている。青い炎に巻かれても、冷たい死体の手だ。

 ジーンは服の下に下げた青い袋を取り出し、死体の手で、まだ生温い少年の手へそれを握らせた。

「……すまない。レイ」

「叔父上ェ……! 」

 瞳に青い炎が揺れている。

 

「―――――サア役者が揃った! 舞台は整った! 」

 魔術師が歓声を上げながら、フェルヴィン皇帝一族の頭上を躍る。手には、語り部・ミケの成れの果てである銅板があった。

 

「……許さん……許さんぞ……! 私の息子をよくも……! 冥府の果てまで貴様を呪い尽くしても足らぬ……! 」

 亡骸を腕に、レイバーンは裸足で立ち上がる。

「許さぬ……! 許さぬぞ! 」

「父上! そこにいては危険です! 」

 グウィンが身を乗り出して叫んだ。

 

 ドンッ!

 レイバーンの裸足の足が、床を踏み抜かんばかりに叩いた。レイバーンの体のまわりを、ジーンの青と反転したかのような黄金の燐火が踊るように渦巻く。

 

 

「―――――ダッチェス! 」

 

 黄金の燐火から、一枚の銅板が顕現した。

 

「―――――ベルリオズ! マリア! ダイアナ! トゥルーズ! 」

 

 五枚になった銅板は、燐火とともにレイバーンの周囲を守るように回る。

 

「――――トーマ! ――――ギデオン! ―――――オリヴィア! ―――――シャイアム!――――フィリック!――――フィガロ―――――」

 

 矢継ぎ早に告げられたのは、二十四の『語り部』から、ミケとルナ他二名の名を抜いた二十名の名であった。

 

「―――――我は先祖より継承されし選ばれし者。『皇帝(エンペラー)』のさだめ持つ魔女の墓守! レイバーン・アトラス皇帝である! 」

 輝く二十枚の銅板が回る。

 

 

「『皇帝特権施行(スート)』! 『剣の王』! 」

 

 

 広間に響く地響きに、皇子たちの押し殺した悲鳴があがる。石畳を割り、皇帝の背を守るように大地から生まれたのは――――石の巨人。ガラス質の白い岩石でできた精密な王の立像は、すらりと腰の剣を抜き去り、『魔術師』に切っ先を向けた。

 

「打ち滅ぼせェェエエエエ――――――――ッッ! 」

 

 

 魔術師は天に掲げた屍の腕を大きく広げ、声高に歯を鳴らしてみせた。

 

「開戦だ! 鬨の声を上げろ! ――――そう、お前だ! 」

「息子の仇! 」

 

 

「―――――我が奴隷、レイバーン・アトラス! 」

 

 

「貴ッ様ぁ――――――! 」

「父上ェエエ! 」

 

 青い燐火がレイバーンに灯る。巨人の切っ先が魔術師の胴に迫ったままの姿勢で、床にむかって斃れていく。瓦解していく。銅板は光の粒となって、いずこかへと消えていく。

 

 ―――――最後の銅板が消えるとき、身を裂かれるような女の悲鳴が響いた。

 

 ひと塊の青白い火玉となったレイバーン(亡霊)は、咆哮を上げながら舞い上がり、再び人の形を取った。腰を曲げ、虚ろな眼孔を晒し、髭に埋もれた唇が震えながら開く。

 質量を伴わない滂沱(ぼうだ)の涙が、老木に突き出た瘤のような頬を伝い、燐火の欠片のひとつとなった。

 広間中に敷き詰められたように立ち尽くす青い霊魂たちが、天を仰いで口を開ける。声なき声が重なり、吹き荒れる木枯らしのような叫び声が、広間に木霊(こだま)す。

 亡霊(皇帝)は、とつとつと言葉を紡ぐ。

 

『――――我は先祖より継承されし選ばれし者。『皇帝(エンペラー)』のさだめ持つ魔女の墓守……』

 息子たちに絶望が手を伸ばす。

「父上……! 」

 

『……時は来たれり……知恵の果実はここに熟した……。魔女が交わした神との誓約により、我が名と宿世(さだめ)()て、ここに、『神の審判(デウスエクスマキナ)』の開、し、をぉお……グゥウ……』

 

 魔術師の指が向けられると、ためらうレイバーンの手が溺れるように泳ぎ、身を(よじ)らせ、顎骨を軋ませながら、皇帝の口が開く。

 

『……宣言、する、ァ………ァァァアアァァアああああ――――ッ』

 

 

 しじまのように平らだった墳墓の床が、水面に石を投げ込んだように罅割れ、崩れていく。身を切り裂かれたような父の悲鳴が響くなか、息子たちは、揺れる地面と崩れゆく大地に縋りつくように(うずくま)った。

『逃げろ! お前たち! 逃げるのだ! 父の二の舞になってはならん――――! 』

 

 魔術師が狂声を上げる。

「啓示を得たり! 我が名を得たり! 我が名は今この時より選ばれしもの! 世界を変える資格あるもの! 我が名は真に『魔術師(マジシャン)』となった!」

 

 アハハハ……――――。

 

 

 ジーン・アトラスは、足元に転がる子供の躯を見下ろしていた。

「………」

 陽炎に揺れる背中が片足を持ち上げ、甥の息子であったその躯の背に乗せる。ジーンのほんの三歩先、墳墓であったそこにはぽっかりと、真っ暗な奈落が口を開けている。

「……すまないな。俺はしょせん、亡霊(いないもの)なんだ」

 ジーンはそう呟いて、剣を振り上げた。切っ先がその子供の手枷を砕き、肩に添えられた足が、真っ白な躯を奈落へと蹴り落とす。

 青い炎が吹き上がるその穴の奥に、小さな躯は、すぐに見えなくなった。

 



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1 レイバーン・アトラス

四日目 二回目。


 アルヴィンは胎児のように、水のように満たされた闇の中で、体を丸めてうずくまっている。

 頭の中では稲光に似た後悔と思い出が交互に光っては消えていく。

 あたりは一切の静寂で、冷たくも温かくもなかった。自分にまだ手足が生えているのかすらも分からない。

 しかし、アルヴィンにはまだ意識があった。感情があった。後悔があった。

 自分が死んでしまったことが分かっていた。

 自分は十四年、何を成したというのだろう。何も出来なかった。兄たちの足手まといだったこと、ミケが自身を犠牲に生かそうとしてくれたものを台無しにしてしまったことが、悔しくてたまらなかった。

 

 ――――アルヴィン・アトラス。

 そんな幼い皇子に、優しげな声が語りかける。

 

 ――――貴方の意思は、まだそこにある。

 

 その言葉に、アルヴィンは弾かれるように顔を上げた。

 とつぜんアルヴィンの視界が開ける。

 そこはあまりに広大な、天地の(さかい)の無い、無数の光の粒が浮かぶ世界だった。

 こんな星空は、世界中どこにも無いだろう。こんなふうに吸い込まれそうな、あらゆるものを飲み干しそうな星空が、この世にあるはずがない。

 

 星屑の中に埋もれるように、その黒い影はアルヴィンの前に立っている。前を向いているのか、それとも背を向けているのかも分からない。

 

 ――――魔法はまだ、貴方の中にある。

 アルヴィンに宿る魔法といえば、ひとつしかない。

 

 ミケは生きているのか、とアルヴィンは問うた。

 ――――魔法はまだ、その役目を終えていない。

 

 それだけのことだ。と影は言う。

 影の視線がこちらを貫いた気がして、アルヴィンは自らの姿を顧みた。銅板の切れ端を握りしめた自分の手が見えた。その下に、薄っぺらい胴と足が伸びている。

 銅板を握る掌が汗ばみ、体の感触はあるのに、意識だけが離れて頭上を漂っているような、肉体と意識が逆転して、意識が肉体を着ているような、おかしな感覚だった。

 

 ここはどこですか、と問うた。影は応えなかったので、次に貴方は誰ですか、と質問を変えた。

 

 ――――私は『宇宙(ワールド)』のさだめもつもの。かつて、貴方に導かれたもの。そしてこれから貴方を導くもの。

「僕は……誰も導いてなんかいない。僕には何も成せなかった」

 アルヴィンは大きく首を振る。

 鈍痛を伴う物体が体の内側にあり、風船のように膨らんで押し出された涙がポロポロと零れ出た。

「僕は、何もできなかったんだ……」

 ―――――いいえ。

 ―――――貴方は導く者。そのさだめ持つもの。

 ――――星を目指すのです。

 影は虚空を指差した。

 アルヴィンは指の先を見渡し、「どの星ですか」と尋ねた。

 

 ――――まだ貴方には見つけられない星。貴方が正しくあろうとすれば、きっとたどり着ける場所。貴方はそこを目指すのです。

「僕にできると思いますか。何も出来なかった、こんな僕に」

 ――――貴方は全てを一度無くしている。健やかな故郷、頭蓋骨、語り部、勇気、そして命……。

 ――――だから貴方は、それらを取り戻しながら旅をしなければならない。

 ――――それは困難を極めることでしょう。最初の候補である貴方が眠りにつけば、『審判(ジャッジメント)』は次の者を選ぶだけ。ここで足を止めるのも悪い事ではない。

 

「僕が……最初に選ばれた? 」

 ―――――何を驚くことが? 貴方は選ばれ続けている。貴方が知らなかっただけ。

 ―――――貴方の望みはまだ叶う。

 

 アルヴィンは自分の胸をかき抱いて、その鼓動が止まっていることに今更気が付いた。

「……悪魔のささやきみたいだ」

 

 ――――貴方はどうしたい?

 

「選ばれたい! 何も無いまま死にたくないよ……! 意味が欲しい! 求められたい! 」

 

 ――――貴方が失ったものは数多い。どんな姿であろうとも、貴方は戻りますか?

 

「どんな無様な姿になっても、役立たずよりずっとましだ! 」

 

 ――――いいでしょう。欲望も、また意思。世界にとって大切なのは、感情よりも何を成すかということ。

 

 腕を広げて影がアルヴィンに歩みよる。きつく抱きしめられたその腕は、アルヴィンよりも華奢で、古い紙とインク、微かな金臭さが混じった匂いがした。

 

「我が名は『宇宙(ワールド)』……神の審判を見届けるもの。貴方を導くもの。貴方の旅路を記すもの。今、私は貴方と一つとなり、果てるまで添い遂げましょう」

 脳を揺らすその声に、アルヴィンは大きく目を見開く。

 影……『宇宙(ワールド)』の輪郭が燃え上がり、その顔を明々と照らしだした。

 その体はひと塊の真紅の炎となり、アルヴィンを包む。熱を持たない炎はアルヴィンの肌を焼かなかったが、その手に握られた銅板を溶かした。

「……あ、ああ……」

 柔らかな金属液は、アルヴィンの掌の中で形を変え、その先端を慰撫するように頬へ伸ばす。

「―――――あぁぁぁぁ……」

「今、この時から、貴方は地上から解き放たれる。貴方にとって天は地と同じ。夜は母であり、月は友。星は見えずとも、必ず貴方の上にある」

 

 目の前が灼熱の『黒』に焼き焦げていく。

 

 

「ぁぁあアアア……アアァァァアアアアアアアアアアアアアアア―――――ッッ!!!!!!!」

 

 

 

 

 ――――さあ行くのです! 目覚めなさい! 私のしるべ……私の希望……! 『星』を継ぐものよ!!!

 

 

 

 

 閉じた目蓋の裏にあるのはもはや闇ではない。あの美しい星空だ。

 その星空が、黄金の燐火の粒の一つとなって遠ざかった。奈落を過ぎ去り、燃え盛る青い炎が見える。それは蘇った魂たちであり、変わり果てた現世だった。

 真紅の炎はアルヴィンを乗せ、冥府の炎の膜を突き破りながら巻き上がる。立ち込める黒雲がずいぶん近くに見える。眼下に、故郷の城の屋根が見えた。

 顔に、頭に、焼け付くような熱を感じる。首の皮膚が焦げる臭いがする。

 

 ちっぽけな体のちっぽけな拳を、溶けた金属が肉を焼き焦がしながら飲み込んでいく。

 頭蓋骨の無い頭には鼻が無く、十字に奔る亀裂、ぎざぎざの断面の奥に、刃金色にぎらつく双眼が剥き出しに濡れ揺れている。吐いた呼気が蒸気となり、夜明け前のフェルヴィンの真っ黒な空に白く霞んで消えた。

 青い火の子を流星のように纏い、冥府の青白い馬に跨ったジーンが、アルヴィンの顔を笑みに歪ませて言った。

 

「頭蓋骨の代わりに語り部の亡骸を溶かして貼り付けたか? 」

 

 アルヴィンの肉体を焼く音と、軋みを上げる駆動音が混ざり合い、ぎちぎちと不快な金属音が、虚空に大きく響いている。衣服はほとんどが焼け落ち、身体をまとうのは奇怪にして醜悪な灼銅(しゃくどう)の鎧のみ。

 相対するジーンのまとう死に装束の、白い衣裳の裾がなびく。

 

「それではまるで、獣じゃあないか……」

 くつくつとジーンは笑う。

「いいだろう……! おもしろい! それでこそアトラスの青い血に連なるものだ。おおいに生き汚く生きろ! そして俺を打ち滅ぼし英雄となれ! そのために戻って来たのだろう!? 」

 

 雲の向こうで金色の太陽が昇る。黒雲のあわいから糸のように光が伸び、街に暁の金粉を塗す(まぶす)

 

「ジーン・アトラスは死んだ! この身はいまや悪霊となって蘇った! 俺は()()()()()『白』の乗り手! 救国の英雄となれ! アルヴィン・アトラス――――ッ! 」

 

 

 

 

 

 

 アルヴィンの中で、取り戻せと声が叫ぶ。木霊(こだま)する。

 

 

 

 

「ァァァ……ァアーアーアアァア――――アアアアア――――……イィィィ」

 

 

 

 

 

――――ィイイイィギィィイイイ――――――――ヤアァアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッッ

 

 夜明けの空に、アルヴィン・アトラスは高い高い咆哮を上げた。その日の朝は、今までのどんな日とも、まったく違う朝となった。

 

 



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2 ジジ

四日 三回目。

新章。




「あ~あ……魔法使いの国行きの飛鯨船(ひげいせん)がサァ、そこらへんの丘で低空飛行してねえかなぁ」

「そんな都合のいいことあるわけないじゃん」

「わかってるってぇの」

 

 サリーはごちて、頭の後ろで腕を組んだ。

 

 

 『黄昏の国』の異名をとる通り、このフェルヴィンという小島国は、常に分厚い雲がかかっている。

 渦を巻く黒雲は、雲を突くゲルヴァン火山のてっぺんから湧きだしてきているようにも思えた。

 束ねた雲の隙間から漏れる僅かな陽光で、ようやく今が昼間と言える時間だと分かる。草木は日にあたらないから淡い黄色や灰色をしていて、永遠の黄昏に輝くようだ。

 

 そんな丘陵の先に立ち、サリヴァン・ライトは憂鬱を隠そうともせず、眼を細めて眼下の風景を見下ろしていた。頭の後ろで束ねた暗い赤毛の先は、色が抜けて金色に光っている。

 長い髪は魔法を使う時に有利に働くことがあるというので、サリーの髪は腰よりも長い。

 

 

「山火事になったら寝覚めが悪いだろ」と、サリーは爆発した倉庫の火を鎮火させたので、表情はこころなしグッタリとしている。

 頭頂が煤を孕んで、うっすら黒ずんでいた。

 

 

「あんな大きな魔法を使うから……」

「仕方ねえだろ。大きな火に水は危ない。火を窒息させたほうがいいって言ったのはお前だろうが」

「言ったけどできるとは思ってなかったんだ」

「ま、おまえが思ってるより、おれは優秀な魔法使いってことですよ? 」

 

 にやにやして、サリーは胸を張る。

 サリーは大きくて派手な魔法が得意だが、こうしたことでも無いと本領発揮できないので嬉しいのだろう。逆にボクは、失せもの探しだとかだまし討ちだとかが得意である。ふつう逆だろって、ボクもサリーも思っているし、よく言われている。

 

 

「……あれが帝都だろ?」

 サリーが火山の裾にある街の灯りを指差して言った。立地的におそらく間違いない。

 

「くそ田舎だなァ。わかってたけど」

「きみの実家もたいがいじゃない」

「うちは北西端の農地で首都じゃないし」

「魔法使いの国は下層最大の先進国なんだから、比べるほうがおかしい。ほら、海岸線にシマシマの旗が立ってる。飛鯨船(ひげいせん)への目印だ。べつに船がこないわけじゃない。それにフェルヴィンもこの三十年くらいで、かなり豊かになってるってきくし」

「来たことあるのか? 」

「まさか。第十九海層を抜けるなんてまね、用もないのにすると思う? 」

 

 顔をしかめたボクにサリーは小さく笑った。

 

 

 

 最下層フェルヴィン―――――第二十海層は、半世紀くらい前までは、『五百年遅れた国』と呼ばれていた。六百年、国交を閉ざしていた第十八海層の魔法使いの国が、いまや『下層最大の先進国』なのと対照的に。

 その原因のひとつが、我が国とこの国の間にある『第十九海層』……通称『魔の海』だ。

 この海層には()()()()。いわば果てしなく広い縦穴である。海層を渡る唯一の移動手段である飛鯨船(ひげいせん)だが、小型の船では燃料だけで積み荷が埋まってしまうし、大型の船では人件費がかかる。

 魔法使いの国が『自主的な鎖国』なら、フェルヴィン皇国が置かれていた状況は、鎖国っていうより『孤立』だ。原初の魔女は、そこを狙って罪人たちとこの国に落ちのびたのだろう。現に、フェルヴィン皇国だけは三回あった世界大戦にも一度も火の粉を被っていない。

 

「それにしても、おまえ、よく海岸なんて見えるな。俺には全部真っ黒だ。おまえそんなに目がよかったっけ? 」

「ボクは暗いほうがよく見えるの」

「箒も無いしなぁ。どうするかねぇ」

 

 ボクらは山を降りることにした。

 街は見えているし、土地柄か、梢で空が見えなくなるほど大きな木は生えていない。移動手段はサリーが徒歩で、ボクはその右わきを糸で引かれる風船みたいについていく。

 体内時計ではおそらく昼を少し過ぎたくらいだと思う。倉庫を脱出したのは朝方だったのだろう。

 飼い葉のある倉庫があるのだから、家の一軒でもあるかと思ったけれど、そんなことはなかった。サリーのスタミナは折紙付きだし、夜になる前に移動して人家なり探したほうが確実に良い。

 

 

 もくもくと歩き続けて数時間。

 

 風向きが変わったのが肌で分かった。

 風を切るプロペラの、地響きに似た駆動音。背後から近づく存在感。

 

「ウワーッ」ボクらは揃って間抜けな悲鳴を上げながら草の中に顔を突っ込む。ボクらの頭があった高さを蛇腹状の鯨の底が掠めていき、その小型飛鯨船は、丘の草の先を削り取るように低空飛行しながら崖を飛び出して再び天空へと泳ぎだした。

 

 名前の通りに、鯨によく似たシルエットの尻尾を呆然と見送るボクの後頭部を、サリーの平手が襲う。「ちょっと! 」サリーは抗議するボクの頭を右手でリズミカルに叩きながら、興奮した様子で去っていく飛鯨船を左手で指差し、叫んだ。

 

 

「飛鯨船だ! 」

「そうだね。飛鯨船だね。キミは預言者だった」

「エリ――――いや、ヒース! 」

「え? は? 荒地(ヒース)? ……いや、あれはどう見ても飛鯨船だった。間違いないね」

「違う! ちっが~う! 気づかねえのか! ヒースだよ! ヒース・クロックフォード! 飛鯨船の航海士の!」

 

 サリヴァンの両手がボクの肩をがっしりと掴み、ブンブン前後に揺さぶった。ボクの頭はブラブラ揺れる。脳細胞が遠心力でプチプチ潰れそうだった。

 真っ黒な空に消えていった船の影を指差して、サリーは興奮して叫んだ。

 

「――――あれは! ヒースが乗ってる『ケトー号』だよ! 」

 



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2 ジジ

五日目 一回目。
飛行船や潜水艦はロマンです。


 

 ボクとサリーがようよう麓へとたどり着き、通りがかりの優しいおっちゃんの車に乗せてもらい、二時間半かけて城下町に辿り着いてから、愛しのケトー号と()いまみえる長い長い苦労をしていたことは、つまらないので描写しないでおこう。

 

 

 近代の学者たちは、ボクらの住むこの世界全体をこう呼称した。

 

多重海層世界(たじゅうかいそうせかい)』。

 

 この世界は球体ではない。例えるなら、数珠つなぎに連なる、長い長い砂時計だ。

 空と、大地と、海の下にさらに空があり、大地があり、海がある。

『多重海層世界』とは、そんなミルフィーユ構造の世界を、端的に表した学術的呼称である。

 伝説では、第1海層マクルトの空の果てには神々の住まう雲の宮殿があるという。

 反対に、最下層の第20海層フェルヴィンの海の底には、果ての無い死者の国が広がっているのだとか……。

 

 神話では、かつてこの世界は丸くて、ひとつの海にあって繁栄したと謂われているけれど、科学の進歩により、それは証明されている。この『多重海層世界』は古代、確かに何らかの大きな力で、第1海層から、このフェルヴィンの在る第20海層までの、二十の世界に切り分けられたのだ。

 

 ボクらにとって『海外』とは、おおよそこの『雲海層』を隔てた向こう側、雲海を抜けた先にある国のことをいう。

 

 

 そこで人類は、「海外」を行き来して、旅行をしたり貿易をしたり、時には戦争をしたりするために、『飛鯨船』というものを創り出した。

『飛鯨船』とは、正式名称を『潜水対応型飛空艇』であり、『飛鯨船』という呼び名は、空に浮かんだ様子が羽の生えた鯨のようなところから付けられた愛称のようなものだ。機能は簡単。潜水艦と飛空艇のハイブリット。滑走路を必要としない特殊なガスによる浮遊、魔術による耐久性と機械による駆動性を設計され、優雅に水空を泳ぎ回るステキな鯨さんである。

 

 ボクらの安住の地『魔法使いの国』は第18海層。

 前述の通り、このフェルヴィンのある第20海層との間には、魔の海第19海層が横たわっている。飛鯨船――――それも、大型とまではいかずとも、中型程度のつくりの船が望ましい。

 

 

 

 そこで、ヒース・E・クロックフォードである。

 

 

 飛鯨船は、どんな小型でも6mはある。そして飛鯨船があつまるということは、外国人が多く出入りするということだから、自然と場所は限られた。

 頑強なつくりの箱のような倉庫が並ぶ貿易地区と呼ばれる場所は、海沿いから少し入った首都ミルバーン西の郊外にあった。

 

 倉庫には簡単なキッチンとお湯が使える設備があり、少し覗いたところ、二段ベットが二つほど押し込められた部屋も併設されていた。仕事で滞在する短期間なら、じゅうぶんな設備だ。

 

 

 

 ヒースはサリヴァンの二つ年上の幼馴染であり、彼が奉公している杖専門店『銀蛇』の店主、アイリーンの一粒種である。

 濃い睫毛に縁どられた紺色の瞳、薔薇色の頬と唇を母親譲りのサラサラの黒髪が覆っている。

 男女の垣根を軽く超える美貌の持ち主だが、長旅の無精で伸びきった前髪が頬のあたりまで届いているので、その綺麗な顔立ちの三分の一は隠れている。むしろ、()()()()()()隠しきれていない。

 機械油の染みた作業着の片袖を脱いだ腕は、真っ白なきめの細かい肌をしていたけれど、顔に似合わずたくましかった。

 

 給湯室の粗末な椅子に座ったサリーから、立ったまま黙って事情を聴いていたヒースは、おもむろに腰に手をあてると、心底呆れた顔をしてサリヴァンを見下ろし、一言感想を述べた。

 

 

「……バッカじゃないの? 」

 幼馴染の端的な評価は、未だにスタミナが回復しないサリヴァンには、心外極まりないものだったようだ。重い体を起こすや、身振り手振りで『自分たちがいかに苦労して脚一つでここに辿り着いたか』というプレゼンを始める。

 

 

「はいはいはい。わかってるわかってる」

 幼馴染の気安さで軽くあしらって、ヒースは長い脚を持て余すように、ごついブーツの(かかと)で床を叩いた。

 

「……それで? 僕に訊きたいことでもあるんでしょう」

 ヒースは長い前髪の間から瞳を妖し気に煌めかせ、いたずらっぽく唇を持ち上げた。スンッとサリーが静かになる。

 

「それだよ……ヒース、おまえ、師匠の指示で動いてるんだろう? 」

「うん。まーね。母さんの指示があってこの国に来たのは間違いない。あ、でも、きみを連れて来たのは僕の船じゃないよ。そもそも母さんの命令じゃなきゃあ、こんな辺境、僕みたいな単独航海士には荷が重すぎるもの。途中までは僕のケトー号を知り合いの大型飛鯨船に乗せてもらってここまできたんだ。魔の海の航海にはどんなに急いでも五日以上はかかるからね。操縦席に座るのが僕だけじゃあ眠れないし」

「役目はおれの回収だろ? いつ帰る? 」

「うーん。それが、一概にもそうとは言えないんだよねぇ」

「……なんだと? 」

「今夜……今夜だよ。母さんの預言だと、今夜にも事が起こるらしい。ちゃんと間に合うように頑張ったんだから。何が起こるのか僕は教えられてないんだけど、サリーなら分かるんじゃあない? 」

 

 じっと、サリーは幼馴染の顔を見る。

「……預言案件ってことか」

 サリーはそれっきり、考え込んでしまった。

 

 

 

 時刻はすっかり夜になっていた。

 薄っすらと冷たい霧が漂う石造りの都は、堅牢で実用的なつくりだ。しかし鉱山と鍛冶の街というだけあって、民家であっても窓枠やドアに施された様々な細工が目に楽しい。とくにサリヴァンは同じ金属を扱う職人という一面もあって、この『ケトー号』が収められた格納庫に辿り着く道中でも、実に興味深そうにしていた。

 そもそもこの街全体が、『銀蛇』の地下にある工房の雰囲気によく似ているのだった。

 

「あ、そういえば、きみからこれをサリーに渡しといてくれない? 」

 

 ヒースは真っ黒な地に魔除けの大きな瞳が描かれた愛機の脇腹に背中を預け、ボクに細長い皮張りのケースを手渡してきた。ヒースはそのまま、整備用の工具を手の中で弄びながら腕を組む。

 

「きみが持ってたの? 」

 ボクはヒースの人柄が以前からかなり気に入っている。苦笑して肩をすくめた。

 

 ボクも見慣れたそれは、サリーの眼鏡の入ったケースだ。燃え盛る炉を見つめ続ける職人は、その多くが瞳をやられるのだそうだ。サリヴァンの視力の悪さは、彼がいっぱしの杖職人である数少ない証である。

 

 

「……サリーが訊かないからボクが訊くけど、いくつかおかしいことがあるんだよね」

 口火を切ったボクを、真顔のヒースが見つめた。

 

「第19海層を突破するのに五日かかるって言ってたけど、ボクとサリーにはそのあいだの記憶がない。ボクはまだしも、サリーは普通、五日も飲まず食わずだったら体調になんの変化も無いのもおかしい」

「うん。そうだね」

「さっき街で日付も確認した。サリーは確かに、()()()()()()()()()()()()()

「………」

「手段にはもう突っ込まないけど、サリーを連れて来たのが誰かはわかる。アイリーンさんだね? 」

「さあ。()()現場にいなかったから、なんとも言えないかな。なんせそのころの()()、魔の海の中だったもの」

 

 ヒースはにっこりとして、続けた。

「ジジ、きみが気に食わないのは、自分にもここに来るまでの記憶が無いからだろ? 」

 

「そうだよ。分かってるんじゃないか」

 ヒースのこういう話が早い所が嫌いじゃない。ボクは腕を組んで、ヒースの目線まで浮かんだ。

 

 

「ボクの機嫌が悪いのは、アイリーンさんが弟子のサリーだけじゃなくてボクまで騙したってとこだ。ボクはサリーの魔人(まほう)。ボクはサリーに何かあったときの最後の抑えであるべきだ。こればかりは師匠のアイリーンさんにも、キミにも譲ることはできない。主人を守るのは魔人の存在意義に関わってくるものだからね」

「驚いたな。ジジはサリヴァンのこと、主って認めてるんだ」

「茶化さないでよ。ボクとサリーが魔人と魔法使いである以上、契約上はそういう関係でないといけないってだけ。サリーの魔人であるボクが、アイリーンさんとアナタを信頼しているのは、アナタたち親子がサリーを絶対に殺したりしない人だからだ。その大前提があるってこと、忘れないでほしいな」

「勘違いするようなことは慎めってことね。オッケー」

「キミたちの関係を侮辱するつもりはないよ。でもボクは、アナタたちを二年しか知らない。……アイリーンさんにとって、サリーがどういう存在なのか、どうしたいのかも、ボクはまだ知らないんだ。弟子として大切にしているのか。それとも……大事に大事に育てて、最後は収穫するような()()なのか。たまに疑いたくなる」

「ふふ。そういうきみだから、母さんもサリーの傍にいることを許したんだろうね。きみは予想以上にサリーを大事にしてくれているみたいだ」

「やめろよ気色悪い。まだたった二年の付き合いだ」

「魔人にとっての二年と、人間にとっての二年は違うよ。サリーもきみを大切にしてるんだね」

「何話してるんだ? 」

 

 

 ケトー号の陰から、サリーが顔を出した。

「飯できたぞ。二人とも食べるだろ? 」

「やったぁ。サリーの料理久しぶり。もうお腹ぺこぺこだよ」

「大げさな。ジジも食うだろ? 」

「うん」

 



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2 ジジ

五日目 二回目。


「サリー、ご飯のお礼にいいもんあげる」

「はあ? なんだ? 虫とかじゃねーだろうな」

 

 ボクは鼻で笑って、差し出された手のひらに、眼鏡ケースを置いた。

「あっ! おまえこれ! 」

「ヒースから奪還したの」

「失礼な。預ってただけさ。どうしたって必要でしょう? 」

 

 ヒースは食後のお茶を置き、唇を尖らせた。サリーはわなわな震えていたが、眼鏡の魔力には抗えないのか、大人しくそれをかける。

 

「……うーん。相変わらず、見慣れているのに似合わない眼鏡だ」

 ヒースが腰に顎に手をあてて唸った。

「わかる」

 ボクはすかさず両手の人差し指を向けて同意した。

 

 サリーの眼鏡は、レトロな丸眼鏡だ。真鍮の細いつるがついていて、ブリッジが凝ったかたちに曲がってレンズを繋げている。ヒースが端的に、サリーの眼鏡を酷評した。

「サリーは目元が強いからさ、そんな丸いお爺ちゃんくさい眼鏡かけちゃうと、童顔ばっかりが強調されてダサい感じになるんだよな」

「わかる」

 ボクは大きく頷いた。

 

「ンなこと言っても、これしか持ってねえもんよ」

「節約してるの? でもそれって正直ないよ。きみのお父さんはわりとオシャレなのに」

「そうか? 」

「うん。都会的な若ダンナってかんじ。サリーはね、服にもその眼鏡があってないんだと思う」

「……そうかぁ? 」

「うん。服はいつも流行りの無難なかんじなのに、眼鏡と髪型だけ半世紀前の人みたいだもん。長髪は仕方ないにしてもさ、眼鏡は変えなよ。悪目立ちするよぉ」

「わかる」

 

「ジジおまえ『わかる』しか言えねえのかよ」

「ぜんぶヒースが言ってくれたもん。ボクはいまヒースと握手したい」

「……しよう」

 ボクとヒースはがっちりと両手で握手した。サリーはそれを呆れたようすで見ている。

 ヒースはおもむろに、深く大きく頷いて、唐突に言った。

 

 

「そうだ! 買いに行こう! 」

「は? まさか今から? 」

 

 

 

 黄昏の国フェルヴィン皇国は、おどろおどろしい逸話に反し、女は姦しく、小売人は声を張り上げ、通行人の顔も明るい街だった。慣れた街と変わらない光景に、ボクとサリーは少しだけ安心する。

 平和な国だと思う。こんな時間に若い女が出歩いてもいい国は珍しい。

 

 昼でも薄暗いこの国では、軒に下がった透かし彫りが美しい涙滴型のランタンが優しいオレンジ色で街中を照らしているが、夜になると、どの扉の前にも、円柱型で、中でゆっくりと人形の影が回る影絵の灯篭が加えられ、さながらおとぎ話の都のようだった。

 盆地に沿って街が出来上がっているので、屋根が高い家屋は少なく、どこからでも山肌に取りついた王城の、蝋燭のような尖塔が見えるというのも絵画のように美しいと思う。

 ボクらはなだらかな坂になった石畳の道をゆっくりと、露店をひやかしながら歩いて行った。

 

「なんだか街の人たち楽しそうだね」

 

 ボクの素朴な疑問に、ヒースが答えた。

「明日が、この国の新年にあたる冬至の日でね、祭の日でもあるんだよ。ここらへんは外国人も多い商業区でしょ。ここから逆側、南西にある広場から王城に続くメインストリートでパレードがあるんだ」

「へえ……」

 サリーは小さくこぼして、遠い目で街並みを見つめている。

 食事の時は一時(いっとき)いつも通りに戻っていたサリーだったが、どうやらまだ思うことがあるらしい。

 

「……サリー。預言案件ってなに? ときどきアイリーンさんと話してるよね」

「それは僕も聞いてみたいな。母さん、人を選んで肝心なことを言わないから」

 サリーは鼻の奥でため息を吐き、間をおいて話し始めた。丸眼鏡の表面で、金色の街灯りが踊っている。

 

「……『レイバーン王は、末の息子の死を見届ける』。むかし師匠が、フェルヴィンで詠んだ預言だ。皇子は十五歳までに死ぬらしい」

「……なるほど? それで、その末の皇子がもうすぐ十五歳ってわけ? 」

「そうだ」

「『影の王』の預言だものね。……でも、それだけじゃあないんでしょう」

「ヒース。おまえが師匠からどこまで知らされてるか、おれは知らん。……おれは、おれが生きているうちに、『最後の審判』が起きるって、昔っから言われてるだけだ」

 

 

 喧騒の中、ボクたちの会話を聞いているひとはいなかった。

 ヒースが真顔になる。サリーは冗談を言っているふうでもなく、淡々と続けた。

「おれも預言に詠まれてるんだ。『三つの王の血を束ねる息子、最後の審判を見届ける』ってな。貴族院はおれの生誕を基準にして、いつ『審判』が起きるのかを計ってるってさ。『三つの王の血を束ねる』ったって、そんなんおれくらいしかいないだろ」

 サリーはちょっと笑って言った。

 

 サリー――――サリヴァン・ライトの出生は複雑だ。サリーは五歳から裕福な屋敷を離れ、王都アリスで、杖職人見習の奉公人として育てられてきた。

 魔法使いの国には二人の王がいる。政治と人道を司る『陽の王』と、魔術と神秘を司る『影の王』と。

 影の王は不老不死の偉大な預言者だ。かの()()アイリーン・クロックフォードは、市井に下りて、国唯一の魔法の杖の店『銀蛇』の娘として、学校に通い、結婚して子供を産み、サリヴァン・ライトを引き取って弟子とした。

 

 ――――すべては預言の子を守るために。

 

 

「ヒース、おまえ知ってたんだろ」

「……うん。ごめんね」

「なーんで謝るんだよ。知ってくれてたほうがいい。おれはよぉ……。おれは……自分が望まれて生まれて来た人間だって思ってる。親父たちにも大っぴらには会えねえし、妹と話したこともない。でも、大切に想われてんのは知ってる」

「うん」

「……師匠はたまに頭おかしいけど、おれをたぶん大切にしてくれてる」

「……うん。たぶんね」

「そこはハッキリ『たぶんじゃないよ』って言えよ。……でさぁ、おれは、自分ができることをするだけなんだ。結果的にどこまでやれんのかってのは、わかんねえけど」

「うん……」

「……でも、今はちょっと不安になってる。自分が、どこまでやれんのか……もしかしたら明日始まンのかもしれねえし、十年後かもしれねえ。それとも爺さんになってからかも。そんな御大層な運命、ほんとにおれにあるのかよ、出来んのかって。……少しだけな」

「………」

 

 ヒースは足を止めた。

「……なあ、エ―――――」サリーがそれを振り返り、何かを言いかけた、そのとき。

 

 どんっ

「きゃあっ」

 

 サリーが立ち止まったのは、ちょうど路地へと続く建物の間だった。そこから勢いよく飛び出してきた女性が、サリーの右半身に派手にぶつかったのだ。

 フェルヴィン人は大柄である。女性でも170センチ台は小柄なくらいだ。

 その金髪の女性は、とくに長身のようだった。サリーは軽く往来の幅を半分くらい吹っ飛び、なんとか無様に頭を下にして転がりはしなかったようだ。

 

「す、すみませんっ! お怪我は……?」

 女性のきらきらとした水色の瞳は、涙で少し潤んでいた。

 



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2 (裏)モニカ・アーレ

五日目、三回目ラスト。
ハイファンタジーなので鉄板の『麗しの姫君』を出しました。


「お逃げください……」

 モニカ・アーレの前にそれが現れたのは、(あて)がわれた王城の一室に軟禁されて、ちょうど十日がたった頃だった。

 

 つまり、彼女が婚約者であるフェルヴィンの第一皇子、グウィン・アトラスと引き離されてから十日ということでもある。明後日は新年を祝う祭の日であり、グウィンとの婚姻を正式に公表する喜ばしい日になるはずだった。

 

 

 モニカ・アーレとグウィン皇子の出会いは、遠く遥か上層、第5海層にある国『ゲブラー』の国立大学でのことだった。

 グウィンは二十七歳の博士課程の学生、モニカは二十二の女子大生。大国であるゲブラーの国立大学、その図書館といえば、世界中の学問書を網羅せんとする大図書館だ。

 司法科の二回生だったモニカは、土曜日の午後にだけアルバイトでそこに通っていた。

 

 ゲブラーでも、語り部が記してきたフェルヴィン王家の伝記は、ひとつのジャンルの読み物としての地位を確立している。

 『語り部』は脚色はしても、嘘は書かない。フェルヴィンは閉ざされた国ではあるが、ということはつまり、古代の神話や風習が、そのまま継承され続けている可能性があるということでもある。

 娯楽としてだけではなく、風俗を知る一資料としても実に興味深く、多くの人々が魅了され続けてきた。

 その図書館でも関連書籍が一角を占めており、モニカにとってこの最下層にある20海層フェルヴィン皇国は、幼いころから親しんだおとぎの国であった。堅実で平凡な未来を予想していたあの頃の自分が、今のこの映画のような状況を知ったら何て言うのだろう。

 

 絨毯から染み出るように現れたのは、小柄なモニカよりも、もっと小さな人影だ。きっちりと着こんだ詰襟の黒衣。やや眠たげな金眼に、蝋のように白い肌。おとぎ話の中にいる魔人。

 

「貴方は……そう、確か、グウィンの弟の……」

「末のアルヴィン殿下付き語り部のミケにございます」

 

 

 『語り部』。

 田舎町の農場で育ったモニカには、『魔人』といえば、下層からやってくる労働用の自動人形のことだった。人のように話さないし、姿かたちも人間とはかけ離れていて、思考は単純。おつかいは出来ても、お店の人と世間話なんかできない。

 しかしモニカは、グウィンと出会って本物の魔人というものを知った。

 三千五百年前に製造された、思考し意志ある忠義の()()()()。グウィンの語り部である、優しくて紳士的なベルリオズを知ってから、モニカはフェルヴィンの物語だけではなく、それを描く語り部のことも大好きになったのだ。

 

 

 ✡

 

 

「私が城下へ誘導いたします。手配した飛鯨船に乗って、国外へお逃げ下さい」

 ミケの言葉にモニカは動揺した。

「で、でも、グウィンは……! 」

 魔人はその先を言わせない。

「――――貴方様はグウィン様の大切な御方!」

 それは当たり前に大切な人のことを一心に考える人間そのものの必死さだ。

 

「……この国は、下層世界全てをのみ込むほどの未曽有(みぞう)の混乱に陥ります」

「下層がのみ込まれる……? 何が起きるっていうの?」

「選定です。神々と魔女が確約した、いずれ起こるという人類の審判(デウス・エクスマキナ)。三千五百年の沈黙が破られるのです」

「……それは物語、でしょう? 」

「我が主は、この王城地下に拘束されております。おそれながら、あなた様ならこの場で嘘が申せますのですか? 」

「……言えないわ」

 

 子供の姿をした魔人は、大きな目でゆっくりと瞬きをし、慎ましい薄い唇から小さく息をついた。

「国の人々はどうするの」

「何も知らせるな、との皇帝陛下のご指示です。90万の人間を、明日までに移動させる手段はございません。いたずらに混乱を招くだけならば、民は何も気付かせないまま、審判を無事に終わらせることに注視せよとのおおせです」

「でも、私には逃げろと言うの。90万の人間を見捨てて」

「見捨てるなどとんでもございません。あなた様には大切なお役目がございます。グウィン殿下に選ばれたモニカ様にしかないお役目が! あなた様が生き延び、生き証人となってくだされば、それこそが我が国の希望の灯火の一つとなりましょう。お願いしたいこともございます。モニカ様には、この国で起こることを上層世界へ警告していただきたい。もし、神話で伝聞される通りなら……これから各地で、二十二人の『選ばれしもの』が現れるのです」

 

 モニカはとっさに突っぱねた。

「選ばれし二十二人なんて、おとぎ話だわ。起こるはずがない」

「そう遠くないうちに、おとぎ話でないことが証明されますでしょう。しかし、そのときでは遅いのです。『皇帝』のさだめ持つ選ばれしものは、フェルヴィン皇帝が兼任いたします。皇太子であるグウィン殿下が御即位されれば、殿下はこの国のみならず、この世界の一端を担うこととなるのです。そのときグウィン様には、モニカ様の存在が必ず活力となるはず……いいえ、なります! それが人というものだと、わたしは深く理解しております! 」

「それこそグウィンを置いてわたしだけ逃げられない! 」

「わたしのアルヴィン様が命を()しておられるのです! 」

 

 悲鳴のような声だった。

「アルヴィン様が『自分は死んでもいい』とおっしゃったのです! 誰も救われなかったなどと、そんな結末を、わたしは書けません! 」

 泣き叫ぶようにミケは言った。

 

 

「……わかりました」

 モニカは深く頷いた。

「ありがとうございます」

「私が信じるのはグウィンです。私、まだグウィンの妻ではないわ。でも、その覚悟があるからこのお城に来たつもり。皇太子の妻なんてだいそれた身分、身の丈にあわないことは十分理解してるし実感もない。私はただの小市民よ。でもあの優しい(ひと)が、国を想わないわけがないの。私が逃げることがあの人のためになるのなら、あの人のために、外国人である私が出来ることをします」

 そう口にしたのが、もうずっと前のことのようだった。

 

 

 ✡

 

 

 

 城からの脱出は、早朝に決行された。城を知り尽くした魔人の導きにより、モニカは誰とも顔を合わさずに、地下の水道跡から簡単に抜け出すことができた。

 昼前には指定された喫茶店で、ミケが言った通りの壮年の私服兵士が、まるで実の父親かのような態度でモニカを迎えに来た。

 驚くほど城に近い店だったが、あの不気味な集団は、追いかけてはこなかった。

 

 

「これから別働で脱出したヴェロニカ様と合流いたします」

 壮年の兵士が囁き、モニカは頷く。

 グウィンの妹、義妹となるヴェロニカとの再会は、深夜をとっくに回った時刻になった。

 

 

 

「ちょっと! 何なのこれは! こんなのが自分の国の皇女にする扱いなの!? 」

「でも、こうでもしないと、お城に戻ろうとなさるんです……」

 ぐったりとした若い兵士が、屈強な体を丸めて言う。厳めしい顔には疲労がにじみ、かわいそうなくらいだ。

 けれど見過ごせるはずもない。毛布の上から、芋虫のように鎖で縛られた皇女は、猿轡を今にも噛み千切らんという有様だった。上層では一般的な程度に小柄なモニカとヴェロニカでは、大人と幼児ほども身長差があったし、年齢も皇女のほうが三つ年上だ。しかしモニカの眼に映る彼女はグウィンの妹で、物語のお姫様そのものの姿をしていた。

 実に十一日ぶり、たおやかで溌溂とした美女であるヴェロニカの変貌と言っていい憔悴に、モニカは心を痛めた。猿轡のはずれたヴェロニカの口からは、あのミケという語り部の名前が出た。

 

「ミケは死んでしまったわ」

 淡い水色の目から大粒の涙を流してヴェロニカは言った。

「語り部は誰かの運命を変えると死んでしまうのよ……」

「なぜ!? 私たちを助けたから死んでしまったっていうの!? 」

「魔人とは、意志ある魔法なの。魔法は、ルールに従うことを代償にして奇跡を起こすんですって。語り部に一番優先されるルールは、『傍観者であること』。それを代償にして起こす奇跡というのが、語り部自身の命なの。彼らはどんなことが起こっても傍観者であることを代償にして生きている。ミケはそのルールを自分で侵したわ。あの子はもういない。語り部を喪った弟も、王位継承資格を失った。語り部がいない弟の安否も、わたくしにはもう分からない」

「アルヴィン様は生きているかもしれないわ」

「お父様は殺されてしまったわ。ダイアナに聞いたの。お父様の語り部は、役目を終えて本棚に戻った。……つまり、主人が命を終えたということよ」

「グウィンは……」

「お兄様はまだ生きてる。そうでしょう、ダイアナ」

 老女の姿をした語り部は、こっくりと頷いた。

「アルヴィン様を除いた殿下たちのお命は、語り部の存在の有無で確認が取れております」

 淡々と事実を述べる語り部は、まるで故郷で見た魔人たちのようだった。

 

 

 

 夜明けを待たずに、一行は一度街の外へ出た。移動は、もはや上層世界では前時代的になった馬車だった。

 どこからでも見えるあの時計塔から逃げるように、外側から大きく迂回をして、商館や、外国からの貿易商人が逗留する宿が並んだ商業区へと足を踏み入れる。ヴェロニカはまだ、手足を縛られたままだ。

 

 職人たちの朝は早いが、商人たちの夜は長い。祭の前夜ならばなおさらだ。いくつもの建物が灯りを消さない中、路地を抜けた先にあるその倉庫街は、シンと静まり返っていた。

 

「……飛鯨船を収めている格納庫です。あそこに我々が手配した航海士がいます」

「人がいるようには思えないけれど……」

「……用心を重ねてトーマが先行して様子を見てきますので、お二人はコナンとしばしお待ちください」

 そう告げて、トーマと呼ばれた壮年の方の兵士が入口へと歩み寄っていく。そのときだった。

 

 

「ヴェロニカ様! 」

 若い方の兵士が叫ぶ。

 モニカは農場の娘である。闘牛用の牛が暴れて、鋼鉄の鎖から逃れたところを見たことがある。

 そのとき、モニカは生まれて初めて、人間が純粋な腕力だけで鎖を引きちぎるのを見た。

 盛大に弾け飛んだ、いくつもの鉄輪が降り注ぐ。

「ごめんなさい! わたくし、やっぱり何もせずに逃げられません! 」

「ヴェロニカ様ァアアッ! 」

 

 ヴェロニカ皇女は美しい金の髪を振り乱し、一息で隣の倉庫へ続く塀を腕を使わずに飛び越えた。

 

 

 あとから聞いた話だが。

 ヴェロニカ・アトラスは、身の丈221㎝従軍経験もある皇太子グウィンと兄弟でただ一人、取っ組み合いの喧嘩をして拮抗(きっこう)するのだそうだ。

 混血が進んだフェルヴィン人の中でも珍しく、先祖の龍の血が濃く出たために、たいへんな怪力なのだという。

 それを活かして習得した護身用のレスリングは免許皆伝の腕で、国内には彼女に勝つことができる女性選手はいないとされる。

 

 

 

「ヴェロニカ様ァァァァアアアッッッ!!!」

 

 




『麗しの姫君』(パワータイプ)


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2 ヴェロニカ・アトラス

六日目、一回目。


 

 ヴェロニカ・アトラス。三十二歳。フェルヴィン皇国皇帝レイバーン・アトラスの第二子にして長女。早くに母親を亡くした皇帝一家にとっては、母親代わりとなって弟たちを教育した『偉大なる姉上』。

 

 そんな彼女は、その(すじ)においては『世界同一論』で知られる地質学者、クロシュカ・エラバント博士に見出されて師事し、唯一の助手、理論の後継者としても知られている。稀代(きだい)の才女でもある。

 

 ヴェロニカ・アトラスの名は、ともすれば皇太子グウィンよりも、歴史に刻まれることだろうと研究者たちは言う。

 世界的な大発見をした学者の唯一の弟子が、美しき土エルフの正統な皇女であるという()()()()()()()()は、伝説と()るに足る魅力をもっていると人は言う。

 

 遠くない未来では、伝記として間違いなく人々の手に渡るのだ。ヴェロニカ・アトラスは、すでに歴史に名を刻むことを定められたヒロインの一人である。

 そんな彼女の語り部が、かの近代の英雄、前フェルヴィン皇帝であるジーン・アトラス付だったというのも、彼女の物語を彩る華のひとつである。

 

 24枚から為る語り部は、主人となる者と最も相性のいい一枚が、自動的に選出される。

 ジーン皇帝の語り部、ダイアナは、ジーンの旅にも同行し、数々の冒険を記録した。そのジーンの没年よりたった二年ほどで、フェルヴィン王家には、ダイアナの主人に適した皇女が産まれたということになる。

 

 ヴェロニカ・アトラスは、神の血に連なる土エルフの姫君であり、王位継承権二位の資格持つ皇女であり、母性溢れる五兄弟の柱であり、新進気鋭の学者であり、武術の天才であり、そして何より、まぎれもなく―――――冒険者の魂を持つ者である。

 

 これを因縁といわず何という。

 ヴェロニカが街の路地で異国の魔法使いに出会ったのは、ジーン・アトラスが復活し、レイバーン・アトラスが『審判』の宣誓を行ったのと、ほぼ同時刻のことだった。

 

 

 ✡

 

 

 ずん、と石畳が縦に揺れた。たとえば、平らにならしたケーキの生地をオーブンに入れる前に台の上に叩きつけるのを、この大地そのもので行ったような、そういう揺れ方だった。

 余震は激しく、街角の人々が悲鳴を上げながらうずくまる。家屋の中からも声がほとばしった。露店のいくつもが横倒しになり、広がる被害の規模を目視できた。

 

 サリーの陰にひそんでいたボクは、おそらくその場で一番周囲を観察する余裕があった。坂の上の家屋の屋根よりもっと先、山の影を背にした城の窓の奥が、不自然な青い光に照らされている。それは窓から出て城全体を包みこみ、尖塔の先から細長く暗雲たちこめる空を刺し貫いた。

 見えない何かがうねりを上げ、城から波紋のようにやってくる。

 サリーはよろめいたヒースを抱え、うずくまっていた。その脇に、さきほどぶつかった金髪の大柄な女が、石畳を踏みしめて立っている。女の視線の先は、ボクと同じだった。

 ボクはサリーの陰から飛び出した。女の淡い蒼の瞳がボクを見て丸くなる。うずくまるサリーの前に立ち塞がるように透明な波の前に浮かんだボクは、両腕を前に突き出して吠えた。

 

「―――――――サリー!!!!! 」

「―――――――ジジ!!!!!! 」

 お互いを呼んだのはほぼ同時。サリーの伸ばした指先から伸びた杖先から金色の光がほとばしり、ボクの背に穿たれたのは、波がボクに触れるその寸前。

 

『かちり』。

 サリーが呼んだ名前をスイッチに、ボクの中の部品が噛み合って動き出す。闇を煮詰めたような黒い天幕が、円を描いてボクらの前に展開された。

 一拍もない沈黙。なだれ込むような衝撃。眼球の中心あたりで白い火花が散る。黒い障壁の裏に、ボクの瞳が黄色く不安定に瞬きながら映っていた。

 ―――――押し負ける!!!!

 そのとき、顔の左右から腕が伸ばされた。二つの細さの違う腕が、障壁を新たに支える。

 サリーは歯を食いしばり、ヒースは額に汗を浮かべてボクに頷いた。どちらも、魔力分には申し分ない魔法使いだ。

 呼吸すらやめていた。

 

 ボクらは、天幕に響く長い長い女の悲鳴で、ようやく呼吸を思い出した。

 

「ダイアナ! 何があったの! ダイアナ! 」

 

 天幕の中に、人がもう一人増えている。金髪の女が抱き起しているのは、白髪を振り乱し、顔を腕で覆って悲鳴をあげる初老の女だった。黒い服を着た老女の指の隙間から、金色に輝く瞳が覗いている。

 金色に輝く瞳は魔人の証。

「魔人―――――」

 老女はボクの声を聞き届けたように、ぴたりと悲鳴を飲み込み、()()()とボクを見た。

「―――――ヒィ……」

 老女の喉が引き攣れながら息を飲み、顔を覆っていた腕が滑り落ちる。黒いズボンに包まれた細い脚が石畳を蹴り、あらわれた顔は、ボクを見つめて恐怖と困惑に硬直していた。

 その表情にボクが思い当たったのは、()()()()()()()()()()()ということだ。

 老女を助け起こす女もまた、老女ほどではないにしろ、ボクの顔を見つめて蒼白になっていた。女の唇が音も無く動く。

 

(―――――ミケ? )

 

 ボクがいぶかしんで口を開こうとしたとき、サリーがボクの肩ごしに伸ばしていた手を引っ込めた。慌てて前を向き、あたりが静かになっていることを十分に確認して障壁を閉じる。

「大丈夫ですか? 」

「……え、ええ。大事ありません」

 背後でサリーが女に話しかける声が聴こえる。ヒースが労わるようにボクの肩を叩く。ボクはゆっくりと確かめるように石畳の上に足裏をつけた。

 

 ―――――はたして、あたりは変貌していた。

 

 街並みじたいには変化がない。変貌しているのは、無辜の人々だ。

「な……っ、なんだ、これは……! 」

「『最後の審判(デウス・エクスマキナ)』第一の試練……『石の呪い』だ」

 ヒースがたじろぐほど静かに言った。

 

 それはまるで、黒鉄でできた彫像のようだった。

 恐怖におののく表情も、はりつめ、あるいは弛緩した筋肉や、服の布の質感もそのままに、人々は最初からそうであったかのように、精巧な彫像になって石畳の上にうずくまっている。

 

 転んだ少女の像を持ち上げ、娘へ手を伸ばす母親らしき人の(かたわ)らに安置させながら、ヒースは淡々と続けた。

 

「三千五百年の執行猶予は終わった。人類選定の『審判』が始まったんだ。

 

 

 二十二人の選ばれしものが最上層を目指さなければならない」

 

 

 



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2 (裏)モニカ・アーレ

六日目、二回目。


 

 

 モニカ・アーレは伏せていた顔を上げ、目の前に立つ女の背中を見上げた。

 

「あなたは……? 」

「通りすがりの魔女です。大きな地震でしたね。ご無事ですか? 」

 振り向いてそう言った顔は、にっこりと笑っている。

 

 丸い耳の後ろで長い黒髪を簡素に束ねた小さな頭には、くっきりとした切れ長の目と形のいい鼻口が綺麗な配置で収まっていた。横に立つと、モニカよりも頭ひとつ半も背が高い。手荷物もなく、まるで近所を散歩してきたような、長袖の白シャツと黒いズボン姿である。

 細身で引き締まった体つきや、化粧気のない顔は、少年を抜け出したばかりの青年にも、四十路を過ぎた女にも見え、それでいて不審な感じがしないのは、しぐさに品があって堂々としているからだろうか。

 

 自称魔女は、ぐるりとあたりを見渡した。

「ここは暗くて人通りも少ないようだ。お嬢さんは気を付けたほうがいい」

 

 『お嬢さん』なんて。

 いつもなら、(なんて気障なやつなんだ)と、腹の中が痒くなっているところだ。

 しかしモニカは、「はい。ご親切に、ありがとうございます」と自然にお礼を言うことができた。

 

 

 たしかに、夜の倉庫街は閑靜としており、人の気配がまるきり無かった。これではいくら治安がいいといっても、女の一人歩きは危ない。

 

(……あれ、でも、おかしくない? )

 倉庫のいくつかには、灯りと人の気配があったはずだ。それが、ぷっつりと途絶えている。

 時刻は深夜というには早いが、じゅうぶん床につく時刻ではある。しかし明日は、一年に一度の国をあげた祭の日なのである。

 言いようのない異常を、肌で感じていた。

 モニカの視線もうろうろと彷徨い、見知った人物の姿を探す。

 ヴェロニカ皇女の捜索に走った老兵士とは別に、モニカのほうについた若い兵士が、ほんの五歩後ろあたりにいたはずだ。その彼の姿が見当たらなかった。

 夜とはいっても、両脇に等間隔に建物が立ち、街灯が照らす広い道路は、街路樹もなく見通しが良い。あの真面目そうな兵士が、ひとり言葉も告げずに護衛対象の認識の外にまで離れるとは思わなかった。もしかしたら、どこかで頭でも打って動けなくなっているのかもしれない。

 

 

「……あの、わたしの連れを知りませ―――――あれ? 」

 モニカは、きょとんと無人の道路に立ち尽くした。

 

 

 

「―――――モニカ様! 」

「―――――ヒャッ!? 」

 肩に置かれた手の感触に、モニカは肩を跳ね上げて驚く。

「も、申し訳ありません」

「あ、あなた……。無事だったのね」

 若い兵士は頷く。

 見たところ怪我もない。彼は不思議そうに、モニカに尋ねた。

 

 

「あの……モニカさま。今しがたまで、どこにいらっしゃったんです? 」

「え? 」

「い、いえ、地震の手前で御姿が見えなくなったので」

「わたし、一歩も動いていませんでしたけど。いなくなったのは、確かにあなたのほうで……」

「え? 」

「そうだ、女性を見ませんでした? 束ねた黒髪で涼し気な面立ちの、フェルヴィン人ではない人」

「外国人の女性ですか? いいえ。自分は誰も」

「一見して女性には見えないかもしれません。こんな見通しのいいところ、見ていないはずが無いと思うんですけれど」

「いいえ。誓って、モニカさま以外の人影は見ておりません」

「……そう。ねえ、ほんとうにすぐそこにいたのよね? 」

「はい。目の前にいたはずなのに、モニカさまを見失ってしまって少々慌てましたが」

 

 嘘をついているようには見えなかった。

 互いに、小さな困惑と恐怖を抱えた顔をしている。

 モニカは、ふっと息を吐いて、微笑んでみせた。

「気にしないで。疲れてたのよ」

 

 しかしその微笑みは、次の瞬間凍り付く。

「……えっ……な、なにあれ。も、燃えてる? 」

「は? ……し、城が―――――っ! 」

 王城は不吉な篝火のように、煌々と闇にその姿をさらしていた。天を衝くほど立ち昇るその炎の色は、異様なまでの『青』。

 いやに冷たい夜風が吹いている。

 分厚い雲がいまにも落ちてきそうだった。



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2 対屍人戦 前編

六日目 三回目。本日ラスト…のつもり。


 ヴェロニカ・アトラスは困惑していた。

 

 語り部ダイアナと、主人であるヴェロニカの精神は、糸のように繋がっている。

 ヴェロニカにもうまく説明はできないが、イメージするのは透明な管である。やり取りをするのは、思考、感情。時には、口に出せない会話を楽しんだりすることもできる。

 それら心の動きの大半を、『語り部』は管を通して読み取り、記録する。もちろん執筆の材料にするためだ。

 

 ヴェロニカはずっと、このやり取りは一方的なものだと思っていた。

 主人のほうが語り部の動向を知ることができても、彼らの仕事に何の役にもたたないし、そもそも語り部はあまり自己主張をしないものだ。少なくともダイアナはそうだった。

 

 『管』からダイアナの大きな動揺が流れ込んできたとき、思わずヴェロニカは悲鳴をあげそうになった。身に覚えのない『恐怖』『悲哀』『悔恨』が、深い共感性をともなって、皇女の精神に注がれたのである。

 ダイアナに何かがあったのは、すぐに理解ができた。

 語り部は主が呼べばすぐに姿を現すものだ。だから語り部は、ずっと主人の近くにいるものだと思っていた。その認識が崩れたのは記憶に新しい。

 もしかしたら、語り部たちと繋がっているから近くにいるように思っていただけで、本来語り部というものは王城の地下にあるという大図書館『本の墓場』で、ひっそりと過ごしているのかもしれない。主のもとに現れる彼らは、『本の墓場』にいる彼らの影のようなものなのかもしれない。

 あの窓のない部屋に閉じ込められていた間に、ヴェロニカには語り部というものが分からなくなっていた。

 そして今、また彼女の常識を揺るがすことが起こっている。

 

 動揺の瞬間、胸の内で呼んだ声に、ダイアナは応え、ヴェロニカの影から姿を見せた。

 はたして彼女は、ヴェロニカの認識以上に狂乱していた。

 ヴェロニカは、泣き叫ぶどころか涙をこぼすダイアナすら、一度も見たことが無い。

 何か、彼女を大きく動揺させることが起こったのだ。語り部としての彼女の根底を揺るがすような何かが。

 そしてそれは、おそらく王城に立ち昇る青い炎と無関係ではない。

 

(……嗚呼(ああ)っ―――――! どうして、どうして! こんなときにグウィンお兄様はいないの―――――ッ! )

 

 皇太子の不在。それも、今や生死の行方すら危うい。ダイアナがこんな調子では、確かめるすべもない。ヴェロニカにとって、年子の兄は、公務のことも家族のことも二人三脚で乗り越えてきた戦友だ。弟たちでも替えのきかないものを、互いに共有している。半身といってもいい。父を喪い、そのうえ兄まで喪えば、ヴェロニカは糸が切れた凧になるしかないだろう。

 

 さっきの地震はいつになく大きかった。ヴェロニカの混乱は止まらない。

(被害状況は? 消防機関の動きは? どうやって確かめる? 王城があんな状況なのに? 復興までの対応は誰に任せるの? 街の人々にどう説明できる? そもそも、こんな状況で、()()()()()()()()()()()? )

 

 ヴェロニカには分かっていた。

 王城陥落には、手引きした者がいる。そしてそれは、王族一家に近い、国家中枢を担う誰かである。

 城の中はどうなっているのか。おそらく、城下から見るぶんには、それほど変化は無かったのだ。町に住まいを持つ兵や官もいるというのに、人々は祭の準備をしていた。間違いないだろう。

 ヴェロニカは誰も信用してはいけなかった。伝統ある語り部の在り方すら疑っていた。弟ですら疑っていた。

 そして父なき今、皇太子である兄を疑うことはできない。兄が犯人なら、この国は本当に終わりだから。

 あらゆる状況が、皇女ヴェロニカを追い詰める。

 国を支えている屋台骨に、ひびが入る音が聞こえてくるようだった。

 

 ――――――そして今、ヴェロニカ・アトラスは途方にくれている。

 

 ✡

 

(――――――いっそここで死んでしまいたい)

 本心かもしれなかったし、そうではないかもしれない。彼女自身にもわからない。けれど胸に僅かな安堵を覚えたのは事実だ。とりあえず、懸念だった市民たちのパニックは先送りになった――――――伝承通りなら。

 

「―――――あなた達。わたくしに詳しく説明なさい」

 皇女は考えることをやめた。

 顔を上げた彼女の眼には、乾いた殺意すら浮かんでいる。

 サリヴァンはただの通行人だと思っていた彼女から立ち昇る貴族的なものに気が付き、表情を変えた。

 

「≪『最後の審判』が始まった≫、と。そう言いましたね。この状況は、そのことで全て説明がつくのですか。打開策は。市民をもとに戻す方法は。知っていることを全てつまびらかに教えなさい」

「……あなた様はいったい」

「ヴェロニカ・ルカ・サーヴァンス・アトラス。アトラス皇帝の第二子。わたくしはこの国の皇女です」

 

 ✡

 

 サリヴァンは顔を覆いたくなった。

 たまたま居合わせ、たまたま石にならなかった通行人が、実は皇女様であった―――――。

 ―――――そんなことが果たしてあるのか? あるのである。

(……師匠。わが主よ。この采配は腹をくくれということか? )

 

「わたくしが尋ねることに答えなさい。嘘をつくことは赦しません。身分を明かし、協力なさい」

 

 燃え上がる皇女の瞳を前に、サリヴァンは偽る心も、()()()持たなかった。

 



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2 対屍人戦 中編

六日目 四回目。(明日は祝日なので)
今さらですが、よければブックマークや評価よろしくお願いします。


 

 

 夜の街道は、あたりまえだけれど、残酷なほど静かだった。

 その静寂を背に、サリーの声がとつとつと、不器用に紡がれていく。

 ボクもヒースも口を挟まない。サリーの言葉はうまくはなかったが、真摯で実感がこもっている。皇女には話術よりも、偽りのない感情のほうがきくだろう。

 

 

 軒下の透かし彫金の灯りたちが、沈黙する黒い像の影を、道々に落している。

 それそのものが影法師のような市民たちがそうしている姿は、不気味で、不自然で、けれど侵しがたい、宗教画のような美しさがあった。

 

 もうこの場所は、滅びに向かって抗おうとするボクらの姿のほうが、筆先が誤ってついた絵具のようだ。

 サリーはきっと、こんな光景を『美しい』とは形容したくないだろうけど、ボクにはこの滅びの街が、ある種の『行き着くべき場所』のように見える。もし、本当に神々が示して創り上げた光景なら、その創造物であるボクらには、こうした滅びを受け入れることもプログラムされているのかもしれない。

 

 こんな考え方の違いは、ボクが魔人でサリーが人間だから、というわけでは無いと思う。

 

 サリーは、その滅びから抗うために産まれて育ったから、この光景を受け入れられない。

 ボクは、八割九分くらいの人間は燃えるゴミだと確信しているから、(まあ仕方ないかな)って受け入れる。

 どちらも同じくらい捻くれた意見だ。この皇女やヒースに聞けば、また違う方向に捻くれた主張を持っているだろう。

 

 

 ボクは人間なんてそんなもんだと思っているし、だからこそ『人間はだいたい燃えるゴミ』という主張を曲げるつもりはない。

 人間は『燃えるゴミ』か『口を利く肉』か『その他』の三つに分類されるのだ。ボクの人を見る目は厳しいのである。

 たとえ皇女といったって、今のところ燃えるゴミなのは変わりない。この人が助かったのは、たまたまボクらの近くにいたからだ。この女は燃えるゴミらしく何もできないで明日死ぬかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 ただの偶然に、勝手な意味を見出すのは、感情の脆弱性である。命に意味があって生きているのは、ほんの一握りなのだ。

 

 そしてサリーとヒースは、生まれながらにして、そうした意味を背負っている一握りである。

 ボクは『選ばれた』人間のことを幸運だなんて思わない。

 

 意味のある命をもっている人々には、責任がともなう。『価値あることしかやってはいけない』という義務がある。

 

 意味なく生きている大多数の人間たちの自由さを考えれば、サリーたちの運命は不自由すぎる。ボクは自由を愛する魔人だから、ボクに自由をくれたサリーが不自由を強いられていることに、非常に憤りを感じているのである。

 

 サリーは、おそらく産まれて初めて、自分の口から秘密を明かす。その価値があるとして、この女に意味を見出した。

 ヒースも、サリーが身分を明かそうとするのを止めなかった。

 つまりこの女は、ただの幸運で生き残ったわけではない。ボクじゃない誰かにとっては、価値を見出され、選ばれた人間だったのだ。

 

 

 ――――――この女の価値とは何か?

 

『影の王』は、そんなことを懇切丁寧(こんせつ ていねい)に教えてくれるような人ではない。必ず『自分で見つけなさい』と言うだろう。

『影の王』は稀代の預言者のくせして、すべての命に対して放任主義だ。正解がない難題を、なにもいわずに問いかけておいて、解くか解かないかまで選択させる。もちろん、解釈した問題自体が間違っているということもある。

 

 サリーはこの女に真実を告げることを選択し、ヒースもそれに同意した。

 皇女は、サリーのことを信じることを決めたようだった。

『影の王』は、こうなることが、きっとわかっていたんだろう。

 サリーの持つ真実は、はっきり言って荒唐無稽だ。ボクが詐欺師なら、皇女さま相手にこんな話はできない。ハードルが高すぎる。

 皇女が信じてくれたのは、語り部がいるのと、真実だからだ。

 

 

 サリーは、『貴族の礼』と呼ばれている、王宮騎士がする作法にのっとった仕草で、皇女に(ひざまず)いた。一歩後ろに下がった位置で、ヒースも同じように石畳に膝をつける。

 皇女は慌ててサリーに立つようにいい、叱りつけるように首を横に振った。

 裁きが始まった滅び行く世界で、小さな笑い声が重なる。三人は固く握手を交わした。皇女の瞳から、一粒だけ雫が垂れて、皇女の影が落ちる石畳に、すぐ消えるしみを作った。

 ボクは、皇女の影を見た。

 『語り部』の目が、その人の真名と血筋を看破する能力を持っているというのは本当らしい。

 

 

 ボクはサリーとは違う人間だから、違う方向からものを見る。

 ボクはサリーの魔人だから、サリーの魔人としての価値を磨く努力をしなければならない。

 ボクは自由と享楽と平穏を望む、質量なき魔人(意志ある魔法)

 サリーに自由をもらったボクは、サリーの最後の砦にならなければならない。

 

 だからボクは、ボクにとっての『その他』である彼らに、別の回答を用意する。

 義務と責任に縛られた、不自由な少年たちができないことは、ボクが担う。 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

『この女は燃えるゴミか? 喋る肉か? それ以外か? 』

 

 それがサリーの魔人であると決めたボクの、役目なのだ。

 

 

 ✡

 

 

 和解を済ませたサリーたちは、まず皇女の同行者である次期皇太子妃モニカ女史との合流を目指すことにした。ボクはサリーの影の中からついていく。

 

「……とはいっても、この状況で彼女が無事でいるとは思っていません」

 街並みに立つ石像を避けながら言った皇女は、よどみなく足を進めていく。

 心情的にも、皇女は義姉になるモニカ女史のことを捨て置けないのだとその表情でうかがい知れた。

 せめて石像になったその身体だけでも保護したい……といったところだろう。

 

 皇女の説明で、『影の王』の目論見(もくろみ)の一端も知れた。……こう言うと『影の王』がまるで諸悪の根源みたいだけど、あの人がいろいろ画策していたのは間違いない。

 ようするに、『審判』が起こることを事前に預言した『影の王』は、サリーとヒースに皇女の救出をさせたかったのだ。

 でも、皇女の救出だけで終わるとは思えない。

 

(……でしょ? サリー)

(まあな)

 

 案の定だった。

 

「ヴェロニカ様! ご無事でいらっしゃったんですね! 」

 倉庫街に戻ってきたボクらは、皇女との再会を喜ぶ三人の男女と出会った。

 うち紅一点は、話に訊いたモニカ女史だろう。

 ウサギやリスを思わせる、小柄で活発そうな女性である。栗色の髪を高い位置で一本に結い、動きやすさを重視したパンツルックも着慣れているかんじだ。くりくりとした茶色い目や、そばかすが散った頬が愛嬌と親しみを振りまいている。

 このとおり素朴な雰囲気の人で、とても皇太子妃になる人物には見えなかったが、短い逃亡生活のあいだ、外国人観光客を装うのにはおおいに成功していただろう。

 彼女と同年代に見える若い男は、硬い表情としぐさで遠巻きにヴェロニカ皇女を見つめている。青ざめて緊張した面持ちで、軍人っぽいお辞儀をした。これがコナン・ベロー中尉だ。

 そして最後の、初老に差し掛かった紳士は、ヴェロニカ皇女を視界にみとめると帽子を取り、感極まったように腕を広げ―――――皇女との間に踏み込んだサリーを、いぶかしげに見た。

 

「……ヴェロニカ様、彼は? 」

「トーマ・ベロー外交副長官。彼の質問に、正直にお答えなさい」

 皇女の青銀の瞳が、副長官の白い眉毛に半分埋もれた瞳を射抜く。男の細く尖った視線は、ヴェロニカ皇女を見返さずに、その前に立つサリーの黒い瞳を冷たく一瞥(いちべつ)した。

 街道がまばらに立つ殺風景な倉庫街に、白刃が線を描いてひるがえる。

 

 サリーが何も言わず袖口から顕現させた剣の先で外交副長官殿の()()()()()を空に跳ね飛ばすのと、背後から近づいたコナン中尉の腕がモニカ女史の首にまわったのは、ほぼ同時のことだった。

 

「……おれの質問は不要のようだな」

「少年。剣を収めなさい」

「ヒヒ……これがホントの問答無用ってヤツ?

 

 

 ねえ? ()()()()()? 」

 

 

 

 

 副長官どのはサリーの前を堂々と横切ると、帽子を拾い上げ、土埃をはたいて、撫でつけられたシルバーグレーに収めた。

 ゆっくりとしたその仕草のあいだに、わらわらと、倉庫の陰から人影が現れる。服装は変わっているが、いくつか見た顔が混じっている。

 顔をしかめたサリーが、鼻から長くため息を吐いた。

 

「……死んでなかったのか。あの爆発は偽装か? 」

「サリー、死んでなかったんじゃないよ。……もう死んでたんだ」

 

 街灯の灯りの下に、屈強な男たちのシルエットが照らされる。

 あの斜陽に照らされた倉庫の中では、顔色が分からなかった。新鮮な死体のかすかな腐臭も、干し草のにおいで誤魔化されている程度。

 でももう、この場では言い逃れできない。

 

「あれは屍人だよ、サリー」



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2 対屍人戦 後編

七日目 一回目。


 

 

 ボクは強請(ねだ)るように、顔をしかめる主を見上げた。

「ねぇ。久々にやらせてよ、()()

「言うと思った」

「だって、ずっと専門外のことしかさせてくれないじゃない。不完全燃焼なんだ」

「……ちゃんと抑えられるのか?」

「キミこそ、何を躊躇してる? 使えるものは使うんだろ? 今ボクを使わないで、これからどうするのサァ」

「…………」

 

「―――――残念ですわ、ベロー副長官。あなたは我が国に尽くす我が一族の(とも)であると信じておりましたのに。……甥御さんまで巻きこんで」

 ヴェロニカ皇女は、視線をモニカ女史を拘束するコナン・ベロー中尉に向けた。青ざめた若い中尉は、唇を引き結んで皇女から視線を逸らす。

 

「おやおや、粛清ですか? ヴェロニカ殿下。そんなどこの誰とも知れぬ外国人を使って? 皇女である、あなた様が? 」

「それはあなたのことを仰ってるのかしら。こんな恥知らずだとは知らなかったわ」

「フフ……すくなくとも私は誰とも知らぬ外国人を引き入れたわけではございませんので。彼らこそが、本来の私にとっての朋友でしてね」

 

 副長官はかぎ針状に曲げた両手の指を、おもむろに口に押し込んだ。指先の爪が内側から頬肉を抉っていく。頬肉を内側から(むし)るようにして、副長官は自らの顔を指で大きく傷つけた。その手は次に、自らの下目蓋にかかる。

 慣れた作業的な仕草だったから、それはあっという間だった。

 どんどん元の面影を失くしていく顔面の、むきだしの肉が奇妙に揺れる。

 ()()()と。まるで身震いをするように。

 笑みの形に露出した歯列に早戻しのように肉が戻っていく。再生した唇の皮膚は、笑みの形を保っていた。

 彫りの深い、浅黒く日焼けした若々しい顔立ちに、もとの初老の紳士の名残りは無い。

 

「ベロー副長官……いいえ。あなたは誰」

「ただの亡者ですよ。墓守の姫」

 声すら違う。異国の響きを含んだ瀟洒(しょうしゃ)な楽器の演奏のように、耳通りの好い声だった。

 

「皇女……そこにいる魔法使いの正体をご存じなのですか? 」

 ヴェロニカ皇女は青い目をすがめる。

「それは、『影の王』直々に我らに差し出された―――――」

「あら、彼はそういう扱いなのですの? 」

「……なんですって? 」

「まぁまぁまぁ……それで、それが何か? その上で、わたくしは彼を信頼することにいたしました。彼自身が、その『影の王』を微塵も疑っておりませんもの。いわく【師は無駄なことをしません】ですって。あなた、(たばか)られたのよ」

 皇女は上品な笑い声を響かせた。

「惑わし、甘言……? わたくしは、そんなもの聞きませんわよ? ほかに口にすべき言葉があるんではなくって? 」

 

「その魔法使いが、いったい何をしてきたのかも、知っていると? 」

「この期に及んで、まだるっこしい殿方は好きになれなくてよ。話題が暴力的で、下品で、悪趣味な殿方なら、(なお)のこと。このヴェロニカを口説きたいのならば、その顔に―――――」

 ヴェロニカは、前に倒れ込むようにして踏み込んだ。

 218㎝のほっそりとして見える矮躯の一歩は、驚くほど広く、早い。風に揺れる柳のように、青年の体が曲がる。

 

「―――――わたくしの拳をまず受け入れることね! 」

 

 

 青年の笑みがぐしゃりと崩れ、噴き出した汗が拳圧に飛沫になって飛び散った。

 青年は頬を流れる汗と血液の混合物を、指先でふき取る。

 

「……話に訊くより、ずいぶん野蛮な姫君だな。脳ミソが飛び散りそうだ」

「よく避けました。ウフフ……自信を失いそうですわ」

「顔が笑ってるぜ。お姫さま」

「うふふ……少し鬱憤が溜まっておりますのよ。強敵との試合は、好い気分転換になりますわ。加減がいらないのなら、なおさらでなくて? いいえ、殺す気はありません」

「……こちらには人質がいるんだぞ」

「怯えないで。小さなひと。わたくしはあくまでもフェルヴィンの皇女として上品に……あなたが質問に答えたくなる場を整えてるだけですよ」

 トン、と皇女は爪先で軽くステップを踏んだ。右足を軸に、ダンスをするように肘を上げて上体を傾ける。

 長い金色の髪が白い頬を撫で、背後に流れる。刃金色の瞳だけが笑っていない。

 

「本性を明かすなんて、悪手でしたわね。わたくし、おばけは平気なの」

 

 皇女は一歩、男に近づく。

 

「……だから安心なさい、コナン・ペロー中尉。あなたの叔父上の仇、このわたくしが討ちましょう」

 

「ヴェロニカ様……」

 

「家族を亡くす以上に怖いものなんて無くってよ! そうでしょう!? 」

 

「――――皇女を殺せェ! 」

 

 男は気炎を振り絞って叫んだ。

 皇女の華奢な長身に、武器をかかげた丸太のような腕脚を持った亡者たちが大波のように群がり、次の瞬間―――――ごぶりと、腐臭に濁った黒い血を吐き出した。

 

「きゃあ! 」

 モニカの悲鳴がヴェロニカの耳に届く。その身に凶刃が向けられたわけでは無かった。おもむろに白目を剥いてぱったりと倒れた中尉の姿に驚いたのだ。

 感情を失った死体たちのなかに、困惑と警戒が広がっていた。

 痙攣して思うように動かない手足を、不思議そうに眺めて立ち止まっているものもいる。

 そうして死体たちは次々と、目から口から鼻からと血を噴き出し、根が絶たれた樹木のように倒れて動かなくなっていった。

 

「何だ! 何がおこっている! 」

「―――――アンタはね、運が悪かったんだよォ。だって、ボクがいたんだから」

 男の視線が上を見上げた。

 

 街灯にも照らされない、漆黒の空を背景にして、白い肌が浮いて見えた。黒い擦り切れた外套の裾が、風のない夜に大きく翼を広げるようにはためいている。

「アンタの敗因はいくつもある。

 『影の王』を見くびったこと。

 サリヴァン(コイツ)にはボクがいたこと。

 

 ……そして、ボクのご主人様を侮ったことさ」

 

 

 

「―――――”願いは彼方(かなた)で燃え尽きた”」

 

 サリヴァンの声が響く。

「―――――”希望は彼方(かなた)に置いてきた”……」

 銀色に輝く短剣を顔の前にかかげ、魔法使いがおごそかに、相棒を司る呪文のしるべを口にしている。

 

「”望みはなにかと母が問う”

 ”そこは楽園ではなく”

 ”暗闇だけが癒しを注いだ”

 ”時さえも味方にならない”

 ”天は朔の夜”

 ”星だけが見ている塩の原”……」

 ジジの輪郭が黒く崩れ、膨れ上がる。漆黒の中では黄金の瞳が二つの月のように輝きを増し、唇は笑みを深めた。

 

「―――――”言葉すらなく”

 ”微睡みもなく”

 ”剣を振り下ろす力もなく”

 ”いかづちの槍が白白(しらじら)と、咲いたばかりの花々を穿(うが)つ”—————」

 

「なんだそれは……やめろ……」

 

「”至るべきは此処(ここ)と父が言う”

 ”我が身こそが、終わりへと至る小さな鍵”

 ”望みはひとつ”」

 

「黙れェェェエエエエ!!!! 」

 

 

 

 

「―――——”やがて、この足が止まること”」

 風が止んだ。

 

 

 

 

 

 モニカが呟く。

「なに、これ……黒い……雪……? 」

 

 魔人の声は、甘い艶を含んで夜の空気に溶けていく。

「聞いたこと無ァい? 二年前……グロゥプスの街での悲劇……死の霧の悪夢……三千人の市民を恐怖に陥れた七日間は、()()()古代兵器が起こしたっていう話」

「……まさか」

「お察しの通りさァアア」

 ヒヒヒ、と、切れ込みのように笑顔が裂ける。

 

「ボクって魔人の性能は、対人特化型なんだよネェエ―――――――」

 その語尾は奇妙に歪みながら、夜の闇に引き伸ばされて間延びしていく。不快な耳鳴りが男を襲い、網膜はいつしか地面の小石を見ていた。

 

「生きてたって、死んでたって、そんなのは変わんなァい。ボクにはヒトの弱点が手に取るようにわかるよォ。ココロも、カラダも、とっても簡単サァ――――――壊れやすくて、すぅううぐ()けるもんねェェエエエ! フフフ―――――ハハハ―――――ケヒヒ……キヒヒヒヒヒヒ―――――」

 男はがふりと口から泡を吹いた。

「? ??? ―――――!? 」

 陸にいてして溺れている自分が信じられなかった。体中の穴から得体の知れない液体が逆流している。男は吠えた。

 

「―――――――クゥゥウスヴァァアアア(この悪魔)アラァアアア!!!!!! 」

「よく言われるよォ。誉め言葉だね」

 

 

 

 

 闇に金色の三日月が二つ浮かんでいる。

 ピチャリと、泥をはだしが踏みつける。外套のすそをつけ、ジジはしゃがみこんでその顔を覗き込んだ。

 死者たちの二度目の死は、静かに泥のような闇に沈んでいった。



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2 wimp ft Lil’ Fang

七日目、二回目。二章ラスト。


 

(とんでもないことになったわ……)

 モニカは早鐘を打つ胸を押さえ、みずからの心臓の鼓動を確かめるように掻き抱いた。コナン・ベロー中尉の太い腕が首に回っていた間は、生きた心地がしなかった。まだ頭がふわふわしていて、自分が生きている事実が夢のように思う。

 冷たい石畳に座り込んで震えるそんなモニカの肩を、かたわらから、そっと抱く手があった。

 顔を跳ね上げたモニカの目に映ったのは、黒髪に縁どられた白い端正な顔立ちと、そこに嵌った濃紺の瞳である。心臓が別の意味で高鳴った。

 

「大丈夫ですか? 立てます? 」

「あ……え、ええ」

(あらま……目の保養だわ……)作業服の美青年に手を取られながらモニカは目を白黒させ、(……我ながらちょっとオバサン臭いわね)と苦笑した。

(なーんだ。美形に驚いて恐怖を忘れるなんて、あたしって結構図太かったのね)

 

「モニカさん!!! 」

 次の瞬間、モニカの視界は真っ暗になった。

 

 

 ✡

 

 

「ごめんなさい! 見捨てたりするつもりは無かったの! 貴女ももちろん家族ですし、もうお義姉さまだと思っていてよ! 嗚呼(ああ)……ッ! もし貴女に何かあっていたら、わたくしお兄様になんて顔向けしたらいいのかっ! 」

「もがもがもが! 」

「ちょっとお姫様。アンタのか弱いおねーさま圧死しそうなんだけど? 」

「もがが! 」

「ひゃあ! ごめんなさい! 」

 

「……元気だなぁ。あの皇女(ひと)」

 サリーは頭を掻いて苦笑する。足元には、刺客の中で唯一の生者であったベロー中尉が仰向けに転がっていた。

 彼は重要参考人である。そしてヴェロニカ皇女の証言で、中尉はおもに軍が所有する飛鯨船を運行していた航空隊の小隊長だったことが明かされている。つまりどういうことか? ―――――ヒース一人では越えられない第十九海層『魔の海』を、航海士が二人になったことで交代要員が確保でき、越えられるようになったということだ。

 『やりたくない』とは言わせない。最悪、ボクがちょちょいっと頭を弄ってでも、言う事をきかせることになるだろう。

 

 自分より三周りは巨大な体に手際よく縄をかけながら、サリーは欠伸をかみ殺した。

「変わろうか? 疲れたでしょう」

 その背中に声をかけたのはヒースだ。

「いいよ。大丈夫。―――――まだ気は抜けねえだろ? 」

「……そうだね」

「じゃあ、次におれは何をしたらいい? 」

「っ……」

 

 ヒースは何か言いかけた言葉を飲み込み、いたわるようにサリーの肩に手を置いた。視線は石畳に膝をついて手を止めない親友のつむじを見下ろして。

「……さすがサリー」

「わからいでか。お前の役目は、皇女たちを『上』へ逃がすことだろう。じゃあおれは、『皇帝』の奪還。違うか? 」

「そうだね。それで合ってる」

 

 始祖の魔女が『最後の審判』について告げた預言には、人類の代表として選定された二十二人が『審判』の旅へ向かう、といわれている。

 魔女はその時のために、二十二人それぞれを暗示する言葉を遺した。

 

 一のさだめは愚者(フール)。やがて真実を知るさだめ。

 二のさだめは魔術師(マジシャン)。種をまいた流れ者。

 三のさだめは女教皇(ハイプリエステス)。始まりの女。

 四のさだめは女帝(エンプレス)。あらゆる愛の母たれや。

 五のさだめは我らが皇帝(エンペラー)。秩序の守護者。

 六のさだめは教皇(ヒエロファント)。知恵を授かりしもの。

 七のさだめは恋人たち(ラバーズ)。自由なる苦悩の奴隷。

 八のさだめは戦車(チャリオッツ)。闘争に乾いたもの。

 九のさだめは力(ストロンジ)。力制すもの。

 十のさだめは隠者(ハーミット)。愚者がやがて至るもの。

 十一のさだめは運命(ホイールオブ)の輪(フォーチュン)。予言に逆らいしもの。

 十二のさだめは正義(ジャスティス)。秤の重きは全の重き。正義の剣は全のために。

 十三のさだめは吊るされた男(ハングドマン)。真実に殉じるもの。

 十四のさだめは死神(デス)。再生の前の破壊。破壊の前の再生。

 十五のさだめは節制(テンパランス)。意思なき調整者。

 十六のさだめは悪魔(デビル)。恐れるは死よりも孤独。誘惑を知るもの。

 十七のさだめは塔(タワー)。巡り合わせた罰。楽園からの転落。

 十八のさだめは星(スター)。希望の予言。賢人の道しるべ。

 十九のさだめは月(ムーン)。透明な狂気のヴェール。魔女の後継者。

 二十のさだめは太陽(サン)。祝福された命。

 二十一のさだめは審判(ジャッジメント)。神の代官。審判の具現化。

 そして、二十二のさだめ。あらゆるものの根源にして至るもの。宇宙(ワールド)。

 

 

「この事態は、預言されていないイレギュラーだ。『影の王』いわく、『最後の審判』についての預言が詠まれた当時と今では、未来が変化している」

「原因は? その口ぶりなら、師匠(影の王)にはわかってるんだろ? 」

「『死者の王』―――――。神々が世界を砕いた『混沌の夜』よりずっと昔。最初の『人間』にして最初の『死者』。彼がなぜだか、冥界から現世に解き放たれた。彼の目的は、現状から見ておよそ予想がつく。なんせ、人類原罪の立役者。最古の悲劇の人だからね」

「……人類救済のための試練である『審判』に横槍入れて、世界に復讐するってところか? 境遇に同情はするけどよ、迷惑な話だな」

「でも、これが現実だ。フェルヴィン皇国は『審判』のスタート地点。墓守の王であるフェルヴィン皇帝は、審判において【皇帝(エンペラー)】の役目を持っている。絶対に死者の王へ渡すわけにはいかない」

「なるほど。おれもこれ以上のイレギュラーは御免だね。ま、おれには例の預言もあるし? ここで死んだりする運命(さだめ)じゃあ無いはずだからな」

「でも、サリー。僕は心配だ。……だって、預言の未来はもう変わっているかもしれないんだよ? 預言に詠まれていると言っても、絶対じゃあない……」

「……エリ」

 子供のときの呼び名を投げて親友を振り返ったサリーは、にっかりと笑って、おもむろに少し高い位置にある黒い頭を掻きまわした。

 

「ちょ――――――ちょっと、サリー! 」

「早いほうがいい。明日の朝に突入する。ジジ、お前はついてくるか? 」

「キミが行くなら、ボクが行かないわけないでしょ? 」

 サリーの黒い瞳は、ぎらぎらと生への渇望を燻ぶらせている。ボクはにっこりとして、差し出された手のひらを叩いた。

 

 

 ✡

 

 

 明朝、ヒースが操る飛鯨船ケトー号は、皇女ヴェロニカとモニカ・アーレを乗せて首都ミルグースを飛び去った。

 ヴェロニカ皇女は、一度逃げたことをモニカに謝罪し、こう言った。

「わたくしは、何としてでも生き残らねばなりません。『最後の審判』が始まった以上、墓守の王の血を絶やすわけにはいきませんもの。皇女として……父上の娘として。非力なわたくしは、非力なりのやり方で、この世界と祖国を救いますわ」

 

 黒雲にケトー号が呑まれる、そのときだった。

 

 地面が揺れ、ゲルヴァン火山の火口が沸騰する。王城から、ふたたび眩い青い光があふれだし、波紋のようにうねって、フェルヴィン全土へ広がっていく。

 天を衝く青い火柱。それは死者たちの行軍だ。骨を鳴らし、眼窩を晒したシャレコウベどもが舌なき喉を震わせて、現世の再来の歓びを歌いながら駆けていく。

 行軍はケトー号のすぐ脇を横切った。行軍を遅れて追いかける少女の亡者が、腐り落ちた貌をほころばせて、指が足らない手を振っている。

 それが、旅立つモニカの見た、最後のフェルヴィンの姿だった。

 



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3 対スート兵『剣の10』戦

七日目 三回目。
三章開始。


 朝が来る前に漂う独特の空気は、いつだってサリヴァンを不安にさせる。

 思えば、幼いサリヴァンが眠い目を擦りながら故郷のサマンサ領を旅立ったのも、まだ星が光る早朝だった。別れ際の両親の顔よりも、初夏の良く晴れた肌寒い日であったことや、車窓から夜明けを見たことのほうをよく覚えている。

 酔っ払いも野良猫も寝静まろうとしている、一日で最も暗いこの時間は、空気そのものがあらゆる生命を拒絶して尖っているような気がして、いったい自分は何をしているのだろうという気分になるのだ。

 

 サリヴァンは、奥歯の奥からにじみ出る苦い汁を飲み込んで、らしくもなく緊張している自分の胸の内に向かって笑った。

 街を貫いて王城の門へ続くまっすぐな白い街道は、祭の衣装に着飾ったまま静止している。人々も。彼らは一様に、石像になったように固くなっている。

 『審判』には段階がある。これは第一段階。『石の眠り』だ。

 審判が終わらなければ、目覚める日は永遠に訪れない。

 

 そろそろケトー号も出発する頃合いだった。

 敵方の出方が分からない以上は、あまり皇女たちをこの国に留まらせると危ないという結論に至った。いや、あの皇女ならば、大丈夫かもしれないが、皇太子妃であるモニカは完全な非戦闘員である。

 青い炎は冥界の炎―――――ならばこの状況は、冥界の扉が開いたと見るのがおそらく正解だと、魔法使いたちと皇女は理解していた。亡者や屍人がたむろするこの国に、反撃の手段のない生者がいるのは、あまりに危険だった。

 頬にぶつかる風は朝霧で湿って冷たい。

 ケトー号が飛び立てば、おのずと敵にもその船影がさらされることになる。

 サリヴァンとヒースは、まだ日が昇る夜明け前に、同時に出立する作戦を立てた。

 攪乱になればいいと思っての作戦だったが、思っていたよりも遥かに街は静寂に沈んでいる。動くものは野良猫一匹もいない。

 

 城は青い炎に包まれ、篝火のように輝いていた。

 

 ✡

 

「……どうしてボクらは石にならないんだと思う? 」

「おれたちが外国人で、フェルヴィンの民ではないからだろう。『審判』には順番があるんだろうと思う。『魔法使いの国』は第18海層。審判の順番は三番目だ」

 

 街道を駆け上がるボクは、黄昏の影法師のように大きな黒猫に姿を変えている。そんなボクの背中で、サリーが銀蛇が形を変えた鞍に乗っていた。

 

 城門の脇には物見の塔が立っており、塔の間にはアーチ状に橋がかけてあった。塔の上はもちろんのこと、等間隔に並んだ十字型の小窓は狙撃を想定した造りだ。

 門は開け放たれていた。祭事用に飾られた制服を着た夜警がふたり、門柱を背に立ち尽くしている。城門から先はかなり急な階段と坂道が続く。城はすぐ前に聳えているのに第二の城門が現れ、段差は狭くなり、勾配はさらに強くなる。第三の門は、馬が二頭並んでもいられないくらいに小さなものだ。それをくぐった瞬間――――目の前にフェルヴィンの王城の全容が広がった。

 フェルヴィンは昼夜も無いほど光が乏しいので、この城壁を飾った親方たちは長い試行錯誤の末この形に辿り着いたのだと、ボクがずっと後に読んだフェルヴィンの観光誌には書いてあった。

 

「……そうか。街から見た時、やたら塔が多いのはこのためか」

「ついでに実用的だぜ。こんなの城ってより砦じゃねえか。旋毛(つむじ)より上を取られちゃあ、たいがいの歩兵はひとたまりも無い。これを見た歴史家は、フェルヴィンがド田舎で良かったって言うだろうな」

「その神秘の王城へ、今から乗り込むってわけだね? 」

「その通り! さあ何が出て来るやら! 」

 

 背中の鞍の上で、サリヴァンが立ち上がる。

 ボクは速度を上げて、かたく閉ざされた最後の城門へ突進した。

 マエストロが指揮棒を振り上げるように、サリーが頭上に掲げた魔法の杖から、澄んだ青銀の光が帯になって後ろへたなびく。

 鞭のようにしなりながら帯が飛ぶ。魔法を叩きつけられた扉は、軋みを上げながら勢いよく内側へ開かれた。

 ボクの肉球が、鏡のように磨き上げられた王城の床を滑りながら踏みしめる。硬い床は爪がカチカチあたるので、踏み込みが滑る。

 サリヴァンは危なげなく床に足を下ろし、白亜の宮殿の内部を見渡した。

 青い炎が床や壁を舐めるようにして漂っている。触れても少しヒンヤリとするくらいで、とくに害はない。ただ見た目が不気味だというだけだ。

 

「これを起こした犯人は、審判を起こすことが目的なんだよね? とうぜん、そいつも選ばれているんだとしたら、二十二のさだめのうちのどれなんだろ。えーと、愚者、隠者、魔術師、女教皇、女帝、皇帝、教皇、力、死神、悪魔、恋人たち、吊るされた男、戦車、正義、審判、運命の輪、節制、塔に、星に月と太陽……これで二十一。あとなんだっけ? 」

「ワールド……『世界』か『宇宙』って呼ばれるな。『死者の王』って名乗ってるんだろ? 連想するのは、悪魔か、悪魔を呼び出す魔術師か、狂気の月……あとは死神か。冗談みたいな状況だぜ。早く皇子を見つけたいもんだ」

「そンなら簡単だ」

「ああ。人探しは得意分野だろう? 」

「ヒヒヒ……まあ、最初はあそこの人に訊くのがいいんだろうけど。―――――――来るぞ! 」

 

 王城の玄関にあたる大広間。

 遥か高い天井を支える、巨木ほどもある白亜の柱の奥から、ニュッと出て来たその腕は、刃渡りが大衆食堂の長机ほどもある剣を握っていた。

 目の前に壁のような胸がある。

 開け放たれた扉から吹き込んだ夜風がボクの猫ヒゲとサリーの髪を揺らすが、そいつの顎に蓄えられたヒゲは、一本の毛先もピクリとも揺れない。

 

「ゴーレムだと! あんなの博物館でしか見たことねえ! 」

「あんなの博物館にあるの? 」

「壊したら賠償金を請求されちまうか? 」

「有耶無耶になることを祈りながら暴れよう」

 

 呼ばれたとでも思ったのか、石の巨人……ゴーレムの瞳の境がない石の目玉が、ギョロリとこちらを向いた。服も肌も黒鉄の質感をしていて、臼のような歯の隙間から獰猛な青い火の粉が漏れている。黙って立っていれば立派な美術品になったはずだ。

 ゴーレムは、どこか見覚えのある服を着ていた。それもそのはず。身に纏っている制服は、先ほど通り過ぎた夜警たちのものと同じ仕立てのものだった。

 ボクは餌をねだる子犬のように、巨人の足のまわりをぐるぐると駆けた。

 吹き抜けになった天井は高く、床面積はダンスホールにだって使えるだろう。

 ゴーレムの頭は天井に掠らない程度。つまり、走り回るには狭すぎるし、足元をうろつく鼠を踏みつぶすにも気を遣う。

 猫背で頭だけを回してウロウロしている巨人は、守衛にしてはのろますぎた。

 だからサリヴァンがその小山のような背中を駆け上がっても、何もかもが遅すぎる。

 

「おいこらデカブツ! こっち向け! 」

「キミったら無茶するなア! 」

 口はそう言っても、ボクの口角はにいっと吊り上がる。

 

 巨人が首を回して、ボクから視線を外したと同時に、ボクらは足場を蹴った。ボクは床を。サリヴァンは巨人の肩を。巨人がサーベルを振り上げ、その刃の上にボクは肉球をつけると、巨人の顔に向かってまた跳んだ。ボクの首に齧りついたサリーが、銀蛇を握った腕を突き出す。

「――――()を照らすは叡智たるその灯火(ともしび)か」

 杖先に小さな光が灯る。

「鉄を打つはその(ほむら)! 鋼を断つはその劫火(ごうか)! 」

 瞬発力が足らない。ボクはサリーを背中に抱えたまま、一瞬身体を霧散し、大きなガマガエルに変え、毛並みがヌルヌルに変わった瞬間のけぞった魔法使いを尻尾の名残りで背中に縛り付けつつ、身を起こそうとする巨人の額を発射台にして天井へと跳び上がった。

 吐き気を飲み込んだサリーが再度口を開く。

 

「――――汝は我が古き(とも)である! 御手(みて)の主よ! 我が腕に叡智の祝福を! 」

 

 詠唱を終えたサリーが固く口を結ぶ。光は空気を飲み込んで蜷局を巻く炎蛇となり、巨人の顔を飲み込むほどにも大きく顎を開けて黒鉄の肌を舐め上げる。炎蛇は巨人を締め上げながら天井へ捕り付くボクらも巻きこんで広間いっぱいに広がり、そこは一瞬で赤黒い鉄鋼場の炉と化した。熱気が渦巻く上昇気流となって空間を掻き回す。ボクは必死に足場に張り付いた。巨人が溶け始めた剣を天井に向かって振り上げるが、炎蛇は見逃さない。鉄の飛沫を散らしながら剣は柄から折れ、柔らかくなった鉄の肉が炎蛇の締め上げで飴のように千切れていく。

 熱風に煽られてサリーの耳についた色とりどりの宝石が、怪しげなきらめきを湛えながら揺れていた。

 



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3 サリヴァン・ライト

 ✡

 

 

 サリーの耳には、両方で八つの穴が空いている。もちろん耳孔を除いて八つである。

 出立を夜明けに定めて、一行は残りの短い夜を休息に使うことに決めていた。

 

「……これで全部かな」

 目の前では、ベット脇に腰掛けたヒースが小さな化粧箱をいくつも取り出して、マットレスの上に中身をさらしていく。どれも金属製のピアスや髪留めで、多くが磨き上げられた宝石がついていた。

 出立前にオシャレをしようってんじゃない。

 ヒースは一つ一つを指差して、サリーに『効果』を説明していく。

 

「この橙色と水晶のやつは魔力増幅。こっちの水色の丸いのは精神統一系。この黒と赤と青の三つは、ぜんぶ魔除けだとか呪詛そらし。サリーは火の魔法が得意だから、このルビーと磁石とダイアモンドを使った髪留めがいいと思う。水晶とダイヤはなんにでも合うから、数に迷ったらその中から選べばいいよ」

 

 簡易ベッドの剥き出しのマットレスの上でも、ビロード張の化粧箱に収められた宝石の煌びやかさは損なわれない。サリーは気圧されたように、すでに耳にぶら下がっている菱形(ひしがた)の石をいじった。

「売り物だろ。いいのかよ」

「売り物じゃあないよ。このヒース・クロックフォードが、こんな時もあろうかとサリーに用意したやつだ」

「いや、でも、こんな高価そうなやつをおれが付けても……」

「こんなところで小市民の貧乏性を発揮しないでよ。デザインに留意しないなら、ほしい効果のやつを僕が見繕ってやるから」

 ヒースは笑って、いくつかの化粧箱の蓋を締めてひっこめた。『デザインに留意しないなら』とヒースは言ったが、その装飾も揃いのものだ。明らかに一式セットの(あつら)えであるのだが、サリーはそこに気づいているのかいないのか。

(もしかしてオーダーメイド? )

「ちゃんと天然石を加工してあるからね。どれも一級品だよ。ま、せんべつだと思って受け取ってよ」

 サリーは気まずそうに、三つ四つと指定をしていく。そのうち開き直ったのか、より詳しい効果を聞き出して吟味を重ねた。その様子は、あたかも剣を吟味する武器屋と戦士だ。

 

 交渉がノッてくると、ヒースは化粧箱のほかに、黒い小さなトランクと、そこに詰め込んだ水晶の小瓶も山ほど取り出した。香水瓶のようにも見えるが、手書きのラベルが貼られたそれらは、大量の魔法薬である。

 魔法薬といっても様々。服薬用のものもあるし、投げて爆弾代わりになるやつもある。

 

 便利になった現代、一般的に、魔法使いは必要最低限の技術しか体得しない。

 ガチガチに魔術を磨いて、しかも魔術で戦闘ができる人間というのは、特殊な職業の人か、でなければ鍛えるのが趣味の人に限られてしまう。

 『魔法戦士』がゴロゴロしていた時代は、半世紀も前に終わっている。そしてサリーは、時代錯誤の魔法戦士だった。

 『魔法戦士』の戦い方にも様々あるが、彼らの強みはとにかく『手数の多さ』だ。

 何もない所から火を取り出し、魔法の剣は刃こぼれ知らず。搦め手、罠、不意打ち、呪詛、幻覚。

 魔法での戦いは、あらゆる道具を駆使して勝つことを目的としている。

 体中に便利な道具を装備するのは当たり前。

 サリーの魔力をたくわえた長髪や、特別な宝石をぶら下げる耳に空いた八つの穴も、戦いに備えた日頃の準備である。

 

 魔法使いには『銀蛇』があるから剣も盾もいらないし、サリーには専属の魔人(ボク)がいる。

 だいたいの事態には対処できる手数はそろっていたが、問題になるのはサリー自身の体力と集中力だ。

 魔法を使うさいに必要になるそれらを総括して、魔術師たちは『魔力』と意義している。

 魔法は技術だ。手順と準備を間違えなければ、魔法は必ず作動する。もちろん『魔法を打ち消す魔法』もあるから絶対とは一概には言えないけれど、そうなってくると技術が優れたほうの魔法が発動するのが当たり前。

 万全の備えというには、きっと足りないだろう。でもサリーは、時代錯誤な魔法戦士で、今はそんな時代錯誤な『勇者』が必要な状況だった。

 

「……十日だ」

 ヒースは言う。

「十日以内に、かならずフェルヴィンに戻ってくる。それまで持ちこたえて」

「ああ。ついでに皇子たちを見つけて待ってるよ」

「…………気を付けて」

 ヒースは苦笑いして、サリーと握手を交わした。

 

 ✡

 

 巨人がどろどろに溶けたのを見届けて、ボクは長ーい長ーいため息を吐いた。

 サリーの作る魔法の炎は、原則として命を焼かないよう調整がされている。彼は曲がりなりにも、『世界一の魔法使いの弟子』なのだが、広間の被害はやっぱり凄惨たるものだ。

 

「……無茶するなぁ。そりゃキミの火は焼けないし、ちょっと楽しかったけどね。溶け始めた鉄の巨人がどれだけ熱いと思ってるの? 焦げちゃったよ」

「悪かったって。一度全力でぶっ放すのが夢だったんだよ。まだレア焼きだろ? 」

 ボクは穴の開いた帽子で、サリーを締めあげた。

 休息の間もなく、ボクは探索を開始した。目を閉じて、身体の末端を空気の粒よりも小さく広げていく。それは例えるなら、薄暗いなかを手探りで進む感触に似ている。無人のエントランスホール、廊下、食堂、用途が分からないただっ広い部屋、王族の居室、尖塔の屋根の先まで、鼠一匹もいない。

「こんなに派手に暴れたら、向こうから斥候の一人でも出てくると思ったんだが」と、サリヴァンは顎を掻く。

「もう、そんな必要は無いってことなのかも」

「……なあジジ。どうして街の人たちは、城が誰もいないのに気が付かなかったんだと思う? 」

「そりゃ、だいたい想像通りのことが起こったんでしょ」

「じゃなきゃあ、皇帝一家が監禁されるわけがないか」言って、サリヴァンは静かに瞼を閉じ、しばらくのあいだ祈った。

 

「それで、まずはどこに行く? 」

「下だ」ボクの感覚は、渦を巻く潮に似た流れを感じていた。

「地下に、何かが集まってる……」

 

 そのとき――――――ふたたび、城は大きく揺れた。

 

 そして朝が来る。

 

 



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3 サリヴァン・ライト

八日目 一回目。アクセスはあれど、なかなかブックマークは増えませんのう。


 

 部屋全体が上下に揺れた。

 柱がゴムで出来たみたいにグラグラしている。

 

 白煙がたちこめる広間へ向かって、ボクらは真っ逆さまに落下した。サリーが背中にしがみつく。

 ボクは落ちるままに吸盤のある前脚を翼に変え、巨大な黒いフクロウになって、カギ爪を大きく開いて灼熱の床をかすめ滑空した。

 開いたままだった扉から再び外に飛び出すと、もう一度黒猫になって地面に落ちる城の影から一目散に逃げる。

 その間も城は凍えているように震えていた。

 サリーが舌を噛まないようにしっかりと噛み締めていた口を開いて叫んだ。

「―――っ何が起きた!? 」

 

 ボクらは、気づけば足を止めて立ち止まり、目を見開いて青く燃え上がる城を一心に見上げていた。ゴウゴウと竜巻みたいな音がする。体中の毛が逆立って、いまにもその流れに吸い込まれそうだ。風はむっとして暑いほどなのに、体の芯が寒気で震える。

 ―――――城から立ち昇る青い奔流の勢いは、昨夜の比ではない。

 

 城から暗雲の空を穿つ青い槍は、とうとつに内側から罅割れた。

 真っ赤な光が槍の中心を裂きながら空へ昇っていく。血管を巡る血液のように、真っ赤な稲光のように。赤い筋が、冥界の青を侵食して塗り替えながら、細く、細く、尖っていく。

 空を穿つ光の筋は、赤く染まったまま糸のように先細り、やがて、プッツリと切れた。

 

 光は、城の中心にある尖塔の根本あたりから現れたように見えた。その尖塔をぐるりと大きく回りながら、青い騎馬の人影が空を駆けあがっていく。まるであの赤い柱の痕跡を探しているかのように。

 遠目にも小さな騎士が、その馬に跨っている。馬のほうが大きいのかもしれない。しかし、馬に身を任せるその騎士は、その巨馬を乗りこなしている。まるで彼らの足元から道が生まれるように、青い炎が帯を描いて尖塔に巻き付いている。

 その視線の先にあるのは、夜明けを背中に隠して赤黒く染まる雲に埋没しそうな、小さな火だ。地上からだと、それは影を纏って黒と赤の人影に見える。身をよじり、頭の炎を腕で払うような仕草は、炎を灯した熔けかけの蝋人形みたいだった。いまにもぽっきりと折れて、ばらばらになりながら墜落しそうにか細い。

「……なんだ、あれ―――――」

 燃え盛る人影は、焼死体を連想させるには容易い。サリーは酸っぱい唾を飲み込みながら、現状を見極めようと視線をそらさない。

 

 青と赤が尖塔の真上で対峙する。

 フ、と不穏に空気が震え、かろうじて耳をふさぐ手が間に合った。

 

 

 

 

 

 

 

――――――………ィィィィイイイイイィィィヒィャギィヤアァアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 汗でぬめった肌が、手のひらで密閉された耳孔の奥が、びりびりと震える。

 何かおそろしいものが出てきたのだと、ボクもサリーも理解した。真っ赤に熔けた鉄と同じ。差し出されても触れてはならないものだと。

 雨のように蝋人形の怪物からパラパラと金色の火花が降っている。彼の声は甲高い悲鳴にも、金属を擦り合わせたときの騒音にも似ている。神経をガリガリと削られる音だ。

 サリーは吐き気をこらえて歪んだ顔をしているし、ボクも逃げなければと本能が叫んでるのに、視線を逸らせない。

 おもむろに、()()は騎士へ向かって腕を振り上げて突進した。

 身をよじって燃え盛るこぶしを振り上げた姿は滑稽なほどだった。騎士は馬脚をひるがえし、横腹でそれを受け止め――――――流星のように落下した。ボクらの目の前に!

 

 粉微塵に砕かれた石畳で、もうもうと砂塵が舞う。ボクは余波で霧散した体を掻き集めて土煙を掻き分けた。

「サリィーッ! 」

 まだらの砂煙のなか、ボクの視線が正面からあったのは、相棒のものではない鮮烈なほどの碧眼だった。

 豪奢な毛皮のマントのように、冥界の炎を纏った少年がこちらを強く見据えている。ボクは射すくめられたように固まり、放射状に砕けた石畳に体を沈めるその人物から目を離せない。

 

 ――――――ボクの懐には、一枚の写真が忍ばせてあった。

 ヴェロニカ皇女から託された家族写真は、彼女の兄弟と父親がレンズ越しにこちらを見つめている。縦にも横にもひときわ大きな男がフェルヴィンの皇太子であるグウィン皇子で、彼と親子にも見える小さな少年が、末のアルヴィン皇子だった。視線はどこか不安げで、表情を殺して戸惑っているように見える。そんなアルヴィン皇子の後ろに立つ祖父のように見える老人こそが、五人の皇子たちの父親であるレイバーン皇帝であった。

 

 青い騎士は、アルヴィン皇子とそっくりの顔をして、野生の狼に似た眼差しでボクをじっと見つめていた。

 汗が流れる。

 少女のように未成熟な美貌は、面の皮の下に冷酷な狩人の本性がある。ボクを見つめるその瞳は、しかしボクを見ていない。ボクの人格を度外視して、ボクを殺す必要があるかどうかを値踏みしている。いやというほど知っている捕食者のまなざしだ。

 肌の毛穴が開き汗が流れるという、聞こえるはずがない音すらも気になる。何がこいつの琴線に触れるかどうか、怯えている自分が顔を出す。

 

 とつぜん、気弱になったボクの脳裏に、ここには無いもう一枚の写真が閃いた。

 色彩をなくした灰色の髪―――――――紙のように白い肌―――――――そこに二つ鮮烈にこちらを射抜く、血色の赤い瞳。

 

 

 目の前の人物の瞳は青いけれど、それは冥界の炎の色だ。

 かの皇帝は生まれながらに太陽に嫌われていたと、写真の持ち主だった老人は薄笑いを浮かべ口にした。虚弱に生まれ付いた白子(アルビノ)の皇子。しかし魂は森の狼のように気高く猛々しい。

 ――――――ジーン・アトラスが生まれついて持つはずだった肉体の強さを、双子の弟がぜんぶ吸い取って生まれてしまったんだよ。

 老人はさびしく笑って言った。

 ―――――でも俺は、そんな兄貴に喧嘩で一度も勝ったことが無かった。

 

 ――――――誰よりも強い男だったんだ。

 

「…………ジーン・アトラス」

 

 目の前の亡者の美しい貌が、ゆっくりと笑みの形に歪んだ。

 

「――――ジジィイ! 戻れェッ! 」

 砂塵の向こうでサリーの声がする。主人の召喚に、ボクの身体は見えない重力に従って引き寄せられる。

 視界は一瞬にして掻き混ぜられて遠ざかる。

 ジーン・アトラスが、冥界の炎が宿る瞳を、大きく見開いていたのが最後に見えた。

 

 



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3 対『皇帝』戦 前編

八日目 二回目。
弾数はあと100話以上あるのでエタはないです。(とりあえず第一部ラストまでは載せるつもりです)


 

 

「ぶぇーッくしょ! 」

「ちょっとツバ飛ばさないでよ。きったないなぁ! 」

(わり)(わり)イ」

「どうしたの? こんな時に風邪? 」

 肩越しに、サリヴァンはやけにもぞもぞしながら言った。

「いや? なんか、呼ばれたような気がして」

「なにそれこわ~い」

「おれはこの状況のほうが怖ァ~いよ」

「確かに生きた心地がしないね」

「だろ? 」

 機嫌よく頷いて、サリーは城壁に空いた狭間(はざま)から空へ視線を走らせる。

 

 城は爆発音に包まれていた。

 フェルヴィンの城は、三階までが前部に突き出ていて、バルコニーのようになっている。縁にはサリーの身長二人分くらいの塀が備えてあり、ボクらがぴったりと半身を張りつけて外をうかがっているのがそこだった。

 合流したボクらは、一度は避難するように城へと戻った。

 しかし、城上空を舞台に激しく行われる戦闘音に、捜索もそこそこに空が見える場所へ飛び出したのだ。

 

 

 肩を預けている城壁は断続的に震え、隣にいても声が鼓膜に届かないので、ボクらは非常事態にしか使わない()()()()()で、声を出さずにコミュニュケーションを取っている。

 

(あ~あ……生きて帰れんのかね。おれ)

 これを繋げると、ボクのほうが一方的に受信状態になるので、非常事態以外には使いたくない。サリーがあえて飲み込んだ軽いブラックジョークも筒抜けになってしまう。

 

 ジーン・アトラスっぽい騎士と、炎の怪物の戦いは、苛烈さを増すいっぽうだった。

 雲が低いところまで立ち込める暗褐色の曇り空のすれすれを、赤いのと青いのが、引き合っては離れるオモチャのように激しくぶつかっている。衝突の余波は雷のようにすさまじく、さっきみたいに、どちらかが墜落してもおかしくない。あんなのがあんな勢いで落ちてきたら、城は積み木でできたみたいに崩れてしまうかもしれない。ボクとサリーはこの場を離れるタイミングを完全になくしていた。

 

 予想以上に情報に飢えていたっていうのもある。あれが『何』で、どういう立ち位置にいて、なぜ戦っているのか。それがまったくの不明。

 

(あれらの片方が……もしくは両方が……この先の障害になるのだとしたら? )

 ―――――ああ! ダメダメ!

 『繋げる』といつもボクはこうなる。相手の思考に引きずられて、ボク自身の決断力が鈍ってしまう。

 いつものボクなら、とっくに行動に移しているはずだ。

 

「サリー、らちが明かない。皇子たちを探しに行こう」

 ボクの言葉に、サリーの頭の中がめまぐるしく回転しているのがわかる。

 サリーは小さく舌打ちした。自分の中のハッキリしない部分に苛立っている。サリーがこうして迷うことは珍しいから、余計に苛立つのだろう。いつもなら、こういうときはボク以上に即断即決のサリーだ。サリーの決断を阻害しているものの正体を、彼自身も説明できない。でもボクにはわかる。それはきっと『本能』というやつだ。

 

 バシン! ボクは平手でサリーの背中を叩いた。痛そうに顔をしかめる彼を鼻で笑い、ボクは入口を顎で示す。サリーは苦笑いして頷いて、身を低くして入口へと走った。

 壁を隔てると、戦闘音が少し遠くなった。

「サリー。地上に出てる部分の捜索は切り上げて、予定の地下へ行こう。地下なら城が崩れてきても大丈夫かもしれない。どっちにしろ、地下に何かあるのは確実なんだ」

「わかった」

 

 辿り着いたそこは、地下にある講堂のような場所だった。

 おそらく、あの赤い炎の怪物がぶち抜いた縦穴。その直下にあったのが、そこだった。

 

 床、壁、天井に至るまで白く淡く輝くよう。

 天体を模した高い天井、繊細なレリーフ、奥に添えられた玉座と、玉座を見下ろす祖神アトラスの立像。

 かつての姿はさぞや荘厳で立派なものだっただろう。天井は崩れ、塔のひとつを砕いて吹き抜けになってしまっていた。床の無数の亀裂が、まるで無秩序なパズルのように青い幽玄の光に癒着され、ただ靴底が擦れるだけでも真新しい粉塵をまき散らして空気を汚す。

 サリーは細く長い息を吐き、銀蛇(ダガー)を取り出すと、逆手に持ち替えて低く構えた。三歩ほど後ろで、ボクも床を踏みしめる。

 

 吐息が白い。息がそのまま霜になりそうだ。広間の壁の燭台では、溶け切った蝋燭が氷柱のように張り付いていた。

 

 目の前には、あの黒鉄の兵士が、一、二、三……全部で十一体。

 身長は目測で三m弱。先ほどの鉄巨人には半分以上も大きさに劣るけれど、足の長さだけでボクの身長と同じくらいある。

 大きさはそれだけで脅威だ。先ほどの巨人と違って、機動力も、装備の質も増している。

 纏う装備は、ただの一兵卒のものではなくて、重歩兵の鎧。武器には、両手持ちの大剣、細い片手剣、槍とバリエーション豊か。

 感情の無い顔で楯兵を前列に一丁前の隊列を組んで、こちらを囲むようにけん制している。

 

 ボクらを見据えている無数の鉄の瞳を右から左へ抜け目なく睨みながら、サリヴァンは玉座に座る老人に問いかけた。

「フェルヴィン帝でいらっしゃいますね」

 石像のように座した皇帝は、重苦しい沈黙とともに、ゆっくりと首肯した。

「城門を暴いた非礼をお許しください。皇子たちを救出にうかがいました」

 対貴族モードのサリーを、皇帝は白く光るような眼球で見つめている。

「……してくれ……」

 老人はまばたきもせずに、サリーを見つめている。

「…………ろして……」

「……死んだはずの貴方が、どうしておれたちの前に立ち塞がるのか。陛下の御身に何が起こったのです」

 

「―――――殺してくれ……。今すぐここから、わたしという存在を消してくれ。今のわたしが心から望めるのはそれだけ……もう……なにも傷つけたくはないのだ……。我が子を手にかける前に……」

「いったいなぜ……そんなことを」

 

 項垂れる皇帝の顔には、死者という事以上に、気力や生気というものが無い。

「……今の私は『死者の王』の奴隷。……若き魔法使いよ。この城のものを殺したのはわたしだ。わたしなのだ。

 我がさだめは『皇帝』……この十二機のゴーレムは、『(ソード)の小アルカナ兵』と呼ばれるもの。審判で『皇帝』である私に与えられた祝福である……」

 皇帝の手が億劫そうに持ち上がり、サリーの銀蛇を指した。

 

「……その、銀の杖と同じ、私の意思に動く鎧であり、剣であり、楯である。……しかし『死者の王』にここの守護を命じられた私には、もはや意思などありはしない……」

 この黒鉄の兵士たちは、『小アルカナ兵』というのか。

 皇帝の持ち上がったままの腕が激しく痙攣した。指先から始まった痙攣はあっという間に老人の全身に広がり、皇帝の顔が泣きだす前の子供のように歪む。

 

「…………わたしは亡霊……。冥界に繋がれた数多のしもべに成り下がった……。どうか……! もう! 抗えぬ……!!!!」

 

 前列の楯兵が床を蹴る。小アルカナ兵の楯は、サリーをすっぽり隠すほど大きい。そんなものでタックルを受けたら、防火扉で殴られるようなものだ。 

 ボクは軽く飛び越えられるけれど、サリヴァンは前を睨みつけたまま動かない。

 

「サリー! 」

「―――――どうか若者よ! この身もろとも打ち砕いてくれ! 」

 

 

 皇帝の叫びに、サリヴァンは短く応えた。

「―――――その願い、たしかに聞き届けました」



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3 対『皇帝』戦 後編

八日目 三回目。


 

「―――――その願い、聞き届けました」

「アア……」

 皇帝の声が震えた。

 

 サリーは迎え入れるように、間合いまで楯兵が迫るのを待った。間合いに入ると、大きく足を前に踏み出して一気に距離を詰める。逆手に持った刃を楯に突き立てるようにぶつけると、真っ白に熱を持った刃が黒鉄の楯をバターのように削り取りながら一気に切り裂いていく。その背後にも二体、楯兵は迫っていた。唇を引き結んだサリーは、奥歯を噛み締めて両手に握り替え、一気に柄頭に力を込め、楯を鉄くずに変えながら体を反転させる。獲物を飲み込んだように銀蛇の刀身がうねり、白い刃がみるみる太りながら伸びていく。

 

 

「――――ふんっ! 」

 

 一閃、というには、その斬撃は遅い。

 けれど、サリーが肩に担いでいた大剣を床に突き立てた時には、三体の楯兵が紙のように破けた楯と切断すれすれの胴を抱えて崩れ落ちるところだった。楯兵の届かなかった打撃と交差するように放たれた矢は、ボクのナイフでいくらか弾く。床に突き立てた大剣を楯に、矢をやりすごしたサリーは、「っいよっぃ、しょっ! 」ともう一度剣を持ち上げ、第二波に待ち構える二列目の重歩兵へ立ち向かっていく。

 

 弱い……。

 いや。皇帝は、この小アルカナ兵を魔法使いの杖と同じだと言った。

 魔法使いの杖の稼働の源は、持ち主の持つ強い意思である。この小アルカナ兵は闘志の無い皇帝を反映しているから、こんなにも脆くて鈍い。

 しかし反面、小柄な体で大剣を揮うサリーの顎からは汗が滴り、空間を歪にはしる罅から凍み出る寒さが肉体を鈍くする。肌や呼気から立ち昇る蒸気の熱が、失われるサリヴァンの体力を表していた。

 そしてもっと悪いことに、小アルカナ兵自身には、意思や命がない。

 

 砕いたはずの兵士は立ち上がる。両断されたどてっ腹も、熱に曲がった手足も、傷を飲み込むかたちで再生する。どんな劣勢にも気持ちが萎えることはなく、ボクらにはある。

 対人特化のボクと、火力はあっても人間であるが故に限界があるサリーでは、はっきり言って相性が悪い。

 小アルカナ兵たちは、無尽蔵の再生と疲れを知らない体をもって、ボクのちょっかいを無視してサリーに殺到した。

「くそっ! 」

 毒づいて、サリーは大剣の戦法を捨てた。大剣を横凪ぎに振ると、刀身を太らせていた力が炎の飛沫となって敵を襲う。すらりと痩せて刺突剣となった銀蛇を握りなおしたサリーは、軽くなった肩を回して、顎から滝のように垂れる汗を拭った。サリーにも分かっている。こいつらに刺突攻撃はきかない。

 炎を捨てたサリーは、刺突剣を顔の前に立てて短い呪文を吐息と共に「ふうっ」と吹きかけた。

 

 サリーが炎の次に得意なのは、雷の魔法だ。

「サリー、どうしてさっきの火の蛇は使わないの」

 サリーは防御の合間に太い息を吐くと、早口で言った。

「あれは、炉の神の力を借りた力だ。神の炎は死者の魂を焼く! 」

「ボクを使う? 」

 サリーはちょっと考えた。「……それは最後の手、だんッ! 」バシッ! と刺突剣の先から小さな雷がほとばしって、盾を振り上げたスート兵が、背後の弓兵を二体巻きこんで吹っ飛んでいった。

「わかった。ベストを尽くそう」

 サリーは返事のかわりに、ぺろりと乾いた唇を舐める。

 

 再生した『次』が来るまで、まばたき三度ぶんの猶予があった。

 

 ボクは横に立って前を睨む。

「―――――――、――――――、―――――――――」

 サリーが口の中だけで呪文を唱えた。

 

 そこからはすべてがスローだった。

 

 サリーの右の耳から下がった石が三つ、それぞれの色で輝き、光で繋がって光線となり、顎首肩から腕を一瞬で駆け降り、剣を持っていない右手に溜まっていく。パチ、と虹色の火花が爆ぜるその手で、サリーは勢いよくボクの背中をブッ叩いた。

 

 バチン!!!!!!

 

 衝撃に爪先が浮く。叩かれた背中から放射線状に光の糸がほとばしり、ギュッと肩を寄せてその糸を()()へ引き寄せた。たわんだ光の糸は―――――サリーから受け取った『方向性を含んだ魔力』は――――丸まったボクを包むように、ジグザグを描いて、ボクの中に『収束』されていく。

 

 『皇帝』は素人だ。小アルカナ兵どもの動きでわかる。あいつらは()()()()()。『皇帝』は、あの兵士をろくに運用したことがないのだろう。動きは指南書の中の陣形をなぞるだけ。一度かたちが崩れると、訓練不足の新兵みたいにヨタヨタする。プログラムされた動きしかできていない証だ。その『穴』を埋める指示を飛ばすのが『皇帝』の役割だろうに、あの老人にはあれらと繋がってやる気がない。

 ボクらは違う。この攻撃のすべてを、瞬きの間でできる()()()()()()

 

 緊張と解放。――――それは、弓を引き絞るように。あるいは、肉食獣が獲物に飛び掛かるように。ボクは弓で獲物を前にした肉食獣。魔力は、ボクの中で破壊力を高めた尖った凶器。

 

 ―――――魔法(ボク)は、爆ぜて、跳ぶ。

 

 

 魔人とは意志ある魔法。でもきっと、ほかの魔人なら一度で壊れてしまうだろう。

 ボク、魔人ジジは質量なき魔人。……粒子の魔人と言い換えてもいい。

 群にして個。個にして群。

 熱も、氷雪も、雷も、病すら、この身は内包して拡散する。

 

 

 ✡

 

 

 (いかづち)は広間を蹂躙した。

 ジグザグに迸った無数の七色の光の槍は、立ち止まることなく全てを刺し貫いて空間を満たす。

 灰色の講堂は、束の間、どこよりも眩い白に塗り上げられた。

 音すら白く焼き切れて吹き飛ぶ。この場においては、ただひたすらに無音。

 

「…………ぅ」

 

 『皇帝』は、舞い散る灰塵のなかで顔を上げた。肉体を失った体では、以前のように砂埃に咳き込むことも目が眩むことも無いというのに、老人は腕で顔を覆い、目を瞑っていた。

 衝撃の残響が空虚な腹の底に残っている。

 

「…………ぅ、うぅ」

 

 苦し気な声。

 老人のものでは、無い。

 何かが焼ける臭いがする。

 

「……ぅぅううううう―――――ッァァアアアアアアア………」

 老人は、目前で玉座をかばうように立つ小さな背中に震えた。

 いまもなお、白い煙が立っている。炎熱に熔けた歪な頭蓋。細い肉の四肢は黒く焦げ、すでに肉は残っておらず、頭からながれる真っ赤に蕩けた灼熱の金属が、炭化した肉を捕食するように広がっている。

 ―――――老人に、わからぬはずがない。

 

 老人にまだ心臓があったのなら、それを抉って差し出せば『彼』が元に戻ると言われたなら、迷いなくそうしただろう。

 けれど、彼にはもう肉の心臓は無かったし、その息子はどうしようもなく……変わってしまった。

 それでも老人は息子がわかった。

 灼銅の鎧の怪物は、父をかばって立っていた。

「アル……ヴィン…………おまえ」

 

「ァア、ァァァアアアア――――――!!!!!! 」

 怪物は父の呼び声を掻き消すように、ぽっかりと小さく見える空を仰いで咆哮する。全身の鎧が()()()と波打って隆起したかと思えば、左肩だけが奇怪に肥大した。

 ()()()

 マグマのように沸騰した右腕が、無造作に、そう、蠅を払うように、後ろへと振るわれた。

 

 

 ―――――怪物は父を守ったのではない。

 ―――――ただ、自分達とは別の戦いの気配に誘われてやってきただけだった。

 

(……ああ。私はなんて目出度い頭をしていたのか……)

 

 ―――――それとも、彼の中にあった憎悪がようやく発露したのか。

 

 灼銅の拳が迫る。

 

(…………)

 

 老人は再び瞼を開けた。

 

「―――――ッフ、ぐ……っ」

「お、叔父上……! 」

「ふざ――――ふざけるなよ……! てめえの相手は、このわたしだ……ッ! 」

 

 上段に構えた祭儀用の宝剣で、怪物の拳を受け止めるジーン・アトラスは、あまりに細い腕をぶるぶると振るわせている。噛み締めた歯列の隙間から鮮血が滴った。見開いて目前の怪物を睨む碧眼は、よりいっそう冥界の色をした炎が噴き出し、髪を揺らしている。

 

「ちッ―――――父親殺しの真似事など……! ()の前で、よくも……ッ! 」

 

 ジーンの全身を青い炎が包む。酸素ではない別のものを食らって生きている炎は、ジーンの頭を超えて立ち昇り、激しく揺れていた。

 炎から力を得たジーンは、とうてい英雄らしくない足さばきで怪物の丹田を蹴り上げると、よろよろと後ろへ倒れこみそうになった怪物に剣で殴りつけるように向かっていく。

 

 

 

「―――――貴様の相手は、この俺だッ! 」

 

 

 

 

「アルヴィン……!? あの怪物が、()()()()()()()()()()だって!? 」

 柱の陰で声を荒げたサリヴァンに、ジジが指を立てた。サリヴァンは声をひそめ、なおも相棒に畳みかける。

「……しかしだなジジ。まずいぞ。これは」

「……なにがマズいってのさ! 今は皇太子捜索が先決だろ! せっかくあっちで忙しそうにしてくれてンだから! 」

「……アルヴィン・アトラスが生きている? 師匠の預言が覆ってるってことじゃねえか……! 」

「後にして……! 今しか無いんだから……! 」

 床の(みぞ)を脚先でなぞり、ジジはサリヴァンを睨んだ。

 白灰色の岩石を陶器のように磨いて作られた床は、砂塵で汚れ、見るも無残に罅割れている。その表面は決してなめらかとは言い難く、罅の間からは立ち昇るような冷気と青い光。それはまるで、一度砕かれた床をパズルのように歪に組み上げて、接着剤で補強したようだった。

 ここに踏み入れた時から、ジジの足はこの下にある空洞を感じている。

「……ほらここ! 早くして……! 」

「……これ、おれたちの足場も崩れるんじゃあないか? 」

「ド派手に爆破解体といこうじゃあない」

「ほんとうに大丈夫なんだろうな……」

 

 サリヴァンは剣を構える。

 『星』の声が轟くなか、凍てついた床に、地獄より熱い魔法の杖が勢いよく突き立てられた。

 

 



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3 (裏)語り部ダッチェス

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 第三皇子のヒューゴは、ざらついた硬い床の上で目を覚ました。

 埃とカビの臭気に包まれながら、視界には群青に墨を溶かし込んだような闇が敷かれ、自分の指先も見られない。

 しかし辺りを見渡してすぐに、遠くにポツンと、置き去りにされたオレンジの実のような灯りを見つけることができた。

 ヒューゴはまとわりつく闇を踏み固めるようにして、ゆっくりと、明かりの方向へと歩き出した。

 あちこちに人の頭ほどもある石が転がっていて、よくぞ生きていたものだと思う。ほんの五十歩ほどの距離を、こんなにも長く感じたのはいつぶりだろう。

 乾いた唇を舐め、咥内が張り付く感触に喉の渇きを覚えた。

 明かりが闇に慣れた瞳を刺す。白濁した視界の向こうで、女の声がした。

 

「あら。お目覚めかしら。一番乗りね」

 聞き覚えのある声だった。涙の覆いを拭い、ヒューゴは萎えた喉に息を吹き込む。咳が出た。

 

「無理はしないで。大変だったわね」

「ああ、散々だ。親父は死んだ。弟も……兄貴は……くそ」

 やがて晴れた目の前に広がった光景に、ヒューゴは息をのむ。

「ここはどこだ」

 

「……王城の最下層。アタシたちは『本の墓場』と呼んでいる場所。『星の記録庫(アカシック・レコード)』とも呼ぶのだったかしら? お久しぶりね。ヒューゴ殿下」

 

 レースが重なった黒いスカートの裾をつまみ、白い膝を交差して、その黒髪の少女は優雅に腰を曲げる。

 その背景には、薄闇に浮かび上がる途方もなく広い本の森が迫っていた。少女の頭の左右で動物の耳のように結わえられた髪を見下ろして、ようやくヒューゴは少女の名前に思い当たる。

「お前……まさか、ダッチェス? 」

 

 見下ろしたつむじが震えた。上目遣いに見上げてきた黄金の瞳に、ヒューゴの思考は一瞬過去へと飛び、すぐに現実に舞い戻る。

 

「ご指摘の通り。ダッチェスですわ。レイバーン帝がお亡くなりになったいま、ここに語り部のあたしがいるのは、何にもおかしいことではないでしょう? 」

 ダッチェスは揃えた五指で、部屋の隅に備え付けられた机を指した。その腕にある作業用のアームバンド、壁に下げられたランプ、ペンが浸されたインク瓶と散乱した紙束、付箋付きの辞書が、彼女が何をしていたかを如実に表している。

「……おまえと最後に顔を合わせたのは、七歳のときが最期だった」

「ふふふ。あたしはずっと見ていたわ。語り部ですもの」

 少女のかんばせに浮かぶ笑みは、『貴婦人(ダッチェス)』の名を冠すとおりの貫禄があった。

 

 物心ついた頃には母が亡かったヒューゴはもちろん、アトラスの五人の兄弟がまだ幼き頃、多忙な父に代わって寝物語をしてくれたのは、決まってこのダッチェスだった。

 語り部は、主によって姿が変わる。ダッチェスは、これでも今代の語り部の中での最年長であった。語り部は九人の主に仕えるが、彼女が仕えた主はとっくに片手では足りないという。しかし、そんな彼女がレイバーン帝の時代で幼女の姿をしているというのは、皇帝の身内にしか知られていないことである。

 レイバーンの語り部ダッチェスは、『姿なき語り部』として知られる。皇帝の威光を保つために自ら姿を隠したダッチェスは、皇子たちに対してもそれを貫いた。

 

「……父上は、やはり亡くなってたんだな」

 ヒューゴは、ダッチェスのつむじに問いかける。

「はい。ダッチェスは今、語り部として、最期の職務に取り掛かっております」

 フェルヴィンの王族は、死後その人生を語り部に記録に残させる。それこそが語り部の仕事の集大成、存在意義である。ダッチェスの態度に、主を亡くした悲しみは無い。語り部はそういうものだと分かっていても―――――分かっているからこそ――――――もの悲しさが、より膨れ上がる。

 

 ごしごしとヒューゴは拭うように顔を擦った。

「俺は……そう……兄さんたちを探さないと」

「おそれながら、ヒューゴ殿下。それならあなたには必要なものがあるはず」

 ヒューゴが顔を上げた先には、ダッチェスの大きな金色の瞳があった。語り部がこうして物言いたげに見つめてくることは、こうした窮地には良くあること。

 語り部には大きく制限がかけられている。『何人の運命にも介入してはならない』という誓約は最たるもので、彼らは自分の『してほしいこと』をはっきりと言えない。

 

「わかってる……分かってるよ」ため息を吐いて、ヒューゴは軽く踵を踏み鳴らした。

「トゥルーズ! ―――――来い! 」

 

「は、はいっ! ここに! 」

 たたらを踏んで、線の細い黒髪の青年がヒューゴの陰から現れた。

 そばかすの浮かぶ頬の上に、金色の瞳がきらきらと輝いている。ヒューゴはため息を吐いた。

 あいかわらず、子犬のような『語り部』である。なぜ自分の語り部は()()なのだろうと、ヒューゴは不思議でならない。弟の語り部のミケですら、何も知らなければ物静かな影に徹しているように見えた。

 ヒューゴは鼻が当たるほど近くに現れた語り部の頭を押し退けるようにして小突き、二つ目のため息を飲み込む。

 

「久しぶりね。トゥルーズ」

 主であるヒューゴよりも先に、ダッチェスが朗らかに声をかけた。

「わ、ダッチェス様! ええっとそうですねぇ。十日ぶりになりますかねぇ……」

「おいこら。このノンキ。世間話してる馬鹿があるか。兄上たちはどこにいる? 」

「あ、はっ、はい! 」

 トゥルーズは大きく返事をすると、口をへの字に曲げ、頭を両手で抱えて「ムムム」と唸り声を上げた。

 ヒューゴは腕を組む。

「それ、必要か? 」

 

「……はい! 分かりました! あのっ、あのですね」

「落ち着け落ち着け。急かした俺が悪かったよ」

「うう……す、すみません……えっと、ダイアナさんとヴェロニカ姫は生きてます。ミケは……よくわかりません。ボンヤリしてて、寝てるのかなぁ? とっても微かです。あ、……でも! マリアとベルリオズはけっこう近くに……つまり皇子殿下たちも、すぐそのへんにいらっしゃいますかと。呼ばれれば、そのへんからヒョッコリ出て来るんじゃあないですか? 」

 トゥルーズの口が閉じるより先に、ヒューゴは文机の上のランプを掴んでその場を飛び出していた。

 

 自らの影の足を蹴り上げながら、皇子は導かれるように、今しがた歩んできた闇の回廊へと進む。ランプに照らされて、先ほどは見えなかった色鮮やかな壁絵が浮かんでは飛び去っていった。

 

「グウィン! ケヴィン! アルヴィン! 」

 そこには瓦礫の山があった。

 白石のタイルは、確かにあの神殿の床材だろう。それらがうず高い山になって、ヒューゴの目の前に聳えていた。

 一本道だ。自分が倒れていたのも、ここに違いない。

 

 まさか。

 

「……嘘だろ。兄さんたちまで? 」

 

 自分が口にした言葉を否定するように、身体は動く。

「危ないですよぅヒューゴ様……」背後から語り部の声がする。

「そんなことをしたら、上から崩れてきちゃいます!」

 

 瓦礫の山に向かい、ひとつひとつ崩していく様は、蟻が砂糖の粒をひとつひとつ攫うようなものだろう。

「俺の兄弟がこの中にいるんだぞ! 」

 語り部がべそをかきながら「でも」「だって……」と言う声がする。

「でももだってもあるか! 血を分けた兄弟に替えはきかねえんだよ!!! 」

「でもでもでも! お兄様ならそこにいらっしゃるじゃあないですかぁ! 」

「……………………はっ? 」

 

 ヒューゴは瓦礫を掴んでいた手を放し、勢いよく振り返った。

 体重を支えていた瓦礫が割れて、ヒューゴの右半身ごと滑り落ちていく。

「あっ」世界が一周する。

「ヒューッ! 」「あのばかッ! 」

 

 瓦礫の山の表面を削り取りながら回転落下する中で、聴き慣れたいくつもの声がヒューゴの名を叫んだ。

 

「いってぇ……」

「大丈夫か? 」

「ばかっ! お前は何をやっとるんだ! 」

 砂煙に曇った眼を擦って、見上げたそこには、反転した兄たちの顔が二つ心配げに並んでいた。

 

 

「思えばお前は、子供のころからいつも無茶をする。慎重さが足らないんだ」

「行動力と言ってくれ。兄さん」

「その無駄な行動力で、命を危険に晒してどうするんだ。もういい年なんだぞ。グウィン兄さんを見習って落ち着いてくれ。僕の心臓まで止まるところだった」

「弟を心配するのに説教は必要か? 数学者だろ。問題には感情より状況を重視しろよ」

「論点を誤魔化すな。僕はお前のそういうところが一番駄目だと思う」

「俺はあんたのそういう偉そうなところがガキのころからムカつくね」

「お前たちもういい加減にしなさい。今は喧嘩をする時か? 」

「ダッチェス様。いつもこうなんですよ」

「子供のころから喧嘩の進歩がないわね」

「お姉さまと弟君がいらっしゃると五倍はマシです」

「まあ、そうでしょうね。男の子は格好つけだから」

「レイバーン様もそうでした? 」

「そうね。あの子はいくつになっても、頭の中に十歳児がいたわ。だからあたしはこの通り、とっても愛らしい姿なの」

「……それくらいにしてくれないか」

 グウィンが手首をさすりながら言った。がっちりと真新しい包帯が巻かれた手を確かめるように曲げ、拳を握ると、グウィンは試合前のボクサーのように息を吐いて兄弟たちに向き直る。

「現実逃避はそこまでだ。父と弟が死んでいる。今は、私たちがやるべきことを模索しよう」

「……ちょっと待てよ、グウィン兄さん。アルヴィンが死んだって? 」

「ヒューゴ」

「証拠はあるのか? 死体は? トゥルーズ! ミケはどうしてる! ここにいないってことは、生きてんだろ! 」

「そ、それが、さっきも言ったけどミケのことはよくわからなくって……」

 

「まぁまぁ」ダッチェスは手を叩いた。

「冷静になるんだ」

 グウィンが、弟たちの肩に分厚い手を置いて言った。

 

「今はそんな時じゃない」

「じゃあいつが、その時になるんだよ! 」「じゃあ、こんな時にしか言えないことを言うぞ。私たちは、過去に二人の母を亡くしている。それでも兄弟五人、なんとかやってきた。私たちは不幸だったか? 違うだろう? ヒューゴ。おまえは父上に色々思うところもあるだろうが、」

 ヒューゴは唇を結んだ。

「父う、いや……僕らの父さんも、大きく傷ついていても、皇帝の責務は忘れなかった。それは何のためだ? ぜんぶ国のためだ。僕らのためだろう。それが分からないほど子供ではないはずだ。個人の迷いや悲しみで、民の歩みを滞らせてはいけない。忘れちゃいけない。僕らは生まれた時から、様々なものの上に生かされている。死ぬその時まで、気を抜いてはいけないと知っている。こんなときだからこそ。私は……、僕は、皇太子だ。いずれ皇帝になる。目の前にいるお前たちではなく、この『国』を生かすために判断する。それが責務だ。そのために、お前たちに『死ね』と言う時も来るかもしれない。でも僕は……。

 ああ! うまく言えない! やっぱり演説は苦手だ! 」

「兄さん……」

 グウィンは鍋敷きのように大きな手のひらで額をぬぐった。髪が乱れ、無精ひげが生え、眼鏡の無い今の兄の姿を、弟たちは見たことが無い。グウィンは並外れて大柄な体と強面を気にして、ふちの太い円眼鏡を愛用している。よれよれの汚れたシャツを着て、乱れた髪の下で険しい目をした今の(グウィン)は、書物から出てきた知らない戦士のようだった。

 

「……そうだ。『私』たちは、王族という生き物だ。常に秤と剣を持ち、より重きほうを選び取る。右手の剣は、ひとつの正義ではなく大義のためにある剣でしかない。自らの首も落とすかもしれない凶器を常に僕らは持っている。真実がいかなるものでも、まだ僕らにはやるべきことが目の前に積み上がっている。そこから逃げることは受け継がれた誇りに誓って、僕にはぜったいに出来ないよ」

(兄さんには、かなわないな)

 次男は苦くも甘い感情を胸中で転がして苦笑した。臆面も無く『誇り』などと言えるのは、皇太子に必要な才能だ。

 ヒューゴも同じ気持ちだろう。三男坊(あちら)のほうは、ふてくされたようなしかめっ面のままだが。

 

「僕についてきてくれるかい? 」

 もちろん。と弟たちは口を揃えた。

 

 グウィンは厳つい顔に優しい微笑みを取り戻し、今度はダッチェスに向き直った。

「ダッチェス。貴女の主人はもういない。縛るものは何もないはず。私たちが知りたいことを教えてくれますね? 」

「ええ、もちろんそのつもりですとも。我々はこの日を三千五百年待っていたわ」

 

 ダッチェスは本棚の森に向き直り、腕を振り上げると指揮者のように指を振った。四角く塗りつぶされた闇の奥から、風を切って一冊の古書が飛来する。

 ダッチェスの胴より厚い本は、見えないテーブルに置かれたように停止して閲覧者にページを晒した。

 

「今こそ、秘められしアトラス王家のお役目をお教えしましょう。預言の時は来たれり。困難はすでにはじまってしまっている。

 あなたたちが滞りなくお役目をまっとうすることが、我が主レイバーン皇帝と、我らが語り部の創造主たる始祖の魔女の望み。

 さあ、()()()()()()()()()()()()()

 

 



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3 (裏)語り部ダッチェス

 

 語り部の黒衣もあいまって、人形のように容姿が整ったダッチェスが空をなぞるように腕を振る仕草は、まるで美しい見習い魔女が杖を振るようだった。

 ふわりと、皇子たちへページを向ける大判の古書が、意志をもって独りでに(まく)れ、そこに刻まれた絵図を見せつけている。

 図に添えられた文字は、とうに読み解くことが困難になった古語である。古い装飾本にありがちな装飾文字で、一文字ずつ丁寧に綴られており、芸術品としても値段がつけられない品ではあることは間違いようもないが、肝心の内容は手書き特有の癖もあり、活字に慣れた皇子たちでは読み解くことは難しい。かろうじて文学専攻のグウィン皇子が、暗号と化した装飾文字を断片的に理解できるのみであった。

 それでも、根を広げる樹木を模したその絵を見れば、だいたいの想像はつけられる。

 

 これは家系図だ。それも、(さかのぼ)る時は百年や二百年前どころではない。祖神アトラスの子や孫まで記されている年代物。一族の家宝にも匹敵する代物である。

 

「この二十ある多重海層世界には、『審判』のために脈絡と続く役職を与えられた一族があります。

 下層世界で言うなら、まずはこのアトラス王家。

 次に我ら、二十四枚の語り部の一族。

 それに、魔女の末裔である魔法使いたち。……この共通点がわかりますか」

「『魔女の関係者』であるということだ」

 グウィンは定型文のようにすらすらと答えた。「他だと、翼あるケツルの一族。彼らは魔女から恩恵を受けて彼女を今も崇拝している。上層だと、ネツァフのトール王家は魔女から使い魔を授かっていたという。彼らはその使い魔を『審判の鍵』と呼んでいたそうだ」

「……わが一族が魔女の関係者であることが、それと何の関係が? 」

 ケヴィンが、眼鏡の奥を怪訝に細めて言った。

「つまりだ。兄貴」ヒューゴが、顎をこすりながら兄に解説する。

 

「伝説を考察する学者の中でよく言われることなんだが、『最後の審判』を段取りしたのは『神々なのか? 』『魔女なのか? 』ってことだ」

「……そんな伝説の真実が、いま大切なのか? 」

「大切だろうな。これはずっと議論されてきた謎で、正解によっては伝説の見方が変わるんだ。

 神話では、『神々は人類に執行猶予をつけて、天空にある神の庭へと帰っていきました』とあるだろ? すなわち、その時の神々は、人類にたいしてどういう感情を持っていたかって問題なのさ。

 もし『最後の審判』を神々が積極的に段取りしたのなら、『神々は人類救済に積極的だった』ってこと。

 逆に、『最後の審判』に神々が消極的で、人類救済するつもりが端から無いのなら、この世界は『神にも見捨てられた地』だってことで、いろんな宗教観が引っ繰り返るってんで、古今東西いろんな学者先生や宗教家がこの問題を議論した。

 でも今は状況が異なる。最期の審判が本当に起こった以上、こういう伝説の真実は無視できない。もっと切迫してる。わかるか? これはもう、ただの宗教論争の議題じゃあない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()、世界を砕くような力のあるものが、これから障害になるかもしれないってことだ。そうだろ? 」

「……なるほど。問題はわかった」ケヴィンは眉をひそめ、低く肯定した。

 

 彼には、兄や弟のように、おとぎ話を真剣に解剖するような考え方がわからない。

 子供のころからそうだった。兄グウィンは伝記と物語を愛し、姉のヴェロニカは図鑑と地図に夢中になった。弟ヒューゴは、もっぱら綺麗な装丁の絵本や写真集だった。ケヴィンはおとぎ話の世界から拒絶され、宇宙にすら数字で正解を求める果てしない学問に、はやくも夢中になった。末の弟アルヴィンすら、兄の影響か、おとぎ話と伝説の(とりこ)だ。ケヴィンに生まれた時から根付いていた理論的思想が、神秘を拒絶する。空想と現実を紐づける素養を持たないのだ。それでもケヴィンは、みずからの価値観を大きく曲げて思考していた。

 

 ダッチェスは正しい認識が全員に生き渡ったと判断して、教師のようにヒューゴへ短い礼を言うと、ふたたび家系図を指して話し始めた。

 樹木のかたちをして描かれているので、名前はそれぞれ枝を伝った葉の上に刻まれている。金色に塗られた葉は、その代の皇帝の葉っぱだろう。そんな家系図には、あるときから名前の下に添えられて小さな記述がある。同じ文字列が世代を重ねない葉に見受けられたので、ケヴィンはそれが『語り部』の名前だと察した。

 

「アトラス王家に配分される役割は、『秩序の守護者』と暗示された『皇帝』。代々『皇帝』の役割はアトラス王家の長が継ぐもの。

 『最後の審判』において『皇帝』に選ばれしものの役割は、それまでの秩序を一度放棄し、新しい秩序……つまり人類の安寧のため、戦いの代表として―――――つまり戦いとは『最後の審判』の――――――(とき)の声を上げることが、まず定められておりました」

「だから父王が狙われたのか? 『最後の審判』を始めさせるために―――――」

「そうでしょうね」ダッチェスは頷いた。「だから『皇帝』は、最初から選ばれる人が決まっているのですわ。アトラス王家は、いわば人理の監視者です。神々と人類のはざまで人々の営みを監視し、『審判』の時を見定める。いわば検事ね。そして語り部は、そんなアナタ方の補佐」

「でも、始まりを暗示されているのは、確か『愚者』だろう? 」

「そう。『愚者』は別の意味で特別ですわ。そもそも審判は、選ばれしものが複数いなければ開始することはできません。『皇帝』だけでは、条件が揃わない。そもそも鬨の声を上げても始まらないのです」

「その『審判が始まる条件』ってのは、なんだったんだ? 」

「『影の王』の預言によれば――――――まず、人々が神の名を忘れること。これは恐らく、科学の発展によって神秘が薄れたり、時の経過で伝説が散逸してしまったり、文化の喪失と、そういうことでしょう。

 

 第二に、『愚者』と『宇宙』の選ばれしものが存在すること。『愚者』の暗示は、始まりと終わり。とどのつまり『皇帝』『愚者』『宇宙』『審判』がこの世に揃わなければ、いくら『皇帝』が宣誓を行ったとしても、審判が始まることはありません。

 

 『愚者』は特別だと先に申し上げましたね? 『愚者』の暗示で重要なのは、その人物は『終わらせる』こともできる人物だということです。

 この人類世界が『審判』に勝利する次のステップへの未来へ送り届ける英雄なのか。それとも、人類を破滅させる火種になるのか。救世主と破滅の魔王の両方の素質を持ち、相反する運命に適合する。この条件はとても難しいものでしたでしょう」

「『宇宙』はどうなんだ。適合する人物なんて、最たるものだろう」

「…………」

 ダッチェスはその質問には答えず、再び指先で空をなぞった。

 暗闇に落ちた本棚の森の向こうから、何かが飛んでくる。と、同時に、グウィンとケヴィンの隣にも語り部が現れ、ヒューゴの語り部トゥルーズも、襟に冷水でも流れたかのように肩を小さくして身震いした。

 

「本来なら『審判』とは、

 ①『皇帝』による判断で宣誓されて開始され、②『審判』による代表者の選定が行われ、③二十二人の代表者で最上層の神の庭を目指す。

 そういう試練です。

『最後の審判』と呼ばれているものの正体は、いにしえの魔女と神々の契約なのです。この世界にかけた、世界再生の魔法ですわ。そして魔法とは、機械でいうところのシステムです。我々もそう。語り部は魔人。『意志ある魔法』と呼ばれるソレです。魔女が発明した魔人という名の『人間の模造品』。それがわたしたち。

 我々の材料になっているものが何かは、御存じでしょう? 」

 

 風を切ってやってきたのは、ランプの黄色い光をにぶく反射する黄土色の金属板だった。それが全部で大小二十枚。頭上を取り巻くようにして、くるくると回っている。あたりに、銅板の四角い影が、伸びては縮みながら奇妙な模様になって踊る。

 

「我々を発明したのは魔女。我々をつくるにあたり、魔女は大いなるものの力を借りました。

 一人は、友である時空蛇。時空蛇の身体からは、人類の基礎でもある万物(すべて)の根源たる混沌の泥を。製作を依頼したのは、かの鍛冶神です。最初の人間も生まれた叡智の炎が灯る炉で、我々もまた焼き出されました。

 そこまでされても、我々が『生命ある生物』で無いのは、いまこの時の役目のため。命あるものでは『最後の審判』までの長い時を生きることはできませんから。

 『皇帝』と同じですわ。皇子様。

 『審判』においては、すべて魔女によって定められている。『宇宙』に選ばれしものは、最初から決められているのです。根源である『混沌』を内包し、『全き』が至る可能性を持つ……()()()()()()()造られた、人造の『世界の歯車』。

 

 それが私たち。『最後の審判』において始めて作動する『語り部』の隠れた機能」

 

 皇子たちは、かたわらの語り部を、知らない者を見るように、あるいは何かに納得したように、あるいは目を輝かせて、それぞれ見つめた。

 



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3 (裏)語り部ダッチェス

 

「……話を進めてくれ」

 

 グウィンが手振りと共にうながした。好奇心は押し殺し、グウィンの瞳は危機を脱却する回答を求めている。

 

 グウィンの語り部は、主人より頭一つ小さい老爺の姿をしたベルリオズだ。しかし2mを軽く超えるグウィンと頭一つ小柄といえば、その老爺も、世間ではじゅうぶん大柄な部類ということになる。

 胸板はせり出して分厚く、背筋は鉄板でも入っているように真っ直ぐな、護衛のように屈強な老人が、語り部ベルリオズであった。

 語り部の姿には主の精神性が(あらわ)れる。

 だから、ダッチェスは少女の姿をしているし、ベルリオズは円熟も極まった老爺の姿で、ミケは主と同じだけ、幼く未熟だった。

 

「我々『語り部』が隠し持っている機能を、主家たるアトラス王家にすべて(つまび)らかにしなかったのには、深い理由(わけ)がございます」

「言ってみろ」

「……もとを辿れば、アトラスの一族は神々にとっての罪人であるからです」

「………なるほど。そこでそれか」

 グウィンは、ある程度の予想はしていたようだった。

 

「アトラス神は、世界を砕く大戦『混沌の夜』を引き起こした戦犯とされました。そしてそれは、まぎれもなく真実でございます。アトラス神は責めを負って幽閉され、その娘たちであるアトランティスの娘たちは、神としての地位を剥奪され、砕かれた二十の海の最下層にあるこの魔界となった祖国に辿り着き、フェルヴィン王家の始祖となり―――――今に至ります。神々は、どうしてもアトラスの子孫を『審判』へと招きたかった。魔女はそんなアトラスの子孫たちを案じておりました。

 だからわれわれ語り部に搭載された機能は、大きく分けて三種類。

 

 1、アトラスの子孫たちを監視し、記録すること。

 2、アトラス王家の人々の影となり、あなたたちを心から愛すること。

 3、審判のあかつきには、二十四のうちの一人が、『宇宙』の任を与えられること。

 

 1の機能は、神々によって与えられました。魔女は神々と念密な意志の擦り合わせを行って、『審判』の準備をしたのです。

 その会議の中で、神々は遺されたアトラスの一族を懸念しました。すでに神々は人間の恐ろしさを無視できなくなっておりました。アトラスの血を引く者を恐れたのです。我々語り部は、そのような経緯で生まれました。

 しかし魔女は、我々をただの監視のための人形にはなさいませんでした。

『語り部』は一人一人違います。寡黙なものもいれば、息をするように好意を口にするものもいて、幼き姿のものもいれば、老いた姿で顕現するものもいます。

 魔女アリスは、我々語り部に『心』を与えました。あえて意匠の違う『意志』と『形』を与えました。まったく同じ人間は二目と産まれません。それぞれが、それぞれに、最も心近く寄り添えるよう、二十四枚の異なる心を持った魔人をあつらえたのです。我々と、アトラスの一族には、無限には少し足りない程度の『選択』が与えられ、引き換えに、いくつかの致命的な制限がつけられました」

 ダッチェスはすこし言葉を切って、乾いた口の中を唾液で湿らせた。

 

「それは『誓約』のことかい? 」

「―――――Exactly(その通りでございます)! 誤解しないでいただきたいのは、『語り部』は最初から何者よりも王家の人々を愛し、心から仕えてきたものだということ。我々の『愛』だけは疑いようもない真実! それを疑うなんてとんでもない! 皮肉にも、()()()()()、そのことを証明いたしました」

「ミケ―――――。そうだ。アルヴィンはどうなったんだ? ()()は何が起こっていた? アルは――――ほんとうに死んでしまったのか? 」

 

「……順番に申し上げますから、お待ちください。

 今回、『審判』においては、いくつかの不測の事態(イレギュラー)が発生いたしました。ええ、詐称(イレギュラー)契約違反(イレギュラー)ルール違反(イレギュラー)の三連続です―――――三つも! あの忌々しい魔法使いめが、触れてはならぬ蓋を開け、領域を侵したのです。今回の混乱した事態の多くは、元はと言えば、すべてそこから端を発すること!

 良いですか。グウィン様、ケヴィン様、ヒューゴ様。

 今回、『審判』の開始においては、三つのイレギュラーが発生しております。

 

 ひとつ。冥界から死者が蘇っているということ。一度冥府の門をくぐれば、人は『審判』に選ばれる資格を失います。『魔術師』はその当たり前のルールを無視して、死者を『選ばれしもの』へと据えました。

 

 ふたつ。『皇帝』は自らの意志でもって宣誓をしたわけではないということ。あまつ『皇帝』はすでに死者。『審判』は世界規模の魔法ということはお話しました。魔法とはシステム。これでは、魔女の組み立てた一部の隙も無い魔法(システム)にどんなエラーが起きるか予想もつきません。

 

 そしてみっつめ。よりにもよって、最後のイレギュラーを我らが『語り部』の一人が引き起こしたということ!

 

 消えゆくさだめであった()()()()が、まさかアルヴィン殿下を救うがために『宇宙』となるなんて誰が予想できましたかしら! 『魔術師』のつくった混乱に乗じ、アルヴィン皇子に与えられた死の運命を捻じ曲げるため、自らも消えなければならない運命であるというのに、重ねてミケは、触れてはならぬ禁忌を侵しました!

 

 冥界に堕ちかけたアルヴィン皇子の魂を引き戻し!

 

 損なった肉体に、根源たる混沌を含んだ自らの本体を(あて)がい!

 

 幼く、未熟なあの子は、()()()()()()()愛する主人を、第十八のさだめ『星』としてこの世へ蘇らせたのです! 」

 

 ダッチェスは今にも文机を蹴り倒しそうな剣幕であったが、次に続ける言葉には気炎を落とし、凪ぐような声で言った。

 

「この三つのイレギュラーが、この世界全体、人類の生末を左右することになるかもしれません。しかし起こってしまったことはやり直せない。『審判』は始まってしまいました。わたしに出来るのは、限られた時間で状況の改善を促すことだけ。

 ……良いですか、次代の王よ。このばあやの言葉を、よくお聞きなさい。

 詐欺、外法、騙しに不意打ち。―――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 『皇帝』とは、この世においての秩序の守護者。我があるじ、レイバーン・アトラスの魂を救い、その意志と役目を継承なさい。

 

 ()()()()()()として、この世界を救うのです…………! 」

 

 ダッチェスの意志に同意するように、ランプの灯りが明々と燃え上がった。

 グウィンは睨むようにその炎を瞳に映し、獣が唸るように尋ねた。

「……私は何をすればいい? 」

 

「皇位継承の儀式に必要なことは三つ!

 ひとつめは語り部の有無!

 語り部は正当なる継承者の証明(レガリア)

 ふたつめは先代の致命的な不義、もしくは崩御! もしくは皇太子への継承の意志! それらによって皇太子は資格を得る!

 みっつめは、立会人の前での継承の宣誓! それにより、アトラス王家フェルヴィン皇帝にかけられた古えの魔術は継承され、正当なる王として、この世界の法則へと組み込まれます! 」

「兄上にあと必要なのは? 」

「立会人。正当なる血筋、正当なる役割―――――つまり魔女の血を引くもの。魔法使いの立会いによる、継承の儀の完遂ですわ」

「ちょっと待て……この国のどこに魔法使いがいる? 」グウィンは青ざめた。ヒューゴにいたっては膝をついて天を仰ぐ。伝説にとんと疎いケヴィンですら頭を抱えた。

 

「魔女がアトラスの娘に語り部を与えて王としたのだから、アトラス王家の戴冠式には魔女の末裔である魔法使いがいないといけない……そういうことか? この切迫した事態に、さらに問題が……? もう頭がおかしくなりそうだ」

「うっそだろ! まさか、あの『魔術師』に立会人を頼めってのかよ! 」

 

 混乱する皇子たちに対し、しかしダッチェスはニヤリと笑った。

「いいえ。懸念するべき問題はございません。我々は待てばよろしい」

「……どういう意味だ」

「必要なものは、この国にすべて揃いつつあるということですわ」

 

 



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3 (裏)白鯨

 楕円の流線形シルエット。横腹から突き出たコウモリのようなぎざぎざの翼。尾びれのようにお尻に突き出た突起物。

 飛鯨船とは、およそ三百六十年前に発明された、『混沌の夜』以降、二十に切り分けられた海層を繋ぐ『雲海』を渡航するための乗り物である。

『船』とついていても、ただの船のように海面を進むだけではない。

 それぞれの海層の空にある、『雲の海』の真空世界も、さらにその先にある、次の海層の『深海』も、つつがなく浮上―――――あるいは、下降――――――することが可能という空・大気圏・水・深海に適合された多機能マシンなのである。

 この多重海層に生きている限り、飛鯨船を取り上げられては、もはや人類はこれ以上の発展の道を断たれることとなるだろう。

 飛鯨船には、大きく分けて三つのランクがある。

 定員四名以下、10㎡以内までが小型。定員四名以上、十名以下で12.3㎡以内が中型。それ以上が大型となる。数度あった大戦で、軍事利用を目的として大きく発展した飛鯨船であるが、昨今は様々なものを運ぶ目的をして、人を運ぶに留まらない機体も多く開発されている。

 日夜、世界中の技師が競うように研究を進める飛鯨船開発であるが、中でもケトー号は特別製である。

 

 高さ3.5m、幅2.9m、長さ9,6m。突き出た二対の『ひれ』まで漆黒の機体に、腹に描かれた大きな藍色の瞳のペイント。これは邪気除けを意味する船乗り伝統のまじない紋様である。

 小型飛鯨船に分類されるケトー号は、知るものが見れば二十年は遅れた旧型で、スタミナの無い身軽さだけが売りのロートルだ。しかしヒースに改造された『彼女』は、内部にこそ真価がある。

 

 ケトー号の最大の特徴は、内部のその広さ、定員50名という大容量にある。

 額にあるハッチを開けるとまず目に入るのが、落ち着いたブラウンの色彩の、三階建てぶんの吹き抜けだ。レモンを横に切ったような楕円の中に、真鍮の手すりがついたキャットウォークと呼ばれる廊下が張り付いており、それぞれの階はハンモックのような丈夫そうな網が梯子のかわりにかかっている。キャビンは二階と三階に分けて十部屋。一階には食堂を兼ねたホール、トイレ、リネン室などの水回り、食糧庫や、商品を入れる格納庫、ついでに操縦室と直結した船長室などがあるが、これは完全にヒースのプライベートルームである。

 

 この空間を維持しているのは、『拡張』と『軽量化』の魔法。

 『魔法使いの国』の技術のすいを注ぎこんだケトー号の腹の中身は、じゅうぶん生活の場が整えられた『動くアパート』だった。

 もちろん、飛鯨船である以上、安全性のために、食堂に並ぶ椅子はどれもシートベルト付きで床に固定された重量感あるソファであるし、リネン室は使えるときのほうが少ないに違いない。水は貴重であるからして。

 

 ヒース・クロックフォードの職業は、フリーの航海士である。『フリーの航海士』というだけでは正確な職務内容は想像の範疇を出ないだろうが、あえて定義するのなら、飛鯨船版の『雇われ運転手』といったところだ。

 十四歳で国を飛び出し、とある商船で修業を積んだヒース・クロックフォードは、十七歳で航海士として独立し、ケトー号に乗って大海原へと飛び出した。

 彼のおもな仕事は、航海士の手が足りない船に雇われ、かわりに目的地まで飛ばすことである。

 海は様々。腕の立つ航海士は絶対数が少ないうえに、田舎では物資運送業務の緊急性が高いわりに船が来ないという矛盾した現実もある。

 ヒースの相棒こそ小型船だが、大型船の操縦もできたので、『どんな船でも乗りこなせる天才航海士』として、この事業で若干十九歳ながらそれなりの成果を出して名を売っている。

 

 そんなヒースでも、『魔の海』相手では、やりきる自信が無かった。

『魔の海を飛ぶのに、頭から尻尾まで必要なのは、ただ一つ経験ってやつだけなのさ。ネーロ』

 ヒースを『黒いの(ネーロ)』と呼んでいた師匠は、魔の海について、一度だけそう言った。

 

『魔の海はヒトを選ぶ。文字通り、()()()()()()()()()だ。あの暗黒の海では何が起きるかわからねえ。たいそうな気分屋でよォ、こっちが下出に出りゃア臍曲げるし、みたことも無ェ風が吹きやがったかと思えば、何が何だか分からねえまんま抜けてやがる』

 運も必要なんですね、と言った弟子に、バカァ言っちゃいけねェ! と師匠は片目を見開いた。

『運なんてモン信じちゃならねえぞ。あの海はとにかくイヤらしい。魔の海の踏破に必要なのは、どんな風にも対応できる応用力。つまり経験だ。いいか? チビのネーロ。あの海は五十年やってきた航海士でも堕ちるときゃ堕とされる。世界中、隅々まで、すべての空を飛んだと思って初めて、あの海は胸襟を開くんだ。間違っても飛ぼうとするんじゃあねえぞ。そンときゃア……それこそ運しか味方しねえ。そんな不義理は船にしちゃアいけねえ……』

 その時ヒースは『ハイ』と頷いた。その時は確かに、心から師匠の言葉を胸に刻んで、みずからの船に誓ったのだ。

 

 それなのに、まさかこんなことになるなんて。

 

 

 ヒースは操縦桿から指の一本も剥がせなかった。

 離陸し、雲海を突破してからこの調子だ。人差し指一本でも、数センチずらせば天地がひっくり返る自信がある。ガラス越しに見えるものは塗りこめたように真っ黒で、時おり、様々な色の紫電が血管のように奔って闇が脈打ち、乗客を怯えさせる。毛細血管の先でも触れてしまえば、この船はお陀仏だ。

 

 ―――――この海は生きている。

 この船はいにしえの怪物の腹の中にいるのだと、ヒースは飲み込んだ。

 

 同じ体勢を維持し続けて、首から背中、肩や腕もぱんぱんに張っている。血が下がりきって、爪先の感覚が無い。いつもなら片手間に飲み物を口に運ぶことも出来るのに、そんなことすらままならない。

(……経験が足りない僕には、もはや運しかない)

 そう思ってはいても、ただ祈ることはしなかった。ヒースの頭から全身の筋肉が記憶をたどり、あらゆる経験を総動員する。

 ヒースの縋る『運』とは、この土壇場での自身の成長であった。

 糸口は見えている。針孔から見える先っぽでしかないが、これをうまく引き出せば、ずるずると今のヒースに必要なものたちが顔を出すかもしれない。

 

 操縦室のドアを隔てた向こう、ベッドと小さなクローゼットだけの狭い船長室に、乗客たちは息をひそめて目的地へ着くことを祈っている。どんなに大きく船が揺れようとも、ヒースの集中を乱さないよう悲鳴ひとつ漏らさない。乗客の中には控えの航海士として連れて来たペロー中尉がいるが、とても操縦桿を任せる気にはならなかった。愛機の運命を預けるような航海は、進むにしろ落ちるにしろ、この航海はヒース自身の手で行うべきなのだ。

 

 痙攣する船体をなだめながら、ヒースは舌先でちろりと唇を撫でた。

 これは挑戦だ。

 たった十九歳の航海士が挑むにはあまりに悪烈な海である。無謀だったと誰もが云うだろう。そして『愚かな若造がいたもんだ』と無責任にも悲しみを込めて首を振って、次の航海には忘れてしまう。

 しかしヒースの感覚では違う。これは不可能な挑戦ではない。

 ―――――でも『もう少し』だけ、届かない。

 つたない経験の中にある、砂粒のような正解を探している。時間さえ許されれば掴めるであろう感覚だ。それでも時間が許さない。ヒースは『今』、その正解が―――――打開までの一歩がほしい。

 それが()()と云われたプライドだった。

 

(できないなんて僕は言わないし、お前にも言わせないぞ。なあ、相棒―――――! )

 

 紫電が奔る。今まででいちばん大きい。直撃だ。避ける動作が間に合わない。

 かちりと脳裏で音がする。闇の中で白く光る穴が見えた気がした。カチリカチリと何かがハマっていく。

 ぴったりと隙間なく、あるべき場所へ、あるべき形へ。

 

『正解』がとつぜん、ヒースの目の前へと(あらわ)れた。

 

 全身になめらかに血が流れだす。指が導かれるように『正解』の動きをなぞり、目はすでに三手先の操作確認を行っている。脳幹がしびれ、鼓膜は勝手に音を遮断している。

 万能感などない。

 ただ、どこからか与えられた『正解』が体を動かしていた。

 

 我に返ったとき、ヒースの目の前ではすべてが終わっていた。

 細い風の音が聴こえてくる。『魔の海』は凪いでいた。暗闇はそのままに、驚くほど静かな風がケトー号を揺さぶっている。

 

「……僕ってすごい」

 

 ヒースはしばし余韻に震えた。

 同じことをやれと言われても、しばらくは御免だとため息をつく。この凪もいつまで保つか分からないが、とりあえず最初の壁は超えられたのだという達成感に酔う。モチベーションをたっぷりと蓄えなければ、こんな旅はやってられない。

 

 ふと、凪いだ闇の向こうに、何かが見えた。

 ヒースは操縦席からわずかに腰を上げる。ひらひらと白い風船のようなものが、爪先より小さく見えた気がした。

 やがてそれは、気のせいでは片付けられない位置にまでやってくる。

 ヒースは再び操縦桿を握りなおした。

 こんな『海』を飛んでいるものなど、ろくなものではない。新たな脅威にそなえ、ジリジリとそれが視認できるまでの接近を待つ。進路を確認次第、回避行動だ。

 

 ―――――しかし、その警戒は無駄となった。

 

 純白の巨体は滑らかな流線形をしている。魔の海の闇の中、それは明らかに目映く輝いていた。

 ケトー号が停泊できそうなほど広い、ヒレとも翼ともつかないものが体の横に突き出て、優雅に海をかいている。

 ケトー号とすれ違う際、そのつぶらな青い片目が、横切る黒鯨型の船を横目で見て()()()

 

 

≪どうも。良い旅を≫

 

 神秘の白鯨が、ケトー号から遠ざかっていく。尾びれから天の川のように光の粒でできた帯が敷かれていった。

 

「―――――なんだったんだ、アレ…………」

 

 その後、ケトー号は大きなトラブルもなく、予定の航海より10倍も早く第十八海層へと到達した。

 

 



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幕間 運命の雨の日に。

 雨が降っている。

 

 秋の日暮れ、雨空の黒い雲で、ひと足早い夜の間際。風のない冷たい雨は、まっすぐに地面を穿つ。

 摩耗した古い石畳を(なら)す大粒の雨が、素肌を叩いて滑り落ちる。

 人通りは無かった。扉ごしの灯りも遠く、廊下の奥がうっすらと灯るだけ。

 陰気な夕暮れだった。

 

 土臭い湿った空気を吐き出して、ボクは目の前の建物に侵入した。

 ボクら魔人に呼吸は必要ない。それでもボクが本能的に呼吸をするのは、人間の模造品として作られたからだ。なんのために? 『人間の代わり』をさせるためか? いいや、違う。『人間に出来ないこと』をするためだ。

 ボクは空気に()けることができる。

 目に見えないほどに極小の粒。そのひとつひとつが『ボク』になる。黒霧のようなその身体は、空気に広がって見えなくなる。こんな暗い雨の日なら、なおさらだ。

 

 地下二階に存在するその施設は、予想よりもずいぶん清潔だった。照明はけちっているのか、電球が丸見えの粗末なものが、廊下にまばらにあるだけだったが、ここにふさわしい人間には妥当だろう。

 入口から三つ目の錆ひとつ無い鉄格子の向こうで、そいつはボンヤリと、高い位置にある小窓から雨を見ていた。ボクが鉄格子越しに姿をあらわすと、彼は億劫そうに振り返り、なにも言わずに顔をしかめた。

 

「……寒くないのか? 」

 ボクが何も言わないでいると、まだ子供の名残りのあるガラガラ声が言う。

「……キミこそ、一晩で風邪ひいたんじゃあない? 」

 ボクが返した言葉に、ソイツは「そういえば、ここって冬は暖房入るのかな」とトンチンカンな疑問を呟いた。

 ボクの服から滴った水が、床に黒い水たまりを作っている。

 

「どうしてボクを助けたの? 」

 ソイツは不思議そうな顔をした。

「そんなこと聞きにきたのか? 危機感ねえなぁ。早く外国にでもなんでも逃げると思ってた」

「早く答えて。そうすればボクはすぐにでも逃げる」

「そんなのが気になるのかよ。変なの。そんなの、成り行きだよ。あんたはラッキーだった。それでいいじゃないか」

「……成り行きなわけないだろ。アンタみたいな普通の子供が、ボクみたいのに関わるのが、そもそもオカシい……! アンタ、いったい何なんだ。ガキのくせに……! 」

「おれって、ふつうの子供に見えるのか? 」

 ソイツは今度は驚いた顔をして、時代錯誤に長い後ろ髪を掻きながら少し笑った。「そりゃ良かった! 」

 そう喜ぶ、眼だけが笑っていない。

 嫌味なほど知っている目だ。身に覚えがありすぎる眼だ。

 何かを悟っている眼だ。

 ……何かのために、何かを諦めた眼だった。

 ああ、たしかに。コイツは普通の子供ではない。ボクと同じ、何かに擬態して生きている奴なのだ。

 ボクとあろうものが、どうして気が付かなかったんだろう。

 

 疑問が膨らむ。ボクはその時、抱えていた疑問のひとつの答えを見つけた。

「……ボクはキミに興味がある。だからここに来た」

「さっきのおれの質問の答えか? なんでおれ? 」

「キミはボクの正体を知っただろ。この()()のだぞ。『詐欺師ジジの本性は、こういう顔立ちの、これくらいの子供の姿をした、こういう能力の魔人デス。』それだけの情報に幾らの値段がつくと思う? そんなのはフェアじゃあない。ボクはキミの正体を知りたい」

「それは駄目だ」

 黒い瞳がまっすぐに、あの雨みたいにボクを見つめた。「それだけは駄目だ」

 

「……なにがそんなにキミを頑なにさせるの。たかだか十四歳のガキが」

「十四歳のガキでも大切なもんがある。おれは死んでも自分でそれを言わないって決めている」

「死んでもなんて、口で言うのは安い」鉄格子の前にしゃがみこみ、ボクはその陰気な黒い目を見上げた。「……その覚悟、ボクに教えてよ。うん、そうしよう。面白い」

 

「な……っ! 勝手に決めんな! 」

 今度はソイツがたじろぐ番だった。

 チッチッとボクは指を振る。

 

「だめだめ。もうその気になっちゃった。なぁに、簡単な賭けサァ。期限はここからキミが出るまで。それまでにボクがキミの正体を調べて正解を見つけられたら、キミはボクに……そうだなぁ。ボクには二度と嘘をつかない。これでいこう」

「それ、おれにメリットあんのかよ! 」

「ならキミはボクが負けた時のことを考えればいい。この魔人ジジは、こと人間社会では万能を自負してるんだぜ。ヒヒヒ……どうだい? ボクは知っての通りのアウトロー。なんでもするぜ? キミのメリットのほうがずいぶん大きいと思うけどォ? 」

「げえっいらねえ! 」

「楽しいねェ楽しいねェ。けっこうボク、好奇心旺盛なんだよねェ? 秘密を暴くのって楽しいねェ。ヒヒヒ腕が鳴る」

「くっ……! ま、まあ、どうせ無理だな! これに関しちゃ証拠は見つけらんねえからな」

「キミ、語るに落ちるって知ってる? キミのそういう態度が、『僕には秘密がありますぅ』って言ってるんだよォ? 」

「な、あぁっ……! く、くそ! お、おまえ! 」

「うふふ。やっぱオマエ、まだガキだねえ。フフフ……」

「ぬぁ~~~~~っ! 」

 

 愉快愉快! 涙目で悔しがるクソガキの姿に、ボクの笑いは止まらない。そうだ。ボクが本気を出せば、コイツの口を割らせなくても見つけられない秘密なんて無い。

 でもまあ、少し可哀想かもしれない。コイツはクソガキには違いないが、根は真面目で実直なやつなのだ。

 こんな口約束、それで終わりかもしれないのに。

 ……いや、口約束で終わらせるのはもったいないな。

 ボクは、ちょっと追加をすることにした。

 

「ふうん? そんなに嫌なら、キミが勝った時の賞品を釣り上げてやろうか。そうだな。せっかく魔法使い相手だし……」

 ゆっくりと視線を巡らせて迷っているふりをする。彼は不安げにその視線を追い、目が合うと気まずげに素早くそらす。もったいぶったボクは、極上の笑顔で(ボクの顔立ちは、一般的に評判がイイ)、彼の瞳を覗き込んだ。

 

「この魔人ジジの呪文を、キミにあげようかな」

 

「――――――ハァ!? 」

 

 彼はそれだけ叫ぶと、大きくのけぞって驚いた。予想通りの反応に、笑い声が止まらない。

 

「な、なななな、は、はぁぁぁああ? ば、ばばば、ばっ―――――かじゃねーのお!? ま、魔人の呪文っていや……魂とおんなじじゃねえかよ! アンタレベルの魔人じゃンなもん怖すぎる! いらねえ! 」

「そんなに拒否されると悲しいなぁ。そろそろマトモなゴシュジンサマがいたらいいかなって思っただけなのに……」

「その媚びた顔をこっちに向けるな! 」

「なら何が嬉しいの? こっちは身を捧げているも同然なのにィ」

「重いんだよ! 俺のことを『ソイツ』とか『アンタ』とか『コイツ』とか『そこのキミ』とか言わなくなるほうがまだ嬉しい! 」

「じゃ、それも付けてあげる」

「ぐぬぬ……! くそっ」

 

 雨の音さえ忘れていた。

 冷たい地下牢で馬鹿みたいだったけれど、ボクはどうしてか、とても嬉しかった。

 コイツは何か大きなことをしてくれる。ひしひしとそんな予感があった。今思えば、それは模造された人間の感覚とは違う、魔人として備わった本能によるものだったのかもしれない。

 

「そういや、キミ名前なんだっけ? 」

「サリヴァンンンッ! 覚えてねエのかよ! サリヴァン! ライト! 」

「どっちが苗字だかわかんねえ名前だな」

「ほっとけ! 」

「ボクはジジ」

 差し出した手を、鉄格子越しにしぶしぶ握られる。

「……おれは、サリヴァン・ライト」

「もう知ってる」

「おれが今言ったからな! 」

「よろしくサリー。キミって損なくらい律儀だね」

「うるせえ! ぜったいお前なんて引き取らないからな! 」

 

 鉄格子ごしの握手は、少し暑苦しくて、けれど、どこかワクワクしていた。

 

 



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4 奇妙な小部屋

「身を守るために、口をつぐみなさい」

 いつか師が言った。

 

 まだその肩にも背が届かなかったころ。「どうして家族と暮らしてはいけないのか」という疑問をぶつけたとき、師はゆっくりと、幼いおれに説明し、そう締めくくった。

 師の手が肩を撫でる。

 かがんでおれの顔をのぞきこむ彼女の顔を、おれは見ることができなかった。

 

「いいですか。サリヴァン。あなたが本当は誰なのか、誰の息子であるのか。誰の血を引いているのか。それだけはぜったいに、誰にも言ってはいけません」

「……ぼくは、父さんと母さんの子じゃあないの」

「いいえ。あなたは、フランクとミイの子で、ヴァイオレットの兄。でもそれは、隠さないとならないの」

「どうして」

「家族を守るために。あなた自身を守るために。

 もう、薄々は気付いているんでしょう? なぜそうしなければならないのか。なぜ、あなたがここにいるのか」

「………」

「分かっているはず。だからあなたは、今日までわたしに弱音を吐かなかった。

 いい、サリヴァン。コネリウス二世ではなくて、サリヴァン・ライトとして、この『銀蛇』で普通の魔法使いのふりをするのです。

 今はつらいかもしれない。でも、少しの間だけ忘れなさい。

 いつか、あなたが大人になった時。

 本当のあなたを、誰もが知るときが来るでしょう」

 

 師はまっすぐに、おれを見ていた。

 

 

 

 ✡

 

 

 

 ()()はいつ目を閉じたんだろう。

 

 目を開けて最初に考えたのはそれだった。ひどく静かだ。おれの記憶では、ほんの一秒か二秒前まで目を開いてこの手に()を握っていたはずなのに。

 

 奇妙だ。――――奇妙だが……おれの中に浮かぶ疑問はひどく小さい。身を包む違和感、認識に決定的な齟齬がある感覚。しかし直感が囁く。『ここは危険ではない』と。

 

 静かな場所だった。

 そのまま寝転べそうな、清潔で柔らかい絨毯。青い蔓薔薇の壁紙。夜風に揺れる菫の柄のカーテン。オレンジ色の明かりを降り注ぐシャンデリア。火が落された暖炉は、夏場の様相だ。使い込まれた木製のロッキングチェアと、そこに陣取る白いうさぎのぬいぐるみ――――。

 そして、童話でいっぱいの本棚。

 

 大きな部屋ではない。

 おれの眼は、自然と出口を探す。金色のドアノブの木の扉が、暖炉に向かい合うようにあった。しかしおれの足は、揺れる菫のカーテンの向こうへ吸い寄せられる。

 

 こじんまりとしたテラスがあった。そしてその先には、はてしない星の海が広がっていた。

 

 天の川どころか、緑や紫の星雲すら鮮やかだった。それでいて、星々のひとつひとつが、どんなに小さくてもクッキリと丸く浮かび上がっている。

 

 ……まただ。

 カーテンが揺れていたのに無風の外気も、この星の海も、『奇妙だ』と頭で理解はしていても、危機感というものはいっこうに浸透していかない。

 

 気が付けば、一歩、また一歩と、テラスの淵へと近づいていく。白く塗られたテラスの床と続く、地面があるはずのその場所にも、境なく星がみっしりと散らばり、じっと見ていると眩暈のような浮遊感が身を包む。

 ゆっくりと、おれの視界が星に埋もれていく。

 

 そのとき、凪いだ無音のなかに声が聴こえた。永遠にも思えた静謐(せいひつ)の中に、波紋のようにその声が響く。

 

 《 時はきたれり 》

 

 ハッと我に返る。と同時に、ずるりと体が滑り、テラスの柵の上に折っていた上半身を慌てて上へ跳ね上げた。あの、よくわからない空間へと身を投げようとしていた自分がいたことに、始めてゾッとしながら顔を上げる。

 そこには、今度はその声の主が現れていた。

 

 星の海を回遊する巨体は、星々を従えるように白く、真珠のように輝いている。おれのいるテラスを円を描きながら羽ばたく白鯨の、金色の瞳がおれを射抜き、また言った。

 

 《 時はきたれり 》

 白鯨は金眼をすがめておれを見つめた。まるで『この言葉の意味がわかるでしょう? 』というように。

 鯨がひときわ大きく羽ばたいた。叩きつけるような風が吹き、とっさに顔を腕でかばって足を踏みしめるも、ずるりと靴底が滑る。

 甲高い風の音とともに、おれは菫のカーテンの向こうへと背中から転がった。すぐに跳ね起きたが、そこにあったはずの菫のカーテンは綺麗さっぱり消えている。

 

 窓はまったくの別の位置に移動していた。それもテラスへと続くような大窓ではなく、ずっと小さな出窓としてだ。菫のカーテンは隙間なく閉じ、その前では部屋を睥睨するように青いリボンを首に巻いた白いうさぎのぬいぐるみが座っている。

 

 テラスのかわりに現れていたのは、別の場所にあったはずの本棚だ。

 おれは本棚に引き寄せられる。赤い背表紙の絵本がある。

 この見知らぬ部屋の中で、その背表紙だけが、どこか見覚えがあった。……すくなくとも今のおれは、そう感じていた。

 金色の印字を読もうとした瞬間だ。

 どん、と背中が押された。たしかに気配はなかった。まるで突然、その存在が質量をもって背後に現れたかのように。

 この体を突き飛ばした小さな手のひら。おれの背中にぴったりと張り付く体温を生々しく感じながら、おれは、その『誰か』とともに前のめりにあの赤い背表紙へ向かって倒れていく。

 傾く耳に温かい吐息がかかって、馴染みのいい声が、後ろからおれに囁いた。

 

「……さあ行って。あなたはもう、どこにだって行けるんだから! 」

 

 踏ん張ろうとした足が絨毯を蹴らないまま、おれの体は本棚にぶつかることなく突き抜け、はてしない暗闇を落下していく――――――。

 

 暗転。

 衝撃。

 

「いってっ」

 おれの落下は、何かにしこたま脳天をぶつかって止まった。その障害物たる人物が、モゾモゾ蠢いて体を起こし、おれは暗闇のなかを手探りで冷たい石畳の上に尻をつける。手が思わず耳の後ろに伸びた。うしろ髪についた小さな雫で、指がかすかに濡れている。

 やはり危機感や恐怖は浮かばず、疑問だけが浮かぶ。

 

 あの人は、どうして泣いていたんだろう。

 

「……そこにいるのはサリー? 」

「ジジか? 」

 おれがジジの顔を見て言えたのは、その金色の瞳が暗闇に輝いていたからだ。

 

「うん……本物? 」

 変なことを訊く。そんなことは、アイツならすぐに分かるだろうに。

「他の何に見えるんだっての」

「ああ、そう……うん……そうだよね。うん。キミはサリーだね。うん」

「……何があった? 」

「わかんない……」

 困惑した声色が応える。

 

「おれは、変なものを見た」

「ボクも……」

「……ここはどこだろう? 壁がある。えらく、狭っくるしい……」

「図書館です」

 

 現れた三つ目の声が、足音も無くこちらへ歩いてくる気配がする。今度こそは確実だ。

 手にしたランプの明かりが丸く空間を切り取り、なるほど、おれたちを囲んでいる壁は、うず高くそびえる本棚だと知れた。

 

「ここはフェルヴィン建国すら見届けてきた世界最古の図書館。あらゆる物語の終着点。『本の墓場』と呼ばれる場所……あなたたち、どうやってここに来たの? 」

 

 首をかしげると、頭の横に重たげに垂れた黒髪が傾いた。生意気そうな眼差しの金色はジジと同じ色をしている。

 少女魔人はインクで爪の間まで染まった手を、座り込んだジジへ向かって手を伸ばした。

 

「……あなた、見慣れない魔人ね? いったいどこの子? 皇子たちのお迎えかしら? それなら歓迎。あなたは魔法使い? そう。魔法使いならもっと大歓迎。さあ、おいでなさいな。お茶があるのよ。みんなお待ちだわ」

 

 ランプを掲げて先導する彼女は、ほんの三歩進んだところで、思い出したように足を止めて振り向いた。

「……ああ。そうだ。あたしはダッチェス。オバケじゃないから安心して」

 軽やかな少女魔人の足取りと、「どうしたの? 」とおれを振り返って尋ねるジジ(おれの魔法)の姿に、おれは、いやがおうにも先ほどの奇妙な空間を思い出す。

 やがて暗闇の先から音楽が聴こえてきた。疎いおれでも知っている。タイトルは……そう、『王へ捧げる鎮魂歌(レクイエム)』。昔のフェルヴィン皇帝へ、その語り部が捧げた一曲だ。

 

 

 あの白鯨は、魔人と同じ金色の瞳をしていた。

 



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4 コネリウス・ライト

 東南を向いたフェルヴィンの王城は、切り立った山肌に背中を預けた造りをしている。崖を切り出して装飾したように見える王城は、実は山肌を侵食し、見かけよりもずっと奥へと続いていた。さらに隠されたそこかしこに、坑道跡に見せかけた抜け道が蟻の巣穴のように存在しているという。ヴェロニカ皇女らが逃亡に使ったのもここである。

 

 フェルヴィン首都ミルグースは、背面に連なる鉱山の山脈から掘り出された金属の、加工と細工で栄えた都市だ。『魔界』とまで呼ばれるほど痩せた硬い土壌を持つ土地で生きていくために、フェルヴィン人は、長い時をかけて数々の試行を繰り返してきたが、何より国を潤したのは、彼らが大地と炎と水から生み出す細工ものたちだった。

 

 いわく。フェルヴィンの剣は刃こぼれすることがなく、若枝のように軽く、鋼とは思えぬほどにしなって折れず、砥いでも刃が減らないとか。

 

 いわく。フェルヴィンの鎧を通すのは同じフェルヴィンの鋼だけ。戦へ向かう子息に、フェルヴィンの鎧を用意できない金持ちは外道か阿呆かと謗られたとか。

 

 いわく。フェルヴィンの銀細工は、水のように艶めかしく、レースのように繊細で、羽のように軽い。淑女にはもちろんのこと、ひとかどの男であるならば、仕込み時計や仕込みナイフのブローチやステッキを持つのが粋というもの。

 

 時代の流れとともに商品は変わった。しかしそれは、歴史の文字にフェルヴィンの名が消えることは無かったという(あかし)である。そうして財を得たフェルヴィンであるが、さてこの地でどうやって貿易を行っていたのか?

 

「答えはかんたんです。この国には、ほんとうはずっと移動手段があった。世の中に『飛鯨船』なるものが飛び交うようになるよりずっと前、それこそ魔女が死んで神話が終わった古代から、ほんの百年ほど前まで……」

 

 前を歩くダッチェスの背中が、黒い影を被せている。ダッチェスの手にある明かりが、一行の先を照らすために右へ左へ動くたび、人型の影もぬるぬると地面や壁を揺らめいた。もしかしたら道順を覚えられないようにするための技だったのかもしれない。おれとジジ、皇子とその語り部たちは、網目のような坑道をダッチェスの導きに沿って歩いていく。疲れからか、ダッチェスの澄んだ声を聴き洩らさないようにするためか、誰も言葉を交わさなかった。

 

「……これは王家、いいえ。魔女とともに旅をし、この地へ辿り着いたものたちの秘密です。流人や罪人や奴隷であった彼らは、職人となり、鉱山夫となり、農夫となり、騎士となり、漁師となり、商人となり、学徒となり、王となった。

 それぞれの一族の末裔だけが知らされる秘密。

 魔女が与えた『隠された』二つ目の魔法……それが魔女の財宝『フレイヤの黄金船』。

 彼らはこの船で、このフェルヴィンに降り立ったのです。そこは、戴冠の間でもあります。この場所へは、皇帝ですら道順を教えられません。語り部の導きを以てしか辿り着けないのです」

 

 カンテラが揺れる。土が剥き出しでいつ崩れるかも分からなかったそこに、とつぜん黄金のきらめきが現れた。

 海と冥府、大樹と天空の二枚一対の扉には、向かい合うように、赤い宝石と青い宝石を瞳にはめた女の貌がある。ふたりの女の揺らめく髪には、薄く切り出された漆黒の水晶が重ねられていた。

 この意匠のモデルが、おれに分からないはずがない。

 向かって左は、おれの主である時空蛇。その化身『影の王』。

 右は我らが始祖の魔女。彼女は、美しい黒髪に輝くように青い瞳の女性であったと伝わっている。

 

「……さあ、グウィン様。この先が戴冠の間。最初の王が産まれた場所でもあります。貴方が開けるべき扉ですわ……と、言いたいところですが、老朽化が心配なので、あたしが開けるわね! 」

 グウィン皇子は踏み出しかけた足を引き、気まずげに頬を掻いた。

「――――さあ! とくとご覧なさい! そう見られるものじゃあないわよ! 」

 

 眩い光が、長らく太陽を忘れた一行の網膜を刺した。

 そこは途方もなく、高く、深い、一本の縦穴であった。

 円柱型の穴の内壁へ取りついた螺旋を描く通路は、闇を塗りこめたような黒だが、下から吹き上がってくるような寒々しい冥府の青いマグマの燐火と、反して天上から降り注ぐ温かな白い光で、上層世界の雲一つない晴れの日ほどにも明るい。

 その淵に立ちつくすおれたちの目の前に、その船はあった。ぽっかりと、円柱のなかに支えもなく浮かんでいる。

 帆も甲板の無いそれは『船』というよりは、『箱』だ。

 そしてただの『箱』というよりも『棺桶』のようだった。

 『黄金』の名を戴いているのに、主には黒く、金は船体を縁取る渦巻くように絡まっていく装飾に刻まれているだけだ。おそらく芽吹く草木や波しぶきを表している金の紋様は、経年により、インクの途切れかけたペンで描いたように、ところどころ剥がれて擦れ、黒ずんでいる。それでも、少なくとも三千五百年以上の時を経ていると推定すると、驚くほど魅力的な姿を保っているように見えた。

 

「下は冥界、上は最高層マクルトにまで続いています。数々の冥界下りの舞台はこの縦穴。もちろん、雲海以外で各海層へと直結しているのはここだけ。この船の中で初代フェルヴィン皇帝は王となりました」

「どうやって船まで行くんだ? 」

 虚空を覗き込んで、ヒューゴ皇子が言った。顔が引きつっている。

「当然、資格があるものには道ができますわ」

 

 当たり前でしょう? とばかりに語り部が言う。「神秘だな」と、皇太子はのんびりと呟いた。これからいよいよ皇帝になるというのに、緊張はあまり見えない。「………」ケヴィン皇子は、始終、感情の見えない無表情で黙り込んでいる。

 

「さあ、先導するのはあなたよ。立会人さん。皇子たちは殿を。そして皇太子グウィン。あなたは船を出たとき、すでに『皇帝』です。お覚悟は? 」

 グウィンは高い額の影にある瞳を細めて、父の語り部に微笑んだ。

「……とうの昔に出来ているよ」

 

(おれは……出来てんのかな。まだわかんねえや)

 思いながら、虚空に足を踏み出す。ここでもし、先に進めなかったとしたら、おれは『資格無きもの』になるのだろうか。

 はたして、おれの足の裏は資格を得たようだった。

 おれは足の下に冥界の青い炎が燻ぶる光景を踏み越えたこの瞬間のことを、腹の底が浮くような言いようのない興奮と畏れと現実感の無い奇妙な経験として、記憶に刻み付ける。

 見えない道の下、冥界の青い炎が、火山の火口のように沸騰しているのが見えた。

 ここに落下したら、何も戻ってこないだろう。そこにあることを確かめるように、思わず眼鏡のつるを押し上げる。馴染んだ動作をすると、不思議と落ち着くものだ。

 

 辿り着いた船体は、滑らかな漆黒をしている。後ろを振り返ると、固唾をのんだ一行の姿が数メートル先に見えた。

「おーい! 大丈夫なんで! 」

「すぐ行くわ! ほら、次はあなたよ! 」

「……えっ、ボク!? 」

 ジジが鳩が豆鉄砲くらったような顔をしている。「そりゃあなた、立会人の魔人なんだから、二人でひとつよ。あたしたちが主人とセットになるようにね」

「ええ~……勘弁してよ」ふだんプカプカ浮いてるくせに、コイツは何言ってんだろう。

 

 自分でもそう思ったんだろう。ジジはスタスタとこちらへ渡り、無言でおれにハイタッチを求めた。顔の両側で上げられた手のひらを、ぱちんと打ってやると、気が済んだのか、「ふん」と満足げに鼻を鳴らして、おれの二歩横へずれて頭の後ろで腕を組み、後続を見守る姿勢に入る。

 続いて、迷いなく語り部ダッチェスが渡り、皇太子を手招く。兄が先に渡ったので、あとの皇子たちはスムーズだった。

 

「……いきますよ~」

 ごくりと一同が唾を飲み、おれの指先を見つめた。おれの右手は、水面のように波紋を描いて揺らめく漆黒の船体の中へと吸い込まれていく。

 冷たくも温かくもない。抵抗らしい抵抗はなく、しいて挙げるなら、たっぷり満たされたゼリーの中に、手を突き入れたような感触がする。ちょっと癖になる感触だ。

 

 これから一世一代の大勝負が始まるかもしれないってときに、おれは自分でも驚くほど呑気なものだった。

 王城へ向かう直前までは――――いや。変貌してしまったアルヴィン・アトラスと対峙したときあたりまでは、実力不足の焦りと緊張で心臓がバクバク鳴っていた。

 でも、なんでだろう。レイバーン皇帝の嘆願に、「そのために来た」と口に出した時にはすでに、おれの精神の床は固く踏みしめられていた気がする。不思議だ。

 

 おれは、運命というやつを生まれた時から持っていた。

 おれの運命は、大人たちから何度も言い含められてきたので知っていたけれど、あの時までは半信半疑だったことは紛れもなく事実だ。

 おれは、そんな大層な人間ではない。自分がそれを一番よく知っている。

 それでもおれは、ここにいる。ここに来てしまった。

 この今ある状況こそが、おれの持つ、運命ってやつを証明するのだろう。

 

 ✡

 

 暗闇の中から、語り部ダッチェスに先導されてやってきたおれたちを、皇子たちは固い顔で出迎えた。

 その壮絶な体験からすれば友好的なほうだっただろう。なんせおれは、初対面の外国人なわけだし、いかにも怪しげな黒づくめの魔人を引っ付けたコブ付きだったのだから。

 魔人ってものは珍しく、その製造法は、先の大戦のときには散逸して分からなくなっている。そのうえ一般的に『魔人』といえば、見てわかるほど人間とは違うものであって、ジジや語り部たちのように、人と見分けがつかないほどの完成度を誇るとなれば、それはもう千年単位の骨董品だといっても過言ではない。個人が所有できるものでは無いのである。

 

 反面、語り部たちは、いくらか分かりやすく友好的だった。

 とくにヒューゴ皇子の語り部トゥルーズは、おれが姿をあらわしたとたん、手に握っていた楽器を取り落とし(レクイエムの演奏は彼によるものだった)、一目で看破したおれの正体を大声で言い当てた。

 

「――――コネリウス様だッ! 」

 

「うわ、言っちゃったよ」とジジが笑う。おれも笑った。なんせ、おれの家族とその関係者が必死になって隠していることを、こうもハッキリ大きな声で宣言されては、もう笑うしかない。

 語り部の真名看破の前では、どんな秘密も形無しだった。おれの中に流れる血は、百年なんて『ちょっと前』の彼らには、懐かしいだけのものらしく、表情を抑えた語り部たちは、そわそわと姿を現して遠巻きにおれたちを見つめている。

 おれはろくに皇子たちと口を交わす前に、自分の大きな秘密を明かさなくてはならなくなった。

 

「……コネリウス・サリヴァン・アトラス・ライト、と申します。曾祖父の名をいただき、コネリウス二世の語をいただきました。遠き曾祖父の……」……ええと、どうなるんだっけ?

「……兄の息子の、その息子の皆さまへ。いまもなお、高貴なる連なりにいらっしゃる御身へ、廃嫡の血筋ではありますが、心からの敬意と親しみを。このサリヴァン、血と運命に導かれ、助太刀に参りました次第でございます」

 よし言い切ったぞ。

 

 皇子たちはぽかんとしている。

 そりゃそうだろうとも。

 王位継承権を失い、祖国を飛び出して、遠い異国の田舎貴族の令嬢へ婿入りした、歴史の英雄の子孫が、こんな時にいきなり現れたんだから。

 

「コネリウス様はお元気ですか!? 」

 

 ひょろっとした語り部の青年だけが目をキラキラさせて、おれを見下ろしている。

 

「九十を超えた今も、実家の山にこもって元気に芋作ってますよ」

「いも! ねえヒューゴ様! コネリウス様、芋作ってますって! ねえ、すごいですねえ! 素晴らしいですねぇ! ……あ、おれ、トゥルーズっていいます! 」

「あ、『王に捧げる鎮魂歌』の作曲家!? 」

「はい! その語り部トゥルーズです! 今はヒューゴ様へお仕えしています! うわぁ~まさかコネリウス様の曾孫に逢えるなんて……ああ、懐かしいなぁ。コネリウス様とはあんまり似てないんですねぇ! あ、でも、声は似ています! お顔にもちょっとだけ、お小さいときの面影があるかも! 面白いですねえ。ねえヒューゴ様! ……ヒューゴ様? どうしました? 」

 

 一言、皇太子がぼやいた。

「……今日は、いろんなことが起こる日だな」

 同意するように、二つ溜息が重なった。



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4 声

 グウィンの語り部は、大柄な老爺の姿をしている。

 灰色の総髪と髭と皺に覆われた四角い顔の中に、猛禽を思わせる金の瞳が鋭く輝き、かっちりと黒い詰襟を締めた寡黙で穏やかなベルリオズ翁は、今となっては、もう一人の父のような存在だった。

 

 グウィンには、そんな語り部の存在を疎ましく思っていた頃があった。

 先に産まれたということは、それだけで責任がともなう。妹とたった15ヶ月しか違わなくても、グウィンは皇太子であり、長男であった。

 そんなことを理不尽だと拗ねていた頃があり、貫禄のあるベルリオズの存在は、何もかもが足らない自分の劣等感を刺激する鬱陶しい存在だった。

 

 昔の話だ。

 

 皇帝となる覚悟ができたのはいつのことだろうと、三十四歳のグウィンは思う。

 少なくとも、二十になったころまではまだ出来ていなかった。軍へ進んだのは、それが健康な皇太子として妥当な進路であったからだ。

 期となったのは、おそらく二番目の母――――アルヴィンの生母が亡くなったとき。打ちのめされる家族と過ごした一夜。父や弟妹を守るためには、自分が父の跡を継ぎ、その志のまま国を治めることが最善手だと、冬の夜空に消えていく煙草の煙を見ながら漠然と思った。 

 その瞬間、かちりと胸の内で確かに音がした。それは、運命というものが奏でる音だったのかもしれないし、グウィン自身の持つ迷いが溶けた感覚だったのかもしれない。

 あの日、何かの歯車がはまったのだろうことは確かだ。

 除隊し、留学したのは、未来の自分の迷いの種を一つでも消すためだった。

 体を動かすことと同じほど、本を読むことも好きだったから。許してくれた父たちと妹には、生涯頭が上がらない。その先でモニカと出会ったのも、きっと何かの導きだったのだ。

 

 グウィンは運命論者ではないが、彼女との出会いだけは、そう思わざるを得ない。

 今ごろモニカはどうしているだろう。怖い思いをさせた。彼女が無事に逃げ延びたと聞いたとき、安堵のあまり眩暈がしたほどだ。

 彼女なら、いずれ普通の男と結婚する道もあったろうし、その生活は皇后の生活よりもずっと自由で彼女らしい人生になったかもしれない。しかし彼女は自分を選び、自分も彼女を手放さなかった。これからも手放すつもりはない。きっと苦労をかけると思う。障害は多いだろう。不安はあるが、戦いはまだ始まってもいない。そう、恐ろしいことに、()()なのだ。

 グウィンが守るべきものは、まだこの国にたくさん残っている。

 

(まずは生きること)

 

(次に、命の使い道を知ること)

 

(覚悟という言葉に囚われないこと)

 

(やるべきことに覚悟は要らない)

 

(王らしく胸を張ること)

 

(……常に、忘れないこと)

 

 今日、グウィンは父へ刃を向ける。

 

 

 

 

『かちり』

 運命が噛み合う音がする。

 

 

 

 ✡

 

 

「息は止めた方がいいのか? 目は閉じたほうが? 」「……別にどっちでも大丈夫よ。怖いなら走っていけば? 」

 

 ダッチェスに追い払うように手で示されて、おれは上腕の中ほどまで突っ込んだままに漆黒の壁へと直進した。

 おれはしっかりと目をあけて、『壁』の中を見通そうと考えたのだが、ぬるくもなく冷たくもない『壁』のようなものは、少し肌に張り付くような感触があるだけの面白みのない暗闇でしかない。

 抜けたという感触はあった。

 内部はひやりとして、照明がついていなかった。『ブゥーン……』と、かすかに小さな音が聞こえる。

 暗闇に立ち止まったまま、三拍ほど呼吸をしただろうか。

 

 《 ピッ 端末を認識しました。起動を開始します 》

 とうとつに上の方で、感情を感じられない女の声がした。

 

「誰かいるのか? 」

 ヴヴン……。

 重いものを振ったときのような低い風斬り音が、言葉のかわりに応える。

 

 《 端末『銀蛇』から遺伝子情報を検索。特定。ピッ データベースより照合します。ピッ データベースより該当者を特定。》

 《 ピッ ようこそ。サリヴァン。ワタシはアナタを歓迎します 》

 

「どこにいるんだ? どうしておれの名前を知っている? 」

 

 《 ピッ 条件を達成しました。【ホルスの目】の起動を確認。同期を終了しました。ピッ 》

 声は、こちらのいっさいの問いかけを無視して、理解を放棄した言葉を連ねていった。

 

 《 ピッ 【審判】からの応答を確認。認証しました。 ピッ 》

 

 

 《 ピッ 条件の達成を認識しました。【資格あるもの】の存在を認識しました。【デウス・エクス・マキナ】システム起動を開始します。》

 

 

 《 ピッ 凍結フォルダー解凍。ピッ 成功しました。オールグリーン。100パーセント。展開します。 》

 

 

 《 ピッ 【影の王】からの応答を確認。起動要請を受諾。》

 

 

 《 ピッ 条件を達成しました。【22人の選ばれしもの】データを解凍。成功。》

 

 

 《 ピッ 条件を達成しました。【予言の成就】シナリオの40%を達成。【青薔薇の城】データを解凍。成功。》

 

 

 《 ピッ 条件を達成しました。【シオンへの告知】データを解凍。成功。起動します。成功。データは削除されました。 》

 

 

 《 ピッ 条件を達成しました。【デウス・エクス・マキナ】起動を確認。【シオンへの告知】削除を確認。【デウス・エクス・マキナ】シナリオの5%が達成されました。 》

 

 

 《 ピッ 条件を達成しました。【黒龍城への告知】データを解凍。成功。起動します。データを送信。……応答がありません。データを再起動します。 》

 

 

 《 ピッ 再起動成功。起動を確認。データを送信。応答がありません。》

 

 

 《 ピッ 【黒龍城への告知】のデータ送信を一時保留します。 ピッ 》

 

 

 《 ピッ 【黒衣の魔女】からの応答を確認。認証しました。 ピッ 》

 

 

 《 ピッ 【三邪神同盟】からの応答を確認。認証しました。ピッ 》

 

 

 《 ピッ 【四聖四柱神助成組合】からの応答を確認。認証しました。ピッ 》

 

 

 《 ピッ 【虹蛇の獏】からの応答を確認―――――》

 

 

 

 ここにあるのは、もはや声の奔流だ。暗闇を埋め尽くす途切れない言葉が、渦を巻きながら鼓膜を叩く。

 こんなところに長くいたら気が可笑しくなりそうだ。

 

 

 

 《 ピッ システム起動を確認。条件を達成しました。【伝説の帰還】データを解凍。成功。シナリオを起動します。 》

 

 

 

「ちょっとサリー! これは何の音!? 」

 

 『壁』を抜けておれの隣に現れたジジが、声に負けないほどに言葉を強くしておれに尋ねた。

「おれにもわかんねえ! さっきからずっと―――――」

 

《 ピッ 個体認識。データベースと照合します 》

 

 とつぜん視界が明るくなった。照明が付いたのだ。

 照らし出されたものに、おれたちは言葉を忘れて、船内の光景を見つめる。

 

 おれたちの目の前にあるそれは、ひとつの街だった。

 等間隔に天高くそびえる建物たちは水晶のように輝いて、空をゆっくり流れていく雲を映している。広い道路の脇に植えられた樹木は、枝ぶりにあきらかに人の手が入っており、青々として繁っていた。針山のように連なる建物の向こう側に、カーブを描いて街を横断する河川と、そこにかかる大きな橋まである。

 

 

 《 ピッ 拡張空間テクスチャの変更がオーダーされました 》

 

 そして、早くも聴き慣れた女の声がそう言った瞬間、『街』の風景にいくつもの縦線がはしりながら擦れて消えた。

 まるで皮を剥くように、新しい空間を仕切る壁が現れる。

 

《 ピッ テクスチャを『書斎』へ変更 》

 

 おれの全身の肌が総毛立つ。

 現れた『書斎』が、あの『部屋』だったからだ。

 違いは、暖炉に明々と火が入っているくらい。おれの視線は、しぜんと菫の柄のカーテンへ引き寄せられていく。

 

 《 ピッ 》

 もはや馴染みになった音が、ジジ一人を示して鳴った。

 おれの隣に棒立ちになっている奴の体を囲むように、青い箱状の光の幕があらわれる。囲まれてしまったジジは、とっさに逃れるように身を引いたが、すぐに光の膜へ触れないように身体を縮めた。青い幕の表面に、波状の模様が何度も流れていく。

 

 《 個体認識。個体認識。優先個体認識。ピッ ようこそジジ。ワタシたちの可愛い子。ピッ アナタには、サプライズプレゼントがあります。》

 青く透ける幕の中で、ジジが驚いた顔をするのが見えた。おれを見つめるジジの瞳が、思いがけず名前を呼ばれて隠し切れない動揺に震えている。

 波状を描いていた幕が、何かの輪郭をつくったのが分かった。外側から見ているおれには、青と白のおおまかな輪郭しか把握は出来ない。

 《 データを解凍。成功。音声データ再生します。》

 《 ピピピッ 》

 

『……ぉか……えりなさい。ジジ』

 上から聞こえる声とは別の女の声が、幕の中で口を利いた。

 ジジを囲む幕の表面に描かれた影のようなものが、四方から歓迎の言葉と笑顔を向けているらしい。

 

『あなたが来る日をずっと待っていたわ! どうか良い旅を。心の底から願ってる! 』

 

 《 …ピッ 再生終了。ピッ 音声データを削除します。 ピッ 》

 シュン、と音を立てて、青い幕が消えた。

 

「…………」

「……ジジ? 」

 

 帽子のつばの陰になった顔が、いつにも増して白くなっている。金色の瞳がいつになく爛々と輝きを増し、黙り込んだままの唇は、真一文字に結ばれて表情が抜け落ちていた。

 

 《 条件を達成しました。【大きい鍵の帰還】シナリオ解凍します。この処理には、時間がかかる場合があります。……1%……5%……7%…… 》

 

「ねえサリー……ここはどこ? 」

「船の中……のはずだ」

「そういう意味じゃない。どうしてあの女の声はボクに『おかえり』って言うわけ? 」

「おれには分からない」

「………」

 

 ジジの瞳孔が尖る。

「腹が立つな。ボクに分からないことがあるって」

 コイツにもコイツの事情がある。おれと出会う前、知らないしがらみってやつだ。

 

 瞬時に疑問を怒りに変換したジジの後ろの(白地に青い蔓薔薇の柄)から、ようやくダッチェスが現れた。

 

《 ピッ 個体認識。『語り部』を確認。個体名ダッチェス。ようこそ 》

《 ピッ 個体認識。『語り部』を確認。個体名ベルリオズ。ようこそ 》

《 ピッ 個体認識。『語り部』を確認。個体名トゥルーズ。ようこそ 》

《 ピッ 個体認識。『語り部』を確認。個体名マリア。ようこそ 》

 

 続いて、次々に皇子たちも顔を出す。

 

《 ピッ 個体認識。独立端末『語り部』より個体確認。ようこそ。グウィン・ランスロー・サーヴァンス・アトラス》

《 ピッ 個体認識。独立端末『語り部』より個体確認。ようこそ。ケヴィン・ガウェイン・サーヴァンス・アトラス》

《 ピッ 個体認識。独立端末『語り部』より個体確認。ようこそ。ヒューゴ・モルドレッド・サーヴァンス・アトラス》

 

 伝統的な戴冠の儀式には牧歌的すぎる内装に、ダッチェスの眉が寄せられた。

「前はこんなふうじゃあ無かったのに」

 

 しかし、それらしく場を整える時間も余裕も無い。ダッチェスはぐるりと書斎を見渡し、テーブルを片付けるようにと、同じ語り部たちに指示を飛ばしていった。

 

「何かあったのかい? 」

 皇太子がおれに尋ねた。

「……いいえ」なんでもないように首を振る。

「ついにこの時が来たと思って」

「ああ。確かにそうだな」

 皇太子は厳つい顔を和ませて微笑んだ。

 

 

 ✡

 

 

 

『かち……かち……』

 おれの胸の奥で、音がする。

『かち……かちち……かちっ……』

 何かが起こる。そんな予感の音がする。

 

 

 

 

 

『かち……かち……かち……かち……かち……―――――』

 

 

 



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4 終末王の戴冠

『かち……かち……かち……かち……かち……―――――』

 真っ白な文字盤にある一本きりの金色の針だけが、規則正しく働いている。その時計の時を刻む針は、不思議なことに、秒針一本しか存在していなかった。

 懐中時計を握る女が座すのは、漆黒をした棺に似た『なにか』の屋根である。

 

 細身で引き締まった、長い手足を持つ女だった。

 女はその『何か』が、船であることを知っていた。眼下にマグマのように沸騰している冥界の炎を望み、底の浅い歩きやすそうな革靴を履いた足裏を、虚空にぶらぶらと揺らしている。

 冥界からの青い光に照らされて、いっそう白い顔のまわりを、縁取る黒髪がさらさらと流れていた。

 

 その表情は『無』である。

 感情による歪みも、経年により備わるはずの、筋肉の使い方の違いから(あらわ)れる皺などの個性も、女の肌にはいっさい無い。なめらかな白い肌は、しかし無機質なそれではなく、どちらかといえば、爬虫類や魚を思わせる『そういうもの』とした印象があった。

 

 女は小さく――――男性的にも見える外見からはギャップのある、横笛のような柔らかい声で―――――囁いた。

 

「影の王として【認証】。宣誓する。

『私は未来を終わらせない』。

 

 ”命ある限り夢に馳せよう” 

 ”なぜならこの意志は、青薔薇の魔女と寄り添うものだから”

  ”(とも)よ” 

 ”我が恋はいま”

 ”おまえの観た未来へと委ねた”

 

  ―――――これにより、影の王アイリーン・クロックフォード……『女教皇』を担うわたしの、世界への宣誓とする……」

 

 文字盤に落とす目は、赤みの強い茶色である。

 あたたかな紅茶色の瞳だけが、女に色彩を与えている。

 宣誓を終え、しばし。女の相貌に、はじめて感情が顕れた。

 優しげな、慈愛に満ちたその微笑みは、なおも手中の時計に落されている。屋根の淵でぶらぶらと揺れていた足を引き上げ、女は膝を抱いて頬を預けると、紅茶色の瞳を閉じた。

 

「……我が弟子よ。おまえの望みはなんだろう? 」

 応えの無い問いかけは、冥界へ繋がる虚空へ消える。

「……サリヴァン。どうか、おまえの心望むままに……」

 

 

 ✡

 

 

 ソファと安楽椅子とテーブルを移動し、広くなった『書斎』で、ダッチェスは中心に立ち、うんと腰を伸ばした。

「いよいよ始めるわよ。……準備はいい? 」

「いつでも」

 相対するグウィンは微笑んで頷く。隣に立つおれもまた頷いた。女語り部の微笑みはなりを潜め、スッと雰囲気が変わる。

 

「独立端末、語り部のダッチェスが【フレイアの黄金船】へ要請。【フェルヴィン皇帝の戴冠】モード起動」

 

 《 ピッ 【語り部】からの要請を確認しました。【フェルヴィン皇帝の戴冠】モード起動を受諾。》

 《 【デウス・エクス・マキナ】シナリオが起動されています。》

 《 ピッ 条件を達成しました。 》《【ホルスの目】より指示。》

 《 これより【終末王の戴冠】シナリオを起動します…… 》

 ヴヴン……と部屋全体が唸りを上げる。

 

 《 起動を確認。オールグリーン 》

「これより、前任レイバーン・アース・フェルヴィン・アトラス皇帝の代理として、製造番号06(ゼロロク)独立端末ダッチェスによる『皇帝』継承の儀を行う」

 《 認証。エラー。前任レイバーン・アース・フェルヴィン・アトラス皇帝の魂魄を確認。条件を満たしていません。完全な継承を行うには、前任者からの継承の儀を推奨します。 》

「それが出来ないから言っているのよ。代理として、製造番号06(ゼロロク)独立端末ダッチェスによる『皇帝』継承の儀を、再度システムへ要請。権限を寄越しなさい! 」

 《 ピッ 要請を確認。継承権限の一部を、番号06(ゼロロク)独立端末名ダッチェスへと移行。 》

 《 ピッ インストール開始。82%起動成功 》

 

 《 継承の儀を開始します 》

 

「……殿下、レイバーンの魂がまだこの世に縛られている以上、あたしでは完全な継承の儀にはできません。ただし、その問題は、レイバーンを冥界へ送ることができれば自動的に解決します。死者の冥界落ちという大いなる神々が定めたシステムには、どんな外法も対抗できません。その時点でレイバーンの魂は『魔術師』から自動的に解放されるはずです」

「……不正に交わされた契約には、正当なる契約で対抗するしかない。先にぼくが不完全でも正式に『皇帝』を継承していれば、形勢は引っ繰り返せるということか」

 『そのとおり』というようにダッチェスが頷く。

 

「やろう」

 みんなが息をひそめ、じっと彼女を見つめた。

 

「―――――『皇帝』代理。語り部ダッチェスが告げる」

 

 

「”これは大樹の根の一角を統べるもの”

 ”原初の巨人の踵”

 ”祖は地を支えしもの”

 ”女神に言祝がれしもの”

 ”罪科の魔境アトランティス”

 ”あるいは堕ちた光の国アルフフレイム”

 ”あるいは、神話に新しき再生の島、フェルヴィン”

 ”我があるじ、レイバーンの代理人として、語り部(レガリア)ダッチェスが継承の儀を執り行う”

 

 異論あるものはいるか? 」

 

 《 受諾 》

 

「よろしい。

 ……”我が名はダッチェス”

 ”屍に寄り添うもの”」

 

 そこから始まる文言は、『語り部』のみならず『魔人』なら必ず持っている、存在をあらわすための呪文……魔術の詩歌だ。

 この詩歌は、魔人それぞれの個人を確定する。主にすら迂闊にはさらせない、存在に関わる重要なものだった。

 

「”硝子の靴を履き”

 ”葬列の末尾を踊ろう”

 ”涙を真珠に変えて撒き”

 ”野ばらの戦士の旅路を飾ろう”

 ”言祝ぐ(うた)はいずれ蒼穹へと刻まれる”

 ”硝子の棺は光なき場所へ収められる”

 ”しかしその上には永遠を誓う野ばらが茂り”

 ”わたしが共に横たわる”

 

 ”数多の言葉を墓標としよう”

 ”わたしは屍に寄り添うもの”

 ”九度(ここのつ)の愛”

 ”九度(ここのつ)の誓い”

 ”死も時も、わたしとあなたを別たない”

 ”わたしはあなたに寄り添うもの”

 ”あなたを永遠に変えるもの”

 ”わたしの名は、語り部ダッチェス”

 ”あなたの葬列を言祝ぐもの”

 古き王から新しき王へ。わが主、レイバーン・アトラスに変わり、ここに『皇帝』の宣誓を返上する。

『わたしは―――――』」

 

 そのとき、『船』が大きく揺れた。

 

 

 ✡

 

「……来たな」

 

 女は黄金船の屋根の上に立ち上がり、『それ』と対峙していた。

 まとわりつく風が女の―――――『影の王』の、肩に届くほどの黒髪を舞い上げる。右へ左へ大きく揺れる足場にも関わらず、足裏を張り付かせたように影の王アイリーンは仁王立ちし、神聖な継承の儀の邪魔をする不埒者(ふらちもの)を黒煙と爆風の中で出迎えた。

 冥界と地上を穿つ長大な縦穴が、黒煙を吸い上げていく。互いの姿を認識したのは同時であった。

 

「……あれまぁ、影の王じきじきの御出座(おでま)しとは。ずいぶんと豪勢なことだ」

 馬に似た、されどあまりに醜悪な頭。油光りする頭から背にかけての黒い皮膚と、膿んだような黄色い腹、まとわりつく硫黄の臭気―――――背中の皮膜は大きく広がり、羽ばたくたびに空気を掻き混ぜる。

 

 象と蟻のような体格差だった。

 

 アイリーンは乱れる髪を掻き上げ、その怪物を見据えた。瞳が火種を得たように赤みを増し、真紅へと染まっていく。

 

「……アポリュオン。奈落の王か」

 

 昆虫のそれに似た歯列の奥で、アポリュオンは低く哂った。

 

 



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4 終末王の戴冠

 真紅の瞳は、炎のそれというよりも、滴る生き血の色だった。アポリュオンの瞳は、さらにそれよりも数段濁った赤をしている。

 アポリュオンは、あの地下講堂でアルヴィンと対峙したときよりも、比べるべくもないほど巨体に膨れていた。

 

 それもそのはず。アポリュオンは奈落の王。

 冥界が冥界として整地されるよりも以前の深淵に巣食った怪物を母とし、太陽神の血を受け、人類終焉のおりには、配下とともに人類世界の文明を食らう役目を担われた、『黙示録の天使』の一人にして、今もなお冥界より深い場所の王として君臨している。

 こうして直接冥界の火の粉を浴びるなどは、奈落の王にとって産湯を浴びるに等しい。そこから来る自信は、小山ほどもの巨躯から収まり切れずに溢れていた。

 

 対する『影の王』。その本性たる時空蛇は、そのアポリュオンよりもさらに古い、世界創造そのものに関わる()()()()の存在である。

 

「―――――しかし、いくら時空蛇の化身といえど、『影の王』たる貴様は人間にすぎなかろう。……我の相手をするには、その矮小な姿では荷が重いのではないか? 」

 そう、アポリュオンは含み笑った。

「…………」

 アイリーンは僅かに眉を上げるのみで黙し、手の中の懐中時計をズボンのポケットへしまうと、シャツの襟を正して、崩れた袖を肘まで捲り上げる。視線すら相手を見ていない。火傷のあとのある、女にしては逞しい腕をいくらか露出させると、細いため息を吐いた。

 

「……その姿でも変わらぬ。何を考えているのか。何を求めるのか。そもそも貴様に何かを求める意志はあるのか。海の底で寝そべるだけの、いにしえの怪物には、渇望する願いなど無いのだろうと思っていた。しかし貴様は『混沌の夜』において、『魔女』に加担した。……なぜ? 」

「簡単なことだ。時空蛇にも渇望はあった」

「その渇望を、あの魔女が埋めたというのか? ただの人間が? 」

「彼女はわたしに未来を示した。わたしは彼女の示す未来に恋をしたのだ」

「恋? 恋だと!? 混沌の兄弟たる時空蛇の口から、よりにもよって『恋』―――――!? 」

「……なにを驚く。神々も色恋にうつつを抜かしてきたではないか。そもそもあらゆる物事は、『混沌』より生まれし兄弟、我が子、孫たちだろう」

「それは屁理屈というものだ。時空蛇よ。金の矢に右往左往する神々と貴様では、おおいに違うであろうよ」

「アポリュオンよ。このわたしは時空蛇ではない。影の王、アイリーン・クロックフォードという、ただの人間……。夫の帰りを待つ、一児の母さ」

 

 アイリーンの顔に、滲むように微笑みが浮かぶ。柔らかく緩んだ目元とわずかに差した頬の血色に、アポリュオンは「なぜ……? 」と困惑を隠せなかった。

 醜い馬頭が、ゆっくりと振られる。やけに人間くさい仕草だった。

 

「――――アポリュオンよ。わからぬなら退()け。今の貴様は、ああ、確かに。わたしを捻り潰すには容易いだろうさ。わたしは人間。貴様は奈落の王アポリュオンだ。

 ……しかし、わたしは愛のために戦っているのだ。この足の下には、加護する愛弟子たちがいる。愛をかかげて戦う以上、どんな敵であっても退(しりぞ)く気は無く、どんな手を使ってでも、この船を守らねばならない。この船は、我が親友、かの魔女の棺でもあるのだからな」

「……影の王よ。これまでの無礼を許せ。貴様は、このアポリュオンが知る中で、最も尊敬すべき人間となった。しかしな……影の王よ。人間とは、まことに純真から『愛のため』などで戦うことは無いのだと、このアポリュオンは知っているのだ。人間の王よ……哀れな古老の化身よ。……『愛のもとに』戦うというあなた様は、その動機を持ち出せる貴方は、『人間』ではない……怪物の心を捨てきれない、ただの成り損ないだ」

 

「ふん」アイリーンは鼻で笑った。

「理解しているとも。人はもっと複雑だ。『愛』などという不確かな報酬では、全力を出せない欲深さを持っている。……しかし忘れたか? わたしは時空蛇の化身であるぞ? 」

 

 アイリーンは首をそらして尊大にアポリュオンを見下ろした。唇が吊り上がり、赤く濡れた咥内で舌が踊る。真紅の瞳はらんらんと輝き、髪はゆらゆらと逆立った。

 

「……想像してみるがいい若造! 虚無より生まれ、もの言わぬ混沌と相対し、それを教育するという途方もない事態を! 時すら飲み込み、自らが整地した世界が滅ぶ未来を予見する。そのおぞましさを、貴様に想像できるのか? 絶望のなかで眠りに落ちたそんなわたしに、我が(とも)は語り掛け、わたしが見えぬ未来を示した。すべてを変える鍵を! 異なる世界からいずれ訪れるという、一人の男の存在を、朋はわたしに教えてくれた!

 この体は、あの男を手に入れるために創り上げたものだ。アポリュオンよ……! 順番が逆なのだよ!

 時空蛇にも渇望はあったのだ。忘れていただけで!

 わたしは、あの男の創る未来を渇望した!

 その未来に恋をした!

 彼を夫とし、子を成し、そして今!

 

 わたしは()()()が数億年求めた『わたしの知らない未来』を手に入れようとしている……! 時を呑み込んだあの時から、満たされることがなかった渇望を忘れるときが、今そこに来ているかもしれない、というそんな時に!

 アポリュオンよ! 理解は及んだか! わたしの『愛』とはいかなるものか!

 わたしは『人間ではない』? 上等だ。時が歩み始めたと同じだけの時間、わたしは苦しんだのだぞ。そんな時を知っている『人間』がどこにいる? 今もなお不安を抱え、怯えているのだ。

 しかし『未来への不安』という一点の感情においては、わたしはあらゆる人間と感情を共有している! これは神々では抱かぬ感情だぞ! 人間は何代も、この渇望に耐えているのだ!

 どうだ、貴様にこの人間を弑することができるか! 彼らは貴様らがとうてい知りえぬことを知り、それに耐えるすべを知っているのだ!

 アイリーン・クロックフォードは人間であるぞ!

 さあ、アポリュオンよ! 退くか! 殺すか! 貴様にその覚悟があるというのか! 」

 

 アポリュオンは沈黙した。人の心は彼の者には及びもつかない。いずれ、配下とともに食らうものと定められている生物の在り方など、アポリュオンは見下すだけ見下し、深く知らなかった。

 相対するこの人間の女は、ただの人間の女ではない。

 時空蛇の化身―――――いや、それ以上だ。

 ともすれば、時空蛇はこの、自身の分身だけでも生き永らえることを望むのだろう。

 だって、時空蛇本体のままでは、望む『未来』とやらを歩めないのだ。この矮小な人間の肉体は、かの時空蛇の(『人間』流にいうところの)『夢』を託されている。

 

 胸の内に、悲壮な焦りが芽吹いていた。アポリュオンが一度しか知らない味をした感情だ。―――――人はこれを、『不安』と呼ぶ。

 

 はたして『夢』破れた時空蛇の怒りを、アポリュオン(自分)は受け止めきれるのか―――――?

 相手は混沌の片割れ。時を呑み込み、大地を成した原初の怪物。深淵の底で生まれ出でた母よりも古く、強大な力を持ち、しかしそれを使わずに蓄えてきた存在。

 

 そんなアポリュオンに、時空蛇の化身は優しく促した。

「……退きなさい。アポリュオン。いまここで、わたしと戦う利は貴様には無いとわかったはずだ。強大な力だけで打ち据えようとも、次に待つのは、強大な『意志』のみによる行使だと、もう理解しただろう。世界(わたし)はまだ人間に味方している。この世はまだ滅ぶべきときではないのだ。わたしが『愛』を掲げて戦うことが、まだ出来る世界なのだから! 」

 

 

 ✡

 

 

 大きな揺れだった。『様子を見てくるか』というジジの眼差しによる問いかけを、おれは首を横に振って制した。

 船が襲撃されているのだということは、『船』自身の感情の無い声で告げられていた。不安そうに視線を交す語り部や皇子たちへも、おれは儀式を強行することを薦める。ダッチェスもまた、同じ意見だった。

 

「……船は頑丈ですわ。そう簡単には落ちません。それよりも最悪なのは、継承の儀が行われないままでいることです。『審判』に正式な『皇帝』の椅子が空く……そんなことは許されません」

 

 ✡

 

「……古き王から新しき王へ。わが主、レイバーン・アトラスに変わり、ここに『皇帝』の宣誓を返上する。

『わたしは安寧の礎となる。』

 ”愚かにも身内が争う国にはもうしない” ”わたしに栄光も名誉も不要” ”ただ、幼子が何ものにも裏切られない世界を” ”兄弟が互いに手を取る未来を” ”異なるものを虐げない人々を”

 皇帝レイバーンは、この宣誓を返上し、次代の『皇帝』へと継承する。

 立会人コネリウス・サリヴァン・アトラス・ライト」

 おれは、なるべく意識を集中して杖を抜いた。ゆるく三日月を描く銀色のダガーは、おれに一番しっくりくる『杖』の形態だ。それを差し出すようにして、『王』と『代理人』の間に跪き、「受諾いたします」と言葉にする。

 

 《 宣誓の返上を受諾 》

 

 おれの手の中の杖が、とたんに熱をもった。

 熱せられたようにとろけだし、無数のすじになって手のひらから零れていく。液状に見えるそれは、雫のように粒にはならず、長い幾本もの紐のようにおれの手からこぼれ、うねり、『銀蛇』の名の通りの形を成した。

 目を剥く観衆の目の前で、無数の銀の蛇がおれのまわりを渦を巻くようにして行進を始める。渦はどんどん速くなり、蛇たちの体は細分化されていき、おれと皇太子を閉じ込めて、銀色をした小さな竜巻の様相を成した。

 

「魔女の与えた魔法が蛇の形をしているというのは、本当だったんだな」

 額の影になった瞳をきらきらさせて、皇太子はおれに囁いた。少し子供のようなところのある人だ。兄妹だからだろう。どこかあのヴェロニカ皇女に感じたものと似ている。

 

「殿下!? 続けますわよ! 」

 竜巻の向こうから、ダッチェスの声がした。

(……あ、揺れが止まっている)

 船の襲撃は、収まったのだろうか。

 ふと気になったが、今はそれはそれ、これはこれだ。ふう、と息を吸って吐く。

 

「”告げる”

 ”祖は女神の友、青き魔女” ”王の選定者” ”すべての勇者を慰撫せしもの”

 ”我が名は黒き瞳をあらわす。銀蛇の担い手である”

 ”告げる”

 ”天秤は傾いた”

 ”告げる”

 ”フェルヴィンの新たなる王基を継承せし者は、ここに”

 かの者の名は、グウィン・ランスロー・サーヴァンス・アトラス」

 

 《 継承者を認証。グウィン・ランスロー・サーヴァンス・アトラス 認識。受諾。》

 《 継承者の証明(レガリア)を承認。製造番号15(ヒトゴー)独立端末ベルリオズ 》

 《 ベルリオズ。詩歌の登録を行って下さい 》

 

 寡黙な老爺は、ずっと主の斜め後ろで跪き、首を垂れていた。儀式が始まって、はじめて顔を上げた語り部は、ゆっくりと、よく通る声で、自らを司る言葉を口にする。

 

「”我が名、ベルリオズ” ……この言葉をもって誓います」

 

 ”黒檀の靴を履き、あなたは処女雪の丘を行く”

 ”真白が四辻を隠し”

 ”やがてあなたは、眠りの森で立ち止まる”

 ”あなたの歩みの芽吹きから”

 ”あまたの小さきものたちが背伸びをして”

 ”春の歩みはすぐそこに”

 

 ”泉のほとり”

 ”夜伽の鳥がしるべに立つ”

 ”夜告げの声に導かれ”

 ”星はあなたを旅立って”

 ”暁の訪れに夢は泡沫へ”

 

 ”恐れることは何もない”

 ”やがて雲は晴れるもの”

 ”やがて木々は芽吹くもの”

 ”やがて星は還るもの”

 ”森の夜告げはそこにいる”

 ”ここは芽吹のほとり”

 ”始まりの泉”

 ”喉を潤し、また歩きましょう”

 

「”我が名こそはベルリオズ” 

 ”あなたの歩みを助ける杖とならん”――――――」

 

 《 証明(レガリア)を承認。登録。 これより継承者の死亡まで、語り部ベルリオズの詩歌は保全されます。ピッ 》

「……はっ! 承知いたしました」

 ベルリオズが下がると、ついにグウィン皇太子が前に進み出た。『船』が告げる。

 

 

 

 

 《 ピッ 継承者グウィン。『皇帝』の宣誓を 》

 

 

 



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4 終末王の戴冠

四章ラスト。


 ―――過去数百年、同時代に『語り部』を持ったフェルヴィンの王族が複数人いたことは、数えるほどしか無い。

 語り部は『王』の素質あるものにしか(あらわ)れない。すなわち、『語り部』を従えるものだけが、『皇帝』を継承する資格あるものだった。そうでなければ、二十四しかいない語り部はとっくに全員役目を終えてしまっている。

 建国以来さだめられているこの法則が、争いの火種となったことも歴史上には数多い。

 今代、皇帝レイバーンの五人の子供たち全員に『語り部』が顕現したことは、非常にまれなことだった。

 この国が、『五百年遅れている』と言われるまでにも停滞した原因の一つ。『語り部』を持つ王族同士の権力争いによる内戦の歴史は、レイバーンの前々皇帝の時代まで続いていたのである。

 それを知るフェルヴィンの民の多くは、兄弟五人全員に『語り部』が現れたことに再びの戦乱を予感していたが、幸いにも五人の皇子たちの仲は珍しいほど良好なまま、『この日』を―――人類存亡の『審判』の日を迎えたのだった。

 

 フェルヴィン皇帝の継承の儀式は、選ばれしものの一人である『皇帝』の役目を継承する儀式でもあるのだと、ダッチェスは皇太子に説明した。

 そして『選ばれしもの』には、自らの役目を、公然に証明(登録)することが必要となる。

 

 すなわち必要となるのが、自分だけの宣誓の言葉。

 

 その内容は、『語り部』の本体である銅板と、『フレイアの黄金船』と本の墓場と呼ばれる、フェルヴィンの『地下図書館』に同期して記録される。

 極めて機械的なシステムは、魔術によって、非常に強力な強制力を持っていた。

 

 魔術儀式における誓いの言葉は、破れば代償をともなう大切なものだ。

 古典における数々の魔術師たちが、勇士に対して真実をぼかすようなあいまいな言葉を口にするのは、慎重に『誓い』を破らないために言葉を選ぶ必要があるからである。

 その代償は様々だったが、強い力を持つ魔法には、それだけ大きな代償を担保にしなければならなかった。

 術者個人の命ならまだ軽い。土地の実りや、子々孫々への()()()()となるほどの呪いすら担保にして、古代の魔術世界は栄えたのである。

 

 『語り部』が主人の運命に介入できないことも、『仕える主人は九人まで』という上限が定められていることも、その魔術的な法則に基づいていた。

 

 『宣誓』は、『選ばれしもの』を、始祖の魔女が組んだ大いなるシステムに組み込むために、必要なプロセスだ。

 魔女は預言者であった。やがて来る審判のため、多くの準備を重ねていた。

 

 うちの一つが『語り部』であり、『フレイアの黄金船』であり、このフェルヴィン皇国という国のすべてである。

 いずれこの最下層で起こる大いなる審判のため、彼女は国を創り、王となる者を選び、()()()()を作った。

 

 語り部が『王たる資格あるもの』を()()し、その一生を()()し、先祖の伝記という形式で、次代の王へ確実に()()()()()()()()()()

 

 堅実で信仰深いアトラス王家は、魔女の思惑通りに、一度も間違うことの無い、正しい方法で『皇帝』を継承し続けた。

 

 《かちり》

 

 ひとつ歯車がはまる。

 

 

 新たなる―――――そして()()()『皇帝』が、生涯を捧げることとなる誓いを口にする。

 

 《かちり》

 

 もうひとつ歯車がはまる。

 

 語り部二十四枚に内蔵された魔術式が、新たな文言を刻まれ、ゆっくりと回転を始める。

 同調した黄金船もまた、埃を被り、奥底で役目を待っていた宝箱の蓋を、次々と開いていく。

 

 《かちり》

 《かちり》

 《かちり》

 

 《かち……カチッ……カチカチカチカチ―――――》

 

 フェルヴィンという国の地下、誰も知らない閉ざされた場所で、リズミカルに、猛然と、無数の歯車たちが噛み合い蠢き始める。

 

 《 同期 》

 《 同期 》

 《 同期 》

 フレイアの黄金船は、数秒ごとに行われる『端末』との同期と同時に、システムの解凍を進めていく。

 《 32%……35%…… 》

 『黄金船』に意志は無い。魔女の手が入った端末の中で、意思を持つのは『語り部』たちだけだ。

 しかし『黄金船』の一度も起動したことが無いシステムたちが、母たる魔女によって謹製された魔術式たちが、起動していく歓喜に震えて、おのおのの役目に動き出していく。

 

 《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》《 同期 》

 

 魔女の子たち(魔術式)は待っていた。

 『審判』のおとずれを待っていた。

 彼らを動かす『鍵』の帰還を待っていた。

 

『鍵』――――-すなわち『愚者』。魔女が、すべての()()()()であると預言した第一の選ばれしもの。

 

 魔術式を構成するだけのシステムたちにとって、人類存亡などはたいした意味をもたない。

 彼らにとって『愚者』以外の選ばれしものなど、『皇帝』ですら下に置く。

 

 

【プロジェクト:デウス・(機械仕)エクス・(掛けの)マキナ(奇跡)】の起動コードを持つものは、それだけの価値がある。

 

 

 言葉なき魔女の稚児たちは、歓喜を表現するかわりに駆動する。

 

 《 同期(おかえりなさい) 》《 同期(我らが兄弟!) 》

 《 同期(おかえりなさい!) 》《 同期(魔女の子よ!) 》

 

 

 

 さて、この魔術式に、始祖の魔女が払った代償とは如何なるものか?

 ―――――簡単な話だ。

 条件の達成。すなわち、魔女が見たすべての預言の成就を担保に、この魔術式は稼働していた。

 この魔術式(システム)は、魔女が三千五百年先の未来を逆算して造った()()()()()

 正しい手順(歴史)と正しい方法(継承)に導かれた正しい結果(運命)が、からくり箱の奥底に隠されていたものを解放していく。

 ひとつの間違いもあってはならなかった。しかし間違いなく、魔女は正しく稼働させることに成功していた。三千五百年前の女が目蓋の裏で見た未来が、この大がかりな魔術式を稼働させていた。

 

 《 おかえりなさいジジ! あなたが来る日をずっと待っていたわ! どうか良い旅を。心の底から、願ってる! 》

 

 おおいなる魔術式が、ここに為ろうとしている。

 

 

 

 《 かちり 》

 

 

 風はやがて細く、細く、グウィンの中に溶けた。

 固い杖としてのかたちを取り戻した銀蛇が、グウィンの両肩を二度ずつ叩き、最後に額に触れる。魔法使いが喉を鳴らして唾を飲みこんだ。

 

「……告げる。人民の王。統治のあかし。秩序の守護者。『皇帝』のさだめをここに。……皇帝グウィン」

 

 呼ばれて顔を上げてすぐ、グウィンは目の前に立つサリヴァンの異変に気が付いた。

 レンズの奥で見開かれた黒い瞳。耐えるように強張った顔。

 見て分かるほど全身が震えている。

 杖は両手でようやく持ち上げていた。グウィンは一瞬浮かんだ戸惑いを千切り、誓いの言葉を口にする。

 

「誓います」

 

 こんなにも立会人に負担を強いる戴冠式があるだろうか。

 本来であれば、ここに前皇帝退任の儀式も挟む。しかしレイバーン帝亡き今、その語り部であったダッチェスがその手から書き上げた『伝記』を収めることでその儀式は省略される。 

 進み出たダッチェスが、白い皮表紙を付けられた父の伝記を捧げ持って、グウィンに差し出す。

 

「……陛下」

 

 小さくダッチェスが囁いた。まだ儀式は終わっていない。

 少女のうっすらと笑っている口元に、予感がよぎった。少女らしからぬ、どこか艶のある微笑みをして、ダッチェスは魔力で編まれた指先で表紙をなぞり、鮮やかな翠色で、タイトルを刻み込む。

 

「ダッチェスの知るレイバーンを、すべてここに書ききりました。こんな時でも、語り部として最後まで誇らしい仕事を成せたことを、心より感謝いたします」

 伝記を手渡す瞬間、ダッチェスのインクで斑らになった白い指先が、グウィンの手の甲ごと名残惜し気に撫でていった。その袖口から、光の粒が零れている。

「あと、もう少しですわ」ダッチェスはそう言って、目を細めてグウィンを見上げた。

 

嗚呼(あぁ)……」

 溜息のように声が漏れた。

 グウィンは、九番目の主人と別れたあとの語り部がどうなるのかを知らない。

 しかし予想はできる。きっと、あの地下深い、冥界に最も近い大図書館の闇の中で、永い眠りにつくのだろう。

 ダッチェス自身が、他の語り部たちの銅板にそうしたように、魔女の造った装置として稼働することはあっても、きっともう、ダッチェスがダッチェスとして、グウィンたちの乳母替わりのときのままで存在することは、永劫無いのだろうと予感する。

 

 父レイバーンの影には、姿はなくとも必ず彼女がいた。彼女が幼い少女の姿をしているのは、父の中の幼児性があらわれた結果だと知っていたが、グウィンたちは父に少年のような心を感じたことは無かった。

 

 厳格というほど叱られた覚えも無い。しかし歯を出して笑っている顔を見た覚えも無い。

 無口で、不器用で、頑固で、不愛想で、壁のようにいつも人に囲まれているのに、孤独をはらんだ人だった。長子として、その孤独にもどかしさを感じていたが、結局その影を薄くすることが出来ないまま、今日を迎えてしまった。

 ダッチェスという語り部は、陽だまりのような人だ。幼いころに感じた印象は、再会してもちっとも変化しなかった。

 大人になった今、子供の時には感じなかった疑問を抱く。

(こんな語り部がいながら、父はどうして、あんなにも孤独だったのだろうか? )

 すべての真実は、父自身と、この語り部の中にしか無いのだろう。

 語り部とはそういうものだ。

 どんなに親兄弟と過ごそうとも、語り部との時間と密度にはとうてい敵わない。語り部の中には、生まれた時から一瞬も切り取られていない父の姿がある。

 

 悔しかった。

 こんな形で、父と別れるはずではなかった。もっと話をするべきだった。無口で、不器用で、頑固で、不愛想で、壁のようにいつも人に囲まれているのに、孤独をはらんだ人だった。

 それなのに、不思議と父の愛情を知っていたのは、いったいなぜだったのか? 遠い幼い日、母がまだいたころに、抱き上げられたことを覚えている。夢ではない。きっとヴェロニカとケヴィンも覚えている。ヒューゴはまだ小さくて、覚えていないだろう。

 長子として、父の孤独にもどかしさを感じていたのに、何もできなかった。あの愛情を覚えているのに。

 ああ、どうして父は、自分に与えた思い出を、弟たちにも与えてくれなかったのか。そうすれば何かが違ったのかもしれないのに。アルヴィンは、もしかしたら。ヒューゴは、ケヴィンは、ヴェロニカは。

 どうして。どうして……。どうして―――――――。

 

 その疑問の答えのすべてが、この一冊に収められているのかもしれなかった。

 ずっしりと、赤ん坊ほどにも本は重い。

 きっと国を背負うという事は、これより比べ物にならないほど重いのだろう。

 

 モニカに逢いたいと思った。これから戦いにおもむく自分に、彼女の一言が必要だった。

 無理とわかっていても、家族を失った分だけ重くなった身体には、彼女の持つものが必要だった。

 

 そんなグウィンの悼みも迷いも、傍から見れば、瞳によぎる微かな影と、分からないほどの沈黙でしかなかった。

 グウィンの鍛えられた精神は、すぐに儀式の進行へと意識を向ける。

 ダッチェスは、光に解けかけた手を後ろでに隠し、見届け人であるサリヴァンへ道を空けた。

 サリヴァンの額の脂汗はひどくなる一方である。眼鏡ごしに、下目蓋が痛みにこらえるように痙攣している。

(……儀式はまだ終わらないのだろうか)

 あとは最後に立会人の宣言をするだけのはずだ。だというのに、いっこうにサリヴァンの口から宣言の言葉が出ない。

 じりじりとサリヴァンの口が開くのを待った。

 

「――――戴冠は、成された……」

 やがて擦れた声でサリヴァンが言った。

 

 《 ピッ 承認 》

 

「……我が名において、また……青き魔女の名において。審判の名において承認する。此処に、新たなるアトラスの王が起つ。そして―――――」

 

 『そして』?

 

(その先にそんな文句があっただろうか)

 

 進行を知っている弟たちにも緊張が奔った。サリヴァンは震える手で縋るように持った杖を、自身の額に押し当て、グウィンの知らない文句を口にした。

 

「――――戴冠は成された。我が名を得たり。我がさだめを得たり……

 

 我がさだめは『教皇』。

 審判の名において選抜された、知恵授かりしもの……」

 

 背後で、絹擦れの音とともに、次男ケヴィンの語り部、マリアの小さな悲鳴が聞こえた。

 耐え切れず振り向くと、あの小さな魔人が、マリアの腕の中で崩れ落ちている。それらの光景が見えているのだろう。睨むように顔を上げ、サリヴァンは早口で文句を最後まで繋げた。

 

「―――――せ、『宣誓』! 」

 

 《 ピッ 条件を達成しました 》

 《 『教皇』の出現 》

 《 宣誓を 》

 

 

 

「『教皇』として【認証】!

 

 我が名はコネリウス・サリヴァン・アトラス・ライト……ここに【宣誓】する!

 

 

『おれは、運命を受け入れる』

 

 ”命ある限り、成すべきことを成そう”

 ”歩みは止めない”

 ”託されたものを知っているから”

 ”おれが未来に望むのは、神の奇跡でも、栄光でもない”」

 魂からの叫び。意志の強さが、そのまま音となって響いていた。

 

 

 

 

 

「”おれにできるのは信じること! “サリヴァン・ライト(おれ)”を作り上げたすべてを信じることだけ! ”」

 

 

 

 

 

 

 

 《 ピッ 【教皇】の【宣誓】を受諾。記録しました 》

 

 船が低く唸りを上げる。

 《 条件を達成しました 》

 床にいくつもの汗が落ちる。

「……教皇の名において、ここに、『皇帝』の戴冠を宣言す……」サリヴァンの体もまた、魔人ジジに続いた。

「る――――」

 首から力が抜けるように、四肢が崩れていく。

「お、っと――――――」

 グウィンはすかさず逞しい腕を差し出して、少年の体を受け止めた。しかし支えるグウィンの体も、どっと何かが抜けてしまったような感覚がある。

 

「……ダッチェス。ぼくは、ちゃんと出来たのだろうか……? 」

「案ずることはございません。完璧、でしたわ」

 ダッチェスは、晴れ晴れとグウィンに微笑んだ。



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5 (裏)IMAGINARY LIKE THE JUSTICE

 

 

 《 警告 》

 《 警告 》《 警告 》

 『フレイヤの黄金船』が、大きく揺れた。

 

「ダッチェス! 戴冠の儀式は完遂されたのか!? 」

「ええ! 」

「儀式が終われば船が落ちるってことか!? 」

「それはありません! 原因は別の何かですわ! 」

 

 絨毯の上に寝かせたままのサリヴァンを前にグウィンは少し悩んで、その体を肩に担ぎ上げる。魔人ジジは、サリヴァンの昏倒と同じくして、彼の『影』に戻っている。

 グウィンは頭一つ小さい自らの語り部を見下ろし、短く言葉を交わした。

「ベルリオズ。私にできるか? 」

「はい陛下。あなた様はもう『皇帝』です」

「そうか。――――――みんな! 船を出るぞ! 」

 

 先導しようとしたダッチェスをケヴィンが支えた。

 代わりにまっさきに外へと飛び出したのは、語り部トゥルーズである。

 一歩、船から出たトゥルーズは、胸元をかすめた火炎にあやうく焼かれるところだった。後ろに倒れ込んだトゥルーズを抱えながら、その襟首を掴んだままのヒューゴが冷や汗をかく。

「っぶねえ……」

 ごちたヒューゴは、次の瞬間には、視界を埋め尽くすほどの()()の巨体に目を見張ることになる。

 

「――――-それが貴様の答えかアポリュオン! 」

 鋭い声が飛んだ。

 船の遥か上空に、炎の大蛇の額に足を乗せ、すらりとした姿が立っている。炎を背負った黒い影は、髪をなびかせて真紅の瞳をマグマのように滾らせていた。

 怪物―――――アポリュオンの黒い巨体は、その炎蛇に照らされ、油で濡れたように赤く光っていた。馬頭についたくちばし状の口が開き、煤の混じった息を吐く。

 

「―――――貴様が人であるのなら……ここで死ね! 影の王! 」

 アポリュオンの翼が泥のような黒い光をまとう。羽ばたきと共に飛沫になって飛び散るそれは、アポリュオンが持つ深淵から汲みだした毒であった。

 

「小僧ども! 」影の王が叫ぶ。

「何をしている! グズグズするな! 早く城に戻れ! 」

「あなたは―――――」

「我が名はアイリーン・クロックフォード! 時空蛇の担い手にして影の王、『女教皇』の選ばれしものなりて! 」

 アイリーンが中空へ伸ばした手が、炎をまとって銀の錫杖を握る。それを火炎を掻き回すようにくるりと回し、アポリュオンに突きつけた。

 アポリュオンがより強く羽ばたこうとする。毒の風を遮って、あらたに生まれた鎌首を持ち上げた炎蛇たちが立ち向かう。

「――――――『皇帝()』よ行け! 我が弟子を頼んだぞ! 」

 頷いて、グウィンは見えない回廊を駆け抜けた。

 皇子たちが消えた縦穴で、アポリュオンはまた煤混じりの息を吐く。苛立たしげに火花を混ぜた溜息を吐いたアポリュオンは、ゆっくりと何度か首を振った。

 

「……影の王アイリーンよ。もう一度言う。人の身にはこのアポリュオンの相手は荷が重かろう。素直にこちらへ(くだ)れ。さすれば貴様は丁重なもてなしを受けよう」

「気が変わったのはどういう心境の変化だ? アポリュオンよ、貴様こそ、先ほどまでは確かに退(しりぞ)くつもりであっただろう? 」

「――――――ああ。確かに。確かに……先ほどまでは闘気が失せていた……しかしこちらにも事情があることを思い出した……それだけさ」

「その()()とやらは、つまりこういうことか? 時空蛇(わたし)よりも、『魔術師』とやらのほうが恐ろしいと思い直したというところか? 」

 アイリーンは失笑した。「……これ以上堕ちるか? 奈落の王、深淵の怪物アポリュオンよ」

 アポリュオンの瞳が目に見えて怒りを宿す。

「――――――貴様にわかるか! 」

 毒の唾を吐いて叫ぶアポリュオンに、アイリーンは錫杖を構えた。

 

「御託はいらん! ならば貴様と矛を交えるのみ!

 私は一度も()()()()()()()()とは言っていないぞ、アポリュオン!

 

 見下し続けた人間(ヒト)の手で焼かれる屈辱を、その臆病な性根に叩きこんでやろう! 」

 

「―――――――ぬかせェエ!!! 」

 

 

 ✡

 

 

 ―――――ねえ、これ見て!

 青い瞳に、わたしの影が映っている。

 

 幼い指先に導かれた先は、少年の狭い膝の上だった。そこに、危うい均衡で広げられた本の中にある【青い空】というありふれた形容詞。

 我々『語り部』には、当たり前に情景とともに登録されている言葉の一つでしかないそれ。

 

 ―――――空が青いって不思議だね。

 この国にいる限り【青い空】を知ることは無いのだと、わたしはその時、ようやく察した。

 雲は白いものなのですよ、と教えると、(あるじ)は青い瞳を、いっそう煌めかせる。

 その瞳の澄んだ『青』こそ、わたしにとっては、ありふれた空より尊いものだった。

 

 ―――――大人になったら、見に行けるかなあ。青い空とか、星……だとか。

 見られますとも。

 ―――――ほんとう?

 語り部は嘘をつかないのですよ。

 主は唇を尖らせる。

 ―――――それは嘘だ。ミケはぼくに、『夜はおばけが来る前に寝なさい』って言うじゃない。

 おや。それはノーカンというもの。嘘は方便というものがあるのです。まだ小さなアルヴィン様に早寝をおすすめするのは、語り部の特別処置なのです。

 ――――――ミケはむつかしい言葉を使う。ずるいぞ。

 ずるくありません。ミケは語り部ですもの。

 ――――――ミケはいつまで語り部なの?

 それはどういう質問ですか?

 ――――――その……ミケはいっしょに、空、見れる?

 見られますとも! だってミケは、ずうっと語り部です。ず~っと、アルヴィン様が死んでしまうまで、ミケはあなたの語り部です。

 ――――――……ほんとう?

 

 しろい肌が、頬だけべに色に染まっている。

 こんな美しいものをずっと瞳に映していることが、わたしにとって何よりの幸福であった。

 だからわたしは、約束したのだ。

 

 ――――――一緒に、この本の中にあるようなところ、連れて行ってくれる?

 アルヴィン様。語り部はアルヴィン様を連れて行くことはできません。アルヴィン様が、わたしをそこへ連れて行くのです。

 ――――――わかった。ぼく、ぜったいミケを連れて行く!

 ……ええ。ええ! お待ちしています!

 

 あなたと夢を見た。

 語り部であるわたしにとって、何より美しい『未来』という夢を見た。

 あの約束が忘れられない。

 ……あぁ。だからわたしは。

 

 人は死ぬ。

 語り部は傍観者にして記録者である。

 人は死ぬ。

 いつか忘れ去られる。

 どんなにその人を愛していても。

 そうして消える。

 抱いた夢も、願った未来も、不確定のまま忘れられ、そして消える。

 消えるのは、魂というものかもしれないし、別の何かなのかもしれない。それを観測する術は、我々であっても存在しない。

 

 けれど、消えるのだ。

 

 消えてしまう。

 

 語り部(わたしたち)は、()()を何よりも恐れている。

 

 我々の伝記(きろく)とは、人を永遠にする(すべ)

 功績も悪徳も、ありふれた日常ですら、物語として編み上げれば、それは永遠になる。

 トゥルーズは、主の人生を長い一曲の音楽にした。人々はその曲を聴くたびに、とある国の愚かな王のことを思い出す。血にまみれた歴史と、その歴史の登場人物たちを思い出す。

 

 永遠になるとは、そういうことだ。

 

 語り部は、どうあっても主に置いて逝かれる。

 遺ってしまったものが、故人を忘れないでほしいと願うのは、人間も語り部も同じこと。

 だからわたしたちは、主を物語にするのである。

 それが定められた役目だとしても、それすら言い訳にして、紙にペンを走らせる。

 大義名分。まさにそう。

 だからわたしたちは、自分の仕事に誇りを持っている。

 

 だからわたしは。

 

 語り部は置いて逝かれるものだ。

 

 だからわたしは。

 

 ―――――ああ。まだ幼いあなたを、まさかわたしの方が、置いて逝くことになるだなんて。

 

 だからわたしは。

 

 わたしは……。

 

 憶えている。

 まだ憶えている。

 そのことに安堵する。

 

 わたしは知っている。

 あなたの好みも。

 あなたの嫌いなものも。

 あなたの夢も。

 あなたの願いも。

 あなたの痛みも。

 あなたの恐怖も。

 あなたの闇も。

 あなたの希望だったものも。

 あなたの心を切り裂いた、あの夜の記憶(こと)だって。

 

 あなたがあなたであるための全てを、わたしがまだ憶えている。

 あなたが忘れてしまっても。

 誰もがあなたを忘れてしまっても。

 

 だからわたしは。

 

 だから、だから。わたしは。わたしは。わたしは。わたしは。わたしは。わたしは。わたしは。わたしは。わたしはわたしはわたしはわ、わた、わたしはわわたたたしわしわ『青い目』たしわわはたわたた『青い空を』あわたはしわわわ『いっしょに』あただからしわた―――――――………。

 

 ―――――――――嗚呼!! どうして!!

 

 

 ―――――――――なぜ、わたしは()()()()!!!

 

 

 

 

 

 ああ―――――――――ッアルヴィンさま――――――――――ッ!!!!!

 

 

 

 

 

 

 



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5 BRAVER

「身を守るために、口をつぐみなさい」

 

 

 ”大熊座(カリスト)の方角に、三つの王の血を束ねるものが生まれ出でる”

 

 

「サリヴァン。あなたが本当は誰なのか、誰の息子であるのか。誰の血を引いているのか。それだけはぜったいに、誰にも言ってはいけません」

 

 

 ”その者、【終末王】と呼ばれ、世界転換を見届ける(しるべ)とならん”

 

 

「いい、サリヴァン。コネリウス二世ではなくて、サリヴァン・ライトとして、この『銀蛇』で普通の魔法使いのふりをするのです。時が来れば、本当のあなたを誰もが知るときが来るでしょう」

 

 

 ✡

 

 

 

 

 最初は、自分の目がおかしいのかとサリヴァンは思った。

 

 《 継承者を認証。グウィン・ランスロー・サーヴァンス・アトラス 認識。受諾。》

 《 継承者の証明レガリアを承認。製造番号15(ヒトゴー)独立端末ベルリオズ 》

 《 ベルリオズ。詩歌の登録を行って下さい 》

 寡黙な老爺は、ずっと主の斜め後ろで跪き、首を垂れていた。儀式が始まって、はじめて顔を上げた語り部は、ゆっくりと、よく通る声で、自らを司る言葉を口にする。

「”我が名、ベルリオズ” この言葉をもって誓います」

 

 語り部が詩歌を語り出す。

 そのころからだ。目の前が何度も、瞬きをしたように暗くなる。サリヴァン(おれ)自身の鼓動(こどう)と合わせるように、『書斎』が他の違う風景と重なって見えていた。

 《 時は来たれり 》

 幻聴まで聞こえてくる。

 

 《 時は来たれり。誓いの時は訪れた 》

 

 目の前では語り部が自らの詩歌を言い終えて下がるところだ。

 《 証明(レガリア)を承認。登録。 これより継承者の死亡まで、語り部ベルリオズの詩歌は保全されま―――――― 》

 音が遠い。かわりに、あの声のほうが、より明確になっていく。

 目の前はすっかり暗い。そこで初めて、重なる風景が()()()()()だと気が付いた。暗いわけだ。

 

 それは、その星空の天蓋を裂いてできた白い穴のように見えた。

 

「時は来たれり。この時を私はずっと待っていた……」

 まるで鼓膜に直接呟かれたような、頭の真ん中に響く声で、星の海に浮かぶ白鯨が言う。

「三千五百年。長い眠り。長い沈黙。長い忘却……。私が必要となる時がようやく訪れた。つまり、私の終わりにも近づいたということ。……この時をどれほど待ったことか」

 

 白鯨は、語尾にため息のような吐息を混じらせる。

 白鯨の声は不思議だった。男と女が重なって聞こえるのだ。

 だんだん混ざり合って、気が付けばその声色は、どちらともつかない一つの声になっている。

 すると、いつしか白鯨の巨体は姿を消していた。

 

 風が無い凪いだ星の海にいて、白髪(はくはつ)をなびかせる人影がある。

 髪が白ければ、肌も光るように白い。華奢な体にまとう服もまた白く、ゆったりとしたシルエットで、性別は分からない。年も、一見して子供のように見えるが、「では何歳くらいだ」と問われると答えに(きゅう)する。

 切り取られたように白いその人物は、目蓋の下から現れた瞳だけが、鮮やかな左右違いの金と蒼だった。

 

「―――――我が身に与えられた名は《審判》。デウス・(機械仕)エクス・(掛けの)マキナ(奇跡)管理者の一人。中立者として候補者の選定を任せられた異邦人。

 ……『皇帝(エンペラー)』の戴冠を成したあなたには、『教皇(ヒエロファント)』の候補者として認められました。

 

 承認には、『宣誓』が必要になります。『選ばれしもの』となるか……ならないか。いかがなさいますか」

 

 

 「なる」と、即答することはできなかった。

 ずいぶん前から分かっていたことだったはずだった。おれには預言がある。

 おれが産まれるずっと前、フェルヴィン皇帝の息子が死ぬというあの預言とともに、『影の王』がした預言が。

 『審判』は言った。

 

「わたしは語り部たちと同じ。このゲームにおいて、公平を規すために魔女の手により用意された『審判』の選ばれしもの。

 私の役割は運命の代弁者。導かれ、告知すること。もう時間がありませんよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 

誓うとしたら、おれは何を誓えばいいのだろうと考える。

 『預言』に導かれ生きてきた。

 それが定められた運命だと。

 運命とやらを疑ったことは……もちろんある。

 あったけれど。

 

御決断(ごけつだん)の時です」

 そのとき、ばちりと視界が切り替わった。思いっきり光が差し込んだように、目の前が波打っている。

 

 もともと、おれは目が悪い。

 しかしこの時は、まるで脳ミソごとイカれてしまったかのような、地獄みたいな光景だった。自分の頭が、こんなにも心もとなく首に乗っかっているのは初めてだった。

 

 ……めまいの中、男の厳かな誓いの声が聴こえる。

 

「……我が名、グウィン・ランスロー・サーヴァンス・アトラス。宿る血において『皇帝』の継承を受諾。

 宣誓する。

『我が手、我が口、我が運命は、育むために』

 ”この大いなるさだめの時”

 ”私は躊躇わぬ王になりたい”

 

 

 ……ああ、くそ。

「……御決断を。時が迫っております」

 

 

 ”いずれ生まれる命のために”

 ”いまここにいる命のために”

 ”いずれ死に逝く命のために”

 ”いまここで生きる命のために”

 ”歴史を成した英霊たちのために”

 ”いずれ礎となる命のために”

 

 ”歴史を育みたい”」

 

 とんでもない宣誓だった。

『本当に世界が終わるかも』という時に、そんなことが言えるのか。

 この人が『選ばれしもの』。世界を変える運命を持つ人。

 

(それなのに……! おれは何してる! )

 

 手のひらの中に『銀蛇』が戻ってきている。

 魔法使いにとって杖は象徴だ。肉体の延長線上にある、もうひとつの自分。

(おいコネリウス!てめえは何してる……! この人と違って、おれは自分が生きているうちに『審判』が起こるって分かってたはずだ!

 

 覚悟なんて、とっくにできてるはずだっただろうが―――!)

 

 口から出たのは、自分のものとは思えない擦れた声だった。

「――――戴冠は、成された」

 《 ピッ 承認 》

 

 

「……我が名において、また……青き魔女の名において。審判の名において承認する。此処に、新たなるアトラスの王が起つ。

 

 

 

 そして―――――!」

 

 

 

『身を守るために、口をつぐみなさい』師の言葉が蘇る。

『……なぜ、彼女が真実を言わなかったのか。それはこちらが承知することではありません』『審判』の言葉が蘇る。

『コネリウス二世ではなくて、サリヴァン・ライトとして、この『銀蛇』で普通の魔法使いのふりをするのです。本当のあなたを、誰もが知るときが来るでしょう』

 ……その【とき】が来たのか?

 覚悟は出来ているはずだった。子供のころから『おまえは特別だ』と、そう師に言われて育った。

 

 ただの『サリヴァン』として、杖職人の弟子という隠れ蓑をまとった生活で、ときおりそれを思い知らされた。

 

 子供は学校へ行く。子供には両親がいて、兄弟がいる。同世代の友達と遊ぶ。

 

 おれには、全部無かった。

 

 師にくっついて、杖職人として、魔術師としての修行の日々。店を訪れるのは大人ばかりで、同世代の子供なんて、ヒースくらいしかいなかった。

 しかしヒースもまた『影の王』の子として、一般的な子供には程遠い。

 15歳で、航海士として家を出たヒースは、眩しい、孤高の存在のようで。

 ―――—おれは、どこにも行けないのに、と。

 

(『ほんとうのおれ』って、何だ? )

 

『アンタ、いったい何なんだ』

 

 むかし、相棒にそう尋ねられたことがある。おれは、とっさに答えられなかった。

 『サリヴァン・ライト』は、どこにでもいる孤児で、職人見習い。誰もが騙された偽りの地位。

 でも今さら、ライト公爵などと名乗ったところで、『サリヴァン』はどこに行くのか。『コネリウス二世』に塗りつぶされてしまうのか?

 

 そんなわけはない。そんな都合のいいこと、あるはずがないのだ。

 サリヴァン(おれ)は学んできた。出会ってきた。この日を待っていた……はずだった。

 

『なにがそんなにキミを頑なにさせるの。たかだか十四歳のガキが』

 

 分からない。まだおれには、分からないことだらけだ。分からないままで、いいのだろうか。

 

「 戴冠は成された。我が名を得たり。我がさだめを得たり……

 我がさだめは『教皇』。

 

 審判の名において選抜された、知恵授かりしもの……っ」

 

 苦い唾を飲みこんだ。おれは顔を上げることもできない。

 こんなふうで、本当におれは大丈夫なのか。おれはちゃんとやれるのか。

 

 おれは―――――後悔しないだろうか。

 

 

 

『そんな覚悟で……何のために戦えるっていうの』

 ()()が言った言葉を思い出す。

『……預言のせい? 特別だから? さだめだから? そうして言われるがままに生きて、死んでいくの? そんなの……私は納得できないよ。だって、悔しいじゃあないか。運命がすべて決まっているっていうんなら……あなたがそれでも後悔しない、従うって覚悟してるんなら……わたしには、何も変えられないって言われているみたいだ。悔しい。悔しいよ……』

 

 おれのために泣いた彼女の言葉を思い出す。

 

 ……ああ。そうだ。

 おれは顔を上げた。

 

(……なあ、()()。おれ、あの時は何も言えなかったけど、今なら少しは、『違う』って言えるかもしれねぇんだ)

『いずれ生まれる命のために』なんて、今のおれには言えない。自分のことでまだまだ精一杯で、未熟者で……。

 でもおれには。

 

 ―――――おれが求めるものは。その覚悟は。

 ――――—おれが、この世界に誓えるものは!

 

 

 

 

 どんな言葉で、この覚悟を誓えばいい!

 

 

 

 

 

「―――――『宣誓』!!!!!! 」

 

 《 ピッ 条件を達成しました 》

 《 『教皇』の出現 》

 《 宣誓を 》

 

「『教皇』として【認証】!

 我が名はコネリウス・サリヴァン・アトラス・ライト……ここに【宣誓】する!

『おれは、運命を受け入れる』

 

 ”命ある限り、成すべきことを成そう”

 ”歩みは止めない”

 ”託されたものを知っているから”

 ”おれが未来に望むのは、神の奇跡でも、栄光でもない”」

 

 おれは今、いくつかの顔を思い出している。

 おれが振り返れば、いつだって後ろにはその人たちの姿がある。

 おれがみんなの道を切り開くことができるなら。

 これがそのチャンスなら。

 おれは、まごまごと座って、運命を待っているわけにはいかない。

 運命だと?

 

(ンないつ来るかわからねえもんッ、クッッソくらえだ! )

 

 

「おれにできるのは信じること! “サリヴァン・ライト(おれ)”を作り上げたすべてを信じることだけ! 」

 

 

 

 

 《 ピッ 【教皇】の【宣誓】を受諾。記録しました 》

 

 《 条件を達成しました 》

 

 床に落ちた自分の影の中に、ぼたぼたと汗が滴り落ちていく。

 ……やってやった。

 ……やってしまった。

 もう戻れないのだろう。じわじわと実感が湧いてきた。

 ああ、エリ。おれは後悔するかもな。

 きみはまた、泣くんだろうか。それとも笑ってくれるだろうか。

 でも、これはおれが決めたことだから、できれば笑って、「仕方ないんだから」と言ってほしい。

 

 ……もう、考えるのはあとにしよう。

 

「……教皇の名において、ここに、『皇帝』の戴冠を宣言す」そこで、目の前が真っ暗になったのがわかった。「る――――」

 

 目が覚めたら、考えよう。

 きっと、なんとかなるだろう。



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5 Braver

 また、あの星空だ。

 

 サリヴァンは裸足に感じるぬるい水の感触に、あたりを見渡した。

 そこにあの屋敷のポーチは無い。

 あるのは、足元の水と星の海だけである。

 空の隙間を埋めるほど無数に散らばった星々は極彩色。

 くるぶしまでしか無い浅い水が、水平線まで果てしなく続いている。

 

 おれは、ふと、かたわらに慣れた気配を感じて、その名前を呼んだ。

 

「……ジジ? 」

 

「なぁに? サリー」

 

 星のネオンをさえぎって、黒いコートがひるがえる。サリヴァンの肩に手を置いて浮かんでいる相棒の魔人は、大きく瞬きをして、夜空を見上げた。

「……ここって、どこさ? 」

「わからん」

「ふうん……なんか、変な場所」

 ジジは居心地が悪そうに、肩をもぞもぞと動かした。

「空気が澄んでるね……悪いところって感じはしないかも。むしろ……ちょっと懐かしい――――――」

 遠くを見つめるジジの瞳が、ハッと見開かれた。

 

「……ねえ、今ボク、懐かしいって言った? 」

「言った」

「懐かしい……? このボクが? そんなの、覚えてる限り初めてのことだ……やっぱりボクは、この国で製造されたのかも……」

 ジジは口元を拳で押さえ、瞳を揺らした。

 サリーは動揺するジジの二の腕を軽く叩く。

「……何か思い出したのか? 」

「うう~……いいや。何か、こう……感覚に触れるものはあるんだけどなぁ! 」

 ジジは大きく首を振る。いつになく悔しそうに顰められた顔で、夜空を睨み上げる視線もどこか弱弱しい。

 

「……ここを出よう。まごまごしてたって、どうせボクの記憶は戻らないと思う」

「そうだな。……お前がいて助かったよ」

「そうでしょう? ボクほどピンチに心強い魔人はいないさ」

 ジジはいつものように、皮肉気に唇の端を持ち上げて笑う。

 

「って言ってもどこに―――――」

「迷う必要は無いかもしれないよ」

「ほら」と、ジジが星空を指した。

 導かれるまま目を向けたその先にあるものに、おれは間抜けに口を開ける。ジジは馬鹿にしたように片方の目をすがめた。

 

「あれは――――――どうなってんだ? 」

「ここは幻想世界(ファンタジー)ってことさ。行こう」

 

 おれの腕を取って、ジジは虚空へ踏み出す。

 正真正銘何もない、おれの(すね)の高さの空中を踏む。

 ジジの足はしっかりと何もない空中を踏みしめ、階段を上るようにしてずんずん前へ進んでいった。

「ちょ、ちょっと待てよ。おれはお前みたいには―――――」

「ここでは関係ない。黄金船に乗る時は平気だったじゃない。大丈夫だから早くして」

「馬鹿みたいなパントマイムになるんじゃねーだろうな……」

 

 恐る恐るジジの足があったところを踏む。

「さっさと行く! 時間がもったいない! 」

 叱咤され、なかばヤケクソになって駆け上がった。

 

 ここは天地の境の見えない星の海。

 いや、もしかしたらここには、天地という概念すら無かったのか。

 おれたちが地と思っていた湖面を踏みしめていたように、『(女?)』もまた、そこにいたというだけだった。

 子供がベットでシーツにもぐるみたいに大きなローブを巻きつけて、星空にうずくまる小さな人影。

 

「……まさか、こんなに早く会えるとは思っていなかったよ」

 

 もうおれたちには、その人物の予想がついている。ジジの唇は笑っていた。

 一心不乱に前を行くジジの背中から、剥き出しの好奇心が立ち昇るように漂っている。

 

 いつしか天が地に反転し、おれたちはその人影の前に立っていた。

 相棒の肩は強張り、緊張している。瞳がぎらぎらと燃えるように輝きを増し、もうその顔が見たくてうずうずしているのがわかる。

 ジジの第一声は、緊張に掠れていた。

 

「……はじめまして。ボクはジジ。この魔法使いの魔人さ。――――――キミが『宇宙』のえらばれしもの? 」

 肩が揺れる。うつむいた顔に垂れた髪の間からゆっくりと、金色の瞳が顕れる。

 頼りなげに薄く開いた唇は、涙の余韻に震えていた。

 

「それとも、『ミケ』って呼んだほうがいい? 」

「はい……わたしはミケ……。アルヴィン様の語り部の、ミケ……――――――」

 消え入るような声が言う。

 その魔人は、今にも消えてしまいそうなほど儚い姿をしていた。対するジジのほうは、獲物を前にした猫のように、相対する相手の顔を穴が開くほど見つめている。

 相違点は目につく。

 

 それでもこの二人は、体格も、声も、顔も……すっかり同じ姿をしていた。

 



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5 星のすみか

 

「わたしは……もう、壊れています」

 

 顔を上げ、とぼとぼと、ミケは言った。

「あなたなら分かるでしょう」

 縋りつくように、地べたに項垂れるミケの両の手が、ジジの身体の横に垂れた右手を取る。

「わたしはもう、厳密にはアルヴィン・アトラスの語り部のミケでは無くなっている。『宇宙』をこの身に宿したわたしは、逆に、う、『宇宙』というものと、同化していっています。

 げ、げん、原初の海……混沌の泥の、う、う、う、上澄みたる『宇宙』の、え、選ばれしも、も、も、ものの、さだめ……! 」

 

「こ、こ、こんなはずでは、なかった」ミケはジジの手を額に押し当てた。

 

「こんな……こんなはずでは……! わ、わたしは、どうなっても、よかった。アルヴィン様さえ、無事、ならば、この身なんて、ど、どうでもよかった。だというのに……だというのに!

 ぎ、ぎ、犠牲を、はらい、た、辿り着く結、つ、末が、こ、こんな、こんなものだなんて! アルヴィンさまぁ――――――――ッ! 」

 

 後ろ姿しか見えないジジが、今どんな顔をしているのか、おれには見えなかった。ジジは右手に縋りつくミケの手を取って何かに確かめるように握り返し、跪いて、その体を抱きしめた。

 

「ジジ……」

「可哀そうだね、こいつ」

 抑揚の無い声でジジは言った。

「ボク、人を憐れむことはほとんど無いんだよ。基本的に他人には興味無いからさ。でも、こいつは可哀想だと思うよ」

 ミケではなくおれに向かって、淡々とジジは言った。細いため息が聞こえる。

 

「……よくわかった。『語り部』とボクじゃあ、性能と機能が全然違う。

 ボクはアンタみたいに主人のことを自分より重くなんて考えられないよ。ボクから見るアンタたち語り部は、自由が無くてすごく窮屈そうだ。

 でもアンタたちは、それが幸せなんだろうね。

 ボクにはそんな在り方は無理だ。ボクとアンタでは幸福の形が違う。永遠に相いれないんだろうね。

 ……ねえ、ミケ。キミはとても可哀想だね。

 アルヴィン・アトラスが、キミに何をしてくれたの? 」

「おいジジ……」

「……その人間は、ホントウにキミが命をかける価値がある人間だったの?

 

 三千五百年前に偉大なる魔女に製造された24枚の語り部の一人が、その身をていして守る価値がある存在だったの?

 

 ジーン・アトラスのときとはわけが違う。ジーンは英雄だった。国を救う人だった。多くの人を助けた。

 

 でも、アルヴィンはそうじゃあない。ただの十四歳の男の子だ。

 皇子っていっても、上に四人も優秀な兄貴たちがいる。スペアのスペアでしかない、チビで虚弱なすぐ死ぬ人間。それがアルヴィンだろ。

 

 『審判(こんな)』ときに、始祖の魔女の歯車である語り部のアンタが、消費されてまで救われるべき人間じゃあないだろう」

 

「ジジ! 」

「……なにさサリー」

 

 ようやく振り向いたジジは、うっとおしそうに眉をひそめていた。もっとどす黒い(うまく言えないけれど、闇の深いかんじの)顔をしていると思っていたおれは、いつも通りのジジの『ちょっと不機嫌な顔』にむしろ動揺した。

 

「……おまえにヒトの心は無いのか」

「ヒトじゃないもん」

 ジジは少し可愛い子ぶった仕草で口を尖らせ、ぷいっと顔をそむけた。

 

「ねえ、ミケ。ボクにはヒトの心は無いとおもう? 」

 

「わ、わ、わ、わかって、あ、あ、あ、あなたは、いい、言っている、の、ですね」

「ああ。わかって言ってる」

「わ、わ、わたたしにとって、ア、アルヴィンさまは、か、かけがえのない、方です。う、うまれた、ときから、いっしょ。で、でも、それだけじゃ、な、なくて」

「うん」

「か、かなしい。あ、あのひとが、かなしいと、わたしも、かなし、かった。く、暗い、部屋で、泣くあの、ひとの、涙、を。と、と、と、とめて、あげた、くて……で、できな、かった。ひ、ひとり、ぼっち。か、かわい、そう、で。さ、さいしょは、ち、ちい、さくて。あ、あんなに、ちい、さくて。で、でも、あ、あっと、いうま。に、わ、わたしの、腕で、は、抱き上げられ、なくなって……」

「うん」

「も、もう、わたしじゃ、だめ、だった。あ、あの人は、じ、自分で、考えて、わ、私を、拒絶、し、しました。や、や、や、闇に、あ、あ、悪意に、ひ、ひとりで、戦う、意思を持った、た、アル、ヴィン様、に、わ、私、は、あらがわ、なかった。そ、そ、それが、あ、あの人の、う、運命、だと。

 わ、わたしは、じ、自分に言い聞かせ、て、て、耐えた。耐えて、耐えて……

 な、なにも、できなか、った。でも、そんなのは、もうイヤ……! 」

 ミケは大きく頭を振った。

 

 

「ど、どうして―――――! あの人があんな目に遭うのですか!

 あ、あんなのが、さだめだと、ゆ、言うのな、ら!! わ、私は! 語り部で、無くなっても、いい!!!

 せ、世界、も、し、しし、審判、な、なんて、ししししらない! 」

 

 ジジの外套が強く掴まれる。ジジはミケの言葉に、何度も小さく頷いた。

 

 

「わ、私の、大事なひと! 取る世界なんて! いらない! あ、あの人が幸せになれない世界なんて、いらないッ! いらないのッ!!! 」

 

 

 

(……ああ、そうか。ジジの言う『可哀想』っていうのは、こういうことか……)

 残酷すぎる。

 ひどくグロテスクにも思うのは、おれが魔法使いだからなのか。ジジという魔人を知ってしまっているからだろうか。

 

 魔法使いは、魔法を使う時、その効果に純度を求める。

 たとえば炎を扱う時。煙や煤が不要に出るのは、未熟者の証だ。水を扱うときはもっと分かりやすい。無味無臭の飲み水を出そうとするには、熟練度がものを言う。

 

 魔人は『意志ある魔法』。魔女が考案した魔人の作り方は散逸して久しいが、『魔法』と名が付くのなら、それを作るときの姿勢はおれが知る魔法と同じなのだろう。

 

 ダッチェスは言った。『語り部』には、三つの役割と、それに対応した機能があると。

 ひとつはアトラスの一族を『記録』すること。

 一機の語り部につき九人。『選ばれしもの』の素質あるアトラスの子孫の生まれてから死ぬまでを『記録』すること。

 

 ひとつは主を『愛する』こと。魔女は語り部に心を(さず)け、その関係を愛情をもって行うことを望んだ。

 『記録』は、『伝記』という物語となり、語り部は、(あるじ)の死後の栄光を守るものとなった。

 

 最後は『審判』においての歯車としての機能だ。

 時が来れば、『選ばれしもの』の語り部は、審判において働く歯車の一つとなる。『宇宙(せかい)』という『選ばれしもの』の一人として働く。

 ……その『宇宙』となった語り部がどうなるのかは、ダッチェスにも分からないのだと言った。しかし、名誉なことだとも。

 それは、『宇宙』に選ばれた語り部の主人は、『星』または『皇帝』に選ばれるからだろう。

 

 つまり語り部という『魔人』には、そうであれという魔法が込められている。

 創造主が『そうであれ』としたのなら、疑念や疑問などは持たないように。

 だって土壇場で想定外の動作をする魔法なんて、危なくて使えるもんじゃない。『意志ある魔法』というのは、()()()()()()()()()()()()()()()()、『自分で思考し最善を尽くして働く』ことが最良だということだ。

 

 きっと、『宇宙』に選ばれたのが他の語り部なら、ミケのようにはならなかった。

 彼らは、愛情をもって主を慕っているが、いざ主が命を落としたとき、ミケのようには動かない。その死を悼み、『伝記(きろく)』にすることを、まず考える。

 それこそが我が使命だと信じて疑わない。

 

 でも、ミケだけは違ったのだ。ミケは、ある意味では特別な語り部だったのだ。

 

 魔人としての動作不良。主を()()()()()()()()()こと。

 

 それがミケを、皇子救出に走らせた。

 

 ジジが『可哀想』だというのはそこだろう。

 

 ()()()()()()()()()()()、アルヴィン・アトラスは――――――。

 

 

「キミは可哀想だね……」

 お互いの肩に頬を寄せ、二人は抱きしめ合っている。

 

 

「キミは人間じゃあないのに、人間の心を持ってしまったんだね……」

 

「わ、わ、私は、語り部、失格、です。へ、へんな、語り部、だから……こんな……無様な……ふふ。ははは。うふふ……

 

 う、うう……うぅうぅぅぅうう……うああぁああ―――――」

 

 ミケは声を上げて泣いた。

 まるで普通の子供のように、目の前の温もりに縋りついて、無様に泣いていた。

 

 

 



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5 対アポリュオン戦

 

 

 アイリーンのうなじで縛った黒髪が尾のようにのたうった。身体を預ける炎蛇の舌先が、アイリーンの頬を撫でる。

 鎌首を持ち上げた炎蛇の尾が、黒煙を巻き上げながら大波のようにうねって視界をうめつくす怪物に迫る。アポリュオンは、コウモリのような翼で素早く旋回して炎から逃れたが、炎蛇の長大な体はらせんを描いてしつこく追撃した。

 アポリュオンは高く咆哮を上げた。

 瞳に宿るどす黒い殺意を、醜い顔に迸らせる。

 

「いいぞ! やる気になったな! 」

 アイリーンは裂けるように笑った。その白い頬の横を毒の飛沫がかすめ、頬から、右の上腕と肩から、太腿から、一瞬にして裂けたあちこちの肌から、血の粒が(くう)へと散る。

 血の色に彩られながらも、女の笑顔は曇らない。炎蛇は大きくあぎとを開いて怪物に向かって急降下する。アイリーンは、迫る怪物に向かって大きく腕を広げた。それは抱擁を求めるようにも、翼を広げて獲物に迫らんとする猛禽の姿にも思える。

 魔女の両の五指から、銀の光が稲妻のように迸る。怪物の手前で炎蛇は身をくねらせ、その頭に構えるアイリーンの腕に握られた銀色も、大きくしなりながら、しかし確実に、怪物の青黒い頸と肩の(さかい)をなぞる。

 アポリュオンは、しかし銀色をかわした。体をくるんだコウモリの翼が、毒の風をともなって炎蛇の腹ともどもアイリーンの杖を弾いたのだ。

 怪物のカギ爪の生えた青黒い腕が、炎蛇の腹をとらえる。

 アポリュオンは、しっかりと両手で炎蛇を掴み、しぼりながら引いた。黄金の火花が散る。炎蛇は牙を剥き出しにして声なき断末魔をあげて身をくねらせるも、あっけなく怪物の両腕に両断された。炎蛇はひとすじの黄金色の滝になって、青い縦穴を落ちていく。そこにアイリーンの姿は無い。

 

 消し炭になったのか? 否……!アポリュオンは激しく翼を羽ばたかせる。

 

「―――――どこだ! 影の王! どこにいった! 」

 

 炎蛇を失った縦穴は、最下部から吹き上がる冥界の炎で、青く染まっている。

 行き場を失くした翼から滴る毒を持て余しながら、アポリュオンは耳を(そばだ)たせ、しつこく視線を巡らせた。

 ―――――ふと、頭上から風が吹き下ろす。

 地鳴りに似た音が、ゴォォオ……みるみる近づいてくる。

 アポリュオンは、左右に三つついた目で慌てて逃れる横穴を探した。アトラスの皇子たちが去っていった横穴は、ずいぶん下のほうにある。他に横穴は無い。

 アポリュオンは脅威を確認するために縦穴を見上げ―――――すでに遅いことを知った。

 

 ―――—-漆黒の影が落ちて来る。

 

 闇そのものが、縦穴に蓋をしにやってくる。

 闇の奥で、きらきらと光の粒が―――――時空蛇がのみ込んだ『時』の粒が、無数に光っていた。

 アポリュオンは自身が多くの失態を犯したことを自覚する。

 奈落の王アポリュオンなど、すべてを生み出した時空蛇の壮大さに比べれば、あまりにちっぽけだと自覚する。

 そして、アイリーンが「対抗する術がないとは言っていないぞ」と口にしたことを思い出す。せせら笑うその顔すら、稲妻のように脳裏で再生され焼き付いた。

 

(しま――――――ッ )

 

 咄嗟に出た「しまった」という言葉は、振り下ろされた時空蛇の尾で埋められる。

 

 

 ✡

 

 

 ―――――なぜ『教皇』になるのをためらったんだ?

 笑いを含んだ声が聴こえた気がして、サリヴァンは伏せていた顔を上げた。

 耳の奥がキーンとする。耳鳴りの向こうで、(アイリーン)が軽いため息交じりに言った。—————まあ、おまえの考えていることなど分かっているけどね。

 

 めまいと耳鳴りが遠ざかると、サリヴァンは自分が誰かに背負われていることに気が付いた。

「眼が覚めたか? 」

 グウィン帝が、サリヴァンの顔を覗き込んで言う。

 

「ここは……? 」

「上へ脱出する途中だ。歩けるか? 」

 立ち上がると、足は自分が思っているよりも、しっかりと岩でできた床を踏みしめた。サリヴァンは頷き、小走りに歩き出す。

 

 歩きながら、サリヴァンの脳裏には、仕える主人であり、慕う師である女の背中が浮かんでいた。

 主ではなく、育ての親であり師であるアイリーン・クロックフォードのことを想う。

 

(おまえの考えていることなど分かっている、か……)

 苦笑が浮かぶ。実の両親より長く時を共にした師だ。年月がそれだけの信頼を築いている。

 サリヴァンは、自分が師を一片も疑っていないことを自覚した。アイリーンという魔女は、無意味な嘘をつかないことを知っているから。

 

(師匠……ご無事で)

 サリヴァンは、まだアイリーンが『魔法使いの国』の自身の工房にいると思ってはいたが―――――子が母を想うように、祈らずにはいられなかった。

 

 

 ✡

 

 

 アイリーンは縦穴を落ちていく。

 冥界の青い光を背に受けながら、空に黒髪を散らしてまっさかさまに落ちていく。

「……くくく」

 アイリーンは喉を鳴らした。

 

「ははは……はははははは!!! 」

 虚空に身を委ねながら、アイリーンは笑った。

 

「待っていろサリヴァン! 師は―――――とっておきの手土産を持って、地上へ戻ろうぞ!! 」

 

 アイリーンは落ちていく。

 

 

 ――――――地の底の()()へと。

 

 



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5 『愚者』の誓い

 

 魔人は人工物だというのは、ボクも重々わかっていることだった。

 それでも、魔人は人間に極めて近くなる場合がある。

 魔人は人間を模して造られているのだから、人間のマネをして、えてして自分が人間であるかのような錯覚を起こし、動作不備でしかない感情、思想、行動を学び、実行するようになる。

 ソースはボク、魔人ジジが証明している。

 

 ボクは基本的に人間嫌いだが、実は魔人も嫌いだ。

 彼らとボクは違うということが、どうにも気持ちが悪い。あれは、言葉が通じる猿と同列に語られるようなものだ。

 語り部は確かに性能がいい。見た目も人間と変わらなかった。感情もあるし、意思もある。でも、人間としては欠落している。それがボクの、『語り部』たちへの評価だった。

 

 けれど、目の前にその評価を覆す語り部がいる。

 そしてその語り部は、ボクと同じ姿をした魔人である。

 抱きしめた体は、きちんと温かい。

 天にまで響き渡るほど泣き叫ぶ魔人は、いつかに手ひどく人間に裏切られたボクだ。

 芽生えた感情を持て余し、世界を呪う言葉を吐く。あさましい我欲を恥じ、過去のあやまちを悔いて涙を溢す。

 あのときのボクと違うのは、コイツは一人じゃなかったってこと。最初から一人だったボクと違い、彼女(ということにしよう。魔人に性別は無いけれど)には最初から相棒がいた。

 最初に学んだのが、人間への怒りではなく愛情だった、もしもの『ジジ(ボク)』。

 彼女はきっと、ボクにとって()()()()()()なのだろう。

 

 ――――――これが偶然だって誰が言う?

 

 ああ認めよう。ここに証拠がある。

 ボクが探し求めた自分の過去はここにあった。

 ボクの製造者は、魔術師の祖。始祖の魔女アリス。その人なのだ。

 

 

 そして、そんなボクらが共通して抱える不備もまた、きっと偶然じゃあない。

 

 

「ねえ、ミケ。聴いて」

 こちらを向いた涙に濡れた顔を、指先ではなく、手のひらそのものをハンカチにして拭ってやる。肌に涙の水分を塗り込めるように拭った手で、そのまま彼女の頬を包んだ。

 見れば見るほど鏡に映したように同じ顔。そんな二体が共通して持つ不具合があるとしたら、それは不具合じゃあないかもしれない。

 

「キミは、なるべくして『宇宙』になるさだめだったのかもしれない」

「え……? 」

「ボクが、『愚者』になるように、キミが『宇宙』になった」

 

 魔女が示した『愚者』の選ばれしものの暗示は、『終わりと始まり』『やがて真実に至るもの』。

 裏を返せば、『愚者』とは『自分でも分からない秘密を抱えている』ということになるのだろう。

 最初からボクのことを言っているとしか思えない。なら、ボクに記憶がないことも、『そういうふうに作られた』のだ。

 すべては真実に至るために。

 

「サリー」

「……なんだ? もういいのか」

「お願いがある。ボクの『主』として。ついでに『教皇』として。『愚者』としてのボクの宣誓を見届けて」

 振り向いてみると、ボクを映した黒い瞳が、かすかに丸くなって細められたところだった。

「わかった」

 やっぱりコイツは、話が早くて助かる。

 

 ボクは、最初の主を覚えていない。たぶん男だったというくらいしか。

 名前しかさだかな記憶が無かったボクは、『ジジ』という名前から、細胞分裂するように、人格を作り上げた。

 そんなボクの中には、いまでも消えない怒りがある。

 世界は理不尽だ。人間は偉そうで卑怯者だ。同族のはずの魔人どもは、話が通じない。

 

 ―――――――この世界は、ボクにとって自由な世界じゃあない。

 

 それがその上、運命まで決まっていただって?

 

 

 

 ……馬鹿にするのも大概にしろよって話だよね。

 

 

 ✡

 

 かつて、「自由が欲しい」と叫んだ魔人がいた。

 狂いそうな孤独の中で、篝火のように怒りを燃やしていた魔人がいた。

 誰も分かってくれないのだと、駄々をこねていた子供がいた。

 「それもボクさ」と、飄々と魔人は笑う。

「世界なんて、どうだっていい。ボクにとって大切なのは、ボクがいつか、この不自由に納得できるかってどうかだよ。ボクが納得できない世界の仕組みなんてクソくらえだ。育ちが悪いもんでね」

 

 ✡

 

 

 

「”願いは彼方(かなた)で燃え尽きた”

 ”希望は彼方(かなた)に置いてきた”

 ”望みはなにかと母が問う”

 ”そこは楽園ではなく”

 ”暗闇だけが癒しを注いだ”

 ”時さえも味方にならない”

 ”天は朔の夜”

 ”星だけが見ている塩の原”

 ”言葉すらなく”

 ”微睡みもなく”

 ”剣を振り下ろす力もなく”

 ”いかづちの槍が白白(しらじら)と、咲いたばかりの花々を穿(うが)つ”

 ”至るべきは此処(ここ)と父が言う”

 ”我が身こそが、終わりへと至る小さな鍵”

 ”望みはひとつ”

 ”やがて、この足が止まること”」

 

 主であるサリヴァンが、ボクを形作る呪文を口にする。

 重ねてボクが、宣誓の言葉を繋げて引き継いだ。

 満天の星空と『宇宙』の選ばれしものを立会人にして。

 

「『宣誓』。『愚者』として『宣誓』」

 

 ミケが言う。

「受諾します」

 

 

「『ボクは最後まで見届ける』

 

 ”どんな結末になったとしても”

 

 ”誰かの思惑が、この身を導いているのだとしても”

 

 ”真実を知ることだけが望むもの”

 

 ”真実をもってのみしか、この怒りは癒されることはないのだから”

 

 ”この世が滅び、最後の一人となろうとも”

 

 ”ボクはここにいる”」

 

「『愚者』の宣誓を受諾。……承認しました」

 

 ジジは小さく息を吐き、サリヴァンと視線を交した。サリヴァンは言う。

「おまえは『誰かに選ばれる』ってのが一番嫌いなんだと思ってたよ」

「運命を蹴散らすには、運命に飛び込まなきゃ。そうでしょ? 」

「違ェねえ」

 サリヴァンとジジは、喉を鳴らして笑いあう。

 どちらともなく口にした。

「……帰ろう」

「そうだな。仕事が山盛りだ。皇女様との約束もあるし」

「まずは、皇子さまたちを助けなきゃだしね。……ミケ。ねぇ」

 立ち尽くすミケの手を、ジジが取る。同じ色をした瞳が交差した。きまずげにうつむいたミケの右手に、ジジの左手の指が絡む。

 

 

 

「キミの願いを、ボクが一緒に叶えてあげる」

 

 一陣の風が吹く。

 

 

 魔女の製作物たち(魔術式)は待っていた。

 『審判』のおとずれを待っていた。

 彼らを動かす『鍵』の帰還を待っていた。

 

 

 『鍵』――――すなわち『愚者』となる者の(おとず)れの知らせは、静かに海を越え、空を貫き、一人の女のもとへと届く。

 第十八海層『魔法使いの国』。

 王都アリス。始祖の魔女の名を冠するその場所で、女は窓辺に佇み、遥か高みから街並みを見下ろしていた。

 

「――――――時は来たれり。時は来たれり。大いなる鍵は、いま帰還せり……

 そう。あの子、覚悟を決めたのね。それとも、今まで見えなかったものが見通せたのかしら」

 

 女はしどけなく窓辺へと身を預け、眠るように瞳を閉じた。



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5 叫び

 ✡

 

 

 

 相棒(サリヴァン)の気配が消えた。

 

 ジジは、じっと自分にしがみついたままのミケを抱きしめたまま振り返り、細く息をついた。

「ミケ、教えて。この星の海はどこ? 」

 顔を上げたミケの金眼は落ち着きを取り戻している。涙の痕をぬぐいながら、ミケは言った。

 

「ここは、簡易的な世界の中心。命さえあれば、誰もが、このあたりに――――」ミケの指が、ジジの胸の中心を突いた。「――——持っている場所。『宇宙』と呼ぶ場所と、物質世界の『境目』、と呼ぶのが正しいところでしょうね」

 

「物質世界っていうのが、いつもいるボクたちの世界だね? どうしたらそっちに戻れる? 」

 ミケは「行ってほしくない」というように瞼を震わせたが、すぐに立ち上がった。

「……案内します」

 

 ジジには、ミケが進む先が道なのかもわからない。ただ、水が果てしなく続いていて、空にはまばゆい星空があるだけの、そういう場所にしか見えなかった。

 しかしミケは、立ち止まることなく、水面を滑るようにするすると進んでいく。

 後ろのジジが付いてきているか、確認することもしない。

 

 ジジはふと、ミケの足元では、水が波を立てていないことに気が付いた。

 ミケが口を開く。

「わたしは物質世界には、もう戻れません。本体を失ったわたしは、もう魔人でもない」

「……そう。ねえ、キミに何があってそんなことになってるの」

 ミケは足を止めた。

「主を――――アルヴィン様を救い出すことを約束したのです」

「誰に? 」

「……レイバーン様に」

 ミケは何かを振り払うように頭を振った。

 

「もし……もしも、アルヴィン様が助かったなら、アルヴィン様に伝えて。レイバーン様は貴方を見捨てたりはしていなかった。お父様は貴方を想っておりました、と」

「……そういうのは、他人が言うより自分で言ったほうがいいだろ」

「アルヴィン様にとっては他人でも、わたしにとっては違うのでしょう? 」

「ミケ、あんた、自分のことは諦めるつもりか? 」

「いいえ」

 ミケは、今度は否定の意味で首を振った。

「諦めるわけではありません。違う形で、お役に立つだけです」

 

 風が無いのにジジの外套がふわりとなびいた。

「おい、ミケ! 」

「身を任せるだけで、あなたの主のもとへ帰れますよ」

 頑なに振り返らない背中が、暗闇に遠ざかる。

 

「死んだりするなよ! あんたには、まだ山ほど聞きたいことや話したいことが――――――」

「―――——わたしもあります! だから()()! あなたも死なないで! 」

 

 直前、星の海に取り残されたままのミケは振り返って、歯を見せてはにかんだ。

 

 

 ✡

 

 

 空が赤く燃えていた。

 どす黒い雲が厚く垂れこめ、まるで岩を切り出したようだ。

 全員が、知らずのうちに細かい土埃を被っていた。

 王城地下はやがて岩の洞窟に変わり、その出口は、鉱山跡とみられる山の中腹にあった。

 グウィンをはじめとしたアトラス兄弟たちは、サリヴァンの合図で外へ出た。低い裸木がまばらに繁っているだけで、見通しのいい急こう配の坂が、ずっと下のほうまで続いている。

 思っていたより小さく西の方向に王城が見えた。その下、南に城下町が広がり、さらにその先に墨を流したような黒い海が見える。

 ヒューゴがぺろりと唇を舐めた。

 

「こりゃあ二手に分かれるべきだな」

「そうだな。ケヴィンが限界だ」

「ちょっと待ってください! 」

 兄と弟の言葉に、洞窟の壁で休憩していたケヴィンは慌てて立ち上がった。

 

「兄さん、僕はまだ大丈夫です! 」

「これ以上はおまえの体力がもたない。二手に分かれて、おまえはヒューゴと先に船を待つんだ」

「兄さん、僕は」

「兄貴。あんたは足手まといになるって、兄さんは言ってるんだぜ」

 ケヴィンが鋭くヒューゴを睨んだ。ヒューゴは伸びた顎の髭を触り、逞しい肩をすくめる。

 

「体力の問題だけじゃない。兄貴は精神的にも追い詰められてるだろ。自覚無いのか? 」

「そんなことはない! 」

「じゃあ自覚させてやる。国を出てばっかりの俺たちと違って、父さんの一番近くにいたのはケヴィン兄さんだった。父さんのこと、アルヴィンのこと。一番責任を感じてるのはアンタのはずだ。

 分断する意味もあるんだぜ。アンタの頭の中には、父さんとの仕事の一切が入ってるだろう。

 グウィン兄さんが皇帝となった今、仕事を引き継ぐにはアンタが死んじゃあいけないんだ!

 ケヴィン・アトラスほどの人が、そんなことも分からなくなってンのがヤバイって言ってるんだよ! ここまで言ったら分かるだろ! 」

 

 ケヴィンは青ざめた顔で苦し気に呻いた。その息は浅く、肌に血の気は無い。青い光彩の瞳は充血し、疲労に暗く濁っている。

「……わかった。でもヒューゴ、おまえは兄さんたちと行け。体力馬鹿なんだから」

 ヒューゴは片方の眉を上げていたずらっぽく笑った。

「いいのかよ? 」

「一人じゃない。語り部(マリア)がいる」

「駄目だ! ヒューゴもケヴィンと行け! 」

 声を荒げたグウィンを、弟たちの四つの青い目が射貫く。

 

「いいや。おれは決めたぜ、兄さん。ケヴィンも港くらい行けるだろ。いい大人なんだから」

「陛下……いいえ、グウィン兄さん。これから父上に会いに行くのでしょう? なら、ヒューゴがいたほうがいい。こいつは逃げ足が速くて決断力にも優れている。成人男性一人の力は侮れません。親戚といえど、外国人の少年一人をあなたの伴にするのは、あまりに道理が違うでしょう。こいつなら、迷いなく迅速に、あなたの盾になるはずだ。そうだな? 」

「おーおー。ケヴィン兄上ったら言ってくれんじゃねーの」

「僕と違って、こいつは血の気も体力も残ってます。

 兄さん、僕は逃げるだけだ。でもあなたたちは戦いに行くんだ。ここでヒューゴを介助に借りて兄さんが死んだら、僕はヴェロニカ姉さんに顔向けできない」

「ケヴィン兄さんがこう言うんだから、おれは陛下のほうへ着いてくぜ」

 

「兄さん」

 

「王よ」

 

「……ああ、もう! わかった! 悪かったよ! 」

 

 

 グウィンは顔を拭うように手の平で覆って深いため息を吐いた。

「私にとってはね、お前たちはいくつになっても守るべき可愛い弟なんだってことを忘れないでくれ! 」

 

 ヒューゴとケヴィンは顔を合わせて肩をすくめた。

「兄さん、おれたちもう三十路男なんだけど? 」

「いくつになってもって言っただろ! 」

「爺さんになっても、『可愛い弟』なのか? 」

「当たり前だ! いいか、忘れるなよ。ぼくはまだまだモニカと結婚して我が子を抱くつもりだし、姪や、甥や、その子供や孫たちに囲まれて誕生日を祝ったり祝われたりするつもりでいるんだからな! いいか、お前たちの子孫もそこにいる予定だ! もちろんサリヴァンくん! キミもだぞ! おまえたち自身もだ! 一人残らず欠けるのは許さんからな! 」

「そこに……アルヴィンはいるのか? 」

 ケヴィンがはっと息を飲んだ。

 

「当たり前だろ! それがぼくの夢だ! 」

 

 グウィンは胸を張った。「アルヴィンも連れて戻る! この国で、みんなで……! それがぼくの夢だ! 」

 

 

 ✡

 

 

 

 熱が脳を蕩けさせる。

 乾いた眼球は景色を歪め、纏わりつく熱気はねばついて離れない。

 すべてが蜃気楼のように薄っぺらで頼りなく、ここがどこかも分からなかった。それでも体を動かせるのは、胸の内に、何よりも熱い激情の嵐が吹き荒れているからだ。

 

 強い怒りと喪失感。

 体の奥にぽっかりと空いた穴は、焼け爛れてひりひりと痛み、掻きむしりたくなる疼きをもって苛む。

 さまざまなことを忘れていることを、アルヴィン自身も分かっていたが、それすらも意識しないと忘れてしまう。

 

 この穴を埋めたい。

 

 ここにもともと在ったもの。奪われたものを取り戻したい。

 

 そうすれば、自分はもっと楽になれるはずだ。

 

 蕩けた脳みそから膿のように染み出る渇望が、アルヴィンの肉体を闘争へと駆り立てる。

 

 

 『あれ』は『それ』を持っていると思った。あの『青い騎士』と、目の前の『青い老人』。どちらも一目見たときから記憶を叩く存在だった。

 

 『青い騎士』はほとんど口を開かなかったが、『青い老人』は違った。

 自分の叫び声 (と、その金属音をアルヴィンは認識した)で、とっくに何も聞こえないが、大きく口を開いて何かを言っていたのは、肌と朧げな視界で理解できた。

 アルヴィンが振り上げた拳は、ことごとく金属の兵士たちに遮られるが、問題はない。

 この拳はもっと熱く、突きは鋼鉄の鎧を熔かしながら穴をあける。

 

 合間に、『青い騎士』が剣を振り上げて肉薄した。

 刃が、突き出した腕の表面を火花を散らしながら滑る。(ひじ)を掬い上げるようにして刃先をそらし、拳を打ち込んだ。

 

 ―――――動きも、こちらのほうがずっと早い。

 その確信が、アルヴィンの動きを、よりなめらかにする。

 弓は少し怖いが、突進するしかない楯や剣などは簡単に避けられる。

 青い騎士にいたっては論外だ。柱のように巨体の兵士たちが動き回る中で騎乗していることは、馬の巨体を持て余していてデメリットでしかない。剣戟は、灼銅の鎧に覆われた体には一撃が軽く、ひどく遅く見えた。

 

 『青い老人』は、この黒鉄の兵士たちの『王』であるようだった。

 『王』――――――その単語に至ったとき、ちくりと胸を刺すものがあったような気もしたが。まあ、どうでもいい。

 

 『青い王』を斃せば終わり。『青い騎士』は、驚異ではない。

 

 兵たちが『青い王』の前で円陣を組む。意図に気が付いたのだ。

 兵士どもは肩を組んで、自らの身体を防壁にして青い王を囲い込んだ。

 その前には重歩兵どもが楯を構えて陣取る。

 兵士で造ったドームの上には、仁王立ちの弓兵が油断なく弓を構えた。

 アルヴィンは一度壁際まで下がり、十分な距離を取る。

 壁を蹴って床と並行に跳ぶ。

 足首の骨が砕ける音がした。

 この身に纏う灼熱の泥は、壊れた箇所を修復する。かまわず、アルヴィンはひと筋の焼けた砲弾となって突進する。

 

 弓を構えたままの弓兵は立ち尽くしたまま何もできず、足場の円陣が崩れたことで手放した矢が弧を描いて飛んでいった。

 砕けた足を仮面から滴った銅が覆って補強するのを待って、アルヴィンは兵士たちの残骸の中、立ち上がる。

 ……仕留めたと思ったのに。

 

 踏み出そうとして、足が持ち上がらないことに気が付いた。

 見れば、熔け、砕けた黒鉄の兵士の残骸が、アルヴィンの足を縫いとめている。

 もう一度熔かしてやろうと叩いた腕も、黒鉄に掴まれた。

 

 膝。腰。肩。首―――――兵士の残骸が、冷たい黒鉄が、アルヴィンの身体に這い上がって飲み込んでいく。

 もがいても、熔かしても、次から次へと、圧倒的な質量が覆いかぶさる。

 

 もがけばもがくほど、鉄はアルヴィンの体に巻き付いていく。

 逃げられない。

 怖い。

 『青い騎士』が『青い王』に向かって何かを言い、空へと飛び去った。

 

 怒りが冷えていく。

 渇望が塗り替えられる。

 衝動が萎えていく。

 

 怖い。怖い。怖い――――。

 

 『青い王』が、アルヴィンへ歩み寄ってまた何かを言ったが、分からない。

 近くで見た『青い王』は、どこか疲れて、ひどく悲しげだった。

 アルヴィンの仮面を暴こうとでもしたのか、手を伸ばして触れた瞬間、驚いて飛びのく。

 

 『青い王』は、また何かを言った。

 何も聞こえない。

 何も分からない。

 

 ああ、×と×さ×。僕はもう駄目みたいです。

 

 ――――――――僕にはもう、何も……分からない……。



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5 ここで。

五章ラスト。


 

 ✡

 

 

 レイバーン・アトラスはゆっくりと闇の中で目を開いた。

 ……自分は今、夢を観ている。

 レイバーンは、亡霊となっても夢を観る自分に笑った。

 腕は掲げられたまま手枷に繋がれ、痩せた裸の胸に石造りの牢の下冷えが堪える。

 

 ――――これは、ほんの少し過去の再生だ。

 レイバーンは再び、暗い笑い声を漏らした。

 

 ギィ、と牢の入口が軋む。青い炎が宿った松明(たいまつ)をかかげ、『魔術師』がレイバーンの前に立った。

 レイバーンの肌が青白く照らされ、灰色のローブは、夜闇と松明で群青に染まっている。そのフードの奥にあるものに、当時のレイバーンは息を飲んだ。

 

「きさまは――――何者だ……? 」

「ふふ」『魔術師』はさえずるように笑う。「わたしは()()()。そうですね、名前を付けるなら……『ドゥ』とでもお呼びくださいな。名も無き死者、打ち捨てられ、忘れられた死体。それがわたし」

 男かも女かも分からないが、不思議と甘やかな声で『魔術師(ドゥ)』は言う。

 

 ドゥは、松明を牢にある松明立てに置くと、手を叩いて配下のものを三人呼び寄せた。

 石の床に跪くレイバーンの正面に、三脚の簡素なテーブルを置くと、配下を牢の外まで下がらせて、自分ごと牢の鍵を閉めさせた。

 甘い声でドゥは言う。

 

「語り部を出しなさい。皇帝」

 レイバーンは顔をしかめて黙ったまま、床を見ていた。

「皇帝よ。命令です。……我が子たちがどうなっても? 」

 レイバーンは悔し気に呻いた。胸の奥で語り部を呼ぶと、牢の壁に長く伸びる影から幼子の姿をした語り部が顕れる。

 ダッチェスは表面上は感情を閉ざし、レイバーンの斜め後ろにちょこんと立った。

 

「……皇帝よ。全員です。息子たちの語り部も、全員呼び出しなさい」

「…………」

 松明の青い炎が揺らめく。ダッチェスの眉がわずかに動き、視線だけでレイバーンの意志を読み取った。

 ダッチェスの白い手袋に包まれた手が、手のひらを上にして、肩の位置に上げられる。空気を握るように小さな指が動くと、牢の四方から黒衣の語り部たちが、五人、あらたに現れた。

 

「……これで良いか」

「ええ。ありがとう」

 ドゥは、レイバーンの脇を固めるように扇状に立った語り部たちを、テーブルの上に並ぶ御馳走を見るようにぐるりと見渡した。そしておもむろに、ローブのポケットからコトン、と何かを置く。

 

(何をさせるつもりだ……? )

 袖に隠れた指先が、『何か』を置いてテーブルから離れた。

 香水瓶のような雫型の小瓶が、テーブルの上に置かれている。ドゥは続けて牢の外からボトルとグラスを二つ受け取り、それを小瓶の後ろに置いた。

 

「乾杯といたしましょう。運命を否定するものどうし、我々の出会いを祝うのです」

「何を……」

「ここに、血のように赤い酒がありますでしょう? 」音を立てて、ボトルからワインが注がれた。「そして、これがとっておきのスパイス―――――」

 袖に隠れた指が小瓶をつまみ、軽く揺らす。薄く色のついた小瓶の中で、黒い液体がトプトプと揺れた。

 

 ダッチェスが身動ぎをする。

 ワインが満たされたグラスの中に、液体が半分ずつ垂らされた。

 

(ダッチェス……あの小瓶の中身は、毒か? )

「…………」

 何も言わず、ダッチェスは強く唇を噛む。

 

「これを飲んだら、我々は同志です」

 ドゥは朗らかに言った。

「同志、だと? 毒の盃を飲ませることが? 」

「ええ。預言しましょう。あなたは必ずこれを飲む。ふふ……だって、息子たちを失いたくないでしょう? それに……語り部だって」

「……きさまに語り部に手を出すことは出来ぬ。彼らは何人にも傷つけることはできない」

「例外の方法が、あったとしたら? その方法をわたしが知っている……と、したら? 」

 袖がめくれ、白い指先があらわれた。グラスのふちに触れたところから、かちん、と硬質な音が鳴る。

 白骨の手がワインの雫を滴らせる。

 

「同志になるのです。レイバーン・アトラス。父上にお会いしたくはありませんか? あこがれのジーン陛下とは? 数々の英霊たち、伝説のなかを生きた亡霊たちとは? 」

 レイバーンは暗がりに落ちるドゥの顔を睨みつけた。

「未来を見つめるのです『皇帝』。あなた亡きあとでも、あなたの役割を継ぐものはいるでしょう。しかし『語り部』は違う。彼らに替えはきかない。そうでしょう?

 あなたがこの盃を飲み干せば、わたしは、そう……。

 ()()()()()()()()()()()()()()()と誓いましょう」

 レイバーンの顔に濃い影が落ちた。

 

「ああ……そんな顔をしないで! 預言は成就するだけ! それだけです! わたしという、大いなる脅威に、あなたは成す術もなく他の皇子たちと、この世界の未来を守るのです! 」

 レイバーンの顔がうつむいていく。

 

「ああ……可哀想なアトラス皇帝……これから先、何代重なったとしても、彼らの中には幼い皇子を切り捨て運命を拓いた皇帝の血が流れている……。いいえ、恥じることはありません。あなたの選択が、世界を救うのです。……そうでしょう? ねえ。同志レイバーンよ―――――」

 その顔に向かって、赤い飛沫がかけられた。語り部たちが息を飲む音がする。

 ダッチェスが常にない怒号を上げた。

「――――――ミケ! だめよ! 」

 

 五人の語り部の中で、ダッチェスの次に小柄な姿をした語り部が、肩で息をしながら空のグラスを床に叩きつけた。金色の瞳が暗がりに怒りに燃え、風もないのに、背から伸びる長い三つ編みが蛇のように空を泳いでいる。

 

「貴様——————アルヴィン様を殺すと言ったのか……! 」

「退きなさいミケ! 誓約を忘れたのッ! 」

「誓約など知ったことかッ! 」

 悲鳴のようなダッチェスの声に、ミケは吠えた。そしてレイバーンを振り返り、憎悪を宿して見下ろした。

 

「―――—誰もあの人を助けてくれないのなら、わたしだけでもやってみせる! 」

「ミケ! やめろ! 消えてしまうぞ! 」

「止める資格はあなたには無い! 語り部も皇子もたくさんいる! でもアルヴィン・アトラスの語り部は、このミケだけなのだから! 」

「……ふ、ふふ」

 魔術師の声に、誰もが動きを止めた。

「ふふ……ふふふふふ……なるほど。語り部の中に欠陥品が混じっているようですねぇ。いやあ、ご苦労なことだ。皇帝よ」

 骨の指が空に何かを刻むと、レイバーンの手枷が落ちる。

 

「グラスを取りなさい。これは命令です」

 

 ミケは無言で、レイバーンとテーブルの間に、腕を広げて立ち塞がった。ドゥの顔が松明に照らされても、眉一つ動かさずに怒りをこめて睨みつける。

 その小さな肩に、レイバーンが枷が外れたばかりの手を置いた。

 レイバーンが立ち上がると、ミケが二人いてもまだ足りないほど大きな体を持っている。その頭の上から腕を伸ばしてテーブルの上にあるグラスを持ち上げ、一口含んだ。

 

「―――—レイ! 」

「ダッチェス」

 一歩、踏み出しかけたダッチェスをレイバーンは片腕を上げることで制す。

 

「全部飲み干すのが、礼儀というモノですよ? 」

「……分かっている。

 ミケ」

「あ、ああぁ……陛下……」

 

 ミケの語り部としての目には、見上げたレイバーンに、死の運命が迫っているところが見えていた。

 震える息を飲みこみ、この状況で微笑むレイバーンを不思議そうに見つめたミケは、やがて決意を含んだ顔で、肩に置かれたレイバーンの手に自分の手を重ねる。

 

「―———アトラス皇帝としておまえに命ずる。できうる限り、我が息子アルヴィンの助けとなれ。これで少しは消滅が遅れるはずだ」

「レイバーン様……感謝します! 」

「――――――行け! 」

「フェルヴィンよ、永遠なれ! 」

 ミケが影に姿を消す。グラスを掲げたレイバーンは、それを確認するとグラスを傾け飲み干した。唇も拭わずに、背後へと告げる。

「……大儀であった」

 大きな背中が揺らめく。

 ゆっくりと、土にまみれた床へと崩れ落ちていく。

 

 ダッチェスは、その言葉が、自身に向けられたものだと気が付いていた。

 あれは、語り部の職務を貫き、動かなかった自分に対しての言葉だった。

 

 ―――――黄昏の国フェルヴィン。

 赤い空に沈む国を一望しながら、ダッチェスは、自分の胸の内に問いかける。

 主の命を救おうとしたミケ。

 ……何もしないで見届けた自分(ダッチェス)

 

(……ねえ、レイ。あたし、これで良かったのかしら)

 ダッチェスには分かっていた。

(あたし、どうしたら良かったのかしら……)

 あのときレイバーンは、『気にするな』という意味で、「大儀であった」と―――――。

(嗚呼……! あたし、ミケがうらやましいと思ってる! 思ってるのよ! レイ! )

 ダッチェスはインクに汚れた指先をさすった。西の空の下にある灰色の王城。そこにいる主を想って祈っていた。

 

(あたし、いま会いに行くわ……待っていてね。レイ)

 

 

 



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幕間 王に捧げる鎮魂歌

『読まなくてもいいけど、読んだら本編がちょっと面白くなる』くらいの幕間です。


 それはまだ、フェルヴィン皇国が斜陽の国であったころ。

 七十八年も昔のこと。

 宮中では誅殺・わいろ・横領と揃い踏み。

【魔の海】があるために外国の脅威からは遠ざかっていたかわり、国土はくまなく内乱と暗殺に明け暮れていた。

 

 当時のフェルヴィン皇国は、まさしく修羅の国であった。

 

 レイバーン皇帝より三代前の、皇帝オーガスタスは、レイバーンの実父である。

 轟く異名は、吟遊王オーガスタス。またの名を、【無能王】。

 幼少のころより弱視であり、それゆえに音楽を始めとした芸術に傾倒。その情熱は執務には向けられず、実権を握っていたのは、十二も年の離れた姉・ユリアだった。

 そしてそのユリアは、偉才で知られた一方、類を見ない【毒婦】としても有名だった。

 

【無能王】オーガスタスが、なぜ皇帝などになったのかというと、彼には生まれながらにして語り部が寄り添っていたから、に尽きる。

 語り部トゥルーズは、今や皇子ヒューゴ付き語り部として知られている。

 彼がオーガスタスの語り部であったころは、八歳ほどの少年の姿をしていた。今の気性のままに、陽気で口が達者でないわりによく喋る彼は、いつも小さな体で楽譜の束を握りしめ、肥え太ったオーガスタスの傍に控えてニコニコしていた。

 オーガスタスは並外れて無口で内気だったが、トゥルーズと姉ユリアにだけは、はっきりとした喜怒哀楽を見せた。

 妻も子供も(八人も)いたというのに、彼が心より信頼していたのは、魔人を除くとユリアだけだった。

 

 さて、そのユリアはといえば、家庭を顧みずに執務と弟の世話に邁進する毎日であった。

 ユリアは美しく、優秀だった。

 夫は宰相。国務を取り仕切る王の片腕の地位である。

 幼き頃は、歩くより先に文字を読み、走るころには詩を暗唱した。金の髪にすみれ色の瞳。その輝く美貌も、誰もが知るところ。姫として上にも下にも置かれない扱いで育ち、稀代の我が儘娘の条件はそろっていたというのに、気が付けば倫理を知っていた。

 父王は、あまりに出来過ぎた娘の縁談先に困り果て、政略結婚にしてもあまりに旨味の少ない、しかし無難な片腕の宰相へと、娘を下賜するしかなかった。

 陰謀渦巻く宮中において、彼女は社交界でもうまく立ち回った。

 

 仔細は省略するが、当時の宮中は、前々代の皇帝が地位をばら撒いたせいで【貴族】と名乗る者が人口の0.7%を占めるほどにまで膨らんでいた。また、前前前々代の皇帝がおかしな法律を作ったせいで、彼らには例外なく税金を分け与えねばならなかった。それが国の金庫を圧迫して、つまり慢性的に王家は貧乏で、へたをすれば一部の貴族は王家より金持ちである、という状況があった。

 王家はその貴族から金を引き出さねば、権威ある(まつりごと)を行えない。しかし貴族側もそれが分かっている。分かっていて利用する。他の貴族もそれが分かっているので、王家ではなく、その貴族へ媚を売る。王家の権威が傾く。この間に、数々の政略が交わされては人死にが出るか、島流しになっている。すると、国が荒れる。王家はますます困窮する。

 そういう悪循環があったのだ。

 

 王家の姫で、宰相の妻であるユリア皇女に求められた役割は、優秀な諜報員であった。美しい彼女は当たり前のように社交界の大輪の華となり、時に蝶のように飛びまわった。ユリアは、それをやり遂げた。

 国政に必要な情報という名の蜜を吸い取り、やがては夫とともに、国を回す最も大きな歯車の一つとして働いた。

 

『ユリア皇女に語り部がいれば』と、誰もが口にした。まだ、ユリアのしていた悪行が明らかになっていなかったころだ。

 

 

 歴史に名を残した大淫婦ユリアの最初の悪行は、十五歳のとき。

 皇帝の娘であった彼女が、王の片腕である宰相の息子へ輿入れが決まった夏のこと。

 昼寝をしている三つの弟のベットに忍び寄り、目蓋に熱した油を垂らしたことだった。

 以来、オーガスタスの右目は光が分かる程度にしか見えず、左目は、おおまかな色が滲んでいるほどにしか分からない。

 

 ユリアは才媛であった。

 もし、生まれたのが、語り部の有無で王を決めない国であったのなら。上層の発展国で、王族でもない、貴族の娘でも、むしろ商人や政治家の娘、もしくは妻であったなら、彼女は偉人となったかもしれない。

 美貌も兼ね備えていた。

 彼女の息子はまさしくその生き写しで、後世、母譲りのその美貌で知られることになる。

 ユリアには、双子の息子がいた。

 ジーンとコネリウス。のちのフェルヴィンの英雄になる二人であるが、父親は夫ではない。

 

 歴史におけるユリアの第二の悪行は、この双子を身籠ったことだった。

 

 オーガスタス十三歳、ユリア二十五歳。ユリアが結婚して十年の時が過ぎていた。いまだ夫との間に子は出来ぬまま。

 それというのも、ユリアは四度妊娠の兆候があったが、どれも生せぬまま流れていると。

 しかし宮中、それも女官の、中でも、より闇深いところにいる女官たちの話では、ユリア皇女は自ら夫との子を殺していると。

 

 そんな話がまことしやかに流れるなかで、彼女の懐妊の知らせが宮中に轟いた。すでに六か月を過ぎており、もはや流れる心配は少ない。

 人々は言祝いだが、宮中で真相を知るものはユリアと、あと二人のみ。

 他にいた……たとえば、夜ごと姉が弟へ会いに行く伴をしていた女官や、当番だった護衛の兵などは、みな郷里の老いた父母が恋しくなり……もしくは、街をぶらぶらしているところを強盗に襲われ……もしくは、一家の住む屋敷ごと放火に……もしくは喰い合わせが悪く……などという理由で、宮中から姿を消していたのである。

 

 ユリアは弱視の弟へ微笑んだ。

 彼女の美貌は、弟にだけはきかなかった。それがとても嬉しかったのだと、彼女は弟に寄り添う語り部へと語った。

 

 自分の美貌を疎んでのことではない。

 弟の目が見えないことが嬉しいのでもない。

 

「”これが正しい形だから”嬉しい」のだと、ユリアは笑った。胸には弟との子供を抱き、十五歳の夏、なぜ弟の目を潰したのかということも口にした。

 

「わたくしを十二年も待たせたから、罰のつもりでした」

 何の後悔も無く、にっこりと。

「男が待つのはいいでしょう。しかし女のほうを十二年も待たせるなんて、とんでもない。わたくしは危うく他の男の子を孕むところでした。運命の人なら、わたくしを浚ってほしかったのに、この人がボンヤリしているから……」

 

「悪かったよ」

 弟も目を細めて笑った。ほとんど見えない目を姉に向けて、まるで恋人を見るように。指をしっかりと絡ませて。

「女ならば顔の傷なんて恐ろしいことだけれど、わたしは男だったからいいのだよ。この両眼は勲章なんだ」

 と、右の蟀谷(こめかみ)から目頭を貫き、左目へ、そして再び蟀谷と流れる火傷の痕を、血が滲むほど掻きながら。

 

 

 フェルヴィン皇国、皇太子。

 オーガスタス・ユリウス・アトラス。

 

 その姉。皇女にして宰相夫人。

 ユリア・リリ・アトラス・フロスト公爵夫人。

 

 この、類まれにみる頭のおかしい姉弟が、玉座に並び立った二十一年。

 

 皮肉にも、『資格ある無能の王』が『資格なき有能の姉』に玉座を預けた、この二十一年間が、荒れに荒れたフェルヴィン皇国において、束の間の平穏の時代だったことは、その息子にして次代皇帝のジーン・アトラスも、しぶしぶ認めるところであった。

 

 

 

 オーガスタスは『語り部』がいたから皇帝になることが出来たと記したが、オーガスタスの世代には、正確には三人の『皇帝候補』が存在していた。

 一人は現皇帝の弟ディアス、もう一人は前前皇帝から派生した血筋の遠縁にあたるクレメンスという役人。

 二人とも五十路と三十路で脂の乗った男ぶりで、それぞれ支持者も多かった。三人目のオーガスタスは、若すぎる事はもちろん身体的なこともあって、数にすら登らなかった。

 

 しかしそれも、()()()()()()()()()となれば別の話になる。

 下手人はただちに縛され、黒幕の貴族一派も罪に処された。

 こうしてオーガスタスは、10代と若くして次期皇帝候補筆頭へと躍り出た。

 

 運命に導かれて玉座に座ったというのなら、その運命は女の形をしていたのだろう。

 オーガスタスにとっての運命の女神は、前髪だけしかない醜女(しこめ)ではない。金髪にすみれ色の瞳をした、土エルフの姫君の姿を纏っている。

 美貌と、知恵と、情熱と、毒をあわせ持った運命の女神だ。

 

 オーガスタスには、姉と語り部以外には何もなかった。顔の火傷、太った体、内気な心。しかし語り部は、ユリアではなく、オーガスタスを選んだ。

 当時の皇帝ダミアンは、その事実をことさら重視した。

 

 皇帝候補者の立て続けの死。そこに、オーガスタスを祀り上げようとする意図があることは誰もが分かっていることだった。()()が皇帝になるほどならいっそ、という明け透けな声すら聞こえてきそうなほど、世論は揺れている。

 しかし、オーガスタスを廃嫡するなどは許されない。皇帝はユリアの夫の父、当時の宰相から、花嫁が孕んだものの真実を知ったときも、その腹の子に『語り部』がいる可能性を重視し、堕胎を許さないばかりか、ユリアを宰相宅から引き取り、厳重に保護した。

 

 生まれたのは双子の男の子であった。名はジーンとコネリウス。それぞれに付いた語り部は、ダイアナとルナ。

 語り部とその主には相性がある。語り部の経歴を見れば、どんな人物を『主』に選ぶのかという『好み』があるとわかる。

 ダイアナの過去の主は、聡明で知られたものがよく見られ、ルナの主は名の知れた将軍だった。皇帝は、この禁忌を背負って生まれた双子におおいに期待し、ユリアと『隔離』することこそ、最善であると判断した。

 皇帝は、嫌がるユリアのもとから有無をいわさずに孫二人を王宮へ取り上げ、みずからの養子とし、皇子として取り立てた。

 

「……語り部は、その者が生まれ持った王の器ではなく、運命に惹かれて付く」ダミアン帝は言った。

「激しく浮き沈みのある人生を歩むもの。あるいは、栄光ある道を歩むもの。あるいは、稀代の愚か者として名を残す器をもったもの……。

 語り部とは、蜜に誘われる甲虫のように、そういったものを好むのだ。

 ダイアナは、知恵あるものが栄光を築く物語を好むのだろう。ルナは、逞しいものが覇道を築く物語を書きたいのだ。

 ……『語り部』とは、そういうものだ。そうだろう……なあ、フィガロ」

 

 ダミアン帝の語り部は、にっこりとして言った。

「……ではわたくしは、激動の時代を生きた、とある苦労人の皇帝の物語を好むということですね? 」

「―――――ふん。面白がりおって。そういうところだぞ。そういうところが、語り部は悪趣味だというのだ」

 

 ダミアン帝の語り部フィガロは、方眼鏡をかけた、ひょろりとした痩躯の若者の姿である。丁寧に撫でつけられた艶のある黒髪と、色白で端正な顔立ちは、性別を超越した美術品のような魅力があった。

「……トゥルーズは、どういうものを好む語り部だ? 家系図を見ても、トゥルーズの主人となったものは、どうもパッとしない者ばかりだ」

 皇帝の問いに、フィガロのぽってりとした赤い唇が弧を描く。

「あれは好き者です」

「なんだと? 」

「トゥルーズは、我々の中でも極端な感覚派です。言うなれば、とびきりのグルメですよ。ただ賢く強いだけの主なんぞは好みじゃあない」

「……おまえの見立てでは、あの愚息に見込みがある、と? 」

「それはわたくしには何とも? しかし、あの皇子はまだ十三歳。愚か者かどうかを判断するには、まだまだ青すぎるのではないでしょうか。トゥルーズはただの愚か者に付くような語り部ではございません。げてもの好きではあるかもしれませんが。フフフ……」

「おまえは、も少しハッキリとした物言いはできんのか? 」

「そんなことをしたら、わたくしは誓約に触れて消えてしまいますよ。

 ……あのですねぇ、我が王よ。語り部はね、そんなに薄情なものではありませんよ? 語り部は、主に生涯の愛を誓うのです。どんな主であっても、どんなふうに扱われても、語り部は御主人様を嫌ったりはいたしません」

 ダミアン帝は片眉を上げて、かたわらの語り部を見た。

「もちろん、わたくしだって例外では無いのです。フフ……ウフフフフ……フフフフフフ……」

 

 ○

 

 細い喉笛に親指が食い込んだ。

 空気の通る管が、いびつな楕円に潰れる感触がする。

 組み敷いた体は細く小さい。脂肪で風船のように膨らんだ自分の身体と違って、骨と皮ばかりのような感触がした。

 語り部はもがきもしなかった。ただ、両腕をだらんと体の横に置いたまま、オーガスタスの好きなようにさせている。

「……苦しくないのか? 」

 指の力を強くして問うと、右腕が持ち上がり、オーガスタスの手の甲を軽く叩いた。

 しぶしぶ手を放してやると、語り部はゆっくりと起き上がり、ぺたりとシーツの上で足を広げて座り込んだ。トゥルーズの細い首に毒々しい赤黒い痕がついているのが、弱視のぼやけた目にもわかる。しかしトゥルーズの手が調子をみるように首を撫であげると、それはサッパリと消え去った。

 

「苦しいかっていえば、苦しいですけど」トゥルーズは、困った顔をしているようだった。

「でもガス、あのね。トゥルーズは魔人なんです」トゥルーズは小首をかしげて、オーガスタスの顔の前に指を立てた。

「トゥルーズは人間っぽく見えますけど、人間っぽく作られたイキモノなんです。なので、ほんとうは息をしなくてもいいのだけれど、人間っぽくするために、わざわざ呼吸をしているのですね」

「そうか……じゃあ、トゥルーズは首を絞めても苦しいだけなんだ」

「はい。そうなんです」トゥルーズはこっくりと、満足げに頷いた。

 

「じゃあ、どうすればお前は死ぬの? 」

「はぁ……どうすれば、といいますとぉ。あれ? ガスくんは自分の語り部を殺したいのですか? なぜ? 」

「なぜっておまえ。だって皇帝になんてなりたくないもの。失敗するに決まってるじゃあないか。おまえがいなけりゃ、ぼくは皇帝にならなくていいんだ」

「ハア、なるほどぉ」

 トゥルーズは、もういちど大きく鷹揚に頷いた。「確かに、語り部が先に死んでしまうと、その持ち主は皇帝になれません。でもトゥルーズは死にたくないと思います」

 その言葉にオーガスタスは悲しくなる。

「どうして? ぼくは、語り部に伝記なんてものを書かれるのも辛抱ならないんだ。だっておまえ、嘘を書いてはくれないんだろ。ぼくは絶対、後の世で馬鹿にされる。ぼくは目が悪いから文字なんてろくに読めないのに、ぼくが読めないものをおまえが書くのも我慢ならない」

「でも……それがトゥルーズのお仕事ですもの」

「いやだいやだ。だって、おまえは姉上のことも書くんだろう。そうしたら姉上まで悪く言われてしまうじゃあないか! 」オーガスタスは、目蓋を横に奔る火傷の痕をばりばりと掻きむしる。

 いつになく強く、語り部に向かってオーガスタスは声を張り上げた。「そんなのは駄目なんだよ! 」

 

 

 ○

 

 

「……そんなのは駄目なんだ」

 トゥルーズは、ぼんやりと昔のことを思い出していた。過去の主はすっかり大きくなって、トゥルーズを見下ろしている。

「ああ……いつしか大きくなられましたねぇ」

「おまえは小さいままだ……忌々しい。おまえのその幼い姿が、わしの器の小ささを象徴しているように思える」

「確かにトゥルーズの姿はあるじの心が作用いたしますが、それは器の大きい小さいとは関係ありませんよ」

「知っている。知っているともさ。しかし……それも駄目なんだ。おまえの全てが、わしにとっては許しがたい……」

 オーガスタスは、歯の音が軋むほど奥歯を噛み締めた。

 

「……後世に姉上の醜聞を広めることは看破できぬ。おまえの筆が我々の栄光を破滅させるのだ……死んでくれ、トゥルーズ」

 白く濁った両眼がトゥルーズを見下ろしている。大きな下膨れの白い顔に張り付くようにして、姉と同じ金髪が乱れていた。汗はとどまることを知らず、水をかぶったように濡れている。

 トゥルーズは静かに、その光を失った瞳を見返した。

 

 かつて色彩だけはかろうじて分かった眼は、年を重ねるにつれ、身体の体積が増えるにつれ、すっかり見えなくなっていった。

 皇帝となってから、オーガスタスは地下に造らせた『涼しい部屋』にこもりきり、一日のほとんどを大好きな音楽についやしている。反面、嫌いなのが絵物語のたぐいで、文字が読めないという事は彼の大きなコンプレックスになっていた。

 主人が地下にこもりきりのトゥルーズには、この部屋より上がどうなっているのか、いまいち分からない。

 地上の人々は―――――皇帝の庇護する民たちの姿は、もうとっくに遠い海の向こうの出来事と同じであった。

 

 オーガスタスは定期的に、こうした発作を起こす。トゥルーズを叱咤し、その存在を嫌悪している旨を叫び続けるのである。暴力が出ることもとうぜんあるが、『語り部』の身体はただの人間の拳では死ぬことも壊れることもない。

 だから、いいのだ。

 トゥルーズはそう思う。トゥルーズは、オーガスタスのことが好きだった。彼の中では、小さかったころの癇癪となんら変わりはない。

 

 やがて、暗い部屋の隅ですすり泣き始めた主人のもとへ、トゥルーズは必殺の道具をたずさえて近寄っていった。

「ねえ、ガスくん。トゥルーズは今から音楽をしますよ」

 楽器を奏で始めると、オーガスタスのすすり泣きは段々と小さくなっていく。トゥルーズはそれを十分知っていた。

 目が見えない主人のために楽器を触るうち、かなりの腕になったと自負もある。主人の涙を止められるのなら、それは物語を紡ぐよりも素晴らしいことだ。

 

「ねえガスくん。トゥルーズはね、ガスくんが嫌がるから、ガスくんの伝記は書かないことにしようと思います。そのかわり、ガスくんの曲をつくりましょう。それなら『読む』ことはいりません。『聴く』だけでいいのです。ねえ、ガスくんどうでしょう? いい案だと思いませんか。トゥルーズは、ガスくんの語り部ですから、ガスくんが嫌がることは何もしたくないんですよ」

 

 

 

 

 レイバーン・アトラスが母と会うことができたのは、まだ十一歳のときであった。

 レイバーンは、皇帝オーガスタスの八人いた息子のうちの、六番目である。宮中をくまなく侵した病によって、他の兄弟はすでに亡かった。

 オーガスタスには、妻のほかに愛妾が二人いて、レイバーンは妃であるメリッサの四番目の息子だった。レイバーンは生まれつき体が弱く、病が流行るよりずっと前から、療養のために湯治のできる田舎へ送られていたことで生き延びたのである。

 

 レイバーンは、母の顔を知らなかった。産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなったと知らされていた。

 父親のことも、肖像画以外の姿はよく知らない。もうずっと体が悪く、寝込んでいるということだった。

 レイバーンに母のことが知らされたのは、もうずいぶん体力がついて、長旅に耐えられるようになったと主治医が判断したためらしい。

 

 緑深い森の中の館は、五つのときから暮らしていれば、もはや暮らすべき家となっていた。馴染み深い森から離れ、山間を抜け、寂しい道ばかりを選んで馬足は向かう。

 

 母の住処は、それはそれは寂しい場所だった。周囲にあるのは寒村と呼ばれる寸前の集落だけ。誰も近寄らない荒れた藪のようなところに崩れかけた石塀があり、その石塀の向こうには、素っ気ない崩れかけの塔があった。その塔がかろうじて城の体裁を保っている。そんな廃れたところだった。

 

 そこは、古い城を改装して使った修道院だった。

 母はもうずいぶんと悪いという。老いた修道女は、「何度も手紙を送ったのに」と憤っていた。どうやら母とその息子の来歴は知らないらしい。ただ単に、親子を引き離した何者かに憤っている。『なぜ』引き離されたのかも知らないで。

 

 せめてまだ口が利けるうちにと思っていた。ほんに良かった、来てくれて感謝いたします。と、老婆は少年の小さな白い手を握って額に押し当て泣いていた。

「さあ」とうながされ、押し込められるように入った部屋は、独特の臭気が満ちていた。レイバーンは自身も病弱なので、その臭いの意味にすぐに察しがついた。

 

 

 誰が()()を皇帝の妃だと分かるのだろう。

 

 

 レイバーンはその日、はじめて実の母を見た。幼い少年に大きな傷を残す再会となった。

 父、オーガスタス皇帝崩御の知らせが首都を駆け巡るのは、奇しくも再会から十日後。レイバーンの耳に届くのは、さらに三か月も後のことである。

 

 

 

 祖父であるダミアン帝に養育された、ジーンとその弟コネリウスは、祖父亡きあと玉座についたオーガスタスと、その宰相ユリア皇女の手により、身体が弱いジーンの療養という名目で、幽閉生活を送るはめとなった。

 冷たい石造りの塔の上での三年間の幽閉生活から出た時、二人は……いや、コネリウスは、すっかり背も伸び、一見して立派な貴族子息の風格を兼ね備えていた。

 ユリアの血は、コネリウスには咄嗟の判断力と瞬発力、丈夫な肉体を与えていた。そしてジーンには、並外れた美貌と頭脳である。

 ジーンが考え、コネリウスが動く。二人はかび臭い幽閉生活の中、実母にして戸籍上の姉であるユリアへ、反旗を翻すことを決意していた。

 

 ユリア四十五歳、オーガスタス三十三歳の秋のことである。

 

 ジーンとコネリウスが石塔を出るきっかけとなったのは、年初めのころから皇族たちを席捲している熱病のせいだった。

 

 弱い子供たちを中心に流行り出したその病は、数日の高熱ののち、まず手足の末端に青黒い()()()ができる。そのしこりは三晩ほどで肩まで覆うほどに膨らみ、鎧のように硬くなった。血の流れがなくなった手足は、生きながらにして腐っていくほかないが、痛みは無いのだという。

 熱病にうなされたまま、熟れて木から落ちる果実のように命が奪われていった。子供の次は体力の落ちた老人たちである。

 不思議と、市井においては流行らなかったのは幸いであった。

 

 さて、そのころフェルヴィンの先、魔の海を越えたずっと上層での戦禍の音は、遠く離れたこの最下層にも聞こえるほどであった。

 戦時中の軍事開発により、皮肉にも、短時間で飛躍的に成長した航空技術は、フェルヴィンが長年求めていた技術だったのだ。

 宰相ユリアは、最新型の飛鯨船を手に入れることに成功していた。

 長年の鎖国体制によって、フェルヴィン皇国と上層世界の技術格差は大きい。そのことをユリアは以前より問題視していた。ユリアは、幽閉を解いた双子に、上層世界への大使を命じたのだった。

 

 重ねるが、そのころ上層世界は苛烈な戦禍のさなかである。

 ユリアは双子の後も二人の子供を授かったが、勢力争いによる暗殺で一人、此度の流行り病で、十歳になったばかりの娘を亡くしたばかりであった。

 自らの手で幽閉した息子たちであるが、奇しくも生き残った彼らを病から遠ざけようとしたのか、それとも双子の存在を脅威と思って厄介払いしようとしたのか、真意は誰にも分からなかった。

 のちに救国の英雄と呼ばれるようになる二人は、そうして未知の長い旅へと出たのである。

 

 やがて、魔の手はユリア自身へも伸びた。

 

 いまや宰相ユリア皇女は、夫亡きあと弟である皇帝を支えた、真の王といってもいい存在であった。

 用いたのは、政略と恐怖である。弟オーガスタスを飾りの王とし、資格なき姉ユリアは、恐怖によって貴族たちを沈黙させ、王家の名誉復活を果たしていた。

 その覇道の道中、叔父一家やオーガスタス以外の兄弟たち、彼女に心を寄せて来た数多の愛人たちを冥界に送った彼女は、年を重ねてもなお美しいまま、四人の子供を産み、二人の子供を亡くし、のこりの二人を自らの手で国から追い出し、何百年も叶わなかった一時の静寂を王宮へもたらしたのだ。

 

 もはや王宮には、誅殺もわいろも横領も無い。やるとしたらそれはユリアの主導のものである。

 この王宮だけに流行る病が、『玉座に座る資格のないものが皇帝を気取るからだ』と揶揄されるようになるまで、そうはかからなかった。

 ユリアはその声を捨て置いた。どうでもよかったからだ。彼女にとって、王宮へ静寂を取り戻すことは、愛する弟が安心して過ごせるようにするためのことだった。

 そのためには、この流行り病が邪魔である。

 

 ユリアは夜な夜な弟のいる地下へ逢瀬を交すことが日課であったが、病が流行り出したとたん、その日課をぴたりとやめた。

 

(オーガスタスにうつしてしまったら大変だわ……! )

 ユリアが病に倒れたのは、そんな時である。

 

 ユリアを亡くしたあとの王宮は、しばし不気味な沈黙にまみれていた。

 皇女ユリアという舵取りを失った宮廷内は、その事実を噛み締めるうち、混乱に陥った。

 すると、誰かが言った。『次の皇帝を立てねばならぬ』

 

 皇帝オーガスタスは、愛する自室から引きずり出された。【無能王】オーガスタスは、その度重なる怠慢により、処刑されることと相成ったのである。

 断頭台に引き出されたオーガスタスは、姉の死を直前に知り、自身がどこにいるのかも理解していなかった。処刑はオーガスタスを置き去りにして極めて機械的に行われ、次の日には次代皇帝の選定が始まっていた。

 

 民衆は、もはや『語り部』によって皇帝を選ぶことを望んでいなかった。

 青き王家の血筋をすこしでも引いているのであれば皇帝の選定に足りるとし、これという候補者の中から皇帝を選ぶ、ということを繰り返した。

 その間も、病は宮廷内を吹き荒れた。

 資格なき王たちは、次々に霊廟の石塔となった。ついには病床の十四歳の少女まで皇帝として引き出され、資格なき皇帝たちだけで、十七人もの石塔が並ぶこととなった。

 

 残るは、かの毒婦ユリアの息子たちか、無能王の末息子、レイバーン・アトラスのみである。

 彼らには語り部があり、()()()()()()()()()()()、皇帝となる正統な資格がある、とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皇帝ジーン・アトラスは、ひとり地下の離れ部屋へと踏み入った。配下はとうぜんのように止めに入ったが、振り切って闇に沈んでいく石段を軽やかに降りていった。

 

 なんでも、ここには無能王オーガスタスの亡霊が出るというのである。数々の冒険を遂げた英雄ジーン・アトラスの足は、たかが幽霊ごときには止められなかった。

 石造りの回廊は、底なしの静寂に包まれていた。自らの呼気の音すら耳に付く。

 手に下げたカンテラの不安定な灯りでは、なるほど確かに幽霊でも引き寄せそうな雰囲気である。

 

 オーガスタス帝は、この地下の部屋を『涼しい部屋』と呼んでいたという。

 フェルヴィンは年中を20度を下回ることがない温暖なうえ、多湿である。たしかに、ジーンも久々に故郷へ帰ってきて、湿気ですぐに皺になる書類にうんざりしてきたところだった。

 

 やがて、ジーンの耳に、自らの足音以外のものが聴こえて来た。

 それはおそらくジーンも馴染み深い弦楽器で、たしかオーガスタス帝が数多の楽器の中でも、とくに好んだものだった。

 音色が聴こえる扉の中は、一部の隙もない暗闇に包まれている。

 おそらく、オーガスタス帝がここを出たそのままなのだろう。灯りを向けると、生活の名残りの上に埃が積もっている。

 ジーンは迷いのない足取りで、暗闇を灯りで引き裂いて、音のある場所へ突き進んだ。

 

 はたしてそこには、待ち続ける語り部がひとり。

 

 暗闇の中、主の物語を音にして奏で続けた語り部は、次代の皇帝となるものをずっと待ち望んでいたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、ジーン皇帝は三十年以上を、国外との外交と国内の近代化を重点的に務めた。

 腐敗した貴族は一掃され、議会を設立。

 ジーンは生涯独身であったが、その物語は、世界各地の言語に翻訳され、近代最も重要な人物として語られる一人となった。

 ジーンの没後、次代皇帝レイバーンの御世においては、兄の仕事を受け継ぐ形で、フェルヴィンは希少な地下資源を元手に、急速な成長を遂げる。

 

 レイバーン皇帝は、五人の子宝に恵まれた。

 グウィン、ヴェロニカ、ケヴィン、ヒューゴ、そしてアルヴィン。

 三男ヒューゴ皇子の語り部は『トゥルーズ』という陽気な男で、主とはたいそう仲が良いという。

 

 



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6 ジジ

 

 最初の『主人』のことは、おそらく男だっただろうとしか覚えていない。

 真っ白な紙のように、薄くて(もろ)い自我しか無かったころ。

 持っていたものは、体と能力の使い方。『ジジ』という自分の名前だけ。

 

 ボクはその『ジジ』という語から、あたかも細菌の雫が培養皿の内側で蔓延るようにして『ジジ』という培養皿の中に『自分』という意志の塊を形成した。

 その現象はたった一晩のことだったのかもしれないし、十年、いや、もっと長い時間がかかっていたのかもしれない。

 

 だからボクは、自分がどこから生まれたのかはもちろんのこと、何年生きているか、だとかもよくわかっていない。

 

 こうした言い回しも、いったいどこで覚えたことやら。

 

 主人は四、五度ほど変わったし、いわゆる『ものごころついて』からは、野良猫だった時間のほうが、体感としては倍も長い。

 詐欺、強盗、盗み―――――なんでもやった。

幸いにも、ボクの能力はそういったことに重宝したし、じっさい、それで地位と財産を抱えていたころもある。二十年くらいでつまらなくなってやめてしまったけれど。

 

 だいたい三回目の主人のときは、最初は金で雇われて使われていたものの、ボクというものを構成する呪文を――――つまり、魔人としての心臓を――――握られてしまったことで、見世物小屋の虎よりもひどい目に遭った。

 あんまりにも悔しくて、うまく仕返しできたからいいものの、ボクはもう二度とこんなヘマはするまいと誓ったものだ。次は無いだろうとも。

 

 けれど、どんなに気を付けていても人というものは間違える。魔人であっても例外ではない。

 あの日も、雨が降っていた。

 とはいっても、『魔法使いの国』は雨の国で知られる。降雨率67%、一年365日のうち、一日中雨が降らない日のほうが珍しい。そしてそんな国は、11海層より下の下層と呼ばれる地域では珍しくない。

 その日はとくに雲が厚くて、朝方でも真っ暗な灰色の雨が降るひどい天気だった。

 

「……おい詐欺師」

 低く唸るような声で、サリヴァンはボクを見下ろして言った。

「おまえ、死にたいのか? 」

 

 ボクはその黒い眼を初めて見上げた。苛立ちや迷いを含んで睨むように交わる鉄格子越しの視線。雨に打たれた襤褸を巻きつけたようなボクの姿はひどく惨めなもので、気持ちもずいぶんささくれていたけれど、それを吹き飛ばすほどの視線の強さに純粋に驚いて、疑問を持った。

 

「……どうしてキミがそんな顔をするの? 」

 このガキは、ボクを捕まえてそれで満足したわけでは無かったのか?

「きみは賭けに勝った。ボクはヘマしてこのざまさ。キミの秘密はもうどこにも漏れることは無い」

 

 ボクのこの体は魔人だ。『意志ある魔法』だ。生きているわけではない。そんな存在がやらかした事件は、ボクという存在の抹消によって、終息を迎えることが司法の手で決定していた。

 

「……()()()()()()()()()()。人のためにある手段のひとつというのが、キミたち魔法使いの主張だろう? 魔法が一つ消えるだけ。人間みたいに見えるのは見てくれだけだって、あの刑事さんの言う通りだ」

「でも、前に捕まったときは逃げたんだろ。死にたくなかったんだろうが! 」

 

 三回目のときだ。一緒に嫌なことも思い出し、ボクは深く深く嘆息して言った。

 

「前の時は、ボクを馬鹿にしたやつに仕返ししてやりたかったから。状況が違う」

「同じだろ……! 悪いやつがいて、おまえを利用するだけして、おまえ一人が殺されそうになってるじゃねえか! 何が違うんだ! それでいいのかよ! 」

 

 子供だなあと思った。

 世界のルールは、魔人の存在消滅を命だとは認めない。魔術師は、そのあたりがとくにシビアだ。

 魔人を人と認めてしまえば、破綻するルールがある。こいつは、それをまだ知らない子供なのだ。

 

「もし、逃げたとして……主のいない野良の魔人は危険で希少だ。ボクの能力なら、すぐに新しい主が見つかるだろう」

 図らずも、諭すような口調になった。

「……ボクはここを出たら()()()()()。だって、全力で魔法をぶっ放すことの快楽を知ってしまっているからね。主人を持つと邪魔になることが分かったから、今度は一人でもやることになる。

 魔法に、成長や忘却はない。新しいことを知ってしまえば、それを試さずにはいられない。ボクはそういうふうに出来ているよ。

 ねえ、坊ちゃん。もし、善良な主が付いたとして、ボクの手綱を握る人がそうそういるかな?

 自慢じゃないけど、ボクの力は強くて便利がいい。この見目だしね。いろんな使い道がある。

 五百年も昔ならまだしも、現代の緩んだ魔法使いがボクを扱いきれる? 」

 

 子供は、血が滲むほど唇を噛んで、呟くように言った。

 

「……分かった」

「え? 」

「つまり、五百年前の魔法使いみたいに、緩んでないやつがお前の身元引受人として手綱を離さなかったらいいんだろ。台所で使うだけの便利なマッチじゃなくって、炎の剣で影の悪魔を斬るような。それでいて、社会的にも安心できる身分のやつが、お前の主人になればいい」

「……何を、言っているの? 」

「なんとかするって言ってんだよ。これはもう、おれの問題だ」

 

 鉄格子越しに、魔法使い(サリヴァン)魔人(ボク)に手を差し出した。

「今度は拒否したりしない。おれは公的にはただの奉公人だけど……そうじゃないってのは、もう知ってんだろ。

 お前の呪文を教えろよ。お前が悪魔になったなら、おれがお前を()()()やる。

 魔法使いの約束は、絶対の契約だからな」

 

 驚いたことに、この子供は、心の底から本気で言っている。

「やりたいことがあるんだろう? 」

「ボクは……」

 ああ、なんてみっともないんだろう。ボクにはこいつの本気が分かってしまったから。

 

「知りたい」

 そうして、ボクは。

 

「ボクは、ボクがどうして生まれたのか――――――」

 

 ―――――それを、どうしても知りたいんだ。

 

 誰にも言ったことが無いことを、彼に口にした。

 

「―――――助けて……魔法使い」

 

 

 



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6 絶望の紅い花

 

 

 夢うつつの中で、アルヴィンは繰り返し「どうか逃げてくれ」と叫んでいた。

 世界は真っ赤に(ただ)れている。焦げ付きのような黒い無数の斑点が蠢きながら、赤い視野を余計におかしくしていた。

 脳が暴れ馬に縛り付けられたように揺れ、分厚い無音の壁の向こうから、ピリピリとした音の波を触覚で認識している。

 痛みなどの感覚も、ある時から焼き切れたように何もなくなって、それが堪らなく恐ろしい。

 

 ヒューゴに見せてもらった映画というものに似ていると、アルヴィンは思った。

 冒険家の男が遠い異国の娘と出会い、困難をともに乗り越えるうちに、恋に落ちる。—————そんな使い古された物語の映画に、ひどく感動したことを思い出す。

 断崖絶壁に追い詰められた男が、足を滑らせた娘に必死で手を伸ばすときの、張り詰めた声、激しい吐息の音。

 娘が涙を潤ませながらも、意志の強い瞳で男を睨み、迫る強敵に背を向けている男を叱咤する。

 男は、強敵の打倒と、娘の救出、それぞれを完璧にやり遂げて生還してみせ、最後は、燃え盛るような暁に照らされながら、恋人たちが情熱的に抱擁する姿を映して終わる。

 

 手に汗握る冒険活劇だが、男と娘の危機は、目の前にあってもアルヴィンの命を脅かすものではなかった。

 これはその感覚に似ている。

 痛みと共に、恐怖も焼き切れていくのが分かるから、それがさらに恐ろしい。

 

 やがて何も分からなくなるときが近い。だから、叫ぶ。迸る恐怖を、まだ自分はここにいるという証明を、叫んで、叫んで、叫び―――――ふと、すべてが途切れた。

 ぷつん、と。

 黒い深い穴に落ちていくように。

 

 と、同時に、自我が戻ってきた。

 それは何よりも残酷な仕打ちだった。

 闇は、ほとんど失っていた恐怖を何倍にも膨らませて、すべてアルヴィンに押し付けてきた。今まで自分がしてきたこと、どんな有り様で、どんなふうに、自らの生まれ育った国で暴れまわったか。

 

 どんな原因があったとしても、現実の争いは嫌いだった。

 暴力には、吐くほどの嫌悪感がある。

 

 そんな自分が、今しがたまで何をしていたのか。

(こんなのは()()()と同じだ! )

 ――———自分は、いちばんなりたくなかった怪物(もの)になってしまった!

 

 アルヴィン・アトラスの心は崩れ落ちた。自分がなぜこの世に蘇ることを選んだのかも忘れて、身に潜む恐怖に屈服した。

 

 アルヴィンは、闇を落ちていく。自ら望んで、意識を閉じていく。

 

 この体には、もはや、涙を流す機能は残っていなかった。

 

 

 アルヴィンは墜ちていく。

 満たされた闇の中を、自分を失くしながら―――――堕ちていく。

 

 

 

 ✡ 

 

 

 ミケは、ジジが去った星の海で物思いに(ふけ)っていた。

 静かで寂しい星の海は、あまりにたやすくミケの思考を奪うと、もう知っている。ミケは……いや語り部は、生まれたときから主に仕えているので、孤独というものには免疫が無かった。自分はおそらく歴代でもっとも一人ぼっちに耐えることになる語り部だろうと、ミケは少し微笑んだ。

 

 ミケは、皇帝に「アルヴィンを救え」と命じられて牢屋を飛び出したとき、まず主であるアルヴィンのもとに帰ろうと考えた。

 主であるアルヴィンのことは、語り部であるミケは離れていても把握している。しかしこの混乱した頭には、まずは二日ぶりに最愛の主人の顔を見て安心することが必要だと本能的に判断したのだ。

 黒い霞のようになって暗がりを進みだしたミケに『待った』をかけたのは、同じ語り部の兄弟であるトゥルーズから頭の中に届けられた声だった。

 

『ミケ、どこに行くの? 』

 

 こんな時でも、トゥルーズはのんびりとしたトーンだった。

 ミケにとってトゥルーズは、彼の主であるヒューゴ皇子が弟のアルヴィンにそうであるように、親切で優しい兄貴分だった。トゥルーズは、今稼働している語り部の中ではダッチェスの次に年長なので、見た目や態度よりもずっと経験豊かなのである。

 

『ダッチェスが君に教えろって』

『何を? 』

『船への行き方。魔女がきっと助けてくれるからね』

『魔女?』

『これは秘密なんだよ? 本当は皇帝の語り部しか教わらないんだから。でも、ダッチェスはミケになら良いって言ったんだ。よかったね』

 ミケには、トゥルーズの言っていることがさっぱりだった。

『トゥルーズ! わ、わたしを、これ以上混乱させないでください! 』

『? どうして混乱するんだい。……ああ、そうか。うん。ミケはちょっと()()()()のを忘れてた。

 ……ねえミケ、落ち着くんだよ。そうして思い出すんだ。キミは人じゃあないんだ。語り部なんだって。王様が死んだのは、きみのせいじゃあない。大丈夫。きみはまだ消えたりしないよ』

 

 ミケは落ち着くどころか、訳もなく喚き散らしたくなった。

 皇帝レイバーンが毒杯を飲み干したのは、ミケの軽率な行動のせいだ。ミケが邪魔をしてしまったから、皇帝はグラスを飲み干すことを選んだのだ。

 

『……落ち着くんだ』

 トゥルーズが静かに言う。まるで知らない男のように、低く落ち着いた声で。

 

『ミケ。地下へ向かうんだ。『船』に行くんだよ。きっとなんとかなるさ。魔女が助けてくれるから』

『わ、わたし……わたし……』

『こんな冒険は語り部らしくないけど、もともとミケは語り部らしくないものね。仕方ないのかもしれないね。おれにはきみの気持ちは分からないけれど、ねえ、ミケ。おれの前の主のオーガスタスは、幸せだったと思う? 』

『な、なぜ、いまそんな話を』

『どうだろうか。おれは、彼は幸せに死んでいったと信じてるし、そういうふうに書き上げたつもりだ。きみは、どう思う? 』

『それは……』

 ミケは、黙った。

 黙って、考えた。

 

『……無能王オーガスタスは、悲劇の皇帝でした。姉ユリアに執着され、幼少のころから洗脳といっていい愛情を向けられ、ついには飾りの皇帝として城の地下に監禁された。その最期は、最愛のユリア姫がすでにこの世にいないことも知らされず、処刑台に立つことに。……どうしてそんな人が幸せだったと言えるのでしょうか』

『オーガスタスは、ユリアがいたときは紛れもなく幸せだったよ』

 静かな声のまま、トゥルーズは言った。

 

『オーガスタスが不幸だったのは、ユリアが傍にいないときだけだった。泣くのも怒るのも、ユリアがいたら笑顔に変わった。ユリアがいるときのオーガスタスは、ふつうの人の何倍も幸せを感じていたんだ。

 ユリアは頭がおかしかったけれど、とても賢かった。彼はそれを分かってた。

 ユリアはオーガスタス以外は要らなかったんだ。オーガスタスには、自分だけを知ってほしかった。

 オーガスタスも、そんなユリアを愛していたから彼女が望むままに『ユリアだけのオーガスタス』になった。そうすると、ユリアはオーガスタスのために、『偽りの女帝』として国を平穏に保つように働いた。

 オーガスタスは、頭がおかしくなりかけていたけど、最後までユリアのためになることを考えてた。

 ユリアは、オーガスタスを王にしないために目に油をかけたんだ。自分が嫁ぎたくなくて、弟の目を潰した頭のおかしい女になりたかったんだ。

 オーガスタスは、皇帝になりたくなくて地下に逃げたんだ。でも同時に、ユリアがそれを望んだから、自分から一人ぼっちになったんだ。

 どっちも本当の気持ちだよ。あの二人は本当に愛し合っていたんだ。それをどうして悲劇だって言える? 大好きな人を独り占めできた人生を、どうして?

 おれは、オーガスタスが幸せだったと思うよ。彼は後悔のない人生を送ったと信じるよ。

 ミケ、これが語り部の仕事だよ。

 ミケ、きみだけは、アルヴィン皇子がどんな結末に至っても、皇子の選択を『間違っていた』なんて言っちゃあいけない。その勇気を讃えることはしても、否定しちゃあいけないんだ。

 皇子を愛しているのなら、その選択を受け止めて、きみが納得しないと良い物語にはならない。

 主の物語を書き手の涙で汚すことは、語り部としての仕事に泥を塗ることだよ』

 

『トゥルーズ……わたし』

 

『人は死んでしまうよ。でも、死は悲しいだけじゃあないんだよ。別れは次の出会いのための準備だ。死は、生者にとっては始まりにすぎないよ』

 ミケは立ち竦んで涙をこぼした。

 

『おれたち語り部は、主の死のあとに生きる人たちのために書くんだ。主が生きた世界のために書くんだよ。それを忘れちゃあいけないよ』

『わかっている……つもりだったのに……』

『わかってても、悲しくっても、書くしかない。おれたちしか書けないんだ。だって、ずっと主と傍にいたのは、世界じゅうの誰でもなく、自分だけなんだから。きみだけが、アルヴィン皇子の語り部なんだから』

 ミケは顔を覆って頷いた。

『皇子をほんとうに愛してるんだね』

 トゥルーズは、断定的に呟いた。

 

『主を愛した語り部は、とってもつらい。どんな語り部もみんなおかしくなってしまう恐ろしい病だ。でも、そんな語り部が書いたものは、決まって傑作になるんだ。苦しみで流れた涙が、命を吹き込むんだって。ミケ、きみは良い語り部になれるよ』

 そう言ったトゥルーズの語尾は、途方に暮れたふうに少し掠れている。

 ミケは、トゥルーズに自分の中の決意を嗅ぎ取られたことを感じていた。

『わたし……』

『消えないでね。きみが消えたら寂しいよ。きょうだいなんだから』

 ―――――……ごめんなさい。優しいトゥルーズ。

 

 兄の擦れた声に、ミケは握ったこぶしを両目に押し付けた。

 

 ✡

 

 アルヴィンは黒いところを堕ちていく。

 真っ逆さまに、隙間の無い闇のなかを、わけもわからないままに()ちていく。

 

 

 ✡

 

『 ようこそ。ミケ。あなたを長くお待ちしておりました 』

 

 ミケを招き入れた『フレイアの黄金船』は、軽やかな女の声で歓迎した。

「なぜ、わたしを……? 」

『 創造主たる魔女は、あなたの来訪を預言しておりました 』

 

 ブゥン、と、腹の底が痺れるような低い音が響く。

 ミケが通されたのは、一面が真っ白な四角い場所だった。立つにも座るにも収まりが悪く、ミケは壁際に寄って立ち竦んでいた。

『 さあ、行きましょう 』

「ど、どこへ? 」

『 魔法使いの国へ。始祖の蛇の現身(うつしみ)たる彼女の元へ 』

 

 ハチの羽ばたきのような音が、あちこちから響く。ミケが怯えて座り込んだ瞬間、全身を押さえつけるような圧迫感が、ミケを襲った。

 

 

 

 アイリーン・クロックフォードは、深夜の訪問者を眉一つ動かさずに招き入れた。

 魔法使いの国の首都で、いくつもの煉瓦造りの商店街が立ち並ぶ中、ひっそりと埋もれるようにしてある『銀蛇』には、表通りに面した小さな入口のある店舗と、真ん中の空き地を挟んである三階建ての工房兼住居が存在する。

 うっそうと杖の材料にする木々が生い茂る、猫の額のような空き地に、とつじょ巨大な棺桶のような『船』が現れても、『影の王』は何も言わずにミケを招き入れた。

 

「お茶を淹れてくれないか? 私のは、客に出せる味じゃあないんだ。道具は好きなように使ってくれていいから」

 戸惑いながら、湯気の立つカップを散らかったリビングに持っていくと、ソファに深く腰掛けていたアイリーンは、「さて……」と上半身を持ち上げた。

 

「どうしたものかね」

「あの……」

「なんだい? 」

「……助けてくださる『魔女』とは、あなた様のことでしょうか」

「いいや。私はその『魔女』から依頼されたに過ぎない。友としてね」

 アイリーンは、紅茶を口に含ませた。「良い腕だ。さすがだな」

「その……『友』とは」

「アリス……きみたちの言うところの、『始祖の魔女』さ」

 アイリーンはまた一口、紅茶を楽しんだ。

 

「アリスの預言は、非常に正確無比だった。彼女には、ここに来てきみが言うであろう一語一句が見えていたし、聞こえていた。だからこれからどうなるのかも、彼女は承知だった、というわけさ」

 ミケは目を白黒させた。

「茶菓子がいるな。夜も深いが、まあいいだろう」アイリーンは指を一振りして、どこかの戸棚から焼き菓子をテーブルの上に出す。

 

「ふん。やはりいい腕だな……。ああそう、『審判』が始まる。そのために、わたしたちは何年も前から準備をしてきた」

「……それは確かなことなのですか」

「そうだ。これもアリスが預言した。予兆もある。時空蛇が感じている予兆だ、信頼できるだろう? ふむ。それで、きみにはやってほしい役割がある」

「そうすれば、お助けくださるので? 」

「いいや、違う。きみが()()()()()()()()()()()()()

 わたしはやり方を教えるだけだ。『審判』には抗えない。どうあっても起こるだろう。きみの主人、アルヴィン・アトラスに訪れる死のように」

 

 顔を歪めたミケを一瞥して、アイリーンはもう一度指を振る。

「アリスの形見だ。おまえが持っておけ。手帳のほうには、アリスの肉筆で預言が書いてある」

 言葉と共にミケの膝の上に落下したのは、埃にまみれた革表紙の手帳と、真鍮の万年筆だった。

 ミケは万年筆を拾い上げ、彫金された蔓バラの模様を指でなぞり、胸に温かなものを感じていた。

 

「これは……いいのですか? 」

「いいも何も、おまえに渡せと言われて預っていたものだ」

 ミケはアイリーンの紅茶色の瞳をまじまじと見返した。

「やり方は、そこに書いてある」

 アイリーンはついに紅茶を飲み干すと、名残惜し気にカップを置いて、ソファの背もたれに身を預け、細いため息をこぼす。ミケは、待ちきれずに、開き癖のついた手帳のページを、一枚ずつ慎重に目を通していった。

 

「なぜわたしがやらないのかって? 『審判』に選ばれるのは人間だけだ。わたしは『女教皇』として参戦することに決めている。

 しかしだな……そうすると、時空蛇の権能は制限がかかるんだ。わたしは髪の毛ほどしか、時空蛇の一部としての力を使えなくなる。

 おまえのような小さなものに、そういった大きな役割を任せるのは、わたしも気が引ける。……いや、けして見下しているという意味では無くね。

 しかし、きみには叶えたい望みがある。その願いの強さに、年齢や立場は関係がない。そうだろう? 」

「……ええ。そのとおりです」

「ならばわたしは、安心しておまえにその手帳を託そう。あとから手助けになる者をフェルヴィンに向かわせる。うまくやってくれ」

 

「ありがとうございます」

 戸口で見送りに立つアイリーンに、ミケは深々と頭を下げた。アイリーンはひらひらと手を振り、薄い微笑を薄い唇に浮かべる。

「……愛するものを救うのは、こちらのほうも痛みを伴う。おまえには覚悟がある。わたしは、その覚悟を信頼するよ」

 

 

 



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6 シリウス

 

 赤黒い空には、鳥一匹も飛んではいなかった。気温は湿気を含んでやや肌寒く、低い場所にうっすら霧がかかっている。

 サリヴァンは、手頃な石で道の横に(そび)える崖の土を掘り、湿った粘土質のそれを、石と一緒に袋へ入れた。

「何をしているんだ? 」

 先を行くヒューゴが尋ねる。

「あとで使うかもしれないので」

 サリヴァンは駆け足でアトラスの兄弟が歩く場所まで戻ると、土に塗れた手を叩いて落とす。

 ポケットから携帯食料を取り出し、齧りながら歩く。二人にも勧めたが、兄弟は三人とも、遠慮して食べなかった。

 

 

 ✡

 

 

 サリヴァン、グウィン、ヒューゴの三人は、城下町の街道で港へ向かうケヴィンと別れ、マリア以外の語り部たちを連れて城へと向かった。

「二人とも、ほんとうに腹は減ってないんですか? 」

「ああ。不思議とな。緊張しているからかもしれない」

「そうだな。こりゃ後で死ぬほど減るぞ」

 兄に向ってヒューゴはそう言ってカラカラと笑ったが、サリヴァンの顔は晴れなかった。ヒューゴも笑顔を収める。

 

「どうした? 」

「ちょっと嫌な予感がします。……いえ、対処法は分かってるんですが、少しまずいことになったかもしれません。確かめる時間を、三十分だけください」

 ダッチェスの金色の目が、値踏みするように、下からサリヴァンを見つめた。

 

 不安そうな二人を連れ、サリヴァンが城下町から山肌が触れる場所まで戻った。山沿いに歩けば、そのまま城壁のすそにつくという適当な場所だ。

「ここに何かあったか? 」

 あたりを見渡してグウィンが尋ねた。

「土があります。それで十分なんで」

 

 サリヴァンは土の上に腰を下ろすと、準備を始めた。

 左耳に下がった黒い雫型のピアスを確かめるように片手で少し触れながら、ポケットから石と土を入れた袋を取り出し、銀杖を指先ほどの刃がついた剃刀にして握ると、ピアスをいじっていた手で自分の後ろ頭を探った。

 後ろ頭で一本に縛って垂れ下がる髪の中から、特に長いところの束を小指ほどの太さだけ切り取り、右の指にぐるぐる巻く。

 その髪を切る様子を見て、グウィンとヒューゴは、サリヴァンの束ねた髪がざんばらの長さになっている理由を察した。

 

 手慣れた仕草だったが、サリヴァンの表情は固い。

「これからやるのは、いわゆる交霊術です。占いみたいなもんですね。本当は失せもの探しや、死者からの証言を取るためにする術なんですけど。

 先に言っておきます。俺は、こういう『魔術』は苦手なんです」

「魔術にも個人差があるのか? 」

 サリヴァンは頷いて、鼻に皺を寄せた。

 

「魔術は学問の一面がありますから、そりゃ個人で得意不得意の分野があります。俺は本当に、こうした深くて繊細な手間を求められる魔法は得意じゃあない。成功した試しが無いんです。

 でも今回の場合は、成功のきざしがある。

 ここが冥界に最も近いフェルヴィンで、しかも冥界の扉そのものが開いたこと、俺にひい爺さんの血が流れていること、一緒に陛下たちがいること。

 こうした条件が、俺の適正よりも成功に傾くかもしれない。土地が味方をしてくれるかもしれません」

「じゃあやってくれ。それで、何を確かめるつもりなんだ? 」

 円座になるように、ヒューゴとグウィンも土の上にあぐらをかいた。

 

「…………」

 グウィンの後ろで見守る姿勢のダッチェスの視線を気にしながら、サリヴァンは苦い唾を飲んで口を開く。

 

「冥界神の真意を尋ねたいと思います」

「冥界神の真意……? それを急いで確かめる理由が何かあるのか」

「気づいたんです。殿下たちは、いつから食事をとっていないんです? 最後に肉や、肉を加工したものを食べたのはいつですか? 」

 グウィンとヒューゴは顔を見合わせた。二人が口を開くより先に、語り部が答える。

 

「グウィン様は八日間、ヒューゴ様は六日以上、水も食事も口にしておりません」

「最後に食事をしたのもそれくらい前ですね。口にされたのは、穀物粥だったかと思います。肉類は十日以上口にされていません。たぶん、ケヴィン殿下もそうだと思います」

「陛下。皇子。おれは二人に会ってから、少なくとも三回は、この携帯食を勧めました。……この意味、わかりますよね? 」

 

 兄弟はぽかんと語り部たちを見た。

「……嘘だろ? 」

 冷や汗を垂らして苦笑いする弟の右隣りで、兄の方はこぶしで口を押えて考え込んでいる。

 二人の不安を断ち切るように、サリヴァンは大きな声を出した。

「ああ、大丈夫ですから! 二人はちゃんと生きてますって。ただ……少し、食事の手間がいらない体になっているだけです。そこで、この儀式なんです」

 

 サリヴァンは身振りも交えて説明した。

 

「『最後の審判』とは、神々の試練です。選ばれし22人が天上の神の庭まで辿り着くことが試練だといいますが、おれは、『試練』がそれだけだとは思いません。今は飛鯨船がありますしね。

 この国の状態がそれを表しています。

 人々が石になる『石の試練』。これは、第三の世代である『銅の人類』が滅びのときに起こった災いの一つです。そうですね」

 皇子たちは緩慢に、語り部たちはうんうんと何度も頷いた。

 

「おそらく神々は、今までの人類に与えた災厄も『試練』として与えるつもりなんでしょう。そこで、です。『石の試練』。これはどういった試練か? ってことですよ。最初から思い出してみてください。まず何が起こったか? 」

 

「それは……最初に『魔術師』が現れて城を蹂躙し、父上とアルヴィンも殺されて、ジーン・アトラスが……そうか。()()()()()()—————」

 

「そうです。『石の試練』とは、()()()()()()()()()()()()()()()()

 そういう試練です。

 だとすれば、この試練は冥界神の采配なくば行えない。冥界の神々の別名は、『魂の裁判官』、『平等を敷く者』、『秩序の管理者』。冥界の法律に従い、一日に命を失う魂の総数は明確に決まっていて、例外はありません。

 冥界の神々にとって、死者たちはどうでもいい存在ではないはずです。何千、何万年と一日も欠かさず管理してきた魂たちが、現世へ出ることを見逃すはずが無い。

 冥界神はなんらかの処置をして、霊たちを現世へ送り出していると仮説します。その『処置』のせいで、殿下たちは食事が必要なくなっている。

 結論から言いましょう。

 

 おそらくこの最下層……第二十海層は、今、冥界に落ちています」

 

 沈黙が落ちる。二人は考え込むように黙った。

 思いのほか自分の言葉が重く届いたことに、言ってからサリヴァンは戸惑った。「あの……いや、『冥界です』なんて断言しちゃいましたけど、まだそれを確かめる段階ではあるので、もしかしたら違うかも……」

「……いや」

 グウィンは顎にこぶしを当てて首を振った。

 

「前から思っていたんだ。ダッチェスは言っただろう? 」

『今回、『審判』においては、いくつかの不測の事態(イレギュラー)が発生いたしました』

『ひとつ。冥界から死者が蘇っているということ。一度冥府の門をくぐれば、人は『審判』に選ばれる資格を失います。『魔術師』はその当たり前のルールを無視して、死者を『選ばれしもの』へと据えました』

『ふたつ。『皇帝』は自らの意志でもって宣誓をしたわけではないということ。あまつ『皇帝』はすでに死者。『審判』は世界規模の魔法ということはお話しました。魔法とはシステム。これでは、魔女の組み立てた一部の隙も無い魔法(システム)にどんなエラーが起きるか予想もつきません』

『そしてみっつめ』

『消えゆくさだめであった()()()()が、まさかアルヴィン殿下を救うがために『宇宙』となるなんて誰が予想できましたかしら! 『魔術師』のつくった混乱に乗じ、アルヴィン皇子に与えられた死の運命を捻じ曲げるため、自らも消えなればならない運命であるというのに、重ねてミケは、触れてはならぬ禁忌を侵しました! 冥界に堕ちかけたアルヴィン皇子の魂を引き戻し! 損なった肉体に、根源たる混沌を含んだ自らの本体を(あて)がい! 幼く、未熟なあの子は、()()()()()()()愛する主人を、第十八のさだめ『星』としてこの世へ蘇らせたのです! 』

 

「どうしてアルヴィンは蘇ることができたんだろうかって。

『ミケがアルヴィンの魂を引き戻した』と言うが……そんな簡単なものなのか? 僕はまだ今のアルヴィンの姿を見てはいないが……あれはどうあっても、生き残れる状態では無かった。頭が完全に潰れていたのを見たんだ。ミケが自分の銅板を頭蓋骨として提供した、としても……あれは、痛みを感じる間もない即死だったろうと思うんだよ。頭蓋骨が無いんだから、『命を繋ぐ』暇も無かったんじゃ、と思うんだ。

 でも、それなら……辻褄があうような気がする」

 

「確かめてくれ」ヒューゴも言った。

「恐怖は未知からやってくるんだ。分からないうちは、何も動けない。きちんと準備してから、向き合おう」

 

 



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6 シリウス

 

 

 

 ジジを呼び出すのに、少し手間取った。

 サリヴァンが占いや呪術のたぐいを苦手としているのは本当だ。本来なら、そういった術は基本中の基本でありながら、極めようと思っても極めきれない、奥の深い一道である。

 祈祷師、霊媒師、巫女、預言者、占師などがその筋を極めた専門家であるし、師である『影の王』アイリーンも、『時空蛇の化身』で『神の声を聴いて予言する』という立場上、巫女という扱いを受けることもある。

 そんな師を持っているのに、サリヴァンはそういった人たちから、「お前には神の声を聴く適性が無い」と言われ続けて来た。しかしその信心深さから「神に愛されてはいる」「声が聴こえないから、力を借りるというよりも、押し付けられている」というのだから、奇妙なものだった。

 だからサリヴァンは、『神の声が聴こえない』のに、シンプルに『火力がある魔法が得意』である。

 

 そんなサリヴァンという魔法使いに、ジジという魔人の性質は、欠点を補うという点でぴったりとはまっていた。

 ジジは、『意志ある魔法』である。陰に潜み、ときに不可視の微細の粒となり、この世界に潜むことができる。

 ジジの五感は鋭敏で、サリヴァンの代わりに聞き、()、触れることが出来た。

 

 サリヴァンは、例えるなら、蛇口から流れた水をまき散らすことでしか魔法を使えないが、ジジは、水を溜めたり、シャワーにして広くバラまいたり、湯気にしたり、凍らせたり、それを利用して室温を下げたり上げたりすることが出来る。

 

 呼べばすぐ来るのが常だったジジは、このときに限っては、数分呼びかけてようやく陰から形を取った上に、ひどく不機嫌なようすだった。どこか疲れてもいる。

 サリヴァンにだけは、ミケとのことだと分かっていた。

 姿を現したジジが、何も言わず小さな黒猫になって膝の上で寝る姿勢になっても、サリヴァンは背中をひと撫でするだけで、指示も懇願もしなかった。

 いるだけでも、十分だ。

 子猫の閉じた目蓋の下で、油断なく五感を張り巡らせているジジの感覚は、サリヴァンにも繋がっている。

 

 サリヴァンはジジを膝に乗せたまま、両手にそれぞれ小石と、耳から外した黒い石のピアスを指にはさんでいた。目蓋と耳の裏には、山から採った粘土質の土を塗り、てのひらにも擦りつけてある。

 グウィンとヒューゴは、山肌を背にするサリヴァンから少し離れたところで座った。

 時刻は昼を過ぎ、日暮れまであと一時間といったところだろうか。厚い黒い雲がねっとりと空を流れ、ときおり真紅の陽光が斜めに射し込んだ。

 

(黄昏時はいい時間だ)

 

 サリヴァンは小さく、呪文を呟いた。

 魔法使いが神に語り掛ける言葉は、自分で組み上げなければならない。借りものではない自分の言葉で、神々にお願いをするのである。しかしある程度の定型文はある。冥界の神ならば、『魂の裁判官』、『平等を敷く者』、『秩序の管理者』、『沈黙の吐息』などがそれだ。

 しかし、思春期が終わりかけた少年には、こうした呪文を堂々と口にするのはいささか恥ずかしい。

 

 サリヴァンは、自らの内側に流れる血を意識した。

 『深く』、『繊細に』、ふだん意識しない自分を構成するものたちを手繰り、その先に通ずる道を探す。ジジの鋭敏な感覚を借りながら。

 

 本来なら、牛一頭でも二頭でも生贄を捧げるべきだが、そんな用意があるはずもないので、サリヴァン自身の髪と血で代用する。

 恐れ多くも、冥界の神そのものを呼ぼうとは思っていない。真意を探りたいのだから、それを知っている死者の魂を呼び出すつもりだった。

 血筋で土地との縁は結ばれているはずだから、声を掛けて手を貸してくれる霊がいる可能性に賭けた。

 

 内側に潜ると、不思議と周囲のことが分かってくる。

 やがて、右斜め後ろで座っているグウィンとヒューゴが、何かに反応して身じろぎしたのが分かった。

 

 冥界神の使者がやってきたのだ。

 

 サリヴァンは、呪文が途絶えないようにする。

 最初から、サリヴァン自身には質問はできないと想定していた。質問するのは、ヒューゴに頼んである。神々は芸術家を好むからだ。

 

 しかし、呼び出せたのは想定外のものだったらしい。

「貴女は……いや、あなた様は……」

 ヒューゴの驚愕する声が聴こえてくる。膝の上で丸くなっていたジジが、パチッと目を開けて身を起こした。ジジの金色の瞳を通じて、その姿が、サリヴァンにも見える。

 

 古めかしいドレスを纏った貴婦人だった。古い霊ではない。すくなくとも、百年は経っていないだろう。呪文を途絶えさせないよう注意しながら、サリヴァンはジジに頭の中で語り掛けた。

(……失敗ではない、か? )

(呼び出せただけ重畳じゃない? 血筋が仕事をしたね。まあ、これだけ血族がそろってるんだから、使者に親戚が来るのは当然か)

 

 ヒューゴには、死者の名前が分かっても、決して呼んではいけないと言い含めてあった。生前の名前は、現世へ引き留める(くさび)になってしまうからだ。

 

 貴婦人は、赤ん坊を抱くように腕に頭蓋骨を抱いていた。

(ヴェロニカ皇女に似ている)

 サリヴァンは思った。しかし皇女よりもずっとやせ細り、禍々しいほどの貫禄と、硬く冷たい美貌を持っている。身長も、皇女よりずっと低いようだった。

 

『……コネリウスの声がする』

 貴婦人は、ガラスのように震える高い声で言った。見えない瞳が、冥界の青い炎の色に光っている。

『……オーガスタスの血のにおいがする―――――そこにいるのは、誰? 』

 サリヴァンは、ヒューゴに『名乗ってはならない』とも言い含めてあった。名乗るのなら、サリヴァンのほうの名前を言ってくれとも。

 

「……ここにいるのは、コネリウス・サリヴァン・アトラス・ライト。コネリウス・アトラスの曾孫です」

『……まあ。そうなの……コネリウスの……もうそんな時が経ったのですね』

「……あなた様が亡くなってから、八十年近く経ちました」

『あら……わたくしのことを知っているのね』

「はい。恐れながら……」

 歴史に刻まれている偉人を前に、ヒューゴの声が震えている。ヒューゴにとっては、自分の語り部の前の主の関係者でもある。

 

 

『では、わたくしを呼んだあなたは、あたくしの玄孫、ということになるのかしら』

 

 偽りの女帝、大淫婦ユリア・アトラスは、死してもなお、腕にオーガスタス・アトラスを抱いていた。

 

 



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6 シリウス

 

 

 ひたり、ひたり、ひたり――――――。

 真っ暗などこかを歩いている。

 

 とつぜん自分の裸足が地面を踏んでいることを自覚して、少年は戸惑った。

 ここはどこだろう? と、今まで疑問にも思わなかったことを考える。

 ―———考えて、『考える』ということを、今の今まで忘れていたことに気が付いて、また、戸惑った。

 困惑する。————困惑するということを思い出す。

 足を止め、あたりを見渡せど、そこは闇が広がるばかりだ。

 

(ここはどこだろう)

 『自分』は、どうして『ここ』にいるのだろう。

(『自分』……は……—————? )

 

 『何』、いや……『誰』だ?

 

 よろよろと後ずさる。足裏は確かに、固く乾いた土を踏み、肌には生温い空気を感じている。

 けれど、何も聞こえない。……何も見えない。匂いもしない。こんなに土が近いのに。

 そこで、ふと。(自分は『土』を知っているのだ)、と気が付いた。

 同時に、草の薫りや雨の日のにおい、明かりに灯った火の薪のにおいを思い出す。

 

 ―――――『明かり』『家』『絨毯』『壁』『テーブル』『ティーカップ』『本』『ペン』……。

 記憶の断片は、水が溢れるように流れだした。

 ―――――『ベッド』『地下室』『ランプ』『花』『リリオペ』……『姉さん』。

 

『きょうだい』。

 

(ああ……僕は……死んだのか)

 『きょうだい』の顔は思い出せない。けれど、悪いものではなかったように思う。仲が良かったのだろう。

 頭の中にぽっかりと空いた穴が、現実感の無い、鈍い痛みを訴えている。

 何かをしなければ、と思っていた気がするが、それが何かも分からない。

 

(……とりあえず、進もう)

 ぼんやりとしたまま、彼は歩き出した。

 水のように隙間なく満ちた闇が、少年を再び迎え入れた。

 

 

 ✡

 

 

 ボウ、と、冷たい青い火が灯る。

 満ちた闇が炎の周りだけ退き、不毛の大地が照らし出される。

 

 まだ世界が丸く一つだったころ、とある三柱の兄弟は、王たる父から奪取した領地を、天空、海、そして冥界との三つに分けて、それぞれが統治することにしたという。

 長兄は天空という最も広い領地を、次兄は海原という命の源を。

 そして末の子は、不毛の冥界を。

 

 末の子は貧乏くじを引いたなどと云われるが、それは考えようによっては違う。

 世界の底たる冥界は、この世界と同じだけ広大である。

 植物はひとつも育たない不毛の地ではあるが、かわりに、あらゆる貴金属はこの冥界から生み出される。

 冥界の主になるということは、世界一の富豪になるということだ。

 地上の人々が有難がるあらゆる金属は、冥界を統べる者たちから借りているにすぎない。

 

 点々と道なりに青い炎が灯る。照らされた地には、そこかしこに大ぶりの石が転がっている。

 そのどれもが、地上では目玉が飛び出るほどの値が付く石ころだ。

 

 アイリーンは、やがて川岸へとついた。

 枯れ木のように地面から突き出た石のオブジェの下で、粗末な船と、人影がある。

 人影は、今にも揺らめいて消えてしまいそうなほど濃淡が無く、深く被った布の下の顔は闇に落ち込んで分からなかった。

 煙のようなその人物は、アイリーンが目の前に立つと、僅かに視線を上げる仕草をした。

 

「ここで何があった? 」

 〈立ち去れ。生者はここに来るべきではない〉

「私はここのことをよく知っている。死者がいないぞ。いつもなら満員御礼じゃあないか。どうした。教えてくれ」

 〈告げるべき言葉は一つだ。生者は戻れ。ここは死者だけが通る道。冥界は冥府の秩序によって守られている。生者に与える法は無いものと知れ〉

「分かっているともさ。しかし、生憎(あいにく)とまだ死ぬわけにはいかなくてね。

 こちらにも事情があるのさ。唯人(ただびと)が、こんなところに来られるわけがないだろう?

 どうか忖度して考えておくれ。

 ―――――なあ、四辻の神よ。旅人の守護神。冥府の渡し船の船頭よ」

 〈……………〉

 

 船頭は沈黙し、穏やかな紅茶色に戻ったアイリーンの瞳を、フードの下からじっと見つめている。

 〈……反乱が起きたのだ〉

 長い静寂ののち、船頭は口を開いた。

 

 〈……『審判』のため、我らが冥王は準備を行った―――――〉

 

 

 ✡

 

 

 

『冥王は『審判』のため、ひとりの霊を遣わせることにしたのです』

 ユリアは言った。

 

『わたくしも、始めて知ることでございました……。そも『審判』とは、神々が人類を試す最後の機会だと知ってはいましたが……その具体的な内容は、人々の誰もが知らなかった。

 『最後の審判』とは……。

 神々が与える、12の試練。

 『選ばれしもの』はその試練を乗り越え、天空の先にある神々の庭へと辿り着かなければならない。

 第一の試練『石の試練』は、冥王たちが与える試練。

 生者は石に。死者が蘇る。

 しかし、冥府は、その存在が在ってから一度も破られたことがない厳粛な秩序の国。その秩序を、この世の生末を定めるためとはいえ、一時歪めることとなるのです。

 ……そこで、冥王たちは、()()()()()()()()()()、滞りなく審判を終わらせなければならないと、ひとりの霊に、その管理を任せました―――――』

 

 

 

 ✡

 

 

 

 〈……その【女】は、()()()の霊だった。生前は力の強い魔術師だったそうだが、その力を発揮するより先に命を落とし、身寄りがないために冥界ですら寄る辺なく、ひとりぼっちだったところを、冥王の一人に拾われ、書記官として働いていた。

 しかし力も弱く、幼く死んだので赤ん坊のように無垢で、他の霊と同じように、生前の記憶がなかった。

 ()()()()()()()。少なくとも、冥王がお命じになるまでは()()だった――――――〉

 

 

 

 ✡

 

 

 

『詳細は、嗚呼……いいえ。存じませんわ。ただの亡霊の一人であったわたくしには、知る術がありません……。しかし、その霊が冥王に呼ばれて玉座へと行った、と知らされてすぐ、霊たちが騒ぎ始めました。

 その亡霊が、他の亡霊たちを集めて地上へ攻め入るのだと。生前の罪に縛られた悪しき霊も、その責め苦から解放され、その軍隊へと徴兵されていると……』

 

 

 ✡

 

 

 〈……霊たちにも意志がある。

 記憶をなくし、目的を忘れても、魂というものは忌々しくも意志がある。何もかも忘れているのに、すでに訪れている死を恐れ、戻りたいと渇望するものは数多い。

 『審判』には多くの霊が必要だった。

 頭数を揃える”建前”として、冥王は、女がすることを黙認した。数はあっというまに膨れ上がり、『その日』がやってきた〉

 

「審判の日か」

 

 〈どうやったのかは知らない。この境界()を守る私を、女がどうやって欺けたのかも分からない。しかし女は、その日よりもずっと前から地上へ行って準備を進めていたのだろう。そうとしか考えられない。

 その日、冥府を奈落の王アポリュオンの軍勢が襲った―――――〉

 

 

 ✡

 

 

『アポリュオンの蝗たちの好物をご存じ? それは地上にある、新鮮な命たち。文明が築いた、生命、装飾、道具、家畜たち。剥き出しの魂は食べられないのです。彼らは命あるものが好きだから、外側だけを食べて、中身は冥府へ戻っていくだけ。

 冥王は、アポリュオンを地上に上げるつもりは無かったと聞いています。彼らの役割は、『審判』が人類の敗訴で終わった後のこと。いよいよ人類を滅ぼすというときにだけ、アポリュオンの軍勢は地上へと出るはずだった。

 しかし、その女は、いつのまにか奈落の王たるアポリュオンを味方につけ、地上の者に手引きさせ、同時に混乱を起こしました』

 

 

 ✡

 

 

 〈冥王は、女に命じるとき、望む褒美を取らせると仰せでした。すると女は、言ったのです。

『その褒美、先にいただいてもよろしいでしょうか? 』

 思えば―――――うつろだった女の瞳に意志が宿ったのは、その言葉を発したときだったかもしれない……〉

 

 

 ✡

 

 

『何か、大切なものが、冥府の宝物庫から盗まれたと聞きました。それによって、冥王は女に手出しできなくなったとか……。

 そうして混乱のなか、霊の軍勢は地上へと侵攻を始め……ずいぶん多くの霊が便乗して地上へと付いていきました。

 冥界の神々も痛手を負って力を失い、姿を消したそうですわ』

 

 

 

 ✡

 

 

 

「なるほど。わかった。では、冥王どもはどこにいる? 連れて行ってくれ」

 〈……話を聞いていたのか? 冥界の神々は姿を消している。貴様がまみえるはずもない……〉

「そんなことはなかろうさ」

 アイリーンは、けろりと小首をかしげて言った。

「だって船頭、おまえはまだここにいるではないか。おまえも『冥界の神々』の一人だろうに」

 

 〈わたしはここにいたから混乱から逃れただけだ〉

「それでも、病んだ神々がどこに行くかくらいは知っているはずだろう。連れて行ってくれ」

 〈分からない……貴様、何者だ? なにゆえ生者がそのように大きな態度で……〉

 

 船頭は、はあ、と呆れと困惑を交えた溜息を吐いた。アイリーンは片眉を上げ、「連れて行ってくれないのか? 」とにやついている。

 

 〈……恐れは無いのか貴様〉

「そんなものは不要だ。こと、わたしにとっては、生きづらくするだけだからな」

 〈豪胆だな。呆れ返る。恐れこそ原初の本能だ。恐れを忘れたものから滅んでいく〉

「思い切りも大切だろう。決断することが多い立場なんだよ、わたしは」

 〈……決断か。久しくしていないな。そこまで言うなら、いいだろう。おまえの度胸に免じて不問に付す。……ついてこい〉

 

 船頭は外套をひるがえして歩き出した。

 いつしか煙のように頼りない人影はなく、アイリーンの前を歩くのは一人の旅人になっている。腰に下げた短刀の鞘と薬袋が揺れ、フードはつばの広い帽子に変わり、顔に影を落としていた。

 右手にたずさえた杖もいらないほど軽快な足取りで、旅人は先導する。

 川は消え、一本の街道がある。未知の端には、青い炎を灯した街灯が、等間隔にまっすぐ伸びていた。

 

「……ああ、そうだ。四辻の神よ。尋ねたいことがある」

 〈まだ何かあるのか? 〉

「男の子の亡霊が通らなかっただろうか? とても小さくて……手負いの少年の亡霊だ」

 〈……いいや。それらしきものは見ていない。それは? 〉

「まだかすかだが、たしかに輝く希望の【星】さ。……見つけて連れて帰ってやらなくてはな」

 アイリーンは、細いため息を吐いた。

 

 

「……それが、せめてもの贖罪だ」

 

 



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6 絶望の紅い花

 ✡

 

 

 〈……贖罪? どういう意味だ〉

 旅人はアイリーンに尋ねた。

 

「そのままの意味さ。わたしは罪を犯したが、それは誰にも裁かれることがない。罪だと思っているのは、わたし自身だけなのだ」

 アイリーンは溜息を吐いた。

 

「そのとき……わたしの心はまだ幼く、人の心というものを分かっていなかった。不用意に預言などするものではない。わたしの言葉ひとつで、その男は、生まれてくる息子たちに対して道に迷った。わたしは、一人の運命を変えるということが、必ずしも幸福を招くわけではないと知らなかった……いや、本当の『幸福』というものを、まだ知らなかったのだ」

 〈無知ゆえに傷つけたのか〉

「そうだ」

 アイリーンは大きく息を吸った。

 

「―――――それは、死の預言だった。わたしは、まだ生まれてもいない息子が、若くして死ぬという預言を与えた。父は、息子たちがその年に近づくたびに怯えていたのだろうね。人間の心は柔らかいから、父親は怯えるたびに傷付いたのだろう。結果的に、父親は息子たちと決定的に溝を残したまま死んでしまった」

 〈探している男の子というのは、その息子か? 〉

「そうとも。……父の愛が届かなかったまま死んでしまった息子のことさ」

 〈……胸に痛いな〉

「そうだね。あなたなら、分かってくれると思っていた。わたしは罪人だろう? 」

 〈罪人かは別として、神であっても忘れるべきではない出来事だろうな〉

「忘れないとも。だからわたしは冥界(ここ)に来た。誤解したままでは、あまりに可哀想だ。まだ間に合うかもしれない。せめて一目でも、冥界の門をくぐって全てを忘れてしまう前に」

 〈……それだけか? 〉

「それとついでに、冥界神たちの尻を叩きにな」

 〈ふふ……〉

 旅人は小さく笑った。

 〈その子供の名を、なんという? 〉

「協力してくれるのか? 」

 〈わたしは最初から協力的だったろう〉

「そうだな。『混沌の夜』のときも、きみは太陽を取り戻すため、我々に手を貸してくれたね」

 〈……『混沌の夜』のとき? 〉

 旅人は足を止めた。

 

「おや、まだ気が付いていなかったか。きみは太陽奪還の作戦で、みごとにダブルスパイをやってのけた。親友である、あの派手好きの太陽神のためにね。あまりに懐かしい話だったから忘れたか? 」

 まじまじと、帽子の陰から視線が注がれる。

 旅人は、肺を絞るように肺から息を吐きだした。

 

 

 〈……な――――――なんッたるッ、ことだッ!!! 〉

 

 

 

「大きな声を出すな」

 

 〈なぜ早く言わないのですか! あ、あ、あな、あなた、あなたさまは……〉

 

「まあ待て。慌てるな。今のわたしはしがない……しがない……? なんだろうな。……ああ、そう、しがない通りすがりの兼業主婦だ。趣味で王様をやっているが、ふだんは自宅で夫と娘の帰りを待っている。このままでは世界ごと不味いことになりそうなので、はるばる冥界までやってきたのだ。どうだ、これで分かりやすかろう? 」

 

 〈……そっ、ええ……うう……ぐぅう……〉

 ついに頭を抱えてうずくまった旅の神に、アイリーンは首をかしげる。

 

 

「どうした」

 

 〈……ああ、いや、昔のことを思い出しました。そうでした。あなたはそういう方だった。しかも昔より酷くなっている……〉

 

「すこし平和ボケしたのさ。結婚は人を丸くするものだ。一般的にそうらしい」

 

 〈……ああぁ〉

 

「その『ああ』は溜息か? 相槌か? 」

 

 〈私には荷が重くて、あなたのトンチンカンにはもう突っ込めません……勘弁してください……あの魔女とかいう娘はおらんのですか〉

 

「ンなもんとっくに死んでいるに決まっとろうが。わたしが虐めたみたいな言い草だな。失敬だぞ」

 

 〈あぁ、よく喋られるようになられて……ほんとうに昔より酷くなっている……。

 あのですね、サプライズのつもりですか? 神々に会うのにアポイントを取らない? なぜ? そうすればこんな回りくどいことにならずに、わたしが叔父上に直送で話を通して………まさか! 何か名乗りを上げてはならぬという呪いでも? 〉

 

「その手段が無かっただけだ。冥界にどうやって手紙を出せと? 」

 

 〈……ああ、はい。ですよね……〉

 

 旅人はがっくりと肩を落とす。アイリーンは腰に手をやり、昔馴染みを急かした。

 

「こちらは急いでいるんだ」

 

 〈……ああ、はい。はい。わかりました。わかりましたとも……あなた様の要求は、少年の亡霊を探すことでしたね? 〉

 

「それは第一目的だ。第二目的は、地上を襲った『死者の王』とやらの情報になる」

 

 〈それを冥界の王たちに尋ねにきたと? ……恐れながら、混沌の姉君。それはいささか遠回りですよ〉

 

「遠回り? では、もっと良い方法があると? 」

 

 〈もちろんですとも。この私にお尋ねくださればよろしい。先ほどは地上の迷子かと思って伏せましたが、あなた様でしたらば、詳らかにお答えする用意がございます。少なくとも、第二目的は達成できるかと〉

 

「なんだ。回りくどいな」

 

 〈……どの口が〉

 

「ん? 」

 

 〈いいえ! 何がお知りになりたいので? 〉

 

「そうだな……まずは、冥界から盗まれたというものだ」

 

 アイリーンは、その場で胡坐をかいた。火傷の痕がある指で顎をなぞり、上目遣いに旅の神を見やる。

 旅人は肩をすくめ、外套を地面に敷くとその上に腰を下ろした。

 外套の下から現れたのは、彼本来の『神』としての、杖をたずさえた姿だ。

 帽子を取った頭には黒髪が茂り、理知的な黒い瞳が彫りの深い鼻筋の両側に収まっている。現代ではほとんど裸と謂ってもいい布一枚の装束に、純金の金具が光った。蛇が巻き付く杖を傍らに、男神は口火を切る。

 

 〈盗まれたのは、【最も古き魂】にして【最古の死者】です〉

 

「やはり狙いは【黄金の子】か。それを手に入れて、何ができる? 」

 

 〈何も〉

「何も? 何もと言ったか」

 

 〈ええ、『何も』できません。少なくとも私には、その価値を見出せない。【黄金の子】の自我は何万年ものあいだに擦り切れ、ただの亡霊よりも脆く、小さい。そもそも、生まれてから大した経験をしていませんからね。人間は代を重ねて学び、成長することを目的として創られた生物です。【黄金の子】は、今地上を支配している【鉄の人類】に、宿る魂の質も大きさも何倍も劣る〉

 

「まあそうだろうな。では、目的は利用することではないのかもしれない……」

 

 〈……? 利用する以外に、何がありますか。ものは使いようと言いますし……〉

 

「『もの』ではなかろう? 盗まれたのは『人』だ。もしかしたら、『手に入れる』こと、そもそもが目的だったのかもしれない」

 

 〈『手に入れて』それで、どうするのです〉

 

「さあ? しかしヒトは、そうしたことをするものだ。飾るか、愛でるか……愛するか。可能性はある。おまえなら、どうしたい」

 

 〈コレクションするというのですか? 〉

 

「可能性の話さ。人は愛することを『手に入れる』という。おまえの父君や親友の太陽神も、よく同じようなことをしていただろう? 」

 

 〈……あの亡者は、【黄金の子】を『愛する』ために攫ったと? 〉

 

 

 

 ✡

 

 

 

 ―――—胎動する。

 ―――—目覚めようとしているのが、()()()

 

 ―――—かの御方は微睡(まどろ)んでいる。

 

『魔術師』はにっこりと笑んでいた。

 冷たい冥界の風が、彼女の髪を撫でる。

 冥界の奥深く、石でできた森の中、小さな黒い泉があった。

 そこには触れた亡者が求める現世のようすが写るという。亡者たちを癒すために古き魔法がかけられたまま、誰もから忘れられた泉だった。

 

 しどけなく少女の裸をさらして泉を覗き込む彼女の髪が、泉から流れ出した小川のように、長々と地面に波打っている。

 褐色の肌には傷ひとつ無い。生まれて来たばかりのように艶めかしい。

 

 

 

「アルヴィン・アトラスは、三つに別たれた……」

 

 

 

 黒い泉に映るのは、醜悪な奇像である。

 黒鉄でできた歪な卵のようなもの。

 それは彼女にとっては正しく卵だ。

 沈黙を保つその中に、彼女が恋焦がれた御方が()()のだから。

 

 

 

 

「頭蓋骨は、ジーン・アトラスへの生贄に。

 

魂は、無力と絶望にまみれて重くなり、肉体から剥がれ落ちた。

 

首から下は、あの御方のために。

『混沌の泥』を含んだ語り部の銅板は、おもいのほか良い材料になった……これであの御方の体は、『泥』によって常に万全に保たれる……」

 

 

 

 長い舌で唇を舐め、魔術師は待ちきれないというように、そわそわと両の手を擦り合わせた。黒光りする鋭い爪が、お互いにカチカチと音を立てる。

 

 

「嗚呼……! 待ちきれない……っ! もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ、貴方に逢える……っ! 」

 

 キャッキャッキャッと、少女は手を打ち鳴らして笑った。

 

 ―――――冥界の奥深く、石でできた森の中。

 黒い泉に、魔術師の無邪気な笑い声が響く。

 

 



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6 絶望の紅い花

 空が暗い。

 空気が生温い。

 砂ぼこりで空気が淀んでいる。

 

 キンッ―――――甲高い金属音の悲鳴を上げて、ジーンの腕の中にある剣の切っ先がついに折れた。

 一息つく間もなく、灼熱に赤く染まった脚が迫る。腕が、頭が、ジーンを狙う。

 

 ジーンの戦闘技術は、さして高くない。生前、体の弱かったジーンは、そうしたものは丈夫な弟に丸投げしていた。

 身に着けたのは、最低限の身のこなし。剣の振り方の基礎の基礎。

 

 しかし死者の身体とは不思議なもので、生前あんなに思うように動かなかった脆い身体が、ひどく軽く、思うがままに動かすことができる。

 今のジーンは、過去に本で読んだ理論と、記憶にある猛者の動きを再現して、なんとか灼銅の怪物(アルヴィン)の攻撃をかわしていたのだった。

 

 ジーンの卓越した観察と、冷静な判断力がなければできない所業。

 ————()()も、生者のままのジーンなら、難しかっただろうと、彼は思う。

 死者ゆえの、痛みには動じないこの身体があってこそ、ジーンは冷静に体を動かすことに専念できる。

 

 

 空気が淀んでいる。

 ――――血肉が焼ける、いやな匂いがする。

 

 ――――ここにこの怪物を引き留めておかなくては。

 

 ジーン・アトラスは、なんとしてでも、臣民をアルヴィンの前にさらしたくは無かった。

 理性を失くした腕が、フェルヴィンの民に振り下ろされるということは、この幼い皇子の未来を決定的に閉ざすことになると確信していた。

 

 武器を失くしたジーンを守るため、レイバーンの……『皇帝』の持つ権能、スート兵と呼ぶ鉄人の兵たちも、主人の采配によってジーンを援護している。

 折れた剣を投げ捨てると、迫るアルヴィンの前へと体をねじこんできた『女王(クイーン)』の鉄人兵にあとを任せ、ジーンは鉄人兵の間を縫ってレイバーンのもとまで下がった。

 

 黒光りする巨体の群れを抜けると、青い炎にほの明るく照らされた強張った貌の老人が、揺れる眼をジーンに下ろす。

 喘ぐように、もはや年上になった甥は―――――血縁上の弟は、ジーンに言った。

 

「まだ……まだ、あの子を苦しめねばならぬのですか……! 」

「ここに足止めするんだ! 城下に行けば、この子はたやすく命を奪う。そうしたら……せっかく体がもとに戻っても、この子の心は大きく傷つくことになるだろう! 」

「アルヴィン、なぜ! あの子は虫も殺さない性格だった! 格闘技なんて、ひとつも知らないはずなのに……! 」

 

 ジーンは喉の奥で唸る。

 

「格闘技の経験がない……? それはおかしいぞ、レイ」

「しかし(まこと)のことです。アルヴィンは体が小さく、喘息持ちで、身体を動かすことには向いていなかった。本人も勝負事には消極的で――――」

「ならば、あれはなんだ!? 鉄人兵たちを12体相手取る、あの動きは!? ああ……しまった。外側に騙されて、わたしたちは大変な勘違いをしていたのかもしれない! 」

「ジーン叔父上! しかしあれは、確かにアルヴィンです! 」

 

 青く燃える瞳が、レイバーンを鋭く射貫く。

「……父親が言うのだからそうだろうとも。外側は、な」

「外側……? 」

()()のいくらかは違うかもしれん」

「魂ということですか」

「そうだ。いや……単に操られているのか……? 今のままでは、ひとつも分からぬことばかりだ」

 ジーンは頷いた。

 

「すべて仮説だ。確証はない……。レイバーンよ。俺はそれを確かめるぞ。それには、ここを離れなければならない。おまえはどうする? 」

 ごくりと老人の痩せた喉が鳴った。瞳が、より深い悲しみに染まる。

 

「……わたしが、息子を封じましょう」

 

 擦れた声を振り絞り、レイバーンは言った。

 

 

 怪物と化した少年の、その小さな身体を、鉄人兵たちの体が呑み込んでいく。

 長く長く、天井の大穴をつたって空にまで轟きそうな、甲高い金属音に似た悲鳴は、やがてぷっつりと途絶えてしまった。

 

 あとに残ったそれは、悪夢のようなオブジェだった。

 レイバーンはひとり、その前に跪いている。

 

 空が暗い。

 すべてが(くら)い。

 

 レイバーンの胸の内も、我が子たちの未来も、この国の生く末も―――――。

 

 破壊されつくした地下の大聖堂を支配しているのは、静寂と黒。

 

 黒鉄でできた無数の腕足が、溶けて絡まり合いながら溶接されている。

 天井に触れるほどにまで膨れ上がった歪な黒いドームは、奇怪なものを宿す卵のようでもあった。

 その中に飲み込まれた我が子を(おも)い……。

 死者となってしまった自分を、想い……。

 

 腹がすくことも無ければ、眠くなるということも無い。

 一日か、二日か……。

 レイバーンは、時を忘れたように、ずいぶんと長く、黒鉄でできた悪夢の前にへたりこんでいた。

 

 

 

 ……音が聞こえたのは、そんなときだ。

 

 

 ✡

 

 

 ヒューゴは唾を飲む。

 今、再び、この講堂へと足を踏み入れようとしている。あれが遠い昔のようだ。

 荘厳なあの石の扉は、片方が外れて横たわっていた。

 扉に刻まれた巨神アトラスも倒れ伏している。踏み越え、暗闇と静寂に包まれた地下の講堂へ、サリヴァンを先頭にして、グウィン、ヒューゴと踏み入れる。

 魔人たちは、それぞれの主の影へと消えている。影の中からようすを伺っているだろう。

 

 すでに講堂は見る影もなかった。天空を描いていた天井には大きな穴が空いて半分が崩落し、あの白く磨かれた美しい床は、砕かれ斑に残るのみ。

 柱は倒れ、アトラスの巨像も打ち倒されて、三つに砕けている。

 

 しかし、三人が動揺したのはそのありさまにではない。

 中央に鎮座する禍々しい黒鉄の奇像と、その前に座り込む、老人の亡霊の姿にだ。

 背を向け、奇像を見上げている姿は、拝礼のようすにも似ている。

 しかしここは、もはや神聖な場所では無く、悲劇のあとの残骸になってしまった。

 

 その奇像は、黒鉄でできた無数の手が、足が、胴が、頭が、絡み合い、溶けあって、ひとつの大きな塊になってできている。

 あまりに醜悪。

 埋め込まれた顔たちが、穏やかにも見える無表情だというのが、逆に異様さを際立たせている。

 

 サリヴァンがグウィンと視線を交し、頷いた。……亡霊と対話を試みても良い、という合図だ。

 

「父上……? ここで何が――――――」

『—————あらまあ、なんてことなの』

 

 父に向かって踏み出し始めたグウィンのすぐ横を、一人の亡霊が追い越していく。

 レイバーンに向かって歩みを止めない後ろ姿に、グウィンは一瞬あっけに取られて次に出す言葉を呑み込んだ。

 

「―――――ユリアどの! 儀式の後にお帰りになったはずでは! 」

 グウィンを遮るようにして、サリヴァンが前に出て叫ぶ。ユリアはくるりと振り返り、薄暗く笑って見せた。

 

『……あらまあ。ようやくちゃんと言葉を交わせましたね。コネリウスの曾孫の……サリヴァン……だったかしら? 大丈夫。あなたはキチンと、手抜かりなく儀式を終わらせました。……けれど、ここで大人しく導かれるまま冥界へと帰るのは……そう、あまりにも。()()()()()()。そうでしょう? 』

 

 悔し気にサリヴァンは呻く。

 

(ここは今、限りなく冥界に近づいた場所……! 利用したつもりが、呼び出した亡霊に利用されるなんて……! )

 

「ユ……ユリア、伯母上……? 」

 ぎくしゃくと、レイバーンが立ち上がった。

 ユリアはレイバーンの方を向き、目を細めて微笑んでいる。その腕に抱かれている頭蓋骨を目にして、レイバーンは瞬時に、その意味を悟り、強張った顏をさらに引き攣らせた。

 

「あ……あなたまで現世へ呼び戻されるとは……! 」

『あらレイバーン……わたくしにそんなに会いたくなかったの? 』

 

「…………」

 レイバーンは言葉を失くした。

 レイバーンにとっては、実父を堕落させた女であり、母を修道院送りになるよう仕向けた黒幕である。すべてを知ったとき、レイバーンは幼すぎ、ユリアはすでに病床の身であった。

 しかし反面、堕落しきっていた宮廷の手綱を握り、第一次世界大戦で混沌とする上層からの圧力から国を守り抜いた、政治家としてのユリアの実力は審議するべくも無く高潔だったと、レイバーンは思っている。

 ジーン・アトラスは英雄だったが、その素質は、まぎれもなくユリアから由来されるのだ。

 

 そしてその血は、この目の前の少年にも――――――。

 

「……複雑ですな。しかし光栄です。あなたが築いた歴史がなければ、今のこの国は無かった」

 穏やかにレイバーンは言った。

 

『あらそう……。ふうん、つまらない答えだこと。拍子抜けしたわ。あなた、あまりオーガスタスには似ないまま大きくなったのね。そういう張り合いの無いところ、あなたの母親そっくり』

「そうですか……」

『ええ、そうよ』

「……しかし不思議なことに、わたしはあなたを恨んではおらぬのです。恐ろしいあなたは、わたしが恐ろしいと思ったときには、もうおりませんでした。わたし自身には何事も無く育ち、それなりの幸福を得ました』

 レイバーンの目が、ユリアと、サリヴァンより向こうで息を潜める、二人の皇子たちを見る。苦いものを含んだように、息子たちは奥歯を強く噛み締めた。

 

「……わたしにとって、あなたは過去の偉人でしかないのです」

『そう、なの……? 』ユリアは、腑に落ちないというように首を傾げている。

「わたしも驚きましたが、どうやらそのようですな。……わたしはあなたを恨んでいない」

 

 穏やかに頷くレイバーンの前に光の粒が集まり、語り部ダッチェスの姿を取った。

 ユリアから守るように立ったダッチェスは、透き通って金色に輝いている。

 

「……ユリアさま。あなた、あたしの(あるじ)を、わざわざ冥界から苛めに来たの? 」

 

 ユリアの目が丸くなった。ユリアは、あたりをゆっくりと見渡す。

 その目に、崩落した講堂と、瓦礫の中で見つめる生者たちの姿が映った。

『……ふふ、あはは! 』

 

 ユリアは大きく口を開けて笑った。

『あははははははは! わたくしが、過去の人ですって! 時は流れるものなのねェ! おっかしいの! ちょっとした好奇心だったけれど、この様子じゃ、これ以上面白いものは無さそうね! ねえ、オーガスタス! あなたもそう思うでしょう? 良いわ、大人しく帰りますとも! みなさんさようなら! うふふ……はははははははは、はははははは――――――』

 

 青い炎をまとい、ユリアの亡霊は灰色に透き通って暗闇に消えてしまった。

 甲高い笑い声の残響も消えてしまうと、レイバーンは疲れたようすで首を振り、今度こそ、近寄る息子たちに向き合う。

 

「……すまなかったな。サリヴァン、きみも……」

「いいえ、陛下。巻きこんだと思われたのなら、それは違います。おれはきっと、爺さんの代わりでもあったんです」

「ありがとう。……今更だが、きみに会えてとても嬉しい。息子たちを助けてくれてありがとう」

「お約束は、果たせましたか」

「ああ……。確かに果たしてくれた」

 レイバーンは目を閉じて頷いた。

 

 

「……グウィン、ヒューゴ」

 そして目を開けた時、レイバーンの青い瞳は、冷徹な皇帝の瞳に戻っている。

 

 

「―――――よくぞ無事に戻った。話すことがある」

 



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6 シリウス

 

 

 レイバーンと離れたジーンは、冥界の土を踏んでいた。

『アルヴィン・アトラスの魂の所在を確かめる』()()は、ここしか浮かばなかった。

 死者の目に、この世界は淡く青い燐光をまとって見える。

 荒涼とした黒い大地が広がり、石でできた木々がまばらに生えて宝石の実をつけていた。

 

 冥界は広大である。

 果てしないその大きな空洞を、あまたの『死』を司る神々が区画ごとに管理し、それぞれの法で信者の魂を裁いている。

 死者の魂は裁判によって区別され、様々な流れをたどることとなる。

 そこにあるのは、絶対的な秩序だと云われるが、例外もある。

 

 神々は英雄と悪人が好きだ。歴史に名を遺した魂を、ことさらに好む。

 お眼鏡に叶えば、冥府にある彼らの宮殿へと仕えることが許される。あるいは、箱庭のような場所で、永遠に望むままの生活が与えられる。あるいは、次に生まれ変わるときに気まぐれに願いを叶えてもらうこともできる。

 待遇は、信仰する神々によって様々だ。

 共通するのは、生前の行いは死後に反映されるということ。

 死の先の安寧を求め、さらなる生へと挑む魂もいる。

 輪廻転生を望む魂は、次の裁判で、裁かれる神の名を選び、次の人生での試練に挑む。そうしてまた冥府で裁かれるのである。

 

 死は終わりではないということは、冥府を訪れて初めて分かる。

 ジーンは地上に呼び出されるまで、ジーン・アトラスという名と記憶を持ったまま、この冥府の端にある十字路に佇んでいた。

 英雄として歴史に刻まれたことを笠に着て、十字路で待ち人を探すことを交渉したのだ。

 

 ―――――冥府にやってきてから、およそ六十年余り。

 

 待ち続けていたのは、双子の弟コネリウスであった。

 ジーンの魂には、死しても消せなかった弟との再会という望みが刻まれている。

 

 『魔術師』には、それを利用されたのだ。

 ジーンの魂は、まんまと血族の頭蓋骨を使って釣り上げられ、このざまになった。

 

 遠い異国、ジーンの知らぬところで、今も子孫たちと穏やかに暮らしているだろう弟を、百年でも二百年でも待つつもりでいた。待つ時間は長ければ長いほどいいと思っていた。

 

 それなのに、待ち続けたジーンの心は孤独に倦んでいたらしい。

 

(城の前で聴いたあの声は……コネリウスの曾孫の声だったんだな)

 記憶に染み着いた弟の声そのものであったことを思い出す。再会の錯覚に一瞬震えが奔ったほどだった。

 あの声でようやくジーンは自覚したのだ。

 しかし死者が生者と現世で再会するなど、けっして望んではいけないのだと、ジーンは自らを強く戒める。

 

 ジーンの中には今、現世との楔としてアルヴィンの頭蓋骨がある。

 この冥府に、たしかにアルヴィンの残り香を感じている。

 

(アルヴィンよ。お前は今どこにいる……! )

 

 

 ✡

 

 

 少年は困っていた。

 行けども行けども暗い場所が続いていたから、まるで記憶にある『あかり』という概念こそが、夢か幻のように思えてきていた。

 闇は深く、底がない。足裏に感じる砂利の感触だけが、少年の存在を確かなものにしている。

 前に進むだけ足を止めずに歩いてきたが、このままでは、この闇に融けてしまいそうなほど退屈だった。

 

 そんな退屈の旅路に終わりが訪れるのは、唐突のことだった。

 

「そこにいるのは……誰だ? 」

 少年の暗闇にはじめて聞こえた声は、困惑の色濃く少年に尋ねた。

 足首に触れる空気の流れが変わり、その者が少年の前に立ったのを感じる。吐息の音を頭上のずっと上のほうから聞き、(ずいぶん背の高い人なんだな)と思う。

 

 その人物は「ハァ……」と、溜息のような吐息を少年に浴びせかけた。生臭い吐息は、生きるものの臭いがしている。少年は首を背けようとして、ようやく、自分がそれをできないことに気が付いた。

 

「喋れないのか? ……無理もない。その様子ではなぁ」

 いったい自分はどうなっているのだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ここまで歩いてきたのか? ……そうか。足は……あるんだな。手もある。ほら、ここだ。わかるか? 」

 

 そっと、『手』が握られた。いや、『握る』というよりは、下から持ち上げるようにして、『乗せてもらった』というのが正しい。

 指先を動かしてザラザラした『それ』に触れ、かすかな体温に、それがその『人』の一部なのだと知った。

 

「こら、くすぐったいだろう」

 声が笑う。

 触れているのは、鱗が生えている大きな手『の、ようなもの』だ。

 

 少年の胸に何かがよぎる。思い出したのは、『恐怖』—————しかし、この手を離す理由にはならない。

 鱗のザラザラが少年の手の甲をそっと撫でる。

「こんなに小さいのに……かわいそうに。おいで、おちび。おまえの魂を、あるべき場所へ導いてやろうね」

 

 少年は怪物とともに歩き出した。

 少しだけ怖い。

 しかし鱗の手は、少年にとって最後のよすがだ。

 怪物は、いくらも歩き出さないうちに、ハァハァと荒い息の音を立てた。尋ねるように鱗をさすると、「優しい子だね。大丈夫だよ」と、笑った気配がする。

 

「ハァ……ハァ……フウ……ハッ、ハッ、ハァア……」

 少年は知っていた。これは、苦痛をこらえるときの息の仕方だ。

 

(そう、確か、お父さんが一度、こんなふうに倒れたことが―――――)

 

 

 その時だ。

 

 

「止まれ! アポリュオン! 」

 鋭い声が、少年と怪物を遮る。先導する怪物が足を止めたので、少年も立ち止まった。怪物が獣がするように喉を鳴らして全身に怒気をまとう。

 

「―――――ジーン・アトラス……! 」

 怪物が口にしたのは、少年の全身を強張らせる効果がある単語だった。

 

「アポリュオンきさま、どこへ行く? 『魔術師』のもとへ戻るつもりか! その子を連れて! 」

「貴様と交わす言葉は無い。この擦り切れた魂は、しかるべき冥府へ届ける途中だ! 」

「…………」

『ジーン』は沈黙した。少年はそれがひどく不気味に思え、怪物に身を寄せる。

 すると、ジーンは溜息をつき、声から険を取って言った。

 

「……アポリュオン。その擦り切れて融けてしまいそうな魂が、いったい誰なのか。分かっていないのか? 」

「……何? 」

「その子をこちらに。その魂が行くべき場所は、まだ冥府にはない。その子は私の甥子なんだ」

「……なんだと? 」

 視線を感じる。怪物から、はじめて冷たい感情が伝わってくる。

 怯えて鱗の肌から放そうとした少年の手首を、横入りから三番目の手が掴んだ。

 

「待ってくれ。行かないで。きみを見つけられなくなる」

 切実な響きが込められていた。

「おまえの父さんや兄さんが待っているんだ」

 

「無駄だ。声を出せない。自分がなぜここにいるのかも分かっていない。この様子だと、自分のことも、このアポリュオンのことも、お前のことも分かっていない」

「…………」

 『ジーン』はまた黙り、それから、小さく「そうか」と言った。

 

 



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6 絶望の紅い花

 

「ジーン。こんな小さきものを、どうしてこれ以上(さいな)む必要がある? さあ、おちび。行こう」

「アポリュオン……おまえは何故、この子を」

「このアポリュオン、黙示録に記されし『文明を食らう者』だが、魂までをも傷つけようとは思わぬ。いずれ滅びるさだめとしても、この小さきものたちを憎んでいるわけではない」

「……ならば、なぜ『魔術師』に(くみ)した……! おまえが『魔術師』に手を貸し、冥府の門を破ってフェルヴィンに来なければ、今頃この子やその父親も―――――! 」

「…………」

 

 アポリュオンは黙って、少年をうながすように歩き始めた。

 

()()()()()! おまえは『星』だ! 『星』に選ばれたのだ! 」

 

「……行こう。おちび」

 

「『星』よ! 『星』よ!!! 頭蓋骨は必ず返す! 地上に希望はまだある! おまえの兄が、父が、姉が、おまえを待っている! 」

 

「…………」

 

「おまえの物語は終わっていない! まだ引き返せるんだぞ! 」

 

 少年は温かい鱗の手を振りほどき、暗闇の中を駆け出した。

「おちび! 」

 

 

 アルヴィンは叫ぶ。

 

「でも『星』なんて別の人がやったらいいじゃないか! 」

 

 

 ジーン・アトラスは、アルヴィンに向かってすかさず反論した。

 

「お前が最初に選ばれたことに意味がある! 『星』とは指針! 希望の道しるべという意味だ! おまえにはこの広大な世界の誰よりも、その役目の素質があった! 」

 

「地上は苦しいことしか無い! 」

 

「それは嘘だ! おまえは兄姉(きょうだい)に愛されていた!

 語り部にも! 」

 

「そうさ! 分かってるよ! だから……だから、逃げたんだ……! 」

 矢継ぎ早に言葉が飛び出す。

 

「死ねば楽になると思った。ずっと眠ったまま眼が覚めなくなればいいと思ったのは、一度や二度じゃない。姉さんを苦しめてるのは僕だ。父さんを兄さんが責めるのは僕のせいだ。父さんには幻滅された。一番上の兄さんは、結婚するのに、僕といるとき気まずそうにしている気がする。幸せを心から喜べないのは僕のせいだ。全部……苦しいことは全部……! 僕はもう、忘れたい……! 」

「それでも、おまえは英雄になるさだめにある」

「そんなの出来ない……英雄なんてなれない。僕なんか……」

「英雄はとつぜん英雄になるものだ。運命はとつぜんやってくる」

「それは……暴走車、みたいに……? 」

「そうだ! 」

 

 目を手で覆う。涙が出ない体になってしまって、これほど良かったことはない。

「ぼくは……いろんなものが、足りなくて」

「そんなもの、取り返せばいい。この私からも、あの『魔術師』からも」

「そんなの、できないよ……」

「頼む。この通りだ。アルヴィン。できないことはないのだと言ってくれ。地上にあるものを信じてくれ」

 ジーンは、アルヴィンのもとに跪き、その足の甲に額をつけるほど頭を下げた。

 アルヴィンは身を固くして後ずさる。ジーンは身じろぎもしなかった。

 

「……おまえは手前勝手なことを言っているな、ジーン・アトラス」

 アポリュオンが、ジーンを見下ろして言った。

 

「子供は絶対的な希望だ! 子を亡くしたものが、幼い弟を亡くすことが、どんな絶望かを知っている! ああ、子孫を遺さなかった俺が言えた義理ではないことは分かっているとも!

 これからのアルヴィンの未来に、これ以上の苦難が待ち受けているかもしれないと、そう思っていながら――――ああそうさ……! 俺は勝手なことを、小さな甥っ子に押し付けている!

 これは俺のエゴだ。死に向かう子供なんて見たくないんだ! アルヴィン、頼む。聞き届けてくれ。

 ともに地上へ戻ってくれ。これ以上、俺は、俺の家族が悲しむ姿を見たくない。

 そんなものを見たくない……! 」

 

「ぼく……ぼくは」

 

「どこまで勝手なことを押し付けるつもりだ! 」

 アポリュオンが叩きつけるように吠えた。

 

「このちっぽけなやつが、何を出来ると!? 戦うこともできない子供だ! それも魂だぞ! 恥ずかしくはないのか! 」

 

「わかっているのとも! この子の弱さも、この子の抱える悲しみも、全部見てきたことだ! 」

 

 ジーンは言った。

 

「……冥界の深く、石の森の中に、黒い泉がある。何かを忘れそうになったとき、おれはそこを覗き込んだ。おれはそこで、おまえの姿をずっと見ていた。……アルヴィン、あのときほど、歯がゆさを感じたことはない」

 ジーンの顎から雫が滴った。

 

「……おまえの姿がそうなるのも、無理はなかった。おまえは魔術師によって頭蓋骨を奪われ、語り部の銅板にこめられた『混沌の泥』によって蘇ったが……お前の声を目の前で聴いて、おれは確信をしたよ。おまえに何が起こったのかを。そしてそれが、『魔術師』の狙いだったということも。

 

 お前の中には、神の血が入っている。それだけでなく、龍の血も、いにしえの巨人族の血も、獣人も、人間も、古い魔法使いたちの血も流れている。

 かつて、フェルヴィンの地には、多くの罪人たちが住み着いた。

 彼らは地の深く、世界の果てにいた流刑者たち。アトランティス王国をはじめとした、罪ある行いをした国々の、王や姫君、その側近たちだった。

 彼らは、流刑地にいたからこそ、『混沌の夜』を生き残り、魔女の隊列に加わって、すべてが終わったあと、また地の果てで国を創ったんだ。それがフェルヴィン皇国の起こりだった。

 

 ……アルヴィン。ゆえに、お前とその兄弟の身体には、『鉄』の人類だけでなく、それよりずっと昔、『銅』も『銀』の欠片も、多く流れている。

 そして、多くの古い血が流れているということは、『黄金の人』が遺した灰も、地上の人々よりも、多く体に宿しているということだ。

 

 ……『魔術師』は、きっとおまえたち兄弟の誰かなら、それで良かったのだ。しかし、お前が選ばれたのは……お前がひときわ純粋で、弱っていたからだ。

 お前の魂は、いまだ傷を残し、血を流している。『魔術師』は、その血の匂いを嗅ぎつけた。

 

 『魔術師』にとっても、お前が『星』に選ばれて蘇ることは、予想外の出来事だったはずだ。

 だから魔術師は、生贄ではなく、『星のアルヴィン』としてのお前を、手に要れなくてはならなくなった。

 ……お前は暴力を嫌ったね? 『魔術師』は、そこに付け込んだのだ。

 

 『魔術師』は、その魂により傷をつけ、『星』の選ばれしものの体を手に入れようと考えた。

 ……高貴なる血が流れる肉体だけを。『選ばれしもの』の宿命をもつ肉体を。

 

 『魔術師』の目的は、『黄金の人』を復活させ、この世界に復讐をすることだ。

 あの女は、人類を憎んでいる。のみならず、神々も、世界そのものも、自分を救ってくれなかった全てを憎んでいる。

 その復讐の同行者として、『黄金の人』を選び、お前の身体を使って蘇らせようとしているのだ。

 

 魂の無い肉体は、滅びるだけ。……しかし、お前の肉体は生命の源泉たる『混沌の泥』によって蘇った。

 魂なくとも滅びることはなく、誰にも殺せない。あの鎧は、『永遠』そのものだ。

 『魔術師』は、あの鎧を操ることで、お前の魂を故意に傷付け、アルヴィン・アトラスの魂と肉体とを分離させた。

 

 地上へ戻れアルヴィン! 『魔術師』の思惑に乗ってはいけない!

 あの灼熱の『星』を止められるのは、お前だけだ! あの肉体に宿るべき魂であるお前が戻れば、破壊は止められる!

 お前が止めなければ、あの鎧はこんどこそフェルヴィンを破壊するだろう! 」

 

 アルヴィンは胸の前で、指の力が抜けた手を握りしめた。震えるこぶしを身体に寄せ、ゆっくりと後ずさる。

「そんなの……聞いてしまったら、余計に無理だよ……! ぼくなんかに! 」

 

「アルヴィン! 聴け! 『星』の選ばれしもの、それがお前だ! お前自身が選んだ道だ! 」

 

「あ……、ああするしか無かっただけだ。……こんなことになるのなら、僕は、蘇えったりしなかった……! だってミケは―――――ミケには、何もなかったじゃあないか……! 奇跡は無かった! ミケは死んでしまった! 恐ろしい地上なんかに、僕が戻る理由は、もう無いんだ!!!! 」

 

 

 

「おちび! 」

 

「アルヴィン! 」

 

 アルヴィンは今度こそ駆けだした。背中から悲鳴のように呼ぶ声がしたが、振り切って逃げた。

 いまだ闇ばかりで、何も見えない。しかし、彼らは追ってはこれない。

 なぜなら、今のアルヴィンを見つけることなど、誰にも出来はしないからだ。

 『石の木』が目の前をさえぎったとしても、アルヴィンの体をすり抜けていく。

 音が遠ざかり、肌に当たる風の感触は希薄で、足だけが、蹴る地の感触を感じている。

 心に宿るのは、恐怖だけだった。

 

 先ほどまで平気だった闇が怖い。

 音の無い世界が怖い。

 『星の選ばれしものである』と突きつけられた使命が、背後から追いかけて来るようで怖い。

 

 この恐怖からは、どこまで走ったら逃げられるのだろう。いつまでも逃げなければならないのだろうか。と、それも怖い。

 

 永遠まで走り続けなければならないのなら、そのうち忘れることがあるのだろうか。

 忘れてしまえるまで、いつまでかかるのだろう。

 

 

「ぼく、ぼ、ぼくは、ぼくは――――――」

 

 震えていた。

 後悔に押しつぶされそうだった。

「逃げられない……この気持ちからは、ずっと逃げられない、逃げ、逃げて、逃げても―――――ぜったいに! ぼくは、ぼくは…………ああ、なんてことを……——————」

 

 謝ったところで、言葉が届くことは無いのだ。だって一番謝りたい人は、もうこの世のどこにもいないのだから。

 

 

「うう…………うぅうぅぅぅぅぅ……たすけて……! だれかぁ……」

 

 

 結局、アルヴィンは何も変わっていなかった。

 自分からは助けを求めることもできず、暗い部屋で一人になって初めて『助けて』などと口にする。なんて浅ましい卑怯者なのか。

 

 

 

 

 

「たすけて…………! 」

 

 

 



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6 シリウス

お盆も終わるので、乱れうち投稿です。更新を追いかけてくださっている読者さんは、しおり機能を活用ください。
もうすぐ完結なので、よければ評価やブックマークでぶち上げて応援お願いいたします。


 その物語は、一人の男の回顧録の形式で綴られていた。

 

 未熟児で生まれたこと。病気がちの身体への不安、恐怖。病床にこなれてきて、ベッドの中でいろんな遊びを考えたこと。両親のこと。姉のような語り部のこと。いつも一緒にいてくれたメイドのこと。二人の叔父のこと。両親の死を知った日のこと。部屋を出ていく叔父たちの背中。手紙。

 

 ある日、ベットから立ち上がって語り部の背を越しているのに気が付いたこと。

 

 湖を散歩したこと。ある女性と出会ったこと。皇帝ジーンのこと。結婚したこと。子供が生まれたこと。嬉しかったこと。悲しかったこと。

 

 

 すべては語り部ダッチェスが、レイバーンの目を通して見てきたことだ。

 

「……ほんとうは、もっと改稿を重ねて丁寧に組み上げたかった。ごめんなさい……ほんとうに時間が無かったの」

 

 語り部は、暗闇に向かって呟いた。

 

「……あたしは、たくさんの人に仕え、たくさんの最期を描いた。

 長い時、さいあくの時代にさいあくの最期を迎えた主人もいた。悪人も英雄も、言葉を話せないうちに死んでしまった子もいた。たくさんの物語を書いた。

 語り部だもの。どの物語が特別ということは無いけれど……。あなたが愛したもの。あなたが夢みたもの。あなたが許せなかったもの。あなたが守りたかったもの。あなたが遺したもの……それを想ったら、こんなものが出来上がったのよ。

 ふふ。こんなの初めてよ。あたしは、あなたの人生を悲劇にしたくなったのね。

 だって見て。この字の汚いこと! 溢れて止まらなかったの!

 あたし、分かったの。あなたが好きよ。あなたを愛しているわ。ほら、いつも泣いてしまうの。

 語り部にとって、主はもう一人の自分だもの。

 でも、ねえ、内緒よ……。

 あたしはあなたほど、可愛い主はいなかった。

 あなたほど誇らしい人はいなかった。

 あなたは英雄でも、最高の父親でもなかったけれど、あなたはあたしの、最高の主でいてくれた。

 あたしはあなたの人生を(えが)けることが、こんなに誇らしい」

 

 インクが染まった指先が紙を撫でる。赤ん坊の髪を撫でるように。

 

「でも、ほんとうは、少しミケがうらやましいの……ああやって、まっすぐに主を想うことが出来ることがうらやましい……。

 主のために先にいなくなる語り部なんて、本末転倒だわ。憤死ものよ。でも、あたしだって、あなたのためにそうしたかったのに。それなのに、あなたが泣くから。あの子たちを想って泣くから。

 迷うあたしに「さようなら」を言うから。

 子供たちに、ばかなあなたの見えづらい優しさを届けられるのは、語り部のあたしだけだったから……。レイがあたしの、最期のひとだったから……。

 

 レイが好きよ。大好きよ。あたしの九番目のあるじ。あたしの最期のひと。

 こんなに愛おしい人間はいなかった。

 もし、語り部もあの世へ行けるのなら、約束通り、今度こそあなたと旅がしたいの。

 さようなら。さようなら。レイ、あなたを愛しています。レイバーン・アトラス。あたしの主人」

 

 ベルトに挟んでいた手袋を取った。

 すべてを描き切った今、これを再び脱ぐことはない。

 両の指をそろえ、目を閉じる。

 明かりなんてない暗闇だ。それでも、語り部は胸の内に祈るものを持っている。

 

「……どうか、この物語がハッピーエンドになりますように――――」

 

 

 ✡

 

 

 ―――—不吉な音がした。

 

「よくぞ無事に戻った。話すことがある」

 そう言って、レイバーンが息子たちに片腕を広げて歩み寄ろうとした、そのときだった。

 

 カツ―――――――――――――――――ン……。

 

 その音は、広間にやけに大きく響いた。

 

 カツ―――――――――――――――――ン……カツ―――――――――――――――――ン……カツ―――――――――――――――――ン……。

 

 その場の誰もが息を殺し、『それ』を見た。

 

 悪趣味な、歪な黒い卵のようなオブジェが、小刻みに揺れている。音は、オブジェが動くことで、石畳を瓦礫が叩く音だった。

 空気が漏れる音が、そこから漏れている。

 フゥ―――――――――……と、溜息や、寝息にも思える音が。

 ズッ、と、黒い卵は身じろぎした。少しだけ、石畳をこすって卵は前進する。

 ズズッ……目を見張る一行の目の前で、それはまた少し、歩を進めた。

 黒光りする表面に、うすく赤い光が漏れる。

 鼓動にも似た、赤い点滅。

 

 高い天井に届くほどに大きなそれの――――――()()()()()()

 

 崩壊は一瞬だった。黒い卵は前のめりに倒れ、瓦礫の上に横倒しになった。その瞬間、ほんとうに卵の殻が割れるようにあっけなく、()()()()()()

 

「レイッ! 危ない!!! 」

 

 レイバーンは、ダッチェスの腕が、突き飛ばすように自分に伸ばされるのを見た。

 生前ならば、ダッチェスは絶対にレイバーンに手を伸ばすなんてことはしなかっただろう。ダッチェスの中で変わった何かが、レイバーンを助けようと、とっさに身体を動かしたのだ。

 レイバーンの青白い輪郭に伸ばされた小さな手は、しかしその魂の中心を突き抜けるだけだった。ダッチェスの金色の瞳が、レイバーンの右目の横で大きく見開かれる。

 金色の燐光をまとった彼女は、しかし、まだ実体を保っていた。

(……あたしの、ばか……っ! )

 

 その黒衣の腹を、爛れたように赤く焼けた棘が、刺し貫いている。

 

 

「―――――ダッチェス……ッ!!! 」

 

 卵から伸びたそれは、ダッチェスを貫いたまま巻き戻っていく。躍り出たのは長剣を構えたサリヴァンだった。刃が弾かれる。

 左手に『銀蛇』を振りかざし、右腕を伸ばしながら、胸からダッチェスにぶつかっていく。黒衣の矮躯を抱え込んだサリヴァンは、棘に引きずられながらもダッチェスを離さなかった。ズルズルと少女の体の中を通過した棘は、名残惜し気に殻の中へと戻っていく。

「ダッチェス! 」

 皇子たちが語り部に駆け寄った。

「ダッチェス……! おまえ、なぜ……!」

 レイバーンは顔を歪め、石畳を叩く。

 

 黒い卵の中で驚くほど小さな人影が、緩慢に立ち上がったのを、視線の端に捉えた。

 

「広間の外に! 」

 グウィンが叫ぶ。瓦礫を飛び越え、一行は瓦礫の向こうへと駆け出した。

 背後から破壊の音が響いている。地下にいるのは危ない。ようやく立ち止まったのは、サリヴァンがジジとともに巨人のスート兵を斃した、あの玄関ホールだった。

 開け放たれた大扉の外では、いつしか雨が降っている。

 

 サリヴァンがレイバーンの元へとダッチェスを運ぶと、ダッチェスはうすく瞼を開き、「……あたしって、莫迦(ばか)ね」と、小さく自嘲した。白い額を、冷や汗が濡らしている。

 

「き……消えかけの、くせして……死んだ主を、守ろうとするなんて……なんってバカなの」

「ダッチェス、なぜこんなことを! 」

「わっかんないわよ、あたしにだって。あたしは、あたしのことが、いちばん分かんないだから……」

 ダッチェスは顔を歪めながら笑った。

 

「大丈夫。もう少しは消えないわ。語り部はね、長生きするほど魔力を蓄えンのよ。年取ると無駄なことをしたくなるの。こんな傷、たいしたことないわ。王様でしょ……エンディングまで泣くんじゃない」

「……おまえ」

 ダッチェスの額から流れる汗をぬぐおうと手を伸ばしたレイバーンは、その手が彼女に触れられないことに気が付き、こぶしに固めて床に下ろした。

 ダッチェスはその手を引き寄せるように促し、自分の手と重ねて、頬に当て、苦し気に息をつくと、まぶたを閉じる。

 

「……あたしね、今ほど、子供の姿を恨んだことないわ」

「……なぜだ? 」

「絵にならないでしょ……女心が分かってないわね……ふふ」

「なぜ笑う? 」

「笑うしかないでしょ。……あ~あ。バカね。あんたもあたしも、二人とも。……いや、もうあんたは、あたしの主じゃあ無いのよね」

「………」

「ねえ……後悔があるなら、それを捨てる努力をすべきよ。レイバーン・アトラス。あたしはそうしたわ。したから、ここにいるの。今の状況は、貴方にとってチャンスだと考えるべきだわ。貴方には、やり直す猶予が与えられたのだから……」

 

 それきり、ダッチェスは目を閉じて黙った。

 やがて小さな寝息が、血の気を失った唇から漏れ出す。

 その身体には、絶えず金色の燐光が纏わりついていたが、彼女が言うようにまだ消えるには猶予がありそうだった。

 

「……少し、彼女を見ていてくれるかい」

「はい」

 サリヴァンが頷くと、レイバーンは立ち上がり、息子たちのほうへと歩いていった。

 レイバーンと息子たちが、連れだって大扉の外の雨を眺めに行くと、サリヴァンの腰の下から伸びた影からジジが言った。

 

「……上手な狸寝入りだね。語り部が眠るわけないじゃない」

「あら、あたし、空気が読める女だもの」

 ダッチェスは身を起こし、背後にあった大扉の残骸に背中を預けて座った。ジジもその隣へ腰を下ろす。

 サリヴァンは無言で、火をおこし、温かい飲み物を作った。

 

 

「ねえ、魔法使いさん。アルヴィンさまを助ける策はあるのかしら? 」

 ダッチェスは微笑みながら、そう口火を切った。

 



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6 語り部ダッチェス

 

 ヒューゴ・アトラスの語り部トゥルーズは、自身が語り部として『おかしい』ことを、自覚していた。

 稼働年数が千年を超え、仕え、見送った主は、たったの四人。

 トゥルーズは好みが激しすぎる語り部といわれた。しかも、好みが激しいわりに名を遺す偉人がこれといっていないのも、トゥルーズの名前の影を薄くした。

 

(そんなにおれの好みっておかしいかなぁ)

 

 語り部は、様々な基準で、主人を選定する。

 たとえばダイアナは、英雄ジーンやヴェロニカ皇女のような、英傑の素質ある主を好むし、ダッチェスは、穏健な家庭人を好んだ。

 語り部は、生まれる前の子供の魂から、ある程度の素質を嗅ぎ取ることができる。『こういうふうに育つだろう』という確信をもって、主を選び取る。

 その選定の『好み』は、そのまま語り部個人が『どういった物語を記したいか』という『好み』に重なった。

 だからダイアナは、旅行記や冒険スペクタクルを書くのを得意とし、ダッチェスは、ただ単純に一人の人間の日常を描ききることを、生き甲斐としている節があった。

 

 しかしトゥルーズの『好み』は、そういったものではない。

 トゥルーズは単純に、才能のある主が好きだ。

 溢れんばかりの才覚を生まれ持ち、その才能をもって、宮廷でどう生きるのかを見てみたい。

 有能でなくともよい。有能であることと、才能があるということは違うから。

 

 かつてから今までで、トゥルーズの主の席には、五人の才能ある王族が座った。

 語り部をしのぐ文才を持つ皇女、齢十六にして(ひぐま)将軍と呼ばれた皇子、鍛冶に人生を見出した公爵家の次男、無能王と呼ばれた音楽を愛した愚王。

 そして今代は、アトラス王家に産まれた新鋭の芸術家、ヒューゴ・アトラス。

 

 トゥルーズは、自分の作風にはこだわらない。

 主によっては、記すのは文字でなくても構わないとすら思っているし、実際にそうした。

 『王に捧げる鎮魂歌』は、ようやくトゥルーズが『語り部』として名を刻んだ最高傑作だ。

 

 トゥルーズは、主にはこだわるが、主の人生にはこだわらない。

 最初の皇女は豊かな感受性によって現実に耐え兼ね、三十四歳で自ら命を絶った。

 羆将軍と呼ばれた皇子は、鍛錬中の怪我がもとで二十になる前に夭折した。

 公爵家の次男は、百四十歳まで生きたが、やがて目と心を病んだ。

 無能王と呼ばれた皇帝は、言わずもがな。

 

 命は儚い。

 とくに、トゥルーズが好む人物は(もろ)く散る。

 それは仕方のないことだ。トゥルーズはそう思っている。

 結末がどうであるにしろ、彼らは自らの才能を愛していた。愛し抜いて、向き合い、苦しみ、選択した。

 選択の果てにある結末を、どうであれトゥルーズは尊いと思う。

 そんなトゥルーズの記すものを、面と向かって褒めたのは、ダッチェスただ一人だった。

 

「あたし、好きよ。あんたの書くもの。あら? 意外って顔ね? あたしがホームドラマしか好まないような語り部だと思っていたの? いいじゃない。あんたの話。いくつか挙げられるけど、簡単にお涙ちょうだいの美談にしないところ、好きよ。トゥルーズ、あんたの書くものは、主人に対してとても真摯だわ」

 

「まあ、読者は選ぶでしょうけれどね」ダッチェスをそう締めくくり、トゥルーズを見下ろして言った。

 レイバーンの前の主のもと、ダッチェスは女ざかりの姿を保ち、当時の彼女は、月の女神のように美しかった。

 

 語り部が消えたあと、(のこ)るものは、(しる)した物語と思い出だけだ。

 語り部たちは、自らの消滅を『死』とはいわない。ただ『消える』のだと、『魔法が解ける』のだと口にする。

 けれど、トゥルーズはこっそりと、こう思っている。

 

 『意志』あるものこそが命なのだと。

 だから、語り部だって、『二度とお話ができなくなる』のなら、遺されたものにとってそれは『死』と同じなのだと。

 

 

 語り部が九人目の物語を書ききって消えるとき、他の語り部はそれをいち早く知る。

 ダイアナも、マリアも、ベルリオズも、最も長く生きた『きょうだい』の最期の時でも、主から目を逸らさなかった。

 しかし―――――トゥルーズは『おかしな』語り部であるので―――――少しだけ主から目を離して、空を見ることを、自分に許した。

 フェルヴィンのいつもの空。

 

 降りしきる雨で煙る向こう。インクを刷いたような黒雲に不吉な赤い陽光の中、きらきらと金色の光の帯が上っていくのが見えた気がした。

 

 

 ✡

 

 

「……本当に、いいのか? 」

 

 ダッチェスの最後の言葉は、実にさっぱりとしたものだった。

 

「ばかね! 語り部が主に看取られるなんて、そんなの生涯の恥じゃない。やーよ! あたしは今のうちに消えとくわ。あとは任せたわよ」

 

 そう言って、ダッチェスはひらひらと、手袋をはめた手を振った。

 その瞳が最後にレイバーンがいる門の外の空を見たのを、サリヴァンとジジはしっかりと心に留める。

 

 

 光の粒になって消えた彼女のあとには、古ぼけた銅板が一枚、僅かな明かりの中で、残り火のように輝いていた。

 

 



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6 星の光

6章ラスト。
次回から最終章突入。


 

 城は、かろうじて城の形を保っていた。

 瓦礫に変わった玄関ホール。地下講堂からまっすぐ天に向かって撃ち抜かれた城の中心部には、玉座の置かれた大広間もあった。

「……でも、アデラの応接室は、きっと無事だと思う。あの部屋は南の端にあったから」

 ヒューゴが言った。

「そうか……それならいい。あの部屋は特別だ。きっとみんな喜ぶ」

 瓦礫に腰掛け、空を眺めているレイバーンが言った。

 グウィンは黙って、弟と父親のそんな姿を見守っていた。

 

 雨上がりに、風が山から呼んできた霧が、空と地上の境を曇らせつつある。

 誰からというわけでもなく、三人は空に背を向け、崩れかけの城門の中へと戻ることにした。

 

 

 ✡

 

 

 レイバーンは、ダッチェスの訃報に「そうか」と一言、呟いた。

 古びて黒ずんだ銅板の端には、真新しい断面の欠けがある。グウィンの指が、なめらかな飴色の断面を撫で、小さく祈りの言葉をつぶやいた。

 

「……あれは誇り高い()だった。私も、彼女に(じゅん)じる頃合いだな」

 レイバーンはそう言って、息子たちに微笑んだ。憑き物が落ちたような笑顔だった。

 

「……グウィン。そろそろいこうと思うのだ。いいだろうか。あとは任せても」

「早く迎えに行くべきですよ。父さん」

「待ってる女が三人もいるんだからな」

 グウィンが微笑んで言い、ヒューゴも軽く返した。

 

 レイバーンはふと、微笑みを引き締め、まっすぐに瓦礫を眺めた。

「……最期におまえたちと話せて良かった」

「……それは本心からか? 」

「本心だとも。後悔は山ほどあるさ。けれど死人が遺せるのは、言葉だけだから」

 

 グウィンの低い声が、銅板の文字を読み上げる。

 本来なら、語り部自身が主の葬儀で口にする言葉だった。

 

「”硝子の靴を履き、葬列の末尾を踊ろう”

 ”涙を真珠に変えて撒き、野ばらの戦士の旅路を飾ろう”

 ”言祝ぐ(うた)はいずれ蒼穹へと刻まれる”

 ”硝子の棺は光なき場所へ収められる”

 ”しかし、その上には永遠を誓う野ばらが茂り、わたしが共に横たわる”」

 

 言葉が音になるたび、銅板の文字が魔法の残滓で金色に輝く。

 

「”数多の言葉を墓標としよう。わたしは屍に寄り添うもの”

 ”九度(ここのつ)の愛。九度(ここのつ)の誓い”

 ”死も、時も、わたしとあなたを別たない”

 ”わたしはあなたに寄り添うもの。あなたを永遠に変えるもの”」

 

 瓦礫の城でひっそりと、城の(あるじ)が消えていく。

 

「―――――”わたしは、あなたの葬列を言祝ぐもの”」

 

 

 

 銅版が煌めいた。その光がグウィンを照らし、風が光をまとって巻く。

 新たな王の生誕を祝福した銅板は沈黙し、あとには、古い王がいなくなっただけだった。

 

 

 ……地響きが聴こえる。

 グウィンの背後で、門の向こうが急速に赤く染まった。

 サリヴァンが足早に門の外へと駆け出す。城の全景を視界に入れ、サリヴァンは黒い目を大きく見開いた。

 その目に映ったのは――――――。

「―――――なんだ、あれは……っ! 」

 

 ぐらぐらと揺れる地面に抗いながら、全員が城を出た。そして、頭上を覆うものに驚愕する。

 ヒューゴの顔が悲しみと絶望に歪んだ。

「アルヴィン……! もう間に合わないのか……? 」

 

 ――――――それは、さながら空に咲いた『(あか)い花』。

 

 燃え盛る業火の花が、今にも落ちてきそうに空に咲いている。

 固く結ばれた蕾の先は、いまにもほころびそうに、炎を吹いて揺れている。

 

 その炎の先に、黄金に輝く人影がある。

 全身からダッチェスを貫いた赤く焼け爛れた()を伸ばし、束ねて、体をくるむ翼の形に広げ、花芯のように逆さにぶら下がる人影がある。

 火炎の(あか)い影は、フェルヴィンの空を覆う雲を照らし、世界を血濡れを思わせる真紅に染めていた。

 

 

「―――――『皇帝特権施行(スート)』。『剣の王』」

 グウィンの低い声が、一行を正気に戻した。

 紅い影に塗れながら、瓦礫がガラガラと音を立てる。最初は手。次に腕、肩、頭――――――。

 数は一そろいで十二。

 『王』を守る近衛兵たちは、サリヴァンには見上げるほど大きな皇帝グウィンよりも、さらに二回りは大きい。

 まばゆいほどの白金の体を持った体は、レイバーンのそれよりも洗練され、曲線的な線を描いている。

 露出した口元は優し気で、女性的である。兜の奥では、柔らかな赤い光が、大きく一つ灯った。

 

 ガツン! と、グウィンの背後に立った『剣の女王(12)』が、大盾を地面に突き立てた。

 扇状に展開した兵たちもまた、盾を打ち鳴らす。

 

 ―――――ガン! ガガン! ガン! ガガン!

 ―――――ガン! ガガン! ガン! ガガン!

 ―――――ガン! ガガン! ガン! ガガン!

 ―――――ガン! ガガン! ガン! ガガン!

 

皇帝(グウィン)』が拳を上げる。兵は静止した。

 

 

「行くぞ。僕らで護るんだ」

 鬨の声が上がった。

 

 

 

 ✡

 

 

 

 

 

「キヤ――――――――――――――――――――――――――――ッ!!!! 」

 

 『魔術師』は甲高い歓声を上げた。

「なんッて、なんと、ああ……! 素晴らしい……! 」

 冥界の黒い泉のほとり。裸になって沐浴をしていた魔術師は飛び上がり、手を打ち鳴らして狂喜した。

 彼女の目には、泉に映る紅い花が見えているに違いない。うっとりと両の手指を絡ませ、情熱的な吐息を吐き出す。

 黒い瞳の奥が、赤く輝いた。

 

 魔術師が飲み込んだ銅板を鍛造した鍛冶神の炉に灯っていたのは、人類を創り出した『叡智の炎』であった。その炎は、すべての生命の源である『混沌の泥』から生まれ出でる。

 その、銅板にこめられた小さな種火を呑み込んだ魔術師は、今や瑞々しい少女の肉体を持っていた。

 大きく開けた口の奥でも、腹の内で燃え盛る炎の光が漏れる。

 命すら生み出す聖なる火の力を用いて、こうして冥界と地上で、二つの死人(しびと)が蘇ろうとしていた。

 ……否。もう、蘇ったのだ。

 

「もうすぐ……もうすぐお会いできますね。我が王、我が主になる御方……」

 いそいそと、『魔術師』は泉から上がるとローブを羽織る。

 褐色の肌には、目尻の垂れた、愛らしい大きな黒い瞳の(きわ)まで茨のような刺青が施され、永遠の乙女であることを象徴していた。

 艶やかな黒髪は地を掃くほど長かったが、彼女の手は手慣れたようすでそれを二つの束に分け、耳の後ろで編むと、胸の前に垂らしてまた一本に編みこんだ。

 ローブにあわせた銀色の靴を履き、青い帯を肩から背に垂らす。華奢な肩にはやや幅が広く、ずり落ちそうになるそれを、五芒星を(かたど)ったブローチで止めた。

 額を彩る麦の穂を模した冠は、やはり、()()()()()()()()()()()()()でできている。

 

「その真紅の花……このわたしくしの胸にくださいませ」

 少女の肌の上で、茨の刺青が、()()()と蠢く。灰色のローブの背中でそれは膨らみ、白い大きな翼となって広がった。

 

 アルヴィンはその光景を、じっと、石の木立の中で見ていた。

 光を失った視界の中で、彼女と泉だけが、くっきりと浮かび上がっている。何かに招かれるようにして、この泉に迷い込んだアルヴィンは、ふやけたような理性の中で、ぼうっと、彼女の身支度を見ていた。

 やがて、魔術師は翼を広げ、暗黒の空へと飛び去る。

 

 地上へ向かうのだと、アルヴィンにはなぜか分かった。

 魔術師の中にある銅板のかけらが、アルヴィンに何かを告げようとしていたが、今のアルヴィンには、それを感じ取るだけのものを持っていなかった。

 

 誰もいなくなった黒い泉へと、アルヴィンは、導かれるまま踏み出す。

 覗き込むと、青い炎がぽっちりと一つ、浮かんでいるのが映った。

 ゆっくりと、見えない何かに手を引かれるように、身を浸していく。

 泉の中で、アルヴィンははじめて『温かさ』を感じた。

 今のアルヴィンのスカスカの体には、小さな魂の炎が一つだけ。その青い光を包むように泉の水はアルヴィンに浸食し、ひとつの短い夢を見せる。

 

 もはや懐かしくなった感覚だった。

 

「アルヴィン様」

 主と語り部だけに届く、お互いの声。

「わたしは、わたしだけにしか出来ないことをします」

 微笑んでいるような声だった。

「あなたも、あなたにしか出来ないことをして」

 無い首を振る。(そんなの出来ないよ)と言ったつもりだった。炎が消極的に小さくなった。

 

「いいえ。わたし、アルヴィン様がいるから頑張れるんです。あなたがいないと、わたしは―――――」

 ごぼごぼと、泡の音で声が掻き消される。

(待って――――――)

 無い腕を伸ばす。炎が少しだけ燃え上がる。

(いかないで――――――)

「――――わたし……」

(ミケ―――――――!)

 

「わたし、待ってます。あなたがわたしを、見つけるまで。いつまでも――――」

(きみはどこにいるの――――――)

「ミケは、ずっと、待ってます―――――! 」

 

(ぼくは、ここにいるよ―――――! )

 

「探して! あなたはわたしの『星』! いつか、こんどはあなたが、わたしを見つけて――――――! 」

 

 目の前を無数の泡が横切る。白いそれは、いや、泡ではない―――――無数の光の粒。星屑だ。

 漆黒の天蓋に、どこまでも広がる海原に、色とりどりの数多の星屑が輝いている。

 天も地もない孤独な星々の虚空に、穿たれた小さな光のように、追い求めた人が見える。

 

 ――――――視線が確かに交差した。

 

 変わらない金色の瞳が、アルヴィンを見つめて潤んでいる。

 伸ばす手が無い。遠ざかっていくその人を、追いかける足も無い。

 呼びかけるための口も喉も舌もなく、触れて届けたい温もりも、失っている。

 あるのは裸になった魂の炎だけ。

 

 遠ざかる。――――――どうしようもないほど、遠くへ。

 あの孤独な星の海で、ミケはひとり取り残される。

 

(僕はそれを忘れてもいいのか? )

 小さな疑問が浮かぶ。

 

 忘れたいばかりの記憶の中で、拠り所だったのは何か。忘れられないと常に思っていたのは、何だったのか。

 

 『語り部』は、アトラスの民の誇りだと、誰かが言った。

 『語り部がいるから、アトラスの王族は、彼らに誇れる人間になろうとする』のだと。

 語り部がいると、『先祖に誇れる人間になりなさい』と言われているようで嫌だった。

 けれど。……でも。

 どんな目に遭っても、語り部は、語り部だけは、主の真実を知っている。

 それが、心の拠り所だったのだ。

 それこそが、語り部の存在だけが、アルヴィンという人間に残った誇りの形だったのだ。

 

(僕は――――――)

 

 伸ばす手も無い。進む足も無い。声すら上げられない。誇りはどこに行った? (僕の語り部は、どこに行った? )

 

 疑問は意志となり、意志は誇りとなり、誇りは望みとなり、望みは願いになり、願いは祈りとなった。

 黒い泉は、アルヴィンに問いかける。

 

 ―――――おまえは何を望む?

 ―――――おまえは何を願う? 祈る?

 

 ああ、この泉はこういうものなのだ、とアルヴィンはようやく理解する。

 問いかけ、願いを引きずり出す。そうして目の前に見せつけるのだ。

 

(僕は――――――! )

 

 泉は、それだけのもの。『見せる』だけ。

 では、あのミケは幻? いいや、違う。あれは、ミケが泉を利用して届けたメッセージだ。

 ミケは、自分を待っている。

(置いていくことなんて、できない――――――)

 

 足がいる。腕がいる。舌が、喉が、口が。

 

 疑問は意志となり、意志は誇りとなり、誇りは望みとなり、望みは願いになり、願いは祈りとなる。

 

 ―――――おまえは何を望む?

 

 そして祈りは、渇望へと変わる。

 

 

 ✡

 

 

 冥界に星が灯った。

 ジーンは、冥界の一面の闇に灯ったその光を、信じられない想いで見上げていた。

「あれは……! 」

 

 ああ、戻らねば。あの星を追いかけねば。そう、そうだ。

 しかし、その首にかけられた縄が、それを許さない。

 

「……いやあ、よかった。やはり自分から冥界へ降りて来たな。そろそろ自由の時間は終わりだぞ。ジーン・アトラス」

 ギリリと奥歯を噛む。見上げるような赤毛の馬にまたがる男もまた、巨馬に劣らぬ体躯の持ち主だった。山脈のように起伏にとんだ体躯に戦装束をまとう男は、亡者だというのに快活に歯を見せて笑う。

 

「おまえのここでの最初の役目は終わったのだ。よくぞ『星』を目覚めさせた! 地上で我らが死者の王がお待ちだぞ。『白の騎士』よ、この『赤の騎士』が、貴様を軍勢へお連れしようではないか! 」

 男が馬上から、犬でも引くように、ジーンの首に繋がる縄を引いた。

 成すすべも無く引きずられながらも、ジーンは遠ざかる星に思いを馳せ、目蓋をきつく閉じて祈っていた。

 

 



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7 ヒース

 ヒースはおもむろに()ぎった予感に、はっと俯いていた顔を上げた。

 

「……何か? 」

 怪訝そうにこちらを見下ろす男に向かって奥歯を噛み、ヒースは「もういいです! 」と、声を荒げる。

 テーブルを平手で叩き、立ち上がると、やんわりと進行方向を塞いでくる男たちの膝を蹴って軽く転ばせ、ヒースは堂々と、真正面から貿易ギルドのビルを出た。

 

 厚い雲のかかる空から、淡雪が僅かに降り注いでいる。年中こんな感じだが、『魔法使いの国』の空は、フェルヴィンの空に比べるとずいぶん明るい、青みがかった灰色をしている。

 港町特有の潮風が、木枯らしと氷をはらんで次々に街道を洗う。海風と、途切れることの無い人の足で削られた石造りの街道は、無骨で薄汚いねずみ色だった。

 

 宿に戻ると、ヴェロニカ皇女が出迎えてくれた。

「……どうだった? 出航許可のほうは」

「駄目でした。あやうく拘束されるところでしたよ」

 ヒースはがりがりと頭を掻く。

 

「……やはりと言うべきか、『魔法使いの国(うちの国)』の王様は、何か企んでいるらしい。私の情報がくまなく広がっています。何が何でも『影の王』の関係者を国から出したくないんだ」

 

「……心当たりはありますの? 」

 

「ありすぎて数え切れませんよ。我が母……『影の王』は、政務には関わらない王です。三千年以上そうだった。

 反面、『陽の王』は、代を重ねてこの国の政治を担ってきた。今の『陽の王』は、かなり革新的な考え方をする方です。歴代を見ても、あんなに野心家な王様は珍しい。

 世界大戦も終わって大戦を知る次の世代が育ってきた。このタイミングで、今の『陽の王』は、神秘の威光を借りた旧式の政治から、かなり現実的な政策に舵を切りつつあるんです」

 

「『審判』の預言のことは……当然ご存じなのよね? 」

「ええ。だから、内々に私たちを拘束したいんでしょう。『選ばれしもの』の関係者ですから。『陽の王』は『審判』の時を虎視眈々と狙っていたに違いありません」

 

「……なぜ、と訊くのは愚問ね。『選ばれしもの』が人類の代表だというのなら、自分の国からは、なるべく多くの『選ばれしもの』を送り出したい。そういうことでしょう」

 

「ええ。うちの国は神秘を否定しない。同時に『陽の王』は、この審判を、世界諸国と渡り合うためのカードとして数えている。……頭が痛い話です。まさか、自分の国の王様に邪魔されるなんて」

 

 ヒースは大きくため息を吐いた。

 けっして安っぽい宿ではないが、宿屋のどれもが体の大きなヴェロニカ皇女には手狭で、ひどく申し訳ない。

 

「そういえば、モニカさんは? 」

「モニカさんなら、お買い物に」

「買い物!? 」

「大丈夫ですわ。彼女なら、うまくやります。どうかお掛けになって。疲れた顔をされてるわ。さあ」

 皇女自ら椅子を引かれては、座るしかない。

 

(今こうしている間でも、サリーたちは最下層で戦っているかもしれないのに……)

 

 海層を抜けた先に、必ずしも大都会が広がっているというわけではない。とくにフェルヴィンへの航路は整備されていないこともあって、『下』から出てきたら、『魔法使いの国』こと、エルバーン諸島の北西沖に出ることになる。

 飛鯨船が降りられるだけの一番近くて大きな港を有するのは、北西端に位置する、サーナガーンという港街だった。

 『陽の王』側もそれは承知であったのだろう。

 この街で足止めをくらってまだ一晩だが、これから時間がたつに従って、拘束の手が強くなることは容易に予想できることだった。

 しかし、補給ができる別の街へ向かうにしても時間がかかるうえ、そこに陽の王の手が届いていないと考えるほうが楽観的すぎる考え方だ。

 

 ふと、扉がノックされる。

 ついに実力行使か、と、皇女とそろって身構えた。

「……お客様、失礼いたします。お客様をお訪ねになっていらした方が」

 

 ヒースは、ぐっと眉根を寄せた。

 

 

 ✡

 

 

 夕暮れになる前に、ヒースは指定された飯屋へと出向いた。

 表通りに面したその店は、新鮮な魚介が売りで繁盛しているレストランである。

 素朴な木の内装に、甘いオレンジ色の照明と、香ばしい料理の薫香が染み着いている。

 指定された二階席は完全な個室で、団体客が貸し切っているということだった。

 

 ドアを開けると、影を抱えた真っ黒な巨体が腕を組んで立ち塞がっている。

 ヒースは、見慣れた仁王立ちにグッと奥歯を噛み締めた。

 

「――――—こンのバカ息子がッ! 」

 

 作業着に包まれた矮躯が吹っ飛ぶ。

 一階と吹き抜けになっている手すりに背中からぶつかり、ヒースは殴られたみぞおちの痛みに耐えながら、強張る顎の骨を開いた。

「……お、おやじ……」

 か細い声が出た。

 

「ネェェエエエロッ! 」

 鼻ずらまで黒い顔の中に、青い瞳と鋭い白い牙が光る。尻尾の先からヒゲの先、中折れした耳の先まで怒りに震え、ビーズを編み込んだ腰巻がシャラシャラと爽やかな音を立てた。

 ぐるぐると威嚇の音を出しながら、その異種族の男は冷酷にヒースを見下ろす。

 

「――――未熟者が! 魔の海に挑むなどと! 」

「……ごめん。おやじ。いや……師匠。……約束、守れなかった」

 

 ヒースを『黒いの(ネーロ)』と呼ぶのはこの世でただ一人。ヒースが『おやじ』と呼ぶのも、この男ただ一人である。

 項垂れるヒースの肩を、船乗りの大きな手がパンッと叩く。ヒースは飛び上がるように立ち上がると、首根っこを掴まれて個室の中に連れ込まれた。

 

 一階と同じようなオレンジ色の照明で、船乗りの瞳孔は黒々と半月型を描いていた。裸の胸に下げた木の実の種でできた首飾りも、存在感を以て肩から続く大きな黒い翼も、翼の中ごろにある手のひらの分厚さも、ヒースの記憶と一寸も違いはない。

 

 『ケツルの民』と呼ばれる、ヤマネコの頭に渡り鳥の翼を持つこの種族は、国を持たない流浪の民である。

 と、同時に、『雲海』を唯一生身で渡ることができる『空の民』として、腕のいい航海士の代名詞でもあった。

 

 十四の夏、ヒースはこのケツルの男が率いる船団へと迎えられ、以来息子として、義理の親子の契りを交わしている。それはケトー号を与えられ、独立しても、変わらない関係性だった。

 

 船乗りは、ヒースに椅子に座るように促した。テーブルの上にはすでに魚料理が並べられ、男の手ずからハチミツ色のワインがグラスに注がれる。

 

「……まぐれだ」

 船乗りは言った。

「わかってる。……僕は運が良かった」

 ヒースも短く返し、グラスを受け取った。

 

 乾杯の音頭も取らず、食事が始まる。

 先ほどの剣幕が嘘のように、船乗りは言葉少なだった。ヒースもわずかな相槌で返し、食事に集中する。

 やがて、皿の中身が空になると、ヒースは背筋を伸ばして、テーブル越しに座す義父の青い瞳を見上げた。

 

「僕はフェルヴィンに行かなきゃいけない」

「まぐれは二度は起こらん。第一、船はどうする。ケトー号で行くつもりか? 」

「……わかってる。ケトー号には無理をさせすぎた。整備はできるだけはしたけど、正直、往復までもつ可能性は五分だと思ってる」

「帰還するだけでも、可能性は二割を切る。……そんな状態で行くつもりか? 」

「行かなくちゃいけない。僕を信じて待ってくれている人がいるから」

「……あの小僧か。ったく……」

 

 男は喉を鳴らしながら、深く深く息を吐いた。苛立ちに瞳孔が細くなり、平たく長い足の先でテーブルの足を叩く。

 

「……十四歳のお前は言ったな? 『なんでもするから船に乗せてくれ』それは俺に、『息子にしてくれ』って意味だ」

「……うん」

「~~ったぁっく! いつかこの時が来ることはわかっとったんだがな! 」

 船乗りは大口を開けて船乗りらしい悪態をつくと、息子そっくりの仕草で、がりがりと頭を掻いた。

 テーブルに勢いよくこぶしを叩きつける。皿が一瞬宙へと浮いた。

 

「受け取れ」

 

 テーブルの上に、何の飾りも無い、無骨な鍵が転がっている。

 ヒースは鍵と義父の顔を何度も見比べると、そっと鍵を引き寄せた。

 

「なんの鍵? まさか」

「倉庫の鍵だ。中の女は小型で古いが、ケトー号ほどババアじゃねえ。整備もしてある。俺が手ずからな」

「そんな! 受け取れない! ケトー号だけで、僕は」

「ガラスの靴じゃあ走れねえだろうが。迎えに行くんだろ? 馬車は用意してやる。必ず返しに来い」

「おやじ……」

「俺がお前を飛ばしてやる」

 

 ヒースは大きく目を瞬いた。瞳の表面に張った膜が、今にも零れそうに揺れている。

 唇を引き結んでぐっと堪えると、ヒースは椅子を引き、深々と頭を下げた。

 

「ネーロ。お前の魔法は解けるときが来たんだろ」

「……はいっ! 」

「本当のお前に戻るんだ。お前がどこの誰であっても、俺の船に乗った子供が俺の子だということは何ら変わらねえ。俺を頼れよ。手前(てめえ)の親爺なんだからよ」

「―――――うん……っ! かならず、かならず帰るから」

「あーもう行けよ! 次はあの小僧連れてこい」

 ヒースは椅子を蹴とばす勢いで立ち上がった。

 紫紺の瞳が涙の粒で、きらきらと輝いている。

 

「―――――行ってきます! 」

 

 扉が閉まった部屋で、船乗りはやれやれと首を振った。耳は名残惜し気に遠ざかる足音を追い、瞳は、入れ替わりで部屋に入って来た男たちを見やる。

 

「おやじも隅におけねえや」

「ほんとほんと。オッサンのツンデレは可愛くねえし」

「いやあ、まさかウチの末っ子がなあ。大それたことをしやがるぜ」

「おまえら……聴いていやがったのか」

 

 男たちはニンマリと白い歯を剥き出しにして親指を立てた。

 

「バッチリだぜぇオヤジィ~」

「そうそう! 感動的だったぜェ」

「オレ泣いちゃったよ」

「ふん! いいやがる! 」

「照れんなよォ。いいことしたんだからよ。ひひひ」

 

 船乗りは鼻筋に皺をよせ、まとわりつく乗組員(息子たち)を振り払いながら立ち上がった。足音はとっくに消えている。

 窓からは海原へと続く、寂しい無人の埠頭が見えた。曇天から降り注ぐ雪は、いつしか大粒に変わりつつある。

 年の瀬が近づいた街は活気づき、その喧騒がここまで聞こえる。

 

「……シンデレラの靴ねえ」

 胸元に下げた首飾りを弄びながら、船乗りは空を見た。

 

「なんだよオヤジ。娘が嫁に行ったみたいな顔してさ」

「……行ったようなもんさ。お前ら、次にネーロに会った時はたまげるかもしれんぞ」

「どういう意味だよ。オヤジィ」

「ウチのシンデレラは、勇ましく馬車を駆って王子を迎えに行ったのさ」

 

 船乗りは、我が子を想ってぐるぐると喉を鳴らした。

 

 



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7 星の娘

 

 そのむかし。『黄金の子』を失った神々の悲しみは大きく、鍛冶の神のもとには、次なる人類の製作が依頼された。

 しかし、最も大きな悲しみを抱えていたのは、他ならぬ製造者。鍛冶神であった。

 白亜の宮殿の奥深く。山肌に食い込む、ぽつんとある鍛冶神の工房には、いつもかの神が一人きり。

 その相貌ゆえ、生みの母に拒まれ、妻でさえ寄り付かぬ。

 『黄金の子』は彼の息子であったが、同時に作品でもあった。

 主たる神の王へと捧げられ、灰になって帰ってきた息子の変わり果てた姿を目にした鍛冶神の心を、誰が分かろうか。

 寡黙な男神が人知れず涙を溢したのか、それとも職人の矜持として、すべてをこらえて作品にあたったのか。

 それは誰にも分からぬことだが、鍛冶神が悲しみを抱えて『銀の人』に命を吹き込んだのは確かであった。

 

 材料は、女神の冠にも使われる『高貴なる神々の銀』。鍛冶神はそれを『叡智の炎』で溶かし、『黄金の子の遺灰』を注ぎ、冷やし、固めた。

 その冷たい水に流れ落ちた涙こそが、『銀の人』にあり『黄金の子』に無かったもの。

 のちも人類は三度(みたび)間違えるが、『慈悲』と『愛』こそは、鍛冶神の涙で宿ったのだ。

 

 

 

 ✡

 

 

 

 フェルヴィン皇国を構成する列島を蓋のように覆う黒雲は、火炎によってヌラヌラと焼けた鉄のように輝いていた。

 傘の骨のように、放射線状に黄金の光が伸びていく。浮遊する真紅の火炎の花が、岩石のように黒々とした厚い雲に光の根を張っていった。

 空に食い込み、花は浮上していく。花芯にある人影は、ぐんぐんとそれと分からぬほどに遠ざかり、炎の放つ光の粒の中に隠れてしまう。

 空へ、空へ。雲を穿ち、さらに先へ―――――――。

 しかし。

 

「……止まった」

 ジジが渇いた声で呟いた。

 

 緊張で瞳孔が針のように細くなっている。

 地上には青白い濃霧が漂い、屋根の際まで埋めていた。ジジは、その家屋の屋根の上のひとつに立ち、強張った吐息を漏らす。

 濃霧は海まで流れ出し、最下層の表層を覆い尽くしているのだろう。

 広がる光景に、首のあたりまで肌が粟立つ。

 

 ふと、吐いた吐息が白く煙っていることに気が付いて、顔をしかめた。

 燃え盛る(そら)に反し、急速に下がっていく気温。せり上がる冥界が、いよいよフェルヴィンの大地を侵食し始めている証だった。

 やがては生き物が死に絶えた、乾いた大地になるだろう。

 

 

 ✡

 

 

「人類を審判するどころではない。このままでは、冥界にこの世界が呑まれるぞ」

 アイリーンは暗闇を見上げて、そう口にした。

 そこは、古代式の裁判所だった。

 石造りの円形舞台である。円を描く、すり鉢状の階段は、裁判官と傍聴者の席だ。被告人は下に立ち、彼らを見上げながら罪を裁かれる。

 その落ち窪んだ中心に立ち、アイリーンは、上から見下ろす無数の視線を受けながら腕を組んだ。

 

「冥界の神々よ。秩序の守護者たるあなた方が、いつまで手をこまねいている? 」

 

 時空蛇め、と声が飛んだ。《これもすべて、貴様の手の上か? 》

 

 神が威圧のために発した声である。アイリーンはよろめき、膝をついたが、なんとか持ち直して首を持ち上げた。

 白い肌を黒髪が縁取っている。真紅の瞳は、ほの青い暗闇に輝く。黒い瞳孔が切れ目のように鋭く尖る。

 一歩。踏み出す。

 二歩。大きく足を踏み鳴らす。

 さざ波のような声が静寂に落ち、神々の視線が円形舞台に放射状に降り注ぐ。

 

「……何を言っている? 」

 

 壇上の一角に向け、アイリーンは呟いた。

 

「何を言っている!? こんな時に、重要なのは責任の所在か! 高い矜持をさらすことか! 矮小な人間ふぜいに堕ちた時空蛇の言葉が、そんなに耳に痛かったか!? 今の言葉を口にしたのは誰か! 名乗りを上げろ! 」

 

 すっ、と一つの影が、段上を降りた。

 《そういきり立つでない。同僚の非礼を詫びよう……》

 

 滑るように人影が降りてくる。華奢な人影は、アイリーンのもとへ近づくたびに色を取り、薄汚れた老人の姿が浮かび上がる。

 まるで、毛玉だらけの灰色のローブを、枯れ木に引っかけたようにも錯覚するだろう。

 突き出た鼻と、六角のランタンを握る乾いた五指が、枯れ木をヒトたらしめている。

 

 《……皆、焦っておるのじゃ》

 

「まさか打つ手がないとは言うまいな? 」

 

 《その通りじゃ。面目申し訳ないことに、古代より秩序を守り抜いてきた神々が八百といながら、我々は手を打てないでおる。嘆かわしいことに! 》

 老人はランタンごと大きく腕を広げた。

 

 《我々は神であるからこそ、この事態に対処する術がないのだよ》

 

「なぜ、と訊いたら説明してくれるのだろうな? 」

 

 《もちろんだとも。そのために集まっていたのだからな。なあ、みんな? 》

 

 ざわめきが戻る。困惑と焦燥、憤り、そして期待の匂いをアイリーンは感じ取った。

 傍聴席の中から、もう一柱、影が降りてくる。ここまで案内してきた旅装の神である。

 彼は、当たり前のようにアイリーンの横に立つと、灰色の老人に向かい合った。

 

 空に向かって老人が掲げたランタンから、白い火花が漏れる。

 

 《……まずは……そう。昔話をせねばなるまい……》

 

 

 

 ✡

 

 

 

『魔術師』はふたたびフェルヴィン皇国に降り立った。

 ゲルヴァン火山の中腹である。高台に立ち、霧に沈んだ地上を見下ろせる。

 しかし、その視線は地上には無い。空を見上げる黒々とした瞳には、紅い花が咲いていた。

「ああ…………」

 うっとりと『魔術師』は声を漏らす。震える自らの体を掻き抱き、(たぎ)る吐息を白く吐き出した。

 

「この時を何度夢に見たことか…………あぁ……世界が終わるときは、こんな景色なのですね……」

 

 

 ✡

 

 

 

 

 《むかし……むかし……》

 

 老爺語るに、それは遥かな神話の時代、その栄華が散りゆくころのこと。

 アトランティスが海に沈む少し前、大陸の砂漠に、豊かな国があった。

 大河のほとりにあるその国に、ひとりの娘が生まれる。そこでは名を与えられるのは男児のみ。女児は名無しのまま、嫁ぐまでは父の名を、嫁いでからは夫の名を、自らの所有者として刻まれた。

 娘は、(よわい)十一にして、美しく成長した。

 かの国の王が、娘の美貌に目を止め、宮殿へと迎え入れるほどに。

 

 顔に刺青を刻まれ、王の所有物として宮殿へと召し抱えられた娘は、あまりの美しさに国王の目を眩ませた。

 娘は美しかったが、まだ幼かった。

 国王は嫉妬深くなり、残虐となる。

 母恋しさに贅沢を欲しがらぬ娘に業を煮やした国王は、まず娘の父に娘の母を差し出させ、いわれなき姦淫の罪で処刑する。同じく恋しいと漏らした兄も、母親との近親相姦があったとして、その(くび)を娘の前に並べられた。

 残る父は葬儀代を受け取ると砂漠へ追放され、幼い弟だけが、娘に仕える奴隷として養育されることを許された。

 

 娘はひとり、舌を抜かれたわずかな召使いとともに尖塔へと監禁される。

 

 人々は噂した。

 【王の城には星の姫がいる】と。

 

 時ほどなくして、国王乱心の噂を聞きつけた隣国が、大河のほとりに目を付けた。大陸を横断し、海へと続く大河を手に入れれば、臣民の繁栄は約束される。

 戦争になった。

 統率の取れぬ大河の国は、みるみる領土を切り取られ、国王も討取られる。

 すぐさま王弟が即位したことで、大河の国はようやく持ち直し、からくも終戦と相成った。

 

 若き王弟は、非常に聡明な人物であった。そしてその賢さと同じだけ、臆病な男でもあった。

 新しき国王は、塔を開き、娘をはじめて目にしたとたん、胸が疼いた。

 

 娘は十五になっていた。

 長年の幽閉の中でも美貌に磨きがかかることは止められず、四年の間に憑りついた闇が、よりいっそう娘の魅力に拍車をかけた。

 若い王は、胸に覚えたその疼きに怯えた。娘の魅力に怯えた。兄がこの娘に、指一本も触れないまま閉じ込めていたということに褥で気づき、また戦慄した。

 そう、娘は次なる王の妃となった。王は怯えたまま、娘の魅力に屈したのだ。

 

 娘はほどなくして、姫を孕む。

 姫君は、いまや誰もが忘れた言葉で『星』をあらわす名を与えられた。

 そうして――――――生まれてすぐに、あの尖塔に入れられたのである。

 

 大河の王国はもはや姿が無かった。虎視眈々と好機を待ち、英気を養っていた隣国により、あっさりと都は陥落し、星の姫君は喉を突いて自死した。もちろん、国王も後を追った。

 大河に住まう臣民は虜囚となり、奴隷となった。隣国は大河を得て増長し、宮殿は異国の王によって娼館へとなり果てる。

 

 星の名を持つ娘は、美貌を約束されているとして、尖塔へと閉じ込められた。

 温情という名の、ていのいい飼い殺しの見世物であった。

 御付きは去勢された男奴隷が一人。星の娘の弟、伯父である。

 苛烈な環境であった。

 少年ひとり、赤子ひとり。

 まず、全身に刺青を入れられた娘が三月寝込んだ。僅かな食事を注ぎこみながら、なんとか生き永らえる。

 時に食事すら届けられないこともあった。空腹に窓から鳥を釣り、爪で腹を割ると血を啜ってはらわたを呑む。

 それでも食事ができないと、少年は自らの血を吸わせ、どうにか生かした。

 

 そんな日々にも、十年で終わりが訪れる。

 

 『混沌の夜』の訪れである。

 

 大河が洪水となって国を襲った。尖塔にいた彼らは無事であったが、こんどは疫病の影が落ちる。さらに、恵みをもたらす大河が干乾び、蝗害が雲となって訪れた。

 ひもじさの中、娘だけは生き延びた。伯父の死肉すら食んで、娘はようやく、尖塔から外へとまろび出る。

 

 呪いあれ、と娘は言った。

 この世よ滅びたまえ、と娘は祈った。

 

 荒野に立つその小さな体を、蝗の雲が襲った――――――。

 

 

 

 ✡

 

 

 

 《……死後、娘の魂は、父親の信仰にもとずいて冥府の慈悲深きネベトフトゥに引き取られた。名を呼ぶものを失った彼女は、今日(こんにち)まで、自我の薄いただの亡者に過ぎなかった。しかし……なにがきっかけだったのか。あるとき、娘は急速に思い出したのだ。生前の怒り、呪いの言葉、血による祈りを――――――》

 老人はそのまま、本当に枯れ木になったように、杖にもたれてしばらく動かなくなった。

 

 旅装の神が言う。

 《……きっかけならば、あの黒い泉であろう》

「黒い泉? 」

 《地上の見たい場所が見える泉だ。未練ある霊を慰めるため、魔術に長けた女神が作って隠したのだ。欲する者のみに泉への道は拓かれる》

 

 《……娘はいまや名前を得た》

 老人が、とつぜん沈黙から顔を上げた。

 《娘は『星』を意味する名を、仕える女主人から得たのだ。冥府で働くには、ただの亡霊では話にならぬ。女主人は娘に同情し、重宝するためにとびきりの名を与えた。『星』を意味する、新たな名だ》

 

「その名は? 」

 《……【イシス】。青き星の化身にして、星を頂く玉座の守り手》

 

「―――――女神の名じゃないか! 」

 

 アイリーンはドンッとまた石畳を踏みしめた。

「力ある名だ! ありすぎる! しかも女神みずから名を与えただと!? それでは本当に女神のようなものではないか! 」

 

 《……それだけ憐れみに足る娘であった。そして娘もまた、誰かを憐れんだのだ……そう『黄金の子』を。彼の遺灰は、三つに分けて保管されている。その一つが、この冥府にあった》

「娘はそれを盗み、逃げた? 」

 《ああ……冥府の王に、呪いをばら撒いてな。大立ち回りだったとも。ああ、思い出したくもないのう……。主であった女神を人質に取り、冥王に約束させたのだ。『与えられた仕事の成功のあかつきには、命をひとつ蘇らせる』と。冥王は頷いた。亡者が一人生き返るのと、女神が一柱いなくなるのとでは、後者のほうが痛手となるからの。ただし、娘が指定した亡者というのが、『黄金の子』であった》

 

「それで、娘は、『黄金の子』を蘇らせるために、フェルヴィンを襲ったのか。『語り部』の銅板と新たな体を……アルヴィン・アトラスの肉体を手に入れるために」

 《……そうであろうな》

 

 

 ✡

 

 

 神話には語られぬ続きがある。

 大河の国を追放された父親は、諸国を巡る魔術師となった。残りの半生を贖罪に勤め、神々に祈りの言葉を唱えながら、各地で信仰と善行を広めた。

 世界が暗闇に堕ちたあとも、彼はなんとか生き延び、魔女の隊列に加わる。

 その先、男の名は歴史に埋もれてしまったが――――――やがて海の果てにある小さな島で、魔女とともに新たな国づくりに従事した一人だったのは、おそらく確かなことである。

 

 



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7 墓守の国

 

 ―――――その日、ぼくらの街に星が堕ちてきた。

 のちに語り部トゥルーズは、そう記した。

 

 

 

 

 ヒューゴは兄が呟く声を聴いた。

「……僕がここで果てたら、遺言代わりにモニカのことを伝記の末尾に加えてくれ」

「承知いたしました」

 語り部(ベルリオズ)が滑らかに応える。

 

 

 語り部と話すのに、声を出す必要は無い。自分に聴かせるためだと分かっていた。

 ……『何かあったら彼女を頼む』と、兄はそう伝えたいのだ。

 

 

 

(……トゥルーズ)

 

『なんですかぁ』

 

(分かってるな。()()()

 

『……はい。分かっておりますよ。我が(あるじ)

 

(ならいい。いいんだ)

 

『はい。……あの、そのう』

 

(なんだよ)

 

『あなたが死んだら、たぶんこの国にとって、とても大きな打撃になります。もしかしたら、象徴である皇帝を失うよりも』

 

(それは助言か? おまえらしくもないな)

 

『前のぼくなら言わなかったかも。でも真実です。人には向き不向きがある。あなたは外交の要になるでしょう。これから、この国の復興にはあなたの人脈が必ず必要になる。グウィン様たちは、あまりそういったことに長けていません』

 

(買い被りすぎだ)

 

『そんなことはありません。だって僕は、あなたのその溢れる才覚に惹かれてきたのですから。語り部は嘘を申しません』

 

(……何をしろと言うんだ)

 

『いいえ。ぼくらは誰にも『何かをしろ』とは言いません。誓約に触れますからね。ぼくは消えたくない。これは願いです。ぼくの願望を口にするだけのことです。ダッチェスやミケの真似ですよ』

 

(トゥルーズ……)

 

『――――ここにアトラスの末裔在りて。あらゆる古き血を継ぐ墓守りの一族。三千五百の年月、一切一度も誓いを誤ず。偉大なる魔女の魔法と共に、盟約の審判の時、先陣を切り、そして散る……。

 —————そんな締めくくり、とてもドラマチックですけれど…………。

 ぼくらはアトラス王家にお仕えする魔人。トゥルーズにはまだ五人の主にお仕えするだけの時間が残っております。これからアトラス王家の血が絶え、語り部だけが残る。ぼくらが語るべき物語の主人公が、誰一人この世にいなくなって、お役目をまっとうできないまま朽ちていくなんて……そんなのは嫌だなあって、そう思うんです』

 

(…………願いかぁ)

 

『始まってしまったからには時は戻れません。この国はもう、元通りにはならないでしょう。でも、まだぼくにはヒューゴ様がいる。ぼくらは語り部。未来に望みは持ちません。現在(いま)だけを見て、刻一刻と進む過去を記します。ただ思うのは……記したものを受け継ぐ人がいなくなるのは、想像しがたいほどにとても、とても、寂しいことでしょう。語り部(ぼくら)そのものの意味を失うのは、とても……とても……ぼくは……トゥルーズは、寂しいのです』

 

(……トゥルーズ。おれたちの願いは同じだよ)

 

『…………』

 

(もとには戻らなくていい。でもせめて、せめて受け継ぐことくらいは……。残りカスみてーなモンだとしてもさ、意味は遺したいじゃねぇか……。何かを変えてみてえじゃねえかよ。それがロマンってもんだ。情熱を忘れちゃア、人間駄目だろ)

 

 

「……そうですね。ええ、その通りです! さすがぼくのご主人様」

「それもミケの真似か? 」

「違いますよぅ! ほんとうにそう思ったんです! 」

 

 

 

 ✡

 

 

 

「ジジ、どうだった? 」

 サリヴァンが立ち上がって尋ねた。

「なんとも言えない」

 ドアを開けて入って来たジジは、扉を開けたまま短く答える。

 

「あの火の玉があるのはだいたい五千メートル上空。そこから止まって動かなくなった」

「いずれ落ちてくるだろうな」

「なんでそう思うの? 」

「勘」

「論理的に」

「魔術的根拠を述べる」

 サリヴァンは椅子から立ち上がって、暗い部屋を出た。

 港近くの寄り合い場のような場所である。埠頭の先の黒い海も、青白い霧が立ち込めていた。

 壁の煉瓦の小さな出っ張りに足をかけ、サリヴァンはするすると屋根の上に上がり、霧の切れ目に顔を出す。

 海を背に、城を見上げた。

 空が燃えている。

 

「あの炎の怪物は叡智の炎を身に宿している。鍛冶神の炉にある火、命すら生み出す無限の燃料だ。種火になったのは、語り部の銅板。薪になったのはアルヴィン皇子の首から下の体。『魔術師』とやらが最初からこの状況が目的だったと仮定すると、これは大掛かりな魔術儀式だ」

「何の儀式? 」

「結論を急かすな。いいか? アルヴィン皇子は生贄だ。そして生贄は、アルヴィン皇子じゃなきゃいけなかった理由が、たぶんある。逆算して考えるとな。ここは最下層。最も冥界に近い場所で、今まさに冥界に落ちかけてる。……ここを冥界にする意味はなんだと思う」

「ごはんがいらなくなる」

「『魔術師』の側で考えろ。答えはシンプルだ。『そのほうが近くなるから』だ」

「わかんないんだけど」

「だから急かすなって。いいか、『審判』でフェルヴィン皇国は冥界に近づき、死者たちが溢れる。本来、それをどうにかするのが、『選ばれしもの』たちの最初の試練なんだと思う。『審判』の号令を上げる『皇帝』になる資格があるのは魔女の墓守であるこの国の国王だから『冥界を閉ざす試練』というのは理にかなってる。綺麗な形だ。そこを『魔術師』は利用した。『魔術師』の目的は、『冥界と地上を繋ぐこと』だ。じゃ、繋いでどうする? 」

「……死者蘇生? キミが、苦手な反魂の儀式を成功させたように、冥界と地上が繋がると、魂を呼び出しやすくなる? 」

「それだ。あの炎の怪物はそいつが宿る器だと考えると、儀式の形式は取れている。……あいつ、ダッチェスを襲っただろ? あれは、『銅板』が欲しかったんじゃないか? 叡智の炎が足りないんだ。()()()()()()()()()()()()()()()

「でも、その割れた半分は、『魔術師』が拾ったんでしょ? 」

「半分じゃねえよ」

「え? でも……」

「『魔術師』は半分にしたつもりだろうが、違ったんだよ。その前に欠片がひとつ出来てる。ミケは先に腕を切断されてるんだ」

 サリヴァンは胸ポケットから、鈍い色を放つ金属片を取り出すと、ジジの目の前に掲げた。

 

「ミケの欠片だ。レイバーン王が拾ってた」

「サリー!? 」

「お前が持っとけ。たぶんそのほうが良い」

 ジジが指し出した手に、サリヴァンが銅板の欠片を握らせる。小さな金属片は、ほんのコインほどの大きさしか無く、ジジの手の中にすっぽりと隠れた。

 サリヴァンの体温だけではない温もりが宿っている、尖った感触がジジの皮膚を刺す。

 ジジが顔を上げると、サリヴァンの視線はすでに城の方向へと戻っていた。

 霧の青白さと天の紅で、赤毛が強調されて肌が奇妙に白く浮かび上がって見える。強張った横顔には青みがかった深い影が落ち、サリヴァンの顔を十歳は老けさせた。

 

「たぶん、それが鍵だ」

「この欠片が? 」

「ああ。切り札になるかもしんねえ。あいつが銅板を補填できない限り、儀式は未完成だ。『魔術師』は何か手を打ってくるぞ。そう、例えば……この国にあのでっかいのを落っことして、石になった市民たちを、燃料の足しにするとかな」

「……それをすぐにしないのは、なぜ? 」

「すぐには出来ないんだろ。あれはきっと、羽化する前のサナギといっしょだ。見ての通りなんだと思う。花が蕾のうちは、準備ができていないんだ」

「勘かい? 」

「どうだろうな……『予感』というのが近いかも。どちらにしろ、打って出るなら早いほうが良い」

「どう倒す? 空のてっぺんにある花相手に」

「真正面からは行かねえ。土台を責めるのが、魔術師流さ」

 



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7 血戦準備

 ✡

 

 

 

 寄り合い場の小屋にある大きなテーブルの下には、出航前にヒースが置いていった支援物資が、どっさりと置いてあった。

 サリヴァンくらいの体格ならば、スッポリ入りそうなトランクが全部で十五。サリヴァンは持ち手に結ばれたラベルを確かめ、そのひとつを慎重に開く。

 中には、油紙に包まれた四角い物体が、ぎっしりと詰まっていた。

 中身が白い板状のものであることを確認すると、サリヴァンはブハーッと大きなため息を吐く。

 

「こんなものを外国へ大量に持ち込むなんて、指名手配されても擁護できねぇぞ……」

「そのおかげで、いろいろ助かってるんでしょう? ヒヒヒッ! ヒースのやつ、けっこうやるじゃん」

 

 ジジは頭の後ろで腕を組み、上機嫌にトランクを足先でつつく。

「秘策ってこれかい? 君らしい作戦だと思うぜ? 」

「これの扱いを教わったときは、まさか本当に使うことになるとは思ってやしなかったよ。……おいやめろ。行儀が悪い」

「これのために、この小屋をピッカピカにしたんだもんねぇ? 」

「埃が立つと、加工するとき危ないんだよ。本当に。久ッ々に気合入れて、掃除に魔法使ったぜ……」

「日々の家事スキルが役に立った瞬間だったね」

「師匠のズボラに感謝はしたくねえな……」

 

 サリヴァンはまたため息を吐くと、手巾を取って口元に巻く。

「ほら、お前も出てけ」

「手伝いは不要? 」

「見張りだ見張り。誰も中に入れんなよ。ウッカリしてボン! なんて、御免だからな」

 

 

 後ろ手に扉を閉め、ジジはその場にあぐらをかいた。

 合流したばかりのケヴィン皇子が、かたわらの壁際で、すでに石のように座り込んでいる。

 視線を海に向けたまま、ケヴィンは口を開いた、

 

「……彼は? 」

「立ち入り禁止で作業中」

「邪魔してはいけないな……」

 それっきり、ぷっつりと黙りこむ。

 水面を舐めるよいに吹く冷たい潮風が、足から体を冷やしていった。

 フェルヴィン人は例外なく真っ白な肌をしているが、ケヴィンの横顔はそれより一つ抜けて青白いほどだった。無精髭の似合わない細面は、ひどく不健康で、神経過敏な男のように見える。

 

「……フェルヴィンの海は、」

 長い沈黙は、長い躊躇いだったようだ。

「……いつもなら、もっと激しく、白い波が立つんだ。こんなに静かな海は生まれてはじめて見る。この海を見て……本当に、神話のようなことが起きているんだと、ようやく私は納得したんだ」

「こんなになって、まだ実感無かったわけ? 」

「ああ。父親と弟があんなことになったのにな。我ながら頭が固い。……いやになるよ、不器用すぎて」

「…………」

「……(いにしえ)の魔人よ。貴方なら嘘はつかないだろうと思った。……ミケは生きているか」

「驚いたな。他の質問を予想してた」

「どうなんだ? 」

「魔人に生きているって表現はふさわしくないぜ、皇子サマ? 」

「お互いに、駆け引きは無しでいこう」

 ドン、とケヴィンが打ち付けるように地面に置いたのは、陶器の酒瓶だった。片手に重ねたグラスを持ち、流れるように注ぐと、ケヴィンは苦しそうに飲み干す。

「っ、いいか。僕は君たちに大事な家族の命を賭けるんだ」

「サリーは自分の命と未来を賭けてる。この世界にね。ミケも同じだ。自分の存在を、ご主人様が生きる世界に賭けた。その結果として『宇宙』になることを選んだ」

「……それが僕には分からない。ミケは何をした? 僕の弟は、どうして―――――」ケヴィンは鋭く、霧の向こうにある紅い光を指した。「―――――ああなったんだ? 」

 

「ミケのせいだと思っているの」

「ミケが渡した銅板で、ああなったんだろう」

「否定はしない。

 語り部の本体に使われている銅板は、神々の手が入ったもので、人間の手には余る素材だった。アルヴィン殿下の心が弱かったからとも思わない。生きながら焼かれて再生するを繰り返すんだから、理性を失くさないほうがおかしい。

 でもね、皇子様。そもそも、()()()()()()()()()()()()()()()はずなんだ」

「わからない……もっと理論的に言ってくれないか」

「火種がなければ薪は燃えない。それはその固い脳ミソでも分かるでしょ? ミケは、「こんなはずじゃなかった」って言った。ミケの予想では、混沌の泥によって、アルヴィン殿下は失くした頭蓋骨を取り戻すだけだったんだ。……でも、火種はあったんだよ」

「どこに? 誰が火をつけた」

「事故だ。予定調和の事故だったんだ。火種を持っていたのは、アルヴィン殿下自身だよ」

 こんどはジジが、グラスを喉に流し込む。濡れた唇を舌で舐め、空の紅い光を睨むように笑みを作った。

 

「命の源たる混沌の泥は、彼の感情に反応し、形なきものを『炎』という形で具現化させた。形なきもの……それは怒りさ。彼は怒ったんだ。いろ~んなものにね。

 ボクには分かるよ皇子様ァ。這い上がったやつの最初の原動力は必ず怒り(それ)だ。ボクには、よぅく分かる。

 アルヴィン殿下の怒りが、選ばれた『(使命)』に火をつけた。やりきれないのは分かるけど、ミケに責任の所在を求めるのは少し違うかな。

 正直いって、ミケはよくやったさ。

 ね、アンタは、胴と足に二分割されながら、骨から肉を剥がせるかい? アイツがやったのは、そういうことさ。細切れになりながら、主のために屈辱と苦痛に耐えたんだぜ。ヒヒヒ……」

 言いながら、ジジは堪えきれないとばかりに唇を曲げていく。

 魔人の不気味な忍び笑いに、ケヴィンは凍り付いてのけぞった。

 

「『星』の暗示は『導くもの』。……アルヴィン殿下が帰ってきたら、人類(ボクら)を導くのは彼の怒りになるんだ」

「き、君たちはまだ、アルヴィンが助かると思っているのか? 」

「おや。皇子様は奇跡を信じないタチかい? フフフ。さぁて、どうだろ。どうなんだろうねぇ。この世界の未来はどうなることやらねぇ…………」

 

 

 ✡

 

 

 室温が低すぎてナイフが通らなかったので、サリヴァンは仕方なく、部屋の隅の隅で持ち込んだ簡易コンロに火を起つけ、ついでに水を入れた鍋をかけた。

 蒸気が眼鏡を曇らせる。湧いた湯に刃をかざして温め、水滴を拭いながら回想する。

 師と語らいながら、学んだ日々を。

 

 

「なぜこんなことを教えるか、ですって? 」

 幼いサリヴァンは、控えめに頷いた。

 師は、真面目な顔をしてゆっくりとサリヴァンの机の前を横断する。

 机の上には、白い粘土のようなものと、針金などを含んだいくつかのガラクタが転がっていた。

 師が歩くたびに、質素な黒のたっぷりとしたスカートの(ひだ)が揺れる。

 コツ、コツ、コツ……。師の踵についたヒールが床を叩く音も、いつもなら生徒を眠りに誘ったが、この師にいたっては力強い声がそれを許さない。

 

「……いいことサリヴァン! ()()()()が教えるのは生き残る術です。貴方がどんな人生を歩むにしろ、少なくとも『生き残る』ことには支障がないだけの知識を与えるのが、影の王に命じられたわたくしの職務なのです。預言の有無も関係ありません。わたくしの生徒になったからには、わたくしの持つ知識、技術、経験。すべてを吸い取った立派な魔法使いになっていただきます」

「いや……でも……その……」

「『こんなのは普通の魔法使いがすることじゃない』?『こんな危険なものを子供に持たせるものじゃない』? 『子供は大人が守るべき』? どこかの誰かはそう言うかしら? いいえ、サリヴァン。無知な臆病者には言わせておきなさい。子供はいずれ大人になる。生き残る術を教え込むのは大人の役目。それが真っ当な常識ってものよ。ただし貴方の運命は、『真っ当』とは程遠いってだけのこと。剣を取るべき時に取れないまま、後悔して死ぬよりはマシ。使える道具の使い方を教えるだけ」

 

 サリヴァンの胸を、女の指が突いた。

「いいこと。『コネリウス二世殿下』。生き残るためには、魔法にこだわっていてはダメ。貴方は確かに魔法使いよ。でも、杖以外の武器を取っちゃいけないというルールは無い。大人になってからでは遅いの。貴方の場合は特にね。子供のうちに身につけたものは、そうそう忘れるものじゃない。ミスが減りますもの。

 わたくしの掲げる目標は、貴方をコネリウス一世よりもタフな男にすること。『ただの魔法使い』なんてつまらないものじゃない。貴方を『魔法()使える()()』にする。

 そして何よりね、サリヴァン。これはあまり大きな声では言えたことでは無いけれど……」

 

 白い顔が近づいてくる。頬に垂れた黒髪から、花と石鹸と汗の匂いが漂った。びっしりと上向きの睫毛に縁どられた目蓋が、弓なりに歪む。濃紺の瞳の奥で、怪しげな青い光が輝く。

 

 

「……『爆弾』ってね―――――ああ。これは人間を吹っ飛ばさない限りはだけど。

 

―――――――とっても便利で、痛快で……綺麗なものなのよ? 」

 

 

 ✡

 

 

 テーブルに紙が広げられた。三人の語り部が、総出でペンを走らせると、あっというまに余白という余白が無くなっていく。

 直線と曲線で構成された図は、定規を使わずとも正確無比だ。

 

「まさか、壁の厚みの計測に語り部の観察眼を使うことになるなんて」

 紙を覗き込みながらグウィンが言い、ヒューゴが感嘆に呻いた。

「……すっげえ。うちの城って、こうなってんのか」

 ケヴィンが図にざっと目を通し、ペンで印をつけながらため息をこぼす。

「兄さん見てくれ。かなり知らない部屋がある。これじゃあ人間では一晩で把握するのは無理だ。その点、語り部なら、隠し部屋や地下の構造も知っているからな。……いやしかし、よくぞ語り部を使うことに気が付いたものだ」

「山から城へ入ることができる道は、これで全部か? 」

「そのあたり、情報源がトゥルーズなのが不安なんだよな……」

「ヒューゴ様ぁ!? 」

「仕方ないね。今からボクが下見してくるよ」

「ひどい! 」

「悪ノリに乗っかるな。……トゥルーズ、大丈夫だから。信頼してる。……本当だって。主人を信じろよ」

 

 

 ✡

 

 

 夜が来る。霧の密度はさらに増し、自分の手元すら白く煙っている。

 屋根に上り、毛布を差し出しながら、サリヴァンは白い息を吐きだした。

「ジジ、変わりは? 」

「気温が零下まで下がった。開花の速度はある程度計算できてる。このままなら、満開まで十分間に合う。語り部は? 」

「一晩かけて爆弾の設置に」

「それならキミは休めばいいのに。決行は明日の昼? 」

「いいや、朝だ。夜明け前に儀式は終わらせて、それから動く」

 

 ヒューッと、ジジは口笛を吹いた。

「なんだい。張り切るじゃないか」

 

 サリヴァンは鼻から何度目かのため息を吐いた。

「馬鹿言うな。ここで張り切れなくて、いつ張り切るんだ? 」

 

 



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7 降霊術

 

 

 束ねた髪の先を握り、ぴんと張ったそこに刃を当てた。ジャリッという感触とともに、乾燥パスタ一人ぶんほどの髪束が落ちたが、サリヴァンは顔をしかめてナイフを置く。

「……これ、けっこう頭皮が痛いな」

「だからそう言ったじゃん。大人しくたち切り鋏でジャキッとしちゃえば良かったんだ。神様も供物になる髪を何で切ったかなんて気にしやしないよ」

「……フェルヴィン製の鋏ならいっか」

 すかさず、椅子に逆向きに座ったジジが、帆布を切るための大きな鋏を差し出す。

 

「片手じゃ無理だ。お前がジャキッとやってくれ。結び目の間を切るんだぞ。あと、なるべく一本も落とさないように。十一年溜め込んだ魔力だ」

「分かってるし、こんなにギトギトに油を塗ってあったら落ちません」

「頼むぞ」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ちょっと失敗してもキミは十分男前だから」

「ほんとに頼むぞ! 」

「まかせて。ボクの器用さは折紙付き……あ」

「あって何だよ!? 」

 

 ふと、閉じていた扉が蝶番(ちょうつがい)の悲鳴を上げながら、ひとりでに開いた。条件反射のように立ち上がった二人は、そう広くもない寄り合い場を見渡す。

 ジジがそっと扉を閉めた。

 扉の外は風一つ無く凪いでいて、濃い霧がみっしりと世界を白く染めている。

 

「……ただの風か? 」

 そう呟いたサリヴァンの言葉尻には、まだ疑念が滲んでいた。

 

 

 ✡

 

 

 切った髪は、火口(ほくち)にするのと同じ手順で、油を塗り込んだ上から蝋で固め、一本のロープのようにして、ベルトに挟み込んだ。

 何度か素振りをし、袖口から『銀蛇』が淀みない動きで顕れるまでの動作を確認する。

 両刃の短剣から始まり―――――片刃、片刃の長剣、両刃の長剣、錐のように細い刺突剣、厚い刃の双手剣、短槍、長槍……さらには死神の大鎌のようなものまで。

 霧を裂くように、刃の軌跡が生んだ白い線が、閃いて輝いた。

 

 襟から湯気が立つほどに体を温め、首筋をざらりと撫で、頭が軽いことに気が付く。

 軽く首を振ると、耳に差し込んだピアスが、チリチリと澄んだ音を立てた。

 霧の向こうに向ける瞳の(くろ)が強い。

 白く吐き出された吐息に、腹の内で燃えるものが込められている。

 すべてを閉ざして、瞼を閉じる。

 それは短い黙祷だった。

 

 夜明け前。

 

 埠頭に拵えたのは、白いクロスをテーブルにかけただけの簡易的な祭壇だった。そこに、潮風で錆びかけた燭台を置き、花を飾り、わずかな宝石と、皿に山盛りにした塩を置く。擦り切れた石畳には、貝殻を使った鳴子をしきつめた。

 サリヴァンは『銀蛇』ではなく、石を割ってつくった剣を手に取った。蘇芳色の刃が篝火にぬるりと赤く輝き、熱せられた鉄に似た光沢をみせている。

 

 サリヴァンは極めて伝統的な手法を模倣して、祭壇の前に立つ。

 皇子たちもまた、サリヴァンの二歩後ろに立ち、祭壇の前に拝している。

 

 サリヴァンは、今度は吐息の色さえ殺してみせながら、瞼を閉じた。

 霧に遮られ太陽はまだ遠いようであるが、海の端には、もう太陽が手をかけているだろう。その光が届くのがずいぶん遅いというだけのことだ。

 

 太陽も、月も、星も無い。

 それは今から儀式を行う魔術師にとって、「水が無いままパンを焼け」というようなものだった。

 ならば、水のかわりに別のものの力を借りるしかない。

 

(そら)支えし偉大なる祖神の姉妹たち、波のニンフの娘たち。アトランティデスよ、血族に加護を与えたまえ……」

 塩を掴んで、ざらりと祭壇に広げる。何かを描くような手が、ナイフに触れて血を流した。白い塩粒を染めるように踊る手指の先にある顔は、文字通り傷口に塩を擦りこむことに苦痛を感じていない。

 祭壇に、血と塩の粒でなる図が描かれる。

 

 『円』は『囲い』。二重(ふたえ)の円となれば、それは『調和』を司る。

 『三角形』は『循環』。それを二枚重ねた六芒星は、『循環』に加えて『浄化』も司る。

 六芒星の中に描きこむ一文字一文字にも意味がある。それらを組み合わせ、魔術師は『あちら』へと語りかける。

 

 ジジは、祭壇の向こう側に立っていた。

 海を背に、尖った銅板の欠片を握って、その断面を肌に食い込ませた。

 

「オルクスのしもべ……————ヤヌスの許しを……—————トリウィアの導きを……—————」

 けして大きな声ではない。しかし、聞こえない距離でもない。

 サリヴァンのくぐもった声は、霧中に取り残されるように遠ざかる。海を背にするジジは、ミルクのような闇の先、霧のうねりで瞬いて見える赤黒い光を見つめた。

 

 唐突に、強く、生温(なまぬる)い海風が霧をさらう。

 空の向こうで、鳥に似た甲高い音がした。

 サリヴァンは、まだ絶え間なく呪文を呟いている。塩が傷口に融けだし、傷を苛む。血で汚れたクロス、赤く染まった結晶、今にも風に攫われそうな篝火から伸びる細い煙―――――それらが白い暗闇の中に、ぽっかりと漂流している。

 ジジは、なおも強く銅板を握った。その瞳は見開かれ、闇に孤立しながらも、微動だにせずすべてを見届けていく。

 魔人の鋭敏な耳が、霧の向こうから鳴子を避けてやってくる足音をとらえる。

 

 霧に滲んだのは、か細く、薄い『青』だった。

 たどたどしいほどに躊躇いのある足取りとともに、ぽっかりと『青』が、霧を掻き分けてやってくる。

 

 サリヴァン以外の目が、その存在に気が付いた。

 

 冥界の青い炎は、親指ほどしか無い。

 ああ……と、最初にか細く声を上げたのは誰だったのだろう。それきり、誰も声を漏らしたりはしなかった。

 

 ほんの少しの間だった。

 彼は、霧の奥に、まっすぐ見つめ返してくる兄の姿に動揺したに違いない。

 

「……アルヴィン? 」

 カラ――――ン……。

 後ずさる(かかと)に蹴られて、貝殻の鳴子がひとつ転がった。

 

「アルヴィン! 」

「アル! 戻ってこい! 」

 

 カラ、コロ、カラコロカラカラカラ…………——————。鳴子の音が遠ざかって、青い炎も霧の向こうに消えていく。

 白い闇が再び祭壇をのみ込み始め、吹き荒れた海風が凪いだ。

 燭台で、溶けきった蝋燭の軸が、糸杉のように細く伸びて消える。

 

 

 彼らに見えたのは親指ほどの青い炎。—————そして、石畳の上で(たたず)む裸の足首が一揃い。

 右足は脛の半ばまで、左は、踵すらなかった。

 心臓の位置に燃えていた青い炎が、網膜に焼き付いてチカチカと目が眩む。

 

 白いヴェールの向こうを見つめる三対の目は、それぞれに揺れていた。

 

 

「まだ終わってないぞ」

 魔人が笑いながら言った。

 

 



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7 顕現

 

 クククッ、と喉を鳴らして笑うジジと霧の向こうを、アトラスの兄弟は戸惑うように見た。

 

兄弟(ミケ)、やったじゃあないか! アルヴィンはちゃあんと()()()()()! 」

 手の中の銅板が熱を持っている。

「名前を呼んだ! これでアルヴィン・アトラスの魂は、兄弟たちのいる現世に楔で繋がれたも同然! あははっ! ミケ、賭けの第一段階はキミの勝ちも同然だ! 」

 霞の向こうで、皇子たちが戸惑うように何かを言っているが、隔絶されたように聞こえない。

 

 霧はのっぺりと、大きな固定された塊のようになって静寂している。しかしこれは、いわば振り子が一瞬止まって見えるようなものだと、ジジは理解していた。

 耳からではなく、頭の中で、サリヴァンの呪文が響く。

 

(「————……ゥズニルの寝台―――――隠された青―――――海に落ちし陽光の君―――――願い――――……黒き岩壁の……せんとして……————ナナボシの―――――」)

「さぁ~て……」

 ジジは銅板をポケットに収め、両手を揉みほぐす。

「……何が出るかな? 」

 

 空気がうねる。一瞬にして霧は渦を巻いて動き出し、空中に無数の模様を描いた。さながら鎌首をもたげた大蛇のうろこだ。

 霧の向こうにある祭壇の端、サリヴァンの手元で赤い光が散る。『銀蛇』に火をつけたのだ。

 松明をかかげ、サリヴァンは歩き出す。祭壇の横には、おがくずを撒いた薪があった。

 そこに無造作にひと塊の肉を放り込み、火をつける。魔力で練った炎は、霧の湿り気を吸った燃料にあっというまに齧りつき、あっというまに大きく成長する。

 サリヴァンは次々と、祭壇の上の生贄を放り込んでいった。腰に垂らした髪束だけはそのままに、祭壇をすっかり空にすると、テーブルクロスもまとめて放り込む。

 口にする呪文は大きくなり、霧の壁を貫いて響き渡った。

 淀みない詠唱は、なるほど、主人として立派だ。胸が張れる。

 しかし、その儀式の手際は乱雑すぎた。おそらく手順をすっかり忘れている。ジジのおぼろげな記憶では、降霊の儀式にはもっと荘厳で美しく見える作法があったはずなのだ。

 

(……そういうところが『向いてない』んだよ、キミは)

 ジジは額を掻いた。それでも儀式が成功するあたり、師匠そっくりだ。実力で不備を押し通してしまう。

 

 大蛇がうねり、炎から立ち昇る煙と混ざり合う。

 サリヴァンのくべた魔力を吸い込み、蛇は束の間の命を得た。

 白蛇の目に炎の『赤』が宿り、上下する舌で祭壇に立つ魔法使いを愛撫しながら、守るように身をくねらせて霧と煙をのみ込んでどんどん肥大していく。

 

 篝火の赤が、おもむろに青く燃え上がった。

 

 ジジは篝火をジッと睨み、黒い霧となって祭壇を囲むように霧散する。白蛇がまとわりつく黒霧(ジジ)に怪訝そうに首を回したが、すぐに白霧の中から顕れつつある、青ざめた火影に興味を移した。

 

 炎から散る火の子が、流星群が帯をつくるように細く跡を引きながら髪の毛になる。黒光りする短冊状の鉄板を脚絆に縫い付けた太い足が、優雅な足取りで地上を踏んだ。

 

「―――――……おや」

 

 目元が印象的な男だった。

 狭い額に細い顎をした輪郭に、密度の高い睫毛に黒々と縁取られた、冥界の青を宿す瞳がある。薄い瞼には紅を一筆差し、細く整えられた髭と太い体躯、腰の下までなびく黒髪は、絢爛な衣装を彩る一つに数えても良い。

 しかし、その流麗な顔立ちの上に散る疱瘡の痕、それを塗り替えようとでもするかのような醜い火傷が、美貌の上に痛々しく映えていた。

 男は、身を形作る青い炎を歩みとともに振り払いながら、ゆっくりと首をかしげる。

 

「おや、おやおやおや……? ここは―――――? 」

 

 ――――その顔に火炎が落下した。

 目にもとまらぬ速さで剣が抜かれる。鉄板そのもののような、幅の広い片刃の直剣である。地面から直角に構えられた剣の柄頭(つかがしら)についた房飾りがひるがえり、鈴がリィンと甲高く鳴る。

 

 構えた白刃ごしに睨み合った。

 

 サリヴァンは鋭くその『名』を口にする。

 

「――――ジジ! 」

「はいよっ! 」

 

 黒霧が無数の『手』となって男に襲いかかる。

 同時に、サリヴァンの全身を真紅の炎が包んだ。男の瞼が僅かに見開かれる、その一瞬に鋭く息を吸い――――サリヴァンは『銀蛇』を手放した。

 

「――――何ッ……! 」

 『銀蛇』を消したサリヴァンは、身を屈めて男の広い懐まで一息に入り込む。突進してくる炎に驚き、のけぞり、後ずさろうとした男と、サリヴァンの笑う目が交差する。

 

 ――――ボォウ!!

 サリヴァンの口から放たれた炎が、至近距離から男の顔を襲った。

 

 獣のそれのような悲鳴が上がる。

 

 

 しゃにむに振り下ろされた斬撃をかわし、サリヴァンは壁のようにそびえる男の広い胸を蹴ってクルリと後ろへ宙がえりした。顔いっぱいに、意地の悪い笑顔が浮かんでいる。

 

「――――『蝗の王』、『白の騎士』ときたら、アンタはさながら、『黒の騎士』か? 」

 

 問いかけに、男の悲鳴がぴたりとやんだ。

「…………ふ」

 籠手に包まれた手のひらの下で、男が息を吐く音がする。

 

「―――――ふは、はハ、ハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハ!!! イヒヒ、ヒハハハハ、イヒヒヒヒヒヒヒヒ……

 ……そうかぁ、なぁるほど……まんまと誘き出された、と……いうわけカァ……冥界からの道を、儀式でここへと誘導したな? 」

 

 

 丸めた背を、男はすっと伸ばした。

 サリヴァンを見下ろす視線にあるのは、軽蔑、拒絶、憎悪、—————そして()()

 

「……おまえ、今の炎は『鍛冶神の炉』からのものだな? 魂を燃やす叡智の炎だァ。そんなものを使える魔術師が、まだ地上に生き残っていたのか。実に……」

 

 右手でざらりと傷跡のある左の顔を撫で――――男は、左右非対称の笑顔を浮かべた。

 

「―――――実に、腹立たしい……」

 

「サリー! 」

 ジジがサリヴァンの脇腹にぶつかって強く押し出す。サリヴァンは背中から祭壇に激しくぶつかりながら、ジジに押されるまま倒れ込むように地面に伏せた。

 

 

『黒の騎士』の輪郭が()()()()()()と。

 

 そして、()()()()()

 

 

 

 サリヴァンは息を呑んだ。恐怖に一瞬ひくついた喉に一息で酸素を取り込み、ぐっと奥歯を噛みしめ、その名を呟く。

 

「―――――アポリュオン。『蝗の王』……」

 

 

「……なんたる……なんたる矮小な小賢しさ……ふふふ……ははは。アハはははハ、ハハハハハハハハハハハ……ハハハハハハハハハハハ――――!!!!!!!!」

 

 

 毒の滴る翼を広げ、醜き怪物はサリヴァンに笑いかけた。

 

 

 

 

 

 



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7 蝕の王

 

「あれは……!? 」

 グウィンは顔を引き攣らせた。

 『黄金船』のある縦穴にいた怪物。それをこんな近くで目の当たりにして、またその名を耳にして、伝説を愛するこの王の驚愕を引き出さないわけがなかった。

「――――ベルリオズ! 皇帝特権執行(スート)! 兵たちよ、弟たちを守れ! 」

 埠頭の石畳から、次々と白金の兵士たちが顕れる。「おまえたち! 一刻も早く離れるんだ! 」

 濃霧の中に立ち上がった兵士たちは、自らの体を盾にするように隊列を組み、その中心にアトラスの皇子たちを閉じ込めて駆けだした。

 

「兄さん、あの怪物はなんだ!? 」

「毒の怪物だ! 」ヒューゴがケヴィンに怒鳴った。「息するだけで毒を撒くっていう、世界終焉がお仕事の天使だよ! 」

「天使ィ!? あのグロテスクなのが!? 」

()()()()()を与えられた神の使いってわけだ! 殺されたくなかったら黙って走れ! 」

 

 ✡

 

 尻もちをついた姿勢のサリヴァンは、立ち上がるのではなく、横に転がることでアポリュオンの砲弾のような拳を避けた。

 しこたま打ち付けた右の脇腹がじくじくと痛む。

 転がった勢いで立ち上がり、前のめりに駆けだす。

 

「――――ジジ! 」

 黒霧がサリヴァンの体をさらい、大きく跳躍して、寄り合い小屋の屋根に手をかけた。そのまま屋根伝いに走る。

 煙の白蛇が、霧を晴らしながら先導する。連なる倉庫の屋根を三棟越えたところで、ジジが大きな声を出した。

 

「サリー! アポリュオンは追ってきてない……! 」

「なんだってぇ!? 」

 

 はたして怪物は、地面で翼を広げているだけだった。

 おぞましいほど逞しく大きな背中を向け、篝火にぴったりと張り付いて動こうとしていない。サリヴァンの脳裏に、黒い稲妻が閃いた。

 

「まさか……! 」

 

 

 ✡

 

 

 アポリュオンは翼を広げ、腕を広げて炎を囲むようにかざした。

「……来る、来る来る来る来る来る―――――!!! 」

 

 青い篝火に、泡のように黒いシミが浮かんだ。

 ……ずるり。

 ――――それは、さながらサナギからの羽化のように。

 理性なき空虚に濁った緑白の複眼が、主人にして父の顔を見て、くちばしを激しく鳴らす。

 一匹が炎の中から押し出されると、あとはもうワラワラと、異形の蝗たちがあふれ出した。

 埠頭は驚くべき速度で黒光りする蝗の羽で埋め尽くされる。ガチガチとくちばしの合唱が響き渡り、その中心にいるアポリュオンは、満足げに腕と羽を広げていた。

 

 

 ――――崇め湛えよ。我らがあるじ。

 くちばしの合唱の中に、やがて本当に意味のある言葉が広がっていく。

 

 

 ――――奈落の王にして(しょく)の王。大いなる食事に感謝せよ。

 ――――飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。

 ―――――食らえ、食らえ、食らえ。

 蝗たちは歯の無い灰色の咥内をさらして、幼児のような声で高らかに合唱している。

 

 ――――崇め湛えよ。我らがあるじ。(いなご)の王にして神の毒。混沌の蛇のきょうだいよ。あらゆる食事は赦された。我らいまこそ飽食に耽るとき。目玉を捧げ、前菜に……。

 

 グウィンらにもその歌声は響いた。

 この国に残ったわずかな耳ある者は、例外なく、ぞっと背筋を震わせる。

 膝が震えて立ち止まりそうになるたび、互いの肩を強く叩いて先を急いだ。

 

「走れ、走れ、走れ――――! 」

 

 

 サリヴァンは舌打ちをして、屋根から身を躍らせた。『銀蛇』を鞭のように伸ばし、埠頭に立つ街灯に巻き付けて地面すれすれを滑空する。

 翅をくつろげ、今にも飛び立とうとしている蝗の背中を蹴り飛ばし、その固い背中を足場に再び飛び上がった。踏みつけられた蝗が、ガチガチとくちばしを鳴らす。

 闘争に白く濁った複眼は、波のようにサリヴァンへとその邪心を向けた。

 

 サリヴァンは寄り合い場の粗末な扉を蹴破るように中に入ると、余ったトランクをひっ掴む。

 顔を上げて目にしたのは、ぞっとする光景だった。

 窓に、開け放たれたままの入口に、蝗たちが群がって、その腐った卵のような濡れた複眼を向けている。

 棘のついた(あし)が、中に入ろうと仲間たちを掻きむしる。サリヴァンの脱出口は塞がっていた。

 

「――――くっそ! 」

 海側と逆の窓に向かって『銀蛇』を向ける。噴き出した炎蛇が、あぎとを開いて窓枠ごと蝗たちの体を半分むしり取った。窓枠の痕に足をかけながら、トランクを開ける。組み立てにかかった十秒と少しの時間が、恐ろしいほどの緊張をもたらした。

 

 ガチャン! と金具がはまる音がする。

「……よし! 」

 頷き、振り返った瞬間、後頭部を蝗の肢先がかすめるところだった。

 髪が長いままだったのなら捕まっていただろう。鼻先を硫黄と腐臭が混ざった吐息がかすめる。

 くちばしの奥にあるノコギリのような歯列すら、数えられる距離だった。

 

 『銀蛇』で薙ぎ払い、跳躍する。倉庫とのあいだの細い路地には、葦に似た腰ほどの芯が固い雑草が生い茂り、踏めば跳ね返って、サリヴァンの太腿を真っ赤になるほど何度も叩いた。

 組み立てたばかりの持ち手がじわじわと熱を帯びていくのを感じながら、サリヴァンは祈るように、自分の組み立ての成功を信じた。

 

 頭の上に影がさす。

 視線を向けるまでもなく、サリヴァンは炎を放った。炎が通ったあとの乾ききった熱風が、サリヴァンの呼吸も苦しくする。

 血のようにどろりとした嫌な汗が、全身を包んでいた。

 

 ――――ポッ、

 

 はっとして、手にしたものの先を見下ろす。

 

 ――――ポッ、ポポポ――――

 

 先っぽの円柱についた無数の穴から、オレンジ色の火花が散っていた。握りの部分はもう、はっきりと温かい。魔力を吸い、無事に動き出している。

 サリヴァンは安堵のため息の前に、それに跨った。

 ばねのように跳ね返る葦を蹴りあげ、勢いよく空へと飛びあがる。

 握りやすいようにくぼんだ持ち手には革のテーピングがされ、繋ぎ目はきちんとはまっているらしく、ぐらつきもない。先から吹き出す炎の勢いもまぁまぁだ。

 折り畳み式なので、サリヴァンが愛用しているものよりやや細身なのが難点であるが、じゅうぶん飛べている。

 

 サリヴァンは前屈姿勢になり、『箒』にさらに魔力を押し込んだ。

 

「――――サリー! 」

 白蛇と並走して、黒霧をまとったジジが近づく。「よく無事だったね! 」

「もうごめんだ! 」

「ボクだってごめんだ! 相棒があの虫どもの群れに突っ込んでいったとき、ボクがどんなにゾッとしたか、キミにわかる!? 」

「そりゃ悪かったな! 結果オーライだ! ―――—作戦変更! 予定前倒しだぞ! 」

「分かってるよ! もう皇子たちもそのつもり……だッ! 」

 

 ジジのコートの裾に手をかけようとした蝗が、蹴り飛ばされてキリキリ舞いしながら吹き飛んでいく。

「ザマァみろ! 」

 

 

 空をおびただしい蝗の群れが覆いつつあった。

 埠頭から吹き出した蝗たちは、蚊柱のように黒いヴェールとなって、城下町の上空を飛んでいく。ふるえる翅の不協和音をバックに、耳障りなコーラスが重なった。

 

 ――――崇め湛えよ。我らがあるじ。

 

 ――――奈落の王にして(しょく)の王。大いなる食事に感謝せよ。

 

 ――――飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。

 ――――腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。

 

 ―――――飽食せよ。飽食せよ。

 ―――――食らえ、食らえ、食らえ……。

 

 

 先導するのは、アポリュオンの巨躯である。

 アポリュオンは城に近づくと、ぐんぐん上昇し、『花』に向かった。

 二分咲きの火炎のつぼみへと、黒い影が迫っていく。

 近づくごとに、熱風にまとう毒は剥がされ、その巨躯はどんどん小さく縮んでいった。

 長い黒髪をなびかせ、アポリュオン……否、『黒の騎士』は、腕を広げて、その花の花芯へと抱擁を求める。

 

 ―――――ふたつの黒い輪郭が、()()()()()()()()融け合った。

 

 

 サリヴァンは箒の上で歯噛みした。

「……くっそ! そういうことか……! 『蝕の王』、『落ちる太陽』……! あいつ、『(あれ)』を太陽に見立ててやがる! 」

「皇子の中にいたのは、アイツだったってこと!? 」

 サリヴァンの歯噛みする顔が、その真実を物語る。

 

 ジジの手が、ポケットの中の銅板の欠片を探った。熱を帯びている。

 

 

「……どうするの」

「……作戦は変えない。陛下たちと合流だ」

「それだけで大丈夫なの」

 サリヴァンは下唇を噛んだ。

 

「サリー。……言って」

「…………ジジ」

「うん」

「……やってくれ」

「いいよ」

 ジジは悪戯っぽく笑った。危なげに金色の瞳がきらめく。

 

 

「ボクのご主人様は、ひどくお困りのようだ。……お望みどおりに」



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7 ジジの杖

 ✡

 

 

 二人の脳裏に蘇ったのは、二年前の『あの日』のことだった。

 『悪夢の街グロゥプス』。賭け事と色事でささやかに繁栄した田舎の歓楽街で、ジジは最悪の朝を迎えていた。

 そう。その時も、ミルクのような濃霧だった。

 

 汚泥が流れることなく溜まっていく石畳。濡れたそこに這いつくばり、喉が裂けるほど叫んだあの朝。

 ジジという、『積み上げた個人』が踏みにじられたあの朝。

 魔人ジジが、朝靄の中で眠る三千人を、()()()()()———-あの朝。

 

 

 悪夢の七日。

 魔人ジジはその後、多くのものと引き換えに、牢獄にてひっそりと安寧を手に入れるのである。

 

 

 ✡

 

 

「じゃあ、ここからは別行動だ。(いなご)たちは、ボクが一掃してあげる」

 サリヴァンの耳に、いまさらながら、風の音が大きく聞こえだした。

 空の高い場所で、ずいぶん城にも近い。赤い光が直接表皮を炙り、汗が吹き出す。

 

 ぞっとする。

 

「……本当にいいのか」

「良いっていったろ」

「嫌なことをさせちまう」

 ジジは奇妙な笑い方をした。

「キミは……いや、なんていうか……。……いいやつだな」

 『奇妙な笑顔』が、サリヴァンにも伝染する。

 束の間、牢獄で檻越しに話したときに舞い戻る。

 

「あのときと反対だ」

「……頼んだぞ」

「くどいな。やってやるさ。ボクにはやることが山ほどある。そのために、ミケとキミの協力が必要だ。ボクには、ミケみたいに全部を捧げる理由も義理も無いんだから」

「そうだな」

 

 サリヴァンは器用にバランスを取りながら、右手を差し出した。

 先が二又に分かれた銀色の小枝が握られている。

 

「少しの間、お前に返すよ」

「いいの? ボクは『グロゥプスの悪魔』だぜ」

「言っとくけど、お前が帰ってこなかったら、すぐに叔父上にバレるからな」

「そりゃマズいな。じゃっ、ちょっとだけ借りとく」

 なんてこともないように、ジジは小枝を手に取った。

「……『()()()()』を握るのはひさしぶりだな。サリーありがと。これで万全にやれる」

 

 ばしん! と、サリヴァンの手がジジの背中を叩いた。押し出されるようにして、ジジは飛び出す。

 

 

 サリヴァンは肺一杯に息を吸う。

 

「”願いは彼方(かなた)で燃え尽きた” ”希望は彼方(かなた)に置いてきた”」

 

 魔法使いの声が朗々と、風を背に響き渡る。

 

「”望みはなにかと母が問う”

 ”そこは楽園ではなく”

 ”暗闇だけが癒しを注いだ”」

 

 叙事詩を吟じる古代の詩人のように、力強い言葉そのものが呪文となって風に編みこまれていく。

 

「 ”時さえも味方にならない”

 ”天は朔の夜”

 ”星だけが見ている塩の原”

 ”言葉すらなく”

 ”微睡みもなく”

 ”剣を振り下ろす力もなく”……」

 

 蝗の群れが迫る。

 黒煙のようにも見えたそれらの、ひとつひとつの白濁した複眼と、くちばしを持つ醜い顔、ぬるぬると黒光りする深緑の体からぶら下がった節だつ手足、棘のついた二又の尾。

 奇怪で悪趣味な合唱は、高らかに絶望の花へと捧げられている。

 ジジの羽織ったコートの裾が、風に暴れた。

 ジジが指揮棒のようにサッと小枝を掲げると、蝗たちの視線がいっせいに注がれる。

 

 ジジは背から聞こえてくる主とともに、自らの呪文を口にした。低く力強いサリヴァンの声に、ジジの、子守歌でも歌っているような囁きが重なる。

 

「 ”いかづちの槍が白白(しらじら)と、咲いたばかりの花々を穿(うが)つ”」

 

 輝くような白銀の小枝に、蝗たちの視線は釘付けになった。そこから放たれる目に見えない『何か』が、蝗たちの飢えを促す。

 

「”至るべきは此処(ここ)と、父が言う”」

 

 ふわりと軽やかな風が吹いた。

 

「”我が身こそが、終わりへと至る小さな鍵”」

 

 ジジは杖を握る腕を天に伸ばし、体を黒霧へと変えていく。魔人がほどけた黒霧は、糸玉を巻くようにその身体を覆っていった。

 

「”望みはひとつ”—————」

 

 サリヴァンもまた、杖を握る腕を伸ばして、小さくなったジジの背へと向けていた。片刃の三日月形のダガーの切っ先は、まばゆい白に輝いている。

 血に似た、生温くドロリとした汗が全身を伝う。

(ジジ―――――! ちゃんと気をしっかり持てよ――――! )

 

 

「―――——”やがて、この足が止まること”」

 その始まりに、音は無かった。

 

 

 

 

 

 ―――――黒い卵が浮かんでいる。

 

 

 

 

 

 その一瞬、蝗たちは紅い花のことを忘れた。

 ぽつんと、目の前に浮かんでいる黒い卵は、言いようのない()()()を醸し出している。

 なぜなのかは分からない。食欲に満たされた彼らの頭では、理由を見つける術をもたない。

 表面はつるりと丸かった。しかし、空も、地も、何も映り込むことのない深い闇の色をしていた。

 その表面に、おもむろに白い線が、つう、と伝う。

 内側から音なく亀裂をいれたのは、あの銀の小枝だった。

 溜息が亀裂から零れる。

 眠りから目覚めるときに零れる、あの吐息である。あるいは、夢に落ちるときに胸から押し出される、あの吐息だった。

 

 蝗たちの無機質な複眼に、真っ赤な恐怖が広がっていく。

 二度目の溜息は、腹が満たされたときの満足げな吐息だ。

 

 サリヴァンは猛然と空を駆け出していた。

 その背後では、土砂降りの雨のように、地面へ落ちていく蝗たちの姿がある。

 振り返って確認することなどしない。息をするのも忘れ、サリヴァンは箒を進めることだけに集中した。

 そうでもしないと、頭の中に入り込もうとする声に侵入を許すことになる。

 

(□□□□□□、□□□! □□□□□、□□、□□□□□□□□! □! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! )

 

(……ああ、もう! うるっせえ! )

(□□□! □□□! □□□□□□□□……? )

 

「ジジ! やること終わったんなら帰ってこい! 」

 

(□□□□□□……□□□□□□□□……『つえ』)

 

 サリヴァンは、空を東へ走りながら、銀蛇を握った手を掲げた。切っ先から白い光の粒が帯になって流れ出す。

 『卵』は、蝗の死骸の雨の中で静止している。

 遠ざかる主の背中。ジジは、ゆっくりと上昇を始めた。

 その天中には、すでに空を覆うほど『開花』をはじめた紅い花がある。

 

(□□、だ、□□□□□□……□□□いだ□□□……ぐるし□、べ□□□□……ああ□□□ず……□サリヴァ□、ボク、□□…… )

 

 

 ✡

 

 

 開け放したハッチから飛び込んできたサリヴァンを受け止めたのは、ベルリオズだった。

「どうした! 大丈夫か! 」

 ケヴィンが走り寄り、床に這いつくばるサリヴァンに肩を貸す。脈の速さはすぐに分かった。汗にぬれた冷え切った体のことも。

 小柄だが、しっかりと重い少年の体を座席に座らせる。マリアが拾い上げた箒を、慎重に座席の下に置く。尾から出ていたオレンジ色の炎は、サリヴァンが柄から手を離すと、勝手に消えてしまっていた。

 

 前の座席に座ったヒューゴが、首をまわしてサリヴァンに問う。

「あの蝗たちは消えたのか? 」

「……決定的な被害が出る前に、ジジが駆除をしました」

「まさか、あれを全部? 」

「はい」

「大丈夫か? 作戦は」

 不安が滲んだ質問に、サリヴァンはきっぱりと言った。

「このまま。何も不都合はありません」

 

 操縦席には、グウィンが座っていた。

 大戦以後、とくに下層の国家では、軍属の条件に『飛鯨船の操縦資格の有無』をつけることが多い。

 フェルヴィン皇国も、また皇太子であっても例に漏れず、アトラス兄弟の中では軍属経験のあるグウィンのみが、小型の輸送用飛鯨船の資格を持っていた。

 埠頭よりほど近く、商業地区にある着陸場に、グウィンたちは昨夜からこの小型飛鯨船を準備していたのだ。

 

 飛鯨船の中は、やっと人一人が動けるほどにしかスペースが無く、二列目の座席に挟まれたヒューゴなどは、立つのがやっとという感じで、おとなしく小さくなって一列を占領している。

 

「……事態が少し変わりました。でも、作戦は変更しません」

 念を押すようにサリヴァンは言った。

 

「でも、それまでに一つ、話しておくことがあります。……あの、『紅い花』にいる、アルヴィン皇子の体のことです―――――」

 

 



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7 賢者の見解

 ✡

 

 

 霧の中での儀式のとき、呪文を唱えるサリヴァンのもとを訪ねた亡者がいた。

『……もし、あなた。コネリウスの血を引くあなた……』

 冥界の炎が宿る冷たい指が、剥き出しになった首元のあたりに控えめに触れる。

 思わず体を跳ね上げたサリヴァンに、『しっ! 』と唇の前に指を立てたユリア皇女は、サリヴァンを見下ろして(フェルヴィン人として小柄な彼女でも、頭一つ分は背が高かった)、霧の中で見失わない程度に距離を取った。

 

『呪文を続けなさい……そう、返事は不要です。高祖母としての義務を果たしてあげる。……よくお聞き』

 

 サリヴァンは二度頷いた。

 

『冥界へ向かったジーン・アトラスは、あの女の手のものに捕らえられました。役目を終えたジーンを連れ、すでに旅立ったのです。……いいえ、質問はだめ。

 そしてもう一つ。ジーン・アトラスを捕まえたのは、()()()()()()()()。あの醜いトカゲ虫は、寄生虫に侵されている。————呪文を続けて! 』

 

 サリヴァンはあやうく止まりそうになった言葉に、次の言葉を繋げた。こんな重要な話を聞きつつ、語彙を駆使して神々を賛美することを両立するというのも、なかなか無いピンチである。

 

『……奈落の王アポリュオンは、亡者の魂に侵されている。もはやあやつは、その亡者の傀儡(かいらい)です。……いいですか、サリヴァン。この儀式は、冥界の穴を城ではなく、この場所へ繋げようというもの。とうぜん、アルヴィンの魂だけでなく、アポリュオンという神に連なる怪物も、冥界からここへと出てくるでしょう。それに奇襲をしかけるという作戦。……そうですね? ええ、今のわたくしは真実の意味でのメッセンジャー。冥界の神に命じられてここにいます。

 いいことサリヴァン。あともう一つ。これが一番重要なこと。

 

 『魔術師』は、アルヴィンの体をただの生贄で終わらせるつもりはない。

 

 なぜって?

 『魔術師』が『死者の王』を名乗っているからです。

 あの女は、アルヴィンの体を使って『死者の王』を蘇らせようとしている。この有様は、そのための前準備段階にすぎません。

 冥界の蔵から盗み出されたのは、『黄金の子』の遺灰。『死者の王』とは、最初の死者のこと。『黄金の子』のことです。

 彼らを率いる頭目は、いまだ蘇っておりません。彼らは一つの目的をもって動いていますが、その目的は、『この儀式を壊せば叶わない』のです。

 そして、これは命じられたことではなく、わたくしの勘。

 『魔術師』の恋は、叶わぬほうがいい恋です』

 

 きっぱりと、ユリア皇女は言い切った。彼女の感情の機微に従い、体から溢れた青い火花が彼女の瞳や髪から散る。

 

『故郷にはそれなりに愛着がありますのよ。恋にうつつを抜かしても、皇女としての責務を忘れたことは生憎とございませんもの。わたくしの恋は必要な恋だった。後悔はいたしません。フェルヴィンという国は栄え、あなたという子孫もいる。わたくしは確かに多くを殺してまいりましたが、その死体を無駄にもしなかった。あやつにはそんな『理由』はない。狂えるだけ恋に狂い、その道すがらに無辜の民を殺すでしょう。コネリウス・サリヴァン。……わたくしの子孫ならば、この怒れる高祖母に変わって、不埒者に天誅を下しなさい』

 

 『命令よ』と慣れた口調で言い放ち、偉大な先祖が霧の中に消えるのを、サリヴァンはしっかりと見ていた。

 

 

 ✡

 

 

 霧の中でのことに重ねて、サリヴァンは見解を続けた。

 

「城下で暴れていたアルヴィン皇子の動きは、陛下たちが口にするような、大人しい深窓の子息という印象ではありませんでした」

 子息に『深窓』と使うのもおかしな話だが、アルヴィン皇子ならば、ふさわしい例えだろう。

 

 サリヴァンは、アトラス王家の体格を脳裏に浮かべた。

 レイバーン、グウィン、ヴェロニカ、ケヴィン、ヒューゴ……。ついでに、曾祖父であるコネリウスも組み込んだ。アルヴィンだけは、あの『炎の怪物』の姿しかサリヴァンは知らない。

 

 フェルヴィン人の体格は、基本的にあちこちが大きい。これにつきる。

 手足が長く、骨も太い。そこにぶ厚い筋肉が乗っている。しかし腰回りなどはくびれていて、『重くてのろま』な印象を感じない。あくまでもしなやかだ。

 曾祖父コネリウスもまた、老齢であっても、背中が厚く盛り上がっている。見栄えのする姿である。

 

 格闘技、とくに、レスリングのような寝技を駆使する戦い方ならば、あの太くしなやかで長い身体は、非常に有利であるはずだと、サリヴァンは考えていた。

 実際、間近で見たヴェロニカ皇女の戦い方は、足を払うことが髄所に組み込まれた動きだった。

 すり足で距離を取り、一気に間合いを詰めて手を下す。転ばせて、その肉盾で圧し潰す。または、手刀で急所を突く。

 レスリングというより、レスリングのベースになった甲冑術のような動き。ヴェロニカ皇女にとっての格闘技が、非常に実践的な護身術の意味を帯びているからだろう。

 

 対して、アルヴィン皇子は。

 奇しくもそれは、ジーンが指摘したことと同じであった。

 

「アルヴィン皇子の動きは、どちらかといえば、おれに近いものでした。つまり、剣の型があった。攻撃を受けた時に反射的にしていた次の動きを意識した体勢や、攻撃のあとにできる、剣筋を読むために引く間合いを計る癖。そう思ったら納得できます。

 よくよく見れば、利き手側をよく体の前にして構えていたようにも思います。左手は、体の軸を取るのに後ろへ引いていたし、踏み出す時に腰を大きく使ってた。体幹を意識して動くのは、訓練しないと」

 

「ああいうのは、一度習得すると意識しないと隠せるものじゃあない。体に浸み込んで離れないからね」

 グウィンが操縦席から言った。

 アルヴィンをよく知るグウィンがあの戦い方を見ていれば、サリヴァンよりもっと早く気が付いただろう。

 

「先ほどのことで、皇子の『中』にいるのはアポリュオン……の中にいる亡者だと、ほぼ確定して良いかと」

「そうだな。剣術家の亡者か……『魔術師』のようなものが、他にもいるということだね」

「『魔術師』単独の犯行だと、思わせておきたかったのかもしれません」

「……だとしたら、おれたち全員がこうして生き延びているのも、あちらの作戦のうちなのかもしれない」

「こう考えることもできます。『魔術師』以外は、見る者が見れば身元が分かりやすい人物だから、隠さずにはいられなかった、と」

「どちらも、という可能性もあるな」

「じゃ、最初から目的は、アルヴィンの体だったってことか? 」

「ヒューゴ、変な言い方をするなよ」

「だって実際そうだろ? 」

「正確には、『()()()()()()()()()()()()()』だな」

「そうですね。おそらく()()を手に入れるほうがメインでしょう」

「じゃあ……銅板を手に入れるためだけに、こんな……一つの国を亡ぼすような手段を取ったのか」

「…………」

 

 言って、グウィンは大きくため息をついた。ケヴィンは額を抑え、ヒューゴは口元をひくつかせて腕を固く組む。

 サリヴァンもまた、天井を仰いで、しばし黙り込んだ。

 

「……狂ってる」

 グウィンが、らしからぬ声色で吐き捨てた。

 

「……作戦はそのまま変わりません。アルヴィン殿下の体を、あの『花』から引き剥がす」

 サリヴァンは、一人一人を視界に入れながら言った。グウィンも軽く首をまわし、視線を交わして頷き合う。

 この作戦の要は、飛鯨船を操縦できるグウィンと、魔法が使えるサリヴァンだ。グウィンは『魔の海』を超えるほどの腕ではないが、それでも、西へ東へと空を行く機動力はじゅうぶん武器になる。

 

「でもきみの魔人は……ジジは大丈夫なのか? 」

 ケヴィンが窓の外をちらりと見て言った。

「そのあたりは、おれが微調整します。あいつもおれも、こうなることは想定の範疇でした。ジジのあの能力は……」

 サリヴァンは少し言葉を切った。「……あいつの力は、強力すぎて、あたりに被害が出る可能性もあった。ベストな使いどころでした。ジジも安心しているでしょう」

「でも、彼がいないことには始まらない」

「そこは何とかします。遅いか早いかの違いですから、対処は考えてある。あいつの主人として、もっと悪い場合の対処法も、何度も考えてきました。うまくいきます」

 

「……必ず」サリヴァンは最後に、そう付け足した。

 

 



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7 ふたつの星

 ✡

 

 

 

 天空に六芒星が浮かんでいた。

 地上から見ると、コインほどの大きさしかないが、雲の端に迫る巨大な六芒星だ。

 『銀杖』と銘を打たれた魔術師の杖で刻まれたものだと、『魔術師』はわずかに空気に滲む魔力で知った。

 魔術の残滓を消すのは、実践的な魔術師には基本だ。

 『魔術師』は、六芒星を刻んだ『教皇』の焦りを感じて、僅かに面白く思った。

 

 六芒星は、魔術的に最も安定する紋である。『安定』『固定』『守護』『結界』『魔除け』『浄化』……使い所によって、少しずつ違う効果を出す。

 とつぜん顕れた『黒い卵』に、蝗たちをやられたのは不愉快だった。街を滅茶苦茶にしてやる予定が反故になってしまったからだ。

(しかし、蝗どもはまた呼べばいい……)

 蝗たちの襲撃は、大目的には組み込まれていない、いわば鬱憤晴らしだ。いなければいないで、目的達成の支障になるわけではない。

 

 問題は、蝗の群れを葬り去った、あの『黒い卵』はなんだろうということだ。

 今は六芒星に阻まれるかたちで停止しているが、明らかにあの『花』へ向かっていた。

 六芒星を結界として配置するには、陣が小さすぎる。

 では、あの六芒星に刻まれた術は、『固定』だろうか。

(……違う)

 

 『魔術師』の真っ黒な瞳の奥で、青い炎の光がちらりと閃いた。

 袖から指先を出し、(くう)に、『情報』を意味するアンスルと『伝達』のラドの紋を描いて、両のこめかみを押す。

 『魔術師』にだけ見える一つ目の鴉が、その頭から翼を広げて飛翔する。鴉の赤い目を通し、『魔術師』の視界は空を飛んだ。

 『魔術師』自身の瞳は青白く白濁し、さらに伝達(ラド)を重ね掛けすると、赤目の鴉は距離を飛び越えて目的のもとへと飛んでいく。

 『黒い卵』は、一部の隙間も無く、つるりとしていた。

 『知恵』を意味するケンの紋を、額に刻む。

 

「『愚者』……そう、あれが『愚者』の……」

 『魔術師』の唇から、その正体が呟かれた。

 

 

 その脳裏に駆け巡ったのは何か。

 『24人の選ばれしもの』。その順番にも、意味が存在する。

 『愚者』『魔術師』。この二つは、後続する『女教皇』からはじまるものとは、おもむきが異なるのだ。

 『宇宙』を除けば、それは『旅の始まり』を暗示する。『愚者』が出会う最初の神秘……それが『魔術師』だ。『魔術師』もまた、『愚者』との出会いで変革への道を余儀なくされる。

 

 導き出されたのは、一言だった。

「では、この審判において、あなたはわたしの()()になるのでしょうね……」

 

 ゆっくりと、ゆっくりと、その顔に笑みが広がっていく。

「うふ……うふふ……うふ、うふ、うふふふふふふふ…………」

 

 鴉は飛ぶ。卵と『花』以外、何も無い空のどこからか『教皇』が箒にのって飛び出してきた。

 隠匿の魔術をかけた乗り物にでも乗っているのだろう。うわさに聞く『飛鯨船』だろうか。

 

 鴉の目が、『教皇』と『愚者』に繋がる絆を感じ取る。

 感情的なものではない、極めて魔術的な『絆』……力の受け渡しを行っている名残りという名の()()()だ。

 そのむかし、塔の窓から見えた箒星のように、『教皇』は六芒星の網に捕まった黒い卵へ杖を向ける。

 一瞬、『教皇』の体が、赤い炎に包まれた。

 鴉は音を伝えることはできない。吹き出す汗を拭いもせずに、『教皇』は炎に宿る力を速度に変えて、空にオレンジ色の線を引いた。

 視えない力の受け渡しが行われ、『黒い卵』は内側から弾けて瓦解する。卵は黒い靄を上げながら消えた。

 

 『教皇』は、そのまま城へと向かっていく。

 

(『愚者』とはどんな人物なのだろう……)

 

 そのときだった。

 

「――――誰! 」

 『魔術師』は、鴉との繋がりを切って振り返る。

 そこには黒い荒涼とした丘が広がっている。

 乾いた短い草花がまばらに生えているだけの、火口へ向かう中腹である。起伏の大きいこの国の地形は、あちこちに瘤のように突き出した丘がある。

 眼下の街に溜まった霧は、魔術師の足首のあたりを舐めていた。

 

 ……枯草を踏んで、霧の中から坂を上ってくる足音がする。

 

 すん、と『魔術師』は獣のように鼻を鳴らして、耳を(そばだ)てた。

 

 額に刻んだ『知恵(ケン)』と、重ねがけした『伝達(ラド)』の残滓はまだ残っている。風に乗ってやってくる情報は足音ばかりで、匂いがしない。

 『魔術師』は、『伝達(ラド)』の効果を切ると、素早く水で瞼の上に二重に重ねた円を描き、足音の行方を耳で追った。

 耳を立てながら、『知恵(ケン)』を重ねがけし直し、刺青の刻まれた親指と人差し指で円をつくる。

 それを覗き込みながらあたりを見渡してすぐ、彼女は来訪者の正体を知った。

 

「……アルヴィン・アトラス」

 『魔術師』は、現れた亡者のあまりの姿に眉根を下げた。

「ああ……なんてことでしょう。可哀想に……」

 唇を食み、『魔術師』は顔を悲痛に歪める。両手を祈りの形にし、王女らしい優雅な礼を、目の前に立ち止まった足首だけの皇子に見せつけた。

 

「哀れな魂……こうして我々の礎となったこと、決して忘れはいたしません。やがてあなたは一人ではなくなるでしょう。……いましばらくのご辛抱を」

 

 枯草を踏んで、皇子が歩み出る。

「頭も、腕も、胴も失い……ただ、ただ、歩むことでしか我が身を知らしめない……。なんと哀れなこと」

 

 『魔術師』は、その爪先が近づくのを見つめ、悲し気に微笑むだけだった。

 

「あなたはわたくしのことを、どれほど覚えていらっしゃるのでしょうね。こうして仇敵を目の前にしても、あなたは文字通り手も足も出ない……」

 

 『魔術師』は触れそうになる爪先を、躍るような足取りで後ろに跳んでかわす。くるりとローブをひるがえし、足だけの皇子と無言の攻防を交わすうち、『魔術師』の顔には酷薄な微笑みが張り付いた。

 

「うふ……うふ……うふふ……かわいそうに……かわいそうに……。うふふ……ふふふふふ……」

 

 少女の頬が上気すると、弾む吐息に赤い火花が混じり出す。腹の内で滾る銅板の欠片が、皇子と惹かれ合っている。

 

「うふ……うふ……。語り部の名残りがわたくしの中で熱く焦がれているわ。うふ……ふふふふふふふふ……」

 

 足首の上で青い炎が燃え上がる。心臓の位置から燃え広がった炎は、一瞬少年の姿をとった。慌てて火花を避けた『魔術師』は、今度こそ高く笑う。

 

「あはははははは! 今わたくしを睨んでましたね!? はははは! あはははははは! なんて可愛い人でしょうねェエ! 」

 

 ボウッとまた青い火柱が上がる。とっくに駆けだしていた皇子の足は、『魔術師』を捕まえようといっそう早まった。

「おっと、危ない……」ついに『魔術師』の足が地面を離れる。

 見えない地面を踏むように飛び上がった『魔術師』は、下から青い光に照らされながら、鼠を弄ぶ猫の顔をしている。

 

「……可哀想で、可愛いひと」

「―――—それはアンタもね」

 

 『魔術師』が振り向くより先に、魔人の手がその顔を掴んだ。放り投げるようにして地に叩きつけられる。

 跳ねた少女の体を再び地面に叩きつけるように踏んだ白い裸足の上から、擦り切れたコートの裾が、バサッと落ちた。

 

 

「土にまみれるのがお似合いだぜ? 王女サマァ」

「――――なぁに、あなた……ぐっ! 」

「口を聞いていいと許可した覚えは無い」

 

 前髪を掻き上げて、ジジはぐりぐりと足に体重をかける。

 

「見下すなら、見下される準備もしとくんだな」

「ふ、ふふふふふ……そんな準備、するまでもなく知っておりますわ」

「……ああ、そうだったね。ウッカリ忘れてた」

 指で自分の顎をなぞりながら、ジジは『ヒヒヒッ』と笑う。

 

 

 

「じゃ、形勢逆転と行こうじゃねえか。なア、悪役さんよォ」

 

 



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7 Light player

 

 ジジはポケットから筒状の箱を取り出して、導火線に火をつけて後ろ手に放った。

 転々と、しばらく坂を転がった筒は、破裂音と共に空に向かって小さな赤い火玉を打ち上げる。

 

「……仕方ないなぁ。今回限りだよ」

 ジジは誰かに言い聞かせるように独り言を言うと、ため息をついて帽子を取った。

 

 重ねがけした『知恵(ケン)』が、『魔術師』にその人物を表わす単語を教える。

「……あなたが、『愚者』? 」

 

 ジジは視線も向けなかった。ジジのコートの裾がゆらめき、黒い靄になって『魔術師』をくるみ、ミイラのようにきつく拘束する。

 

 ジジはアルヴィンのほうに顔を向けた。

 

「皇子サマ、これがわかる? 」

 アルヴィンはびくりとつま先立ちになった。心臓の青い炎が、一回り大きくなる。

 ジジは地面に接着された『魔術師』の身体から軽やかに降りて、たじろぐアルヴィンに歩み寄る。

 

「ほら。あんたのだ」

 まだ真新しい表面が、アルヴィンの炎に照らされて、金粉をまぶしたエメラルドグリーンに輝く。銅板の欠片は、ジジの手のひらの上で、待ち望むかのように熱を持っていた。

 

「受け取りなよ」

 

 青い炎が小さくなる。

 差し出されても、アルヴィンには受け取る手が無い。

 

「これは、キミの語り部の左手だ」

 

 銅板の断面と同じ色をした瞳が、アルヴィンを見る。

 

「―――――この手は、ずっとキミを待ってる」

 

 ゆっくりと、アルヴィンの足が前へ進んだ。

 

 強い風が吹く。頭の上に楕円の影がかかる。

 近付く飛鯨船から、ケヴィンが身を乗り出して叫んでいる。

 

「―――――ゥヴィン! アルヴィン! 」

 

 

 青い火影(ほかげ)が、ついにジジの顎にまで届きそうなところまで近づいていく。

 その青い炎を手で囲み、ジジは祈るように目を閉じた。

 姿は霞(かす)むように揺らめいていく。

 乾いた地面をこするほど長い黒髪がほどけ、アルヴィンの炎に煽られたようになびいて……―――――。

 

 ―――――夢のような瞬間だった。

 

 伏せられた睫毛の上で下がった眉。

 微笑みの漏れた唇が言う。

 

「『アルヴィン様……』」

(……ああ、こんな顔をしていた)

 

「『……言ったでしょう? だってミケは、』」

(そう、こんな声をしていた……)

 

 

 

 

「『—————アルヴィン様のことが、世界でいちばん大好きなんですから! 』」

 

 

 

 

 

 『銅板』が赤く熱を持った。

 『ミケ』と、その名を口にすることもできないままに叫ぶ。

 炎が弾ける。魂すら燃やす叡智の炎が、アルヴィンを飲み込んだ。

 

 ()()()()、地面に落ちる前の銅板の欠片を拾って、今度こそしっかりと握りしめる。

 

「僕もだよ。ミケ――――――」

 

 

 ✡

 

 

 《 ピッ 条件を達成しました 》

 

 

 《 システムの解凍を進めます 》

 《 93%……94%…… 》

 

 

 

 ✡

 

 

「オイ! 何があった!? アルは無事か!? 」

「危ないぞケヴィン! 中に入れ! 」

 

 巻き上がる熱風に、眼鏡が白く曇っている。

 ケヴィン・アトラスは呆けたように、その赤と青の奔流が空に立ち昇るのを見つめていた。

 今のケヴィンにとって、周囲は無音に等しい。ぐっさりと、心臓に温かな刃を突き立てられたような気分だった。

 痛みはあるのに、不思議と、ケヴィンの精神はそれを受け入れようとしている。

 理屈ではない。

 魂が、この光景を受け入れている。

 

「ああ…………僕らの弟は……()()()()()()()

 

 

 グウィンが操縦する飛鯨船は、やや離れたわずかな平地部分に着陸した。

 ハッチにいたケヴィンを押しのけるようにしてヒューゴがまず飛び出し、収まりつつある光の柱へと、坂を駆け降りていく。

 

「アルー! 」

 

 最初に見えたのは、逆光でより黒衣の影が増したジジの後ろ姿だった。白い顔が首を回し、振り向いて片手を振り上げる。

 ヒューゴが、ケヴィンが、グウィンがその場に到着したとき、光は収束を迎えたところだった。

 

 カチャリと、赤銅色をした鎧のプレートが鳴る。

 流れる水のような意匠の施された鎧だった。

 少年の形にぴったりと沿った鎧は、関節や、首のあたりから、青い光が漏れている。鎧そのものも、炎を編んで創ったかのように時おり陽炎のように揺らめいた。

 頭は無い。

 揺れる青い火玉が、兄たちのほうを見た。

 

 言葉も無く視線が交わされる。

 アルヴィンは腰を折り、微笑んだ―――――ように、兄たちには見えた。

 

(……行くね。兄さん)

 

 アルヴィンは軽く地面を蹴って、赤黒い空へと舞い上がる。

 生まれ故郷を眼下に望み、ぐるりと視線を巡らせると、城へと頭を向けた。

 その空へ張り付く真紅の花は、アルヴィン自身の怒りを種火に、ここまで育ったものだ。

 

 ―――――キィィイイイイン、と、炎の鎧が清涼な音を立てる。

 

 あの真紅の花が、アルヴィンの『怒り』を種火にしたのなら―――――この『鎧』のもとになったのは、まぎれもなくアルヴィンが抱いた『希望』そのものだった。

 ミケから手渡された『希望』が、アルヴィンに手足を与えている。

 

 かつて、アルヴィンは怒りを持つことを恐れた。

 理不尽なものには、感情に蓋をして耐えることを選んだ。

 その結果がこれならば。

 

(……僕がやらなくちゃいけないんだよね。ミケ……)

 

 拳を握る。

 この拳は、語り部の手だ。何かを記すこともできれば、『花(あれ)』を殴りにいくこともできる。

 

 ……こんなとき、物語の中の英雄なら、迷わず『花』を壊しにいくのだろうか。

 

(いいや、『物語の中』なんて、もう関係ないんだ。……僕がやらなくちゃ)

 陽炎が揺らめく。

 火花が散る。

 

(これは、僕の結末なんだから)

 

 

 

 夜明けが近い。

 

 




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5 After Dark

 

 

 哂う。

 この世をあざ笑う。

 

 小瓶が割れ、『花』に注がれる。

 

 この世界を焼き尽くす、最初の種火とならん。

 

 ―――――アァ、なんて素晴らしい!

 

 

 ✡

 

 

 

 サリヴァンは、杖職人としての日々で、鍛冶神の炎で炙られて視力が落ちた。

 鍛冶神は、隻眼と弱視と不具の足で知られる神である。その加護を得るということは、その欠陥のどれかを貰い受けるということでもある。

 

(足でなくて良かった)

 心底そう思う。

 目の悪い魔術師は、『視えないものを視る眼』—————神秘を見る眼が発達しやすい。足よりも目の方が、リターンがあるだけマシだった。

 

 今は、ふつうに視えるものなど役に立たない。

 役に立つのは、『視えないものが視える眼』のほうだ。

 

 

 サリヴァンは飛鯨船から飛び出した。

 体温が上がっているので、素肌に張り付く『銀蛇』があたる部分だけが冷たい。

 後ろ首の突き出た背骨から二又に分かれ、肩甲骨を沿うように肩の裏を巻き、手首まで伸びている。いつでも一息で取り出せる位置だ。

 眼鏡を外しているので、視界はぼやけて、ゆっくりと流れていく。それでも、優れた魔術師には、目で見えるもの以上のものが、見えることがあった。

 

(……空気が淀んでいる。まさか話に聞く瘴気とかいうやつか? )

 

 赤黒いヴェールが、幾筋も『花』から不気味に伸びて、手招くように揺れている。

 飛鯨船には、入念に『隠遁』の術をかけてある。船体に直接描いているので、そうそう破られることはない。

 

『準備を怠ったものから死ぬのよ』

 師の言葉を噛み締めていた。

 現状、できる以上の準備はできていたと自負できる。作戦も、あれこれと予想外の事態があったわりに、なんとか形を保ってはいる。

 

 けれどそれが、次の瞬間には破綻するかもれない。

 

 目の前で『花』が八分咲きになろうとしていた。

 ……ほんの十五分前までは、六分咲きだったというのに!

 

『焦りは敵だ』

 

(――――ああそうだろうとも! 知ってるよ! )

 

 拳にした腕を後ろに引く。引き絞られた背筋が、骨の内側に音を立てて電流のように熱が奔った。握りしめた手の中に、魔力で編まれた粒が集まって長剣をつくる。

 

「―――――鍛冶神よ! 我が身に(ほむら)と大いなる鉄と、槌の加護を! 」

 馴染みの神ならば、この短い文言でも聞き届けてくれる。

 祈りの言葉を捧げながら、腰に下げた十一年分の魔力の塊に火をつける。

 真紅の炎の指が、むしり取るように髪束を呑み込み、灰が黒く曇天の空へと見えなくなった。

 

 サリヴァンを包み込むように広がる炎のかたちは、大きな両の手のひらのようにも、翼のようにも見える。

 

 六芒星に絡めとられた卵に向かって杖先を指し、呪文を叫ぶ。

「”願いは彼方(かなた)で燃え尽きた”—————」

 

 叫びながら、脳裏に『すべてをなんとかする方法』が閃いた。

「―――——ッ! ”やがてっ! この足が、止まること”! 」

 

 

(たのむ、これが最後だ! 『ジジ』———-ッ! )

『任せて』

 

 

 ぼやけた視界の中で、霧散した卵の霞が、そう囁いて遠ざかる。

 弱りつつある視力が、遠ざかっていくその身体に宿る魂に、黄金(きん)色の煌めきを見せている。

 自分の色は、鍛冶神の加護の赤だ。飛鯨船には、紺碧の光が三つ。

 そして霧に包まれた中に、澄んだ青天のような蒼い光が一つ――――。

 

 唐突に、その『蒼』が大きく弾けた。

 サリヴァンの目には、『蒼』に重なる『白金』が視えている。『蒼』を補うように身を寄せる『白金』は、ジジであってジジではなかった。

 語り部の加護が、欠けたアルヴィンの魂を補っていく。

 

 次の瞬間には、強く吹き付ける風と空気の熱が体に戻って来た。

 

 風が渦を巻いている。

 地上の冷たい風と、天空にわだかまる熱風とが、空の雲を掻き回している。

 渦の中心はあの『花』だ。雲を呑み込み、何かが始まろうとしている。

 

 ぞくぞくと肌が粟立った。

 

 花の直下で、蜃気楼を纏ってゆらめく王城は、焼けた鉄のように赤く照らされている。

 その周囲は、頬を流れる汗を一瞬にして白く変えるほどの熱気があった。

 塩で肌がざらつくだけに留まっているのは、加護があるからであろう。

 ―――――祈りを重ね、先へ。

 

 尖塔の間際まで近づき、サリヴァンは手をヒサシにして見上げる。『花』は徐々に、赤ではなく、さらなる熱を放つ、目に痛いほどの白へと染まっていく。

 周囲は明るく照らし出され、首都ミルグースを……『黄昏の国』と呼ばれるフェルヴィンを……白々とした昼間の景色へと照らし出す。

 曇天の空はすでになく、明るい群青の空に、とりどり粒ぞろいの星々が転がっていた。

 

 右に剣を掲げる。

 反らした首筋に清涼な風が当たり、目を向けなくても、そこに立つ者が誰か分かった。

 炎の鎧は白金に輝いている。

 

「……皇子。呪文を言うには、声がいる」

 

 青い炎が不思議そうに傾く。

 

「魔法使いが魔人を使うとき、呪文が必要なんだ。それの一番短い呪文は、魔人の『名前』だ。これは魔人自身への強制力はない。次に、もっと大きな仕事を任せるときには、ソイツ自身を構成している、長い方の『呪文』がいる。ソイツ自身の魂でもある『呪文』だ。

 今、おれには、あの『花』をどうにかしようっていう策がある。

 でもそれは、おれじゃなくて、あなたの言葉が必要なんだ。

 

 アルヴィン・アトラス。『ミケ』にもう一度会えると言ったら、おれに協力してくれるか? 」

 



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7 Star light

完結まで、あと3話。


 ✡

 

 

 『魔術師』には入念に猿轡と緊縛を施し、その上からジジが『麻痺』の魔法もかけ、飛鯨船の後部座席に固定された。頭の先までミイラのようにピッチリと布に覆われた少女は、悪趣味な土産物のように無視されている。

 エンジンをかけ、安定飛行になったころを見計らって、ジジがグウィンに言った。

 

「……王様、サリーが作戦変更だって」

「なんだって? どこを」

「プランB。『星』が復活したから、そっちに任せようってさ。飛鯨船組は状況を見て離脱。王様、あなたの任務は、あとは生き残ることだけってこと」

「…………それは」

 グウィンの視線が、一瞬、戸惑いにさまよった。

 

(……いいのだろうか。弟が戦っているのに)

 魔人の肩ごしに、ケヴィンと目が合った。すぐ下の弟は小さく笑い、頷く。

 

「――――わかった。司令官は、彼の仕事だ。僕らはそれに従う」

「ありがと」

 ジジは口の端で笑うと、当たり前のように『魔術師』の隣の席へと収まった。

 

 ヒューゴが、後ろを振り向いてギョッとする。

「何してんだ? 」

「寝るから枕にしようと思って。足が痺れたら、とっさに逃げられないでしょ? 」

 

 

 ✡

 

 

 アルヴィンの内側に、痺れるような期待が広がった。

 右のこぶしを胸に当て、左手を彼に差し出す。

 アルヴィンには、あの『花』との戦い方が分からない。この赤毛の魔法使いは、それを知っているのだ。否と言うわけがなかった。

 魔法使いは、手繰り寄せるようにアルヴィンの手を取る。

 

「あの『花』に使われているのは、ミケの銅板だ。魔人と主人の繋がりというのは、一度結べば途切れない。おれがミケの呪文を手に入れて読み上げるよりも、主人である貴方が自ら語り掛けるということが、何よりも大きな意味と、効果を持つ」

 

(―――――ああ、でも)

 今のアルヴィンには舌が無い。言葉を紡ぐ口が無い。

「言葉なら、ちゃんとあてがある」

 心を読んだように、魔法使いはまっすぐに言った。

 

「……”王権執行(スート)”」

 魔法使いの言葉で、剣が銀色に煌めいた。その光を映して、魔法使いの瞳も薄紫に輝く。

 

「”とこしえに辿り着きし詩人たちよ””いまふたたび、ここに言葉を紡がん””とわへの剣をたずさえて””その白き手でもって””ここに集わん”―――――”『杖の王(ワンド)” 』

 

 金色に輝く板が、魔法使いの周囲を巡る。

「”『女王(クラブ・クイーン)』”」

 そのひとつを剣先で指し、魔法使いはアルヴィンの方を見た。

 

 

「――――”ダッチェス”」

 

 

 綿毛のように、彼女はふわりと、アルヴィンと魔法使いの前に立つ。

 

『—————まあ! お早い御指名ですこと! 』

 腰に手をあて、巻き毛をなびかせて。

 

「嘘つけ。今わの際に、そうしろって注文つけたくせに」

『そうでしたかしら? 忘れたわ。おばあちゃんだもの。うふふ。驚いた? 』

 語り部ダッチェスは、顔一面で笑いながら、舌を出した。

 

『ね、アルヴィン様。あなたに、語り部の口をあげるわ』

 

 レースを重ねた白いドレスは、まるで花嫁衣装のようだった。

 

 

 ✡

 

 

 瓦礫を背にして、ダッチェスは穴の開いた腹に手をあて、肩をすくめてみせた。

 

「……これじゃあたし、そうもたないわ。自分で分かるもの。その前にね、魔法使いさん。あとの(うれ)いは、できるだけ失くしておきたいの」

「陛下たちと話すんじゃなくて、おれに? 」

「そうよ。ねえ、魔法使いさん。アルヴィンさまを助ける策はあるのかしら? 」

 

 ダッチェスは微笑みながら、そう口火を切った。

 

 サリヴァンは唸りながら、背中を丸めて顎をなぞる。

「……もう一度、降霊の儀式をする」

「それで? 」

「仮説はできてる。皇子は冥界だ。儀式で皇子を呼び出す」

「……あの繭のようなものは? アルヴィン皇子はあそこにはいないって、あなたは言うのね。それで、呼び出してどうするの」

「魂を捕まえるのは簡単だ。名前を呼ぶだけでいい」

「……そのあとは? 」

「……考えてない。いやっ、考えてるけど、『臨機応変に』ってしか答えられない。……今のところは」

「ずいぶんと穴だらけの計画ねえ 」

「仕方ないだろ」

 サリヴァンはぼりぼりと頭を掻いた。「もったいぶらずに、知っていることを教えてくれよ」

 

 ダッチェスは喉の奥で、くくくと笑った。

「『銅板』にはね、力があるわ。男前さん」

 サリヴァンは視線で先を促す。

 体はどんどん前のめりに俯きがちになり、焚火の熱で温まりつつある体は、あきらかに休息を欲していた。

 

「いいこと? 『銅板』の原材料は『混沌の泥』。無限の可能性を司る素材よ? そして語り部は、そんな銅板に宿る魔人……。寿命は九人の主を看取るまで。どうして九人までか、わかる? 」

「機能限界だろ。寿命だ」

「そう。九人までが、ぎりぎりあたしたちが許容できる人数なの。……その『許容するもの』って何かしら」

「……そりゃ、記憶とか記録とか、あとは魔力とか……—————あっ! 」

 サリヴァンはがばりと起き上がった。

 

「『今わの際の未練』って、そういうことか! 『語り部』の魔力を使えって!? 」

Exactly(その通り)! 役目が終わった銅板は、魔力を蓄えたただのレトロな板よ。それで「皇子を蘇らせる? 」そうよ! そうして! 察しがいいじゃない! 」

 ダッチェスの平手が、ばしばしと何度もサリヴァンの肩を叩いた。

「『銅板』にそういう力があるのは、もう実証済みでしょ。

 

 ()()()()使()()()、アルヴィン皇子に、体をあげられる。でしょ? 」

 

 

 ✡

 

 

 尾のように伸びるドレスの裾が、風に逆らってなびいている。

 

 ダッチェスは手袋を外し、アルヴィンの白金の鎧に手のひらをあてた。

 鎧をすり抜け、彼女の手が心臓の位置にある青い魂に触れる。

 

『……あたしには、レイからもらった魔力も流れてる。アルヴィン様、それこそ再びあなたに注がれるべき力。あなたの父親が遺した、最後の奇跡が、いまのあたし』

 

 水に氷の膜が張っていくように、青い炎の上に融けた銅板が、薄く張り付いていく。

『もとの通りというのは、あたしだけの力じゃ難しいみたいだけれど―――――』

 額を寄せ、そっと口付けを落とした頬に、雫が流れた。

 兜の境からのぞく、幼さを残す唇が戦慄(わなな)く。

 

「あ――――――」

 

『お父様の願いはひとつだけ。あなたに、幸福な未来が訪れますように……』

 

「……ぁぁあ、ああぁ! あああぁあぁあっ!! —————お父さん……っ、ぼく――――――! ぼくは……っ! 」

 

『—————泣き虫ねぇ。ふふ……さような―――――』

 

 パリン、と、銅板が砕けた。

 欠片は砂になって、風とともに消えていく。

 涙は僅かな塩の粒となって、頬に白い筋を残した。

 

 

 

 

 この国に、青空なんてものはいらなかった。

 アルヴィンにとっての青空は、果てしない世界の外にあるもので、この永遠の『黄昏の国』が、変わることの無い故郷であった。

 高い高い群青の空。不思議に明るい星々が散らばる下、白々と照らし出された街並みは、朽ち果てた骨のように、清潔なほどの死が蔓延っている。

 

 

 アルヴィン・アトラスは、自らの口で呪文を紡ぐ。

 

「……”天に、しらほし”」

 

 

 『カチリ』

 運命の針が進む音がした。



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7 Ángel

次回最終回。


(……ああ、暗い)

 アポリュオンは空を仰いだ。

 なぜこんなに暗いのだろう。空はどこだろう。夜はまだ明けないのか。

 

 太陽を見たのは一度きり。

 生まれたばかりの太陽は、あまりに目映く、美しかった。

 気付けば、光のひとすじが銀色の(やじり)となり、その胸を貫いていた。

(我が名は奈落の王アポリュオン。太陽から一番遠いもの)

 

 怪物にして、天使アポリュオン。生まれたのはむかしむかし、冥界より深く古い場所。

『混沌』から別れた時空蛇が大地や空を生み出したあと、その深い地の底から地上の神々へ、預言を授けるものとして生まれた。

 (しょく)の夜、地の底から出でて、預言の言葉を口にする異形の女神。

 怪物へと転じたのは、太陽神の弓に射抜かれたその瞬間から。

 

 星を呑んだ時空蛇は、やがて自らが視た未来に絶望して眠りについた。

 役割を失った古き女神を(しい)した太陽神は、預言の力を引き継いで新たに君臨する。

 (たけ)(つらぬ)く燃える銀の矢が、その胸を貫いた。

 

 そのまま冥界より深い奈落へと堕ち、鱗は剥がれ、美しい髪は抜け落ちて、生きながら腐る。異形の姿は深淵に溜まった混沌の泥により、醜い怪物へと転生した。

 かつての女神たるその身には、餓鬼が群がり、許しを乞う。

 

(この身に夜明けが来ることはない)

 かなしい。さみしい。おそろしい。

 アポリュオンには、その気持ちがよくわかる。

 奈落の底でアポリュオンは、飢えた亡者どもの悲哀を慰め、王となった。救われぬものたちの王となった。

 

 天は彼女を憐れんだ。

 怪物へと堕ちた。もはや姿は戻らぬ。

 哀れな女神は怪物へと転じても、心を失わず、自ら使命を探し当てた。

 さまよい、嘆くばかりの亡者たちにとって、どんな場所にしろ導くものがいることは、希望であり、幸いなことである。

 

 天は定めた。

 『混沌の夜』がやってくる。

 地上には嘆きが溢れている。

 人間どもをこらしめよ。

 膨れ上がった財を、溜め込んだ富を、虐げられたものの嘆きを、排されたものの怒りを、その一切を食らい尽くして更地にせよ――――。

 

「……なぜあの亡者を救った? 」

 笑いを含んで、赤毛の戦士は言った。

 かたわらの巨馬は、穴のような黒い目で地に伏すアポリュオンの羽の残骸を、はなづらで食んでいる。

「ひとたび亡者となれば、哀れむ魂のひとつにすぎない」

「『お前にとっては』だろ? ……困っちまうなぁ。勝手なことされちゃア」

 言いながら、男は喉の奥であざ笑っていた。

「……まア、俺たちゃ最初から神様なんてものの力は借りるつもりは無かったんだ。潮時ってことだなァ」

「貴様……このアポリュオンは奈落の王で――――」

 戦士は大声で嗤った。いっそ快活なほど明るく、しかし瞳の奥に残忍な光を湛えて。

「てめぇも一度、喰われりゃいいさ。愛する臣下の腹ア収まるなんざ、暴食の怪物にゃ、お似合い、お似合い。ははは、はははははは―――――」

 

 

 ✡

 

 

 冥界に、打ち捨てられた骸があった。

『……むごいことだ。終末の天使を、このように――――』

 丘の上からでも、その巨体はよく見えた。

「……止めないのか? もしくは回収するだとか」

 石の草木が生える地で、アイリーンは寒そうに両手を擦り合わせ、かたわらに立つ翁に問いかける。

 

『回収してどうする? 今、神であるわしらがそうすると、地上の審判に手を出したとされるだろうよ。ましてやわしは、前科のある神ゆえな。ほほほ』

「知恵の神ならば、知恵を絞って助けてやりゃいいのに」

『そうもいかんさ。これは人間たちの試練じゃからのう』

 

 まだ腐臭を放つに至っていない、瑞々しい死体だった。

 逞しい背中をさらし、昆虫に似た顔は横を向いてねじ曲がっている。むしり取られた翼のあとが、濡れてテラテラと光っていた。

 その翼は、ぶつぎりになって、岩場のあちこちに破れ傘のように転がっている。

 

 アイリーンは下唇を噛んで、両手をきつくコートのポケットに押し込んだ。

 

「どんどん生まれていくぞ」

『ほほほ。辛抱、辛抱』

「……愛弟子があいつらに食われてたりしたら、覚えてろよ」

『あの勢いだ。すぐ終わる』

「…………」

 

 歌声が聞こえてくる。

 

 ――――崇め湛えよ。我らがあるじ。

 ――――奈落の王にして(しょく)の王。大いなる食事に感謝せよ。

 ――――飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。

 ―――――食らえ、食らえ、食らえ。

 ――――崇め湛えよ。我らがあるじ。

 ――――(いなご)の王にして神の毒。混沌の蛇のきょうだいよ。

 ――――あらゆる食事は赦された。

 ―――――我らいまこそ飽食に耽るとき。

 ―――――目玉を捧げ、前菜に……。

 

 無数の蝗たちは、奈落の王の遺骸を()み、飲み込み、謡う。

 腹が満ちたものから翅を広げ、地上へと飛んでいく。

 

 ――――崇め湛えよ。我らがあるじ。

 ――――奈落の王にして(しょく)の王。

 ―――――大いなる食事に感謝せよ。

 

 

 預言の女神は、終末の怪物に。

「……そして最後がこれか。なぜお前は『魔術師』に利用されるようなヘマをした? 誇り高き王であったはずなのに」

 〈ほら、もう行きますよ〉と、旅の神が先へとうながす。

 〈最初の王宮はすぐそこです。冥府は広いんですから、さっさと行かないとヨボヨボのお婆さんになりますよ〉

「ああ、分かってる。今行くさ。わたしはわたしの、()()()()()をしないとね……」

 

 歌声が響いている。

 最後の節は、少し悲しげだった。

 

 ――――誰も知らない。

 ――――誰も知らない。

 ――――喰い尽くされて、残らない。

 ――――腹の中では文句も言えない。

 ――――食らえ、食らえ、食らってしまえ。

 ――――あらゆる食事は赦される。

 ――――我らの怒りが赦している。

 ――――飢えも渇きも満たされない。

 ――――我らの怒りは尽きること無い。

 ――――最後は皿も飲み込んじまえば、なんにも残らない。

 ――――それがいい。

 ――――それがいい……。

 

 




明朝6時に更新します。


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終 星よきいてくれ

 

 飛鯨船の操縦席で、グウィンは大きく息をついた。

「……時間だな。―――――ベルリオズ」

 

 

 ✡

 

 

 

「承知いたしました」

 ベルリオズら、語り部たちは、王城の地下にいた。

 

「お時間ですぞ。お二方、準備はよろしいですか? 」

「はい」

「はぁーい」

 それぞれ、間にある壁すら飛び越えて、合図を交わす。

 

「スート鉄人兵の皆様も、準備は万端ですね? 」

 スート兵は言葉を持たない。

 しかしベルリオズは、持ち前の語り部の広い視野で、配置から動いていない兵たちを感知すると満足そうに頷き、地下講堂の中心で右腕を振り上げた。

 

「それでは……いち、にの、さん! ―――――発破(はっぱ)っ! 」

 

 

 

 ✡

 

 

「ハハハッ! なるほど、()()を潰したか」

『……神聖な冥界への入り口を、巣穴呼ばわりするとな? 』

「害虫が湧いてるんだから、蟲の巣穴以外の何ものでもなかろうよ」

 

 

 ✡

 

 

 黄金の人。

 

 神々が最初に創造した、最初の生者にして死者。

 禁断の炎を受け取った者。

 人類に永劫の罪を背負わせた罪過の人。

 それは魔女が降り立つよりもさらに遥か昔、世界がまだ、天と地と海の一つの塊だったころのこと。

 

 神話では、その者はただ『黄金の人』と表現され、後世に創作された詩曲では篝火を意味する『イグニス』と名付けられた。

 

 無知でものを知らないイグニスは、神々に祝福されて生まれたときには不死の黄金の心臓を持っていた。

 そのころ世界には、太陽と月と星々しか明かりが無く、炎とは天にあるものだったから、一人の神がその炎を彼に分け与えようとしたのである。

 彼は、それが何か分からなかった。

 火は瞬く間に彼の立つ土地を包み、燃え盛る地の中心にいるイグニスの黄金の心臓は、熔け爛れても彼を生かし続けた。

 彼は神々に、この苦痛を取り除いてくれと懇願する。

 願いを聞き入れた神は、イグニスから黄金の心臓を取り除くと、彼は不死の力を失い、焼け死んでしまった。

 神々は彼の灰を掬い取り、鍛冶の神に二度目の人類を創るように依頼する。

 

 『黄金の人』から生まれた人類は、不死ではなく病と老いの運命に苛まれてはいたものの、神の火から得た知恵を受け継いだ『銀の人』であったという。

 

 そのイグニスが、もしも復讐するとしたならば……ああ、確かに、彼にはこの審判に横やりを入れる理由があるだろう。

 その後、『銀の人類』は炎の知恵を以て繁栄するが、一人の女をきっかけに争い尽くし、親殺し兄弟殺し子殺しの罪を得てもろとも根絶した。

 

 次に生まれたのは『銅の人』であったけれど、彼らもまた繁栄の果てに秩序を失い、醜悪な不義にまみれたことで水に沈む。

 そして最後に『鉄の人』が生まれ、これが今の人類であると伝えられる。

 

 イグニスは、無知であるがゆえに罪を負って苦痛の中に死んだ。

 

 けれど今の人類は、炎の知恵を得てもなお、罪を二度も繰り返した果てに生まれ、一度は滅ぼされる寸前にまで手を下されている。

 魔女の手により生き延びた『鉄の人』の子孫たちは、温情により再びの繁栄の機会すら得た。

 

 なんて理不尽な話なんだと思う。

 

 たった一人の『黄金の人』は、他でもない神が差し出した炎のせいで焼け死んだというのに……。

 

 

 ✡

 

 

「……”天にしらほし”……”地に塩の原”」

 

 

 星空が罅割れた。

 『花』の赤い根が、空にしがみついている。天空に根付く花は、満開を迎えてまばゆい白に発光している。

 根は血管のようにも見え、雲を呑み込んだ花は、鼓動する心臓にも似ていた。

 

 箒の柄の金具につけたベルトは、サリヴァンの腰に繋がっている。二又に分かれて、ズボンの腰のあたりに回されたそれは、見ての通りの命綱だ。

 吹き出した蝗の群れの一匹に、サリヴァンは剣をかかげて攻撃をしかけた。

 呪文をつむぎ、炎蛇のあぎとが群れを端から飲み干していく。

 

 

「”誓いは胸の内にある”

 ”指針が示すは、黄昏(たそがれ)のふもと”

 ”声届かずとも、手は触れている”」

 

 鋭い棘のあるカギ爪が頬をかすめる。剣が沸騰したように粟立って膨れ上がり、柔らかな卵色の腹を殴るように切り裂いた。

 急降下に、尻が箒の柄から浮く。

 雄たけびを上げ、二匹目の炎蛇を絞り出す。

 

「”願いはどこと母が問う”

 ”捨てるべきは何かと父が問う”」

 

 真っ二つにした蝗の死体が上から降ってくる。目が潰れるほどの光が、サリヴァンを襲った。

 とっさに閉じた目蓋すら透かし、網膜に白く光が焼き付く。

 閉じた目蓋ごしに、炎蛇の姿が赤い(すじ)になって踊る。

 上を見上げ、サリヴァンは急上昇を始めた。

 箒の柄を立て、顎と腹を平行になるようにしがみつく。

 

 

「”剣はすでに置いてきた”

 ”花は芽吹かずとも、喉を旅立つ(うた)は枯れることがない”」

 

 

 ――――――ォォオオオォォォオオオオオォォォオオオオォォォオ

 

 『花』が叫んでいる。

 根が、鼓動するように明滅を繰り返す。花びらの淵に、赤が戻っていく。

 

 

(ミケ! おまえの主人は、ここにいるぞ――――!!! )

 火花が降り注ぐ。熱で熔けだした金属の飛沫が、サリヴァンを襲う。全身から焦げ臭い匂いがする。

 かまわず、剣を振り上げる。目蓋は開けなくても、()()()()()

 

 

 アルヴィンは腕を広げて、天に向かって叫ぶ。

 

 

 

「―――――”()()()()()()()”! 」

 

 

 ”黄金の人(イグニス)”が、大きく口を広げて何事かを叫んでいる。眼孔は白く、それ以外は紅く発熱している。

 切っ先は吸い込まれるように、その(くび)に差し込まれた。

 肉を切るというよりも、粘力のある液体に突っ込んだような、奇妙な感触。

 ぶくり、と、その頭蓋が泡のように膨らむ。

 

 ――――――切っ先が、抜けない。

 肉の中で何かに掴まれているように、刃が動かない。

 どろりと、溶け出した白い熱源がサリヴァンを呑み込もうとしている。

 意を決して、融解しかけた”黄金の人”の肩に左足をかけた。蹴り上げた一瞬で、じゅうっとひどい音がする。

<i456940|157>

「―――――ッォォオオオおりゃぁぁぁぁぁあああああ!!!! 」

 

「”誓いの言葉を”! ”望みはひとつ! この足が止まろうとも”—————……」

 

 

 蹴り上げた時の衝撃で、箒の柄が手から滑り落ちる。重力を全身に感じながら視界が巡る中、サリヴァンは腰のベルトから箒を手繰ろうとして、その先に何もないことに気が付いた。

 

 

「――――――……”あなたが頭上で輝く夜が、続くこと”」

 

 

 (せき)が切れたような浮遊感。

 見開いたサリヴァンの視界は、真っ白に曇っている。風で転がされている自分の体が、上を向いているのか、下を向いているのかもわからない。

 地面に叩きつけられるのは、はたして一分後か、三秒後か―――――?

 

 とっくに規則性を失っていた自分の呼吸のリズムが、フッ、と途切れたのが分かった。

 張り詰めた意識の糸が千切れる。

 息をつめ、『その時』に備えた。

 

 

「―――――ッサリィィイイ! 」

 

(———――懐かしい声が聞こえる)

 

 

 

 ✡

 

 

 

 感じるのは、柔らかく着地した強烈な油のにおいのする温かい振動する床。

 脳みそがくらくらする爆竹のようなエンジン音。

 そして、確かめるように額から首にかけてをなぞる、柔らかい手の感触。

 

「間に合って良かった……」

 

 サイドカーに重なる幼馴染兼要救助者一名を見下ろし、ヒースは、よりエンジンをふかしてハンドルをきった。

 銀色の機体は、魔法の箒の発展型。流線形を描く車体の内側には、二輪駆動に三つの魔力蓄積型エンジン。

 従来の箒との最大の違いは、重量級の運搬とスピードを両立するそのパワフルな機能性。

 

 まだ法整備もできていない開発中の機体は、ヒース自慢の隠し財産のひとつである。ケトー号には負けるものの、手塩にかけて育てた愛機だった。

 

 ヒースは風に乱される黒髪を撫でつけるように耳にかけ、大きなため息を吐く。

 グローブの中はもちろん、剥き出しの二の腕や、下着の中の胸の谷間まで、肌という肌は、冷や汗でびっしょりと濡れている。

 密室の運転席ではラフな格好を好むヒースであるが、これでも幼少期から厳しく教育されている彼女は、袖の無い恰好のまま空の下に出たのは、今日が初めての経験だった。

 

「……世話が焼ける婚約者だこと」

 

 ヒースは小さく笑って、空に浮かぶ自分の船へと舵を切った。

 

 

 ✡

 

 

 『花』が瓦解していく。

 ―――――いや、瓦解というのは正しくない。崩れた端から、光の粒になって、星空へと風に乗って消えていく。

 

 アルヴィンは城の尖塔に立ち、空を見上げていた。

 

「”天にしらほし””地に塩の原”

 ”誓いは胸の内にある”

 ”指針が示すは、黄昏(たそがれ)のふもと”

 ”声届かずとも、手は触れている”

 ”願いはどこと母が問う”

 ”捨てるべきは何かと父が問う”

 ”剣はすでに置いてきた”

 ”花は芽吹かずとも、喉を旅立つ(うた)は枯れることがない”

 

 ”星よ きいてくれ”

 ”誓いのことばを”

 ”望みはひとつ”

 ”この足が止まろうとも”

 ”あなたが頭上で輝く夜が、続くこと”……」

 

 風の音がするだけで、何も起こらない。

「……駄目かぁ」

 溜息とともに、脱力感がアルヴィンを襲う。屋根を降り、出窓に腰掛けた。

 

 ふと、考える。

 こんなことは、ほんの数日前の自分ならできなかっただろう。城の屋根に上るなんて。

 

「……はは」

 光の粒が目の前にも落ちてくる。見たことがない『雪』のようだった。

 空はまだ晴れている。

 

 自分のこの体も含め、すべてが奇跡によってできた光景だった。

 ジーン・アトラスだって、絶対に見たことがない奇跡だった。

 

 ぶらぶらと足を揺らす。体から炎が抜け出ていって、また魂が剥き出しになっていく。

 けれど。

 足は両方とも膝まであったし、両手もある。

 心臓のあたりで揺れる炎には、ときおり赤いものが混ざる。

 ミケとダッチェスが分け与えてくれた種火が、この体には宿っている。

 

 強くなろう。

 そうして、取り戻そう。

 

 いつか、また。

 面と向かって彼女の名前が呼べる日が来る。

 

 

「待ってますよ」

 

(――――うん。待ってて。会いに行くから)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Pageant

Pageant《ページェント》
①野外劇。②祝祭日などに催される出し物。おもに宗教劇のことを指す。



 暗闇の中で目が開いた。

 冥界では(つね)の、水のように隙間の無い闇ではない。

 土と草の青臭さ、かすかに陽の香りがする。生命の気配がする、薄青い闇だった。

 驚いて身を起こす。跳ねる鼓動とまとわりつくような重さに、肉体があることを知る。

 手足の感触は滑らかで、生まれたばかりの赤子のように柔らかだ。外気に当たったこともない肌は、かつての自分の有り様を思い起こさせる。

 

 風を感じた。闇が引いた場所がある。うす緑の光の帯が、黄色い粒を降らせながら差し込んでいる。

 憑りつかれたように、その光から目を離せない。

 

 なんとかそこへ向かおうと、冷たい土の上で、慣れない手足を動かした。長いばかりで振り回しの悪い腕脚は、思っていたよりも力強く、壁の力を借りて立ち上がると、十歩も歩けば支えもいらなくなった。

 

 虫の音がする。

 鳥の声が聴こえる。

 白い光が、生まれたばかりの眼球を刺す。

 

 そこは森だった。

 振り返れば、いましがた這い出てきたのは、山肌に食い込んだ夜のような場所だった。

 木漏れ日の奥に、青い空がある。水が滲んだように薄い雲がかかり、太陽は中天にあった。

 むせかえるような土の薫りで肺が満たされる。

 温かい日差しに照らされると、這い出て来た洞穴の闇は、緑と光に紛れて見えなくなってしまった。

 太陽の強さに、頬を濡らすものが止まらない。

 信じられない想いで、彼は―――――あるいは彼女は、裸のまま、森の土を一歩、また一歩と踏んだ。

 足の裏で草花が潰れる。柔らかな足裏に、草の薄い葉が小さな傷をつけた。

 血が滲むことすら初めてだというのに、身体が止まらない。

 

 ―――――どうして……。

 

 気が付けば駆けていた。

 

 水の音がする。

 小川があった。

 泉があった。

 澄み切った水。陽光がその流れを滑り、大粒の真珠のような輝きをもって白く揺らめいている。

 その揺らめきに誘われるようにして、鳥獣が水辺に佇んでいた。つがいがいる。親子がいる。

 いくつもの花が咲いている。艶やかな実を付けた果樹がある。鮮やかな蝶が頭の横を横切った。

 総身が震え、立っていられなかった。水を求め、臓腑が疼いた。膝をついたその先に、小さな玉虫が草の上を這っている。草との延長線上にある肌の上を渡る玉虫を横目で見た。

 

 ―――――なんだこれは。

 ―――――なんだこれは……!

 

 震えが止まらない。

 

 吐き気が止まらない。

 

 湧き上がる怒りが止まらない!

 

 

 

 ボッ、と音を立てて、手の甲に止まっていた玉虫が燃え上がる。

 肌に触れていた草木がもがくように蠢きながら、黒く縮れて灰になっていく。

 彼―――――あるいは彼女の呼気もまた、青い燐光をまとう焔となって、その世界を染め上げる。

 ――――――鼓動が痛いほど打っている。

 

 青い劫火に照らされて、不気味な黒い影が(みどり)の森にさした。

 かつて彼―――――あるいは彼女その人を終わらせた青い炎。

 

 かつてこの世に、神話があった。

 神々はしもべとして人間を創造した。その最初のひとりは『黄金(きん)の人』と呼ばれ、その最期は悲劇で彩られ、教訓として語り継がれる。

 いわく。無知は罪である。

 その原罪によって『黄金(きん)の人』は三日三晩、総身と世界を焼いたから、後世の『人間』は、牙も爪ももたないかわり、神々に準じる知恵を得ることができた。

 その悲劇は、そういう神話。

 今、人々が踏みしめる大地の奥深く、礎として埋まっている原初の犠牲。最初の原罪を成した永劫の罪人。

 

 無垢なる犠牲の子は、炎に巻かれる中で何を思ったか?

 

 ―――――その者は願った。

 

 ―――――その者は望んだ。

 

 苦痛から逃れること。つまり、神々に与えられた不死を捨ててでも取り戻したい安寧(あんねい)。―――――けして死などではない。

 この世すべてが、この怒りを、苦痛を知ってくれること。―――――けして憐憫(りんびん)などではない。

 

 嗚呼(ああ)―――――! どうして蘇ってしまったのか!

 

 冥界はひたすらに冷徹であった。静寂と孤独と絶望から生まれる諦観が、彼―――――あるいは彼女の怒りを凍らせていた。

 現世の太陽は凍らせた怒りを溶かし、まざまざと彼の犠牲の結果をつきつけた。

 この世が美しいほど、その人の心は憎悪と嫉妬に狂う。赤子同然であった自分に与えられた三日三晩の苦痛の記憶が、神々の作り上げた世界を赦さない。

 

 産声のように泣き叫ぶ。

 

 それは傲慢な感情だ。

 自らが苦痛を強いられたから、この世界も苦痛に彩られるべきであるという、赤子にも劣る傲慢だ。

 狂った怒りを向けられるべきは、この世界に繁栄するすべての命。

 彼は―――――あるいは彼女は、そう信じて疑わない。

 なぜなら彼の人は、この世でもっとも無垢なる人であるからだ。

 

 皮肉にも、神々はかの人を見出した。

 資格となるのは『世界を変えるもの』であること。

 与えられた宿禍(しゅくが)は『吊るされた男』。

 意味は『誇りある犠牲』。

 彼の人は確かに、その犠牲によって、世界を変えた一人であった。

 

 預言の時は迫っている。

 




黄金の人
原罪として『怒り』を最初に抱いたひと。無知ゆえに炎に触れたために三日三晩火に巻かれ、結果として住んでいた神々の庭を焼いた罪を背負うこととなる。
不老不死の黄金の心臓を持っていたが、あまりの苦痛に、最期は自ら心臓を取り除いてくれと懇願し、冥界に落ちた。そのさい、神々の裏切りと罪人とされたことに『怒り』を知り、その感情は次世代の『銀の人』の一族に継承され、彼らの滅びの原因となる『嫉妬』と『傲慢』の原罪を呼び込んだ。
人類は『黄金の人』を最初として、『銀』、『銅』と原罪によって滅び、『鉄』の世代でも滅びかけるが、魔女の登場によって、執行猶予付きの繁栄を得る。


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✡ギャラリーと幕間✡

ギャラリーコーナーです。
(8月24日TSイラスト追加)

本編が完結したので、ハーメルン版ではあえて挿入しなかったイラストを、あとがき代わりに、ここで公開していきます。
小説家になろう版とノベルアップ+版では、ここにある以上にあるので、よければそっちも観に行ってみてね。(読者さんにいただいた素敵イラストもたくさんあるよ)
なろう版、カクヨム版には、続きのお話も100話くらいあります。ユーザーさんはブックマークもちょうだいね。


今回、絵だけ載せたらアカンかな~と思ったので、最後のほうには短編も載せています。



 

 

表紙コレクション

 

 

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(色違い)

 

 

モノクロ挿絵

 

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ラフ画コレクション

 

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Twitterに載せてたTSイラスト※ネタバレあり

 

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女体化サリー

 

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ヒースとサリー

 

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人妻を強調するようになる女体化シオン

 

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右はプライドが高い美貌の姫君になったアルヴィン(左の少年は第二部から登場するサリーの妹※♂️です)

 

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怪物形態アルヴィン

 

深夜テンションの代物でした。

 

 

 

 

絵だけ載せていいものか……と思ったので、保険に幕間短編も載せておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

▼▼▼▼▼▼▼▼▼

 

 

 

 

 

 蝋燭が一本だけ灯っている。

 わびしい明かりの中、テーブルを囲んで三人の人影が蠢いている。

 

「預言の時が迫っている」

 老人の声が言った。

「アイリーン……『影の王』が唱えた預言の時が迫っている」

 

「預言はもう始まっているのではないのか? 」

 男の声が老人に尋ねる。

 

「なにせ……最下層(タルタロス)墓守(アトラス)の民は落ちたのだろう? 」

「確かに」老人が頷く気配がした。

 

「『最後の審判』は始まった。我が曾孫は、それに巻き込まれたのだろうよ。確かに、『最後の審判』は魔女が預言したとおりに始まった。しかし、俺が言っているのは、『影の王』の預言のほうさ、クロシュカ」

 存外若々しい口調をしている老人の影は、ゆっくりと背を丸めて、テーブルの上に両肘をついて指を組んだ。

 

「『影の王』の預言? なんじゃそれは。わしはそんなもんは知らんぞ」

 反対に、『クロシュカ』と呼ばれた男のほうは、声の印象よりも老けた口調である。

 

 

「知らんのも仕方ないだろうよ。影の王の預言は三十年前のことだ。クロシュカはあのころ子育てで忙しかったろ。俺もそうだが」

「カ―――――ッ! 愚息の話は今はするでないわッ! 胸が悪い! 」

「すまん。口がすべった」

「ふん! して、その預言とやらは、どういう内容であったのだッ! 」

 男のものと思われる細長い影法師が、ドスンとテーブルにちんまりとした両足を乗せて腕を組んだ。老人の隣にいる黙ったままでいる女の影が、静かに含み笑う。

 

「ふうむ、俺も伝え聞いただけなのだが……」

「なんじゃ役に立たんのう! 」

「まあそう言うな。そのころ俺は、新しい当主の補佐に本腰を入れるという時でな」「ハん! 噂の『良く出来た孫』とやらか! 」「そうだ。若いがちゃんとした当主がいる以上、預言の内容を聴くのは辞退したんだ。もともと入り婿の外国人だからな、俺は」

 

「お前がそう言うっちゅうことは、その預言とやらは国に関わることだったのか? 」

 

「そうだ。うちが預言を聴くことができたのも、どうやらその預言には、うちのボンが関わっていると思われたからだ。……そのときは、ボンは影も形も無かったわけだが、恐らくそこに書かれている人物は、うちの孫の息子だろう……つまり俺のとこの曾孫(ボン)だろうってことになったのさ。転じて、我が国は近々『最後の審判』が起きると考えたわけだな」

 

「なるほど……おまえの曾孫の時代に『最後の審判』が起きると預言されていたわけじゃな。あいや分かった! つまりアレだな? この国にとってのおまえの曾孫は、天使になるか悪魔になるかで会議は踊るってところかのう? くふふふふ……なるほろなるほろ……我が身ながら面白い時に来たものだのう」

 

「面白く思ってくれて結構だがね、それで、おまえさんは俺たちに協力する気は起きたのか? どうなんだ」

 

「するともさァ。ここで参戦しないでどうする。最後の審判に『次』は無かろ? うくくくく……」

 

 

「ハ―――――――ッハッハッハ! 」

 

 男の笑い声で、蝋燭の火が頼りなく揺れる。

 細長い影法師が椅子を蹴とばして立ち上がると、テーブルに前のめりに乗り上げ、握りこぶしを蝋燭にむかって突き出した。

 

 皺も節もない、つるりと剥けた卵のような(こぶし)が、炎に突き入れられる。

 炎を握った手のひらが、焼けることもなくそこにある。それどころか、握られた炎は油をまいたように高く燃え上がり、揺らめいたかと思うと、無数の綺羅星を散りばめたように輝く燐光をまぶした黒へと変わった。

 

 

「おいコネリウスッ! わしに助力を求めたこと、後悔するでないぞ! 」

 

 

 銀河を宿す黒い炎に照らし出されたのは、幼い少女の(かんばせ)

 そこにあどけない魅力はみじんも無く、あるのは剥き出しの闘争心だけである。

 小さな頭蓋の左右からは、山羊のように巻いた角が突き出している。

 

 

「このクロシュカ・エラバント! いつ『悪魔』に転じるとも知れんのだからなッ!! ハ――――――ッハッハッハッハッ! 」

 

 幼女は太い男の声で、薄い胸を反らして高々と哄笑(こうしょう)した。

 

 

 ✡

 

 

 昼間の回廊は白く輝いている。

 

 大きく半円型にくり貫かれて見える外から差し込む陽光が、足早に進むわたしの影を断続的に照らし出した。

 交互に続く、目に痛いほど白い日向と青ざめた影が、この長い回廊がいつまでも続くように錯覚させる。

 足元だけを背景にして考え事をしながら一心に歩くのは、嫌いではない。

 ……楽しいことを考えている時ならば。

 

 

 カツコツと続くヒールの足音をテンポにして、頭の中で何度も自分の声がする。

 ―――――時は来たれり。時は来たれり。

 ―――――三千五百年の猶予はついに破られた。

 ―――――『終わり』がついにやってきた。

 

 文明が栄えるのと反比例して、神秘は衰退した。

 三千五百年。この期間は、いわば津波の前の引き潮だ。水が引くほど、あとから来る災いは大きい。

 神秘という、この世界を覆っていたものが捲れ上がり、隠されていたものが露見しようとしている。

 人々がそれを目にしたときには、もう何もかもが遅いのだ。

 津波は―――――災いは――――――すぐそこにまで来ている。

 

 三千五百年と十八年。途方もなく長いようで、いざ辿り着くと短い生だったと思う。

 後悔はない。わたしはそう選択し、今まで生きてきた。

 ―――――今! この時に辿り着くために!

 

 回廊が終わる。目の前に扉がある。

 青い旗を交差して掲げた門番たちが道をゆずった。わたしは足を止めることなく、ドレスを翻して独りでに開いた純白の扉の向こうへ行く。

 

 広間がある。高い天井には、色鮮やかに荘厳な宗教画が踊っている。その天井を照らすために、四方にずらりと、青空を映す大きな天窓がある。

 回廊と同じく白い床には、金銀の縁取りがついた青い絨毯が、まるで玉座への誘導案内のように敷かれていた。

 

 いくつもの視線が、わたしの行進を全方位から見つめている。

 わたしはその中心を迷いなく進む。

 

『ここはわたしの場所でもあるのだ』とでもいうように。

 

 もっと見ればいい。――――――わたしはここにいるのだから。

 

 玉座から、王もわたしを見下ろしている。

 口が開く。相変わらず舞台役者のようによく通る声。

 

「――――――エリカ・アイリーン・クロックフォード」

 

「はい。ここに」

 

 玉座の足元で(うやうや)しく跪いた。

 金糸で編んだレースの縁取りをされた紺碧のドレスが扇形に広がる。身に纏うわたしは、その、夜空を模したドレスに負けない髪と、肌と、瞳と、声を持っている。

 

 王は……オズワルド・ロォエンは、満足げに笑った。

 男も女も息をのむ。

 金糸のような髪、褐色に焼けた肌、深い海のような青い瞳、厚い胸板、長い手足―――――オズワルドもまた、美貌で知られる男だった。

 

 美貌の王に、跪く乙女。

 乙女(わたし)と王の目が交差する。

 

 ――――――どうだ。美しかろう。

 

 目元だけで笑む。わたしたちは同じことを考えていた。

 

 ここは舞台。わたしたちは演者。

 一世一代、世界の命運をかけた大舞台を、わたしたちは演じ切らなくてはならない。役に喰われたほうは、この世界もろとも破滅する。

 

 

 これはそういう()()()だ。

 

 

「【陛下、お知らせすることがございます】」

「【よい。申してみよ】」

「【影の王の従者、サリヴァン・ライトが帰国いたしました。ひいては――――】」

 

 さあ。

 

 幕が上がる。

 

 呼吸を整えろ。

 

 瞬きをするな。

 

 (まれ)なる魔女。

 

 魔術の王女が、ここにいる。

 

 

「【――――――その御出迎えのお役目を、()()()であるわたくしに、お任せいただきたく存じます】」

 

 (オズワルド)は、また、満足げに笑った。

 

 

 




よければアンケートもお願いします。


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✡登場人物紹介✡

今度こそラスト。


 

 ✡サリヴァン・コネリウス・ライト【教皇】

 17歳。暗い赤毛に黒い瞳。通り名はサリー。

 大きくて派手な魔法が得意な魔法使い。鍛冶神の加護を持つ、耐熱型の炎属性主人公。

 曾祖父にフェルヴィン皇国の廃嫡の皇子コネリウスを持ち、本名はそれに由来する。『コネリウス二世』と呼ばれることもある。

 表向きは杖専門店『銀蛇』の奉公人。裏向きは大いなる預言をされた貴族の少年。

 それにより、創造神・時空蛇の化身『影の王(陰王)』の従者になるため、五歳から身分を捨て、下町の店『銀蛇』で密かに養育と訓練を受ける。

 生まれた時から定められた役目への戸惑いを抱えながらも、自分の正義を貫くことに情熱を抱え、ときに現実との矛盾にも苦しむ。

 

 

 

 

 

 

 ✡ヒース・エリカ・クロックフォード

 サリーの二歳年上の幼馴染で親友。新鋭気鋭の単独航海士。伸び放題のショートカットが顔の三分の一を隠している。長い前髪の下は、白磁の肌と濃紺の瞳を持つ麗人。

 ザックリさっぱりとした気質で、柔らかい物言いをする一方、本心を見せずに行動できる強かさも持つ。

 その正体は、『影の王』アイリーン・クロックフォードと人間の男との間に生まれた一人娘。

 サリヴァンとは許嫁の関係。ジジがサリー以外で認めている数少ない人物。

 

 

 

 

 

 

 ✡ジジ【愚者】

 癖のある黒髪に、魔人の証である金眼。蝋のように白い肌。

 サリーの相棒で、子供の姿をした魔人。魔人としての能力を駆使して悪事に手を染め、各地を旅していた経歴を持つ。サリヴァンと契約した二年前に足を洗った。対人に特化した魔法を使う。ここ数年より前の記憶がなく、製造者・製造時期が不明。

 波乱万丈な人生を送ってきたためか、独特の価値観を持ち、人間を『自分』と『燃えるゴミ(有象無象の一般人)』と『口を利く肉(一般人の中でも影響力のある立場の人々)』と『その他(サリーら、替えの利かない人々)』に分類している。サリヴァンの最後の盾となることを誓い、影に潜む魔人としての立場で、時に従者のように、時に兄のように、彼の心身の守護をしている。

 

 

 

 

 

 ✡アルヴィン・アトラス【星】

 14歳。彩度の低い淡い色の金髪に、輝くような青い瞳。土エルフ特有の長い耳。同世代より小柄な体格。

 フェルヴィン皇国の皇子。寄宿学校でいじめられ、退学したばかり。腹違いの兄姉にコンプレックスを抱える。物語が好きな、おとなしく心優しい美少年。

 産まれる前から『十五歳までに()()()()()()()()()()()死ぬ』と『影の王』に預言されており、父王レイバーンに遠ざけられた。預言は成就し、魔術師に頭蓋骨を奪われて一度は命を落とすも、『ミケ』の本体である銅板の半分(に残っていた魔法の力)を使って蘇る。

 苛烈な戦いの果てに完全に肉体を失い、剥き出しの魂をミケの銅板で造った鎧で覆うことで、現世に留まっている。

 

 

 

 

 

 ✡ミケ【宇宙】

 稼働して14年。フェルヴィン皇国の王族に伝来する魔人の一族、『語り部』24人のうちの一人。黒髪に金眼。蝋のように白い肌。

 アルヴィン付の語り部で、はじめての主であるアルヴィンを心から愛し忠誠を誓う。その態度は、自らという存在の消滅すら厭わないという、語り部として異色の(人間のような)愛情を持つ。

 アルヴィンの死の運命を察知して、『運命に介入してはならない』という誓約を破り、消えかかりながらも預言回避に奔走する。結果的に皇女ヴェロニカと皇太子の婚約者モニカを脱出させることに成功するが、アルヴィン皇子の預言を回避することは叶わなかった。

 さらに本体である銅板を真っ二つに裂かれながらも、その半分に裂かれた身に残った魔法を犠牲に、愛する皇子を復活させることに成功する。

 

 

 

 

 ✡アイリーン・クロックフォード(時空蛇)【女教皇】

 かつて世界を創造し、終末の預言をして、混沌の夜を始祖の魔女と駆け抜けた。

 世界創造を成した【怪物】である時空蛇の作った、子機のような存在。

 現在はひとりの人間として、魔法の杖の専門店『銀蛇』経営者兼、杖職人兼、一国の王(の片割れ)で、一人の子持ちの女。

 サリヴァンの(杖職人としての)師匠であり、給料を支払う雇用主であり、魔術を教えた師匠でもあり、サリヴァンの一族を家臣とする王でもある。複雑なようだが、サリヴァンは、第二の母であり、師であり主従というこの関係を、素直に『あのクソババア』と嘯いてオシオキされるという感じに落とし込んで(反抗期中の息子のように)慕っている。

 長い黒髪に紅茶色の瞳。瞳は魔力がたかぶると、ほのかに赤く見えるようだ。

 

 

 

 

 ✡始祖の魔女【?】

 混沌の夜に沈む世界にとつじょ現れた強力な預言者。時空蛇の詠んだ【世界滅亡の預言】を覆すと豪語し、じっさいにそれをやってのけた。神々すら仲間に引き入れ、故郷を亡くしてさまよう人々を誘って国をつくり、再び空に太陽をぶち上げ、最後は最下層の未開の地へと消えた。

 その名をアリス。黒髪に美しい青い瞳をした少女だったという。

 時空蛇(アイリーン)に、いずれ夫となる男を紹介(?)したのも彼女だった。

 

 

 

 ✡エリカ・アイリーン・クロックフォード【?】

 歴史に隠れた『もう一人の始祖の魔女』。

 混沌の夜を、不老不死になることで乗り切った。三千五百年の時を越え、今もなお存命の人物。

 聞いたことのある名前をしているが……?

 

 

 

 

 ✡コネリウス・アトラス・ライト

 サリヴァンの曾祖父。廃嫡されたフェルヴィン皇国の元皇子。ジーンの双子の弟で、フェルヴィンの英雄として名高い。

 年を重ねてもなお立派な体躯を保ち、現在は屋敷を離れて山の離れで一人暮らしをしている。

 

 

 

 

 ✡フランク・ライト

 サリヴァンの父。サマンサ領主にして辺境伯。眼鏡が特徴的な、温厚な人物。特技は乗馬。

 

 

 ✡ミリアム・ライト

 サリヴァンの母。素朴で優しい人柄。

 貴族の妾腹の子として生まれたが、十四歳まで自分の出生を知らずに地主の娘として育てられた。田舎育ちのため、自分で作った野菜で料理をしたり、馬の世話をしたりするのが好き。変身魔術については免許皆伝の腕前を持つ。

 

 

 

 

 

 

 ✡ヴェロニカ・ルカ・サーヴァンス・アトラス

 32歳。皇太子グウィンの年子の妹。アルヴィン他、三人の弟の姉。淡い金髪に青銀の瞳。

 これぞ淑女という身のこなしで、ほっそりとして見える憂い顔の美女だが、身長218㎝の女子級チャンピオン級の武闘家であり、地質学者の一面もあるワイルドな女性。バツ1。

 愛情深いが、国家存亡の危機に冷徹な判断を下すことも選ぶ。

 語り部は、英雄皇帝ジーン・アトラス付で、彼の旅行記を書いたダイアナ。

 名前の由来は『クレヨン王国シリーズ』より藤色大臣と女子大生と陸上代表選手(ときどき探偵)モデル業もこなすというギャップある三足の草鞋を履いたヒロイン、ルカ・サーバンスから。

 

 

 

 

 ✡グウィン・アトラス【皇帝】

 フェルヴィン兄弟の長男。フェルヴィン皇国、アトラス皇帝。

 34歳。従軍経験と文系の博士号を持つ文武両道の男。暗い赤毛と銅色の瞳。眼鏡。

 フェルヴィン人としてもかなり大きい筋肉質な250㎝。責任感が強く、温和な性格。イメージは異様にリアルでデカいテディベア。

 

 

 

 

 ✡ケヴィン・アトラス

 次男。肺に疾患があり、おもに故郷で父王に付いて宰相業務を行っていた。病弱のため線が細く、姉ヴェロニカと一番よく似ている。淡い金髪に灰色の瞳。眼鏡。30歳。220㎝。細身。イメージはティム・バートン監督のアニメ映画に出てくるような、ひょろ長い陰気な青年(意外と情熱的でアクティブ)。

 

 

 

 

 

 ✡ヒューゴ・アトラス

 三男。27歳。芸術家肌で、音楽と絵画とスポーツと車が好き。派手好きで放浪癖のある異色の三男坊。多感な思春期に産まれたアルヴィンのことがめっぽう可愛く、赤ん坊のころから目に入れても痛くないほど甘やかしている。姉と長兄に頭が上がらないが、次兄のケヴィンとはよく衝突する。

 しなやかに筋肉が付いた身長221㎝。赤毛に灰色の瞳。よく髭を生やしている。イメージはセレブ系バンドマン。兄弟一の伊達男。

 

 

 

 

 

 ✡ダイアナ/ベルリオズ/マリア/トゥルーズ

 ヴェロニカ、グウィン、ケヴィン、ヒューゴの語り部。

 白髪の老メイドの様相をしたダイアナ。屈強な老爺の姿のベルリオズ。真面目そうな妙齢の女性の姿をしたマリア。頬にソバカスのある陽気で落ち着きがないティーンエイジャー姿のトゥルーズ。

 魔人の証である、金の瞳と黒髪(ダイアナとベルリオズは老齢の姿のため白髪)をしている。

 

 

 

 

 

 

 ✡ジーン・アトラス

 前代フェルヴィン皇帝。銀髪に赤錆の瞳。いわゆるアルビノ。天使に例えられた中性的な美貌を持っていた。享年56歳。

 虚弱体質でエルフとして異常な短命を定められていた(原因は遺伝子異常による疾患と思われる)が、『二つの人生を持った』とも語られるほど、様々なことを成した人物。

 

 アルヴィンと瓜二つの容貌をしていたが、その内面は真逆。大きな好奇心を抱えた情熱家の一面と、時に狡猾さを駆使する策略家の顔を持っていた。まだ皇子であったころ、双子の弟コネリウスと共に疫病に冒された祖国を救済するため、戦禍がくすぶる世界諸国を巡る。

 十数年かけて目的を果たして帰還を果たしたが、旅の終盤に弟コネリウスは語り部を失い、それにより王位継承権をも失くして国を去る。

 晩年のジーンは、皇帝として『五百年遅れた国』と呼ばれたフェルヴィンの復興と開発に尽力し、結果として、近世もっとも偉大な英霊として世界の人々の記憶に刻まれた。

 生涯独身であったため、直系の子孫は存在しない。

『魔術師』によりアルヴィンの頭蓋骨を依り代に復活する。現皇帝・レイバーンの叔父にあたる。

 

 

 

 

 

 ✡モニカ・アーレ

 栗毛の小柄な女性。27歳。大牧場の娘。皇太子グウィンの婚約者で、先の皇后。

 高学歴の才女。前向きで根性のある女性。

 

 

 

 

 

 ✡レイバーン・アトラス

 グウィン、ヴェロニカ、ケヴィン、ヒューゴ、アルヴィンの父親。前代のフェルヴィン皇帝。妻を二回亡くしており、アルヴィンだけが母親が違う。

 皇帝としてジーンが遺した開発計画や外交強化などの政治思想を受け継いだ近代化を進めていた。大きく歴史に名を残すことよりも、平安楽土を目指して堅実な働きをすることを選んだ、コツコツ型皇帝。

 息子たちとの仲には距離があり、とくに末息子アルヴィンとは預言のこともあって、溝が深い。預言の通り、『息子より先に死ぬ』が、『息子の死を見届ける』こととなる。

 享年76歳。胸に生まれつき疾患を抱えていた。

 語り部の名はダッチェス。

 

 

 

 

 ✡魔術師

 フェルヴィン皇国を混乱に陥れた主犯。灰色のローブを身に纏い、死者たちを扇動する力を持つ。

【あの御方】と呼ぶ何者かに傾倒し、その者の復活と復讐を目的とする。

 

 

 

 

 ✡アポリュオン

 奈落の王。冥界が神によって、死者の国たる冥府として統治されるよりも前、最も暗い闇で、泥を産湯に生まれた怪物。母に、今代のデウスよりも古い怪物を、父には冥界の闇そのものを持つ。太陽神アポロンの宿敵であり、その力を身に受け一度は退いた。

 いずれ人類が裁かれ滅びるとき、配下とともに、あらゆる文明を食らい尽くすという役目がある。

 怪物として生まれながら、堕天使という側面も持つ。

 




ありがとうございました。
ご要望ありましたら、第二部も投稿していこうと思います。
感想や高評価よろしくお願いいたします。


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✡専門用語集

 ✡多重海層世界

 近年の学者たちが定義した、世界構造を端的に表す専門用語。近年の我々がこの土壌を『太陽系惑星』の『地球』と定義したようなもんである。

 その名の通り、海洋と大地と大気を備えた皿状の世界が二十枚、重なっているミルフィーユ構造になる。その皿の一枚一枚を、上から『第○海層』と数える。

 

 ✡雲海

 皿状の世界の間は、『雲海』と呼ばれるもので接着されている。この世界の『雲海』とは、ただ高層から見下ろす一面の雲のことではなく、文字通り、空を覆う雲と、その先の真空世界、さらにそれより上空にある次の海層の最下部分にあたる深海という、隣り合った海層のつなぎ目のことを言う。

 

 ✡混沌の夜

 人類文明に伝わる最後の神話。細部は地域により異なるが、おおむねは共通した筋書きである。

 人類文明に救いを見いだせなくなった神々の王デウスは、人間をひとり残らず滅ぼすことにした。手始めとして、海洋国家アトランティスを沈めたが、その国を治める巨人の海の神アトラスは激怒し、戦乱の火種となった。

 長い戦争のうち、太陽や灯りなどの光を司る神々は策略によって幽閉され、世界は闇に沈み、二十に砕かれてしまった。

 この暗黒の時代を、『混沌の夜』と呼ぶ。

 そんなとき生き残った少ない人類の中から、一人立ち上がった者がいた。その者は類まれな力を持った魔女であった。

 魔女は、一人、世界創造の時代からこの世を見守る怪物『時空蛇』のもとを訪れる。時空蛇の協力を得た魔女は、次々に神々や怪物との交渉を行い、世界に明かりを取り戻し、やがて一軍の将として神々の王デウスのもとへと招かれる。

 人の身にして数々の苦難を乗り越えた魔女はデウス神に認められ、魔女は人類の延命という条件を飲ませることに成功する。

 神々は残らず天上にある神々の庭へと姿を消した。

 魔女はその後、人々に知恵を授け、みずからの弟子たちの作った国に魔法をかけ、どこにも行き場の無かった罪人や流人たちを率いて最下層へと至り、そこで静かに暮らしたという。

 魔女は預言を遺した。

『いずれ人々が神々を忘れた時、ふたたび人類すべてを試す審判が行われる』と。

 

 ✡最後の審判

 魔女の預言した『人類を試すために神々が与える試練』。人類はその試練を乗り越え、最上層にある神々の庭へと至り、裁判を受ける。

 代表者は魔女がすでに預言しており、資格があるのは二十二人と伝わっている。預言された資格者のことは『選ばれしもの』と呼ばれ、『愚者』『教皇』など、それぞれの功績を象徴する単語がついている。

 

 ✡選ばれしもの

『愚者』『魔術師』『女教皇』『女帝』『皇帝』『教皇』『恋人』『戦車』『力』『隠者』『運命の輪』『正義』『吊るされた男』『死神』『節制』『悪魔』『塔』『星』『月』『太陽』『審判』『宇宙』

 の暗示を持つ二十二人の『世界を変える(あるいはその素質がある)もの』たち。

 二十の大地で生きている人類すべてから選ばれる。

 

 ✡混沌

 この世界を創った原初の泥。すべてを詰め込んだ可能性という何か。この世界の創造神話は、この混沌から『混沌』という一柱の神と、始祖の蛇と呼ばれる怪物が産まれたところから始まる。

 始祖の蛇は兄弟である『混沌』を教育し、世界を創造させることに成功する。そうして(砕かれる以前の)この世界は出来上がったのである。

 

 ✡時空蛇

 またの名を『始祖の蛇』。原初の泥(混沌)から生まれ、兄弟である混沌(神)を教育し、世界創造を成した怪物。混沌(泥)から、あらゆる可能性を引き出して混沌(神)へと手渡す役目を持っていた。

 ある時、『時』を引き出した蛇は、それを天空へと張りつけ、世界に朝と夜、季節などを作った。しかしいくつかを大地に落してしまったので、仕方なく自分で食べた。

 それから始祖の蛇は名を『時空蛇』と改め、世界の終わりまでを見通す預言者となった。

 世界の終わりを見た時空蛇は、絶望し、長い長い眠りについた。

 ふたたび目を覚ますのは、混沌の夜のとき。始祖の魔女に起こされる時になる。

 時空蛇は、始祖の魔女の嘆願に共感し、協力することを約束する。

 時空蛇は魔女の親友として人類救済に助力し、最後はとぐろを巻いて一つの島となり、その上には彼女の弟子たちの国ができたという。のちに『魔法使いの国』と呼ばれるその島国である。

 

 ✡魔法使いの国

 第十八海層、エルバーン海にある島国。その地は時空蛇の体の上にあるとされ、国をあげて時空蛇を信仰する。

 魔女の残り香が世界で最も濃い『神秘の国』で、固有の人類種として『魔法使い』人が暮らしている。人類で唯一、『魔法』が使え、移動手段に箒に跨ったりと、その技術が生活に根差している。

 魔法使いは子供が生まれると、その産毛を芯にして杖を作る。それは『銀蛇』と呼ばれ、同名の専門店が、三千五百年代々製造している特殊なものである。

 第十一海層から下(下層と呼ばれる)で最も繁栄した先進国でもある。

 

 ✡銀蛇

 魔法使い人種が持つ道具。いわゆる『魔法の杖』。銀色をした装飾具の形をしている。持ち主の意志に反映した形になり、呪文や儀式を用いることで、様々な効果の魔法を行使する補助具となる。

 同名の専門店においてのみ製造されており、現在の店主アイリーン・クロックフォードは、年間数百万の銀杖をほぼ一人で製造している。

 

 ✡影の王

 魔法使いの国には二人の王がいるが、王室は一つである。『陽の王』はその王室から選ばれる『人民の王』。

 そして、建国神である時空蛇の化身として、建国から三千五百年、存命して君臨し続けているのが『影の王』である。

 魔法は時空蛇からの恩恵とされる。その時空蛇の化身であり、神事統括の長であるため、極めて重要な役職であるはずの『影の王』だが、その姿は誰も知らず、なかば御伽噺の存在となっているため、『陽の王』と比べると影が薄い。

 その謎に隠された正体は、城下町で小さな工房を構える、とある杖職人である。

 

 ✡フェルヴィン皇国

 最下層である、第二十海層にある小島国。鉱山を多く保有する反面、農業に向かない土壌と天候に苦しめられ、またその険しい海によって世界から長年孤立していた。

 かつて魔女が罪人や流民を率いて辿り着いたとされた地で、『魔女の墓』という異名がある。

 多くの人種を先祖に持ち、耳が長く尖り、非常に長身で、生命力が強いという特徴を持つ。

 皇族一族は、始祖に『混沌の夜』の引き金となった巨神アトラスの血を引いており、フェルヴィン皇国もまた、デウス神に沈められたかつてのアトランティス王国であるという伝説が残っている。

 

 ✡語り部

 フェルヴィン皇国の皇族、アトラス一族に代々仕える魔人たちのこと。鍛冶の神と時空蛇の手を借り、魔女によって製造された、24枚の銅板。そこに宿った『意志ある魔法』。それが語り部の一族である。

 アトラスの一族の中で生まれる王の素質あるものに付き、その人生を伝記という形で『記録』する。

 彼らは筆を偽らず、生まれてから死ぬまでを、一つの物語として編み上げる。王家はそれを、死後に出版し、読み返すことを死者を悼む儀式とした。

 現在、語り部が代々書き連ねた王家の物語は、世界中で翻訳され、長く愛される名著となっている。

 

 ✡魔人

 無機物を核にして、呪文を刻み、魔法をかけた、魔導による人工人間。『意志ある魔法』という別名がある。

 発明したのは始祖の魔女。その詳しい製造方法は散逸しており、もはや古代のように人間と変わらない魔人は、フェルヴィン皇国の語り部だけとされる。

 近年の魔人は、言われたことだけを動く、高価で珍妙な姿の自動人形、という印象である。

 



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幕間 よくある政略結婚の話

ブックマークありがとうございますと、せっかくだからアクセス数を2000にしたいな~って短編。

序盤、ちょっと趣向が違います。サリヴァンが産まれる25年前の話です。


≪はい! 本日も始まりました。愛すべきみんなの拡声器! レディ・エコー・ステラこと! 魔術研究課程五年生ステラ=アイリスが、午後六時半より、本日も生放送でキッカリ三十分間お届けします! ≫

≪ご要望。ご質問。そして解決してほしいお悩み等ございましたら、自薦他薦問いません! 校舎内の【ライン】を使用しお便りください。リアルタイムで対応いたします! もちろん生徒のみならず、先生がたのお便りも、海原の大ウミヘビくらいに首を長~っくしておまちしておりまぁ~す! ≫

≪なんと! 本日はビックなゲストもいらっしゃいます! みなさんお馴染みのあの御方! いいえ! 今日は校長先生ではございませんよ! ≫

≪ステラが声なら、この人は顔! しかし残念これはラジオ! しかと聞け! 悲鳴を頂戴! あらゆる意味でのみんなの顔! 我らが皇太子――――エドォォオオオ=ロォォォオオオエーン!!!!≫

 

≪……こんにちは≫

 

≪……ええと、照れるな……こうするの? そう。ありがとうアイリス。魔術研究課程七年生、エドワルド=ロォエンです。今日はお招きいただきありがとう≫

 

≪キャッ超サワヤカ! 圧倒的プリンスオーラを、この182センチの矮躯の右半身に! 一身に浴びております! この182センチの右半身に! 若い男女がふたり、吐息も感じる密室でございます! ヤダァ……あたし明日刺されないかしら!? ≫

 

≪ハハハ! すごい声だね! ≫

 

≪ 回線爆発! 王子の腹筋崩壊!音質も崩壊! ちょっとノイズすごいんですけど!? え? 【ライン】の容量オーバー? みなさァ~ん! すこし、すこしばかり勢いを押さえて! 今日の放送と、あたしの明日が死んでしまいます! ≫

≪ヤダもう! この放送は、リスナーの皆さんのご助力と先生方の御厚意でできております!すでに放送事故のYOKAN! ヒシヒシと危機感を感じております! 皇太子のスケジュールはそうそう空きません! ≫

 

≪なるほど。それではお便りを一通読み上げましょう≫

 

≪王族にスルースキルを使わせてしまった!? 国始まって以来の珍事です! 始祖の魔女もビックリ! 回線爆発に二十五秒。静かになるのに三秒でした。さすが王子。はい、それでは気を取り直して。匿名の方からのお便りです≫

 

 

 

≪レディ・エコーはじめまして。入学以来、いつも欠かさず楽しく聞いています。≫

 

 

 

≪王子が読むの!? いいけど! ≫

 

 

 

≪わたしは、もともと牛や馬の世話をしながら、田舎でのんびりと暮らしていました。しかし父が亡くなったとき、とんでもない遺言が出てきたのです≫

≪わたしは両親のほんとうの娘ではなく、さる地位ある御方の血を受けているということでした。つまり、その御方から見れば妾腹の娘ということで、父の訃報によりわたしは本当の父親のもとへ引き取られることになりました≫

≪実父はとても親身で、血の繋がりも確かに感じる優しい方であったのは幸いでした。しかし父は地位のある方。父には、本妻との間に二人の子供がおり、わたしは混乱を避けるため、そしてわたし自身のために、この学園を卒業すると結婚することになっています。つまり政略結婚です≫

 

≪……ふむ。よくある話だね。次々と匿名ちゃんに向けた共感とエールのお声が届いております≫

 

≪彼はもともと田舎暮らしだった自分からしてみれば、雲の上の身分の方です。最初は戸惑いましたが、婚約者の方はとても優しく、彼を追う形で、わたしもこの学園に入学することができました。あまりに様々なことがありましたが、この方と添い遂げるのは世界一の幸せかもしれない……そう思うくらい優しい方なのです≫

≪フムフム? 大団円と見せかけて、ここからまた一波乱あるのかな? 実は超ド変態とか? ≫

≪……今から言うこれは、ぜいたくな悩みだと思います。悩みというのは、わたしの婚約者についてです。義理の両親となる方はすでにお亡くなりになっており、おじい様に田舎で育てられた彼は、温厚でとても親切です。そのうえ、とつぜん平民から令嬢となったわたしの身の上を案じ、いつも気を使ってくださいます。気を使いすぎています≫

 

≪オッ? 話が見えてきたぞぉ≫

 

≪わたしは婚約者ですが、儀礼のやむを得ないとき以外には、彼と手を握ったこともありません≫

 

≪ほらね! ≫

 

≪ちなみに、婚約したのは四年も前のことです≫

 

≪それはひどい! ≫

 

≪先日、彼がルームメイトの男子生徒と、誰もいない教室でワルツを踊っているところを目にしました≫

 

≪え、そっち!? ≫

 

≪……わたしは、少し戸惑い、怒っています。婚約者は学園では頑なにわたしと二人っきりになろうとしません。会話はしますが、いつもまわりに人がいます。話す内容も、共通の友人に関することが多く、わたしたちを見て誰が婚約者同士だと思うでしょうか。お付き合いしているとも思わないはずです。彼とのあいだに壁を感じ、あまりに悲しく思った次の瞬間に、強い怒りを感じました。夏休みになれば同じお屋敷で一つ屋根の下へ帰ります。その時、いっそのこと押し倒してやろうかとも思いましたが、≫

 

≪意外とタフネス! ≫

 

≪……でも、もともと育ちの違いがあるので『はしたない』と思われたくなくて、やめにしました≫

 

≪そっかぁ……乙女心が仕事したねえ≫

 

≪わたしは恋をしたことがありませんが、ひとを愛する気持ちはわかります。わたしは彼を愛しています。どうすればいいでしょうか? ≫

 

≪実に難しいねえ≫

 

≪浮気男よりは少ないが、よくある話でもあるね≫

 

≪そうですか? ≫

 

≪政略結婚で、相手への対応に悩む男は多いと思うよ。身分の釣り合いだけで結婚するわけだから、目の前に現れた未来の妻がイイ感じの人だったら……わかっていても照れちゃうんだよね≫

 

≪ほうほう? ……おっとぅ。その発言は、黄色い悲鳴が聞こえますね~≫

 

≪あのね、貴族といっても女の人を練習もなしにエスコートはできないものなのさ。ぼくは、そこらへん御令嬢方に理解がほしい。貴族の男がパーティーで女性をエスコートできるのは家でばあやを相手に死ぬほど練習するからなんだよ。結論から言おう。思春期の男にはね、ダンスのリードは刺激が強い! ≫

 

≪ぶっちゃけましたね王子! ≫

 

≪反復練習で慣れるしかないんだ! ばあやの冷たい硬い手の感触じゃあないからね! 女の子の手だ! それも腰に手を添えろという。経産婦の骨盤はしっかりしてるよ! 長年、家事と子守で鍛えているからね。それに慣れてしまった腕がだよ。処女(おとめ)のなよ腰にあてがえと。それがお前の仕事だと。『マジかよ! ひゃっほう! どうしよう! 』だよ! ≫

 

≪処女じゃないかもしれないじゃないですか! ≫

 

≪そこは問題じゃあないんだよ! はじめて肌が触れた女性は、過去がどうであろうとも処女だ! ≫

 

≪なんたるワード! それならばあやは!? ≫

 

≪馬鹿言うな! ばあやは赤ん坊の時に乳吸った仲だよ! ≫

 

≪乳母なら仕方ない! ≫

 

≪匿名ちゃんの婚約者さんは、かなり奥手というより、どうすればいいか分からないんじゃあないのかな? 匿名ちゃんが貴族の子だという仮定で話すけれど、それなら婚約者の身分は、辺境伯あたりと考えよう。山岳のほう、あのへんの田舎だと、身分差関係なく男も女も山道を馬で駆れるし、土濡れで畑仕事もするという。そういう生まれの婚約者さんで、おじいさまと二人暮らし。家臣やメイドがいるにしても、男所帯だ。田舎に女性は少ないし、若い男も娯楽も少ないから、女性に免疫は無いかもしれないね≫

 

≪なるほど。貴族にも様々ですものね≫

 

≪あと、これは匿名さんにではなく、学園内の貴族生まれたちに言いたいんだけど……いくら学園内に身分差が繁栄していないといっても、女性からのアプローチに浮かれきってはいけないよ。いや、浮かれてもいい。恋はいいことだ。神々も、一部を除いては自由恋愛党の情熱推進派だからね。恋愛は世界に許されている。しかし安易にベットに誘ってくる異性は、男も女も恐ろしい思惑が隠れている≫

≪ご令嬢たちは耳が石になるくらい言われることだけど、貴族なれば男こそ肝に銘じてほしいものだね。教養と身分と矜持(プライド)があるいっぱしの男なら……相手の女性にほんとうに恋をしたのなら……きみは、ただの種馬になってはいけないんだ≫

≪神々は自由恋愛党の情熱推進派だけれども、獣のごとき交接は唾棄している。人は人であるからこそ、理性にもとずいて、愛さねばならない。今回の匿名さんは、自分の身の上にじつに驚いたことだろうし、大きな悲しみを抱いたことだろう。その悲しみは、小さくなることはあっても消えることは無い。一夜のあやまちが、二人の人間を不幸にするかもしれない。もしかしたら奥さんを入れて、三人の美女が涙で枕を濡らしたのかも。正妻とのあいだに二人子供がいるというから、それも入れて五人だ≫

 

≪確かに。不倫文化のもと確かに宮廷は華やぎましたが……いまは時代が違いますからね。身分ある既婚男性は、貞操帯を義務付けてはいかが? どうでしょう王子≫

 

≪うーん。男は我慢すると燃える生き物だし、人間は試行錯誤で発明を行う。魔法使いならなおさらね。そこに新たな物語が生まれるものだ。つまり、ノーコメントで≫

 

≪話は脱線してしまいましたが、ここで匿名ちゃんへのお便りをご紹介したいと思います≫

 

RN(ラジオネーム).通りすがりの伯爵令嬢さんより。≫

≪やはり押し倒しましょう! 貴族令嬢はけっこう押し倒します(笑)……

突然明かされる衝撃の告白に、ステラちゃんビックリです≫

 

≪RN.空飛ぶうさぎちゃんさんより。≫

≪草食系彼氏のためにアンタが肉食になるしかない。ガオーっといっちゃえ!

あ~ん! ケダモノ! ≫

 

≪RN.草るヒトさんより。≫

≪ところで流しちゃったけど、ワルツを踊ってたルームメイトって男だよね?

……さて、どっちがどっちなんでしょう? ≫

 

≪RN.悪魔でも貴族さんより。≫

≪一つ屋根の下にいるのに……まずは病院へ連れて行ってさしあげたら? 役立たずなら別れなさい

つまり、据え膳食わぬは男の恥! ≫

 

≪RN.ハートブレイクさんより。≫

≪この前ぼくは、まさにそれで失恋しました。

なんの報告? せいぜいがんばれ草食系! ≫

 

≪RN.水着がポロリが性癖さんより。

あんたの性癖は知りたくなかった! ≫

≪まずはデートからではないでしょうか? お互いを知るために、二人っきりで話せる空間に持ち込みましょう!

ウソだろまさかの正解答! ≫

 

≪RN.匿名さん≫

≪デートなら観劇とかはどう?

同じものを見て感想を言いあう。話題作りになりますし、いいかもしれません! ≫

 

≪ふたたびRN.ハートブレイクさんより。≫

≪なら勇気を出します! ステラちゃんぼくと付き合って!

きみが三秒以内にここに来るんならいいよ~≫

 

≪はい! それではまだまだコメントがモリモリ大盛況なんですが、尺が巻き入っちゃったので、お名前だけでも王子に読み上げていただきます! ≫

 

 

 

≪はい。RN.国鳥将軍さん、青い花さん、王子親衛隊さん、レモンさん、ぱーぱーさん、夢バクさん、それから匿名でお便りをくれた12名のリスナーさん。ありがとうございました≫

 

≪王子に名前呼んでもらったぞ民衆ども! ≫

 

≪はい。読んでやりました≫

 

≪オッ!? あ、最後に一通お便りをご紹介します! RN.魔術理論学のデボラ先生よりのお便りです! ほ、ホンモノかぁ~!?≫

 

≪人生には、いろいろなことがあります。まだ若いあなたたち。未来は焦らずとも、すぐそこに見えています。辛抱強く、そして勇気を出して。大人は頼られるのが好き。おばさんも、若い子とコイバナしたいです。いつでもウェルカム。待っています。≫

≪PS.明日の天気は快晴ですので、魔術研究課程五年生で、この前の試験でC判定以下の生徒は、夜明け前に黒森前に集合してくださいね♡≫

 

≪……ほ、ホンモノだぁ~~~~!!!! そして! ステラちゃんの実習が決定しました……目覚まし時計かけなきゃ……≫

 

≪そろそろお時間が迫っております! それでは王子、最後に恒例のアレをひとつ≫

 

 

 

 

≪もうそんな時間か。早いものだね。とても楽しかった。誘ってくれてありがとう。また来たいな≫

≪今回のお悩みは、すこし身をつまされるところがあったね。匿名さんの未来に幸あることを願っているよ。採用されたきみには、そうだな。いつもの記念品よりも役に立つものをあげたいんだけど、いいかな? ≫

 

≪えっ、ど、どうしましょ。それは予想外。予算もありますんで……ウーン……≫

 

≪じゃあいいや。ぼくが個人的に贈ることにしよう。ぼくのポケットマネーで、水着がポロリが性癖さんと匿名の方からのアドバイスにもあった観劇のペアチケットを。大丈夫、ぼくのお小遣いは皆さんご存知の通り税金から出ているわけだけど、健気な彼女への餞別ということで、優しいみんなは許してくれるはず。そうだろう? ≫

 

≪王子さまったら太っ腹! 腹筋は割れてるけど! では、名残惜しいですがお別れの時間となってしまいました! エド王子、ほんとうにまた呼んでいいんですね? ≫

 

≪もうすぐぼくは卒業だけど、気にしなくていいよ≫

 

≪そんりゃあも~う色々忙しいんでは!? ≫

 

≪なら、卒業したあとでもいいよ。だってOBだからね≫

 

≪夕方キッカリ三十分ラジオ! 校長以来のビックタイトルがスポンサー入りだーッ! ≫

 

≪……スポンサーになるとは、言ってないよ? ≫

 

≪それでは王子! ありがとうございました! ステラちゃんが無事に明日の朝日を浴びれますよーに☆≫

 

≪おやすみなさい。良い夢を見れますように。あと、アイリスが朝寝坊しませんように≫

 

≪ではでは、また明日お会いしましょう! さよ~なら~≫

 

≪………スポンサーには……ならないからね? ≫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブォフォッ!

 

 シオンの目の前で、赤い飛沫が飛び散った。

 飛び上がったシオンは、それでもしっかりと、椅子の上で体ごと斜めに傾いて、スープの波を回避していた。

 向かいに座る少女の強張った顏が、ニンジンと赤カブのスープを滴らせたまま固まっている。

 目の前に差し出されたナプキンで、無意識に顔を拭きはしたが、見開かれた緑がかった茶色の瞳は大きく動揺に揺れていた。

 いつもの彼女なら、スープを溢しただけで「ああっ! ごめんなさい! 汚れなかった? 大丈夫? 」なんて、大慌てで後始末に取り掛かる。

 そんな彼女が、自分のお下げ髪を命綱のように握りしめてブルブル震えているのだから、これは尋常なことではなかった。

 

「……どうしたの? 」

「あうあうあうあう……」

「だいじょうぶ? 」

 

 シオンは(まなじり)をいっそう下げ、椅子から立ち上がって、その肩を叩いた。

 はっとした彼女は、子犬のように「きゃっ」と跳ね上がると、唇を抑えてがくがく頷く。へたくそな作り笑いが、手のあいだから漏れている。

 

「あの……うん、だ、だいじょうぶ。うん……」

「そうは見えないよ!? 」

「あ……うん、ちょっと具合が悪いかも……シャ、シャツが汚れちゃったし、寮に戻ろうかな」

 そう言った彼女の逆の方の肩に、手が置かれる。

 

「そうした方がいい」

 

「……アイリさん」

 シオンは、背中から覆いかぶさるようにして肩ごしに腕を伸ばしている背の高い上級生を振り返り、何度か瞬きをした。

 

「ミイ、私が送っていこう」

 彼女……ミリアム・クロワは控えめに頷いて、席を立つ。

 上目遣いに、シオンはアイリ……アイリーンを見た。

 

「じゃあアイリさん。またあとで」

 アイリーンは、赤茶の瞳を細くしてニタリと笑う。

「ああ」

 

 

 ☆

 

 

 領地ミネルヴァは、『魔法使いの国』の中心部に近い内陸に位置し、領土の五分の一が湖という水の(くに)である。山岳で形成された、盆地に水をたたえるウルラ湖には、東の岸辺に巨大な石造りの城を有する。

 群青の屋根、白い漆喰と、赤レンガの壁。

 五芒星のかたちに配置された五つの塔、その中心に鐘楼と大時計を有する『大塔』を有する。

 

 名を、『ラブリュス魔術学院』。

 

 国内最大の名門校であり、在籍生徒数は5千人にも上る、大学校である。

 年のころは、下は幼年学校の5歳から。上は上限なく、学びたければ何歳でも。

 在学期間は、一年だけの基礎魔術クラスの生徒から、幼年学校から大学校までの最長20年。

 

『知恵』を象徴する紫に、黄金の稲妻と交差する白い(ラブリュス)、そして銀色のフクロウが描かれた旗は、この領地ミネルヴァ、ひいては、ラブリュス魔術学院の権威をあらわす絵図である。

 その旗がいたるところにひるがえる城下町、ウルラ湖沿岸は、生徒たちの下宿や、学院関係者たちの店や住居がひしめきあい、広大な学園都市を形成している。

 

 城内にも、学生寮が併設されており、城下に別邸がない小貴族を始めとした裕福な子息から、下宿することができない貧困層の奨学生まで、身分差なく同居していた。

 

 

 シオン、アイリーン、ミイは、寮生仲間である。

 シオンの同室者が一学年下のミイと友人だった関係で、シオンと仲のいい上級生のアイリーンがくっつき、学内でよくつるんでいた。

 

 長い黒髪に、涼やかな切れ長の目元をしたアイリーン・クロックフォードは、学内でも指折りの『変人』として知られている。

 

 あだ名は『ラブリュスの女帝』。

 

 学内でも指折りの才女でありながら、指折りの問題児としても名をはせる、ラブリュスに君臨するカリスマガキ大将は、二つ年下のシオンの、身元引受人の娘という間柄でもある。

 

 王都アリスで、『銀蛇』という老舗工房を構える老杖職人、ニル翁は、アイリーンの養父で、行き場の無い孤児だったシオンを、この学院へと入学させてくれた大恩人であった。

 

 

 ✡

 

 

 その日は午後休となっていた。

 城の南東にある寮に帰ると、派手な紫色をした短髪が、階段を上った先の入口の前に立っているのが見えた。

 

「……ステラ先輩? 」

「やあ! 待ってたよ。『ラブリュスのプリンセス』」

「そのプリンセスってのはやめてくださいよ」

 

 独特のハスキーな太い声で、ステラはフフフと笑った。182㎝の長身から伸びる長い足を伸ばし、ほんの一歩でシオンの前にまで距離を詰める。ちなみに15歳のシオンは、155㎝である。

 

「……最近、きみの親友はどう? 」

「取材ですか? 」

 声をひそめるステラに、シオンはぴしゃりと言った。

 ステラは苦笑いして、シルバーの指輪がいくつもついた両手をひらひらさせる。唇の右端と、両耳たぶに七つずつついた金属のピアスは物々しかったが、笑った顔には憎めない愛嬌があった。

 

 ステラは、自他ともに認める学園一の人気者である。

 古風な校風のため、とても目立つ外見をしているが、教師にもファンが多い人気DJだ。午後の毎日三十分の生放送ラジオを実現するまでの武勇伝は、いまだ生徒の間で語り継がれている。

 放送は始まってから一日も休んだことが無く、偏りがひどいものの、成績も良い。

 ラジオそのままの人柄をした彼女は、ラジオの存続に命をかけている。

 そのため、ときおりこうして特定の生徒に『探り』を入れることがあった。

 

「……いやね、今日のラジオのお便りが、どうもきみの親友のことのようだったから」

「親友ってどっちのです」

「その様子じゃ、ラジオは聴いてなかったんだね。あ、責めてるわけじゃないよ? 食事時は静かにしたかったり、おしゃべりしたいこともあるだろ? ……そんな目で見るなよ。話を聞きたいのは、ミリアム・クロワのほうだよ」

 

 シオンは「あっ」と思ったが、顔に出すのは控えた。

 

「どうやら彼女のお便りと見せかけて、彼女を騙ったものからの投書だったようなんだ。食堂で派手にスープをぶちまけたって聴いたけど、そのあとどうだったのか、知りたくてね。こっちの落ち度だ。傷つけたかもしれない」

 

 そう言うステラは、いつになく沈んでいた。

 

「ステラは、真剣にラジオに取り組んでいる。誰かを傷つけるような放送は絶対にしてはいけないんだ」

 

 シオンは、今度こそ顔に出した。

「……食堂まで一緒でした。ミイは、アイリさんと、先に寮に帰ってるって……」

「中は確認したよ。ミリアムは寮に帰ってない」

「そんなぁ」

 

 そのとき、寮の扉が開いた。

 茶色の髪に、厚ぼったい眼鏡をかけた少年が顔を出す。片手に携えているのは、いつものように変身魔術の専門書がずっしり入ったカバンだろう。

 

「あれ? シオン、女帝様といっしょだったんじゃ? 」

「フランク」

 

 シオンは、もう一人の親友の登場に、ほっと息をついた。

 シオンより頭一つ半も背の高いフランクは、ステラの姿を見止め、穏やかに会釈する。

 

「やあ、こんばんは。レディ・エコー」

「やあこんばんは。フランク・ライト卿。ミリアムを探してるんだけど知らない? 」

「ミイに何か? 」

 

 フランクは眼鏡の奥の目を丸くする。

「彼女なら、一度着替えに帰ってきましたけど……すぐ出かけていきましたよ」

 シオンはすかさず尋ねた。「アイリさんは一緒じゃなかった? 」

「帰って来たのは一緒だったかも。でも、一緒に出ていったかは分からないな。今日は午後休で寮に人が少なかったから、目撃者にも期待できないと思うよ」

 

 おっとりとした外見からは予想できないほど、フランクは淀みなく、ステラが必要としているだろう情報を口にした。

「ミイがどうかしたの? 」

 

「フランク、今日のラジオ、きみは聴いてた? 」

「ああ、聴いてたよ。あれだろ? 貴族の女の子が婚約者についてってやつ」

「そう、それが―――――」

 

「あー! 」ステラがとつぜん大きな声で遮った。

 その指は、黄昏に染まりつつある窓の外を指差している。

 

「おい女帝! 」

 ステラは叫ぶやいなや、窓を開いてそこから身を投げた。

 シオンが窓の外を見ると、上級生用の黒いカラスのようなマントが翼のように広がり、滑空しながら、中庭へと降りていくところだった。

 ステラの、スミレのような紫色の頭が、落下の衝撃も見せずに芝の上に着地し、弾丸のように奔り出す。

 その先には、薄墨に染まりつつある中庭に埋没するように、黒髪を靡かせた人物が静かに歩いていた。

 

 ステラのタックルでごろごろ地面を転がったアイリーンは、腕を振り上げて「この声でか女め! 何をする! 」とわめいている。

 

 シオンは深く息を吐き、窓枠から乗り出していた上半身を引いた。

「……さすが、上級生だな。……あれ? フランク? 」

 

 消えた親友の姿に、シオンは首をかしげた。

 

 

 

 ✡

 

 

 空き教室で、ミリアム・クロワは、身を固くしていた。

 目の前に立っているのは、この国の王子さまである。

 しかし、もし彼が一国の王子でなくても、ミリアムはカチコチになっていたに違いなかった。

 なぜならエドワルドは最上級生の25歳で、誰もが憧れる美男子だったからだ。

 

「これを、きみに」

 エドワルドが差し出したのは、桃色のリボンがかかった白い小箱であった。

 木目が美しい小箱は、オルゴールと言うには平べったい。

 

「……実はこれを、きみにずっと渡したくて。受け取ってくれないかな……? 」

 少し申し訳なさそうに、エドワルドはプレゼントを差し出した。

 ミリアムは王子と目を合わせないようにうつむいたまま、そっと、プレゼントを手にした。

 

「ありがとう」

 王子が微笑み、棒立ちになるミリアムを軽く抱きしめてその旋毛に口づける。

 そのまま呆然とするミリアムを置いて、風のように空き教室を出ていった。

 

 はっと我に返ったミリアムが、手の中の箱を見る。高鳴る心臓を慰めるように胸元に手をあて、深呼吸を繰り返し……。

 

「……ミイ? 」

 

 一番聞きたくなかった声に呼ばれ、ミリアムの心臓は再び大きく高鳴った。

 入口から、ゆっくりと窓際まで歩いてくる少年は、ミリアムより頭二つ分も背が高い。

 厚ぼったい眼鏡の奥で、明るい緑色をした垂れ目が、ミリアムをまっすぐ見ていた。

 

「……ふ、フランク」

「どうしたの? みんな探してたよ」

「な、なんでもないんです。ただ、少し体調が悪くって、休んでて……」

 

 ミイにはフランクの顔が見られない。胸の内で、(ああ……)と深く落胆の溜息を吐く。耳まで赤くなっているに違いないのだから。

 

 フランクは、「ふーん」と、頭を掻いたようだった。

「もう夜になるし……寮に帰った方がいいよ」

「は、はい。分かってます」

「……一緒に帰ろうか」

 

 そう言った彼の顔を、そっと下から覗き見る。

 フランクはもう入口の方へ歩き出していて、眼鏡のつるが引っかかった耳だけがちらりと見えた。

 

(……ああ。どうして私ったら、もっと……)

 ミリアムは歯噛みする。フランクの二歩後ろを歩きながら、握りしめた小箱の中身を、どうしようと考えた。

 これを渡せば、あのラジオがミリアムのことだと言っているようなものだ。

 

(どうしよう……)

 

 

 フランク・ライトは、振り向く気配が無い。

 ミリアム・クロワは、命綱のように、自分の赤いお下げ髪を握りしめた。

 

 

 ―――――さて。

「この二人がどうなったかは、後の物語が証明している」

 

 アイリーン・クロックフォードはそう呟くと、寮のベットに寝そべりながら、杖を振って明かりを消したのだった。

 

 

 



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幕間 第七海層にて~邪神狂想曲~

ギャグ。本編とテイストがやや違います。


 

「困ったなぁ」

 それはうららかな南国の青空の下、海辺をのぞむ白い街道の道端で呟かれた言葉であった。

「困った……」

 

 そう呟いた少年は――――少年と思われるその人物は、ぽりぽりとこめかみを掻いて、しきりに首をひねりながら、フードの陰でしげしげと、港の共同掲示板の前で何度も文字を見返していた。

 白く塗られた木板の掲示板には、『しばらく欠航』の文字が刻まれていた。

 

「困ったなぁ~」

 少年はまた繰り返し、掲示板から背を向けて歩き出す。

 一般論から見ると、彼は少し不思議な風体をしている旅行者だった。

 体つきは明らかに小ぶりであった。150㎝も無いだろう。

 この陽気に、鮮やかな真紅が裏打ちされた、真っ黒な外套を頭から被っている。

 下に着ているのは、襟の高いインナーの上に、外套よりやや柔らかい質感の黒い長着を、光沢のある銀灰色の糸でごく小さく繊細な唐草紋様が並んだ帯で締め、そこにやや長すぎる裾を上げて端折っている。

 いわゆるところの、中層文化的な――――東洋的裁断の、(ボタン)などの金具ではなく、帯で締めるタイプの……民族衣装を纏っていた。

 裾をかなり長く帯に差し込んでいるので、太ももまで丸見えだが、足元は薄手の麻のズボンに、底がしっかりとした、履き古したブーツが覆っている。

 

 少年は、これといって荷物らしい荷物を持っていなかった。

 財布は身に着けるにしても、着替えや身だしなみを整える道具など、旅に必需品といえる手荷物はどうしても目につくものだ。しかしこの少年は、背中に身の丈ほどもある長物を包んだ紫色の布袋を斜めにかけただけで、およそ荷物らしい荷物が無い。

 

 これが普通に観光をしていたのなら、応対する店の店員などは必ず首をかしげるはずである。

 外国から来た風変わりな観光客と見るにしても、あきらかに年は若すぎるし、旅慣れているけれど、やっぱり一人旅には幼すぎるように思う。

 さらに、目深にかぶったフードの下、僅かに見える肌といえば口元であるが、その可憐とも称せる幼気な唇の右端には、上下の唇をぱっくりと深く断つ、白い古傷が見え、前述の通りの荷物の少なさが、よけいに『訳あり』っぽく見せる。

 すわ家出少年か。それとも、どこぞのお嬢さんの男装お忍び道中か。……いやいや、あれはこの世のものではないなどという戯言も、まじまじと見れば見るほどなんとなくシックリきてしまうほど、浮足立った夜闇の雰囲気がその少年には滲んでいた。

 

 しかし今この場所では、そんな少年のことは誰も気にしてはいなかった。いや、気にするどころではないのである。

 

 あたりには、同じように困り果てた山盛りの船乗りや旅行者が、海岸線を望むように一段高くつくられた街道から溢れんばかりに右往左往していた。

 彼らの言葉を盗み聞くには、この第七海層ネツァフにある無数の島国の一つ、マールセン公国の大港はもちろんのこと、『上層』の港はどこも、同じようなようすらしい。

 

 それというのも……。

 少年は人ごみの一角で上げられた怒声に、烏合の衆にならって視線を向けた。

 

 いかにも南国の船乗りというかんじに肌の焼けた若い男が、「話が違うじゃねえか! 」と、同じく船乗りだろう相手に食ってかかっている。

 そちらは淡雪をまぶしたように白い細かな毛皮のある顔をまったくの無表情にして、「そうは言われてもねえ……」と、むしろ迷惑そうに体を斜めにして男と相対していた。

 その詰問されているほうの人物は、首元を襟巻のようにふさふさとした羽毛が覆っている。猫の長い胴の上に、鮮やかな朱と翠の前掛けと蜻蛉玉(とんぼだま)のついた房飾(フリンジ)がついた腰巻を身に着け、陽光に艶々と輝く漆黒の翼を小さく縮めて、肩をすくめるような仕草をする。

 

「あたしには、むしろあんたの言う事がわかりませんね。ヒトの存亡も危ういこんな時に、ノンキに船を出すだなんて……あたしにゃア恐ろしくって、できやしませんよ」

 

 その言葉に船乗りの方は怯んだと見え、しかし次の瞬間には威勢を取り戻そうとするように必要以上に声を張り上げた。

 

「そ――――そんなの、『審判』が始まっただの、眉唾どころじゃねえおとぎ(ばなし)じゃあねえか! 験担ぎもたいがいにしやがれやい! 契約金はとっくに払ってんだ! あんたが出来ねえってんなら、ほかの航海士を用意だてすんのが筋ってもんだろう! 」

 

 しかし、翼の人のほうは柳に風のようすである。

 

「ですからねえ。あっしら『ケツル』が飛べねえって言ってんのに、飛ぶ航海士がいるわけが無いじゃあありませんか。ここは諦めなさいよ。無理に飛んだところで、あんた、死神の懐に飛び込むようなものですよ」

 

 声色から察するに、この『ケツルの民』の航海士は、どうやらかなりの熟練であるようだった。犬や猫の年齢がいまいちピンとこないように、ケツルの、家猫よりも鼻づらの長い山猫顔の年齢も『ヒト』の目にはあまり判別がつかないのだ。

 

 ケツルの民特有の黄金の目が、頭二つも高い場所にある船乗りの顔を駄々をこねる子供を眺めるように見つめ、船乗りは今度こそたじろいで唇を引き結んだ。

「それにねえ、おとぎ噺と侮るといけませんやね……。あんたもいっぱしの船乗りなら、こういうときは不吉を嗅ぎ分ける鼻をお持ちなさいな。無理に下層へ落ちるのなら、いっそここに留まるか、あっしと一緒に上層に行くのをおすすめいたしますよ……」

 

 ケツルの航海士のたしなめる声を背にしながら、少年はため息交じりに、そそくさと人ごみを後にした。

 ぎっちりと掲示板に群がる人の群れの中を、少年の体は一枚の紙が風に乗るように、するりするりと服の裾も触れることなく泳いでいく。人々の中には彼の風体を見止め、慌てて道をゆずる者もいる。

 

「……なんだあ、ありゃあ」

 中にはその背に向かって、口さがなくそう呟く者もいた。それらを歯がにもかけず、少年はあっというまに群衆から姿を消す。

 

 

『ケツルの民』は、いわゆる巡礼の民に部類される人種である。

 約60年前に終戦した世界大戦より以前、古代といわれる時代から、世界中を飛び回ってきた翼の民だ。『飛鯨船』による航海が一般的になるよりずっと前から、身一つ命がけで『雲海越え』をしてきた彼らは、今の時代、生まれながらに優れた航海士であることと、非常に信心深いことで知られている。

 彼らの旅は、生活のための旅であると同時に、非常に過酷な修行と巡礼の旅でもあるのだ。

 

 長年の厳しい巡礼の旅で培われた、ケツルの民の『風読み』『波読み』は、およそ他の人種では真似できない技術として確立していた。

 それはまだ飛鯨船が今の形になるより前、古代と呼ばれる時代から、多くの船がこぞってケツルを航海士として雇い入れていることからあきらかである。

 

 ケツルの翼を借りた飛鯨船は、『羽根付き』と呼ばれて有難がると同時に、船乗りたちにとっては信頼に足るあかしともなる。今の時代、ケツルの側も、こうした仕事は高い給金と屋根付き移動による安全をもらえるとあって、ウィンウィンの関係が築かれているというわけだ。

 大きな船団ともなると、用心を重ねて四人も五人もケツルの民を迎えて入れているもので、航海中、その一声は船長の発言ほどにも尊重される。

 

 そんなケツルの民が、ある日から世界各地で口を揃えて『飛べない』と主張し、契約を楯に無理に船に乗せようものならば『今後一切ヒトの社会には関わりませんよ』とまで言い放って、ストライキの姿勢を取っているのだ。

 

 こんなものは前代未聞。生活のほとんどを航海に捧げている船乗りたちにとっては、まさしく天変地異の前触れに等しいが、船乗りたちにも、月刻み、年刻みの生活の予定があるのだから、そうも言ってはいられない。各地の港はたいへんな騒ぎになっていることだろう。

 

 

 

「ちょっと動き出すのが遅すぎたかなぁ……」

 これは実に困ったなぁ。と、あまり困っていなさそうな、ひどくのんびりした口調で、少年は頬をぽりぽり掻いた。

 

 

 

 

 ✡

 

 

 

「そのパン、ひとついただけますか。あ、そのトマトと挽肉のやつでお願いします」

 目についた屋台で昼食を支度した少年は、しげしげと顔をのぞきこんでくる店員の目から逃れるように、足早に小道の影へと踏み込んでいった。

 

 港の喧騒から遠ざかり、海岸の一角にうらびれた静かな岩棚を見つけると、これ幸いとばかりに温かいサンドイッチの包みを抱え、波風に削られた大岩の上を軽やかに渡って、波のしぶきがかろうじて届かない岩陰にちょこんと腰掛ける。

 背負った長物を収めた紫の袋が、岩肌に触れてがちゃがちゃ鳴った。

 

 上層の晴れた青い空には、白い翼の海鳥たちが遊んでいる。

 潮風が少年の鼻先にかかる黒髪を揺らし、南国に馴染まない陶磁器のような肌が、羽織った上着で藍色の影になっていた。

 

 少女のような顔立ちだった。

 幼さを象徴するように丸みをおびた輪郭をしているのに、夜の猫のように端の吊り上がった丸い右目が、奇妙なほど静かで大人びている。唇や左目蓋を縫い留めるように縦に()つ白い傷跡は、顔に施された模様のようになっていて、そこに落ちる長い睫毛の色違いの影が、むしろ妖しい色を振りまく要素になっていた。

 

 そんな美貌の少年はぐう、と腹を鳴らしながら、いそいそ袋を剥いて、はなびらのような唇をあんぐりと開けている。

 

 

「……もし、そこな(わらし)

 耳に気持ちのいい、渋みのある男の声だった。少年の濃い睫毛に縁どられた右目が、斜め上を向く。岩肌ばかりが(そび)えているのが見えた。

 

「ここだ。童」

 さらに視線を上げつつ、首を背後に回す。

「良いものを食うておるなぁ。ちと訊くが………」

 

 どこからか、ぐるぐると獣が唸るような音がした。

 音を辿った先は岩棚の上。腹を鳴らした裸の男が、着古して擦り切れた腰巻をなびかせて、こちらを仁王立ちに見下ろしている。

「……おぬしが『隠者』でおうておるかな? 」

 紫紺の瞳を真ん丸に見開いた少年の手から、ぽろりと包みが落っこちて、波の飛沫の中に吸い込まれていった。

 



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幕間 第七海層にて~邪神狂想曲~

 ✡

 

 

「どうぞ」

 

 彼がそう言う間に、胡坐をかいた褌男(ふんどしおとこ)は、少年が買い足してきたサンドイッチを差し出すや縋りつくようにひったくって紙を剥き、手のひらほどのそれを三口で口に押し込んでしまっていた。

 噛むのも惜しいとばかりに夢中でむさぼった褌男は、高らかな海鳥の声に隣にいる少年の存在を思い出したのか、少年の手に握られたままの、手つかずのサンドイッチを見止めてか――――はっとして申し訳なさそうに首を垂れる。

 

「すみませぬ! いくら詫びても足りませぬ!『隠者』どのの昼飯を海に流してしまったばかりか、この愚か者にも恵んでくださるとは……」

「いいえ。腹が減っては何とやらといいますからね。空腹では、冷静にお話もできませんでしょう」

「……すみませぬ。恵んでいただいた身で……」

「いや、そう固くならないでください。おれは美味しくご飯をいただく人を咎めたりしません。ここまでずいぶんな道中だったのでしょう。見ればわかりますから」

 

 褌男は、さらに恐縮して頭を下げ、少年が食べ終わるのを待つと、居住まいを正して名乗った。

 

「吾輩は、ビナーより参ったクロシュカ・エラバンドと申すもの。地質学者をして長く旅をしておったのであるが……今は、はぐれた父を探してござる」

「これはこれは。ご丁寧に……アズマとお呼びください」

 

 少年は、丁寧な名乗りに丁寧なお辞儀で返しながら「ふむ」と頭の中を切り替えた。

少年は旅の玄人であった。それは、ケツルの民が何世代にもわたる旅路で波と風を読むように、アズマと名乗ったこの少年の中で培われた一種の経験則。

 勘と呼ばれるものである。

 

 いわく……『トラブルと急展開は、いつもキャラが濃い人が持ってくる』

 

 それは、ほんとうに瞬きの間の思案であった。しかし、アズマの気が一瞬途切れたのも事実である。

 そのとき、いたずらに強い海風が吹いた。アズマの額にかかっていた布を背中にさらい、艶やかな黒髪が潮風にめくられる。少女のような面立ちに、その顔に刻まれた生々しいまでの傷に、隻眼に、クロシュカは目を剥いて何度か瞬きをする。

 

 

「『隠者』どの……いえ、アズマどのは、ひどく目に麗しい美童であるな」

 穏やかにさっぱりと口にされたその言葉に、アズマは気付かれない程度に驚き、目を伏せた。

 

「傷物の貌です」

「いいえ。それがあるから、貴殿の今があるのでしょう」

 真実、左目蓋や頬を大きく奔る古傷など、クロシュカにはいささかも気にならなかったのだろう。アズマははにかんで、フードをかぶると、少し残念そうな吐息を漏らす。

 

 経験からそれがポーズではないと感じたアズマは、内心「へぇ」と、感心するような気持ちで、この褌男に対する印象の一部を上方修正する。

(とことん第一印象を裏切る人だなぁ)

 

 

 アズマは、この傷ができるよりずっと前から、容姿を褒められることには慣れている。この姿になってからは、それが少し変わって『可哀想に』という意味の言葉が強く香るようになった。

 心配してもらうのは一向にかまわないのだけれど、「いえいえ。自分は気にしていませんよ」と返すことに些か疲れ始めているのも確かである。

 

 そもそもアズマは、本当に気にしていないのだ。

傷は、文字通り『男の勲章』といってもいい経緯で得た傷だったので、いっそ茶化されるほうがずっと気持ちが良い。

 クロシュカの対応は今までにない、ありのまま傷のあるアズマを『美しい』と称したわけだが、それが素直に嬉しかった。

 

 

「吾輩も、見ての通りのどすのきいた身の上でござるが、けして恥じるような傷は持ちませぬ」

 言って、クロシュカは太い首にかけられた()を両手で握って見せもする。

 

 そう、この褌男の『異様な風体』は、その体だけでは無い。

 裸の体にかかった首枷は、うなじを通って額と鼻、顎までを覆い、小さな目孔と口元だけが露わになった鉄仮面になっている。頭のてっぺんあたりに、仮面の内側へ沿って潜っていく窪みがあり、そこに液体か何かを流して囚人を苦しめるのだろう。

 汚らしい腰巻を巻いただけの姿といい、クロシュカ・エラバントという男は、どの角度から見ても『学者』には見えない。見るからに虜囚以外の何物でもなかった。

 

 きゅわーと、空で海鳥が鳴く。

 空の雲の化身のように白い羽の綺麗な鳥なのに、存外俗っぽい鳴き声である。アズマはちょっと微笑んだ。

 

「……お父上は、何をしていらっしゃるのですか? その身なりに関係が? 」

「ふむ! そうなのでござる! 」

 クロシュカは、いかにも憤慨したように胸を反らして気炎を吐いた。

 

「父も同じく学者でござる! 星見が専門でありましてな、吾輩は地面、父は空の観測のために、各地を父子二人で旅をしてござった。共同の研究をしてもう三十年以上となります。有り難いことに、我ら父子の研究結果はそれなりに実を結びましてな、ほんの半年前までは、それなりに懐具合も余裕のある旅であったのです! それが―――――」

 

 話は五ヶ月も前に遡るという。

 エラバント親子は、ひとつの海層に時に数か月から数年かけて、地質調査と星の並びを観測し、そのデータを比較して、『実は世界は一つだった』という近年わかった説を補強するための研究をしている学者だった。

 

 つまり、二十もの海層に散らばった大地のどことどこが一続きの大陸であったのかだとか、それぞれの海層自体がどんな角度で並んでいるのかだとか、そういうものを大地と空の観点から観測している。

 拠点もなく放浪し続ける三十年は、もはやただのフィールドワークというよりも、世界の真理を求めるという意味では果てしない巡礼の旅のようだったことだろう。

 

 そんな彼らは、五ヶ月前に、はじめての大陸に足を踏み入れた。

 その16海層アクゼリュスには、過去数度観測に訪れたが、第16海層は、大中小の三つの大陸と、いくつかの島群で構成されている。

 国家は小国が三十もひしめき、細かく国境が定められていて、入国出国の手続きにやたらと手間がかかる海層のうえ、この数百年の飛鯨船の発展で『上層』から入植してきた人種と、原住民と呼ばれている人種との間で、小競り合いの絶えない土地でもある。

 

 

「それでも第ニ次大戦のころは、連合国家として一丸となって上層と戦った歴史もあったのでありますが、戦が終わるや昨日の友は敵とばかりに角を向けるという、入り組んだ事情が絡まった土地なのでござる。とうぜんであるが、富裕層と貧困層の差も激しく、いまだに文字を持たぬ民族もおりました。吾輩たちが観測したかったのは、そんな民族がいる大陸の一つでしてな。そこにある標高の高い山が観測に最適と見て、現地民に交渉を試みたのでござるが………」

 

「まさか、侵入者として捕まったのですか? 」

 

「……いいや。逆でござった。我らは大歓迎で、部族の貴賓として迎えられたのだ。……最初のうちは」

 

 

 父子が学者と名乗ったのが良い方に利いた。それも星見というのが気に入られたようであった。

 部族のシャーマンもまた星を見る。父親のほうのエラバント博士は、異文化ながらも高位の僧侶であると認識されたのだ。

 父子は部族のものと親しみ、最初の二週間ほどは楽しく過ごせた。部族のものたちも、積極的にフィールドワークに協力してくれた。長年の経験から、父子も彼らの文化を出来る限り尊重するよう心掛けていた。……しかし。

 

 

「……でもまさか、あんなことで」

 クロシュカ博士はカチャカチャと、鉄仮面を鳴らして首を振る。悲しげな声だった。

 

 

「……父は、高僧として説教を頼まれることも多かった。それつまり、まあ、寝物語のような、『外』のお話ですな。父は短気ではありますが、もとより知識を求める者には優しくなる気質なのです。その晩、部落には葬式がありました。珍しいことではありませぬ。何せ、厳しい自然と寄り添って生きておられたので、その少年も、山の崖を踏み外してしまったのだそうです。冠婚葬祭の大切さは変わりませぬ。

 そんな通夜の夜、高僧たるわが父は、慰みに物語を求められ。そこで……ぽろりと、説教に『外』の常識を交えて話をしてしまったのがいけなかった……」

 

 ふむふむと聞いていた部族のシャーマンが最初に顔色を変えた。

『それはどういうことだ。撤回しろ! 』とエラバント博士に迫った。

エラバント博士は、今や世の常識となった『世界は一つだった』という話を、自らの研究資料に基づいて話をしただけだった。

 

「彼らは驚くことに、『多重海層』という概念を知らなかったのです。彼らが信ずる世界は最初から一つのボウル状であり、大地は弧を描いて丸いと信じられていた。すべての命は大地に張り付くようにできているから、大地が球体でも気が付かない。神は遠く空の星であり、大地に張り付いた人間はけして届かない。神々の雲の手で、球体の世界はクルクル回っているのだと。『世界が盆の上にあるなんて信じない! ましてやそんな世界がいくつも重なっているなんて! 』シャーマンはそう主張したのです」

 

 

 エラバント博士は高名な学者ではあるのだが、根っから短気な気質であった。

 その短気具合は、子供っぽいというのが正しい。

 自身の常識を真っ向から否定され、あげく『おまえは邪神の使いか』とまで言われて、その掌の返し具合にカチンときてしまった。

 

 横で見ていたクロシュカ博士は、父が気を悪くしたことにも、次に何を言うのかも、手に取るように分かっていた。

 その口を塞ごうにももう間に合わない。祈るような気持ちで、父の次の言葉を待ったが、出てきたのは怒涛の『上層の常識』と持説の展開だった。

 

 クロシュカは頭を抱えた。

 

 

「吾輩たちは邪神の使い、悪魔が憑りついた者として投獄されました……。学者として、その土地で育まれた文化を否定したくは無いのではあるが……いや、あれこそ、蛮族というのが正しいのではないかと思ってしまう。吾輩はどうにかして父を逃がすことには成功したのでございますが、自身はこの有様です」

 

 

 饒舌に尽くしがたい扱いだったのは、クロシュカの裸体を見ればすぐわかることだった。その経験も、そう昔のことではないことも見てわかる。

 深く息を吐き、アズマはゆるやかに首を振った。

 

「……よくぞご無事でしたね。でも、どうやってお逃げになったのです? 」

「それが不可思議なことがこの身に起こりましてな! 」

 

 

 一転して、声を弾ませてクロシュカは逞しい腕を広げた。

 

 

「あれは、吾輩の処刑の日のことでござった! ついひと月前でござる! 信じて下さるか分からぬが、白く目映く光る鯨の夢を見ましてな。その神々しい大鯨様が、吾輩は『節制』なるお役目を拝命したとおっしゃった! 」

 

 アズマは「やはり」という内心に隠した意味もこめて、大きく頷いて見せた。

 

 

「大鯨の神さまなぞ、吾輩存じませぬが……いざ処刑となったとき――――いや、斬首であったのでござるが、いくらたっても首が落ちぬ気配に『はて? 』と思いましたらば、処刑人が真っ青になって、折れた刀を握って御座った。……その次の日、こんどは鋸で首を落とそうとなさったが駄目で、そのまた次の日には猛毒をジョッキ三杯飲み干しても駄目で、水を満たした樽に一晩漬物にされても吾輩は生きておりました! ので! 吾輩は大鯨どのは神さまであったのだなぁと思いましたのですよ! 」

 

「はぁあ……」

 

「吾輩は手を変え品を変え処刑を試されたのでござる。しかし死なぬ。なぜか? ひと月たったころ、再び大鯨どのがお告げに現れ申した。『あなたは『節制』。選ばれ、世界を変える宿世のもの。人類を救いなさい。手始めに、この場所におわす『隠者』を訪ねよ』と――――――これは正しく世にきいたお告げに違いないと、すぐに看守に申し上げましたらば、部族ではそろそろ吾輩を地中奥深くに生き埋めにして封印するか、外の世界へ解き放つかという話になっておりましたそうです。しかし、吾輩はどうやら、とんでもない力を持った魔王の化身であるとされていたようですね。『こんな大地の毒になるような輩を、神聖な大地に埋めるのは好ましくない』と――――いえ、本音を申せば、こんな化け物の埋まった上では暮らしたくないと、そういうことでございましょうね。そうして吾輩は自由の身となりまして、本日、大鯨様の言葉に従って『隠者』どのをお訪ねしたということでございます! 」

 

 

 ふんすふんすと、クロシュカは鼻息も荒く、拳を握って、アズマの言葉を待った。

 

「えーと……ちなみに、解放されたのはいつ? 」

「五日前でござる! 」

「五日前!?」アズマは声を裏返して叫ぶ。

「どうやって、16海層の秘境から、五日で第7海層まで登ってこられるっていうんです!? 」

 

「幸運にも、無一文でも貨物扱いで乗せてくれる船を手配できましてな! 」

 がははとクロシュカは笑った。「食わずとも死なぬ体なのは先刻承知のことでござる故! 」

「貨物……まさか、最後に食事をしたのは……ははあ」

「毒の盃は食事に入りまするか? 」

「はぁ……いや、それはそれは。ほんとうにお疲れ様でした」

 

 

『隠者』は額を拭うと、溜息と共についに苦笑した。明らかになんらかの事情を含んだ苦さを、その細めた(まなじり)にもっている。

 

 事実、隠者ことアズマは、ほとんどのことを理解している。

 

 つまりこのクロシュカという男は、隠者・アズマと同じく『選ばれしもの』であるということだ。

 

 

(……いけないいけない。この惚けた人のペースに引きずられちゃ駄目だ。『隠者』らしくしないと……)

 息を整え、微笑の下に、どうにか威厳ある顔を取り繕う。

 

 海風の方向へ微笑みを向け、蒼穹を背負った『隠者』の横顔を見つめ、『節制』は一転して、じっと指図を待つ猟犬のように次の言葉を待った。アズマは頭をひねって、どうにかこの奇抜な同志に言葉をかけた。

 

「なるほど。事情は承知いたしました。おれは杖と剣の道しか持たぬ流浪の身の上。『隠者』と呼ばれるのは、いささか面映ゆいものですから、どうぞ名前でお呼びください」

「はい……『隠者』どの――――いえ、アズマどの」

 クロシュカは、きれいな礼を見せた。

 

「吾輩を、その旅に同行させてはいただけませぬか。あなた様と共に旅すれば、必ず父に会えるはずなのです」

 

 

 真摯なお辞儀だった。

 クロシュカの鍛え上げられた肉体は、けっして戦うものではない。アズマは経験から、動きや筋肉の付き方でわかる。

 クロシュカの肌にはいくつもの傷跡が奔っていたが、それはアズマのものと比べると、ずいぶん真新しいものである。

 皮膚の表面はくっついたけれど、まだその下は疼くことだろう『傷跡になったばかり』といったふうなものだ。

 五日前どころか、ここひと月の傷というには、治りの速さに少し無理があるにしろ、ここ最近のものだった。傷の形からしても、拷問跡であることは疑いようもない。

 肉体自体は、例えば山岳の民や、このマールセン公国の海の民のように、自然と寄り添った営みの中で受け継がれて鍛えられた溌溂《はつらつ》とした体である。

 この肉体こそ、彼の地質学者という身分を証明するものであるのかもしれない。

 

 悪びれなく純粋で、目の前の目的に一直線。

 それが虜囚の男の本質であるのだろうとアズマは判断し、そして海風を浴びながらゆっくりと立ち上がり、真摯な眼差しを仮面の奥から向けて来るクロシュカを見下ろし、一転、心を鬼に、笑顔を脱ぎ捨てて言った。

 

「嫌です」

 

 氷ほどにも冷えた美貌のまなざしが、クロシュカを射抜く。

「なんと! いけませぬか! 」

 

 クロシュカは鉄仮面の奥で目を剥いて前のめりに食い下がった。

 アズマは、「はい。お断りします」ときっちりと折り目正しいお辞儀をして(クロシュカには、会釈の仕草は異文化の謝罪の仕草だということしかわからなかったが)こんどは体ごとクロシュカに向かい合うようにして、すとんと腰を下ろした。

 

「いけませぬに決まっています。無一文の……しかも裸のおじさんと一緒に旅をするのは、おれとしても、ちょっと憚れるものがあります。それにその仮面、呪いがかかってますね? 」

「ぬうぅ……やはりそこか……! 呪いは確かに! 『鎧除けの呪い』だとかなんとか! 鎧のみならず、身にまとうものすべて、しばらくすれば吹き飛ぶ呪いでござる。褌はギリせぇふ! しかし、下履きは駄目という有様! 尻を出さねばならぬ風体が問題だというならば……」

「お尻がどうとかは、まあ、三番目くらいの問題です。いちばんの問題なのは、あなたがおれの旅の邪魔になるということです」

「なんとかなりませぬか。路銀の問題はあとできっちりお返しいたします。吾輩、これでも大学講師をしていた時代にそれなりに稼いでおり、預金が下せさえすればいかようにもなるのです! それまでは肉体労働でもなんでも……」

「結構です。これでも一通りこなせます。それにその預金、今現在はクロシュカさんの自由にはならないんですよね? 凍結されてたりするんですよね? たった今、クロシュカさんはサンドイッチ一個買うお金も無いんですよね? 別に、これで一生会わないつもりじゃあ無いんです。でも、今は嫌だって言っています。今おれは、無一文のおじさんを養いながら旅をする余裕はありません」

 

 アズマは、きっぱりと言い放った。

 そう、悲劇的な身の上話に流されてはいけない。

 安全で快適な旅に大切なのは『過去』ではない。『現状』と『先行き』だ。

 アズマは長年の旅の経験から、それを痛感している。

 

「し、しかし、そうであるが……そうではあるのだが……大鯨様は、アズマどのについていけと……さすれば道は拓かれると申されたのに……」

 

 その言葉に、待ってましたとばかりにアズマはにっこりと笑顔になった。

「そういわれると、おれとしてはむしろ安心してあなたをここで置いて行けるんですよねぇ。だって、あなたも『選ばれしもの』ですから、こんなところで行き倒れて死んじゃうようなことにはなりません。だいじょうぶですよ。大鯨は言いませんでした? 今のクロシュカさんは不死の身体だって」

「た、確かに、五回目の処刑で飲まず食わず十日ときたころに、首をくくられて生き延びた時には、『なるほどこういうことか』とついに感慨深く……いえ、いや! いやしかし! 」

「それに、お互い『選ばれしもの』ですから、いずれ嫌でも合流しますよ。遅いか早いかです」

「それなら今合流しても良いのでは!? 早くて良いのでは!!? 」

 

 裏返った声で、クロシュカはほとんど叫んだが、アズマは控えめに正論を述べる。

 

「いやでも、だって。おれたち初対面ですし。共通の知人がいるわけでもないでしょう? あなたの人格がまだ判断できる仲でも無いですし。それにおれ、確かに『隠者』ではありますが、けして聖人ではありませんし、『選ばれしもの』に、人格はあんまり評価されてないって知っているんで……」

『悪びれなく純粋』と判断した先からぺらぺらと理屈を並べ立てるアズマに、大汗をかいてなおも言いつのろうと唸っていたクロシュカは、ついに「む、無念……」と一言うなだれた。

 

「おれは今から、第18海層『魔法使いの国』を目指します。付いて来れるなら、どうぞ。ついてきてください。別にこの第7海層で待っていても、いずれは会えると思いますが。そのときは今度こそ、旅の同行者として考えましょう」

「む、むむう……うむ……了承した。手を尽くして追いかけてみることにする……忠告、感謝する」

「はい。では、またお会いしましょう」

『隠者』アズマは、にっこりと晴れ晴れしく言って立ち上がった。

「では、おれはこれで」

 もう一度、今度は別れの挨拶として会釈をして、アズマは懐に右手を入れた。

 クロシュカが、その指先に紙片のような四角い白いものが摘ままれているのを目で追った次の瞬間である。

 紺碧にこれでもかと目立つ黒装束が目の前から煙のように立ち消えた。

 

「なぬっ!? 」

 

 まさしく瞬きの間の消失。

 クロシュカは声も失くして狐につままれた気分のまま、しばらくその場を離れることができなかった。

 

 



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幕間 第七海層にて~邪神狂想曲~

 ✡

 

 

 

「……困ったなぁ。久々に」

 数日後。

 昼食の場所から数十キロ離れた海沿いの白い小道を、アズマはトコトコと歩みながら腕を組んでいた。

「いやほんと……ほんとうに困った」

 

 しみじみと呟く声色はため息交じりで、クロシュカと相対した時のどこか飄々(ひょうひょう)とした態度からは打って変わり、本心からの風情である。

 唇は真一文字に結ばれて、紫の袋をかけただけの細い肩を重そうに寄せている。『肩の荷が重い』とはこういうことだというようだった。

 

 思案にふけるアズマは、「よし」と拳を握って目線を海に向ける。手の中でぐしゃりと紙切れが潰れた。紙切れには三十を超える船の名前がつづられては、横線で消されている。

 

 そこは港だった。

 (いかり)を水面に落とした大小いくつもの飛鯨船(ひげいせん)が、糸のついた風船のようにプカプカと停泊している。

 すでにアズマは、そこにあるほとんどの船に乗船の申し入れをして断られている。ほぼ共通しているのが『ケツルの民が飛ぼうとしないから』という理由だ。

 この翼の民の言葉は、船乗りにとってはひどく重い。その助言を守るのは、もはや不文律、暗黙の了解というやつだ。ケツルの言葉を重んじない船乗りなんぞは、難破したって同情されない。

 アズマのよく知る船長の船ではケツルを乗せていなかったが、若い彼女もまたケツルの民の存在を非常にありがたがっていた。

 船乗りたちのそのスタンスは、一種の信仰そのものだ。

 そんな船乗りたちが、ケツルが「駄目だ」と言い放った進路へ舵を取るわけがない。

 

 しかしアズマは、ひとつだけ、ケツルの民の言葉に左右されない船を知っていた。

 そして知っていてもなお、避けていた船でもあった。

 

 信仰深くないわけではない。むしろ……その真逆なのだ。

 

 ✡

 

 

 船体に大きな目の模様を描く『航海無事のゲン担ぎ』は、ケツルの民への信仰の次くらいに浸透したおまじないである。

 しかしその船は、目玉は目玉でも『蛇の目』と呼ばれる二重丸の絵図を、それこそ鱗のようにびっちりと、流線形をした船体の上から下まで覆った派手なデザインだった。

 珊瑚色の地に、奇抜な光沢のあるターコイズブルーの二重丸なので、すでにこれだけでも派手派手しい。

 さらにはその鱗の上から、勢いのある筆さばきで、ばっくりと口を開いた龍の横顔がでかでかと炎を吐いている。

 

 たくさんの飛鯨船がある中でも眼に痛いほど目立っているこの船の名を、『ポルキュス号』。

 高さ三十二m、体長二百二十二m、『超大型』に分類される飛鯨船である。

 これが『表向きは』貨物船だといわれているのだから、豪快な益荒男(ますらお)ぞろいの船乗りたちも、曖昧に苦笑いするという一種の(ふだ)付きだった。

 

 そんなポルキュス号を見上げ、アズマは確認するように、外套にいくつもある内ポケットから封を切った手紙を取り出した。

 薄紫で金箔が散らされた、女性の薫香がいやでも漂う上品な封筒である。

 光沢のある銀鼠の便箋にも、端に紫の小花が散らされている。ほとんど黒に近い藍色のインクで『拝啓、父上様』から始まる『彼女』の言葉が綴られていた。

 

 

『拝啓、父上様。

 

 旅の御様子は如何なものでございましょうか。どうせ死んではいないとは思っておりますが、せっかくですので、大事在りませんようと申し上げておきます。

 こちらは何事もなく、暑くも寒くも無い場所でただ穏やかに日々を過ごし、時の移ろいを眺めるばかりです。

 はっきり申しまして、暇で仕方がありません。

 故郷の大事と、最初は簡単に引き受けたことでしたが、いつしか私は、あの張り詰めた戦いと安寧を繰り返す日々のほうがすっかり性にあってしまったのだと痛感して、旅をしている貴方様が羨ましく思っております。

「恋の一つでもすれば生活と肌に張りが出て良いのでは」などと言われましたが、煩わしさが増すばかりで、張りが出るより、ため息の数が増えるだけだと分かりました。

 いわゆる『良いとこの坊ちゃん』どもは、まったくぺらぺらに薄く、腰が入って無くていけません。

 

 さて、時候の挨拶と近況報告はこれくらいでよろしいでしょうか。本題に入ります。

 先日、貴方の麗しの姫君よりお手紙が届きました。

 いわく、貴方の行方がわからぬため、伝言を頼みたいとのことでした。

 彼女も忙しいというのに、じつに孝行娘です。

 

 伝言というのは他でもない、『ケトー号』の兄妹船、母艦である『ポルキュス号』についてです。

 先日のフェルヴィンでの一件で、ケトー号の船長はポルキュス号との別行動を決定いたしました。

 

 ポルキュス号は、『牡山羊の君』を仮の船長とし、『無貌の君』と『スレイプニルの母君』とともに、有事に備えて上層世界で待機することにしたそうです。

 貴方なら、これでお分かりになりますね?

 

 冬の間は、第7海層ネツァフに停泊すると思われます。

 なにぶん目立つ船とのことでしたので、ネツァフのどの港にいるのかは、御自分でお確かめください。すぐに見つかるはずです。

 船長からの紹介状も同封いたしますので、どうぞご活用くださいませ。

 

 貴方の最初の娘より』

 

 封筒を逆さにすると、言葉通りに細く折られた紙が入っていた。

 端を、お菓子の名前が刻まれた金色のラベルシールで止めてある。紙自体も洗濯屋のチラシの裏である。

 どうやら船長はテーブルにあった適当なもので紹介状をあつらえたらしいと知れて、アズマはこの紹介状が有効に作用するのかどうか一抹の不安を感じた。

 

 粘着力が著しく落ちたシールを剥がして、中身を広げてみる。

 そこには一言きれいな字で、『このチビは私の父親です。』と、大きく二段に別れて書かれていた。端に小さく署名がされているのがせめてもの救いかもしれない。

 

「……マジかよ」

 

 アズマは眉間を揉んで目をつむる。

 

 目を開けてもう一度見ても、

 

 

『このチビは

  私の父親です。』

 

 

 としか、無い。

 

 

(これを、その方たちに出せと……!? )

 

 想像するだけでひやりと冷たい汗が流れる。アズマは手紙を手に戦慄いた。

 つまりだ。

 このポルキュス号の住人たちの正体と、その意味を知っていて乗り込むということは、燃え盛る炎の中に油を被って入っていったり、深海で潜水艦から生身のまま飛び出したり、高度1000㎞からパラシュート無しでスカイダイビングしたりして、『きっとなんとかなるよ』とうそぶくレベルの、狂った脳みそが必要なのである。

 

 アズマはそれを知っているから、時にはそういう頭のおかしい決断が必要だということも分かっている。

 頭痛がする。

 

(おれ、うまくいかないと『こんどこそ』死ぬんじゃあないか? )

 

 アズマの心は臆病な鼠のように震えているが、しかしそこのあたりは、長年染みついた経験がものをいった。

 訓練を重ねた体は、必要だと(すくなくとも思考の上では)理解すれば、理性と本能が仲良く首を振って悲鳴を上げていようとも、動くようになっている。

 港の職員に連絡はしてあるので、桟橋はいつでも使えた。アズマは傍目にはちっとも動揺を見せず、ほんの数十歩、二十二段ある桟橋の階段を踏みしめ、ポルキュス号を訪ねた。

 

 

 貨物船と軍艦と客船では、そのつくりは明らかに違う。中でも、乗員が最初に目で見て実感する違いが、入口の位置と形である。

 貨物船は、荷物の積み入れのために、船の後部、鯨の尻の部分に大きく斜めに落ちる格納ドアがある。

 ゆるやかなスロープになって落ちたそこから、台車などを使って積み荷を鯨の腹の中に収め、人間も荷物に埋もれないよう気を付けて、奥にある窓ほどしかない鉄扉を開けて、ようやく乗組員席へと乗り込むしかない。

 貨物船における主役は積み荷であるから、人間のスペースはどうしても狭く、船員がカスタマイズしない限りは、どうしても居心地のいい空間ではない。

 

 軍艦の場合、優先される性能は、役目に応じた戦闘性能である。

 機動性や攻撃力のある武器を搭載できる砲台の計算ももちろん大切だが、操る人間が乗っている以上、彼らを守るために、ある程度の堅牢さと頑丈さは必須といえる。

 そのため、『出入口はひとつだけ』『とにかく頑丈で開けにくい』『出入りするようすが分かり易い』ということで、『額部にある小さな縦穴式のハッチ』という形に収まりやすい。(なお、ケトー号も旧式軍艦を改造しているので、このハッチ型の入口の名残りがある。)

 

 その点、客船の主役は、もちろんお客様だ。

 多くの場合、腹部分にスライドする扉がついている。とうぜん間口は、他の飛鯨船に比べて格段に広くつくられ、膝をつくほどかがむ必要も無く、立ったまま座席から座席へ移動できる。

 内装だって、背骨のようにまっすぐ通路が通り、その脇に座席や客室がある。一本道なので、不審者は不審になった瞬間に、誰かしらの目に留まるだろう。乗客の安全と快適さに注視したつくりだ。

 

 

 その壁面に触れるところにまで近づいて、アズマは思わず呟いた。

「……でかい」

 聳えるほどに。そして、やはり派手だ。

 

 派手だが、近づいてみると、珊瑚色の地の上にターコイズブルーで乗せられた二重丸の模様ひとつひとつに絶妙な濃淡がつけてあって、象嵌細工やタイル張りのモザイク絵のようにも見える。奇抜だという印象は変わらないが、もう一度遠目から見るときは、印象がガラリと変わるだろう。

 

 さて、ポルキュス号は、表向き貨物船のはずであったはずだが、その入口は、あきらかに客船のつくりをしていた。それも、超大型高級客船というやつである。

 外から見える丸窓は、縦にニ列から三列並んでいる。

 少なくとも、二階建てから三階建てであることは間違いない。

 

 遠い国の城のような、見慣れない煌びやかさを持つポルキュス号の扉は、前触れもなくスルリと内側に押し込むようにスライドした。

 扉の奥の闇を背負い、一段低い場所に棒立ちになっているアズマに覆いかぶさるようにして、背の高い人物が立ちふさがっている。

 

 扉のふちに枝垂れ掛かるようにして睥睨(へいげい)してくる鮮やかな緑の瞳に、アズマは思わず視線を下に下げた。

 

「………っあ、あの! 」

「あれェ? おきゃくさん、だあ」

 蕩けたような甘えた男の声だった。

 アズマの後ろ首が、ぶわわと総毛立つ。指が斜め上から降ってきて、フードの内側にあったアズマの髪をひと掬い取り上げ、温かい葡萄酒の芳香が顔全体にかかったかと思ったら、アズマの鼻先に緑色の瞳が弓なりに曲がっていた。

 

「……っ! 」

「お客さんかな? きみ、可愛いねぇ」

「いいいいいえいえいえいえ! そそそそんな! ことは! 」

「ううん」

 男の美しい貌の周りで、鬣のような黒い巻き毛がふさふさと揺れた。

 アズマの足は、いつのまにかつま先立ちになっている。腰に回っている長い腕が、引き寄せるようにして小柄な少年の身体を持ち上げ、慌てて腕を突っぱねると逞しい裸の胸に手が触れた。

 男の腰元を見ると何もない。

 

「なななななんっで裸なんですか!? うわっ酒臭い! 酔ってますね!? 」

 

「酔っているとも。でも障りはないだろうさ。ま、いいじゃあない。そんな小さなこと……」

 

「小さい!? 小さいかな!? すぐそこが外だけどおれがおかしいの!? ひぃっ! ちちちちがいます! そういうことをしにきたわけじゃあ無いんです! 用事があって来たんです! おれは違います! え、ちょっ、嗅がないで! 舐めないで!? ちょっ……ちがうんですゥウウ! 」

 

「……ちょっとぉ。なに騒いでンの」

 

 薄闇に沈んだ船の通路の奥から、声と共に、あらたな人物が現れた。

 その人物を一目見て、アズマは一瞬期待に輝いた顔を、絶望に染める。

 

 闇の中でも鮮烈な、燃え上がるような赤毛をふわふわと逆立たせ、盛り上がった胸元に真っ赤なレースで飾ったぴちぴちの―――――股間を覆うものと御揃いの紐のようなビキニを着た、逞しい―――――屈強な―――――胸毛が旺盛な―――――その男は、文字通り裸締めされそうな少年を見た瞬間、灰色の目を見開き、ルージュを引いた唇をニンマリと持ち上げて、口を開きかけた。

 

 

 そのとき。

 

「ごごごごごごめんなさぁあああい!!! 」

 叫んだアズマの右腕が跳ね上がった。

 

 

 カッと斜光線上に光があたりを白く塗りつぶす。

 アズマは大きく肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げた。頭の上に上げていた右手の横に、左手も上げる。

 そしてそのまま、右膝、左膝、と床に脚を折り(ポルキュス号には、入口からフカフカの絨毯が設えてあった)、両手を上げたまま腰から体を床に向かって倒置した。

 

 

 ―――――これ即ち、土下座という。

 

 

「たいっへんっ! もうしわけっ! ありませんでしたっ! どうかっ! 無礼をっ! おゆるしくだしゃいッ! 命ばかりは! 命ばかりはーッ!! 」

 

 黒髪と赤毛は、ずびずびと鼻をすする音がするアズマの頭の上で、顔を見合わせた。するとそこに、三人目の闖入者が、足音慌ただしく現れる。

 

 

「な、なにごとにござりますかーッ! 」

 

 

 どこかで聴いたような声である。まるで、つい先日聴いたような声である。

 

 

「刺客にござりますか! 曲者でござりますか! 悪漢でもよろしいですぞ! 吾輩がちょちょいのチョイと、圧し伸び広げてご覧にいれ……

 

 あれぇ? アズマどの? 」

 

 

 

 

「きぐうでございますな。そんなところで、いかがなされたのです? 」そう訊ねてくる『節制』の声を頭の上にして、アズマは薄っすらと微笑みすら浮かべながら、心の底から(いっそこのまま眠りたい)と、そう願った。

 

 

 ✡

 

 

 やんややんやと、全裸と褌仮面と裸より酷い恰好の男が騒いでいる。

 

 背もたれがハート型になったショッキングピンクのソファに埋まり、アズマは紫色の酒が入った冷たいグラスを抱え、(そうだ、現実逃避しよう)と、ふとそう考えた。

 

 そう。目を閉じれば、まざまざと懐かしい声が思い出される。

 その眼差しが。その姿すらも。昨日のことのようだ。

 

(アイリさん……)

 

 《え? なんだシオン、おまえ、またおかしなやつに絡まれたのか? 》

(そうなんだよ……困ったよね。アイリさん)

 

 《馬鹿め》

(……アイリさん? )

 

 《いい年をして何をグズグズしているんだ。まだ7海層だって? いつまで私を待たせる気なんだ。くだらんことにばかり首を突っ込みおって》

 《ええ。そうよ。母さんの言うとおりね。しかも何なの? その姿。普通、嫁入り前の妙齢の娘より若返る? わたしの父親が、こんなチンチク……いえ。実の父親だものね。過ぎたことを言いかけました。はしたないことだったわ》

 《いや、いいさ。いいのさ、エリカ。こいつはお前のおしめも替えられなかった放蕩男だ。遅れて来た娘の反抗期くらい、キッチリと受け止めていただかなくては》

 《あら。母さん。わたし自分で言うのもなんだけど、とても良い子で有名だったのよ。この人と一つ屋根の下で育っても、間違っても『ビチグソへたれ大馬鹿男』だなんて口が裂けても言いませんわ。……あら。淑女にあるまじきことを。ごめんあそばせ》

 《ほう? おまえがそこまで言うのなら、私も言わせてもらおうか? 》

 

 

(やめてくださいアイリさん。あなたの旦那は想像上の娘の言葉にもう重症です……)

 

 

「聞いてくだされぇ~アズマどのぉおお」

 右側に、どっかりとクロシュカが座った。

 丸太のような腕をアズマの肩に回し、雫が跳ねるほどグラスを揺らす。

 

「ロキロキどのったら酷いんですよぉ~」

「ロキロキ……? 」

「んもぉ~う! そんなこと無いってばァ~じょうだんじゃなァ~い! クロちゃんったら、マジメなんだからぁ~ 」

「……クロちゃん? 」

 

 アズマの指が一人一人を指す。クロシュカは厚い胸を反らしてどこか誇らしげに、『ロキロキどの』は目を細めてニッコリしている。

 

 アズマは溜息と悲鳴を一緒に飲み込んで、おそるおそる言った。

 

 

「あの……その。『スレイプニルの母君』は、今、下界ではどのように名乗っておられるのですか……? 」

 

「ロッキー、ロキロキ、ロキちゃん。なんでもいいよぉ。もちろん、ラウウェイの子でも、閉ざす者でも、終える者でも、狡猾の巨神ロキでも、敬意があるならお好きなように」

 ロキは燃えるような赤毛を掻き上げて長い足を組んだ。透明感のあるヌラリと濡れた灰色の瞳の影を、ほのかに赤い炎の色がよぎる。

 

 アズマは間近に迫るその瞳から目を逸らし、今度は上目遣いに黒髪の男のほうを見た。

 

 

「そう……。我々こそが、『ニンゲン大好きな神さま同盟』。死者の王なんてルール違反者に、我々の愛する下界の民たちを、みだりに蹂躙させるわけにはいかない。その一心で集った三柱がわたしたち。だからこのたび下界にて『最後の審判』における人類の監査役を勝手にすることにしたのだよ」

「……では、あなた様はやはり」

「いかにも。農耕神、酩酊の神ディオニュソス」

 

 絨毯とローテーブルの間にうつ伏せで挟まったまま、ディオニュソスは片手を挙げて名乗りを上げた。

 アズマからの位置だと、尻に腕が生えて喋っているように見える。

 

 

 シオンは頭を抱えた。

 



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幕間 第七海層にて~邪神狂想曲~

 ロキが言った。

 

「そういうきみこそ、我々に渡すものがあるんじゃあ無いの? 」

「あっ、はい! 」

 アズマは慌てて懐をまさぐった。

 てっきり忘れ去られていると思っていたが、さすが奸智の神である。こちらの事情はおおよそ既知(きち)だったに違いない。

 

「……これなんですが」

 差し出された広い手のひらに、アズマは例の紹介状を乗せた。

 ロキ神は真顔になって紹介状をつまみ、明かりにかざしたり、包み紙の折れ目に規則性がないかを見定めていく。

 

「なぁにこれぇ。ゴミ? 」

「あなたの船長からの紹介状です。……一応」

「ははぁ……まあ、あの子らしい……」

 

 

 ロキはアズマにも見えるように肩を寄せ(反対側にクロシュカの巨体があるので、とても苦しい)シールが剥がれ、なんとか成していた手紙の体も薄れている、雑紙(ざつがみ)のメモを広げた。

 

 やはりそこには、変わらずの文字がある。神さまパワーで、触れた瞬間に隠されしメッセージが浮かび上がったりするのではないかと少し期待していたアズマは、緊張の面持ちでロキの反応を観察する。

 

 はたしてロキは中身を見て、「エェッ! 」と声を上げて、アズマと手紙を、五度は見比べた。

 微睡んでいたクロシュカが、ビクッと震えるほどの声である。

 

「あらまあ驚いた! てっきり船長の弟かなんかだと」

「まあ、諸事象ありまして」

「ちっちゃくなっちゃったのね。OK。……ン? てことはアンタ、あの女の夫? 」

「いえ、あの。えっと…………。そのぅ……妻と娘がたいへんお世話になったようで―――――」

「ヤッダァ!! やめてよ!! 」

 

「ほぇっ!? 」

 その大声に、陸に上がった魚のようにクロシュカが跳ねた。

 本当に嫌そうにロキが言ったので、驚いてアズマは背を伸ばす。

 

 

「船長にはお世話してるけど、あの女には一片の貸し借りも無いし、これからも作りたくないの! あんたがそういうこと言っちゃあ、あの女もこのロキに頭下げるじゃん。そういうのは嫌! ぜったいね! 」

「そう嫌うことも無いと思うけれど。私は好きだよぅ。意外と情熱的なところが好ましいじゃあないか」

「ディオはそらそうだろうけどさ! それに私は嫌ってるわけじゃなくって、なるべく関わり合いたくないの! 」

 とんだ厄ネタ扱いに、アズマは苦笑いでいる。

 

 

 アズマの人生の波乱の一つが、アイリーンと出会ったことだった。

 アズマの妻の『人間としての』名はアイリーン・クロックフォード。

『トラブルと急展開』に溺愛されている特濃の存在感(キャラ)持ちのこの女性と恋に落ちた時点で、アズマの人生は常に台風の目の近くに置かれているから、ロキの主張は「さもあらん」という態度でいられる。

 

 

 おもむろに、むっくりとテーブルの下から這い出て来た船長代理のディオニュソスが身を起こした。

 

「話はだいたい分かったよぅ。つまりこの船で行きたい場所があるんでしょう? 」

「……はい! そうなんです! 」

「ケツルの民が飛ばないんだもんねぇ……んん~……でもなぁ」

 

 ディオニュソスの蕩けた緑の目が、アズマの横でいびきをかいているクロシュカを見下ろした。

 

「……そういえば、この人……いや、クロシュカさんとは、どう知り合ったんですか? 」

「彼、有名なんだよぉ。今の人間の中でも格段に面白いひとだし。……知らない? 」

 

 本当に思い当たるところが無かったので、アズマは困った顔で首を傾げた。酒で舌を湿らせていたロキが、ソファの脇で胡坐をかいて欠伸をする酩酊の神の言葉を引き継ぐ。

 

 

「地質学者のクロシュカ・エラバント三世といえば、この多重海層世界を最初に踏破して『世界はひとつだった』って証明した人なんだよ。何千年も誰も証明できなかったたった一行の神話の記述を、彼は体一つで確かめた。その功績に報いて、船に乗せてやったんだ」

 

「エッ」

 アズマはまじまじとクロシュカの姿を見た。

 昨日見たよりもいくらか身綺麗になってはいるものの、身に着けているのは汚い腰巻と鉄仮面だけである。いつの時代の剣闘士だという姿だ。

 しかし、下界に降りているにしろ、まぎれもない神々が本人だというのなら、まぎれもなく本人なのだろう。

 

(本当に偉い学者さんだったのか……)

 

 

「……最初はねぇ、第16海層でニャルが見つけたんだよねぇ」

「そうそう。あれだけの功績をした……しかもまだ生きてる人間なのに! あんなところでドロドロのへろへろで行き倒れているものだからね。とても慈悲深いわれわれ『人間大好き同盟』は、雑用係として世話してやったってわけ」

「なるほど。それで、その『ニャル様』は? お姿が見えませんが」

「さぁ? 無貌の君はもともと流浪の民だし、同盟は有効だから害になるようなこともしないだろうってね」

 

 

(楽観視はまずいのでは……)

『這いよる混沌』の異名で有名な邪神(ここ重要)の数々の所業に、アズマはひやりとした汗を流した。

 

 

「マ、あの邪神サマは、忘れたころに顔出すでしょうよ。……ねえ、シオン。今はこっちの大切な話をしましょうよ」

 

 アズマを下の名前で呼んで、白い手がするりとアズマの太腿を撫であげた。とたんにピキリとアズマの全身が固く強張る。

 

 身体の左側にしだれかかってくる腕は、いつしかしなやかな筋肉と脂肪に覆われたほっそりとしたものになっていた。

 どこを見ても白い肌の中、赤毛と真っ赤に塗られた爪と唇が、艶々と輝いている。

 

 赤毛も華奢な肩の上を波打つほど長くなり、奇抜な下着のような赤い衣装は、変化した柔らかい肢体を微かに締め付け飾り立て、アズマのほうへ引き寄せた左腕で、真っ白な双丘が楕円に形を変えていた。

 

 

「ずるい」デュオニュソスが唇を尖らせる。

「この美少年は女のほうが好きなのよ」

「わたしのほうが絶対うまいと思うんだけどなぁ」

 

 そう言いながら、男神は猫のようにソファに座るアズマの膝の上に這いあがって頬をついた。

 

「そらそっちは開放的なご実家だもの。でも、個人的には負けるとは思わないね」

「む。こっちはいわばエリートの性技だぞぅ」

「なんだい。勝負してみるかい」

 

 酒精を香水のように纏った神格二人は、アズマの身体の半径三十センチ以内で、ささやくような言葉を交わしている。

 不味い方向に事が進んでいるのが分かった。

 デュオニュソスが艶然と微笑む。緑色の瞳が輝きを放った。

 

「その言葉、後悔するぞ」

「いいだろう。ヒイヒイいわせてやるよ」

 

 ロキの灰色の瞳が、髪色と同じ赤に変わっている。

 いつしかクロシュカは、ソファから落ちて床で大の字になって高いびきをかいていた。

 ただでさえ薄暗かった照明が、互いの顔の位置しか分からない程度に落される。

 

 クロシュカのいびきをBGMに、まず左側のロキの手が懐に、デュオニュソスの手が帯にかかった。

 耳たぶと首の間にある隙間に女の息が吹き付けられても、アズマは拳を握って体を固くしたまま、まだ打開策を考えていた。

 気持ちいいことはやぶさかではない。アズマにだって性欲はある。人間だもの。しかも相手は、経験豊富で美貌で知られる神々である。なんとなく怖いが、やぶさかでない。やぶさかではないのだ。

 

 問題はそこにはない。

 

 おそらく、アイリーンが怒る。

 

 アズマは妻が本気で怒ったところを見たことは無いが(彼女はけっこう寛容なのだ)、これはまずいのだということはわかる。

 アイリーンでなくとも、これは一般的に一発アウトの離縁まっしぐら案件だ。

 神話的にも浮気者は八つ裂きが基本である。いや、神話的解決の方がやばい。

 アイリーンの怒りのほどは分からないが、もし八つ裂き案件にまで本気で燃え上がらせたら……。

 

(きっと、魔法使いの国が最後の審判どころじゃ無くなっちゃう……! )

 

『不快には思っても怒らない』という可能性もあるが、それは考えると悲しくなったので、アズマは忘れることにした。

 ニッコリ笑って『いやあ、そうそう得難い経験をしてきたな』と言う妻なんて、悲しくなるから想像上でも見たくない。

 

(どうしよう。どうしたら。どうすべき……)

 

 アズマは混乱していた。

 ベストは、穏便に事態の収束ののち、二神の機嫌を損なわず、第18海層まで連れて行ってもらうことだ。

 

 そのためには……。

 

 そのためには?

 

 

 そのためには!

 

(無謀じゃないかそれ!? )

 

 

 おそろしいことに、思考に気をやった一瞬で、外套と靴と帯と長着が脱がされて、上半身がインナーだけになっている。そのインナーも、胸のあたりにまで捲られて、上はもう陥落寸前である。

 

 ロキはああ言ったくせに、さすがに神話に轟くトラブルメーカー&ハプニングマシンだった。この行為の先に、あれだけ嫌がっていたアズマの妻が待っているなんて考えていない。脊髄反射で欲望に生きている神格だ。

 インナーがわだかまる首元を挟むように、するりと後ろから二腕が伸びてきた。

 アズマは鎖骨のあたりを撫でて来るその冷たい肌におおげさに跳ね、ハッと我に返って、二神を跳ねのけるようにソファから跳び上がった。

 

 

 ゾブンッ! とハート形のソファの中心が絞ったように潰れて床に縫い留められる。

 巨大な甲殻類の脚のような、鋭い爪のある凶器だった。

 

 テーブルを挟んだ向こう側で、左手に刀袋に入ったままの長物と、右手に握った『杖』を構え、アズマはそれを見据えた。

 互いの表情も分からない闇でも、アズマの眼はとっくに慣れている。

 ソファの後ろからアズマを絡めとろうとしたその人物は、黒い影に見えた。塗りこめたように黒く、ゆらゆらと輪郭がぼやけて煙のように立ち昇っている。

 大きな音を立てて吐かれた吐息が聴こえた。……デュオニュソスのため息だ。

 

 明かりがついた。

 

「……ニャ~ル~ゥ! 」

 恨めしい声と眼差しをもって、ロキはその影を出迎えた。

 

 いや、もう影ではない。ちゃんとした輪郭をもっている。

 滑らかな陽に焼けた肌を持つ銀髪の麗人が、にやにやと口だけで笑っていた。

 影法師のように背が高く、痩躯である。黒々としたくっきりした瞳と、出来立てのチョコレートのような肌を、ピッチリとした黒い礼服に身を包み、床に届くほどに長い、硬質ながら透明感のある頭髪の銀色がよく目立つ。

 

「おれがいない時に面白そうなものを連れ込むんじゃない」

「ふだん好き勝手出歩いてるくせに、ずいぶんな言いぐさじゃないか」

 

 ニャル。

 ニャルラトホテプ。

 

 ロキと気安い会話を交わしているのを見て、ようやくアズマは武器を収めた。

 深い穴のような黒い瞳が、そんなアズマを横目で見る。

 

 

「やあ。きみも異邦人か。この世界だと初めて見たな」

「そりゃそうさ。『魔女』のときはニャルはいなかったもの」

「そうか……おれは若いからな」

「それ、神格には自慢になんないから。この人間、船長(ボス)のお父さんよ」

「……ほう? では、この世界の混沌の夫というわけか。彼女は異邦人を選んだのだな……」

「そういうわけ。これから18海層に行くわ。船長と合流するの。ねえ、ディオ? 」

「うん。さ、ニャルも帰ったし、行くかぁ~」

「……ん? おいロッキー。ディオのやつは、なぜ全裸なんだ」

「今日は運動したい気分だったんだって」

「そうか。……あっディオ! おまえは操縦桿を握ってはならんぞ! 」

 

 肩をまわして廊下に消えていくデュオニュソスの背に、ロキとニャルラトホテプが言葉を交わす。まるで何事も無かったかのようだ。

 いや、実際、ハート形のソファはいつのまにかもとに戻っているし、その脇ではクロシュカがむにゃむにゃと寝言を言いながら平和に寝返りを打っている。

 

 

(いや、まだ油断は禁物だ)

 

 無かったことにしたようなふりをして、実はまったく忘れていない。そんなのは神話の常套である。

 しかし、ちゃんと連れて行ってくれるのは確定らしい。

 第7海層から、第18海層までの旅路だ。実に長い旅になるだろう。

 

 (アズマ)シオンの経験則。『トラブルと急展開は、いつもキャラが濃い人が持ってくる』。

 それが正しいことが、また証明されてしまった。

 

 

 

(困ったなぁ……)

 次に迫られたらどう躱せばいいのだろう。

 実に頭の痛い難題だった。

 

 

 




おわり。


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