東方帽子屋 (納豆チーズV)
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Kapitel 1.狂気は幸福のすぐ傍に
一.レーツェルという名の吸血鬼


※オリ主くん以外にもスカーレットの両親など、物語の都合上必要となる場合は原作にないキャラクターがオリキャラとして登場します。
 ただしあくまで「原作に登場しないほどの脇役」という立ち位置なので、ほとんど矢面に立つことはありません。

 どうぞよろしくお願いいたします。


 ――なぁ、一番怖い童話ってなんだと思う?

 ――不思議の国のアリス。

 

 唐突に切り出されたそんな質問に迷いなく即答してみせると、おかしそうに笑われた。

 

 ――グリム童話とかの方が断然怖くないか? ほら、浦島太郎の真実とか知ってるか?

 ――知らないけど。

 ――浦島太郎は醜い女に騙されて麻薬を吸わされてて、味わってた幸福はすべて幻覚だったってオチさ。何十年も経ってから命からがら逃げ切ることができたんだけど、結局外の世界は浦島太郎には絶望だらけでさ、竜宮から持ってきた麻薬を使って幻想を見ながら海に落ちて死んだって話。

 

 あれは『美味い話には裏がある』だとか『人の言うことは聞きましょう』だとか、そういう教訓の話だと思っていたんだが、真実はずいぶんと残酷だな。

 

 ――それでも、俺はやっぱりアリスの方かな。

 ――じゃああれは? ハーメルンの笛吹き男。

 ――あー、話だけは聞いたことあるな。ネズミ退治の報酬がもらえなくて怒ってどっか行って、なんか六月に帰って来て一三〇人の子どもを攫って洞窟に閉じ込めたって話だろ? 真実もくそもない普通に怖い話だと思うけど。

 ――実は、その話ってほとんどが史実通りなんだってさ。あと笛吹き男は小児性愛者だとかなんとか。

 

 史実通り、つまりは現実に起こったこと。怖い童話の中でも特に異彩を放つわけでもないハーメルンの笛吹き男ではあるが、実際に同じようなことがあったと考えると確かに恐ろしく思えてきた。

 

 ――それでも、俺はやっぱりアリスを支持するよ。

 ――なんでだよ。アリスってテレビとかでよく見るけど、別に人が惨たらしく死ぬわけでもないだろ。

 ――そうだけどね。お前、テレビじゃなくて本としてアリス読んだことある?

 ――ないな。

 ――だから大したことないって思えるのかな。俺は実際に読んでみたんだ。

 

 その時のことを思い出すと、今でも空恐ろしい感覚が蘇ってくる。

 

 ――へえ、そりゃテレビで見るようなもんとは違うんだよな。

 

 肩を震わせる俺に、興味深そうに問いかけてきた。

 

 ――全然違う。ただ、口じゃ説明しにくい。狂気を感じるんだ。

 ――狂気ねぇ。不思議の国のアリスってのは作者のキャロルが知り合いの女の子にプレゼントするために作った物語なんだろ? なんで怖がるんだよ。

 ――その時代の人たちとか子どもたちにとっちゃ普通なのかもしれないけど、俺は、書き方にも言い回しにも鳥肌が立つようなおぞましさを感じた。

 

 無邪気すぎるアリスの対応にも、他の登場人物の行動や話し方にも。

 そしてなにより、あんな狂気の塊のようなものを平然と書き切れるキャロルという人物には畏怖を感じざるを得ない。

 ただ、何十、何百、何千。どれだけの年月を自分が努力し続けたところで絶対に至れないであろう発想を持つ者を俺は素直に尊敬する。当然キャロルはその一人だ。そして畏怖と同時に尊敬の念も抱いていた。

 詳しく話を聞こうとしてくる知り合いの行動を阻止するように、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。

 それより後の記憶が俺には一切なかった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「……かし…………ことだ」

 

 ずっとずっと深いところに沈んでいた意識が、しっかりとした形を持って浮かび上がってくる。

 感覚としては寝起きと同じ――事実その通りか。言葉の意味もわからず、ただ雑音としか捉えられなかった誰かの声が、意識とともに次第に鮮明となっていく。

 

「こんな翼の吸血鬼は見たことがないぞ。レミリアは普通だったというのに、これはいったい……」

「そうですねぇ、とても不思議です。あ、見てください。この子、起きたみたいですよ」

 

 ぼんやりと瞼を開いてみるが、どうにも焦点が調節できなかった。ただ、視界になにか動くものが映っているのは理解できる。

 しばらく状況が飲み込めずにボーッとしてしまっていたが、次第に脳が働きを始め、聞こえていた会話の内容を整理していく。

 こんな翼の吸血鬼は見たことがない。レミリアは普通? 吸血鬼というと、人の血を吸って生きる化け物だったか。レミリアとやらがそれの一種で、こんな翼の吸血鬼とまで言っているわけだから、最低でももう一人は吸血鬼がいるのだろう。

 ……っていうか、吸血鬼ってなに?

 当たり前だが、そんなものは現実には存在しない。これはたぶん、なんらかの部族や民族の隠語として、吸血鬼の言葉を使っている。そうなると翼もまた他のなにかの隠語なのかもしれない。

 この子、起きたみたいですよ。

 この子とやらは、翼が変らしいもう一人の吸血鬼であると考えるのが普通だ。でも、なんだろう。ちょうど俺が起きた時に「起きたみたい」などと言われたからか、なぜか自分のことのようにも感じている。

 声音からして「この子」と呼んだ人は女性、しかも歳をそこまで取っていない感じだった。

 

「あー、あーうぅ」

 

 なんのことを話しているのか。そう問いかけようとした口から代わりに出たのは、赤ん坊のような可愛らしい声だった。

 あれ……? 寝起きでうまく声が出ないのかな。そう思って喉に力を入れてみるも、どういうわけか赤ん坊の声がどんどん大きくなるだけだ。

 

「はいはい、お母さんはここにいますよー」

 

 ふと、ふわりと体が浮き上がる感覚。自分の体重を受け止めていた地面が急に消え、一瞬体中を冷たい感覚が駆け巡った。

 誰か、もしくはなにかに持ち上げられている。そう思い至るのに時間はそうかからなかった。

 ……いや、ちょっと待て。俺は成人間近の男性のはずだ。こんなヒョイ、とでも擬音がつきそうなくらい簡単になにかに持ち上げられるわけが……。

 感覚的に俺を支えている場所は首と胴体の後ろ側全般、人に抱えられているとすれば、赤ん坊を抱きかかえているような姿勢だ。

 そもそも「お母さん」ってなんだ? 俺の母? いや、俺を持ち上げられるだけの腕力が彼女にあるわけがない。

 

「あうぅ、うぁあ……」

「あらあら、元気がないですね。お父さんが自分の娘を疑うようなことを言ったからですよ?」

「決して疑ったわけでは……いや、生まれて間もない自分の子を警戒の目で見てしまうようでは父親失格か」

「そう思うなら謝ってくださいよ、レーツェルに」

「すまなかった、レーツェル。お前は間違いなく我が愛する娘だ」

 

 待て、待て待て待て。

 状況がうまく整理できない。これは夢か? それにしては空気がリアルすぎるというか、意識がハッキリしすぎているというか。

 なんで俺の口からは赤ん坊のような声しか出ない? どうして俺は容易に持ち上げられた? なぜ視界は朦朧としている? 娘という単語はなにを指している?

 嫌な予想、予感。感じた謎がかけ合わさり、俺の頭の中にもっとも可能性が高い推論を投げかけてくる。

 すなわち、俺が娘と呼ばれている赤ん坊であること。

 成人間近の男性ではなく生後間もなく体重が少ない赤ん坊ならば、簡単に誰かに持ち上げられるなんてことも納得できる。

 大きく口を開き、息を吸う。吐く。その感覚はどこまでも現実味を帯びていて、そして気づいてしまえば、どこか体に違和感を覚えるようにもなってしまった。

 体が思うように動かせない。感覚的には、まるで一気に縮んでしまったような、本当に赤ん坊になってしまったような気がしてくる。

 

「うええお、うえお、あえう」

「うぅん? レーツェル、なにか言いましたか?」

 

 不思議の国のアリス。舌も回らぬ赤ん坊が、どことなくそんな言葉を吐いた気がした。

 

「あうぁあああうぅ、あうぅうう」

「あらあら、そんな顔しないのですよ」

「わ、わわ、悪かったレーツェル! 大丈夫、大丈夫だ! 我はお前を愛しているぞ!」

 

 顔なんて動かしたつもりはなかったが、今の俺の表情筋はずいぶんと正直なやつらしい。心に生まれた疑念と不安によるものか、どうにもコントロールが効かない。

 これは夢か、現実か。常識的な観点で現状を整理すれば、どんなに現実染みていようと、最終的には夢という結論に至るしかない。なにせいきなり赤ん坊になっていたとかわけがわからない。

 しかしどうにも俺の直感とでも呼ぶべきか、自身に自己を認識する強烈な自我があることがわかっていた。夢を現実だと思うことはあっても、現実を夢だと思ってしまうことはないように、これは夢ではないと確信めいた気持ちを抱いていた。

 理解が追いつかないせいか、どうにも思考が麻痺してきているような気がする。素直な表情の方は知らないが、頭の中はどんどん冷静になっていく。

 まずは状況を整理しよう。

 俺はなぜか赤ん坊になった。理由は知らない。心配そうに仕切りに話しかけてくる男性と女性の二人が、俺の親と捉えて間違いないはずだ。

 そして娘と言っている辺り……非常に認めたくないものだが、男ではなく女である確率がめちゃくちゃ高い。

 鑑みれば、レミリアという名前の誰かが俺の兄か姉に当たる人物であることが匂わされる。名前からしておそらく姉だろうとは思う。

 吸血鬼という単語は変わりなく部族や民族の隠語と考えることが妥当だと考えていたが……なんだか、妙に引っかかる。

 レミリアの名と翼の生えた吸血鬼。違和感というか既視感というか、どこぞの有名なSTG(シューティングゲーム)にそんな設定のやつがいたような、いないような。

 

「そ、そうだ。これを聞いて落ち着くんだ。レーツェル・スカーレット、それがお前の名前だぞ。これは母さんと一緒に考えて――」

「赤ちゃんに得意げに話しても理解できませんよ、お父さん。錯乱しすぎです。この子と一緒に落ち着いてください」

 

 自分の名前を聞いた瞬間、すべてを確信した。

 作品名を東方Project、ジャンルは基本的にSTG。ただ一言にゲームとだけでは言い表せないほど莫大な設定を誇り、それに登場する人気キャラの一角に、レミリア・スカーレットという悪魔的な翼を備えた吸血鬼がいる。

 俺が耳にした情報は翼の生えた吸血鬼、レミリアという名にスカーレットの姓。それだけの要素が重なっていることを単なる偶然だとは思えない。

 吸血鬼という言葉は部族や民族を指す隠語ではなく、それそのままを指している――。

 ああ、と声を漏らす。

 俺はどういうわけか、東方Projectの世界にて、レミリア・スカーレットの妹として新たな生を受けているようだった。



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二.だから彼女はシスコンになった

 時が経つとは早いものだ。急な環境の変化に戸惑うばかりで混乱続きだった俺の心は、一年半の時が経ってようやく余裕が生まれ始めていた。

 最初の頃は、どうして自分がこんなことになっているのかと延々と思考をループさせ続けていた。前世とでも言うべき己の記憶を探り、その原因を見つけ出そうと躍起になる。脳そのものが代わっているにも関わらず欠けることなく残っている平凡男性の二〇年にも及ばない記憶であるが、どうにも学校で知り合いと童話についての話をしてからの記憶がないようで。

 幾度となく寝て起きて寝て起きてと繰り返し続けたが、どれだけ念じても元の自分に戻ったことは一度もない。

 個人的には、俺は前世で死んでしまい、輪廻転生の結果としてレーツェル・スカーレットになっていると推測している。脳が予想外の事態で機能停止に陥れば死の直前の記憶がないのも納得がいくし――そもそも脳が違うのに記憶を引き継げている時点で納得もくそもないが――、そうとでも考えなければ現状に説明がつかない。

 もしかしたら神なんていう超次元的存在に生まれ変えさせられた可能性もなきにしもあらず。しかし、記憶がないのなら輪廻転生でも神の戯れでも大して変わらない。

 そんなことをこれまでずっと考え続けてきたわけであるが、正直過ぎる俺の体と顔は不安や混乱と言った感情をもろに露出させてしまうらしく、周りから見ればなにが起こったわけでもないのに急に泣き出したりしてしまうことが多々あった。最初のうちは抑えようと四苦八苦したものの、何度試しても耐え切れずに涙がこぼれ出るので、もう諦めた。

 もう帰れないのかなぁ、とちょこっと哀愁に浸っただけでも泣きそうになるのだから、この体の表情筋の正直具合が窺える。

 そのせいで両親には迷惑をかけまくり、ずいぶんと過保護を受けて一年半を過ごしてきてしまった。非常に申しわけないと反省してはいるものの、体が勝手に泣き出したのだから許してほしい。

 生まれてすぐは焦点が合わなかった視界だが、肉体がなじんできたとでも言うべきか。日が経つごとに明瞭になっていき、今では完全に景色を捉えられるようになった。

 自分を見下ろし、改めてとても小さな女の子に変わり果てたことを自覚する。そうしてハッとした時にはすでに遅く、体が勝手に大泣きをしてしまっていたが。

 いろいろなことを再確認し、整理し続ける一年半だった。ここが東方Projectの世界であることが疑いようのない事実だとも理解できた。

 

「どこをみているの?」

 

 ふと、横からかけられた声。目を向ければ、見覚えのある一人の女の子が立っていた。

 赤い線と紐が結ばれている薄い桃色のレースの服、それと同じデザインのスカートをボタンで繋ぎ止めている。腰には一回り大きな紐を纏い、後ろで大きな蝶々を結んでいるようだ。頭には周囲を赤いリボンで締めたナイトキャップをかぶっている。

 両袖が短いために腕の肌のほとんどが露出していて、透き通るほどに綺麗なそこには、自然と視線が行ってしまう魅力とでも呼ぶべきものがある。

 もっとも、まっすぐに見つめられている現状で肌の方に見惚れろという方が無理な話であるが。

 幼くもどこか凛々しさを感じさせる顔立ちからは、吸血鬼の特徴である血のごとき赤い瞳が俺を射抜いてきていた。

 レミリア・スカーレット、齢三歳。俺の二つ上の姉である。

 

「ああ、つきか。いいわね、まんげつ」

 

 水色がかった青髪を揺らし近づいてきた彼女は隣に立つと、さきほどまで俺がそうしていたように窓から空を見上げた。

 夜明けが近づいた頃、廊下を歩いて偶然目に入った窓の外の光景。西の空に浮かぶ月が満ちていることに気がつき、「そういえば吸血鬼になってから夜行性というか、昼に寝るようになったんだよなぁ」と生活の変化を振り返っていたところだった。

 窓の外を眺めるレミリアをじっと見つめる。わずかに口元が吊り上がっているのは満月で気分がいいからか。その中からは八重歯が覗いていた。吸血鬼の証拠である蝙蝠のものに似た悪魔の翼、月に照らされて爛々と輝く赤い瞳。

 俺もそんな彼女とほとんど同じ特徴を備えた吸血鬼だ。

 口元には八重歯はあるし、瞳の色は当然赤い。ただし、ほとんどとあるように例外な部分もある。

 純血の吸血鬼は悪魔の翼を備えるとのことであるが、どうにも俺の翼は形が違う。さすがに七色の宝石がぶら下がっているなどということはないにしても、翼膜や羽毛に当たる部分がなく、黒色の長翼膜張筋腱の根元辺りから何本もの赤い骨が伸びただけの異様な形状をしている。初めて見た時は「デスティニーガンダムみたいだ」なんて思ったものだ。

 純血の吸血鬼なのだから翼があるのは当然だとしても、このような形であることは俺が生まれたばかりの頃に両親が驚いていた通り、異常であることは間違いない。

 ……それにしても、服をすり抜ける翼って何気にすごいよな。

 

「どうしたの?」

 

 じーっと見つめ続けていたからか、レミリアが空から視線を外し、首を傾げて俺に問いかけてくる。

 

「ねーねー、まんげつ、すき?」

「そうね、すきよ。あかければなおいいわ」

 

 未だ一歳児である以上、流暢にしゃべることは控えていた。

 しかし、赤い満月か。今は夕方の空が赤み始めるのと同じに、西に沈みかけた月は淡く橙色の光を放っていた。わざわざ「あかければ」と口にする辺り、求めている色はあの程度の赤じゃないってことか。

 紅霧でも発生させれば真っ赤に染まった満月をお見えにできるかな。

 

「リボン、ずれてるよ」

 

 と、レミリアが手を伸ばして俺の首元の赤いリボンを調整してくれる。

 俺は一歳児に着せるには少々豪華でサイズも大き目なレースの服を身につけていた。レミリアと似たデザインであるものの細部や主体とした色が違う。彼女が薄い桃色を全体に多く使った衣服なのに対し、こちらは青と白の二色を際立たせている。赤い紐がところどころに結われているところはレミリアと同じだ。

 スカートをはくことには少なからず抵抗感を覚えたにしても、今の俺は一歳そこらの子どもだし、早いうちに慣れておかないと大変そうなので我慢した。

 

「ほら、ぼうしも」

 

 しょうがない子ね、なんて言いたげにレミリアがずれ落ちかけていたナイトキャップも直してくれる。

 中途半端に着たりかぶったりしているつもりはないのだが、サイズが大き目な関係でよくズレる。

 

「あいかわらずきれいなかみ」

 

 俺の耳元辺りの髪を掬い上げながら、小さく彼女は呟いた。

 こちらもまた翼ほどではないにしても変と言われているものだった。俺の髪は基本は銀色であるのだが、幾房かがメッシュを入れたように金色がかっているのである。地毛で。

 くすぐったがる俺を見てはクスリと笑うと、彼女は俺から手を引いた。

 

「ねーねー、ありがと」

「どういたしまして」

 

 優しげな微笑みで俺を見つめる――レミリアは、とても俺に優しくしてくれる。

 もともと東方Projectという作品は好きな部類だった。単なるSTG(シューティングゲーム)には収まらない深い世界観、魅力的なキャラクター。世界観は興味深く、キャラクターは可愛らしい。

 レミリア・スカーレットは吸血鬼としてのカリスマと子どものような言動を兼ね備えた、東方Projectに登場する二人の吸血鬼のうちの一人だ。人気キャラの一角だけあって、俺も例外に漏れずレミリアのことをある程度気に入っていた。

 そう、ある程度。ある程度……だったんだけど。

 この一年、両親が近くにいない時はレミリアが俺をあやしてくれていた。いつも泣いてばかりで不安そうな顔しかしない困った子どもの俺を、二歳か三歳の彼女がなぐさめようとしてくれるのである。

 正直、胸を打った。健気な優しさに感動するやら自分が情けないやらで泣き出してしまったこともあった。正直すぎる体が勝手に喚いたのではなく、自身の意思で感涙にむせび泣いた。

 要するになにが言いたいのかというと、レミリアお姉さまマジ天使。かっこ可愛い。その平たい胸に飛び込んで息を思いっ切り吸い込んだりとかしたいです。

 頭の中で「行っちゃえよベイビー。どんな汚い欲望でもそれが理由だとバレるわけねぇぜ」と黒い翼の悪魔が言う。

 対し「まだ一歳児で今は同性ですから大丈夫です。飛び込んじゃいなさい」と金の輪っかを浮かべた天使は囁く。

 そしてその二人と対峙する成人間近の男性のシルエットが、息を大きく吸い込んでから「お前ら同じこと言ってんじゃねぇよ!」と見えない机をバンッと叩いた。

 

「……どうしたの?」

 

 悩み過ぎて顔にでも出ていたのか、心配そうにレミリアが覗き込んでくる。一瞬心を読まれたかと思ってドキッとしたけど、当然そんなことはない。危なかった、サトリ妖怪なら即死だった。

 別に大したことでもないので「えへへ」と適当に受け流す。若干不思議そうに小首を傾けるレミリアであったが、すぐにため息を吐くと、

 

「もういっさいなんだから、あんまりむやみになかないようにね。おとうさまにもおかあさまにもめいわくがかかるから」

 

 と、言う。

 泣きまくった当人としては両親の苦労は重々承知しているつもりだ。

 慕っているレミリアのちょっとキツめの言葉にシュンとなりかけるものの、はたと気づく。

 これってもしかしてあれですか。お父さまにもお母さまにも迷惑がかかるから――この言い回し、つまりレミリアお姉さまは迷惑してなかったってことですよね。

 たしなめの言葉の中にさりげない気遣い。マジ天使。

 

「わかった。ありがと、ねーねー」

 

 我慢できず満面の笑みを浮かべてしまうのはしかたがないと言えよう。この体の表情筋はとても緩いのである。

 そんな俺の対応に時が止まったように数秒間呆けていたレミリアであったが、しばらくしてクスリと小さく笑った。

 そしてとても優しげな微笑みのまま俺の手を握り、口を開く。

 

「レーツェル、きょうはいっしょにねようか」

 

 え、いいんですか。ハスハス――コホン。それってちょっと匂いを嗅いだりとかしても不可抗力ですよね。

 勢いよく頷いてしまうのはしかたがないと思う。

 深く傾けたためか、その拍子で帽子が床に落ちるも、俺が手を伸ばすよりも先にレミリアが拾ってくれた。

 ポンと改めて俺の頭にかぶせると、「いくよ」と手を引いて歩き始める。

 今日はとてもいい日で終わりそうだった。



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二a.だから彼女はシスコンになった

6月31日に予約投稿しようとするとどうしてもエラーになって、
30分くらい右往左往してた私です。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

 夜明けが――吸血鬼にとっての一日の終わりが近づいている。

 お父さまもお母さまと「おやすみ」と別れた後、私は一人で廊下を歩いていた。

 頭の中に思い浮かぶのは、つい数分前まで両親としていた会話だ。

 ――レミリアはお姉さんなんだから、レーツェルには優しくしてあげなさい。

 ――あの子はいつもいつも不安そうにしています。でも、レミリアが一緒な時はとても安心した顔をするんですよ。

 無意識のうちに、ギリッ、と歯を鳴らしていた。

 つい一年前までは、私が一身に両親の愛情を受け取っていた。それが今はどうだ。妹ができると聞いた時は家族が増えると嬉しかったものだが、現実はただ私が孤独になっただけだった。

 憤りの感情を鎮めるために、はあ、と大きく一つため息を吐く。

 ……ダメだ。あの子はまだ一歳。しゃべり始めて、歩き始めて間もない子ども。たった二つしか歳が違わないとは言え、されど二つだ。ムキになったって自分が情けなくなるだけ。

 胸に燻ぶるどこにぶつければいいのかもわからない感情を抑えつけ、前に誰かがいる気配を感じて顔を上げる。

 噂をすればというやつか。ぼーっとした無邪気な顔で窓の外を眺めている、レーツェル・スカーレット――煩わしい私の妹。

 

「どこをみているの?」

 

 そう声をかけると、彼女は私の存在に気づいたようで顔をこちらに向けてきた。

 私と同じ深紅の瞳。そして、明らかに違う翼膜のない翼。

 そのまま近づいて、窓からレーツェルが見上げていた方向へ同じように視線を送る。

 

「ああ、つきか。いいわね、まんげつ」

 

 一片も欠けていないまん丸な月は、こうして遠望していると気分が高揚してくる。しかし、どうにも白み始めている空のせいで満月の美しさが半減していた。

 ああ、できれば夜明けでなく夜更けに見たかったものだ。

 寝て起きた頃にはもうわずかながらに欠けていることだろう。次の満月が見れるのは、一度欠け落ちてから満ち初めて――余計に夜更けに月の様子に気づけなかったことが悔やまれる。

 ……それにしても、さっきからずっと見られているな。

 

「どうしたの?」

 

 我慢できなくなって、月から目を離してレーツェルの方に向き直る。

 

「ねーねー、まんげつ、すき?」

「そうね、すきよ。あかければなおいいわ」

 

 太陽の光を少なからず身に受けているのか、今の月はわずかに赤みがかっている。しかし、私が好きなのは沈みかけた満月の放つ程度の微妙な光ではなかった。

 爛々と輝く正真正銘の紅の満月をいつかこの目で見てみたい。私はたまにそう思う。

 

「リボン、ずれてるよ」

 

 レーツェルの首元のそれを調整し、続いて「ほら、ぼうしも」と斜めになって落ちかけていたナイトキャップを直す。

 どうせすぐに大きくなるからと大き目の服が与えられているから、毎度見るたびにどこかがずれている。私もこの子と同じ歳の頃は背に比べて大きな衣を着ていたし、よくお母さまに「肩がずれていますよ」と直されたりもした。

 

「あいかわらずきれいなかみ」

 

 帽子を直す過程でレーツェル特有の不思議な髪色に目が行って、思わず呟いてしまう。

 透き通りそうなほどに綺麗な白に近い銀に交じった、幾房かの金色がかった髪。翼と同じく異様な色合いをしているものの、これに関しては両親は共通して「綺麗」だと口にする。私もそこは同意見だ。

 ちょっとばかり夢中になりすぎていたのか、触られている本人がくすぐったそうだったので、小さく笑って手を離した。

 

「ねーねー、ありがと」

「どういたしまして」

 

 お礼を言われて悪い気はしない。自然と笑みが浮かんでしまう。

 この子が生まれる前は妹ができると浮かれていた。こういう親しげな、何気ない触れ合いがしたいという欲求が具現化された形なのだと思う。

 だからこそこうしている時だけは幸福を感じる。この子があの顔を――そう、今まさに変化してしまったような顔にさえならなければ、いつだって幸せなのに。

 

「……どうしたの?」

 

 生まれた頃からずっと変わらない、時折浮かべるどこまでも不安げな表情。両親の心を釘づけにする忌々しい泣き面。

 両親の頼みで幾度か泣き出した彼女をあやしたこともあった。けれど、そのたびに私は両親の愛が今はレーツェルに向かっていることを再確認してしまって、いい気分ではなかった。

 

「えへへ」

 

 私が問うと、レーツェルはすぐにそれを引っ込めて小さな笑みを浮かべた。

 いつもいつもこの子は憎いくらいに素直だから、それが愛想笑いであることは火を見るよりも明らかだった。まるで、さきほどまでの物憂げな表情をしていた原因を誤魔化すかのような愛想笑い。

 負の感情を押し隠し、不思議そうに首を傾げてみせる。

 

「もういっさいなんだから、あんまりむやみになかないようにね。おとうさまにもおかあさまにもめいわくがかかるから」

 

 そして、そんなセリフを口にして瞬時に「しまった!」と反省した。

 もう一歳なんだから、無暗に泣かないように――心の奥底に封じている負の感情から生じた嫌味。

 お父さまにもお母さまにも迷惑がかかるから――両親の愛情を奪われたと感じているゆえに、口をついて出てしまった余計すぎる一言。

 なんて情けない。相手はまだ自分の半分も歳を取っていない、言葉も流暢にしゃべられない子どもだというのに。

 後悔を胸に、恐る恐るとレーツェルの顔を窺う。自分に正直で泣き虫な彼女だ。また、あの不安そうな表情を浮かべているだろうか。

 しかしそんな予想は覆され、

 

「わかった。ありがと、ねーねー」

 

 レーツェルは、どこまでも嬉しそうな満面の笑みを浮かべていた。

 今までずっと泣きそうな顔しか見ていなくて、目の前にあるそれは今まで見たこともないほどに喜びを表した表情で、知らず知らずのうちに呆けてしまっていた。

 ――ああ、この子は。

 あまりに正直な笑顔が純粋すぎて、自分の心の汚さが浮き彫りになったような気がした。

 レーツェルはなにか、私の言葉をすごく誤解している。勘違いしている。

 言葉に込められていた負の感情に欠片も気づきもしないレーツェルがおかしくて、クスリと笑ってしまった。

 なんだか、今までずっと嫉妬していた自分が途端にバカらしく思えてきた。

 今まで優しい姉を演出していながら、あなたのことなんてなんとも思ってなかったのに。

 こんなに汚い私にどうしてそんな無垢で純真な微笑みを向けられるのか。

 

「レーツェル、きょうはいっしょにねようか」

 

 要するに、私は見惚れていたのだ。心の底から私を慕ってくれる妹の、初めて垣間見た本当の笑顔に。

 お父さまとお母さまは、今のレーツェルの笑顔を見たことがあるのだろうか。ちょっと目を離せばすぐに暗い表情をする彼女の、あの無邪気な微笑みを知っているのだろうか。

 もしも私がそれに立ち会った第一人者だとすれば、今ここで抱いている温かい気持ちは私だけのクオリアだ。

 ――レミリアはお姉さんなんだから、レーツェルには優しくしてあげなさい。

 ――あの子はいつもいつも不安そうにしています。でも、レミリアが一緒な時はとても安心した顔をするんですよ。

 未だレーツェルに対する不満が取れたわけではない。私だって三歳だ。もっともっと両親の愛が欲しいことは変わらない。

 それでも、私の中に気持ちの変化があったのは確かだった。

 今までは優しいお姉さんを装っていただけだったけど、これからは――。

 私の提案に、ひどくご機嫌な様子でレーツェルが頷いた。勢い余って拍子に帽子が落ちるも、いち早く私が拾って、ポン、と妹の頭にかぶせる。

 

「いくよ」

 

 明日からは、もっとたくさん遊んであげよう。もっといろいろなことを教えてあげよう。

 そんなことを思いながら、レーツェルの手を取って自分の部屋へと歩き始めた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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三.わからない程度の能力

※『運命を操る程度の能力』に関しての独自解釈があります。


「運命を操る程度の能力……それがお姉さまの力?」

 

 一緒に寝たあの満月の夜明けの日から、レミリアは積極的に俺に関わってくれるようになっていた。

 俺もレミリアはあと半年ほどで三歳と五歳になる。言ってしまえば一年が経っている。

 今の俺は三歳の頃のレミリアよりも言葉をうまくしゃべっている。そもそもの話、ちゃんとした発音がわかっているのに音程をズラし続けるのは無理があった。

 そういうわけですぐにハッキリとした発音で話すようになったのだが、両親もレミリアも早熟な子どもとして流してくれてずいぶんと助かった。

 

「そうよ。まぁ、必ず勝つ運命を引き寄せるだとか月が落ちてくる運命を創り出すだとか、そんな大それたことはできないけど」

 

 そして今は、レミリアと『程度の能力』と呼ばれる力について話している最中だった。

 場所は最近俺の入り浸っているレミリアの部屋、そこのベッドに二人並んで腰かけている。

 

「それじゃあ、お姉さまはどんなことができるの?」

 

 得意げな顔で自身の能力を語る彼女に、首を傾げて問いかけてみる。

 今は女の子として生を受けた身だ。しゃべり方についてはずいぶんと悩んだが、前世は前世として、今世は中性的な話し方を心がけることにしていた。女性的な感じは無理があったので却下。

 レミリアは両親のことをお父さまお母さまと呼んでいた。それに倣い、俺は両親を同じ呼び方、レミリアをお姉さまと呼称している。

 

「そうねぇ」

 

 ふむ、と考え込むレミリア。

 運命を操る程度の能力――東方Projectについての知識があるだけに、レミリアがその能力を保持していることは元々知っていた。それが使われたことが全然ないために、具体的にどのようなことができるかはわからないのだが。

 

「『一定の確率以上で起こり得る偶然を支配し、私が望んだことが起こる運命を未来において引き寄せる』。私の能力はありていに言えばそんな感じか」

「えーっと、つまり……」

 

 教えられたことを頭の中で整理する。

 一定の確率以上の偶然の支配、それにより望む未来を引き寄せる――。

 

「欲求する未来に必要な偶発的事象を故意的に起こし繰り返す能力ってこと?」

「え……? うーん、たぶんそれ。レーツェル、難しい言い回しが好きだね」

 

 元日本人な俺としては今みたいに一言でまとめた方がわかりやすいんだけど。

 

「一定の確率以上って制限があるから、必ず勝つ運命も引き寄せられないんだよね」

「うん……ほんと、頭いいわね。低すぎる確率の偶然は最早必然でしか起こり得ず、すべての偶然を支配する私の能力では必然は支配できない。そういうことよ」

 

 そう言ってすぐに、俺が口をはさむより早く「裏技はあるけど」と付け足した。

 それについての説明を求める視線を送ると、「しょうがないわね」とレミリアが呟く。

 

「例えば三〇〇回連続でコインの裏表を当てる運命を引き寄せると仮定してみる。さすがに確率が低すぎるから、そのままじゃ私の能力は関与できない。けど、その運命を『いつか起こる』と条件をつけて能力を使えば話は別になる」

「コインの出目当てを繰り返して、その成功と外れの順番と割合の運命を捻じ曲げて……結果的に、『いつか』三〇〇回連続で裏表を当てることができても『必然』じゃなく『偶然』って言えるくらいまで確率を引き下げる、ってことかな」

「さすがはレーツェル。その通りよ」

 

 今ここで『リンゴを食べたい』と思っても手に入るわけもない。しかし一週間後に『リンゴを食べたい』と願ったのならば、一週間の間に一週間後にリンゴが手に入るであろう偶然が連鎖的に起こり続け、結果的に一週間の時を経てリンゴが手元に渡ってくる。

 これは小さな例だけど、レミリアの語ることが本当ならもっと大きな――ちょうど一年後にこの場所を台風が襲撃するなどと願えば、小さな偶然が重なって実際にそうなる運命に変わるはずだ。

 バタフライ効果(エフェクト)。小さな差が次第に大きな差へと拡大し、事実上予測不可能な結果になっていく。それを望んだ結果になるよう引き起こし続けるのだ。時間さえかければ大抵のことは実現させられるだろう。

 

「理解してもらえたとは言え実践してあげた方がわかりやすいか」

 

 レミリアはそう言うと枕の下から一枚のコインを取り出した。

 なんでそんなところに、と問うより先に一言、「近いうちにレーツェルに私の能力を見せたかったから」。

 ふふん、と鼻を鳴らすさまがかっこ可愛い。抱き着いて匂い嗅いでもいいですか。

 

「表」

 

 ピィン、と爪が金属を弾く音とともにコインが宙を舞った。

 何度か床をバウンドし、最終的に向いた面は宣言通りの表。

 

「裏」

 

 足元に落ちたそれを広い、もう一度レミリアが宣言する。

 さきほどと同じように重力に従って床に落ち、当然のごとく裏を向く。

 

「まだまだ当てられるよ。さすがに三〇〇回連続は無理だけど、ある程度までなら今起こり得る偶然として処理できる」

「はあぁ……」

 

 思わず、感心した風な息が漏れる。目の前で起こったのはたった四分の一の確率の事象ではあるものの、あんな自信満々に疑う余地もなく宣言通りのことを当てられた人間なんて見たことがない。

 俺の足元に落ちていたコインを手に取り、無意識のうちに仕掛けがないかと探していてしまった。

 

「今度はレーツェルが宣告して投げてみる? 『三回連続でコインの出目を当てられる』って運命をレーツェルに引き寄せておくから」

「うん、やる」

 

 若干ワクワクした心持ちでコインを人差し指に寝かせる。

 ふう、と一息吐く。レミリアの方に視線を向ければ、「大丈夫」と言わんばかりに大きく頷いてくれた。

 

「裏」

 

 親指で、キィンとコイントス。ドキドキとする心臓に呼応してか、育つに連れて向上し続ける吸血鬼の感覚が研ぎ澄まされる。

 宙を舞うコインの光景をコマ送りのようにゆっくりと目に焼きつけられ――裏、表、裏、表、裏――今、地面についた。二回バウンドして、コインは結果として――。

 

「表……?」

 

 俺は自分が事前に予言した結果にならなくて首を傾げるだけであったが、能力を使用した当人であるレミリアは限界まで目を見開いて驚いていた。

 この様子から見るに、能力を使用していないというわけでも、本来は能力で為し得ない事象であるわけでもなさそうだ。

 表の面を見せているコインを呆然としたまま拾い上げるとレミリアは、

 

「能力は確かに使った……使った、はずだ。もしレーツェルがコインの出目を操作するような技術を持ってても、それが失敗するくらいのことならまだ偶然の範囲内……そうだ、絶対必然じゃない。なら、能力が正しく発動しなかった……? いや、確かに私は能力を使って……」

 

 ぶつぶつと独り言を言い始めた。何度か「お姉さま」と呼びかけてみるも、反応がない。

 こちとら日本で学生として暮らしていた記憶があり、能力のない世界が普通だったので『能力が思ったように発動しない』ことがどれだけショックな出来事なのかはイマイチ実感がわかなかった。

 本来ならできるはずのことができない――右手を上げろという指示にちゃんと従ったつもりだったのに、どういうわけか左手を上げていたみたいな感覚なのかも。もしそうなら戸惑うのも納得できる気もする。

 とりあえず、必死で思索にふけるレミリアをじーっと眺めて目の保養にでもしていよう。焦るレミリアも新鮮でうぇへへ。

 

「レミリアが能力を正しく発動しているのに結果が違うのなら、レーツェルが持つ能力がなにかしらの影響を与えたという予想はどうでしょう?」

「「お母さま?」」

 

 思いも寄らぬ人の言葉が聞こえてレミリアも思考の海から戻ってきたらしい。呼ぶ声が見事にハモった。

 いつの間にかレミリアの部屋の扉は開かれており、そこに柔和な笑みを浮かべた金髪の女性が立っている。

 歳は二〇歳ほど――見た目は、という装飾の言葉がつくが――だ。赤いドレスを着込み、吸血鬼の証である悪魔の翼、紅の瞳を持っている。

 原作――東方Projectの世界では設定の欠片もない、俺とレミリアの母親だった。

 

「お母さま、ノックをしてから入ってきてっていつも言ってるでしょ」

「ええ、以後気をつけますよ」

「気をつけるだけで守る気はないんだよね?」

「今日は守ります。明日はわかりません」

 

 なんてレミリアと小言を交わしながら彼女は近づいてきて、俺の目の前で立ち止まると膝をついて視線を合わせてきた。

 

「レーツェル」

「は、はい」

「あらあら、そんなにかしこまる必要はありませんよ。ほら、リラックスリラックスです」

 

 そして俺は、この人がちょっとばかり苦手だった。

 嫌いなわけではない。ただ、俺は人間の男性だった頃の記憶を携えて生まれ変わっているのである。両親に少なからず負い目を感じるのは当然だ。

 とは言え理由はそれだけではない。父親は別に苦手ではないし、普通に接せられる。

 今世の母は家族にも敬語を使うしゃべり方と穏やかな姿勢を備えていた。この一線引いた感じがどうにも俺を見極めようとしているようにも思えてしまい、毎度会うたびに全身がわずかばかりの緊張を纏う。

 そんなものは全部自意識過剰だということはわかっているけど、いくら思考で抑制しようとしても、不安を感じた正直な体が勝手に警戒してしまうのだからしかたない。

 

「レミリアの能力が正しくあなたに反映されなかったのは、あなたの中にある能力が原因であると私は考えます」

 

 程度の能力。これまで暇があれば前世のことを振り返るばかりで、そんなものを意識したことなんてなかった。

 

「胸の辺りに手を当てて、その内を探るように……深い意識の底を、暗い海の底にある確かな波動を見つけ出してください。あなたならそれができますから」

 

 まっすぐに目を見つめられて告げられると、さすがに断れない。半ば反射的にこくりと頷いた。

 ふぅ、と小さく息を吐く。そして言われた通り、心臓付近に右手を添えて奥底にあるものを見つけ出そうと意識を集中させる。

 いつの間にか、目を瞑っていた。

 

 ――そこは色のない箱の中だった。

 ――中央に、色のない箱がある。

 ――それを開けると、いつの間にかその箱の中にいた。

 ――いつの間にか体は縮んでいて、箱の大きさになじんだものになっていた。

 ――中央に、色のない箱がある。

 ――それを開けると、いつの間にかその箱の中にいた。

 ――いつの間にか体は縮んでいて、箱の大きさになじんだものになっていた。

 ――中央に、色のない箱がある。

 ――それを開けると、いつの間にかその箱の中にいた。

 ――いつの間にか体は縮んでいて、箱の大きさになじんだものになっていた。

 ――中央に――――。

 

「ひゃっ!?」

 

 首筋に当てられた冷たい感触に、ビクリと体が震えた。体の内側、ずっと奥深くに沈んでいた意識が急激に引き上げられる。

 目を開ければ、俺の首に手を当てている悪戯っ子みたいな顔の今世の母親と、気遣わしげな表情を浮かべたレミリアの姿があった。

 

「能力、見つかりましたか?」

 

 確信を持っているかのような母の問いかけ。それに、どう答えたものかと困ってしまう。

 

「能力……なのかな。箱の中にいて、箱が前にあって、それを開けるとまた箱の中にいて、箱が前にあって、それを開けるとまた、って……そんなイメージだけが繰り返されてた」

「イメージですか……レミリア、あなたはどのような風に自分の能力を認識しました?」

 

 俺の答えに困惑した彼女は、今度は長女へと質問を投げた。

 

「別に、私は『こういうことができる』って感覚が流れ込んできただけだったけど……お母さまは?」

「敢えて言うなら吸血鬼固有の力を名称化して『吸血をする程度の能力』、『霧になる程度の能力』、『蝙蝠(こうもり)になる程度の能力』などでしょうか。どれもレミリアにもレーツェルにもできることですし、私は固有の力は持っていませんから、探そうと自分の中に意識を向けても反応はないのです」

 

 つまり、反応があったのにも拘わらず能力が把握できずイメージだけが浮かび上がる俺は異様ってことか?

 ふぅむ、と唸る。 母と違いなにかしらの反応があったわけだし、十中八九能力があると言ってもいい。しかしどのようなものなのか見当もつかないのは致命的だ。

 レミリアのように自身の力を正しく把握した上で、その全容を一言にまとめたものが能力名称――つまりは自己申告だ。名称から内容をある程度把握するなんてことはできない。

 

「レーツェルの中にあったのはイメージだけ……使い方もわからないんじゃ、どうしようもないわねぇ」

 

 レミリアのそんな呟きに、俯いていた母がハッとしたように顔を上げた。

 

「レミリアの能力が正しく反映されず、能力の概要が理解できない……もしかして、それこそがレーツェルの能力なのではないでしょうか」

「どういうこと?」

 

 レミリアの切り返しに、「つまり」と母が人差し指を立てた。

 

「『わからない程度の能力』です」

「本人もわからない能力だから『わからない程度の能力』ってこと? 安直すぎない?」

「レミリアの能力が正しく通じなかったのは結果が"わからなくなった"からだと私は推測します。未来を決定したはずがレーツェルの能力の影響で不確定へと戻ったということです」

「あー、なるほどねぇ」

 

 二人はそうして納得した風に頷き合っていた。

 なるほど、確かに筋は通る。能力者の当人である俺が能力を把握し切れないのも"わからない"なら当然だ。でも、どこか引っかかる……。

 すべてが正しいはずなのに、なにかが決定的に間違っている気がしてならない。能力者だからこそ覚える違和感か、あるいはただの勘違いか。

 まぁ、これから能力を扱って、使いこなしていけばわかることだ。

 

「お姉さま、お願い。能力の使い方を教えてほしい」

「ん、よろしい」

 

 すでに能力を使いこなしている姉に頭を下げると、自信満々に胸を張って即答される。あまりにためらいのない肯定に呆気に取られ、「ああ、言われるの待ってたな」と気づくのにも時間はかからなかった。

 母親は、そんな俺たちを微笑ましく見守っていた。

 未だ前世のことを振り返ることが多々ある。それでも第二の人生は――人じゃないけど――間違いなく幸せと言えるものであった。



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四.天空を踊る光の翼

「レーツェル、あなたならきっと大丈夫。もっと落ち着いて、もっとしっかりしたイメージを持って。空気を吸って吐くことのように、そこらの木をベキッてへし折ることと同じように、飛べて当然だって思うのよ。大切なのは『認識』すること。違和感なく宙に浮くためには、飛べて当然と思う精神力が必要なのよ。あなたは吸血鬼、そして私の妹。だから空を飛べるのは当たり前なんだ。そう思ってみて」

「なにそのスタンド操作講座」

 

 思わずそんなことを呟いてしまったのもしかたがないと言えよう。っていうかそこらの木をベキッてへし折ることと同じって、そんなん無理に決まって……そういえば今は吸血鬼なんだった。それくらいは造作もないな。

 レミリアが「スタンド?」と首を傾げているので、「なんでもない」と首を振って、自分の内に眠る二つの力に意識を向ける。

 すなわち、すべての妖怪が持ち得る力の象徴、妖力。魔法を扱うために必要な力、魔力。

 

「……ふぅ」

 

 場所は庭。息を整える俺を見守るのは、レミリアだけでなく両親もであった。

 

「もう一回」

 

 すでに今日も幾度となく繰り返し続けている――妖力と魔力を全身に行き渡らせるようにして、レミリアに教えてもらった通りの精神で空を飛ぼうと試みる。

 飛べて当然、浮けて当たり前。リンゴが美味しいと感じられるように、キュウリが水っぽいと感じられるように。

 フワリ、と若干浮き上がるような感覚があった。

 ……キュウリと言えば、この世界には河童もいるんだよな。いつかキュウリを土産に訪ねたりもしてみたい。

 

「あ」

 

 ストン、と足の裏が地についた。妖力が分散し、集中力が完全に途切れる。ああ、余計なこと考えすぎた。また失敗だ。

 

「……翼で飛べればなぁ」

 

 綺麗な夜空を見上げて、小さく呟く。

 三人のうち誰かは忘れたが、「翼で飛ぶわけではない」と言っていた。翼で飛べって言われても翼膜がないから飛べないけどさ。

 ――いや、エネルギーを噴射すれば翼を使って飛べるんじゃないか?

 脳裏に浮かんだのはガンダムと呼ばれる超巨大人型兵器だった。あいにくと知り合いの家でゲームして遊んだ知識しかないので、登場人物や種類についてはさほど詳しくない。だけどガンダムがスラスターだとかバーニアだとかでエネルギーを推進力に飛行しているのは知っている。

 その中でもデスティニーガンダムと呼ばれる――知り合いが言うには『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の主人公の一人が搭乗する機体。そいつは背部の機翼から強大な光圧を推進力として『光の翼』を形成し、他に類を見ない超加速を実現できるんだとか。

 俺の背にある翼は、そのデスティニーガンダムのものと酷似している。

 好奇心は猫をも殺す。すでに思考はガンダムの真似事をすることに夢中であった。

 

「翼の付け根から妖力と魔力を思いっ切り噴射して、推進力を――」

 

 ――直後、俺はとてつもない速度で天へと昇っていた。

 下を見れば、紅魔館がこの幼い手でそのまま掴めそうなくらい小さくなっている。

 

「はぇ?」

 

 半ば無意識のうちに視線が自らの翼へと移動する。

 根本から赤白のエネルギーの奔流と光の粒を散らしながら、今もなお俺を上空へと押し上げていた。

 

「止まれ!」

 

 ようやく事態に心が追いついた。妖力と魔力の操作を止め、しかしそれでも勢いは変わらない。まるで、このまま雲まで突っ切ってしまいそうだった。

 俺は未だ三歳にも達していない身である。いくら東方Project屈指の実力を誇る吸血鬼と言えど、そんな上空から落とされて無事だとは到底思えない。

 

「ど、どうすれば……」

 

 今、俺は妖力と魔力を推進力として空を飛んだ。だったら今度は逆に真下へ飛べば……重力と合わさってとんでもない速度になって地面に衝突する未来が見えた。

 そもそも『光の翼』――今後はそれを妖力と魔力を翼の根元から噴射することの名称にしよう――はさきほど初めて使ったばかりでコントロールなんてできない。使用するなんて発想自体が死亡フラグだ。

 空中でできることは限られる。そしてその中でも俺が一番やらなければいけないことは、

 

「ここで飛行を成功させる……」

 

 翼を使わない、レミリアに教わった通りの正しい飛行法である。

 別の思考に邪魔されたにしても、一度はわずかに宙に浮いた身だ。集中すれば必ずできる。

 成功させなきゃ死ぬかも、なんて状況になるなんて思いもしなかった。

 震える体を両手で抑えつけて、意識を集中させる。力を行き渡らせる。

 俺は飛べて当然なんだ。ここは俺のいた世界じゃない。俺の中には未知の力がある。俺は吸血鬼だ。最強クラスの妖怪種だ。

 彼女も言っていた。大切なのは『認識』すること、自由に宙を飛び回れて当たり前だと思う精神力。

 退けば老いるぞ、臆せば死ぬぞ。

 

「俺は、私は、レミリアお姉さまの妹だ」

 

 だから飛べる。高貴でかっこよくて可愛くてカリスマ抜群で実はちょっと甘えん坊気味な、俺が敬愛する彼女を信じればいい。レミリアが信じる俺を信じる。

 飛べる。飛べる。飛べる――。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「レーツェル! 大体あなたは無茶をしすぎ! どうして最初から全開出力で力を放出したの! 翼で飛ぶにしても少しずつ試さないと危ないに決まってるでしょ!」

「ごめんなさい……」

 

 無事に浮遊に成功し、俺を心配して飛んできた両親とレミリアに保護されて館に戻ってきた。

 あんなことがあっては今日はもう飛行訓練はできないということで切り上げとなり、俺は母の部屋でレミリアに叱られていた。

 大好きな姉からの言葉にシュンとしてしまう。しかし同時に嬉しさも抱く。

 いや、怒られて快感を覚えるとかいう被虐趣味的な意味じゃなくて、本気で心配してくれてるんだなぁ、っていう心が感じられて涙腺崩壊みたいなね。

 ……でも、レミリアが相手なら罵られるのはむしろアリかも――これ以上は考えないでおこう。

 

「レミリア、そろそろやめてあげてはどうですか? レーツェルはもう十分反省していますよ」

「お母さま」

 

 ベッドに横たわる母の言葉に抗議の視線を送るも、「それとも」と続く句でレミリアも口を噤まざるを得なくなった。

 

「お腹にいるこの子に怒声をたくさん浴びせたいのですか?」

 

 母のお腹は不自然に膨らんでいた。数か月前に俺の能力の存在が判明した時にはとっくに子が宿っていたらしく、あれから徐々に大きくなった結果が目の前にある。

 頬を膨らませ、「しょうがない」とレミリアが首を横に振った。

 

「レーツェル、ちゃんと反省してるな?」

「もちろんだよ、お父さま」

「だったら俺も小言は言わない。だが、次は気をつけるようにな」

 

 ポン、とナイトキャップ越しに手を乗せてくるのはお父さまこと今世の父親。我が家こと紅魔館の当主だった。

 俺たち吸血鬼は人間を――正しくは、人間の血をいただくことで生きている。生まれた時からそれは変わらない。レーツェル・スカーレットとして転生した直後、母乳と一緒に血を飲まされたのはいい記憶である。もちろん泣いた。

 とは言え人間とは――今は吸血鬼だけど――慣れる生き物である。イカを半分生きてる状態で調理したり、ネズミを人間と仮定してありとあらゆる実験に行うなんてことも平気でする種族である。普通に血が美味しいこともあって、意外と早く慣れることができた。

 問題は殺しだ。いくら吸血鬼になったにしても殺人等には忌避の感覚を覚える。今はまだ二歳児なので食糧こと血の調達も父が行ってくれるが、いつかは俺も人間を狩ることになる。

 とりあえずは考えたくないので保留にしている。考え込むといつものごとく泣き出しそうになるので、レミリアや両親に迷惑をかけないようにという意図もある。

 未来のことなんてその時の自分に任せればいい。要するに丸投げである。

 

「この子の名前はどうしましょうか、お父さん」

「ふむ、そうだな……」

 

 両親がお腹の子について話し始めて、俺とレミリアが徐々に会話から外れていく。子どもの名前とは親が決めるものであり、同じ子どもである俺たちが口をはさむことではない。

 

「ひゃっ……!」

 

 チョンチョン、と脇腹をつつかれて思わず小さく悲鳴を上げた。あいにくとこの体は脇腹が非常に弱い。

 恨みがましくレミリアの方を向くと、「説教の代わり」と呟いて舌を出した。

 

「レーツェル、能力はちゃんと使いこなせるようになった?」

「……まだまだお姉さまみたいにはいかないかな」

「そうか。まぁ、気楽に行こうね。まだ半年しか修行してないんだから」

 

 数か月前に母が『わからない程度の能力』と名づけた力の本質を俺は未だに掴み切れていなかった。

 レミリアのように能力の概要さえわかれば、使いこなすのだってさほど難しくはないのだと思う。実際にレミリアは自身の能力のほとんどを十数日にして把握したらしいし。

 だから問題は、能力の使い方も応用性もなにもかもが『わからない』ためにあらゆることを実践していかなければならないこと。

 

「ちなみに今、自分の能力についてわかってることはどれくらい?」

「お姉さまの能力が効かないことと、後は…………うん、そのくらい」

 

 メタ能力とでも呼ぶべきものなのかもしれない。特定の相手にのみ絶大な力を発揮し、完全に無力化、もしくは無効化してしまう恐ろしい力のことだ。

 ただしそういう力の大抵は無力化できる対象が決まっており、それ以外には果てしなく非力であることが多い。そうだよ、俺のことだよ。

 この世界のどこかには封獣(ほうじゅう)ぬえと呼ばれる妖怪がいる、はずだ。そいつは『正体を判らなくする程度の能力』を持ち、物体の正体をなくして正しい姿として認識できなくすることができるという。

 同じようなことができないかと何度か試してみたりしたのだが、惨敗。まったく持って不可能であった。

 次に行った実験は、とある魔術の禁書目録という作品に登場する垣根帝督を参考にして"理論上存在するはず"の正体不明の(わからない)力を探し出すことだったが、こちらも徒労に終わる。

 普通に見つからないし、普通にわからない。"わからない"ことが能力なのだからわからなくて当然だとちょっと経って気づいた。『理解する程度の能力』でも持っていれば見つけられたかもしれないけど、そもそもとして東方Projectととある魔術の禁書目録では世界の法則が違う。なんにせよ探すだけ無駄であった。

 進展はまったくなし。他にもいろいろ試したが、正直な話、もうお手上げだ。

 

「そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。お願いしてくれれば私の力も好きなだけレーツェルに貸してあげるから」

「うん……ありがとう、お姉さま」

 

 レミリアの気遣いが目に染みる。好きなだけ貸してくれるって言われても、そもそも俺にはその能力が通じないんだけどね。

 能力はもうどうしようもないし、これからは進歩があった飛行訓練に力を入れていこうかな。

 まずは安定した浮遊を目標として、次は空中での移動。両親やレミリアと同じくらい動けるようになったら、最後は『光の翼』もどうにかしてみたい。

 とは言えなにをやるにしても明日からだ。今日はいろいろあって疲れたし、両親もレミリアも特訓を許してくれないだろう。

 久しぶりにレミリアと姉妹の触れ合いでも楽しんでいるとしよう。

 

「――決めたぞ。この子が女の子なら名前はフランドール。フランドール・スカーレットだ」



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五.幸福の終焉は破壊から

「お母さま、大丈夫かな……」

「大丈夫よ。私の時もあなたの時も、ちゃんと産んでくれてるんだから」

 

 レミリアが五歳、俺が三歳になってすぐに、母の中にいる赤ん坊の出産の時期がやってきた。

 今日がその出産日なわけであるが、さすがに子どもは現場には居合わせてもらえないらしい。レミリアの部屋で二人して大人しくしていた。前世では学生のまま死んでしまい、出産に立ち会う機会などなかったのだから、俺の口から出る言葉が母への心配ばかりになってしまうのもしかたがないことだろう。

 あいかわらず今世の姉はとても優しい。自分も不安だろうに、そわそわとする俺を励ましてくれる。

 

「……お母さま」

「レーツェルは心配しすぎだよ。お母さまだって吸血鬼なのよ? そんな顔しなくても平気に決まってる」

 

 俺の頬に手を添えてのレミリアの一言。

 いつもなら気分が高揚してレミリアの胸に飛び込みたい気持ちになるんだけど、さすがに今はそんな余裕はなかった。

 確かに言う通り、母は人間とは違う妖怪の区分に入る生き物だ。出産でどんな不具合が起きようと、仮に帝王切開をすることになろうとも、万が一にでも危険な状態になることはない。

 この世界での吸血鬼とは、肉体が頭一つでも残っていれば一晩で元通りになってしまうほどの回復力を持っているのだ。腹が斬り裂かれてもすぐに再生できる。

 ――だから、安全なのか?

 胸騒ぎが収まらない。心の動揺が止められない。

 

「まったく……」

 

 ガバッ、と。

 気づけば俺はレミリアに頭を抱きかかえられていた。

 

「落ち着きなさい。気にやまなくていいの。あなたには私がついてる。なにも心配しなくても大丈夫だから」

「……うん」

 

 言葉が心に染み込んでいく。いつも感じていた身近な匂いが鼻孔をくすぐり、次第に安心感に全身が満たされていく。

 ……いい匂いだな。

 強張っていた体が弛緩する。不安の種が土ごと取り除かれたようだった。

 

「ちょ、ちょっとレーツェル」

 

 少しばかり悪戯(いたずら)心が湧き上がり、すりすりと顔を左右に動かす。くすぐったがるレミリアの声が面白くて、余計に悪ふざけしたい思いを加速させた。

 甘い香りだ。俺の大好きな優しい匂いだ。

 あ、やばい。平静を取り戻したせいか、今の状況になんかテンション上がってきた。

 

「レーツェルぅ!」

「い、いたぁ!」

 

 頭がレミリアの両の拳に挟まれる。グリグリとされる中、心の中で「ギブッ! ギブッ!」と叫びながら姉の胸から顔を離す。

 なんとか解放されたところで力が抜けてバタンッと上半身が後ろに倒れた。ベッドに並んで座っていたので、そのまま寝転がる形になった。

 

「はぁ。レーツェルはたまに変なことするよね」

「ごめんなさい……」

「そんなに落ち込まなくてもいいよ。怒ってるわけじゃないし」

 

 そう言ってくれるなら幸いだ。

 ……でも、まぁ、ちょっと調子に乗りすぎたか。反省はしてる。後悔はしてないけど。

 

「でもね、レーツェル」

「うん、んぐ!?」

 

 ニヤリとレミリアの口の端が吊り上がったかと思えば、彼女が俺の胸に飛び込んできていた。

 さきほど俺がしていたように擦り寄られ――ついでとばかりに脇腹もくすぐられる。

 

「私にしたってことは、自分がされても文句は言えないよね」

「んむぅ! ひ、ひゃっへ! わ、わひ! わひはひゃめ!」

 

 あいにくとこの体は脇辺りがひどく敏感で、ツンと突かれるだけでもビクッと震えてしまうくらいなのだ。

 不意打ちのくすぐりに耐えられるはずもなく、ゴロゴロとベッドの上を転がった。

 

「逃がさないよ、レーツェル」

「みゃ、んう!」

 

 声が抑えられない。馬乗りでガッチリと体を固定され、さきほどよりもこしょこしょの勢いが増す。

 さ、酸素が。酸素が足りない。笑い声が小さくなるも、こそばゆい感覚が衰える様子はない。あいもかわらず体はピクピクと反応し続けている。

 やばい、なんだか視界が定まらなくなってきた。段々と全身から力が抜ける。

 

「……あ、やりすぎちゃったかな?」

 

 意識が遠のいてきた辺りでようやくレミリアの動きが止まり、ガクンと崩れて脱力した。

 

「レーツェル、大丈夫?」

 

 返事をする気力も体力もない。ゼーハーと息を漏らし、火照った全身を冷ますように空気を目いっぱいに口から吸いこむ。

 十数秒して、ある程度まで体力が回復したところで文句でも言おうかと口を開きかける。しかし、申しわけなさそうに俺の顔を覗き込んでくるレミリアを見てしまうと、文句なんて飲み込まざるを得なくなった。

 可愛いは正義。つまりはそういうことだ。

 返答は心配してくれる質問に対してのものにしようと思い、「大丈夫」と言葉に、

 

「だい、だ、だいじょ、だいじょう、ぶ」

「うん、大丈夫じゃないね。ほら、もうなにもしないから、もっと息を落ち着かせて」

 

 思っていたよりもよほど脇をコチョコチョとされたことが堪えていたらしい。レミリアは俺の体を起こすと、背中をそっと擦ってくれた。

 元々少しは回復していたこともあって息はすぐに整い終える。

 

「イタズラもほどほどにね。じゃないとまたくすぐるよ」

「うん……」

 

 ……『わからない程度の能力』でバレ(わから)ないようにイタズラできないかな。

 一瞬そんな思考が浮かんだものの、さきほど受けた仕打ちを思い出してぶるりと震える。しばらくはあんな息苦しい思いはごめんだ。やるとしてもくすぐられた時の感覚を忘れてからにしよう。

 最近は飛行訓練ばっかりだったし、久しぶりに能力の考察をしてみるのもいいかもしれない。

 

「お姉さ――」

『あ、ぅぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!』

 

 レミリアに近いうちに能力の強化を手伝ってもらおうかとお願いしようとした矢先、それは起こった。

 屋敷全体に響き渡る力の限りの甲高い女性の悲鳴。発した本人のすぐそばにいるのではないかと錯覚するほどの強烈な絶叫に、ぞわりと全身の鳥肌が立つ。

 咄嗟にレミリアと視線を交わし、まったく同時に立ち上がると部屋を飛び出した。

 

「お母さま……!」

 

 間違いなく今の叫び声は聞き慣れた母親のものだった。

 なくなったはずの、収まったはずの胸騒ぎがドクンドクンと早鐘を鳴らす。

 三歳と五歳児と言えど吸血鬼の走力は人間の比ではなく、十数秒のうちに母が出産を行っている部屋の前にたどりついた。

 ノックもせずにバンッと扉を開け放つ。

 

「あ、ぅ、ぐぅ……」

「「お母さま!」」

 

 それは目を疑うような光景だった。

 シートの敷かれた台の上に寝転がる母の全身には血管が浮き上がり、目玉は浮き上がり血の涙を流している。口の端から垂れる赤の水滴と付近にできた同色の水たまりを見れば、大量の血を吐き出していたことが嫌でもわかった。

 そしてなによりも注目すべきは、膨らんだお腹を貫いて――いや、透けて飛び出している異様な翼。

 茶色の長翼膜張筋腱から七色の結晶を吊り下げただけの、翼膜も羽毛もない翼かも疑わしいモノ。

 母の近くで目を見開いたまま呆然としている父と同じように、思考が止まり立ち竦んでしまう。

 

「レミ、リア……レー、ツェルも……です、か……?」

 

 母の絶え絶えの呼びかけにハッとなり、再び「お母さま!」と叫びながら二人して母のもとに近寄った。

 

「よか、った……最期に、あなた、たちの、声が……聞けて」

 

 間近で観察すると、その凄惨さがよくわかった。

 目は完全に焦点が合っておらず、口から出る言葉も途切れ途切れだ。痙攣しているようで全身が時折ビクリと震える。人間であればとっくに死んでいるほどの重症だった。

 

「最、期? 最期って、なに。お母、さま……」

 

 レミリアは呆けたように言葉を呟きながら、ゆっくりと母の顔へと手を伸ばす。

 

「ぎ、ぃぃいぁああああああ!!」

 

 そうして触れる直前、金切り声とともに母の口からゴボッと血の塊が溢れ出る。

 レミリアは、自らの母親の血がかかったその手を呆然と見つめていた。

 

「死、なないで……お、お母……さま……」

 

 人間も吸血鬼もない。ただの五歳の少女が、両親の耐えがたい姿を容易に現実として認められるわけがなかった。

 弱弱しく漏れる声に力はなく、その顔は悪い夢でも見ているかのように真っ青だ。

 ……なんだよ、これ。こんなの知らないぞ。原作の知識にない。こんなことになるなんて聞いてない。

 精神的には前世と合わせれば成人年齢にまで届くにしても、俺だって目の前の事実をそう簡単には受け入れられない。

 突如として違う存在へと生まれ変わり、友人関係も血縁関係もすべてがリセットされた。そんな中で、自分を愛してくれる両親という存在はかけがえのないものだ。なればこそ、その片割れが苦しむ様を、どうして冷静な目で見られようか。

 

「が、ふ……レミ……リア…………心配、しない……で。私が……私が、いなく……なっても、お父……さんが、います……」

「おい……おい! なにを勝手なことを言ってるんだ! 冗談でも最期の言葉なんて口にするもんじゃない!」

 

 母が呼んだことでようやく正気に戻ったらしい父が、弱音を吐く彼女に詰め寄りながら、そう叫ぶ。

 

「お願い……します……ね、お父……さん。レミ、リアを……レー、ツェルを……それから…………これ、から産まれて、くる……お腹の……中の、子…………ふふっ、たぶん……女の子…………かな? ……みんな……みんな、守ってあげて……くだ、さい」

「やめろ! もうしゃべるな! 約束したじゃないか! ずっと幸せに、なにがあっても家族全員で仲良く暮らす! あの言葉は嘘だったのか!?」

「あら、あら……なんて、言ってるのか……もう、よく聞き取れ。ません……けど……そんなに、怒らないで……くだ、さい。レミリアも……レーツェルも…………フランも……怖がっちゃいます、よ……?」

 

 明らかに無理をして作ったとわかる笑顔を張りつけて、母が俺とレミリアを見つめてくる。

 ――レミリア、あなたを十分に愛してあげられなくてごめんなさい。これからは長女として、私の代わりに二人を守ってくださいね。

 ――レーツェル、もう泣いてばかりじゃいけませんよ。今度はあなたがお姉さんになるんですから、きちんとフランの面倒を見てあげてください。

 

「逝かないで、逝かないで……お母さま……!」

「う、ぎぃ――」

 

 レミリアの悲痛な呻きに呼応するように、母がわずかばかりの悲鳴を上げた。

 そしてバタン、と彼女の全身から力が抜け、数瞬まったく動かなくなって。

 

「ア――――」

 

 ――パァン! と。この場に響き渡る破裂音。

 まるで風船を爪楊枝で突っついた時のように、母の肉体は膨らんだ腹を中心に呆気なく爆散した。

 簡単に。容易に。軽々と。

 

「おぎゃぁあああああああ!」

 

 血飛沫と肉片、ちぎれた臓器が飛び散った部屋中に、無邪気な赤子の泣き声が木霊する。

 頬を垂れる生温かい物質を指で掬ってみれば、それは白と赤が混ざり合った泥状の液体だった。

 弾けた母の目玉だと気づくのに、少しの時間を費やしてしまう。

 

「お母、さま」

 

 無意識のうちにこぼれ落ちた、懇願にも似た呼びかけ。

 『答え』はない。

 つい昨日まで感じていたはずの幸せの温もりは、そこら中を漂う異臭に紛れ、もう思い出すことは適わなかった。

 

 ――そうして三女フランドール・スカーレットは、自らの母親を身に宿る能力にて『破壊』することで生誕した。



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六.狂気の妹、偉大な姉

「フランドールは、館の地下に幽閉する」

 

 唐突に母の死を目の当たりにした子ども二人に、返事をする余力など残っているはずもない。

 反論する者はなく、宣言通りに三女フランドール・スカーレットは地下室へと入れられた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 ザァー、と館の外が騒がしい。

 真夜中の空は暗い雲が埋め尽くし、更には雨なんて降らすものだから、窓の外はひどく濃い闇に満ちている。

 人間ならば一寸先も見えないほどなのかもしれないが、あいにくと吸血鬼は夜の種族だ。暗闇などその視力の前には何の意味も為さない。

 まぁ、吸血鬼は流れる水の中(=雨の中)を歩けない体質なので、見えていても外を出歩けはしないのだけれど。

 

「レーツェル、どこに行くつもり?」

 

 振り向くと、咎めるような視線のレミリアが俺を見据えていた。

 

「別にどこにも」

「またフランのところに行こうとしてたのね」

 

 偉大な姉には嘘なんて通用しないか。観念した風に両手を上げて、「そうだよ」と肯定した。

 

「お父さまに会いに行かないように言いつけられてるでしょう? この前だってフランのところに通っていたのがバレて怒られていたじゃない」

「うん。でも、フランが待ってるから、会いに行かないと」

 

 俺は母が死んだ日より、中性的なしゃべり方を心がけることをやめていた。

 もともと何年も続けていただけあって定着しており、前世の話し方に戻ったというわけでもない。ただ単に「こう演じて話そう」と今まで考えていたものを取り払っただけだ。

 実際ほとんど変わっていないらしく、口調を意識しなくなっても父は特に気にも留めず、レミリアが「少し変わった?」と聞いてきた程度である。

 

「……レーツェル、わかっているの? あの子はお母さまを殺したのよ」

「強すぎる能力が暴走しただけで、フラン自身は何も悪くない。お姉さまだってそれはわかってるでしょ?」

「私が言いたいことはそうじゃない。あなたも、もしかしたらお母さまと同じようにフランに殺されるかもしれない……そう忠告してるの」

 

 大好きな姉の自分を心配してくれる心と行動が、ひどく胸を揺さぶってくる。

 レミリアに向けていた面が喜色を浮かべかけるので、すぐにそらして右手で隠した。

 

「ありがとう、お姉さま。私は、そんなに気にかけなくてもらわなくても大丈夫だから」

「レーツェル、あなたは」

「フランにだって幸せを享受する権利はある。それに私ももうあの子の姉なんだから、ちゃんと面倒を見てあげたいんだ。お姉さまが私に構ってくれたみたいに」

「……ずるい。そんな言われ方したら、言い返せないじゃない」

 

 大きなため息を吐くと、近寄って来ては俺の耳に口を近づける。

 

「あの子は確かに悪くない。私もそれは理解してるわ。けど……あの子はたぶん、不安定っていうか……どこか狂ってる。なんとなくそう感じるの」

 

 知ってるよ。そう口から出かけた言葉を飲み込み、小さくこくりと頷いた。

 フランドール・スカーレット。東方Projectの中でもかなり有名なキャラクターである。ほぼすべての人気投票で一〇位以内をキープし、時には姉であるレミリアさえも上回る人気を誇る。

 そんな彼女がただならぬ狂気を身に宿していることは周知の事実だ。当然、レミリアが五歳の時に生まれてくることもわかっていた。

 

「……はぁ。何を言っても行くのをやめるっていう選択肢はないみたいね」

「ごめんなさい」

「いいよ。その代わり、フランのところに行くなら私もついてくからね」

 

 顔を隠していた俺の右手をしっかりと握ると、レミリアは小さく微笑んだ。

 何度この笑顔に救われたか。そしてだからこそ、俺は二年経った今も後悔し続けている。

 

「あれ、この声……」

 

 レミリアが耳を澄まし始めると同時、すぐそばの部屋から二人の男女の声が聞こえてきた。

 わずかに開いている扉を二人して覗き込めば――今世の父と、その眷属である女性の二人がキスをしている場面が目に入った。

 眷属、つまりは仲間を増やす意志を持って人間へと吸血行為に及んだ場合に生まれる存在。

 

「……行こう、レーツェル」

「うん」

 

 レミリアに手を引かれ、そそくさとその場を去っていく。

 ――母がいなくなり、父はまるで空っぽな抜け殻のようになっていた。

 それでも彼女の最期の言葉は覚えているようで、人間を狩ってきては適当に調理して俺たちに食事として与えてくれていた。

 同じく母の死で傷ついていた俺やレミリアが父を慰められるはずもない。そんな中、彼を励ましてくれたのが狩りの時に出会った人間の娘だったという。

 心に空いた穴を塞ぐものを求めるように父はその人間に夢中になり、眷属にした。

 目の前で愛していた伴侶が惨たらしく我が子に『破壊』されたのだから、そうして心の支えを求めるのはしかたのないことだ。俺はレミリアとそう結論を出して、彼が遠ざかっていくことを許容した。

 

「……ごめんなさい」

 

 そんな小さな独り言は、何も為せずに空気に溶けて消えていく。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「あ、おねーさまー!」

 

 地下室と言っても、鉄格子やらコンクリートやらで埋め尽くされた暗鬱な内装というわけではない。構造的には一階とそう変わらず、せいぜいが窓を設置できないくらいか。そもそもとして紅魔館は日差しが入らないように窓はかなり少な目なのだが。

 俺とレミリアの来訪に気づいたフランドール・スカーレットことフランが、無垢に破顔する。

 金に近い黄の髪をサイドテールとし、その上に俺やレミリアとの例に漏れずナイトキャップをかぶっている。服は赤を基調とした半袖とミニスカート、胸元には黄色いスカーフを結び、足にはソックスと赤のストラップシューズを履いていた。

 吸血鬼の特徴である真紅の瞳はもちろんとして、背には一対の枝に七色の結晶がぶら下がった、骨組みだけの俺と比べても異様な形状をした翼。

 トテトテと近づいてきては、バッと俺の胸に飛び込んできた。

 

「……これはひどいわね」

 

 隣に立っていたレミリアが、部屋中に広がる惨状を見ては顔を顰める。

 人形、ぬいぐるみ、がらがらに、投げて遊ぶためのボール――その他の道具と呼べる物も、ほぼすべてが『破壊』された状態で転がっていた。

 乱暴に扱い過ぎたために外から崩壊しているものもあれば、内側から破裂したように中身をぶちまけているものもある。綿がそこら中に飛び散って原型をとどめないぬいぐるみもあれば、四肢がぐにゃりと歪んで原型をとどめない人形もある。

 全部が全部、今俺の胸の中で無邪気に微笑んでいる少女の手によって作り出されたという事実は明らかな異常だった。

 ――あの子はたぶん、不安定っていうか……どこか狂ってる。

 レミリアがさきほど発露していた言葉が頭を過ぎる。

 

「ごめんね。待たせちゃった?」

「ううん! まってた!」

 

 首を横に振って否定した後、まるで正反対のことを口にするフラン。『待ったと言うほどではなく、しかし姉が来ることが待ち遠しかった』の意だと推測する。

 甘えるように、ぎゅー、と吸血鬼の持つ力の限りに抱きしめられて地味に痛い。俺も吸血鬼で、フランが二歳児だからこの程度で済んでいるものの、本来ならば中身を撒き散らしたぬいぐるみのようにぐちゃりと潰れているはずである。

 相変わらずフランは手加減という言葉を知らないようだ。

 

「んー、昨日より散らかってるね。どうかした?」

「えっと、おねーさまいない、やることない……ちょっとさわっただけ、みんなこわれちゃう」

「なるほどね」

「おねーさま、こわれない?」

「大丈夫だよ。ちょっと痛いけど」

 

 ピクリ、とフランの眉が動いた。

 

「いたい?」

「……フランは気にしなくていい。私は絶対にいなくならないし、壊れないから」

 

 根拠もない無責任な言葉を言い聞かせながら、上目遣いで見つめてくる彼女の頭を撫でる。

 猫のように目を細めて気持ちよさげにする姿はひどく愛らしい。この場面だけを切り取れば、ただの甘えん坊の無垢な子どもなのに。

 

「でもフラン、前に言ったよね。物はあんまり壊しちゃダメだって」

「うー……でも、わたし、さわっただけ」

「それでも壊れたのは変わりないの。罰として、片づけが終わるまで遊んであげない」

 

 途端に涙目になるフランに、「大丈夫」と視線を合わせた。

 

「私もお姉さまも手伝うから、きっとすぐ終わるよ。お姉さま、手伝ってもらっていい?」

「聞く順序が逆だけど、断る理由もないからね。私だけ見てるっていうのも暇だし、喜んで手伝うとするわ」

「ありがとう。ほら、フランもお礼言って」

「ありがとー! レミリアおねーさま!」

「ふふっ、どういたしまして」

 

 そうして掃除が始まって、とりあえず一旦散らかったゴミをすべて集めることとなった。

 すでに大部分が壊れていることもあって、さしものフランでも一か所にまとめる作業でなにかを『破壊』することはなかった。

 早く遊びたいのか、一生懸命拾っては集めるフランを眺め、レミリアが優しげな微笑を浮かべた。

 ここ二年ほど見ていなかった彼女の穏やかな姉としての表情に、三年以上も前の記憶が出し抜けによみがえってくる。

 ――レーツェル、きょうはいっしょにねようか。

 

「……フラン、今日は一緒に寝る?」

「いいの!?」

「その代わり、ちゃんと掃除しようね」

「うん!」

 

 元気に駆け回るフランを横目に、寄ってきたレミリアが若干咎めるような視線を送ってくる。

 

「お姉さま、お願いしてもいい? 今夜だけでいいから、能力でお父さまの注意が私に向かないようにしてほしい」

「……はぁ。レーツェルには私の能力が効かないから、そういうお願いはちょっと難しいんだけど……久しぶりのあなたのお願いだもの。やるだけやってみる」

「ありがとう、お姉さま」

「どういたしまして。まったく、長女っていうのは大変ね。二人も妹の面倒を見ないといけないんだから」

 

 言いながらも、少しも迷惑そうにはしていない。

 ふと、そんなレミリアの姿を見ていて気がついた。

 俺がフランに対して取っている態度は、過去に俺自身がレミリアから受けていた姉としての対応を、無意識に真似ていたと。

 

「……うん、お姉さまは偉大だよ」

「長女っていう地位についての感想だったのだけれどね。褒め言葉として受け取っておく」

 

 そう答える彼女は頬に赤みがさしていた。

 

「……クス」

 

 素直に照れればいいのに。

 幸せだった頃の感覚をほんの少しだけ思い出し、昔みたいに彼女の未だ平べったい胸に飛び込みたくなってきた。

 あの甘くて気持ちのいい匂いをまた嗅いでみたい。

 

「さて。ずっとサボってるわけにもいかないし、ちゃんと手伝おうかな」

「そうね。手早く終わらせようか」

 

 今度、父とその眷属とも話をしよう。昔のようにとは行かなくても、ちゃんと親子としての交流を取り戻そう。

 偉大な姉の存在を噛み締めながら、なんとなくそう思った。



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七.かつて得た破壊の解答

 姉妹との就寝はいいことへの前触れでもあるのか、レミリアと一緒に寝た時と同じく、フランと寝床を共にした日より後は順調な日々が続いていた。

 最初に、父のもとへレミリアを連れて二年ぶりとなるしっかりとした会話を行い、なんとか仲違いを解消した。

 次に、いずれ義母になるであろう眷属の女性とも向かい合った。元が人間でありながら吸血鬼の父に入れ込むだけはあり、なかなかに胆が据わった人物だった。

 三年弱。それが父と元の仲を取り戻し、眷属の女性と互いに「家族になってもいい」と思えるようになったまでの時間である。

 

「レーツェル、お誕生日おめでとう」

「ありがとう、お姉さま」

 

 レミリアの部屋で八歳の誕生日を祝われて、喜色の混ざった声でお礼を言う。

 本来、吸血鬼……というか、この時代の者たちに誕生の日を祝う習慣なんてない。この世界の現在は西暦一五〇〇年程度の時世であり、数え年はあれど誕生日なんて概念はなかった。

 こうして祝ってくれるようになったきっかけは当然俺である。誕生日なんて存在を知っているのは俺だけなのだから当たり前だ。

 未だ今世の産みの母が生きていた頃に、レミリアが生まれた正確な日付けを聞いて「誕生日おめでとう」と、当日に俺が口にしたことから始まった。

 それ以来互いに祝い合い、こうして今年も気持ちよく誕生日を迎えられたというわけである。

 

「今日の未明が楽しみだね」

 

 そして去年に眷属の女性と誕生日を祝う習慣についての雑談をした時に「面白い」として、今年は誕生会を開いてくれることになっていた。

 先日迎えたレミリアの誕生日の時には試しとして小さな祝いの会を開いている。今回はより本格的なものに挑戦するらしく、人間の頃に作っていたオススメの料理をたくさん振舞ってくれるんだとか。

 

「あの人の料理は美味しいもんね。私も待ち遠しい」

「人間の文化もバカにならないってことか。今度、人里にでも降りてみようかな」

 

 吸血鬼は血以外のものを食事として必要とはしないが、嗜好品としてはいくらでも食べられる。

 俺は前世ではむしろそちらの方をメインとして食べていた。レミリアも自分の誕生日に料理を食べて「バカにできない」と感じたらしく、それなりに楽しみにしているようである。

 ……この館の料理は調味料として人間の血を混ぜているので、正直な話、吸血鬼以外が食べても美味しくは感じないが。

 

「私たちが人間の前に出ても、怯えられてまともに会話できないと思うよ」

「それにしては、お父さまが懇意にしてるあの眷属は何の警戒もなく私たちに対応してくれるけど」

「ああいう人間も稀にいるってだけの話。本当なら人間は未知の存在や敵対する強い力を本能的に恐れるものだから」

 

 暗闇とか幽霊とか人間だった頃は超怖かった。今は吸血鬼だからそういうものは逆に心地いいと感じるけど。

 

「ふーん。レーツェルは物知りだね」

「そもそもとして、人間って生き物は私たちにとって興味の対象である以前に食糧でもあるからね。私たち吸血鬼は結構有名で力もあるし、相対すれば『いつ襲ってくるかわからない』って恐怖で体を縛られて、ろくな会話も成立しないんじゃないかな」

「情けない生物ね」

 

 ひどい言い様だ。木を片手で持ち上げるだとか自動車を越える走力だとかを持ちながら、人間を食糧にする。そんな存在を恐れないはずがない。少なくとも前世の俺がそんな存在に遭遇すれば「あ、これ死んだな」と絶対に思う。

 

「大半の人間はそんなものだよ。例外もあるけど」

 

 元が人間だったからこその回答だったが、なんだか結果的に小難しいことを語ってしまった。

 その後は人間ではなく料理の方に話題が転換し、やがて館の鐘が鳴り響く。

 はた迷惑なことに紅魔館の鐘は真夜中だけに鳴る。現在は午前〇時、未明まではまだまだ時間があった。

 そんな折、コンコンと部屋の扉がノックされる。

 

「二人とも、いるか?」

「入っていいよ。どうしたの、お父さま」

 

 ガチャリと開き、姿を現したのは今世の父。かつての母や俺たちに負い目でも抱いていたのか最初の頃は態度がぎこちなかったけれど、最近はその堅さも抜けてきた。

 彼は部屋をキョロキョロと見回した後、「ここもダメか」という風に首を横に振る。

 

「いやなに、あいつが姿を消してしまってな。館中探してるんだが……」

 

 ここで言うあいつとは、あの眷属の女性のことだろう。

 

「部屋にもいないの? あの人は何も言わず勝手にどっかに出かけるような人じゃないと思うけど」

「ああ、館の中にいるのはほとんど間違いない。しかし、ここにもいないとなると……いったいどこに」

 

 しばらくそうして考え込んでいた様子であったが、ハッとしたように突然目を見開いた。唇をわなわなと震わせ、なにかを言おうとしては言葉にならない。

 首を傾げる俺たち姉妹に、焦点の合わない瞳で問いかけてくる。

 

「……お前たち、あいつにフランのことを教えたか?」

 

 ――その時湧き上がってきた感覚は、母がフランを出産する日に感じていた胸騒ぎと酷似していた。

 答えるよりも早く立ち上がり、父の脇を抜けて部屋の外へ体を投げ出す。

 レミリアの「待ちなさい!」という静止の声を無視して廊下を走りつつ、思考が高速で広がっていく。

 あの元人間の眷属は俺たちを産んだ母と非常に性格が似ていた。子ども好きで穏やかな雰囲気の女性。だからこそ父が入れ込んだのだろうし、俺たちも数年という年月で親しい関係を築くことができた。

 だからこそ、彼女が地下室に幽閉されているフランの存在を知った時――仮にそれが危険な存在だとしても、誕生会くらいなら参加させてもいいんじゃないかと、そんな考えに至るであろう確率は――。

 直接フランのことを話したりと言ったことは一度もしていない。しかし、妹の示唆するような発言を本当にしなかったか? 疑いを持たせるような語り方を本当にしなかったか?

 

「フラン!」

 

 地下室へ向かうための通路は迷路のような構造になっている。さりとて幾度となく通ってきた俺が道を間違えるはずもなく、最短の行路を駆けながら妹の名を叫ぶ。

 返事は、『答え』はない。

 杞憂かもしれない。いや、むしろ思い過ごしの可能性が非常に高い。いなくなったからと言って、ピンポイントに父の眷属である彼女がフランに会いに行くはずがない。この迷路を抜け切れるかもわからない。彼女がフランの存在に気づいているかもわからない。

 なのに、なんだよ。この胸騒ぎは。

 母が死んだ時もこんな感覚だった。確かに大丈夫なはずなのに、この手からこぼれ落ちる確率なんて雀の涙ほどしかなかったはずなのに。

 フランのいる部屋の前にたどりつくと、バンッとノックもせずに勢いよく扉を押し開けた。

 

「あ――――」

 

 ――そしてすべての歯車が狂い出し、禁忌の『答え』が顔を出す。

 部屋の一角が限りない赤に染まっていた。中央に立つフランの服はいつも以上に濃い色で、その白い頬や腕はところどころに絵の具を塗りたくったように赤が貼りついている。

 彼女の周りに飛び散る肉塊は――最早原型すらも留めていない、人かも犬かも吸血鬼かもわからない物体は、いったいなんなのか。

 

「お姉さま?」

 

 無邪気に首を傾げる彼女の足元に、あの眷属の女性がつけていた青い宝石の首飾りが見えた。

 飛び散った紅蓮の液体にまみれて、その輝きはすでに米粒ほども残っていない。

 

「なんで……」

 

 なぜ、どうして、なんでまた、どういう理由で、どういうわけで。

 ただただどうしようもない疑問だけが頭を過ぎる。答えの来ない問いだけが脳を占めた。

 いつもすべてが唐突に終わりを告げる。あまりに突然で、わけがわからなくて、なんにも悲劇を受け入れる準備も心構えもできてなくて。

 わからない。わかりたくない。俺はまた、

 ああ――――失敗した。

 

「――フラァァアアアアアアアアアアアアアアアンドォオオオオオオオオオオオオオオオル!」

 

 突如、隣から響いた空気を震わせる怒声。ほぼ反射的に目を向ければ、そこに憤怒の形相で自らの娘を睨む父の姿がある。

 大声に怯むフランの元へ、吸血鬼の脚力を以て一瞬にして詰め寄った。

 同じ種族と言えどたかだか五歳のフランが抵抗し切れるはずもなく、容易にその首元へ父の手が届く。

 目で見てわかるほどに強く握り締められて「か、は……ッ」とフランが息を漏らした。

 

「いつもいつも……お前がァ……! どうして、俺の血を引いたお前がァッ!」

「ぁ、ぐ……ぅぁ……」

「なぜ俺の幸せを奪う! なんでこうも俺の愛だけを無為に落とす! お前は、お前はァ! 俺が憎いのか!? 俺が何かしたって言うのか!? なんでだ、なんでなんだよ! 答えろ、答えろよ! フランドォオルゥ!」

 

 嘆きにも似た怨嗟の怒声。心の底から溢れ出た哀れなる悲しみが外に出て、娘の形をした化け物へと憤怒の感情を浴びせかける。

 首を絞める強さが上がったのか、フランが余計に苦しそうに呻き、やがて力が抜けたように手足をブランとさせた。

 それでも父は手を緩めない。地に彼女の頭を押しつけて、喉を潰すために更なる力を入れる。

 

「なにが最期の言葉だ! なにが守れだ! こんな、こんな化け物をどうして俺が……! お前は、ここでぇ!」

「お父さま!」

 

 俺や父を追いかけてきたのか、立ち尽くす俺を横切ってレミリアが父の元へ走り寄った。

 フランを殺そうとする父の手を止めようとするが、一〇歳になったばかりの彼女では明らかに力が足りない。

 

「だったら……!」

 

 レミリアは一旦二人から離れると、助走をつけて父へと体当たりをしかけた。

 重量が足りなかったのか、首を絞める手をはがしてフランから一メートル程度離れさせるだけに終わる。

 

「邪魔を、するな!」

「ぐっ!」

 

 振るわれた腕がレミリアを打つ。吹き飛ぶ彼女であったが、すぐに体勢を戻すと再び父のもとへ飛び込んだ。

 なにがなんでも妹を守ろうとするその姿は、母がいなくなっても父が豹変しても変わらない、憧れてやまない理想の姉の姿。

 その身にいくつもの痣を作り、血を流しながら父を止めようとする健気な彼女。

 ――そしてレミリアの願う運命は叶う。

 

「こ、の」

 

 明らかに意識が朦朧としながらも、フランの瞳は父の姿を捉えていた。

 開いた右の手を取っ組み合う姉と父に向け、ただ一言。

 

「……ドカーン」

 

 握り締めた瞬間、いつかの母のように父の肉体が内側から弾けた。

 まるで風船を爪楊枝で突っついた時のように、まるで体内の爆弾が起爆したように、呆気なく。

 血飛沫と肉片、ちぎれた臓器がレミリアの周囲に飛び散った。

 本人にもかかった肉の欠片を、呆然とした様子で掬い上げて、

 

「お父、さま……?」

 

 いつか誰かが発したものと同じ、懇願にも似た呼びかけ。

 『答え』はない。

 ついさきほどまで取り戻しかけていたはずの幸せの温もりは、そこら中を漂う異臭に紛れ、最早思い出すことは叶わない。

 ――――ああ。

 

「…………フラン」

 

 おぼつかない足取りで、自らの妹の元へ足を進めていく。

 血の海を踏みつけて、足やスカートにかかる血飛沫さえ気にも留めない。

 己の手が震える理由もわからぬまま、それを彼女へと伸ばして――。



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八.偽る狂気へ至るために

「お姉、さま……?」

 

 首を絞められていたせいで体に力が入らないのか、その口からは吐息にも似た小さな困惑の呟きしか漏れない。

 強く抱きしめた腕の中で、フランは弱々しく俺を見上げていた。

 

「…………どう、して」

「え?」

 

 うまく動かない喉を心の中で叱咤して、囁くように問いを投げる。

 

「どうして、お父さまを殺したの?」

「……今、私の首を絞めてた人のこと? 私にひどいことしたんだから、ちょっと仕返ししただけ」

「そっか。ならどうして、お父さまの眷属を……ここに迷い込んできた人を殺したの?」

「だってお姉さま、最近私に構ってくれないんだもん。あの人のせいなんでしょ? だからお姉さまが夢中になるなんてどんなのなのかなって、暇潰しも兼ねて遊んでもらっただけ」

 

 なんでもないことのように口を尖らせて告げる彼女に「そっか」と納得の返事をする。

 そうか。そうなるのか。結局全部、そうやって収束するのか。

 

「教えてくれて、ありがとね。今日はもう疲れたでしょう? しっかり眠って休んで、また明日……今度はちゃんと遊んであげるから」

「……ホント? いっぱい遊んでくれる?」

「うん。約束」

 

 小指を出すと、フランが不思議そうに首を傾げた。

 だから笑顔で教えてあげる。

 

「指切りげんまんって言ってね、小指を絡めて『絶対に破らない』って儀式をするの」

「面白そう!」

「だから、フランも指を出して」

 

 嬉しそうに指示に従い、絡み合った二つの小さな指。

 狂気に濡れる赤い海の上で、禁忌の契約を交わした。

 

「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ます」

「なにそれ」

「おまじない。これを言わないと儀式は完成しないの」

「ふーん。じゃあ、私も!」

 

 ――指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ます。

 吸血鬼はそれでも死なないけれど、きっと痛いだろうな。

 

「さぁ、今日はもうお休み、フランドール・スカーレット……」

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 地下室を出て迷路を抜けて、屋敷の廊下を歩く。

 頭が働かない。どうしようもなく思考がまとまらなくて、最早歩いているのか立ち止まっているのかもわからなくなる。

 ああ、俺はどうしてこんなところにいる。こんなに嫌な匂いの場所にいる。どうしてこんな――『答え』のない世界に。

 グラリと崩れていく視界。精神が感じている重圧に耐え切れなくて、体が勝手に倒れていくのがわかる。

 ああ、このまま地の底へ。どこまでも重力に従って沈んでいきたい。

 

「レーツェル!」

 

 そんな俺を床との衝突の寸前で支えたのは、今世の大好きな姉であった。

 やっぱり、君が俺を救ってくれるのか。

 他人事のように、色を失った世界にされど鮮やかな心の色が映る。

 

「顔が真っ青……レーツェル、少し横になりなさい」

 

 レミリアは、そう言って力の入らない俺をゆっくりとその場に寝かせていく。

 彼女もひどい顔をしていた。色んなことが一気に起こり過ぎて、何にも頭が追いついていなくて思考が麻痺しているような。

 

「ごめんなさい」

 

 だからこそ、いつものように小さくではなくて、しっかりとその言葉を告げられたのだと思う。

 ごめんなさい、ごめんなさい。あなたの幸福は俺が奪いました。全部、俺が悪いんだ。

 

「レーツェル……?」

 

 原作知識。

 フランが産まれるなんてわかってたのに。フランが狂気まみれなことだってわかっていたのに。

 いきなりこの世界に生まれ落ちて、混乱していて、だから与えられた幸せに縋りつきたかった。

 無意識のうちに目を瞑りたいと思っていた。いずれ訪れるかもしれない幸福の終わりから。

 母が死ぬなんて知らなかった。それでも、本当に予測はできなかったのか? あの優しかった両親が自分の娘を四九五年間にもわたって地下室に幽閉する理由を、どうして少しも想像しなかったんだ?

 答えは簡単だ。与えられた幸せに酔いしれていた。

 少しでも思慮を巡らせていれば、レミリアに運命を変えるようにお願いして、フランが狂気を宿さずに産まれる世界だって作れたかもしれない。フランが普通の吸血鬼として暮らせる世界にだってたどり着けていたかもしれない。

 未来を考えることから逃げていた。原作の知識が俺にあると知られることを恐れていた。知られて不気味がられることを恐れていた。その結果が、あの様だ。

 ああ、ごめんなさい。母が死んだのは全部俺のせいなんだ。未来を予測できる要素を持ちながら、少しも考えようとしなかった。だから俺が悪い。

 

「レーツェル、しっかりなさい。あなたは……いったいなにを考えているの……?」

 

 それを理解して、俺はその後の二年を父やレミリアに後ろめたい気持ちを抱えながら過ごした。

 罪の結果に産まれ落ちたフランを育てることが、俺が殺してしまった母へできる最後の償いだと思っていた。

 もう幸せなんて享受する権利はない。そう決意したはずなのに。

 甘かった。俺は、レミリアに救われてしまった。また皆で幸福を謳歌したいと願ってしまった。

 父と和解し、その眷属と仲を深め――結果としてフランを少なからず放置する形となり、それが理由で二人は死んだ。

 ごめんなさい。フランと付き合い続けると決めたはずなのに自分の幸せを追いかけた。それが今回の罪。妹と親しくしておきながら放っておいて、その結果になにが起こるかを考えもしなかった。だから俺が悪い。

 二回も失敗を繰り返した。経験から学ぶことができなかった。そうして再度『破壊』の『答え』を突きつけられた。

 フランじゃない。三人を殺したのは、嫌な想像に常に背を向けてきた俺なんだ。

 

「レーツェル、それ以上はやめなさい」

 

 結局、俺はただの『人間』だったというだけの話。どうしようもなく普通の『人間』だった。

 どんな小さな恐怖にも耐えられなくて、いつだって泣き叫びたい。

 親しかった三人を自らの過失で殺してしまっただけで、こうにも罪悪感と後悔に苛まれる。

 なにが『狂気の塊のようなものを平然と書き切れるキャロルという人物には畏怖を感じざるを得ない』だ。なにが『畏怖と同時に尊敬の念も抱いていた』だ。

 本気で狂気を恐れてなんかいなかった。狂気なんてものには憧れるべきじゃなかった。そう思う自分に酔いしれていたのか? バカバカしい。

 どこまでも愚かだった。本質を理解しようともせず、画面の向こうの出来事みたいにいつだって他人事で、わかったふりをして優越感に浸っていただけ。

 俺はなにもかもから逃げ続けて『答え』を求めることを忌避し、自ら『破壊』へ向かった。

 自業自得。恐怖が狂気を生み出し、狂気は俺の心に底なしの後悔を生み出す。終わりはない。

 

「レーツェル! しっかり私を見て!」

 

 もしも恐怖を克服することが『生きる』ことだとすれば、俺は死んでいると言ってまったく差し支えない。

 恐怖して怯えて、逃げて、失って、それでも逃げることをやめなくて、いつまでも失い続ける。

 なんてバカらしい。転生なんかしていない。死んだままじゃないか。

 俺が生まれ変わった意味って、いったいなんだったんだろう。

 ――指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ます。

 交わした呪いの契約が、俺の体と心を蝕んでいく。

 

「レーツェル!」

 

 ガバリ、と自分の体が強く抱き込まれたのがわかった。

 柔らかくて、甘くて優しい安らかな匂い。俺が慕う大好きな姉の胸の中。

 暗い海の奥底に沈みかけていたかけていた意識が浮上し、五感に意識が戻ってくる。

 

「大丈夫よ、大丈夫……あなたは絶対、私が守る。もう、あなたも休みなさい。疲れているんでしょう? 辛いんでしょう? だったら後は私に任せて、このまま眠って」

「お姉、さま……」

「あなたがなにを考えてるかなんて知らない。でも、レーツェルがどんな存在でも、私は絶対にあなたを拒絶しない。安心して、私はずっとあなたの味方だよ。苦しいなら、辛いなら、悲しいなら、後は全部私に委ねなさい。大好きな妹のためだもの、なんだって片づけてあげる。だから……」

 

 なにもわかっていないはずなのに、なにも知らないはずなのに、どうしてこうも心を癒す言葉を的確に言えるんだろう。

 やっぱり、君が俺を救ってくれるのか。

 甘えたい。逃げたい。委ねたい。また救われたい。

 そして、そんな弱い『人間』がどうしようもなく憎らしくてしかたがない。

 お前が殺したんだよ、あの三人を。

 

「――――レー、ツェル……?」

 

 レミリアの腕を抱擁を解き、両腕で突き飛ばした。この拒絶に、信じられないとでも言う風に俺を見つめていた。

 なにも答えずに足に力を入れて、フラフラとした足取りで転びそうになって、それでもなんとか立ち上がる。

 

「……ごめんなさい」

 

 そんなか細い声は、彼女に届いただろうか。

 俺は甘えちゃいけないんだ。委ねちゃいけないんだ。

 もうなにも失いたくない。もうなにも失っちゃいけない。

 二度あることは三度ある。されど、三度目の正直だ。

 逃げるな。背を向けるな。罪を償え。罰で贖え。

 もう、自分が大切だと感じる誰かを殺したくないんだ。だから。

 心から慕う大好きな姉、レミリアへ。どうかお願いします。

 俺を救ってくれてありがとう。だからもう二度と、俺を救わないでほしい。

 

「待って、レーツェル!」

 

 どこに行くかも定かではない思考でフラリと立ち去ろうとした俺の腕を、レミリアが掴んできた。

 強く力の入ったそれを今の俺が振りほどくことはできなくて、引き寄せてきたレミリアと自然と顔を突き合わせる形となった。

 

「あなた、自分が今どういう顔をしてるかわかってるの?」

「……わかんない」

 

 自分の顔に片手を添えてみる。

 どうやら俺はひどく悲しい顔で泣いているらしい。

 

「お願い、やめてレーツェル。そんな顔のレーツェルは見たくない。それ以上進まないで……それ以上背負わないで。それ以上は、あなたが壊れちゃう。あなたが狂ってしまう」

「でも、しかたないんだよ。それが『答え』なんだから。全部が全部、私のせいなんだから」

「違う! あなたは悪くない! 誰も悪くない!」

 

 きっと君は俺の真実を知っても、そうやって本気で言ってくれるんだろうな。

 それはとても嬉しいことで、それはとても歓迎したくないことで。

 だから君は今、俺を救えるんだ。けれど救済を受け入れてしまえば、絶対に俺はまた大切ななにかを失ってしまう。今度はその対象が君かもしれない。

 だから、ごめんね。

 

「私は大丈夫――――だってほら、もう泣いてないでしょ?」

「え…………?」

 

 レミリアが俺の顔を見たまま、目を見開いて硬直する。

 片手を顔に添えてみた。ほら平気だ。もう泣いてない。もう悲しんでない。

 なんにも感じてない、無表情。

 

「な、にをしたの……レーツェル……」

「ただ、能力を使っただけだよ。さっき、やっとわかったんだ。使い方」

 

 本来なら祝福すべきことなのに、この場にいる誰もがそれを喜ぼうとはしない。

 

「『答えをなくす程度の能力』……考えることから逃げ続けて、生まれた意味すら失っちゃった。狂気にしか行き場が残ってない私には、とってもふさわしい能力なんじゃないかな」

「レー、ツェル」

 

 ――そこは色のない箱の中だった。

 ――中央に、色のない箱がある。

 ――それを開けると、いつの間にかその箱の中にいた。

 ――いつの間にか体は縮んでいて、箱の大きさになじんだものになっていた。

 無限に続く心象の意味がようやくわかった。永遠に『答え』にたどりつかない、つまり『答え』がない。

 感情から生じる表情という『答え』をなくした。嬉しさも悲しさも、最早顔に出ることはない。

 だから俺が俺自身に気づこうとしなければ、もう誰も楽しんでいるのか悲しんでいるのか、苦しんでいるのか救いを求めているのかわからない。

 それはとてもいいことだ。俺の心は普通の『人間』だから、こうして抑えつけなきゃ――必死に自分を壊して狂わなきゃ、ここから先には進めない。

 俺を愛してくれた母と父とその眷属の死の責任を背負い続けるために。フランと付き合い続けるために。今度こそ大切なものを守り切るために。

 

「そうだ……喋り方も変えよう。お母さまみたいに敬語でも使おうかな」

 

 心を誤魔化し、飄々と適当に頭に浮かんだ提案をする。言葉を失っているかのように、レミリアからの返答はない。

 それを肯定と受け取って、偽りの笑顔を浮かべて小さく頭を下げる。

 なくしたものは感情から生じる表情。感情から生じない、作ろうとして作った顔ならば問題ない。

 

「改めて。よろしくお願いしますね、お姉さま」

 

 胸が痛い。再び海に溺れる意識はどうしようもなく冷たくて、張り裂けそうなくらい限界だった。

 きっと俺の心は今にも潰れてしまいそうなほどに悲鳴を上げている。それでも誰にも気づかれない、俺だって気づこうとしない。

 これでいい。こうじゃなきゃ、また大切ななにかを取りこぼす。

 人間よりも人間らしく、願いを。自分が無意識に大切だと感じるすべてのものを守りたい。

 妖怪よりも妖怪らしく、欲望を。自分が無意識に大切だと感じるすべてのものを守りたい。

 大好きだから。

 辛くても辛くない。悲しくても悲しくない。嬉しくても嬉しくない。

 俺の顔は『答え』を出さない。だから大丈夫。いつだって誤魔化せる。自分の心だって偽れる。

 大丈夫――――狂える。

 

「お姉さまとフランは、私が絶対に守りますから」

 

 あいもかわらず、『答え』はない。

 ごめんね。ありがとう。大好きだよ、お姉さま。



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九.こうして帽子屋は生まれましたとさ

 吸血鬼狩り――――。

 その話を聞いたのは、能力で表情をなくしてからすぐのことだった。

 父は紅魔館の主であり最強クラスの妖怪兼悪魔であった吸血鬼。周辺の妖怪や悪魔はその力を以て従えており、その内の一匹が「人間が吸血鬼狩りをしようとしている」という情報を持ってきたのだ。

 正気に戻ったレミリアは、まだ俺にいろいろ問い詰めたかった様子ではあったが、今は目の前のことに集中しなければならないと棚上げしたようだ。

 

「ところで、その……あなたがたのお父上は、どこに」

 

 低姿勢で窺ってくる狼の悪魔――人狼、あるいは狼男か。

 隣に顔を向けると、レミリアと視線が合った。

 

「……お父さまは今は手が離せないの。なにか用事?」

「いえ、そういうわけでは」

「用事はない、か。急に駆け込んでくるものだから一大事なのかと思えば、たかだか人間風情が攻め入ってくるだとかくだらない話だけ」

 

 赤い瞳を爛々と輝かせ、キッと強く睨む。

 

「私たち吸血鬼が人間なんぞに討たれるかも、と? 身のほどを知りなさい」

「も、申しわけありません」

「わかったのならさっさと去りなさい。ここはお前程度が長居していい場所じゃない」

「……はい」

 

 そそくさと立ち去っていく人狼を見送り、その気配が感じられなくなったところで二人して大きなため息を吐いた。

 

「あの人狼、気づいてたわね」

「……血の臭いですか」

「その話し方……はぁ、今は気にしないでおく。あいつらは鼻が利く悪魔だから、きっとお父さまの臭いだとわかったんだ。だからあんなことを聞いてきた。今はまだ疑いを持たれているだけだと思うけど……いずれ必ずバレる」

 

 歳が二桁に突入したばかりの吸血鬼一匹に、未だ一桁の同種二匹。それしか館にいないと知られた時の妖怪、悪魔どもの反応は容易に想像できる。

 蹂躙、復讐、下剋上。

 そしてなによりも、

 

「人間が攻めてくるって言うのも厄介です」

 

 いつか起こるであろうことよりも、まずは目の前のことに対処しなければ。

 父とその眷属がいなくなった途端の事態。明らかに偶然ではなく、人間側に千里眼に相当する能力持ちがいる可能性が非常に高い。

 今は人間たちにとって絶好のチャンスなのだ。厄介な大人が二匹ともがいなくなり、ろくな戦闘訓練も積んでいない幼い吸血鬼しか館に存在しないのだから。

 そして、きっと人間は昼間に攻め入ってくる。それも銀の武器を大量に持って。

 

「……今しかない、ってことね」

「私もそう思います」

 

 吸血鬼は日光を浴びると灰になってしまう。仮面を被って人間から変化する某吸血鬼みたいに一瞬で蒸発してしまうわけではないが、長時間日の下にさらされるのは得策ではない。

 人間は狡猾だから絶対にそこを突いてくる。弱点を嫌というほどネチネチと。そりゃもう全員が根暗男子のごとくネチネチと。

 ならばやられる前にやるしかない。夜が終わる前に、先にこちらから人里に攻め入る。

 

「でも、どう考えても厳しい」

 

 不意打ちで吸血鬼の全力の一撃を注げば一気に戦力が削れるんじゃないか。そんな考えも一瞬頭に浮かんだけれど、すぐに甘いとかぶりを振った。

 千里眼的能力を所有する能力者が人間側にいるのなら、こちらの不意打ちが読まれる確率も非常に高いことになる。太陽が出ている時に戦うよりは幾分かマシであろうが、この場合のデメリットとして敵陣に直接踏み込むという形になるのだ。

 罠がたくさんあるに決まってる。何度も囲まれるに決まってる。

 

「…………チッ」

 

 イライラとした様子でレミリアが舌打ちを吐く。それほどに厄介な事柄。なにもかも、父が生き残っていれば話は違ったのだけれど。

 吸血鬼とはありとあらゆる面において頂点に迫る力を持つ種族だ。天狗に迫るスピード、鬼にも届くパワー、数ある種族の中でも群を抜いて多い魔力保有量、頭以外を破壊されても一晩で回復する驚異の再生能力。他にも数多の特徴を持ち、悪魔の頂点に君臨する最強の妖怪種の一つ。

 人里が一つなくなるのはこちらにとっても少々問題にはなるけれど、もしも父が生きていればその魔力を以てして大量の悪魔を呼び寄せて攻め込んで、一夜にしてすべてが収まったはずである。

 俺とレミリアとフランしかいない現状ではそんな手は使えない。下手に手を借りようとすれば逆に俺たちのことがバレてしまうし、そうなれば下剋上ルート一直線なのでご遠慮願いたい。

 ならば逃げるか? これも絶対的にノーだ。蝙蝠の翼と赤の瞳は吸血鬼のトレードマーク、絶対に人間に感知される。それに夜の種族である自分たちが準備もなしに出て行って、ちゃんとした住居を得られなかった場合の未来は想像に難くない。きっと日差しの下で何度も人間や妖怪と戦うことになって、最悪そのまま野垂れ死ぬ。

 

「攻め込まれるのは当然却下として、むやみに攻め込むのも得策ではない。そうなれば残るは……遠くから大規模な魔法で一気に撃ち払うくらいね」

「お姉さまもそう思います?」

「人間風情を認めなきゃいけないのは悔しいけど、妖怪退治を生業にしてるようなやつらがたくさん集まれば、ろくに戦ったこともない私たちでは敵わない。だとすれば戦闘に持ち込まず、遠くから一方的に殲滅することが理想よ」

 

 この身に秘める吸血鬼の魔法力を用いて、遠くから人里を攻撃して滅ぼす。それが最善だとレミリアは言っているのだ。

 思い立ったが吉日。人間側に千里眼持ちがいるかもしれない以上、こちらの会話が漏れている可能性も常に頭に入れて行動しなければならない。対処される前に先手を打つ。

 

「フランはどうします?」

「……あの子はそのまま休ませておく。戦場に不確定要素を持ち込むのはあまり感心しない、ってお母さまもお父さまも言ってたから」

 

 フランも吸血鬼ではあるが、生まれつきの狂気のせいでいろいろと不安定なところがある。確かに今回の作戦には混ぜない方がいいか。

 

「そういうレーツェルも平気? 飛行訓練は頑張って結構上達してるみたいだけど、魔法なんて勉強してるところは見たことない」

「もちろんぶっつけ本番です。でも大丈夫ですよ。なんたって私はお姉さまと同じ吸血鬼なんですから」

「『根拠はないけどやるしかない』って言いたいのね。私一人だとたぶん力不足だし、手伝ってもらわなきゃいけないのはわかってるんだけど……」

「お姉さまがダメって言っても私はやりますよ」

「……そうね。素直に力を借りるとするわ」

 

 生まれて日が浅い吸血鬼、そのたった二匹による人里殲滅作戦。

 

「魔導書はいる?」

「初心者がそんなのを使い切れるとも思えませんし、いりません。この体に宿る大量の妖力と魔力に指向性を持たせて飛ばすだけにするつもりです」

「賢明な判断ね」

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 紅魔館のはるか上空にて、じーっと遠くの光を見つめていた。

 街までの距離は十数キロと言ったところか。目立つ障害物がなく、そこまで敷地が広くなさそうなのが幸いか。

 これだけ離れていても様子を窺えるとは、さすがの吸血鬼は視力も最高クラスらしい。

 

「行くよ」

 

 レミリアの指示に従って、並んで空を飛んでいく。これだけの距離から攻撃しようとしても外れる確率が高いし、確実に当てられるくらいまでは近づいておきたい。

 周囲の警戒に当たっていたために会話はなく、街まで残り数キロと言ったところで二人して宙に静止した。

 

「レーツェル、準備して」

「了解です」

 

 妖力と魔力を動かす練習は飛行訓練で嫌というほどやってきた。今回はその二つの力を表に出すだけ。魔法と言っても超簡単の超単純、ただの力の具現。

 

「要領は『光の翼』と同じ」

 

 スッ、と右手をゆっくりと突き出した。

 

「とりあえずありったけの力を出しまして」

 

 手の平を広げると、その上に力の限りを尽くして妖力と魔力の混合物を具現化させる。

 一瞬にして、そこらの一軒家くらいなら軽く飲み込んでしまいそうなほどに巨大な力の塊が出現した。

 

「……このまんまじゃでかすぎですね」

 

 だったら某白髪ベクトル少年のごとく、とりあえず圧縮してみよう。

 容量を減らすのとは違う。反発し合う磁石をくっつけようとするように、ゴムボールを押し潰そうとするように、とにかく内部のものを収縮させた。

 小さくしようとすればするほどに、それに消費する体力や妖力、魔力が量を増していく。

 あまり消耗し過ぎるのは好ましくないので、小型自動車一台程度の大きさになったところで圧縮を止めた。

 

「レーツェル。それ、全体の何割くらい?」

「七割と言ったところです」

「……寸前か」

 

 かなりの力を込めたけれど、試し撃ちはしていないので威力がどれほどのものかは不安が残る。

 ふと、レミリアの方を見れば、あちらも魔力を具現化させて高密度の球体を作り出していた。

 

「レーツェル、もう一度作戦を確認するわ。まずは街の主戦力が集まってるところにここから二人で全力の一撃を叩き込んで、一気に戦えるやつらの数を減らす」

「その後は消耗を抑えるために人間たちのところに突っ込んで直接戦闘。あまり無理はせず余裕を持って蹴散らせ……ですよね?」

「ん、その通り。気を引き締めるのよ、レーツェル」

 

 手の上に生成した力の塊を振りかぶり、戦える人がいそうなところへ適当に狙いを定める。

 目を細め、外れないようにして、気分は狙撃手。

 

「それじゃ――――消えなさい、人間ども」

 

 レミリアの言葉を合図に、膨大な力の塊を人間たちの街へと放った。

 加減もなく全力全開で撃ったそれは数キロ程度の距離など容易に詰めて、爆弾にも等しい二つの暴力は狙った通りの位置へと着弾した。

 直後、雷が落ちたかシャッターが切られたか、一瞬だけ視界が真っ白に染まる。見れば、小さな街というのもあるが、その面積の六割程度が俺とレミリアの攻撃により一気に抉り取られ消失していた。

 数秒後には、遅れて爆弾でも落ちたかのような――実際、それに類するものが落ちたのだが――轟音が耳に届く。

 

「先に行きますね、お姉さま」

 

 翼に妖力と魔力を流し込み、『光の翼』を作り出す。

 静止している今は安定して出せているとは言え、あまりに速すぎるためにコントロールは未だに適わない。けれど一直線に突っ込むだけなら何の問題もない。

 気分は弓に番えられた矢であろうか。吸血鬼の眼で人間が集まっている場所へと狙いを定め、翼の根元から一気に力を放出――ジェット機のごとき速度で瞬く間に目的地へたどりつく。

 当然、『光の翼』を制御し切れていない俺が地面への衝突を免れることはできず、全身を思い切り石畳の上に打ちつけた。

 大爆発、大音響。音速を超えた物質の衝突、そして音速を超えたゆえの衝撃波が着地した一角を滅茶苦茶にする。

 地面に埋まった頭をスポッと取り出して、かかった土を体を振って払う。

 見渡せば、ミサイルが落ちたと言っても過言ではない惨状が広がっていた。何十メートルにも及ぶクレーターの中心に俺は座っている。

 

「うん、ちゃんと能力は発動してますね」

 

 音を越えること、そして衝突によって怪我を負うという結果(こたえ)をなくした。土埃がついていたり衣服がボロボロになっていたりはしても、怪我は一切負っていない。

 衝撃をなくすこともできたけれど、それだとこうして周囲の破壊を行えないので怪我の『答え』だけをなくした。

 

「う、わぁ」

 

 立ち上がり、近くに誰かいないかなぁ、とクレーターの外に目を凝らしてみると、なんとも無残な光景がそこにある。

 俺が落ちてきて吹き飛ばされたであろう大量の人間が建築物の壁に激突し、一面の壁に血の絵画を描き出している。

 そうしてようやく、自分が初めて人を殺したのだという実感が沸いてきた。

 

「でも、大丈夫」

 

 心が震える? 目を背けたくなる? 忌避感を抱く? ノー、ノーノーノー。断じてそんなことはない。

 そもそも俺はこの世界で両親や親しくなった女性の死をすでに体験しているし、見知らぬ誰かの命が散ったところで知ったことではない。

 もし本心がそう思っていなくても、どうせ表情には出ないし、俺自身が気づこうとしなきゃ、それが真実になる。

 片手で顔に触れてみた。ちゃんと無表情だ。

 

「だから、殺せる」

 

 そもそもとして俺は最強の妖怪種、吸血鬼である。そこらの人間の命なんて気にする必要はない。

 あぁ――――胸が痛いな。

 

「ん?」

 

 バァン、と火薬の音。スンスンと鼻を利かせてみると、足元から顕著に臭いが漂ってくる。

 視線を下げれば、銀の弾丸がそこに埋まっていた。

 

「お前は何者だ」

 

 カチャカチャ、と背後からたくさんの銃を構える音。少々思考が長すぎたのか、いつの間にか囲まれていたようだ。

 振り返ると、予想通り十数人の人間が銃をこちらに構えて警戒を露わにしていた。

 

「銀弾を使ってるんだからわかってるんでしょう? 問う意味がないと思いますけど」

「……そんな翼の吸血鬼は見たことがない」

「私は自分より変な羽の吸血鬼を知ってますけどね。なんか七色の結晶がぶら下がってて、意外と綺麗なんですよ、アレ」

 

 バァン、と再度の発砲音とともに俺の横スレスレを弾丸が過ぎていく。無駄な話をするなとでも言いたいのか。短気なやつめ。

 

「そうですねぇ、強いて言うなら私は……あ、アレにしましょう。帽子屋」

 

 なんて名乗ろうか、と考えていた時に頭に浮かんだのは、生前気に入っていた童話『不思議の国のアリス』の登場人物であった。

 その名を帽子屋。"猫のない笑い"ことチェシャ猫から「気が狂っている」と称された二人のうちの一人であり、主人公であるアリスに「カラスと書き物机が似ているのはなぜ?」と『答え』のない問いを投げた経歴を持つ。見事にピッタリだ。

 まぁ、あんまり好きなキャラクターじゃないんだけど。

 

「"狂った帽子屋"。どうぞそうお呼びくださいな」

 

 芝居がかった口調で告げながら、スカートを摘まんでお辞儀でもしてみる。なかなか様になってるんじゃなかろうか。前世は男であったが、女として八年過ごしたので最早こういうことをする羞恥心は残っていない。残ってても表情に出ないけど。

 ふざけたことを、とでも言いたげに憤慨する人間たち。帽子なんて売ってないしね。そんな彼らに作り笑いを見せて、「さぁ!」と両手を大きく広げた。

 ――能力を行使し、銃弾で怪我をする『答え』をなくす。

 

「今宵は記念すべき"狂った帽子屋"の誕生日! 皆さんも盛大にお祝いしてくださると、私はすっごく嬉しいです!」

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 その日、一つの街が壊滅した。

 それを為したのがたった二匹の吸血鬼、それも一〇歳前後の生まれたてであったという驚愕の事実に、人間側は吸血鬼という存在の恐ろしさを再確認することとなった。

 その翌々月には数多くの妖怪と悪魔が紅魔館と呼ばれる吸血鬼の住処へと攻め入ったが、結果は惨敗となる。多くの者が"狂った帽子屋"を名乗る金と銀の髪を持つ幼き吸血鬼によって討たれ、やがてその名は光翼の悪魔として畏れられることとなった。

 長女こと紅魔館の主、"紅い悪魔(スカーレットデビル)"レミリア・スカーレット。

 次女こと光翼の悪魔、"狂った帽子屋(マッドハッター)"レーツェル・スカーレット。

 謎が多き三女、"悪魔の妹"フランドール・スカーレット。

 その地で代表すべき吸血鬼と言えば、まず彼女らの名前が挙がるであろう。




今話を以て「Kapitel 1.狂気は幸福のすぐ傍に」は終了となります。
周辺の妖怪が攻め入ってくる云々は、オリモブキャラたくさん出すことになってめんどくさいですし、なんだかんだで普通に無双で終わりそうなので、ざっくり全カットしました。

次話からは小話を挟みつつ紅魔館のメンバーを揃えていく「Kapitel 2」が始まります。「Kapitel 1」のごとき怒涛の鬱展開はありませんのでご安心ください。
ただし紅魔館メンバーの出会いに関しては不明な部分が多いのでオリジナル要素が多々含まれます。ご了承くださいませ。


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Kapitel 2.答えを探す数百年へと
一.吸血鬼たちによる球遊び


「あー、てすてす。我々は宇宙人でありますー」

「宇宙人でありますー」

 

 父とその眷属が亡くなってから、いったいどれくらいの時が経っただろうか。

 表情をなくした当初こそレミリアもいろいろとキツく問い詰めてきていたが、俺がほとんど相手にしないでいると、次第にその回数も減ってきた。俺が案外普通に過ごしていることも大きいのだと思う。

 現在、俺は地下室でフランとレミリアと一緒にゴロゴロと暇を持て余していた。

 フランはちゃんと構ってあげれば興奮しない限り狂気は現れず、ただの甘えん坊の可愛い妹だ。

 

「私たちは吸血鬼じゃない。あんな遠くに住んでもないし人間でもないわよ」

 

 そして、悠久を生きる妖怪にとって、時間という概念があまり重要ではないなんてことも最近ちょっとだけ悟ってきた。

 最初の十数年こそ俺たちを討伐しに来た人間やら、名を上げようと攻め入ってきた妖怪がたくさんいて退屈しなかった。実戦の経験を積めたし魔法の研究対象にもできたし万々歳であったわけだが、次第に幼いながらも確かな強さを持つ悪魔であることが知れ渡って挑んでくる数も減った。

 父のように周辺の妖怪やら悪魔やらを統治したりもして、この地の平和を約束する代わりに定期的に人間を提供してもらう契約も結んだ。つまり、無理に外に出て働く必要もない。

 そうして毎日毎日館の中で自由に暮らしていると時間の感覚も曖昧になってくるもので、気づけばどういうわけか八〇年の時が。本当に驚きである。

 そしてこれが不思議なことで、かなりの年月を経たのにも関わらず前世の記憶は色褪せることなく残っている。一応予想は立てており、『魂に刻まれた記憶』であるためだ。

 『魂』は便宜上そう呼んでいるだけで、『意識』だとか『自分』だとか言い換えてもなんら問題はない。

 本来なら記憶は脳に保存される。しかし俺は転生してもなお前世のそれを保持していた。脳が違うのに記憶が続いているということは、記憶が脳以外に格納されている可能性が高い。違う原理で記憶が保管されているのなら『忘却』が起こらないのも納得できる。

 

「やることないんですー」

「レミリアお姉さま、なにかいい案ないの?」

「ないわね」

「つまんなーい」

「そんなこと言われてもねぇ。私にはどうしようもないから」

 

 そして現在、俺は地下室にてレミリアとフランとともにゴロゴロと暇を持て余していた。

 ぶーぶーとレミリアに文句を垂れるフランは「つまんなーい」と口にしては手に持った変な形の棒を弄る。

 両方の先端がトランプのスペード型をした、グニャリと折れ曲がった黒い棒である。レミリアがフランに与えたものであるが、思わず「レーヴァテイン……」と俺が呟いてしまったのをきっかけにレーヴァテインと呼ばれるようになった。

 丈夫なことに、加減を知らないフランの筋力にも耐えられるらしい。暇な時は彼女はよくくるくると回しては遊んでいる。

 ……ふむ。回す、か。

 

「…………そうですね。卓球でもしましょうか?」

「卓球?」

 

 首を傾げ、フランが聞いてくる。

 

「人間がやるスポーツ、つまりは遊戯の一つですよ。簡単に言えば、ちっちゃい球を打ち合って落とした方が負けっていうルールです」

 

 今の時代に卓球があるかどうかは知らないが、俺の記憶にはあるんだから関係ない。道具にしても全部作ればいい。

 

「卓球は人間の遊戯ではあるんですけど、そもそもとして人間自身が反応できない速度で球が台の上を飛び交います。吸血鬼がやるなら更に速さは増すでしょうし、最近の運動不足も解消できると思います」

「なかなか面白そうな遊びね。レーツェルはその卓球って言うのが好きなの?」

「そこそこです」

 

 前世ではせいぜいが学校での体育の時限にたまにやらされていただけだった。それでも何十年も暇を持て余していれば全力で遊べる遊戯が欲しくなる。サッカーやバスケなどは大規模だし人数が揃わないとできないけれど、卓球は場所を取らず少ない人数でできるために打ってつけだ。

 とは言っても結局はフランが気に入ってくれればの話である。八〇年前に交わした呪いの約束は今だって有効。できる限り自分から幸せは求めず、フランのことを尊重する。

 

「お姉さま、卓球って楽しいの?」

「暇潰しに棒を振り回してるよりは楽しいと思います」

「それなら私もやってみたいなー」

 

 普通にノリノリだった。長く生きていると「面白そう」と感じたものは些細なことでも試してみたくなるものだ。

 よし、決まり。

 とりあえず木材を集めて、魔法を使ってそれっぽい道具に仕立ててみよう。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「うーん、このラケットっていうんだっけ? どうして二種類あるのかしら」

「なんだかちょっとだけ形が違うね」

 

 木材ではラケットのラバーと球が作れないことに気がつき、物質をゴム状に変化させる魔法がないかと、何十年か前に吸血鬼退治に来た人間が持っていた魔術書を読み漁っていた。

 顔を上げて姉と妹の様子を見てみれば、試作として形だけ作り上げた二種類のラケットをしげしげと眺めている。

 

「お姉さまの近くにある方がペンホルダーと言って、こう、フォークやスプーンのように持つラケットです。フランの近くにある方はシェークハンド、普通にぎゅっと握るタイプですね」

「ふーん。握り方が違うとなにか変わったりするの?」

「当然ながら打ち方と、得意な状況も変わります」

 

 卓球を実際にやったことは数える程度しかないけれど、知識だけなら読んでいた漫画や見ていた動画等の影響で多少はある。

 

「ん、これですか」

 

 パラパラと捲っていた魔術書をピタリと止め、物体の性質変化と書かれた一文に目を向けた。

 指定した物体の形状や性質を自由に変化させ、それを固定することができる。

 

「お姉さま、これ読めてるの?」

「読めますよ。鍵も見つかりましたし、たぶん大丈夫です」

 

 いつの間にか俺の手元を覗き込んできていたフランに返事をし、「さて」と立ち上がった。

 性質変化の魔法を行使するにしても、ラケットに直接使うとラケットそのものがぐにゃぐにゃになってしまう。

 薄い張りつける木版を用意して、色でもつけて、それに性質変化の魔法を付与してみよう。

 

「んー……ねぇお姉さま。今度、私にも魔法を教えてくれない?」

「もちろんいいですよ。いつでも言ってください」

「やった! ありがとうお姉さま!」

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 そうして制作に取りかかり、ゴム状にした木版をラケットに張りつけて『ペンホルダー&シェークハンド・ver1.0』が完成した。

 確かこんな感じだったかな、という具合に作ったので形は結構雑ではあるが、そこは実際にやっていくうちに使いやすく改良すればいい。

 それぞれの種類を三つずつ作り、レミリアとフランに一つずつ配った。

 台の前に立ち、表面がザラザラとしていないか確認する。

 卓球の経験なんてろくにない俺が台の長さなんて知っているはずもなく、こちらも「大体これくらい」と適当な面積で作り上げられている。ネットの部分は布を両端で縛っただけだ。高度に関しては、吸血鬼であるからか、はたまた妖怪という長寿な存在であるからか、俺たちは実年齢と違って一〇歳未満の子どもの姿でしかないため、それ相応の低さに設定してある。

 

「問題は球ですね」

 

 木版を丸めてみたり超薄い金属で球体を作ってみたりといろいろ試したが、すべてが惨敗だった。

 もっと軽く、しっかりとした球体で、中に空気が詰まっていなくては卓球の球みたいには跳ねないのである。

 物質を軽量化する魔法なんて使えないし、そもそも軽ければいいというわけでもない。完全な球体を作ろうにも性質変化の魔法は習ったばかりだし、中に空気を詰める関係で囲む物質はかなり薄くしなければならない。そんな精密な使い方はやれと言われても不可能だ。

 そもそもとしてピンポン玉は非常に軽い素材で作られているという話だし、木で同じような形のものを作り上げても代用できるかどうか。

 

「……うーん」

 

 木材はダメ、金属も当然ダメ、布では跳ねてくれない。

 いろいろなものを脳内でシミュレートしていく中で、不意に一つの考えが頭に浮かぶ。

 ピンポン玉じゃなくても、それっぽい跳ね返る球体なら問題ない。だったら、そういう性質を持たせた魔力の塊でもいいんじゃないか?

 妖力や魔力というものは自分の力そのものだから、ある程度までなら性質を操ることができる。

 思い立ったが吉日。早速体内の魔力を右手へと集め、手の平の上に弾力性のある球体を想像する。

 大きさは適当、密度は薄く、なにかに当たっても跳ね返る性質を強固に宿す。

 そうして生成された赤白い球体を、台の上に置いていたペンホルダーの表面で叩いてみた。

 

「あ」

 

 確かに狙い通りラケットに弾かれて飛んでいってくれた。しかし、重力が反映されていないせいで一直線に進んでしまう。

 地下室の壁に当たって跳ね返り、それがまた床に当たって跳ね返り、跳ね返り、跳ね返り、やがて消滅していった。

 ……あいにくと俺は重力の性質の宿し方を知らない。と言うか重力とは物質の持つ性質ではなく、もっとこう、根本的な部分にあるものだ。魔力が重さという概念を持たない以上、重力を宿すことはできない。少なくとも俺には不可能だ。

 さて、また手詰まりになった。どうしたものかと再び思考の海に沈もうとしたところ、「それよ!」と背後でレミリアが叫んでいるのが聞こえてきた。

 

「道具なんてラケット一つで十分じゃない! 人間の作ったままのルールで遊ぶより、魔力の弾を力の限りに打ち返し合う遊びの方が楽しそうだわ!」

 

 それだと台を作った意味がなくなるんですが、と思いながらフランの反応を窺ってみる。彼女が賛成しなければ始まらない。

 ……製作に力を注ぎ過ぎて実際の卓球ができていなかったからか、レミリアの提案を面白そうだと感じているようだ。

 それだけでなく、

 

「……魔力でできた弾を打ち返すのにラケットなんて必要?」

 

 そう呟いたフランの手には、グシャリと原型を留めていない二つのラケット。

 あぁ、フランのすぐに道具を壊してしまうクセを忘れてた。

 どうやらせっかく作り上げた道具類は、全部いらない子になってしまったらしい。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 その後、弾力性のある魔力弾を跳ね返し合ったりしていたのだが、全員が共通に「地味につまらない」という結論を出した。

 少しでも面白くしようと数を増やしてみれば、同時に弾が通り過ぎ去ったりで跳ね返し切れない。

 しかし、ふとした拍子に弾の一つがレミリアに命中し、そこで考え込んだ彼女による再度の「思いついたわ」発言。

 

「互いに弾幕を発射し合って、ぶつかった方が負けとかどうかしら」

 

 かくして、娯楽の一種として殺傷能力を下げた弾幕を撃ち合って勝負する"弾幕合戦"が生まれた。

 ルールは単純、当てれば勝ち。要するに雪合戦の弾幕版である。フランが加減できず超巨大弾幕を放ってしまったりとトラブルはあったものの、おおむね楽しめる遊戯が誕生した。

 ちなみにその後、卓球のことが俺たちの会話に上がることはなかった。道具類に関してはいつの間にか粉々になって地下室の隅に転がっており、近いうちに掃除を決行することとなった。



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二.魔法と破壊と人間と

※一部、魔法に関しての独自解釈が含まれます。


「この世でもっとも基本となる魔法とは、すなわち体内に宿る魔力を操ることです」

 

 魔導書――とは名ばかりの、魔法について解説されているだけの書物を片手に、真面目な顔で耳を傾けるフランへ魔法の講義をしている。

 レミリアはこの場にはいない。名を上げようとした妖怪が身のほども知らず館の門を叩いてきていたため、その相手をしている。一目見た限りでは到底吸血鬼には敵わなそうだったし、「たまには弾幕合戦以外の運動もしたい」とのことだ。

 

「ほとんどの魔法は、この魔力操作という原初の魔法から派生することで生まれています。"こんなことができるんだから、こういうこともできるんじゃないか"と、そんな数々の先人たちの考えのもとに研究が繰り返され、さまざまな魔法が開発されてきました」

「ほとんどの魔法ってことは例外もあるってことだよね」

「さすがはフラン、その通りです。日常で起こった偶然の出来事が、実は魔術的な作用によって発生していたなんてこともあります。それを解明することで生まれた魔法、そこから派生した魔法だってたくさんあるのですよ」

 

 言ってみれば魔法とは、練り上げられた特殊なエネルギーを組み合わせて奇跡を起こすということに他ならない。

 ずっと昔の人たちに言わせれば、木を擦り合わせると火が生まれることだって魔法だ。その解明の先にあるものが"化学"か"神秘"か、科学とはただそれだけの区別である。

 

「魔導書とはただの本ではなく、マジックアイテムの一種です。魔法使いやそれに準する者たちが魔法の使い方と秘密の鍵を記したものが魔導書なのです。師が弟子のために魔導書を書いたなんてことはよく聞く話ですね」

「鍵っていうのはなに? なんだか重要そうなものに聞こえるけど」

「魔法を行う上での絶対不変の真理です。魔力操作を例に取れば、操る行為そのものが使い方、操作しようとする意志が秘密の鍵と言ったところでしょうか。魔力を操作するのに鍵もなにもないんですけどね」

「へー。使い方だけわかってもダメなのねぇ」

 

 納得した風に呟くフランに頷いて、指を一つ立てた。

 

「魔導書にはいくつかのルールがあります。まず一つが、書いた本人と同等以上の魔法熟練度がなければ読めないこと」

「文字が書いてあるのに読めないの? どういう言葉かわかってても?」

「えーっと、ほら。お姉さまが弾幕合戦を提案した日に私が魔導書を読んでいたでしょう? あれ、読めましたか?」

「そういえばわけがわかんないぐにゃぐにゃした文字しか書いてなかった気がする」

「私には普通に読めていました。つまり、フランは本を書いた人よりも熟練度が足りなかったということになりますね。魔法を知らなかったのですから当たり前ですが」

 

 俺は人間の里に攻め入った日を境に、魔法の勉強や独自の研究もちょくちょくと行っている。熱中しているわけではないにしても、何十年何百年もそういうことを続けていればそれなりに魔導書は読めるようになった。

 真なる魔法使いとは寿命を捨て、妖怪と同じ悠久の時を生きている。だからこそ魔法使いには相当な熟練度の者も存在し、未だ俺が読めない魔導書も紅魔館にはたくさん保管されている。

 そういう自分が知り得ないことや憧れることを探求しようとする意志こそが魔法使いの原動力であり、その者の技量の限りを以て築き上げられた魔法への敬意を忘れないことが魔法使いとしての礼儀――と、手に持った本には書かれていた。

 

「魔法使いも最初から派手な魔法ばかり使えるというわけではありません。魔法の研究なんてものはフランが思っているよりもはるかに地味ですし、いろいろなことが総当たりだったり複雑だったりめんどくさかったりと根気が必要です。その苦労の結果として完成された美しい魔法が存在するんです」

「……お勉強ってあんまり好きじゃないわ」

「気が合いますね、私もです。しかし一度でも自分だけの魔法を作ってみたりするとやる気が出てきたりするものですよ? ああ、"これは私が見つけた私の魔法なんだ"って」

 

 簡単な魔導書を元に魔法の勉強をしたり、アレンジを加えて独自の魔法を作ってみたり、一から魔法を開発しようと試みたり。

 魔法使いという種族はその特質上、数が少ない。未だに発見、開発されていないものがたくさんある。だからこそ独自の魔法はそれだけで価値を持ち、魔導書として使い方と鍵を記せばなによりの財産にもなる。

 

「魔法使いも大変なんだねぇ。なんだか、習うのが億劫になってきちゃった」

「苦労して報われた時の達成感というのはいいものですよ。フランもそういうものを学ぶいい機会かもしれません」

「説教はきらいー」

「強要はしませんよ。もともとフランが進んで学ぼうとしてきたことですからね。魔法の練習も研究も、フランの気が向いたらでいいのです」

 

 口を尖らせる妹に、笑顔を作ってそんな言葉を投げる。

 じーっと俺の顔を見つめたまま沈黙する。かと思えば、数秒後には「やっぱりやりたい」と言い出した。

 

「私もお姉さまみたいに魔法を使ってみたいもん」

「……嬉しいことを言ってくれますね。フランならできますよ。なんと言っても私と同じ吸血鬼なんですから」

 

 なにせ吸血鬼はありとあらゆる面において頂点に迫る潜在能力を備えた最強種の悪魔だ。その身に眠る莫大な魔力と才能は並の妖怪と一線を画す。

 気がかりなことと言えば、フランの『手加減への無知』か。

 産まれて間もない頃は与えられた人形やぬいぐるみ等を触ろうと触らずとも片っ端から壊してしまい、かつて卓球をやろうとした時にも用意した道具を容易く破壊してしまった。それから成長した分だけ力も上昇しているため、抱きつかれた時とかは実は非常に痛かったりもする。

 コップが一定以上の水を許容できないように、ペンで文字を書く時に力を入れすぎると芯が折れてしまうように、精密さが必要な魔法も当然ながら存在する。フランが誕生してから一〇〇年以上――それでも手加減というものを会得できないのだから、いざ本気で実践するとしても相当な年月を消費することになるのは想像に難くない。

 

「唐突なことを聞きますが、フランは……意図せずして自分が物を壊してしまうことをどう思っていますか?」

「え? んー……私が壊しちゃう物って、全部お姉さまたちからもらったものじゃない。能力も使ってないのに、手に持っただけでぐちゃぐちゃにしちゃって……お姉さま、怒ってないかなって」

 

 フランは、手元にあるレーヴァテインをツンツンとつついたりしながら、後ろめたいことがあるように視線をそらしていた。

 物が使い物にならなくなったことによる喪失感などが口から出ると思っていただけに、彼女のそんな言葉と動作に目をパチパチと瞬かせてしまう。

 

「そんなこと、気にしなくたっていいんですよ」

「でも……」

「フランが壊そうとして壊したわけじゃないですし、私たちが勝手に与えたものです。ですから気負う必要はありませんし、私もお姉さまも怒ったりなんてしませんから、安心してください」

 

 フランが狂気を宿していることは確かだ。だけど今だけはそんなことはどうでもよく、大切な妹が自分に対して遠慮している事実がここにある。

 気づけば自然と彼女の頭に手が伸びていて、帽子越しにあやすように撫でていた。

 

「……だから壊したくないのよ」

「フラン?」

「いつかは自分の意志以外で物を壊さないようになりたいわ。もちろん、魔法だって習いたい」

 

 今度はしっかりと、まっすぐに俺の目を見つめながらの言葉。思いも寄らぬ語りに手が止まり、フランが若干名残惜しそうな顔をしたのが印象的だった。

 

「フランが望むなら、私にできることならなんでもしてあげますよ」

「じゃあ、お姉さまも手伝ってくれるの?」

「当たり前です。なんて言ったってあなたは私の妹なんですから」

 

 母と約束した。自分に誓った。そしてなによりも、フランにとっての俺が、俺にとってのレミリアになるように。

 俺が未来をきちんと見据えていれば、彼女だって狂気を宿して生まれて来ることはなかった。だからこそ幸せになる権利がある。それに、指切りのことだってあるのだ。

 

「お姉さまは、偉大だね」

「長女が一番偉大ですよ」

「私はレミリアお姉さまより、レーツェルお姉さまの方が好きよ?」

「嬉しいことを言ってくれます。ですが、館の主さまの前ではそういうことを言うのは慎んでくださいね。拗ねちゃいますから」

「レミリアお姉さまは子どもみたいなところがあるからねぇ」

 

 そんなことを話し合っていると、背後から「誰が拗ねるって?」と声が聞こえた。当人の登場である。

 ため息を吐きながら近づいてきたレミリアは、膝をつくと左右の人差し指でそれぞれフランと俺にデコピンをしてきた。地味に痛くて、フランと一緒になって額を手で抑えた。

 

「まったく、本人がいないからって二人して姉の陰口? 人望がなくて落ち込んじゃうわね」

「お疲れさまです、お姉さま。陰口なんかじゃありませんよ。お姉さまは可愛いって話をしていただけですから」

「それは褒めているのかしら? まぁ、悪い気はしないけど」

 

 ヘソを曲げていたので、ちょっとフォローしてみればこれである。恥ずかしいのか、頬がわずかに赤みを帯びていた。ちょろい。

 

「ちょろいね」

「フラン、そういうことは口に出さず心に留めておくべきことですよ」

 

 言葉にしてしまった妹を咎めると、レミリアがジト目になって呟いた。

 

「……あなたたちが私のことをどう思っているのかよくわかったわ」

 

 誤解だ、と言いたかったが、あながち間違いでもないので、すぐに否定の言葉が出せなかった。フランはそもそも弁解する気がないようで、ニヤニヤとレミリアを眺めていた。

 はあ、と再び大きなため息が長女から漏れる。変な妹を二人も持って大変だなぁ、なんて他人事みたいに思った。

 

「それで、攻め入ってきた妖怪との勝負はどうなりましたか? もしかして負けちゃいました?」

「そんなわけないでしょ、勝ったわよ。遊び過ぎたのか涙目だったけどね」

「お姉さまが?」

「相手の妖怪が」

 

 さすがに弄り過ぎたのか少しずつ不機嫌になってきているので、これ以上はやめておこう。

 フランにも視線でそんな意思を伝え、こくこくと頷き合った。

 

「掃除もめんどうだから、遊び終わったら即行で追い払ったわ。見逃してくれてありがとうなんて感謝もされたわね」

「なんだか哀れねぇ、その妖怪さん」

「あの程度の実力しかないのに吸血鬼に挑もうなんて考えるから悪いのよ。私たちは最強の……ああ、そういえば面白そうな噂も聞いたわよ」

「噂、ですか」

「人間の技術の……武術だっけ? それを身につけてる海の向こう出身の妖怪が、こっちに来て修行してるって噂。そこそこ強いんだって」

 

 妖怪という種族は人間よりもはるかに屈強なために、素の力で大抵のことはどうにかできてしまう。加えて互いに相容れぬ種族である。だからこそ人間の技術を身につけた妖怪というのは非常に珍しい存在だ。

 もしかすれば、と前世の記憶を探っていく。異国の、武術を身につけた妖怪。それもレミリアが持ってきた話だ。偶然と割り切るには条件が出揃いすぎている。

 おそらく、その妖怪の名は紅美鈴(ホンメイリン)。東方Projectにおいて、紅魔館の門番として登場したキャラクターだ。

 

「いつかは会ってみたいですね」

 

 バタフライエフェクトなんて言葉がある以上、俺がいることによって出会わない確率もないわけでもなかった。だからこそ余計に会いたいという気持ちが強くなる。

 

「前から思っていたんだけど、レーツェルは人間が好きなの? いろいろと人間に理解があるみたいだし、人間の技術を身につけてると言ってもしょせんはただの妖怪よ?」

「……そうですね。人間という生き物は一概ではそう簡単に語れないんですよ。いろいろな考え方をする人がいて、寿命が短いゆえに生き急ぐ。弱いからこそ工夫と努力を重ねる。弱者であるからこそ強者にはないものも持っているんです」

「つまり、好きなのよね」

 

 好きというよりも、前世が人間だったから親近感があるだけだ。けれど、気に入ってるのかと聞かれれば否定はできないか。

 妖怪とは生まれながらにして悠久の時が約束されている。だからこそ時間の概念が曖昧で、人間ほど生きることに忙しくなんてしていない。一部の妖怪は寿命が短い時の中で足掻くその姿を嘲笑う者もいるらしいが、そもそもとしてそれが人間という生き物だ。

 時間が有限であるからこそ生き急ぐ。弱いからこそ手を取り合い、幸せを求めて歩んでいく。

 

「……私にはできませんでしたからね」

 

 転生して、恐怖に屈したまますべてを失った。

 俺が人間にこだわっているのは、未だに前世に縛られているからなのかもしれない。

 人間らしく恐怖と向き合って生きることができたならば。未来と向き合い、三歳を迎えるまでにレミリアにフランの存在を教えることをしていたならば。

 

「お姉さま?」

「……なんでもありませんよ、フラン。魔法の勉強の続きをしましょうか。どうせなので、お姉さまも手伝ってくれませんか?」

「遊んできたばかりで疲れてるんだけどねぇ。でも、せっかくのレーツェルの頼みだしね。引き受けてあげるわ」

 

 とは言え、いつまでも過去を嘆いていてもしかたない。今ここでするべきは、俺を慕う妹に乞われたものを教えることである。

 魔法の解説書に目を落とし、どこまで教えたっけ、と文字を追う。

 右手を顔に添えて、それが無表情であることを確認しながら、俺は講義を再開した。



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三.答えをなくす程度の能力

※『答えのない程度の能力』→『答えをなくす程度の能力』へ変更いたしました。


 誕生日をどれほど迎えたのか。歳は百の位に二がつくほどのものとなったけれど、人間から見た俺の外見は一〇歳もなっていればいい方だろう。

 現在は晴天の昼間。人間にして見れば活発に活動すべき時間帯なのだろうが、吸血鬼にとっては就寝時間以外のなにものでもない。

 俺はやってくる眠気に耐えながら、ちょこまかと日差しを活用して動き回る侵入者の相手をしていた。

 

「チィッ! ならばこれで……!」

 

 吸血鬼が日の光が苦手であることは周知の事実である。同時にその圧倒的なまでの強さも知れ渡っているわけだけれど、やはり定期的に人間や妖怪が挑みに来たりする。日差しに弱いなら昼間に攻め入ればいいのでは? と考える輩は多く、夜よりも昼間の方が乗り込んでくる比率は高い。

 よって今回の出来事も特別珍しいというわけでもなかった。お相手さんは十字架やら銀弾を込めた銃やらを装備した人間がたった一人。よほど自信があるのか、単なるバカなのか。

 そんなお相手さんが懐から光り輝く水晶玉を取り出すと、ニヤリと口の端を吊り上げた。

 

「こいつには日の光が封じられている。苦手なんだろう?」

「んー……えーっと、なんですか? ごめんなさい、ちょっと眠くてボーッとしちゃってました」

「なッ! ち、余裕をかましていられるのも今のうちだぞ!」

 

 そう言ってお相手さんが手に持った水晶を振りかぶる。

 太陽の力が封じられている、か。別に日の光を浴びても一瞬で蒸発してしまうわけではないが、光が集約されているとすればちょっとだけキツイかもしれない。

 『光の翼』で一気に突っ込もうとも考えたけれど、よく見ればお相手さんは外へと通じる扉を背にしている。急加速で飛び込めば晴天の下へ体をさらすことになるか。

 ここまで思考したところで、口元を右手で隠して欠伸を一つ。吸血鬼になってから夜型の生活を続けてきたため、どうにも昼間は眠くてしかたない。

 

「とりあえず、これで」

 

 ひゅっ、と光る水晶玉が投げられると同時に魔法を発動する。体内に眠る魔力を一瞬にして脳内の式に当てはめ――直後、ズアァと玄関中の影という影が地を這って集まり始めた。

 水晶玉が地に落ちて壊れる寸前に、質量を持った闇がそれを覆い尽くす。

 なにやら一瞬だけ影が少しばかり白くなった気がしたけれど、それだけである。

 

「な、ん」

「ちまたでは私は光翼の悪魔なんて呼ばれてるみたいですけど、ちゃんと夜の帝王らしいこともできるんですよ?」

「ば、化け物!」

「失礼ですね。その通りです」

 

 影にお相手さんを飲み込むようにと命令の術式を放つ。日の光の下へ逃げようとしていたみたいだが、それを実行するよりもはるかに速く影が彼の脚にまとわりついた。

 

「やっぱり昼間は効力が弱いですねぇ。もっとたくさんの闇がないと魔力消費量と釣り合いが取れません」

「ひっ! た、助け――」

 

 影がお相手さんの全身を埋め尽くしたところで、捕食の命令を下す。

 妖怪はうまく倒せば死体すら残さず消滅してくれるけれど、人間はどう殺しても贓物をまき散らして、やがて腐らせる。だからこそ影の魔法が有用なのだ。

 影の魔法――周囲の闇を集約させて質量の塊を作り、それを操る魔法――は取りついた相手を丸ごと飲み込んで同化させることができる。つまり相手の存在そのものを影へと変えてくれるため、掃除の必要がなくなるのだ。非常に便利である。

 

「解除、です」

 

 捕食が終わった辺りで操作の術式を解くと、蠢いていた影がスゥーと幻のように地に溶けて消えていった。

 さきほどまでの戦闘の名残などどこにもなく、ただそれだけで静寂がこの場に訪れる。

 

「……『影を操る程度の能力』とか、名乗ってみてもいいでしょうか」

 

 なんて呟いてみるが、ぶっちゃけ影の魔法は掃除用に開発した魔法である。戦闘に転用したのは今回が初めてであり、そんな能力を名乗る気もさらさらなかった。

 

「レーツェル、お疲れさま。いい魔法だったわ」

「……お姉さま、見ていたんですか? 助けてくれたらよかったのに」

「余裕で撃退してたじゃない。それに、たまには長女だって休んでみたいものよ」

 

 振り返ると、パチパチと拍手をしながらレミリアが近づいてくる。

 本当のことを言えば、彼女の存在には気がついていた。日の光が込められているという水晶玉が投げられた時は背後で感じ慣れた魔力の高まりも察知したし、俺が影の魔法を使わなければレミリアがどうにかしていたはずだ。

 

「そうですか」

 

 適当に納得の声を発しながら、彼女を上から下まで眺める。

 若干の寝癖があったり、ナイトキャップが斜めになっていたり、服がずれていたり。セリフ的には結構前から戦いを見ていたという雰囲気ではあるが、実際は戦闘の音を聞いて慌てて駆けつけてきたのだろう。

 自分のありさまにも気づかず堂々と歩んでくる彼女は、あいかわらず妹思いの偉大な姉である。

 

「しかし、やっぱり昼間に攻め入られるのはとてもめんどうですね。眠たいです」

「んー、それもそうねぇ。それなりに力があるやつならともかく、今回みたいに弱い力しか持たないやつらのためにいちいち起きるのも億劫だし」

「昼間、大したことのない侵入者くらいなら簡単に撃退してくれるような人材がいたりすると助かりますね。護衛……というよりも、門番みたいな存在でしょうか」

「そういえば、結構前に話題にした……なんだっけ。あ、そうそう、武術を扱う妖怪? アレって主に昼間に活躍してるんだってさ。最近はこの辺りを拠点にしてるって話だから、探し出してスカウトなんてのもいいかもしれないね」

 

 そこまで言って、ふわぁ、とレミリアが大きな欠伸を吐いた。

 

「……なんにせよ、考えるのは全部一度寝てからにしましょ。さすがに真昼間は眠いから」

「そうですね。健康にも肌にもよくありませんからね」

「早寝早起きが自慢なの。昼間に起きているなんて好ましくないわ」

 

 こういうところが吸血鬼の不便なところか。日光やら銀やら炒った豆やら、最強の種族であるはずなのに弱点が多い。生半可な攻撃なら自前の再生能力を以て即座に回復してしまうが。

 レミリアとともに玄関に踵を返し、自室へと足を進めながら、不意に思う。

 ――俺の能力なら吸血鬼の弱点を全部消せるんじゃないか?

 

「…………」

 

 今世の父と眷属の女性が亡くなった日、俺は自身に宿る能力の本質に気がついた。

 すなわち『答えをなくす程度の能力』と名づけた力のことなのだが、これが扱いづらくてしかたがない。

 ここで言う『答え』とは、つまりは『結果』のことだ。

 この世に起こるすべての現象は、無数の事象を繰り返すことで存在している。『リンゴを食べる』という動作を一つを例に取ろう。

 リンゴを手に持つ人物が『食べたい』という意思を持ち、それを脳が受け取って腕を動かした。一つ目の事象。

 その人物がリンゴを口に含むことで、リンゴという存在の一部を削り取った。二つ目の事象。

 リンゴの味を舌で掴み、脳に感覚が伝うことで『美味しい』という感想を抱いた。三つ目の事象。

 ちょっと考えるだけでも、これだけの事象から成っていると定義できるし、もっと細かく分けることだって可能だ。

 もしも二つ目の事象をなくしたならば『口に含むことでリンゴを削り取る』という結果には絶対に至らない――そういう『答え』自体が存在しなくなる。もっとも、リンゴを食べられないようにするだけなら、そこまで細かく定義しなくても『その人物がリンゴを食べる』結果をなくせばいいのだが。

 要するに俺の能力とは、つまり現在と未来に存在し得るありとあらゆる事象を――『答え』をなくすこと。始まりと過程を残し、結果という『答え』だけを無へと変える力なのだ。

 この能力をうまく行使できれば、おそらく俺は吸血鬼の弱点をほとんど克服することができる。日の光によって灰になる『答え』をなくしたり、炒った豆で皮膚が焼ける『答え』をなくしたり。

 しかし、

 

「レーツェル、立ち止まってどうしたの?」

「なんでもありませんよ。眠くてちょっと足が止まっただけですから」

 

 すぐに首を横に振って、そんなくだらない提案を掻き消した。俺はレミリアの妹、フランの姉、吸血鬼レーツェル・スカーレットだ。それ以外の何者でもない。弱点だからとなくしてしまえば、俺は吸血鬼ではない別のナニカになってしまう。

 かつて日の光を浴びていた人間としては太陽を克服したい欲求がないわけではないが、レミリアたちと一緒の存在でありたいという思いの方が強いのだ。よって弱点をなくすのはボツ。心の中のゴミ箱にでも投げ捨てておこう。

 それに、俺の能力にだって欠点はある。

 現在と未来に存在し得る『答え』の有無を司る能力と言えど、過去に終わった現象は――すでに完全なる終結を迎えてしまった事象は覆せない。

 つまり、怪我を負うという『答え』はなくせても、傷ができた後に"怪我を負った"という『答え』をなくすことは適わないのである。

 あくまでも『答え』を切り取る能力であり、『答え』を再定義する能力ではないのだ。

 他にもいろいろと制約は存在する。

 己が関係する事象ならば自在に消滅させることができても、周囲の物だけが作用して起こる事象においては有効範囲がきちんと存在する。

 自分以外の意志を持つ何者かが直接的に関係した事象の場合、有効範囲に拘わらず、その何者かに触れなければなくすことはできない。

 なくそうとする結果をしっかりと自分自身が認識していなければ能力が正しく発動しない。

 いろんな攻撃で怪我を負う、みたいに定義が広義的すぎてもダメ――などなど。

 完全無欠な能力などありえない。ありとあらゆる事象を問答無用で掻き消す一見凄そうな能力であろうと、それは例外ではないのである。

 

「むぅ」

 

 まぁ、そんなことよりも今はさっさと布団にもぐって眠気に身を任せたい。吸血鬼という種族の事情も考えない無礼な侵入者のせいで寝不足なのである。

 自室へと足を進めながら、右手で口元を隠して再度欠伸を一つ吐いた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 数日後、俺たちが統治する地の妖怪が助けを求めて紅魔館に転がり込んできた。

 事情を聞くところによると、どうやら、変な服装と舞を踊る異国の妖怪が侵略のために乗り込んできたとのこと。

 俺たちが周辺の妖怪と結んだ契約は食糧を提供させる代わりにこの地の平和を守ってやるというものだ。周りが対処できないというのならば、吸血鬼が直接出向くのみ。

 もっとも、レミリアは話を聞いた時点から乗り気ではあったけれど。



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四.大地を踊る虹色の龍

 日は完全に沈み、天では星々を黄金の輝きを宿す三日月が治めていた。

 場所は森の中。俺とレミリアは助けを求めて来た妖怪に案内され、この地に乗り込んできたという異国の妖怪のもとへと足を進めている。

 

「レーツェル、本当に一人にしてきてよかったの?」

「お姉さまは心配しすぎなんです。私たちの妹ですよ? 留守番くらいちゃんとしてくれますよ」

 

 この場にフランは連れて来ていなかった。不確定要素が多い外では、いつなにが原因で彼女が刺激されるかわからない。感情が高まると少なからず狂気が顔を出すし、そうなれば『破壊』をまき散らす大惨事になりかねないのだ。

 もっとも、フランが地下室を出ようとすること自体が基本的にないのだが。

 

「それよりお姉さまはもっと気を引き締めてください。遠足気分の小学生みたいな顔をしてないで」

「よく意味がわからなかったけど、なんとなくバカにされてるのはわかったわ」

 

 いつかのごとくレミリアが額にデコピンを繰り出してくる。ヒリヒリと、やっぱり地味に痛かった。

 俺がフランではなくレミリアについて来たことには、もちろん理由がある。言ってしまえば、異国の侵略者云々が今俺たちを案内している妖怪の罠である可能性が捨て切れないからだ。

 今は吸血鬼の力が完全に発揮できる夜中なれど、道筋はすべて目の前の妖怪が決めているものだ。この辺りの妖怪は全面的に俺たちと対立した結果として敗北し、契約を結んだ。よって吸血鬼の力も身を持って知っているのだ。だからこそ、それらすべてを踏まえた上での罠が仕掛けられている可能性を警戒している。

 レミリアに話せば、心配しすぎだと笑われてしまうだろう。しかし、俺があの日に立てた誓いの一つは『二度と大切なモノを失わない』ことなのだ。一度嫌な想像が膨らんでしまった時点で、ついていかないという選択肢は存在しない。

 それに、留守中にフランを狙われることも考えて、地下室へ向かうまでの道に大量の魔法トラップも仕掛けておいた。影による拘束魔法やら高熱光線を放つ魔法やら。フラン本人のもとへたどり着けたとしても、彼女には吸血鬼の潜在能力に加えて『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』なんて反則級の力も備えている。準備は万端、抜かりはない。

 

「つきました。ここです」

 

 そう言って、俺たちを案内していた妖怪が道を譲るように横へ退く。ろくに警戒することもなく歩き出したレミリアに、いつでも能力を発動できる状態にしながら、遅れないようについていく。

 そこは、広場とも言うべき森の一角の開かれた場所であった。空を遮っていた枝をすべて取り払い、天の明かりを完全に受け入れている。

 その中心で多くの妖怪が集まってざわめいていたのだが、俺たちが来たことに気づくとゾロゾロと勝手に左右へ移動し始めた。自然と一本の通り道が生まれ、姉と二人して騒動の原因と向き合うことになる。

 どうやら罠ではなさそうだ。

 

「えーっと、あんたがたがこの辺を治めてる妖怪なのー? ……って、子ども?」

 

 そこにいたのは、人間換算で十代後半ほどの身長を持つ女性だ。チャイナドレスのような、よく見ればそうでもないような淡い緑色を主体としたおかしな服と帽子を身につけ、赤めの髪をストレートに、側頭部は編み上げて垂らしている。

 青みがかった灰色の瞳は、妖怪の群れを分けて現れた俺たちに明らかな困惑を映していた。まぁ、見た目は子どもだけど中身は二五〇歳児くらいだよ。

 

「失礼なやつね。私たちは夜の帝王、この地を治める吸血鬼だ。侵略しに来たんだって? ずいぶんと舐めた真似をしてくれるじゃないか」

 

 ふんぞり返り、高圧的な視線と口調になるレミリア。

 やる時はやる子とは我が姉のことだ。外面を気にしなきゃいけなかったり自分を見下してくる相手がいたりする時は、こうして彼女は『夜の帝王』となる。外見が外見だからあんまり怖くないけど。

 レミリアのセリフに更に困惑を深めた様子である相手の女性妖怪は、「勘違い! 勘違いなのよ!」とブンブンと首を横に振る。

 

「ちょっと体を動かしたい気分になって、手合わせしてもらおうとちょうどよさそうなのに勝負を申し込んだのよ。そうしたらなんだかたくさん集まって来て、どんどん勝負を挑まれて……果てに侵略やらなんやら言われちゃってるってだけで」

「そんなことはどうでもいいわ。お前が騒ぎの中心であることは変わりないんだから」

 

 バッサリである。がくり、と女性妖怪が肩を落とす。

 

「うーん……見逃したりはしてくれないかなぁ」

「……この吸血鬼を前にしても、その余裕は崩さないんだねぇ」

「だって完全に子どもだからなぁ。それに、これは余裕じゃなくて諦めというものよ」

 

 そうして偉そうに胸を張る彼女から、どことなくアホっぽい雰囲気が感じ取れた。どうリアクションを返したらいいものか。

 微妙な気持ちで唸る俺をよそに、レミリアは「そうねぇ」と面白そうに笑みを深める。

 

「私との一騎打ちで、一回でも地面に手をつかせたら見逃してあげてもいいよ」

「さすがにそれは私を舐めすぎじゃ……いくらあなたがここらの妖怪を全部従えるくらい強くても、武術を身につけた私を相手に――」

「黙りなさい、人の(すべ)に頼らねば生きていけぬくせに。そんな程度の力しか持たない妖怪に、この私が地に肌をつけるわけがないわ」

 

 傲慢とも取れるそんな言葉も、同時に放たれた膨大な魔力の波に飲まれれば、本気でそう思っているのだと嫌でも感じ取れてしまう。

 ピリピリと空気が痺れていた。周囲の妖怪が震えているのがわかる。対峙する女性妖怪も、ビクリと一瞬肩が跳ねた。

 ……あぁ。レミリア、子どもって言われたのちょっと根に持ってるな。

 

「ハッタリじゃない、か……わかった! その勝負、受けて立つ!」

 

 それでも怯えるでもなく、むしろビシィと逆に指さえ向けてくる女性妖怪。レミリアが初めて「ほう」と感嘆の息を吐いた。

 ザッ、と互いに一歩を踏み出す。

 

「いい度胸ね。お前、名前は?」

紅美鈴(ホンメイリン)よ。そういうあなたは?」

「レミリア・スカーレット。この地を治める誇り高き貴族よ」

 

 二人が名乗りを上げ合う。一目見た瞬間からほぼ確信していたけれど、やはり相手は美鈴か。

 俺を置いてけぼりに話が進むものだから、やっぱりついてこなくてもよかったかなぁ、なんて思う。

 とりあえず巻き込まれるのは嫌なので戦闘の被害が来なさそうな位置までススッと下がった。

 

「武術っていうのは地上での戦闘を前提に作られてるんだっけ? ハンデをやるわ。私は空を飛ばない」

「凄い自信だなぁ」

「自信じゃないわ、確信よ。お前は自分の土俵であろうとも決して吸血鬼には敵わない」

 

 見る限りでは、美鈴は妖怪としての格はそこまで高くはなさそうだった。しかしレミリアを前に取った構えは素人目から見てもずいぶんと洗練されたもので、一瞬美鈴そのものが凶器なのではないかと錯覚してしまうほどだ。

 人間よりも強き肉体で人間が生み出した武術を人間以上に長く続けた妖怪。妖怪としての格だけではその強さは測れないということなのかもしれない。

 それでもまともに戦ったならレミリアが負けるとは到底思えないけれど、地上戦に限定した上に、手を地につかないなんてハンデ。さすがに少し厳しいか。

 

「……お姉さま、がんばってください」

「ふふっ、ありがとう」

 

 大丈夫か。なにせレミリアだ。俺は妹として姉を信じて応援していればいい。

 広場をピリピリとした緊張が支配する。数瞬、数秒、十数秒。レミリアは余裕を映した表情ながらも、その目ではしっかりと相手の動きに注視していた。ハンデをやると言っても舐めているわけではない。

 先に動いたのは美鈴の方だった。レミリアに自分から動く気がないとわかったのだろう。

 ダンッ――と彼女の足元の地面が抉れる。一瞬にしてレミリアの眼前まで迫り、右の拳を引き絞る。周囲の妖怪には消えたように見えただろうほどの速度での移動だった。

 それでも吸血鬼の動体視力ならば捉えることができる。レミリアは繰り出された拳を左手で受け止めた。その衝撃は彼女を通して大地まで伝わり、近くに生えていた草が散り飛んでしまうほど。

 

「ハッ――」

 

 即座にレミリアの反撃。お返しとばかりに右手で握り拳を作り、吸血鬼の力が凝縮された一撃を放つ。

 美鈴は左の足先を中心に体を右に半回転させ、半身になって紙一重で避けて――そこから更に流れるように肘打ちを打ち出した。流れるような動作であったが、ギリギリでレミリアも反応する。バッ、と即座にその場を飛び退いた。

 ――それとほぼ同時に美鈴もレミリアに追随して迫り、両腕を腰だめに構える。

 まるで舞を踊っているかのようで、その実すべての動作に無駄がない突き詰められた効率性。これが人間の技術を極限まで鍛え上げた妖怪の、自分の土俵での全力というわけだ。

 美鈴の両手による掌底打ちは容赦なくレミリアを襲う。レミリアは咄嗟に両腕をクロスしていたおかげでダメージは最小限で済んだようだが、ザザーッと十数メートルほど地を擦って打撃の衝撃が収まったところで、自らの前腕を見下ろして目を見開く。

 

「……これは」

 

 骨が折れたか、青色に腫れていた。その再生能力を以てすれば数秒で回復してしまう程度の些細な傷ではあるが、吸血鬼に先手を取り、さらには怪我を負わせたという事実が驚愕に値するのだ。

 美鈴から感じ取れる妖怪の格で為せる領域を超えている。

 追撃もしかけず、「今度はそちらからかかってこい」とでも言いたげに構えている美鈴に顔を向けると、レミリアは大きく口の端を吊り上げた。

 

「あまり調子に乗らないようにね、紅美鈴!」

 

 名前を叫んだ――レミリアが己に傷をつけた美鈴という妖怪の強さを認めた。

 さきほど相手の見せた洗練されたごとき踏み込みではなく、吸血鬼の身体能力に任せた乱暴な飛び込み。それでも美鈴以上の速さを発揮し、すでにレミリアは彼女の近くで右腕を振りかぶっていた。

 ただの殴り込みではない。五つの凝縮された魔力弾が腕を囲うように設置されている。そのまま拳を繰り出せるのならよし、最初みたいに紙一重で避けようものなら魔力弾が直後に襲いかかる。そういう二段構え。

 美鈴が瞬時に左腕を引き絞るような体勢を取ると、しかしそれに敵の視線が向くと同時、右の膝でレミリアの顎を蹴り上げた。殴りつける攻撃が中断され、しかしすぐに攻撃した直後の隙を狙って五つの魔力球が美鈴に迫る。

 それを、今ブラフに使った左腕で対処した。虹色のオーラが宿ったかと思えば、ヒュッと静かに打たれた七色の掌底が赤色の魔力球のすべてを打ち消す。

 その虹は人が使う霊力ではなく、妖怪の使う妖力でもなく、魔法に必要な魔力でもなく、神が保有する神力でもない。すべての生命に宿る力、気力――美鈴の『気を使う程度の能力』によるものだ。

 レミリアの攻撃を完璧な対処法で防いだ。しかし、

 

「ぐぅ……!」

 

 その時から美鈴の動きが鈍り始めた。

 魔力弾を混ぜるレミリアに対し、虹の気力を組み合わせた武術で戦う彼女。けれどもよく見れば、レミリアの魔力弾に対処するたびに、それを受けた箇所に青黒い痣が生まれている。

 武術と気の力を以てしてもなお、吸血鬼の膨大な魔力の塊は殺し切れないということだ。逆に、レミリアの方は幾度も攻撃をもらってはいても、大して効いていないし即座に再生してしまう。

 すでに勝敗は決した。たとえどれだけ磨き上げられた武術と能力を持っていても、吸血鬼という存在には彼女の格ではどうしても届き得ない。

 数分もすれば美鈴が膝をつき、それを見下ろす形でレミリアが右手の平に作った魔力球を向けていた。呆気ないというよりも、むしろよくここまで持ちこたえたと褒める場面だ。体の使い方と攻撃を当てた回数では美鈴が完全に上を行っていた。

 というか、彼女はレミリアの攻めをすべて受け流したり相殺したりと、一度もまともに受けていない。それなのに敗北したというのだから吸血鬼は手が負えない。吸血鬼の俺が言うことじゃないけど。

 

「……参りました。煮るなり焼くなり、どうぞ好きにしてください」

 

 なんて、潔く両手を上げて降参の意を示す美鈴。武人だけあって、勝敗に関しての観念はしっかりしているらしい。

 レミリアは作っていた魔力球をすべて消すと、ニヤリと笑って「じゃあ」と切り出す。

 

「お前、私の館で門番をなさい。食事は毎日朝昼晩と三食提供してあげるわ」

「えっ?」

 

 いきなりの提案に美鈴がパチパチと目を瞬かせるのも無理はない。俺だってちょっと驚いた。

 

「お前の武術は大したものだわ。このまま腐らせるのはもったいない。だから私が保護してあげる。どう? いいアイデアでしょう?」

 

 要するに「お前のことが気に入った。うちに欲しいから来い」。

 

「……ちなみに、断ったら」

「もっとボコボコにして同じ質問をするわ」

 

 とんでもない外道である。俺の姉とは信じられない。いや、これがレミリアクオリティというやつか。

 俺にできないことを平然とやってのける。そこに痺れる……憧れはしない。

 あはは、と美鈴が乾いた笑いを上げる。レミリアが本気で言っているのがわかったようだ。最初から選択肢は一つしかない。やれやれとでも言う風に首を振って、「わかりました」と頭を垂れた。

 

「この日より、私はレミリアお嬢さまのもとで……えーっと」

「紅魔館よ」

「紅魔館の門番として従事させていただきます。どうかこれからよろしくお願いいたします」

「ふふっ。よろしくね、美鈴」

 

 何事もなく終わったようでなによりである。俺がいることも特に影響を為さず、無事に美鈴も紅魔館の門番として雇われることになったようだ。

 美鈴を連れて「どう? どう?」と胸を張って歩いてくるレミリアを眺めながら、心の中で苦笑を漏らす。

 さすがレミリアだよ。吸血鬼の力に任せて暴れただけだったけど。

 こうして、歴史は無事に収束した。



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五.龍の待遇、破壊の加減

「私はレーツェル・スカーレット。レミリアお姉さまの妹です。よろしくお願いしますね」

「紅美鈴です。お好きに呼んでください、レーツェルお嬢さま」

「じゃあ美鈴って呼びます」

 

 なんて会話を交わしたのも、すでに数年前。

 美鈴には門番として、太陽が出ている時間の門での警備を任せている。今のところ一度も敵の侵入を許していない優秀な手際である。

 俺たちと労働時間がまるで反対なこともあり、一日に数時間しか彼女と出会う機会はない。しかし美鈴も妖怪である。妖怪とは肉体よりも精神に重きを置く存在だ。本来ならば睡眠もそこまで取る必要はなく、少し引き留めればいくらでも彼女と話す時間は作ることができる。

 最初の頃はレミリアの強引さに門番以外になにをされるかと戦々恐々していたようであったが、普通に門番しかやらせない上に、たまに来る侵入者を撃退するだけという簡単なお仕事。給料は朝昼晩の三食しかないけれど、美鈴はそこそこ満足しているようだ。

 

「――で、聞いてくださいよ。この前は『吸血鬼は流れる水が苦手なんだって? お前も吸血鬼の眷属ならそうなんだろ、食らえ!』なんて言って水弾とか滅茶苦茶撃ってくるんですよ。吸血鬼じゃないですし吸血鬼対策の道具は全部効かなかったんですけど、服が濡れたせいで寒くて寒くて。一時的とは言え門番を放り出すわけにもいきませんし、その日は風邪を引きそうで大変でしたよ」

「妖怪は基本的に肉体に由来する病気なんてかかりませんけどね。しかし、水……水も滴るいい、なんでもないです。とにかく、大変でしたね。心中お察しします」

「そう言ってくださるのはレーツェルお嬢さまだけですよー」

 

 門番を始めて数か月も経った頃、疲れていそうだった美鈴に「なにか悩みでもあるんですか?」と聞いたことが始まりだった。最初はあまり会う機会がないせいで交流も少なかったのだが、そうして話をしているうちに愚痴を聞かせてもらえるくらいの信頼を獲得した。

 一応、俺もこの館の主であるレミリアの妹であるのだが、本人である俺が気にしないので美鈴もそこまで気にしないことにしたようだ。

 

「お姉さまも私と同じように話せば愚痴くらい聞いてくれると思いますよ? もしかしたら労働条件だって緩くできるかもしれません」

「あ、別に仕事に文句をつけているってことじゃないんです。ただ毎度毎度相手が吸血鬼対策ばっかりしてくるので、変な戦いになっちゃうのが嫌だなぁってだけで」

「何十年か経てば紅魔館の門番の存在だって広まりますよ。そうすればちゃんとした戦いになると思いますし、美鈴にとっても良き修行の一環になると思います」

「そうなればいいんですけどねー」

 

 一度、美鈴に「私たちが寝ている隙に逃げる気はなかったのですか?」と失礼なことを聞いたことがある。俺たち吸血鬼は昼間は外に出れない以上、あまり遠くへは行けない。逃げるのは容易いことだった。

 それに答えた彼女のセリフが「一度引き受けた以上、逃げ出すなんて一番やっちゃいけないことです」。さすが武人――いや、これは美鈴自身を褒めるべきか。半ば無理矢理門番をやらされているのにも拘わらず、そういうところはしっかりしている。だからこそ親しみやすかった。

 

「もしも相手が弱すぎたり変な戦い方すぎたりで腕が鈍るようなら、私が代わりに相手をしてあげてもいいですよ?」

「えっ、いいんですか……って、ダメですよー。そんなことしたら私がレミリアお嬢さまに怒られちゃいます」

 

 別に本気で怒ったりはしないと思う。俺たち三姉妹は揃って人をからかうのが好きだから、そうやって脅して楽しむだけ。いや、余計にたちが悪いとも言えるのか。

 なんにせよ美鈴が拒否するなら強く勧めるつもりはない。思いつきで提案してみただけであるし。

 

「というか、レーツェルお嬢さまって強いんですか? あ、いえ、舐めてるわけじゃなくてですね。戦ってるところとか見たことなかったので」

「そうですねぇ。強い、と思いますよ? 私も曲がりなりにもお姉さまと同じ吸血鬼ですから」

 

 生半可な相手ならば『光の翼』による音速特攻で一撃で倒せるだろう。今まで本気で戦闘をしたことがないので、実際にはどこまで戦えるかはわからない。

 

「うーん。よくよく考えてみると、門番よりも雇い主の方が強いって変な感じですね」

「美鈴は関門みたいなものですから大丈夫ですよ」

「関門、ですか」

「美鈴を倒すことが私たち吸血鬼へ挑戦するための権利となる。美鈴を突破しなければ真の敵のもとへは向かえない。そういうことです」

「なんだかかっこいいですね。そう考えるとやる気も出てきます」

「でも実際は?」

「水をかけてくるようなやつしか来ないんですよねー……」

 

 世の中はままならないことばかりである。なんだか大変そうだし、今度、使うと服を乾燥させられるマジックアイテムでも考えておこうかな。

 その後も愚痴やら最近あった面白いことやらを話し合い、十数分後には「そろそろお暇します」と別れることになる。

 気を操る武闘派妖怪、紅美鈴。彼女が紅魔館に問題なく溶け込めているようでなによりだった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「お姉さま、おそーい!」

「ごめんなさい。次からはもっと早く来るように心がけます」

 

 地下室に入ると、扉の前で待っていた頬を膨らませたフランに文句を言われてしまう。

 しかし謝罪の文を述べると「しかたないにゃあ」という具合に彼女に笑みが浮かんで、バッと胸に飛び込んできた。

 いつものことなので適当に対処しつつ、部屋の中央辺りまで移動する。

 

「どうせ新しく雇ったって言う門番と話してたんでしょ」

「鋭いですね。美鈴が働いてくれるおかげで私やお姉さまも規則正しい睡眠時間を取れるようになりました。感謝してもし切れません」

「……それはいいことだけど」

「そんなに拗ねないでください。フランをないがしろになんてしませんから」

 

 父とその眷属の時と同じ失敗は繰り返さないつもりだ。フランと交流を持った以上、なによりも妹を優先する。あの日交わした約束を絶対に破らない。

 

「そうですね。今日は遅れたお詫びに一緒に寝てあげる、なんてどうですか?」

「いいの?」

「もともと私のせいですからね。フランは許してくれますか?」

「もちろん許すわ。というか、もともと怒ってないのに」

 

 やれやれ、と冷静に首を振っている……つもりなのかもしれないが、口元はニヤけているし手元は落ち着いていないし翼がパタパタと動いている。

 喜んでもらえるのはそれだけ慕われている証拠なので素直に嬉しい。

 

「今日も魔法のお勉強?」

「いえ、今日は力の加減の方を練習しましょう。えーっと、確かここらへんに……」

 

 脳内で術式を描き、魔法を行使。倉庫として作っておいた空間へつながる穴を開き、右腕を突っ込んで目的の物を探す。

 

「そういえば、お姉さまは空間を作る魔法ってどうやって作ったのよ」

「これですか? 仙人の術に似たようなものがあると知っていたので、書物を参考に疑似的にそれを再現しただけですよ」

 

 改良の余地はまだまだある。開く際の魔力消費量やら生成における効率性やら。

 空間の作成は結界と似たような要領で行えるが、本来ならば妖怪は結界作成などは苦手としている。主に人間が行使する霊術が『防御』や『封印』などが豊富なのに対し、妖力を用いる妖術は『攻撃』や『幻惑』等に優れているのだ。

 しかし魔法はそんな向き不向きなどがなく、さまざまなことが可能な万能の術である。俺は妖怪兼悪魔である以前に大量の魔力を宿した吸血鬼。魔法を通して霊術の真似事だってすることができる。

 

「ん、ありました」

 

 目的の物を取り出して、術式を掻き消して空間を閉じる。

 手に持つそれはハンドグリッパーの形をしている。握り込むことで握力を鍛えることができる器具だ。本来ならばこの時代には存在しないが、適当に素材を集めて魔法でそれっぽく作った。

 もちろん、フランの握力を鍛えるためにこんな物を出したわけではない。これは『設定した握力の度合いに近づけば近づくほど握り込める』マジックアイテムだ。

 例えば『二〇キログラム』に設定した場合、『一五キログラム』と『五〇キログラム』の力では前者の方が深く握ることができる。

 フランの全力を受けても壊れないように何重にも保護(プロテクト)をかけておいたし、堅さもレーヴァテイン並みのものへ昇華させている。それでも壊れた時のために予備も二つ用意しているので遠慮なく使ってくれるようにフランには言ってある。

 

「今日はどのくらいを目標にします?」

「えっと、前回はどのくらいだっけ」

「確か二〇〇キログラムくらいだったと思います」

「じゃあ今日は一九五にするわ」

 

 内部の魔力量を調整し、手元に表示される数値が一九五となった時点で共有を絶つ。

 

「確か、人間は三〇とか四〇とかが普通なんだよね」

「全力で、ですけどね。普通に暮らす限りで使う握力は一〇キログラム程度だと思います」

「先は長いわ……」

 

 強すぎる力をコントロールするための訓練は、フランが「やりたい」と言ったために魔法の勉強と同時期に始めたものだ。

 ハンドグリッパーを一瞬握りかけて、すぐに元に戻った。少しずつ力を調整していき、一九五キログラムで維持できるようにしていく。

 一九五キログラムというと人間にしては非常に高い数値だが、最初の頃と比べるとかなり成長していた。一番初めは五〇〇キログラム――ゴリラと同程度の握力――でもピクリとも動かないほど力が強すぎたのだ。

 常に全力を出すことしか知らなかったフランの肉体が、きちんと加減を覚え始めている。この訓練が終わって自分の力をちゃんと操れるようになれば、彼女だって俺やレミリア、人間たちと同じようになんの気兼ねもなく遊んだり暮らしたりすることができるようになるのだ。

 

「……フラン、ありがとうございます」

「えっ? なんのお礼?」

「いえ、なんでもありませんよ。がんばってください」

 

 なんとなく言いたくなった。ただそれだけのこと。

 妖怪はとても長い時間を生きる種族だ。こうしていろいろと学んでいけば、どれだけ途方もなく思えてもきっといつかは届いてくれる。最初はどうしようもなかったはずのフランの加減具合だって、今はこうして希望が見えていた。

 もしかしたら、いずれ彼女の狂気も――――。

 右手を顔に添えて無表情であることを確認し、かぶりを振った。

 期待するな。自分から幸せを求めるな。もう間違えてはいけない。あの日の誓いは未だここにある。

 

「疲れたら休んでもいいんですよ?」

「お姉さまだって、つまんなかったら本でも読んでていいよ」

「そんなことしませんよ。私はフランががんばっているところを見たいので」

「……もうっ」

 

 フランが頬を赤らませながらも、手元のハンドグリッパーに集中する。俺はなにもせず、ただそれを眺めていた。

 はてさて。なにが起こるわけでもなく。

 今日も今日とて、平和な一日である。



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六.客人は行動派大図書館

 美鈴が門番になったことにより、俺やレミリアの暇な時間が増加した。

 レミリアが美鈴へ冗談交じりに「もうちょっと弱くてもいいのに」なんて言うくらいには暇していた。

 紅魔館の門番の存在も知れ渡り、昼間はきちんと戦える者たちが集まるようになったと美鈴は嬉しそうに言っていた。逆に「昼が無理なら門番がいない夜に」と考える輩が増えたが、門番程度を避ける侵入者なんて俺やレミリアの相手になるわけがない。

 門番の仕事を続けていた美鈴は自分に近づいてくる気配を感じ取る力を手に入れたらしく、この前は「ちょっと寝ちゃってたんですけど、ちゃんと気づけてよかったです」なんて胸を張っていた。そこは自慢するところじゃなくて寝てたことを反省するところだよ、と教えてあげた。

 フランの特訓も順調に進んでいる。一五〇キログラムを超えた辺りからコツを掴んだのか、見る見るうちに上達して今では五〇キログラムの練習である。すでに人の手でも可能な領域だ。

 美鈴が来てから紅魔館の雰囲気が良い方へと変わったため、レミリアはたまに新しく誰かを招き入れることを試案しているようだ。吸血鬼である自分たちと本気で親しくしようとする者なんて少ないため、候補が一人もいないのだが。

 

「『西暦一九四三年一〇月一三日。今日もなにもなく平和な日で終わった』、と」

 

 暇潰しに始めた日記を書き留める。昨日の分を書き忘れただけで、今は一〇月一四日だ。

 ペンを置き、やることもなくなったので自室を出た。東側の窓から空を見上げれば現時刻は夕方であることがわかった。

 早く起き過ぎたかとも思ったが、どうせすぐに暗くなるからあまり変わらない。

 

「……美鈴でも呼びに行きましょうか」

 

 俺も起きたし、今日くらい早めに終わらせてもいいだろう。

 思い立ったが吉日、早速玄関へと足を進める。静かな屋敷内に俺の足音だけが響いていた。

 すぐに玄関にたどり着き、ガチャッと扉を開けると。

 

「あ、おはようございます。レーツェルお嬢さま」

「美鈴?」

 

 ちょうど彼女も館へ入ろうとしていたようで、その場で向き合うことになった。

 まだ日は出ている。昼寝はしても途中で仕事を投げ出したりはしない性格のはずだけど……と考えているところで、美鈴の後ろに控えている少女の姿に気がついた。

 

「……私たちを退治しに来た、ってわけでもなさそうですね」

 

 紫と薄紫が交互に縦の縞となっているふんわりとした衣の上に、それよりもほんの少しだけ濃い薄紫の服を羽織っている。ちらほらと赤や青のリボンが見受けられた。ドアキャップ染みた、こちらもふんわりな同色の帽子には三日月の飾りがついている。

 身長は一五歳前後の少女と言ったところか。長い濃い目の紫色の髪は側頭部で一部リボンでまとめられている。瞳もまた紫色と、どこもかしこも違う色合いの"紫"と表現できるものばかりだった。

 姿を現した俺を驚愕と疑惑が混じり合ったような目を向けてきている。吸血鬼と聞いて来てみたけれど自分よりも小さなその姿に拍子抜けした、みたいな反応だ。俺たちを退治しに来る人間や妖怪は皆揃って同じような顔をする。

 

「最初はいつもみたいにお嬢さまがたを退治しに来た輩なのかとも思ったんですが、どうにもそんな気はないみたいで。ただ、『ここの館の主に会わせて欲しい』なんて言われても私ではどうにも……」

「お姉さまはどうせいつも暇してますし、そんな暇潰しに打ってつけな話なら快く受け入れてくれると思いますよ。というか、美鈴に交渉しなくても夜に来ればここの吸血鬼には直接会えるんですけどね」

 

 困った顔で事情を説明する美鈴にそう返事をして、俺の骨組みだけの翼を不思議そうに眺めていた少女の方に向き直る。

 

「ゆ、夕暮れに来たのは……門番を通さないと失礼だし、でも昼間だともっと失礼だから、門番がいて館の主が起きてくるくらいの時間がいいかな、と」

 

 視線を向けられたことに動揺してか、どもりながら教えてくれる。聞いてないけど。

 

「私はレーツェル・スカーレット。ここの館の主の妹をやってます」

「聞いたことあります。確か、"光翼の悪魔"。ここらへんで一番怖い吸血鬼だと」

 

 口にしてから、ハッとしたように目の前の少女が狼狽する。

 本人を前によくそんなことが言えるなぁ、なんて思っていたら、どうやら墓穴を掘っていただけだったらしい。

 

「あ、あと、この館には主とあなた以外にもう一人だけ謎の吸血鬼がいる……いえ、そうではなくて。"紅い悪魔(スカーレットデビル)"、あなたのお姉さまに会わせてもらえませんか?」

「別にいいですよ。それより、名前を教えてくれませんか?」

「パチュリー・ノーレッジと言います」

 

 思いがけない名前に、内心でわずかに驚いた。

 パチュリー・ノーレッジ。東方Projectでは紅魔館の知識人兼魔法使いとして登場し、『動かない大図書館』とまで言われる本の虫である。レミリアの良き友人であり、問題を解決する役割と同時に問題を起こす役割も担う喘息持ちの女の子だ。

 ここ一七〇年は何事もなく平和な日々が続き過ぎていたから原作のことをすっかり忘れていた。

 

「なるほど、パチュリーさんですね。じゃあついてきてください。とりあえずお姉さまが起きてくるまで一緒に紅茶でも飲んでましょう」

「私が淹れましょうか?」

「美鈴はもう休んでていいですよ。今日はちょっとばかりの早めのお仕事終了ということで」

「えっ、いいんですか? ありがとうございます!」

 

 美鈴が笑顔でお礼を言って去った後、催促するとパチュリーが恐る恐ると言った感じに館に足を踏み入れた。

 この紅魔館には侵入者がたくさん来るにしても、こうして客人が訪れることは一度もなかった。

 なんだか、どこか新鮮だ。そんな気持ちを抱きつつ、彼女を連れて館の中を歩き出す。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「へえ、私を訪ねて来たって?」

 

 日は沈み、テラスで丸机を前に座って向き合うレミリアとパチュリー。その間で紅茶をズズズと啜るのが俺である。

 俺とレミリアは吸血鬼なので紅茶の中に人間の血を混ぜているが、パチュリーのそれは普通の紅茶だ。

 

「パチュリー・ノーレッジと言います。人間ではなく、生まれは魔法使いです」

「レミリア・スカーレット、吸血鬼だよ」

 

 緊張しているのか、パチュリーの動きが少しばかり固い。

 パチュリーが紅茶を口に含んだのを確認して、レミリアが「それで」と切り出す。

 

「わざわざ夜の始まりに私のもとに来るなんていい度胸してるじゃない。この地で畏れ崇められる夜の帝王、吸血鬼である私に一体どんな用があるの?」

 

 さすがに初対面だからか、若干高圧的にしかけている。

 紅茶を飲んでいたり相手が戦いに来たわけではなかったりということもあり、日常モードが地味に見え隠れしているが。

 

「この館には数多くの魔導書があると聞きました」

「あー、確かにあるねぇ。元々置いてあるのもそうだけど、たまに退治しに来る身のほど知らずな人間とかが持ってるんだ」

「それをどうか読ませていただきたいのです」

「へえ。そんな用事なら当然手ぶらじゃないんだろうね。なにが対価なんだい?」

 

 頭を下げるパチュリーに、肘をついてレミリアが問いかける。その際についでとばかりに魔力を垂れ流していて、この場に目には見えない重圧がかかった。

 パチュリーは魔法使いであるが故に魔力には敏感なのだろう。ぶるりと全身を震わせて、しかしすぐにかぶりを振るとレミリアに向き直る。

 

「……私は自分の知識量には自信があります。ですからまず、あなたがたの質問に対する私の知識を以ての可能な限りの返答を。数は無制限です。それから、私の生のすべてである二〇年をかけた魔法の研究成果を渡します」

 

 ニヤリ、とレミリアは口の端を吊り上げた。

 

「ふーん。じゃあ早速答えてもらおうか。どうして月は満ち欠けをするんだ?」

「月の光は太陽の光を映し出したものだからです。私たちがいる星は太陽の周りを回り、月は私たちの星の周りを回っています。ですから日を追うごとに月が日の光を受ける角度が変わり、満ち欠けが発生するのです」

 

 本当に答えが返ってくるとは思っていなかったらしく、レミリアが瞠目する。

 

「……え? 私たちは日光を浴びてたの?」

 

 人間だった頃の記憶で俺も知っていることだ。この場で満ち欠けの原理を知らなかったのはレミリアだけということになる。

 そう考えると驚く彼女がおかしく感じられて、そんな感情がバレないように紅茶を一口飲んだ。

 というか、注目すべきは質問の方ではない。

 カップを丸机に置いて、「パチュリーさん」と今度は俺が問う。

 

「二〇年の研究成果……聞く限りではあなたの魔法使いとして培った全部が集約されたものみたいですけど、本当にそれを対価にしてもいいんですか? 魔法使いにとって研究成果とは自らの苦労の結晶であり、なによりも大切にしなければいけない秘密の知恵であるはずです」

 

 俺自身が魔法を使う者であるからこそ聞いておきたかった。

 

「構いません。どうせこれから何十何百と生きる中で、二〇年の成果など小さなものですから。それに、この館に保管されている魔導書には私の知識のすべてを捧ぐだけの価値があると思っています」

 

 そこまで迷いなく言われたらなにも言い返せないし、言い返そうとも思わなくなる。

 なるほど、と口を噤んでレミリアへと顔を向けた。

 視線が合って、しかしなにも話さないままにじーっと見つめてくるので居心地悪く首を傾げてみると、なぜかくすりと笑われた。

 

「そうね。レーツェルはあなたに見せてもいいと思ってるみたいだし、その条件で構わないわ。そもそもこの館の本を読んでいるのは私じゃなくてレーツェルでもあるしね」

「ありがとうございます。妹さまも、お礼を申し上げます」

「どういたしまして、ですね」

 

 とは言え対価である研究成果を受け取る気は毛頭ない。それが彼女のすべてであるというのならなおさらだ。レミリアだってパチュリーが対価を提示した際に質問の方に逸れた手前、そこまで魔法には興味がないのは明白である。

 もう一つの対価である知識の限りの返答についても、俺は未来の知恵が魂に刻まれているし、魔法も四〇〇年以上習ってきた身だから聞くことがほとんどない。せいぜいがレミリアが知識欲を満たすために、これまでわからなかったことや不思議だったことの問いかけが散発的に行われる程度だと思う。

 ……あんまり対価が意味を為していないが、最初から対価なんていらないとも思っていたので気にしないことにした。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 パラパラと本をめくる紫色の少女の姿を、ここ数か月は見かけ続けている。

 たくさんの本を保管した――図書館とまでは言えないまでも、書斎と呼ぶには数が多い。そんな書庫で、二人の吸血鬼と一人の魔法使いがイスに腰かけている。

 

「あなた、いつまでこの館にいるつもりなの?」

「もうちょっと……」

「それ先日も聞いたわ」

「前回は"あと少し"と言ったわよ」

「変わらないじゃない」

 

 パチュリーはこうして未だ帰る気配を一切見せず、この場にある本を読み漁り続けていた。

 いろいろと質問を繰り返していたためか、最初の一か月でレミリアとパチュリーはタメ口で話し合えるくらいには仲良くなった。その後の一ヶ月で俺も同様に軽口を交わせるほどに交流を深め、こうして三人で暇を潰している。

 紅茶を飲んで、俺もとりあえず滞在日数について一言申しておく。

 

「パチュリーは家の人が心配したりとかしないのですか? いつまでもこんな夜にしか活動しない種族のところにいたら生活習慣が狂いますよ」

「本を読むのに昼も夜も関係ないわ。それに、自宅なら人間どもに焼かれちゃってとっくにないから。父は物心ついた時からいないし、母は魔女狩りで亡くなったわよ」

 

 とんでもないことをなんでもない流れで言ってくれる。思いも寄らぬ返事に言葉が詰まり、小さくため息を吐いて再び紅茶を口に含んだ。

 カチカチと時計の針、パラパラと本のページをめくる。それぞれの音だけが部屋を支配する。

 机に肘をついて考え込んでいたようだったレミリアが、不意に提案をした。

 

「じゃあパチュリー、私の家に住んでみない? あなたの知識は役に立つし、なによりあなた自身が面白いわ」

 

 顔を上げたパチュリーがレミリアに呆れの視線を送る。

 

「さっきまで帰れって言ってたのに」

「いつまでいるのって聞いただけよ。で、どうなの? 私は構わないし、レーツェルと美鈴はあなたのことを気に入ってるようだけど」

 

 パチュリーの手元から紙の音がなくなり、この場に響くものが針が時を刻む音だけになった。

 彼女は、目を閉じて考え込む姿勢を取った。しばらくと言うほどでもなく、数秒もすれば答えを決めたようで瞼を開いて姿勢を正す。

 レミリアに向き直ると、小さく頭を下げた。

 

「ぜひお願いするわ。館の主、レミリア・スカーレットさま。どうか私をここに住まわせてほしい」

「素直でよろしい。歓迎するわ、パチュリー・ノーレッジ」

 

 吸血鬼を恐れずに知識欲を満たすために単身紅魔館へやって来た少女が、晴れて新しき紅魔の住人となった。

 彼女が「やっと気兼ねなく本を読める」と呟いた時には「気兼ねしてたの?」と姉妹揃って思ったものだが、閑話休題。

 こうして静かに、また一つの歴史が収束した。



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七.属性魔法に風邪気味魔法使い

「今度はなにをするつもりなんですか?」

 

 パチュリーが紅魔館に住むことになってから、一〇年。やはり一〇〇も数えていない歳の者とは若いものだ。

 毎日本を読んでいるだけかと思えば、唐突に外で火を焚いて水をかけるという無意味な工程を何度も繰り返したり、星座を結んで魔法陣を編む実験をしてみたり。パチュリーのおかげでこれまでずっと退屈だった時間の流れがとても遅くなり、四〇〇年も生きている身としては「まだ一〇年しか経っていないのか」という具合である。

 レミリアも同じことを感じているのか、暇な時はとりあえずパチュリーを訪ねるという風になった。濃い一〇年も一緒に過ごしていれば気心も知れて、二人は"レミィ"や"パチェ"と愛称で呼び合ったりするほどに仲も深めている。

 俺もパチュリーのことはパチェと呼ぶようになったし、あちらも俺を"レーテ"と呼んでくれるようにもなった。

 

「まるでいつも面倒事を起こしているみたいな言い方ね」

「この前だって、召喚魔法の練習で小悪魔を喚んでみたはいいけど送還がうまくいかなくて、なし崩し的に契約を結ぶなんてことしてたじゃないですか」

「ああ、あれね。二度目は失敗しないわよ。今回やるのは召喚魔法じゃないけど」

 

 現在、俺はパチュリーとともに紅魔館の庭で並んで立っていた。「魔法使いの先輩としてアドバイスが欲しい」とのことだ。レミリアは俺の代わりにフランの面倒を見ていて、弾幕合戦でもしていると思われる。後日フランが絶対に文句を言ってくるので、相応の埋め合わせも考えておかないといけない。

 それはともかくとして、本当にいったいなにをするつもりなのか。

 

「この前、私が炎に水をかける実験をしていたのを覚えてる?」

 

 言いながら、パチュリーは脇に抱えていた魔導書を開く。

 

「お姉さまが『パチェがおかしくなっちゃった!』って私のところに駆け込んできた時のことですね。よく覚えてますよ」

「……レミィの感想はともかくとして、あの時は相反する属性が合わさった時の相互反応を見てたのよ。どうやって互いの阻害作用を最小限まで抑えるか……実験結果と魔導書の内容を照らし合わせて、ようやくわかったの。レーテにはその魔法を見てほしくて」

 

 そういえば、と前世の記憶に意識を巡らせる。東方Projectにおいて彼女が使っていた必殺技(スペルカード)には"火&水符『フロギスティックレイン』"なんてものもあった。

 水は火を打ち消す。それなのに技として使えるまでに完成させていたのだから、パチュリーの技量の高さが窺えた。

 

「害を及ぼし合う属性さえ合わせることができれば、互いの弱点を補うことができる」

 

 言い切ると、パチュリーは大きく深呼吸をしてからスペルを唱え始めた。

 彼女は主に属性魔法を行使する。精霊魔法とも言われ、大自然に存在する精霊の力を借りる魔法である。 火、水、木、金、土、日、月。五行に二つを加えた七つの属性を操る"七曜の魔女"、それがパチュリーという魔法使いだ。

 属性魔法は自身の力だけに依存する魔法ではないために、少ない魔力で強大な力を扱うことができる。しかしそれ故にきちんとしたやり方で――スペルを一字一句間違えることなく唱える必要があり、また、制御が難しい魔法でもある。

 

「――どう?」

 

 スペルを言い切った彼女の前に、赤と青が斑模様に浮かび上がる魔力の球体があった。

 注視してみれば徐々に青が赤を侵食していっているのがわかるが、腕の上達に連れてその速度も下がるだろう。初めてにしてはかなり上出来な部類だ。

 

「凄いと思います。あとはパチェ自身が魔法使いとして成長すれば、実戦レベルまで持っていけるんじゃないでしょうか」

「そ、そうかしら……いえ、四〇〇年も魔法使いをやってるレーテの言うことなら、き、きっとそうなの、よね……ありがとう、参考になったわ」

 

 隣に目を向ければ、顔を青くしてゼェゼェと息を切らすパチュリーの姿がある。

 彼女には属性魔法の才能がある。しかし――逆に、スペルを唱えるだけの肉体を備えられていなかった。パチュリーは体が弱く、魔法を行使するとすぐに貧血になる。持病として喘息も持っており、調子が悪い時はスペルを唱え切れずにぶっ倒れてしまう。

 

「パチェ、調子が悪い時は大人しく本を読んでるだけにしておいた方がいいと思いますよ」

 

 一回の魔法だけでここまでということは、今日は不調の日であったはずだ。

 魔法を手元から消したパチュリーを半ば無理矢理に背負うと、館の玄関へと足を向ける。

 

「せ、せっかく魔法の研究が一歩進んだんだから……じっとしてなんか、いられなかったのよ」

 

 まったく真面目な魔法使いだ。好奇心は猫をも殺すと言うが……パチュリーは猫ほど動いたりはしないか。

 

「……この羽、邪魔」

 

 なんて言いながら、力なくしなだれかかってくるパチュリー。俺の方が身長が低いから、なんだかおかしな気分である。

 彼女の荒い息を耳元で感じて、自然と足早になった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 紅魔館の書庫は地下に存在する。その位置はフランが普段いる地下室よりも上で、地上よりは下という微妙な位置だ。

 そんな書庫への入り口を華麗にスルーし、その隣の一室の扉を開ける。パチュリーの寝室だ。

 適当な家具しか置いていない質素な部屋に踏み入ると、抱えていた魔法使いさまをベッドへ横にして下ろした。

 

「書庫でいいのに」

「今日は調子悪いんですからここで大人しくしていてください」

「病人じゃないのよ」

「本を読むなとは言ってません。なんの本か教えてくれれば私が取りに行きますよ」

「……小悪魔がいるから、別にいいわ」

「あれは今書庫にいるはずです。言葉以外で呼び戻すには魔法が必要ですし、そうなるとせっかく休んでいるのに本末転倒ですよ」

 

 パチュリーはそれらのやり取りで俺が一歩も引く気がないのを悟ったらしく、はあ、と大きなため息を吐いた。

 

「レーテは心配しすぎなのよ。こんなのいつものことなのに」

「嘘を吐かないでください――まだ息、整ってませんよ。風邪気味なんじゃないですか?」

「……敵わないわね。魔法でも、こういうところでも」

 

 ごろりと寝返りを打ったパチュリーに、上から毛布をかける。

 

「いつか絶対、喘息を完璧に治す魔法を作ってやるわ」

「属性魔法じゃキツいんじゃないですか? そういう変な魔法は私の部類です」

「変な魔法って……そういえばあんまり詳しく聞く機会がなかったんだけど、レーテはどういう魔法が得意なの? 影を操ったり空間を作ったりできるのは聞いたわ」

 

 ベッドの端に腰かけた俺に、じっと視線を向けて問いかけてくる。

 得意な魔法、か。言われてすぐに思いつくようなものがなかった。

 元々魔法は趣味や暇潰しの一環で習い始めたものである。影の魔法は床や壁、天井まで楽に行き渡らせられる掃除用魔法。空間生成はさまざまなものを手軽に出し入れができる倉庫魔法だし、基本的に利便性を追求した魔法ばかり開発していた。

 

「強いて言うなら、生活魔法でしょうか」

「生活魔法?」

 

 パチュリーが「聞いたことないわね」と首を傾げる。

 

「生活する上で使えると便利な魔法です。今、私が名づけました」

「……魔導書でも書くつもりかしら」

「それもいいかもしれませんね。書き終えたらパチェに上げましょうか?」

「書庫に本が増えるのは喜ばしいことよ。私の腕じゃレーテにはまだ届かないから、きっと読めないでしょうけど」

 

 暇があったら書いてみよう。生活を便利にする魔法辞典とか、面白そうだ。

 

「しかし、生活魔法ねぇ。楽をしたいがために魔法を勉強するなんて本末転倒だと思うけど。普通にメイドでも雇えばいいのに」

「吸血鬼の館に仕えたいと思う人間や妖怪なんてそうそういませんよ」

「だったら人間でも妖怪でもなくてもいいじゃない。私が精霊の力を魔法で借りるように、妖精でも雇ってみたらどうかしら」

 

 妖精――自然現象そのものの具現と言われる存在である。

 寒くなる。暖かくなる。雨が降る。風が吹く。花が咲く。そんな一つ一つの現象に妖精は宿る。自然がある限り厳密な意味で死ぬことはなく、躰がバラバラになったとしてもすぐに再生する。

 姿かたちはさまざまながらも、基本的には人型に蝶などの虫の羽を備えた者が多い。体長は小さければ手の平ほどで、大きくても俺やレミリアと同程度しかない。

 

「最近はどういうわけか妖精が減って来てるみたいだけど、妖精なら死の概念が希薄だから吸血鬼もさほど怖がらないと思うわ。知能が低いからあんまり役に立たないかもしれないけど、そのぶん数をそろえればいい」

「なるほど、妖精ですか」

「どうせだから今度レミィに提案してみようかしら。二つ返事で了承して、すぐに妖精を捕まえに行こうとする姿が目に浮かぶわねぇ」

 

 俺にも見える。残念ながらそこに姉の威厳など欠片ほどもなく、ただの無邪気な子どもである。

 妖精メイドの話はレミリアとパチュリーに任せておく。いったんここで話を切り、俺は脳内で術式を展開した。

 空間を開き、そこからタオルと桶を一つずつ取り出す。水分生成魔法で桶に冷たい水を汲んで、タオルを浸して絞った後にパチュリーの額に乗せた。

 

「……冷たい」

「濡らしましたからね」

 

 彼女は置かれたタオルに手で触れると、静かに目を閉じる。

 

「誰かにここまで優しくしてもらうなんて、いつぶりかしら」

「急にどうしたんですか?」

「どうしたのかしらね。熱でおかしくなっちゃったかもしれないわ」

 

 自嘲気味に小さく笑い、パチュリーは自身の手を元の位置に戻した。

 頬が赤みを帯びているのは、彼女の言う通り熱によるものか、それとも。

 

「私たちとパチェは、もう家族ですよ」

「レーテも熱が出たの? 私と同じように寝た方がいいんじゃないかしら」

「また後日、そんなのもいいかもしれません。そうしたら今度はパチェが看病してくれるんでしょう?」

「……しかたないわね。でも、仮病ならそんなことしないわよ」

「えー。吸血鬼がまともな病気に罹るはずないじゃないですか」

「病気になるなっていう私の心遣いなのよ。感謝なさい」

 

 軽口を叩き合い、しばらくすると「レーテが心配性だから、今日は大人しく眠るとするわ」なんて言ってパチュリーは口を閉じた。

 その口元が緩んでいたのを視界の端に、タオルを再度水につけて絞ってパチュリーの額に戻す。

 

「明日は、パチェの調子もいつも通りに戻っているといいですね」

 

 返答は小さな頷きだけ。

 また今日も、こうして一日が過ぎていく。



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八.停止せし世界の支配者

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Unbekannt □ □ □

 

 

 

 

 

 暗い雲が空を埋め尽くしていた。太陽の光は地に届かず、浄化の冷水もほんの一滴すら零れてこない。

 吸血鬼ならば、きっと口をそろえてこう言うに違いない。ああ、今日の日中はなんていい天気なんだろう。

 くるり。くるり。銀のナイフを手の中で回す。

 いつの間にか森を抜けていたのか、丘の上に立つ窓の少ない紅い館が目に入ってきた。

 何百年もの歴史を持つ恐怖の根源。武道を身につけた妖怪門番、精霊の力を借り受ける魔女、人の血を栄養とする三匹の悪魔が住まうという不気味な館。

 恐怖もない。緊張もない。少しの動揺もなく、ただ淡々とその建物へと足を進めていく。

 

「妖怪退治の……って、子ども? あなた、こんなところでなにを――――あれ? さっきまでそこに……うーん」

 

 中国風の服装を纏った妖怪が、背後で「見間違いかなぁ」なんて呟くのが耳に届いた。

 すでに私は門の中にいる。それでも誰も気づかない。誰も気づけない。

 

「すべての時間は私のもの。だからわからない、認識できない。今まさにこうして、ここに異物が紛れ込んだことさえも」

 

 歩みを進め、扉を開け放ち堂々と正面から侵入する。

 ガチャリ、と。ちょうどそんな音に、その場にいた何人かのメイド服姿をした妖精がこちらに向いて――しかし私はすでにそこにはいない。

 すべての妖精の視界外にて銀のナイフを回している。

 

「妖精のメイドなんて大して役に立たないでしょうに」

 

 吸血鬼の考えることは相変わらず理解できない。

 そんな独り言を置き去りに、悪魔を探して館の徘徊を始めた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □

 

 

 

 

 

「……なんですか、これ」

 

 ジジ――――ジジジ……ジ、ジジ。

 そんな、まるでノイズのような耳障りな音で目が覚めた。

 寝ぼけ眼を擦りながら起き上がり、なにが音を発しているのかと辺りを見渡す。

 基本的に自室以外にいることが多いので、家具も少なく最低限のものしか置いていない。

 自分が寝ている天蓋つきのベッド。服をしまったタンス。部屋の中央には、暇だった時に作ってみただけのコタツと座布団。すぐに確認は済んだ。古いアナログテレビが発するがごとき不快な音源となり得るものは、この寝室にはなに一つとして存在しない。

 単なる幻聴か。あるいは夢の中で聞いたものだったか。

 ――ジ。ジジ。

 

「違う……」

 

 今度はハッキリと聞こえた。紙をビリビリと破くような異質な音が。

 耳を澄ます。すると、ジジジとまた耳に届いた。それは規則性がなく、しかし途切れることなく定期的に発生している。

 しばらくそうして音源を探ろうとしていたが、諦めてベッドから下りた。どうやら一定の場所からではなくそこら中から鳴っているようで、どれだけ集中してもわからない。

 扉を開けて廊下に出ると、ちょうど通りかかっていた妖精のメイドがビクリと体を震わせていた。

 

「驚かせてごめんなさい。ちょっと聞きたいんですが、今はどのくらいの時間帯ですか? 昼間とか夜中とかその程度でいいです」

「えっと……太陽が真上に昇っているくらいです」

「なるほど。ありがとうございます」

 

 礼を告げて、足早に書庫に向かって歩き出す。

 未だ断続的に耳に響くノイズの正体は一向に掴めなかった。魔法によるものかとも考えてみたが、こちとら四〇〇年も伊達に魔法を習い続けていない。吸血鬼という妖怪の中でも強力な種でもあるし、下手な魔法使いの魔法なら効かないし感知もできる。しかし、一向にそんな気配も反応もないのだ。

 もしかしたら吸血鬼の能力と俺の魔法の腕を両方超えて魔法をかけられるほどの強者によるものかとも考えたが、それならわざわざノイズを鳴らすなどわけのわからないことをしてくる理由が見当たらない。

 わからないならとりあえずパチュリーに聞いてみよう。これは紅魔館の住人の共通認識だった。

 俺も最初の頃こそは未来の知識があるからあんまり質問なんてしないかもなんて思っていたが、今では俺の中でも立派な知識人である。たまに間違った覚え方してる時もあるけれど。

 

「あら、レーツェル。どうしたの、こんな時間に」

「お姉さま?」

 

 テラスで思いも寄らぬ人物に遭遇した。今は昼間だから本来ならば就寝の時間のはずである。俺だってノイズがなければそのまま眠っていた。

 

「ちょっとパチェに用がありまして。幻聴が聞こえるというか……妖怪にかかるような病気なのかと勘繰っているんですが。お姉さまはなぜこんな太陽の出ている時に?」

「私の方はなんだか妖精たちが騒がしいから起きてき……って、幻聴!? びょ、病気!? レーツェル大丈夫なの!?」

 

 シュババ、と吸血鬼の身体能力を十全に生かした速度で近寄ってきては即行で俺の額に手を当ててくるレミリア。病気がある時は熱が出るってパチェから教わったんだろうけど、妖怪は精神由来の病気しか罹らないから熱は出ませんよ。

 心配そうに俺の顔を覗き込んでくる彼女を、今のところは全然問題ないと伝えて落ち着かせる。

 

「本当に大丈夫なの?」

「幻聴以外は本当になんにもありませんよ。だから、その幻聴の原因究明と解決のためにパチェを訪ねるんです」

「それなら私もついてくわ! 謎探しなんてあとあと!」

 

 レミリアは俺の手を握ると先導して歩き始めた。俺以上に俺のことを心配しているみたいで、なんだか胸が暖かい変な気分になる。

 いくばくか進んだところで、「そういえば」と今さっきのレミリアのセリフを思い返した。

 

「謎探しってなんのことですか? 妖精が騒がしいなんてことも言ってましたが」

「え? あぁ、屋敷の扉が触っていないのに開いていたり、誰もいないはずなのに廊下を誰かが歩く音がしてたとかわけのわからないものよ」

「なんですかそれ。妖精の誰かが『認識できない程度の能力』にでも目覚めたりしたんでしょうか」

 

 なんて言ってみるも、妖精は自分の由来する自然現象に合った能力しか持ち得ないのでありえない。

 

「あるいは誰かが時間でも止めてるのかもね。まぁそんなことはどうでもいいわ。今はレーツェルの……レーツェル?」

 

 急に足を止めた俺を不思議に思ってか、レミリアが不思議と心配を合わせて二で割ったような表情で振り返ってきた。

 時間を止める。確かに、それなら扉を気づかずに開けることもできるし、見られる直前に時間を止めて廊下を歩く音だけを残すなんてことも可能だ。普通なら絶対にできない所業でも、俺はそれを実現してしまう人間を知っていた。

 今は一九九五年。原作において十代後半と公言していた彼女は、当然生まれている。

 

「見つけたわ」

 

 不意に響く聞いたことのない冷たい声――走るノイズ。

 気づいた時には目の前でレミリアが銀のナイフに全身を滅多刺しにされていた。数瞬前まで五体満足でいたはずの彼女が突然に、認識する間もなく。

 当の本人であるレミリアが瞼をパチパチとさせながらその肉体に刺さる刃物を愕然と見下ろし、「え?」と一言。

 倒れかけるレミリアの体を支え、声が聞こえた方向へ振り返る……フリをして、すぐに前を向いた。

 

「あら、見つかっちゃった」

 

 そこにいたのは、ボロボロな黒いローブを纏う一〇歳にも届かない体躯の少女であった。

 あまり手入れされていない無造作に垂らされた長めの銀髪に、見る者を闇に引きずり込むような淀んだ青の瞳。左手には銀のナイフを持っており、時折くるくると回している。

 俺が知っている彼女の見た目とずいぶんと違う。子ども時代だということもそうかもしれないが、汚れた服装と暗い内面を匂わせる見た目が拍車をかけていた。

 東方Project、紅魔館最後の住人にして唯一の人間、名を十六夜咲夜。いや、この名前はレミリアがつけたものらしいから、この時点ではまた違うものか。

 

「こんな年端もいかない人間に、この私が……?」

 

 レミリアが自分の傷から赤い魔力を放出し、その身に刺さっていたナイフを全部落とす。同時に血が溢れ出した。すぐさま治そうと魔力を巡らせたようだが、銀が効いているのか再生が異様に遅い。

 キッと睨むレミリアを意にも介さず、銀髪少女は首を傾げながら俺の方を向く。

 

「というか、二人もいたのね。そっちの金銀の方は気づかなかったわ」

 

 どうせここの吸血鬼は全部殺すから同じだけど、と付け足してくる。

 

「ずっとお姉さまの近くにいたんですけどね」

「どっちでもいいわ。あなたの時間も私のもの。どうせあなたも刺されたことを認識できない。今度は、二人同時に私のナイフを受けてみる?」

 

 なんて言って、彼女はこれ見よがしに片手で指を鳴らす姿勢を取った。

 そんなことしなくても別に能力を行使できるだろうに。時間を止められるだろうに。

 レミリアとともに身構える俺をあざ笑うかのように口の端を吊り上げ、銀髪の少女はパチンと指を鳴らした。

 ――ジジ。

 

「…………え?」

 

 しかしなにも起こらない。

 どういうわけか、信じられないものを見たかのように、時間を止めた張本人が目を見開いて俺を直視してくるだけである。

 

「あれ、え、どうして」

 

 ジジ。ジ、ジジジ。ジジ。

 俺はようやく、耳に届くノイズが未来の十六夜咲夜による能力行使により発生しているものだとわかった。

 

「……金銀の……あなた、何者?」

 

 理解できない。そんな感情を彼女は瞳に映している。

 何者と言われても俺にはなにがなんだかサッパリだった。

 

「ただの吸血鬼で……強いて言うなら、変な音が聞こえてるだけですが」

「変な、音? 違う、違う違う。あれ、あれ? どうして? ねぇ、なんで……なんであなたは、時間を止めると存在が消えるの?」

「え?」

 

 予想もしない答えに、問われたこちらも首を傾げてしまった。

 ジジジ。またノイズが走る。

 

「ダメ……ダメ、ダメ。なんなの? 時を止めたら、あなたが私の世界から消え去る。どこにいたのかすら、どうしてかわかんなくなる……なに、なんで? どういうこと? 時は確かに私のものなのに、あなたはいったい……どうしてあなたの時間は、私の手に――」

 

 瞬間、銀髪少女の周囲を赤色の弾幕が埋め尽くした。

 半ば反射的に横を向くと、会話している間に傷を完治させたらしいレミリアが獰猛な笑みを浮かべていた。

 

「そう、時間を止められるのねぇ。でもこれならどうかしら。大した隙間なく作ってみたわ。お前、そこから抜け出したりできる?」

「…………はぁ。もういいわ。殺すなら早くして」

 

 弾幕に囲まれた銀髪少女は、お手上げとばかりに両手を上げて降参のポーズを取った。

 

「潔いのね。死ぬのが怖くないみたい」

「怖いわよ。でも、捨て子として産まれて、吸血鬼を殺すために育てられて、同族にさえ時間を操る力のせいで疎まれて……どうせ私の最期なんて、こんなものってわかってたから」

 

 淀んだ瞳が暗さを増して、その手に握っていた銀のナイフが床に落ちた。

 

「絶対的だと思ってた私の世界に縛られない変な存在もいる。それだけわかっただけで、冥土の土産には十分(じゅうぶん)よ」

 

 もう言うことはないとばかりに銀髪少女は瞼を閉じる。立ち姿が早く殺してくれと語っていた。

 なんとはなしに、どうするのかとレミリアの方を見る。彼女はなにかを考え込むように首を捻っていた。俺が見ているのに気づいて顔がこちらに向くと、当然ながら自然と視線が合う。

 

「……はぁ、なんだかパチェの時にも似たようなことがあった気がするわね」

 

 レミリアが銀髪少女を囲っていた弾幕をすべて消した。

 相手の少女も瞼を開いて自分の現状を確認し、混乱した表情を隠し得ないようだった。

 

「その時を操る力、このまま殺してしまうのはとても惜しいわ。かと言って、せっかく今は私がその命を握っているのに人間に返すのも癪……」

 

 レミリアは一歩ずつ近づいていき、銀髪少女の目前で足を止める。

 

「十六夜咲夜」

「え?」

「十六夜とはほんの少し月の欠けた日のことよ。咲夜はすなわち、その昨夜……つまりは満月を指している。あなたにその名前を授けるわ。だから、私のもとで働きなさい」

「名前? 働、く?」

「生かしてやる代わりに妖精たちに混じってメイド仕事に従事しなさいって言ってるのよ。成果を残せば相応の地位だって上げるわ。どう? 名案じゃない?」

 

 最後の「名案じゃない?」は咲夜の名を授けた少女にではなく、俺に対してのもの。

 あいもかわらずレミリアは俺の気持ちを読み取るのに長けているようだ。表情をなくしているはずなのに、どうして「殺してほしくないけど人間のところに返したくもない」と思っていたのがバレたのか。

 やはり姉は偉大な存在である。

 

「…………了解、しました。もうこの際、飯が食べられるならどこでもいいわ。どうせ私に選択権はないし」

「ふふっ、よろしくね。十六夜咲夜」

 

 一時はどうなるかと思ったものの、どうやら無事に事態は収束したらしい。

 すでに銀髪少女こと咲夜に戦闘を継続させるような緊張感はなかった。とりあえず、小汚い服装を見て綺麗な衣服を用意してあげようと思い立つ。

 原作ではメイド服を着てたし、仕事もメイドだから妖精たちにも渡してあるメイド服でいいだろう。

 

「って、それよりレーツェルをパチェのとこに連れて行かないと!」

「え、ちょ、お姉さ」

 

 レミリアが、そんな風に考えていた俺の手をバッと取って走り出す。もう音の出どころも病気じゃないことも判明したのに。

 本気で焦っている様子の姉にそんな言葉は口に出せなくて、小さくため息だけを吐いた。

 とりあえず、ポカンとした咲夜の表情が印象的だった。



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九.答えの変わらぬ数百年を

「私の存在が認識できなくなる……時を止めてる間は私に攻撃ができないということですか?」

「攻撃できないというか、存在そのものが消え去ってしまうのですよ。どこに誰がいたのか記憶に穴が開いたように忘れてしまい、なにをどうすればいいのかもわからなくなって……時を再起すると一気にすべてを思い出すのですが」

「それなら私が紅茶を淹れてきて欲しいって言ったとして、時を止めるとそのことも忘れてしまうのですか?」

「それは違いますわ。私がなにをしようとしていたのかはハッキリと覚えていました」

「ふぅむ、なるほど……」

 

 ――咲夜を紅魔館に迎えて数年が経ち、すでに彼女は完全に紅魔館に馴染んでいた。

 最初の頃はいろいろと周囲の環境に警戒を抱いていたようだが、レミリアの見た目相応の子どものごとき所業やパチュリーの引きこもり具合、門番のくせに昼寝をしていたりする美鈴など。それらに影響されたのか、刺々しかった雰囲気も少しずつ柔らかくなっていった。淀んでいた瞳も、未だ冷たさは残すものの透き通った色になってきている。

 煤けた黒色のローブは完全に焼却処理を施し、今は胸元に緑色のリボンがつけられた青と白を基調とするメイド服を身に纏っていた。荒く無造作に伸ばされていた銀髪も新しい環境で日々を過ごすうちにサラサラと綺麗なものへと変わり、髪型もボブにして、先端に緑のリボンをくくりつけた三つ編みをもみあげ付近で結っている。ヘッドドレスとしてホワイトブリムも装着し、清楚な立ち姿は完全に「できるメイド」だった。

 自衛と侵入者迎撃の手段として銀のナイフを服のそこかしこに隠しており、その腕は十数メートル離れた狙った位置へ寸分違わず投げられるほどである。比例して料理もうまく、咲夜が来てからは人間の血を混ぜた料理や紅茶を多く食べるようになった。

 時を操る能力もとても有用で、止めるだけでなく遅くしたり速くしたりと自由自在だ。「時を操れるなら空間も操れるんでしょ。書庫を大きくしてくれない?」とはパチュリーの言で、その力に目をつけたレミリアによって今は屋敷中の空間が拡大されている。

 屋敷は外観からは想像できないほど広くなり、ただの書庫は大図書館へと変貌し、フランの部屋へ続く道は余計に複雑な迷路となった。

 紅魔館は十六夜咲夜なしではなりたたない。今ではそれほどの存在だ。それらの事情や仕事の手際の良さもあり、すでに幼いながらにメイド長という地位についていた。

 

「遠くから私が咲夜のことを呼んだりしたら、時を止めて向かってくることはできるんですか?」

「できることはできますが、居場所を忘れてしまうのでかなり大雑把になってしまいますね。いっそのこと時を遅くして向かった方が効率がいいです」

「あれ、遅くしたり速くしたりした時は私がいなくならないんです?」

「時を止めた場合のみですよ。消えてしまうのは」

 

 そして現在、俺は自分の部屋にて咲夜とコタツで向かい合っていた。たまには休んだらどうかと誘ったら断られたので、ならばと「これは私の能力を調べるための仕事」と押し切って連れて来た。

 茶葉と水を入れておいた急須から湯のみへと注ぐ。この急須は俺が制作したマジックアイテムだ。なんの茶葉でも入れるだけで緑茶の茶葉となり、水を入れるとお湯になるというなんとも便利な機能を持っている。

 お茶を咲夜にどうぞと渡し、自分の湯のみにもお茶を入れた。

 

「……これは? 紅茶ではないようですが」

「緑茶と言いまして、とある島国で流行ってる飲み物です。少々苦いですが心が落ち着きます」

 

 俺が普通にズズズと飲んでいくのを見て、水面を見つめていた咲夜も意を決して口につけた。

 

「確かに……少し苦みがありますが、心が穏やかになるというか……落ち着きますね」

 

 気に入っていただけたようでなによりである。口元の緩んだ咲夜を見て、やっぱり無理矢理にでも休ませてよかった。

 もう一口飲んだところで湯のみを置き、腕を組んで思考を巡らせる。

 

「咲夜、一度時間を止めてもらってもいいですか?」

「はい」

「…………えっと、止めました?」

「返事をした時にはすでに」

 

 気づけば俺の手元に会ったはずの湯のみが咲夜の湯のみの傍に置かれていた。

 どうぞと手渡されるそれを微妙な気持ちで受け取り、中身がなくなっていないことに安堵して一口。

 

「もう一度いいですか?」

 

 ――ジジ。

 

「止めましたわ」

「なるほど、ありがとうございます」

 

 なるほどと言っても、なに一つわかったことなんてないけれど。

 正確な距離は定かではないが、咲夜が近くにいる状態でその能力を行使すると俺の頭にノイズが走る。彼女がメイドになってからは頻繁に聞こえてうるさいので、普段は俺自身の能力で"時が止められた結果として頭の中に響き渡る雑音"という事象を消去している。

 最初はそのままの状態で時を止めてもらい、二度目は"能力同士が干渉し合うことで頭の中に響き渡る雑音"と条件を変えていた。

 一度目は聞こえなかった。つまり、時が止まったことが要因で音が生まれていることは明白。しかし二度目はそのまま聞こえて来たので、能力同士が干渉し合って雑音が鳴っているわけではない。

 

「レーツェルお嬢さまは、自分の能力の使い方がわからないのですか?」

「物事の結果を、事象を消去するということ以外はなんとも……自分の中に問いかけても、無限に箱を開け続ける現象があるだけなので」

 

 俺が咲夜の能力の影響を受けている……いや、咲夜が俺の能力の影響を受けている?

 そういえば、とかなり昔に同じようなことがあったと思い出す。まだ今世の母と父が生きていた時代、フランが生まれていなかった頃。

 俺には『運命を操る程度の能力』が通じていなかった。決めたはずの未来がどういうわけか覆され、コイン当てに失敗していた。

 今回もまた似たような事態である。しかしノイズが聞こえたということは能力同士が干渉し合っているわけではなくて。

 ややこしくて頭を掻いた。落ち着くためにお茶を飲もうとして、中身がなくなっていることに気づく。急須から注いで、ズズズとすすった。

 

「結果の消去……あぁ、なるほど。そういうことでしたか」

「え、咲夜わかったんですか?」

「はい、まぁ」

 

 どう話したものか、という風に目の前の彼女が顎に手を添える。

 

「時を止めている状態で行動を起こした場合、当然ながら時を動かした瞬間にそれが結果として現れます。突き詰めれば結果だけを残す世界を作り出すことに他なりませんわ」

「えっと……つまり?」

「結果を消し去る力を持つお嬢様は、結果しかない世界では存在し得ない。私はそう推測します」

 

 最初は首を捻っていたが、咲夜の言いたいことを咀嚼するように理解していく。

 要するにある程度の『自動発動機能』があるということだ。俺自身が"結果のない存在"であり、その根底を覆すような事象に関しては意識しなくともその『自動発動機能』によって勝手に消去される。

 "結果のない存在"であるがゆえに、レミリアの能力によって運命や未来(けっか)を決定することができない。

 結果しか残らない世界では"結果のない存在"である俺はいてはいけないから、一時的に世界から認識されなくなる。

 

「ノイズは『自動発動機能』によるもの……いえ、お姉さまの時には聞こえませんでしたし、一瞬にも満たない間と言えど、存在が消えた影響が音として私の頭に届いているということですか」

 

 試しに"存在が消えた結果として生まれる雑音"の事象を消去してみる。咲夜に時を止めてもらってみたが、確かにノイズが聞こえない。どうやら正解のようだ。

 

「謎が解けたようでなによりです。これで命じられた仕事も終わりなら、私はこれで」

「いえいえまだですよ。あなたには私のリラックスタイムに付き合っていただくという仕事があります」

「リラックスタイムですか」

「そうです、リラックスタイムです」

 

 立ち上がりかけた咲夜を強引に再度座らせ、空になっていた湯のみへ緑茶を注ぐ。

 こうしてのんびりするのに飲み物だけ、というのもなんだか質素な感じだ。軽く食べられる果物かなにかがほしい。コタツにみかんはよく合うし、そのうち庭に種を植えるのも一興か。

 

「咲夜は、もう紅魔館に慣れましたか?」

「……正直に言ってもよろしいので?」

「遠慮はいりません」

 

 緑茶に口をつけ、ゆっくりと湯のみを置いて咲夜が語り出す。

 

「慣れることには慣れましたわ。大して役に立たない妖精たちに代わっていろいろとやったり、昼寝なんてしてる門番を叱ったり、大図書館の知識人へ紅茶を差し入れに行ったり、二人のお嬢さまがたのわがままを聞いたり」

「わがままと来ましたか。迷惑をかけて申しわけありません」

「迷惑ではありませんよ。それに、仕事ですから」

「……まだ、私たちのことは信用していただけませんか」

 

 もうこの際、飯が食べられるならどこでもいい。咲夜はメイドとして仕える立場になる時にそう言っていた。

 じっと見つめる俺の瞳と、冷たい色を宿す彼女の目が合う。なにを考えているのか、どう思っているのか。

 

「そうですね。お嬢さまがたがどういう人柄なのかは十分に理解できましたし、信用はしていますよ。ですが……」

 

 その表情と視線から、未だ淀みは完全には抜け切っていない。

 続きの言葉は紡がれず、もう言うことはないとばかりに咲夜は緑茶に口をつけた。

 

「私は咲夜のこと、大切に思っていますよ」

「私と過ごした日々など、お嬢さまがたが生きた年月の一〇〇分の一にも満たないでしょうに」

「そんなことは関係ありません。人間は、長く生きた家族よりも数年しかともに過ごしていない恋人を優先したりもするんでしょう? 私は妖怪ですが」

「私がその恋人だと?」

「年月なんてさほど大きな意味はないと言っているのですよ。私は咲夜のことを大切に思っています。それだけでいいじゃないですか」

 

 わずかに咲夜の目が見開かれるも、それはすぐに閉じられる。数秒後には変わらぬ憮然とした表情をたたえた彼女が、淡々と「ありがとうございます」と言ってくるだけだ。

 咲夜の心には、こちらの言葉はまだ届かない。それでもいつかは彼女にも俺たちを信頼してほしいと思う。俺やレミリア、フラン、パチュリーや美鈴とも違う、『人間』である咲夜だからこそ。

 

「今度、二人で将棋でもして遊びましょうか」

「将棋……ですか」

「咲夜ならそういうの得意そうですからね。囲碁でも構いませんし、オセロなんて手もあります」

 

 多人数でやるならトランプだってありだ。前世の知識が衰えないおかげで考えれば考えるだけ浮かんでくる。

 今はまだ暗く淀みを残した瞳の咲夜にも、いつかは心から笑えるようになってほしい。それが五〇〇年に近い年月を無表情なまま過ごしてきた俺の願い事の一つだった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

「それで、あなたたちは私にその侵略活動を手伝ってほしいと?」

「昨今、妖怪の力の減少が著しいことは貴女も理解しているはずだ。神はその神威をなくし、妖精は姿を消し、神秘を信じなくなった人間が世の中を跋扈する……」

 

 自分と同じ蝙蝠にも似た悪魔の翼を背に携える成人ほどの身長の男性が、赤い瞳を爛々と輝かせて告げる。

 

「幻想郷と呼ばれるその場所では、妖怪はその力を保ち続け、神は確かに存在し、妖精はそこかしこに溢れ返っていると聞く。かつての時代と同じ光景を備えた美しき場所だと聞き及んでいる」

「私たち吸血鬼はそのかつてを知らないはずなのだけれどね」

「貴女がたの武勇は我が住処にも届いている。特に、今から約四八〇年前に妖怪の大軍を相手にまったくの無傷で勝利を得たという"光翼の悪魔"のことは」

 

 ピクリ、と己の眉が震えてしまう。

 四八〇年前――脳裏によみがえるは、さらにその数年前の出来事。

 母が死に、父とその眷属が死に、そして。

 

「だからこそ誘いに来たのだ。どうかね? 我らとともに幻想郷に攻め入り、吸血鬼の力を思い知らせてやろうとは思わないか?」

「……それで、私たちになにか利点が? まさかなんの見返りもなく参加しろと言うのではあるまいな」

「利点? 我々の力を思い知らせ、幻想郷とやらの頂点に立つ。それだけでは不満なのかね?」

 

 あぁ、わかっていない。この男はわかっていない。そんなものが成功するはずがないだろう。

 吸血鬼は最強種の妖怪だ。その力は頂点に迫る。しかし妖怪の中では歴史が浅い部類に入り、新参と目されている種族でもある。

 知らないのだ、なにもかも。確かに強さは本物ではあるが、かつて存在していた真の妖怪とでも言うべき数多くの歴史を知らない。

 だから負ける。だから勝てない。

 

「本当なら今回の件に貴女がたを誘うつもりはなかった。貴女のような見目麗しい女性を戦に巻き込むなどしたくないのだよ」

 

 鳥肌が立った。思わず魔力で攻撃しそうになってしまったが、なんとか自重する。

 

「しかし"光翼の悪魔"の功績には目を見張るものがある。四八〇年前でそれならば、今は……そう考える同胞は多い」

「期待しているのは妹だけで、私なんておまけに過ぎないと?」

「そうではない。なにせ今感じている力の差でわかる。我の力では、貴女には敵わない」

 

 膝をつき、頭を垂れてくる。たかが一〇にも満たない人間の背丈ほどしかない私を自分より上位の存在と認めたのだ。

 

「我々に貴女がたの力を貸していただきたい。"紅い悪魔(スカーレットデビル)"殿」

「……ふぅん」

 

 運命を弄っている。ただ一つのことを為すために、ありとあらゆる宿命を四九〇年前から今に至るまで。

 ならばこの申し出も、私の能力により発生した偶然の賜物か。それともレーツェルがいたからこその必然の誘いか。

 どちらにせよ、この選択が大きな分岐点であることは確実だ。引き受けるか否か。どちらが目的を果たすために必要なことなのか。

 ただのうのうと変わらぬ日々を過ごすだけでは意味がないとわかったはずだ。他の誰かに救いを求めて受け入れても、彼女を縛る鎖を増やすだけだと理解したはずだ。

 最早行動に移すしかない。たとえそれがどのようなものであろうと、彼女の運命を変えられる可能性があるのなら、変革を求めて突き進むしかないのだ。

 

「わかったわ。その話、引き受ける」

「本当か?」

「二度は言わない。後日、日程の連絡をお願い。それに合わせて幻想郷に攻め入れるように準備を整えておくわ」

「ありがたい。ご協力、感謝する」

「同胞の頼みだもの。無下にはできないわ」

 

 なんて、よくもまぁ心にもない言葉を吐けるものだ。自分のことながらあきれてしまう。

 さぁ、存分に利用させてもらうとしよう。

 願わくばこの選択が、私の悲願が達成される運命へとつながりますように。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一〇.壊れず、信じて、答えへ

「……壊れ、ない?」

「おめでとうございます、フラン」

 

 クマのぬいぐるみを両手で持ち、恐る恐ると呟く彼女に賛辞を述べる。

 ついに力の加減が道具を手に取っても大丈夫な段階までたどりついた。ぬいぐるみは地味に中の綿が圧縮されて破裂しそうではあるものの、なんとかフランの力に耐えている。

 フランは胸に抱いて「わぁ」と柔らかさに感動したように顔を埋めた。

 

「これもお姉さまが作ったの?」

「魔法研究と道具作りは私の二大趣味ですからね。もちろん手作りです」

「……ありがとう、お姉さま」

「どういたしましてですね」

 

 心からの笑顔は見ている側も幸せな気持ちになる。

 ぬいぐるみの耳をちょんちょんと触ったり、意思でも通わすかのようにじーっと目を合わせたり。

 あとはラストスパートをかけるだけだ。数年もあれば力を完全にコントロールできるようになる。人間と遜色ないレベルまで自在に力を落とせるようになり、自分の意思と関係なく物を壊してしまうことがなくなる。

 

「……なんか、涙出てきちゃった」

「え? フ、フラン、大丈夫ですか?」

「よくわかんないけど……お姉さま、いい?」

 

 返事をまたず、フランが胸に飛び込んできた。倒れそうになりながら受け止めて、妹が震えていることをようやく理解する。

 よくよく考えれば、彼女はこうして壊さずして物に触れるようになるために数百年もの時間を費やしてきたのだ。その努力がついに実った。それで泣かないはずがない。

 フランをあやすように背中をポンポンと叩く。ずっとがんばってきた妹へのご褒美だ。今くらいは、服が涙で濡れるのも、感動の感情で力の加減が微妙な感じになって痛いことも許容してあげよう。

 

「おめでとうございます、フラン」

 

 もう一度そのセリフを告げて、妹の頭を優しく撫でた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「近々、幻想郷に攻め入ろうと考えているの」

 

 とある、あまり使われていない一室。レミリアの開口一番に放たれた言葉に、この場にいるほとんどの者がなにかしらの反応を見せた。

 美鈴は「幻想郷? なんですかそれ?」みたいに首を傾げ、パチュリーは興味深そうに目を細める。俺は表情は変わらないものの一瞬思考が止まり、咲夜だけがいつもと変わらず紅茶を俺やレミリア、パチュリーへと差し出していた。

 脈絡もなく突然集められたかと思えばこれである。わけがわからない。

 

「えーっと、その、幻想郷って言うのはなんでしょう」

 

 いい質問ね、とレミリアが美鈴を指差した。

 

「昨今、神々や妖怪がその力を落とし、妖精が数を減らしていることは当然理解しているわよね」

「ええ、まぁ、私も一応妖怪ですからねー」

「幻想郷とは遠い島国にある変な結界に囲まれた土地のことなのだけど、どうやら一部の妖怪には楽園とまで呼ばれているみたいでね。人は神秘の存在を信じ、妖精はそこらに闊歩して、妖怪の力は衰えることを知らない」

「なんだか凄そうですねー………」

 

 ほへぇ、と目を瞬かせる美鈴。

 続いて反応を見せたのはパチュリーだ。紅茶を一口飲んで、口元を緩ませる。

 

「聞いたことがあるわ。世界の各地で起こっている妖精や妖怪の神隠しとでも言うべき消滅現象……一説では、幻想郷に引き込まれたとか」

「そうそう、それよ。同胞から聞いた話によるとそこには変な結界が張られているらしくてねぇ、存在を否定された妖怪を引きずり込むようにできているんだってさ」

「まぁ、それなら私やレミィたちはまだまだ大丈夫でしょうね。美鈴はどうか知らないけど」

「え、きっと私も大丈夫ですよ! なんたって紅魔館の関門ですよ! 関門! 人間たちにも知れ渡ってるに決まってます!」

「そうねぇ。そうだといいわね」

「いじめないでくださいよー、パチュリーさまー」

 

 不敵に笑うパチュリー、涙目になる美鈴。パチュリーの方が後から来たのに、気づいたらこんな関係になっていた。ちなみに咲夜も同様だ。咲夜が「美鈴」と呼ぶのに対し、美鈴は「咲夜さん」と下手に出る。きちんと仕事をこなす咲夜と昼寝をよくする門番との違いであった。

 そんなことより、同胞? 頭の中で疑問を抱く。他の吸血鬼たちだろうか。

 俺は未だレミリアとフラン以外の同族には会ったことがない。姉がそんな話し合いをしていたことだって初耳なのだ。

 

「この前来たのよ、私たち以外の吸血鬼が。それから一緒に幻想郷を侵略しないかってお誘いがね」

「……そう、なんですか」

 

 俺の思考を察したらしいレミリアがご丁寧に説明してくれる。同胞、吸血鬼、侵略――幻想郷に攻め入るとは、その名の通り本当に乗っ取るという意味での発言で間違いない。

 魂に刻まれた記憶を瞬時に探ると、一つだけこの話題に通じる出来事の知識があった。

 『吸血鬼異変』。幻想郷――原作、東方Projectの舞台となる土地へと、初めて吸血鬼が襲来した事件だ。力のままに暴れまくり、危うく幻想郷が乗っ取られそうになる。

 最後はもっとも力のある妖怪によって鎮圧されたらしいが、詳しいことは不明とされている。公開されていた情報は曖昧なものばかりで、具体的になにが起こったのかはわかっていない。

 

「……危なくないですか?」

 

 だから、思わずそんな言葉が口をついて出てしまった。

 

「そうねぇ、大手を振って大丈夫とは言えないわね。なにせ戦争だから」

 

 レミリアが纏う空気が変わった――魔力を垂れ流しにして、この場の注目を集める。

 

「それでも、このままではいずれ私たちも人間たちに忘れ去られてしまうでしょうね。そうなれば幻想郷の変な結界で自動的に引き込まれる。だから遅かれ早かれの違いでしかないのよ」

「私たちが行く必要はあるのですか? たかが数人の吸血鬼が参加しない程度で戦局は変わらないと思いますが」

「吸血鬼とは一騎当千の存在よ。弱点を多く持つ代わりに、ありとあらゆる面で秀でている。一人でもいるのといないのとでは大違い」

 

 吸血鬼の強さは俺もよく知っている。卓越した身体能力、スピード、魔力、再生能力、特殊能力。しかしそれらを持っていても決して無敵の存在ではない。

 不安を抱いている俺の内心に気づいたのか、レミリアが肩を竦めた。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。それに私はそこまで熱心に戦うつもりもないわ。紅魔館には守らないといけないものもいっぱいあるしね」

「……お姉さまのその言葉、ちゃんと覚えましたから」

「ここにいる皆はもちろん、命が無限にあるからと言って妖精メイドたちも見捨てる気はない。私は紅魔館の主、誇り高き貴族よ。一度口にした言葉は違えないわ」

 

 いずれ幻想郷に行かなければならない。あまり熱心に戦わない。守るべきものがある。

 ここまで我が姉である彼女が言うのだ。反論の気持ちは未だあれど、それをもう口にはできない。

 

「で、レミィはその幻想郷への移動はどうするつもり? 海の向こうにある場所なんでしょう?」

「幻想郷の結界とやらを利用するわ。妖怪を引き込もうとしてるんなら、それに乗じて館ごと転移させるのよ」

「……そういう魔法を私に作れ、と?」

「話が早くて助かるわね」

 

 パチュリーが一際大きなため息を吐いた。いきなりそんなことを頼まれれば当然だ。館全体を転移させるなんて大きなことは一朝一夕でできるものではない。

 

「……咲夜、手伝って。あなたの空間をいじる力が必要だわ」

「了解いたしましたわ、パチュリーさま」

 

 最初に知識人とメイドがいなくなり、門番の仕事があるからと美鈴もいなくなった。

 紅茶を口に含み、最後まで残っていた我が姉レミリアと向き合う。

 

「私は館を保護する魔法を即急に作ろうと思います。正直、攻め込むなんて物騒なことは賛成ではないのですが……私はお姉さまを信じてますから」

「それは嬉しいわね。ところで、レーツェルは侵略の方には参加しないのかしら」

「大切なものを守るためなら喜んで。それが、あの日に誓ったことの一つですから」

 

 それだけ告げて、俺も足早に部屋を後にした。

 館を守る魔法は前々から構想だけは考えていた。急いで完成させなければならない。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Unbekannt □ □ □

 

 

 

 

 

「なんだか胸騒ぎがするのよねぇ」

 

 博麗神社――そう呼ばれている建物の屋上で、私は半分だけ光る月を眺めていた。

 

「胸騒ぎ、ですか。外の増長した一部の妖怪どもが近々攻め入ってくるとおっしゃっていましたが、それのことでしょうか」

「幻想郷のためにもある程度はそいつらに暴れてもらわないといけないけどねぇ、そうじゃないのよ。もっと別の得体の知れない嫌な予感とでも言うべき……なにかとてつもない失敗を侵してしまいそうな、そんな胸騒ぎよ」

「はぁ、私は特になにも感じませんが」

 

 隣を見れば、道教の法師のような衣に青い前がけを被せた服装の妖怪がいる。

 金髪のショートボブに金色の眼、狐の耳を隠す二つの突起が作られた帽子をかぶっていた。しかし、誰もが最初に目が行くのはゆらゆらと揺れる九本の尻尾である。かつて九尾と畏れられ、今は私の式として配下に置かれている、名を八雲藍。

 両腕を交差させて袖に隠す仕草は彼女のクセであり、同時に、そのせいでなにもしていないのに胡散臭さを感じさせてくる。まったく誰に似ているのやら。

 

「今回は、少しばかり慎重になろうと思うわ。こういう感覚を無視して痛い目を見て来た回数は数え切れないくらいたくさんあるから」

「年の功というやつですか?」

「殺すわよ。というかあなたが言うの?」

 

 外の妖怪が攻めてくるタイミングはわかっている。もっとも彼らの力が高まる時、すなわち満月の夜だ。

 上弦の月を見上げ、一瞬で満ちるまでの日づけを計算する。

 

「あまり時間はないわね」

「此度訪れる外の妖怪とはそんなに手強いのでしょうか。一〇〇〇年も生きていない新参しかいないと聞いていますが」

「力があるだけで大した歴史もない、私が出ればすぐに鎮められる程度の妖怪よ」

「そりゃあ紫さまにかかればどんな妖怪も一捻りでしょうけど……」

「そんなことはないわよ。鬼ほどの妖怪が相手なら疲れたりもするわ」

「疲れるだけなんですね」

 

 吸血鬼も吸血『鬼』だ。大昔より畏れられるその字を名前の中に持つ以上、それなりの力があるとみて間違いない。

 

「この予感が果たして幻想郷に益となるか、はたまた害を為すか……」

 

 嫌な感覚は未だ拭えない。胸騒ぎはどうも強くなるばかり。

 いざという時に備えて、ここの博麗の巫女にも備えさせておく必要があるかもしれない。

 

 ――そうして一週間が経過し、吸血鬼たちによる幻想郷侵攻が始まった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一一.心配性な呪われ吸血鬼

「行くわよ」

 

 館中の住人全員がホールに集められていた。これから行われることは事前に皆が知っていることと言えど、ざわめきは収まることを知らない。

 世の魔力がもっとも濃くなる時間帯、満月の夜。幻想郷にある結界に乗じて内部へと転移する魔法が完成し、ついに攻め込む時が来た。

 

「これ、もしかして星の並びから力を借りてるの?」

「そうですね。割合から察するに、月の精霊を中心にそれぞれの星の精霊を一つにまとめているんでしょう」

 

 この時ばかりはフランも地下室から出て来て、俺の隣でホール中に展開されている魔法陣を眺めていた。

 俺ほどとは行かなくても、フランも長年魔法を習ってきた身である。専門ではないから完全に構成を読み取ることはできないにしても、なにを使ってどうしようとしているかくらいはわかる。

 

「……パチュリーだけで作った魔法じゃないよね、これ」

「わかりますか? これは咲夜も手伝っていたらしくて――」

「お姉さまが作る術式に似てる部分があるわ。手伝ったんでしょ?」

「む、さすがフランですね、そこまでわかりますか」

 

 幻想郷に攻め入る話があった翌日、レミリアが大図書館に訪れてあと六日で転移魔法を完成させてなどと無茶な注文もしてきたとか。パチュリーは自分と咲夜だけでは無理だと悟り、俺に協力を求めて来た。館を保護する魔法を作る片手間でいいならと引き受けて、その結果として転移魔法が今日の早朝に完成した。

 魔法は本来ならばたかが数日で作り上げられるものではない。今回は元々研究していた事柄をうまく組み合わせて半ば無理矢理に完成へこぎつけたのだ。そのために魔法はひどく効率が悪く、改良の余地は山ほどある。

 

「――――――――――――」

 

 空気が震え始めた。この場にあることを拒絶するかのごとく、館全体が揺れている。

 不安定な魔法陣に月と星の魔力が満ちた。直後、全員が宙に投げ出された――まるで眩暈のごとき感覚。

 鉄同士をぶつけた時のような甲高い耳鳴りに苛まれながら、魔法陣が一際大きく輝いた。

 視界が上下する。匂いが混ざる。床が振動する。存在が移動する。

 

「――フ、ラン。大丈夫ですか?」

 

 終わりは一瞬だった。すべての現象が幻のように消え去って、すぐに隣にいるはずの妹の安全を確認する。

 

「うん、大丈夫」

 

 周りを見渡せば、レミリアやパチュリー、美鈴や咲夜、妖精メイドたちもきちんといる。魔法陣の明かりはもうついていなかった。

 

「成功したわよ」

 

 パチュリーのそんな報告を皮切りに、周囲から安堵と感動の騒ぎが巻き起こる。

 転移に成功したと言っても未だ実感は湧かない。パチュリーに許可を取って急ぎ足で廊下に出て、窓があるところまで急いで向かう。後ろにはフランもついてきていた。

 外をガラス越しに確認して、ようやく俺もここが違う場所だと感覚的に理解する。

 館の側面、外壁を飛び越えた少し先に見たこともない妖気に溢れた山が鎮座していた。妖怪の山――原作通り、その麓の湖にある島の岬に転移したようである。

 

「今宵は満月、それに初めての引っ越しを経験した記念すべき日ではありますが……」

 

 妖精たちは移動に成功したことに歓喜していたが、問題はその後なのだ。

 これからすぐに戦争が始まる。吸血鬼たちによる侵攻が。

 

「まずは館を保護する魔法を作動しましょうか」

「私も手伝うわ」

 

 幻想郷には神に等しき能力を持つ妖怪の賢者がいる。どうせ負け戦だった。だからこそできるだけ守りに徹する。

 願わくば、最後には何事もなく異変が終わりますように。

 

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 あっという間とはこのことを指すのだろう。

 ほんの数時間前は主に妖怪の山方面で戦闘や爆発音が絶え間なく聞こえていたが、今ではそれも収まりを見せている。吸血鬼がやられているのではなく、こちらが幻想郷側の勢力を押していた。

 今になって思い出したが、吸血鬼異変が起こったのはさまざまな理由により妖怪の気力や実力が最底辺まで下がっていた時だった。新参と言えど最強クラスの力を持つ吸血鬼にとってそんな相手など敵ではない。大量の妖怪を軍門に加え、着々と侵略範囲を広げているようである。

 

「お姉さまも出るんですか?」

「ええ、まぁ。せっかくお誘いを受けたのに行かなきゃ文句を言われちゃうからねぇ」

「……正直、行ってほしくないのですが」

「レーツェル、私たちは曲がりなりにも……いえ、まっとうな吸血鬼なのよ。舐められるようなことがあってはならない。吸血鬼という種の力を知らしめなければならない」

 

 レミリアが戦争に参加するということはあらかじめ知らされていたことだ。それでも、いざそういう時が来れば止めたくもなってしまう。

 

「それにお誘いを受けたのに行かないって言うのもダメなのよ。勝っても負けても、同族から後で疎まれることになる。それは好ましくないことだわ」

「それは、そうですが……館を守る魔法は結構な大規模で、私がいないと発動し続けなくて」

 

 つまりは俺がレミリアについて行けないことを指す。

 レミリアが直接見ていなければ不安だという俺の意図を感じ取り、口元を綻ばせた。

 

「ふふっ、私なら大丈夫よ。あいかわらず心配性ね。"紅い悪魔"はこんなところでは朽ち果てない」

「……危なくなったら、すぐに帰って来てくださいよ」

「わかってるわ」

 

 結局引き留めきれず、館から出ていく彼女を見送った。

 これでいいのか。これでよかったのか。本当は、無理矢理にでも止めるべきだったんじゃないのか。だけど、そうすれば戦争中は大丈夫でもその後に同族から……。

 考え始めれば止まらなくなる。不安がどうしても抜けない。

 ダメだダメだ、と頭をぶんぶんと横に振った。大丈夫だ。レミリアは俺の姉だ。妹の俺が信頼しなくてどうする。

 

「こんなことなら、監視魔法(ストーカー)でも開発しておくべきでしたね」

 

 嘆いても始まらない。俺は俺にできることをするだけだ。

 それに『吸血鬼異変』は原作でも起こったことである。レミリアたちがそれに参加していたかどうかは定かではなかったが、こうして戦争を行っている以上は正史でも加勢していたのだろう。

 だったらきっと大丈夫だ。レミリアは東方Projectの人気キャラクター、未来にいることが確定している。絶対にいなくなりはしない。

 半ば無理矢理にそう振り切って、今も俺の魔力を吸い取って発動している館の保護魔法の具合を見に行くことにした。

 さすがに紅魔館全体を覆う保護魔法と言うと脳内での術式では完結しないため、広いところで魔法陣を展開させてもらっている。

 いつの間にか本が増えまくって大図書館とまで呼ばれている場所につくと、宙に浮かんだ魔法陣が真っ先に目に入った。正しく発動していることを確認し、ホッと安堵の息を吐く。

 

「こんな魔法を維持し続けるなんて、あなたも大概ね」

 

 机を前に紅茶を飲んでいたパチュリーが俺に声をかけてくる。

 

「大規模ではありますが、効率性を追求していますから。妖力か魔力を持ったなにかが近づいた時だけ防御を強固にするように設定しています」

「魔力消費を最小限に抑えているってわけね。さすがはレーテだわ」

 

 傍に控えている小悪魔が新しく紅茶を淹れ、パチュリーがそれを俺に薦めてくる。

 のんきに飲み物を嗜んでいる気分ではなかったが、せっかくの紅茶を飲まないのも悪いので対面に座らせてもらった。

 紅茶を一口含み、カップを置く。静かになると、自然と出かけて行ったレミリアの無事ばかり考えてしまう。

 

「そんなにレミィが心配かしら」

 

 そこまでそわそわしていたのか、パチュリーに問いかけられるほどだ。

 

「確かにレミィは子どもっぽい言動が多いけど、決してバカというわけではないわ」

「それはわかっています。でも、心配なものは心配なんですよ。パチェはそうじゃないんですか?」

「もちろん心配よ。でも、そんなこと私が気にしてもしかたがないじゃない。たかが九〇年ちょっとしか生きていない実戦経験もろくにない魔女が、数百年も生きた吸血鬼たちが繰り広げる戦に対抗できるとは到底思えない」

 

 言っていることは正しいが、そう簡単に割り切れることだろうか。

 

「……パチェの紅茶、もう入ってませんよ」

「え、あら、本当だわ」

 

 パチュリーが口に運んでいたカップについて指摘する。

 俺を冷静にさせようと、ただ押し隠しているだけ。はぁ、と大きくため息を吐いた。

 俺だってレミリアと同じで五〇〇年近い時を過ごした吸血鬼だ。友人に気を遣わせていては面目が立たない。

 不安な気持ちがなくなったわけではないが、今は少しだけ強がりでいよう。そう思った。

 順番に思い返す。美鈴、パチュリー、咲夜を迎え入れた時のことを。

 

「私がいたのにも拘わらず、これまでだって正史通りに行ってたんです。そうですよ、今回だって……」

 

 小さく呟く。大丈夫だと、最後に言い切ろうとする。しかしどうしてもその言葉が口をついても出てこない。

 ――本当にそうか?

 不安、心配、懸念……違う。これはそんなものではなくて、一種の直感だ。

 かつて二回、俺はこれを味わったことがある。それはいつだった? そのせいでなにが起こった?

 思い出せ。でないとなにか、取り返しのつかないことに――。

 

「ッ、今のは……!」

「レーテ?」

 

 一瞬だった。一秒にも満たないその瞬間、保護魔法の強化が発動した。

 攻撃されたわけではない。俺の保護魔法は感知した妖力や魔力の分だけ強化するようにできている。保護魔法が反応したのはほんの微量、しかし紅魔館全体に反応を示したのだ。

 

「ちょっとレーテ! どこに」

 

 パチュリーの静止を無視して大図書館を飛び出した。急いで外が見える窓まで駆け出して、館に起こった異常のもとを探し出す。

 それはすぐに見つかった。

 太陽が空に鎮座していた。ついさきほどまで深夜とも言うべき時間だったはずなのに、どういうわけか今は昼なのである。

 日差しがガラスを超えて俺に達し、ほんの少しずつ皮膚が灰と化していく。

 こんなことができる妖怪なんて一人しか思いつかない。賢者――神にも等しき力を持つという妖怪、八雲紫(やくもゆかり)。昼と夜の境界でもいじったのか?

 

「でも……」

 

 八雲紫はとても聡明な妖怪であるはずだ。その頭脳は星が星を食らう時間さえも一瞬で求められるほどだと前世で聞いたことがある。未来では吸血鬼は幻想郷のパワーバランスを担う種族として存在しているし、レミリアやフランはその代表的な者たちだった。日差しも弱らせるだけでそのまま始末するつもりはなく、すぐに夜に戻してくれるはずだ。

 ――本当にそうか? だからレミリアは無事だと確信を持って言えるのか?

 言い切れない。正史では生きていたから大丈夫――俺はなにか大きな見落としをしている。さきほどまで俺はなにを考えていた? 美鈴やパチュリーたちがうまくいったから、今も歴史はきちんと原作へ向かっていると?

 ――バタフライ効果(エフェクト)。最初は蝶の羽ばたきのように小さな揺らぎが、長い年月を経ることで無視できない大きな歪みへと変わっていく。

 俺がいるせいで今回の戦争に参加することになったのではないか。あるいは俺がしていたなにかが原因で正史がわずかに狂い、今はそれが大きな歪みに転じているのではないか。

 たとえば、四八〇年近く前に攻め入って来た妖怪の大軍を俺が圧倒した時の武勇が知れ渡っていることで、この戦に誘われてしまっているとか。

 そもそもレミリアは、本当に吸血鬼異変に参加なんてしていたのか? なによりも八雲紫は、本当に吸血鬼を全員生かして残しておいたのか?

 

「『そんなに心配しなくても大丈夫よ。それに私はそこまで熱心に戦うつもりもないわ。紅魔館には守らないといけないものもいっぱいあるしね』……でしたよね」

 

 しっかりと覚えている我が姉の言葉。頭の中で反芻すればするほどに、彼女を信じたい気持ちと同時に、愛しさとあの日の誓いが俺の中によみがえってくる。

 なにがあっても絶対に大切なものを守り通す。人間よりも人間らしい願い。妖怪よりも妖怪らしい欲望。

 大好きだからこそ強引に被った狂気の仮面がある。今もなお続く自ら課した呪いと、表情を殺した理由がある。

 

「あぁ、本当、私はすっごく心配性みたいです」

 

 さっきまで強がりでいようと決めたはずなのに、もう揺らいでいる。どうしようもない。母と父とその眷属を失ったせいで、どうもこういうことには弱いようで。

 背後でパチュリーが追いついてきたのを感じ取り、ゆっくりと振り返った。

 

「パチェ。お願いがあります」

「……はぁ、しかたないわね」

「まだなにも言ってないのですが」

「あなたがいない間、紅魔館は私が守るわよ。外の様子を見る限り、どうせ戦はもう終わりそうだから大丈夫よ。正直私も勝てるとは思ってなかったわ」

「……行ってきます」

「レミィのこと、よろしく頼むわ」

 

 窓を開け放つ。余計に強さを増した紫外線が俺を容赦なく焼いてくるが、構わず外へと飛び出した。

 『光の翼』を発動し、音速には届かない程度で妖怪の山へと向かう。空から個人を判別できるギリギリの速度だった。

 考えることはただ一つ。

 

「『お姉さまとフランは、私が絶対に守りますから』」

 

 あの日の約束はなにがあっても違えさせるつもりはない。二度も経験したことを三度も繰り返させやしない。

 なにも失わないために狂気を手に入れたんだ。そのためだけに俺が存在しているんだ。

 大好きなお姉さま。どうか、俺がたどりつくまで無事でいてください。



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一一a.救いを目指して得た答え

二話連続投稿となります。
先に前話「一一.心配性な呪われ吸血鬼」からどうぞ。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

「お姉さまも出るんですか?」

 

 そろそろ同胞の戦いに混じるために出かけようとした矢先、妹に呼び止められた。

 

「ええ、まぁ。せっかくお誘いを受けたのに行かなきゃ文句を言われちゃうからねぇ」

「……正直、行ってほしくないのですが」

「レーツェル、私たちは曲がりなりにも……いえ、まっとうな吸血鬼なのよ。舐められるようなことがあってはならない。吸血鬼という種の力を知らしめなければならない」

 

 表情がない妹からも、長年一緒に過ごしたことで瞳に込められた感情を読み取れるようになっていた。

 あいもかわらずレーツェルは心配性だ。姉の私がどれだけ安心なさいと諭しても瞳は不安に揺れている。そういう心遣いを心から嬉しいと感じるからこそ、私は出て行かなくてはならなかった。

 

「それにお誘いを受けたのに行かないって言うのもダメなのよ。勝っても負けても、同族から後で疎まれることになる。それは好ましくないことだわ」

「それは、そうですが……館を守る魔法は結構な大規模で、私がいないと発動し続けなくて」

 

 ついて行きたい、という考えが言葉からも透けて見えている。思わず小さく笑ってしまった。

 

「ふふっ、私なら大丈夫よ。あいかわらず心配性ね。"紅い悪魔"はこんなところでは朽ち果てない」

「……危なくなったら、すぐに帰って来てくださいよ」

「わかってるわ」

 

 これ以上残っていると決心が鈍りそうだった。早々に妹に背を向けて、玄関の扉を開けて外へと飛び出した。

 山の方から爆発や轟音が絶え間なく聞こえてくる。これで最初と比べれば収まった方だというのだから、力を持った妖怪同士の争いは計り知れない。音がもっとも熾烈な位置を判別し、大体の方向を決めて空を駆ける。

 まともな殺し合いを行うのは何百年ぶりだろうか。記憶を探ってみるも、心から身の危険を感じたことなんて一度もなかった気がする。

 私が危ない時はいつでもレーツェルが助けてくれた。あの日からずっとそうだ。不甲斐ない姉に代わって、あの子は幾度となく立ちはだかる障害を退けてきた。

 いつだって助けられるのは私で、あの子を救ってあげることなんてできていない。

 延々と続きそうだった過去の想起も、眼下から炎の弾丸が迫って来たことで中断される。軌道を瞬時に把握し、顔を右腕で覆った。

 

「なかなかの熱さねぇ」

 

 素早く振るうことで炎を落とし、魔力を通わせて即座に火傷を回復させる。その後も連続で放たれて来た炎弾をかいくぐり、全力で撃って来ている者の元へ向かった。

 山の麓、灰色の肌を持つ人間の子どもほどの大きさの妖怪がいる。口から炎の息を吐いたりしているから十中八九そいつが犯人だ。

 

「ワタシは火前坊。異国の妖怪、その命を頂」

「うるさい。消えろ」

 

 お返しとばかりに圧縮した魔力弾を高速で投げてぶつけると、弾が急激に膨張して火前坊と名乗った妖怪ごと周囲三メートルほどを飲み込んだ。

 素早く周囲を確認すれば、すでに苛烈な戦闘のせいで木々が吹き飛び地形が変わっている。遠くに同胞と戦っている妖怪を見定め、不意打ち気味に圧縮魔力弾を一発お見舞いした。

 火前坊と同じように魔力の膨張に巻き込まれて消え、そいつと戦っていた吸血鬼が「おや?」と私の方を見る。

 

「おお、やっと来てくれたか」

「ん……あぁ、お前、私を戦に誘ってきたやつか」

「覚えていただいて光栄だよ。一緒に戦ってくれるのかね?」

「私は私で勝手に戦う。お前に構ってる暇は――」

 

 瞬時にその場を飛び退いた。話していた吸血鬼も危機に気づいたようだが、一歩遅かったようだ。飛来した青色の火にその身を許す。

 

「ぐ、がぁ!」

 

 炎を受けた吸血鬼は全身を焼かれながら魔力を解き放ち、強引に炎を振り払った。魔力を消費したせいで再生が遅い体に舌打ちし、攻撃をしてきた方向へ顔を向ける。

 

「あー、すみません紫さま。仕留め切れなかったみたいです」

「さすがは吸血鬼と言ったところかしらね。まぁ、仕留め切れなくても大して問題ないわ」

 

 第一印象は"得体の知れない妖怪"だった。九本の尻尾を保有する狐の妖怪は見ただけで大妖怪とわかるほどの妖気を保有し、なによりもそれに様づけされている方は見るだけで鳥肌が立つ不気味さだ。

 金髪のロングに、妖艶さを放つ同色の瞳と表情。身長は十代後半と言ったところか。紫の前がけをつけた白い衣を身に纏い、赤いリボンの巻かれた帽子をかぶっている。なぜか手には傘を持っていた。

 不敵な笑みは余裕の表れか。一瞬だけこちらに視線を向けてきたが、警戒してなにもしないのを確認してすぐに逸らした。

 

「こ、のアマァ!」

「藍」

 

 一瞬にして詰め寄った吸血鬼の頭を狐の妖怪が掴み、大地がくぼむほどの腕力で足元に叩きつけた。吸血鬼の身体能力に対応した――さきほどの再生が間に合わないほどの青い炎と言い、間違いなく大妖怪クラスだ。

 それを従えていると思わしき紫と呼ばれた妖怪はなんだ? どういう能力を使う? どれだけ強い? 考えれば考えるほどに迂闊に動けなくなる。

 

「もう十分あなたたちには暴れてもらったわ。そろそろ戦も終わりにするわよ」

 

 紫が空を見上げ、手をかざした――直後、肌を露出している部分が焼けている感覚に襲われた。

 この痛みを私は知っている。いや、吸血鬼ならば誰でも知っている。忌々しき日光の力。

 まさか、と天を仰ぐ。目玉が焼かれてよく見えない。しかしわかる。太陽がある。青空が広がっている。

 今さっきまで真夜中だったはずなのに、まるで真昼間かのような明るさと熱気がこの場にあった。

 

「ちっ」

 

 下を向いて魔力を流し、目玉を再生させる。吸血鬼が持つ共通の能力――指先から紅い霧を出現させ、私の近くだけ太陽の光を一時的に遮らせる。

 ほんの数十秒程度なら構いはしないが、吸血鬼である以上は日差しは浴び続けているわけにはいかない。

 

「それにしても、思ったよりも吸血鬼どもは数がいるようね」

「みたいですね。嫌な予感って言うのはそれのことでしょうか」

「どうかしらねぇ。でも、幻想郷のバランスを保つためにも数をある程度減らしておいた方がいいかもしれないわ。どいてなさい」

 

 言い、紫は狐の妖怪が抑えつけている吸血鬼に手に持っていた傘の先端を突きつけた。

 妖力が膨張し、その吸血鬼を飲み込んだ。さしもの再生能力も肉体すべてを消されては意味がない。まるで最初からいなかったかのごとく、私にここの存在を教えた吸血鬼は消え去ってしまった。

 まるで当たり前かのように行われたが、吸血鬼は頭一つでも残っていれば一晩で全回復してしまう再生能力に加え、生半可な攻撃では傷つかない耐久も備えている。こんなに容易に殺せるはずがない。それを為せるだけの力――ここまでの妖怪を二人相手に、私では万に一つも勝ち目はない。

 

「ついでにそこの呆けているやつもやっちゃいなさい」

「了解しました」

 

 指示された狐の妖怪がこちらに目を向け、尻尾の先に灯した青色の炎を撃ってきた。『運命を操る程度の能力』で偶然の現象を支配しつつ、最小限の動作でそれらを避けていく。

 隙ができたところで一気に飛び退こうと考えていたが、九本の尻尾から順に作って放たれてくる炎に隙が一切ない。どう考えても私では二人一緒となると勝てないから、どうにかして逃げる手立てを考えないと――。

 

「あぁもう、なに手こずってるのよ」

 

 脚がなにかに掴まれた。絶え間なく飛来する青い焔のせいで誰も近寄れないはずなのに、何者かに脚を止められたのだ。

 

「しまっ」

 

 青い炎をその身に受ける。これまで一度も感じたことがないほどの熱さ。土が焼けるほどの業火だった。

 炎が外側から侵食してくる感覚に耐えながら、これを魔力の放出で払った吸血鬼を真似て自分も魔力で振り払う。

 

「藍、もう一度よ」

「く、ぁああ……!」

 

 そんなあからさまな隙を見逃してくれるはずもない。炎を退けた瞬間に再び全身が同じものに包まれ、思わず声を上げてしまう。

 私は吸血鬼だ。魔力にはまだまだ余力がある。しかし、青い焔が強力過ぎた。

 どれほど消してもまた襲ってくる。体内まで容赦なく焼いてくる炎は吸血鬼の再生能力を以てしても回復が間に合わない。

 息ができない。音が聞こえない。終わり? ダメだ、弱気になるな。

 私には目指しているものがある。達成しなきゃいけないことがある。そのためだけにここまで来た。なにか収穫が得られるだろうかと期待して、可能性を求めて戦争に参加した。

 こんなところでくたばるわけにはいかない。そんなことは許されない、許したくない。

 

「ほう」

 

 回復よりも攻撃の中断が先だと判断し、炎に焼かれながら一〇個の圧縮魔力弾を作り上げた。

 余裕そうに感嘆を漏らす狐の妖怪へ撃ち放つ。青い炎で迎撃しようとしているが、無駄だ。

 炎を察知したかのごとく迂回して迫る魔力弾にさしもの相手方二人も目を剥く。

 何百年も昔に開発した遊び、"弾幕合戦"。あれは今も暇があれば続けているほどだ。魔力の精密動作性については私がいつも一番で、弾状への生成能力と操作性能に関しては誰にも引けを取るつもりはない。

 とてつもなく複雑に絡み合う機動で狐の妖怪に迫る魔力弾は、しかし紫という妖怪にすべてを防がれてしまう。彼女が手をかざすと二人を囲んで結界が出現し、私の魔力弾を一切通さなかった。

 効かないのはわかっていた。この隙に体に燃え盛る青い炎を打ち消して、すぐにこの場から離脱しようと飛行へ意識を集中させて。

 同時、結界を解いた紫から紫色の無数の光線が飛んできた。疲労している私に避けられるはずもなく、脚や翼、腕などを撃ち抜かれて倒れ込む。

 

「く、ぅ」

 

 さすがに消耗し過ぎていた。炎を何十秒にもわたって浴び続け、こうして全身に穴を開けられる。数時間もあれば回復してしまうと言えば聞こえはいいが、それは決して即座に再生させられるような傷ではないことを示している。

 二人の妖怪が近づいてきているのがわかった。さきほどの吸血鬼のように殺されるのか。そうだとしても恐怖はない。ただ、底知れない不安と後悔だけが渦巻いているだけだ。

 レーツェルは。レーツェルを。レーツェルが。レーツェルに。

 あぁ、ダメだ。まだ死ねない。あの子を救わないと。呪いから解き放たないと。運命を変えないと。

 

「まだ立ち上がるのね。すごい生命力……いえ、精神力かしら」

「黙、り……なさい」

 

 一歩踏み出す。それだけで体がぐらついた。そういえば脚に穴が空いていたんだった。歩けないわけだ。

 だったら歩けなくていい。このまま倒す。体中からありったけの魔力を集めて、集めて、集めて。

 

「がッ」

 

 狐の妖怪に頭を掴まれ、地面に叩きつけられた。気が散ったせいで操作していた魔力が霧散する。

 戦意はまだあった。まだ死ねないという思いもあった。それでも、意識が朦朧としてしまう。体から力が抜けていく。

 

「レーツ、ェ……ル……」

 

 戦争に参加したのは、やっぱり失敗だったのだろうか。

 自分以外の誰かに救いを求めて運命を操作した。最初は美鈴を紅魔館に受け入れた。パチュリーも私の欲もあるけど半分はレーツェルのため。咲夜だって、あの子が好きな種族の人間だから救ってくれるんじゃないかと期待した。

 どれもこれも変わらなかった。結局あの子の大切なものを、その身を縛る鎖を増やしただけだった。

 だから大きな変革を求めて侵攻に参加したのに。

 あぁ、失敗した。あの子を救えなかった。助けてあげられない。どうして。嫌だ。

 お願いだ。誰でもいい。救ってほしい。助けてほしい。まだ死ねない。死にたくない。未練がある。あの子の表情を取り戻したい。もう一度、私の前で。

 お願い――――レーツェル。

 

「――お待たせしました、お姉さま」

 

 聞き慣れた愛しい声音。しかしそれは、どこか計り知れないほどの悲しみを秘めている。

 その声を聞いた瞬間、私は侵略に参加したことが完全なる失敗だったと理解した。

 長らく聞いていないせいで忘れていた。彼女が表情を殺した日のことを。『助けて』という声が今にも聞こえてきそうな、どこまでも苦しそうな作り笑顔の言葉を。

 今のそんな冷たい声音と、最近ずっと聞いていた心配や歓喜と言った感情のこもった温かい声音。それらを聞き比べて、ようやく悟る。

 私は焦っていただけだった。

 本当はたどりつきかけていたのだ。美鈴、パチュリー、咲夜、私とフラン。何百年と言う歳月をかけて、レーツェル・スカーレットにかけられた呪いは少しずつ氷解させられていた。

 あと一歩だった。ただ日常を過ごしているだけで、大事な妹は救えていた。すぐにでも表情を取り戻せていた。

 

「レー、ツェル」

 

 そしてその可能性も今、潰える。私が侵攻なんて行ったせいで。

 作り笑いを浮かべる自らの妹の姿を見て、私は自分が死ぬ以上の後悔と絶望に苛まれていた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一二.未だ帽子屋は滅びず

※「一〇」辺りにある「この世の深淵へ至る魔法」がどうとかいう記述を削除しました。


 妖怪の山の麓の上空までたどりつくと、ひとまず止まって周囲の状況を確認する。

 太陽が現れたせいか、今はずいぶんと吸血鬼が押されていた。満月の夜が終焉を迎えたせいで強化されていた能力も下がり、軍門に下らせていた妖怪たちにもチャンスだと判断されて反抗されているようである。

 しかし吸血鬼の潜在能力は凄まじく、それでもまだ優勢に立ち回っていた。一匹でも吸血鬼を上回る妖怪が出てくれば今にも崩れてしまいそうな程度の優位でしかないが。

 再度飛行を開始し、眼下の景色を確認しながら飛び回る。あいつは違う。あれも違う。なかなか見つからない。

 日光が本格的に肌を焼いてきて気分が悪くなってきた。なにせ俺は地上で戦っている吸血鬼たちと違って日陰など身を隠す場所がない。

 

「あれは……」

 

 紅い霧が立ち上っているのを見かけた。吸血鬼の数ある特殊能力のうち、その一つで生み出されたモノ。まさかと思い、速度を上げて向かう。

 そうしてたどりついた場所には一番出会いたくなかった妖怪が二人。そしてその片方に抑えつけられている、一番出会いたかった小さな悪魔が一人。

 見つけた。

 

「――下がって、藍」

 

 空から大地へ接近しつつレミリアを地面に叩きつけていた妖怪へ魔力の光線を放った。直前で飛び退いて避けられるが、目的はレミリアから引き離すことだ。

 倒れ伏す姉の傍にスタリと降り立ち、安心させるように笑顔を作りながらレミリアに告げる。

 

「お待たせしました、お姉さま」

「レー、ツェル」

 

 ひどい火傷だ。それでも吸血鬼は時間さえあれば回復するが、念には念を。レミリアに触れて能力を発動し、肉体を霧にしている答えをなくす。紅い霧が消え去り日光が再び俺とレミリアを直射してくるけれど、レミリアには俺の影を纏わせて紫外線を遮断した。

 俺はどうしよう。周囲に障害物になりそうなものはないし、影の魔法は他人の影を操れない。代わりに右手の先から赤白い霧を出した。

 あいにくと数分間ずっと日差しに身をさらしていた身だ。これ以上浴びるのは得策ではない。

 ゆらりと、今さっきまで我が姉を追い詰めていた二人の妖怪に向き直った。

 

「こんばんわ、おはようございます。お初にお目にかかります、八雲のお二人」

「……私たちはあなたにあったことがあるかしら」

「初対面ですよ、境界の妖怪さん」

 

 金髪に金眼、頭には赤いリボンが結ばれた白い帽子。フリルのついた白い衣に紫の前がけをかけた傘を持った妖怪、八雲紫――妖怪の賢者と呼ばれ、また神にも匹敵する能力を持ち合わせる実質上の幻想郷の支配者。

 もう一人は紫と同じ色合いの髪と瞳を持ち、こちらは道教の法師のような服に青い前がけをかけている。二つの耳を帽子で隠し、腰辺りからは九本の尾をむき出しにしていた。八雲紫の式神、九尾の狐で名を八雲藍と言う。

 両方とも幻想郷きっての大妖怪クラス――いや、紫に至っては大妖怪とかそういう次元ではない。まさに妖怪の頂点と言ってもいい存在である。

 まったく最悪な相手と鉢合ってしまったものだ。運がない。この場合運がないのは、俺じゃなくてレミリアか? どちらでもいいか。どうせこうして相対してしまってるんだ。

 

「紫さま、この吸血鬼は」

「わかっているわ。翼膜のない変な翼といい突然変異かしら。なんにせよ他の吸血鬼とは桁違いの実力なことは確かよ」

 

 身体能力も魔力量もレミリアと大して変わらないのだが、そこまで断言できる理由はなんだろう。

 

「無理を承知で聞きたいのですが、見逃してはくれませんか? 私はお姉さまを連れ帰れれば後はどうでもいいんです」

「吸血鬼は吸血鬼というだけで十分強力なのよ。その中でも明らかに異質なあなたの力がどれほどのものか……今ここで測らなければ後に必ず幻想郷にとってのイレギュラーとなるわ」

「あぁ、私が来なければよかったんですか。パチュリーと咲夜辺りを一緒に行かせた方がよかったんでしょうか。いやいや、私以外じゃお姉さまが死ぬ前にここに来るのは適いませんでしたね」

 

 戦闘は避けられない。そう判断し、翼に妖力と魔力を流し込んで赤白い粒子の羽を具現化させた。

 四九〇年ほども生きていれば当然ながら『光の翼』を全力で扱っても大丈夫なくらいに成長している。もっとも、全開にしたこれを空を飛び回る以外の目的で使ったことはない。

 いったい俺の力が最強の妖怪にどこまで通じるか、ここで試す。

 

「速さによって発生する空気の摩擦、抵抗。および音速を超えた状態での自身からの衝突による怪我を負う『答え』をなくします」

 

 ――音を置き去りにして八雲藍へ勢いのままに右腕を叩きつけた。ギリギリで両腕を交差されて防がれたが発生する衝撃は相当なものだ。軽く数百メートルほど遠くへと吹っ飛ぶ様子を見て、突然の出来事に紫が目を剥く。

 そんな彼女にも即座に方向転換して同様に音速超えの突撃を打ち出した。紫は藍と違い通常の妖怪程度の身体能力しか持ち合わせていない。ガードが間に合うはずもなく腹に一撃を当てられた。藍と反対方向へ飛ばし、しかしどうにも感触がおかしい。まるでふかふかの布団を殴りつけたかのごとき手ごたえのなさだ。

 

「炎により火傷を負う『答え』をなくします」

 

 藍を吹き飛ばした方向から凄まじい熱気を察知し、即座に能力を発動。迫り来る青い炎を避けることなくそのまま受け、すぐ後にとんでもない速度で駆けてきた藍の拳を左手で受け止めた。

 こうして直接防いでみることでわかる。藍の身体能力は俺よりわずかに劣っていた。

 

「影踏み」

「動けな……ッ」

 

 影の魔法の派生、相手の影を踏みつけることでその動きを封じる。

 大量の妖力をこの一発で仕留めるつもりで右手に練り上げた。最初に繰り出したただの物理攻撃とは比較にならない威力を作り出す。藍も必死に逃れようと全身に妖力を漲らせているものの、伊達に四九〇年も魔法使いをやっていない。いくら大妖怪でも俺の影踏みを一秒もかけずに解くことなど不可能だ。

 そうして繰り出した全身全霊の一撃。けれどもそれも突如空間を裂いて現れた華奢な片手に受け止められた。またも感じるさきほどと同じ手ごたのなさ――両端にリボンがくくりつけられた亜空間への入り口が視界から十数センチ先に現れた。

 その空間から傘の先端が見えると同時にバッとその場から距離を取った。次の瞬間には妖力が圧縮された光線がさきほどまで俺の頭があった位置を通り過ぎていく。なるほど、妖力の光線で怪我を負う『答え』もなくしておこう。

 

「藍、大丈夫?」

「すみません紫さま。遅れを取りました」

 

 避ける時に影から足を離してしまったので藍も動けるようになった。その隣に空間を裂いて――切れ端にリボンが結ばれ、内部ではぐにゃぐにゃと形容しがたい紫色の背景に多数の眼が生えている亜空間。俗にスキマと呼ばれ、主に移動の際に使われるものだ――無傷の紫が現れる。

 

「まるで鬼と天狗に魔法使いさえ掛け合わせたかのような生物と戦っている気分だわ。あなた、名前は?」

「"光翼の悪魔"と呼ばれています。本名はレーツェル・スカーレット、長い付き合いになるといいですね」

「そうねぇ。まだまだあなたの底は見えず……藍、他の吸血鬼の相手に行ってなさい」

 

 え? と藍が瞼を瞬かせた。

 

「少しばかり本気を出すわ。邪魔だからどっか行ってなさい」

「はぁ。まぁ、紫さまなら大丈夫でしょうけど……」

「いいから行きなさい。ここに残ってまたやられかけても助けてあげないわよ?」

 

 そんな紫の言葉を皮切りに、しぶしぶと藍がこの場を後にする。敵が減るのはいいことなので無暗に攻撃したりはしない。

 改めて、八雲紫と向き合うことになった。二度も攻撃をまともに当てているのに無傷とは、いったいどうやっているのやら。事象を消去する俺が言えたことではないけれど。

 

「……本当、やめにすることはできませんか。早くお姉さまを連れ帰りたいんですが」

「そうねぇ。なら――私から、その姉を取り返せたらいいわよ?」

 

 不敵に笑う紫の右脇に抱えられているのは、俺の後ろにいるはずのレミリア。俺が目を離した隙にスキマで奪っていたのか。

 『光の翼』で突っ込んですぐにでも連れ戻したかったが、果たして今の傷だらけのレミリアが音速を超えて発生する衝撃波に耐えられるかどうか。躊躇し、なにもできずにいる俺を紫が嘲笑う。

 

「それにしても不思議ねぇ。本当にあなたは姉のことを大切に思っているのかしら」

「……なに言ってるんです? 当たり前じゃないですか」

「そうかしらねぇ。ほら」

 

 紫が、レミリアを日差しから守るために纏わせていた俺の影を触れるだけで消滅させる。

 爛々と照りつける太陽が容赦なく姉の肌を焼き、灰にしていく。

 

「こんなことをしてもあなたの表情は動かない。まるでなにも感じていないかのよう……私にはとても心配してるようには見えない」

「無表情ロリっ子キャラってことですよ。萌えるでしょう?」

「……? はぁ、なに言ってるのかしら。よく意味がわからないわ」

 

 余裕そうに会話しながらも、頭の中では焦りが充満していた。

 レミリアには太陽を長く受けて無事でいるほどの体力は残っていない。早く助け出さないと。しかし、どのくらいの間なら大丈夫だ? 数十秒か? 数分か? もしかすれば、残り数秒でもう手遅れになってしまうのかもしれない。考えれば考えるほどに嫌な想像は膨らんでいく。すぐにでも取り戻さなければと焦燥が駆け巡る。

 でも、どうやって?

 記憶を掘り返せば、前世では原作の紫は『自分には何も効かず弱点はない』とか言っていた。実際に俺の全身全霊の一撃を受けてもピンピンしているのだから本当なのかもしれない。

 どうすればいい。なにが最善の方法だ?

 

「……私に、揺さぶりなんてかけても無駄ですよ。私はお姉さまへの親愛を疑ってませんから」

「ふふっ、美しき姉妹愛ねぇ。妖怪ながらにして高きその信頼は、きっと幻想郷にも良き変化をもたらす」

「そう思うんなら見逃してください。真面目にお願いします。心からお願いします」

「あなたの力の底を見てからね」

 

 紫が左手を上空に掲げたかと思えば、天に紅魔館ほどの巨大な結界が出現した。

 警戒して眺めていると、内部にスキマが開かれる。水の入ったコップがそこから落下し、重力に従って結界の下面に衝突して割れる。瞬間、結界内の空間すべてが液体へと変化した。

 

「あの中の水と空気の境界を弄ったわ。さぁ、藍の炎さえ効かないあなたは弱点の流水にも耐えられる?」

 

 結界が解かれ、膨大な量の水が降り注ぐ。そんな光景を眺めながら頭に過ぎるのは、かつて抱いた一つの思い。

 ――俺はレミリアの妹、フランの姉、吸血鬼レーツェル・スカーレットだ。それ以外の何者でもない。弱点だからとなくしてしまえば、俺は吸血鬼ではない別のナニカになってしまう。

 一秒にも満たないほどの間だけ目を瞑り、その感情とレミリアの無事を天秤にかけた。

 

「吸血鬼だから流水を苦手に思う『答え』、それから流水によって動けなくなる『答え』をなくします」

 

 吸血鬼の弱点をなくした方が有利に立ち回れる。

 大量の洪水をその身に受けた。下に押さえつける圧力がかかるが、吸血鬼の身体能力を以てすれば耐えるのは容易かった。

 やがてすべての水が降り終えて周囲に流れていく中、日差しが痛いなと空を見上げた。右手から放出していた霧は水に流されてなくなってしまっていた。しかたないので、日差しにより自身が灰になっていく『答え』をなくす。

 

「あなた、本当に吸血鬼?」

「……どうでしょう。もしかしたら、究極生命体かもしれません」

 

 髪についた水滴が邪魔だ。首を横に振って振り払う。

 あぁ、胸が痛い。ノコギリか鑢でゴリゴリと削られているような気分だ。

 原因はわかっているし、幸い俺の能力は解除ができる。後で流水や日差しの無効化は絶対に解いておこう。

 ――もしも俺の能力が代えが効かないものでも弱点をなくしていたか?

 不意に頭の中に浮かぶ無粋な問い。意味なんてない。だって答えはわかりきっていた。

 

「私の能力は……すべての現象の『答え』を、事象をなくすことです。私が認識したすべては私に届く未来へは到達し得ない」

「あら、姉を人質に取っている相手にそんなこと教えてもいいのかしら」

「いいんですよ。私の底が見たいんでしょう? あなたからお姉さまを取り返せたら……見逃して、くれるんですよね」

 

 作り笑いを浮かべて、小さく息を吐く。

 流水に関しての『答え』をなくした瞬間、すべてを思い出した。母を亡くした時のこと、父とその眷属が死んだ時のこと。

 忘れかけていた。あれは俺が殺したんだ。俺が不注意だったばかりに、俺が幸せを求めたばかりに。

 別のナニカになりたくない? 吸血鬼でなくなるのは嫌だ? それでも、レミリアを助けるためなら自分の感情なんてどうでもいい。

 俺の大切なものをすべて守ると誓った。レミリアを、フランを。今は美鈴やパチュリー、咲夜や妖精メイドたちだってそうだ。同じ失敗を三度も繰り返さない。誰も失いたくない。だから表情をなくし、呪いを手に入れた。

 願いを。欲望を。それを叶えるためならなんだってする。

 

「さっきの名前、訂正してもいいですか?」

「訂正?」

「"光翼の悪魔"って言うのは、私を正しく表現した言葉じゃないんです。だから真の二つ名を名乗ります。こっちはここ最近ずっと名乗ってなかったので、館に侵入してくる人たちも知らないみたいなんですけど……」

 

 作り笑いを深め、訝しげに首を傾げる紫へとあの日に定めた名前を告げた。

 

「"狂った帽子屋"。どうか、私のことはそうお呼びください」



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一三.暗きに沈んだ悲鳴の心

 キリキリと悲鳴を上げる心を剥離して、誓いをもとに生み出された呪いだけで思考を支配する。

 視界が段々と鮮明になっていった。

 まるで漫画や映画でも見ているかのような感覚だった。主人公にどれだけ感情移入しようとも、それはどこまでも薄っぺらい。本当の心は海の底に深く沈めたまま、偽りの思考だけが表面に浮き上がる。

 『光の翼』がレミリアを傷つける可能性があるなら、ただ単に歩いていけばいい。

 ピチャピチャと水たまりに音を立てながら、紫へ向かって歩みを始めた。

 

「来るわね。これはどうするの?」

 

 前方一メートルほどの場所に半透明の壁が生み出される。どうもこうもない、認識すると同時に能力を使用した。この壁が俺と接触を果たした結果により生じる物理的阻害という『答え』をなくし、すり抜ける。

 

「ならこれよ」

 

 四方に現れたスキマが線をつなぎ、俺を取り囲む。全身の力が抜けていく感覚から封印の一種だと理解し、これにより力が弱まる『答え』をなくした。

 止まることを知らず歩き続ける俺に不敵な笑みを浮かべた紫が、今度は左手の傘を天へと向けた。ゆっくりと振り下ろされる――先端の直線状に有った雲が真っ二つにされているのを眺め、境界を引かれることで分断される『答え』をなくす。

 前に進んでいるつもりなのに遠ざかっていくことに違和感を覚えた。方向の境界が曖昧にさせられているという『答え』をなくす。

 急に暗くなっていく視界。闇と光の境界がいじられている『答え』をなくす。

 空気が固まってきている気がした。気体と固体の境界がいじられている『答え』をなくす。

 そこら中に現れた無数のスキマから妖力の弾と光線が放たれて来た。光線はすでに無効化しているので、妖力弾により怪我を負う『答え』をなくす。

 

「……厄介ね」

 

 ピチャピチャと、ヒタヒタと、一切その速さを緩めずに近づいていく。

 それ以来攻撃が止んだ。攻撃や小細工が無駄だと判断したのか、別の視点での一手を考えているのか。

 八雲紫まで、あと数メートル。一歩、二歩、三歩。

 行動を起こさない彼女にお構いなしに、右脇に抱えられているレミリアへとゆっくりと手を伸ばした。

 

「これでどうかしら」

 

 そうして届く直前、俺の腕を紫が掴んだ。

 

「あなたの意志と能力との境界をいじった……あなたはもう、使用するという意志を持って能力を行使することはできない」

 

 自信満々に口の端を吊り上げて、「いったんスキマで距離を取って、もう一度――」なんて。

 浅はかだよ。

 捕まれたまま、絡ませるように紫の腕を掴み返す。

 俺の言葉と行動に不思議そうに首を傾げていた彼女は、数秒後に限界まで目を見開いた。自分が陥っている事態に気づいたようである。

 

「使用する意志を持って『境界を操る程度の能力』を行使するという『答え』をなくさせていただきました。自分がしようとしていたことをされる気分はどうですか?」

「え……? なんで……」

「私は相手に触れることができれば、その者が直接的に関連する事象も操作できるようになるんです」

 

 この世のすべては無数の事象が重なり合うことで成り立っている。その有無を司るということがどういう意味を持つのか。

 最強の妖怪との幕引きはあまりにもあっけなかった。あまりにも唐突に、あまりにも平然と。

 呆然としていた紫が途端に顔を歪め、憎々しげに俺を睨んでくる。

 

「ッ、私が聞きたいのはそんなことじゃないわ。どうして能力が封じられているのにも拘わらずこんなことができるのか、それを聞いているのよ」

 

 なんだ、そんなことか。それなら『答え』は簡単だ。

 

「私は"答えのない存在"ですから」

「……どういうことかしら」

「『答えをなくす程度の能力』は、言ってしまえば私自身の在り方です。生まれた意味から目を背け、それを失った救いようのない哀れな"狂った帽子屋"。私こそが能力で、能力こそが私。それを引き離すことなんて絶対にできません」

 

 要するに『自動発動機能』が働いてくれたというだけのことだ。驚くことなどなに一つもない。

 

「返してもらいます、お姉さまを」

 

 八雲紫がレミリアを抱える意志を持って行動に移している『答え』をなくす。ガクンと膝を落とす紫。その隣で転げ落ちそうになった我が姉を地につく前に抱え上げた。

 すぐに影の魔法を発動し、俺の影を纏わせて降り注ぐ日差しからレミリアを保護する。

 

「もう能力は使えますよ。私が他人の事象を消せるのは、触れている間だけですから」

 

 そう言って踵を返す俺の肩を掴み、「待ちなさい」と。

 

「私は条件通りお姉さまを取り返しました。文句を言われる筋合いなんてありませんが? それとも、あなたは自分の言ったことにも責任が取れない下等な妖怪なんでしょうか」

「言ってくれるわね。もう少しどれだけの力があるのか把握しておきたかったのもありますが、私もこれ以上戦うつもりはないわ。ただ、聞きたいことと言いたいことが一つずつあるだけ」

「なら、聞きたいことからどうぞ」

 

 首を傾げる俺に真剣な表情で問いかけてくる。

 

「あなたは、どうして私を殺さなかったのかしら? そこまでのことができるなら、そのまま私を殺すことができたでしょうに」

「そうですね。いずれ外の世界で忘れ去られる運命にある吸血鬼には、忘れ去られた者たちが集まる幻想郷が必要になります。幻想郷は境界の妖怪がいなければ成り立たない。だから生かした。それだけですよ」

「恨みはないのかしら。姉を人質に取ったのよ?」

「悔恨がないというわけではありません。ですから、そうですね……貸し一つということにしておきましょう。今度絶対に返してもらいます」

 

 絶対に、の部分を強調した。大好きな姉を傷つけられ、一度はこちらが生殺与奪の権利さえ得たのだ。当然の要求である。

 聞かなきゃよかったという具合に苦々しい顔になった紫に、「それで」ともう一つのことに耳を傾ける。

 

「言いたいことっていうのはなんですか?」

「……忘れ去られた者たちの楽園、幻想郷にようこそ。それだけよ」

 

 なんでそういうことだけは律儀なのかな。

 小馬鹿にするように「ようこそされました」とだけ口にして、レミリアを抱えたまま紅魔館へ向けて空に飛び立った。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

「レミィ、大丈夫? 顔色悪いわよ」

「……ええ、別になんともないわ」

 

 図書館でボーッとしていたところを見かねられ、本を読んでいたパチュリーに心配の言葉を投げかけられた。

 

「まだ調子が戻ってないの? 殺されかけたって言ってもレミィは吸血鬼でしょうに」

「体は大丈夫よ」

「レーテに助けてもらったのよね。前から思ってたけど、あの子は本当に仲間思いだわ」

 

 仲間思い、か。顔を上げて、パチュリーの顔をじっと見つめる。

 なに? と首を傾げる彼女に「パチェは」と問いかけた。

 

「レーツェルのこと、どう思ってる?」

「どうって……そうね。妹さまをすごい大事にしてて、レミィのことを一番に慕ってるわ。私がちょっと調子を崩しただけでも世話を焼いてくれる心配性で、思いつきで突拍子もないことをすることがある……と言った感じかしら」

 

 思いつきで変なことをするのはパチュリーも同じのくせに。

 

「ちょっと前と私を連れ帰って来た時とで、なにかレーツェルに気づいたことはない?」

「え? うーん、レミィが気絶してたから必要以上に慌てていた以外は特になかったわよ」

「そう……」

 

 やっぱり誰も気づけない。誰も気づかない。

 なんの気兼ねもなくレーツェルが過ごしていた頃を知っている私でなければ、あの瞳の奥に広がる暗くて冷たい悲鳴の海はわからない。

 あぁ、どうして焦ってしまったんだろう。どうして、あの子の心が浮き上がり始めていたことに気がつかなかったんだろう。

 失敗した。失敗してしまった。また何百年も前に逆戻りだ。最初からやり直し。

 

「レミィ、今日は早めに横になった方がいいわよ。あなた、自分が思っている以上に調子悪そうだから」

「そうかな……そうかもね。あぁ、今日はもう部屋に戻るわ……」

「お大事にね。レミィがそんな様子だとレーテも心配するわよ」

 

 それは絶対にしてはいけない。そんなところを見られてしまえば、私が弱音を吐けば、あの子の心はもっと深くに沈んでしまう。

 おぼつかない足取りで大図書館を出た。しばらく歩いて、辺りに誰もいないことを確認してから耐え切れずにうずくまった。

 

「大丈夫……大丈夫。一度、レーツェルの心は取り戻しかけた……だから、まだ可能性はある」

 

 諦めない。諦め切れない。あの日から変わらず今も彼女は過去の呪縛に捕らえられている。私が知れないどこまでも深い罪悪感と後悔で、悲鳴を上げている本当の心をずっと海の底に沈めて隠してる。

 助けないと。救わないと。あの時あの場所で、痛々しすぎるくらいに悲しい顔で泣いていた大切な妹を。

 そうだ。前向きに考えろ。今回はただ失敗したわけじゃない。いつの間にかレーツェルの心が浮き上がっていたということは、あのままいけば本当のあの子を取り戻せるということに他ならない。

 方法はわかった。レーツェルを縛る鎖を増やし、日常を過ごすことで少しずつ沈んだ本心を引き上げていくこと。

 一度失敗した。しかし、だからこそどうすればいいのかを明確にできたのだ。

 立ち止まるな。立ち竦むな。怯むな。臆すな。

 

「救い出す……」

 

 諦めたくない。ここで終われば、いったいなんのためにこれまでがんばってきたのか。

 幸い、境界の妖怪とやらの運命は手に入った。これもまたレーツェルの心を取り戻すために利用させてもらう。

 私。フラン。美鈴。パチュリー。咲夜。境界の妖怪、そしてその式神。

 まだ足りない。もっと集めなければ。もっともっとたくさんの者たちの運命を手中に収めなければ。

 私にレーツェルの運命は操れない。だからこそ周りの運命を最大限に利用し続ける。

 最低と罵られても構うものか。昔からずっと、私はレーツェルのためだけに『運命を操る程度の能力』を行使してきた。

 今までも、これからも変わらない。

 

「ごめんね、レーツェル。でも次は絶対、失敗しないから」

 

 立ち上がり、両手でパチンッと頬を叩いた。大丈夫、大丈夫。私ならやれる。私ならできる。

 まだ諦めたくない。レーツェルの笑顔は、絶対に私がこの手で取り戻す。

 ジンジンと痛む頬に「強くたたきすぎたかな」と魔力を流しつつ、ちゃんとした足取りで自室へと歩いて行った。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一四.異変が終わった後で

疑問に思われた方が多いようなので、以下、ちょっとだけ解説です。

Q1.紫さま、歩いてるだけのレーツェルに接近を許すとか油断し過ぎじゃない?
A.自分より格下の相手が走るわけでもなく"余裕そうに歩いてくる"のに、それを少しでも恐れて後退するのはプライドが許さない、と紫さまは感じていました。

Q2.じゃあなんで能力を無効化した(と思った)後はスキマで距離を取ろうとしたの?
A."近づいてきている"→"接触した"では状況が違います。ご容赦を。


 幻想郷側の強力な妖怪たちの手によって、あの日のうちにほとんどの吸血鬼が鎮圧された。その際に吸血鬼側に多数の死者が出たものの、侵攻したのも敗北したのもこちら側だから文句を漏らすのはお門違いだ。

 とは言え吸血鬼をぞんざいに扱ってしまえば、また強大な力を以てして暴れられてしまう未来は目に見えている。よって幻想郷勢力は後日に吸血鬼側とで話し合いを行い、最終的には『吸血鬼に食糧となる人間を提供する代わりに、生きた幻想郷の人間を襲わない』契約を結ぶことで和解した。もちろん相手側から相応の危害を加えられそうになった場合はその限りではないが。

 幻想郷とは人間と妖怪が絶妙なバランスを取り合うことで成り立っている世界だ。強すぎる妖怪には好き勝手されないようにしてもらわなければ、容易にその釣り合いを崩してしまう。

 しかし幻想郷の人間を不用意に減らせないなら、どうやって人間を用意するのか。そんな疑問を投げかけた者もいたが答えは簡単だ。幻想郷とは外の世界と特殊な結界を設けることで『幻想となった存在』が流れ着く場所――しかし、事故で人間が迷い込んでくることも多くある。それの一部を食糧として吸血鬼へ流してくれるとのこと。

 数が減ったことや幻想郷の妖怪の強さを体感したこともあり、再度侵略を行おうなんて思いを抱いている吸血鬼はいない。妖怪として人間を襲えないことで不満やらは出てくるだろうが、それも時を経るうちに風化していくはずだ。

 

「で、どうして紫は私の部屋でお茶を飲んでるのですか?」

「あら、お茶を提供したのはあなたの方よ?」

「そういう問題じゃありません」

 

 ――あの時、俺が勝てたのは紫が油断していたからに他ならない。本当ならあんなに簡単に倒せてはいなかっただろう。

 現在、俺はどういうわけか自室のコタツにて八雲紫と向かい合って緑茶を嗜んでいた。

 事の顛末はこうだ。騒動も収まって来て、落ちついて一人でお茶を飲んでいたら肩にポンと手を置かれる。振り返れば、スキマからニュッと「おじゃまします」と胡散臭い笑みをした紫がいた。いろいろと言いたいことはあったが、気づいたら流れるままに一緒にお茶を飲んでいた。

 昨日の敵はなんとやら。実際は何日も前の出来事なのだけれど。

 

「それより私はあなたの前で名乗ってないんだけどねぇ。私がどういう妖怪かも知っていたみたいだったわ」

「境界の妖怪、八雲紫。かつて数多の大妖怪を扇動して月の民に戦争をしかけた妖怪の名は有名ですよ」

「私がどういう姿か知らないくせに一目でその境界の妖怪だと見抜いたのはどういうことかしら」

「とてつもなく胡散臭い妖怪って聞いてたので、たぶんそうかなと」

 

 自分のことながら、よくもまぁそれっぽいことをつらつらと並べられるものだ。

 

「ふぅん、まぁ、そういうことにしておいてあげるわ。そんなことより、あなたはなにか提案したりしないの?」

「提案? なんのことです?」

「決闘法よ」

 

 あぁ、と納得しながらお茶を一口含む。美味しい。

 

「吸血鬼に幻想郷が乗っ取られそうになって危機感を覚えた妖怪がたくさんいたらしくてねぇ、とある神社の巫女に相談していろいろな決闘法を提案し合ってるのよ」

「いくら私たち吸血鬼が強力な妖怪と言っても、一晩で半分以上が征服されるなんて大問題みたいでしたからね。これ以上妖怪が弱くならないためにも、そして幻想郷が今の形を保ち続けるためにも新たな制度が必要と……あ、もう入ってませんよ。お茶おかわりどうぞ」

「あらどうも。紅茶の茶葉なのにどうして緑茶の味がするのかしら……そうそう、そのためにいろいろと決闘法を提案し合ってるのよ。派手に殺し合いなんてしたら幻想郷はすぐに壊れちゃうし、人間との関係の問題もあるから厄介なのよねぇ」

 

 欠点が此度の侵略で指摘され、幻想郷がよりよい形に向かうために住民たちが話し合う。元凶である吸血鬼も無事に受け入れられた。

 ここまでうまくいっていると、まるで今回の異変は何者かがこういう結果になるように作為的に引き起こしたのではないかと勘繰ってしまう。そんなことをする人物は八雲紫くらいしか心当たりがないが、さすがに疑い深すぎるか。

 

「それで、あなたはなにかいい案はないの?」

「そうですねぇ……」

 

 どうせ流行(はや)るのは"スペルカードルール"と呼ばれる決闘法だけである。そもそもとして東方Projectとはその制度に乗っ取ってキャラクターたちが勝負を繰り広げるゲームだ。

 逆に考えればいくら提案しても無駄であると理解しているぶん、気楽に案を出せるというものか。

 

「卓球なんてどーですか」

 

 なんだか前にも似たようなこと、というかまったく同じことを提案した記憶がある。

 

「あれは事前にいろいろと道具が必要じゃない」

「じゃあサッカーとかバスケとかどうですか」

「道具以前に施設や設備がないわね。とっさに用意もできないわ」

「将棋とか囲碁とか」

「そんな遊戯でどうやって妖怪の弱体化を防ぐのよ」

 

 もっともな反論ばかりだ。なにも考えずに発言しているから論破されるのも当たり前だけど。

 ふと、紫が超人的な頭脳を持った妖怪だと思い出す。もしも彼女にボードゲームをやらせたらどうなるのだろう。今度対戦してみようかなと思う反面、ボロ負けする未来しか見えないのでやりたくない。

 他にも、この世界には天狗や鬼などと言ったさまざまな妖怪がいる。彼らにサッカーなんてやらせたら超次元サッカー(イナズマイレブン)が本当に実現するのではないだろうか。そう考えると段々とワクワクしてきた。魔法を用いた不自然な軌道で曲がる、あるいは燃え盛るシュートなどなど。紫を参加させたらスキマにボールを入れてゴールキーパーの後ろにワープさせるとかやりそうだけど。

 

「一つお願いがあります」

「なにかしら?」

「紫は外の世界と自由に行き来できますし、サッカーについての本とか持って来てくれませんか? もちろん大きく広めるつもりはありません」

「そうねぇ……まぁ、そのくらいなら構わないわ。前に言ってた貸し一つもこれでチャラかしら」

「こっちは大好きなマイ天使(エンジェル)を殺されかけたのにその程度でチャラになるわけないじゃないですか」

「貸し"一つ"っていうのはなんだったのかしらねぇ……まぁいいわ。今度持って来てあげる」

 

 鬼が全力で蹴っても大丈夫なボール、炎や光線を受けても焼き切れないゴールネット、妖怪の身体能力にあったコートの大きさ調整。

 考えれば考えるだけやらなきゃいけないことが見つかる。バカげた能力を保有する妖怪や人間もいるし、そういう能力やら魔法についての制限も考えておかなきゃいけないか。鬼は素の力だけでも強いから、そっちも制限を……いや、それは不公平か。空中戦はどうする? 絶対に出るであろう怪我人への対処は?

 準備が整ったらフランに話を持っていって、一度やってみよう。

 うんうんと唸る俺の対面で、のんきにお茶を飲んで一息をつく紫。

 来た当初は殺伐としていたけれど、幻想郷での生活もこうして落ち着けるものになっていた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「"スペルカードルール"?」

「そうです。殺し合いの代わりとして導入された新しい遊戯ですね。幻想郷ではむやみに殺し合いを行ってはいけない決まりがあるので、ちょっと特殊な決闘方法が必要なんです」

 

 新しく幻想郷に導入されたそのルールを地下室でフランに教えていた。

 一つ、妖怪が異変を起こしやすくする。

 一つ、人間が異変を解決しやすくする。

 一つ、完全な実力主義を否定する。

 一つ、美しさと思念に勝る物はなし。

 以上の四つを理念とし、いくつかの法案のもとで決闘を行うことを命名決闘法案改め"スペルカードルール"という。

 

「他にも弾幕ごっこなんて呼び方もあります。別に攻撃は弾幕には限らないんですけどね」

「ふぅん。お姉さまは、その、"スペルカードルール"っていうのはやってるの?」

「いえ、この前に話を聞いたばかりで一度もやったことはないです。それに、どんな決闘方法が主流になっても、もともと最初はフランと一緒にやってみたいと思ってましたから」

「……そ、そうなんだ。それで、どうやって遊ぶの?」

 

 上機嫌に結晶がぶら下がった翼がパタパタと羽ばたいていた。気づいているのかいないのか、いつまで経ってもフランは照れ隠しが下手みたいだ。

 

「"スペルカードルール"において大切なものは『強さ』よりも『美しさ』です。まずはそこを頭に入れておいてください」

「『美しさ』?」

「『美しさ』の欠片もないような意味のない攻撃はしてはいけないんです。意味がそのまま力となるんですよ」

 

 前世の記憶と紫から教えてもらった知識を参考にしながら、順に説明をしていく。

 倉庫魔法――作っておいた空間を開く魔法に、この前そう名づけた――を行使し、自前の空間から一枚の紙を取り出した。

 

「このルールで遊ぶためには事前にスペルカードという攻撃宣言用のカードを用意しておく必要があります」

「これがそのスペルカード……って、ただの紙じゃない」

「そうです、なんの効果もないただの紙です。これに技の……もとい必殺技的な立ち位置にある攻撃の名前を書くだけでスペルカードの完成です」

 

 紙自体はなんの効果も持たず、スペルカードなんてなくても技は繰り出せる。本当にただの宣言をするためだけの紙だ。

 

「ふぅん。つまり、それを掲げて技を使えばいいのね」

「そうなります。始める前には互いにスペルカード使用回数を提示して、相手の提示回数分のスペルカードを攻略するか、相手の体力を削り切るか。そのどちらかを達成できれば勝ちになります。逆にスペルカードを使い切っても相手が倒せなかったり、自分の体力が切れてしまった場合は負けになります」

「それでも重視するのは『美しさ』なんだよね」

「そうです。重要なのは『美しさ』です。隙間もない弾幕を張る、痛くなさそうだからとわざと当たるなどは美しくないのでエヌジーです。ハッキリと明言はされていませんが、そういうのはルール違反と言っても過言ではありませんよ」

 

 NG(ノットグッド)。追及するべきは『美しさ』だ。

 話を聞いていたフランの口元が、面白いものを見つけたという風に弧を描いた。なにも言わなくても、今すぐにでもスペルカードを作りたいという意思が容易に伝わってくる。

 他には『勝っても人間を襲ってはいけない』などの細かい決まり事があるけれど、フランにはあんまり関係のないことだし、後日また暇がある時にでも教えればいいか。

 今は、目を輝かせている妹とともにスペルカードを作ることにでも専念するとしよう。

 

「それじゃフラン、一緒にスペルカードを作りましょうか。技を考えて、名前をつけて、それから一度一緒に遊んでみましょう」

「やった! 美しい技かぁ……うーん、どんな風にしようかなぁ」

 

 フランの相談を受けたり、俺自身もフランに相談してみたり。

 

「ゆっくり考えましょう。時間はたっぷりありますから」

 

 新たな遊戯にめいっぱいにはしゃぎながら、今日も今日とて平和に時間が過ぎ去って行った。




今話を以て「Kapitel 2.答えを探す数百年へと」は終了となります。
ついにスペルカードルール導入ですが、スペルカード戦なんて特殊な決闘法は書いたことがないのでどうなるかはわかりません。

「吸血鬼異変」終了後すぐに「紅霧異変」を始めるのも急ぎ過ぎだと思うので、「Kapitel 3」の最初は幻想郷での生活を主にして、後半を「紅霧異変」で締めくくろうと考えています。
あくまで"予定"なので狂う可能性はありますが、次回からもどうぞよろしくお願いいたします。


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Kapitel 3.幻想が遍く世界で
一.月を狙おう光線銃


「んー……こうでしょうか」

 

 空に向けて右腕をまっすぐに伸ばし、体内で魔力を練り込んでいく。

 イメージはホースだ。水が(くだ)を通っていくように、後腕から前腕まで一直線に。

 

「マスタースパーク」

 

 ずっと向こうに鎮座している三日月を貫くくらいの心持ちで、魔力を一気に放出する。

 瞬間、俺の身長の何倍にも昇る赤白い光が視界を埋め尽くした。

 辺りの草が吹き飛び、近くの水面は光を避けるように歪みを見せる。それだけでとてつもない力の塊が光線となって放たれていることが窺えた。

 しかし、使っている側としては光が眩しすぎてまったく前が見えなかった。これはたまらないと魔力の流れを止めれば極太光線も収まり、数秒後には撃つ前と変わらぬ静けさが取り戻される。

 

「……うーん。前が見えなくなりますし、撃った直後は完全に無防備……扱いにくいですねぇ。わかりやすくて気持ちはいいんですけど」

 

 紅魔館の近くには、昼間は太陽が見えなくなるほどに霧が立ち上る湖が存在している。現在、俺はその水辺でスペルカードの実験をしていた。

 ふぅ、と息をつき、草が飛んで土が露出している地面に寝転がる。

 実験と言っても自分のスペルカードではなく、東方Projectの登場キャラクターの一人である霧雨魔理沙のそれを再現しようとしていた。

 その名をマスタースパークという。基本的に極太のレーザーを撃ち出すということには変わりないのだが、さまざまなバリエーションが存在する彼女の得意技だ。

 

「とは言え、これはボツですね。私にはちょっとあってません」

 

 四肢を投げ出し、サァ――と風が草を撫でる音を楽しむ。月が満月ではないのが残念ではあるものの、たまにはこうして外でゴロゴロと転がるのもいいものだ。服が汚れるので後で洗わなきゃいけないのは確実だけれど。

 右手の人差し指から小さな弾幕を作り出し、徐々にその形を変えていく。

 最初は簡単に丸っこいネズミの形。次は複雑に羽ばたいている鳥。生物から外れてレーヴァテインの形を模してみたり。

 最終的に蛇の姿をかたどらせ、頭に尻尾を噛ませてみた。回して回して、ぽいっと空へ投げつける。重力に従って落ちてきたそれを指に絡ませて指輪みたいに装着した。

 

「私もなかなか上達したもんですね」

 

 魔力の塊を自在に細かな形態に変化させ、かつてはできなかった重力に従うという法則までも付与をする。こういう放出する妖力や魔力の器用性は三姉妹の中で俺が一番だ。

 何百年も前にレミリアが卓球からヒントを得て開発した"弾幕合戦"により、スカーレット三姉妹は放出する力の操り具合はかなりのものになっている。

 レミリアは弾幕の生成速度と機動性能に、フランは圧縮性と破壊性能にそれぞれ優れている。俺は器用性の他には力を持続させることが得意で、今も蛇の指輪は少しも解ける気配を見せていない。

 

「そう考えると、マスタースパークに向いているのは私よりもフランなんでしょうか」

 

 霧雨魔理沙氏いわく「弾幕はパワーだぜ!」。同じくパワー特化のフランなら向いていそうだ。

 しかしまぁ、やっぱり自分にあった弾幕が一番ということで。

 それにしても静かな夜だ。夜に活動する妖精は少ない。霧の湖のほとりに位置する紅魔館は吸血鬼の住処だと知れ渡っているので、その近くである俺の今いる場所には滅多に妖怪がやってくることもない。

 

「……あぁ。そういえば、もうすぐ新月ですね」

 

 満月で力の増す妖怪がいるように、新月で力が増す妖怪もいる。

 さて、と立ち上がって服についた土を払った。顔を横にブンブン振って、翼も震わせて同様に汚れを落とす。

 お腹が空いてきた。そろそろ紅魔館に帰って、咲夜になにか作ってもらうとしよう。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 咲夜の料理の腕も上達したもので、当初から美味しかったのに今では病みつきになるほどだった。ちなみに比例してナイフ投げも飛距離と正確性、速度が増している。

 もちろん人間の血を織り交ぜた料理なわけであるが、咲夜もよくそんなものを料理してくれるものだと毎度感心している。

 ただ、たまにジギタリスなどの毒草を煎じて「心臓を刺激して血液の流れをよくする効能があるんですよ。紅茶(血入り)に混ぜて飲むと健康にいいかもしれません」なんて言いながら普通に出してくるところが欠点だ。そんなの人間が飲んだら余裕で死ねます。

 一度「殺す気ですか?」と冷や汗を流しながら聞いてみたことがあるが、本気で首を傾げられたのはちょっと恐ろしかった。確かに吸血鬼だから死なないんだけどさ、そうじゃないんですよ。

 

「はい、王手です」

「むぐっ」

 

 コタツの上に展開されている将棋盤。当然ながら盤も駒も俺が自作した。

 自軍の攻められ具合を見て、どうやって王手を回避したものかと考える。

 えーっと、これをこう……あれ。じゃあこっちに……うん? えーっと、うん。はい。

 

「負けました……」

「ふふっ、また私の勝ちですね」

 

 咲夜が対面で湯のみを片手に小さく微笑む。また、という言葉の通りこれで三連敗だった。

 ルールを教えた当初こそは俺の方が勝てていたが、日を経るごとに強くなっていき、今ではせいぜい勝率二割である。どういうことだ。身長が人間換算で一〇歳にも届いていないくらいしかないから、知能も同じくらいしか発達してないのか?

 当然そんなことはないのだが、こうも簡単にあしらわれるとさすがに落ち込んでくる。

 

「勝負してほしいなんて言われた時はスペルカード戦をやるのかと思っていたのですが、いつもと変わらず将棋なんですね」

「屋敷の中であんまり暴れるとお姉さまに怒られますし、咲夜は時間を止めてる間は私を認識できないじゃないですか。それに今日はのんびりとボードゲームをやってみたい気分だったんですよ」

「そうですねぇ。これまで幾度となく強制休憩だなんだのとこの部屋に連れてこられてきましたが、こうしてレーツェルお嬢さまを負かすのは楽しいですね」

「……性格悪いです。悪魔です」

「悪魔はお嬢さまがたのことですよ。私は人間です」

「人間は悪魔よりも怖い生き物なんですね」

 

 両手で体を抱いてブルブルと震えてみた。咲夜にはちょっと笑われただけでなにも堪えた様子がない。

 

「そういえば湖の方で空から光が降ってきたとメイドたちが言ってましたが、なにをしていらしたんですか?」

「月に向けて魔力光線を撃ってただけですよ。あともう少しで新月なので、それより早く残りの月を全部削る気持ちで」

「まだ黄色い部分が残っているみたいですね。パワーが足りなかったのでは?」

「もっと威力を上げた方がいいんでしょうか」

 

 もちろん全部冗談である。出力を上げたところで月を削れたりなどするわけがない。

 緑茶をゴクリと飲み干した後、ガシャガシャと盤上の駒をかき混ぜた。今日はもう将棋は終いだ。三連敗から更に挑む気概はない。

 

「咲夜は幻想郷での暮らしはどうですか? 環境の変化で体調を崩したりとかしてません?」

「そうですねぇ。まだ来て間もないのでなんとも言えませんが、妖精や妖怪が当たり前のように跋扈しているのは新鮮ですわ。体調はいつでも万全ですので心配いりませんよ」

「一〇〇年くらい前までは外の世界でもまだそこそこいたんですけどねー。最近はめっきり見なくなってましたね」

「一〇〇年前にでも産まれていれば、私の生活ももうちょっとマシになってたかもしれないわけですか」

 

 言ってから、「あ、なんでもありません」と咲夜が口を閉じる。無意識のうちに出てしまったという感じか。

 

「ここでの生活は嫌ですか?」

「いえ、私を拾ってくれたここには感謝しています。現状に不満もありません。私が言ったのは、その、それよりも前の話ですわ」

「あぁ、なるほど」

 

 咲夜と初めて会った時の記憶がよみがえる。

 捨て子として生まれ、能力を疎まれ、吸血鬼を殺すためだけに育てられた。

 あれ以来一度も進んで自分のことを話そうとはしない。しかし逆に考えれば、俺との対話で自然とその頃の感想が漏れてしまうくらいには、気を許してくれているということになる。

 

「咲夜はもう、人間のもとには帰しませんよ」

「……嬉しそうですね」

「そう見えますか?」

「表情は変わりませんが、声音や雰囲気でなんとなくわかりますよ」

 

 そうなのか。数年しか一緒に過ごしてない咲夜でもこうなのだから、レミリアやフラン、美鈴やパチュリーでも同じようにわかるのかな。

 

「それにそんなことを言っていても、私が本気で出て行きたいと言ったら見逃してくれるんでしょう?」

「む……そうですね。無理矢理はよくありませんからね」

「そういうところ、レーツェルお嬢さまらしいですわ」

 

 俺らしい、か。褒められているのか諌められているのか。当たり前ながら咲夜としては前者のつもりだろう。

 

「レーツェルお嬢さまはいろいろと不思議ですよね。立場上、私はもっと目上の者と接するようにしないといけないのですが……こうしていると、そんなことも忘れて友人と語り合うような気分になってしまいます」

「人間には多少は理解がありますから」

「それだけじゃありません。美鈴もパチュリーさまも、館で暮らす妖精のメイドたちも、皆、レーツェルお嬢さまと話す時は気楽にしていられると揃って口にしてしましたわ」

「え、そうなんですか? まぁ、掃除を手伝ったりもしてますからね。悪い気はしません」

「誰とでも対等に接しようとする姿勢が親しみやすいのでしょうね。実体験で私も味わってますから」

 

 それは俺が前世では元は人間――日本人として人生を過ごしていたからか。

 日本で培われた価値観は今でも深く根づいている。俺は五〇〇歳近いけど、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。

 しかし、俺は学生のまま転生してこの世界に来たが、社会人になって縦社会を経験していたならば今とも態度がちょっと違ったかもしれない。そうなると手に職つける前に生まれ変わってよかったということか? いやいや、たぶん死んだせいでこの世界に来たのだから死なないのが最善だったか。

 

「長話が過ぎました。そろそろ私は仕事に戻りますわ」

「サボりたくなったら、私がいる時ならいつでも来ていいですからね」

「基本的にここにはレーツェルお嬢さまに連れられてしか入ったことがありませんわ」

 

 吊り上がった口元は、言外に「サボるのは私じゃなくて美鈴の方でしょう?」と告げている。まったくもってその通りだから困る。昼に美鈴が立ちながら寝ていて咲夜に怒られる光景はもはや日常茶飯事だ。寝ていながらも門番としての役割は果たせているのは凄いけれど。

 最近は美鈴には紅魔館の庭の植物や花畑などの管理も任せている。妖精メイドたちの住処として自然が必須なこともあるけれど、なによりも景観がよくなるから。

 咲夜が入れてくる毒草はそこで取れているのだが、なんで毒草なんか育ててるんだ。

 

「それでは、失礼しますわ」

「また後で会いましょう」

 

 部屋を出ていく咲夜を手を振って見送り、将棋の盤と駒の片づけを始めた。

 倉庫魔法は本当に便利である。いつでもどこでも取り出し可能な万能空間。四次元ポケットがドラえもんの標準装備なことが納得できるくらいだ。

 自分の湯のみに緑茶を半分だけ注いで、ズズズとそれを飲み切った。



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二.新月、暗闇に潜む妖怪

 今日の夜空は星々の貸し切りだ。宙に浮きながらぼんやりと眺めていると、まるで自分が宇宙空間を漂っているような気分になった。

 お月さまは一回お休みのようで、その丸い塊はなにも太陽の光を反射してくれない。どうにも星たちの瞬きだけでは世界は照らし切れず、本日は一段と闇が濃い日である。

 光を灯す魔法でも使おうかと考えたが、せっかく月に一度の完全なる闇が支配せし世界だ。妖怪として、そんな恐怖の舞台を台無しにするような真似はやめておく。

 

「あぁ、すごく使いやすいです」

 

 そもそもとして俺は現在、光がない方が都合がいい状態にある。

 霧の湖の上に、向こう岸まで届くほどの橋ができていた。色合いは真っ黒、その素材は空間中の影をかき集めたものである。

 新月の夜、闇が多いために影の魔法がもっとも効率よく使用できる。どれだけの使いやすさか気になっていたが、まるで腕を動かすのと同じ――操れることこそが自然と感じられるほどだ。

 カツカツと音を立てて影の橋を渡る。意識を向ければそこに闇が集まり、俺の想像通りに竜の頭を形どる。

 ふと思い立ち、頭を消して自分の体を見下ろした。着ているのは青と白が際立つ紅い紐が結われたレースの服。白は新月には合わない。

 影を纏い、白い部分をすべて黒で埋め尽くした。かぶっているナイトキャップも一度外して同様にする。

 黒は女を美しく見せる……誰の言葉だったっけ。前世で見たなにかの映画のセリフだということは覚えてる。

 どんな人物でも黒い衣装を纏えばそれだけで印象が変わるとすれば、一〇歳にも背が届かない俺でも凛々しく見えたりするんだろうか。転生して間もない頃はそういうことを考えるのも億劫だったが、今はきちんと自分の体だと認識しているので抵抗はない。

 

「……基本的に屋敷の中で暮らしてましたし、あんまり着飾ったりとかしないんですよね」

 

 本人から聞いた話によると、紫は時代に合った服装をするようにしているんだとか。前世でも若人、特に女性は流行には敏感だった。なんだかんだで紫も女性なのかもしれないな、なんてちょっと失礼なことを思う。

 せっかく幻想郷に来たんだし、近いうちに人里にでも行って新しい衣服を買ってくるのも一興か。レミリアやフランはもちろん、それぞれメイド服と中国風の衣装しか持ってない咲夜と美鈴、大図書館にこもりっぱなしのパチュリーにプレゼントするのもよさそうだ。

 

「よっと」

 

 橋を渡り切って、キョロキョロと周囲を見渡した。目の前にあるのは森とも呼べない(はやし)程度の乱立した木々。紫によればここを抜ければ人里に着くらしいが、今日は行くつもりはない。

 

「ふぅむ、静かですね」

 

 新月の夜だからそれなりに妖怪に溢れていると思ったけれど、そんな気配が全然しない。

 せっかく影の魔法の実験ついでに新月で強化される妖怪を見物しに来たのに。林の中にいるのかな? と首を捻りながら足を踏み入れた。

 ただでさえ暗かった視界を木々が星々を遮ることで更なる闇が埋め尽くす。俺は吸血鬼だからほんの少しの光さえあればなんの問題もなく見えるが、人間ならば一寸先も窺えない恐怖を味わうほどの暗闇だ。

 

「あ、みっけです」

 

 一人、俺と同程度の身長しかない女の子の姿をした妖怪をちょっと上空で見つける。フヨフヨとゆっくり飛んで近寄っていくと、あちらも俺に気づいたようで振り返ってきた。

 髪は黄色、瞳は赤とフランに似た色合いをしている。髪型はボブで、赤いリボンが左の側頭部に結ばれていた。着用しているのは白黒の洋服、ロングスカートだ。

 

「だれー? 私になにか用?」

 

 常に両手を左右に大きく広げたポーズを取っている。アラレちゃんが走る時とそっくりというか、同じ動作だ。

 

「この前この楽園に攻めて来た吸血鬼ですよ。用と言うか、ここらへん妖怪が少なくないですか? ちなみにあなたが見つけた妖怪第一号です」

「あー、人里が近いからじゃない? それに近くですごい力が感じられたし……っていうか、あんたから感じられるのよ」

「え、そういうのわかるんですか?」

「わかるもなにも纏ってるじゃないのー、その黒いの。そんなの外に出してるからみんな逃げちゃうのよ」

 

 影の衣を察知されたのか。いや、橋を作った時点で逃げ出していたのかも。かなり大きく作ったし。

 これは失敗したなぁ、と頭を掻きながら一つの疑問が頭に浮かんだ。

 

「じゃあ、どうしてあなたは逃げないんです?」

「感じた力が私となじみ深かったからじゃないのー? 第一、逃げるだなんてめんどくさいと思わない?」

「なじみ深い……? えーっと、名前を教えてもらってもいいですか?」

「光と暑いのが嫌いな闇の妖怪、ルーミア」

 

 ルーミア――東方Projectの登場キャラクターの一人だ。『闇を操る程度の能力』と一見強そうな能力を持ちながら、逆に『出落ちとして一番弱い一面ボスとして置きたかった』として、記念すべき一作目の一面ボスという立ち位置で出現する。

 

「私はレーツェル・スカーレットと言います。なるほど、ルーミアですね。覚えました」

「覚えてどうするのー? どうせいつもそこらへん飛び回るだけだからあんまり会わないよ」

「袖振り合うも他生の縁ですよ。この新月の夜、闇に惹かれ合って出会ったことは偶然じゃないかもしれませんし」

「そーなのかー。よくわかんないなぁ」

 

 首を傾げたルーミアは、しばらくすると空を見上げて気持ちよさげに口元を緩める。

 

「月が出てる時もいいけど、やっぱり新月が一番ねー。闇を出さなくてもどこもかしこも暗闇だもん」

「ほほう、ルーミアは新月の時に力が増す妖怪なんですか?」

「別にそういうわけじゃないわ。暗いところが好きなだけだから」

 

 くるりと一回転すると、彼女は俺に向き直った。

 

「暇潰しでもする? 私と同じような力を使う……レーチェル? にちょっと興味が沸いたの」

「レーツェルです。弾幕ごっこですか? それもいいかもしれませんね」

 

 もともと新月の夜に強くなる妖怪を見たくて来たのだから、戦う準備はとっくにできている。

 

「何枚にします?」

「二枚はどう?」

「わかりました。それじゃ、ちょっと距離を取りましょうか」

 

 身内以外との初めてのスペルカード戦だ。ルーミアはそこまで強い妖怪ではないから負ける要素はほとんどないけれど、少しばかり緊張する。

 移動しながら、スーハーと息を整える。平常心、平常心。

 十分なくらいに距離を取り、そろそろいいかなとルーミアに視線を送った。

 自然と目が合った。言わずと互いの意思が伝わり、それが開戦の合図となる。

 

「行くよ!」

 

 ルーミアが右手を突き出すと、挨拶代わりに赤い妖力弾を連続的に俺を狙って撃ってきた。軽く横に動いて回避すると、今度は彼女が全方位へ青い弾幕を散らかしてくる。

 なかなかに速いが数が少ないので三次元の動きができる空中ではいかんせん当たらなかった。俺もお返しとばかりに二〇個ほどの弾幕を生み出し、すべてをペンギンの形にして撃ち出した。基本的にルーミアの周囲、三つだけは直接本体狙いで。

 

「わわっ!?」

 

 速さはルーミアの弾幕の倍ほどだ。目の前に迫ってくる三つの妖力弾に焦りを見せ、急いで避けようとしたところを彼女の周りに撃っていた弾幕の一つが衝突する。バァン! と音を立てて十数メートルは軽く吹き飛んだ。

 なんとか体勢は立て直したようだが、どうにも体の傷が目立つ。俺の攻撃はたくさん受けてはいけないと判断したらしく、早々に彼女はスペルカードの宣言をした。

 

「"闇符『ダークサイドオブザムーン』"!」

「来ましたね」

 

 ルーミアの姿が闇に紛れて見えなくなる。『闇を操る程度の能力』を使用したのだ。

 新月の暗さと相まって吸血鬼の眼を以てしても彼女が捉えられなくなった。どこにいるかと探そうとした直後、なにもないところから赤と黄色の弾幕が放たれてきた。速くはないが数が多い。

 一つずつ確実に避けていくと、一瞬だけルーミアが宙に姿を現した。両手を振って大きめな黄色い妖力弾を全方位に放ち、すぐに姿がまた闇に消え去る。黄色の妖力弾が一つ迫って来ていたので自分の妖力弾で相殺しておいた。

 再度、どこからともなく闇に紛れて数多くの赤と黄色の弾が放たれてくる。吸血鬼なのだから注視すればルーミアは見つけられると思うが、ある程度は弾を避けることに集中しなければいけないのでなかなかに厄介だ。近づきたくても弾数が多いし、無理矢理行けば当たる確率が高くなる。

 しかしこのスペルカードの対策法は見えた。

 さきほどと変わらず確実に避けることを優先し、ルーミアが大きめの黄色い弾幕を散らかすために一瞬姿を現す――用意しておいた青いイルカ(実物大)型魔力弾を三発撃ち込んだ。かなりの速さで泳いでいくもののルーミアが弾幕を張る方が早い。生み出された妖力弾に衝突して二発のイルカが悲鳴を上げて息絶えてしまったが、一発はなんとか生きていた。

 

「あぐぅ!」

 

 慌てて避けようとした彼女へイルカ型魔力弾が当たって爆発が巻き起こった。さきほどのペンギン弾よりも威力が高いので、当然のごとく二〇メートルは吹き飛ばされていた。

 まだギリギリ戦える状態みたいだが、さきほどよりも傷がひどく、飛び方も不安定だ。たった二発でこれなのだから、あいかわらず吸血鬼の力は反則級だ。

 

「"夜符『ミッドナイトバード』"……!」

 

 それでも諦めず、ルーミアが最後のあがきとして最後のスペルカードを使ってくる。

 まるで駄々っ子のように両手をぶんぶんと振りまくっていた。そのたびに手先から多くの緑色の妖力弾が出現し、手の軌道をたどってそこら中に弾幕がばら撒かれる。

 速く、数も多い。時々巨大な黄色の妖力弾も撃ち出してくるから油断もできない。いい弾幕だ。しかしそれでも五〇〇年近くを生きる俺を打ち落とすには至らない。

 避ければいい弾だけを見極め、下へ右へ左へとしっかり見切って回避していく。

 

「そろそろ私もカードを切りますよ」

 

 懐からスペルカードを取り出し、発動を宣言した。

 ――"光弓『デア・ボーゲン・フォン・シェキナー』"。

 倉庫魔法で、フランのレーヴァテインを参考にして作った自作の弓を取り出した。金と銀の装飾が豪華さを醸し出している。

 ルーミアの弾幕が止んだ隙に俺の妖力と魔力を詰め込んだ矢の形をした特殊な金色の弾を一つ作り出した。弓に番え、ルーミアではなく、満天の星空が広がる天空へと矢先を向ける。

 シュンッ、と。一瞬ではるか遠くまで行ってしまった光の矢を、ルーミアが不思議そうに見上げる。

 

「なにを――――えっ!?」

 

 矢が飛んで行った先が太陽のように光り輝き、いくつもの光の線を散らした。その数は幾百、はたまた幾千か。そのすべてが重力に従い、ルーミアどころか半径五〇メートルほどの領域を巻き込んで落下する。

 

「わ、わわっ!」

 

 ルーミアは苦手な光に顔を歪めながら当たるまいと懸命に光の線を避けていた。後ろ、前、右。弾を撃つ余裕は残っていないようだが、回避に専念すればなんとか避けられるようで。

 

「別にそれだけを避けるなら難しくないんですよ。それだけ、ならですけどね」

 

 光の矢は真上に向けて撃った。中心位置にいる俺のところには少しも光の線は落ちてこない。そのために弾幕を作る余裕があった。

 自身の周りに無数の矢型弾幕を作り出し、全方位にその矢先を向ける。

 

「どうします?」

「っこ、ここ、降参! 降参するー!」

 

 勝負あり。周囲に浮かべていた矢をすべて消し、上空で未だ光の線を振りまいていた太陽も消去した。数秒もすれば光の線はすべて収まり、荒い息を吐くルーミアはフラフラと地面に落ちていく。

 弓を倉庫空間に仕舞い、急いでルーミアのもとまで飛び寄ってその体を支えた。

 

「大丈夫ですか……?」

「あ、あんなの無理……眩しいし、多いし、なんだか新月だからって喜んだせいでお月さまに怒られたみたい……」

 

 ちょっとやりすぎてしまったようだ。もう少し大人しめなスペカを選んでおけばよかったかもしれない。

 地上についても今にも倒れそうに足取りが心もとない。なんだかその姿に罪悪感が沸いてきて、半ば強引にルーミアをおんぶした。

 

「傷が治るまで紅魔館で、私の家で休みましょう。食事も……えーっと、妖怪だから血じゃなくて肉を食べるんですよね。ちゃんと加工前の状態で上げますから」

「え、人間が食べられるの?」

「そうですね、食べてもいい人類を差し上げます。やりすぎちゃったお詫びです」

「私が負けたのに……あー、レーチェルだったっけ。結構優しいのね」

「レーツェルです。そう言っていただけると私も嬉しいですよ」

 

 どうにも正しく俺の名前を憶えてくれなかったが、この後の紅魔館で食事を終えるとルーミアは目に見えて元気を取り戻した。

 なんだかんだで二人で闇と影で遊んだりして、東の空が白み始めたところで「またね」と別れた。

 そうして新月の夜も明けていく。目的の新月で強くなる妖怪には出会えなかったものの、その日は幻想郷での初めての友達ができて万々歳であった。



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三.欠けた月夜の半人半獣

 吸血鬼――というよりも悪魔全般は人間からも妖怪からも嫌われている。どうにも、悪魔と呼ばれる者たちは自分中心でわがままだと決まっているからだとか。

 吸血鬼が幻想郷に攻め入ったのも「自分たちの力を知らしめるため」だとか「我々こそがその世界の支配者にふさわしい」だとか、そういう考え方から起こったものだと紫やレミリアから聞いている。確かに自己中心的だ。

 しかし、レミリアはたくさんいる妖精メイドたちの精神状態などにも結構気を配っているし、フランだって毎日がんばって加減ができない力の制御や魔法の勉強に力を入れている。他人のことを考えたり、やりたくないことをがんばることだってできる。悪魔の一匹である俺が言っても説得力がないけれど、悪魔だからと言って自分中心の考え方しかできないというのは違うと思うのだ。

 少なくとも身内に対しては優しいし、自分の欠点を認めて克服しようとがんばることもできる。五〇〇歳近いと言ってもレミリアもフランも子どもみたいなところがあるから多少はわがままであることは否定はできないが。

 なにが言いたいのかと言うと、人間の里に来てみたらめちゃくちゃ警戒されまくりで居心地が悪いです。

 

「襲っては来ないんですけどねぇ……」

 

 人間の里と言っても妖怪がいないわけではない。むしろ夜は妖怪の方が多く、妖怪専門店なんてところもあるくらいだ。

 通りかかる人間や妖怪にギョッとした目で見られたり、自警団と思わしき人間たちが遠くから監視してきていたり……。

 はぁ、と小さくため息を吐いた。それだけで数メートル先にいた妖怪の男がビクッと震え、走ってどこかへと行ってしまう。

 

「……こんな幼い女の子のなにが恐ろしいんでしょうか」

 

 確かに俺は悪魔だ。それもつい先日攻め入ってきたばかりの、一夜にして多くの妖怪を軍門に下した吸血鬼という最強クラスの悪魔である。

 それでも明らかに年下で敵意もない、注意を向けられてすらいないのに息をついただけで逃げられるのはどうなんだろう。なんだかちょっと落ち込んできた。

 さっさと目的を果たそうと辺りに視線を巡らせる。

 建物は昔ながらの木造平屋、というよりも人間の里自体が明治時代とほとんど変わらない町並みではないかと思う。明治の日本の様子なんて前世で見た歴史の教科書でしか知らないけれど、それに描かれていた光景と大体が同じだった。

 

「あなたはどう思いますか?」

「……いったいいつから」

「最初から気づいてましたよ。何の用ですか?」

 

 振り返れば、そこにいたのは一人の人間――いや、気色が違う。この感じは半人半妖か。

 眼は赤みがかかり、青のメッシュが入った腰まで届く銀髪、その上にはなんとも表現しがたい青い帽子をかぶっている。六面体と三角錐、その間に板でも挟んで頂点を赤いリボンで結んでいる奇妙な構造だ。衣服は上と下で一体の青い服で、袖は短くて白く、胸元には帽子と同じく赤いリボンを結んでいる。長いスカートの内側には幾重にも重なった白のレースがついているらしく、少しそれがはみ出ていた。

 

「悪魔が、それも吸血鬼が里に来ていると聞いてな。なにかよからぬことを企んでいるんだろう?」

「はぁ、そうですか。ところで服ってどこで売ってるかわかります?」

「この里の人間には手を出させない」

「あー、わからないならいいです」

 

 話ができるような空気でもなかったので早々に切り上げ、町を歩き始める。

 ふと、一瞬だけ正体不明の違和感を覚えた。だからと言って特に重要なものではないことは感覚的にわかっていたので、そんなに気にせず服飾店探しを続ける。

 

「ここには元々人間が住んでいなかった、里の歴史をなかったことにした。ここにはもうなにもない。通り過ぎるがいい」

「なに言ってるんですか。普通に見えてますよ、ワーハクタクさん」

「……え?」

 

 今のセリフで確信した。変な帽子から大体の予想はついていたが、この銀髪の女性も東方Projectの登場キャラクターである。

 その名を上白沢慧音。満月を見ることで白沢という妖怪へ変化する、人間から半人半獣となった後天性のワーハクタクだ。人間が大好きで、人間相手に寺子屋で歴史の授業なんかをしているんだとか。

 

「なんだかんだ言って私も五〇〇歳近いですからね。歴史なんてなくても経験があるので見えないなんてことにはなりません」

「ッ、華奢な見た目と違って相当な腕の妖怪のようだな」

「吸血鬼ですから当然です。っていうかそろそろ名乗り合いませんか? 私はレーツェルと言います。レーツェル・スカーレットです。あなたは?」

 

 ちょうどよさげな服飾店を見つけて近寄ってみたが、どうにも昼間にしか営業していないようだ。肩を落とし、再び町の徘徊を始める。

 

「……上白沢慧音だ。お前はなにを企んでいる? 場合によっては力づくで追い出さなければならない」

「慧音ですね。だからさっき言ったじゃないですか。服を売ってる店を探してるんです。女の子が着るようなやつでお願いします」

「嘘だな。そんなことのために悪魔が人里に訪れるはずがない。大方人間でも食いに来たのだろう?」

「吸血鬼は危害を加えてこない幻想郷の人間は襲わない契約をしています。悪魔は契約を破れません。破らないのではなく破れないのです。というか、そもそもここは妖怪の賢者によって保護されているのですが……」

「妖怪が里を保護しているなどという話をまともに受け取るはずがなかろう。悪魔が契約を守るなどという話も本当かどうかも疑わしい」

 

 紫が全然信用されていないという事実。そちらはともかくとして、悪魔が契約を守る云々は本当のことだ。

 俺に限って言えば能力で契約を無効化することもできるけれど、もちろんそんなことはするつもりはない。すれば紫に怒られるし、幻想郷を保つためには人間が必要だと言うこともわかっている。別に積極的に人間を襲う性格でもないし。

 

「まぁ信じるのも信じないのもあなたの勝手ですよ。私は問答無用で悪者扱いされて不本意ですけどね。それで本当に服飾屋がどこにあるか知らないんですか? 夜に開いてるところがいいです」

「ふん、そんなに服が欲しいなら買うなんてせずに自分で作ればいいじゃないか。わざわざ人間の――」

「あ、それもいいかもですね」

「え?」

 

 マジックアイテムは幾度となく作ってきたけれど、服や帽子などを作ったことはない。それに手作りの方がなんだか気持ちがこもっていそうな上にいろいろと自由に製作できる。

 フランにぬいぐるみを渡したこともあるから一応裁縫をやれるにはやれる。ぬいぐるみと服とではいろいろと勝手が違うから戸惑うこともあるだろうから服の種類やデザインも学ばなければならない。まずはそういう本を読み漁るのが先決かな。

 

「やっぱりきちんとした服を作れるようになるにはかなりの時間がかかるでしょうし……うーん、とりあえず今は普通に服飾店を利用しましょうか。人に上げても恥ずかしくないくらいの服が作れるようになったら、私が作ったそれをお姉さまやフラン、パチュリーたちにもプレゼントして……夢が広がります」

「…………お前、他の悪魔たちと少し違うな」

「それは良い意味ででしょうか、悪い意味ででしょうか。どっちでもいいですけど、とりあえず注文が増えました。本屋とかありませんか? 服の縫い方とかそんな感じのものが売ってるところです」

 

 首を傾げて問いかけてみれば、今までずっと張りつめていた慧音の空気が少しばかり和らいだ気がした。

 本屋と言っても大図書館に行けば大抵の本は見つかるので、この質問にはそこまでの意味はない。ただ、幻想郷の本なら大図書館のものと違うことが書いてある可能性が高いので、参考になる本は多い方がいいと思っただけのこと。

 

「……本屋はないな。貸本屋ならあるが、夜には開いていない。服飾店なら妖怪専門のところを一つ知っている」

「わ、本当ですか?」

「嘘を吐く理由がない。なんなら案内をしてやる」

 

 なんて言って歩き始める慧音の隣に並んで、高い位置にあるその顔を見上げた。

 

「なんだか急に協力的になってくれましたね。どうしてですか?」

「……最初は無表情で不気味なやつだと感じたんだが、どうにも悪いやつには見えなく……いや、私が直接ついていた方が本当に人間に手を出さないかという監視にもなる。吸血鬼の相手は、満月でない日の私には少々荷が重い」

「満月だとワーハクタクだけじゃなくて私たちもパワーアップするので、どっちにしても荷が重いと思いますよ」

「ふん、どうかな。満月の日の私は強いぞ」

「それは面白そうですね。そこまで言うならいつか満月の夜に戦ってみましょうか? もちろん弾幕ごっこで、ですが」

「……人間たちに被害が出ない場所でなら乗ってやらんこともないが」

「それはよかったです。その時はめいっぱい遊びましょうね」

 

 そうやって俺が話しかけるたびに、慧音は段々と毒気が抜けていくような顔をする。

 

「お前は悪魔、だろう? どうしてそこまで私に親しげにしようとするんだ?」

 

 そうして彼女の気持ちが集約された一言がそんなもの。

 そんな簡単な問いか。

 

「慧音は優しいじゃないですか。悪く当たる理由が見当たりませんよ」

「は? い、いや、私はお前が人間を食いに来たのだと思って、追い出そうと冷たくするように心がけていたが」

「どれもこれも人間が好きだからこそのことですよね。自分は人間じゃないのに、人間のために危険も顧みず吸血鬼の私に突っかかってきた。ほとんどの方たちは私に怯えて逃げ出していったのに、人間のためにそれを追い出そうとする。そんなの簡単にはできませんよ」

「……お前も人間が好きなのか?」

「好きというか……なんでしょう。自分でもよくわかんないんです。ただ、自分が大切だと感じるもののために危機を顧みない慧音に親近感を覚えたんですよ。だから親しくしようとしてるように感じるんじゃないですか?」

 

 そう答えたところで慧音の足が止まった。服飾店についたのかと周囲を見渡したが、そういうわけではなく閉まっている団子屋と蕎麦屋くらいしか見当たらない。

 なんで止まったの? と慧音に向き直ってみると、その雰囲気は最初とは正反対に警戒心がほとんどなくなっていた。

 

「……さきほどまではすみませんでした。どうやら、レーツェルは悪い悪魔ではないみたいです」

 

 威圧するようなしゃべり方は引っ込み、素と思わしき人格で彼女が頭を下げてきた。

 

「悪っていう字はついてますが。あと謝る必要はありませんし、というか警戒解いちゃっていいんですか?」

「ええ、まぁ、急に襲いかかってくるような気質ではないことはわかりましたから。もちろん里に危害を加えようとするなら全力で止めさせてもらいますけど」

「だからできないんですって。でも、認めてもらえたのは嬉しいですね」

 

 その後にきちんと慧音に案内してもらい、妖怪専門店の服飾屋に行くことができた。

 里の人間が着ているような浴衣もあれば洋服もある。フリルがついたようなあざとい感じのものはないけれど、それなりに良き収穫は得られた。

 貸本屋については昼に人間の里を訪れるしかないが、吸血鬼異変が終わって間もない今はさすがにやめておこうと思う。妖怪が多い夜ならともかく、ほとんど人間しかいない昼間に行ったら間違いなく忌避の視線を向けられまくってめんどうくさいことになる。行くとすれば少なくとも人間に変装していくことが要求される。

 そもそも昼間は寝てるし、服についての本は大図書館で適当に読み漁るだけで我慢するとしよう。

 

「それじゃあ慧音、またね、です」

「……本当に服だけ買って帰るんですね」

「だからそのために来たって言ったじゃないですか」

「そうですね。だけど、またねという言葉に返すことはできません。私は人間側の妖怪だから、レーツェルと深く関わるつもりはない」

「厳しいですね。でもそれでいいですよ。ただ単に私が勝手に親しくしようとするだけですから」

 

 もちろん、それも慧音が妖怪のスパイだなんて言われないようにほどほどにしていくつもりである。半獣でありながら人間に慕われるなんてことは並みの努力で為せることではない。本当に人間が好きだからこそ彼女は頼られているわけだし、それを無駄にするつもりは毛頭なかった。

 人間の里での知り合いができた。レミリアたちへのプレゼントも買えた。一回の人里訪問でこれだけの成果が得られれば十分である。

 喜んでくれるといいな。そんな風に思いながら、静かに人間の里から飛び去った。



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四.数日巡って試着会

「はい、封印解けましたよ」

「ありがとうレーテ。助かったわ」

 

 開けないと嘆いていた魔術書の封を解いて渡すと、パチュリーは嬉々としてそれを読み始めた。

 その様子を横目に自分の手元に手を落とし、パラパラとページをめくっていく。タイトルは『手芸洋服の縫い方』、現在はフリルに関しての項目に目を落としている。

 人間の里から持ち帰った服はきちんと全員に渡しておいた。レミリアとフラン、美鈴辺りは笑顔で快く受け取ってくれたものの、咲夜とパチュリーは残念ながら反応が乏しかった。特にパチュリー。

 咲夜は「ありがとうございます」と無表情ながら普通にもらってくれた。ほとんどの時間を仕事に当てていてその間はメイド服しか着ないけれど、きちんと受け取ってもらった事実は変わらない。

 パチュリーにはかなり渋られたものだ。「え? わ、私はいいわよ……レーテが着ればいいじゃない」、「サイズが合いません」。どうせ自分は滅多に外に出ないだとか今ある服だけで十分だとかいろいろと理由を並べられて、あんまり無理に差し出すのもダメかなぁと考え始めた辺りでやっと受け取ってもらえた。

 

「パチェは自分を着飾ったりとか興味ないんですか?」

「ないわね。そのぶん本を読むことに情熱を注ぐわ」

 

 即答だった。パチュリーは魔法使いとしての自分に誇りを持っていて、本のそばにいる者こそ自分とまで考えている節がある。

 

「じゃあ、私が贈った衣服も着ないんですか? パチェが嫌なら、それでもいいんですけど」

「……はぁ。そんな捨てられた子猫みたいな目で私を見ないでよ。せっかくもらったんだからちゃんと着てあげるわ。ただ……」

「ただ?」

「……スカートが短めなのは勘弁してほしかったわね。今までこういうのしか着たことなかったし、ちょっとああいうのは恥ずかしいのよ」

 

 こういうの、とパチュリーは自分の服を見下ろした。色合いの違う紫色、赤と青のリボンが散りばめられた寝巻き染みた衣。

 見るだけで『暖かそう』と感じる服装である。夏ならばそれも飛び越えて『暑そう』となるのは確実だ。

 

「あ、パチェは喘息なんでしたっけ。すみません、もうちょっと暖かい感じのデザインの方がよかったですよね……」

「ちょっと寒くなったくらいじゃバテないわ。レーテはいつもいつも私のこと心配しすぎなのよ」

 

 そうは言われても俺は喘息なんてかかったことがないから、どれだけ他人が苦しんでるかなんて想像しかできない。それを軽んじてパチュリーが倒れたりなんてしたら悔やんでも悔やみきれなくなる。

 はぁ、と小さくため息を吐いたパチュリーがわずかに頬を赤らめる。

 

「なんなら今から着てあげたっていいから、そんなに心配しないで。レーテが思うほど私はやわじゃないのよ」

「……わかりました、パチェ。言質取りましたから」

「え?」

 

 小悪魔さーん、と大図書館の司書的存在を呼び寄せる。

 用事は簡単、この前パチュリーにプレゼントした衣服を持ってきてほしいとのこと。小悪魔とは、主であるパチュリーの居候先の主人の妹なんていう微妙な立ち位置ではあるものの、それ以前に悪魔と小悪魔という絶対的な種族の違いがある。基本的に小悪魔は俺のお願いを断らない。

 了承して大図書館を出て行った彼女を見送ってパチュリーの方を向いた。

 

「これからは体調の心配もほどほどにしようと思います。ですから早速着せ替えしましょう」

「……はめられたのかしら、私は」

「いえいえ、パチェが言い出したことですよ?」

 

 目元を引くつかせるパチュリーには、この後にいろいろと買ってきたものを着てもらった。

 本はそんなに読み進められなかったが、パチュリーにちゃんと似合っていることが確認できてなによりだった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「んー、やっぱり私にはちょっと着にくいですねー」

「気に入っていただけませんでした?」

「いやぁ、動きにくいってだけですよ。たまにはこういうのを着るのも悪くないって思ってます」

 

 翌日、時は夕方。仕事を終えた美鈴は渋ることなく前回買ってきた服を着てくれた。

 いろいろと迷ったが、美鈴は普段の言動やらなんやらで勘違いしやすいけど美人風な女性なのだ。それを高めるために濃い緑色のドレスを買ってきた。

 単純な作りではあるものの、それ故に美鈴の素の美しさを表に出している気がする。黙っていればまさしく貴婦人という雰囲気だ。黙っていれば。

 

「私にはもったいないくらいです。わざわざありがとうございます、レーツェルお嬢さま」

「日頃のお礼ですよ。ほとんど毎日仕事してるのにろくな給料も恩返しもできなかったんですから、本当ならこの程度じゃ払えないくらいです」

「レーツェルお嬢さまは本当に律儀ですねー。そんなに気にかけてくださらなくて大丈夫ですよ、仕事と言っても昼はよく寝てますし」

「……前々から思ってたんですが、美鈴は主人の関係者によくも堂々とサボってる宣言ができますね」

「周知の事実じゃないですか」

「自分で言いますか」

 

 それでも門番の仕事ではないはずの庭の管理などもやってくれているのだから文句の言い様はない。

 

「でも、こんなの私にはもったいない気もしますね……門番として活動する時はこんな服装できませんし、私、咲夜さんと同じで基本的に仕事してますし」

「あ……美鈴に気を負った様子がなかったので、仕事ばかりさせてしまいましたね。すみません、休みが欲しいならいつでも言ってください。お姉さまにかけ合いますから」

「気になさらないでくださいよ。門番だって私が好きでやってることなんですから」

「咲夜にも同じように言ってあるんです。美鈴も、私に教えてくれればすぐに休日くらい作ってあげますから」

「そうは言っても咲夜さんは咲夜さんですし休みなんて取ってないでしょう? 私も平気ですよ。本当にやりたくてやってることですから。それに、単にこのドレスを着る機会が少ないのを残念に思っただけです」

 

 はにかみ笑いを見せる美鈴。彼女は俺以上に律儀だから、こういうことを本心で口にしているのだと感覚的にわかった。

 始まりはレミリアの思いつき、完全に無理矢理だったのに、今はここまで思ってもらえてる。

 

「本当に、いつもありがとうございます。美鈴には数え切れないくらい助けられてます」

「そんなの私だって、って! ちょ、え!? なんで涙目になってるんですかー!」

 

 あぁ、ごめんなさい。もうすぐレミリアが起きてくる時間帯だ。美鈴の前で泣いている光景なんて見られたら、妹思いな彼女によって今日の美鈴の睡眠時間はなくなってしまう。

 ゴシゴシと目元を擦りながら、慌てる美鈴を眺めて心の中で小さく笑った。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 昨日に続いて、次は咲夜に試着してもらうことにした。もちろん半ば強引に連れて来て、場所は俺の部屋である。

 彼女に上げたのは藍色のワンピースドレスだ。いろいろと考えた結果、咲夜はなんとなく手間がかかったり動きにくかったりする服装が苦手のような気がした。

 なにせ妖精メイドたちと違ってメイド服のスカートが短めなものを履いている。本人に聞けば「いざ戦う時に動けるようにするため」とか返ってきそうだけれど、基本的に彼女に守ってもらわなくてもレミリアや俺、フランは強い。要するに彼女は自らの好みで軽装を選んでいるのだと判断した。

 

「……着やすいですね」

「似合ってますよ」

「ありがとうございます」

 

 ほんの少し表情に戸惑いの色が窺える。着るのが嫌だという風には見えない。遠慮しているのか、恥ずかしがっているのか。もしくはどちらもか。

 

「咲夜は紅魔館で一番若いですからね。個人的には自分を着飾ることに一番気にかけてほしいものです」

「いや、まぁ、ですが私はメイドなので」

「そんなの知りません。今度、私服で仕事してもいいようにお姉さまにかけ合っておきますから」

「……レーツェルお嬢さまはあいかわらずですね」

 

 あいかわらず変なことに熱心になる。咲夜の瞳がそう告げていた。

 

「迷惑でしたか?」

「そんなことはありませんが……」

「が?」

「いえ、なんでもありませんよ。本当に気に入ってますわ」

 

 いろいろと言いたいことがあったけれど飲み込んだという感じである。困惑を映しながらも嬉しそうにする咲夜の表情は確かにわかったから、それについて問いただすつもりはない。

 

「今日一日その服装で仕事をするとかどうですか?」

「わかりました」

「え、渋らないんですね」

「レーツェルお嬢さまのことですから、どうせそういうことを言い出すなんてわかってましたから」

 

 なにもかもお見通し。ならば本気で断れば俺が簡単に引き下がることも知っている。その上で引き受けてくれるわけだ。

 

「ただ、明日はもちろんメイド服でやらせてもらいますわ。この服ではあまりナイフを隠せるところがないので」

「ナイフを隠すことを想定した服なんてありませんよ」

 

 レミリアから許可をもらい、俺たちが就寝するまでの時間は本当にそのままの恰好で過ごしてくれた。

 レミリアの面白そうなものを見る目と、パチュリーの意外そうな視線、太陽が昇る前の朝早くに起きてきた美鈴からの感心の眼。それらを向けられるたびに咲夜は身じろぎをしていたけれど。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 最後はもちろんスカーレット三姉妹である。レミリア、俺、フランに買ってきたものは色違いのお揃い物だった。

 ゴシック・アンド・ロリータ、通称ゴスロリ。正確には、服飾屋から買ってきた時はそこそこの洋服でしかなかった。気合いを入れてフリルなどさまざまな改造を施した結果としてゴスロリっぽくなった。

 まだ服を一から作ることはできないけれど、本を参考にそれくらいのことならばなんとかできた。

 あざとく狙いすぎかと思ったが、最早狙いまくろうと開き直ってがんばった。

 

「……どうかしら」

「かっこいいです。さすがお姉さまです」

 

 レミリアのそれは黒を主体として白い装飾を施している。たまに見せるカリスマ性をさらに向上させるために黒を選んだわけだが、フリルやらなんやらで結局可愛さが前面に浮き上がっていた。もちろん目論見通り黒でかっこよさのパラメータも上がっているけど、可愛さに比べればせいぜい一〇パーセント程度である。

 ありがとう、と微笑む姿は完全に天使だ。悪魔だけど。

 

「お姉さま、私は?」

 

 俺の袖を引くフランは、レミリアとは逆に白を主体として黒の装飾を施した。対称的にしたかったということもあるけれど、フランのステータスは完全に可愛さに極振りされている。それを高めるなら黒よりも白でいくしかない。

 

「もちろんフランも似合ってますよ。とっても可愛いです」

「……も?」

「ん、フランだからこそ似合ってるんですよ。なんと言ってもフランのためにしつらえたんですから、たとえ同じ服でもフラン以上に似合う人はいません」

「……むふっ。お姉さまもすっごく似合ってるよ。本当に」

 

 最後は俺なわけだが、ぶっちゃけ自分のことはよくわからなかった。レミリアとフランは対称にしたので自分の色に迷い、最終的に自分の好きな二色で作ることにした。

 主体は一番好きな色、個人的に見ていて一番落ち着く水色だ。俺は色は数多くあれど結局は心が安らぐ色が一番だと考えている。装飾は二番目に好きな鮮やかな桃色。前世の子どもの頃は胃袋が宇宙のピンクボールが主人公のゲームや桃が大好きだったので、いつの間にか同じ色が好きになっていた。

 ちなみに三番目は普通にかっこいいからという理由で黒だ。今回は自分の色に組み込んでいないが。

 

「確かにレーツェルは掛け値なしに似合ってるわね……」

「そうですか? ありがとうございます」

「お姉さま、あんまり嬉しくなさそう」

「いえ、もちろんフランとお姉さまに褒めてもらえて嬉しくないわけじゃないんですけど……自分のこととなると、どうにも素直に受け取れないと言うか、自分のことだからわからないというか」

「もったいないわねぇ。本当に今のレーツェルはすっごく愛らしいのよ? あなたが人間だったら迷いなく首筋にかじりついちゃうくらいに」

「愛らしい、ですか」

「そうよ。だから自信を、ってフラン!」

 

 急に飛びかかってきたフランを受け止めると、チクリと首筋に痛みが走った。顔を横に向けると、俺の首筋に八重歯を突き立ててご機嫌に破顔している妹の顔がある。

 レミリアがかじりついちゃうなんて言ったから、「同じ吸血鬼でもこんなことしちゃうくらいには似合ってるよ」とフランは主張しているのだろう。長年一緒に生きてきた感覚で言いたいことはなんとなくわかる。

 レミリアに引き離されるまでずっと俺に抱き着いたままだった。ほんのちょっぴり、真面目に血を吸われたことに気づいてることは口にしないでおこう。

 

「えへへ、ごめんなさい。お姉さま」

「いいですよ。お姉さまとフランのおかげで自信が持てた気がしますから」

 

 少なくともお世辞ではないことはしっかりと伝わった。それだけで十分だ。

 こうして今日もかけがえのない平和な時間が過ぎていく。日常は、なんでもないからこそ愛おしい。



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五.異変の必要性と博麗の役割

「レーテ、異変を起こすつもりはない?」

「……紫。それ、パチェが私を呼ぶ時の愛称です」

「別にいいじゃない。私たちだって殺し合い一歩手前まで(おこな)った仲でしょう?」

 

 唐突に「お邪魔しますわ」とスキマで俺の部屋にやって来たのが数分前。今回は紫だけでなく、八雲藍も一緒にお邪魔しにきていた。

 挨拶もほどほどにコタツを囲み、紅茶の茶葉で作られた緑茶を出す。そうして落ち着いた後に切り出された話題が上記のものだった。

 

「だったら私もゆかりんとか呼んじゃいますよ」

「あらいいわね。藍もなにか愛称つけてもらったら?」

「そもそも私はこちらの吸血鬼とはろくに会話も交わしたことがないのですが……えー、八雲藍と申します。先日の戦争ではどうも」

「あ、ご丁寧に。レーツェル・スカーレットです。よろしくお願いします、藍」

 

 いきなり呼び捨てはどうかとも思ったが、慧音も呼び捨てにしていたので構わないことにした。藍も特に反応を示さないので許容してくれていると判断する。

 というか、ゆかりん呼びしてもいいのか。冗談だったのだけれど、許可された手前呼ばないのもダメな気がする。

 

「それで、あなたは異変を起こすつもりはないの?」

「ありませんよ。私に頼むくらいならゆかりんが起こしたらどうです?」

「残念ながら、幻想郷の管理者である私が異変を起こす側に回るわけにはいかないわ」

「へー。っていうか吸血鬼異変があったばかりじゃないですか。どうしてまたすぐに異変が欲しいんですか?」

「この前と言ってもすでに半年以上は経ってるわよ。前回は妖怪同士の異変だったでしょう? 今回は妖怪が異変を起こし、スペルカードルールを使って人間たちにそれを解決させたいの」

「人間……博麗の巫女ですか」

「知ってるなら話は早いわ」

 

 スペルカードルールには四つの理念があり、そのうちの二つが『妖怪が異変を起こしやすくする』、『人間が異変を解決しやすくする』。つまりは異変が必要な理由の一つ目がスペルカードルールというシステムの存在価値を明確にすることだ。ついでにスペルカードルールを使えば強力な妖怪にも人間の手で敵うことを証明させられて万々歳。吸血鬼異変を起こしたばかりの吸血鬼ならばその相手にもってこいというわけだ。

 

「ずいぶんと退屈しているみたいだからねぇ。ここらで巫女の本分を再認識してもらわないといけないわ」

 

 そして理由の二つ目が、幻想郷の最東端に位置する博麗神社に仕え、博麗大結界――外の世界を『常識』、と幻想郷を『非常識』と分けることで幻想郷を幻想郷足らしめる結界――を管理する、幻想郷のもう一人の管理者とでも言うべき博麗の巫女に働いてもらうこと。

 どうして働いてもらいたいかは、紫が言った通り本分を思い出してほしいからだろう。前世の記憶によれば、博麗の巫女は吸血鬼異変の頃は大した異変もないせいでだらけ切っていたんだとか。だから一度喝を入れる必要がある、と。

 

「博麗の巫女の役割は二つ。博麗大結界を管理すること、そして幻想郷を今の形のまま維持することさ。巫女なんて謳ってはいても信仰を集めることが本分ってわけじゃない」

 

 そう告げた藍の頭を、紫がいつの間にか手に持っていた扇子でパァンと叩く。地味に痛そう。

 

「だからと言ってオマケというわけでもないのよ。信仰が失われるということは神社の神さまの力が失われるということ。そうなれば悪霊が神社を乗っ取ったりしてしまった時に抵抗することが難しくなってしまう」

「博麗神社は博麗大結界の境目にあるんでしたっけ。確かにそこに異常があったら困りますね」

 

 結界が破れるとは行かないまでも効力が弱まったりなどの影響は絶対にある。その状態で放置し続けたり、更なる不測の事態が起こったりしてしまえば、幻想郷が崩壊する危険性は十分にある。

 結界を管理し、幻想郷の異常を見張り、ついでに信仰心を集める。まったく博麗の巫女とはとても大変で本当に重要な職業だ。万年気ままに過ごしている吸血鬼とは大違いである。

 

「そういうわけで異変を起こしてもらいたいのだけれど、やっぱりダメかしら」

「……そうですね。私は起こしませんよ。起こす理由もありませんから。ただ……」

「ただ?」

 

 この前、レミリアが五〇〇歳の誕生日を迎えた。時期的にはそろそろのはずだ。

 

「今年の夏、お姉さまが異変を起こすはずです。それまで待っていてもらえませんか?」

「あら、確定事項じゃないのね」

「起こさないようでしたら私から起こすように頼んでおきますよ。それでどうでしょう」

 

 俺の提案に紫は迷わず頷いた後、小さく頭を下げた。

 

「それでいいわ、ありがとう。ほら、藍もお礼を言って」

「前回の異変では迷惑をかけたのに、引き受けてくれて助かるよ」

「お気になさらず。その分は貸し一つってゆかりんに言ってありますから」

 

 それに今回の件は貸しにするまでもなく正史で起こる出来事だ。本来ならお礼を言われる必要すらない。

 話が一段落し、三人揃って湯のみを口に運ぶ。

 

「……その急須には紅茶の茶葉が入っていたように見えたけど、どうして緑茶の味が……?」

「自作のマジックアイテムなんですよ。どんな茶葉でも成分を分解、変換、再構築して緑茶にしてくれます」

「どんな茶葉でも? 器用なマジックアイテムを作るのねぇ」

「どっちにしても茶葉を使うのであんまり意味ないんですけどね。いずれは雑草からでも作れるように改良していくつもりです」

 

 藍が珍しいものを見るように急須を観察するかたわら、紫がコンコンとコタツを叩いていた。

 

「これもマジックアイテムね。どんな効果かしら」

「少量の魔力を燃料に内部を暖めたり冷やしたりできるんです。コンセプトは全季節対応コタツ」

 

 しかしこのコタツは失敗作というかなんというか、致命的とも言うべき見落としがあった。別にコタツに不具合があるわけではない。恩恵を受ける側に問題があるのだ。

 言ってしまえば、俺は吸血鬼なので環境の変化に強い。暑くても寒くても大して気分は変わらないので、夏に厚着していても大して苦しくないし、冬に水着を着ていても体が震えたりなんてしない。コタツなんて根本からして必要としていないのである。

 

「その様子だと他にもマジックアイテムを作ってたりしているの?」

「ええ。魔法で作った空間にたくさん保存してありますよ」

 

 藍の質問に答え、倉庫魔法で空間から一本のペンを取り出した。

 

「シンプルなところで紹介しますと、これは込めた魔力を自動的にインクにして、そのまま紙に記すことができます。魔導書を作ったりマジックアイテムに魔法陣を刻んだりする時にすごく便利なんですよ」

 

 魔法使いなら、ちょっと魔力の扱いに慣れれば普通のペンにも魔力を宿らせられるから、実はこれも産廃なんだけど。

 ほとんどが魔法使いとしての技能や俺固有の生活魔法で代用できるものばかりで、実際的に役に立っているものは少ない。コタツだって見た目が好きだから出しているだけだ。そんな中、急須は有用なマジックアイテムの代表と言える。

 元日本人としては緑茶が飲みたい時があるから、紅茶ばかりの紅魔館では必須なものだ。分解、変換、再構築はちょっと複雑なのでやるとなると工程がめんどくさく、それを代用して全自動でやってくれるこの急須は非常に便利なマジックアイテムである。

 

「レーテはまるで河童みたいねぇ。いろいろな用途に合わせた道具を作るなんて、素で莫大な力を誇る吸血鬼が考えることじゃないわよ?」

「人間だって生活を楽をするために道具に改良を重ねたりしてるんですから、知性ありし存在である吸血鬼が同じように道具を開発しない道理はありません。多少珍しくとも吸血鬼が考え得ることですよ」

「ふぅん。私にはどうにも、レーテが生活を楽にするためにマジックアイテムを作っているようには思えないけど」

「……そうですね。どちらかと言えば生活を快適にするためですね」

 

 俺は最後まで緑茶を飲み切ると、湯のみを置いて立ち上がった。

 

「あら、どうしたの?」

「昨日はあんまり構ってあげられなかったので、今日は早めにフランのところへ行こうと思いまして。あ、フランって言うのはフランドール・スカーレットの愛称で、私の妹です」

 

 このくらいの背ですごく可愛いんですよ、と自分と同程度の高さまで手を上げる。紫と藍は揃って「まぁ姉二人もその身長なんだから妹も同じくらいでしょうね」とでも言いたげな顔をしていた。

 

「まぁ、私たちはもう用事は済ませたしねぇ。そういうことならそろそろ退散するとしましょうか、藍」

「そうですね。レーツェル、今日は突然の訪問にも拘わらずもてなしていただいてありがとう。できれば今後は良い関係を築いていければ助かるよ」

「はい、喜んで。また会うことがあればよろしくお願いしますね」

 

 紫が開いたスキマの中に二人が飲み込まれていくのを手を振って見送って、俺も部屋の扉まで歩を進めてそれを開けた。

 フランの力加減の修行も大詰めだ。もう少しで俺やレミリアと遜色ないレベルまで力を制御できるようになる。

 何百年にも渡る彼女の苦労が報われる日が近いうちに来ることを夢想して、自然と地下室へ向かう足は早まった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「ねぇパチェ。どうして夏は日差しが強くなるのかしらね」

「日を受ける角度が変わるからじゃない?」

「そんな論理的な答えは幻想郷では意味をなさないわ。どうしてわざわざ日差しが強い季節なんてものがあるのか。そこが問題なのよ」

「問題って言われてもねぇ。どうせレミィは昼間は寝てるでしょう? 日光が強くても弱くても大して変わらないじゃないの」

「いい加減鬱陶しいのよ! 夜は短くなるし!」

 

 バァン、と机が強く叩かれる。直前に魔法で硬化させていなければ今頃吸血鬼の腕力で無残なことになっていたかもしれない。

 裁縫に関しての本をパタンと閉じて、夏の日差しについての議論を交わすパチュリーとレミリア、そしてその後ろに控える咲夜を見やる。

 

「咲夜はどう思う? やっぱり夏は太陽のやつ調子に乗りすぎだと思うわよね」

「確かに昼間は暑いですね。ただ、夜はちょうどいいくらいに涼しいですから一概に嫌いとは言えません。旬の野菜や果物も美味しいですし」

「夜はどの季節でも好きよ、私も。レーテはどう思う? 夏の日差しについて」

「そうですねぇ。日差しは眩しいですし美鈴の仕事が長引きますし、あんまり良い季節とはとても言えませんね。夏の夜空は好きなんですけど」

「そうでしょう? そういうわけでパチェ、決まりよ」

 

 本に視線を向けたまま「なにがよ」と聞き返すパチュリー。大して反応を見せない咲夜、ボーっと眺めているだけの俺。

 三者一様としか言いようがない関心のなさを眺めても一切勢いを緩めず、それどころか口の端を吊り上げたレミリアが席から立ち上がって高らかに宣言する。

 

「幻想郷中を私の紅い妖霧で満たすわ! そうすれば日差しは届かないし昼間でも外を出歩ける! どう、いいアイディアじゃない?」

「いいんじゃないかしら。幸いここには異変を起こせるだけ起こしていいってルールもあるもの」

「私も前回みたいに血みどろくさいことにならないなら賛成ですねー」

 

 正直なところ賛成でも反対でもどちらでもないけれど、紫に頼まれたこともあるので前者にしておく。

 

「レミリアお嬢さま。お茶が入りました」

「あらありがと」

 

 ストンとイスに座り直したレミリアが机に置かれたコップを手に取ると、味わうように紅茶を口に含んだ。

 そしてすぐに苦い顔になって唇から離す。

 

「……咲夜、今日はなにを入れたの?」

「先日庭で採れたオトギリソウを少々。これを摂取すると日の光に弱くなる上に血の興奮を抑制するなど効果があるそうです」

「なんでそんなもの入れたのよ。明らかに吸血鬼と相性が悪いじゃない」

「最近は日の光に関して文句をよく漏らしていらしたので、いっそのこともっと日差しに弱くなろうとすることで逆に克服できれば、と」

「…………はぁ」

 

 レミリアがため息を吐きたくなるのも無理はない。これでいて咲夜は結構本気で言っているのだ。

 どうせ毒の効果は吸血鬼には効果を為さないが、オトギリソウは渋みの成分が多い毒草である。紅茶(血入り)とマッチする道理がない。

 

「咲夜、砂糖」

「はい、どうぞ」

 

 スプーン三杯分ほど入れてかき混ぜて、口につけてビクッと震える。まだ渋いのか、それとも甘さと苦さと渋さが絡み合って、絶妙なマズさでも演出しているのか。

 

「とにかく、明日から館の外に紅い霧を出していくわ。そこのところよろしくね」

「……お姉さま、飲むの手伝いましょうか?」

「レーツェルにこんなもの飲ませられないわよ。大丈夫よ、我慢して飲み切っちゃうから……」

 

 そうしてその後、俺とパチュリーにも紅茶は出されたが、血の有無はあれど変なものは入っていなかった。日光の文句はレミリアしか垂れていなかったから、だそうだ。

 さて。

 ついに紫との約束を果たす時が来た。東方Project一作目、東方紅魔郷。こうして、のちに紅霧異変と呼ばれる出来事が始まる。



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六.動き出す巫女、漂う闇の妖怪

「そろそろですか?」

 

 ベッドから起き上がり、ボーッと顔を宙空に向けながら問いかけた。

 日差しの鬱陶しさを主張した日以降、レミリアは一日一回テラスで十数分ほど紅霧を出し続けている。すでに半月は経っているが、霧が幻想郷中を覆っていくたびにどんどん日差しが届かなくなる様子を愉快に観察しているようである。

 ちなみに、吸血鬼が出す霧はその身の妖気が形を持ったものだけれど、霧が紅いのはそれとはまったく別の外部的要因によるものだ。吸血鬼の霧は水滴よりも密度が高く、細かい水滴よりもさらに細かい、むしろ宝石に近い。だからこそ少量でも光を強く曲げてしまい、紅より波長が短くより屈折する光は乱反射の末に多くが霧に吸収される。その結果として一番ストレートな紅だけが多く残って紅色に見える――って前にパチュリーが言ってた。俺にはよくわからなかったけど、とりあえず頷いておいた。

 

「……どうして気づいたのかしら」

「三度目ですからね。妖力と魔力を探知するくらい寝起きでも簡単に……と言いたいのは山々なんですが、ちゃんと細工がありますよ」

 

 ニュッ、とスキマを開いて紫がコタツの前に現れた。ベッドから下りてその対面に向かいながら、あまりにも簡単でくだらない細工を語る。

 

「お姉さまが霧を出し始めて以降、毎日『出てきたらどうですか?』『まだ巫女は動かないんですか?』『そろそろですか?』と寝起きで言ってるだけです」

「カマをかけられたのね」

「反応してくれなかったらわかってるフリしてるだけなのが見られて、ちょっと恥ずかしいことになってましたけどね」

 

 コタツ前の座布団に座り、急須に紅茶の茶葉と魔法で作り出した水を入れる。湯のみを二つ用意して、急須の効力によって変化した熱い緑茶を注いだ。

 どうぞ、と紫の方に一つを差し出し、もう一つを自分の口に運ぶ。

 

「館の中は霧で満たされてないのねぇ」

「昼間でも活動できるようにするためにやってることですから、もともと活動できる室内を霧で満たしても意味ないです。それにうちは妖精が基本ですが人間のメイドもいますし」

 

 吸血鬼の霧は妖霧と呼ばれるだけあって人間には有害だ。死んだりするわけではないにしても吸えば気分が悪くなるんだとか。

 人里は今、混乱に瀕していると思われる。数日前にチラッと行って覗いてみたが、外に出ている者はなく閑散としていた。

 

「それで、そろそろなんですか? 博麗の巫女が来るのは」

「ええ。他に余計な人間が一人紛れ込んでるけど気にしないでちょうだい。巫女は今、出かける準備を整えてるところよ。霧もそろそろ幻想郷の外に漏れ出そうとしてるから、もうちょっと早く動いてほしかったんだけどねぇ」

「ちなみにどうして今まで動かなかったんでしょう。さすがに異変には気づいていたと思うんですが」

「めんどくさかったらしいわ。博麗神社は幻想郷の最東端にあるのだけれど、そこまで紅霧が届きかけたから、しかたなく動き出したのよ」

 

 それはなんというか、相当危機感に欠けているというか。

 

「とにかく巫女が来るんですね。わかりました」

「あら、余計な人間については聞かないのね」

「気にしないでって言ったじゃないですか」

「本当に気にしないとは思わないじゃない。教えておくと、そいつは星の力を操るのが得意な魔法使いよ。普通に戦うならともかくスペルカードルールに則るなら結構な強さになる」

「なるほど、気をつけておきます。とは言っても今回は私はその二人と戦うつもりはありませんけどね」

 

 のんきに湯のみを傾ける俺に、同じく緑茶を口に通した紫が「どうして?」と首を傾げてくる。

 

「この館に攻め入ってくる以上、二人は美鈴や咲夜はもちろん、道を間違えればパチェとも戦うことになります。その後にお姉さまとの戦闘ですよ? 数が多いじゃないですか。あ、美鈴たちのことは教えたことありませんでしたね。それぞれ門番とメイド長、それから知識人で、個性豊かで楽しい方たちですよ」

「ふぅん、なるほどねぇ。でも本当にそれだけが参戦しない理由かしら。なんとなくだけど、どこかあなたに違和感を覚える」

「……鋭いですね、ゆかりんは」

 

 紫が、愛称で呼んだことに若干嬉しそうに顔を上げた。

 

「私も時機を見て、日を跨いで巫女たちと戦うつもりです。それはきっと一か月くらい後のことになります」

「あいかわらずたまに未来を見通したような発言をするのね」

「いえいえ、予言ではなく予想ですよ。もしもその通りにならないようなら、そうなるように私が動くだけですし」

 

 俺がいることで正史になにかしらの変化を及ぼしてしまうことは吸血鬼異変の時に嫌というほど理解した。紅魔館の住民はその影響をもろに受けているし、東方紅魔郷も正史通りに進むのかどうか果てしなく疑問だ。

 一番の変化はレミリアが弾幕に対しとても強くなっていることだ。卓球が原因で生み出された"弾幕合戦"という遊戯。これにより鍛えられたせいで、彼女の弾幕の生成速度と機動性はずば抜けている。果たして本当に異変は解決されるのかどうか。

 ……そんなに深く考えなくても大丈夫か。なにせスペルカードルールにおいては、異変を解決する人間側は勝つまで何度でも元凶に挑むことが許される。

 

「ひとまず楽しみにしていますよ。最強の人間とその友人が、お姉さまたちを相手にどこまでやれるのか」

 

 俺は巫女や魔法使いのことなんて知らないフリをして、とりあえず今は紫とゆっくりお茶でもしていよう。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Rumia □ □ □

 

 

 

 

 幻想郷中を覆い尽くす紅い霧は光を通さず、闇の妖怪である自分にとってはひどく都合がいい。妖気が秘められているので人間には有害だけれども、妖怪の自分には大して影響もなく、むしろ心地の良く思えるほどのものだった。

 霧のせいで紅色に染まっている満月を見ながら、彼女と出会ったのは逆に月がなかった時だったな、と夢想する。

 彼女とはすなわち、レー……レー……レーチェルという吸血鬼の友人のことだ。闇を支配し身に纏う姿は強大な力をこれでもかというほどに主張して、お札で力を封印されている自分では遠く敵わないことは嫌でもわかった。

 そんな彼女は、偶然出会っただけでなんの力もない私を友達と呼んだ。ただ闇を作るだけの小さな妖怪をあまつさえ家にまで招き、遊びで怪我をさせてしまったお詫びにとご馳走までふるまってくれた。

 その日からレーチェルの家には何度かお邪魔させてもらっている。今私がいる林で遭遇することもあり、生きる意味もわからず宙を漂っているだけの生活に潤いが生まれた。

 あぁ、考えていたらなんだか会いたくなってきた。霧が出るまではとても暑くてずっと闇の中にいたから、最近は遊びに行っていない。

 

「気持ちいいわね。毎回、昼間に出発して悪霊が少ないから夜に出てみたんだけど……どこに行っていいかわからないわ。暗くて」

「お前ならそう言うと思ってたぜ。私は夜は嫌いだけどな。変な奴しかいないし」

「っていうかなんであんたついてくるのよ」

「こんな変な霧を出すやつなら目ぼしいものの一つや二つきっと持ってるだろ? そいつを探しに行こうとしたところにお前がいたんじゃないか」

 

 陽気な会話にくるりと聞こえた方向へ向き直ると、夜の闇の中を飛んでいる二人の人間の姿が目に入る。

 片方はなぜか袖がない赤い巫女服を着込んだ黒髪の女性だ。頭に赤いリボンをつけていることに若干の親近感を覚えるが、そのサイズは明らかに私よりも大きい。

 もう片方はいかにも魔法使いというコーンの形をした三角帽子をかぶり、体には黒いドレス服に白いエプロンをつけている。自力では飛べないのか竹箒に乗っていた。

 

「変な奴って誰のことよ」

 

 人間、人間だ。とりあえず声をかけておく。外の世界の人間なら食べられるのだけれど、そう都合よくはいかないか。

 そもそも外の世界の人間は空を飛べない。魔法使いなんて問題外。希望なんてなかった。

 

「誰もあんたのことって言ってないぜ」

「それはまぁ、当然」

 

 竹箒で飛んでいる魔法使いに言い返される。隣の巫女は私の登場にめんどうくさそうな顔をして、

 

「ほら、あんたが変な奴がどうとか言うから本当に変な奴が出てきちゃったじゃない」

 

 こちらは完全に私を指して変な奴と呼んでいた。魔法使いのように誤魔化しもしない。失礼なやつである。

 そもそも夜は妖怪の活動時間帯なのだから妖怪が出てくるのは至極当然のことなのだ。文句を言われる筋合いはない。

 

「で、お前さんはさっきからなんでそんな手広げてるのさ」

 

 魔法使いの質問。そういえば同じようなことをレーチェルにも聞かれたなぁ、と思い返した。

 なんて答えたんだっけ、あの時の私は。そう、確か私はあの時、

 

「『聖者は十字架に磔られました』っていってるように見える?」

「『人類は十進法を採用しました』って見えるな」

 

 少なからず目を見開いて驚いた。その回答はレーチェルが返してきた言葉とまったく同じものだったのだ。

 もしかしたらこの魔法使いは彼女と知り合いなのだろうか。まさか吐かれた答えが同じだったことが単なる偶然だったとは言いますまい。

 ちょっと戦ってみようかな。

 私が少なからず興味を向けていることに気づいたのか、魔法使いが帽子の中から小さな金属の塊を取り出して身構えた。

 

「あら、あんたがやってくれるのね。ちょうどいいからここは任せて私は先に行かせてもらうわ」

「ちぇっ、しかたないから囮役は買ってやるぜ。よくわからんがそこの妖怪は私と戦いたいみたいだからな」

 

 ちょっと離れたところを通って私の後ろに飛んで行ってしまう巫女を見送ると、体内の妖力を練って弾幕生成の準備を始めた。

 紅霧のおかげで日が届かない日が続いていて機嫌もよかった。それにこの魔法使いはレーチェルと関係がある可能性が高い。あれだけ強い彼女と関わりがあるのなら、いつものようにダルくではなく少しくらい本気を出したって構わないだろう。

 

「目の前が取って食べれる人類?」

「食べるならさっき通りすがった巫女をオススメしますわ!」

 

 そんな対話を開戦の合図にして、私と魔法使いはそれぞれ宙空に弾幕を作る。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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七.生放送でのお送り

紅霧異変編では視点切り替えが激しいです。ご了承ください。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Rumia □ □ □

 

 

 

 

 

「"月符『ムーンライトレイ』"」

「いきなりか!」

 

 挨拶代わりに数発の弾を撃ち合った後、即座に私はスペルカードの宣言をした。

 小手調べだ。これくらいは避けてもらわないと困る。

 適当に作った弾幕を周囲にばら撒きながら、両手から一本ずつレーザーを出して魔法使いを左右から追い詰めにかかった。

 

「甘いぜ!」

 

 大して数もない弾幕に二本しかないレーザーを楽々と避けて、反撃として魔力弾がいくつも飛んでくる。

 両手を交差させてなんとか受け止めて、見た目と違い結構な威力が込められていることに若干驚いた。さすがに吸血鬼であるレーチェルほどの力ではなかったが。

 

「"闇符『ディマーケイション』"」

 

 連続でスペルを発動、周囲にほんの小さな尖った弾幕を作り出した。弾を交差させ、その動きで相手を惑わせる。

 ちょっとおかしな動きをしても数が少ないから大したことがない――と相手が思っただろう辺りで、右腕に溜め込んでいた妖力を無数の弾にして魔法使いに狙って放った。左腕に集めていたぶんも投げて、その間に右腕に再び溜めて連続で撃ち放つ。

 

「だから甘いって言ってるだろ?」

「ふぅん」

 

 魔法使いは、一つ一つを見極めて避けるのではなく大きく旋回して楽々と避けていた。

 周囲に飛び散った弾の数が多ければ飛び回って回避するなんてことはできない。弾を交差させるという小細工に意識を向けすぎて、数の生成をサボった結果がこれだ。

 

「"闇符『ダークサイドオブザムーン』"」

 

 作り出した闇の中に自分の体を隠し、適度に弾幕を張りながら移動する。

 集中して溜めておいたぶんを闇と一緒に解放、黄色い巨大妖力弾を撃ち出した。闇から出て来た瞬間を狙って魔法使いが攻撃してくるが、そのパターンはレーチェルの時に経験済みだ。即座に闇に潜って狙いを甘くして、ギリギリでなんとか避けてみせる。

 ここからは同じことをするだけだ。弾幕を張りながら移動、闇と共に妖力を解放。狙われてもギリギリで回避する。

 数回ほどループして、魔法使いがしびれを切らしたようにスペルカードを取り出した。

 

「いい加減ここからは私のターンだ! "魔符『スターダストレヴァリエ』"!」

 

 一瞬にして魔力が膨れ上がり、彼女を中心に巨大な星型の弾幕が放たれた。その威力は凄まじく、私の生み出していた弾幕がすべて飲み込まれてしまう。

 なんとか私自身は逃れられたが、闇が解けてしまっていたので「そこか!」と一気に集中砲火を受けた。

 

「ぐぅ!」

 

 なんて火力だ。あと一……いや、二回でも受けたらまともに戦えなくなる。今は弱小とは言え仮にも妖怪である私に数発でこのダメージだ。

 もうちょっと遊ぶつもりだったけど、ここは早々に決めるべきか。

 

「"夜符『ミッドナイトバード』"!」

「む」

 

 このスペルカードは小細工なんて存在しない。ただ力のままに両腕に妖力を集めて、限界まで数を振り絞って腕と一緒に振り散らすだけだ。

 右腕を振るう。左腕を振るう。また右腕を振るう。それだけで素早く強固で無数の弾幕が生まれた。こればかりは魔法使いも少しは慌ててくれたようだ。

 何度も腕を振るい、そのたびに大量の妖力弾が襲いかかる。単純だからこそ強力なスペルカードだ。そもそもとして私は頭脳派の妖怪ではないのだから、こうして適当に撃ちまくる方が性に合っている。

 このまま仕留め切れればいいのに――とは言え、やはりそううまくはいかないようで。

 

「こういう全開で撃ちまくるって戦法は嫌いじゃないぜ! 弾幕はパワーだ! だから、私も同じように全力で答えないとな!」

 

 ――"恋符『マスタースパーク』"。

 私の攻撃が一瞬止んだ隙を見計らって、魔法使いが手にもっていた変な形の鉄の塊をこちらに向けてきた。

 中心に空いた小さな穴に眩い光が灯っているのが見える。

 

「マスター……」

 

 なにが来ようと数で押し切るだけだ。とにかく両腕を交互に振り回し、体内の妖力を乱射しまくる。

 しかし、それが届く直前で魔法使いが持っていた鉄の塊の光が最高潮に達した。

 

「スパァアアアアアアアアク!」

 

 放たれたのは、私の体を飲み込んでなお余りがあろうほどの極太レーザーだった。

 すべての弾幕が打ち消される。あまりの規模と威力を前になにも為せずに消えていく。

 二発は耐えれるとさっきは思ったけれど、さすがにこんなのは一発も耐えられない。

 膨大な魔力光が迫るのを目にしながら、私は「また光にやられるのか」とレーチェルとの勝負のことを思い出していた。

 

「――悪いな。霊夢に先を越させるわけにはいかん。そろそろ通らせてもらうぜ」

 

 そんな言葉を最後に耳にして私の意識は途切れた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □

 

 

 

 

 

「あ、ご苦労さまです」

「ええ、まぁ。ところでどうして私はこんなパシリみたいなことやらされてるのかしら」

「どうせだから巫女たちの進撃を観察していようって言ったのはゆかりんじゃないですか。空間移動も覗き見もゆかりんの能力だと簡単にできるんですから、ある意味当然です」

 

 場所は変わらず俺の部屋だ。違うのはコタツから二メートルほど離れた位置にブラウン管テレビがあることと、紫がたった今気絶したルーミアをスキマを使って連れてきたこと。

 テレビ画面にはルーミアをくだした黒白の魔法使いが、巫女が行った方向へと急いで飛んでいく光景が映し出されている。

 意外に早く勝負が決まってしまった。やはりパワーアンドスピード特化である黒白魔法使いを相手にするのは地力で劣るルーミアには厳しいか。

 

「……この子、力を封印されているみたいね。頭のお札で」

「そうですねぇ。でも本人はあんまり気にしてないみたいですし、封印の元であるリボンは可愛いですし、そのままでいいんじゃないですか?」

「変な基準ねぇ。ま、元々解く気なんてないわ」

 

 ニュッとルーミアをスキマに落としたかと思うと、ドサッと普段俺が寝ているベッドでなにかが倒れる音がした。

 ルーミアはどういうわけか、本来ならば東方紅魔郷では出てこないスペルカードを一部使用していた。おそらくなんらかの形で俺の存在が影響を及ぼしていたと思われるが、とりあえず彼女が起きたら正史よりも頑張ったということで功労賞の食事でも進呈しようと思う。

 回収という一仕事を終えた紫が俺の対面に腰を下ろし、「お疲れ様です」と緑茶を入れ直した湯のみを差し出した。

 

「巫女の方も一段落したみたいね」

 

 画面がが切り替わり、霧の湖にて水の上で気絶している妖精を紅白の巫女が見下ろしている光景が映し出された。

 このブラウン管テレビはマジックアイテムなどではない。数か月前に俺が森で拾い、そのまま倉庫魔法で保管されていたところをちょうどいいから取り出しただけだ。今は紫の能力により遠くの景色を映し出す触媒となっている。

 

「氷の妖精と戦ってたんですよね。妖精なのに多少なりとも博麗の巫女に対抗できるなんて結構すごいことですよね」

「普通じゃ考えられないくらいのことよ。今はまだギリギリ妖精の枠に当てはまっているようだけど、そのうちそれも越えちゃうんじゃないかしら」

 

 妖精とは数ある自然現象そのものであり、逆に言えば自然現象を超越するほどの力は持ち得ない。一人や二人程度なら人間でも簡単にどうにかできるほどなのだ。

 それを画面に映る氷の妖精は、博麗の巫女という強大な存在を相手になんとか渡り合っていた。ルーミアと黒白魔法使いとの勝負よりも短く、一分程度だけど。

 

「……妖精を超えるということは、自然現象を超えるということですよね。それってつまり」

「妖精は本質が自然だからこそいくら死んでも再生することができる。でもその枠を超えてしまえば再生は適わない。なぜならそれは自然ではないからよ」

「そうですよねぇ。そうなると強くなることが正しいのか間違っているのか……それも本人の裁量次第ですか」

 

 とは言っても自らの種族を超えるなんて容易にできることではない。そこまでの心配をしなくても大丈夫だろう。

 それはさておき。

 この調子だと黒白魔法使いが追いつくのは紅白巫女が美鈴との勝負の最中か、勝負が終わった後かな。

 戦いが終わったら勝敗と関係なしに紫に頼んで美鈴を回収してもらおう。レミリアが霧を出し始めてからは残業を多くしてもらっているし、外に放り出したままにしているというのは後味が悪い。

 

「美鈴、がんばってくださいね」

 

 とりあえずは、俺はここで紫と一緒にテレビを眺めながら応援でもしていよう。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Hhong Mei Ling □ □ □

 

 

 

 

 

「それにしても、ここは本当に居心地のいい場所だなぁ……」

 

 まず第一に空気がおいしい。胸いっぱいに吸い込めば清々しさが体中を……うん。そういえばレミリアお嬢さまが妖霧を出してるんだった。なんか変な味する。

 あいかわらず思いつきでとんでもないことをするお(かた)だ。そしてなかなかに意地悪で、暇潰しと称して私のことをいじめてきたりもする。反してレーツェルお嬢さまはとても親切で私のことをよく気遣ってくれる。

 だからと言って二人への感情に優劣があるわけでもなく、両方とも私が仕えるべき最高の主人だと思っている。

 約三〇〇年前にレミリアお嬢さまと決闘を行い、善戦はしたとは思う。けれど結果だけを見れば私は彼女にまともなダメージを何一つ与えられなかったのだ。

 妖怪とは理不尽な存在が多い。特に悪魔はそうだ。もう私も終わりかなぁ、と思ったところでどういうわけか見初められて門番として雇われた。

 最初はとにかくこき使われまくるのかなと思ったものだけれど、本当にしっかりと食事を提供してくれるし望めば休みもくれる。望まなくても休日が少なかったら強引に休みを取らされる。なんだかんだ言ってお嬢さまがた二人は私のことを信用し、大切にしてくれる。

 今は私よりも頼りになりそうなパチュリーさまと咲夜さんもいるし、たくさんの妖精メイドたちもいてとても賑やかだ。

 かつては世界を放浪していただけの小妖怪だった私が、なんの因果かこうして幼く心優しい吸血鬼たちのもとで門番として働いている。ここが私の居場所だ。今はなんの迷いもなくそう言える。

 

「この湖にこんな建物経ってたかしら」

 

 感慨に浸っていると、上の方からそんな言葉が聞こえてきた。いけないいけない、思考に沈み過ぎて仕事の方を疎かにしていた。これじゃまた咲夜さんに怒られてしまう。

 トン、と妖力を使って空を飛んで声の主の前に躍り出た。

 

「ここには別になにもなくてよ?」

「いや、あんたの後ろにあるじゃない。見えてるから」

 

 そこにいたのはかなり変わった服装をした、しかし一目で巫女だとわかる紅白の少女だった。肩と腋を露出した、胴体と腕の部分で巫女服。黒髪の後ろでは頭ほどのサイズがあるとても大きなリボンを結んでいた。

 

「ちなみに、あなた、何者?」

「えー、普通の人よ」

「嘘ね。こんなにも怪しい館に普通の人なんているはずがないわ」

「それは偏見よ。館が怪しくても私は普通なの。むしろこんな怪しい館にやってくるあんたが普通以外なのよ」

「私は巫女をしている普通の人よ」

 

 そんな会話をしながらも、普通を自称する巫女はどうやって紅魔館に入ろうかと視線を巡らせて考えているようだった。

 私は門番だから侵入者は迎撃するのが仕事である。全身に気を張り巡らせて、戦闘態勢を整える。

 妖精メイドたちを抜かせば私は一番弱い。逆に言えば、私くらい倒せなければお嬢様に挑む権利なんて得られない。この人間はいったいどれくらいまで戦える? 何百年と人間の武術を嗜んできた私にどこまで対抗できる?

 あぁ、楽しみだ。

 

「それはよかった。確か、巫女は食べてもいい人類だって言い伝えが……」

「言い伝えるな!」

 

 私が弾幕を作り出すと同時、巫女は持っていたお札を投げつけてきた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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八.天翔る龍の拳法

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Hhong Mei Ling □ □ □

 

 

 

 

 

 生み出す弾が少なければ容赦なく霊力のこもったお札を投げつけられ、多くすれば自分に当たるものだけを回避して、確実に弾幕の隙間にお札を投擲してくる。それを避ければその隙を縫って追撃が来るし、かと言って避けないでいるわけにもいかない。

 私は妖怪としての格は低いが、それなりの年月を生きてきているつもりだ。紅魔館の門番として死闘を繰り広げたことも少なくない。それなのにたった十数年しか生きていないであろう目の前の巫女は、舞でも踊るかのように私の弾に身を掠らせ(グレイズし)ながら徐々に追い詰めてきている。

 咲夜さんが腕試しと称して私に勝負を挑んできた時のことを思い出していた。彼女もまた多大なる才能を秘めていた。あぁ、レーツェルお嬢さまが吸血鬼にとっては食事の対象でしかないはずの人間を高く評価する理由が今ならハッキリとわかる。

 長きを生きる妖怪とは真反対の存在、短き生だからこそ必死に輝こうとする荒くも美しい魂。

 

「なにを笑っているのよ。押しているのは私なのよ?」

「む、だったら押し返さないといけないなぁ」

 

 ――"華符『セラギネラ9』"。

 イメージは葉上の茎が一直線に伸び続けられないために分枝し続ける植物、イワハビ。

 全方位に生み出した数多くの弾幕が交差し、混ざり合い、まさしくイワハビが葉を広げるように放射状に空間を埋め尽くしていく。

 私は花や植物が好きだ。だからそれの再現ならば結構自信がある。

 

「パターンが甘い!」

 

 しかし巫女には通じないようで、さきほどと変わらず普通に避けながらお札を投げつけてきた。それは展開していた弾幕の一つに命中して消滅するが、そうして作られた隙間に連続的にお札を撃ち出してくる。

 イワハビの葉が一枚ずつ確実に破られ、やがてお札が中心にいる私のもとにまで向かってきた。さすがに大人しく食らうつもりはない。お札がたどりつく前にスッと横に移動して、しかしそれが相手の狙いだった。

 

「かかったわね」

「えっ!」

 

 動いたことで弾幕にズレが生じ、巫女がつけ入るスキができた。

 普通ならば避けられるはずもない無数の弾幕、私の回避により生まれたほんのわずかなすき間を縫うように接近してくる。

 スペルカードルールは別に攻撃は飛び道具や弾幕のみと決められているわけではない。このまま打撃で攻めてくるつもりか? 迎え撃つためにスペルカードの発動を取りやめて身構えると同時、巫女が手に持つお祓い棒を振り上げた。

 直後、その背後から陰陽を表す太極図が描かれた一つの玉が顔を出す。

 

「ぐっ」

 

 玉から発射される霊力弾を咄嗟に両腕を交差してガードし、すぐにそれが悪手だったと気づかされる。お祓い棒を逆手に持ち替えた巫女が交差した腕の隙間にガッと刺し込んできた。

 ただの打撃ではなく、多大な霊力が練り込まれている。一瞬、意識が飛んだ。

 マズい、フラフラする。いったん距離を取って回復しないと。

 

「逃がさないわよ」

 

 私の斜め後ろ。右上、右下、左上、左下。それぞれの方向に一気にお札を投げてきた。直接当ててこないことを疑問に思いつつも後退しようとして、ビリッと電流が走ったような感覚が背中を駆け巡る。

 慌てて振り返ってみれば、そこに四つの札が宙に留まり正方形を描くことで青い半透明の結界が生み出されていた。

 

「これで終わり!」

 

 進路を妨害されたと気づいた時には遅く、すでに巫女の手からお札が、浮いた陰陽の玉からは霊力弾が発射されていた。

 回避は到底間に合わない。もともと飛行は得意な部類ではなく、後退を阻止された直後で方向転換ができるほど器用ではないのだ。

 ――美鈴の弾幕は七色に輝いてて本当に綺麗ですねー。特に花をモチーフにしたスペルカードは再現度が素晴らしいです。

 ――本当ですか? いやぁ、ありがとうございます。

 ――でも、どこかパターンに頼り過ぎている気もしますね。弾幕ごっこは確かに『美しさ』を重視しますが、それでも決闘なんですよ?

 ――うぐぅ、それはわかっているんですが、なにぶん飛行や空中戦は苦手でして……地上なら武術も使えて結構行ける自信があるんですけど。

 ――ふぅむ、地上なら、ですか。なるほど、それなら一つ良い案がありますよ?

 

「"虹符『烈虹真拳』"!」

 

 ――足場がないから、支えがないから武術がほとんど使えないんですよね。だったら作ればいいんですよ。使いこなせるかどうかは美鈴次第ですが、これは日頃のお礼です。

 レーツェルお嬢さまから授かった足場を作る魔法を咄嗟に使い、その状態で即座にスペルカードの発動を宣言。長きにわたる修練を経た肉体は一瞬にして気力を最大まで練り上げて、迫り来るお札と霊力弾を左拳の連続突きで打ち消した。

 多少視界がフラつくけど、この巫女を相手に回復まで逃げ続けるのは得策じゃない。また今のように結界やらなんやらで追い詰められる可能性が高くなる。だったら一気に畳みかけるべきだ。

 

「シッ――!」

 

 その場から跳び上がり、くるりと半回転して上の空気を足場にする。ダンッと一気に巫女まで接近した。

 脚に気力を込めてのその移動は常人ならば視認すらできないもののはずだが、さすがに目の前の巫女は格が違う。お祓い棒で迎撃しようとしてきた。

 

「速いけどこれで、えっ!?」

 

 真横の宙を足場にして急激な方向転換、私に視線が追いついていない巫女の隣に魔法で着地する。その時にはすでに技の準備を終えていた。

 ――"撃符『大鵬拳』"。

 右の拳に溜まった気力が漏れ出して虹色のオーラとなる。このスペルカードの特徴は二つ、ただ力と肉体の限り揚炮を繰り出すだけの射程もなく単純な作りであることと、出がとてつもなく早いということ。

 もしも音速で動けるのだとしても、三〇センチの隙間もない超至近距離だ。決して避けられはしない。

 

「ハァッ、えっ!?」

 

 勝利を確信して一撃を繰り出した時、今度は私が驚愕の声を上げることになった。瞬時に形成された結界に私の攻撃が阻まれ、むしろ打ち出した私の方が傷を負ったのだ。

 よく見れば、巫女が片手の人差し指と中指を立てて印を結んでいる。

 

「間一髪、ね。あなたが私の攻撃を殴って打ち消したのを見てすぐに準備しておいてよかったわ。それにしてもすごい威力、結界にヒビが入ってる……」

 

 ――"霊符『夢想封印』"。

 巫女が両腕を大きく広げたかと思うと、霊力の高まりを感じて即座にその場から飛び退いた。

 直後、彼女の身と同程度の大きさの強力な光の弾が八つ生み出された。これをまともに受ければタダでは済まないと見ただけでわかった。それにただの霊力弾ではなく、どうやら封印の効力が込められているようで。

 それぞれの光弾が発射され、逃れるために地面を蹴った。上へ下へ前へとさまざまな方向へ。しかし光の弾は私を追尾してきているようで、なにをどうやっても振り切れない。

 

「それならっ!」

 

 ――"星気『星脈地転弾』"。

 八つの光の弾に向き直り、後退しながら気力を込めながら両腕で大きな塊を作っていく。回転し、練り上げ、全身全霊の気力を込めた一つの強大な気力弾へ。

 完成と同時に撃ち放ったそれが光の弾に直撃し、互いの力が反発して爆発が起こる。消滅させた数は、五。未だ三つは健在だ。

 ――"熾撃『大鵬墜撃拳』"。

 一つ目を半歩踏み出しての崩拳で破壊し、二つ目を背中からぶつかる体当たり、鉄山靠で相殺する。あと一発。

 

「揚炮ッ!」

 

 全力で繰り出した拳でなんとか最後の一つも霧散させ、ふぅ、と一息ついた。危なかった。攻撃に気力を込めて受けるダメージを最大限に抑えたはずなのに、直接触れた部分が痛みを訴えてきてしかたない。

 レミリアお嬢さまと初めて戦った時のことを思い出す。あの時も完璧な対処法で防いでみせたはずなのに私はダメージを――あ。

 

「あれっ、あの巫女は……」

 

 右、左。いない。後ろかと振り返ってみてもどこにも見当たらない。光の弾を打ち消すのに夢中になりすぎて巫女を注意するのを忘れていた。

 

「くそっ、まさかもう紅魔館の中に」

「それこそまさか、ね。誇っていいわよ、あと一歩ってところまで私を追い詰めたこと」

 

 その声はすぐ真上から。気づいた時には遅く、私の脳天にお祓い棒が叩き込まれていた。

 油断した。最初に受けたダメージと合わさって、全身から力が抜けていく。視界が黒く染まっていく。

 飛んでいられない。魔法が途切れる。意識が闇に沈んでいく。

 

「おっ、やっと追いついたぜ」

「なに、新手? ってなんだ魔理沙か。遅かったわね」

「いやぁ、意外と強くてな。あと湖でちょっと迷ってた」

 

 ……ごめんなさい、お嬢さま。侵入者、通しちゃいました……。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □

 

 

 

 

 

「んぅ……あれ、ここは?」

「あ、目が覚めましたか?」

「レーチェル? ここはレーチェルの……うーん。黒白の魔法使いにすっごい太いレーザーを撃たれて、それから……」

「気絶していたんですよ。そのまま放っておくわけにもいきませんし、館の方に連れてきちゃいました。迷惑でしたか?」

 

 俺のベッドから出てきたルーミアが、目元を擦りながらぶんぶんと首を横に振る。

 

「迷惑じゃないわー。助かったわレーチェル」

「どういたしまして。あとレーツェルです」

 

 トテトテと歩いてきた彼女がコタツに入る俺の隣に座ってきた。初めて会った日からちょくちょく訪れたりこちらから呼んだりしているので、今では結構仲良しになれたのではないかと思っている。

 ルーミアがテレビに視線を向けて、「あれって」と首を傾げた。

 

「さっきの紅白と黒白? どーしてその変な箱に映ってるの?」

「知り合いにストーカーが得意な妖怪がいまして、この箱であの二人を観察してるんです。そろそろ戻ってくる頃だと思いま」

「持ってきたわよ」

 

 ニュッ、とスキマを開いて紫がコタツの対面に現れた。同時にさきほどまでルーミアが使っていたベッドからドサッと音がして、見ればそこに悔しそうな表情で眠る美鈴の姿がある。

 唐突に出てきた紫の姿にルーミアが目を丸くしていた。

 

「あら、あなた起きたのね」

「誰ー?」

「しがない境界の妖怪よ」

 

 ルーミアはそう言って胡散臭そうに笑う紫をしばらく眺めたのち、「ふぅん」と興味なさげに視線をそらした。初めて会った時、自分より強い力を持つ者が近づいてきているのを知っていながら「めんどくさい」と逃げなかった彼女のことだ。関心がないことにはとことん関心がない。

 テレビ画面をじっと見つめるルーミアにつられて、俺の目も同じ方へと向く。玄関近くにいた妖精メイドたちをなぎ倒しながら、ちょうど紅魔館に入ってくるところだった。

 

「妖精たちは回収しなくてもいいのかしら」

「そうしたいのは山々なんですが、かなりの数がいますからね。やられた彼女たちを全員部屋に招いていたらすぐにぎゅうぎゅう詰めになっちゃいます」

 

 代わりに今度、影の魔法で掃除の仕事を手伝ってあげよう。

 そういえば、とルーミアが俺の顔を見上げて首を傾げてきた。

 

「あの黒白魔法使いに私が両手を広げてる理由を同じように話してみたらレーチェルと同じ反応が返ってきたんだけど、知り合いなの?」

「いえいえ、彼女とは一度も会ったことはありませんよ。きっと私と思考回路が似ていたんでしょうね」

「むー、そーなのかー。つまり誰が見ても十進法を採用したように見えるのかー……」

 

 ルーミアが気落ちしたように声のトーンが下がる。二人から同じことを返されてしまえば、本当にそう見えるのではないかと疑ってしまうのは当然か。

 あれは冗談で言ったんですよとなぐさめたかったけれど、たとえ冗談でも十進法を採用云々の回答に至ったことは変わりないのだ。励ましにはならないな、と違う言葉を頭の中で模索する。

 

「えぇと、大丈夫ですよ。十進法って素晴らしいじゃないですか。とってもわかりやすくて使いやすいですし」

「そっちのフォローはいらない……」

 

 全然ダメだった。マズい、もっと落ち込んでしまった。どうしよう。

 十進法の悪いところを述べればいいのか。いや、十進法を採用しましたって見えるのにそんなことしたらさらに気落ちさせるだけ。だったら一六進法とか二進法との違いを述べるとか? 十進法の素晴らしさを述べてダメだったのにそんなことしても意味がないな。っていうかいい加減十進法関連から思考を離れよう。目的はルーミアを励ますことだから数字について考えてもしかたない。だったらなんていえばいいんだろう。ルーミアを元気にさせられる言葉……うぐぐ。

 あたふたと元気づける言葉を探す俺と、さまざまな理由でしゅんとしているルーミア。そしてそんな俺たちを胡散臭そうな笑みで眺める紫。

 館が人間二人に襲撃されているのにも拘わらず、この部屋では相変わらず気の抜けた空気が広がっていた。



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九.七曜と普通の魔法使い

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Patchouli Knowledge □ □ □

 

 

 

 

 

 私にとって、レーツェル・スカーレットことレーテという吸血鬼は一つの言葉では表現し切れないほど多くの思いを抱いている相手であった。 

 八〇年近くをともに過ごした家族、気楽に話し合える友達、私よりも長き魔法の経験を積んだ尊敬する先輩、常に私の身を案じてくれる小さな保護者。

 そんな彼女の姉であるレミリア・スカーレットことレミィとも、レーテと同等に良き関係を築いてきていた。行き場のなかった私を拾ってくれた恩もあるし、掛け値なしに親友と言い合えるだけの信頼もある。

 二人とも私にとってかけがえのない存在だ。普段は恥ずかしいからそんなことを思っているなんておくびにも出さないけれど。

 

「見つけたわ」

 

 役に立たないからと、大図書館の奥にある本棚にしまっていた裁縫に関する本を取り出した。諸事情で近くにある魔導書が必要になったから、そのついでだ。私は全然興味はないけどレーテがここ半年ほど裁縫にはまっているのだ。

 まぁ、数か月前の時のように着せ替え人形にされるのはちょっとお断り願いたいが。

 

「本のお礼に魔法の研究を手伝ってくれるようにお願いでもしようかしら」

 

 彼女なら「いいですよ」と即答してくれることだろう。身内が困っていれば率先して助けようとしたりする悪魔らしくない家族思いな吸血鬼だ。少々心配性が過ぎるところがあるけれど。

 

「……む」

 

 不意に、ドォンという音とともに床がわずかに震えた。音からして地震という線は薄い。ならば誰かが故意的に引き起こしたことになるが、あいにくと紅魔館の住民に大図書館に危害を及ぼそうとする人物はいない。つまりは侵入者の可能性が濃厚になる。

 自然と早足になるのを自覚しながら、取りに来た二冊とは別にいつも持ち歩いている魔導書があることを確認した。

 本棚を抜けて入り口付近まで来ると、そこには三つの影がある。

 一人目は地面に倒れ伏して動かない見知った人物。頭と背中に吸血鬼と似た悪魔らしい蝙蝠の羽、赤い長髪、黒褐色のベストと同色のロングスカートを身につけている。何十年も前に召喚魔法の練習で喚び出したはよかったものの、送還がうまくいかなくてなし崩し的に契約した小悪魔だ。

 

「そこの紅白と黒白! 私の書斎で暴れない」

 

 あとの二人は見覚えがない。二人とも人間のようだが、人間の知り合いなんて咲夜しかいないのだ。

 一人は肩と腋を露出するおかしな巫女服を着た紅白。一人はいかにも魔法使い然とした、特徴的な三角帽子と白いエプロンをつけた黒白で人間の魔法使い。

 小悪魔はそこまで強くはないが、ただの人間にやられるほど弱くはない。いや、そもそも館に入ってきている時点で美鈴を倒したことになるのだから結構な実力を持っていることは間違いないのか。

 とりあえず魔導書を開き、炎を呼び出して黒白の魔法使いへと放つ。

 

「わっ! なにするんだ!」

「その本は私のものよ。持ってかないで」

 

 バッと離れた黒白が落とした魔導書を拾い、近くにある机の上に置く。ついでに取りに行っていた方の魔導書と裁縫に関する本も重ねておいた。

 

「火なんて撃って、本が燃えてたらどうするつもりだったの?」

「大丈夫よ。ここの本は大妖怪が本気で壊そうとでもしない限り燃えもしないし濡れもしないし破れもしないくらい頑丈だから」

「そもそもこんな暗い部屋で本なんか読めるのか?」

「私はあなたみたいに鳥目じゃないわ」

「だから私は鳥目じゃないって」

 

 巫女と会話を繰り広げている間に黒白がまた本を持ち出そうとしていたので、もう一度炎の魔法を放っておく。さすがに二度目は危なげもなく避けられた。

 

「って、そうじゃなくて、あなたがここのご主人?」

「お嬢さまになんの用?」

「霧の出しすぎで、困る」

 

 まぁ、あんな妖霧は人間には当然有毒だろう。なにせ吸血鬼の妖力が込められている。

 

「じゃあ、お嬢様には絶対会わせないわ」

 

 とは言えそんなこと知ったことではない。通す義理はない。

 互いににらみ合う。どうやらあちらはスペルカード戦をやるつもりらしい。断る理由もないので、巫女はお祓い棒に合わせ私は魔導書を構えた。

 

「邪魔させな」

「待て霊夢。ここは私に任せてくれないか?」

 

 と、黒白が紅白の肩を掴んで提案をした。紅白はセリフを中断させられたことが不満なのか、不機嫌そうに魔法使いの方を振り返る。

 

「そんな顔するなよ。どうせここにはそいつが言ってたお嬢さまとやらはいないんだろ? それにこの私が二度も囮役を買って出てやってるんだから」

「どうせあんたここの本が欲しいだけでしょ」

「ま、そうだけどな」

 

 紅白を押し退けて、黒白は手に持っている竹箒に腰をかけた。

 さて、どうするか。

 私の本を奪うと言っている以上、黒白は絶対に野放しにしておくわけにはいかない。かと言って紅白もレミィの邪魔をしに来ているからできるなら倒しておきたいが……むぅ、今日はちょっと貧血で調子がよくないし、二人を同時に相手するのは厳しいか。

 

「はぁ、いいわ。こんなかび臭いだけのところにいてもしかたないし、私はまたそのお嬢さまを探しに行くとする」

「おう、そうするがいいぜ」

 

 ひらひらと手を振る黒白と「それにしてもこの館ってこんなに広かったっけ」と呟いて背を向ける紅白。この言葉から察するに、どうやら二人はまだ咲夜とは戦っていないようだ。

 だったら私が無理に二人を足止めしなくても大丈夫か。

 紅白がいなくなったのを合図として、私と黒白は互いに宙に浮き上がった。

 大図書館は咲夜に頼んでめいっぱい広くしてあるので、弾幕戦くらいなら余裕で行える。

 

「そういうわけでお前を倒して堂々と借りさせてもらう。私が死ぬまでな」

「一冊も渡さないわ。この書斎の本は私のものよ」

 

 先にしかけたのは黒白だった。炎の魔法のお返しとでも言うように魔力弾、魔力によるレーザーをやたらめったら撃ってきた。

 魔導書を開くと私の目の前に防御の魔法陣が出現し、そのすべてを軽々と防いでいく。この程度の魔法なんて避けるに値しない。目を丸くする黒白をよそに魔法の発動のためにスペルを紡いだ。

 ――"火符『アグニシャイン』"。

 今日は火曜日だから炎の魔法を多目に、だ。魔法陣をもとに私の周囲に無数の炎の弾が出現し、渦巻きを描きながら周囲に拡散する。

 弾の間には一定間隔のムラがあるので比較的避けやすい。「避けやすいぜ」、「そうなるように作ってあるもの」。

 ――"火&土符『ラーヴァクロムレク』"。

 文句を言われたのでスペルカードを変更しておく。火の詠唱に土を混ぜ、右手で炎を左手で土を。代わりに渦巻きがなくなって炎の弾が飛び散るだけになってしまったが、そこは土の精霊の力が込められた泥の弾がカバーするからよしとしよう。

 炎が散り、泥を一定に追随させて放つ。単純に弾数が増えたこと、炎のそばによると熱いこと、泥に掠りでも(グレイズ)すれば汚れること。いろんな要因が混ざってか、黒白はかなりやりにくそうにしていた。

 

「ええい鬱陶しい! "魔符『スターダストレヴァリエ』"!」

 

 魔力の高まりを感じたかと思うと黒白を中心にいくつかの巨大な星屑が出現し、辺りの炎と泥をすべて打ち消していく。一つ一つになかなかの威力が込められているようだ。

 私の防御魔法陣に星屑の一つが衝突し、バキッと音を立てて砕けてしまった。なるほど、と頷く。もともと魔法使いという人種はその膨大な魔力とは真逆に身体能力は人間と同程度しかない。詠唱もなしに展開していたとは言え、一〇〇年を生きる私の防御魔法を打ち破った技を一度でも受けてはただでは済まないだろう。

 再度防御の魔法陣を展開し直す。今日は貧血気味で調子が良くないし、無理に戦うと後でレーテに叱られてしまう。だから早々に勝負を決めに行くことにした。

 ――"水&木符『ウォーターエルフ』"。

 水の弾と空気の弾を織り交ぜて発射した。水は木を助け、より大きな力を作り出す。だからこそ、特に意識せずとも小さな弾幕の隙間を埋めるように巨大な弾が形作られる。

 このスペルカードはただ単純に数が多く範囲が広く避けにくい。実にシンプルな合成魔法だ。

 

「ぬっ、ほっ、はっ!」

 

 今回ばかりは黒白もしっかりと弾幕を見極めて避けることに集中していた。シンプルであるが故に正面から挑めば突破口は存在する。この黒白で人間の魔法使いはそれをしっかりと理解していた。

 出力を上げれば黒白をもっと追い詰められるかもしれないが、あいにくとそこまで唱えられるほど体調はよくない。というか多少無理して二属性の魔法を同時に使ったせいか息が上がってきた。むぅ、まだ三つしかスペルカードを使ってないのに。

 

「ん? なんでスペカを途中でやめるんだ?」

「別に……あなたには関係ないわ」

「なんか疲れてるな。私の攻撃一発も当たってないだろ」

「…………貧血なのよ」

 

 ――"火符『アグニレイディアンス』"。

 最初に使った"火符『アグニシャイン』"のアレンジだ。炎弾の数を増やし、渦巻きをもっと多くの角度から生み出す。そこにさらに巨大な炎の球体を織り交ぜた。

 炎は近寄るだけでもその身を焦がすため、向かってくる方向やより大きな弾が混ざれば難易度は格段に上昇する。仕組みとしては"水&木符『ウォーターエルフ』"と同じく数が多く範囲が広いだけのシンプル魔法、しかし今回は弾が持つ性質が異なっていた。

 

「なるほどな。ってことはこのまま逃げてれば私が勝つわけだが……」

 

 炎の弾幕群に直接突っ込むのは憚れたのか、少し遠くに下がって薄くなった弾だけを避ける黒白が小さく呟く。

 そして、その口元が面白そうに弧を描いた。

 

「そんな卑怯な手は美しくない」

 

 黒白は三角帽子の中に手を突っ込み、小さな八卦炉を取り出した。私にくぼみの部分を向けると徐々にその八卦炉に魔力を凝縮させていく。

 この一撃はマズい。頭の中で魔法使いとしての勘が警報を鳴らし、即座に"火符『アグニレイディアンス』"を中断した。

 ――"土金符『エメラルドメガロポリス』"。

 別々に繰り出すのではなく、土と金を掛け合わせる真なる合成魔法。さすがに息が苦しくなるけど無理をしなければやられるだけだ。

 ハァハァと息を荒くしながらも魔法を発動する。床から四枚の分厚いエメラルドが出現し、私を守るように黒白との間に立ちはだかった。

 同時、相手のスペルカードも準備が完了する。

 ――"恋符『マスタースパーク』"。

 

「そんなもん打ち破ってやるぜ!」

「やれるものならやってみなさい!」

 

 壁の向こう側で、カッと光が強く輝くのが見えた。そして、一つ目のエメラルドが破壊される。

 数秒かけて二つ目も壊された。三つ目もまた、さらに時間をかけて破られる。残りは一。

 だけどそれまでだった。

 エメラルドの向こうで光っていた魔力は収まり、それに安心した私は飛んでいられずフラフラと床に落ちてしまう。

 魔法の維持に全力を注いでいたからもう限界だ。無理をし過ぎた。地から生えていたエメラルドもそのまま魔力の塊となって宙に溶けて消える。

 私の前に降り立った黒白が、八卦炉を帽子の中に仕舞い直しながらため息を吐いた。

 

「この勝負、お前の障壁を撃ち破り切れなかった私の負けだな」

「なに、よ……なぐさめ、の、つもり?」

「本心だ。そんな状態でこの私のマスタースパークを完璧に防ぎ切ったんだ。正直今、かなり悔しいぜ」

 

 口の先を尖らせてそう告げると、彼女は私に背を向けた。

 

「本は、まぁ、今日のところはいいか。この後にお嬢さまとやらとの勝負も残ってるからな。傷ついて読めなくなったら私も困るし、動く時にもちょいと邪魔になる」

「ふん……お嬢さ、まは……強い、わよ? それこそ、私なんかとは……比較になら、ない」

「ほほう、そりゃ楽しみだ」

 

 くつくつと笑いながら黒白が大図書館から去っていく。扉が閉まる音を合図に、私はそのままうつ伏せに倒れてしまった。

 疲れがドッと出てくる。体調の悪さも相まって、視界も段々と暗くなってきた。血の気も引いて思考機能が低下する。

 あぁ、またレーテに心配かけちゃうな……。

 そんなことを思ったのを最後に、私は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一〇.永遠の巫女と紅魔館のメイド

「ゆかりん! 早く!」

「もう、わかってるわよ」

 

 パチュリーを回収しにスキマを開いて大図書館へ移動するのをしり目に、ベッドで眠る美鈴を持ち上げた。

 しかたないので別の部屋で寝ていてもらおうと思っていたのだが、どうにも抱えた感触で起きてしまったらしい。ううん、と呻きながら美鈴の瞼がゆっくりと上がっていく。

 

「あれ……レーツェルお嬢さま……? なんで私……」

「起こしちゃいましたか。美鈴は紅白の巫女に」

「あ、大丈夫です。思い出しました。確か……負けちゃったんでしたよね、私」

 

 「下ろしてください」という言葉に逡巡する俺に、「頭を打っただけですから大して怪我は負ってません」。しぶしぶとその体を支えながら床に足をつけさせる。

 ちゃんと大丈夫なようで、フラつくこともなく平気そうにその場に立っていた。

 

「すみません。侵入者を通しちゃったみたいで……」

「大丈夫ですよ。あの巫女には……いえ、あの巫女と魔法使いにはお姉さまに勝負を挑むだけの資格があります。それに、美鈴ががんばってくれていたことはちゃんとあの箱で見てましたから」

「あちゃあ、やられてるところ見られちゃってましたか……」

 

 どうしてそうマイナス方面で捉えようとするのかな。いつもの調子を取り戻してくれるような言葉をもっと考えようとして、目の前の彼女が笑みを浮かべながらも拳を強く握り締めていることに気づく。

 悔しいのだ。足場を作る魔法という奥の手を早々に使って、それでも一〇分と持たずやられてしまったことが。

 

「美鈴」

 

 ここで言うべきはなぐさめではなく激励の言葉だ。

 両手で彼女の手をやんわりと包み込んで、瞼をパチパチとさせて見つめてくるその顔を見上げる。

 

「またリベンジすればいいんですよ。スペルカードルールには、敗者からの再戦の申し込みはできる限り受けるようにするという規定もあります」

「……また挑めばいい、ですか。ふふっ、そうですね。ありがとうございます。心配かけちゃいましたか」

「もっともっと強くなりましょう。美鈴が望むなら私もいくらだって手伝います」

 

 やっと元気が出てくれたようだ。そんな彼女の手を引いてコタツの方に持ってくると、俺から見て左側の側面に座らせた。

 ルーミアがボーっと見つめていることに気づいたのか、美鈴が笑顔で話しかける。

 

「初めまして、この館で門番をしてる紅美鈴です」

「門番ー? 私が来る時はいっつも空いてるけど」

「働くのは主に昼だからなぁ。妖怪だから不眠不休でも大丈夫なんですけど、お嬢さまがたのお気遣いがありまして」

「ふぅん、まぁなんでもいいわー。私はルーミア、しがない宵闇の妖怪よ」

 

 問題なく二人が話せているのを確認して、俺はベッドの方に戻る。ちょうど紫が戻ってきたところだった。ニュッとコタツの定位置に彼女が現れると同時に、ドサリとベッドにパチュリーが落ちてくる。やはりかなりの無理をしていたようで顔色が悪い。

 頭の近くにあった枕を取り上げて、逆側にある彼女の脚の下にベッドと挟ませるように置いた。足を高くして頭を低くする。貧血の対処法だ。着ている服を少しだけ緩めたりもした。

 

「むぅ……」

「もう起きちゃいましたか。無理しないでください。このまま寝ていていいですから」

 

 薄っすらと目を開けたパチュリーは、俺の顔と部屋を見渡した後、テレビに視線を向けて納得した風な表情をした。

 

「……無様なとこ、見せちゃったわね」

「いえいえ、かっこよかったですよ。とっても」

「お世辞は……ふふっ、レーテはそんなこと言う性格じゃなかったわね。ありがと……素直に受け取っておくわ」

 

 それ以降は俺の忠告通りに無理をしてしゃべることなく楽な姿勢を取った。ただし視線はテレビの方を向いている。

 紫、ルーミア、美鈴、パチュリー。こんなにたくさんの知り合いを同時に寝室に招いたのなんて初めてだ。なんだか前世で友達と集まってテレビゲームで遊んでいた頃を思い出す。

 テレビゲーム、か。幻想郷には忘れられたせいで流れ着いた外の世界の道具、そしてそれを売ることを専門にする店もある。今度そこに訪ねてみるのもいいかもしれない。

 

「さぁ、この異変もあと少しで終幕ですね。あの二人が咲夜とお姉さまに勝てればの話ですけど」

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Sakuya Izayoi □ □ □

 

 

 

 

 

 時が止まってしまえばいいのに。もっと時が早く進めばいいのに。時を遅く、この瞬間を長く味わいたい。

 人間の誰しもが一度は抱える『時間』という欲求のすべてを私の能力は体現する。望めば止まり、欲せば早まり、求めれば鈍くなる。万物が縛られる『時間』の檻を操る、まさしく世界を支配するような力だ。

 この力さえあるならその気になればなんでもできる――そんなことを思ったことは、私は一度としてありはしない。

 

「お嬢さまは滅多に人に会うようなことはないわ」

「軟禁されてるの?」

「お嬢さまは暗いところが好きなのよ」

 

 妖精メイドたちが騒がしいからその原因を探って屋敷を歩いてみれば、出会ったのは肩と腋を露出する変な巫女服を着た人間の侵入者。

 どうやら紅霧を止めるためにレミリアお嬢さまを倒しに来たようで、それならばメイド長である私が見過ごすわけにはいかない。いや、それ以前に侵入者であるという時点で追い返さなくてはならないか。

 まったく門番(メイリン)はなにをやっているのか。たかが人間(ネズミ)風情をこうも容易に館内に通してしまうなど。

 

「暗くないあなたでもいいわ。ここら辺一帯に霧を出してるのあなたたちでしょ? あれが迷惑なの。なにが目的なの?」

「日光が邪魔だからよ。お嬢さま、冥い好きだし」

「私は好きじゃないわ。止めてくれる?」

「それはお嬢さまに言ってよ」

「じゃ呼んできて」

 

 一瞬、ここでレミリアお嬢さまではなくレーツェルお嬢さまを呼ぶという考えが浮かんだけれどすぐに掻き消した。姉に危害を加えようとする目の前の巫女を追い返そうとする光景の反面、お客さまとして喜んでレミリアお嬢さまのもとへ案内する姿も想像できたからだ。

 

「ご主人さまを危険な目に遭わせるわけないでしょ?」

「ここで騒ぎを起こせば出て来るかしら?」

 

 お祓い棒とお札を構えながらニヤリとする目出度い巫女に、はぁ、とこれ見よがしにため息を吐いてみせた。

 妖精メイドたちをやたらめったら蹴散らしてきて出てこないのに、そんなことしても無駄でしょうに。

 そろそろ話も終わりにしよう。さっさとネズミ掃除を終わらせなければ美鈴ともどもレミリアお嬢さまに怒られてしまう。

 

「あなたはお嬢さまには会えない。それこそ、時間を止めてでも時間稼ぎができるから」

 

 ナイフを不意打ち気味に放ち、それに追随する形で巫女に接近した。

 いきなり首元を狙った刃物に驚いて素早くお祓い棒で弾いた巫女の懐に入る。私は両手にはすでにそれぞれナイフを持っていた。

 まずは脚を削ぐ。

 迷うことなく太ももを切りつけようと刃を振り回す。しかしどこを攻撃されるのか勘かなにかで察したらしい巫女が瞬間的に宙返りしたことで空振りに終わった。ならば二段目、右手では投擲の姿勢を取りながら左手のナイフを胸元に振り上げる。

 

「危ないわねっ!」

 

 お祓い棒で受け止めてきた。それを確認すると同時、右手のナイフを手先のスナップだけでヒュッと投げる。顔を狙ったのだけれど、これもまたギリギリで首を傾けて避けられた。

 近距離戦では分が悪いと判断したようで、巫女はナイフ越しにお祓い棒で私を突き飛ばすと空に飛んで大きく距離を取ろうとした。

 逃げようとしたのなら迷わず追撃しろ。そんなあからさまな隙を見逃す手立てはない。

 ここで拾われる前、子どもの頃に習った教えに忠実にスペルカードの発動を宣言した。

 ――"幻象『ルナクロック』"。

 

「時よ止まれ」

 

 その言葉を最後に世界から音が消え失せた。

 別にこんなセリフは吐かなくても時間は操作できるのだが、レーツェルお嬢さまが「時を止める時にこれを言うとかっこいいですよ」と教えてくれたので余裕がある時は口にしている。後でパチュリーさまに聞いたことによると、どうやらファウストという作品の名言「時よ止まれ、汝はいかにも美しい!」から引用してきているのだろうとのこと。

 宙で飛び上がった体勢で止まっている巫女に向けて数々のナイフを投擲する。その数はざっと数十、さすがに一〇〇には及ばない。時が止まった世界では私の手から離れた物質は動くことが適わなくなるので、数メートル進んだ辺りですべてのナイフが宙で静止していた。

 

「時は動き出す……」

 

 これもまたレーツェルお嬢さまに懇願されて言い始めたものだ。こちらはパチュリーさまもなにをモチーフにしたかはわからないとか。もっとも、時が止まった世界では私しか活動できないので言っても言わなくてもバレないから本来なら構わないのだけれど。

 世界に音が戻り、巫女からしてみれば急に現れたであろう無数のナイフが容赦なく襲いかかる。

 

「ッ、封魔陣!」

 

 ――"夢符『封魔陣』"。

 片手で取り出したスペルカードをそのまま振り下ろすと、巫女を中心に広がっていく青白い結界が出現した。容易くナイフを吹き飛ばして私にさえ届きかけるものの、防御のために使ったスペルカードなど恐れるに値しない。

 数センチ前まで迫っていた結界が解けていくのを確認し、あらかじめ構えていた十数のナイフを一気に投擲した。手持ちが減ってきたので時を止めてこれまでで使ったナイフを回収し、時が再起してすぐに数本を速度を高めて投げつける。

 巫女は大きく旋回し、回避し切れなかったぶんをお祓い棒と身の周りに漂う陰陽の模様が描かれた玉からの霊力弾で叩き落とした。

 

「まさかただのメイドがこれまで出会った中で一番強いとはね」

「ただの巫女も意外にしぶといわね。最初のスペルカードでくたばってくれてよかったのに」

「言ってろ!」

 

 ――"霊符『夢想封印』"。

 巫女が腕を広げると霊力の高まりを感じ、一〇にものぼる大きな霊力弾が生み出された。そのどれもから封印の術式の力を感じる。

 素直に受ける道理はないので回避しようとして、どうやら追尾してくるらしいことがわかった。なるほど、厄介な技だ。数が少なくともこれでは簡単には避けられない。

 だけどそれも私には関係のないことだ。

 

「時よ止まれ」

 

 ――"幻世『ザ・ワールド』"。

 私の時間(チカラ)は一人の例外を除いて等しくすべてを支配する。時が止まった世界で追尾機能など働くはずがない。

 ナイフを回収しつつ巫女の背後に回り、死角にナイフを配置していく。この技で仕留めるつもりはないので退路さえ塞げればそれでいい。

 

「時は動き出す」

「――えっ!?」

 

 私が彼女の後ろに移動したことで封印術式が組み込まれた霊力弾がすべて巫女に向かって飛んでくる。下がろうとしたところには"幻世『ザ・ワールド』"で設置したナイフがあり、それを避けたり押しのけたりしながら通ろうとすれば封印の霊力弾が先にたどりつくのは明白だ。上や下、右や左に移動して避けようとするならば私も同じ方向に動くだけ。

 巫女を仕留めるのは巫女自身の技であり、私のスペルカードではない。

 

 

 

 

 

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一一.紅い思い出、満月の吸血鬼

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Sakuya Izayoi □ □ □

 

 

 

 

 

「やばっ!」

 

 己に迫る自らの放った封印の弾幕、退路を断つ無数のナイフ、じっと動きを観察している私。そのすべてを一目見た上で巫女は片手で印を結びながら素早くナイフの波に突っ込んだ。

 

「無駄よ。あなたはチェスや将棋で言う『詰み(チェックメイト)』にはまったのよ」

 

 最小限で躱しながら進んだところで、直撃を避けるように動く時点で飛行速度は格段に下がる。その速さは自身が放った封印霊力弾を越せていない。

 それに、あれには相当な威力が内包されている。なんの印を結んでいるのかは知らないが、おそらくは結界であろう。しかし、さきほど見せた封魔陣とやらでは封印の霊力弾を完全に防ぐには防御力が足りていなかった。スペルカードにするほどの結界でそれなのだ。さらに言えばナイフを封魔陣で弾いていたらその間に霊力弾が結界を破って自分に当たってしまう。つまり巫女は私と霊力弾を結ぶ直線状から離れることでしか逃れることはできないのである。

 それでも不測の事態に備えていつでも時間を止められるように『時間を操る程度の能力』に意識を集中し、巫女を観測し続ける。

 

「い、っつ!」

 

 ナイフは刃物だ。(グレイズ)ればそれだけ切り傷を負う。

 すでに巫女の真後ろには八つの霊力弾が迫っており、巫女が近づいてくるたびに私もナイフを投擲しながら下がっているので距離なんて詰められていない。むしろ避けながら向かってくる巫女の方が遅いのは当然の摂理だ。さて、どうするつもりなのだろう。

 少しばかりの興味を抱いて見据えていると、霊力弾が当たる直前、瞬きの間に巫女の姿が消えていた。

 

「え――――なっ!?」

「追いついた!」

 

 声は背後から。気づけば私は紅白の巫女に後ろから羽交い絞めにされていた。

 あっと言う間、ではない。声を発する瞬間すらなかった。時を止められていれば私は察知できる。彼女は、私の知らぬ未知の力によって零時間移動を実現させたのだ。

 まさか結んでいた印もこのために?

 私の能力には致命的な二つの弱点が存在する。時を止めても体を通す隙間がなければ攻撃を避けられないこと、強い力で押さえつけられているとなにもできなくなること。

 今がまさにそんな状況だった。巫女に背後を取られ、動けないようにと体を絡めて固定させられた。

 

「こんなの、あなたも巻き込まれるわよ」

 

 出てきたのは焦りと困惑に半分の冷静さを足したような声だった。

 私に向かってくる封印の霊力弾に近くの者を巻き込んであまりある威力が込められていることは容易にわかる。このまま衝突したならば両者が怪我を負うことになるのは明白だ。だからこそ直前で巫女は私から離れようとするはずで、その一瞬を見極めて時を止めればいい。

 

「甘いわねぇ。あなたはチェスや将棋で言う『詰み(チェックメイト)』にはまったのよ」

 

 そんな思考を見透かしたかのように巫女が囁き、次の瞬間、突如編み込まれた結界の中に囚われていた。

 私は、巫女に羽交い絞めにされながらもその隙を探していた。編むような素振りがあればすぐにでも気づいて巫女を引き離せていたはず……。

 拘束を結界に任せて悠々と離れていく巫女は、混乱する私を横目に小さく鼻を鳴らした。

 

「結界の印、結んでたでしょ? 離れる時にまたあの変な瞬間移動で避けられたら困るしねぇ、どういう原理かよくわかんないし警戒するに越したことはないわ」

「なんですって?」

 

 印は結界のものだった――零時間移動(テレポート)のためのものではなかった。そこから導き出される答えは一つ、彼女は私と同じように自身の能力によって瞬間移動を実現させていたのだ。

 結界に縛られた状態で、迫り来る封印の霊力弾に対抗する手段を私は一切有していない。

 なすすべなく八つの弾のすべてに直撃してしまい、視界が揺れて景色が回復しては何度も暗転する。

 息ができなくなる、体内を不快感が駆け巡る、受けた衝撃が肉体に損傷を及ぼす。当然のごとく飛んでいられなくて床に撃墜し、その痛みと振動が容赦なく私の意識を刈り取ろうとしてきた。

 ――勝ちを確信した時、そいつはすでに敗北している……らしいです。

 将棋で私が王手をした時にレーツェルお嬢さまが諦めずに言い返してきた言葉が頭を過ぎる。あいにくとその後は三手で『詰み』にして私が勝ってしまったが。

 相手の持ち得る力を把握し切ろうともせず、人間だからと無意識に舐めて早々に勝負を決めようとした。得意げに敵のスペルカードを誘導し、絶対に避けられないように退路を塞いだ。たったそれだけで私は一瞬、勝利を確信していたのだ。

 

「博麗の巫女である私をはめようなんて一〇年は早いのよ」

 

 地に伏して動けない私と、少しの切り傷を負いながらも宙から私を見下ろす紅白の巫女。もはや勝敗は決していた。

 

「はぁ、服が切れちゃったわね。血も出てるし……霖之助さんに直してもらわないと」

 

 段々と薄らぐ視界の中、紅白の影が廊下の角に消えていく。

 たった一枚のスペルカードに直撃しただけでくたばってしまうとは情けない。これでは美鈴を叱ることなんてできやしないじゃないか。

 思考が闇に沈んでいく。抵抗はむなしく、思考と一緒に手放さないようにと強く握っていたナイフが零れ落ちた。

 ――なにも期待するな。お前は吸血鬼を狩るために存在する、人の形をしているだけの単なる化け物だ。どうせ誰にも理解なんてされない。

 

「ッ、ぐ!」

 

 なんとか最後の力を振り絞り、落ちたナイフを拾い上げて思い切り脇腹に突き刺した。

 鋭すぎる刺激が眠りかけた脳を無理矢理に叩き起こす。沈みかけた意識を引き上げて、黒く染まっていた景色を一瞬だけ真っ白に染め上げた。

 

「まだ……」

 

 床に両手をつけて立ち上がる。ヨロヨロと崩れかけた態勢を壁によりかかることで支えて、腹に刺したナイフを抜いた。深く刺しすぎたようで床に血が滴る。

 恐怖に駆られた焦りと不安が浮き彫りになった私の表情が赤い鏡に反射していた。

 

「まだ、戦える……だから追いかけないと……追いつかないと……」

 

 ――十六夜とはほんの少し月の欠けた日のことよ。咲夜はすなわち、その昨夜……つまりは満月を指している。あなたにその名前を授けるわ。だから、私のもとで働きなさい。

 ――年月なんてさほど大きな意味はないと言っているのですよ。私は咲夜のことを大切に思っています。それだけでいいじゃないですか。

 あの巫女はレミリアお嬢さまのもとへ向かっていった。どちらが勝つかは問題ではない。結果がどう転ぼうと、物怖じもせず堂々と乗り込んできた彼女にお嬢さまがたは必ず少なくない興味を抱く。

 そして私は? 同族である人間を相手に無様に敗北した私はどうなるのだ?

 ありえるかもしれない最悪の想像、紅魔館に拾われる前の生活が頭を過ぎる。

 

「違う。負けて、ない」

 

 そうだ。負けてない。ただ一回スペルカードを受けてしまっただけ。だから大丈夫だ。ほら、脚を動かそう。巫女はさっき行ってしまったばかりじゃないか。まだ残っている妖精メイドたちが進撃を妨害しているだろうから、走っていけばすぐに追いつける。

 だから見捨てないで。もう、私を一人にしないで。

 カタカタと震える脚の付け根を握り締める。いいから動け。動くんだよ。動いてくれ。お願いだ。動け。動け。動いて。お願いだから、動いてよ。

 負けてない。まだ、私は。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □

 

 

 

 

 

 テレビ画面の向こう、咲夜の背後に現れた紫が持っていた傘で首の裏をトンと突く。それだけで気絶した咲夜を抱えると、再びスキマを開いて俺の隣に移動してきた。

 パチュリーの観戦、その後の看病などにより霊夢と咲夜の勝負はあんまり見れていなかった。画面を切り替えた時にはすでに勝負は終わっており、ボロボロな咲夜がどういうわけか自分の腹にナイフを突き刺しているところだったのだ。

 紫に気絶させてでもすぐに回収してきてほしいと頼み、そして現在。

 

「そこに下ろしてください。ゆっくりですよ」

「はいはい、わかったわ」

 

 倉庫魔法で取り出した大きな白い布を絨毯の上面に敷き、その上に咲夜を横にしてもらう。

 全身に負っている傷はそこまでひどいものじゃない。重傷と言えるのは彼女が自分自身に刺したナイフの傷だけだ。根元まで深く入れてしまったようで、血の滴り具合や怪我の状態がかなり悪い。

 咲夜は人間だ。妖怪みたいに再生能力が高いわけでもなければ、ダメージも肉体由来のものに強く依存する。

 

「それは?」

「私の血です。別にそのままかけたりはしませんよ」

 

 紫に答え、倉庫魔法で取り出した赤い液体の入った小瓶のフタを開けた。人差し指を曲げると中身が飛び出て宙に静止する。吸血鬼だから自分の血の操作はお手の物だ。

 パン、とその血を両手で挟み込むと手の平に展開した魔法陣の術式と絡み合う。余計な成分を分解し、必要な部分だけを抽出。手を離して両手を咲夜の傷口に向けた。

 グジュグジュと肉が再生を始め、見る見るうちに傷が塞がっていく。

 

「……レーテ、あなたなにをしたの?」

「錬金術の一種です。吸血鬼には他に類を見ない再生能力があることは周知の事実ですよね。その血を分解し、再生を行う成分とそれを行うための魔力のみを咲夜へ与えました」

 

 高い再生能力を持つ吸血鬼である俺には回復系の魔法の適正はどうにもあまりないみたいで、こうして錬金術で代用することしか手が思いつかなかった。

 こういう時のために自分の血は大量に保存してある。他にも、いろんな事態に対処できるようにいろいろと準備だけはしてあった。

 再生が完了したことをしっかりと確認し、魔法の発動を取りやめた。ひとまずはこれでいい。あとは漏れ出た血で汚れている肌とメイド服をどうにかして、念のために暖かいところで寝させておかないと。

 

「手伝いますよ!」

「めんどくさいけど、私もー」

 

 そう言ってくれるのは美鈴とルーミアだ。助かります、とだけ告げて作業を開始する。

 一人、じっとテレビを見ていた紫に暇なら手伝ってくださいと告げると、「もうすぐあなたの大好きなお姉さまがあの二人と衝突するのだけれどねぇ」と近づいてくる。あいにくともう観戦している余裕はないのだ。パチュリーと咲夜、二人の対処をしていなければいけないのだから。

 とりあえず紫にはスキマで他の部屋からベッドを持ってきてもらおう。倉庫魔法の空間の中には布団はあれどベッドはない。パチュリーの具合の方も気になるし、二人一緒に見れた方が都合がいい。

 美鈴に咲夜の着替えを持ってきてほしいと頼んで、ルーミアにはパチュリーの様子を見ていてもらう。俺は美鈴が戻ってくるまでに傷口付近の血を拭き取っておかないと。

 

「……ゆかりん、録画とかできませんか?」

「無理よ」

 

 やっぱりダメみたいだ。しかたないかとため息を吐いて、倉庫空間から真っ白なタオルを取り出した。

 お姉さま。見ていることはできないけれど、ここから応援していますよ。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

「いるいる。悪寒が走るわ、この妖気。なんで強力な奴ほど隠れるんだ?」

「そうねぇ。そろそろ姿、見せてもいいんじゃない? お嬢さん?」

 

 大きな赤いリボンを髪に結ぶ、変な巫女服を着た紅白の巫女。いかにも魔法使いと言ったふざけた帽子と白いエプロンが特徴な黒白の魔法使い。

 屋上のテラスに来た人間の二人組が辺りを見渡して、片方は自らの恐怖を誤魔化すような笑みを、片方は思ったよりも強い気配に気を引き締めるような顔をする。

 誘われたのなら行くしかない。トン、と時計塔の上から静かに体を投げ出して、妖力を通した翼を羽ばたかせながら彼女たちの前にゆっくりと降り立った。

 

「能ある鷹は尻尾隠さず……よ」

 

 冗談交じりに黒白魔法使いの方に返事をしてみれば、私の姿を確認して「……脳なさそうだな」なんて言い返してくる。フンッ、と鼻で笑ってやった。

 人間だけだ。脳なんて単純で科学的な思考中枢が必要なのは。妖怪は精神を中心に成り立っているから、脳がなくなったところで死ぬわけでもなければ完全に思考能力がなくなるわけでもない。

 

「お前、アレだろ? ほら、日光とか臭い野菜とか銀のアレとか、夜の支配者なのになぜか弱点の多いという……」

「そうよ、病弱っ娘なのよ」

 

 いや、紅魔館での病弱と言えば私よりもパチュリーか。人間がかかるような病気にもかかるし。

 

「そんなことはどうでもいいわ。迷惑なの。あんたが」

「短絡ね。しかも理由がわからない」

 

 なんて返してみるが、もちろん嘘だ。どうせ幻想郷に張り巡らせている私の紅い妖霧が人間に害を及ぼしているからとかそんなんだろう。大方、この紅白と黒白は人間の代表と言ったところか。

 相手もこちらが適当に誤魔化していることには気づいている。めんどくさそうに表情を歪め、ため息を吐く。

 

「とにかく、ここから出て行ってくれる?」

「ここは、私の城よ? 出て行くのはあなただわ」

「この世から出てってほしいのよ」

 

 たった二人で紅魔館に乗り込んで来ては蹂躙し、最終的に館の主である私のもとにたどりつく。スペルカードルールという規定はあれど、そんなことができた人間はこれまで一人もいない。

 どうやら咲夜も倒してきたようだし、私が直接相手をするに十分足る相手だろう。

 

「しょうがないわね。今、お腹いっぱいだけど……」

「今まで何人の血を吸ってきた?」

「あなたは今まで食べてきたパンの枚数を覚えてるの?」

「一三枚。私は和食ですわ」

 

 黒白の答えに、そういえば幻想郷は東の島国にある場所だったなと思い出す。それなら食べるものが違っても不思議じゃない。

 

「あなたは強いの?」

「さあね。あんまり外に出して貰えないの。私が日光に弱いから」

「……なかなかできるわね」

 

 純粋な、相手を殺すための強さで言えば三姉妹の中では最弱であろう。レーツェルにはすべてを無に帰す絶望の力と多彩な魔法、天狗を越え得る最速の翼がある。フランにはありとあらゆるすべてのものを壊し得る究極の能力がある。私にあるのは戦闘ではあまり役に立たない、あらゆる偶然を支配し、繋げる『運命を操る程度の能力』。

 とは言え、紅白が聞いているのは弾幕ごっこの強さについて。誇り高き吸血鬼として決して弱いつもりはないけれど、紅魔館の住人としか戦ったことがないのではぐらかさざるを得ない。箱入り娘というやつだ。

 それじゃ、と紅白が黒白に顔を向ける。

 

「私がちゃっちゃと終わらせるから、あんたは観戦でもしてなさい」

「おいおい、怪我人が言うセリフじゃないぜ。ここは無傷な私が勝負するパターンだろ?」

「大した傷じゃないわよ。そもそもあんたが来たのって異変解決じゃなくて目ぼしいものを盗むためでしょうが」

「気が変わったんだよ。せっかくの異変、楽しまなきゃ損だ」

 

 思わず笑みが漏れてしまった。なんだこの二人は。私は吸血鬼、最強種の妖怪であり悪魔だ。そんな存在を前にどちらが戦うかなどおかしな話し合いを。

 

「まとめてかかってきなさい。ハエが何匹いたところでどうせ同じだから」

「いやでも、わっ!」

 

 言い返してきそうだったので、即行で生み出した魔力弾で紅白の足元を攻撃する。黒白もなにか文句を言うようなら同じようにしようと思っていたが、そちらは面白そうに口の端を吊り上げるだけだった。

 

「……はぁ。あんたと共闘か。不本意だわ」

「ああ、そうかい。今の、植物の名前だぜ。『亜阿相界』」

「どうでもいいわよっ!」

 

 そろそろ始めよう。私に平気で逆らうような人間がいったいどんなものか、見せてもらうとしよう。

 

「こんなに月も紅いから本気で殺すわよ」

 

 ――ねーねー、まんげつ、すき?

 ――そうね、すきよ。あかければなおいいわ。

 あぁ、私はまだこんな会話を覚えているのか。生まれて間もない頃の、忘れていて当然だろう記憶。覚えているということは、それだけ私にとってレーツェルという存在が重要である証明だ。

 この二人は彼女と親しくなるに足る人間だろうか。この二人は彼女を救うための歯車になり得るだろうか。

 

「こんなに月も紅いのに」

 

 私に釣られて満月を見上げた紅白の肩をちょんちょんと黒白が突く。二人の視線が絡み合い、ため息を吐いた紅白が「せーのっ」と力なく。

 

「永い夜になりそうね」

「涼しい夜になりそうだな」

 

 巫女はお祓い棒とお札を手に、魔法使いは竹箒に跨って空に飛び上がる。

 見せてもらおう。その力を、その知恵を、その勇気を、その心を、その資格を。

 妖力を巡らせ、己の身をフワリと浮き上がらせた。

 

「ふふっ、楽しくて暑い夜になりそうね」

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一二.願い続ける儚き憧憬

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

 右腕を向けると、弾幕を撃ってくると思ったらしい二人が体を強張らせた。

 王者が先に攻撃などするものか。手の平を上にして、クイクイと人差し指を曲げて挑発した。

 先手は譲ってやる。遠慮なく攻撃してくればいい。

 

「舐められてるぜ私たち」

「こっちは二人だってのにあの余裕だものねぇ。さすがに私もちょっとムカつくわ」

 

 口を挟まず、紅白と黒白が行動を起こすのを黙って待つ。好きなだけ話し合えばいい。私は逃げも隠れもしない。

 しばらくそうして待っていると、やがて二人が頷き合って紅白はお札を、黒白は帽子の中から小さな八卦炉を取り出した。

 

「"夢符『封魔陣』"!」

 

 無数に放たれたお札が私の周囲を取り囲み、線が結び結界となる。普通の人間では出せるほどの強度ではないそれに少々驚くものの、私にとってはそこそこ強力という程度にしか感想を抱かない。

 どういうわけか紅白と黒白の一直線上にだけ大きな穴が空いており、そこから容易に脱出できそうだが……なるほど。

 

「霊夢お前、そのスペルカードそんな使い方もできるのかよ」

「線を結び結界となす。これくらい常識よ。それよりせっかく閉じ込めたんだから外さないでよ」

「なるほどな。よーわからんが、私がこの技を外すわけないだろ?」

 

 魔法使いの持つ小さな八卦炉に魔力の輝きが灯り、私に向けてられている。逃げられないようにして大技を確実に入れるというわけか。人間にしては考えたものだ。

 ならば真正面から応えてみせるだけ。右手を開き、手の平の上に魔力を集中させる。

 

「"恋符『マスタース――"」

「避けなさい魔理沙!」

 

 ――"神槍『スピア・ザ・グングニル』"。

 バカげた威力が秘められた一つの魔力弾に紅白が叫ぶが、もう遅い。

 迫り来る膨大な魔力の奔流に超高速で弾幕を投擲した。槍に見えるほどに速く強力な一発。一瞬だけ拮抗するものの、すぐに魔力光線の中心を貫き始めた。

 私たち姉妹は何百年も前に弾幕合戦という本気で弾幕を撃ち合う遊びを開発していた。その時に生み出した技の一つに名前をつけただけだ。このスペルカードはレーツェルの音を超える速さに追いつき、フランの圧縮魔力弾を貫き得る。

 

「ふぅん」

 

 黒白のスペルカードを完全に撃ち破った紅い槍が空へと消えていき、後に残った光景にそんな声を漏らす。

 あのギリギリで紅白が黒白に突っ込んで無理矢理に槍の軌道から逸らさせていたらしい。あれだけ強力な魔力光線を撃っていれば自分からは動けないのは明白だ。救出する方法としてはもっとも正しい判断である。

 ただし、

 

「お、おい霊夢、その左腕……」

「うるさい。いいから目の前の相手に集中しなさい」

 

 あと一歩完全には間に合っていなかったようで、紅白の片腕が使い物にならないくらいにボロボロになっていた。

 

「でも、いい反応ね」

「掠っただけでこれってどういうことよ、もう」

 

 私たち吸血鬼は幻想郷の人間を殺害することを禁忌として契約させられている。悪魔の契約は絶対のものであるから逆らうことはできず、つまりそれは私の今の攻撃が契約に反していないことを指す。

 いや、まぁ、紅魔館に乗り込んできた時点で危害を加える意思があると考えることもできるわけだが、今回の異変を起こしたのは私なのでそれを原因に殺すことはできない。

 ……なにを言いたいのかと言うと、間違えてレーツェルやフランと戦う時と同じ感覚でぶっ放してしまった。殺そうとする気はなかったのである。これだけ距離が空いていればレーツェルやフランならば容易く反応して逸らしたりしてくるし、実は弾力性を持たせているから物理的な影響は低く、吸血鬼の耐久度ならば当たったところで気絶するくらいなのだ。人間なら吹き飛ぶが。

 

「くそっ、舐めてたのは私たちの方かよ! お前はもう休んでろ、私があいつを倒す!」

「バカ言ってんじゃないわよ、即行でピンチに陥ったくせに。あんたが気に病まなくても私は平気よ。だから落ち着け。二人で倒すのよ、あいつを」

 

 私が提案した時は渋っていたくせに、私の力を見た後はその態度か。それもいい。その恐怖は私の力となり、その恐怖こそが私を畏れた証拠となるのだ。

 

「……ったく、霊夢にそんなこと言われる日が来るとはな。悪い、私らしくなかった。でも本当に平気なのかよ」

「大丈夫って言ってるでしょうが。見た目より中身はひどくないわ。いいからあんたはあいつを倒す方法でも考えてなさい」

「ああ、了解だ。それにしても命の危機があるなんてな、普通に遊びの域を越えてると思うが……」

 

 スペルカードルールとは決闘を遊びにしたものだ。その反論はもっともだろう。

 うっかり威力調整をミスって撃ってしまったなどとは言えず、とりあえずレーツェルがいつか言っていたかっこいいセリフの一つを引用しておくとする。

 

「ゲームであっても遊びではないのよ、この私との決闘は」

「弾幕ごっこは遊戯だぜ」

 

 そんなことはどうでもいい。それよりそっちからの行動は許したのだから、今度は私からしかけよう。

 

「さて、これは避けられるかしら」

 

 パチンと指を鳴らすと無数の弾幕が出現し、渦を描いて周囲に飛び散った。

 人の身を飲み込んであまりある赤い弾をつなぐように中くらいの大きさである水色の弾が走り、それらとは別に小さな青い弾が五つセットで渦の向きに合わせて放たれる。

 本物の竜巻のごとき立ち入る隙のない圧倒的物量の弾幕だ。それに対する二人の人間の反応を見て、ほう、と関心の声を漏らした。

 紅白は無数に存在する弾幕から自分に当たるものだけを見定めて必要最小限に、黒白は大きく飛び回ることで弾幕の薄い部分を掻い潜り、それぞれ器用に避けている。

 

「こんな密度でスペルカードじゃないのかよ!」

「魔理沙、むやみにスペルカードを使おうとしないで。こちらから動けばその隙を容赦なく突かれるわ。やるべきことは逆、私たちがあいつの隙を見つけ出す。そこを一気に狙うわよ」

「ああ、わかった!」

「短期決戦を心がけなさい。長引けばそれだけ私たちが不利になる」

 

 なるほど、この弾幕をしゃべりながら回避する余裕があるか。館内を駆け巡り、このテラスに行き着いただけのことはある。

 それならば遠慮なくやらせてもらおう。吸血鬼の恐ろしさを知らぬ哀れな人間に、その真の強さを見せつける。

 ――"神罰『幼きデーモンロード』"。

 

「まずはそこの黒白、沈みなさい」

 

 全方位一〇〇メートル先まで、人の身の半分ほどの大きさの青い弾が一定の規律をもとに薄く浮かび上がった。それらをつなぐ細い線は、今の時点では当たり判定がない。

 しかし私が魔力弾を線の隙間にバラまくと同時、線が実体となり弾と同程度の大きさまで膨れ上がった。

 一部の弾幕同士をつなぐことで相手の動きに制限をかけ、私が直接放つ弾で相手を仕留める。そういうスペルカードだ。

 さきほどまでの避け具合を見る限り巫女ならばそれでも避けることはできるだろうが、大きく動くことで避けることを実現させていた黒白はいったいどうなるのか。

 

「今の私は最高にハイッってやつだ! これまでで一番強い相手と、しかも霊夢と一緒に戦ってるんだ! 燃えないはずがないってな!」

 

 しかし、結果は私の予想とはまるで違っていた。動きが制限されるならばしかたがないと、黒白は自らの弾幕で迫りゆく私の弾を打ち落とし始めたのだ。

 こちらの弾の方が当然威力は高いが、黒白は自分に当たりそうな弾を見定めて集中して自分の弾幕を放っている。なんとか凌ぎ切れているようだった。

 面白い。二人してこの私のスペルカードを乗り切るか。

 かつて咲夜が紅魔館を訪れた時のことが頭をよぎった。人間にして時を止めるという最上級の能力を持ち、レーツェルがいなければ私を十分に苦しめていただろう元吸血鬼ハンター。

 つまり、この二人も彼女と同じタイプの人間だということだ。人の身にて私に届き得る素質を秘めた儚くも力強き。

 

「ふふっ、これはどうかしら」

 

 ――"紅符『スカーレットマイスタ』"。

 大きめの魔力弾を四つ連続で紅白に向けて放ち、それに追随する形で数え切れないほどの小型弾幕が襲いかかる。ついでとばかりにその後に全方向へ大き目の弾幕を一発ずつ、小型弾幕も大量に撒いておいた。

 それを何度にも渡って連続に。

 乱雑に撃ち出したからこそ大きく動くこと以外で避けることは難しい。黒白ならばこういう弾幕から逃れることは得意だろうが、器用に避けることが能である、しかも怪我を負った紅白ならばどうなるか。

 その期待も再び裏切られることになった。

 

「ありがと、助かったわ」

「さっき私も助けてもらったからな! お互いさまだぜ!」

「……テンション高いわねぇ」

 

 弾幕に当たる直前だった紅白を抱え、大きく旋回して避けながら黒白が口元を緩める。

 ――妖怪は一人でも生きていけますが、人間は常に互いを助け合うことで生を得ています。どこまでも寂しがり屋で、だからこそ人とわかり合うことができるんです。

 レーツェル、あなたは本当に人間が好きよね。私も何度も助けられた。だけど私は、あなたを助けられているのかな。

 そんなはずないか。

 救うために何百年も能力を行使し続け、運命を操っている。自分の運命さえ。ならばここでこの二人に会ったのも、きっとあの子を救うために必要であるからだ。

 もっと見せてくれ。もっと証明してくれ。あなたたちは、あの子に関わるに足る人材なの?

 

「負けたら死ぬかもしれないって危機感があるからかもな! これまでにないくらい『本気』で戦っている感覚が、なんだか死ぬほど心地いい!」

「だからって本当に死なないでよ。今の私じゃ一人であんなの相手にできないから」

「ああ、わかってるぜ!」

 

 ――"神術『吸血鬼幻想』"。

 魔力の大玉をいくつかまとめて飛ばす。当然それは避けられるのだが、その軌道上には小さな弾が多く残っていた。それには私の血を込めてあり、私が望んだ瞬間にゆっくりと拡散していく。

 それに合わせて再び大玉を放った。通った跡にはやはり弾が残り、前の弾が漂っているのにも拘わらずそれもまた拡散させる。

 

「散開して!」

 

 まとまっていれば不利と判断したらしい二人が、それぞれの避け方を始めた。

 紅白はまるで空気に身を任せるかのようにフワフワと揺蕩い、けれども確実に自らに近づく弾幕は回避する。黒白は「こんな鈍い弾幕、楽勝だ!」と叫びながら障害物を避けるように飛んでいた。

 なるほど、それならば昨日思いついたばかりのバージョン二をお見せするとしよう。

 ――"『紅色の幻想郷』"。

 原理は"神術『吸血鬼幻想』"と同じ、やり方も渦を巻かせて全方向に撃ち出すだけでほとんど一緒。しかし数だけが段違いだ。

 辺りに飛び散る血液の弾幕がもはや空を覆い尽くすほどに増大し、細かいすき間に目ざとい紅白はともかく大きく動く黒白はすでに回避などほとんどできなくなっていた。

 

「ちっ、多すぎる……!」

「魔理沙、もういいわ。スペルカードを使いなさい」

「けど!」

「いいから! あんた、ここに来るまでに二回もやったでしょ? それと同じ!」

「っ、そういうことかよ! それなら遠慮なくいかせてもらうぜ!」

 

 ――"魔符『スターダストレヴァリエ』"。

 黒白を中心に発生した巨大な星屑が未だ増え続ける私の弾幕の一部を削り取る。無駄だ。なくなったら増やすまで。一気に仕留めるつもりで弾を彼女のもとへ集中させた。

 

「即席マスタースパークっと!」

 

 ――"恋符『マスタースパーク』"。

 向かわせた弾幕を打ち消すために最初に繰り出した魔力光線をまた使ってきた。私を直接狙ったわけではないので、ちょっと横に動くだけで躱すことができる。

 それにしても、その技は隙が大きいということは学んだはずだろう。血液の弾幕に意識を集中し、側面や背後から黒白へと近づけていく。

 その瞬間、背後で限界まで高まった何者かの霊力を感じた。

 

「"神技『八方鬼縛陣』"」

 

 そうか、黒白は囮か。四方を線に囲まれ、まるで体が金縛りにあったように動かない。これでは次に来た技を避けることなどできないだろう。

 いつの間に私の後ろに回ったのかという疑問もあるけれど、咲夜という前例がある。おそらく巫女が持つ能力かなにかだ。

 だが、それはそれとしてこれほど特殊で強力な結界ならば後ろにいるはずの紅白も……。

 

「魔理沙、やりなさい!」

「いいのか? 確かそれって使ってる時はお前も動けなかっただろ?」

「構わないわ。私は『浮く』から。仲間からの攻撃なら別に反則じゃないでしょう?」

「……はぁ、まぁ、そうかもな。でもそれ遊びにならないレベルでズルいからなぁ……今度それを使った技を私がスペルカードとして命名してやるよ」

 

 浮く? 反則? この二人はなにを言ってるのだ?

 ただ一つわかることは、会話の流れからして黒白の攻撃を受けても紅白は無事であろうということだけだ。

 私が弾幕を放たなくなれば打ち消す意味もない。即座に魔力光線を中断し、自分に近づいてくる弾幕をあらかた打ち落とした上で、黒白が再度私の方を向く。

 これは……ちょっと、マズいな。いくら紅白も同様に縛られるとしても、吸血鬼である私が動けなくなるほどの力など予想もしていなかった。

 

「これでピンピンしてたら困るからな。残った魔力を全部込めさせてもらう」

 

 小さな八卦炉に、これまでの魔力光線の何倍にも上るエネルギーが蓄積されていく。まだそこまでの余力が残っていたのか。

 私にできることは飛び散っている血液が込められた弾幕を操作することだけであるが、あいにくと遅すぎて黒白の魔法発動を止められそうにない。

 諦めて受けるしかないのだ。彼女の一番の大技を。

 

「行くぜ! 正真正銘、これが私の全力全開! ファイナルッ! スパァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアクッ!」

 

 ――"魔砲『ファイナルスパーク』"。

 建物を一つ丸ごと飲み込む大きさを持ちながら、その実、黒白の魔法使いができ得る限界まで圧縮された魔力。

 襲い来る莫大な奔流を前にして私は笑っていた。

 しかたない。この勝負は、私の負けだ。さしもの吸血鬼である私もこれだけ濃縮された光と熱を食らっては数秒やそこらで勝負ができるまで回復することはできない。数分、もしくは数十分は再生に時間を費やさなければならないだろう。

 まさかこの私が二人がかりとは言え人間に負けるとは。そんな気持ちとは裏腹に、どこか納得しているような思いも心にあった。

 妹に助けられるだけの存在である私が、強力な敵を前にして血縁関係でもない他人と協力し合える二人に敵うはずもない。

 そうして自嘲気味に笑みを深めながら、私は大人しく極太の魔力光線をこの身に受け入れた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □




「Normal」を原作通りと仮定すると、一~五面(二面除く)のボスまでは「Normal」と「Hard」の間くらいの難易度です。
しかしレミリアだけは「Lunatic」。一人だけぶっ飛んでるので、「Normal」仕様の霊夢と魔理沙では二人がかりにならないと厳しかったようです。


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一三.寂しがりの支配者

※一部、キャラ崩壊が含まれるかもしれません。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Sakuya Izayoi □ □ □

 

 

 

 

 

 意識が目覚めた時、かすかに漂う匂いに小さな既視感を覚えた。

 甘くもなく苦くもなく、鼻を刺激するような強烈な薫りでもない。ただ嗅いでいるだけで心が安らいでいく心地のいい匂い。

 私は……どこにいる?

 肌を優しく包む温かな感触、このまま意識を手放したいという睡眠への欲求。

 どうやらベッドで寝ているらしい。眠ってしまうわけにはいかないと、脳の指示をもとに瞼が開いていく。

 

「……ここは」

「あら、気がついたのね」

 

 聞こえた声に首を傾ければ、数メートル離れた位置に私のものと別にもう一つベッドが置いてあった。

 そこに寝転がって欠伸をしているのは紅魔館の知識人、パチュリー・ノーレッジ。一〇〇年を生きる不老の魔女だ。

 

「ここはレーテの部屋よ。あなたが自分にナイフを刺すなんて暴挙をしでかしたから、あの子が気絶させて運んできたのよ」

「パチュリーさまはどうしてここに」

「……負けたのよ。私も」

 

 その返答で、直前にあったことのすべてを思い出した。

 そうだ、負けたのだ。侵入者である紅白の巫女との決闘、自分の力を過信し相手の力を見定めず、スペルカードを逆手に取った戦略のさらに裏を突かれて敗北を喫した。

 蘇ってくる。ナイフを己に突き刺した感触、その時の心持ち。

 

「お嬢さまがたは、どうなりましたか」

 

 少しも痛まない、怪我を負っていたはずの脇腹に手を添える。

 

「レミィはあの二人に負けたみたいよ。ちょっと驚いたけど、巫女は片腕がボロボロで黒白魔法使いは魔力がすっからかん。あとは意外と平気そうにしてるレミィを見たらどういう勝負になったのかは容易に想像できたわね。妹さまとレーテはそもそも戦ってないわ」

「魔法使い、ですか?」

「そっちは私が足止めしていたからあなたは会ってないわね。侵入者は二人いたのよ。乗り込んできた目的はレミィが生み出してた紅い妖霧を止めること」

 

 結局、たった二人を相手に館中を蹂躙されてしまったというわけか。なんともまぁ情けない話だ。敗れた私が偉そうに言えることではないが。

 

「あなた、あとでレーテにめいっぱい怒られるでしょうねぇ。私も集まってた妖怪どもがいなくなった後にいろいろ言われたし、覚悟しておきなさい」

「どうでしょう。案外、私よりも夢中になるものが見つかって、大喜びしているかもしれませんよ」

「……あなたがなにを思ってるのかは知らないけど、あの子が身内の無事以上に大切に思ってるものなんてありはしないわよ」

 

 本当にそうだろうか。実は私の能力だけが欲しいんじゃないか。私の人格なんてただのオマケで、人智を超えた時を操る力が大事なだけじゃないか、って。

 いろいろと混乱しているらしい。額に手を当ててかぶりを振って、左胸の前に手を置いた。

 痛い。怖い。ああ、どうしてこんなにも不安が渦巻いている。見捨てられるかもしれないから? また一人になるかもしれないから?

 たとえそうなっても昔に戻るだけだろう。もともと私は孤独の運命のもとに生まれ落ちていた。なにも恐怖することなどない。そのはずなのに。

 

「噂をすれば、ってやつね。お二人プラスお一人さんが来たわよ」

 

 ガチャリと扉が開き、二人の吸血鬼と一人の妖怪が姿を現した。

 蝙蝠のような悪魔らしい翼を備えた館の主、レミリア・スカーレット。銀に幾房かの金が混ざった美しい色合の髪を持つ常に無表情の少女、レーツェル・スカーレット。最後はこの館の門番である中国風の衣装を纏った女性、紅美鈴だ。

 自然と体が強張るのがわかった。

 

「あら、咲夜も起きたのね」

「咲夜さん大丈夫ですか? 手ひどくやられたって聞きましたけど……」

「治ってるからって動かないで、安静にしててくださいね。どうです、今日は私が紅茶を入れてみました。咲夜のそれには遠く及ばないとは思いますが、飲んでみてくれませんか?」

 

 レーツェルお嬢さまが持つお盆の上にはティーポットとミルクジャグ、そして五つのティーカップが乗っていた。スンスンと鼻を鳴らすと、かすかに渋さ多めな紅茶の香りが漂ってくる。

 上半身を起こし、心配そうな顔で近づいてくる二人に向いた。

 

「……アッサム、ですか?」

「わっ、匂いだけでわかるんですか。その通りです。ミルクティーにするといいと聞いたので、一緒にミルクも持ってきました」

 

 血を混ぜることが多かれど、これまで何年にもわたり数え切れないほど紅茶を入れてきた身だ。アッサムほどの有名な紅茶ならばすぐに判別できる。

 部屋の隅にある机でティーポットからカップに紅茶を注ぎ、ミルクを混ぜたレーツェルお嬢さまが全員にそれを配っていく。

 美鈴、パチュリーさま、レミリアお嬢さま、そして私。

 

「…………どうしました? やっぱり初心者が入れた紅茶は飲めませんか?」

「いえ……そういうわけでは」

「もしかしてまだどこか痛みます? 治し方がちょっと特殊だったので副作用があるのかも……むぐぅ、いったいどんな」

「そうでは、なくて」

 

 言葉を遮る私に、無邪気に首を傾げるレーツェルお嬢さま。その視線から逃れたくて、手元にある紅茶の水面を覗き込んだ。

 なんて顔をしているんだ、私は。こんな憂いた表情をしていてはいけない。

 反射する自分が見ていたくなくて紅茶を一気に口に入れて、予想以上の熱さに喉に詰まってしまった。ケホケホッと口元に手を当てる私の背中を慌てて寄ってきたレーツェルお嬢さまが擦ってくれる。

 

「ご、ごめんなさい。ちょっと熱すぎましたね。治りたてですし、もう少し冷ましてから渡すべきでした」

 

 違う。違うんです。そうじゃないんですよ。

 私の手からティーカップをそっと抜き取ろうとする彼女の手を掴んで止める。

 

「……レーツェルお嬢さまは」

 

 手の平から伝わってくる温度が、今はどうしようもないくらいに愛おしかった。

 だからこそ不安と恐怖が膨れ上がる。離したくないと心から思う。

 

「……レミリアお嬢さまは」

 

 決闘の末に、強い輝きと素質を秘めた人間に負けたのだろう。比べ、私はレミリアお嬢さまに勝つことなんてできず、ただ情けをかけてもらっただけだった。

 その差は歴然である。人間がたった二人で吸血鬼に勝つなど前代未聞の話だ。私が二人いたところで為せるはずもないこと。しょせん私はそこらに転がるただの『人間』でしかなかった。二人が気にかけるほどに高等な存在ではないのだ。

 そのはずなのに、どうして私にそんな目を。どうしてそんな本気で心配しているような目を。

 

「私を……見限りましたか?」

 

 聞きたくない。知るのが怖い。それでも、一度口をついて出た言葉は止まらなかった。

 

「ちょっと強い能力を持ってても、私自身はそこらの凡人と変わらないんです。むしろそれ以下ですよ。同族に見捨てられ、自棄になって死に場所を求めてました。誰かに見初められる価値なんて最初からない……能力がすごいだけで、私自身にはなんの値打ちもない」

「えっと、咲夜? ちょっとなに言ってるか……」

「レミリアお嬢さまを打ち破った紅白の巫女と黒白の魔法使いの方がお二人のそばにいる者として素晴らしいに違いありません。私では役者不足ですよ。私はただの『人間』で、彼女たちは生の輝きを放つ(まこと)の人間です。だから私なんて気にしないでください。一人にしてください。見捨ててください。それがきっと最善です。どうせ私は永遠に」

 

 そこまで言ったところで私はレーツェルお嬢さまに抱きしめられていた。

 思わず言葉が止まり、体が固まり、身を任せてしまう。

 子どもをあやすように、愛しい誰かをなぐさめるように、背の低いその体で一生懸命に手を伸ばして優しく頭を撫でてくる。

 

「やっと本当の咲夜を見れた気がします。初めましてです」

「なにを……?」

「生まれた時からずっと一人で平気なはずがありませんでした。今まで気づけなくてすみません。咲夜は、寂しかったんですよね」

 

 彼女からの言葉は、どういうわけかまるで母親からのそれのように温かく染み渡ってくる。

 嫌だ、やめてくれ。余計な希望を持たせないでくれ。私は永遠に一人だ。あなたたちにとって私など須臾の存在だろう。いつも口にしている食糧となんら変わらない『人間』だろう。

 

「今日はすっごくがんばってくれたみたいですから、お礼にさっきの質問の『答え』をあなたに上げましょう」

 

 手が肩に置かれ、顔が向き合う形になった。無表情であるはずなのに、その顔の瞳からは歓喜が――ようやく知り得たことを嬉しがっている感情がわかりやすいくらいに伝わってくる。

 『答え』、すなわち、私を見限ったかどうかということ。

 心臓が早鐘を打つ。胸が苦しいくらいに痛む。次の言葉が私のすべてを決める。次のセリフが私の行く末を告げるのだ。私が得る回答は、果たしてどんなものなのか。

 レーツェルお嬢さまの口が開き、あまりにも温かな言葉が漏れる。

 

「――『咲夜はもう、人間のもとには帰しませんよ』」

「あ――――」

「見限るなんてあるはずないじゃないですか。咲夜が毎日身を削って私たちのためにがんばってくれてることは館の全員が知ってます。もしも時を操る能力がなくたって見限るなんて絶対にありえません」

 

 ――それにそんなことを言っていても、私が本気で出て行きたいと言ったら見逃してくれるんでしょう?

 

「本気で出て行く気がないなら絶対にどこにも行かせませんから。十六夜咲夜、あなたは私たちの満月です。満月は、夜の帝王たる吸血鬼のそばにいないといけないんです」

「……ふふ、ふふふ」

 

 わかっていた。レーツェルお嬢さまはどうしようもないくらいに自分が関わった誰かを心配する。今まで私に言ってくれたセリフも、今ここで私に語りかけてくれた言葉も、すべて間違いなく本心からのものだ。

 私はただ受け入れるのが怖かっただけだと、ここに至ってようやく理解した。ずっと一人だったから、ずっと寂しい思いをし続けてきたから、突然手に入れた唯一の幸せがどうしても愛おしすぎただけ。

 失ってしまった時に感じるであろう苦痛がどうしようもなく怖かった。心に空いた穴があまりにも唐突に埋まり始めて、それをまた喪失した時の想像がたまらなく受け入れられなかった。許容を拒否し、自然と壁を作っていた。

 なんてバカらしい。本当はわかっていたくせに。

 無意識のうちに笑みと、ついでとばかりに両目から透明な液体も零れてしまう。

 

「ほら、お姉さまたちもなにか言ってあげてください」

「そうねぇ。咲夜、私がその名を上げた意味をよく考えなさい……というかレーツェルが言った通りだけど。あなたは十分以上に働いてくれているわ。それに私は独占欲が強くてねぇ、一度手に入れたものは手放したくないタチなの」

「レミィらしいわね。咲夜、そういうことよ。あなたの当ても珍しく外れたものね」

「咲夜さんもそういうことで悩んだりするんですねー。なんだか涙目の咲夜さんって新鮮です」

 

 あぁ、もう。本当、この館の全部がどうしようもないくらいに愛おしいな。

 まだ残っている紅茶を口にして、ふふっ、と小さく笑う。

 甘すぎますよ、レーツェルお嬢さま。味もそうですが、その性格も。お好みの量とは言いましたが、私にはミルクが多すぎるみたいです。紅茶自体は初心者にしてはかなり筋がいいですから、今度また私が入れ方でも教えてあげましょう。

 ――…………了解、しました。もうこの際、飯が食べられるならどこでもいいわ。どうせ私に選択権はないし。

 今日より私は真の意味でこの館と主人に忠誠を誓い、仕え、我が生涯をここで終えると心に決めよう。これほど私にとって幸福なことは他にない。

 私は紅魔館のメイド、十六夜咲夜だ。

 また明日も。そしてこれからも、どうかずっとよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一四.三週間後の大図書館

 幻想郷の夏、しばらくの間休息を取っていた太陽も久々に顔を出し、すべての霧を根絶やしにした。レミリアが供給をやめたおかげでスムーズに進み、数日もすれば紅い妖霧など見る影もなくなっていた。

 あの日、レミリアは二人の人間に敗北を喫した。無事に原作通りに行ったと言えばそれまでであるが、パチュリーと咲夜の看病の合間にテレビでちょっとだけ様子を見させてもらった限りだと、博麗の巫女は傷だらけで黒白魔法使いは魔力が(から)。むしろ負けたレミリアの方が全然平気そうであった。相当苦戦したであろうことが容易に窺える。

 紅い妖霧を出さないことを約束させられたレミリアが二人を見送った辺りで看病が一段落した。紫はそのままスキマで帰ったが、ルーミアの見送りも兼ねてレミリアを迎えに行く。そうして部屋に戻れば気絶していた咲夜が目覚めていた。

 紅茶を一気に飲んで蒸せていたり苦しそうな表情をしていたりで慌てたものの、彼女もいろいろと悩ましいお年頃だったらしい。伊達に四九八年も生きてないぜ的に自分なりにがんばってなぐさめてみて、元気を取り戻してくれた時はほっとした。年上の貫録を見せつけることに成功したと思う。

 そんなこんなで今はあれからすでに三週間が経過していた。あの異変で変わったことは主に四つだ。咲夜がそこはかとなく明るくなったこと、美鈴が鍛錬に足場を作る魔法の制御を取り入れたこと、俺の意向で活動時間と睡眠時間が反対になったこと、そして。

 

「よう、今日もパチュリーの体調チェックか? ご苦労なこったねぇ」

「あ、こんにちわです。そちらは今日も本を盗みに来たんですか? ご苦労さまです」

 

 大図書館に訪れた俺を迎えたのは二人の魔法使いと小悪魔だった。魔法使いのうち片方は当然パチュリーで、もう片方はあの日に館に乗り込んできた人間の魔法使いだった。

 いかにも魔法使いのような白いリボンをつけたコーンのようなつばの広い黒い三角帽に、片側だけおさげにして前に垂らした金髪が個性的だ。服装は黒い服と白いエプロンを織り交ぜた変わったデザイン。近くにはいつも竹箒があるが、本人に聞いたところによると別に箒なんてなくても飛べるみたいだ。魔法使いらしいから使っているとのこと。

 霧雨魔理沙。男勝りなしゃべり方が特徴の、東方Projectの主人公の一人だ。そして俺が活動時間と睡眠時間を逆にすることになった元凶でもある。

 

「盗むんじゃない、死ぬまで借りるだけだぜ。どうせ私の一生なんてお前らにとっちゃ特別長いもんでもなし、私が亡くなった後に取り返せば」

「私との約束を忘れましたか?」

「……冗談だ。ちゃんとこいつが指定する期限は守るさ」

 

 釘を刺した私に、こいつ、と魔理沙が指差したのは我関せずと本を読んでいるパチュリーだ。

 これで魔理沙が館および大図書館に訪れるのは通算三回目になるのだが、その間にいろいろとあったのである。

 まず最初に魔理沙が本を盗みに来た時、その日の夜はそれを取り返すためにパチュリーが出かけた。一人では心配だったので俺もついていき、そこでたどりついたのが魔法の森という場所にある魔理沙の家だ。

 『死ぬまで借りるだけだぜ』、『期限がどうであれお前に本を貸すつもりなど微塵もない』。そんな感じで喧嘩を繰り広げ始めたので、両者に譲歩して私が提案したものが魔理沙が言っている約束というやつだ。

 借りてもいいがパチュリーが指定する期限に従う。パチュリーは自分が読んでいるわけではない、もしくは近いうちに読む予定がないのならできるだけ貸し与えるようにして、最少の期限を三日とする。もしもパチュリーが決めた期限を守らないことがあれば、吸血鬼レーツェル・スカーレットによって霧雨魔理沙には世にも恐ろしい呪いが降りかかる。そんな内容だ。

 二人ともしぶしぶと言った感じであったが、魔理沙はレミリアの例で吸血鬼の恐ろしさを知っているし、パチュリーはもともと大図書館は紅魔館のものであることもあって納得してくれた。代わりにパチュリーからは今度魔法の研究を手伝うという条件を出されたものの、それくらいお安い御用である。

 魔理沙が約束を守るかどうかという点に不安があったので、昼にも活動するようになった。そうなると必然的に夜に起きている時間も減っていき、レミリアやフランも俺に合わせて活動時間が変わり、咲夜も釣られて変化した。

 今では美鈴が門番をやっている時間も普通に起きていて、美鈴が武術の達人だと知ってたまにやってくる挑戦者との観戦を、レミリアは楽しみにしている節がある。熟練者同士の勝負を見ていて面白いのはどの時代も同じということだ。

 

「それより私はレミリアのやつに妹がいることに驚いたな。なぁ、レーツェルもあいつと同じくらい強いのか? 弾幕ごっこ」

「ふふふ、お姉さまは三姉妹の中でも最弱……」

 

 人間ごときに負けるとは吸血鬼の面汚しよ。そう続けようかと思ったが、たとえ冗談でも俺がレミリアの悪口を吐けるはずもない。むしろ称えたい。その素晴らしさを語って聞かせたいくらいだ。

 

「さ、最弱だと……? あいつより強いのがあと二人もいるってのかっ!」

「あ、すみませんジョークです。三人とも同じくらいの強さですから安心してください」

「なーんだそうなのか……って、あいつと同じ程度って言われても安心できるはずないな。というか三姉妹ってことはあと一人がいるってことか?」

「フランドールという末っ子がいますよ。普段は表には出てきませんが……きっと近いうちに会えるでしょう」

「嫌な予言だ」

 

 魔理沙が苦い顔で呟く。レミリアとの勝負を思い返しているんだろう。

 

「魔理沙はお姉さまとの決闘をものすごく楽しんでいたと聞きましたよ?」

「あんなん投げやりになってただけだぜ。家に帰ってから『命拾いした』ってブルブル震えてたからな」

 

 アドレナリンが大量分泌でもされていたのか。なんて考えてみるが、そもそもアドレナリンがどういうものかよく知らなかった。

 

「ま、霊夢と協力するってのは新鮮だったよ。いつも競い合ってばっかだからな。たまにはああいうのもいいかもしれん」

「霊夢って、確か博麗の巫女の方でしたよね」

「目出度いやつだよ」

 

 俺はまだそちらとは面識がない。ただ、おそらく一週間後辺りに知り合うことになるだろう。

 原作からいろいろと隔離している中で紅霧異変は正史通りに攻略された。ならばその続きも正史通りに行うべきで、フランはその件をきっかけに地下室から出て屋敷内も出歩くようになる。俺は彼女を霊夢と魔理沙に引き合わせるつもりだ。少しでもフランにいい影響を与えられればそれでいい。

 もちろん人間側の二人が死なないように最大限の配慮をしつつシナリオをたどらせる。フランは加減のコントロールがもうほぼ完璧ではあるが、念のため。

 

「それより私はお前の妹のフランドールとやらのことを知りたいな。どんなやつなんだ? 長女みたいにルール無用で殺しかかってきたりしないよな?」

「とっても可愛い子ですよ。えっと、このくらいの背で」

「姉が二人ともそのくらいなんだから、まぁそのくらいだろうな」

「魔法の勉強にいっつも熱心で、私にいっつも甘えてくれる甘えん坊さんです。部屋に行くといっつも出迎えてくれてですね、とっても笑顔が似合うんです。最近は力も制御できてるので抱き着かれても痛くなくて心地いいですし、私が上げたクマのぬいぐるみをまだ愛用してるんですよ。今は裁縫を習ってるのでいろいろとできるようになったら今度はウサギのぬいぐるみをプレゼントしたいと思ってます。甘えん坊と言いましたが決してヘタレではなくて、自分がやらなきゃいけないことに自分から他人に助けてもらおうとしたりしません。お礼と謝罪がちゃんとできる礼儀正しい性格でもあります。あとは匂いがとても――」

「わかった。もういい」

「え? でも」

「それだけで十分わかったからもういいぜ。わかったのはお前のことだけどな」

 

 なにかとてつもない誤解をされているような気がする。弁解しておかないと。

 

「勘違いしないでくださいね。私はお姉さまのことも大好きですよ」

「勘違いが深まったぜ」

 

 はぁ、とパチュリーが小さくため息を吐くのが聞こえた。続いてパタンと本を閉じる音に俺と魔理沙の注目が集まる。

 

「おはよう、レーテ。ご覧の通り私は元気よ」

「おはようございます。今日もいつも通りでなによりです」

「今は昼だな」

 

 本が一段落したらしい。大図書館に来ても反応してくれないことがあり、そういう時は大抵集中して本を読んでいるので、俺も近くに座って一定まで読み終わるのを待っていることが多い。魔法使いにとって研究の時間はなによりも大切なものなので唐突な挨拶で邪魔したりなどはエヌジーだ。

 大図書館は季節と時間から隔離された空間だ。夏ならば涼しいし冬ならば暖かい、朝でも夜でも明るさは変わらない。しかしそれ故に居すぎると規則の乱れた生活になりやすい。一時期パチュリーがそうなって体調を崩し、いろいろと叱ったのはいい思い出だ。

 

「レーテら三姉妹のシスコンなんて今に始まったことじゃないわよ。レーテはこの通りの姉と妹好き、妹さまとはあんまり会わないけど前に見た時はレーテにべったりって感じだったわ」

「その言い方だとフランドールってのとレミリアのやつは仲がよくなさそうだな」

「別に、何百年も一緒にいるんだから悪いわけがないわよ。相対的にそう見えるだけ」

「ああそうかい。あ、知ってるか? 今の植物の名前だぜ」

「知ってる」

 

 アアソウカイ。トゲがめちゃくちゃついてるサボテンみたいな植物だ。みたい、であってサボテンではない。

 

「あなたは想像がつかないと思うけどレミィも相当なまでの妹好きよ。主にレーテを」

「よかったな。愛されてるぞ」

「私も心より慕ってます」

「一週間くらい前にレミィの部屋に行った時なんて留守だったから他に探しに行こうとして、机の上に変な本を見つけたのよ。まぁ日記帳だったんだけど、そういえばレーテのそれを真似し始めたって聞いたなって手に取ってみたのよ」

「他人の日記を読むなんて最低だな」

「本を盗みに来るやつよりはマシよ」

 

 睨み合う二人であるが、こちらからしてみれば五十歩百歩だ。いがみ合うくらいなら反省してほしい。

 

「で、なんて書いてあったんだ?」

「あ、最低とか言っておきながら聞くんですね」

「気になるしな。それに私は読んでない」

「……まぁ、最初から教えるつもりだったからいいんだけど」

 

 いったん間を置いて、パチュリーが思い出すように顎に手を添えた。

 

「レミィの日記ねぇ、どの日の内容もレーテと過ごした時のことで半分は絶対に埋まってるのよ」

「どの日もか」

「ええ、どの日も。九割ほどレーテのことを書き綴ってる日もあったわ。あれじゃ日記じゃなくて妹成長観察日記ね。この前の異変のことも書いてあったけど、咲夜をなぐさめるレーテの素晴らしさで八割くらい埋まってたわ」

「……解決した身としてはなんか釈然としないな。というか、なんだ。咲夜のやつなんかあったのか?」

「人は誰しも大なり小なり悩みがある、ということよ。心配しなくてもレーテが解決したから問題ない」

 

 それにしても、レミリアも日記をつけていたのか。そういえば二〇年くらい前に日記がどうとか話したような気もする。

 内容についてはパチュリーの主観が多分に含まれるから言葉通りではないだろう。鵜呑みにしないことが賢明だ。

 

「しかしあのレミリアのやつがなぁ……世の中わからないもんだ」

「一応言っておくけど日記のことは本人にはバラさないようにね。下手しなくても私もあなたも八つ裂きにされるから」

「忠告受け取ったぜ」

 

 意外に仲がよさそうでなによりだ。俺が告げ口することもできるが、そう考えた瞬間にパチュリーがぶるりと体を震わせたのでやめておく。

 パチュリーも今日は特別体調が悪くなさそうだし、魔理沙も本を盗もうとしたりと言った所作がないので、そろそろ俺はおいとますることにした。

 今日もフランが待ってる。そうだ、紅霧異変以来、たまに咲夜に紅茶の入れ方を習ってるから持って行ってみよう。咲夜のそれほどじゃないけど喜んでくれたら幸いだ。

 ほんの少し変化が生じただけで、変わらず紅魔館は日常を綴っている。ただしそれは表の話であり、この大図書館より下側は幻想郷に来るより何百年も前から変わっていない。

 なにかよき変化があればいいと、一週間後に起こることに思いをはせていた。



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一五.謀る邂逅は誰がため

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

 幻想郷は今日も快晴だった。紅い妖霧は残念なことに影も形もなく、幻想郷は平和のはずだった。

 うっとうしいくらいに差し込む日差しが日傘の向こう側から伝わってくる。この場にいる一人の巫女と一人の魔法使いも、暑そうに額の汗を拭っていた。

 ちょっと前に巫女には「日傘なんかで大丈夫なら霧なんて出すな」と言われたが、そういう問題ではない。太陽のためにこちらが手間を負わねばならないなんて腹立たしいではないか。

 

「暑いぜ暑いぜ、暑くて死ぬぜ」

「死んだら、私が鳥葬(ちょうそう)にしてあげるわ」

「あら、私に任してくれればいいのに」

「あんたに任すのは、絶対に嫌」

 

 汗一つ流さない私に苦い顔を見せる黒白の魔法使いこと霧雨魔理沙。吸血鬼に喰われるより鳥葬の方が、人間にとっちゃはるかに嫌で迷惑だと思うけど。

 鳥に喰われるのはもちろん嫌だろうし、人肉を喰らった鳥どもは当たり前ながら妖怪化する。人の肉を食べなければほとんど生きていけなくなるのだ。それに人間の死体が長く放置されてしまえば衛生上悪くなるし、その死体を妖怪が食らった日には疫病が流行る。幻想郷は狭いから即行で広まるに決まってる。

 そういうこともあってか、紅白の巫女こと博麗霊夢は「でもま、最近の幻想郷では火葬が主流なのよねぇ」と呟いた。

 

「それよりあんた、そんなに家空けて大丈夫なのか?」

「咲夜に任せてるから大丈夫よ。レーツェルもいるし」

 

 うん? と霊夢が首を傾げる。

 

「誰よ。そのレーツェルって」

「ああ、お前は会ったことなかったな。面白いやつだよ。こいつの――」

 

 瞬間、幻想郷の最東端にある博麗神社まで届く雷鳴が響き渡った。

 

「夕立ね」

「この時期に、珍しいな」

「私、雨の中、歩けないんだよねぇ」

 

 とは言い合うものの、外の様子を見ると明らかに不自然な空になっているものの、しばらく経っても雨は降ってこない。

 いや。

 目を細めて遠くを注視してみれば、どうやら幻想郷の奥の一部だけ強烈な雨と雷が落ちているみたいだ。

 

「……私んちの周りだけ雨が降ってるみたい」

「ホントだ、なんか呪われた?」

「もともと呪われてるぜ」

 

 天候を変える魔法か。十中八九パチュリーの手によるものだと思うけど、紅魔館になにかあったのか? なにかあったとしても雨を降らす理由はなんだ?

 

「困ったわ、あれじゃ、帰れないわ」

「あんたを帰さないようにしたんじゃない?」

「いよいよ追い出されたな」

「決めつけないでよ」

「じゃあ実は中から出てこないようにしたとかか?」

「やっぱり追い出されたのよ」

 

 フランが出ようとして止めた、という線もあるか。しかし今は家にレーツェルがいる。パチュリーならフランに彼女がついていれば大丈夫だと判断して雨なんて降らせないだろう。

 だとすれば私を帰れないようにしたという考えが自然か。だけどなんのために……。

 

「……あぁ、そういうことね」

「なに、なにかわかったの?」

「別に。ただ、食事どうしようかしらって思って」

 

 私にとっての食事とは人間の血を喰らうことだ。食糧は紅魔館に支給されるから、もしもこのまま帰れなければどこかで人を襲わなければいけなくなる。悪魔の契約があるにしても、相手から危害を加えさせればいいのだから実は手はいくらでもあるのだ。まぁ、そんなことしたら境界の妖怪に消されるんだけど。

 このまま雨が続いた時のことを考えてか、はぁ、と霊夢が大きなため息を吐いた。

 

「しかたないなぁ、様子を見に行くわよ」

「あぁ、あいつが言ってたのはこういうことか。そうなると今回は……」

 

 私に神社の留守番を任せると、二人は紅魔館に向かって飛んで行った。悪魔である吸血鬼に神社を預けるとは、あいかわらず博麗の巫女とやらは楽観的な性格らしい。

 

「……これでいいのよね。私が異変を起こしてから一か月……二人の運命を操り始めて一か月。きっとこの夕立は、こうやって紅白と黒白を館へ向かわせるための口実。レーツェルに会わせるための……いや」

 

 魔理沙はすでにレーツェルと面識があった。それはつまり、霊夢も時が経てば出会うことになっていたに違いないことを示している。

 だとすればこの雨は私の運命の産物ではない? レーツェルから生じた不確定要素が巨大化して起こったことこと?

 そうなるとレーツェルが雨を降らせた原因に関わっていることは間違いない。わざわざ二人に調査へ行かなきゃいけない理由を作った目的は……そうか。

 

「レーツェル、あの二人とフランを引き合わせるつもり?」

 

 フランがあの子の中でもっとも歪な立ち位置であることは私が一番理解している。

 お母さまやお父さま、その眷属に手を下した張本人。それでいて自らを慕い、自らも可愛がる実の妹。

 一度変化を望んで失敗したからこそ嫌な予感が止まらない。生まれてからずっと、四九五年も外界との接触を絶ってきた彼女が私を打倒した二人の人間に会ってどうなるか。ああ、もう。想像もつかない。雨がなければ私もすぐに帰るのに。

 ……あなたはなにをするつもりなの? いったいなにを望んでこんなことをするの?

 願わくば、あの子がさらなる深みへと沈みませんように。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □

 

 

 

 

 

「お姉さま、そのお客さまっていうのはまだ来ないの?」

「もうすぐですよ。今頃パチュリーがお出迎えしてる頃じゃないですか?」

 

 異変解決から一か月、俺はレミリアが博麗神社へと出かけている時機を見計らってパチュリーに館付近に雨を降らせるように頼んだ。

 俺が慕う姉を追い出すようなお願いをしたことに少なくない驚きを見せる彼女であったが、博麗の巫女と魔理沙の二人にフランが会いたがっていると言うと一応納得してくれた。雨を降らせればレミリアが困り、それを解決するために二人がやってくる。

 紅霧異変の解決だけでは東方紅魔郷は終わらない。フランドール・スカーレットの打破によってそれは幕を閉じるのだ。

 

「ふーん。それにしても、レミリアお姉さまを倒した人間ねぇ。どんなやつらなのかしら」

 

 力加減の修行はもはや終わったと言っても過言ではない。物を壊すことはほとんどなくなり、興奮しない限りは適切な力量で物事を行うことができる。むしろそうでなければフランを紅白の巫女と黒白の魔法使いに会わせようと考えなどしない。

 いや……そもそもとして俺が三歳までに自分の生まれた意味をしっかりと考えて過ごしていれば、フランは自由に生きる権利を持って生まれて来れたはずなのだ。十分に両親の愛を受け、意図せず物を壊してしまう体質など持たずに幸福な生を。それを『破壊』したのは他でもない俺で、フランに苦労を強いたのも俺以外の何者でもない。会わせようと考えなどしないなどと偉そうなことが思えたものか。

 やめよう。これ以上考えても不毛である。

 フランの問いに答えるために、ここに来るようにしている巫女と魔法使いのことについて考えを巡らせた。

 

「紅白の方が博麗霊夢、黒白の方が霧雨魔理沙と覚えておけば問題ありません。イメージとしては目出度い感じの人と空き巣みたいな人です」

「変な評価なのね」

 

 そうは言われても『目出度い』は魔理沙が言っていたことだし、『空き巣』はどうしようもないくらいしっくりくるのだからしかたない。

 

「お姉さま、その人間たちが来るまで二人で遊んでよう?」

「いいですよ。なにして遊びます?」

「にらめっこ」

「……えっと、私、絶対に負けませんよ?」

「冗談よ。冗談ー」

 

 そう言ってフランは立ち上がり、手に持ったレーヴァテインをぽーんと高く放り投げた。重力に従って戻ってきたそれを受け取ってくるくると回し、満足そうに首を縦に振る。

 俺も腰を上げて、倉庫魔法で弓を取り出した。不具合もないし問題なく機能しそうだ。元の空間にそれを戻し、さて、と地下室の入り口に向き直った。

 ギギギ、と古めかしい音を立てて扉が開かれていく。そこから現れるのはここに来るように謀った二人の人間だ。

 一人は何度か面識のある、コーンみたいな帽子をかぶった黒白の魔法使い。来てやったぜ、とか言いそうな表情で俺たちの方を眺めている。

 

「来てやったぜ。そいつがお前の妹か?」

「ようこそおいでくださいました。そうですよ、綺麗な翼でしょう?」

「三人とも形が違うんだな」

 

 そしてもう一人はテレビ画面から覗いていたことはあれど直接会うことは初めての人間、博麗神社に住まう紅白の巫女。

 一番最初に目が行くのは、袖がなく肩と腋を露出したおかしなデザインの赤い巫女装束だ。袖口からサラシが見える。頭の後ろで大きな赤いリボンを結んでおり、金髪金眼な魔理沙とは違っていかにも日本人らしい色の瞳と髪をしている。

 博麗霊夢。ついに真打ち登場とでも言うべきか、『空を飛ぶ程度の能力』を有する東方Projectの主人公だ。

 

「なに、魔理沙こいつらと知り合い?」

「そっちの金銀の方とはな。あっちの宝石ぶら下げてるやつは知らん」

 

 ふぅん、と霊夢は自分から聞いたくせに大して興味がなさげだった。

 

「ご紹介しますよ。こちらは三姉妹の三女、フランドール・スカーレットです」

「よろしくー」

「そして私はレーツェル・スカーレット。三姉妹の次女に当たります」

「スカーレット……? あんたらまさかレプリカとかいう悪魔の」

「レミリアです。異変の解決、おめでとうございます。ご推察の通り、私たちはレミリアお姉さまの妹ですよ」

 

 そんなあからさまに嫌そうな顔をしないでほしい。まだ会ってちょっとしか経ってないのに。

 

「これが人間かー。思ってたよりは面白そう」

「なんだ、お前は人間を見たことないのか?」

「私は四九五年間一回もお外に出てないのよ」

「そうなのか。ほれほれ、思う存分見るがいい。私は人間だぞー」

「やっぱり問題児なのね」

 

 大きくため息を吐くと、霊夢はゴソゴソと懐を漁ってお札を取り出した。魔理沙はニヤリと口の端を吊り上げて持っていた竹箒に腰をかけ、フランは二人の様子にに笑みを深めるとレーヴァテインを握り直す。

 俺も体内の魔力の流れと翼の調子を確認した。

 

「パチェから話は聞いてると思います。私たちと一緒に遊んでもらいますよ」

「はぁ、こんなことのためにわざわざ雨を降らせたのね。あなたの姉が神社で困ってるわよ。というか、普通に神社に来ればいいのに」

「昼間では太陽のせいで遊べません。夜は人間には迷惑な時間帯でしょう? ですから、こうしてここにお二人を呼び出すことが最善だったんですよ。それともまた紅い妖霧でも出しましょうか」

「あーもう、わかったわよ。遊べばいいんでしょ遊べば。なにして遊ぶ?」

「わかってるんでしょう? そこに飛び込む遊び道具、弾幕ごっこです」

「ああ、パターン作りごっこね。それは私の得意分野だわ」

 

 トン、と静かに霊夢が飛び上がった。それに箒に腰かけた魔理沙がついていく。

 地下室は弾幕ごっこくらいなら楽に行える広さがある。この時のために家具もすべて俺の倉庫に保管し、邪魔なものなどなに一つない状態にしてあった。

 

「レミリアお姉さまの時は二対一で倒したんですから、どうせですから今度もチーム戦にしましょう。相手を定めず二対二です。そちらは二人とも私とフランのどちらにでも攻撃していいし、私たちもあなたがた二人のどちらにでも危害を加えていい」

「わっ、お姉さまと共闘できるの?」

「一緒にがんばりましょうね」

「うん、がんばるわ」

 

 拳を突き合わせると俺たちも二人して床を蹴った。宙に浮かび、すでに油断なくこちらを見据えてきている霊夢と魔理沙と相対する。

 彼女たちは二人がかりでレミリアを打倒した。ならば同じ吸血鬼である俺たちにも同様の条件で挑ませるのが好ましい。二対一で同程度の実力である長女を倒したのだから、今度は二対二。さて、お二人さんはどこまでやれるのか。

 

「一人でも手に余る相手が二人か。一対一じゃどう考えても厳しいからな、こいつはチームワークが重要になりそうだ」

「チームワーク、ねぇ。あんたとのコンビって果てしなく不安なんだけど」

「そうは言ってもレミリアの時はなんとかなっただろ? もう諦めろ。やるしかない」

「まぁ、そうね」

 

 四人の間を緊張感が走り、雰囲気がいつ始まってもおかしくないそれへと変わった。

 静寂が空気を重くし、重圧のかかった空気が緊張感を煽る。その緊張感はさらなる静寂を場にもたらし、それが余計に緊張の具合を加速させる。

 不意に魔理沙が小さく笑い、フランに向けて問いを投げた。

 

「さて、遊んでやる代金はいくら出す?」

「コインいっこ」

 

 ピィン、と小さな音。二人の会話に合わせ、俺がちょうど持っていたコインを取り出して指で弾いたのだ。

 魔理沙とフランが一瞬目を丸くして、しかし二人ともすぐに笑みを深める。

 

「一個じゃ、人命も買えないぜ」

 

 コインが床につく。それを合図として、フランと魔理沙が同時に動き出した。

 

「あなたたちが、コンティニューできないのさ!」



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一六.狂い咲く悪魔の太陽

 ――"禁忌『クランベリートラップ』"。

 フランは魔法陣を具現化させ、そこら中に解き放った。それぞれ適当に飛び回りながら魔理沙を狙った弾を連続で放ち、そのどれもがゆったりとした速度だ。それだけで見れば回避は容易であるものの、魔法陣は常に移動しているために避け方を間違えれば一度回避した弾幕にも当たる危険性がある。魔法陣が重なり合うことで数が増えたり合体したりと、宙を動く規則性が読みにくい。

 ――"黒魔『イベントホライズン』"。

 しかし魔理沙も同様に自らの周囲に魔法陣を展開させていた。フランが少なくて二、多くて六なのに対し、なんと魔理沙は一〇個も魔法陣を作り上げている。フランと違うところはすべてが規則性を持っていることであり、発動者を中心に渦を巻きながら広がっていく。魔法陣の通った場所には小さな星屑が滞在していた。

 互いのスペルカードが激突する。両者とも自分から攻撃せず、魔法陣同士の激突であった。フランのそれがあらゆる方向から弾幕を放ち、魔理沙のそれは圧倒的な物量ですべてを防ぐ。

 その均衡を破ったのは魔理沙の方だった。

 彼女の魔法陣が四人全員を囲い込むほど広がった途端、星屑のすべてが魔法陣とは逆の回転を描いて魔理沙の方へと集まり始めた。かと言って魔法陣の活動が停止するわけでもなく、むしろさきほどまでよりも大量の星屑を放出し始める。

 

「ちょっと! 私も巻き込まないでよ!」

「そんなこと言われても共闘を前提にしたスペルカードなんて作ってないんだよ。自分でどうにかしてくれ」

「もうっ!」

 

 チームワークが大事云々はどこに行ったのか。通常は周り全員が敵なのだから、全体に攻撃するスペルカードが間違っているわけではないのだが。

 さて、そろそろ俺も行動を起こそう。魔理沙のスペルカードは星屑の数が多すぎて、本人にまで攻撃を通すにはある程度以上の威力がなければ不可能だ。ここは俺がフランの"禁忌『クランベリートラップ』"をサポートするとしよう。

 魔力を練り上げ、五匹のイルカ型魔力弾に造形した。行け、と魔理沙へ指を向けると、星屑のブラックホールに逆らわないように回転しながら対象へ接近していく。

 

「なんだこれ!? 動き気持ち悪っ!」

 

 魔理沙の何気ない一言にガーンッと傷つきかけたものの、そういえば幻想郷には海がなかったんだったか。川はあるから魚は知っているだろうが、イルカのように水中で活動する哺乳類は見たことがないはずだ。

 気を取り直し、前を向いた時はすでにイルカが爆散して魔理沙を囲む大量の星屑に穴を開けたところだった。フランを横目で見れば力強く頷いて、作られた空虚に"禁忌『クランベリートラップ』"の魔法陣の弾が集中する。

 

「おっと!」

「むぅ」

 

 スペルカードを中断した魔理沙が間一髪で回避した。相手を徐々に追い詰めるためにわざと遅くした仕掛けが今回はあだになったというところか。

 けれどこの隙を見逃す手はないとフランと一緒に弾幕を生み出そうとして、不意に背後から霊力の高まりを感知する。心の中で謝りながら即座にフランを突き飛ばし、次の瞬間には俺は四方を線で囲まれた不思議な空間に囚われていた。

 ――"神技『八方鬼縛陣』"。

 

「魔理沙、あの技早く!」

 

 どうやらいつの間にか霊夢に後ろ側へ回られていたらしい。警戒はできるだけ怠らないようにしていたはずだけど……そういえば彼女には『空を飛ぶ程度の能力』があった。つまりは空間を飛んで――零時間移動をして俺たちの背面に回ったというカラクリ。

 体がまったく動かない。レミリアに聞いた話によれば、彼女もこうして動作を封じられた後に魔理沙の大技で仕留められてしまったのだとか。ならば今回も、早々に同じことをして先に一人をリタイヤさせようという作戦に違いない。

 しかしそれが通じるのは相手が一人の時だけだ。

 魔理沙が帽子の中から小さな八卦炉、ミニ八卦炉を取り出すと同時、フランがキッと俺の後ろにいるであろう霊夢を睨む。

 ――"禁忌『フォーオブアカインド』"。

 

「お姉さまを離して!」

 

 "禁忌『クランベリートラップ』"で使っていた魔法陣が三つに収束した。それぞれから莫大な魔力が溢れ出るとすべてが同じ人型を、フランドール・スカーレットという姿を形作っていく。

 分身の魔法、本体も合わせて四人のフランが存在した。分身たちを大技の準備をしている魔理沙の方へと全員向かわせて、本体のフランは俺を助けるために霊夢へ接近を開始する。

 

「やっぱりそう簡単には行かないか」

 

 ふっと体の自由が戻ってきた。振り向きざまに大槌を象った弾幕を振り回してみたが、危なげなく下方へ落ちて躱される。

 レミリアから聞いていた通り、吸血鬼でさえも縛る霊夢の術は使用中に本人も動けなくなるらしい。やはりフランを突き飛ばしておいたのは正解だった。二人一緒にやられるなんて面白くない。

 

「お姉さま、大丈夫?」

 

 適当に弾幕を撃って巫女を追い払うと、心配そうな顔でフランが問いかけてきた。

 

「全然平気ですよ。私もさきほどはいきなり叩いてしまってごめんなさい。痛くありませんでしたか?」

「そんなの気にしなくていいわ。それに、痛くならないように配慮してたんでしょ?」

 

 ――"魔符『スターダストレヴァリエ』"。

 スペルカードの発動に目を向けてみれば、魔理沙がフランの分身を巨大な星屑で撃破しているところだった。分身はどうあがいても分身なので単純な攻撃しか行うことができない。弾幕を放つ人数が増えるのはかなりの利点ではあるけれど、すぐにやられてしまうのもしかたがないことだ。

 

「フラン、私から離れないでください」

「わかった」

 

 俺たちから離れた霊夢が魔理沙と合流するのを眺め、そろそろ俺もスペルカードを切ろうと倉庫魔法を行使した。

 金と銀の装飾がその豪華さを醸し出す、俺の身長にはあまり合っていない大き目の弓を手元に呼び出す。妖力と魔力を複雑怪奇に組み合わせ、矢の形をした特殊な金色の弾を作り出した。

 矢を弓に番え、自分たちの真上へと矢先を向ける。

 ――"光弓『デア・ボーゲン・フォン・シェキナー』"。

 シュンッ、と静かに飛んだ矢はすぐに天井に衝突した。直接狙って来なかったことに霊夢と魔理沙が訝しげに見てくるが、そんな余裕は一瞬のうちになくなる。

 矢が当たった部分が太陽のように光り輝き、無数の光の線を地下室中に撒き散らした。その数は数百、はたまた幾千を越えているか。重力に従うそれらは容赦なく人間組に降り注ぎ、逆に吸血鬼組のこちらは唯一光が降らないY軸上に浮いている。

 

「上ばっかり見ていたら危ないですよ?」

 

 光の線を回避すること自体はさほど難しくないのだ。実際、霊夢と魔理沙は危なげなく落ちる光を見定めている。

 本番はここからだ。それも今回は大サービス、通常版ではなく特別版。

 フランと手を繋ぎ、互いの魔力と妖力を混ぜ合わせながら周囲に数え切れないほどの矢型弾幕を生成していく。普通ならば両者の力が反発し合って魔力操作どころではなくなるところ、けれども完全に息が合っているために速度と威力、そして数は何倍にも膨れ上がる。四九五年間をともに過ごしてきたからこそできるコンビネーションだ。

 最早これだけでスペルカードを名乗ってもいいのではというほどに膨大な数を誇る光の矢の矢先を全方位へと向ける。霊夢と魔理沙の顔が引きつっていた。

 上から降り注ぐ光の線に注意しつつ、横から迫るあまりにも多すぎる矢の弾幕をすべて避ける。上空を見上げながら前を見ることができないように、光の線に集中していれば矢型弾幕は避けられないし、矢型弾幕に注意していると光の線に無防備になる。目が三つある生物ならばともかく、揃って顔に二つしかついていない人間にはかなりキツいスペルカードだ。

 

「発射」

「はっしゃー!」

 

 ――"夢符『封魔陣』"。

 外側の矢から順に高速で発射し始めた瞬間、霊夢が魔理沙を近くに引き寄せて結界を張った。威力よりも数を重視した矢型弾幕は結界を打ち破ることができず、現状ではなかなかにいい手と言える。

 ただし光の線は別だった。結界の上側に落下する一筋の光――実は、天井から降り注いでいるこれは極小の妖力弾と魔力弾の集まりである。弾が軌道を残すほどに光っていたり速かったりするわけではなく、帯を纏って落ちてきているわけでもなく、ただ単に線のすべてがとても小さな弾幕が集約されたもの。

 霊夢が展開した結界に光の線が落ちるということは、それはつまり数万にも及ぶであろう数の魔力弾と妖力弾が、ほぼ同じ位置へ超連続的に刺激を与え続けることになる。そうなれば当然、

 

「えっ!?」

「霊夢の結界を破ったのか!?」

 

 最初に開くのははるかに小さき穴。しかしそこに殺到するバカげた数の弾幕が徐々にその穴を広げて、無視できないほどに大きな孔になったのだ。

 一部分が破れた結界は規則性を失うがゆえに他の部分の弱体化を招き、そうなれば今もなお打ち破らんと衝突し続ける矢型弾幕にも結界を壊し得る可能性が生まれる。光の線が下側まで貫通することで顕著になり、十数秒もすれば矢が結界を打ち破り始めた。

 だが、俺が思っていたよりも"夢符『封魔陣』"は強度が高かったようだ。時間をかなり稼がれた。最初に天井へ撃ち放った黄金の矢が効力を失い、光の線が降り注いで来なくなる。

 矢の弾幕だけでもスペルカードに匹敵する数があれど、上からの補助がなければ直線で飛んでくるだけの読みやすい弾幕でしかない。残った矢を一斉に打ち放ってみたが、やはり仕留められず(グレイズさせ)るだけにとどまった。

 

「あ、危なかったな。さすがレミリアの妹だ。中途半端なスペルカードじゃどれもこれも対処し切れんってわけか」

「八方鬼縛陣クラスの技を連発しなきゃいけないとか? それはさすがにちょっと厳しいんだけど」

「同感だ。やっぱり今回も短期決戦を心がけるべきだな。長引いて集中力が切れれば通常弾幕にさえやられかねん」

「でも、どうするのよ。あいつの時は私が動きを止めてあんたが仕留めてなんとかなったけど、今回は二人いるからそれも通じなさそうよ」

「……ふむ、それなら一つ考えがある」

 

 霊夢と魔理沙がコソコソと話し合っている間、俺とフランは一緒に両手で耳を塞いでいた。

 せっかく俺たちに聞こえないように喋っているのに吸血鬼の聴力だと誤って聞こえてしまう可能性がある。それでは面白くないとはフランの言で、こうして声を拾わないように配慮していた。

 作戦会議が終わったらしいお二人が俺たちに向き直り、魔理沙が片手でオーケーのサインを作ったので手を耳から離す。

 

「ご親切なことね。どんなに小細工を重ねたところで人間風情では自分たちに敵わないとでも思ってるの?」

「逆ですよ。どんな策を講じて人間が吸血鬼を倒し得るのか、私たちはそれを知りたいんです」

 

 レミリアを倒したことは決して偶然ではない。偶然を支配する彼女を、偶然などでは打ち破れるはずもない。きっとそれをなし得るだけの素質と資格がある。

 まだ足りない。もっと見せてくれ。もっと証明してくれ。この程度で終わりじゃないんだろう。

 

「まぁなんでもいいわ。行くわよ、魔理沙」

「了解だ」

 

 なにかをしかけてくる雰囲気を感じ取り、どんな手にも対応できるように意識を張り巡らせつつ身構えた。

 魔理沙の口元に弧が描かれ、竹箒から魔力の高まりを感じ取る。

 そして次の瞬間、霊夢と魔理沙は背を向けて逃げ出していた。

 

「えっ?」

「えぇ……」

 

 フランと二人して呆れた声を上げてしまうのもしかたない。彼女たちは地下室の出口に直行しているようで、俺とフランも頷き合って追いかけ始めた。

 霊夢と魔理沙の姿が開いていた扉の向こう側へ消えていき、俺たちもそこを潜り抜ける。だだっ広く、とてつもなく複雑な構造をした迷路のような廊下。さてどの方向に行ったのだろうと視線を巡らせようとした直後、自らの足元に正方形を描いたお札が設置されていることに気がついた。

 

「むっ、またやられちゃいました」

「魔理沙、早くそいつ持ってって!」

 

 結界の中に囚われて身動きが取れなくなる。吸血鬼である俺が暴れれば数秒で破れそうな脆弱な作りではあったが、結界の意義は俺を足止めすることにあるようだ。

 俺を助けようとフランが飛び寄って来ようとして、廊下の奥側にいる魔理沙が妨害としてその進行方向へこれでもかというほど魔力の弾幕や光線を撃ちまくる。

 

「フラン、あなたは魔理沙の相手を」

「でもっ」

「一対一なら負けませんよ。この二人は二人がかりでお姉さまを打ち倒したんですから」

 

 フランが攻めあぐねている間に頭上で霊力が練り上げられる感覚を覚えた。このままでは両側から彼女が狙われるからと、早く魔理沙の方へ行くように伝える。

 魔理沙はフランが自分に近づいてくるのを確認すると、踵を返して廊下の角に消えて行った。霊夢と魔理沙の目的は俺たちの分断のようだ。フランも角を曲がり追いかけて行ってしまい、この場には俺と霊夢だけが残る。

 魔力を全身から放出し、俺を囲んでいる結界を壊してすぐさま霊夢に矢型魔力弾を撃ち込む。霊夢の投げていたお札と衝突し、霊力と魔力がせめぎ合った。

 

「さあ、あなたの相手はこの私よ。一人だからって舐めるなよ」

「二人一緒では隙がないので個別に撃破するということですか。お姉さまには魔理沙と協力して辛勝したと聞いたのですが、舐められたものですね」

 

 だからと言って手加減するつもりは毛頭ない。できるだけ早く撃破してフランと魔理沙を探しに行こう。

 距離を取る霊夢を見据えながら二枚目のスペルカードを取り出して、その発動を宣言した。

 ――"童話『赤ずきん』"。



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一七.大切と謳うからこそ

 廊下のそこかしこに簡単な構成の魔法陣が出現すると、そこから液体と化した魔力が溢れ始めた。それは床に落ちることなく、無重力に宙を緩慢な速度で漂っている。

 舞台は整った、あとは主役の登場だけ。スッと弓を持った手を横に切り、俺の目の前に面を上に下五メートルはくだらない魔法陣を描き出す。まるで召喚されるようにズズズと構築されていく魔力の塊に、霊夢が訝しげに首を傾げた。

 

「……犬?」

「狼ですよ」

 

 現れるは召喚した図形と同程度の大きさを誇る、狼の形をした魔力の集合体。

 腕を上げ、振り下ろす。目標は博麗霊夢だ。命令を組み込まれた魔力狼がワオーンと甲高い遠吠えをし、タンッと足元にあった液体の魔力を蹴った。

 今もなお溢れ続けている液体魔力を跳び移りながら魔力狼が霊夢に接近する。

 

「わっ、と!」

 

 この魔力狼は重力に従うようにできている。高いところに移動されたせいであと一歩牙が届かず、近場の液体魔力に着地、もう一度標的に向けて跳躍をした。

 相手は大きかれど一匹の魔力狼で、重力が仕事をしていることもあって比較的避けやすい。霊夢は初めはそう考えているかのように余裕そうに回避していたが、すぐにこのスペルカードの本当の恐ろしさに気づいたようだった。

 水飛沫だ。魔力狼が足場にした液体魔力が飛沫となって空中に移動し、拡散し、滞在し、霊夢の動きを妨害する。

 彼女としては自分を優に越える巨大さの魔力狼には絶対に当たりたくないだろう。だからこそ完全に意識を外すことができない。だからと言って上がり続ける水飛沫を無視しているわけにもいかず――"光弓『デア・ボーゲン・フォン・シェキナー』"と同じようなカラクリの、両方に注意を向けなければならないスペルカード。

 

「こ、の! さっきからッ!」

 

 躱すばかりだった霊夢が、ムカついたかどうかは知らないけれど不意に魔力狼にお札を投擲した。ジジジとせめぎ合う音と「きゃうんっ」と小さな悲鳴を立てて魔力狼がわずかばかりに後退し、その突進は避けるまでもなく対象に届かない。

 そこで霊夢はこのスペルカードの仕組まれた攻略法に気づいたようだった。

 "童話『赤ずきん』"はその名の通り、『赤ずきん』という童話をモチーフに作ったスペルカードだ。その童話の最後は主人公である赤ずきんを食べた狼を猟師が撃ち殺し、腹の中から救出するというもの。

 この"童話『赤ずきん』"では狙われる者こそが赤ずきんであり猟師でもある。赤ずきんのようになすすべなく食べられるか、猟師のように戦って倒してしまうのか。

 

「だったら!」

 

 ――"霊符『夢想封印』"。

 霊夢の霊力が高まり、その周囲に八つの霊力弾が出現した。そのどれもに封印の力が付与されているらしく、綺麗な虹色に輝いている。

 彼女がお祓い棒で対象を指し示すと、封印霊力弾が魔力狼へと殺到した。さすがにマズいと思ったらしい――思考機能はないが、危機感知機能は装備させている――魔力狼がどうにか躱そうと辺りの水面を飛び回るも、封印霊力弾には追尾性能があるようで振り切れない。

 すべてが容赦なく命中し、お札が当たった時よりも高い悲鳴を上げた。さすが吸血鬼の産物とでも言うべきかまだ生きていた。しかし封印で力が弱まっているせいでその後に撃ち出されていた大量のお札はどうにもできない。自らを構成する魔力を血飛沫に上げながら爆散した。

 スペルカードが終了し、液体魔力とそれを生み出していた魔法陣が消滅する。

 

「狼と一緒にあんたも手を出した方が強いんじゃない?」

「あれは美しく魅せることを主眼に置いた、いわば演劇を行うスペルカードですから」

「なるほど、まさにスペルカードとしてしか意味をなさない技ってわけね」

 

 ちなみに霊夢が食べられていた場合、俺が猟師役となって魔力狼に矢を放っていた。もちろん助けるためではなく、中身もろとも吹き飛ばして戦闘不能にするためである。

 ――"神霊『夢想封印 瞬』"。

 今度は霊夢が先にしかけてきた。あらぬ方向へ直線移動を始めながら、上下左右あらゆるところへお札をまとめて投げていく。それは数メートル進んだ辺りで移動をやめ、空中で停滞していた。

 右へ消えていったはずの霊夢が当たり前のように視界の左側から現れる。さすがにちょっと驚いた。今度は上に行ったはずなのに下から出現し、俺から見て前方へ移っていたかと思うと後ろから気配を感じ取る。

 咲夜のような単なる瞬間移動というよりも、限られた空間内をループしているという表現の方がしっくりきた。ゲームで例えれば画面の右側に行ったら左側から出てくるという感じの。

 そうして考えごとをしている間も増え続けていたお札がついに動き出し、俺に目がけてゆっくりと近づいてくる。いつの間にか完全包囲されていて、全方位から幾重にもわたるお札の層が展開されていた。

 どうにかして層と層のスキマを掻い潜って脱出してみたけれど、どういうわけかそこでも俺は包囲されていた。再度大量のお札が動き出し、それをまた抜けようとしたら今度は封印の力が込められた中くらいの大きさの霊力弾が無数に俺を狙って放たれてくる。辺りがお札だらけで逃げ道が小さなスキマしかなかった。

 ――"童話『長靴をはいた猫』"。

 

「にゃー、と!」

 

 頭に猫耳、腰に尻尾を生やし、己の肉体へ一時的に猫の潜在能力を付加する。強化の魔法に変化の妖術を組み合わせた獣人化魔法とでも言うべき術で、これを使うと反応速度と柔軟性、機動力などが大幅に上昇する。

 霊力弾を素早く飛び回ることで後ろ側に置き去りにし、自らを囲い続けるお札のスキマを掠り(グレイズ)ながら最小限の動作で霊夢に詰め寄っていく。その間に弾幕も放ち、彼女の動きを阻害したりもした。そうしてあと少しで届くというところで視界から消え失せ、ならばもう一度と同様に逆側に移動した彼女に攻め入る。

『長靴をはいた猫』とは、飄々とした猫が主人のために他の登場人物を騙して回り、最終的に主人を姫と結婚させるという、要するに猫が無双する童話だ。それを参考にした"童話『長靴をはいた猫』"は吸血鬼の身体能力と猫の性質をかけ合わせ、物理的に無双するスペルカードである。

 接近を繰り返し、幾度となく惜しくも逃げられていくうちに段々と動きが最適化されていく。猫の感覚が獲物を捕らえるために無意識に頭を回転させ、なにをどうやれば追いつけるかが導き出された。

 

「シッ――」

 

 弓を倉庫魔法で自分の空間にしまい、霊夢を追いかけるフリをして即座に逆側へ方向転換。お札をほぼ直線に、しかしギリギリで当たらないようにしながら、ループ現象で目の前に出現した霊夢へと妖力で形作った爪を振りかぶる。

 

「くっ」

 

 お祓い棒で防がれた。逆の手で下から掬い上げるようにして、それも寸前で後退して回避させられる。

 けれども猫がその程度で諦めるはずがない。

 何度も追撃する。何度も爪を振り回す。そのたびに霊夢は後退し続け、直線に移動しながら戦うことになった。

 やがてループする空間の境界に入った霊夢が目前から姿を消す。振り向けば大量のお札と霊力弾が近づいてきていたので、弾幕が薄い箇所に飛び込んで小刻みに右や左、上や下に移動しながら向こう側に抜けた。

 霊夢はスペルカードを終わらせたようで、一時的に弾幕の生成をやめて再度対峙する。

 

「普通に近づいてくるってなによ、もう。よくあんな中を潜り抜けられるわね」

「猫ですから」

「猫の妖獣程度じゃ避けられないわよ」

 

 さて、次はどう来る? どんなスペルカードを使う? 猫獣人モードの俺を仕留め得る技を持ってるのか?

 そんな無表情ながらにワクワクとした感情を抱いていることが視線から伝わったようで、霊夢が深いため息を吐いた。

 

「あんた、自分の妹の心配はしないわけ?」

「フランは強いですから。信じてるんですよ」

「信じてる、ねぇ……うーん」

「どうかしましたか?」

 

 考え込むように腕を組み始めたので、首を傾げて問いかけてみる。

 

「あんたはともかく、あのフランドールってのは四九五年も外に出てないんでしょ? こんな狭い世界しか知らないなんて不憫ねぇ。あんたが連れ出したりとかはしないわけ?」

「……連れ出すつもりですよ。この勝負が終わったら」

「はぁ、四九五年も一緒にいたってのに、口では信じてるとか言ってる割にはそこまで信じちゃいないのね。人間の何倍も生きてるんだから、外を歩かせるような機会はいくらでもあったでしょうに。もしかして下手に外に出すと問題を起こすんじゃないかって思ってたりするの?」

「そんなことは」

 

 フランはすでに手加減をほとんど完璧に身につけている。原作で彼女を地下室から出して館内を出歩くようにしたのは、他でもない今行っている決闘によるものだ。だからこの決闘が終わったら俺も彼女を……。

 自分の妹が問題を起こすことしか考えてない――ふと、彼女が生まれた時の光景と、父とその眷属を失った日のことが頭をよぎった。違う、と首を横に振る。あれは俺のせいだ。フランの狂気は俺の罪だ。

 いや、罪だとか考えている時点で霊夢の言う通りなのか?

 この日まで俺がフランを連れ出さなかったのは、原作でも外に出始めたのはこの日の出来事だからということもあるが、大半の理由は彼女の手加減の修行が完璧ではなかったからだ。物を、人を壊してしまうかもしれない。また俺が大切だと思うものを失ってしまうかもしれない。

 けれど言い方を変えれば、それはフランを信じてやれなかったということに他ならないのではないか。彼女の深層には狂気が存在し、意図せず物を壊してしまったりすることはあるが、きちんと確固たる意思があって、俺を慕ってくれてもいる。俺の言いつけは守ってくれるはずで、それを心の底から信じていたのなら、加減が完璧でなくても外の世界を見せることは十分に可能だったんじゃないか。

 今に至るまで、四九五年間も外に出そうとしなかったのは、俺の中で大切な妹であると同時に、腫れ物のような存在だったからではないか?

 頭の中でさまざまな見解が浮かんでは交錯する。

 フランがその身に狂気を宿している原因はまさしく俺にあり、その原因とは俺が生きる意味を考えもせずに過ごしてしまったことにある。こんなどうしようもない俺を愛してくれたかけがえのない人たちを自分の過失で殺してしまい、その責任と己が罪の塊であるフランへの償いを胸に今日まで生きてきた。

 俺がフランを大切に思っていることは、本当だ。狂気などとは無関係に、ともに四九五年間を過ごしてきた仲が軽いはずがない。彼女も俺を慕ってくれているのがいつも伝わってくるし、俺も家族として愛しているかと問われれば迷う間もなく頷くことができる。

 けれどそれとは別に、霊夢が言うように俺はフランを真の意味で信じ切れているのだろうか。

 最近の彼女は感情が高ぶっても狂気が表に出ないことが多い。最初の五〇年はほんの少し興奮するたびに暴走していたが、手加減を覚えるための修行を始めてからはそれも徐々に減っていった。

 いくらでも外に連れ出す機会はあったのだ。

 俺はフランが自分の意志以外で物を壊さないようになりたいと言い出した時、フランの狂気が鳴りを潜めていく中、それでも「下手をすればまた大切なものを失うかもしれない」という気持ちが拭えなかったのではないか?

 ――ああ、そうだ。

 ふふっ、と小さく口元に作り笑いを浮かべる。

 俺が彼女の幸せを奪ったというのに、その償いと贖いのためだけに今もなお生きているというのに、俺は自分で思っているほどフランを信頼し切れていない。それもそうか。なにせ感情から生じる表情をなくした。自分の一部の感情に気づかないようにしたのだから、齟齬が出るのは当然で……。

 

「フランを信じる、か……」

「ん? なにか言った?」

 

 母や父、そしてその眷属を殺したのは間違いなく俺の過失だ。フランに直接手を下させてしまった。そんな後ろめたい気持ちを抱えていたから、彼女自身を俺の罪だと認識していたから、心の底では信じ切ることができていなかった。

 心を改める必要がある。

 フランを大切な妹だと謳うならば、真の意味で信頼をしなければならない。責任を、義務を、贖罪を果たすために、彼女に奪ってしまった『日常』を見せなければならない。それができなければ俺は"答えのない存在"ではなくて、"他者の答えを害する存在"になってしまう。そんなのは生きる意味がない以前に、生きていてはいけない存在になってしまう。

 大きく深呼吸をして、霊夢に向き直った。

 

「いえ……なんでもありませんよ。続きをしましょう。ちょっとキツいお言葉でしたが、ありがとうございますと言っておきます」

「……や、私も悪かったわ。ちょっとむやみに首を突っ込みすぎたわね」

「大丈夫ですよ。本当に助かりましたから」

 

 そろそろ再開しよう。霊夢と戦えたことはいい刺激になった。なにせ俺では気づけなかった――気づこうとしなかったであろうことに目を向けられたのだから。

 

「そちらから来ないならこちらからいきますよ。今、スペルカード発動中ですし」

「私から行くなら来ないでくれる?」

「そんなわけないじゃないですか」

「ですよねー」

 

 不意に、迷路のように複雑な廊下を縫うようにして高速でこちらに近づいてくる物体を感知した。かなり離れたところにそれを追うようにして親しみを覚える魔力も移動している。

 これはまさかと霊夢の方を向くと彼女は「やっと来たわね」と呟いていた。

 

「お待たせだ! これで二対一、仕留めるぜ霊夢!」

 

 推進力として後方にマスタースパークを噴射している黒白の魔法使いが、廊下の角から姿を現した。



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一七a.無知なる完結の世界

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Frandre Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

「フラン、あなたは魔理沙の相手を」

「でもっ」

「一対一なら負けませんよ。この二人は二人がかりでお姉さまを打ち倒したんですから」

 

 金と銀の髪を持つ幼い少女、レーツェル・スカーレットことお姉さまがチラリと自分の頭上に目を向けた。釣られて私の視線も同じ位置へ移動し、博麗霊夢という巫女が内に眠る力を高めていることを察知する。

 挟み撃ちにされる前に黒白魔法使いこと霧雨魔理沙を追いかけろという意図を読み、迷惑をかけるわけにはいかないと方向を転換した。そもそもあんな紅白にお姉さまが負けるはずがない。少しだけ名残惜しさを残しつつも対象を魔理沙に切り替え、あちらは向かってくる私を見ると踵を返して廊下の角に消えた。追いかけて同じく曲がり、まだ逃げ続けていたので飛行の速度を速めて追跡を開始する。

 一つ、二つ、三つ。複雑に入り組んだ迷路のような廊下を二人して移動して、やがて魔理沙は突き当たりにたどりついた。追い詰めた、と逃がさないように近づいていくと、彼女がため息を吐きながら振り返る。

 

「行き止まりか。ま、引き離すのには成功したんだからよしとしよう」

「私一人だけなら勝てると思ってるの? あなたも一人なのに」

「どうかな。試してみなきゃわかんないぜ」

 

 試さなくてもわかる。魔力は圧倒的に私の方が多いし、魔法の練度も私が上だ。正面から戦って負ける要素が見当たらない。

 

「スペルカードは常に強い方が勝利するってわけでもないんだ。私がお前に勝てる可能性だってゼロじゃない」

「ゼロよ。だって、あなたに敗北する私の未来が欠片も想像できないもの」

「手厳しいな。レーツェルのやつだったら『それならその可能性を見せてください』とでも言いそうなもんだが、仲は良くても似てはいないってことか」

 

 むっ、と顔をしかめる私に気づいたのか気づいていないのか、ニヤリと口の端を吊り上げた魔理沙が懐からスペルカードを取り出した。

 ――"魔符『ミルキーウェイ』"。

 手を上げるのを合図に発動者の周辺に星屑が形作られ、時計とは逆の回転を描きながら発射されていく。同じ方向に移動すればいいだけなのであまり難しくないと感じた途端、壁や天井、空中から小さな星の欠片が出現し、漂い始めた。

 星屑の回転に合わせながら宙を泳ぐ星の欠片も回避する。星屑同士の間隔は体を通せるくらいには広いので、たまにそこを抜けたりなど。あまり難しいことではないが、少しばかり鬱陶しいな。

 ――"禁忌『恋の迷路』"。

 相手が避け方を強制してくるなら、こちらも同じタイプのスペルカードで返す。無数の小型の魔力弾を相手の星屑の回転に合わせ、自分に当たらない軌道のものも含めて打ち消していく。

 本来ならば"禁忌『恋の迷路』"は一定の間隔で穴が空いている小型弾幕の壁を作り出し、それはその回転方向とは逆に回らなければ避けられない仕組みになっているというスペルカードだ。移動の際に普通の弾幕も織り交ぜて妨害するため、自分を狙ってくる弾を躱しながら素早く弾幕の通路を抜けることを強いられる。

 同タイプのスペルカードが衝突すればどうなるか。互いのほぼすべての弾幕が相殺し合うのだから、長い時間をかけた上で総合力の上回る方が最終的に目標へとたどりつく。

 当然その軍配は私に上がった。不利を悟った魔理沙が技の発動を止め、"禁忌『恋の迷路』"に設定した攻略法通りに弾幕迷路を飛び回り始めた。

 何度かあと少しで当たるという場面もあったが、直撃は一発もない。相手のスペルカードを破るために時間をかけたこともあり、これ以上使い続けるのは美しくないので発動を取りやめた。

 

「さすがに昼の室内となると星の成分が薄いな。大した威力が出せないから普通に押し負ける」

「"禁弾『カタディオプトリック』"」

「いきなりか!」

 

 巨大な弾を一つ、追随するそれなりの数の中くらいと小さな弾幕を合わせて一セット。

 斜め前の天井に向けて五セットを撃ち込むと、わずかな弾力性を付与されたそれは当然のように跳ね返る。それがまた壁や床に当たり、跳ね返り、複雑な軌道を描いて廊下中を駆け巡った。

 それが魔理沙に当たるか避けられるかを判断するよりも早く、今度は左側の壁に五セットを発射する。次は右側に五セット、その次は合計五セットになるように天井に順番で一セットずつ。

 ありとあらゆる大きさの弾幕が壁や天井で反射する軌道は発動者の私でも掴めない。なにせ適当に壁や天井に撃ちまくってるだけなのだから。

 

「っと、とと!」

 

 そんな左右上下どこからでも近寄ってくる弾幕を避けながら、魔力の弾や光線を撃ち出してくる。手馴れているのか回避しながらもしっかりと私を狙った攻撃ではあったものの、いかんせん予想もできない軌道を描く弾幕を躱しながらでは厳しそうだ。少しでも当たりそうになれば射撃はやめて避けることに集中するし、私が彼女の通常弾幕に当たることはないだろう。

 それは相手方もわかっているらしく、新たなスペルカードを片手に掲げていた。

 ――"恋符『ノンディレクショナルレーザー』"。

 魔理沙がミニ八卦炉を私の方に向けると、それを囲むように五つの魔法陣が現れる。五つセットをそこら中に放ちつつも、意識はそちらに向けてなにが来てもいいように身構えた。

 

「実はまだ試作段階なんだけどな、しかたない。これでも食らえっと!」

 

 なにが出てくるのかと思えば、ただ単純に五本の魔力レーザーだった。それぞれ赤、黄、緑、青、紫色をしていて、私を取り囲むようにしながら回転をする。

 魔力光線から逃れようとすれば、常に回っているそれのどれかに当たる可能性が高くなる。だからと言ってその場にとどまっていてはレーザーを一か所に束ねて終わりになってしまう。なるほど、単純だからこそ厄介なスペルカードというわけだ。

 

「でも」

 

 かつてレミリアお姉さまが考案した"弾幕合戦"という遊びでは、スペルカードとは違い、純粋に本気で当てるために弾幕を撃ち合っていた。長女は弾を複雑怪奇な移動で惑わせて、次女はもはや弾幕なのかと疑問に思うほどの多様性、三女の私は弾と弾を当て合ったり弾に圧縮した力を解き放って突然大きくしたりと、三人ともありとあらゆる手を使っていた。

 それに比べれば回るだけの五つの光線など生温く、少し集中すれば当たることなどありえない。

 互いに全力でスペルカードを撃ち合っていた。私は光線を避けながらそこら中に五セットの弾幕を投擲し、魔理沙は逆に不規則な弾の嵐を躱しながらレーザーで私を追いかけたり自分に近づく弾を消去したり。

 これ以上はスペルカードに自身で定めた時間制限を越える、と"禁弾『カタディオプトリック』"を終わりにする。私が先に繰り出したのだから魔理沙はまだ使っていても構わないのだが、それに合わせるように彼女も魔法陣を消去した。

 

「あー、ちょっと待て」

 

 次のスペルカードを取り出そうとした矢先、静止の声をかけられる。

 なに? と鋭い視線を向けると、バツが悪そうに頭を掻いていた。

 

「そんなに自分のお姉さまが心配か? さっきから地味に落ちつきないし、急いで私を倒そうとしなくたってお前のお姉さまは負けないと思うぞ」

「あなたは、仲間の勝ちを信じてないの?」

「私がこうして手こずってるんだからあっちも同様だろうよ。逆に言えば私が余裕で耐えられる程度の時間なら、あいつも平気でいる確率が高いということでもある」

 

 だからまだやられてないはずだ、と魔理沙が続けた。

 

「……私もお姉さまが負けるわけないって、思ってるわ」

「その割にはずっとそわそわしてるぞ」

「だってっ」

 

 心配だから。そんな言葉が口から出かけて、すぐに飲み込んだ。

 負けるわけがないと考えていることは本当だ。お姉さまの敗北なんて少しも私は疑っていないと言い切れる。でも、だとすれば今、自然に言いかけた言の葉の正体はいったいなんなのか。姉が勝つことを一〇〇パーセント信じているのなら心配なんて感情を抱くはずがない。

 

「だって?」

「……お姉さまと一緒にいたいんだもん」

 

 模索し続けて出てきたのは本当にそうなのかさえもわからない、ただなんとなく出ただけの曖昧な回答だった。

 はあ、と魔理沙が大きなため息を吐く。

 

「ずっとそんなこと考えられながら私と遊んでたって思うとちょっと悔しいな。もうちょっと楽しく遊んでほしかったぜ。見方を変えりゃ、それだけ自分の姉を思ってるってことになるんだろうが」

「当たり前よ。私はお姉さまが大好きなんだから」

 

 私にとってレーツェル・スカーレットという存在は、まさしく自身を構成する世界の根幹を担っていた。

 いつも少しでも寂しさを覚えた時にはわかっていたかのようにすぐそばにいて、色んなことで遊んでくれて、優しくしてくれる。

 私のがんばろうとすることを常に応援してくれる。わがままを言えば、それが可能な範囲であればどんなことでも快く了承してくれる。

 暇をしていればいろんなお話を聞かせてくれるし、遊んでくれるし、一緒に寝てくれるし、勉強を手伝ってくれる。

 だからと言ってただ甘やかすだけというわけでもなくて、いけないことをすれば「罰として部屋を掃除」なんて言ったりする。私のことを思ってのことが大半だから素直に受け入れてるつもりだけれど、その罰もほとんどはお姉さまがやってしまうから実は罰と言うほどになっていなかったり。

 

「いつも私のお願いをなんでも聞いてくれたり、レミリアお姉さまと違って毎日会いに来てくれるし……感謝してるわ」

「ふーん。あー、そりゃ結構なことだけど、そういえばお前って四九五年間外に出てないんじゃなかったか?」

「そうだけど、それが?」

「いや、そんなに好きなら、こんな暗いとこに引きこもってたりなんてしていないで外の方までお姉さまについていったりしないのか? その方が一緒にいられるだろうに」

 

 ………………あれ?

 当たり前すぎる的を射た指摘に、一瞬呆然とした。

 お姉さまが好きならついていけばいい。そうすればもっと一緒にいられる――少し考えればすぐに思いつく簡単なことだ。でも、そんなこと一度も考えたことなかった。

 どうしてだろう? 純粋な疑問が思考を駆け巡り、素早く一つの解答を導き出す。

 必要がなかったからだ。待っていればお姉さまが来て、楽しく過ごせて、充実した毎日を味わえる。私の世界は地下室で完結していた。望むモノがすべて手に入っていたから、外に出る必要性が感じられなかったんだ。

 

「あとはー、ほら。本当に好きなら好きな人の役に立ちたいって考えるのは至って普通だろ? こんな地下に引きこもってちゃ小さな恩返しすらできないだろうし、外に出てあいつのやること手伝ったりとか? ここじゃあせいぜいが迷惑をかけないように意識する程度かね」

「恩、返し?」

「家を捨てた私が偉そうなことは言えんが、家族だからって無償で世話を焼く道理もないんだ。私はお前らのことをよく知らんし、私よりも長く生きてるんだからそれ相応の思慮があるのかもしれんが、感謝の気持ちと余裕があるなら少しくらい恩返ししたって(バチ)は当たらな……大丈夫か? 顔色悪いぞ」

 

 すまん、言いすぎたか? という謝罪の言葉さえも耳に入らず、片手を顔の半分を隠すように手を添えた。

 どうしてか、からからと喉が乾いていた。視界がブレ、飛行が不安定になる。心の中で交錯するありとあらゆる感情がぐちゃぐちゃに交錯して、混乱と困惑を見せる思考をかき回す。

 お姉さまは私にたくさんのいろんなことをしてくれる。でも、それに対する恩返しなんて、したことあったっけ。

 私にとって日常は、お姉さまがいつもそばにいることだ。なにをするにも彼女が近くで見守ってくれていて、少しでも困れば手伝ってくれる。それが当たり前で、けれどよく考えれば確かに魔理沙が言う通り、血が繋がっているからって世話を焼き続ける道理はない。

 ……そんなのはわかっている。だから、きちんと感謝の心もちゃんと抱いているつもりだ。でなければ道具を壊して迷惑をかけないようにと加減の練習を始めたりは……違うな。私は、手加減の練習さえもお姉さまに手を貸してもらっていた。本当に迷惑をかけたくなかったのなら、そもそも道具に関わらないか、お姉さまに手伝ってもらわずに練習をしていたはずだ。

 思い返してみれば、私はお姉さまがいない時に加減の練習をしたことなど一度もなかった気がする。ああ、と思考に生じる齟齬の正体に思い至った。迷惑をかけたくないなんて欠片も思ってはいなかった。ただ単に道具を壊したくなかっただけ。

 そういえば、お姉さまはいつもここより上でなにをしているのだろう。これまでお姉さまからほんの少し話してくれることはあったけれど、私から問いかけたことは一度もない。四九五年も一緒にいたのに、どうして欠片も聞こうと考えたりしなかったのか。

 お姉さまにはいつも世話を焼いてもらっていて、少なくない感謝の念も抱いている。そのはずなのに、どうして恩返しなんて発想が少しも出てこなかった?

 それらの答えはすでに出ている。私の世界は地下室で完結していて、外の世界なんてどうでもいいと感じていたからだ。自分が幸せだからそれでいいと、地下室にいるだけで十分な幸福が手に入るからと、他のことへの関心を無意識に捨てていた。

 そこまで考えたところで、唐突に浮かんだ一つの疑問が頭の中を埋め尽くす。

 ――お姉さまは、私と一緒にいて幸せなのかな。

 

「ねぇ」

「ん、なんだ?」

「お姉さまは……どんな人なの?」

 

 私は、私に優しくしてくれるお姉さまの姿しか知らないのだ。それ以外の彼女の姿は見せてくれなかったし、私も知ろうとすらしなかった。知る必要がなかった。

 大好きなはずのお姉さまに私がしてあげられたことを聞かれても、一つさえ答えることができない。魔理沙の言っていたように迷惑をかけないようにすらしていない。それほどに自分だけの幸福に浸り、完結した世界から出ることが思いつきもしなかった。

 ――指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ます。

 いつだったか、ずっと昔にお姉さまと交わした約束が頭をよぎる。あまりに遠すぎる過去で、その内容はもう覚えていない。あの時のお姉さまは……どんな顔、してたっけ。

 

「あー……私も出会ってばっかだからな。他人に語れるほどあいつのことは知らんよ」

「そう……」

「まぁ、なんかよくわからんが、知らないんなら知ろうとすればいいんじゃないか? お前らの寿命は私ら人間と比べれば無限にも等しい時間だしな、いつ始めたところで遅いってことはないだろう」

 

 知ろうとすればいい。そうか、知らないのなら知ればいいんだ。そんな単純なことにも頭が回らないなんて、私は相当混乱していたようだ。

 完結した世界に留まり続けることは心の底から心地いいと思う。まさにこれ以上はないほどに幸せで、まさにそのまま永遠を暮らしたっていいくらいだ。だから四九五年も余計なことを考えずに生きてこれたんだろうし、そうしてこれたのは他でもないお姉さまのおかげだ。

 だからこそ、気づいてしまった今は知りたいという欲求がどうしようもないくらいに溢れてきた。

 私に幸福を与えてくれたお姉さまは、どういう風にこの完結した世界の外側で過ごしているのか、どんなことを考えながら生きているのか。私を幸せにしてくれる彼女は私と同じように幸せでいられているのか、もしくはその反対であってしまうのか。

 知りたい。大好きなお姉さまのことだから、知ってみたい。

 ――もしもレーツェルが他の人にかまけて構ってあげられないことが多くなったら、あなたはどうするの?

 ――どうするって?

 ――嫉妬してその他の人を殺したりするかってこと。

 ――なに言ってるの? そんなことしないわ。だって、お姉さまがよく言う『ワルイコ』になっちゃうじゃない。フランは『イイコ』になりなさい、ってお姉さまも教えてくれたわ。

 ――……そう。変わったわね、フラン。五〇歳くらいまではちょっと興奮するだけでやたらめったら辺りのものを壊して喚き散らしていたのに、今はそんなの影も形もない。あれって止めるのかなり大変なのよ? こうなったのもレーツェルのおかげかしら。

 ――だって、あの後に怒られて部屋の掃除をするのが嫌なんだもん。

 ――ふふっ、そうねぇ。普段が優しいぶん、あの子に叱られると萎縮しちゃうわよね。

 

「そろそろ再開しようぜ。あんまりおしゃべりしてるとせっかく遊んでるのに気が削がれるしな」

「……うん。でも、一つ言わせてもらってもいい?」

「なんだ?」

「ありがとう」

「……? まぁ、どういたしましてだ」

 

 魔理沙がミニ八卦炉を構えるのを見て、私も体内の魔力を再度練り上げた。

 ここからはもう油断も慢心もしない。これを遊戯だと言うのなら、私の初めての恩返しをここで始めよう。お姉さまに対して自身でさえわからなかったことを教えてくれたお礼として、全身全霊で魔理沙の相手をする。

 ようやく私が本気になった気配を感じ取った魔理沙が、面白そうに口元を綻ばせた。

 

「再開しようと言い出した手前に悪いが、実はおしゃべりしすぎたせいで引きつけ作戦のタイムリミットがもう過ぎてるんだよな」

「引きつけ?」

「つまり、ここらで私は霊夢のところに戻らせてもらうってことだ!」

 

 ――"『ブレイジングスター』"。

 ミニ八卦炉を己の後方に向けたかと思うと、一瞬にして高まった魔力が本人の何倍もの太さを誇る光線として発射された。

 それを推進力として、とてつもない速さで体当たりをしかけてくる。突然のことに思わず横に避けてしまい、飛び去って行った彼女を見てこれが狙いだったのだと気づかされた。

 霊夢のところに戻らせてもらう。その発言からして突撃で攻撃をしかけることではなく、私をどかして元来た道を戻ることこそが真の目的。

 

「お姉さま!」

 

 廊下の角に消えていくその姿を目で捉え、私も急いで彼女を追いかけ始めた。

 せっかくやる気を見せた途端にこれである。二対一でレミリアお姉さまを倒したという話が本当なら、それは次女であるお姉さまをも倒し得る可能性があるということ。

 焦りと悔しさ、そしてわずかな楽しさを胸に飛行速度をさらに上げていった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一八.ほんの少しだけ心を開いて

 魔理沙がミニ八卦炉から魔力を収めているのを横目に、霊夢たちがこっそりと話し合う前、魔理沙が短期決戦を心がけるべきだと言っていたのが頭をよぎった。一対一で戦うように仕向けてきたのはどうにもおかしいと感じてはいたが、なるほど。一度両方を引き離し、あとで二対一になるように素早く合流する手はずだったのか。

 少し想像すれば容易に思いつく策だったのに、まんまと引っかかってしまった。フランがこちらに向かってくる気配もあるから、彼女が来るまでに二人がかりで俺を仕留めるつもりなのだろう。だとすれば俺はフランが戻ってくるまで耐え切ればいい……いや、そんなのは美しくないな。

 自分が思う美しさを体現せよ。フランにスペルカードを教えたのは俺なのだ。ここで二人に全力で挑まずして美しき勝利が得られようか。教えた側としてスペルカードがスペルカード足るゆえんは理解している。

 策にはめられたというのなら、その上でそれを打ち破る。その方が美しい。美しくあろうとしなければ、スペルカードで勝利することになんの意味も価値もない。

 ――"神霊『夢想封印』"。

 霊夢の霊力がこれまでにないほど強烈に強く輝くと、彼女の周囲に圧倒的な封印の力が施された霊力弾が八つ形成された。"童話『赤ずきん』"で魔力狼に放っていた似ている技よりも明らかに強力になっている。

 下手な対処をするわけにはいかない。あれだけ封印の力が鮮烈な技だ。一発でも当たれば怯みが生まれ、連鎖的に残りの七発も食らうことになる。

 未だ続いている猫の獣人モード、そして吸血鬼の身体能力を最大限に生かすために近くの壁に張りついた。飛ぼうとする力を壁に引っつこうとする重力にも似た力に変えて、まさしく猫のごとき素早さで駆け回る。

 大型封印霊力弾をサポートするかのように投げ込んでくるお札さえもしっかりと避けながら、床、片側の壁、果ては天井と縦横無尽に足がつけられる場所すべてを足場にした。

 このまま逃げ続けるつもりなど毛頭ない。俺は、自分を追尾している大型封印霊力弾を魔理沙に当てる心づもりで移動している。げんに魔理沙との距離はかなり近づき、そして今、飛び上がってその背後に回り込んだ。

 

「かかったな」

「にゃっ!?」

 

 俺がここにたどりつくまでに霊夢しか攻撃してこなかった疑問が判明する。魔理沙は、大型封印霊力弾の対処法にレーツェル・スカーレットが『私の背後に回る』と予測し、あらかじめ後ろ手でミニ八卦炉を構えていたのだ。

 ――"恋符『マスタースパーク』"。

 いくら猫の獣人モードと言えど、来ることがわかって準備されていた攻撃など避けようがない。俺にバレないように魔力を動かしていたためか威力は控えめであるが、それでもそれは咄嗟に準備した魔力の爪程度では決して掻き消せないものだ。

 これは受けなければならない。そう判断した直後、俺の体が誰かに横から突き飛ばされた。

 

「フランッ!?」

 

 魔理沙とフランの間にはかなりの距離があったのに、どうやって。その疑問はフランの姿を確認した瞬間、正しくはレーヴァテインを握るのとは逆の手から赤い魔力が多く漏れ出しているのを目撃した瞬間に解消された。彼女もまた後方に魔力を放出し、推進力を得ることで速度上昇を図ったのだ。

 

「レーヴァ、テインッ!」

 

 ――"禁忌『レーヴァテイン』"。

 そして俺を助けると同時にスペルカードも発動していた。両端がスペードの形をしたぐにゃりと曲がった棒、レーヴァテイン。それを掲げると、振りかぶったその先端から莫大な赤い魔力が漏れ()でる。

 俺を退けさせたフランのもとに今まさに迫っていたマスタースパークへ、間に合うかどうかのギリギリでレーヴァテインを叩きつけた。

 

「うおっ!?」

 

 多少太くても威力控えめ気味な魔力光線では吸血鬼の全力がこもった一撃は受け切れず、すぐさまレーヴァテインがマスタースパークを押しのけた。しかし身の危機を察知したらしい魔理沙が即行でスペルカードを解除して横に飛び避けたため、攻撃を当てるまでは行かない。しかしそれでいい。俺に当たるはずだった弾をフランが引き受け、そしてフラン自身も無事であるということは最良とまで言える結果なのだ。

 

「助かりました。フラン」

「うん。ねぇ、お姉さま」

「なんですか?」

「信じてるわ」

 

 それだけ告げて魔理沙の方へ突っ込むと、俺を庇うような位置でレーヴァテインを振り回し始めた。

 改めて前を向けば、そこには俺を追尾して迫る八つの大型封印魔力弾がある。魔理沙に当てる作戦は失敗し、けれどもフランが魔理沙の相手をしてくれるようになったおかげで大型封印弾のみに集中できる。

 

「……信じられてあげます」

 

 俺ならば正面からこれを打ち破れるとフランは判断したのだ。それでは期待に応えるとしよう。猫の獣人モードで小細工を弄するのではなく、また別のスペルカードで。

 ――"神刃『ジャブダ・ベディ』"。

 

「その程度の速さで、この私を捉えることができますか?」

 

 猫の獣人モードを解除すると、魔力と妖力を練り上げて、徐々に翼に流していった。染み渡らせるように翼の根元から先端までじっくりと。

 そうして動かず、大型封印霊力弾が残り一メートルで当たるというところで『光の翼』を具現化させた。

 音を越える。

 口にするだけならばあまりにも簡単な、しかし実際に行うとなれば決して生易しいものではない。能力で無効化しているから平気であるとは言え、本来ならば空気の壁は我が身さえ傷つけ、発生する衝撃波は辺りを大きく巻き込んでしまう。それはまさに天災と言っても過言ではないほどに凄烈だ。

 吸血鬼でさえ知覚が困難な速度を完全に己が物として、俺は八つの霊力弾の周りを縦横無尽に大きく何周も飛び回った。一緒に魔力弾と妖力弾もバラまいているから、今は大量の弾幕が大型封印霊力弾の周りを埋め尽くしている状態だ。

 何百周とする頃には最初の弾が大型封印霊力弾に衝突し、何千周とする頃にはその数十倍の弾幕が殺到していた。大型封印霊力弾は、標的が速すぎて追尾し切れていないようであった。周りを回り続けられるがためにその場に留まり、ただ俺の弾幕を受け続けている。ちなみに目が回らないように自身に魔法をかけていたりもする。さすがに数秒で何百何千と回っていては吸血鬼と言えど気分は悪くなる。

 たったの数秒、もしくは数十秒。ただしあまりにも濃厚でバカげた速さ。追いかけられず一か所にまとまった八つの大型封印霊力弾へ、スペルカードの最後として俺自身が突っ込んでいった。

 全身に魔力と妖力を纏い、全身全霊の一撃を大型封印霊力弾へと叩き込む。それまでに俺の弾幕を数多く当てていたこともあり、容易く残りの力が霧散して消えていった。

 これが"神刃『ジャブダ・ベディ』"。まずは知覚できない速度を持って相手を取り囲むように無数の弾幕を設置し、一定時間経過後に最後の仕上げを打ち込む。そしてその最後の仕上げとは、俺自身が弾幕になることだ。

 

「……さすがに驚いたわ。小細工なしでそれを攻略できたのはあんたが初めてよ」

 

 魔理沙が霊夢のもとに戻り、フランが俺の横に並ぶ。二対二で相対し、霊夢が目を見開いてそんな感想を述べた。

 

「だってよ。よかったな、霊夢にしては珍しく本気で驚いてるみたいだぞ」

「どういたしまして、でしょうか。私も魔理沙には驚かされましたよ。まさか後ろに回るのが読まれていたなんて」

「咲夜から似たようなことされたって霊夢から聞いてたしな。こう、ビビッと来たんだ。それより私はフランのその変な棒に驚いたぜ。なんだあれ。私のファイナルスパークでも勝てるかどうかってくらいだ」

「えっと、どういたしましてでいいのかな。ふふん、なんと言っても私の自信作だもん。そう簡単には破れないよ」

 

 そんな会話をして魔理沙とフランが笑い合う中、唯一霊夢だけが不満そうに頬を膨らませていた。

 

「霊夢の封印のアレもすごかったですよ。食らったら絶対にただではすみませんでした」

「あんな簡単に攻略されてそんなこと言われてもねぇ」

「あのスペルカード、私の切り札の一つなんですよ。赤ずきんみたいなお遊びでも長靴をはいた猫みたいな制限をつけたものでもない、私のこの翼のすべてが込められているんです」

 

 逆に言えばそれを使わなければ対処し切れないくらい、大型封印霊力弾が過激であったということだ。

 霊夢にしてみれば今の言葉は嫌味に聞こえるのかもしれないが、俺は純粋に賞賛している。そのことには彼女も気がついているらしい。はぁ、と小さくため息を吐いていた。ちょっとだけ嬉しそうに見えたのは幻視ではないと思いたい。

 

「それにしても作戦失敗ね。どうするの、魔理沙。また二対二になっちゃったわよ」

「そうだなぁ。同じ作戦は二度も通用しないだろうし、他の策は……悪いがすぐには思いつきそうもない。霊夢はどうだ?」

「あいにくと私もよ。あの二人の弾幕を避けながら考えるしかないわね」

 

 短期決戦にしたいという彼女らの魂胆はすでに破綻している。俺たちが揃った時点でそれはもう不可能なのだ。最後まで一緒に遊び尽くすしかない。

 フランと視線を合わせ、頷き合うと、二人して耐久型――制限時間内を回避し続けることでしかほぼ攻略法がない仕組み――のスペルカードを取り出した。

 ――"童謡『ハンプティ・ダンプティ』"。

 ――"秘弾『そして誰もいなくなるか?』"。

 霊夢と魔理沙は諦めていないだろうから、きっとまだまだ遊戯は続く。どれだけ時間がかかってもいい。もっとたくさんの、もっといろんなものを見せてくれ。悪いけど、このまま終わりを迎えるまで付き合ってもらうとしよう。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「行っちゃったね……」

 

 フランが名残惜しそうな声音をしていたので、また遊んでもらえばいいんですよ、と彼女の頭をゆっくりと撫でる。

 見事俺たちの耐久スペルを耐え切った二人とさらに何度かのスペカの応酬を重ねた後、魔理沙が降参だと両手を上げて降伏を示した。体力や気力の限界、そしてなによりも魔力がそれ以上は持たないのだという。霊夢はまだまだ霊力には余裕があったようであるが、さすがに一人で二人の相手をしてもらうわけにはいかない。魔理沙は自分たちの負けでいいと言っていたが、仕留め切れなかったこちら側としてはそんなのは気分がよくない。引き分けということで落ちつけておいた。

 霊夢と魔理沙を見送り、そこら中に穴が空いた廊下を見ては妖精メイドたちに謝りたい気持ちになる。絶対に修理を手伝おう。なにせ俺も惨状を引き起こした原因の一人だ。

 

「……お姉さま、一つ、お願いごとしてもいい?」

「いいですよ」

「そうじゃなくて……いつものように軽いのじゃなくて、本当に真剣なお願い」

 

 気づけばフランは、まるで自分の中でなにか大きな覚悟を固めたかのように、俺の顔を見つめてきていた。撫でられて、いつもなら気持ちよさそうに細まる目も、今はその陽気さが欠片も見当たらない。

 そんな空気に当てられて、彼女の頭から手を離した。余計なことを考えていた思考をシャットするために少しの間だけ目を閉じて、再度開けた時に「言ってください」とフランに臨む。

 

「私、地下室の……ううん、この館の外に出てみたい。この世界がどんな形をしてるのか、お姉さまがどんな暮らしをしてるのか、この目で見てみたい。そしてその上で、私の意思で動いてみたいの」

「あ――――」

 

 少なからず予想はしていたことだったが、どうしても驚愕が抑え切れなかった。なにせ軽い考えから来た発言ではないことが容易く実感できるくらい、フランの瞳は強く純粋に透き通っていた。

 ここまで強く、純粋になにかを求めてきたことは、今までに一度もなかった。

 

「私、お姉さまのこととか本当はなんにも知らなかった。だから、もっとたくさんのことを知りたいの。もちろん絶対に『イイコ』でいる。お姉さまが言うことは全部聞くし、お姉さまの邪魔はしないし、能力だって勝手に使わないわ」

「フラン……」

「……嫌だけど、でも、ワガママだって、それ以上はもう言わないから。お願い、お姉さま。これからは、私も一緒に外に連れてって?」

 

 原作でもそうだったからだとか、手加減の修行は完璧だからだとか、そんな理屈的な理由は俺の頭から抜け落ちていた。

 俺は両親とその眷属、そしてフランへの償いと贖いのために生きてきた。フランに狂気を宿した原因は俺なのだからと、責任を果たすために過ごしてきた。その罪の意識が後ろめたさを俺に与え、それが阻害していたせいで、一番安全だと判断できる今日に至るまで彼女を外に連れ出そうとしなかった。

 フランを信じる。今ここで必要なのは、それだけだ。

 もしかしたら後悔することになるかもしれない。地下室に四九五年もいさせて大切なものを守れていたのだから、今のままが本当は最善なのかもしれない。でも、フランだって俺の大切なものの一つだ。

 元々連れ出す気だったとか、そういうんじゃなくて、信じるんだ。フランドール・スカーレットという自分の妹を。

 ――うん。ねぇ、お姉さま。

 ――なんですか?

 ――信じてるわ。

 ――……信じられてあげます。

 

「わかりました」

 

 フランは『イイコ』でいると言っている。俺の言った言葉も守ると言っている。能力を使わないとも言っている。最初の五〇年はちょっと興奮するだけでやたらめったら辺りを壊しまくっていたけれど、ここ最近はそんなもの影も形もない。信じなければならない。フランが俺を信じたように、俺も少しは本当の意味でフランを信じなければならない――信じてみたい。

 自分の中でそんな結論を出して、フランの頭にそっと手を置いた。

 

「……さっき、私の言うことはなんでも聞くって言いましたよね」

「え? うん、まぁ」

「では早速一つ。お姉さまのことを時たま『あいつ』って呼ぶのはやめましょうか」

「むぅ……しかたないなぁ。わかったわ。お姉さまは本当にレミリアお姉さまが好きだよね」

「私にとっては天使みたいなものですから」

「悪魔なのに?」

 

 よくよく考えれば、天使は人間にとっては至高の存在であろうが、悪魔にとっては天敵みたいなものなのかもしれない。それなら悪魔という表現の方が正しいのかな。いや、俺も悪魔だしフランも悪魔だ。それならレミリアは……。

 

「邪神?」

「……お姉さま、たまによく変なこと言うね」

「いえ、真面目に言ってるんですが……」

 

 悪魔にとって至高の存在と言えば邪神とか魔王とかだろう。なにがおかしいのか。本気でわからない、と首を傾げる俺に、フランは「お姉さまらしいけどね」と苦笑を浮かべていた。

 少しだけなら、救われてもいいのかな……?

 頭に置いていた手で撫でると心地よさそうに彼女が擦り寄ってきて、張り裂けそうな痛みを与えてくる胸の穴を埋めてくれるようだった。




今話を以て「Kapitel 3.幻想が遍く世界で」は終了となります。
紅魔郷メンバーの全員の勝負を書くのは予想以上に骨が折れたので、「Kapitel 4」以降はもうちょっと大人しくしていようと思います。
あとはスペルカードばかり使いすぎで通常弾幕がほとんどないことと、霊夢さんが反則気味なので、次回以降はそれも改善していきたいです。

「Kapitel 4」は霊夢たちとの交流、香霖堂への訪問、今までずっとスルーしてきたチルノとの出会いなどができればと考えています。
あくまで予定なので狂う可能性は大きくありますが、次回からもどうぞよろしくお願いいたします。


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Kapitel 4.新たな日常は緩やかに
一.博麗神社へ初めての訪問


 天高くには忌々しき太陽がそびえ、しかし少し前までと比べるとその輝きも鈍ってきた。それに合わせるかのように木々の葉も生気が抜け落ち地へと落ち、火でも放とうものなら簡単に火事が起こせそうな季節になってしまった。

 霊夢と魔理沙にタッグ戦を挑んだ日以来、一か月ほどは館内や館の付近にフランを連れ回っていた。働く妖精メイドたちの姿を見せたり、パチュリーや咲夜、美鈴たちと交流を深めさせたり。レミリアがそんな俺とフランを見て目を丸くしていたのが印象的だった。

 フランも一緒に館に訪れるルーミアや紫と遊んだり、外に連れ出して一緒に星を眺めたり、たまには地下室で一緒にお休みもしたりした。

 

「というわけで、せっかくあれから一か月も経ったので今日は博麗神社にお邪魔しに来たというわけです」

「帰れ。今すぐ」

 

 霊夢になんで来たのかと聞かれたので答えてあげたのだが、即行で突っぱねられてしまった。

 博麗神社――幻想郷のもっとも東に建っており、今のところは幻想郷で唯一の神社だ。ただし幻想郷と外の世界をつなぐ博麗大結界の境目に位置している関係上、実は外の世界にも同じような建物があるので、厳密に言うなれば幻想郷に建っているというわけではない。

 ちょっと前に紫から聞いたところによると神社の周辺に広がる森が結界の役目を担っているらしい。木々の並びで結界を形成しているんだとか。また、結界の狭間にあるために外の世界のモノ(人間も例外ではない)も結構流れてくるため、それを欲しがる蒐集(しゅうしゅう)家も多く集まる。

 神社に来た時、霊夢は境内の掃除をしていたので今は俺も予備の竹箒を借りてそれを手伝っている。影の魔法で一掃してもよかったのだが昼間ではあまり効率がよくないし、人の手が容易に及ぶ範囲であれば手間をかけた方が達成感があるというものだ。

 ふぅ、と一息ついた霊夢が鳥居の台石に腰かけると、「大体」と神社の縁側を指差した。

 

「なんであんたら三人一緒に来るのよ。ここが悪魔が住み着く神社とか言われたらどうしてくれるの?」

「大丈夫ですよ。どうせ私たちがいなくても妖怪神社と呼ばれますから」

「それは大丈夫って言わない」

 

 賽銭箱やら本坪鈴辺りから垂らした縄やらがある横の縁側では、フランとレミリアが二人で将棋を指している。ちなみにフランの方が押しているようで、挑発的な笑みを浮かべる三女と「ぐぬぬ」と悔しそうに顔を顰める長女の構図になっていた。

 フランは推理小説が好きな影響か意外に頭がいい。この勝負も前回と同じように、諦め切れないレミリアが最後まで粘ってフランに王将以外のほとんどの駒が取られる終わりになると予想した。割とひどい。

 

「はぁ、昼間なのにねぇ。雨でも降らないかしら」

「平和でいいじゃないですか」

「心の平和も欲しいわね」

 

 割とのんきにしてるだろうに。

 吹いてきた風のせいで落ち葉が参道の上に戻ってきたのを眺め、これは終わらないなと肩を竦める。ついでに、その肩から伸びている黒い物質の様子を確認した。

 自分の影を傘状に見立てて伸ばし日差しを防いでいる。レミリアやフランは日傘を使わねばならないために、太陽の下で誰の手も借りず両腕を解放できるのは俺だけだ。

 それでもいちいち魔法を使うのは手間がかかる。近いうちにローブやらを編むなり買うなりしようと考えていた。

 

「そうそう、まだ名前を呼んだことありませんでしたよね。霊夢でいいですか? 私のこともレーツェルかレーテで構いません」

「好きに呼んでいいわよ。名前を覚えるかどうかは別として私も適当に呼ばせてもらうから」

「了解です」

 

 ふと、霊夢がなにかに気づいたように空を見上げた。

 

「よう、今日の神社はずいぶんとまがまがしいな。邪神でも沸いてきそうだぜ」

「ホントに出て来そうだからやめて」

 

 やって来たのは竹箒に乗ったいかにも魔法使いらしい恰好をした人間、霧雨魔理沙。参道に降り立つと縁側にいる二人と俺を交互に見ては物珍しそうな顔をしている。

 

「おはようございます、魔理沙」

「ああ、こんにちわだ。この前の魔法談義は楽しかったぜ。またあったら誘ってくれ」

「もちろんです。歓迎しますよ」

 

 霊夢と会うのは今日が二度目であるが、魔理沙とは何度も交流を重ねている。一番近い記憶を掘り返せば、俺とフランにパチュリーと魔理沙で魔法について語り合った日が頭に浮かんだ。

 しかし、と魔理沙がジトっとした目で霊夢を見た。

 

「お客さまに掃除を手伝わせて自分は休憩か。いいご身分だな」

「手伝いたいって言ったのはレーツェルよ」

「で、手伝わせたのは霊夢だろ? 竹箒持ってるしな。他人にやらせてる以上は自分もがんばらないと面目が立たないぜ?」

「……はあ、わかったわよ。やればいいんでしょやれば……レーツェル、ありがとう。助かってるわ」

「どういたしましてです」

 

 霊夢が掃除を再開し、彼女が座っていた台石の位置に堂々と魔理沙が腰を下ろした。今度は目元を引くつかせた霊夢が彼女に目を向けていたが、意にも介さず素知らぬ顔で両手を頭の後ろに回して柱に寄りかかっている。

 

「お姉さま! 私が勝ったわ!」

「ん、おめでとうございます。信じてましたよ」

 

 将棋の決着がついたらしく、日傘を投げ出しそうな勢いでフランが俺たちの方に近寄ってきた。

 台石に座る少女を見ては「魔理沙おはよう」、「こんにちわだぜ」。二人が会話をしているうちに霊夢に「ちょっと休憩もらいます」と一言告げて縁側の方に歩いていく。

 俯いているレミリアに近寄って将棋盤を覗き込んでみると、なるほど、盤上のレミリアの駒は歩が四枚に銀に香車と桂馬が一枚。これはまた手ひどくやられたみたいだ。

 ぽんぽんと肩を叩くと、ガバッと俺の胸に飛び込んできた。

 

「うー……このままじゃ姉の威厳がなくなっちゃうわ……」

「大丈夫ですよ。私の中でもフランの中でも、昔からお姉さまへの印象は変わっていませんから」

「…………それはそれで困るんだけど。っていうかどういう意味なの?」

「そのまんまですよ」

 

 涙目のレミリアを落ちつかせて縁側に座り直させる。

 鳥居の方が騒がしいので二人して見てみれば、はしゃぐフランと冷や汗を流している魔理沙、ニヤリと口の端を吊り上げた霊夢が窺えた。耳を澄ますと、どうやらフランが魔理沙に弾幕ごっこを挑んだらしい。一人ではキツいと判断した魔理沙が霊夢に助けを求めたところで「私はお客さまに手伝ってもらっている身だから掃除しないとだしねぇ」。鬼である。

 三人のもとへ向かって歩き出すと、背後からは日傘を開いたレミリアがついてくる音がした。

 

「フラン、ダメですよ。今は昼間じゃないですか。弾幕ごっこなんてやったら具合が悪くなっちゃいます」

「むぅ、それもそうね。夢中でそこまで考えが及ばなかったわ」

 

 あの一件以降、どうやらフランは魔理沙を慕っているようでたびたび遊びに誘っている。大図書館で魔法についての意見交換なども話し合うことがあり、紅魔館のメンバーの次に仲が良さそうだ。

 そうは言っても、紅魔館以外のフランの知り合いとなるとかなり限定されてくるのだが。

 

「助かったぜ、レーツェル。お礼に今度キノコでもやるよ」

「いらないです」

「そうか? いつの間にかこいつに生えてたやつとかやるぞ? 他に類のない固有種だ」

 

 こいつの部分でいつも飛ぶ際に使っている竹箒を持ち上げた。そんな怪しげなキノコは余計にいらない。食べないのはもちろんであるが、キノコを燃料にした魔法を使う予定は今のところない。錬金術で分解して成分を研究すれば面白い結果が得られそうではあるが。

 不意に強い風が吹き、魔理沙は帽子を押さえてフランとレミリアは日傘を強く持ち直す。終わった頃には参道に新たな落ち葉が転がっていて、とても大きなため息を霊夢が吐いた。

 

「あー、もう! やってらんない! レーツェル、もう掃除はいいわよ! 今日はもう働かないから!」

「風が強い日ですし、しかたないですね。積もりすぎないように管理はしないといけないとは思いますが」

 

 今日もサボるのか、と魔理沙が苦笑していた。博麗神社は森に囲まれているから落ち葉がよく流れてくる。どのみち境内から落ち葉をすべてなくすなど無理な話なのだ。

 竹箒を柱に立てかけて魔理沙の隣に再び座り込んだ霊夢は、両手を台石について俺たち三姉妹に視線を送ってくる。

 

「あんたらは館の掃除とかどうしてるの? 地下の廊下も廊下のくせにすごく複雑で長かったし、その割には埃はあんまりなかったけど」

「咲夜や妖精メイドたちがやってくれるんですよ。広すぎて手が足りないんですけどね」

 

 時間を止めなきゃやってられないと咲夜も言っていたし、メイドは未だ募集中だ。吸血鬼の館で働こうなどと考える人間はおらず、ほとんどの妖怪は悪魔を嫌っているし、幽霊は仕事なんてできない。結局残るのは妖精だけになるのだけれど。

 

「そうそう、前々から不思議に思ってたんだよな。お前らの家って見た目よりはるかに広くないか? どこもかしこもスペルカードで遊べるくらいだ」

「あー、それは私も気になってた。迷うくらいよあれ」

 

 その疑問に答えたのは俺ではなく、ふふんと鼻を鳴らしたレミリアだ。

 

「咲夜は時間を操る能力を持つ優秀なメイドよ。時間を操るとは、すなわち空間を支配することと同義。咲夜の能力で館の中は拡張されてるの」

「ふぅん。自分でそんな風にしておいて手が足りなくなるなんて、完璧に見えてあいつも抜けてるところがあるのね」

「霊夢は咲夜と結構会ってるの?」

「あんたらの長女が連れてくることがあるのよ」

 

 霊夢はフランの質問に返答すると、ふいと思い出したかのようにレミリアをビシッと指差した。

 

「そうそう、あんたらにやられた後は大変だったのよ。私は人間だからあんたらと違って腕が治るのに日数かかるし、風呂に入ると怪我にお湯がしみるし、大体なによ開幕のあの槍みたいなの。あんなの当たったら死んじゃうじゃない。反則よ反則」

「あら、自分が動けないデメリットがあるとは言え、一対一ならともかく二対一で動きを止めたりしてくるのは反則じゃないのかしら。レーツェルたちとの勝負でも問答無用で同じことをしたり、結界とか追尾弾とかたくさん使ってたって聞いたけど」

「ああ、あれはひどかったな。さすがの私も引いたぜ」

「なによ魔理沙まで。あんただってレミリアとの決闘で弾を撃ち落とすとかやってたでしょうが。普通の弾幕ならいいかもしれないけど、スペルカードのそれを躱しもせず打ち消してどうにかするなんて反則に近いじゃない」

 

 あーだこーだと言い合う二人の人間と我らが長女を眺め、フランと顔を突き合わせた。自分たちは違反染みたことをしてないかと記憶を探ってみたが……そういえばイルカ弾幕で魔理沙のスペルカードに穴を開けたりしていた。魔理沙のように回避できないからと撃ったのではなく攻略のために攻撃をしたのだけれど、今後の反省に活かすに越したことはない。

 フランは「うーん」と考え込んでいる辺り、そういうことはしていなさそうである。この場で唯一まともなのが一番世間知らずな我が妹とは、なんともまぁ幻想郷は常識に囚われていないようだ。

 ふと、霊夢たちとレミリアを見て思う。人間と悪魔がこんな風に話し合う世界なんて、どれだけ時代をさかのぼってもこの幻想郷だけだろう。

 そうしてこの日を境に、神社に悪魔がもう二人訪れるようになったらしい。



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二.冷気を纏う最強の妖精

 秋もほどほどに遠ざかり、今年もまたサザンカやシクラメンが美しく咲き誇る季節がやって来た。咲夜が季節に合う毒草を早速紅茶に混ぜてくるのはいつものこととして、俺やレミリア、美鈴にとっては久方ぶりの、パチュリーや咲夜には初めての『本来の冬』を迎えたことになる。

 一〇〇年と少し前から徐々に妖怪の力が弱まり始め、妖精も同様に数を減らして行ったのは周知の事実だ。人間が『力』を手に入れ科学を突き詰め、否定された存在は幻想となっていく。そしてここは幻想となった者たちが集う楽園の幻想郷なので、妖精は本当に溢れるほどにいる。

 桜が咲くほどの月になれば春を告げる妖精を筆頭に春にちなんだ妖精たちの活動が活発になり、夏も然り、秋も然り、冬も然り。本来の寒さに加えて季節にちなんだ妖精たちが騒ぎ出すさまがあってこそ『本来の冬』であると言える。なにせ妖精とは自然現象そのものの正体、大自然の具現なのだから。

 今もどこかで冬に携わる妖精が元気にはしゃいでいるに違いない、なんて思いながら、俺は一人でまた別の妖精と霧の湖の上空で対峙していた。

 夏にいれば便利と定評のある氷の妖精、かつてレミリアが異変を起こした際に霊夢が蹴散らした、妖精の枠を出かかっている妖精である。

 

「あたいの眠りを邪魔しやがって、許さないわ!」

「ごめんなさい。その、まさか湖の真ん中で寝てるなんて思わなくて……」

「言いわけ無用! 勝負よ勝負! この因縁に決着つけてやる!」

 

 妖精だけに身長は低く、俺と同じ位だ。白いシャツの上に縁のギザギザ模様が印象に残る青いワンピースを纏い、頭の後ろには青いリボンを付けている。髪型は軽くウェーブがかった薄い水色のセミショートヘアーだ。青い瞳は氷の妖精だけあって宝石のように綺麗で、彼女の背中には三対の氷晶が羽として浮いている。

 この妖精の名をチルノと言い、これまた東方Projectの登場人物の一人だ。霧の湖の付近を根城としているらしいのでいずれ出会うとは思っていたが、現在、俺は怒った彼女に指を差されていた。

 経緯は非常に単純で全面的に俺が悪く、「『光の翼』なしでの最高速度ってどれくらいでしょうか」と自分の影を日の当たる部分だけに纏わせて霧の湖上を高速で飛び回っていたことは記憶に新しい。吸血鬼は流水が大の苦手であるものの、飛んだ後に水飛沫が上がるのが妙に楽しくなってそこら中を動き回ってしまった。その結果、湖の真ん中で一部を凍らせて昼寝をしていたチルノに水をかけてしまったというわけである。

 はしゃぎすぎはよくなかったと反省しているし、もちろんチルノに悪い気持ちもあってお詫びならいくらでもしてもいいのだけれど、さきほどから勝負勝負と話を聞いてくれない。

 

「……しかたない、ですね。いいでしょう。何枚にしますか?」

 

 太陽が出ているから戦いにくいと言っても、さすがに妖精には負けない自信がある。ここはいったん彼女の希望通り戦闘を行って一度落ちつかせるべきだろう。

 フッと口元を緩めたチルノはかっこよく即答しようとして、なにも思いついていなかったらしく口をパクパクさせた。「うーん」と顎に手を添え考えに考えた後に電球が灯ったように顔を上げるとグッと拳を強く握る。

 

「一枚! あんたなんか一撃で十分よ!」

「わかりました。ところで、一つ提案いいでしょうか」

「なに? ふふんっ、さてはあたいの威光にビビったのね」

 

 妖精なのに吸血鬼を相手にしてここまで自信満々に宣言できるのは素直にすごいと思う。

 

「どう捉えてもらっても構いませんよ。私が勝ったら、あなたにきちんと謝罪する権利をくれませんか? あと、決闘後のひと時ということで私の家で冷たい飲み物でも飲みましょう」

「へ?」

「昨日の敵は今日の友、スペルカードを見せ合うということは自分の在り方を魅せるということです。それにせっかくご近所さんなんですから仲良くならないと損ですよ」

 

 紅魔館は霧の湖の畔に転移して来た建物だ。今後もこうして出会うこともあるだろうから、交流を深めておいた方が面白い。

 

「冷たい飲み物! ホントにくれ……ハッ!? そ、そんなものに釣られて負けてやったりなんてしないから! とにかく勝負よ!」

「わかっています」

 

 チルノは長い年月を生きている、らしい。ただ、やはり妖精だけあって基本的には頭が弱い。それは単にバカであると捉えがちであるが、逆に言えばいつまでも無邪気でいられるということで、多くの時を生きる上で日常を楽しむ心とはなによりも重視される。

 なんにせよ一度落ちつかせなければならない。チルノと距離を取り、魔法に少しでも影響を及ぼさせないように魔力は制限して、体内の妖力に意識を集中させた。

 

「始めましょう」

 

 互いに弾幕を作り出す。チルノは氷の妖精としての『冷気()を操る程度の能力』で空気を凍らせた氷結晶を、俺は妖力に指向性と形状を持たせた生物型弾幕を。

 そのまま一秒、二秒と時が過ぎていき、先に我慢できなくなったチルノが氷結晶を一気に発射してきた。小さな氷結晶がそこそこの範囲でまとまっているので、そのままとどまって小刻みに避けるのは少しばかりキツそうだ。

 今は昼なので弾幕を受けると影の日差しガードが解ける可能性があるからノーミスを心がけるべきだ。氷結晶は一つのグループになっているので大きく避ければ当たらない。

 チルノの周りを回るように飛びながらあらかじめ生成しておいた小鳥型弾幕を発射していく。重力の性質が付与された小鳥の形をした妖力弾が翼をはためかせていくのだけれど、これには重大な欠陥があった。小さいながら複雑な形状で重力に加えて翼を動かし風を発生させる――つまりは作り出すのにはそこそこの集中力を使わなければならず、その割には移動速度が実際の小鳥と同程度なために微妙。普通の弾幕を普通に撃った方が強いのだ。

 今まで実戦で使ったことがなく、いくら微妙でもなにかしらの有用性があるのかもしれないと期待してみたが、案の定妖精であるチルノにさえ簡単に避けられていた。生成が他と比べて時間がかかるために数が少ないのもマイナスしているようだ。

 小鳥型弾幕がまるで役に立たないので生成と発射を止め、次はどの生物で攻めようかと思考を張り巡らせる。

 

「ああ、もう! さっきからうろちょろとぉ!」

 

 チルノが弾幕の撃ち方を変えてきた。全体に適当妖力弾をばら撒きつつ、合間合間に三本の冷凍光線を三回連続で放ってくる。ただ、光線の三本のうち二本はチルノから見て左右三〇度辺りに広がっていってしまうため、実質的には一本だ。

 大きく回避して安全策を取ることはできなくなってしまったが、チルノは妖精の中では規格外と言ってもしょせんは妖精だ。全方向へ弾幕を撃てばその分だけ俺に向かってくる弾幕の密度は低くなり、その場にとどまっていても危なげなく躱すことができるようになっていた。

 そうして彼女の氷結晶や冷凍光線を避けながら、氷にちなんでペンギン型の弾幕を創造していく。大きさはさまざまで、指で摘まめそうなものから等身大のものまで。

 俺の生物型弾幕には動物の種類によって小さな特殊効果が設定されている。小鳥は例外として、例えばイルカであれば、なにかに衝突した時には大きく爆散して衝撃を周囲に散らすようになっている。ペンギンもまたイルカほどではないにしろ小規模の爆発を起こすが、本当の特殊効果は別に設定してあった。

 ペンギン型弾幕は互いに引き合うのだ。ゆえに、広げて放てば一定距離を進んだのちにすべてが一か所に集まり、それを引き金にして辺りに衝撃を撒き散らす。ペンギンが大きければ大きいほどに他のペンギン型弾幕を引き寄せる引力は強い。

 

「わ、わっ!?」

 

 その結果、放たれた無数のペンギン型弾幕は俺でさえも予測できない複雑怪奇な軌道を描いていく。

 巨大なペンギン型弾幕は引力が強いために他のペンギンを多く集め、しかし一発でも触れ合えば爆発を起こして引力を失う。そうなれば他のペンギン型弾幕の引力同士が強く作用するようになり、爆発し、また引力の方向が変わり、それが幾度となく繰り返されるのだ。

 宙のそこら中で起き続ける爆発や小刻みに軌道を変化させるペンギン型弾幕に混乱したチルノへ、容赦なくその弾幕が殺到した。どう避ければいいのか判断がつかなかったのだろう。何発か命中し、飛行がままならなくなって湖に落ちて行った。

 

「……さて、そろそろですか」

「あったまきたぁー!」

 

 ――"凍符『マイナスK』"。

 ばしゃんと飛び出てきたチルノの妖力が高まり、彼女を中心にして均等になるように三方向へと楕円型の妖力弾が射出された。少しずつ撃つ方向が変わりながら連続的に放たれてはいるものの、それだけなので首を傾げる。しかし一番最初に撃ち出されていた弾幕が急激に氷塊と化してからはその余裕もなくなった。

 急激に凍りついたために弾幕に亀裂が入り、破裂する。それにより内部の妖力が無数に分裂して最小限にまで縮小し、さらには氷として形をしっかりと保ちながら放射状となって俺に向かってくる。その場にとどまって小刻みに避けるなんて選択をした日には俺もただでは済まないことは確実だ。

 普通の妖精にこんな強力なスペルカードは使えない。やはり種族最強は一味違うか。

 

「……あー」

 

 しかし、避けようと実際に動き始めてから気づいた。次々と楕円妖力弾が凍っていき、何度も何度も破裂を繰り返すために一方向を制圧する性能は素晴らしい。けれどもよく見れば、一定の距離を進んでから氷塊になっている。つまりはチルノの近くにいれば三方向に広がる楕円型弾幕を避けるだけになり、簡単に攻略できそうなのだ。そうでなくとも三方向にしか撃っていないので単純に空間を制圧し切れていなかった。

 弾幕が一切放たれていない安全地帯に身をすべり込ませれば、考えていた通りにほとんどチルノの弾幕に動かなくなった。三方向の弾幕では支配し切れていない空間上を慎重に移動し、残り数メートルというところで小鳥型弾幕を彼女へと飛ばした。

 

「あたっ!?」

「もうちょっと射出の方向とか密度とかを調整すればかなり強力なスペルカードになると思うんですが……」

 

 一度はすごいと感じたが、わかりやすすぎる安全地帯があるせいで攻略がかなり簡単になってしまう。チルノと言えどやはり妖精は妖精だった。

 小鳥が額に当たって再び湖に落ちて行く彼女を、水面に当たる前に飛び寄って抱え上げる。

 

「私の勝ちです」

「きょ、今日は調子が悪かっただけだもん。あたいが本気を出せばあんたなんてコテンパンよ」

「でも今回は私の勝利です。ですから、賭けの内容を実行しましょう」

 

 そのままに紅魔館へ向かって飛んでいく。約束通り冷たい飲み物を提供するのだ。そのことをチルノも思い出したのか、負けたのにも拘わらず目がキラキラとしだした。

 

「ごめんなさい」

「へ? なに?」

「あなたの睡眠を妨げてしまったこと、本当に悪気はなかったんです。賭けの内容として謝罪するなんて卑怯ですが……許してくれませんか?」

「え? …………あー! そういえばそんなこともあったような!」

 

 いや、そんな反応されてしまうと真剣に悩んでた俺がバカみたいなんですが。

 

「今のあたいは気分がいいから許してあげるよ! ふっ、あたいったら最強ね!」

「ありがとうございます」

 

 最強は関係ないと思うけど。

 幸せそうに鼻歌まで歌い出す冷たい妖精を腕に抱えながら、小さく肩を竦めた。

 こうして元気いっぱいな彼女を眺めていると、こっちまで楽しくなってくる気がする。妖精は総じて悪戯好きで人間は非常に迷惑しているらしいが、大きな力を備えた吸血鬼である俺にとっては微笑ましい存在だ。

 騒いでいるチルノに相づちを打ちながら、どんな飲み物を上げれば喜ぶだろうかと思考を巡らせていった。



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三.レーテの奇妙な推参

 白い雪がしんしんと降り、幻想郷らしく幻想的な光景を見せつけていた。外の世界は今の時代ではかつて俺が過ごしていた頃とさほど変わらず、味のない建物が乱立して雪景色の感動も半減している状態だろう。

 残念なことに今年も天香香背男命(あまのかがせおのみこと)は負けてしまい、初日の出が明星の光を打ち消してしまった。とは言え、実はいつものことなので軽く流す。

 年が明けてから数日が経った現在、俺は霊夢と並んで道なき道を進んでいた。

 

「こっちは魔法の森がある方向ですよね?」

「ああ、森には用はないわ。森の手前に用があるのよ」

 

 そうしてしばらく進んでいくと、森の入り口に奇妙な建物が見えてきた。

 最初に目についたのは扉のすぐ横にある招き狸であるが、よく見ればおかしなところは他にいくつもある。ヤギミルクやモリガナヨーグルトなどと描かれたラベルが壁のところどころに張りつけられていたり、横にした冷蔵庫の上に電子レンジが置いてあったり、交通標識が地面にぶっ刺さっていたり、その他もろもろのガラクタがそこら中に転がっていたり。

 扉の上には一際大きな文字で『香霖堂』と書かれた木の板がある。霊夢はこの珍妙な建物の見た目にも物怖じすることなく近づいていき、扉を遠慮なく開け放った。

 

「霖之助さん?」

 

 遅れないようについていき、彼女に続いて中に足を踏み入れる。キョロキョロと見回したところ、外観を見た時と同じく外の世界の物がところ狭しと並んでいた。そこまで乱雑に転がっていたりはしていないのだが、どうしてこんなものがと思ってしまうものが多すぎて散らかっているようにしか見えない。

 かつて日本人として平成の日本に生きていた身としては心惹かれるものがいくつかあったけれど、店の人に黙って手を出すわけにもいくまい。

 

「いるんでしょ?」

 

 勝手知ったる他人の家、ズンズンと進んでいった霊夢は座る男性の背後に立つとそう聞いた。

 

「なんだ霊夢か。勝手に居間まで上がってくるなっていつも言って……」

 

 振り返った男性の視点が俺にとどまると言葉が萎んでいく。そういえば「お邪魔します」とか言うのを忘れていた。

 後ろ髪が少し短めな白髪のショートボブに金色の瞳がマッチして、なんだかラスボスチックな色合いだなんて場違いな感想を抱く。頭のてっぺんで一本だけ跳ね上がったクセ毛は前世では俗にアホ毛と呼ばれていたものだ。黒い縁のメガネをかけていて、洋と和が混ざり合った黒と青の左右非対称の服を着込んでいる。

 

「挨拶が遅れました。初めまして、霧の湖の近くの館に住む吸血鬼のレーツェル・スカーレットと申します」

「ああ、丁寧にどうも。僕は森近霖之助、この古道具屋の店主をやっている者だ」

 

 森近霖之助――東方Projectでは数少ない男性キャラクターだ。ゲームに出て戦ったりはしないので、あいにくと前世の記憶に情報はほとんどなかった。

 

「そんなことより聞いてよ」

 

 自己紹介が終わるとすぐに霊夢が割り込んでここに来ることになった経緯を話し始めた。

 人里に茶葉の買い出しに行ったところ、いいお茶はなかったが買い物は何事もなく終わった。問題はその後、帰り道でのんきに本を読んでいる妖怪を見かけたことだ。

「別にいいんじゃないのか?」との霖之助の言も聞かず、霊夢は続きを話していく。

 なんとなく退治したくなって攻撃してみたら生意気にも反撃されて、意外に強かった。妖怪の身としてはここでツッコミを入れたかったけれど、どうせ霖之助と同様に話は聞いてくれないので黙っておく。油断していたこともあり、後ろから妖弾を出されてスカートが切れてしまったので直してほしいとのことだ。あと、その妖怪はけちょんけちょんに退治されてしまったらしい。

 俺が出会ったのはその後のことになる。フランが外に出るようになったとは言えいつも一緒にいるわけではなく、俺は一人で散歩していた。そこで不機嫌そうにしている霊夢に遭遇し、こうして向かう先についてきた結果として香霖堂にたどりついたのである。

 

「今すぐにね」

「今すぐ、ってそんなに早くは仕上がらないよ」

 

 そんな言葉も聞かず、荷物を投げ捨てると霊夢は店の奥に入っていった。「この服借りるわねー」と声が聞こえる辺り、勝手に霖之助の服を漁っているようだ。ここまで来るといっそすがすがしいくらいの図々しさである。

 

「あ、私もちょっとこれとかいじっていいですか?」

「……初めて訪れたというのに、君も大概だね。構わないよ」

 

 知恵の輪を手に取って、二つの部品を外そうと思考を巡らせる。実際に試してみたりして、これも違うかと首を捻った。

 やれやれと言った風に首を横に振った霖之助は席に戻る。そして読みかけの本を取ろうと手を伸ばし、

 

「なに読んでいるんだ? 香霖」

「……あのなぁ、いつも言ってることだが」

「勝手に上がってくるな、だろ?」

 

 いつの間にか店内にいた魔理沙に本を取り上げられていた。

 

「おはようございます、魔理沙」

「ああ、こんにちわだ。珍しいな、こんな埃くさいところにレーツェルがいるなんて」

「埃くさくて悪かったな」

「いえ、埃なら大図書館で慣れてますから」

 

 埃っぽいところは否定できない。道具は並べられてはいても整理はされていないし、大図書館といい勝負だろうか。

 

「はあ。で、今日はなんの用だ?」

「この本、まるで内容がわからないな」

 

 魔理沙は霖之助が持っていた本をパラパラと捲った後、「用はないが帰らないぜ」と告げる。霊夢も霊夢だが魔理沙も魔理沙だ。彼女は近くにあった壺に腰をかけた。

 俺も内容が気になったので知恵の輪を中断し、魔理沙に歩み寄ってはその手元を覗き込む。前世で嫌というほど見慣れた日本語がそこに書かれていた。

 

「……それはシリーズ物の一二冊目だ、ここに積んである本の続きだよ。それだけ読んでもわからんだろう」

「『非ノイマン型計算機の未来』、ですか。今の時代だとコンピューターはノイマン型が主流ですからね。計算機の性能が上昇すれば比例してノイマン型の弱点も浮き上がりますし、いずれは非ノイマン型の開発も活発になると思いますよ」

「お前はなにを言ってるんだ?」

 

 魔理沙に「頭おかしいんじゃないかこいつ」みたいな目で見られてしまった。前世で博識な友人から聞いた知識をちょっと披露してみただけなのに、ひどい。

 対し霖之助は、少しばかり驚いた目で俺を眺めていた。

 

「君は外の世界の魔術書を理解できるのか?」

「何十何百年と経てば私にもわからなくなりますが、今は二一世紀になって間もない時期のはずですから、多少は。まぁ、あいにくとこんな難しそうな内容の本は専門じゃないのでエヌジーです」

 

 なにが好きでこんな明らかな専門書を読まなければならないのか。しかもシリーズ物、一二巻と来た。よくもまぁこんな心惹かれないタイトルでここまで本を出し続けられたものだ。科学者からしてみれば気になる題名なのかもしれないが。

 というか外の世界の魔術書ってなんだ。科学書の間違い……いや、進み過ぎた科学は魔法と区別がつかないと聞くし、一概に勘違いとも言えないのか。幻想を排除した外の世界にとっての科学は、幻想郷で言う魔法と大差がないのかもしれない。

 

「うーん、外の魔法……それってどんな魔法なんだ? レーツェル」

「そうですねぇ。この本について言うなら、コンピューター……計算式を使ってさまざまな結果を導き出す道具ですね。例えば、魔理沙、一五六八九(いちまんごせんろっぴゃくはちじゅうく)七八四一五(ななまんはっせんよんひゃくじゅうご)を足した数はいくつですか?」

「そんなもんいきなり聞かれても答えられん」

「コンピューターという道具はその正解を一瞬で求めることができるんです。そういうただの計算に限らず、『木がもっとも効率よく葉を日差しに当てられる枝の広がり方』などの結果を導き出すこともできますよ」

「凄そうだが、なんか、あんまり使えなさそうだな」

 

 情報化社会である外の世界と幻想郷は文字通り時代が違う。確かにあんまり使えなさそうだ。

 

「その計算式はなんの力を利用しているんだい?」

「え? もちろん電気ですけど」

 

 質問に答えると、霖之助は深刻そうに顎に手を添えて考え込み始めた。

 

「電気というと雷のことか。外の世界の人間は神の力さえ操れるくらいに進歩しているのか……?」

「あんな一か所に集まった強い電力をどうにかできるわけないじゃないですか。発電……あー、風とか太陽とか水とか火とか、いろいろな力の恩恵を授かってわずかな電気を生み出しているんです。それをエネルギーにしているんですよ」

「神の力を作り出している、だと……」

 

 昔は雷とは神が鳴らすものとして神鳴りと呼ばれていたらしい。幻想郷は幻想となった者たちが集う場所なので、幻想郷の雷は本当に神さまが鳴らしているということになるのだろうか。

 しかし、前世の感覚で語りすぎてしまった。ここは幻想郷だ。少々思考が前世の科学側に偏り過ぎていた。幻想郷の人間となにかを語る時は常識の思考に、外の世界に囚われてはいけない。一度深呼吸をして……埃くさくて、途中でやめた。

 

「そうです。外の世界の人間は神の力を生み出すことに成功しているんですよ。そしてその力を使ってコンピューターを代表に多くの式神を使役し、自分たちの生活を楽にしています」

「そうか、通りで……」

「そこのストーブも本来なら地底の燃料と神の力の二つで動くものですよ。その様子だと別の力で代用しているんでしょう?」

「燃料の方は残っていたものや、他の道具に入っていたものを利用しているよ。しかし、興味深いな。今度また詳しい話を聞かせてくれないかい? 報酬は……そうだな、今君が持っている鉄の輪だ」

「お茶のお誘いに報酬なんていりませんよ。誰かとの交流に損得勘定なんて必要ありませんから」

「……仲いいなお前ら」

 

 魔理沙に突っ込まれるが、親近感を覚えていることは間違いない。

 前世の二倍辺りの年月を経た辺りから忘れがちになっているが、俺の前世は男である。前世での記憶が魂に刻まれて消えないせいで、口では「私」と言っていても未だ心の中での一人称は「俺」だ。友達や家族と言える知り合いがすべて女性なこともあり、正直なところ、かつての同性の友人が恋しかった。

 この関係は大事にしていきたいところである。今後、他に男性の知り合いができるとも限らないし。

 

「……あれ? 霊夢がいるのか? こっちの荷物は霊夢のじゃないか」

 

 こちらの会話には興味がないのか、魔理沙がキョロキョロと見回した後に見慣れない荷物を見つけた。霖之助が霊夢が来たいきさつを話すと、魔理沙は「霊夢らしいな」と感想を漏らしながら彼女の荷物を漁り始める。

 そしてその中から三冊の本を取り出し、霖之助が目を見開いて硬直した。

 

「ん? この本が気になるか? 霊夢のことだから『妖怪が大事そうに持っていたから持ってきた』とか言うぜ」

「絶対に言いますね」

 

 三冊の本のタイトルは……ああ、なるほど。さっき魔理沙が取り上げた霖之助の本と題名が同じで、数字だけが違う。それぞれ一三、一四、一五だ。

 彼の顔を窺って見ると、なにやら難しそうな表情の後に納得した風に頷いていた。「どうせくだらないこと考えてるぜ」とは魔理沙の耳打ちである。

 

「香霖。霊夢と取引するつもりだな? 止めときな、あいつは普通の価値観を持っていないぜ」

 

 そんな魔理沙の言葉にニヤリと笑う霖之助。その時、本の持ち主が戻ってくる足音が聞こえてきた。



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四.名無しの本読み妖怪

「お待たせ。もー、この服ちょっと大きすぎよ。歩きづらいじゃないの」

 

 霖之助はどう見ても大人の男性である。霊夢も魔理沙よりは若干身長が高いようだが、それでも十代前半程度でしかないので合うわけがない。

 そんな彼女は居間に戻ってくるなり自分が来た時にはいなかった黒白の魔法使いに目を向ける。

 

「あれ? 魔理沙じゃない。なんでこんなところにいるの?」

「それはこっちのセリフだぜ。私は、なにか新しいものが入荷していないか見に来ただけだ。まっとうな客だぜ」

 

「こんなところってのはないんじゃないか?」の霖之助も抗議も、霊夢はいつ来ても客がいた試しがないとバッサリ切り捨てた。さらには我が物顔で戸棚から急須を引っ張り出してきてはお茶を入れている。

 魔理沙も魔理沙で、「客と言ったはずだぜ」と口にしながら『非ノイマン型計算機の未来』を読み始めた。

 俺も知恵の輪をいじろうかと考えたが、霖之助がどう行動するかが気になる。どうやら彼には霊夢から本をもらい受ける算段があるようだ。

 しばらくすると、霖之助は仕立てはただでは行えないと切り出す。

 

「どうして?」

「どうして? だぁ? あきないというものはそれ相応の対価を支払うことで成り立っているんだよ」

 

 あいにくと勉強不足で『あきない』がなんのことかわからなかったが、どうやら会話の流れ的に商売のことらしい。

 霖之助がさりげなくその対価の支払いを求めるが、霊夢は「お金なんていつも取らないじゃない」と疑わしげに目を細める。

 

「なに言ってるんだよ。今まで受けてきた仕事も持っていった商品も、全部ツケだぞ」

 

 そうしてあーだこーだと言い合った後、最終的に霊夢も霖之助の狙いに感づいたみたいだ。湯呑みを置いて霖之助の隣まで移動すると、自分の荷物に手を伸ばしては『非ノイマン型計算機の未来』の一三から一五巻を取り出す。

 しかし、よくもまぁ霖之助もこんな本を欲しがるものだ。前世のこともあって外の世界の品にはそれなりに興味があるけど、あいにくと俺はこんな専門書を欠片も欲しいとは思わないし思えない。

 

「この本はね、私が退治した妖怪が大事そうに持っていたから持って来たの。きっと価値はあるわ」

 

 霖之助はそのセリフに一瞬笑いそうになっていた。魔理沙の方を見れば、「言った通りだろ?」とでも言いたげに口の端を吊り上げている。

 霊夢に手渡された霖之助が本を手に取っては「大したもんでもない」と告げた。新しいものよりも古いものの方が価値がある、妖怪は珍しいものだったから持っていただけだろう、と。

 

「じゃあ、その本と今までのツケ、交換でいいわね」

 

 けれども霊夢にそんな言が通じるはずがない。これまた魔理沙が言っていた通り、やはり霊夢は普通の価値観を持っていなかった。霊夢はニヤリとしている辺り霖之助が本が欲しくて遠回しにいろいろ言っているのは気づいているみたいだが、それでもさすがに外の世界の本を三冊でツケ全部は厳しい。

 霖之助もそれは当然だと考えているようで、一つは服の仕立て直し代、一つは今着ている服の貸し代、そして。

 

「あー、ちょっと待って、今までのツケ全部とじゃないの?」

「おいおい、ツケっていくらあると思ってるんだい」

 

 ふと、窓の外に興奮した様子の妖力の高まりを感じた。なんとなく顔を向ければ、ぷんすかと言った感じに怒った小さな女の子の姿がある。服がボロボロなので、おそらくは霊夢が退治したと言っていた妖怪か。

 霖之助もその存在に気づいたようだ。嫌そうに顔をしかめ、ため息を吐きたそうにしながら叫ぶ。

 

「ちなみに最後の一つは、扉の修繕代だ!」

 

 次の瞬間にはドンドンと店の扉が叩かれ、数秒も経てば今にも取れそうになっていた。

 

「さっきの赤いの、いるのはわかっているわ! ヒトの本勝手に持っていったでしょう!」

 

 さすがにこのまま壊れそうになっているのを見ているのは忍びない。魔力で小鳥型の弾を生成しては飛ばし、ドアノブに留めてカチャリと捻らせた。チルノ戦の時には効率の悪さから今後から使わないなどと考えていたが、なんだかんだでこうして扱っている。小さいから小回りが利くし、弾幕ごっこ以外で作り出すぶんなら数はいらないし、それなら複雑な方が楽しいし。

 

「まったくしつこいわね。私に負けたんだから大人しく森に帰ってればいいのに!」

「あれー? 赤くない」

 

 霊夢は今は霖之助の服を着ているので当然だ。けれども小さな女の子の妖怪もすぐにそんなことはどうでもよくなったようで、本を返してもらうと霊夢を指差した。

 しかしすでに手元にないものを返せるはずもない。彼女の本はもう霖之助の手持ちである。とっくに手放したと伝えられた小さな女の子の妖怪がどこにあるのかと聞くと、霖之助が霊夢を睨みつけた。僕のもとにあると言うな、もともと霊夢の問題ごとだろう。その意思はしっかりと伝わったようだ。

 

「ほらっ、魔理沙! あんた暇そうにしてるじゃない」

「あー? なんだ? 自分が撒いた種だろうが。一人でやれよ」

「この服じゃまともに動けないのよ」

 

 確かにそれならしかたない……のかな。奪ってきたのが悪いのだからそんな言い訳は効かない気もするけれど。

 

「復讐の相手を私にやらせようって言うのか。まったく霊夢ってやつは……」

 

 そうは言いながらも、魔理沙はどこか楽しそうであった。トン、と壺から降りて妖怪のもとに向かおうとして、傍観している俺に目を留める。

 

「お、いいこと思いついたぜ」

「悪いことの間違、え?」

 

 ひょいっと両脇を掴んで俺を持ち上げると、その状態で扉の方まで歩き始めた。飛行の力で脱出してもよかったが、そんなことしてミスして店の商品を壊してしまえば怒られてしまう。

 影の魔法で魔理沙の手を解けばいいと思いついた頃には、すでに小さな女の子の妖怪の前までたどりついていた。

 

「出てきたぜ。赤いのはあんたには完敗だそうだ。だから、こいつに免じて許してやってくれないか?」

 

 俺を降ろして妖怪の前に向き直らせてくる。そうしてようやっと魔理沙のやろうとしていることに察しがついた。

 

「え……あ、ああ……! きゅ、吸血鬼……!?」

「どうだ? 帰らないってんならこいつが相手になるぜ」

 

 いや、相手なんてしないけど。もしも本当に戦うことになったら魔理沙に押しつけて店の中に戻らせてもらおう。

 とりあえずあと一押しみたいなので、猫の獣人化魔法を使ってみる。

 

「ふしゃー!」

「きゃぁああああああああああああああああああああ!」

 

 威嚇してみたらとんでもない速度で逃げられた。大して怖くないと思ったのに、とてつもない悲鳴を上げて逃走されれば若干へこむ。

 

「さすがだな。ご褒美にその猫耳撫でてやるぜ」

「え、ちょ、やめてくださいやめてください。感覚共有してるのでめちゃくちゃくすぐったいんです。フランにやられた時は数分起き上がれなかったんですから」

「ほほう、そりゃしかたない……な!」

「ひゃ、みゃぁああああああああああああ!?」

 

 くるりと背を向けたので一安心した瞬間、高速で振り返って耳を触ってきた。普段ないからこそ慣れない感覚が伝わって来て、あまりの気持ちよさとくすぐったさですぐに膝を屈してしまった。

 さすがにそんな状態で魔法を維持できるはずもなく、耳と尻尾が消失する。というか最初からこうして魔法を切っておけばよかった。後悔しても遅いわけだけれど。

 

「ひ、ひどいです……ま、魔理沙は、あく、悪魔ぁ……です、よぉ……」

「いやー、悪かったよ。まさかここまでとは……あと、悪魔はお前だぜ」

 

 息が整わない。魔理沙に寄りかかって服を掴んで、なんとか倒れ込まないように体を支える。

 もう嫌だ。絶対にこれからは獣人化魔法をスペルカード以外で使わない。そう強く誓う俺を再びひょいっと抱え上げた魔理沙が店の中に戻っていく。

 

「しかしまぁ香霖、一五冊全部揃ってよかったな」

「どうして、一五冊だと思ったんだい?」

「その本の裏を見てみろよ」

 

 魔理沙が霖之助に本を投げて、未だに服を掴んで離さない俺を霊夢の隣に座らせた。

 

「なんでこっちに持ってくるのよ。さっきのってこいつの悲鳴よね。魔理沙、あんたなんかしたの?」

「ちょいとくすぐってみたらこうなった。私から離れないんだ。なんとかしてくれ。あとお茶」

「自分でなんとかしなさい、入れなさい。霖之助さん、お茶どうぞ」

 

 霊夢を挟んで俺の反対側に座った霖之助がお茶を受け取っては目を見開いた。

 

「このお茶、棚の奥のお茶使っただろ」

「そのお茶が一番いい香りがしたのよ」

 

 一番貴重なお茶だ、と霖之助が言う。特別な時のために取っておいたとのことだが、霊夢に言わせれば特別じゃない日なんてないらしい。

 ……そろそろ息が戻ってきた。ようやく離してくれたか、と呟く魔理沙を恨めしげな感じになるように意識して睨みつける。元々は魔理沙のせいである。急に連れてかれたかと思えば追い払い役をやらされてこの仕打ち。絶対に今度仕返ししてやる。絶対に。

 

「霖之助さん。どうせその本売らないんでしょ? 周りの商品もずっと変わってないし」

「……いや、すべて売り物だよ」

 

 倉庫魔法を使って湯呑みを取り出して、すでにこの場にある急須からお茶を入れた。魔理沙が棚から勝手に湯呑みを取り出して「私にもくれ」と言ってきたので、急須をそのまま押しつけた。誰が注いでやるものか。

 

「あ、いい香りですね。おいしいです」

「でしょ?」

 

 なぜ霊夢が得意げになるのかはわからないが、とりあえず首を縦に振っておく。

 そうして落ちついてお茶を飲み干した後、そういえばと霊夢と霖之助を交互に見た。

 

「里の人じゃなくてわざわざ霖之助のところに来るってことは、霊夢の変な巫女服は霖之助が仕立ててるんですか?」

「そうだよ」

「変な巫女服ってなによ。普通じゃないの」

「……ええ、まぁ、幻想郷ならそうかもしれません」

「なら普通じゃないの」

 

 あいにくと巫女が一人しかいない現状では、幻想郷での巫女の標準装備は腋と肩を露出させる巫女服が一〇〇パーセントである。文句は言えない。

 

「私も裁縫をちょっと前から始めたんですが、まだ勉強不足なんです。最近は昼間に外を出歩くことも多いですし、体を日差しから守るためにローブとか欲しいんですよ」

「いつも影を傘にして平気そうにしてるじゃないか」

「いちいち魔法を使うのめんどうなんです。日傘を持ち歩くにしても私は手元が塞がるのは嫌ですし」

 

 魔理沙の疑問に答えた後、どうですか、と霖之助に向き直った。

 

「もちろんお代は払いますよ。どうです、作っていただけませんか?」

「……ここは古道具屋だ。まぁ、そのくらいなら構わないが。どんなものがいいんだい?」

「目深に近いくらいのフードがついたローブならなんでもいいです。あ、肩とかはちゃんと布で塞いでくださいね。日光を遮るために使うんですから」

「わかった。後日また、できたら連絡しよう」

 

 そう言いながらチラリと隣に座る霊夢を見た辺り、最後には「霊夢を使って」との一言も入るのだろう。ツケを餌に紅魔館に送り出される彼女の未来が容易に想像できた。

 一通りの騒動が終わったので、俺は途中だった知恵の輪を再度解き始める。霊夢や魔理沙もすっかりくつろいでいるし、霖之助も新しく手に入った本に夢中であった。

 新年早々なにかが起こるわけでもなく、今日も平和である。しかし俺が持つ前世の情報によればこの平和もずっと続くわけではなく、今年もまた異変が起こるのだ。

 紅霧異変以降はおおよそ原作通りに進んでくれるかと思うが、俺という小さな歪みがなんらかの影響を及ぼしている可能性もなくはない。すでに解決する側である霊夢や魔理沙と出会ってしまっているから、例のごとくバタフライ効果(エフェクト)の法則でなんらかの変化が生じてしまってもおかしくないのだ。

 けれど今そのことを考えてもしかたがないと、知恵の輪に四苦八苦しながら時間を潰していった。



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五.第一一九季、炬燵の奉納

 あれから数か月が過ぎた。先日の予想通りめんどうくさそうな顔で紅魔館に訪れた霊夢から霖之助のローブ製作が終わったことを告げられたり、霊夢や魔理沙、そして俺が捕まえてきた朱鷺を鍋にして香霖堂で囲んだり。その時にはフランも連れて行って、夜になった直後にはフランが魔理沙にスペルカード戦を挑んでいたりもしていた。昼じゃないなら俺が止める理由はないし、霊夢や霖之助は我関せずで、顔を引きつらせて助けを求める魔理沙の懇願も空しく、綺麗な星空に一人の少女の悲鳴が響き渡った。

 そんなこんなで第一一九季――前世で言う四月に突入して半月。そろそろ雪が解けて桃色の花弁が美しく咲き誇る季節……のはずである。どうにも今年は例外のようで、未だ雪は降り止む気配を見せず寒い冬が続いていた。

 ほとんどの人間や妖怪はこういう年もあるだろうと軽く流しているようだが、じきにこれが異変であることに気づくであろう。原作にもあったことだ。

 原因についてそこそこ知識がある俺が早めに解決することも考えたが、即行で却下の判断を下した。今回の異変だけならいいかもしれないけれど、一度でも正史から大きく外れれば今後がどう転ぶかわからなくなる。もし動くにしても霊夢がこれは異変であると気づいてからだ。

 そういうわけでしばらくの傍観を決め込むことにした俺は、いつ感づくのかなという心持ちで、最近は博麗神社にほぼ毎日やって来ていた。今日もまたフランを連れてやって来て、神社の居間でコタツに入ってゴロゴロとしている。

 

「あー……いいわね。すごくいいわ。幸せ。本当にこれもらっちゃっていいの?」

「かなり前に作った試作品ですし、倉庫で放置気味だったので全然構いませんよ。ただ、私の部屋にあるそれと違って暖かくしかできませんから、そこは我慢してください」

「十分よ。いやぁ、コタツってやっぱり画期的よねぇ。しかもこれ、炭とかも使わないし」

 

 霊夢がコタツの暖かさにだらけまくった表情でそう呟く。冬が長く続いていて文句を垂れていたのでどうせ使わないからと上げたのだが、これだけ喜んでもらえるならプレゼントした甲斐があったというものだ。

 

「燃料は最初にも言いましたが魔力ですよ。霊力や妖力ではエネルギーとして不十分です」

「わかってるわー。魔理沙にでも補給させるから心配しなくても大丈夫よ」

 

 コタツの裏側に錬金術で作った魔力をため込む結晶が埋め込んであり、それに魔力を流し込むことで内部に保存して燃料としている。最大まで溜めればずっと使い続けてもそれなりに持つので、燃料切れになることはそうそうないと思われる。

 倉庫魔法で取り出した自作の急須、この前、魔法の急須と名づけたそれに水と紅茶の茶葉を入れて置いておく。三人分の湯呑みを用意して、急須から中の液体を注ぐと熱い緑茶が流れ出てきた。

 

「それも魔道具?」

「紅魔館は元々日本にあった建物ではないので、緑茶じゃなくて紅茶が主流なんですよ。私は緑茶が好きなので、紅茶の茶葉でも緑茶が楽しめるようにと思って作ったんです」

「ふぅん。水を入れたはずなのに数秒で湯気が立つほどのお湯になってるって、便利ね」

 

 天板に寄りかかって頬をつけている霊夢の顔の前にお茶を入れた湯呑みを置いて、二つ目を俺の右側に置く。寝転がってパラパラと本を読んでいたフランにお茶を入れたことを伝えると、ゆっくりと起き上がってきた。

 

「お姉さまー。私たちも人間換算だと、見た目は子どもで中身は大人だよね」

「大人というか、年月で判断するなら仙人でしょうか。普通の人間は五〇〇年も生きられませんし」

「そっかぁ……探偵やってみようかなぁ」

 

 なんて言いながら霊夢に続いてフランも緑茶を飲み始める。俺もズズズと口に含んで一息をついた。

 

「…………っていうかなんであんたら我が物顔でくつろいでるのよ」

「今更ですよ」

「気にしたら負けよー」

「はぁ、あんたら三姉妹は揃いも揃って……この前だって留守の間にレミリアと咲夜のやつらが勝手に神社に上がり込んで私のカップを割ったし」

「お姉さま、なにやってるんですか……」

「一応弁償はしてもらったから気にしなくていいわよ。それにしても、あんたらの中じゃレーツェルが一番しっかりしてるのよね。大変じゃない? 変な姉と妹を一人ずつ持って」

「全然大変じゃないですよ。お姉さまは頼りになりますしフランもすっごく可愛いです。私にはもったいないくらいですし」

「あー……そういやあんたらはそんなんだったわね。質問するだけ無駄だったか」

 

 その時、障子の向こうでトンッとなにかが落ちてきた音がした。霊夢はチラリと見ただけで特に反応せず、俺もその音の正体については大体の予想がついている。

 しばらくすると障子が開かれ、いかにも魔法使いと言ったいつもの恰好に加えて首元にスカーフを巻いた魔理沙が現れた。

 

「あ、魔理沙だ。こんばんわー」

「こんばんわです」

「おはようだぜ。珍しいな、こんな朝早くからお前ら二人が神社にいるとは。あと霊夢、今日は掃除してるフリすらしないんだな」

「フリじゃないわよ」

 

 フランの対面に腰を下ろした魔理沙が訝しげにコタツを眺め、「なんだ、これ」と聞いてきたので「コタツです」と。彼女は訝しげに足を入れて、その暖かさに瞼を瞬かせた。

 

「こいつはいいな。霊夢がここまでだらけてるのも頷ける」

「外の世界のコタツを参考にして作ったんです。魔道具作りが趣味の一つなんですよ」

「とことん香霖と気が合いそうだな。私のミニ八卦炉も魔道具の一つなんだが、あいつに作ってもらったんだ」

 

 コーンのように尖った三角帽子の中から小さな八卦炉を取り出しては見せつけてきた。それは初耳だ。本人からは主に拾った外の世界の道具を売っていると聞いていたけれど、そんなこともできるのか。

 そのままミニ八卦炉を帽子やスカーフと一緒に脇に置くと、私にもお茶をくれ、と催促してきたので、湯呑みを倉庫から取り出して緑茶を注ぐ。

 

「どうぞ」

「助かるぜ」

 

 魔理沙はお茶を半分ほど一気に飲むと、湯呑みを置いて小さく息を吐いた。

 

「あー、あったかいぜ。外もそろそろ暖かくなってこなきゃおかしいんだけどな。そうそう霊夢、気づいてるか?」

「なにが」

「吹雪に混じって桜の花びらが散ってることがあるんだ。まだどこにも桜なんて咲いてないってのに」

 

 これは異変じゃないか? と魔理沙が乗り出して問いかけた。

 

「早計よ。まだ春になって間もないじゃないの。いつもより冬がちょっと長いだけかもしれない」

「吹雪についてはそう言えるかもな」

「花びらについても、よ。例年ならそろそろ春だから、寒いのにも拘わらず花を咲かせちゃった桜がどこかにいるんじゃないの。見つかってないだけで」

「ふぅん、そうか。なら、とりあえずそういうことにしておくぜ」

「まだこいつらが異変を起こしてから一年も経ってないってのに二度目の異変はごめんよ」

 

 こいつら、の辺りで俺とフランを見てくる。俺は傍観を決め込んでいて、フランに至っては地下室にこもっていたので実際的にはなんの関係もないのに。

 魔理沙は「ふむ」と思案顔になると、両手の平を床につけて天井を見上げた。

 

「確かに、異変を起こすやつらが毎回こいつら並みに強かったら手に負えないな。前回は一応なんとかなったが、もう一度何事もなく解決できるかと問われても即答できん」

「第一おかしいのよ。なんであんなに強いのかしら。あんたらは新参でしょうが」

 

 フランと顔を合わせて、たぶん、二人して同じ要因を頭に思い描いた。

 

「霊夢と魔理沙は雪合戦って知ってますか?」

「あー? そりゃあ知ってるわよ」

「どのくらい前か忘れたけど、レミリアお姉さまが弾幕合戦って遊びを開発したの。原案はお姉さま、レーツェルお姉さまなんだけどね」

「弾幕? ほほう、どういう遊びなんだ?」

「本気で弾幕を撃ち合うの。美しさとか関係なしに全力で、当てるつもりで」

「あー……それは」

 

 魔理沙の顔が引きつっていた。スペルカードでさえ恐ろしい吸血鬼の弾幕が、自分に当てるためだけに放たれてくる光景を幻視したのだろう。

 

「弾幕は殺し合いにおいてはほとんどナンセンスです。ですから本気で当て合うことさえも遊戯にできます。吸血鬼の身体能力と反応速度、妖力や魔力があってこそですけどね」

「あんたらが避けるのが異常にうまいのはそのせいか」

「そうなりますね。いろいろ言われてますけど、スペルカードルールが導入されてからは私たちもちゃんと自重しているんですよ? お姉さまは本来なら放った弾幕をその時の速度を維持したまま自由自在に軌道を操作できます。フランは部屋を半分くらい飲み込む魔力をほんの指先程度にまで圧縮できますし、私も、供給がなくても半日は残り続ける弾幕を作ることとか可能です」

 

 どれもこれも美しく魅せるためではなく、当てるための技だからということでスペルカードでは使わないと決めている。弾幕合戦で培った回避等の技術は遠慮なく発揮させてもらっているが。

 例えれば、実銃と実弾での戦争を知っている軍人が、平和な国で一般人に混じってエアガンを手にサバイバルゲームをやっているようなものだ。一部の技術は流用できるけれど、やはりいろいろと勝手が違うという感じ。

 

「お前らの強さにはそんな秘密があったのか。ふむ、それなら一つお願いをしてもいいか?」

「ん、なんですか?」

「その弾幕合戦ってのに参加させてくれ……なんて無謀なことは絶対に言わないが、安全なところで見学とかさせてくれないか? 今後の参考にしたい。どんなものか見てみたいんだ」

「いいですよ。スペルカードルールが導入されてからはあまりやってなかったので、たまにはいいかもしれません。また今度やることになったら呼びますよ」

「頼んだぜ。どうだ、その時は霊夢も一緒に来ないか?」

「遠慮しとく。『せっかく来たんだからあなたもどう?』ってレミリアに誘われそう、というかやらされそうだもん」

「……そう言われると、私もちょっと行くのが怖くなったぜ」

 

 魔理沙が一瞬フランの方を向いたのは見逃さない。霊夢がレミリアにやらされるように、魔理沙がフランにやらされる事態も簡単に想像できる。

 

「さて、話をそろそろ元に戻しましょう。今回の長引いている冬が異変にしろなんにしろ、今は傍観を決め込むということでいいんですよね」

 

 聞いてみると、霊夢は少し考えてから天板に頬をつけた。

 

「そうねぇ。解決に行って無駄足だったら嫌だし、しばらくはコタツを楽しんでるのもいいわ」

 

 魔理沙もまた、向こう側で降っている雪を見通すように障子を見据えながら口を開く。

 

「霊夢の言っていた説も一理あるからな。それにそこまで気になっているわけでもない。家に読みたい本も溜まってるしな。お、そういえばフランはなに読んでるんだ?」

「大人から子どもになった名探偵の推理漫画」

「なんだ、それ」

 

 未だ外の世界で言うところの四月、急くには少々早いということか。

 目を瞑り、今後の展望について考えを巡らしていく。どこまで関わるべきか、どこで手を引くべきか。

 今回の異変の顛末を知っている以上、霊夢や魔理沙たちに多大な危険が及ぶような異変ではないことは理解している。しかしどんな可能性もゼロではない。吸血鬼異変でレミリアが死にかけてしまった時のように、俺が知らない間になにかが変わっている事態があるかもしれないことは否定できないのだ。

 すでに霊夢と魔理沙は俺の中で大切なものの二つだから、失いたくない、失わせない。異変が正史通りに解決されるならばそれに越したことはないが、もしも霊夢たちに命の危機が訪れそうになるようなことがあれば異変が解決できなくなろうとも全力で連れ戻す。そのことに躊躇をするつもりはない。

 小さく、心の中で"狂った帽子屋"としての決意を固め、渦巻き始めた不安を誤魔化すために一人口元に笑みを作った。



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六.寒いのが嫌いな悪魔使い

「……今年の冬はほんと長いわねー」

「長いってレベルじゃないぜ。あれからもう半月、春が佳境に差しかかっててもおかしくない頃だ。それなのにまだ雪は降り止まないんだから、これはもう完全に異変じゃないか」

 

 霊夢がいつ動くかがわからなかったため、あれからも毎日のように博麗神社にお邪魔していた。時には雪かきを手伝ったり、時にはフランと一緒に「あんたら来すぎ」とか文句を言われたり、時には……というより主にコタツでなにもせずぐーたらとしていたり。

 長い冬について傍観すると決めてから半月、ついに痺れを切らした魔理沙が神社にやって来て障子を開くなり、コタツでゆっくりしていた俺とフラン、そして霊夢に向けて言った。「私は行くが、お前はどうだ?」と。それに対する返答が先の冬が長い発言である。

 

「まぁ、異変でしょうね。幻想郷中の春を奪うなんてそこらの妖怪にできるわけないし……それこそ、こいつらクラスのやつが元凶かもしれないわ」

 

 囲碁に興じている俺とフランを横目で見ては霊夢が呟いた。推理小説や漫画をよく読んでいる影響か、フランはなかなかに頭が切れる。勝ちの目はすでにほぼ見えず、俺が負けてしまいそうな構図だった。

 

「だろうな。それでも私はあるべきはずのものが盗られたまんまってのは、そろそろ嫌になってきた。今からこれだけのことを為せる元凶ってのを探しに行くつもりだ。霊夢はどうする?」

「……こいつのくれたコタツのおかげで多少は居心地がいいけど、元々冬は嫌いなのよ。普通に寒いし、落ち葉掃きより雪かきの方が手間がかかるし」

 

 いかにもめんどうくさそうに、そして名残惜しそうに霊夢がコタツから立ち上がった。そうしてお祓い棒を持って来たり、袖の中にお札があることを確認したり、マフラーを取ってきて首元に巻いたりと、着々と出かける準備を整えていく。

 

「あー……出かけたくないわ。このまま外なんか出ずにコタツに入ってたい」

「別に無理して来なくてもいいぜ」

「あんた一人で解決できると思ってるの? こいつらの時のことを思い出しなさい……って、これだとあんたのこと心配してるみたいね。勘違いしないでよ。あんた一人じゃどうせ解決できないし、そうなるとあとで私一人で解決に行くことになってめんどうくさいから、どうせなら手間を減らすために二人一緒に行くってだけだから」

「わかったわかった。照れ隠しとかじゃなくお前が本心からそう思ってるってことはよーく理解してる」

 

 と、ここで囲碁の決着がついた。結局逆転はできずフランが勝利を手にすることで終わり、上機嫌な彼女と二人して碁石を片づける。ちょうどいい辺りで勝負が終わった。

 盤と石を倉庫空間に放り込み、霊夢を仰ぎ見て問いかける。

 

「異変解決、私もついていっていいですか?」

「お姉さまが行くなら私もー」

「あんたらは異変を起こす側でしょうが」

 

 半眼になってバッサリと切り捨てた霊夢を、魔理沙が「まぁまぁ」と窘めた。

 

「一人はめんどうくさいって言ってたじゃないか。二人より三人、三人より四人だろ? それに吸血鬼のこいつらがいれば大抵の妖怪はビビってどっか行ってくれるぜ。逃げてくれなくても押しつければいいし、いちいち雑魚の相手する手間が省ける」

「確かにそれも一理あるけど、私は博麗の巫女よ? 異変解決は私の仕事」

「『一応』が抜けてるな」

「入れてない」

 

 はぁ、と大きくため息を吐いた霊夢は、ようやく出かける支度が完全に整ったようだ。コタツの電源を切って開けっ放しになっている障子の方に向かい、魔理沙の横を抜けてからこちらに振り返る。

 

「あんたら悪魔に来るなとか言ったところで大人しくしてるとは欠片も思ってないし……妖怪が異変を解決に行っちゃいけないってルールもないから、別についてきてもいいわよ。でも途中で気が変わったりしても神社に戻ったりしないこと。いられたらなにされるかわかったもんじゃないし」

「もちろんです。フランもいいですね?」

「うん」

 

 コタツの電源を切り、俺もフランと一緒に居間の外に出た。障子を閉めて、靴を履いて数メートル歩くと全員の顔を見渡した。

 

「巧みに悪魔を操る邪教徒みたいだな、私たち」

「憑かれてるのよ」

「はい、憑いてます」

()りついてるー」

 

 雪を降らす雲が空を埋め尽くしているから日差しを防ごうとしなくても平気だ。雪は雨ではないから苦手ではないし、紫外線は雲越しでもそれなりに届いているが、実際に光に照らされないのならば吸血鬼には毛ほども効かない。

 霊夢が飛び立ち、続いて魔理沙が竹箒に乗って宙へ飛び出した。最後に俺とフランが同時に空に体を投げ出して、霊夢を先頭に四人で高速で移動し始める。

 

「で、どこに向かってるんだ?」

「元凶のとこ」

「場所、知ってるのか」

「いんや、勘」

「勘かよ」

「私の勘はよく当たるのよ」

「そういえばそんな設定もあったな」

「設定じゃない」

 

 吹雪に混じって流れてきた桜の花びらを手の中に捕まえてみた。どれだけ観察しても桜にしか見えない。空からそこらを見渡してみても、どこもかしこも桜なんて咲いていないのに。

 吹雪が来る風上へと飛んでいるので方向は間違っていないだろう。桜がこうして流れてくる以上、その元になにかがあるということは容易に推理できる。

 

「もうすぐ魔法の森だな」

 

 魔理沙がそう口にした直後、真下から妖力の高まりを感じた。ここにいる四人がそれに気づかないはずがなく、誰が注意するでもなくそれぞれの方向に散開する。さきほどまで自分たちがいた場所を尖った氷結晶が通過して、そのすぐ後に一人の妖精が飛び出てきた。

 三対の氷の羽を携えた冷気を操る規格外の妖精、チルノである。

 

「お覚悟しろー!」

「するのはあんた」

 

 ――"珠符『明珠暗投』"。

 せっかく知り合いに会ったので挨拶しようと思ったら、一言放つと同時にスペルカードを発動した霊夢が陰陽玉を取り出してチルノに投げつけた。投擲の瞬間に巨大化したそれは見事に対象に命中し、「あつっ!?」という声とともにチルノが墜落していく。

 陰陽玉はしばらくすると元の大きさになって戻って来て、持ち主の左側にふよふよと留まった。

 

「えぇっと……さすがにちょっとひどくないですか?」

「先に攻撃してきたのはあっちよ。そもそも元々こんなに寒いのにあんなのがいたらもっと凍えちゃうじゃないの」

「さすが霊夢だぜ。紅霧異変のことで私やレミリアからいろいろ言われたってのに、まるで反省した様子がない。痺れないし憧れないが」

「反省ならしてるわよ。やたらめったら結界を使ってない」

「不意打ち気味開幕スペルカードの方が断然ひどいぜ」

 

 霊夢としては言葉通り、今以上に寒くなるのは勘弁なのだろう。ただでさえ本来ならば暖かくなっているはずの季節だ。もしかしたら気温に関してのストレスが溜まっていたりするのかもしれない。

 チルノのことが引き金となったのか、冬が長く続いていることへの文句を霊夢が垂れ流し始めた。コタツがあろうともやはり寒いのは嫌らしい。

 そうして魔法の森の入り口へたどりつこうと言うところで、こちらに向かってきている妖怪の気配に気がついた。

 

「落ち葉掃きと違って雪かきは体力使うし、ただでさえ寒いんだから手が凍えるし、ああもう! ほんっといい加減にして欲しいわ。いつもならもう眠る季節だって言うのに」

「春眠暁を覚えず、かい?」

「どっちかっつーと、あんたらの永眠かな?」

 

 霊夢が返答のあった横側に向き直り、その声の正体と相対する。

 薄紫色のショートボブの上には白いターバンみたいなもの、そして首元にはマフラーを巻いている。ロングスカートにはエプロンらしきものが垂れ下がっていて、どこぞの黒白魔法使いを彷彿とさせた。マフラーを巻いているくせに服装は防寒着ではなく、普通に青と白が主体のゆったり系の衣服である。

 前世の知識によれば彼女はレティ・ホワイトロック。冬の風物詩、雪女の妖怪だ。

 

「ほら、出番よ。身のほどを知らず私の前で寒そうな空気を振りまいてる妖怪に、吸血鬼の威厳を見せつけてやりなさい」

「えー……私たちが行くんですか?」

「なんのために連れて来たと思ってんのよ」

 

 そんな当たり前のように妖怪除け扱いされても。別にいいけどさ。

 他の三人から二メートルほどレティへ近づいた位置まで移動し、フランも来ようとしていたので「必要ないですよ」と腕を横に伸ばして止めた。

 レティから感じ取れる妖力は並みの妖怪と比べればかなりの強さである。冬の妖怪と言っても過言ではないのだから、吹雪が降りゆく今ではそれだけの力があることは当然だ。

 しかしそれも並みの妖怪と比較した時の話だ。歴史は浅いなれどすでに幻想郷のパワーバランスの一つを担っている吸血鬼には到底及ばない。

 

「できれば、退いてもらいたいのですが」

 

 魔力を垂れ流しにするという、注目を集めたり他者を威圧したりする時にレミリアがよくやっている手法を行使する。種族の力に任せて屈服させるなどの強硬的な手段はあまり好きではないのだけれど、のんびり会話して弾幕ごっこに興じていると霊夢に怒られてしまいそうだ。

 なにも起こっていない普段ならばともかく、異変が起こっている最中、それに直接的な関係のない妖怪や妖精はできるだけ追っ払っていくべきなのは賛成である。

 

「わかったわー」

 

 突然自分に向けられた威圧に気を失うでもなく、怯えて逃げるでもなく、冷静に冬の妖怪は頷いた。

 

「……意外とあっさりしてますね」

「負けるとわかっている勝負に挑むほどバカではないつもりよ。私はただ、そこの紅白が冬のこと散々言ってたから襲ってやろうとか思っただけだものぉ」

「それはすみません。冬を生きるあなたにはムカつく話だったかもしれませんね」

「……悪魔が謝るなんて、珍しいこともあるのね」

 

 目を見開いて驚きを露わにするレティ。悪魔は普通の妖怪と比べれば群を抜いて人間に嫌われているし、妖怪側も悪魔という種族に好印象を抱いている者など皆無と言ってもいい。幻想郷の外にいた頃はともかく、幻想郷に来てからは結構な頻度で外を出歩くようになったため、そういう風潮は嫌というほど味わってきた。例えば人間の里に行けば必要以上に警戒され、香霖堂では小さな女の子の妖怪に威嚇しただけで逃げられる。

 冬が満ちているおかげで雪女としての力が完全だからということもあるだろうが、それでも即座に逃げ出さず冷静に会話ができるレティには好印象を抱ける。

 

「私はレーツェル・スカーレットと言います。もし次に会うことがあれば、今度はこんな殺伐とした雰囲気ではなくて、一緒に冷たいものでも飲みましょう」

「変わった悪魔だわ。私は、レティ・ホワイトロック。冬しか活動しないから、会うことはあまりないわよ?」

 

 その後も一言二言交わして、レティには退いていただいた。魔理沙が「もしかしてあいつが黒幕じゃないか?」と呟いていたのが聞こえたのか、去り際には「くろまく~」などと言っていた。それも当然冗談で、彼女にここまでの異変を起こす力はない。

 目的通り妖怪を退けることに成功し、気を取り直して魔法の森方面への飛行を再開した。

 

「よくやったわ。この調子で次も頼むわね」

「次もですか」

「さすが霊夢、ついて来るって言った時は渋ってたくせに見事こき使ってるぜ。仮にも悪魔を」

「使えるものは使う主義なのよ、私は」

「なるほどな。前々から思っていたが、ここで断言するぜ。お前は巫女じゃない」

「巫女よ!」

 

 ぎゃあぎゃあと騒いだ後、「しかし」と魔理沙が俺とフランを順に見ては言った。

 

「名が売れているってのはいろいろと便利だな。私も自分を宣伝してみようかな、そこらの妖怪を適当にしばき倒して」

「人間が名前を売っても妖怪に襲われやすくなるだけよ」

 

 俺が口を開くよりも先にフランが呆れた声音で注意する。強い人間を食らえば更なる力を得られるかもしれない、なんて妖怪なら誰でも思いつくことだ。魔理沙もそこまで本気に考えてはいなかったので「それもそうか」と軽く流す。

 そうしてしばらく進み続けて、不意に霊夢が「はて、こんなところに家があったっけ?」。視線を下げれば、小さな和風の建築物がそこにある。

 そしてそこから一人、もしくは一匹の猫の妖獣がこちらへと飛んできていた。



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七.迷い家の猫とカゴメの檻

 霊夢を巫女服ではなくして、肩や腋を露出する奇抜なデザインを取り除いたような服装が、現れた妖獣が身につけていたものだった。紅白であることはもちろん、首元のリボンをつけていることも一致している。

 しかしそれ以外はまるで霊夢と違った。背は俺と同じくらいに低いし、頭には猫耳、腰の辺りから二本の尻尾が顔を覗かせている。黄緑のナイトキャップを被っていて、自信満々さがありありと伝わってくる表情は見た目相応の子どもらしさを窺わせた。

 鬼神が憑いた猫の妖獣、(ちぇん)

 

「ここに迷い込んだら最後!」

「最後?」

「それはさておき、迷い家にようこそ」

 

 笑顔での歓迎、「迷い家」の一言に霊夢の眉がピクリと動いた気がした。

 俺とフランの方に振り返ると、

 

「ほら、あんたらなんとかなさい。あ、今回は追っ払うんじゃなくて時間稼ぎでいいわよ」

 

 と告げ、続いて「魔理沙はこっち来なさい」と手招きをする。魔理沙はどうして呼ばれたのかわかっているようで、なにやらいかにも悪いこと考えてますよ的な顔をしていた。

 俺にはなにを企んでいるかはわからないけれど、人間のお二人さんにどうにかする気がないのなら吸血鬼組が橙の対処をするしかない。フランと顔を見合わせて、俺は一歩分下がってフランは二歩分ほど進んだ。アイコンタクトで意思を伝え合った結果によると、先は俺が対処したので自分がどうにかするとのことだ。

 

「それで、最後ってなに?」

 

 フランが霊夢と橙の会話を引き継いで、再度問いかける。

 

「迷い込んだら最後、二度と戻れないわ」

「ふぅん。音を越える速さで一直線に進んでも? 魔法でそこらを破壊してちょっと前との位置を確認しつつ進んでも? この森を焼き払っても?」

「えぇっ? それは……うーん、どうかなぁ」

 

 やろうと思えばどれもこれもできそうなところが問題だ。本気で考え込む橙を眺め、フランがクスクスと笑った。

 

「で、でも! 迷い家にやってきたってことは、道に迷ったんでしょ?」

「道なんてなかったわ」

「さっきから吹雪で視界悪いし、風向きもころころ変わってるから」 

「んー、確かにまっすぐ進んでる気はしなかったなぁ」

「もう帰り道もわからないでしょ?」

「そうかもねー。あ、帰れないならさっき言った三つのどれかを実行しないと。ど、れ、に、し、よ、う、か、なぁ」

 

 口の端を吊り上げて三本の指を立てて迷う演技をするフランの態度に、森を焼き払われてはたまらないという風に橙は慌て出す。

 

「わぁ! 待って待って! わからないなら私が教えてあげるから! だから焼くのはやめてよ!」

「そっかぁ、焼かれるのが嫌なんだぁ。それじゃあ焼かないといけないねぇ。帰れるしー、そっちの方が楽しいしー」

「やめてぇー!」

 

 ニヤニヤとフランはずいぶんと楽しそうだ。さすがは悪魔と言うべきか。彼女は冗談で言っているけれど、ひどい悪魔となればそれを本当にやろうとするのだから手に負えない。そんなんだから悪魔は嫌われるのだ。

 さすがに初めて会った相手であるために橙には冗談だと見抜けなかったらしく、その瞳に闘志が宿った。

 

「こうなったら、焼かれる前に倒してやる! 里の平和は私が守るよ!」

「できるものならいくらでもどうぞ? この私を相手にどこまで立ち回れるかな」

 

 そろそろかと、巻き込まれないように後方へ退いたところで二人の妖力と魔力が高まり始める。

 先手を打ったのは橙だった。数はそれほどではないが、全方位に展開した青と赤の弾幕を回転、なおかつ交差させて放つ。フランにたどりつく直前で緑の妖力弾をまとめて撃ったりと、数で押し切るというよりも混乱からのミスを誘導する形であった。

 しかしフランがその程度を見切れないはずがない。むしろ自分に向かってくる弾が少ないのならば好都合だと、余裕で回避をしながら自分の弾幕を展開する。あまりに単純で基本的な、生み出した弾をすべて小細工なしに周囲に散らすだけの弾幕だ。

 橙の回転や交差の攪乱が効いていない以上、弾数が圧倒的に多いフランの方に軍配が上がる。橙の弾幕は広がったフランの赤い弾幕に当たっては消え、仮に目標にたどりついても楽々と躱されていた。更にはフランの弾幕を常に見極めて避けねばならず、軌道がわかりやすいから避け続けられてはいるものの、このままでは絶対に勝機はない。

 吸血鬼と化け猫、通常弾幕同士ではシンプルゆえにどうしても地力の差が出てしまうのだ。

 

「それならっ!」

 

 ――"仙符『鳳凰展翅』"。

 どこからかいくつかの卵を取り出すと、橙はそれを辺りに放り投げた。方向は後ろ、前、斜め上、斜め下などさまざまだ。俺もフランも通常弾幕をやめてなにをするのかと好奇心に満ちた目で眺めていて、直後、一つの卵が割れた。

 溢れ出たのは周りに飛び散る青色の弾幕だ。少しばかり回転しながら広がっていく以外はは大した特徴はなく、むしろ通常弾幕の方が強力だと感じた。

 しかし二つ目以降が連鎖的に破裂していくことで印象は一変した。青の弾幕と逆方向に回りながら広がる緑の弾幕、再びの青の弾幕。あらゆる位置に放たれた卵から青か緑のどちらかが生まれ、交差しながらフランへと迫る。

 厄介なのはさまざまなところから生まれるところ、橙ではなく割れた位置を中心点として広がっていくこと。弾がかみ合わず弾幕が薄くなるところもあれば、複数の卵から生まれた弾がうまく重なってとても濃い密度になっている場所もあった。

 運が良ければ常に弾幕が薄い地点を掻い潜れるかもしれないが、下手に動けば自分から弾幕に突っ込むことになる。とどまっていてもいずれは重なるタイミングにかち合うことになり、すでに小細工を越えて細工の一種だ。

 すべてにおいて隙なく放つのではなく、弾幕の薄い場所と濃い場所を作り、その細工を持ってして後者へと対象を誘って倒しに行く。力の劣る弱者が強者へ対抗する手段としては十分な答えだ。

 

「ふぅん」

 

 フランもこればかりは真剣な顔をして回避に徹していく。徹するとは言っても片手間にしっかりと通常弾幕も放っていた。基本的に躱すことに意識を向けているので、先に張っていた弾幕のように単純、しかし数だけは多い。

 元々、弾幕の中に仕掛けを組み込むことはフランの得意分野だった。吸血鬼としてのパワーに己が頭脳を掛け合わせた、力押しプラス術策が彼女の常套弾幕である。両方に理解があるゆえに中途半端な弾幕では滅多に落とせない。橙の弾幕はいくら読みにくいと言っても交差という一点が強力なだけで、フランにとっては中途半端の域を出なかった。

 避けながらもさきほどと同等に、むしろ先よりも勢いを増していくフランの弾幕に、スペルカードの使用に意識が傾いている橙がいつまでも避け切れるわけがない。十数秒後には一つの赤い魔力弾が彼女に命中し、そこから連続的に二発が命中してスペルカードが中断された。

 

「くぅ……!」

 

 吸血鬼の一撃、というよりも三撃を受けて無事なはずがない。傷をさらしながら、このままではマズいという風に橙が即座に次のスペルカードを取り出した。地力が及ばないことは最初に証明させられ、さらには怪我を負ってしまったため、ここで通常弾幕で勝負して攻撃を当てられるなんて甘い考えはすでにないようだ。

 ――"翔符『飛翔韋駄天』"。

 不意に、橙から発せられる妖力が増大した。増大、とは言っても普通の妖怪にしてはの話であり、吸血鬼であるフランとは未だ比べるのもおこがましい。けれども橙がパワーアップを果たしたことは確かである。

 彼女がやって来たことは至って簡単なことだった。憑いている鬼神の力、そして化け猫としての力を発揮して縦横無尽に飛び回る。フランの後ろ、下、右等々と高速で移動しながら常に弾幕をばら撒く――どうやら、俺の"童話『長靴をはいた猫』"と同様に自分をパワーアップさせるタイプのスペルカードのようだ。

 

「なるほどねぇ」

 

 直接攻撃してくるようなら迎撃しようと、弾幕を張ることをやめて拳を握りしめていたフランが辺りを見渡して呟く。縦横無尽に飛び回られるということは、ありとあらゆる方向から弾幕が放たれてくるということだ。それはさきほどまでの交差する弾幕など比較にならない、全方向に目を向けなければすべてを見切れない弾幕だ。

 虫や馬等ならともかくとして、人型を取っている吸血鬼が視線を向けずに背後を見通せるはずがない。

 だからと言って避け切れないということには直結しない。弾幕合戦においてレミリアは一度撃った弾を遠隔でいくらでも操作してくるから、一度でも弾を見逃せばどこから弾が来るかわからない状態になる。

 そこで鍛えられたフランの感覚は生半可なスペルカードでは突破し得ない。目で見るな、感じろ。まさにその言葉通り、彼女は自分の近くにある妖力の濃さで、自分からどの程度の距離に弾があるのかを察することができる。

 

「これならさっきの方が難しかったな」

 

 そう呟きながら橙の攻撃を避け続け、何十秒と経っても続いているスペルカードに鬱陶しそうな顔をした。今の言葉が本心からのものならば、このスペルカードがフランに当たることは決してありえない。

 これまで使う必要すら感じていなかったようだったが、そろそろ彼女も勝負を決めるつもりらしい。懐から紙を取り出してはもったいぶらず宣言をした。

 ――"禁忌『カゴメカゴメ』"。

 網目状に、その線として魔力弾がそこら中に展開されていく。引かれた線は空間を捉え、まるで檻のようになって飛び回る橙の動きを一時的に停止させた。

 それでも囲むだけの弾幕に脅威があるわけではない。橙が再度飛び回ろうとして、しかしそれは起きる。

 フランが一つ、とても大きな魔力弾を橙に向けて放った。進行方向上に自らが生み出した檻のごとき弾幕があるのにも拘わらず、だ。直線で、しかも一つしかない弾を避けられないわけがないのだが、橙は実際に回避してその厄介さに気づいたようだ。

 大玉が通ったことで檻が乱れ、干渉し合うことで弾が飛び散り、壊れた檻の代わりとでも言いたそうに斜めに新たに弾で線を描く。それをまたしても大きめの魔力弾で壊し、新たにまた線を引いて、それを破壊し、最後には大玉を振りまいてすべてを乱し尽した。

 橙の動きを檻で制限し、抑えるための檻さえも魔力弾で壊してしまう。避けようとしたところで新たな網目状に展開、また壊され、明らかに橙は混乱していた。

 そもそもとして身体能力を増加させるスペルカードと動きに制約をかけるスペルカードは果てしなく相性が悪い。しっかり見て避ければ大丈夫なタイプの技なのだが、動き回ることを主体としていたせいで、彼女はしばらく後には被弾してしまっていた。

 

「勝負あり、ですか」

 

 気絶して眼下に落ちていく橙の体を、『光の翼』で一瞬だけ加速して近づいて抱え上げる。妖獣だから別にそのまま地に衝突しても死にはしないだろうけど、吸血鬼を相手に全力で戦ったからには敬意を示すべきだ。

 ゆっくりと地面に下ろし終えると、フランが隣に降り立った。

 

「おめでとうございます。さすがはフランですね」

「ふふん、これなら魔理沙の方が断然手強いわ」

 

 得意げに口元を緩ませる彼女からは、その言葉に嘘偽りがないことが感じられる。いくら鬼神が憑いていると言っても橙自体はそこまで強い妖怪ではない。もしも彼女の主人が――八雲藍が近くにいれば、もっと大きな力が発揮できていたはずだけれど。

 

「そういえば霊夢と魔理沙は……」

「あら、もう終わったの? 早いわねー。でもちょうどいいわ、こっちも終わったから」

 

 噂をすればなんとやら。目を向けた先にあるのは和風の建物、迷い家。霊夢と魔理沙は、その入り口から小さな袋を持って出てきていた。

 

「えぇと、なにしてるんですか……?」

「知らないの? 迷い家にあるものを持ち帰れば幸運になれるのよ」

「ガラクタばっかだったけどな。とりあえず良さげなもんだけ取ってきた」

「盗ってきたんですか……」

 

 フランががんばっている間になんてことをしているんだか。返すように言っても霊夢と魔理沙のことだ、「もう私のものだ」とか口を揃えて言うに違いない。

 うーん、と唸りながら気絶している化け猫の妖獣を見下ろして、心の中で苦笑を浮かべた。

 ごめんなさい。今度、藍を通してなにかお詫びの品を差し上げるから。

 

「ほら、出発するわよ。たぶんあっちね。そんな感じがする」

「ガイアがあなたにたぶんあっちと囁いてるんですね」

「勘よ。ガイアってなに?」

「いえいえなんでもありません」

 

 とりあえず今は異変解決に戻ろう。飛び立つ霊夢と魔理沙を追いかけて、俺とフランも地面を蹴った。



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八.変わった悪魔と人形遣い

 こうして飛びながら魔法の森を見下ろしていると、原生林だけあって自然のまま残されている姿に関心が湧いてくる。前世では森に行く機会などまるでなく、今世でも幻想郷に来る前でさえ遠くに出かけたことはほとんどなかった。

 魔法の森と言われるだけあって、この原生林は普通の森とは違う成長を遂げているようだ。目を凝らして窺える植物はまるで見たことがないものばかりだし、瘴気が漂っているために普通の人間は足を踏み入れることは適わないだろう。

 

「人間でも魔法使いの魔理沙はともかく、霊夢がこんなところに来て大丈夫なんですか? 体調を崩したり幻覚が見えたりとか……」

「こいつをそこらの一般人と同じにしちゃダメだぜ。変人だからな」

「誰が変人か。でも、ま、このくらい平気よ。博麗の巫女をなめんじゃないってね」

「ここ、魔法使いの修行にちょうどいいかもね。ほら、あそこに生えてるキノコとか結構大きな魔法力放ってるよ」

「お、本当か? そんじゃあれも持ち帰ろうぜ。吸血鬼のお墨つきだからな、研究する価値はある」

 

 迷い家から拝借してきたものが入っている袋を取り出すと、フランが指差した方向へ魔理沙が飛んで行った。近づくだけでも危ない気がしたけれど、魔理沙なら大丈夫か。なにせ彼女はこの森に住んでいる。

 

「しっかし、ここらへんって人間を襲ってくる妖怪とかあんまり見ないわねぇ。あんたらなんかしてる?」

「いえ、妖力も魔力もちゃんと抑えてますよ」

 

 魔法の森に滞在できるのは化け物キノコが放つ瘴気と幻覚作用に耐えられる者だけだ。自然とともにある妖精、魔力を高めるために森に住む魔法使いや一部の特殊な妖獣。基本的に人間が立ち寄らなかったり環境が異常だったりすることもあり、魔法の森に人間を襲う存在も少ない。

 キノコを採って戻ってきた魔理沙を加え、さらに魔法の森を進んでいく。あいかわらず吹雪に混じって桜の花びらが散っていることがあり、実は四人とも地味にそれを集めていたりした。

 

「夜は冷えるわよね。視界も最悪だし」

「雲は出てるが今は昼だぜ。ま、冬の夜は本当にひどい。コタツ代わりのミニ八卦炉さまさまだ」

「夜は吸血鬼の世界ですからなにかを不便に感じたことはありませんね。月の光は心地いいですし」

「なにも光がなかったらさすがに私たちでも見えないけどね。あー、誰か来るよー?」

 

 フランが知らせてから数秒後、俺たちの前に一人の魔法使いが下方から姿を現した。

 一瞬、目の前のそれは人形なのではないかと勘違いをしてしまうほどに人間味が薄い少女だった。

 あまり外には出ていないのか肌の色は薄く、赤いリボンのヘアバンドを頭に巻いている。透き通りそうだと感想を抱くほどに綺麗な金髪と碧眼、手には一冊の魔導書を抱えていた。青のワンピースに近いノースリーブの上から肩に短めの白いケープを纏い、ロングスカートを着用している。そして、首元や手首にはヘアバンドに利用しているそれと同種のリボンを結んでいるようだ。

 そんな人形染みた少女は俺たち四人のそれぞれに視線を送った後、「しばらくぶりね」と口を開いた。

 

「誰に言ってるの?」

「あなたとそこの野魔法使いよ」

「だから誰よ」

「私のこと覚えてないの? まぁ、どうでもいいけど」

 

 当然ながら俺とフランは面識がない。霊夢と魔理沙は人形少女と知り合いのようであるが、霊夢の方は本当にわからなそうな面をしていた。

 

「野魔法使いか。ま、温室魔法使いよりは断然いいな」

「都会派魔法使いよ」

「あー? 辺境にようこそだな。田舎は春も冬染みてるぜ」

「寒くて嫌ねぇ」

 

 そんなことはどうでもいいのよ、と話をぶった切って霊夢が俺たちの方に振り返った。

 

「ほら、この七色魔法莫迦をさっさと追っ払っちゃいなさい」

「またですか」

「今回は戦わなくていいわよ。適当に威嚇して終わりでいい」

 

 まぁ、異変の最中だ。あまり気は進まないが言う通りにするとしよう。

 ついさきほどはフランが橙の対処をしてくれたので、今回は俺がどうにかする。三歩分ほど霊夢や魔理沙、フランの前に移動するとレティの時のように魔力を解放した。

 溢れ出る膨大な魔法力が大気を震わせ、普通の人間ならば容易に気絶してしまうほどの空間を作り出す。

 

「……吸血鬼ね」

 

 しかし人形少女は怯まず、むしろ目を細めて――俺と同じように、その身の魔力を垂れ流しにした。

 魔法の森に住んでいるということは、キノコの瘴気と幻覚作用に耐え、魔力の向上に努めているということである。パチュリーよりも少々劣る程度の魔力はそれでも大量と言えるほどには多く、質もなかなかにいい。空気がさらに重くなり、眼下にいた妖精が慌てて逃げ出していくのが見えた。

 やはり魔法使いが相手では魔力の恫喝はそこまで効果がないか。妖力を解き放ってもいいけれど、この様子では結果はどうせ同じであろう。

 

「ここはどうか退いてくれませんか。私たちはこの異変を解決しに来たんです」

「見ればわかるわ。桜を、春度を集めてるのもそのためでしょう?」

「え? え、ええ、そうです」

 

 桜はなんとなく集めていただけなんだけど。

 一度疑問符を浮かべてしまったせいでそんな気持ちも漏れていてしまったようで、呆れた目で人形少女が俺を見つめてきた。

 

「と、とにかく! 私たちはこの異変の元凶のところに向かわないといけません。幻想郷に春を取り戻させるんです。通してくれませんか?」

「悪魔なら悪魔らしく無理に押し通ろうとしないのかしら?」

「後ろの目出度い人は寒いのが嫌いなので早く帰りたいみたいなんですよ」

「……人間に従うの? 契約でもしてるのかしら。なんにしても変わった悪魔ねぇ」

 

 変わっている云々は人間や妖怪に限らず本当にいろいろな人たちから指摘されまくる。自分としてはそんなに変なことをしてるつもりはないのだけれど、やはり人間に近しい価値観で過ごす悪魔なんて珍しいのだ。

 

「よく言われます。それで、どうですか」

「魔法の実験をしたかったんだけど、さすがに吸血鬼を相手にするのは厳しいか……うーん、どうしよう」

「実験ですか?」

「実際に動く相手に使ってみたらどうなのかなって。ちょうどよさそうなところにあなたたちがいたから」

 

 はた迷惑な話だ。確かに霊夢や魔理沙であれば実験相手には十分だと思うけど。

 

「……そうですね。霧の湖の畔には紅魔館と言う赤い建物があります」

「ああ、吸血鬼の住処でしょう? もちろん知ってるわ」

「そこには私やこちらのフランも住んでいます。私はかれこれ四〇〇年以上は魔法を勉強し続けているので、訪ねてもらえればいろいろとアドバイスとかできると思います。他の魔法使いの方の実験を手伝ったりと言う経験もあるので、あなたのこともサポートできるかと。あ、あとたくさん魔導書が保管された図書館とかありますね。ですから、ここは私に知り合えたということに免じて通していただけないでしょうか」

「四〇〇……それに図書館か。魔導書じゃわからないことがあることも事実だから、悪い話ではないわね。それでその裏は? 悪魔である以上は対価を要求するんでしょう?」

「いえ、だから、通していただければ十分です。それ以外はなにもいりませんよ」

 

 魔法使いともなれば魔導書を読むことが多く、また、召喚魔法で代表的なものと言えば悪魔召喚だ。パチュリーだって実験として小悪魔を召喚したし、俺やレミリア、フランだってその気になれば一声で悪魔を喚び出すこともできる。そのような関係上で魔法使いの多くは悪魔に理解があり、だからこそのここまでの警戒である。

 本当に通してもらえるだけでいいのに、人形少女の視線に訝しげな色が宿るのはどうしたものだろう。悪魔である俺がどれだけ懇切丁寧に今の気持ちを説明してもさらに疑われるだけなのは目に見えてるので、彼女から信じてもらうのを待つしかない。

 ただ、これだけは言っておこう。

 

「たまに紅魔館の魔法使いと私、フランと魔理沙で魔法についての話し合いをしたりもしています。あなたは魔理沙の知り合いみたいですし、もしここで通してくれなくてもいつでも来てもいいですよ」

「…………ふふっ」

「……どうかしたんですか?」

 

 小さく笑った人形少女がずっと外に漏らしていた魔力をせき止めた。今度は俺が訝しげに思いながら、同様に魔力を引っこませる。

 なんとなく、彼女はすでに戦闘を行うという意思がないように感じた。

 

「それじゃあここで話を受けても受けなくても変わらないじゃない」

「え? ……あっ、そうですね。断ってくれても歓迎しちゃうなら、意味なかったですね」

「やっぱり変わった悪魔ね。それにいろいろと抜けてる。いいわ、気まぐれで襲いかかってみようとしただけだから通してあげる。もっとも、吸血鬼が相手という時点で戦おうっていう気はほとんどなかったんだけれど」

 

 人形少女は踵を返し、三メートルほど進んだ後に思い出したように振り返ってくる。

 

「私はアリス・マーガトロイド、人形遣いよ。魔法のことであなたの館にお邪魔するかもしれないから、覚えておいて」

「もちろんです。私はレーツェル・スカーレット、スカーレット三姉妹の次女に当たります。館にお邪魔する時は門番に私の名前を言ってくれれば大丈夫ですよ」

 

 自己紹介を終えると、今度こそもうなにも言うことはないという風にアリスが去って行った。

 七色の人形遣い、アリス・マーガトロイド。アリスと言うと『不思議の国のアリス』がどうしても頭に浮かんでしまうが、名前以外はまるで関連性がないことを知っている。そもそも俺も自称帽子屋なだけで物語に出てくる帽子屋と同じような性格とかしているわけでもないし、アリスなんてよくある名前なのだからいちいち一致部分を気にしていてはいけない。

 それはさておき、アリスは俺たちが春を集めていると言っていたか。まるっきり忘れていたけれど、そういえばそんな設定もあった気がする。東方妖々夢――ストーリーやキャラクターについては知っているし覚えているが、ゲーム中の設定については記憶が曖昧だ。ゲームをやる上ではそんなことを気にかける必要もなかったのだから。

 

「ご苦労さま、レーツェル。悪いわね、何度も追い払わせちゃって」

「そう思うなら次は霊夢か魔理沙が前に出てください。私たち吸血鬼をこき使ってたってお姉さまに言いつけますよ」

「……そ、それは嫌かなぁ」

 

 霊夢と魔理沙の中には未だ、レミリアと戦うイコール死の危険があるという方程式が成り立っているらしい。怒ったレミリアに弾幕ごっこを挑まれるさまを想像してか、霊夢が頬を引きつらせた。

 

「ま、確かにサボりすぎてる感はあるな。次はなにが来ようと私と霊夢のどっちかでなんとかしよう」

「まぁ……ウォーミングアップにはちょうどいいかもしれないわね。元凶まであんたらに任せるつもりはないから」

 

 意外と前向きな回答だ。こくりと頷いて了承し、四人で風上への飛行を再開する。

 そこからはいろいろと順調で、すぐにでも魔法の森を抜けられそうだった。

 ふと、ここに来るまで集めてきたように吹雪に混じる桜の花びらを手に取って、じっと眺めてみる。アリスはこれを春度だと言っていた。俺のなけなしの記憶とかけ合わせると、確か元凶とその関係者はこの花びらを奪おうと勝負を挑んできたはずだ。そしてその目的は――。

 

「フラン」

「ん。なに? お姉さま」

「ここまで集めてきた桜の花びらを捨てましょう」

「え?」

「お願いします。私たちまでこれを集めていたら、ちょっとマズイかもしれないので」

 

 フランは訝しげというか、純粋に不思議そうな顔をしている。それでも「お姉さまが言うなら」と言う通りにしてくれたのはとても助かった。

 俺も同じように春度が詰まった桜を捨てて、ありがとうございます、とフランにお礼を言っておく。

 

「これで、原作の通りになったはず……」

 

 俺とフランは本来ならばこの場にいるはずもない異物とも言える存在だ。そして桜とはこの異変において大きな意味を持つ。

 大妖怪という言葉さえ生易しい幻想郷最強の妖怪、八雲紫でさえどうにもできなかった妖怪桜、西行妖。その復活のため――正しくは、西行妖を亡骸となって封印している者を蘇らせるため――に桜の花びらが、春が必要なのだ。

 原作ではついぞ西行妖は満開にはならなかったけれど、俺とフランが花びらを持って行ってしまえばどうなるかわかったものではない。万が一にでも復活してしまう危険性があるのならばそれは絶対に避けるべきだ。八雲紫でさえどうにもできない妖怪が解放などされてしまえば、どうなってしまうのかまるでわからないのだから。

 ふぅ、と小さく息を吐く。異変が終わったら、俺の言うことになんの根拠もなしに従ってくれたフランにお礼をしなければいけない。なにを上げれば喜ぶかな、なにをしてあげれば喜ぶかな、と思考を巡らせていく。

 そうして進み続けると魔法の森を抜け、霊夢が俺とフランの方に振り返ってきた。



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九.浮いて向かうは雲上の扉

「ここから空に向かって飛んでいくわ。たぶん、雲の上に出ると思う」

「ということは、つまり」

「太陽が届くのね……」

 

 確かに、風は急な角度で斜め上の方から吹いてきているようだ。ここまでは雪を降らす雲が太陽を遮ってくれていたが、これをたどっていくとなれば日光の下に体をさらさなければならなくなる。

 戦闘があるかもしれない関係上、傘ではいろいろと心もとない。倉庫魔法で空間を開き、数か月前に霖之助に仕立ててもらった二着のローブを取り出した。

 日差しを遮ることが目的とのことでサイズは大きめに作ってくれたらしい。フードはすっぽりと覆うために下方向から強い風が吹いてこない限りは脱げることはないだろう。袖口はギリギリ指が出せるか出せないかくらいで、それでも物は支障なく持てるようにヒラヒラと広めになっていた。逆に足元は靴下やらタイツやらでいくらでも隠せるだろうとのことで、動きやすいように膝のすぐ下辺りまでしか裾がない。

 主体は白、裾や袖の縁には大きな青色のギザギザ模様が描かれている。首元にはそれと同色のリボンが備えつけられており、リボンの結びを強くすれば襟が締まって激しい動きもできるようになるし、緩めれば首元を開いて楽な姿勢を取ることも可能だ。

 二着あるのはなにも同じ種類というわけではない。仕立てを頼んだ後日、いつかフランを連れて行った時にそのぶんもお願いしておいたのだ。フランのローブはギザギザ模様とリボンの色を赤色にしただけの色違いで、どこぞの巫女と同じ紅白の色合いとなっている。

 片方をフランに手渡して、俺も自分のローブを広げた。裾の方から頭を突っ込んで両手を袖に通し、顔を出す。ローブを被って首元のリボンの結びを強くして準備万端、フランはどうかなと隣を覗いた。どうやら彼女もほぼ同時に着終えたみたいだ。

 

「いやはやすごいな。なんというか興味深い」

「……? なにがですか?」

「お前らの翼、服をすり抜けるんだな」

 

 似たような感心をこの世界に生まれて間もない頃に俺も抱いたような覚えがある。すり抜けてくれなきゃ羽に合わせた穴を服に開けなければならなくなるし、都合がいいことは間違いない。

 

「ここで帰ってくれてもよかったのに」

「敵を追い払うだけ追い払わせて、用が済んだらポイッはちょっとひどいですよ」

「……そういう意味で言ったんじゃなかったんだけどね。まぁ、ついてくるならついてくるでいいわよ」

 

 霊夢は微妙そうな顔で背を向けると、雲の上を目指して飛び始めた。首を傾げながら俺もそれについていき、フランと魔理沙も続く。

 そんな中、誰かに名前を呼ばれた気がして振り返れば、魔理沙が俺に小さく手招きをしていた。なにか用なのかと近づいてみると、「耳を貸せ」と霊夢の様子を確認しながら小声で囁く。

 

「あれはたぶんあいつなりの気遣いだ。太陽の下に出てまで無理について来ようとしなくてもいい、ここまで二人にがんばってもらったからあとは私たちに任せてもいい、もう十分助かってるから家に帰って休んでもいい――みたいな、な」

「……気遣いですか」

「霊夢は思ったことはズバズバ言うし一応正直者なんだけどな、結構な口下手なところもあるんだよ。その、なんだ。あれだ、あんまり悪い方向で捉えすぎないでやってくれ」

 

 無意識のうちに目をパチパチとさせて見つめていると、耐えられなかったのか恥ずかしそうに魔理沙が顔を背けた。それがなんだか少しおかしくなって、心の中で小さく笑う。

 なんだかんだ言って霊夢と魔理沙も付き合いが長いのだ。仲がいいのかと問いかければ二人は揃って腐れ縁とでも評そうなものであるが、親友と呼べる程度には理解し合っていることは間違いない。そうでなければ霊夢がどういう思いで「帰ってもよかったのに」と発言したのかを見抜けたりだとか、意図せずして悪く思われた時に、こうして魔理沙がわざわざフォローに回ってきたりなんてしない。

 

「も、もういいだろ。いつまでも私を見てるんじゃない」

「ふふっ、わかりました」

 

 ご要望に従って視線を外し、飛行速度を上げた。前を飛んでいた霊夢に併走すると速度を元に戻して、小さく頭を下げる。

 

「ごめんなさい……それから、ありがとうございました」

「なにが?」

「さっきのことです。失礼な態度を取っちゃいましたね」

「……はぁ、魔理沙の入れ知恵? まあなんでもいいけど……私があんたをこき使ってたことは変わりないし、どうでもいいわよ。あんたにどんな風に思われようが私の知ったことじゃない」

 

 霊夢のことだからそれもまた拗ねてツンツンしているわけではなく、きっと本心なのだろう。

 彼女は『空を飛ぶ程度の能力』を保有し、まさしく何者にも囚われない性格をしていた。魔理沙が言っていた通り、単純で裏表がなければ誰に対しても平等な姿勢を取り――生業が妖怪退治なので妖怪には少しばかり厳しいところもあるけれど――、誰と一緒にいてもいつもどこか一人だけ浮いて(・・・)いる。それが霊夢にとっての普通なのだ。

 

「でも、せっかく善意で行動してくれたのに誰も気づいてくれないなんて寂しくないですか?」

「私はそんなの気にしない」

「私は気にします」

 

 やりづらそうに俺をじっと見ては、小さなため息を吐いて空を見上げた。もう少しで雲に突っ込むことになりそうだった。

 

「そもそも、私は私が思うがままにいろいろ言ってるだけ。だからあんたがいちいちどう思ったかなんてどうでもいいのよ。別段興味もない」

「そうですか。そう言っていただけるのなら、遠慮なくいろいろと思わせてもらいますよ。魔理沙の入れ知恵のことも」

「……好きにしなさいよ。ほんと、あんたは悪魔らしくないわよね」

 

 よく言われる言葉だ。霊夢のジトっとした目を受け流し、そろそろかと進む先を見据える。

 雲の濃い部分を進むのはどう考えても得策ではないので、できるだけ薄い部分を探して縫うようにして霊夢の勘を頼りに飛んでいく。俺やフランは涼しいと感じる程度であったが、やはり人間には寒いのだろう。霊夢と魔理沙はぶるりと体を震わせて、さっさと抜けようと飛行速度を速めていた。

 そうして進むこと十数分、ようやく雲の上に到着した。日の光が容赦なく襲いかかってくるものの、霖之助製ローブはそれを完全に遮断している。いい仕事ぶりだ。俺は未だ裁縫は勉強中なので、今度これだけうまく作れる霖之助に教えてもらうことを頼むのもいいかもしれない。

 そんなこんなで雲の上になにかあるものなのかと全員でキョロキョロと辺りを見回して、すべての視線が一か所に集まった。

 四本の大きな四角柱が天に向けて底面を向けている。それぞれが巨大な正方形を綺麗に描くように配置され、決して崩したり壊したりしてはいけない特別な類のものだとは嫌でも察せられた。

 柱の奥には手前の正方形に勝るとも劣らぬサイズの六芒星の魔法陣が面をこちらに向けて浮かんでおり、その向こう側に薄っすらと強大な威圧感を放つ門がそびえている。閉まってはいるようだが、門を認識した瞬間にどことなく夜の暗闇にも似た怖気が漂ってきた。

 

「元凶はあれの先みたいね」

「あの結界は凄いな。素人にはさっぱり解き方がわからないな。いったいなにを隠してあるんだか……ま、わかりやすくて助かる」

 

 とは言えその程度で霊夢や魔理沙が怯むわけもなく、二人とも嬉々として門に近寄り始める。遅れないようにとフランとともに彼女たちを追いかけて、ふと、少し進んだところに三人の少女が立ちふさがっていることに気がついた。あまりに大きな門等に気を取られて進行方向にいることがわからなかったらしい。

 三人とも、三角錐状で返しのある帽子を被り、長袖の白いシャツの上にベストのようなものを着用している。それを留めるボタンは二つ、襟と肩にはフリルがあった。キュロットを穿いているのは共通しているもののデザインは若干異なっている。それぞれ帽子やベストのカラーリングも違っていて、一人が黒を主体に赤を添え、一人が薄い紫に青、一人は赤に緑が加えられていた。黒の少女は金色の髪と瞳、薄紫の少女は明るい薄めの水色、最後の赤い少女は亜麻に近い茶色の髪と目を備えている。

 そのうち、薄い紫の少女がボロボロの姿で黒の少女に抱え上げられていた。俺たちがやって来ても彼女だけは反応を示さなかったので、気絶していると捉えて間違いないだろう。

 どういうわけか恨みがましく睨んでくる黒と赤の少女の視線を悠々と無視しながら、霊夢が口を開いた。

 

「それにしても、雲の上まで桜が舞っているのはなんでだと思う?」

「……ほら、それはあれだ。この辺はこの季節になると気圧が、下がる」

「なんかテンションも下がりそうね」

 

 答えたのは黒の少女だ。それでも目は隙を探すような光を隠しており、霊夢も自然な動作で袖の中に手を入れる。

 

「なあ、なんでお前ら一匹だけすでにピチュってるんだ?」

「あんたのお仲間がやったんでしょー」

 

 プンプンと怒っている赤の少女の言葉を受け、霊夢と魔理沙の視線がこちらに向いた。もちろんこんな三人組は知らないしずっと霊夢たちのそばにいたのでそんなことができるはずもない。フランと一緒に首を横に振る。

 

「まあそうだろうな。じゃ、たぶんそれはあれだ。私らとは別のなにかだ」

「こんなところまでやって来れる人間が手軽にいたらたまらないわよ。絶対あんたらの仲間じゃん」

「人間? 私たち以外の人間がここに来たのか?」

 

 そもそも空を飛べる人間というものが限られている中、さらには雲の上などという高度の高い領域にやって来ようなんて考える輩はまともな人間ではないことは確かだ。魔理沙と同等に魔法を習う人間の魔法使い、人里の妖怪退治を生業にする者など、他にもいろいろと可能性は考えられる。

 しかし、どうにも一人の人間の姿が俺の頭に浮かんで離れない。

 

「あの、その人間は青い服を着た銀髪の女性だったりしませんでした? 瞬間移動したりナイフで攻撃してきたりとか」

「やっぱり仲間じゃん」

 

 当たりみたいだ。俺以外の三人もその質問で誰が来たのかわかったらしく、揃って「ああ、あいつか」という表情をした。

 

「ってことは……一人でこの先に行ったの? 大丈夫かな、咲夜」

「平気ですよ。咲夜は人間の中でもずば抜けて強いですから。きっと大丈夫……だと、思います」

 

 不安そうなフランとそんな会話を広げるものの、やはり一人で扉の向こうに行ったと考えると心配になってくるのは否定できない。早く様子を見に行きたい。しかしそのためには、目の前で道を塞いでいる二人オマケ一人の怒った少女たちを退かす必要があった。

 さっさと片づけよう。そう決め手前に出ようとして、バッと片腕を横に広げた霊夢に阻まれる。文句を言おうとして、「さっき決めたこと、忘れたの?」と。

 

「私たちで片づけるわ。相手も動けるのは二人だけだからちょうど二対二にもなる」

「悪いな、レーツェルにフラン。あの扉の先からが本番となるとここらで体を温めておきたい。お前らが咲夜のやつを心配してるのは私たちもよくわかるから、できるだけ早く終わらせるさ」

「……しかたない、ですね。言ったからにはしっかり全力で――」

「一分」

 

 フランの呟きに、全員の視線が集まった。

 

「一分以内に終わらせて。それだけあればウォーミングアップは十分でしょ? 一分経ってもまだ続いてるようなら、私とお姉さまは先に行くから」

「……かぁー、厳しいな! 了解したぜ! お前らが戦えば本当に一分も経たずに終わらせちまいそうだからな、お望み通りこっちも一分で終わらせてやる!」

「ちょっと魔理沙……はあ、ま、いいけどね。別に先に行かれるだけなら実害はないし……そもそもあんな幽霊どもに一分もかからないけど」

 

 二人とも乗り気のようで、意気揚々とそれぞれ武器を構え始める。霊夢は片手にお祓い棒、もう片方の手には何枚ものお札を。魔理沙は帽子の中からミニ八卦炉を取り出し、相手方に発射口を向けた。

 

「ごめんなさい、お姉さま」

「……? なにが、ですか?」

「勝手なこと言っちゃった」

「そんなことで怒ったりしませんよ。むしろ霊夢と魔理沙が俄然やる気になってくれて助かりました。ありがとうございます」

 

 俺の言うことを聞く、俺の邪魔はしない、能力を自分から使ったりしない。外に行きたいと言い出した時、フランは自分からその三つの条件を提示していた。俺は特に気にもせず『レミリアをあいつ呼ばわりしない』以外はなにも言っていないし言うつもりもないのだけれど、フランはその約束を胸に刻んでいるらしい。

 今回の発言はおそらく、俺が咲夜を心配していることを察してフランがわざわざ制限時間を設けてくれたということだ。それも自分で提案した条件を気にしながらも口にしてくれて、それなのに怒るわけがない。言葉通り、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 はにかんだ笑顔を浮かべるフランの手を取って、その場からいったん距離を取る。霊夢と魔理沙が戦闘準備を整えたので、黒と赤の少女もまたそれぞれ手に武器を――楽器を構えた。

 そんな光景を見ながら、ふと、前世の記憶を探ってみる。

 ……原作だと、一人で三人を一気に相手するんだっけ。

 今は一人はすでにダウン、そこからさらに主人公が二人に増えての二対二であった。なんだか嫌な予感がするというか、一分が無理ではないのではないかと感じられてしまうというか。

 数秒の誰も動かない静寂の中、最初に動いたのは魔理沙であった。太陽の日差しが降り注ぐ中、それに負けない光に溢れた魔力の弾を連射する。霊夢もまたそれに続き、お札を投げ始めた。



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一〇.美麗なる冥の世界

 激しく飛び回ったためか、霊夢と魔理沙は軽く息を吐いた。相手方の二人プラス一人を撃ち落とし終えたのを確認し、魔理沙は即座に俺たちの方に振り返ってくる。

 

「どうだっ?」

「五八秒……ギリギリですね」

「よし! やったな霊夢!」

「私は最初から一分もかからないって言ってたでしょ?」

「でも五八秒なら時間に制限をつけたからこそ一分以内に倒そうとして、やっと成し遂げられたようなものだよね。やっぱり提案して正解だったわ」

 

 なんにしても早めに終わったことは僥倖だ。早く咲夜を追いかけることができるし、霊夢と魔理沙は体が温まったので次の勝負を全力で戦えるようになった。

 改めて四人で巨大な扉へと向き直り、その門前へと近寄っていく。四本の柱と六芒星の陣は結界の役割を果たしているようで、その大きさと相まってどうにも普通には開けそうになかった。

 

「咲夜のやつはどうやって通ったんだろうな」

「たぶん、結界を乗り越えるかくぐるかしたんじゃないの。必ずしも扉の中を通る必要はないみたいだから」

 

 結界を観察する魔理沙とフランがそんな会話を広げる中、霊夢が無造作に門に近づいていくのが視界の端に見えた。危ない、なんて制止をかける暇もなく、彼女は六芒星に手を伸ばす。

 直後、ガラスの割れるような激しい音とともに六芒星が砕け散った。

 

「あら、消えちゃった」

 

 それは消したの間違いだと思う。

 

「こんな厳かな結界も見境なしに破るか。私たちは今まさに結界を壊さずに入る方法について話し合ってたってのに」

「触っただけで破れるような弱い結界を張ってる方が悪いのよ」

 

 霊夢と魔理沙が暴論を交わしている間に、六芒星を失った影響で門が独りでに開いていく。真っ暗な景色が続く奥に桃色の光が見え、それが桜のものであると気づくのに時間はかからない。

 春の暖かさがこもっていながらも、どことなく冷たい風が吹きすさぶ。ここから先は自分たちがいる場所とはまったく別の世界だと、生物としての本能が告げていた。

 

「さて、気を引き締めていくか」

 

 魔理沙の言葉を合図に一人ずつ門を通っていく。霊夢と魔理沙の後にフランを連れて入り、しばらく進んでその光景と雰囲気に圧倒された。

 そこら中には注連縄を巻かれた木々が点在し、どれもにこれでもかというほどの桜が咲き乱れている。未だ昼だというのに空は薄暗く、しかし光もないのにどういうわけか視界はひどく明瞭だ。どこに目を向けてもおかしな文字が書かれた木札が地面に突き刺さっており、それに負けず劣らずの量の白い人魂――動植物の気質の具現、幽霊がそこらを闊歩している。

 白い塊が、木に張りついていた。地面のスレスレを白い塊が漂っていた。上空でもそれはまた群れを作って飛んでいた。けれども生き物ではないそれらは音を発することは一切なく、静けさに包まれた世界は恐怖を通り越して一種の美しささえ連想させる。

 

「ここ……やっぱり冥界? すごいところに来ちゃったね、お姉さま」

「そうですね。気をつけてください。本来なら、この世界に来る行為そのものが死の意味合いを持つことになっています。生きたまま冥界に来た以上、殺されても文句は言えませんよ」

 

 フランは最強種の悪魔、吸血鬼だ。そう簡単に殺されるわけがなく、今の注意は主に前を歩く二人の人間へと贈ったものである。

 霊夢と魔理沙は、珍しいものを観察するように辺りで鎮座している大量の幽霊を、これまたこちらも珍しげに眺めながら悠々と飛んでいた。むしろまるで見たことがない静かな世界と、長いことお預けにされていた春の情景に調子が上がっているようだった。

 

「異変解決に危険はつきものよ。あんたの姉にも殺されそうになったしね。そんなことより、私たちが目指すのはあそこよ」

 

 軽く流して霊夢が指差したのは少し先にある滅茶苦茶に長い石の階段――その行先に窺える和風の屋敷である。遠すぎて大きさのほどはわからないが、洋風である紅魔館よりも広そうだ。もっとも、紅魔館は咲夜の能力で内装がとてつもないことになっているので、あまり見た目は参考になりはしないけれど。

 

「さっさと行くわよ。遅くに行ってあいつが死んでたんじゃちょっと後味が悪いからね」

「……そうですね。咲夜のことですから大丈夫だとは思いますが」

 

 階段の方に進み、それをたどって和風の屋敷へと急ぎ気味に向かっていく。

 静かな美しさを誇る冥界に来たためか、少なからず警戒を巡らせないといけないためか、霊夢と魔理沙の口数が減った。咲夜のことを気にしていて俺とフランも積極的にしゃべろうという気は起こらず、ただ淡々と飛ぶようになっている。

 ふと、辺りを見渡してみた。どこに目を向けても白い人魂が飛び交っており、彼らの発する怖気の冷たさが春の陽気さと相まって、どこか神秘的とも言える雰囲気を作り出している。

 この世界には太陽も月もない。フードを外して、永遠に輝きを灯さない薄暗き天空を見上げた。太陽がない以上は朝でも昼でもなく、ならば夜なのかと問われれば月がないのだから夜には足り得ない。ここは時間の概念が曖昧な深淵の空間、寛容にすべての終わりを受け入れる静かの世界、冥界だ。太陽は生の恵みを与え、月は闇夜を照らして人々に道筋を示すと同時に妖怪の力を増幅させる。それがない天空とは、死者が仰ぐのにもっとも都合がいい、言ってしまえば『冥界の空』という一種の時間や空間の概念なのかもしれない。

 だとすればあの空の向こうにはなにがあるのだろう。俺たちがいた世界と同じく宇宙が広がっているのか、深淵だけが続いているのか、そもそも向こうなんて存在しないのか。

 

「お姉さま、この音」

 

 フランの発言を耳に、そんなくだらない思考はすぐに打ち切った。「音?」と首を傾げつつ、吸血鬼の感覚を澄まして聴覚に意識を向ける。

 ――キ、ィン。

 かすかながら、確かに聞こえた。金属と金属を打ち合わせたかのような甲高い音。何度も連続して耳に届き、何者かが金属製の武器で戦闘を行っていることが容易に想像できる。

 フランと顔を合わせ、頷き合った。

 

「少し先に行っています」

 

 霊夢と魔理沙にそれだけ告げて、フランと一緒に加速した。俺は少しばかり『光の翼』を解放し、フランは片手の平から魔力を放出して推進力へと変える。

 すでに三分の二は登り終えていた階段をさらなる速度で駆け上がり、十数秒もすればそれも終わっていた。少し勢いをつけすぎて上から見下ろす形になってしまう。

 眼下にあるのは、階段を上る前から見えていた非常に広い屋敷だった。至るところに桜の木が咲き誇っていて、しかしそれらとは比べ物にならない大きさと美しさ、威圧感さえ誇る不可思議な桜が奥の方に窺える。花は咲いてはいるものの、他の桜と違って満開ではなかった。おそらくはあれが八雲紫でさえ手に負えなかった封印されている妖怪桜、西行妖なのだろう。

 

「お姉さま、あそこ」

「……見つけました」

 

 階段が終わった地点から屋敷の入り口である両開きの扉まで続く石床。飛行せず、その上で刃物を用いて近接戦闘を繰り広げている二人がいた。

 一人は探していた人間、完全で瀟洒なメイドこと十六夜咲夜である。人間が持ち得るものとしては最高峰に位置する『時間を操る程度の能力』を保有する彼女は、涼しい顔で――しかし目は真剣に、相手方の攻撃を紙一重で受け流しては避け続けていた。

 そんな咲夜にイライラしたように連撃を叩き込み続けているのは、当然ながら見たことのない、白い人魂を近くに控えさせた少女である。咲夜とはまた違う滑らかな銀髪はボブカットに整えられ、カチューシャのように黒いリボンを巻いていた。必要以上に幼さを感じさせる童顔には深い青の瞳で、冥界の住人だからか肌が白い。白のシャツに青緑色のベスト、膝に届く程度のスカートはどうにもある程度機動を重視しているという印象を受けた。

 剣術を得意とする半人半霊、原作にも登場する者の一人、ここの屋敷こと白玉楼の庭師、魂魄妖夢。

 腰に備えた二つの鞘は片方が長く、片方が短い。仕掛けている攻撃はほぼすべてそこから引き抜いたであろう二本の刀で行われており、それを銀のナイフで軽く捌いている咲夜は何気に凄かった。

 

「『斬れぬものなど、少ししかない!』……だったかしら? 斬れるにしろ斬れないにしろ、ちゃんと相手を斬る軌道で振るわなきゃ意味がないわよ?」

「あなたこそ、防御ばかりしてないで攻撃でもしたらどう? それとも私の攻撃に対処するのでいっぱいでなんにもできない?」

「あら、面白いことを言うのね。あなたの時間も私のもの、時間が足りなくてなにかができないなんて感覚は生まれてこのかた一度も味わったことがないわ」

 

 ギャリンギャリンとお互いの刃物で火花を散らし、しゃべりながらも激しい近接戦闘を繰り広げている。こんな場面で声をかけては邪魔になるだけだと判断し、フランを連れてゆっくりと少し離れたところに着地する。

 自分の剣撃を防ぎ続ける咲夜を見て埒が明かないと思ったのか、妖夢が一旦大きく距離を取った。その際に咲夜が何本かナイフを投擲するものの一瞬で叩き落としていた。

 

「あなたは、縮地という技をご存じですか?」

「うちの門番に聞いたことがあるわね。確か、一〇〇〇里の距離さえ一瞬で縮めることができるんだったかしら?」

「え、あー、たぶんそれは別の縮地。私が言っているのは似ているけど違う技、相手との距離を一瞬で詰める技よ。それを見せてあげるわ」

「一瞬で、ね。速さで私に勝負を挑むなんて無謀ねぇ。それに相手に気づかれずに動くのは私の専売特許よ? あ、そうだわ、点数をつけてあげる。そこそこ高めにつけてあげるから、遠慮なく来なさい」

「余裕そうにしていられるのもそこまでよ…………ふう。行くわ」

 

 呼吸を落ちつかせた妖夢は、じっと咲夜を見据えながら両手に持った二本の刀をゆっくりと腰だめに構えた。彼女自体がまるで一つの冷たい凶器だという雰囲気を纏っている。

 不意に、そんな妖夢が動き出した。片脚を前に出し、地面を踏む――瞬間、彼女はすでに咲夜との距離を詰めていた。

 それはまさしく一瞬と呼ぶべき速さであり、何百年と『光の翼』を練習することで音速さえ越える速度に慣れた俺の目でも、捉えるのはやっとであった。

 こんな速さに人間である咲夜が反応できるのか。咄嗟に影を操る魔法で妖夢に散らばった闇を集めようとするが、一秒の一〇分の一さえも軽く凌駕する時間内に拘束を実行できるはずがない。

 『光の翼』でも間に合わない。マズい――そう思った直後、これまでで一番甲高い金属同士がぶつかった音が鳴り響いた。

 

「なっ、んで……!?」

「動きが単調、自分の視界が追いついていない、攻撃の後に硬直……三〇点ね。出直してきなさい」

 

 二本の刀が咲夜の首と胴を斬り裂く直前で、同じく二本の銀のナイフで阻まれていた。簡単に、しかも正面から対処してみせた咲夜に驚いたのか、妖夢が目を見開いて体を固まらせた。

 その隙を見逃す咲夜ではない。刀を大きく弾いた彼女は、妖夢の胴へお返しとばかりに鋭い後ろ回し蹴りをお見舞いした。ぐぅ、と呻きながら吹っ飛んでいく相手へさらに銀のナイフを一気に投げられるだけ投げる。いくつかは防がれたようだったが、攻撃を食らったばかりですべてに対処はできない。何本ものナイフがグサグサと容赦なく突き刺さった。

 血まみれで伏した妖夢と、悠々と佇む咲夜。勝負あった。咲夜が指を鳴らすと同時に妖夢に刺さったり周囲に飛び散ったりしていたナイフがすべて消え失せ、咲夜がフランの目の前に立っていた。

 

「こんにちわですわ、レーツェルお嬢さまに妹さま。さきほどは助けようとしていただいたようでありがとうございます」

「いえ、咲夜一人でどうとでもできたみたいですから。それにそもそも間に合わなかったですし……どうやってあれを見切ったんですか?」

「こんにちわー。そうそう、気づいたら二人とも競り合ってた! 私にも見えなかったのにどうやって?」

「最近は能力の局所的使用にもチャレンジしていまして、私の中の時間だけを急速に速めてみました。ただ、体は普段通りにしか動かないので違和感がひどかったですわ。普通に周囲の時間を遅くした方が有用そうね」

 

 そんなことよりお二人はどうしてこんなところへ? と咲夜が問いかけてくる。

 

「私とフランは霊夢と魔理沙の付き添いです。そろそろあの二人は冬を終わらせたいみたいですから」

「あら、そうでしたの。それなら私と同じですわね。そろそろ茶葉が切れそうなので次の季節に移ってもらいたくて私も来ましたの。レミリアお嬢さまに命じられたことも理由の一つにありますが」

「咲夜の紅茶はすっごく美味しいよねー。今日も帰ったら入れてくれる?」

「もちろんですわ、妹さま。レーツェルお嬢さまのぶんも入れておきましょうか?」

「あ、お願いします。できればお姉さまのぶんもお願いします」

「了解いたしました」

 

 しかし間に合ってよかった。これ以上先に進ませていたら、この異変の元凶に咲夜一人で挑ませてしまうことになっていた。

 今も、咲夜が対処していたからよかったものの、本来ならば死んでいてもおかしくない。またなにか大切なものを失いかけていたのだと思うと、どういうわけか胸が痛くなってくる。咄嗟に展開できる防御魔法を用意、または致命傷を弾く魔法を込めたなにかの道具をプレゼント――とにかく、今後は二度と同じことがないように対処法を確立しておかなければならない。

 

「ところで翼の方は出ているようですが、太陽は大丈夫だったのですか?」

「……そういえば……えっと、焦げてないですか?」

「焦げていても、ここに来るまでに回復してしまっているはずです」

 

 それもそうだ。でもおかしな感覚はなかったし、おそらくローブがなんらかの魔道具で翼の方もどうにか守ってくれたんだろう。霖之助の仕事は完璧らしい。

 妙なところでもいつもと大して変わらぬ他愛もない会話をしていると、視界の端に紅白の巫女と黒白の魔法使いが映った。石床の上に倒れている魂魄妖夢を不思議そうに眺めた後、キョロキョロと辺りを見渡してこちらに気づいたようだった。



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一一.幽冥楼閣の亡霊少女

「やっぱりあんたか。で、あの転がってるあれはなに? あんたがやったの?」

「やっぱり私よ。もちろん私がやったわ。あれは春を、あなたがその袖の中に入れている桜の花びらを集めていたみたいね。あとは西行妖を満開にしたいとか言っていたわ」

「花びらか。私も帽子に入れて持って来てるぜ。というかあのちっこいのが元凶なのか? なんかひ弱そうだけど」

「違うでしょうね。おそらくあれは召使いかなにか……ただ、黒幕はこの先にいると見て間違いないはずよ」

 

 屋敷の門を眺め、咲夜が言う。三人とも妖夢のことをナチュラルに「あれ」扱いしていて割とひどい。いつものことではあるが。

 霊夢と魔理沙が屋敷の方に向き直ったので、俺も改めて正対してみた。妖怪としての気を張り巡らせて、この先にあるはずの西行妖の妖力へと意識を向ける。

 

「……これは」

 

 封印を解こうとしていることも影響しているのか、かなり濃厚な死の気配を纏った妖力が感じ取れた。ぶるりと震え、即座に頬に触れて無表情であることを確認することで、湧き上がったゾクリとした感覚(恐怖)を押しとどめる。

 紫にもどうにもできないくらいとはどれほどのものなのかと思っていたけれど、吸血鬼である俺がここまでの危険を感じ取ってしまうほどか。思い返せば、転生してからは生命の危機に対する恐怖を味わったことは幼い頃に飛行を失敗した時しかなかった気がする。あまりにも純粋な死の色が宿った妖力――さすがは、数多の人々を幾度となく死へと誘った桜と言うべきだ。

 ふと、これはまずいんじゃないかという思考が頭の中を駆け巡る。

 いざとなれば俺がどうにかするつもりだった。確かに多少のトラブルなら吸血鬼の俺がいれば対処はできるであろうが、もしもなにか不都合が起こって西行妖が復活してしまった場合はどうだろう。遠くに在っても俺に畏れを抱かせるほどの妖怪桜だ。おそらく能力を使えばある程度は無力化できるとは思うけれど、人間である霊夢と魔理沙、咲夜が近くにいて平気だとはとても思えない。

 

「……霊夢、魔理沙、咲夜」

「なに?」

「なんだ?」

「どうしました? レーツェルお嬢さま」

 

 なにが最善だ? ここで三人を冥界から帰らせることか、全員で西行妖のもとへ向かうことか。

 前者にした場合は、当然ながらフランに危ないことはさせられないので、異変の解決を俺だけで行うことになる。全員の危険を考えるとこれが一番最善だとは思うのだが、元々異変解決のために来た人間のお三方がそう簡単に受け入れてくれるとは思えない。霊夢と魔理沙は頑として譲らないだろうし、咲夜も急に帰ってくれと言い出した俺を訝しむに決まってる。

 スペルカードを挑んで無理矢理に追い返すか? いや、さすがに三人を同時に打倒できるほど力があると己惚れてはいない。それならばなんでも言うことを聞いてくれると約束したフランと一緒に……ダメだ。あれは形だけのものなのだ。俺の自分勝手な考えに大切な妹を利用するなんて論外である。

 言葉だけでは追い返せない、弾幕ごっこで勝てない――すなわち、前者を選ぶなら少なからず『ルール』を破る必要がある。能力で契約を無効化し、全力を持ってして全員を相手にする必要がある。その後はさらに元凶と対峙しなければいけないわけで、異変を解決できる確率も大幅に下がってしまう。

 

「桜の花びらを、すべて私にくれませんか? 影で飲み込んで消し去ります」

 

 ここは後者の『全員で西行妖のもとへ向かう』選択をしよう。原作通りなら西行妖は、それを封印し続けている人物と現在封印を解こうとしている人物が同一(・・)である以上は復活しない……はずだ。とは言え原作で平気だったのだから大丈夫だろうという考えは、吸血鬼異変という前例があるので気安く抱くことはできない。それでも今回の異変は俺はあまり関係していないし、原作以上に状況を悪くしなければ大丈夫だと思う。

 ただし、万が一のことも考えて桜の花びらだけは消去しておくべきだ。用心はできるだけしているに越したことはない。

 咲夜は快く渡してくれたが、霊夢と魔理沙には渋られた。なので霊夢にはコタツの件、魔理沙には返還期限を過ぎても本を返さなかった時のこと――パチュリーが怒っていたので、俺が出向いてスペルカードでボコボコにした――をだしにする。正直、こういうことは好きではないのだが、今回ばかりは利用させてもらう。

 二人もまた、しかたがないかという気持ちがありありと出た表情で、桜の花びらを渡してくれた。集めた花びらをまとめて周囲の影で飲み込む。冥界は薄暗く、大量に影があったので非常に助かった。

 同化。飲み込んだすべてを影へと変換し、霧散させた。

 

「これで、西行妖が復活する可能性はなくなったわけです。安心して異変解決に臨めますね」

 

 安心の気持ちを乗せて放った俺の一言に、霊夢と魔理沙が口を尖らせる。

 

「結構綺麗だったのになぁ……」

「お前さんは吸血鬼だってのにちょっと怯えすぎじゃないか? 西行妖ってのがなんなのかは知らんが、聞く限りだとどうせただの桜の木なんだろ?」

 

 霊夢は単純に名残惜しそうに、魔理沙はせっかく集めていた桜を消されたからか不満げに、それぞれ言葉を漏らした。

 そんな二人をフランが「ふんっ」と鼻で笑う。というよりも、どこか少しだけ怒っているように見えた。

 

「お姉さまは万が一、億が一にもあなたたちを死なせたくないから言い出したのよ? そんな文句を言うのはお門違いだわ」

「だからその慎重さが臆病だって言ってるんだ。人間なんて妖怪と違っていつでもどこでもあっという間に死ぬもんだぜ。私も霊夢もそれを承知の上でいろいろ行動してるんだからな。花びら集めもその一つだ」

「いや、私は別に死にたがりじゃないけど」

「死にやすいことと死んでいることには天と地ほどの差があるわ」

「天なんて飛んでいけばすぐに届くぜ」

 

 魔理沙の言う通り、妖怪よりも強い人間はおれど、妖怪よりも丈夫な人間はいない。いつだって予期せぬことで命を落としてしまう危険が付き纏い、そして幻想郷という妖怪が闊歩する世界では人間は常に死を意識して生きているのだろう。

 霊夢たちからしてみればレミリアとの勝負も命がけで、それをわかっていてもなお挑んでいたのだ。今更命の危険があるからと言って引き下がる選択肢があるはずもない。今回の俺のお節介だって、本当にただ迷惑なだけなのだろう。

 でも、それでいい。

 俺がどうなろうと、俺がどう思われようと知ったことではない。それだけで霊夢たちを危険から遠ざけられるのなら安いものである。いくらでも傷つくし、いくらでも嫌われよう。俺自身は幸せじゃなくても構わない。

 今回は正史への影響を最低限に抑え、今後の異変のためにいくらかの危機は享受しなければいけないが、いつなにが起きてもいいように俺がここにいるのだ。それに元々、霊夢たちの力ならばおそらくは俺がいなくても突破できるだろう。

 

「フラン、そんなにカッカしないでください。私は気にしてませんから」

「……私は気にする」

「フラン」

「お姉さまは魔理沙たちのことを心配して言ったのに、それを迷惑だとか怯えすぎだとか文句しか言わないなんて気に入らない! お姉さまはなんにも悪くないのにっ!」

 

 マズイ――あと一歩で元凶にたどりつく、異変解決の一歩だというのに仲間割れなんてしていては。

 

「魔理沙! 霊夢! 私と弾幕ごっこで勝負よ! お姉さまは正しい……私が勝ったら、お姉さまに謝ってもらうから!」

「ってことは……いつかの二対二での引き分けの決着をここでつけるってことでいいのか? はっ、それなら私は別に構わないぜ。お前らに勝つために、私もいくつか新しいスペルカードを開発してきたんだ」

「ちょっと、私は参加しないわよ? レーツェル、悪かったわ。今年は全然桜を見なかったから名残惜しくて……」

「私が勝手にしたことですから。それより、私はフランを止めるので霊夢は魔理沙の方をお願いします。敵の本拠地(こんなところ)で喧嘩なんて洒落になりません」

 

 頷いた霊夢とともに、それぞれの相方を止めに行こうとして、咲夜に「レーツェルお嬢さま、あちらを」と止められた。

 こんな時になにが、と言われた通りに咲夜が注意を向けている方向へ目をやってみる。屋敷の敷地内へと続く、開かれた両開きの扉があった。そこから、ひたりひたりと一人の女性がこちらに歩み寄ってきている。

 目の前の騒ぎに対処することに頭がいっぱいで、今の今まで気づけなかった。目を凝らして何者なのかを確認し、舌打ちを漏らしたい気分になる。

 

「あらあら、面白いことになってるじゃない」

 

 聞き慣れないその声に、俺と咲夜以外の視線も彼女へと集まった。

 桃色の髪を揺らして歩きながら、同色のその瞳は楽しそうなものを眺めているように細まっている。口元は手に持つ蝶の扇子で覆い隠してはいるものの、笑っていることは火を見るよりも明らかだ。

 桜花の模様が施された淡い水色の着物を身に纏い、頭にはナイトキャップを被っている。特徴的なのはその帽子に、死に装束に使われるような白布の三角頭巾が巻かれているところだ。

 幽冥楼閣の亡霊少女、西行寺幽々子。西行妖を満開にさせるために幻想郷から春を奪い、今もなお春度を集め続けている今回の異変の元凶である。

 

「……あんたが黒幕か」

 

 チラリと魔理沙を見て、しかし霊夢は幽々子に対応する方が優先順位が高いと判断したらしい。向き直ると、いつでもお札を取り出せるような態勢で問いかけた。

 

「どうしてそう思ったのかしら?」

「吸血鬼が二人もいるのに平気そうに近づいてくるやつなんて、よほどのバカか実力に自信があるやつのどちらかに限られてるのよ。どうせ幻想郷から春を奪ったの、あんたでしょう?」

「そうよ。西行妖を満開にしたくてねぇ……そう、まだまだ春が足りないのよ。あなた、花びらは持っていないの? あとほんの少しの春があれば満開にさせられるはずなのだけど」

 

 魔理沙とフランは、今のところは休戦にするということでそれぞれ落ちついたようだ。頭に血が上った状態でも、異変を巻き起こせるほどの力を備えている者を前にして身内同士で争い続けるのは愚策だとわかっているらしい。

 後々がまた大変であろうが、今ここで争われるよりはずっといい。なにせ相手は西行寺幽々子、人間も妖怪も関係なしにすべての生命を終焉へと誘う『死を操る程度の能力』を備えた亡霊の姫君なのだ。

 

「それは悪いわね。さっきそこの吸血鬼が全部消しちゃったわよ」

「あら、もうちょっと早く来ればよかったのね」

 

 幽々子の視線がこちらを向いた。怒っているのか、訝しんでいるのか。ずっと笑っているせいでなにを考えているかわからない。

 

「西行妖の危険性にこの距離から気づいて、復活させないためにいち早く消去したのかしら。やってくれたわねぇ、歴史のない新参の悪魔風情が」

「……歴史以前に肉体すらない亡霊に文句なんて言われたくありません」

「うふふ、肉体なんてなくても大して困らないわ。それにどう言い返そうと、あなたが西行妖を畏れて桜を消した事実は変わらない。人に恐怖を与える妖怪のはずのあなたが、ね」

「恐怖なんて私の前ではなんの意味も持ちません。すべてを無に帰す私の能力は恐怖だけでなく、死という究極の終わりでさえもなくしてしまいますから」

 

 霊夢と魔理沙が驚いた顔でこちらを見たのが横目で窺えた。そういえば、二人には俺の能力のことを話したことがなかった気がする。教えずにいる理由もないので、もしも今度聞かれたら答えてあげることにしよう。

 俺の返答に、幽々子の笑みが消えた。扇子を閉じ、まるでなにかを見通すようにじっと俺を凝視してくる。

 

「……吸血鬼。あなた、名前は?」

「レーツェル・スカーレットです」

「私は西行寺幽々子よ。レーツェル・スカーレット……なるほど、あなたが紫が言っていた『私に勝利した妖怪』ね。そのずっと変わらない表情に翼の特徴、両方とも聞いた話と一致してるわ」

 

 幽々子と紫。この二人が知り合いであることは原作からの知識であらかじめ知っていた。

 しかし、紫は俺のことまで教えていたのか。紫が油断していたからどうにかなっただけなのに。

 

「いえ、あれはたまたま」

「偶然で勝てるほど紫は弱くないわよ。そして、私もね」

 

 その瞬間、ズズ、と空気が変わった。幽々子から溢れ出した莫大な霊力が解き放たれ、辺りの重力が何倍にも膨れ上がったような気分を味わった。

 西行妖とは八雲紫ですらどうにもできなかった妖怪桜であり、西行妖を封印しているのは西行寺幽々子の死体である。備えた能力の関連性や存在を持ってしての封印等のいくつかの優位条件はあれど、妖怪の賢者ですら手も足も出なかった西行妖を封印した事実は変わらない。

 ひたり、と幽々子が一歩を踏み出した。実際には普通に歩いただけなのだけれど、どうにも時間が遅く感じる。辺りを埋め尽くす冷たい力が俺の警戒心を高め、無意識に集中してしまっているのだ。

 先手を打たれてはたまらない。まずはなにが来てもいいように体内の魔力を循環させ、能力と弾幕の準備を――。

 

「待ちなさい」

 

 そんな一触即発の空気をぶった切ったのは、呆れたと言った顔をしている霊夢であった。幽々子が放つ異様な霊力をものともせず、俺と幽々子を結ぶ直線の間に歩いてきては陣取ってくる。

 

「私が先に戦うわ。異変解決は私の仕事だもの。レーツェルは私を応援してくれていればそれでいい」

「え? ですが」

「ですがじゃない。私は、最初からそのつもりだった。それに、先に戦うって言ってるだけで戦わせないとは言ってないわよ。私がやられてからあなたが戦えばいいのよ」

 

 負けるつもりなんて欠片もないくせに、よく言う。

 とは言え、よくよく思い返せば元々俺もそのつもりだったはずだ。思っていたよりも幽々子が強そうで、ちょっと強張ってしまっただけである。

 当初の予定通り、基本は正史を重視して、霊夢たちが危なくなったら俺が出張ってどうにかすることにしよう。紫の知り合いなのだから、幻想郷の外である冥界の住人と言っても、弾幕ごっこの体裁は保ってくれるとは思う。

 

「おいおい、私も戦うぜ。霊夢こそ応援してろよな。私の後にやらせてやるから」

「あんたはフランとのバトルが待ってるでしょうが。それともなに? この亡霊と戦った後に吸血鬼と全力でやり合えるほどの力が残ってると思う?」

「……それを言われちゃ、思わないと言うしかないな。フラン、勝負は明日とかじゃダメか?」

「ふざけてるの?」

「だよなぁ……ちくしょう、いくら桜を問答無用で消されたからって、悪気どころか善意しかなかったんだから素直に謝っておくべきだったぜ……」

 

 正直な話、フランが俺のことで怒るなんてまったく想定していなかったので、俺も相当混乱していた。どう対処すればいいのかわからないので、俺としては魔理沙と戦って丸く収まるのならばそれに越したことはないと考えていたりもする。

 悔しそうに表情を歪める魔理沙を見ては幽々子が笑みを浮かべ、扇子を広げた。

 

「そうねぇ。妖夢、妖夢ー。そんなところで寝てないで、そろそろ起きなさい」

「……う、うぅん……幽々子、さま?」

 

 倒れていた少女の名前を幽々子が呼ぶと、それがトリガーとなってか咲夜に飛ばされていた意識が元ってきたらしい。寝ぼけ眼で薄く瞼を開けて、幽々子の後に俺たちの姿を視界に入れて、目を見開いて飛び起きた。

 

「ッ! 申しわけありません、幽々子さま! 侵入者にやられて――」

「そんなの見ればわかるわよ。そうじゃなくて、私と一緒に戦ってもらえる?」

「は? 一緒に、ですか?」

「ええ、そう。一緒に。ちなみに拒否権はないわ」

「疑問形なのにですか……」

 

 最低限のことを話し終えた幽々子が、「どう?」と今度は俺たちの方に向く。「これでこちらも二人よ。そこの黒白と紅白、一緒にかかってきなさいな」。

 

「お、いいのか?」

「だからあんたはダメだっつってんでしょうが。今はよくても後で死ぬわよ」

「でも誘われたぜ」

「あんたがいてもいなくてもどうせ大して変わんないわよ。私一人で十分」

「ほほう? 霊夢は先日私に負けたじゃないか。忘れたわけじゃないだろ?」

「勝率は断然私の方が上じゃないの。まぐれ勝ちなんてなんの意味もないわ」

「実力だぜ。私の全力がお前を上回ったんだ」

「あら、それなら私は全力じゃなかったわ。あの日はちょっと調子が悪くてねぇ」

「私も調子が悪かったぜ」

「嘘つけ」

「嘘つきは霊夢だろ」

 

 敵を前にしてぎゃーぎゃーと言い合う二人。幽々子は相変わらず面白そうに、妖夢は目を点にして眺めている。

 そろそろ仲裁に入ろうかと思った矢先、俺の横を咲夜が通りすぎて行った。

 

「それなら魔理沙の代わりに私がやらせてもらうわ。倒れてた方は一度倒してるから役に立つと思うわよ」

「あー、まぁ、一緒に戦うなら魔理沙よりあんたの方がいいかも。五十歩百歩だけど」

 

 そりゃないぜ、と魔理沙が口を尖らせる。その後も言い合いが少しばかり続いたが、最終的には霊夢と咲夜が幽々子と妖夢の二人を相手にするという結論に落ちついたようだった。

 咲夜は、俺とフランに向き直ると「申しわけありません」と頭を下げた。

 

「咲夜」

「どうか、ここは私に任せてくださいませんか? 紅魔館のメイドとして、恥ずべき結果は決して残しません」

 

 確かに、吸血鬼でさえも捉えることが難しい一撃を防ぎ、妖夢を下した咲夜ならば十中八九平気であろう。それでもどうしても心配してしまうのは最早クセというか、習性というか。

 咲夜は十分に信頼できる。それも霊夢と組むのだから、きっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、こくりと咲夜に頷きを返した。

 

「ですが……恥ずべき結果だとか、どうでもいいですから、絶対に無事に帰ってきてください」

「ええ、もちろんですわ。ありがとうございます、レーツェルお嬢さま」

 

 咲夜が背を向けて歩いていき、霊夢の隣に並んだ。

 

「……よかったの? お姉さま」

「咲夜なら平気ですよ」

「まぁ、私もそう思うけどねー」

 

 咲夜が代わりに出ることに未だ難色を示す魔理沙と、少しばかり不機嫌そうな自分の妹を引きつれて、勝負に巻き込まれない位置まで歩いて移動する。

 いざ本当に危ない事態になりかけた時は『光の翼』で突っ込むつもりなので、事前に衝撃波やら反動やらの『答え』をなくしておく。霊夢と咲夜の二人ならば幽々子と妖夢にも勝てると思うけれど、念のためだ。

 

「さて、幻想郷の春を返してもらおうかしら」

「そうね。返して貰おうかしら、暖気を」

「最初からそう言えばいいのに」

「えっと、なんだか状況がよくわからないけど……とにかく、この侵入者どもを倒せばいいのね?」

 

 四人がそれぞれ空へと飛び上がった。霊夢は手にお札を、周囲に二つの陰陽玉を浮かべ、咲夜は両手にナイフを構える。

 幽々子は変わらず扇子を広げたまま。妖夢は二刀の柄に手をかけて、いつでも抜ける態勢を取った。

 

「花の下に還るがいいわ、春の亡霊と半分幽霊!」

「花の下で眠るがいいわ、紅白の蝶に悪魔の犬!」

「必ず地上で花見を行うわ、姫の亡骸とその従者!」

「妖怪が鍛えたこの楼観剣に斬れぬものなど、あんまりない!」



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一二.世界を縮める冥土

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Sakuya Izayoi □ □ □

 

 

 

 

 

 ――西行寺幽々子と名乗った女性とその従者である剣士との戦闘を開始してから、すでに数十分の時が経過していた。即興で一緒に戦うのは少しばかり無理があるとは霊夢の言で、それぞれ一人ずつの役割分担をして戦っていた。

 剣士による、普通の人間ならば決して捉えることができないであろう長い方の剣での一撃を、能力で超加速させた脳により当たり前のように反応してナイフで受ける。その直後に短い方の剣が抜かれて私に迫ってくるが、それもまた逆の手に持ったナイフで防ぎ切った。ナイフは刃の部分が非常に短いので滑らせて来られたら面倒だ。きちんと両方ともナイフの鍔で剣の刃を防ぎ、追撃をできる限り封じている。

 しかしその場合、鍔迫り合いによる純粋な力勝負になってしまう。私は強力な能力はあれどただの人間なので、そういう真正面からの衝突はあまり得意な方ではない。まぁ、黒白の魔法使いならば逆に得意なのだろうが……。

 このままではすぐに押し切られる。それならば――ナイフに込めている力はそのままに、自らの中の霊力を操り、飛行の軌道を変更した。剣士の力に耐え切れずナイフを弾かれる寸前、その力を逆に利用して上半身をそらし、勢いのまま真下に仰け反った。

 膝を曲げ、タンッ、と剣士の足の裏に上下反対の姿勢で着地する。ここは空中なので、三次元の動きだってお手の物だ。

 スペルカードルールにおいて基本的に近接戦闘よりも弾幕が重視されるのは、単にそちらの方が美しいということもあるけれど、空中での近接戦ならばこうした特殊な動きによって比較的容易に対処できるからという理由も挙げられる。飛行の力をちょっといじるだけで簡単に避けることができたり、そもそも弾幕をたくさん張っていれば近寄れなかったり。実際、今私が相対している剣士のようにバカ正直に突っ込んでくるタイプはかなり珍しい。

 

「くっ」

「あら、防がれちゃったわ」

 

 脚の腱でも斬ってしまおうかと素早くナイフを振ったけれど、さすがに相手の反応も速い。長い方の剣で両手のナイフを一気に跳ね返された。短い方の剣を振りかぶるのを見て、足場にしていた剣士の足裏を蹴って距離を取る。

 縦に半回転して体の向きを元に戻して、持っていたナイフを剣士へと適当に投擲しながらさらに後退した。

 トン、となにかに背中が当たる。驚いた風に振り返ってきたそれと、至近距離で視線が合った。

 

「なんだ、あんたか。まだそっち終わってないの?」

 

 敵や攻撃ではなかった安堵を見せた博麗霊夢が、互いに背中を預けたまま問いかけてくる。

 

「そういうあなたこそ終わっていないようだけど」

 

 チラリと後ろを、霊夢が油断なく見据えている方向を確認してみると、扇子を広げて面白げに笑っている幽々子の姿がそこにあった。服の端やらが多少焦げてたり破けたりしているものの、直撃は一度もしていないようでまだまだ元気そうだ。

 霊夢も同じようにまた直撃こそしていないみたいだが、幽々子以上に掠った(グレイズした)数が多いのは、服のボロボロ具合やところどころ血のにじみ出た肌から窺える。

 私もまた無傷というわけではない。ここまでメイド服を汚さないように心がけて来たのに、いくらか相手の剣によって破けてしまっている。一度倒しているのだから大丈夫だ、すぐに終わらせて霊夢に加勢しよう、などと軽く考えて剣士の方に挑んだのだが、満身創痍のくせに意外にしぶとい。最初の勝負の時は相手の心に、私が人間だからと舐めていた部分があったのかもしれない。

 

「私はいいのよ。あんたと違って大ボスを相手にしてるんだから」

「そうねぇ。このまま戦い続けたらいずれ霊夢は負けてしまいそうだわ。十中八九私は勝てるけど」

「おい……って文句を言いたいのは山々なんだけど、実際その通りになる確率が高いのよねぇ。あーもう、どうしましょ。あんたにさっさともう一人を片づけてもらって二対一にもつれ込めば、幽々子とかいう亡霊も楽に倒せるんじゃないかなぁ」

 

 要するに、あんな傷だらけの従者なんてさっさと倒せ、ということだ。

 霊夢の言うことももっともな話だ。幽々子はレミリアお嬢さまやレーツェルお嬢さま、妹さまほど弾幕の扱いはうまくない。あの三人には霊夢と二人がかりで挑んでも勝てるかどうかと言ったところだけれど、幽々子ならばおそらくどうとでもできるだろう。事実、霊夢は数十分に渡ってその亡霊の攻撃を耐え続けているのだ。

 私が剣士を倒すことが異変解決の鍵になる、ということ。もちろんこのまま続けて負ける気など微塵もしない。ただし、私が剣士を倒すまで霊夢が無事でいるかどうかは別問題なのだ。

 

「ほら、早く行きなさいよ。いつまでも背中合わせでいたって、すぐに二人まとめて攻撃されちゃうだけよ」

「はいはい。それじゃあ、できるだけ早く倒してくるわね。いい加減、レーツェルお嬢さまもそわそわしているようだし……」

 

 眼下を見やれば、こちらを観戦している二人の吸血鬼と一人の人間の姿が目に入る。そのうちの一人、金と銀の髪を持つ美しい少女は相も変わらぬ無表情で私を見上げていた。

 

「……そわそわしてるの? あれ。私にはいつも通りの読めない顔にしか見えないんだけど」

「なにを言ってるのよ。ちゃんと見なさい。目と体の動きを見ればどんな感情を抱いているかなんて、多少はわかるでしょう?」

「や、わかんないから」

「……はあ」

「なんでため息なんて吐かれなくちゃいけないのよ」

 

 私には、レーツェルお嬢さまからは今にも心配して飛んできそうな雰囲気しか伝わってこない。少し前までは私も霊夢と同じように感情を読み取ることはできなかったが、紅霧異変以降はなんとなくわかるようになってきた。

 レミリアお嬢さまは私と違ってほとんど完璧に察せられるようだから、まだまだ精進しなければ。

 

「いいから本当にさっさと行きなさいよ。もう向かって来てるわよ、あのちっこいの」

「ええ。あなたもやられないようにね」

「もちろんよ。あ、『引きつけているのはいいが、別にあれを倒してしまっても構わんのだろう?』」

 

 霊夢の、おそらくはレーツェルお嬢さまからの受け売りの言葉を最後にして、ほとんど同時にその場から飛び散った。霊夢は幽々子の相手、私は剣士へとナイフを投擲し、それを躱しながら斬りかかってきた剣士と再度の鍔迫り合いに興じる。

 私が剣士を素早く下すことができれば、二対二のこの勝負をさっさと終わらせることができる。逆に遅れてしまえば霊夢がやられ、すぐに剣士を撃破したとしても黒幕と一対一。レーツェルお嬢さまや妹さまの手前、容易く敗北するつもりはないけれど、やはり厳しいことは間違いない。

 チラリ、と再度レーツェルお嬢さまの方へ視線を向けた。

 

「よそ見してる暇が、あるのかしら!」

「あら、言ったでしょう? 時間が足りなくてなにかができないなんて感覚は生まれてこのかた一度も味わったことがない、って」

 

 一瞬の隙を狙って容赦なく剣を押し込んでくる。やはり人間の私では力勝負では不利だ。さきほどと同じように真下に回ってやろうと飛行の具合を調整した途端、ふっと妖夢の剣から力が消えた。

 その時に迫ってきたのは鋭い蹴りであった。どうやら同じ手は食わないと言いたいらしい。しかし、実のところそれも私は読んでいる。数十分は戦闘を繰り広げたのだから、目の前の少女がそれなりに剣術の技術と戦闘の才覚を備えていることは理解していた。

 蹴りを同様に脚で受け止め、鍔迫り合いをしていたナイフを起点に、今度は剣士の上側へと半回転して移動した。飛行の調整による下側への回避は一度見せたため、今回は読まれると予想して上側へ行くことにした。

 目を見開く剣士の面が加速した思考の中でコマ送りのように窺える。蹴りを読まれ、さきほどと違い頭上へと移動したからか。そうして驚愕で固まった隙を逃さず、両手に持っていたナイフを至近距離で相手の両肩に投擲する。

 

「ぐ、ぅぁあああ!」

 

 瞬間、相手が覚悟したのがわかった。避けられないことを確信した少女が、逆にそれを受けながら行動することでアドバンテージを得ようとしたのがわかった。

 肩にナイフが刺さるのもお構いなしに、己の頭上にいる私へと二刀を振り上げてくる。当然、ナイフを投げたままの態勢の私は通常ならば斬られるだけだ。

 しかし、見えている斬撃にどれほどの脅威があると言うのだろうか。

 ――"時符『プライベートスクウェア』"。

 

「あなたが自分の瞬発力にどれだけの自信があるのかは知らないけど……誰も私の速さを知覚などできないわ、安心して」

 

 目に映るすべてのものが限りなく遅く見える。今まさに私を斬りつけんと迫り来る刃でさえスローモーションのように、いや、実際的にスローモーションで近づいてきていた。

 そんな中、私の体だけはいつも通りに動く。肉体を加速させている、というわけではない。ことはもっと単純な話だ。私自身を速くしたのではなく、剣士を――世界を遅くしたのだ。

 時を止めるだけではいろいろと不都合が生じる可能性があることは、かつての霊夢との勝負で十分なくらい思い知った。私は拘束等の自由を封じてくる攻撃に弱い。だからこそ、こうして時を遅めることで単純に相手の動きを一挙一動見逃さないようにするのである。

 ナイフを二振りの剣の側面に叩きつけ、私を斬りつける軌道から逸らした。そのことに剣士が目を剥いたのがわかった。相手からしてみれば私が急加速して超反応を見せたことになるのだから、それは驚くだろう。

 

「そろそろ終わらせてもらうわ」

 

 レーツェルお嬢さまをあまり待たせていられない。もう何十分も私を心配してそわそわしているのだから、とっととこんな勝負は終幕にするべきである。

 ナイフを振るう、投げる、時々蹴りも織り交ぜる。縮地などと言って天狗にもできるかどうかわからない超人的な短距離移動をしていた彼女でも、素の反応速度にはやはり限界があった。遅くなった世界で唯一速さを保つ私を前に、剣士は元々傷だらけだった肌に更なる切り傷を増やしていく。

 

「こ――の――」

 

 言葉が遅く聞こえる。しかし、彼女がスペルカードを宣言したことだけは理解できた。

 ――"人符『現世斬』"。

 空中にいながら、剣士が私と同等以上の急激な加速で肉薄してきた。目を凝らせば、どうやら半霊――半人半霊である彼女の幽霊としての部分。白っぽい人魂――を足場にして簡易的な縮地とやらを発動させたようである。

 世界の時が遅くなっている中でも、剣士の動きは異様な速度を誇っていた。元々近かった距離は一瞬で零距離となり、半霊を蹴った力を腕にも伝えさせているのか、長い方の剣を思い切りに振るう動作でさえもハッキリとは捉えることができない。

 至近距離であれば、妖怪でも随一の速さを備えていると言われる天狗でさえも反応できないはずだ。それほどの踏み込み、斬撃。

 それでも無駄だ。

 

「時は残酷とは、よく言ったものですわ」

 

 私は"時符『プライベートスクウェア』"を使わない状態で、スペルカードではない彼女の縮地を防いでいるのだ。今は時を同じくスペルカードを発動している。これが示すことはつまり。

 私のナイフと剣士の渾身の一撃が衝突して甲高い金属音を立てた。あまりの力強さに防ぎ切ることは難しかったので、飛行方向を真下に調整すると同時に、ガードに使っていたナイフを己が頭上へ振り上げた。受け流した刃は私の髪を数本斬り裂いたようで、銀色の髪が宙を舞う。

 それで終わりだった。

 大ぶりの一撃で作られた隙は非常に大きく、最早見逃すことの方が難しい。慈悲の心など欠片もなく、今度こそ完全に戦闘不能にするつもりでありったけのナイフを斬り合えるほどの近距離で投げまくった。四本目が刺さった辺りで苦悶の声が聞こえ、一一本目が肉を貫いた辺りでだらりと両手が下がる。一五本目が剣士の身を捉えると、飛行を維持できなくなった彼女が墜落していった。

 

「解除」

 

 世界の時間が元に戻る。周りからしてみれば今の攻防はほんの五秒程度、私の肉体的には十数秒だ。ただし世界を遅くする行為と思考の加速を両方行っていたために、体感的には三〇秒ほどあった気がする。

 こちらの勝負が終わったので霊夢たちの方へ視線を向ける、どうやらあちらもスペルカード同士で争っているようだ。幽々子が大量に放つぼんやりとした色の霊力弾を、霊夢が半透明の四角い結界で遮断する。その結界がどんどん広がりすべての弾幕を打ち消し、最終的には幽々子も突き飛ばした。ダメージはそんなにないようだが。

 

「霊夢、こっちは終わったわよ」

「え? 早いわねぇ。一分も経ってないはずだけど……」

 

 霊夢がなにかを探すように辺りを見下ろして、私が下した剣士を見つけると「うわっ」と引き気味な顔をした。

 

「あ、あれ大丈夫なの? すっごいナイフ刺さりまくってるわよ」

「人間じゃないんだから大丈夫じゃないかしら」

「半分は人間じゃなかったっけ……」

「それなら半分大丈夫ね。半殺しってやつよ」

 

 あの程度で半人半霊が息絶えるはずがない。それに、冥界の住人ならば生きていても死んでいてもあまり変わらないと思う。

 

「でも、手持ちがちょっと心もとないわね。落としちゃったのを回収してくるわ。それまで耐えててちょうだい」

「まぁ、こんなに早く終わるとは思ってなかったから、それくらいはお安い御用よ」

 

 了承を得たので遠慮なく降下していく。了承されなくても降下するつもりだったが。

 その途中、ふと視線を感じて振り返ると、幽々子と目が合った。口の端を吊り上げた彼女が言葉を吐き出すように、しかし声は発さずに口を開け閉めをする。

 

「『やってくれたわね』……ね」

 

 この後は消化試合だと思っていたけれど、すぐに気を引き締めた。ここで油断して大怪我を負ったりしていてはレーツェルお嬢さまに申しわけが立たない。彼女はとても心配性だから。

 やることを終えたらすぐに戻り、霊夢とともに全力で幽々子を討ち取る。そんな意志を固めて、地面に着地してナイフを回収していった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一三.舞い散る桜は儚き狂いを

 霊夢と咲夜がなにやら背中合わせで話してから、完全に形成が逆転していた。

 咲夜が一分もしないうちに妖夢を片づけ、ナイフを回収した後に霊夢とともに幽々子と相対した。そこからは目に見えて幽々子へ攻撃が当たるようになり、最終的に霊夢の"霊符『夢想封印』"と咲夜の"幻符『殺人ドール』"というスペルカードの同時使用で方がついた。

 上空で戦っていた三人が――すでに妖夢は墜落している――降りてくる。地に足がつく前から咲夜と霊夢のもとに駆け寄って、「大丈夫ですか」と声をかけた。案の定、二人とも「全然平気」「大丈夫ですわ」と平気そうだ。

 

「あらら、負けちゃったわ。最近の人間は強いのねぇ」

 

 ボロボロではあるが、幽々子も案外平然としている。扇子を口元に広げて、横目で妖夢の様子を確認していた。彼女にはえげつない数のナイフが刺さっている。

 心配して抜きにいくのかと思っていたが、「あれくらいなら平気ね」とでも言いたげに視線を元に戻した。

 

「さ、幻想郷に春を返してもらうわよ」

「わかってるわよ。この勝負だけでも十分楽しめたもの。西行妖が満開になるのが見れないのは、少し残念だけど……」

 

 言わずとも彼女が、「いざ見たくなったらまた異変を起こせばいい」と考えていることは明白だった。霊夢が大きなため息を吐いて、やれやれと首を横に振る。

 

「……ようやく暖かくなるのね。コタツとも一時のお別れだわ」

「おっしゃ、今回も無事に異変が解決したな。帰ったら宴会やろうぜ」

「すぐに春が返ってくるんだから、桜が咲いたらでいいじゃない。まだ雪が積もってて寒いし。そもそもあんたは帰る前に吸血鬼との喧嘩の約束があるっての」

「それもそうだな。で、幽々子だっけか? 春はいつ頃返ってくるんだ?」

「幻想郷全体に春を返すとなると、一か月程度ね」

 

 予想よりも遅い。一か月後となると、例年では日差しの強い夏の季節である。

 

「長いわ。もっと短くして」

「そうねぇ。一か所に春を戻すだけならすぐに終わるわよ?」

「それなら博麗神社の方から春を戻すようにしてくれる? 異変解決したんだからそれくらい許されるでしょ。早く花見もやりたいし」

「承ったわー。あ、その時はお邪魔してもいい? っていうかするわ」

「……ここを離れてもいいのか?」

「いいのよ、出ちゃいけないなんてルールはないし」

 

 さきほどまでドンパチ戦っていたというのに、ずいぶんと軽い会話だ。

 力がある者のほとんどは、どれだけ不利な状況下にあろうとも常に余裕な態度を崩さない。死の間際でさえも誇り高く、決して屈せず、命乞いなど絶対にしない。強き者としての自覚がそうさせるのだ。だからこそ幽々子が負けたのにも拘わらず、それを気にせずにいることは当然なのである。

 けれども霊夢はどうだろう。いくら勝ったと言えど、相手は強大な力を持つ亡霊だ。少なからず怯え、竦み、萎縮するのが普通である。人間が人外を相手に普段通りの姿を見せていられるというだけで十分に異常なのだ。

 ゆえに強き者に分類されるほとんどの妖怪は彼女に少なくない興味を抱く。人の身でありながら妖怪を怖がらず、むしろ同族と同等に接してくる様に、不可思議な好奇心とどことない心地よさを覚える。

 幽々子もまた同じであった。それは、こうして満開に桜が咲いている冥界から、わざわざ博麗神社まで花見に行くとまで言っていることから容易に窺える。

 

「その時は私と勝負しようぜ。今回はお預け食らったからな、霊夢も戦ったんだから私も戦ってみたい」

「望んで私に挑むのねぇ、珍しい。いいわよ、その時は存分に可愛がってあげる」

 

 魔理沙もまた人外にいつも通りに接することができる者の一人だ。それは霊夢のようにただ単に異常なほど陽気であるからではなく、人間はいつでもどこでも死んでしまうものだという思考から来ているものなのだろう。

 いつでもどこでも死ぬから、いつ死んでもいい――ではなく、そこで死ぬのなら自分はその程度、そこまでだったというだけの話。

 

「さぁ、そろそろ帰りましょうか。約束通り、お茶をお入れいたしますよ」

「わぁっ、楽しみ! ……って、その前に魔理沙と決闘! お姉さまに謝らせなきゃ! えぇと、待っててくれる? 咲夜、お姉さま」

「ええ、当然ですわ」

「もちろん私も待っていますが、弾幕ごっこは冥界を出てからですよ。あんまり長居するわけにもいきませんし」

「うんっ」

 

 咲夜には、おそらく自覚がある。妖怪が強き者としての自覚を持つように、彼女には吸血鬼のメイドとしての誇りを抱いている。幽々子へ挑む時の口調からそれが強く感じられた。

 霊夢も魔理沙も咲夜も、本当に変わった人間だ。でも、だからこそ人間なのだ。人間だからこそ、その短い生の中でありとあらゆる生き方に在ることができる。

 

「そうそう、レーツェルだったかしら」

 

 幽々子が不意に話しかけてくる。ちょっと警戒しかけて、しかし霊夢たちがいつも通りにしているのに俺が身構えているのも変だなと、すぐにそれを崩した。

 

「なんですか?」

「正直に言っちゃうと、漂う気配やらでわかるのよ。おそらく私はあなたに敵わない。どれだけあなたの力量を見定めようとしても、そこからはなにも感じられないわ。すべてを受け入れる大きさも、信念を貫こうとする強さも、誇り高き忠誠も、無垢をやめた純真さも――そう、なにもね」

「強さがわからないのに、勝てないと思うんですか?」

「わからないんじゃなくて、ないのよ。だから私はあなたには勝てないと感じるの」

「よくわかりませんけど……私は、『答えのない存在』ですから」

 

 正体不明(わからない)ではなくて、(ない)。それはどうしようもないくらいに大きな、決定的な違いだ。俺がそのことに気づけたのは自らの過失ですべてを失った後だったけれど。

 

「死は誰しもに平等に訪れるわ。だから、今は見えないその終わりも……いずれあなたの命も私が手に入れる。すべての生は私のものよ。ふふっ、楽しみが増えたわねぇ」

「それは、私に対しての宣戦布告ですか?」

「好きにとってくれて構わないわ。あとはー、今回はお預けだったから、また今度私と戦いましょう? もちろん弾幕ごっこでね。それもまた、一興だわ」

 

 それくらいならいくらでも引き受けよう。こくりと頷いた反応に、幽々子は機嫌よさげに扇子を閉じた。

 

「さて、早速春を戻しにかかりましょうか。妖夢、妖夢―、起きなさーい」

 

 妖夢のもとにゆったりと歩み寄っては、耳元でその名を呼び始める。妖夢の体には無数のナイフが刺さった痕跡が残っており、服も赤く汚れて痛々しい。人間ならばとっくに息絶えているであろうほどの大怪我、さしもの半人半霊も動けはしない。

 事実、幽々子の呼びかけには「う、うぐぅ……ご、ご容赦を……ぉ……うぅ!」という苦悶のうわごとしか返ってこない。早めに休ませて回復に専念させた方がいいのは明白だった。

 

「それじゃ、帰りましょうか」

「そうだな、帰るか」

「ええ、そうね。戻りましょうか」

「魔理沙、決闘。忘れてないよね」

 

 とは言え、こちらのメンバーはそんなことを欠片も気にしたりなどはしない。むしろ、これ以上ここにいると春を戻す作業とやらに付き合わされる。そう直感し、さっさと帰ろうとするほどだ。ここまで来ると清々しいくらいの潔さだ。

 ちょっと待ってくださいと引き留めて、幽々子と妖夢のもとに駆ける。

 

「あら、帰るんじゃなくて?」

「その前に治療していきます。立つ鳥跡を濁さず、です」

 

 倉庫魔法で取り出した、己の血が入った小瓶。蓋を開けて中身を浮かび上がらせて、両手でパンッ。再生の力を妖夢へと送った。

 見る見るうちに傷が塞がっていくさまに幽々子が目を丸くする。いや、目を丸くしたのは別の理由か。

 

「その魔法、あなた自身にはなんの意味もないものでしょう?」

「そうですね。もともと私の血ですし、分解して再生の成分だけを残すなんて他人に回復させる時以外は使わない錬金術です」

「他人のためだけの魔法……それも悪魔が、ね。聞いてた通り、本当に変わった吸血鬼ねぇ」

「今日だけで何回言われたんでしょう、って考えちゃうくらい言われます」

 

 治癒が終わった。今まで苦しげに歪んでいた妖夢の表情が、スースーと寝息を立てる穏やかな寝顔へと変化する。

 

「……やっぱり、今日は休ませてあげようかしら」

「意外に優しいところもあるんですか?」

「意外は余計」

 

 とにかくやることはやった。幽々子たちに背を向けて、待っていてくれた四人のもとへ足を進める。

 今回の異変は無事に終わった。これならば俺やフランが介入しなくても、おそらく無事に終わっていただろう。それもそうだ、でなければ原作など存在しない。

 次の異変は二か月後だが、おそらくそちらはあまり注意しておかなくても大丈夫だろう。異変を起こす理由が理由なのでむやみに誰かを殺したりなんて興が冷めることはしないと思うし、なによりも霊夢がいる。彼女の『力』があれば、何事もなく異変は終幕を迎えるはずだ。

 

「また会いましょう、"狂った帽子屋"」

「……それも聞いたんですか。紫はおしゃべりですね。またねですよ、亡霊のお姫さま」

 

 とは言え、やはり少しは気にかけておこう。またなにかの不注意で大切なものを失ってはたまらないのだから。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 ザァ、とそよ風が木々を揺らす。舞い落ちてきた桃色の花びらが、ちょうど手に持っていた盃の中に落ちた。

 なんとなく見上げてみると、おそらく晴天だろう日差しは立て掛けた桜色の日傘によって遮られている。影の魔法を使うなんて無粋だし、のんびりするのにフードなんてのもなんとなく落ちつかない。せっかくの花見なのだから、できるだけ心地のいい環境でいようとするのは当然だ。

 次に辺りを見渡す。少し遠くでは妖夢が咲夜に食ってかかっていて、その近くでレミリアと幽々子が互いに薄暗い笑みを浮かべながら盃を交わしている。ちょっと離れたところではプリズムリバー三姉妹が曲を演奏し、チルノとその他妖精たちがそれに乗ってワイワイと騒いでいる。自分の背後に目を向ければ、なにやらパチュリーとアリスがにらみ合っていたり。

 花見の席ということで、他にも羽目を外している妖怪たちが多かった。そしてそのほとんどが霊夢が今まで会ってきた妖怪である。

 

「もうそろそろ呼ばれるようになったんじゃないですか?」

「なにがよ」

「妖怪神社、って」

「…………べ、別にまだそこまで言われてるわけじゃないし……」

 

 左隣に座っていた霊夢が俺から視線をそらして、盃を口に傾ける。ああ、やっぱり人里で噂になってるか。それもしかたない、今この博麗神社で楽しんでいる者のほぼすべてが妖怪だ。そして俺もその一人。

 

「そんなことよりレーツェル、あんたもっと飲みなさいよ。せっかくの酒の席なんだから」

「そうですね」

 

 前世では俺は学生で、二〇歳になるまでお酒は禁止だった。とは言え今世ではすでに五〇〇年近い時を生きているし、明らかに二〇歳になんてなっていない霊夢がお酒を幸せそうに飲んでいるくらいだから、幻想郷ではお酒に関してのルールは少ないのだろう。なにも気にする必要はない。

 そうして盃に入っていたお酒を飲んで、入っていた花びらが唇に当たった瞬間に、ふと前世の知識が頭をよぎる。

 

「桜の花びらには毒があるとか聞いたことがあるんですよね。眉唾ですけど」

「気になるんなら研究してみるといいぜ。ま、仮にあっても人間にすら効かん弱いものだろうな」

 

 霊夢の左隣に座っていた魔理沙が答えた。そこまで気になるものではないし、実際に魔理沙の言う通りであろう。霊夢や魔理沙がここまで生きてきていることがなによりの証拠だ。

 魔理沙はあの異変後、すぐにフランと戦って、そして健闘はしたものの最終的に敗北した。怒ったフランが普通に強かったことも要因の一つだが、意外にも魔理沙が案外乗り気ではなかったことも挙げられる。謝罪に関しては、元々俺自身がそんなに気にしていなかったこと、魔理沙も桜がなくなった不満から衝動的に反論していただけだったこともあって、穏便に終わった。現在は魔理沙とフランの仲は元の通りに回復している。

 

「それにしても妖怪神社の巫女さんや、ちょっと前と比べてずいぶんと賑やかになりやしたなぁ」

「なに魔理沙、そのしゃべり方。あと妖怪神社言うな」

「そうだねぇ。人間の参拝客来てる? 信仰心たまってるー?」

 

 俺の右隣で、少々頬を赤らませてお酒を口にしていたフランが面白そうに問いかける。姉妹だけあって、こういう、わかっていながら相手の傷を抉ろうとする意地悪さはレミリアと似ていた。

 ムッ、と口を尖らせた霊夢が、俺とフランを交互に指差しては大きく口を開いた。

 

「あんたらのせいだっつーの!」

 

 ――ああ、そういえば、忘れていたことがあった。

 

「霊夢、魔理沙」

「……なによ」

「なんだ?」

 

 二人を手招きして、耳を貸すようにジャスチャーで告げる。霊夢は訝しげに、魔理沙はなにか面白いことでもあるのかとでも言いたげな表情だ。

 

「咲夜を連れて、幽々子のもとに行ってください。それから冥界で今起こってることとか聞いてきてください」

「なんで?」

「わざわざ私たちに行かせるってことは、なにかあるのか?」

「はい。異変の時、霊夢が冥界と顕界の門を無理矢理こじ開けたせいで、今は巷に幽霊が溢れ返ってますよね。夜に花見を開いた時もしょっちゅう見ますし」

 

 門の前にあった結界に霊夢が触れて、扉が開いた。その影響で冥界の妖怪が普通に外に出てこれるようになったのだ。現在は幽霊たちが大量に、それこそ紅魔館の近くまで漂ってくるくらいには幻想郷に溢れ返っている。今年の夏はずいぶんと涼しくなりそうだ。

 気まずそうに目を背けた霊夢が、「そ、それがどうかしたの?」とお酒を飲みながら聞いてきた。

 

「幽々子はそれの修理を知り合いに頼んでいるんです。まぁその知り合いは今は寝てるので全然直されてないんですけど、些細な問題です」

「あんまり些細じゃない」

「まったくだな」

 

 毎度彼女は冬になると、冬眠だとか言って寝っぱなしになる。それも寒さや暑さなんて彼女の前では大して意味をなさないだろうから、ただ単に寝ていたいだけなのだろう。

 妖々夢の本編は幽々子を倒して終わりだ。それでも霊夢たちが紅霧異変の時にレミリアの後にフランと戦ったように、異変のほとんどにはオマケや補足とでも呼ぶべきシナリオが存在する。そして今回はそれが、八雲紫と八雲藍との遭遇だ。

 

「些細な問題です。ということで、その知り合いに関してのことで幽々子が困ってるかもしれません。というか主に妖夢が困ってます」

「ふぅん。で、どうして私たちに行かせるの? レーツェルが行けばいいのに」

「異変解決は人間の仕事ですから」

 

 意訳『私が行っても意味がないんですよ』。適当に他の理由も付け足すと、あんまり納得していない風であったが、二人とも立ち上がって幽々子の方に歩いて行ってくれた。その背中に、ちゃんと咲夜に声をかけるようにも言葉を投げておく。

 

「冥府の結界の修理ができるくらいの妖怪って……紫のことだよね、お姉さま」

「そうですね。あの三人も、そろそろ知り合っておいた方がいいと思いましたから」

「うーん、なるほどねー。あー、紫って"境界の妖怪"より"胡散臭い妖怪"の方が断然わかりやすいと思うんだ。胡散臭さの塊みたいな妖怪じゃない?」

「言えてます。ピッタリですよ」

「でしょー」

 

 少し前までは、こうしてフランと一緒に外で花見をしている光景なんて欠片も想像したことがなかった。地下室で静かに過ごす彼女の姿しか考えたことがなかったのだ。

 フランは外に出たいと言ったあの日から今日に至るまで、ずっと約束を守ってきている。俺の言うことは全部ちゃんと聞くし、『イイコ』であるように心がけて、あれ以来ワガママも全然言わなくなった。

 それでもたまには一緒に寝てほしそうに袖を引っ張ってきたり、自分のやりたいことを主張することはあるけれど、あれはワガママじゃなくて甘えてきているだけ。

 ふと思う。俺は彼女に奪ってしまった世界を返すことができただろうか。フランに、『日常』を。

 ――そんなはずはない。ここに至るまで何百年の時がかかった。そもそもの話、己が過失でなにを犯したか、俺は忘れたのか。

 

「お姉さまー」

 

 ……これ以上こんな暗いことを花見の席で考えることは無粋か。盃を傾けて、中のお酒を飲み干した。

 桜が咲き誇る光景は多くの人を引きつける。舞い散る桜はとても優美で、淑やかで、まるでなにかを誤魔化すように。

 

「なんですか? フラン」

 

 首を傾げて反応を示すと、フランが上機嫌にいろいろなことを話し始めた。酒が入っているからか、いつもよりおしゃべりなような気がする。

 こうして今日もまた、平和に一日が過ぎていく。



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一四.嘘吐きに贈る戯言

 鬼。古来より人間の天敵とされ、強さの代名詞とまでされた妖怪だ。昔は天狗と並んで恐れられてきた存在であるが、現在はどことも知れぬ別の世界に行ってしまったと噂され、幻想郷でさえも伝説の妖怪とされていることがある。歴史の浅い妖怪には実在していたことが信じられていないくらいだ。

 逆にかつて鬼とともにそこら中に名を馳せていた天狗たちは、妖怪の山に独自の社会を作って生活している。鬼とは違ってきちんと存在を認識されているため、人間に「地上で最強の妖怪はなんだと思う」と問えば、大半が鬼ではなく天狗だと答えるはずだ。今の人間は鬼の恐怖を、強さを忘れた。ちなみに、残念ながら吸血鬼は幻想郷では新参なのでおそらく挙げられない。

 そんな、妖怪の中でも最強格とされる天狗だからこそ痛いほどに知っている。何百、何千年の時を生きる妖怪は知っている。

 鬼は実在する。

 鬼はまさしく、間違いなく最強の妖怪だ。

 それは不変の真理である。たとえこれからどれだけの時が経とうとも、強さという一つの枠において鬼を越える妖怪の種族が生まれることは決してない。個体としてはともかく、種として越えることだけは絶対にありえない。

 吸血鬼が吸血『鬼』であるように、鬼とは強さの代名詞なのだから。

 

「それで、あの三人に挨拶は済みましたか、ゆかりん」

「あれは、あなたがけしかけたのね」

「私が言わなくても自然とそうなっていましたよ」

 

 春雪異変と呼ばれるようになった幽々子の起こした事件から、すでに数か月の時が経過していた。

 俺が霊夢たちに幽々子へ話を聞くように言った数日後、藍と紫は彼女たちと顔を合わせることになったようだった。弾幕ごっこで遊んだようだが、その勝敗がどうなったかは聞いていない。あまり興味もなかった。

 桜の季節は終わり、今年もまた暑い季節がやってくる。去年と違って幽霊の数が格段に多いので、人間たちは非常に迷惑することになるだろう。けれど幽霊は基本的になにかに危害を加えたりとかはしないし、近くにいると涼しいし、できるだけ多めに見てあげてほしいものだ。

 もう少しで新月になる月を見上げ、あと半月近く経てばまた満月になる、と思いを巡らせる。わずかにしか光を発さない月と、それの代わりとでも言うように爛々と輝く星々の海を泳ぐように、遠くの空で半透明の白い塊が横ぎった。

 紫は冥界と顕界の境を引き直さなかった。だからこうして今も幽霊たちが闊歩しているし、幽々子や妖夢も今行われている宴会に平気で参加している。別に結界を張り直さなくても幻想郷全体としては大して影響はないので放っておいてあるようだ。

 

「もしかしてあなたは、この異変のこともすべて把握しているのかしら」

「なんのことでしょう」

「知っているのね。それなら幻想郷中に漂う妖霧のもとが、とてつもなく大きなものであることもわかっているんでしょう? 心配性なあなたがどうして動かないのかしら」

 

 俺は紫と縁側に座って、一歩離れた位置で皆が騒いでいる様子を眺めていた。

 ほとんどの者たちはただ純粋に宴会を楽しんでいるようだが、何人かは、そこら中に不可思議な力が蔓延していることに気がついている。それはここ数日は続いているものなのだが、原因が特定できないゆえに訝しんではいても誰も行動に移さない。

 三日おきの宴会。春が終わってすでに桜は深い緑に包まれ始めているというのに、異常な頻度での花見、大騒ぎ。これが異変であるということは、もしかすれば何人かはすでに思い至っているかもしれない。

 ――誰かが故意的に多くの者たちを博麗神社に萃めて、宴会を行わせている。

 

「この異変は危険がほとんどないからです。それにきちんと注意はしていますよ。ほら、今日だって紫を呼びましたし。紫がいれば危険はないですし」

「私なんかを信頼して大丈夫? というより、ひょっとすると知り合いだったりするかしら」

「いえ、元凶さんとは会ったこともありません」

「あらそう。まぁ、確かに危険は少ないかもしれないわね。アレはおふざけでなにかを殺したりなんてことはしない性格でしょうし。おふざけとしか思えないことを本気でやることも多いけど」

 

 藍に酌をしようとしていた橙が急に態勢を崩して、そのまま中身を相手へぶちまけた。キョトンとした表情の藍を見やり、紫が面白そうに口の端を吊り上げた。

 いずれ誰か――霊夢や魔理沙、咲夜に限らず、多くの者たちが妖霧の正体を求めて動き出すだろう。そして突き止め、そこで思い知る。失われた真の最強、人も妖怪もその名を知らぬ者など誰一人としていないほどの種族、鬼の力を。

 

「そんなことより、今は宴会を楽しみましょう。ほら、霊夢が呼んでいますよ」

「あらあら、なにか面白いことやれ、ですって。ずいぶんと勝手な提案ねぇ。どうしましょう」

「期待していますよ」

「期待されたわ」

 

 紫がスキマに消えて、バアッと霊夢の背後に現れて脅かしていた。奇声を上げた霊夢がキッとした表情で紫を睨んで、そんな様子を見て周りが爆笑する。どうやら無事に面白いことができたようだ。

 ゆっくりと、静かに右手を上げる。そしてそこにある見えないなにかを掴もうとするように、手を伸ばした。

 指先が紅い霧に変わっていき、すでにあった妖霧と混じり合う。己の霧に突然違うものが混じって、妖霧の犯人も少しくらいは驚いてくれたかもしれない。せっかくの花見……桜は咲いてないけど、とにかく宴会なんだからちょっとはサプライズがあった方がきっといい。

 手を元に戻す。俺も縁側から立ち上がって、霊夢たちの方へと足を進めた。

 

「まだまだ宴会は続きそうですね」

 

 今年は異変続きで大変そうだ、と他人事のように感想を抱いた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 あれから十数日。レミリアから話を聞くと、その間、宴会に出ていた何人かが唐突に押しかけて来ては異変の犯人呼ばわりして勝負をしかけてきていたらしい。さすがに三日おきに宴会をやっていると少しは疲れてくるもので、皆、解決するために思慮を巡らせて……というより、体を動かしているようだ。ちなみに俺は、フランが疲れている時は一緒に紅魔館で休んでいたりしていた。やっぱり適度が一番である。

 それでも宴会が頻繁にあるというのはとても楽しい日々だった。たくさん騒いで、そういう場所で仲良くなって、日常で会った時に「あの時の」となったりするものだ。仲を深めるのに祭事はとても適している。

 

「だから、感謝しているんですよ」

 

 昨日まで幻想郷中に広がっていた妖気が、少し前から俺に纏わりついていた。

 無名の丘、と呼ばれる場所のさらに奥。なにもなく、ただっ広い草原だけがここにある。あらかじめ広い場所に移動しておいてよかった。ここなら多少暴れても文句は言われない。

 ――異変はすでに解決していた。具体的に言うと、霊夢が昨日解決した。解決というか犯人が飽きてきたから自然にというか、とにかく終わったのだ。

 それでも妖霧は収まらなかった。いや、正確に言えば俺の周りから消えてくれないのだ。三日おきに行っていた宴会は終わっていて、俺の周囲にだけ妖霧が浸透している。

 どうやら犯人は、今度は俺に用があるらしい。

 

「用があるなら、いい加減姿を現してくださいよ」

 

 あいもかわらず反応はない。昨日からずっとこうなのだ。

 はあ、と小さくため息を吐く。少々乱暴だけれど、能力を使おう。

 

「あなたの能力は、ただ広がっているだけ……私はあなたに触れている。さぁ、姿を現してください。あなたが能力で己が身を霧にしている『答え』をなくします」

 

 能力を発動、揺蕩っていた妖気が一瞬にして消え失せ、頭上に何者かが具現化した。このままでは衝突するので、素早く三歩ほど後ろに下がる。

 タン、とその何者かが――幻想郷から失われて久しい最強の妖怪、鬼が目の前に着地した。

 

「あれ、あんたも紫と似たようなことができるの? 私を萃めて元に戻すなんて」

 

 それはあまりにも拍子抜けな、鬼だと言われてもすぐには信じられないくらいに幼く可愛らしい少女であった。

 髪型はロングヘアーで、薄めの茶色の髪を先っぽの方で一つに縛ってまとめている。瞳は吸血鬼ほどではないにせよ美しき真紅を誇り、お酒が入っているようでその顔には赤みが差している。服は白のノースリーブ――袖が破けているようなデザインが印象的だ――で、胸元に赤いリボン。紫が主体のロングスカートを穿いていて、腰や手首には三角錐、球、立方体の分銅をそれぞれ鎖で吊るしていた。人間には単なる重しにしかならないが、力のある妖怪にはアクセサリーを名乗れるのかもしれない。

 そして頭には彼女が鬼であることを表す、鹿のような、されどどこか異質な捻じくれた長い角。頭の後ろに大きな赤いリボン、左側の角に小さな青いリボンを巻いている。

 

「いや、原理が違うねぇ。あいつのは大きく囲んだ境界を一気に小さくしてるだけ。でもあんたのは」

「根源から無効化した、ただそれだけですよ」

 

 少女が手に持っていた紫色の瓢箪に口をつける。飲んでいることが当たり前かのような自然な動作だった。

 瓢箪を離すと、彼女は「ふぅん」と鋭く目を細める。

 

「やっぱり思った通り。あんたの姉なんかより、あんたの方が何倍も強い」

「……別に、そんなに変わらないと思いますけど」

「嘘。そう、前々からずっと言いたかった。そのためにあんたを追いかけて来たんだ」

 

 雲が払われて、満月が顔を出した。ここは二人の鬼以外は誰も見当たらない静かな場所だけれど、きっと丘の向こう側では多くの妖怪たちがワイワイと騒いでいるに違いない。

 

「あんたは嘘を吐きすぎる。それは我ら鬼が一番嫌悪する部分だ」

「本気で言ってるんですけど」

「本気もなにも、あんたは本当のことを言っているのか嘘を口にしているのか、自分でも全然理解していないじゃないか。笑えるくらい自分に正直じゃないから、なにが本当でなにが嘘かもわからなくなってる。そしてそのことを本当は知ってるくせに、それさえ気づかないフリをしてるんだ。滑稽だねぇ」

「……違いますよ。なにが言いたいんですか?」

「私はあんたのことをよく知ってるよ。ずっと見てきたもの」

 

 一際風が強く吹いて、目の前の小さな鬼の長い髪がバサバサとなびいた。

 また瓢箪の中身を口に運んで、しばらく間を開けてから言葉を放ってくる。

 

「宴会ではいつもいろんなやつらと話してたね。なにかを頼まれれば絶対に断らないくせに、自分からなにかを頼んだりはほとんどしない。八方美人は楽しい? 本当は息苦しく感じてるんじゃないの?」

「そんなことはありません。私は自分から望んでやってるんですから」

「それも本当かどうか。あんたはまるでなにかに囚われているかのよう。鎖で必死に自分を押さえつけようとしてて、自分ではうまくできてるつもりなのかもしれないけど、私から見たらまるでなっちゃいない。表面ではなにも見せないくせに、奥底では気づいてほしいって願ってる。本当と嘘の境界が曖昧なせいで自分が矛盾してることにさえ気づいてない。いや、気づこうとしないのか」

 

 気づいた時には、すでに目が離せなくなっていた。脳がその言葉を聞こうと神経を集中させて、体を固まらせている。

 どうして?

 拳を強く握る。なんだか無性に、目の前の小さな鬼の言葉を否定したいような気分だった。よくわからないけれど、とにかく無理矢理に口を開かせる。

 

「私は!」

「……私は?」

「……私はただ、皆が楽しければいいんですよ。霊夢や魔理沙、お姉さまにフラン、咲夜や紫、他にもたくさん、皆が楽しく騒いでいればそれだけで私も満足です。というかそもそも私だってお酒を飲んで楽しんだりしてますし」

「満足、ねぇ。それも嘘。あんたはそう思い込もうとしてるだけ。本当は誰よりも寂しくて構ってほしいくせに、中途半端に自分を隠してる。だから自分からいろんなやつらに近づくんだ。気づいて気づいてって思いながら会話を重ねて、万が一奇跡的にあんたの気持ちが察せられることがあっても、どうせ否定するくせに」

「だからそんなことはないと言って」

「嘘、嘘、嘘……鬼は嘘が嫌いなのよ。他のなによりもね」

 

 これ以上は聞く耳を持たない、とでも言うように小さな鬼がその身に宿る妖力を解放した。

 草木が揺らめき、空気が震える。レミリアやフランとは比べ物にならない、紫クラスの莫大な力の奔流がこの場を埋め尽くした。

 最強の種族、鬼。さらにその中で、かつては山の四天王の一人とまでされた鬼――酒呑童子、伊吹萃香。戦う気は最初から満々だったようだ。

 

「さぁて、嘘ばかりなその根性、叩き直してあげないといけないよねぇ」

「……勝負のお誘いなら受けますよ。なんだか今……よくわかんないんですけど、もしかしたら、イラついてるのかもしれません」

「そいつは奇遇だ。私もだよ」

 

 最初はお礼を言ってちょっと戦うだけのつもりだった。しかし、その時に思っていたよりも激しいものになりそうだ。

 どうして俺は、強引にでも否定しようとしたんだろう。萃香の言っていたことなんて単なる戯言だ。気にする必要はない。

 小さな百鬼夜行と一触即発の雰囲気でにらみ合っている中、ふとそんな考えが浮かぶ。そしてその隙を突いて、萃香が一歩踏み込んできた。



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一五.萃まる光、影、そして百鬼夜行

 萃香と離れている距離はたかが二メートル程度だ。いくら身長が低いと言えど相手は鬼なので、その一歩は他の種族とは比べ物にならない。

 萃香が踏み込んできた時点で懐に入られている。とっくに拳を振りかぶって殴りつける態勢に入っていて、避けようにもどう考えてもそれは間に合わない。

 ――『光の翼』の唯一の弱点。それは翼の位置関係上、後ろへは加速できないこと。

 

「まずは一発」

 

 反応できたのが奇跡だと言っていいだろう。音速を軽く越えて迫る拳を片手で受けると同時、右側の翼にだけ魔力と妖力を流した。左へ移動しながら、受け止めていた手がバキバキと嫌な音を立てるのも気にせず、相手の攻撃をなんとか受け流す。

 ここで攻撃するか、いったん距離を取るか。そんな考えを抱いたのは人間では決して知覚できないほんの一瞬だったというのに、その程度の迷いさえ隙だと言うかのごとく萃香が追撃をしてきた。

 拳を振り切った不安定な体勢から、しかしその勢いに逆らわずに片足だけで立ち、後ろ回し蹴りを繰り出してくる。

 

「う、ぐ……!」

 

 避けるのに使ったばかりなので『光の翼』は機能できない。即座に両腕を交差させて受け止めたが、これもまた骨が折れる嫌な音が木霊する。蹴り飛ばされた身を、そのままだとどこまでも飛んでいってしまいそうだったので、すぐに『光の翼』で勢いを殺す。

 萃香が追ってこないことを確認して、あらためて自分の両腕を見下ろした。

 どちらもまともに足技を受けた前腕がぐにゃぐにゃと、プラプラとしている。確実に複雑骨折していて、もしも俺が人間ならば切断する以外の選択がないと言われるくらいだろう。左腕は最初の一撃も止めたために手首から先も見るも無残な姿であり、自分のことながら痛々しすぎて目を背けたくなる。

 魔力を流して吸血鬼の再生能力を最大限に発揮したとしても、完治までは数十秒の時間が必要だろう。意外にすぐに治るという感想を抱いたならばそれは間違いで、勝負の最中で数十秒の隙なんてあまりにも致命的すぎる。

 

「二発でここまで……ちょっと舐めてたかもしれません」

「鬼が怪力なのは今に始まったことじゃないじゃないか。なにを驚いてるのかねぇ」

「吸血鬼の私がまったく防ぎ切れない攻撃をなんの苦もなしに連続で打ち出せるなんて、そりゃあ戦慄くらいしますよ」

 

 少しは対抗できると思っていた。俺より少し上程度のパワーだと思っていた。その考えが、甘かったのだ。

 今の攻撃は萃香の素の怪力であり、呪術的な力を使っていない以上は未だ全力でないと言える。それでいてただ受け止めるだけで腕が使い物にならなくなるなんて予想外どころか規格外すぎて言葉が出ない。

 鬼が強いことは最初から理解していたはずなのに、吸血鬼も『鬼』なんだからと、心のどこかで自分たちに近い次元の存在だと思い込んでいたのかもしれない。それはまったくの誤解だったというのに。

 これが鬼なのだ。どんな理不尽もどんな障害も関係なしに、その強さだけで強引に罷り通ろうとする妖怪の中の妖怪、真の理不尽なる存在。

 

「で、どう? そろそろ治り切った頃じゃない?」

「……後悔しますよ。今、攻めなかったこと」

「しないさ。どうせ今のは挨拶代わりだ。これから何度も殴ったり蹴ったりしてやるんだから」

 

 さきほどまでの怪我が綺麗さっぱりなくなり、両腕がいつも通りに動くようになったのを確認して、自分の意識のほぼすべてを目の前の鬼へと集中させる。

 そもそもの話、紫と同程度の妖力を持っている時点で弱いはずがなかった。俺が彼女に勝てたのは単なる奇跡、ならば萃香に太刀打ちできるかどうかも最初から怪しいところだったのだ。

 それでも。

 

「行きますよ」

 

 両腕に少なくない魔力と妖力を練り合わせ、さらに『光の翼』で急速に接近。同時に影の魔法で萃香の両足を固定し、一秒の十分の一も使わずに彼女の背後に回り込んだ。

 萃香は俺ほど速くはない。けれど、その目はきちんと俺の姿を捉えていた。こんなものは障害にすらならないと萃香は足元の影を当たり前のように引きちぎり、振り向きざまに拳を振り回す。元々この鬼ならばそれくらいやるとは予測できていたので、当たる直前で迫る萃香の腕の側面を殴りつけて軌道を逸らした。

 その時には今度は俺が攻撃の態勢に入っている。彼女の攻撃を防いだ方とは逆の腕を引き絞り、空気を引き裂いて一撃を打ち出した。

 ガッ、と。

 萃香の、攻撃を繰り出さなかった方の手で受け止められる。魔力と妖力を両方ともそれなりの練度で込めていたのに、ほんの少しだけしか受け止めた萃香の手を押し込むことしかできなかった。

 一足遅れて、衝撃が萃香の体を通って地面に伝わり、ボコンと辺りが陥没する。

 その瞬間を狙って『光の翼』を片側だけ点火、再度彼女の背後に回り込んだ。当然のような超反応で逆回転に萃香の腕が振るわれてくるが、足元にできたわずかな穴を利用した飛行による下降と上半身の逸らしでギリギリ回避する。そのまま月明かりで作られていた萃香の影を踏みつけ、発動。

 

「影踏み」

「むっ!?」

 

 九尾の狐、八雲藍の動きさえも封じた魔法であるが、紫クラスの力を備えた萃香にはどれほど通じてくれるものか。ここはすぐに攻撃に移ってしまうに限る。

 辺りの影を瞬時にかき集め、萃香の全身を囲い込んだ。魔力を込め、その身を押し潰すくらいの気持ちで影を圧縮させる。

 それができていた時間はほんの三秒程度だった。バンッと一瞬にして影のすべてが散らされ、さらに影踏みを破った萃香が、獰猛な笑みを浮かべて切迫してくる。

 最初は右の拳、次は左、次はもう一度右と見せかけて右脚の回し蹴り。

 素で音速さえも捉える自分の目に妖力と魔力、全神経を集中させて、萃香の攻撃をまともに受けないようにしながら逸らしていく。

 

「ははっ! 楽しいねぇ!」

「そうですか?」

「そうだよ! 最近は軟弱なやつばっかで消化不良気味でさ、こんな血沸き肉躍る戦いはできなかった!」

 

 当たらない打撃に痺れを切らしたのか、萃香が強く地面を踏み鳴らした。一瞬で周囲十数メートルの足場が霧状へと変化し、落ちかけた体を飛行することで支える。

 

「お返しだ!」

 

 萃香が後退しながら俺に片手を向けてくる。直後、萃香が霧散させていた土が俺を囲み、四方八方から萃まってきた。さきほど俺が彼女へ影を使ってしたように、大地が俺を取り囲んで閉じ込めてくる。

 外から見れば土で作られた一つの球体が浮いているように見えるだろう。強烈な密度で圧縮された土は熱さえも発している。月の光も星の輝きもない真っ暗な世界で、潰されないように踏ん張りつつ『光の翼』の出力を全開にした。体中に負荷をかけながらも強引に一点突破、球体から脱出する。

 

「次、行くよ!」

 

 俺が出てくることは最初からわかっていたとでも言うように萃香は次の攻撃の準備を整えていた。明らかに打撃が届かない位置で拳をぶん回したかと思うと、殴りつけた空気が爆炎を散らし、その爆発が連鎖的に一直線で俺に近づいてくる。

 『光の翼』で避けてもよかったが、ここは真正面から迎え撃つとしよう。

 倉庫魔法を行使して金と銀の装飾がなされた豪華な弓を取り出した。瞬時に特殊な矢型弾幕を形成、それを番える。

 本来ならば上空に撃ち出して無数の光の雨を降らせる一線を、直接萃香に向けて撃ち出した。そうなれば当然彼女の繰り出した爆発の一撃と激突することになり、金と赤の光がせめぎ合って空気さえも壊す大音響を奏でた。

 弓を倉庫にしまい直すと、音が収まらないうちに『光の翼』で加速し、右へ左、上へ下へと複雑怪奇な軌跡を描いて萃香に接近する。今まで見せた中でも最高の速度、マッハ二をも越える速さを萃香はまるで目で追えていない。しかし、まったく狼狽もしていなかった。

 背後に回り込んだ途端、俺の動きを捉え切れていなかったはずの萃香が瞬時に片手を後ろに伸ばして服を掴んできた。それを無視して思い切り右の拳を突き出すが、それもまたパシンッと軽く止められる。さらには服を掴む手を起点に無理矢理に回転し、明らかに不自然不安定な体勢で回し蹴りを打ち出してきた。

 彼女の攻撃は一撃一撃がまさしく必殺だ。そしてそれを今は服を掴まれているから避けられない。ならばと、『光の翼』を再度片側だけ噴出させ、萃香の脚が迫ってきているのとは逆側へ動く――それでも彼女の蹴りの方が速かったが、同じ方向へ移動しながらならば、その脚に触れても俺の腕が粉砕されたりなどはしない。

 萃香の脚を両腕でガシッと掴み、俺の翼と相手の回し蹴りの力を両方掛け合わせ、ついさっき萃香が地面を霧状にしたせいでできた穴の中へとぶん投げた。さすがに互いの力が合わさっただけあって、強大な衝突音と土埃とともに穴の中にまた大きな窪みができた。

 

「剣よ、槍よ、矢よ」

 

 魔力を具現、圧縮。ほんの一秒で数え切れないくらい膨大な数の武器型弾幕を形成し、一斉に萃香を投げた地点へ射出する。撃ちながら、なくなった部分を即座に補完して再度発射。

 そんな工程を何度も何度も繰り返す中、不意に土煙の中から萃香が飛び出てきた。追うようにして弾幕を放っていくと、そのすべてを縫うようにして避けながら地を疾駆する。ボロボロのくせに逆にさきほどよりも笑みが深まっており、心の底から勝負を楽しんでいるかのようだった。

 

「そろそろあんたも降りてくれば!」

 

 萃香から放たれる妖力が増大したかと思うと、その姿が巨大化した。彼女が備える『密と疎を操る程度の能力』はそういうことも可能だとわかっていたために驚きはない。目算で全長二〇メートルと言ったところか。

 こちらの弾幕をすべてその身に受けながら、小さい時とまったく変わらない速度で腕を振り回したり体当たりをしかけてきたりしてくる。『光の翼』で飛び回ってなんとか回避を繰り返してみるが、単純に攻撃の範囲が広がっただけでもかなりキツい。いつ萃香の攻撃が当たってしまってもおかしくなかった。

 だからこそこちらも手を打つ必要がある。全力で魔法を行使、同時に『光の翼』の出力を全開に。夜だからこそ莫大に存在する影で萃香の体を絡め取って動きを阻害しつつ、懐に潜り込んではその身に手を触れる。

 

「あなたの能力で大きくなっている『答え』をなくします」

 

 変化は一瞬だ。瞬きの間に萃香の体が元の大きさに戻り、突然の無効化に俺の目の前で無防備な姿を晒していた。

 俺はまだ『光の翼』での妖力と魔力の噴出を止めてはいない。

 萃香の両腕を俺の両手で掴んで押さえつけ、彼女を下敷きに大地へと落下した。衝撃で隕石が衝突したかのような窪地ができ上がるが、それでも翼の出力を緩めない。

 最大出力の『光の翼』、魔力と妖力を込めた自身の両手両足、さらにはフルパワーの影の魔法を持ってして萃香の両腕と両脚を地に固定する。さすがにここまですれば馬鹿力な萃香と言えど動けないようだ。ギチギチと影が小さな音を立てながら千切れ、彼女を押さえつけている腕や脚が逆に少しずつ押し返されてはいるものの、それでもすぐには身動きは取れない。

 

「一つ……あなたに再提示しておくべきことがあります」

「へえ、なんだい? 言ってみなよ」

「実はですね、私、吸血鬼なんです」

 

 顔を萃香の首に近づけて口を大きく開くと、そのまま牙を突き立てた。萃香が目を見開いて硬直するのが視界の端に窺えたが、それを無視して血を吸い出し始める。

 離せとばかりに身じろぎをしてくるが、その程度ではがぶりついた俺を引き離すことは敵わない。もっと、もっと、もっと。このまま続けて、動けなくなってしまうくらいに血液を頂いてしまおう。

 

「くっ……このっ……!」

 

 ジャラジャラと鉄が絡み合う音がしたかと思うと、俺の胴体になにかが巻きつけられた感覚がした。若干驚きながら視線だけで確認してみると、萃香の右手だけが解放されていて、その手首から伸びていた鎖で俺の体を縛ってきていた。局所的に力を萃め、右腕の、それも手首から先だけを拘束から逃れさせたようだ。

 鎖がわずかに発光し、ズズズと俺の中から力を――体力を、気力を、魔力を、妖力を吸い取ってくる。

 

「奪い合いだっ!」

 

 俺は萃香の血を、萃香は俺の力そのものを。全身に倦怠感を覚えながら、それでも血液を飲むことをやめない。萃香もまた肌が青白くなってきているというのに、そんなことは関係ないとばかりに吸収の出力を上げてくる。

 そんな拮抗の中で最初に崩れたのは俺の方だった。『光の翼』の出力、影の魔法の効力が弱まり、萃香を拘束するものが俺の両腕と両脚だけになる。左腕を用いて俺の胸を押して首筋からほんの少し顔を離させた直後、彼女は頭突きを繰り出してきた。

 予想もしていなかった一撃に一瞬だけ思考が停止する。それを見逃す萃香ではない。俺の胴体に巻いていた鎖を素早く解き、腹に蹴りを入れて己の上から俺をどかす。相当血を吸い出したためか当初に比べてあまりにも力がこもっておらず、ほんの数メートル吹き飛ぶだけだった。

 かなり体力を奪われたからか、思ったように体に力が入らない。それでもなんとか立ち上がる。あちらもまた多量の血液不足でフラフラとしているが、あいかわらずその顔に浮かぶ獰猛な笑みだけは消えていなかった。

 

「いやぁ、私をここまで追い詰めるやつなんて、本当に久しぶりだよ。えぇと、名前なんだっけ?」

「レーツェル・スカーレットです、伊吹萃香。私は初めてかもしれませんね。紫と対峙した時も、戦ったとは言えないような終わり方でしたし」

「紫ともやり合ったことあるんだ。それで生き残ってるんだから、そりゃあ強いわけだねぇ……で、そろそろ問おうか。いったいあんたはなにに悩んでるんだい? 鬼の中でも図抜けた力を持つはずの私と対等にやり合えるほどの膨大な力があるんだから、大抵のことは無理矢理にでも叶うだろうに」

 

 腰に括りつけていた――戦う邪魔になるからだろう――瓢箪を手に取ると、失った血を補給するかのごとくゴクゴクと勢いよく飲み始めた。もちろんそんなもので血液を補完できるはずもなく、足元がおぼつかないことに変わりはない。

 

「別に悩んでなんかいませんよ……ただ」

「ただ?」

「私が愛していた、私を愛してくれた両親と義理の母親を、殺した。それだけです」

「…………へえ」

 

 勝負も話も、もう終わりにしよう。

 頭の中で式を描き、獣人化魔法――いや、鬼化魔法とでも言い換えよう。自身の中にある萃香の血を解析し、その鬼の遺伝子を術式として当てはめる。

 頭から二本の角が生えたのがわかった。全身に、これまでにない力が漲ってくるのがわかった。

 

「ふぅん、これは私も本気で答えないといけないか」

 

 影を右腕に集め、一回り大きな腕を形成する。さらに左手の平を爪で傷つけて、溢れ出た血を操作し、黒い右腕に巻いて補強する。

 萃香もまた次の一撃に全力を込めるつもりのようだった。どこからともなく萃まってきた岩や石が彼女の右腕を覆い尽くし、俺と同等に巨大な塊を作り出す。さらには萃香の能力で限界まで高められた密度は莫大なまでの熱を発生させ、萃香の右腕が溶岩のそれへと変化した。

 

「さあ、いざ尋常に!」

「勝負……ですか?」

 

 先に飛び出したのはほんの少し萃香が先だった。持ち前の怪力で大地を蹴って、迫ってくる。そこからほんの数瞬遅れて俺が『光の翼』を今出せる最大の出力で点火、一瞬にしてお互いの距離が縮まった。

 迷いなく影と血を纏う拳を振るう。萃香もまたほぼ同時に、溶岩と化した高密度の拳を打ち出していた。二つとも真正面から衝突する軌道である。

 俺も萃香も理解している。これに打ち勝った方がこの勝負を制する、と――果たして。

 

「――――はい、そこまで」

「むっ」

「っとと」

 

 パシンッ。そんなあっけない音が二つ、今まさに決着がつこうとしていた場に響き渡った。己が拳の行く先を見れば、それはどうやら突然空間を割いて現れた華奢な手に防がれているようで。

 手を下ろし、影と血も同じように引っ込める。萃香もまた腕に集めていた岩と熱を散らして元に戻していた。

 そうして二人して、目の前でスキマを開いて現れる一人の妖怪を出迎える。

 

「いい加減やめなさいな。辺りがどんなことになってるか気づいてるの?」

「無粋だなぁ、せっかくの真剣勝負だったのに……もちろんわかってるって、紫」

「えぇと、その」

 

 今いるのも戦いの中で作られた窪地の一つである。ちょっとジャンプして見渡してみれば、萃香が大きくなったせいでできた窪みや、俺が弾幕を撃ちまくったせいでできた穴やらがたくさん見つかった。

 元々ちょっとは荒れてもいいように人気のないところに移動してから萃香を実体化させたのだが、予想していた以上に荒れ果ててしまっている。

 

「はぁ。萃香、レーツェル。あなたたちなら理解していたはずでしょう? 力のある妖怪同士がルールもなしに全力でぶつかり合えば、こうして周囲にも被害が及ぶ。私はそういうことも考慮してスペルカードルールを巫女に――」

「別にいいじゃないか、人里からかなり離れてるんだからさぁ」

「よくないわ。どこであろうと幻想郷であることは変わりないし、そもそもあなたたちが暴れてる音、普通に人里まで聞こえてるのよ? すっかり警戒されてる」

「むぅ……あー、もう。悪かったよ。しばらくはしないって約束する。鬼は嘘は吐かないから、これは絶対だ。でもさ、私もレーツェルも全力ではなかったぞー」

「これだけ荒らしておいて、ねぇ」

 

 紫は怒っているようだった。当然である。幻想郷にいながら、スペルカードルールを無視して正面からやり合っていたのだ。

 

「私は全力でやっていましたよ?」

「だから嘘はやめなって。例えば、私は能力を使って霧になったりはしなかった。自身を霧散させれば誰も私に触れられなくなる、一方的に攻めるのだってお手の物だ。レーツェルだって同じようなものだろう? 無効化能力を使えば私の攻撃をすべて無力化するなんて容易いはずなのに、それをしない」

「……まぁ」

 

 俺の能力を用いての無力化は現象そのものを完全に否定する。萃香のようにわかりやすい単純な攻撃しかしてこない――怪力等の一点特化な相手にはどうしようもないくらいに相性がいいのだ。殴る、蹴る、その他目撃した諸々を次々と無効化していけば、相手はいずれ完全に打つ手がなくなってしまう。俺の能力をまともに相手にするならば、紫のように多彩すぎるくらいに多くの手を有していなければならない。

 勝負が勝負にならなくなる。それを理由として攻撃の無力化は使わないようにしていたのだが、どうやら萃香は俺が制限しているのを感じ取って、自らも能力の一部を封じていたようだ。俺も萃香も、別に手加減していたわけではない。俺がハンデをつけていたから、彼女も同等にハンデをつけていただけ。

 

「全力だったとか全力じゃなかったとか、どうでもいいわ。あなたたちがそこら中を破壊したことは変わりないもの」

「へえ、言うねぇ。ずっと見物してたくせに」

「なんのことかしら」

「とぼけないでよ。私とレーツェル、二人とも紫一人でどうにかできるくらいに弱るまで待ってたでしょ? じゃなきゃこんないいタイミングで出てこないもん」

「あらあら、なにもかもお見通しってわけねぇ。まぁ、萃香はともかくレーテもいるとなるとねぇ、ちょっと厳しくて」

「喧嘩売ってる?」

「買ってくれるのかしら?」

 

 わざわざ弱るのを待ってから出てきた、と暴いたのは萃香の方だ。喧嘩しても勝てるわけがない。「あいかわらず手が汚いなぁ」なんてぼやきながら、萃香が紫から視線を逸らす。

 

「あーあ、叩き直してやりたかったなぁ。やっぱり最初で一気に決めておくべきだったかな。紫からストップもかかっちゃったし、勝負はしばらくお預けかねぇ……」

「私は正直、もう萃香との戦いは遠慮したいんですけど」

「嘘。本当はまた私と戦いたいと思って――」

「思ってないです。絶対、間違いなく」

 

 滅茶苦茶痛いし、一発が致命傷になりうるからちょっと掠るだけでもヒヤッとするし、懲り懲りである。俺は命がけの戦闘が好きというわけでもないのだ。

 

「『間違いなく』、ねぇ。気づいてる? ずっと見てなかった心の奥の方、今ちょっとだけ触れたよ」

「……なんのことでしょう」

「私の言葉、今まで一度も自然に否定したことなかったし、それがいい証拠だよ。戦いが終わって気が緩んだからかな。なんでもいいけど。そうそう、とりあえず言っておくよ。せっかくそれだけ強いんだからもっと自分に正直に生きたらどう? 私みたいにさぁ」

 

 さすがにそれはやりすぎじゃないの? と紫が呟いて、萃香に蹴りを入れられていた。

 それを眺めながら、片手を頬に添えてみる。

 ――自分に正直に? どうやって?

 俺の顔は決して表情を映さない、映させない。それは欠点じゃなくて利点なのだ。こうしていれば痛みも苦しみも悲しみも、全部見なくて済む。目を向けようとすることを拒むことができる。

 これでいい。むしろ、こうじゃなきゃいけない。これが"狂った帽子屋"、『レーツェル・スカーレット』。それ以外の何者でもないのだ。

 ――私は最初から、正直者ですよ。

 能力が俺の在り方を証明し、体現する。俺は『答えのない存在』だ。偽り、狂い、どこにも行き場がなくなった、償いと贖いのためだけに生きる妖怪(にんげん)だ。

 幻想郷最強の妖怪であろうとも、俺のこの運命(のうりょく)にだけは決して逆らえなかった。そもそも『運命を操る程度の能力』を備えるレミリアにさえ操ることができなかったのだから、他の誰であろうとも結果は同じだろう。それもまた、(ない)なのだから当然だけれど。

 

「そうですね。もう少し、正直に……」

 

 萃香との対峙はとても参考になった。これからはもう少し思慮深く行動していくとしよう。

 もっと上手に偽る。もっと上手に狂う。

 鬼にも気づけないように、誰にも気づかれないように。

 

「いろいろと迷惑をかけてごめんなさい、ゆかりん。騒ぎになっているとなると、お姉さまやフランが心配してるかもしません。そろそろ帰りますね」

「次はこんなことないようにお願いするわよ」

「気をつけます。それでは、お先に」

 

 さきほどまで本気でやり合っていたというのに、またねー、と呑気に手を振ってくる萃香へこちらも同じように振り返す。空へと飛び立ち、鬼化魔法を解いてから『光の翼』を発動させた。

 体中だるいし、今日は帰ったらすぐに休むことにしよう。ああ、そうだ、皆が心配するから見つかる前に服も着替えておかないと……。

 紅魔館についてからのことに考えを巡らせながら、満月の夜空を横切っていく。

 こうして今日もまた、一日が終わるのだ。



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一六.節分による鬼退治、あと山葵

 一時期、幻想郷は春雪異変にて春を失った。その後に巫女たちの活躍に取り戻した春は初夏の頃まで続き、そこから次第に桜は散っていった。例年と比べればかなり春が短い代わりに、桜は鮮やかに咲き乱れていたのだが、そのことを快く思わない者もいた。

 それが今は失われた人間の天敵、鬼の伊吹萃香である。幻想郷へと舞い戻ってきた彼女は宴会の回数が減ってしまったことを不満に思い、己が『密と疎を操る程度の能力』を用いて、人間や妖怪の心を萃めて三日おきに宴会をするように仕向けた。ついでにその騒ぎに乗じて同族たちを幻想郷に呼び戻そうともしていた。それが今回の異変の全貌である。

 結果として、萃香の魂胆は半分成功で半分失敗というところだった。宴会は萃香が飽きるまで続けられたのだが、結局、鬼たちは地上に戻ってこなかった。もしも本当に連れ戻そうとするのならば、萃香は人を攫う必要があったのだ。

 ふと、もっと早くに春雪異変を解決するように霊夢たちに促していたらどうなっていたのだろうと考えてみる。

 今回の異変は春雪異変が原因となって巻き起こったものなのだから、早めに解決していれば宴会の数も満ち足りてしまって、きっと三日おきの百鬼夜行は起こらなかっただろう。

 

「お姉さまー、どっちが先に半分以上食べられるか勝負しようよー。お姉さまはこっちねー」

「ポッキーゲームみたいですね。でも、えぇと、やめておきましょう。もっと細い食べ物ならともかく、太巻きだと急いで食べると喉に詰まらせる可能性が大ですし」

「あー、そっかぁ……残念」

 

 そうして萃香が異変を起こさなければ、今みたいに太巻きを食べながら豆まきを眺めていることもなかっただろう。

 現在、この紅魔館では節分大会が開催されていた。それぞれ大量の豆を持った妖精メイドたちは、館中を駆け巡ってはそこら中に豆を撒いたり、誰かを見つけたならばとりあえず豆を投げてぶつけ合ったりしてそれを楽しんでいる。彼女たちの大半は、そもそも節分とはどういう行事なのかすら理解していないようである。やり方も俺が知っている節分となんだか若干違う気もしたが、これはこれで妖精メイドたちが楽しそうなのでなにも言わないでいることにした。

 節分とは本来ならばもっと早い時期に行う行事である。しかし今回は春雪異変にて季節にズレが生じたため、梅雨が明けたばかりという微妙な時期でも季節の分かれ目だと言えるだろう。

 きっと館中が炒った豆だらけになっているし、掃除が大変だろうなぁ――そんなことを考えながら、俺はフランとレミリアとともにエントランスホールにて、一緒に机を囲んで太巻きを食べていた。周りでは妖精メイドたちが豆を投げ合ったりしているものの、「私たちには投げないように」とレミリアが注意喚起をしているためにこちらには投擲してこない。

 

「ぱちぇー、細い太巻きってない? こう、喉に詰まらないような」

「それだけ細いと中身がほとんどなくなってしまって、あまり美味しくなさそうね」

 

 俺とフランの会話を聞いてしばらく考え込んだレミリアが、近くで妖精メイドたちを眺めていたパチュリーに問うていた。そうして返された答えに「そう」とつまらなそうにしながら太巻きをパクリと口に含む。

 今日のレミリアはずっとこんな感じで元気がなかった。それもそのはずで、吸血鬼は炒った豆には触れることができず、節分に参加することができないのだ。本来ならば炒った豆とは鬼の弱点であるのだが、吸血鬼も吸血『鬼』なので鬼の弱点も当てはまってしまうのだろう。炒った豆に触れると当たった部分が火傷してしまい、まともに持つことができない。それは当然ながら俺とフランも同じであり、だからこそ三人で太巻きを食べて傍観している。

 せっかくの節分大会なのにこうして太巻きを食べて眺めているしかできないとなれば、レミリアがふてくされてしまうのもしかたがないことなのかもしれない。

 

「紅茶をお持ちしました」

「あ、わざわざありがとうございます」

「仕事ですので」

 

 咲夜がレミリア、俺、フランの順にカップを置いていく。紅茶は匂いも味の一種のようなものだ。たまに咲夜に習っていると言えど、未だ俺では決して出せない香ばしい匂いに心を落ちつかせながら、カップに口をつける。

 

「やっぱりすごく美味しいですね、咲夜の入れる紅茶は」

「ありがとうございます、レーツェルお嬢さま」

 

 ずっとつまらなそうにしていたレミリアも、これを飲む時ばかりは穏やかな顔をしている。フランも満面の笑みだ。そんな三姉妹の様子を眺めては、咲夜が小さく笑ったのがわかった。

 そうしてパチュリーが若干物欲しげにチラチラと見てきていることに、完全で瀟洒なメイドである彼女が気づかないはずがない。どうやったのかトレイの上に一瞬で新しいカップが現れ、何事もなかったかのように紅茶を注いでいく。

 

「どうぞ、パチュリーさま」

「……ええ、いただくわ」

 

 言葉は少なめだけれども、案外満更でもなさそうだ。期待していたことがバレないように無表情を心がけようとしているみたいだったが、そもそもバレていたから紅茶を出されている時点で意味がない。俺や咲夜から微笑ましい視線を送られるのみである。

 実のところ、この節分大会を企画したのもパチュリー・ノーレッジだった。

 彼女は三日おきに宴会が行われるという異変の最中、伊吹萃香と対面していた。というよりも霊夢や魔理沙、咲夜や妖夢等の多くの面々が元凶として萃香にたどりついていたのだが、その中でもパチュリーには鬼の印象が強く残りすぎたらしい。

 自信があった精霊魔法がまるで通じなかったことが不本意だったのか、なによりも相性を重視する精霊魔法使いとしてうまく弱点を攻めることができなかったことが不満なのか、ただ単に敗北したことが相当悔しかったのか。そのどれもが正解かもしれないし、また違うなにかが正しいのかもしれない。なんにせよ、パチュリーが萃香をひっそりとライバル視し始めたということは事実である。

 そしてその萃香打倒のための第一歩が豆をぶつけ合う節分大会なんていうのもまた、この紅魔館らしい。

 

「そういえばうちの門番は? あれには今日は非番って伝えておいたはずだけど」

「あれなら、妖精たちに混じって豆を投げ合って遊んでますわ。ほら、そこに」

 

 咲夜が指差した先に、得意げな表情で三人の妖精からの炒った豆を避けている美鈴の姿があった。相手が手を休めた隙を狙ってヒュヒュヒュッと豆を投げ込み、三人の額にドストレート。妖精三人がくるくると回ってバタンキューしたのを確認し、美鈴がガッツポーズを取った。とても楽しそうである。

 

「……レーツェル」

「わかりました」

 

 要件を言わずともレミリアが望んでいることはわかっている。俺もちょっとイタズラしたい気分だったのでちょうどいい。

 再度美鈴が妖精たちと対面したのを見計らって、影の魔法を行使する。目前に豆が迫っているというのに意気揚々と余裕綽々な美鈴。彼女が動こうとした直後に、その両脚を周囲の影で縛った。

 

「えっ!? い、いたぁっ!?」

 

 最初に一人の妖精が豆を当て、それが好機だと思ったのか、周囲の妖精も互いを当て合うのをやめて集まってきては、美鈴に集中砲火する。今まで好き勝手やってくれたお返しだ! とでも言うかのごとき勢いだった。

 ここでレミリアが初めて面白そうに口の端を吊り上げる。節分大会に参加できないから、皆が当て合っているのを見る――否、調子に乗っている輩が失墜するのを眺める。吸血鬼も悪魔の一種だから、そういう意地悪なことが大好きなのだ。

 

「ひ、ひどいですよぉ、レーツェルお嬢さまぁ……」

 

 しばらくして、なんとか妖精たちの軍団から逃れて来た美鈴が近づいてきて俺に文句を漏らした。

 

「いえいえ、参加すらできない私たちの前であんなにはしゃいでいるのが悪いんです。それに美鈴に仕返しできて、皆満足そうな顔してますよ?」

「ううぅ……レーツェルお嬢さまは悪魔です。いつもは優しいのに、今日は悪魔です」

「元々悪魔です」

 

 それでもちょっと悪い気はしたので、また今度仕事の最中に紅茶でも差し入れしてあげよう。こんなことでいちいちお詫び等と言っていたらキリがないし、逆に気を遣わせることになるから、あくまでさりげなくだけれど。

 紅茶を入れる練習になる、それも人に飲ませるとなれば気合いも入る、さらには美鈴も喜んでくれる、と良いこと尽くしだ。

 

「レミリアお姉さまー、ちょっといい?」

「なに? フラン」

「そっちの太巻き取ってぇ。手が届かないわー」

「はいはい。これでいいのかしら?」

「うん。お礼にこっちの太巻き上げるー」

「ありがたくもらうわ。それにしても、あなたもレーツェルも楽しそうねぇ、見てるだけなのに」

 

 頬杖をついたレミリアがそう呟いて、フランから受け取った太巻きをモグモグとする。そうして数秒後、急に目を見開いてゴホゴホッ、と。喉に詰まったというよりも予想外のものを口に入れてしまったせいで咳込んでいる感じだった。

 レミリアが太巻きを口から離して、鼻を押さえながら憎々しげにフランを睨む。視線を向けられた当の本人は、微妙に楽しそうに口の端を吊り上げつつ、長女に取ってもらった太巻きを悠々と食べていた。

 

「……フラン。これ、なに」

「具が全部わさびのやつ。一つだけ混ざってたの。とりあえず本当にわさびかどうか気になったから、お姉さまに食べてもらおうかなって」

「自分で食べなさいよ! っていうかなんでそんなものが……まさか、パチェ?」

「………………………私はなにも知らないわ」

「今の間はなにかしらねぇ……!」

 

 素知らぬ顔で通そうとするパチュリーに、レミリアがぷんぷんと怒り出す。豆まきに参加できないからこうして恵方巻きを食べているのに、その中にハズレのようなものが混ざっていれば、それは怒ってもしかたない。

 とは言え俺たち吸血鬼に限らず、紅魔館の住民が悪戯好きなのは今に始まったことではない。なにせ悪魔の館である。ここではメイドをしているが、妖精だって元来は悪戯好きな存在だ。

 ちなみに美鈴だけは除く。彼女がおそらく紅魔館唯一の常識人であろう。

 

「フラン、もしかして」

「最初から気づいてたわ。お姉さまには食べさせられないしねー、それならレミリアお姉さまでいいかなって」

「……ありがとう? でしょうか。えぇと、でも、あんまりお姉さまに悪ふざけしちゃいけませんよ?」

「もちろんよ。今回のはただのスキンシップだわ」

 

 スキンシップでわさびしか入っていない太巻きを渡されるレミリアがちょっと不憫だ。

 そんな彼女も一通り鬱憤を吐き終えたらしく、「口と鼻が痛いわ……」と呟きながら再び頬杖をついた。さすがにあんなものを食べさせられてはもう太巻きを食べる気力もないようで、なにもせずボーッと遠くの方を見つめているだけである。

 

「さっき見てるだけなのに楽しそう、ってお姉さまは言いましたね」

「うん? まぁ、言ったわね」

「きっと楽しいんですよ。こうして皆で騒ぐのは、それだけで楽しいに決まってます」

「…………まぁ、そうねぇ。そうかも、しれないわね」

 

 ほんの数年前までは、この中にフランというピースが欠けていた。美鈴や咲夜、パチュリーや妖精メイドたちと集まった時、俺とレミリアはきっと意識しないうちにフランが地下室で一人寂しく膝をかかえているような姿を夢想していたのかもしれない。そうしてどこか後ろめたい気持ちを抱いていたのだと思う。

 けれど今は、こうして本当の意味で全員がわいわいと過ごせている。こうして六人で集まって、周りで妖精メイドたちが豆を投げ合って遊んでいる――こんな光景はつい最近手に入ったばかりのかけがえのないものだ。誰にも奪わせない、汚させない。原作の知識にこれを害する者はほとんどないけれど、用心するに越したことはないだろう。

 

「……それでも、こんなんじゃまだ足りないのよ」

「お姉さま?」

「なんでもないわ。そんなことより、妖精たちの投げ合いを見てたら似たようなことがしたくなってきたわね。レーツェル、スペルカードで遊びましょう?」

「今日は合戦じゃないんですね。もちろんいいですよ」

 

 席を立ってレミリアと対峙すると、自然と周囲の視線が集まってくる。妖精たちも手を止めてこちらの様子を窺ってきていた。

 ふと、さきほど小声でなにかを言っていた時にレミリアが浮かべていた表情を思い出す。

 それは真実とも見間違いとも判断し切れない、ほんの一瞬だけの思いつめた顔だった。どこか寂しそうに、苦しそうに、まるで自分の大切なものの欠けたパーツを取り戻したいと願っているかのように。

 きっと錯覚だ。そう言い聞かせて、作り笑いを浮かべる。

 仮に錯覚でなくても、俺がなすべきことは一つとして変わらない。彼女が困っているのなら、前に進めないのなら、『レーツェル・スカーレット』としてその障害をなくしてあげるだけだ。その道中で自身がどれだけ傷つこうが、どうせ俺は『答えのない存在』。レミリアが無事ならばなんら問題はないし、いくらでも代えが効く。

 ――お姉さまとフランは、私が絶対に守りますから。

 この胸に刻み込んだ始まりの言葉を思い出しながら、心より慕う姉へと向けて言の葉を放つ。

 

「お姉さま、大好きですよ」

「……ええ、私も、大好きよ」

 

 互いの弾幕が空間を埋め尽くした。咲夜の能力で拡張されているため、館内でもそれなりに弾幕ごっこはできるようになっている。

 長女の真っ赤な魔力と次女の赤白い魔力が美しき空の軌跡を描き、やがてそれぞれが衝突して光を散らした。隙間を抜けて飛んできた弾を飛んで避けつつ、新たに弾幕を生成して展開する。

 妖精たちの歓声の中、フランが俺を応援する声が鮮明に耳に届いていた。さらに耳を澄ませば、先の影で脚を取った件があってか、美鈴がレミリアの方に声援を送っていることがわかる。パチュリーや咲夜は悠々と勝負の行方を見守っているようだ。

 

「"神槍『スピア・ザ・グングニル』"!」

「"光弓『デア・ボーゲン・フォン・シェキナー』"」

 

 ――未だ『答え』はなくしたまま、その身を縛る枷だけが増えていく。




今話を以て「Kapitel 4.新たな日常は緩やかに」は終了となります。
妖々夢はサクッと終わらせようと思っていたのですが、予想以上に長引いてしまいました。次回以降はもっと効率よく進められたらと考えています。

「Kapitel 5」はほんの少し日常の話を入れた後、永夜抄へと移る予定です。妖々夢の反省を生かしていきたいですね。
あくまで予定なので狂う可能性は大きくありますが、次回からもどうぞよろしくお願いいたします。


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Kapitel 5.月夜の須臾を永遠へ
一.過去を尊ぶ百本の足


 百足(ムカデ)蜈蜙(ムカデ)蜈蚣(ムカデ)蝍蛆(ムカデ)。それを指す単語はいくつもあれど、呼び方は一切変わらない。

 ムカデとは祖先にもっとも近い形で足を受け継いできていると言われている節足動物だ。他のものたちが「必要ないから」と足を退化させていく中、ムカデだけが無数の足数を保って長い年月を生き続けたのである。前世では「あんなに足があって意味なんてあるのか」と考えたりもしていたが、よくよく考えてみれば陸上動物における尻尾だって大した意義はない。先祖の備えていたものが地味に役割を果たしているために退化しなかったなんて話は生物学ではごまんとある話だろう。

 そしてムカデは百足と呼ばれてはいるが、実際的には一〇〇を越える足を持つ者も多くいる。そしてそんなあまりにも多い足の数ゆえに、江戸時代頃には「客足が多い」という縁起物として扱われることもあったらしい。

 他にもムカデにはさまざまな伝承や俗信が残されている。

 昔話には、藤原秀郷という男が攻撃のまったく通らなかった大百足に対し、武神である八幡神へ祈りを捧げて矢を放つことで、それをようやく倒したというものがある。こんな話があるのだから、もしかすれば幻想郷にも大百足に相当する妖怪がどこかにいるかもしれない。探す気にはなれないが。

 良き伝説を探してみれば、軍神と財宝の神、七福神の一柱として知られる毘沙門天の使いがムカデという話もあったりする。なぜムカデなのかと言えば、これは「たくさんの足のたった一足でも歩調や歩く方向が違えば、前に進むのに支障が出てしまう。困難に向かうためには皆が心を一つにする必要がある、という教え」だとか「絶対に後ろに下がらないという特性が軍神に合っている」だとか、結構いろいろと説があるようだ。現代では「毘沙門天と言えば虎!」と言った風潮があるけれど、あれは毘沙門天が初めて現れたのが寅年、寅日、寅刻だったというだけの話で、本来の神使はムカデだと囁かれることが多い。その割に虎の像が多いのは、まぁ、ムカデは見た目がアレだからしかたがないだろう。

 しかしこれにまた面白い話があり、毘沙門天のムカデは一部の地域ではネズミ除けとして信仰されることがあったのだ。ネズミはムカデを嫌うなんて伝承から来たらしいが、これのなにが面白いのかと言うと、中国ではネズミが毘沙門天の使者として信仰されているのだ。つまり同類を拒んでいると言っても過言ではないことになる。地域が違うのだからアリなのかもしれないけれど、こういう辺りを毘沙門天自身はどう捉えているのだろう。

 ――前置きがとても長くなった。ここからが本題である。

 昔はともかくとして、現代ではムカデなんてゴキブリと並んで嫌われる最凶の節足動物だ。その間接や足の多さ、見た目のグロテクスさはもちろんとして、うねうねと動き回る姿はゴキブリのカサカサ移動と同等の気持ち悪さを催させる。というか毒があるものもいるし、正直ゴキブリよりもたちが悪い。あんなのが好きなどとほざくのは変人しかいない。

 

「ひ、ひぃ! きゃ、ちょ、うぇえ!? なっ、みょ、みょるなぁ!? うぅ、る、るーみぁああ……!」

 

 なにを主張したいのかと言えば、俺はムカデが大の苦手である。見るだけでぞわっとしてぶるってなって、意味不明なことを口走りながら全力逃走を図り、机の角に小指をぶつけて悶絶してしまうくらい苦手である。

 というか人間にムカデが苦手じゃないやつなんているのだろうか。いたらしかたない、そいつは間違いなく疑いようもなく確実に変態だ。訴えてやる。裁判長も俺を勝たせてくれるだろうから、そのままムカデまみれの刑に処してしまおう。そうして俺のもとに来るムカデをできるだけ減らしてくださいお願いします。切実に。

 ……こんな風に脈絡もなにもないわけのわからない思考へ突然シフトしてしまうくらい混乱するほどには、苦手意識を抱いている。

 

「あーもう、そんなに引っつかないでよ。歩きにくいなぁ」

「ご、ごめんなさ、ひぃ!? る、るみゃあ」

「はいはい、どっか行ってねー」

 

 俺の肩に落ちてきたムカデを、一緒に歩いているルーミアがひょいと摘まんで放り投げる。これまでに何度も同様のことが行われており、いい加減彼女も慣れた様子だ。

 

「吸血鬼なのにビビりすぎなのよ、レーチェルは。この程度どうとでもなるじゃない」

「レ、レーツェルです……ほ、本当にごめんなさい。あと、ついてきてくれてありがとうございます。すごく助かってます……」

「聞き飽きたわー。でも、ここまで頼られて悪い気はしないかなぁ。歩きにくいけど」

 

 時間は夜、今いる場所は霧の湖近くの林であった。なぜルーミアと二人でこんな場所をわざわざ彷徨い歩いているのかと言うと、ちゃんとした理由がある。

 事の経緯は三か月ほどさかのぼることになる。萃香が舞い起こした異変、三日おきの宴会よりも前の話だ。

 とある日の夜、俺はなんとはなしに歩いて人里に向かおうかと思い至った。人里にはいつも行ったら警戒されまくるので月に一回くらいしか訪ねないようにしているが、滅多に行かないのならば滅多にしない行き方もいいんじゃないかと考えたのだ。なにせ博麗神社に行く時などは普通に飛んでいくために、常に眼下に木々がある。隣に自然を感じながら歩くのもいいかもしれない……と思っていたのだが。

 その日の帰り、ムカデが落ちてきた。それで、奇声を上げて逃げた。

 その時のことを思い返しながら次の月も、しかし二度もないだろうと林に足を踏み入れていた。そうして今度は初っ端からムカデが三匹も上から落ちてきたのだ。もちろん逃げた。

 本当に偶然かと疑いながら、次の月も林に入り込んだ。今度は先月みたいに入った瞬間に、なんてことがなかったのでちょっとばかり安心して足を進めて――やっぱり落ちてきた。そうして即座に逃げ出した時に偶然ぶつかったのがルーミアであった。

 事情を軽く説明してみると、彼女はその現象を妖怪のしわざだと断定した。さらにはあまりにも怯える俺に気を遣って、その妖怪を一緒に探してくれると進言してくれたのだ。俺のルーミアへの親愛度ゲージがうなぎのぼりである。今度絶対になにか恩返ししようと固く心に誓った。

 そして彼女の推測もまた正しかった。妖怪の居場所を探るためにわざわざ飛ばずに林の中を歩いているのだが、いつも以上にムカデがうじゃうじゃうじゃうじゃと。しかも落下してくる時は必ず俺にピンポイントという状態で、これが妖怪のしわざでなかったら俺はあまりにも不運すぎる。

 

「それにしても、見つかりませんね」

「そんなに遠くにはいないと思うわ。レーチェルの力のほども理解できないような大したことない虫の妖怪だろうし、レーチェルを驚かして楽しみたいなら、近くで見ているか虫の報告をすぐに聞けるようにしてるはずだもん」

「えぇと、どうして大したことない妖怪なんですか?」

「吸血鬼にわざわざちょっかいを仕掛けるなんて、その実力も見極められないくらいの低級妖怪しかありえないわ」

 

 それじゃあ魔力を解放して威圧したら出て来ます? と問うと、それをやったら逃げられるだけじゃない? と返ってきた。

 

「あー、でも、一度そうやって力の差を思い知らせたら虫を送ってきたりしなくなるかも」

「それじゃあ早速……」

「ん、ちょっと待ってー。レーチェルの前に、私からやっていいかなぁ」

「え? 狙われてるのは私ですよ?」

「いいからいいからー。私がやれば、きっと犯人も堪忍して出てくるわ」

 

 ルーミアの妖力では威圧するには足りない気もするけれど……結構自信があったようなので、それならと任せることにする。

 俺が頷くとルーミアは立ち止まって、いつもしている両手を広げるポーズを改めて取った。そして彼女が深呼吸した途端、視界が真っ暗に染まる。

 これは妖力ではない。ルーミアが備える『闇を操る程度の能力』による暗闇の空間だ。

 

「今の私の出せる限界に闇の侵食を広げてみたけど、どうかなぁ。釣れるかなぁ」

 

 ルーミアが呟いて数秒後、少し先の方からどこか慌てたような声が聞こえてきた。おそらくそれがこれまでずっと執拗に俺を狙ってムカデを送り込んできていた犯人の声なのだろう。急に目の前が見えなくなったのだから混乱するのは当然である。

 

「ところで私も見えないんですけど、ルーミアが犯人のところまでエスコートしてくれるんですよね」

「え? なに言ってるのよ。わずかな光もないこんな空間で目が見える生物なんて、いるわけないじゃないの」

「……そんな当たり前みたいな雰囲気で言われても、その」

 

 ルーミアが発動した能力なのに、その本人さえ前が見えないとはどういうことなのか。それって本末転倒ではないのか? と思いながらも、はぐれないように手を繋いで、慌てた声のする方へと歩んでいく。

 さすがに慣れているのか、ルーミアの足取りはとても軽やかだった。数歩進むごとにゴンッと木にぶつかったりしていたようだが、本人はそんなことは気にも止めない。数十秒も歩き続ければ声の主のすぐそばにたどりついたようで、ルーミアが歩みを止めた。

 そこまで来て、ようやく彼女は広げていた闇を元に戻した。暗闇しかなかった世界に月明かりが差し込み、俺とルーミアと今回の元凶を映し出す。

 そこにいたのは俺たちと同程度の身長しかない子どもの妖怪だった。

 緑色のショートカットに同色の瞳、頭には虫らしい二本の触覚がある。白いシャツの上に甲虫の外羽根にも似た燕尾状に分かれたマントを羽織り、紺のキュロットパンツを穿いていた。見た目は一応女の子であったけれど、もしも男の子と言われても普通に信じてしまいそうなくらいには中性的な顔立ちと服装をしていた。

 俺はこの妖怪に見覚えがある。原作にも出てくるキャラクター、蛍の妖怪リグル・ナイトバグ。『(むし)を操る程度の能力』も持っているし、このリグルがムカデ事件の元凶と捉えて間違いないだろう。

 

「よ、よかったぁ。このままなにも見えなかったらどうし」

「なにがよかったんでしょうか」

 

 最早犯人確定なのだから情けは無用だ。問答無用で魔力を解き放ってリグルへ集中させ、威圧する。

 リグルが目を見開いて顔面蒼白で冷や汗をダラダラと流し始めたが、今回ばかりは気を遣ってやれる余裕はなかった。

 

「あなたに一つ、いいことを教えてあげます」

「な、なんでしょうか、蝙蝠さま」

「二つになりました。一つ、私は吸血鬼です。そして二つ目は……」

 

 影の魔法を発動し、逃げ出そうとしていたリグルを拘束する。夜だからこの程度は造作もない。

 無理矢理に顔をこちらに向かせて、二つ目の教訓を彼女に投げた。

 

「今後も私にムカデを差し向け続けるようなら、こうなります」

「え? きゃ、ふ、はっはは、ぬ、ふふ、ははははははははぁー!? ちょ、や、やめ……ふ、ははっ!?」

 

 影で猫じゃらしを形作り、脇やらなんやらを容赦なくくすぐりまくる。とにかくめいっぱい笑わせまくる。

 くすぐりの刑。罪悪感を抱かずに行使でき、相手を傷つけず、さらには笑いと苦しみの両方を提供することができる素晴らしい刑罰である。

 とりあえずそれを三〇秒ほど続けた後、問いを投げてみた。

 

「なんで私を狙ったんですか?」

「ふ、ひぃ、ひぃ、ははははっ!? だ、だだだって、ふふっ、わ、私のか、かわいい虫た、たちを、ははっ、ふぅうう!? す、すっごい怖がるんだ、もん! ちょ、ちょっとイタ、イタズラし、しようかなぁって! ふふふはふふ!?」

「それは申しわけありませんでしたね。でも私、本当にムカデだけはダメなんです。ゴキブリなら『あー、ゴキブリかぁ。殺虫剤切れてるし、洗剤でいっかぁ』で対処できるんですが、ムカデだけは無理なんです。わかりますよね? とってもわかりますよね?」

 

 ルーミアから「かわいいって言ってたじゃない」なんてツッコミが入ったけれど、気にしない。

 ちなみに紅魔館にゴキブリは出ないため、洗剤云々は前世の話になる。どちらでもいいけど。

 

「わ、わか、わかったからぁああ! ひ、ひふふ、こ、これ、や、やめ……!?」

「二度と私にムカデを差し向けないと約束しますか?」

「もももちろん! ふふっ、ははは! す、するする!」

「今度博麗神社の宴会に来て、それを楽しむと約束しますか?」

「え? あ、ふふはははははは!? ちょ、ちょ、待っ、どういう!?」

「しますか?」

「する! するから、するからもうやめてぇ!? げ、限界ぃいい……」

 

 それならいいと、影による拘束とくすぐりをやめる。リグルがドサリと落ちて動かなくなったが、俺の中には達成感でいっぱいだった。

 トテトテと倒れる蛍に近づいたルーミアが、つんつんとリグルをつつく。どうやら気絶しているようで、ピクピクと痙攣していた。

 

「レーチェルはムカデ、苦手なんだよね」

「そうですよ」

「でも、ドサクサに紛れて宴会に誘ったね」

「この妖怪自体はムカデじゃありませんし、人数が増えるのはいいことですから」

「……やっぱりレーチェルって、どこか変だなぁ。吸血鬼としての尊厳を傷つけられたんだから相応の報いだとか普通ならいろいろあるのに」

「相応の報いも、仕返しも、今したじゃないですか。それに『昨日の敵は今日の友』、幻想郷では常識みたいなものでしょう?」

「うーん、でも、やっぱりレーチェルはおかしいわよ。わざわざ自分に迷惑をかけてきた相手を誘うなんて私ならしないもん。そこがレーチェルのいいところなのかもしれないけどー」

 

 と言われても、これが性分なのだからしかたがない。しかし気絶するまでくすぐるなんて、ちょっとやりすぎだったような気もする。次の宴会ではおわびにこちらから酌をしに行こう。

 この後、ルーミアを連れて紅魔館に戻って少しの間だけ遊んだ。吸血鬼は妖怪であるために、究極的に言えば睡眠は必要ない。しかしそれは本当に究極的な話だ。紅霧異変以降は夜に寝て昼に活動をするという生活をしているし、今回はムカデの件もあって疲れて、やはりちょっと眠かったのだ。そのことを察して、ルーミアも早々にお邪魔しましたと出て行ってくれたのだろう。

 次の宴会の時におわびをしなくちゃいけない相手が一人増えたなぁ、なんて思いながら、ベッドの上で布団にくるまって目を閉じた。

 …………そういえばムカデの元凶退治に夢中で、人里行くの忘れてた。

 最後に考えていたことは、そんなことであった。



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二.黒白の産廃は鬼の手に

「サッカーしましょう」

「帰れ」

「今だけここに居候することにします。はい、帰りました」

「じゃあ出てけ」

 

 ひどい言われようである。せっかく昨日は夜更かししてまで錬金術でボールを作ってきたというのに。

 時は九月の初め、もうすぐ昼に差しかかるという時間帯に、俺は東の端にある博麗神社に一人でやって来ていた。手元には昨日がんばって作ったサッカーボールがあり、耐熱性耐寒性耐雷性耐圧性抜群で、おそらくは鬼の脚力でも破裂しないという傑作である。もっとも、鬼の脚力で蹴ったりなんてしたら空の彼方まで一直線だろうが。

 ちなみに神社へはフランも誘おうかと思っていたのだけれど、彼女はどうやら徹夜で魔法の研究をしていたらしい。サッカーボールを作ろうと唸っていた俺が偶然通りかかった扉の隙間から見えたため、自分も張り切って研究に取り組んでみたようだが、どうにも張り切りすぎたようだ。フラフラと足取りもおぼつかなかったので、安静にしていなさいと今は大人しく寝させている。

 

「そもそも夏の真っただ中の晴天だってのに、なんで吸血鬼のあんたが普通に訪ねてくるのよ。夜の帝王なら今は就寝の時間でしょ?」

「いつものことじゃないですか」

「世も末ね」

「幻想郷ですから」

 

 境内の掃除をしていたのか、竹箒を鳥居に立てかけてある。日差しから逃れるように台石に座っていたので、その隣に陣取って、目深にかぶっていたフードを取り払った。霖之助から仕立ててもらったローブだ。昼に出かける時は愛用している。

 

「暑くないの、それ」

「そういう変化には疎くてですね」

「熱に弱そうなのにねぇ、吸血鬼って」

 

 太陽の光はもちろんダメであるが、別段炎に弱かったり照明を当てられただけで蒸発したりはしない。弱点は多かれど、さすがに最強種の悪魔だけあってそこまで体は弱くないのだ。

 

「それでとりあえずめんどくさそうだったから断ってみたけど、サッカーってなによ。その白黒のボールが関係してるの?」

「興味あります? 聞きたいですか?」

「ないからやっぱいいや」

「説明します」

 

 ――昨日の夕方、自室でゆったりとしていると突然紫が現れては、俺にサッカーのルール等が書かれた本を渡してきたのだ。

 なんでこんなものをと思いかけた直後、吸血鬼異変のすぐ後の出来事を思い出す。確かその時はまだスペルカードルールが採用されていなくて、いろいろとアイデアを募集しているところだったはずだ。そしてなにを思ったか、俺は唐突に紫へ「サッカーに関しての本が欲しい」とお願いした。

 ほぼ完全に忘れていたことなので、いちいち数年前の約束を果たしに来なくても、俺がそのことについて言及することはなかっただろう。そこまで本気で思っていたことでもないし、今はスペルカードルールが流行っている。暇ならばサッカーよりも、新しいスペルカードを考えたり等といろいろあった。

 それでも本を読んでいたら地味にやりたくなったので、ボールだけでも作ってみたと、そういうわけである。

 

「要するにボールを蹴って、ゴールとやらに入れた回数が多かった方が勝ちってことね。妨害あり、ただし肉弾戦禁止で」

「その認識でいいと思います」

「だったらあれよね。このボールを思いっ切り相手にぶち当てて気絶させればいいわけね。そうすれば好きなだけゴールに入れられるもん」

「……えぇと」

 

 霊夢が座ったまま、脚を交互にパタパタと動かす。おそらくはサッカーボールを妖怪へ向けて蹴りつける妄想をしているのだろう。さすがにスペルカードルールに慣れているだけあって、ボールをぶつけるという発想は自然に一番で出てくるようだった。

 反則なのか、ギリギリセーフなのか。あいにくと昨日に本をもらって流し読みしただけなので、いろいろと判断がしづらい。

 

「一対一じゃありませんから、一人気絶させたところであまり変わりませんよ。それに動けなくなったりしたら交代で補充し直すので、全員倒すのは現実的じゃないかと。こちらもやられたら交代とかしなくちゃいけなくなります」

「というか、そもそもぶつけ合うんだったらスペルカードでいいじゃないの」

 

 それを言ったらおしまいだ。というかサッカーはぶつけ合う遊びではない。

 ふと、なにかに気づいたように霊夢が顔を上げた。釣られて俺も見上げてみれば、空から一つの黒白の塊が飛んできている。

 近くに来てふわりと減速したそれは、両足を地面につけて「よう」と片手を上げた。

 

「おはようだぜ。今日はレーツェルもいるんだな。なにを話してたんだ?」

「こんにちわです。ちょっとサッカーという遊戯について」

「ボールを蹴り合う遊びなんだって」

 

 へえ、と魔理沙が俺に手を向けてはくいくいと折り曲げた。ボールを欲しているのだとわかり、要望通りその手の平にサッカーボールを乗せる。

 

「ふむふむ、これなら」

 

 しばらく観察していた彼女がボールを手放しては、地面につく前に脚で跳ね返した。それを何度か繰り返し、今度はボールを背後に回しては踵で同じように弾ませる。リフティング、と言うんだったか。まるで体の一部のように自由自在に操っていた。

 

「なに魔理沙、サッカーやったことあったの?」

「別にそういうわけじゃないんだけどな、っと!」

 

 いかにも魔法使いと言った三角帽子を外すと、最後にはその中へとボールを収めた。魔理沙の巧みなボール捌きに、思わずと言った感じで霊夢と揃って拍手をする。

 褒められた当人は「どうだ?」と言わんばかりの得意げな顔で胸を張った後、俺にボールを投げ返した。

 

「子どもの頃に似たようなことしてた経験があったんだ。久しぶりだったけど、案外うまくできるもんだな。さすが私だ」

「さすが魔理沙です。驚きました」

「おう、もっと崇めるがいいぜ」

 

 台石に竹箒を立てかけて、霊夢を挟んだ俺の反対側に魔理沙が腰をかける。

 

「で、えーっと、サッカーだっけか。急に球遊びだなんてどうしたんだ? 今日はフランもいないみたいだし」

「いえ、紫がサッカーについての本を昨日くれたものですから、せっかくなので錬金術を駆使してボールを作ってきたんです」

「あいつがか? じゃあサッカーってのは妙な遊戯なんだろうな。しかし錬金術か。ってことはそれも魔道具なのか? レーツェルは香霖と一緒で魔道具よく作ったりしてるし」

「いえ、これは普通のボールです。爆発とかマスパとか鬼の脚力とかに耐えられるようにしてますけど」

「なるほど、そりゃあ異常なボールだぜ」

 

 どういうルールなんだ? と聞いてくるので、霊夢にしたのと同じ説明をした。基本的に本に乗っていた内容の覚えているままを言うだけだが。

 要点をまとめると、ゴールにボールを多く入れた方が勝ち。

 

「つまりは地上でやる競技なわけか。ゴールが空中に浮いてるわけもなし」

「そうなりますね」

「そうなると、あれだな。人間対人間でやる分にはいいが、妖怪が混ざるとなぁ。ボールが無事でも地形がめちゃくちゃ、それに事故が起きた時なんて軽く死ねるぜ」

「……魔法である程度いろいろ保護したりとか」

「そもそも身体能力が違いすぎるからなぁ。スペルカードみたいに弾数大量ならともかく一つのボールを取り合うってのは、ちょいと人間側には厳しすぎる。天狗なんて参加した日にはなにもできずにやられまくりそうだ」

 

 頭の後ろに手を回した魔理沙がそう言っては空を見上げる。ちょうど彼方の方を黒い点――天狗が一人、通り去るところであった。

 吸血鬼異変の後、危機感を覚えた妖怪たちと博麗の巫女が生み出したのはスペルカードルールだった。いくつか考案された他の案を差し置いてそれが幻想郷中に広がったのは、それだけが人間と妖怪の双方が納得する形で争いを実現できる唯一の方法だったからだ。

 適当に外の世界から流用したものが、人間と妖怪が対等に遊び合える競技になれるはずがない。少し考えればわかることだった。魔理沙が人間同士ならと言っていた通り、妖怪も同じ種族同士ならばそこそこ面白く遊べるかもしれないけれど。

 

「やっぱり幻想郷で球遊びと言えばスペルカードルールってことですか。今更他の遊戯を考案するのは難しいですね」

「そりゃそうよ。そもそもコートってのを用意しなきゃいけない時点で絶対流行らないと思ったわね」

「スペルカードならどこでもやれるしな」

 

 コートなんてただでさえスペースを無駄にできない人里にはもちろん作れないし、その外となると妖怪の賢者による守りが効かなくなるから、そんなところで人間が悠長に遊んでいれば人食い妖怪の恰好の餌食だ。

 

「せっかくボール作ったのに……まぁ、無駄になるだろうことは最初からわかってたんですけど」

「わかってたのにわざわざ尽力するなんて、存外レーツェルも暇なんだな」

「そりゃあそうですよ。寿命の長い生き物は娯楽をなによりも大切にするものです。たとえやろうと考えていることが無駄だとわかっていても、やりたいと思ったのなら進んで取り組みます」

 

 長く生きていると苦労を楽しもうとする余裕の心が失われる、と紫は主張していたが、俺は完全にそうだとは捉えていない。

 吸血鬼が紅茶をよく飲むのは血に似ているからだけではなく、純粋に、それがとても美味しくて楽しめるからだ。鬼がなによりも酒を好むのもまた同じ、天狗がその耳や目を駆使してあらゆる情報を集めようとすることも、また一つの娯楽なのだ。

 娯楽とは言え、苦労が混ざるものも多々ある。多くの鴉天狗が行っているという新聞作りもまた、労さなければなし得ないものだ。

 そういう娯楽を嗜めるかどうかで、その妖怪の在り方が浮き出てくる。嗜めないようなつまらない者は大抵の場合が大したことがない弱小妖怪で、逆に楽しめる者には個性的で強い妖怪が多い傾向にあるようだ。

 常にその者に娯楽を嗜めるような面白さがあるかどうか。妖怪の格とは強さだけでなく、そういうところでも測られていると俺は思っている。

 

「娯楽を大事にするのは人間もだぜ」

 

 片手を曲げると、くいくいとそれを口元に運ぶ魔理沙。おそらく手で模しているのは盃、娯楽とは酒のことを言っているのだろう。格が測られるのは妖怪だけではない、というわけか。

 その時、魔理沙がなにかを思い出したかのようにポンッと手の平に拳をついた。

 

「そうそう、そのボール無駄になったとか言ってたが、捨てるくらいならどっかの二本角ののんべえにでも上げたらどうだ? 鬼の力にも耐えられる道具なんてそうそうないし、案外あいつならサッカーってのを気に入るかもしれん」

「……ちょっと。あいつの話は出さないでよ。憂鬱になるじゃない」

 

 霊夢が顔を顰めて呟いた。なんで霊夢が? と魔理沙と顔を見合わせる。

 

「なんで霊夢が憂鬱になるんだ?」

 

 実際に魔理沙が問いかけると、当人は大仰に肩を竦めてため息まで吐いた。聞いただけでここまでの反応とは、よほどの事情があるらしい。

 魔理沙と一緒になって霊夢が語り出すのを待つ。吹いた風が夏の暑さをちょうどいい具合に紛らわし、その涼しさに霊夢の頬が若干緩んだのがわかった。

 

「……実は」

「霊夢ー、どこぉー? 一緒に酒飲もうよぉー」

 

 しかしそんな霊夢の顔も、神社の方から酔っぱらった声が流れてくると同時、再び嫌そうに歪んだ。

 フードをかぶり直し、鳥居から顔を出して日差しの向こう側へと目を凝らす。そこには、賽銭箱の上でふてぶてしく寝転がりながら、手に持った瓢箪を口に含む二本角の鬼――先日スペルカードを無視して戦い合い、俺とともに紫からこっぴどく叱られた相手である伊吹萃香がいた。

 鳥居から様子を覗く俺たちの様子はあちらの目にも留まったようだ。霊夢、魔理沙、そして俺に瞳が向いて「へえ」と小さく呟くのが聞こえた気がした。

 賽銭箱から降りて、酒を飲みながらこちらに歩いてくる。

 

「おはよぉ、霊夢に魔理沙。それにレーツェルだよね。この前は楽しかったねぇ」

「はいはいおはよう。そんなことより賽銭箱に乗らないでよ。壊れたらどうするのよ」

「おはようだぜ。噂をすればなんとやらってやつだな」

「こんにちわです。もうやりませんよ、あんなの」

 

 霊夢には「あんななんにも入ってない賽銭箱なんて壊す気にもなれないよ」、魔理沙には「私の噂をしてたのかい? 奇遇だねぇ」、俺には「まぁまぁ、いつかまたやろうよ」と、萃香がそれぞれに返事をする。

 なんとなく、少しだけ居心地が悪かった。出会ってすぐに苛立ちのままに喧嘩をしてしまったことが原因なことは理解している。まるで溜まっていた鬱憤を晴らすかのごとく八つ当たり気味に萃香と戦闘を行ってしまったことに、俺は少なくない自責の念に駆られているのだろう。

 対して萃香はあの日のことはなにも気にしていないようで、なんの気負いもなさそうな呑気な酔っ払い顔を浮かべていた。

 一気にしゃべって舌が渇いたのか、呼吸をするように自然な動作で瓢箪を口元に運んだ。

 

「最近ずっと神社に居ついてるくせに、奇遇なもんですか。いい加減元の場所に帰りなさいよ。神社が鬼くさいったらありゃしないわ」

「その言いぐさはひどいよぉ。こっちは酒を提供したりといろいろやってあげてるのに」

「あんたのせいでこっちはここ毎日地味に頭が痛いのよ。毎晩毎晩無理矢理飲まされるから」

「霊夢だって一回飲み始めたら満更じゃない顔するじゃないのー。つまり私は悪くないってことにぃ」

「ならない」

 

 口を尖らせる萃香と、そんな彼女へ叱るように言葉を吐く霊夢を眺めていると、なんだか仲のいい姉妹のようにも見えてくる。霊夢が姉で萃香が妹――年齢的にはまったくの逆であるが、目の前の構図はそんな感じだった。身長だって萃香の方が圧倒的に低い。

 ふと、萃香が顔を俺の方に向けてくる。その視線の先にあるのは俺が抱えている白黒の球体、サッカーボールだ。

 

「それなにー? 魔理沙みたいな色してるねぇ」

「これは魔理沙ボールという魔道具で」

「鬼が触ると爆発するんだぜ。凄いだろう?」

 

 何気なく伸びてきていた萃香の手が引っ込む。その様を見て「冗談だ」と魔理沙が面白げな笑みをたたえ、二本角の鬼はムッと頬を膨らませた。鬼を相手に息を吐くように嘘を吐くとは、魔理沙は怖い者知らずである。俺も他人のことは言えないが。

 

「サッカーボールと言って蹴るためのボールですね。ちょっと錬金術で作ってみたんです。耐熱性耐寒性耐雷性耐圧性抜群で、おそらくは鬼の脚力でも破裂しません」

「へえ。もちろん爆発にも対応してるんだよね」

「え? うーん、内部で爆裂するとさすがにマズイかもしれません」

「だってさ、魔理沙」

「私は関係ないぜ」

 

 視線から逃れるように、魔理沙は顔を逸らして口笛を吹く。白々しいと、ふんっ、と萃香が鼻で笑った。

 

「もしよかったら差し上げますよ。このボールもこのままだと諸事情により倉庫の肥やしになってしまいますから」

 

 そんな風に話しかけると、萃香が目をパチクリとさせた。

 

「鬼の力に耐えられるような遊び道具なんてそうそうないし、嬉しいんだけど……いいの? せっかく作ったのに?」

「ちょっと時間はかかりますがいくらでも作れるものですよ。でも、そうですね。もしよかったら一つだけ条件をつけてもいいでしょうか」

 

 条件次第だねぇ、と返答して瓢箪から酒を飲んでは喉に通した。さきほどから合間合間に嗜んでいるし、本当に酒を燃料に動いているのではないかと錯覚してしまいそうになる。

 

「大したことじゃありませんよ。ただ、握手をしてほしいだけです」

「握手? なんで? 呪いでもかけるつもり?」

「違いますよ。仲良くなりましょう、の握手です」

 

 萃香はともかくとして、俺は未だ萃香と戦闘した日のことを引きずっている。でもそれも握手をして形だけでもこれからの関係を示していけば、なんとなく解消できる気がした。

 珍しいものでも見たかのようにパチパチと瞬きしていた萃香の顔に、戦闘時に表れる獰猛な笑みとは真反対の、穏やかな柔らかい微笑みが浮かぶ。すっ、と静かに差し出された小さく華奢な左手は、しかし見た目通りのか弱いものではないことを俺は知っていた。

 

「ほら、取りなよ。握手、するんだろう?」

 

 そんな声に導かれて、俺も半ば自然と左手を前に伸ばしていた。右手で袖を引っ張って隠れてしまっていた左手を外気にさらし、誰よりも嘘が嫌いな小さくも荒々しい二本角の鬼の手と重ねる。

 繋いだ手は友好の証だった。あの日のことなんて気にせずに、これからは思うがままに交流をして仲良くなっていこう。誓いにも似た握手の約束だと、俺はそう捉えた。

 

「改めてよろしくなー、レーツェル」

「よろしくお願いします、萃香」

 

 手を離し、萃香の左手に代わりとしてサッカーボールを置く。彼女の顔が喜色満面になる様子を目に収めながら、それを使った遊戯のルールを説明する。

 故郷に帰って鬼の仲間とでもやるつもりなのか、案外真面目に耳を傾けていた。鬼たちが行うサッカー……人間同士で行うサッカーと比べて、一つ一つの動作が地形が崩れるほど過激になるのは確かである。



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三.生きてなかった人間っぽい骨

 無縁塚。魔法の森を越えて、その裏に続く再思の道と呼ばれる小さな道程を歩んだ先にある、数の少ない木々に囲まれた小さな空間である。その役割は縁者のいない者たち――主には、幻想郷に居場所のない外の人間たちの墓地として機能することだった。

 紫が言うには、そこは『ありえない結界の交点』と化しているらしい。第一に外の人間が地に眠ることが多い関係上で外の世界と繋がりやすくなっており、第二には墓地であるために冥界とも干渉しやすくなっている。

 幻想郷、外の世界、冥界。三つの世界が捩じられているがごとく不安定な形で混ざり合い、それゆえになにが起こるかまったくわからない。危険性も人間や妖怪を問わずに非常に高いと言われ、立ち寄る者は非常に珍しい。

 外の世界との境界が曖昧になってきているから、自殺しようとしていた外の人間等が迷い込んでしまうことなども多くある。そのため、さすがに無縁塚で直接待ち構えたりなどはしないが、意地の悪い妖怪が再思の道で待ち受けていることもあるようだ。秋の季節に再思の道を訪れた人間は彼岸花が咲き誇るその場所を歩み、毒が回ると同時にどういうわけか生きる気力も沸いてくるのだと言う。だからこそ「再思」の道という名前がついたのだが、やる気を出した直後に妖怪に喰われるというのはなんだか報われない気もする。不運だったと諦めてもらうしかないのだけれど。

 そんな道の向こう側にある無縁塚で、昨日、霖之助が妙なものを拾ってきたのだと霊夢が仏頂面で漏らしていた。聞く話によると、霖之助は外の世界の品を探しにそこそこ無縁塚に足を運ぶことがあるらしい。そこに転がる死体の火葬とともに毎度毎度わけのわからない道具を拾ってくるのだが、その時ばかりは本当に理解できない変な物体を持ち帰ってきたようだ。

 そんな話を聞かされて興味が沸かないはずがなく、現在、俺は霊夢と魔理沙とともに霖之助の店を訪ねていた。本人はどうやら出かけているようだったが、二人は勝手知ったると言った具合にずかずかと入っていく。ちょっと遠慮しかけたが、自分だけが外で待っているのもなんだかなと思ったので、「お邪魔します」と小さく呟いて俺も中でくつろぐことにした。

 

「それで、霖之助はなにを拾ったんですか?」

 

 戸棚から急須を取り出してお茶を入れ始めた霊夢に問いかける。魔理沙は、窓の近くにある段差に腰かけて、そこらに転がっていた本を手に取っていた。

 

「火葬したけどあまった、生きてない人間っぽい骨よ」

「骨は元々生きてませんが……」

「間違えた。火葬したけどあまった、生きてなかった人間っぽい骨ね」

 

 生きてなかった……どういうことだろう。骨とは、その仏がかつては生きていたことを表す生と死の証明だ。生きていなかったというのならば骨などできようはずもなく、生きていないのならば死という『答え』にたどりつけるわけもない。決して生じてはいけない矛盾が発生することになる。

 首を傾げる俺に肩を竦め、「私にもわからないわよ」と霊夢がぼやいた。

 

「だから妙なものって言ってるじゃない。今回は右腕だけど、そういえば春にも右足の骨も拾ったとか漏らしてたわね。本当、どういうことかしら」

「なんだ、霊夢も寿司が食いたいのか?」

「そうねぇ。でも、私よりも食べたい人が後で帰ってくるし、その時まで待ちましょうか」

 

 なんで寿司? という俺の疑問をよそに、二人は会話を終了させてしまう。

 霊夢は急須から二つの湯のみにお茶を注ぎ、その片方を俺の方に差し出した。「ありがとうございます」、「ん」。彼女自身の湯のみにも同様に入れて、俺の隣に腰を下ろす。

 

「私にはないのか?」

「あんた、本読んでるじゃない」

 

 近くの棚からせんべいの束を見つけ出した霊夢が、悪びれもなく取り出してはそれを横に置く。せんべいを右手に、湯のみを左手に。これが博麗神社ならともかく、主人のいない香霖堂で展開されている光景なのだから手に負えない。

 それを止めず、増してや湯のみを受け取った俺も同罪か。それならばいっそふてぶてしく突き通してしまおうと、お茶を口元に運んだ。

 

「……やあ。おかしいな、ここは僕の家のはずなんだが」

 

 ようやく帰ってきた霖之助が、荷物を下ろしながら俺たちを見回した。

 

「お邪魔してます」

「邪魔してるわ」

「私は邪魔じゃないだろ?」

「魔理沙、君はもう少し遠慮という言葉を覚えた方がいい。いや、君だけじゃなくここにいる全員に告げたいけど……」

 

 けど、なんだ? 魔理沙の問いに、霖之助はため息を返すだけである。注意したところで無駄なことは知っていると暗に主張しているようだった。

 とりあえず生きてなかった骨とやらのことを聞いてみようと思った矢先、霖之助がそれより先に無縁塚での出来事について語り始める。

 昨日と同じく右腕だけが落ちていた、しかも見渡せばたくさん見つかるではないか。人間は肉体の状態に拘わらず全身に魂が宿るから、幻想郷に迷い込む時は絶対に全身ごとやってくる。仮に右腕だけやってくる奇妙な事態を受け入れるにしても、たくさん落ちているということは、右腕だけ縁を切った人間が大量にいることになる。そんなことは天と地が逆さまになるようなことがあってもありえない――そんな風に話を進める彼に、「それで、その量産型の右腕をどうしたんだ?」と魔理沙が本から目線を外して問いかけた。

 

「ああ、ここに一本」

 

 霖之助が荷物の中から右腕の骨を取り出す。

 

「あまったからって、持って来ないでよー」

「うーん。ちょっと気になったことがあって……」

 

 せんべいをかじる霊夢と、お茶を飲む俺の前を横切って、彼は店の奥の方に向かった。そこの棚からなにかを手に取った霖之助へ、そちらを見もせずに「こっちの棚に置いてあったのよ?」と霊夢がせんべいがあった場所を指し示す。

 

「……って違う、そんなことが気になっているわけではない! 骨のことだ骨のこと」

 

 魔理沙がパタンと本を閉じる音が耳に届いた。目を向けると、ちょうど彼女が不機嫌そうに立ち上がるところだった。

 

「あーあ、もういいぜ。そんなに食べたければ、今日は飯を作ってやるよ」

 

 お勝手の方に向かっていく魔理沙を、霖之助は不思議そうな面で見送る。霊夢は微動だにせず幸せそうにお茶とせんべいをかじっているが、魔理沙の真意を理解できているのだろうか。少なくとも俺は霖之助と同じく、なんで彼女が飯を作りに行ったのかわからない。

 疑問を払うように首を横に振った霖之助に、「それで?」と霊夢が骨のことで気になることについて問いかける。

 

「ああ、昨日拾った右腕と今日の右腕、よく見てみたんだが……」

 

 こちらに歩いてきながら、両手に持った二つの骨――奥の方の棚からもう一つの骨を持ってきたのだろう――を見比べて、霖之助は訝しげに目を細めた。

 

「どこを取ってもまったく同じものだな。たとえ双子でもこんなことはありえない。まるでそのまま複製したかのようだよ」

 

 それのなにが気になるのかと首を傾げる霊夢に、彼は「同一人物の右腕ということだ……と思う」とまとめる。

 同一人物……クローン技術?

 

「ちょっとその骨、貸してもらってもいいですか?」

「なにかわかるのかい?」

「いえ、そういうわけでは。ちょっと気になることが……」

 

 霖之助から二つの骨を受け取って、じっと目を凝らす。錬金術は魔法の中でも俺の専門の一つなので、物質の構築を読み取ることは大得意だ。

 ……確かに、この二つはまったく同じものだ。まるっきり構成が一致している。さらに言えば、成分から判断して人間のものであると判断して間違いないだろう。

 当然ながら右腕は人間には二つもない。仮にあるとしても、ここまで完全に構築が合致することはもっとありえない。その条件から導き出される答えは一つ、この二つが複製品――クローン技術の賜物だということ。

 なぜ右腕だけなのかとか、どうしてたくさんあるのだとか、なんで人骨のクローンなんてあるのだとか。いろいろと疑問があるが、無縁塚で常識外のことが起こる可能性があるのは周知の事実だ。それも外の世界のこととなれば当然ながら考えても答えなんて出ない。

 

「だから、この人間の腕はありえないものなんだよ」

 

 霖之助のそんな声に顔を上げる。骨のことに集中しながらも、一応はそれまでの会話の内容を聞いていた。

 霊夢は、やれ外の世界は私の管轄外だとか、体の一部だけ結界を渡る知り合いがいる……でもそういえばそいつ妖怪だったな、とか。霖之助は六本腕の人間でも右腕だけでは結界は越えられないとか、一部だけ結界を渡れるのは妖怪の証だとか。

 

「まるで作り物みたいな腕ね」

 

 霊夢がせんべいを置いて手を差し出してくるので、一つの骨をその手の平に置く。ちなみに彼女のせんべいとは反対側の手は湯のみを持ったままだった。

 

「魂の宿っていた跡もないし……とても生きて生活していた腕とは思えないわ」

 

 生きてなかった人間っぽい骨。香霖堂に来て最初に霊夢が称したそれが脳裏を過ぎった。

 この骨がクローン技術で生み出されたものだとするのなら、その表現はまさしくその通りだとしか言いようがなくなる。

 

「その腕、人の思いがないだろう? だから結界も渡って来れたんだ。たまに流れ着く道具と同じ扱いだよ」

 

 霖之助は、それでも生き物には間違いなく、言うなれば「体のない右腕だけの人間」。そこへさらに『僕の目』からして人間であることは確実だ、とも付け加えた。

 

「外の世界の人間が愚かなことを行っていなければいいけど……」

「あら霖之助さん、たまに流れ着く外の道具で生計を立ててるんでしょ? それに、外の世界は進んでいるって、いつも唸ってるじゃないの」

「生き物の身体は……道具じゃない。この店では取り扱わないものだ」

 

 断言する霖之助の目には、確固たる意思と嫌悪感が混じり合っているみたいだった。

 愚かなこと、か。

 ふと、俺は霊夢に渡して空になった片腕を顔の前まで持ち上げる。くしくもそれは右腕だ。

 これを大量生産して、売りさばくとか? 今は二一世紀になって間もないはずだから、外の人間でもそんな技術は有していない。でもこれから何十、何百と時間が過ぎたらどうなるのだろう。人体を人工的に作り出せるようになれば、きっと多くの人を救えるようになる。それを非人道的だと、冒涜的だと唱える人も数多く出てくるのは容易く想像できるが、それでもその技術が誰かを救うのに役に立つのなら……。

 これ以上はやめよう、と首を左右に振る。俺たちは幻想郷の住民だ。外界の未来を案じたところでなんの意味もなさない。外の世界のことは、外の世界の人たちに任せておけばいいのだ。

 

「できたぜ。お望み通り、今日はちらし寿司だ」

「わ、美味しそうですね」

 

 魔理沙がお勝手の方から戻って来た。「いやに豪勢だね」と呟いた霖之助が、その後すぐに怪訝な面持ちになる。

 

「って、お望み通り?」

「だって、昨日からずっと言っていただろ? 寿司が食いたいって」

「言ってたわね」

「言ってたんですか」

「そんなこと……言ってたっけ?」

 

 黒白の魔法使いは人をおちょくったように、紅白の巫女はせんべいをかじりながら。俺はあいかわらず二人の意図が読めない。霖之助は一度もそんなこと口にしていないし、どうして骨が寿司に繋がるのかまったくわからなかった。

 

「時間がかかっていたのは『シャリ』を冷ます団扇が見当たらなかったからだぜ。この帽子じゃなぁ、振っても疲れるだけで風が起きないんだよ」

 

 その説明を聞いて、霖之助が納得したように頷いた。あいかわらず俺は理解できない。

 

「えぇと、霖之助、どういうことなんですか?」

「シャリだよ。二人は、シャリと舎利を掛けてるんだ。悪趣味な洒落だね」

「舎利……って、なんですか?」

「遺骨のことだよ」

 

 ――人間は死んだ後、亡霊になるんだよ。舎利なんかはただの抜け殻だ。

 魔理沙の主張を聞きながら、左手に持っていた骨を右手に持ち替える。そうしてその手を顔の前まで持ってくると、俺の右腕と魂のない右腕の骨が並んだ。

 

「これ、もらってもいいですか?」

「うん? いいけど……なにに使うつもりだい?」

「弔うだけですよ。きちんと」

 

 その後は手を洗って、三人と一緒にちらし寿司を囲んだ。骨の話をしていた時は妙に重々しかった空気も、ご馳走を囲めばそれだけで晴れてしまう。

 無縁仏を弔ってきた僕の善行のおかげ。墓泥棒がよく言うぜ。

 霊夢も骨を触っていただろう、手は洗ったのか。魔理沙、お茶のおかわりお願いね。お前、飲んでないだろ。

 陰鬱そうだった霖之助の顔がようやく綻んだ。彼もまた俺と同じように、骨のことについて悩むのを完全にやめたようだ。

 はるか遠くのことをただ不安がるよりも近くの幸せを噛み締めた方がずっといい。なんとなく、霖之助はそう言っている気がした。

 

「ほら、レーツェルも食えよ。そのお茶ももう冷めてるだろ? さっさと飲み切って、あつあつのお茶とちらし寿司のコンボと洒落込もうぜ」

 

 それは美味しそうだ。言われた通り、湯のみの中身を口内へと流し込む。冷たいものが喉を通って、胸の奥を落ちて行った。

 そうして空になった湯のみに魔理沙が新しいお茶を注いでくれた。湯気が立っていて、見るからにとても温かそうだった。



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四.偽物の月は真実より遠く

 ――片手の指で足りるほどの日数を経ることで、中秋の名月を迎えようという秋。

 その『異変』は、満月の影響を少なからず受ける妖怪ならば、誰しもが即座に気づいた。人間たちはのんきにいつも通りの満月の夜だと思っているようだが、その実まるで違う。

 今日は満月の夜なのに、それがほんの少し――注視しなければわからないほどごくわずかに――欠けていた。色が異なる。光が異なる。そしてなによりも、月から降り注ぐエネルギーの質が異なっている。

 紅魔館のテラスから空を見上げ、ついに始まったことを悟った。今年に入って三度目、そして今年最後の異変となる永夜異変……が起こることになる原因の事態。

 これ自体が異変ではない。人間は妖怪と違って満月の魔力になんて頼っていないので、月がちょっと変わったからと言って「だからなに?」という具合だ。満月を取り戻すために妖怪が、ひいてはそれに巻き込まれる人間たちが夜を止めるからこそ、永遠に続くかと思われた夜の異変、すなわち永夜異変となるのである。

 

「さて、どうしましょうか」

 

 今夜の空に浮かんでいる満月の色や光、エネルギーが違うのは、それが偽物の欠けた満月とすり替えられているからだ。とは言え、解決するだけならば難しくない。元凶を探して懲らしめる以外にもいくつか打ち破る方法は思い浮かぶ。

 例えばそう、萃香に天蓋を壊してもらうか、フランの能力で一度月を壊してもらうか。月をすり替えるのと月をなくすのとではまるで事情が違うので、一度偽物を終わらせてしまえば案外簡単に本物の満月も戻ってくるだろう。

 しかし俺の目的は単なる異変の解決にあらず。流れだけでも原作通りに進め、なおかつ誰も死なないようにそれを見張ることだ。

 

「お姉さまは、今から行くみたいですね」

 

 玄関の方から小さな桃色の影が、そしてそれを追うように青色の影も飛び出していくのが見えた。満月の異変ともなれば吸血鬼が動かないわけにもいかない。

 レミリアと咲夜は、俺はもちろんとしておそらくパチュリーやフランにも出かけることを告げていない。たとえ俺たちが月の異変に気づいている可能性があっても、それの解決に乗り出すことを伝えて余計な心配をかけたくないのだろう。

 正史通りならば、今回の月の異変には四組が解決に出かけていることになる。咲夜とレミリア、霊夢と紫、魔理沙とアリス、妖夢と幽々子。

 

「私はどうしましょう」

 

 できるだけ原作通りに進ませたいのは、正史からなるべくズレないようにするためだ。春雪異変からの三日おきの百鬼夜行のように異変同士が関係を持っていることもあるし、霊夢たちが異変内で一部の妖怪や元凶と出会いを果たすことで、未来においてイレギュラーが起こる確率が低くなったりという事情もある。形だけでも原作の通りに行ってくれれば多少は未来が予測できるのだから、いろいろと手の打ちようは出てくる。

 今回の異変もまた前回に萃香が引き起こしたものと同じく危険は少ないはずだが……やはり一応、用心はしておくべきだ。

 

「……そもそもとして私の存在自体が歪みをもたらしているのに、それを弱めるために正史に似させようとしている。本当に意味がないことをしていますね。自分への皮肉でしょうか」

 

 それでも、その歪みからのバタフライ効果(エフェクト)のせいで、また俺が誰かを殺す。それだけは回避しなければならない。

 とりあえず一旦紅魔館の中に戻ろう。俺は原作知識から元凶の居場所が大体わかっているし、『光の翼』を使えばすぐにそこまでたどりつける。道中でのレミリアたちの心配もしなくても大丈夫だろう。妖怪やらが彼女たちに絡んでくる光景は容易く想像できるが、そこらの野良妖怪にやられるはずがない。

 館の中に戻り、廊下を歩いてエントランスホールまで行って、階下に下りた。通りかかった妖精メイドたちに挨拶をしながら地下への階段に足を運び、その先に進んでいく。

 長く複雑な廊下が広がっていたが、あいにくとだてに五〇〇年近く紅魔館で過ごしていない。一切の無駄がない最短ルートで道をたどり、地下室の前に到着した。

 

「フラン、いますか?」

 

 コンコンとノックして問いかけると、「入っていいよー」と中から声が帰ってくる。取ってを押すと、ギィ、と音を立てて扉が開いた。

 加減をマスターしたフランの部屋は、かつてのように散らかってはいない。

 人形やぬいぐるみは仲良くまとめて置いてあるし、遊び道具も一か所に整理されている。棚やタンス等も多少年季が入っていることから、長らく壊されていないことが証明できる。机の上には紙や本やらが散乱していて、昨日も魔法の研究をしていたことが窺えた。天蓋つきのベッドの枕元には幻想郷を訪れる前に俺が上げたクマのぬいぐるみが置いてあり、まだ大事にしてくれていることをなんとなく嬉しく思う。

 

「ばあっ!」

「わっ!?」

 

 辺りに視線を巡らせてフランを探している最中、真上からいきなり大声を浴びせられてビクンと跳ねた。見上げれば、上下逆さに浮かびながらスカートを抑えたフランがイタズラっ子のような笑みをたたえていた。

 スタンッと俺の横に着地した彼女は、俺が文句を漏らすよりも先に「ごめんなさーい」と舌を出して謝ってくる。

 

「お姉さまの足音が聞こえたからスタンバってたの。驚いてくれるか心配だったけど、あー、楽しかったぁ」

「……扉越しの返事は結構遠くから聞こえましたよ」

「新しい魔法よー。音を消す魔法を作りたかったんだけど、意外に難しくて……それでとりあえず代わりに音を移す魔法を作ろうかなって。今、ちょっと実験も兼ねて使ってみたの」

 

 成功してよかったー、とフランがホッとした表情を浮かべた。おめでとうございますと言えばいいのか、失敗していればよかったのにと驚かされたことを根に持てばいいのか。後者の気持ちはまったくなかったけれど、とりあえず両方を足して二で割って「次は引っかかりませんよ」とそれっぽいセリフを吐いておく。

 次も引っかからせるー。そう呟いたフランが俺の手を取って部屋の奥の方に連れて行こうとするので、「いえ」とそれを断った。

 

「今日は、ちょっと出かけることを伝えに来ただけですから」

「出かけるの? わざわざ私の部屋まで来たってことは、霧の湖とかに行くわけじゃないんだよね」

「はい。今、ちょっと月が変なんですよ。それの調査に……あ、お姉さまと咲夜も先に出かけているみたいで、二人とも館にはいませんよ」

 

「フランはどうしますか?」と首を傾げて問いかける。

 

「うーん……お姉さまについて行っても、いいんだよね?」

「もちろんいいですよ。フランは頼りになりますから」

「そう? えへへー、ありがとぉ」

 

 翼をパタパタと揺らして、フランが嬉しそうに顔を綻ばせた。

 

「でも私もいなくなると、館にはパチュリーと美鈴、妖精メイドたちだけになっちゃうし……月が変ってことは、外にいる妖怪にも影響が出そうだし。用心して、私は留守番してた方がいいのかな。もし強力な妖怪が暴走して紅魔館を襲ってきたら危ないもん」

 

 フランが真っ先にパチュリーや美鈴の心配をしたことに、少なからず驚いた。

 俺は異変の解決に行ったレミリアたちのことしか考えてなかったけれど、言われてみればそうだ。今回の異変はレミリアたちが無事でも、解決が長引くだけで幻想郷中に影響が出る。そうすればどうなるかわかったものではなく、そうなれば紅魔館も狙われてしまうかもしれない。

 少々視野が狭まっていたかもしれない。異変の大体は幻想郷中を巻き込んだものなのだから、それを解決する者たちだけでなく、幻想郷全体のことを考えて行動しなければならない。

 

「お姉さまたちなら信頼できるわ。私は、館で帰りを待ってることにする。その方がお姉さまも安心して月の異変の解決に行けるでしょ?」

「……ありがとうございます、フラン。私は本当にいい妹を持ちました」

 

 思わず抱きしめると、「わわっ」とちょっと慌てた声が耳元で聞こえた。けれどすぐに落ち着いたのか、かぷりと耳を噛んでくる。

 

「ひゃっ」

「お返し」

 

 体を離し、すぐに耳元に手を添えた。ちょうど八重歯の尖っていた部分でやられたようで、ほんのちょっとだけ血が垂れている。これくらいなら魔力を流さなくてもすぐに完治するが……。

 ぺろっ、とフランが八重歯についた俺の血を舐め取った。案外美味しそうに味わってるように見えるのは俺の気のせいだろうか。いきなり抱きすくめられたからか頬が紅潮していることもあって、なんだかちょっとだけ扇情的な印象を受けた。

 

「うん、これで一晩は起きていられるわ」

「一滴二滴で、そんな元気が出るとは思えませんが……同族の血ですし」

「気持ちの問題よ。それに、お姉さまの血を飲んで元気が出ないわけがないわ」

 

 そんなことより、とフランが俺を連れて廊下に出る。

 

「ここじゃ上の異常には気づきにくいし、大図書館にでも行こうっと。パチェ起きてるかなぁ。お姉さま、一階まで一緒に行きましょ?」

「もちろんです」

 

 パチュリーならまだ起きていそうだ。寝るのはいつも遅いし。

 妹に手を引かれながら無駄に長い廊下を歩く。道中で月が変ってどういうことと聞かれたので、それについて説明をしておく。今日は満月のはずなのになんかちょっと欠けてる、エネルギーの質がおかしい、たぶんアレ偽物の月。

 階段を上って一階にたどりつき、続いてエントランスホールまでやってきた。ここで一旦お別れだ。フランに留守を任せて、俺も異変解決に――異変解決が無事に済むように、その管理に出かける。

 

「行ってらっしゃい、お姉さま。帰ったら真っ先に私に会いに来てね」

「行ってきます、フラン。了解です、すぐに無事と異変が解決したことを報告しに行きますよ」

 

 玄関の扉を開き、外に出た。地を蹴って体を浮かし、しばらく進んだところで『光の翼』を起動する。

 妖力と魔力が混じり合った赤白い力が翼の根元から噴出し、かなりの速度で空を駆けた。そこまで急いでいるわけでもないので音を越えたりはしない。

 人里の上を突っ切って進むのが一番速いのだが、そうなると慧音と鉢合わせることになる。彼女は原作のままだと今夜は異変解決組の相手で忙しいはずだから、俺まで行って迷惑をかけるわけにはいかない。俺は目的地がわかっているし、『光の翼』もあるので、回り込むようにして進んでいこう。

 数分か、十数分か。遠回りとは言え飛行速度は秒速五〇メートルは軽く越えているので、そんなに時間はかからなかった。

 スタリと地に降り立ち、目の前に広がる竹林を見据えた。人里を起点に妖怪の山の正反対に位置するこの場所は、俗に迷いの竹林と呼ばれている。

 名前の通り、ここはただの竹林ではなかった。竹の成長が非常に早く、いつ来てもその景色は見慣れたものにはならない。目印になるようなものが少なく、さらにはとても広大で常に深い霧が立ち込めている。加えて言えば地面にわずかな傾斜があり竹が斜めに成長していたりするせいで能力やらなんやら関係なしに平衡感覚を狂わされ、まっすぐに歩いているつもりでも実はぐるぐる回っているだけだったりという話もよく聞く。

 最早迷わない方がおかしいくらいの、これでもかというほどに迷う要素を詰め込んだ竹林だからこそ迷いの竹林だ。ただしそのぶんさまざまな噂があり、怪しく光る竹だとか小さな雀の宿だとか六〇年に一度しか咲かない竹の花畑だとか、竹の根の下にある地下妖怪世界を見ただとかいうものもある。どれもこれも信憑性は低いが、なにしろ強さやら方向感覚やら関係なしにどこを歩いているのかわからなくなるのだから完全には否定し切れない。

 信憑性と言うと、もっともそれが低い噂には『迷いの竹林には妖怪退治を専門とする忍者集団が隠れ棲んでいる』なんてものがある。確かにロマンには溢れている、ロマンには。

 

「さて、行きましょうか」

 

 一度入ってしまえば引き返すことさえ容易ではないとまで言われる竹林に、一歩踏み出した。

 元凶は迷いの竹林の中にいる。レミリアたちがすでに先に行っているか、まだ後ろの方で逡巡しているかはわからないが、ここに入る以上はいつ目的地に到達できるかまるでわからなくなる以上、とりあえず早めに探索を開始するに越したことはない。

 

「まぁ、いざとなれば音速飛行するか雲の方まで行けばいいんですが……」

 

 歩くと余計迷いそうな気がしてきたので、ちょっとだけ浮いて進むことにする。それからおそらくは必要ないが、目的地にたどりつきやすくなるように、結界によって竹林にある屋敷を見つけられなくなる『答え』をなくしておこう。

 鬼が出るか蛇が出るか、巫女が出るか魔法使いが出るか、メイドが出るか剣士が出るか、それとも案内人の兎でも出るか。

 なんにせよ誰かと合流できたらいいな、と考えながら深い霧の奥へと進んで行った。



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五.歴史を忘れた永久の在り処

 霧が深いせいで、振り返って来た道を確かめることは叶わない。前に進んでいるつもりでも、後ろを見た時にその跡がないのだから、最早どこを進んでいるのかさえ、というよりも本当に前進しているのかさえ定かではなくなってきた。同じ場所をぐるぐる回っているのではないかという不安が思考を駆け巡る。

 少し、侮っていたかもしれない。迷いの竹林と呼ばれているだけあって予想以上に迷いやすかった。これでもかという具合に迷う要素を詰め込んだ場所なのだから当然だけれど、さすがにどこに行っても同じ景色なのは精神的にキツいところがある。

 パンでも千切って目印に置いていく? いや、結構飛び続けているから、今更そんなことしても無駄だ。

 

「……そうです」

 

 どうして今の今まで思いつかなかったのだろう。さすがに地面の傾斜やら斜めに伸びた竹やらの対策はできないが、立ち込める霧は現象なのだから能力の対象にできる。

 霧によって視界が阻まれる『答え』をなくした。

 パッ、と見える景色が一瞬で鮮明になった。霧が俺の目からすべて消え失せ、竹林をずっと奥の方まで見通せるようになる。こうなると途中から竹が斜めに生えていたりするのがハッキリと認識できた。規則性などまるでなくぐにゃぐにゃと歪に並んでいるのを見ると、これは逆に迷わない方がおかしいとまで思えてくる。

 これで大分目的地を探しやすくなった。

 霧がないおかげで周囲を完全に確認しながら進めるようになったので、飛行の速度を上げる。ひゅんひゅんと無数の竹を縫うようにして飛びつつ、辺りに視線を向けて目ぼしいものはないかと意識を巡らせた。

 

「むっ」

 

 視界の端で一筋の光が見えて、慌てて身を屈める。頭上を極太の魔力光線が過ぎ去っていき、危なかったと思いながら攻撃が飛んできた方向へ目を向けた。

 どうやら俺を直接狙った攻撃ではなく、流れ弾だったようだ。

 目を凝らすと、極太魔力光線により作られた狭間の向こう側で、金髪の二人組と生気が薄い二人組がそれぞれ弾幕ごっこを繰り広げているのが窺えた。金髪の二人組は魔理沙とアリス、生気が薄いというか死気が強い二人組は妖夢と幽々子に見える。

 さっきの極太魔力光線もマスタースパークかな。たまに飛んでくる流れ弾を適当に避け、ゆっくりと近づきながら勝負を観戦する。

 ちょうどクライマックスのようだった。

 妖夢の楼観剣――長い方の刀の名前がそうらしい――による一撃が魔理沙の竹箒で防がれる。竹箒を構えた片手にはミニ八卦炉が握られていて、ガードをしながらの超至近距離の弾幕が妖夢に迫った。それを妖夢が予測していたかのように間一髪で上に避けると同時、スペルカード"人符『現世斬』"を発動。一メートルも空いていない近距離で繰り出される神速の一撃は決して避けることは叶わない。

 ギリギリのところで竹箒によってその一撃を防がれたが、関係ないとばかりに妖夢は全力で刀を振り切った。突き飛ばされた魔理沙は一秒も経たずして地面に墜落し、土埃が晴れるよりも早く、妖夢の手からダメ押しとばかりに霊力を使った飛ぶ斬撃が五発ほど放たれる。

 そうして、一〇秒ほど経っても魔理沙が飛び上がってこないことを確認した妖夢は、楼観剣を鞘に仕舞った。

 

「さぁ、私の勝ちよ。大人しく剣を……剣? そう、箒を下ろせ」

「いっつつ……ちぇっ、さすがに近距離だと強いな。もっと行けると思ったんだが」

 

 ちょうど俺も二人のもとにたどりつくところだった。ふてくされたように寝転がる魔理沙がふよふよと近寄ってきた俺を真っ先に認め、続いてその視線をたどった妖夢に見つけられる。

 

「観客がいたとはなぁ。情けないところを見せちまったぜ。奇遇だな、こんなところで会うなんて」

「お久しぶりです。さすがに月が歪となると、吸血鬼も調査に出かけるのですね」

「二人ともお疲れさまです。怪我はありませんか?」

 

 妖夢と対話をするのは、別にこれが初めてというわけではない。すでに春雪異変から数か月が経過し、その間に大量に宴会を行っていたこともあって話す機会はいくらでもあった。一応それなりに交流は深められたつもりで、彼女の中で俺はおそらく『幽々子さまと紫さまの友人』と言った立ち位置にある。

 妖夢は無傷、魔理沙は多少傷は負ったものの大したものではなさそうだ。それでも一応治療しておこうと、倉庫魔法で俺の血が入ったビンを取り出しつつ魔理沙に近寄った。中身を浮かせ、両手でパンッと挟み込んで分解、再生の成分だけを残して魔力を流し込み、魔理沙へと手の平を向けた。

 大きな怪我はなかったので、数秒もすれば外傷は一切なくなった。

 

「助かるぜ」

 

 魔理沙が上半身を起こし、調子を確かめるように腕を回す。「よしっ、満足通り動く」。

 そういえば幽々子とアリスは、と視線を上に向ける。妖夢と魔理沙の勝負にばかり目が行ってしまっていたが、元々二対二で弾幕ごっこを行っていた。

 

「お、っと」

 

 ちょうどアリスが吹き飛ばされてくるところだった。近くに頭から落ちようとしていた彼女を、魔理沙が急いで落下地点まで飛んで受け止める。

 幽々子がふわりと俺の近くに降り立つと、扇子を広げて微笑んだ。

 

「私の勝ちね、人形の魔法使い」

「……はぁ。いいわ、私の負けよ」

 

 アリスはいかにも大量の弾幕をギリギリで避けていたかのように、体のそこかしこにかすり傷が目立った。対して幽々子はところどころ服が焦げているところはあれど、ほとんど外傷はないようだ。

 倉庫魔法で二つ目のビンを取り出しながら、魔理沙に支えられているアリスのもとに近寄る。魔理沙にやったのと同じように錬金術による回復を施し、アリスの怪我が完全に治ったことを確認して魔法を止めた。

 

「ありがとう、レーツェル。あいかわらず便利な魔法ね。魔術と言った方が正しいのかもしれないけれど」

「錬金術ですから、確かに魔術寄りかもしれませんね。わかりやすいので魔法って呼んでますが」

 

 俺が使うのは主に影、錬金、倉庫、獣人化や鬼人化等の強化魔法の四つだ。他にもいろいろと扱えるものはあるけれど、この四つで大体が事足りる。四種類しか使わないのにいちいち魔法や魔術で区別するのもめんどうだ。

 

「こんばんわ、レーツェル。あなたも素敵でお腹いっぱいな夜の観光旅行かしら?」

 

 幽々子の冗談交じりの挨拶に、「月の異変の元凶探しですよ」と、偽物の欠けた満月を見上げる。

 紅魔館から迷いの竹林に来て、そこから結構彷徨っていたはずだが、あいかわらず月は一定の位置から動いていない。問題なく永夜異変は展開されているようだ。

 

「ところで、どうして戦ってたんですか? 私と同じく、魔理沙たちも幽々子たちも月が変な理由を探しに来たんでしょう?」

 

 魔理沙はアリスと、妖夢は幽々子と目を合わせた。

 

「異変解決の最中に出会ったやつをボコるのはいつものことだぜ」

「月の異変なんだから、夜が好きな幽霊が起こしてる可能性もあるかもって思ったのよ」

「そこの二人が私たちの邪魔をするので、とりあえず斬って進もうかと」

「出る杭は打たれるの。というより私たちの進行方向にこいつらがいたんだから、倒さなきゃ進めないなら倒すしかないわよ」

 

 魔理沙の理由が一番ひどい。妖夢の「とりあえず斬る」も結構だけれど。

 そういえば、前に風の噂に聞いたところ、異変を調査中の巫女に遭遇した時は大した理由もなく退治されることで有名らしい。友人だけあって、魔理沙にもそういう気質がある。二人とも、もっとお淑やかに異変解決に臨むことはできないのだろうか……できないだろうな。

 

「あれ? 竹林の奥に大きなお屋敷が見えます」

 

 妖夢がなにかに気づいたように目を細め、遠くの方を見やる。遠くと言っても、霧を無効化している俺からしてみれば気づかない方がおかしい程度の距離だ。

 そこにあるのは藩邸に似た、しかしそれよりも古いであろう様式の屋敷だった。まるで風景に溶け込むように自然と、人目を避けるように存在している。不可思議なのは建築様式が前世代的なことに比べて少しも古びた様子を見せないことだろう。そのせいかどことなく歴史がまったく感じられない、まるでそこだけ時が止まっているかのような印象を受ける。

 迷いの竹林でこのような屋敷を発見したという報告も、噂も、一切聞いたことがなかった。しかもこれだけ怪しい雰囲気を放っているのだから、おそらくここが元凶の居場所で間違いない。俺以外の屋敷を目撃した他の者も全員同様の結論に至ったようで、それぞれの視線が重なった。

 

「案外、あそこに妖怪退治専門の忍者でも隠れ棲んでるのかもな」

 

 魔理沙の冗談を聞き流しつつ、屋敷の正面へと移動する。内部への忍び込むための扉、門戸はすぐに見つかった。

 

「ずいぶんと探したわぁ。さ、行きましょう妖夢。龍料理を食べに。あ、レーツェルも魔法使いのお二人もついてきてもいいわよ。いちいち私たちが解決するのを外で待ってるのもバカらしいでしょう?」

「言われなくてもついてくわよ。スペルカードでは負けたけど、元々私も魔理沙も月の異変の調査に来たんだから」

 

 私が前に出ます、と妖夢が幽々子を護衛するように楼観剣を構えながら先頭を飛び始める。二人の後ろを俺と魔理沙、アリスが追いかけ、そのまま玄関から屋敷の中へと突入した。

 そうして目の前に広がるのはどこまでも伸びているかのように思えてしまう、果てさえも見えないほどに長い板張りの廊下だった。左右の壁には閉まった障子があり、それも廊下と同じようにいつまでも続いている。

 必要最低限しか光を取り入れていないようで視界はあまり良好とは言えない。薄暗いせいで昼か夜かわからなくなり、気味が悪いほどに人の気配がないせいで有人か無人かの区別もつかなくなる。非日常の空気が満ちる中で笹の音だけが現実感を与え、そのギャップがより一層屋敷の異質さを感じ取らせる。時間と歴史が進むことを忘れてしまったような奇妙な錯覚を受けるのだ。

 

「なんだ、外観に比べて中は広いってのは流行ってるのか? 紅魔館もそうだったろ」

「そうですね、とても似ています。私のところは咲夜の能力で拡張しているのですが、これも似たような仕組みで内装をいじっているみたいです」

 

 どれだけ進んでも景色に変化はない。振り返ってみても同じく永遠に広がる廊下の景色が広がっているのだから、なんだか永久の狭間に閉じ込められたのではないかという夢想さえ抱いてしまいそうになる。

 

「あれは…………兎? 幽々子さま、兎の妖怪がいます」

「兎鍋にしましょうか。やっつけて、妖夢」

「え? えっと、えぇ、はい。わかりました……?」

 

 若干逡巡しながら返答した妖夢が見据えているのは、ほんの十数メートル先にいる桃色の半袖ワンピースを着た妖怪兎だ。人間で言う一〇歳の身長に届くかどうかという俺の身長と、同等程度しかない背の小さな女の子で、どこか訝しげにこちらを眺めていた。クセのある短めな黒髪の上にはいかにも柔らかそうなウサ耳があり、正面を向いている関係上で見えはしないが、おそらくは尻の上辺りには兎の尾も生えているのだろう。

 少しくらい話を聞いてあげても。そう意見しようかと思ったが、時すでに遅し。すぅー、と息を大きく吸い込んだ妖夢が「行きますっ!」と気合いの入った声を上げ、天狗にも捉えられぬであろうほどの加速を体現した。

 まさしく一瞬にして距離を詰め、斬撃を繰り出す。並の妖怪ならば気づかぬうちに斬られていたということになっていてもおかしくない一撃を、しかし妖怪兎は間一髪で上へと飛ぶことで逃げた。

 

「さすがに兎はすばしっこいな」

「そうね。解剖したら面白そう」

 

 魔理沙とアリスがそれを眺めて感想を漏らす。っていうかアリス怖い。

 避けたと言っても、妖怪兎の顔に驚愕と焦りが充満しているのは吸血鬼の視力で窺えた。慌てて背を向けて逃げ出そうとしている。

 追いかけようとした妖夢を、「もういいわぁ、妖夢」とゆったりとした声音で幽々子が止めた。その間に妖怪兎は米粒に見えるようになるくらい遠くに行ってしまった。短距離における超速移動を得意とする妖夢では、もう一度追いつくことは難しいだろう。

 

「いいんですか?」

 

 俺たちが来るのを待っていた妖夢が問いかけた。

 

「惜しいけれど、あんなのを追いかけてはぐれてしまう方がよくないでしょう?」

「それは、そうですね。すみません、一発で仕留められませんでした」

「ただ一発を見せるだけで追い返せた、というのもなかなかすごいことですよ」

 

 フォローした俺に「ありがとうございます」と照れくさそうな顔で妖夢が言う。

 とりあえずこの屋敷に人がいることはわかった。このまま進んで行けばいずれまた何者かに会うだろうと、さきほどまでと同じ布陣で廊下を飛んで行く。

 あいかわらず果てが見えない。振り返っても、最早出口も見えなくなってしまっていた。

 

「なぁ、一つ聞きたいんだが。この廊下、レーツェルの能力で無効化することはできないのか? いい加減に長すぎるぜ」

 

 春雪異変で幽々子と対話した際に俺が自身の能力を匂わせる発言をしていたからか、あの数日後に魔理沙からそのことについて聞かれた。その時に博麗神社にいたこともあって、魔理沙の他に霊夢も俺が持つ能力の大体の効果を知っている。

 妖夢とアリスが興味深そうに俺を眺めてくるので、能力の説明も兼ねて、廊下にかけられた術の無効化が可能かを説明することにした。

 

「私の『答えをなくす程度の能力』は現在と未来におけるありとあらゆる現象の結果を、すなわち事象をなくすことです。誰かに触れるなどしていなければ、基本的には私自身に関わる『答え』しかなくせません。しかし周囲の物だけが作用して起こる現象ならば、有効範囲はありますが、直接的に触れていなくても『答え』をなくすことができます」

「知ってるぜ。妖力や魔力を消費したりして範囲を広げたりもできるんだろ? その力を使ってこの長い長い廊下をどうにかできないかっていう話をしてるんだ」

「結論だけを言いますと、無理とは言いませんが厳しいです。というのも、私の能力は『なにが原因でなにが起こるか、起こっているか』が明瞭でなければ発動することができないからです。今回の場合、廊下が永遠かと思うほどに引き伸ばされていることはわかっているんですけど、原因が特定できていません」

「あー、要するに、無効化するにしてもその原因とやらの特定に時間がかかるってことだな」

「そうなります。加えて言いますと、仮に原因がわかってもこの現象をどうにかできるとも限りません。この現象が『何者かによって引き起こされた』ものならばまだしも、『何者かによって引き起こされている』場合は、有効範囲を用いた能力使用では無効化することができないからです。有効範囲でなくせるのはさきほども言った通り、周囲の物『だけ』が作用して起こる現象だけですので、他人が直接的に関わっていると触らなければいけなくなります」

 

 なんだか小難しくなってしまったが、つまりは『やるにしても時間かかります。しかも成功確率は一〇〇パーセントじゃありません』ってことだ。そんなことに時間を割くくらいなら、このまま探索した方がずっといい。

 ……実際のところは、かかるというほど時間は消費しない。原作知識のおかげでなにが起こっているかは大体の予測がついているから、一分もあれば原因の特定ができると思う。もしも前世で東方Projectのことを完璧に把握していればいちいち予想なんて立てなくとも術の内容にまで思い至ったかもしれないが、さすがにそこまで興味があったわけではなかった。

 

「ややこしい能力ねぇ。私のは気楽で単純よ? 死霊を操る、生き物を死に誘う。それだけだもの」

「ややこしくても、これは私の能力です。これでよかったって心の底から思ってますよ」

 

 自身の頬に手を添えながら、嘯く。

 この運命(のうりょく)がなければ"狂った帽子屋"は成り立たない。生まれた意味から目を背け、それを失った『レーツェル・スカーレット』。その在り方こそが『答えをなくす程度の能力』なのだから。

 ふと、何者かの気配を感じて前を向いた。目を凝らし、遠くを見つめる。

 

「幽々子さま、また兎がいます。さっきの兎とは違う兎みたいですけど」

「兎鍋に」

「待ってください。ちょっとくらい話を聞いてからにしましょうって」

「……冗談よ。だってあれ、普通の兎じゃないもの。あんまり美味しくなさそう」

 

 いかにも怪しそうな風貌の少女が、自信満々な面持ちで待ち構えていた。異変に関してなにか知っていることは確実だ。

 警戒をしながら近づいた俺たちへと、待ち受けていた少女が告げる。

 

「遅かったわね。すべての扉は封印したわ。もう、姫は連れ出せないでしょう?」



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六.三月にはまだ半年も早い

 頭にヨレヨレのウサ耳があり、その根元にはなにかのファッションなのか、ボタンがついている。さきほど見た桃色の服の妖怪兎が目の前のそれと違ってもふもふな耳をしていたこともそうだが、なんだか根本からして存在の質が異なると感じた。先に目にした妖怪兎と同種ではないと、妖怪としての勘が告げている。

 薄紫色の髪は膝の辺りまで届くほどに長く、瞳はどこまでも赤い。なによりも特徴的なのはその服装だ。白のブラウスに赤いネクタイを締め、その上に紺色のブレザー。下は薄桃色のミニスカートを着用し、三つ折りのソックスとローファーを履いている。平たく言えば、現代における女子高生の制服姿だった。

 

「ようやく見つかりましたね。犯人が」

 

 自信満々にわけのわからないセリフを待っていたかのように吐かれたからか、確信した風に呟いた妖夢を「これは宇宙鳥。まだまだ、焦っちゃダメよ」と幽々子が窘めた。

 宇宙鳥――月の兎、すなわち玉兎。幽々子が一発で見抜けたのは、かつて紫が数多の大妖怪を扇動して引き起こしたという月との戦争で、それを見たことがあったからだろう。

 

「なんだ、幽霊に地上の人、あとは妖怪か。焦らせないでよ、もう」

「焦ったままでいいぜ。なにせこれから腹ペコな亡霊に兎鍋にされるんだからな」

 

 「しないって言ってたでしょ」とアリスがツッコミを入れ、魔理沙は「じゃあ私がやる」とニヤリと笑った。

 

「鍋の材料に兎を使うなんて考えられないわ。さすがは穢き民ね、野蛮」

「褒められたな、照れるぜ」

「貶されたのよ」

 

 あいかわらずの魔理沙とアリスだ。

 玉兎の少女はこれ見よがしに大きなため息を吐くと、シッシと追い払うように手を振った。

 

「うちは今忙しいの。冗談を言いに来た以外の用がないなら帰ってよ」

「そうはいかない。この月の異変は、お前がやったのだろう? そうなら斬る。違うのなら斬って先に進む」

 

 妖夢が一歩分前に出て、楼観剣の切っ先を玉兎に向ける。鋭い殺気と視線を浴びせられながらも当の相手はそれに少しも怯えた様子もなく、平然と首を傾げていた。

 

「月の異変? ああ、地上の密室の術のこと?」

 

「そうよ」と幽々子が答える。

 

「これはものすごく迷惑な術だわ。即刻やめてもらいます」

「あいにくだけど、まだ、術を解くわけに行かないの。帰ってもらえる?」

「そうはいかない、って私の庭師が言ったでしょう? あなたに三つの選択肢をあげるわ。大人しく術を解くか、痛みつけられた後に術を解くか、兎鍋にされた後で術を解くか。お好きなものをどうぞ。個人的には三つ目がオススメよ」

 

 幽々子から解き放たれた霊力が周囲の空気に重圧を与え、玉兎の少女を威圧する。それでも相手に怯んだ様子はなく、「術は解かないって」と返答するだけだ。

 とりあえず、幽々子に「鍋にはしないんじゃなかったんですか?」と突っ込んでおく。

 

「美味しくなさそうとは言ったわ。でも、やっぱり食べてみないとわからないじゃない?」

「まぁ、そうですね。宇宙食は食べたことありませんし、私も少しは興味があるかもしれません」

 

 玉兎の少女が不満そうな顔で俺と幽々子を睨んでくる。自身も兎なだけあって、やはり兎料理の話をされるのはあまり好きではないらしい。

 と、その時、聞き慣れない声が廊下中に響いた。

 

「あら、お迎えかと思ったら……大所帯ねぇ。人間、幽霊、妖怪、勢ぞろいじゃない。まぁ、そもそもお迎えが来れるはずがないのだけど」

 

 それはこの場の誰のものでもなかった。玉兎の少女も含めた全員の視線が聞こえた方向へ、すなわち廊下のさらに奥の方へと集まる。

 悠々と飛んできたのは銀髪を三つ編みにした、異様な雰囲気を放つ何者かだった。

 服の配色が特殊で、上半身は右が赤に左が青、下半身は右が青に左が赤だ。フリルがついた半袖とスカートを着用し、服のところどころには星座が描かれている。頭には青のナース帽のようなものを被り、それに入っている赤の十字のマークを囲むようにベガの星座が書かれていた。

 その女性の纏う空気は、人間とも取れない、妖怪とも取れない、幽霊とも取れない。強いて言えば神がもっとも近い表現かもしれないが、どこかそれだけではない印象も受ける。

 しかし俺はそれの正体がなんなのか、その気配がなにを指しているのか、原作の知識から理解していた。目の前にいる玉兎こと鈴仙・優曇華院・イナバの師匠であり、今夜の月を歪にした犯人であり、かつて賢者とまで言われた何億年もの時を生きる月の民――地上での名を、八意永琳。

 

「あまりウドンゲを苛めないでもらえるかしら。それに、あの月はまだ戻すわけにはいかないわ。こうしている間にも、月の民との関係は悪くなりつつあるの。姫とこの娘のためにも、もうこのまま、地上を大きな密室にするしか道はない」

 

 永琳の内にある奇態な力を幽々子とアリスの二人もまた感じたのか、前者は鋭く目を細め、後者は怪訝と焦燥が混ざり合ったような表情で警戒していた。

 

「魔理沙、危ないわ。こいつの力は今まで感じたことがない……」

 

 対して、奇異そうに眺めていただけだった妖夢と魔理沙のうち、魔理沙の方へとアリスが注意を促す。それに反応して、永琳の視線が魔法使いの二人組へと向いた。

 そうしてその表情がほんの少しだけ和らぐ。

 

「あなたたちは古代の力のコピーを使用しているみたいね。まだ人間がいなかった時代の無秩序な力。あの頃が懐かしいわ」

「……あなた、何者?」

「人に正体を問う時は自分から、でしょう? まぁ、あなたの境遇になんて欠片も興味がないけど」

 

 あからさまな挑発に、このメンバーでは比較的常識人なアリスもさすがに眉根を寄せた。

 とりあえずいつでも戦闘できるようにと妖夢は神経を張り巡らし、幽々子は油断なく鈴仙と永琳の二人を見つめ、魔理沙はさりげなくミニ八卦炉を取り出し、アリスも懐に手を入れて魔法の準備をする。

 そんな一触即発な空気の中、不意に永琳が踵を返した。

 

「ウドンゲ、ここはお前に任せたわ。間違っても姫を連れ出されないようにね」

「お任せください。閉ざされた扉は一つも開かせません」

 

 永琳が背を向けた瞬間を狙い、魔理沙がミニ八卦炉を持つ方とは反対側の手から魔力弾を放つ。されどそれは見当違いの方向に逸れ、「あれ?」と撃った本人も首を傾げた。

 鈴仙が胸を張って、得意げな顔で語り出す。

 

「ふふふ、お師匠さまのことばかりに気を取られて、すでに私の罠にはまっていることに気がついていないのかしら? あなたたちが平然と浮いているつもりでも、私にはグラグラと今にも倒れそうに見える。どんなに私を狙ってまっすぐ撃ったつもりでいても、私には明後日の方向に力を向けたようにしか見えない」

「あいにくと幻想郷には、お前みたいな幻覚症状があるやつを治せるような便利な薬は置いてないぜ」

「この永遠亭も、あなたみたいな狂気に気づけない哀れな地上人を導くサービスはやってないの。大人しく永遠の眠りにつくといいわ。きっと素敵な夢を見られるから」

 

 そろそろ永琳が行ってしまう。鈴仙と永琳の対応からして、おそらく霊夢と紫、咲夜とレミリアはまだここを訪れていない。

 目を瞑り、前世の記憶を呼び起こす。一度今回の異変を解決する方法を整理し、なにをした方がいいのかと考えを巡らせる。

 ――元凶である永琳を追って懲らしめても、月は歪なまま異変は終わらない(・・・・・)。月を元に戻すためには、隠された真実の満月を発見しなければならないのだ。

 できることなら、博麗の巫女である霊夢に真実の満月を見つけてもらいたい。それがおそらく正史に一番近いシナリオとなる。霊夢はまだ来ていないのだから、そうなるとここでするべきことは……。

 

「魔理沙、退いてください」

「あー? なんだよ、レーツェル」

「この兎は私が相手をします」

 

 ゆっくりと前に進みながら、アリス、魔理沙、幽々子、妖夢と順に、通りかかるついでにつつくようにそれぞれの肩に触れていく。

 本人たちはその動作にわけがわからないという風に首を傾げるだけだったが、鈴仙はありえないものでも見たかのように目を見開いていた。

 

「私の能力で、魔理沙たちの波長がおかしくなっている『答え』をなくしておきました。これで問題なく、あの赤青の怪しいやつを追えるはずです」

「……いいのか?」

「早く追いかけないと見失ってしまいますよ。ほら、アリスの他にも幽々子と妖夢も一緒に連れて行ってくださいね。人数が多い方が有利ですから」

 

 能力で『答え』をなくしたと言っても、すでに俺の手は離れているから、魔理沙たちが鈴仙の目を見ていればすぐにでもまた変になってしまう。

 

「満月の異変は吸血鬼にとって重要ってことです。フランを家に残してきてもいます。早々に解決させたいんですよ、私は」

 

 どこか躊躇しているような四人に、早々に永琳を追跡するように促した。

 

「……ふぅん、まぁ、そういうことにしておきましょうか。妖夢、行くわよ」

「え? あ、はいっ」

「だとさ、アリス。レーツェルがやられるとも思えんし、私たちも赤青の怪しいやつとやらを追うか?」

「そうね。私を侮辱したツケは返してもらうわ」

 

 幽々子はどこか確信めいた疑惑を抱いていたみたいだったが、どうやら俺の策略に乗ってくれるらしい。妖夢を引き連れて廊下の端を飛び始め、その後を魔理沙とアリスが追う。

 そこを攻撃しようとした鈴仙の目前へと、抑止の目的でギリギリ当たらない軌道を描いた槍型の魔力弾を高速で放った。

 

「あなたの相手は私ですよ。鈴仙・優曇華院・イナバ」

 

 名乗ってもいない己が名を呼ばれたからか、鈴仙の表情が驚愕に染まる。そして俺が新たに槍の形をした弾幕を形成するのを見て、一度でも注意を外して幽々子たちに危害を加えようとすれば、自身がすぐにやられてしまう確率が高いと判断したのだろう。通りすぎていく四人に多少の注意は向けるものの、その意識の大半はすでに俺の方へと移していた。

 

「あなたは、いったい何者? 月の兎である私の能力を肩に触れただけで解いたり、私の名前を知っていたり……まさかっ」

「月からの使者、とでも予想しましたか? 違いますよ。私は紅茶が好きな誇り高き吸血鬼です。ほんのちょっと歪な力を持った、ね」

「……それもそうね。あなたみたいな地上の妖怪が月の使者なわけがない」

 

 鈴仙の瞳が強く赤の色に発光する。それを能力を使わずに平然と見つめていると、相手の顔にニヤリと笑みが浮かんだ。

 

「他人にかけた私の力は解くことができても、あなた自身のは無理みたいね。ほら、あなたはフワフワとそこに浮いているつもりなのかもしれないけど、実際はフラフラと今にも墜落しそう」

 

 別に解けないわけではないが、否定はしないでおく。

 鈴仙の能力である『狂気を操る程度の能力』は、その瞳を直視した者の波長を狂わし、ありとあらゆる感覚の長短を操作するものだ。月の兎だけあって強力な能力であり、その度合いは最強種の悪魔である吸血鬼の方向感覚を難なく狂わせられたことからも窺える。

 鈴仙の技の多くはその能力を利用したものだ。これを無効化してしまうということは、彼女の打てる手を大きく制限してしまうことになる。こうして対峙するのだから、せっかくならば鈴仙の全力を味わってみたい。

 ――ふいと、狂気と兎から一つのものを連想した。

 

「ねぇ、兎さん。三月はまだ半年も早いですね」

「……なんのこと?」

「とある猫は私を狂っていると称しました。月から逃げてきたあなたは、三月のウサギみたいに気が狂ってますか? いつまでも狂わせる側じゃ、いつまで経っても物語の舞台には立てませんよ。お茶も飲めません。お茶なんてないんですけど」

「猫? 三月の、ウサギ? それに月から逃げてきたって……どうしてそのことを」

「全部全部冗談です。本気に受け取らないでくださいよ。そうそう、知ってますか? もう行っちゃったんですけど、竹箒に乗ってない方の金髪の女の子の名前、アリスって言うんです」

「そんなの知るわけないでしょ。名乗られてないんだから」

「それも嘘です。ああ、いえ、本当だったかもしれません」

 

 鈴仙が不機嫌そうに眉根を寄せた。ちょっとからかいすぎたか。これ以上は頭のおかしい人にしか見られないだろうから、やめておく。

 パチンッと指を鳴らすと同時、俺は自分の周囲に槍型の弾幕を五〇ほど展開した。

 

「さて、そろそろ始めましょうか。どちらの方が狂っているのか、比べっこをしましょう」

「……まぁ、いいか。聞きたいことが山ほどあるけど、倒して捕らえて尋問すればいいだけの話だわ」

 

 鈴仙が手の形を銃に見立て、ゆっくりとその腕を上げた。指の先を俺の方に向けると、彼女の前方に銃弾型の弾幕が数多く形成される。

 始まりは唐突、そして即座に。

 ほぼ一気に放たれた槍と弾丸が交差し、つい数瞬前までいた空間を力の塊が通りすぎた。互いに射出と一緒にその場を離れたため、一発も被弾していない。

 

「さぁ、私の目を見て、もっと狂うがいいわ!」



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七.兎の狂気と暗闇の術式

 吹き荒れる不規則な弾丸の嵐は凄まじいの一言に尽きた。

 そのどれもかれもが速度を弄られており、遅い弾と速い弾が入り混じっている。ピタリと止まったかと思えば急に加速を始めることもあり、避けるためには、自分に当たる弾だけを見極めてそれに集中する必要がある。

 鈴仙の能力で方向感覚が狂わされているからか、回避したかと思ったら弾幕の目の前に移動していたなんてこともあった。弾幕自体はまっすぐに進んでいるのかもしれないが、当の本人である俺からしてみれば弾が突然曲がったりしたようにしか見えない。

 

「ふふふ。ふらふらフラフラと、そんな不安定な飛行でよく避け続けていられるわねぇ」

 

 耳に届く声もまた、速かったり遅かったり、脳に響くほど大きかったり透き通るくらいに鮮明だったり、好き放題に波長が狂わされているようだ。

 

「厄介ですね……」

 

 あいにくと"弾幕合戦"におけるレミリアの超高度な弾幕操作術を体験し慣れているおかげで、一応はこのまま避け続けていることはできる。だから目下の問題は鈴仙の通常弾幕を掻い潜ることではなく、彼女へとこちら側の攻撃を当てることだ。

 ペンギン型の魔力弾を一発作り出し、鈴仙へと向けて発射する。しかししっかりと狙いをつけて放ったのにも拘わらず鈴仙より少し――ほんの一メートルほど横を通りすぎ、壁に激突して魔力の爆発が巻き起こった。

 

「正確に狙い撃つことはできない、ということですか」

 

 方向感覚が狂っているからか、視覚を少なからず操られているからか。離れた位置からの狙撃は難しそうだ。一定以上の空間制圧能力を有した弾を展開するか、全方位に弾幕を張って規則性に則って迎え撃つか。どちらをするにせよ、こちらの打てる手が大きく限られることは変わらなかった。

 少し考え、鈴仙が繰り出す緩急の激しい弾丸から逃れながら、もう一度ペンギン型の魔力弾を生成する。さきほどと違うのは総数、そして大小の違いがあることだ。余裕のある限り大量に生み出したそれは隊列を組むように俺の前方に整列し、クチバシを前方に向けて発射準備を整える。

 

「戦死は名誉です。恐れずに行きなさい。総員、突撃」

 

 なんとなく司令官っぽいセリフを吐いて、ペンギン型魔力弾を一斉に鈴仙のいる方角へと発射した。いくらかのペンギンが鈴仙の弾丸と衝突して小規模な爆発を起こしたが、当然ながら他のペンギンたちはそんなものをものともせずに突進する。

 俺の扱う生物型弾幕には小さな特殊効果がある――ペンギンのそれは互いに引き合うこと。巨大なペンギンは引力が強いために他のペンギンを多く集め、しかし一発でも触れ合えば爆発を起こして引力を失い、そうなれば他のペンギン型弾幕の引力同士が強く作用するようになる。爆発し、引力の方向とともにペンギンの進行方向が変化する。

 幾度となく繰り返すそれは適当に放ったこともあり、俺でさえ軌道の予測ができない。そしてその、俺の予想が無意味であることが重要なのだ。一定以上の空間制圧能力を誇り、狂っている俺の管理下から外れているからこそ、その弾幕は鈴仙に届き得る。

 

「ふんっ、こんなのっ!」

 

 己が身に当たるものだけを瞬時に見定めて撃ち落としていくさまからは、鈴仙の優秀さが窺い知れる。けれど撃ってペンギンを消すということは他のペンギン型魔力弾の行く先にも異常を来たすことにも繋がるのだ。つまりは撃つたびに見極めを再度行う必要があり、その分だけ鈴仙に隙が生まれ、俺自身の方へと迫る弾幕の精度と密度が下がる。

 そうなれば俺はさらにペンギン型弾幕を生成して放ち、鈴仙は増殖したそれに対処しなければならなくなり、その間にも新たなペンギンが形作られる。

 気づけば当初は不利だった現状が完全に逆転していた。それもまた当然と言えば当然か。方向感覚がどれだけ狂わされていようと、しょせんは通常弾幕。美しさ度外視での弾幕戦闘を何百年も続けて鍛えた回避能力はその程度で打ち破ることは叶わない。

 

「きゃっ――くぅっ!」

 

 ペンギン同士が引き合い、衝突することで起こった小爆発に鈴仙がついに巻き込まれた。とは言ってもほんの少し掠った程度であるが、能力をかけられていながら攻撃を当てることができたという事実が重要なのだ。

 苦々しく表情を歪めた鈴仙が、ポケットの中から一枚のスペルカードを取り出した。

 

「本当は私から使うつもりはなかったんだけど、しかたない……」

 

 彼女が常時生み出し続けていたすべての通常弾幕が止み、代わりとでも言うように瞳がより強く赤色に発光し始める。

 

「慄け! "波符『赤眼催眠(マインドシェイカー)』"!」

 

 銃の形を見立てた鈴仙の手が天井を向くと同時、彼女を取り囲むように無数の弾丸型妖力弾が出現した。「発射!」の掛け声で丸みを帯びた方を進行方向として進み始め、廊下を埋め尽くしながら俺に迫ってくる。

 それだけを見れば、ただ数多くの弾幕を全方位に張っただけで、避けることなど造作もないだろう。スペルカードがその程度で終わるはずもなく、問題はその後にやってきた。

 広がり来る弾幕が、二重にブレて見え始める。

 気がついた時には、鈴仙を中心としていたはずの全方位弾幕が左右に分かれて分身していた。数はそっくりそのまま二倍となり、密度も単純に倍に増える。

 

「目が……」

 

 目元を擦っても、弾幕が二重のブレが生じる光景に変化はない。鈴仙が再度全方向に弾幕を張り、視界が不安定になり、それも同様に倍の数となった。

 ずっと見ていると気持ち悪くなりそうだった。それでもできるだけ密度の薄い方へと移動し、何発か掠りそうになりながらも観察を続け、ふと気づく。

 視界がブレる瞬間、弾幕はそっくりそのまま二倍に増殖する。しかしどうやら一度でも倍になった弾は、それ以上増えないらしい。

 

「そうなると……」

 

 気づければ、回避に関しての苦労はかなり減少する。次に問題となるのはどうやって攻撃を当てるか、だ。

 あいもかわらず己が弾を分裂させ続ける鈴仙を見据え、隙を見つけて槍型の魔力弾を投擲する。しかしやはりと言うべきか、どうしても鈴仙からちょっとだけズレた位置に着弾してしまった。

 もう一度ペンギン型で攻めるのは得策ではない。鈴仙の弾幕は増えると同時に辺りに拡散もしていて、廊下中を埋め尽くしている。阻まれて最終的に鈴仙にたどりつくペンギンは少なくなり、結果的に新たな隙を作ることさえできない容易な弾幕と化す。

 

「うまく狙えない、策もまた講じにくい……こちらも、数とパワーで攻めるのが最善手ですか」

 

 真正面から堂々と押し切る。そう決めて、懐からスペルカードを取り出した。

 ――"童話『北風と太陽』"。

 いったん鈴仙から距離を取り、くるりと右回りに回転した。そうして動く視界の先に大小さまざまな大きさと、虹をも越える多くの色に分かれた弾幕を、ほとんど考えもせず不規則に、そして大量に創造する。

 童話、『北風と太陽』は北風と太陽が力比べをする話だ。どちらが旅人の上着を脱がせることができるかという勝負をし、北風は強風を吹かせるも「寒いから」とさらに着込まれてしまう。対して太陽は爛々と輝くことで温度を上げ、「暑いから」と旅人の服を脱がすことに成功した。

 生み出したすべての弾幕を、俺を中心にして一斉に時計回りで回転させる。段々と速度を上げたそれは中に入った相手の弾丸を問題無用で打ち消すレベルの激しい竜巻となり、ありとあらゆる色が入り混じる嵐が俺を中心として吹き荒れた。

 北風のごとく激しい弾幕を太陽(吸血鬼の敵)のように対処し、打ち破ることができるか。

 

「行きますよ」

 

 鈴仙に向けて一直線に――実際はフラフラと揺れているのかもしれないが――突進する。それに応じて弾幕の竜巻も丸ごと動き、俺のスペルカードと鈴仙のスペルカードが真正面から激突した。

 相手の弾丸のほとんどは旋風に飲み込まれて俺に届き得ず、ずんずんと鈴仙への距離を詰めていく。近づけば近づくほど当然鈴仙の弾幕の密度は濃くなっていき、こちらの竜巻として機能している弾の数も減少していく。やがて俺のもとへとたどりつく弾丸が一つ二つと出始めて、最初は容易に避けられていたそれが次第に無視できないほどの数に変貌する。しかしその頃には鈴仙の近くまでたどりついており、迷いなく弾幕の嵐を纏ったまま突っ込んだ。

 瞬間、鈴仙の姿が幻だったかのように掻き消えた。真下から弾を生成したような音がして視線を下ろすが、誰もいない。

 

「むぐっ!?」

「残念、上よ」

 

 ギリギリで気配を察知して上を向いた時には手遅れだった。妖力のこもったかかと落としを右肩に食らい、勢いのまま廊下の床に体をぶつけた。

 スペルカードが中断する。鈴仙も移動の際に俺と同様に解いていたようで、視界のブレはもう発生していない。

 起き上がりながら、今しがたの攻防を思い返す。

 最初に鈴仙が消えたのは『狂気を操る程度の能力』による波長変化で幻影を見せられていたからだろう。聴覚の波長が操られたから真下から音が聞こえてしまい、彼女が自身の存在の波長を長くしていたから、攻撃される直前まで彼女を認識できなかった。

 まさかスペルカードを破られるなんて思ってもいなかった。レミリアやフランとの勝負以外で今までろくに被弾したことがなかったから、なおさら。

 

「……一対一で私に攻撃を当てたこと、誇ってもいいですよ」

「なにを言っているのかしら。どうせあなたはこれから地上人らしく床に這いつくばるんだから、誇ろうが誇らまいが意味なんてないわよ」

「そうですか」

「そうよ」

 

 悠然と俺を見下ろしている鈴仙を仰ぎ、バッと両腕を大きく広げた。

 そこまで啖呵を切れる彼女になら、俺のスペルカードの中でも切り札に分類されるものを受ける資格がある。"神刃『ジャブダ・ベディ』"こと『光の翼』と並ぶ、二枚目の切り札。

 ――"影絵『無形の落とし子』"。

 

「影よ」

 

 このスペルカードの正体は、俺が何百年と愛用してきた影の魔法を行使するだけという非常に単純なものだ。しかしそれゆえに最大級の扱いやすさと応用性を誇り、最低限しか光が取り入れられていないこの廊下ではそのポテンシャルをあますことなく発揮することができる。

 ズァア、と辺りの影を自らの足元に集め、いくらかを触手のようにして一斉に鈴仙へと向けて撃ち出した。

 鈴仙自身は一メートルも動いていないのにも拘わらず、まるで触手の方から避けるようにして、狙った箇所からほんの少し逸れた地点を通りすぎる。

 

「どこを狙ってるの? 当たらないわよ、そんなの」

「どれだけズレているか、確認しただけですよ」

 

 そんなに焦っても、すぐにやられてしまうだけだ。

 影を操る。床に落ちた影、壁にできた闇、天井を埋め尽くす暗闇、空間に満ちる暗黒、己が周辺二〇〇メートル以内にある陰影は全部俺のものだ。

 

「さぁ、どこまでやれるか、私に見せてください」

 

 瞬間、床と壁と天井から影で作られた極大の針を無数に飛び出させる。目を見開いた鈴仙が慌てて避けようとしていたので、空間内の影を操って彼女の進行方向に巨大な網を生成する。

 捕らえた、と思ったら鈴仙の姿がすっと消えた。能力使用による幻影だ。網から数メートルほど離れた位置に移動したようだが、二〇〇メートル以内は俺のテリトリーだからどこにいようと関係はない。

 極大の針の形状を触手へと変化させ、鈴仙へと襲いかからせる。一番最初のそれとは数と大きさが段違いのそれを前にしては、さすがの彼女も必死で飛んで回避をしていた。全方位から容赦なく迫る黒き物質の膨大な質量には容易に対応できるものではない。

 

「捕まえました」

「うっ!?」

 

 紙一重で触手を避けたのを確認し、回避したそれの側面から即座に新しい小さな触手を生成、鈴仙の脚を絡め取った。

 ――"幻爆『近眼花火(マインドスターマイン)』"。

 襲い来る影の奔流から逃れることはできないと悟ったらしい彼女は、スペルカードの宣言をすると同時に辺りへ銃弾をバラまいた。一から二メートル程度進むごとに通った個所で妖力の膨張が発生し、それに飲み込まれた影の触手が散り散りになっていく。

 その間に脚を縛る影を妖力が宿った腕で断ち切った鈴仙は、二枚目のスペルカードを取り出して宣言をした。

 ――"長視『赤月下(インフレアドムーン)』"。

 連続でカードを使うということは、それほど追い込まれている証拠である。

 鈴仙の瞳が強く発光したかと思えば、その姿が消え失せた。どこに現れるでもなく、この場から綺麗さっぱりいなくなったかのように見えなくなった。

 狂気を操る視線の力を大きく広げ、空間を満たすことで誰にも認識できない状態にする……と言ったところか。鈴仙の『狂気を操る程度の能力』は感覚の支配にも似たことが可能だが、それでも『そこにいる』事実は変わらない。幻影を利用した瞬間移動は認識の綻びから生じたものであり、幻覚や幻聴は波長の長短による虚像であり、たとえ完全にいなくなったように感じようと、感覚を制するだけの能力では物質的概念からは絶対に逃れられない。もしかしたら位相を操作して自身の存在を否定することも可能なのかもしれないが、それでも触れられなくなっただけで『そこにいる』。

 それに、鈴仙には一つだけ大きな誤算がある。

 

「私は、影を認識できるんですよ」

 

 姿が認識できない、力が認識できない、他の諸々が認識できない。しかし物質という枠の中にいる以上、影を誤魔化すことは叶わない。影とはその存在の写し鏡であり、その者が在ることの証明だ。影の魔法を行使する俺がそれを見失うはずがなく、五感で見出すことの難しい彼女の位置を容易く見破った。

 こっそりと俺に近づいてこようとしていた鈴仙の周りに影の触手を伸ばす。数秒と経たずに見破られたことに驚いたのか、彼女の動きが一瞬だけ止まった。空間の闇を支配している俺にはそれだけあれば十分だった。

 鈴仙に触手を巻きつかせて捉える。小さな触手を生み出して、彼女の瞼を強引に閉じさせた。

 暴れて拘束から脱出しようとするので、それが不可能なくらいに質量を増やし、影を操って鈴仙を俺の目の前まで持ってくる。全身を黒い触手で縛られて目元まで塞がれている女子高生風のウサ耳少女の姿は、どこか背徳的にも映るかもしれない。

 

「くぅっ!? なに、なによこれぇ!? 離して! はーなーしーてーっ!」

「これで私の勝ちです。そしてその報酬に……そうですね。あなたの血を、もらってもいいですか?」

「え?」

 

 身長を合わせるために少しだけ浮いて、動けない鈴仙の首筋に八重歯を突き立てた。

 

「は、っ……あっ……」

 

 吸い出す量は大して多くない。なにせ食事のために血を頂くわけではなく、強化魔法用の遺伝子が欲しいだけだ。

 しばらくくっついて何十ミリリットルかを吸い出して、これだけあれば十分と言うところで口を離す。八重歯に残っていた血液をぺろりと舐め取って、血液の解析と遺伝子の術式変換に移った。

 

「……これでいい、はずです」

 

 試しにでき上がった強化魔法の玉兎版、玉兎化魔法を行使する。

 ぴょこん、と頭から長い兎の耳が生えたのがわかった。かぶっていたナイトキャップが落ちてきたのでキャッチして、恐る恐るウサ耳に触れて感覚があることを確認する。

 

「なんだか、猫化や鬼化と違って、あんまり体が強化された気がしませんね……」

 

 ただしこれが月の兎の力である以上、とあることが可能なはずだ。

 鈴仙の影の拘束を解き、無理矢理押さえつけていた瞼からも触手を離す。ガクン、と崩れ落ちて膝をつき、どこか惚けた面持ちで俺を見上げてきた。

 

「ぼ、ぼーっとしゅる……」

「…………そういえば直接吸ったらそんな効果もあったような気がします。萃香より以前にはあまり吸血してませんでしたし、萃香は全然平気そうにしてましたし……」

 

 己が目元に手を添えて、じっと鈴仙の瞳を見据える。

 

(これでいいんでしょうか……えっと、聞こえますか?)

「あぇッ!?」

 

 目が覚めたように、これまでで一番の驚愕を鈴仙の表情が映し出した。どうやら成功したらしい。

 月の兎の瞳には月と同じ狂気が宿り、その能力を以てして互いに交信を行うことを可能とする。そして今の俺は吸血鬼に月の兎がプラスされているから、こうして思考の発信をすることができた。

 確認が済んだので玉兎化魔法を解き、帽子をかぶり直して息を吐く。

 

「ど、どうして……」

「大した意味はありません。どうやってと言うのなら、私の魔法で、こう、ちょちょいのちょいっと」

 

 実際には、錬金術を用いて血液の構成物質の一つ一つを確認、組み合わせによるパターンの検証、固有遺伝子の分析、血に宿る妖力との同調等々といろいろやって強化魔法の一つへと昇華させたのだが、他者から見れば数秒程度の時間なので「ちょちょいのちょい」で間違っていない。

 納得していない風の鈴仙には、すでに抗えるほどの力は残っていない。吸血された影響からか足腰は立たなくなっているし、頬も少し赤いし、どこか意識が朦朧としている印象も受ける。

 

「それにしても、魔理沙たちは大丈夫でしょうか……」

 

 永琳を追いかけて行った四人の心配をし始めると、不意に何人かの気配を後方に感じ、振り向いた。

 廊下の奥から四つの人影が近づいてきている。一人は巫女、一人は胡散臭さの塊、一人はメイド服の人間、一人は紅い吸血鬼。

 トンッ、と地面を蹴って飛び上がり、小さく手を振って四人を出迎えた。

 

「おはようございます。待ってましたよ」



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八.永遠の世界で満月は回帰し

 いかにも嫌そうな表情でお札を取り出して戦闘の準備を始める霊夢を見て、すぐに今のセリフのせいで誤解されたことに気づいた。

 

「ま、待ってください待ってください! 私はやってません! 無実です! 待ってたって言うのは本当にそのままの意味ですよ! たぶん来ると思っていたので言っただけで、別に私が異変を起こしたわけじゃありません!」

 

 慌てて訂正すると、とりあえず、と武器を下ろしてくれた。ほっと胸を撫で下ろした俺の前に、ずいと他の全員を押し退けてレミリアが出てくる。

 その顔からは少々の驚きが垣間見えた。俺が異変の調査に乗り出していたことにか、俺が先についていることにか、あるいはその両方か。

 

「レーツェル、怪我はない?」

「ありませんよ。お姉さまは?」

「あるわけがないわ。大したことない妖怪ばっかりだったもの」

 

 何秒かの後に彼女の口からついて出たのは心配の言葉だった。あいかわらず家族思いな優しい姉で、尊敬する。

 咲夜がレミリアの後ろの方で小さく頭を下げたのが見えたので、こちらも会釈しておく。

 

「それで、あなたはこんなところでなにをしているの? って、聞くまでもないことだとは思うけれど」

「私も月が歪な原因を探しに来たんですよ、紫」

 

 ふと霊夢が下の方に視線を向けて「あれ、もしかして」と言うので、「邪魔してきたので、ちょうど今倒してたんです」と説明する。

 その時、紫の眉がピクリと動いたのを視界の端で捉えた。第一次月面戦争――かつて紫は、数多くの妖怪たちを引きつれてそれに臨んだという。幽々子と同じくその時に月の兎を見たことがあり、鈴仙の種族がそれと同様であると気づいたのだろう。

 

「それで? 実はこいつが元凶で異変はもう解決してたりはしない?」

 

 霊夢が鈴仙を指差して問いかけてくるので、ふるふると首を横に振った。

 

「元凶については、実は先に来ていた魔理沙とアリス、妖夢と幽々子が追っています。四人もいますし、まず簡単に負けることはないでしょう」

「ふぅん、早いわねぇ。というか、それならもう私たちは行かなくてもいいんじゃない? 一応あいつらそこそこ強いし」

「いえいえ、魔理沙たちが追っていったのは確かに元凶ではあるんですが、たぶん囮でしょう。そんな気配がしました」

「囮って、どういうこと?」

 

 両手の平を上に向け、それぞれ黄色と赤色の魔力球を作り出す。「黄色を普通の満月、赤を今の満月とします」と口にして、黄色の球を背後に隠した。

 

「今はこういう状態なんです。本物の満月が隠され、偽物の月が空に浮かんでいる。たとえ元凶を懲らしめても、この現状に変わりはありません」

「とっちめた後に元に戻せって言えばいいんじゃないの?」

「たぶん戻してくれないと思います。もしくは、適当な嘘を吐かれて雲隠れされるかもしれません。今まで竹林の中にこんな建物があったなんて話はありませんでしたし、このチャンスにどうにかできないとめんどうですよ」

「じゃあ、どうすればいいのよ」

 

 少しは考えなさい、と咲夜が霊夢を窘める。咲夜やレミリア、紫はとっくに俺が言いたいことに気がついているようだった。

 口を尖らせる霊夢に教えるように、背後に隠していた黄色の球体を正面に移動させ、逆に赤色の球体を後ろの方に持っていく。そうすると正面には当然ながら黄色の球体こと本物の満月だけが残り、偽物は日陰に位置することになる。こうなれば月は元に戻ったことになるし、元凶の方は魔理沙たちが退治しに行ってくれているので、これで異変は解決だ。

 俺が二つの球体を消去するまでをじーっと眺めていた霊夢は、うん、と納得した風に大きく頷いた。

 

「要するに、奪われたんだから奪い返せってことね。案外単純で助かったわ」

「そうです。そういうわけで、一緒に探しに行きましょう」

「はいはい、そう来ると思ったわ。やめろって言ったってどうせついてくるんでしょ。勝手についてくればいいわ」

「ありがとうございます。あ、せっかく異変の途中に出会ったんですから、弾幕ごっこでもしておきます?」

「あんたと戦ったら次に敵が出てきた時に体力的に大変だから、遠慮しとく」

 

 異変を解決しに出かけている最中の博麗の巫女はとても凶暴なので近づかないようにしよう、なんて妖怪の間では噂されていたりするくらいなのに、しないらしい。しかし確かに、異変を引き起こせるレベルの妖怪と一日で二度も戦うのは効率が悪いというか、普通に解決の確率が下がる。俺も、素直にやめておいた方がいいという結論に至った。

 快く霊夢たちの一行に加わって、レミリアの隣に並んで、「そういえば」と疑問がついて出た。

 

「どうして霊夢たちとお姉さまたちが一緒にいるんです? 途中で合流したんですか?」

「ああ、いや、最初はそこの胡散臭いスキマ妖怪が犯人だと思ってたんだけどねぇ……戦ってる途中でこの建物を見つけて、一時休戦。当てが外れたわ、元凶は他にいたんだもん。それにしても、レーツェルに先を越されてるとはね。もっと早く出てくればよかったかしら」

「ひどいですわ。人を疑っておいて謝罪の一つもないなんて」

「あ? 怪しい方が悪い」

 

 紫が胡散臭いのは最早個性とまで言える。さすがに怪しい方が悪いというのは暴論に近いが。

 

「それで、レーツェルお嬢さま。私たちはこのまま先に進めばいいんでしょうか。それとも……」

「この廊下をまっすぐに進むと、魔理沙たちと同じように元凶の方に行ってしまうと思います。そこにあるのはきっと偽物の月……真実の満月は、別のところにあるはずです」

「別のところ、ねぇ。あれでしょ、あの扉」

 

 霊夢が指差した方角へ、全員の視線が集まる。そこには長い廊下の横、わずかに開いた襖があった。

 

「私の勘がそこだって言ってるわ」

「あぁぁ……マズイ、封印が間に合ってない扉があったのか」

 

 下の方でまともに動けず、膝をついている鈴仙が苦々しく呟くのが聞こえた。全員で顔を見合わせ、こくりと頷き合う。

 霊夢を先頭に襖の前まで近づき、ガラリとそれを開けた。その先に広がるのはただでさえ暗いこの通路よりもさらに闇が深い、左右の壁に窓ガラスが混じった長い廊下だ。

 

「行くわよ」

 

 霊夢のそんな言葉を合図にして襖の先へと進んでいく。暗闇の中では人間はものが見えにくいということで、霊夢の隣に紫が並び、その後ろに俺とレミリアと咲夜がついていく形となった。わずかでも月明かりさえあれば、どんな闇さえも妖怪の目によって容易に見通せる。

 五人もいれば不意打ちをされてもある程度対処できると考えているのか、飛行の速度はそこそこ速い。前回の廊下の長さを考えると、五分もしないうちになにかを見つけることができるだろう。

 そうして、初めに感嘆と驚愕の声を上げたのは霊夢だった。ふとした拍子に大きな窓ガラスの向こう側に映る世界に視線をやり、思わずと言った具合に声を上げる。

 

「外が見たことない世界になってる」

 

 闇夜の先に広がるのはただっ広いだけの暗色の空間で、およそ生命の匂いと感じられるものがなに一つとしてなかった。そこにあるのは植物も動物もなにもない大地とその果てに連なる山々、意味もなく空を漂う薄い雲。冥界よりも物寂しく、時の流れがまったく感じられない、永久に変化のないであろう単なる空虚だった。

 迷いの竹林から建物を眺めた限りでは、その内部からこんな空間に至るなんてことは想像もできなかっただろう。レミリアや咲夜もまた目を見張っていた。咲夜は『時を操る程度の能力』の応用で紅魔館の内装を広げると言ったことさえやってのけるが、別の世界を内部に形作るなんてことはさすがにできない。それは時間というすべての生命が縛られる究極の概念を操る咲夜と類似した能力を有しつつ、はるかに強大な力を備えた存在がこの先に待ち構えているかもしれない可能性を、静かに仄めかしていた。

 

「どうにも、満月を見つけるだけじゃ終わりそうもないわねぇ」

 

 鋭く目を細めて紫が言葉を放つ。誰もがそれを否定をしないのは、誰もが同じ思いを抱いていたからだ。

 警戒して前進していると、やがて奥の方で廊下が途切れているのが見えてきた。その先にあるのは窓ガラスからも見えた、すべてのものが変化を拒絶している空間だ。おそらく、そこに真実の満月が隠されているのだろう。

 そうして少しも速度を緩めずに廊下を突っ切って、永遠の世界に突入した。

 おおよそ窓ガラスから窺っていた光景と同じ景色が広がっているが、一つだけ違うものがある。向かって正面、そびえ立つ山々より上空に真実の満月が爛々と輝きを示していることだ。

 その煌めきはこの世のなによりも狂気を映し、崩壊の果てへと誘おうとしてくる。

 

「霊夢、あの満月はできるだけ視界に入れないようにしなさい。もっとも、あなたなら平気だとは思うのだけれど……」

「こいつの言う通り、あなたもよ、咲夜。人間があんなものを見続けていれば、最悪、気が狂って廃人になる」

 

 紫とレミリアが即座に注意を促した。光を遮るものがない大空でそれを見るなというのは無理な話なのだが、なるべく見ないようにすることはできる。

 霊夢も咲夜も「よくわからないけど、わかったわ」、「よくわかりませんが、わかりました」と揃って返事をした。

 この空に浮かんでいる満月は間違いなく本物だ。しかし、

 

「あなたたちは初めて目にするはずなのに、よく気づいたわね。いつ頃だったかしら、この満月が地上から消えたのは。満月から人を狂わす力が失われたのは」

 

 声はちょうど上の方から聞こえてきた。俺を含めた五人の視線が集まり、言葉を発した本人がゆっくりと俺たちと同じ高度まで降りてくる。

 その少女は悠然たる態度を持って、月を背に人間と妖怪を迎え入れた。

 多くの者を魅了するだろう非常に整った顔立ちには二つの暗い赤色の光が灯っている。髪型は腰をゆうに超える黒髪のストレートで、前髪は眉を覆う程度のぱっつんにされていた。十二単にも似た和風に近い洋装は、上が桃色、胸元には白いリボンがあしらわれ、いくらかのボタンが服を留めている。月を象った模様や手元を完全に隠す袖もまた特徴的だ。下は桜や梅、竹、紅葉、月等が描かれた赤いスカートで、これまた足元を隠してあまりあるほどの長さを誇っている。

 

「あなたは……いったい、何者よ」

 

 紫が若干戸惑った風に質問をするが、彼女はその答えを本当は知っているはずだ。鈴仙が月の兎であることを見抜いた紫ならば、また同様、この黒髪の少女が月に住んでいた古代人――月の民であると気づいたはずなのだ。

 地上でも有数の大妖怪たちを集めて(おこな)った第一次月面戦争は、妖怪側の大敗で終わっている。

 それがなにを意味しているのかは、戦争を扇動した八雲紫自身が身に染みて理解していることだろう。

 

「私は、蓬莱山輝夜。でも、あなたが先に名乗ってないのに、質問してきたことには怒らない」

「その程度で恩を着せようなんてのは甘いわ」

「誰もそんなこと言ってない。最近、永琳が屋敷の外に出させてくれないのよ。だから、たまのお客さまは大切に扱うわ。たとえそれが永琳の邪魔をしに来た稀人でもね」

 

 どこかそわそわとしているような雰囲気から、暇を持てあましていたであろうことが窺える。

 永琳の名はこちら側で俺以外は誰も知らなかったが、状況的に魔理沙たちが追っている元凶の方だと容易に推察できるようで、それが誰かと聞き出そうとする者はいなかった。

 

「弾のお客さま?」

「弾幕バカみたいな言い方しないの。それじゃ魔理沙みたいよ」

 

 霊夢と紫の会話を聞いて、咲夜が吹き出して笑った。魔理沙に失礼だけど、あながち間違いでもないので否定できない。

 輝夜が俺とレミリアの方をチラリと見て、小さく口の端を吊り上げた。

 

「月は地上にさまざまな力を与えた。魔法のような力のほとんどが、元々は月の力。あなたのお仲間にも満月頼りの者もいるんじゃない? そこの吸血鬼さんがた」

「だからなに? 私たちはこの満月下なら無敵よ。なにせ、普段からこの身に感じられる力が、満月の光を浴びてより格段に溢れてくるんだから」

「我々月の民は、地上人を魔物に変えて、地上人の穢れを調節してきた。でも、もうそれもお終い。地上人は自ら魔物を封印してしまった。今の魔物は、ただのお約束として人を襲うだけのよくわからない生き物になってしまったわ」

「生きる意味なんて、ほとんどの生き物が曖昧にして生きているものですよ。いつか死を確信した時にこれまでやってきたことを思い返して、ようやっと生命という問いに対しての答えが出せるんです。存在の理由がわかるわからないは大した問題にはなりません」

 

 ――それはもしかしなくても、自分に対しての皮肉だったのだろう。

 生きる意味なんて誰しもが曖昧にして生きている。しかしそれでいて、常に誰しもが生を受けた真意を探しながら生を謳歌している。俺は未来を考えることを忌避し、幸せな現状に満足し、真意を探ることをやめ、そうして生きる意味を失った。

 正体不明(わからない)ではなく、(ない)。本当に、まったくもってバカらしい。

 

「地上人は次第に月を、夜を恐れなくなった。地上人はますます増長したわ。月の光が必要でなくなった夜、潮の満ち干が無関係な海岸。終いには月にまで攻め込んだって言うじゃない」

「ふん、そんな下賎な人間のことなんて知らんな。大体、あんた、月の民なんだろう? 月に帰って地上人と戦えばいいじゃないか」

 

 素朴な疑問と挑発が混ざり合ったレミリアの言の葉に、輝夜の表情がほんの少し歪んだ。

 

「私は……月には帰れない理由があるの。それに、月の民の味方でもないわ。地上でもおおっぴらには動けないけど」

 

 よっぽど悪い事したんでしょうね、と咲夜が言う。なにせ月にも地上にも居場所がないのだから、と。

 輝夜が咲夜に顔を向け、鋭く目を細めた。

 

「地上人には迷惑をかけないように、力のない者には会わないようにしていたのよ」

「ふふふ、満月となった今ではお嬢さまがたは無敵ってことですよ。そしてその従者の私もまた無敵です。さぁ、そんな私たちに力がないのか、試してみます?」

「あら、咲夜、ちょっと狂い始めてない?」

 

 レミリアが咲夜に近づき、その視線を遮るように手を上下する。咲夜はレミリアの方に向き直り、「大丈夫ですわ」と微笑んだ。

 

「よくわからないけど。こいつを倒せば万事解決?」

 

 そんな霊夢の疑問に、はぁ、とこれ見よがしに紫がため息を吐く。

 

「そんなだから霊夢はバカって言われるのよ」

「言ったのはあんたでしょうが」

 

 でも正解、と紫はいつの間にか取り出した扇子で口元を隠した。

 

「博麗霊夢の言うことはすべて正解よ」

「そう? じゃあ、いつものようにこんなやつ懲らしめて、さっさと地上に帰ることにしましょ」

 

 霊夢も咲夜もそれぞれ戦う気が満々だった。自然と俺と紫とレミリアの妖怪組で視線が交錯し、共通した一つの思いを抱く。

 すなわち、この場を霊夢と咲夜の二人に任せてみること。これは異変なのだから、妖怪ではなく人間に解決させること。

 俺とレミリアは吸血鬼、紫は幻想郷最強とまでされる大妖怪だ。例え相手が月の民でも、これだけいれば不慮の事故くらいになら難なく対処できるだろう。

 「あー」、と最初に切り出したのはレミリアだ。続いて、紫、俺と続く。

 

「私は無敵だけど、ここは咲夜にでもお任せしようかしら。無敵の従者なんだから、無敵の私だって無敵に守ってくれるでしょう?」

「うーん、腰が痛いわ。久しぶりに運動したから、体の調子がよくないみたいねぇ。霊夢、ここは任せたわ」

「あ、えっと、私もさっきの兎との戦闘での傷が……すみませんが、ここは霊夢と咲夜に託します。がんばってください」

 

 霊夢が「お婆さんか」と紫にツッコミを入れて、紫がどこからともなく取り出した扇子でスパーンッと頭を叩かれていた。「いったぁ!」。

 俺の方も、吸血鬼なんだから怪我なんてもう治ってるでしょ、と涙目になっている霊夢に言われたが、適当な微笑みを作って有耶無耶にしておく。

 俺たち三人の顔を見渡し、最終的に霊夢は、しかたがなさそうに、自身の隣に並んできた咲夜を一瞥した。

 

「はぁ、どうやら、あんたの主人どもと幻想郷一のダメ妖怪は、私とあんたを共闘させたいらしいわね」

「あら、それだと私と一緒に戦いたくないみたいな言い方ですわ」

「別に私一人でもいいのよ? 元々二対一なんて卑怯だしねぇ」

 

 二人一緒でも構わないわよ、と輝夜が口を挟む。

 

「そもそも、元は五人一斉に相手をするつもりだったわ。だって、私とあなたたちの力の差は歴然なんだもの」

「ほら霊夢、いい加減始めましょうって言ってるわよ」

「相当暇だったんでしょうね。最初から待ち構えて遊び相手を探してたのかしら。そうじゃなきゃ、こんなところまでたどりつけないだろうし」

 

 永遠亭は今まで一度たりとも人の目に触れてこなかった。それが異変を起こした直後にこうして見つかるようになったというのだから、霊夢が推測している内容も十分あり得る。

 

「もうっ、せっかく決まったのに……それで、心の準備はできたかしら?」

「できてない」

「できてないわ」

 

 そうは言い返しながら、二人ともとっくにそれぞれお札とナイフを取り出して構えている。俺とレミリア、紫は巻き込まれないくらい後方に下がり、これから始まる地上人と月の民との間で行われる遊戯を観戦することにした。

 

「今まで、何人もの人間が敗れ去っていった五つの問題」

 

 すっと両腕を広げた輝夜が、霊夢と咲夜の方を向いたまま距離を取った。

 

「あなたたちにいくつ解けるかしら?」



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九.世明けと人間の可能性

 ――"難題『龍の頸の玉-五色の弾丸-』"。

 

「あ、スペルカード使いましたよ」

「始まって三〇秒と言ったところかしら。ずいぶんと早いわねぇ」

「それだけ咲夜と霊夢が手強いのよ。咲夜は私のお気に入りだし、霊夢は私を破った人間……落ちた月人風情に後れを取るはずがない」

 

 咲き乱れる五色の弾や光線を危なげなく回避する霊夢と咲夜は、予想以上に息が合っていて舌を巻いた。

 輝夜を基点としてそれぞれ反対側に位置取ることで一気に両方へ注意を向けることを抑制したり、片方が近接攻撃をしかけた時は遠距離からもう片方が邪魔にならない程度にサポートをする。ところどころに垣間見える二対一の状況を利用したその連携は、春雪異変で二人がタッグを組んだ時よりも格段に協調性や効率性が間違いなく増していた。

 紅霧異変、春雪異変、三日おきの宴会、そして日常にも繰り広げられる多くのスペルカード戦を通して、二人は確実に強くなっている。そしてそれは魔理沙も一緒だった。俺やレミリア、フランがたまに行う"弾幕合戦"を真剣に観察したり、新しいスペルカードを開発したりと、上へ上へと進んでいる。

 その向上心と成長性こそが人間の真骨頂、すなわち無限の可能性とでも呼べるものだ。悠久の時を生きる妖怪には決して持ち得ない、短い生を全力で謳歌しようとする儚くも強烈な輝き。

 

「そういえば、レーツェル」

「なんですか、紫」

「永琳って方には幽々子たちが向かっているんでしょう?」

「はい。それがどうかしましたか?」

「もしかしたら、あっちもここと同じように人間の二人組に任せているのかもと思って」

「二人組というか、一.五人組だねぇ」

 

 妖夢は半分が幽霊なので、人間換算で言えばレミリアの言う通り一.五人組が正しいのかもしれない。どっちでもいいけど。

 

「うーん、どうでしょう。幽々子はそういうことさせそうですけど、アリスもいますし。逆に妖怪側の二人が戦ってるかもしれませんよ?」

 

 とは言ってみたものの、それはないか。春雪異変の時は特殊な例だったとして、あの魔理沙が異変の元凶を前にして大人しくしているわけがない。妖夢も妖夢で、自分は控えて幽々子を戦わせるなんてことはしないだろう。

 アリスは侮辱したツケを払ってもらうと言っていたし、他の全員が戦う気満々なのに面白いこと好きな幽々子が黙っているはずがない。

 

「んー、あっちは一気に戦ってるんじゃない? ほら、永琳とやらと魔法使い組と幽霊組、三組に分かれてバトルロイヤルみたいな感じでさぁ」

「……なんだか、それが一番ありえそうですね」

「そうね。確かに、やりそうだわ」

 

 魔理沙と幽々子辺りが率先してやろうとする光景が目に浮かぶ。アリスも案外乗り気だったりして、妖夢や永琳が呆れた目で三人を眺めていたりするのだろう。

 ――"難題『仏の御石の鉢-砕けぬ意思-』"。

 輝夜がそこら中に光り輝く針をばら撒いたかと思うと、それぞれから青白いレーザーが放たれた。さらにはどこからともなく出現した星型の弾幕が宙を舞い、霊夢と咲夜の回避の邪魔をする。

 さきほどまでのように、二人が輝夜を中心として逆側に陣取ろうとする。しかし霊夢が輝夜の背後に回り込もうとした直後、輝夜のもとから全方位に高速の楔が撃ち出された。後ろ側へ行こうとするたびに同様のことが繰り返されるが、素直に正面にいれば楔は飛んで来ない。よって半強制的に、霊夢と咲夜は輝夜の視界の入る位置で戦うことになった。

 それでも二人が押していることには変わりなく、一分もしないうちに二枚目のスペルカードを打ち破る。

 

「この分なら普通に勝てそうですね」

「甘く見てはいけないわ。相手は月の民なのだから、奥の手の一つや二つ残している可能性は十二分にある」

「それでも、私はあの二人が負けるとは思わないけど……ふふっ」

 

 不意に小刻みに肩を震わせて笑い出したレミリアに視線が集まった。「急にどうしたの?」と紫が聞く。

 

「いやねぇ、まさかこの私がこんなにも自然に人間を信用するような日が来るなんて、とか思って。咲夜を拾ってからか、霊夢と魔理沙に敗れてからか……私ら人外にとっちゃ、人間なんて取るに足らない存在って考えるのが普通なのに」

「いえ……それは違いますよ、お姉さま」

 

 妖怪は人間に忘れ去られない限り、悠久に近い時を生きる。体は丈夫で、力も強く、人間なんて腕を一振りするだけでも殺してしまえる。

 それでも、取るに足らない存在だということは絶対にない。

 

「どんな世界でも、どんな時代でも、どんな物語でも、化け物や悪いやつを倒すのはいつだって人間でした。それはこの幻想郷でも変わりありません。なによりもか弱く、だからこそなによりも強くあろうとできる人間が取るに足らないわけがないじゃないですか」

「レーツェルは、あいかわらず人間が好きなのね」

 

 好きというよりも、ただ、親近感を覚えて…………違う。それもあるが、どこかそれだけじゃない感覚がある。気に入っていることは確かだけれど。

 ――"難題『火鼠の皮衣-焦れぬ心-』"。

 燃え盛る皮の盾が輝夜を守るように囲む。火花を散らし、火炎を放ち、攻撃と防御を両立させたスペルカードが霊夢と咲夜を襲った。

 一見強そうだったが、攻めと守りを同時に行う関係か、どちらも中途半端になっているようだ。適度に避けながら適当に攻撃していれば普通に破ることができてしまいそうだった。

 

「奇遇ねぇ、私もレーツェルと同じ意見よ」

「紫が、ですか?」

「意外かしら」

「……うーん」

「別に意外でもなんでもないわよ、レーツェル」

 

 服が焦げないようにするためか、霊夢も咲夜も通常の弾幕と比べて大回りに炎のそれを避けていた。そんな彼女たちの様子を観戦しつつ、レミリアが続ける。

 

「一つ、妖怪が異変を起こしやすくする。一つ、人間が異変を解決しやすくする」

「お姉さま、それは……」

「スペルカードルールの四つの理念のうちの二つよ。スペルカードは第一に妖怪の弱体化を防ぐため、次いでは幻想郷における人間と妖怪の関係を明確にし続けるために生まれた。でも、どうしてわざわざ人間が異変を解決しやすくするなんて決める必要があるのかしら」

「妖怪は人間が対峙する、という常識を根強くさせるためじゃないんですか?」

「そう。けれどそれは人間が妖怪を倒すことができなければ成立しない。スペルカードルールとは、人間が異変を起こせるほどの妖怪を打倒することを前提として作られている決闘法なのよ」

 

 スペルカードルールならば、普通の戦闘と比べて死人も出にくい上に、人間側の勝率が格段に上がる。それでも人間と妖怪の差は歴然だ。ほとんどの妖怪が空を飛べるのに対して、普通の人間は空を飛ぶなんてことはできない。異変を起こすことを可能とする存在となれば莫大な力量を誇ることは確実で、スペルカードルールを用いようと、ちょっと空を飛ぶことができる人間では偶然の勝利すら得ることはできないはずだ。

 それならば、なぜわざわざ『人間が異変を解決しやすくする』なんて理念があるのか。

 

「幻想郷には、常に英雄とされる人間が……博麗の巫女がいる。そのことを知らしめ、忘れさせないためですか」

「英雄にしては自由奔放すぎる気もするけどねぇ。でも、そういうこと」

「そしてその、人間が強力な妖怪を倒せることが当たり前のように示唆されたスペルカードルールを制定した、もしくは制定するさまを見逃した幻想郷の管理者が、人間を取るに足らない存在だと考えているわけがない、と」

「そうよ、さすがレーツェルね。どうかしら、八雲紫」

「……ふふっ、案外勘がいいのねぇ」

 

 ――"難題『燕の子安貝-永命線-』"。

 どこからともなく泉が湧き、溢れ出す。無限に広がるがごとき勢いを見せるそれは霊夢と咲夜の自由を奪い、その隙を狙って輝夜自身が赤色の弾幕を張って攻めに入る。

 自由を奪うとは言っても、霊夢は元々そこら中を動き回って避けるタイプではないので、泉を生み出したせいか数が少なくなっている輝夜の弾幕程度なら余裕を持って避けられるようだ。

 ――"時符『プライベートスクウェア』"。

 咲夜は運が悪いことに四方八方を水に囲まれ、輝夜に狙われたが、スペルカードの発動を宣言すると同時にすべての弾幕を危なげなく確実に避け始め、むしろ余裕を持ってお返しとばかりにナイフを投擲する。俺の目からは動きが格段に速くなったように見えたが、実際には時が遅くなったのだろう。

 ピクリ、と輝夜の眉がわずかに動いた。

 

「あら、これは……」

 

 ――"難題『蓬莱の弾の枝-虹色の弾幕-』"。

 まだ一つ前のスペルカードを始めたばかりだというのに、輝夜はそれを中断して次のカードを使用した。ズァア、とどこからともなく枝が広がってきたかと思うと、それらが七色の弾幕を宿して飛び散り始める。

 成った実もまた弾幕となり、枝から跳ね返ったのちに直接霊夢や咲夜を狙った。

 

「どうかしましたか、紫」

「……たぶん気づかれたわ。私がやっていたこと……」

 

 ――"霊符『夢想妙珠』"。

 七色の煌めきならば負けないとでも言うように、霊夢がいくつもの虹色に輝く封印弾を生み出しては輝夜へと撃ち出す。三個ほどは途中で相手の弾と衝突して消滅したが、残りはすべて対象へと命中した。

 まだスペルカードを発動し続けることができただろうに、それを機に輝夜が弾幕を生み出すことをやめ、鋭い視線で紫を見据え出す。

 

「なんてこと! そう、夜を止めていたのは……あなたたちだったのね」

 

 永夜異変とは、永遠に続くかと思われた夜の異変。月が歪でも人間には大した影響はないからこそ、そう言われるようになる。そして夜を引き延ばしていたのは永琳や輝夜ではなく解決する側の者たちだ。

 すぅー、と輝夜が非常にゆったりとした動作で両腕を広げた。

 ――"『永夜返し -三日月-』"。

 

「…………マズいわね」

 

 紫が思わずと言った具合に呟く。俺とレミリアも同じ気持ちだった。

 輝夜が撃ち出している無数の青い弾幕は、大した問題ではない。霊夢と咲夜が組めば時間をかければ倒せる相手のようであるし、今更新しいスペルカードを使われたところで脅威とはなり得ないだろう。

 問題なのは急激な速度、それこそ目に見えるほどの速さで沈み始めた満月だった。

 

「あなたたちが作った半端な永遠の夜なんて……」

 

 ――"『永夜返し -子の二つ-』"。

 あまり見ないようにと忠告されていた霊夢と咲夜も、月がおかしなことになっていることに気がついたようだ。輝夜の弾幕を回避しつつ、空を見上げて目をパチクリとさせていた。

 

「術が解かれかけてる。抵抗は……無意味ね。さすがは月の民と言ったところかしら」

「ふぅん、どうするつもり?」

「あら、安心してくれていいですわ。夜明けを迎えても、私が責任を持ってあなたたちをスキマで館に送り返してあげますから」

「そんな心配はしてない」

 

 ――"『永夜返し -丑の二つ-』"。

 

「私の永遠を操る術ですべて破ってみせる」

 

 交差する赤と青の弾を躱しつつ、「紫ぃー! どうすればいいー!」と霊夢が大声で問いかけてくる。

 

「さきほどまでと同じように堅実に戦っていてくれればいいわ! 無理に攻め入って怪我をするよりも、こちらの術を破られてでも堅実に倒すべきよ!」

「わかったー!」

 

 ――"『永夜返し -寅の二つ-』"。

 

「夜明けはすぐそこにあるはずよ」

 

 輝夜がスペルカードを入れ替えるたびに、少しずつ紫と咲夜の術が破られていっているようだった。

 いや、本来ならばあれはスペルカードではないのだろう。なにしろ弾幕が雑だし、近づかれて邪魔をされないようにしているだけにしか見えない。

 

「夜を止める術が解けるだけ、なんですよね?」

「ええ。ただ、夜明けを迎えるだけ。干渉された当初はちょっと狼狽えちゃったけど、よくよく考えたら本当の満月は見つけているし、あんまり問題じゃなかったわね」

「むしろ躍起になって隙が大きくなっている分、早めに終わってしまいそう。霊夢と咲夜の二人を前に他のことに意識を割くなんて、ずいぶん余裕なことだものねぇ」

 

 素直に朝が来るのを待って日差しを身に受けるのもバカらしいので、倉庫魔法で自分の空間からローブを一着出して、それを羽織る。自分用の水色の日傘も取り出して、そちらはレミリアに手渡した。「ありがとう、後で返すわ」と返ってくる。

 

「どう? これで永夜の術は破れて、夜は明ける!」

 

 ――"『永夜返し -夜明け-』"。

 最後と思しきスペルカードの発動が宣言され、段々と満月が色をなくしてきた。反対側の空からも徐々に空の闇が薄れてきており、あと三〇秒もしないうちに日の出を迎えるだろう。

 そしてそのスペルカードは、ありとあらゆるものを無差別にばら撒くだけの非常にシンプルなものだった。

 小、中、大とさまざまな大きさの弾に加え、散らばっている星の成分を利用したであろう小さな星屑、どこにしまっていたのか無数のナイフ、そこそこの力が感じられるお札。全部が混ざり合い、むしろそれこそが一つの美だとでも言うように明るくなってきた中空をさらに彩った。

 ――"霊符『夢想封印』"。

 ――"幻符『殺人ドール』"。

 

「いい加減こっちを見なさいっての!」

「あなたの相手が誰なのか、忘れたのかしら」

 

 封印の力が込められた霊力弾が霊夢の周囲に展開され、また咲夜を囲んで何十本ものナイフが宙を舞う。

 それぞれが発射され、輝夜に殺到するさまを眺めていると、ちょうど夜が明けたようで、太陽の光が背後から差してきたのがわかった。

 霊夢は紫の堅実に戦いなさいという言葉を忘れ、無視され続けて地味に怒っているようだ。しかたがない子ねぇ、みたいにため息を吐く紫を横目で見やりながら、ふと後ろを振り返る。

 真横の延長線上に太陽がある関係で、フードの隙間から日の光が差し込んできて地味に辛い。やっぱり眩しくてうまく見えないし、前世の頃みたいに日の出を眺めることは無理そうだった。

 視線を前に戻す途中で、自然と一瞬だけレミリアの方に向いた。ぴたっと目が合った彼女は、心配そうに俺に問いかけてくる。

 

「レーツェル、大丈夫?」

「全然平気ですよ」

 

 ちょっと太陽を観賞したくらいじゃなんともないことは、同じ吸血鬼であるレミリア自身が一番わかっているだろう。それでもこうして、昔と変わらず俺を気遣ってくれる。

 

「それより、そろそろ霊夢と咲夜が勝ちますよ」

 

 弾幕の合間を縫って霊夢が正面から突っ込み、咲夜が時を止めて輝夜のすぐ後ろに迫った。輝夜は霊夢や咲夜と比べ術破りと称してスペルカードを使いすぎているし、これを回避したとしてもいずれはきっとまた同じような状況になる。

 この異変はこれで終わりだ。本来の月は幻想郷の空に戻り、明日の夜には真実の満月が輝く夜を迎えるだろう。

 霊夢と咲夜が戻ってきたら労わってあげよう。フランも家で待っているし、早く帰って無事を知らせないといけない。寝るのを我慢して妖怪の侵入等を警戒してくれているんだから、そのお礼もしたいな。

 そして、きっと今日の夜にでもなれば、異変解決の祝杯として、霊夢と咲夜が今まさに戦っている相手である輝夜、そして永琳や鈴仙も交えて宴会に興じるに違いない。

 いろんな光景を幻視しながら、紫とレミリアとともに霊夢たちの弾幕ごっこを眺めた。魔理沙たちの方も、そろそろクライマックスに突入しているかもしれない。



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一〇.毒を知る宴会の月見酒

 霊夢と咲夜が蓬莱山輝夜を撃破した頃に、ちょうど八意永琳が息を切らした様子でやってきた。それに続くように魔理沙とアリス、妖夢と幽々子が永琳を追ってきていたから、おそらく俺たちが輝夜のもとに向かったことを察すると、すぐに勝負を投げ出して飛んできたのだろう。

 輝夜と永琳の話を聞く限り、どうやら輝夜もまた、永琳がこちらにやってくることを察知して廊下をさらに長きものへと変えていたようだった。霊夢と咲夜を相手に敗北を喫してから永琳が駆けつけて来た辺り、輝夜はただ単に遊びたかっただけなのだろう。

 月を歪にした犯人は八意永琳。そしてその理由とは、蓬莱山輝夜と鈴仙・優曇華院・イナバを月の使者から守るためだった。

 永琳と輝夜の二人は元々、それこそ幻想郷が形作られる前から迷いの竹林に住んでいて、それでも今まで見つからなかったのは輝夜の『永遠と須臾を操る程度の能力』によって歴史の進行が止められていたからだ。数十年前に鈴仙をメンバーに加えることはあれど、永遠亭と呼ばれる彼女たちが住む建物に変化が訪れることはほとんどなく、平和に暮らしていたという。

 しかし一か月前、月の兎である鈴仙の大きな耳が兎の波動を受信した。その内容は「近々地上人に全面戦争をしかける。お前の力を貸してほしい。次の満月の夜、迎えに行く」というもの。

 永琳も輝夜もまた月の民に追われている身の上だったため、これには非常に困窮したが、永琳がふと閃いたという。

 満月は地上と月を繋ぐ唯一の鍵。ならばこれを壊せば、偽物のそれをすり替えれば二つの場所は行き来ができなくなる。

 こうして永琳は、月を入れ替えさせるという所業に出たようだ。異変の夜に幻想郷の空に浮かんでいた本物に限りなく近い別の月は、大昔の月の映像だったんだとか。

 

「って、こりゃずいぶんと集まったわね」

「ああ、こりゃまた言うまでもなくいつものことだな。まぁ、たまにはいいだろう、こういうのも」

「いつものことになのに、たまに、なんですか」

「細かいことは気にするな。それともなにか? レーツェルは霊夢の酒が飲めないって言うのか?」

「もー、神社のお酒を勝手に飲んで……」

 

 満月が妖しく光る夜、博麗神社では宴会が行われ、魑魅魍魎が集っていた。その中にはつい先日の異変に関わった永琳や輝夜、鈴仙の姿もあり、妖夢が斬り払うことに失敗して逃がしてしまった妖怪兎もはしゃいでいる。

 ――輝夜との勝負が終わった後、今回の異変を起こした経緯を聞き、紫が「そもそも満月を隠す必要なんてないのに」と前置きをして幻想郷の現状について語り出した。すでに博麗大結界という巨大な結界が張られているから、外から望んで入ってくることは非常に難しい。たとえ私たちでは知り得ない未知の力と技術を携えた月の民であろうとも、それは変わらない、と。

 月を入れ替える必要性がないことを知った永琳たちは快く満月を元に戻してくれた。元に……戻してくれたのだが、月の民の力に当てられたのか、どうにも輝夜と戦った永遠の世界で見た時と同じように狂気の光で彩られているように見える。今後、満月を直接見ることは避けるようにした方がいいだろう。人間はもちろんとして、感受性の高い妖獣等も直視しないよう注意した方が身のためだ。

 かくして異変は平穏無事に収束し、こうして今回の異変に関わった者たちも含めた宴会を開催することができた。永琳と輝夜、鈴仙は人間と妖怪が入り混じって騒いでいるさまを見た当初は目を見開いて驚いていた様子だったが、今は結構楽しんでいる。

 

「うるさいわねぇ。もっと落ちついてお酒が飲めないのかしら?」

「まぁまぁ、いいじゃないですか。せっかくの宴会なんですから、騒がなきゃ損ですよ」

「そもそも静かに飲むんだったら宴会の場じゃなくてもいいぜ。アリスもたまには羽目を外したらどうだ?」

十分(じゅうぶん)外してるわよ」

「十分じゃ足りないな。十二分(じゅうにぶん)に外すことをオススメするぜ」

 

 ほれ飲め飲め、と魔理沙がアリスの盃に半ば無理矢理酒を注ぐ。ちょっと溢れて服にかかり、アリスに怒られていた。

 霊夢がため息を吐いて、キョロキョロと辺りを見渡し始める。徳利を探していることに気づき、ちょうどそばにあったそれで霊夢に酌をした。「ありがと」、「どういたしまして」。

 

「――だから――――が必要で――」

「――――そう。それならうちの倉庫に――次は――」

 

 少し離れたところでは、レミリアとパチュリーが熱心になにかを話し合っている。フランが興味深そうに耳を傾けていたり、妖夢と一緒に飲んでいる咲夜をたまに手招いていることもあり、なにやら企んでいそうな雰囲気だった。

 とは言え、俺は紅魔館の住民であるために彼女たちがやろうとしていることの正体を知っている。レミリアは今回の異変で月の民と会い、何十年も前にはすでに外の人間は月に行っていたことを聞き、自分も行きたいと言い出したのだ。話し合いの内容は、実際に月に行ったという外の人間の魔法――ロケットを作るための構造の話で、材料にはなぜかコマや筒やら奇妙なものばかり挙げられる。それで本当に行けるのかと不安になるけれど、幻想郷は外の世界と違って神秘に溢れているので行けないとは言い切れない。もっとも、必要なものの数は合計で数千にものぼるという話なので、ロケットが完成するにしてもかなり後のことになるだろう。

 それも当然と言えば当然だ。ロケットなんて代物、一日やそこらで作れるはずがない。

 

「それにしても気分が高揚します」

 

 声の方に目を向ければ、紫の肩を揉んでいる藍の姿があった。すぐ隣では橙が盃に映った満月をじっと見つめている。

 

「藍のように人間味が少ない妖怪は、月に影響されやすいからね。お酒を飲んでうまく調整するといいわ」

「紫さまは平気なのですね。さすがですっ!」

 

 妙に藍のテンションが高い。ほんの少し錯乱しているようにも見えるし、気分が高揚しているというのは本当のようだ。

 自身の盃に入った酒の面を見据え、紫が「知ってる?」と俺たちの方に向いて口を開く。

 

「月見酒ってね、お酒に月が映るように持って、それから飲むの」

「月を飲むのよね」

 

 霊夢がさも当たり前のように頷いているが、俺は初めて知ることだった。満月を力とする吸血鬼でありながら知らなかったことがちょっと恥ずかしい気が、しなくもない。

 

「それは知ってるしどうでもいいんだけど、あんたのこき使ってる式神の式神がバカみたいな目をしてるわよ。まぁ、こっちもどうでもいいけど」

「あら、本当。月の毒気にやられたのかしら」

「あ、橙! どうしたんだ? 具合が悪いのか?」

「おさけにうかんだ、まあるいつきをみてるとめがまわりますぅ」

「まぁ、目でも回しておいた方がよさそうね」

 

 狼狽える藍と頭を揺らす橙、落ちついた様相で肩を竦める紫。確かに目でも回しておけば月の姿をハッキリと視認することはなくなるので、案外名案かもしれない。聞くとこによると橙は己に貼られた式神の札を剥がすと化け猫の姿に戻ってしまうというし、それほどに人間味が少ないのならば酒の水面に映った満月さえも見ないようにするのが賢明だ。

 お月見で月を見ないようにするなんてのも、奇妙な話だけれど。

 

「月の毒気って、月を有毒ガスみたいに言うのね」

「あら、それは私が人間にそう言ったのよ?」

「え? そ、それは失礼しましたー」

 

 不満げに呟いた鈴仙に輝夜が教え、鈴仙が慌てて謝罪をした。この辺りから永遠亭での鈴仙の立ち位置が窺える。

 二人の様子に、永琳が小さく笑って「まぁ」と切り出す。

 

「姫もこうして外に出て遊ぶことができたし。よかったじゃないですか」

「って、閉じ込めていたのは永琳でしょ? もう」

「元々、引きこもってばっかでしたけど」

 

 今回の異変を起こした三人は、これからは永遠亭の外とも関わるようにしていくらしい。永遠亭の付近にかけていた永遠の術を解くことで竹林の外との交流を始め、歴史を刻むことを許容する。永琳は近いうちに薬屋として開業するつもりのようで、彼女が持ち得る月の知識と『あらゆる薬を作る程度の能力』があれば、幻想郷に二人といない優秀な薬師になれるだろう。

 紫も、これで病が流行っても人間も妖怪も数が減ることがないと喜んでいた。世間では今回の異変について、月の進行が止まり、その後しばらくしてそれが急に沈み出したことしかわかっていないし、幻想郷はすぐに永琳たちを受け入れて馴染ませてくれることだろう。

 

「それにしても、あの時はしてやられたわ。最初から私が囮だということに気づいていて、そこの人間や妖怪、あっちの亡霊や半分だけ幽霊の人を追わせたんでしょう?」

 

 永琳が微笑みを浮かべて、俺の方に顔を向ける。質問というよりも確認に近く、しかし俺は「どうでしょう」と首を傾げておいた。

 

「偶然かもしれません。扉の封印が間に合ってなかったみたいですし、長い廊下の中で開いている襖があれば入ってしまいたくなるでしょう?」

「いや、あんたは私たちが来た時にこいつが囮だとか言ってたじゃないの。こっちは月が変なことにしか気づいてなかったのに、入れ替えられてるってところまで突き止めてたし」

「ちょっと霊夢、なんでバラすんですか」

 

 へえ、と魔理沙が俺の隣に擦り寄ってきた。

 

「……なんですか?」

「つまり、最初から気がついていたわけだ。そしてその上で私やアリス、妖夢と幽々子を追わせた」

 

 知っていたことを黙っていた。それは騙したとまでは言わなくとも、それなりに失礼な行為だと言える。

 居心地が悪くなって、少しだけ俯いた。

 

「わ、悪かったとは思ってます。お詫びもします。その、私にできる範囲ならなんでも。一つなら、ですけど」

「そうかそうか、そりゃいいな。じゃあ早速いいか?」

「お姉さまにイタズラしてこいとか言われてもやりませんよ」

「いや、くすぐってこいとか言ったら喜んでやるだろ、お前。って、そうじゃなくてだな……うん、よし、耳を貸せ」

「え? いいですけど……」

 

 その時、魔理沙がニヤリと笑ったように見えた。なんだか嫌な予感がしたが、お詫びをすると言った手前、逃げることはできない。

 彼女は耳を貸せと言った割にはそのままの姿勢で、普段通りの声量で要件を告げる。

 

「猫になってくれないか?」

「え?」

「猫だよ、猫。猫そのものじゃなくて、橙みたいな感じでいい。ほら、前に香霖のところで霊夢を追ってきた妖怪を追っ払う時に使っただろ?」

「それくらいなら、別に構いませんけど」

 

 猫の獣人化魔法を行使して、頭に猫耳、腰に尻尾を生やし、一時的に猫の潜在能力を手に入れる。と、そこまでやってから魔理沙の企みに気づいた。

 ザッ、と即座に彼女の近くから離れると、予想通り魔理沙は獣人化した俺の猫耳を触ろうとしていたらしく、すっとその手が空を切る。また醜態をさらすわけにはいかない。

 魔理沙は、やはり不満そうだった。しかしわずかに口の端が吊り上げっているところが妙に気になる。まるでなにか、確実に俺を貶める手があるみたいだ。

 

「おいおい、なんで避けるんだ」

「避けますよ。触られるのが慣れてなくて、苦手なこと、魔理沙が一番わかってますよね?」

「もちろんだぜ。だから触るんだ」

「だから触らせません。望み通り、ちゃんと獣人化魔法で猫になったじゃないですか。しばらくこのままでいてあげますから、これで終わりです」

「ほほう、そのままでいてくれるのか」

「……背後から忍び寄ろうとしてきたりしても気づきますから、無駄ですよ」

 

 あいにくと五感が鋭くなっている。幽々子が近寄ってきていることを察知し、瞬時に立ち上がってその場を退く。さきほどまで俺が座っていた位置の少し上を、ガバァッ、と桃色の髪の亡霊が横切った。

 これが俺を貶めるための作戦なのかと魔理沙の様子を確認してみるが、彼女の表情に変化はない。

 

「なぁレーツェル、悪魔は契約を守るんだよな。約束は自分からは破らないんだよな?」

「まぁ、そうですよ。だからこうして魔法を使ってあげたじゃないですか」

「だったらレーツェルは私に耳を貸さないといけないぜ。そう約束したからな」

「そんなのしてませんよ」

「いいや、言ったぜ。ほら、思い出してみろ。『いや、くすぐってこいとか言ったら喜んでやるだろ、お前。って、そうじゃなくてだな……うん、よし。耳を貸せ』」

「……え?」

「レーツェルはこう答えたよな。『え? いいですけど……』」

 

 いや、ちょっと待って。確かに俺の耳に口を近づけてこなくて、耳を貸せってなんだったのって思ったりしたけど、待って。

 

「い、いや、でも、魔理沙はその後に猫になってくれって」

「そうだな、その後だ。最初の方が要求だったんだから、つまり猫になれって方は単なるお願いだったことになる」

「そんなの通りません」

「いやいや、普通は最初に言った方がお詫びの内容だと思うだろ? 都合のいい方を真実と捉えるのはよくないぜ」

「それは、その、そうですけど……でも会話の流れが卑怯というか」

「レーツェルが勘違いしたのが悪いんだぜ」

「そう……ですか。だったら、今すぐ魔法を解きます。普通に耳を触られるだけなら、耐えられますし」

「忘れてないか? しばらくはそのままでいるってお前から言ったんじゃないか」

 

 言葉に詰まる。気づけば魔理沙も立ち上がっていて、ジリジリと俺に迫ってきていた。

 

「悪魔は約束を自分からは破らない。そうだろう?」

「……そう、ですけど……」

「レーツェルは私の『耳を貸せ』という要求(・・)を飲んだ。そして猫になってくれというお願い(・・・)を聞いた後、なんと素晴らしいことに自分からしばらくそのままでいると約束をしてくれた。これは紛れもない事実だ。オーケー?」

「……………………で、でも」

「問答無用だぜっ!」

 

 今の今まで口で負かせに来てた(問答をしていた)のに最後にはそれか。

 飛びかかってくる魔理沙を前にして、一瞬だけ迷いが生まれた。

 これを避けるということは、彼女の言う通り約束を破るということになるのではないか。俺だって吸血鬼として生まれた以上は悪魔としての矜持があるし、契約を違えたなんて言われたくない。いや、でも今回は魔理沙に半ば騙される形になったわけだから……それに宴会の最中に猫耳触られて喘ぐ方がマズいし、回避しよう。

 窮地における吸血鬼の全力の思考能力を持ってすれば、ほんの十分の一秒にそれだけの考えを巡らせることも可能だった。しかし少しであろうと時間がかかることは間違いない。魔理沙の突撃を避けようとして、足首の予想以上の重さで動けなかった。

 慌てて足元を確認すると、赤いリボンが特徴的な小さな金髪の人形が俺の脚を掴んでいた。俺の脚を抑えているのは彼女がいつも連れている、上海(シャンハイ)という名前の人形だった。バッとアリスの方を見るが、彼女は知らん顔をして盃を傾けている。もしかしたらこれは、永琳が囮だと知っていながら追わせたことに対する彼女なりの仕返しなのかもしれない。

 どうにかして壊さないように――――そんな配慮、人形の存在に気づく際の思考の隙、思考そのものが生み出すごくわずかな時間。それらが組み合わさり、ふと気づいた時には、魔理沙の飛びかかりはすでに回避できるものではなくなっていた。

 魔理沙が俺を押し倒し、頭に生えている猫耳に直接手で触れる。

 

「取った!」

「あっ」

 

 すぐに魔法を解かなければ。そんな思案さえ、一歩遅かった。

 あまりの気持ちよさとくすぐったさ、慣れない感覚が瞬時に猫耳を通して伝わってくる。頭が真っ白になりそう――というより、なった。ビクリと全身が震え、意図せずして息が漏れ、体温が上昇する。

 

「ひ、にゃ、ひゃうぅ、んん、みゃぁあああああっ!」

「ほれほれ、これならどうだ?」

「ひゃっ!? みゃ、みゃってっ! ひぅっ! みゃ、にゃめてぇっ!」

 

 やめなさい、と咲夜の声が聞こえたような気がした。おぼろげな視界の中で、咲夜に首根っこを捕まれる魔理沙の姿が見えたような気がした。

 聞こえる音の意味が理解できない、全身に力が入らない、ぼーっとする、息が荒い。それから、さすがに保てなくなった魔法が解けるのがわかった。

 

「しゃ、しゃくやぁ」

「はいはいレーツェルお嬢さま。私はここにいますよ」

 

 温かいなにかに抱きかかえられる感覚があった。どこか安心して任せられそうな雰囲気があって、自然と衰弱した体を預けて、目を瞑ってしまう。

 

「まったく……魔理沙、やりすぎよ。覚悟しておいた方がいいわ。あなた、あとでレミリアお嬢さまと妹さまにボコボコにされるから」

「逃げるぜ」

「私が逃がさないわよ。それこそ時を止めてでも」

 

 曖昧と恍惚、疲労に誘われて闇の中に意識が落ちる寸前、ただ一つだけ胸に抱いていた誓いがあった。

 絶対にもう、獣人化魔法だけは魔理沙の前では使わない。なにがあっても。スペルカードでも。絶対、絶対、絶対。大事なことなので四回思った。

 

「ご冥福をお祈りしておくわね」

「なんだよ、お前も手伝ったじゃないか。アリス」

「うーん、冥福を祈られてもねぇ。こんな縁起の悪い幽霊はうちにはいらないわー」

「幽々子さま、どう考えてもこいつは地獄行きなので、冥界にはやってきませんよ」

 

 ――ちなみに後日の紅魔館では、洗濯物とともにボロボロな黒白の物体が干されていたというが、その正体がなんなのかはわかっていない。



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一一.其の総てを絶望と懺悔に

 月の進行が止まり幻想郷中が混乱した大異変、永夜異変から、すでに半月以上の時が経過していた。

 すでに、とは言ったが、たった一五日程度の時間でも幻想郷の各地では結構な事件めいたことが起こっている。各地でプリズムリバー三姉妹――春雪異変の際に冥界へ繋がる扉の前で霊夢と魔理沙にボコボコにされた三人組の騒霊――による一週間連続ゲリラライブがあったり、紅魔館に酒を盗みに入った輩がいたり、迷いの竹林で火の手が上がって危うく大事になりかけたらしかったり、盆入りの翌日に幻想郷の上空を幽霊の大軍が規則正しく飛んでいたり。こうして毎日のごとく騒がしいせいで、幻想郷に来てからはどうにも時の流れが遅く感じる。外の世界にいた頃は何十年という時間さえ一瞬に過ぎ去ったような気がするのに。

 

「それで、そっちのお嬢ちゃんが私に会いたいって言ってた妖怪?」

 

 いつの間にか瞑っていた目を開くと、そこに、一人の少女が片膝を抱えて座っていた。

 

「はい。危険がないことは私が保証しましょう」

「仮に危険でも、私には傷一つつけられやしないけどね。いや、傷をいくらつけても無駄って言った方が正しいか」

 

 色素の薄い――否、色素がまったく感じられない、足元に届くだろうほどの長さを誇る白髪と、血管の色がそのまま浮き出た真っ赤な瞳。頭の後ろに赤のラインが入った白いリボンをつけ、それよりも小さいいくつかのリボンで毛先を縛っている。服は、上は白のワイシャツ、下はもんぺに似たズボンをサスペンダーで吊っているという奇妙な風貌だった。なぜかズボンにはところどころに護符が張りつけられていて、一種の魔除けにも見える。

 隣に立っていた慧音は、そんな変な格好の少女の対面に座るように催促をしてきた。

 誘われた通りに足を運び、けれど用意された座布団に座るより前に挨拶を交わすことにする。

 

「おはようございます。よい夜ですね」

「月は半分しか顔を見せてないし、雲で星々は隠れてるし、あんまりよい夜とは言えないと私は思うけどね」

「でも、雲の上に行けば満天の星空になりますよ」

「そりゃそうよ。雲の上でも曇ってたら、なんのために雲が光を遮っているのかわからない」

 

 失礼します、と座布団の上に正座をした。前世ではすぐに足が痺れるので正座は苦手だったが、今世では意識して積極的に使うようにしていたから、もういつまでも座っていられる。

 慧音が「お茶を持ってきます」と席を外し、その気配が完全になくなったところで、「それで」と対面の少女が緩そうに問いかけた。

 

「慧音を通してわざわざ私を名指しで呼ぶなんて、いったいなんの用かな。竹林での護衛を頼みたいって雰囲気じゃないみたいだけど。そもそも、妖怪がそんなことを頼むはずがない」

「大した用事ではありません。むしろ、大したことをしてほしくないという用事ですよ」

「してほしくない、ねぇ。少なくとも私は、今後大したことなんてやる用事はないんだけど」

 

 そんなのは当然だ。なにせ、用事はこちら側が作るのだから。

 

「近々……具体的に言えば、次の満月の丑三つ時、あなたのもとに人間と人外の二人組が幾度か訪れると思います。私のお願いは、それを殺さないように十分注意して相手をし、無事に返してほしいのです」

「殺さないようにって、穏やかじゃないなぁ。それに言い分を聞く限りじゃ、その二人組ってのはそっち側の勢力でしょう? 攻めておきながら安全に返せなんて、ちょっと傲慢すぎないかな」

「それについては返す言葉はありません。ですが、その人たちは一人の月人によってたぶらかされて、あなたのもとに向かうのです。その名は蓬莱山輝夜……ここまで言えば、わかりますか?」

「……お嬢ちゃん、喧嘩売ってるの? それなら買うよ」

 

 目を鋭く細める少女を、ただ臆せず見据える。

 彼女もまた原作に登場するキャラクターだった。その名を藤原妹紅と言い、一〇〇〇年以上も前に蓬莱の薬を飲んだことで不老不死となった人間だ。彼女がまだ清き人間だった頃は蓬莱山輝夜が地上で自由奔放な生活をしており、その時にいろいろあったらしく妹紅は輝夜に人生を滅茶苦茶にされたとして極度の憎しみを抱いている。長い間会うことはなかったらしいのだが、こうして幻想郷で再開してからは互いに不老不死であることもあって、今では殺し合いを行うほどに仲がいいのだとか。

 

「あのさぁ、たぶらかされるのがわかってるんなら、お嬢ちゃんが注意喚起してくれればいいじゃないか。わざわざそれをスルーして私に頼みに来なくてもさぁ」

「私が言ったくらいじゃあの八人は止まりませんよ。というか、たぶらかされてるとわかっていても、暇だったり面白そうだったりすれば嬉々として乗るような困った人たちばかりですから」

「なによそれ、次の満月の夜は出歩くのやめようかなぁ……や、その前に輝夜をとっちめて来させないように言いくるめておく? いやいや、そんなことしたら余計に向かわせようとしそうだねぇ。輝夜のことだし」

 

 そうして妹紅が難しい顔で唸っていると、襖の向こう側から足元が聞こえてきた。すー、と開いた襖からやってきたのは、お茶を持ってきますと部屋を出て行った上白沢慧音だ。彼女の手にはお盆、その上に急須と湯のみが置いてある。

 慧音が俺と妹紅にお茶を配ってくれたのでそれぞれお礼を告げた。おかわりもあります、と小さく急須を掲げた慧音は俺たちから少し離れたところに座り、会話の邪魔をするつもりはないようで口を一文字に結んでいた。

 妹紅が視線で「聞かれてもいい話?」と問いかけてきていたので、小さく首肯することで答える。

 

「……まぁ、どうせ私は死なないし、むやみに殺しをしたいわけでもないし、適当にあしらっておけばいいか。その依頼、受けてもいいわよ」

「ありがとうございます。報酬は言い値でどうです?」

 

 言い値、なんて言葉を使う機会が来るとは思わなかった。というよりこうして口にしてみたかっただけで、本当に言い値で来られたら困る。あんまり高すぎると無駄遣いだと咲夜に怒られる。

 やっぱり自作の魔道具で、と言い直そうとした俺よりも先に「いいよ」と妹紅が振り払うように手を横に動かした。

 

「報酬はいい。お嬢ちゃんから話が来なくても殺さなかったはずだから」

「人がいいんですね」

「どうも。お嬢ちゃんも、妖怪にしては妖怪がよすぎる」

「どうもです」

 

 異変の後には大抵余震のような小さな事件が起こる。紅霧異変ではフランとの邂逅、春雪異変では藍や紫との遭遇、そして今回の永夜異変ではそれが藤原妹紅との接触だった。

 妹紅がかなり安全な人物であることは最初からわかっていたが、それでも用心に越したことはない。こうして事前に会いに行き、保険の上に保険をさらに重ねておけば万が一、億が一ということもなくなる。

 引き受けてくれたことに安堵のため息を吐いた俺に、「でも」と問い詰めるような声音で妹紅が口を開いた。

 

「お嬢ちゃんの用事、それだけじゃないんだろう?」

「……どうしてそう思うんです?」

「幻想郷にはスペルカードルールがあるわ。ここでは人間も妖怪も、数を減らしすぎてはいけない。そして慧音を通してわざわざ私を名指しで呼んだってことは、輝夜から聞いたか、もしくは私が竹林で迷った人間を人里に返してやってたりするのを知ってるってことになる。輝夜がほらを吹き込んだってこともあるけど……最初に私を見た時、お嬢さんの目には警戒の色がなかった。つまり私が比較的安全なことを知っていて、なおかつスペルカードルールがあるこの幻想郷で『殺してほしくない』なんてお願いをしに来たということだ。それだけで違和感ありまくりなのよ」

「私は無表情なのに、いい観察眼をお持ちです」

「あいにくと、だてに長生きしてないんでね」

 

 保健に保険を重ねるという用事もあったが、妹紅の言う通り、それは確かにオマケにすぎない。真の要件は別にあり、そのためにわざわざ慧音にお願いしてまで妹紅に来てもらったのだ。

 慧音が置いてくれたお茶を一口飲んで、一拍開けてから、俺の本当の目的を話す。

 

「私の望みは先の不殺生のことと、あとはただ一つ――――あなたの肝をください」

「ッ……!?」

 

 その言葉に限界まで目を見開いて驚愕を露わにしたのは、なにも藤原妹紅だけではなかった。話を黙って聞いていた慧音も眉根を寄せ、訝しげに俺を見据え出す。

 

「……悪いけど、断らせてもらう」

「どうしてですか?」

「痛いからっていうのもそうだけど……お嬢ちゃん、私の肝を食べて不老不死になりたいんだろう? でも、それは無理だ。だってかつて私が飲んだ蓬莱の薬は、人間にしか効果がないんだ。妖怪がいくら飲食したところで意味はないわよ」

 

 なんだ、そうだったのか。不老不死の薬はその人間の肝に溜まり、それを喰らうことでその者もまた不老不死になれる。そう聞いてわざわざこうして多少無理をして接触を図ったのに、くたびれもうけだ。

 肩を竦める俺に対し、妹紅が「お嬢ちゃんは」と真剣な表情で見つめてくる。

 

「どうして不老不死になろうと思ったの? 妖怪ならただでさえ寿命は長いし、体も丈夫だから滅多なことじゃ死なないだろうに」

「誰だって憧れるものですよ、不死身の存在なんて」

「人間なら、そうね。私も愚かにも、一瞬そういう思いを抱いてしまったがためにこんなところにまで……ああ、今のは忘れて。とにかく、そういうのに焦がれるのなんて人間くらいのものだよ。お嬢ちゃんは、妖怪だ」

「いえいえ、妖怪だってそういう気持ちになったりしますよ」

「そうかもしれないわね。私は妖怪じゃないからその気持ちはわからないけど……でも、憧れてるって言うなら、どうして『なれない』って聞いた時にほっとするみたいに(・・・・・・・・・)肩を竦めたのかしら?」

 

 ドクンッ、と心拍が一瞬だけ大きくなったような気がした。まるで嘘がバレた子どもの心理のごとく、喉の奥でなにかが詰まった。

 違う。

 頬に手を添えて、それが無表情であることを改めて確認して、反論のために口を開く。

 

「肩を竦めたのは、落胆したからですよ。せっかく不死になれると思ってきてみれば、こうして全然ダメだったんですから」

「お嬢ちゃんは無表情だからすごくわかりにくいけどさ、それが落胆とか失望じゃないことはすぐに理解できたよ。力の抜き具合、息を吐く度合い、目の開閉の程度……明らかに安心の意を表したものだった。たとえそうじゃなくても、それが落胆ではないことだけは自信を持って言える」

「……そんなの、知れるはずがないじゃないですか」

「私だって、普段じゃそんなのわからないわ。でも、その動作はあまりにも自然すぎた(・・・・・)。心の底から思っていて、無意識に態度に出てしまったみたいに。それはさ、表情が変わらなくても見抜けるくらいとてもわかりやすかった」

 

 お嬢ちゃんは不老不死になりたいわけじゃなかった、と妹紅が淡々と続ける。

 

「だから、どうしてなろうと思ったのかって聞いたのよ。なりたいと思ったのかじゃなくて、なろうと思ったのか。よければ、でいいんだけどさ」

「憧れですよ」

「嘘はやめてよ。なんなら、私が飲むことになった経緯も話すから」

 

 慧音から聞いた限りでは、藤原妹紅という人間は自分のことをあまり言いたがらないのだという。それがここまで興味津々に問い詰めてくる辺り、自身の肝を欲した妖怪である俺によほどの関心があるらしい。

 憧れ以外の理由? と思考を巡らせる。巡らせて、至った。それなら、あとは一つしかない。これ以外はもう、本当に思いつかない。

 

「……強くなるためです。誰も敵わないくらい、強く」

「強くなるって、なんのためによ。純粋にただ強くなりたいだけ?」

「大切なものをすべて守り通すためです」

 

 脳裏に春雪異変の情景がよぎる、感覚が蘇る。あまりにも濃厚な死の気配を漂わせた妖力を発する、紫でさえどうにもできなかった災厄の妖怪桜、西行妖。それに意識を向けた時に感じ取った恐怖は今でも忘れられず俺の中にしこりを残している。

 もしもあれが復活してしまっていたらどうなっていた?

 少なくとも近くにいた霊夢と魔理沙、咲夜は確実に死ぬ。吸血鬼である俺を震わせた猛烈な死の力が解放されて、まともな対策をしていない人間が無事で済むはずがない。異変は無事に解決したけれど、それでも西行妖の封印が解けて復活してしまう可能性もゼロに等しいくらいではあるにしてもあったのだ。

 不老不死を服用者に与えるという蓬莱の薬を摂取できれば俺の力が一段階レベルアップし、身体に負担がかかる魔法だっていくらでも扱えるようになる。そうなればあの時あの場所で霊夢たちを殺させないうちに西行妖を滅ぼすことだって、きっと。

 

「……永遠を生きるっていうのは、死っていう苦しみから逃れることじゃない。いずれ必ず孤独になるって確信からやってくる悲哀、罪の意識にさいなまれ続ける永すぎる現実……私だって飲んだ当初は、三〇〇年くらい後悔した。幾度となく死にたいと思って、何度も何度も自傷行為をした。お嬢ちゃんが考えてるほど、不老不死は甘くない。救いじゃない。強くなりたいとか、なにかを守りたいとか、そんな前向きな言葉もいずれはすべて悔恨に変わる。なんであの時あんなことを思ったんだ、どうしてあの時あんなことのために不死になったんだ、あの時の自分が憎い、あの時の自分を誰か殺してくれ……不老不死っていうのは、ならなきゃわからないくらいどうしようもなく辛いのよ」

「それがどうしたんですか?」

「なりたいから飲むっていうのはわかりやすいから、まだいい。まだ苦しみも後悔も最小限で済むだろうさ。でもなりたくもないのに、後悔することがわかっているのに、蓬莱の薬を服用するのだけは絶対にやめた方がいい。きっと私なんかよりずっとひどく……そう、たとえ気が狂いきっても死ねなくなる。気が狂って狂って狂って、生きてることそのものが苦痛になっても、自分が自分でなくなっても、心が腐り切っても、精神がなくなるくらい擦り減っても、意思が粉々に砕けても、その果てに白痴になっても、死ねない。消えられない。存在することをやめられない。それはきっと、この世のすべての生命が欠片も想像できないほどの究極の苦しみよ」

 

 妹紅が語る『苦しみ』はどこまでも感情がこもっていた。不老不死の薬をその肝に宿し、永遠に生きる苦難を実体験で知っている彼女の言葉はなによりも重みがあり、近くに座っている慧音も息を飲む。

 俺はただ、威圧さえ放っているように見える妹紅をまっすぐに見据えていた。

 

「どんな覚悟も、どんな心構えもなんの意味もなさない。飲むことで自分の過去のすべてが後悔へと変わる……って言ってもお嬢ちゃんには効かないんだけどね。私が言いたいのは、いくらそれが正しい目的のためでも手段は選ばなきゃいけないってことだ。その結果としてお嬢ちゃんの言う大切なものが守れなくなったとしても……永遠の時をかけて少しずつ自分の心を摩耗させるよりはよっぽどいい」

「……ご忠告、ありがとうございます。心に刻んでおきますよ」

 

 もう用事は済んだ。「今日は突然お呼びして申しわけありませんでした」と告げて、立ち上がろうとする。

 そんな俺を「待った」と妹紅は呼び止めた。「まだ、最後に一つだけ聞きたいことがある」。

 

「なんですか?」

「私はできる限り不老不死の恐怖を伝えたつもりだけど、もしも妖怪が不老不死になれる薬があったらお嬢ちゃんはどうする? もしも手に入れたら……」

「決まってますよ、そんなの」

「ふぅん。それは?」

「飲みます。迷いなく」

 

 間髪入れずに言い放った回答に、妹紅の顔が疑惑や心配などいろいろなもので歪んだ。

 

「どうせ私なんて『答えのない(いてもいなくても同じ)存在』です。永遠の苦しみも、心の腐敗も、自己の喪失も、知ったことじゃありません。どうせその果てには無しか(なにも)ないんですから。苦しくても、辛くても、悲しくても、そもそもそれに気づこうとさえしなければ感情として成り立ちません。そして私にはそれができる。『答えのない存在』である私なら自身の心だっていくらでも誤魔化せます。それこそ永久に」

「……質問が増えた。お嬢ちゃんはどうしてそこまでして前に進もうとする? 大切なものを守るなんて言葉じゃ説明できないくらいあまりにも度がすぎてるよ」

「責任があるんです。罪を償わないといけない、罰で贖わねばならない……生きてる意味なんてない私でも、死んではいけない理由はあるんです」

 

 俺の能力は現象を、事象を、意味を消すことはできるが、それでも決して存在自体を消すことはできない。この能力はまさしく、たとえ意味がなかろうとも存在し続けろと俺に告げているのだ。

 これ以上話すことはないとばかりに立ち上がり、襖に近づいて、すーっとそれを開ける。「お邪魔しました」と一言吐いて向こう側に脚を踏み出し、後ろ手で閉じた。

 不老不死は得られなかったけれど、しかたがない。元々、なれればラッキー程度にしか考えてなかったことだ。あまり期待していない。一応予備のプランはあるし、大した問題はないだろう。

 そうして、一〇ほど歩いただろうか。不意に背後からバンッと勢いよく襖が引かれる音が耳に届いた。

 

「待って!」

 

 振り返ると、妹紅がまっすぐに俺を見つめてきていた。

 

「なんですか?」

「名前、まだ聞いてないよ」

「そういえば、そうでしたね。非常に申し遅れました、レーツェル・スカーレットと申します。以後お見知りおきを」

「私は藤原妹紅。(いもうと)(くれない)で妹紅よ。縁があれば、また会いましょう?」

 

 こくりと頷き、今度こそ帰るために背を向けて歩き出す。妹紅が追ってくることはなく、しばらく背中に視線を感じたのちに、気配が部屋の中へと消えていった。俺との会話について話したりするのかもしれない。慧音には迷惑をかけちゃったから、今度お詫びをしなければならない。

 玄関で靴を履いて、外に出る。半分しか光らぬ月は、来た当初は見えていたはずなのに、今は雲に隠れているせいでまったく窺えない。雲も濃くなってきていて、どうも一雨きそうだった。

 吸血鬼は流水が苦手だ。雨なんてもってのほかだから、早く帰らないと。

 妖力と魔力を通して『光の翼』を発動させ、秒速一〇〇メートル程度のスピードで空を駆ける。

 その間に考えていたのは妹紅が口にしていた一つの言葉だった。

 ――自分の過去のすべてが後悔へと変わる。

 

「ふふっ」

 

 口元に小さな作り笑いを浮かべ、翼のギアを上げた。予想以上に早く紅魔館にたどりつき、息を吐く。

 雨は、俺が紅魔館に入ったと同時に降り始めた。




今話を以て「Kapitel 5.月夜の須臾を永遠へ」は終了となります。
永夜抄はそこそこサクッと終わらせられたと思います。次の異変からはちょっとずつアレンジを入れていければと思いますが、できるかはわかりません。

「Kapitel 6」は香霖堂の話をいくつかと、日常系を数話入れた後に花映塚へと移る予定です。話数があまったらもうちょっとだけ続きます。
あくまで予定なので狂う可能性は大きくありますが、次回からもどうぞよろしくお願いいたします。


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Kapitel 6.嘗ての過ぐる日を悔い続け
一.地這う科学と人形の魔法


「はー……」

 

 妹紅と出会ってから、すでに一月の時間が経っていた。半月前には霊夢と紫、魔理沙とアリス、咲夜とレミリア、妖夢と幽々子の四組がそれぞれ肝試しを行っており、藤原妹紅とスペルカード戦を繰り広げたようである。

 後日妹紅に会った時に「なにあれ強すぎ。殺さないでほしいって言ってたから遊んでやろうと思ったのに、本気になっても勝てないってどういうこと」とか文句を言われたが、苦笑いを返しておいた。半ば予想していたことだが、やはり心配は無用だったようだ。

 ヒイラギやヤツデ、ビワ等の美しい花々が顔を見せ始め、広葉樹の葉はとても鮮やかな赤めの色に変化している。人間であればそろそろ肌寒く感じてくるだろう時期であり、いろいろと思うところがあって今は裁縫に勤しんでいた。

 

「よう」

「あ、魔理沙」

 

 満足げにでき上がったものを掲げていたら、横から声をかけられた。目を向ければ、白黒の魔法使いの姿がそこにある。

 

「あいつはどうした?」

「買い物だって言ってました。私は、留守を任されまして」

「へえ、ずいぶんと信頼されてるな。私が留守を任せろなんて言っても『あんたにだけは絶対に任せられない』とか宣言されそうなのに」

「それは、まぁ、しかたがないです」

「御神酒をちょいと漁るくらいしかしないんだけどな。あとはー……なにか食べ物がないとか漁ったりとかか、うん」

 

 博麗神社。その縁側にて座っていた俺の隣に魔理沙が腰をかけた。

 風が吹き、葉の擦れる音が静けさを心地のいいものへと変える。自然に溢れた幻想郷の空気はおいしいので、こういう雰囲気の中で深呼吸をするととても気持ちがいい。

 

「その手に持ってるのはなんなんだ?」

「わかりませんか? マフラーですよ」

「ああ、冬が近いもんな。って、お前は気温の変化に強いんじゃなかったのか? 吸血鬼だからどうだとか」

「それでも季節感は味わいたいものですよ。これはフラン用なので、次はお姉さま用を作ります。最後が私です」

「そういうもんかね。まぁ、アリスも食事や睡眠の必要がないってのに摂り続けてるって言うし、そういうもんかもしれないな」

 

 フランに上げるマフラーは桃色だ。レミリアへのものは青色で、俺のものは橙色にしようと考えていた。雪が降り始めた頃にプレゼントするつもりなので、魔理沙には秘密にしておくように言い含めておく。

 でき上がったマフラーを魔法で倉庫に、針や糸を裁縫箱の中にしまい、ゴロンとその場に寝転がった。手先をずっと動かし続けていたこともあって、若干の倦怠感と達成感を全身が覚えている。今日はできることなら、もうなにもせず過ごしていたい気分だ。

 

「あら? 霊夢はどうしたの?」

「買い物らしいぜ。私とこいつで留守番を任された」

「任されたのは私だけですよ」

「まぁ、魔理沙になんて任せるはずないわよね」

 

 魔理沙に続いてこの場にやってきたのは、七色の人形遣いことアリス・マーガトロイドだった。珍しいものを見るように俺と魔理沙を見やった後、俺とは反対側の魔理沙の隣に腰を下ろす。

 

「なんだ? 霊夢に用でもあったのか?」

「別に。この辺りはよく外の世界から物が流れ込んでくるから、なにかいいマジックアイテムでもあればと思って探してたの。その帰りにちょっと寄ってみただけ」

「その割にはここでくつろいでいくつもりみたいだな」

「休憩よ。さすがに疲れたわ。家主もいないんだし、好きにしててもいいはずよ」

 

 その理屈はおかしい。家主がいないのなら、遠慮するか出直すかするのが普通だと思うのだけど。

 ふと、アリスの視線が俺の膝の上に置いてある裁縫箱に向いた。

 

「レーツェルは、それでなにか作ったりしているの?」

「さっきまではマフラーを編んでましたね。そこそこ昔から裁縫を趣味の一つとして始めたのですが、恥ずかしながらあんまり上達がしなくてですね……まだ難しいものは作れません」

「ふぅん。それなら、今度私が教えてあげてもいいわよ? いつも人形作りで嫌というほど……嫌ではないけど、とにかくたくさん裁縫はやってるから結構自信あるのよ。レーツェルには魔法のことで世話になってるから」

「わっ、いいんですか?」

「うちに来てくれれば、私がいる時ならいつでも教えてあげる。それだけのことを私もされてる」

 

 家主がいないなら好きにしていいなんてトンデモ理論を持ち出していたアリスが、どういうわけか意外に優しい。

 魔法のことで世話になんて言われても、大したことはしていない。魔理沙はどう考えても頼れないし、パチュリーが部外者の魔法に無償でアドバイスするとは思えないし、消去法的に俺かフランしか残らないことはわかっている。それでもちょっと見学して気になったところを口出しするくらいなので、『それだけのこと』なんて言われてもまるで実感が持てなかった。

 アリスやパチュリーからしてみれば、五〇〇年近く魔法を学び続けている俺の助言があるだけで全然違うのだそうだ。感じたことをそのまま口にしているだけなのに恩を抱かれるのは、なんだかちょっと釈然としない。だから今回もこうして「いつでも教えてあげる」なんて言われて萎縮してしまっている。

 

「なんだよ、私と全然対応が違うじゃないか」

「当たり前でしょ? あなた、私になにかしてくれたことなんてあったかしら」

「そりゃあ、あるぜ」

「へえ。たとえば?」

「…………うん、まぁ、いろいろだな」

 

 すぐに答えられないくらいには、心当たりがないということだ。俺も同様に思い当たることは特にないのだが、そのことを告げると「あなたは、あなたにとっての当たり前のことをしているだけなのね」と感心した風に頷かれた。いやだから、と否定しようとして、どうせ今のように変な方向へ評価がされることは目に見えている。これ以上誤解されてはたまらないと、言葉を吐きかけた口を噤んだ。

 

「それでアリス。マジックアイテムやらを探してたって言ってたが、なにか目ぼしいものはあったのか?」

「目ぼしい……って言っていいのかどうかわからないけど、とりあえずこんなものを見つけたわ」

 

 と、アリスが取り出したのは、全長三〇センチほどの黒色を主体とした謎の物体だった。赤や青、黄色の配線が入り乱れていたり、窪みの部分に小さな円柱が埋め込まれていたり、それぞれの角にゴム状のリングが一つずつ、合計四つがはめ込まれていたりする。

 魔理沙がそれを見やって数秒首を捻った後、ああ、と声を上げた。

 

「これは、たぶんあれだ。ラジコンとか言うやつだ。前に河童どもがいじくって遊んでるのを見たことがある」

「ラジコン? わかるような言葉でお願い」

「ラジオコントロールの略ですね。車や飛行機……いえ、乗り物を模した物体を作って、遠距離から電波を介した指示を出すことで半自動的に動作をさせることができるんです」

 

 カバーが外されているからわかりにくかったが、言われてみれば確かにラジコンに使う車の模型だ。タイヤがぐにゃりと歪んでいたり、電池が片方だけ入っていなかったり、配線が一部切れていたりしているので壊れていることは容易に窺える。使えなくなってしまったために放置され、誰からも目を向けられなくなった結果として幻想入りを果たしたのだろう。

 

「電波を介した指示……それはつまり……」

「アリスはよく人形を操る魔法を使いますが、それには魔力を通した糸を使っていますよね。ラジコンはそういうものは必要ありません。なんの繋がりもなしに、一方的に遠くから命令を発するだけであらかじめ設定されていた通りに動いてくれます」

「……なるほど、興味深いわね。これに前もって動作を覚えさせておいて、別の場所からそれをやれという簡単な指示を送れるようにしておく。私が人形を操るみたいに細かい動きは無理だけど、糸のような直接的な繋がりがなくなるから汎用性は高くなる……」

 

 顎に手を添えて考え込み始めるアリスが、虚空を見据えてはぶつぶつとひとりごとを呟く。その間に、魔理沙は俺の手前に乗り出してひょいっと彼女の手元から壊れた車の模型をぶんどった。

 

「うーん……やっぱりだ。なんか足りない気がするんだよなぁ……」

「カバーじゃないんですか? 被せるものが足りないとか」

「もっと根本的なものだ。そもそも、これだけじゃなにも……そうだ! こんとろーらーだ! こんとろーらーが足りないぜ!」

 

 ちょっと発音がおかしいのは気にしないでおこう。アリスが持って来たものは本体だけで、命令を出すための送信機がついていない。幻想入りしたとは言っても両方セットとは限らないわけだからしかたがないことではあるが。

 というより、そもそも送信機があったところで、壊れているのだからなにも変わらない。魔理沙もそれに気づいたようで「まぁ壊れてるしな」と、車の模型を俺の膝の上にある裁縫箱のさらに上部に置いた。

 

「私の魔法は一から十まで私が人形を操ることで成り立っているけど、人形自体に細工を施すっていうのも手の一つかもしれないわね。私の負担を減らしたり、私からの命令がなくても同じ動作だけなら延々と繰り返させられるようになるかも……とにかく」

「アリス。これ、どうするつもりです?」

「研究の価値はある……え? そうね、ちょっと調べてから供養して捨てるつもりだったけど……糸を用いない方式での人形操作の研究に使えるかもしれないし、河童に修理でも……ないわね。どうせ構造はわからないんだから、普通に研究した方がいいわ」

 

 アリスは完全な自立人形を作るのが目的だと言う。なぜそれを目指すのかはわからないが、他の多くの魔法に高い適性があるのにも拘わらず人形に(こだわ)っている辺り、かなりの熱意を持っていることは確かだ。

 糸を介さない遠隔操作が可能になれば、人形の自立化にもまた一歩近づくことができるのは確実だった。あらゆる方面からの魔法の研究、開発した魔法の熟練度を高めることによる応用性の向上、技術の習得。時には視点を変えて俯瞰してみたりすることで、新たな道が開けることもある。

 

「このラジコン、私に預ける気はありませんか?」

「レーツェルに……? どうして?」

「さすがに外の世界の品となると調べるのも一筋縄ではいかないでしょう。それも、魔法とはまったく関係がない技術で作られています。でも、錬金術を嗜んでいる私なら、ある程度の構成は読み取ることができます。そこからいくらか調べ方を絞って、それを書いた紙と一緒にアリスに返すのはどうでしょうか」

 

 そうは言うものの、錬金術を学んでいる程度ではどういう構造をしているかは把握できても調べ方の絞り込みなんてできない。それを可能にするのは俺の前世における経験だ。前世は男性であったこともあって、ラジコンで遊んだ記憶は幾度か存在しているし、どういう作りなのか一部知識もある。これと錬金術を合わせれば、おそらく研究の方法くらいは容易に求められるだろう。

 俺の提案にアリスが悩んだのは、ほんの一瞬だけだった。「そうね」と小さく微笑んで、「お願いしようかしら」。

 

「あなたなら大丈夫だものね」

「……その、さっきもそうでしたけど、買いかぶり過ぎです。横取りしようとしてる可能性とか、少しは疑ってください」

 

 誤解が深まるから否定しまいと思っていたが、ついつい口からついて出てしまう。口を尖らせての俺の発言に、アリスは小さくため息を吐いた。

 

「魔理沙じゃないんだから、誰も横取りしようとしてるなんて考えないわよ」

「なんで私の名前が出てくるんだ?」

「それは、そうかもしれないですけど、私は悪魔ですよ? 前回の異変でもあなたを騙して永琳の方を追わせました。あんまり信頼しちゃいけません」

「私が横取りすることを当たり前みたいに言うんじゃないぜ。私は借りていくだけだ」

「そのお返しはもうしたわ。それに、別に信頼だとか関心だとかを持ってるってわけじゃないの。あなたの普段の行動が、あなたが安全で誠実であるということを証明しているだけ。たとえば、ほら、永夜異変が終わってからしばらくは私に必要以上に気を遣ってくれたりしていたでしょう?」

 

 確かに、宴会では進んで酌をしたし、魔法に関しての悩みも率先して聞くようにしたし、なにか困っていそうだったら声をかけて解決の手伝いをしたりもした。

 

「でも、そんなの当然です。人を嫌な気持ちにさせたり不利益を与えたりしたんですから、その分は絶対に返さないといけません」

「その返しがいつも倍は軽く越えてるんだけど……今はそれはいいわね。とにかく、そういう性格が信用に値するのよ。霊夢も魔理沙も、迷惑はかけるだけかけてくるくせにお詫びなんて欠片もしてこないじゃない? それに比べてレーツェルは律儀だから安心して任せられるってだけよ」

 

 そんなこと言われると、むず痒くなって否定をしたくなる。それがわかっているのか、アリスは「この話はもう終わり」と無理矢理に俺の反論を抑え込んだ。

 再び口を噤んで、裁縫箱の上にある車の模型に視線を落とした。

 むず痒くて、否定したくなる。それでも嬉しくないわけじゃない。律儀だとか誠実だとか、そんな風に褒められて嬉しくないわけがないのだ。

 できるだけ早めに仕事を終わらせようと誓ったところで、足音が境内の方から聞こえてきた。霊夢が帰ってきたのだろうか。裁縫箱とラジコン用の車の模型をしまい、音がした方に視線を向けると、ちょうどその主がこちらに顔を出す頃だった。

 

「……金色の比率、高いわね」

「おかえりなさいです、霊夢」

「おかえりだぜ」

「お邪魔してるわ」

 

 魔理沙とアリスは金髪で、俺は銀の中に幾房か金が混じっている感じだ。ここに紫やフラン、藍でも加われば目に痛いことになるかもしれない。

 ネギ等の野菜の先端が飛び出ている袋を抱えた霊夢は、見せつけるようにして大きく肩を竦めた。靴を脱いで縁側に脚をかけると、顎でくいくいっと中に入るように俺たちに伝える。

 

「まぁ、留守番は任せたけど、レーツェルが来たやつらを追い払えるとは微塵も思ってなかったし……別にいいんだけどねぇ」

「あ、もちろん御神酒が盗まれたりはしてませんよ」

「そうそう、そこよそこ。そこだけしっかりしてればいいやって思ってたし、よくやったと言っておくわ。いっつも魔理沙、勝手に来ては勝手に飲んでいくんだから……」

「借りてるだけだぜ」

「死んだら取り返せばいいとか言わないでよ。お酒はあんたが死んでも返せないでしょうが」

 

 居間の中央にはちゃぶ台と座布団が置かれ、隅に座布団が積んである。これから寒くなってくる季節なので、じきに去年上げたコタツの出番もまた来るであろう。俺の部屋にあるそれと違ってしっかりと役立ってくれそうで、作った本人としては嬉しい限りだ。

 そこからは四人で適当に会話を満喫した後に、最初にアリスが帰った。その次に今日はもう裁縫で疲れたということで、俺が帰宅をすることにした。霊夢と魔理沙に「またね、です」と別れを告げ、紅魔館へと空を飛ぶ。

 アリスに裁縫を教えてもらえる約束ができたのはとてもよかった。でも、いつものお返しなんて言われても釈然としないのは事実だ。だからその分、ラジコンをしっかりと解析して、調べ方のデータを彼女に渡してあげなければならない。

 裁縫で疲れている割にはやる気に満ち溢れているな、なんて考えながら、門の前に立っている美鈴に軽く挨拶をして、ただいまと玄関から紅魔館の中に入った。咲夜に出迎えられて、その後にフランに帰宅を喜ばれる。

 ふと、近いうちにまた魔法談義でも開催しようかと思った。俺やアリスも含め、きっと魔法に関しての理解が深められるだろうと夢想して。



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二.残光の如き外界の記憶

 ――もう戻れない。

 自然の溢れた幻想の世界とは違い、爽快感をまったく覚えない生暖かな汚れた空気。かつて崇められた天の光は一切の信仰を失っており、暖かいはずの日差しは薄っぺらく、どこか冷たささえ感じさせてくる。

 喧騒はどこまでも耳障りだった。そばにいるだけでも楽しい賑やかさとは異なる、常に聞き流していたいような騒音。

 けれど俺にとってはこの世のどこよりも心地よく、懐かしく、恋しく、なじみ深く、空気は昨日まで吸っていたかのようで、光は昨日まで浴びていたかのようで、喧騒は昨日までずっと聞き続けていたかのようで。

 ――戻ってはいけない。

 ここは俺がいてはいけない場所だと、ここは俺がいるべき場所だと、ここは俺を待っている世界だと、ここは俺を追い出した世界だと。

 このまま今のすべてを捨てて、向こう側へと戻ってしまいたいという欲求が俺の中に生まれたのがわかった。

 ぐちゃぐちゃになりそうになる脳を、頬に触れて無表情であることを確認して平生のそれへと引き戻す。

 ――俺はもう、人間ではないのだ。

 償わねばならぬ罪がある。贖うと決めた過去がある。この幻想の世界でそのすべてを清算しなければならないと、いつかどこかで誓った記憶がある。

 さぁ、眼を外界にさらそう。五感における最後の砦を自ら崩し、視界から現実を否定して幻想へ帰るとしよう。

 未練を捨てる。世界に俺を忘れさせる。そうしなければならない理由と責任が今の俺にはあった。

 すぅー、と大きく深呼吸をして心を落ちつかせると、ゆっくりと瞼を開いた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 幻想郷が本格的に冬を迎えようとしている。春は桃色、夏は緑色、秋は赤や黄、褐色などとさまざまなのだが、それも落ちてしまえばすべて同様に色がくすんでいく。息を吐けば淡い白色を帯び、外気に肌をさらしていれば自然と表面の冷たさは増していく。

 先日、自分のものも合わせてようやくマフラーが三つとも完成し、レミリアとフランにそれをプレゼントした。あいにくと温度の変化には疎いのだけれど、こうしてマフラーを巻くことで季節を味わうことは可能だ。首元を寒そうに覆って両手を口元に運び、はぁ、と吐息をもらせば少し早い冬の気分を満喫することができる。

 

「それで、今日はどこに行くんです?」

「霖之助さんのところよ。っていうか、あんたらそれ暖かそうね。ちょっと貸してくれない? 霖之助さんのところにつくまででいいからさぁ」

「はい、構いま」

「ダメっ! せっかくのお姉さまとのお揃いだもん。私のもお姉さまのも、渡さないから」

 

 魔法の森方面の道を、霊夢とフランとともに三人で歩いていた。俺がマフラーを貸すことさえフランは断固として拒むため、霊夢はいかにも寒そうな面で苦笑いとため息を吐く。

 霊夢がいつも着ている肩と腋を露出する巫女服が霖之助の作であることはずいぶんと前に聞いた。今日は彼のもとに冬用の服を取りに行くようで、未だに霊夢は寒気に溢れた幻想郷の中で薄めの布の服を着用している。香霖堂には外の世界の、空気を暖める道具――ストーブがあるからか、いつもより彼女の歩くスピードがほんのちょっぴり速い。

 やがて魔法の森の入り口付近に建っている摩訶不思議な建物の玄関までやってくると、霊夢は扉をノックもせずに開いた。カランカランッ、と来客を知らせる機能を持つ鈴の音が鳴る。

 

「ああ寒い寒い! なんか急に冷え込むようになったわね」

「霊夢と、吸血鬼の姉妹か。いらっしゃい」

 

 店の中には霖之助の他に魔理沙もいた。壁に背を預け、寒そうに両手を擦っている。

 彼女のもとにフランを連れて歩み寄り、「ストーブはどうしたんですか?」と声をかけた。

 

「長い夏休みだそうだ」

 

 すぐ隣で霊夢が俺と同じように、霖之助にストーブがついていないのはなぜかと言及していた。そんな彼女にも魔理沙がもう一度「長い夏休みだぜ」と声をかけ、現在の事情を説明し始める。

 どうやらストーブの燃料が切れているようで、店の中も寒いままであるらしい。俺やフランはまったく困らないが、三人にとっては結構な一大事だろう。魔理沙はストーブの暖気を味わいに来たとのことで、燃料がないことを語る時は口を尖らせて少々不満げだった。

 

「で、ストーブってのは外の世界の道具だから燃料を手に入れる方法は限られるだろ? その中でも一番楽ですぐに思いつく方法が、外の品を大量に持っている妖怪を頼るってことだ」

「その妖怪って……やっぱり紫のこと?」

「そうだ。あいつが一番外の世界に近い」

 

 魔理沙の言うことは間違っていない。俺だってサッカーのルールブックは紫に譲ってもらった経験がある。紫は『境界を操る程度の能力』により博麗大結界を越えて外の世界を訪問することができ、ちょっと前には携帯電話で藍とやり取りをしていた光景も見たことがある。

 幻想郷と外の世界を行き来できる妖怪は今のところ彼女のみであり、博麗大結界をもっとも簡単に破壊せしめる存在もまた彼女だけだ。妖怪の賢者、八雲紫は幻想郷の管理者、そして外の世界の監視者を担っていると言える。

 霊夢なら紫の居場所を知っているだろ? という魔理沙の確認に、問われた当人は首を横に振った。

 

「知らないわよ。住んでいる場所も知らないし、神社にも来てほしくない時にきて、やっぱり来てほしくない時に来ないんだから」

「……いつも来てほしくないんだな」

 

 俺も紫の住処がどこにあるのかはわからない。もしかしたら外の世界にあるかもしれないし、幻想郷と外の世界の狭間にあるのかもしれないし、彼女が持つ特有の空間に存在しているのかもしれない。

 俺が紫と交流をする場合も、俺の部屋に彼女が空間を割いて一方的にやって来た時にしか行われず、あいにくと霊夢と同様に俺も彼女の居場所は知識にない。ただ、一つだけ彼女の特性に関して理解していることはある。

 

「魔理沙。ゆかりんはこれからしばらく、出没の回数が減りますよ」

「打ち止めか?」

「ラストオーダーじゃありません。って、なんでもないです。ゆかりんは熊とかと同じように冬眠を……いえ、ただ単に睡眠時間が増えるだけみたいなんですけど、とにかく冬はあんまり姿を見なくなるんですよ」

 

 ああでも、と一つ付け加えておく。

 

「油揚げでも撒いておくと、藍の方が釣られてくるかもしれませんね。前にそれで出迎えたらすっごく喜ばれましたし」

 

 フランもその時のことを思い出したようで、小さくため息を吐いていた。

 

「あー、私も覚えてるー。狂喜乱舞してたよねぇ。そんなにおいしく感じられるのかな、油揚げって。味噌汁は確かにおいしいけど」

「私たちにとっての、処女のB型の血みたいなものじゃないですか? それにしてはずいぶんと安っぽいですが」

 

 豆腐を揚げるだけで極上の味になるなんて羨ましい限りだ。もしかしたら、藍の血を吸って九尾化魔法でも使えるようになれば、その美味さ加減を少しなら味わえるかもしれない。ちょっと今度頼んでみようかな。

 ああでも、鈴仙の時みたいになったら困る。萃香は酒が入り過ぎて、あるいは慣れ過ぎていたから無事だった感があるし、感受性の高い妖獣である彼女が吸血によって発生する恍惚に耐えられるかどうか……なんだか無理そうだから、やめておいた方が賢明だろう。

 ――翌日。人間にとっては体感でわかるほどに気温が下がっているらしく、順調に冬がやって来ようとしている。

 そろそろレティ・ホワイトロックことレティが顔を見せ始める時期なので、今度会いに行っては春雪異変の頃にした約束の通り、一緒に冷たいものでも飲もうかと考えている。チルノも混ぜて、かき氷なんかを一緒に食べてみるのもいいかもしれない。なんにせよ冬の楽しみの一つであることは確かだった。

 

「雪景色って、毎年新鮮に感じるんですよね」

「そう? 毎年同じようなもんじゃない」

「そうですね。でも、それでもです」

 

 俺の発言に疑問を示した霊夢に、そう返す。

 博麗神社。フランを連れていつものように訪れては、コタツに脚を入れてくつろいでいた。

 お茶を喉に通し、なぜ毎度新鮮に感じるのかと思考を巡らせれば、答えはすぐに出る。俺の前世の記憶は魂に刻まれており、決して忘れることはなく、また強い価値観を植えつけている。幻想郷のように田舎の『これこそ本物の雪景色!』と言った光景の記憶はあいにくと前の生では見たことがなかった。美しい光景でありながら前世で一度も感ずることがなかったゆえに、こうして毎度毎度新鮮な気持ちになることができるのだろう。

 ……こんな話をしてはいるが、実はまだ雪は降っていない。落ち葉はたくさん落ちていて、さきほど焼却処理をしたりもしたが、吹雪は未だ姿は見せていない。

 

「あんたらって嫌いな季節ってあるの? 私は冬ってあんまり好きじゃないんだけど。寒くて凍えるし、雪かきは疲れるし」

「私たちは気温の影響をあんまり受けない種族ですし……強いて言うなら春の終わりか、初夏くらいでしょうか」

「うーん……? 日差しが強いから?」

 

 かつての紅霧異変は、日光が鬱陶しいという理由によりレミリアが真夏に引き起こした。異変を起こそうと決めた時の話し合いには俺も同席していて、日差しが眩しいし美鈴の仕事が長引くから好きではないと言った記憶もあるが、それでも嫌いと言うほどではない。

 ならばなぜ春の終わりから夏の始まりにかけてはダメなのかというと、そこはもう一人の吸血鬼が引き継いで答えてくれた。

 

「梅雨だからよ。いっぱい雨が降るせいで、全然外で遊べない。いつ降るかもわからないから迂闊に出かけられもしないしー……」

 

 寝転がって漫画を読みながら、フランが不満を垂れる。ああ、と納得した風に霊夢が頷いた。

 吸血鬼は流水が苦手だ。これはいくらローブを着てフードを被ったところで変わらない。傘を差したってどうしても雨は体に当たってしまうものだから、出かけることができなくなるのだ。

 日光以上に邪魔な天気が続きまくるのだから、ちょっとは嫌いになってもしかたがないと思う。紅霧異変前は地下室にこもりっ切りで天気や季節なんてどうでもよかったフランも、今では俺と同じく梅雨が苦手になってしまっている。

 

「おーい、いるか?」

 

 ふいと境内の方から、おそらくは霊夢を呼ぶ声が聞こえてきた。返事をするのがめんどくさいのか、霊夢はズズズとお茶を飲むだけで動こうとはしない。

 次第に足音がこちらに近づいてきて、ガラガラと障子が開かれる。姿を見せたのはいかにも魔法使いと言った格好をした少女、毎度お馴染み霧雨魔理沙だった。

 

「なんだ、いないじゃないか」

「いるわよ、目の前に」

「霊夢、お前じゃなくて、紫の方だ」

 

 そう口走る彼女の手には、なぜか油揚げが乗っている。

 

「味噌汁でも作って温まりますか?」

「お姉さまの味噌汁おいしいよねぇ」

「咲夜の味噌汁の方がおいしいですよ。私も咲夜に教えてもらいましたから」

「味噌汁にはしないぜ。こいつはお前が言ってた通り、狐を釣るために持ってきたんだ」

 

 ご飯や味噌汁はいくら食べても飽きない。食事で重要なのは好物よりもなによりも、きっとそういうものなのだと俺は考えている。

 魔理沙から話を聞くと、どうやら彼女は、両手に油揚げを携えて玄関の前に佇むというわけのわからない奇行をしていた霖之助に代わって、紫のことを呼んでくる約束をしてきたらしい。ストーブがなければ香霖堂にいてもしょうがないからと彼女は言うが、そうでなくとも霖之助の頭がおかしくなったとしか思えないので、ちょっとでも親切心がある紫の知り合いならば誰でも協力してくれるだろう。いや、でも、幻想郷の住民にそんなことは期待できないか、とすぐに思い直した。

 

「それで、霖之助さんのところから持って来たその油揚げはどうするの?」

「それを聞きに来たんだよ。冬眠たって、ただ出て来なくなるだけなんだろう?」

 

 南の島にバカンスに行ってるだけかもしれんぜ、なんて魔理沙がもらす。彼女にしてみれば冗談のつもりなのかもしれないが、案外、それもありそうだ。

 魔理沙は続けて、本当に紫を呼ぶ方法はないのかと霊夢と俺に問いかけてくる。二人して顔を合わせてみるが、残念ながら俺は一つも思いつかないと首を横に振った。霊夢もそうなのかと考えていたが、どうやら彼女には紫を呼び出す方法に一応の心当たりがあるようで、ちょっとだけしぶい顔を作って魔理沙に向き直る。

 

「紫はこれをやると怒るんだけど……」

「手があるんですか?」

「あるんだけどねぇ……」

 

 あるにはあるが、紫から危険だからやめなさいと注意をされているとのこと。しかし異変解決に進んで乗り出すような二人を危険なんて言葉で抑止できるはずがない。

 出てくるならいいじゃんということで、それを決行することになった。どんな内容なんだ? と問いかける魔理沙に、霊夢は開いた障子から外の景色を見やる。

 

「幻想郷の結界を緩めるの――」

 

 ――外の世界の近くにいると、外の世界に放り出されるかもしれないわよ?

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 最初に感じたのは、眩暈(めまい)と幻聴。次に嗅覚と、おそらくは味覚が鈍り、最後に触覚が薄れていった。

 これは、なんだろう。湧き上がる疑問に耐えるように、右手を胸の前で強く握る。

 結界を緩める作業をしていた霊夢たち、特にフランが心配そうに駆け寄ってくるのが、不安定な視界の向こう側に窺えた。しかし次第にそれもぐにゃりぐにゃりと歪んでいき、頭が鋭い痛みを訴えてきたために反射的に両目を閉じる。

 ふと、懐かしさという感情が駆け巡り、瞬く間に全身を埋め尽くした。

 そうしてすべてを理解した。なぜ感覚がなくなってきているのか、どうして調子が悪くなって座り込んでしまったのか、理解する。

 霊夢は、外の世界の近くにいると外の世界に放り出されるかもしれないと言っていた。彼女からしてみれば、きっとそれは人間に限定した話だったのだろう。すでに幻想とされているがゆえに幻想郷にいる妖怪が外に放り出される可能性など考えもしなかった。

 ましてや、俺の中に外の世界と密接した記憶があって、それが媒介になって外界に繋がりかけているなんて。

 五感が返ってくる。しかしそれで感じるすべては、さきほどまでのものとはまったくの別物になっていた。

 ――もう戻れない。

 自然の溢れた幻想の世界とは違い、爽快感をまったく覚えない生暖かな汚れた空気。かつて崇められた天の光は一切の信仰を失っており、暖かいはずの日差しは薄っぺらく、どこか冷たささえ感じさせてくる。

 喧騒はどこまでも耳障りだった。そばにいるだけでも楽しい賑やかさとは異なる、常に聞き流していたいような騒音。

 けれど俺にとってはこの世のどこよりも心地よく、懐かしく、恋しく、なじみ深く、空気は昨日まで吸っていたかのようで、光は昨日まで浴びていたかのようで、喧騒は昨日までずっと聞き続けていたかのようで。

 ――戻ってはいけない。

 ここは俺がいてはいけない場所だと、ここは俺がいるべき場所だと、ここは俺を待っている世界だと、ここは俺を追い出した世界だと。

 このまま今のすべてを捨てて、向こう側へと戻ってしまいたいという欲求が俺の中に生まれたのがわかった。

 ぐちゃぐちゃになりそうになる脳を、頬に触れて無表情であることを確認して平生のそれへと引き戻す。

 ――俺はもう、人間ではないのだ。

 償わねばならぬ罪がある。贖うと決めた過去がある。この幻想の世界でそのすべてを清算しなければならないと、いつかどこかで誓った記憶がある。

 さぁ、眼を外界にさらそう。五感における最後の砦を自ら崩し、視界から現実を否定して幻想へ帰るとしよう。

 未練を捨てる。世界に俺を忘れさせる。そうしなければならない理由と責任が今の俺にはあった。

 すぅー、と大きく深呼吸をして心を落ちつかせると、ゆっくりと瞼を開いた。

 

「――えさまっ! お姉さまっ!」

「……大丈夫ですよ、フラン」

 

 一瞬にして全部の感覚が正常を取り戻した。目に映るのは心配を顔に映した二人の人間と吸血鬼、耳に響くは喧騒ではなく不安の声音。空気はとてもおいしいし、フランに肩を支えられているということもハッキリと認識できる。

 何事もなかったのように立ち上がり、「ありがとうございます」と無事を伝えるために作り笑いを浮かべた。

 

「なんの問題もありませんよ。ほら、普通に動けます」

「……本当に平気? 顔、かなり青かったわよ」

「そうだな。吸血鬼が急に調子が悪くなるなんて、きっとヤバいやつだぜ」

「そう、ですね……」

 

 でもそれより今は、と霊夢と魔理沙の頭上辺りに目を向ける。

 直後、その部分の空間が割けて、二つの拳がそれぞれ二人の頭に襲いかかった。その拳骨に「いたぁっ!?」「いてっ!?」と霊夢と魔理沙は揃って悲鳴を上げる。

 二人の後ろで同様に大きく空間が割れ、切れ端にリボンのついた切れ目から妖力を滾らせた女性が姿を現した。

 

「危ないからやめなさいって、言ったでしょう?」

 

 明らかに怒っている様子の紫に、霊夢と魔理沙が顔を逸らす。そんな人間の二人に呆れたように大きくため息を漏らし、紫が説教を始めた。

 その後、霊夢と魔理沙は紫を香霖堂に連れて行き、見事霖之助は燃料の確保に成功したらしい。

 らしいというのは、俺が急に青い顔をして座り込んだことを心配したフランの手によって、即座に紅魔館に連れ帰られたからだ。さすがに善意でやってくれることに抵抗はできず、なんの問題もないのにも拘わらず「未知の病気っ!?」という感じで数日間、無理矢理ベッドに寝かされて看病されてしまった。

 杞憂なのに手を煩わせてしまって申しわけなかったが、いつか交わした約束通り、パチュリーが一生懸命に看病をしてくれたのにはちょっと驚いた。覚えていてくれたこともそうだが、魔術の研究を一時的にやめてまで介抱してくれたのだから。

 ……仮病ならそんなことしないって言ってたのに。

 近いうちにお返しをしなければならない。そんなことを思いながら、窓の外の美麗な雪景色を眺めた。



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三.玄武の沢にて弦奏物

 外の世界の文明は、今のところどの辺りまで進んでいるのだろうか。少し前に紫が「最新のもの」と言って見せてくれたものが、上と下で画面が分かれた二つ折りのゲーム機の初期版だったので、新年を迎えた今は西暦二〇〇五年くらいなのかもしれない。

 前世の頃は手がかじかんだり、ベッドに入っても全然体が温まらなかったりで冬は苦手だったが、吸血鬼になってからは逆に好きな部類に入るようになった。気温の変化に疎くなったからというのもあるけれど、雨の代わりとして雪しか降らないことが大きい。通り雨などが絶対に起こらないので安心して出かけることができるのだ。

 真昼間。霖之助製のローブを纏い、首に巻いたマフラーを揺らしながら、俺は妖怪の山の一角を悠々と歩いている。

 妖怪の山――その名の通り、数多くの妖怪が多く棲みついている場所であり、幻想郷で山と言えば基本的にここのことを指す。多種多様な妖怪の中でも代表的な種族が天狗と河童であり、この山ではその二種族を中心に人里とは隔絶した社会を築いている。そのうち一部の技術は外の世界を上回るのではないかとも噂されるほどであり、加えて天狗という支配種族の一つが頂点に立っているため、基本的に妖怪の山を攻め入ろうとする妖怪は現れず、そんな阿呆が出現したとしても一瞬のうちに葬られるのが常だ。

 妖怪の山では独自の社会を築いていることもあり、そこに住む者は近未来的で豊かな生活を送っているという。そしてどの種族よりも仲間意識が強く、組織として成り立っていて、逆にそのせいでよそ者への風当たりは非常に強いようだ。

 この山にも、迷いの竹林と同様に眉唾な噂がいくつかある。山の内部には巨大な空洞があり、そこでは外の世界さながらの未来楽園を築いているだとか、幻想郷全体で禁じられている結界に穴を開ける作業が行われ、外の世界と繋がっているのだとか。強いて現実性のあるものを挙げるならば、妖怪の山が休むことなく上げ続けている煙は噴火によるものではなく、天狗や河童たちの工場が吐き出している煙であるのだとか。

 

「そろそろのはずですけど……」

 

 俺は吸血鬼という種族であり、それは幻想郷で新しい存在ではあるものの、決して生温い妖怪でないことは周知の事実だ。かつて吸血鬼たちが引き起こした吸血鬼異変では、吸血鬼は気力を失っていた多くの妖怪たちを軍門に下し、妖怪の山をまさしく瞬く間に占領した。あいにくと終盤辺りにレミリアを助けるために参戦した俺は細かい事情までは知らないのだが、妖怪の山を蹂躙したということは、吸血鬼たちは天狗とも争いを繰り広げたと考えて間違いないだろう。

 吸血鬼異変はまだ記憶に新しい。つまりなにが言いたいのかというと、吸血鬼である俺が妖怪の山を出歩いている光景が天狗に見られるとちょっと問題になるかもしれないので、できるだけ気配を薄くし、天狗の領域に近づかないようにしながら山を進むようにしていた。

 妖怪の山ではない場所でなら、会ったところで特に問題は発生しないだろう。別に天狗と敵対しに来たわけでもないので、もしかしたらここで見つかってしまっても大丈夫なのかもしれない。しかし少しでも問題が起こる可能性があり、それを避ける手段があるのなら迷わず行うべきだ。

 わざわざ空を飛ばずに不安定な足場の中を進んでいるのもまた、そういう理由によるものだった。

 

「でも、スニーキングミッションみたいで楽しいかもしれないです……」

 

 どこまで天狗の領域に侵入できるかとか、試したい気持ちはある。けれどそれをやればさすがに間違いなくマズいことになるので、しっかりと自重しておこう。

 そうしてコソコソと進むこと一〇分。そろそろ今日は諦めて帰ることも視野に入れ始めた辺りで、視界の奥に目的地が見え始める。

 そこは川の畔だった。しかし、当然ながらただの川辺ではない。

 そこかしこに屋台や長机、質素なところではシーツ等が適当に置かれ、見渡す限りの場所で河童たちが商売に興じていた。売られているものは写真機や掃除機など近代的なものばかりで、たまに一目では用途のわからないおかしな物体も置いてある。

 河童とは言っても、この世界での河童は全身緑色の気色悪い外見はしていない。すっぽんの甲羅を背負い、頭に皿は乗せてはいるものの、基本的に人間と同じ容姿をしている。

 

「聞いてた通り、やってますね」

 

 今日は河童たちが妖怪の山の麓、玄武の沢でバザーを開く日であった。多くの河童が展開する商店にさまざまな妖怪が集い、稀には人間の姿さえ見えたりもする。妖怪の山に住んでいない者が、人間の里では絶対に手に入らない、妖怪の山独自の技術で作られた品々を手に入れるためには、このバザーを訪れるしかないとされていた。

 ラジコンや、結界の緩みによる外界との共鳴。先日は霖之助がゲーム機を手に入れ、それを燃料の代金として紫に没収されていたことなど、最近は外の世界こと現代の文明に触れる機会が多かった。そんな中でバザーが開かれると聞き及び、どうせならと訪れてみた次第である。玄武の沢は行ったことがなかったので、こうして手探りで歩いて探し当てたわけなのだが。

 できればこのまま店に突入して、俺も他の妖怪たちや人間のようにいろいろなものを見て回りたいけど……。

 悪魔が、それも吸血鬼がいるとなれば辺りが混乱してしまうことは想像に難くない。だからこんな時のために、俺は魔法を開発してきていた。

 毎日の食事により摂取している遺伝子の解析からの強化魔法、すなわち人間化魔法。

 

「んん……」

 

 俺の強化魔法は、変化の妖術と増強系の魔法を組み合わせた複合魔法とでも言うべきものだ。遺伝子を取り込み、それを解析して変化の妖術へと適応させ、それが及ぼす影響の度合いを増強させることでいろいろな種族の特徴を取り入れることができる。

 ただし、俺が吸血鬼という一種族である以上、これには限界がある。

 吸血鬼部分を一〇〇パーセントと仮定するならば、強化魔法で得ることができるのは基本的にプラス五〇パーセントまでと言ったところだ。五〇パーセントを越えると種族がぐちゃぐちゃになってどんな結果に転がるのかまるで予想できなくなってしまうので、普段は保険をかけて二〇パーセント程度に抑えて使用している。これまでで一番高いパーセンテージでの使用というと、以前の萃香との戦闘の際、最後で使った鬼化魔法だ。四〇パーセントほどまで解放したりしていたのだが、正直なところ、体に明らかな違和感を覚えて結構キツかった。

 今回は人間の遺伝子を利用し、その度合いはちょっと高めのプラス三〇パーセントである。

 すぅー、と翼が幻想のように消えていったのが理解できた。瞳の赤さは薄めのそれへと変わり、身体能力がガクンと下がる。なんだかデメリットばかりだが、体の中に意識を向けてみると新たな力の奔流、おそらくは霊力と思しき力がわずかに感じられ、すなわち今の俺は魔力妖力霊力と三つの力を扱えることになっていた。

 三〇パーセントにしたのは、吸血鬼であることができるだけバレないようにするためだ。あいにくと人間の体の使い方は妖怪の中で一番熟知している自信があるので四〇パーセントにしてもよかったが、やっぱりちょっと危ないので三〇で止めておいた。

 

「あれ……?」

 

 以前試してみた時に翼がなくなったから、都合がいいと今回も使ったのだけれど、よくよく考えるとおかしかった。

 これまでは耳や角、尻尾等が生えたりすることが変化の証となっていた。しかし今回は追加されることなく、逆になくなっている。人間にそれらしい特徴がないからと言ってしまえばそれまでだが、それならば増えないだけで減ることはないだろう。三〇パーセントをプラスしているはずなのに、どうしてマイナス方面に強化――否、弱化してしまっているのか。

 そんな疑問も、思考を巡らせればすぐに氷解した。

 猫化魔法は遺伝子モデルのないデフォルトなので例外として、玉兎化魔法や鬼化魔法は両方とも妖怪から摂取した血から作り出している。妖怪とは幻想の存在であり、人間に忘れられてしまうと実在できなくなってしまう。対し、人間は誰に忘れられようとも、在るという事実は決して変化し得ない。それは比べるまでもない決定的な違いであり、強化魔法を同じように行使した場合、こうやって不具合が生じるのも当然のことなのだろう。

 改めて自分の状態に意識を向けてみる。これまでは一〇〇パーセントの吸血鬼の特性に二〇パーセントの猫の力を付加したりしていたが、今回は吸血鬼の特性を七〇パーセントまで抑えて、その分の三〇パーセントを人間の部分へと置き換えているように感じた。吸血鬼としての特性が薄くなってしまったから、全体的に能力が下がり、翼もなくなったのだろう。

 

「まぁ、なんでもいいです」

 

 一瞬、人間化魔法を五〇パーセント越えで行使すれば人間に戻れるかもなんて思考が生まれたが、すぐに掻き消した。吸血鬼として生まれた俺の根本は幻想としての性質が強い。仮に人間の度合いが吸血鬼のそれを上回ったとしても、その場合に起こり得る一番可能性の高いものは『吸血鬼』という幻想でなくなったせいで存在が不安定になり、消滅すること。そんなリスクは冒したくないし、そもそもとして人間に戻ろうとするという行為はレミリアやフランを裏切ることと同義だ。もし戻れるのだとしても、それを行う気はまったくない。

 気を取り直して、歩みを再開する。川辺に脚を踏み入れ、開催されている河童たちのバザーへと客として俺も参加した。

 幾人かの妖怪から目を向けられることはあったが、そのどれもがすぐに興味をなくした風に逸れる。人間と悪魔が混ざり合っている状態なので、半人半妖とでも思ってくれたのか、妖怪に体を乗っ取られている人間だとでも予想してくれたのか。どちらにせよ、目立たないことには変わりない。フードを目深にかぶっているためか、さすがにちょっとだけ目立ったりはしているが、いつもの「うわっ、吸血鬼」みたいな視線の嵐と比べれば全然であるから気にならない。

 人間化魔法。戦いにはまったく使えないけれど、こうして潜入やらなんやらをする時にはかなり役立つ魔法のようだ。これまでは人間の里には夜にしか訪れていなかったが、これを使えば昼に行ってもなんの問題も発生しないだろう。

 

「なにを買いましょうか……」

 

 うずうずか、ワクワクか。外の世界のものと似た多くの品物に感動しているのか、表情は変わらないくせに胸が高鳴っているのがわかった。これ買いたい、あれも買いたい、ああそれも買いたいな。商品を眺めるたびにそんな気持ちが駆け巡り、しかし名残惜しさを抑えてでもそれを自重する。俺も一応は五〇〇年近い時を生きた誇り高き吸血鬼の一人なのだから、金の無駄遣いなんて子どもみたいなことはしないのだ。

 

「お嬢ちゃーん、なにか買っていかない?」

「あ、これ欲しいです」

「ウォーターガンだね。値段は――」

 

 河童の一人と交渉をし、どう見ても拳銃にしか見えない水鉄砲を手に入れた。いや、これは無駄遣いではない。河童は水辺に住み、泳ぎをどの種よりも得意とする水の扱いのエキスパートなのだから、この水鉄砲だってきっととてつもない性能のはずなのだ。きっと本物の拳銃に匹敵するくらいの速さで水流が飛び出すに違いない。

 ……そもそも魔力や妖力で適当に作った弾でも拳銃の弾丸程度の速度ならば軽く越させることもできるが、決して無駄遣いではない。

 あとでフランと一緒に缶当てでもして遊ぼう、なんて考えながら倉庫魔法に水鉄砲をしまい、改めてバザーを見て回った。水鉄砲は買いたいから買ったものだったけれど、こうして巡っていれば本格的に便利なものも見つかってくる。

 冷蔵庫、固定電話、腕時計、なぜかその場で現像されるというフィルム式カメラ。冷蔵庫辺りは俺の趣味の一つである魔道具製作でも似たようなものが作れそう、というか作ったことがあるが、それっぽく仕立てただけの俺のものよりも河童製の冷蔵庫の方が数段性能がいい。どれもこれも有用や必要だと感じたら購入を決定し、片っ端から魔法で倉庫に入れていく。

 そうして大体のところを見回り、ちょっと買いすぎたかな、そろそろ帰ろうかな、と感じてきた辺りで一つの屋台に目が留まった。

 

「あの……」

「んー、あー、らっしゃい。冷やかしならごめんだよ」

「いえいえ、ちゃんと買いますよ」

 

 一番に目立つのは、店主が背負っている巨大なリュックであろう。バールのようなものが飛び出て見えており、その中には大量の工具やら機械やらが入っているのだと容易に想像がつく。

 青色の髪を赤い数珠がついたアクセサリーでツーサイドアップにまとめ、その上に緑のキャスケットをかぶっている。身長は前世で言うところの中学生ほどであり、蒼の瞳は汚れなき美しい水面を連想させた。白のブラウスの上から水色の上着、鍵の首飾りを身につけ、青のスカートにはそこかしこにポケットが備えつけられている。河童の特徴の一つとして雨が降っていないにも拘わらず長靴を履いていることが挙げられ、今話しかけた店主の靴もそれであった。

 

「このピアノ、いくらですか?」

 

 屋台の半分以上を占領しているグランドピアノを指差して、問いかける。他のものがすべて小道具なだけあって、これだけが明らかに浮いていた。

 

「あー、あー、んん……へえへえ、いいところに目をつけましたねぇ。そちらは私のお手製のピアノでして、そうですね、ざっと一五〇円ほどの価値があると思ってますよ」

「そうですか。さきほどは冷やかしはしない、買いますと言いましたが、すみませんあれは嘘でした。私はもう帰ります」

 

 一五〇円は高すぎた。前世の物価に換算すれば実際のグランドピアノと同程度の値段になるのだけれど、いろいろと今の今までいろいろと買って回っていたことを考えるとキツいものがある。ちょっと興味があっただけなのに一五〇円も使っては、無駄遣いと言われても反論ができなくなってしまうだろう。

 そうして背を向けた俺を、慌てて店主が引き留めた。

 

「ま、待った待った! 冗談だよ冗談っ! 実はこれ、ずいぶんと前に作ったはいいけど、全然役に立たないし人気ないしかさばるしでまったく売れてない商品なんだよ! 私もそろそろ手放したいし……一〇〇円くらいにしてあげてもいいよ?」

「三〇円なんていいと思いません?」

「九〇円までなら……」

「四〇円に妥協します」

「……なに言われても九〇よりは下げないよ」

「さて、帰りの支度でもしましょうか」

「ぐぐ……あー、もう! わかったよ、値下げすりゃあいいんだろ。七五円。これ以上は絶対に下げない。作るのにも費用とかが必要だからねぇ」

「五〇円なんて」

「下げないっつってんだよ」

 

 むむ、と顎に手を添える。苦い顔をしている店主を見る限り、なにをどうしたところで本当にこれ以上値下げしてくれそうもない。そうなると考えるべきは、グランドピアノに七五円もお金を費やす価値があるかどうかだ。

 この際、壊れている可能性等は置いておこう。俺は七五円分もピアノをやるつもりはあるだろうか。ちょっと手を出して遊ぶだけならばそんなに金を使うのは無駄遣い以外のなにものではなく、無駄以外のものにするには本気でピアノを学ぶ覚悟を決めなければならない。

 数秒、数十秒。まだかまだかと店主がじーっと俺を見つめてきていることは気になったが、それでも思考を続け、最終的に結論を出した。

 

「買います」

「はい、まいどありぃ。返品は受けつけてないんで、そこんところよろしく」

 

 店主のバッグの中から白い手袋をつけた大きな機械の手が飛び出てきて、グランドピアノを掴んで俺の前に置いた。俺みたいな見た目一〇歳児の前にあからさまに重たいものを置いて放置、さらには客が買うことに決めた瞬間に返品不能宣言。そんな鬼畜なことをしでかすのは値下げされたことを不満に思っているからか、それともただ単にそれが彼女の素であるのか。今は三〇パーセントが人間と言えど、吸血鬼であり倉庫魔法もあるためにまったく問題はないが、本当に俺が一〇歳児程度の力しか持っていなかったらどうするつもりなのだろうか。

 そもそもそんなか弱い子どもが玄武の沢に河童のバザーを見に来るはずがないのだけれど、そこは置いておく。

 

「明日からしばらくはあんまりお金を使わないようにしないといけませんね……」

 

 今日はちょっと使いすぎてしまったから、そこそこ節約して、貯金もしていかないと。

 グランドピアノを倉庫にしまい、河童のバザーに踵を返し、玄武の沢に来た時の道へと戻る。誰の目にも留まらぬ場所まで来たら魔法を解き、吸血鬼の力と翼を完全に取り戻した。

 家に帰ったら早速今日買った品を改めてチェックしてみよう。冷蔵庫は台所にでも置いて、電話機は適当な場所に、それから一回カメラを使ってみたりとか……。

 やること、やりたいことがたくさんあった。多くの人間や妖怪は河童から買った物の使い方がわからなくて苦労するみたいだけれど、平成の世で生きた記憶がある俺には河童製のものであろうとなんとなくそれが理解できる。

 いつかまたバザーに来よう。そう誓って、妖怪の山を出ると飛行を開始した。



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四.新年を迎える舞踏の挨拶

 春雪異変、三日おきの百鬼夜行、永夜異変。三つの異変が詰まった忙しく騒がしかった年も終わりを迎え、幻想郷に新年がやってくる。

 相も変わらず明星(ルシファー)は太陽に勝てず、今年もまた明星の光を太陽が打ち消してしまった。いつものこといつものことと流してきたけれど、案外、太陽に力を貸している者がいるせいで勝てないのかもしれない。

 今年も太陽が勝ち、悪魔の星が負け、レミリアやパチュリーが落ち込んでいた。そんな中、フランだけは不思議そうに首を傾げていた。去年もレミリアたちがため息を吐いているのを見て、同じように疑問符を浮かべていた記憶がある。

 新年を迎える最初の日である元旦とは、夜の世界と昼の世界の戦いだ。日の出が明星の光を打ち消した場合は比較的安静な年、明星が日の出に負けなかった時は妖怪の力が強い年になる。明星――すなわちルシファーとは太陽に最後まで抵抗する大悪魔であり、すべての悪魔たちのカリスマだ。だからこそ、レミリアもパチュリーも明星が負けてしまうことに対して落ち込んでしまう。

 とは言え、四九五年もの年月を地下で過ごしてきたフランにとっては、外の世界の伝承やらはつい最近まで無縁の話であったのだ。カリスマと説明されても困惑するしかないし、妖怪の力が強くならなくても「残念だったね」程度の感想しか抱けない。実を言うと俺もそんな感じだ。前世で無宗教な日本人として過ごした記憶があるから、太陽に最後まで抗っている勇ましい者だから憧れろ、なんて言われても無理がある。アイドルみたいな存在だと考えれば、納得できなくもないが。

 ただ、まぁ、明星を崇拝するくらいならレミリア教でも開宗して広める。なにせ我が姉はかっこよさも可愛さも美しさも、その他諸々なんでも兼ね備えている、俺にとっては邪神にも等しき存在だ。

 

「レミリアお嬢さま、レーツェルお嬢さま、妹さま、お茶が入りました」

「あら、ごくろうさん」

「ありがとうございます」

 

 咲夜がレミリア、俺、フランの順番で紅茶を置いていく。フランの返事がないのは、おそらく周囲の言葉が耳に入らないほど真剣に戦いを眺めているからだろう。

 そろそろ午後に差しかかるという時間、白銀に包まれた幻想郷を太陽が爛々と照りつける中、人里でも名を馳せているという武術家が紅魔館に訪れ、美鈴に試合を申し込んできた。

 こういうことは今に始まったことではない。紅魔館が幻想郷にやって来た当初、吸血鬼だからどうしたと侵入を計ってくる輩も実は少なくなかった。そのほぼすべてを美鈴が拳法を用いて撃退したことから武術を嗜む者の間で彼女の名が広まったらしく、腕に自信がある武術家がこうして腕試しとして勝負を挑んでくることがある。

 とは言え、仮にも妖怪の美鈴は人間とは隔絶した体力の差があるため、基本的には時間制限ありの一対一の試合となる。何百年と武を磨いてきた美鈴がそんじょそこらの者に負けるいわれはなく、よほどの達人でない限りは苦戦のくの字も見せない。

 そして今回の挑戦者はその『よほどの達人』だ。歳の頃は四〇に差しかかるかというほどの男で、その動きはどこまでも洗練されており、素人目の俺からではまったくの隙が窺えない。もしも俺が戦うことになれば、一応は体のスペックでごり押しは可能だけれど、近接戦となれば何発かもらうことになるかもしれない。

 

「フッ!」

 

 男が繰り出した右の拳での素早い突きを、美鈴はうまく側面を払うことで受け流す。そのまま逆の手で掌底を打ち出し、しかし男も同様にそれを逆の手で払った。

 美鈴は、頭を狙った男の回し蹴りを即座にしゃがむことで避け、そのまま片足のつま先を起点に一回転して足払いをする。咄嗟に跳んで避けた男を見据え、空中では躱せまいと、すかさず起き上がり気味にアッパーを放った。しかしまるで予見していたかのように、それよりも先に男は動いている。

 美鈴の胴体に蹴りを入れる。当然、そんなものは美鈴は容易に防いだ。アッパーを打つ方とは逆側でしっかりと掴み、逃げられないように固定する。しかしそれこそが男の狙いであったようで、掴まれた脚に重心を移し、逆にそれを足場と仮定することでガクンと上半身を後ろ側へと逸らす。それによって美鈴のアッパーは掠るだけに終わり、男は倒れる勢いのままに月面宙返りで自由な方の脚での攻撃を計った。

 男の脚を離し、バックステップを踏むことで美鈴がそれを避ける。互いに距離が開き、仕切り直しとなった。

 

「すごいよお姉さま! あんなの人間の動きじゃない!」

 

 ようやく落ちついたフランが興奮した様子で俺に語りかけてくる。その時に咲夜の入れてくれた紅茶に気づいたらしく、「あ、咲夜ありがとう!」と笑顔を浮かべた。

 

「二人とも、お互いが次にやることを常に予測して動いてますからね。気配、状況、状態、その他いろんなものを総合して、ほとんどは経験によって半ば反射的に最善を選んで行動している……って、前に美鈴が言ってました」

 

 思考が必要なくなるほど物事を極めて、意識していなくてもそれができるようになって、初めて達人の域に達したと言えるのではないだろうか。そして美鈴も、美鈴と戦っている男もその領域に到達している。だからこそ観戦していて楽しいし、俺たちもわざわざ真昼間にガーデンテーブルを引っ張って来てまで見に来ている。

 どんなジャンルでも、世界大会として行われるなにかは絶対に見どころがあるものだ。スポーツでもゲームでもなんでも、そういうものには絶対に観戦者が多く集まる。極限に至った、もしくは常軌を逸した物事は眺めることそのものが娯楽であるとも言え、少なからず尊敬や憧れの念を抱いたりする。

 

「すごいねー……そういえばパチェは? 私もお姉さまたちも咲夜も美鈴もいるのに」

 

 最近になって、フランもパチュリーを愛称で呼ぶようになってきている。俺とレミリアがそうしているからというのもあるが、二人が魔法のことで話し合う光景もよく見られるようになってきたため、単に親しくなったからという理由が半分以上を占めているだろう。

 

「パチェはその、運動は得意な方ではないので……それに、こういうのを見てるより魔法の研究をした方が楽しいとも言ってました」

「なんか、引きこもりみたいな発言だね」

「実際その通りなんですけどね」

 

 いつもいつも大図書館に引きこもって本を読んでいる。あそこは埃くさく、パチュリーは喘息を患っているため、健康の確認のために必要以上に訪れてしまうことがあったりもする。調子が悪い時はしっかりと休んでいるとは本人の言だが、実際にそうしているところを見たことは一度もない。

 小悪魔がついているから大丈夫だとは思うのだけれど、やはりこうして考えていると心配になってくる。

 

「今度、大図書館の掃除でもしましょうか。メイドたちの仕事が減りますし、パチェの健康にも繋がります」

「……お姉さまって、よく自分から進んであんな広いとこの掃除ができるよね。自分とは関係のない場所のことなのに」

「関係大有りですよ。もしも掃除をせずにいてパチェが体調を崩したら、打てた手があったのにって思っちゃいます。そういうことがないように、いつでも良い状態を維持しないといけません」

 

 どんな些細なことでも、どんなに低い可能性でも、起こり得ると考えられるのならば対策を講じるべきだ。あらゆることに万全な準備を整えて臨み、それでも不具合が発生した時にのみ「しかたがない」と片づけられるようになる。それ以外はすべて、自分の行動によって回避できた未来であるはずなのだ。

 

「レーツェル、それはあなたの美点だけれど、同時に欠点でもあるのよ。他人に気を遣いすぎるということは、その者の成長性や向上心を摘んでしまうことにも繋がる。今回のことを例に挙げれば、パチェの健康へ気を遣う精神を衰えさせることになるのよ。その人が一人でできること、注意してなんとかなることなら、他人が手を貸す必要はない。レーツェルはもうちょっと気楽に過ごした方がいいわね」

 

 レミリアの反論に、もっともだ、と感想を抱く。他人に手を差し伸べさせてもらってばかりでは、一向に成長することなんてできやしない。救われてばかりではずっと弱いまま、迷惑をかけ続けるだけだ。だから俺もこうやって――。

 「気をつけます、お姉さま」。「……ちょっと言い過ぎたわ。ごめんね、レーツェル」。そんな会話を交わす頃には、美鈴と男の戦いも終盤に差しかかっていた。

 男が強烈な一撃を打ち出すためか、前かがみで一歩を踏み出そうとする。その瞬間を待っていたかのように、美鈴は両手で構えを取ることで男の目を引きつけながら、極々小さな足払いをかけて相手の態勢を崩した。一秒もしないうちに立て直すことが可能だろうが、その一瞬が二人の戦いでは命取りだった。

 美鈴の正拳突きが男の顔面一歩手前まで迫り、ピタリと止まる。それに合わせて男の動きも停止し、数秒後には両手を上げて降参の意を示した。

 美鈴の勝利。パチパチと、フランが拍手をして健闘をたたえる。

 

「聞き及んでいた通りの強さ……それなりに自信はあったのだが、私では到底及ばぬか。突然の手合いに応じてくれたこと、心より感謝する」

「いえ、私にとってもよき訓練の相手となりました。紅魔館に攻め入ろうとするのなら全力を持って止めさせていただきますが、手合わせならば、いつでも全力を持って出迎えさせていただきます」

「それはいい。ではまたいずれ、これからも精進を続けたのちに全力を持って挑ませていただこう」

 

 あの礼儀正しい人、誰? とフランが微妙そうな顔で美鈴を指差す。いや、確かにいつものほほんとしてるけど、同時に常日頃から律儀な性格だ。ましてや自分の在り方とさえ言える武術で競い合った相手に、試合直後の語り合いで無様なところをさらしたりはしない……はずだ。

 男が去るのを見送って、ふぅ、と美鈴が大きな息を吐いた。それから「勝ちましたよー!」と歓喜の感情をあらわにしながら俺たちのもとに駆け寄ってくる。「あ、いつもの美鈴」とフランが漏らした。

 

「おつかれさまです。さすがは美鈴ですね。武術家同士の試合なら百戦錬磨です」

「そんなことないですよ。今の勝負だって結構ギリギリでしたし、私の至らぬところが身に染みてわかりました」

「では、それを克服すれば一〇〇を越えて一騎当千ですか? 今の自分が及ばぬものが自覚できるということは、もっと強くなることができることと同義……って知り合いの鬼が言ってました。がんばってください」

「もちろんです。レーツェルお嬢さまからもらった魔法も、まだ使いこなせていませんから」

 

 足場を作る魔法――これはもはや美鈴専用の魔法と言ってもいい。俺は『光の翼』があるから空中戦で不憫を感じたことはないし、足場なんてあったら逆に動きにくい。一応は扱えるが、使わない方が強いのだから使用することがない。

 

「勝っちゃったのね。残念だわ。もしも負けたら、館周り五〇〇周とかさせようと思ってたのに」

「え……? お嬢さま、冗談……ですよね?」

「あら、これまで私が冗談を吐いたことが一度としてあるかしら?」

「滅茶苦茶ありますけど……」

 

 いじめると反応が面白い、とレミリアは美鈴をよくからかっている。どれもこれも本気で言っているわけではないが、要求を果たせなければ怒ったフリをしてさらにからかう。悪魔だけあって、悪戯とかそういうことが大好きなのだ。

 そしてこの館にはそういう輩しかいないので、律儀で真面目な美鈴が一番とばっちりを受ける。パチュリーからも、咲夜からも、フランからも。たまに唐突に俺に泣きついてくるものだから相当だ。そうして美鈴をからかった人物をちょっと叱ったりすると皆しゅんとなって大人しくなって、数日後にはいつもの調子を取り戻して美鈴に悪戯をする。もうどうしようもない。

 

「見直しちゃったわ。美鈴、意外にすごかったんだねぇ」

「ふっふっふ、そうですか? いやぁ、やっぱり褒められるのはいつだって気分がいいですね。妹さまもちょっと習ってみます? 太極拳とか」

「えー、めんどくさい。あと見直したって言ったけど、ドヤ顔で胸を張られて腹が立っちゃったから前言撤回する。やっぱり美鈴は美鈴ね。すごいけどすごくない」

「え? どういう意味ですかそれ?」

 

 こうやっていつもからかい、からかわれる。フランに翻弄され、美鈴の頭上にいくつもの疑問符が乱立していた。

 

「そうね、私も今回は褒めてあげる。もしも侵入されたら妖精たちでは止めるのが難しかったでしょうし、私が相手をすることになってたはずですもの」

「え? 咲夜さんどうかしたんですか? なんかいつもと態度違い過ぎて怖いです」

「…………あら、ごめんあそばせ。手が滑って、あなたの足元にナイフが」

「ひゃいっ!? す、すみません咲夜さんっ!? じょ、冗談ですー!」

 

 もともと今日来た武術家の男は美鈴との手合わせが目的で訪れたようなので、侵入される危険性は皆無に等しかった。それは咲夜もわかっているはずで、つまり彼女は遠回しに美鈴の強さを褒めていたのだ。それを戦々恐々とした態度で返されては当然怒る。

 黒い笑みを浮かべる咲夜と、突如つま先から一センチもない近くに出現したナイフ。武術なんてあったところで時を止められれば為すすべはなく、当然、普通に怖い。

 

「でも、ちょうどいいですね。美鈴の試合も終わりましたし、せっかくテーブルを用意したんですから、パチェを呼んで外で昼食にしましょう。今はそうしたい気分です」

「あら、名案ね。そういうわけで咲夜、一秒前にお願い」

「一秒以内じゃないんですね。いやまぁ、一秒以内では無理なんですが」

 

 瞬きをする頃にはとっくに咲夜の姿が消えていた。レミリアの命令通り、パチュリーを呼びに行ったのだろう。

 

「美鈴は新しいテーブルの準備をしなさい。ここには私たちの分しかないんだから、新しいものを。一分前に」

「もう終わってますよ」

「なに? まだ準備できてないの? もう一分経ったわよ? 今までなにしてたのよ」

「いちゃもんすぎます……」

 

 美鈴もまたレミリアに命じられ、館の方へと走っていく。それで帰ってきた時にはまた「五分も過ぎてるわよ」等と、レミリアに叱られる未来が見えた。理不尽すぎる。いつものことだけど。

 レミリアが満足そうな表情で紅茶を口に運び、そういえば一度も飲んでいなかったと俺もカップを手に取った。ちょっと冷めてしまったが、十分においしい。さすがは咲夜の入れた紅茶だ。

 

「フラン、幻想郷での……いえ、地下室の外での生活には慣れた?」

 

 レミリアの唐突な問いに、フランがこくりと頷いた。

 

「美鈴もパチェも優しいし、霊夢と魔理沙も面白いわ。あ、紫もね。言うことはいっつもわけわかんないし胡散臭いけど。ルーミアとも結構遊んだりしてて……なにより、お姉さまがよく助けてくれるもん」

 

 ここで言うお姉さまとは、おそらく俺のことだ。フランは基本的に俺のことを「お姉さま」、レミリアのことを「レミリアお姉さま」と呼ぶ。俺を呼ぶ際に名前が頭についていないのは単に言いやすく、俺の方が呼ぶ回数が多いからだ。

 楽しそうに語るフランを見やり、「そう」とレミリアは目を閉じた。

 

「でも、もう慣れてきたようなら、あんまりむやみにレーツェルを頼らないようにね。大好きなお姉さまに必要以上の迷惑はかけたくないでしょう?」

 

 ――もういっさいなんだから、あんまりむやみになかないようにね。おとうさまにもおかあさまにもめいわくがかかるから。

 一瞬、デジャブが脳裏を駆け抜けた。姉が妹に対して放つ、言い聞かせるような二言。

 俺は前世の記憶が魂に刻まれているからそれを忘れることは決してないが、しかしこの世界での経験は忘却することができる。だというのにこの頭は、生まれて間もない頃の言葉なぞよく覚えているものだ。

 それだけ大切な記憶だと、冷たい海の底から声が聞こえてくる。

 

「うん。それはそうだけど……なんだか今日のレミリアお姉さま、説教ばっかりだね」

「たぶんあれですね。いつものんきな顔してる美鈴が妙に礼儀正しくてフランに見直されてましたから、同様に姉の威厳を取り戻すために真似しようとしてるんです」

「あー、なるほどねぇ。なんか子どもっぽい」

「ち、違うわよっ! 特に理由なんてないからっ!」

 

 咲夜と美鈴が戻ってくる頃には、頬を赤らめて顔を逸らすレミリアと、そんな彼女をなぐさめる俺とフランという構図ができ上がっていた。やがて昼食の用意ができたという報告が入った時にはレミリアはあからさまに嬉しそうな顔をしており、「やっぱりちょろい」とフランが小さく漏らす。

 地や木などに積もった雪が日を受けて輝き、それが幻想郷により一層のおとぎの光景を生み出していた。目を見張るような伝説はなくとも、そこにはなによりも美しい情景が広がっている。

 新年、あけましておめでとう。ちょっと遅いそんな挨拶が、幻想郷から聞こえた気がした。



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五.静かなる冥界の吸亡

 しんしんと降り積もる雪を眺めていると、どうしても春雪異変のことを思い出す。あの時はもうちょっと強く吹雪いていたけれど、長すぎる冬と西行妖の存在は自身が思っている以上に俺の中に印象的に残っているらしい。

 吐く息が白い。だから、首元に巻いたマフラーを強く握った。あまり寒さを感じることができないからこそ、こういう動作で冬を味わうようにしたい。

 

「今日はよくいらっしゃったわ。一応お茶を入れてきたから、飲んでちょうだい」

「ありがとうございます。って、幽々子が入れたんですか?」

 

 春雪異変のことを思い出してしまうなら、と今日は冥界を訪れてきていた。ろくにアポも取らずに門を越えてきた俺を、幽々子は嫌な顔一つせずに出迎えてくれた。

 冥界もまた、幻想郷と変わらないくらいの寒さを誇っているらしい。異変の際に来た時は春を冥界が奪っていたために幻想郷と季節の違いが生じていたが、普段は大体が現世と同様に、冥界にも四季があるようだった。

 縁側に座り、幽々子からお茶をいただき、それを口に運ぶ。ほんの少し苦いながらも、いつまでも味わっていたいと感じるような――飲み慣れた紅茶もいいが、こうしてたまに口にする緑茶はとても心が落ちつく。

 

「妖夢はいないんですね」

「ええ。あの子、人魂灯を失くしたのよ。だから探しに行かせてて」

「人魂灯?」

「光を灯すと幽霊が集まってくる、冥界にしかない道具よ。主には多すぎる幽霊を誘導するのに使うものね」

 

 光に集うなんて蛾みたいだ、とか言ったら幽々子は怒るだろうか。案外「確かにそうね」と納得してくれるかもしれないが、心の外に出すのはやめておいた。

 幽々子が隣に腰を下ろすと、俺と同様に外の景色を眺め始める。紅魔館の庭は洋風で眺めているとこれまた楽しげな気分になるのだが、白玉楼の庭は和風であり、降雪に彩られる庭石や小さな池などは風情を感じさせる。自然とため息が漏れてしまうくらいには美しく、そんな俺の様子に幽々子はずいぶんと満足そうな表情をしていた。

 

「幽霊を集める道具……ですか。それを失くしたって、もしかして結構マズいんじゃないですか? 冥界で失くしたとかならまだいいとは思いますが、幻想郷で落として、それを誰かに拾われたりなんかすれば簡単に悪用ができちゃうんじゃ……」

 

 それだけではない。どういう原理かはわからないが、幽霊が集うということは、幽霊にはその光が察知できるということだ。つまりは人魂灯を持っていると悪霊のようなよくない存在も近づいてくる可能性もわずかながらにあり、そうなれば悪い人物に悪用されるよりもはるかにマズい事態が起こってしまう。

 

「ええ、そうね。人魂灯は幻想郷にあるわ」

「ある、って……どうして断言なんです?」

「だって、私には人魂灯の場所がわかるもの。魔法の森の入り口辺り……香霖堂だったかしら? そこにあるわね、人魂灯は」

 

 ……霖之助、なんてものを拾ってるんだ。しかしまぁ、今回は都合がいい人物が拾ってくれたとホッとするべきか。

 魔法の森近くなら悪霊なんていないだろうし、誰よりも道具に興味を示す霖之助が道具を悪用するだなんて考えられない。おそらく俺の知り合いの中でもトップクラスに安全な人物に渡ったと言える。そして俺と同じ考え方だからこそ、幽々子もこうしてゆったりと白玉楼で過ごしているのかもしれない。

 

「妖夢に人魂灯の場所は……」

「もちろん教えてないわよ。でも、光は灯しておいたから幽霊が集まっている場所を探してきなさい、とは伝えてあげたわ」

「それなら、まぁ、失くした罰としては十分……なんでしょうか。でも霖之助のところにあるんですよねぇ。妖夢は戦闘時とかならともかく、普段は結構弱気なところがありますし……取り返すのは苦労がいりそうです」

「冥界に住んでるくせに怪談が苦手な変わった子ですものねぇ」

 

 霖之助にはそこそこめんどくさがりの気質がある。霊夢や魔理沙のように我が強いと付き合う上にまったく問題も関係も生じないが、妖夢のように未熟さと真面目さを掛け合わせたような人物では少々キツい部分があるかもしれない。具体的には、人魂灯を返してもらいに行った妖夢が、霖之助に人魂灯の値段代わりとかのたまわれて香霖堂の雪かきをさせられたり。

 しかしそんなこともまた、幽々子にとっては織り込み済みのことなのかもしれない。そうでなく、俺がここで霖之助の性格について教えたとしても、おそらくは「あの子にとっても勉強になったんじゃないかしら」や「なくしたぶん、探して取り戻す苦労を知ってよかったじゃない」等と答えてくるだけだろう。

 妖夢も今回のことで懲りて絶対になくさないようにするはずだから、ある意味、霖之助も妖夢も得をする結果なのかもしれない。

 

「って、妖夢って怪談が苦手なんですか? 幽霊じゃありませんでしたっけ? 半分だけですけど」

「ええ、きちんと半分は幽霊よ。それなのに苦手って言うんだから、面白いでしょう?」

「……もしかして怖い話とかよく聞かせたりしてました?」

「ふふっ、本当に可愛いのよ? よく妖忌のところに泣きついたりしててねぇ……あ、妖忌っていうのはこの屋敷の前の庭師のことよ。厳格でねぇ、私もよく怒られたりしたわ……」

 

 そんな人物がいるとは、原作の知識がある俺でも知らなかった。知識と言ってもゲーム内の大雑把な会話の流れと、適当なキャラクター設定くらいしか覚えてないから、少しでもコアな部分となればわからなくなるのは当然だけれど。

 感慨深そうに目を閉じる幽々子を見ていると、その妖忌という庭師に興味が沸いてくる。いつもはしゃぎまくっている印象がある幽々子のストッパーなんて容易に務まるものじゃないし、妖夢と親しかったようであるし。

 

「その妖忌さんって方はどこにいるんです? 前の庭師って言ってましたし、今は引退してどこか別の場所に?」

「それがわからないのよ。突然私のところに来ては暇をもらいたいって言って、それっきり。まだまだ未熟な弟子の妖夢だけを残して、霧のように消えてしまったわ」

 

 その時の妖夢もずいぶんと泣きじゃくって、可愛かったわぁ。そう呟く幽々子の顔には、しかし楽しげな様子は感じられなかった。妖夢が心の底から泣いていたからか、妖忌が突然いなくなったことに自らも腹を立てているからか、あるいはその両方か。

 これ以上、妖忌という庭師について質問をするのは無粋というものだろう。抱いていた興味をまとめてゴミ箱に捨て、違う話題を脳内で検索する。

 

「……私、そういえば妖夢とあんまりしゃべった記憶がありませんね」

「あら、そうなの?」

「どちらかと言えば咲夜の方が妖夢とたくさん話してますね。宴会なんかで仲良く飲み合ってるのをよく見かけます」

 

 昨日の敵は今日の友。主人に苦労をかけられる使用人同士ということで、気が合うのかもしれない。

 

「今度、適当に話題でも考えて改めて話しかけてみましょうか」

「熱心ね。あの子のことが気になってるの? ここから奪ってあなたの館のメイドにでもするつもり?」

「違いますよ。ほら、だって妖夢ってかっこいいじゃないですか」

 

 幽々子が、本気でわけがわからない、という風に首を傾げた。

 

「可愛いの間違いじゃなくて?」

「かっこいいですよ」

「かっこが素晴らしいの間違いじゃなくて?」

「なんですかそれ。さすがに無理がありますよ。かっこいい、です」

 

 日本刀を二本、それも長いものと短いものの二刀流を使いこなし、天狗の目にも留まらぬ神速を瞬発的ながら出すことができる近接戦のエキスパート。これだけでも十分かっこいいし、いつもの頼りない感じのギャップと相まって、実際に戦う時はより一層に魅力が引き出されている気がする。

 

「剣術でもなんでも、なにかのジャンルで実力を持つ者には誰しもが魅せられます。美しい弾幕に目を奪われるように、完成された技術は人の目を引きつけるんです」

「あの子の剣は、完成って言うほど磨かれてはいないわよ。まだまだ未熟、妖忌には遠く及ばない」

「だからいいんです。今でさえ引きつけられる剣技が今後さらに成長していくと思うと、もう目が離せません。そうですね、言い方を変えるなら……ファンみたいなものでしょうか。そもそも剣術って存在自体がかっこいいですし、それを扱える妖夢には結構憧れてるんです」

 

 前世は日本人だから、特に日本刀を用いた剣技とかは憧憬を抱く。居合いで銃弾を斬ったりとか、妖夢なら本当にできそうだ。

「やっぱり変わった悪魔ねぇ」と幽々子が言う。元から強大な力を備える吸血鬼が技術を褒め称えるなんて、と。

 

「まぁ、ファンとは言っても、お姉さまには全然届きませんけどね。お姉さまは至高の邪神です」

「あの子どもがそこまで立派な存在とは思えないけれど」

「ふっふっふ、お姉さまの素晴らしさが理解できるのはほんの一握りですからね」

「一握りって、あなただけでしょう?」

「このクオリアは誰にも渡しませんよ」

「はいはい。いりませんから」

 

 気がついたら、すでに湯呑みの中身がなくなっていた。幽々子に新しく緑茶を注がれ、「ありがとうございます」とお礼を述べる。

 冥界のお茶はとてもいい茶葉を使っている。少なくとも、いつの間にかなくなっているくらいには美味しい。俺が魔道具で紅茶の茶葉を変換して作るようなものはしょせん紛い物でしかないし、霊夢が出してくれるのは二番煎じだったりすることが多い。

 

「そんなことより、あなた、確か猫になる魔法を使えたじゃない?」

「耳と尻尾を生やすだけですけどね。それがどうかしたんですか?」

 

 鋭く目を細めて、使いませんよ、と言外に伝えておく。幽々子みたいにイタズラ好きの亡霊の前で使ったら、魔理沙にやられたのと同じようなことをされる可能性が大半だ。絶対に使わない。

 

「別に今ここで使えだなんて言わないわ。ただ、聞いてみたくて。その魔法って妖夢には使えるのかしら?」

「……無理ですね。妖術を組み込んだ特殊な魔法ですから、妖力を操れる存在にしか扱えません。そもそも自分の体をいじる魔法は結構な繊細さが要求されますから、少なくとも一〇〇年間は魔法の勉強が必要です」

「あら、残念ね。猫耳の妖夢、きっととっても可愛いはずだわ、って思ったのに」

 

 個人的には、妖夢は猫よりも犬の印象がある。それも小さく可愛い系で、耳が垂れている感じだ。咲夜も印象は犬だが、あちらはお茶目な忠犬、優雅な立ち振る舞いが似合うような犬がちょうどいい。

 どちらも同じ種族の動物ではあるけれど、やはり普段の言動からイメージというものは違ってくる。俺は妖夢と咲夜を今の二つのように捉えたが、レミリアや幽々子等に言わせれば別のなにかになってくるかもしれない。

 

「猫耳ってすっごい辛いんです。いえ、猫耳が辛いって言うより、触られるのが受けつけられません」

「そうなの? あなた、魔理沙に触られて、息を荒くして気持ちよさそうだったじゃないの」

「それは、少しは心地いいですけど……慣れてないからか、それが気にならなくなるくらいくすぐったいんです」

「そういうものなのかしら。まぁ、猫として生まれたならともかく、途中から新しく追加したのなら、慣れなくて当然かもしれないけれどねぇ」

 

 妖術で化けるだけでは収まらない。猫の特徴的な部分を再現し、その効能を強化の魔法で実際のそれと近づけることで猫の潜在能力を手に入れている。赤ん坊が少しずつ体の扱い方を覚えるように、突然現れた感覚を完璧に操れるはずがないのだ。

 

「そういえば、あなたにずっと聞きたいことがあったのよ」

「私に……ですか? いいですよ、なんでも聞いてください」

「――あなたは、未来でも見えているの?」

 

 唐突な質問は核心を突くかのようなものであったが、俺は別段驚愕等の感情を抱くことはない。

 なにせいずれこういうことを聞かれることはわかっていた。春雪異変でも永夜異変でも俺の行動には不審な点が残るし、その他のいろいろなところでも浮き出ている可能性がある。

 別に俺は、自分が転生したことがバレるのはなんとも思っていない。ただ、知れ渡るのはさすがに勘弁してほしい。レミリアやフランなど、一部の親しい人物になら質問された時にきちんと答えようと思っている。

 幽々子はまだ、その域には達していない。

 

「未来なんてわかりませんよ。でも、勘か第六感とでも言いますか……そういうところが『これは違う』とか、『こうしていると危ない』って伝えてくるんです」

「私が起こした異変の際、春度を事前に捨てたのもそれがあったから? 月が歪な夜、私たちを誘導したのもそれが理由?」

「ええ、そうですよ」

「……明らかに嘘ね。でも、いいわ。絶対に話したくないという風ではないし……また今度、教えてくれそうな時に改めて聞くから」

 

 すぐに退いてくれたことには、質問された時以上に驚いた。幽々子のことだからもっとしつこく問いを投げてくるかとも思っていたが、冥界の屋敷のお嬢さまだけあって、そこらへんの配慮の心は兼ね備えているということか。

 ……他に変なところが多すぎるのに、こんな妙なところでお嬢さまの態度を発揮されても困るけど。

 

「私も前から聞きたいことがあったんですが、幽々子は紫から私のことをなんて聞いていたんです? 最初に会った時、私のことを知っていた風でしたが」

「最強の吸血鬼。油断していたとは言え、この私が負けたわ。いろいろとおかしな事情にも通じているみたいだし、結構面白い子よ……とか言ってた記憶があるわね」

「最強、ですか。私はそこまで自分が強いとは思ってないです」

「あら、そうなの? まぁ、あなたの感じ方はあなた次第だから文句は言わないけれど、あの鬼と互角に渡り合える時点で普通ではないことは確かね」

 

 あの鬼とは、萃香のことか。かつて四天王と呼ばれた最強の鬼の一人と正面から戦闘を繰り広げたことは、紫を通してか、どうやら幽々子にも筒抜けのようだ。

 互角とは言うが、あれはかなりギリギリの勝負だった。萃香は俺が何度攻撃を当てても怯まなかったし、逆に俺はまともに拳を一発をもらうだけでも致命傷になってしまう。結果的に見れば、両腕を折られて以降は俺が終始押していた感はあるが、形勢逆転される機会はいくらでもあったのだ。

 やっぱり二度とやりたくない。一応しばらくは戦わないと紫の前で鬼の名にかけて誓ってくれたけど、捻くれ者な彼女がそれを守ってくれるかは微妙なところだ。

 

「冥界ってどんな幽霊が来るんですか?」

「良くも悪くもないやつらね。善い行いをした者は天界に、悪い行いをした者は地獄に、良くも悪くもない者は冥界で転生を待つ。まぁ、私の能力で死んだ輩は永遠に冥界で私の下で働くんですけれど」

「それは、嫌ですね。すっごい不憫です、その人」

 

 あいかわらず雪はやまず、目に映る風景に冷たく白い花を添えている。桜は春、緑の葉は夏、紅葉は秋。そして冬はなにもない代わりに、雪という儚く美しい花びらを天の目が届く場所に落としていた。

 この冥界にも幻想郷と変わらず季節はある。漂うことしかできない幽霊たちにも、世界の移り変わりを享受する権利はあるということだ。

 

「冥界は静かです」

「妖精やら妖怪やら、幻想郷は無駄に賑やかですもの。住むならこういうところが一番落ちつくわ」

「紅魔館はいつもわいわい騒いでますけどね。そういうところも毎日楽しくて、結構いいですよ」

「その話している内容が怪談なら、私も喜んで集まりに行かせてもらおうかしら。妖夢を連れて」

「やめてあげてください」

 

 ――もうすぐ幻想郷が生まれ変わる。

 この言葉は誰が口にしたものだったか。紫か、幽々子か、あるいは別の誰かか。もしかしたら天狗の新聞で目にした文句だったかもしれない。

 しかし、それが冗談ではなく、きちんとした意味を持っていることを俺は知っている。

 あと少し経てば、また異変が起こるのだ。それは決して誰が起こすというわけではないが、俺の中にある原作の知識からも言える確実なことだった。



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六.罪深き無念を哀れな夜桜に

 今年の冬はいつも騒がしい幻想郷にしては、比較的穏やかに過ぎ去ったものだと感じた。事件らしい事件が起きることはなく、霊夢も大抵は神社でコタツにこもっていたように思う。

 何事もないと時が過ぎることが早く感じてしまうものだ。いや、少し違うか。何事もない時は異常に長く感じるのに、実際に振り返ってみると中身がなにもないせいで、過去が短いのではないかという感想を抱くのだ。

 とは言え、騒がしいにせよ騒がしくないにせよ、己が歴史は実際に過ごした年月よりもはるかに簡潔で短時間なものとして振り返ってしまう事実は変わらない。それは現在から続く未来が幾重にも絡まったツタのようなものであることに比べ、過去とはすでに終わっている、結果が出てしまっている一つの塊だからだ。

 未来にありえるかもしれない夢を馳せることは、その正体が可能性という無限のものであるからこそいくらでもすることができる。しかしとっくに終焉を迎えた過去に可能性なぞあるはずもないため、それは為せず、ゆえに幸せだった思い出さえも限りなく簡素なものとして思い返してしまう。

 過去は未来よりも簡単に色褪せる。一見残酷な事実に見えるけれど、それは嘆くべきことではない。過去を糧に常に先を見据え、精進することこそが正しい道なのだ。生き物に組み込まれた過去から未来へと続ける思考の規則性は、あらゆるものの零が定めた真なる心持ちへ通じる道しるべである。

 

「大体が、本に書いてあったことなんですけど」

 

 倉庫魔法は仙術――仙人が扱う術を応用して作った魔法だ。その過程で仙人が読むような本を俺も目にすることがあり、そこそこ印象的だったので記憶に残っていた。

 春。原初たる白は暖かく鮮やかな色に染まり、寒さの内に沈んでいた幻想郷の陽気さが目を覚ます。明るい色彩に誘われた人間や妖精、妖怪や神仏が騒ぎ立て、始まりを祝うかのようにどんちゃんと目出度い花見を繰り返した。

 何日も連続で花見をやったことも記憶に新しい。最初は神社でやっていたそれも香霖堂の裏にある桜が咲き乱れると場所をそちらに移し、その時までは花見に参加していなかった霖之助もなんだかんだで楽しそうだった。

 そんな愉快な日常の中にもまた、しかしそこには誰しもが気づいてしまうようなとてつもなく大きな異常が混じっていた。

 花が咲いていたのだ。桜、菜の花、ハナモモ、椿――紫陽花、向日葵、コスモス、楓。春には決して咲かない違う季節のものまでもが、幻想郷中で満開に咲き乱れていた。

 

「……まぁ」

 

 霊夢や魔理沙、その他いろいろな面子がその異変の調査に行ったらしいのだが、あいにくとその時の俺は体調を崩していたために詳しくは知らない。

 未だ季節に合わない花は咲き続けているけれど、霊夢いわく「六〇年周期で定期的に起こる異変なんだって。六〇年よ、六〇年。そんなのわかるわけないじゃない。それに死神のボスに異変とはまったく関係のないことで怒られてさぁ。そうよ、今回の異変は自然に起こるものなんだけど、彼岸のやつらがしっかり仕事をしてれば今回ほどひどくはならないって聞いたの。要するにあいつらが仕事をサボっていたせいで、花やら幽霊やらがそこらに溢れ返ってたわけなのよ。つまり今回の異変は私ががんばろうががんばらまいがどうしようもないってこと。あー、無駄足踏んだわ。それにあいつら……早く解決してもらわないと私の威厳に関わるってのに」とのことらしい。こんな感じで延々と愚痴を聞かされたのは記憶に新しかった。

 幻想郷中を覆う博麗大結界はどういうわけか、六〇年を境として緩むようにできているらしい。その影響で外の世界の幽霊が大量に迷い込み、それらが花に入り込んだせいで季節から外れた花さえも咲き乱れ、さらにはそこにも入り切らない大量の幽霊が必要以上に飛び交っていたようだ。俺の体調が著しくなかったのも、外の世界と一時的に繋がりやすくなっていたせいで、前回のように記憶が原因の不具合が生じていたからだろう。

 言われるまで気づかなかったが、確かに幽霊も多い。冥界と幻想郷との行き来が簡単になったおかげで元々多くなっていたけど、今回ばかりはその比ではないくらいだ。

 

「紫の桜も風情があっていいですね。こんなの初めて見ました。あなたも、綺麗な花たちだと思いませんか?」

 

 真夜中。人里にでも行こうかと思って林を歩いていたところ何者からかの視線を感じ、目的地を急遽変更して無縁塚までやって来ていた。ここは幻想郷でもかなり危険度が高い場所と知られているので、よほどの用事でなければ追ってこないだろう。そんな思いを抱いて無縁塚に訪れたけれど、どうやらその『よほどの用事』らしい。

 無縁塚に咲き誇る桜の花びらは、他の場所のそれと違ってすべてが紫色だった。地に彼岸花が大量に開花していることも相まって、冥界とはまた違った侘しい死の世界に来たのではないかと錯覚さえ覚えてしまう。

 一際大きく風が吹き、不気味な色の花弁が散った。耳を打つ空気の雑音に混じって足音が耳に届き、その方向に振り返る。

 そこにいたのは鋭く細めた瞳で俺を見据える、厳格そうな雰囲気を纏った一人の少女だった。

 緑色の髪は左側と比べて右側が少し長く、その上に、周りに黄土色の飾りがつけられた深い緑の帽子をかぶっている。生と死を表すであろう、とても長い紅と白の二本のリボンをそこから垂らしていることも特徴だ。着ているのは一昔前の中国にありそうな厳格な服装に少女らしい可愛げなアレンジを加えたようなもので、下はスカートだ。そういうところや童顔と合わさって、どこか子どもっぽい印象も受ける。

 その手にはひどく自然な所作で笏が握られており、いつもこうやって手に持っているのだろうなと感覚的に察した。

 

「紫の桜は罪深い人間の霊が宿る花……彼らは、本当は白色になりたいと思っている。決してできないことを、すなわち犯してしまった罪を清算することを願っている。それを知ってもあなたは、これを美しいと言えますか?」

「罪の花、汚れを映した花弁……というわけですか? 確かにこんな色の桜の花見をしたいとは思いませんが、こんな儚いものを一人で観賞するのもいいかもしれませんよ」

 

 そんなことよりあなたは? そう問いかけると、「申し遅れました」と少女が小さな礼をする。

 

「私は四季映姫・ヤマザナドゥ。罪を裁く者、紫の桜の霊を無間の底に落とす者、地獄の閻魔です」

「閻魔さまですか。とりあえず映姫って呼ばせてもらいますね。私はレーツェル・スカーレット。幻想郷にある霧の湖の畔の館に住む、吸血鬼です。それで、かの閻魔さまであられる映姫が私のような一吸血鬼になんの用なんですか?」

 

 今回の異変、すなわち六〇年周期の大結界異変には俺は一切手出しをしていない。体調を崩していたことも理由の一つであるが、俺が知る異変の中で今回のそれが一番危険が少ないのだ。なにせただ花が咲き乱れるだけであるし、誰が起こしたわけでもない自然の起こした異変だ。

 四季映姫・ヤマザナドゥ、と言ったか。一応、俺の原作知識の中にも彼女の情報はある。説教好きな閻魔、と言う程度の役に立たないものでしかないのだが。

 もしかしたらこうして俺を訪ねて来たのも、なんらかの説教をするためなのかもしれない。そう考えるとすぐにこの場を立ち去りたくなってきた。わざわざ人気(ひとけ)のないところに行って、重要そうな話なら聞いてあげようという考えが間違っていたのだ。『光の翼』で逃げておけばよかった、と若干後悔する。

 

「あなたは罪を咲かす紫の桜に魅せられた。常人ならば無意識のうちに避けてしまうような不気味なそれを美しいと称しました。紫の桜はすぐに散る、罪に塗れた地獄の花……」

「……えっと、なにが言いたいんです?」

「そう、あなたは自身が償いようのない深い業を背負っていると思っている。そして、それが誰かに裁かれることを望んでいる。だから、これから深い闇の中に落ちゆく哀れな魂にさえ焦がれてしまったのでしょう。犯した罪に他の何者かから正式な罰が与えられることを、羨ましいと感じてしまったのです」

 

 ……またこのパターンか。萃香と初めて会った時にも、こんな感じで見透かされたような話をされた記憶がある。

 彼女が閻魔だというのなら、俺がやって来たことを余さず知っていてもおかしくない。閻魔とは死後の魂がどこに行くかを決める者なのだから、裁く存在の過去を熟知していなければならない。

 俺はまだ生きていて、全然死ぬ気もないのだけれど。

 

「仕事に戻った方がいいですよ。私なんかに説教するより、きっとその方が有意義です」

「裁かれることを望んでいながら、けれどあなたが切望することは、地獄に落ちることではない。天界に昇ることでもない。冥界に送られることでもない。いや、裁かれたいと思っていながら死後のことなんてどうでもいいと考えている。不思議ですね。矛と盾……その組み合わせの意味を、あなたなら理解できていることでしょう」

「無視しないでください。あなたが無視するなら私も同じようにしますよ。本当は人里に行きたかったんですし……もう行きま――」

「そう、あなたは常に矛盾している。裁かれたいと思っていながら、本心では思っていない。羨ましいと感じていながら、本心ではああはなりたくないと感じている。誰かを守りたいと誓っていながら、本心では、心の底では――いつも、誰かに救ってほしいと願っているのです」

 

 帰ります、と。口からでかけた言葉が、どうしてか止まった。

 

「罪を清算し、忘れたいと、誰かに『もういいんだよ』と赦されたいと考えているのです。外面では救いを拒みながら、内心ではいつもいつもそうやって助けてほしいと泣き叫んで……あなたは恐ろしいほどに自分に正直ではない。いつだって自分で自分を苦しめ、どんなに辛くても気づかないフリをする。非常に嘆かわしいことです」

「……辛くなんてありませんよ。お姉さまがいて、フランがいて、パチュリーも咲夜も美鈴も……霊夢たちだっているんです。これだけ恵まれていて辛いだなんて」

「その誰もがあなたの心を助けてくれない。あなたはいつも一人……暗い海の底で、上がろうともせず地上の光に焦がれ続けているのです。そもそもあなたは助けてくれようとしてもそれを受け入れないでしょう。救われたいくせに、あなたがあなた自身を救おうとしないから、誰もあなたを救うことができない。やはり矛盾しています」

「違いますよ、全然」

 

 頬に手を触れて、それが無表情であることを確認する。

 そもそもだ。映姫は俺が赦されたいと考えているなどと言ったが、俺が"狂った帽子屋"になったのはそんな程度の低い理由からではない。

 俺の両親は、前世の記憶と精神を引き継いでしまった紛い物の娘である俺なんかに愛情を注いでくれた。父が迎えた元人間の眷属の義母もまた、母を失ったことで傷ついていた俺やレミリアを快く受け入れてくれた。

 そんな、俺を愛してくれた、俺も大好きだった人たちを、俺が俺自身の不注意で殺したんだ。

 

「罪が償い切れるとか、罰で贖い切れるとか……欠片も思ってないですし、実際ありえません。それでも償って、贖い続けるんです。私にはそれを突き通せる便利な能力があります。最後の最期まで自分を騙し切れば、それはもう本当のことでしょう? 私は救われたいなんて思っていない。私は気づかないフリなんてしていない。私はただ皆と一緒に生きて、幸せそうに生を終える。それはそれは素晴らしいハッピーエンドじゃないですか」

 

 その過程でどれだけ俺が傷つこうが、どうでもいい。どうせ悲しくない、辛くない、苦しくない。

 もう二度と、俺の大切な――俺なんかを大切に思ってくれる人たちを、失ってはいけない。ありとあらゆる俺のすべてをかけて、どんな害からでも守り通し、幸福の『答え』を迎えさせるんだ。

 それから、俺の罪の結果として狂気を宿したまま生まれてしまったフランが、最初から最後まで幸せにいられるように、彼女の面倒を見続ける。親殺しがその子どもの世話をするというのも、滑稽な話だけれど。

 その二つの誓いのためになら、こんな価値のない存在(レーツェル・スカーレット)をいくらでも差し出そう。犠牲にしよう。幸いこの体は吸血鬼の中でも優秀な方らしいから、そこそこ役に立てる。

 そうして意味なき生の果て。きっとその時、ようやく俺は死することだけが許されるのだと。

 

「……そのまま自分を騙し続けていては、あなたは死後に地獄にすらいけなくなる。どこにも行き場がないがゆえに、私が手を下すまでもなく、『無』へと転化してしまうかもしれない。それはあなたが考えているよりもずっと忌々しい……この世のすべての命が忌避することです」

「構いませんよ。どうせ私は『答えのない存在』ですから」

「それに、罪を裁けるのも、それに罰を与えられるのも、私たち閻魔だけです。それをあなた自身でやってしまおうとは、単なる傲慢にしかすぎません。あなたは自分の行いを反省し、己が業を自覚しつつ、善行を積んでいけばそれでいいのです」

「傲慢でもなんでも構いません。知ったことじゃありません」

「……実はあなたは、きちんと善行は積んでいるのですよ。だから最初は、あなたに会いに行くつもりはなかった。説教をするつもりでもなかったのです。まだ取り立てて注意するような段階ではありませんから。実際に会話してみて、山ほど説教したい気分になりましたが……今日は時間がありません。でも、ただ一つ……これだけはあなたに教えておかなければならないでしょう」

 

 目を細め、まるで子どもをなぐさめるような表情で、映姫が俺を見る。

 霊夢から話を聞いていた限り、この映姫という閻魔は相当な説教好きらしい。それが説教をやめて一つだけと言うのだから、本当に時間が押しているのだろう。

 このまま延々と説教が続くようなら正直逃げるつもりだったけれど、最後ならいいかと、耳を傾けた。

 

「――――あなたの両親とその眷属が死んだのは、あなたのせいではないのですよ」

 

 そうして心臓が、思考が、血が、時間が、すべてが止まる。

 

「それはあなたの罪としてはカウントされていません。閻魔の私が言うのだから間違いありません。あなたはただ、自身の内にこびりついている罪悪感を消したいだけなのです。あなたは少々特殊な身の上のようですが……それでも私の手鏡を通して見たそれは、あなたの罪ではないと断言できるものでした。あなたの最大の罪は親を殺したことではなく、親が亡くなった日より前のことを悔やみ続けていることです」

「…………罪じゃない……? 私のせいじゃ、ない……?」

「あなたははるか昔のその日より前に、とてつもなく大きな後悔を抱えている。あの時こうしていれば、あの時ああしていればと……そうやって自分のやってきたことの否定をし、後悔することは非常に重い罪になるのです。さらに言えば、あなたがあなた自身を罰と称して傷つけていることも罪となります。自身の体を大事にしない者は決して救われません。ましてや無理矢理自身を騙し、抑えるなんてことは……」

 

 映姫がなにか言っているが、耳に入らなかった。俺の頭の中を占めるのはただ一つ、あの三人が死んだのは俺のせいではないという一言。

 ――血飛沫と肉片、ちぎれた臓器が飛び散った部屋中に、無邪気な赤子の泣き声が木霊する。

 ――頬を垂れる生温かい物質を指で掬ってみれば、それは白と赤が混ざり合った泥状の液体だった。

 ――弾けた母の目玉だと気づくのに、少しの時間を費やしてしまう。

 ふいと、なにかがへばりついているのではないかと、恐る恐る自分の頬に手を触れた。しかし白い泥状のなにかも、悲しみの涙も、なにもない。あるのはただ、先へと進むために手に入れた『答え』をなくす仮面だけだ。

 ――無邪気に首を傾げる彼女の足元に、あの眷属の女性がつけていた青い宝石の首飾りが見えた。

 ――飛び散った紅蓮の液体にまみれて、その輝きはすでに米粒ほども残っていない。

 罪ではない?

 俺には、彼女たちの死を防ぐ手段があった。原作知識という未来予知にも等しき力を見つめ直し、幸せに酔いしれず未来を見据えていれば、彼女たちとフランに幸福を与えられるだけのことができた。

 俺が殺した。方法があったのに講じなかったから、不幸を呼び寄せた。より幸福な外史へと向かうことができたはずなのに、臆病ゆえに生の意味を失い、無意味に正史へと歴史を進めた。

 愛してくれた者たちを見殺しにした。

 だというのに、この世のすべての善悪を判断する閻魔である彼女が罪ではないなどとほざくなんて、おかしいじゃないか。

 ――まるで風船を爪楊枝で突っついた時のように、まるで体内の爆弾が起爆したように、呆気なく。

 ――血飛沫と肉片、ちぎれた臓器がレミリアの周囲に飛び散った。

 ――本人にもかかった肉の欠片を、呆然とした様子で掬い上げて。

 思考から意識を離し、じっと映姫の顔を見つめた。俺のせいではないと言った時と変わらない、誰かを諭そうとするような優しい表情だった。

 それを見て自分が、すぅー、と平常心を取り戻していったのを感じ取る。

 

「ああ……そういうことですか」

「……納得してくれましたか? 私はもう帰りますが、これからも善行を積んでいくように。それから、あなたの罪は大きくなりすぎている。また今度、それを裁きにやって来ますから、そのつもりで」

「ええ。待っていますよ……ずっと」

 

 映姫も忙しい身の上なのだろう。言うだけ言うと、すぐに背を向けてどこかへ飛び立って行ってしまった。

 風が吹いた。紫の花弁が舞い、目の前を横切ろうとする。その一枚をギリギリのところで掴んで、ゆっくりと拳を開いた。

 両親とその眷属を殺したのが俺のせいではないというのなら、きっと俺は、白い桜になることができるのだろう。後悔をやめて、自分を誤魔化すことをやめて正直になれば、この美しくも儚い罪深き花びらを咲かすことはないのかもしれない。

 こんな価値のない存在でも、正しい終わりを迎えられる可能性がある――。

 けれどそれは、傲慢なんて言葉では言い表せないくらいに、俺の中では罪深いことだった。

 

「映姫。きっと閻魔には、罪の重さがわかるんでしょうね。誰よりもなによりも、正しすぎるくらいに正しい善悪の基準を持っている……あの人たちが死んだのが私のせいじゃないというのも、本当のことなんでしょう」

 

 でも、と手の中に捕らえていた花弁をパッと離した。

 頭の中に浮かんだのは、俺を見る、子どもをなぐさめるような優しげな表情――同じところに立とうとしない、上から目線の善の心。

 

「……きっとあなたには、気持ちの重さがわからない」

 

 母が死んだ時。母代わりの眷属の女性が死んだ時。父親が死んだ時。

 あの時に感じた思いは、感覚は、今でも鮮明に思い出すことができる。悲しさ、辛さ、苦しさ、悔しさ、どうしようもない喪失感。

 クオリア――俺が俺だからこそ抱いた思いの重さは、閻魔であろうと決して推し量ることはできない。

 

「罪に、ではありません。きっと私は、私を愛してくれた三人の気持ちに償いと贖いをしなければならないんです」

 

 志半ばで死に絶えることなんて誰も望むはずがないのだ。

 母はずっと名残惜しそうだった。眷属の彼女は、まだまだ父と一緒にいたかったと思っていたはずだ。父は最後の最後まで、フランを……俺のせいで生まれた狂気を恨んでいた。

 たとえ彼女たちの死が俺の罪ではないのだとしても、彼女たちの抱いたすべての気持ちを背負う責任が俺にはある。いや、なければならない。

 あの傷と悲痛は絶対に忘れてはいけない。そうでなければ、誰が彼女たちの無念に『答え』を捧げるというのだろう。

 

「どうせ私は『答えのない存在』です」

 

 『レーツェル・スカーレット』とは、自身が生まれたせいで発生した歪みがひどくならないよう、大切な誰かが不幸にならないよう、必死に正史になぞらせてようとしている哀れで意味のない存在。

 いつまで経っても『答え』はないまま。

 ああ、もう。正史とは俺がいなかった世界なのだから、正史なんて求めるくらいなら、最初から産まれてこなければよかったのに。

 

「大切なものを必ず守り通します。フランに望むままの幸福を与えます」

 

 そして俺がその過程でのありとあらゆる苦痛のすべてを受け入れる。その重苦だけが、俺のせいで無念に消えて行ったあの三人への唯一の罪滅ぼしとなるのだ。

 

「私は"狂った帽子屋"……正の感情も負の感情も存在しない、ずっと同じ場所で回り続ける狂人です」

 

 その言葉に、返答はない。誰もいないのだから当然だ。当然だから、当然だから。

 ああ、胸が痛いな。

 まだ大結界が緩んだ時に崩れた体の調子が、完全に戻ってはいないのかもしれない。このまま人里に寄ろうと思っていたけど、諦めてもう帰ることにしよう。すぐに寝て、また明日、いつものように目を覚ます。

 五〇〇年。いつも繰り返していた通りに、当然のように。

 翼を広げ、トンっと地面を蹴った。夜空はあいにくと雲で隠れて、月どころか星すらも窺えない。紫の桜が美しいだけにセットで見れないのは非常に残念だった。

 ふと、帽子になにかが引っかかっているのが視界の端に見えて、それに手を伸ばして目の前に持ってくる。

 それは一目で一際に濃いとわかる、一枚の紫の桜の花弁であった。



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七.数多の妖怪、神、そして御阿礼の子

 ――映姫との対談から、すでに一月近くの時が流れていた。この頃になると季節から外れた花をようやく見なくなり、幻想郷も普段の様子を取り戻していた。

 あの日、あの時、閻魔からの教えで、俺はかつての自身の行動に罪がないことを知った。館に帰ってから今に至るまでずっとそのことについて考え続けていたけれど、やはり俺の中で導き出される『答え』はいつだって『俺に責任がある』だ。

 罪がないのに、それが絶対の存在から証明されたのに、どうしてそう感じてしまうのか。

 映姫は俺が消したいものは罪ではなく罪悪感だと口にしていた。閻魔が言うのなら、ああ、きっとその通りなのだろう。そこから思考を広げ、そして、俺はだからこそ自身に責任があるのだと結論を出した。

 母と父とその眷属が死んだのは、きっと俺のせいではない。運が悪かった、間が悪かった、元々そうなるはずのことだった。なるほど、言いようはいくらでもある。だけど、違う。逆だったのだ。俺が背負うべきは彼女たちを殺した罪ではなく、彼女たちを救えなかった責任だった。

 死にゆく運命にある三人を救えるだけの要素が手元に揃っていて、それに気づこうとせず、行使しなかった。自身の正体がバレることを恐れ、未来を考えることを忌避し、ただ臆病だったがゆえに生きる意味を失って、『答えのない(元々いなかったとしても変わらない)存在』になった。

 愛されていたのに、救われていたのに、俺だって心の底から慕っていたのに、紛い物の娘を育ててくれた礼が果たせなかった。彼女たちの気持ちを無為に、俺のせいで『答え』のないものにしてしまった。

 もうなにも取り返しなんてつかない。ありがとうも、ごめんなさいも、なにも言えない。残ったのは、どうして未来を見据えなかったのかという後悔だけ。

 "狂った帽子屋"とは、あの三人の無念を引き継ぎ、己が幸福のすべてを大切なモノへと捧げ、命と心を賭して恩返しにも似た懺悔を繰り返す狂人なのだ。

 

「日差しが……この時期になると、強くなってきますね」

 

 霖之助製のローブを纏い、フードをかぶり、人間の里の中を歩いていた。人間化魔法によって翼をなくし、悪魔としての気配もできる限り断っており、観察眼がある者でも『半人半妖』等としか窺えないだろう。見破る系統の能力を備えた者が人里にいるのなら別であるが。

 真夜中に素の状態で行くと、人間妖怪問わずに皆怯えて俺から離れていくから、変わった風貌にちょっと目を向けられるだけというのはずいぶんと気楽だった。

 そうして一人歩いていると、視界の奥に結構大きな和風の屋敷が見えてくる。慧音から聞いた話によれば、今俺が進んでいる方向にある大きな屋敷とのことだから、あそこが俺の目的地となるところのはずだ。

 そうして歩いていると、やがてその建物の門の前にたどりつく。表札を確認すると、そこには『稗田(ひえだ)』と書かれていた。俺が目指していた場所で間違いない。

 

「……さて、行きましょうか」

 

 そう呟いて門に手をかけた時、背後に誰かが立つ気配を感じた。

 半ば確信しつつ、ゆっくりと振り返る。

 

「おはようございます」

「ええ、おはようございます。私の家になにかご用でしょうか?」

「僭越ながら、見せていただきたい資料があるんです。ここには幻想郷のすべてが詰まっていると慧音から聞いてきたので」

 

 俺より少し高い程度の身長しかない少女が、おそらくは俺が半妖であると判断した上で、控えめながら憮然とした面持ちで対応する。人間は普通なら、たとえ半妖であろうと少なからず警戒して威圧的か、もしくは保身的になりがちだが、未だ若いはずの彼女にはそれがなかった。

 若草色の長着の上に、花の柄が描かれた黄色の着物を羽織り、長い赤いスカートを穿いている。セミロングにした紫色の髪の左側に花の髪飾りをつけており、花が咲くような美しさと同時にすぐに散ってしまいそうな儚さを連想させた。

 

「慧音さんから……そうですか。わかりました、どうぞ中に入っていってください。資料は幻想郷に二つとないものばかりなので貸し出すことはできませんが、正当な理由があるならばいくらでも見せることは可能です」

「ありがとうございます。私は、レーツェル・スカ……」

「スカ?」

「すか、スカリエッティと申します。あなたは?」

 

 危なかった。スカーレットなんて言えば、勘がいい人ならすぐに霧の湖にある紅い館の吸血鬼だと気づいてしまう。適当な名字を咄嗟に言ったけれど、なんとなくそれっぽいし、嘘だと見破られることはないはずだ。

 

「私は稗田阿求(ひえだのあきゅう)と申します。どうぞお見知りおきください」

 

 稗田阿求――彼女もまた東方Projectのキャラクターであるのだが、残念ながら、俺の中には名前がうろ覚えで残っている程度で、映姫以上に役に立つ情報がない。というか名前しか情報がない。

 慧音からは「幻想郷が幻想郷と呼ばれる頃より前から人々のために妖怪の弱点や特徴等をまとめ上げて来た、由緒正しき稗田の家系」と聞いている。また、一〇〇年とちょっとを境にして御阿礼の子という、記憶力が非常に高い子どもが生まれることがあるようだ。稗田阿求はまさにその御阿礼の子であり、一度見たものを忘れない力を持ち、頭脳が発達している。反面、その代償か体は弱く、妖怪と比べてただでさえ少ない人間の寿命が彼女の場合は三〇年程度しかないらしい。

 阿求が俺の前に立ち、門を開け、先頭に立って敷地内へと案内してくれる中……ふと、俺の力で寿命の延長は可能だろうか、なんて考える。

 歩きながら試行錯誤を重ね、限定的にならば可能である、という解答が導き出された。

 俺自身の寿命を延ばすだけならばとても簡単にできる。五〇〇年程度もずっと表情をなくし続けてきているわけだから、『年月を経ることによって起こる身体の成長、老化という答えをなくす』とすれば今の体を維持したまま永遠に近い時を生きることが可能だろう。

 しかし他人にそれをやるとなると話が別だ。俺の能力を他人に適用させる場合、基本的には対象に触れていなければならない。しかも手を離すと効果がすべて切れ、元に戻ってしまう。俺と触れ合う等、つまりは手を繋いだりしている場合のみだけ老化を止めることが可能であり、その他の時では普通に寿命を消費していくことになる。

 睡眠時間を九時間と仮定して、その間だけ触れていたらどうなるのだろう。一日が二四時間、そのうち九時間をなくすわけだから二四対九。阿求を対象と仮定すると、寿命が三〇程度なのだから三〇……いや、すでに一〇年と少しの年は取っているだろうだから、三〇から多めに一五ほど引いておこう。その答えは一五だから、x(エックス)を延長ぶんとして一五対x。

 二四対九イコール一五対xで、二四xイコール一三五……xイコール、五点六二五。たぶん。一日九時間寿命を進まなくしていった場合、五年半ほどならば寿命を延ばすことができるということになる。

 

「さきほどからずっと考え込んでいる様子ですが、なにか不安なことや不満な点がおありですか?」

「えっ? あ、いえ、今日の昼のご飯のことを考えてました。この場所が気に入らないとか、そういったことは全然ないです」

「そうですか、それはよかったです。さぁ、どうぞこちらへお入りください」

 

 とは言え、仮定の話だ。阿求とは今知り合ったばかりであり、そもそも毎日一緒に寝るとかよほどの仲でなければ普通はしない。ちょっと気になったから計算してみただけだ。

 考えに没頭しすぎていたのか、無意識のうちかいつの間にか靴も脱いでいて、屋敷の中で一つの和室に案内されていた。

 誘われるままに中に立ち入ると、後から入ってきた阿求が部屋の隅から座布団を持って来て、中央辺りに二つ置いた。どうぞ、と扉から近い方に手を伸ばしていたので、「ありがとうございます」とそこに座る。その後、「お茶を入れてきます」と阿求はしばらく席を外し、少しだけ暇な時間が続いた。

 そうして数分ほど経ったのち、お盆を手に戻ってきた彼女は「お待たせしました」と俺の前に茶托に乗った湯呑みを置いた。お礼を言うと笑顔で返され、阿求は俺の対面に腰を下ろした。

 

「それでは、改めて要件を窺いさせていただきます。資料をご覧になりたいとのことですが、どのような種類のものをご希望ですか?」

「私が知りたいのは、現役で力を持っている妖怪や神などの種族の情報です。ありますか?」

「もちろんありますよ。ですが、神も、となると少々多すぎますね……」

 

 八百万の神、なんて言葉もあり、実際それだけ神類が存在している。いくらか限定する必要があるのは確かだ。

 

「それなら幻想郷と近しい関係にある神の方々の情報をお願いします。あ、力を持っていると言っても、戦闘面での話です。富やらの面で優秀な類の方々の情報はいりません」

「なるほど、わかりました。まずはなにから話しましょうか……」

 

 自分の分のお茶を口に含み、そうですね、とそれを茶托の上に置いた。

 

「天狗にしましょう。力があるのはもちろんですが、新聞を作っている関係上、私たちとも多くの接点があり、非常に有名です」

「えっと、その、話すのですか? 私は資料を貸していただければ、手を煩わせるまでもなく……や、口? 口を煩わせるまでもなく勝手に調べますよ」

「本来なら幻想郷縁起という書物を見せるのが一番早いのですが、あいにくと先代のそれは博麗大結界が張られる前に書かれたものなので、現在力を持っている妖怪や神が対象となると役に立たない部分があります。今代の幻想郷縁起はまだでき上がっていませんし……他の資料もレーツェルさんのように多くのことを知りたいという場合では同じく適していませんから、そのすべての資料と幻想郷縁起を暗記した上で今の幻想郷を生きている私が話した方が、おそらく確実性があるでしょう」

 

 それとも私との会話では得るものも得られませんか? なんて阿求がちょっと不安そうに聞いてくるから、俺はすぐに首を横に振って否定した。阿求と話した方が効率がよくて確実でもあるなら、その方が断然いい。

 

「天狗の前に、一つ聞いてもいいですか?」

「はい、なんでしょう」

「幻想郷縁起って、なんの本なんです?」

 

 ああ、と阿求が頷いた。

 

「妖怪の方なら知らなくても無理はありませんね。幻想郷縁起というのは、元々は稗田阿一……すなわち私の遠いご先祖さまが書き始めたもので、妖怪等の危険な者たちの特徴や弱点、対策法を記載し、人間を守るための書物として機能してきました。御阿礼の子の一代で一冊として、合計八冊ほどこの家に保管されていますね。私も九代目として次の幻想郷縁起の編纂に携わっていますから、近いうちに幻想郷縁起の数は九冊になると思います」

「人間を守るための……いいですね、そういうの。助け合いの精神というのは、人間だからこそっていう気がします」

「今の時代は争いもほとんどなくなりましたから、人間を守るためという意義もあまりなくなってきましたが……その辺りはアレンジを加えることで、新しい在り方を確立したいと考えています。と、脱線しましたね。話を戻しましょうか」

 

 コホンと咳払いをした阿求は、居住まいを正して俺に向き直った。

 

「まずは天狗のことをお話ししましょう」

「お願いします」

「レーツェルさんも幻想郷に住む妖怪なら何度か耳にした、あるいはよく知っているかもしれませんが、天狗とは鬼とともに古来から語り継がれる古参の妖怪です。いえ、ただ一口で妖怪だと表現するのは少々間違いがありますか。天狗は山の神ともされていますから、妖怪であると同時に神であるとも言えます」

「神格化、っていうのですね」

「その通りです。今は妖怪の山の頂点として君臨してはいますが、元々は鬼を天下として、天狗はその配下でした。現在、妖怪の山で独自の社会が築かれていることはご存じだと思います。実はそれは鬼たちがいた頃の社会を基盤として発展した、なんて説もあるのですよ」

「鬼……ですか。知り合いに一人いますけど、滅茶苦茶強かったですね。もう二度と戦いたくないです」

「……よく生きてましたね」

 

 頬を引きつらせ、同時にその表情には若干の驚愕が見られた。今の俺は翼がないし悪魔としての気配も薄いし、ちっちゃいし、鬼とやり合えるほどに強そうな印象がないからだろう。

 

「ま、まぁとにかく、鬼の配下であったとは言いましたが、その力は決して生易しいものではありません。鬼なんて最強の妖怪種と名高い種族なんですから、その配下の代表とされていた天狗が弱いはずがないのです。一部の天狗は、時には鬼に匹敵する力すら持ち得たとも聞きます」

「ははあ、すごいんですねぇ」

「とは言え、天狗は普段は可能な限り力を隠しているので、今どれだけの力を持っているかは実は定かではありません。明らかに弱い相手には威圧的に出ますが、強そうな相手には下手に出るヘタレ……あ、いえ、今のはなしでお願いします。そう、狡猾、ずる賢い……うーん、まぁなんでもいいですね。とにかくそんな感じなので、実際の力のほどはなんとも言えません。ただ、かなりの力を備えているだろうことは確かでしょう。身体能力も妖術能力もどの妖怪にも引けを取らず、特に飛行速度となると右に出る者は吸血鬼くらいしかいません。それだけ強くなければ、鬼がいないと言えど、さまざまな妖怪が存在する山の中で頂点にいたりなどしませんから」

 

 さらっと流れるように辛辣な印象を漏らしていたが、言及するのも怖いのでスルーをしておく。

 

「他に天狗の特徴としては、全体的に陽気で酒豪であることが挙げられますね。同じく酒豪である鬼と最後までともにお酒を飲めたのは天狗だけとまで言われているほどです」

「鬼の酒豪っぷりはすごいですよね。私の知り合いは無限にお酒が湧き出てくる瓢箪を指して『これは空気と同じだよ』とか言ってました」

「それはさすがに飲みすぎですよ……他に天狗の特筆すべき点としては、一つ、多くの種類と役職の天狗がいること。山の自衛隊として機能する白狼天狗、事務をしているという鼻高天狗、新聞等の印刷を担当するらしい山伏天狗、とにかくすばしっこい報道部隊の鴉天狗、管理職の大天狗、すべての天狗のボスである天魔等……それぞれに別々の特性があり、一概に天狗の特徴としてまとめるのには実は無理があります」

 

 それぞれの天狗のことも詳しく説明しますか? と問いかけてくるので、首を横に振っておいた。天狗のことだけ一気にそこまで覚えてもしかたがないし、というかそんなに急に覚えられないだろう。

 

「二つ、仲間意識が高いこと。味方がやられると全員が敵対の姿勢を取り、山に侵入者が現れたとなれば総出で排除にかかります。いざ戦闘になることがあっても、できるだけ戦わないようにすることが賢明です。一人の天狗を相手にするということは、天狗という種の全体を相手にすることと同義と考えるべきでしょう」

「……むぅ、めんどうですね」

「通常の妖怪なら、たとえ自分と同種の妖怪が争っていても無駄に手を貸したりはしませんからね。だからこその天狗の特徴として挙げました」

 

 天狗は種族というよりも、天狗という組織であると考えた方がいいのかもしれない。種類も多いらしいし。

 

「三つ、風を操ること。これは物理や噂に問いません。天狗の怒りに触れてしまうと竜巻を起こされて家を壊されるということもありますし、あることないことを言いふらされてそれが風の噂として広まり、里にいづらくなってしまうなんてこともあります」

「怖いですね……」

「ええ、まったくです。そういう天狗の所業が周知の事実なこと、他にも問題点が数多くあることもあって、人間の間でも妖怪の間でも『天狗とは関わりを持たない方がいい』とか言われていたりします。当たり前ですね。レーツェルさんも注意した方がいいですよ」

 

 あいにくと天狗の知り合いはまだ一人もいない。基本的に来る者拒まずなスタンスなので、関わらない方がいいと言われても、俺には実際にその通りにはできそうにない。そもそもなにも不都合なことをしてきていないような初対面の相手を邪険に扱うなんて失礼に当たるので、拒むという動作自体に拒否反応が出てしまいそうだ。

 

「天狗はこの辺りで終わりにしましょうか。あと語れることと言えば起源と新聞を作っていることくらいですが、起源なんて今となってはどうでもいいものですし、新聞に関しては誰でも知っているようなことです。さて、次はどの妖怪の話をしましょうか……」

「あ、鬼のことは省いてもいいですよ。さっきも言いましたが、知り合いに一人いるので、鬼のことはそっちに聞いてみたいと思います」

「すでに鬼がいなくなってしばらく経ちますから、幻想郷にはあまり鬼の資料がありません。現役の鬼に聞いた方がいいことが聞けるのは確かですね。わかりました。では鬼はなしとして……天狗の速度の話の際に一度吸血鬼のが出たので、吸血鬼のことでも話しましょう」

「えっ」

「……? どうかしましたか?」

「い、いえ、なんでもないです」

 

 反射的に声を出してしまった。すぐに口を閉じたけど、怪しまれたことには変わりなかった。

 

「吸血鬼ですが、これは初めて現れてから数百年程度と歴史が浅いながら、すでに幻想郷でパワーバランスを担うほどに強大な力を備えた夜の帝王です。鬼に届き得る身体能力、一声かけるだけで数え切れないほどの悪魔を召喚できる想像を絶する膨大な魔力、天狗に匹敵する飛行速度、頭以外が吹き飛んでも一晩で完全回復するような超再生能力、霧状になったり大量の蝙蝠に変化したりなどの多くの特殊能力等、これでもかというほどに強力な要素を詰め込んだ、まさしく最強種の悪魔です」

「そ、そうですね。強いですよね、吸血鬼」

「幸い吸血鬼異変と呼ばれる事件でかなり数が減ったので全体的な脅威度としては言うほど高くはありませんが、その個々の力が一騎当千であることには変わりありません。仮に天狗と真正面から衝突したとしても、天狗の最大の特徴である飛行速度が吸血鬼とほぼ同等である以上、それ以外の能力をすべて上回る吸血鬼に分が上がるでしょう」

 

 全体的な脅威度についてを語った後に天狗を例に挙げる辺りから察するに、阿求は「組織としては天狗の方が恐ろしいですが、個々としては吸血鬼の方が強大です」と言外に告げているのだろう。

 

「ただし、多くの莫大な能力を身につけているだけあって、逆に数多くの弱点も備えてしまってもいます。日光に弱いため昼間は大人しく、流れ水は渡れないので雨の日も大人しく、イワシの頭にも折った柊の枝にも近づけませんし、炒った豆も触ると火傷をするみたいです。後半は鬼としての弱点ですね」

「あー、わかります。炒った豆、すっごい熱いんですよ。でも、お姉さまは納豆が好きなんですよね。炒ってないなら平気みたいです、不思議です……あ」

 

 気づいたら、阿求が俺を呆れた目で眺めていた。いや、普通に流せばよかったのに、『同意できる話』が出たせいで「あーわかるわかる」と反応してしまった。なんでこんなところでドジをしたんだ。もう完全にバレてるなと、俺はあははと作り笑いを浮かべる。

 阿求は湯呑みを取って、中身を口に含み、茶托に戻した辺りで、改めて俺の方を見た。

 

「まぁ、最初からわかっていましたけどね。もうすぐ夏という時期に全身ローブでフードまでかぶって……日差しが苦手だと主張しているようなものです。天狗のことを話している最中に吸血鬼の単語が出た時も地味に震えてましたし、吸血鬼のことを話そうと言ってみた時は過剰反応しましたし、丸わかりでした」

 

 吸血鬼について話し始めるまでは完全に隠し切れていると思っていたのに、全然だったらしい。どうやら玄武の沢と違って人間の里という場所は、スニーキングミッションの難易度が桁違いのようだ。

 

「うぅ……すみません。騙そうというつもりではなかったんですが、なにぶん悪魔って人間も妖怪も問わずに嫌われているので……」

「いえ、大丈夫ですよ。これまでの応対の中であなたが悪い妖怪ではないことは十分に把握していますから」

 

 そう言って、阿求が小さく微笑む。悪魔であると公表して、こんなに穏やかに迎えられたことが今まで一度としてあっただろうか。いや、ない。

 霊夢や魔理沙、咲夜は例外として、阿求もまた慧音と同様、人間でありながら俺を悪魔としてではなく一個人として見てくれたというわけだ。

 

「さて、続きを話しましょうか。吸血鬼に関してはもう省いてもいいですね? 吸血鬼のことなら、私よりもレーツェルさんがわかっているはずです」

「はい。あの、えっと、阿求」

「なんですか?」

「またいつか、ここに来てもいいですか? 今度はこういう資料を借りたいからとかじゃなくて、個人的に仲良くなりたいという感じで」

「ふふっ、もちろんいいですよ。何百年も生きるような妖怪の友達は、大歓迎です」

 

 ――その後も、力を持つ妖怪や神についての話を続けた。紫のような一人一種族の中でも特に強力な個体、天人、神霊、八百万の神のうち武に富んだ者たち、それから幻想郷の最高神と言われる龍について等。

 当初は、事前に危険そうな妖怪や神をチェックしておくことで対策を立てやすいようにしておくことが目的だった。そうすれば大切な者たちに害が及ぶ可能性を、ほんの少しかもしれないが、下げることができる。

 しかしこうして向き合って話していると、そんな思いとは別に、友人と語り合うような気分にもなってくる。

 稗田阿求。齢三〇ほどが限界という、体の弱い人間。この日、俺はそんな彼女と友達になった。




今話を以て「Kapitel 6.嘗ての過ぐる日を悔い続け」は終了となります。
他の章と比べると話数が少ないですが、一話の文字数が結構多いので、全体的には「Kapitel 1」と同程度の文の量だと思われます。
また、単なる繋ぎだった「Kapitel 5」と比べ、「Kapitel 6」は外の世界との繋がりに関してのこと、かなり雑な伏線張り、レーツェルくんの若干の心情の変化という三つを書くことができたので、少ない話数にしては十分すぎるくらい進みました。

さて、実はここから二年(作品内時間)ほど、ろくな異変がありません。強いて言うなら「東方文花帖」ですが、あれにはストーリーなんてろくにないのでスルーします。
二年先の「東方儚月抄」と「東方風神録」が始まるまでの話が「Kapitel 7」となります。最初は「Kapitel 5」と同様に繋ぎのための章にしようかと思っていましたが、作品内時間と言えど二年もそれをやるのはさすがにキツいので、かなり先にやるはずだった物語の繰り上げをしたいと思います。

なにが言いたいのかと言えば、「Kapitel 7」を繋ぎだけの話にするのはやめました。
次回からもどうぞよろしくお願いいたします。


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Kapitel 7.深層に沈む真相の洞観
一.号外飛び交った安寧の後日


 阿求は一〇年と少ししか生きていないらしいが、いろいろなことを知っていて、いつも話の種に尽きない。あれからちょくちょく遊びに行くようになったけれど、そのたびにさまざまな豆知識を聞かせてもらえた。

 幻想郷に存在する名のある妖怪や神の大体のことは熟知したので、今後それが脅威に変貌した時も対処がしやすくなったと思われる。

 さて、一年の中で一番苦手な梅雨の時期も過ぎ去り、晴れ晴れとした心持ちでフランとともに博麗神社に向かっていた。霊夢や魔理沙と知り合ってしばらく経っているからか、「暇ならとりあえず博麗神社に行く」という考え方が定型化してきている気がする。魔理沙も同様に「することないなら神社に行くぜ」と言っていたので、きっと霊夢の人望というか妖望というかそんな感じのもののせいだろう。

 

「お、奇遇だな」

「あ、魔理沙」

 

 飛んでいる最中に魔理沙に遭遇し、目的地が同じということで合流して進み始めた。夏の空に騒がしい声が響き渡り、妖精たちから好奇の視線にさらされる。

 

「あー、そうそう。梅雨明け直前の飛行は注意、らしいぜ。あと落雷が直撃するとかなんとか」

「忠告ありが……って、もう明けてから一週間は経ってるんですが」

「それは私も思ったぜ」

 

 言いながら、魔理沙は懐から新聞を取り出した。それをこちらに渡そうとしてきたところで「こっちじゃなかった」と引っ込め、また違う新聞を押しつけてきた。

 飛行しながらだとうまく読めないので、一度止まってフランと並び合ってそれを見てみる。

 

「号外……ですか?」

「昨日、鴉が一軒一軒配って回ってたんだよ」

「あれ? 号外ってそんなのんびりした仕組みだったっけ?」

「天狗は速い割に遅いんだ。いつものことだぜ」

 

 見出しに大きく「号外!」と書かれている割に、内容は全然大したことないというか、ずいぶんと遅い情報ばかりだ。さきほど魔理沙が言っていた梅雨明けの飛行に関しての注意や、落雷に関してのことなど、昨日の時点ではすでに役に立たない注意喚起等しかない。フランもさすがに呆れた表情をしている。

 これはどこの新聞会社、もしくはどんな名前の新聞なのかと確認してみると、『文々。(ぶんぶんまる)新聞』と書かれていた。

 

「あー、これ、レミリアお姉さまがたまに読んでるやつね。『天狗は速い割に遅いのよ』って、魔理沙みたいな文句漏らしてたわ」

「まぁ、天狗に限らず、幻想郷のやつらはいつものんびりしてるがな」

 

 魔理沙に新聞を返し、神社へ向かって改めて飛び始める。一度変わった新聞を眺めたからか、話題はもっぱらそっちに移っていた。

 

「天狗ねぇ。天狗ってさぁ、たまに空を飛んでるの見るけど、特段急いでないくせに無駄に速く飛んでばかりで、なにしたいのかわかんないわ。私たちはこんなに速く飛べる! って自慢したいのかしら」

「風を切って飛ぶのが気持ちいいらしいな。たまに私もブレイジングスターとかで速く飛ぶこともあるから、あいつらの気持ちはちょっとわかる」

「うーん、速すぎるのも考えものですけどね。『光の翼』……えっと、私はこの翼で妖力と魔力をまとめて噴射すると音を越えるくらいの速度を出せるんですが、制御がすごく大変で。爽快ではあるんですけど」

 

 いつもは妖力や魔力で普通に浮いている。『光の翼』は莫大な推進力を得て、それを正面以外のさまざまな方向へ向けて軌道を操作するので、一歩間違えばどこかに衝突して大惨事になってしまう。さすがに何百年も修行してきた関係で失敗することは万に一つもないが、若干ながら制御に気を張ってしまうことは変わりない。

 

「それに、やっぱりそういう爽快さはたまに味わうくらいでいいと個人的には思うんです。フランの言うように無駄に速く飛んでばかりじゃ、せっかくの幻想郷の美しい風景を楽しめませんから」

「あー、そういえばお前らは外の世界から来たんだったな。私は幻想郷で生まれたから外のことはよく知らないんだ。どんなとこなんだ?」

 

 そんな魔理沙の質問に、フランは「うーん」と困った風に考え込んで、俺を見た。彼女は霊夢や魔理沙と出会ってから地下室の外に出るようになったわけだから、外の世界のものの一切を眺めたことがない。

 

「外の世界とは言っても、私たちが住んでいたのは東洋ではなく西洋の方ですし、基本的に館にこもっていたのでなんとも言えませんね。ただ、幻想郷ほど綺麗な場所が滅多にないことは確かです。世界を旅していた美鈴も幻想郷には舌を巻いていましたし」

「ははあ。あれだ、なんか知らんが嬉しいな。故郷を褒められて喜ぶような感じか」

 

 なんとも言えないというのは、嘘だ。幻想郷の外――おそらくは日本のことならば、俺の前世とほぼ同じだろうからいくらでも語ることができる。

 騙してしまったことを少々申しわけなく感じつつ、他愛のない会話を続けていると、やがて神社のすぐ上空までやって来た。参道に降りながら、魔理沙はすぅーっと大きく息を吸う。

 

「大変だ! 紅魔館に泥棒が入ったってさ!」

 

 そうして、急にそんなことを叫び出した。「そんな話、聞いてないんですけど」「どうせ魔理沙のことでしょ?」と、俺とフランからツッコミが入る。

 キョロキョロと辺りを見渡すと、鳥居の台石に座ってのほほんとしている霊夢を見つけることができた。あちらも魔理沙の大声でこちらに気づいたようで、眠そうに片目を開けて俺たちに視線を向けていた。

 霊夢の横にあるお盆には、未だ手をつけられていないスイカの欠片が一つ、すでに食べ終わった欠片が一つ乗っている。他にも急須と湯呑み、台石の下には小皿に乗せられたせんべいなどがあり、完全に休憩モードのようだった。

 

「って、霊夢昨日も掃除サボってたろ。ほんとサボってばっかだな」

「のんびりでいいの。で? 泥棒って? そいつらは特に心当たりないみたいだけど」

 

 霊夢が新しい湯呑みに急須からお茶を注ぎ、魔理沙に渡す。どこかめんどくさそうに立ち上がろうとしていたので、ああ、と察して倉庫魔法で湯呑みを二つ取り出した。「お願いします」と告げると「ん」とそれにもお茶を注いでくれた。

 その片方をフランに手渡すのと一緒に、魔理沙が霊夢に新聞を渡す。どうやら俺たちに最初に渡そうとして、これは違うと引っ込めた方の新聞紙のようだ。

 

「ほれ、こいつが証拠だ。読めばわかるぜ」

「へえ、なにを盗んで……って、これどう見たって犯人あんたじゃないの」

 

 霊夢が受け取ったそれを覗き込むと、そこには魔理沙が紅魔館の裏口を勢いよく蹴破る写真が載っていた。いつのことかと年月を確認すると、第一一八季の葉月……ちょうど紅霧異変が解決した頃のもののようだ。

 そういえば、裏口が壊れてたから修理しないと、と妖精たちが話し合っていた記憶があるようなないような。あれ、魔理沙のせいだったのか。

「身に覚えがないぜ」とほざく魔理沙に、霊夢とともに呆れの視線を送った。

 

「それにしても犯人が映ってるなんて、あんたもあんただけどこの記者もアレねぇ」

「さっさと捕まえろって話ですね。っていうかこんなの配られたら魔理沙の信用ガタ落ちじゃ?」

「ふんっ、私の信用がこんな記事一枚で落ちるわけがないぜ」

「これも『文々。新聞』でしょ? マイナー新聞ってレミリアお姉さま言ってたし、一般じゃ読んでる人なんていないんじゃない? 読んでる人がいないんなら信用も落ちようがないもんねぇ」

 

 阿求は風の噂をも操るとかなんとか俺に忠告してきていたが、それも天狗によるのかもしれない。有名な新聞を発行している天狗の怒りを買えば当然人里で生活しにくくなるだろうけれど、こういうマイナーの新聞記者が相手ならばそんな被害が起きる未来が見えない。

 前世は学生のまま終えたこともあって、新聞は少々苦手に思う気持ちがある。しかし空中で魔理沙に貸してもらった時や、今こうして霊夢の手元を覗き込んでいて思うことであるが、この『文々。新聞』の書き方には結構好感が持てた。

 前世にたびたび読んでいた新聞のように無駄に複雑な漢字があって『読む気が失せる』ということがないし、ただ単に情報が乱立しているわけではなく、ところどころにユーモアな記述が窺える。本来情報を伝達する役割を持つ新聞としては全然役に立たないというか注目度皆無かもしれないが、雑誌等のように読んで楽しむぶんにはとてもよさそうだと感じた。レミリアが読んでいるのもまた、そういう理由からなのかもしれない。

 ふと、霊夢と魔理沙の間に影が差す。

 

「あら、私の新聞の話で盛り上がっているのですか?」

 

 降りてきたのは、一羽の鴉を従えた一人の少女であった。

 どうしても最初に目が行ってしまったのは、下手な下駄よりも底が長い、変わった赤い靴だ。そこから目線を上げていくと、次に見えるのはフリルがついた黒いミニスカート、少々格式ばった白い半袖のシャツ。黒髪のボブの上には山伏(やまぶし)がかぶりそうな小さな頭巾を乗せ、少々赤が混ざったように見える薄茶色の瞳からは一目で察せられるほどの好奇心が窺える。

 私の新聞、というセリフ。鴉を従えていること。そしてなにより、できる限り隠そうという気色がわずかながら感じられる妖力の気配。この少女はまさしく天狗、それも鴉天狗であると、瞬時に判断を下した。

 鴉天狗――天狗について最初に阿求から話をしてもらった時は詳しくは聞かなかったが、後日訪れた時に「鴉天狗は天狗の代表みたいなものなので」と豆知識として特徴を教えてくれた。それによると、鴉天狗とはただでさえ速い天狗の中でも更に速い移動速度を誇り、それは天狗に匹敵する素早さとされる吸血鬼をも上回るほどのものらしい。

 天狗はやたらとずる賢いとか狡猾だとかよく聞くので、敵対心がまったく感じられない目の前の少女にも、鴉天狗だとわかるやいなや反射的にちょっとばかり身構えてしまった。

 

「噂をすればアレな記者。今日はなんの用かしら」

 

 霊夢も魔理沙もこの少女とは知り合いのようで、二人とも特に驚きもなく迎えていた。

 ……ああ、とここに至ってようやく気づく。最近は天狗の話ばかり聞いていたせいで、今世のその知識に埋もれてしまっていたが、そういえば前世の原作に関しての情報内にも鴉天狗に当たるキャラクターが二人いた。この少女の見た目はそのうち一人と完全に一致している。

 幻想郷最速と名高い、伝統の幻想ブン屋。その名を射命丸文という。

 

「お二人さんは初めましてですね。どうも、しがない天狗の新聞記者の射命丸文(しゃめいまるあや)です」

「あ、えっと、これはご丁寧に。吸血鬼のレーツェル・スカーレットと申します」

「私は妹のフランドール・スカーレット。よろしくねー」

 

 そんな形式的な挨拶を終えると、文はペタンとその場に座り込んだ。

 

「今日は昨日試験的に出した号外というものに関しての感想を集めに来ました」

 

 号外って試験的に出すようなものだっけ、とフランと顔を見合わせた。俺の前世の記憶が確かなら、人々の関心が高い出来事を即座にまとめていち早く街頭で販売するようなものだった気がする。

 どうやらその知識は間違ってはいなかったようで、霊夢も魔理沙も「あれのどこが号外なんだ」と呟いていた。

 そんな二人に、文は指を一本立てて口を開く。

 

「号外ってのを出してみたかったのです」

「じゃあしかたがないわね」

「え」

 

 霊夢がすかさず同意したことに耳を疑うが、のんきにお茶を飲んでいる辺り、大して深く考えて返答したわけではないらしい。否定するのもめんどくさかったのかもしれない。

 

「号外って、世間が大きく変わったりするかもしれないことが起こった時、ここだ! って感じに広めるために出すものじゃないの?」

 

 フランの反論。文は「幻想郷では大きな事件が起きない」、霊夢は「のんびり行こうよ」、魔理沙は「たびたび起きてるような気もするが」と、三者三様の反応を見せた。

 長く生きた天狗である文からしてみれば、この数年間で起きた異変なんて大きな事件のうちに入らないのかもしれない。

 

「んー、でも、裏が取れてきちんとした記事にできた案件の中だと、最近で言えばアレが結構大きかったかもしれませんね」

「アレって?」

「ほら、かなり前に地震があったじゃないですか」

 

 霊夢が湯呑みを置き、腕を組んで頭を働かせ始めるが、思い当たることがないようで首を傾げていた。

 俺も地震が起こったことなんて心当たりがない。かなり前と言っているので、もしかしたら俺たち吸血鬼が幻想郷に来る前のことなのかもしれない。

 

「それってあれじゃないか。ほら、去年の春だか夏だかの」

「あー……萃香がやらかした時のこと? って、去年じゃないの。かなり前ってほどじゃないわよ」

「最近って言いました」

「かなり前とも言ったぜ」

 

 三日おきに宴会を行っていた時期に、地震なんてあっただろうか。なんかフランも納得した風に頷いてるし。

 首を捻るばかりの俺に、どういうわけか文が目を向けてきた。

 

「あの時は本当にビックリしました。いいネタになるかと思って震源を探って飛んでいたら、まさかまだ幻想郷に鬼がいたというだけでも驚きなのに、その鬼とレーツェルさんがやり合っていたんですから。しかもスペルカードなしの正面衝突で。あれだけ激しい戦いなら地震の一つや二つは起こって当然です」

「え?」

「あ?」

 

 「え?」は俺で、「あ?」は霊夢だ。いや、まぁ、確かに俺は音速の二倍以上で動いたり、その素早さと力を乗せて萃香を地面に思い切り叩きつけたり、膨大な魔力を凝縮させた弾幕を放ったりしたけど。萃香も巨大化して暴れたりとかいろいろしてたけど。

 そういえば紫が、俺と萃香の戦闘音が普通に人里に届いてるとか言っていた気がする。音がそうならば、戦闘の余波的なものが大地を伝わっていてもなんらおかしくない。

 そしてどういうわけか、霊夢が目元をピクつかせて、怒り心頭な様子で俺を見据えてきた。

 

「あんたねぇ、あの日、私すっごい大変だったのよ? 人里のやつらがわざわざ私のところまで『助けてほしい』って頼んできてさぁ。満月の真夜中に来るんだから相当よ。それで実際現場と思しきところに行ってみても、なんか荒れてるだけで誰もいないし、一晩中警戒してて次の日疲れて爆睡したし……あー、もう! 思い出したらなんか腹が立ってきた! あんたのせい!」

「ご、ごめんなさい。まさか霊夢に迷惑がかかってるなんて思わなくて……」

「素直に謝らないでよ! なんか罪悪感沸くでしょっ!」

「それはさすがに理不尽だぜ」

 

 魔理沙からツッコミが入る。幻想郷の人妖は大抵自分勝手なので、「お前のせい」だとか言われても素直に非を認めたりはほとんどしないのだろう。霊夢が怒りながらも気まずそうにしているのが印象に残った。

 

「萃香さんに取材をさせていただいて、なかなかいい記事にできました。そういえばレーツェルさんの方にはお伺いしてませんでしたね。『私の売った喧嘩をあいつが買った』とのことですが、結局の真相はどんな感じなのですか?」

「えっと……大体萃香の言う通りだと思います。萃香が私を嘘吐きだって挑発してきたので、それを私が買った感じです。最後には紫の……妖怪の賢者の下、引き分けになりました」

「というかお姉さまのせいだったんだねぇ、あれ。なんとなく感じ慣れた魔力が暴れてる気もしたし、なんだか納得したわ」

 

 文が、どこからか取り出した手帳にメモをする。幾度か萃香と戦った日のことについての質問が飛んでくるので、覚えている限りのことを話すと、文はそれを手帳に書き記していた。

 

「って、今更去年のことなんてメモしてどうすんだよ。どうせ記事にしないんだろ?」

「去年に一度しちゃってますからね。同じネタはつまらないので記事にはしません。今書いてるのは、今度また地震が起こった時に『またあの二人が喧嘩しているのかも』という感じでまとめるためのものです」

「濡れ衣すぎるぜ」

 

 一瞬、ネタ提供やめようかなと思いかけたが、『文々。新聞』はマイナー新聞だということを思い出して我慢する。魔理沙の泥棒現場が押さえられていても話題にすらならなかったんだから、去年のことを話すくらい大した問題にはならないだろう。

 案外ぐいぐい来るなぁ、と天狗の好奇心やらなんやらに感心しつつ、この後は文の新聞の話題で盛り上がっていく。盛り上がるとは言っても「これの内容わけわかんないぜ」とか、記事を適当に読んで「あいつなにやってんのよ。っていうかこれ本当?」とかそんな感じだ。

 さすがにそうして仲良くしゃべっていれば、天狗への警戒心も薄れてくる。

 噂や資料からだけで物事の全部を判断することはできないのかもしれないと、楽しそうにしている文を見て、思い直した。



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二.無意識の衝動に誘われて

 その出会いは偶然などではなく、おそらく、いつかどこかで必ず起きるようにできていたのだと思う。早ければ数年前にはすでに会っていたのかもしれないし、遅ければ何百年も後になるはずだったのかもしれない。それでも会うことがない、なんて結論に至ることは絶対になかっただろう。

 名をつけるならば、運命とでも呼ぶべきか。

 いや、と首を横に振る。俺の在り方は運命の行く末を否定するようにできている。だからこれはきっと運命の出会いなどではない。ありとあらゆる偶然がわざわざ遭遇を仕組んでいたわけではない。

 宿命なのだ。『答え』を失くし、幻想郷へと渡ってきた時点で決めつけられていた、決して変えようのない必然の逢着だった。

 ――彼女は自ら望んで、『答え』を捨てていた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 ちょっと前までは夜中しか人間の里に訪れられず、実際に行ったとしても超警戒されまくりの居心地最悪状態だったのだが、人間化魔法を習得してからは本当に便利になったなと、こうして来るたびに毎度思う。

 ローブとフードのせいで怪しさは満載であるが、危険度はそう高くないと判断されることが多い。妖怪が普通に出歩いている光景もよく見かける人里で、半人半妖への用心なんて二の次どころか五の次くらいなんだろう。

 そこらの人間や妖怪と気軽に話すことができるし、適当な店で食べ歩きすることもできる。たまに慧音がやっているという寺子屋をこっそり覗いてみたり、阿求のところに遊びに行ったり。

 

「それで、荷物はこれだけなんですか? 他に持つものはありません?」

「これだけと言っても、結構な量ですけれど。でも、これだけですわ」

 

 咲夜が人間の里に買い物に出かけるということで、今日はそれを手伝うためについて行っていた。俺も咲夜も袋に入れた大量の食材やらを両手に抱え、これ以上は持てないという具合である。

 

「それなら、里を出たらこれを魔法で作った私の空間にしまって、ゆっくり飛んで帰りましょうか。ここでは目立ちますし」

「そうですね。ところでお嬢さま、私はメイドです」

「はい、知ってます。それがどうかしました?」

「いえ、今更ながら主の妹さまに雑用を任せるのはさすがにダメなのではないかと」

「確かに今更ですね。でも、私がいいって言ってるんだからいいんですよ」

「私のメイドとしての矜持が許しません。やっぱりその荷物、里を出るまでは私が持ちましょう」

「ダメです。渡しません」

 

 両手の荷物をぎゅっと抱え込むと、咲夜が途端に困ったような表情を浮かべる。時を止めている間は俺を認識できないので、俺に危害を加えず俺の知らぬ間に荷物を奪うことが彼女にはできないのだ。

 

「……あ。ほら、レーツェルお嬢さまは見た目が子どもなんですから、こんなに重そうなものを持たせていたら私の人里での信用に関わります。私のことを考えるなら、どうか渡していただけませんか?」

「あ、ってなんですか。完全に今思いついた感じの説得じゃないですか」

「ですが事実です」

「咲夜、今の手荷物だけでも十分重そうですよ。私は吸血鬼ですから全然余裕ですし、むしろ私がもっと持ちたいくらいです」

「レーツェルお嬢さま」

「渡しません」

「……レーツェルお嬢さま、お願いいたします」

 

 俺と咲夜は、人間の里でも食料やらがよく売られている、人の往来が絶えない道の端の方で会話をしていた。要するに人の目が多くあったのだが、それを気にも留めず、咲夜は俺にすっと頭を下げる。

 

「私は、紅魔館に仕えるメイドでございます。レーツェルお嬢さまが親しく接してくださるのは非常に嬉しいのですが……それと同時に、主従関係であり続けたいとも考えているのです。レーツェルお嬢さまの手を煩わせるわけにはいきません」

「あ、えっと、ここで変わったことをしてたら目立ちますよ? とりあえず顔を」

「そのお荷物を渡してくれるまで上げませんわ」

 

 どうやら今回の彼女は、紅霧異変の時に立ち去ろうとしていた時のように本心を隠しているのではなく、本気で言っているようだった。

 

「レーツェルお嬢さまは宇宙人が異変を起こした際に、生きる意味は自身の死を確信した時にしかわからないとおっしゃっていました。しかし私はそれとは別に、自分がどう生きたいかは自分自身がいつでも決めることができるのだと思っています。私は幼き日にはレミリアお嬢さまに拾っていただき、未熟だった時にはレーツェルお嬢さまの抱擁と言葉に救われました。だから私はお嬢さまがたの従者として在り続けたいと、あなたがたに仕え続けていたいと、心から強く感じているのです」

「……そんなこと言われたら、渡さなくちゃいけなくなっちゃうじゃないですか。っていうかこれ、ただ買い物の荷物を持つかどうかっていう会話ですよね。ちょっと内容が大仰すぎな気が……」

「これくらいのことを言わないと、レーツェルお嬢さまはそのお荷物を渡してはくれませんので」

 

 咲夜がぺろりと舌を出すのを見て、「ぬぐぐ」と悩みつつ、最終的には左手の袋だけを手渡した。右手のそれはそのままだ。

 

「……咲夜ばっかりに持たせて、隣の子どもが持ってないとなったら、『お姉ちゃんの手伝いをしようとしない我がままな子』に見えちゃいます。主従関係が大事だって言うんなら、私のことにも気を遣ってください」

「私はメイド服を着てますから、レーツェルお嬢さまが主の関係者だということは周りにもすぐに伝わって、大して問題にはならないと思うのですが……」

「『我がままなお嬢さま』にするつもりですか?」

「……はぁ。まったく、参りましたわ。敵いませんわね、レーツェルお嬢さまには」

 

 頭を下げるのをやめた咲夜は俺の差し出した袋を受け取って、彼女が元々両手に持っていたものと合わさって合計三つになる。ずいぶんと重そうなのだが、大丈夫だろうか。

 そんな思考を見透かしたかのように「平気ですよ」と声が降ってきた。俺を安心させようとする優しい笑顔に、思わず思考が停止して目をパチクリとさせてしまった。

 

「咲夜、よく笑うようになりましたよね」

「そうですか?」

「そうです。それもすっごく綺麗というか、見ててこっちの気分がよくなるような気持ちのいい笑顔です」

「ふふっ、もしかして口説かれてますか?」

「どうでしょう。さ、早く帰りましょうか。咲夜にあまり長い間、重い荷物を持たせていたくありません」

「わかりましたわ」

 

 出口へ向かって一緒に並んで歩き出す。チラリと横を見ると、少しも堪えた様子を見せず、むしろ涼しい顔で足を進める咲夜であったが、手の平の袋を掴んでいる部分が目に見えて赤くなっているのが窺えた。きっと彼女は、俺に心配させまいと無理をしている。

 やっぱり渡さないでいた方がよかったかなぁ、なんてちょっぴりだけ思った。

 

「口説く云々で思ったんですが、咲夜はそろそろ恋愛くらいしてもいい年頃ですよね。そういうの興味ないんですか?」

「ええ、まぁ、そういうことを意識したことはありませんわ。私が一生紅魔館に仕えることは確定として、そもそもそれに付き合ってくれるような方がいるかどうか。それから私を口説きたいなら、レーツェルお嬢さまくらい偉大で優しくしっかりした心の持ち主でないと」

「あれ、もしかして口説かれてます?」

「どうでしょう。それに、私のことを言うならレーツェルお嬢さまもではないですか? 見た目はアレですけど、一応数百年は生きているわけですから」

「ふふん、私のスピリットは全部お姉さまのものですよ。他の誰にも靡きません」

「心はハートですよ。あと、それは家族愛ですわ」

 

 手が空いているぶん、こちらは時にジェスチャーを交えながら、わいわいと会話を弾ませる。恋愛の話からレミリアの話へ、レミリアの話から末っ子のフランの話へ、フランの話から最近仲がいいパチュリーの話へ、パチュリーの話から健康的な問題として大図書館の衛生に関しての話へ。

 道から人の影が少なくなっていき、あと少しで人里を出るという頃、ふと立ち止まる。

 視界の端に緑がかった灰色のなにかが見えた。

 

「――――今、のは……?」

「レーツェルお嬢さま? どうかいたしましたか?」

「いえ……」

 

 俺のすぐ隣を誰かが過ぎ去った。ただそれだけの、なんら珍しくもないこと。普段なら一片たりとも気にしないこと。それがどういうわけか、今だけはなんだか無性に引っかかった。

 まるで探し求めていたなにかを見つけてしまったように、自分が欲しかったものを他人が持っていて、それを目で追ってしまうように。

 振り返って視線をあちこちに向けてみる。しかし俺の隣を通りかかったであろう人物は、人間や妖怪を問わずに一人も見当たらなった。

 

「……んー……?」

 

 ただ見知らぬ誰かが隣を通りすぎただけの話だとはわかっている。いくら引っかかると言っても、本当にただそれだけなのだ。気にするだけ時間の無駄だということはわかっていた。

 それにそれよりも今は、咲夜の負担を早く、なくしてあげなければならない。いつまでも彼女に重い荷物を持たせ続けているわけにはいかない。ただ見知らぬ誰かが隣を歩いていただけだから気にする必要はないと、そう自分に言い聞かせ、こんなところで立ち止まっている暇はないと、「行きましょう」と前に向き直って歩みを再開する。

 ――すれ違った際に覚えた奇妙な感覚が、どうしても頭から離れなかった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 後日、俺はまた人間の里を訪れていた。時刻は以前咲夜とともに来た時と同じくらいの昼間で、通る道もまたその日の工程を再現していた。

 どういうわけか、あの日のどうでもいい些細なことが記憶にこびりついたまま消えようとしない。妙な連帯感とでも言うべきものを感じたからか、探せ、見つけろ、と本能が幾度となく語りかけてきているような気がした。

 咲夜と歩いた道を一往復し終え、なにも違和感を覚えなかったので、もう一度最初から同じ道をたどり始める。

 

「なにしてるんでしょうね、私は」

 

 まったくもって不思議というか、不可思議だ。まるで深層に沈んだ意識、すなわち無意識がそれを求めているかのように、思考を支配して俺の体をわざわざ人里まで誘導してきている。

 あの時あの瞬間、たかが隣を通りかかっただけの人物を突き止めて、俺はどうするつもりなのだろう。

 自分でさえも理解できていない。なにせここまで気にかかる理由すら一つたりとも思い当たらないのだ。

 

「それに、そろそろ日差しがキツいというか……」

 

 いくら全身にローブを纏ってフードをかぶっているからと言って、吸血鬼である俺がずっと日の下を出歩いていて、いい気分になるはずがない。むしろ具合が悪くなってきた。

 ちょうど慧音の寺子屋の近くを通りかかり、その付近の日陰にあった長腰掛けにストンと腰を下ろす。ふぅ、と一息吐いて、特徴の一切を知らない途方もない人探しをいったん休憩することにした。

 いや、手がかりなら二つだけある。ただそばを通っただけでこんなにもざわつく気持ちになったんだから、次に一目見ればきっと直感的に理解できるはずだ。あと緑がかった灰色のなにか。

 

「……一人で探しに来たの、失敗だったかもしれませんね」

 

 なんて呟いてみるが、仮に今の記憶を保持したまま今日の朝に戻っても、どうせ俺は一人で人間の里に訪れただろう。

 わざわざ俺一人だけの、しかもこんなくだらない用事のために他の誰かの手を煩わせるわけにはいかない。それにもしそれだけして見つからなかったら、一緒に探してくれた人に申しわけない。

 はぁ、と小さくため息が出た。本当、なんでこんなことしてるんだ。帰ろうかな。でも、帰ったら帰ったで、また気になってここに戻ってくるんだろうな。

 どうにかして探し出さなければ胸騒ぎは収まらない。わかってはいるのだが、あいにくと手がかりが少なすぎる。どんな姿かたちをしてるのかもわからないから、人に聞こうにも聞きようがないし。

 段々と思考がネガティブな方向に偏って、気が滅入ってくる。もうしばらくは動きたくないと、ぼーっと宙空を眺めていた。

 

「――――ぁ」

 

 スッ、と。限りなく存在感の薄い一人の少女が俺の目の前を通りかかっていたことに気づいたのは、実際にそれが起こってから数秒後だった。

 頭の中に昨日覚えた奇妙な感覚が完全に蘇る。妙に気になる、連帯感にも似た関心の感情。惹かれるまま、半ば無意識にその場を立ち上がった。

 彼女が過ぎ去った方向へ目を向けても、すでにどこかへ行ってしまったようで見当たらない。それでも、なんとなく『ここを通ったかもしれない』という直感にも似た確信に誘われて、建物同士の間にある路地に入り込んだ。

 ここを右、こっちは左。ここはまっすぐで、ここを左に曲がったところに――。

 そこは路地の行き止まりだった。立ちはだかった細い縦に長い壁を前にして、少女は、なにをするでもなくそこに立っていた。

 背後に立つ俺に気づいたのか、彼女が振り返り、邪気がまったく感じられない無垢な表情が俺の前に露わになる。

 少々クセの目立つ緑がかった灰色のセミロングに、薄く輝いているようにも見える宝石のような緑の瞳。頭にかぶっているのはオプティモのクラウン部分を丸くしたものに似た黒っぽい色の帽子で、巻きは結び目のある薄い黄色のリボンだった。白の二本線が入った緑の襟と、ちょっと大きなひし形の水色のボタンが特徴的な黄色の服を身につけ、袖には黒のフリルが窺えた。深い緑色のスカートを穿いており、なにやら変わった花の柄が描かれている。

 そして正直、服装やら容姿やらがどうでもよくなるくらい、その少女は他と異なった特殊性を備えていた。

 閉じた第三の瞳があったのだ。目玉を藍色の膜で包み込み、そのまま瞼を閉じてしまったような物体が心臓の付近に存在している。そこから伸びる二本の管が右肩と左肩を通り、前者はベルトのように彼女自身に巻きついてから左足のハートマークに帰結し、後者はぐにゃりと曲がってハートの形を象ったのちに右足のハートマークに帰っていた。

 

「あの……」

 

 意を決して話しかけてみると、彼女はこてんと首を傾げる。

 

「私を追ってきたの?」

「えっと、そうなりますね」

「わー、ストーカー! ストーカーだー!」

 

 初対面にも拘わらず、そんなことを言って俺を指を差してきゃっきゃと笑ってくる。いや、まぁ、間違いではないけども、もう少しオブラートに包んでくれても……。

 

「それにしてもよく私がわかったねぇ。今まで誰かから話しかけられることなんてほとんどなかったのに」

 

 いつの間にか俺のすぐ目の前までトコトコと歩いてきていた彼女が、じっと顔を覗き込んでくる。あまりにも自然な動作だったから、反応できなかった。

 

「私は……レーツェル・スカーレットと言います。吸血鬼です。あなたは……?」

 

 この少女が昨日すれ違った、俺の探し求めていた人物で間違いないだろう。なんというか感覚がそう告げているし、視界の端を掠った緑がかった灰色は彼女の髪の色に違いない。

 やはり、どうしてかはわからないが、この少女のことが妙に気になる。同族意識にも似た奇妙な感性と、もっと知りたい、知らなければという脅迫概念にも近いわずかな欲求。

 名前を名乗ったのも、問うたのも、ほとんどは無意識による行動だった。

 俺の質問に、その少女は純粋なまでの笑顔で答える。

 

「古明地こいし。地底から来た(さと)らない妖怪よ」




※本話のタイトルは「二.無意識の衝動に誘(いざな)われて」です。
 また当然ながら「古明地こいし」も原作キャラクターですが、すぐに人に忘れ去られてしまうその特性によって、レーツェルくんは瞬時に原作知識から呼び起こせない状態に陥っています。後々になれば思い出せるのではないかと。


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三.在り方を失くした一人の覚

 古明地こいし。古明地こいし。頭の中で反芻し、すぐに覚える。

 こいしと名乗った少女はいろんな角度から俺のフードの中を覗き込もうとしていたので、この路地なら日も当たらないからと、フードを外してあげた。

 目と目が合う。互いになにも言わずじっと見つめ合い、空からのちゅんちゅんという小鳥のさえずりだけが耳に届いていた。

 

「どうしたの?」

「いえ、その」

 

 いつまでも視線を外さない俺に、こいしがこてんと首を傾げて問いかけてくる。なにか話題を提供しなければと思いつつ、しかしなにも考えずに追ってきたために咄嗟には出てこなかった。

 口を開けては閉めてを繰り返し、そろそろなんでもいいから言わなければというところでようやく出てきたのは「い、いい天気ですね」という、当たり障りのなさすぎるありきたりな言葉だった。

 

「そうだねぇ。ここじゃうまく空は見えないけどね」

「あ、確かに……」

 

 出だしの会話選びを完全に間違えた。どうにかして今の失敗を挽回しないとと焦る俺に、こいしは「変わってるわ」と再び笑い出す。

 

「ねーねー、どうして私を追ってきたの?」

「どうしてと言われても……無性に追いたかったから、でしょうか?」

「あれ? もしかして悪いストーカーさんだった? えっと、なんだっけ……そう、変態さん?」

「違いますっ」

「わーい、変態さーん! 変態さーん!」

 

 こいしがきゃっきゃと両手を上げてはしゃぐ。思いついたことそのままに口にしているのか、あるいは行動に移しているのか、あまりにもマイペースすぎてついて行けない。

 

「変な色合いの髪してるねー」

「あ、わっ」

 

 サッと俺の横に回り込んだこいしが、俺の髪をつーっとなぞっては、掬うようにしていじってくる。猫耳と比べれば全然刺激は少ないが、なんというかこう、むしろ絶妙なくすぐったさだからこそ身じろぎしたくなった。

 耐え切れずに身を捩ると、「むぅ」とこいしが不満そうに唸る声が聞こえた。

 

「わ、私の髪のことを言うなら、こいしのそれの方がよっぽど変じゃないですか」

「変じゃないよー。私はそういう妖怪だもん」

 

 こいしが俺の指差しに反応して、自分の胸の前にある閉じた瞳を可愛がるように撫でる。

 

「そういう妖怪って、そういえば(さと)らない妖怪って言ってましたけど、それってどういう」

「私は(サトリ)なんだよ。この瞳で人の心を読むことができるの」

「……閉じてますよ?」

「うん。だって、人の心なんて見ても落ち込むだけでいいことなんてなに一つないもん。こんなもの閉じてた方が全然いいわー」

 

 閉じた瞳の膜をぐにゃぐにゃと触りつつの回答に言葉が詰まる。さらっと告げられたセリフの中には、しかし確かに重い実感が込められていたのに、どうしてこうも感情のない幸せそうな微笑みを浮かべ続けていられるのだろう。

 古明地こいしという少女に潜む行動の真意がどうしても測りかねる。まるでその場のノリだけで行動している、言葉を口にしているだけのように――いや、もしかしてそうなのか?

 

「えへへー、それじゃ行こっか」

「えっ」

 

 唐突にこいしが俺の手を掴んで、来た道を引き返し始めた。

 

「あ、あのっ、ど、どこへっ?」

「わっかんなーい。どこだろうねぇ」

 

 あいかわらずの返答に困惑しながら、こいしに連れられて路地を出る。咄嗟にフードをかぶり直す俺に構わず、こいしはぐいぐいと手を引っ張ってきた。

 わがままな子どもに振り回されるかのような心持ちで、どこへ向かうでもなく適当にさ迷い歩く。おそらく目的地なんてないんだろうなぁ、なんて思いながら流されるままにあちらこちらへ。

 そうして数分経つ頃に立ち止まった場所は、単なる蕎麦屋の前であった。

 

「お腹空いたー。ごめんくださーい、蕎麦くださーいっ」

「あ、えっ」

 

 例のごとくこいしの手に引かれ、半ば無理矢理に蕎麦屋の中に突入する。俺たちに……というより俺の様子に気づいたらしい店員がこちらに向かってきて、丁寧にカウンター席に案内してくれるので、変に出歩こうとするこいしの手を今度は俺が必死に引っ張ってそちらへ向かった。

 こいしを席に座らせ、その隣に俺が腰をかける。それを確認した店員が注文が決まったらまた誰か呼んでほしいと告げて、また別の客の方へと向かって行った。

 

「なに食べよっか」

「……食べることは確定なんですね」

 

 まぁ、構わないか。初めて会ったばかりの女の子と食事を楽しむのもまた、幻想郷における日常の一つなのかもしれない。

 そう判断して、どんな種類の蕎麦があるのかと台の上にある注文可能なものの一覧に手を伸ばしたところ「ん?」と、こいしと反対側からどこかで聞いたような声が耳に届いた。メニューを手に取ったのち、そちらに目を向けてみる。

 

「……もしかして、レーツェルですか?」

「あれ、慧音?」

「レーツェルさん、こんにちわ」

「阿求も……」

 

 人間の里における二人の知り合いのうち、その両方とエンカウントした。席を一つ挟んだ向こう側に慧音、阿求と続いている。

 慧音が一つ席を俺に寄せ、同様に阿求も同じ方向に動いて、俺はこいしと慧音に挟まれる形となった。

 

「翼がなくなっていて驚きました。まさかこんな昼間からレーツェルが里にいるとは……そういえば最近、悪魔が里に入ってきたという報告を聞かなくなったとは思っていましたが」

「慧音は寺子屋を里の子どもを相手にやってましたよね? 私も、こんな時間から慧音が蕎麦屋にいるとは思いませんでした」

 

 人間化魔法を覚えてからは特に騒がれることもなくなったので、慧音に頼ることはなくなってしまった。付き合いが少なくなってきたところにこうしてまた会えたのはよかったかもしれないと、なんとなく思う。

 そして逆に阿求とは最近会うというか、会いに行くことが多い。彼女はかなり物知りだから、ただ話しているだけでもいろんなことが学べて有意義な時間になるのだ。

 

「今日は慧音さんの寺子屋はお休みですよ。私のところに資料を借りにいらしたので、どうせならお昼を一緒にとここに。レーツェルさんはお一人ですか?」

「いえ、二人ですよ。ほら、私の左隣にいるじゃないですか」

 

 阿求の質問にそう答えると、慧音と阿求がパチパチと目を瞬かせた。おかしな反応に首を傾げていたところ、ちょうどこいしが俺の肩に寄りかかって「誰?」と慧音と阿求の方に目を向ける。

 そこまでしてこいしの存在にようやく気づいたかのように、二人が揃って「あ」と声を上げた。

 

「レー……レーツ……なんだっけ? まーなんでもいっか。レーチェルの知り合い?」

「レーツェルです。二人とも友達ですよ。青い服の人は上白沢慧音と言って、寺子屋の先生をやっている(かた)です。花の髪飾りをつけてる人は稗田阿求、九代目御阿礼の子です」

「え、ええ、上白沢慧音です。よろしくお願いします」

「同じく、稗田阿求と言います」

「私は古明地こいし。よろしくねー」

 

 メニューを開くと、その二秒後に「あ、これ食べたい」とこいしが『茸蕎麦』を指差した。やはり特に考えもせず、直感で決めているようである。

 

「それにしても、これだけ堂々と妖怪がいて気づかない……いや、気づけなかったとは、なんて気配の消しようなんだ」

「そうですね。なんというか、視界から外れれば今にも忘れてしまいそうなほどというか……私には絶対的な記憶能力があるので、そういうことはありませんが」

「え、そんなにですか? 確かにちょっと存在感は希薄ですけど、十分認識できる程度だと……」

「レーチェルは変態さんだもん。皆、私が話しかけてもあんまり反応しないのに、レーチェルはレーチェルの方から私を追ってきたんだから」

「レーツェルです。あと、それを言うなら変態じゃなくて特別とかそういうのです」

 

 注文が決まったので「すみません」と店員を呼ぶ。こいしが「茸蕎麦っ!」と叫ぶも、どうやら本人が今しがた言った通り聞こえていないようだったので、「『茸蕎麦』と『山菜蕎麦』をお願いします」と二人分頼んでおいた。

 

「変態の態はともかくとして、レーツェルが変であることには納得ですね。こんなに気の抜ける悪魔も珍しいというか、他にいないでしょう」

「慧音だって変わった半妖じゃないですか。半ば自主的に寺子屋を開いたりしてるんですし」

「私から言わせれば両方とも変わってます」

 

 阿求のセリフに「阿求も変わってますけど」「阿求さんもですが」と揃って言い返す。意外だったのか、何度か瞬きをしたのちに不満そうに頬を膨らませていた。阿求は一〇年と少しという年月に似合わぬほどに膨大な知識を保有しているものの、精神がそれに比例するというわけでもないので、こういう子どもっぽいところも数多くある。

 

「レーチェルー、お蕎麦まだかなぁ」

「……もっと子どもっぽい妖怪がここにいますけど」

「ねーねー」

「わっ、揺らさないでくださいっ」

 

 必死にこいしを宥める俺を眺めて、慧音と阿求がそれぞれ顔を見合わせていたのが横目で窺えた。

 

「お姉ちゃんみたいですね、レーツェル」

「次女ですよ私。フランって妹がいます。こんなにやんちゃじゃないですけど」

「えへへ、私もちゃんと血の繋がったお姉ちゃんがいるよ? こんな変態さんじゃないけどねー」

「変態じゃないですって」

 

 ――実際に蕎麦が運ばれてくるまで、そんな賑やかな空間が続いた。慧音と阿求に、こいしとは今日初めて会ったのだと伝えた時、大層目を見開いていたのが印象に残っている。

 蕎麦を食べ終わり、慧音や阿求と別々になった後は、再度こいしと里を見て回った。気がつけば空は赤く、日が沈みかけている。彼女は疲れなど感じないかのようにいろんなところに立ち寄るので終始振り回されっぱなしではあったが、俺も俺として案外楽しんでいたようで、存外時間は短かったと感じていた。

 最後には、また会おう、と。

 そんな約束をして、俺はこいしと別れた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 古明地こいしという名が原作知識の中のそれと合致したのは、その日の夜中、ふと今日のことを振り返った時だった。

 どうして名前を聞いた段階で思い至らなかったのか。そんな疑問を抱いたが、すぐに、きっと彼女が備える能力の影響を受けていたからだと結論を出した。

 こいしは胸の前にある第三の瞳で見た対象の心を読むことができる(サトリ)という妖怪であったが、己の心とともに瞳を閉じているせいでそれができなくなった。代わりに『無意識を操る程度の能力』を保有し、その特性ゆえに限りなく存在感が薄く、視界から消えれば忘れ去られてしまうような空想の存在である。

 彼女がする行動のすべては無意識によるものであり、欲望や希望等の余計な感情が介入する余地はなく、本人ですら次になにをするかわからないという。そしてすぐに人に忘れられるのと同様に、彼女自身もまた物事を容易に忘却してしまう。流されるままに生きるだけの彼女はまさしく『意味のない存在』であり――それはつまり俺の在り方にもっとも近い者であると言えた。

 ああ、だからか、と一人納得する。昨日すれ違ってから俺がずっと感じていた衝動は、『答えのない存在』としてのシンパシーとでも言うべきものだったのだ。

 

「……私のこと、きちんと覚えてくれたでしょうか」

 

 俺は覚えている。今日起こったことだから、出会いの部分から別れの部分まで鮮明に思い出すことが可能だ。それが意味をなくし、俺だけのものになってしまうのは……なんというか、ちょっと嫌だなと思う。

 ふいとその時、もしかしたらこいしも俺と似たようなシンパシーを覚えていたのではないかという思考に至った。

 彼女はどうして急に俺の手を引いて里を回り始めたのだろう。蕎麦屋で一緒に食事をしようとしたのだろう。

 『意味のない存在』であるはずのこいしもまた、俺になにか感じるものがあったのかもしれない。

 

「それにしても、心を読むことをやめた(サトリ)……ですか」

 

 どんな妖怪にも在り方というものがある。吸血鬼が血を吸って生きるように、天狗が速く空を駆けるように。そしてサトリの在り方とは心を読んで相手を驚かせることだ。心を読むことをやめたサトリとは、在り方そのものに『答え』がないことと同義だ。

 俺は臆病ゆえに『答え』を失った。しかし彼女は自身の意思で瞳を閉じ――自分から望んで、『答え』を捨てている。

 それはほんの少しの違いでしかなかったが、あまりにも決定的すぎた。

 

「……また会えますよね」

 

 暗い部屋の中、一人呟く。再会できることはほとんど確信してはいたが、不安からか、曖昧な表現になってしまった。

 この出会いがどこへ行きつくのか。生きる意味を失くした者同士が集まって、なにが為せるというのか。

 ……きっとなにもできやしない。ゼロにゼロをかけてもゼロになるだけだ。それでも無意味なことに、心のどこかで淡い期待を抱いてしまう。

 ――それに、こいしを通して、知りたかった。俺は他人からいったいどういう風に見えているのか。

 どうしても知らなければならないと感じた。

 

「お姉さま、起きてる?」

「フランですか? 入っていいですよ」

 

 扉のノック。予想通り、入ってきたのはフランであった。

 

「明かり、つけないの?」

「ちょうど寝ようと思ってたところなんです。フランはどうしましたか?」

 

 枕を両腕に抱えていたから次に言い出すことの大体の予想はできていたが、敢えて問いかける。

 

「……久しぶりに、一緒に寝てもいい?」

「ふふっ、もちろんですよ。お姉さまはどうしますか?」

「レミリアお姉さまは、いい。今日はお姉さまと二人がいい」

 

 暗闇の奥、赤い瞳が潤んでいるのがわかった。怖い夢でも見たのだろうか。なんにせよ、フランの頼みを断るつもりは毛頭ない。

 大切な妹と一緒に布団に横になって、向かい合わせになった。不安そうだった彼女の頭に手を置いて、できるだけ優しくと意識して撫でていくと、次第にその顔が気持ちよさげに緩んでいく。

 今度こいしと会う時はフランを連れて行くのもいいかもしれない。

 天真爛漫同士でなんだか気が合いそうだと、なんとなく思った。



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四.新月より贈られる夏の星空観賞会

 夏も終わりに近づいてきた頃、レミリアの提案で新月の夜にパーティを開くことになった。

 こういうことは今に始まったことではない。当日の昼に発案、夜に実行などということもこれまで数多くあり、すでに慣れた紅魔館の住民たちにパーティ開催による驚きはほとんどなかった。

 まったくではなくほとんどという表現を用いたのは、なぜ満月に象徴される吸血鬼が、わざわざ妖怪が大人しくなる新月の日をパーティに選んだのかと疑問に抱く者もいたからだ。それに関してのレミリアの回答は至って簡単で、「星の光は月の光がない方がよく見えるから」。

 満月はその気になれば毎月楽しむことができる。しかし夏における満天の星空は一年に楽しめる回数がとても限られていた。

 

「……眠そうね」

「いえ、大丈夫ですよ。ちょっと徹夜で……徹昼? そんな感じで魔法の研究をしてただけですから」

 

 ちょうど一年前の辺りから、錬金術を使った新しい研究に乗り出していた。成果は上々と言ったところで、あと数年も経てばそれも完全な仕上がりになるだろう。

 今日はちょうどそこそこ大変な部分の実験をしていたので、気づいたら結構な時間が経ってしまっていた。錬金術の研究は大がかりな仕掛けが必要なことも多く、基本的に魔法で作った空間の中で行うから、普段は体感で判断して「これくらいでいいかな」というところでやめている。今回は時間をほぼ無視して徹夜、その後も朝から昼をすべて使って、結果的に二日も起きていてしまっているので、すぐに寝ようと空間から出てきたところに、パーティ開催の知らせが来た。

 せっかくのイベントを休むわけにはいかない。そもそも俺は吸血鬼だから、たかが一日二日寝ないくらいじゃ気分は悪くならないはずだ。

 

「調子が悪いなら、今日は早めに切り上げた方がいいわよ」

「お気遣いありがとうございます。でも、体調の方は全然大丈夫ですよ」

 

 大きなあくびが出たので、口元を覆う。肉体的には全然平気でも、毎日寝ていることもあって精神は「寝たい」と思っているらしい。

 パーティが始まって、とりあえず近くにいたパチュリーに会いに来たのだが、いつもはこちらが心配する側なのに今日は逆に心配されてばかりだ。

 それにしても俺は無表情なはずなのに、なぜ眠そう等のことが察せられるのだろう。雰囲気か、目線か、仕草か。いや、眠気くらいなら表情関係なしにわかるのかもしれない。なんにせよ、紅魔館の住民には見破られることが多い気がする。

 

「あなたが大丈夫だと思っていても、今日はパーティが終わるより早く部屋に戻って横になった方がいいわ。それに人に教えるのなら自分がまず姿勢を正すべきとも言うし……レーツェルはいつも私にちょっとでも気分が悪かったら無理をしないようにって言ってくるんだから、あなたも同じようにしないとダメよ」

「わかりました。ちょっとでも体調を崩したり、あまりにも眠気がひどかったらすぐに戻ります」

 

 霖之助が燃料を欲した結果として、霊夢が結界を緩めた時。六〇年周期で起きる異変によって、博麗大結界に歪みが生じた時。吸血鬼でありながらも最近は体調を崩すことが多かったから、周りから気を遣われることが増えてきた。いつも通りに妖精たちの仕事を影の魔法で手伝おうとしたら「今日は休んでください!」と言われたり。

 嬉しくはあるけれど、同時に迷惑をかけてしまうことを心苦しく感じてしまう。今回に限っては本当にただ眠いだけで取り越し苦労なのに。

 

「……ごめんなさい」

 

 今謝ったのは俺ではない。パチュリーの唐突な謝罪に、なんのことかと首を傾げた。

 

「なんだかちょっと、文句を言ったみたいになっちゃったわ。私が本当に言いたいのは、そうじゃなくて」

「パチェが純粋に私を心配してくれてるのはわかってますよ。何十年一緒に過ごしてると思ってるんですか」

「それはそれで恥ずかしいというか、誤解にしたい気分だけど。まぁ……レーテになら、いちいち訂正しようとする必要もなかったわね」

 

 と、そこでパチュリーが俺に背を向ける。

 

「このまま一緒にいたらあなたの体調のことばかり気にしてしまって、あなたが楽しい気分になれないだろうから、私は別の誰かと過ごすことにしましょうか」

「私は別に気にしませんよ」

「私が気にするのよ。さ、私はもう行くけど、もしちょっとでも調子が悪くなったらちゃんと安静に……って、また言っちゃってる」

 

 ふらふらと離れていくパチュリーを見送って、ふと、空を見上げた。

 いて座、てんびん座、白鳥座。そこまで数えて、しかしすぐにその行動が無意味であることに気がつく。

 前世ではどれだけ長く生きていようと決して見ることがなかっただろう、空を埋め尽くす満天の星空を前にして、いちいち星座なんかで区別するのはもったいない。多くの星々が必死に輝くさまを仰ぎ見て、そのすべてをそのままのものとして受け止めるのだ。

 必死に自己主張をする数え切れないほど大量な光。一つ浮かんでいるだけではあまりにも心もとないであろうそれも、たくさんの仲間と集うことで巨大の一つを作り上げ、夏の中でも有数の美しい風景へと様変わりをする。どんなにがんばったところで一人では絶対に生み出せないそれの内側には、もしかしたら真理よりも大切ななにかが潜んでいるのかもしれない。

 

「レーチェルー、はろー」

「レーツェルです。って、こいしですか。夏の星空観賞会へようこそ、です」

「綺麗だよねぇ」

 

 チラリと左に視線を送ると、無邪気な笑みをたたえた一人の少女の姿がある。星々が照らす夜空を見上げるその目は、どこか輝いているようにも見えた。

 

「地底には空がないの。だから、なんだかこういうのはいいなーって」

「楽しんでもらえてるみたいでなによりです。って、よく考えたらこいしって紅魔館でパーティを開くことどころか、ここの場所すら知らないはずじゃ……」

「なんかねー、インテューイションが私をここに呼んでる気がしたの。体が勝手に動いて、で、気づいたらここにいたわ」

「つまり、無意識に従っていたらいつの間にか、ってことですか」

 

 無意識に人の集まっている場所に行こうとしたのかもしれないし、どこかで聞いていた紅魔館の場所が知らず知らずのうちに記憶に残っていて、無意識から紅魔館に行きたいという風になったのかもしれない。あるいは、可能性は低いものの、俺という同種の存在を近くに察知して紅魔館にまでやって来たか。

 

「まぁ、なんで来たのかなんてどうでもいいですね。せっかくの星空観賞会なんですから、こいしも楽しんでいってください」

「うん、楽しむ。レーチェルは楽しんでるー?」

「もちろんですよ。あとレーツェルです」

 

 辺りを見渡せば、大勢の妖精メイドたちがグラスを片手に空を見上げているのが窺える。白いテーブルクロスを敷いたテーブルが点在し、いくらか料理も乗っかっていた。

 こいしがその匂いに釣られたかのようにすーっと動き出すので、俺もそれについて行く。案の定、彼女は料理を食べ始めた。

 

「あ、これ美味しい」

「うちには優秀なメイドがたくさんいますから」

「いいなぁ。こっちにはペットくらいしかいないから」

 

 試しにこいしが美味しいと言った、チーズのかかったチキンを口の中に運んでみる。舌の上にチーズの感触や甘味が広がり、それがチキンの歯ごたえと合わさって絶妙な美味しさを奏でていた。

 

「ペット、ですか。五〇〇年近く生きてますが、そういえばそういうのは飼ったことありませんでしたね。ケルベロスでも召喚して飼ってみましょうか……や、中途半端な気持ちで飼うのはいけないってよく聞きますし、やっぱりやめておきましょう」

「そんなに大変じゃないと思うよ? お姉ちゃんもペットの世話なんて基本放任主義だし。放任主義って言うか引きこもりなだけだけど」

「それでも、大変だっていう心持ちとそれを受け入れようとする覚悟は必要だと思うんです」

「うーん、そうなの? よくわかんない」

 

 たとえ飼う動物が橙のようにある程度の知能を有し、言葉を介することが可能なのだとしても、それを最後まで育てる意志は育てようとする前から備えていなければならない。

 そうでなければ生き物を飼う資格はないと俺は考えている。遊び半分に命を扱う行為が忌避されることは、前世の経験以前に、良心を知るこの世のすべての生命が無意識に理解していることだ。こいしは首を傾げていたけれど、本能的にはそのことを理解しているだろうと思う。

 

「それにしても、お姉ちゃん、ですか。私にも尊敬できる姉がいるので気になるんですが、こいしから見てあなたの姉はどんな人なんですか?」

「えー、お姉ちゃん? そうだなぁ……お姉ちゃんはねぇ、私と違って第三の瞳が開いてるんだよ。ちゃんと心を読むことができるの」

「ほほう」

「って言っても、お姉ちゃんも自分の能力が好きってわけでもないんだけどね。むしろ嫌いみたい」

 

 料理を食べる手を止めて、時折「んー」と考え込む仕草を見せながら、こいしは姉の特徴と印象を教えてくれる。

 

「そんなこんなで心を読みたくないお姉ちゃんは、基本引きこもりで家から一歩も出ようとしないんだー。あ、こういうのなんて言うんだっけ? ニート?」

「こいしってナチュラルにひどいこと言う時ありますよね。家業って言葉もありますし、一概にニートだとは言い切れませんよ」

「そうなんだ、残念。あとはー、家に帰ったら私にいろいろ教えてくれたりするんだ。お姉ちゃんは家からは出ないけど、そこそこ博識だから、私の知らないこともいっぱい知ってる。変態とかストーカーって言葉もお姉ちゃんから教えてもらったんだよ」

 

 ……まだ見ぬこいしの姉への信用度が若干下がった。いや、原作知識で多少の予備知識はあるのだけど、やはり会わないとわからないことも当然ある。こいしの語ってくれている部分はおそらくそういう裏の顔とでも言うべきものだ。

 

「もしかして、ニート、もですか?」

「働いてない人はニートって言うんですよ、ってお姉ちゃんが。それじゃあお姉ちゃんはニートなのかなって思ってたけど、違ったんだねぇ」

「……まぁ、はい。たぶん違うと思います」

 

 こいしの無邪気に容赦ない部分は、もしかしたら姉からの影響を受けたせいなのかもしれない。いや、正面からズバズバ告げてくるところは、おそらく元々か。こいしの姉は、そこにいくつかのバリエーションを与えたにすぎないだろう。

 

「そういえばレーチェルのお姉ちゃんはどんな人なのー? やっぱりレーチェルと同じ変態のストーカーさん?」

「お姉さまは変態じゃないですっ! あと私はレーツェルです」

 

 ここまで来ると、すでにこいしは自分の姉について語る気はないようで、食事の方を再開した。枝豆を次々にパクパクと食しながら、とても幸せそうな笑顔を浮かべている。

 

「お姉さまは、そうですね。とっても身内思いです。いつもメイドたちの健康状態に気を配ってますし、誰かが体調を崩したとなれば無理矢理にでも休暇を取らせます。ちょっと前に私が寝込んでしまった時なんて、お姉さまはすっごく心配した顔してて……申しわけないって思うより先に、やっぱりそういうのは嬉しく思っちゃいます」

「ふぅん。仲がいいんだね」

「血の繋がった家族ですから。お姉さまが私を支えてくれるように、私もいつかお姉さまの役に立てればと考えています。まだ、いろいろなことをお姉さまに任せ切りなので……」

 

 他にも語りたいことはたくさんあったが、妙にこいしの反応が薄いと感じる。つまらなかったのかな、と顔を覗き込んで見ると、その表情はどこか熟考しているような雰囲気を放っていた。いつの間にか食事の手も止め、ふと上がった視線が俺のそれと自然と合う。

 数秒間、ただ見つめ合っていた。その間に考えていたことと言えば「やっぱりこいしは負の感情を絶対に表情にはしない」という感想だけだった。

 

「……ねぇ、レーチェ――」

「お姉さま?」

 

 なにか語りかけようとしてきていたこいしを遮って、後ろの方から聞き慣れた声が響いた。振り返ってみると、そこにはいつも通りの赤い服に身を包んだ、無垢な笑顔を浮かべた妹の姿がある。

 

「やっと見つけたわ。ずっと探してたんだけど、暗くて全然見つかんなくて」

「むむ、すみません、苦労をかけました」

「気にしないでよ。私が勝手に探してただけだもん」

 

 妖怪は別に暗闇の中で目が見えるというわけではない。月の光が人間の何倍も明るく捉えられるというだけなのだ。だから密室に入れられれば普通になにもわからないし、今日のような新月の日には人間と同様に大人しくせざるを得ない。

 俺を発見したからか、フランの翼がパタパタと動いて喜びを表していた。なんだか犬か猫みたいだ。

 

「お姉さまは一人で空を見てたの?」

「いえ、二人ですよ。紹介します、こちらは……って」

 

 気づいたらもうテーブルの前に立っていなかった。どこに行ったかと視線を巡らせてみれば、すぐに見つかる。フランの斜め前に立って、彼女の俺よりも不可思議な形をした宝石の翼を見つめているようだった。

 

「……こちらは古明地こいし。ちょっと前にできた私の友達です」

 

 わかりやすいようにこいしの手を取って説明すると、そこで初めて彼女の存在に気づいたかのようにフランの目が大きく見開かれた。

 慧音や阿求も同様の反応をしていた。やはり本来はこいしを認識できないことが普通なのだろう。

 

「友達?」

「え、違うんですか?」

 

 こいしが首を傾げて不思議そうに言うので、もしかしてそういう関係だと思われるのは嫌だったのではないかと、少し不安になった。

 しかしこいしはパチパチと目を瞬かせた後、これまでにないくらいに気持ちのよさそうな満面の笑みを浮かべて、自身の手を握る俺の手をぎゅっと握り返してきた。

 

「わーい、友達一号ー!」

 

 俺を巻き込んで、こいしが高らかと万歳をする。なんだかバカっぽい反応だったけれど、これくらい大げさにはしゃいでくれる方が喜ばしく思ってくれていることが容易にわかって、やはり嬉しい。

 

「……私もお姉さまと、手、繋ぐ」

 

 唐突にそう言い出したフランが、こいしとは逆の方の俺の手を掴んで隣に並んだ。両手に花、とはこのことだろうか。残念ながら今世は男性ではないので複雑な心持ちというか、そもそも片方は妹なのだけれど。

 でも、こういうのもいいか。

 空を仰ぎ、夏の夜空を再び眺めてみる。田舎だからこそ見ゆる満天の星空はいつまでも見ていたくなるくらい美しく、綺麗で、取り込まれそうな気分にもなれた。幻想郷の住民はそういうものが大好きだ。でなければ『美しさ』を重視するスペルカードルールなんて流行りようがないし、夏の星空観賞会なんて開こうとすら考えなかっただろう。

 フランやこいしもまた俺が星を眺望していることに気づいて、同じように天を見上げた。フランは地下室、こいしは地底――最近までそれぞれ空を見たことすらなかっただろう二人が、こうして俺の隣で、こんなにも美麗で巨大な一輪の華を一望している。

 声も出ずにただただ空に飲み込まれてしまっている二人を見て、それはきっと素晴らしいことなのだと、小さな確信を抱く。

 次の季節もまた秋の星空観賞会でも開くよう、レミリアに相談でもしようかな。

 そんなことを考えながら、もう一度、夏の夜空を大きく仰いだ。



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五.無意識に潜む確かな意識

 夏の終わり、満天の星空を観賞したあの日から一ヶ月の時が過ぎていた。なにがキッカケか、こいしと遊ぶ機会が格段に増え、紅魔館でのんびりしているところにふらっと彼女が訪れてくることも少なくない。

 フランもまたこいしと本格的に交友関係を築き始めた。最初のうちはフランはほとんどこいしを認識することはできず、こいしもフランのことをあまり覚えていない風であったが、三人で行動する回数が増すごとに二人とも互いを把握し、覚えることができるようになった。

 

「おはようございます」

「人形は手を動かすのに、手に繋がれた……って、ああ、いらっしゃい」

 

 そして今日は、こいしを連れて香霖堂へと足を運んでいた。フランはパチュリーと魔法の研究の約束があるということで、今回は来ていない。

 香霖堂に来た理由は主には暇でやることがなかったからだけれど、紅魔館、博麗神社、香霖堂に人間の里――基本的にその四つが今の俺の行動範囲なため、こいしに三つ目の場所を教えたいという魂胆もあった。

 ごちゃごちゃと拾い物で溢れた店内はあいかわらずと言ったところだ。こいしの「埃くさいなぁ」という感想には、まったくもってその通りだとしか言い返せない。

 

「よう、こんな時間に出歩いていていいのか? 子どもはさっさと家に帰る時間帯だぜ」

「夕方は、本来なら吸血鬼が起床し始める頃ですよ」

 

 扉の近くには魔理沙が立っていた。もしかしたら、とちょっと奥の方を覗いてみると、なにやらデスクトップパソコンを前にしてうんうんと唸っている霊夢が見受けられる。

 あのパソコンもどうせ霖之助が無縁塚かどこかで拾ってきたのだろう。コンセントが繋がっていないのだからつくはずもないのだが。

 それにしても三人もいるとは、ちょうどいい。こいしの方に手を向けて、「紹介します」と言って注目を集めた。

 

「最近仲良くなった地底から来た妖怪で、古明地こいしと言います。よろしくしてあげてください」

「んー、よろしくねぇ」

 

 すでに店の中に入っていたのに霖之助も霊夢も魔理沙もこいしの存在には気づいていなかったようで、自己紹介をして、ようやく三人の視線が彼女の方へ向く。

 こいしについてわかったことは、彼女が『そこにいる』とわかっていなければ、誰もその姿も声も認識できないということだ。今回は俺が間接的に『レーツェルと仲がいいという妖怪がそこにいる』ことを証明したために他人にも存在を認められるようになったが、普段は誰になにを話しかけても反応してくれないとのことだから、『無意識を操る程度の能力』とは能力というよりももはや呪いに近いものなのかもしれない。

 

「よろしくって、私は巫女よ。退治する側なんだから、よろしくなんてしないわよ」

「いつも妖怪とつるんでるやつがよく言うぜ」

「つるんでなんかないわよ! あいつらが勝手に絡んでくるの!」

 

 でもお茶を出したりとかしてるじゃないか。と反論する魔理沙に、「ぐっ」と霊夢が言葉に詰まる。そういえば、俺への対応もずいぶんと甘くなってきた。出会って間もない頃は悪魔がどうだとか神社の評判がどうだとかいろいろ言われたものだが、最近では買い出しの際の留守番を任されるくらいには信用してもらえている。あまり事件を起こさないことやらコタツやらの件等が関係しているのかもしれない。

 なんにせよ、誰かに頼られることが嬉しいことは確かだ。

 

「地底から……そうか、条約は地上の妖怪が行くことを禁じているだけだから、逆はいいのか……」

「……? 霖之助、それってどういうことですか?」

「知らないのかい? 地上と地底の妖怪の間では一つの条約を結ばれているんだ。地底に住んでいる妖怪は他人嫌い、もしくは他人から嫌われるようなやつらばかりでね、まず地上側の譲歩として『地上の妖怪は地底には立ち入らない』と約束している。わざわざ地底に引きこもっておきながら地上に出てくる物好きなんて滅多にいないから、逆のことは考えたことがなかったんだけど……」

「不可侵……ですか」

「ちなみに、地底側の譲歩は怨霊を地上に出さないように管理をすることだよ。地底とは単なる通称で、本来は旧地獄……つまりそこには、かつて裁かれて地獄に落ちた数多くの怨霊がいるんだ」

 

 原作知識にも断片的な情報はあったが、霖之助が語ったことすべては知らなかった。大まかな登場人物の情報、異変の大体の流れくらいしか把握していないから、俺が知り得ているこの世の仕組みなんてたかが知れている。

 ただ、怨霊がどれだけ危険なのかは妖怪として重々承知しているつもりだ。

 怨霊とは、悪意に満ちていたり強い怨みを抱いていたりしていた人間の幽霊のうち、輪廻転生の輪から外れ、未来永劫幽霊のままとなってしまった存在を指す。実質的な力は幽霊には及ばないくらいの弱い力ではあるけれど、真に恐ろしい怨霊の特徴はそんなものではなく、生者に取り憑くことができるという部分にある。

 人間に取り憑けば悪意が乗り移り、殺伐とした疑心暗鬼の心が連鎖して生まれてしまう。妖怪に取り憑けば性格が変わり、その精神を怨霊に乗っ取られてしまう。

 特に後者の現象を多くの妖怪は恐れていた。妖怪は肉体が人間と比べ物にならないほどに強い代わりに、精神が非常に脆くできている。鬼や天狗などの圧倒的力を持った存在が英雄とされる人間に退治される話があるのも、その妖怪の弱点を突かれるようななにかをされたからだ。

 たとえ怨霊が取るに足らぬ力しか備えておらずとも、気を抜けばいつ憑かれてしまうかわかったものではない。それを地底で抑えてくれているとなれば是非もなく、地上から侵出しないなどお安い御用という思いが条約の内容から透けて見える。

 

「こいしは、地底に住んでいるんですよね。その、大丈夫なんですか? 怨霊に憑かれたりとか」

「大丈夫だよ。怨霊なんて、誰も私が隣にいても気づきもしないもん」

 

 そこらを闊歩しているだけの怨霊にはこいしを『そこにいる』とは証明できないから、気にするまでもないということか。

 

「それじゃあ、こいしの姉の方は……」

「お姉ちゃん? お姉ちゃんも平気なんじゃないかな。そもそも私のこの目が開いてた頃も怨霊なんて近づいてこなかったしー」

 

 こいしがぐにぐにと自らの閉じた第三の瞳の膜をいじる。それが開いていた時に近くに来なかったということは、怨霊もまた自らの心を読まれたくないと感じていることに他ならない。悪意や憎悪を他人に植えつけることを好むくせに、それを見透かされることは嫌うなんて、よくわからないやつらだな、なんて思う。

 もしかしたら地底の妖怪なんてのは、こいしやその姉のように怨霊からの影響を受けにくいような輩が多いのかもしれない。でなければ住み続けることなんてできやしない。

 

「私がわからない話はそこまでにしてくれ。それより香霖、さっさと教えてくれよ。なんで式神と人形は異なるものなんだ?」

 

 俺やこいし、霖之助の旧地獄トークを遮って、魔理沙が問いかけた。俺とこいしが香霖堂に入ってきた時、霖之助がなにやら言いかけていた記憶がある。魔理沙はその続きが聞きたいのだろう。

 急に割って入って話題を転換させてしまったことを申しわけなく思いつつ、これ以上は口出ししまいと、こいしを連れて店の奥の方へと足を運ぶ。すでにパソコンの操作を諦めていた霊夢は湯呑みにお茶を注ぎ、俺とこいしにそれを差し出してくれたので、ありがたく受け取って、霊夢の隣に腰をかけた。

 魔理沙と霖之助の会話の内容は、魔理沙が口にしていた通り、式神と人形の違いについてだった。アリスの人形と、式神――たとえば紫の式神である藍。人形はいちいち一つ一つの行動を操らなければならないが、式神は命令を下すだけでそれを行ってくれる。人形と会話をすることは完璧な一人芝居だが、式神と会話することはそうではない。そういうところを、霖之助は魔理沙に懇切丁寧に説明していた。

 

「ところで、どうしてこんな話になったんですか?」

 

 魔理沙と霖之助の邪魔にならないよう、霊夢に小声で問いかける。

 

「んー。これが外の世界の式神だってことはあんたもわかるでしょ。魔理沙がこれを単なる人形と同一視したから、霖之助さんがわざわざ熱弁してるみたい」

 

 これ、という部分で霊夢はさきほどまでいじくっていたデスクトップパソコンを指差した。

 吸血鬼は吸血能力の延長で眷属を作ることができるので、あいにくと式神にはあまり縁がない。だから詳しくは知らないのだけれど……霊夢や霖之助がこれを式神だと言うのなら、似たような存在なのかもしれない。計算式とかたくさん解くし。

 

「それにしても、パソコンですか……電気があれば動きそうですけど、回線がないからほとんど意味がないんですよねぇ。ネットに繋げないパソコンなんて録画のできないビデオデッキみたいなものですし」

 

 俺の部屋にあるアナログテレビも電波がないせいで単なる置物と化している。紅霧異変の際に紫の境界を操る力で映像を飛ばしてもらった時以外、一度も役に立っていなかった。

 隅に置かれたビデオデッキに目をやる。これを持ちかえれば、あのテレビも多少の役には立ってくれるだろうか。ビデオデッキが幻想郷に流れついているのならカセットテープがあってもおかしくないし、電力さえどうにかできれば活用ができるはずだ。

 思い立ったが吉日、霖之助の名前を呼んで、ビデオデッキに指を向けて「これ欲しい」と伝える。「それはビデオテープレコーダーと言って、あらゆる過去を再現する道具だよ。正直に言うとあらゆる過去を再現という表現がどういうことなのかはまだ理解できてないけど……それもコンピューターに次いで在庫が多い。だから、まぁ、こんなものかな」。提示された金額は思っていたよりも安かったので、手持ちで払えそうだ。

 

「それ、どうするつもり?」

 

 霊夢が「どうせ使い方わかってるんでしょ」というニュアンスで俺の顔を覗き込んできた。俺が外の世界の道具にある程度詳しいことを霊夢も魔理沙も知っている。

 

「私の部屋に飾るだけですよ。これ、見た目いいじゃないですか」

「えぇ? 私にはちっちゃい窓があるだけの四角い灰色の箱に見えるわよ」

「私にもそう見えます」

「じゃあどこもよくないじゃない」

「無機物萌えとでも言いましょうか。こういう無機質な感じが好きな人、外の世界にはなかなか多いんですよ」

「はあ? 私にはまったく理解できない世界だわ」

 

 大丈夫、俺も理解できてない。適当に返答しただけで、別に俺は無機物に興奮するような度を越した変態ではない。

 「無機物萌えってなに?」と無邪気に首を傾げるこいしには、「こいしは純粋なままでいてください」とすでに手遅れっぽいことを言って誤魔化しておく。

 

「要するにあれだな。香霖の言いたいことをまとめると、つまりコンピューターを使役するのに必要なものはわからないってことか」

「だから長いものに巻かれることだと言ってるじゃないか」

 

 魔理沙と霖之助の会話も一段落したようだった。魔理沙が霊夢の方に目配せをすると、霊夢は湯呑みのお茶を飲み切って、その場を立ち上がる。

 

「もう遅いし、私はそろそろ帰らせてもらうわね。あんたはどうする?」

「そうですね。こいしに香霖堂や霖之助を紹介したかっただけですし、私たちも帰りましょうか。こいしもそれでいいですか?」

「うん。それで、無機物萌えって結局なんなの?」

「ごめんなさい。謝りますから、もうそれに突っ込まないでください」

 

 購入したビデオデッキを倉庫魔法で自身の空間にしまい、霊夢に続いて席を立った。こいしの手を引いて、一緒に出口へ向かう。

 

「暗くなってきたしそろそろ帰るぜ? コンピューターの動かし方はわからなかったし」

「そうそう、拾い物はあまり口に入れないようにね」

 

 魔理沙と霊夢が霖之助にそう告げた。拾い物とはなんのことかと聞いてみれば、どうやら先日の霖之助はそこらに落ちていた外の世界の飲み物――コーラなる怪しげな液体を飲んでいたという。

 

「四人ともちょっと待って。帰る前に一つサービスをしてあげるよ」

 

 去りかけた俺たちを呼び止めた霖之助が、勝手の方に小走りで行ってはなにやら探しているようだった。一分も経たずに戻ってきた彼の手には黒い液体が入った四つの細いビン、コーラが握られている。

 得意げな顔で差し出してくる霖之助に、「消費期限とか大丈夫かな……」とか思いつつ、一応お礼を言って受け取った。即座に錬金術で成分の解明を行い、妙なものや毒やらが紛れ込んでいないことを確認する。とりあえずは大丈夫のようだ。

 香霖堂を出た後はすぐに霊夢と魔理沙の二人と別れ、こちらはこちらで、こいしを連れて紅魔館への飛行を始めた。

 しばらくして、俺もこいしもコーラを飲み切った辺りで、改めて切り出す。

 

「紅魔館、人間の里、香霖堂……次に会った時は、一緒に博麗神社にお邪魔しましょう。そうすれば私が普段行くような場所は網羅できます。幻想郷では通信手段が限られてきますから、その人がよく訪れる場所を知っていた方が便利ですからね」

「私の行動は全部無意識からのものだから、意識的にどこかへ行くことはできないよ?」

「でも、こいしはよく私のところに来るじゃないですか」

「なんでだろうねぇ。不思議だねー」

「だから知っていた方がいいと思ったんです。たとえ無意識でも、私に会いに来たのに取り越し苦労で見つからないままじゃ、なんだか申しわけないですから」

 

 そういえば、少し前に河童のバザーで電話機をいくつか買った覚えがある。こいしにそれを一つ上げて、地底の家の方に置いてもらって、遊びに来る際はそのことを教えてくれれば入れ違いになることもなくなるだろう。幻想郷では遠くからの連絡手段が限られてくるが、俺の前世ではメールか電話でアポを取ってからということが普通だった。

 でもこいしの行動は無意識によるものだから、いちいちそんな意識的な行動を起こしたりはしなさそうだ。それなら、やっぱり大体の俺の行動範囲を知っておいてもらった方が断然いい。

 そんな思考を広げていて、ふいと、隣にこいしがいないことに気がつく。振り返ってみると、彼女は数メートル後ろでぼーっとして空中に留まっていた。

 どうかしたのかと近づく俺を、じっと見つめてくる。

 

「……ねぇ、レーチェル」

「レーツェルです。なんですか?」

 

 笑顔と無表情以外のこいしの顔は、初めて見た気がした。

 

「地底にある私の家に――――地霊殿に、来てみる気はない?」



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六.地底へ降りる狐の謂われ

 化かすのがうまいのは狐か、狸か。どちらが上かという真実のほどはともかくとして、両者が『化ける』という分野において頂点を争っていることは周知の事実だ。だからこそ自然とそこには象徴といわれが存在するようになる。

 化けると言えば狐と狸。幻想郷の誰に聞いても、よほど常識外れの者でない限りはこの答えが返ってくるはずだ。誰もその二種族に敵うような化けるのがうまい妖怪を挙げようともしない。それはその二匹が過去幾度とあらゆるものどもを化かしてきたいわれがあるからであり、それによって化けることの象徴と化しているからでもある。

 だから狐と狸を象った道具には少なからず、そのいわれがこびりつく。さながら親が命名の際に子の名前へ意味を持たせるがごとく、化ける象徴としての伝説が残滓ほどに小さく宿るのだ。

 なにもそれは狐や狸の道具に限った話ではない。ありとあらゆる道具には、元となったなにかの特質がほんの少し秘められている。

 

「……無理を聞いてくれてありがとうございます」

 

 狐を象った仮面を片手に、今はここにいない相手に感謝を口にした。これをもらった時にきちんとお礼はしたけれど、数多くの妖怪の一匹でしかない俺の、幻想郷全体に問題を引き起こすかのような無理を聞いてくれたことには感謝してもし切れない。

 ――こいしが俺を、彼女の家であるという地霊殿に誘ってくれてから、すでに一か月が経過していた。

 あの時の俺の返答は『地上の妖怪の出入りは禁止されているんですが』なんていうなんとも当たり触りのないものだった。こいしとしてはそんなことはどうでもよかったみたいだが、つい数年前に問題を起こしたばかりの吸血鬼としては、幻想郷全体に迷惑をかけかねない行為を起こすわけにはいかない。

 こいしがとても残念そうな苦笑いで「そっかー」と呟いていたのが、記憶に焼きついている。彼女はそれからも変わらず遊びに来てくれていたが、そのたびに近いうちに行かなければと、使命感にも似た決意が心の内に生まれていた。

 それからずっと暇な時は幻想郷中を飛び回るようにして、先日、ようやく彼女を見つけた。冬が近くなるとほとんど姿を見せなくなる妖怪、幻想郷の事実上の管理者である八雲紫を。

 

『ゆかりん、覚えてますか? 吸血鬼異変の際、お姉さまを殺しかけたあなたに"貸し一つ"と言ったことを』

『唐突ね。なにかあったの?』

『こんなことを言い出したんですから、その権利を使いたいという用事しかありませんよ。かなりの無理を承知でのお願いなんですけど……』

『……珍しいわねぇ。あなたが自分から誰かになにかを頼むなんて』

『私の力じゃどうしようもないんです。それに、これから私がすることは、どっちにしてもゆかりんに相談しなきゃやっちゃいけないかもしれないことですから』

 

 誰にもなにも告げず、条約を破って地底に潜るわけにはいかない。紫に許可をもらうのが一番だと思い、俺は接触を図っていた。

 

『ふぅん。まぁ、聞いてみないことには無理かどうかはわからないわよ。要件を言ってみなさい』

『はい。実は、地底に行きたいんです。条約で行っちゃいけないってことにされてる、旧地獄に』

『……これはまた、本当に厄介なお願いね。あなたの力じゃどうしようもないどころか、一人の妖怪の意思程度じゃどうにもできない』

『どうにか許可をもらうことはできませんか?』

 

 難しい顔をする紫に、無茶なことだと心苦しく思いながらも問いかける。彼女は扇子を開き、口元を隠した。

 

『あなたが幻想郷にありふれているような取るに足らない妖怪だったのなら、そんなに厳しいお願いでもないわ。けれどあなたは悪魔どころか全妖怪の中でもかなりの力を持つ存在、吸血鬼……残念ながら、不可能よ。たとえこっそりとでも、この私でさえ旧地獄には立ち入ることができないんだから。バレる危険性を考慮すると、ね』

『そうですか……ごめんなさい、それなら今のお願いは忘れてください。迷惑をおかけしました』

 

 言葉通り、無理を承知のお願いだった。不可能ならば不可能でしかたがない。

 そうして立ち去ろうとする俺を、彼女は「待ちなさい」と引き留めた。

 

『乞うだけ乞って立ち去ろうなんてダメよ。気になるじゃないの。どうして急にあんなところに行きたいと言い出したのかしら? 今の旧地獄は無条件に忌み嫌われるような厄い妖怪と何百年も前に移り住んだ鬼、それから怨霊くらいしかいないような無法でつまらないところよ』

『友達に誘われたんです。地底にある私の家に来ないか、って』

 

 紫が顎に手を添える。

 

『……萃香のこと?』

『いえ、最近できた新しい友達です。古明地こいしと言って、サトリという妖怪ですよ』

『サトリ? もしかして、あのサトリかしら?』

『紫の言うあのサトリがどのサトリなのかわかりませんけど、たぶんそのサトリです』

 

 呆れたようにため息を吐く紫に、俺は不思議そうに首を傾げた。

 

『よりにもよってあんなのを友達だなんて……地底でも群を抜いて嫌われてるようなどうしようもない妖怪なのに』

『あ、こいしは瞳を閉じてるから心は読めないんです。ですからそこは問題ありませんよ』

『……わけがわからないわ。そんなの角がない鬼、翼のない天狗、牙を備えない吸血鬼……己が妖怪としての象徴と誇りをなくした"意味のない存在"じゃない』

 

 在り方を見失った彼女はまさしくその通りなのだろう。そして未来を予測し得る知識を持っていたくせに、それを考えもせず、あの三人の思いとともに『答え』を失った俺はとてもこいしと似ている。

 

『それにサトリの住処に行くということは、他のサトリ……きちんと心を読める輩に会う可能性があることでもあるわよ。それを考慮して私にお願いに来たの?』

『ああ、そういえばそうですね。こいしには姉がいるんですけど、遊びに行くならそっちにも会うことになるはずです。もしも行けるようになったら菓子折りとか持ってきましょうか』

『……心を読まれるのよ?』

『そんなの関係ありませんよ。友達が自分の家に、遊びに誘ってくれたんです。ずっと断ったままじゃ失礼ですし、なにより私も行ってみたいですから』

 

 あいかわらずね、と紫は言う。別に、俺だって心を読まれたいわけではなかった。というか、言葉を介す生物の中に心を読まれたいと思う者がいるはずがない。誰しも他人に言いたくないこと、見透かされたくないことなんて多々あるものだ。

 それに実際に会うとなると『心を読まれる』と意識して、逆に気づかれたくないことを気づかれまいと考えてしまい、それを読まれてしまうような気がしてならない。悪循環というかなんというか。サトリと対面する時は、もしかしたら開き直るのが一番いいのかもしれない。開き直ろうと意識してると、開き直れなさそうだが。

 

『さ、引っかかることは聞いたから、もう行ってもいいわよ』

『あ、はい』

『それにしても地底に、ねぇ……あなたが半妖だったのなら、まだ手はあったのですけれど』

『えっ?』

 

 去り際、紫が何気なく放った一言に、ピタリと脚と翼が止まった。

 

『えっと、ゆかりん』

『あら、まだなにかあるのかしら』

『そうではなくて……その、私、魔法である程度までなら人間に近くなることができるんです。最大で五〇……いえ、四〇パーセントほどでしょうか』

 

 五〇はさすがに危険すぎるので撤回しておく。半分を越えるとなにが起こるかわからないし、四〇をギリギリの安全ラインと見定めておくことが賢明だ。

 俺の発言に、紫が考え込むように目を閉じた。そして数秒後、パチンと開いていた扇子を閉じる。

 

『さっきの不可能という言葉、取り消すわ。一つだけ手があります』

『本当ですかっ?』

『ええ。レーテ、なにか狐か狸を象った身につけるものは持ってないかしら?』

『え? んー……こんなのはどうですか』

 

 倉庫魔法を行使。取り出したのは、ずいぶんと前に珍しいからと人間の里で買ってしまった狐の仮面だった。

 

『それなら問題ないわね。さて、私が思いついた方法で本当に大丈夫かの実験を始めましょうか。まずは――――』

「レーチェル?」

 

 ――こいしの声に、視線を上げる。彼女は覗き込むようにして俺の顔を覗き込んでいた。どうやらぼーっとしてしまっていたようなので、「ごめんなさい。あとレーツェルです」と謝って飛行を再開する。

 つい昨日、地底に行くことができるようになったと告げた時のこいしの嬉しそうな微笑みもまた、彼女の残念そうな顔と同等以上に印象に残っていた。紫に無理を言った、紫に無理をしてもらった価値があったというものだ。

 元々そこそこの時間は飛び続けていたので、目を凝らせば、すでに視界の先には地底への入り口とされる深い深い縦穴が見えてきている。

 

『実験は成功、ね』

『ありがとうございます。なんというか、もう頭が上がらないというか』

『はいはい、そんなことよりおさらいよ。まず大前提として、地底に入る時は必ずその人間化魔法とやらを使い、狐の仮面をつけて、地上に戻ってくるまでは絶対に解かず外さないこと。そうしていれば仮面に宿る残滓にも似た騙しの力と、私の境界を操る能力が合わさって、他の者どもには人間として判断されるようになる。それは相当な力を持った付喪神くらいしか見抜けないようなものだから、魔法を解いたり仮面を外したりしない限りは絶対にバレないと思ってくれていいわよ』

『っていうか人間は別にいいんですね。妖怪は行っちゃダメなのに』

『妖怪同士の条約ですからねぇ』

『あと仮面で必ず顔を覆ってなくちゃダメなんですか?』

『身につけてるだけで大丈夫よ。仮面部分が邪魔なら、頭の側面にでも回しておけばいいわ。でも絶対に外れないようにお願いね。バレたら私にめんどうがかかるんだから、絶対よ』

 

 そろそろ行使しておいた方がいい。人間の遺伝子を呼び起こし、魔法を発動、自身を構成する三〇パーセントを人間の細胞へと変化させる。

 急激に力が衰え、翼もなくなったのがわかった。代わりに俺の中に霊力と思しき力が芽生えるものの、やはり弱体化した感じは否めない。

 紫は、地底には忌み嫌われるような能力を持った妖怪が数多くいると言っていた。原作知識からもそれは明らかだった。体の四分の一以上を肉体的に弱い人間で行くのは正直ちょっとだけ不安があるが、それ以外の部分は吸血鬼である。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせて、すでに真下となっていた巨大な縦穴に近づいていった。

 こいしとともに穴の端に着地をし、そっと中を覗き込む。

 

「準備はいい?」

「……いいですよ」

 

 深い深い穴の奥は暗闇に包まれて、まったく果てが窺えない。そもそも終着点がないのではと思わせるほどの奈落だった。

 こいしが先に体を投げ出してゆっくりと下降し始めたのを見て、狐の仮面をつけた俺も、意を決してそれについていく。

 

「あ、そうだ」

「どうかしましたか?」

「私の手、握って。そうすれば誰にも見つからないから」

 

 こいしは周りに見えないから、他人からは人間が一人で地底にやって来ていると見られることになる。そうなると当然注目されて変な妖怪に絡まれるだろうし、こいしの提案はありがたいものだった。

 女の子らしい柔らかい手に自身のそれを重ねると、こいしは離れないようにとぎゅっと握り返してくる。

 ……というかよく考えたら、能力で気配を消してくれるのならバレずに行けるんだから、人間化魔法とか仮面とか必要ないような。

 

「そういえば……」

「なに?」

「その、あんまり気分がいい話ではないんですけど」

 

 桶に入った小さな少女の妖怪、続いてスカートが膨らんだ少女の妖怪の、それぞれの何メートルか横を通りすぎた。俺たちを一瞥すらせず、まったく気づいていなかったようで、それをすごいと感心すると同時にどこかもの寂しい気分も覚える。

 

「こいしは誰にも見つけられないでいること、どう思っているんですか? 寂しくは、ないんです?」

 

 自分がなにを言っても、なにをしても注目してもらえない。常に自分がいないものとして扱われる。こいしには、そんな環境が心地いいと思えているのだろうか。

 俺の質問に特に考えている様子もなく、いつも通り、彼女はほとんど反射的に答えていた。

 

「どうも思ってないかなー。適当にふらふらっと歩いてるだけでも楽しいし、そもそも寂しいなんて感じる心は持ち合わせてないもん」

「……寂しさを意識したことがないだけじゃなくてですか?」

「うーん、よくわかんない。でも寂しく思わないんなら、寂しくないんじゃないの?」

 

 否定しようとして、できなかった。なにせ、俺も同じだった。

 ほぼすべての負の感情を無表情の裏側、心の奥底に押し込み、苦しくない辛くない悲しくないと必死に自己暗示をかけている。萃香に言わせれば、本来直結するはずの感情と思考に齟齬が生じるくらい自身を騙している、と。

 こいしは無意識で行動することで考えることをやめているから、寂しいとすら思わない。思わないようにしている。それは俺のやり方とほとんど同じで、やはり俺は彼女と似ているのだと再認識することとなった。

 同時に、ふと一瞬、俺のやっていることが本当にいいことなのかわからなくなる。

 俺はこいしが寂しいと感じないことが、どこか心苦しく思った。でもこいしが俺とほぼ同等の存在だと言うのなら、俺もまた他人からは彼女と同じくらい痛々しく見えているのではないか?

 ……心配、かけたくないな。

 もしもそうだと言うのなら、修正をするだけだ。騙すのは自分だけではない。俺を親しく感じてくれている人たちに迷惑をかけないように、いつだって幸福なていを装っていればいい。

 嘘はバレなければ、それが真実となる。レーツェル・スカーレットは幸福だ。俺の内心はともかく、世界の真実はそういうことにしておくが吉だろう。

 

「そろそろ洞窟を抜けるよー。地霊殿まではまだちょっと遠いけど」

 

 太陽の光はもはや届いていない。なのに若干明るいとは不思議なものだと思いながら、かぶっていたフードを脱いだ。

 耳の尖った妖怪少女の近くをこいしの能力で気づかれずに通りすぎると、一分もしないうちに穴の終着点へとたどりつく。

 そこに広がっていたのは、広大な和風の都であった。



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七.出くわすは二人目の猛者

 一昔前の繁華街と言った表現が妥当だろうか。道のあちこちで灯篭の火が煌めき、和風の街並みと合わさって暗闇の世界に一種の芸術を作り出している。人間嫌いだとか忌み嫌われる妖怪ばかりだとか聞いていたので地底にはどこか暗いイメージを抱いていたのだが、そこそこ活気立っているところを見て、その印象に若干の修正を施した。

 そんな都は視界の果てを越えて、余すことなく続いている。紫が言うには、地底界自体が地上の幻想郷と比べて圧倒的に広大であるらしい。同時に無法者ばかりだとも文句を漏らしていたが、順応さえしてしまえたら、もしかすれば地上よりも生きやすいところなのかもしれない。

 

「こいし、街の近くを飛びませんか? 初めて来る場所ですし、景色を眺めながら行きたいです」

「えー」

「ダメならいいです」

「どうせなら歩こうよ。中途半端はつまんないもん」

 

 と、こいしは俺の手を引いてさっさと街道に降りた。彼女の方から積極的に来てくれたことに少々驚いたものの、もしかしたら彼女のこの行動の裏には、自身の故郷を実際に歩いて知ってほしいという思いがあったのかもしれない。

 上から眺めるのと実際に見て歩くのとでは、やはり臨場感に違いがあった。

 そうして目的地である地霊殿へ向かいながらも、キョロキョロと都の観光を始める。当初のイメージ通り根暗っぽい妖怪もたくさん見かけたが、昼間のくせに――地底だから地上の時間帯なんて気にしないのかもしれないが――豪快に酒の飲み比べをしているような輩も多くいた。よく見たらそのほとんどが鬼だったけれど。

 聞くところによれば、かつて妖怪の山の頂点に君臨していた鬼たちは、この地獄が旧地獄へと変わると同時に住み移り、我が物顔で都市を築き始めたらしい。幻想郷に鬼がいないのも、実質的には今は天狗が山の実権を握っているのも、そうして急に鬼がいなくなったことが原因のようだ。

 

「しかしこんなに鬼がいるなんて、なんというか……よく考えたら恐ろしいところですね、地底って」

 

 吸血鬼異変の際、吸血鬼たちは地上でしか暴れることはなかった。もしもこの地底界へ侵入を試みたりなんてしていたら、紫や藍が出てくるまでもなくコテンパンにやられていたことだろう。

 

「そうだねぇ。あ、河童もいるよ? ほら、あそこ」

 

 こいしが指差す先には鋭い目線で客を眺める、片目に傷を負った一人の女性店主。腕を組み、どこか威圧感さえ放っていそうな雰囲気を纏う彼女は、妖力や魔力がさほど多くないだろうにも拘わらず凄味のようなものを感じさせてくる。

 

「……前に河童のバザーに行ったことあるんですけど、なんというか……私の知ってる河童と全然違うというか」

「地上の河童は平和ボケしてるんだよ」

 

 地上のカッパにも商売をやっておきながらなかなか口が悪いやつもいた記憶があるが、なるほど。不良とヤクザ、張りぼてと本物の違いとでも言うべきか。

 時々怒鳴るような大声が聞こえてきたりしてビクビクしつつも、地底独特の自由な雰囲気や景色を味わっていた。

 

「ん、こいし、あれはなんですか?」

 

 どこか広場のようなところに出て、多くの妖怪――主に鬼――が集まっているところを見つける。まるでなにか大きなものを囲むかのように不自然な形で密集しているようなので、なにがあるのかと妙に気になった。

 

「なんか最近流行ってるみたい。私はやったことないんだけど、どんな名前だったかなぁ。確か……サッカー、だっけ?」

「え」

 

 こいしが発した思いがけない単語に、体が硬直する。さらに予想外なことは重なるようで、それと同時に妖怪の人波が急に左右に分かれた。どうして、と。そんな考えを抱くよりも早く、事態は急速に展開する。

 流れ球か、とてつもない速度のサッカーボールが妖怪の集まりの中央を横切って、俺たちに直撃コースで迫ってきたのだ。なんて不運だ。突然のことに思考が停止する――直前に、こいしを守らなければという感情が単純な思考さえできなくなりかけた脳内を占める。

 半ば反射的にこいしの手を離し、その体を突き飛ばす。即座に俺もその場を離れようとして、しかしその頃には目前にまでサッカーボールが接近していた。

 咄嗟に両腕を顔の前で交差すると同時、強烈な衝撃がそれに襲いかかる。普通ならばここでボールが跳ね返って終わりなのだが、地底の妖怪が行うようなサッカーはそんな生易しいものではなかった。勢いの収まらないサッカーボールは両足で踏ん張る暇もなかった俺をふわりと浮かせ、力のままに後方へと突き飛ばした。

 刹那に視界が過ぎ去り、そして一瞬で止まる。突如背中から全身へと痛みと振動が走り、息が止まった。

 

「う……」

 

 けほっけほっ、と咳をする。シャットしかける頭を横に振ってどうにか持ち直し、よろよろと立ち上がった。

 どうやら幸運なことに俺が衝突したのは建物ではなく塀だったようだ。というか、よく見ると辺りの建物のほとんどに塀があった。なるほど、よくボールが飛んでくるから、それが当たらないようにしているのだろう。

 ……多少なりとも人間に近くなっているから、反応が遅れた。耐久力が下がっている。完全な吸血鬼の形態だったなら最初のサッカーボールは余裕を持って容易に受け止められたはずだし、この程度の激しさで塀にぶつかったところでわずかに怯みもしなかっただろう。もしかしたら人間化魔法は、俺が想像している以上に自身の弱体化に繋がっているのかもしれない。

 ざわざわと、騒々しさが辺りを占め始めた。頭に手を運び、仮面が外れていないことを確認して、ほっと息を吐いて周囲を見渡す。

 さきほどまでサッカーを観戦していた妖怪たちが物珍しげな様子で俺を観察していた。彼らの頭はおそらく、なぜ人間がこんなところにという疑問と、どうして今の一撃を人間が受けて無事なのかという疑惑に溢れていることだろう。

 こいしが人ごみの上を飛び越えて、俺に近づいてくるのが窺えた。いくら彼女の能力でもこれだけの人数に注目された状態で一気に注目を離せるとは思えない。いったんここを離れて、全員から視線を外した上でこいしに気配を消してもらわないと……。

 

「ありゃりゃ、誰かに当たってたか。そこのあんた、大丈夫?」

「……ええ、大丈夫です。気にしないでください」

 

 近寄ってきては俺のすぐそばに落ちていたサッカーボールを拾った鬼が、表情に興味の色を見せて俺の体を労わってくる。

 鬼を無視するのはいろいろとリスクが高いので反応したのだが、すぐにそのことを後悔した。

 

「あれ、レーツェル?」

「す、萃香……」

 

 捻じれくねった二本の長い角と、両手と腰に巻いた鎖と分銅が特徴的だ。無限に酒が出てくるらしい瓢箪を片手に持っている小さな鬼は、俺の姿を認めて訝しげに眼を細めた。

 

「な、なんでこんなところに萃香が?」

「いやいや、ここは鬼が住まうところだよ。私がいてもなんらおかしくない。そんなことよりレーツェルの方こそ、どうしてこんなところにいるのさ。なんかいつもより気配が弱々しいっていうか、翼ないし」

「えーっと、その……」

 

 さっさと身を翻して逃げればよかった。一度顔を合わせてしまったら、人攫いのエキスパートである鬼の中でも四天王とまで呼ばれた萃香から逃亡することはかなわないだろう。

 なにより萃香は俺が吸血鬼であることを知っている。このまま一緒にいたら、果てしなく都合の悪い事態に発展しかねない。

 

「ちょ、ちょっと用事があって地底に来てただけですよ。もう帰りますので、それじゃ」

 

 たとえ逃げ切れる可能性が低いとしても、逃げないでいるわけにはいかない。地上の妖怪である俺が侵入したことがバレるということは、紫に迷惑がかかると同時に幻想郷全体の問題に繋がるのだ。

 萃香に俺がいるところを見られてしまったが、実際に取り押さえられたりしたわけでないのならいくらでもやりようがある。萃香一人しか目撃者がいないのなら、見間違い等でどうとでもなる可能性はある。

 

「あ、ちょっと待っ――」

 

 萃香が俺に手を伸ばしてくる。能力で『密と疎を操る程度の能力』で直接萃められる『答え』をなくし、全力疾走をするために脚に力を込めた。

 しかしその瞬間、ぐいっ、と首根っこを誰かに掴まれる。

 

「待ちなさいな。人間のくせに萃香と知り合いだなんて面白い。このまま去るのは一旦やめてもらうよ」

 

 身長的に差があるのか、ふわりと体が二〇センチくらい浮かされた。

 問題は起こしたくなかったけど――右腕の肘に魔力と霊力を集め、背後にいる人物に全力で肘打ちをする。

 完全に不意をつけたかと思ったのだが、パシン、と。おそらくは俺の襟を持っているのとは逆の手で呆気なく受け止められた。

 

「大人しくしてもらおうか」

「いっ……!?」

 

 ミシミシと掴まれた肘が悲鳴を上げる。思わず苦悶の声が出て、策そうとしていた思考が強制的に遮断された。

 これはもう、どうにもできないか。さすがに諦めるしかない。

 そう思いかけたところで、最近聞き慣れた一人の少女の声がこの場に響いた。

 ――――ねぇ。

 

「なっ!?」

 

 背後にいた妖怪がなぜか俺から手を離し、体が地に落とされる。ふらつきながらもなんとか着地して、なにが起こったのかと周囲を見やった。

 俺を囲んで、守るようにして妖力で作られた茨と薔薇が咲き乱れている。少し離れた位置である萃香の隣に背の高い鬼の女性が警戒した様子でこちらを見据えており、おそらくは彼女が一度俺を捕らえた妖怪の正体なのだろう。

 上は前世で言う体操服のような簡素な服で、下半身は紅蓮のラインが入った半透明のロングスカートを着用している。金髪のロングに赤い瞳、手首には萃香と同様に手枷があるものの、分銅はついていない。そしてなによりも特徴的なのは、黄色い星が描かれた赤の一本角だ。

 

「レーチェルに手を出さないでよ。私の友達なんだから」

 

 茨と薔薇が空気に溶けて消え、ふわり、と俺の横にこいしが降りてきた。鋭い目線で一本角の鬼を睨んでおり、怪しい動きを見せたら容赦なく攻撃するという雰囲気が嫌でも伝わってくる。ここまで真剣で敵対的なこいしの顔は初めて見た。

 

「勇儀、やめなよ。これ以上やり合うとなると都が滅茶苦茶になりかねない」

「へえ、そんなにあの人間は強いのかい?」

「うん? レーツェルは人間じゃなくて吸血鬼だよ。こいしちゃんもそんな殺気立たないでってば」

 

 萃香が仲裁に入る。俺もこいしをどうにか宥め、それから両手を上げて相手側にももう逃げる意思がないことを示した。

 もうこれ以上抵抗するのは無意味に近い。大人しく投降するに限る。

 

「……そうだねぇ。なにか訳ありのようだし、ここで話をするには少々人目が多すぎるか」

 

 一本角の鬼――勇儀が辺りの人目の多さを確認し、肩を竦めた。「待ってろ」と俺に一言釘を刺し、彼女は萃香からボールを受け取って踵を返す。

 代わりに萃香が近寄って来て、俺の頭を小突いた。

 

「往生際が悪いわよ。素直に捕まっておけばよかったのに」

「……本来、地上の妖怪はここに来ちゃいけないんですよ」

「そうだねぇ。でもまぁ、悪いようにはしないって」

 

 それにしてもこいしちゃんと知り合いだったとはねぇ、と萃香がこいしに視線を向ける。萃香は鬼で、こいしも地底に住んでいるのだから、二人が知り合いでも驚きはしない。こいしは首を傾げていて、あんまり覚えていない風であるが。

 

「それで、あの鬼はなにをしに行ったんです?」

「ああ、サッカーをやってたからね。たぶん私と自分の途中退場を知らせてくるんじゃないかな。レーツェルと話をするために」

 

 ……やっぱり面倒なことになった。もう一度逃げ出そうとしたい気持ちに駆られながら、小さくため息を吐いた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「あっはっはっはっは、そうかそうか! あの時の地震はあんたと萃香が喧嘩してたからか! 通りで妙に血が滾ったわけだ!」

「もう二度と戦いたくありませんけど」

「えー。また今度戦おうって約束したじゃないか」

「してません。萃香が一方的に言ってるだけです」

「レーツェルって結構強かったんだねー」

 

 場所をカフェのような店に移動し、俺の隣にはこいし、向かい側には萃香と勇儀という席順で席についていた。二人の鬼は注文した酒を幾度と口に含み、俺をそれに誘ってくるが首を横に振る。この後に地霊殿に行くという用事が残っているのだ。酒が入った状態で友達の家に上がるのは失礼に当たる。

 

「それで、どうして人間になんて化けてるんだい? 萃香の言うことが本当なら、今とは比べ物にならないくらい強いんだろう?」

「本当だよ」

「……ここは地底ですから。吸血鬼のままじゃ、いろいろと問題があるでしょう」

「そういえば条約があったね。ま、決定的な証拠をさらさなきゃ破ったことにはならないさ」

 

 それは暗に「黙認してやるから話に付き合え」と言っているのだろうか。きっとそう言ってるのだろうな、とニヤケ面の勇儀を眺めつつ、ちょうど届いた紅茶のカップを手に取った。

 

「萃香と引き分けるくらいだからねぇ、なんだかワクワクしてきたよ。どう? 今度私とも勝負をしてみないかい? ここじゃいろいろと問題があるから、ちょっと外れの方でさ」

「鬼とはもう戦いたくないです。一発でもまともに受けたら戦闘不能確実ですし、戦ってる時いっつも笑ってて怖いですし」

「そりゃあ、強いやつとやり合うことが楽しくないわけがないからね」

「私は楽しくないですって」

 

 言い返しながら、うずうずとした様子の勇儀に目を向ける。

 彼女は伊吹萃香と同じく、鬼の中でも山の四天王の一人とされるほどの実力者なんだとか。萃香との勝負を思い返せば、彼女と同等クラスの力を備える勇儀と争って無事で済む保障がないことはすぐに理解できる。進んで神経を削るほど俺は被虐趣味ではない。

 

「そうそう、強いと言ったらあんたの隣の古明地こいし。本能で危険を感じなかったら間違いなくあの茨の攻撃を食らってたよ。私をむやみに攻め込ませないくらいの殺気を放てる割に、今はもう目を離せば見失ってしまいそうなくらい気配が薄い……本当はいったいどれくらい強いんだい?」

「私? 私はそんなに強くないよー。お姉ちゃんより強いのは確かだけどね」

 

 サトリが強いという話はあまり聞かないというか、そもそも妖怪の強弱の話題でサトリなんて名前はほとんど耳にしない。だからおそらくこいしの言っていることは真実なのだろうが、さきほど俺を助けてくれた彼女の雰囲気を思い出せば、そこらに溢れているような中級妖怪などとは一線を画していることは確かだった。

 そもそもこいしは存在感が希薄すぎるせいで、正しく強さを推し量ることができない。本来なら注意して観察するだけでもある程度の強さは察せられるはずなのだけど……。

 

「で、結局レーツェルはなにしに旧都に来たのさ。肝心なところ聞いてないよ」

 

 酒を飲み干し、あいかわらずの酔っぱらった声で萃香が俺に問いかけてくる。

 

「こいしの家に遊びに誘われたので、行く途中だったんです。なんかいきなりボールが飛んできて突き飛ばされましたけど」

「あ。レーチェル、あの時助けてくれてありがとうね」

「どういたしまして。あとレーツェルです」

「たぶん私反応できたけど」

 

 ……コメントしづらい一言が追加された。もしかしたらあの時、手を離さずにいた方が無事に済んでいたんじゃないか。そう思うも、すでに過ぎ去ったことにIFを求めてもしかたがない。

 

「あはははは! ぼーっとしてる方が悪い。当たる方が悪いんだよ」

「理不尽です」

「それが地底のルールさ。やられる方が悪い、やられたらやり返せ。単純でわかりやすいだろう?」

 

 勇儀は俺に、ボールを当てられて謝りもしないことにムカつくなら私にやり返せ、とでも言いたいのだろうか。きっと言っているのだろうな、とニヤケ面の彼女を眺めながら「やり返しませんよ」とだけ告げて、再度紅茶を口に運ぶ。やり返したらやり返したで一発は一発だとか吐かれて殴られるなりなんなりされるに決まってる。

 

「それでサトリの家となると、地霊殿か。いくら誘われたからってあんなところに自分から向かおうとするなんて、変わってるねぇ」

「なんでです? なにか悪い噂でもあるんですか?」

「悪い噂って、サトリが住んでるってこと自体が悪い噂じゃないか。心を読まれるなんて誰しもされたくなんてない」

 

 そう称する割に勇儀の言葉に悪感情は見受けられない。そのことを追及すると「鬼は正直だからね」と返ってきた。隠すようなことはない、ということか。

 

「それにしてもレーツェル、まだ悩んでるの?」

「悩んでるって、なんのことです?」

「ほら、両親殺したんだっけ? そのことだよ」

 

 勇儀の目が面白そうに細まり、こいしがパチパチと目を瞬かせて俺の顔を見る。余計なことを、と思いながら萃香を睨むと、彼女はニヤリと悪気のある表情を浮かべることでそれに答えた。

 

「だから悩んでなんていませんって。今回もこいしが呼んでくれたので行くって言ったばっかじゃないですか」

「あいかわらず嘘ばっかりだねぇ。いや、半分は本当なのかな。でも残りの半分は違う」

 

 彼女もまた、あいかわらず俺のすべてを見透かしているかのような口調で語りかけてくる。

 

「前よりはうまく隠せてるけど、まだまだなっちゃいない。レーツェルは今、期待を抱いてる。心が読めるというサトリなら自分の寂しさに絶対に気づいてくれるって、きっと自分の気持ちを察してくれるって――」

「ごちそうさまでしたっ」

 

 これ以上萃香と話していたら気分が悪くなるのは明白だ。かつて萃香と戦うような事態になったのもどうしてかイライラしたのが原因だし、このままじゃあの時の二の舞になる。

 というか、これは萃香の挑発だ。地底なら幻想郷での紫の約束なんて関係ないから、俺を怒らせてその気にさせて、勝負にまで話を持っていこうとしている。これから地霊殿に向かうという用事があるのだからそれに乗っかるわけにはいかない。

 行きましょう、とこいしの手を取ってさっさと二人の鬼に背を向ける。「振られちゃったねぇ」と勇儀が萃香に笑いかけてるのが後方から聞こえてきた。

 金は、たぶん萃香と勇儀が払ってくれるだろう。

 カフェらしき店を出て、こいしに向き直った。

 

「こいし、さっさと地霊殿に行きましょうか。歩いてるとまた不運に襲われるかもしれないので、今度はきちんと飛んで」

「りょーかーい」

 

 地霊殿は旧都の中央にあるらしい。そしてそちらに向かえば向かうほどに、見かける妖怪は少なくなっていく。

 中央近くに嫌われるような妖怪が多くいるからか、それとは別の要因があるのか。

 なんだかんだで歩いている時に結構進んでいたようで、目的の建物はすぐに視界の奥に見えてきた。

 ポツンと建てられた洋風の屋敷はあまり和風の都と似合っていない。



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八.どうか虚像の真実を見抜いて

「たっだいまー」

「おじゃまします」

 

 こいしに誘われるがままに屋敷内へと足を踏み入れ、なんとはなしに内装を見回す。そしてすぐにその神秘性に舌を巻いた。洋風ホラー映画で見るような館に似た紅魔館とはまた違い、桃色の床、白い柱や壁、色鮮やかなステンドグラスで彩られた室内は穏やかな美しさを連想させ、まるで物語の世界にでも来てしまったようだった。

 感動する俺の手をこいしが引いてくるので、観賞もほどほどにカツカツと靴を鳴らして屋敷の中を進み始めた。

 

「……なんかすごいたくさん怨霊がいるんですけど」

 

 こいしの能力のおかげか、どれもこれも俺たちに目を向けようとはしてこないが、不気味な青い霊力を持った白い骸骨がそこかしこに漂っている。怨霊は妖怪として、知識としては知ってはいたが、あまり見たことがないのでどこか身構えてしまうことをやめられない。

 

「んー、レーチェルならこの程度の怨霊、どうってことないよ。地上じゃ乗っ取られるなんて眉唾の話もあるみたいけど、よっぽどのことがない限りはそんなこと起こらないからねぇ」

 

 怨霊の力は幽霊のそれを下回る。乗っ取る対象の体や精神が相当に弱っていなければ、生命力に溢れた人間や妖怪に乗り移ることは叶わないのだろう。そう考えれば少しは安心できるものだが、やはりどこか無意識に警戒してしまう。

 

「そんなに心配ならお姉ちゃんのペットでも借りてこよっか? そこらへんにいるし、皆嬉々として怨霊を食べたりするし」

「え。それって大丈夫なんですか? 体、というか精神の方」

「へーきへーき。その方が強くなるってお姉ちゃんも言ってたもん」

 

 ペットか。怨霊を食べているとなると、そのすべてかほぼ全員が妖怪化し、怨霊に対する高い耐性を備えている可能性が高い。強い妖獣になると同時に性質的に危なくなる気もするけれど、こいしが大丈夫と言うのならおそらく大丈夫なのだろう。

 ……感受性の高い妖獣でも平気だと言うのなら、悪魔の中でも最強種に近い誇り高き吸血鬼がいちいちビビっていてはいけない。「呼ばなくてもいいですよ」とこいしに告げて、大きく深呼吸をして、心の中の恐怖をできるだけ弱めるようにした。

 そもそもせっかく友達の家に遊びに来たのに、こんな気持ちのままでいるのは失礼に当たる。怖がるんじゃなくて、もっと楽しむべきだ。

 

「……って、この廊下の先ってあんまり怨霊を見かけませんね」

「ほんとだねぇ。じゃあたぶん、この先にはお姉ちゃんがいるんじゃないかな」

「どうしてです?」

「お姉ちゃん、これでもかって言うくらい怨霊に嫌われてるみたいだから」

 

 そういえば前にこいしから、第三の目が開いていた頃は近づいてこなかったと聞いた。怨霊が心を読まれたくないと思っているのなら、怨霊が少ない方へと進んで行けばこいしの姉へとたどりつけるという考えに至るのは自然だ。

 ふと立ち止まり、その道の先を見据えたまま思考にふける。

 普通に考えて、他人様の家に上がったのならば見かける家人全員に挨拶をしておくべきだろう。ましてやすぐそこにいるとわかっているのに無視をするなんてありえない。たとえ相手が心を読めるというサトリでも「おじゃましています」の一言くらいは告げるべきだ。

 

「行きましょうか、この先に」

「いいの?」

「挨拶はするべきです。それに、いつもあなたの妹さんには世話になってます、ってことも伝えないといけませんしね」

「……世話になってるのは私の方だけどね」

 

 今度は俺がこいしの手を引いて、廊下を進み始める。まるでなにかを忌避し、逃げるようにしていく怨霊たちを横目に、その根源であろうものを求めて突き進んだ。廊下をまっすぐに歩いていき、怨霊が多くなったきてから「この道は違う」と引き返して、階段を上がり、そうしてたどりついた場所は中庭を見下ろすことができるバルコニーであった。

 手すりの近く。丸テーブルに数冊の本を置き、二つあるイスのうちの一つにその少女は腰をかけている。口元にわずかな弧を描き、ぱらぱらと手に持った本を読み進める姿は少女そのものの容姿のよさも相まって、さながら一つの絵画のようにも見えた。

 薄紫色のボブはこいし同様若干のクセがあり、両の瞳は深い紅に染まっている。手元のフリルが可愛らしい水色の服装は幼稚園か私立の小学校に近いデザインをしており、黄色いハート形のボタンで留められているようだ。下は膝に届く程度の桃色のセミロングスカートで、家の中ということもあってか赤いスリッパを履いている。

 しかしこいしもそうであったが、やはり一番特徴的なのは人型の姿かたちではなく、胸元に浮いた第三の目(サードアイ)の方である。頭の赤いヘアバンド、服の両手および首元のハートの飾り部分、腰に巻いた管、それらすべてとその他背中の見えない部分からも伸びた管が胸元にある赤色の膜を持つ第三の目に収束し、そしてそれはこいしのものと違ってきちんと開かれていた。

 足音からか、彼女は俺たちがいることに気づいたようで、本から顔を上げてこちらに顔を向けてくる。

 ともに第三の瞳も俺をじっと見つめてきて一瞬ビクリと体が震えたが、すぐに首を横に振って、どうにか緊張を掻き消すように意識した。

 

「こいし、帰っていたんですね」

「ただいまって言ったよ」

「そうなんですか? ……あら、本当みたいね。ごめんなさいね、反応してあげられなくて」

 

 本当みたいね、の部分で小さく俺に微笑みかけてきていた。「そうなんですか?」の確認に対し、俺が半ば反射的に地霊殿に足を踏み入れた時のことを思い出してしまい、その光景を彼女がそのまま読み取ったのだろう。

 ――古明地こいしの姉、古明地さとりは、心を閉ざした妹の考えだけは読むことが叶わない。

 わざわざ俺の心を覗いたということから、その知識が間違っていないことが窺えた。

 と、そこまで考えたところで、目の前の少女の顔が疑惑に歪んだ。

 そうだ、心を読まれるんだった。自然に思考してしまっていたが、原作知識なんてものは世界の秘密にも等しい異端の記憶なのだ。あまり考えていてはいけない。

 

「考えちゃいけないことを考えちゃいけないと考えられても、私には読むことしかできないのですが……」

「あ、いえ、私が考えてることは全部嘘ですからっ。気にしないでください」

「『嘘嘘嘘嘘嘘。いや、本当だけど……って違う、嘘です』なんて考えられてもねぇ……その思考もバレバレですから」

 

 少女が、呆れたように小さくため息を吐いた。開き直ればいい、と事前に対策を考えてきたのに、いざ出会ってみればこれである。なんかもう、どうしようもない。

 

「私は古明地さとりと申します。とは言え、あなたはその名前をすでにご存じのようですが……こいしから聞いたのではないみたいですね。原作知識、とやらから手に入れた情報ですか」

「うぐぐぐ……私は、レーツェル・スカーレットです。吸血鬼……じゃなくて、人間をやっています」

「『今は人間に変装してるから人間で通さないと。いや、前世では本当に人間だったけど』、ですか。ずいぶんと不思議な記憶をお持ちのようです」

 

 そんな興味津々な顔で微笑まないでほしい。考えちゃいそうになるから。

 

「もう、お姉ちゃん。あんまりレーチェルをからかわないでよ」

「こいし……? えっと、ごめんなさいね。やっぱりいつものクセで……」

 

 どこか戸惑った様子で、さとりがこいしに小さく頭を下げる。なにかおかしなことがあっただろうか、と首を傾げていると、そんな俺をさらに不思議そうにさとりが見つめてきた。

 

「こいし、もしかしてこの人があなたの言っていた」

「地上でできた初めての友達、だよ」

「…………よかったですね。レーツェルさんも、こいしを深く信頼してるようです」

 

 今度はひどく微妙な表情で、さとりが俺を見やる。百面相だ。心が読めるという特徴があるから大して違和感なく受け入れられるものの、事情を知らない人からすれば変人にしか見えないだろう。

 

「変人とは失礼ね。こいしから聞いていますよ。あなたは私の妹を追い回す変態のストーカーだと」

「え」

「初めて聞いた時から、こいしが変な輩に騙されてないかとずっと不安でした。私の想像していた変とは全然違いましたが……どこか頭がおかしいことには変わりないようね。誤解、ですって? ええ、まぁ、あなたはこいしを友達として見ているようですし、変態やストーカーという評価はこいしが飛躍してつけたものの可能性はあります」

「あるっていうか、たぶんその通りです」

「『一応本当に追い回したりはしたけど』ですか。それならこいしの評価もあながち間違ってはいませんね、変態のストーカーさん」

 

 どうして俺は初対面の女の子から地味に罵倒の言葉を受けているのだろうか。変人だと考えられたことを根に持たれているのかな。とりあえず謝らなければ……と考えた直後、「『とりあえず謝らなければ』ですか」とさとりが黒い笑みを浮かべた。

 

「……ごめんなさい」

「はい。本気で謝ってくれていただけたようでなによりです。私もすみません。なにぶんこいしが誰かを連れてくるなんて初めてのことでしたから、必要以上に警戒してしまいました」

 

 どうやら悪い妖怪ではないみたいですね、とさとりが初めて俺に優しげな微笑みを向けてくれた。なんだかほっとすると同時、それも見透かされているのではないかと思考して、しかし「まぁそれもいいか」と思い直す。

 俺を安心させるために柔らかい言葉をかけてくれたのだとすればそれはたぶん、いや、きっといいことなのだ。いちいちその意図について考えていてもしかたがない、相手の思い通りになっているからと言って憤っていてはキリがない。

 サトリなんて心を読める妖怪の前では、鬼のごとく自分に正直でいることが大切なのだろう。

 

「……そこまで私に理解を示そうとしてくれた方は、たとえ鬼でも一人もいませんでしたけどね」

「理解、って。大したことは思ってませんけど」

「普通の(かた)なら、数回心を読んだだけでもうんざりして私を遠ざけようとするものです。言葉を介する種ならば特に。こいしが連れてくるだけあって、あなたは普通とは違うみたいですが」

 

 言葉を用いる生き物にはすべて裏表がある。そして、言いたいことだけを会話を介して伝えることを望んでいる。そんな当たり前のことは、ある程度以上の知恵を持つ生命ならば必ず理解していることだ。

 だからこそ、心を読めるサトリという妖怪は多くの者から嫌われる傾向にある。鬼でも、天狗でも、サトリという妖怪を理解した存在は言葉を介する生命である限り、意識的にも無意識的にもそれを遠ざけようとするのだろう。

 

「そうですね……よければ、私にこいしと出会った時の話をしていただけませんか? よければ、ですが」

 

 不意に持ち出されたさとりからの提案に、こいしと顔を見合わせた。

 

「私は構いませんよ。こいしはどうです?」

「レーチェルがいいなら、別にいいよ」

 

 レーツェルです、ともはや定型になりかけたやり取りをして、さとりが前にする丸テーブルに近づいていく。

 

「あ、すみません。イスが一つ足りませんね」

「大丈夫ですよ」

 

 倉庫魔法を発動し、自身の空間からマイチェアを取り出した。一通りの生活用具は向こう側に揃えてあるのだ。

 こいしを元々あったイスに座らせ、その隣に倉庫から持って来たイスを置いて、俺が腰をかける。ちょうどその時にさとりが読んでいた本にしおりを挟んで机の上に置くのでタイトルを見てみたら、『ストーカーの安全な撃退法』と書かれていた。

 ……ちょっとばかり微妙な気持ちになってさとりに視線を送ると、第三の目と一緒にサッと視線を逸らされた。

 

「……まぁ、いいです。さて、なにから話しましょうか……」

「レーチェルが私をストーカーしてきた日のことからじゃないの?」

「ええ、まぁ、そこからなんですけど」

 

 いい加減俺を変態のストーカー扱いするのはやめてもらえないのだろうか。

 

「『こいしは本気で言ってるわけじゃないし、さとりもからかうネタにしているだけだろうから、別にいいんだけどさ』。よかったですねこいし、公認ですよ」

「わーい」

「むぐぐぐぐ……」

 

 さっさとあの日のことを思い返そう。気持ちを落ちつかせ、どうにか記憶の糸をたどっていく。

 

「あの日の前日は、咲夜と……うちの住み込みの人間のメイドさんと一緒に買い物に出かけたんです。こいしが横を通りすぎた時、なにか不思議な感覚を覚えまして、次の日にはどうしてかこいしを探してました」

「『変態的感覚がビビっときたわけじゃないから』ですか。いえ、別にそんなこと欠片も思ってませんでしたけど……」

「むぐぅ」

 

 思考を読めるなら思考の方で先手を打ってやろうかと思ったら、墓穴を掘った。あんまり慣れないことはするべきじゃない、なんて考えながら咳払いをした。

 

「まぁそんなこんなで、ぼーっとしてたらこいしを見つけて、追いかけました。それで出会ったんです。はい、出会い終わり」

「一緒に蕎麦屋に行ったりしたよねぇ。茸蕎麦美味しかったなぁ……って、あれ? なんで私、こんなことまだ覚えてるのかな。いつもはなんでもかんでもすぐ忘れちゃうのに」

「別にいいじゃないですか。私は覚えていてくれて嬉しいですよ」

「んー、そっか。じゃあ別にいっかー。なんだかレーチェルに関わった時のことって、全然忘れないみたい」

 

 さとりの両目がスッと細まるが、今回はなにも言わない。やはりこいし本人が言う通り、こいしが過ごした日々を忘れていないのは本当におかしいことなのかもしれない。

 

「それでその後もちょくちょく会って……そうそう、私の家で夜空の観賞会なんてやった時に初めてこいしはフランと会ったんですよね。フランっていうのは私の妹で、とっても可愛い子なんです」

「ええ、あなたのイメージがよく伝わってきますよ。色とりどりの宝石を備えた美しい翼と、天真爛漫な振る舞いをする金髪の女の子の姿が」

 

 特徴を言い当てたことに少し驚いたが、それも当たり前かと納得する。心を読むとは、なにも思考内の言葉に限ったことではない。抱いた感情、浮かべた心象、およそ表層意識と呼ばれるすべてを見通すことを言うのだろう。

 

「『そういえば原作でも、主人公の頭の中にある弾幕を再現したりしていた』って、本当に変なことばかり考えますね」

「あ、その、えっと」

「まぁ、今は追及しないでおきますよ。せっかくこいしの連れて来たお客さまに粗相を働くわけにはいかないので」

 

 サトリに隠し事をしようという考え自体が無意味なことは最初からわかっていたことだ。もしかしたらさとりは、すべてとは言わずとも、俺の秘密をすでにほとんど読み取ってしまっているのかもしれない。

 

「…………それより続きを話してください。こいしがそのフランさんと会って、どうしたんですか?」

「ん。えーっと……次の日から、三人で一緒に遊ぶようになったんです。とは言っても、最初はいろいろと大変だったんですけどね」

「ただ心のままに遊んでいる心象しか見えませんが」

「大変だったんですけどね」

 

 二回目を言い切ると、くつくつとさとりが笑った。

 

「それである日、霊夢と魔理沙、霖之助……えっと、最近付き合いの多い人間のお三方をこいしに紹介して、コーラを飲んで帰ってる途中に、地霊殿に来ないかって誘われたんです」

「その時は断ったみたいですね」

「……まぁ」

 

 こいしの方をチラリと窺う。断った時の、無表情ながらもどこか気落ちした様子だった彼女の姿は今でも記憶に焼きついていた。あの日から今日まで、ちょっとばかり後ろめたい気持ちを抱いていたことは否定できない。

 こいしが俺の視線に気づいて、なにー? と無邪気に笑いかけてくる。その表情にあの日見たはずの暗さは一切見えず、無意識のうちに安堵のため息を吐いたことに、した後に気づいた。

 

「条約のことを霖之助に聞かされたばかりでしたから。あの後に紫を……ちょっとばかりインチキくさい知り合いの妖怪を探して、この狐の仮面に、一定の条件を満たした上でかぶっていたら周りから人間に見えるカラクリをしかけてもらったんです」

「ここに来る途中、こいしに気配を消してもらうなら、それもいらなかったんじゃないかと思ったみたいですね」

「ちょっとトラブルがあったせいで、前言……前思撤回しましたけど」

「知り合いの鬼に絡まれたんですか。よく無事でしたね……」

 

 俺が言葉にしようとしたことをさとりが先に口にするものだから、なんだか謎の対抗意識が出て来て、さらにその先を言おうとしてしまう。その繰り返しをしていたせいで、こいしが目をぱちぱちと瞬かせて不思議そうな顔をしてしまっていた。

 

「あ、ごめんなさい。えぇっと、そういうわけで、この地霊殿までたどりついたんです。実質的にはこいしとは、数か月程度の付き合いですね」

「ふむ……」

 

 これで語れることは大体終わりだ。大雑把になってしまったが、細かいところは俺の心象が読める彼女なら理解できているだろうと思う。

 しゃべったおかげで口の中が乾いてきて、そういえばお茶がないな、と倉庫魔法を発動して空間に手を突っ込む。紅茶の茶葉と水を入れると数秒で温かいお茶ができ上がる急須――最近"変換急須"と名付けたそれと紅茶の茶葉、湯呑みを三つ取り出した。

 さっと茶葉を入れ、魔法で水を作り出して注ぎ、蓋を閉じて数秒間放置する。そろそろいいかと思った頃に三つの湯呑みに湯気の立つ緑色の液体を注いで、それぞれこいしとさとりに渡した。

 

「ありがとー」

「そうですね、本が近くにあると濡れて大変でしょうから……ああ、魔法の倉庫に入れておいてくれるんですか。それならお願いします」

 

 俺の心を読んださとりがすっとテーブル上に積んであった本を差し出してくる。最初は戸惑ったものだが、ここまで心を読まれながら話しているとさすがに慣れてきた。特に驚きもなく受け取って、それを自分の空間の中に丁寧に格納する。

 三人でお茶を飲んで、一息を吐いた。

 

「レーチェル、おかわりっ!」

「わかりました。あとレーツェルです」

「こいし。レーツェルさんはさっきからずっと訂正してるみたいですが、『なんだか親しみが感じられるからレーチェル呼びでもいいか』って思ってますよ」

「ほんと?」

 

 どこか期待の込められた目でこいしに見つめられる。思っていないと言えば嘘になるので、いやでもやっぱりレーツェルでもいいんだよ、なんて考えつつも小さく頷いた。

 途端に満面の笑みになるこいしに、これからもレーチェル呼びが続いてしまうという未来を夢想しつつ、空になっていたこいしの湯呑みに新しい緑茶を入れた。

 

「……ふふっ」

 

 小さくさとりが笑っていた。本当、心を読めると知っていなかったら幻覚でも見えるんじゃないかと疑っていることだろうと思う。もしくは周りから心配されてもしかたがないレベルの妄想癖があるとか。

 って、こんなこと考えていたら……恐る恐るさとりの方に視線を上げていくと、俺をじっと見つめる第三の目になんだかただならぬものを感じて、鳥肌が立った。

 

「ごめんなさい……」

「よろしい」

 

 心を見透かされるとは恐ろしいものだ、と戦々恐々としつつ、しかし同時に新鮮な体験だとも感じている自分がいることに気づく。

 普通なら嫌な気分になるのかもしれないけれど、どうしてかそんな風には思えなかった。むしろもっと一緒にいたいと、このまま話していたいと。そんな変わった考えが駆け巡る。

 ――レーツェルは今、期待を抱いてる。心が読めるというサトリなら自分の寂しさに絶対に気づいてくれるって、きっと自分の気持ちを察してくれるって。

 即座に思考をシャットする。半ば反射的にさとりの方に視線を向け、彼女が偶然にも中庭の方に視線を向けていることを確認し、どうしてか安堵の息を吐いた。

 ……本当にそれは安堵から来たものなのか? 本当は、実際は――。

 

「レーチェル、おかわりー」

「って、さっきもおかわりしたばっかりじゃないですか。あとレーツェルです」

「えへへー」

 

 紅茶の茶葉を無理矢理に変換してるだけだから、普通の緑茶の茶葉には味が劣る。ここまでずっと飛んだり歩いたりしてきたため、案外こいしは喉が渇いてるのかもしれない。

 そんなことを考えながらこいしの湯呑みに三度目のお茶を注いで、ついでに自分やさとりのそれも足しておいた。

 

「ありがとうございます……ところで、レーツェルさん」

「なんですか?」

「いつもこいしが世話になっているようで、ありがとうございます。今後とも迷惑をかけることがあると思いますが、よろしくお願いしますね」

「あ、いえ、こちらこそお世話になってますよ。それに……」

「それに?」

 

 せっかくこうしてさとりとも顔を合わせて話したのだから、できるのなら仲良くしていきたい。

 そんなことを思ってみると、さとりが呆然としたように瞬きを止めた。こいしが「お姉ちゃん?」と彼女の目線の前で腕をぶんぶんさせた辺りでようやく機能が再起動したようで、それと一緒に口元を抑えて笑い始めた。

 

「ふふ、ふふふっ……そうですね。いろいろとご迷惑をおかけしますが、私のこともどうかよろしくお願いします」

「もちろんです」

 

 ――それからは、さとり自身のことを聞かせてもらった。地霊殿は灼熱地獄の上に建てられており、そこから溢れてくる怨霊を抑える役割をさとりが担っていること。それは怨霊にさえ嫌われるサトリだからこそできるのだということ。灼熱地獄や怨霊の管理は、普段は人型化できるようになったペットに任せていること。

 やはりニートじゃなくて家業だった、と思ったところでそれを見透かされてニートってなんですかと問い詰められたりと、いろいろとあったものの、おおむね賑やかに三人で話し合った。

 気づいた時には思っていたよりも時間がすぎていて、帰らなければいけない時間帯になっている。こいしは「もっと案内したいところいっぱいあったのに」とどこか名残惜しそうだったが、地霊殿に行くことはその気になればいつでも可能なことなのだ。

 また今度、次に来た時に案内してほしい。そんな約束をこいしと交わして、俺は地上に戻ったのだった。



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八a.どうか虚像の真実を見抜いて

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Satori Komeiji □ □ □

 

 

 

 

 

 ――心を読むという行為は、他人の考えることや感じたことの隅々までを盗み見ることそのものだ。

 この世に生まれ落ちた瞬間から(サトリ)として『心を読む程度の能力』を備えていた私は、ありとあらゆる人々の心を垣間見て育ってきた。

 私と妹にとってはそれが当然のことだった。相手が発する言葉など関係なしに、他者の表層意識を読み取ることで思想や意図の全部を理解できる。いや、理解させられる。

 好奇心、無関心、恐怖、憐憫、哀愁。この目を通して見ゆる感情にはさまざまなものがあったけれど、ただ一つだけ共通していることがあった。

 私が第三の目で見つめている時間が長くなるごとに、私がなにかの言葉を発するたびに、相手の心に『嫌悪感』という一番目にしたくない心の働きが増幅していくのだ。ただ私がそばにいるだけで、私はなにもしていないのに、皆私を避けるようになる。

 サトリとは心を読むことで人間を驚かすことを生業にする妖怪らしいのだが、あいにくと私と妹はそんなことをして生きていけるほどに精神ができてはいなかった。

 読みたくもないくせに他者のすべてを暴いてしまい、嫌われたくないのに嫌われて、ただただ孤独に日々を過ごす。

 すべての生命は他者がいなければ決して生きてはいけない。

 そんな中、心の通じ合える、すべてをさらけ出すことができていた一人の肉親だった妹が、ついに自分のすべてに嫌気が差して、心を閉ざしてしまった。果てしない孤独の中で唯一の温もりだった彼女は、ただ無意識に従って放浪するだけの『小石』になってしまった。

 私はそれが本当に嫌だった。心の底から認めたくなかった。私がこれまで他人の嫌悪感を我慢して生きてこられたのは、ただ一人私を受け入れてくれる大切な存在がいたからだったのに。

 それでも、だからこそ私には、心を閉ざしたいと願った彼女の気持ちが痛いほどに理解できてもいた。それはいけないことだと、それは悲しいことだと指摘することもできずに、一切の口出しをせず、私はただ無為に他人からの接触がほとんどない屋敷に引きこもっている。

 私はいったいなにをやっているのだろう、もっとやるべきことがたくさんあるだろう。ふとそう思うことがあると同時に、私ではどうしようもできないという考えにも至ってしまう。妹の気持ちを理解できている私だからこそ手の打ちようがわからないと思い込んでしまう。そもそも、他者との接触を意識的にも無意識的にも避けてしまうような臆病者にはなにも為せやしないのだと。

 待っていたところで、なにも変化なんて訪れるはずがないのに――――。

 

「なかった、はずなんですが……」

 

 はぁ、と小さくため息を吐いて、一旦手元の本を閉じてタイトルを見やった。

 すなわち『ストーカーの安全な撃退法』。普通に生活していく上でならば読まなくてもいいというか、決して読まないような書物だ。

 読書は、いつもは普通の本、心情描写が豊かな小説を好んで読むようにしている。それがなぜ今はこんなものを読んでいるのかと言えば、妹の現状に深く関わっていた。

 最近、頻繁に家に帰ってくるようになったこいし(大切な妹)が、とても楽しそうな様子で『変態でストーカーの友達』について話してくるのである。

 

「……えぇと、まず前提として、万が一に備えて防犯ブザーを常に身につけておくことが重要、と……近いうちに準備してこいしに渡しておこうかしら」

 

 再度開いた本の内容を吟味して、知識として頭の中に叩き込んでいく。こいしは友達と言っていたし、ずいぶんと楽しそうにしているようだったから、きっと変態やらストーカーやらは正しく相手のことを表現していない……と思うのだけれど、やっぱりそんな不名誉なあだ名がつけられた相手となると警戒せざるを得ない。それに、もしも本当に本物の変態のストーカーだったら大変だ。そうなった時は騙されている妹に代わって、心の読める私が物理的にも心理的にもその変態ストーカーを排除しなければならない。

 そんな風に気合いを入れ直して、パラパラとページを捲っていく。タイトルは撃退法と銘を打ってはいるが、前半は付き纏われないための対策がほとんどだった。そこに書いてあるのだから、どうせならとそこもきちんと読み込んでおく。

 

「本当に、悪い人ではないとは思うのだけど」

 

 こいしは心と第三の目を閉ざすことで『無意識を操る程度の能力』という、呪いにも似た強大な力を備えていた。およそ生命ではありえないほどに存在感が希薄であり、こいし自身も己の行動に無頓着だから、彼女には誰もが無関心以上の感情を抱かない――抱けない。たとえ万が一出会って話をすることに成功したとしても、よほど強くその心に彼女の存在を刻み込んでいなければすぐに忘れてしまう。こいしもまた、すべてを忘れてしまう。

 そのはずなのに、最近の彼女は毎日のように『知ってほしい』とばかりに私へ新しい友達ができたことを語ってくるのだ。そんなことが起こり得るはずがないのに、ろくに彼女を知らぬ者には無関心以外の感情を抱くことができるはずがないのに。

 それに、あんなに嬉しそうにしている妹の顔は、これまで生きてきた中で初めて見た気がしたのだ。

 

「この数か月で、いったいなにがあったことやら……」

 

 私には想像もつかないとんでもないことが起こっていたのか、そんなことはなくすべてがほんの些細なことだったのか。

 なんにせよ、私はその『変態でストーカーの友達』を警戒をすると同時に、どこか期待にも似た感情を抱いていたことは否定できない。

 

「……ふむ」

 

 その後は極々普通に、静かに本を読み進めていた。中庭を見下ろすことができる二階のバルコニー。いつもなら怨霊が漂っているだろうすべての場所は、私が来れば途端に静かなものへと変わる。

 この屋敷で騒がしい場所と言えば、動物たちが過ごしている区画だろうか。動物たちからは言葉を介す生き物ほどには嫌われないから、比較的安心して付き合っていける仲だった。

 パラ、パラ、パラ。紙が擦れる音だけが、広い空間で静かに響き渡る。

 ストーカーの撃退でもっとも有効的なことは証拠を取り押さえて法的機関へとそれを提出すること……残念ながら、地底にそんなものは存在していない。地上も同様だろう。これは外の世界の本を誰にでも読めるようにアレンジしたものなので、役に立たない情報がかなり存在している。

 幼稚園という謎の施設に通う女の子をストーキングするストーカーの挿絵があまりにも絵に描いたようなデザインというか、一目見ただけで怪しいと判断してしまうような服装をしていたので、思わず口の端に笑みが浮かぶ。

 そんな時、ふいと二人分の足音が私の耳に届いた。

 本から顔を上げて、胸元の第三の目と一緒にバルコニーの入り口の方へと視線を向ける。そこにいたのは見慣れた妹である古明地こいしと、銀の髪に金のそれが混ざっている変わった髪色をした幼い風貌の人間であった。

 

「こいし、帰っていたんですね」

 

 妹の隣にいる少女、つまりは見知らぬ客人への挨拶よりも先に、まずは妹の帰還を迎えてみた。とりあえずこうすればこいしの隣の彼女の心に多少は動きが出るだろうから、ジャブを繰り出すようにそれを確認しようとしてみる。ちなみにジャブとは、外の世界で牽制や様子見のような意味を持っているらしい。

 

「ただいまって言ったよ」

「そうなんですか?」

 

 動きがあった。読める心の範囲は、なにも考えている言葉だけではない。表層意識であれば対象が浮かべている景色、すなわち心象も見通すことができる。

 こいしと手を繋いで地霊殿に入る時の光景。確かにこいしは「ただいま」と言い、私に心を読まれた本人も「おじゃまします」と言っていた。

 

「あら、本当みたいね。ごめんなさいね、反応してあげられなくて」

 

 こいしと手を繋いでいること、きちんと認識できているらしいことに少々驚く。それに彼女はわざわざここを訪れるだけあって私に心を読まれるということをあらかじめ覚悟してやってきたようだ。

 私の微笑みに、彼女は私が心象を盗み見たことに気づき、同時に、少々奇妙な感覚をその心の中に見つけた。

 私の名前、それから私がこいしの心だけは読めないこと。これだけならばいいのだが、どうやらこれはこいしから聞いたのではなく、元々彼女が知っていた情報のようで……。

 疑惑が顔に出てしまっていたか、人間の少女が途端に慌てた表情をする。またしても不可思議な知識が私の第三の目を通して垣間見えた。

 原作知識、世界の秘密にも等しい異端の記憶――。

 この時点で私は、目の前の少女が決して普通の存在という枠に当てはまる存在ではないことを確信した。

 

「考えちゃいけないことを考えちゃいけないと考えられても、私には読むことしかできないのですが……」

「あ、いえ、私が考えてることは全部嘘ですからっ。気にしないでください」

 

 私? 彼女の心の中での一人称は『俺』だ。その割にはほとんど違和感を覚えないというか、彼女自身がそれを疑問に思っていない……表面上の態度と表層意識とが一致していない? 珍しいどころか、こんなのは初めて見た。

 

「『嘘嘘嘘嘘嘘。いや、本当だけど……って違う、嘘です』なんて考えられてもねぇ……その思考もバレバレですから」

 

 とは言え、それ以外の思考回路は普通の妖怪と大差ないようだ。覚悟してきたにしてはつたない想像に、思わず呆れて大きく息を吐いてしまう。

 どうやら私と会うに当たって『開き直る』という対策を立ててきたみたいだが、完全に失敗していることは彼女自身も自覚しているようだ。

 ここらで自己紹介をしておこうと思い、私はすっと自身の胸に手を置く。

 

「私は古明地さとりと申します。とは言え、あなたはその名前をすでにご存じのようですが……こいしから聞いたのではないみたいですね。原作知識、とやらから手に入れた情報ですか」

 

 さきほど思考を読んだ時にもこいしから聞いたわけではないことをわかっていたが、「ご存じのようですが」のところで、より顕著にそれに関する情報が現れた。

 

「うぐぐぐ……私は、レーツェル・スカーレットです。吸血鬼……じゃなくて、人間をやっています」

「『今は人間に変装してるから人間で通さないと。いや、前世では本当に人間だったけど』、ですか。ずいぶんと不思議な記憶をお持ちのようです」

 

 前世の記憶持ちとなれば、いろいろと奇妙な知識を備えているところにも納得できる部分がある。閻魔や死神がそういうことが起きないように管理や監視をしているはずなのだが……不具合や例外があってもおかしくはないか。

 前世、と私が口にしたからか、一瞬だけ彼女の心に前世らしき場所の光景が垣間見えた。見たことがない細長い鉄の建物が乱立する、広大で無機質な都であった。たとえ地上であろうと、こんな光景は広がっていないはずだ。

 

「もう、お姉ちゃん。あんまりレーチェルをからかわないでよ」

 

 と、こいしが珍しく私を窘めるものだから、一瞬思考が止まってしまった。

 

「こいし……? えっと、ごめんなさいね。やっぱりいつものクセで……」

 

 いつもは私の言うことには素直に聞くような姿勢を取っているのに、今日に限ってこうまでハッキリと自分の感情を吐露している。もしかしたらレーツェルとやらの影響だろうかと、改めてそちらに三つの目を向けた。

 察しが悪いことに、そこまで至ってふと、ようやっと彼女がどういう存在なのかに見当がついた。

 

「こいし、もしかしてこの人があなたの言っていた」

「地上でできた初めての友達、だよ」

 

 事前に『変態でストーカーの友達』と聞いていたものだから、もっと見た目変人な感じを予想していた。モヒカンだったり、アホ面だったり、マスクとサングラスとニット帽をかぶっていたり。なんというか、思っていたよりはるかにまともだった。

 いや、見た目はそこまでおかしくないけれど、よくよく考えてみれば思考や記憶に関してだけはそれと同等くらいにおかしいのか。そう思い直し、でもやっぱり……と、期待外れと安堵が混じり合ったような奇妙な気持ちになった。

 

「よかったですね。レーツェルさんも、こいしを深く信頼してるようです」

 

 レーツェルの中に、こいしの口から出た友達という単語を嬉しく思う気持ちが第三の目を通して見えた。悪い人ではないことは確かのようなので、とりあえずは信頼しておこう。

 そこで不意に、彼女の心中に見過ごすわけにはいかない、私にとって不名誉な思考がよぎった。私が百面相をしていること、心を読めなければ変人にしか見えないだろうという感想。百面相をしているのはレーツェルがおかしすぎるからであり、断じて私のせいではない。ちょっとだけムッときて、そっちがその気ならと口を開いた。

 

「変人とは失礼ね。こいしから聞いていますよ。あなたは私の妹を追い回す変態のストーカーだと」

「え」

「初めて聞いた時から、こいしが変な輩に騙されてないかとずっと不安でした。私の想像していた変とは全然違いましたが……どこか頭がおかしいことには変わりないようね。誤解、ですって? ええ、まぁ、あなたはこいしを友達として見ているようですし、変態やストーカーという評価はこいしが飛躍してつけたものの可能性はあります」

「あるっていうか、たぶんその通りです」

「『一応本当に追い回したりはしたけど』ですか。それならこいしの評価もあながち間違ってはいませんね、変態のストーカーさん」

 

 これだけキツめに言われたから、さすがにレーツェルも私が変人扱いされて憤っていることに気がついたようである。とりあえず謝らなければ、という思考が見えたので「『とりあえず謝らなければ』ですか」と笑顔を作って首を傾げてみると、彼女の全身がぶるりと震えた。

 ……半分くらい冗談なのにそんなに怖がられると、ちょっと落ち込む。

 

「……ごめんなさい」

 

 反省して、本気で謝ってくれていることが第三の目を通して理解できた。こうまで素直に対応してくれるものとは、レーツェルという人物はどうやら私の予想をはるかに超えた良識人であるようだ。

 

「はい。本気で謝ってくれていただけたようでなによりです。私もすみません。なにぶんこいしが誰かを連れてくるなんて初めてのことでしたから、必要以上に警戒してしまいました。でも、どうやら悪い妖怪ではないみたいですね」

 

 私には心が読む力があるため、そこに危険な思想が潜んでいない限りはそもそも警戒する必要がない。だからこの言葉は安心させるための嘘なのだけれど、彼女はその真実の一歩手前まで想像がついているようだった。すなわち、私が彼女の心を落ちつかせようとしていること。

 私の経験上、普通の人間や妖怪ならば、心を読まれた上でその方向性が操られようとしていることに気づいた場合には、一瞬にして私への嫌悪感が最高の位まで駆け上がる。そうして不機嫌になって私を遠ざけようとするか、私の近くから去ろうとするのだ。レーツェルにそんな感情を抱かれてしまえば、私だけでなくこいしとの関係に影響が出るかも……と、心が見えるゆえにそれを操作しようとしてしまうクセを後悔していたのだが、やはりレーツェルは相当に変わった妖怪らしい。

 ――俺を安心させるために柔らかい言葉をかけてくれたのだとすればそれはたぶん、いや、きっといいことなのだ。

 鬼のように正直でいることが重要なのだと、信じられないようなことを彼女は思っていた。

 

「……そこまで私に理解を示そうとしてくれた方は、たとえ鬼でも一人もいませんでしたけどね」

 

 鬼でさえも地霊殿には誰一人さえ訪れない、訪れようとしない。鬼が正直であると言っても、やはり言葉を介することができる生き物である限り、サトリの私を極限まで嫌うようにできているのだ。

 

「理解、って。大したこと思ってませんけど」

「普通の方かたなら、数回心を読んだだけでもうんざりして私を遠ざけようとするものです。言葉を介する種ならば特に。こいしが連れてくるだけあって、あなたは普通とは違うみたいですが」

 

 心を操られようとしていることを受け入れるレーツェルの思考を見て、さっきからずっと不思議に感じていた違和感の正体にようやく気がついた。

 さきほどからずっと私と話しているのに、彼女は一切私を嫌わない、嫌おうとしない。今に至るまで私は幾度となく心を読んでみせ、それを使ってからかっているというのに、一切の嫌悪感がレーツェルの内心に窺えないのだ。

 こんなことは初めてだった。心優しいとか、懐が広いとか、そういうものではない。彼女はただ単に、私という存在そのものを受け入れている。いや、むしろ……望んでいる?

 さすがにそれはないか、と首を横に振って私の思考を掻き消した。心を読まれたい存在なんて、動物のように言葉を用いない生物以外にあるはずがない。そうして、気分転換ならぬ思考転換にチラリとこいしの方を見やって、そういえば本来ならば気づくことさえもできないだろうこいしと友達になったのはどういう経緯によるものだろうと、そんな疑問が今更ながらに再度湧き上がってきた。

 

「そうですね……よければ、私にこいしと出会った時の話をしていただけませんか? よければ、ですが」

 

 レーツェルとこいしが顔を見合わせる。反射的にそうしてしまうくらいには、信頼関係が築かれているようだった。

 

「私は構いませんよ。こいしはどうです?」

「レーチェルがいいなら、別にいいよ」

「レーツェルです」

 

 そんな二人がテーブルの近くに座ろうとして、イスが一つ足りないことに気がついた。

 

「あ、すみません。イスが一つ足りませんね」

「大丈夫ですよ」

 

 急に空間が割かれ、レーツェルがそこに手を突っ込んだかと思えば、そこそこ座り心地がよさそうな洋風のチェアが飛び出てきた。どうやら自分で作り出した空間を開く倉庫魔法というものらしく、そこには一通りの生活用品くらいは揃えているとのこと。

 こいしとレーツェルが丸テーブルを囲んで座る。話を聞く上で本を持っていては失礼だと思い、後で読もうとテーブルに積んであった本の上に『ストーカーの安全な撃退法』を置く。レーツェルがそのタイトルを見て、言葉にできないいたたまれない感情を持ってして私を見てくるものだから、さっと視線を逸らしてしまった。

 

「……まぁ、いいです。さて、なにから話しましょうか……」

「レーチェルが私をストーカーしてきた日のことからじゃないの?」

「ええ、まぁ、そこからなんですけど」

 

 いい加減変態のストーカー扱いされるのは不本意だ、という思いが見える。しかしそのすぐ後に『こいしは本気で言ってるわけじゃないし、さとりもからかうネタにしているだけだろうから、別にいいんだけどさ』と真反対のことを考えるものだから、ちょっと面白くなって、それを復唱して「よかったですねこいし、公認ですよ」なんて言ってしまった。

 

「わーい」

「むぐぐぐぐ……」

 

 こんなことまでして、どうして彼女は私に欠片も嫌悪感を覚えないのだろう。本当に不思議だ。

 

「あの日の前日は、咲夜と……うちの住み込みの人間のメイドさんと一緒に買い物に出かけたんです。こいしが横を通りすぎた時、なにか不思議な感覚を覚えまして、次の日にはどうしてかこいしを探してました」

「『変態的感覚がビビっときたわけじゃないから』ですか。いえ、別にそんなこと欠片も思ってませんでしたけど……」

「むぐぅ」

 

 さすがに『思考が読めるならさとりが言うより早く先手を打ってやる』というのは無理がある。心の機敏に関しては私の方が何枚も上手だ。

 

「まぁそんなこんなで、ぼーっとしてたらこいしを見つけて、追いかけました。それで出会ったんです。はい、出会い終わり」

「一緒に蕎麦屋に行ったりしたよねぇ。茸蕎麦美味しかったなぁ……って、あれ? なんで私、こんなことまだ覚えてるのかな。いつもはなんでもかんでもすぐ忘れちゃうのに」

「別にいいじゃないですか。私は覚えていてくれて嬉しいですよ」

「んー、そっか。じゃあ別にいっかー。なんだかレーチェルに関わった時のことって、全然忘れないみたい」

 

 これは、いったいどういうことなのだろう。首を傾げる。能力のせいで物事をすぐに忘れてしまう性質であるはずのこいしが、数か月も前の、それも蕎麦屋に行ったなんてほんの些細なことを覚えているなんて、普通ではありえないことだった。

 レーツェルと出会ってこいしに変化が起こった……というよりも、こいしはレーツェルに関わった時のことだけを鮮明に覚えているようだから、レーツェル自身に原因があると考えるのが妥当だ。前世の記憶、原作という謎の情報元から仕入れられた知識、こいしに与える謎の影響。まったくもってレーツェルは変な特徴ばかり備えている。変態という表現もあながち間違っていないのかもしれない。

 

「それでその後もちょくちょく会って……そうそう、私の家で夜空の観賞会なんてやった時に初めてこいしはフランと会ったんですよね。フランっていうのは私の妹で、とっても可愛い子なんです」

「ええ、あなたのイメージがよく伝わってきますよ。色とりどりの宝石を備えた美しい翼と、天真爛漫な振る舞いをする金髪の女の子の姿が」

 

 相当大切に思っているようで、家族愛やそれに類する感情が溢れんばかりに伝わってくる。しかしほんの一瞬、それと一緒に、ほんのわずかに歪な情感が混じり合っているようにも見えた。

 好意に隠れ、あまりに小さく複雑すぎて判別がつかない。すでにその刹那の思いはなくなってしまっていて、見間違いだったのかなと首を傾げた。

 

「『そういえば原作でも、主人公の頭の中にある弾幕を再現したりしていた』って、本当に変なことばかり考えますね」

「あ、その、えっと」

 

 代わりにまたしてもおかしなことを考えているようなので、口に出して動揺を誘ってみる。

 原作……派生作品の基盤、オリジナルの作品のことをそう呼ぶのだったか。原作の知識から私を知っている、原作では主人公の頭の中にある弾幕の再現……ここが物語の世界だとでも言うつもりなのだろうか。いや、正史? わざわざ原作なんて言葉を用いる以上、彼女の中ですでにここは原作とされるであろうオリジナルの歴史をたどっているわけではないことは確かだ。

 彼女は自身がアカシックレコードを覗き見ることが可能だとでも言うつもりだろうか。それともなにかをキッカケに未来を覗き見ることに成功した? いや――これ以上はやめよう。飛躍しすぎた想像は妄想にしかならない。この世界が本当は物語の世界だとか、外史だとか、すぐには信じられないどころか頭がおかしくなったんじゃないかと疑うくらいおかしな話だった。

 

「まぁ、今は追及しないでおきますよ。せっかくこいしの連れて来たお客さまに粗相を働くわけにはいかないので」

 

 もしかしたら本当はすべてに気づいているのでは、とレーツェルが疑惑を抱いているのが窺える。あいにくと、この程度の会話で全部を察せられるほど器用で便利な能力ではない。

 

「……それより続きを話してください。こいしがそのフランさんと会って、どうしたんですか?」

「ん。えーっと……次の日から、三人で一緒に遊ぶようになったんです。とは言っても、最初はいろいろと大変だったんですけどね」

 

 大変と言いつつ、彼女の頭の中には三人で仲良く遊んでいる風景しか映っていない。そのことを言及してみると、「大変だったんですけどね」と念押しをされる。ちょっとだけおかしくなって、口元を抑えた。

 

「それである日、霊夢と魔理沙、霖之助……えっと、最近付き合いの多い人間のお三方をこいしに紹介して、コーラを飲んで帰ってる途中に、地霊殿に来ないかって誘われたんです」

「その時は断ったみたいですね」

「……まぁ」

 

 条約があったから断らざるを得なかったみたいだが、その時のこいしの反応が相当心に響いたようだ。彼女を通してその際の心象が窺えるのだけれど、確かにこいしは心なしか悲しそうにしているように見える。

 こいしが負の感情をほんの少しでも表に出していたことに、私は一瞬言葉を失ってしまった。いつもなにを考えているのかわからないような無邪気そうな笑顔を浮かべて、マイナス方面に位置する感情なんて一切吐露しようとしない。そんな彼女がほぼ無表情だったと言えど、一ミリほどに小さく短くとも、それを解放したのだ。

 こいしにとってレーツェルとの出会いはそれだけ重要で大切なものだったのだと、ここにもって真に正しい意味で理解する。

 

「条約のことを霖之助に聞かされたばかりでしたから。あの後に紫を……ちょっとばかりインチキくさい知り合いの妖怪を探して、この狐の仮面に、一定の条件を満たした上でかぶっていたら周りから人間に見えるカラクリをしかけてもらったんです」

「ここに来る途中、こいしに気配を消してもらうなら、それもいらなかったんじゃないかと思ったみたいですね」

「ちょっとトラブルがあったせいで、前言……前思撤回しましたけど」

「知り合いの鬼に絡まれたんですか。よく無事でしたね……」

 

 心を読みながらの会話に、レーツェルの内心を覗くことができないこいしが目を瞬かせていた。レーツェルもそれに気づいたようだ。

 

「あ、ごめんなさい。えぇっと、そういうわけで、この地霊殿までたどりついたんです。実質的にはこいしとは、数か月程度の付き合いですね」

「ふむ……」

 

 嘘は言っていない。それに、こいしが私に『変態でストーカーの友達』について語り始めたのも数か月前からだ。たったそれだけの付き合いで、こいしにとってのレーツェルという存在の立ち位置はいったいどれほどまでに……。

 この思いは嫉妬だろうか。それとも、なにもできない自分に対するもどかしさだろうか。私は、他人が妹をよい方向へと変えていくことを、私の手ではないことをどこか不安に思っているのか。

 レーツェルが倉庫魔法で取り出した急須からお茶を注ぎ、私とこいしにその湯呑みを渡してくれる。本が近くにあると濡れちゃうかも、というレーツェルの心配の感情が窺えたので、遠慮せず、本を一時彼女の倉庫にしまってくれるようにと頼んだ。

 

「レーチェル、おかわりっ!」

「わかりました。あとレーツェルです」

「こいし。レーツェルさんはさっきからずっと訂正してるみたいですが、『なんだか親しみが感じられるからレーチェル呼びでもいいか』って思ってますよ」

「ほんと?」

 

 レーツェルがほんの少し困った風に頷く。こいしが満面の笑みを浮かべるものだから、なんだかやるせない気持ちになっているレーツェルの心情が理解できて、小さく噴き出した。

 その時にまた彼女が失礼なことを考える。『心を読めると知っていなかったら幻覚でも見えるんじゃないかと疑っていることだろうと思う。もしくは周りから心配されてもしかたがないレベルの妄想癖があるとか』なんて。一度目にそのことを思った時と同じ笑みを浮かべて対応すると、慌ててレーツェルは頭を下げた。

 

「ごめんなさい……」

「よろしい」

 

 ――ふと、そこで、なんとはなしに自身の頬に手を添えた。そうして気づく。

 さっきからずっと私はとても自然に、楽しげに笑っているのだ。他人とこうして会話を交わして、こうまで愉快な気持ちでいられたことなんて、今までで一度も経験したことがないような気がする。

 ……ああ、そうだ。中庭を見やり、第三の目を逸らすことで余分な情報を遮断して、ほんの少しだけ思考にふける。

 いつもいつも私の周りには大切な妹と、私を嫌う誰かしかいなかった。心を読まれて、それでもなお受け入れてくれる常識外れの存在になんて出会ったことがなかった。

 楽しげに、ではない。楽しいのだ。私はレーツェルとこうして軽口を叩き合うという行為自体が、この短時間で好きになってしまっていた。

 

「レーチェル、おかわりー」

「って、さっきもおかわりしたばっかりじゃないですか。あとレーツェルです」

「えへへー」

 

 それを理解した今なら、こいしがいつもと比べて格段に幸せそうにしている理由もわかることができる気がした。

 安心――安らぎ――落ちつき――安息――日常――。

 レーツェルが空になりかけていた私の湯呑みにお茶を注いでくれる。そこでふと我に返って、なんとなく「ありがとうございます」とお礼を口にした。それは緑茶を入れたことに対するものでもあるし、別のなにかに対するものでもあったような気がする。

 

「ところで、レーツェルさん」

「なんですか?」

「いつもこいしが世話になっているようで、ありがとうございます。今後とも迷惑をかけることがあると思いますが、よろしくお願いしますね」

 

 レーツェル・スカーレット。この少女になら妹を任せられると、ついさきほどとは打って変わって、どこか穏やかな心持ちで口にした。

 彼女はこれを断りはしないだろう。たとえ心が読めなくなったとしても、それだけは言い切れる自信がある。

 

「あ、いえ、こちらこそお世話になってますよ。それに……」

「それに?」

 

 ――せっかくこうしてさとりとも顔を合わせて話したのだから、できるのなら仲良くしていきたい。

 目を見開いてレーツェルを見つめ、ああ、と思う。そして、どうして、と。このレーツェルという少女は、なぜそんな気持ちを本気で抱くことができるのだろう、と。

 どんなに優しい心を持っていても、たとえ聖母のような存在であろうとも、心を読むという相手に一切の嫌悪感を抱くことがないなどありえない。心を読む妖怪であり、ありとあらゆる者たちの心を見てきた私だからこそ、それは絶対に間違いがないのだということを知っている。そのはずなのにどうしてこの目の前の少女は。

 わからない。なにもわからなかった。だけどなんらかの理由があるのだと、どこか私は確信を抱いていた。

 初めてレーツェルという少女の心をこの目(第三の瞳)で見つめた時から、ずっとそこに『それ』がある。果てしなく深層意識に近いゆえに正確には読み取れない、けれどもギリギリ表層に存在する、今にも消えてしまいそうな小さくも強い思い――渇望。きっとそれが私を嫌わない理由の根幹を担っているのだと、それもまた私は信じて疑わなかった。

 知らなければいけないと思った。私は私の意思で、それを知りたいのだと願う。

 こんなにも楽しく誰かと話せた覚えがなかったから。そして、こいしにとってそうであったように、私にとってもレーツェルが初めての友達だったから。

 

「ふふ、ふふふっ……そうですね。いろいろとご迷惑をおかけしますが、私のこともどうかよろしくお願いします」

「もちろんです」

 

 そこから私は、私自身のことを話した。この地霊殿は灼熱地獄の上に建てられていて、そこから溢れてくる怨霊を抑える役割を閻魔さまから任されていること。それは怨霊にさえ嫌われるサトリである私だからこそできるのだということ。とは言え、実は灼熱地獄や怨霊の管理は、普段は人型化できるようになったペットに任せていること。

 途中でニートなどという不本意な単語がレーツェルの頭の中に浮かんで問い詰めたりはしたものの、私は、これまでの人生――妖怪生でも可――の中で一番たくさん笑った日なのではないかというくらい、楽しい時間をすごすことができた。

 気づけば結構な時間になっていたようで、別れの時が来てしまう。なんだか恥ずかしくて表面上は隠していたが、こいしが名残惜しそうにしていたように、私も実は同様の気持ちであった。

 彼女はまたきっと、この地霊殿に訪れるだろう。

 奇妙な感覚ながら、聞くまでもなく、なぜだか私は最初からそうであると知っていた。わかっていた。

 次はどんな話をしよう。どんな話を聞かせてもらおう。差し支えないなら、前世の記憶や原作知識に関して問い詰めたりしてみたい。

 そうして想像を膨らませることがなんだかとても心地よくて、自然と口元に笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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九.虚しさの果てで息を吐く

 紅葉が木枯らしに舞い、そろそろ去年の冬前に作ったマフラーを引っ張り出して来ようかと思うこの頃。新年を迎えるには一か月もなく、今年もまた太陽が勝つか明星が勝つかの観賞を行うのだろうと半ば確信した予想をする。悪魔ながら俺はそんな勝敗自体には欠片も興味がないけれど、レミリアに喜んでもらえた方が嬉しいので、できることならルシファーにはがんばってもらいたい。

 太陽が沈み、三日月が顔を見せ、しかし眠るにはまだ早い時間帯。俺は自室に設置した電話機から受話器を取り、ベッドの端に座って、繋がっている相手と話をしていた。

 

「リンゴは主人公って感じがしますね。人情に厚い人っていう感じで、どんなに憎くても相手を殺し切れないようなお人好しです」

『……なんとなくわかるような気がします。子ども好きで、身を挺してでも傷を負わせない。そういうことのためなら無理をするのですが、仲間のことを信頼していて、時には頼ったりもする……どうですか?』

「ピッタリですっ。敵もそんなリンゴの強さを認めてるんですよね」

 

 

 初めて地霊殿に行ったのは半月前のことで、その際に電話機を一つあちらに置いていっており、現在、俺は古明地さとりと通話をしている。話題は果実を物語の登場人物に例えるとどんなイメージかというものであり、夕飯の話からデザートの話、デザートの話から果物の話、そして果物の話から今の話へと変化していっていた。

 河童製だけあって性能が高く、地底まで電波が届いているようである。正直あまり期待しておらず、繋がらないことをほとんど承知で置いてきたのだが、これは嬉しい誤算であった。

 今度、博麗神社や阿求の家にも電話機を持って行きたいと思っている。そのためには電話機の数が足りないので、また河童のバザーに顔を出しに行かなければならない。

 

『ミカンはどんなイメージですか?』

「リンゴの親友です。時には戦友として、時にはライバルとして互いを高め合うような熱い関係ですね」

『ふふっ、なるほど。ではレモンなんてどうでしょう。リンゴやミカンと違って酸っぱい果物ですよ』

「敵の勢力、四天王の一人ですね。最初に主人公にやられて、他の四天王から『レモンがやられたようだな……』『ククク、やつは四天王の中でも最弱』『リンゴごときに負けるとは、四天王の面汚しよ』とか言われちゃうんです」

『厳しい評価ですね……』

「でもですね。他の四天王からはそんな風に貶されはしますが、リンゴと激闘を繰り広げた後、その誠実さに自分の卑怯さを恥じて、改心してリンゴに手を貸すようになるんです。そうして自分の力をどううまく使っていくかを模索して、誰かを守りたいという強い意志を持つようになります。最初はリンゴの仲間から敬遠されてたんですが、その一生懸命さに徐々に周りからも認められていくんです」

『あら、かっこいいじゃないですか。私は好きですよ、そういうの』

「いずれは四天王のナンバー(スリー)に対抗できるくらいの力を手に入れたりしてですね……愛される人にはとことん愛される人物でしょうか」

 

 受話器の向こうでさとりが笑っているのが、見えなくても把握できた。楽しんでくれているのだとわかると、段々とこちらの熱も上がってくる。

 

『ナンバー三はどの果実なんですか?』

「んー……パイナップルですね。一時は同じ四天王であるはずのレモンとのあまりの力の差に皆が絶望しちゃって、戦おうという気が著しく失われるんです。そんな皆を元々パイナップルの力を知っていたレモンが励ますんですが、その時点では認められてない彼は、仲間たちの行き場のない負の感情の矛先が向いてしまって……」

『それは……辛い、ですね』

「それでもレモンは皆を励まそうとがんばるんです。リンゴはそんなレモンを見て、自分の未熟さや至らなさを見つめ直し、『レモンの言う通りだ』って立ち上がります。仲間をなんとか説得した後、レモンに『ありがとな。お前のおかげでまた立ち向かえる』、レモンは『俺がやりたいことを、俺が勝手にやっただけだよ』って」

『レモンさん……それで、その後は』

「修行を重ねて、来たるべき再戦で仲間と力を合わせて立ち向かうんですよ。パイナップルは以前と明らかに違うリンゴたちに苦戦するんですが、やっぱりパイナップルの方がちょっと強くて、でもそんな時、レモンがパイナップルの能力の弱点を利用して隙を作ってくれるんです。そこをリンゴがトドメで、なんとか倒すんです」

『レモンさんならやってくれると思ってましたよ』

 

 満足そうに頷いているさとりの様子が頭に浮かぶ。彼女の中ではレモンの評価がうなぎのぼりのようだ。

 俺が個人的にレモンが好きであることもあって、結構設定に熱が入ってしまった。

 

『ナンバー(ツー)はどうなるんですか?』

「ブドウです。力はパイナップルよりちょっと上ですが、パイナップルとの戦闘やその後の修行で強くなっているリンゴたちの力を合わせれば難なく撃破できる程度なんです。けどブドウは真性の外道なので、子どもを人質に取ったり果肉を腐らせる毒を使ったりする作戦でリンゴたちを追い詰めます」

 

 ブドウの皮は黒に近い色をしているし、食べるとたまに種が入っていて食べにくいから、評価はこんなところだ。そんなことを言ったらミカンにも種が入っているが、あれは中が透けて見えるから問題ない。俺はブドウを皮を剥かずに食べるので、その時に種が口の中で転がるとなんとも言えない気分になってしまう。

 

「そうしてそのあまりの外道さに激昂したミカンが突っ込んで、でもパイナップルよりも強いブドウにはミカン一人だけの力じゃ及ばないんです。それでも全力で戦って、隙を作り出して、ブドウを真正面から戦って倒せる舞台に引きずりおろすんです。あとはリンゴ側のメンバーで一番強いリンゴと因縁があるレモンの二人で協力して、ブドウを倒します」

『ミカンさんは陽気で熱い性格ですね。いつも笑顔で周りに元気を振りまいていそうです』

「ミカンは明るい色ですし、きっとそうでしょう。この頃になるとレモンとミカンが互いに互いを認め合うようになります。友情が芽生えたりしてですね……それから四天王最後の一人が……」

 

 どの果物がふさわしいかと思考を巡らせる。バナナ……は第三勢力のボスっぽいイメージだからボツ。モモはイチゴという正当ヒロインの友達的な立ち位置だ。四天王の頂点というと果実の中でも存在が際立っているような感じがするから……。

 

「ドリアン、ですね」

『ドリアン……私は食べたことがありませんね。おいしいんでしょうか』

「や、私も食べたことはありません。ただ、とてつもなく臭いがキツイ代わりにかなりおいしいとよく聞きますね。リンゴというもっとも知れ渡っている果実と、ドリアンという果物の王様とまでされる果実。最後はその二人が一騎打ちで勝負して、互いが互いを認め合う……」

『ふふっ、本でも書けそうですね』

「それなら今度実際に書いてみましょうか。最近は外の世界から紙がたくさん流れてきたおかげで紙の価値が下がってきていますから、ちょうどいいかもしれません」

『あ、私も本を書いたりはしていますよ。サトリとしての能力で心が読めてしまうので、書いてある文字でしか人の心がわからない本という存在は、とてもいい刺激になるんです』

「ほほう。あ、そういえばずっと気になってたんですけど、電話越しで心は読めるんですか?」

 

 これまでの会話からして心が読まれていないことはほぼ確信していたが、一応の確認をしておく。さとりからは『読めません』と返ってきた。

 

『ですからかなり新鮮です。会話はこうやって、相手の次の言葉がどんなものかと楽しみにして待つものなんですね。初めて知りました』

「……やっぱり、心を読むことができるっていうのは、嫌なことなんですか?」

『いえ……心が読めることが嫌というより、心を読むことで嫌われることが……ふふっ、元より地底の誰よりも嫌われてるみたいですけどね。そんな嫌悪感にまみれた心を見ると、なんだか気落ちしてしまいますから』

 

 反射的になぐさめの言葉をかけようと口を開いたが、なにを言っていいのかわからず、パクパクと動かすだけだった。生まれた時から自身の能力に悩み続けてきた相手に対し、いったいどんな口上が彼女の心の安らぎに繋がるというのだろう。

 なにを言っても薄っぺらい、単なる文字の羅列にしかならない。そもそも口先だけでなにかを語ってもしかたがないのだ。さとりを救いたいと願うのなら、実際になんらかの行動を起こすしかない。

 

『すみません。空気を悪くしてしまいましたね。今日はもう電話を切りましょうか』

「……私はさとりのこと、嫌ってないですよ。また今度、そっちに行きますから」

『ありがとうございます。待っていますよ。それでは、また』

 

 ブツリと通話が途切れ、ツーツーと電子音が耳元で木霊する。受話器を電話機に戻し、小さく息を吐いた。

 さとりもこいしも、心を読む能力なんて欲しくもなかった。たとえ生まれ持った能力なのだとしても、それを受け入れられるか否かは別なのだ。

 これは俺にどうにかできる問題だろうか、と自問自答する。俺になにが為せるというのだろう、俺に誰が救えるというのだろう。『答え』をなくしてしまった俺でも、親しい誰かを少しでもいい方向へと導くことくらいはできるのだろうか。

 関わったからには考えろ。たとえどんなに億劫でも、未来について考えることを決して忌避してはいけない。逃げていては見えているはずの大切ななにかを失い続けるだけだ。

 ――さとりもまた、こいしのように自身の心とともに第三の目を閉じてしまうかもしれない。だから。

 

「……私の能力なら」

 

 一、『妖怪サトリが第三の瞳によって心を読むという答えをなくす』。二、『妖怪サトリの第三の瞳によって心を読まれるという答えをなくす』。前者はさとりに左右し、後者は周囲の生命すべてに対応させなければならない。俺の能力は他人に適応させる場合、その対象に触れていなければならないので、どう考えても後者は不可能だ。前者にしても俺と一緒にいる時でしか発動できないし、周りに『さとりが心を読めなくなっている』ことを信じてもらわなければ、彼女が嫌われる現状をどうにかすることはできない。

 変革をもたらすべきは周りからか? それとも、さとりの能力からか? まずはそこから思索しないと――。

 目を閉じて、思考に意識を集中させ、さとりの心の暗雲をどう取り払うかを幾度となく模索する。この方法ならどうかと、このやり方では意味がないと。たかが半月の付き合いと言えど、それがこの熟考をやめる理由にはならなかった。

 あんなくだらない会話を純粋に楽しいなんて評価してくれる彼女に、『答え』を失うなどという、あんなどうしようもないむなしさを味わわせたくない。

 

「――お姉さま」

「え」

 

 その声はとても近く、すぐ目の前から聞こえた。瞼を開ければ、どこか不満そうな顔をしたフランが目に入る。

 扉を開く音や足音が耳に届いてこなかったことに驚いて、もしかしたら音を消す魔法を使っていたのかもしれないと思ったが、それを先読みしていたかのように「私はなにもしてないわ」とフランが釘をさしてくる。

 

「お姉さま、なんだかすっごく真剣に悩んでたんだもん。私は普通に歩いてきたのに、お姉さま気づかないし」

「えっと、その、すみません。フランの言う通り、ちょっと考えごとをしていまして……」

 

 あいかわらず不満顔ながら「別にいい」と、フランが俺の隣に落ちるようにして座った。ベッドが弾み、少しだけ俺の体も持ち上がる。

 

「……やっぱりお姉さま、幻想郷に来てから変わったわ」

「変わった……? 私が、ですか?」

「うん。前までは、なんだかいつもつまらなそうにしてた気がする。その時はそう感じなかったけど、最近のお姉さまを見てると『ああ、きっとあの時のお姉さま、本当は楽しくなかったのかも』って。それくらい、幻想郷に来てからのお姉さまは生き生きしてる」

 

 自然と片手が自身の頬に向かった。そこには変わらず無表情が張りついていて、嬉しさや楽しさを表す笑顔などあろうはずがない。それなのにどうしてわかるのかと首を傾げると、「だって」とフランが続ける。

 

「お姉さまとは生まれた時から一緒なんだもの。今の私ならそんなの、目を瞑ってたってすぐわかるわ」

「……そうなんですか」

 

 つまらない。楽しい。そんな感情、俺自身のものを俺ですら疑わしく思っているというのに。

 頬に触れる。いつまで経っても、その表情は変わらない。嬉しさや楽しさも、苦しみや悲しさも。なにもかもを表さない空虚だ。

 フランに『生き生きしてる』と言われて、ふと自分で自分がわからなくなった。俺は楽しんでいるのだろうか。幻想郷での生活に案外満足しているのだろうか。霊夢や魔理沙、紫や幽々子。いろんな人間や妖怪と出会って交流を重ねることに喜びを見出しているのか。

 ――頬が、目玉の破片がこびりついているかのように生温かかった。部屋中に二人分の血が飛び散った、小さな海が広がっているような気がした。

 胸が痛む。息が詰まった錯覚を覚え、半ば反射的に大きく息を吸った。フランはそんな俺を、不思議そうに見つめている。

 

「フラン、は」

「なに? お姉さま」

「……そんな私のことを、不満に思っていますか?」

 

 そう問いかけると、フランはパチパチと目を瞬かせた後、くつくつと意地悪そうに口の端を吊り上げた。

 

「そりゃあお姉さまを独占できなくなったことは正直不服だわ。でも、霊夢や魔理沙、ルーミアとか紫とかと遊んでるお姉さまを見てると、そんなのもなんだかちっちゃなことだって思えてくるの」

「どうして」

「そんなお姉さまと一緒にいるのが一番楽しいから。お姉さまが幸せなことがわかって、私もちょっとおんなじような気分になれるから」

 

 こてん、とフランが頭を俺の肩に預けてくる。

 

「それに夜はいつでもいつも私のお姉さまだもん。だから、昼間は皆に貸してあげるの。今のこの時間は、レミリアお姉さまにだって渡さないわ」

「……そんなこと言われると照れちゃいます」

「じゃあもっと言っちゃおうかしら」

 

 さきほどまでの不満顔はどこへやら、フランはごろごろと猫のように擦り寄ってきた。適度にその相手をしながら、少しだけ思考に意識を傾ける。

 フランがこのままでいいと言ってくれるのなら、今のまま、無理に変わらなくてもいいか。たとえ他人から楽しそうにしているとか生き生きとしているとか称されても、どうせ俺には自分がなにを感じているのか、それが正しいのかどうかさえわからない。

 狂わないと先に進めなかった。だから、俺はいつも狂っていると自分に言い聞かせてここまで来た。そうしてようやく本当に狂い出してきてしまった。ただそれだけのこと。

 

「今日は一緒に寝ましょう」

「あれ? 疑問形じゃないのね。お姉さまから言い出す時はいっつも『今日は一緒に寝ましょうか?』なのに」

「そういう気分なんです。ダメでしょうか?」

「ううん、私もそうしたかったから」

 

 フランの頭を帽子越しに撫でると、彼女の目が気持ちよさげに細まった。いつまで経ってもこの反応は変わらないなと思いながら、ゆっくりと手を動かし続ける。

 明日は久しぶりにフランと一緒に一日中を過ごすことにしよう。明後日以降は行ける日に地霊殿に行って、今度はさとりやこいしに地霊殿をしっかりと案内してもらって……。

 すでに胸の痛みは消えていた。ひどく明るいフランの微笑みが、湧き上がってきた恐れを消してくれるようだった。



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一〇.灼熱の上に建つ屋敷

 今年も明星の光は太陽のそれに掻き消された。幻想郷に来てからは毎年がこの繰り返しであり、もはや誰かがこの勝敗をいじっているのはほぼ確実と言える。レミリアのためにその犯人を捜してみてもいいのだけど、妖怪が強くなったらなったで危険な部分もあるから、このままにしておいた方が賢明な面もあるかもしれない。

 なぜか定期的に配られていた号外の新聞も最近は鳴りを潜め始めている。つい先月まではかなりの頻度で大量の号外が飛び交っていたのだが、天狗同士で開かれていた新聞大会が終わったとのことで、その数は激減したのだ。とは言え天狗は気の早い種族なので、わずかではあるがすでに新しい号外が出ていたりもする。

 新聞大会で一番に輝いたという『鞍馬諧報』を一応読んでみたのだけど、なんだか適当なことを大げさに書いてあるだけな上に、事実と違っている部分が多々あった。これでは情報を正しく伝達するものとして機能しないし、個人的には暇潰しとして気軽に読める『文々。新聞』の方が断然面白いと感じた。その時読んだ『鞍馬諧報』は、香霖堂に寄った際にこっそり置いてきた。

 さて、号外が減ったのは大会が終わったからというのもあるが、冬になって雪が降るようになったからでもある。吹雪の中で新聞を抱えて飛ぶのは厳しい部分があるし、たとえ天狗自身が平気でも紙はそうとは限らない。新聞自体はただの紙だから濡れてしまえば読めなくなるため、四季の中では冬が一番新聞の数が少なかったりする。

 去年作ったマフラーに顔を埋め、小さく白い息を吐いた。見上げれば岩で塞がれた暗い天井がそこにあるのだが、どういうわけかかぱらぱらと白い粉がそこら中に舞い散っている。

 

「地底にも雪は降るんですね」

「冬だもん」

「ふむ、確かに冬なら降ってもおかしくないです。納得しました」

 

 こいしに手を引かれ、人間化魔法と狐の仮面をつけた状態で、旧都の上空をそこそこのスピードで飛んでいた。空や雲がないのに降雪があるのは、冬とはそういうものだからということらしい。人の恐怖から妖怪が生まれるように、魔力で魔法が形作れるように、幻想郷には外の世界では失われた特殊な法則が存在している。おそらくはその産物なのだろう。

 こいしの『無意識を操る程度の能力』は非常に強力で、ゆえなく力なき人物が相手ならば話しかけたりすることはおろか、その手で触れたりしてもまったく気づかれない。地底でその姿を捉えられる者はかなり限られており、彼女と手を繋いでいる間、俺もまた誰からも目を向けられることがない。

 だからと言って警戒を怠っているとかつてのごとくサッカーボールが飛んでくるかもしれないので、きちんと最低限は気を張り巡らせている。二度あることは三度あると言うのなら、あらかじめ二度目がないように気をつけておけばいいのだ。

 そんなこんなで何事もなく地霊殿への入り口までたどりつくと、こいしが俺の手を握っている方とは逆の手で玄関の扉を開け、「たっだいまー!」と上機嫌に帰宅を知らせた。俺もこいしに続いて「おじゃまします」を響き渡るくらいの声音で告げて玄関を潜り抜ける。

 

「あ、おかえりなさい、こいし。レーツェルさんもいらっしゃい。どうぞゆっくりして行ってください」

 

 まるで待ちわびていたかのように玄関近くをふらついていたさとりに出迎えられた。まるでというより、事前に行くことは伝えておいたため、本当に俺たちが来るのを待っていてくれたのだろう。

 

「お姉ちゃんそんなに楽しみだったの? うろちょろなんてしてないで本でも読んでればよかったのに」

「い、いえ、別に楽しみになんてして……ましたけど、してましたけど……えぇと、そう、それとこれとは話は別で、ここにいたのは暇だっただけですから」

 

 ほんの少し恥ずかしそうにさとりが顔を逸らす。暇だっただけという言葉にはまったく信憑性がなく、もしかしたら単に遊び相手が来るのをただ待ち切れなかっただけなのかもしれない。人との触れ合いが少なかったぶん意外と子どもっぽい部分があるのかな、と考えたところでさとりがさっきよりも顔を赤くして睨みつけてくる。案外図星だったりして。

 なんにせよ、歓迎されていることがわかって安心できる――さとりが文句を言おうとして言えなかったような微妙な表情になった。今のは本心だったから、文句を言いづらくなってしまったらしい。このままどこかからかいたい気分になってきたけれど、そういう心持ちで行う冗談はさとりには通用しない。彼女をからかいたいなら、すべての気持ちが本気でなければならないが、からかいたいという気持ちがある以上それは不可能なのだ。

 なんにせよ、こうしてさとりの反応ごとそれについての思考を繰り返すと堂々巡りに陥りそうなので、ここらで打ち止めにしておこう。

 

「あ、お燐」

 

 視界の端から黒猫が歩いてきて、こいしが反応を示す。以前地霊殿に訪れた際の「皆嬉々として怨霊を食べたりするし」というこいしの言葉が頭をよぎり、もしかしたらと目を凝らしてみると結構な妖力を感じ取れた。尻尾の先が二つに分かれており、猫又かと判断しかけたが、あまりの妖力の禍々しさからそれは違うと首を横に振る。

 こいしの足元に擦り寄ってきたそのお燐という黒猫を、こいしが俺の手を離して両腕で抱えた。少しも抵抗する様子もなく、その黒猫はどこか目に知性を宿しているようにも見える。

 

「触ってもいいそうですよ」

 

 禍々しい妖力を纏っていると言えど、その見た目が愛らしいことには変わりない。撫でたくてうずうずとしていたのがお燐にもさとりにも伝わっていたらしく、おそらくは黒猫の意思を汲み取ったさとりが代わりに俺へと許可を出した。

 じっとこちらを見つめてくる黒猫の瞳に目を合わせて、おそるおそる、ゆっくりと手を差し出してみる。その間、ずっとお燐は動かずにいて、手が届いてその身を撫でた際には気持ちよさげに目を細めてくれた。

 

「か、かわいいですね……」

「にゃー」

「どうもありがとう、だそうです」

 

 お礼を言うのはこちらの方だ。こいしから「はいっ」とお燐を手渡されて、急なことに驚きつつ、どうにかこいしと同じように抱きかかえた。

 ふさふさとした毛と温もりが手元の肌をさらした部分から伝わってくる。それがとても心地よくて、また上目づかいで見上げてくるお燐のあざとさに反応して、少しだけ体温が上がった。

 

「えっと、この子は?」

火焔猫燐(かえんびょうりん)。私の飼っているペットのうちの一匹です。私は閻魔さまから怨霊の管理を任されてはいますが、その怨霊から避けられるせいで接触すらできないので、お燐には私の代わりに怨霊の管理をしてもらっています。普段はこうして猫の姿でいますが、人の形を取ることもできますよ」

「猫の妖獣……橙以外では初めて見ました」

 

 それも橙の場合は藍の式神の力で半ば無理矢理人型を取るようにされている。式神をはがしてしまうと言葉もしゃべれない単なる化け猫に戻ってしまうし、階級的には圧倒的にお燐の方が上なのだろう。

 怨霊を食べた方が普通と比べて強くなる。環境の違いや過ごした年月の違いでいろいろと変わってくるが、こいしがさとりから聞いたというその話の信憑性が高いことは確かだった。

 

「って、火焔猫燐?」

「どうかしたの?」

「にゃー?」

 

 こいしとお燐が揃って首を傾げる。なにか違和感を覚えて記憶を模索して、ああ、と一人納得する。

 そういえば原作知識にそんな登場人物がいた。確か……火車という妖怪だったか。死体を運ぶことを生業とし、生きた人間にはあまり興味がないとか、怨霊と死体を自在に操ることができる能力を保有しているとかなんとか。本当に怨霊を操れるとなれば、妖怪にとってはかなり厄介な相手となるかもしれない。

 ……とは言え、見知らぬ人間にしか見えないような俺の手元で丸くなって収まっている大人しい彼女がそう簡単に牙をむくとは思えないし、危険は皆無と考えたい。さとりの仕事の代わりを任されているペットであり、こいしのことをしっかりと覚えている以上、決してただ悪いだけの妖怪ではないことは確かなのだから。

 

「いえ、なんでもありませんよ。私もお燐、って呼んでもいいですか?」

「にゃーん」

「ありがとうございます」

 

 お燐の頷きにお礼を言って、ついでにその頭を撫でる。いや、頭を撫でる方が先だったから、頭を撫でるついでにお礼を言った。

 不意とそこでさとりが難しそうな顔をして俺の方をまじまじと見ていることに気がついた。原作知識やら登場人物やらと考えてしまったせいか。以前も同様のことを考えていてしまったので、もはやバレないでいることは諦めている。心を読まれている以上、これを秘密にし続けることはできない。

 二人きりの状態でならば教えるのもやぶさかではないから、今は言及しないでほしい。そんなことを考えてみると、それを読み取ったらしいさとりがこくりと小さく頷いて返事を示した。ふと、今の俺の思考とそれを読まれていること、そしてさとりに頷きで返されたことを第三者の視点で捉えてみて、なんだかテレパシーみたいでかっこいいなと感想を抱く。よく考えなくてもテレパシーそのものだけど。

 

「うんうん、お燐とお姉ちゃんがいれば怨霊相手なら百人どころか千人力だねぇ。これで気兼ねなくレーチェルに地霊殿の案内ができるよっ」

「なんて言いながら、こいし、私たちのどちらもいなくても普通に案内するつもりだったんでしょう?」

「もちろん!」

 

 元々こいしは俺に地霊殿を案内したがっていた。前回はさとりを混ぜて三人でおしゃべりしていたら結構な時間になっていたし、今日やっと当初の目的が果たされるというのだから、こいしのテンションが若干高めなのもしかたがないことなのだろう。

 早く早く! と急かしてくるこいしの様子に、俺は少しだけさとりと目を合わせる。小さく頷き合って、こいしを先頭に地霊殿の内部を歩き始めた。

 地霊殿は外観からして紅魔館より大きく感じていた。紅魔館は咲夜の能力により空間が操られているので外観と内装は一致しないのだが、それにしても地霊殿はとてつもなく広い。住んでいるのはさとりとこいし、あとは大量のペットであり、ほとんどがペット用の部屋のようだ。

 ただ、だからと言って狭いというわけではない。猫、犬、ライオン、黒豹はまだいいとして、アライグマや名前のわからないペリカンみたいな鳥、果ては全長二メートルを超すオオトカゲ。行くところ行くところにさまざまな動物、および妖怪化したペットがいて、さとりを見かけると親しみを込めて鳴いてくる。心を読まれるということは言葉を用いる生き物にとっては忌避してしまうことだけど、逆に用いない生き物にとっては好ましい部分があるのかもしれない。

 前世が人間だったからライオンや黒豹などと目が合うと反射的にビクリと体が震えてしまうが、さとりに対して向ける穏やかな鳴き声を聞いていると、そんな怯えがなんだか段々とバカらしくなってきた。

 未だはしゃぎながら「こっちこっち!」と手を振ってくるこいしを微笑ましそうに眺めるさとりを横目に、とりあえず、さきほど抱いた疑問を消化しておこうと口を開く。

 

「あの、さとり。どうして地霊殿はこんなに大きいんですか? 必要ないところも多いみたいですけど」

「あ、そうですね。知っての通り私は閻魔さまからこの旧地獄に残った怨霊の抑制を任されているのですが、同時に灼熱地獄の管理も任されているのです。地霊殿はその昔、旧地獄がまだ地獄だった頃に灼熱地獄として機能していた場所の上に建っていて、地霊殿の中庭から灼熱地獄跡へと続いています。灼熱地獄は地獄として使われていただけあって相当な広さがあるため、それに比例して地霊殿も大きく作られているんですよ」

「ははぁ。灼熱地獄……怨霊の管理って大変じゃありませんか? 怨霊の方から離れると言っても、一応さとりも妖怪なわけですし」

「ご心配ありがとうございます。大丈夫ですよ。怨霊は言葉を介しませんが、かつて人間として生きていたからこそ、自身の気持ちを言葉で伝えることを望んでいます。だからこそ他のどんな存在よりも心を読まれることを恐れ、私には絶対に近寄ってはきません。ただ、安全なのはいいのですが、近づいて来ないとなると管理はかなり難しくて……ほとんどはペットたちに任せています。お燐なんかは怨霊と会話ができるそうなので、基本的に怨霊はお燐に懐きますね」

 

 お燐も地霊殿の妖怪だというのなら、怨霊を喰らうのだろう。それなのに懐くとなると、怨霊はそれだけ他人との触れ合いに飢えているということになるのだろうか。一度死んで地獄に落とされて、永遠に言葉を話せない魂だけの存在になってしまった時のことを想像してみると、相手がたとえ自身を食べる者であろうと言葉が通じるのならば、近づきたくなるのもなんだかしかたがないのかなと思えてくる。

 そんなことを考えながら手元を見下ろすと、どこか自慢げに口元を緩めた黒猫の姿が目に入って、「すごいですねぇ」とその身を撫でた。実際、妖怪の身でありながら怨霊と会話ができたり操れたりする能力を持つことは並みはずれているし、相当な力や数の魑魅魍魎どもを喰らってきた可能性が高い。

 

「で、ここが中庭! 結構いい場所でしょ?」

 

 こいしがバッと手を広げて示すので、建物の内部から一歩中庭に踏み出して、辺りを見渡した。

 そこは中庭と言うだけあって地底にある割に多くの緑で溢れ、美鈴が管理する紅魔館の庭に負けず劣らぬよき雰囲気を放っていた。中心には巨大な穴が空いており、その周りだけは土と石がむき出しになっているのだが、そこに至るまでの道にシャラノキが定期的に並んでいたり、モクレンがところどころに咲いていたりしている。バラやカキツバタなどは数が多く、堂々と咲き乱れ、バラは赤や青をはじめとしたさまざまな色が揃っているようだ。

 これまで地霊殿の中を見回ってきた中でも動物はかなりいたけれど、中庭ではその二倍以上の動物たちがくつろいでいて、やはり自然がある方が落ちつくのだろうと一人納得する。

 

「さとりと初めて会った時もテラスからここが見下ろせたみたいですけど、してませんでしたからね。確かにここはかなりいいところです」

 

 花や植物がに景色に元気な色彩をつけていることもそうだが、のんびりとしている動物たちを見ているとこちらも安らいだ気分になってくる。多くの生命があるというのに静かなその空間は、寂しさを紛らわすと一緒に安寧の念を与えてくれる。

 

「……こいしはこの場所が大好きなんですね」

「うん、好きだった。ここにいるとすっごく落ちつけるから」

 

 思い出すのは勇儀と相対した時、こいしが妖力で生み出した茨と薔薇だ。攻撃の際にわざわざあんな複雑な形を取るくらいなのだから、この中庭がこいしのお気に入りの場所であることは間違いないだろう。

 中庭に植えられた自然を観賞しつつ、これまで回ってきた箇所と比べ、はるかにゆっくりと歩き回る。動物たちのそばを通るごとに皆が皆さとりに頭を下げたり物珍しげに俺を眺めてきたりするので、そのたびに軽く会釈をした。

 そうして中庭を歩み切ってたどりつくのは中央に空いた大穴の手前だ。飛べるからまったく恐れる必要はないのだが、平面の地面に一か所だけ奈落ができているのを目の前にすると半ば本能的に委縮してしまう。

 

「そこを降りた先が灼熱地獄跡となっています。そこでも私のペットが仕事をしていて、その子には灼熱地獄の温度管理を任せているんです」

「温度管理、ですか。そういえば今更ですけど、冬なのに屋敷内が妙に暖かい気がしましたね。私は温度の変化には疎いのですが、息が白くなりませんでしたし。もしかして灼熱地獄の熱を利用してなにかやったりしてるんです?」

「ええ。ステンドグラスを屋敷の床にも設置しているのですが、そこに灼熱地獄の熱と光を当てることで床暖房にしています。その熱さを調整することで夏でも冬でも快適に過ごすことができるのですよ」

 

 それはまた便利な構造だ。俺も夏と冬の両方に対応したコタツは作ったことがあり、それを自室に置いているが、さすがに館全体に作用する仕組みはなにをどうやっても作れそうにない。建築物そのものに細工がされていることに感嘆しつつ、そんな俺の心を覗いてちょっとだけ自慢そうにしているさとりが、やっぱりどこか子どものように幼く見えた。

 そんな思考に文句を言われることを予期して早々に思考を遮断し、改めて灼熱地獄跡に続くという大穴に向き直る。その際、ふいと、この先の近くに咲いていた薔薇をこいしがぼーっと見つめているのが横目に窺えた。灼熱と言うだけあって結構危なそうなので、こいしもさすがにそんなところへは俺を連れていく気はないらしい。

 吸血鬼だから多少のことではなんともないのだが、たとえほんの微量の危険であろうとも、それが存在する場所へわざわざ自発的に飛び込んでいく気概はなかった。さとりでもこいしでも、とにかくここには誰かから誘われない限りは進まないようにしようと誓って、「ここはもう十分に楽しみました。他にはどんな場所があるんですか?」とこいしに歩み寄る。

 さとりとこいしにとっては自宅なのだから、そこを案内するなんて二人にとってはあまり楽しくないはずなのに、それに付き合ってくれること。お燐が初めて会ったばかりの俺にずっと身を任せてくれていること。その二つがなんだかとても心地よくて、時間も忘れて地霊殿を探索してしまっていた。

 興味があることはすぐに覚える。長く生きているだけあって多少は記憶力に自信があることもあり、地霊殿に関する大体のことを知れたと感じた。

 いつか今度はさとりとこいしを紅魔館に招待して案内してみたい。そんなことを思いながら、今日というなんでもない一日を満喫した。



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一一.明かすは連なる世界の秘密

 自分が住んでいる世界が物語の中のものだと知ってしまった時、いったい普通の人間ならばどうするのだろう。

 その知識が間違っているだけだと信じないでいるのか。バカらしいと切り捨てるのか。どうでもいいと流れるがままに日々を過ごすのか。すべてが仕組まれていた事実から生じる疑心暗鬼に飲み込まれ、精神が狂ってしまうのか。

 さとりへ俺の秘密を話すことを誓った日の夜、俺は早くもそのことを後悔した。聞かれない限りは言わないでいるとしてレミリアやフランにさえ教えないできたから、秘密を伝えることで発生するリスクをわざわざ考えたことがなかったのだ。

 さとりに真実を隠す方法も思索してみたのだが、あいにくと俺の能力を使って心を見られなくすることくらいしか思いつかない。読まれたくないから隠そうとする――それは人間にとって当然の思考回路ではあるが、どうしても俺はさとりの前においてそれだけはしたくなかった。彼女が『心を読んでも自分を嫌わない存在』として俺に興味を持ってくれているのはこれまでの付き合いでなんとなくわかってきていたから、それを崩すのはなんだかなによりも冒涜的な行為である気がしていた。

 結局、さとりに電話で「きっと知らない方がいいことです。心がおかしくなっちゃう可能性もあります」としつこく念を入れる方法を実行し、さとりの方から身を引かせる作戦に出たのだが、見事に失敗。『そんな危ないものならなおさら私も知っておかなければいけません。レーツェルさんのためにも』だとか、『……やっぱり、私のこと嫌いになりましたか?』なんて寂しい声で聞かれたら、もうなにも言うことができなかった。

 俺は、さとりの心を信じることにした。きっと彼女なら大丈夫だろうと、割り切れるだろうと。もしもダメだったら、その時は――。

 

「……この世界があなたの前世においては物語の中だった……ですか」

 

 地霊殿。こいしにはどうにか席を外してもらい、秘密を話すという約束を果たすために、俺はさとりの部屋において彼女と向き合っていた。

 本棚に多くの書物が入っていることを除けば特筆するものがない簡素な部屋であり、およそ年頃の女の子の部屋とは思えない。なんて前世の感覚で一度思って見るものの、そもそも幻想郷の文明は歪ながらも外の世界には遠く及ばないものなので、そこそこ凝っているだけでも驚きだ。

 

「私の前世は、外の世界……いえ、『別の次元』とでも言いましょうか。こことは別の次元にある、幻想郷で言う『外の世界』と酷似した時代の世界に住んでいました。そこではこの世界の一部の情報が物語として存在していて」

「私やお燐、こいしもその一部であると……そういうことですね?」

「……そうなります。私はこの世界に転生してから五〇〇年ほどを過ごしていますが、およそ正史通りにことが進んでいるように思えます。仮にここが物語の中とまでは行かなくとも、『別の次元』から歴史を観測されていたという事実だけは確かです」

「いえ……レーツェルさんにある前世の記憶には、今より未来の知識もあるのでしょう。そうなると歴史を観測していたというよりも……」

 

 難しそうな顔になって黙り込むさとりを眺めながら、小さく息を吐く。

 さとりは俺の戯言を信じてくれているみたいだった。バカらしいと切り捨てることはなく、俺の頭がおかしいのではないかと疑うこともなく。彼女は心を読めるからこそ俺が語っていることが俺にとっては間違いなく真実であることを理解していて、さとりやこいし、お燐のことを俺が原作知識からあらかじめ少しだけ知っていたことも把握している。だからこそ、疑うことができないのだろう。

 

「…………もしかしたら、この世界そのものが妖怪や神などと同じような存在なのかもしれませんね」

「え……? えっと、どういうことですか?」

 

 ちょっとだけ納得したような表情で予測を口にするさとりに、なんのことかと首を傾げた。

 

「私のようなサトリ、地底に溢れている鬼、レーツェルさんのような吸血鬼……吸血鬼は正確には悪魔ですが、とにかくそれらがすべて幻想によって形作られていることは周知の事実です。つまり、人間が実在を信じているからこそ存在することができる。ここまではわかりますね?」

「もちろんです」

「レーツェルさんの前世では、その物語はある程度以上の人々の間で知れ渡っていた。ここが鍵です。創作の物語が本当にあるとは信じはしないでしょうが、『あってほしい』『あったら面白い』、『こういう世界もあり得たかもしれない』という願望にも似た気持ちは少なからず抱くでしょう。たとえ実在が信じられていなくとも、多くの人々の頭の中では共通の物語に関しての共通の思いが募っていたことは明らかです。そのまとまった幻想があなたの世界の外側まで漏れ出し、徐々に形を成して、今の私たちがいる世界を作り出した……私が言っているのはそんな考え方です」

 

 ほほお、と感嘆の声を上げる。『どうして自分が転生したのか』は今まで何度も考えてきたことがあったが、そういえば『どうしてこの世界があるのか』と思索に耽ったことは一度もなかった。実際に生きているのだからこういう世界もあるのだろう、と納得していたけれど、この世界の純粋な住人であるさとりにはその在り方も気になってしまうのかもしれない。

 俺の前世と違って、この世界では『思い』が強い力を持っていることは、吸血鬼として生まれた五〇〇年ほどで十分に理解していた。妖怪は人々の恐れから生じ、神は人間の信仰から力を得る。それゆえに人間がいなければ実在することはできず、そんなすでに外の世界で忘れ去られてしまった者たちが住む場所がこの幻想郷だ。

 博麗大結界を張ることで世界を分け、幻想郷内部の人間にのみ妖怪のことを完全に認知させている。もしもこれをなくしてしまえばよほど名のある妖怪や神以外はいなくなってしまうだろう。

 

「いえ……単に私が、この世界が誰かの手の平の上にあると認めたくないだけなのかもしれませんね。ですが、平行世界等と仮定するよりもずっと現実的な仮説だと思います」

「ふぅむ、なるほど。確かめようがないので、なんとも言えませんけど……」

 

 俺もさとりも妖怪として生まれてきているから自身が幻想の存在であることはハッキリと認知している。だから世界そのものが幻想から生じたのだと言われても、特に違和感や虚脱感なく受け入れることができた。

 そして同時に納得もする。ただ転生するよりも、なぜ物語の世界に産まれ変わったのかという長年抱いてきた小さな疑問の前に、まさしく一番可能性が高そうな推測が提示されたのだ。なんだかちょっとだけ気分が高揚して、「きっとさとりの言う通りですよ」と口にした。

 

「ふふっ、ありがとうございます。けれどなんにしてもこれは……なんというか、不満な現実ですね」

「不満、ですか」

「私がこうして心を読む能力を持つことで嫌われることが――こいしが私と同じことで苦しんで、心を閉ざすことが元々決められていた。そんなことを知ってしまったら、不満の感情くらい抱いちゃってもしかたなくありませんか」

 

 どこか遠くを見据えるようにさとりが目を細める。俺はなにも言えなくなって、ただ唾を飲み込んでさとりを見つめた。

 そんな俺の様子に気づいた彼女は俺に第三の瞳を向けてきて、しばらくじっと見つめてきたのちに、顔を綻ばせた。

 

「ふふっ、すみません。心配させてしまいましたか。確かにちょっと不満ではありますけど、そんなにショックではありませんよ。もちろん私一人でそんな真実を知ってしまったらもっと別の思いを抱いていたとは思いますが、今の私にはレーツェルさんがいますから」

「えっと、それってどういう……」

「決定的な違いは『別の次元』から来たというレーツェルさんがここにいること、そしてその秘密を教えてくれたこと。レーツェルさんと関わり、そしてその秘密を知った私は、少なからずその物語(シナリオ)から逸脱した存在になっているはずです」

 

 ああ、なんだ、そういう意味か。誰々がいるから、なんて男女での告白染みたセリフを吐くものだから、ちょっと緊張してしまった。

 

「……告白なんてしませんよ。どうしてこの話の流れでそうなるんですか」

「すみません。でも、よかったです。さとりがあんまり落ち込んだりしてなくて」

 

 ほんの少し顔を赤らめ、頬を膨らませるさとりにそう告げる。

 あんまりの真実に精神が壊れてしまったらどうしよう、とか。心を閉ざしてしまったらどうしよう、とか。俺と世界の秘密を話すと約束した日の夜から、ずっと考え続けて来ていた。

 案外平気そうなさとりの様子に、改めて大きく息を吐いて、安心をする。

 

「そう、ですね。すみません、無理を言ってしまって。たくさん心配させてしまいました。ですが、私はこのことを知れてよかったと思っていますよ。レーツェルさんのことがもっとよく知れた気がしましたし」

「それなら私もよかったです。さとりが初めてですよ、私のことや世界の秘密を話したのは」

「ふふっ、嬉しいですね、そういうの。私が初めて、ですか」

 

 満足そうに頷くさとりは、見ているとこちらも段々と心地よくなってくるくらいに気持ちいい微笑みをしていた。

 ずっと前から思っていたことがある。ずっと心を読んで苦しんできたからか、他人と触れ合うことがほとんどなかったからか。さとりが笑みを浮かべる時はまるで子どものようにいつも純粋な正の感情が浮き出ていて、一緒にいると俺まで嬉しくなってきてしまうのだ。こいしもまた意識せずして表情を動かすゆえに無邪気であり、古明地の姉妹は二人とも誰よりも清々しい笑顔を浮かべる。

 かつて俺が住んでいた平成の世は『世渡り』がうまくなければ生きていけない場所だったから、こんなにも自分に素直でいられる二人にはとても好感が持てた。

 

「……本当、レーツェルさんはよくもまぁそんなことを恥ずかしげもなく思えますね」

「思うだけなら自由です。いくらでもできます」

「本気でそう思っているだけ余計にたちが悪いんですよ。まったく……」

 

 照れくさいようなことを考えているのは俺であるはずなのに、どうしてかさとりの方が恥ずかしそうに俺から両目を背ける。それがなんだかおかしくなって、生温かい目線で彼女を見つめた。

 

「ううぅ……見ないでください」

「ふふん、わかりました。わかりました」

 

 穴があったら入りたい、みたいな顔をしているので、さとりをいじるのはそろそろやめておこう。

 これで俺が転生したこと、そして原作知識という世界の秘密をさとりに話し終えた。こいしが部屋の外で俺たちが出てくるのを待っているだろうし、さとりを連れて早く行ってあげないと。

 座っていたイスから降りて対面のさとりへと近づき、すっと手を差し出した。まだ少しだけ顔の赤みが残っている彼女は、小さく頷いて俺の手を取る。

 

「さとり、これからは私のこと、レーツェルって呼んでくれませんか? さんづけはなんだかむず痒くてですね」

「ん……わかりました、レーツェルさ……レーツェル」

「はいっ」

 

 五〇〇年間ずっと抱えてきたものをほんのちょっと降ろせた気がして、自然と足が軽くなっていた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Satori Komeiji □ □ □

 

 

 

 

 

 ――レーツェル・スカーレットと、この世界に連なる重大な秘密。すなわち彼女が外の世界と酷似した『別の次元』から生まれ変わってきた異物とも言える存在であり、その次元では私たちが住んでいるこの世界に関する一部の出来事が物語によって定められていたということ。

 そしてその定められていたことの中には、私やこいしにまつわる歴史もあるのだという。

 

「……大体予想通り……ではあったんですが、実際に聞いてみると驚きが隠せませんでしたね」

 

 すでに地上では月が真上に昇っているような時間帯であり、レーツェルは紅魔館という自らの館へと帰ってしまっていた。夜行性ではないペットたちも寝静まり、こいしもどこへ行ったのか見かけなくなってしまって、なに一つとして辺りの気配のない自室にてベッドに座り、電気を消して私は一人レーツェルが話してくれたことについて考え込んでいた。

 こうして仕切り直して彼女が話してくれたことに思いを巡らせてみても、やはり虚脱などの感情を抱くことはない。ただ単に驚嘆や関心等の好奇心が湧き上がるだけで少しも落ち込みはしなかった。

 ――私はレーツェルの前で、不満な現実だと評価を下した。しかしそれはあまり本気で思っていたわけではない。

 私は、私自身がそれだけしか反応を示さないことに疑問を持っている。自分が周りから嫌われて地霊殿に引きこもることまで元々決められていたのだから少しくらい動揺や憤慨の感情を抱いてもいいのに、いったいどうして。

 

「そう思わないように世界が仕組まれている……いえ」

 

 そんな都合のいい現象などあるものか。世界は世界だ。ただそこに在るだけの環境であり、仮に意思があるとしても、たかがサトリ一匹程度の感情なんて気にも留めないだろう。

 ならばなぜ。どうして私はこんなにもあっさりと納得してしまっている。

 いくら真意を測ろうとしても、その『答え』は見つからない。私は私自身の心だけは読むことができないのだ。

 はぁ、とため息を吐いて、ごろんとベッドに寝転がった。すでに寝巻きに着替えているので、このまま寝てしまっても問題はない。

 

「………………なんで私は、安心なんてしてしまったんでしょう」

 

 私が嫌悪感という心を読むことを忌避し、逃げること。こいしがサトリとしての苦痛に耐え切れず、第三の瞳とともに心を閉ざしてしまうこと。それらとそれに関係するすべてが別のなにかの意思によって決められていたのだと言われ、どうしてこんなにも救われたような気分になるのだろう。

 実際は気づいていた。本当はわかっていた。

 心を読む力から逃げることが自分以外の意思で決められているのだと思えるようになってしまったから、立ち向かうことから逃げるための言い訳ができてしまったから、私は喜んでしまっているんだ。

 他人と関わろうとしないことはどうせ決められていたことだから、私は悪くない。こいしが心を閉ざすこともどうせ決められていたことだから、元々私ではどうしようもなかった。全部が全部しかたのないことだったんだと。

 

「……悔しく、思わないと……いけないのに」

 

 やって来た睡魔が私の瞼を閉ざしていく。それに逆らう気にはなれず、ふっとそのまま身を任せた。

 寝る直前に考えていたことは曖昧になって、翌日になると忘れてしまうことがある。それは取り戻しがたいしかたがないものであり、思い出せないのならば思い出せないと享受することしかできない。

 ――思い出したくないだけのくせに。

 そこで完全に思考はシャットされ、意識は闇に落ちていった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一二.日々に負う危うさを案ずる

 恒例行事にするつもりなのか、今年もまたパチュリーを主催として節分大会を開催した。どうやらそれが広まって各地で豆を撒いたりしている人たちが出始めたらしいが、詳しいことは知らない。その日の夜は満月が粉々に砕け、その後収束して元に戻るという現象が発生したけれど、後日『文々。新聞』を読んでみたところ、どうやらそれを引き起こした犯人は萃香だったことが判明した。皆が面白半分に「鬼は外! 鬼は外」と言うものだから不満に思って月を壊すことで脅してみたようだ。

 どうやって満月を割ったかと言えば、満月が映っている天蓋を――天を砕いたと供述しているとのこと。萃香自身の膨大な力量と『密と疎を操る程度の能力』があるからこそ可能な芸当なのだろう。

 ちなみに月を割った犯人が萃香とわかる以前にレミリアが砕ける満月を見たことで、材料があまりにも多すぎたために放り出した、ロケットで満月へ向かおうとする計画『プロジェクトアポロ』のことを思い出し、「今度こそ月に行くわよ」とのことで計画を再開してみたりしていた。主に咲夜が情報集めに駆け回っており、それ自体を案外楽しそうにしているようだったので、俺はレミリアたちが月に行く魔法(プロジェクトアポロ)を完成させるまでを末長く見守ることに決めたりした。

 そんなこんなで幻想郷らしい二月も過ぎ去って、今は花が増えて春を迎えようとする三月の季節。暖かみが感じられるようになってきた風は浴びる者に心地よさを与え、新聞が濡れにくくなったことで多くの天狗が大々的に新聞活動をし始めている。

 

「ほっ、ほっ、っととと! よっとっ!」

 

 最近はそこそこ頻繁に地霊殿へ行くようになっていたが、暇だった時に博麗神社へ向かう心持ちはなくしていない。霊夢いわく「そんなのなくていいから」とのことだけど、別に拒んでいるわけではないので定期的に遊びに訪れている。

 今日もまたレミリアとフランと一緒に博麗神社へとやって来ていて、もうどうにでもなれという霊夢の諦観のもと、二人ともは縁側でお茶を飲んだり漫画を読んだりと好き勝手やっていた。ただし俺はその中に入ることなく、神社の上空で魔理沙とスペルカードの訓練をしている。

 

「んー、やっぱり堅さよりも速さを強化した方がいいかもしれませんね。"童話『赤ずきん』"は倒されることを真髄とするスペルカードですが、スペルカードである以上は通常弾幕より強くしないといけませんし。速いとすぐに場が整いますし」

「っしょっと! これより速くできるのかっ! それは、ほいっ! 面白そうだな! っとと!」

 

 魔力で形作られた狼の突撃、その狼が液体魔力を足場にすることで飛び散る水飛沫。魔理沙がそのすべてを避けながら、にぃ、と好戦的な笑みを浮かべた。

 移動速度を高めることは可能であるが、さすがにスペルカードを発動しながら変更することはできない。魔法はちょっと改良を加えるだけでも結構な調整が必要で、即行で施せば少なからずボロが出る。鬼化魔法や月兎化魔法も別の日に手を入れて改善させているし、"童話『赤ずきん』"も同様に修正し直さなければならないだろう。

 水飛沫が格段に増大し、魔理沙がその一つを被弾したところでスペルカードを中断した。魔力狼が消え、液体魔力が空気に溶けていく。魔理沙は悔しそうな表情を浮かべていたが、自らが撃つことを封じて避けることしかしていなかったことを踏まえれば、かなりいい結果だったと言えた。

 

「いいや、まだまだだぜ。お前ら姉妹がやってる"弾幕合戦"ってのはこんなもんじゃなかった。常に死角から迫り来る弾幕を避け続けられるくらいになれなきゃ全然だ」

「ふぅむ、そうですね。感覚を研ぎ澄まして……魔力や妖力など、そういう特殊な力への感応力を鍛えるんです。死角なんてものは視覚があるから生じるものなんですから、空気にかかる圧力、空間を通して伝わってくる微弱な気配を瞬間的に察知できるようになれば、背後からの攻撃も簡単に回避できるようになりますよ」

「……先は遠そうだな」

 

 ただし鈴仙の攻撃を除く。彼女はあらゆるものの波長を狂わせてくるので、一部の感覚があまり信用ならなくなってしまう。鈴仙と戦う際は理屈でない、五感より先の第六感や第七感とも言うべきものに意識を傾ける必要があった。

 まだ続けます? という俺からの質問に、魔理沙は首を横に振る。元々は彼女が「回避訓練がしたい」と俺に頼み込んできたことから始まっており、時間が経てば経つほどに難しさを増していく"童話『赤ずきん』"で相手をさせてもらっていた。なぜスペルカード戦ではないかと問えば「一旦弾幕は横に置いといて、回避だけに専念したらどれだけ避けられるか知りたいから」とのことらしい。

 魔理沙とともに縁側の近くに降り立つと、「今帰ったぜ」と靴を脱いだ魔理沙が引き戸を開けて我が家のごとく神社の中へ入っていった。縁側で足を放り出してぼーっとしている霊夢に、追いかけなくてもいいのかと視線で問いを発してみると、「どうせお茶を入れに行っただけでしょ」と帰ってくる。人間には厳しかっただろう冬の季節が過ぎ去り、ようやく漂い始めてきた陽気に当てられたか、彼女はいつも以上にだらだらしているように見えた。

 

「おつかれさま」

「おつかれぇ」

 

 レミリアとフランが互いに視線を合わせたのち、すすぅーと二人は自分たちの間に一人分の隙間を作った。ここに座っていいよ、という意思表情であることは明白だったので「ありがとうございます」とお礼を告げて、そこに腰かけた。

 

「お姉さま、魔理沙はどうだった? 強くなってたの?」

「ええ、魔理沙が以前弾幕ごっこをやっているのを見た時よりも、明らかに。それにかなりの成長の余地があります。今後がまだまだ楽しみですね」

「ふぅん。いつかは私やお姉さま、レミリアお姉さまと互角にやり合えるくらいになるのかな」

 

 んー、とレミリアが声を上げた。俺とフラン、それからぼーっとした霊夢の視線が集まり、「大したことじゃないんだけど」と言葉が続く。

 

「咲夜も動きがよくなってきてたわね。ちょっと前までは能力に頼りすぎなところがあったんだけど、最近は能力の使いどころを見極めるようになってきてる。ああなると隙を突かれて時間を操作されるとたまったものじゃなくなっちゃうわね」

「やっぱりそういうのって幻想郷の環境のおかげなのかな。いろんな妖怪とか神とかと戦えるしー」

「むぅ、こうなると私たちも強くならないとすぐに追い抜かれちゃいますね。特訓します?」

「あんたらはそれ以上強くならなくていいから」

 

 霊夢のそんな発言に「どうしてですか?」と首を傾げてみる。

 

「だって、次に異変を起こされた時、止めるのがものすっごくめんどうになるじゃない」

「霊夢らしい答えねぇ」

「そんなこと言ってたら起こしたくなっちゃうじゃない」

「あ、私も私も」

「私も起こすぜ」

 

 戻ってきた魔理沙に「あんたは人間でしょうが」と霊夢からツッコミが入る。

 魔理沙が持つお盆の上には湯気が立ち上る急須と五つの湯呑みが置かれており、俺とは反対側のフランの隣に腰を下ろした彼女は、注いだお茶をそれぞれに手渡してくれた。

 お礼を言ってそれを受け取り、太陽の下に出ていたのでかぶっていたフードを外す。袖が邪魔だったので腕を少し上に傾け、素手で湯呑みを持っているくらいで元に戻した。

 ずずずと口に含んで、博麗神社らしからぬ作り込まれた味に、ちょっとだけ驚く。

 

「あ、魔理沙。あんたこれ棚の奥にあった茶葉使ったでしょ」

「ああ、それが一番高そうだったからな」

「高いのよ。もう、これは私一人でのんびりする時に飲もうと思ってたのに……」

 

 道理でおいしいわけだ。すっと過ぎ去る苦みと温かさ、コクがあるゆえに飲むたびに胸の内に満足感を作り出し、ほぅ、と小さく息を吐きたいくらいのぽかぽかとした気分になれる。

 値段が高めの茶葉を使われたことが不満だった霊夢も一度湯呑みに口をつけると段々と頬を緩ませていった。温かい飲み物を静かにすすると不思議と心が落ちつくもので、霊夢が「まぁ、今回だけは許してあげる」と魔理沙に漏らす。

 とは言え、魔理沙のことだから、こう言ってもらえることを見越して一番高い茶葉を選んできたのだろう。事実、「どういたしましてだぜ」と答える彼女の口元はニヤついていた。

 

「あー、そういやレーツェル」

「なんですか? 魔理沙」

「最近は昼に行っても館にいないことが多いよな。あの、えーっと……閉じてる変な三つめの目がある妖怪とつるんだりしてるのか?」

「あ、もしかして私を訪ねてたりしてました? それならごめんなさい、無駄足にさせてしまって」

「そんなことで謝られても困るぜ。それに、本を借りに行った際に『あんまり見かけないな』って思っただけだ。本気で用があるなら夜に行くからな」

 

 魔理沙が肩を竦め、「で、どうなんだ?」と問いかけてくる。

 

「その通りですよ。忘れてるみたいですけど、あの妖怪の名前は古明地こいしです。この頃はこいしとその姉のさとりのところにお邪魔させてもらうことが多いですね。河童のバザーで買った電話機……遠くにいる者同士でも会話ができる道具で話したりもします」

「ああ、レーツェルは外の世界の道具に詳しいんだったな。前にアリスが拾ってきた鉄クズを直したりしてたし。それなら河童の作った道具もちゃんと使えるか」

 

 私にはまったくわからん、と魔理沙は両手を頭の後ろに回し、体を倒して縁側の天井を見上げた。

 詳しいと言っても外の世界に行けるわけでもなく前世の知識頼りな俺は、何十年も経てば無知も同然になってしまうだろう。だからこそ今のうちに活用させておくに越したことはない。

 

「……私その話、初耳なんだけど」

「え? いえ、外の世界の本とかよく読んだりしますから、それで道具の方は普通にわかるというか」

「そっちじゃないわ。その、こいしとかさとりとかいう知り合いのこと」

 

 そういえば、話す機会がなくてレミリアには一度も言ってなかった気がする。霊夢や魔理沙、フランがさも当然のことのように聞き流していたからか、レミリアはずいぶんと困惑した表情をしていた。

 さとりが心が読める妖怪だなんて言ったら心配されると思うから、そこは聞かれない限りは言わないようにして……なんて考慮しつつ返答をする。

 

「ちょっと前にできた、地底の妖怪の友達です。紫にお願いしてある程度人間に化けられる仮面を作ってもらったりして、家の方にお邪魔させてもらったりもしてます」

「ふぅん……って、地底? そこって旧地獄だから怨霊がたくさんいるって聞いてるんだけど。危なくないの?」

「怨霊はいますけど、問題ありませんよ。さとりやこいし、それから二人のペットが守ってくれますし、それにいざという時は能力で乗っ取られないようにしてちょちょいのちょいです」

 

 できるだけ心配させない風に答えてみたが、やはり妹が危ないところに行っているという感覚は抜けないらしい。若干の不安を瞳に宿らせ、じっと俺を見つめてくる。

 

「本当に平気ですから。私は最強種の悪魔、吸血鬼……お姉さまの妹です。それに怨霊にはきちんと近づかないようにしてますし、さとりかこいし、そのペットのいずれかにいつも一緒にいてもらうようにしています」

「……そう。それなら、いいんだけど」

 

 怨霊は妖怪の天敵だ。それが闊歩する空間にいるというのだから、どんなに安全だと口にしたところでレミリアが見せる憂いの色は消えてくれない。どうしたものかと悩む気持ちと一緒に、しかし大事にされていることがわかって胸が暖かくなってくる。

 それが冷めないうちに湯呑みを口元に運び、喉を通した液体で熱さをさらに付け加える。全身がぽかぽかと熱気に包まれたような錯覚が駆け巡り、そのままレミリアの手を握った。

 

「絶対に大丈夫ですよ。なにがあっても怨霊になんて乗っ取られません」

「ん……そう、ねぇ……あー、もう! 妹に気を遣われているようじゃ姉失格だわ。わかった、わかったわ。レーツェルの言うことだもの。ちゃんと信じる」

 

 レミリアは首をぶんぶんと勢いよく横に振って、無理矢理に不安感を払ったようだった。

 

「でも、そのさとりとこいし……うーん、さとりが姉の方なんだっけ。今度そのさとりって方と、電話機とやらで話させてもらえない? せめて危険なところでレーツェルを守ってくれるっていう妖怪がどんななのか把握しておきたいから」

「わかりました。さとりにそう伝えておきます」

 

 もう気にしない! と自分に思い込ませるごとくお茶を勢いよくあおるレミリア。喉に詰まったのか、目を力一杯に閉じてゴホゴホと咳をし始めたので、その背中をさすってあげた。

 涙目になっているレミリアからのお礼に「どういたしまして」と答えつつ、ふとレミリアに向けている方と反対側の肩に重さを感じて、目線だけをそちらに向ける。すると眠そうに目を半分閉じたフランが力なく俺に寄りかかっているのが目に入り、彼女の手元のお茶が零れそうだったので、どうにか落ちる前に受け止めた。

 のんびりしている時にお茶で体が温まり、眠くなってきてしまったのだろう。ゆっくりと上げた手でゴシゴシと目元を擦ったフランが、自身が持っていた湯呑みを俺が支えていることに気づき、「あ……」と申し訳なさそうな声を上げた。

 

「気にしないでください。そのまま寝ちゃっていいですよ。でも、これは危ないので預かっておきますね」

「うん……ごめん、なさ…………あり、がと…………」

 

 すっ、と瞼が完全に閉じられる。フランの指を一つずつ丁寧に湯呑みから引きはがして、それを邪魔にならないところに置いた。

 その時にふいと霊夢の様子が視界の端に映る。彼女もまたお茶と三月の陽気に当てられていたか、とっくに目を閉じて静かに寝息を立てていた。

 

「……私たちも寝ます?」

「ふふっ、そうね。そうしましょうか」

「ああ、たまにはこういうのもいいかもしれないな」

 

 三人で顔を合わせて、クスクスとあまり音を立てないようにして笑い合う。レミリアと魔理沙は湯呑みをできるだけ遠くに置いてその場に横たわり、俺はフランに刺激を与えないようにして隣に寝かせた後、二人と同じようにした。

 かすかに起きていたのか、フランの手が宙をさまよって、俺の手を見つけるとぎゅっと握り締める。その瞬間に口の端がわずかに吊り上がったのが窺え、こんなことで喜んでくれるならと俺もまた握り返した。

 

「おやすみなさい、お姉さま。魔理沙」

「ええ、おやすみ」

「ふはははは、お前らが寝たら墨と筆で顔にイタズラ書きを」

「したら殺すわよ」

 

 レミリアの返答の声音が完全に本気のそれだった。ぶるりと震えた魔理沙は「大人しくしてるぜ……」と目を閉じる。

 俺もまた瞼を下ろした。視界が暗闇に支配され、しかしその色は真っ黒というわけではない。明るさが瞼の血管を透過し、赤みを追加しているのだろう。

 元々こうして寝るのにちょうどいい温度と陽気だったこともあり、すぐに睡魔はやってくる。

 おやすみ、と。もう一度、今度は心の中だけで呟いて、意識を完全に落とした。



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一三.見ゆる故に盲目の救世主

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Satori Komeiji □ □ □

 

 

 

 

 

「初めまして、ですね。最近はよくあなたの妹さんのお世話にならせていただいています、古明地さとりと言います」

『ええ、初めまして。替わる前に紹介があったと思うけど、私はレミリア・スカーレット。レーツェルの姉をやらせてもらっているわ』

 

 自室でイスに腰をかけ、つい数十秒前まで電話機を使ってレーツェルと会話をしていた。普通の妖怪にとっては怨霊とはもっとも忌避すべき対象であり、それが多数存在する地霊殿に妹が行っていることを心配した姉が、どうやら私と話をしてみたいと言い出したらしい。

 断る理由はなかった。むしろ、引き受ける道理しか見当たらない。

 私もこいしがレーツェルと交流をしていると聞かされていた時はいつも「どんな人なのか」と考えてばかりだったし、姉が妹を心配するのは当然のことだ。加えて言えば今回の場合、怨霊なんていう妖怪にとっての天敵が闊歩する場所に妹が行っていると言うのだから、こうして私と連絡を取りたいと思うのもごくごく自然のことである。

 緊張しているからか、体が強張って肩が普段より上の方にあるのが自覚できて、小さく深呼吸をした。

 もしもこれでレーツェルの姉に認められなければ、妹に地底へ行くのをやめるように忠告をしてしまうかもしれない。これまでの付き合いでレーツェルが相当に自らの姉を慕っていることは理解していたので、レーツェルは私に申しわけなさそうに思いながらも、それを断りはしないだろう。そんなことになればこれからは電話を通してでしか話ができなくなってしまい、それが嫌だから、私はこんなにがちがちに固まってしまっている。

 深く息を吸って吐いて落ちつこうとしても大して変わりない身体の硬直加減を意識し、私が考えている以上に私はレーツェルとの付き合いを大事にしているのかもしれない、なんて思考する。

 

『さて、早速だけどいくつか質問をさせてもらってもいいかしら? 事前にレーツェルから聞いてることもあるのだけど、やっぱり本人から実際に聞きたいこと、本人に聞かなきゃわからないこともあるから』

「はい。いつでもどうぞ」

 

 ごくり、と生唾を飲み込んだ。その音が受話器を通して聞こえてしまっただろうか、なんて不安になって、しかしすぐにそんなことを気にしてもしかたがないと首をぶんぶんと横に振った。

 

『では一つ目。あなた、自分がどういう人格の妖怪だと思ってる?』

 

 人格、人格、人格。一秒ほど経って、ようやくその意味を頭の中で検索し始める。緊張しすぎてうまく思考が回らない、働いてくれない。こんな時くらいしっかりしろと強く自分に言い聞かせた。

 

「……私は人付き合いが苦手というか、自分から進んで誰かと親交を結ぼうとすることがまずありません。性格もあまりいいとは言えないと思いますし、正直、私は私のことを誰かに好かれるような人柄はしていないと思っています」

『ずいぶんと卑下するのね。自分のことなのに』

「地底の妖怪なんて皆……いえ、違いますね。ええ、私が私のことをあまり好いていませんから」

 

 地底の妖怪なんて大抵がそんなものだから。そんな言葉、言い訳にすらならない。

 もう一度、一回だけ小さな深呼吸をした。心を落ちつかせるように意識する。きちんと答えられるように強張りをほぐす。

 そうして、あまり好印象を持たれるような返答ではなかった、と先の発言を反省する。しかし撤回はしないし、しようとも思わなかった。レーツェルが来なくなってしまうのは困るけれど、嘘を吐いてまでそれを防ぐのはなんだか違う気がする。

 ここで自身の考えを偽るのは、心を読まれても一切気にしないレーツェルへの侮辱のような気がしたから。

 

『ふぅん。では二つ目の質問、あなたはレーツェルのことをどう思ってる?』

 

 なんだか前に外の世界の本で知った面接とやらみたいだと、くだらないことを考えられるくらいには余裕が出始めてきた。

 

「大事な友達だと認識しています。邪気がなくて、無表情なのに思考は豊かで……一緒にいて楽しい人です」

『へえ、打って変わっていい回答だわ。ふふ、まるで心が読めるみたいな言い方ね。思考が豊かだなんて』

 

 レミリアからしてみれば、それは冗談に等しい軽口だったのだろう。しかしその発言に私は言葉が詰まってしまい、しばらく声を発せなくなった。

 レーツェルはサトリとしての私の特徴を伝えていないようだった。姉が『どういう種別の妖怪なのか』と私に問うことなんて明白なのに、それを教えていなかった――私が心を読めることを告げるか否かは、私自身に任せるということ。

 私が突然口を噤んだことを訝しんだレミリアが「どうしたの?」と様子を窺ってくるが、とっくに返答の言葉は決まっていた。

 

「読めるんですよ、私には」

『……なにが?』

「心が、ね。私はそういう妖怪なんです。妖怪サトリ……その象徴たる第三の目で他者を見据えることで、その心中を見通すことができるんです」

 

 そう告げた後、すぐに言葉は返ってこなかった。思ってもみなかった返答に絶句しているのか、心を読まれることがどういうことなのかと想像して、今まさにそれを忌まわしく感じたのか。

 心を読まれることはそう容易に受け入れられるものではない。これまでも、珍しい能力を持つ妖怪がいると聞きつけて好奇心で私に近づいてきた輩は何人もいたが、その誰もが私を忌避し、最後には相手の方から去っていった。話さなくても意思が伝わるから楽でいいと嘯いた者は、お望み通り第三の瞳を通して窺えた意思とやらに数分の間返答してみせただけで、私に嫌悪感を抱き、逃げていった。自分をわかってほしいだとか心を読まれてみたいなんて軽く考えていた者は、私と話すことで自らの醜さを顕著なものにし、しばらくすればバカな考えだったと心を翻した。嫌われてばかりの私に同情して近寄ってきた者もまた、会って早々に心を読まれることを鬱陶しく感じ始め、適当な理由をこじつけて立ち去っていった。

 私は心を読める相手に進んで会おうとするような者を、同じサトリであるこいしを除いて、レーツェルという一人の元異世界人しか知らない。それはつまり逆に言えば、それ以外のすべての者に私は嫌われてきたということ。

 どんな言葉が返ってくるのだろう。どこか諦観にも似た気持ち、しかしレーツェルの姉ということでわずかの希望を抱かずにはいられず、心臓がドクンドクンと強く鳴っているのが自覚できた。

 

『……そう、か。もしかして……レーツェルは…………』

 

 容認か否認か。どちらかの文言が受話器の向こうから返ってくるのだと思って身構えていた私は、無意識のうちに飛び出ただろうレミリアの呟きが予想外で、言葉に詰まって「えぇと、あの」なんて言ってしまう。

 しっかりと口にしなければと息を大きく吸い込んだところで、私の戸惑いにハッとしたような声音で『あ、あー、悪い悪い。ちょっと考えごとをしてたわ』とレミリアが反応を示した。

 

『ふぅむ……そうね。合格よ、あなた』

「……えっ」

『なにを驚いているの? ああ、ちゃんと怨霊対策はしっかりしてるのよね。あなたが飼ってるペットとやらも怨霊は平気?』

「え、ええ、大丈夫ですよ。心配いりません」

『レーツェルのことを本気で大切に思ってるのよね』

「も、もちろんです」

『……そ。ならいいわ。これからもレーツェルをよろしくね……きちんと頼んだわよ』

 

 ガチャン。プー、プー、プー……。

 身構えていたのがバカらしくなるくらい簡単に容認されたこと、駆け足気味に通話が終わったことで実感がついてくるのが遅れ、通話する相手のいなくなった受話器を耳元に添えたまましばらく呆然としてしまっていた。

 我に返り、ようやく心が状況に追いついた時には震える手で受話器を電話機の方に戻し、こらえ切れなかった感情を形にするように強く拳を握った。その後、口元が二ヤついてしまっていることに気がついて、恥ずかしくて顔を隠す。

 ……私はなにをやっているんだ。ここは自室で、しかも今は鍵をかけているんだから誰も入ってこない。もっと冷静に、冷静に……。

 

「ふふ、ふふふふ……」

 

 ああ、もう、ダメ。抑え切れない。

 溢れんばかりの歓喜を胸に抱えたまま前方にある机に顔を突っ伏した。不思議なもので、こうして両目を塞いでしまうと、どちらにしても元々見えないはずなのに表情が変な風になってしまうことに羞恥の念を抱かなくなる。きっと今の顔は誰にも見せられないようなことになっているだろうし、見られたら恥ずかしくて死んでしまう。

 

「もう、私はいつから……」

 

 いったいいつからこんなに感情を豊かにさらせるようになったのだろう。いったいいつから、こんなに楽しくて心地いい気持ちを抱けるようになったのだろう。

 そんなものはわかりきっている。考えるまでもなく、すべてはこいしが彼女を連れて来たあの日から始まった。

 

「友達って、いいものなのね」

 

 本でしか知り得なかったその関係がいったいどんなものなのかは、知識としては知っていても実感はできないから、ずっと本当の意味ではわからないでいた。

 誰かと一緒にいたいと思うこと、誰かといろんな話に花を咲かせたいと思うこと。胸が弾んで思考が活発になって、ともに笑い合うこと。そのすべてを感じ、ようやく理解できた。

 もっと深く、息が苦しくなるくらい顔を埋めて、小さく息を吐く。

 

「……もうちょっと怨霊の管理をしっかりするようにしましょう。万が一にでもレーツェルに影響が及んだらいけないわ」

 

 ようやっと表情が落ちついてきたので、顔を上げてイスから立ち上がった。床を踏み鳴らして部屋の出入り口に向かい、鍵を開けてガチャリとドアノブを回す。

 とりあえずお燐でも探そうかと思いつつ扉を閉めたところで、視界の端に薄緑色の髪を持つ少女が映った。壁に背をつけて寄りかかり、なにを考えているのかまったくわからないぼーっとした様相で宙空を見つめている。

 

「こいし」

「あ、お姉ちゃん」

 

 古明地こいしは己が第三の目とともに心を閉ざしているため、私のサトリとしての力をもってしてもその心中を推し量ることはかなわない。

 こいしもずいぶんと明るくなったというか、楽しそうにするようになったというか……前々から表面ではそうであったが、私にはどこかもの寂しくしているように見えていた。それが最近は鳴りを潜めているのも、きっとあの変態のストーカーことレーツェルのおかげなのだろうと思う。

 

「レーチェルのお姉ちゃんとの電話は終わったの?」

「ええ、無事に……って、どこからそれを聞きつけたの? 私は誰にも言ってないのに」

「んー、昨日地上でふらふらしてたら魔理沙と偶然会ってねー、その時に『レーチェルの姉が激おこぷんぷんだぜ!』って言ってたから」

「とりあえず、あなたが魔理沙さんとやらのセリフをそのまま再現していないってことはわかったわ」

 

 だぜ! だぜ! と両腕を上下に振りつつ頬を膨らませるこいしの額を軽く小突く。いたたぁ、と全然痛くなさそうに頭を後ろに倒して数歩後退し、その後すぐにえへへと笑いながらまた近寄ってきた。

 

「それで無事ってことはあれなんだよね。これからもレーチェルはうちに来れるんだよね?」

「ええ、そうよ。安心して」

「わーいっ! 安心安心ー!」

「……全然落ちついてるようには見えないのだけどねぇ」

「なに言ってるのお姉ちゃん! ほら、万歳!」

 

 こいしは私の右手を左手で、私の左手を右手で取り「はい! ばんざーい!」と、そのまま勢いよく持ち上げた。

 触れ合えるだけの距離になったおかげで、こいしの表情が間近で窺える。決して薄っぺらくない、とても楽しそうに、心の底から嬉しそうにしている本物の笑顔を見ていると、一度は抑え込んだ私の中の歓喜の念が再び湧き上がってくるようだった。

 

「ばんざーい!」

「ふふっ。ええ、万歳」

 

 ――少し前までは、こんなにこいしとの距離も近くなかった。いつも私が知らぬ間に帰ってきていて、なにも言わずにまた出て行ってしまう。会話なんて滅多にできず、見つけようとして見つけられるような性質でもなかった。

 それが今はどうだろう。彼女がまだ第三の目が開いていたかつての頃のように触れ合えるほど近くで思いを交わし、感情を共有し合うことができる。レーツェルからなんらかの影響を受けたのか、出かける時は私に一言告げるようになったし、帰った時もわざわざ私のところに報告してきてくれるようになった。

 いろんな話をするようになった。どうにもできなかった私たち姉妹の関係が、少しずつ元に戻り始めた。

 

「……いつか、なにかお礼をしないといけないわね」

「んー? なんのこと?」

「なんでもないわ。そうそう、私はこれからお燐を探しに行くんだけど、こいしも一緒にどう?」

「行く行くー。あ、っていうかお燐ならさっき見たよ? 確かあっちの方にねー」

 

 こいしが私の手を引いて歩き出す。為すがままにされながら、どんなお礼がいいのかなとじっくりと検討していく。

 食べ物は……さすがに安直だ。家具かアクセサリーやらを上げようにも地霊殿にはそんなもの数えるほどしかない。その他となると自室にある書物や中庭の花くらいだが、レーツェルの住む館には大図書館なるものがあるというし、私が持っている程度の本は大体持っていそうだ。

 花を一本ずつと、それらの種をいくらかプレゼントするというのはどうだろう。レーツェルはここの中庭を気に入ってくれていたみたいだったから、結構いい案かもしれない。

 あるいは私の血? レーツェルは吸血鬼らしいから、案外喜んでくれるかも……うーん。吸血鬼じゃないから、どんな反応をされるかはあまり自信のない想像しかできない。こちらは予備の案として、花とその種を贈ることを第一候補にしておこう。

 レーツェルがお礼を受け取ってくれた際の心の反応を妄想して、少しだけ口元が緩んだ。誰かの心を読みたい、誰かの心を読むことが楽しい――そんな感覚もまた、生まれて初めて味わう新鮮なものだった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一四.予定された獅子座流星群

 『文々。新聞』。第百二十季、弥生の四、巨大流れ星空中爆発――そんな記事を俺とフランで片手ずつに持ちながら適当に眺めていた。近くではこれの制作者である鴉天狗、射命丸文がメモとペンをそれぞれ両手に構えて、俺たちの言葉を待ち続けている。

 記事の内容を要約すると、『とある日の夜中に幻想郷へと巨大な流れ星が落ちてきて、落ち切るより前に突如爆発した。その爆発を起こしたのがフランドール・スカーレットという吸血鬼であるようだ』。他にも隕石が紅魔館を狙って落ちてきたとか、隕石の目――すべての物質には目という根幹を担う部分があり、フランはそれを右の手の平の上に移動させることができる――を握りつぶすことでフランがその隕石を破壊したこと等が書かれている。

 

「終わり方が変だねぇ」

 

 それが新聞を読み切ったフランの最初の発言だった。確かにその通りだ。他の部分は流れ星やフランのことについて言及しているのに、最後だけ『気温も上がり花も咲き始め、すでに春の訪れを感じさせる』だとか『暖かくはなかったが風邪には十分注意したい』だとか、春の訪れについての描写でまとめられている。

 

「出来事の方がよっぽど変だったのです。春の陽気の仕業かもしれないと思って」

「さすがに、春だから流れ星が落ちてきたなんて説明するのは無理がありますよ……」

「ええ、まぁ、ですよね。わかってました」

 

 苦笑いを浮かべる文を視界に入れつつも、頭の中でつい先日の、記事で書かれている隕石が落下した日のことを思い返す。

 それは突然起こったことではあったが、一切予想していない現象ではなかった。レミリアが俺と遊んでいるフランのもとへ訪ねてきては「もうすぐ館に向かって星が落ちてくるから、フラン、ちょっと周りに影響がないように壊してくれる?」と言ってきたのが始まりで、外に出たら本当に隕石が降下してきたのだ。

 フランの『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』は俺の『答えをなくす程度の能力』と同様に絶対の力であり、一度対象を決めて発動をしてしまえば逃れる術を得られない。ありとあらゆるとは『この世に存在し得るすべてのもの』だ。フランが流れ星を認識し、それを破壊しようと決めた時点で終焉は運命よりも強い宿命によって決まっており、事実閃光と爆音をまき散らして星は砕け散った。

 あの隕石がなんだったのかは、実は俺もフランもよくわかっていない。レミリアから突如お願いされたことであるし、レミリアがどうやってそれを予測していたのかも定かではない。『運命を操る程度の能力』で事前に知り得たのか、それとも自ら望んでそうなるように仕組んだのか。おそらくは前者であろうが、ならばなぜ紅魔館を狙っていたことまでも知っていたのだろう。

 先日は聞く暇がなかったが、一度考え出すと気になってしまう。単なる偶然の産物なのか、誰かが仕組んで紅魔館を攻撃して来たのか。後者ならばどうにか探し出して縛り上げなければならない。

 

「あー、それにしてもすっかり春になったわねぇ。もーすぐ新茶?」

 

 フランにとってはそれさえもどうでもいいのか、記事の最後に関してのことで暗に文をいじり始めた。こうしてフランのことが記事にされ、フランの言葉も載っていることから、文も彼女に事前に取材していたことである程度はその性格や性質を理解しているのだろう。「なんとなくあなたに聞いても無駄なような気がします」とため息混じりに吐くと、俺の方に向き直った。

 

「なのでレーツェルさんに聞きます。どうやったかはともかくとして、本当にフランドールさんが隕石を爆発させたんですよね?」

「ええ、そうですよ。私やお姉さまでもただ壊すだけならなんとかできますが、綺麗にやるとなるとフランしかできません」

「ふふん、お姉さまの妹だもん。これくらいできなきゃね。こう、きゅっきゅっとね。きゅっきゅっと、ドカーンとね」

 

 右手を握ったり開いたりと繰り返し、どうやって壊したかをフランが再現する。傍から見ればまるでわけがわからない動作であり、文もずいぶんと微妙な表情をしていた。

 

「レミリアさんが言っていたようなことは本当のことなんでしょうか?」

「お姉さまが言っていたこと……となると、流れ星が落ちてくることが予定されていたかどうかってことですか。うーん、その辺りはなんとも言いにくいですね。ただ、お姉さまは事前に隕石の落下を察知していたのは確かです。私もフランもお姉さまに言われて外に出ましたし」

 

 ふん、とフランが鼻で笑ったのが横目に見えた。俺と文の視線が向かったことに気づいたらしい彼女は、「あのねぇ」と口を開く。

 

「隕石が予定されていたなんてあるわけないじゃない。どうせあいつ……じゃなかった、レミリアお姉さまの口癖よ。あれもこれも最初からわかったフリして大人ぶって、運命が読めるだとかなんだとか。いくらそんなことしたところで自分がお子ちゃま気質だって事実は変わらないのにねぇ」

「こらこら。姉妹で一番の年下が生意気言うんじゃないの」

 

 背後からの声に振り返ると、そこには目元をピクつかせたレミリアが腕を組んで立っていた。

 フランは彼女が近づいてくることをあらかじめ察知していたようで、顔だけで振り返り、視線を向けては「あら、いつの間に後ろにいましたの?」なんてからかいの言葉を投げる。今日のフランは機嫌がいいのか、会う人会う人をおちょくっている気がした。俺も地下室にフランのもとへ会いに行った際、見えない位置に控えていた彼女の分身にこっそり背後から近寄られて驚かされたし。

 はぁ、と怒気が混ざった息を吐くレミリアを見て、文がほんの少しほっとしたように口元を緩めた。

 

「ちょうどよかったです。レミリアさん、先日の隕石爆発の話について聞きたいのですが」

「あーあれ? 隕石が爆発したって罰なんて当たらないじゃない。別に気にしなくたっていいわ」

「破片は当たりますけどね」

「なに鴉。私が壊したものの塵を残すような雑な仕事してるって言いたいの? その翼千切るわよ」

「フラン、いきなり喧嘩売らないでください」

 

 特に翼を千切る云々は禁句だろう。鬼の角、天狗の翼、吸血鬼の牙、サトリの第三の目。妖怪にはその象徴となる部分が存在し、それを汚したり貶したりする等の発言はスペルカードという遊びの枠を越えた宣戦布告に他ならない。

 俺の注意に、フランも自分が言ってはいけないことに気づいたようで、「……ごめんなさい」と小さく謝った。機嫌がいいということは気分が高揚しているということであり、酒を飲んでいる時のように、普段言わないようなことも口にしてしまうものだ。気持ちがいい方向に傾いていると自覚している時は、調子に乗りすぎないように常に注意し続けることが重要だろう。

 

「気にしてませんよ。今回、私は取材させている身ですからね。それよりレミリアさん、予定されていたって言ったのはどういうことなんでしょう」

「なに? 新聞記事を書いてるくせに日本語は通じないのかしら。もう一度言うわよ。別に気にしなくたっていいわ」

「私は真実を知りたいのです。そのためにはどんなことにも気を向けないといけないのです」

「ああそう。好奇心鴉を殺すってね。ま、いいわ。前にも言ったけど、隕石は予定されていたというより、人為的に落とされたのよ。きっちりこの紅魔館を狙ってね」

 

 それは初耳だ。「大丈夫よ。心配なんかしなくていい」とレミリアが微笑んで、顔を上げた俺の頭の上にぽんぽんと手を置いた。

 

「あんなライオン気にすることないわ。あんな程度の隕石しか落とせないような輩、相手にすらならない。私たちを滅ぼしたいなら太陽を自在に操れるくらいじゃないとねぇ」

「……本当に私たちを狙ってきたんですか?」

「うーん。そこらへんは曖昧なのよねぇ。もしかしたら何者かが私たちではない別の悪魔と戦っていて、悪魔を対象に隕石を落としたらここに流れ着いたとかかもしれないわね。もしくは悪魔全体を狙った流星群の一つだったとか。推測だけどね」

 

 そういうことなら、まぁ、そこまで警戒しなくてもいいか。

 それでも悪魔を目の敵にしているかもしれない者がいることが明らかになったのだから、なんらかの対策を講じた方がいいのだろうか。とりあえず後日パチュリーに相談でもして、いつか幻想郷に初めて訪れた時に使った、館を保護する魔法を改良でもしていこうかな。

 ……というかライオンってなんのことだろう。

 もう一度、ぽんぽんと俺の頭を優しく撫でたレミリアが手を離し、「で」と文に体を向けた。

 

「他に聞きたいことは?」

「他にもなにも、今言っていた落とされたとかなんとかっていうのは日本語でしょうか」

「古い古い日本語よ。予定されていたってことが信じられないならこれを見てご覧なさい。ほら、呪文でびっしりでしょう?」

 

 と、レミリアが取り出したのは先日フランが破壊した隕石の欠片だ。「……塵どころか、普通に破片が残ってるんですが」という文の微妙な視線をフランはものともせず、むしろ自分は関係ないと言わんばかりに「呪文は日本語じゃあないよね」とレミリアを冷やかした。

 

「もしかして、隕石を使って誰かが攻撃をしかけてきているとか、それとも戦っているとか……? 少なくとも私にはこれに書かれているものがまったく日本語には見えないのですが」

「私にも見えないわね。レミリアお姉さまボケたの?」

「私にも見えません」

 

 俺を混ぜた三人の疑惑の言葉を受けて、「いや」とレミリアが首を横に振る。口の端を吊り上げて、美鈴等によく見せる意地悪げな表情を浮かべてみせた。

 

「これは古い日本語ね。古い古ーい日本語。んー、しし座流星群って書いてあるよ」

「あ、だからライオン……」

 

 俺を安心させるように言っていたレミリアの言葉の意味がようやく納得できた。しし座は獅子、すなわち百獣の王ライオンを指す。だからこその、あんなライオンは気にすることはないわ、だ。

 

「……いやはや、どこまで本当なのでしょうか」

 

 そう呟いた文がペンでメモになにやら書き込み始める。真実とは程遠い不確かな情報しかないのだが、役に立つのだろうか。

 

「で、もうなにも聞くことはない? 私の返事に満足した?」

「ええ、まぁ、これ以上聞いても無駄なことは十分に理解しました。今日のところはもう退散させていただきます」

「そう。最後に一つ、いいことを教えてあげるわ」

「……なんでしょう」

「この呪文は私が書いたの」

「え? なんですって!」

「嘘よ、嘘。本気で受け取らないでほしいわね」

 

 がくんっ、と文が大きく肩を落とす。そのまま流れるように呆れを含めた息を吐いてしまうのもしかたがないことだろう。フランのからかい、レミリアの意地悪。両方を受け続けたのだから疲れてしまうこともやむを得ない。

 

「……もう帰ります。取材に協力していただいてありがとうございました」

「あら、残念ね。それじゃあまた次の宴会で」

「取材の無駄だったねー」

「新聞の方、応援していますよ。これからも頑張ってください」

「ええ、また」

 

 飛び去っていく文を三人で見送った。

 そうして姿が見えなくなったところで、レミリアが「天狗のくせに単純なやつだったわねぇ」と感想を漏らす。

 

「あれくらいが一番からかいがいがあるんだけど」

「天狗らしく妖力を隠してて狡猾だったけど、私たちに強気に聞いてくる時点で自分の強さをある程度さらしてるってことに気づいてるのかな。ずるがしこいくせに頭が足りなかったり、天狗ってホント変ねぇ」

「頭が足りないのは鳥頭だからしかたないんじゃないかしら。ほら、なにかいつも歌でも歌っていそうなイメージじゃない?」

「もう。お姉さまもフランも、あんまり悪く言っちゃいけませんよ」

「褒めてるのよ」

「褒めてるんだよ、お姉さま」

 

 少なくとも俺には一切賞賛の言葉には聞こえないのだけど……。

 俺の注意を境に二人は天狗の話題を控え、今度はレミリアがこの場に来る直前にフランが言っていた、レミリアがおこちゃま発言に話が移る。

 怒りを再度ふつふつとさせるレミリアをニヤニヤと笑みを浮かべたフランがさらにからかい、そんな二人を俺が仲裁する。フランはご機嫌に素直な様子で聞いてくれるのだが、レミリアは「いつまでもお姉さまお姉さまって、一番おこちゃまなのは誰かしら」なんてフランを挑発して、仲裁も意味のないものと化す。

 

「お姉さまと一緒にいられないくらいなら一生おこちゃまで構わないもん」

「じゃああなたが一番おこちゃまね」

「なに言ってるの? じゃあレミリアお姉さまはお姉さまと一緒にいたくないのね」

「そんなこと言ってないでしょ」

「それじゃあこれからはレミリアお姉さまのぶんも私がお姉さまを独占するから」

「そんなの許さないわ」「あれ? おこちゃまじゃないんじゃないの?」

「それ以前にレーツェルの意思が」

「レミリアお姉さまもいい加減妹離れしなくちゃねぇ」

「フランにだけは言われたくないわ」

「ねぇおこちゃまお姉さまぁ、ほらほら、お姉さまを盗られたくないんでしょ? じゃあ『私はおこちゃまです』って言わないとねー」

「もう……本当、この私とレーツェルとの対応の差はなんなのかしら。間違いなく育て方を間違えたわ」

「私の相手をしてくれてたのはレミリアお姉さまじゃなくて、主にお姉さまだけど」

「じゃあ間違ってなかったわね。単にあなたの性格が悪いだけ」

 

 もう一度仲裁をして、ようやく二人が落ちついたのを確認してから「せっかくですし、一緒にお茶でもしましょう」と誘った。二つ返事で了承してくれたレミリアとフランを連れ、紅魔館の中を歩き出す。

 風が強く吹きすさび、換気のために開いていた遠くの窓から花びらが漂ってきた。それを優しく掴み、じっと眺めて、また新しい季節がやってきたことを実感する。

 

「ほら、レーツェル。行きましょう?」

「今日はやっぱりもう新茶かな」

「ふふっ、そうですね。行きましょう。新茶だといいですねぇ」

 

 これから飲むであろう紅茶の味に思いを馳せながら、三人で言葉を交わし合いながらリビングへ向かって行った。



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一五.焦がれるモノは天かヒトか

 吸血鬼として太陽は苦手ではあるけれど、春の陽気は好きな部類に入る。夏も日差しは鬱陶しいものの、妖精やらがバカ騒ぎをすることが多くて案外いいと感じていた。秋は風情があって気に入っており、冬は雨の代わりに雪が降るために出かけやすい。

 どの季節においても幻想郷はその美しさを最大限に引き出し、飽きることなくいつでもそれに魅せられるため、基本的に嫌いな季節は存在せず、どんな季節だろうとやってくると嬉しいものだ。ただしそれは季節という括りについてのことであり、季節と季節の変わり目においては俺としてもあまり好ましくない部分が存在した。

 それがすなわち春と夏の境目、梅雨の時期である。

 雨が降る回数が多く、またいつ雫が落ちてくるのか予測しづらいため、外出をしにくい。あいにくと俺は雨をやます魔法は習得しておらず、逆にパチュリーは覚えているのだが、たとえ雨の日でも庭に降らないようにする程度に留めているらしい。範囲を広げ、あまりにも使いすぎると「自然のバランスを崩す」からだそうだ。

 

「すみません。最近は地霊殿に行ける回数が少なくて……」

『しかたありませんよ、レーツェルは吸血鬼なんですから。それにしても、なんというか難儀なものですね……晴れの日も雨の日も苦手だなんて』

「だからと言って曇りの日が好きなわけでもありません。空に誘われて皆、曇りの日はテンションが一段階下がっているような感じがしますし。月と星々が窺える、雲のない夜中が一番いい時間帯でしょうか」

『なんとも吸血鬼らしい答えです』

「吸血鬼ですからね。夜の帝王なんて偉ぶってはいますが、その実、夜くらいしか威張れないだけです」

 

 今日もまた幻想郷には雨が降り注いでおり、外出することはかなわない。霖之助製のローブは日差しは完璧に防いでくれるけれど、布だけあってさすがに雨はどうにもできない。ビニール製のコートを着ていこうにも、なにか不注意があって脱げてしまったら日差しを身に受けるよりも悪い状況になってしまうし、進んで出かけたいとは思えなかった。

 梅雨の季節となると紅魔館でのんびりすることが多くなる。必然的にやれることは限られてきて、もはやさとりとこうして電話で話すことは日常の一部となっていた。

 こいしもまた電話に出てくることがあるのだが、彼女はどちらかと言うと直接紅魔館を訪ねてくることの方が多い。毎度地底に行く際にはこいしに来てもらって能力で存在感を薄くしてもらっていることもあり、わざわざ手間をかけてくれる彼女には頭が上がらなかった。

 

『ふむ……夜ですか』

「……さとり? どうかしましたか?」

『いえ、ずいぶんと前にこいしが『地上の星空はすっごい綺麗なんだよ!』と自慢してきた時のことを思い出しまして』

 

 こいしの真似が意外にうまいというか、さとりにしては珍しく声音とテンション高めの本気で再現するものだから、ちょっと吹き出してしまった。

 

『……そんなに笑わないでください。恥ずかしいじゃないですか』

「ふふ、ふふふ、すみません、すみません。そうですね、星空はいいものですよ。多くの者が静まる新月の日に多くの輝きを目にするのもまた風情があります。見慣れちゃってるので普段はあんまり気にしないんですけどね、改めて対面するとやっぱり感動しちゃいます。あ、そういえば今日は満月の日でした。お姉さまに相談してパーティでも開いてみましょうか」

 

 考え出すと止まらなくなる。魔理沙に声をかければ喜んで他の人たちにも声をかけてくれるだろうし、こちらもこちらとしてその期待に応えられるだけのものをメイドと一緒に用意したい。外にたくさんテーブルを出して、もてなしの料理を作ってワインなんかも引き出してきて……博麗神社で行う和風な月見とはまた違った、紅魔館ならではのパーティを開いてみせたい。

 そんな風に思いを馳せる俺とは裏腹に、電話の向こうからはちょっとだけ気落ちしたような声と吐息が聞こえてきた。

 

『星空に月見、パーティですか……私にはいまいち想像がつきませんね。本の文章や載っていた写真で知識としては頭の中にありますが、なにぶん体験したことなんて一度もないものでして』

「……地底にずっといるから、ですか」

『それもあります。でも一番の理由は、私を好いてくれるような人間や妖怪がいないことですよ。誰にだって嫌われてしまうから大勢で騒ぎなんてできませんし、ましてやその中に混ざることなんて……すみません、愚痴になってしまいましたね。忘れてください』

 

 できるだけ俺を安心させるような、無理に笑いを浮かべている姿が目に浮かぶ声音で、忘れてくださいなんて言われても。

 

『寂しくはありませんよ。今の私にはレーツェルがいます。あなたと友達でいられるだけで十分……いえ、それ以上です』

「私なんて、そんな大した妖怪じゃ」

『大した妖怪ですよ。あなたがあなたのことをどう思っていても、私にとってのレーツェル・スカーレットは、これまで見てきたなによりも大した妖怪です。だって、こんなに私を心地いい気分にさせてくれるんですから。お恥ずかしい話なんですが、実のところ、私はいつもレーツェルとこうして電話で話すことを楽しみにしてるんですよ』

 

 ちょっとだけ上ずった声。素直な感謝が込められたそれぞれの言葉が耳を通し、胸に届き、全身に響き渡っていく。

 さとりは俺に対し絶対に嘘だけは吐かない。それは俺の心を読んでいるという後ろめたさや責任感から来ているのかもしれないし、単に彼女自身が自分に素直なだけなのかもしれない。どちらにしても、今のすべてをさとりが本気で言ってくれたことは確かだった。

 強く拳を握る。かつて抱いた『さとりのため、俺になにが為せるか』という思いが再度湧き上がり、全身を巡る血流が心にまで染み渡っていくような感覚を味わった。

 今ここで言うべきことは。思考し、決意し、瞬時に『答え』を導き出す。

 

「さとり。私とこいしと一緒に、地上に出てみる気はありませんか?」

『……お気持ちは嬉しいです。でも、すみませんが私は』

「お節介かもしれません。ありがた迷惑かもしれません。でも、さとりの力になりたいんです。私がいればさとりの心を読む能力を封じることができます。こいしがいれば、いつでもさとりを周りから認識させなくさせることだってできます。これだけできれば……私以外の誰かと友達になることもできるかもしれません。いつか皆で騒ぎ合うパーティに参加できる日を迎えることができるようになるのかもしれません。だから……」

 

 ここで退いてはいけない気がした。知り合って一年も経っていないこんな俺をあんなにも大切に思ってくれるさとりに対し、俺自身が納得できるお返しを為せる機会は今思いついた事柄より他にないのだと。

 荘厳なる満月を、瞬き合う星空を、在るがままに生きる自然を、種族など関係なく紡がれる多くの縁を。

 心を読む能力を持ったがゆえに本来持ち得るべき幸せを失ってしまったさとりに、人並みの境遇くらいは味あわせてあげたいと感じた。それはおそらく憐憫ではなく、同情ではなく、『答えのない存在』程度が享受してしまっているものをさとりが体感したことがないということに対する、罪悪感と使命感、そしてなによりもの感謝の念。

 それは俺がフランに抱いているものにも似た、幻想郷の、地上の美しさをさとりに見せたい――見せなければならない。

 

『その話の為には、まずはこいしの許可が』

「私からお願いしておきます。事情を説明すればこいしなら頷いてくれるはずです」

『……灼熱地獄の管理があります。閻魔さまに任された仕事ですから、こればかりはどうしようも』

「それなら私から閻魔に話しておきます。幻想郷の閻魔とは一応私も知り合いですから」

 

 正直、映姫とはあまり仲がいいとは言えないというか、説教をされそうなのでできるだけ会いたくはないのだけど……背に腹は代えられない。

 どんなに理由づけしても俺がさがらないことを理解したらしいさとりが、受話器に向かって小さく息を吐いたのがわかった。俺に呆れたか、鬱陶しく思ったか、それともまた別の感情か。ほんの少し申しわけなさが湧き起こってきた。

 

『……すみません。断るのに他人や境遇を理由にするなんて、私らしくないことをしてしまいました』

「気にしないでください。それで、やっぱり……」

『いえ――その話、私に受けさせてくれますか?』

 

 え? と、思わず声を上げてしまう。

 

『正直に言えば、地底を出ることは怖いです。でも、それと同時に楽しみだって気持ちも……こんなに私によくしてくれるレーツェルの住む世界を見てみたい。こんな情けない私のためにいろいろしてくれるような、不思議なあなたの世界を。今、ちょうどそう思ったんです』

「いいん、ですか?」

『はい。それに、レーツェルになら私を任せられる。私の心を任せることができる。だから、私からもお願いします。どうか私を、地底から地上に連れ出してくれませんか?』

 

 それは願ってもない返事だった。『こいしに自慢されっぱなしだとちょっと悔しいですからね。あ、あとこいしにお願いとか、閻魔さまに談判とかはいりませんよ。こいしには私から言っておきますし、少し地霊殿を離れたくらいで怒られなんてしないでしょう』。

 俺はその場で頷いた。それは、さとりには見えはしなかっただろう。だからこそ「わかりました」と続けて口にする。俺からのお願いを己が望みにしてくれたさとりに、お礼の気持ちを込めながら了承の言葉を送った。

 

「それなら、これからゆっくりと計画を立てて行きましょう。少しずつ、少しずつ地上に慣れて……いつか月見や星空の観賞を、一緒に」

「はい。楽しみにしています。これからよろしくお願いしますね、レーツェル」

 

 その後はたわいのない会話を繰り広げて、電話を切った。

 受話器をもとの場所に戻し、静かに顔を上げ、天井を見据える。これでよかったのかと、この選択は正しかったのかと。

 この行動が原因で、さとりがこいしのように第三の目を閉じてしまう『答え』に繋がってしまわないだろうかと。

 

「……怖がってちゃ、いけません。いえ、違いますか」

 

 フランを初めて外に出す時だって不安でいっぱいだった。それでも狂気に対するそんな気持ちをどうにか抑え込み、真摯に向き合ってくれた彼女を信じて地下室の外に連れ出した。

 今回だって同じだ。もしも新しい苦痛に対面したとしても、さとりならきっと堪え切ることができるのだと、彼女を信じるのだ。

 怖くない。なにも怖くない。頬に手を添えて、それが無表情であることを確認すると、すぅーっと心が落ち着いてくるのを感じた。

 最善手を打ち続ける。できるだけさとりが心に傷を負わないよう、できるだけ彼女が地上を好きになってくれるよう。

 ――もしもすべてが失敗してしまったら、しそうになってしまったなら?

 そんなこと考えてちゃいけない。さとりを信じると決めたのなら、失敗した時なんて考慮すべきではない。

 もうこれ以上今日はこのことで悩むのはやめよう。せっかくの満月の日なんだから、早くレミリアにパーティを開きたい旨を話しにいかないと。

 立ち上がり、振り返って電話機を見つめ、すぐにその身を翻した。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Satori Komeiji □ □ □

 

 

 

 

 

 はぁ、と小さなため息を吐いて、受話器を電話機のもとへと戻す。

 今この時、私の中にある感情は大きく分けて三つであった。一つは期待、一つは恐怖、一つは落胆。

 レーツェルやこいしに支えられて地上に出向き、そのとても美しいだろう光景を味わいに行くなんて願ってもないことだ。少なからず、いや、多大なる期待を抱いてしまうのはしかたがないことであり、ちょっと妄想するだけでも胸が弾む。

 それでもそれとは別に、新たな世界に行くことに対する恐怖もあった。出会う人すべてに嫌われて、嫌悪感を目の当たりにして、もう全部嫌になってしまうのではないかと。

 そして最後の一つは、そんな、レーツェルやこいしを信じ切れていない自分に対する落胆だ。適当に理由をつけて断ろうとしてしまった弱い私に対する失望の念だ。

 レーツェルの能力はこれまでの付き合いで一度、教えてもらったことがある。『答えをなくす程度の能力』と名づけたそれは、この世に起こり得るすべての現象に対する結果、すなわち『答え』をなくすことができるのだと言う。聞いた当時は、それを使えば私に心を読まれることも防げるのにと、一切そんなことをしようともしないレーツェルに感心と好意を強く抱いたものだが、今はそのことは関係ない。

 レーツェルの能力があれば、人の心なんて見なくても済む。こいしがいれば無理に人と付き合う必要はなくなってくる。それを理解しているはずなのに、ただ嫌われることだけを怖がって、流れるがままに提案を拒絶しようとしてしまっていた。

 私が嫌だったのは自身に向けられる嫌悪感を第三の目で読んで、気分が沈んでしまうことだったはずだ。決して嫌悪感を向けられること自体ではない。嫌悪感なんて私に限らず、心を読めないすべての生命であろうとも向けられながら生きているものなのだ。

 

「怖がることをクセになんてしていたら、いけないわね」

 

 これまでずっと地霊殿に引きこもって生きてきた。人の心を読み、己が精神が腐りゆくことを忌避し、すべてを拒んで歩いてきた。

 レーツェルは私とこいしを繋ぎ、その他すべての安らぎをくれた大恩人である。そんな彼女を信じずして誰を信じるというのだろう、今ここで勇気を絞り出さずにいつ出すというのだろう。

 私もそろそろ強くなろうとしなければいけない。地上の星が見れたこいしを羨ましいと感じて、私も同じように天を仰ぎたいと思った。レーツェルがパーティを開くことを楽しそうに話していたものだから、そこに混ざれない自分に対する不満を抱いた。提案を受ける理由なんて、お願いをするわけなんてそれで十分じゃないか。

 レーツェルとこいしが手を貸してくれる。なにも心配はいらない、する必要はない。

 

「……よ、予習くらいはしておきましょうか」

 

 そうやって自分を安心させようとしてもやっぱり少なからず怖いことには変わりなく、いそいそと自室の本棚から地上に関する本を探し始める。

 そんな自分にまたしても落胆の心を抱きかけたが、今のこの行動は逆に言えば、地上に出るということを前提にした行動なのではないかと。

 そんなことを思うようにして、どうにか負の感情を押し込んだ。そうしてその分、地上への期待を大きく膨らませることにした。

 レーツェルが住む場所はどんなところだろう、こいしが見たという景色はどれほどまでに綺麗なのだろう、いつか私も大勢と騒ぎ合える日が来るのだろうか。

 レーツェルがいればそれもいつかは可能になる気がした。彼女になら、すべてを任せられる気がした。

 

「信頼……しすぎでしょうか」

 

 すでに友達という括りでは説明し切れないくらいに心を許してしまっている。およそ親友と呼んでしまってもいいほどに。

 レーツェルは私をそんな風には思っていないだろう。ただ、多くの友達のうちの一人。それでも私にとっては唯一の友人だから。

 左胸の前でぎゅっと右手を握り締め、早く梅雨の季節が終わってレーツェルとたくさん会えるようになりたい、と。そんな思いを抱きながら、地上に関しての書物を探し続けた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □




今話を以て「Kapitel 7.深層に沈む真相の洞観」は終了となります。
前回の「Kapitel 6」の最終話の後書きでは『二年先の「東方儚月抄」と「東方風神録」が始まるまでの話が「Kapitel 7」となります』なんて言ったものでしたが、すみません、あれは嘘でした。
本当なら今の段階で二年分が終わっていたはずなのですが、思っていたより話数が多く続いてしまったので、章を一年ごとに分けることにしました。

さて、ここぞとばかりにさとりに関する話が多く出てくることからお気づきの方もいるかもしれませんが、さとりは物語の重要キャラの一人です。
実はこの物語を書き始める当時は「Kapitel 4」辺りから出そうと考えていたものでしたが、なにを間違ったか「Kapitel 7」まで引き延ばされ、ようやく出せたという歓喜のもとに不自然なほど出番を増やしまくりました。
「Kapitel 8」では異変のない二年のうち、残りの一年を書いていきます。

そろそろというか、こいしとさとりの登場が物語の折り返し地点です。このまま予定通りに行けば「Kapitel 10」辺りには一応完結を迎えられると思われます。
……予定通りに行けば。
さとりの登場を数章ぶん引き延ばし、二年を一章ぶんに収めるはずだったものが二章に分けることにした者の言葉ですので、あまり信用はできません。
これからもどうかよろしくお願いいたします。


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Kapitel 8.望むは忌むべき禁忌の鼓動
一.歩き作る小さな写真館


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Unbekannt □ □ □

 

 

 

 

 

 ――かちかちかち。かちかち。

 ――じゅぐじゅぐ、ぐじぐじぐじ。

 ――ぐりぐりぐり。じゅっじゅっ……じゅっ。

 ただただ暗闇に包まれている中、ふとなにかがあるような気がして、作業を止めてセカイの天井を見上げた。

 この限られた空間に自分以外の何者かがいるはずもなく、当然ながらそこには誰もいない。なにもない。わかりきっていることだというのに、ここにいるとどうしてか唐突にこうして天を仰いでしまうことがある。

 どうして? なにを求めてる? なにを願ってる?

 ない。ない。ない。求めてない、願ってない。全部足りてる。だけど、なにかが足りない。ないはずのものが足りない。あるべきものは全部あるのに。

 ここは熱くない。ここは冷たくない。

 ここは優しくない。でも、厳しくない。なにもない。

 それでいい。それがいいんだ。

 ――ぐりゅ、ぐゅ。

 間違えた。失敗してしまった。余計なことを考えていたからだ。

 心を無にしよう。ただ静かに繰り返し、記録し、さっさと定めた手順を終わらせて、すべて終わりにしよう。

 ――ぐじ、ぐじ。じゅぎゅじゅぎゅじゅぎゅ。

 あとどれくらいの時間が必要なのだろう。いったいどれくらいの間、こんな暗闇を彷徨わなければならないのだろう。

 終わりなんてないのかもしれない。永久に囚われたままなのかもしれない。

 わからない。ない。ない。ない。でも、わかる。わからないことがわかる。

 なら、いい。わかるなら。わかるからそれでいい。

 続けよう。終わらせよう。一刻も早く、永遠に終わらなくても。

 痛い。痛くない。辛い。辛くない。泣きたい。泣きたくない。

 ああ、もう。うるさいな。余計なことを考えるなよ。

 ――きゅぅ、きゅぅ。きちきち、きち。

 頬に手を添えて不要な感情を削ぎ落し、すぐに意識を作業に集中をさせた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □

 

 

 

 

 

 未だ梅雨は続き、しかしもうすぐ終わりという季節。雨上がり葉に水滴がくっつき、それが光を反射させる様は風情を感じさせる。そんな中をこいしとともに飛び、いつものごとく地底へと向かう大穴を通り、地霊殿までやってきた。事前に行くことを伝えておくと大抵はさとりが玄関で迎えてくれて、今回もまた例外ではなかった。

 今日やることは前日の電話機を通した話し合いで決まっている。雨が降ってばかりでなかなか会えなかったことによる久方ぶりの再会の喜びを分かち合うのもほどほどにし、かつてさとりと初めて会った時に行った、中庭を見下ろせる二階のバルコニーまで足を進めた。

 三人でテーブルを囲み、右を見るとさとりが、左に目を向けるとこいしがいる。こいしは体を揺らしながらいつも通り上機嫌に俺を眺め、逆にさとりは期待と緊張を足して二で割ったような表情でじっと俺を見つめて来ていた。

 

「さて、今日は……なんて言うんでしたっけ。えっと、ホワイトボードの前で話すアレ……」

「ホワイトボード……すみません。イメージは伝わってくるのですが、本人が思い出せないことは私にはなんとも」

「事前ミーティング?」

「それですっ!」

「って、なんでこいしにわかるのよ……」

 

 俺もちょっとばかり驚きだった。ホワイトボードと話し合いの二つの要素があれば、俺の前世における現代人ならばすぐにでも会議(ミーティング)の単語にたどりついていただろうが、それとはもっとも程遠いこいしの口からそれが飛び出たのだ。

 さとりの呆れたような感心したような視線を受けて、えへへとこいしが目を細める。こいしはふらふらと地上を出歩くことが多いと言うし、その際に聞き流していた言葉を無意識に覚えていたのかもしれない。明らかにホワイトボードなんて存在しない幻想郷という環境で、ミーティングなんて英単語がピンポイントに導き出されたことは不思議だが。案外、これまで俺が気づいていないうちにこいしの前で漏らしていた可能性もある。

 

「なんにしても、そう、今日は事前ミーティングの日です。なんの会議かと言えば当然、『さとりを引きこもりから抜け出させよう計画』です!」

「あらあら……なにか言いましたか? レーツェル」

「さ、『さとりを地上に連れて行こう計画』です。すみません間違えました」

 

 ちょっとふざけすぎた。刃物のごとき冷たい笑みを浮かべたさとりに圧倒され、すぐに冗談を撤回する。人々の心が読めるゆえか、さとりはずいぶんと俺の恐怖感を煽る表情を作るのがうまい。

 

「…………そんなの意識して作ってないのに、そこまで怖がらなくても……」

「さとり?」

「なんでもありませんよ。続けてください」

 

 いくら吸血鬼の聴力が優れていると言っても、唐突に紡がれた小声での一言を聞き取ることは難しい。若干落ち込み気味のさとりに首を傾げつつ、彼女の意向通り続きを話すために口を開く。

 

「いきなり外に連れて行って思いついた場所にふらふらっと立ち寄るだけなのもどうかと思いまして、とりあえずまずはどうするかという話し合いを設けるというのがこのミーティングです。幻想郷はあまり広くありませんが、いろんな場所で美しい景色が見れるので、まずはどうしたいかを決めないとグダグダに出歩くだけになってしまいそうですからね」

「そういうのも結構いいと思うけどねぇ」

「こいしはいつも出歩いてるものね。その割には星空に感嘆したりしていたみたいだけれど」

「そんなに注意を向けて見上げたことなんてなかったしー、どうせ見てても覚えてないしー」

 

 こいしにも主にはさとりの方から今回の計画のことを話しておいてあり、さとりによると二つ返事で了承してもらえたらしい。俺からもお礼を言ってみたのだが、こいしいわく「お姉ちゃんのためだもん」とのこと。

 二人ともなんだかんだ互いを大切に思い合っていた。こういう話を聞くと、改めて俺もレミリアやフランとの仲を大事にしていかなきゃいけないという気になってくる。

 

「あ、でも最近はレーチェルと一緒にいない時のこともちょっとずつ覚えていられるようになったんだよね。魔理沙の言葉とか」

「ああ、あの時の……って、こいしあなた全然再現できてなかったじゃない。明らかに捏造でしたよ、あれ」

「お姉ちゃんは魔理沙のこと知らないじゃん。どうせてきとーにだぜだぜ言っとけば魔理沙っぽくなるから合ってなくてもいいの。そうでしょレーチェル」

「さすがに偏見すぎますよ。あとレーツェルです」

 

 確かに俺の知り合いで『だぜ』なんて男っぽい言葉遣いをするのは魔理沙くらいだし、もし魔理沙が女らしい話し方をしたら変なキノコでも食べたのかとかは疑うけど、『だぜ』って言っておけば魔理沙っぽいなんてのは偏見……のはずだ。

 いや、でも、「『だぜ』と言えば誰ですか?」なんて質問されたら「魔理沙!」って即答できる自信があるし、魔理沙が『だぜ』を使わずにしゃべっていたら時を経るごとに違和が蓄積していくことだろう。もはやその語尾と魔理沙は引き離せないものであり、とりあえず『だぜ』って言っておけば魔理沙っぽくなるのかはともかくとして、その語尾が魔理沙の象徴なのは事実なのかもしれない。

 

「まぁつまり、それほど間違ってはいないと」

「えぇ、まぁ、よく考えたら」

 

 俺の心を読んださとりが呆れ混じりに確認をしてきて、半ば反射的に頷いてしまう。しかし否定の言葉も見つからず、魔理沙に対しちょっとだけ申しわけなく思いつつも結局この話題は終わりとして、ミーティングを進めることにした。

 

「最初の方は人や妖怪がいそうなところはできるだけ避けて、できるだけ誰もいないところ、もしくは動物くらいしかいないところに行こうと思います。やっぱりいきなり誰かと触れ合うなんてのは難易度が高いですからね。最初は幻想郷の空気に慣れてもらうところからと考えたのですが、どうですかさとり」

「いいですよ。レーツェルに全部お任せします」

「そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、さとりのことですからね。さとりに見たいもの、やりたいことがあるならじゃんじゃん言ってください。私たちはそのフォローを全力でしますから」

「私とレーチェルは地上の先輩だからねー。えっへん」

「ふふっ、そう。それじゃあ遠慮なく頼らせてもらうわね、こいし、レーツェル」

 

 出会った当初は敬語ばかりだったけれど、さとりは最近、こいしだけでなく俺に対しても女の子らしい口調で話しかけてくれることが多くなっていた。それは俺といる間も身構えず普段通りでいられるようになってきているということだから、距離が縮まったことを実感できてじわじわと喜びの気持ちが胸を占めてくる。

 そこまで考えて、さとりの方に目を向けた。少しばかり恥ずかしそうに両目を背けながら、第三の目はそのまま。否定しない彼女の様子から案外間違っていないのではないかという希望を抱きつつ、倉庫魔法を発動して右手を異空間の中に突っ込んだ。

 

「そういうわけで、地上の写真が載ったものを用意してきました」

「写真、ですか」

 

 かつて河童のバザーを見に行った日のことが頭に過ぎる。その時に買ったもので印象に残っているのは水鉄砲、冷蔵庫、電話機、腕時計、グランドピアノ、そしてフィルム式カメラだ。水鉄砲はフランとの遊びで使い、冷蔵庫は咲夜にプレゼント、電話機は紅魔館と地霊殿に一つずつ置かれ、腕時計は使われていない。ピアノはちょっとずつ練習しているものの、未だ人に聞かせられるようなものではない。残るカメラが今回のキーアイテムであり、実は買った日からいそいそと少しずつ幻想郷の景色の美しさを写真として残し、アルバムに保存してきていた。

 今取り出したのはそのアルバムだ。素人が撮ったものなので出来はあまりいいものとは言えないけれど、俺にとっての宝物の一つである。

 アルバムを広げ、多くの幻想郷の風景がテーブルの上に展開されると、さとりとこいしが二人して感嘆の声を上げた。

 

「これは、いい情景ですね」

「わぁ、レーチェルよくこういうとこ見つけられるねぇ」

「がんばって探しましたから……照れますね。あとレーツェルです」

 

 探した、とは言っても幻想郷は美しい場所ばかりだから、その実出歩いた際に綺麗だと思ったところを片っ端に撮りまくっただけだ。

 

「ラベルが挟んであるのでわかると思いますが、最初の方は春の写真、次に夏、次に秋、最後は冬でまとめてあります。季節の区別がつかない満月が貼ってあったりする時は、それは春に撮った満月だとか認識してください」

「ふむふむ。あ、ここってどういう場所なんでしょう。見てるだけで元気が溢れてきそうですね」

「あ、どれですか? ああ、これはですね、太陽の畑と呼ばれている草原で、見ての通りたくさんの向日葵が咲いているところです。たとえ飛んでても近くに行かないと見つけられないような位置にあるので、私も見つけるのは結構大変でした」

「ここに映ってるのは妖精ですか? たくさんいますね……」

「眠ってるねぇ。体をひっくり返してうつ伏せにしてみたい」

「地味な嫌がらせですね……昼間はよく日向ぼっこしてるみたいですよ。向日葵がたくさん咲いてるだけあって日の辺りがすごくよくて気持ちいいみたいですから。私は、まぁその、吸血鬼なのでそんな妖精たちを眺めるだけだったんですけど」

 

 太陽の畑の写真はそう多くない。のんびりしている妖精や咲き乱れる無数の向日葵を撮っていたら、なにやら正体不明の不穏な気配を感じたので早々に退散した記憶があった。なんというか……俺がさとりに対し失礼なことを考えた時に彼女が浮かべる黒い笑みに似た空気が漂ってきていたような気がする。

 太陽の畑はとても心が穏やかになるいいところではあるのだが、さとりを連れての観光には向いていないだろう。なにせあのおかしな気配の正体を掴まない限りは危なすぎて連れていけない。

 

「もしかしたら妖精のイタズラかもしれませんけど……って、妖精……うーん、さとり」

「はい……ああ、なるほど。妖精はどこに行っても大抵はいるので、遭遇を防ぐことはできないと」

「あれはホントどこにもいるもんね」

「最初の方はできるだけ人間や妖怪に出会わないように気を遣いはしますが、さすがに妖精に完全に会わないことは無理に等しいです。ごめんなさい」

「いえ、構いませんよ。それに、私の力をレーツェルが無効化してくれるのでしょう?」

 

 全幅の信頼を乗せた安らかな視線に、一瞬言葉が詰まった。俺の能力は接触していれば他人が引き起こす現象にも作用させられるようになるし、さとりと手でも繋いでいれば彼女に妖精の心を読ませなくすることも容易にできる。それは俺もわかっているし、さとりも理解している。それでも、ここまで俺を信頼した視線を送れるのはいったいなぜなのだろう。

 そんな疑問は、首を横に振ってすぐに払った。理由なんてどうでもいい。俺がさとりを信じることにしたように、さとりも俺を信じてくれている。それだけわかれば十分だ。

 

「もちろんです。全力でサポートするって約束しましたからね」

「ええ、ありがとうございます……いえ。ありがとう、レーツェル」

「どういたしまして。さて、まずはどこに行ってみたいですか? 夏の写真はここからです。うーん……皆と騒いでる写真が多いですね。人が少ないところと言うと、これとこれ、あとこれ……」

「いい場所が多くて決められないわね……オススメはありますか?」

「ん、大蝦蟇(おおがま)の池……と言いたいところなんですが、ここって行くの大変なんですよねぇ。妖怪の山の中にありますから。あ、地上には妖怪の山っていう場所があるんですけど、そこは天狗を頂点にした社会が築かれていてですね、よそ者をすっごく拒むんです。私は吸血鬼ですから普通の妖怪以上に拒絶されますし……この写真もどうにか忍び込んで撮ってきたものなんですよ」

 

 しかも天狗は目も耳も鼻も効く。長居はできず、あまり満足のいく写真は撮れなかった。

 そうして不満そうな気持ちを抱く俺に「大丈夫だよ」とこいしが微笑むものだから、自然と顔を上げてこいしの方に目が向いた。

 

「私、何度も山登りしてるけど誰にも気づかれたことないよ? ご苦労さまー、って言っても誰も反応しないし、池に行くのなんて簡単簡単」

「さすがこいしです。でも、万が一っていうこともありますからね。ここは危険なので後回しにしましょう。もしも行くことがあったら、こいし、その時は存分に力を発揮してもらいますよ」

「ふっふっふっ、いいだろぉうぅうおお。その時は我が全力を見せてやるぅ」

「誰の真似なのかしら、それ。レーツェルはわかります?」

「さとりじゃないですか?」

「うん、お姉ちゃん」

「そんな風にしゃべったことは一度もありませんよ!」

 

 さとりが慌てるさまがなんだかおかしくて、ほんの少し自分の体の体温が上がったのがわかった。こいしもさとりを指差して笑っていて、さとりはちょっと怒った風にムスッとした表情を俺とこいしに見せる。

 そのままもう一度三人で写真を眺めようとしてもさとりが「ふんっ」と顔を逸らすものだから、そんな彼女をからかおうとするこいしを諌めつつさとりにも謝って、どうにか気を取り直してもらった。

 俺が見てきた、俺が綺麗だと思った場所を、さとりやこいしが行ってみたいと言ってくれる。俺が覚えた感覚を共有することができる。

 それはとっても素晴らしいことだと、胸の内に溢れる暖かい気持ちを自覚しながら、さとりとこいしの二人とともに地上に出た時のことに思いを馳せた。

 もうすぐ梅雨が明ける。そうしたら早速地上に出てみよう、さとりをこいしと一緒に案内してあげよう。ミーティング対象の計画への楽しみを膨らませ、三人でくだらない会話を繰り広げながら写真を観賞する。

 ……笑みを浮かべない己が無表情を、ほんの少しだけ口惜しく思ってしまったような、そんな気がした。



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二.引きこもり脱出計画始動

 冥界からご先祖さまがやってきては顕界を堪能するお盆という祭日まで、あと数えるほどの日しか残っていない。最高潮に達した暑さは容赦なく吸血鬼を殺しにかかってきている上に、紅魔館内部は窓が少ないゆえに蒸し暑い。

 そんな夏の真っただ中の晴れの日、俺は地霊殿にあるさとりの部屋のそばで、こいしに釣られて意味もなく天井を見上げながら、さとりが出てくるのを待っていた。『さとりを地上に連れて行こう計画』の事前ミーティングを行ってから半月ほどの時が経過しており、今日がついに計画実行の初日であった。

 がちゃり、とドアノブが回される音が耳に届き、半ば反射的にそちらへ顔を向ける。

 

「お待た……あれ。開き、ませんね」

 

 さとりの戸惑ったような声音。こいしが扉に寄りかかっているゆえに並みの力で開かないのは当然である。

 天井をぼーっと見据えたまま動かないこいしに近づき、脇腹に手を入れてひょいって持ち上げて、横に置いた。そうして障害を取り除かれた扉が勢いよく開かれ、その中からさとりが姿を見せる。おそらくは引っかかっていたものを突き飛ばそうとしていただろう彼女は、思っていたよりも簡単にドアが開いたためか「わわっ」と躓きそうになっていた。

 どうにか持ち直したさとりは俺とこいしの姿を認め、俺の心を読んで状況を把握したのか、こいしに歩み寄る。そうして彼女の額を、こつん、と拳で弱くつついた。

 

「いたたー。って、あ、お姉ちゃんいたんだ」

「いたんだ、じゃないの。いるに決まってるじゃない。待っててくれるのは嬉しいけど、扉を塞いでたら出られません」

「えへへ。そういえばそうだねぇ。ごめんねー」

 

 そうやって無邪気に謝るこいしは故意に扉を押さえていたわけではなく、本当に気づいていなくて、ただ単にぼーっとしていただけなのだろう。さとりもそれをわかっているからか、はぁ、と小さくため息を吐いて「まぁいいわ」とこいしを許す。

 

「さとり、似合ってますよ」

「へ? え、あ、えっと、その……ありがとうございます」

 

 さとりは自室で外出のための準備をしていて、俺とこいしはそれを待っていた。さとりがいつもと違うのはスリッパではなく赤い靴を履いていることと、水色のボタンがついた白いキャスケット帽をかぶっていること。

 不意打ちだったからか、さとりが頬が赤くなっているのを隠すように帽子のつばを摘まんで深く下ろす。そんなことをしても、顔の代わりに恥ずかしがっているのを主張するだけなのに。

 そんな微笑ましいものを見る俺の視線に耐え切れなくなったように、「あーもう!」とさとりが叫んだ。

 

「この帽子、ありがとうございます。私も気に入りました」

 

 開き直ったのか、今度は肌が赤みを帯びているのを隠そうともせず話を進めようとしてくる。こういうことでさとりをいじっていたらキリがないことはこれまでの付き合いで理解していたので、「どういたしまして」と答えると同時にさとりの内心に意識を向けるのをやめた。

 裁縫の修行を始めてから結構な年月が経過し、またアリスにたまに教わりに行っているから、裁縫は結構得意になってきている。キャスケットを作るのは今回が初めてだったが、なんとかうまく作ることができたようでなによりだった。

 

「……手作り、ですか」

 

 さとりが視線を上げて、帽子を見つめる。頬の緩みが喜びを確かに表していて、自然と気分が高揚した。

 こいしが唐突にそんなさとりの手を取って、続いて俺の手を取る。引き寄せられるがままに歩き出し、「ちょ、ちょっと」とさとりが慌てた声を上げた。

 

「ほら、早く行こうよ。私もう待ち切れないよー」

「え、そ、その、でもまだ実は心の準備が」

「地上に出る穴までは距離あるから、そのうちに終わらせちゃえばいいじゃん。ほら、れっつごー!」

 

 今日のこいしはずいぶんとテンションが高く、姉と一緒に出かけることを嬉しいと感じているのは火を見るよりも明らかだ。

 歩きながら困った風にさとりが俺の方を見てくるものだから、諦めてくださいと思念を送った。はぁ、とさとりは再び小さなため息を吐くのだが、その口の端はわずかに吊り上がっている。

 やがて地霊殿の玄関にまでたどりつき、「いってきまーす!」と大声で告げるこいしに続いて「いってきます」「おじゃましました」とさとりと俺が言葉を残す。怨霊の管理はお燐に任せてきたとのことで、よほど長い間外出し続けてさえいなければ問題はない。

 少し歩いたところでさとりが唐突に立ち止まり、どうしたのかと俺とこいしも同様に足を止めた。

 

「……家の外に出るのも久しぶりなのに、いきなり地上に行くことになるなんて……でも、それもいいかもしれません」

 

 地霊殿を振り返って、そんなことをさとりが呟いた。こうして家の外に出て、改めて感慨にも似た思いが湧き上がってきたのだろう。

 こいしがさとりの視線の先に躍り出て、えっへんと胸を張った。

 

「お姉ちゃん! いざって時は地上の先輩の私とレーチェルが守るから安心してね!」

「私はレーツェルですけどね」

「ふふっ、ありがとうございます。止まってしまってすみません、行きましょうか。地上に」

 

 さとりの言葉に俺とこいしがほぼ同時に頷いて、今度こそ地霊殿に背を向けた。トンッ、と地を蹴って飛び上がり、こいしの能力で人の目から隠れながら旧都の上空へと身を投げる。

 旧都の明かりを物珍しげに眺めているさとりがすぐそばにいるからか、俺もこいしも飛行する速度を自然とさとりに合わせて落としていた。それにさとりが気づいて申しわけなさそうな顔をするのだけど、こうした景色に心躍る人が他にいると、すでに見慣れたはずの光景さえ面白いものに思えてくる。

 だから辺りを見て楽しむぶんにはいくら時間を使っても構わない。そんな風に俺が考えると、さとりは小さく頭を下げつつも、遠慮なく旧都を楽しそうに見やり始めた。薄暗いゆえに灯篭の火がとても目立ち、そしてそういう光だけが明かりとして機能しているさまは、地上の光に慣れた俺を異世界へと迷い込んだかのような心地よい不可思議な錯覚に陥らせる。

 飛ぶ速さはいつものそれと比べるまでもなく遅いのだけど、気持ちが高揚している時の体感時間とは普段の何倍も早く感じてしまうものだ。気づけば地底の出入り口となる大穴はすぐそこにまで迫っており、さとりは少々名残惜しそうに旧都を振り返っていた。

 大穴と旧都を結ぶ橋の上を通りすぎ、穴の中に突入する。最初は斜め上に続いていたそれも段々と急なこう配を見せ始め、最終的にはただ真上へと続くだけの、飛行能力がなければ入ることも出ることもかなわない奈落へと化した。

 おそらくは土蜘蛛だろう、膨らんだスカートをはいた少女。桶の中に身を潜めた少女。その他結構な量の妖精の横を気づかれずに通りすぎ、地上の光が見え始めてきた辺りで、俺は脱いでいたフードを深くかぶるようにした。

 上昇するにつれて視界に光が、辺りの岩肌がはっきりと見えるようになってくる。さとりは待ち望んでいるかのように口を噤んで空を見上げ、俺とこいしもそれに引きつけられて無意識に天を仰いでいた。

 そうしてついに奈落から飛び出ると、爛々と輝く太陽とほんの数個の白い雲が浮かんだ青空が俺たちを出迎える。ちょっと目玉が蒸発しかけて反射的に顔を背けてしまったが、さとりは目を見開いて、その大空に見惚れていた。

 固まったさとりの手を引いて、近くの地面に着地をする。ぽーっと空を見上げるさとり、それを上機嫌に眺めるこいし。俺はフードの隙間に手を入れて、頭の横につけていた狐の仮面を外していた。

 

「……すごい、ですね。なんというか……こういうのが、爽快、という気持ちなんでしょうか」

 

 ようやくさとりの口から飛び出た第一声がそれだ。いつでも見れるような晴天にここまで魅了されるのは予想外だったけれど、それも当然か。これまで生きてきた中で地上にいたことがあるのかは定かではないが、何十何百年と久しぶり、もしくは初めてこの晴天を仰ぐのだ。

 これだけでここまで興味を持ってくれるとなると、いつか大蝦蟇の池に行けた時などはどんな反応をするか見ものというか、その時のことを想像してしまうのを抑え切れない。

 しばらくそうしてさとりは首を傾けて空を見上げていたが、さすがに太陽の光で目がやられてきたのか、目元を擦りながら顔を下ろした。帽子で影を作り、早々な視界の回復を図る。

 

「お姉ちゃん大げさー。晴れの日はいつもこんなんだよ? さすがに私もこれだけじゃ感動しないもん」

「そうなんですか? でも、いいじゃないですか。綺麗なんですから」

 

 いくら見慣れていようとも、その言葉を否定することだけはかなわない。こいしは目をぱちぱちと瞬かせた後、「そうだねぇ」とさきほどまでのさとりのごとく空を仰ぎ見た。

 

「さとり、ここに来る途中にも妖怪とかのそばを通りすぎたはずですけど、その」

「大丈夫ですよ。私が嫌なのは、私に対する嫌悪感の心を読み取ってしまうことです。心を読むこと自体は苦痛ではありません。いつもレーツェルの心を読ませていただいていますしね」

「……そういえば、私の心を見て、さとりは嫌な気持ちになったりはしないんですか?」

 

 俺がなにかを考えることで意図せずしてさとりを不愉快な気分にさせてしまうのは、なんだか申しわけない。

 恐る恐るそう尋ねた俺をさとりは第三の目で見つめてきては、小さく吹き出した。

 

「それ、心を読まれる側が考えることじゃありませんよ。私が言うセリフです。レーツェル、私に心を読まれることを鬱陶しく思ったことはありませんか?」

「あるわけないじゃないですか、友達ですし」

「即答ですか。同じく、私もありません。そもそも心を読むことは仮にも私の種族としての能力ですから、よほどのことがない限りそれ自体を嫌になったりはしませんよ。安心してください」

 

 さとりが俺に嘘を吐いたことは一度もない。微笑みかけてくれる彼女の告げたそれを迷わず信じ、「よかったです」と息を吐く。

 

「お姉ちゃん、レーチェル、そろそろ行こうよー」

「そうね。空はいつでも見ることができるのだし。それではレーツェル、案内をお願いしてもいいですか?」

「もちろんです。今回行くのは、ここから一番近い林でしたか」

 

 まずは地上の空気に慣れるということで、こいしの能力で気配を消しつつ、とりあえず近場を出歩くことになっていた。回を重ねるごとに徐々にこいしのサポートをなくし、普通に出歩くようにしていくつもりだ。

 いずれは博麗神社等にお邪魔したりして、その際は俺の能力で心を読めなくして相手を不快にさせないようにしつつ、さとりにも普通の会話を楽しんでもらう。そうして交流を広げ、俺がサトリとしての能力を封じたままという条件はあれど、いつかはさとりに宴会に参加してもらう。それがこの計画のとりあえずの最終目標だった。

 

「こいし、頼りっぱなしですみません」

「『そういう時はありがとうですよ』!」

「ああ、レーツェルの真似ですか。そうですね、ありがとうございます、こいし」

「えへへー」

「え、なんでこいしのモノマネ一発でわかったんです?」

「わかりやすすぎますから」

 

 褒められたのか、呆れられたのか。どちらにせよ、さとりの中ですでに俺の性質が確立していることは確かだ。すでに一年近い付き合いになるので、俺も段々とさとりの性格を把握してきている。

 林へ足を進めながら、ふと、こいしと手を繋いでいるのとは逆の手に目を向ける。そこには穴から出てきては必要ないとして外した狐の仮面が握られており、しばらくはかぶることはないからということで、魔法で倉庫にしまった。

 同時に、そういえばさとりには俺の吸血鬼姿を見せたことがなかったと、人間化魔法を解いた。翼が生え、体の内側から霊力が消え去る。おそらく瞳は本来の紅さを取り戻していることだろう。

 

「……骨組みだけの、翼?」

 

 さとりが目を見開いて俺の背に目を向けてくる。俺の心が読めるはずなのにここまで驚かれたことに逆に俺も驚愕を覚えたが、よくよく考えれば当然か。いちいち自分の容姿なんて考えやしないし、考えていなければさとりはそれを読み取ることはできない。

 なんとなくパタパタと動かしてみた。翼膜がないゆえに、そんなことをしても飛べる要素など一ミリもないのだが。

 

「フランの見た目は私の心象を通して知ってましたよね? 私もフランと同じで、吸血鬼の中でも突然変異的なアレでして、膜がないこんな形の翼を持ってます」

「ふむ……スタイリッシュな形ね。かっこいいですよ」

「……そう、ですか?」

 

 大抵は『変な翼』と一蹴されてきた。パチュリーには「レーツェルの背中は堅いのよね。主に翼が」とまで言われるし、何気に好評価をもらえたのは初めてだったかもしれない。

 

「あら、照れてるんですか?」

「て、照れてません」

「私に隠し事はできませんよ?」

 

 俺にからかわれることが多いからか、いいネタを見つけたといわんばかりにさとりが言葉で俺をいじってくる。サトリとしての力でどんな感情を抱いているかは明白なはずなのにわざわざ聞いてくる辺り、なかなかに意地が悪い。

 こんな精神状態で心を読めるさとりと言い合いをしても勝てるわけがない。一度大きく深呼吸をして、どうにか胸の内を落ちつかせる。無意識に上がっていた体温を下げるようにして、冷静に冷静に、と頭を冷ましていく。

 

「ほら、こいし。こいしはレーツェルの翼のことどう思ってますか?」

「んー、変な翼だよね」

「ふっふっふ、こいしに意図的に人を褒めるなんて芸当ができるはずありません! 無駄ですよさとり!」

「あ、でもねぇ、この翼使って飛んでる時のレーチェルってすっごいんだよ? もうなんていうか、ゴォー! って感じでびゅんびゅんって! 赤くて白い光の粉をまき散らして、目で追うのもやっとな速さで飛んでて……ちょっと見とれちゃったなぁ」

「だ、そうよ。ちなみに知っての通り、こいしには意図的に人を褒めるなんて器用な芸当はできません。つまりは素直な感想ね」

 

 今までさんざん変だと称されてきたからか、正直翼の形状にはあまり自信がないというか、わずかにではあるがコンプレックスに近いものも抱いてきたような気もする。それは褒められ慣れていないということであり、さとりに続いてのこいしからの純粋な評価に、なんだか二人の顔が見れなくなって視線を逸らした。

 大きく息を吸って、吐く。さっきと違って気分は落ちつかないし、「どうかしましたか?」「どうしたの?」なんて二人の声を聞くたびに体温が余計に上がっていく。意識しすぎなのはわかっていたが、初めて向けられた好意的な言葉に胸から顔にまでのぼってくる熱を抑え切れなかった。

 なにせ五〇〇年近くこの翼を生やしたまま過ごしてきたのだし、『光の翼』は困った時にいつも使ってきたから、それなりに愛着がある。

 

「ありがとう……ございます」

「ふふ、どういたしまして」

「んー? なにが?」

 

 本気でわからないという風に首を傾げるこいしの手を、「なんでもありません」とぎゅっと握り返す。

 首を少し曲げて、改めて自分の背から生えたそれを見やった。根元の黒い部分から何本もの赤い骨が伸び、一対の翼を形成している。

 かっこいい、見とれた。二人の言葉を思い出すと、動かそうと意識していなかったのに、ぴくぴくと翼が震えた。

 

「気合いを入れて案内します。大船に乗った気持ちでいてくださいね」

「はい。でも、のんびりでお願いします」

「大船になんて乗ったことないけどねぇ」

 

 林に足を踏み入れた。地霊殿の中庭とはまた違う自然が溢れた場所に、さとりはきょろきょろと物珍しげに視線をあちこちに向ける。

 妖精が開けた場所でなにやら集まっていた。はぐれの幽霊がふらふらと空を漂っていた。ミンミンとやけにセミが騒がしかった。木の根元では、リスが追いかけっこをして遊んでいた。そんなのどかで平和な風景はどこまでも居心地がよく、今日一日ずっとここに留まっていてもいいかもしれないとまで思いかけてしまう。

 そしてなによりも、目を輝かせてどんな些細なものにさえ興味を示すさとりを見ていると、心の底から、連れて来てよかった、なんて思いが湧き上がってくる。案内をするこちらも自然と温かい心持ちになり、こいしもまたご機嫌な調子だった。

 今日一日でさとりの地上への不安を消してしまおう。それから次回は玄武の沢にでも連れて行って、迫力のある滝を見せてあげよう。

 どんな反応をするのかな。どんな笑顔を見せてくれるのかな。膨らんでいく想像が止まらない。

 さとりを地上にまで連れ出してきてよかった。不安ばかりだった頭の中が、段々と和らいでいくようだった。



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三.愛憎に囚われた朽ちし命

 二ヶ月。さとりを初めて地上に連れて行った日はお盆が近かったという時期だったので、そこからそれだけの時が過ぎ去れば当然ながら夏もとっくに終わり、季節は秋に突入している。

 あれから何度もさとりを地上に連れ出し、彼女もそろそろ地上の空気に慣れたと言っていた。次回はいよいよ博麗神社にでも足を運び、霊夢辺りに会わせようかと計画している。もちろん俺の能力で心を読めない状態にしていることが前提だ。

 ほどほどの肌寒さを誘う風が吹き、月夜の光のもとに木枯らしが舞った。見上げれば、数日前に満月を迎えたゆえに欠けていく月が点在する星々とともに輝きを放っている。

 ローブを纏い、しかしフードはかぶらないまま人間化魔法を使用して人間の里を歩いていた。夜は比較的妖怪が多い時間帯なので、周りから完全な人間に見えてしまう仕組みが施された狐の仮面はつけていない。俺の見た目は一〇歳がいいところの幼い少女なので、ただの人間のままで見られるようにしていた方が逆に注目されてしまう。

 人間化魔法を習得してからはもっぱら昼間に里を訪れていたので、こうして歩くのはほんの少しだけ懐かしい気を覚えなくもない。妖気を察することができる一部の人間や妖怪が俺を一瞥するだけでまったく注目してこないところが、悪魔としてずいぶんと怖がられていた頃と違っていたが。

 

「……やっぱり変ですね」

 

 くんくんと鼻を動かし、再確認するように呟いてみる。

 実は、夜中に人間の里を訪れるのは、最近ではこれが初めてではない。前回の満月の日が過ぎ去ってすぐ次の日に一度足を運んでおり、その時に覚えた違和感が拭えなかったからこそ後日である今日もわざわざ同じような時間帯に出向いていた。

 匂いがする。冬よりも冷たく、暗闇よりも不気味で、どこかおぞましささえ感じさせる嫌な匂いが。

 

「でも、どこかで……」

 

 これよりも気味悪さはずいぶんと下がるものの、いつかこれと似た匂いを嗅いだことがあるような気がする。それも一度ではなく、何度も、数え切れないくらい。

 その正体を掴みたい。そうやって一度気にしてしまったら止められなかった。謎を突き止めたいという思いが常に胸の内に燻ぶり、こうして里の道で立ち尽くして必死に頭を働かせている。

 ……とは言え、どうやって探したらいいものか。

 手がかりは匂いのみ。吸血鬼と言えど鼻の効きは犬などの動物や妖獣には劣るし、これを頼りに正体へたどりつくのは不可能に近い。猫化魔法は……個人的にあまり使いたくないし、犬ほど鼻に特化していない猫では、変化しても結局は無駄骨な気がする。

 本当にどうしたらいいのだろう。試しに夜だから影の魔法でも使って、影の動きから情報を読み取ってみる? ……ダメだ。周囲の地形、どこに人がいるか等は把握できても、異常な点は見当たらない。

 他に探索や謎探しに使える魔法は習得していないし、あったとしても、匂いだけが手がかりでは意味を為さないだろう。こうして思考していくと結局は人里を歩き回ってくるくらいしか手がなくなってくる。

 

「なにか、お困りでしょうか?」

「え?」

 

 不意に背後から声をかけられ、振り返ると、そこに一人の女性が立っている。背は高く、目立たない色合いの着物を身につけ、どこか優雅さを感じさせる佇まいだった。

 気配をまったく感じなかったからこそ、戸惑いの声を上げてしまった。こうして対面してみればハッキリと存在を認識できるのだが、後ろを取られるまでは存在をまったくわからなかったのだ。

 

「ああ、すみません。申しおくれました。私、後神(うしろがみ)という妖怪でございます。勝手に背後に立ってしまってすみません。ちょっとクセなものでして」

 

 後神――あまり詳しくは知らないが、確か、人の後ろ髪を引く妖怪だったか。名前に神とついているのだが、神ではないのかもしれない。こうして相対している今、妖気は漂ってくるのに神力(じんりき)は感じ取れない。

 妖怪としての特徴で気配もなく背後を取れたのかも、なんて納得して、俺も小さく礼をして名乗り返した。

 

「ご丁寧にありがとうございます。私はレーツェルと言います。後ろに立たれたことは別に気にしてませんよ」

「そう言っていただけると安心です。それでこんな道の真ん中でなにかお困りの様子でしたが、どうかしましたか?」

 

 一瞬だけ悩むものの、そもそも俺一人ではどうしようもできなかったことだ。話すくらいならどうってことないだろう。

 

「なにかここ数日の夜中、人間の里で嫌な匂いがするんですよ。匂い、というか……気配とか雰囲気とか、そういうのも感じるんです。それの正体を探していて……」

「…………あなたもですか」

 

 も、という部分がしっかりと耳に届き、意識せずに目を見開いてしまった。

 後神が膝をつき、俺と目線を合わせてくる。

 

「もしもあなたがよければですが、私と一緒にその匂いのもとを探してみませんか?」

「いいんですか?」

「目的は同じなんですから、その方がいいでしょう。それに私にはこういうことに便利な能力があるのです。なのでもしかしたら、今夜中にでも見つけ出せるかもしれません」

 

 そんなことを言われたら頷かざるを得ない。「よろしくお願いします」と手を差し出すと、後神もそれを取ってくれた。

 後神が歩き出したので、小走りで近寄ってその隣について追従する。その時に後神の顔を見上げてみると、どこか遠くを見ているような、それでいて近くを捉えようとしているような、どこに目を向けているかわからないような目線をしていた。

 能力を発動しているのだろうか。さすがに千里眼でも手がかりがなさすぎて無理だろうから、匂いを見れるようにするとかか? なんらかのものの持ち主の場所を見つける力とか、現象を引き起こした犯人の居場所がわかる力とか。さすがにそれだとこの場面で都合がよすぎる力だからないとは思うけれど。

 後神は少しも迷おうとせず、ずんずんと足を進めていく。人里の外れの方に近づいていき、段々と通りすぎる人や妖怪が少なく、また人間の住居も少なくなっていった。

 

「……もしかして、里の外に?」

「かもしれませんね」

 

 匂いは確実に濃くなってきている。肩に力が入っていることは自覚していたが、緊張しているということは警戒していることと同義だ。落ちついていざと言う時に対応できないよりはよっぽどいい。

 やがて人の行き交いが完全になくなり、建物も畑も見当たらなくなる。このまま進めば人間の里という括りから抜け、かなり道に外れた位置から魔法の森に入ることになりそうだ。

 あまりに濃厚な気配が鼻だけでなく、全身で感じ取れるようになっていた。俺は吸血鬼だというのに肌寒さを覚え、思わずぶるりと体を震わせ、両手で反対側の二の腕を掴む。

 

「大丈夫ですか?」

「平気、ですよ。そちらはどうですか? この空気もそうですが、森には瘴気があります」

「問題ありません。私も妖怪ですし、深くまで立ち入らなければ精神をやられることもないでしょう」

 

 そうは言ってくれるものの、どうにも心配だ。後神という名の妖怪の噂はあまり聞かないし、力はあまり強くないのではないだろうか。もしもなにか異常が起こった時は俺がどうにかするようにしよう。そう心がけ、二人で魔法の森へと近づいていった。

 すでに匂いの正体を突き止めるための探索を始めてから一時間は経過しているだろう。向かう先が魔法の森の出入口とされる場所――香霖堂が建っている辺りからかなり離れているから、それだけの時が経ってしまっている。

 そうして、ついに魔法の森にたどりついた。太い幹を持つ木々が立ち並び、森の中は月の光さえ遮る木の葉の天井のせいで、結構な闇に包まれている。月光を人間にとっての太陽ほど明るく捉えることができる妖怪でも、ゆっくり歩かなければ、すぐ木にぶつかってしまいそうなほどだ。

 臆したか、ちょっと立ち止まってしまった俺を置いて、後神はどんどん魔法の森へと足を踏み入れていく。ここから先は危ない場所だ。見た目子ども、それも半分は人間の俺に「嫌ならついて来なくてもいい」と言外に告げているのかもしれない。

 ここで退き返す、あるいは待ってるという選択肢はなかった。すぐに追いかけて、俺も魔法の森に入っていく。

 

「……後神さん?」

 

 暗闇が深すぎて、見失ってしまった。返事はなく、とりあえず枝が踏まれて折れる音を頼りに追いかけていく。

 そうしてほんの数秒、あるいは十数秒。一か所だけ木の葉に覆われず、月明かりが差している開けた場所を見つけたので、後神がそこにいるかもしれないと思い、早足に進んだ。

 ――人の死体があった。

 

「え……?」

 

 目の前のそれに釘付けになる。最初は後神の死体だと勘違いしてしまったけれど、どうにもそうではないらしい。

 亡くなってから結構な時が経過しているのか、体が腐り、異臭を放っている。明らかに肉の量が不足しており、まるで食い散らかされたかのように――いや、実際そうなのだろう。乾いた血潮や変色した肉片が飛び散っていた。唯一どこの部位だったのかがわかるのが頭だ。口を大きく開け、脳を食われたのか上半分がごっそりなくなっている。

 母と父、義理の母だった眷属の女性の死にざまが頭に過ぎる。これと同じように無残に肉体を散らし、原型さえとどめていなくて――。

 

「ねぇ」

 

 背後から、声がした。振り返る暇もなく髪を引かれ、そのまま頭を地面に勢いよく押しつけられる。

 

「哀れでしょう? 無残でしょう? 可哀想だと思ったでしょう?」

「なっ、ん……!?」

「ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい。チョウだいちょうダいチョウダイチョウダイちょうだいチョウダイチョウダイ。そノからダ、わタシにチョウだイ?」

 

 後神が俺の上で馬乗りになっていた。口の端を吊り上げて俺の首を絞めながら、力を持った呪詛を俺の耳元で囁く。

 月光に照らされているというのに、視界が真っ暗になりそうだった。意識は今にも途切れそうで、瞬く間に全身から力が抜けていく。

 妖怪は肉体が強い代わり、精神が非常に脆くできている。

 呪いに蝕まれていく心が泣き叫んでいた。今にも頭の中がぐちゃぐちゃになって、壊れてしまいそうだった。

 

「あ、ぁああああッ!」

 

 半ば反射的に口を大きく開き、喉を絞められているのも気にせずに思い切り喉を震わせて大量の魔力が乗った声を放った。

 過剰なまでの力が込められた空気の振動が後神に直撃し、すぐそばに転がる死体と同じようにその身が四散する。

 拘束から解放されたはいいが、つい数瞬前まで呪詛を吐かれていたせいで体の調子はすぐには戻らない。なんとか膝立ちになって、それからヨロヨロと立ち上がった。

 このままじゃマズい。早くこの場を去らないと。

 そう思考する俺を嘲笑うかのごとく、もはや匂いとすら呼べない濃厚な気の塊が目の前で集まり始め、吸血鬼である俺に本能的恐怖を覚えさせるほどの嫌な呪いを纏ってすべての元凶であろう者が姿を現した。

 

「おイシソう、オイシそう。あナタがわタしをコロしタ、よウカい?」

 

 それは怨霊と化した一人の女性だった。それもこれは肉体から離れた幽霊ではなく、肉体を依代にすることで強い力を備える亡霊に近い――。

 強い恨みに満ちた瞳が俺を穿ち、怖気を帯びる冷たさに、呪詛に蝕まれた己が精神が呼応して全身が痛む。数歩後ずさりをして、呪いに負けないように強く手を握った。

 後神の体を乗っ取って、自らの力が一番強く発揮できるこの場所に俺を誘導してきたのか。

 

「すキダったノに、あイシてたのニ」

「あなたは……」

「ねェ、あイシてル。あいシテル。アイしてルわ。だかラ、だカラ、ダからダカラだかラダかラ、シネヨ」

 

 思ったように体が動かなかった。襲いかかってくる怨霊を避けることができず、自分の中に不気味な異物が入ってくる。

 ふと、なにかが垂れてきたのを感じ取って耳に手を当てる。

 呪詛に影響されて色が変わった、黒い血だった。

 

「んっ、ぐ……!」

 

 自分の中に心が二つあるような感覚。呪詛を吐かれていた時よりも精神を強く揺さぶられ、気持ち悪さは一瞬で吐き気さえ通り越す。

 衝動が抑え切れない。

 ――妖怪を殺したい、殺したい。

 溢れんばかりの恨みを果たさなければ。

 ――愛してたのに。好きだったのに。どうして裏切ったの? 全部、私を食べるために騙していた?

 ――ああ、嫌だ。なんで私が死ななくちゃいけない。

 ――辛い。痛い。冷たい。暗い。嫌だ、死にたくない。死んだなんて認めない。

 ――私を殺した妖怪を、殺さなくちゃ。

 ――殺さなくちゃ。全部、全部、全部。

 ――ああ、この躰……強いな。今まで力を偽ってたのか。

 ――まずは記憶に残るこの紅い館に行こう。そして、そこにいる妖怪を全員消してしまおう。

 ――それが『私』にとっての一番の幸せだ。

 

「フ、ラン……も?」

 

 ――そうだよ。翼をもいで、泣き叫んでるところを殺す。

 

「咲夜も……美鈴、も……パチェも、皆?」

 

 ――そうだよ。全員痛みの中でゆっくりと死に絶えさせる。

 ――さぁ、行こうよ。あなたはずっと眠っていればいい。『私』が全部やるから。

 ――あなたの知る妖怪を全員殺すから。あなたの知らない妖怪も全員殺すから。

 

「…………お姉、さま……も?」

 

 ――そうだよ。両手両足を切断して、その体をぐちゃぐちゃにしてやろう。

 ――だから、安心して。安心して全部委ねて。

 ――あなたはただ眠っているだけでいい。それだけで楽になれる。

 

「じゃあ……ダメですよ」

 

 頬に手を添える。無表情だった。

 ただそれだけの動作で、一瞬だけ正気を取り戻すことに成功する。それと同時に、強い意志を持って能力を行使した。

 怨霊に乗っ取られている『答え』をなくす。呪いの影響を受けている『答え』をなくす。精神が弱っていることから生じる体の不調という『答え』をなくす。

 

「出て行ってください、私の中から」

 

 すぅー、と頭の中が研ぎ澄まされていく。段々と視界が明瞭になっていく。

 思考が正常さを取り戻し、今にも爆発しそうなほどに胸の内にこもっていた怨みの念が消えていった。

 怨霊を追い出すために体内の力をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。霊力を、気力を、妖力を、魔力を。

 そんなことをすれば俺自身に影響がないはずもなく、内臓がこれでもかというほどにミキサーで回されているように、全身が痛んだ。それの『答え』をなくすと追い出せない可能性もあったので、頬に手を添えたまま「痛くない」と呟いて、痛くなくした。

 耐え切れなくなったのか、怨霊が俺の体から飛び出てくる。

 

「いい作戦だったと思いますよ。後神を使って私をここに連れて来て、死体を見て動揺しているうちに背後から忍び寄って拘束し、呪詛を囁く。妖怪は精神が弱いですから、それだけでもかなり効いてしまいます。そうして弱ったところで体を乗っ取って……亡霊は自分の死体を大事にするはずですから、予想すらできませんでしたよ。でも、あと一歩及びませんでしたね」

「どうシテ! どウしテドウしてどうシテドウシテ!?」

「あなたの事情はわかりました。妖怪に恋をして、でも人間の里じゃ認められないから、その妖怪と一緒に里を出て……でも本当は騙されていて、ここまで来たところでその妖怪に喰われてしまった。裏切られた。だからあなたは死を認めたくなくて亡霊になった。そして、怨霊になった」

 

 どうしてあの嫌な匂いを嗅いだことがあると感じたのか、その理由がようやくわかった。あれは幽々子に対してのものだったのだ。西行寺幽々子という、亡霊の中でも最高峰の力を持ち得る彼女の気配を俺がなんとなく覚えていたから、この怨霊と化した亡霊の匂いに既視感を覚えていた。

 最初から気づけていれば対策ができていたものを、危うく乗っ取られるところだった。

 

「どウシテ!」

「さて、どうしてでしょう。どうして私を乗っ取れなかったんでしょう。どうして私は平気そうにしているんでしょう」

 

 怨霊と会話をするなんて無駄以外のなにものでもない。どうせ大したことはしゃべらないし、なにを言っても聞こうともしないし、無駄なんだから。

 俺が一歩足を踏み出すと、女性の怨霊がそのぶんだけ後ろに下がった。恐れているのか? 怯えているのか? 怨霊のくせして妖怪の俺を。

 

「亡霊を消すために必要なのは、死体を供養するか目的を達成させること……でしたっけ」

 

 だったらやることは簡単だ。

 影の魔法で周囲の影を集め、辺りに散らばっている死体の残骸すべてを覆い尽くす。一体化させ影にして、なにもかもを無に帰した。

 今、ここにはなにもない。誰の屍も転がっていない。人が妖怪に殺された痕跡も、一切ない。

 

「消えてください」

「あァ、あァあアァアあ……!」

 

 本体がなくなった亡霊が、怨みの念をその目に宿し、必死に俺へと手を伸ばしてくる。それでもそれは届かない。届くより先に、相手の存在が消滅しきってしまう。

 足から体、体から頭と腕へ。あとほんの数センチほどで俺に触れるというところまで近づいていた相手の指先も、跡形もなく消えてしまった。

 そうして、俺はこの場に一人になる。

 少し強い風が吹き、ざぁざぁと木々が騒いでいた。目の前の悲劇に悲しんだか、死体がなくなって喜んだか、それとももっと別の理由か。なんにせよ植物の声を聞けない俺にそれを知るすべはない。

 しばらく亡霊がいた場所を見つめ、もうここに用はないと踵を返した。

 

「……裏切られたくらいで憎しみに変わる愛なんかで、私をどうこうなんてできませんよ」

 

 魔法の森を出る直前でそんなことを呟いて、人間化魔法を解いた。トンッと地面を蹴って宙に身を投げ出す。

 またこんな搦め手を使って怨霊に精神を攻められたら厄介だ。さきほどなくした三つの『答え』は元に戻さず(ないまま)にしておこう。

 ああ、そうだ。あの怨霊の記憶がちょっとだけ頭の中に残ってる。それを頼りに、あの怨霊が人間だった頃にそれを食い散らかした、ルールを破った妖怪を消しておかないと。

 そう決めた後は欠けていく月が照らす夜の中を、ただただ飛び続けていた。振り返らず、自分の家である紅魔館に向かってひたすらに。



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四.素直な姉妹の屈折現象

 リンゴがそうであるように、赤と黄色はよく似合う組み合わせだ。二つの色合いが妖怪の山を染め上げ、冷たい風に舞い散る紅葉の中で、天狗たちが黒い翼を羽ばたかせていた。

 怨霊に体を奪われかけたあの事件がきっかけになったのか、どうにも俺の存在に少しばかりの変質が生じているようだった。

 変質と言っても大したことではない。ただ、怨霊の匂いをより強く感知し、人畜無害な幽霊のそれと嗅ぎ分けられるようになった。観察するだけで霊体の格を測ることができるようになった。そして怨霊もまた、俺を畏れるようになっていた。

 吸血鬼の身に秘められた種族としての才覚は伊達ではない。おそらく一度精神の奥底まで侵食されかけたことで怨霊への抵抗力がつきつつ、同様の存在への感知能力も大幅に上昇した結果がこれなのだろう。遭遇するだけで怨霊が一目散に逃げ帰っていくところを見ると、耐性が強くつきすぎている気がしなくもないが……悪いことではないのでよしとしよう。

 さて、地霊殿には怨霊が大量に溢れている。そんなところに行けば、この抵抗性のことへと思考が傾き、それがつく原因となった事件を思い浮かべるのもしかたがないことだろう。

 なにが言いたいのかと言えば、さとりにその際のことを見透かされて滅茶苦茶怒られ、心配された。「なんで危ない雰囲気を感じてたのに逃げないんですか!」とか「吸血鬼だからって無敵じゃないんですよ!」とか「本当に体は、精神は大丈夫なんですか? まだ呪いに侵されてませんよね?」とか。

 こいしもとても慌てて、俺を乗っ取ろうとした怨霊を探そうとするくらいだった。すでに終わったことに対する反応が思っていたよりも過剰だったことに驚きつつ、それだけ大切にされていたのだとわかって、なんだか温かい気持ちにもなれた。それを察せられて、反省してないとさらに叱られたが。

 そういうわけでしばらくの間、怨霊が大量に存在する地霊殿に行くことを屋敷の主であるさとり自身から禁止され、この一か月近くはさとりの意向でできるだけ安静に日々を過ごしていた。しかし今日でそれも終わりであり、俺は今地底界へと続く大穴の目の前でローブを纏いフードのみを纏って二人の妖怪を待っている。

 ちょうど、二つの人影が穴から飛び出してきた。すぐそばに降り立ったその二人はそれぞれ違った嬉しげな笑みを浮かべて俺に歩み寄ってくる。

 

「おっまたせー! お姉ちゃん連れて来たよー!」

「お待たせしました。一か月ぶり……ですね」

「はい、久しぶりです。今日は迎えに行けずに申しわけありません。道中は大丈夫でしたか? 鬼に難癖つけられたりとか」

「こいしが手を繋いでいてくれましたから。仮にそうでなくとも、地底の妖怪は私には絶対に干渉してきませんよ」

 

 そういえば初めて地底に行った際に会った勇儀は、別にサトリ妖怪を嫌っているわけではなさそうだったが、進んで会いたいという雰囲気も感じられなかった。嫌っているというより、単に心を読まれるのがめんどくさいのだろう。鬼は正直者だから他にもそういう者がいる可能性は十分にある。

 ただ、まぁ、だからと言って鬼に好かれるのもいろいろとめんどくさそうだ。それこそ幻想郷で「関わり合いを持たない方がいい」とまで言われている天狗以上に。げんに宴会で萃香のそばにいると毎度飲み比べを強要されるから、あちらから来ない限りは近寄らないようにしている。そもそも無限に酒が湧き出てくる瓢箪を片手に「この酒は空気みたいなもん」とかのたまうような輩に勝てるわけがないのに。

 そんな俺の思考を読んでさとりが口元に手を当てて笑っていた。悔しいような恥ずかしいような複雑な気分になったが、とりあえず、いつかさとりが宴会に混ざれるようになったら萃香の近くに連れて行ってやろうと心に誓う。

 

「ふふ、ふふふ、すみません。でも、それなら楽しみにしていますよ。誰かと飲み明かすなんてことは一度もしたことがありませんから」

「初めてが萃香って相当きつそうです……って、まぁ連れていくのは私なんですけどね。さとりは酒に強い方なんですか?」

「飲めはします。ほら、地底は鬼がたくさんいますから、お酒の生産は盛んに行われているのよ」

 

 鬼が住むところはイコールで酒がある場所だ。なにせ「実は血が鉄分の代わりにアルコールでできてるんだ」とか言われても一切疑わずに信じられそうなやつらだし。

 

「むぅ、お姉ちゃんばっかりずるいよ。私にも教えてよー、レーチェルはなんて思ってるの?」

「ふふっ、『鬼の血がアルコールでできてるって言われても驚かない』って」

「……え? 違うの?」

 

 まるで最初からそうなのではないかと信じていたかのように目をしばたたかせるこいしを見やって、さとりが耐え切れないという風に口元に手を当てて後ろを向いた。その耳は赤くなっていて、どうやら相当ツボにはまってしまったらしい。

 俺も笑みは浮かべられないものの、胸の内はどこかおかしなものに出会ったような感情で溢れていた。体温が上がり、しばらくはうまく声を出せそうにない。

 そんな俺たちの様子にこいしが頬を膨らませて「だって、あれだけ飲んでるんだから体液全部お酒になってるんじゃないの?」なんて、本気でそう思っているかのように聞いてくるが、さらに愉快な気持ちが溢れてくるだけだ。

 

「ふっ、ふふ、こ、こいし……ふふ、い、いつも、いつもそんなこと思ってたの? ふふ、鬼を見るたびそうやって?」

「…………むぅうう! ふん、お姉ちゃんなんてもう知らないっ!」

 

 こいしがさとりと繋いでいた手を離し、小走りで俺の方に近寄ってきた。そうして右手で俺の左手、左手で俺の右手を握り、どこか拗ねたようなというか、完全に拗ねている顔でさとりの方を振り返る。

 

「ふふ、ご、ごめんなさいこいし。まさ、ふふふ……まさかこいしが鬼にそんなこと思ってたなんて、予想したこともなくて」

「ふんっ、いいもんいいもん。もうお姉ちゃんが繋ぐぶんのレーチェルの手はないから」

「……なんでレーツェルの手なんですか。移動で必要なのはこいしの方の手ですよ」

 

 どうして両手とも掴んできたのかと思っていたが、そういう意味だったのか。というか普通に歩きづらいし前を見にくいし、こいしにこのままへそを曲げられていたらどうにもならないので、どうにかこいしを宥めないと。

 

「えっと、こいし。今日はせっかくさとりを博麗神社に連れていく日なんですから、あんまり意地悪は」

「私、知ってるもん。お姉ちゃん、レーチェルに怨霊の件できつく言っちゃった日、レーチェルが帰っちゃった後に『嫌われてないかな』ってずっと机に突っ伏して泣きそうになってたでしょ」

「……え?」

「こ、こいしっ!? なんで……!?」

「電話が来た時は他のことすっぽかして真っ先に取りに行ったし、夜は枕抱えてゴロゴロしながらニヤけてたでしょ?」

 

 さとりの方に目を向けてみると、顔も耳も真っ赤に染め上げて、穴があったら入りたいというような顔をして俺から目を背けている。どうやら本当のことらしい。

 ……なんというか、なんとも反応しづらい真実だ。心配させてしまったことを申しわけなく思うとかそういう以前に、こいしにとんでもなく恥ずかしいことを暴露されたさとりが哀れすぎてしかたがない。とは言え、この内容だと俺がなぐさめの言葉を告げたところで逆効果だろう。

 どうしたものかと困惑する俺をよそに、こいしとさとりの会話は続いていく。

 

「こ、ここ、答えてくださいっ! こ、こいし、なんでそのこと知ってるんですかっ……!」

「だってお姉ちゃんの部屋の鍵開いてたもん。だからこう、そーっとね。そーっと」

「か、鍵……そういえば寝る前に確認した時に、かけ忘れてたみたいだったからちゃんとかけ直したような……ああぁ、あの日の私のバカ……」

 

 ただでさえこいしは能力で存在感が薄いというのに、隠密行動なんてされたら気づけるわけがない。恥ずかしさからか、さとりが俺やこいしに顔を見せないようにキャスケット帽を深くかぶった。

 これ以上こいしを好きにさせていたらさらにさとりの秘密が暴かれてしまいそうだ。いい加減止めなければならない、と影の魔法で質量の塊を作ってこいしの頭を軽く小突く。

 

「こいし、もうやめてあげてください。笑われたぶんの仕返しは済んだでしょう?」

「ふふん、そうだねぇ。私はまだまだたっくさんお姉ちゃんの恥ずかしいところを知ってるからねー。他のことはまた別の機会にでもレーチェルに教えてあげるわ」

「うぅ…………今後はこいしをからかうのは控えないといけませんね……」

 

 さとりがため息を吐いて帽子を上げ、未だ赤みが抜けない顔を見せて近寄ってきた。それに呼応してこいしが俺の左手から右手を離し、そのまま自らの姉へと差し出す。これでようやく博麗神社へと向かう準備が完了した。

 この一か月は俺のせいで大人しくしていたから、さとりが外に出ること自体が一か月ぶりだ。電話では慣らすためにもどこか別の場所で景色を堪能するだけにしようかと提案したのだが、さとりが予定通りでいいと言うものだから、結局はお言葉に甘えて神社に行くことにしていた。

 これが最終確認だ。大丈夫ですか、とさとりに問いかける。返答は、迷う間もない頷きだった。

 

「わかりました。行きましょう」

「はい、よろしくお願いしますね。こいし、レーツェル」

「『よろしくだぜ』」

 

 今回は完全に再現ができてるみたいですね、とさとりが口元を緩める。会ったこともないのによくわかるものだ。いや、俺の心を読んでどういう性格かある程度把握してるのか。

 三人で地面を蹴り、こいしの力で何者にも気づかれないようになりつつ博麗神社を目指して飛び始めた。空からなにかを見下ろすというだけでも風景はいつも以上に美しく見えるものだ。さとりが静かに目を輝かせているのを横目に飛行速度も少しばかり遅くなり、しかしそれもさとりの楽しみようを見ていると別にいいかと思えてしまう。それに、別段急いでいるわけでもないのだから。

 

「レーチェルぅ、暇だからなにか話してー」

「んー、そうですね。これから霊夢のところに会いに行くわけですから、さとりへの紹介も兼ねて霊夢のエピソードでも話しましょうか?」

「お願いー」

「あ、私からもお願いします」

 

 さて、なにからしゃべったものか。んー、と霊夢と関わった時のことを思い起こし、なにか語れることはないかと探っていく。

 

「んー、いつかの冬にお邪魔してた時に『寒い!』って叫んで、霊夢、いきなり雪かきをやめて飛び出して行ったんですよね。それで、帰ってきたと思ったら妙にすっきりした顔してて……ちなみにその理由は帰る途中にわかりました」

「どういうことー?」

「レティ・ホワイトロックという冬の妖怪がいるんですが、そのレティが雪の中に気絶して半分埋まってたんです。どうやら霊夢が『もう冬は終わりでいい!』って襲いかかってきたみたいで」

 

 ちなみに一月とかその辺のことだったような気がする。レティに冬を終わらせるような強大な力がないとかそういうこと以前に、そんな冬の真っ盛りな時期にそれを終わらせようなんてのが無理な話だ。

 

「あの日の機嫌が悪かったようでして。でも、いつもは来る者拒まずなスタンスでいろんな妖怪と一緒にいて、私も親しくさせてもらっていますよ。異変の際には会った妖怪のほとんどをなにも事件に関係がなくても問答無用で倒しますし、気まぐれで見かけた妖怪を片っ端から退治したりしますけど」

「怖いですね。聞いている限りだと人間とは思えないくらいです」

「そうかもしれませんね。でも、一緒にいるのはすっごく居心地がいいんですよ。本当に」

 

 霊夢は強い妖怪には好かれ、弱い妖怪には恐れられているが、それもこれも彼女が『在るがまま』でいるからこそのことだ。たとえ相手が鬼でも天狗でも吸血鬼でも、その強大さに少しも慄くことなく人間と同じように接する。だからこそ強い妖怪は、恐れられるはずの自分をただの日常の一部としている霊夢の在り方に惹かれてしまう、興味を抱いてしまう。

 その他にも彼女が好かれる理由はある。霊夢は誰よりも、もしかしたら鬼以上に正直者なのだ。冬の妖怪を倒しても冬が終わるはずがないのに寒いからそれを退治しに行くだなんて、まさしく単純で裏表がない証拠である。

 

「人間にも妖怪にも平等に接する霊夢は、いい人、とは言えないかもしれません。でも、楽しい人ですよ。これだけは確信を持って言えます」

 

 そう語る俺を第三の目で見やったさとりが、「そうですか」とちょっとだけ不愛想に視線を逸らした。なにか機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのだろうか、と首を傾げると、こいしが「大丈夫」と俺に囁く。

 

「お姉ちゃん、レーチェルが霊夢のことべた褒めするから嫉妬してるだけだよ。子どもだよねぇ」

「聞こえてますよ」

 

 さとりが半眼でこいしを見やった。こいしの言ったことが本当なのかと考えようとすると、さとりは俺も一緒に睨んでは頬を膨らませる。

 今度はこいしではなくてさとりがいじけてしまいそうだったので早々に思考を中断することにした。こんな短期間であれと同じような状況になるのは勘弁だ。いじける云々のことを考えた辺りからさとりがなにか言いたげな表情で俺へ視線を送ってきていたが、なにも口にせず、どうやら小さくため息を吐くだけで留めてくれたようだった。

 それからは景色の移り変わりが激しく、話題はもっぱらこれまでさとりと行ってきた地上観光のことへと移っていった。地底へ続く大穴近くの林から始まり、玄武の沢の岩場に谷底の河、迷いの竹林、霧の湖等々。すべてにおいて俺を含めたこの三人以外の誰かと会って話すことこそなかったが、それらの美しい風景を記憶に刻んできたことは決して無駄ではなかった。

 やがて視界の奥に博麗神社が見えてくる。そのことを伝えると、さとりは無意識のうちにか肩に少々の力を入れ、俺と同じように神社の方へと眼差しを向けた。



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五.芽吹き出す小さな可能性

 博麗神社に降り立ってすぐに、その人気(ひとけ)のなさに気づいた。神社の鳥居側ももちろんだが、視界の範囲外である神社内部にも一切の生命の気配が感じられない。つまり霊夢がおらず、どこかに出かけてしまっているのだ。

 立ち止まった俺を、こいしが不思議そうに眺めてくる。

 霊夢がどこに行ったのか。その選択肢は分岐が多く、これと言い切れるものが一つもない。買い出しに行ったか、依頼関係で人間の里に行ったか、香霖堂に行ったか、もっと別の用事で探しようもないところに行ったか。それだけでなく、いつ帰ってくるのかもわからないので、ずっと待っているというわけにもいかなかった。

 

「……ごめんなさい、さとり、こいし。アポを取るべきでしたね。今、霊夢はここにいないようです」

「しかたありませんよ。それにアポを取られていても困ります。私はそんなに大した妖怪ではありませんから」

「じゃあどうしよっか。玄武の沢にでも行くー?」

 

 予定が潰れたとなると、これまでさとりを連れて行ったことのある場所へ向かうのが妥当な選択肢だろう。ただ、せっかく人に会うことを覚悟して出てきたさとりに、風景を堪能するだけ堪能して帰らせるのもなんだかなという思いがあった。

 確実に人に会いたいならば今から香霖堂に向かえばいい。どうせ霖之助は出かけてないだろうし、外に出ているにしても用事を手早く済ませてすぐに戻ってくるような性質だ。

 だけど……と思案に耽りかけた頭を横に振って、いったんそれを振り落とす。選択権はさとりにあるのだ。俺が決めることではない。

 

「さとり、今ここでは二つの選択肢があります。一つ、こいしの提言に従ってどこか別の場所に行く。二つ、香霖堂に足を向かわせる」

「香霖堂にはきちんと人がいるみたいですが……なるほど、複数いる可能性が高いと」

「霊夢と魔理沙のどちらか、あるいはどちらもが行っているかもしれません。特に今は霊夢が神社にいないことは明らかなわけですから」

 

 それに霖之助は異性だ。いや、まぁ、若いくせに異性の異の字にも興味を示そうとしない枯れた男ではあるものの、一応は異性なのだ。霖之助のそういう部分と人が複数いるかもしれないことを考えると、行くことはあまり得策ではない気がしてくる。

 そんな風に心配する俺を第三の目で見つめ、ため息を吐いたさとりが、ぐいっと顔を近づけてきた。

 

「レーツェル。私が、そんなにか弱く見える?」

「えっと……」

「確かに人と会うことは滅多にないし、会ってもいつも嫌われてきたわ。でも今日はそうされるかもしれないことを承知で、そういう覚悟を持って地上に出てきた。それにこの一年、レーツェルとたくさん話をしてきたからうまく立ち回れる自信もそれなりにある。その霖之助さんとやらが異性だからって、人が複数いるからって、退く理由にはならないの」

 

 敬語をなくし、真摯に俺と目を合わせてくる。さとりのそんな顔を見返し、ついさきほど抱いていた考えを改めた。

 さとりは多くの心を読んで、その嫌悪感のすべてを垣間見てきたという。俺なんかではほんの表面、言葉で吐かれる部分しか推し量れることはかなわない。さとりは心を読めるからこそ言葉を用いる生き物の汚さを誰よりも把握しているはずで、人と付き合うことで生じるあらゆる感情をなによりも理解している。そのすべてを心得た上で誰かと交流を持つことを決め、さとりは計画に参加しているのだ。きっと俺が想像しているよりもずっと、目の前の少女の意思は堅い。

 

「わかりました。すみません、今の考えはさとりへの侮辱でしたね。取り消させてください」

「はい。私も……ちょっと言いすぎましたね。そもそも私が弱いから、人と付き合う勇気がなかったから、地霊殿にずっと引きこもっていたのに……」

 

 それでもそれは、能力のせいで嫌われてきたのだからしかたがないことだ。そんな俺の心を読んださとりが、「たとえそうでも、逃げたことは変わらないんですよ」と自嘲気味に笑った。

 どうにか元気にさせてあげたかったが、ここでいくら励ましやなぐさめの言葉を告げたところで無駄だということは、すぐにでも理解することができた。そもそもの話、感情から生じず、考えようとして考えた程度の思いで、心を読めるさとりの元気を取り戻させられるはずがない。

 それならば俺が言えることなんてただ一つしかなく、つまりは胸の内からふつふつとこみ上げてくるこの感覚を口にすることしかできなかった。

 

「それなら……これから強くなりましょう。私もお手伝いします。いえ、私もさとりと一緒に強くなりたい。今日のことはきっとそのための一歩だと思います」

「……はぁ。本当……レーツェルはどうしてそういうことを本気で思えるんですか? 私がこれまで見てきたどんな人間にも妖怪にも、そんな風に考えられる人なんていませんでしたよ」

「そうですねぇ。さとりのことを心から親しく思ってるからじゃないですか?」

 

 さとりが仏頂面になり、俺を半眼で見やってくる。心から親しく思っているから。どんなにいい言葉でも、さすがにからかおうとして口にした言葉はさとりには通じない。

 まぁ、今のそれは冗談交じりに口にしたが、完全な嘘というわけではないというか、むしろ本当のことだ。

 この一年頻繁に付き合ってきたこともあるけれど、五〇〇年近くずっと誰にも言わずにいた俺の秘密を唯一知っているという要素が大きいのだろう。きっと俺が思っている以上の親近感を抱いており、だからこそ毎日のように電話をし合うし、少しの苦も感じず遠い地底と地上を行き来することができるのだ。

 そもそもただ他人を叱っただけで『嫌われているんじゃないか』と落ち込むような素直な性格なんて相当に貴重だし、秘密云々のことがなくても個人的に仲良くなりたいと思っていた確率が高い。そんな風に考えると、「そのことはもう指摘しないでください」とさとりが頬を赤らませ、それから膨らませた。

 なんかあれだよねぇ、とこいしが唐突に呟いた。

 

「ん、あれってなんですか?」

 

 俺の返しに、こいしはさとりの方へと顔を向けた。

 

「お姉ちゃんって、レーチェルのこと好きすぎだよね」

「えっ、な……!?」

「私もレーチェルのこと好きだけど、お姉ちゃんも相当だよねー」

 

 ニコニコと邪気のない笑顔でのこいしの発言にさとりは口を震わせていたが、最終的にはなにも言い返す言葉が見つからなかったようで、恥ずかしそうに帽子を深くかぶった。

 

「私も好きですよ、さとりのこと。もちろんこいしもです」

「レーツェルまで……」

「お姉ちゃんは過剰反応しすぎなんだってば。好きなら好きでいいじゃん。そんなことよりもう行こうよー。ほら、いつまでもこんなとこで時間潰してたら日が暮れちゃうよー?」

 

 こいしの言う通り、霊夢がいないとなれば博麗神社に長居する理由がない。地霊殿の灼熱地獄の管理で少々問題が発生していたらしく、それの対処でさとりが追われた結果として結構遅く出てきたこともあり、空は結構暗くなってきている。

 さとりの名前を呼びかけると「わかりました」と帽子で顔を隠したまま小さく頷きを返してきた。

 地面を蹴り、魔法の森方面へと飛行を開始する。結果的に博麗神社に寄り道しただけになってしまったからか、そのスピードはそれなりに速い。

 しかし魔法の森へ近づいていくことを自覚すると、つい一か月ほど前にあったばかりなこともあって、怨霊の事件のことを思い出してしまう。

 亡霊の怨霊と対面している時の異常なまでの寒気、精神を蝕んでくる呪詛への本能的恐怖、体を乗っ取られかけている時に感じた多大なる怨みつらみ。

 あの時、ふと気づいたのだ。あの日までは害虫のように、ただ漠然と近づいてはいけない存在だと認識していた怨霊が、元は俺たちと同じように生きていたのだと。

 それは当たり前のことで、しかし本質的には理解できていなかったことだ。怨霊のほとんどは元々が悪い魂、あるいは逆恨みで幽霊から変質するという。それでも、たとえ少数でも、ただ不憫な境遇で怨霊になってしまう者だって存在していることは確かだった。

 この世に生きる誰もが最後にはあのような醜い存在へと変わり果ててしまう危険性をはらんでいる。あのような醜い存在も、かつては明るい笑みを浮かべて地上で生を謳歌していた。

 最後に俺は影の魔法を使ってあの亡霊を完全に消滅させた。それが正しかったことなのか、間違っていたことなのか、未だによくわかっていない。俺が離れている間に誰かに被害が及ぶかもしれない可能性があったとしても、本当は霊夢辺りに声をかけて、きちんと成仏させた方がよかったのではないかと。

 

「レーツェル」

 

 頭の中で繰り広げていた暗い思考を、さとりの声が遮ってきた。

 

「これは閻魔さまからの受け売りですが……たとえどんな不運で不幸な境遇でも、恨みつらみをもとに現世に留まろうとすることは最大級の罪であるそうです。天界行きが確実であるような善人がなにかの不都合でただ一時怨霊になるだけでも、一気に地獄行きのそれへと変わってしまうのです。その罪の重さに気づくまでは永遠に地獄にいなければならないほどの罪を背負うわけですよ」

「私は悪くないと、さとりはそう言いたいわけですか」

「……完全には悪くないとは、言い切れません。怨霊だからと言ってむやみやたらと消していいわけではありませんから。いわく、輪廻の輪から外れることは本人の悟りによるものでなければならないそうです。ですからこの先は私の勝手な言い分なのですが……」

 

 一度大きく深呼吸をすると、さとりは俺に向き直った。きっとそういうものであると、今まさに変えがたい価値観を抱いているかのごとく、その瞳が強く俺を射抜いてくる。

 

「私たちは怨霊がなによりも恐ろしいものであることを知っています。なればこそ、死んだ者たちもどれだけそれが忌々しいかをわかっていたことでしょう。知っていながら怨みに飲み込まれ、怨霊になる道を選んだ……彼らが自分で選んだ業です。そこにどんな結末が待っていようと、彼らは甘んじて受け入れなければならない。私はそう思っています。なにせ、彼らはそれだけの罪を背負うと自ら決めたのですから」

 

 さとりは怨霊を管理する屋敷の主だ。だからこそこういう怨霊の見方には誰よりも通じていて、彼女の主張はきっとなによりも的を射ていることなのだろう。

 はっきりとは割り切れないが、それでもこれからゆっくりと納得していけばいい。少しだけ心が楽になりました、と告げると、さとりが心配そうな顔を浮かべつつも口元をわずかに緩めた。

 

「怨霊ねぇ。怨霊のことを知りたいならお燐と話してみるのもいいんじゃないかなー。レーチェルって人型のお燐と会ったり話したりしたことないでしょ?」

「ないですね。地霊殿には頻繁にお邪魔させてもらっていますし、よくモフモフさせてもらっていますし、確かに一度は話してみたいです。私はレーツェルですが」

 

 お燐は猫の姿でいることが多いようで、俺は彼女が猫モードでいる時しか出会ったことがない。人型になれば言葉を介することが可能とのことだが、さとりいわくお燐にとっては猫の状態でいることの方が楽であるらしく、そもそも主であるさとりが心を読めるのだから多くの場面でしゃべれるようにならなくても構わない。

 なんだかんだ、地霊殿に闊歩している怨霊に関係することでお燐にはお世話になっている。前々から一度くらいはきちんと挨拶をしたいと思っていたから、ちょうどいい機会かもしれない。

 

「まぁ、それはまた次に地霊殿の方にお邪魔させてもらった時にとっておくとして……そろそろ見えてきましたよ」

 

 話しながらも結構な速さで飛んでいた。視界の奥の方に魔法の森への出入り口が見え始め、それすなわちそのすぐ近くに建っている香霖堂も視界に入るようになってきたということである。

 そういえば、どうして魔法の森の入り口になんて建っているのかと、以前霖之助に問いかけてみたことがあった。その答えは至って単純で、人間と妖怪の両方のお客を獲得するためだったそうだ。

 魔法の森と言えど入り口付近ならば瘴気もなく、普通の人間が近寄ることができる。そして仮にも魔法の森の範囲内にあるのだから、魔法の森からの妖怪も客として迎えることができる。そういう企みのもとに魔法の森の出入り口近くに香霖堂を建立したようで、しかし実際には魔法の森の近くにあるせいで人間が寄りつかず、引きこもりがちな森の妖怪たちはその敷地の端にある辺鄙な建物になど立ち寄らない最悪の状態に陥っていた。結果的に立ち寄るのはかなりの変人か、よほど外の世界の道具に興味がある偏屈な者だけになっているらしい。

 俺たちもまた変人の括りに入るのだろうか、と首を傾げる。少なくとも霊夢と魔理沙はそうだろう。だとすれば、俺もそうか。こいしもまごうことなき変人だろうし、だったらその姉であるさとりもそう判断して構わないだろう。

 構います、と俺の心を読んでいたさとりが半眼で俺を見つめてきた。怒られそうなのでそろそろ思考を中断しようとしたのだが、一歩遅かった。そもそも心が読めるという時点で変人みたいなものだ、と――さとりが完全にへそを曲げて、ふんっ、と俺から視線を逸らした。

 

「……ごめんなさい」

「別に。別にいいですよ。私は変人ですからー」

「ごめんなさい、ごめんなさい。許してください、さとり」

 

 さとりが口を尖らせている原因は俺にあるのだから、それを元に戻すのは俺の手には余る。もう少しで香霖堂のすぐ真上にたどりつくというのに、こんなところで仲を違えていてはたまらない。

 どうにか説得しようとする俺を救ったのは、どこか呆れたように己が姉へと目を向けるこいしであった。

 

「お姉ちゃんが変態さんなのは今に始まったことじゃないじゃん。レーチェルを叱った日のことがなくても、いつもレーチェルとの電話が終わった後は一人で机に肘ついてずっとふふふって笑ってるし。っていうかちょっと怖いよ、あの時のお姉ちゃん」

「えっと、そうなんですか。えぇと、好かれてるのは嬉しいんですけど……」

「ううぅぅ……ばらさないでくださいって。というか、なんでこいしはそんなことも知ってるのよ。わかりました、わかりましたから。もう拗ねたりなんてしてませんから」

 

 さとりはこいしに弱い。真っ赤になった顔を気まずそうに歪め、俺を視界の端に留めつつ、さとりがこいしに懇願する。今日は赤くなってばっかりで大変そうだ、と俺は他人事の気持ちで、おそらく気の毒そうな視線をさとりへと送っていた。

 扉の横に招き狸が置かれ、建物の横には標識やパンクしたタイヤ等の外の世界の道具が転がっている、奇妙な建物。香霖堂のすぐ目の前に降り立ち、いったんこいしと繋いでいた手を離した。

 いよいよだ、と気を引き締める。

 

「さて、さとり、心の準備はいいですか?」

「いつでもどうぞ」

 

 ここから先はこいしの能力ではなく、俺の出番だ。さとりに近づいてさきほどまでこいしの手を握っていた右手を差し出すと、彼女はそれを優しく取った。

 さとりが第三の目で人間を、妖怪を、神を――その他ありとあらゆるものを見ることで心を読むという『答え』をなくす。一度地霊殿できちんと心が読めなくなるかどうかの実験は行っていたから、成功しないという心配はない。

 俺の心が読めなくなったからか、さとりがちょっとだけ心細そうに、俺の手を握る手にわずかな力を込めた。

 

「入りますよ」

 

 香霖堂の入り口に近づき、振り返って問いかけた。さとりは緊張した面持ちで、こいしはいつも通りの笑顔で頷く。暗い赤色に染まった西の空からのわずかな光が二人を照らしていた。

 

「お邪魔します」

 

 扉の取っ手を引くと、店中に漂っていたらしい香ばしい匂いが鼻を刺激した。俺が来たことに気づいた霖之助が「いらっしゃい」と出迎えてくれたので、さとりとこいしを連れて近寄った。

 

「いいところに来たわね。ちょうど夕食にするところだったのよ」

「本当にいいところだぜ。ほら、レーツェルと……こいしだっけか。あと名前知らないやつも座れよ。ごちそうするぜ」

「ここの店の主は僕なんだが……まぁ、近くでもの欲しそうな目をされてる方が気まずいしね、魔理沙の言う通り座りなよ。どうせたくさんあるんだ」

 

 霊夢、魔理沙、霖之助のお三方が俺たちをそれぞれの言葉で歓迎する。予想していた可能性の一つ通り、霊夢はやはり香霖堂に来ていたらしい。

 夕食とはなんぞや、とテーブルの上に置かれているものを確認すると、そこには大量の焼かれたキノコと焼酎が置かれていた。

 こいしが真っ先に「わーいっ!」と焼きキノコの前に陣取り、続いて俺が突然のことに躊躇していたさとりを連れて歩み出す。こいしの隣に「ごちそうになります」と告げて腰を下ろし、さとりにもそうするように促した。

 

「紹介します。こいしのことは覚えてますよね? こちらはこいしの姉で、この一年くらい仲良くさせてもらっている私の友達です」

「よ、よろしくお願いします」

 

 頭を下げるさとりへと最初に反応を示したのは霖之助だ。「よろしく頼むよ」と友好的な笑みを浮かべた。

 

「ふーん。ま、よろしく」

「前に言ってた地底の妖怪の友人ってやつか。よろしく頼むぜ。機会があったらスペルカードでもやってな」

 

 続いて霊夢がそんなことはどうでもいいとばかりにキノコに視線を向けたまま、魔理沙が俺との付き合いがそれなりにあるのなら強いのだろうと面白げな笑みを浮かべ、それぞれに挨拶を返した。さとりはまるで当たり前のように軽く行われたそんな交流に、おろおろと少々戸惑っているようだった。

 そんなさとりの手を軽く握り返し、安心していい、なんて意思を伝えようとしてみる。心が読めなくなっていろいろと勝手が違うのかもしれないが、少しずつ慣れていけばいい。

 さとりが俺をチラリと見ては、今は心が読めないはずなのに、俺の内心を察したかのようにこくりと頷いた。

 

「それじゃ、早速食べようか。いただきます」

 

 霖之助の合図に、皆が一斉に手を合わせる。それから配られた箸を持ち、各々がキノコにそれを伸ばし始めた。

 最初は遠慮していたさとりも、次第にこの場の空気に慣れて行ったようだった。

 

「お、いいキノコに目をつけたな。そいつは私のオススメだぜ」

「……これは、おいしいですね」

「だろ?」

 

 

「あ、そのキノコ……」

「すみません、取ろうとしてましたか?」

「別に返さなくてもいいわよ。その代わり、私はこっちもらうわね」

「あ、こら霊夢。そいつは私が取ろうとしてたやつだ」

「早い者勝ちよ、早い者勝ち」

 

 

「このキノコなんだか禍々しくない?」

「あ、そいつたぶん毒抜きを忘れちまったやつだな」

「こいし、今すぐそれを捨てなさい」

 

 ただ焼いたキノコを味わう他に、それを肴に猪口に注いだ酒を飲んだりもして、次第に会話が弾んでいく。霊夢が毒抜きをしてあるというカキシメジを前にしてうーんと悩んでいるところに、魔理沙の「寝込んでも大丈夫だ。神社のことは任しておけ」。すぐさま霊夢はカキシメジを摘まみ、そっと窓から捨てた。その様子にさとりが小さく噴き出す。

 さとりとずっと手を繋いでいることもあって、俺もさとりもちょっと食べにくかったりもしたが、そんなことが気にならないくらい賑やかな夕食会だった。

 最後には霖之助が幻覚作用があるキノコを食べてしまい、魔理沙のまったく信用ならない「大丈夫だぜ」発言が出たところでお開きになる。霊夢も魔理沙も、俺もさとりもこいしも十分なほど食べていたのですでに満足していた。

 霖之助にそれぞれ別れの挨拶をして、香霖堂の外に出ては空を見上げた。すでに西の空は少しも赤みも見当たらぬ暗さが支配し、天には月が昇り、星々が瞬いている。そんな光景を今まで観光として出てきた際に何度か見てきたことはあれど、未だ数えるほどしか目にしていないさとりは嬉々とした感情が宿る瞳で、静かに天空の絵画を見上げていた。

 

「今日は、楽しかったですか?」

「……はい。すごく……すごく、楽しかった」

 

 空から俺の方へと振り返り、心の底からそう思っているかのように満面の笑みを浮かべるさとり。まるで無垢な子どもがそのまま成長したかのように、どこまでも素直で無邪気な喜びと楽しさを表す彼女の微笑みに、ほんの一瞬だけ目を奪われてしまった。

 そうして少し、手を繋いでいたままでよかったと安堵をする。今の心を見られるのは、きっと相当に恥ずかしい。

 空いている片手を左胸の前に乗せ、高鳴る心臓を自覚した。

 要するに俺は見とれたのだ。あまりにも純粋な笑顔を見せる、古明地さとりという一人のサトリ妖怪に。

 

「レーツェル? どうかしましたか?」

「いえ、なんでもありません」

 

 こいしが少し離れたところで俺とさとりの名前を呼んでいた。視線を合わせ、頷き合い、さとりとともにこいしの方へと足を運ぶ。

 地底への大穴までは俺もついて行こう。そこからはこいしにさとりを任せて、そろそろ家でレミリアやフランが心配し始めてきそうな頃だから、俺も帰らなければならない。

 

「さとり、次はいつ地上に来ましょうか」

「そうね。こいし、いつなら大丈夫?」

「いつでもいいよー。レーチェルとお姉ちゃんに任せる」

 

 ――もしかしたら、さとりが宴会に参加する日もそう遠くないのかもしれない。

 三人で帰り道を飛びながら、香霖堂がある方向へと少しだけ視線を向けて、そんなことを思った。



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XX.幻想郷縁起&The Grimoire of Marisa

一〇〇話目記念、幻想郷縁起における妖怪図鑑の「レーツェル・スカーレット」の記述、およびグリモワールオブマリサの中でのレーツェルの弾幕の抜粋です。
前半が幻想郷縁起、後半がグリモワールオブマリサとなります。

一〇〇話目記念とは言っていますが、原作でも作品内時間でのちょうどこの時期に幻想郷縁起が完成しているはずなので、タイミング的にはばっちりです。うまく調整できました。
なお、読まなくとも物語にはなんら支障のない小ネタなので、興味のある方だけ見ていただければ幸いです。


 □ □ □ Ghost illustrierte Buch □ □ □

 

 

 

 

 

光翼の悪魔

 レーツェル・スカーレット

 

能力     答えをなくす程度の能力

危険度    極高

人間友好度  高

主な活動場所 何処でも

 

         ❁

 

 紅魔館に棲むスカーレット家の三姉妹のうち、次女に当たるのがこのレーツェル・スカーレットだ。

 レーツェルだけが三姉妹の中で唯一人間に対して友好的な態度を示し、遭遇しても比較的危険が少ない吸血鬼と言える(*1)。

 

 翼膜がない骨組みだけの奇妙な翼を持ち(*2)、髪は銀の中に幾房か金色が混じった色合いをしていて、背丈や年齢は姉や妹と然程変わりない。背中に備えた一対の翼は一見、飛ぶことに適していないように見えるが、翼の根元から吸血鬼として元々持っている莫大な力を噴出することで、音を軽く置き去りにするほどの速度を出せるという(*3)。

 

 物腰は柔らかく、三姉妹の中では一番大人びている。しかし常に無表情であるという特徴を備えており、初対面の際、人によってはその様に不気味さを覚えることもある。態度や声音から多少は内心を察せられると言えど、本心で何を考えているかが他の妖怪より遥かに判りにくいため、相対しても人当たりのよさに騙され、警戒を怠ってはならない。

 

 

✾能力✾

 

 答えをなくす能力は、全ての物事の本質の片割れ、結果を失くしてしまう恐ろしい能力である。

 この世のありとあらゆる現象は始まりと終わり、原因と結果から成り立っている。生まれる始まりがあっても老いることがなければ、寿命は終わりを迎えない。燃えるという結果がなければ、炎が在ることに意義はないだろう。幻想郷の大結界が常識と非常識を分けていないとなれば、幻想郷は成立せず、大結界の有意性は失われる。もし現象に因果関係が紐づけられていないとなれば、世界の全てがただ存在しているだけの、何の意味もない空虚であるという事に他ならない。

 つまり、答えをなくす能力は、因果の繋がりを断ち切ることにより物事の存在意義を否定する能力なのである。あらゆる存在が為すべき役割を無へと帰すことで、終わりとともに始まりさえも否定する。始まりと終わりの間である過程のみをそこに残し、この世の法則に虚ろを作り出す。妖怪のみならず、もしかすれば神様の力さえ及ばぬ領域の、全ての存在を冒涜する禁忌の能力である。

 

 幸いなことに、この能力は発動者自身に関わる現象以外は触れていなければ干渉することができない。干渉したとしても、肌を離せば因果関係は元に戻る。それでもこの妖怪とすれ違ったりする際は、むやみに触れてしまわないように心がけよう。

 

 他にも、深く魔導に通じており、習得している中でも代表的な魔法が、影を操る魔法と己を強化する魔法である。

 特に己を強化する魔法は幅が広く、猫などの動物から鬼などの妖怪まで、様々な生物を基に自身の力を高めることが可能だという。また、人間を基にすることで半人半妖に化けることもできる。

 

 

✾この妖怪に纏わる逸話✾

 

・吸血鬼異変

 

 幻想郷に初めて吸血鬼が現れた際、縦横無尽に暴れ回った異変である。詳しくは英雄伝、博麗霊夢(後述)の異変解決例を参考にしてほしい(*4)。

 この妖怪はこの騒動に乗り気ではなく、紅魔館で大人しくしていた。ところが終幕の直前となったところで妖怪の山まで姉を迎えに行き、吸血鬼を叩きのめして回っていた最強の妖怪を逆にこてんぱんに叩きのめしたという。真偽のほどは定かではないが、こうして私の耳に伝わってきている以上、完全には嘘と言い切れない。

 

・第一一九季の地震騒動

 

 とある満月の日の深夜、幻想郷中が震撼した事件である。その実態はレーツェルと鬼の伊吹萃香(後述)の喧嘩の余波であったのだが、原因を知る術がなかった人間の里ではしばらくの間、厳戒態勢が敷かれた。

 二人は互角の戦いを繰り広げていたが、最終的には八雲紫(前述)の手によって鎮圧された。最強の妖怪である鬼とまともにやり合えるほどとなると、前述の吸血鬼異変での噂も真実味を帯びてくる。

 

 

✾目撃報告例✾

 

・あいつから貰った炬燵のおかげで冬が温かくなったわ (博麗霊夢)

 

 魔道具作りにも通じているようだ。外の世界の道具を象った物を作ることが多いらしい。

 

・偶に魔法で猫耳を生やすんだが、そこが弱点だぜ (霧雨魔理沙)

 

 黒白の魔法使いの前では二度と生やさないと言っていた。

 

・何だか気が向いたから神社に参拝しに行ってみたら吸血鬼がいて驚いた。すぐ逃げ帰ってきたけど、やっぱりあの神社はもう妖怪に乗っ取られているんだな (匿名)

 

 嘆かわしいことに博麗の巫女は完全にこの妖怪を信用してしまっているようで、偶に留守番を任せることさえあるそうだ。

 

・夜に里を出歩いてて突然声をかけられたと思ったら、落し物だと財布を渡された。中身はまったく減ってなかったし、見た目は幼くて可愛くて女の子だし、さっき吸血鬼だってことを知ったけど危険は全然なさそうに見えた (匿名)

 

 この妖怪は人間に対し非常に友好的なため、次に会った時のためになにかお礼の品を用意して、そのまま交友関係を築いていくのもありかもしれない。義理堅い彼女なら相応のお返しをしてくれるはずである。

 

 

✾対策✾

 

 この妖怪が人間を襲ったという報告は無い。むしろ助けられたという報告さえ挙がっている。

 妖怪にも人間にも分け隔てなく友好的なため、悪魔と言えど必要以上に恐れる必要はない。その気があれば世間話に花を咲かせることもでき、仮に不愛想な返事しかしなかったとしても牙を向くことはない(*5)。

 ただし、彼女と交友関係がある人間や妖怪に手出しをしようとすると、自分が危害を加えられた時以上に本気で襲いかかってくる。うまくよき関係を築くことができれば吸血鬼の庇護を得たも同然となるが、下手をするとこちらに敵対する意思がなくともあちらにはあるという最悪の状況に陥るため、十分な注意が必要だ。

 

 どれほど実力に自信があろうとも、この妖怪を倒そうなどとする事は止めた方がよい。余程悪質な戦闘でない限りは快く引き受け、死なない程度に相手をしてくれるが、本気で退治しようとするとなると話は別である。吸血鬼の持つ超人的な身体能力、音さえも越えることを可能とする推進力を得る翼、何百年と磨いてきた数多くの魔法、この世の法則を根底から否定する恐ろしい能力などを相手にしては、どんなに優れた策を講じようとも勝負にならないだろう。

 認識した現象の因果関係を断ち切るということがどういうことなのか、今一度その真意を見つめ直し、立ち向かう事の無謀さと無為さを理解する必要がある。

 

 また、この妖怪が狂った帽子屋を名乗っている時は近寄らない方がいいとの情報がある(*6)。用心するに越したことはないだろう。

 

 

 

*1 あくまで比較的。悪魔だけに。うまいこと言った。

*2 本人いわく「デスティニーガンダムみたいな感じ」とのことだが、意味が判らない。

*3 単純な速さだけなら鴉天狗をも越えてしまっているかもしれない。

*4 別に博麗霊夢が解決したわけではないのだが。

*5 代わりにひどく落ち込む。

*6 水銀という毒を使った帽子素材を作る帽子屋が、その作用によって己を見失っていく様から取っているらしい。彼女自身が帽子を売っているわけではない。

 

 

 

 

 

 □ □ □ The Grimoire of Marisa □ □ □

 

 

 

 

 

☸童話「赤ずきん」

 ・使用者    レーツェル・スカーレット

 ・備考     単なる小手調べ、演劇&奴隷タイプ

 ・参考度    ★★★

 

 人一人どころか五人は軽く飲み込めそうなほど巨大な狼を召喚するスペルカード。魔法というよりも魔力の集合体に近いらしいが、なぜだかレーツェルの意思とは独立して動くし、どうにも真似できそうにない。

 狼の出現と同時に水の性質を持った魔力が周囲を漂い、狼はそれを足場にして空中を縦横無尽に駆け回る。飛び散る水滴にも当たっちゃいけないから、早めに狼を撃破しないとどんどん難しくなっていく。

 なんと使用者と狼で疑似的に勝負することもできるらしい。最早使い魔だな。

 

 

☸童話「長靴をはいた猫」

 ・使用者    レーツェル・スカーレット

 ・備考     猫耳を攻めると一瞬で陥落する、ドーピングタイプ

 ・愛嬌度    ★★★★★★

 

 妖術で猫の妖獣に化け、その特性を魔法で手に入れる技。吸血鬼が猫並みの機敏さを手に入れたらもう手に負えない。

 以前宴会の際に耳をくすぐったら、それ以来私の前では使ってくれなくなった。小動物みたいで結構可愛かったんだけどな。

 

 

☸童話「北風と太陽」

 ・使用者    レーツェル・スカーレット

 ・備考     弾幕の竜巻、演劇&バグ&移動型ストレスタイプ

 ・密度     ★★★★★★★

 

 とにかく大量の弾幕を作り出した後、そのすべてを自分を中心に回らせるスペルカード。

 まさしく弾幕の竜巻だ。攻略するには超火力で打ち抜くか、竜巻から離れつつちまちまと削るしかない。

 

 

☸光弓「デア・ボーゲン・フォン・シェキナー」

 ・使用者    レーツェル・スカーレット

 ・備考     なんちゃって悪魔の太陽、演劇タイプ

 ・参考度    ★★★★★★

 

 矢を真上に撃ち放ったかと思えば、それが太陽と化して大量の光線が落ちてくるスペルカード。上にばかり注意を向けているとレーツェルが直接放つ矢の形をした弾幕にやられてしまう。

 使用者と上空の両方に注意を向けなければならず、視界的に上を向くとレーツェルが見えず、レーツェルを向くと太陽を確認できないという、なかなかにいやらしい作りをしている。片方だけなら避けるなんてわけないが、両方が揃うと脅威と化す。

 こういう、視界の偏りを利用した弾幕は結構参考になるな。

 

 

☸神刃「ジャブダ・ベディ」

 ・使用者    レーツェル・スカーレット

 ・備考     圧倒的スピード違反、バグ&私自らタイプ

 ・速度     ★★★★★★★★

 

 残像すら見えない超速度で相手を囲むように飛び回るという天狗の真似事みたいなスペルカード。真似事とは言うが、正直なところ天狗より速いかもしれん。

 最後にはレーツェル自らが突っ込んでくる。それまでの四方八方からの弾幕で消耗しているところに突貫してくるから、大体それで勝負が決まる。

 

 

☸影絵「無形の落とし子」

 ・使用者    レーツェル・スカーレット

 ・備考     キモい

 ・参考度    ★

 

 空間中の影を操るスペルカード。昼には使ってこない。

 夜なんてどこもかしこも暗闇ばかりなんだから実質的に空間を支配する技だ。一度避けたら基本的におしまいな弾幕と違ってリアルタイムで影を操ってくるから、回避し続けるのはとても難しい。そのうえ闇に紛れて見にくいし、うねうねと蠢く黒い触手を見ると背筋がぞわっとする。

 弾幕じゃないし、なんかおぞましいし、あんまり参考にしたくはない。

 

 

☸童謡「ハンプティ・ダンプティ」

 ・使用者    レーツェル・スカーレット

 ・備考     紅魔館にて見た、引きこもり奴隷タイプ

 ・ストレス度  ★★★★★★★

 

 レーツェルの姿が消え、代わりに卵の形をした力の塊が一つだけ残るスペルカード。その卵が完全に地面に落ち切るまで、どこからか生み出される弾幕を避け続けなければいけない。ちなみに卵の落下速度はとてつもなく遅い。

 相手の姿が消えていると攻撃される方向が判断しにくいうえ、終わる時間を自分の目で確認できるといういやらしさ。卵が全然落ちていないとまだまだ続くことに絶望し、あと少しだと油断すればすぐにやられてしまう。

 もう卵を先に潰してしまった方がいいかもしれない。レーツェルの方で別に時間を計っているとのことだから、卵が壊れてなくなったとしても、卵が落ち切った頃の時間にスペルカードが終わってレーツェルが現れる。

 ちなみにどこに行っていたかと言えば、仙術を参考に魔法で作った自前の空間らしい。私もそんな便利な魔法が欲しいな。



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六.天を裂く業炎、天を衝く光翼

前話に同時更新で一〇〇話目記念として、幻想郷縁起における「レーツェル・スカーレット」の記述、およびグリモワールオブマリサの中でのレーツェルの弾幕の抜粋しました。
読まなくとも物語にはなんら支障のない小ネタなので、興味のある方だけ見ていただければ幸いです。


 年が一つ終わり、同時に季節も切り替わる。食欲の秋が過ぎ去った後には寒気が溢れ返る時期がやって来て、つい昨日なんかは大雪が吹き荒れてまさしく冬という感じだった。出かける時はマフラーを巻くようになったし、レティと一緒にかき氷を食べたりした記憶は新しい。

 そしてこれは余談ではあるが、今年も明星の光は太陽に打ち消され、負けていた。俺やフランは最初から期待なんてせずに蕎麦をすすっていたけれど、レミリアとパチュリーはとても残念そうに肩を落としていた。次に新年を迎える時には原因を探ってみるのもいいかもしれない、と考えている。

 そして現在。館の外、庭の上空だけに一時的に赤い霧を張り巡らし、吸血鬼の行動が容易になるようにしていた。そんな中で悠々と飛び回り、弾幕を撃ち合っているのはフランとパチュリーだ。

 すでに"禁忌『フォーオブアカインド』"という自身の分身を作り出すスペルカードを行使していたフランは、パチュリーが生成する弾幕を分身とともにひょいひょいと軽く避けていく。それどころか回避をしつつ弾を打ち返し、弾幕が薄いところにいる分身はさらなる密度を備えた弾幕を撃ち放っていた。

 パチュリーはあまり回避が得意ではない。このままではじり貧だと判断したのか、パチュリーは吸血鬼の弱点である流水に目をつけたようだった。

 ――"水符『プリンセスウンディネ』"。

 高水圧の光線、大量の泡がパチュリーの魔導書から生み出され、宙を覆い尽くす。瞬く間のうちにフランの分身がすべて消され、最後に残ったフランの本体へと流水が襲いかかる。

 第三者からすれば一見絶体絶命に見える状況ではあったが、逆にフランはこれを待っていたようだった。水で容易に近寄らせないようにすることで、一瞬であろうともパチュリーが確実に油断する瞬間を。

 ――"禁忌『レーヴァテイン』"。

 フランが持っていた、両端がスペードのような形をしたぐにゃぐにゃと折れ曲がった棒に、莫大なまでの炎が灯る。やがてそれは紅魔館を半分までなら両断できるのではないかというほどに巨大な一つの大剣となり、間髪入れずに振り下ろされたそれが空中を漂う水滴などものともせずにパチュリーへと迫った。

 あと一歩早く魔法が、それこそ"土金符『エメラルドメガロポリス』"辺りの強固なガードを作り出す魔法を使おうとしていればパチュリーにもまだ勝機があったかもしれないが、今回はフランのタイミングの見極めが一歩先を行った。

 今まさに己を飲み込まんと、しかし眼前で止まった炎の大剣を前に、パチュリーが両手を上げて降参の意を示す。フランの顔に嬉々とした笑みが浮かび、二階のテラスで観戦していた俺とレミリア、咲夜の方へとバッと振り返った。

 

「お姉さまー! 勝ったよー!」

 

 イスから立ち上がり、一直線に俺の方に飛び込んできたフランを受け止めて「おめでとうございます」とその頭を撫でる。

 フランの後を追ってゆっくりと降りてきたパチュリーが、小さくため息を吐いて、若干悔しそうにフランを見やった。

 

「まぁ、負けるのはわかっていたんだけど……悔しいものは悔しいわ。というか、火で水を強引に突破されちゃうんじゃ、相性もなにもあったもんじゃないわね」

「ふふん、それが妖怪の、ひいては鬼の名を持つ種族の在り方ってものでしょ? 気に入らないものがあるなら強引に力でねじ伏せて、そのまま真正面から罷り通っていけばいい」

「……妹さま、それ、誰から教わったのかしら」

「萃香って鬼」

 

 フランの回答に、パチュリーが苦々しく顔を歪めた。レミリアもあまりいい顔はしない。以前の三日おきに宴会を行うという異変の際に相当コテンパンにやられたのか、二人とも萃香を若干ながら目の敵にしていた。反応を示さないのは静かにたたずんでいる咲夜だけだ。

 

「フラン、あんまり萃香の言うことは真に受けちゃいけませんよ。あの鬼は適当ばっかり言うんですから」

「そうなの? お姉さまがそう言うなら、気をつける」

 

 嘘は言わないが、適当なことはたくさん言う。これでいいんじゃね、とばかりな雑で丸投げ的な発言が萃香には多い。

 こくこくと首を縦に振るフランを見ると、姉の言うことをしっかりと聞くいい子だというイメージを抱く反面、こういう素直なところがあるから萃香等の思想に感化されやすいのだろうかとも思った。そろそろちょっとくらいは反抗心を見せて、少々の姉離れをしたりとか……。

 

「お姉さま? なんで泣いてるの?」

「な、泣いてません。寂しくなんて思いません」

 

 目じりに溜まっていた水滴を即座に拭き取る。こんなことで侘しくなっていてはキリがない。

 なにかを察したように肩を竦め、俺を見やるパチュリー、心配の目線を俺に送ってくるレミリア、不思議そうに首を傾げるフラン。三者三様の目を向けられ、身じろぎをした。

 

「んー……」

 

 フランが虚空を見つめ、悩むように唸っていたかと思えば、笑みを浮かべて俺と顔を合わせた。

 

「ねぇ、お姉さま。どうせだから私とスペルカードで戦いましょう? 最近あんまりやってなかったよね」

「……そうですね。わかりました、受けて立ちます。何枚にしますか?」

「二枚」

 

 そんな話し合いの後、「やるなら被害は抑えてね」というレミリアの注意に二人して首を縦に振って了承し、それぞれ反対側の方向へと飛び退いた。レミリアの願い通りできるだけ館へ危害が及ばないよう庭の上の方にまで移動し、改めてフランと向き直る。

 最近は出かけることが多く、フランとスペルカードや弾幕合戦をやることが少なくなっていた。夜はいくらでも時間があるのだが、人間の活動時間に合わせて生活している今の俺たちにとってそれは就寝前の時間帯なので、気を張り巡らせなければならない弾幕戦をやることはあまりない。

 さて、まさしく本気でかからなければフランの相手をすることはかなわないことは、ほぼ互角の実力を持つ俺やレミリアが一番理解している。

 魔力を練り合わせ、手の平の上に一匹の小鳥を創造した。これが爆発した時が開戦の合図だとフランに伝え、彼女が頷いたのを確認したのちに飛び立たせる。

 一秒、二秒、三秒。パンッ、と風船が割れたような破裂音が宙に響くと同時、互いに制空権を握ろうと一瞬のうちに膨大――二〇〇メートル先まで届くほど――な数の弾幕を生成した。

 

「さぁ、お姉さま! 私と一緒に踊りましょうっ!」

「ええ、心行くまでフランの童話に付き合いますよ」

 

 互いの魔力弾同士が激突し、開戦ののろしを上げる。数え切れない力の塊の衝突に魔力の残滓が飛び散る中、弾幕の網の隙間を縫って迫ってくるいくらかのフランの赤い弾幕を確実に回避しつつ、通常弾幕の中でも愛用をしているペンギン型の弾幕を生み出した。互いに引き合う特性を持ち、なにかに当たることで小さな爆発を起こす特殊な魔力弾だ。

 不可思議な軌道を見せながら飛んでくるそれを、フランは決して注視しようとはしない。何度も戦ってきたこともあって、このペンギン弾幕の一番効果的な攻略法を彼女は心得ている。すなわち、いくら軌道が複雑に変化しようとも途中で脱落する弾が多いゆえに最後にフランのもとへとたどりつくペンギンが少なく、それだけを注意して対処すれば攻略は比較的簡単なこと。

 だからフランはペンギン型弾幕が自分の近くに来るまでは決して注意を向けず、どれがどんな軌道で自分に迫ってくるかを敢えて無視する。それどころか、それに悩むだけの思考を己が弾幕の生成へと傾けるのだ。

 フランが火炎を纏う中型の魔力弾の大量生成、発射。その一つにペンギンが当たった途端、内に秘められていたものが解放されたかのように、半径一〇メートルに届くのではないかと思うほどに巨大な爆発が巻き起こった。

 こんなものに当たってはたまらない、と大きめに弾幕を避けていく。連鎖爆発を起こさないためか、互いの弾の間はそれなりに空いていたので、回避は難しくない。その間にフランも数が減ったペンギン型弾幕を狼狽した様子もなくきっちりと避けていて、それぞれの弾幕が背後に消えると、薄い赤の残光が残る中で再び対峙することになった。

 

「ふんっ、いい加減お姉さまの飛べない鳥が飛ぶ弾幕は慣れたわ。過程が厄介なだけで、慌てず当たる直前だけ注意してれば簡単に避けられる。そう、見かけ倒しで実際は大したことがないのよ」

「あいかわらずフランの弾幕にはパワーがあります。当たったらただでは済まないでしょう。まぁ……当たったら、ですけどね」

 

 それぞれ軽く挑発をして、鼻を鳴らした。別に仲が悪いわけではなく、戦いの最中ではこういう会話をするのが一番『それらしい』し、乗り気で戦闘を行っていけるということで昔からそうしてきている。

 どうせ通常弾幕程度ではこのレベルの相手を決して仕留められないことは俺もフランも理解していた。今のはほんの肩慣らし、準備運動。

 すっ、と一枚のスペルカードを構えると、フランも口の端を吊り上げて同じように取り出した。

 ――"神刃『ジャブダ・ベディ』"。

 ――"禁弾『カタディオプトリック』"。

 二枚の制限がある中、フランを相手に"童話『赤ずきん』"や"童話『北風と太陽』"なんて小手調べのスペルカードなんて使っていられない。俺が切り札と公言している一枚がいきなり出たことにフランが目を見開き、そしてすぐにその顔が獰猛な笑みへと変わった。

 翼に妖力と魔力を送り、赤白い光の粒子でできた光の翼を構成、その向きを少しだけ後ろに傾け、推進力を付加。瞬間、飛行速度が音を越えた。

 吸血鬼の動体視力が飛び抜けているとは言っても、自身を中心とした全方位を縦横無尽にとてつもない速度で動かれていて捉えられるはずがない。だからこそフランは敢えて見ようとはせず、弾幕合戦で磨いた気配を感じ取る術で瞬間的に俺の位置を探ることにしたようだった。

 フランの周囲を飛び回りながら無数の弾幕を放つ俺に、彼女は中型の弾が後ろを追従する大型魔力弾を形成し、幾度となく俺を狙って撃ってきた。それを避けること自体は難しくはないのだが、空中で突如なにかに衝突したかのように跳ね返るものだから、一度回避した弾幕にも注意を向けなければならなくなる。

 いくら音速を越えて動くことに慣れていると言っても、同種のフランが捉えられぬほどのスピードを完全に制御し切れるわけがない。壁に当たったボールのごとく軌道を変化させる弾をフランが何度も放ってきて、気づけばそれが四方八方そこら中に漂っていた。すべてを躱そうと意識していれば当然飛ぶ速度も落ちてしまい、そうなればフランが目で捉えられるほどになってしまう。

 回避に夢中でフランへ放つ弾幕が雑になり、その分だけ彼女は多くの跳ね返る魔力弾を創造する。これでは悪循環が続くだけだ。早々に終わらせる必要がある、と翼の向きを操作した。

 

「行きますよ」

 

 "神刃『ジャブダ・ベディ』"は相手を囲むように飛び回りながら無数の弾を放ち、最後に自分が弾幕の一つとなって対象へと突撃する技だ。そうして俺はスペルカードを終わらせるため、今まさにフランへと音速越えの速度で突進をしかけた。

 強い者となると背後からの接近には敏感なものだ。敢えて側面から突っ込んで、しかしその瞬間にフランが口元に笑みを浮かべたのを見て、俺はこの瞬間を狙われていたことを悟った。

 もう方向転換は間に合わない。意を決してそのまま突貫し、体当たりをしかけ――フランに触れたと同時、その身が赤い霧となって掻き消えた。

 

「お姉さま、覚えてる?」

 

 そうしてそのまま霧が俺を覆い、四肢を縛りつけてくる。さらに背の方に這い寄ったそれは『光の翼』に干渉し、出していた粒子を消してきた。

 うまく身動きが取れなくなった俺の前に悠々とフランが降りてきた。

 

「前に音がする居場所をずらす魔法を見せたことあったよね」

「永夜異変の調査に出かけようとする前、フランの部屋に寄った時のことですか」

 

 音を消す魔法を作りたかったけれどうまくいかず、音を移す魔法にしてみたのだったか。真上から「ばあっ!」と驚かされた光景が頭の中によみがえる。

 

「さすがにお姉さまはよく覚えてるねぇ。あの魔法、改良してる途中にふと思いついたんだ。音を移せるんなら光も移せるんじゃないかなって」

「……なるほど。視界に映るものをずらす魔法ですか」

「ご名答。お姉さまが突っ込んだ先にあったのは私が用意しておいた魔法の罠……本物の私はそのほんの少し上にいたのよ」

 

 体を縛る赤い霧は意外に強度が高いというか、どうにも肉体を拘束しているわけではないらしい。内部に溢れる魔力や妖力など、特殊な力を封じているようだ。

 これでは吸血鬼の特性で己が体を霧にしても、蝙蝠(コウモリ)にしても逃れることができない。してやられた、と悔しく思う反面、フランはこの光を移す魔法と幻想を縛る魔法が完成したからこそ今日俺に勝負を挑んできたのだろうとなんとなく察した。

 

「さぁ、お姉さま。大人しく」

「すると思いましたか?」

 

 だからと言ってここで手を抜いて諦めるのはフランへの侮辱に当たる。最後まで全力で抗って、勝ちを取りに行く。

 ――"鬼の童話『桃太郎』"。

 聞き慣れぬスペルカード名にフランが警戒し、速やかに勝負を決めようと軽く炎を灯したレーヴァテインを振りかぶったのが見えた。それが振り下ろされるよりも早く、俺の中で編んでいた魔法が完成する。

 頭に二本の捻じれくねった鬼の角が生え、全身に圧倒的なまでの力が溢れ返るのを感じた。赤い霧に捕らわれたままでありながら強引に、ただただ力任せに体を動かして、フランが振るった炎を纏う棒切れを受け止める。

 

「新しい手札を用意してきたのはフランだけじゃないんですよ」

「これ、まさか鬼の……!?」

 

 萃香と初めて出会い、戦った際、俺は吸血を行うことで彼女の鬼としての力を一部解析することに成功した。その時に得た鬼化魔法をスペルカードで使えないかと考えた結果、完成したのがこの"鬼の童話『桃太郎』"である。

 "童話『長靴をはいた猫』"と同じ、変化すること自体が真髄という、強化タイプのスペルカードだ。

 鬼の怪力に身を任せ、レーヴァテインを手首の捻りだけで遠くへぶん投げると、それを強く掴んでいたフランも一緒に飛んで行く。いや、見たこともないスペルカードを前にして、距離を取るためにわざと投げられるようにしていたのか。どちらにせよ好都合だ。鬼の怪力と莫大な魔力と妖力を振りかざし、赤い霧の拘束を解除した。

 ある程度離れたところで制止し、フランが不服そうに頬を膨らませる。

 

「もうっ、せっかくお姉さまを倒すために開発してきたのに、こんなにあっさり……」

「あっさりじゃありません。このスペルカードと……あともう一枚以外に、霧の拘束を破る方法が私にはなかったわけですから。というか今の拘束魔法、もしかして霊夢の霊術を参考にしてました?」

「あ、気づいた? まぁ、破られちゃったんだけどねぇ」

 

 それに現状は俺が不利な立場にある。スペルカード使用可能回数二枚というルール上、今使っている"鬼の童話『桃太郎』"の制限時間を迎えてしまえば俺の負けになってしまう。このまま逃げ回ることに集中されたら俺の敗色は濃厚と言ってもいい。

 ただ、フランはそんな美しくない真似はしないだろう。弾幕ごっこの美しさを理解し、それに興じることが好きな彼女だからこそ、どんなスペルカードを前にしても美を損じる手は打たない。

 予想通り、フランは逃げの一手には入らず、真っ向から勝利を収めるための最後の一枚、それも十八番に当たるスペルカードを取り出した。

 ――"禁忌『レーヴァテイン』"。

 フランが握っていたぐにゃぐにゃの棒に宿る魔力の炎が火薬を投じたかのごとく膨れ上がり、この庭の天を覆う紅霧さえ消し飛ばすことが可能だろうほどの大剣を作り出す。

 

「行くよ! お姉さま!」

「はい。迎え撃ちます」

 

 圧倒的業火を前に避けることをせず、むしろフランへと向けて突撃をしかけた。今の俺は鬼の力を宿しているのだ。鬼は、相手の全力の攻撃を躱そうとするなんて、そんなつまらない真似はしない。

 数瞬のうちにフランのすぐ目の前まで接近し、迫り来る爆炎を纏ったレーヴァテインをそのまま両手の平で受け止めた。皮膚が焼かれ、細胞が死滅する。鬼の力がなければ押し負けていただろうほどの怪力と膨大な魔力を前に、けれども俺はなんとか耐えていた。

 

「まだまだぁ!」

「う、ぐむぅ……!」

 

 炎が勢いを増す。元々三姉妹の中で力という一点だけではずば抜けているフランの一撃だ。いくら多少鬼としての力が加担したところで、容易に止められるはずがない。

 だけれど、この身に宿るは単なる鬼の遺伝子ではなかった。四天王の一人とまでされる最強最悪の鬼、伊吹萃香の力だ。

 フランから魔力を注がれ、レーヴァテインの出力が上がっていくのと並行し、俺もその力を解放していた。『密と疎を操る程度の能力』――魔法で姿かたち、力を借りているだけなこともあって、萃香には及ばない弱い力しか発揮できない。それでも使えることは確かなのだ。

 フランが炎を増幅させ、俺がそれを借り物の能力で散らしていく。千日手と思われるそれもしかし、どちらかの力の限界はやってくるものだ。

 腕の細胞がついに使いものにならなくなり、ボロボロに崩れてフランのレーヴァテインを受け止めることができなくなる。フランが勝利を確信した笑みを浮かべたのを横目に、その瞬間の隙を見逃さない。

 吸血鬼が元々備えている紅霧へと身を変化させる力。そして、『密と疎を操る程度の能力』を用いての肉体を霧へと変化する力。その二つを合わせ、まさしく一瞬にして己が身を疎とし散らした。

 フランの反応は速い。霧になるならばそれごとまとめて消し飛ばしてしまえばいいと、炎の密度を上げるのではなく拡散させた。業炎が辺りを埋め尽くし、霧なんてものは存在できない空間が仕上げられる。しかしその手は一歩遅い。俺はすでに実体化していてフランの背後に立っており、鬼の怪力のままに再生途中の腕を振り回していて。

 

「……ここまで、ですね」

「うん。そうね、ここまで」

 

 ――そんな俺の手もまた、一歩遅かった。

 俺がフランの眼前で拳をピタリと制止させたのと同じように、フランもまた、俺の首のすぐ横でレーヴァテインを止めていた。つまり引き分け、勝ちはどちらでもない。

 俺が腕を下ろすと、フランもレーヴァテインの炎を消し、ほぅ、と息を吐いた。パチュリーとの連戦だったから疲れたのか、俺の胸に身を任せてくる彼女をすでに再生している両腕でそっと抱き留める。

 レーヴァテインを受け止めていた腕が崩れていった際、俺はそのさまを見てフランが隙を作ったと、勝ちを確信したと勘違いをしてしまった。そもそもの話、フランが俺を前にして油断なんてするはずがなかったのだ。彼女はただ反射的に期待を少し顔に表してしまっただけだった。

 結局俺の行動は不意打ちでもなんでもないものに変わり、フランに最後の一撃を放つ直前で、俺も同様の一撃を彼女から食らいかけてしまった。その結果としてフランの眼前に迫る俺の拳、俺の首元を薙ぎ払おうとする炎の剣という構図ができ上がり、引き分けになってしまったわけである。

 

「あー、もう、やっぱりお姉さまは強いわ。今日は本気で勝ちに行ったのにー……」

 

 ぎゅぅ、と悔しそうにフランが俺の服を握り締めてくる。そんな彼女の頭を撫でようとしたが、引き分けなのになぐさめるのはおかしいんじゃないかと思い、手を引っ込めた。代わりに、とりあえず俺もフランの服を堅く握ってみる。

 

「お姉さま、しわになっちゃう」

「私のもそうですよ」

 

 フランがくすくすと笑った。遊びも終わったので、離れたくないとばかりに服を握って離さないフランを抱きしめたまま、テラスの方へとゆっくりと降りていく。

 そんな中、なにを思っているのか、フランが上目づかいでじっと俺を見上げていた。そうして手を伸ばして、俺の頬に触れてくる。

 

「ねぇ、お姉さま」

「なんですか?」

「楽しい?」

「楽しいですよ」

 

 そっか、とフランが手を引いた。出し抜けにどうしたのかと小首を傾ける俺を、彼女は楽しげな笑みを浮かべて見つめてくる。

 

「なんか唐突に思っちゃった。いつかお姉さまの笑顔、見てみたいなって」

「……笑顔、ですか」

「お姉さまっていっつも表情変わらないからねぇ。私ならお姉さまの内心を察するくらいわけないけど、やっぱりわかりやすい形でも知りたいわ」

 

 私がこんなに楽しいんだから、お姉さまにも同じくらい面白い気持ちでいてほしい、とフランが言う。

 自身の頬に手を添えた。いつか俺の笑顔が見たい、内心を表情というわかりやすい形で知りたい。それがフランの望みなら、いつかは。

 でも。

 笑顔――それはいったいどういう時に、どういう目的で浮かべるものだっただろう。

 一瞬、本気でそんなことを思いかけた。そうしてすぐに、機嫌がいい時、心躍ることがあった時、とにかく愉快な気分な際に浮かべるものだったと思い出す。フランが今感じているような気持ちを表現するためのものであったと。

 

「そうですね。フランがそう言うならいつかは、見せてあげられたらって思います」

「約束してくれる?」

「はい。指切りげんまんです」

 

 フランと小指を絡めた。何百年も前もこうして約束を交わしたことがあったな、と当時のことに思いを馳せる。

 その時の気持ちも思い返して、ぎゅっ、とフランを強く抱きしめた。

 

「フラン。近いうちに、さとりを紅魔館に連れて来ようと思ってるんです」

「さとり? えぇっと、こいしの姉で心が読める妖怪だっけ」

「私の能力で心を読めなくするので、フランも仲良くなってあげてくれませんか?」

「ん、そうね。わかった、受けて立ってあげるわ。お姉さまは渡さないって宣言もしておかないといけないし」

 

 瞳に小さな炎を灯すフラン。一緒に二階のテラスに着地をし、レミリアやパチュリー、咲夜のもとへと近づいて、丸テーブルを中心にして用意されていたイスに腰をかけた。レミリアとパチュリーが「お疲れさま」と俺たちを迎え、咲夜が紅茶を入れてくれる。

 お礼を言いながら、紅魔館の庭や、館の外側の景色へと視線を送った。雪の彩ったこれまた風情がある世界を目の保養とし、なんとはなしに思う。

 去年は異変がない一年だったが、今年はそうはいかないだろう。少し気を引き締め直しておかないといけない。

 

「美味しいですね」

「ありがとうございます」

 

 紅茶の味に舌鼓を打ちながら、とりあえず今はフランと戦った疲れを癒そうと、休息へと意識を傾けた。



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七.答えを乱す正直な嘘

 昨日はすごい大雪だったらしく、樹木の木の葉部分、地面や建物の屋上など、至るところに今にも落ちそうなほど大量の雪が降り積もっていた。人里では屋根が落ちないようにと雪かきに手を尽くしている人間が大勢いるに違いない。

 そんな前日とは打って変わって本日は晴天であり、目出度いことにさとりを紅魔館に連れてくる初めての日でもあった。

 さすがにさとりも半年近く続けてきていれば地上の見聞も広まってきているようで、今回は地霊殿はもちろん、地底へ繋がる大穴への出迎えもいらないとのこと。場所を知っているこいしとともにあちらから紅魔館を訪れて来てくれるとのことで、俺は自室にてフランと遊びながらそれを待っていた。

 

「お姉さま、これで終わりよ! ブラックマジシャンで攻撃をしかけて、お姉さまの残りのヒットポイントをすべて削るっ!」

「ふっふっふ、甘いですね。トラップカード、聖なるバリアミラーフォース発動。今、フランのフィールド上にいるモンスターはこれまで私を攻撃してきていたおかげですべて攻撃表示……だからフランのモンスターを全部破壊することができ」

「神の宣告っ!」

「負けました」

 

 俺が肩を落とすのとは対照的に、フランは口元を緩めて誇らしげに胸を張る。今のところ三連敗の負け越しだ。フランは三姉妹の中でボードゲームやギャンブルの系統などには一番強く、勝てることがあまりない。そういうものの勝率は大体フラン、俺、レミリアの順番である。

 今やっているのは外の世界のカードゲームだった。先日香霖堂に寄った際、前世で見たようなカードゲーム用の紙束が入っている箱を見つけたので、そこそこの値段で買ってきた。霖之助が「その中には神の写し身たる三枚のカードが」とか慌てていたが、霊夢と魔理沙が可愛そうなものを見る目で彼を見ていたので、とりあえずその場の空気的に俺も鼻で笑っておいた。

 

「フランは強いですね……勝てる気がしません」

「その割にいつも勝つ気で挑んでくるよねぇ、お姉さまは」

「そりゃあそうですよ。そうじゃないとフランに失礼ですし、負ける気でなんていたら遊びとして成り立ちません。それに……」

「それに?」

「……姉としての面目が立ちません。妹に負けっぱなしだなんて。まぁ、そうして挑み続けた結果として負けも重なってるわけですけど」

 

 フランが目をぱちぱちと瞬かせた後、頬を緩めてがばっと俺の胸に飛び込んできた。ちょうど間にあったカードが散乱し、せっかく別々の束にまとめた俺とフランのそれが混ざり合う。

 

「むふふぅ、ちょっと拗ねてるお姉さま可愛いなぁ。大丈夫だよ、私はどんなお姉さまでも尊敬してあげるから」

「す、拗ねてませんが」

「私に隠し事はできないよ? お姉さまのことはなんでもお見通しだからねぇ。ほらほら、ねぇ、悔しい? 恥ずかしい? 姉としての面目が立たないどころか倒れ伏してるけどどんな気持ち?」

「ちょ、ちょっと、フラン」

 

 流れるままに押し倒されて、両手を脇腹に入れられそうになる。俺がそこをくすぐられることを弱いのはレミリアはもちろん、フランも当然知っていた。くすぐりを回避するために吸血鬼としての反射神経を全力で発揮し、自身の両手でフランのそれを防いでいく。

 そんなことに集中していれば他のことには気が回らない。フランの端正な顔立ちが眼前まで迫り、ニヤリと口の端を吊り上げたかと思うと、彼女の頭が少し横にずれた。吸血でもするつもりなのか、と戦々恐々としつつ、脇を守るのに手いっぱいで対処し切れない。

 ふぅー、とフランの淡い吐息が耳元にかかり、そのこそばゆさに一瞬体を硬直させてしまった。まずい、と思った時にはすでに遅く、フランの両手が俺の脇の方へ――。

 

「なにしてるの?」

 

 その直前で俺やフランとは別の声が近くで聞こえ、ビクリと二人して体を震わせる。しかしこれはチャンスだ。声の主を確認するよりも早くフランを引きはがし、即座に飛びかかられても反応できる距離を取った。名残惜しそうに少し手が伸ばされてくるさまには若干の罪悪感を覚えるものの、あのままでいられたらたまったものではなかったからと、自分を無理矢理に納得させる。

 そこまで至ってから、ようやく謎の声の主の確認に移った。とは言っても半ば予想していたというか、それが誰かは声音からほとんど確信していた。

 

「ようこそおいでくださいました、こいし、さとり」

「あ、うん。ただいま?」

「……お邪魔します、よ。こいし」

「あ、こいしこんばんわー」

「うん、ごちそうさま」

 

 もはやなにがなんだかわからないが、今は昼だし、なにも食べ終わってないどころか食べ始めてすらいないことだけは確かだ。

 すぐ横にしゃがみこんだこいしがいて、その隣でさとりがほんの少し頬を赤らめて立っていた。こんな近くに来るまで気づけなかったのは、目の前のことの対処に夢中だったうえ、こいしの能力が合わさっていたせいだろう。

 とりあえず、さとりに赤くなっている理由を聞くと、目を背けて「寒かったからじゃないですか」と帰ってきた。そういえば寒い中をずっと飛んできてもらったんだった、と遊びに興じていた後ろめたさもあって、ちょっとだけ申しわけない気持ちを抱く。

 

「その、こいしに連れられるがまま勝手に入ってしまったのですが……よかったんでしょうか。えっと、門番もいたのにスルーしてきてしまって」

「大丈夫ですよ。私の知り合いは通してもいいように言ってます。それに、そうやってできるだけ誰にも会わず私の部屋に来るように言ったのは私ですから」

 

 俺がいなければ心を読むことを防ぐことができない。できるだけ人間や妖怪との接触を避けて俺のもとへたどりつかなければならないのはしかたがないことだ。

 この場にはフランがいる。俺が座ったまま左手を差し出すと、さとりは頷いて、俺と同じ目線の高さまでしゃがんでから手を取った。そうして能力を発動してさとりに誰かの心を読めなくさせたのとほぼ同時に、「ふーん」とフランがさとりをじろじろと眺めた。

 

「この人が最近お姉さまがぞっこんの人?」

「語弊があります」

「この人が最近お姉さまにぞっこんの人?」

「一文字変えただけなのに不思議ですね。意味がまるっきり反対方向に変わりました」

 

 そんな俺とフランの流れるようなやり取りに、さとりが小さく噴き出した。

 

「でも、あながち間違ってないよねぇ。特に後者」

「こいし、誤解を招くようなことは」

「え? うーん、私のは誤解もなにも事実だと思うんだけどねー」

 

 さとりとこいしのやり取りにフランの目が細まり、虎が倒れた鹿を前にして辺りのハイエナに向けるような表情をさとりに向ける。さとりが慌てふためいていたので、フランに擦り寄って「冗談はその辺にしましょう」と額を小突くと、彼女はぺろりと舌を出した。

 さとりがほっと息を吐いたのを確認し、とりあえず自己紹介に移った。

 

「こちらが私の妹、フランドール・スカーレットです。さとりは私の心象から多少はご存じですよね?」

「レーツェルはフランドールさんのことをよく考えますから。とても大切にされているのが心の様子からいつも伝わってきますよ」

「ふふん」

 

 フランが誇らしげに胸を張る。翼がぱたぱたと動いているところから見るに、どうやら嬉しがってくれているようだ。

 

「それでこちらが私の友達、こいしの姉の古明地さとりです。私と手を繋いでいるのは、こうしていないと心を読む能力を封じられないからです。他意はありません」

「ふぅん、そっか、そういうことならしかたないわ。うんうん、能力を封じるためだもんね。しかたない。しかたがないから、もう片方の手は私がもら」

「ダメだよフラン。お姉ちゃんと逆のレーチェルの手は私のなんだから」

 

 と、こいしがフランよりも早く俺の右手を握っては、フランに背を向けて守るようにした。フランはぱちぱちと瞬かせ、いかにも不満ですよと言わんばかりに頬を膨らませる。

 さとりがこいしを諌めようとしていたが、それよりも早くフランが立ち上がった。

 

「ふんっ、じゃあいいもん。お姉さまの両手なんて二人にあげるわ」

「あ、フラン」

 

 怒ったのか、いかにも出て行ってしまいそうな雰囲気に手を伸ばして引き留めようとする。ところがそういう気は一切ないらしく、素早く俺の後ろに回り込んだかと思えば、がばぁ、と背中に寄りかかってきた。

 首に手が回され、おんぶをするような態勢になる。喧嘩別れのようにこの場から去られなかったのはよかったものの、予想外の事態に少しばかり混乱し、「えぇと」とうまく思考を働かせることができない。

 

「代わりに私はここをもらうから」

「あ、ずるい」

「ずるくないわ。こいしが私のぶんを奪ったのが悪いの」

 

 横を見れば、こいしが口を尖らせてフランを見やり、フランはそんなこいしに視線をやって鼻で笑う。なんとはなしに逆側に目を向けてみると、どことなくさとりがもの欲しそうにフランを……というよりフランのいる位置を見つめているようにも見える。

 両手どころか三方向が花に包まれているが、状況は俺の意思とは関係なしにエスカレートしていく。こいしが「じゃあ私も」とフランの下に割り込もうとして、フランが必死にそれを防いで。そんなことをやられては俺もずっと座ってはいられず倒れ込んでしまい、それでも争い続けるフランとこいしのせいでさとりの手が離れそうになる。吸血鬼としての身体能力を駆使して、どうにかそれを手首の力だけで引き寄せると、勢い余ってフランとこいしの方にさとりが突っ込んでしまったりと。

 

「……はぁ。なにをしているのかしら、あなたたちは」

 

 散々な状況が主に俺の背中の上で繰り広げられている中、今度こそ本当の救世主が扉を開けて姿を現した。こいしとさとりは――さとりは大方俺のせいだけれども――二人とも俺をフランから助けてくれた割に最終的には俺をどうこうしようとする側に回ってしまった。四人目こそどうにかしてくれると信じて顔を上げる。俺の上の三人も別の誰かの登場にいったん硬直し、扉の方へ顔を向けた。

 呆れ果てたように腰に手を当てて俺たちを眺めるのは、俺とフランの姉、長女レミリア・スカーレットだった。その姿を確認すると、フランはどうでもいいやとばかりに俺の背中にぎゅっと張りつき、こいしも興味をなくしたようにそんなフランに割り込み始める。唯一さとりだけがぺこりと頭を下げた。

 再度ため息を吐いたレミリアが歩み寄ってきては、まるで猫をどかすようにフランとこいしの服の襟の後ろを摘まんで、ポイッと左右に放り投げた。俺を起こし、「大丈夫」と心配してくれるレミリアには多大なる尊崇の、じゃなかった。感謝の念を感じざるを得ない。

 

「あ、お姉さま、いたんだ」

「いたんだ、じゃないの。さっき丸っきり私のこと見てたじゃない」

 

 フランの反応はあいかわらずだ。こいしは、放り投げられた際に床を転がったのが面白かったのか、俺の背中に乗っかろうとすることも忘れて、楽しげに自分から床の上で転がり回っている。

 

「まぁ、いいわ。いつものことだもの。いや、まぁ、妹になめられてるのをいつものことって流すのもなんなんだけど……今はそれより優先すべきことがあるわ」

 

 レミリアはさとりの方に向き直ると、スカートの裾を摘まんで丁寧なお辞儀をした。

 

「ようこそおいでくださいました。わたくしはこの館の主、レミリア・スカーレットと申ひましゅ」

「あ、噛んだ」

「噛みましたね」

「噛んだねぇ」

「……えぇっと、古明地さとりと申します。以後よろしくお願いいたします」

 

 気まずそうに苦笑いを浮かべるさとりを前に、レミリアが顔を赤くしつつ、こほんと咳ばらいをした。

 

「ようこそおいでくださいました。わたくしはこの館の主、レミリア・スカーレットと申します」

「なかったことにしようとしてるわ」

「してますね」

「あれ? なんで同じセリフ言ってるの? もしかして残像?」

「え、ええっと、はい。古明地さとりと申します。電話で一度お話をさせていただいていますよね? 以後よろしくお願いいたします」

「ええ、よろしく」

 

 何事もなかったかのようにさとりとレミリアの二人がお辞儀をし合う。これが自然な流れで為されたことだったならばともかく、一度やり直しているから茶番にしか見えなかった。

 

「ひゃっ!? こ、こいし? 急にどうしたのよ」

「いや、お姉ちゃんも残像なのかなって」

 

 こいしがさとりの脇腹をつついてはそんなことを言った。こいしは嘘を吐けるような性質ではないし、本気でそう思い、この行動に踏み切ったのであろう。

 フランがこみ上げてきた笑いに堪え切れないように口を抑えた。こういうところがあるからこいしは面白い、だとか。

 

「そういえばお姉さま、どうしてこの部屋に?」

「ん? ああ、さっき適当にうろうろしてたら霊夢に声をかけられたのよ」

「館の中で、ですか?」

「そうだけど、それがどうかした?」

 

 いえ、と首を横に振る。美鈴には俺の知り合いを阻まずに通すように言っているが、霊夢と魔理沙はその限りではない。紅霧異変以降は彼女は霊夢に会うたびに勝負を挑み続けており、魔理沙はパチュリーに迷惑をかけることが多いので、それが伝わって「通すわけにはいかない!」と言った具合に。

 きっと美鈴、今頃門の前でボロボロに倒れてるんだろうな。後で差し入れをしに行くことを心に誓いつつ、レミリアの話に耳を傾ける。

 

「なんかねぇ、これから新しい神事をやるからレーツェルを呼んでって。ずいぶんと信頼されてるのね」

「神事、ですか? いったいどんな」

「そこまでは聞いてないわね。言うだけ言って帰られたもの。まったく、いくらレーツェルのことだからってこの私に雑用を押しつけて……次の宴会の時はひたすら飲ませてやろうかしら。ああ、別に行かなくてもいいわよ? お客さまが来てるみたいだからね。来てなくても行かなくていいけど」

 

 今日はせっかく初めてさとりに紅魔館に来てもらった日だ。できれば館の中を案内したりとかしたい……が、霊夢の方も気になる。それにせっかく呼んでくれたのに、無視をするのも気まずいというか。

 そんな風に考え込む俺を見かねたのか、それとも最初からそう言い出すつもりだったのか、さとりが「博麗神社に行きましょう」と立ち上がった。

 

「その神事とやらはたぶん、今日だけのものなんでしょう? それなら行ってあげるべきです。館の探検はまた次の機会でも大丈夫ですから」

「……そうですね。さとりがそう言うなら。さとりやこいしもついてきてくれますか?」

「もちろんです」

「うん、行く行くー」

 

 空いていた俺のもう片方の手を再びこいしが独占する。それからすぐに背中に重みを感じ、倒れそうになりながらもなんとか踏ん張った。

 

「私も行くよ。先にお姉さまと遊んでたのは私だもん」

 

 両手と背中に一人ずつ、計三人。結局さっきと同じ状態に戻ってしまった。たかが少女三人程度吸血鬼の怪力にかかればどうってことないが……果てしなく動きにくい。

 そんな俺の視界の端で、レミリアがとても深刻そうになにかを考え込んでいるのが印象的に映った。どうかしましたか、と。声をかけるよりも早く、彼女は前方から俺の胸に飛び込んできた。

 

「それなら……私はここね。私もついていくわ、レーツェル」

「……えぇっと、はい。わかりました」

 

 結局レミリアも加わり、四方を完全に塞がれてしまった。もはや歩くことがままならないので、自分の家の中だというのに妖力と魔力で飛行して、四人に引っ付かれながら自室を出ていく。通りかかる妖精メイドたちにとても奇妙なものを見る目で眺められながら、紅魔館の外に出た。

 さすがにこのままの態勢では霖之助製ローブに着替えられないということで全員引っぺがし、そこに至ってようやっと平穏な状態で進むことができるようになった。

 道中、さとりだけ手を繋いでいてずるい! だとかで飛行中に再度引っつかれるという事態を数回経験しつつ、博麗神社にたどりつく。そんな俺たちを出迎えたのは、ヒュイー、という聞き慣れないおかしな音だった。

 首を傾げつつ、眼下に霊夢と魔理沙の姿を認め、五人でその近くに着地する。

 

「あら、遅かったわね。って、大所帯ね」

「たった今始まったばっかりだぜ」

 

 バサバサと複数の鳥が羽ばたくような音が辺りを舞っている。ヒュイー、と変わった鳴き声を放つ何匹もの鳥が魔理沙に引っつき、ツンツンとくちばしでつついていた。

 

「魔理沙、それはなに?」

 

 訝しげな態度を隠そうともしないレミリアの質問。なにせ飛び回る鳥からは明らかに普通の動物とは違うなにかを感じる。

 

(うそ)よ。天神さまの使い魔。今までに吐いた嘘をついばんで幸福に替えてくれるの。今回は鷽替神事と言って、この鷽を呼んで嘘をついばんでもらう神事をやってみたのよ」

 

 答えたのは魔理沙ではなく霊夢だ。へえ、とレミリアが興味深そうに手を伸ばすと、その上に鷽が乗る。

 そうしてツンツン、と彼女の手の甲をついばみ始めた。

 

「なにこれ。痛いだけじゃない」

「私がやられてるのを見てただろ。痛い以外になにがありそうに見えるんだよ」

「まぁ、それもそうね」

 

 魔理沙の不満げな回答に頷いた後、しっしっとレミリアが鷽を追い払う。ほとんどの鷽が魔理沙の方に殺到している関係上、こちらには数匹程度しか飛んでこない。

 レミリアが遠ざけた鷽が今度はこいしの方へ行ったかと思うと、しかしそのすぐそばを通りすぎた。さとりの近くも通りすぎ、次に留まったのはフランである。

 

「あら、さとりとこいしは正直者みたいね。おめでとう」

「ありがとうございます」

「えー。小鳥さん触りたいなぁ」

 

 こいしが魔理沙にとてとてと小走りで寄って、集まっている大量の鷽のうちの一匹に手を伸ばし、そっと包み込んだ。こいしの手の平の上に移動された鷽は不思議そうにこいしを見つめるだけで、つついたりする様子はない。

 

「なにこの鳥。しっしっ」

 

 フランは自分をついばみ始めた鷽を不機嫌に振り払う。レミリアとフランは嘘を吐いたことがあるらしい。というか、前提として生きている以上は少なからず嘘を吐いていなければおかしい。嘘を吐いていないと言い切れる者は、その言葉こそが嘘なのだ、と。さとりとこいし、それから霊夢は例外だ。

 鷽が今度は俺に近づいてきた。肩に乗っかると、迷う間もなくつんつんと頬の辺りをついばんできた。ちょっとチクっとして痛いが、なかなかに可愛い気もする。

 

「意外ね。レーツェルが嘘を吐いたことがあるだなんて」

「そりゃあそうですよ。私も生きてるわけですから嘘の一つや二つは普通に吐きます」

 

 霊夢の質問にそう答えると、その時だけ鷽が俺をつつく速度が増した。霊夢が怪訝そうに首を傾げる。

 

「……あれ? あんた、今嘘吐いたの?」

「え? いや、吐いてませんけど」

 

 今度は鷽が力強くついばんできた。痛そうにしたのが様子が周りにも伝わってしまったのか、フランが俺に歩み寄ってきて、ムッとした表情で俺の肩に乗る鷽を払った。

 

「……嘘を吐いてないのに、嘘を吐いてる? うーん、よくわかんないわね。即興で考えてやった神事だし、こういう変なことも起こるか」

「そいつはつまり、幸福に替わるかも当てにならんってことか」

 

 魔理沙の確認に、ちょっと悩みながらも霊夢が首を縦に振る。すると魔理沙は突然暴れ出し全身の至るところに留まっていた鷽を全部飛び立たせた。

 

「ついばまれ損じゃないかっ!」

「いや、ごめんごめん。今は頷いちゃったけど、よくよく考えたらたぶんそっちは嘘じゃないわ。きちんと天神さまの力の欠片が感じられるもの」

「嘘つけ!」

「嘘じゃないって。ほら私、ついばまれてないでしょ?」

 

 フランが俺から離れさせた鷽が霊夢の肩に乗る。レミリアやフラン、俺や魔理沙の時とは違い、霊夢をつつこうという気はまったくないようだった。

 

「とりあえず中でお茶にしましょ。神事のじっけ……神事も済ませたし」

「実験って言いかけたよな、今」

 

 霊夢に連れられ、博麗神社の中へと入っていく。お茶を入れられ、再度ついばもうと近寄ってきた鷽にレミリアやフランが威嚇したり、さとりが微笑ましげに鷽を眺めたり、こいしがはしゃぎながら飛ぶ鷽を追い回したり。

 そんな光景を眺め、お茶を口に含みながら、ふとさきほどのことを思い出す。

 つまり、嘘を吐いたことがあると言った途端、鷽に素早くついばまれたこと。それが嘘じゃなかったのかと聞かれ、嘘じゃないと答えた時に、否定するように強くつつかれたこと。

 

「……私は誰に、嘘を吐いてるんでしょうね」

 

 嘘を吐いてないのに、嘘を吐いてる。

 霊夢がなんとはなしに呟いた言葉が、どうしても頭から離れなかった。



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八.独り善がりの心苦しさ

 新年から一ヶ月と半月ほどの時が過ぎ去り、冬も中頃に差しかかるという時期。

 今はもう治まってきているのだが、つい数日前に人間の里で原因不明の伝染病が蔓延した。どうやら無縁塚に捨てられていたとある皿に神の力によって封印されていた病気を、魔理沙が間違えて解放してしまったことが原因だったらしい。今は霊夢がその病気を鎮めていた神を古い壺の破片に宿し、人間の間で回すことで、すでに伝染病は治まっている。

 俺は吸血鬼の中でもずば抜けた力を備えていると紫や幽々子などの強者は言う。西行妖には及ばぬ程度しかないので、いざという時のためにもっと強さを欲しいと感じているのだが、もっと別の思いもある。少し前からなんとはなしに思っていたのだが、今回の事件を経て確信に近い感覚を持つようになった。純粋にただ強いだけでは対応できない問題もたくさんあるではないか、と。

 事実、今回の伝染病では俺はなにも手を打つことができなかった。霊夢によって解決された今回の事件を俺の手で解決できたかと問われれば、首を縦に振ることはできない。

 そのことで悩みに悩んだ結果、一つの答えをひねり出した。すなわち、今の俺で無理なのなら、さまざまな状況に対応できる応用に富んだ力を手に入れよう、と。

 応用性に優れた力の持ち主と言えば、真っ先に紫が頭に思い浮かぶ。彼女の『境界を操る程度の能力』はまさしくなんでもできるような力だ。できることなら吸血をしてその力の一部を自分のものにしたい――が、冬はあまり見かけないので、探すのには時間がかかる。宴会で来ている時に訪ねるのが一番手間がかからず、引き受けてくれるかはわからないが、その時にどうにかお願いしようと考えている。

 ならば今、俺ができることはなんなのか。万能に近い力というと魔法があるけれど、その研究はそれなりの時間が必要だ。そもそも数年前から今に至るまで開発し続けている魔法がすでに存在しているし、そろそろ佳境に入ろうという研究段階のそれをむやみに中断するわけにもいかない。

 しかし、魔法という目のつけどころはいいのではないか。紫の力を吸血で手に入れようとしていたように、注目すべきは強化の魔法。かつて手に入れた鬼や月兎などの力は完全に使いこなしているとは言いがたく、それを克服することができれば俺の力の応用性も少しは広がるだろう。

 

「そういうわけで、訪ねさせてもらいました」

「ふーん。つまり修行をつけてほしいってこと?」

 

 日の光が塞がれた曇り空の下、無名の丘と呼ばれる場所の奥にある、なにもないただっ広いだけの草原。かつて俺と萃香との本気の戦闘で引き起こされた被害は元には戻っておらず、そこら中にでこぼことした巨大な穴が見当たる。ただ、草木が生え、土がむき出しになっていない辺りから年月の経過が窺えた。

 そこで俺はいつかの時のように、萃香と向かい合っている。彼女は出っ張った岩に腰をかけ、瓢箪の中身をぐびぐびと喉に通し、俺を――いや、俺の隣を見やった。

 

「まぁ、せっかくこんなところまで来たんだし、次にレーツェルと戦う時が面白くなりそうだから引き受けるのはやぶさかでもないんだけどさぁ……」

「……なによ。文句ありそうな目で見ないでくれる?」

 

 ついてきていたパチュリーが、もの言いたげな萃香の視線を受けて不機嫌に言い返す。「別にぃ」と萃香はパチュリーから一旦目線を離し、座っていた岩から飛び降りた。

 冬らしい温度の低い風が吹き、萃香とパチュリーの長い髪が揺れた。萃香はどうでもいいとばかりに無視をし、パチュリーは鬱陶しげに帽子と髪を押さえる。人間ならば寒さに体を震わせるところだが、この場の三人は全員が気温の変化に疎いため、寒風なんて普通の風と大して変わらない。

 あいかわらず若干の敵意が混じったパチュリーの瞳を見返して、萃香が大きく肩を竦めた。

 

「これは文句じゃなくて素直な疑問ね。なんであんたがここにいるの? レーツェルの話を聞く限り、あんたがいる意味はないと思うんだけど」

「レーツェルが変なことをされないか……そうね。例えば理不尽な喧嘩を吹っかけられないかとか、あなたを見張りに来たのよ」

「なんか嘘っぽいなぁ。そもそも仮にそれが本当だとしても、あんた程度じゃ私を止められないと思うけどね。まーいいや」

 

 ムッとしたような顔をするパチュリーを気にも留めず、萃香は瓢箪を口元に運んだ。今にも喧嘩しそうな雰囲気の二人に胃が痛くなりそうになる。

 萃香を探しに行こうとする際に、俺は珍しく大図書館から出てきていたパチュリーに出くわした。どこに行こうとしているか尋ねられ、鬼化魔法と萃香に会いに行くむねを話したところ、彼女はついてくると申し出てきたのだ。その理由は今彼女が萃香に語ったものではなく、俺が力の使い方を学んでいる過程で、伊吹萃香という鬼をよく知ることができるかもしれないからとのこと。あわよくば豆以外の弱点も見つけたいとか。

 明らかに失礼な態度を取る萃香にパチュリーは遺憾の念を抱いているようであったが、しかし勝負を挑んだりしようという気は感じられない。それは敵わないことがわかっているからか、「レーテの修行の邪魔はしない」という約束があるからか。前者はあり得ないので後者だろう。小さなコストで大きな力を行使する精霊魔法の使い手であるパチュリーが、自分が相手より弱いからと、勝てないかもしれないからと、そんな理由で勝負を忌避したりするはずがない。

 

「それじゃあ早速始めよっか。ほら、魔法使って使って」

「はい」

 

 体内の魔力を動かし、内部で術式を形成、鬼の遺伝子をもとに魔法を行使する。

 ずず、と頭に二本の角が生えたのがわかった。全身に力が漲り、どこか全能感にも似た感覚が駆け巡る。

 

「改めて見ると確かに私の角とまったく同じ形状だねぇ……って、あれ? なんか前見た時より気配が弱々しくない?」

「あの時に萃香の前で使ってみせた鬼化の度合いは四〇パーセントでしたから。いつもは二〇パーセント、高くても三〇パーセントに抑えています」

「なんでよ。強い方がいいじゃん」

「不手際で五〇を越えてしまうと危険だからですよ。吸血鬼としての存在を保てなくなる可能性があります」

 

 萃香はさすがにその返答を聞いては言い返せないようで、それならしかたないねぇ、と息を吐いた。三五を越えるような強化の度合いは本当に必要な時にしか使わないでいるつもりだ。

 ふむ、と顎に手を添えた萃香がさきほどまで自分が座っていた、自身の身長ほどの大きさの岩に体を向けた。右手を振りかざし、握り締め、「見てて」と半分だけ俺の方に振り返る。

 

「まず、知ってると思うけど鬼の代表的な力はこれ。圧倒的なまでの怪力」

 

 ほんの軽い動作で萃香が拳を振るうと、ズガンッと豪快な音を立てて岩が砕け散った。

 

「これくらいなら吸血鬼でも楽にできると思うけどね。ま、鬼はとにかく総じて力が強いよ。そして力が強いってことは身体能力がずば抜けてるってことだから、こと近接戦に関してはどの妖怪にも決して劣らない。耐久力も半端じゃない。そんじょそこらの攻撃じゃびくともしないし、四肢をもがれたって戦える。もちろん首を斬られてもね」

 

 首を斬られても。その言葉を強調して語った萃香が、くつくつと笑う。まるで実際に斬られたことがあるような――いや、あるのだろう。でなければここまで実感がこもった声音で口にできやしない。

 吸血鬼も首を斬られても生きていることができるが、それは高い生命力と再生力があってこそのものだ。

 

「戦えるとは言ったけど、別に平気ってわけじゃないよ。普通の妖怪より多少は再生能力が高いけど、さすがに吸血鬼には届かないし。あとはー、そうだねぇ。反射神経も高いから相手が見えない速さで迫ってきても気配さえ捉えられてれば簡単に対処できるとか?」

 

 この場所で萃香と戦った時のことがよみがえる。彼女は音の二倍以上の速度で動く俺を明らかに見切れていなかったのに、背後に回ってからの拳の一撃を難なく最小限の動作で受け止めていた。

 

「天狗とかはその辺よくわかってるから鬼と戦う時は遠距離からちまちまとやってくるんだよねぇ。竜巻だとかかまいたちだとか。ずる賢いったらありゃしない」

「そういうの、鬼はどう対策してるんですか?」

「対策ぅ? そんなのしないよ。適当に妖力ぶっ放して叩き落としたり、風を萃めてぶっ放して叩き落としたり、巨大化してからとにかく天狗がいる辺りを殴りまくって叩き落としたり、一旦降りた後、思いっ切り地面蹴って風を散らしながら突っ込んで全力でぶん殴って叩き落としたり。まぁそんな感じ」

 

 なんともまぁ無理矢理というか、単純でわかりやすい対処法だ。そして実際にそういう強引なやり方を楽々やってのけるのだから鬼は恐ろしい。

 パチュリーが難しい顔で目を瞑っていた。パチュリーは相手の弱点を見つけ出し、そこを攻めることによって勝利を収める戦い方を主流としている。鬼のようにただ単に強いという妖怪はまさしく天敵と言えるだろう。

 

「ま、長々と語っちゃったけど、鬼の特徴なんて怪力だけ把握してればいいよ。他はオマケみたいなもんだし。っていうかよく考えたら怪力なんて練習する必要ないし、こっからは私個人の力を見せるよ」

「よろしくお願いします」

 

 萃香が俺とパチュリーに見せつけるように右腕を上に突き出した。

 

「私は物事の疎密、つまりは密度とか集めたり散らしたりって現象を操ることができるんだ。んー、ほれ」

 

 まるで宙に作り出されたように、どこからともなく飛来してきた岩が磁石のように萃香の右腕に集まっていく。一秒も経った頃には萃香の身長を越えるほどの大きさとなり、彼女はそれをぶんっと振り回した。鬼の怪力をもっても岩は一片たりとも剥がれることはなく、萃香の右腕はくっついたまま岩の腕と化しているようだった。

 

「そんでこれの密度を上げると」

 

 見る見るうちに岩が赤みを帯びていき、気づけばドロドロと溶解している。それはとてつもない熱を発しているはずなのに、近くにいる俺には少しも空気の温度が上がったように感じられなかった。

 

「ん、レーツェルは気づいたね。実は高密度にして熱を持たせると同時に、その熱を一切散らさず内部だけに残してるんだ。だから周りは熱くならない。その影響として普通の溶岩の何十倍も熱くなってるけど」

「……なんでそんな高熱で、あなたの腕は平気なのよ」

「あれ? 私はレーツェルに説明してるんだよ。あんたは見張り役なんじゃなかったの?」

 

 意地悪く口元を歪める萃香に、顔を顰めたパチュリーが「いいから言いなさい」と催促をする。

「おお、恐い恐い」。おちょくるたびにどんどん鋭くなっていくパチュリーの視線に、萃香は肩を竦めた。

 

「私に接する部分の熱だけ散らしてるからに決まってるじゃん。私の能力は萃めるだけじゃなくて逆も可能なんだよ。その二つを『操る』んだ」

 

 だからこんなこともできる、と萃香が瓢箪を腰にくくりつけたのを境に、その左腕が赤くなっていく。岩を介すことなく直接熱を萃め、高熱の腕を作っているのだ。

 

「私に害を及ぼすぶんだけの熱を散らして、その散らしたぶんでさらに温度を高くしてる。これで殴られてみる? たぶんあんたなら余裕で死ねるよ」

 

 遠慮する――意地でもその一言は吐きたくないのか、パチュリーは無言で萃香を睨みつけていた。

 萃香はそんなパチュリーを見据えつつ、チラリと俺を横目で見る。そうしてため息を吐いた。たとえ冗談でも、殺す気がなくても、それを実行しようとすれば全力で止める。そういう俺の意志が伝わったのだろう。

 萃香の左腕から熱が引き、右腕の溶岩は次第に岩へと変化していき、やがて密度の薄さが極限を通過して霧状になって消え失せた。

 

「まーそういうわけで、萃める力と散らす力をうまく組み合わせれば片方だけの時の何十倍にも強くすることができるんだ。なにせ『操る』力だ。あ、そういやレーツェルはどこまで私の力を使えるの?」

「……そうですね。この前、吸血鬼としての力も合わせてですが、瞬きするくらいの速さで自分の体を霧にすることができました」

「へえ、それならちょっと調整すれば巨大化とかもできそうだね。ま、とりあえず霧になってみなよ。今回は吸血鬼の方の力は使わずにさ」

 

 萃香の指示にこくりと頷いた。そして自身の中にある二つ目の能力に意志を向け、自らの密度が薄くなるようにそれを行使する。

 すぅー、と全身が空気に溶けていくようだった。体にかかっていた重みがなくなり、ふらふらと宙を漂っているのがわかる。

 パチュリーはそんな俺の姿に驚愕してか、口を半開きにしていた。萃香もまた俺の方を見上げては口の端を吊り上げ、どこか誇らしげにしているようにも見える。

 

「二〇パーセントしか使えないんだっけ? それでここまでできるんだから、さすがは私の能力だねぇ」

「レーテ……えぇっと、レーテ……よね?」

 

 不安がるパチュリーに近づいて、ふと、彼女の手を握ろうとして霧の体を伸ばしてみる。

 腕も足も頭さえないゆえに変な感覚ではあったが、俺は確かにパチュリーに触れていた。そういう感じが確かに存在している。その証拠として俺の霧の体と接触した彼女の手が持ち上がり、パチュリーがその様子に目を見開いていた。

 

「ん、いいじゃん。散らすだけじゃなくて、きちんと萃めることもできるんじゃん。それも他人に触るのに必要なだけの最低限だけに調整だなんて。私のところに学びに来る必要なかったんじゃ?」

 

 実際に能力の使い手から説明があった方がわかりやすいに決まっている。だから意味はあった、と。そう告げようとしたのだが、さすがに声は発することができないようだ。

 体を霧から元に戻すと、パチュリーと手を繋いでいる状態で実体化する。

 

「いえ、まだまだです。霧の状態だと強い風でも来たら一緒に吹き飛ばされちゃいそうなくらい不安定ですし、萃香の力なんですから、萃香の教えがあった方がいいのは歴然ですよ」

「そうかいそうかい。うん、そう言ってもらえると嬉しいよ」

 

 さぁ、次はなにをすればいい。そう問いかけようとした途端、不意にがくんと力が抜け、膝をついてしまった。

 立ち上がろうとしてもうまく体が動かせず、倒れそうになったところをパチュリーに支えられる。

 

「レーテ? 大丈夫かしら?」

「だ、だい、大丈夫……あ、あれ?」

 

 完全に体が言うことを聞かない。四肢が痺れ、座ってすらいられなくなってパチュリーに体重のままに寄りかかる。

 なんで急にここまで不調になってしまったのか、理解が及ばない。

 ただ、とにかくパチュリーに迷惑をかけてしまっていることを申しわけなく思った。それを察した彼女は「いいのよ、これくらい」と優しげな笑みを作ってくれたが、支え続けているのは体が弱いためにきつかったのか、パチュリーはその場に座り込んだ。その膝に俺の頭が乗せられ、俗にいう膝枕の形になる。

 萃香が目をぱちぱちと瞬かせながら、そんな俺の様子を観察した。

 

「んー……これ、私の能力だけで霧になったせいかな。吸血鬼の力を使わないで体の感覚がなくなることに慣れてなかったから、たぶんそのせいだよ」

「そう、ですか。いつ動けるようになります?」

「声はちゃんと出せてるし、すぐ終わるんじゃない? まぁ、それまではゆっくりしてなって。ちゃんと動くようになったら次に移るから」

 

 萃香が地面に腕をかざすと、そこに人が一人座るのに十分な大きさの岩が萃まってきた。そこに座っては、腰につけていた瓢箪を外して口に運ぶ。

 強化の魔法で萃香の力を一部得ることができても、ほんの二割程度のそれさえ使いこなすにはほど遠い。それどころか体が動かなくなるなんて事態にも陥ってしまって、なんだか気分が落ち込んできてしまった。

 本当にきちんと扱えるようになることができるのか、とか。霧になるたびにこうして動けなくなるのではないか、とか。

 ふと、俺の頭に手が置かれる感覚が生まれる。思考に沈み込んでいた俺の焦点が、心配そうに目を細めるパチュリーに合った。

 

「レーテ、あんまり無理はしないで」

「無理なんてしてませんよ」

「私にはしてるように見えるのよ」

 

 優しく頭を撫でられた。ゆったりとした手つきのそれはとても心地がよく、マイナス方面に傾きかけていた心がピタリと止まる。

 

「いつもあなたに頼ってばかりだから、思うのよ。私もあなたの力になりたいって」

 

 どうしてかパチュリーがどこか寂しげにしているように見えて、喉から出かけた言葉が詰まった。

 頼る頼らないとかじゃなくて、今、俺は十分にパチュリーに助けられている。それなのになぜそんな目で俺を見るのだろう。

 

「私じゃ力不足なのかしら」

「そんなこと、ありません」

「本当にそうなら嬉しいんだけどね。さっきはなんだかすっごく謝りたそうな顔をしてたけど、私もその、家族なんだもの。多少の迷惑をかけるかもしれないなんてこと気にしなくてもいいのよ。私なんて数え切れないくらいレーテに世話になってるんだから、むしろたくさんかけてほしいくらい」

 

 困惑している俺の様子に、視界の端で萃香が呆れたように両肩を上げているのが見えた。

 

「レーツェルはあいかわらずだね。あいかわらず、なんにもわかってない。他人のことを考えようともしない」

「……え、っと? 私が、パチュリーのことを……ってことですか?」

「そいつだけじゃない。他の誰もの、だよ。レーツェルはいつだって独りよがりなんだ。自分がしていることなんて限りなく価値のないものだって思い込んでるから、他人になにかをしてもらったら、感謝よりも先に申しわけないって気持ちが湧き出てくる。自分はこんなことをされるほど大層なことをやってないって思ってるから、どうしようもないくらい心苦しいって感じる」

 

 パチュリーが萃香を睨みつけたが、萃香はそんなものは一切気にしないという具合に言葉を続ける。

 

「でも、それはそのなにかをしてもらった誰かへの侮辱でしかない。相手からしてみればそれは日頃のお礼だとか、これくらいはしてあげて当然だとか、そういう気持ちでやってるはずなのに、なんで謝られなきゃいけない? なんでごめんなさいなんてくだらない言葉を吐かれなくちゃいけない? 私だったら逆にムカついてぶん殴ってるね。欲しいのは謝罪なんてものじゃない。お詫びなんかじゃない。親しい誰かに当たり前のことをしてあげた時、その誰かから欲しいって思うものは――」

 

 炎の魔法が萃香の足元に直撃した。萃香が言葉を止め、大仰に肩を竦めて魔法を放った本人を見やる。

 ふんっ、と鼻を鳴らしたパチュリーが萃香に強い眼差しを向けていた。

 

「あなたの個人的解釈なんて興味ないのよ。レーテが調子を悪くして、倒れてる。あなたが変なこと言うせいでさらに体調が悪くなったらどうするつもり?」

「あんたのために言ってやってんのに」

「頼んでない」

「そうかい。ま、悪かったよ。私には関係のない話だったね」

 

 萃香が俺たちの方から視線を外し、瓢箪の酒を飲み始めても、パチュリーは鋭い目線でそれを見据えていた。

 体の方に意識を向けると、そろそろ体がきちんと動けるようになってきているようで、手を開いたり握ったりとすることができた。もう平気だからと動こうとした俺の頭を、パチュリーが「まだ激しい動きができないのは見ればわかるわ。無理しないで」と彼女自身の膝の上に押しとどめる。

 起き上がろうとしたのは、きっと、じっとすることで考えごとに耽りたくなかったからということもあったのだろう。

 ――親しい誰かに当たり前のことをしてあげた時、その誰かから欲しいって思うものは。

 萃香のあの言葉の先に語られていたはずのものが、パチュリーが本当に欲しているものなのだろうか。俺がやらなければいけない、俺が差し出さなければいけないものなのだろうか。

 それがあれば、パチュリーにあんな寂しそうな顔をさせることがなくなるのだろうか。

 ……わからない。見当もつかない。お礼か、感謝の言葉か、それとももっと別のなにかなのか。

 パチュリーに頭を撫でられながら、体の調子が完全に元に戻るまで、ずっとその答えを頭の中で探し求め続けていた。



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九.無邪気さに揺らぐ狂気の仮面

 あの日以来、たびたび萃香のもとで劣化版『密と疎を操る程度の能力』の修行を行うようになった。本来俺が有しているべきではない能力だからか、体を霧にした時のように体調が悪くなってきてしまうことも多々あったが、今では慣れたのかそれもなくなってきている。最近では霧にした体をとにかく広げようという試みを行っていた。萃香は幻想郷中を包み込むほどの広さと大きさを誇る霧へと容易に自身を散らすことができるというのだから、吸血鬼の能力を併用せずしての霧状への変化は、俺の熟練度ではまだまだ彼女に及ばない。

 冬も終わりが近くなり、気温も徐々に上昇し、幻想郷は春を迎え入れる準備を整えようとしていた。

 

「んー……やっぱりたらの芽は、まだ少し早いですか」

 

 紅魔館の庭。ローブを纏い、フードをかぶって、栽培している植物の様子を見に来ていた。

 基本的にこの庭は美鈴と咲夜によって手入れがなされている。食用に使う植物等は咲夜、装飾用の花などは美鈴と、それぞれ分担した管理の役割を担っていた。

 たらの芽――落葉低木、タラノキの新芽をたらの芽と呼ぶ。日本各地に存在する有名な食用植物で、てんぷらにするのが一般的だ。それはこの幻想郷でも例外ではなく、レミリアなんかはこのたらの芽のてんぷらが大好物の一つである。

 本来は咲夜の管理下であるはずのたらの芽を見に来ているのは、別に俺の食い意地が張っているとかそういうわけではなくて、ただ単に春まであとどれくらいなのかということを把握するためだった。

 たらの芽の収穫にはまだ早いけれど、この様子だとあと一〇日もしないうちに春を迎えるだろう。そういえば人間の里の方で春を告げる妖精が見つかったと言うし、紅魔館の方にそれが来ればここももっと早くに春になって、桜が咲き乱れるはずだった。

 それにしても、今日はいい天気だ。雲一つない晴天で太陽が元気に輝いていて、吸血鬼としては不本意であるものの、なんだか陽気な空気が漂っていて悪い気分ではない。

 こういう日こそ、誰かと一緒に外を出歩いて、景色を見て回りたいものだ。

 冬は寒いからと、夏や秋に比べてさとりやこいしと地上を観光する回数はそう多くなかった。俺は寒さなんて全然平気だが、さとりやこいしはそうではない。二人とはほぼ毎晩電話機を通して会話をしているものの、やはり直接会って話をする方が盛り上がるのは確かだ。

 まだほんの少し肌寒いけれど、桜が咲く頃になれば幻想郷はどの季節よりも過ごしやすい環境になる。それにさとりを初めて地上に連れて来たのがお盆の少し前だったので、彼女は明るく美しい花弁をいくつも散らす桜の姿を直接見たことはないはずだった。

 いったいどんな笑みを見せてくれるのだろう。いったいどれだけの感動を覚えてくれるのだろう。想像し始めたらなかなか止まらない。

 

「レーツェルお嬢さま、おはようございます」

「ん、咲夜ですか。おはようございます」

 

 元々、背後に誰かが近寄ってきている気配はしていた。体を反転させると、この辺りの植物を管理する美しい銀の髪の少女と対面した。

 

「こんなところで、どうかいたしましたか? たらの芽の収穫はまだ早いと思いますが」

「あとどのくらいで春が来るのか見に来ていたんですよ。この様子だともうそろそろという具合ですね」

 

 春は他の三つの季節に比べても宴会を行う数が多い。適温であるがゆえに過ごしやすいからなのももちろんだが、桜という非常に美しい光景を手軽に肴にできるからというのが一番の理由だろう。

 

「咲夜はここの手入れですか?」

「いえ、春の妖精を探して捕まえるようにレミリアお嬢さまに言われまして。それで、まずは近くからと庭にいたりはしないか見回っていました」

 

 春の妖精、春を告げる妖精、春告精(リリーホワイト)。さまざまな名称があるが指す者は同一であり、つまりは春という自然現象そのものの化身だ。

 それを捕まえるということがどういうことなのか。咲夜に下された命令から、レミリアの意図にはすぐにたどりついた。

 

「お姉さまって、今年の春は紅魔館のものだとか、命令と一緒にそんなこと言ってませんでした?」

「言っていましたわ。その言葉の一字一句違わず、『今年の春は、紅魔館のもの』と」

 

 春という自然現象そのものという表現が指す通り、春告精が通った後の場所は瞬間的に春になるのだ。木々は瞬く間に桜を咲かせ、まだ少しばかり薄ら寒い空気は眠たくなるような陽気の伴った適温の風に変わる。だからこその春を『告げる』、春の妖精だった。

 レミリアは咲夜に春告精を捕まえさせて連れてくることで、一足早く紅魔館に春を訪れさせようとしているのだ。

 ……もしかしたら、幽々子が数年前に起こした春雪異変で春が全部持っていかれてしまったことを悔しく感じていたのかもしれない。萃香も春が減ったのと同時に宴会も減ったからと異変を起こしていたし。

 

「私も手伝いましょうか? なんだかんだやることがありませんし」

「私に下された命令ですから、レーツェルお嬢さまはレミリアお嬢さまと同じように首を長くして待っていてくださればいいですわ」

「なんだか自信ありげな言い方ですね。もしかして、もう当てがあったりするんです?」

「いえ、レーツェルお嬢さまにはこれくらいはっきり言っておかないと、なんだかんだ手伝いたいとついてきてしまいそうだったので」

 

 確かに、まぁ、別にいいと断られても、ただ事務的に拒絶されただけだったなら俺は俺で別に探していた可能性は大いにある。暇だからということももちろんあるが、当てがないのに数多くいる妖精の中から一人だけを探し当てるのは厳しいし、手分けをした方が効率がいい。

 咲夜はメイドとして俺やレミリア、フランやパチュリー等に対し、それなりの線引きをしている。それは俺たちと必要以上に親しくしないことが目的のものではなくて、ただ単に、彼女が紅魔館に仕えるメイドとして譲れない部分があるからだ。

 主人に命令されたことを、主人の妹に手伝わせるなんて言語道断、と。咲夜がそう考えているのは明白だった。

 

「それに、お嬢さまの暇潰しに付き合うのは私だけで十分ですよ。レーツェルお嬢さまの手を煩わせる必要はありませんわ」

「暇潰し、ですか。春の妖精を捕まえてくるのは、きちんと意味のある行為だと思いますけど……」

 

 なにせ春を早めに呼び寄せることができる。紅魔館が春を一番乗りになんてできたら、レミリアのテンションは最高潮に達するだろう。

 そうして当然のように返答した俺を見つめ、咲夜がぱちぱちと目を瞬かせた。

 

「えっと……もしかして咲夜、ご存じありませんか?」

「なにがでしょう」

「この時期に春の妖精が、春告精(リリーホワイト)が通る場所は一瞬で春になるんですよ。一枚すら葉を見せない木は瞬時に鮮やかな桃色に、空気は心地のいい温かなものに変わるんです」

 

 やはり咲夜はこのことを知らなかったらしく、「そうなんですか」と感心の色がついた声を上げた。

 

「だからお嬢さまは捕まえてきて、と」

「春の妖精は春を『告げる』だけなので、別にいなくても春は訪れるんですが、いればそれだけ早く春を迎えることができます。密かに里の人間たちにも親しまれている人気者の妖精ですよ」

 

 妖精は皆、イタズラ好きであることで有名だ。注意をおろそかにして適当に歩いていたら道に迷わされたり、注意が散漫になっているといつの間にか荷物がなくなっていたり。妖精は基本的に人間が隙を見せている時を狙ってイタズラをしかけてくる。だからこそ普段から周囲に気をつけようと、そういうことを寺子屋で子どもたちに教えたりもしているようだ。

 ただ、そういう被害の報告は多かれど、普通の妖精は大人の人間なら一般人でも勝てるくらいに力がないため、妖怪と違って危険視はほとんどされていない。人間が気づくと大抵の妖精は一目散に逃げ出すし、もしも問答無用で攻撃をしかけようとしてくるようなら、それは人間たちへの警告である可能性が高いのだ。なにせ強力な妖怪が潜んでいる付近には妖精が集まりやすい。その割に、その妖怪へ直接近づいたりはしないのだが。

 

「……やっぱり手伝いましょうか?」

「大丈夫ですわ。春の妖精のその特徴は知りませんでしたが、今ちょうど、当てのある場所を思いつきましたので」

「当てのある場所?」

「博麗神社ですわ。なんだかあそこ、いつも春っぽい雰囲気を醸していますから」

 

 すごく遠回しに「霊夢の頭はいつもお花畑」と言っているような気がしたが、さすがに曲解すぎるだろう。

 目を瞑って、少しだけ思考に耽る。去年のことだったか。こいしと初めて出会った日の少し前、俺は半ば無理矢理に咲夜の買い物の荷物を持たせてもらった記憶がある。買い物袋を持つか持たないかという会話でずいぶんと大仰な、メイドとしての矜持だとかのところまで話が進んだのを覚えていた。

 今回は、咲夜のメイドとしての線引きを越えてまで手を出すほどの一大事ではない。というか咲夜の言う通り、霊夢のもとを訪ねれば、なんだかんだで春の妖精も見つかるような気がしていた。それは感覚的なものであったが、理屈的な理由もある。博麗神社は俺の知る限りで一番に陽気に溢れており、春の妖精が比較的来やすい場所であることは事実なのだ。

 

「そうですね。それじゃあ咲夜、春の妖精の捕獲、がんばってください。ホントはついて行きたいんですけどね」

「あら、雨でも降るのでしょうか。珍しいですわ、レーツェルお嬢さまが食い下がらないなんて」

「ありがた迷惑って言葉もありますから。あと雨が降ったら困ります。外を出歩けません」

 

 あまり咲夜を困らせるのはいいことではない。咲夜が別にいいと断るのなら、無理な手出しはできるだけ避けるようにする。

 咲夜がチラリと空を見上げた。飛んでもなんらかの危険がないのか、ということを確認したのだろう。

 

「行くんですか?」

「ええ。レミリアお嬢さまもそうみたいですが、私もたらの芽を使った料理は早く食べたいと思っていますから」

 

 それは俺も食べたい。フランもたらの芽のてんぷらは大好きだと言っていた。

 咲夜がトントンとつま先で地面を叩き、それからふわりとほんの少し浮き上がる。

 

「それでは行って参ります」

「待っていますよ。がんばってください」

 

 博麗神社がある方向へと一直線に飛んで行く咲夜を手を振って見送り、豆粒ほどにしか見えなくなったところでそれをやめた。首を長くして待っていてくれればいいと言っていたし、その通り、彼女が春の妖精を連れ帰ることを期待して待ち焦がれていることにしよう。

 早くたらの芽の、ひいては春の食材を使った料理を食べたい。綺麗な桜を見たい、春の空気を味わいたい。

 咲夜がレミリアからの命令を達成できるようにとちょっとだけ祈ってから、紅魔館の中に戻ろうと、踵を返した。

 

「はろー」

「って、いたんですか」

 

 いつの間にか俺の後ろに立っていたらしい、とにかく気配を消すことに関して右に出る者はいない妖怪――古明地こいし。さとりが地底から出てくるのは電話で予定を組んで俺とこいしのサポートが万全な時のみなので、こいしがこうして突然俺のもとを訪ねてくる場合は大抵一人だ。

 こいしが、よきかなよきかな、とでも言いそうな具合の口元の緩み具合の顔で、首を二回縦に振る。

 

「その様子だと私と咲夜の会話を聞いてたみたいですけど、いったいいつから?」

「えーっと、『こんなところで、どうかいたしましたか?』の辺り」

「出会いの挨拶が終わってすぐのところじゃないですか。声をかけてくれてもよかったんですよ」

 

 その時からずっと俺の背後にいたのだと考えると、なんだか気づかない自分の方がアホだとか能天気だとかのように思えてくる。存在感の薄いこいしに忍び寄られて、それを察知しろという方が無理な話なのだが、俺はこいしには謎のシンパシーを感じているのだからがんばればいけた……はずだ。気づいていなかった状況でなにをどうがんばるのかは知らないが。

 

「うん、かけようと思ったんだけど、そこの花が綺麗に咲いててねー」

「ああ……そっちに関心が向いたんですね」

「うんうん。うちの中庭もいいけど、レーチェルのとこのここもいいわ。気に入っちゃったかも」

 

 そう言ってもらえると、なんだか誇らしい気分にもなれる。

 こいしが不思議そうに首を傾げた。

 

「なんでレーチェルが胸を張るの?」

「美鈴と咲夜……ここの門番と、さっきのメイドが管理している場所ですから。家族のしたことが評価されるのはやっぱり嬉しいものですよ。あとレーツェルです」

「ふぅん。私にはそういうの、わかんないな」

 

 ぼーっと宙空を見つめ出したこいしが、しかししばらくして「や」と否定の声を発した。

 

「でも、やっぱりちょっとだけわかるかも。お姉ちゃんが褒められたら私も少し嬉しいと思うと思うしー」

 

 思うと思う。なんとも微妙な表現だ、と肩を竦める。

 

「そろそろ春だねー」

「はい。宴会の時期です」

「お姉ちゃん、最近私に花見をしたいってよく言ってきてねぇ。でも、三人で花見より皆でやった方が賑やかだし、私も宴は参加したことないし、お姉ちゃんもそろそろ大勢と会ってもいいかもって言ってたしー」

 

 心が読めない状態ならば、さとりが理不尽に他人から嫌われないことは実証済みだ。なにせ霊夢とも魔理沙とも霖之助とも、レミリアとも、フランとも自然に交流できた。

 さとりがいいと言うのなら、そろそろ当初の目的であった宴会に参加することも視野に入れてみてもいいのだろうか。さとりを連れての地上観光を始めて早半年と数か月――宴会に参加するのが早いということはない。

 

「ねぇ、レーチェル。春のうちに、お姉ちゃんを宴会に連れて行こうよ」

「そう、ですね。さとりが大丈夫だと言うのなら、それもいいかもしれません」

「じゃあ決定だね! お姉ちゃんなら絶対いいって言うし!」

 

 上機嫌にくるくると回り出したこいしが、足元の小石に躓きそうになった。手を出して、慌ててそれを支える。

 

「お姉ちゃんがどんな反応するのか見るの、楽しみだねー」

「そうですね。以前さとりの前で萃香の近くに連れて行ってやるとか思っちゃったものですが、やっぱり最初はやめておいた方がいいですよね。ところでずっと私に寄りかかってる必要はあるんです?」

「鬼は血が酒でできてる、と『思っちゃう』くらい酒豪だからねー」

「完全にあの時のこと根に持ってますね、こいし」

 

 思っちゃう、が妙に強調されていた。あの時は俺もこいしのことがちょっと面白いと感じていたので、さとりだけが恥ずかしい秘密を暴露されたことに、なんだかちょっと後ろめたい気がしなくもない。

 倒れそうになったのを支えてから、こいしはずっと俺に体重を預けている。それでいて鼻歌を始めそうなくらい朗らかに口元を緩め、目を細めているものだから、そんなに元気があるなら自分で立ってくださいと、彼女を直立状態に戻した。

 

「さとりがどんな反応をするかは楽しみですけど、私は、こいしがどんな風にするのかというところも楽しみですね」

「私? なんで?」

「なんでって、こいしも宴会は初めてなんでしょう? それならいい反応が見れるはずです。そりゃあ楽しみですよ」

 

 こいしは基本的に負の感情を表情には表さない。いつも笑顔で、なにを考えているのかわからない。もしかしたらなにも考えていないだけなのかもしれない。それでもここ最近、喜びの度合いは笑顔の程度からわかるようになってきた。

 どんな感じに口元や頬が緩んでいるか、どんな感じに目が輝いたり、細まったりしているか。あるいはどんな動作で喜びを示しているのか。

 今のこいしの機嫌は中の上と言ったところだ。普段より上なのはきっと、さとりを話題にしたからだろう。

 

「そっかぁ。うん、そっか。なんていうか、快感?」

「つまり、嬉しいってことですか?」

 

 こいしが直立したまま、ふらふらと横に揺れ始める。さながらどちらに倒れようか悩んでいるような雰囲気だったので、倒れ始めてからではめんどうだからと、彼女の両肩を両手で押さえる。

 

「嬉しい? 嬉しいのかな。よくわかんないけど、たぶんそんな感じー」

 

 至近距離で見るこいしの顔は、あいかわらず笑顔から変化はない。ただ、その度合いや声音に異変はあった。

 さっきよりも頬の緩みが増し、声音がちょっと弾んだ風になっている。機嫌の段階が一つレベルアップしていた。本人は自覚していないみたいだけれど。

 こんなことでこれだけ喜んでくれるのだから、宴会での様子が楽しみだと言うものだ。

 

「……レーチェルは、私と一緒にいるのって、楽しい?」

 

 珍しく笑顔が引っ込んで、不安に一番近い色をした無表情で問いかけてきた。いつも楽しそうにしているだけに、こういう顔はどこまでも記憶に残ってしまう。地霊殿に行くかどうかの時の残念そうな表情だって忘れられていないし。

 ここで楽しくないと答えたら、きっとこれからずっと後悔していくことになる。たとえ冗談でも楽しいと答えなければ――そんな考え方、一片たりともしなかった。

 ただ本心を口にしたい。不安がるこいしに、ただこの胸の温かみを知ってほしいと思った。

 

「楽しいです。間違いなく」

 

 こいしは、目をぱちぱちと瞬かせた。

 

「……そっかー。私もレーツェルといるのってたぶん、や、きっと楽しい」

 

 そうして笑みが浮かぶ。さきほどよりもはるかに嬉しそうで、楽しそうな微笑みが。

 それを見た瞬間、ふとこいしと初めて会った日の夜に覚えた感情がよみがえる。

 ――それに、こいしを通して、知りたかった。俺は他人からいったいどういう風に見えているのか。

 ――どうしても知らなければならないと感じた。

 こいしはいつも動きや心がふらふらとしてて、なんだか放っておけない。それでいて突飛な言動が面白いことが多々あるから、一緒にいることで他の誰とも違う愉快な気持ちを味わうことができる。笑顔が多くて、自然とこちらも調子が上がってきてしまう。

 負の感情を表情に出さないからこそ、たまに見せる負の感情にもっとも近い雰囲気や仕草がどうしても心に残る。いつもこいしは楽しそうにしていて、そんな彼女にいつも元気をもらっているからこそ、その助けになりたいと強く感じる。

 むしろもっといろんな悩みを打ち明けてほしい、と。もっといっぱい頼ってほしい、もっと自分の心を素直に外に出してほしい。

 まだまだたくさん抱いている思いはあった。しかし重要なのはそこではなくて、少し考えるだけでこれだけの思いを瞬時に思い浮かぶことができるということ。

 こいしを大切に思っている。だからこそ、その力になりたいと、俺は強く――。

 

「……パチェは、もしかして」

 

 ――親しい誰かに当たり前のことをしてあげた時、その誰かから欲しいって思うものは。

 それは萃香の言葉だった。パチュリーがなにを望んでいるか、なにを欲しているか。

 もしかしてパチュリーは、俺の喜んだ顔が見たかったんじゃないだろうか。俺が今感じている、この胸の温かみを表情にしてほしかったんじゃないだろうか。

 ああ、そうか。

 『笑顔』が――あるいは笑顔に匹敵するほどのなにかを表した俺が見たかったのだ、パチュリーは。

 

「レーチェル? どうしたの?」

「いえ……」

 

 どうしてか、こいしの手を握ってしまっていた。

 反対の手で、俺は自身の頬に手を添える。

 無表情だった。喜びなんて欠片も見せない、楽しさなんて微塵も感じさせない、温かみも冷たさもない、ただそこに在るだけのもの。

 無意識のうちにぎゅっと力を入れてしまったようで、こいしが不思議そうに目をぱちくりとさせていた。

 

「こいし、私といて……楽しいですか?」

「さっきも言ったじゃん。楽しいよ?」

 

 そうですか、と。こいしの微笑を前に、ただ口を閉じた。

 

「どうせなので上がっていきます? 最近、紅茶を入れるのがうまくなってきたって咲夜に言われまして、こいしに飲んでもらいたいんです」

「わ、いいの? やったー!」

 

 その一瞬。無邪気に笑顔を浮かべることができるこいしを、ほんの少しだけ、羨ましく思った。



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一〇.唯一人、騙し誤魔化し欺いて

 結局、春の一番目は博麗神社に奪われてしまった。よくよく考えたら博麗神社に春告精(リリーホワイト)探しに行くということはつまり、それが現れた瞬間に神社に春が来るということと同義なのだ。春を紅魔館だけのものにするという計画は、咲夜が博麗神社を目指した時点で元々破綻してしまっていた。

 咲夜は俺やレミリアに申しわけないと謝ってきたけれど、その後にすぐ神社へ花見をしに行った。春を一番乗りすることはできなかったが、花見を一番乗りすることには成功したわけだ。

 そうして、すでにあれから十数日の時が流れていた。

 満月はいつ目を向けても、ただじっと見つめていたいような気分に陥ってしまうことが多い。それは空が暗闇に寝ついてしまう寂しい時間帯に、ただ一つ神々しい輝きを一生懸命に見せつけているからだろう。なにせ朝月を目にしても別段興味は抱かないし、すべてをさらしていない三日月等が天に浮かんでいてもすぐに目を離してしまう。夜という時間帯、満ちた月でなければ相当に見入ることはできない。

 今日はそんな寂寥たる夜空が満月以外の、木々がこぼす美しい桃色の花弁で彩られていた。桜とともに視界に入る満月はただそこに在るだけのはずなのに、どことなく嬉しそうに感じているようにも見える。

 

「賑やかですね」

 

 隣からの声。目を向ければ、穏やかな笑みを浮かべたさとりが、辺りの光景を見渡している。

 今は春の真っただ中、夜桜を愛でながら宴会を行っている真っ最中であった。

 少し遠くの方ではチルノやルーミア、リグルなどが互いに指を差し合ったりとごちゃごちゃやっている。その少し離れたところで永琳たち宇宙人組が静かに酒を嗜み、逆に俺たちの比較的近くにいる霊夢や魔理沙、フランとこいしは滅茶苦茶に騒いでいた。アリスなどはずいぶんと迷惑そうな面をしている。

 レミリアはパチュリーとなにやら真剣に話し合っていて、美鈴はそんな二人の会話を感心したような顔をして眺めている。咲夜は幽々子たち幽霊組のところで妖夢と飲み合っていた。ナイフを刺しまくるような仲から、いつの間にあそこまで仲良くなったのだろうという不思議な思いがある反面、従者同士だから気が合うのかもしれないとも納得していた。

 藍と橙は満月の影響か、互いに目を丸く、顔を赤くして酔っぱらっている。他にも直接話したことのないさまざまな輩――主に妖怪――までもが好き勝手やっていて、まさに羽目を外しているといった感じだ。

 

「でも、いつもこんな具合です」

 

 俺の右手側にはさとり、対面には萃香。そして萃香の隣には射命丸文という、宴会以外では絶対に実現しないだろう組み合わせが今ここにあった。

 

「やっぱり宴会はこうでなくちゃいけないよ。静かにちびちび飲んでるのは私の性に合わないもん」

「それはまぁ、同意しますけど……えぇと、なんで私、連れてこられたんでしょうか」

 

 うんうん、と満足そうに頷く萃香に、文が不満混じりに疑問を投げかける。

 宴会にやってきた時、俺を見つけた萃香が――正確にはさとりを見つけた萃香が、珍しいと言わんばかりに近づいてきたのが原因だった。俺の能力でさとりの心を読める能力を封じていることを説明し、それが実証された後、萃香は「ちょっと待ってて」とどこかへ姿を消して、戻ってきたと思ったら文を片手で引きずっていた。

 どうして文を選んだのか。大体予想はできるが、もしかしたら違うかもしれないので、なにも言わず萃香が文の質問に答えるのを待つことにした。

 

「ちょうど目に入ったし、天狗なら酒に強いし、こいつでいいやって。私とレーツェルとさとりの三人だけで飲むんじゃ虚しさが拭いきれないからねぇ」

 

 どうせちょうど目に入ったからだろうとか思っていたが、まさしくその通りだった。文もなんとなくそのことには感づいていたようで、「やっぱり……」と肩を落とす。

 

「そんなに落ち込んでたら楽しくないよ。ほら、飲んで飲んで」

「いやまぁ飲みはしますけど」

「なに? 文句あるの?」

「いえいえ滅相もございません。鬼のあなたさまと飲めて光栄でございますよ」

「あいかわらずだねぇ。酒の席なんだからなに言ったって怒りゃしないのに」

 

 萃香の酌をしながらの質問に、文は苦笑いを浮かべつつぶんぶんと首を横に振った。

 萃香なら確かに怒りはしないだろう。代わりにきっと、怒ったフリをする。失礼なことを言ったやつの腕を掴んで振り回して、「言ったなこいつぅ」みたいなノリで桜の木にぶん投げるとか。

 今度は文が萃香の大きな盃に酒を注ぎ、酒を飲もうとした萃香の顔が盃の影に隠れる。自身の顔が見えなくなった隙に、文は小さくため息を吐いていた。ただ、そうしてめんどくさがっている割には鬼のすることだからと諦めもついているようで、その後に浮かべる小さな乾いた笑いからは、もう開き直って飲みまくってやるみたいなやけくそな思考が垣間見える。

 

「それにしてもまさか地霊殿の主を外に、それも宴に連れてくるとはね、驚いたよ」

 

 盃の酒を飲み切ると、萃香が俺の隣にいるさとりを横目で見ては、そう口にする。

 俺はただ首を傾げてみせた。

 

「不満ですか?」

「まさか。心を読めなくしてるってのも本当みたいだし。心が読めないサトリなんて毛ほども恐ろしくない、そこらに溢れてる妖怪どもと同じさ」

 

 元々恐ろしくなかったけど、と萃香が付け足す。彼女からしてみればサトリという妖怪は、相手にするのが果てしなくめんどくさいという程度の認識しかないのだろう。

 

「ま、改めてよろしく。伊吹萃香、鬼だ」

「はい、よろしくお願いします。古明地さとり、名前の通りサトリです」

「あやや、これは私もした方が? 射命丸文、しがない鴉天狗です」

 

 萃香と文はさとりへ、さとりは萃香と文への自己紹介。俺が「レーツェル・スカーレット、吸血鬼です」なんて口にしてみると、萃香から「いやレーツェルは全員と普通に面識あるじゃん」とツッコミを入れられた。

 

「って、射命丸文さん、ですか?」

「おや、私のことをご存じで?」

「ええ。新聞の方、よく読ませていただいてますよ」

「これはこれはありがとうございます。私の知ってる限りの読者には新聞を割れた窓の修理や、そもそも読まずに倉庫に押し込んだりと失礼なことにばかり使う人が多いので……」

 

 さとりは開きかけた口を閉じ、どうにか苦笑いを浮かべることに成功していた。

 以前、さとりに「どうしてわざわざ人気のない『文々。新聞』を?」と聞いたところ、「人気がない割にたくさん発行されてるみたいなので、地底によく出回ってくるんです。暇潰しにはなります」とのことだった。おそらくさとりは今ちょうど「暇潰しにちょうどいいです」とでも言おうとして、文の思いもよらぬご機嫌な回答に、それを口にすることを躊躇したのだろう。

 ちなみに新聞の処理はどうしているのかと言うと、ある程度読み終わったら地霊殿の地下にある灼熱地獄で焼却させているとか。

 

「ま、あんな新聞紙じゃそれもしかたないね」

「新聞です。そんな厳しく評価しなくたっていいじゃないですか。私はいつも真実を記載しているんですよ。あなたとレーツェルさんとの喧嘩で起きたあの地震だって、他の天狗たちはあなたを怖がって嘘のことしか書いてませんでした。私だけです、本当のことを書いていたのは」

「その本当のこともたくさんの嘘の中にすっかり埋もれちゃってたけどね。真実を伝えて信じ込ませるには、そういう心意気だけじゃダメなんだよ。鬼の社会と同じさ。力が必要なんだ」

「……人気がないのは自覚してますよ。だから号外を出す時は必要以上に発行してばら撒くようにしてるんです」

「必要なのはそういうところじゃないと思うけどね。記事の量を増やすとか、発行の頻度を増やすとか」

「私一人で情報を集めて私一人で記事を書いてるんですから、さすがに多くても月五回くらいが限度ですよー……」

 

 文がやり切れないとばかりにぐいっと酒をあおる。萃香の指摘はまさに的を射ていると言えるだろう。『文々。新聞』は新聞と言う割には発行が不定期で情報収集には役立たないし、その記事の量も「新聞というより新聞紙」と言われてしまうくらいには少ないのだ。

 せめてどちらかの問題をどうにかすれば今よりも人気が上がるとは思うけれど、文の愚痴を聞く限り、それは無理そうだった。

 

「毎日衝撃的な事件が起きてくれればネタにも困らないんですが」

「ん、それなら暇しないね。私は賛成だよ」

 

 賛成とかそういう問題じゃないと思うが。

 

「毎日が刺激的になるということは、刺激的なことが普通になるということですよ? 普通のことを記事にしてもしかたがないと思います」

「む……むむ、確かに。さとりさん、意外といいところに目が行きますね」

「本や心を読んでいると余計な知識ばかり入ってきますから」

 

 さとりはチラリとこちらを窺ってくる。本以外では主にレーツェルの心から、と言いたげにしていた。

 文が、そういえば、と懐からペンとメモ帳を取り出してさとりに詰め寄った。心が読めるとはどういうことなのか、どういう感覚なのか。自身では知り得ぬもののための他、酒が入っていることもあるのだろう、ちょっと血走った目をしている。

 さとりはその様子に若干引きつつも、きちんと質問に回答をしていっていた。

 

「ありゃりゃ、話し込み始めちゃったね。ま、天狗が満足するまでこっちはこっちで話してようか」

 

 萃香が両肩を上げて、俺に向き直る。

 

「案外優しいところもあるんですね」

「でも天狗が正気に戻ったら『私に呼ばれたのにいつまで私を無視してるつもりだい』ってからかってやろうかなって」

「やっぱりいつも通りでしたね」

 

 萃香が徳利を掲げるので、俺は手に持っていた猪口を差し出した。酌をしてくれた萃香にお礼の言葉を投げ、酒の入った猪口を口元へ運ぶ。

 俺が猪口を持った左手を下げるのを待っていた萃香が、俺の頭の上の、鬼化魔法を使っていたら角が生えている辺りに視線を彷徨わせた。

 

「私の能力の修行の調子はどう?」

「上々です。萃香の能力ってすっごい便利ですよね。私の能力と違って日常でも使える機会多いですし、羨ましいです」

「今はレーツェルも使えるじゃないか。で、上々ってのはどんな感じ? 具体的に」

「全力で霧になると幻想郷の四分の一ほどなら軽く飲み込めるくらいです。もう副作用もありませんよ」

「じゃあ吸血鬼が元々持つ霧への変化能力と合わせればほとんど時間をかけずに幻想郷を覆い尽くすことも可能なんだろうね。私と同じように」

 

 かつて萃香は幻想郷中に自分を広げ、人や妖怪の心を萃めることで三日おきに宴会をするように仕向ける異変を行っていた。さすがに俺の劣化版『密と疎を操る程度の能力』では全力で広がった状態で萃める力を行使することはできないが、萃香の言う通り、幻想郷中に広がるまでなら時間をかけず容易に行うことができるだろう。広がっているからと言って、さすがに彼女のように幻想郷中の様子を把握するなんてことはできないが。

 萃香がからの盃を差し出してきたので、そこに酒を注いだ。満足そうに頷いた彼女は盃の端に口をつける。本当に今更だけれど、見た目が一〇歳に届くかどうかという見た目の萃香が酒を飲んでいるのを見ると、なんとなくむず痒いような微妙な気持ちになってくる。

 そんな俺の内心もつゆ知らず、萃香は盃を下ろすと、ずずっと俺に擦り寄ってきた。

 

「つまり、ようやく準備が整ったってわけだ」

「……なんのです?」

「とぼけないでよ。鬼は嘘を嫌う」

 

 俺の耳元に近づけると、萃香は、俺にしか聞こえない声音で囁くように小さく呟いた。

 

「――――異変。今年中に起こすつもりだったんだろう?」

 

 萃香が口を俺の耳の近くから離す。未だ彼女の顔は至近距離にあり、その口の端は面白そうに吊り上がっていた。

 

「……なんでそう思うんですか?」

「否定はしないんだねぇ」

「いいから答えてください」

 

 左手で、萃香の盃を持っていない方の腕を掴んだ。俺に触れられるということがどういうことなのか、萃香ならば理解しているはずである。

 風が舞い、桜が散った。髪に引っかかった花弁には見向きもせず、ただ萃香を見据えている。

 彼女は風が止むまでじっと俺の顔を眺め、両肩を上げた。

 

「私は人の内心には結構敏感なつもりなんだ。それを気にしたりはしないけど。ま、人間にはたくさん嘘を吐かれてきたからね」

「それが?」

「そんな殺気立たないでよ。それと、手ぇ離してくれない? 話しにくいったらありゃしない」

 

 萃香の願いに微動だにせずにいると、彼女はしかたがなさそうに肩を竦めた。

 

「私と出会ったばかりの頃のレーツェルはさ、大層な目的もなくて、ただ永遠と課せられたことをこなそうとするだけの狂った機械だったよ。今にも壊れそうなくせに、本当は狂気になんて染まれないことを知ってるくせに、そんな自分には絶対に気づかないフリをする」

「……余計なことは」

「黙って聞きなって。話してる。それともここで、私と喧嘩する?」

 

 カードなんて使わずにさ、と。目を細める萃香が俺にだけわかるように威圧感を放つ。即座に能力で俺の知る限りの萃香の能力を封じるが、それでもその気配はどこまでも圧倒的だった。

 ここで機嫌を損ねてはなにがされるかわかったものではない。ただでさえ手を離せという要求を一度拒んでもらっているのだから、ここはこちらが妥協すべきだろう。

 話を聞く気になった俺を認めた萃香は、うんうんと満足げに頷いた。

 

「レーツェルは罪の重さに耐え切れなくて、ただ逃げるために自分を傷つけてただけだ。そうやって自分が不幸だって思えればこびりついた罪悪感がほんの少し和らぐから、立ち向かうことから目を背けて何百年もずっと続けてきた。本当にくだらないね。なまじ力があるだけに、そんなバカげたことをしようとする」

「……なにが言いたいんです?」

「だからそんな殺気立たないでってば。今から本題に入るから」

 

 そこでチラリと右手側の様子を確認する。未だ文はさとりに質問攻めを続けていて、二人とも小声で会話する俺たちの空気が宴のそれではないことに気づいていないようだった。

 

「そんなレーツェルもさ、ちょっとしたら様子が変わったって思ったね。んー……三年前の永夜異変とやらが起こる、ちょっと前辺りのことだったかな。ちょうど満月の日は地上にいなかったから異変のことはよく知らないけど」

「……別になにもなかったと思いますが」

「そうかな? でも、もしかしたらその時から考え始めてたんじゃないの? いつか自分が異変を起こすこと、そしてなにを目的に異変を起こすのか。能力の修行として私を訪ねてきたのも、いざという時のために応用に富んだ力が欲しいからじゃなくて、本当は異変を確実に成功させるのに私の力が便利だったから」

「それは、違います」

「ふぅん、そう思い込もうとしてるんだ。いや、もう思い込んでるのか。自己暗示もここまでくるとあっぱれだね」

 

 萃香がおかしそうに笑い声を上げた。それから寂しそうに右手の盃を見つめ、己が腕を掴んでいる俺の手にちらちらと視線をやる。酒を飲みたいという要求だった。

 それを無視をしていると、萃香は大きなため息を吐いては盃を地面に置き、右手で徳利を掴んで自分で酒を注いだ。

 

「……思いついたのはその時だけど、起こすと決めたのは二年前だろう? そう、ちょうど春の――あらゆる季節の花が咲き乱れる異変が起こった辺り」

「そんなことは」

「そこも騙してるの? 相当起こそうとしてる異変がキツいんだろうねぇ。ま、私には関係ないけど」

 

 私はただ傍観するだけ、と萃香が酒をあおる。そこからはなにも話してくれなくなり、ただ静寂の時が続いていた。

 文とさとりの会話が終わったようで、俺たちの様子に気づいた二人が首を傾げる。咄嗟に萃香の腕を離すと、彼女はやっと解放されたと言わんばかりに肩を回した。

 

「さて天狗、私がつれてきたってのに私を無視し続けるってのはどういう了見だい?」

「え、あ、いえいえ無視だなんて滅相もない! 私は新人のさとりさんが空気に馴染めてるかどうか心配でっ!」

 

 萃香と文のかけ合いに、さとりが口元を押さえて笑っていた。逃げる文を萃香が能力で萃め、捕まえて、逃げ出そうとしたことの言いわけをする文を愉快そうに眺めている。

 とても楽しそうだった。

 俺はただ、そんな三人の姿を視界に入れていた。話を振られれば口は開く、周りからは普段と変わらないように一生懸命に装う。

 頬に左手を添えて、いつも通り、なんの感慨も見せやしない無表情で三人の幸せを見据え続けていた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 紅魔館の屋上で欠けている月を見上げていた。少しであろうとも手を抜いている月に見入り続けることはできず、ため息を吐いて視線を外す。

 どうにも今日が始まった瞬間から誰かからの視線を常に感じていた。最初は気のせいだろうと無視していたのだが、徐々にその感覚は強まっていく。

 振り返る。誰もいない空虚を見据え続けていると、やがてそこに亀裂が走った。

 

「……あなたはなにをしようとしているの?」

 

 亀裂が穴となり、一人の女性が姿を現した。閉じた傘を片手にたたずむ凛とした姿は、しかしどこか怯えをはらんでいるようにも見える。

 まるでなにか恐ろしいものを、まるで見てはいけないものを目にしてしまったかのように、少女の声は震えていた。

 これは自分に問いかけているのだろうか。そうやって首を傾げて、それはそうだろうとすぐに思い直す。今、この場所には俺と彼女しかいないのだ。

 だから口を開いた。答えるために声を発する。

 

「なにって、なにが?」

「なにもするつもりがないとでも言うつもり?」

 

 現れていきなりなにをするだとか、なにをしようとしているだとか言われても、困惑する以外のことはできやしない。

 首を傾げる俺をもどかしく思ったように、紫が詰め寄ってきた。

 

「私の力は境界を操ることよ。それを使ってある場所に立ち入って、どこまでもおぞましく忌々しいものを見てきた。こういえばわかる?」

「……ああ、あそこですか。よく入れましたね。隠蔽とか保護とか、いろんな魔法で入れないようにしてたんですが」

 

 そう答えて作り笑いを浮かべると、紫の動きが止まった。

 

「あなたは……いったい、誰?」

「レーツェル・スカーレットです」

「本当に?」

「本当って……どうでしょう。紫が疑うなら、違うかもしれませんよ」

 

 冗談交じりに肩を竦める俺に、紫は苛立ちを覚えたようだった。しかしその感情は口に出さず、大きくため息を吐くだけに留めたようだ。

 

「……まぁ、この質問はいいわ。代わりにもう一度聞きましょう。あなたはなにをしようとしているの? あんなものまで用意して、なにもしないなんて返答じゃ納得できないわ」

「あんなものなんて失礼ですね。全部全部大事なモノです。あ、もしかして壊したりしてません?」

「壊すって……あなた、その言い方」

「まぁ、壊してても壊してなくても、別にいいんですけど。成果は全部覚えてますから。それに、どうせいくらでも替えは効きます」

「……答えなさい。三度目よ、あなたはなにをしようとしているの?」

 

 まっすぐな目で問いかけられる。俺はただ、視線を逸らした。

 

「なにもしようとなんてしてません」

「してるわよ。あんな、あなた自身がもっとも忌むべき禁忌に頼ってまで、いったいなにをしようって言うの? なにを為そうと、なにを為せると……」

「幻想郷はすべてを受け入れる。善意も悪意も。そうじゃないんですか?」

「善意でも悪意でもない、無も受け入れろと。そう言いたいのかしら」

「よくわからないけど、紫がそう思ったんなら、きっとそうなんじゃないですか」

 

 要領を得ない回答ばかりされて、紫はようやく、俺が一切の問いかけを真面目に答える気がないことを悟ったようだった。

 

「……私は一度、かつてあなたに見逃された。殺されるはずだった命をあなたの都合で生かされた」

「そんなことありましたか?」

「あったわ。だから、これはその時の借りを返す意味を込めてのこと。アレを不問にして、あなたがなにをしようとしているのか無理に聞かないでいてあげる」

「不問もなにも、あれは私のものです」

「まぁ、借りとかなんとか言いながら、無理矢理聞き出そうとしたら私がどうにかされてしまいそうだからなんだけど……最後に一つだけ言っておかないといけないことがあるわ」

 

 ぬうっ、と紫が俺に顔を近づける。目を鋭く細め、真剣な表情で俺を見据えてきた。

 

「あなたがなにかをしようとしたら、あなたがなにかをしようとする前兆があったら、あるいはあなたがなにかをし始めたら……私は私の全力を以てしてあなたを止める」

 

 言いたいことだけ口にすると、俺が引き留めるよりも先に紫は空間の裂け目に消えていってしまった。

 能力が欲しいから吸血させてもらえないか聞こうと思ってたのに。

 欠けた月が照らす紅の館の屋上に、再び静寂が訪れる。朝から感じ続けていた視線はすっかりと消失し、いつも通りの正常な感覚が戻ってきていた。

 

「……はぁ」

 

 なにかをしようなどと、大層なことは考えていない。俺は誰にも危害が及ばず、皆が平和に暮らしていければ、それだけで満足だ。俺はそのためだけに死なずにいる。

 今年もまた危険があるかもしれないのなら、どうにか手を考えて打っていくだけ。

 願望も欲望もただただ収束する。人間として、妖怪として、為さねばならぬことは心得ていた。

 いつか迎える永遠の終わりまで、両親とその眷属の気持ちへの贖罪を。大切な人たちに平和を。フランに幸福を。

 それ以外はなにもいらない、望んじゃいけない。

 生まれてしまった責任と役割を果たす。果たさなければいけない。

 

「ふわぁ……」

 

 あくびが出た。今日はもう部屋に戻ってベッドに寝転がることにしよう。

 明日の宴会はどこでやるんだろう。香霖堂の裏の桜がそろそろ満開になる頃だから、そっちでやるのかな。

 次の宴のことに思いを馳せながら屋上を出る。その思考が紫との対話の内容へと戻ることは、二度となかった。




今話を以て「Kapitel 8.望むは忌むべき禁忌の鼓動」は終了となります。
本当はもうちょっとだけ書きたかったんですが、必要なことは書き終えたので終わりにします。さとりの地上探索編も一区切りしてキリもいいですから。

そろそろこの物語も徐々に終幕へと向かい始めます。おおむね予定通りなので前の章での最終話での発言の通り、「Kapitel 10」で完結を迎えることになるでしょう。
「Kapitel 9」は東方風神録と東方儚月抄が行われる一年の間の話となります。ただし物語の都合上、正直に言ってしまいますと、風神録は即行で終わるか全カットになりそうな予感がします。あらかじめご了承ください。

これからもどうかよろしくお願いいたします。


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Kapitel 9.叡智を無に帰す畏れの裏側
一.何時か何処かの平和な日常


 春は未だ続いているが、幻想郷の桜はすでに散ってしまったものが多い。宴会の季節が終わってしまったことを残念に思う者は多かったが、どうせまた来年になれば毎日のように宴を行うのだ。その時の楽しみとして取っておけば、待ち遠しいという気持ちが徐々に溜まっていき、いざ次の春が訪れた際にはいつもの宴会以上にはしゃげるようになる。

 宴の時期が過ぎ去って訪れる静けさは普段通りのはずなのに、少し前が騒がしすぎたせいかもどかしいようにも感じる。

 

「あははは、なんで音楽が鳴ってる時だけ踊るのよ。そりゃあ踊るなら鳴ってる方がいいけどね、そんな鳴り出した瞬間から踊り出さなくてもいいでしょうに」

「今ちょっとしんみりしたこと考えてたのに、台無しです」

「なに言ってるのよ。ほら、あんたもこっち来なさい。そこじゃ見にくいでしょ?」

 

 博麗神社の居間。縁側近くの障子に背を預けてぼーっとしていた俺を、霊夢が手招きした。彼女の体の正面から二メートルほど先にはブラウン管テレビが設置されており、その隣にはビデオデッキが置いてある。

 二つの機械は俺が紅魔館の自室から持ってきたものだった。ブラウン管テレビや、いつか香霖堂で買ったビデオデッキを魔力で運用できるように改造するのは苦労したが、それも先日に完成した。昨日なんかは香霖堂にあったビデオテープを適当に買った後、その中身をチェックしたりしていた。途中からレミリアやフランも混ぜたりして。

 その中から比較的面白そうなものを選んで、霊夢にも観賞してもらおうと魔法で倉庫に入れて神社まで運んできた次第である。

 霊夢との距離があまりなく、立つのももったいない気がしたので、四つん這いで彼女のもとへ向かった。霊夢はちゃぶ台の前で正座をしていたが、俺は適当に足を崩して座る。

 

「猫の妖獣とネズミの妖獣が争う話って聞いてたけど、ずいぶんとコミカルなお話ね。猫はネズミにやられてばっかりだし、ネズミのくせに頭いいし」

「外の世界じゃ割と有名な喜劇だと思いますよ。子ども向けですけどね」

「そうなの? んー、そういえば、よくよく思い返してみたら会話がほとんどなかったわ。言葉がつたない子どもでも気軽に楽しめるってわけね」

 

 それだけ出来がいいということでもある。そうでなければ、わざわざ見せに来たりなんてしない。

 そのまま、二人してブラウン管のテレビを眺め続ける。時に霊夢が笑い、あまりに面白いところになると俺に話を振ってきたり。表面上は感情を映さない俺でも、さとりから中身はそれなりに豊かだとお墨付きをもらっている。盛り上がりに欠けることなく、気づけばビデオを一本見終わっていた。

 

「あー、久しぶりにこんなたくさん笑ったわ」

「宴会でいっぱい笑ってたじゃないですか」

「そういえばそうだったわ。じゃあ、しょっちゅうこんなに笑ったわ? なんだか日本語おかしいわねぇ」

 

 続きないの? と催促をされ、倉庫魔法でご所望のビデオテープを取り出した。霊夢の頬が緩んだのは見逃さない。こうして喜んでもらえるのなら俺も持ってきた甲斐があるものだ。

 いちいち動くのもめんどうだったので、影の魔法でボタンを押し、ビデオデッキの中身を取り出した。さきほど倉庫から出したビデオテープを軽く投げると、影がそれを優しくキャッチして、空になったビデオデッキへと挿入をする。

 

「あいかわらず便利ねぇ、その魔法。ちょっと気持ち悪いけど」

「……なんか魔理沙にも気持ち悪いとか言われた記憶があります。そんなに変です?」

「変っていうか、まぁ変なんだけど、そうじゃなくて。なんか触手みたいなのがうねうね動いてるじゃない? あんなの近くで見たら私とか魔理沙じゃなくても引くと思うわよ」

 

 うへぇ、というような声が今にも漏れてしまいそうな顔で、霊夢はビデオデッキ前でにょろにょろとうごめく影を見つめていた。そんなに嫌なものなのだろうか。ぷにぷにしてて面白いと、ルーミアやこいしなんかには意外と好評価をもらえているのだが。

 服の中の影を手元に集めて、質量を持たせてみる。触手が気持ち悪いとのことだから三本くらい手の平から出す感じで――。

 

「……うん」

 

 遠くで見たり、自分で操作している間はなんとも思わなかったが、黒光りする細い触手が手の平から生え、至近距離で絡み合ったりしているのを眺めてみると、段々と頭から血の気が引けてきた。タコなどのどこか食欲をそそるようなそれと違って、ナメクジを前にした何倍にも及ぶようないかんともしがたい気色の悪さは、冷静に観察しようとする俺にただただ寒気と忌避感を覚えさせてくる。

 触手型の影をできるだけ遠くにぶん投げると、その反動でふらふらと霊夢の方へ寄りかかってしまった。

 

「あ、ちょ、レーツェル?」

「き、気持ち悪い……」

「さっきまで全然平気だったじゃないの。あーもう、大丈夫? とりあえず膝貸したげるから、横になりなさい」

 

 改めて認識した以上に、できるだけ気持ち悪くなるように作ったのも体調を崩しかけている原因の一つだろう。というか以前は体に纏わせたりとかしていても平気だったから、明らかにそれが要因の大半を占めていた。

 ふいと、かつての夜が終わらない異変で鈴仙を影の触手で縛りつけた時のことを思い出して、途端にとてつもなく申しわけないことをしてしまったような感情が湧き上がってくる。

 半ば無理矢理に霊夢の膝を枕に寝かされた。すでにテレビの方では新しいビデオテープの中身が再生されていたが、それには目も向けず、霊夢は俺の顔を心配そうに覗いてくる。

 

「……ごめんなさい。迷惑、かけてますよね」

「いいのよ、このくらい。あんたには結構助けられてるからね」

 

 そんな大層なことをした記憶はないのだけど――あれ。なんだか似たようなことが前にもあった気がする、と思考が過去を振り返り始める。

 俺が調子を悪くして倒れそうになって、誰かに助けられて、今と同じように膝枕をされて。そう、萃香に能力の修行をつけてほしいと頼みに行った日の初日、能力だけで霧になったせいで副作用が起きてパチュリーに支えられた時だ。

 もう答えにはたどりついていたのに、嬉しさを表現しなきゃいけないことはわかってたのに、また俺は謝罪の気持ちなんて口にしてしまった。

 

「その、さっきの謝罪は訂正で。霊夢、ありがとうございます」

「……なにその変な顔。笑ってるつもり? 全然似合ってないっての」

 

 そんな無理しなくてもいつも通りでいいのよ、と。そんなことをため息交じりに言われて、頭の中が一瞬真っ白になる。

 俺の顔は感情を映せない。作ろうとして作った表情しか浮かべることができない。だから意図して嬉しそうな顔を作成してみたというのに、そんな呆れ顔で拒絶されたらなにをしていいのか。

 また霊夢にため息を吐かれた。それもかなり大きめに。

 

「最近、咲夜のやつみたいにあんたの考えがちょっとずつ読めるようになってきたわ」

「は、はあ」

「あんたの性格、かなり単純なんだもの」

 

 霊夢が、寝転がったことで床に落ちてしまっていたらしい俺の帽子を拾って、腹の上辺りに置いてくれた。それから頭に手を置いて、まるで子どもを寝かしつけるように優しく撫でる。

 

「誰かになにかしなきゃとか誰かにお返しをしなきゃとか、ほんっとくだらない。あなたがしたいようにすればそれでいいのよ。幻想郷の連中は元々自分勝手なやつばっかりだからね。多少わがまま押し通したところで文句一つ言われやしないわよ」

「……霊夢が言うと説得力がありますね」

「ふーん。それは私が自分勝手でわがままだって言いたいのかしら?」

 

 霊夢が片手でぐっと拳を握るのが見えた。慌てて両手を左右に振って否定の意を示す。

 

「あ、在るがままってことです。周りに影響されないで確固たる自分を持っています。皆、そんな霊夢だからこそ神社に集まってくるんですよ」

「いや妖怪に集まられるのは困るんだけどね……って、もしかして褒められてる?」

「はい」

「ふぅん。や、うん、そうね。なんだか照れるわね、こう、真正面から言われると」

 

 頬を赤らめて恥ずかしそうに視線を逸らす霊夢の仕草は、見た目相応の可愛らしい少女のそれだった。そんな彼女をぼーっと見つめ、ただなんとなく、改めて思う。

 スペルカードルールのもとにあらゆる幻想を相手に立ち回る、妖怪退治を生業とする博麗の巫女、博麗霊夢。そんな彼女はまだ二〇年も生きていない幼い女の子で、俺の前世でなら中学に通っているような年齢で。

 そしてそんな少女にこうしてなぐさめられている今の俺が、なんだか途端にバカバカしく思えてきた。

 

「……うん、いい顔になったわね。いえ、いい目かしら」

「そうですか?」

「そうよ。見ればわかるわ」

 

 むんっ、と霊夢が胸を張る。そんなに誇らしげにしなくてもいいと思うのだが。

 そろそろ落ちついてきた。上半身を上げ、もういいのと問いかけてくる霊夢に、首を縦に振る。テレビ画面の方を見ると結構進んでしまっていて、最初の方から見直すために影の魔法で巻き戻しボタンを……いや、自分で押しに行こう。

 立ち上がって歩き出そうとしたところで、今の今まで調子を整えることや霊夢との会話に意識を向けていたから気づかなかったが、誰かが俺たちを見ていることを察知した。縁側の方へ顔を向けると、魔理沙がニヤニヤと笑みを浮かべながら座っていた。霊夢もそれに気がついたようだ。

 

「いい趣味じゃないわね、盗み見なんて」

「借りていくだけだぜ、って泥棒働いたりする人に盗み見を注意しても意味ないと思いますけどね」

「ちょうど出くわしただけだぜ」

 

 新しい湯呑みにお茶を入れようとする霊夢を、「お茶はいい」と魔理沙は手の平を見せて差し止めた。

 

「霊夢、レーツェル。突然だがツタの妖怪っているのか?」

 

 そして帽子を外しながら、お茶をもらわない代わりにそんな質問を投げてきた。妖怪の知識なら阿求のところである程度学んでいる。ツタの特徴を持っていたりツタを操ったりしそうな妖怪がいないか、軽く思い浮かべてみた。

 

「ツタの妖怪? そんなもんいるとは思うけど……」

「ぱっと出てくるのは木霊(コダマ)くらいでしょうか。でも、あれは妖怪というより……」

 

 樹木に宿る精霊のことを木霊と呼ぶ。歴史上ではもっぱら妖怪扱いをされているが、自然に溢れるなにかに住まうという点では妖精のそれに酷似している。

 

「そういえばそんなのもいたわね。で、どうして急にこんなこと聞きにきたの? ツタの妖怪でも出たの?」

 

 お茶をすすりながら霊夢が魔理沙に問いかける。俺も、さっさと画面を巻き戻してしまおうとビデオデッキのもとに足を進めるのを再開した。

 

「なにか知っていたら教えてほしい。理由は……えーと、ツタで相手を絡まして楽しむ魔法を使いたいんだ」

「そういう話なら別にツタの妖怪とかじゃなくて、こいつに直接聞けばいいと思うんだけど」

 

 こいつ、の辺りで霊夢が俺を指差す。影をツタの代わりにして絡ませるなんて造作もないことであるし、霊夢もそういうところを思い浮かべながら俺を指名したのだろう。

 ついさきほど影の魔法で触手を作って気分が悪くなった俺としては、あまり頼りにしてほしくない部分もあるが。

 

「妖怪から技を盗むのさ。習うのも大切だが、実際に見て勉強した方がよかったりもするだろ?」

 

 そう答える魔理沙はどこか狼狽えているようにも見えた。確かに正論ではあるが――いや、詮索はやめておこう。誤魔化すということは知られたくないことなのだろう。魔理沙の反応を見る限り、特に霊夢には。

 

「そんなことより木霊だよ木霊。その木霊ってのはなにに弱いんだ?」

「弱いって……なにをする気なのかしら。まぁいいけど」

「本体の木を探し出して伐採するのが一般的ですね。あとは火が近くにあったりすれば寄ってこないと思います。除草剤とかも有効かもしれません」

草薙(くさなぎ)の剣とかね」

「……なんだよそれ。除草剤って、草薙の剣って」

 

 魔理沙が呆れ顔で俺たちを見やる。そんな目で見られても、実際にそうなのだからしかたがない。虫の妖怪だって殺虫剤を使えば退治できてしまうという話だし。

 

「まぁいいや。とりあえず助かった、私はもう行くぜ」

「あ、ちょっと魔理沙!」

 

 霊夢の呼び止めに応じず、魔理沙は帽子をかぶり、竹箒に乗ってさっさとどこかへ飛んで行ってしまう。ずいぶんと急いでいるようで、いざ追いかけるとなれば一苦労だ。

 肩を竦めると、霊夢は物欲しげにブラウン管テレビに視線を送った。そういえば巻き戻しボタンを押していなかった、と停止ボタンからの巻き戻しで一気に最初の方へと画面を戻す。

 満足げに頷く霊夢の近くに帰ってきては、彼女はポンポンと手で床を叩いていたので、そこにぺたんと腰を下ろした。

 

「まぁ、魔理沙がなにしようが知ったこっちゃないわね。今の私にはそんなことよりとっても大事な用があるんだから」

「だ、大事な用ですか」

 

 霊夢はずいぶんと目を輝かせ、わくわくと画面を見つめていた。こんなに喜んでいるのは、俺の看病や魔理沙の訪問で続きの観賞を先送りにされてしまっていたからだろう。楽しんでくれているようでなによりだ、という気持ちが湧き上がる以前に、コメディチックな動画を見ることを大事な用と言い張る霊夢に若干引いてしまった。

 それがバレたのかほんの少し横目で睨まれるが、テレビ画面が本編を映し始めるとそれも収まって、霊夢はそれを見るのに集中し始めた。

 猫とネズミの掛け合い。快活に笑う霊夢を横目で盗み見ていると、そんな動画を見るよりも大きく胸が弾むような気持ちになってくる。

 

「……また香霖堂でテープが売っていたら、買い占めましょう」

 

 ほんの数秒、目を閉じる。外から聞こえる小鳥のさえずり、テレビから放たれるコミカルなバックグラウンドミュージックが、何事もない平和な日々を象徴していた。

 それからは霊夢と一緒にテレビ画面を見続けた。来客はなく静かなもので、穏やかに時間は過ぎ去っていく。

 ――この数日後、魔理沙が神社にツチノコを連れてやってきた。ツチノコは草の神さまの使いだから少しなら植物を操れるだろうと、これを捕まえるためにツタの妖怪のことなんて聞きに来たんだろうと。

 霊夢に聞かれたくなかったのは瞬く間に退治されてしまいそうだったからかもしれない。

 魔理沙はいたく可愛がっていた様子だったが、霊夢によればツチノコはものすごく大食らいでいびきをかくらしく、どうせすぐに退治したくなるだろうとのこと。

 さとりもペットを飼っていた。俺もまたいつか、育て切るだけの心構えができたなら、なにかを飼ってみたりとかしてみようかな。そんな風に思いながら、その日は魔理沙に猫とネズミの掛け合いの動画を見せたりした。



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二.月へ旅立つ二種類の計画

 わずかに桃色を覗かせていた花弁も緑に染まり切り、早二ヶ月近い時間が経過していた。季節はすっかり夏に突入し、あと半月もすれば冥界から多くの幽霊が現世に観光のために降りてくるお盆という期間が訪れる。苦手な梅雨はとっくに過ぎ去っているので、問題となるのは強すぎる日差しくらいだ。

 そんなある日の夜、いつものようにフランとカードゲームで対戦している最中に扉をノックされ、とても珍しい用事で呼び出された。すなわちそれは吸血鬼という種族に対しての客――八雲藍が八雲紫の指示のもと、とある依頼を持って訪れてきた。

 

「――それで?」

 

 紅魔館のとある一室。ソファの中央にレミリアが座り、その右隣の肘かけではフランが足を投げ出してぷらぷらと揺らしている。逆の左隣に俺が腰をかけ、ソファの後ろではパチュリーと咲夜が従者のごとく控えていた。

 それぞれがいる場所に当然違いはあれど、視線の先は一つに集中している。それはレミリアの対面で両腕を交差して袖に隠して立っている八雲藍であった。

 

「ですから、あなたたちのような強力な妖怪なら、簡単に目ぼしいものを見つけてくれると思いまして」

 

 あなたたちのような強力な妖怪。藍はその部分を特に強調し、商売人が客を相手にするような人のいい笑みを浮かべた。こちらの機嫌を取ることでいい返事を窺いたいという思惑はもちろんだが、それ以上に、自身の話に興味を持たせようとしている部分が透けて見えている。いや、わざと見えさせているのか。

 ですから、などと語ってはいるけれど、藍は未だ重要なことはほとんど話していない。近々紫が月の都に侵入しに行く計画を立てているから、それを手伝ってほしい。そして吸血鬼なら簡単に目ぼしいものを見つけてくれるだろうと、その程度のことしか言ってきていなかった。

 月に都があるという話は幻想郷では周知の事実だ。たとえば、今では数年前の出来事となる永夜異変は、昔は月に住んでいた二人の月の民が引き起こしたものだ。それの原因が月の民であるということは関わった者たち以外には秘密にされているが、知っている人は普通に知っている。

 レミリアはあの頃から外の世界のロケットを真似て作り始めたりと、元々月に行きたがっていた。藍の語る計画に興味を示さないはずがなく、「面白そうな話じゃない」と身を乗り出す。

 

「詳しい話、聞かせてもらえますよね」

 

 俺の確認に、藍は上機嫌に頷いて語り始める。

 ――月の都には幻想郷にはない珍しいものや進んだ技術が多くある。紫の目的はそれを盗み出すことで、停滞してしまっている幻想郷の妖怪の生活向上にある、と。藍の話を簡単にまとめると、そんな話であった。

 レミリアがいかにもわけがわからないという風な顔をして、ふんっ、と鼻を鳴らす。フランは反対に若干目を輝かせて藍を見つめていた。

 

「なにそれ。山の天狗や河童には負けたくないってこと? バカみたい。社畜同然に働いてなにが楽しいのよ」

「生活向上はどうでもいいけど、珍しいものっていうのは興味あるかなぁ」

 

 技術を盗む、妖怪の生活向上。なんとも嘘くさい話だった。性格や性質的に、紫は自ら進んで大きな変革をもたらそうとすることは避けているように思っている。自分が幻想郷をどうこうするのではなく、幻想郷はすべてを在るがままに受け入れる。彼女はそういうスタンスを好んでいるだろうし、事実これまでそうしてきていた。

 藍が、さきほどとは正反対に否定の意を主張し始めたレミリアに計画の有用性を伝えていたが、どうにもそのすべてが意味のないものに聞こえる。

 天狗や河童は中途半端に外の世界の技術を真似ているだけだとか。月の都の技術は外の世界のそれと違って、毎日遊びながら無限のエネルギーを得られるのだとか。

 昔は紫も月の都の技術を奪おうと月に攻め入ったことがあるという。第一次月面戦争――当時名を馳せていた妖怪を大勢引き連れて行ったそれが惨敗という結果に終わったことは、一部の妖怪の間では結構有名な話であった。

 

「なんで今更そんな計画を持ちかけてくるのかしら?」

 

 要するに紫は藍を通して、一度は失敗した月面への侵攻をもう一度行おうと提案してきているのだ。そしてそれを吸血鬼に手伝ってほしいと。

 第一次月面戦争はすでに数百年前の出来事である。レミリアの疑問はもっともなことだった。それに対する藍の返答は「妖怪の数が増えたから」なんてものと、「あなたたちのような強力な妖怪なら簡単に目ぼしいものを見つけてくれると思いまして」というさきほどの焼き増し。

 数が増えたからなんだというのだろう。俺たちが幻想郷ではパワーバランスを担うくらいに強力な部類に入るのは確かであろうが、それがなんだと言うのだろう。紫は数多の大妖怪を引きつれていながら月に負けたのだ。そして吸血鬼は吸血鬼異変において、紫と藍の二人に惨敗した。これがどういう結果を持つか。そもそもとして、本当の争いがなくなってしまった幻想郷の妖怪の力は、太古のそれには劣るものであることは明白であろうに。

 その時点で、俺はもちろんとして、レミリアやフラン、パチュリーや咲夜も、紫が藍の言葉通りの目的を持っているわけではないことには気づいていた。当然だ。こんなバカげた話をされて、感づかない方がどうかしている。

 それでもレミリアは敢えてわかっていないふりをして、むしろそれ自体が面白いとばかりに計画の内容について問いただした。

 

「紫さまが今年の冬に、湖に映った幻の満月と本物の満月の境界をいじり、湖から月に飛び込めるようにします」

 

 藍はそこで一旦言葉を止め、ニヤリと口の端を吊り上げた。

 

「レミリアさんたちには紫さまが結界を見張っている間に、月の都に忍び込んでいただきたいのです」

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 翌日。東の空に太陽が昇り、青空にほんの少数の雲が漂っていた。

 藍が持ち出してきた計画とやらが第一次月面戦争とは違い、こっそり侵入して盗みを働くという内容だったことは少々意外だったが、それもよくよく考えれば当然のことか。数百年前に月の都との戦争で大敗した紫だからこそ、正面からの戦闘では相手にならないことを一番理解しているはずなのだ。永夜異変の時も輝夜に術を破られていたし。

 

「お姉さま、今頃パチェと一緒にロケット作ってるんだろうねぇ。咲夜は材料集めに駆け回ったりしててー」

 

 赤のギザギザ模様が入った白いローブを着たフランが、片手でフードを押さえながら、もう片方の手をばっと大きく広げた。おそらくロケットの広さを表現したいのだろう。

 結局、俺たち吸血鬼は、計画に参加してほしいという藍の依頼は受けなかった。内容を聞き出すだけ聞き出して、情報を絞り出せなくなったら用済みとばかりにレミリアは藍を追い出したのだった。ちょっとかわいそうな気もしたが、藍によれば引き受けてくれないなら他を当たるだけだとのこと。

 レミリアは元々月に行きたがっていた。それなのになぜ断ったのか。その理由は至って簡単で、つまりは他人の手を借りて月に行けたところで面白味がまったくないから。紫の手を借りるのが癪だから。

 私が先に行って月を侵略して紫を驚かす計画。レミリアはそれを成功させるために、どうにか冬までに月へ行くロケットを完成させるつもりのようだった。

 

「フランは私についてきてよかったんですか? ロケットの製作、フランも結構手伝ってたって聞いてますよ」

「一日くらい休んだって別にいいでしょ? 今日はお姉さまといたい気分だったの」

 

 今は博麗神社へと向かっている最中であった。ぎゅう、と抱きついてくるフランに為すがままにされながら、飛行を続けていく。

 

「……紫の本当の目的って、いったいなんなんでしょうね」

「んー、さぁねぇ。でも、大したことじゃないと思うよ? 前にやられちゃったからちょっと仕返ししてやりたいとか、なにか盗んで一泡吹かせてやりたいとか」

「さすがにそれは、ない、と思いますけど……」

 

 そんな理由だったらもっと早くに忍び込もうとしていたはずである。重要なのは、なぜ今になって月に行こうなどと言い出したのか。

 ふと一瞬、わずかに欠けた月の夜の出来事が頭の中で再生された。なにをするつもりなのかと、なにか危険なことを始めようとしたら全力で止めると、紫が俺に通告してきた日の記憶が。

 俺は別段、なにかを始めようなどと考えたりはしていない。ならばこれは関係ないだろう。

 一旦思考を断ち切り、別のことへと注意を向けてみる。

 

「もしかしたら、住民税だったりするのかもしれませんね」

「住民税?」

「永夜異変の犯人は月の民なのはフランもご存じだと思います。紫にはかつて大敗したという因縁が月にあるんですから、元はそこに住んでいた月の民が幻想郷で暮らすようになったことに、なにか思うことがあったのかもしれません」

「だから住民税? 月の民を暮らさせてやってるんだから月の都から少しくらいなにか盗ったっていいよね、ってこと?」

「そういうことです」

「んー、始めるって決めたキッカケはそれの確率が高そうだね。目的は普通に一泡吹かせてやりたいって方が現実味帯びてると私は思うけど」

 

 なんにせよ、出てくるのはどれもこれも紫の私怨混じりのどうでもいい理由ばかりだった。そもそも妖怪という自分勝手な存在が起こす行動に高等な道理があるようには思えず、そこから先のフランとの会話でも、至極適当な推測ばかりが挙げられていく。博麗神社にたどりつく頃には「お団子が美味しかったから、同じように丸い月にもう一回行ってみようと思った」なんて絶対にありえない仮定さえ生まれていた。

 縁側の近くで竹箒を片づけている霊夢を見つけ、フランと二人して降り立った。

 

「ん、なんだ、あんたらか。おはよ」

「おはようございます」

「おっはぁ。霊夢、その手に持ってるのはなにー?」

 

 霊夢は畳まれた光る半透明の布を両手に抱えている。なにか霊的な作用が働いたりしているのだろうか。

 見たこともない布に興味津々な様子で、フランが霊夢の手の中を覗いた。

 

「私にもよくわからないけど、軽くて光る羽衣よ。綺麗でしょ?」

「よくわからないって……どこで拾ってきたんですか?」

「なによレーツェル。まるで私がまともな手段で手に入れてないような言いぐさね」

「え。あ、ご、ごめんなさい」

「たぶんお姉さま、魔理沙が相手だったら『どこで盗んできたんですか』って聞いたと思うし、聞き方としてはまだマシな方だと思うけどねぇ」

 

 それで結局どこで拾ってきたの? というフランの問いかけ。霊夢は若干フランを睨みつつも、どこか誇らしげに胸を張った。

 

「怪我した妖怪ウサギと一緒に落ちてたから、拾ったのよ」

「って、やっぱり拾ってるじゃないですか」

「いやお姉さま、これ盗んでるよ絶対。この布って絶対その兎のだよ」

 

 魔理沙にするのと同じ感覚で問いかけておいた方が正解だったようだ。今度からそうするようにしよう、なんて冗談交じりに考えた直後、それを見透かしたかのように霊夢が鋭い視線を向けてきた。かつて言っていた俺の内心を察せられるようになってきたというセリフは、やはり嘘ではないらしい。

 ふいとそこで耳が風に混じるわずかな雑音を察知した。吸血鬼等の耳がいい妖怪でなければ気づけないような小さい、まるでなにかを探しているような物音だ。フランも感じ取ったようで、彼女とほぼ同時にその音源となる博麗神社の居間へと目を向ける。そこは現在、障子で閉められていた。

 

「あの中に妖怪ウサギがいるんですか?」

「え? ええ、そうよ。言い忘れてたけど、でもあれはただのウサギじゃないみたいで」

「なんかゴソゴソやってるね。あ、こっち来るよ」

 

 霊夢の言葉を遮ってフランが呟いた数瞬後、俺たちが向いていた先にあった障子がバンッと勢いよく開かれた。現れたのはずいぶんと大きな焦りを顔に映した小さな少女で、垂れたウサ耳がウサギの妖怪であることを表していた。

 妖怪ウサギに知り合いがいないからしかたがないが、俺はその顔に見覚えがない。

 その少女がきょろきょろと辺りを見回したかと思うと、俺たち――正確には霊夢の手元にある光る半透明の布に気づき、目を輝かせた。

 

「そ、それ! 私の羽衣!」

「言われなくても、返すつもりはないわ」

「うわっ魔理沙みたい」

「霊夢……泥棒は犯罪ですよ」

 

 フランと俺のジトッとした視線を気にせず、これはもう私のものとでも言いたげに、霊夢は清々しいまでの笑みを浮かべていた。さきほどまで聞こえていた音の具合や焦りの程度から、かなり大事なものだということは容易に察せられる。さすがに返してあげないと、と霊夢に再度声をかけようとしたところで妖怪ウサギの少女から妙な力の波動を感知した。

 意地悪、と。

 少女がそう呟いた刹那、一瞬にしてその姿が掻き消え、霊夢の背後に姿を現した。

 

「これは」

「えっ」

「あっ、あれ?」

 

 一切の移動の痕跡を残さず、妖夢の全速力さえ捉えられる俺の目を以てしても捉えられなかった。まるで瞬間移動でもしたかのよう――いや、実際そうである確率が高い。霊夢も空間を飛ぶことで、咲夜は時間を止めることでそれぞれ零時間移動をすることができる。人間である二人ができるのだから、同様のことが可能な者が他にいてもおかしくないだろう。

 ……ただ、かすかに違和感が残るような。

 思考に没頭しかけたところで、視界の端に捉えていた少女の姿が再度跡形もなく消え失せた。ちょうど霊夢の持っていた光る羽衣に素早く手を忍ばせていて、それが一緒になくなったことも見逃さない。移動後の気配を即座に探知し、神社の縁側方面に視線を向けると、妖怪ウサギの少女が羽衣を手にニコニコと笑みを浮かべていた。

 

「今、どうやって……?」

「霊夢、まえまえー。ウサギもう前にいるよ」

 

 霊夢の戸惑い、そんな彼女に教えるフランの感心混じりの声を聞きながら、俺は半ば確信を抱いていた。

 これは零時間移動ではなく、それに見せかけた別の力だ。その正体にさえ、あと一歩というところまでたどりついている。そのことを自覚はしていたが、どうにもギリギリのところで手が届きそうにない。もう一度見ることができれば判明させられることと、その力はきっと俺が知り得る範疇にある能力であろうことは確かなのだけど。

 

「あなたたちが助けてくれたのね」

 

 妖怪ウサギの確認に、俺は首を横に振った。

 

「あ、いえ、私とフランは助けてません。あなたを拾ったのはこの巫女服の人です」

「そうなの? じゃあ、そこの紅白の人に一応お礼を言っておくわ。気絶してしまったところを助けてくれてありがとう」

「うーん……?」

 

 霊夢は未だ自分の後ろを取られたことと、羽衣がなくなっていたことに対する理解が追いついていないようで、とりあえずと言った具合に頷いていた。

 妖怪ウサギの少女は今はこうして平気そうに立っているが、霊夢によれば怪我をしていたという話である。差し当たってその怪我の確認、また俺とフランの出迎えということで、居間で一旦くつろぐということにまとまった。

 チラリと霊夢の顔を窺う。目の下に薄い隈ができていたことと、大きなあくびをしていたところが気にかかった。



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三.可能性の提示、月からの回答

 四角いちゃぶ台を三人で囲んでいた。俺の対面にフラン、左隣に妖怪ウサギ、右隣は霊夢が戻ってきた時のために座布団だけ敷いて空けている。

 妖怪とは言え客が来ているからか――そもそも霊夢は妖怪退治を生業にしているから妖怪に厳しく接することが多いだけで本質的には何者も差別していない――、霊夢はお茶の他にも茶菓子の用意もするとのことだった。手伝おうとする俺を押し止めて、俺とフランと妖怪ウサギの三人を居間に置いていったことから、現在の状況が作り出されていた。

 霊夢と妖怪ウサギには怪我をしたところを助けた、助けられたという関係がある。しかし俺やフランと妖怪ウサギの間にはなにもなく、たださきほど顔を合わせただけだ。非常に微妙な空気が漂うことは避けられず、妖怪ウサギは、なんとも言えない気分でお茶の水面を見つめる俺と、暇そうに頭を揺らすフランを交互に見やってきていた。

 

「えっと、あなたたちはさきほどの紅白の人とはどういう関係なの?」

 

 このままでいるのも気まずいのでそろそろ俺からなにか話題を出そうかと考えていたところだったが、妖怪ウサギの少女の方が先に耐え切れなくなったようだった。精一杯の愛想笑いを浮かべての質問に、俺とフランは顔を見合わせる。

 

「友達です。場合によっては敵、ということになるかもしれませんが」

「普段は仲良くしてるけど、時には互いに取って食っちゃい合うような関係?」

「えぇ……?」

 

 個人的には親しくさせてもらっているが、霊夢が人間であり妖怪退治を生業にしている以上、悪魔である俺たちは彼女の敵になることもあるだろう。もちろん基本的には霊夢に協力するつもりでいるが、またレミリアが異変を起こそう等と提案してきたりしたら、そちら側について霊夢と敵対することになる。当然、戦闘はスペルカードルールに則ったものだから生死の心配はまったくと言っていいほどないが。

 矛盾するはずの二つの関係が当てはまると言われ、妖怪ウサギの少女はずいぶんと混乱している様子だった。人間と妖怪が親しい仲、それも博麗の巫女である霊夢が相手となると、今のような言い方が一番である。

 

「なんでそんな不思議そうにしてるの?」

「なんでって、そりゃあそんな変な言い方されたら戸惑うわよ。要するにあなたたちはあの巫女を騙してるってこと?」

「はぁ? なに言ってるの? 頭大丈夫? こんな関係、幻想郷じゃ珍しくもなんともないじゃん」

「珍しく、ない?」

 

 人間は妖怪を退治し、妖怪は人間を喰らう。そのシステムを保ちながらも互いを認め合って生きていくことができている幻想郷においては、フランの言う通り、そんな矛盾した関係は珍妙の類には入らないだろう。むしろこの場では、「ありえない」とばかりに一片たりとも理解を示さない妖怪ウサギの方がおかしかった。

 

「もしかして幻想郷には最近来たばっかりだったりするんです? なんだか慣れて(・・・)ないみたいですけど」

「え? や、ち、違うわよ? わ、私は立派な地上のウサギよ」

「……そうですか」

 

 目が泳いでいるし、言葉がどもっている。答え方もなんだか若干変な気がするし、なにかを隠しているのは明白だった。ここでそれを追究する選択肢もあったけれど、少し考えて、それはやめておくことにする。そこまでのことが許されるほど親しくも敵対してもないし、客である彼女の機嫌を損ねるのは霊夢にも迷惑がかかる。

 フランも俺と同様に違和感を覚えていたみたいだったが、あちらは単に問い詰めるほどの興味がないだけのようだ。「ふーん」と適当に流し、会話中は止めていた頭を揺らす仕草に戻る。

 

「お待たせー。ほら、あんたら吸血鬼のぶんも持って来たわよ」

 

 そこで霊夢ががらがらと障子を開けて戻ってきた。彼女の抱える盆の上には、お茶と、ミカンに似た茶菓子が乗せられている。

 

「わっ、ありがとうございます」

「んー、よきにはからえ」

「なんであんたは姉と反対に偉そうなのよ。というかそれ、よくやったって意味じゃないから」

 

 霊夢の呆れた目線を一切気にせず、フランは俺に「そうなの?」と霊夢に指摘された部分が本当かどうかを確認してくる。こくりと頷いて、「そういう時は『くるしゅうない』です」と教えておいた。「『よきにはからえ』は『お前の思うようにやっておけ』って意味ですよ」。

 ちゃぶ台にお茶と茶菓子が並べられていく。それが終わったら盆を置いて、霊夢は俺の右隣の座布団に座った。

 

「敷いといてくれてたのね。ありがと」

「お茶菓子をご馳走させてもらっている身なんですから、こんなことでお礼なんていりませんよ」

 

 両手を合わせ、いただきます、と。茶菓子を一口味わって、湯呑みを口に運ぶ。その際にふいと霊夢の顔が視界の端に入って――居間に入る前も思ったが、やはりどこかやつれているように見えた。目の下の隈も見間違いではない。

 

「霊夢」

「なに?」

「美味しいです」

 

 唐突な茶菓子の感想に、霊夢は目をぱちぱちと瞬かせる。そうして口を開いてなにかを返してくるよりも先に、「無理しちゃいけませんよ」と付け加えて、自身の目元を指差しておく。

 霊夢がそれに呼応して、ちょうど持っていた湯呑みに視線を下ろした。しばらく彼女は水面を見つめていたが、次第にどこか納得したような顔になって、小さく肩を竦めた。

 

「……ほんと、あんたって心配性ねぇ」

「規則正しい生活を送っていないと、下手すると死んじゃいますよ」

「人間だってそこまで弱くないって。一日寝なかったくらいじゃ死なないわよ」

 

 夜遅くまで起きていたのかもと思っていたが、夜通し起きていたのか。そんな俺の驚愕を霊夢は察知したようで、まるで親にイタズラがばれた時の子どものような顔をして即座に俺から視線を逸らした。

 

「そ、そんなことより! あんた、もう怪我は大丈夫なの?」

 

 そうしてちょうど視線の先にいた妖怪ウサギへとそう問いかけていた。湯呑みを下ろすまでの二秒ほどの空きの後、彼女は答える。

 

「だいぶ寝たから大丈夫」

「確かにもう怪我はなさそうだけど……ま、妖怪は治癒能力が高いからねぇ。どいつもこいつも吸血鬼並みじゃないとは思うけど」

「そんな微妙なところでおだてたって、後でする説教は免れませんよ」

「ぐぐ……ちぇっ。説教なんてあの閻魔にされるだけで、もうこりごりなのに……」

 

 俺も映姫に説教されるのはこりごりだ。別に嫌ってはいないが、会うことがイコールして説教に繋がりそうな予感がするので、できるなら遭遇しないように立ち回りたいところである。

 そういう意味では説教を嫌がっている霊夢をしかることは俺にはできない。そもそも嫌がるのが普通の反応である。

 

「妖怪……私は、妖怪かしら……?」

 

 そんな思考の最中、妖怪ウサギが、どこか不安げに俺たちに視線を送ってきた。その質問内容はおよそ妖怪がするものとは思えないもので、俺やフラン、霊夢は揃って疑問符を頭に浮かべる。

 

「人の形してるウサギなんて妖怪以外にいるわけないじゃん。そもそもあなたがただのウサギだって言うんなら、今頃霊夢に食べられてたんじゃないの?」

「そこまで鬼畜じゃないって。そもそもウサギなんて鍋くらいでしか食べないし、こんな真夏に兎鍋なんてやらないわよ」

 

 当然ながら、自分が食われるかもしれなかったなんて聞いて怯えないはずがない。フランと霊夢の会話に、妖怪ウサギの少女がぶるりと全身を震わせて二人を見やった。

 この妖怪ウサギは、もしかして妖怪としては新参者なのだろうか。最近ただの野ウサギから妖怪ウサギになったとか。そう考えれば一応辻褄は合いそうなものだが……唯一気になるのは光る半透明な羽衣だ。

 

「ま、なにはともあれ怪我が治ってよかったわね。そんなに治癒能力高いなら医者のところまで行かなきゃよかった」

「医者?」

「……永遠亭ですか」

「あ、そうなのよ! 私はこいつに一つしかない布団を占領されてたからしかたなくあそこに行って、だから寝ることができなかったの! 追い返されたけど! 私は悪くないっ!」

 

 名案とばかりに叫んでは俺に詰め寄ってくる霊夢を、どうどうと押しとどめる。

 

「まぁ……そういうことならしかたありませんね。むしろ、怪我人に布団を貸してあげたうえに永遠亭まで行っていたことを褒めるべきでしょうか」

「ふふん、でしょう?」

「でも、今回だけですよ。徹夜は健康以外のいろいろな面にも影響が出てきますから。毎日適度な睡眠が必要です」

 

 霊夢は、わかってるわよ、と上機嫌に答えて茶菓子に手をつけた。どこか満足げな顔は茶菓子の甘さによるものか、説教を逃れたことの喜びによるものか。両方だろうな、なんて思いながら俺は湯呑みを手に取った。

 

「あー……安心したら眠くなってきたわ」

 

 大きなあくびを一つすると、霊夢はごろんと体を横にして座布団を枕にする。よほど眠かったのだろう。顔を覗き込んでみると、今にも寝そうな様相だった。

 湯呑みを口元に運んで、その中身がないことに気づく。肩を落としてそれを置いた俺に見かねたのか、フランが自分の湯呑みをすすっと差し出してくるが、首を横に振った。他人のぶんを取ってまで飲みたいわけではない。

 

「でも、ありがとうございます」

「ん」

 

 それにしても霊夢、まさかこの場面で寝転がって、俺とフランと妖怪ウサギの三人という微妙な空気を再現するとは――なんて一瞬思いかけて、すぐにそれを打ち消した。

 空いた障子の向こうから見える小鳥のじゃれ合い、鳴き声。寝顔をさらすことも気にせず、ただただ穏やかに寝入っている霊夢。幾度か言葉を交わしたこともあり、三人の間に気まずい雰囲気はとっくに流れてなどいなかった。

 

「あなたたちは、私と同じ妖怪なの?」

「そうですよ。吸血鬼です」

「厳密には同じじゃないけどね。あなたは妖獣だし、私たちは悪魔だし。ちょうどいいから妖怪ってひとくくりにされてるだけ」

「なるほど……」

 

 吸血鬼という名を聞いても驚かないどころか、まったく無関心なところに俺とフランは顔を見合わせる。何者も差別や区別をしないというよりも、吸血鬼がどういうものなのか知らないという風に見えた。

 一応そのことを予想はしていたから驚きはない。俺とフランの翼を見ても、せいぜい不思議そうに視線を送ってきた程度で大した反応を見せなかったから――ずいぶんと歪なので、吸血鬼だと気づけなくてもおかしくはないのだが――吸血鬼を知らない可能性も頭に入れていた。

 それでも、奇怪に思うことは避けられない。

 吸血鬼の名は知れ渡っている。新参の中で最高位の力を持ち、初めて現れた異変ではあと一歩というところまで幻想郷を侵略しかけた、今はパワーバランスの一角を担う最強種の悪魔。たとえ新米の妖怪でもそのことを知らないはずがない、知り得ないはずがない。

 違和感がずいぶんと膨らんで、段々と気になる気持ちが抑え切れなくなってきてしまった。問いかけるくらいはいいだろうか、と。誤魔化されたら退くくらいの心持ちで疑問を投げるくらいなら許してくれるだろう。

 

「ウサギさんは」

 

 口を開いた俺に焦点を当てようとしていた妖怪ウサギの少女が、不意に驚愕を顔に映して、バッと居間の外の方を向いた。その必死さに当てられ、思わず出かけた言葉が詰まる。

 彼女は急ぎ気味に立ち上がると、空いた障子の方に駆け寄ってきょろきょろと辺りを見渡し始めた。

 

「どーかしたの?」

「え、あ……その」

 

 意を決したように俺たちの方に振り返った妖怪ウサギが、勢いよく頭を下げてくる。

 

「ごめんっ! 私もう行くからっ!」

 

 返答をするよりも早く、妖怪ウサギの体がふっと消え失せる。霊夢から羽衣を取り返す時にも使った似非零時間移動法であった。

 視界からは完全にいなくなってしまったが、追うことができないわけではない。一、空から追跡。二、影の魔法で場所を感知。三、鬼化魔法の使用後『密と疎を操る程度の能力』で霧になってウサギを探す。ぱっと思い浮かぶだけのものでもこれだけの方法があった。

 

「追いかける?」

 

 フランの問いかけに、しかし俺は首を左右に振る。

 

「やめておきましょう。急用ができたとか、思い出したという風でしたし……変に横槍を入れて迷惑をかけるわけにもいきません。それに」

「……お姉さまはほんと、心配性よねぇ」

 

 フランは、俺の視線の先に眠っている霊夢がいることに気づいて、両肩を上げていた。なにせ家主が寝ているのだし、俺たちがいなくなってから泥棒でも来たりしたら大変だ。

 

「でもねぇ、お姉さま。こんなところで悪さを働こうなんて人、人間にも妖怪にもいるはずがないわ」

「どうしてですか?」

「妖怪神社なんて呼ばれてる危ない場所、人間がわざわざ泥棒しに来るわけないでしょ? 気まぐれで妖怪を軽々と退治できるような霊夢にわざわざ喧嘩を売るような真似をする妖怪なんて滅多にいないし、そんなことできるだけの妖怪は盗みなんて働かないし」

 

 そしてなにより、とフランが口の端を吊り上げる。

 

「この神社に盗んで得するようなものなんて、なーんにもないもん」

「……ふふ、そういえばそうでしたね」

 

 博麗神社はリスクとリターンがまるで吊り上がっていない。こんなところに泥棒に入るくらいなら、人間の里の適当な民家に狙いを定める方がよっぽど有意義だろう。

 そんなことは俺も無意識のうちに理解していたはずだ。だからきっと、こうして変に理由をつけて留まっていたのは、単にこの物柔らかな空気から出たくなかっただけか。

 居心地がいいのだ、ここは。

 

「…………でも」

 

 さっきまでここにいた妖怪ウサギの似非零時間移動――三度目の正直と言うべきか、あれの正体がわかった。

 予想通り、俺の予想の範疇にありながら、しかしそれはこの幻想郷において本来ならば一人しか持ち得ないはずの力。種族的には多くの者が所有しているが、この小さな世界ではただ一人しか宿していないはずの能力だった。

 すなわち、波長を操る力――『狂気を操る程度の能力』。

 彼女は妖怪ウサギではない(・・・・)。見た目は似ていても、中身はまったくの別物である。

 

「月へ行くという話が出て……すぐにこれですか。幻想郷に慣れてないということは、つまり……」

「お姉さま?」

「なんでもありませんよ。気にしないでください」

 

 その後はしばらくまったりと過ごしていた。途中で魔理沙が来て、「あ、泥棒」なんて指差したりもして、霊夢が起きてウサギの少女がいないことに驚いたり。どうやら霊夢は、あのウサギの少女は神社のものを盗むために狐か狸の化けた姿かもしれないと永遠亭の住民に吹き込まれていたらしい。

 私の光る羽衣を持って逃げられた、盗まれたと悔しげに喚く霊夢を眺め、魔理沙は「なんとなくわかることがある」と告げる。「その羽衣とやらは妖怪ウサギのものなんじゃないかな」と。

 

「一割くらい私のだもん」

 

 口を尖らせる彼女を見て、フランと魔理沙は笑った。



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四.境界を越える賢者の謀略

「はぁ…………なんでこんなことに……」

「いいじゃないですか。ほら、あなたの力を見せてください。私はそれを真似てみますから」

 

 迷いの竹林、永遠亭近く。ちょうどよく日差しが遮られ、フードをかぶらなくても済む場所。これみよがしにため息を吐く鈴仙に、俺は精一杯媚びるような気持ちで教えてくれと頼み込んでいた。

 上の方で風が吹き荒れる音が聞こえた。竹の葉がザアザアと揺れていたが、逆にそれらがすべての風を吸収してしまったのか、こちらまでその空気の流れがやってくることはない。

 彼女は俺の懇願にいかにも嫌そうな顔をしていたが、再度大きく息を漏らすと、ちらりと永遠亭の方を見やる。

 

「……まぁ、師匠に言われたことだし、やるのはやぶさかじゃないんだけど……なんで相手があんたなのよ」

「私のこと、嫌いなんです?」

「嫌いっていうか、苦手。あ、私の前ではあの黒いのは禁止ね。絶対。もし一回でも見せたら修行なんて手伝ってあげないから」

「黒いの……影の魔法ですか? わかりました。私も最近、あれの使用は控えるようにしていますし」

 

 鈴仙はどうにも、俺とのスペルカード戦の最中で影に捕らわれた時のことが完全にトラウマになっているようだった。怖気が走ったかのようにぶるりと全身を震わせる彼女を見ていると、つい数か月前にあれのおぞましさを理解してしまったこともあって、胸の中が非常に申しわけない感情で溢れてくる。

 

「それじゃ、始めるわよ。いい? まず私の能力は玉兎、つまり月の兎が共通して持っている力であって、地上の妖怪なんかとは一線を画する特別な――」

 

 瞳を閉じて人差し指を立てる鈴仙の説明に耳を傾けながら、頭の片隅でこうなることになったきっかけを思い起こす。かつての永夜異変にて鈴仙から奪った月の兎としての能力を、その本人から享受することになった経緯。

 その起因はほんの十数時間前の、すなわち昨日の深夜時間帯までさかのぼる。人間の里が寝静まり、妖怪たちが騒ぎ出す夜中、俺はただ一人で空を飛んで、永遠亭へと向かっていた――。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「病気かもしれないから見てほしいって話だったはずだけれど……どういうつもりかしら」

「それはこちらのセリフです」

 

 竹林の霧や細工を能力で無理矢理打ち消して、できるだけ時間をかけずに永遠亭に訪れていた。訪問拒否をする鈴仙を押しのけ、医者をやっている永琳にどうにか話をつけて、病気を見てもらうという話まで持っていくことに成功した。

 そうして招かれた一室から鈴仙が去り、俺と永琳だけしかいないことを確認した後、彼女がふとした拍子で俺に後ろを向けた隙にその影を踏んだ。

 相手を動けなくする魔法、影踏み。さらにその手を掴んで考え得る限りの力を封じ、背後から首元に顔を近づけていつでも噛みつけるようにしておく。

 永琳は、そんなことをされても少しも慌てることなく、ただただ淡々としていた。それどころか、影踏みをされているにもかかわらず首だけで半分振り返って、鋭い目線を俺に向けてくる。

 

「こちらのセリフ、ねぇ。どういうこと?」

「とぼけないでください。先日、博麗神社に妖怪ウサギが……いえ、妖怪ウサギに変装した月の兎が潜り込んできました。この幻想郷において月の民は輝夜と鈴仙、そしてあなただけのはず」

「……なかなか観察眼があるのね。あれの正体を見抜くなんて」

 

 本当に驚いた、という風に永琳が若干目を見開いていた。

 

「なにを企んでいるんですか? 新しい玉兎を月から連れてきて……数百年前、紫が月に攻め入ったから、今度はそちらから攻め込もうとか」

「面白い妄想ねぇ。しょせん妄想だけれど」

「答えてください。私は今、あなたに触れている。これがどういう意味を持つのか……って、あなたは知りませんでしたね。私の能力は――」

「言わなくてもわかるわよ、こんな禍々しい力。どうしようもないくらい穢れ切っている、すべてをなかったことにする願望と破滅の能力。叡智さえ無に(かえ)し、量子を根本から否定する裏側の……まさかこんなバカげたモノを持ってる輩が地上、いえ、この世界にいるなんてねぇ」

 

 永琳が口の端を吊り上げて、面白そうに俺を眺めてくる。俺からしてみれば、欠片も笑えない話だった。

 答えないのなら、と背伸びをして口を開き、牙を彼女の首元に近づけていく。それに怯えたわけでもなかろうが、永琳はそんな俺の様子にただ両肩を上げた。

 

「私は、私たちはなにもしていない。あのウサギは私たちが連れてきたわけじゃないわ。偶然幻想郷に迷い込んで、偶然私たちのもとに流れ込んできただけ。加えて言えば、あれはもう地上にはいない」

「そんな戯れ言を信じろと? 幻想郷は結界で守られています。そう簡単に入って来れるわけがありません」

「量子的に物事を見た場合、起こり得る事象は必ず起こります。なぜなら、量子の世界では確率的に事象が決まるのに、その情報を完全に捉えることができないから。結果を求められない確率で起こる事象とは、いかなる低い確率であろうとゼロではない限り存在する事象なのです」

 

 ふふ、と小さく永琳が笑った。

 

「この世は量子からできている以上、月から幻想郷に生き物が偶然紛れ込むなんてことも珍しいことではありません」

「……確かに、そうかもしれませんが……」

 

 幻想郷は幻想となった存在を引き込むように作られている。月に住んでいる者たちのことは地上の人間の間では知れ渡っておらず、幻想の存在と言えるだろう。ならば月の兎が地上に、それも目的地もなく降りようとした時、たまたま幻想郷に入り込んでしまうということがないとは言い切れない。

 だがそれでも、そんな偶然が起こったと考えるよりも、月の民である永琳や輝夜などがなにかを企んでいると考えた方が自然である。それも俺たち妖怪が今年の冬に月に行くという話をし始めた時点で、この事態だ。

 そんな俺の考えを見透かしたかのように、永琳が肩を竦める。

 

「正直に言えば私たちにとってもあのウサギが落ちてきたことは予想外だったのよ。そもそもの話、もしも知っていたら私は博麗神社の近くにウサギを呼び寄せるなんて愚行を犯さない。巫女にバレる危険性を決して無視したりはしない。神社にあのウサギが来たことを知っているなら、巫女が一度ここを訪れたことも知っているのでしょう?」

「……まぁ」

「私たちがなにかを企んでいると考えれば、一応の辻褄は合うでしょう。あなたがた吸血鬼の計画を阻止しようとしている線も考え得ることができます。でも、そう考えた時に発生するいくつかの違和感を、あなたは無視することができるのかしら?」

 

 その質問を境にして互いに黙り込み、俺と永琳は見つめ合いにらみ合った。

 永琳が俺を騙そうとしている可能性は否定し切れない。だが現状、それを断定するにはあまりにも情報が少なすぎた。新しい月の兎が幻想郷にやって来て、怪我をしていたところを霊夢に保護されて、その後の消息が不明になった。今の俺はただそれだけのことしか知らないのだ。

 影踏みの魔法を解除し、永琳の首元に近づけていた顔を戻す。掴んでいた手を離し、能力の影響からも解放した。

 ちょうど診察のためにと用意されていた丸イスに座ると、永琳はやっと解放されたと言わんばかりに伸びをして、俺の対面のイスに腰をかけた。

 

「私の話、信じてくれたのかしら」

「……完全に信用したわけじゃありません。だから、事細かに話してください。あなたとあの玉兎がどういう関係なのか」

「ええ、いいでしょう。でもその前に一つ、契約として、約束していただかなければならないことがあります」

 

 ぬぅ、と永琳が俺に顔を近づけてくる。一見穏やかな笑みを浮かべていたが、それゆえの目に宿る真剣さが際立っていた。

 

「ここでの話はすべて内密のものよ。巫女にも魔法使いにも、あなたの家族にも決して漏らしてはいけません」

「……危ない話だったら」

「その時はご自由に。悪魔は契約を破れない……しかし、あなたの忌々しい力ならばそれさえ可能にしてしまうでしょう。本当は口止めなんかじゃなくて、今すぐ殺してしまいたいところなんだけど……今の私たちは地上の民だもの。同じ地上の民のあなたの命を奪うことはできない」

 

 できないと言いつつ、それは、自分で自分を戒めているような感じであった。いや、実際にそうなのだろう。郷に入っては郷に従えなんてことわざがある通り、今の自分たちは地上の幻想郷に住む者なのだからその一線を越えるような真似はしてはいけない、と。

 ここでこの話を信じるも信じないも、受け入れるも受け入れないも、すべては俺の裁量次第だ。それでも、答えはとっくに決まっていた。

 

「わかりました。でも一つ、条件があります。それさえ飲んでくれるのなら、あなたたちが本当になにも企んでいないと、私の大切な人たちに危険が及ばないとすれば、あのウサギが玉兎であるということやあなたたちがあのウサギに関与している部分のことを、誰にも漏らさないと誓いましょう」

「ええ、ありがとう。やけに素直に聞いてくれるのね。それで、その条件とは?」

「実は前回の、あなたたちが起こした異変の最中に鈴仙に吸血をすることで力の一部を写させてもらっているんです。それをどうにか使いこなしたいので、鈴仙を師につけてくれませんか?」

「月の兎の力を……まぁ、いいでしょう。それくらいならお安いご用よ」

「……えぇと、鈴仙に許可は取らなくても?」

「必要ないわ。主導権は私にあるもの。それじゃ、なにから話そうかしら。まずはあのウサギの存在にいつ気づいたかというところかしらね」

 

 永琳が事情を話してくれるのは、決して俺を信頼しているからではないだろう。ただ単にきっと、変な噂を吹聴されたり勝手に勘違いして動かれたりするのがめんどうなだけだ。

 彼女が話すのは都合のいいように改変された過去なのかもしれない。俺に嘘を吹き込んで、利用しようとしているのかもしれない。それでも、少しは信じてもいいと思った。

 それは永琳たちがなにかを企んでいるとすれば違和感が出てきてしまうということもあるが、一度永琳が見せた、地上の民として生きていくという姿勢がどうにも気に入ってしまったことが大きいせいかもしれない。

 なにが起こっているにしろ、なにかが起こる可能性があるにしろ、俺は俺の全力を以てして対処するだけだ。

 心の中で短く覚悟を固めて、永琳の語る事情に耳を傾けていた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「――で、あるからして、私の力は物事の波長を操ることができるのよ。わかった?」

「あ、はい。たぶんわかりました」

「たぶんって、もう一度聞かれたって教えてあげないからね」

「大丈夫ですよ。きちんと覚えています」

 

 じゃあたぶんってなんなのよ、とぶつくさ揚げ足を取るような文句を漏らす鈴仙を眺め、小さく肩を竦めた。覚えてはいるが、理解したかどうかは別問題ということだ。

 結局、永琳は似非妖怪ウサギが幻想郷に落ちてきたことには関わっていなかった。

 博麗神社にあのウサギが迷い込む少し前、ちょうど空を眺めていた永琳はなにやら光るものが落ちてきたことに気づいたらしい。霊夢が永遠亭を訪れたことで、月の兎が降りてきたという予想は確信に変わった。その原因を突き止めるため、急いで鈴仙に玉兎特有の能力で月の都と連絡を取ることを頼み、その結果として月の都で問題が起きていることを知った。

 すなわち、月に『地上からの侵略者』の痕跡が見つかって大騒ぎしており、その侵入者側に加担しているウサギがいるという噂により、多くの玉兎たちが不当な裁判にかけられている。博麗神社に迷い込んできた似非妖怪ウサギはきっと、その魔女狩りのようなものから逃げてきたウサギなのだろうと。もしくは本当に侵略者に加担しているスパイウサギだろうと。

 そして地上からの侵略者は、永琳と輝夜の二人ということになっているらしい。自分たちにその気はないし、そんなことをするすべもない。つまりは自分たちも被害者なのだと永琳は語った。

 いつの間にか地上と月の闘争に巻き込まれていることも考えて、できるならば自分たちの手で自分たちを利用しようとしている犯人を捕まえたい。その思いをもとに永琳は、ちょうどよく月から降りてきた玉兎に、月の都にいる味方とも呼べる数少ない知り合いへ『これから起こること』を書いた手紙を、この玉兎をかくまってほしいむねと一緒に託したのだとか。月の羽衣があるならば自分たちと違って月の都に戻ることができ、地上に降りてもその布を大切にしているということは、この地上に逃げてきたとしても月に戻る意思があるのだろう、と。

 永琳は、それで自分たちが月から落ちてきたウサギに関与している部分は終わりだと言う。『これから起こること』とやらがなんなのかという問いに関しては「降りかかる火の粉を払うのは当然でしょう? そこにあなたが関わる余地はない」として答えてくれなかった。ただ、月の都を侵略者から守るため、そして今回の件の犯人を突き止めるための情報が詰まっているとだけ教えてくれた。

 

「やっているわね」

「あ、師匠」

「永琳、こんにちわです」

 

 鈴仙の講義のさなか、赤と青のツートンカラーが特徴的な服と帽子を身に付けた、銀髪の女性が永遠亭の方から歩いてきた。彼女は俺の姿を認めると、どこか感心したような声を上げる。

 

「これは、なるほどねぇ。他の存在の遺伝子を保存して、古代の力で再現、適応、固定……針に糸を通すようにうまく組み合わせてる。なかなか面白いわね」

 

 ちょうど玉兎化魔法を使っている最中のため、頭には鈴仙と同じようなヨレヨレのウサ耳があることだろう。永琳の興味の視線はそこに注がれていた。

 

「あら、本当に吸血鬼がいるのね」

「信じていなかったの? 輝夜」

「信じてたわよ? 信じてたから、疑わしかったの」

 

 そんな矛盾しているようなことを嘯くのは、永琳に続いてやってきた蓬莱山輝夜だった。ゆったりとした桃色の和服に身を包み、どこか面白げに口元に手を当てている。

 鈴仙が二人に挨拶をした。俺も、永琳に続いて輝夜にも「こんにちわ」と言っておいた。

 

「師匠、輝夜さま。本当にこんなやつを信用してもいいんですか? 吸血鬼ですよ?」

「信用するしない以前に、あのウサギの正体がこの吸血鬼にバレてしまった以上、情報の共有をすることで口止めをするしかないのです。地上からの侵略者……いえ、私たちを侵略者に仕立て上げてなにかを企んでいる輩を捕まえるためにも、あることないことを吹聴されては困るのですから」

「でも、師匠」

「いい加減に諦めなさいよ、鈴仙。永琳の言う通りにしてれば問題ないわ。それに、なんだか楽しいから私は今の状況が結構好きよ」

「私は楽しくないです……」

 

 反論をする鈴仙が、永琳と輝夜に言いくるめられて段々と小さくなっていく。

 ――永琳は、すべての元凶は幻想郷にいる可能性が高いと語った。外の世界の者ならばそれはそれでよし、しかし幻想郷にいるのならばお灸を据える必要がある。

 俺はその存在に一人だけ心当たりがあった。そして俺にそれがあるということは、きっと永琳にも同様の見当があるに違いない。

 近々月の都をどうこうしたいと考えていて、空に浮かぶ月の事情に軽々と関与できるほどの移動能力を持つ、幻想郷の住民――八雲紫。

 紫がなにを考えているのかはわからない。俺たちには藍を通して目ぼしいものを取ってきてほしいなんてわけのわからないお願いをしに来たが、真にはなにを企んでいるのか。

 紫はなんらかのよからぬことを企んでいる。永琳は黒幕の野望を阻止したいと考えている。これから起こるすべてはそのすれ違いから生じるものなのだと、俺は理解した。

 

「そもそもどうしてそんなに嫌がるのかしら。この吸血鬼……レーツェルって言ったかしら。見た目ほど子どもではないし、そこそこ理知的じゃないの」

「それは……そうかもしれませんが。でも、地上の民ですし……」

「前の異変で、私がちょっとやらかしてしまいまして。その一件以来、鈴仙には避けられているというか」

「やらかした? 鈴仙に? へぇ、続けて」

「か、輝夜さま! なんでもありませんから! あんたもその話はやめなさいっ!」

 

 慌て気味の鈴仙が、聞き出そうとする輝夜と話そうとする俺を押しとどめる。そんな鈴仙を輝夜は笑みを浮かべてからかって、永琳はその様子を口元に手を当てて微笑ましげに眺めていた。

 話そうと口を開いたら、鈴仙は能力で俺の声の波長をいじって、周りに聞こえないようにしてきた。しかし、だてに俺も鈴仙から講義を聞いていない。自身の玉兎としての力でそれを打ち消し、それを感知した鈴仙がさらに手を打って、それに俺が対処して。

 そんな中、「うふふ」と笑いを堪え切れないという風な様相の一人の妖怪ウサギが、ひょこっと永琳の背中から顔を出した。

 

「鈴仙はねぇ、そこの吸血鬼が出した触手に結構艶めかしい感じで捕らえられてねー。吸血までされて発情寸前だったんだよねぇ」

「ちょ、てゐ!? なんで知ってるのよ!」

 

 俺と背は同等くらいだろう。クセのある短めの髪の上に垂れたウサギの耳があり、ニヤニヤと細まった瞳は赤色に染まっている。裾に赤い縫い目がある桃色の半袖のワンピース、首元にはニンジンのネックレスをかけていた。

 突然の暴露に鈴仙が顔を真っ赤にし、てゐという妖怪ウサギに詰め寄っていく。そんな彼女をイタズラっ子のように笑みを深めて見つめ、鈴仙が自身に触れるという直前でてゐは勢いよくジャンプした。頭上にあった竹の枝を掴み、一回転したのちに勢いのままに跳び、俺の真横に着地する。

 

「やぁ、私は因幡てゐ。この竹林の管理者をやらせてもらってるよ」

「あ、これはご丁寧に。私はレーツェル・スカーレット、吸血鬼です。ところで、なんで永夜異変の時のことを……?」

「普通に隠れて見てたもん。いやぁ、あの時の鈴仙は傑作だったなぁ……おっと」

 

 鈴仙が能力を使って気づかれないようにてゐの背後に回り込んでいた。間一髪でそれに感づいたてゐが、再びジャンプして、今度は輝夜の近くに着地をする。そうして彼女の体を盾にするようにして鈴仙を見やった。

 

「あはは、鈴仙はあいかわらず追いかけっこが下手下手。どんなに便利な力を持ってたって、こんなか弱いウサギ一匹捕まえられないようじゃねぇ」

「ぬぐぐ……てゐぃ……!」

 

 輝夜が近くにいるから派手な真似はできないのだろう。鈴仙は悔しげに、快活に笑うてゐを睨んでいた。

 

「輝夜さま! そいつをこっちに渡してくれませんかっ!」

「あらあら、必死ねぇ。でも、だからダメよ」

「だ、だからとは?」

「その方が鈴仙の反応が面白いから。うふふ、てゐは私のこういう性格を見越して私の後ろに隠れてるのよね、きっと」

 

 輝夜の視線を受けて、てゐがくすくすと声を漏らす。鈴仙は歯ぎしりをして、そんな彼女に強い眼差しを向けていた。

 なんとなく、これまでのやり取りだけで、鈴仙がこの永遠亭において一番の苦労人であることを悟った。きっといつもこんな感じで周りからいじられているのだろう。なんだか無性に可哀想に思えてきた。

 俺から向けられる生温かい目線に気づいてか、鈴仙がてゐと一緒に俺にも睨みを利かせてくる。

 

「まぁまぁ、その辺にしておきなさい、鈴仙、てゐ」

「師匠」

「過去のことをいつまでも引きずっていてはダメよ。私たちはもう永遠でいることをやめた地上の民なんだから、新しいことに挑戦して、取り入れていくことも必要なの」

「それが、今回の一件だと?」

「いえ違うわ」

「そうで……って、え? じゃあなんで今そのことを話したんですか」

 

 混乱の感情を表情に表す鈴仙。永琳はそんな彼女を見て、やはり楽しげに頬を緩めた。

 

「なんにせよ、これからしばらく修行って名目で顔を合わせることが多くなるのでしょう? いつまでもそんな風に苦手意識を持っていては単に居心地が悪いだけよ」

「それは、そうですけど」

「私たちのことをすでにこの吸血鬼には話してしまった。だから今はむしろ、親しくなっておく方が得も多いはずです」

「本人の前でそんな損得勘定の話するんですね」

「お互いキツいことは言いっこありでしょう?」

 

 俺は急患を装って、脅し気味に似非妖怪ウサギとの関係を聞き出そうとした。これはその時のお返しのようなものだと永琳は言いたいのだろう。

 たとえ得が生じるためであろうと、親しくしてくれることはこちらとしても願ってもない話だ。文句を言ったりはするつもりはない。そもそも鈴仙は、表面上でだけ柔らかい態度を取るような器用な性格には思えないし。

 力なく永琳の提案を受け入れる鈴仙をてゐが笑って、それを聞いた鈴仙が怒りを思い出したという感じで再びてゐを追いかけ始める。妖怪ウサギとしての卓越した素早さを器用に用い、竹林を三次元に駆けるてゐを鈴仙はまったく捉え切れていなかった。

 

「賑やか、ですね」

「あなたがいるから、一層ね」

 

 輝夜のなんとはなしに放った一言が、なんだか心に強く残った。

 あなたがいるから。

 俺もこのメンバーの中にほんの少しだけ混じることができた気がして、なんだか少しだけ心地がよかった。



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五.登る巫女と落ちる吸血鬼

 鈴仙から能力の修行をつけ始めてもらってから数か月。始めたばかりの頃は波長というものがなんなのかという点で躓いていたが、最近はそれも直感的に理解し、ある程度は扱えるようになってきた。鈴仙のように自身の姿を一瞬で消したり対象の感情や感覚を操作することはできないけれど、気配を極限まで薄めたりなどはお手の物である。

 どこから漏れたのか――そこら中で、主に咲夜が材料集めを行っていたために当然なのだが――俺たち吸血鬼が月へ行く計画を立てていることを聞きつけた永琳が俺を問い詰めてきたりという事件はあったものの、俺自身に月をどうこうする意思がなかったおかげで、なんとか穏便に済ませることができた。『もしも実際に月へ行くことができたとして、仲間が月の都および月の住民になにか危害を及ぼそうとした場合、レーツェル・スカーレットが責任を持ってそれを押さえ込む』。新たにそういう契約を結びつつ、俺と彼女たちの情報共有関係は未だ続いている。

 修行と言えど別に毎日行っているわけではなく、むしろ行っていない日の方が格段に多い。今日もそんな多めの休日のうちの一日であり、現在は、霊夢に新しい魔道具のテストを手伝ってもらっている最中であった。

 

「聞こえますか?」

『あー、聞こえる聞こえる。ちゃんと聞こえるわよ』

「今度は成功みたいですね。あいかわらず、遠すぎるせいで心が読めませんけど」

「霊夢、なんだかちっちゃくなっちゃったねぇ。丸いし」

 

 地霊殿。中庭が見渡せる二階のテラスにて、さとりとこいしとともにテーブルを囲み、水晶玉に似た球体を三人で眺めていた。

 二人を連れて地上を観光する計画も、宴会に参加するという目的が達成したことで一区切りし、今では地上に出るのは一か月に一回程度の頻度になっている。今日はその日ではなく、ただ単に地霊殿にお邪魔しに来ていた。

 さて、さとりとこいしと一緒に見つめている球体こそが新しい魔道具、の片割れである。大きさは半径一〇センチメートルほどで、色は水色の半透明をしている。これは二つで一つとなる魔道具の片方であり、もう片側となる小さな宝石の欠片は首飾りとして加工し、霊夢に手渡してあった。

 

「こいし、これは霊夢じゃないわ。これの向こうに霊夢さんがいるのよ」

「向こう? んー、レーチェルしか見えないよ?」

 

 こいしのそんな返答に、さとりは苦笑いをした。

 

「まぁ、そうですね。これ半透明ですし、私は対面に座ってますし。見えるのは当然です。なにもおかしくありません」

「もしかして、レーチェルが霊夢……? うーん、こんがらがってきちゃった」

『あんたら、真面目にやってるのか冗談でやってるのかわからない問答はやめなさい』

 

 この魔道具の効果は二つあるのだが、一つ目は至って単純、通信機能としての役割だ。こうして霊夢のいる地上と俺たちのいる地底とでの会話も、こうしてお手の物である。理論上は地球の反対側であろうとも通話が可能なはずだった。

 

「ところでどこまで進みました? 妖怪の山に向かい始めたってところまでは聞きましたが」

『ん、そうね。芋の神さまを倒したわ。あれ、秋の神さまだったかしら? ああいや、豊穣だったような……まぁそんな感じ。一応麓は越えたわよ』

「となると、そこからは天狗が出てくる可能性もありますね。再三言うようですが、もしも身の危険を感じたら首飾りを壊してください。いいですね?」

『はいはい、わかってるって』

 

 魔道具の二つ目の効果は、首飾りの破壊をトリガーにその地点へ俺が召喚されること。開発当初はこの機能をつける予定はなかったのだが、ふいと何十年も前にパチュリーが召喚魔法の勉強をしていたことを思い返し――実験で小悪魔を召喚したはいいものの、送還がうまくいかなくてなし崩し的に契約していた――、彼女に話を聞きに行った。その結果、首飾りにした宝石の中に魔術陣を刻むことで、破壊をキーにレーツェル・スカーレットという悪魔を召喚するという効能を付与することに成功した。

 そしてなぜその首飾りを霊夢へ預けているのかと言えば、彼女は今、異変解決に動いているのである。異変とは言っても幻想郷中が紅い霧に包まれるだとか夜が終わらないなどという大したものとは程遠く、最近外の世界からやってきた神さまに博麗神社が乗っ取られてしまいそうだというだけのものだった。

 実のところ、博麗神社では祀っている神が巫女である霊夢でさえわかっておらず、知られてないがゆえに力も非常に弱い。今より力が弱まれば悪霊に神社を祟られる危険性が出てくるくらいである。冷静に考えれば他の神を信仰した方がいいことは自明の理であり、今回の異変は、別の見方をすれば新しい神さまが博麗神社で祀られる存在になろうとしていることになるのだから、悪霊の被害を受けなくなるゆえにむしろ喜ばしいことであるとも言えた。しかし霊夢は勝手にいろいろとやられることが大分気に入らないらしく、ちょっかいをかけてきている神を探して懲らしめることに決めたようだ。その話を聞きつけた俺がちょうどいいとして首飾りをプレゼントしたのである。

 本来ならば、霊夢に危険が及ばないように俺もついていくつもりだった。しかし今回の目的地は妖怪の山だと言う。あそこは独自の社会が築かれているせいで、吸血鬼異変でいろいろと問題をやらかした吸血鬼である俺はそう簡単に入ることはかなわないし、仮に侵入がばれたら、どうなるかまるでわかったものではない。たとえば天狗が大量に集まってきて、俺がいるせいで霊夢が一人の時よりも危機的状況に陥ってしまうということも十分あり得るのだ。だからこそ今回は直接行くことは控え、いつでも俺の召喚が可能な道具を渡すことでどうにか自分を安心させることにした。

 

「今更なのですが、霊夢さんは博麗神社の巫女……なんですよね」

『そうよ。それがどうかした? さとり』

「いえ、巫女が神を倒そうとするのって、よく考えなくてもおかしいのではないかと。巫女は神を尊ぶ立場にあると思うのですが」

 

 さとりの顔には若干の混乱が見られた。霊夢が当たり前のように言うものだから普通に受け入れてしまっていたが、確かに改めて思い返してみると、巫女が神を倒すというのはどこかおかしい気もしてくる。

 人間は通常、妖怪を恐れ、妖精をうざがり、神を敬う。妖怪は人間を喰らう特性があるのだから恐怖感が前面に出てしまうのは当然だ。妖精は人間を食べはしないものの総じてイタズラ好きなので、近くにいれば人間は少なからず警戒するのもしかたがない。そして神は人を食物としては見ず、気ままな者が多いほか、人から信仰されることで自らの力が高まることを知っているので、基本的には敬ってくる相手を優遇――神徳を与えたり等――するのである。

 巫女は、人間と神の橋渡しとなる職業の者のことだ。さまざまな手を尽くし人の心を集めることで神への信仰を高めるほか、神から人へと向けた言葉や力を借り受け、代わりに行使をする。巫女にはその過程でお賽銭等の形でお金を稼ぐことが許されており、すなわち神という存在のおかげで生計を立てることができる職業だと言えた。

 

『そんなこと言われてもねぇ。一応ある程度は心の中でありがたがってるつもりだけど、別にあいつらのおかげで生きていけてるわけでもないし、うちの神さまは名前すらわかってない状況だし。野良の神さまなんて妖怪とほとんど変わりないしねぇ』

 

 神々をあいつら呼ばわりする巫女なんて霊夢くらいだろう。さとりは目をぱちくりとさせていた。

 巫女は神の恩恵を受けることで生計を立てるのが常だ。ただしそれは通常の話であり、例外は存在する。博麗の巫女は代々妖怪退治に優れており、そちらを活用すれば巫女としての活動をしなくともお金を稼ぐことは容易にできるのだった。霊夢はむしろ妖怪退治をメインに行うことが多く、一昔前の巫女の在り方とは違って、神に頼らずに生計を立てて生活をしている。

 加えて言えば、彼女特有の『人や妖怪、どんな存在であろうとも平等な存在として捉える』という性質が神への信心を阻害していたりもするのだろう。もしかすれば、霊夢にとって神なんて『人間によくしてくれる妖怪みたいなもの』程度の認識しかないのかもしれない。それほどまでに彼女は平坦なものの見方を備えているのだ。

 

『ま、今回懲らしめようとしてるのはうちの神社の神さまじゃないし、気にしなくたっていいんじゃない?』

「気にするのは霊夢さんの方なのですが……まぁ、当人であるあなたがそう言うのなら、私も気にしないでおきましょう」

 

 地底に神はまったくと言っていいほどおらず、つまりさとりにとって神というものは身近な存在ではない。一度気にすることをやめようと決めた彼女は、それ以降の会話で徐々に霊夢の神の見方について疑問を抱かなくなっていった。

 俺とさとりとこいしは、妖怪の山を飛んでいる霊夢からのリアルタイムの実況を聞きながら、適当に思ったことを話していく。

 神でありながら妖怪の一部とされる、(不運)をため込む厄神様。妖怪の山で天狗に続いて有名であり、技術面においては外の世界に匹敵するとまで言われるほど進んでいる河童。狼のような耳と尻尾を持つ白い妖怪。その三人をスペルカードで下しつつずんずんと進んでいく霊夢は、戦闘中にこちらの会話に反応できるくらいには余裕があるようだった。

 しかし山の滝があるところを越えかけた辺りで、霊夢はそこそこ厄介な相手に立ち会ってしまったようだ。

 

『あやややや……侵入者の報告で来てみれば、まさかあなたとは』

「これは……いずれ天狗が来ることはわかってましたけど、文が来ますか」

「ああ、この声、文さんですか。言われてみればそんな感じですね。気づきませんでした」

 

 さとりが納得した風に頷いていた。宴会で数回飲み合った程度の関係なので、桜舞う宴の時期から何か月も経った今ではあまり声を覚えていなかったのだろう。

 ふと、俺が一緒について行った時を妄想してみて、さきほど想像した時のように大量の天狗に辺りを囲まれる光景を幻視した。霊夢に一人で行かせて正解だったのだと改めて思い直す。

 

「誰?」

『めんどくさい新聞記者よ』

 

 こいしの質問に、俺やさとりよりも早く霊夢が簡潔に説明をする。こいしは問いかけた割には興味なさげに「ふーん」と相づちを打った。

 

『めんどくさいとは失礼ね。私はいつだって清く正し……って、今はそれより大事な用がありました』

『私にもあるわ、大事な用。とってもとっても大事な用がね。でもそれは天狗どもにじゃない。あんたらには迷惑かけないようにするから、そこを通してくれない?』

『そうもいかないわ。私はね、侵略者の報告を受けて呼び出されたのよ。ただの新聞記者なのに』

『だから?』

 

 別にいいなら早く通してくれ、と言外に告げているような声音での霊夢の返しに、文は退くことなく返答をする。

 

『あなたのことを一番よく知っているのが私だから、あなたの相談ごとに乗れるかもしれないっていう粋な計らいね』

『さっきも言ったけど、あんたらに迷惑をかけるつもりはない。私はただ、うちの神社をどうこうしようとしてる山の神さまを懲らしめに来ただけよ』

『山の……ははーん、さてはあの神さまのことかな?』

 

 文がいかにも心当たりありげな反応を示すものだから、霊夢が「なにか知っているの?」と食いついた。

 『天狗も手を焼く神さまが山に住み着いた。どんどん山を自分のものにしようとし、麓にまで信仰を広げようとしている』と。文の説明に、きっとそいつだといきり立つ霊夢だったが、しかし文は調子に乗るようだったら天狗たちで倒すつもりだから、あなたが行く必要はないと釘を刺した。

 

「霊夢、どうしますか?」

 

 答えはわかっていたが、一応聞いておく。

 

『決まってるでしょ。なんでここまで来たのに引き返さないといけないの?』

 

 予想通り文の提案には否定の意を示した。霊夢は続いて「そもそも天狗になんて任せられない」とも口にする。

 

『あんた、私をその神さまのところに連れてってよ。あんたらより早く懲らしめてやるわよ』

『あいかわらず無茶苦茶なことを言いますね。まぁでも本音を言えば、私個人としてはそうしてもいいと思っています』

『だったら』

『それでも私はあなたを通すわけにはいかないの。だって、私があっさり通しちゃったら見回りの天狗たちが納得いかないからね。組織ってのは面子を大事にするものなのよ』

『なにそれ。めんどくさいわね、天狗って』

 

 霊夢は説得を諦めたようだった。ため息を吐く音の後、衣擦れの音がする。おそらく袖の中からお札を取り出したのだろう。

 

「霊夢」

『はいはい、危なくなったら壊すわよ。いちいち言わなくてもわかってるって。あ、ちょっと集中するから重要な用がある時は大声でお願いね。反応できないかもしれないし』

 

 さすがの霊夢も天狗は片手間で倒せるほどに弱くないことを知っている。彼女は声はわずかながらこれまでにない真剣さを帯びており、自然とこちらの空気にも少しばかりの緊張が漂っていた。

 

『誰と話しているのですか?』

「あんた」

『ま、誰でもいいんですけどね』

「なら聞かないでよ」

 

 ムッとした霊夢の様子が頭の中で想像できた後、テーブルに置いた球体の向こうから文の笑い声が聞こえてきた。

 

『さぁ、手加減してあげるから本気でかかってきなさい! 天狗の面子を守るついでに、本当にあの神さまに勝てる実力があるかどうか、ここで試させてもらうわ!』

『あっそ。行くわよ』

 

 そんな軽い霊夢の返事を合図に、弾幕の生成音やら衝突音やらが球体から響き始めてきた。これまではスペルカード戦をしている時は会話をしていたが、今回はそれもなく、固唾を飲んで耳を澄ませている。

 絶え間なく続くそれを聞き続けていると、見守ることさえできない現状に、なんだか言いようもない無力感が徐々に湧き上がってくる。

 霊夢は本当に大丈夫なのか、ただ魔道具を渡すだけでよかったのか。もっと俺にできることはなかったのか。

 ふいと、さとりに手を握られた。伝わる温もりが焦りを掻き消していき、沸き立つ不安が抑制され、段々とどうしようもなかった無力感さえも薄れてくる。

 戦闘が大分続き、あちらに釣られて漂っていた緊張が解れてきた頃、さとりが口を開いた。

 

「レーツェルは、無力なんかじゃありませんよ」

「……でも今、私にはなにもできてません」

「冷静にことを考えて、耐え忍ぶことが大切な時もあります。今の自分がなにもしていないからと、ただただ感情に流されるままその時その時で行動するのではいい方向へことは転びません。時にはそういう感情を抑制することも大切なのです」

「それは、そう……かもしれませんが」

「レーツェルはそれをわかっているはずです。わかっているからこそ、直接ついていかずに、首飾りを託したのでしょう?」

 

 さとりの説得に俺はなにも言い返せなくなった。

 言い負かされたわけではない。俺を安心させようと、さとりはとても優しい声音を意識している。それに気づき、非常に申しわけない気持ちと同時に、多大なる感謝の念が生まれてきていたのだった。

 人の心が読めるとはどういうことなのだろう、と。さとりと会ってから、たまにそんなことを考えることがある。実感ができない自分にはその答えは未だ出せないが、一つだけわかったことがあった。

 その能力は他人に無条件に嫌われるほどに邪悪なものでも、忌まれるべきものでもない。

 

「ありがとうございます、少し、安心できました」

 

 俺のお礼に、さとりは照れくさそうに頬をかいた。

 自分がしてきたことを常に振り返ってしまうから、自分の選択に自信が持てないから、こうも不安な気持ちになってしまう。これを抑えることが重要だと言うのなら、答えは簡単だった。俺はただ、霊夢を信じるようにすればいいのだ。なにせ俺はこれまでの付き合いで霊夢の強さを十分に知っているのだから。

 相手が文であることも安心できる要因の一つだと意識する。彼女が相手ならば霊夢が危機に陥る可能性が万に一つもないだろう。

 そろそろ戦いも終盤に差しかかっている頃だろうか。それでも、この一言だけは言っておきたかった。

 

「霊夢、がんばってください」

 

 自分から手を出せない立場にいるからこそ、心の底からの強い思いを込められた気がした。



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六.幻想の巫女、乾を創りし神

『あー、結構体があったまったわね。勘も鋭くなってきた気がするわ』

「お疲れ様です。って、文より前にも何人かと戦ってましたよね。通りがかりの妖精も無残に撃ち落としてたはずですし」

『あんなんで温まるわけないでしょ。河童はそうでもなかったけど、あいつらの弾幕ってほとんど水からできてるから冷たいし……』

 

 俺の心配はまったくの杞憂に終わり、これまでと比べて多少戦闘が長引きつつも、霊夢は文を打倒することに成功したみたいだった。テーブル上に置いた球体の向こう側から聞こえてくる彼女の息に乱れはなく、適度に身体をほぐすことができたようである。現在、霊夢は文の案内のもとに目的地らしい場所へ向かっている最中であった。

 普通に考えて、霊夢であろうとも、天狗――それもその中でも最速とされる鴉天狗である彼女を『多少長引き』程度で破れるはずがない。文は勝負前の宣言通り、しっかりと手加減をして戦っていたのだろう。霊夢もそれは把握しているようだった。いや、むしろ俺以上に十分に理解している。

 

『まったく、あの天狗……私がこの先全力で戦える状態になるように、うまく調整してたわね』

 

 霊夢が、前を行くという文には聞こえない程度だろう声音で呟いた。

 天狗の狡猾さは幻想郷一である。その中でも案外単純な部類に入りそうな文であろうと、手加減の具合の調節くらいならばお手の物であろう。元々俺が危険の心配なんてする必要はなに一つとしてなかったのである。

 さとりが鋭く目を細め、こいしがぱちぱちと目を瞬かせた。地上へのお出かけを定期的に行っている二人は、霊夢がスペルカードで戦っている様子を幾度か見たことがある。つまり彼女の強さをある程度知っているということであり、だからこそ二人の反応には驚愕という共通した感情がこもっていた。

 霊夢も全力ではなかったにせよ、文に手加減の程度を調整する余裕があったのは事実なのである。

 

「地上の妖怪も、存外、昔と比較しても弱くなったわけではないのかもしれませんね」

「んー。河童はこの辺のと比べたら弱かったけどねぇ」

「今の河童は先進国みたいなものですから……って、そうなると強くないとおかしいですね」

 

 力よりも技術を磨いた結果が今の河童なのだろう。萃香に言わせれば、昔も今も天狗や河童の本質はなに一つ変わっていないらしいが。

 というより、さとりの「昔と比較して」の部分が妙に気になった。現れてからしばらくの年月が経った吸血鬼でも、寿命が人間より長い妖怪という種族が多く存在する幻想郷では未だ新参扱いである。それ以前はもっと別のところにいたこともあり、幻想郷での、同じく妖怪であるさとりの言う「昔」の妖怪の強さの程度を知らない。そもそもそのような言い方をするということは、もしかしてさとりは俺が来る以前より地上にいたことがあったのだろうか。

 一度考えたら妙に気になり始めてしまう。そのことを質問しようかと口を開きかけた矢先、球体を見つめていたさとりが、ふいと第三の目と一緒に俺に目線を向けてきた。

 

「ああ、いえ、違いますよ。私やこいしは地底産まれです。ただ昔、地上の話をお父さんやお母さんから聞いたことがありましたから」

「両親……ですか」

「その関係は長く続きませんでしたけどね。二人とも幼い私とこいしを置いて、どこか遠いところへ行ってしまいました。もしかしたら誰かから恨みを買って、もう死んでるかもしれません」

 

 さとりの声音にはわずかな優しさがこもっていたが、それ以外はすべて淡々としていた。大事な思い出ではあるのだろう。だが彼女は、もう死んでるのかもと軽く思えるくらいには割り切ってしまっていることも理解した。

 

「恨みは、ないんですか?」

「確かに、世間知らずな私たち姉妹を残して消えてしまうような薄情ものでしたが、二人とも優しかったですから。今はもう、なんの感慨もありませんよ」

「……そうだねぇ。それに今は、レーチェルがいるし」

 

 こいしがそう言って立ち上がり、イスを俺のすぐ隣に置いた。そうして再度座るこいしを、さとりは微笑みながら見つめている。

 俺は、俺が思っているよりも二人の中で重要な立ち位置にいるのかもしれない。それは光栄なことではあるが、同時に、どこか怖いと思う部分が俺の中に生まれていた。

 もしも期待に応えられなかったら、もしも二人を傷つけてしまったら。そんな恐怖が胸の内に燻ぶっている。

 

「そんなこと、気にしなくてもいいんですよ。レーツェルはありのままでいてくれれば大丈夫です。それだけで私やこいしは十分なくらい楽しい気持ちになれますから」

「……そう、ですか?」

「そうです」

 

 段々と不安感が薄れていくのがわかった。それと逆の感情で溢れてくるのがわかった。

 どうにも俺はさとりに諭されることが多いような気がする。それに彼女も俺の扱いが手馴れてきているというか、さとりと話しているとどんな嫌な思いも自然と和らいでいくのだった。

 

「いつも気を遣わせてしまって、申しわけありません。めんどくさくなったりしませんか?」

「しませんよ。私だってレーツェルにはたくさん助けられています。お互いさまというものでしょう」

「助けて……? そんな記憶、私には」

「あいかわらずですね、レーツェルは。それに、私は気を遣ってなんていません。私はいつもあるがままでいますから、安心してください」

 

 そんなこと言われたら、反論の言葉も吐けなくなる。黙りこくる俺に、さとりはまるで幼子を見守るような表情を向けてくる。

 俺はただただそれを見つめ、自分の方が年上のはずなのにどうしてなぐさめられているのかと自問自答していた。そうして徐々に、なんだか穴があったら入りたいような気分になってきてしまう。

 そうしてどれくらいの時が経っただろう。そろそろ、テーブルの下に潜り込もうかなと考え始めてしまうくらいにはなっていたところ、球体からの声がその思考を遮断した。

 

『あー、あー、もういいかしら? しゃべっても』

「え、あ、はい。どうかしましたか?」

『どうかしましたか、じゃないわよ。なんかすっごく話しかけづらい雰囲気放ってるし、気を遣ってたのは私の方よ。こっちの音が届かないように適当な結界張ったりさぁ』

 

 ぷんすかと怒っている様子が容易に想像できるような声音で霊夢が文句を漏らしてくる。なんというか、自分で首飾りを渡したくせに失礼極まりないことであるが、この場にはいないせいか半ば存在を忘れかけてしまっていた。

 慌てて「ごめんなさい」と、できるだけ誠意を込めて謝罪をする。さとりもそれに続き、こいしも「えへへ」と笑いながらも流れに乗った。

 

『はぁ、まぁ、いいけどね。今はとりあえずなんか変な神社の近くに案内されて、同じく出てきた変な緑のやつをぱっぱと倒したところよ。そういえば、あの記者もういないわね』

「は、はぁ。って、もう倒したんですか?」

 

 幻想郷に博麗神社以外の神社は存在しない。それなのに妖怪の山でそれが見つかったということは、すなわち外の世界からやってきたものということである。

 ならば出てきた変な緑のやつというのも外の世界の者なのかもしれない――いや、外の世界の者だ。俺の原作としての知識の中にも、この異変の記憶はある。だからまだテスト段階であった首飾りの魔道具を霊夢に託したのだ。

 

『ま、あんまり強くなかったからねぇ。そこそこセンスはあったように思えるけど、全然戦い慣れてないみたいだったし』

 

 大した時間、さとりと話していたわけではない。会話の合間に空白ができることはあれど、この短時間で一勝負を終わらせるとは相当だ。なんだか俺が変な空気にしてしまったせいで不機嫌だったし、そのぶんの憤りを相手にぶつけていたのかもしれない。

 

「んー、ねぇ霊夢。神社に手を出してるのって神さまなんだよね?」

『そうだけど、それが?』

「神さまってどうやってなるのかな。妖怪みたいにそこら辺から湧き出てくる以外に途中からなることもできるって聞いたことあるわ」

 

 私神さまになってみたい! とこいしが目を輝かせていた。

 

『いやまぁ、なれないこともないだろうけど……その辺はレーツェルの方が詳しいんじゃない? 長く生きてるんだし』

「私ですか? まぁ、信仰されれば妖怪でも神になることができますよ。天狗なんかはその類ですから。ただ、その場合は純粋な神ではありません。神は信仰そのものが力ですから信仰を失えば力もなくなりますが、天狗のようなものはそうではないですし」

「じゃあ私もなれるかな」

「……厳しいですね。神というものはすべてのものに宿る本質なので、厳密に言えばその辺に溢れているのですが……名を持つ神となると話は別です。妖怪と違ってよほどのことがない限りは生まれません。いえ、妖怪もそう簡単に現れたりはしませんが、神はそれ以上です」

 

 多くの人々に認められ、信じられ、神であると思われなければならない。ただでさえ発生しにくいのに、人を喰らうとされる妖怪が神になるとなると並大抵ではない苦労が必要だろう。少なくとも、たかが数十数百年で成し遂げられる程度の偉業ではない。

 こいしにそう教えると、彼女は「そっか」と呟いてはしょぼんとしてしまった。なんだか申しわけないというか、なんというか。

 とりあえず頭を撫でてみた。猫みたいに擦り寄られた。

 

『っと、湖についたわ。私の勘が確かなら……うちの神社にちょっかいを出してる犯人はここにいる』

 

 霊夢からの報告に、即座に思考を切り替える。

 

「湖、ですか?」

「大蝦蟇の池のこと? あそこ綺麗だよねー。レーチェル、お姉ちゃん、また三人で行こうよ」

「ええ、そうね」

『はいはい、そういう話は私がいないところでね。あと大蝦蟇の池とやらじゃないわよ、たぶん。なんか変な柱の山があるし』

「変な柱ですか?」

『なんでもいいけどね。とにかく……出てきなさい! この気持ち悪い柱を作ったやつ!』

 

 現場にいない俺たちには音しか受け取れないが、霊夢の叫びに呼応するものがあるのがわかった。『我を呼ぶのはどこの人ぞ?』と。

 

『おや? なんだ、麓の巫女じゃないの。気持ち悪いとか失礼なこと言ってたけど、私になにか用?』

『……ずいぶんとフランクな神さまね』

 

 威厳のある声は最初だけであった。霊夢の呆れたような声に、相手は『最近は友達感覚の方が信仰が集まりやすい』とわずかに笑う。

 どんなものも受け入れるという特質があるゆえに、究極的には幻想郷全体がそうであろうと言える。それも妖怪の山となると、人間がいない関係でその差は確かに顕著に表れるだろう。なにせ妖怪が神を尊んだりするはずがない。

 この発言から――俺も最初からわかっていたことであるし、霊夢も新たな神社を目にしたところから予想はついていたと思うが――相手側が、ここ最近に外の世界からやってきた神さまであるということが確定となった。というか世間知らずならぬ幻想郷知らずでなければ、神であろうと幻想郷に住む者が博麗神社に手を出そうなんて考えはしない。そんなルールを破ろうとする真似は簡単にできない。

 

『ま、なんでもいいわ。あなたたちの事情なんて知らないし、知りたくもない。私が言いたいのは単純明快、ただ一つよ』

『ふむ、言ってみなさい』

『うちの神社を乗っ取ろうとするのは今すぐやめなさい。滅茶苦茶迷惑してるのよ』

 

 巫女のくせに、あいかわらず堂々と正直に、神にさえクレームを突きつける霊夢。常人がみれば「わけがわからない」と放心しそうなそれも、俺たちは彼女の性質に慣れすぎたせいか、すでにまるで当たり前のように淡々としていた。むしろ、霊夢が神を敬う態度を見せた方が盛大に驚ける自信がある。

 しかし、それもよくよく考えれば幻想郷では当然のことなのかもしれない。なにせ博麗大結界とは幻想郷と外の世界を分ける常識の結界であり、外の世界の非常識を幻想郷での常識としている。この世界では、あらゆる物事や関係において常識という小さな枠に囚われてはいけないのだ。

 

『乗っ取ろうなんてしてないわよ。私はあなたの神社を助けたいだけ、人が集まるようにしたいだけ。あなたの神社を、妖怪の魔の手から救いたいだけ……そう、たとえばちょうどあなたがかけている首飾り。妖怪があなたを監視するための道具でしょう?』

 

 霊夢の相対している相手が、ニヤリと口の端を吊り上げているような光景が一瞬幻視できた。ただ会話するだけの道具にするならばともかく、召喚用の魔術陣も組み込んでいるからか、やはり力のある者にはある程度の仕組みが読み取れてしまうらしい。

 私が安全に壊してあげましょうか? と提案する神を、霊夢はふんっと鼻で笑った。

 

『余計なお世話よ。それに、どうせこれを作った本人は"監視"のためだなんて思っていないわよ。私も同じく、そんな大層な代物だなんて思っていない』

『ほほう、ならばなんと心得る?』

『――親が子を見守るみたいな思いがこもった、過保護なまでの、なんの変哲もない単なるお守りよ。あんたなんかに壊させてたまるか』

 

 霊夢は嘘を吐かない。元々正直者だったことは知っていたが、鷽替神事で完全にそれが証明されている。つまり霊夢の今の言葉は、本気でそう思って口にしたものだということだった。

 この感覚はなんだろう、と胸の前で強く拳を握り込む。温かくて、心地よくて、奥底の方から踊り出したくなるくらいの歓喜が溢れ出てくる。

 

「霊夢、なんていうか……えっと、言葉にできないくらい嬉しいんですけど、きちんと壊す時は壊してほしいというか」

『はいはい。わかってるわよ、いちいち言わなくても』

 

 半ば無意識に出てしまった反論の言葉は、きっと、照れ隠しだった。言い終えてからそれを自覚して、なんてバカらしい、もっと素直になれよ、なんて他人事のように頭の片隅で思う。

 

『人間の巫女が、ずいぶんと妖怪を信頼しているようね。それでは神社に信仰が集まらないのは当然か』

『うるさいわね。信頼なんてしてないわよ。ただ、あいつの性格がどんななのか知ってるだけ。そもそも神社を救いたいだとか言ってたけど、あんたを祀ったところで信仰が増えるかどうかわからないじゃん』

『いやいや、信仰はゼロより減ることはありえない』

 

 俺とさとりとこいしは、その言葉で一斉に噴き出した。

 

「これは座布団一枚ですね」

「ふふっ」

「わぁ、うまいねぇ」

『おい。あんたら殺すわよ』

 

 霊夢の怒気がこもった声に、三人揃ってごめんなさいと、冗談交じりに謝罪の言葉を吐く。だってまさか神の方から「あんたの神社には信仰が一すらない」と言外に突きつけられるとは思わなかった。少しくらい面白がるのは許してほしい。

 

『おやおや、どうやらうけてもらえたようね』

『私は面白くない。それで、結局どうなのよ。私の言うこと聞くの? 聞かないの? 聞かないって言うんなら……』

 

 神であろうと立ちはだかるのならば容赦しない、と。衣擦れの音が球体から届き、霊夢がお札を取り出したのがわかる。

 

『ああ、嘆かわしい。幻想郷に足りないのは神さまを信じる心。巫女のあなたならわかるはずでしょう?』

『あなたを信用しろって? ふんっ、そりゃあ私だって参拝客が来たらいいなぁとは思ってるわよ。でもねぇ、それは私の力でなんとかするから。あなたの力なんか借りないから』

 

 はぁ、と相手の神が大きなため息を吐くのが聞こえた。霊夢の態度に呆れ果ててしまったような印象だった。そうして霊夢と同じように、こちらも力でわからせるしかないと。

 響くは、荒れ狂う嵐のごとき風の音――天を支配せし力。

 

『神社は巫女のためにあるのではない。神社は神の宿る場所……そろそろ、神社の意味を真剣に考え直す時期よ!』

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 結局、あの後の勝負はいろいろと滅茶苦茶なことになった。そう言うと霊夢が相当な苦戦を強いられたり、周囲の地形が変わるほどの戦闘だったと捉えがちだけれど、そうではない。

 途中からどこからか話を聞きつけた魔理沙が乱入してきて、みつどもえの戦いになったのである。霊夢によれば、二人が弾幕を撃ち合っているところへマスタースパークを不意打ち気味にぶっ放ち、私も混ぜろと意気揚々と突っ込んできたとか。

 なんていうか、アホである。

 今回の異変を起こした神――八坂神奈子は、そんな二人との勝負を経て、ほんの少し幻想郷というものを理解したようだった。人も妖怪も神も関係なしにともに騒ぎ合い、遊び合い、友でありながら敵でもあるという矛盾を軽々と受け入れている世界。

 神奈子は博麗神社の乗っ取りはやめたらしい。代わりに博麗神社に自身の神社の分社を設置させてもらうということで話は収まった。霊夢も自分の神社に信仰がないのは自覚しているからか、「うちの神社の信仰も増えるって言うなら」と許可を出した。

 とりあえずは丸く収まった、というところだろうか。しかし山に新たな神が出現したことで、信仰することで手に入る神徳によって山の妖怪が新たに力をつけつつあった。幻想郷のパワーバランスを脅かしかねないそれを解消するために、神奈子は地上の妖怪からも信仰を集める必要がある。

 まだまだ課題が山積みなことは明らかだったが、神奈子にはどうにかがんばってもらいたいものである。



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七.吸血鬼、暗躍者、首謀者

 博麗神社が外から来た神に乗っ取られそうになった事件から二か月近くの時が過ぎ、幻想郷はすでに雪が降る季節になり始めていた。

 山の上に外の世界から転移してきた神社――守矢神社は山の妖怪たちと和解し、現在はうまくやっていけているようである。外の世界のことにある程度通じているからか、河童となにやら共同でやっているという話もたまに聞く。

 あの異変の後に、とりあえず霊夢からは首飾りを返してもらった。不具合のチェックやらをしなくてはいけないし、力のある者ならば一目見ただけで中に書いてある魔術陣の構成がわかってしまうというのも問題だった。それが新たな騒動の引き金にならないとも限らない。今はその点を修正し終えたので、機会ができれば霊夢にまた渡したいと考えていた。

 

「月に行ってもいいんですか?」

「ええ、どうぞご自由に」

 

 この二か月、レミリアたちは月へ行くためのロケットを作ることに尽力していた。ロケットの形を模索し、必要な材料をどうにか揃え、月へたどりつくための燃料を探す。その苦労も実を結んでか、ロケットはついに完成したのだった。

 今年以前――それこそ数年前からロケットを作ろうという話は持ち上がっていた。しかし材料は集まらずロケットの構造も定まらず、ただただ時間を浪費するだけだった。今年に至るまで、ロケットなんていいところ二〇から三〇パーセントしかでき上がっていなかっただろう。それなのに今更、それもたった数か月ですべての条件が揃った。

 もはや誰かが裏で手を引いているのは明らかである。誰かというか、吸血鬼に月を攻めてほしくて、実際にそれとなく手を回すことができるような存在なんて一人しかないのだが。

 

「お師匠さま、本当にいいんですか? こいつとその仲間は月を侵略しようとしているんですよ?」

「ええ、わかっています。ですが、構いません」

「それは……吸血鬼のロケットは月にはたどりつけないから、ということでしょうか。それともやっぱり、月の都に恨みが……」

「どちらも違うわよ。あなたはただ、私の言う通りにしていればいいの」

 

 今は紅魔館でロケットの完成祝いとしてパーティを行っているところだった。壁に寄りかかっている俺の隣には永琳がおり、そのすぐ近くでは鈴仙が不安そうな顔をしている。

 ロケットの説明を終え、愛称も決めた。月へ行くためのそれは三段の構造をしており、月へ向かうにつれて下から一つずつ切り離していくことになっている。外の世界の行き方ととても似ているのは、真似たのだから当然だった。

 そして幻想郷は自然に溢れてはいるが、そのせいで逆に燃料がネックになっていた。その解決法は意外なところにあり、すなわち霊夢の力を借りることである。霊夢の力を借りるというより、霊夢の巫女としての力を借りるのだが。

 霊夢はつい数か月前からなぜか(・・・)紫に神さまの力をその身に降ろす修行をしろと告げられていたらしく、暇でやることのなかった彼女は律儀にも続けていた。そんな彼女に相談した結果、都合よく(・・・・)宇宙を飛ぶための力になれる神の存在に思い至り、霊夢が降ろす神の力を使うことになったという。

 搭乗員は今のところ、俺、レミリア、フラン、咲夜、霊夢、数人の妖精メイドである。霊夢も案外乗り気だった。ただ、おそらくそこに飛び入りで魔理沙が加わるだろうとなんとなく思っている。

 

「鈴仙、そんなに心配しないでください。月に行っても、そこの民をどうこうしたりなんてするつもりはありません。お姉さまたちにあったとしても、私が止めます。そういう契約をあなたたちと結んでいるんですから」

「それならそもそも月に行かないでほしいんだけど」

「それはできません。皆、月に行きたがっていますから。私だけの意思で引き留めるわけにはいかないのです」

 

 手に持っていたグラスを口元で傾け、ワインをほんの少し舌で味わう。こういうのもまた、いつも神社の宴会で飲むそれとは違った趣があった。

 ジトッとした目で俺を見つめてくる鈴仙。ここ最近能力の修行として彼女と付き合う回数が多かっただけに、それなりに親しくなれたつもりだった。ただ、やはり俺たち吸血鬼が月へ旅行するとなると、以前月に住んでいた鈴仙にはいろいろと思うところがあるのだろう。その目には若干の刺々しさと警戒心が窺える。

 永琳が、どこか意外そうに俺を見やった。

 

「あら、あなたは月に行きたくないのかしら?」

「それは、行ってみたいですよ。ロマンがありますし。でも私の中にはそれと同時に、月は危険な場所という認識があるんです」

 

 かつて八雲紫率いる大妖怪の軍団を倒した、未知の力を備えた者たちの住まう場所。そんな言葉とともに、頭の中では俺が永琳と情報を共有する関係となった事件がよみがえる。俺が似非妖怪ウサギのことで永琳を問い詰めた時のことだ。

 永琳は、俺の能力で力を封じられているはずなのにずいぶんと余裕そうで、影踏みなんて最初からなかったかのごとく普通に首だけで振り返ってきていた。あの余裕、あの得体の知れなさ。月の民にそんな輩がごまんといると言うのなら、なんと恐ろしい場所なのだろう、と。

 そんな思考を読んだかのごとく、永琳がくすくすと口元に手を当てた。

 

「別に月の民が皆私や輝夜ほど強いというわけではないわよ。私は昔、月の都では賢者と呼ばれる立場にいましたから、そのことをよく知っています」

「……でも、第一次月面戦争では」

「増長した妖怪どもの殲滅が、なにか? ま、その時には私はとっくに月の都にはいなかったから、詳しくは知らないのけれど……月の都の技術力があれば、個が優れていようと統制の取れていない集団なんて恐るるに値しないでしょう。戦争とはそういうものです」

 

 一対一の決闘ではなく、多対多の戦争。より技術力があり、より人数がいて、より統制が取れている方が勝つ。当たり前のことだ。

 

「って、それじゃ私たちも、月の民に見つかっちゃったら普通にやられちゃうってことじゃないですか」

「あら、そのつもりじゃなかったの?」

「違います」

 

 このままではやはりまずいのではないか、という思考が駆け巡る。内緒でロケットでも壊しておこうか。いや、でも、せっかくレミリアたちが一生懸命に作った代物だ。そんなことはできない。

 月へは行きたい。でも、月は危険なところだ。レミリアたちを危険な目には合わせたくない。俺はいったいどうすることが正解なのだろう。

 虚空を見据える俺の肩に、ぽん、と永琳が手を置いた。

 

「一つ、いいことを教えてあげましょう」

「……なんですか?」

「前に地上に降りてきた玉兎に手紙を託したと言ったわよね。あの手紙にはこれから起こる未来のことが書いてある……そう、あなたたち地上の妖怪が月へ向かうことも」

 

 目を見開く。それのどこがいいことだと言うのだろう。

 これはもう一生懸命に作った代物だからとか考えている場合じゃない。ロケットを壊す、と慌てて歩き出そうとした俺を、永琳は俺の肩を掴む力を強くして止めてきた。

 

だから(・・・)、安心なさい。なぜなら、だからこそ(・・・・・)あなたたちが月の民に殲滅されることが、まずありえないからです」

「……どういうことですか?」

「私は信頼できる相手に向けて手紙を託したと言ったはずよ。そしてその者には、侵入者には基本的に一人で対応するようにとも言ってある。おそらくあなたたちが相対するだろうその子も、根は優しい子ですから、あなたたちを殺すということはないでしょう」

「一人、ですか? どうして……一人くらいなら私たちの手にかかれば簡単に」

「そうね。あの子の手にかかれば、あなたたち程度は簡単に抑え込める」

 

 永琳は、そう言って不敵に口の端を吊り上げた。月の民が皆強いわけではない――しかしその者は、間違いなくその強いという部類に入る。それこそ、吸血鬼数匹と巫女とメイド、妖精数人なんて楽々と抑え込めるほどに。永琳は俺にそう言っているのだ。

 

「ま、あくまで基本的に、よ。おそらく玉兎の兵士とも会うことがあるでしょうが……そこは大した問題ではありません。月の都という大きな組織ではなく、私の知り合いという小さな個人が、しかも死なないように相手をしてくれる……どう? 私の言った通り、いいこと、だったでしょう?」

「……要するに、ぼこぼこにされてこいと言いたいわけですか」

「ふふっ、どうかしらね」

 

 俺たちはなんてピエロだ、とため息を吐いた。八雲紫の謀略で月へ行くことになり、八意永琳の謀略でぼこぼこにされて追い返されることになる。なんだろう、これ。わけがわからない。月に行くメンバーの中で、俺以外のこの両方の策略を把握している者はいるのだろうか。

 それでも、ほんの少しの時間とは言え、月に降りることができるというのなら、レミリアたちも満足してくれるかもしれない。

 ロケットを壊しに行くのはやめることにした。それを鋭く察した永琳が、俺の肩から手を離す。鈴仙はどこか感心した目線を永琳に向けていた。

 

「さすがです、師匠。そこまで手を回しているとは……」

「まったく。レーツェル、あなたが余計なことをしようとするから、鈴仙にバラすことになっちゃったじゃない。混乱させておいた方が面白かったのに」

「すみません。以後気をつけます」

「え」

 

 固まる鈴仙。俺と永琳が揃って面白がると、鈴仙は永琳に恨みがましい視線を送り、俺には普通に襲いかかってきた。

 弾幕をひょいひょいと避けているとパーティを楽しんでいた他の客人の目が次第に集まってきて、観戦ムードになり始める。どうやらスペルカードで遊んでいると勘違いされているようだった。だが、勘違いを本当にしてしまうのもまた一興かもしれない。

 パーティが開かれる中、俺は鈴仙と弾幕ごっこをした。ちなみに鈴仙はその後、永琳に目一杯叱られたらしい。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Yukari Yakumo □ □ □

 

 

 

 

 

「紫さま」

 

 博麗神社。その屋上で、私は、今はパーティが行われているだろう紅魔館の方を眺めていた。

 吸血鬼たちが私の力で月へ行くことを断るだろうことはわかっていた。そして、私の手を借りず自分たちの力だけで向かおうとすることも。

 首尾は万全、大方思い通りに進んでいる。これならば、ちょっとした月への仕返しも成功してくれることだろう。

 

「紫さま!」

「まったく。なによ、藍。そんなに大声で叫ばなくても聞こえるわ」

 

 いちいち見なくてもわかる。私の右斜め後ろ辺りに、私の式神である九尾の狐こと八雲藍がいる。

 まるで咎めるような口調のそれに、なんだか相手をするのが少しめんどくさくなって、小さくため息を吐いた。

 

「それならば答えてください。なぜ、この幻想郷を包む博麗大結界に歪を作っているのですか? あのまま放置しておけば幻想郷はやがて形を保てなく……」

「必要だからよ。この第二次月面戦争が終わった後に訪れる、最凶最悪の異変に備えてね」

 

 頭の中に浮かぶのは、まるでメッシュを入れているかのように幾房か金が混じった銀色の髪と、飛ぶための膜がない異常な形の翼――その二つを備える最強の吸血鬼、レーツェル・スカーレット。

 年を経るごとに彼女の様子が徐々に変わっていっていることに、私は気づいていた。

 最初に会った頃はただただ淡々としていて、身内以外にはなんの興味もないとでも言うような孤独の雰囲気を放っていた。だが今は違う。

 彼女が身内を、俗に言う仲間を大切にしているのは変わらない。けれど同時に、この小さな世界を愛してきてくれているように思える。人間と妖怪、その他さまざまな種族が混じって暮らすこの幻想郷を、なによりもよき場所だと捉えてくれているように感じている。

 それ自体は嬉しいことこの上ない。かつて私が求め、作り上げた世界を気に入ってくれることは私も誇らしい。

 ――だから、終わりが近づいていた。

 ――彼女を縛る『大切』な鎖が多くなりすぎたのだ。重くなりすぎたのだ。

 ――彼女の姉は、それに気がついているだろうか。

 

「多くの歪みを作っておけば、いざという時、私はその歪の隙間を通って、使って、さまざまな手を打つことができる。きっと彼女が起こす災厄の影響も受けないはず」

「彼女……? 紫さまはいったい、なにを見据えて……」

「この月面戦争は私個人の月への仕返しであるとも同時に、その異変が始まるまでの時間稼ぎでもあるの。彼女の注意を月に向けさせ、私が黒幕だと思わせることで不審な行動を月に関するものだとしてカモフラージュする。最後の思い出作りということを意識させて、異変が起こる時期を明確にする……」

 

 きっと彼女は今年中に異変を起こすつもりでいた。それがいつなのかわからないのでは問題がある。ならばわかりやすい探知機を用意してやればいい。月への旅行という餌を用意し、それが終わってから起こるように誘導すればいい。

 目論見は今のところ全部成功している。舞台は整ったのだから、あとは――。

 

「紫さま、教えてください。この騒動の後、いったいなにが起こるというのですか? 巫女に任せていてはダメなのですか? 紫さまが結界に細工をしなければ解決できないような異変とは、いったい……」

「今は言えないわ。どこからこの会話が漏れているとも限らないから。ただ、一つ言うなれば……」

 

 レーツェル・スカーレットの情報を集めるのには苦労した。幻想郷での動きを探ったり、悪魔の話を聞いたり、かつて彼女が暮らしていた場所での歴史を調べたり。

 光翼の悪魔――"狂った帽子屋(マッドハッター)"。彼女とのこれまでの付き合い、そして調べ尽くした事件の内容から彼女の人格形成がどのように行われたのかを推測し、私はようやく一つの仮説にたどりつくことができたのだった。

 レーツェル・スカーレットには断片的な未来を見ることができる力が備わっている。それでいながら避けられるはずだった家族の死という現象を回避することができず、大切なものを失うということに対して深いトラウマを負った。そうして今の彼女がある――星が星を喰らうまでの時間さえ瞬時に求められる私の頭脳が導き出した精神分析の答えだ。仮に間違っていても、近い力や過去があるに違いない。

 

「今回の騒動が終わってから訪れるのは、誰もが望む理想と空想の世界……そして、誰もが忌まねばならない狂った虚無の夢物語よ」

「それは……」

 

 藍は私の言うことをまるで理解できていないようだった。一生懸命考えてはいるようだが、ただ困惑するばかりであった。

 レーツェルがしようとしていることに私は予想がついていた。彼女が持ち得る力、知能、技術からいくらかできることを絞り込み、さらにその思考や精神状態から思い至るだろうパターンを振り分ける。

 彼女との付き合いは長いと言えるほどではない。それでも、その内心を推し量ることはとても容易だった。

 レーツェルという吸血鬼の性根は、あまりにもわかりやすすぎたから。

 

「あなたの言う通り、幻想郷は無さえも受け入れるわ。でも、あなたは無なんかじゃないでしょう」

 

 最初はどうこうするつもりはなかった。どれだけ彼女が傷つこうと、追い込まれようと、苦しんでいようと、救うつもりも排除するつもりもなかった。ただ受け入れるだけのつもりだった。

 それでもこの幻想郷をそこまで愛してくれると言うのなら、ほんの少しだけ、私が手を下してやろう。

 鋭く目を細め、紅魔館のある方を睨みつけた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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八.魔法使いの矜持、そして月旅行

 パーティが行われた日から二日が経ち、ついにロケットで幻想郷を発つ時がやってきた。前日の夜はフランが俺の部屋まで訪ねてきて、楽しみを堪え切れないという風な彼女とともに一緒に月の話をしたりしていた。一応、月につくまでは一〇日以上はかかる。そのことをフランも知っていたが、出発の一日前というのは興奮してしまうものらしい。

 今、大図書館ではパチュリーの指示で妖精たちがせわしなく飛び回っていた。ロケットの中に余計なものはないか、必要なものはあるか、構造に不備はないか、魔術的仕掛けはきちんと発動するようになっているか。その他さまざまなことを確認し、ロケットが安全に月へたどりつけるかどうかを再確認している。

 大図書館の中央、極太の赤い線が敷かれた上で圧倒的な存在感を放つロケットは、前世の記憶で俺が知っているものよりもはるかに歪な形をしていた。本体は縦幅よりも横幅が長いほどに短い、しかし一つで小屋ほどの大きさがある木製の筒を三段。それぞれを少しでも外側に動かしたらそのままずれ落ちてしまいそうなほどの危なげな位置に置いて、上に重ねてある。下から上へ行くにつれて筒は小さくなっていき、一番上の筒のてっぺんは他の二つと違い、平面ではなく三角錐の形にされていた。その三角錐には神社でよく見るような注連縄が巻かれていたり、千社札が大量に貼られたりしている。霊夢が言うには日本の航海の神さま、住吉三神の力を借りるとのことなので、日本にちなんだ和風の意匠を付け加えたのだろう。

 それぞれの筒には外が見えるように窓が備えつけられており、なんと内側から開けてしまえるようであった。一番下の筒だけに扉が設置されていて、がちゃりと開いて中に入るだけの簡単な作りをしている。

 外の世界の常識で考えれば空気が漏れてしまうのでこんな作りは論外なのだが、永琳が言うにはこのロケットの旅中では空気のない空間なんて存在しないとのことなので、きっとなんの問題もないのだろう。

 俺はロケット近くの本棚の上に座って、自分の目でロケットの安全性を確認していた。錬金術を習っているだけあって、物質の細かい構成を読み取ることには自信がある。そしてロケットには俺の目から見てもなんの問題もないことをしっかりと確認し、本棚からロケットの近くに跳び下りた。

 パチュリーのすぐ隣に、トンッと着地すると、その視線が俺の方に向いた。

 

「あとは鎖で縛って完成、ですか?」

「ええ。これでほぼ間違いなく……いえ、一〇〇パーセント完全に月にたどりつくことができるはずよ」

 

 自信満々に、そして誇らしげにパチュリーが宣言する。誰かの手の平の上で踊らされた結果とは言え――パチュリーもそのことは把握しているだろう――、月へ行くことができるほどの仕掛けをこうして実際に作り上げたのだ。きっとパチュリーにとっても、これはいい経験になったのだろうと思う。

 とりあえず、背伸びをしてパチュリーの頭を帽子越しに撫でてみた。しばらく呆けられた後、ジト目で睨まれる。

 

「……なにやってるの?」

「いえ、なんだか褒めてほしそうな顔をしてたので」

 

 はぁ、とこれ見よがしにパチュリーがため息を吐いた。それでも俺の手を払うということはせず、気が済むまで好きにやらせてくれる。どことなく嬉しげに見えるのは勘違いだろうか。

 さすがにいつまでもこうしているわけにはいかないので、手を離し、パチュリーと一緒にロケットの方に向き直る。

 最終的に月に行くメンバーは、俺、レミリア、フラン、咲夜、霊夢、魔理沙、三人の妖精メイドということになっていた。予定の搭乗員に魔理沙が加わっただけである。どうやらパーティでロケットの愛称の募集をした際、魔理沙が提案したものが採用されたらしく、彼女は搭乗券を得ることができたようだ。忍び込むのかもと考えていたが、当てが外れた。

 

「本当にパチェは行かなくていいんですか? せっかく自分で作ったロケットなのに」

「いいのよ。私には、ロケットを月に導く魔法をしなければいけないから。そしてそれはロケットの外からしかできないの」

「住吉三神がいても、ですか」

「あの神さまたちはあくまでの推進力。別に海図や方位磁針(コンパス)が必要なのよ。レーテは私よりも魔法に通じているんだから、それくらいはわかっているはずでしょう?」

 

 もちろん理解している。ロケットに乗っていては現在位置の座標が定まらないし、なにかを思い通りに動かすためには、動く物体のはるか遠くにいた方が視野が広いおかげで確実に行えるのだ。

 だけど、パチュリーはわざわざ俺たちのためにロケットを苦心して作ってくれた。必要なものを洗い出して咲夜に材料を集めてくることを指示したり、レミリアと共同でアイディアを出し合ったり、妖精メイドたちに支持を出したり――ロケットを作るためのすべてにパチュリーは関わっている。だからこそ彼女には乗る権利がある。

 なにか方法はないか。そう考え始めて、ただ一つ、方法があることを思い出した。

 

「……私の使える魔法の中に一つだけ、パチェをロケットに乗らせながらも、ロケットを正しく月へ導くことを可能にする魔法があります」

「レーテの魔法……? 影の魔法、強化の魔法、錬金術……あと、最近覚えた私が教えたのが召喚魔法ね。レーテならその他にもいろいろ使えるんだろうけど、さすがに今の状況をどうにかする魔法は」

「あるんですよ、一つ。ちょっと前に新しく完成したんです。だから、どうですか? なにも心配はいりません。私たちと一緒に月に行きましょう」

 

 そんな言葉を告げるのと一緒に、右手をすっと差し出した。この手を取ってともにロケットの中に入ろう、と。

 パチュリーはそんな俺の顔を数秒間見つめた後、自身に差し出されている俺の手の平に視線を下ろし、けれどゆっくりと首を横に振った。

 

「やめておく。私にはこの図書館にいるのが性に合ってるわ。長い間本のない場所で生活するなんて考えられないもの」

「でも」

「月になんて私は行けなくてもいいのよ。ロケットを作ったのはいい経験になったわ。だからこそ私は、月に導くという工程にも自分自身が関わりたいと思ってる。最後の最後まで魔法使いとして、始まりから終わりまですべてをこの手で行いたいと感じてるの。それこそ月に旅行するなんてことより、ずっと強くね」

 

 だからそんな私に申しわけなさそうな目をしないの、とパチュリーが微笑みながら俺にでこぴんをしてくる。ほんのちょっぴりだけ痛かった。

 パチュリーの言葉が本心だということは嫌というほどに伝わってきていた。彼女はこの館の誰よりも魔法が好きで、誰よりも魔法に対して真摯で、魔法使いとしての誇りを持っていて、常に努力を続けている。だからこそのこの言葉なのだ。パチュリーの望みは月に行くことではなく、月に俺たちをたどりつかせること。

 これ以上彼女を月旅行に誘うのはやめにすることにした。むしろそれをしてしまうことは、パチュリーの魔法使いとしての道程の邪魔になる。

 

「……じゃあ、お願いしてもいいですか? パチェ、どうか私たちを月へと導いてください」

「ふふっ……はい、レーツェル・スカーレットさま。このパチュリー・ノーレッジ、紅魔館の住人として、あなたさまの家族として、そして魔法使いの矜持にかけまして、しかと承りました」

 

 冗談交じり、しかしどこか真剣に格式ばった受け答えをしたパチュリーに見送られ、俺はロケットの一段目の扉を開けて入っていった。

 中には霊夢や魔理沙、咲夜がすでに乗っていた。あと少しでレミリアとフランが妖精メイドたちを連れてくると思うので、出発は彼女たちが来て、ロケットに鎖を巻いてからである。

 不思議なことに、少なからず無意識に存在していたはずのロケットの行程に対する不安や心配が完全になくなっていた。よほどのことがあろうとも、なんの危機や不具合も起こることなく月へたどりつけるだろう。そういう確信を抱くことができていたのだった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「さぁ、メインフェイズだ! 私はここで通常魔法、最終戦争の発動を宣言するぜ!」

「魔理沙、よくそんなカード入れますね」

「こんな爽快なカードは入れなきゃ損だ! 私は手札を五枚捨て、効果発動! フィールド上に存在するすべてのカードを破壊させてもらう!」

「では……マジックジャマーを発動します。手札を一枚捨てて、最終戦争の効果を」

「ここで神の宣告だ! ライフポイントを半分払って、マジックジャマーを無効化するぜ!」

「用意がいいですね……まぁいいです。他に打つ手もありませんし、素直に効果を受けてあげましょう」

 

 パチュリーに見送られ、月を目指して地上を発ってから五日目。ロケットの筒の三段のうち一段目はすでに放棄しており、今は元は真ん中にあった筒の中にいる。

 一番下の筒はずいぶんと広くて居心地がよかったのだが、真ん中はどうにも窮屈なのでレミリアが若干不満そうにしている。他の皆もあからさまに顔には出していないものの、同じ思いを抱いていることだろう。

 こんな狭い中で十数日も旅をするとなると、やはり暇で暇でしょうがない。そういうわけで二日ほど前にフランとカードゲームをやっていたのだが、魔理沙もそれに興味を持ってくれたようだったので簡単にルールを教えた。

 今は、倉庫魔法で自前の空間から小さなテーブルを出し、魔理沙とそのカードゲームで勝負をしている最中だった。

 

「ふぅ、すっきりしたな。さ、私のターンは終了だ」

「あ、終わるんですか」

「手札使い切っちまったんだから当たり前だぜ」

 

 とは言え、さすがに覚えて三日目ではいろいろとつたない。それからしばらく続けていたが、何事もなく俺が勝利することができた。

 項垂れる魔理沙を横目にカードを倉庫に仕舞いつつ、窓の外を見やる。結構な日が経ったというのに、一応少しずつ色が薄くなっているにせよ、未だ青い空のままだった。宇宙空間が見えたりは一切ない。それでも、きちんと少しずつ月へと近づいていることは確かなのだろう。

 地上から見えている月は空に浮かんでいるものだ。その距離は決して絶対的なものではなく、見る者によって常に変化する。パチュリーの計算によると雲をいくつか越えれば月へたどりつくとのことだったから、きっとこのロケットの行程はそうなるように仕組まれている。そのたどりつく月とやらが外の世界の人間が言う月であるとは限らないが。

 外の世界の者たちからしてみれば、月との距離が変化し続けるなんて理論、バカらしいと一笑に伏すことだろう。彼らは科学を信仰しすぎている。だからこそ、月との距離のような幻想ゆえに曖昧で量子的な事実には気づけない。

 

「んー……あー、ねぇ、レミリアお姉さま」

「なによ、フラン」

「なにか面白いこと言って」

「もうとっさに思いつくことはないわよ。何回聞かれたと思ってるの」

 

 あまりにも暇すぎるのか、レミリアとフランは自前のミニテーブルにぐてーっと上半身を投げ出していた。二人とも出発直後は遠足中の子どものようにはしゃいでいたのだが、さすがに五日もなにもない場所でじっとしていれば誰でも大人しくなる。

 テーブルと自分が座っていたイスを魔法で空間の中に戻し、イスから立ってレミリアとフランの近くへと歩み寄った。ほぼ同時に二人の視線がこちらに向き、フランの方は「お姉さまだー」とミニテーブルに寄りかかりながら手を伸ばしてくる。

 

「お姉さまぁ、魔理沙はどーだった?」

「面白いゲームができましたよ。思いも寄らない手をいっぱい使ってきますから」

「把握したわ。どうせ自滅ばっかりしてたんでしょ?」

「いや、まぁ、そうですね。でも、あれだけ素直に楽しめるって言う感性は本当にいいと思いますよ。一緒にやっているこっちも釣られて楽しくなれます」

「お姉さまはあいかわらずだねぇ」

 

 すぐに引っこめるだろうと思っていたフランの手が、いつまでも伸ばされ続けていた。それに俺の手を重ねてみると、フランはぎゅっと握り返しては頬を綻ばせる。

 そんなことが起こってから数瞬後、ふいと視界の端で、レミリアがフランと同様に俺へと手を差し出しているのが見えた。フランと繋いでいるのとは逆の手をそちらに伸ばそうとすると、それよりも早くフランがもう片方の俺の手を空いていた手で捕まえてきた。

 

「あ、フラン!」

「ふふんっ、早い者勝ちだよ」

 

 恨めしげに睨んでくる長女を、三女は涼しい顔で受け流した。どんな時でもあいかわらず、フランはレミリアのことをよくおちょくる。それがどういう心理に基づいているのかはわからないが、ただ一つ言えることは、二人の仲が本当は悪いわけではないということだ。

 そうして自らの姉と妹のじゃれ合いを見ていると、頭の中に二人の影が浮かんでくる。転生という俺の秘密を唯一知る少女、古明地さとりと、その妹の古明地こいしであった。

 あの二人には、月に旅行することとそれが終わるまで地上に戻れないむねをすでに伝えてある。二人とも俺としばらく会えなくなることを残念そうにしてくれたことを、申しわけないと思ったと同時に少し嬉しかったのを覚えていた。

 一応、一緒について行こうかとも誘ったのだけれど、さすがに何十日も地底を離れるわけにはいかないようだった。灼熱地獄、そして怨霊の管理は仮にも閻魔さまに任されている仕事だ。こいしも、姉が行かないならやめておくとして辞退した。

 

「なにかお土産でも持って帰れればいいんですが……」

 

 月にはそういうものがあるのだろうか。永琳によれば、俺たちの予定は到着後に永琳の知り合いにぼこぼこにされて地上に帰るという散々なものになっている。月の民全員に襲われてはたまらないので、それを覆すつもりはなかった。ただ、その過程で適当にそこら辺で手に入る簡単なものはないものか。

 フランとレミリアの口論を聞き流しながら、月についてからどうしようかと考え続けていた。

 適当に落ちている月の石でも拾って、それを加工でもしてアクセサリーにすればお土産にできるだろうか。それとももっと別の、月の名産品のようなものをどうにかして手に入れられないだろうか。

 それからしばらくして咲夜からの紅茶が入って、その味が少しずつ変わっていることをレミリアが指摘したり、咲夜が窓を開けてしまったり。幸い、窓の外には空気があった。そして紅茶の味が変わってきているのはお湯の沸点が下がってきているせいだとか。

 月までの距離は、そろそろ半分を越えた頃だろうか。それとも半分に至ろうという頃だろうか。どちらにせよ月にたどりつくまではまだまだ時間が必要だった。

 そもそも、最初からそんなに早く月にたどりつけるとは思っていない。紅茶の味をじっくり味わいつつ、月についてからのこともゆっくりと考えることにして、とにかく気長に待つことにしよう。

 

「もう! 集中できないじゃないの! もうすぐロケット二段目も捨てるから、上に昇る準備して」

 

 霊夢の言葉に、皆がぞろぞろと動き出す。最後の筒は一番狭い場所なので、なんだかとても窮屈そうだ。皆、特にレミリアなんかはどこか嫌そうな顔をしている。

 気長に待つとは言ったけれど、やっぱりできることなら早くついてほしいかもしれない。そんな矛盾した思考を抱きつつ、はしごを昇ってさらに上のロケットへと向かった。



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九.豊かの海と月の桃色果実

 幻想郷を発ってから、すでに一二日目に到達していた。普段ならばなんの退屈もせず、気づけばあっという間に過ぎ去っているような時間も、ロケットというとても小さな世界に閉じ込められていると妙に長く感じてしまう。

 カードゲームはしばらくはやりたくないというくらいたくさんやった。ボードゲームもいっぱい遊んだ。他にもいろいろ室内でできることは片っ端からやった。それでも月にはつかず、もはやすることがなくなって数日。なによりも、一番上のロケットは小さすぎるせいで、皆ストレスが溜まるようだった。

 魔力を物質化させて彫刻をするという地味な作業をしながら、そろそろついてもおかしくない頃なのだけれど、と窓の外を見やる。青さは限りなく薄くなっているものの、あいかわらずほとんど変化のない大空しか見えない。

 

「んー……」

 

 すぐに窓から視線を逸らして、今度は、ちょうどでき上がった魔力の彫刻品を眺める。赤い服や金色の髪、七色の宝石がぶら下がる綺麗な翼。場所ごとに細かく色を調整し、とても見慣れたフランという見本をもとに作ったそれは、かなりいい出来にできたという自信があった。

 手の平サイズのフランを羽ばたかせ、ふわりと浮かせる。そのまま室内を大きく一周するそれに、この場にいるほぼ全員がそれぞれ感心の声と視線を向けていた。

 

「わぁ……」

 

 魔力でできた手の平サイズのフランは、本物のフランが差し出した手の上に着地する。礼儀正しくぺこりとお辞儀するそれの頬を彼女はつんつんとつついていた。

 魔力で作った小さなフランは、別に俺が操作しているわけではない。俺のスペルカードの一つである"童話『赤ずきん』"もそうなのだが、魔力で構成された存在の内部に魔術陣を確立させることで、特定の条件をもとに一定の動きをするようにプログラミングさせているのだった。"童話『赤ずきん』"ならば発動時に指定した相手を、魔力の水場を足場にして追いかけるようにしている。

 今回のミニフランはただ単にロケットを一周してフランのもとに行くだけという、単純な命令しか埋め込んでいなかった。お辞儀をした時点でその役目はまっとうしたことになり、今はもう、なにをしようとぼーっとしているだけの物質型魔力の塊でしかない。

 そんな俺の一芸でしばらくは皆も暇潰しができたようで、辺りの空気をちょっとだけ和ませることに成功していた。だが、それも一時しのぎにしか過ぎないことは明らかである。

 まるで屋根裏部屋のような小さな場所に合計九人もの人型生物がいるのだから、当然現状はぎゅうぎゅう詰め状態であった。誰かがなにかをして気分が多少晴れようと、どうせすぐに曇ってきてしまう。

 俺は魔力の扱いにおいて器用さと持続性は群を抜いているつもりである。けれど、さすがに色や形に滅茶苦茶気を使った手の平サイズのフランはそんなに長く維持していられない。そもそもが細かすぎるのだ。フランは、手の上でぼろぼろと崩れていく自らの姿をした魔力の塊を、どこか残念そうに見つめていた。

 それからどれだけの時間が経っただろうか。数分、数十分、数時間。ただ、その時間が自分の思っているよりも短いことだけは確かだという確信がある。

 ふいと、我慢ならないと言わんばかりに言葉にならない声を上げて、レミリアがイスから立ち上がった。そのままなにを口にするよりも先に翼を目いっぱいに広げ、狭い室内を歩き回り始める。

 

「あいたたた! 暴れるなよ、ただでさえ狭いんだから!」

 

 翼が当たって、迷惑そうに魔理沙が注意した。レミリアは一応は足を止めたが、ぷるぷると体は震えていた。

 

「こんな狭いところに押し込められて早十二日目! 運動不足になるわ!」

 

 そう叫ぶ彼女に、「何百年も生きているんだから、二週間やそこらじゃなんにも変わらないだろ」と魔理沙が反論をする。ここまではまだいいのだが、大人しく棺桶に入ってろよ、なんて言葉もその後に付け足された。

 二人とも、狭い、暇、時間がかかるという三拍子に、いい加減飽き飽きとしているようだった。霊夢も静かに不機嫌な雰囲気を放っているし、結局は誰もが早くついてくれと願っている。俺もその一人だった。

 ぎゃあぎゃあと言い合い、取っ組み合いになりかけるレミリアと魔理沙を影の魔法で引き離しながら、もう一度窓の外を眺めてみる。どこか淡い希望を抱きつつ、その景色に変化がないかと確認してみる。だが、やはり変化は見られない。

 まだまだ到着は先になるのかな。そうしてため息を吐きながら視線を逸らそうとした時、ふと、窓の向こう側が光に溢れたのがわかった。

 

「お嬢さま! 窓の外を……」

 

 咲夜の声にレミリアと魔理沙は顔を合わせ、どこか期待を隠し切れない様子で窓のもとへと駆け寄った。そうして、眼下を見下ろした二人の顔が輝く。

 俺がいる場所から見える空は黒くなっていた。宇宙の色である。その情報と、外を見たレミリアと魔理沙の反応からするに、どうやらついに月にまでたどりついたということを悟った。

 

「さあ! 最後の仕上げよ! なにかが起こるわ!」

 

 霊夢が勢いよく立ち上がる。なにかとはなんだろう。そんな考えを抱き始めた数秒後、唐突にがくんっ、と機体が大きく揺れる。

 あ、これもしかして。

 刹那のうちに全身を嫌な予感が駆け巡った。そしてそれはどうも完全に的中してしまったようである。

 ぐるりとロケットが反転し、重力に従って落ち始める。推進力は落ちる速度へさらなる加速を生じさせ、狭い室内の中で俺たちはもみくちゃにされた。どうにかしてロケットを立て直さないと――思考が間に合っても行動は間に合わない。

 そうして俺たちを乗せたロケットは月面と衝突し、大破した。幸いだったのは、それが地面ではなく水面だったことである。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 ザザーン、と波が押し寄せる音がそこら中から連鎖的に生じていた。目の前に広がる青い海の遠く向こう側には横に一直線の地平線が窺え、その上側は白い雲で飾りつけられた涅色の空が広がっている。ちょうど地球からして月が見えるだろう辺りには、しかしここ自体が月ゆえにそれは存在せず、代わりに圧倒的な存在感を放つ蒼と翠色の巨大な天体――地球が浮かんでいた。

 足を動かせば、いつもと違う着地の感覚とともに、さくさくと砂を踏む音が木霊する。ふいとその足になにか硬いものが触れた。波に流されてこの砂浜まで押し上げられてきた、ロケットの無残な残骸であった。

 おおよそ前世の知識に基づく月には似つかわしくない景色に、しかし驚きはしない。月の都がある地帯はおそらく、幻想郷のように普通にはたどりつけないように隠されている。仮に、俺がよく知る通り自然もなにもない荒廃した世界を表の月、月の都がある地域を裏の月と称するが、きっと俺が今いる場所は裏の月のどこかなのだろうと思う。

 

「……海だねぇ」

「これが海ねぇ」

 

 波打ち際で霊夢と魔理沙が体育座りをして、死んだ魚のような目でぼーっと海を見据えていた。その後に視線はゆっくりとロケットの残骸の方に向き、二人して顔に影を落とす。

 もしかして、帰りのことで気分が沈んでしまっているのだろうか。

 

「心配いりませんよ。一応、こういうことも想定して紅魔館の私の部屋に魔術的な目印を作っておきました。距離が遠すぎるので、今の座標とのずれを完全に解析するのに短くても一日ほど時間がかかりますが……」

 

 霊夢と魔理沙がつっと俺の顔を見上げてきた。その目にはさきほどと違って少なからずの光が灯っており、そんな急激な変化をちょっと面白いなんて感じてしまう。

 

「ま、それならいいか。あんな狭いところじゃないなら、一日くらいなんてことないぜ」

「むしろ帰りの方が窮屈じゃなくなるわね。あそこにもう戻らなくていいって考えたら、なんだかちょっと機嫌がよくなってきたわ」

 

 霊夢が残骸のうち、近くに落ちていた手頃な大きさの破片を拾い、海に向かって放り投げる。ぽちゃんっと水の中に軽く小さなものが落ちた音がした後、ぷかぷかとその破片が浮かんできて、波に流されて戻ってきた。

 幻想郷にも海があればな。海坊主とか出るだけでしょ。そんな二人の会話を聞き流しながら、頭の中で魔術陣を描いていく。遠く空に浮かぶ地球の幻想郷、その紅魔館にあるはずの目印の検索を開始し、それと同時進行で現在地の座標を計算し始めた。後者はともかくとして前者は時間がかかる。自動で探知するように魔術陣をいじり、あとは結果を待つだけという状態にして、意識を魔術陣から引き離した。

 

「そういえば、お姉さまはどこに?」

「さぁ。知らない」

「妖精のメイドとそこの森ん中入っていったきり出てこないな。退屈してたからなぁ。飽きるまで帰ってこないんじゃないか?」

「私も知りませんわ。というより、今から探そうと考えていたところです」

 

 俺を入れて、今この場にいるのは霊夢、魔理沙、今しがた歩み寄ってきた咲夜、そして魔理沙が指差した森の入り口付近でもぐもぐと口を動かしているフランの五人である。

 フランは霖之助製のローブを纏い、フードをかぶっていた。俺も同様に着込んでいる。どうやら日差しが存在するようなので、そうしていないと段々と体が灰になってきてしまうのだった。

 砂浜は海辺に沿ってどこまでも伸びているが、その幅自体はそんなに長くはなかった。砂浜はすぐに途切れ、海との逆側には緑溢れる森がずっと続いている。不思議なのはそこに植物以外の生命の気配を感じないことと、すべての木々に桃が成っていることだった。

 どうやらフランは、ちょうどその桃を一つもぎ取って口にしているところだったらしい。

 

「おいしいですか?」

 

 霊夢たちのもとから少し離れてフランの方へ足を進める。フランはごくんっと口内の桃を飲み込んでから、こくりと元気よく頷いた。

 

「すっごく甘いわ! ほら、お姉さまもっ!」

 

 フランが桃を一つ手渡してくる。断る理由はなかった。かぷっ、と一口かぶりつき、そしてその甘さに感嘆の息を吐いた。

 顔を上げると、フランがまるで感想を待っているかのように目をキラキラとさせていた。

 

「すっごくおいしいです。極上の甘さと言いますか……ものすごく甘いのに、くどくありません」

「ふふっ、でしょう? これたくさん持って帰ろうよ! そのまま食べたり、咲夜にデザートの材料にしてもらうの!」

「なるほど、それはいいですね。そうしましょう」

 

 自前の倉庫空間の中には河童性の冷蔵庫が置いてある。その中に桃を保存しておけばいいだろう。

 ほんのちょっとだけ飛び上がり、フランと一緒に桃を一つずつ摘み取っていく。腕の中に抱えきれなくなるよりも先に、桃の甘さが口の中からある程度抜けたので、フランとほぼ同じタイミングで二つ目の桃にかぷりと食らいついた。絶品と呼べるほどのたまらない風味が口の中を駆け巡り、自然と気分がほぐれていく。月は地球よりも生育環境がいいからか、桃の味のレベルが地上のそれを明らかに一段上回っていた。

 これをさとりとこいしへのお土産にしよう。そんな風に思いながら、これ以上は持てなくなるという最後の一つを手に取った。

 倉庫空間へと続く空間の裂け目を作り出し、内部を影の魔法で整理する。冷蔵庫を裂け目の入り口まで持ってくると、その蓋を開けて俺とフランで集めた桃をいったんそこへ放り込んだ。

 まだまだ空きがあるので、入りきらなくなるまで桃を回収してここに入れていこう。そんなアイコンタクトをフランと交わした瞬間、ここ最近感じ慣れた、空間の波長にずれが生じる感覚を覚えた。

 

「こんにちわ」

「え――!?」

 

 背後から銃を突きつけられていることがわかった。だがそれよりも前に、俺はそこに現れることを予期して弾幕を周囲に張り巡らせている。

 首だけで半分振り返ると、そこでは自身を囲い込む弾幕に目を見開き、呆然と口を開ける一人の玉兎の少女の姿があった。その手には月の都製だろう歩兵銃を構えており、先端部には小さな刃がくくりつけられている。

 

「フラン、無事ですか?」

「うん。お姉さまが守ってくれたもん」

 

 俺の後ろに一匹が出現することは直前で察知できたが、それ以外はわからなかった。だが、俺の背後に一人現れるということはフランの方も同様かもしれない。そう考えて彼女の後ろ側にも弾幕を巡らせてみたのだけど、どうやらドンピシャだったようだ。赤白い魔力弾に囲まれ、二人の玉兎が俺とフランの背後でそれぞれ身動きが取れなくなっている。

 とりあえず銃の射線から外れ、霊夢たちは無事だろうかと海辺の方に目を向けた。

 

「……あれが永琳の知り合いですか?」

 

 誰にも聞こえない程度の声量で呟く。海辺では、霊夢が一人の少女に刀の切っ先を向けられ、そのすぐ横で魔理沙が慌てていた。咲夜はすでにどこかへ行ってしまっていたようである。おそらくはレミリアのところだろう。

 霊夢を刀で威圧している少女の赤い眼は、敵対とは行かないまでも警戒の色を強く見せつけていた。背は霊夢より頭一つ分ほど高く、薄紫色の髪をポニーテールにまとめている。白い半袖のシャツのようなものの上から右肩だけ肩ひものある赤いサロペットスカートを着用し、腰には剣の紋章があしらったバックルのついたベルトを斜めに巻いていた。

 あちらもこちらの様子に気づいたらしい。ちらりと俺たちの方に視線を向けてきては、背後にいる玉兎と同じように目を驚愕の色に染めた。

 しかし、俺がフランと一緒に近づいていくと、刀を持った少女は驚くのをやめてどこか面白そうに口元を緩める。

 

「へえ。単なる小娘だと思ってたけど、案外やるようね」

「あいにくと月の兎の力には慣れて(・・・)いますから。あのくらいなら事前に感じ取ることができます」

 

 鈴仙の波長を操る力はもっと強力でわかりにくかった。どんなに感覚を研ぎ澄ましても察することはかなわず、むしろその感覚さえもいじられる。自身の波長、相手の波長、物質の波長、現象の波長、その他あらゆるものの波を自由自在に操作する鈴仙から、この数か月間ずっとその力を学んできた。

 永琳によれば鈴仙は一応、玉兎としてかなりの才能があるらしい。なればこそ、そんな少女の力を感じ慣れた俺は月の一兵士程度が行使する力は容易に感づくことできる。

 

「慣れて……って、まさかレイセン?」

「知っているんですか? ええ、彼女にはいろいろとお世話になっています」

「どこでなにをしているのかと思っていれば、地上の妖怪になんて加担して……はぁ。まぁ、いいでしょう。今、ここにいないウサギのことを気にしてもしかたがない」

 

 肩を落とすと、刀を持った少女は後ろに飛んで霊夢から距離を取った。そうして刀をくるりと回し、刀身を砂浜へずっと突きつけては沈めていく。

 その瞬間、俺とフランと霊夢と魔理沙をそれぞれ取り囲むように、足元から無数の刃が飛び出してきた。

 霊夢と魔理沙が突然のことに顔を見合わせ、俺もまたフランと視線を通わせる。霊夢たちはどうなのかは知らないが、俺とフランにはこの刃が神力を宿していることに気づいていた。

 刃には隙間がある。しかし、ここから出てはいけない。それをしようとすれば、容赦なく神の裁きがその者に降り注ぐことになる。

 

「女神を閉じ込める、祇園さまの力――さて、これであなたたち吸血鬼も動けないでしょう? ついでに人間二人の方も封じさせてもらったけど……ま、人間相手に祇園さまの力を借りるまでもなかったわね」

 

 頭の中で、かつて阿求に妖怪や神についての話を聞きに行った時のことを思い出す。その時に習った力のある神のうちの一人に、祇園――すなわち神須佐能袁命(スサノオノミコト)の情報もあった。

 俺たちを囲んでいるのは、おそらくは刃で作られた八重垣だ。本来の目的は拘束よりも守護に近いものだからか、こうしてすぐに出ることができるような構造になっているのかもしれない。それをしたら裁きが降ってくるが。

 

依姫(よりひめ)さま!」

 

 一人の玉兎が非常に狼狽した様子で、刀を砂浜に突き刺している少女に駆け寄っていく。どうやら依姫という名前だったらしい。

 玉兎の報告を耳打ちで聞いた依姫が驚きの声を上げた。そうして横目で俺とフランに視線を向けては、しかたない、とでも言いたげに厳しい顔をする。

 

「あなたたちでは荷が重かったかもしれないわね。なら、そっちの小娘も私が相手を――」

「誰が小娘だって?」

 

 膨大な妖力と魔力が空間をほとばしり、放たれる声さえも圧倒的な存在感を纏っている。

 桃の木が立ち並ぶ森の中からやってきたのはレミリアだった。白い八重歯をこぼし、その手には開いた日傘を持っている。斜め後ろには自身を探しに来ただろう咲夜を従えており、彼女もまた余裕そうに口の端を吊り上げていた。

 

「殺されたいのかい?」

 

 これで地上から月に来たメンバーが全員集結したことになる。

 依姫は、新しくやってきたレミリアと咲夜の二人を訝しげな目で見つめていた。



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一〇.世を知る破壊の抑止力

※活動報告に『「東方帽子屋」終了後の方針について』を投稿しました。
 興味のある方は作者名をクリック後、左下の活動報告欄からご覧いただけると幸いです。


 レミリアの方にも俺やフランと同じように玉兎の兵士を送りつけていたのか、月の兎はどうしたのかと依姫が問いかけた。全部のしてきたと自信満々に答えるレミリアの言葉を、しかし依姫はまったく信じていない。とても疑わしげな表情をしている。

 依姫はさきほど耳打ちをしてきた玉兎へ「真相は?」と、これまた小声で質問をする。耳を澄ますと、怖じ気づいて皆隠れてしまったという玉兎の返答が聞こえてきた。

 そこで森の方からがさがさと音がして、そちらに目を向けてみると、背の高い雑草の茂みの中から気まずそうに複数人の月の兎が顔を出すのが窺えた。

 

「お姉さま、どうしよっか。出る?」

「いえ、まだ様子を見ましょう」

 

 圧倒的に実戦経験不足、と嘆く依姫を横目に、フランと現状についての相談をする。

 フランの「出る?」は、言葉通り刃の隙間を縫って出ていくというわけでは決してない。飛んで出ていくわけでもない。それでは神須佐能袁命からの怒りを買ってしまう。それぞれの考えついた手を使って、依姫が地面に突き刺している祇園の力が宿った刀を抜こうかという話だった。

 ちょっと遠くにある刀をどうこうする程度、わざわざ刃の八重垣から外に出なくともどうとでもなる。

 だが、まだ俺たちが手を出す必要はないだろうと思う。そこまで追い詰められている状況ではない。なにせレミリアと咲夜が捕らわれていないのだから。

 依姫が出し抜けに、バッと片手をレミリアの方へと掲げた。おそらくは彼女も俺たちと同様に刃の八重垣で捕らえようとしたのだろう。

 唐突に手を向けてくる依姫に、目をぱちくりとさせるレミリア。しかし依姫が力を行使するより先に、咲夜が行動を起こした。

 瞬きすらできない、刹那でさえ及ばない零時間の出来事。

 

「……ぐっ!」

 

 気づいた時には咲夜はすでに依姫を背後から羽交い絞めにしていた。いつの間に、と依姫が目を見開き、玉兎たちがまるで人間が妖怪を前にした時のように一様に恐怖を顔に映す。

 あいかわらず咲夜の能力は凶悪だ。何者にも拒絶することがかなわない、自分だけが唯一動くことができる停止した世界を作り出す。その気になれば相手に一切の抵抗を許さずに殺してしまうことさえ造作もない。

 

「あなた、手癖が悪そうだったから」

 

 なんでもないことのようにそう告げた咲夜は、すっ、と足を後ろに上げ、かかとで刀の鍔を蹴り上げる。それに呼応して、俺やフラン、霊夢や魔理沙を囲んでいた刃の八重垣が引っ込んだ。

 フランが感心したような眼差しを俺に向けてくる。お姉さまの言う通り、私たちが手を出さなくてもよかったね。言葉に出さなくてもフランがそんな風なことを伝えてきていることは理解できた。

 

「……あなたたちの目的はなにかしら?」

 

 慌てようも落ちつき、余裕を取り戻した様子で依姫が咲夜に視線と言葉で問いかける。

 

「私たちの目的は――」

「そういえば目的ってなんだっけ?」

 

 霊夢が口を挟む。住吉三神という推進力を得るために必要だということもあるが、最終的にロケットへ乗ることを決めたのは彼女自身であった。

 それなのにこうして月に向かうことにした目的を忘れてしまっているのは、それがすでに達成しているからであろう。

 

「月に行くこと、それから月を観光することですよ。ただ単純にどんなところなのか知りたかったんです」

「今は桃を持って帰るって目的もあるけどねぇ」

 

 俺とフランの言葉に、天然なのかわざとなのか、「じゃあ、もうほとんど達成されてたのね」と咲夜が合点がいったと言わんばかりの顔をした。

 

「いやいや、違うわよ。レーツェル、フラン。咲夜もね。忘れちゃったの?」

「違う?」

 

 疑惑を表情に表す依姫に、にぃ、とレミリアが口の端を吊り上げる。

 

「私たちの目的は、月の都の乗っ取りだ! 月は――私のものだ!」

 

 余裕綽々な風を装うレミリアであるが、その態度は本物でも、実際に月の都を乗っ取れるとは欠片も考えてはいないだろう。目の前にいる月人がどれだけの強さを持っているのか、そして自分の力がどこまで通用するのか。きっと、それを知ってみたい、味わってみたいという好奇心から生じたものだった。

 どうせ自分たちは八雲紫の手の平で踊らされている。なればこそ、それを承知した上で精いっぱい楽しんでやろう、と。

 依姫の目には、レミリアが本気で月の都の侵略を謀っているように捉えられたのだろうか。堂々と宣言する幼い吸血鬼をじっと見つめ、ふっと頬を緩めていた。それはどこか小馬鹿にしているようにも見えるし、予想通りのセリフで安心したと言った面持ちにも思えた。

 

「八意さまの言っていた通りね。増長した幼い妖怪が海に落ちてくると」

 

 永琳が似非妖怪ウサギに託したという、手紙の内容のことだろう。あの時点で彼女は侵略者として月に向かう者が吸血鬼だと予想がついていたらしい。

 不思議そうに首を傾げるレミリアから目線を外し、依姫は未だ自身を羽交い絞めにし続けている咲夜に注意を向けた。

 

「あなた、さっき私の手癖が悪いって――」

「咲夜、離れてください」

「あ、はい。わかりました」

 

 圧倒的なまでの熱がこもった不可思議な力が依姫の体に降りてくるのが、なんとなく感知できた。まるですべてを焼き尽くそうとする神の火――いや、実際にそうなのだ。

 咲夜が俺の指示を少しも疑うことなく即座に実行したとほぼ同時に、依姫の両手が膨大な神力の宿った赤い炎を纏った。咲夜ならば直前に気づいても対処は容易だったと思うが、あのままずっと依姫に引っついていたらあの火で大ヤケドを負わされていたであろう。

 神降ろし。それは霊夢が紫に習ったという、神を己が身に宿す力と同等のものだった。俺たちが乗ってきたロケットもまた、霊夢の神降ろしによって彼女の体に宿った住吉三神の力を推進力にしていたのだから。

 

「……あなた、ずいぶんと感受性が高いようね」

 

 依姫は俺に鋭い目線を向けてきた。なにかを言いかけたところを俺が遮ったからか、神を降ろすのを事前に察知されたからか。十中八九後者だろう。

 

「吸血鬼ですから」

「そっちの吸血鬼はこの神の火の特性にも気づいていないみたいだけど。説明してあげたらどう?」

 

 レミリアの方をちらりと見て、依姫が呟く。たかが両腕に灯る程度の小さな炎になにをビビっているのかと、疑惑を表情に映していた。

 ちなみにフランは目の前の火が普通のそれではないことに感づいている。元々彼女は炎の扱いが得意としているので、そちらの方面への窺知は優れているのだった。

 

「お姉さま、今、この依姫とやらが出している小さな火には神の力が宿っているのです。すべてを焼き尽くす絶大な熱量……これほどのものとなるとおそらくは愛宕の神々、そのうちの火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)の力でしょう。むやみに触れては危険です」

「正解。一目見ただけでそこまでわかるとは、驚きね」

 

 予想を立てながら説明をする俺の言葉を、依姫が確かに認めた。

 俺は数年前に、阿求のもとで有名だったり力があったりする神のことを学んだことがある。現在もたまに、彼女の屋敷に遊びに行くついでに新たなことを勉強させてもらったり、自分でも忘れないように自主復習をすることがあるため、その知識に間違いはないはずだった。

 だからこそ依姫が扱う神の力の見た目や気配、この目で捉えることができる特異性から、その正体を求めることはそう難しいことではない。

 しかしあくまで知識にしか過ぎないことは留意しておく必要がある。実際にこの目で見、体験したわけではないのだから、絶対に警戒だけは怠ってはならない。

 

「火之夜藝速男神の火だって? さっきは祇園さまの剣って……もしかしてあんたも私と同じ」

 

 霊夢も俺と同様に依姫の力の正体に感づいたらしい。「そう」、と依姫が霊夢の方に向くと、腕だけに灯していた神の火を全身に広げた。

 まるで意思を持っているかのごとくゆらゆらと。圧倒的なまでの熱量を誇っていながら、それを纏う本人は一切の熱さを感じていないようだった。

 

「私は神々をその身に降ろして力を借りることができる」

 

 ほんの数秒、この場から生物の声が失われる。どこか虚しい波の音だけが響き渡り、わずかに緊張した空気の行方を急かしていた。

 神徳として神から力を授かることは誰にでもできるが、神の力を降ろして自主的に借りるなんて所業はそう簡単にできることではない。人々の信仰の対象、多くの者たちが崇めるべき存在をどうして容易に降ろせようか。そんなことができるのは、よほど神と親和性が高い稀有な才能を持つ者だけである。

 依姫は、俺たちの気の張りつめようなど関係ないかのごとく、この空白の間のうちに神の火を消して、祇園の刀を拾っていた。そんな彼女に「奇遇ね」と、霊夢が自分も神の力を降ろせることを公言すると、住吉三神が降ろされていたんだから知っていると、仏頂面で返ってきた。

 

「あなたにいろいろな神さまを呼ばれると私が疑われるのよね。謀反を企んでるんじゃないかって」

「知らないわよ、そんなの。そもそも稽古はやらされてたんだもん」

 

 依姫が祇園の刀を再び砂浜に突き刺そうとしたので、また捕らわれたらめんどうだと、その前に影の魔法で足を払おうとしてみた。普通に気づかれて軽く避けられる。

 一旦距離を取った依姫は、鋭い目線で素早く俺たちを観察した。どこか気が乗らなそうに座っている霊夢、同様に腰を下ろして様子を窺っている魔理沙、いつでも動けるようにと警戒している咲夜、余裕そうに佇むレミリア、まるでなにかを数えるように右手の平を見つめているフラン。そして、刀を地面に突こうとする動作を最大限に注意するようにしている俺。

 

「その疑いも今日晴れるといいんだけど……数が多いわね。まるで有象無象」

 

 レミリアの目元がピクリと震えた。ちょっとカチンときたらしい。

 俺たちも、相対する依姫も、互いに注意を配るばかりで動こうとしない。俺たちが自主的に動かないのは本気で戦う気がある者の数が少ないからであるが、依姫がなにもしないのはその方が有利に立てる確率が高いからだろう。俺たちの誰かが行動を起こそうとすればその隙を縫って攻撃ができる。だが、自分からなにかをしようとすれば集中砲火を受ける可能性がある。

 

「うーん……」

 

 そんな緊迫した空気に、草むらに隠れた玉兎たちが生唾を飲み込むのを視界の端に捉えたりしているところ、ふいと、フランがどこかつまらなそうに声を発した。

 

「どうかしましたか?」

「いやねぇ、こんなちっぽけなモノに構ってるより、早く桃を集めたいなって」

「なんですって?」

 

 俺が聞くと、誰を見るでもなく、彼女はあいかわらず右の手の平を眺めながら呟いた。表情と声音の具合からそれが本心であることを理解するのは、そう難しくはなかった。

 ちっぽけなモノ、という言葉に依姫が反応を示したことを、フランは「ふふん」と愉快そうに笑う。

 

「今のは有象無象って言われた仕返しよ」

 

 そうは言うが、フランは実際に、月の住民である依姫や玉兎たちには欠片も興味がないらしい。いや、彼女たちに興味がないというよりも、この状況に関心が向かないという表現が正しいだろう。

 多対一に加え、そもそもこちらのほとんどに戦う意志がない。そのくせして空気だけは無駄にピリピリと緊張している。

 こんなめんどくさい場所にいるよりも、さきほどまで夢中になっていたことをやりに戻りたい、と。

 フランが開いた右手をゆっくりと振り上げ、水平な位置でピタリと止めた。なんの力の波動も感じられない隙だらけな動作を依姫はどこか不思議そうに見つめている。

 

「お姉さま、いい? もちろん生き物は潰さないわ」

「刀はダメです。祇園の怒りを買うかもしれません」

「うん、わかった」

 

 こくりと頷くと、フランはゆっくりと右手を握り締めた――破裂の轟音が鳴り響く。草むらで様子を窺っていた玉兎たちと依姫の近くにいた一匹の玉兎が持っていた銃剣が、すべて爆散したのだった。

 依姫が目を見開き、俺や霊夢、咲夜に向けていた注意をすべて注ぐ勢いで、フランに警戒の意を示す。当の本人はなんの感慨も見せない表情で右手を下ろし、今の感触を確かめるかのごとく握ったり開いたりを繰り返していた。

 ――『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。

 たとえ有機物でも無機物でも妖怪でも神でも月の兵器でも、それが物質である限り、目という根幹の部分を己が手の平に移動させるこの理不尽な力には決して抗えない。

 

「気づいたでしょ? 今、あなたたちの命は私の手の中にある。今の一瞬で全員を壊すこともできたわ。でも、『イイコ』でいるってお姉さまと約束したからねぇ。それだけはできないの」

「……脅しているつもり? そんなことしても月の都は」

「そんな辺鄙なとこが欲しいのなんてレミリアお姉さまだけよ。私は桃がもらえればそれでいいわ」

「ちょっとフラン」

「お姉さまも本気で欲しがってるわけじゃないと思いますけどね。手に入れてもポイ捨てすると思います」

「欲しいわよ。別荘として」

 

 仮に本当に月の都が自分のものになったとしても、レミリアは、こんな遠いところにある都なんてどうせすぐにどうでもいいと忘れ去ることだろう。俺たちの住処は幻想郷にある紅魔館だけである。

 依姫はずいぶんとフランを用心していたようであったが、それ以上に、下手に逆らうとなにをやられるかわからないと判断したらしい。刀を下ろし、桃の成った木が立ち並ぶ森の方へちらりと目を向ける。

 

「わかったわ。その要求を受け入れましょう。いくらでもここの桃は持って行っていいから、月の都を襲わないこと。もしもそれをしようとした場合――私は容赦なくあなたを斬り殺しましょう。たとえこの命に代えても」

「ふぅん、それでいいわ。悪魔は契約を破れない。あなたに破る意志がなければ、私は禁止されていることを行うことはできないわ。でも、それを受ける条件を私ももう一つ。ここにいる誰かを一人でも殺したら、私もあなたを壊すわ。一切の躊躇なく」

「あら? 『イイコ』でいるって約束したんじゃなかったの?」

「うん。でも、お姉さまを悲しませるやつはなにがあっても許さないから。絶対に」

 

 互いに薄ら寒ささえ覚える威圧的な笑顔を浮かべていた。魔理沙はなんだか胃が痛そうにしている。

 フランは踵を返して依姫に注意を向けるのをやめると、森の方に向かい始めた。隠れているウサギたちが一斉に出て来ては、フランの視界にできるだけ入らないように遠回りして依姫の下に逃げていく。

 ここに留まるかフランについて行くか迷ったが、永琳がかつて俺に告げた「死なないように相手をしてくれる」という言葉や、目の前で交わされた契約の内容を信じることにした。全員に小さく頭を下げてから、フランを追いかける。

 

「フラン」

「お姉さま」

 

 桃が生えた木を通りすぎ、今しがたまで玉兎たちが隠れていた場所についた。そこには本来曲がるべきではない方向へ無理矢理捩り切らせたような、まるで原型を留めない壊れ方をした金属の塊が飛び散っている。

 フランはただ、無感情にそれを見据えていた。

 

「フラン、お疲れさまです」

「お疲れ? 私はなにも疲れてないわ」

「相手が神の力を自在に操れるくらいに危険だってことを知って、あなたが皆を守るために破壊の能力を行使したことくらい、私にはわかってます。遠慮しなくてもいいんですよ」

 

 依姫が本気で俺たちを殺そうとすれば、まず確実に二、三人は死に絶えることだろう。それだけの強さを持っているのが直感で理解できた。それはフランも同様だったはずだ。俺はここ数か月話すことが多かった永琳を信じていたし、依姫に俺たちを殺す意志を感じられなかったから適度に気を張り巡らせるだけに留めていたが、やはりもしもという時はなにが起こるかわからない。

 フランはその、もしもという可能性を自ら排除してくれたのだった。

 隣に立つ俺を、フランはどこか決まりが悪そうに見上げてくる。おずおずと左手を伸ばしてくるので、なにをしようとしているかを察し、俺の方からその手をそっと握った。

 そうしてフランは、まるでわけがわからないとでも言うような表情で自分の右の手の平を覗き込んだ。

 

「……おかしいよねぇ」

「なにがですか?」

「ちょっと前まで、私にはずっとお姉さまたちだけが大切だったのに。毎日お姉さまと遊んだり、ちょっと嫌だけど、勉強をしたりするだけで幸せだったのに。さっきの私、お姉さまたち以外にも、霊夢や魔理沙、咲夜も殺されたくないって思ったの。誰にも壊されたくないって強く思ったの」

 

 唐突にこんなことを言い出すのは、きっとフラン自身がその感情をうまく認め切れていないからなのだろう。霊夢たちがわかりやすい脅威にさらされた時、突然胸の中に芽生えたらしい気持ちが、どうしても理解できないようだった。

 もしかしたら恐いのかもしれない。変化しつつある自分に気づいてしまって、五〇〇年変わらなかったはずの自己が意図しない方向に向かい始めたことに、どこか恐怖にも似た感情を抱いているのかもしれない。

 

「私もそう思ってますよ。きっとお姉さまだって一緒です。たとえフランがその気持ちを抱いても、なにもおかしいなんてことはありません」

「お姉さまと一緒、かぁ……そう考えると嬉しいけど、なんだか浮気してるみたいで申しわけないなぁ、って」

 

 妙なことを気にする妹だった。そんなこと気にしなくてもいい、と。口に出すよりも先に、俺がそう言おうとしていることがフランにはわかったようだった。

 手を握ってくる力が強くなる。

 

「私ね、本当は恩返しがしたかったの」

「恩返し、ですか?」

「うん。いっつもお姉さまに頼りっぱなしだったから、世界を見て、お姉さまのことをもっとよく知って、なにか恩返しをしてみたいって。最初はそのために館の外に出たいってお姉さまにお願いしたの。それなのにこんな気持ちを先に持っちゃって……ううん、やっぱり忘れて。なんだか恩着せがましいもの」

 

 萎むように段々と声が小さくなっていくフラン。最後には無理に笑顔を浮かべる彼女の頭を、帽子越しに手を置いて撫でた。

 

「フランはいつだって、私を助けてくれてるじゃないですか?」

「助けてる……? 私が?」

「日常の些細なことが、日々の行動の支えになることもあります。むしろそんなことの連続です。フランとの触れ合いが、フランのむき出しの好意が、私にはとても居心地がいいんですよ。大事に思ってくれてることがわかって、とっても嬉しいんです」

「でも、そんなの私が助けたって言えない。言い方は悪いけど、お姉さまが勝手に思ってるってだけで」

「そうですよ。私が勝手に思ってるだけです。でも、それでいいじゃないですか。私はフランがそばにいて、こんな変なことで私を気遣ってくれてるだけでも、こんなに嬉しいんですから」

 

 フランはどうですか、と首を傾げてみる。俺にとってのレミリアがそうであるように、フランにとっての俺は、頼れる優しい姉でいられているだろうか。

 フランはあいかわらず気まずそうな顔をしていたが、それでも、この質問に対してだけは少しも迷うことなく頷いた。

 

「私もこんな、相手の気持ちだけで完結するものが恩返しだとは思ってませんよ。もっとフランになにかをしてあげたいって感じます。でも、きっとそういう気持ちが『日常の些細なこと』に出てくるんだとも考えてるんです。そういう意識が相手にも伝わって、だからこそ相手が居心地のよさを感じている、と」

「……都合のいい解釈だわ」

「かもしれません。でも、フランの今の告白を受けて、私はそう思いました」

 

 なんとなく、作り笑いを浮かべてみる。フランはそんな俺を見て、「変な顔」とわずかに頬を緩めた。

 心なしか落ち込んでいたフランの雰囲気が元に戻った気がする。銃の残骸を影の魔法で還元して消し去って、近くにある桃の木を見上げた。

 

「さ、集めましょうか。さっきの続きです」

「ふふっ、うん。そうしよっか」

 

 砂浜の方を振り返ってみると、どうやら依姫に刀を地面に突き刺されてしまったようで、あの場のこちら側のメンバー全員が刃の八重垣に捕らわれていた。

 このままフランの方を手伝っていていいか少しだけ迷ったが、魔理沙が大き目の声で降参を宣言した後、スペルカードルールを提案するのを見て、すぐにそんな心配の感情を取り消すことにした。あの様子なら穏便に、それでいて楽しげにことが進んでくれるだろう。

 

「あちらは、スペルカードで遊ぶそうですよ」

「それなら楽しそうだねぇ。さっきの茶番のくせに変にピリピリした空気より断然」

「戻りますか?」

「桃が入らないくらい集め切ってからにしようよ。あれだけ啖呵切って離れておいてすぐに戻るのは、ちょっと恥ずかしいし」

 

 ほんの少しだけ窺える頬の赤らみが本心であることを示していた。

 かつて、フランが鷽替神事にてつつかれていたことを思い出す。フランは確かに嘘を吐くだろう。だが、少なくとも俺に対してだけは一度もそれをしたことはない。

 そのことがなんだかちょっと嬉しくて、未だ握られていた手の力を今度は俺が強めてみた。

 フランは驚いたように俺の方を振り返って、小さく微笑んだ。



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一一.月が為の巫女による神降ろし

 依姫は初めて行うスペルカード戦においても、とてつもない強さを誇っていた。

 最初は彼女と咲夜が戦ったのだが、咲夜の持つ時を操る能力の弱点――たとえ時間を止めても、体を通す隙間がなければ回避することが敵わないこと――を依姫は早々に見抜き、自身に宿る神の力に加え、咲夜の投げたナイフもうまく利用することでほんの数秒だけ空き間のない状況を作り出した。それによって咲夜は躱すことができずに被弾、敗北を喫する。

 続いてレミリアに背中を押され、というより蹴られて魔理沙が挑んだ。しかし停止させられたり等でことごとく弾幕を無効化される上、彼女の中でも切り札の部類に入るファイナルスパークやダブルスパーク――マスタースパークをほぼ同時に二つ発射――さえ神の力で容易く跳ね返されたことで、燃料切れだと魔理沙は降参した。

 次に挑んだのは、二戦も見て観戦が飽きたらしいレミリアである。この頃になると俺とフランは桃集めをやめて霊夢たちの隣で座って観戦をしていた。

 序盤はレミリアが身体能力の差を生かして体術で押していたのだが、依姫の挑発に乗ってスペルカードを使い始めてから状況は激変した。天宇受売命(うめのうずめのみこと)という夜の侵食を食い止める神の力を借りた依姫を前に、どれだけ密度が高かろうと夜に類する力を扱うレミリアの弾幕は命中しない。それに痺れを切らしたレミリアが再び体術で攻めようと突っ込んだ隙を狙われ、弱点である太陽の力、天照大御神の光で照らされ勝敗が決まった。

 霊夢は勘で結末を予想していたのか、ただただ肩を竦めていただけだったが、さすがにこの結果には俺もフランも魔理沙も咲夜も盛大に驚いた。スペルカードにおいてはおよそ幻想郷最強クラスの力の持ち主のレミリアがただ一発の攻撃で沈められたのだから当然である。気絶した彼女は灰にはなっていないようであったが、咲夜が珍しく慌てて回収しに行っていたのは記憶に新しい。ついでに、依姫が俺とフランを見やって「してやったり」とでも言いたげにニヤリと口の端を吊り上げていたのも。

 そして四戦目はフランである。レミリアの攻撃に依姫がどう対応しているのかをしっかりと観察していたフランは、天宇受売命の力の対策として広範囲の攻撃を主な火力にして動員していた。弾幕を大きめにすることで少ない動作での回避を抑制したり、"禁忌『レーヴァテイン』"で一気に薙ぎ払ったり。

 結局は火を鎮める力を持つ木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)を宿した依姫に攻撃を一気に無効化され、それに慌ててしまったところを突かれて負けてしまったが、善戦したと言える勝負であったのは確かだった。

 そして最後は我らが幻想郷の誇る英雄、博麗の巫女兼異変解決屋の霊夢である。とは言え、彼女が最初から乗り気ではなかったのは明らかだった。普段は悪いことをする妖怪を退治する側である霊夢は、今回のような、月に攻め込んでいるなんて全面的に自分たちが悪者である現状が気に入らないみたいだ。

 悪い方は必ず負ける。もっと妖怪らしい妖怪、倒して然るべき相手と戦いたい――そんな風なことを言いながらも、霊夢は大禍津日神(オオマガツミノカミ)の力を使用した弾幕を張った。一応依姫とスペルカードで勝負するつもりはあるらしい。

 月の民は穢れというものを極端に嫌う。永琳によると、穢れとは生きることと死ぬことであり、すなわち生きようとする渇望が一番多くそれを生むらしい。そして地上が穢れに溢れているのに対し、月はそれがほとんど存在しない。つまり月とは浄土に近い法則を持つ聖なる区域であり、そこに住む者の寿命は地球人のはるか何千何億倍にも及ぶのだった。

 穢れがなんなのかということを霊夢が理解しているのかはわからないが、月の民が穢れを嫌っていることは知っていたようだ。禍津の神である大禍津日神が溜め込んだ穢れ(厄災)で攻めることで、彼女は対処を誤れば月に地上と同様の穢れが充満するという状況を作り出したのである。完全に悪役だった。

 霊夢は、おそらく最初から勝てる気などしていなかったのだろう。倒して然るべき相手――それが自分だと正しく理解していたのだ。そしてどうせやるのなら、その役になり切ってやろう、と。

 最終的に、俺も今日まで名を知らなかった伊豆能売(いづのめ)という神の力を借りた依姫が大禍津日神の穢れをすべて消し去ることで決着はつく。聞く限り、伊豆能売とは穢れを払う力を備えた神のようだった。やはり霊夢の言っていた通り、悪い方は必ず負けるのである。

 

「それで、結局あなたは私と戦わないのですか?」

 

 霊夢と魔理沙はイタズラがバレた子どものように大人しく砂浜に座り込み、フランは空高くにて周辺の景色を見渡していた。

 レミリアは依姫に負けたことを悔しくは思っていないらしく、気絶から覚めたレミリアは咲夜とともに海辺を歩いて遊んでいる。霊夢と同様、最初から勝てる勝負ではないとわかっていたからなのだろう。

 妖精メイドたちは一番最初に玉兎とスペルカードで遊んでいる。依姫の言葉は当然、唯一参加していない俺に対してのものだった。

 

「やめておきます。お姉さまでもフランでも、霊夢でも勝てなかったんですから、私でもきっと勝てませんよ」

「あなたからはそもそも当初より敵対する意思があまり感じられませんでしたが……まぁ、そういうことにしておきましょうか」

 

 依姫はどこか疑わしげな目をしていたが、俺に遊ぶ意思がないのならスペルカードで戦う意義はないと判断したようだ。視線を逸らし、霊夢と魔理沙の方に体を向けた。

 今の言葉は本心だった。さまざまな神の力を操る依姫を前にしては、どんな手を尽くしたところで、その『どんな手』の対処に一番適した神をその身に降ろされるだけである。レミリアの体術に関してもしっかりと防御をしてダメージを抑えていたし、普通にスペルカードルールでやり合っても俺に勝ち目はない。

 一応、ただ一枚だけ依姫からも勝ちを拾えるかもしれないスペルカードが存在するにはするが、それの仕組みは少々反則に近いものになっている。およそ改良を加えなければ遊戯で扱えないほど洒落にならないくらいに。

 

「そ、それでさ、この後どうなるんだ?」

 

 魔理沙の緊張したような問いかけ。月に攻め込んできたのはこちらなのだから、なにか罰が下ると考えてしまうのもしかたがない。

 ここではいらぬ殺生はしない、すぐに地上に送り返すとの答えに、魔理沙はほっと息を吐いた。

 

「ですが……」

 

 依姫が霊夢の前に立つ。膝をつき、座っている霊夢と視線を合わせるようにした。

 

「あなたには別の仕事がありますので、しばらく月の都に残っていただきます」

「あ――?」

 

 霊夢がいかにもめんどくさそうに依姫を見やる。そしてその言葉は、俺も見過ごすわけにはいかないものだった。

 依姫と霊夢の間に体を入れると、依姫が数歩後ろに下がった。

 

「それは私が許しません。あなたのことは永琳から話を聞いて信用していますが、一応は敵とも言える存在なんですから」

 

 無理矢理霊夢を月に残すようなら、相手の方が強かろうとなんだろうと関係ない。スペルカードでもなんでも戦って、勝って言うことを聞かせる。そんな意志を視線に込めて対峙する。

 依姫は、ぱちぱちと目を瞬かせていた。

 

「永琳……? 私のことを知っている者にそのような名前は…………そういえばあなたは昔のレイセンとも知り合いだったわね。もしかして永琳というのは、八意さまのことでしょうか?」

 

 頷いて見せると、依姫はなにかを考え込むように顎に手を当てて、難しそうな顔をした。

 俺が依姫のことを永琳から聞いて知っていることはつまり、永琳は俺が月に行くことを知っていた、そしてそれを許容したという答えを出すことができる。依姫は、永琳が俺に自身の存在を知らせたことはなぜかと思考を巡らせているのだろう。

 それに対する結論が出たのか、目の前の少女は顎から手を下ろした。

 

「なるほど、あなたは八意さまが用意した、事態になにか問題が生じた時のためのストッパーでしたか。月の兎の力まで学ばせて……ふふっ、地上の民にも配慮をするとは、あいかわらず根は本当にお優しいお方です」

 

 まるで懐かしむように小さく笑う依姫に、霊夢と魔理沙は顔を見合わせていた。俺が永琳と繋がっていたこと、依姫が永琳の知り合いであることに、少し驚いているのかもしれない。

 依姫はこほんと咳払いをすると、さきほどまでの厳しい表情を多少和らげて、俺に向き直った。

 

「少し前にも言いましたが、私はこの巫女が神さまを呼び出していたせいで謀反を企んでるんじゃないかと疑われているのです。私がこの巫女を借りるのは、その疑いを晴らすため……決して拷問をしようだとか実験をしようだとか、そういうためではありません。そもそもその行為をすることは多くの穢れを発生させる。それは、私たち月の民にとっても好ましいことではない」

「……それでも、月の都は敵地です。あなたになにかをする気がなくても、なにか不都合で霊夢が危険な目にあったり」

「それならば、私が常に護衛としてついているつもりです。護衛というより、巫女が勝手になにかをしないようにという監視が本来の目的なのですが」

 

 俺の言葉を依姫はことごとく潰していく。

 口先だけではなんとでも言える。そうしてまだ反論しようとする俺を、依姫は不思議そうに見つめていた。

 

「そもそも、なぜ妖怪であるあなたが人間の巫女を庇うのですか? 私の知識が正しければ、妖怪とは人間を喰らう魔物であったはず」

「そんな古い考え方、知りませんよ。幻想郷は人間と妖怪が共存する世界です。そして、霊夢は私の友達なんです。友達を危険な目に遭わせるわけにはいきません」

「共存……? ふむ……案外、地上も変化してきているのですね」

 

 だから妖怪だとか人間だとか関係ない、と噛みつこうとする俺を、しかし肩を掴んで止めたのは座り込んでいた霊夢であった。

 ため息を吐きたそうに、というよりも実際にため息を吐きながら、彼女はしかたがなさそうに俺と目を合わせてくる。

 

「私のことはいいわよ、気にしなくても。別にここに残ったって大丈夫よ。私の勘が告げてるわ」

「勘なんて、そんなもの」

「いやいや、勘っていうのは存外信用できるものよ。紅い霧の異変の時にあんたらの館に一直線に向かったのも勘を信じてのことだったわ。他の異変でも何度だって勘を頼りにしてきたし」

「ですが……」

「まぁ、あんたにこんなこと言っても無駄か。こっちの方がいいかな? 私ね、ロケットに乗ってる時から見て回りたいと思ってたのよ、月の都。なんだかすごく進んでる技術があるって言うし、気になるじゃない?」

 

 残っても大丈夫、ではなく、自分が残りたい。そんな言い方をされて、俺は一瞬言葉に詰まった。

 

「ここに残れって言うのも、まぁちょっとは不満だけど、楽しみだって気持ちがないわけじゃないの。だから安心なさい。安心できないなら……えーっと、ほら。神奈子が異変を起こした時に貸してくれたアレ、もう一度寄越しなさいよ」

「……さすがに月と地上とでは、遠すぎて通信できませんよ」

「そんなの別にいいわよ。通信しか否定しないってことは、壊せば月だろうがあんたを召喚できるんでしょう?」

 

 それだけは自信を持って言える。霊夢はふっと頬を緩めて、首を縦に振る俺の頭の上に手を置いた。

 

「なら、きっとなにがあっても大丈夫よ。私はあんたを……いえ。私がそう思ってるんだから、あんたもそう思いなさい。いいわね」

 

 私はあんたを――言いかけたその先は、いったいなんだったのだろか。どこか恥ずかしそうに視線を逸らしているように見える霊夢は、問いかけても答えてくれなさそうだった。

 懇願を受けて、俺は目を瞑る。いったん心を落ちつけて、状況を整理してみることにした。

 まず、依姫が霊夢をここに残したいのは、霊夢が神を呼び出すところを他の月の民に見せて、自分が謀反を企んでいないことを証明するためだろう。その結果として他の月の民からちょっかいをかけられる可能性が少しあるが、それは依姫が護衛してくれると言う。会って数刻の相手をそう簡単に信用することはできないが、本当に危ない時は霊夢が首飾りを壊してくれるだろう。

 

「食事と待遇は?」

「保証しましょう」

 

 簡潔な質問、簡潔な返答。完全に信じる気はない。けれど、もしもこれが嘘だとしても、必要最低限の食事は提供してくれることは間違いないはずだった。

 生きようとする渇望が穢れを生む。食事を減らして餓死の危険性を与えるなんてバカなことはしないだろう。

 他にもさまざまな心配事を頭の中で思い浮かべ、時には依姫にどうなのかと尋ねる。瞼は閉じていたが、魔理沙が苦笑いを浮かべていたのはなんとなくわかった。

 

「それで、どうでしょう。もう質問はない?」

「……ええ、まぁ」

 

 目を開き、依姫にそう返答する。

 依姫は霊夢を必要としている、霊夢はここに残ってもいいと言っている。元々そこに俺が介入する余地はなく、そもそもとして部外者なのだから、口を挟む権利はないはずだった。

 それなのに俺の失礼な態度に真摯に対応してくれた依姫を、多少は信頼しなくてはならないだろう。そう判断した。

 

「霊夢、これを」

「はいはい」

「中に書いてある魔法陣がバレにくいように改良しておきました。月の都でつけて歩いていても、力ある者に警戒されることはないでしょう」

 

 倉庫魔法で自前の空間から取り出した首飾りを霊夢に手渡す。霊夢を一人月に残すことは大いに不安が残るが、とりあえずはこれで満足しようと思った。

 俺は霊夢と魔理沙、依姫に背を向け、空を見上げてフランを探す。そうして彼女が同じように俺の様子に気づいて手を振ってくるのを見、そちらへ向かうために体へ魔力を循環させた。

 

「なんだ、さっきまで霊夢のこと心配しまくってたのにフランの方に行くのか?」

「このままここにいると、また不安がって余計なことまで言ってしまいそうです。これ以上は霊夢にうざがられそうですから」

 

 ま、それもそうかもな。そうやって快活に笑う魔理沙を視界の端に捉えつつ、フランのいる方向へ向かってその場から飛び立った。

 その途中、一度だけ振り返ってみる。依姫の珍しいものを見たかのような顔、首飾りを眺めてしかたがなさそうに肩を竦める霊夢、その二人を面白そうに眺める魔理沙。どうやら俺の話をしているらしい。あまり面白い話題ではないと思うのだけど。

 ――それからしばらくして、俺たちは霊夢だけを月に残し、依姫の姉であると言う豊姫の力で幻想郷に帰還させられた。

 それ以来、俺は頻繁に博麗神社に通うようになる。

 一か月ほどで帰ってくるということは知らされていた。それでも、心配だと思う感情は抑え切れなかった。

 霊夢は無事に日々を過ごせているだろうか、首飾りを奪われて致命的な事態に陥ったりはしていないだろうか。

 またこの神社で、俺の心配した様子に、困ったように笑う顔を見せてくれるだろうか。

 早く帰ってきてほしい。そう胸の内で思い続けながら、俺は毎日神社の境内で空を見上げ続けていた。



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一二.誰もが望む理想と空想の世界

 霊夢がいなくなってから一か月近く。主のいなくなった神社はどんどん寂れていき、今やここ数百年は人が住んでいなかったのではないかのごとく錯覚してしまうことがあるくらいだった。

 俺以外にも魔理沙や文、咲夜などが神社に見に行くこともあるらしいのだが、主がいないとみるとすぐに帰っていく。名残惜しさをその顔に映しながら。

 ただ一人、博麗霊夢という人間が幻想郷にいないだけで、誰もがこんなにも侘しい気分になる。

 今日はまだ神社には行っていない。それでも、やはり今日も――。

 

『今日もまた、神社に行くのですか?』

 

 電話機の向こうからどこか呆れたような、それでいて無理をしないでほしいという気持ちがこもった声が聞こえてくる。月より幻想郷に戻ってきてから頻繁に通うようになったのだから、それもしかたがないことと言えた。

 

「そろそろ霊夢が帰ってくる頃だと思うんです。昨日は、満月の夜でしたから」

『……レーツェルは、本当に霊夢さんを大切に思っているのですね』

「霊夢だけじゃありません。もしも月から戻ってこないのが魔理沙でも、咲夜でも、行っていないさとりだったとしても、私は毎日こうしていたと思います」

 

 むぅ、と言葉に詰まったような音が届く。自分の名前を出されて、口出ししづらくなってしまったからだろう。

 それがなんだかおかしくなって、部屋の天井を見上げてみた。

 時計がかちかちと鳴る音だけが響いている。静かな気配と空気が心地よくて、半ば無意識のうちに瞼が閉じていく。

 

「さとり、私はあなたのこと、好きですよ。家族同然のように感じてます」

『え、っと……レーツェル? それは、その、嬉しいのですが……どうかしましたか? 唐突にそんなこと言い出すなんて』

「別に、どうもしてません」

 

 暗闇に包まれた視界は、どこの世界でも、そして誰もが感じることのできる共通の感覚だった。

 角膜を清潔に保つためか、房水の流れを良くするためか。そんな理屈的な理由はどうでもいい。

 俺は瞬きという行為は、定期的に同じ一色の景色を見続けることで、あらゆる物事の変化から心を平静に保つためにあるのだと信じていた。

 人は眠る時、視覚をすべて闇の中へと葬り去る。それはきっと世界の変化を拒絶することで、常に心を落ちつきで満たすためだった。

 目を閉じると、なんだか思考が早くなったような感覚を覚える。それはきっと、世界の変化を見ないようにすることで、自分の中に深く意識を向けられるようになるからだ。

 暗闇とは、始まりであり、終わりであり、無でもある。そしてそれがいつも隣にあるからこそ、誰もが安心して日々を過ごすことができる。

 

「私の秘密を受け入れてくれた上でずっと変わらずに友達でいてくれたこと……私はきっとあなたがその第三の目で見続けていた心よりも、ずっと強く嬉しく感じていたんだと思います」

『レー、ツェル……?』

「だから」

 

 不可解、困惑。そんな感情がありありと窺えるさとりの声音を、わざと気にしないようにする。

 目の前に広がっているものが暗闇であるがゆえに、今の俺は、自分の中に潜むモノに深く意識を向けられていた。

 深い海の底に一人沈んだまま、光さえもう見えない地上へと手を伸ばし続けている。ずっと昔から今日に至るまで、いつまでも。

 

「今まで、ありがとうございました」

『…………レーツェル、あなたはいったい、なにを』

 

 目を開く。戻ってきた世界は明るすぎて、俺にはもったいないくらいだった。

 

「いえ、なんでもありません。なんだかさとりが心配してくれるのが嬉しくてですね、感慨に浸っちゃいました」

 

 さとりはどこか思案しているかのように黙り込んでしまった。お礼の言葉が、逆に彼女を心配させてしまったらしい。

 さとりがしゃべり出すまで、口を閉ざしていることにした。そしてその時はすぐにでも訪れる。

 

『……もしなにか心配事があるなら、いつでも私のもとに来てもいいんですよ。こいしと一緒に喜んで出迎えてあげます。相談にだって乗ってあげられますから』

「はい。ありがとうございます。そろそろ神社の方に向かいますから……電話、切りますよ」

『ええ。また、近いうちに会いましょう』

「はい。またすぐにでも」

 

 受話器を置くと、さとりの声が聞こえなくなった。時計の音だけが機械的に鳴り響いている。

 ――霊夢は帰ってきていた。

 俺が渡した首飾りの反応が戻って来ていたことから、俺はすでにそのことを知っている。今ならば神奈子の異変の際に使った水色の半透明の球体を通して、霊夢と通信をすることさえ可能なことを把握していた。

 だが、それは敢えてしないでいる。なんだか今は霊夢に実際に会って、この目で無事を確認したい気分だったから。

 電話機から離れ、自室の扉を開ける。あと数日でお正月がゆえに窓から窺えるのは当然雪景色であり、ぱらぱらと降りしきる白い粉は、枯れてしまった花の代わりに幻想郷を美しく彩っている。

 横を見ると、ちょうど俺の部屋に訪れようとしていたのか、いつもの帽子代わりに頭にゴーグルをつけたレミリアがいた。左手には浮き輪も抱えている。なかなか珍妙だった。

 

「お姉さま、どうしたんですか? その格好」

「どうしたって、ほら、図書館の方に海を作ってるって言ったじゃないの。こういうのが海に行く格好ってやつでしょう?」

 

 俺もそのことは知っているどころか、一度実際に大図書館に行って人工の海を見せてもらっていた。完全にただの冷水プールだったが。

 妙なことを聞いてくる、とでも言いたげにレミリアが訝しげに見つめてくる。

 

「そうでしたね。ごめんなさい、ちょっと寝ぼけてるのかもしれません」

「寝てたの?」

「いえ、さとりと電話してました。こんな真昼間に寝ません」

 

 今度は目をぱちぱちと瞬かせた後、ため息を吐かれた。寝てないのに寝ぼけてるとは言わない。それはただボケてるだけである。

 レミリアが窓の外を見る。もしかしてその服装で出かけるつもりなのだろうか。

 

「まぁいいや。そろそろ霊夢が帰ってる頃だと思うから海水浴に誘おうと思ってるんだけど、一緒に行かない?」

「今からですか」

「ん、もうちょっと経ってからよ。ちょうどパチェが海の方の最終調整をしてるから、それが終わったら」

 

 顎に手を添えて、少しだけ考えるフリをする。実際の答えはとっくに決まっていた。

 

「いえ、一緒に向かうのはやめておきます。霊夢が帰って来てるって言うなら、私は早く行って安否を確認しておきたいですから」

「そう……あいかわらず心配性ねぇ、レーツェルは」

「褒め言葉として受け取っておきます」

 

 廊下の向こう側に向かうため、レミリアのすぐ隣まで歩いていく。その最中、ふいとレミリアと一瞬だけ目が合った。

 後から安心して神社に来てください、霊夢を誘いに来てください。なんとなく、そんな意志を視線に込めてみた。

 通りすぎる直前まで、どうしてか彼女は俺の目を見た瞬間から、予想外のものを見てしまったかのように放心していた。

 

「また会いましょう、お姉さま」

「待っ――!」

 

 レミリアが目を見開いて、ひどく狼狽した様子で手を伸ばしてきた。いったいどうしたと言うのだろう。なにか大切なことを伝え忘れてしまったかのように、なにか大切なものを失いかけているかのように。

 一度、立ち止まった。それでもすぐに、重い足を持ち上げて再度進み始める。早く霊夢の無事を自分の目で確認しなければならない。

 レミリアがあんなにも慌てていることに首を傾げながら、俺は振り返ようとする欲求を抑え込んでいた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 ここ一か月顔を合せなかったせいか、なんとなく霊夢にできるだけ早く会いたい気分だったので、『光の翼』まで使って博麗神社にやってきた。

 眼下では、霊夢が魔理沙と文の二人に月の都での話を聞かせているようだった。見た目古い扉は触れずに開く、文字は拡大縮小自由自在、そしてなによりも住んでいる者たちが皆明るいのだと。

 俺が三人のそばに降り立つと、もちろんあちらも俺が来たことにすぐに気づく。

 

「お久しぶりです、霊夢。それからこんにちわ、魔理沙、文」

「久しぶり。さっき帰ってきたばかりなんだけど、どこから聞きつけたのやら……ま、あんたならすぐにでも来ると思ってたけど」

 

 この姿、雰囲気、霊力。偽物ではなく、間違いなく本物の霊夢そのものだった。月からは帰ってきたというのに、首元に未だ水色の首飾りをつけてくれているのが目につく。

 

「大丈夫でしたか? 馬車馬のように働かされたりとかしませんでした?」

「あ、それは私も聞こうと思ってたぜ」

「あんたらねぇ……まぁ、私もちょっと思ってたけど、全然だったわよ。ただ神さまを呼び出すところを都のあちこちで披露させられただけ」

 

 霊夢はいつだって本心しか吐かない。なればこそ、今のこの彼女の言葉も本当のことなのだろう。ほっと息を吐いた。

 

「ふむ……不思議な話ですね。地上なら打ち首拷問が当たり前ですが……」

 

 そう呟いた文が、なぜか不満そうな顔で霊夢を睨む。

 

「おもしろ味に欠けますね」

 

 ため息を吐きながらの本当に残念そうな文の声音に、霊夢は恐ろしいものを見てしまったかのように、ぐっと後ずさる。魔理沙がそんな彼女を、逆に面白そうに眺めていた。

 だが、文も本気で言っているわけではないことを俺は知っている。彼女は霊夢が留守の間、結構頻繁に訪れていた者の一人だった。それが博麗霊夢という一人の少女に対しての心配か、博麗の巫女という一つのシステムに対しての危惧からかはわからないが、霊夢の帰還を待ち望んでいたことは確かなのである。

 やはり博麗神社には、幻想郷には博麗霊夢がいなくてはならない。

 

「なんにしても、よかったです。霊夢が無事で」

「あー、まぁ、うん。私もよかったわ、散々なことにならなくて。というか、そんな素直に嬉しがられると逆に対処に困るんだけど……」

「素直に受け取っとけって。こいつ、毎日神社の方に通ってたんだぜ。まるで押しかけ女房だ」

「はぁ? 毎日? 一か月後くらいに帰ってくるって言ったじゃん。なのになんで」

 

 そんなものは決まっている。万が一にでも、億が一にでも霊夢が帰ってきている可能性があるかもしれない。それをわずかに信じてのことと、主のいない神社を見守るためだ。

 霊夢ともそろそろ結構な付き合いになる。わざわざ言わなくとも、目が合って、そこから俺が言いたいことは大体伝わったようだった。

 霊夢はがしがしと頭を掻くと、盛大にため息を吐いた。

 

「あんたはほんっと、あいかわらずねぇ……あんまり心配とかされなかった月の都での生活が、なんだかもう遠く思えてきたわ」

「鬱陶しい、ですか?」

「……逆よ。帰ってきたって気がして、ちょっと居心地がいい」

「おやおやぁ、いつにもなく素直ですなぁ」

「なによ魔理沙、その喋り方。蹴るわよ」

「へいへ、ってうわっ! 本当に蹴るなよ!」

 

 霊夢も月から帰ってきたばかりで案外心細かったりするのかもしれない。魔理沙との掛け合いが、いつも以上に楽しくしているように見える。

 次に霊夢は文にちょっかいをかけられて、あちらとじゃれ合っていた。天狗のスピードにはさすがに追いつかず、霊夢は蹴ることができず歯がゆい気持ちを抱いたようである。

 霊夢の無事はこの目で確かめた。彼女は月から帰って来ても賑やかなまま変わらなくて、いつも通り、この幻想郷に必要なかけがえのない存在だった。

 俺はもう、ここにいる必要はない。

 

「なんだ、もう帰るのか? せっかく霊夢が帰ってきたんだ、祝宴かなんかやっていかないのか?」

 

 踵を返した俺を見咎めた魔理沙が背中越しに問いかけてくる。

 

「……やらないといけないことがあるんです。霊夢の無事は見ることができたので、もうそろそろそちらに手をつけに戻らないといけません」

「なんだ、珍しいな。お前がこういう誘いに乗らないなんて」

「珍しい、ですか?」

「ああ。いつもなら喜んで返事して、すぐにでも宴会かなんかの準備を手伝ってくれるだろ? なにか他に用事があっても、それが多少のことならほったらかしてさ」

 

 首だけで振り返ってみると、ただ純粋に疑問に思ったように、首を傾げている魔理沙の姿が目に入った。

 

「私のこと、よくわかってるんですね」

「案外単純だからなぁ」

「……私はあなたの、日常の一部になれていたんですか?」

「うん……? よくわからんが、まぁ霊夢がいないこの一か月、かなり暇だったからな……たぶんお前が一か月いなくても、同じように物足りなく感じてたと思うぜ」

 

 俺は元々この世界にいない存在だ。それなのに、そんなものを『物足りない』なんて表現してくれるのは、言葉にできないくらい嬉しかった。

 頬に手を添える。嬉しい、嬉しい、嬉しい。そんな感情は映していない。いつだってここにあるのはただ一つで、その他のなにもかもを拒絶する。それでも、確かに今の思いは本物だったように思えた。

 

「今まで、ありがとうございました。本当に」

「んー……? ああ」

 

 疑惑を顔に浮かべつつも、いつもの心配性がまた出たとでも思ったのか、魔理沙はひらひらと手を振って俺を見送ってくれる。前を向いて、俺も同じように片手を上げてバイバイと手を振った。

 地面を蹴って、博麗神社から飛び立つ。それからずっと遠くの方まで見渡せるくらい、高く高く上空へ。

 ふらふらと一枚の布のごとく空を舞い、雪が飾りつける幻想郷の風情ある風景を楽しんでいた。妖怪の山、迷いの竹林、人間の里、その他にもいろいろな。

 春も、夏も、秋も、冬も、本当にこの小さな世界は美しい。いつまでも見ていたいような気分になれる。

 ――さて、これからいったい、どこへ向かおうか。

 

「レーツェル!」

「……この声は」

 

 背後から聞き慣れた声がして、振り返る。そこにいたのはさきほど別れたばかりの少女、博麗霊夢であった。

 相当急いで追ってきたのか、荒く息を切らしている。そばに魔理沙や文の姿はなく、一人飛び出してきたであろうことは容易に窺えた。

 いったいどうしたと言うのだろう。そうやって小首を傾ける俺を見て、霊夢は、どこか真剣そうな表情を浮かべて近づいてくる。

 

「忘れ物よ」

 

 霊夢が片手にぶら下げているのは、俺が上げた水色の宝石の首飾り。

 

「上げますよ。霊夢が常に持っていれば、私も安心できますから」

「私よりも咲夜とか、さとりとかに持たせなさいよ」

「またそのぶん、新しく作りますよ」

「それならその時にまた渡してよ。私だけが持ってるって、なんだかちょっとだけ後ろめたい気持ちがあるわ」

「そんなこと気にしなくても」

「私が気にする」

 

 そんな会話を交わしているうちに、いつの間にか霊夢は触れられるほど近距離まで近寄ってきていた。

 なんて頑固なんだろう、とため息を吐いてみせる。それでも霊夢の様子は変わらない。返そうという意志は変わらないようだった。

 なんだか少しだけ、奇妙に思う。

 どうして霊夢はこんなに急いで俺を追いかけてきたのだろうか。首飾りを返すだけなら、今後いくらでも機会があるだろうに。

 ましてや今、息が荒れるほどに疲れてまで体力を消耗して俺を追ってくる必要なんてないはずだった。

 そんな疑惑を抱きつつも、霊夢が首飾りを返そうと手を伸ばしてくるのを見て、余計な詮索はやめることにした。

 その時の気分次第で行動したくなる時もある。ならば、たまにはこういうこともあり得るだろう。そう考えて――。

 

「――なんて顔してるのよ、あんたは……」

「……え?」

 

 首飾りを持った霊夢の手は差し出したはずの俺の手を過ぎ去って、頬に触れていた。なぜか生温かいものがそこを伝い、首筋へと垂れていくのがわかる。

 手が震えていた。それを必死に抑えるようにしながら、ゆっくりと、いつものように頬に手を添える。

 泣いていた。悲しんでいた。苦しんでいた。顔が、歪んでいた。

 この五〇〇年近く、ずっとかぶり続けてきたはずの仮面が取れてしまっていた。

 

「どう、して」

「……紫から言われてたのよ。月から地上に帰ってきて、あんたに会って……もしも二人きりになる機会があったら、こうして『表情を浮かばせてみなさい』って」

「ゆかりん、が……?」

 

 霊夢の持つ力は『空を飛ぶ程度の能力』。それは何物にも捕らわれず、何者にも屈せず、人間も妖怪も神も分け隔てなく接することができる彼女の性質をそのまま表したかのような力だった。

 幻想の宙をふわふわと漂い、誰に対しても仲間として見ておらず、人間や妖怪と一緒に行動を行っていても常に自分一人。

 自分以外のあらゆるものから『浮く』こと、浮かばせることこそが霊夢の力の正体である。

 それならば確かに、俺の『答えをなくす程度の能力』自体には逆らえずとも、『感情から生じる表情という答えをなくす』現象にだけは逆らえるのかもしれない。表情を浮かばせることで、逆説的に感情を表に出させることができるのかもしれない。

 いや、事実そうなっているのだから、かもしれないのではなくてそうなのだろう。

 涙が止まらない。悲痛が溢れ出る。

 ずっと無視し続けてきたはずの耐え切れない痛みが、どうしようもなく心を蝕んでくる。

 

「嫌な予感がして追ってきたんだけどねぇ……ねぇ、あんたさ、どうして泣いてるの?」

「れ、霊夢が帰ってきたことへの……嬉し涙ですよ」

「はぁ、違うわよね、それ。あんた、嬉し涙は無表情のまま流せるって聞いたことがあるわよ。えーっと、紅魔館の門番の……美鈴、だったかしら?」

 

 負の感情には向き合わず、正の感情だけを素直に受け入れてきた。いつだって頬に手を添えて、無表情だということを確かめて、広がりそうになる胸の痛みにストップをかけてきた。

 だからこそ、行き過ぎた感情から生じる涙という現象は正の感情のみしか現れなかった。現れないようにしていたはずだ。

 なのにどうして今、俺は涙を流している。

 ――大丈夫だ、平気だ。なにも問題はない。

 悲しくない、辛くない、苦しくない。その証拠に、俺の表情はなんにも感情を映していないはずで。

 そのはずだ。そのはずなのに。

 ――どうしてこんな、今にも泣き叫びそうな顔をしてるんだ。

 

「レーツェル。あんたもしかして、この数年間……いや、私と会うより前から、本当はこれまでずっとそんな顔をして――」

「うるさい」

 

 霊夢の手を振り払う。霊夢は、俺の態度が変わったことに驚いたのか、目を大きく開いていた。

 距離を取る。それからもう一度頬に手を当てて、能力を発動した。

 

「感情から生じる、表情という答えを……なくします」

 

 戻ってきた。いつも通り、この五〇〇年間ずっと変わらなかった、薄情な無表情が。

 悲しくない、辛くない、苦しくない。その証拠に俺の表情は、なんにも感情を映していない。

 苦痛なんて存在しない。悲痛なんて感じていない。胸の穴なんて、最初から空いていない。

 俺には最初からなにもない。それでいい。それがいい。

 

「レーツェル……」

「すみません。ちょっと、混乱しちゃったみたいです」

 

 思考を整える。気持ちから荒れをなくす。視界をクリアにする。

 今の感情は間違いだった。こんなすぐにでも無表情に戻れる程度の感情なんて、きっと薄っぺらい、どうでもいいものなのだ。

 俺は眼下を見下ろした。幻想郷のほとんどが見渡せるほどの高いところに来たから、ここからは紅魔館のある場所だってすぐに見つけることができる。

 

「霊夢、私はですね、お姉さまとフランと……それからこの世界が大好きなんです」

「なによ突然……この世界って、幻想郷のこと?」

「はい。それから、ここに住むいろんな妖怪と神と、人間が」

 

 顔を上げた。どうしてか物憂げな表情をしている霊夢と顔を合わせて、作り笑いを浮かべてみせた。

 

「守りたいって強く思うんです。誰にも傷つけさせたくないって思うんです。この世界のすべてを……私の大切なものすべてを、ただ一つだって失いたくないって思ってるんです」

「そんなの」

「エゴだっていうのはわかってます。でも、それでも」

 

 ――こういう時に頭をよぎるのは、いつだって、この世界での俺の両親と義理の母親の死にざまだった。

 ――だけど、それ以上に強くこの目に張りついて離れないモノが、ただ一つ――――

 手を伸ばし、広げてみる。こんなに高いところまで来ても、幻想郷は手の平一つでは覆えなかった。

 俺は幻想郷に来てからの数年でいろいろなものをこの目で見て、この耳で聞いて、この肌で感じて、この鼻で嗅いで、この体で経験してきた。

 人間でも妖怪でも神でも、どんな存在でも平等に接するだけの気概を持った人間がいることを知った。人間と妖怪の共存を夢見て、実現させた妖怪がいることを知った。俺一人の力では決して敵わないような、死の気配を振りまく強大な存在がいることを知った。嘘が誰よりも嫌いであるがゆえに、自分を騙し続けているどうしようもない人間(ようかい)をいつも気にかけてくれる鬼がいることを知った。

 不老不死なんて禁忌に手を出して、それでも懸命に日々を謳歌しようとする人間がいることを知った。寿命が短いことなんて毛ほども気にしないで、平然と生に向き合うことができる強い心を持つ人間がいることを知った。

 心を読めるがゆえに心を閉ざしてしまった、それでも今は少しずつ前を向きかけている、二人のサトリがいることを知った。

 なにもかもが大切なものだ。失いたくない、かけがえのないものだった。

 

「私、実は本来ならここにいないはずの存在なんです。生まれてはいけない、いてはいけないはずの存在なんです」

「なによ、それ」

「本当のことです」

 

 そんな俺に誰もが、この幻想郷の住民はまるで当たり前のように接してくれた。

 何度も思いかけてしまった。もしも俺が最初からこの世界の住民だったなら、もしくは俺が原作知識と向き合って両親を殺さなかったなら。そうすればこんな後ろめたい気持ちを抱くこともなかったのだろうか、と。

 胸が痛くなってきた。頬に手を添えて、それが無表情であることを確認する。

 

「だから、私はもういなくなろうと思います。もう十分楽しみました。もう十分なくらい、温かみをもらいました」

「……あんたがなにをしようとしてるかはわからない。でも、きっとそれだけはきっとしちゃいけないって――」

「本当は、一年前からできたことなんですけどね。やろうと思えばいつでも……でもたぶん、ここでの生活が思いのほか面白かったせいで、こんなに……ああ、もう、本当に」

「レーツェル!」

 

 本当に、どうしようもない。

 帽子を取って鬼化魔法を行使すると、頭に角が生えたのがわかった。そのまま能力を行使し、吸血鬼の霧になる力も行使して、指先から徐々に体を霧にしていく。幻想郷中にその身を広げていく。

 これからやることは、ずっと前から決めていたことだ。

 

「レーツェル、戻ってきなさい! レーツェル!」

 

 霊夢が必死に手を伸ばしてくるものだから、俺も消えかけている手を伸ばし返してみた。けれどすぐに消えてしまって、まったく意味を為さなかった。

 体がすべて紅霧に変わり終わった。数十秒もすれば、それも幻想郷中に広まり終わった。

 俺の能力は、対象に触れていれば自分以外の『答え』をなくすことができる。事象の有無を操ることができる。だからこうして俺の体を限りなく薄めて、幻想郷に在るすべてのモノに触れさせた。

 準備は完全に整った。

 目を閉じる。霧になった体に目があるのかわからないけれど、とにかく視界を真っ暗にする。

 そこには無が在った。無のくせに在るなんて表現は矛盾しているけれど、きっとそれが正しい言い方だ。

 確かにここには、いつも誰もの隣にあるからこそ安心して過ごすことができる『答え』のない暗闇があった。

 もう迷いはない。もう未練はない。

 覚悟なんて高尚なものはなかった。それでも、それをしなければならない理由はあった。

 胸が痛い。いいや、痛くないだろう。

 悲痛が木霊する。いいや、なにも聞こえないだろう。

 耳に届くのは狂った歯車が回り続ける音だけだ。

 だから今より、書き綴り始めるとしよう。

 役者は幻想郷の住民、全員。そして演出は"狂った帽子屋"、ただ一人。

 描くは夢物語、一切の不幸の存在しない不思議の国。

 ここで創る。

 きっと誰もが望むであろう、理想と空想の世界を。幸福だけで満たされる、永遠に終わらない無から生まれた物語を。

 もう不幸を恐れるのはやめにして。

 さぁ、始めよう。

 

 

 

 

 

 ――時が経ることにより寿命が減っていく『答え』をなくす。

 ――悲しみによる心理的痛みという『答え』をなくす。

 ――苦しみによる肉体的痛み、心理的痛みという『答え』をなくす。

 ――負の感情から生じる不満という『答え』をなくす

 ――刃物により触れているあらゆる生き物が傷つけられる『答え』をなくす。

 ――打撃により触れているあらゆる生き物が傷つけられる『答え』をなくす。

 ――怨霊により触れているあらゆる生き物が乗っ取られる『答え』をなくす。

 ――ありとあらゆる生き物が火によって燃え盛る『答え』をなくす。

 ――空腹により体力が抜けていく『答え』をなくす。

 ――空腹が続くことにより餓死をする『答え』をなくす。

 ――――『答え』をなくす。

 ――――――『答え』をなくす。

 

 霧の体は容易に幻想郷の地上を覆い尽くし、すでに地底にまで及んでいた。

 とにかく思いつく限り、ありとあらゆる危険性を排除する。

 なくす。なくす。なにもかも、負に類するすべてをなくす。

 俺にはそれしかできない。でも、それだけはできる。

 誰もが一度は夢見ただろう、苦痛も悲痛も死の危険も、なにもかもが消失した世界を作ることが、俺にはできる。

 俺は弱い。そのことはこの数年間で嫌というほど味わった。

 きっともう一度紫とまともにやり合えば負けるだろう、きっと西行妖には勝てないだろう、きっと依姫には敵わなかっただろう。

 ただこのまま生き続けているだけですべてを守るなんてこと、こんな矮小な体ではできやしない。

 それでも、たかがちょっと強い程度の力しかない俺でも、この幻想郷という小さな世界を守り尽くすことくらいはできるはずだった。それだけのことを可能とする能力は、少なくともこの魂に宿っているはずだった。

 なにせそれとずっと付き合ってきた。

 こうやってありとあらゆる『答え』をなくしていくことで、なにもかもを守ることができるはずなのだ。

 代わりに、俺自身の自由が一切合切なくなってしまうけれど。

 だが、そもそもとしてどうせこういう行為はいずれ必ずしなければならないことだった。

 原作知識はしょせん限られたものでしかない。俺が及ぼす影響がなにを招くのか、そして俺の知る知識の終わりを迎えてしまった後、なにが起こるのか。俺には想像がつかない、予想ができない。

 ならば最終的にたどりつくであろう、大切なものを失わない方法はただ一つ。最初からなければいい。すべての危険を端からなくしておけばいい。

 そうすればどんな危機も訪れない。俺が不幸という『答え』をなくし続けている限り、永遠に幸せな日々が続いていく。

 誰も、なにも傷つかない、夢物語にも等しい理想の世界を体現することができる。

 

 ――紅霧が見えるという『答え』をなくす。

 ――紅霧を吸うことにより体調を崩す『答え』をなくす。

 ――境界を狭めることにより霧が集まろうとする『答え』をなくす。

 ――サトリの能力により心が読めてしまう『答え』をなくす。

 

 いろいろな『答え』をなくした。ひとまずは、こんなところでいいだろう。

 だけれど最後に一つ、この物語に一番不必要な『答え』をなくしておく必要がある。

 この物語にいないはずの存在を消しておく必要がある。

 そうしなければ、皆が幸福を受け入れられないかもしれない。一人が欠けていることを儚く思ってくれるかもしれない。

 だから、なくさなくてはならなかった。

 最初はうまく忘れられないかもしれない。思い出せないことを漠然と拒絶しようとするかもしれない。でも、時間が経てば思い出せない誰かのことなんて次第にどうでもよくなって、いつか気にしなくなってくれるはずだから。

 幸せな夢を見続けるのはもう終わりにしよう。優しい夢に身を任せ続けるのは、もう終わりにしよう。

 今度はその夢を、俺が守るのだから。

 すぅ、はぁ。そう、一呼吸置いて。

 ほら、見えない光に手を伸ばすのをやめれば――――童話の始まりだ。

 

 ――思い出そうとして、レーツェル・スカーレットという存在を思い浮かべる『答え』をなくす。




今話を以て「Kapitel 9.叡智を無に帰す畏れの裏側」は終了となります。
最後辺り、というか今話全体が急ぎ足な展開になってしまいました。後日、修正するかもしれません。
ただ、修正して多少描写が加わったとしても、流れはなにも変わりませんので見直す必要はございません。

次の話からは最終章、「Kapitel 10.Alice im Märchenland」となります。
なお物語の都合上、「Kapitel 10」の主な登場キャラクターはレーツェル・スカーレットではなく、レミリアや霊夢と言った原作キャラクターとなります。あらかじめご了承ください。
"狂った帽子屋"が描く童話がどんな終わりを迎えるのか、見届けていただけると幸いです。

これからもどうかよろしくお願いいたします。


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Kapitel 10.Alice im Märchenland
一.Ältere Schwester①


 Sie hat das Lächeln der jüngeren Schwester sehen wollen.
 ――彼女はただ、妹の笑顔が見たかった――――。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

 ――ねぇ、お姉さま。もしも私が、違う世界から来たって言うならどうする?

 ――違う世界って、なによそれ。どうしたのよ急に。

 ――なんだか唐突に聞きたくなっちゃってね。ほら、実は私ってお姉さまよりちょっとだけ年上なんだよ。そうしたらお姉さま、どうする?

 ――はぁ、そう。凄いわねー。

 ――完全に信じてないね……うーん。まぁ、いいや。お姉さま、今のは忘れてくれてもいいよ。

 

 そうやって目を逸らす、銀の中に金の色彩が混ざる美しい髪をした少女は、どこか寂しそうにしているように見える。今の会話はほんの冗談交じりのもののはずなのに、どうしてか彼女はそれを本当のことみたいに思っていて、その『違う世界』に戻れないことに悲痛を覚えているかのようだった。

 それはまるで、誰も踏み入ることができない暗い海の水面に立って、ずっと遠くの届かない水平線を見つめているかのように。それはまるで、どこで誰といても結局自分は一人ぼっちなのだと言っているかのように。

 私は少しの間、口を噤んだ。

 目の前の少女はいつもそうして唐突に物淋しげな顔をするのだ。

 ほんの一年くらい前までは特に訴えることもないくせに毎日のように泣きわめいていたし、それを抑えるのにもなぐさめるのにも、いつも両親が手を焼いていた。たった二つしか歳が離れていない姉の私はもっぱら甘えたいざかりの時期だったから、妹に大好きな父と母が取られてしまっていることを疎ましく思っていた。

 私だってたくさん甘えたい。わがままを言いたい。それなのに。

 両親が手を離せない時の少女のお守りは、私の役目だった。少女が泣き出した時は毎度私は自分の表情をがんばって笑顔に変えて、優しげな声音になるように意識して、少女が人肌を感じられるように寄り添いながらよしよしと頭を撫でる。とにかく彼女が泣き止むのを待つのである。心の中では、どうして自分がこんなことを、なんて葛藤を抱えながら。

 半年ほど前からその気持ちは少しずつ薄れてきて、代わりに姉としての使命感みたいなものが湧いてきたけれど、それでもまだ私は妹のことを理解しているとは言いがたかった。

 意味もなく泣きわめくことはなくなったが、あいかわらず前兆もなく泣きそうな顔をするのは変わらない。どうしてこの少女はいつもいつも泣いているのだろう、どうしてこの少女はそんなにも苦しそうな顔をするのだろう。私はいつだってそれを不思議に思っている。

 今、ここで少女が浮かべている寂しそうな顔もいつものそれと同じものだった。だから私もいつも通り、少女の頭を優しく撫でて、大丈夫だと柔らかに囁いてあげようとする。そうすればいつも泣き止んでくれるから、もはや慣れた手際でそれをしようとする。

 しかし今日はいつもと違うことが一つだけあった。私が動くよりも先に、目の前の少女が痛々しい笑顔を浮かべたのである。

 いつだって私の手を煩わせているからか、それを申しわけなく思って、なんの心配もいらないと突っぱねるかのように。妹のくせに、姉の私に気を遣っているかのように。

 なんだこれは。

 そのあからさまな作り笑いを、私はふいと大嫌いだと感じた。そんな表情の少女を見たくないと、心の底から強く思った。

 腹が立ったのだ。一人が嫌なくせに、一人で抱え込もうとするその姿に。

 だから、私は彼女の両肩を強く掴んだ。

 

 ――あなたがどこの誰でも、たとえ私より年上なんだとしても、あなたが私の妹だという事実は変わらないわよ。あなたがどんなでも私はいつもみたいにあなたを甘やかして、あなたの前を歩く姉でいる。あなたが安心して頼れるような、ただ一人の姉でいる。

 

 そう言ってやった。

 少女は目を見開いていた。ぱちぱちと目を瞬かせて、私の顔をじっと見つめていた。私はただ、それを見返していた。

 それからしばらくすると、彼女は、ゆっくりと頬を緩めていって。

 誰よりも優しくて人懐っこい、本当に嬉しそうな微笑みを浮かべたのである。

 

 ――ありがとう、お姉さま。

 

 ああ、これなのだ。

 私は、少女が見せるこの顔を見るのがなによりもお気に入りだった。他の誰のそれよりも一番の大好きだった。

 最初は少女のことを疎ましく思っていたはずなのに、私は、いつの間にかその世話を焼くことに充足した感覚を覚えるようになっていたのだった。

 この顔が見たい。うん、その表情も結構いいかも。でも、やっぱり。

 感情豊かな少女の表情は見ていて飽きない。いつだって私は彼女のいろんな顔が見たくて、そしてなによりも笑う顔が見たくて。

 それはなににも代えがたい唯一のクオリア――私だけが感じるのことのできる、少女とともに在ることに対する幸せだった。

 

 ――どういたしまして。

 

 心の底から溢れ出た、本当の笑顔。少女がそれを浮かべるからこそ、私も同じように笑うことができる。

 守りたい。誰にも傷つけさせたくない。大好きな妹と、この先も一緒に歩んでいきたい。

 姉として、そしてそれ以上に私がただ私として、私は強くそう思っていたのだった。

 

 

 

 

 

「……ここは」

 

 闇の中に沈んでいた意識が少しずつ浮き上がってきた。頭の覚醒と合わせ時間をかけて開いた目の中に、なにやら柔らかそうなものが入ってくる。

 どうしてか視界が滲んでいた。それから、なにか熱いものが頬を伝っていることに感づく。半ば無意識に指で掬ってみて、それが目元からこぼれ落ちた涙という雫であることを理解した。

 夢を見ていた気がした。なによりも大切で、他のなんだろうと代わりになんてならなくて、私だけが感じることのできる、幸せな思い出の夢を。

 

「誰……かと、話してた……それから、笑ってた……?」

 

 どうにか夢の内容を探ろうとしてみる。けれど夢という曖昧なもののためか、すでに目覚めてしまった頭では眠りの記憶を呼び覚ますことはできない。現実だったのかということさえひどく疑わしげな、なんの形も成していない朧しか思い浮かばせることができない。

 どうしてか、この記憶だけは思い出さなくてはならない気がした。決して忘れてはならない気がした。

 だが、こんな状況ではどうしようもない。いったん思い出そうとする思考を断ち切って、そのことを横に置いておく。滲んでいた目元を腕で拭い、改めて周囲のことを把握する。

 最初に見えた白い柔らかそうなものは天蓋だった。半透明なそれの向こうには、机やイス、鏡やランプ――どうやら私は、自室のベッドにて横になっているらしい。

 起き上がり、ベッドの端から足を投げ出して立ち上がる。それからサイドテーブルに置いておいた帽子を手に取って、いつものように頭にかぶった。

 とりあえず、今の時間帯を確認したかったので扉の方へ向かう。吸血鬼は日の光が苦手なゆえに自室に窓は取りつけていない。照明のついていない部屋の中は暗闇に包まれていたが、私の目には問題なくその中が見えていた。

 廊下に出て、窓の外を見やる。ぱらぱらと雪を降らす空は雲に覆われていたが、その明るさの程度から今が朝の早い時間であることは把握できた。

 

「……昨日は、なにしてたんだっけ」

 

 窓に近づき、枠に肘をつく。その時にわずかに背が届かなかったので、ちょっと浮いておいた。

 目を閉じて思い出そうとしてみれば、夢の内容とは違って鮮明にそれが頭の中をよぎっていく。

 そろそろ霊夢が帰ってくる頃だろうと思って、月に行く手伝いをしてくれたお礼のために、私はパチェとともに月で見た海の記憶を頼りに、大図書館に小さな海を作っていた。本をどけて、スペースを作って、水を巡らせて……パチェが最終調整をするという時に、私はちょっと図書館を離れた。そこで誰かと会った。

 誰か?

 会ったはずだ。だけれど、会っていないような気もする。他の記憶は鮮明なものだというのに、そこだけはどうにも靄がかかったように曖昧で朧げだ。

 

「覚えてる……はず、なんだけど」

 

 思い出せない。確かに記憶の中にはあるのに、それを引き出すことができない。目を向けることができない。

 なんだろう、この感覚は。

 どうしても呼び起こさなければならない記憶である気がする。その時交わした会話は他愛もないものだったはずだけれど、最後に見たあの少女の目は今まで見た中でもなによりも悲しそうで、辛そうで。

 少女? 今まで見た中で? 私は、その誰かと長い付き合いの知り合いだったのだろうか。

 

「なんなのよ、この焦燥は」

 

 胸を掻き毟りたいような気分だった。悲しい? 辛い? 苦しい? 全部が当てはまるはずだというのに、少しも心が痛くない。少しも悲痛や苦痛を感じない。ただただ焦りと空虚だけが胸の内で存在感を放っている。

 思い出さなければ。なんとしてでも思い出さなければ。どうして? わからない。思い出せなくたって少しも問題ない。むしろ思い出せないことを受け入れてしまえば楽になれそうだった。でも、どうしても。

 悲しいはずだ。辛いはずだ。苦しいはずだ。なのにまるで行き場をなくしてしまったかのように、ただ淡々と第三者の目線でそれを捉えるだけだった。痛みがない。辛さがない。気持ちの中を意味のない空虚が充満している。虚無が広がっている。無が大半を占めている。

 ただわずかに、意味のわからない出所の不明な気味の悪い使命感を覚えるだけで、その他はすっぽりと抜け落ちてしまったかのようになにも感じることができなかった。

 これはなんなのだ。この言いようのない異様な感覚は、いったいなんなのだ。

 

「レミリアお嬢さま」

「……咲夜ね」

 

 背後に立たれるまで気づけなかった。振り返ると、声から予想した通りの銀髪の少女の姿がそこにある。

 咲夜は時を止める能力を有している。だが、それを使って私の後ろに回ったわけではないだろう。ただ単に私が考え込みすぎていただけだ。

 

「パチュリーさまが呼んでおられます。相談したいことがある、と」

「奇遇ね。私も誰かに聞いてほしい悩みがあったのよ。咲夜、あなたはどう?」

「……そうですね。なんだか、なにかが物足りない気がしています」

 

 咲夜がなにかを探すように、宙空を見据え出す。

 

「決定的ななにかが足りないような、なくしてはいけないものがどこかへ行ってしまったような……こういうもの、時を止めている時はいつも味わっていたような気がするのですが」

 

 どうやら私だけが覚えている感覚ではなかったようだ。遠くを見据えるように目を細める咲夜を見ていて、きっと私と同じような気持ちを抱いているのだと理解する。

 パチェからの誘いを断る理由はない。むしろ私から向かいたいくらいだった。

 私は咲夜を引きつれて、大図書館の方へと足を進めていく。その途中にも、とにかく記憶を探ることを忘れない。

 思い出せない誰かと会った後、どうしてか私はひどく慌てていて、海に霊夢を誘うのを中止した。そのくせして急いで博麗神社の方に向かい、そこにいた魔理沙と文に霊夢がその誰かを追いかけて上空へ飛んでいったことを聞いた。私もそちらへ向かおうとして……そうだ。その直前で霊夢を追いかける理由が突然わからなくなって、愕然と立ち竦んだんだ。

 その時までは、その誰かのことを私は確かに覚えていたような気がする。いや、覚えている覚えていないとかではなくて、そもそも一度たりとも忘れかけたことはなくて。

 ああ、もう。イライラする。でも、そのイライラさえも不快という気分にはほど遠くて――どこか薄ら寒さにも似た感情を覚えた気がした。それもまた、気づけば虚ろへと沈んでいってしまったけれど。

 

「パチェ」

 

 図書館についた。机を前にして座るパチェは珍しく本を手にしておらず、不可解なことに直面したかのごとく、目を瞑って思索に耽っているようだった。

 私の呼びかけで私と咲夜の来訪に気づいたパチェは、ゆっくりとその瞼を上げる。

 

「来たわね。その様子だと、レミィもそうだと思うけど」

「ええ。いないわね、誰かが」

「咲夜は?」

「同じように感じていますわ」

 

 私と咲夜の回答に満足したかのようにパチェが頷いた。それから机の上に置いてあった魔導書の一冊に手をつけ、一ページ目を開いては私たちを手招きする。

 パチェのすぐそばまで近づいてその本を覗き込むと、そこには『生活魔法』と書かれた目次があった。

 

「著者は不名よ。ただ、この本は……今私たちが思い出せない誰かからもらった、私の宝物……のはず。いえ、確かにそうなのよ。うまく思い出せないけれど、忘れているわけじゃないから」

 

 それから、とパチェが天井を見上げる。そこには不可視化されている魔法陣があるのは、大図書館に入ってすぐに把握できた。

 

「ここを中心に構成された、普段は見えないようにされている保護の魔法……魔術式からして、これは私が手掛けたものではないわ。そもそも私にこれを作った記憶はない。かと言って妹さまのものでもないから……」

「その思い出せない誰かとやらが作った代物、というわけね」

「ええ。私に本をプレゼントしてくれたり、館にここまでわかりやすい仕掛けをしていたり……これはその誰かが、私たちと親しい関係にあったということのなによりの証拠よ」

 

 なのに思い出せない。昨日のある時を境に、まるで記憶に鍵をかけられたかのように思い浮かべられなくなってしまった。

 首が疲れたのか、パチェが視線を下ろし、本を閉じた。それから、その魔導書を大事そうに胸に抱える。

 

「この現象の原因はいったいなんなのでしょう」

「そこまではわからないわ。手がかりが少なすぎるもの。ただ……なにか感情が変なような気がするわね」

 

 それは私も感じていた。悲しみ、苦しみ、辛さ、寂しさ、切なさ、憎しみ等々――およそ負に類するものから発生する心の痛みがなくなっているとも言おうか。そこから発生するはずの激情が形あるものへと昇華する前に虚ろなものへと変化し、無だけが胸の内を駆け巡るのだ。

 まるでぼーっと宙を眺めているだけのように、思いがけないことに呆然としてしまった瞬間が永遠に続いているかのように。

 

「……そういえば咲夜、里の様子はどうだったの? 私の予想では、相当大変なことになってると思うんだけど」

「里の様子?」

 

 私が首を傾げると、パチェが「見に行ってもらってたのよ」と説明してくれる。どうにも昨日から妙な力の気配が漂っているらしく、その影響が里で出ていないかを咲夜に確認してもらうよう頼んでいたらしい。

 パチェの問いに、しかし咲夜は途端になにか言いにくそうに黙り込んだ。どうしたと言うのだろう。よほど言いにくい状況だったのだろうか。

 

「……阿鼻叫喚でしたわ。いえ、むしろその逆でしょうか」

「逆って、どういうことよ」

「これを見てもらった方が早いと思います」

 

 咲夜は懐からナイフを取り出すと、それを思い切り自身のもう片方の手の甲へと振り下ろした。いきなりすぎて止める気さえ起きるのが間に合わず、ただ私は目を見開く。

 そうしてすぐにそれ以上の驚愕を経験した。

 ナイフが刺さっていないのだ。どう見ても肌には当たっている。当たっているけれど、ただそれだけで、それ以上刺さりもしないし切れもしない。咲夜はどう見ても思い切り力を入れているのに、なんの音もなく刺さる直前で止まってしまっていた。

 まるで、刺さるや斬られるという事象そのものが世界から抜け落ちてしまっているかのように。

 

「それが火でも、窒息でも、長物で殴られることでも、高いところから落ちた衝撃でも……妖怪の捕食でも、同じようなことが起こるみたいですわ。その先の現象がそもそも存在していないとでも言いましょうか」

「……なるほどね。それはそれは里は混乱していることでしょうね」

 

 パチェが難しそうな顔をしながらため息を吐く。彼女はきっと、この状況が恐ろしいと感じているのだろう。

 だが、それが心に不安定さをもたらしてはいない。不安や心配と言った感情を抱くことはない。どういうわけか、そうなるように仕組まれているから。

 

「現在は危機感を覚えた……って、今はそんなものありませんね。危機感を覚えたフリをした人たちが、家の外に出ないようにと里で言い回っているようです。ただ、それも一時しのぎにすぎないでしょう。いずれ誰もが今の状況を受け入れるようになって」

「倫理観の崩壊。無秩序な異常行動をする者で溢れ返る、というわけね。その世界では普通の行動なのかもしれないけど」

 

 その時、人々がなにをしているかなんて容易に想像することはできないだろう。仮にそれがかなったとしても、きっとその想像を絶する狂った事態ばかりが繰り広げられるに違いなかった。

 肉体的にも心理的にも、自分や他人がどんなことをしても傷つかないと知った時、人はどう動くようになるのか。負に類する感情から痛みという根幹が抜け落ちてしまったことを正しく『理解』してしまった時、人々の心の在りようがどう変化するのか。

 ぶるりと、寒気が私の全身を駆け巡る。それはおそらくことの悍ましさから来たものだろう。おそらく、というのは、私ももはや正しい形で恐怖心を抱くことができないからだ。危機感を覚えることができないからだ。ただ淡々と、少し前の自分ならこういう気持ちになっただろうと空想するだけ。

 

「早めに解決しないと不味いわよ、この異変は」

 

 パチェの呟き――だが、それも私と同様に少し前の自分を思い浮かべての、危機感を覚えているフリなのだろう――に、私と咲夜も無言で頷いた。

 親しかったはずの誰か、およそ痛みと呼べるすべてのモノ、そのそれぞれの消失。

 この二つは繋がっているのだろうか。そんな自分への問いかけに、すぐに答えは出せる。確実に繋がっている。でなければ、こんなに都合よく二つが同タイミングになくなったりはしない。

 そんな私の持論を語ってみると、パチェも咲夜も同じ考えであるらしかった。一様に首を縦に振り、同時にこの異変に積極的に関わろうという意志を示し合う。

 いつものように博麗の巫女に任せておけばいいなんて、そんな悠長なことは言っていられなかった。そもそもこの異変は、どうしてか思い出せなくなってしまっている私たちと親しかった誰かが手がかりとなっているようだし、それならば私たちにも責任があると言える。

 いや、違うか。これはきっと、そんな理屈的な思考から生じた使命感ではない。

 

「パチェはこのままここでその誰かの痕跡を探してて。それで、なにか思い出したら連絡して。咲夜は、そうね。霊夢を呼んできなさい。霊夢の勘は鋭いし、なにかの役に立つかもしれない」

「わかったわ。仰せのままに」

「わかりました、レミリアお嬢さま」

「私は私で足がかりを探すわ。二人とも……よろしくね」

 

 ただただ大切なだけだ。親しかっただろう誰かが、私にとってそれほど大事なだけなのだ。

 無意識にそれを覚えている、感じている。だからこんなにも焦りが体中を走り回っている。だからこんなにも、どうしても思い出したいという欲求と衝動に駆られている。

 きっとこれを気にしないようにしてしまえば楽になれるだろうことはわかっていた。きっと、痛みのないこの世界では、その気持ちを捨てさえすれば楽に生きることができるように仕組まれていることは理解していた。

 それでも。

 ねぇ、どこか遠くへ行ってしまった、とても大切だったはずの誰か。あなたはどこにいるの? あなたはなにをしているの? どうして私は、あなたを忘れてしまっているの?

 そんな問いかけに返事はない。虚ろが広がる。どこまでも寂しげな空虚が続く。

 見つけなくてはならない。そんな漠然と、しかし確かな突き動かすものを胸に、私は大図書館を後にした。



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二.Ältere Schwester②

 私は私で足がかりを探す、とは言ったものの、はてさてどうしたものか。

 とりあえず、昨日よりも前の記憶を探ってみる。二日前、一週間前、一か月前、一年前、一〇年前、一〇〇年前――もっと昔を。

 すると驚くべきことに、そのすべての記憶に同様の靄がかかった部分があることに気がついた。明瞭に思い出せる出来事も、思い出せなくなっている誰かと関わる部分だけが不自然に有耶無耶なものになっている。

 これが示す事実はただ一つ。その思い出せない誰かは咲夜やパチェ、美鈴と出会うよりもずっと昔から私の隣にいたということだ。

 そもそも美鈴やパチェ、咲夜を私はどうやって紅魔館に住まうように引き入れたのだろうか。美鈴は私が見込んで門番にして、パチェはパチェの方から頼み込んできて、咲夜はこのまま死に絶えるにはもったいない命だと思ったから。

 でも、そのすべてが私だけの意思で決定したものだっただろうか。なにもかものことが少なからず、思い出せなくなっている誰かのために……ダメだ。そのはずなのに、実感が沸かない。どうしてもそうなのだと確信することができない。だけど、一応そう仮定して行動してみることにしよう。

 私は館の中を歩き回った。食堂、テラス、玄関、ホール等々――主に私が毎日行くような場所に足を運ぶ。しかし、どこにも足がかりとなるものは見つからない。ただ、途中で通りがかった妖精メイドたちに私や咲夜、パチェが覚えているような違和感がないかと尋ねてみたりしたところ、彼女たちはそういえばと言った具合に考え込む仕草を見せていた。思い出せないだけで、妖精メイドたちも確かに覚えているのだった。

 そもそも私はなにを探しているつもりなのだろう。ただ考えなしに食堂やホールなんかを見回ったって大した意味がないのは明白だった。見つけ出すべきものは思い出せなくなったしまった誰かが残した痕跡、もしくはその人物に関わる私たちが残した記録等である。

 ならば、それがあるだろう場所はどこだろう。思い出せなくなってしまった誰かの部屋が一番手っ取り早いが、どうもそこにも靄がかかっていた。腹が立つ。ただ、そこに不快感の一切は存在しておらず、興奮するだけであったが。

 

「……思い出そうとすればするほど、逆にわからなくなっている……?」

 

 ならばなにも考えず無意識のままに行動できれば楽なのかもしれないが、あいにくとそこまで私は思慮のない生き物ではないと自覚している。ついでに言えば一度靄がかかる現象の発生条件に気づいてしまったために、それを意識しないでいることが難しくなってしまった。もはや無意識下で行動しての手がかりへとたどりつく方法の実行は絶望的だと言っていい。

 ああ、もう。やらかしたか? どうしたものか。

 

「――私の部屋、か」

 

 自室を通りすぎかけて、ふいと私は立ち止まった。起きた時にそこにいたから見回ろうなんて考えもしなかったが、思い出せない誰かが本当に昔から私と知り合いだったのだとすれば、その者の部屋の次に私のそこに痕跡が残っている可能性が高い。

 思い立ったが吉日、私は意を決して自室の内部へと突入する。見慣れた内装が視界に広がるが、敢えて家具や道具の一つ一つに注目するように意識してみた。

 まず照明。これに関しては妖精メイドたちが設置してくれた記憶があるので、思い出せない誰かの痕跡とはまったく関係がないはずだ。

 次にベッド。古くなりすぎて何度か替えることはあったが、デザインは完全に私の趣味であるし、そこに私の意思以外が介入する余地はない。

 

「鏡……ねぇ」

 

 吸血鬼は鏡に姿が映らない。なのになぜ必要ない鏡がここにあるのか。その経歴を探ろうとしたところ、ほんの少しだけ靄がかかった部分を見つけることができた。

 思い出せ。ただし思い出そうとせず、なんとはなしに記憶を探るのだ。

 

「むぅ」

 

 鏡を設置したのは自分の姿がどんななのか確認したかったからだったことを記憶している。寝ぐせに気づけないでそのままにしているのははしたないし、そういうところはできるだけメイドの手を借りずに自分でどうにかしたかった。なにより姉として妹のための見本になれるようにと……妹? フランはその頃はまだずっと地下室にこもっていたから、そんなこと気にしなくても……ああダメだ。気にし出してしまったら、それを詳しく思い出すことはかなわない。思考を進めよう。

 そういう目的で自室に鏡を取りつけた私だったけれど、なんとも抜けていることに、実際使うまで吸血鬼が鏡に映らない特性があることを忘れていた。即座に意味のないものと化した鏡だったが、どうしてそれが未だここに残っているのか。

 真似だ。

 思い出せない誰かが私と同じように自室に鏡を置いていたから、私も残しておいた。きっと、ただそれだけのことだった。

 

「うーん、でも、これは役に立ちそうにないわね」

 

 一応、昔の私が思い出せない誰かに関わるものとして残した痕跡ではあるのだが、大した意味を持ちそうにない。

 というより今更だけれど、痕跡なんて探して、私はどうするつもりなのだろうか。本当にそんなものを見つけ出すことでなにかが変わるのだろうか。完全に思い出すことができるようになるとでも思っているのか。

 そんなことは不可能だ。

 思い出そうとすればするほどに靄がかかるこの記憶を解消するためには、その思い出せない誰かに関わる痕跡を探すだけでは明らかに足りない。わずかな足がかりでは、決して記憶の先にはたどりつけやしない。こんなこと、ただ単に思い出に浸るのと一緒なのだから。

 もっと強烈な衝撃が必要だった。もっと刺激的な、それでいて形ある思い出が必要なのだ。

 

「はぁ」

 

 そんなものが都合よくあるはずがないだろう。そしてそれがわかっても、今の私にできることは限られている。なにせ状況が状況なのである。

 諦めてさらに自分の部屋から痕跡を探そうとした。なにか思い出せない誰かへ繋がるものがないかと、わずかな希望を胸に辺りを見回そうとした。

 そんな時、ふと私の目が本棚に留まる。本棚を埋め尽くす勢いでしまってある、何十年も前から置いてあるような何冊ものボロボロな日記帳を見つけたのだった。

 どうしてかそれを目にした途端、ふらふらと足が動く。意識せず、半ば勝手に手がそれに伸びる。

 私は日記帳の一冊を取り出して、震える手でそれを開いた。

 

「一九四三年……一〇月。紅魔館にパチュリー・ノーレッジと名乗る魔法使いがやってきた」

 

 ――月の光が日光を跳ね返したものだということに驚いた。なぜそんなものを妖怪が浴びて力を増すのかと言えば、おそらくは太陽の力を月の魔力で変換しているからだろう、とパチュリーが言っていた。たった十数年しか生きていない新米も新米の魔女だったが、知識だけは豊富なようだ。

 ――今度、レーツェルに内緒でパチュリーにいろいろ習ってみよう。それから姉として、妹に私が博識なところを見せてあげるのだ。私を尊敬する目で見るレーツェルの姿を想像すると、なんだか頬が緩んでくる。

 

「レーツェル……?」

 

 そうだ。私は日記を書いていた。そしてそれは、その思い出せない誰か――レーツェルという名前の少女に影響されてのことだったはず。

 ぱらぱらと捲っていく。記憶に靄がかかる思い出せない部分がすべて、これには記載されていた。

 パチュリーが家族になったことのお祝いに、レーツェルという少女とともにささやかなパーティを計画したこと。パチュリーが変なことばかりやらかすから、レーツェルにそのことを相談したこと。咲夜が初めて来た日、レーツェルの心を動かす鍵になるかもしれないと思って、咲夜を館に引き入れたこと。

 吸血鬼異変に誘われて、レーツェルを救うために必要なことかもしれないと参加したこと。しかしそれは間違いで、レーツェルにトラウマを呼び起こさせるだけの結果に終わってしまったこと。それからは日常を平穏に過ごすことで、少しずつレーツェルの傷を癒せればとやり方を変えたこと。

 幻想郷に来てからの生活。フランが外に出始めたことへの、これは受け入れていいのかという悩み。霊夢や魔理沙などとの出会いについて。咲夜の心を受け入れるレーツェルの素晴らしさをバカみたいに書き込んであったり。いろんな異変のこと、その後の宴会のこと。

 そしてなによりも多く書いてあるのは、レーツェル・スカーレットという妹とともに過ごす、他愛もない日常のこと。その妹が私にとってどれだけ大事であったかということ。

 

「…………レーツェル……スカーレット」

 

 呟いた名前はどんな言葉よりもしっくりきて、いつも口にしていたように言い慣れていた。

 頭の中でカチリと記憶の辻褄が合い、霧が晴れたように胸に溜まっていたわだかまりが消え去っていく。

 思い出せなくなってしまっている誰か。それは間違いなく、この日記に書いてあるレーツェルという私の妹のことだ。

 

「私は……」

 

 それがわかって、なんだか腹が立ってきた。あいもかわらず不愉快に思う気持ちは存在しないが、興奮だけは止まることを知らずに私の体温を急激に上げていく。

 私がムカついているのは、レーツェルにではない。自分自身に対してだった。なにもかもを思い出せないでいる私に腹が立ったのだった。

 この日記を見る限り――いや、この胸に満ちる圧倒的なまでの渇きは、レーツェルという妹が私にとってなによりも大切な存在であったことを証明している。もはやそれは疑いようもない事実であり、それだけは間違いのない真実だと、さきほどと違って確信を抱くことができた。

 ならばどうして思い出せない。ならばどうして、こんなにも平気な心持ちでいる。少しも悲しまない、苦しまない、辛くない。

 こんな程度じゃなかったはずだ、と。誰かに押さえつけられるほど、私の愛情は安くなかったはずだ。

 思い出せ。たとえ記憶から引き出すことはできずとも、この体は確かに覚えているはずだ。誰よりも、なによりも私は悲しんでいるはずなのだから。

 心の中に虚ろが溢れる。溢れ出る。無のくせに、なにもないくせに、心から零れ落ちていく。

 もっとだ。もっと寄越せ。この空虚は私がなによりも大切にしなければならないもの、なくしてはならないものであるはずだった。空虚に変わる前の感情は、私がもっとも忘れてはならない激情のはずなんだ。

 負に類する感情に痛みがない。だからどうしたと言うのだ。

 悲しみに痛みが付属してない。だからどうしたと言うのだ。

 悲しい。辛い。苦しい。その事実は変わらない、変えられない。目を背けるなんてできない、したくない。

 全部、私のものだ。たとえ誰であろうと、どんな力であろうと、他人なんかに奪わせてたまるか。

 

「レーツェル、スカーレット……」

 

 視界が滲み、頬を雫が伝う。涙だった。心なんて少しも痛んでいないはずなのに、悲痛の水滴が垂れていた。

 そうして私の顔に笑みが浮かぶ。してやったり、と。今の状況を仕組んでいる犯人を越えてやったのだ、と。

 大丈夫だ。私はなにも忘れていない。たとえ思い出せなくても、たとえ心に痛みがなくとも、レーツェルという大切な妹と過ごした日々をこの体はなによりも強く覚えている。

 誰にも否定なんてできない。そんなことさせやしない。レーツェルと過ごした思い出は私のものだ。私だけのクオリアなのだ。絶対になくさない。なくさせやしない。

 忘れていない。忘れていない。覚えている。覚えているんだ。思い出せなくても、確かにそれは私の中にある。すぐそばにある。

 それにただ、気づいた。

 

「……必ず助ける」

 

 涙を拭う。覚悟はもう――何百年も前から、とっくに決まっていた。

 日記帳を閉じる。手に持っていたのは最新のそれだった。時間も忘れて夢中で読み進めていたらしく、足元には読み終えた日記帳が散乱している。

 それを一つずつ拾って、時系列順に本棚へと並べていった。一つ入れるたびにその内容を思い返しながら、ゆっくりと。

 そのすべてが終わってから、私はパンッと強く両頬を叩く。目を覚ませ、しっかりしろと、体から思考へと指令を出す。

 日常なんてものに逃げるのは終わりにしよう。救うのだ。状況なんて顧みず、私が私の意志で、妹を。

 行こう。大切なものを取り戻すために。

 

『――――さすがと言うべきかしら。この異変の影響下にありながら、自力で自意識を確立するなんて』

「ッ……この声は」

『私が心配するまでもなかったわね』

 

 素早く視線を巡らせるが、どこにも声の主の姿はない。空間の隙間らしきものも見当たらないし、その気配もなかった。

 それでもいつなにをされてもいいようにと警戒をしながら、私は私を盗み見ているだろう者の名前を呼ぶ。

 

「八雲紫……いったいなんの用? 姿を見せなさい」

 

 紅魔館の内部にいきなり出てくるのはまだいい。けれど私にさらすのは声だけで、それも私の部屋なんてプライベートルームを覗くなんて不愉快極まりない。その不愉快さも虚無へと変化してしまうのだが、怒ったフリだけはしておく。

 

『それは無理な相談よ。姿を見せてしまえば私もこの紅霧の影響下に……って、あなたにはこれが見えないんだったわね』

「紅霧? 私はそんなもの出してなんか」

『レーツェル・スカーレットが出しているのよ。そして幻想郷中に溢れているけれど、それに触れている生き物はすべて見えないようにされている』

 

 レーツェル。その名に目ざとく反応してしまったことを、紫はもちろん気づいていることだろう。

 

『彼女が出す紅霧の効果はそれを見えなくする以外に、主に二つ。一つが負に類する感情から生じる痛みをなくすこと、一つが寿命も含めて通常の方法では死ねなくすること』

「……この異変が、レーツェルが起こしているものだと?」

『あら、あなたもそのことには気がついているはずよ。でなければ助けるなんて言葉は出てこない』

 

 日記帳によれば、レーツェルは『答えをなくす程度の能力』と自身で名づけた災厄の力を保有しているらしい。それを使えば、確かに現状を実現することはできるだろう。

 そして私は、きっと今回の事態がそうであると無意識に理解していた。

 

「でも、どうしてこんなことを」

『罪悪感に耐え切れなかったのか、守りたい大切なものが増えすぎたせいか。はてさて、いったいどちらでしょうね。最初は後者だと思っていたんだけど……どうにも納得ができない部分があるのよねぇ。かと言って前者の可能性も薄い』

「……まぁいいわ。とにかく、私はレーツェルを助けたい。それで紫、今まで結構話しかけてくる機会があったでしょうに、どうして今頃声をかけてきたの? あの子を救うのにちょうどいい案でもあるのかしら」

 

 少しでも可能性のある発案ならば迷わず実行する。そんな意志を込めての質問だった。

 

『思い出せなくても、あいかわらずの妹好きっぷりねぇ……どうして今更なのかっていうのは、別にあなたの動きを観察していたとかではなくて、ここまで結界を繋げてくるのに苦労しただけ。いくら月への対処だとしてカモフラージュができてもレーツェルの目がある紅魔館の近くには歪が作れないから、しかたがないわ』

「そう。で?」

『はいはい。案、案ね。まぁ、ないこともないわ。とっておきのがね。そうね……膝をついて頭を下げるって言うんなら教えてあげても――ちょっと待ちなさい。本当にやろうとしないの』

 

 やはり紫はどこからかこちらの様子を見ているらしい。私の動作を止め、これみよがしに盛大なため息を吐いてきた。

 

『……案は二つ。一つは、レーツェル・スカーレットを殺すこと』

「却下。次」

『そう言うと思ってたわ』

 

 当たり前だ。私が聞いたのは異変の解決法ではなく、レーツェルの助け方なのだから。

 

『私もできればそんなことはしたくない……というか、実はそっちの方が成功率が低いかもしれないのよね。ちょっとめんどうなモノをあの子は持ってるから』

「めんどうなモノ? 今も使ってるっていう、この答えをなくす力のこと?」

『それだけじゃない。もっと別の、あの子自身がもっとも忌まねばならない禁忌……まぁ、それも後で見せましょうか。二つ目の案を実行する直前に、それがある場所へ寄って行きましょう』

 

 もったいぶった言い方だ。はっきりとなにを持っているのか言ってしまえばいいのに。

 そんな私の考えを察したのか、はたまた顔に出ていたのか、紫が「あれは中途半端な予備知識があるよりも、直接見た方がいいだろうから。いえ、悪いのかしら」と補足する。

 教えてくれないなら教えてくれないでいい。その内情なんて知らない。早く二つ目の案を言ってくれ、と宙空を睨む。

 

『さて、案のその二は……あの子に思い知らせること。あの子がどれだけ幻想郷で慕われていたのか、どれだけ強く親しい者たちの心に残っているのか。それを伝えて、このバカげたことを自主的にやめさせるのよ』

「……そんなこと意味があるの? バカげてるけど、レーツェルは親しい者たちを守りたいって一心でこんなことをしているんでしょう? それに、その気持ちとやらを伝える方法がない」

『あなたはもう理解しているはず。苦しみがなければいずれ楽しさは消失し、痛みがなければ成長はできない。それが負であろうと正であろうとすべての感情は個々人のものであり、決して誰に奪われていいものでもないわ。あの子への親愛とともに、それを伝えるのよ。そうすれば、あの子が異変を起こす直前に霊夢を通して撒いておいた綻びが広まって……うまくいけば、の話ですが』

 

 うまくいけば。そしてその具合は、レーツェルを説得する私や親しい者次第というわけか。

 

『伝えるための方法だけど、その鍵は霊夢が握っているわ。それを使えば霧もなくなるから記憶を正しく取り戻すことができる。最初の方は私が境界を狭めて実体化させようと思ってたのだけど、あの子、厄介なことにそれを封じちゃっててねぇ。ちゃっかりしてるわ』

「ふんっ、さすがは私の妹だね」

『はいはい。あなたの妹のせいでいろいろめんどくさいことになってるんだから、威張らないの』

 

 めんどくさいなんて感情、今の私には抱けない。レーツェルが生み出している紅霧の影響下にいない紫だからこそ吐ける言葉であった。

 本棚から踵を返し、自室から廊下へと出た。

 

『あなたには必要なかったけれど、私はこれからあの子と特別親しかった人妖に声をかけて回りに行くわ。そうして紅魔館に行くように誘導する。ある程度集まったら、厄介なモノとやらを見せた後に案を実行するわよ』

「みなまで言わなくても、わかってる」

『そう。ならよかったわ。それじゃあ、また後で会いましょう』

 

 紫の声が聞こえなくなる。だが、やるべきことはすでに固まっていた。

 絶対に妹を救う、この異変を止めてみせる。できるできないではなくて、やる。この数百年間ずっと見たかったものを――レーツェルの笑顔を必ず取り戻してみせるのだ。

 足音は、レーツェルに関わる痕跡を探していた時の何倍も明瞭に聞こえた。迷いも疑いも完全に消え去った覚悟の心が自然と表れているようであった。

 みなまで言わなくてもわかってる。そう、わかっている。

 紫は親しかった人妖に声をかけに行くと言っていた。だけれど、それに含まれていない少女が一人だけいる。私にしか引き入れることができない存在が一人いる。

 

「ここが……」

 

 足を止める。日記帳によれば、私が今いる扉の先こそがレーツェルの部屋だった。

 手をかけて、ぎぃ、と扉を開いていく。

 私と同じようなデザインの天蓋のあるベッド、ベッドサイドテーブル、照明、鏡台、机やイス。部屋の隅の方にはテレビという灰色の四角い箱が鎮座し、そこから少し離れた場所に、布団を合わせたかのようなとても温かそうなテーブルが設置されていた。テーブルと言っても足は非常に低く、四方にはイスの代わりに座布団が置かれている。それらはおよそ洋風なこの館には明らかにマッチしていなかったが、どこか自然な雰囲気を放っているように思えるのは、それらが結構な日数この部屋に在る証拠であろう。

 そんなちょっと変な部屋のうち、ベッドの端の方へと私の目は自然に移動した。そこには私の予想通り、一人の少女がぼーっとどこか遠くを見つめながら座っているのだった。

 

「フラン」

 

 声をかけると、顔はそのままに瞳だけがこちらを向く。

 

「……お姉さま……じゃ、ないかぁ」

「いやいや、お姉さまよ」

「レミリアお姉さま、でしょ?」

 

 フランは生まれてから今まで、ずっとレーツェルとともに過ごしてきたと言う。だからこそその存在を思い出せなくなってしまった時、私以上に影響が出るだろうことを推測していた。だから地下室ではなくて、ここにいると思った。

 そしてその推測は当たっていたらしい。私のように刺激的な思い出の痕跡がなくとも、フランは私の他に姉がもう一人いたのだと気づいているらしかった。

 どこか寂しそうに、フランが右の手の平に視線を下ろす。寂しい気持ちなんて抱けないはずなのに、どうしてか彼女はまるでそれがあるかのごとき顔をしている。そこになにか大切なものがあるとでも言うように、とても大事そうに自身の手を見つめている。

 

「お姉さま。私ね、すっごく慕ってる人がいたのよ。大好きな人がいたの」

「ええ」

「大好きだった。ずっと一緒にいたいって思ってた。一緒にいるだけで幸せだった。ううん、今もきっとすぐそこに……でも、違うのよ。私が求めてるのは、そうじゃない。こんなのは嫌なの、絶対に」

 

 フランは、自分の胸の前で左手をぎゅっと握り込む。痛みなんてないはずなのに、嫌なんて感じられないはずなのに――いや、違うか。きっとフランも日記を見た時の私と同じ思いでいるのだ。

 心から溢れ出ていく感情、それが空虚に変わる前の激情をどうしても失いたくなくて、どこまでも深く自分の中を見据えている。虚ろの先の悲痛に手を伸ばしている。一緒にいることの幸せを、クオリアを忘れたくないと泣き叫んでいる。誰よりも強く、自分以外には決して誰にも理解できないだろう思いを持って、正も負も関係なしにただただ純粋に。

 

「わがままを言わないって約束したわ。誰よりも好きだった人と約束した……でも、だからどうしたって言うのよ。私は、誰も逆らえやしない破壊の力を持ってる。そんな口約束、いくらだって破ってやれる」

「あなたは本当にそれでいいの?」

「先に破ったのは、お姉さまの方よ。そう……思い出したの。思い出したのよ」

 

 フランの、自分の左手を握り締める力が強まったのがわかった。

 

「私は……私たちは、約束した。血の海の上で……すごく悲しそうな目をした優しい女の子と」

「それは」

「いっぱい遊んでくれるって……いつもいつも、お姉さまはずっと約束を守ろうとしてただけだった。私は忘れてたのに、お姉さまはずっと覚えてた。私がお姉さまから笑顔を奪っちゃったことだって、本当は気づいてたわ。気づいてたから、目を背けたかっただけ。気づいてたから、無意識に忘れようとしてただけ。だからきっと、私には怒る資格なんてない。お姉さまに頭を撫でてもらう資格なんて、最初からなかったの」

「……だったら、どうするつもり? 私は進むわよ。たとえどんなに可能性が低くても、あの子を救うためならなんでもする。そう決めたから」

「私も行くわ」

 

 顔を上げたフランが、ベッドから立ち上がる。思い出になんて目もくれずに、確固たる意志のこもった瞳を持って私の方に歩いてくる。

 

「約束を破りに行く。私は、お姉さまと一緒にいたい。たとえそれが嫌われる結果に終わっても、どんな怨みつらみを吐かれるような結果に終わっても……受け入れる。なんとしてでもお姉さまを取り戻す。なにがあっても絶対に諦めない」

「そう。それはよかったわ」

 

 レーツェルを取り戻すためには、レーツェルの中でもっとも歪な立ち位置にあると言うフランの存在が不可欠だ。もしも断られていたら、紫の案とやらは必ず失敗に終わっていたことだろう。

 けれど私は、フランが必ずついてくるだろうことはわかっていた。断られる心配なんて一切していなかった。なにせ私と同じなのだから。フランにとって、レーツェルという存在は自身の世界の根幹を担うほどに重要な柱らしいから。

 

「でもフラン、一つだけ訂正しておくことがあるわ」

「なに?」

「レーツェルはきっと、あなたを怨んでいない。むしろ誰よりもあなたを愛している。そのことだけは、どうか正しく理解してて」

「…………うん」

 

 フランと並んでレーツェルの部屋の外へと出る。それから、一緒に歩き出す。

 振り返ることはしない、しようとも思わなかった。レーツェルの匂いがするだけの場所への名残惜しさなんていらない。私たちが欲しいのはそんな程度のものではないのだ。

 望むは本物ただ一つ。向かうべき場所は思い出の先、なくしてしまった大切な誰かの笑顔。

 

「ふふっ」

「どうかした? フラン」

「ううん。ただ、レミリアお姉さまと協力してなにかするのって、なんだか初めてのことだと思ったから」

「……それもそうね。結構長い年月一緒に過ごしてきてるのに」

「いっつも私に将棋とかで負けて泣きそうになるからねぇ。それでお姉さまになぐさめてもらったりして……うーん、頼りにしてもいいのかなぁ」

「ちょっと」

 

 面白そうに笑うフランの額を人差し指でつつく。痛みなんてないくせにフランは大仰にのけぞって、痛そうにつつかれた場所を押さえた。

 それがなんだかおかしくて、私も釣られて頬が緩んだ。そんな場合じゃないはずなのに。

 けれどフランは、それに満足そうな顔をした。そこではたと気づいたのだった。フランはただ、緊張しすぎていた空気をほぐしてくれただけだ。

 

「そんなに気負っても、お姉さまはたぶん助けられない。また申しわけなさそうに謝られるだけだわ。もっと心のまま、思うがままに行かないと。ね?」

「……ええ。ありがとう、フラン」

「まぁ頼りになるかどうかの心配は本当のことだけどねぇ」

 

 一言余計だ。再度フランの額をつつこうと手を伸ばすと、しかし今度はちゃっかりと躱してきた。なのでそれを追いかける、さらに避けられる。それを繰り返す。

 傍から見ればレーツェルのことを忘れてじゃれているだけに見えるかもしれない。でも、違う。私たちの中には、確かに共通した一つの強い思いがあった。レーツェルを取り戻したいというなによりも強い欲求があった。

 だから、進まなければ。

 つつこうとするのをやめて、フランに手を差し出した。そうすると彼女も足を止める。微笑んで、その手を取ってくる。

 

「ていっ」

「ったぁ!」

 

 とりあえずその隙を狙って片手ででこぴんをしておいた。

 フランを引き入れた――これでとりあえず現段階で私のできることは終わりだ。あとは紫の手回しで館に来るだろう人妖たちを待っていればいい。この先、懸念があるとすれば紫の言っていた『あの子自身がもっとも忌まねばならない禁忌』とやらだが……まぁ、なんとかなるだろう。いや、なんとかする。それがどんなものであろうと。

 恨ましげに睨んでくるフラン――痛みがないのだから、恨みなんて抱けるはずもないのだが――にニヤリと微笑み返しながら、私はフランの手を引いて廊下を再び歩き出した。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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三.Priesterin und Zauberer

 Sie war immer allein. Jedoch war es nicht einsam.
 ――彼女はいつも一人だった。けれどそれは、決して孤独などではなかった――――。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Reimu Hakurei □ □ □

 

 

 

 

 

 空を雲が覆い尽くすために薄暗くなっている世界の中を、静かに降りしきる雪が真っ白に染める。ただ一色に染め上げる。その勢いこそ強くはないが、それが冬の寒さを象徴した一つの現象であることに変わりはない。

 ぱらぱら、ぱらぱら、ぱらぱらと。その勢いは吹雪と比べるとはるかに儚く、一種の侘しささえ私に感じさせた。

 なにかが足りない。そう、空が嘆いているように見えるのは気のせいだろうか。

 この虚しさのわけを教えてくれ。そう、空が懇願しているように見えるのは気のせいだろうか。

 無意味な自問自答。答えなんてわかり切っていた。

 笑う。

 気のせいである。どちらも空が思っていることではなく、私が感じていることだ。

 

「で、霊夢。お前は動かないのか?」

 

 境内に座って、なにもせずぼーっと雪を見つめていると、神社の表の方からこちらに歩いてくる音とともに、聞き慣れた声が聞こえてきた。

 声音や口調、見知った仲のごとき唐突な会話の切り出しから誰なのかは明白だったが、一応視線だけは送って確認しておく。確信通り、そこにはいかにも魔法使いと言った黒い三角帽子をかぶった一人の少女。少女は私の隣に腰を下ろすと、きょろきょろと私の座っている周辺に目を向け始めた。

 

「お茶はないわよ」

「みたいだな。残念だ」

 

 まるで本当に残念に感じているかのように、やれやれと少女こと霧雨魔理沙が肩を竦めた。

 この異変の影響下で残念だなんてことを思えるはずがない。魔理沙はただ、昨日までの自分のことを思い返して、きっとその時までの自分ならそう思っていただろうなと再現してみせているだけに過ぎなかった。

 魔理沙が、疲れを吐き出すかのように大きく息を吐く。

 

「里の様子、見てきたんでしょ? どうだったの?」

「ああ、まぁ、よくわからん感じだったな。なんか偉そうなやつらが『今日は外出禁止だ!』って焦ったフリしながら言い回ってたぜ」

「ふぅん。ま、今の状況じゃそれが最善かもね。誰か一人でも下手に動いて感情が爆発なんてしたらどうなるかわかったもんじゃないし」

 

 今、幻想郷は未曽有の異変に襲われていた。紅い霧が瞬く間に幻想郷中に広がったと思ったら見えなくなり、それを境にして、世界の法則が乱れ始めたのである。

 刃物で切り傷を負わなくなった、魔力等の力で傷つかなくなった、高いところから転落した際に怪我を負わなくなった、人間も妖怪も空腹を感じることはなくなり、なにも食べずにいても平気であるようになった。その他にもさまざまな変化が生じ、その中でもなによりも問題とされているのが、人々の負の感情が失われてしまっていることであった。

 悲しい、辛い、苦しい。そういう感情が、宙空を見つめて考えごとに耽る時のような虚ろな気持ちへと勝手に変換される。不安、恐怖、心配。そういう感情で、心を痛めることがなくなった。

 当然、さきほど魔理沙が口にしたように残念だと思い、不満に感じることも今はできない。できるとすれば昨日よりも前に『どういう時にそういう負の感情を覚えていたか』を思い出し、そのフリをする程度である。

 そしてそのフリは現在、ほとんどの人妖が行っていることだということを私は知っていた。

 皆、本能的にことの恐ろしさを感じているのだった。その恐怖という感情の痛みさえ消え去ってしまうが、それでも本能は理解しているのである。負の感情を完全に忘却してしまえば生き物は生き物ではなくなるのだと。だからこそ誰もが記憶に残る過去の感情を必死に思い出し、模倣する。そうしていなければ自己を保つことができないから。

 私もその一人なのだろうか。ふいと、そんなことを考えてみる。

 どうだろう、わからない。なにせ自分のことだ。そんなくだらない回答が出てきた。

 

「でも、もし本当に人里が魔理沙の言ってるような状態なら」

「本当だぜ」

「危ないかもね。外出が禁止されている側より、禁止するように行動している側が」

「そうだな……って、うん? どういうことだ?」

 

 疑問とともに、魔理沙が解説を求める目をしていた。でもその前にまずお茶を一口飲もうと、横に手を……そういえばいれてないんだった。

 普段ならそのことに落胆や不満、めんどくさいという念の一つくらい抱くだろうが、あいにくと今はそんなものは発生し得ない。ただただ喉の渇きにも似た物足りなさが胸を占めるだけだ。

 しかたなく、そのまま私の想像を話してあげることにする。

 

「禁止されてる側の人間はひとまず大丈夫だと思うわ。それだけのんきな本能持ってるんなら、たぶんしばらくは普通にやっていける」

「よくわからんな。それでどうしてこの異変の危険性を把握している連中の方が危ないって言うんだ?」

「把握しているからこそよ。把握してしまっているからこそ、負の感情がないという事実に必要以上の注意を向けてしまう。そして意識してしまうの。今の状況を恐ろしく感じなければ、なんて出所のわからない使命感に支配されてしまう」

「だから、それがどうしたんだよ。別にいいじゃないか」

「その考えはいずれ必ず昇華して、『どうして恐ろしく感じないといけない?』なんて疑問に変わるのよ。そうなったらもうおしまいね。その理由は全部なかったことにされちゃってるんだから、恐ろしく感じようと努力していることが無意味なことに気づいてしまう。そして受け入れてしまうでしょうね。今の、負の感情に痛みがない世界を」

 

 今回の異変においては無関心なくらいがちょうどいいのだ。何事も気にせず、普段通りに過ごすくらいのんきな方が精神は異常になりにくい。

 英知は時に人を惑わせ、盲目にする。それが中途半端な愚か者であればさらに手に負えない。この異変で影響を一番受けないのはおそらく、妖精のような頭のネジが緩い種族(バカ)たちであろう。

 

「はぁー。って、それを聞いた私は大丈夫なのか?」

「『知っている』と『理解』は別物よ。あんたも必要最低限だけ注意して、過剰に異変の影響を気にしないようにしてね」

「りょ、了解だぜ。って、こういう動揺もダメなのか? っていうか動揺はできるみたいだな」

 

 予想外のことにただ驚くこと。それは正でも負でもない、無にもっとも近い感情だ。それなら当然することができるだろう。

 ただ、慄くことはできないはずだ。きっと恐れるという部分だけが抜き取られ、驚愕だけが残される。今の魔理沙がそんな状態だと感じた。

 

「霊夢は平気なのか? 少なくとも私よりは『知っている』んだろう? それがランクアップしてたりとかしてないのかよ」

「私? 見ての通りだけど」

「じゃあ平気じゃないな」

 

 どうしてそういう結論に至るのだろう。ご覧の通り、私はいつも通りの正常だというのに。

 そんなことを思っている私の表情を見て、魔理沙が大きなため息を吐いた。

 

「お前はおかしい。私が断言する。こんな大規模な異変が起こってるっていうのに動こうともせず、ましてやお茶も飲まずにただ空を眺めてるだけなんだからな」

「そんな気分なのよ」

「どんな気分だよ。そんな気分のお前は見たことがないぜ。そもそもお前だってわかってるはずだろ? この異変以前に、もっと大きいなにかが……いや、誰かが決定的に足りないってことが」

 

 足りないものなんてたくさんあるだろう。負の感情、そこから生じる痛み、死ぬ方法。

 そうじゃない、と魔理沙が首を横に振る。どうしてか真剣そうな顔で、私をまっすぐに見つめてくる。

 

「私も里の連中も、正気を保つためかどうかは知らんが、無意識のうちに記憶を掘り起こして昨日より前の自分を再現するようにしてる。だからわかるんだよ。その記憶に欠落が……どうしても思い出せない部分があるってことがな」

「ふぅん。で?」

「お前だってそうじゃないのか? そのことでずっとここで無意味に悩んでるんじゃないのかよ。らしくないぜ。そんなことしてないで、さっさと探しに行くのが博麗霊夢だろ。それで、いつもの勘でパパッと解決するんだ。異変と一緒にな」

 

 いややっぱ訂正する、解決するのは私の方だ。そんな風に言い切る魔理沙を、私は物珍しい気持ちでじっと見つめていた。

 どうしてわざわざそんなことを私に言う? いつもなら私が動かないのをいいことに、自分だけで解決しようとするくせに。

 次第に魔理沙の顔が恥ずかしそうに赤らんでいき、こっち見るなと言わんばかりにシッシと手で追い払う動作をしてくる。その時、はたと気づいた。彼女は珍しく私を励ますために今のような言葉を吐いたこと、そしてじっと見られたゆえにその意図が私に看破されたのかもと感じて、恥ずかしく思ったのだろうということ。

 それらを意識して、くすり、と。

 自然と私の口元に笑みが浮かんだ。それにちょっとだけ驚くと同時に、なんだか納得もする。

 らしくない。魔理沙の一言が私の心に強く木霊する。

 そうだ、私はなにをやっている? どうしてこんなところでただぼーっとしている? こんなのはいつもの私じゃない。もっと他にやりたいことがあるはずだ。それに向き合わずただ立ち止まってるだけなんて、そんなのは私らしくない。

 当たり前のことのはずなのに、魔理沙からそれを気がつかされてから、段々と靄や霧が晴れていくような心持ちだった。

 いったいなにを悩んでいたのだろう。なにを心苦しく思っていたのだろう。

 憂うくらいなら行動に移せばいい。悩むくらいなら根本から潰しにいけばいい。それは私のいつもやってきたことであり、こんなうじうじとしているのは性に合わないことのはず。だからこんなにも腑に落ちない気分でいるんだ。

 すぅ、はぁ、と深呼吸をする。一度気持ちを落ちつかせ、思考を切り替える。

 私は改めて魔理沙に向き直ると、ニヤリと意識的に口の端を吊り上げた。

 

「へぇ、あんたが異変を解決ねぇ。宇宙人どもの時はあいつに誘導されて関係ないやつを退治しに行ってたし、神奈子の時はむしろ邪魔してきたじゃない。今回だってそんな感じで役に立たないんじゃないの?」

「ふんっ、過去に縋るなんて見苦しいぜ。私は未来に生きるんだ」

「経歴は大事よ。なにせそれで自分に対する人の見る目が変わるんだから」

「未来も大事だ。なにせ、なにか偉大なこと一つやってのけるだけで自分に対する人の見る目が変わるんだからな」

 

 しばらくにらみ合い、それから互いに大笑いした。どんなに嫌味を言おうと心に痛みはない。だけれどそんなもの関係なしに、減らず口を、なんて思う。それは魔理沙とたわいもない言い合いをしている時に抱く気持ちとまったく同じものだった。

 いつも通り。そう、いつも通りでいい。いつも通り私たちは異変に臨み、いつも通り互いに協力や邪魔をしながら解決する。そうして何事もなかったかのように祝いの宴会を開くのだ。

 立ち上がった私に、どこか安心したように息を吐いた魔理沙が、「で」と問いかけてくる。

 

「元気になったみたいだが、結局なにに悩んでたんだ? ずっとアホ面で上の空だったが」

「誰がアホ面よ。そういうあんたはいつもバカ面引っさげてんじゃないの。別に、大したことじゃないわ」

 

 頭をよぎるのは昨日の記憶、そしてとある少女と知り合ってから今日に至るまでの思い出だった。

 

「私ね、人って言うのは究極的には一人だって思ってるの。誰と会って話しても、誰とどれだけ親しくなっても、自分の気持ちは自分だけのものでしょう? 誰にも共感なんてできない。私は私、他は他。ずっとそう思ってきたし、今だってそういう考えは変わらない」

「まぁ、霊夢らしいな。それでそれがどうかしたのか」

「一人……めんどくさいやつがいたのよ。私は私のやりたいようにやってるだけなのに、そいつはその行動をいちいち気にしてくるの。ちょっとでも危ないことしようとすると『大丈夫ですか?』『怪我はありませんか?』ってさぁ、もう鬱陶しいくらいに。そんなの私の勝手でしょって言ってやりたいわ」

「鬱陶しい、ねぇ。その割に今のお前は笑ってるが」

「そういうのがなんだか心地いいって。あいつと付き合ってると、段々そう思えるようになってきたのよ。親に恵まれなかったからか、私の心配なんてしてくれる連中が人間にも妖怪にも一人もいなかったからか……どっちでもいいけどね。まぁ、あんたは、ちょっと気にかけてくれることがあるみたいだけど」

 

 なんだか照れくさくなって視線を逸らしてしまった私を、魔理沙はニヤニヤとムカつく笑みで見つめてくる。いや、今はムカつくなんて気持ちは抱けないのだが、昨日までの私なら一瞬で蹴り飛ばしていただろう確信が私の中にはあった。

 

「はぁ……まぁいいわ。それで昨日、あいつ泣いてたのよ。いえ、昨日だけじゃない。たぶんずっと……そう。助けを求めてたわ。私と初めて会った時よりずっと前から。そんな気がする」

「あいつ、ねぇ」

「……私はいっつも心配されてたのに、私の方があいつの悩みにずっと気づいてやれなかったのが……なんていうか、不甲斐なかった。助けられると思ったのよ。あいつは優しいから、ちょっと手を伸ばして引き寄せれば、それからなにかなぐさめる言葉でも吐けばって……でも、甘かったの。考えが、いえ、覚悟が。相手のことを知ろうともしないで、ただ与えられるだけの心配の念を心地いいなんて思ってた私の手は、ほんの少しもあいつには届かなかった。バカなことしようとしてたあいつを止めてあげられなかった。こんなことしようとするくらい追い詰められてたはずなのに、その気持ちをわかってやれなかった。それでなんだか自分がひどく無力なやつなんだって感じてね」

「だからこんな意味もなく空を眺めてたのか」

「……もうそんな気もないけど」

 

 なにが足りないかなんて、私は最初からわかっていた。すでに日常の一部と化してしまったお節介焼きな小さな女の子がいない。

 この虚しさのわけなんて、私は最初からわかっていた。一度失敗してしまった自分にはなにもできないかもしれないという、それこそ意味をなさない無力感に苛まれていただけだ。

 なんてバカらしい。いつもの気ままな巫女としての自分はどこに行ったのか。本当に、どこへ行ってしまったのやら。

 

「さて」

 

 ――私は少なからず、いなくなってしまった少女のことを特別だと感じていたんだろう。ほんの少しと言えど、心を預けていたのだろう。今まで気づかないくらい小さくとも、どこか大切に思っていたのだろう。

 ――だからこそ失った時の痛みが忘れられなかった。助けられなかったことを悔やむ感情が生まれ、動けなくなった。行動に移すことが怖くなった。

 ――けれど、そんなものは私らしくない。なにかに臆するなんて私らしくない。そのことを旧知の友人が教えてくれた。

 きっと恐怖なんて感情、私には似合わないのだ。なにかをなくすかもしれないなんて重圧も、私には似合わない。

 ただ在るがまま。いつもそうやってきた。だから、これからもそうしていけばいい。

 私は思うがままに過ごし、行動し、時にはぐーたらと寝転がる。やりたいようにやる、そしてその後やそれに類することは一切気にしない。きっとなるようになる。ならないようなら、なるようにする。

 そして今からはその中に覚悟を持てばいいのである。自分が侵したすべてを受け入れる決意を持つようにする。そうしてあいつを助けに行くのだ。

 

「行きましょうか。魔理沙」

「当てはあるのか?」

「紅魔館よ。私も思い出せなくなっちゃってるから、あいつに関して確信したことはあんまり言えないけど……あいつはそこに住んでた気がする」

 

 私は、いつも私を気にかけてくれていた少女を助けたい。だから助けに行く。ついでに異変も解決する。

 そう思っているから、そのために行動を起こす。私ができることなんてそれだけだった。でも、それだけはできる。やってみせる。

 靴を履いて歩き出すと、魔理沙が竹箒を手についてきた。そのまま一緒に神社の表の方に回り、軽く首を回したりと固まった体を解しておく。

 お腹減らないし喉も渇かないし気が乗らないから、昨日からなにも食べてなかったけど……お茶をいっぱいくらい飲んでおけばよかったかな。

 いや、今はやめておこう。この名残惜しさのぶんも、あいつが戻ってきたら付き合ってもらえばいい。異変なんてものを起こしたことを叱りながら、一緒にお茶を飲んでもらえばいいのである。

 さて、そろそろ紅魔館へ向かおうか。なんて時、ふと、風に紛れてどこからともなく声が流れてきた。

 

『まったく、あの吸血鬼といいあなたといい、いったいなんなのよ』

 

 一瞬ビクッと肩が震えたが、それが聞き慣れたものだということに気づき、魔理沙と顔を見合わせる。

 

「霊夢、この声は……」

「ええ」

『せっかく結界に歪みを開けてまで異変に備えてたのに、あなたたちに自主的に気づかれて正しい方向に向かわれたんじゃ、私が単なる道化みたいじゃないの』

「こう、聞いてるだけでめんどくさいって気持ちが充満してくるような声。間違いないな」

「そうね。紫だわ、これは」

『あら、ひどいですわ。そもそもめんどくさいなんて感情、今は抱けないでしょうに』

 

 いつもなら唐突に現れて驚かしてきたりするところなのだが、辺りを見回してもそれらしき影がない。

 

『見えない霧が充満してて、それにちょっと厄介な効果が付与されてるから、迂闊に出るわけにはいかないのよ。姿が見えないのは我慢してちょうだい』

「あっそ。で、なんの用?」

 

 紫の事情なんて果てしなくどうでもいい。見えないなら見えないでそれでいい。

 問題なのはせっかく出発しようという時に声をかけられたことだった。異変の最中に出会う人妖に容赦する気はない。だから、もしそれ相応の用事がないようなら今度退治してやる。

 そんな私の内心を察したのか、紫の声がちょっとだけ慌てた風に乱れた。

 

『用、用ね。用というか、あなたたち紅魔館に行こうとしていたでしょう?』

「そうね。それがどうかしたの?」

『紅魔館についたら、そこの主の幼い吸血鬼……レミリア・スカーレットのもとへ向かうといいわ。それからあなたたち以外にもいろいろと私が集めてくる予定だから、暴れたりしないでそのまま一緒に待ってなさい』

「一緒にぃ? なによ、今回あの館のやつらが手伝ってくれるとでも言うの? ちょっと行く気失せたんだけど」

「心強いっちゃ心強いが、めんどくさそうだしな。レミリアだし」

『まぁまぁ、そう言わないでちょうだいな。そもそも落胆なんて感じられないんだから行く気なんて失せるはずがないでしょう。今回の異変はそれだけ大がかりってことよ。武力で挑んでも勝てない確率の方が高いから、心理的に攻めるしかないの』

「なにそれ。異変をやめるよう説得するってこと? そううまくいくかしら」

『わからない。でも、いかせるしかない』

 

 確かに紫の言う通り、今ははっきりと思い出せなくなってしまっている誰かは、とにかく武力に長けていたように感じている。弾幕ごっこという遊びでさえ相当に強かったことを、なんとなくではあるが覚えているのだった。一対一でも勝てるかどうか、魔理沙や咲夜と言った面々と組んで挑むことで、やっと勝利を収めることができるだろうという具合だったはずである。

 それでも同じ吸血鬼のレミリア、一応は妖怪の賢者とされている紫が一緒ならば勝利を収めることなんて容易なのではないか。無理矢理止めるのも可能なのではないか。それで、説得なんて懲らしめてからすればいい。

 そう思いかけているのが伝わったのか、紫が珍しく苦々しげな声音で『あの子は』と独り言のように呟き始める。

 

『あの子は……厄介な、それこそ禁術と指定されてもいいような魔法に手を出してる。私や藍、萃香と言った面々が揃ったとしても勝率は五パーセントにも満たないでしょう』

「禁術だって?」

 

 魔理沙が耳ざとく、興味ありげに反応を示した。魔法使いとして聞き逃せないことだったのだろう。

 しかし紫はそんな彼女を『あなたが考えているほど生易しいものではない』とすぐに窘める。

 

『おそらくは、死をなくしてしまったことによりいずれ襲ってくるだろう冥府の恐ろしい死神たちへの対策なのでしょうけど……果たしてその時、幻想郷は無事でいられるかしら。幻想郷の人妖たちの心がおかしくなるかもしれない現状も十分不安だけれど、そこも心配なのよねぇ』

「ふぅん……つまり、あんたはこんなめんどうな異変はさっさと解決しなさいって言いたいわけね」

『ええ。でもあの子の説得にはおそらくあの子の姉やあなたたちだけではまだ不足……あぁもう。幽々子は自分じゃその役目は務まらないって動こうとしないし、萃香は傍観するって約束したからなんてわけのわからない理由でいつまでもお酒飲んでるし、嫌になっちゃうわ。本当、一人だけ苦心してる私が道化(バカ)みたいじゃないの』

 

 お前も苦労してるんだな、と完全に他人事の、一切の労わりを感じさせない声音で魔理沙が呟く。さきほども思ったが、私も紫の事情は果てしなくどうでもいい。

 紫が大きなため息を吐いたのがこちらまで聞こえてきた。普段ならムカつくし気が滅入るからという理由でお札の一つでも投げていたところなのに、あいにくと今は本人が近くにいない。出て来れないと聞いた時は少々気分が高揚したものだけど、今は逆にイラついた。そのイラつきも昨日までの自分を思い返しての単なるフリで、実際には一ミリたりとも怒りに類する感情は抱いていないのだが。

 

「ま、とにかく私たちは紅魔館で待ってればいいのね」

『そうなるわね。くれぐれも無駄に暴れたりしないで、私が来るまで待ってなさい』

「あんまりに遅かったらお前を現行犯退治するぜ」

『現行犯って、今回私は捕まえる側なのだけど』

 

 その後も一言二言適当な会話をしたのちに、別の人妖に協力を申し出に行くと言って紫の声は消えてしまった。

 異変をやめるよう説得する。紫はわからないと言っていたし、そううまくいくのだろうか。

 そうやって不安になりかけた思考を、ぶんぶんと頭を横に振ることで掻き消した。

 不安に思うな。悩んでいるなんて私らしくないと隣の腐れ縁に教えられたばかりじゃないか。もっと楽観的に、あるがままに行動すればそれでいい。うまくいく、うまくいかせる。

 

「ん、あれは……咲夜か? 迎えに来たのかねぇ」

「あら、本当に紫は道化だったみたいね」

 

 こちらに向かってくる人影を捉え、魔理沙と笑い合う。

 空はあいかわらず白い粒をぱらぱらと落としていた。寒さは衰えることを知らず、異変が起こっているにもかかわらずいつもと変わらない冬の景色がそこにある。最初は寂しげに見えたそれが、どうにも今は静かに私を激励しているように見えた。

 思うがままに助けてやれ。そう、空が微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。

 無意味な自問自答。答えなんてわかり切っていた。

 ――私によくしてくれる小さな女の子が泣いていた。だから助けたい。その涙を拭ってあげたい。

 笑う。

 気のせいである。それは空が思っていることではなく、私が感じていることだった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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四.bester Freund

 Hatte keinen Mut zu nehmen. Wurde also verwendet, um aufzugeben. Und sie hat es am meisten gehasst.
 ――踏み出すだけの勇気がなかった。諦めることに慣れていた。そして彼女は誰よりも、そんな自分が大嫌いだった――――。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Satori Komeiji □ □ □

 

 

 

 

 

 ――部屋の前で、私は呆然と立ち竦んでいた。

 ――大切な妹が泣いている声をただただ聞いていて。

 ――扉に手をかけた。でも。

 ――私には、それを開ける勇気が欠けていた。

 

 

 

 

 

 幻想郷における地底には季節は存在すれど、昼と夜に明確な違いは存在しない。外に出て空を見上げてみても、薄暗い暗闇が広がるか、雪などの四季に沿ったなにかが降り注いでくるだけだ。

 妖怪は人間と違って肉体的に丈夫なため、睡眠なんてものは本来ならばあまり必要ない。妖怪が基本的に夜に活動すると言われるのは、ただ単に昼間に行動するデメリットが大きいから暇で寝る者が多いだけで、決して動けないというわけではない。

 だからこそ、昼も夜もない地底の都は静まることを知らない。そこらに設置された街灯や提灯等が必要以上に明るさを振りまき、いつ行っても賑やかな空気は、地底の住民の大半を占める鬼たちにとっては理想郷に限りなく近い空気なのかもしれなかった。

 けれど、今はどうなのだろう。

 紅霧が一瞬にして地底中に広まったかと思えば、それが見えなくなった。その瞬間からすべてが変わったのだ。どんなことをしても肉体的にも心理的にも痛みを感じなくなり、ありとあらゆることを不満と思う心がなくなった。

 これは明らかな異変である。そしてこの異変のさなか、それでも鬼たちは変わらず過ごせているのだろうか。

 いや、鬼だけではない。すべての種族が変わらず楽しく日々を生きることができているのだろうか。

 不幸がなくなった世界。なるほど、理想の一つが叶った世界と言えよう。しかしだからと言って、そこは本当に幸福だけで満ち足りた世界なのか――。

 すべてはコインの裏表のようにして存在する。ありとあらゆる物事には表と裏が存在する。そのことはいろいろな人々の心の裏側を垣間見てきた私は、誰よりも理解しているつもりだった。

 不幸をなくせば、いずれ幸福は消え失せる。苦しみがなくなれば、楽しさはいずれ消え失せる。悲しさがなくなれば、嬉しさはいずれ消え失せる。

 人間も妖怪もそのことは本能的に理解していることだった。たとえば、過去にした苦い経験も、時間が経てば笑って他人に話せるようになるだろう。苦しみの裏表が曖昧になり、楽しさが顔を見せ始めたと言えるだろう。

 この世の物事はそのようにして多分に曖昧さを含む。その片方だけでもなくしてしまえば、いずれはなにもかもが無に帰ってしまうはずなのだった。

 

「……でも」

 

 目が覚めて、しかし起きる気が起きず、今の旧都の様子を想像しながらベッドに寝転んでいた。目を開けば、異変の最中にもかかわらず、いつも通りの日常を見せる自室の天井が目に入った。

 なにもかもが無に帰る。でも、それで救われる人もいるかもしれない。それでしか救われない人もいるかもしれない、なんて思う。

 裏表が明確になりすぎているほどに深すぎる絶望は、果たしてどう処理することができるのだろうか。

 裏表が明確になりすぎているほどに強すぎる悲痛は、果たしてどう処理することができるのだろうか。

 すでに裏へは返せない、表へは返せない、どれだけ時間が経とうとも曖昧になることはありえない。そういう圧倒的なまでの負の感情、出来事への処理は、きっと無に帰す以外に『答え』はない。

 多くの者はプラスの世界に身を置くだろう。だから今の異変を拒む。だが限りなく少ない、それでも確かにいるだろうマイナスの世界の者は、むしろなにもかもが無に帰った世界の方が理想の世界なのではないか。

 そう考えると、この異変もなんだか仕方がないものかもしれないと思ってしまう。胸の内に抱いていたわずかな反抗心が消え失せ、流されるままに受け入れるのが摂理なのかもしれないなんて思ってきてしまう。

 だって私も心を読むことでいつも傷ついてきた。数々の強烈な嫌悪感を第三の目(この瞳)で見つめてきて、絶対に治すことができない深い傷を負ってきた。

 それをなくすことができる。痛みを忘れることができる。決して裏切らない心地のいい暗闇へと、己が心を預けることができる。

 ああ、それはとても残酷ながらにして、なんて甘く優しい世界なのかと――。

 

「やめましょう」

 

 混沌に迷いそうになる思考を断ち切る。なにを考えたところで結局無意味だと判断して、無理矢理に頭の中を切り替える。

 上半身を起こし、ベッドの端から足を投げ出した。

 さて、今日はなにをしようか。本でも読むか、それとも書くか、もっと別のことをするか。正直どれも気分ではないが、無心でし続けていれば没頭できるようになるだろう。

 そうして立ち上がったところで、ふいと、机の上に置いてある電話機が目に留まる。ふらふらと半ば無意識に近づき、しげしげと観察していた。

 形は本で見た外の世界のものに酷似している。受話器を取って、それを耳に当てて使うタイプのものだ。

 まるで当然のように、一瞬この部屋にあるのが当たり前のように視線が過ぎ去ろうとしたものだから、なんだか余計に気になってしまう。

 

「……誰でしたっけ」

 

 去年辺りに誰かがくれたもの。そういうことは覚えている。だが、それ以外は思い出せない。

 私は毎晩のようにこの電話機を使っていたような気がしている。けれど誰と通話していたのだろう、どんな会話をしていたのだろう。記憶に蓋を被せられたかのように、思い出すことができない。

 どうしてか、心から急激に水分が抜けていくようだった。なにかが足りない、足りない、足りない。喉の渇きとは比にならないほどに強い渇きが満ちていく。

 苦しみはない。痛みはない。悲しみはない。辛さはない。不満はない。ただただ物足りない、あるはずのものがないという感覚だけが充満していた。

 嫌だった。

 嫌なんて気持ちを今は感じられないはずなのに、この電話機とずっと向き合っていることに忌避感のようなものを覚えた。

 目を逸らす。それから、ちょうどその先にあったイスに座った。電話機を見ないようにしていると、ちょうど読みかけで机の上に置いてあった本に体が向くものだから、それを手に取ってみる。

 どうしてか、なにも考えたくなかった。

 しおりの挟んだ部分を開く。ページの一番右上から一文字ずつ、しっかりと注意を向けて視線を下げていく。できるだけ思考を広げないようにして。

 

「……どうして」

 

 そこまでしているのに、文が頭に入ってこない。心の中で一生懸命に文字を読み上げているのに、内容がまったく染み渡ってこない。理解できない。

 こんなことをしている場合じゃないだろう、こんなことをしているのに意味なんてないだろう。わかっているはずだろう?

 そんな風に、必死に逃げようとする私の意識を、無意識が通せんぼしているようだった。

 違う。嫌だ。

 やめてくれ。やめてくれ。もうこの世界に苦痛はないはずだろう。こんな感情は抱けないはずだろう。

 なのにどうしてこんなに心が渇く。なのにどうして、涙が出そうになるくらい虚ろが溢れ出る。

 悲しくないのに。辛くないのに。苦しくないのに。

 やめて。やめてよ。そんなに責めないで。

 私はそんなに強くない。こんな感覚に耐え切れるほど強くない。

 傷が浮き彫りになる。虚しさに痛む諦観が蘇る。

 忘れられない。どうしても。

 無理なんだ。だって、そうだろう。

 ――どうせ私じゃ、なにもできないのだから。

 

「ぁ」

 

 得体の知れない重圧に耐え切れず目を大きく瞑ったその時、プルルルと電話機が鳴り響く音がした。それから、自分以外の意思によって意識が内側から外側へと向けられたからか、ぐちゃぐちゃになりそうだった内心から波が消えていく。

 だが、電話機に目を向けてみて、それとは別の思いが全身を駆け巡る。お腹が空いた時にご飯を前にした時のような渇望が体に満ちる。

 それは、期待。

 胸の内がドクンと強く鳴る。その理由もわからないまま、半ば反射的に受話器へと手を伸ばしていた。

 取っていいのか、これを。

 迷い。しかし、これ以上取らないでいれば電話が切れてしまうかもしれない。もう二度とかかってこないかもしれない。

 それを意識して、意を決する――それよりも早く、無意識に受話器を取っていたのだった。

 

「も……もしもし」

 

 返事は、ない。

 そうして三秒ほど動作を止めていると、なんだか途端に今の自分がバカらしく思えてきた。

 なにをしているのだろう。いったいなにを求めて、電話なんて取ったのだろう。

 知っている。

 助けが欲しかった。誰かに手を差し伸べてほしかった。

 わけのわからない空虚を誰かに埋めてほしかった。

 そんなもの、ただなにもしないで塞ぎこんでいる私のもとへなんてやってくるはずがないのに。

 

「……用がないなら切りますよ」

 

 こんなことは無意味だ。そんなこと、最初からわかっていたことだろう。

 そのまままた、三秒待つ。どうやらただのイタズラ電話、もしくは故障でもしたのか。なんにせよ受話器を取っていることに意味はないらしい。

 切ろう。

 受話器を耳から離し、元の場所に戻そうとした。

 そしてその瞬間、受話器から声が響いたのがわかった。

 

『――聞こえるかしら』

「ッ……誰ですか」

 

 すぐに耳に当て直す。電子で作られた音は少々不明瞭で個人がわかりづらく、聞き慣れた相手でない限りは一言で当てるのは難しい。

 耳を澄ましていると、『やっと繋がったわ』と安心しているような言葉が聞こえてきた。『地底は遠いのよ』と。

 

「もう一度聞きます。誰ですか」

『あら、ごめんなさい。私は八雲紫、一部からは妖怪の賢者と呼ばれている者でございます』

「妖怪の賢者……」

 

 かつて月に攻め入った妖怪のことがそう呼ばれているのは知識の中にある。そして同時に、それとはもっと別の情報網からどんな性格なのかを聞いたことがあるような気がした。

 いわく、胡散臭い妖怪。いわく、大体なんでもできる友人。

 誰から聞いたことだっただろう。どうしてか、うまく思い出すことができない。

 

『単刀直入に言うわ。あなた、今すぐ紅魔館に来なさい』

「……なぜです?」

『あなたならわかっているはずでしょう? あの子はずいぶんとあなたを慕っていたようだし、あなたもあの子をとても気に入っていた。だからこそ、誰かがいない、なにか大切なものが欠けている。そんな感覚をなんとなく覚えているはずです』

 

 渇きが再びやってくる。目を背けたい感情が、空虚とともに溢れ出る。

 肯定の言葉は吐けなかった。けれど、否定の言葉も口にすることができない。

 

『あの子を助けるために、あの子を取り戻すためにあなたが必要なの。お願い、どうか協力して』

「……助ける?」

『レーツェル・スカーレット。あなたなら、この名前を聞けば――』

 

 がたんっ、と。受話器が手の中から滑り落ちた。

 嗚咽が漏れる。目の前が滲む。

 どうして? なんで?

 わかっているはずだろう。

 痛い、痛い。痛くないのに。

 わからない。わかりたくない。

 

「で、んわ」

 

 電話を取らなければ。きっと相手に、とても迷惑な思いをさせてしまっている。

 無理矢理に体を動かしてどうにか受話器を拾い直し、耳元に当てた。

 もしかしたら切れてしまっているだろうか。そんな懸念を抱いたが、それはどうやら杞憂だったようである。

 

『……どうかしたの?』

 

 不思議そうに問いかけてくる声。どこか遠くの世界から語りかけてくる声はなんだか現実感がなくて、弱った私の精神はすべてを吐き出したくなってきてしまった。

 逆らう理由もない。むしろ、断るのにちょうどいいだろう。

 そんな風に開き直って、虚ろに捕らわれた感情を露わにする。

 

「無理、ですよ」

『無理?』

「私には、できません」

 

 ぎゅっと拳を強く握る。零れ落ちそうになる後悔に、それでも私は手を伸ばそうとしない。

 

「私には……彼女を助けるなんてことはできません」

『……できない?』

「だって、そうでしょう。この異変が起きてから、私は心を読めなくなってしまったことをすぐに気づきました。これは彼女が……レーツェルという名の少女が、私のために起こした異変でもあるんです」

 

 彼女の姿を思い起こせなくなったと同時に、館をうろつく動物たちと会ってもその内心が窺えなくなった。だからわかったのだった。

 この異変は私の傷を塞ぐためのものでもある。私が負った傷を、私が二度と気負わないようにするためのものでもある。

 

「それに、負の感情がない世界……私も想像したことがないわけじゃありません。だって私も、傷つくことがどれだけ怖いかを知っている。その痛みの深さを知っている。だからそれをなくしたいと思う気持ちが共感できてしまうんです。こんな異変を起こそうと考えてしまうような心、わからないでもないんです」

『……ふぅん』

「こんなことを思ってしまう私には、きっと彼女を助ける資格はありません。行っても迷惑をかけるだけです。だから、すみません」

 

 手が震えていた。

 叫びたかった。こんなはずじゃない、こんなものは受け入れたくない。

 でも、動いてはいけない。私には動くだけの権利がない。

 戒める。震える体を押さえつける。

 

『そう――なら、いい』

「……はい」

『期待外れだったわ。あなたなら来てくれると思ってたのに』

「すみません」

『……ああ、もう、その声を聞いてるとイライラするわ』

 

 カツカツと、苛立ちのままに指で硬いものを突っついているかのような音が聞こえてくる。

 

『あなたはそのままずっと逃げ続けているといい。共感なんて言葉に甘えながら、立ち向かうことから目を背けていればいい。妹の心をなくしてしまった時のように、今度は唯一の親友をなくせばいい』

「な……ん……」

 

 息が止まる。言い返そうとして、けれど、言葉が出てこない。

 

『あなたには人の心に踏み入る覚悟がない。その心を変えてしまう責任を負う気がない。そのくせしてあの子の優しさを受け入れて、勝手にあの子の心を読んで、さらには親友気取り。自分勝手なんて言葉も生温い……横暴ね。あなたに誰も近づかないというのも納得だわ』

「それは、心を読む能力が」

『そうやっていつも、自分以外のなにかのせいにしてきたのでしょう? なにもかもしかたがないと逃げ続けてきたのでしょう? 妹の時もそうだったのかしら。だとしたら、今回もそう。気持ちがわかってしまうから、私のための異変だから。本音では失いたくないと思っているくせに、立ち向かうことが怖いからそうやって逃げようとするの。そうして後悔する。できることがあったはずなのにね。でもそれもしかたがないことだ、って。くだらない。本当にくだらない』

「ッ……あなたにっ!」

 

 心が荒れる。怒りなんてないはずなのに、心が度を越えた熱さに暴れている。

 

「あなたなんかに、なにがわかるって言うんですかっ!?」

『わからないわ。いえ、わかりたくない。困っている親友を助けようともしないあなたの気持ちなんて、わかりたくない』

「だって本当に、しかたがないことじゃないですかっ! 私には心が見える、だからわかるんです! 相手の気持ちが理解できてしまうんですよ! その激情がどういう感情から生じるものか、その思いの出どころはなんなのかっ……共感できてしまう! どれだけその気持ちが強いものなのかわかってしまう! 全部理解して、それでもなおその気持ちを踏みにじるなんて、そんな資格が私にあるわけがないっ……! 私なんかにあるわけがない! 私には、親友の覚悟を無下にすることなんて――」

『ほら、やっぱりそう。心に踏み入る覚悟がない、変えてしまう責任を負う気がない。人の気持ちが見えるくせに、いざという時だけ目を背ける』

「心が読めないあなたにっ」

『わからないわ。さっきも言ったでしょう、わかりたくないと』

 

 電話の向こう側の声はどこまでも冷静だった。いつもならそれに影響されて同様に冷めていくはずの私の心は、しかし今回ばかりは逆上したかのように熱をさらに増していく。

 だったら口出しをしないでほしい。人の心の重みがわからないあなたに、横から口を挟まれたくない。

 反抗心だった。しかしそれに怒りや不快感はなく、だからこそ勢いが加速していく。

 

『ねぇ、さとり、だったかしら? あなた、本当に生きているの?』

「……なんですかそれ」

『物質的に生きている生きていない、その定義はどうでもいい。私が聞きたいのは、あなたの心が生きているかどうか』

 

 この妖怪はなにを言っている? 心の生死なんて、わけのわからないことを。

 

『あなたは他人の覚悟を踏みにじる覚悟がないと言ったわね。でも、あなたはどうなの? あなたの心は、覚悟なんてものを抱いたことがあるの?』

「覚悟、ですって?」

『自分の他のすべての思いを犠牲にしてでも進もうとする決意。なにを失ってでも手に入れたい、守り通したいと思う確固たる意志』

 

 その質問に、私はすぐには答えられなかった。いや、おそらくは過去を思い返してから口を開いても、言い返せなどしない。

 なぜなら、わかっていた。そんなものを抱いたことがないとわかっていたから、こんなにも言い返したい気持ちで溢れ返っている。

 

『あの子の心は誰よりも弱い。過去に負った傷が嫌で嫌で嫌すぎて、いつだって、それこそ今だって逃げ回っている。向き合うことから逃げている。でもね――』

「私はっ……」

『あの子はそれでも、誰よりも強い意志を持ってることだけは確か。自分という存在すべてを賭してでも、大切なものを全部守り通したい、大切なものたちに苦しみのない世界で生きてほしい。そういう確かな願望と欲望を抱いている』

 

 ――部屋の前で、私は呆然と立ち竦んでいた。

 ――大切な妹が泣いている声をただただ聞いていて。

 ――扉に手をかけた。でも。

 ――私には、それを開ける勇気が欠けていた。

 

『あなたにはないのかしら。その理解してしまう気持ちとやらを押し退けてでも貫き通したいと思う、ただ一つの思いが。親友の願いを無下にしてでも叶えたいと思う、自分だけの強い意志が』

「わ、たしは……」

『……無駄話が過ぎたわね。来ないなら来ないで結構、あなたはそこに引きこもって異変が終わるのを待ってるといいわ。そうしたら、またあの子があなたを助けに来てくれるかもね』

「ま、待っ」

 

 ぷつり。電話が切れる音はなによりも呆気なく。

 自室に静寂が訪れる。音のない、意味のない虚しさが満ちる世界がやってくる。

 なんだか体がとても重くなったような気がして、だらんと手が下がり、受話器が重力に従って落ちていった。がしゃっ、と機械と硬いものが衝突する音が鳴り響き、少しだけ静けさに喧騒が顔を出す。けれどそれもすぐに去ってしまった。

 ――理解してしまう気持ちとやらを押しのけてでも貫き通したいと思う、ただ一つの思い。

 重力に逆らって、右手をゆっくりと上げていく。ぽっかりと穴が空いてしまったと錯覚するくらい物足りない胸の前に置いて、それを取り戻すことを願うかのように強く拳を握る。

 

「……私は……」

 

 知っていた。全部、わかっていた。

 彼女が深い深い傷を負っていたことなんて、本当は理解していた。

 彼女がずっと助けを求めていたことだって、本当は理解していた。

 二年。それだけの年月を彼女と付き合ってきたのだ。わからないはずがない、読めないはずがない。

 彼女のことを誰よりもわかっていたんだ。

 両親を妹に殺されたことも、それでも妹を愛し続けると誓ったことも、未来と向き合わなかったことを悔やんでいることも、幸せに身を任せることが怖くなってしまっていることも。

 そのことを指摘するのが怖くて、無意識に事実から目を逸らしていた自分にも。それだけの覚悟があれば、とっくに彼女の心を救えていた可能性があったかもしれなかったことを。

 彼女が、こんなどうしようもない私を、正気で本気で本当に、大切な親友だと思ってくれていることも。

 わかっていた。

 

「私はっ……!」

 

 足が竦む。手が震える。

 ああ、いったいなんなのだ、なんだというのだ、私は。どうしてこの期に及んで、なにをこんなにも怯えている。

 恐れなんてない? 違う。こんな世界でも、痛みなんてなくとも、感情は確かにそこにあるのだ。

 止まらない。止まらない。震えが止まらない。止まってくれない。

 ふいと、無理なのかもしれない。なんて思う。

 ずっと逃げてきた。ずっと背を向けてきた。

 この世界の元が作り話なのだと知った時、私は安心した。妹の心を失ったのはしかたがないことだって感じて、安堵して、受け入れた。

 そんな弱い私に、急に立ち向かえという方が無理なのだ。

 もっとゆっくり、じっくりと時間がある時に心を入れ替えていくのが普通なはずだ。こんな急になんて、むしろできる方がおかしい。

 ここで立ち向かえなくても、きっとしかたがない。誰かが彼女を助けてくれる――。

 

「違うっ!」

 

 誰かって誰だ。

 彼女は、心が死んだまま毎日を過ごしていた私を救い出してくれた。日々に潤いと目的を与えてくれた。

 本当は来るはずがないものなのだ。本来は差し伸べられるはずがなかった手だったのだ。

 誰かじゃない。私はもう助けられている。だから、今度は私が助けなくてはならない。そうじゃなきゃ、私が納得できない。納得してはいけない。

 震えるな。

 止まれよ。止まれよ。全部、止まれ。

 できる方がおかしいって? ならおかしくていい。普通じゃなくていい。

 今できなくて、いつ立ち向かえというのだ。

 今できなくて、どうして彼女を親友なんて呼べるのだ。

 彼女はこんなにも私を大事に思ってくれている。彼女はこんなにも私を助けてくれている。

 今度は私の番だろう。今度は私が思いを返す番だろう。

 私の心を見せる番だろう。

 止まってくれ。止まってくれ。

 震えないでくれ。

 お願いだ。私の体。どうか今だけは。

 繰り返しちゃいけない。

 できることをしようともせず、しかたがないと大切なものを失うことを享受するのは、もうごめんなんだよ。

 

「――お姉ちゃん」

「こ……いし……?」

 

 いつの間にか、一人の少女が私の隣に立っていた。その少女は、私が胸の前でなによりも強く握り締めていた右の手を、優しく両手で包み込んでくれていた。

 微笑みは、普段のそれと見比べるまでもなく、とても温かくて。

 扉の方へと振り返る。相当精神がまいっていたのか、どうやら昨日の私は鍵もかけずに眠ってしまっていたようだった。

 

「なんとなくね、もう第三の目()は開いてなくても、お姉ちゃんがなにを考えてるかがわかるの」

 

 再びこいしの方に顔を戻す。彼女は、じっと私の目を見つめてきた。

 

「こいし……」

「私には強い意志なんて持てないわ。でも、お姉ちゃんならそれが持てる。私には恐怖なんてわからないわ。だから、お姉ちゃんのそれを引き受けてあげられる」

 

 私の手を包み込むこいしの手の力が強まった。

 

「レーチェルを助けに行くんだよね」

「……ええ」

「私も一緒に行く。さっきからずっと泣いてる声がうるさいの。レーチェルの無意識がそこら中で泣き叫んでて鬱陶しいの」

 

 だからそれを拭ってあげないと。

 そんな風に顔を逸らし、前を向くこいしの顔は、なんだかずっと頼りがいがあるように思えた。

 まるで私よりも年上のように見えて、どちらが姉なのかわからなくなりそうで。

 自分が情けなくなった。

 背伸びをしたくなった。私の方が姉なのだと、おかしな意地を張りたくなった。

 

「こいし」

 

 半ば無意識に、妹の頭を撫でる。こいしは不思議そうな顔をして私を見上げてきた。

 それにただ、頬が緩む。

 

「そうね。いい加減助けに行きましょう。こんなことしなくてもいいんだって、伝えてあげに行きましょう」

「うん」

「私たちがどれだけレーツェルを大切に思っているのか教えてあげに行きましょう。こんなことをされた時に感じた私たちの心の痛みを、決してなくせなんかしない悲痛を無理矢理にでも受け取ってもらいましょう」

「そうだね」

「連れ戻しましょう。それがレーツェルの望みじゃなくてもいい。いえ、むしろこれは私たちの望み。ただただ隣にいてほしい、明日もまた遊んでほしい。そんな私たちのわがままを、妖怪らしくなにもかもを押し退けて貫き通しましょう」

「もちろんだよ」

 

 ――部屋の前で、私は呆然と立ち竦んでいた。

 ――大切な妹が泣いている声をただただ聞いていて。

 ――扉に手をかけた。でも。

 ――私には、それを開ける勇気が欠けていた。

 妹に手を貸してもらって、それでやっと立ち上がれるような脆弱な精神では、きっとあの時に戻ったところで扉を開けられなんてしないだろう。

 現状は、ただの甘えだ。本当は私の力だけで震えを止まらなさなければならなかった。妹が手を貸してくれたにしても立ち上がれたのだから気にしなくてもいい、止まらせられなくてもしかたがない――そんな考えはとっくに捨てた。

 私は強くなる。強くならなければならない。一分でも、一秒でも、一瞬でも、とにかくその分だけそれより前の自分を越えて。

 決めたのだ。

 たとえ他人の心がどれだけわかってしまおうと、それがたとえ他人の心を踏みにじることに繋がろうと、私は私だけの覚悟を貫き通す。

 親友を助ける。思うがままの私自身の欲望を、強引にでも罷り通らせる。

 私のために起こした異変でもあるからなんだというのだ。彼女の感情に共感できてしまうからなんだというのだ。

 押しつけがましい優しさなんて知らない。他人の考えていることなんて、それこそ知ったことか。

 妖怪よりも妖怪らしく、どこまでも自分勝手に。

 ただそれだけのこと。されどなによりも強く。

 

「お出かけするの?」

「紅魔館にお邪魔します。そこにどうやら、レーツェルを救う手立てがあるそうなので」

 

 忘れない。忘れやしない。これまで生きてきた年月の何十分の一であろうと、何百分の一であろうと、彼女と過ごした日々だけはいつまでも覚えていよう。

 私には私の願いがある。私には私の欲求がある。

 別に、心なんて読めていたって構わないのだ。自分の心に傷がついていたって構わないのだ。

 レーツェルが私とこいしのすぐそばにいる。そういう事実だけがあれば、他の負の要素なんてどうでもいい。今は強くそう思う。

 

「さぁ、エゴを突き通しに行きましょうか」

 

 なにがあろうと、必ずレーツェルを私とこいしのすぐそばに連れ戻してみせる。そうやって固く決意を固め、こいしの手を引いて自室を飛び出した。

 もう迷わない。

 震えなんて、とっくのとうに止まっていた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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五.Fesseln

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

「一一……いや、一二人か。結構集まったわね」

 

 紅魔館のホールにて、私は異変解決のために集まったメンバーを一人ずつ数えていた。

 まずはこの館の住民である咲夜、パチェ、美鈴、フラン、私。次に幻想郷の異変解決屋として知られている霊夢と魔理沙、そこらでふらふらとしてるだけの低級妖怪のルーミアとやら、それから宇宙人どもの奴隷である鈴仙。最後に、レーツェルと懇意にしているという地底住みのサトリ妖怪、さとりとこいし。ついでに紫。

 おそらくはこれで全員であろう。あとはこのまま紫がなにかアクションを取ってくるのを待つだけである。

 もう一度、今度は一人一人がどのようにしているかを確認してみることにした。

 霊夢と魔理沙は現状についての把握のためか、咲夜に詰め寄っていろいろと質問を投げかけているようだった。さすが咲夜というべきか、涼しい顔で受け流している。美鈴はなにやらパチェにからかわれて泣きそうになっており、まぁここはいつも通りだ。フランはルーミアやこいしと互いを回り合うというわけのわからない遊びを行っていて、そんな様子をさとりは一歩離れた位置で微笑ましそうに窺っていた。

 そしてこの場にいる最後の一人である鈴仙が私のもとに歩いてくるのを見て、私は一旦周りの観察を中断することにする。

 

「ねぇ、あのさ。今の変な異変を起こしてるのが私の知り合いだとか聞いて言われるがままここに来てみたんだけど、これはいったいどういうことなの? 適当に集まってるだけじゃない」

 

 ムスッとした面持ち――そういう感情を今は抱けないので、十中八九単なるフリ――で問いかけてくる鈴仙は、どうやら他のメンバーとは違ってあまり詳しい事情を聞かされていないようだった。

 

「今回の異変はいつもみたいに力技で解決するわけじゃないのよ。こうやってレーツェルと比較的親しかった人妖を集めて、異変をやめるようあの子を説得するの」

「レーツェル? あぁ、そういえばそんな名前の……って、親しいだって? 私は別にあんなのと仲良くなったつもりはないわよ。今だって半ば無理矢理師匠に送り出されてきただけだし」

 

 ぶつくさと文句を漏らす鈴仙に、私はめんどくさそうにため息を吐いてみせる。睨まれたが、どうでもいい。

 

「だったら帰るといいわ。別に強制してるわけじゃないし。そもそも、あの子を助けることに反抗的な人妖なんてこの場にはいらない」

「言うわね」

「言うわよ。大切な妹の一大事なんだから」

 

 強い意志を込めて睨み返す。視線が交錯し、そのまましばらくしてから、鈴仙の方が先に目を逸らした。

 

「……帰らないわよ。別に、あいつと親しくなったつもりなんてないこれっぽっちもないけど、一応私はあいつの師匠なんだし」

「あっそ」

「なによその反応。さっきとは大違いじゃない」

 

 ほんの少し頬を朱に染めながら口にする、鈴仙のここに残る意思の表明を、私は軽く流した。口を尖らせてねめつけられたが、これまたそんなものどうでもいい。残るなら残る、残らないなら残らない。それだけ示してくれれば十分だった。

 この素直じゃない兎との関係もまた、きっとレーツェルがこの幻想郷で築き上げた繋がりの一つなのだ。

 どういう説得をするつもりだの、そもそもレーツェルに会う方法はどうするだの、いちいち突っかかってくる鈴仙を適当にあしらう。説得の内容なんて特に考えてないし、方法なんて私も聞いてない。鈴仙が呆れたような顔を向けてくるが、それをさらに私は鼻で笑った。

 計画的に立てた説得の言葉になんの意味がある。レーツェルに私たちの心をわかってほしいと思うなら、今回ばかりはその時その時の激情に身を任せた方がきっと効果的である。レーツェルに意思を伝える方法もそう。そんなものを考えてるくらいなら、その時間を使って改めて身を引き締め直しておいた方がよっぽどいいだろう。

 それにしても、遅いな。きょろきょろと辺りを見渡してみるが、まだ紫は来ていないようだった。いや、来ていないというか、声が聞こえないというか。

 しかし噂をすればなんとやら? 別に噂なんてしていないが、ちょうどその時、紫の気配が漂い始めたのを感じ取った。

 

『はろー。元気にしてるかしら?』

「あん? 遅かったじゃないの」

「やっぱり現行犯退治だな」

『もちろん把握してると思うけれど、今日の目的は他でもないわ』

 

 この場に響く声に、霊夢と魔理沙が真っ先に反応を示す。が、紫は華麗にそれをスルーした。

 

『レーツェル・スカーレットが引き起こした、この厄介な異変を解決する。そのために皆さまに集まっていただきました。ああ、どういう異変なのかの説明はいる?』

 

 さすがにそれくらいは全員理解している。いらないと答える者、無言でさっさと話を進めろという空気を出す者、どうでもよさげに宙空を見つめている者、反応はそれぞれであるが一つたりとも説明を求める声は上がらない。

 およそ死へとたどりつく行動、現象すべての抑止。負に類する感情からの痛みの消失。その他、争いや不幸を引き起こす要因となるさまざまな事象の消滅。そして、レーツェル・スカーレットと関わった記憶を意識的に呼び起こすことの抑制。

 どれもこれも、一つ一つが単体で起きるだけでも異変と呼べるようなものばかりだ。

 

『うふふ、まぁそうよね。では次に……そうねぇ。レーツェル・スカーレットが異変を起こした目的はなにか。知っていても、これは改めて胸に刻んでおく必要があるわ』

「あ、いやそれ私知らない」

「私もー」

「私も私も」

「ああ、そういえば私もそいつは聞いてなかったな」

 

 鈴仙、ルーミア、こいし、魔理沙が声を上げた。咲夜やパチェ、美鈴やフランにはすでに私の方から話してあるので、知らないのは正しくその四人だけだろう。

 

『守るためよ』

「守る? なにから?」

『未来に起き得るかもしれないすべての危機の可能性から、あの子にとっての大切な存在をすべて、そして幻想郷を守り通すため』

 

 鈴仙と魔理沙が目を見開き、ルーミアが鋭く目を細める。三者に共通していることは、驚愕の感情をあらわにしているということだった。こいしだけは何事もないことのように軽く流していたが。

 

『まったくバカげた話だけれどね。でも、あの子は本気でそれを目指して異変を起こした』

「バカげたっていうか……バカだぜ。なんだそれ。こんなわけわからん世界を作った目的が、私たちを守るためだって? いや、ほんとわけわからん」

『奇遇ね、私もわけがわからないわ。あらゆる負の痛みをなくしたところで、その先にあるものは決して幸福に満ち溢れた世界などではない……そんなこと、少し考えれば誰でもわかることよ。あの子にだってそれがわからないはずがない。そのはずなのにこんな異変を起こした。その心はなんだと思う?』

 

 紫の問いかけ。それに答えたのは、これまでずっと黙っていた古明地さとりであった。

 

「なにも考えたくなかったのよ。異変の先にあるものを想像してしまえば、自分は動けなくなる。でも、異変を起こす以外に皆を確実に守り通す手段は自分には思いつかない……だから半ば自棄になっていたのでしょうね。こいしによればレーツェルは無意識に助けを求めているみたいだし、それが溢れ出た結果という線もあるわ」

『ええ、おそらくはそのどちらかか両方とも……というより、あらあら。どうしてあなたがいるのかしら? 古明地さとり。館に引きこもって怯えてなくてもいいの? また逃げ出さなくても大丈夫?』

「いったいいつの話をしているのかしら。そんな昔のこと、とっくに忘れてしまったわ」

『うふふ、いい声ね。きちんと見つかったのかしら? どうやら発破をかけたのは正解だったみたい』

 

 紫とさとりがなにやら意味ありげに言い合っていた。紫はそれぞれの人妖のもとに声をかけて回っていたというし、その際に二人の間でなにか一悶着あったのかもしれない。

 

『ま、とにかくそういうこと。そこのサトリ妖怪の言う通り、あの子が無意識に助けを求めているのだとすれば、レーツェルに異変をやめるよう説得することの成功率は私は意外と高いと踏んでいる。うまくいけば戦わずして解決することもできるわよ』

「うまくいけばって、あんた、武力じゃ敵わないとか言ってたじゃないの」

 

 霊夢が半眼で、紫がいると仮定しているだろう、なにもない空間を睨みつける。霊夢のことだから、勘で本当に紫のいるところを当てているのかもしれない。

 

『そう、敵わないわ。だから説得がダメだった場合の策もきちんと考えてある。そしてそれもまた戦わずしてのもの……まともにやり合うのは本当に最終手段、最悪の事態になった時だけよ。その時は霊夢はもちろん、この場にいる全員にも戦ってもらうから』

「それはいいけど、殺すのはお断りよ」

『わかっているわよ。ここにいるのはあの子と親しかった人妖……殺せと言われて殺せる輩は一人たりともいないでしょう』

 

 紫の推測に、誰も否定の意は示さない。それは異変を解決する上では致命的なことであるが、レーツェルを連れ戻すことを最優先として考える私にとっては非常に好都合な事実だった。

 

『さて、とりあえずはこんなところかしらね。なにか聞きたいことはあるかしら? ないようなら、あの子を呼び出す前に、あの子が用意している禁忌の産物を見せに行きたいのだけど』

 

 現状については十分理解している。レーツェルの目的だってはっきりとした。しかし、まだ誰もがわかっていないことが一つある。

 私がそれを問いかけるよりも先に、フランが口を開いた。

 

「お姉さまを呼び出すって、結局どうやってやるの? 先に聞いておきたいわ」

『ああ、そういえば言ってなかったわね。別に大したことはしないわよ。霊夢がちょうどしてる首飾りにはレーツェルを召喚するための魔法陣が仕込まれているの。それを適した場所で壊してくれれば、あの子を霧から実体化させることができるわ』

 

 本当に大したことじゃなかった。霊夢が、ああなるほど、と手をついているのが視界の端に見えた。

 

『他にはないかしら』

 

 今度は誰もが質問を投げかけたりせず、口を噤む。私にも聞きたいことなんてない。レーツェルに関してのことは実際に会ってから聞けばいいし、それ以外となると大体のことはすでにわかっている。

 数秒程度の沈黙に、紫がこくりと頷いた――そんな光景を幻視した直後、足元の地面が割れた。床に物理的な亀裂が入った等ということではなく、まるで空間そのものに裂け目ができたように、人一人が通れるほどの穴ができたのだった。

 一瞬、反射的にそこから飛び退こうとしてしまったが、穴の中にたくさんの目玉が存在する気味の悪い空間が見えて、この裂け目が紫の境界を操る力で作り出されたものだと理解する。ここに入れという彼女の指示なのだろう。

 重力に逆らわず、そのまま穴の内側へと落ちていった。ぐにゃぐにゃと色と目玉が蠢き合う、ずっといると上下左右が曖昧になってしまいそうな光景。それが見えたのはほんの一瞬で、気づいた時には別の空間にたどりついていた。

 すたんっ、と足をつく。

 

「ここは……」

 

 空は黒く、地面も黒く、遠くに見ゆる景色さえすべて真っ暗だった。足をついていることにさえ違和感を覚えそうになってしまうようなただ一色の世界で、しかし異彩を放つものがいくつも置かれている。

 豪華そうな弓、冷蔵庫、ブラウン管テレビ、一か所にまとめられた大量のゲーム用カード、天狗がよく持っているようなカメラ、無駄にでかいグランドピアノ等々――すぐにこの場所の正体に気づいた。

 

「レーツェルの、倉庫空間……?」

 

 はたと、すぐにレーツェルと結びつけることができたことを疑問に思う。いや、当たり前か。ここは幻想郷とは隔離された空間にあるのだから、レーツェルの霧は充満していないはずである。

 試しにレーツェルとの記憶を掘り起こしてみるが、すべて滞りなく思い出すことができた。右手の爪で左手の平を軽く引っ掻いてみると、きちんと傷ができて血が流れ出てくる。

 悲しみもきちんと胸に抱くことができていた。痛い、痛い。その痛さが懐かしくて、どこか愛おしい。

 

「ごきげんよう、皆さまがた」

 

 その声に顔を上げる。私以外のメンバーも全員周りに窺え、そしてその視線の先には不敵に微笑む紫がいた。

 なにか言い出そうとする私たちを、しかし紫は口元に指を当てて「しーっ」と鎮めてくる。

 

「あまり大声を出してはいけません。あの子が仕掛けた保護の魔法が発動してしまいますわ」

「……こんなところに連れて来て、いったいどういうつもり?」

 

 訝しげな感情をあらわにする私を、紫はくすくすと笑う。

 

「わかっているんでしょう? このさらに先にあるのよ。あの子自身がもっとも忌むべき、最悪の禁忌が」

 

 すっ、と紫が片手を上げた。するとその先にさらに一際大きな裂け目が生まれ、紫は危険がないことを証明するかのように自分からその中へ入っていく。

 ちょうど近くにいた鈴仙と顔を見合わせ、しかしすぐに、なんでこんなのと意思表示の確認を行わなければいけないんだ、なんて思ってすぐに顔を逸らした。鈴仙も同様に感じたらしい。紫が来いというのなら行くまでだ、と誰よりも先にその裂け目の中へ飛び込んだ。

 目玉と色の混ざり合う狭間の場所。そこを過ぎ去って広がるのは、またしても真っ黒な世界。

 そこはさきほどの倉庫空間とほとんど同じであった。空は果てが見えず、地面は足元が確認できず、地平線が曖昧どころか存在しないだろう、殺風景な景色。

 だが、そこに置かれているものに明らかな違いがある。

 決して見逃すことができない、狂気にまみれた産物が確かに存在している。

 目を見開く。思考が止まる。

 後からここにやってきた者たちも全員、目の前に広がる惨状に悍ましさの念を抑え切れないようだった。

 

「な、によ……これ」

 

 渇ききった血はどこに顔を向けても目に入り、そこらかしこに数え切れないほどの肉片が散りばめられている。腕や脚など、大雑把に切り取られている部位ならばまだよかった。胃、心臓、脳などの内臓が綺麗に抉り取られたものが転がっていたり、それぞれを無理矢理引っつかせようとしたのか、腕の中から腸がはみ出しているような、およそなにが行われたのか理解したくない物体も多く見受けられる。

 何度も千切るのに失敗しただろう翼の残骸、さまざまな潰れ方をしている並べられた目玉、これでもかというくらい裂いて暴いて滅茶苦茶にされたあらゆる部位の肉片。

 そしてなによりも目が行ってしまうのは、銀に幾房か金が混じった髪に死んだように生気のない端正な顔立ち、私と同じ程度の身長と骨組みだけの翼――レーツェルの形をした肉塊が糸で上から吊るされていることだった。それも一つや二つではない。一〇、二〇、三〇、軽く一〇〇は越える生きていない人型が人形のように吊り下げられていた。

 

「これがあの子の用意した強くなるための方法、手に入れられなかった不老不死の代わり……転生魔法」

「てん、せい……まほう……?」

「あの子は自分の能力の強みをよくわかっている。一度認識した攻撃は二度と効かない、吸血鬼である己が死に絶えるほど強烈な力はそう多くない。なら、こうして予備の肉体を大量に用意すればいい。死ぬたびにそちらへ魂を移すようにして、自分が死んでしまうような力をすべて無効化していけばいい……そうすれば、いずれ敵うものはいなくなる」

 

 なんだ、それは。

 こんなものが強くなる方法? 能力を生かすための魔法?

 わけがわからない。

 

「ど、どうやってこんな数の体を用意したんだよ。そもそも妖怪は死体をあんまり残さないって言うか……残せない、んだろ?」

 

 顔を青くした魔理沙が震える声で紫へと尋ねた。紫は、まるで諭すように落ちついた様子で答える。

 

「ええ。私たち妖怪は幻想の存在だから、実在を信じられなければ存在はかなわない。それが魂の宿っていないものでなければなおさら……だからこその実験と研究なのです。散らばっている肉片は、その過程での産物でしょう。存在を維持できず消えてしまったものを考えれば実際はもっと多くの実験が行われたはず……」

「なるほど、な……禁術か。確かにこれは、さすがの私も手が出せないぜ……」

「当然です。そもそも吸血鬼の再生力なくしてはこんなことできませんわ。腕を切り取って、再生を待って、もう一度切り取って……それが内臓でも翼でも脳でも関係なく、何度も何度も研究のために繰り返し続ける。時には生きたままの自分の体をいじる。そんなこと、正気ではできない」

 

 そう言って紫は手元に小さな裂け目を作り、小さな白い物体を手に取った。よく見ると、どうやらそれは人間の骨であるようだった。

 

「あっ、それ……ずっと前に霖之助さんが拾ってきた、魂の宿った跡がなかった……」

「そう。あの子はこれを、このクローン技術の産物を頼りに研究を進めた。そして、魔法を完成させた」

 

 紫はそこまで言い切ると、ゆっくりと手を横に振った。

 紫のすぐ隣に、再び空間の裂け目が生まれる。ぐにゃぐにゃと上下も左右も不明瞭な、目玉が背景という空間の気味悪さが、今の周りに広がる光景と比べると生易しいものに思えた。

 

「これに手を出せば保護魔法が発動する。この世界はあの子の手の内にあるから、そうなったらもうおしまい。大人しくここを去るしかない……さて、改めて問いかけます」

 

 紫が私たちを一人ずつ順に見据えた後、一旦目を閉じ、しばらくしてすっと開いた。

 

「あなたたちに、レーツェル・スカーレットを助けようとするだけの覚悟はある?」

 

 これほどまで狂気に満ち溢れたものを見て、彼女の心に巣食う闇の深さを知って、それでも立ち向かえるだけの意志があるのか。

 首を横に振るようならこの先のことには関わらせない。紫がそういう考えでいることはすぐにわかった。

 瞼を下ろす。思考してみる。

 けれど、覚悟はあるのかという問いかけに悩むことはなかった。

 私は間もなく瞼を上げた。

 

「むしろ強まったわね、連れ戻したいって思いが。こんなバカげたことをしてる妹を叱ってあげないと……抱きしめてあげないと」

 

 レーツェルがどれだけ私たちのことで思い悩んできたか、両親や義理の母、フランのことを抱え込んできたか。私は今、ここでそれを正しく垣間見た。

 正直――恐ろしかった。悍ましかった。鳥肌が立った。

 痛々しかった。

 それでも、だからこそなのだ。

 だからこそ、そんな負の狭間から大切な妹を救い出さなくてはならない。

 強く、強く。なによりも強く。

 

「覚悟なんて、とっくに決まってるわ。どんなことがあってもお姉さまを助けてみせる。その思いは今も変わらない」

 

 フランが胸の前に手を置いて、真剣な顔で紫を見据える。私にとってそうであるように、フランにとっても、レーツェルという存在はたった二人だけの姉妹なのだ。

 フランもきっと私と同じ気持ちでいる。私もまた、フランと同じ気持ちでいる。

 

「そうですね。レーツェルから、染まり切れもしない狂気を引っぺがしてあげないといけません」

「うんうん。欲しいのはレーチェルの体じゃなくて、レーチェルの全部だもん」

 

 さとりやこいしも相当にレーツェルを大事に思ってくれているようだった。その迷いのない声に、思わず私の頬も緩んでしまう。

 霊夢が魔理沙と顔を見合わせ、くすりと笑みを漏らした。

 

「ま、そうよね。ここまで来たからには引き返すなんて選択肢は最初からない」

「こんなくだらない研究してる時間があるんなら、この前見つけた新しいキノコを使った研究でも手伝ってほしかったぜ」

「レーツェルお嬢さまの甘すぎる紅茶の味は、忘れたくても忘れられませんわ」

 

 咲夜もまた小さく笑っていた。三人ともこの状況で笑顔になれる辺り、周りに影響されて前向きな言葉を口にしているわけではなさそうである。それぞれがそれぞれの思いをもとに、自分の気持ちを吐露していた。

 

「レーテはあいかわらず気負いすぎるのよね。私もいい加減怒ってもいい頃じゃないかしら。もっと家族を頼ってもいい、って」

「なんていうか、すごいですよねこれ。でもこんなの見たくらいでレーツェルお嬢さまへの気持ちに変わりはありませんよ?」

 

 パチェは呆れたように、美鈴はぐっと拳を握りしめ。両者とも、真剣な表情で前を見ていた。

 

「お腹空いてきたなぁ。早くレーツェルと一緒にご飯食べたいわ」

「……はぁ。ほんと、しかたがないやつねぇ……」

 

 のんきに助けてからのことを想像するルーミア、ため息を吐く鈴仙。どちらもレーツェルと向き合う意志に変化はないらしい。

 誰もがレーツェルを連れ戻すことから逃げるつもりはない。むしろ、それがもっと強力で確実な思いへと昇華した。紫はそんな私たちに再度一人ずつ視線を送り、満足そうに頷いてみせた。

 そうして紫が覚悟のことを問う直前で作り出していた空間の裂け目へと消えていく。ついて来なさい、と手招きを残して、ここから去っていく。

 あの裂け目の先は、幻想郷の、紅魔館の中へと繋がっているのだろう。

 右手を胸の前で強く握る。

 覚悟はあるか。紫ではなく、今度は心の中で自分で自分に問いかけてみた。

 私の『答え』は昔から、ずっと変わらない。

 絶対に助ける。もう一度、必ずあの子の笑顔を手に入れる。

 

「行くわよ」

 

 意を決し、紫の残したこの空間の出口へと飛び込んだ。

 視界が切り替わり、ほんの数秒だけ紫製の気持ち悪い空間を通り抜け、やがて床に足がつく。

 そうして辺りを見渡して、たどりついた場所がホールではないことに気がついた。

 そこは地下の迷路を抜けた先、フランの部屋である地下室であった。



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六.Mad Hatter

 Sie hat eine ältere Schwester geliebt.
 ――彼女は、ただ――――。


 置いてあるものは基本的に私の自室とそう変わらない。天蓋のついた大きなベッド、ベッドサイドテーブル、ぬいぐるみや人形等が飾られた扉つきの棚に、小さな机とイス等々。明確に違うと言えるのは、魔法の研究用に小さなものとはまた別の巨大なテーブルが用意されていたり、一人で過ごすにはおよそ大きすぎる部屋中を照らすため、かなり大きいシャンデリアがぶら下がっていたり、壁にランプが設置されていることだろう。

 私の後に出てきた人妖たちも、境界の隙間の先がさきほどまでいたホールではないことを訝しんでいるようだった。特にフランなどは――再び不快という感情を抱けなくなったにしても、無断で、しかも一〇を越える数の人に一気に自室へと入られたのだから当然だが――非難するような目で紫を見据える。なにか正当な理由がなければ許さないという具合だった。

 紫が、そんなフランの態度の変化に気づかないはずがない。

 

「ごめんなさいね。この異変が終わった後にお詫びくらいはするつもりよ。でも、あの子の心を揺さぶるにはおそらくここが一番効果的だから」

 

 両手を上げて、他意はないと伝えてくる。フランはそんな紫を数秒だけじっと見つめ、「次があるなら、ちゃんと許可は取ってね」と鼻を鳴らした。どうやら不問にするようである。

 それにしても、ここが一番効果的、か。紫はどうやらレーツェルが異変を起こすことを予期していた節があるし、もしかしたらそれに備えてレーツェルの経歴をなんらかの手を使って調べたのかもしれない。あるいはその情報のうちから私たちがしてきた経験について確率の高い予想でも立てていたか。なんにせよ、紫の言うことに間違いがないことを私は知っていた。

 ここは実の父と義理の母親がフランに殺された場所――レーツェルが表情をなくす、決定的な原因を作っただろう部屋なのだから。

 

「ありがとう。それじゃあ全員、準備はいいかしら」

 

 ええ。うん。もちろん。ばっちりだぜ。そんなセリフや、あるいは頷くだけ。それぞれがそれぞれの形で紫の確認に肯定の意を示す。

 私も返事をして、目を閉じる。大きく息を吸って、吐いて。

 ……それから、瞼を上げた。

 

「霊夢」

「ええ」

 

 霊夢は半透明な水色の宝石が特徴的な首飾りを外すと、大きく投擲の姿勢を取る。私は手元に霊力を込めたのを察知し、そして霊夢はそれごと壁の方へと首飾りをぶん投げた。

 目で追う。

 深呼吸をしたはずなのに、心は完全に落ちつけていない。心臓がドクンドクンと鳴るのが自覚でき、緊張した思考が目の前の現象を何分の一にも引き延ばす。吸血鬼としての超感覚が、目の前の事象を遅く捉える。

 首飾りの宝石が風を切る音が耳に届くかのようだった。

 ――私は今まで、レーツェルが笑顔を見せなくなってしまったあの時から、ずっとこの手でありとあらゆる人妖の運命を操ってきた。

 ――レーツェルの能力を前にそれが通じているかは定かではなかった。むしろ無効化されている可能性の方が断然高い。それでも私は諦めずに何百年と続けてきた。

 ――他人を利用していることに罪悪感はあった。もしかしたらなんの意味もないのではと、無力感に苛まれることもあった。

 ――そして今より、その『答え』合わせが始まる。

 ――私がしてきたことに意味はあったのか、それともただただ無意味な足掻きだったのか。

 首飾りが部屋の壁に激突した。水色の宝石が砕け散り、宙空に複雑怪奇な魔法陣が現れる。

 たった二日しか離れていないだけなのに、吹き荒れる赤白い魔力はなんだかとても懐かしくて、不思議と涙が溢れそうになってきた。

 だが、今は弱気になっていてはいけない。

 目元を拭う。思いを改めた。そしてその手を下ろした瞬間、魔法陣が一際大きな光を放つ。

 銀に幾房か金が混ざった美しい髪、翼膜のない不思議な翼――大切な妹。気がついた時には、首飾りが砕けた壁際に、膝を抱えてうずくまる一人の少女の姿があった。

 

「レーツェル……」

 

 霧が消えたことにより、負の心が戻ってくる。

 胸が痛む。それを受け入れる。悲痛が溢れ出る。それを受け止める。

 かつかつと宝石の破片が床を叩く中、レーツェルが膝にうずめていた顔をゆっくりと上げた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □

 

 

 

 

 

 始まりの中にいた。

 終わりの中にいた。

 目を閉じれば訪れる暗闇。誰もが平等に持ち得る無という現象。その内側に深く深く沈んでいる。

 原初の黒が、およそ意識と呼べるものを包み込む。温かくなく、冷たくもなく、優しくもなく、厳しくもなく、ただなにもないだけの漆黒。

 ここに時間はない。空間はない。ただ自分という個だけが存在する。自分という無だけが存在する。

 これが俺の望んだ結末だった。

 これからの生、そのすべてを越えて、永遠にここで生き続ける。無だけが占める暗闇の中で、ただ一人思い出に浸りながら、外界の負の『答え』をなくし続ける。

 寂しいか。悲しいか。苦しいか。辛いか。

 そんな感情、なくしてしまった。

 でも、退屈だ。つまらない。

 その感情もなくしてしまおうか。

 それもいいかもしれない。

 しかし、退屈という気持ちはどこからやってくるのだろう。

 それがわからなければ、俺の能力は現象というものを、なくすことができない。

 巡る。巡る。意識が思考を巡る。

 急ぐ必要はない。時間は無限にある。有限をなくしている。

 一秒、一分、一時間。あるいは一日?

 なんでもいい。ただ、『答え』は出た。

 退屈とは、無から生まれたものの一つだ。

 好まない現象の発現、同じことの繰り返し。そういうことの中で次第に擦り減っていく感情、逆に生まれてくる無に意識を向けた結果に生じるのが、退屈という情感だった。

 わかったのは、俺の能力では退屈というものをなくすことができないこと。

 俺の能力では、無と直結したその感情をなくすことはかなわない。

 退屈だった。

 心が擦り減っていく。感情が本当になくなっていく。

 理解していた。

 無の中にあるこの意識でさえ、いずれ擦り切れてなくなってしまうこと。

 怖さはなかった。そんなものは捨てた。

 でも、おかしいな。

 渇く。

 胸の内が渇く。心が渇く。

 誰かこれを満たしてくれ。誰かこの気持ちのわけを教えてくれ。

 叫びたい。

 なにを?

 欲しい、欲しい、欲しい。

 行かないでくれ。消えないでくれ。

 ダメだ。

 なくす。全部、なくす。

 なくせないよ。

 わからない。理解できない。

 でも、理解している。

 なり切れない。染まり切れない。

 かぶり切れない。誤魔化し切れない。

 違う。

 知らない。知らない。

 知りたくない。

 わかりたい。

 わかっちゃいけない。

 役割を自覚する。鎖が強く締めつけてくる。

 口を開いた。喉を震わした。

 なんて、言ったんだっけ。

 助けて?

 暗い、暗い、暗い。海の底。なにもない、誰も来ない、渇きに満ちた場所。

 応じる声はない。けれど。

 がしゃん、と。

 ふいと、鎖に繋がれた手を引かれた気がした。

 光のない世界で、確かに誰かが触れてきた気がした。

 ほんの少しだけ、渇きが収まる。

 もう一度、口を開いた。

 君は、誰?

 返事はない。

 代わりにそれはただ、俺の手を強く引いてきたのだった。

 

 

 

 

 

「――――レーツェル……」

 

 懐かしい声がした。空気を震わし、耳に届いてくるそれは、決して聞き間違いようのない彼女のものだった。

 どうして?

 不思議に思う気持ちがあった。当然だ。俺は幻想郷中に広がり、負に類する痛みの『答え』をなくし、曖昧な意識の中で目を瞑った。

 これは現状を正しく確認するためだと、頭の中で瞬時に理由づけをする。

 でも実際はただ、あまりにその声が恋しくて、もう一度夢の世界を味わいたくなっただけなのだともわかっていた。

 俺は膝を抱えて座り込んでいるらしい。膝にうずめていた顔を上げ、こみ上げてくる期待に少しだけ逆らうかのように、のんびりと目を開いた。

 そこにいたのは予想に反して、一人だけではない。

 俺が幻想郷で知り合ってきた中でも、およそ親しい仲だと言えるだろう人妖がほとんど勢ぞろいしていた。

 視線を動かし、そのうちの一人の妖怪に目を留める。

 

「……あなたの仕業ですか」

「ええ。あの夜の宣言通り、私は私の全力を以てあなたを止めに来ました」

 

 そう言って挑戦的に微笑む紫に、大きく一つため息を吐いてみせた。

 脳内の魔法陣の確認。接続は正常、予備の肉体に破損や不備は見当たらない。

 辺りを見渡す。ここはフランの部屋のようだった。そして散らばっているのは、俺が霊夢に上げた緊急のお守りである。

 なるほど、これで俺を実体化させたのか。紫の結界や萃香の萃める力には対策を施していたが、さすがにこれは盲点だったと言えよう。把握していても、おそらくは無に帰す現象の中にはいれなかったはずである。

 まんまと利用されたわけだ。

 

「それで……なにか用があって呼び出したんですよね。こんなに大勢で、いったいどうかしたんですか?」

 

 すぐにもう一度霧になって幻想郷を覆い尽くすこともできたが、俺がしたことがいったいどういう影響を与えているのかを聞き出すのにいい機会だと思って、鬼化するのをやめておく。

 なにか俺の予測していなかった事態が起こってしまった可能性もある。その場合、いったん能力でなくすものに修正を入れなくてはならない。

 ……そんな風に適当にそれっぽいことを考えてはいるものの、本音はただ単に、この瞬間をすぐに手放したくないだけなこともわかっていた。

 もう会えないと思っていた人妖に会えた。そして、次に霧になればこんな事態が二度と起こらないこともなんとなく理解していたから。

 頬に手を添える。無表情だ。

 負に類する痛みをなくす対象は俺も例外ではなかった。そしてその能力は今も解いていない。

 大丈夫、なんの問題もない。

 

「レーツェル」

 

 そんな思考を広げている中、ふいとレミリアが俺の方に一歩踏み出してきた。

 産まれた時からずっと一緒だった、とてもとても大切な姉。

 彼女が悲しみに顔を歪めているのを見て、胸の内に虚無の念が生まれてくる。

 おかしいな。なんだろう、これは。

 

「あなたを、助けに来た」

「助け、に?」

 

 誰を? どうして? 俺?

 首を傾げてみると、レミリアがこくりと頷いた。

 

「あなたを連れ戻しに来た」

「連れ戻す?」

「あの日の清算を……あなたの本当の心を取り戻しにきたわ」

 

 そうまっすぐに俺を見つめてくるレミリアは、これまで見た中で一番真剣な感情を眼に灯していた。

 一瞬、思考が止まる。心が無防備になる。

 そこを突いたかのように感情が荒れ狂う。

 感謝、懇願、安心、歓喜。

 一拍の間を置いて、己への憎悪。

 全部、唇ごと無理矢理噛み殺した。

 

「ふふっ、なんのことでしょう。本当の心って、私はいつも本心を口にしていますよ。それにあの日……もしかして海の最終調整を行ってる日、呼び止めに応じなかったことを怒ってるんですか? すみません、あの時は急いで――」

「その仮面を外しにきたのよ。自分を騙して、都合のいい思いだけを本心だと思い込んで……」

「なにを」

「あなたをもっと強く抱きしめてあげられなかった、あの日の清算に来た。あなたに救われてばかりだった、過去の私の清算に来た。あなたを暗い暗い海の底から、引き上げにきた」

「だから、なんのことを」

「レーツェル」

 

 強い、強い意志のこもった目をしていた。

 

「レーツェル、私は本気よ」

 

 なにかが喉につっかえる。さまざまな言葉が浮かんでは消え、どうしたらいいのかわからなくなる。

 困惑? 違う。

 虚ろが鳴りやまない。消えてくれない。

 気づいた時には、あの日ってどの日だとか、清算ってなんのことだとか、そんなことを思えなくなっていた。

 どうしてか、平常心でいられなくなっていた。

 すぐに頬に手を添える。無表情だった。それでも、変わらない。変わってくれなかった。心が揺れているのを自覚できる。いつものように、感情が無に帰らないのがわかってしまう。

 どうして? そんな疑問。しかしその答えを、なんとなく理解している自分がいる。

 どこまでも俺という存在に対して真摯なレミリアの態度を前にして、心に塗り固められた嘘というメッキが、ほんの少しだけ剥れてしまっていたのだった。

 本当はわかっているんだろう? 本当は覚えているんだろう?

 なによりも強く、思い出しているんだろう?

 一度意識すると、戻れない。暗示が効かなくなる。思考の荒波を抑え切れなくなる。

 表情をなくした日のことが頭の中に過ぎった。

 やめてくれ。お願いだから。

 自分を誤魔化せなくなってしまう。

 

「あなたはいつも私を助けてくれたわよね。ちょっとでも危険かもしれないことに私が挑戦する時は、いつもどこかから見守ってくれて……肝を冷やすことがあった時は、私よりも先にあなたが対処してくれていた。遊びだって、私やフランがどれだけ楽しんでるかをいっつも気にしてる。自分のことよりも私たちのことを第一に考えてくれてた。だから、たとえどんなにあなたが心を偽っていても、その好意だけは本物なんだって本当に強く伝わってくる」

 

 なにが嬉しいのか、なにが悲しいのか。なにが本物で、なにが偽物なのか。

 胸に浮かぶ感情のうち、なにが嬉しさでなにが悲しさなのか。どれが本当でどれが嘘なのか。

 なぁ、おかしいだろ?

 どうして俺に、そんな迷いのない優しげな目を向けることができるんだ。どうしてそんな、なにもかもを確信したような瞳をすることができるんだ。

 俺ですら、もう全部疑わしいというのに。

 

「レーツェル。私はね、本当は……最初の頃、あなたが煩わしかったの。あなたが産まれたばっかりの頃、お父さまとお母さまは泣きじゃくるあなたにかかりっきりで……羨ましくて、妬ましかったのよ」

 

 レミリアから、目が離せない。

 

「ふふっ、失望しちゃった? ごめんね……私はきっと、あなたが思ってるほど強い姉じゃないの。あの頃の私なんて親離れができなくて、どこまでも甘え盛りで、自分よりちっちゃい子に嫉妬心を抱いちゃうくらい醜くて……どこまでもか弱い子どもだったわ」

 

 レミリアの言葉を一つ一つ耳にするたび、心に塗りたくった雑なペンキが、ぱりぱりと剥がれ落ちてしまっていくのがわかっていた。

 

「いえ、今もそれは変わらないわね。あなたに守られてばかり……本当なら、あなたに好いてもらう資格なんてないのかもしれない。怨まれたってしかたないかもしれない」

 

 自分が、心の底から嫌だと思ったことから逃げるためにかぶった仮面が、"狂った帽子屋"が剥離していく。

 

「……お母さまが亡くなった時ね、本当に辛くて……平気そうにしてたあなたを見て、ちょっと嫌な気持ちになったのを覚えてる。嫌悪感、だったのかな。どうしてあんなに悲しいことがあったのに、そんな平然と私に接せられるんだ、って」

 

 守るために手に入れたチカラが遠くなっていく。

 

「でもすぐに気づいたわ。あなたが、私に気負ってほしくなくて、そんな風を装ってたこと。私を必要以上に悲しませたくなくて、わざと平気そうにしてたこと……自分で自分が情けなくなった。妹にまで気を遣われて……いえ、妹に気を遣ってあげられなかった、私自身が」

 

 そしてその事実に、心が拒否反応を起こさない。チカラを失ってしまうという変化を、なにもせずに受け入れてしまっている。それに恐怖を覚える自分がいる。憎しみと焦りを覚える自分がいる。

 

「あなたが私をなによりも大切にしてくれてるのがわかって、私があなたにしてたようにフランに優しくするのを見て……お母さまがいなくなった寂しさとか、無意識に抱いてたフランへの怒りとか、全部抜けていっちゃったわ。それから思い出したの。お母さまに託された最後の願い……長女として、二人を守ってほしいって」

 

 おかしいな。ああ、本当におかしい。

 憎しみとか、焦りとか、そんな負に類する思い、全部なくしてしまっているはずなのに。

 

「それからがんばったつもりだったんだけどね……やっぱり私じゃ、力不足だったみたい。今度はお父さまたちまでいなくなっちゃって……それでも、お母さまがいなくなっちゃった時、レーツェルに助けられたことだけは覚えてた」

 

 いつの間にか、胸に空いた穴が浮き彫りになっていた。

 

「だから今度は私がレーツェルを助けたいって思った。レーツェルの力になりたいって……でも、あの時の私には覚悟が足りなかったの。自分の心の整理で手いっぱいで……あなたがあんなに悲しい顔をしてる時、拒絶しても離さないくらい、強く抱きしめることができなかった」

 

 自分を傷つけて。フランの笑顔を見て。自分が幸せなんかじゃないと思い込んで。

 

「いつもいつも私は力不足だった。あの後の人間との戦いでもあなたに頼って……それからもずっと。初めて幻想郷に来た時だって、私一人の力じゃどうにもできなくて、あなたに助けられて……本当に情けない姉よね」

 

 いつだって埋めたつもりで、いつだって埋まっているつもりで、でも気づけばまた空いている穴。

 

「あなたがそんなに悲しくて、辛くて、苦しいって思うことをしなくちゃ……妹にそんなことをさせなくちゃ、妹に安心してもらえないようなくらい……ごめんね、レーツェル。姉がこんなに不出来で、弱くて」

 

 渇く。欲しいものはすぐそこにあるのだと、心が呟く。

 

「でも、これからはもうそうじゃない。これからは、もっと強くなるから。あなたが安心して頼れるくらい、強くなるから。あなたの隣を歩けるくらい、強くなるから」

 

 手を伸ばせば、届くのだろうか。

 ずっと暗い海の底にいた。自分でつけた鎖の重みで、這い上がれないようにした。

 それでも、確かに光がそこにある気がした。今日まで当てもなく探し続けていたものが、そこにある気がした。

 手を伸ばせば……届くのか? 本当に?

 許されるのだろうか、それが。

 許してもいいのだろうか、それを。

 

「ねぇ、レーツェル。さっきも言った通り、私は最初の頃はあなたのことをよくは思ってなかったわ。でもね」

 

 俺は、ただ目を見開く。

 レミリアは俺を見て、満面の笑みを浮かべたのだった。

 

「今の私はあなたを、レーツェル・スカーレットのことを、心の底から愛しているわ」

 

 嘘ではなかった。そんなことを、一片たりとも疑う必要も、意味すらなかった。

 それほどまでに彼女の思いは緩みなく、ひたすらで、視線を通して強く伝わってきて。

 あれ?

 おかしいな。なんでだろう。

 なんでなんだろう。

 

「どう、して」

 

 手を頬に添えた。そこを、温かい雫が伝っている。

 無表情なのに。なにも感じていないはずなのに。

 苦痛も悲痛も、負に類する痛みのなにもかもを押さえ込んでいるはずなのに。

 嬉しさから? 確かにそれも交じっている。でも違う、それだけじゃない。

 わからない。わからない。わからない。

 わかりたいのに、自分の心はなにもかも疑わしくて、どうしようもなくて。

 ただただ止めようのない涙が、とめどなく溢れていた。

 

「レーツェル・スカーレット」

 

 紫が口を開いた。俺を含め、全員の視線がそちらを向く。

 

「ここにいるのは皆、あなたを慕って集まった者。あなたの姉ほど強い思いとは行かないかもしれないけれど、誰もが皆、あなたを少なからず気にかけている人妖なのよ」

 

 全員の顔を見る。皆、心配そうで、怒ったようで、そしてどこか優しげな表情をしていた。

 

「……あなたが幻想郷を侵した結果として残るのは、ただただなにもない世界。感情に正負に区分されるものがあるのは、それぞれがそれぞれの逆と相関しているから。悲しみがなくなれば、喜びはいずれ消え失せる。苦しさがなくなれば、いずれ楽しさもなくなってしまう。あなたの装う偽る狂気にはなんの意味もない。すべてを無に帰すだけ……」

 

 あなたも本当はそれを理解していたはずでしょう? と。

 じっと紫に見据えられる。

 そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。

 もうなにもかもわからない。自分が何者なのか、自分がなにを考えているのか。

 でも、もしも紫の言う通りだとすれば、俺はなにをするのが正解だったのだろうか。

 この身に宿る力ですべてを包み込み、守り通す以外に、俺になにができたと言うのだろうか。

 

「さて、それを知ったあなたはなにをする? これからどう動く?」

「…………わから、ない」

「異変を起こすことをやめる? それとも、また別のことを考える?」

「わ、からない」

 

 思考がぐちゃぐちゃに混じり合う。感情がぐにゃぐにゃと複雑に形を変える。

 なにが正解で、なにが間違いで、なにが『答え』なのか。

 

「では、質問を変えましょう。あなたはいったい、なんのためにがんばってきたのかしら。罪悪感? 使命感? それとも、皆が大切だと言う強い思い?」

「なんの、ために……?」

「そう。ずっと不思議だったのよ。いったいどんなものが根底にあれば、そんなに自分を騙し続けていることができるのか……こんな異変を起こしてまで、あんな実験をしてまで、今日までずっと心の奥底で苦しみながら、それでも生きてきた理由(わけ)。とっくに疲れ果てているはずなのに、とっくに重みに耐えられなくて自殺したって不思議でもないのに、今日までずっと生きてきた……その理由はなにかしら? あなたの根底には、いったいなにがあるというのかしら」

「こん、てい……」

 

 よぎるのは、両親と義理の母が死んだ光景――でも、違う。

 その先がある。

 そこになによりも強烈で、凶悪で、いつまでも心に張りついて離れないモノが一つだけあるのだ。

 

「…………それは……」

 

 罪悪感なんて建前だ。皆を守るための行動だなんてのは、それから逃げる行為が派生しただけだった。

 俺が本当に恐れているものはただ一つ、俺が本当に感じたくなかったのは、見たくなかったのはただ一つ。

 "狂った帽子屋"に成り切らなければならないと誓った決定的な理由は、ただ一つ。

 どんなに狂っても忘れないと胸に刻んでいた思い。

 どんなに偽っても誤魔化さないと決めていた思い。

 それだけは今までも、これからもずっと変わらない。

 

「――――お姉さまが、大好きだから」

 

 ――柔らかくて、甘くて優しい安らかな匂い。俺が慕う大好きな姉の胸の中。

 ――失いたくないと思った。自分のどんな正や負の感情よりも、自分の存在を賭けてでも、自分のどんなものを犠牲にしても。

 ――この少女にだけは、たとえこれからなにがあろうとも、幸せに過ごし続けてほしいと思った。

 ――これからどんなに俺の心が擦り減ろうと、どれだけ死にたくなったとしても、その果てに心がすべてなくなってしまったとしても、それだけは絶対に。

 

「大好き、だから……」

 

 目の前が滲み続ける。

 解答を。

 誰か、教えてくれ。誰か、頼むから。

 ねぇ、どうしてなんだ?

 俺が在るわけは? 俺がここにいるわけは?

 レミリアを守れない俺に、レミリアを幸せにできない俺に、どれだけの価値があるって言うんだ。

 こんな右も左も、本当も嘘も、喜びも悲しみもわからなくなってしまった"狂った帽子屋"の存在に、どんな意味があるっていうんだ。

 俺の正体は、いったいなんだって言うんだよ。

 胸が渇く。渇く。渇く。

 目を見開いたレミリアを見て。

 彼女が、悲しそうな顔をしているのを見て。

 ああ、ダメだ。

 どうしてこうなる。どうしてそんな表情にしてしまう。

 足りない。届かない。俺では為し得ない。

 叶わない。願望も、欲望も。

 無理だったのか、と。

 為せなかったのか、と。

 ああ。

 また、失敗したのか――――いや。

 ――……まだだ。手はまだ、ある。

 

「アクセス……正常。全個体、召喚」

 

 魔力の限り、見ゆる場所すべてに倉庫空間へと通じる穴を開く。それは数えるのも億劫なくらいたくさんあって、とにかくそのすべてから、俺と同じ形をした人形が現れた。

 すべての個体にパスを通す。その時に数もわかる。たったの三八七体。

 魔力を循環させ、あらかじめ体内に仕込んでおいた魔法陣を起動すると、全部の人形が立ち上がった。

 その様子に、俺以外の全員が冷や汗を流すのが窺える。

 

「な、なによこれ。前に見た時はこんな術式……」

「バレないように、仕込んでおきました。紫は転生魔法を知ってますから、きっと対策を練られるだろうと思いまして……"童話『狂った帽子屋』"、とでもしましょうか」

 

 俺はまた失敗を犯した。だったらもう一度、やり直せばいい。今ならまだそれが間に合う。

 まずはここで全員を捕らえる。そうして、俺の能力を無視して俺を呼び出すという暴挙に出られた理由を究明するのだ。

 そうしたらそのミスを修正して、紫の言っていた正負の相関とやらを実験しつつ、幻想郷をもう一度霧で覆い尽くす。

 ずっと目を閉じているのがダメだとわかった。ならば、定期的に見張っているようにしよう。おかしなことにならないように調整していくようにしよう。その辺のことはこの俺の形をした人形を使えば、おそらくすぐにでもできるようになる。

 必ず手に入れる。次は絶対に間違えない。

 偽れ。もう一度、自分を。

 涙を拭った。胸の穴を無視するかのように、再生していた唇を再度強く噛む。

 今度こそ、二度とレミリアに悲しい思いなんてさせやしない。そして皆を守ってみせる。フランに正しい幸福を与えてみせる。

 

「帽子屋より命令――」

「レー、ツェルっ!」

 

 レミリアが俺の名を叫んでいた。叱るように、優しくするように、愛おしい声で。

 笑う。作り笑いを浮かべる。

 俺の心がどれほど痛もうが、知ったことか。

 なにを犠牲にしてでも進むと誓ったんだ。だから。

 

「そこの一二人を、捕獲してください」

 

 ――――助けて。

 自分と同じ形をした大量の人形が一気に飛びかかっていくさまを眺めながら、俺は、咄嗟に浮かんでしまった一つの言葉に注意を向けないように自身を誘導する。

 どうしてだろう。

 胸の穴が渇きすぎて、心に、ヒビが入ってしまったような気がした。



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七.Rätsel①

 Ich hatte einen Traum. Seltsamen Traum. Traurigen Traum. Schmerzhaften Traum. Und liebenswerten Traum.
 ――夢を見た。不可解な夢を。悲しい夢を。苦しい夢を。そして、愛おしい夢を――――


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

 手を伸ばす。全力で、必死に、とにかく大切な妹のもとへ。

 届け。届け。届け。

 届いてくれ。

 願いはどこまでも儚く、現実はどこまでも非情だ。

 どう見てもこの手が及ぶ距離じゃない。この手で触れるよりも先に、レーツェルが呼び出した魂のない人形に捕らえられてしまう。

 それでも、諦めない。諦めたくないんだ。

 伸ばせ。届け。及べ。

 ――お姉さまが、大好きだから。

 あの子をずっと支えてきた本心を知ったから。本当はなんのためにがんばってきたのか、あの子が教えてくれたから。

 涙が溢れそうになる。

 危険があるかどうかなんてどうでもよくて、不幸がない世界なんてどうでもよくて。

 お父さまがいなくてもいい。お母さまがいなくてもいい。義理の母がいなくてもいい。

 私はただ、あなたが隣にいるだけでよかったのに。

 

「まったく、手が焼けるわね!」

 

 誰かがそう言って、前に足を踏み出そうとした私の手を掴んだ。

 それを確認するよりも早く、私は床の中に――足元に空いた境界の裂け目の内部に吸い込まれていく。

 手を伸ばす。落ちゆく中、人形がそれを掴もうとしたから、すぐに払った。

 私が欲しいのは本物なんだ。妹の形をしただけの魂が入っていない紛い物じゃない。

 ――レーツェル!

 叫びの最後、フランの部屋から完全にいなくなる前に見えたのは、拭っても拭い切れていなかった妹の涙だった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 ぐねぐねと、曖昧な世界が形を変える。そのたびに感覚が乱れていく。

 右へ左へ。上へ下へ。あるいは奥へ、近くへ。

 見える。見えない。聞こえる。聞こえない。嗅げる。嗅げない。味わえる。味わえない。触れる。触れない。

 まるで巨大なゴムの中にいて、それを外側から巨人に押されたり引っ張られたりしているような、うまく表しようのない不可思議な体験だった。

 そんな中、なんの色もついていなかった視界に突如光が弾ける。そのあまりの洪水具合に、思わず片手で目元を塞ぐ。

 ただ騒がしいだけの、どこまでも無感情を引き寄せる耳障りな喧騒。

 もうとっくに冬だというのに、熱い――それもただの熱さではなく、自然がまったくなくて、人が密集するせいで生じるような嫌な暖かさ。

 匂いだって最悪だった。幻想郷の済んだ空気とは違い、まるで毒が混じっているかのように汚れている。

 なんだ。どこだ、これは。

 まだ完全には目が慣れ切っていなかったが、好奇心に負けて手を下ろすと、そこには幻想郷とは程遠い灰色の世界が広がっていた。

 大量の窓がついた、幻想郷では絶対に見られない高さの鉄色の塔が、そこら中に敷き詰めるように並んでいる。自然は一切見当たらず、代わりに赤青黄の三色を点滅させる細長い棒や街灯や灰色の柱などの無機質な細長いものが地面に刺さっている。数え切れないほどの大量の人間がそこら中を歩き回り、なにやら手元でコンパクトな機械を操作していた。一部人が歩いていない通りがあるが、そこは馬より少し全長が大きいくらいの変な乗り物――前後左右に窓がつき、形は凸の字のようで、地面に四つの輪っかをつけている――が走り回り、時には三色を示す棒の色で停止したりまた動いたりする。

 私たちの近くにいる人間どもは立ち止まって、なにやら奇異そうに手元の機械をかざしてきているが、いったいなんのつもりだろうか。

 いや、そんなことよりも、今なによりも注目すべきものは上空にあった。太陽が顔を出し、爛々と私の全身を照らしてきている。だというのに、本来ならば灰になるはずの体が、どういうわけかなんの反応も示さない。

 

「無事、入って来れたみたいね」

 

 すぐ隣から声がして、顔を向ける。そこには八雲紫が立っており、ほっとしたように息を吐いていた。

 もしかしたらと思い、辺りを見渡してみる。すると予想が半分当たったという具合で、三人の妖怪が近く私と同じように困惑しているのが窺えた。フラン、さとり、こいしの三人である。

 

「ごめんなさいね。あの土壇場で全員は連れて来れなかったのよ。ちょうど近くにいたのがあなたたちだったから、一緒に来てもらうことにしたわ」

「いえ、それはいいのですが……あの、もしかしてここは」

 

 さとりはこの場所に心当たりがあるようだった。私も似たような世界を知っているが、しかしどこか違うという確信がある。

 紫はさとりの確認するような視線に、こくりと頷いてみせた。

 

「ええ。ここは、あの子の心の中です」

「ふむ……吸血鬼に太陽が効いていないのもそのせいですか」

「ええ、本物ではないもの。とにかく、あの子の心を大きく揺さぶることに成功したおかげで、そこに私の能力で入り込めるだけの隙間を作ることができた。上々ね」

 

 紫の能力のでたらめさを改めて味わった気がした。ただ、それよりも今ここで気になるのはレーツェルの心の中とやらの光景である。

 凸の形をした乗り物は、車というものだ。三色を点滅させる細長い棒は信号機というものだ。

 しばらく科学とは無縁の小さな世界で暮らしていたせいで見た直後はわからなかったが、段々思い出してきた。幻想郷に来たのは車や信号機が発明された後だったから、私は元々知っているのである。

 車は人間が馬よりも高性能な乗り物を求めて手に入れた科学の塊。信号機は、車の行き交いを制御するための機能を持っている。

 あいにくと、人形が持っている小さな機械はなんなのかイマイチわからないが……たぶん携帯電話というやつだろう。なんだか画面の部分がでかすぎる感じがするが、河童が似た感じのものを持っていた。

 

「説得がダメだった場合の策っていうのがこれなの?」

 

 きょろきょろと物珍しげに周囲を見渡しながらのフランの質問。たまに空に目を向ける辺り、彼女も私と同様に太陽が平気なことに驚嘆している様子である。

 

「ええ。あの子の心の深層に入り込んで、それを直接刺激する。心の外側から語りかけるよりもよっぽど効果的よ」

「勝手にって、なんだかかなり失礼な感じがするけど」

「私も普段ならこんなことしませんわ。でも、この窮地にそんなことも言ってられないでしょう? それにそもそも、心に他人が入り込めるだけの隙間なんて普通ならできるはずがないのよ。これは、あの子の心がそれだけ歪になってしまっている証拠……」

 

 そんな風にフランが納得するような説明を口にする紫もしかし、どこか訝しげに周囲の景色を見渡していた。さとりもまた、空や車などに目を向けながら眉をひそめている。

 

「どうしたのよ」

 

 二人に問いかけてみる。なにかレーツェルの心におかしな部分があったのだろうか、と。

 紫はまるで「見てわからないの?」とでも言いたげに私に半眼を向けてきた。

 

「ここ、つまりレーツェルという吸血鬼の心の深層に、外の世界のおよそ現代と呼べる……いえ、それさえも越えた高度な文明を備えた都市が根づいていて、それもあなたやあの子の故郷たる西洋ではなく、東洋のそれと酷似している……明らかにおかしいでしょう? なぜ、あの子の心はこんな世界を体現することができているのか。なぜ吸血鬼であるはずのあの子が、こんな太陽の照りつける暖かみのある世界を知っているのか」

「あぁ、そうか」

 

 改めて辺りを見回してみる。無駄に高い建物ばかり立ち並び、植物はと言えば、申しわけ程度に置かれた街路樹だけ。自然に満ち溢れた幻想郷とは大違いである。

 当然のことながら、私はこんな場所を見たことは一度たりともありはしない。レーツェルとはいつも一緒に暮らしてきたし、旅行なんてろくにしたこともなかったから、彼女もこのような景色を一目でも見たことがないことを知っている。

 しかも紫はこれを東洋と酷似していると言った。元々住んでいたのは西洋の方だし、私たちは東洋なんて幻想郷のことしか知らない。

 加えて言えば、現代の文明を越えているかもしれない、と。

 でも、レーツェルはそれらを知るすべなんてなかったはず。大図書館には東洋の本はあまり保管されていないし、その文明のさらに先を予測することも不可能に近い……。

 どういうことだ?

 歯車がかみ合わない。なにかがおかしい。

 決定的に、なにかが根本から間違っている。

 

「不思議なのはそれだけじゃありません」

 

 さとりが目を細め、ちらりと私たちへと視線をやってきた。

 

「世界の形があまりにもくっきりとし過ぎています。心というのはいつも曖昧なものでして、たとえこのような人の心の奥底に潜む原初の風景であろうとも、少なからず夢じみた世界になるはず。こんなにはっきりと輪郭がわかり、声が聞こえ、ましてや匂いや空気の暖かささえわかるなんて……」

 

 レーツェルの心が歪になってしまっているから。それだけでは説明がつかないほど、奇妙で理解しがたい作りをしていると二人は言った。

 レーツェルの心の奥底に潜む原初の風景、すなわち原風景。その者の思想形成に大きな影響を与えたもののうち、風景の形を取っているもの。いや、実際に感覚を持って降り立つことができた私たちにとっては、あるいはここを原世界とでも呼ぶのが正しいのかもしれない。

 そんな世界が、どうして東洋の未来の形を取っているのか。

 一瞬、幼い頃のレーツェルの泣き顔が頭をよぎった。

 これは、まさか……いや、でも、そういうことなのか? とても信じがたい話だ。単なる予想にしか過ぎない確率が高いし、なにせ閻魔がそんなことを許すとは思えない。けれど、もしもそうなのだとすれば、これは……。

 

「まぁ、今はそんなことを気にしてる時じゃないわね。急がなければ外が危ない。それにあの子の心の隙間が閉じてしまったら、私たちも容易にはここから出られなくなってしまうわ」

 

 紫の声が、思索に耽りかけた私を遮った。未だレーツェルの心について考え込みたくなる気持ちがあったが、優先しなければならないことは心得ている。

 まずはレーツェルを救う。気になることなんて、その後レーツェルから直接聞けばいいのだ。

 

「それで、直接刺激するとか言ってたけどどうするつもり? まさか辺りの建物を手当たり次第に壊しまくるとか、さっきからずっと見世物みたいに見てきて鬱陶しいこいつらを片づけるとかじゃないわよね」

 

 いい加減めざわりになってきた。ざわざわとうるさいし。

 返答によっては周囲の人間どもを吹き飛ばす、という意志を見せる私を見て、紫は呆れたように首を横に振った。

 

「そんなことしても無駄よ。せいぜいが思考をほんのちょっと鈍らせる程度かしら。壊したところで、どうせ人も建物も空も太陽もすぐに再生していく。そもそも心の中よ? 私たちを見てるやつらに魂なんて入ってない。こんなものにいちいちイラついててもしかたがない」

「じゃあ、どうしろって言うのよ」

「核を探すの。心の根本を担う、この原風景の中でも再生が不可能なただ唯一の存在を。そしてそれを壊すとは言わないまでも、叩く」

 

 紫はそう説明し、大きく肩を竦めた。

 

「……ただ、あいにくと私にはそんなものを探し当てる力は備わってないわ。それにその唯一の存在がどんな形をしているのかもわからない。学校や病院と言った建物かもしれないし、あの太陽かもしれないし、そこの人間どもの行き交いに混じっているのかもしれないし、私たちの見える範囲にはないのかもしれない」

「要するに、手がかりはないってことね」

「ええ。残念ながら。私には心に入るまでしかすることができないから……それで、この世界での動き方をレクチャーしていただこうと、説得失敗に備えて心に詳しいサトリ妖怪の二人の近くで待機していたのだけれど」

 

 さきほど紫は、ちょうど近くにいたのがあなたたちだったから、なんて口にしていたが、実のところはある程度狙っていたようだ。さとりやこいしは入れるのを確定として、その付近にいた中でも、レーツェルにとっておよそ重要な立ち位置にいると思われる私とフランをメンバーに引き入れたのだろう。

 幻想郷の管理者たる紫の立ち位置からしてみれば、ここには霊夢や魔理沙と言った面々も連れて来たかったはずだ。それができていないということは、レーツェルの人形に迫られるという状況がそれほどまでに切羽づまっていたということ。妖怪の賢者と呼ばれる紫でさえそれほど慌てなければならなかったのだから、なるほど、あれだけの人数が揃っていながらレーツェルには実力で勝てないと言う話も真実味を帯びてくる。

 どうやら私が想像している以上に、レーツェルの妖怪としての脅威は高位のレベルに在るらしい。

 紫の言葉に期待するような視線を向ける私たちに、しかしさとりは申しわけなさそうな顔をした。

 

「すみません。私が読み取れるのは表層心理に限られていまして、こんな単純怪奇複雑明快な深層の構造を把握するのは不可能なのです」

 

 そう口にすると、目を伏せる。単純でありながら怪奇、複雑でありながら明快とは、なんとも表しようのない言い方をする。いや、心のことをよく知る彼女ならではの心というものの表現法なのかもしれない。

 ならばと、今度はさとりも含めた視線がもう一人のサトリ妖怪の方へ向いた。古明地こいし。そういえばさきほどから一切声を発していないが、いったいどうしたのだろうか。

 あ、と。全員の口から共通した声が漏れる。

 

「こいしっ!」

 

 こいしはふらふらと、人ごみの中へと歩みを進めていた。それに一番最初に気づいたさとりが走って追いかけ始め、それを止めようと紫が手を伸ばすが、空を切る。

 そうして二人は、人ごみの中に消えてしまった。行き交いする人間は大人ばかりだったので、さとりやこいしのような、人間で言う十代の外見しかない彼女たちはすぐに埋もれて見えなくなってしまう。

 

「ちょっと、ばらけたら帰れなくなるわよ! ここじゃ私の能力での空間移動もうまくできないし、妖気の察知だって――」

「そんな理屈こねてないで、いいから追いかけるよ!」

 

 紫の腕を掴んで、地面を蹴る。紫の能力やらはうまく扱えないようだが、私の吸血鬼としての身体能力は、レーツェルの原世界の中でも問題なく機能しているようであった。

 近くの街灯の上に乗り、素早く視線を張り巡らせて、三階建て程度の比較的小さい鉄の塔に目をつける。もう一度高く跳び上がり、さきほど選んだ建物の屋上に着地する。私がたどった跡をフランもついてきた。

 ここから街道を見下ろし、さとりとこいしの二人がどのあたりにいるのかと、きょろきょろと顔を動かす。この世界の特徴なのか、歩いている人間はすべて黒色の髪をしていた。桃色だとか緑に近い灰色だとか、そんな目立つ髪色をしているさとりとこいしはすぐに見つけることができる。

 さとりはこいしのもとにちょうどたどりついたようで、その手をがっしりと掴んでいた。しかしこいしはそれに気づいた様子もなく、まるでなにかに取り憑かれたように歩みを進めている。

 その様子をほんの少し、訝しむ。不思議に思う。

 そういえば紅魔館に遊びに来た時に、こいし自身から聞いたことがあった。彼女というサトリ妖怪は心を読めるという第三の目を閉じることで、己の心さえ閉じてしまった、それゆえに存在感の薄い妖怪なのだと。考えることをやめ、無意識だけで行動するようになった妖怪なのだと。

 無意識――つまり、深層心理。

 古明地こいしという存在はもしかしたら、このレーツェルの深層たる世界において、核を探し得る重要なファクターなのではないか。そしてそんな彼女があれほどまでに夢中になっているのは、この原世界で重要な役割を担っているなにかを察知したからではないのか。

 紫もバカではない。むしろ聡明だ。私と同じような答えに思い至ったらしく、二人を連れ戻そうと飛び出そうとしていた体を止めていた。こいしがどこへたどりつくのか、知る必要があるから。

 

「レミリアお姉さま? 紫?」

「フラン、このまま上からあの二人を追うわよ。降りるのはすぐにじゃなくて、機を見てからに変更」

 

 フランにそう告げて、そろそろさとりとこいしを見失いそうだったので、次の建物の屋上に移動した。また見えなくなりかけたらさらに次へ、次へ、次へ。繰り返す。

 さとりは妙に夢中に人をかき分けて歩くこいしの様子に困惑しているようであった。

 どれほどの回数、屋上から屋上への移動を繰り返しただろうか。そろそろ痺れを切らして下に降りたくなってきた頃、不意にこいしが立ち止まった。

 まさか見つけたのだろうか。こいしとその周囲の様子に目を凝らす。

 そこは私たちが最初にいた街道からずいぶんとずれた細い脇道だった。細いと言っても車とやらがギリギリ二つ一緒に通れるか通れないかという具合で、狭いというわけではない。地面が灰色で辺りに自然があまりなく、御柱のような柱が建っていたりというのは相変わらずだったが、本道でないためか人通りが少ないのが特徴的だった。

 だからこそ、こいしがさとりの静止を振り切って回り込み、じっと見上げた二人の人間の姿が私たちの目によく留まる。

 こいしが止まらなければすぐに目を逸らしていただろう、どこにでもいそうな、これまで見下ろしてきた街道でも幾度と目にしてきたような平凡な黒髪の少年が二人。特筆するようなことなんてなに一つとして存在しない。

 けれどもなぜか、こいしから見て左側の少年に、私は親近感にも似た言いようのない不思議な感覚を覚えたのだった。

 

 

 

 

 

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八.Rätsel②

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Koishi Komeiji □ □ □

 

 

 

 

 

 心を読む力があるということは、ありとあらゆる人妖に忌み嫌われてしまうことと同義であるらしい。

 ただ対面して話すだけで嫌われる。相手の心の中に触れないように会話しても嫌われる。直接会わなくても、力があるからと嫌われる。

 最初はただ、なにをすれば好かれるかを考えていた。でも気づいた時にはもう、なにをすれば嫌われなくなるかを考えていた。

 悲しくて、苦しくて、辛くて、心が擦り切れてしまいそうで。

 ふと、気がついた。

 心があるから痛いんだ。サトリとしての力があるからいけないんだ。

 だったら、この苦痛と悲痛から逃れるためにはなにをすればいい?

 その『答え』はすぐにやってくる。

 心をなくしてしまえばいい。余計なものをすべて捨ててしまえばいい。

 天啓だった。

 こんな、悪感情しか集めない三番目の瞳なんていらない。

 こんな、負の感情しか訴えてこないホンモノの心なんていらない。

 温かさが冷たさを生み出すというのなら、その両方を殺してしまおう。

 嬉しさが悲しさを生み出すというのなら、その両方を壊してしまおう。

 負に繋がるすべてを捨てよう。そうすればきっと、誰からも嫌われなくなるから。

 

 目論見は成功した。

 私は一人、誰からも嫌悪感を抱かれることもなく、外を出歩けるようになった。

 嬉しかった。楽しかった。ただ漠然とそう思う。

 ――本当に?

 誰から好かれることもなく、誰から興味を抱かれることもなく、流されるままに人々と無の合間を揺蕩う。

 私は、小石だ。

 誰にとってもどうでもよくて、誰にとっても存在価値なんてない。いてもいなくても同じ存在。

 でも、それでいい。

 嫌われることがないというのは素晴らしい。いつだって笑顔を作れる。いつだって涙なんて零れてこない。

 ああ、なんて楽しい日常なんだろう。なんて充実した日々なんだろう。

 ――なにかに満たされるほどの心もないくせに。

 

 おかしな妖怪と知り合った。

 突然私を追いかけてきて、一緒に昼食を食べた。

 それ以降、どうしてか私は、ちょくちょくと彼女と会うようになっていた。

 一緒に遊んで、食事して、星空を観賞したりして。

 彼女は、私のことを友達と言った。

 友達?

 ほんの少し、思考する。無意識に支配された体の内側で、わずかに過去のことを思い返す。

 そうだ。

 まだ心を捨てていなかった時、私は友達を欲していた。

 心を読まれようと気にしたりなんかしない友達を望んでいた。

 

 彼女はお姉ちゃんと会っても、心を読まれても、なにも気にしたりなんかしなかった。

 むしろお姉ちゃんと定期的に会ったりして、親しくなっている。

 私は、後悔した。

 お姉ちゃんには彼女の心が読めるのだろう。それがなんだか羨ましい。

 心を読まれても毛ほども気にしない彼女の思考回路は、いったいどんなことになっているんだろう。

 なんだかとても気になった。

 だから私は、第三の瞳を閉じたことを、本当に少しだけ後悔した。

 

 

 

 

 

 人ごみをかき分け、脇道を縫うようにして進んでいき、やがて二人の人間の姿を目に留める。

 片方はこれまで見たきたのと同じように、まさしく有象無象の一人だった。普段歩いているぶんには一切気にも留めず通りすぎていただろう人種。けれどもう片方の人間は、どこか懐かしい雰囲気を放っているように思えた。私を惹きつけるなにかを持っていると感じた。

 そんな二人の前に躍り出る。それから、気になった方の人間――左側の黒髪の少年を見上げた。紺色のブレザーに灰色のズボン、黒色の鞄、どこにでもいそうな平々凡々な顔立ちや髪型。特筆すべきものはなにもない。

 なにが気になったのだろう。首を傾げる。そうやって不思議そうにする私を見て、前にいる二人も目をぱちぱちとさせて顔を見合わせていた。

 

「こいしっ! その……す、すみません。この子は私の妹で……えぇーっと」

 

 目を横に向けてみると、すぐ隣でお姉ちゃんが私の腕を掴んでいた。もしかしてずっとこうしてついてきていたのだろうか。全然気づかなかった。

 なぜか申しわけなさそうにするお姉ちゃんに、どうでもいい方の人間が「あぁ、別にいいですよ」と首を横に振る。それから「外国のかたですか? 日本語うまいですね」と。

 

「え、あ、はい。ありがとう、ございます……?」

「はは、本当にうまいです。それでは俺たちはこれで……ほら、行こうぜ『――』」

 

 どうでもいい方の人間がそう声をかけると、興味がある方の人間が初めて口を開いた。

 

「はいはい。じゃ、お二人さんがた、また縁があれば」

 

 これまたすぐに忘れてしまいそうな印象の薄い、ありきたりな男性の声だった。私たちを物珍しげに眺めつつ、しかしそこまで興味があるというわけではないのか、適当な挨拶を残してどうでもいい方の人間とともに去っていこうとする。

 気づいた時には、興味がある方の人間の腕を掴んでいた。無意識だったので私にも理由はわからない。

 その少年が、私が現れた時以上に訝しげにこちらを振り向いてくる。

 

「あーっと……なにかな? もしかしてなにか用があったりとか」

 

 頭を左右に振る。気になっている方の人間はもっと怪訝そうに顔を歪めた。それから、助けを求めるようにしてお姉ちゃんの方に視線を向ける。

 

「こいし、離しなさい」

「やだ。それよりお姉ちゃん、読める?」

「やだって……そこの人、困ってるわよ。それに読めるって、いったいなんの」

「心。読めるなら、教えて」

 

 目の前の人間の顔がさらに不可解なものを見る目に変わる。そろそろ私たちへの警戒度もマックスになりかけていると言ったところかもしれない。

 お姉ちゃんは私が腕を掴んでいる人間の反応を窺い、なぜか慌て始めた。さっき紫が魂が入ってないから気にしなくてもいいって言ってたのに。

 

「よ、読めないわよそんなもの。ほら、これ以上は初対面の人に失礼よ」

 

 お姉ちゃんが力づくで腕を掴んでいた手を外してくる。その際に「さっきも言ったけど、深層心理の構成物は読むことができないのよ」と耳打ちしてきた。なんだ、あんまり役に立たないな。

 私たちに背を向けて再度去って行こうとする平凡な人間の腕を、今度はもう片方のどうでもいい方の人間が掴んで止めた。

 

「って、次はお前かよ」

 

 腕を掴まれた人間は脱力し、呆れたようにどうでもいい方の人間に視線を送る。

 

「まぁ待てって。この子はお前に用があるみたいだろ?」

「用ならないって、さっきジェスチャーで」

「いやいや、こんな可愛い子に呼び止められておいて、はいそうですかとすぐ帰ろうとするなよ。男が廃るぜ」

「はぁ? らしくないこと言ってんな。なんだお前、もしかしてナンパでもするつもりか? こんな年下の子らを?」

「違うって。俺が年上好きなのは知ってるだろ? つーかナンパされてるのは『――』じゃねーの。ほら、逆ナン」

「そんな雰囲気には思えんけど……はぁ。まぁ、別に急いでるわけでもないし、少し話すくらいならいいか」

 

 しかたがなさそうに私の方に向き直る。しかし、結局なにを話したらいいかの判断がつかないらしく、困ったようにがしがしと頭を掻いていた。時折「あー」とか言ったりするけれど、私がじっと見つめているとすぐに口を噤む。

 ふいと目の前の人間の胸をそっと触れてみた。ドクン、ドクン、と心臓の音がする。確かに生きている鼓動がする。

 もう一度この人間の顔を見上げてみた。あいかわらず、困惑した様相で私に目を向けている。

 

「ねぇ」

「……なんですかね」

「今からこの世界を、案内してくれない?」

 

 一歩引いた位置にいるどうでもいい人間と、どうしたらいいのかわからず右往左往しているお姉ちゃんに見守られながら、ただただ平凡な人間と見つめ合っていた。

 この世界。その単語を、この人間は「理解できない」という風に顔を顰めている。

 

「それは、あれかな。この街を案内してくれ、ってこと?」

 

 首を横に振った。人間はさらにわけがわからなそうな顔をする。

 

「あなたがいつも行くところとか、あなたのお気に入りのところとか、私に教えてほしい」

「は、はぁ」

 

 頷くでもなく、否定の意を示すでもなく。

 そんな中、触れている人間が次の反応を見せるよりも先に、どうでもいい方の人間が急に騒ぎ出した。

 

「ほら、やっぱり逆ナンだったな。俺の勘は今日も冴えてる。天才的だぜ」

 

 うんうんと満足そうに頷くそいつを眺め、平凡な人間が肩を竦める。

 

「まるで昨日も冴えてたみたいな言い方だぞ」

「冴えてたんだよ。俺が冴えてるって言ってるからきっと冴えてたんだ」

「なんだそれ。滅茶苦茶な理論だな」

「でも、なかなか面白いだろ?」

「お前ん中ではそうかもな」

「だがお前の中にも今、それを植えつけた。マインドコントロールでな。きりっ」

「られてねぇ。あと最後のは口に出すなって、バカっぽいぞ。いやお前バカだけど」

「ひでぇ」

 

 ずいぶんと軽快で、中身のない掛け合い。さきほどの人ごみの中で聞くような、事情を知らない人にとっては非常にどうでもいいジョークのような流れの会話。

 でも。

 目の前の人間は確かに笑っている。心の底から楽しそうに、ずいぶんと気負いのない気持ちよさそうな笑顔を浮かべ。きっとこういうくだらない話をいつも二人でしているのだろうということも、すぐにわかった。

 おそらくは友人だろう人間との会話で気を紛らわすことができたからか、いくばくか戸惑いが抜け落ちた様子で、目の前の人間が私と目を合わせてくる。

 

「まぁ、案内するくらいなら別にいいよ。このまま断るとお姉さんの方を困らせちゃいそうだし」

「す、すみません。妹はいつもこうやって唐突にわけのわからないことをするので……」

「はは、結構大変そうですね。俺は一人っ子なので兄弟とか姉妹とかの苦労はよくわかりませんけど、ほどほどにお労りください」

 

 まるで私が問題児みたいな言い方だ。私は基本的に誰の目にも留まらないし、別に大して問題なんて起こしたりしない。放っておけばいいんだから、そんなに手がかかる妹じゃないはずだけど。

 そんなことを思っていると、帽子越しにぽんっと誰かの手が置かれた。

 

「妹ちゃんもお姉さんを困らせるのはほどほどにね。さっきそこのバカも言ってたけど、可愛いんだからさ。あんまり一人でふらふらしてるとお姉さんも気が気じゃないだろうし」

「うわっ、お前キザなセリフ吐くな。結構気持ち悪いぞ」

「自分でも一瞬思ったけど他人に言われると腹立つな」

 

 頭の上から手が離れていく。それを名残惜しそうに見つめていると、その手の主である人間がくすりと笑みを漏らした。そして「悪い」と。許可も得ずに頭に手を置いたことと、もっと撫でてほしかったという私の気持ちを察したことの両方に対する謝罪なのだろう。

 さてどこに行こうか、と。顎に手を添えて考え始める人間を見上げ、ふいと一つ、聞いていなかったことを思い出した。

 

「ねぇ、なんて呼べばいいの?」

「え? あぁ、『――』でいいよ」

「なんかそれ聞こえないのよねー。他になんかない?」

「聞こえない? んー、外国の人だから発音しづらいのかな。こんなに日本語流暢なら関係ないと思うけど……まぁ、だったらトーキョーとでも呼んでくれればいいよ」

「トーキョーって?」

「この国の首都の名前。深い意味はない。あぁ、発音は自由にしてくれていいから」

 

 トーキョー、トーキョー。小さく口に出して復唱してみる。それを耳ざとく拾ったトーキョーが、頬を緩めてうんうんと頷いていた。

 そんな時、トーキョーの肩をもう一人の人間がつついた。

 

「それじゃ俺もう帰るから、あとはがんばれよ」

「は?」

「だって俺はお邪魔だろ? ってことで、またな」

「あ、おいっ!」

 

 トーキョーがもう一人の人間を呼び止めようと手を伸ばすが、それは空を切る。人間にしては速いんじゃないかな、程度の速度で走り去っていくそいつを、トーキョーは信じられないものを見るような目で見送っていた。

 

「……ったく。あいつ、押しつけるだけ押しつけて、途中でめんどくさくなったからって全部丸投げしやがったな……」

「トーキョー?」

「あー、なんでもない。俺たちも行くか? 確か、俺のよく行く場所とかお気に入りの場所とかに行きたいんだっけ」

 

 首肯する。それから、私の左手とトーキョーの右手とで手を繋いだ。

 トーキョーは少しだけ驚いたようだったが、すぐに若干笑みを見せて、手を握り返してきた。

 

「あんまり大したとこは見せられる自信ないけど……そういえば今更ですが、お姉さんはどうなんですか? さすがに俺みたいな見知らぬ男に妹さんを任せるのはオススメしませんよ」

「……いえ、妹には人を見る目がありますから、妹が大丈夫だと言うのなら大丈夫なんでしょう。それより、私もついていってもいいですか?」

「別にいいですよ。というか、もとより俺はそのつもりでしたから……妹さんのこと、信頼してるんですね」

 

 お姉ちゃんも人数が減ったおかげで平常心を取り戻してきたようだ。私を見てため息を吐き、トーキョーを見てどこか恐縮したように縮こまる。

 トーキョーはそんなお姉ちゃんや私に交互に視線を送り、微笑ましいものを見るように頬を緩めた。

 

「変態さん?」

「違うから。子どもは別に嫌いじゃないってだけ」

「変態さんじゃん」

「……好きとも言ってないんだけどなぁ」

 

 トーキョーが両肩を上げる。さっきからずっと困惑してばっかりだった。

 

「ま、そろそろ行こうか」

「うん」

「あ、はい」

 

 トーキョーの案内のままに、街を再び歩き始める。

 まっすぐに行って、時には右に左に。高さが私くらいある凸型の機械等が止まっている際に、私やお姉ちゃんが興味の視線を向けたりすると、さりげなく歩みの速度を遅くしてくれたりする。なにか気になるものを指差してみると、解説をしてくれたり、それを使ったりそこに入った時の体験談を話してくれたりする。それから途中まで進んで気づいたけれど、どうやらできるだけ人の行き交いが少ない通りを選んでくれているようだった。

 なんというか、細かいところで気遣いができる点は、一人の少女の姿を私に思い浮かばせた。無表情のくせにいつも他人を心配していて、なにか困っていることがあると頼まずとも手を貸してくれたりする。小石のような存在であるはずの私にすぐに気づいて、構ってくれる。

 私やお姉ちゃんはそんな少女を連れ戻すための策に参加していた。けれどそれが失敗し、八雲紫という妖怪の手によって彼女の心の中に迷い込んでいる。

 

「いつも行くところって言ったら、ここは外せないな。まぁつまんないところだけどさ、学校」

「学校……ですか」

「いろんなことを学ぶんだ。外国語だとか古文だとか数学だとか。ただまぁ、大抵は生きる上でほとんど役に立たない知識だよ」

 

 お世辞にもいいとは言えない汚れた空気、嫌な暖かさ、耳障りな喧騒、灰色が立ち並ぶだけの無感動な世界。もしもここがあの少女の深層にある世界なのだとすれば、それがどういう意味を指すのか。

 基本的に原風景というものは、人の印象に残りやすい上で美しい景色の形を取るはずだ。高いところから見下ろす自然だとか、稲穂が風でなびく風景だとか、綺麗に流れる川の光景だとか。

 トーキョーに手を引かれながら、学校、公園、よく行くファミレスとやら、あまり参拝客のいない神社の敷地と、いろんな場所を回っていく。そしてそのたびに不可思議に思う感覚が強まっていった。

 どんなところであろうとも幻想郷の美しい自然には遠く及ばない。あの世界に慣れてしまった私の感性は、こんな灰色の世界のどこを回ろうとも感動なんて覚えやしない。

 だからこそ思う。なぜ、こんな世界が彼女にとっての原風景なのか。

 考える。考える。考える。

 考えるだけの機能が無意識でしか行動できない私にあるのかはわからないが、考えているフリであろうとも、とにかく考えようとする。

 その『答え』が、きっと重要なことなどではないことはわかっていた。

 その『答え』が、きっとなによりも単純で大したことがないことなんてわかっていた。

 それでも知りたかった。私には心が読めない。だからこそ、それが彼女を理解するということに繋がるというのなら、どうしても知りたかった。

 

「ここが最後かな」

 

 そんな風に頭を抱え続けていると、そんな声が聞こえて顔を上げた。

 私とお姉ちゃん、そしてトーキョーは橋の真ん中の歩道に立っていた。東の空は暗くなって星が見え始め、西の地平線付近では太陽が沈み始めているのが窺える。これまで通った場所は少なからず車が通りかかったりしていた気がしているのだが、この辺りはずいぶんと静かなようで、橋の下の方からは水の流れる音がわずかに聞こえてきていた。

 どうやら結構な時間が経過してしまっていたらしい。無意識中の無意識で行動していたから、ここまでどうやって来たのかもまったく覚えていない。数年前まではいつもこうだったのだが、どうにも彼女と出会ってからはいろいろなことを覚えているようになったから、なんだか久しぶりの感覚だった。別段懐かしくはないが。

 トーキョーが、橋の高欄に肘をついた。西の空を見据え、どこか満足げに目を細める。

 

「俺にとってはここが、この街で一番のお気に入りの場所かな」

「この橋が、ですか?」

「ああ。ほら、川が流れてるだろ? で、それがまっすぐとずっと続いてるから、この先には一切建物がないんだ。だからほんの少しの地平線ができ上がって、そこに太陽が沈んでくところが見える。で、水に光が反射してそれも綺麗だったりする」

 

 お姉ちゃんと並んで、トーキョーの向いている方と同じ方向へ目を向けてみる。確かに、この世界で見てきた中では一番の美しさかもしれない。眩しすぎない程度の橙色の太陽の光が、川を通ってほんのすぐそこまで迫ってきているように見える。地平線はかなり狭いけれど、逆に狭いがゆえに太陽の光を独り占めしているように思えた。

 だが、これもまた幻想郷の風景の美しさには遠く及ばない。

 これが一番のお気に入りだと聞いて、ほんのちょっとだけ、心の中で落胆の感情を抱いてしまったのがわかった。

 それを察したかのようにトーキョーが苦笑いを私に向けて浮かべてきた。それから前に向き直り、どこか申しわけなさそうに、寂しそうに。

 

「……別にさ、そこまで綺麗じゃなくったっていいんだ。目を見張るほど美しくなんかなくていいんだ。ただこうしてさ、日常で届く範囲で楽しさを味わえてれば、それだけでよかったんだ」

「トーキョーさん……?」

 

 日が沈んでいく。西の空には地平線に橙色の残滓が残るだけとなり、川による光の反射も終わってしまった。

 それでもトーキョーはずっと遠くを見つめたまま、虚しい笑みをたたえている。

 

「これだけの世界でも、こんな程度のものしか見れない日々でも、幸せだったんだよ。俺はあいつ以上のバカだったから、死ぬまでそのことに気づけなかったけど……充実してたんだ。なによりも」

 

 ――目の前の人間は確かに笑っている。心の底から楽しそうに、ずいぶんと気負いのない気持ちよさそうな笑顔を浮かべ。きっとこういうくだらない話をいつも二人でしているのだろうということも、すぐにわかった。

 少し前に抱いた自らの思いと、トーキョーの笑顔を思い出す。

 あぁ、そうか。なんだ、やっぱり、とても簡単な『答え』だったじゃないか。考えるまでもなかった。

 どれだけ美しいかなんて関係ない。幻想郷と比べてだとか、まるで意味がない。

 楽しかった。この人間にとっては、すべてはただそれだけのこと。

 

「不満がなかったわけじゃない。けどさ、外界がどんなに麗しかろうと、どんなに年月が経ったとしても、ここが俺の故郷だってことに変わりはない。まだちっちゃかった頃、この世界で過ごしたって事実は変わらないんだ。両親に愛されて、友達とバカやって、勉強とか運動とかに打ち込んで……あぁ、楽しかったなぁ……」

「……トーキョーさん、やはりあなたが」

「ああ、その通り。俺が、この世界の核だよ」

 

 すでに橙色の残滓さえ空から消え去ってしまった。

 トーキョーはまるで自嘲するように口の端を吊り上げると、ゆっくりと私たちの方に振り返り、高欄に背と肘を預けた。

 私たちを見渡す。私と、お姉ちゃんと、トーキョーが地平線を眺めているうちに空から降りてきた紫、レミリア、フランを。

 

「外界からようこそ、皆さん。それから初めまして。俺のことは、トーキョーとでも呼んでくれ」

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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九.Rätsel③

 Es ist die Liebe, und sehnte.
 ――それは恋であり、そして憧れだった――――


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

 東側からのぼる満月がトーキョーと名乗った少年を真正面から照らし出す。ここに来るまでずっと街を歩くさまを観察していたが、彼が今たたえている自身を嘲るかのごとく哀れな笑みは、見てきたうちのどれにも当てはまらない。

 目の前の存在が核だと聞いて紫が警戒態勢を取っていたが、どうにも私にはこのトーキョーという少年に用心しようという気が起きなかった。

 一切敵対の意思が感じられないからか、レーツェルの根幹を為すという存在だからか、あるいはその両方か。

 トーキョーが核だと名乗り出てから一〇秒ほど。こちらもあちらもなにをするでもなく、ただただ見据え合っていた。そんな中、トーキョーが急に動き出したかと思えば、この世界を闊歩する魂のない人間たちが持っていたような携帯電話と思われる画面がでかい機械を取り出して、それの操作を始めた。

 自分からなにかを語るつもりはない、という意志表明のつもりなのかもしれない。しばらくしても携帯電話をいじり続けていたままだったので、痺れを切らしたらしい紫が一歩前に踏み出た。

 

「あなたはいったい、何者なのかしら」

「『――』。名字も混ぜると『――』『――』。まぁ、なんだ。俺は覚えてるつもりなんだけど、やっぱり本当は忘れてるのかな。そっちには聞こえてないみたいだから、トーキョーって呼んでくれればいい」

「あなたがこの世界の核だというのは本当?」

「本当。そういう皆さんは、この世界の持ち主と親しい間柄にあった人たちかな」

「ええ」

 

 質問されれば答えてはくれるらしい。

 紫はニヤリと胡散臭い笑みを浮かべると、どこからともなく取り出した扇子で口元を隠した。

 

「じゃあ、あなたを殺したらレーツェル・スカーレットは救える?」

 

 解放された多大な妖力が場の空気を圧縮する。こちら側はいずれもそれなりの強さを持っている妖怪ばかりなので特に威圧されたりはしないが、トーキョーは、これまで上から見てきた限りではただの人間だった。なにかしら反応を見せる。

 そう思っていたのだが、しかし彼は紫が出した威圧感を少しも気にした様子もなかった。むしろそんなものは存在しないとばかりに、携帯電話をこちらにかざしてくる。一瞬だけ眩い光を発したが、他にはなにもない。

 

「んー……なんか変な顔してるけど、もしかして外界の力を使ったりした? ごめん、この世界は『普通の現代社会』だから、そういうあからさまな異常への対応はインプットされてないんだ。俺も核とは言え構成物の一つだし」

「……まぁ、いいわ。それで、どうなの? あなたを殺せば解決できる?」

「どうかな。たぶん再生するんじゃない?」

「核なのに?」

「核が二つあるって言ったら、信じるかな」

 

 心の構造についてなんてよく知らない。たぶん、二つあると言われたら「ああ、そうなの」という具合で納得する。

 しかし紫やさとりなどはその限りではないようで、訝しむように顔を顰めた。

 

「まぁ、そういう反応をするか。正確には二つあるわけじゃない。二つで一つにしたんだ」

「……あなたはその二つのうちの一つ、核の半分だと」

「そう。でもまぁ、そろそろ俺の役目も終わりってことなのかな。外界からこんなに人が紛れ込んでくるようじゃ……」

 

 トーキョーが携帯電話をポケットの中に戻し、自身の手の平に視線を下ろした。

 

「俺は元々さ、もっと早くに消えてたはずなんだ。もう一つの核が核として完全なものになるまでの単なる繋ぎ、代替品のはずだった」

「どういうことかしら」

「その昔、心が壊れそうなくらい辛いことがあったんだ。故郷からの追放、見知らぬ地で見知らぬ人物として、見知らぬ親のもとで育たなければいけない……そんな程度のこと。俺はもう俺じゃない、これまで過ごしてきた人生はすべて紛い物だ。そう言われてるみたいでさ、痛くて痛くてしかたなかった」

 

 そう言っては見下ろしていた手の平を胸の前まで持って行き、心臓のある辺りを強く握る。

 

「だから新しく核を手に入れる必要があった。じゃなきゃ、心が壊れてしまう。俺が俺でなくなってしまう……そして、見つけた」

 

 トーキョーが、優しげな目線で私を見つめてきた。

 

「もう、あいつの本音は聞いたんだろ? あの気持ちがもう一つの核だよ。手に入れたばっかりの頃はまだまだ未完成だったから、『前世の記憶』である俺が代わりに収まる必要があったけど……きっともう、十分だ」

 

 もはや、私の予想は確定的に合っているのだろう。

 レーツェル・スカーレットという少女には前世の記憶があった。そしてその前世がトーキョーと名乗る目の前の少年であり、この原世界はその頃に過ごした世界を象ったもの。

 レーツェルが幼い頃にいつも泣いていたのは、大切だったものをすべてなくしてしまったから。

 レーツェルが幼い頃にいつも寂しそうにしていたのは、なくしてしまったものを探していたから。

 目の前の少年をレーツェルの前世であることに疑う余地はなかった。なにせ彼女はどんなに自分を騙してこようと、好意の感情だけは決して誤魔化したりはしない。そしてそれは彼もまた同じ。

 私はいったい、どんな顔をしていたのだろう。トーキョーは私をじっと見つめると、ふっと小さく笑った。

 

「やっぱりね。この秘密を知っても、やっぱり君はそんな風に労わるような顔をできるんだ。少しも落胆とか幻滅とかせずに、素直に受け入れてくれるんだ」

「……だって、そんな気持ちを抱く要素がない」

「本当、あいつは幸せ者だよ。独りでなにもかも見知らぬところに放り込まれて、なにもかもが不安で、どうしようもなくて……そういう君の態度にどれだけ救われたことか」

 

 トーキョーが空を見上げた。私も同じように、天を仰いでみる。

 星の数は幻想郷から見るものよりも明らかに少なく、観賞会などを開くのとは程遠い。顔を下ろすと、そんな景色もどこか愛おしそうに眺めているトーキョーの姿が目に入って、少しだけ胸が痛んだ。

 

「……あなたは、いったいなにを望んでいるの? あなたの態度は、まるで私たちの来訪を待っていたかのよう」

 

 これまでの会話からなにかを察したか、紫はすでにトーキョーのことを警戒などはしていないようだった。それをどこか彼が嬉しそうにしているように見えたのは、ただの幻覚だろうか。

 トーキョーは空から視線を元に戻すと、静かに首を横に振った。

 

「待ってはいなかった。でも、いつか来てくれると信じてた」

「意味がわからないわね」

「さっきも言ったけど、俺は単なる代わりでしかなかったんだ。それがあいつは帽子屋なんてバカなもん名乗って、大切なものを守るためだとかほざいて、無理矢理俺を自分の中に繋ぎ止めて……幸せなくせに、不幸なフリまでして。だから必要だった。あいつから、そんな借り物の仮面を引っぺがしてくれるような存在が」

 

 前世の記憶なんていう、もう二度と取り戻せないとわかっているモノに縋りつき続けてまで、彼女は狂気に染まろうとした。帽子屋なんていう、染まり切れないとわかっている仮面をかぶってまで、彼女はチカラを手に入れようとした。

 それはすべて、もう一つの核――レミリアが、私が大好きだという思いのもとに行われたことだった。

 まったく、私たちはなにをやっていたのだろう。

 私はただ、レーツェルが一緒にいるだけでよかった。そしてレーツェルにとってもただ、私が笑っているだけでよかった。

 いつだって空回りしてきた。私はレーツェルに本音を吐かれるまで気づけなかったけれど、もしかしたら、彼女は最初からそれさえも理解していたのかもしれない。

 

「あいつを救いたいんだろ? レーツェル・スカーレットを、取り戻したいんだろう?」

 

 トーキョーが問う。私たちは、少しも迷うことなく頷いた。

 

「なら、殺せ」

「ッ、それは」

 

 反論しようとする私を、トーキョーは片手で押し留める。

 

「そうじゃない。殺されるべきはレーツェル・スカーレットじゃなくて、俺なんだよ」

「どういう……ことかしら」

「もう一つの核はとっくに育ち切ってる。あいつは心をとっくに持ち直してる。だから俺は余計な存在なんだよ。もう、いちゃいけない存在になってる」

 

 最初に私たちに向けたような自嘲気味な笑みを、また彼は浮かべた。

 

「俺はここで殺されてもきっと再生してしまう。でも、一つだけそれを防ぐ手段がある。心が歪に歪を重ねてるからこそできる手段だ。そいつを実行したら君たちはここにいられなくなってしまうけど……俺の言う通りにすればきっと外側からでも俺を、『前世の記憶』を殺すことができるようになるはずだ」

「『前世の記憶』を殺すって、それってつまり――」

「ああ、忘れることになるな。この世界のことを、全部」

 

 けれどそうすればレーツェル・スカーレットは救われる。トーキョーはそう言って、目を伏せた。

 

「俺がいなくなれば……前世をすべて忘れてしまえば、前世があったことさえ忘れてしまえば、あいつにとっての『後悔』は単なる『不幸』に成り下がる。両親が死んだことも、義理の母が死んだことも、フランのことも」

「後悔……?」

「あいつには未来を予測し得る要素があった。でも、しなかった。それをずっと後悔してる。それがずっと、あいつを苦しめてる。けどその鎖も前世を全部忘れてしまえば簡単に解けるんだよ。先の読めない未来だったからって、しかたなく受け入れられるようになる。あいつは救われる」

 

 ――でも、しかたないんだよ。それが『答え』なんだから。全部が全部、私のせいなんだから。

 ――考えることから逃げ続けて、生まれた意味すら失っちゃった。

 かつて、レーツェルが表情をなくす直前に私に告げた言葉。それがようやっと本質を伴って、私の中に当てはまる。

 

「嫌なことを忘れて救われようだなんて、それは、逃げることと同義じゃないのかしら」

 

 紫の鋭い目線に、トーキョーはそれをまっすぐと見据えて首肯する。

 

「でも、そうすれば前に進めるようになる。過去に捕らわれなくなる。あいつは本当の意味で、レミリアの妹、フランの姉、吸血鬼のレーツェル・スカーレットになるんだ。先の見えない未来を一緒に歩けるようになる。そしてあいつもそれを望んでる」

「……あなたは、それでいいの?」

「いいさ。本来ならとっくにいなくなってたはずの存在だ。もうなにもかも、とっくのとうに十分だったんだよ」

 

 トーキョーが、前世のレーツェルが改めて私たちを一人ずつ見渡す。その顔に見えるのは、なにかを申しわけなく思いながらも、なんの心配もいらないと突っぱねるかのような、まるで気を遣っているかのような、あからさまな作り笑い。

 あぁ、そうか。そういうことか。

 彼の気持ちのなにもかもを理解して、私は拳を強く握った。

 

「方法は簡単だ。紫が……あぁ、ゆかりんって呼んだ方がいいかな。あいつは基本的にそう呼んでたみたいだし」

「……どっちでもいいわよ」

「そう? じゃあゆかりんって呼ぶよ。俺が手段を行使して君たちが外界に出たら、まず、ゆかりんがあいつの心にもう一度干渉する。そうして、心における精神と物質の境界を曖昧にする」

「それ、無効化されたりはしないのかしら」

「心配いらない。『自動発動機能』が出てくるのは、あいつと能力を引き離そうとした時だけだから」

 

 咲夜から聞いたことがある。時を止めてる間は、その『自動発動機能』とやらのせいでレーツェルを認識することができないんだったか。

 

「で、曖昧にしたら後は簡単。俺が手段を行使してからしばらくは、心が二つに割れてるはずだ。核が二つで一つじゃなくて、二つで二つになってるはずだ。だからそのうちにその片方を、『前世の記憶』を壊せばいい。そうすれば再生はせず、そのまま消え失せるはずだから」

「壊すって、いくら精神と物質の境界をいじろうが、心に触れたりなんてことはできないのよ。しかも片方だけ壊すなんて、そんな器用なこと」

「心を壊すことも、選別することも、できるさ。だってそうだろ? 吸血鬼でも人形でも銃でも月人でも、それが物質だって言うなら、右手を握り締めるだけで容易に破壊し得る……そういう力を持った吸血鬼がここに一人いる」

 

 トーキョーが一人の少女を正面から見つめる。その瞳に宿るのは、絶対にできるという確信の念。

 ああ、なんて笑えない冗談だ。なんて残酷な皮肉だ。

 トーキョーからのまっすぐな目線を受けて、フランはただ、目を瞬かせていた。

 それに彼はただ、慈しむように笑う。

 

「――君の破壊が、大好きな姉を救うんだ」

 

 たとえ意図せずとも、無知という狂気が生んだものだとしても、私もレーツェルもフランのせいだとは考えていないけれど、両親や義理の母を殺したのがフランである事実は変えようもない。そして、レーツェルはそれが原因で狂気を装うことを決め、帽子屋という仮面をかぶることになった。

 そうして最後にその仮面をはがすのが、すべての元凶たるフランだとは。

 フランが目を見開き、口を開く。だが、なんの言葉も出てこない。なにを言おうとしたのかすら、まるで忘れてしまったかのように。

 

「こんな余計な記憶を引き剥がせ。気に入らないものを無理矢理ぶっ壊せ。欲望のままに、願望のままに、欲するままに。それができるのがきっと、妖怪って生き物だ。フランドールっていう悪魔なんだよ」

「で、でも……」

「『前世の記憶』がなくったって、君は、あいつにとってかけがえのないものの一つだよ。なにも心配はいらない」

 

 トーキョーの言う通り、この世界がレーツェルにとって余計なものだとすれば、きっと『前世の記憶』を壊したところで彼女の人格にはなんの変化も生じないのだろう。

 ただその重荷を崩して、なかったことにしてあげるだけ。

 だが、それが本当に正しいことなのか。

 なかったことにする。それは、レーツェルの能力と――これまでレーツェルが行ってきた所業の本質となんら変わりない。

 助けに来たはずの私たちが、そんな方法を行使してもいいのか? 本当にそれで、レーツェルを救ったと胸を張れるのか?

 そんな私の考えさえ、レーツェルの核の一つであるトーキョーにはお見通しのようだった。

 

「それでいい。それ以外の方法はもう、本当にあいつ自身を殺す以外にないから」

 

 記憶の喪失を以て後悔から解放されるか、死を以てすべてから解放されるか。方法なんてそれしかないと、トーキョーは口にする。

 なんて、自分勝手な。

 トーキョーが苦笑いを浮かべた。手間をかけて、こんな方法しかなくて、申しわけないとでも言いたげに。

 そんな風に思うくらいなら、最初から私たちと会わなければよかったのに。レーツェルを救うための方法だけ告げて、さっさと去ってしまえばよかったのに。

 彼は、なにかを察したように空を見上げる。

 

「……そろそろ時間だ」

 

 トーキョーがまっすぐと手を伸ばし、手の平を裏返す。すると次の瞬きを終えた瞬間には、その上に赤白い綺麗な宝石が浮かんでいた。

 小さく、透き通っていて、なによりも綺麗な美しい塊。それを見て、紫とさとりが目を見開いていた。

 

「こいつはあいつの、レーツェル・スカーレットの『一番大事な思い出』だ。前世のあいつである俺がこの世界でこいつを解放すれば、この世界は形を保っていられなくなる。そして、もう一つの核と完全に分離するはずだ」

「いいのですか? 本当に、それで。わかっているのでしょう? その記憶をこちら側に持ち込むということは、その『一番大事な思い出』を『前世の記憶』とともに忘れるということ……」

 

 さとりの確認に、トーキョーは少しだけ考え込んで、くすりと、少しだけ楽しそうに笑った。

 

「いいさ。これと一緒くらい大切なものを、あいつはもうこんなにたくさん持ってる」

「止めても、無駄……ですか?」

「止めたらレーツェルを助けられない。君たちの望みはかなわない。だから、やらなきゃいけない」

 

 トーキョーが赤白い宝石を握り込む。おそらくそのままあれを潰してしまえば、彼の言う通りこの世界の崩壊が起こるのだろう。そうしたら後は、紫の能力で心の中から脱出して、フランの力でこの世界ごと彼を破壊するだけ。それでレーツェルを救える。

 救える? 本当に?

 彼女にとって大切だったかつてのものを全部捨てさせて、本当の意味でレーツェルを救える。私はそう、本気で信じている?

 私が救いたいのは――――。

 

「じゃあ、やるよ」

 

 気持ちが固まり切らぬまま、トーキョーのそんな言葉に意識が引き戻される。

 心臓が鼓動を打っていた。

 それから、トーキョーの手にしていた小さく赤白い宝石が、彼が力を入れると同時に一気に砕け散った。

 その瞬間、視界が揺れる。音が惑う。この世界に来た直前のような、すべてがぐちゃぐちゃに混じり合う感覚が訪れる。

 頭の中に情報が、感覚が、感情が溢れ返った。

 でも、嫌な感覚ではない。

 これは、なんだ?

 小さいけれど、すべてを包み込むような温かい記憶。

 私の中に入ってくるそんな異物へと、注意を向ける――。

 

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 夢はなかった。生きることに目的なんてなかった。

 そして、きっと大部分の人間が自分と同じで、ただ流されるままに心臓を動かしているだけだとも理解していた。

 学校に行って、友達といろんな話をして笑い合って、授業を受けて、家に帰って。

 いつだって勉強をするのを嫌に思っていて、それでも将来のためだと言われてがんばって、その他にもいろいろな不満を毎日抱え続けていて。思春期だったせいで唐突に憂鬱になってしまう時もあったのを覚えている。

 なにかと心の中で不平を吐き続けていた。だけれど、その日々が充実していたことに、過ごしていた日常が幸せだということに間違いはなかったように思う。

 家族に愛されて、友達とバカやって、勉強や運動に打ち込んで。

 どこかで、大切なものは失ってから気づくものだというセリフを聞いたことがあった。その時は「へえ」とただ流すだけだったそれが、すべてがなくなってしまってから、ようやく実感できるようになった。

 

 ――そ、そうだ。これを聞いて落ち着くんだ。レーツェル・スカーレット、それがお前の名前だぞ。

 

 一人の男性が思い浮かぶ。父であって、父ではない者の、赤ん坊を安心させるための言葉が頭をよぎる。

 違う。違うんだよ。俺は、違う。俺の名前は、そんなんじゃない。俺の父親は、あなたじゃなくて。

 

 ――はいはい、お母さんはここにいますよー。

 

 一人の女性が思い浮かぶ。母であって、母ではない者の、赤ん坊を愛する感情がこもった言葉が頭をよぎる。

 違う。違うんだ、俺は。俺はあなたの子どもじゃない。俺の母親は、あなたじゃなくて。

 

 ああ、ごめんなさい。

 こんな紛い物の魂が娘の中に入り込んでしまったことが、二人に申しわけない。

 胸が痛い。痛くて痛くてしかたがない。泣き叫んで、堪え切れない感情を吐露しても、それでもなにも変わらない。

 新しく手に入れたものは俺のものなんかじゃなくて、俺とはなんら関係ない別の他人の人生のもの。

 なにもかもを受け入れてしまえば楽になれるかもしれない。別人でも構わないと、開き直ることができれば楽になれたのかもしれない。でも、すべてを失ったばかりの俺の脆弱な心では、なにも為すことができない。

 痛みが引かない。毎日毎日、何日経っても何十日経っても痛いまま。

 泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、また泣いた。

 前世の両親の顔が頭に浮かぶ。中学に上がってからは遊んでばかりじゃいけないと叱ってきて、定期的に勉強させられるようになって、ちょっと不満だった。それでもいい点数を取った時は褒めてくれたし、休みの日は一緒に旅行をしたりした。

 前世の友達の顔が頭に浮かぶ。最初に出てきたのが腐れ縁の顔だったのが癪だった。ゲームで遊んだり部活に勤しんだり、たまに一緒に先生から怒られたり。二人組作ってー、なんて言われた時は、互いに口に出さずとも毎回一緒に組んだりした。

 他にもいろいろある。そしてその全部が全部、かけがえのない大切な記憶――そのはずなのに。

 今の両親の愛や心配を通して、まるでその記憶のすべてが嘘だったと嘲笑われているかのようだった。お前はそんなところには最初からいないんだと、最初から別人だったのだと、彼らと向き合うたびに突きつけられる。

 俺はいったい、なんのために。

 大切な記憶だから、忘れたくない。でもそれと同時に、こんなものがあるからいけないんだと胸が張り裂けそうなくらいに痛み続ける。

 どうにもならない板挟み。なにをしようにしても、なにも為せやしない幼子の体。

 孤独だった。

 孤独という言葉の本当の意味を、理解してしまった。

 今日も、いつまで経っても痛みは消えない。

 死ねもしない。

 

 ――あー、えーっと……よ、よしよしー……?

 

 気づいた時、慣れない手つきで、二歳とちょっとという見た目にしか見えない幼児が俺を抱えていた。

 首を傾げる。

 なんだろう。ただ漠然と、なにかを不思議に思う。

 それからなんとなく、手を伸ばしてみた。手を繋ぐ。そうしたら彼女は、嬉しそうに笑う。

 その途端、どうしてか、自分がとてつもなく情けない存在に思えてきた。

 心の底から、この幼児へとごめんなさいと謝りたくなった。

 生まれてきてしまってごめんなさい。俺なんかがこんなところにいて、ごめんなさい。

 俺のせいで、彼女へ向かう両親からの愛を少しでも奪ってしまう。こんな小さな子の人生までも、俺は狂わせてしまう。

 こんな、ニセモノが。

 

 ――じつはね、いもうとがほしいっておもってたのよ。だから、あなたがうまれたってときはうれしかったわ。

 

 どこまでもつたない言葉。嘘なんて吐けるはずもない、純粋な心からの気持ちの吐露。

 ねぇ、どうして?

 俺は紛い物だよ。俺は偽物だよ。

 なのに、どうして君は、そんな風に嬉しそうに笑えるんだ?

 俺のことを煩わしく思っているんだろう? 俺のせいで両親からの愛が向けられないことに、不平を感じているんだろう?

 知っている。君はいつも俺に対しては笑っているけれど、俺が見てないフリをしている時は、ふいと不満そうに口を尖らせる。

 もっと醜いところを見せてくれていい。もっと俺に鬱憤をぶつけてくれていい。

 それだけのことをされる過失が、俺にはある。そのはずなのに。

 どうしていつも、俺が見ているところでは笑顔を浮かべている? どうしていつも、そんな幼い心で俺なんかを慈しんでくれる?

 俺にはそんな価値、微塵もありはしないのに。

 

 ――どう……して……?

 

 初めて会ってから、どれだけ経ったか。

 自分がすでにしゃべれるようになっていると気づいて、俺が初めて口にした言葉は、そんなものだった。

 両親の名前じゃない。姉の名前じゃない。ただただ、疑問を問いただすためだけの問いかけ。

 両親に愛を向けられておきながら、薄情者だと自嘲する。

 こんなに姉に迷惑をかけておきながら、どこまでもどうしようもないと自身を嘲笑う。

 姉は目を瞬かせていた。俺以上に、不思議そうにしていた。

 どうして。俺はたったそれだけの意味のない質問の果てに、いったいどんな『答え』を欲していたのだろう。

 見当違いの回答? それとも、彼女から不満をぶつけられること?

 なにも欲していなかったのかもしれない。ただ、痛みに耐えられなかっただけで。

 主語も述語もない俺からの問いの内容を、姉は理解できなかったのだろう。ずいぶんと困惑したように顔を歪ませて――しかしそうしながらも、彼女は、当たり前のことのようにそれを口にする。

 

 ――いもうと、だから?

 

 なんだ、それ。

 その返答を理解するのには、十数秒ほどの時間がかかった。

 妹だから。彼女は確かに、そう言った。

 見つめる。すると姉は、きょとんとした顔で俺を見つめ返した。

 わからない。

 妹だから、不満をぶつけないのか?

 妹だから、いつだって笑いながら構ってくれるのか?

 妹だから、泣いているとなぐさめてくれるのか?

 

 ――あ、わたしはあなたのあねの、レミリアよ。おぼえておいてね。

 

 そうやって胸を張る姉を見て、思う。

 あぁ、これは、本気だ。

 妹だから。本当にただそれだけの理由で、俺を受け入れてくれている。

 こんな幼児が血縁関係を理解しているとは思えない。こんな幼児に家族とそれ以外の区別がついているとは思えない。

 だからきっと、他に理由なんてなんにもなくて、ただ自分が年上だからと、彼女はそれだけの理由で優しくしてくれているのだろう。

 ただ単に見栄を張っているだけ。年下に、年上の自分をよく見せたいだけ。

 子どもだ。見た目通りの。

 それがなんだかおかしくなって、少しだけ、笑う。

 そしてそれに驚く。

 転生してから、初めて笑顔を浮かべた気がした。初めて、泣き顔以外を浮かべたことを意識した気がした。

 口を開く。

 

 ――えみ、れあ。

 ――レミリアよ、レミリア。

 ――れみえあ。

 ――レ、ミ、リ、ア、よ。

 ――れみりあ。

 ――そうそう。

 ――れみりあ、おねえさま?

 ――ええ。

 

 全部、正しく理解していた。

 彼女は俺に不満を抱いている。両親の愛を取られていることを煩わしく思っている。

 害しか及ぼしていない俺みたいな存在にいい感情を抱いてるはずがない。それもまた当たり前のことだ。

 彼女の態度は全部嘘――自分をよく見せたいだけ。見栄。そう、単なる虚栄心。

 理解して、それでも確かにその時、俺はそんな虚勢に救われた。

 この気持ちを、人はいったいなんと呼ぶのだろう。

 わからない。でも敢えて言葉にするのなら、それはきっと恋であり、憧れだった。

 ほんの少しだけ、胸の痛みが引いた気がした。

 もちろん完全になくなったわけじゃない。こんな三歳にも満たない幼児に、見栄ばっかり張っているような幼子に、心のすべてを依存させられるはずがない。

 だから、俺も見栄を張ろうと思った。

 彼女の見栄が俺の心を救ってくれた。だから、俺もまた見栄を張る。

 きっともう、俺は大丈夫だ。

 どんなに壊れそうになっても、どんなに泣きそうになっても、俺には誰よりも頼れる姉がいる。誰よりも尊敬できる姉がいる。

 単なる見栄でも、勘違いだってわかっていても、構わない。

 それでも信じる。

 

 ――れみりあおねえさま。

 

 見てみたい。

 ふと、そう思う。

 俺が恋をした彼女の人生を、俺が憧れた彼女の描く未来を。

 この先に歩む軌跡を、この目で見てみたい。この足で一緒に歩んでみたい。

 そのことに理由なんてなかった。

 強く、強く、前世でも抱いたことがないくらい強く感じた。

 ただ、それだけ。

 悲しいこともあるだろう。苦しいこともあるだろう。辛いこともあるだろう。

 でも、きっと彼女なら、どんな時だって見栄を張って、いつかは本当に乗り越えてしまうような気がした。

 それもまた勘違い? いや、きっとそれだけは間違いない。

 どうしてそんな、迷いもなく信じることができるのか。

 どうしてそんな、安心して心を預けることができるのか。

 その『答え』はなによりも簡単で、単純で、簡潔にすべてを表す。

 だって、彼女は俺の姉で、俺は彼女の妹なんだから。

 

 ――だいすき。

 

 少しずつ。少しずつでいい。

 まだ完全に決別はできていない。でも、ほんの少しずつ、今の人生を受け入れて行こう。

 これからもたくさん泣くかもしれない。これからもいっぱい迷惑をかけてしまうかもしれない。

 でも、どんな時だって明日は泣かないって決めて、見栄を張って。

 いつかはそれを本当にしてしまおう。

 

 ――……ええ、わたしもあなたのこと、だいすきよ。

 

 嘘だ。心がこもってなさすぎる。

 あからさますぎて、笑った。

 でも、いつかはそれも本物になるのかな。

 ……本当にしてくれると、いいな。

 今は勘違いでもいい。単なる虚栄でも構わない。

 甘えよう。でもいつの日か、全部の障害を乗り越えて。

 生まれた時から好きでしたって、そんなキザなセリフでも吐こうかな。

 

 ――レミリアおねえさま、だいすき。

 

 そんな言葉を再度吐いて、もう一度笑みを浮かべる。

 ありがとう。

 胸の痛みもなにもかも受け入れて、感謝の念を心に浮かべながら、ただただ純粋に笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 空にヒビが入り、音を立てて崩れ落ちる。色のない外側が顔を出し、徐々に世界を侵し始めた。

 どこもかしこも吸い込まれるかのごとく剥がれ落ちていく。呆気なく、すべてが幻であったかのように。

 

「さぁ、つまらない童話の終わりは見えた」

 

 トーキョーが空を見上げ、どこか寂しげに呟いた。『一番大事な思い出』を砕いた影響からか、彼の片手は周りの景色と同じように色が失われている。

 徐々にそれも広がって、彼を覆い尽くして消し去ってしまうに違いない。そしてその時こそ、彼の目論見通りレーツェルの心が二つに分かれるということなのだろう。

 

「さとり! こいし! 早くこっちに来なさい! さっさとここから出ないと巻き込まれるわよ!」

 

 紫のそんな叫び声に、慌てたように二人がこちらに駆けてくる。

 それとすれ違うように、私は足を進めた。

 背後から紫の静止する声が聞こえてくる。皆が驚いている気配が伝わってくる。

 関係ない。

 レーツェルの心が私の中に流入してきた。彼女の『一番大事な思い出』が、その記憶のクオリアが流れ込んできた。

 彼女がどれだけ私を好きでいるか。彼女がどれだけ私を信頼しているか。彼女がどれだけ私に憧れているのか。

 溢れるほどに。

 わかっていたはずだろう。救うべきはいつだって一人だった。

 理解したはずだろう。彼女を本当に救うということが、どういうことなのか。

 だからこそ、伝えなければならない。今ここで、宣言しなければならない。

 でなければ、私が納得できない。してはいけない。

 トーキョーと名乗った少年の前に立つ。彼は、不思議そうに私を見下ろした。

 早く紫のもとに行け、と。ここにいたら危ない、と。

 口を開きかけ、そんなことを吐こうとしただろう彼を遮って、強く見つめ返した。

 

「さっきから言いたかったんだけど、今は背が高いからって、この私を見下ろしちゃダメよ」

「は……?」

「あなたは私の妹なんだから、私より背が高くちゃダメ。それから勝手に私を守るためだとか言い出すのもダメ。だって、それであなたが傷ついてたら意味ないんだから」

 

 トーキョーに――背が高くなって性別が変わっちゃってるだけのレーツェルに、私はそう告げた。

 彼は五秒くらい目をぱちぱちとさせて呆けていた。私はその間に彼の腕を掴んで地面に膝をつかせて、身長を自分より下に押さえる作業をする。

 うん、これでいい。

 満足そうに胸を張ってみせると、彼はおかしそうに――それでいて本当に嬉しそうに、笑った。

 

「ああ、ごめん」

「わかればよろしい。それじゃ、私はもう行くから……しばらく一人にしちゃうけど」

「いいって、そんなの。俺だって、君と何百年も一緒にいたんだ。それくらい我慢できる」

「そう? 本当に?」

「はは、そうやって過剰に心配するのは俺の役目だったはずだけど……やっぱり妹は、姉には逆らえないってことなのかな」

「当然よ。おこがましいわ」

「これは手厳しい」

 

 気づけば、もはや世界は完全に崩れ去って、残ったのはこの橋だけになっていた。

 背を向け、紫のもとに足を進める。そろそろ出なければ本当にやばそうだ。

 でもその途中、ちょっとだけ振り返る。

 

「また会いましょう」

「見栄かな」

「本当よ」

「じゃあ、期待してる」

 

 彼ももうそろそろ、形を保っていられないようだった。

 紫は戻ってきた私を責めるように睨んでくる。私はただ、ふてぶてしさを装って鼻で笑った。

 

「行くわよ。レーツェルを救いに」

 

 見栄を張った。だから、それを本当にしに行かなくてはならない。

 レーツェルはそうなることを信じている。疑うことも知らず、誰よりも私を信じてる。

 だったら迷う必要なんて最初からないじゃないか。

 足元に、外界へと通じる境界の隙間が現れた。それに落ちながら、もう一度彼の方に視線を向けてみる。

 私にはただ、そこに一人の少女がうずくまっているように見えた。

 拳を強く握る。

 まだ、運命を操れ。

 道筋は見えた。そしてその上で、それから逸れてみせろ。レーツェルを助けてみせろ。

 できるはずだ。私なら。レーツェルが信じる私なら――私とフランなら。

 ――レミリアおねえさま、だいすき。

 ――お姉さまが、大好きだから。

 ずっと昔から変わっていない、彼女の本心。それはどうして生まれた?

 全部、守ってみせろ。

 見栄を張れ。そして、本当にしろ。

 そう、心に誓う。

 ぐにゃぐにゃと歪んだ空間を通り抜け、私たちはフランの部屋へと帰還した。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一〇.Selbstsucht

 Sie hat eine ältere Schwester geliebt.
 ――彼女はただ、姉のことが大好きだった――――。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Frandre Scarlet □ □ □

 

 

 

 

 

 呆気ない。

 どこまでも冷めた感情で、私は世界を眺めていた。

 新しく置かれた人形を見る。なんの変哲もない、館の外に住むという動物の人形。

 手に取った。ただそれだけで、綿をまき散らして飛び散った。

 呆気ない。

 少しだけ遠く、手が届かない位置に今の人形の頭が飛んで行っていた。

 いちいち動くのもめんどうだ。

 右手をただ、握り締める。ただそれだけで、人形の頭は原型を留めぬほど細切れに爆散した。

 呆気ない。

 なんて、脆い。

 手を下ろす。破片となり散らばったモノの中で、ぼーっと宙空を見つめる。

 そうして漠然と、ただただ不思議に思っていた。

 こんな世界に、いったいどんな意味があるというのだろう。

 こんな世界に、いったいどんな価値があるというのだろう。

 落胆ではない。失望でもない。それは、なにもかもが脆すぎるがゆえに、どこまでも純粋な疑問。

 どんなものも、私が触れるだけで壊れてしまう。どんなものも、私が右手を握り込むだけで潰れてしまう。

 望む望まないにかかわらず、いつだって。

 だとすれば、私にとっての世界とはいったいなんなの? 世界にとっての私とはいったいなんなの?

 きっとその気になれば、気に入らないものなんて全部破壊し尽くして、すべてを屈服させることだってできる。

 きっとその気になれば、世界に在るものを片っ端から破壊し尽くして、この世の生き物を絶滅させることだってできる。

 それは可能性の話ではなく、確信などという生易しいものではなく、決して変えようのない絶対的な真理だった。

 強さなんて関係ない。弱点なんて関係ない。生きた年月なんて関係ない。

 どんなものも、どうせ私が右手を握り締めれば破壊されてしまう。

 ああ、なんてつまらない世界だ。

 

 ――フラン、今日はなにして遊びましょうか。

 

 一人の吸血鬼が、私の姉だという少女が部屋に入ってきた。

 姉は二人いるが、その二人は少しだけ特別だ。彼女たちはそこらの道具と違って、私が触れても壊れることはない。私が望まなければ、ずっとそこで形を保っている。

 でも、結局は同じだ。

 右手の上を意識する。そうしてそこに、私の方にやってきた少女の物質としての目があることを把握する。

 ほんの少し丈夫だから、私が触れても壊れないから、だからなんだというのだろう。

 どうせ壊れる。どうせ壊せる。

 この手を握れば、そこらの道具と変わらず呆気なくその命を散らしてしまう。

 等しく無価値だ。

 さっき壊した人形も、触れては原型を留めずに破壊されていく道具も、この少女の命も、この世界そのものも。

 私に破壊できないものはない。なにもかも、望めば、必ず壊れる。

 

 ――また壊しちゃったんですか。

 

 周囲の影が操られ、散らばった綿が取り込まれていく。

 この姉がそれを行っているらしい。私が壊したものの残骸の後処理を、いつもこうやってこなしてくれる。

 それから。

 

 ――はい、片づけ終わりです。なにして遊びます?

 

 ほら、これだ。

 なんにもなかったみたいに、こうやって話しかけてくる。最初から問題なんてなにもないかのごとく、こうやって語りかけてくる。

 同じくせに。どうせ他のなにもかもと一緒で、私が望めばすぐに壊れちゃうくせに。

 怖がれよ。

 もう一人の姉は、少なからず私の力を恐れている。私という存在そのものは忌避してはいないみたいだけど、なんとなくわかってしまうのだ。

 どこまでも心が冷めている時。機嫌が悪い時。不意となにかを壊したくなった時。そういう都合の悪い時に限って、もう一人の姉は私のそばにはいない。まるで私に誤って壊されてしまう偶然を支配しているかのように、壊してみようかと少しでも考えてみる時は絶対にいないのだ。

 だからきっと、私にはもう一人の姉を壊すことはできないのだろう。

 けれど、そんなことはどうでもいい。

 いくら偶然を操作しようと、私が右手を握り締めれば壊れてしまうという事実は変わらないのだから。

 彼女もまた、無価値だ。

 

 ――これで、遊ぶ。

 

 今日はちょうど、そういう『なにかを壊したくなる時』の気分だった。

 だからもう一人の姉が来ない。だから、いつも無表情な方のおかしな姉が来た。

 単なる気まぐれだった。

 特にキッカケもなく、なんとなくやってみようかと考えただけ。でも他にすることがなかったから、そうする。

 近づいてきた姉を押し倒した。そしてその上に馬乗りになる。

 こんなことをしても表情を変えない少女の首に、手を添えた。

 力を込める。人形なら呆気なく飛び散ってしまうくらいの力で、その首を床に押しつける。

 

 ――お姉さまで、遊んであげる。

 

 望まなければ壊れない存在は、どうせ二人いるんだ。片方だけいなくなったって、構わないだろう?

 力を強める。強くして、強くして、強くして。そうしていくと、少女の顔が段々と青くなっていく。血が回らなくなったから?

 なんでもいい。

 壊れろ。壊れろ。さぁ、壊れてしまえ。

 そう望んだ。私が望んだ。その時点で、この少女の運命は決まっている。

 あぁ、丈夫だな。まだ形を保っていられるんだ。さすが私と同じ種族だ。

 でも、あとどれくらいで壊れるのかしら。

 一秒後、五秒後、一〇秒後? それとも、もっと後?

 楽しみだなぁ。

 

 ――こう、いうのが……好み、なん……ですか?

 ――ええ。だから、壊れてよ。

 

 ぐちゃぐちゃに。原型がわからなくなるくらい、滅茶苦茶に。

 少女はまったく抵抗をしなかった。なにもしようともせず、どこまでもぼんやりと自分の首を締める私の手を見つめている。

 そんな反応を見て、少しだけ、胸の内から変な感情が溢れてきた。

 自然に目元がぴくりとしてしまうような、腕に込める力を無意識に強めてしまうような、どうして思うようにならないと暴れたくなるような。

 苛立ちだった。

 もっと怖がってくれると思っていた。もっと抵抗してくれると思ってた。

 そうして私は、そうやって泣き叫ぶ姉を壊そうと考えていたのだ。

 それなのに、なんだこれは。なんなんだ、この反応は。

 

 ――じゃあ……しかた、ない……ですね。

 

 イラつく。どうしようもないくらい、胸の内に苛立ちが溢れ返る。

 どうして受け入れる? どうして怖がらない?

 どうしてそんな優しい目線で私を見つめるんだ。どうしてそんな、わがままを言う子どもの願いを聞き入れたような。

 怖がれよ。痛がれよ。私を、忌み嫌えよ。

 両手で首を絞めていたから、そのうちの左手を離す。でも、右手の力は緩めない。むしろ一層強めたまま、左手で目の前の少女の右翼を掴んだ。

 翼膜がない、骨組みしかない未完成で不格好な翼。

 ニヤリと笑って、それを引きちぎってみせた。

 血が溢れ出る。押しつけられた背中側から大量の赤い液体が流れ出て、その青と白の姉の服を染め上げていく。

 さぁ、どうだ? 今度こそ、恐がってくれる?

 そんな風に思いながら少女の顔を見つめた。けれどそれは、ただただイラつきを増させるだけ。

 変わらぬ無表情で、変わらぬ慈しみが込められた優しげな瞳で、彼女は私を見据えている。

 なんなんだよ。わけがわからない。

 恐ろしいはずだろう? とてつもなく痛いはずだろう?

 拒絶しろよ。私ごと死を忌んで、嫌って、憎んで、苦痛に顔を歪めろよ。

 やめろよ。やめてくれ。お願いだから。

 そんな目で、私を見つめないでよ。

 

 ――フ、ランが……わた、しを……本当に、壊したいなら……しかた、ありません。

 ――なによ、それ。

 

 イラつく。イラつく。ああ、どうしてこんなに胸の内で暴れ狂う。

 こんなつもりじゃなかったのに。もっと私は、諦観にも似た気持ちで。

 諦観?

 なにを諦めていた? 元々私はなにを、望んでいた?

 知らない。知りたくない。

 こんなの、全部嘘だ。

 さっさと壊してしまえ。きっとそうすれば、楽になれる。

 

 ――わ……たしには……それ、だけのことを……される、過失を……犯し、て、きました。

 

 そんなことを言われて、ギリッと、無意識のうちに歯ぎしりをしていた。

 嘘だ。やっぱり全部、嘘じゃないか。

 過失だって?

 違う。なにもかも違う。

 こんなことをされるくらい、私なんかに破壊されるくらい、あなたの価値は低くないじゃないか。

 無価値なんかじゃない。

 私が、なにもかもが自身の心の持ちようで壊れてしまうと知った時、喜びも悲しみも壊れ失せて無に浸りかけた時、いつもあなたがそばにいてくれた。

 何度だって私はあなたを壊そうとした。何度だって右手を握り締めようと、その一歩手前までやってきた。

 あなたが持ってきた遊び道具は全部壊した。もらった人形も全部壊した。

 あなたはいつも、そんなこと欠片も気にしないで私の隣にいてくれた。

 ――本当は、あなたの備える能力なら、私の破壊を無効化できるんだろう?

 知っていた。だからこそ、こんなにイラついている。

 お願いだから、抵抗してよ。恐がってよ。力を使ってよ。

 そうすれば、私はきっと涙を流すことはなくなるのに。涙を枯らすことができるのに。

 物だけじゃなくて、人の心だって、私の右手の上にあるって証明できてしまうのに。

 否定してよ。私のことなんか、認めないでよ。

 私には無価値にしか見えない世界で、きっと私自身が一番無価値だっていうのに。

 なんにも創ることなんてできなくて、なにかを壊すことしかできないような私が、この世で一番余計なものだっていうのは。

 そんなこと、本当は最初から全部わかってたのに。

 

 ――おねえ、さまは……。

 

 もうなぜか、手に力が入らない。

 体を動かす気も起きなくて、少女に馬乗りになったまま、呆然と口を開いていた。

 

 ――どうしていつも、こんなどうしようもない私に、こんなに優しくしてくれるの?

 

 気づいた時には、雫が頬を伝っていた。その理由はわからない。それを拭う気も起きない。

 もうなにもかも、どうでもよくなってしまった。

 姉の破壊も、荒れ狂っていた苛立ちも、救いようのない私自身への思いも。

 無価値だ。

 なにもかも、どこまでも。

 

 ――それは、ですね。

 

 私の頬に、なにか温かいものが触れた。

 私に首を絞められていたからだろう。少女の手は力も入らず、震えている。

 それでもそれを伸ばし、私の代わりに、私の涙を拭ってくれた。

 代わりに血がついてしまう。引きちぎった翼の根元から流れ出て、少女の手についた血が、私の頬についてしまう。

 この少女は、そのことに気がついているのだろうか。

 いや、きっとわかっていない。この少女が進んで私を汚したりなんて考えるわけがない。

 少女の意識が朦朧としているのが見るだけでわかった。きっと、首を長く強く絞めすぎたのだろう。

 それでも彼女は直感で私を泣いているのだと悟って、それを拭ってあげたいと、必死に手を伸ばしてくる。

 そんな少女から目を離せず、じっとその顔を見つめていた。

 ゆっくりと彼女の口が開き、変わらぬ優しげな声音で、私に質問の『答え』を告げる。

 

 ――私が、あなたの姉で……あなたが、私の妹……だからです。

 

 その時、少女の口元が少しだけ微笑んだように見えたのは私の気のせいだったのだろうか。

 姉の手が落ちる。私の頬を流れる雫を拭っていたそれは、ばちゃりと音を立てて大量の血の中に沈んでいく。

 完全に意識を失ってしまったようで、目は閉じられ、その顔はどこか穏やかに眠っていた。

 わけがわからなかった。なにもかも理解できなくて、だから、さきほど以上に涙が瞳から零れ出る。

 自分が姉だから。私が妹だから。

 わかんないよ。なによ、それ。たかがそれだけの理由で、あなたはずっと私の隣にいてくれてたの?

 さっきまで殺されかけてたっていうのに、たかがそれだけの理由で、そんな心の底から安心したような顔で眠ることができるの?

 涙が止まらない。嗚咽が止められない。

 頬に手を添える。そこには、少女の手から移った血がついていた。

 口に含んでみる。

 どうしようもなく、温かい味がした。

 その瞬間、なんとなく、なにもかもが脆く呆気ないと塞ぎ込んでいたはずの心が、すっと澄み渡っていくような気がした。

 どうせ手に入らないと諦めていながらも、これまでずっと望んでいたなにかが、胸の内から全身へ染み渡っていくような感覚がした。

 もう大丈夫だ、と。

 ずっと不安だったはずの思いが、温かく優しい別の思いに包み込まれていく。

 

 ――うぅ、ひっぐ……ごめ、ごめん……なざい……。

 

 血まみれな少女に縋りついて、泣きわめいた。

 壊したくない。

 初めて、そう思った。

 壊されないための手段がありながら、それをせず。たくさん怨んでもいいことをしたはずなのに、姉だからって、私が妹だからって、いつだって全部を簡単に受け入れてくる。

 こんなどうしようもない私の頭を撫でてくれる。いつだって寂しい時はそばにいてくれる。

 壊したくない。私にも、他の誰にも、壊されたくない。

 この世のすべてのものの目は私の右手の上にある。私が望む望まないにかかわらず、なにもかもはいずれ壊れゆく。

 それはこの少女も、そして私もまた、きっと例外ではない。

 だったら、もしかしたらだけど、本当に低い可能性だけれど――ほんの少しくらいは私にも価値があったりするのかな。壊すことしかできない私でも、誰かに受け入れてもらえる価値くらいはあるのかな。

 私にはわからない。でも、そうなりたいと思った。

 焦がれたんだ。

 どんな時でも姉だからなんてバカげた理由で変わらぬ気持ちで私に接してくれる、小さな少女に焦がれたんだ。

 強く、憧れた。

 明日からはもっと自分に正直になってみよう。いつも私に構ってくれる小さな女の子に、心の底から謝ろう。

 それから、目一杯遊んでもらうんだ。

 泣いて。それから、笑う。

 笑みを忘れたわけではなかった。でもなんとなく、心の底から嬉しさが溢れ出たような笑顔は、本当に久しぶりに浮かべることができた気がした。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 天蓋つきのベッド、ベッドサイドテーブル、ぬいぐるみや人形などが飾った扉つきの棚に、小さな机とイス。それらから少し離れたところに、魔法の研究用に巨大なテーブルとイスが用意されている。

 一人で過ごすぶんには大きすぎる部屋を照らすため、シャンデリアはかなり大きいものが採用されている。それでカバーし切れないところを明るくするためにも、壁にもランプが設置されていた。

 紫に突然わけのわからない灰色の世界――お姉さまの心の世界とやらに連れて行かれてから、しばらく。お姉さまの前世だというトーキョーとの対話を終え、私の部屋に戻ってきた。

 

「か、っ……は、ぁ……!」

 

 呻くような声に顔を上げる。水色の宝石の破片が散らかる中、壁に背を預けたまま、お姉さまが苦しげに胸を押さえていた。

 息ができないのか、酸素を求めるように口を大きく開く。胸を力強く掻き毟る。それでも苦しみは治まらないらしい。苦痛を押さえるように丸くなり、縮こまり、目を力一杯に閉じていた。

 

「ったく、ようやく戻ってきたのね!」

 

 そんな声に目線をさらに上へ移動させると、空を飛んでいる霊夢が息を荒くしながらも札を構えている姿が目に入る。

 辺りを見渡してみれば、あちら側の世界に行く直前に見た光景と同じく、軽く一〇〇は越えるだろう数のお姉さまの形をした人形で部屋中が敷き詰められていた。霊夢以外の面々はすべて床に体を押しつけられ捕らえられているようで、満足に霊力や妖力などの行使もできないようである。

 だが、本体である本物のお姉さまに異常が発生した影響か、すべての人形の動きに鈍りが見え始めた。

 その隙を突いて、紫やレミリアお姉さま、さとりとこいしとともに捕らわれていた人妖を解放する。魔理沙、咲夜、鈴仙、ルーミア、パチェ、美鈴。誰も一切怪我をしていないところから、お姉さまに私たちを害する意思がないことが改めて窺える。

 

「霊夢、私たちがいなくなってからどれくらい経っているの?」

 

 紫の質問に、霊夢が考え込むように顎に手を添える。

 

「……三分ってところかしら」

「なるほど、やっぱりね」

「やっぱりって?」

「あの子も、早く誰かが自分を助けてくれることを望んでるってことよ」

 

 お姉さまの心の世界で過ごした時間は間違いなく数時間ほどはあった。意味不明なことに、こいしがトーキョーに頼み込んで心の中の世界を巡り始めたからだ。

 ただそれでも、こいしのおかげで核を見つけることができたことは間違いないのだから、文句を言うことはできない。というか現実世界では三分しか経っていないみたいだから、あれくらいは誤差の範囲として処理できるだろう。

 紫が、私の方に視線を送ってくる。準備はいいか、と。

 彼女はトーキョーに言われた通り、お姉さまの心における精神と物質の境界を操るつもりなのだろう。そしてその後のことはすべて私次第。だから私に任せてもいいか、と、そう問いかけている。

 迷う理由はない。お姉さまを救うためなら、なんだってする。そう決めたのだから。

 頷いてみせた私に、紫もまた満足そうに首を縦に振った。

 

「霊夢、これからレーツェルを救うための策の最終段階に入るわ」

「最終段階? 戦うってこと?」

「そうですが、違います。あなたは他の皆と一緒に、レーツェル・スカーレットの人形から私とフランドール・スカーレットを守りなさい。そうすれば全部こちら側で解決してあげる。時間はほんの数分で構わないわ」

「軽く言ってくれるわね。たった三分で私一人しか残らなかったって言うのに」

「心が割れて、あの子自身が苦しんでる今なら人形どももかなり弱体化しているはずよ。きっと全力でやればそう難しいことではない」

「はぁ、そうかしらね。ま、やるだけやってやるわよ。ここまで来たら、あいつを連れ戻すために最後まで全力を尽くしてやるわ」

 

 相談するまでもなく、霊夢の意志に反対する人妖はいないらしい。少しでも可能性があるのならと、私と紫にすべてを委ねてくれるようだった。

 人間も妖怪も関係なく、ただ一人の少女のために。

 中級妖怪程度は軽く超えるものの、吸血鬼としてはずいぶんと鈍い素早さでお姉さまの形をした人形が襲いかかってくる。数は何百といるらしいそれも、今は一気に動くことができる数が限られているみたいだった。

 これくらいなら余裕だと言わんばかりに、霊夢や魔理沙が霊力や魔力の弾幕で応戦する。しばらくは本当に大丈夫そうだ。

 

「ゆ、かりん……あな、たは……いったい……なに、を……!」

 

 胸を強く押さえながらのお姉さまの問いに、紫はすっと片手を彼女の方へ向け、答えた。

 

「あなたが誤魔化し続けてきた本心に、助けてって言われた。ただそれだけよ」

 

 紫の力が行使される。莫大なまでの妖力が溢れ、一つの現象を為そうと集い、発揮する。

 境界の妖怪。隙間さえあれば、他人の心の中にさえ入ってしまえる大妖怪の強力なまじないが、お姉さまにかけられた。

 その途端、理解する。

 私の右手の上に新たな目が二つ現れたことを理解する。

 紫が確認の視線を向けてくるので、こくりと、準備の時と同じように頷いてみせた。

 一つ、深呼吸を。

 そうして、ゆったりと右手を顔の前まで持ってきた。

 新たに追加された二つの目。そしてその二つのうち、『前世の記憶』に当たるものを選別する。

 生まれ持って、ずっと付き合ってきた能力だ。どれがどの目なのかは、すぐにわかった。

 他の目はどけた。だからあとは、この手を握り締めるだけ。

 

「……お姉さま」

 

 うずくまり、心の痛みに喘ぐお姉さまを見ていると、なぜか唐突に、これまで彼女と過ごしてきた記憶が頭の中によみがえってきた。

 お父さまと義理のお母さまを壊してしまった時のこと。いっぱい遊んでくれるって指切りげんまんしたこと。

 なにもかもが嫌になって、なにもかも価値がないって塞ぎ込んで拗ねてた私の隣に、いつまでもいてくれたこと。

 卓球っていう遊びをやろうとしたこと。そのせいで"弾幕合戦"っていう、弾を当て合うだけの遊戯が生まれたこと。

 魔法を教えてもらったこと。ものを壊さないようにするために、私から頼み込んで力加減の特訓を始めたこと。

 特訓で目に見える成果が出た時のこと。クマのぬいぐるみをプレゼントしてもらったこと。

 あのぬいぐるみは今でもベッドの脇において、私の宝物になっている。

 幻想郷に来て、館を保護する魔法を一緒に起動させたこと。スペルカードルールを教えてもらって、真っ先に一緒に遊んでみたこと。

 とっても可愛らしい服をプレゼントされたこと。お姉さまの血を飲んでみて、いつまでも変わらない温かい味が嬉しかったこと。

 霊夢や魔理沙と邂逅した時のこと。魔理沙に私の至らないところを指摘されて、お姉さまに恩返しがしたいって強く思ったこと。

 館の外に出たいって、わがままを言ったこと。

 一緒に初めて博麗神社にお邪魔した時のこと。霊夢と魔理沙の異変退治についていった時のこと。

 異変の最中、お姉さまの心配を蔑ろにした魔理沙にすっごくムカついたこと。その時のお姉さま、すっごく困った顔してたから、ちょっと申しわけなく思っちゃったことを覚えてる。

 妖精や美鈴が豆まきしてるのを横目に太巻きを食べたこと。レミリアお姉さまに山葵がたっぷり入った太巻きを渡してみたりしたっけ。

 お姉さまが月が変だからってその調査に出かけようとしてた時、留守番を申し出たこと。褒められたのがすっごく嬉しくて、ちょっとだけ血を飲んじゃったこと。

 美鈴と人間の武闘家の勝負を観戦したこと。号外らしくない号外の新聞を読んだこと。

 こいしと初めて会って、いきなり見知らぬ妖怪がお姉さまと手を繋いでたから、なんだかムッとして私ももう片方の手を握ったこと。

 幻想郷に来る前と来てからのお姉さまの違いについて話したこと。博麗神社で霊夢とか魔理沙とか、レミリアお姉さまとかと一緒にお昼寝したこと。

 原因不明の流れ星を右手で壊したこと。その後日、天狗に喧嘩を売るような発言をしちゃって、お姉さまにちょっとだけ怒られたこと。

 お姉さまに勝つための魔法を編み出して、久しぶりに全力で弾幕ごっこで戦ったこと。結局それも引き分けに終わっちゃったけれど。

 カードゲームを教えてもらったこと。鷽替神事とやらで私もお姉さまもつつかれたこと。

 藍から月へ攻め込む話を持ちかけられたこと。それに応じないで次の日は博麗神社に行って、変な兎と話したこと。

 パチェたちが作ったロケットで月に行ったこと。ロケットの中は本当に狭くて、退屈だったこと。

 桃がすごく美味しかったこと。それを一緒に集めたこと。霊夢たちが殺されるのが嫌になって、力を行使してみせたこと。

 目を閉じれば、どの記憶も昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。その時の気持ちを思い返すことができる。

 なにをするにもお姉さまと一緒だった。お姉さまに褒められるのが好きだった。いつか、そんなお姉さまに私がなにかしてあげたいって思ってた。

 大好きなんだ。誰よりも、なによりも。

 たとえお姉さまが本当に好きなのがレミリアお姉さまでも、お姉さまが今までずっとがんばってきたのが、全部レミリアお姉さまのためだとしても。

 私にとってはお姉さまが一番だから。私が今までずっとがんばってきたのは、全部お姉さまのためだから。

 助けたいって思う。助けになりたいって思う。その気持ちには一切迷いがないと、自信を持って言える。

 でも。

 ――君の破壊が、大好きな姉を救うんだ。

 この手を握り締めて、お姉さまの中にある『前世の記憶』を消すことが、本当に正しいことなのか?

 

「……私は」

 

 手が震える。右手を、うまく制御できない。

 トーキョーと名乗った少年が、お姉さまの前世だっていう人間が『一番大事な思い出』を解放した時、そのクオリアが私の中にも流れ込んできた。

 きっと誰もが同じだったのだろう。お姉さまも、さとりも、こいしも、紫も。

 それでも私だけが本当の意味で知っている。彼女が覚えたクオリアに、私だけが共感することができる。

 自分が果てしなく無価値なものに思えた。いっそなにもかもが最初からなければ楽になれるんじゃないかって、何度も思い続けていた。

 自分の存在なんて、むしろ害にしかならないんじゃないか。そもそも生まれてさえこなければよかったんじゃないか。そうやって、何度も自分の心を自分で傷つけ続けた。

 痛くて、痛くて、それでも自分じゃどうしようもなくて。

 私とお姉さまの違いなんて、本当にちっぽけなものだ。

 お姉さまの心を救ったのは、レミリアお姉さまだった。ただ姉だから、あなたが妹だから。それだけの理屈で、だけどそれだけのことだったから、お姉さまは救われることができた。

 私の心を救ったのは、お姉さまだった。ただレミリアお姉さまのやってみせた見栄に憧れて、自分が姉だから、あなたが妹だから。それだけの理屈のために自分を殺しかけた妹だって心の底から大事にして、だけどそれだけにまっすぐな思いだったから、私は救われることができた。

 私がやろうとしていることは、そんなお姉さまの思い出の否定――私を助けてくれたお姉さまの思いの否定。すべての始まりの拒絶。

 それを理解して、だからこそ、思う。

 やっぱり、違う。

 こんなのはしちゃいけない。

 なにが正しいとか、なにが間違ってるとか、なにが『答え』だとか、私にはよくわからないけど。

 嫌なことを全部忘れて前を向くことがダメだとか、偉そうなことは言えないけど。

 お姉さまが感じたことは私も感じたことだった。だから、わかる。

 これだけは、記憶を消すなんてことだけは絶対にしちゃいけない。お姉さまをずっと支え続けてきた、ずっと遠い世界の大切な思い出をなかったことにすることだけは、しちゃいけないことのはずなんだ。

 人間も妖怪も、いくらだって道を踏み外す。私だって何度も間違えた。お姉さまだって何度も間違えた。でも、それをなかったことにする権利なんてきっと誰にもない。

 嬉しさも、楽しさも、悲しさも、苦しみも、すべてがすべて抱いた本人のもの。

 確かにこの世界にとっては。お姉さまの前世なんて欠片も意味がないものだったのかもしれない。心に悲痛を抱えさせるだけの辛い要素だったかもしれない。帽子屋なんて狂気をかぶるためだけの単なる繋ぎだったのかもしれない。

 それでも、その世界で抱いた数え切れないくらいの思いは本物だったはずだ。その世界で受けた家族の愛や、友達との付き合いや、その時に感じた思い出は絶対になくしちゃいけないもののはずだ。

 それを全部否定しようだなんて、それだけはしちゃいけないことのはずだろう。

 すべてをなかったことにしてしまうなんて、それだけはしちゃいけないことのはずだろう。

 だって、そうじゃないと。

 もしも私が生まれ変わったりしちゃった時、お姉さまは私に『この世界での思い出は全部忘れろ』だなんて言えるの?

 私はそんなの、絶対に嫌だよ。

 

「なら、どうするつもり?」

 

 すぐ隣から声がした。今は皆、お姉さまの人形の相手で忙しいはずなのに。

 驚いて目を向けると、そこにはレミリアお姉さまが立っていた。

 どこまでも強い意志が窺える瞳で、じっと私を見つめてくる。

 

「今提示されている方法は二つ。あの子を殺すか、あの子の記憶を壊すか。あなたならきっと、どちらでもできるでしょう。なにもかもを壊すことができる力を持ったあなたなら、どちらでも好きに選択することができるでしょう」

「……嫌だよ」

「選ぶことから逃げるのかしら。どちらかを選ぶことがあの子を救うことに繋がる。でも、どちらも選ばないということは、あの子を見捨てることに繋がる」

 

 わかっている。

 そんなこと、理解している。

 だからこんなにも、手が震えているんだ。

 

「あなたは選ばなければならない。今決めるべきは、その覚悟じゃないの?」

「…………覚悟?」

「ええ」

 

 お姉さまにとってのかけがえのないはずのものを壊してしまうか、お姉さまの感じている悲痛もろともすべてを壊してしまうか。

 前者はお姉さまが生き残る。後者はもしかしたら、本当の意味でお姉さまが救われる。

 でも、私にとっては、どちらも結局は同じことなのかもしれない。

 どちらを選んでもお姉さまを失う。それが心か、体か。ただそれだけの違い。

 目の前に二つ、目がある。

 大好きな人の心か、大好きな人の体か。

 どちらにしても、絶対に私は後悔をする。

 そのくせして、好きな方を壊せだなんて。

 胸の内で世界が選択を迫ってきていた。ふざけた選択肢を提示してきていた。

 

「覚悟、なんて」

 

 ギリッ、と歯を鳴らす。こんなどうしようもない世界の仕組みに、心底腹が立つ。

 違うだろ。

 こんなくだらない選択をするために、私はここまで来たんじゃない。

 私が救いたいのは心も体も、全部を正しく備えたお姉さまだ。私の記憶に残る、頬を伝う涙を拭ってくれたお姉さまだ。

 それなのにその最後でどちらかを捨ててどちらかだけを手に入れるなんて、できるわけがない。そんなこと、してやるものか。

 左手を強く握り締める。

 そうして、決めた。

 両方救ってやる。

 それがたとえお姉さまを見捨てることに繋がろうと、知らない。心も体も失うことに繋がろうなんて、知ろうとも思わない。

 だって、トーキョーは――姿かたちが違うだけのお姉さまは言っていたじゃないか。

 ――気に入らないものを無理矢理ぶっ壊せ。欲望のままに、願望のままに、欲するままに。それができるのがきっと、妖怪って生き物だ。フランドールっていう悪魔なんだよ。

 だったら、いいだろう?

 世界が迫る選択が気に入らない。心と体、どちらかを捨てなきゃいけないって現状が気に入らない。

 私が欲するのは両方を備えたお姉さまだ。優しく頭を撫でてくれて、涙を拭ってくれて、抱きしめてくれる、記憶に残る本当で本物のお姉さまなんだ。

 だから――お姉さまのお望み通り、気に入らないものを壊してやる。

 

「覚悟なんて、知らないわ。どっちかを選べだなんて、知らない」

「フラン」

「どっちかしか救えないって言うんなら、そのバカげた仕組みをこの右手で壊す。それがどっちも見捨てることになるって言うんなら、それだって壊してやる。世界なんて知らない。選ぶことからの逃げなんて知らない。私が救いたいのは、私が求めてるのは、選んで手に入る程度のものじゃない」

 

 口の端を吊り上げる。イタズラが成功した時のような笑みを、意識的に浮かべてみる。

 

「ねぇ、知ってた? レミリアお姉さま。私って、すっごくわがままなんだよ」

 

 レミリアお姉さまが私を試していたことは、わかっていた。

 彼女もまた今のシナリオに満足が行っていない。『前世の記憶』を忘れさせてお姉さまを取り戻すことに納得していない。もっと別の方法を望んでいる。

 そしてそれが、たとえお姉さまを傷つけることに繋がったとしても構わない。

 そしてそれが、たとえお姉さまが本当に望む方法じゃなかったとしても構わない。

 私たちが望む形で取り戻すことができると言うのなら。

 その『答え』がお姉さまを真に連れ戻すことに繋がると言うのなら、お姉さまの意志さえ退けて欲するままそれに食らいつく。

 なんて自分勝手な考え方だろう。でも、きっとそれでいい。

 強い意志を込めた私の視線に、レミリアお姉さまがこくりと頷いた。

 

「じゃあ、やりましょうか」

 

 私の右手の震えを、レミリアお姉さまの左手が押さえ込む。

 それから一緒に、うずくまっているお姉さまへと顔を向けた。

 

「これまで操ってきた運命も、そしてこれからの運命も……すべて乗せるわ。だから、任せたわよ」

「うん。わかった」

 

 これまでのお姉さまがあったのは『前世の記憶』があったからだ。

 彼女に『前世の記憶』があったから、心に痛みを覚えて、それがレミリアお姉さまへの憧れに繋がった。人の好意にどこまでも素直な彼女ができ上がった。姉を慕い、妹を溺愛してくれる次女が完成した。

 そしてそんな彼女だからこそ、私もまた救われた。すべてを無価値に捉えるだけのつまらない生活から脱することができた。

 お姉さまが誰よりも心配性だったから、幻想郷でこれだけの人妖に好かれた。異変を差し置いて、その身と心を助けようとしてくれるような関係が築かれた。

 お姉さまがこれまでずっと抱いてきた悲痛と苦痛は、ほとんどが『前世の記憶』のせいかもしれない。

 でも。

 同時に、お姉さまがこれまでずっと作ってきた関係や思い出の始まりは、いつだって『前世の記憶』にあったんだ。

 

「フ、ラン……」

 

 お姉さまが、苦しげに私を見上げてくる。私が右手をかざしているのを見て、まるでなにかを察したかのように。

 ようやっと救われる――そんな風な感情をたたえた、どこまでも哀しげな微笑みを浮かべた。

 ごめんね、お姉さま。きっと私たちがこれからすることは、あなたが思っているようなことではないよ。あなたの痛みを取り除く行為ではないよ。

 きっと、あなたをなによりも苦しめる。

 でも、どうか乗り越えてほしい。

 いくらでも泣きわめいたっていいから。いくらでも私たちを頼ってくれてもいいから。

 最後にはどうか、笑ってみせてほしい。

 さぁ、始めよう。

 私たちがこれからするのは、お姉さまが自分の気持ちと向き合うのを邪魔してる、本当に余計なものの破壊。

 ずっと暗い海の底。お姉さまを縛っていた鎖じゃなくて、その海そのものの消失。

 それはお姉さまの本心のすべてをさらけ出す、どこまでも残酷で取り返しようのない破壊だった。

 

「ねぇ、お姉さま」

 

 三つ目の目が、右手の上に生まれたのがわかった。

 紫が心における精神と物質の境界をいじり、レミリアお姉さまが五〇〇年にわたる軌跡が込められた運命の変革を引き起こした。

 だからこその奇跡――お姉さまにこびりついた、この世の裏側の力の現出。

 きっとこの一瞬がチャンスなのだろう。もう二度と、これからこれを壊す機会は訪れはしないのだろう。

 でも、一度だけ訪れてくれた。

 笑う。

 あの時、お姉さまが私を救ってくれた時、見せることができなかった笑顔と同じものを浮かべてみせる。

 あの時に伝え損ねた思いを、もう一度。

 ただ一言。

 

「大好き」

 

 右手を握り締め、三つ目の目だけを完全に破壊した。

 周囲からはなんの変化もなく見えたかもしれない。

 けれど、確かにそれはなくなっていて。

 お姉さまが、驚愕に目を見開いた。

 

「これ、は……」

 

 お姉さまの形をした人形がすべて停止する。あまりの驚きの出来事に、もはや術式も維持していられないようだった。

 お姉さまの瞳から大粒の雫が零れる。堰を切ったかのように、何度拭っても止めようがないくらいとめどなく溢れ出る。

 お姉さまが自身の頬に手を添えた。能力を行使して、無表情だって意識して、すべてを止めようとしたのかもしれない。

 でも、無駄だ。

 もうそんな力は、彼女には備わっていないのだから。

 

「お帰り、お姉さま」

 

 ――『答えをなくす程度の能力』が壊された。

 その事実がようやく実感を伴って、お姉さまを襲ったようだった。

 これでもう、胸の痛みを無視することはできない。これでもう、悲痛や苦痛から目を背けることはできない。

 正も負も関係なく、すべての感情と平等に向き合わなければいけなくなった。

 彼女が何百年も続けてきた行為の中で溜まっていた負の程度は、私なんかでは決してわかりはしない。自分の気持ちをひたすら隠し続ける苦しみの深さなんて欠片だって理解できるはずもない。

 すべての思いを受け入れる。

 とても残酷なことながら、けれどそれは、どんな生き物にも平等に訪れる真理なのだろう。

 

「う、うぅ、あぁ……うぁあ、ぁ、ああああぁ……!」

 

 童話が終わった。

 大切なものを守るために手に入れた、自分を誤魔化し続けるためのチカラはなくなり。

 "狂った帽子屋"の仮面は破壊され。

 そこにはただ一人、悲しみに泣き崩れる少女だけが残された。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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一一.Alice①

 Alice weinte viel. Dann war Alice ein glückliches Lächeln.
 ――アリスはたくさん泣きじゃくり、それから幸せそうに笑いましたとさ――――


 ――快晴だった。

 一切雲のない大空から、太陽の光が万遍なく降り注がれている。冬の真っただ中だから寒いことには変わりないが、昨日までの薄暗い天気が嘘のように晴れやかだった。

 再思の道の先、木に囲まれた小さな空間。いつもは陰湿な空気が漂っているこの寂しげな墓地も、今日ばかりは気持ちのいい温かさに包まれているような気がした。

 霖之助製のローブを纏い、まだそこら中に積もっている雪を踏み分け、この無縁塚までやってきていた。何年か前に起きたありとあらゆる花が咲き乱れる異変の際に訪れたきりだったのだが、その時とは違って、木々がつけているものは紫色の花弁ではない。葉の代わりに白銀で彩られた枝は日差しを反射することで、枯れたことを悲しませない陽気さを放っている。

 

「あなたは大きすぎる罪を犯した」

 

 紅白のリボンをつけた、緑髪の少女と対面していた。一昔前の中国にありそうな厳格な服装に少女らしいアレンジが加えられたようなものを着用し、右手に持った細長い板こと笏を口元に当てている。

 閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥ。先日に起こした異変についてのことで、俺は彼女に呼び出しを受けていた。

 

「どこまでも自分勝手な行為を他人のためだと嘯き、自身を正当化し、あまつさえすべての生き物が持ち得る権利と義務を剥奪しようとした」

 

 じっと見据えてくるその目線はどこまでもまっすぐで、俺が目を逸らすことを許さないと言外に告げているような印象を受ける。

 

「生きることと死ぬことは、魂の持つ存在すべてへ平等に与えられた資格です。そして、物事と向き合うことで正負に属する感情を抱くこともまた、そこに在るということに対する責任なのです。多くの存在が持つその摂理を乱すことは、あなたにも、私たち彼岸の住民にも、決して許されたことではありません」

 

 ふいと、藤原妹紅という少女の姿が頭に浮かぶ。不老不死になってしまうという蓬莱の薬を服用し、死ぬことができなくなってしまった少女。彼女がそれを侵すことができたのは、その資格を備えた本人だったからなのだろう。

 もしかしたら、俺と彼女の境遇は案外似ていたのかもしれない、なんて思う。彼女が捨てたのは資格だった。そして、俺が捨てたのは責任だった。俺の場合、結局その責任は後になって一気に帰ってきてしまったけれど。

 

「あなたは深く反省をし、過去の罪と向き合う覚悟も固めたようだから、そう強く責めるつもりはない。ただ、これだけはここで言っておかなければならないわ。あなたはもう、天国へ行くことだけは絶対にない」

 

 映姫が告げてくる無慈悲な事実を、けれど俺はしかと受け止めて、こくりと頷いた。

 わかっていたことだ。二四時間にも満たない少ない時間と言えど、幻想郷という小さな世界における生死と正負の法則を乱した。魂を持つ存在として絶対にしてはならない罪を犯した。それなのに死後は天国に行けるなんて、そんな生易しい考えは持っていない。

 唯一の救いと言えば、問答無用で地獄に落ちる、なんて言われなかったことか。過去の罪を忘れず、多くの善行を積んでいけば冥界からの転生くらいはできる。映姫の発言は暗に俺にそう教えてもいるのだろう。

 

「……あなたの犯した罪を裁かれる日がいずれ必ず訪れる。その時を心しておいてください、レーツェル・スカーレット」

 

 背を向け、立ち去ろうとする映姫。俺も同じように来た道を戻ろうと思ったが、一つだけ言い忘れたことを思い出して映姫を呼び止めた。

 訝しげに振り返った彼女に、俺は深く頭を下げる。

 

「ありがとうございました」

「……今回あなたを呼んで処遇を告げたことは、私が仕事としてしたことですから、礼には」

「そうではなくて……いえ、今回の件の処遇を教えてくれたことに対しても感謝していますが、今のお礼は先日の異変に際してのことです」

 

 全身を幻想郷中に散らし、『答えをなくす程度の能力』を用いて俺が起こした大異変。その時のことで、ずっと不思議に思っていることが一つだけあった。もしかしたら杞憂かもしれないというか、その確率の方が断然高かったけれど。

 しかしこうして実際に映姫と相対し、その瞳の奥にある感情を見抜いて、ようやっとそれに合点がいった。

 

「地獄の"恐ろしい者"が幻想郷に繰り出すのを止めていてくれたんでしょう?」

「……なぜあなたがそれを? それは小町にも話していないことのはずですが」

「今回の異変で私は輪廻の摂理を大きく乱しかけてしまいました。たった一日足らずとは言え、地獄の住民たちがそれを黙って見ているとは思えません。すぐにでも出てきて、私を消滅させに来ると思っていました。でも実際は、紫やお姉さまがたが異変解決に全力を尽くしてくれただけで、地獄の方々が動く気配はまったくない……不自然だと感じました」

「それになぜ、私が関わっていると?」

「だって、聞きましたよ? 映姫は幻想郷と幻想郷の人間たちが好きなんだって」

 

 彼岸に来る魂を裁くことが仕事である閻魔の映姫は、休暇中に幻想郷にやってくることがあると言う。その際は罪を負いすぎて地獄に落ちる者が確定的な者のもとへと足を運び、改善を促すのだとか。

 その説教の基本は幻想郷の人間のためを思ってすることだと、阿求から聞いたことがあった。だとすれば、幻想郷が危機にさらされる事態を止めたいという考えに至ってもおかしくはない。俺は少なからず"恐ろしい者"に対する対策を立てていたし、実際に地獄から彼らが出撃され、真正面から戦う事態に陥ってしまえば、その余波で幻想郷が無事では済まなかった可能性も高い。

 俺の確信したような視線に、映姫はため息を吐いて、首を横に振った。

 

「私はただ、悪魔の身でありながら善行を積んできたあなたの態度を考慮しただけです。あなたの抱く思いから、一日ほど様子を見るくらいはいいのではないかと判断し、そう意見してみただけですよ。一日経っても異変をやめないようなら容赦なく殲滅することには二つ返事で了承しましたし、すでにその時点で、あなたが天国へは決していけないことは決まっていました。お礼を言われることなど、なに一つしていません」

「映姫にとってはそうかもしれませんが、私にとっては本当に重要なことです。その一日のおかげで、たくさんの大事なものを再認識することができました。だから、ありがとうございました。遠慮なんてしないで、どうか受け取ってくれませんか?」

 

 一秒、二秒、三秒。じーっと映姫の顔を見つめていると、彼女は大きく肩を竦めた。

 

「わかりました。そのお礼、素直に受けておきましょう。人には人の感じ方があるものですから」

「ありがとうございます」

「そちらのお礼は受け取りませんが」

「ふふっ、言いますね」

 

 今度こそ互いに後ろを向け、それぞれの方向へ立ち去った。映姫は彼岸へ、俺は幻想郷へ。

 罪を裁かれる日がいずれ必ず訪れる――理解しているし、受け入れてもいるけれど、その時が来ることが怖いと思う気持ちは誤魔化せない。不安をなくすことは、今の俺にはできない。頬に手を添えれば、ちょっと涙目になりかけている自分の表情がわかる。

 だけどきっと、そういう思いも含めて俺が背負わなければならないものなのだろう。数え切れないくらい自分から自分の感情を欺いてきた。幾度となく立ち向かうことから逃げ続けてきた。

 でも、すでに逃げ道は壊された。もう、正であろうと負であろうと、俺はそれと向き合うことしかかなわない。

 だからこそ、乗り越えなければならないのだった。それがすべての存在が受け入れ、負っている責任だと言うのなら、俺もまたそれから目を逸らしてはいけない。

 

「……まだ、時間には早いですね」

 

 太陽を直視しないように空を見上げ、今日中に回る予定の目的地を頭の中で整理する。

 それから次に向かう場所を決めると、体の方向をそちらに向け、地面を蹴って宙に浮いた。

 

 

 

 

 

 見渡す限り――深い霧のせいで見える範囲は限られているが――、ところ狭しと竹が乱立する空間を飛んでいた。竹が日々とてつもない速度で成長するためにいつも地形が変わり、道を覚えることはできないと言われている、迷いの竹林である。

 永遠亭に行きたいと考えて、竹林に入ってから早十数分。俺に『答えをなくす程度の能力』がある頃ならば霧を見えなくするなりして比較的早く永遠亭を見つけることができたのだが、そんなものが備わっていない今は根気と運任せだった。

 しかし、どうやら今日の俺は相当に運気がいいらしい。霧のせいで見えなくなりそうなギリギリなところに竹がなく開けている場所を見つけ、そちらへ向かってみると、見事ぽつんと建った和風の建物こと永遠亭にたどりつくことができた。

 なにやら玄関前で永琳と鈴仙が話していた。空を飛ぶのをやめ、そちらに足を運んでみる。

 

「永琳、鈴仙。こんにちわ、です。元気にしてますか?」

「あら、先日未曽有の大異変を起こした張本人さまじゃない。よくのこのこと顔を出せるものねぇ」

「あ。あんたさぁ、よくもこの前はめんどくさいことに巻き込んでくれたわね。一応私あんたの師匠なんだから、労わりとかそういう心を持ちなさいよ」

 

 うふふと笑いながらの永琳の冷たい視線や、鈴仙の怒り心頭な態度を受けて、俺は反射的に苦笑いを浮かべた。

 それから、倉庫から魔法で菓子折りを取り出して、鈴仙に手渡す。

 

「あはは、お手柔らかにお願いします……あと鈴仙、この間は本当にありがとうございました。今日は改めてお礼を言いに来たのと、これはお詫びの品です」

「はぁ、そういうところは律儀なのねぇ。霊夢とか魔理沙とかなら適当に放っておきそうなものなのに……ま、ありがたくもらっておくわ」

 

 さすがにあの二人ほどふてぶてしくはなれない。彼女たちの真似をしようものなら、性格的に相手側へと申しわけないと思ってしまうことは避けられないだろう。

 

「……それにしても、ずいぶん雰囲気が変わったのね」

 

 永琳からじろじろと眺められて、ちょっとだけ萎縮してしまう。

 

「そう、ですか? 変わったのなんて表情くらいだと思いますけど」

「その表情が大きいのだけどね。まぁ、なんというか……あなた、いつもどこか暗い雰囲気を纏ってるように見えたから。今はなんだかその靄が全部取っ払われたかのよう」

 

 永琳の指摘を受けて、きっとそれは、あながち間違いではないのだろうと自覚する。

 いつもどんな時だって、なにかを失うことを恐れていた。自分という異物が世界に紛れ込んでいるせいで、今この瞬間にも正史では助かるはずだった誰かが傷ついているのではないかと、どこか無意識に考えてしまう自分がいた。ここに自分が存在していることが、ひどく冒涜的なのではないかと不安に感じることをやめられなかった。

 今もまだ、そんな風に思考してしまうことがたまにある。それでも少しずつその回数も少なくなってきた。ほんのちょっとずつだけれど、自分がここに在ることが平気だと思えるようになってきた。

 それはきっと、鈴仙を含むいろんな人妖から、俺のしてきたことの価値を証明されたからなのだろう。俺もこの場所にいていいのだと、厳しくも優しく諭されたからなのだった。

 それを否定することはきっと俺だけでなく、親しくなってきた人妖たちの思いの否定にも繋がる。そのことが、ようやく俺にもわかってきた気がしている。

 

「ありがとうございます、と言っておきましょうか。あ、今日は夜に紅魔館の地下で宴会がありますから、できれば来てくださいね」

「ええ。ちょうど、そのことで鈴仙と話していたところよ。もちろん行かせてもらうわ」

 

 今日は幻想郷中を飛び回らなければならない。これ以上ここで時間を潰していると、時間までに回り切れなくなってしまう可能性があった。

 早々に二人に別れを告げ、霧が届かないくらいまで高くに飛んだ。霧のせいで上から永遠亭は見つけられないが、永遠亭から出るのはこうして高いところへ移動すればいいだけなので、非常に楽である。

 さて、次はどこに向かおうか。日が落ち切るには、まだ少し早い。

 

 

 

 

 

 地上の空が晴れているからか、地底には雪は積もっているものの降ってはいない。フードを外し、代わりに人間化魔法の行使と狐の仮面を顔の横に身につけて、地霊殿までやってきていた。

 和風の名前なのに西洋風なデザインの不思議な建物の扉を開ければ、あいかわらず鮮やかな美しい内装が広がる。白い柱や壁、さまざまな色のステンドグラスで彩られた室内はいつ見ても目を奪われてしまう。

 おそらくはちょっとニヤけているだろう頬を意識しつつ、お邪魔しますと一言叫んで中を歩いていく。以前から、屋敷が広すぎて玄関に来て声を上げられても気づけないことがあるので、勝手に入っていいとの許可をもらっていた。正確には、ペットたちから連絡が来るので気づけないわけではないのだが、その連絡に時間がかかるからとのこと。

 途中で通りかかった黒豹に挨拶をすると、さとりがいる方向を手で指して教えてもらえた。どうやら二階のテラスにいるらしい。お礼を言うと、黒豹は人懐っこく鳴いて庭の方へと歩いていった。

 廊下を歩き、階段をのぼり、また少し歩いてテラスへと足を踏み入れる。そこの手すりの近くには、丸テーブルの前に置いたイスに座り、一冊の本を読んでいるさとりの姿が窺えた。

 足音で俺が来たことに気づいたようで、彼女の目線がこちらを向く。穏やかな微笑みで迎えられ、俺も自然と頬を緩ませながらも彼女のもとへと歩を運んだ。

 

「こんにちわ。ちょっとだけお話に来ました」

「ええ、こんにちわ。ふむ……そう、先日のお礼の菓子折りを渡しに来てくれたのね」

 

 あいかわらず心を読む力は健在のようである。俺のやろうとしていることがお見通しだった。

 あとに取っておいても大して意味はないので、倉庫から菓子折りを取り出した。ちなみに鈴仙へ渡したこれもそうなのだが、咲夜に無理を言って手伝ってもらった自作の菓子が入っている。紅魔館の面々にはすでに渡し終えているので、お礼を直接言うことも兼ねて幻想郷の知り合いのもとを回っているのであった。

 

「……お礼を言われるようなことはしてないわ。私は私のわがままで、レーツェルを連れ戻したいと感じて行動に移しただけだから」

「でも、そのわがままで私は変われました。だからお礼くらいはさせてください」

 

 それに、異変解決に動いてくれたこと以外でもたくさん迷惑をかけたはずだ。負の感情から痛みをなくしたほか、さとりに対しては勝手に心を読む力を封じたり。今振り返れば当人の許可を得ずに行った身勝手な行為だったと思えるので、どうにも後ろめたかった。

 そんな風に考える俺を第三の目とともにじっと見つめ、さとりがため息を吐いた。差し出していた菓子折りを受け取って、手すりの向こう側の庭へと視線を送る。

 

「そういうところはあいかわらず、ですね。私としてはレーツェルの……その、友達として、当たり前のことをしただけです」

「じゃあ、私はとってもいい友達を持ったってことになります。あれだけのことを当たり前だって言ってしてくれるような友達、きっとそうそういませんよ?」

 

 聞けば紫の能力で、倉庫空間のさらに奥にある転生魔法研究区域にまで行ったと言う。異臭やら腐臭やらを防ぐ魔法を展開していたにせよ、見ていて決して気分のいいものではなかっただろう。あんな場面を実際に見てまで俺に関わろうとしてくれたことは、本当に心から素直に感謝していた。

 今はもう研究の残骸はすべて影に取り込ませ、あそこはなにもない空間と化している。数百にも及ぶ数の転生用の肉体にしても、ずっと持っていると彼岸の"恐ろしい者"に襲撃される可能性があったので、すべて同じように魔法で破棄している。

 そしてこれは余談なのだが、吸血鬼をたくさん取り込んだおかげかどうかは知らないが、気がついたら影の魔法が昼間でも実用レベルで扱えるほどにパワーアップを果たしていた。『答えをなくす程度の能力』を失ってしまったりもしたこともあって、後日には阿求のもとに行って、幻想郷縁起における自分の記述を『魔法(主に影)を使う程度の能力』にでも変えてもらうつもりである。

 じーっとさとりのことを見つめていると、そっぽを向いているように庭の方を見やっていた彼女がちらりと一瞬だけこちらに視線を送った後、頬が赤らんだように見えた。

 

「…………いつも通りのはずなのに、笑顔があるぶん何倍も凶悪ね……」

「凶悪? なにがですか?」

「あ、いえ、なんでもないわ。気にしなくていいから」

 

 あたふたと突然慌て出すさとりを不思議に感じる念がなくもなかったが、なんでもないと言うのなら本当になんでもないか、あるいは手を出してほしくないことなのだろう。

 先日の件では本当にお世話になったのだ。もしも力になれることがあるのなら遠慮なく言ってください、と心の中で強く思ってみせる。さとりは、こくりと小さく頷いていた。

 

「そういえば、今日は紅魔館で宴会があるのですが……」

 

 ここまで言いかけて、はたと気づく。今の俺には『答えをなくす程度の能力』がないため、さとりの心を読む力をどうこうすることができない。あの力がなくなってしまったことが俺にとってプラスになったのかマイナスになったのかは未だはっきりとしていないが、今回ばかりはマイナスと言わざるを得ない。これではさとりが何事もなく宴会に参加することが難しくなってしまうのではないか。

 段々と言葉が萎んでいくのが気になったか、さとりが庭から俺の方へと視線を戻した。じっと第三の目で俺を見据え、考えていることを読み取ってくる。

 

「いえ、問題ありません。行きますよ、私も」

 

 それから当たり前のことのようにそう言ってくるものだから、目をぱちぱちとさせてしまう。

 

「先日のことで、私もいろいろと吹っ切れました。レーツェルも同じ場所にいるなら、参加するくらいなんてことはありません」

「えぇと、でも、嫌悪感とか」

「元々、少なからず私にも問題があったと思っていました。考えていることをずばずば言われることを好まない人妖が多いようですから……そこに注意していれば、ある程度は大丈夫でしょう。もちろん、嫌悪の念等を完全に払拭するなんてことはできないでしょうが」

 

 何事もないかのごとく対策をしゃべるさとりは本当に淡々としていて、落胆や恐怖等の感情が窺えない。いや、その内側ではそれなりになんらかの負の思いを抱いているのかもしれないが、決してそれが外側には出てこない。

 初めてさとりを外に連れ出したいと思い、電話でお願いをした日のことが頭をよぎった。こいしの意志や灼熱地獄の管理等の問題を挙げて辞退しようとしたり、実際に話を受けた後も怖いと言っていたさとり。記憶に残るそんな彼女と目の前の少女を比べてみて、従妹が見知らぬうちに成長していたような、ちょっとした驚愕を感じるとともになんだか感慨深い気分になってくる。

 そんな俺をじとっとした目で眺めてくるさとりに気づいて、自然と苦笑いになった。さとりの方が若干背が高いので、見た目的にはおそらく俺が従妹の立ち位置である。

 

「じゃあ、さとりが来るのを楽しみに待ってます」

「ええ、待っていてください。絶対に行きますから」

 

 渡すものも渡したし、伝えるべきことも伝えた。そろそろ次へ向かおうかと踵を返しかけて、一つだけ聞き忘れていたことを思い出す。

 

「そういえば、こいしはいないんですか? こいしにも菓子折りを渡して、宴会のことも教えたいのですが……」

「……すみません。こいしなら、地上の方に行くと言って出て行ってしまいました。おそらくなにも言わなくても宴会のことを聞きつけてくるとは思いますが……」

 

 いないならしかたがない。元々次は放浪している妖怪を探さなければいけなかったので、こいしも一緒に探せば問題はないだろう。『答えをなくす程度の能力』を失ってしまった俺に、以前のようにこいしを察知する謎のシンパシー能力があるのかはわからないが、それでもそれが探さない理由にはならない。

 申しわけなさそうにするさとりに、しかし彼女のせいではないので首を横に振る。そもそもこいしの放浪癖は今に始まったことではないので、謝られるようなことではない。

 探さなければいけない妖怪が一人増えた。時間が来る前に、早く地上に戻って捜索しなければ。

 そう思い、今度こそ立ち去ろうとする俺を、さとりが呼び止める。

 

「一つ、おうかがいしてもいいですか?」

「なんでしょう」

「レーツェルの心の中に入った時、私はあなたの『一番大事な思い出』を知りました。だから、ずっと気になっていたことがあるんです。今のレーツェルはレミリアさんのこと、どう思っているんですか?」

 

 これもまた後日聞いた話だけど、なんと紫の能力で俺の心の隙間に入り込んだとかなんとか。なんだかよくわからないというか現実離れした話だったと感じると同時に、もう紫ってなんでもありだなと呆れにも似た感想を抱いたのを覚えている。

 その際の出来事で、俺がレーツェルとして生まれて初めてしゃべり始めた辺りの頃の記憶と感覚が、一部の人妖に伝わっていることを聞かされた。多少は驚いたが、前世の性別が違ったり等のことで周りから敬遠されることはなく、いっそ清々しい気持ちになれたので、むしろ知ってもらってよかったとも思っている。

 今、俺がレミリアのことをどう思っているか。さとりの真剣な瞳に窺える微妙な感情の機微から、それがどういう意味なのかをいち早く把握する。

 考えるまでもない。感じるがままの思いを口にするために、自らの姉へのどこまでも単純な感情を呼び起こす。

 

「今も変わらず愛してますよ。姉としても、家族としても。もちろん、異性としても好意を持ってます」

「い、異性っ?」

「はい。あ、でも、劣情とかそういうのは一切ありませんから。ただただ愛してます。そもそもこの体はまだまだ幼いですし」

 

 匂いを嗅いでニヤけたりとか、抱きついてすりすりしたいと考える程度はセーフだろう。セーフに違いない。もしも万が一にでもアウトに近い行為だとしても、姉妹なのでなにも問題はない。

 そんな思考を読み取ったらしいさとりが、若干引いた様子で苦笑いをする。しかし一つ咳払いをして取り直すと、少し考え込むようにしながら俺と再び向き合った。

 

「レーツェル。私も……きっと、あなたのことは好きですよ」

「あ、はい。私も同じく、とってもいい友人だって、それこそ親友くらい大切に思ってますよ。心を読めなくする保険みたいな力がなくなったからって、さとりを嫌いになんてなりませんから」

 

 本心を探るように注視してくるさとりに、なんとなく、明るい気分のままに微笑んで見せる。

 前々から思っていたことだけれど、先日の事件で俺は確信していた。心を読む能力とはきっと、ただ在るだけで忌まれるべきような極悪な能力ではない。他人の感じる嬉しさや楽しさ、悲しさや苦しみなど、本来その者だけが持ち得る他人のクオリアを理解することができる、ただ一つの能力なのだと。

 それは他人の領域を侵すということなので、人によってはいい感情を抱けないかもしれない。表立っては認めるのは憚れる力なのかもしれない。それでも俺にとって妖怪サトリが持つ心を読む能力というものは、使い手次第で他に代えがたい毒にも薬にもなる、扱う者の心を問う勇気と優しさの力だった。

 俺には心が読めてしまうことの辛さはわからない。だから、こんな勝手な解釈をしてしまってさとりが怒らないか心配だったのだけれど、彼女は心配いらないとでも言うかのごとく、どことなく嬉しそうに頬を緩めた。それに、無意識のうちにほっとする。

 しかしさとりは、なぜかその後すぐにちょっとだけ落ち込んだように、自身の体を見下ろした。

 

「……でも。やっぱり、全然及んでなかったみたいね」

「及んで……? えっと、なにがですか?」

「こちらの話です。レーツェルは常にレミリアさんのことが第一で……私は確かに『特別な存在』ではありましたが、『唯一の存在』には遠く届いていなかった。当たり前のこと、なんですけどね」

 

 ひたすらに首を傾げる。小声で呟いていて聞き取りにくかったり、表現が曖昧だったりでイマイチ意味が理解できなかった。俺がレミリアに好意を抱いてることがなんやかんやして、さとりがなにやら項垂れた気持ちになっているのはわかるのだが。

 なにかしらなぐさめの言葉をかけた方がいいのだろうか。しかしさとりに考えようとして考えた文言を送ったところで……そうして悩んでいると、ついとさとりが意を決したように顔を上げた。席を立ち、すぐ目の前まで歩いてくると、俺の手を取る。急なことに、俺はただ目をぱちくりとさせていた。

 

「けど、その事実が諦めることには繋がらない。強くなると、妖怪らしくなると誓いましたからね。だから……いつか必ず、あなたの心は私がもらいます」

「えぇっと……えぇ? まぁ、はい。わ、わかりました。じゃあ、待ってます……?」

 

 内訳やら過程やらをいろいろすっ飛ばされている気がするというか、順序が滅茶苦茶というか飛び飛びというか、なにを言われているのかもはや全然わからなかったが、とりあえず首を縦に振っておく。なんだか意志の強そうな目をしてたし、さとりが変なことをするとは思えないし、適当に了承したところで悪い方には転ばないだろう。心を奪うとか言われると、ふりふりの服を着た魔法少女が笑顔で敵の怪人の心臓を握り締めている姿が脳裏に浮かぶけど。

 ……そんな風に、その場しのぎで返答したことはさとりもわかっているはずなのだが、なぜか彼女は満足そうに元の席へと戻って行った。それから出し抜けにじゃあね、と手を振られたので、さっきのことを問うに問いただせないまま、俺も手を振ってふらふらとテラスを去った。

 結局、なんだったんだろう。

 不思議に思う気持ちは地霊殿を出るまで消えなかったけれど、どうせ答えが出ないことをいくら考え続けていてもしかたがない。さとりのことだからなんの心配もいらないと無理矢理に結論を出し、思考を次の放浪妖怪探しへと切り替える。

 一応周りからは人間と判定されるのでちょっかいをかけられることはあったが、人間化魔法で弱体化しているとは言え吸血鬼はだてではない。適当にあしらいながら、地上へと戻って行った。



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一二.Alice②

 今話で本編完結です。


 霊夢や魔理沙等の人間によると、冬の空は風が万遍なく当たってきて非常に寒いらしいのだが、前世と違って吸血鬼の俺にはその感覚はわからない。ただ、わからないにしても味わいたいとして、いつも通り冬にはマフラーを着用するようにしている。

 狐の仮面は外し、上空からひたすらそこら辺をうろうろしていた。林や森、玄武の沢の近くまで行ってみたりと、とにかく目的の妖怪を探す。

 そろそろ夕暮れに差しかかるという時間、ようやっと俺はそれを見つけることができた。一切の光を取り入れない小さな真っ黒い球体が、林の中でうろうろとしているのが眼下に映っていた。

 光のない場所ならば影の魔法が役に立つ。暗闇の中になにがあるのかを察知し、動く人型が二つあることにちょっと驚く。とりあえずその二つのうち目的の妖怪だと思われる小さい方の肩をちょんちょんとつつくと、黒い球体がほんの少し光を取り入れたのがわかった。

 その中に飛び込んでみると、視界の中に辛うじて二人の妖怪の姿が映る。あちらもこちらに気づいたようで、歓迎の笑顔を浮かべてくれた。

 

「こんにちわです、ルーミア。それとそちらは……」

「こんな昼間から私のところに来るなんて、珍しいなー」

「こいしだよー!」

 

 今回はルーミアを探しに来たのだが、どうやら一緒に捜索していたこいしも一緒なようだった。ちょっと驚きつつも、まぁ、二人なら気が合うかもしれないと思う。同じく目的もなくそこらを放浪するのが趣味の妖怪だし。

 

「こんにちわ、こいし。二人はどこで知り合ったんですか? これまでも結構一緒に遊んだりしてたんです?」

「いやー? 今日が初めてよ。歩いてたらなにかにぶつかって、いつもみたいな木の感触と違ったからなにかと思ってみれば、それがこいしだっただけ」

「変な面白そうなものが動いてたから入ってみたら、ちょっと前に見たような顔がいたから。それでなにか楽しそうなことやってたから、私も混ぜてもらったの」

 

 容易にその時のことが想像できる。二人とも能天気というかマイペースだから、きっと赤の他人には理解できないような不思議な会話が為されていたに違いない。

 それにしても、ちょっと前、というのは間違いなく俺が起こした異変の一件だろう。それよりも前にも宴会で顔くらいは見ていたはずだが、実際にそれを個人として認識したのは異変の際というわけか。自分が起こしたことで周りの関係が確実に変わっているのを意識すると、なんというか、ちょっと変な気分になる。

 ちょっと前まではこういうことが怖かった。自分のせいでどんどん歴史が正史からずれていって、そうなると原作知識なんて当てにならなくなる。死ななくてもいい誰かが死に、不幸になるべきじゃない誰かが不幸になるのではないかと、ずっと怯えていた。まだ心を入れ替えるように決意してからちょっとしか経っていないので、未だ不安になることはあるが、それでも今はもう俺はその責任を負う覚悟を決めたつもりでいる。

 俺は原作知識があるせいで過剰に周りへの影響を危惧してしまうだけで、本来ならば、そんな責任は誰もが意図せずとも覚悟して受け入れているものなのだ。存在するということは、少なからず他のなんらかの影響を与えること。五〇〇年も生きてきたのだから、俺が広げてきた波紋も実は目に見えない範囲に結構広がっているはずだった。散々しておきながら今更それから逃げようだなんて、おこがましいにもほどがある。

 そもそもとして、もしも霊夢がいなければ誰が不幸にならなかっただろう、なんてことはIFであろうとも誰も考えようとはしない。それをすることは霊夢への最大の侮辱であると同時に、霊夢に影響を受けた者たちの否定にも繋がるし、そんなことを考えているくらいなら霊夢のおかげでどんな面白いことが起こったかと想像する方が有意義だ。

 そして、俺には俺自身が世界の異物に見えていようとも、周りにとっては決してそうではなく、もしもいなければ、というIFは想像ができない相手だということも、先日の件で身をもって教えられた。まだ心のどこかで完全には納得できていない部分があるのはわかるが、少しずつそれも解消できればと思っている。レミリアにも、これからは自分がいなければなんてことは絶対に考えないようにときつくお灸を据えられたし。

 レミリアに叱られた時のことを思い出していると、ルーミアとこいしの二人が不思議そうにこちらを覗き込んで来ているのに気がついた。そろそろ時間が迫ってきていることもあり、用事を手早く済まさなければ。

 菓子折りを倉庫から取り出し、二人に手渡す。二人ともなんだこれと言わんばかりに首を傾げていたが、中身がお菓子であることと先日の件のお礼だと告げると、嬉々として受け取ってくれた。

 

「それから、今日の夜は紅魔館で水遊びと宴会があるんです。そちらの方もできたら来てくださいね」

「そーなのかー。じゃあ、暗くなったら向かってみようかしら」

「ぜひお願いします。こいしも宴会の方、どうですか?」

 

 ちょっと気まずそうな笑いを浮かべているこいしに問いかけてみると、彼女は小さく首を横に振る。

 

「でも、ほら、レーチェルってもう能力ないんだよね。それだとお姉ちゃんは来そうにないし、私も今日はいいかなーって」

「レーツェルです。あ、いえ、さとりは宴会に来ますよ? ちょっと前に誘ったら快く引き受けてくれました」

 

 目をしばたたかせるこいしに、その時の様子を掻い摘んで説明する。さとりが当たり前のように引き受けてくれたこと、心を読む能力に関する自分の態度に気を遣おうとしていたこと。それを聞き終えて、こいしは放心したように口を開けていた。

 どうしたのだろうとルーミアと一緒になって首を傾げていると、急にこいしが笑い出した。面白そうに、というのとはまた違う、なにかを慈しむような穏やかな微笑みだった。

 

「そっかぁ……それなら、私も宴会に出ようかな。お姉ちゃんだけ楽しむっていうのもずるいもんね」

 

 参加してくれるならぜひもない。一も二もなく頷く俺を、こいしはじーっと見つめていた。

 なんだろう、と疑問を抱いていると、瞬きの合間に距離を詰めてきたこいしが、すっと手を伸ばしてくる。半ば反射的な思考で避けようかとも悩んだが、なにをするのかということにも興味があったので、すんでのところで体を止めた。

 すると、つんっと頬をつつかれた。

 俺はただ、小首を傾げた。

 

「なんていうか、雰囲気は前のままなんだけど、すっごくわかりやすくなったなーって」

「わかりやすい、ですか?」

「心なんて読まなくてもなにを考えてるのか大体わかっちゃうくらい表情が豊かだから。考えること感じること片っ端から出てる感じー?」

 

 それはつまり、表情のコントロールがまるでできていないということだろうか。かつて表情をなくす前も感情がすぐ顔に出てしまっていた気がするし、長らく無理矢理無表情を装ってきた俺では、表情を操作することなんて欠片たりともかなわないことは容易に想像がつく。

 自分を一切誤魔化すことができない。ちょっと思うところはあるが、数秒もすれば別にいいかという結論にたどりついた。ずっと自分に嘘を吐き続けた罰だとして素直に受け入れることにしよう。そもそも感情が常に顔に出てしまうなんて、心を読まれることに比べれば大分生易しい。心を読まれるにしたって、自分を騙し続けていたからか俺はどうやら無意識に自分をわかってくれる存在を求めていたようであるし、たとえ能力を失った今でも、第三の目で見抜かれることを気にしたりはしない。それに、別に表情が豊かなのは悪いことではないのだから。

 こいしがなぜかどこか満足そうに笑顔を浮かべているのを見ながら、ふと思う。

 俺は身勝手に周りの思いを振り回し、"答えのない存在"などと嘯き、いろんな人妖にたくさんの迷惑をかけた。そしてその結果として、俺が"この世界にとって"どういうものであるかではなく、"俺と親しくなってくれた人妖にとって"俺がどういうものかが重要なことを教えられた。

 結局、この世界に"答えのない存在"なんて一人たりともいやしないのだ。魂を持って産まれ落ち、誰かにその存在を認識された時点で、その者が在ることに意味や意義がないことなどあり得ない。それは世界の外側からやってきた俺であろうとも例外ではなかったのだから、心を閉ざしてしまったこいしであろうとも、彼女が"意味のない存在"であることも絶対にあり得ないのだろう。

 俺も彼女もきっと、ただ目の前に立ちはだかる壁から逃げたかっただけだ。越え方がまるでわからなくて、立ち向かって怪我をしてしまうことが本当に恐くて、両目をぎゅっと閉じて世界から目を逸らしていた。立ち向かわなくちゃ変われないなんてことはわかっていたくせに、今のままでいいと世界と一緒に自分を否定して、必死に満足しようと心の奥底で四苦八苦して――。

 かつての俺のように、未だ逃げ続けているこいし。俺の痛みが俺だけのものだったように、彼女の痛みのクオリアを完全に理解することは俺にはできない。

 けれど、一つだけ知っておいてほしいことがあった。心に嘘を吐き続けていた時にはずっと気づけなかった、今だからこそわかる本当に当たり前のことを。壁に立ち向かわなくちゃいけなくなって、ようやっとその壊し方がわかり始めた今だからこそ。

 

「こいし、私はあなたのことを大事に思ってますよ。きっとさとりもフランも、なんだかんだで霊夢や魔理沙だってそう思ってます」

「うん? 急にどうしたの?」

「友達や家族が困っていたら、助けたいって思います。友達や家族が泣いていたら、どうにかしてあげたいって強く感じます。だから……どんなことでも、助けがほしいと思ったなら私たちを頼ってください。もしも泣きたくなったなら私たちに泣きついてください。遠慮はいりません」

「……レーチェル?」

「こいしが私を助けてくれたように、こいしが私を助けたいって思ってくれたのと同じように、私たちもこいしが困っているなら手を貸してあげたいんです。まだ怖いなら、強制したりはしません。でもこのことだけは、どうか忘れないでいてくれると嬉しいです」

 

 自然と顔が笑みを浮かべるのを自覚しつつ、いきなりすぎて戸惑っているこいしにそれだけ告げた。

 俺はレミリアやさとりのことを信頼していたはずなのにもかかわらず、それらを守るなんてほざいて異変を起こした。それは彼女たちをどこか見下していた、信じ切れていなかったからこその行動なのだと、異変を止められた後になって遅まきながらに理解したのだった。嬉しさや悲しさがその者だけのものであるように、俺が俺だけの意志で、他人の立ち向かうべきなにかを奪うことはひどい傲慢なのだ、と。

 もちろんそれに関しても、昨日の今日で完璧には納得し切れてはいなかった。だけどそう思うようにしている。たくさんの人妖に心配されて、なんとなく、そうでなくてはならないという風な気がしていた。

 

「変なこと言っちゃいましたね。すみません。それじゃ、私はそろそろ行かなくちゃいけないので」

 

 二人に背を向け、立ち去ろうとする。そんな俺の服の袖を誰かが引いてきた。

 顔だけで振り返ると、そこではこいしが満面の笑みを浮かべていた。

 

「ありがとう、レーツェル」

「……はい」

「あ、間違えた。レーチェル」

「レーツェルで合ってます」

 

 そういえばこの二人って、二人とも俺をレーチェルと呼ぶクセがあった。やっぱり気が合うんだろうな、なんて思いながら二人に手を振って、今度こそこの場から飛び立った。

 日が沈んできた。回るべきところは回ることができたし、紅魔館へと帰ろう。異変を起こしたからとメイドたちに無理を言って準備を手伝わせてもらうことにしているから、できるだけ早めに戻らなければいけない。

 影の魔法は楽ができてしまうので、敢えて使わないで準備をしようと思う。

 異変の後には大団円。これもまた幻想郷での風流なのかもしれないなんて思いつつ、実際に起こした張本人が吐くセリフではないなと苦笑いを浮かべた。

 

 

 

 

 

 今日は別に満月ではないし、目を見張るほどの美しい花が咲いているわけでもない。普通の人妖にとっては宴会なんて開かないような、そこらにありふれているなんの変哲もない普通の日だ。

 なのになぜそんな日に宴会や水遊びを開催することになったのかと言えば、主に俺の懇願のせいだった。レミリアとパチュリーは月へ行く手伝いをしてくれた霊夢へのお礼の一環で大図書館に海を作っていたのだが、俺のせいでお披露目が中止になってしまった。それを改めて行いたくて、ダメもとで霊夢たちに頭を下げたのだった。紫もまた、それに強い賛成の意を示していたのを覚えている。

 なぜ紫がそんなに賛同するのかは聞いてみたが、要領の得ない回答しか返ってこなかった。吸血鬼が作った海とやらに興味があるだとか、宇宙人に渡したいものがあるだとか、変なことばかり言ってくる。なんにせよ水遊びと宴会を開くのは本望だったので、それ以上追及するのはやめることにした。

 

「……なぁ、一つだけいいか?」

「なによ」

「今は冬だって言うのに、やっぱり水遊びはおかしいって!」

 

 大図書館に本物の海を作るのには、やっぱり無理があった。そもそも面積が圧倒的に足りなさ過ぎて、プールにしかなっていない。というか、自ら上がる梯子等もある関係で、丸っきりプールである。

 図書館はそこら中水浸しで――すべての本は魔法で防水が完璧なので、そちらは問題ない――、なけなし程度の海の雰囲気を出すためにそこらにシダ植物等が置かれていた。天井には真夏の太陽をイメージしたらしい明るいランプが設置されており、元々はかなり暗かったと言うそれは、俺の心の中で見た太陽を参考にした結果、そこそこそれっぽく仕上がったと言う。

 大声に目を向けてみれば、全身に水を滴らせながら、レミリアに文句を投げる魔理沙の姿が目に入る。レミリアのもとだけにカラフルなパラソルとビーチチェアがあり、満足そうに寝転がっていた。魔理沙の隣には霊夢の姿も見え、二人とも両腕で体を抱えながらぷるぷると震えていた。

 一応、プールは海らしく冷たい水なので、冬とは絶対的に相性が悪い。一切塩なんて含まれていないので、その時点で海らしいもなにもないのだが。

 

「レーチェルー、泳ぎ勝負しようよー!」

「あ、すみません。吸血鬼なので流水はちょっと苦手でして。私はここできちんとこいしの活躍を見てますから。あとレーツェルです」

「そう? じゃあ、ちゃんと見ててねっ!」

 

 こいしは寒さなど無視してばしゃばしゃと水を叩いてはしゃいでいた。俺が断ると、次は鈴仙に目をつけたようで、こいしは「え、ちょ」と戸惑う鈴仙の話を一切聞かず引きずっていった。鈴仙は能力を使って逃げようとしたみたいだが、無意識を操るこいしからはそう簡単には逃れられないようだ。

 無理矢理勝負をさせられる鈴仙を眺めていると、自然と苦笑いが顔に浮かぶ。なんとなく、ご愁傷さまと手を合わせてみた。

 この大図書館にはそれなりの数の人妖が集まってきている。

 紅魔館の住民であるレミリアやフラン、咲夜やパチュリー、美鈴や一部の妖精メイドと言った面々は当然揃っている。次に霊夢や魔理沙、紫、俺が呼んださとりやこいし、ルーミアや鈴仙、永琳。どうやら永琳は輝夜を、紫は幽々子と妖夢も一緒に連れて来ているみたいだった。あとは呼んでいないのに文が来ている。

 水遊びと聞いて、紫や幽々子、咲夜と言った大人っぽい雰囲気の人妖以外は水着を身に纏っている。泳いでいるこいしはもちろんとして、霊夢や魔理沙、さとりやルーミア等々。ちなみに美鈴は普通に水着で寒そうながらも楽しそうにやっている。

 

「お姉さまぁ、なに見てるの?」

「フラン。こいしが鈴仙と泳ぎ勝負してるので、それを見てます」

 

 そろそろ終わりそうだけれど。

 結局、こいしが圧勝していた。途中までは案外いい勝負だったのだが、鈴仙は美鈴とぶつかったりルーミアの生み出す暗闇に巻き込まれたりとトラブルに遭遇しているうちに、いつの間にか大分引き離されていた。

 さとり等、勝ったこいしを褒める人妖はいるが、負けた鈴仙をなぐさめる人妖がまったくいない。永琳や輝夜がそんなことをするはずもないし、霊夢や魔理沙等も同様だ。妖夢は幽々子についているので鈴仙には構ってやれず、ルーミアも美鈴もトラブルを起こした側なので逆効果だろう。

 俺が行こうかなと考えたりもしたが、なんやかんやで突っぱねられて終わりだと思ったので、やっぱりそっとしておくことにする。ただ、とりあえず影の魔法でぽんぽんと鈴仙の頭を撫でるくらいはやっておいた。

 

「レーツェル、フランドール、一緒にどう?」

 

 紫が片手に酒を持って俺たちを呼んできたので、フランと顔を合わせ、そちらに向かう。

 霊夢や魔理沙もちょっと前まではビート板を持って泳ぎに興じていたのだが、さすがに寒さに耐え切れなくなったようだった。すでに猪口を片手にして幸せそうに飲んでいる。

 不思議なのは、紫の対面にいた永琳が猪口を片手にひどく微妙な表情で顔を引きつらせていたことか。

 

「どうかしたんですか?」

「い、いえ……別に」

 

 いつも一歩引いた立ち位置ですべての物事を眺めているような雰囲気があったので、永琳がここまであからさまに動揺しているのは珍しいと感じた。

 どういうことかと紫に目を向けてみれば、彼女はなぜかとても満足そうに笑っている。

 

「うふふ、月の都をイメージしたお酒の席を用意してみせただけですわ」

 

 そう言って、紫はずいぶんと古めかしい見た目の酒瓶を掲げた。それで大体のことを把握する。

 俺たちは紫の謀略で自力で月へ行くように誘導された。おそらくはそれがうまく機能して、紫のよくわからない策が成功を期し、月の都に忍び込んでお酒を盗むことに成功したという具合だろう。そしてそれをかつての月の住民である永琳に振舞ってみた、と。

 もしも月旅行の紫の目的が永琳のこの反応だとすれば、なんともまぁしょうもないものに付き合わされたというものだ。ただ、月旅行は狭いところに閉じ込められたりと散々だったが、それでもやっぱり転生してからの初めての旅行ということでめいっぱいに楽しめたのでよしとしよう。狭い幻想郷では旅行なんて滅多にできるものではないので、いろいろと新鮮に感じたことが多かったのは記憶に新しい。

 紫にコップを渡され、酌をされる。お礼を一つ言って、口に運んでみた。

 ……おいしい。おいしいのだけど、どこまでも純粋なお酒というか、なにから作られているのかがまったくわからない。これが月の都のお酒らしい。まぁ、おいしいならなんでもいい。

 

「あ、そういえば」

「ん」

「あ」

「あら、ありがとう」

 

 倉庫から菓子折りを三つ取り出し、霊夢と魔理沙と紫に手渡す。紫は普通に、そして霊夢と魔理沙はなぜか呆れたように俺を見つめた後、それを受け取ってくれた。

 

「あんたもあいかわらずねぇ。私たちが勝手にやったことなんだから、こんなもの配らなくたっていいのに」

「だなぁ。そうじゃないと、私たちはレミリアとか幽々子とか萃香とか、そこの宇宙人どもからもなにかもらわなくちゃいけなくなっちゃうぜ」

 

 ちらちらと物欲しげな魔理沙の視線に、レミリアは鼻を鳴らし、幽々子は無意味に微笑み、永琳と輝夜は無反応。共通していることは誰もがなにも差し出すつもりがないということだろう。わかり切っていたことだと、魔理沙が小さく肩を竦めた。

 

「紫、そういえば萃香はいないんですか? 誘おうと思ったんですけど、見当たらなくて」

「あぁ、今日は地底でサッカーの試合があるとかなんとか言ってたわよ。流行ってるわね」

 

 じとっとした紫の目線を受けて、さっと目を逸らす。サッカーの本をお願いした時に俺は「大きく広めるつもりはありません」なんて宣言した記憶がかすかにあり、紫もそれを覚えているらしい。

 

「はぁ、ま、いいわよ別に。でも、あなたに伝言を預かってきたわ」

「伝言? 私にですか?」

「ええ。『実はレーツェルが起こした日が本当の試合をやる日だったんだ。レーツェルのせいで先延ばしになったんだから、もちろん埋め合わせしてくれるよね?』ですって。大変ね」

「うぐぅ」

 

 萃香のことだ。埋め合わせ、と言って菓子折りを渡したところで満足してくれないだろう。当然のごとく以前のような全力の喧嘩を求めてくるに決まっている。それも地上では迷惑がかかるので、地底の外れの方で。

 よほど嫌そうな顔をしていたのだろう。霊夢は苦笑いをし、魔理沙がドンマイと背中を優しく叩いてくる。こんなことになるんだったら、異変を起こすのはさらに次の日にしておけばよかった。過去の自分を無性に殴りたくなってくる。

 

「いやぁ、しかし新鮮ねぇ」

 

 霊夢が感慨深そうに呟く。なんのことかと首を傾げれば、どうしてか指を差された。

 

「ほら、あんたと出会ってから無表情ばっかり見てたから。ここまで表情豊かなところを見てると、ギャップ? がすごいというか……」

「別人みたい、ですか?」

「いや、むしろもっと『らしく』なったわよ。わかりやすいしね」

 

 きっと褒められているのだろう。ありがとうございます、とお礼を言っておく。

 

「そうね。生き生きして見えるわ」

 

 紫からも言われ、そちらに目を向ける。

 

「今の方が断然魅力的よ。誇ってもいいくらい」

「えぇと、ありがとうございます……ところで紫、少し変わりました?」

「なにがかしら?」

「なんだか私への態度がちょっと違うような気がして。前と違って、なんというか……親戚の親みたいな印象を受けるんですけど」

 

 紫はくすくすと笑うと、再び俺に酌をしてくれた。

 

「私もまたあなたのクオリアを体感させていただいた一人ですから。あなたの性質の根本を知ったのですから、多少の対応の変化はお流しくださいな」

「そ、そうですか。でも子ども扱いは……まぁ、紫から見れば皆子どもなのかもしれませんけど」

 

 当たり前のように頭を撫でてくる紫を見て、おそらく俺は仏頂面になっていることだろう。

 紫は声を殺すようにして笑っていた。

 

「あら、ひどいですわ。それではまるで私がお年寄りみたいな言い方じゃないの」

「そこまでは言ってないですが」

「さすがにあなたほど若くはないと思うけど」

「そこまでも否定してないです」

 

 プールの方が騒がしいので視線を向けてみれば、今度はこいしと妖夢が泳ぎの勝負をしているようであった。幽々子はお酒を嗜みながら、面白そうにそれを眺めている。

 楽しそうにしているこいしやら真剣に泳ぐ妖夢やら、それぞれを応援している面々を見ながら、ふいと、俺は思う。

 俺は異変で負の感情の痛みをすべてなくそうとした。でも、勝負で負けたくないと思う心が正か負なのか、目的を成すための努力で発生する苦労は正か負なのか――どちらであろうと、両方が混ざっているのが真実であろうと、当人たちはそんなこといちいち気にしない。実際に考えるにしても正直どうでもいい。

 俺がしようとしていたことは誰かを救うことではなく、目の前で繰り広げられている勝負そのものをなかったことにしてしまうことだったのだろう。人々が行っている努力そのものを無に帰してしまう失礼なことだったのだろう。

 肩を竦める。異変が終わってからいくらも思い知らされる、自分の愚かさ加減。

 でも。

 向き合って、少しずつ変わっていければいい。知って、刻んで、前に足を踏み出していけばいい。

 大好きな姉と妹にそう教えてもらった。道を間違えて、泣いて、本当に辛い時は誰かを頼って、乗り越えられた時はたくさん笑えばいいと。

 

「明日は、新しいスペルカードでも作りましょうか」

 

 記念に切り札級のものを一枚作っておきたい。異変を失敗した記念というのもおかしな話だけれど、せっかくいろいろなことの見方が変わり始めてきた時期なのだ。

 めいっぱいに美しい弾幕がいい。新しいスペルカードに思いを馳せながら、お酒を口元に傾ける。

 おいしい。

 楽しげな空気を肴にしたそんな思いに、自然と頬が緩むのを抑えられなかった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 水遊びと宴会が終わり、人妖たちが退散した後で、俺はあくびをしながら自室へと向かって歩いていた。

 結構楽しんでもらえたようでなによりである。終わりが近づいてきた時、後日風邪を引いていないかと永琳と鈴仙が一人一人の様子を見て回っていたので、お礼を言ったりもした。永琳によれば「バカは風邪を引かないのよねぇ」とのことだから、きっと皆大丈夫だったのだろう。

 

「……楽しかったなぁ」

 

 今日のことを振り返っていると、気づいた時には自分の部屋の前までたどりついていた。

 扉を開け、電気をつける。

 天蓋つきのベッド、ベッドサイドテーブル、照明、鏡台、机やイス。ここまではレミリアやフランの部屋と同じようなものなのだが、隅の方にはテレビやらコタツやら、外の世界から流れてきたものや参考にして作ったものも置いている。座布団等と合わせ、洋風なこの館に合っているとは言いがたかったが、マッチしていない変なものが転がっているこの部屋にもいろいろと愛着が湧いてしまっていた。

 鼻をすんすんと動かし、なんとなく、大体のことを察する。

 さて。

 ベッドの毛布の部分が妙に膨らんで見えたので、ちょっと剥いでみた。

 

「あ」

「えへへ」

「……まぁ、わかってましたけどね」

 

 見つからないようにするためか、丸まって小さくなっていたレミリアとフランがそこにいた。二人とも気恥ずかしそうに、目を逸らしたり笑ったりとそれぞれの反応を見せる。

 そんな二人を横目に、俺は机の方へと足を進めた。イスに座り、置いてあったペンを手に取る。

 

「お姉さま、なにするの?」

「日記を書きます」

 

 前からずっと続けていることだ。今更やめようとは思わない。

 俺が書いてるのを覗き込もうとしたのか、フランがベッドから這い出ようとして、しかしレミリアに肩を掴まれて止められているのが視界の端に映った。

 別に見られてもいいのだけど、気を遣ってくれたレミリアに心の中でお礼を言っておく。

 

「ねぇ、レーツェル」

 

 映姫に叱られたこと、永遠亭で永琳と鈴仙にジトっとした目で見られたこと、さとりがちょっと変だったこと。そこまで書いたところで、レミリアに声をかけられた。

 

「あなた、敬語はやめたりしないの? もうあなたはあなたでしかないんだから、普通にしゃべってくれてもいいのよ」

 

 腕が止まる。それから少し考えて、書くのを再開するのと一緒に口を開いた。

 

「確かに、最初はお母さまの真似事でした。お母さまの口調を真似することで、お母さまたちのことを絶対に忘れないようにするための、単なる戒めにしていました」

「だったら」

「けど、今はもう違います」

 

 こいしとルーミアが一緒に遊んでいたこと。こいしにお礼を言われたこと。

 紅魔館に戻って、妖精メイドたちと一緒にいろいろと準備をしたこと。

 

「"狂った帽子屋"は死にました。でも、確かに私は、見知らぬ世界に迷い込んでしまったアリスは、帽子屋を装おうと必死になっていました」

 

 水遊びと宴会で、とにかく騒いだこと。楽しんだこと。

 

「……それから、いろんな人たちに助けられたんです。あなたはこれだけのことをやってきた、あなたがいることでこれだけ楽しく過ごせた、そういうたくさんのことを証明された。私もこの場所にいていいんだって、皆が、お姉さまたちが優しく諭してくれた」

 

 自室に戻ってみたらレミリアとフランがいて驚いたこと。レミリアとしている今の会話のこと。

 

「あの時の気持ちを味わえたのは、ほんの少しかもしれないですけど……帽子屋のおかげかもしれない、って思うんです。本当にバカなことをやっていたのはわかっているんですが、でもそれでも、そのおかげでいろんなことに気づくことができたから」

 

 レミリアとフランの方に向き直る。二人とも、真剣な顔で俺の方を見つめていた。

 そんなに大した話じゃないんだけどな、とちょっとだけ苦笑する。

 

「帽子屋として経験したいろいろなことも、きっと私にとって大切なことなんです。だから、このしゃべり方も……その一部、なんでしょうか。なんとなく続けたいと思っているのを変に言葉にしただけなので、言ってること滅茶苦茶かもしれませんが……」

「いえ、十分伝わったわ」

「そうですか?」

 

 レミリアもフランも、まっすぐと俺を見つめていた。

 

「……まぁ、五〇〇年も続けてきたせいでクセになっちゃったっていうのもあるんですけどね」

 

 日記帳に残りの文字を書き、ぱたんと閉じてペンを置いた。席を立ち、二人がいるベッドの方に向かう。

 その端の方に腰かけると、フランがごろごろと転がってきては、俺の膝の上に頭を乗っけてきた。それから背中に誰かが寄りかかってきたのを感じて、少し視線を横に動かすと、俺の肩から顔を出すレミリアの顔が窺える。

 そんな二人の様子に、俺も自然と口元に笑みが浮かんだ。

 

「うん。やっぱり、あなたは笑顔が一番いいわ」

「そうですか?」

「そうよ」

 

 フランも勢いよく首を縦に振っていた。なんとはなしに自分の頬に手を持っていってみるが、笑っていることがわかる以外は特に思うところはない。吸血鬼は鏡に姿が映ったりもしないので、鏡台の前に移動してみてもわからないことだろう。

 それでもレミリアやフランが満足そうにしているのを見ていると、自分がどんな表情をしているかなんてどうでもよくなってきた。

 目を閉じてみる。

 するとどうしてか、帽子屋としての仮面を壊された直後のことが頭に浮かんできた。

 

『あぁ、うあぁあああ……』

 

 堪え切れない、一人では絶対に耐え切れない不安の念に、ただただ泣きじゃくっていた。あまりにも悲痛が大きすぎて、胸の痛みが強すぎて、自分が自分でいられなくなりそうだった。

 もうなにもかも、忘れてしまいたかった。この痛みから解放されるためなら、死んだっていいとさえ思っていた。

 もう嫌だ。なにも見たくない、なにも感じたくない。痛くて痛くてしかたがないんだ。悲しくて悲しくてしかたがないんだ。

 ヒビが入った心は、今にも壊れてしまいそうで。

 そんな時、誰かが優しく俺を抱きしめてくれたのがわかった。

 一瞬思考が止まって、でも、すぐにそこがどこなのかがわかる。

 いつか感じたことのある、柔らかくて、甘くて優しい安らかな匂い。俺が慕う大好きな姉の胸の中。

 

『大丈夫よ。苦しいなら、辛いなら、悲しいなら……いっぱい、私たちを頼りなさい。全力で手を尽くしてあげる、その痛みがなくなるまでずっとそばにいてあげる』

 

 それじゃあ、ダメなんだ。

 甘えてしまえば、また全部なくしてしまうかもしれない。救われてしまえば、気を抜いてしまえば、君さえも俺の前からいなくなってしまうかもしれない。

 だから、ダメなんだよ。幸せになんかなっちゃいけないんだ。

 突き飛ばそうとした。いつかの時のように救いを否定しようとした。

 でも、大好きな姉は俺から絶対に離れようとしない。俺を抱きしめるのをやめようとしない。

 

『あなたがそうやって必死に私たちを守ろうとしてくれるように、私たちもあなたをどうにかしてあげたいって、ずっと強く思うのよ』

『うぅぁあ、でもっ、うぅ、けどっ! ぞ、ぞれじゃあ、ぅ、守れないっ!』

『安心なさい。かつての私は弱くて、頼りなかったかもしれない。でも、もう違うから。今の私は……私たちはきっと、あなたが思っているよりもずっと強い。それにね、ここからさらに強くなろうとがんばることだってできる』

『う、うぅうぁああ!』

『ねぇ、レーツェル。何度だって言うわ』

 

 温かい手の平で頭を撫でられる。それに、一瞬だけ抵抗をやめてしまう。

 どこまでも優しげな笑みで、レミリアはまっすぐに俺を見つめてきた。

 

『大好きよ。私もあなたが、大好き』

 

 涙が止まらなかった。不安は、いつまでも消えなかった。

 でも同時に、俺を包み込んでいた優しさと温もりも消えてはくれなかった。

 次の日になって、レミリアにたくさん怒られて、泣きわめくフランに抱きつかれて。

 なんとなく、胸に空いていた穴が本当に埋まってきたような気がした。

 まだ完全には治っていないけど、痛みは残っているけれど、それでもほんの少しずつ。

 目を開いた。

 そこには、動かなくなってしまった俺の顔を心配そうにのぞき込む二人がいた。

 

「……大好きです。お姉さま、フラン」

 

 どうしても言いたくなって、胸から湧き上がってきたその言葉を、ぽつりと口から漏らす。嬉々とした思いを込めて、精一杯の笑顔を浮かべてみせる。

 結局、一番弱かったのは俺だったのだろう。周りを守るなんて口にして、本当は俺自身がなにかを失うことが誰よりも怖かっただけ。自分が一番弱かったから大事な人たちの強さだって見くびって、一人でなにもかもしなきゃいけないと思い込もうとしていた。

 ここから強くなろうとがんばることだってできる。そんなレミリアの言葉――それはもしかしたら、俺にも当てはまってくれているのだろうか。

 俺もまた、強くなることができるのだろうか。

 わからない。でも、なれたらいいなと感じる。

 俺も、レミリアやフランみたいに、本当の意味で誰かのために必死になれるくらい、強くなれたらいいなと思う。

 

「憧れは……まだまだ遠いですね」

 

 なぜか目を見開いて固まっている二人を適当に引き離し、ベッドに寝転がす。

 二人ともここにいるということは、久しぶりに三人で寝たいという意志表示だろう。俺もちょうどそんな気分だったのでぜひもない。

 布団を整え終え、俺も横になって三人を包み込むように布団をかけると、ごろんと二人の方に向き直った。

 

「お姉さま、フラン。今まで本当にありがとうございました。だから明日からもどうか、よろしくお願いします」

 

 そんな挨拶をしてみると、二人ともようやく再始動してくれた。

 二人ともどうしてか頬を薄っすらと赤く染めつつ、ほぼ同時に小さく首を縦に振った。

 

「も、もちろんよ。あなたは私の妹なんだから」

「……お姉さまは誰にも渡さないわ」

 

 妙に偉そうに胸を張るレミリアと、気合いを入れるように呟いているフラン。二人ともちょっとばかりおかしな反応だったので首を傾げつつ、でも芳しい返事だったのは確かなので、俺も微笑みながらこくりと頷いた。

 影の魔法でランプの光をすべて消す。暗闇に包まれた室内で、仲のいい姉妹の体温を身近に感じながら、そっと瞼を閉じる。

 おやすみなさい。ほんの小さな、そんな一言。

 眠る直前、頭の中をよぎっていたのはこれまで帽子屋として過ごしてきたたくさんの記憶だった。

 ずっと押さえ込んできたけれど、心の底ではずっと辛く感じていたと思う。幸せなくせに不幸のフリをして、罪悪感から逃げようと必死だったように思う。

 逃げていたせいで、本当なら必要がないはずの痛みさえ味わってきた。

 今だって、両親や義理の母に対する罪悪感が消えたわけじゃなかった。あの時のことを思い出すと、どうしても針で刺されたように胸がちくりと痛んでしまう。

 でも、レミリアやフランが――幻想郷に住むたくさんの人妖たちがそばにいてくれる。そのことを意識すると、そんな胸の痛みにくらい、まっすぐ向き合えるような気がした。

 辛いことはたくさんあっただろう。でもそれ以上に、嬉しくて楽しいことがいっぱいあった。

 思う。

 もしも明日、これまでのことが全部夢だとして、現代の日本のベッドで目覚めたのだとしても。

 もしも明日、かつての時のようにすべてを失い、見知らぬ世界で見知らぬ誰かとして生を受けたのだとしても。

 この世界で見たものは、感じた思い出は忘れたくない。絶対になくしたくない。

 なかったことにしたくない。

 このクオリアだけは、なによりも大事にしたかった。

 世界にとってどんなに意味のない記憶に化したとしても、大好きな人たちからもらったかけがえのないこの思いだけは、いつまでも大切にしていたかった。

 強く思う。強く感じる。

 だって。

 たくさん悲しんで、たくさん辛い思いをして。

 たくさん泣いて、でもそれから、心の底からたくさん笑った。

 忘れたくない理由なんて、きっとそれだけで十分だ。

 

「ん……ぅ……」

 

 意識が朦朧としてきた。考えごとも細かいことはできなくなってきて、心地のいい眠気に逆らうのも、そろそろ限界だった。

 明日からのことに思いを馳せ、気づかぬうちに頬を緩ませつつ。

 一人の姉と一人の妹に抱きつかれ、温もりというか、普通の人間ならむしろ暑いと感じるくらいになりつつ、ひたすら眠りにつく。

 ――たくさん、夢を見た。

 ――不可解な夢を。悲しい夢を。苦しい夢を。

 ――そして、愛おしい夢を。

 

「……大、好き……」

 

 ニヤけながら、ただ一言、誰にも聞こえないそんな寝言は。

 どこまでも厳しくも、どこまでも優しい暗闇と世界に包まれて、静かに消えていった。




今話を以て、本作「東方帽子屋」の本編は終了となります。
ここまで読んでいただき、たいへんありがとうございました。「Kapitel 10」はもう、いろいろとやりたいこと詰め込んだ感じです。
長々とここで語るのもなんですので、書き切った感想等は活動報告へとまとめさせていただきました。そちらも読んでいただける方は、①下記のURLをコピー&ペーストするか、②作者名をクリック後、左下の活動報告欄から「「東方帽子屋」【完結】の執筆感想」をご覧くださると幸いです。

http://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=64597&uid=67621

なお、本編は今話で終了となりますが、今後、気が向いたら後日談(番外編。基本的に日常)を執筆させていただくこともあるかもしれません。
投稿された際は、そちらも読んでいただけると幸いです。


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Kapitel EX.レーツェル・スカーレット
一.如月における菓子を送る日


後日談その一。二の更新日は未定。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Sakuya Izayoi □ □ □

 

 

 

 

 

 死とすべての痛みが消え失せるという未曽有の大異変――見えない霧が漂っていたことから、一部では透霧異変と呼ばれてるとかなんとか――から、およそ二か月の時が過ぎていた。

 あの事件の犯人は未だ誰なのか判明はしていないらしい。神々が争い合っただとか、龍神さまが不機嫌になったからだとか、妖怪の賢者の謀略だとか、いろいろと説はあるようだが、世間では偶然世界の法則が乱れてしまっただけという結末に落ちついている。

 元々幻想郷の住民は流されやすいというか、順応性の高い者が多いので、異変の影響はとっくになくなっている。もう誰も犯人のことなんて気にしようとはしていなかった。

 昼は人間が里で活動をし、夜は外で魑魅魍魎が跋扈する。完全な平和とは言えないかもしれないが、けれど確かに幻想郷はいつも通りの日々を取り戻していた。

 

「前に異変のお詫びで渡した菓子折りが結構好評だったんですよね」

「ええ。私もいただきましたが、とてもおいしかったですわ。ちょっと甘すぎる気もしましたけれど」

 

 紅魔館の厨房。私はそこで、銀に幾房か金の混じる髪を持った、一〇にも満たない幼児の見た目をした少女の相談を受けていた。

 前の異変――そう。あまり広く知れ渡ってはいないが、二か月前に災厄を起こした者の正体こそが、まさに私の目の前にいる小さな女の子である。すべてを無に帰す『答えをなくす程度の能力』という力を操り、ありとあらゆる苦痛と日常に潜むわずかな脅威さえ根元から抹消することで幸福のみで満ち溢れた世界を創ろうとした。

 その動機は至って単純で、どんな危険からも大切な人たちを守りつくすため。そして、自らの姉にずっと幸せでいてほしかったため。

 

「咲夜、あの時は菓子折りを作るのを手伝っていただいて、ありがとうございました」

「構いませんわ。私も楽しめましたから」

「それはよかったです……それでその、今日は一つお願いがあるんですけど……」

 

 すでにこの少女に『答えをなくす程度の能力』は備わっていない。異変の終結に際して、その力は少女の中から消え去ってしまったのだ。

 しかしそれから、少女はまるで憑き物が取れたように日々を謳歌するようになっていた。少し前まではずっと無表情だったその顔は、時には笑い、時には泣き、時には不満そうに口を尖らせたりと、生き生きとするようになっている。

 今もそうだ。どこか申しわけなさそうに、けれど期待を隠せない色の瞳と顔で、彼女は私を見つめてきている。

 

「またお菓子作りを手伝って……いえ、違いますね。私のお菓子作りを見守っていただけませんか?」

 

 少女――レーツェル・スカーレットという、館の主の妹の一人のお願いに、私は首を傾げた。

 

「見守る、ですか?」

「はい。前回は咲夜に任せてしまった部分が多いのですが、今回はそれらも全部私がやってみたいんです。でも、失敗したものを皆に食べてもらうのは、ちょっと気が引けますから……」

「なるほど、わかりましたわ。致命的な間違いをしそうになったら注意してほしい、と」

「はい。できるだけ自分だけで作りたいので、少しの失敗なら見逃してくれてもいいです。お願い、できますか?」

 

 不安そうに小首を傾けるレーツェルお嬢さまに、くすり、と声を漏らす。

 私はこの館のメイドだ。主であるレミリアお嬢さま、そして主の妹であるレーツェルお嬢さまや妹さまの命令を突っぱねることはまずできないし、しようとも思わない。それを目の前の少女は本当はわかっているはずなのに、命令ではなく『お願い』なんて言葉を使って、もしかしたら断られるかもしれない、なんて顔をして。

 思わず頭を撫でるために伸ばしかけた手を引っ込める。さすがにそれをすることは立ち場の違い的に、私のメイドとしての矜持が許さない。

 

「もちろん、私のできる限りのせいいっぱいのことをさせていただきますわ」

「本当ですかっ? ありがとうございます!」

 

 レーツェルお嬢さまが浮かべたのは、見ているだけでこちらまで自然と心地のいい気分になってしまうほどに、嬉しさが溢れんばかりの満面の笑み。

 初めてレーツェルお嬢さまの笑顔を目にした人妖がたじろぐ姿は幾度となく見てきた。それほどまでに気持ちのいい、見惚れてしまうくらい正直な歓喜をそこに映しているのだ。

 レーツェルお嬢さまいわく、これまで能力でずっと無表情を装ってきたから、表情のコントロールは自分ではできないとのこと。だから彼女はどんな些細な感情もそのまま表情に直結して出てしまうし、しかしだからこそ、彼女と一緒にいるととても安心した気持ちでいられる。

 

「それでレーツェルお嬢さま、いったいなにをお作りするのですか?」

「んー……定番に、クッキーです。材料も実はもう揃えてあるんです」

「今からお作りに?」

「できればそうしたいんですけど、もしかして咲夜はなにか用事があったりします?」

「そんなことはありません。いつでも、もちろん今からでも大丈夫ですよ」

「よかったです。それじゃあその、いいでしょうか」

「ええ。私はここで見守らせていただきますので、どうぞがんばってください、レーツェルお嬢さま」

「はいっ!」

 

 厨房の端に立ち、作業に取りかかるレーツェルお嬢さまを眺めることにした。

 レーツェルお嬢さまは、魔法で自前の倉庫空間から一通りの材料を取り出し終えると、バターを潰してほぐし始める。続いてグラニュー糖を加えて、卵を解きほぐし始めて。

 ふいと、自分の顔に触れてみて、頬が緩んでいることに気づく。レーツェルお嬢さまが楽しそうに作っているものだから、私も感化されたのだろうか。

 私はただ立っているだけで、基本はなにもしていない。でもつまらなくないし、なんだか悪くない気分だ。

 

「レーツェルお嬢さま、いくつかお聞きしてもいいですか?」

「大丈夫、ですよ」

 

 たまに作り方の載った雑誌とにらめっこをしながら製作に四苦八苦するレーツェルお嬢さまに、気になっていることを問いかけてみることにした。

 

「どうして急にまたお菓子作りをしようと考えたのですか? 特に最近はイベントらしいイベントもありませんし……いえ、レーツェルお嬢さまのことですから、ただ単に思い立ったが吉日という感じなのかもしれませんが」

 

 パチュリーさまも「レーテはたまに変なことを真面目にやろうとする」と言うし、私もそれには頷かざるを得ない。今回のことはただのお菓子作りなのでそう変ではないにせよ、ちょっと不思議ではあった。

 ちなみにパチュリーさまもよくわからないおかしなことを真面目にしでかすので、あまり人のことは言えないのではと思ったのは、ちょっと悩んだ結果言わないことにした。なにせそんなのは今に始まったことではないし、この館の住民はどちらかと言うと変なことをする者の方が多い。

 

「イベントならありますよ。今日は、それに向けての準備です」

「はあ。近いうちになにかがあるとは、あまり耳にしませんが」

「ふっふっふっ、まぁ、幻想郷ではあまりメジャーではないみたいですからね。一般人にお菓子を作るのがちょっと難しいからというのもあるかもしれませんが……」

 

 この様子だと、そのイベントがどういうものなのかは具体的に教えてくれなさそうだ。いや、レーツェルお嬢さまのことだから、適当に話を誘導すれば勝手に自白してくれるかもしれないが、さすがに私の尊敬する一人である彼女にそれをするのはやめておく。

 そのイベントとやらの当日には私にも教えてくれるだろう、と気にしないことにした。それは別に予想ではなく、人生の半分以上をこの館と少女とともに過ごしてきたゆえの、単なる確信だ。

 

「わかりました。ではレーツェルお嬢さまは、今回のお菓子はどんな方々に配るのでしょうか。やはり前回と同じメンバーに?」

「もちろん前にお詫びをした人たちの全員には配りますよ。それから萃香とか幽々子とか、たまに交流をするような人妖たちとか、館のメイドたちにも……」

 

 とにかく知り合いに配りまくるらしい。なんだか材料が妙に多いような気がしていたが、レーツェルお嬢さまの回答に私は納得をした。

 

「あ、咲夜。このことは……お菓子を配ろうとしてるってことは、皆には秘密にしていてくれませんか? お姉さまにも、フランにも」

「ふふっ、わかりました」

 

 実際に渡した時に驚く顔が見たいのだろう。私が首を縦に振ってみせると、レーツェルお嬢さまは満足そうにお菓子作りに没頭し始めた。

 前回一緒に菓子折りの菓子を作った時にわかっていたことだが、レーツェルお嬢さまは決してお菓子作りが苦手というわけではない。やったことはなかったとのことらしいものの、レシピ通りに作るくらいならさして問題など発生するはずがなかった。

 あとはシートを敷いた天板の上に形を整えた生地を置くだけ。しかし、その途中で一つの問題が発生した。

 

「レーツェルー? どこにいっちゃったのかしら……そこにいるの?」

 

 厨房の外から、聞き慣れた幼い声音が響いてくる。館の主、レミリア・スカーレットの声だった。それには私だけでなく、レーツェルお嬢さまも反応する。

 あたふたと使った器具や余った材料を自前の倉庫空間に放り込むのを眺めながら、しかしその片づけが間に合わないことを私は悟った。形を取った生地をシートの上に乗せていく最中だったので、いろいろと調理台の上に散らばっているのだ。

 ここは私が時間を稼ぐしかない。

 

「時よ、止まれ」

 

 ずいぶんと前にレーツェルお嬢さまに懇願されたまま、もはや能力発動の際のクセになっている一言を呟く。レーツェルお嬢さまが静止し、途中まで耳に届いていたレミリアお嬢さまの声が一瞬にして途切れた。

 そうして厨房の外に出る際、なんとはなしにレーツェルお嬢さまの方に振り返る。

 ちょっと前までは『答えをなくす程度の能力』を保有していた彼女を、私は時を止めている間は認識することができなかった。それでいてスペルカードルールにおける私の技のほとんどはこの『時を操る程度の能力』によるものだったため、これまで私はレーツェルお嬢さまとスペルカードで遊んだことはほとんどなかった。しかし今は違う。少し前にも、私と戦ってみたいというレーツェルお嬢さまと戦ったりした。

 私にはそれが、ようやくレーツェルお嬢さまが『この世界の住民』になれたのだという証拠のように感じられている。彼女がやっと自分自身の存在を認めたという証のように勝手に思っている。

 口元に笑みが浮かぶのを自覚しながら、厨房の扉を開け、きょろきょろと辺りを見渡した。厨房を覗こうとしていたレミリアお嬢さまの姿を確認し、扉をしめると、レミリアお嬢さまの進路を塞ぐように立ちはだかる。

 

「そして時は動き出す」

 

 すべてが元に戻る。レミリアお嬢さまもまた動き始め、突然目の前に現れた私にちょっとだけ目を開いて、立ち止まった。

 

「咲夜。レーツェルを見なかった? あの子の部屋にも行ってみたんだけど見当たらなくて」

「あら、厨房にはいらっしゃいませんわ」

「いや、見なかったか聞いたんだけど? 別に厨房にいるかどうかなんて聞いてないじゃない」

 

 訝しげにレミリアお嬢さまに目が細まる。かちゃかちゃと厨房の奥で鳴る音に気づかれてしまいそうだったので、ろくに言葉も思いつかないままに口を開いた。

 

「そうですね、レーツェルお嬢さまを見たか、ですか。そういえば……」

「なにか知ってるの?」

「ムカデが突然部屋の中に現れたので、殺虫剤を買いに行くと言っていた気がしますわ」

 

 内心、土壇場でそれっぽい嘘が吐けた、と安堵する。

 

「はい? 突然現れたって?」

「こう、ぱっと電気がつくように出てきたそうです。新手の妖怪でしょうか」

「や、知らないけど……もしかしてあのスキマ妖怪? ってそれくらいしかいないわよね、そんなことできるの。まったく、レーツェルを困らせるなんて……」

 

 ここにはいない胡散臭い妖怪に憤りを覚えた表情を浮かべるレミリアお嬢さま。このままならどうにか乗り切れそうだ。

 その時、ばたんっ、と厨房の中で大きな音がした。食器などが落ちたような音ではなかったが……まさかレーツェルお嬢さま、慌てすぎてこけてしまったりでもしたのだろうか。

 レミリアお嬢さまが、じとーっと私をねめつけてきている。

 

「……ねぇ、咲夜」

「いませんわ」

「その中に」

「いませんわ」

「へえ、そうなの。いないのね?」

「ええ、いません」

「じゃあ、別に見てもいいわよねぇ」

 

 私が時を止めようとするよりも早く、レミリアお嬢さまが動き出す。さすがに瞬きする間もなく私の横を通りすぎる彼女を止めることはできなかった。

 扉が開く音。振り向いた時には、すでにレミリアお嬢さまは厨房の中に視線を送っている。

 

「……ほんとにいないわね」

 

 思わず出かけた疑惑の声を飲み込む。きっとレーツェルお嬢さまは咄嗟に隠れることに成功したのだ。なんとか話を合わせなければ。

 

「だから言いましたわ。厨房にはなにもありませんわ、と」

「うーん……怪しいと思ったんだけどなぁ。部屋にあの子の嫌いなムカデなんて出たら、殺虫剤買いに行くなんて理知的な選択なんてしないで、すぐ私に泣きついてくるだろうし……」

 

 まぁ、いないならいいわ。そう呟き、難しい顔をして去っていくレミリアお嬢さまの背を見ながら、ほっと息を吐いた。

 廊下の端に消えて完全に見えなくなったのを確認してから、私は開いている扉から厨房の中に戻った。

 調理台の上は綺麗に片づけられている。流し台の中には洗う前の泡立て器などが入っているが、入り口から覗いた限りでは見えない位置にあった。

 さて、本当にレーツェルお嬢さまが見当たらない。どこに隠れたのか。

 もしかして自前の倉庫空間に隠れたのでは、と考え始めた辺りで、がたんっと冷蔵庫が大きく揺れた。

 

「……レーツェルお嬢さま」

「…………冷蔵庫の中って、暗いんですね」

 

 縮こまって入り込んでいたレーツェルお嬢さまを引っ張り出す。そんなところにいて大丈夫だったのかと問いかけると、吸血鬼だから寒さには強い、と胸を張られた。得意げな顔がどこか微笑ましい。

 

「どうして材料などと一緒に倉庫空間に隠れなかったのですか?」

「あ」

 

 普通に思い至らなかったらしかった。その方がはるかに隠れるのが楽だった、とレーツェルお嬢さまが肩を落とす。

 その後は特にトラブルもなくお菓子作りが再開し、きちんとクッキーが完成して、翌日――――。

 

「はい、咲夜っ! バレンタインのお菓子です!」

「バレンタイン……?」

 

 そういえば、まだ外の世界にいた頃にそんな行事があるとどこかで小耳に挟んだような気がする。確か、主には女性から男性にお菓子を送る日だとかなんとか。本来はそういう行事ではないらしいけれど。

 

「その、本当は咲夜にもサプライズみたいに渡したかったんですけどね……手伝わせてしまってすみません。でも、その、咲夜からしてみれば下手なお菓子かもしれませんけど、一生懸命作ったので、えっと」

「ふふっ」

 

 レーツェルお嬢さまが差し出してきていた小包を受け取る。その中からクッキーを一枚取り出して、その場で食べてみせた。

 

「おいしいです。とても」

「ほ、本当ですか?」

「もちろんですわ。ありがとうございます、レーツェルお嬢さま」

「いえ、咲夜には私の方がお世話になってますから。その、改めて……いつも紅魔館のメイドとしてたくさんがんばってもらって、ありがとうございます」

「私も、レーツェルお嬢さまにはよく気を遣わせていただいて、嬉しい限りです」

「……煩わしかったりしませんか? 余計だったり、ありがた迷惑だったり」

「いえいえ、とっても心地がいいですよ。これは本心です」

「それは、よかったです。安心しました」

 

 安堵、歓喜、感謝。すべてがごちゃ混ぜに、それでいてそれぞれがはっきりと窺える微笑みを前に、私の頬も緩んだ。

 

「それじゃあ、私はメイドたちに配りに行ってきます。その後はお姉さまとフランに……ふふふ。あと、宴会で皆にも配って……」

 

 今にもスキップしそうなほどに上機嫌に去っていくレーツェルお嬢さまを見送りつつ、小包からもう一枚クッキーを取り出した。

 かりっ、と一口ぶん含んで、しっかりと味わう。私に甘すぎると言われたからか、ちょっとだけ甘さが控えめになっていたが、やっぱりまだちょっと甘すぎる。でも、おいしいと言ったのは私の本心だった。

 

「……レーツェルお嬢さまは、甘すぎるくらいがちょうどいいのね、きっと」

 

 今度、レーツェルお嬢さまに紅茶を入れるのをお願いでもしてみようか。あまりメイドとして褒められたことではないけれど……なんだか、レーツェルお嬢さまの甘すぎるミルクティーがまた飲みたくなってしまった。

 目を閉じれば、いつでも思い出せる。紅霧異変が終わった頃、彼女の入れてくれた紅茶の味が。私の頭を撫でてくれた、あの手の温かさは。

 胸が熱い。想像の紅茶を本当に飲み干したかのように、体の内側が熱を持っていた。

 

「さて、メイドたちにクッキーの欠片をぽろぽろ落とさないよう、注意しに行かないといけないわね」

 

 甘いものの味に我を忘れて周囲を汚してしまう、なんてことは容易に考えつく。妖精のメイドは館中にたくさんいるし、全員にこぼされると掃除がちょっと大変だ。虫が館の中に入り込む可能性も出てきてしまう。

 

「来年のバレンタインは、私も、お嬢さまがたにあげるお菓子でも作ってみようかしら」

 

 悪くないアイディアだった。忘れないように頭の中に刻みつつ、小包を懐に入れて、レーツェルお嬢さまの後を追うようにして歩き出した。

 落ちついた時に、またこれを食べよう。一仕事終えた後にでも食べられれば、もっとおいしく感じられそうだった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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二.何でも無い日の小さな宴会

後日談その二、ミスティアさんの順位がもうちょっと上がってほしい話。かつて一位をもぎ取った人の人気にあやかりましょう。


 季節は巡る。降り積もっていた雪は何か月も前に解け切り、今はすでに自然の緑色をさらしていた。

 先月までは爛々と桜の花が咲き誇り、花見と称して連日連夜宴会を行っていたものだが、桜の季節が過ぎ去ればその回数も激減する。数年前、萃香が異変を起こした際は、夏になろうともお構いなしに三日おきに宴会を開いたりしていたものだけれど、異変でもなんでもない今年はそんなことはなかった。

 さて、そんな満月でもなんでもない普通の日の夜。

 少し前から若い人間や妖怪の間で話題になり始めているという、妖怪の開いている赤提灯の屋台に、人間化魔法を使った状態でやってきていた。

 

「失礼します」

「お邪魔しまーす!」

「おー、いらっしゃーい」

 

 屋台の赤提灯やのれんには一文字ずつ『八目鰻(やつめうなぎ)』と大きく掲げられており、一番右側ののれんには八目鰻の絵が載っている。

 普通赤提灯と言えば焼き鳥だと思うのだけど、という疑問は店主であろう妖怪の少女の姿を見て解消された。

 鳥と蝙蝠を足して二で割ったかのようなデザインの翼に、吸血鬼と同様に鋭く尖った爪、触ったら気持ちよさそうな羽でできた耳。薄紫色の髪の上に羽根の飾りがついた帽子をかぶり、体には紫のリボンであしらわれたブラウンのジャンパースカートを着込んでいる。

 この店主は鳥に関する動物の妖怪か、妖獣らしい。自分に類するものを焼いて食わせようだなんて普通嫌だろうし、だとすれば売っているものが焼き鳥でないのも納得ができた。

 

「と、いうか……」

「うんー? どうしたの? 私の顔になにかついてる?」

「いえ、どこかで会ったような気もしたのですが、たぶん気のせいですね」

 

 幻想郷での知り合いの記憶を適当に思い起こしてみるが、目の前の少女の特徴と一致する者はいなかった。それなのにこうして見覚えがあるような気がしている理由は、おそらく前世の記憶が関係しているから。

 幻想郷中の『答え』をなくすあの大異変を起こして以来、前世の記憶を正確に呼び起こすことが難しくなっていた。というよりも、これまで魂にこびりついてずっと脳裏から離れなかった呪いじみた記憶が、なんでもないありふれた記憶と同じものになったという表現が正しいか。能力を失ってしまったからか、それとも俺の中でなんらかの心情的変化があったせいか。紫いわく「それはあなたが前世の呪縛から正しく解き放たれたことを証明している」らしいが、原作知識がはっきりと思い出せなくなったのは少し痛いかもしれない。

 とにかく、幻想郷で会ったことがないのに見覚えがあるような気がしているのは、おそらくはこの店主が原作に出ていたキャラクターであることを示しているのだろう。はっきりとは思い出せないが、こんな変な姿のキャラがいたような気がしなくもないかもしれない。

 

「こいし、なにを頼みます?」

 

 今日は一人で来たわけではない。一緒に来た、物珍しそうに店内を見渡している少女に、俺は質問を投げた。

 

「はんぺん食べたいねぇ。あとこんにゃくと大根とー……あれぇ?」

「どうかしましたか?」

「焼き鳥ないの?」

 

 店主が鳥の妖怪であるにもかかわらず、というかそんなこと知らないとでも言わんばかりに無邪気に首を傾げるこいし。

 こいしはその特性上、どんなに大声を出しても周りから気づかれないのだが、今回は俺が「なにを頼みます」と話を振ったからその限りではなかった。

 

「ふんっ、屋台だから焼き鳥があるなんて発想、古いわね」

 

 こいしの呟きを耳にした店主が、頬を膨らませて身を乗り出してきた。

 店主の発言に、そうなの? とこいしが小首を傾ける。

 

「そう、古いの! もっと二重においしい食べ物だってあると思うの。ほら、たとえばこの辺って鳥目の人間が多いでしょう?」

「そうなの?」

「そうなの! で、それなら八目鰻とかが二重においしくていいんじゃないかなって! 八目鰻って普通においしいし、鳥目に効くって言われてるし。ほら、想像してみてよ! 鳥目でまともに歩けないところに目立つ赤提灯、そこには鳥目に効くと噂の八目鰻の屋台! 焼き鳥なんかより何倍もお得! ほら、無敵じゃない?」

「そうなのかなー」

「だからそうなんだってば! 実際売り上げも上々だし……まぁ、鳥目の人間が多いっていうか、私が鳥目にしてるんだけど」

 

 人間を鳥目にし、屋台におびき寄せては八目鰻を自主的に買わせている、と。なんというか、ずいぶんと妖怪らしい客引き方法だと思った。

 まぁ、この屋台の八目鰻はかなりおいしいと実際に評判にもなっているので、大した問題ではないだろう。仮に問題があっても人間側が勝手にどうにかするだろうし、特に被害を受けていない俺が口出しすることではない。というかめんどい。

 そんなことよりも、その評判のおいしい八目鰻とやらを食べることの方が今は重要だ。なにせそのためにこいしと一緒にこの屋台にやってきたのだから。

 

「それで、結局なにを頼むの? はん、ぺんと……なんだっけ」

「こんにゃくと大根ですね、こいしは」

「そうだったそうだった! で、あとは?」

 

 店主の視線がこいしに向けられる。こいしはそれに、迷わず胸を張って答えた。

 

「焼き鳥っ!」

「今の話聞いてたわよねぇっ!?」

 

 がくんっ、と体勢を崩す店主。必死に八目鰻を勧めた結果がこれとなれば、この反応も当然だろう。

 

「焼き鳥ないの?」

「ないに決まってるじゃない! あのねぇ、いいっ? 元気に空を飛び回る鳥を火刑なんて残酷なものに処した焼き鳥なんか置いてないの! なにせ、おいしい上に鳥目にも効く八目鰻の方が何重もお得なんだから!」

「そうなの?」

「そうなの! 実際評判も売り上げも上々……あれ、なんだかデジャヴ……」

 

 こいしはぱちぱちと目を瞬かせた後、こてんと首を傾げた。

 

「それで、焼き鳥ないの?」

「……ねぇ、お姉さん。こんなのの相手してて疲れない?」

 

 目元をぴくぴくとさせた店主の疑問に、俺は苦笑いを返すことしかできない。おそらくこいしは話は聞いているのだろうけど、一切理解しようとはしていない。

 こいしが果てしなくマイペースなのはいつものことだが、今日は気分がいいのか、相当キレがいいようだ。ただ、このままだと店主の機嫌を損ねて追い出されてしまいそうなので、この辺りでなだめておくことにする。

 

「こいし、焼き鳥なら今度私がご馳走してあげますから、今日は別のものを頼みましょう」

「えー。焼き鳥食べたいなぁ」

「いえいえ、この屋台には焼き鳥はないみたいですから」

「あれ、そうなの?」

「そうなのです。だから、頼もうにも頼めないのです」

「なーんだ、じゃあしかたないねぇ」

 

 こいしはしばらく考え込んだ後、「じゃあちくわぶで」と告げる。八目鰻じゃないんですね、と思ったことを口にしてみると、こいしはなぜか自慢気に胸を張った。その理由はわからないが、こいしのことなので「それを頼むと思ったかバカめ!」と言った感じだろう。

 店主はあっけに取られた様相で、俺とこいしを眺めていた。

 

「……お姉さんの話はちゃんと聞くのね」

「いえいえ、こいしは誰の話でも聞いてますよ。興味のない話は一切理解しようとしませんが」

「それ、聞いてるって言わないと思うんだけど」

 

 その言葉を否定することはできず、ただ愛想笑いを浮かべた。

 店主はこれ見よがしにため息を吐くと、それで、と俺に向き直る。

 

「お姉さんはなにを頼むの?」

「そうですね……私も焼き鳥を――」

「今日は閉店かなぁ」

「嘘です。とりあえず、こんにゃくと卵と、イカ……って、海鮮物はないんでしたっけ」

 

 幻想郷に海はない。イカが置いてあるはずもなかった。事実、店主も首を傾げている。

 

「イカは取り消しです。油揚げとちくわをお願いします」

「あいよー」

 

 余分な会話をしすぎたが、ようやく注文が終わって、一息をつく。

 本当なら八目鰻を食べに来たのだけど、こいしも頼まなかったので今はやめておいた。どうせならあとで注文する方がいい。こいしもどうやらそのつもりのようであるし。

 ――それからは、俺とこいしに店主を交えた三人で賑やかに話して過ごした。基本的にはこいしがマイペースに話を切り出し、店主がさまざまな反応を示し、俺が最後になだめるという具合である。

 

「それにしても、どうしてこんなところで屋台を開いてるんですか? さきほどは繁盛していると言っていましたが……あ、もちろん妖怪が里で屋台を開けないのは承知のうえですよ」

 

 酒を飲み干した猪口を置くと、のれんから顔を出し、辺りを見渡してみる。外は屋台の内側とはまるで別世界のように静かだった。月と星の明かりだけが頼りの夜の林は少々不気味で、見通しもかなり悪い。

 人里から近いと言える距離ではあるが、妖怪に襲われる可能性を考えると、どれだけ売っているものがおいしくても客の足数は数えるほどしかないはずだった。もちろん妖怪の客は別であるが。

 

「夜の鳥ぃ、夜の歌ぁ……うん? まぁ、確かに人間がこんな林の中まで私の屋台目的でやってくることは少ないけどねぇ、別の方法が充実してるもん」

 

 気分よさげに歌を歌っていた店主が、たとえば、と三本指を立てる。

 

「一つ目。この道はね、比較的人間が通る道なのよ。鳥目予防で来てくれる人もいるし、別に通る人たちが私の屋台目的じゃなくても私が鳥目にしちゃえば嫌でも赤提灯のこの屋台に来なきゃいけないし、あとは鳥目に効くって噂の八目鰻でも食べさせてやれば儲かるわ。効かなきゃ私が鳥目を解けばいいしね」

「ここまで堂々と詐欺の暴露をする人は初めて見ました」

「妖怪だもん。で、二つ目。たまーにそれで八目鰻を気に入ってくれる人もいるみたいなのよね。そういう時はその辺の雀を通して連絡が来るから、私がわざわざ鳥目にしなくても屋台を開くだけで儲かる。楽でいいわー」

「まぁ、確かに美味しいです。あの、私たちもまた来ていいですか?」

「もちろん!」

 

 すでに八目鰻は注文し、俺もこいしも食べ終えている。焼き鳥とはまた違った食感や特徴的な味は、焼き鳥とはまた違った種類の美味しさを感じさせた。

 

「それで、三つ目はなんなんです?」

「え? 三つ目? そんなのないけど。これで終わりよ?」

「……じゃあ、なんで三本も指を立てたんですか?」

「…………細かいことはいいじゃないの!」

 

 大声で押し切られた。隣でこいしが、計算できないんだねぇ、とちくわを加えながら呟いていた。計算と呼ぶほどの計算ではないと思うのだが……まぁ、相手は鳥の妖怪だ。妖怪としての力もそう強く見えないし、鳥頭なのだろう。

 いや、鳥頭は『バカ』という意味じゃなくて、記憶力が弱いことのたとえだったか。じゃあ、『バカ』のたとえってなんだっけ。妖精?

 そうやって俺が黙り込むと、店主が歌を再開した。『夜の鳥、夜の歌、人は暗夜に(てい)を消せ。夜の夢、夜の(あか)、人は暗夜に礫を喰らえ』。そんな歌詞の、めちゃくちゃなリズムの歌だった。失礼ではあるが、ぶっちゃけ酒でも飲んでいなければ雑音にしか聞こえないような。

 どういう意味なのだろう、と考えてみる。

 

「『夜の鳥(よすずめ)の歌を聞き、鳥目になれ。なにも見えない真っ暗な中で赤提灯の屋台を見つけ、そこで八目鰻を喰らえ』。そういうことですか?」

「え? そうなの?」

「いや、私に聞かれても」

 

 店主は、あまり意味も考えず歌っていたようだ。少なくとも、その歌詞は店主が考えたものだと思うのだけど、鳥頭なので歌詞の意味を忘れてしまっているのかもしれない。それならばなぜ歌詞を覚えているのかという話になるが。

 しかし、歌、歌か。転生してから――前世の記憶が薄まり始めてから、生まれ変わったという意識も徐々になくなってきているけれど――さまざまなことを経験してきたが、曲だけは前世のそれに勝るものを耳にすることはほとんどなかった。歌単体であればそうでもないが……それも、楽器という科学の結晶が普及してないのだから当然だと言えば当然である。

 もちろん、楽器がないというわけではない。幻想郷にも外の世界から流れ込んできた楽器が数多く存在しているし、俺は以前河童の作ったグランドピアノを買っている。楽器の付喪神だってまず間違いなくいるはずだ。だがそれでもやはり、音楽という一点で前世を越えるものはあまり知らない。

 

「いつか、幻想郷の『音楽』でも求めてふらふらしてみるのもいいかもしれませんね」

 

 ただその前に、そろそろグランドピアノをまともに弾けるようになりたいところである。

 購入からすでに数年。練習も何度も重ねてきているけれど、あと少しで人に楽しんでもらえるくらいのレベルになれる気がしていた。

 思い立ったが吉日、とは言うが、今は酒の席だ。明日か明後日か、とにかく近いうちに気合を入れて本格的に練習を始めるとしてみよう。

 香霖堂に寄ってみるのもいいかもしれない。もしかしたらだけれど、外の世界の楽譜を売っている可能性もある。

 

「店主さん。八目鰻をもう一本、お願いできますか?」

「あいよー」

「あ、私も私も! あと焼き鳥!」

「だから焼き鳥はないってば!」

 

 がやがやと騒がしく、夜が更けていく。

 宴会で大勢で楽しむのもいいけれど、こうして少人数で騒ぐのも風情があると感じた日だった。

 ――ちなみに翌日、焼き鳥を作ってこいしに渡してみたら、「店主の人、焼いちゃったの?」と言われたことをここに記しておく。



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三.天気雨の如く揺らぐ心模様

後日談その三。緋想天におけるレーツェルくんの気質が吸血鬼からしてみるとあまりにひどすぎて引きこもっているしかないお話。
実は緋想天要素は前半の五分の一くらいしかないのは内緒。


 すでに梅雨の時期はとっくに過ぎ去り、今では暑い夏に突入している。雨が多く降る時期も、日差しが異様に強いくせに夜の時間までも短くなってしまう時期も、吸血鬼にとってはいい迷惑以外のなにものでもない。

 俺は紅魔館のテラスで、傘を差しながらぼうっと空を眺めていた。

 どう見ても晴れている。太陽が爛々と顔を見せている、はずだ。見ようとすると瞳を焼かれるから直視はできないけれど、日の光がそこら中に落ちてきていることは直接見ずとも明白だった。

 そのはずなのに、どういうわけか、日差しと一緒にざぁざぁと騒がしく雨も一緒に降ってきている。日光と流水という吸血鬼への弱点二連コンボだ。日光は日傘や霖之助製ローブでどうにかなるにせよ、雨の方は今の俺ではさすがにどうにもできない。傘で多少は防げようが、もしも吹き飛んでしまったりすれば目も当てられないから出かけられない。

 『答えをなくす程度の能力』を持っていた頃なら簡単に対処できたのだけど、と嘆息する。俺にはあまりに過ぎた力だったが、便利だったことには変わりないのだ。

 

「まだ力があれば、私も今回の異変の解決に尽力できたんですが」

 

 日光や流水の弱点を無力化さえできれば間違いなく出かけられる。昔の俺なら、必ずそれを行っていたことだろう。

 この晴れたまま雨が降っているという現象は、ここ数か月間俺の周りでずっと起こり続けていた。梅雨の時期から、外に出ようとするといきなり空が晴れ、そのくせして雨が降ってくる。こういう天気のことを狐の嫁入りだとか、天気雨だとかいうらしい。

 確か、と思い返そうとしてみる。この異変は、その人の気質だとかなんだとかが表に出て、その人の周りが常にその天気になってしまうという感じの異変だったはずだ。平行して博麗神社が壊れたり、再建したと思ったらまた壊れたりすることが記憶にあるが、今がどういう状態なのかは紅魔館を出ることができない俺に確かめるすべはない。

 前世の記憶が他の記憶と同じものになってしまってから、すでに半年。まだ完全に忘れたわけではないが、原作知識もずいぶんと曖昧になってきてしまっていた。

 

「異変解決は人間の仕事。早く霊夢が異変を終わらせてくれることを願って、私は今日も館に閉じこもっているとしましょうか」

 

 身を翻すと、俺はテラスから館の内部へ戻った。最近は大図書館でレミリアが咲夜と探偵ごっこをしているので、俺はもっぱらフランとボードゲームやらカードゲームやら弾幕ごっこやらをして遊んでいる。

 それにしても……俺の気質は天気雨か。雨が地面にたどりつくよりも先に雲がどこかへ行ってしまった結果に起こる、本来はごくごく短い時間にしか訪れないという変わった天気。

 なんとなく妥当であるような気もしていた。

 かつては常に無表情をこの顔に貼りつけてすべての自らの感情に嘘をつき続けてきた俺だが、今はもう自分の感情をごまかすことができない。それがたとえ快晴のように晴れやかな喜びだろうと、雨のようにどんよりとした悲しみだろうと、雲も誰ももうなにも隠してくれない。拒絶も目をそらすことも許されず、すべてを受け入れることでしか前に進めなくなってしまった。

 もしも未だ俺が能力を持ったまま、レミリアたちに救われていなかったら、この俺の気質とやらは変わっていたのだろうか。

 なんだかほんの少しだけ、そんなことが気になった。

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

「お姉さま、最近元気ないねぇ」

「え?」

 

 フランの部屋で、なにをするでもなく二人でぼーっと寝転がっていたら、ふいとフランがそんなことを言ってきた。

 むくりっ、と視界の端でフランが上半身を起こしたのが見える。唐突な質問に彼女は目をぱちぱちとさせている俺に、こてんと首を傾けてみせた。

 

「やっぱり、その天気雨とかいうやつのせいで、あのさとりとかいう変な目の妖怪のところに遊びに行けてないから?」

「……どうでしょう。確かに最近は会いに行こうとしても会えませんし、ちょっと寂しい気はするかもしれません」

 

 俺の感情はもはや俺の制御の意思など関係なしに表情に出てきてしまう。これまでどうにか矯正しようかとかげでいろいろやってもみたのだが、未だ成果はない。

 フランからみて最近の俺は元気がないように見えるということは、きっとそうなのだろう。かつて自分自身を騙しすぎた影響で、たまに自分がなにを感じているのかすらわからなくなってしまうこともある俺よりも、俺のことをよく見てくれているレミリアやフランなどの方がきっと俺の感情をわかってくれている。

 

「お姉さまさぁ」

 

 四つん這いでフランが俺の方に近づいてくる。俺の頭のすぐそばで止まると、寝転んだままの俺の顔を覗き込んできた。

 なんだかどこか、不満そうな表情をしているようにも見える。

 

「あのさとりって妖怪のこと好きなの?」

 

 うん? と今度は俺が小首を傾げた。

 

「そりゃあ好きですけど。親友ですし」

「や、そういう意味じゃなくて」

「こいしだって、もちろんフランのこともそれ以上に好きですよ?」

「う、うん。それは嬉しいんだけど」

 

 フランの翼がぱたぱたと意味もなく動いていた。これは、彼女が恥ずかしがっていたりはしゃいでいたりする証拠だ。

 俺の視線に気がついたのか、彼女は翼を自分の体の影に入るようにして意図的に隠してきた。最近に至って、彼女はようやく自分の感情が翼に現れてしまうことがあることに気がついたらしい。俺が彼女の後ろの方に視線をやっていることに気づくと、いつも翼を隠そうとしてくる。

 

「あの、えっと、親愛だとかなんだとか、そういう意味じゃなくて……こう、恋愛的な意味で、とか……」

 

 もじもじと、段々としぼんでいく言葉。けれどこの静かな部屋で、吸血鬼として高い聴力を備える俺からしてみれば、容易に聞き取れる声量だった。

 

「恋愛、ですか。うーん……」

 

 さとりの姿を頭の中に思い浮かべてみる。半眼で、本のおかげで実はいろいろと博識で、俺の相談相手になってくれたりして。かつて俺が起こした異変以来は、以前以上に無邪気な笑顔をよく見せてくれるようになった彼女。

 親愛的な意味で、さとりのことが好きなことは間違いない。それは自信を持って言える。

 でも恋愛的な意味でどうか、と言われれば口をつぐまざるをえない。たまに彼女の微笑みに見惚れることはあるけれど、それが直接的に恋だとかなんだとかには繋がらない。というかそういうことは、まだこの幼い体には早過ぎると思うのだ。それ以前にそもそも性別が一緒だし。

 俺の表情から、フランも俺がさとりへは特に恋愛的感情は抱いていないことを察したらしい。ほっ、と安心したように息を吐いた後、けれどまた引き締めてはずいっと顔を近づけて次の質問を投げ出してくる。

 

「じゃあ、こいしは? お姉さま、こいしのことはどう思ってるの?」

「こいしですか?」

 

 さとりと同じようにこいしのことも思い浮かべてみる。いつも楽しそうに笑みを浮かべていて、突拍子もない言動で周囲を驚かせたり楽しませたり。無垢で無邪気で天真爛漫な彼女は、そばにいるだけでいつもこちらを笑顔にしてくれる。

 こちらは考え込まなくともすぐに答えは出た。

 

「こいしは手のかかる妹とか、後輩みたいな感じですよ。一緒にいると元気をもらえるみたいでとっても楽しいですけど、恋愛とは違う気がします」

「ふぅむ……」

「あ、妹とは言っても、フランが手のかからないだとかそういうわけじゃないですよ。手のかかるって言うと失礼かもしれないですけど……私がなにかしたらフランが喜んでくれるのが嬉しくて、私が勝手にやってるだけですから」

「だ、だから私のことはいいってっ」

 

 本心のままに笑顔を浮かべてみせると、彼女はこそばゆいと感じたのか、頬を赤らめてさっと視線をそらしてきた。もう彼女との付き合いも五〇〇年近くになるのに、こういう反応は未だ初々しいまま変わらない。

 にやにやと微笑ましいものを見るような目で眺めてしまっていたらしい。フランはむっと頬を膨らませると、恨めしげに俺を睨みながら額を突いてくる。地味に痛かった。

 

「じゃあ、えっと……レミリアお姉さま、は?」

 

 三回目の問いかけは、とても自信なさげに、不安げに行われた。

 どうしてフランがこの質問をするのにこんな顔をしてしまうのかは、俺にはどうも見当がつかない。だけど、真剣に聞いてきているという雰囲気は察していた。だから俺も同じように真面目に考えてみる。

 レミリア。かつてこの世界に生まれ落ちたばかりの俺にとって、彼女は唯一の救いの光だった。

 ただ泣きわめくだけでなんの価値もなかったはずのまがい物だった俺に、生きようと思う意思を与えてくれた。自分も辛いくせに、悲痛に沈みかけた俺を強く、優しく抱きしめてくれた。暗い暗い海の底に沈んだ俺を引き上げようと何百年も必死に頑張ってくれていた。

 初めて彼女をお姉さまと呼んだ日、どこまでもくだらなくも、単純で、あまりにも優しい見栄を張る彼女に、強い憧れと恋にも似た思いを抱いたことを覚えている。

 その感情は今も変わらない。俺は彼女に姉としても家族としても、異性としても好意を抱いている。

 

「……好きですよ。親愛的な意味でももちろんですけど、恋愛的な意味でも」

「そう……やっぱりそうなんだ」

「……ただ」

 

 しぼんだように目を伏せるフラン。どうして彼女が落ち込んでしまっているのかはわからないが、けれど俺の心にも、同じように不安や恐怖といった念が大量に生まれ出てきていた。

 

「お姉さまは、こんな私を受け入れてくれるでしょうか」

「え?」

「だって、姉妹ですよ。それにほら、よく考えなくても異性じゃないですし、性別一緒ですし……私は前世があれなので、そんな気はあんまりしないんですけど、お姉さまは違うじゃないですか。だから……もしも拒絶されたり、気持ち悪がられたりしたら……あはは。何年か、何十年かは立ち直れなさそうですね、その時は」

 

 呆然としているフランを、ふと、俺も弾かれたように見つめ返した。

 

「フランは……私のこと、気持ちが悪いとか思いますか? お姉さまが親愛以外の気持ちでも好きだって言う私に、引いたりしませんか?」

「……お姉さまってさぁ。もしかしていつもそんなくだらないこと考えてたの? もうお姉さまに隠しごとなんてできやしないのに……なんでいつも、今もそうやって、自分一人でいろんなこと抱え込もうとするのかなぁ」

「ふ、フラン?」

 

 フランの肩がわなわなと震えていた。怒っている? なんで?

 彼女は俺の肩をその両手で強く掴み、床に押しつけると、自身の体を素早く動かして俺の上に馬乗りになってきた。急なことに一切反応できず、されるがままになってしまう。

 

「お姉さま、四つ目の質問よ。さとりやこいし、レミリアお姉さまはわかった。でも、私のことはどう思ってるの?」

「ふ、フラン? えぇっと、なにか嫌に思うこと言ったなら謝りますから……その、そんなに怒らないでほしいというか」

「いいから答えて」

 

 有無を言わさないフランの視線に、思わず「は、はい」と答えてしまった。なにがなんなのかわからないが、彼女が考えてみろと言うのなら、そうしてみよう。

 フランドール・スカーレット。彼女の姿は、頭の中に思い浮かべるまでもない。いま目の前にいる少女こそがフランなのだから。

 生まれた時からずっと甘えん坊で、こいしと同じくらい天真爛漫で、俺のこともよく思ってくれている。かつて両親や義理の母をその手にかけたのはフラン自身だけれど、きっと今の理性的な彼女が同じ頃に戻ったりすれば、あんなことを意味もなくしでかすことはしないだろう。俺もレミリアも、フランに対して怨みや憎しみと言った感情は一切抱いていない。

 レミリアと同じように五〇〇年近くの時を一緒に過ごしてきて、なににも代えがたい愛情を抱いていることは自覚している。俺をめいっぱいに慕ってくれる、たった一人の妹なのだ。大切に思わないわけがない。

 でも、それが恋なのかと聞かれれば、俺は。

 

「フランのことは、好きです。大好きです。心の底から愛してます。でも、それが恋愛だとか異性的な意味だとかと聞かれると……わかりません」

「そう。お姉さまの気持ちはそうなのね。それじゃあ次は、私の気持ちを言うわ」

「え?」

「私はね」

 

 少しだけ言いよどんで、けれど次に俺をまっすぐに見据えてきた時には、その目に強い意志のようなものが宿っているような気がした。

 

「お姉さまのことが好きよ。大好き。心の底から愛してる。それは親愛的な意味でもそうだし……恋愛的な意味合いとしてもそう」

「ふ、フラン……?」

「お姉さまはこんな私を気持ち悪いと思う? 嫌いだとかなんだとか、そんな風に感じる?」

 

 初めは困惑してしまっていたが、ここに至って、ようやくフランがなにを言いたいのかを理解できた。

 俺が「お姉さまが好きな私は気持ち悪いんですか?」なんていかにも不安そうに聞いてしまったものだから、だったら、逆に聞かれる立場になったらどう思うのか。俺が抱いた気持ちが、自分のそれと同じなのだと。彼女はそう伝えたいのだ。

 その『答え』はすぐに出た。

 

「気持ち悪いなんて、思うはずありません。嫌いになんてなるわけがありません。フランのことは、変わらずずっと好きなままです」

「……うん。そう、たとえなにを言われようがなにをされようが、()()()()ずっと好きなまま。それは私もおんなじなの。だからお姉さま」

 

 ずいっ、と彼女が俺の顔に自分のそれを近づけてきた。瞳の奥底まで覗き込めそうなほどに接近し、俺の視界いっぱいに、フランの宝石のように綺麗な紅色の瞳が広がる。

 

「もう嫌いになるだとかなんだとか、あんなこと言うのはやめて。そんな程度のことで私がお姉さまを嫌いになるだなんて、少しも思ったりしないで。じゃないと、お姉さまが相手でも私は容赦しないよ」

「……ふふ。怖い、ですね。もしもそうなったら、私はいったいなにをされるんでしょうか」

「少しだけ体験してみる? 今、ここで」

「遠慮しておきます。命も心も、まだ……いえ。今はもう、私にとって惜しいものなんですから」

 

 俺の命か、心か。フランは、そのどちらを壊すか選択を迫られて、それでもそれが気に入らないものだったから、その選択肢自体をぶち壊して第三の『答え』を選んでくれた。

 チカラを壊された時に感じた悲痛は、この世のどんな痛みよりも耐えがたいものだったことを覚えている。地獄の熱さだとか、無へと転化する恐怖だとか、そんな生易しいものじゃない。レミリアが抱きしめてくれなければ、どんな手段を用いてでも必ず自分を殺していただろう。命も、心も、そんな区別もなく。

 でも――。

 ふいと、気がついた。

 俺はこの世に生まれ落ちた時、その心をレミリアに救われた。くだらなくも、子どもっぽくも、誰よりも単純で純真だった見栄に、ただただ憧れた。

 俺が異変を起こした時も最後は彼女に助けられたように感じたけれど、もしかしたら、今の俺を創り出してくれたのは本当はフランだったのかもしれない。

 レミリアが抱きしめてくれた感覚が嘘だとは思わない。むしろなによりも大切なものだったと感じている。

 でも、願いを込めるしかできなかったレミリアとは違って、フランはその手で選ぶことができたはずなんだ。前世の記憶をなにもかも忘れて、今の俺みたいに心にわずかだろうと悔恨なんて抱えていない、前に進むレーツェル・スカーレットの未来を。

 俺は今も悩み続けている。今俺がしていることが正しいのかどうか。能力を失ったことが本当にいいことだったのか、どうか。心の底では、まだ完全には判断がつかないでいる。

 優柔不断なんだ。いつだって。

 異変を起こす時だって、その一年前にはもう準備が整っていたのに、まだレミリアたちともっと一緒にいたいなんて思ってしまって、無駄に長引かせてしまって。結局その異変だって、未来を見たくないがために起こしただけのまったく意味をなさないもので。

 あの日から強くなろうとがんばると決めたけれど、まだ俺はこんなにもどうしようもない。フランは、こんな俺で満足してくれるのだろうか――いや。

 こういう思考をするなと言われたんだっけか。

 なんとなく、苦笑がこぼれ出た。

 

「ありがとうございます、フラン。少し、元気が出てきてきました」

「ん」

 

 フランが俺の上に馬乗りになっていたのをやめて、俺のすぐ隣に寝転がった。

 自然と会話が終わって、また、ぼーっと天井を眺めるだけの時間が続きそうになる。五〇〇年近くも一緒に過ごしていると、たまにやることがなくて、こうしてなにもしないで転がっているだけという日が、幻想郷に来る前はしょっちゅうあった。ここ数か月は外に出れておらず、もっぱらフランと一緒に過ごしていることもあって、久しぶりにフランと一緒に床に寝ているだけのことを何度かしていた。

 そういえば、と思う。なんとはなしに、フランの方に顔を向ける。

 

「あの……フラン」

「うん? なにー?」

 

 なんとなく神妙な風に声をかけてしまったが、彼女はいつも通り気軽に返事をしてくる。その空気が逆に俺が問いかけようとする事柄を邪魔しようとしてくるが、どうにか振り切って、遅々として進まないながらもしっかりとそれを口にした。

 

「さっきの、その……恋愛的な意味合いで私のことが好き、って……本気、なんですか?」

 

 フランが、俺に聞かれた時にどんな気持ちを抱いたかを伝えたいことはわかった。気持ち悪いなんて思わない、嫌いになんて感じない。だとすれば、それを伝えてくれるために言った俺へと向けたあの言葉は、彼女にとって本気だったのかどうか。

 どうにも判断がつかないでいる俺を、フランは目を瞬かせて見つめていた。そしてしばらくすると、くすくすと口元を押さえて笑い出す。

 

「さぁ、どうかしら。お姉さまはほんっとうに鈍感の天然だもんねぇ。本とかに登場人物として出てたら思わずムカついちゃうだろうくらい。雰囲気に流されやすかったりもするしー? ふふ、お姉さまはどっちだと思う?」

「わ、わかりませんよ。わからないから聞いてるんです」

「じゃあ私もわかんなーい。お姉さまにわかんないことが私にわかるわけないもん」

「そんな嘘が――」

「でもねぇ」

 

 俺の言葉を遮って、いつもの無邪気なものとは少し違った、小悪魔じみた満面の笑みをフランは俺に見せてきた。

 

「お姉さまのことが大好きなのはほんとよ。それこそ心の底からね」

「む、むぐぅ」

 

 そんなことを直球で言われたら、もう、それを疑うようなことを問いただすことはできなくなってしまう。

 からかいにからかわれたせいで、結局フランが本当はどう思っているかを知ることができなかった。少しだけ不満げにため息を吐いて、体の向きを元に戻すと天井を見つめ直した。

 初めに俺を救ってくれたのはレミリアで。この五〇〇年、彼女は俺のためにずっとがんばってくれていて。

 でも、あの異変の時に俺のために一番がんばって、俺を本当の意味で救ってくれたのは、きっとフランで。

 いつもはこうしてぼーっとしていると穏やかな気分になれるはずなのに、どうしてか今は、いろんなことを考え込んでしまって、胸のうちがもやもやと落ちつかなかった。

 俺のことを大好きだと言った、さっきの小悪魔じみたフランの笑顔が頭の中から離れない。

 今、俺はどんな顔をしてしまっているんだろうか。俺にはわからない。でも、フランにはわかってしまうかもしれない。

 それがなんだか異様にこっ恥ずかしくて、寝転がったままフランに背を向けると、顔を隠すように両手を当てる。

 手のひらで触れた頬が、なんだかいつもより熱を持っているような気がした。




なんだこのムカつく鈍感系主人公、からの変化球……になってるといいなと思ってます(ーωー )
次回更新は2月25日。実はレーツェルくんの誕生日だったり。


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四.人を夢見る妖怪事情

後日談その四。2月25日はレーツェルくんの誕生日(という設定)なので、奮発して、その五との前後半構成となっています。
地霊殿の予兆段階でお燐に相談を受けたレーツェルくんのお話。


「――初めまして、ってわけでもないか。でも、こうして話すのは初めてだから、一応自己紹介しておくね」

 

 左右で三つ編みにした真紅の髪を揺らし、人懐っこい笑みを浮かべた少女と俺は相対していた。

 黒をベースとして緑の模様が入ったゴシックアンドロリータを身につけ、手首や首元には赤、左足には黒に白の模様のリボンが巻かれている。そして頭に生えているものは、妖獣の証たる黒い猫耳。

 

「あたいは火焔猫燐。さとりさまのしがないペットの一匹さ。今日は、さとりさまの友人であるお姉さんに、折り入って相談があってね……」

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 気質が表に出てきて天気が変化するという異変はすでに解決を迎え、幻想郷は平和を取り戻していた。さすがに天気雨なんて吸血鬼の弱点てんこ盛りな事象は今の俺ではどうにもならないから、外に出ても唐突に天気が変化しないことが確認できた時は、ほっと息を吐いたものである。

 夏の暑さも落ちつき、そろそろ涼しくなってきた。もともと気温の変化に疎い吸血鬼にどれだけ暑いかだとか寒いかだとかはあまり関係ないが、このぶんなら、あと一週間や二週間も経った頃にはすっかり秋になっていることだろう。

 収穫の秋 実りの秋。芋にキノコに栗に、カボチャ、サンマ……は、幻想郷に海はないからなしとして、リンゴとか、あとは柿などは、秋を代表する果物だろう。

 幻想郷に来る前までは特にこれと言って好きな季節はなかった。基本的に館の中にこもっていたし、強いて言うなら、梅雨の初夏が少し苦手というくらいだっただろう。

 けれど今の俺は、食い意地が張ってると言われるかもしれないが、秋の旬の食べ物は個人的に美味しいと感じるものがたくさんあって、四季の中では秋が一番好きだった。

 それに秋は美味しいものが食べられるだけじゃない。焼き芋なんかは、かき集めた落ち葉で焚き火をして、それで芋を焼くという行為が、なんだか妙に楽しく感じられる。以前、博麗神社で落ち葉の掃除を手伝った後に一緒に焼き芋をしてみたことがあるのだが、思えばあの時から秋が好きになったのかもしれない。

 

「こいしと、さとりも混ぜて、三人で焼き芋とかしてみたいです」

 

 なんとなく、こいしなんかは落ち葉を集めて焼き芋をすることなんかが好きそうだ。さとりはどうかわからないが、地底じゃできないだろう焼き芋を一緒にすることを、彼女は新鮮に感じてくれるだろう。

 俺は現在、鬼化魔法を使った状態で地霊殿のすぐ近くまでやってきていた。

 いつもはこいしに手を握ってもらうことで存在感を最小限に抑えて来るようにしているが、ふと、俺は気がついたのだ。

 地底世界には鬼が大量に住んでいる。だったらそもそもわざわざ人間化魔法を使った上でこいしに手伝ってもらわなくても、鬼化魔法で鬼に姿を模した状態で行けばいいんじゃないだろうか、と。

 その目論見は成功し、今ではこうして一人で地底に降りても、旧都を出歩いても誰にもなにも言われない。とは言え吸血鬼の気配を完全に消し切れているわけではなく、鬼の存在感でごまかしている感じだから、油断は禁物だ。いつぞやのように飛んできたボールに当たって正体に気づかれてしまう、というようなことがないように旧都を出歩く時はいつも注意している。

 地霊殿の入り口までたどりつくと、その扉に手をかけて「おじゃましまーすっ!」と大声を上げた。

 いつもは大抵こうすると黒豹や小鳥などのさとりのペットが誰か来てくれて、さとりさまはこっちにいるよー、と指して教えてくれる。

 だから今日もしばらく玄関付近で待っていたのだが、俺をお出迎えに来てくれたのは、意外にもさとりのペットの中でも重要な立ち位置にいる妖獣だった。

 

「お燐……?」

 

 火焔猫燐。火車という妖怪で、人間の死体を持ち去ることを生業とする二叉の猫の妖獣だ。

 さとりやこいしとの付き合いもすでに三年近くになる。これまで生きてきた五〇〇年近い年月と比べれば大したものではないが、俺には、誰かを大切に思うことと、その誰かと過ごし続けた年月の長さは必ずしも直結するものではないという持論がある。長い寿命の中ではほんの短い一時の付き合いだろうと、すでに二人は俺にとって家族のように大切な存在だ。

 それはそれとして、三年もあれば地霊殿に訪れる回数も結構なものになる。さとりと一緒にいたお燐と出会い、猫の姿の彼女とじゃれあうことも多々あって、言葉を使って話したことはなくても、それなりに親しくなれたつもりでいる。

 そんな彼女が、いつも通りの猫の姿で俺を出迎えに来た。けれどその雰囲気がどこかいつもと違うように思えて、俺は小首を傾げてみせた。

 その違和感はどうやら正しいようで、お燐はさとりのいる方向を尻尾などで示してくれるわけでもなく、ちょいちょいと俺を手招きしてきた。

 

「さとりのところに、連れて行ってくれるんですか?」

 

 俺の質問に、お燐は首をふるふると横に振る。じっと俺を見つめる彼女の瞳は、とにかくついてきてほしい、と懇願しているように思えた。

 別に、さとりに特別急ぎの用事があって来たわけではない。いつものように遊びに来ただけだ。お燐が用があるというのなら、そちらを優先しても俺は構いやしない。

 

「わかりました。ついていきます。危険な場所ではないんですよね?」

 

 俺の確認に、こくり、とお燐は確かに頷く。俺に背を向けてその四本の足で歩き出すので、俺はそれについていった。

 怨霊やいろいろなペットたちが徘徊する館の中を、ずんずんと進んでいく。地霊殿は咲夜の能力によって拡張されている紅魔館ほどではないにせよ、灼熱地獄に蓋をするためにつくられた事情もあり、相当広くつくられている。

 二分か三分くらいはそうして歩き続けていただろうか。廊下の角にあるなんのへんてつもなさそうな扉の前でお燐は立ち止まるとふわりと浮いて、そのドアノブをかちゃりと開いた。

 お燐とともにその中へ足を踏み入れる。扉をしめ、お燐が照明をつけると、その部屋の様子も確認できるようになった。

 ここは倉庫だ。古く、もう使えるか使えないかわからないガラクタが大量に埃をかぶって詰まっている。

 どうしてこんなところに俺を連れてきたのだろうか。

 そう疑問に思いながらお燐を見つめていると、ぽんっ、とその猫の体を包み込んであまりある煙が彼女を包み込んだ。

 そうしてそれが晴れた時に姿を現したのは、左右で三つ編みにした真紅の髪を揺らし、人懐っこい笑みを浮かべた少女。

 黒をベースとして緑の模様が入ったゴシックアンドロリータを身につけ、手首や首元には赤、左足には黒に白の模様のリボンが巻かれている。頭に生えている黒い猫耳と、背後の方でゆらゆらと揺れている二本の尻尾を見るに、この少女がお燐の人間化した姿であることは間違いない。

 さとりやこいしと長い付き合いになるということは、お燐とも初めて会ってからそれなりの年月になるが、こうして人の形を取った彼女と面と向かうことはなにげに初めてだった。

 

「――初めまして、ってわけでもないか。でも、こうして話すのは初めてだから、一応自己紹介しておくね」

 

 お燐は猫の姿のままでは言葉を話せない。猫の姿のままの方が楽とのことらしく、俺が出会う時はいつもそちらの姿だった。

 今日は、人の形を取ってまで俺に話したいことがあるということだろうか。

 お燐はどこか悩ましげに眉を顰めながら続きの言葉を告げた。

 

「あたいは火焔猫燐。さとりさまのしがないペットの一匹さ。今日は、さとりさまの友人であるお姉さんに、折り入って相談があってね……」

 

 果たして予想は当たっていたらしい。

 

「相談、ですか。それはいいんですが……どうしてこんなところで?」

「その……さとりさまやこいしさまにはできるなら聞かれたくないことなのさ。ここなら、あの二人どころか他のペットたちも滅多に立ち寄らないから、万が一にも盗み聞きされることもないから」

 

 主人とその妹に内緒で、その二人の友人である俺に相談、か。それはつまり、あの二人に関する相談なのか、あるいはあの二人に聞かれてはまずいかもしれない悩みなのかのどちらかということなのだろう。

 

「お燐から聞いたことを私があの二人に話してしまう可能性もありますよ? それにさとりは心を読めますし、さとりと一緒にいる時にお燐の相談を受けたことを思い出してしまったらもう終わりです」

「それは、わかってるわ。でも……こんなことさとりさまには絶対相談できないし、こいしさまは論外、他のペットたちに話したってしかたがない……いざという時さとりさまを止めることができて、力のある妖怪でもあるお姉さんにしか相談できないことなのさ」

「私にしか……?」

 

 さとりを止められる。俺にしかできない相談。俺が、力のある妖怪であること。

 お燐が俺に相談する上で判断したらしい三つの事柄から彼女の悩みを想像しようとしてみたが、どれもこれも断片的すぎた。

 さとりを止めるって、どういうことだ? さとりがなにかしでかすかもしれないということなのだろうか。

 それに心を読めるさとりや、無意識でしか行動しないこいしはともかくとして、他のペットたちでもダメで、俺はいい……そして俺が力のある妖怪であることも相談できる一因。

 うーん、わからない。これが紫や永琳みたいな賢者とまで呼ばれるような頭のいい人ならば今のお燐の会話から得られた情報からだけでもある程度推測できるのかもしれないが、俺にはさっぱりだった。

 

「……でも、わかりました。私にしか相談できないことというのは、なんなんでしょう。私でよければ力になります」

 

 たとえどんな内容だとしても、お燐はさとりのペットだ。怨霊を食べてきた関係で妖力はずいぶんと禍々しいが、悪い妖怪ではないことは間違いない。俺が力になれるというのなら、俺を頼ってくれるというのなら、せいいっぱい手を貸すだけだ。

 真剣な表情をしているだろう俺に、お燐はほっと安心したように息を吐いていた。まだ肝心の内容を聞いていないのだが、俺の肯定的な態度で少しでも気を楽にしてくれたなら、よかったと思う。

 

「……話は、ほんの三週間くらい前まで遡るんだけど――」

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 三週間前、お燐は灼熱地獄跡の異変に気がついた。

 それはいつもと違ってはるかに火力が強いということ。地獄でなくなってからはすっかり熱を弱くして暗かったはずの地霊殿の地下の空洞が、どういうわけか、失われたはずの灼熱の熱さと明るさを備えていた。

 火力の管理はお空というペットの管轄らしく――灼熱地獄跡にはこいしに案内されて入ったことはあるが、お空という妖怪に会ったことはない――、すぐにお燐はお空のもとへ事情を尋ねに行って、しかしその変わりように愕然としたらしい。

 お空は、ただ日常的に怨霊を食べていたせいというだけでは説明がつかない、以前会った時には欠片も前兆がなかったはずの、恐ろしいまでの強力な力を手に入れていた。

 

「初めはまだよかったのさ。手にした力を振るうのが楽しいって、そう無邪気に楽しんでただけで……でも、お空は強すぎる力に影響されてか、性格もなんだかどんどん変わっていっちゃって……」

「……どんな風にでしょう」

「力を見せつけるようになっていったの。まるで、自分に敵うものなんてない、この力があればなんでも思う通りにできる、って。昔はもっとおバカというか、鳥頭で、無邪気で明るいだけの地獄鴉だったはずなのに」

「ふむ……」

 

 三週間前。そういえば、ちょうどその頃は妖怪の山の方で赤い霧のようなものが漂っていたが、あれはそのお空とやらが原因のものだったのだろうか。

 お燐の話を聞きながらも、俺は必死に前世の原作についての知識を掘り起こそうとしていた。

 前世のことを忘れてしまうようになってから、もうすぐ一年になる。それでもたったの一年でしかない。曖昧でも、まだ思い出すことはできる。

 お空……フルネームまで思い出すことはできないが、確か、そんな名前のペットが原因で異変が起こり、それを解決しに霊夢や魔理沙などが地底に降りる話があったはずだ。

 

「いったいどこで見つけたのかしら……あんな神さまの力なんて」

「神さまの、力……?」

「あ、言ってなかったっけ? ごめんごめんっ。お空が手に入れたのは火の神さまの力みたいなのよ」

「火の神さま……あ」

 

 神さまの力を手に入れた、異変の原因となったさとりのペット。そこまで聞いて、ようやく完全に思い出すことができた。

 八咫烏の力を取り込み、核エネルギーという究極の幻想の力を手に入れた存在、お空こと本名を霊烏路空(れいうじうつほ)。原作においては、その凶悪すぎる強大な力をもってして地上を支配し、灼熱地獄に変えようとした経歴を持つ。

 その知識を思い出して、けれどだからこそ、俺はこの異変に対しても、つい数か月前の気質の異変のようになにもできないことを悟った。

 

「……すみません。今の私では、そのお空という妖怪の暴走を止めることはできない確率が高いです」

「えっ? お姉さんから感じる力はお空のそれを上回ってるように感じるけど……」

「そのお空さんが手に入れた力は、おそらく八咫烏の力です。八咫烏の火は、太陽のそれと同じ……吸血鬼は太陽の光を浴びると灰になってしまいます。たとえ仮に私の方が純粋な実力が上なのだとしても、相手が吸血鬼の弱点とする力を得意とする以上、私に勝ち目は薄いです」

 

 それに俺の得意とする影の魔法は闇が深ければ深いほど力を増すが、火は対象を燃やすと同時に、辺りの空間を照らす力でもある。俺とは本当に相性が最悪なのだ。

 こういう時、『答えをなくす程度の能力』をなくしてしまったことを口惜しく思う。あの力は、俺の認識した事象をすべて否定することを可能とする。吸血鬼にある大量の弱点をすべてなかったことにすることができてしまう。

 お燐は、俺に力づくでお空を止めてほしかったのだろう。気まずそうに目をそらす俺を呆然と見つめていた。

 

「そ、そんな……お姉さんでも止められないなら、あたいはどうすれば……」

「……思い切って、さとりに相談するというのは? その暴走しているお空さんでも、飼い主のさとりの言うことなら聞いてくれるんじゃないでしょうか」

 

 むしろお燐の話を聞く限りでは、さとりに相談しない理由がわからなかった。彼女なら間違いなくそのお空を叱って、増長した気持ちを諌めてくれるに違いない。そうすれば全部丸く収まる。

 けれどお燐は「それはダメっ!」と大きく叫んで否定してきた。

 

「さとりさまにこんなこと話したら……お空が処分されるかもしれないっ。お空は今はほんと馬鹿げたことやってるけど、いつもはこんなんじゃなくて、根はいいやつなのさっ!」

「さとりが自分のペットを処分って、そんなことしないと思いますが……」

「あたいだって……本当は、そう信じたいよ。でも、お空はあたいの親友なんだ。どんなにさとりさまを信じようとしても、もしかしたらお空を失っちゃうかもしれないって思うと……どうしようもなく怖いんだ」

「……なるほど」

 

 俺も、さとりやこいしのことを親友だと思っている。そんな彼女たちが、ほんの一パーセントに満たない確率かもしれないけれど、いなくなってしまうかもしれない手段を取ることは……確かに、できるだけしたくない。

 お燐も俺と同じ気持ちなのだ。さとりに相談することは最後の手段として取っておきたい。そして、俺に今回のことを話してくれる前に言っていた「さとりを止められる」ということは、もしも彼女がお空を処分しようとした時に止めてほしいという意味だったのだろう。

 それにそもそもとして、さとりに相談して、お空を止めてもらおうと思っても、お空が本当にその言い分を聞いてくれるかどうかはわからない。

 結局はなにも変わらなくて、ありえないだろうが、もしも最後にお空を処分することをさとりが認めてしまうなんてことになってしまったら……。

 

「少し、待ってくれますか」

「え……?」

 

 目を閉じて、思考にふける。なにが最善なのか、今の俺になにができるのか。

 以前までの自分の存在を世界にとって余計だと思っていた俺ならば、きっと原作の知識を正しく備えていただろうから、世界の歴史をその通りに辿らせようとしただろう。けれど今の俺に思い出せるのは、お空が手に入れた力についての知識と、霊夢や魔理沙が地底に降りてきて、お空の増長を諌めて異変を解決したという情報だけ。もしも同じことをしようとしても、必ずどこかでぼろが出る。

 それに、俺が関わっていることでこの世界が少なからず正史からずれていることは十分理解していた。仮にこのまま放置して、霊夢たちが異変解決に来たとしても、あるいはお空を止められないかもしれない。そうしたら彼女たちはどうなってしまうか。

 これまでの異変とこの異変の決定的な違いは、地底における敗北はそのまま死へと直結する可能性が高いということ。地底に幻想郷のルールは通用しない。

 正史をたどろうとしてもうまくいかないかもしれないのに、記憶さえ曖昧な危険な未来を望むのは、得策ではないだろう。

 たとえ俺の力で異変を止められないのだとしても、俺は、俺にできることをするべきだ。

 かつての俺は大切な人たち全員を守る対象だと思い込んで、なんでもかんでも一人で抱え込もうとしていた。だけど、今は違う。

 今の俺は一人で全部守り切れるほど強くなんてないことをわかっている。大切な人たちが、俺の思っていたよりもずっと強かったことを理解している。

 だから俺にできない部分は、レミリアやフラン、霊夢や魔理沙――いろんな人間、妖怪に頼ればいい。彼女たちならば、俺にできないこともきっとやり遂げてくれる。

 大切な人たちを危険にさらすかもしれないことを不安に思わないわけではない。申しわけなく思わないわけではない。心配に思わないわけではない。

 ――あなたがそうやって必死に私たちを守ろうとしてくれるように、私たちもあなたをどうにかしてあげたいって、ずっと強く思うのよ。

 ――私たちはきっと、あなたが思っているよりもずっと強い。それにね、ここからさらに強くなろうとがんばることだってできる。

 ただ、たとえどれだけ怖くても、誰かを頼って、信じ抜くこと。

 もしかしたらそれこそが、かつて恐怖から逃げることで生きる意味を見いだせなくなった俺にできる、強くなろうとする唯一の方法なのかもしれないと感じたから。

 

「……ふふ。大丈夫ですよ」

 

 どうしてか、笑いがこぼれた。

 俺は未だ能力を失ったことが正しいかどうかわからない、本当にどうしようもないくらい優柔不断で、弱いままだけれど。

 彼女のように、一度張った見栄を最後まで突き通して、本当にしてしまうような存在になりたい。強くなりたい。

 その気持ちは嘘じゃない。

 

「いい案が思い浮かびました」

「え、本当かいっ!?」

「ふっふっふ、実はですね、私、そのお空さんに八咫烏の力を授けた神さまに心当たりがあるんです。私はとりあえず、それをとっちめに行きたいと思います」

「え……心当たりって、今の会話だけでどうやって?」

 

 お燐が心底不思議そうにしていたが、秘密です、と指を立ててみせた。俺の前世について話すことはやぶさかではないけれど、原作知識については未ださとりしか詳細を把握していない。このことは、聞かれさえしなければレミリアやフランにさえ話すつもりはないのだ。

 とにかく、俺はお空が八咫烏の力を備えていることを思い出すのと同時に、彼女に力を与えた人物こと神さまについての記憶もよみがえっていた。

 それはすなわち、つい去年、妖怪の山に転移してきた幻想郷で二つ目の神社である守矢神社に住まう二人の神さま――八坂神奈子と洩矢諏訪子の二人。

 こいしの力を借りて妖怪の山に忍び込み、彼女たち二人を一緒にとっちめる。そして紫の管理下のもと、霊夢たちとともに地底に送り込んで、お空の暴走を止めさせる。これが俺の思いつく限りで最善の手だ。

 思う通りにはいかないかもしれないが、いざという時はさとりを頼ればいい。ありえないが、仮に彼女がお空を処分する判断を下したとしても、俺がそれをさせない。

 親友を失うかもしれないと怖がっているお燐をどうにかしてあげたい。俺はそう思って、大丈夫だと根拠の無い見栄を張った。なら、それを本当にするために俺は俺にできることを全力で尽くす。

 

「申しわけないですけど、お燐は……いえ、お燐が直接行ったらまずいですね。他のペットを通して『レーツェルは急用ができたから帰った』って伝えてもらえますか? それと、ごめんなさい、とも」

「それはもちろん構わないけど、その、本当にいいのかい……? 神さまをとっちめに行くって……八咫烏なんて、お姉さんにとって一番苦手な力をお空に授けることのできたやつなんだよね。もしかしたらお姉さんの方が」

「心配ありません。お空が八咫烏の力を手に入れることができたのは、同じ鴉だったからです。でも、その神さまにはそんな力はない。こいしにも一緒について行ってもらうつもりですし、こいしはああ見えてかなり強いですから」

 

 なんて言っても、片方は乾を、すなわち天を司る力を持つ神。片方は坤を、大地を司る力を持つ神。

 実際に全力で戦うとなると萃香の時のように戦闘の余波がとてつもないことになってしまうため、幻想郷のルールに則ってスペルカードでやり合うことになるが、それでも相手が相当な強さであることは変わりない。だけどスペルカードルールが生み出されるよりも先にレミリアやフランと弾幕合戦で何百年と実戦形式で戦い続けてきた俺は、負けるつもりなんて一切ない。

 それに、こいしだって一緒に戦ってくれるはずだ。無意識を支配する彼女の力があれば百人力だ。

 

「それでは早速行ってくるとします。一応確認しておきますけど、他に相談はないですよね?」

「……あはは、相談はないね。でも、言いたいことは一つできたかな」

「なんです?」

「本当にありがとね、お姉さん……ううん、レーツェル。この借りは必ず今度返すよ」

「そんなに気負わなくてもいいですよ。人間は、助け合って生きていくものです」

「人間って、あはは! あたいたちは妖怪だよっ?」

「妖怪も人間みたいに在れたら素敵だと思いませんか?」

「自分勝手だからこそ妖怪って気もするけどね。でも、うん。お姉さんの言いたいこともわからないでもないわ」

「でしょう?」

 

 それからお燐と適当に別れの挨拶を交わすと、この倉庫まで歩いてきた廊下を戻っていく。

 その間に考えることは、こいしの行方について。妖怪の山は吸血鬼のような力のある妖怪が無断で立ち入るとめんどうごとをおびき寄せるから、忍び込むためには彼女の無意識を操る能力が必須となる。

 

「そういえば、断られた時のことを考慮するのを忘れてましたね」

 

 傲慢かもしれないけれど、自分勝手かもしれないけれど。

 でも、こいしならきっと手を貸してくれるだろうとも思う。

 そしてもしもいつか、俺も彼女のためになることができる時が来たのなら、それに俺の力の限りを尽くそう。

 ――他人とともに在り、誰かと助け合って生きること。

 この考え方は、あるいは、前世が人間である俺だからこそできるものなのだろうか。

 だとしたらもしかすれば、異変の解決を差し置いて俺を全力で助けようとしてくれたレミリアたちは、俺が影響を与えたバタフライエフェクトの産物だったのかもしれない。

 誰かを頼って、頼られるような他者を必要とする生き方が、妖怪にとっていいことなのかどうかはわからない。

 でも、少しくらいは、妖怪が人間のように生きたって構いやしないだろう。

 お燐が見せてくれた、どこか安心したような笑顔を見た時、そんな風に俺は思えた。




その五は同日21時30分更新。
なお、レーツェルくんの奮闘は全カットで、その五は異変終了後のお話です。異変については途中でダイジェストで振り返ります。


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五.笑顔を生み出す感覚質

後日談その五。その四と前後半構成となっています。まだ四を読んでいない方はそちらをどうぞ。
異変解決後に『元さとりを地上に連れて行こう計画』参加者たちが焼き芋をつくるお話。途中で異変について振り返ります。


 ――何十分か前まではぱちぱちと音を鳴らしていた焚き火は今は鳴りを潜め、赤色の残滓だけを映している。

 恥ずかしながら霊夢と一緒にやるまで、俺は焼き芋というものは、燃え盛る焚き火の中に直接芋を突っ込んでやるものだと勘違いしていた。もちろんそれは間違いで、直火に当たらないようにしたり、熾火という赤く熱した炭火に芋を入れて、一時間近く待つことで初めて完成するらしい。

 いつもなにげなく過ごしているぶんには一時間なんてすぐに過ぎ去ってしまうものだけれど、こうしてそれが経つのを待っていると、何倍にも長く感じられた。

 

「そろそろですか?」

 

 どこかそわそわとしたさとりから催促される。そんな彼女の後ろからは、ひょこっとこいしが顔を出していた。

 意外なことに、さとりだけでなく、こいしも焼き芋はやったことがなかったという。というのも、そもそも地上に出ても誰にも存在を気づかれなかったから、誰かと焼き芋を食べたりすることはなかったとか。

 それにそもそも、こいしの気まぐれな性格的に、一人で一時間も焼き芋が出来上がるのを大人しく待っていられるとは思えないことにも気がついた。待っているうちに他のことに気が向いてどこかへ行ってしまい、そのまま焼き芋のことなんて忘れていてしまいそうだ。

 今回は俺やさとりと適当に談笑しながら待っていたので、その限りではない。いつも以上に目を輝かせたこいしが期待を込めて、さとりとともに俺の返事を待っている。

 熾火に入れていた焼き芋の様子を確かめてみる。幻想郷にはまともに時間を計れる時計がないし、俺自身も焼き芋なんて数えるくらいしかやったことがないので、正直、様子を見てもよくわからないが……。

 焼き芋を刺していた鉄の串を一本抜き取り、ほんの少しだけ芋をちぎってみる。いかにも美味しそうな黄金色の中身から、白い湯気がもくもくと上がり始めた。

 すんすんと鼻を鳴らすと、そのいい匂いに、思わず頬が緩んでしまう。

 皮を取って、ほんの少しだけ食べてみる。甘い、秋らしい感触が舌を刺激した。

 

「もう大丈夫だと思います」

「で、では、もうこれを手に取っても大丈夫なのね?」

 

 さとりの声が若干震えていた。もしかしたら、この中で一番待ち遠しく感じていたのは彼女だったのかもしれない。

 さとりは、いつもの態度と反して、意外と子どもっぽいところもあるし。待っている最中も、そわそわと同じところをぐるぐると歩き回ったりしていたし。

 いつもなら子どもっぽいとか考えるとジト目で見つめられたり、恥ずかしがられたりするのだが、今のさとりの目は、その両目だけでなく三つ目の瞳までまっすぐに鉄の串に刺さった焼き芋に向いているため、俺の心の声はまったく聞こえていないようだった。

 

「はい。だいじょ――あ、ちょっと待ってください。私は平気でしたけど、もしかしたら」

「えへへ、お姉ちゃんお先ーっ!」

「あ、こいしっ!」

 

 こいしはさとりを押しのけて熾火の中から鉄の串を抜き取ると、その先端付近についている焼き芋に皮ごとかぶりついた。

 止めようと手を伸ばすものの時すでに遅し。彼女は芋を噛みちぎり口の中に含んでは、その直後に目を見開いて「ふぁ、ふぁふいっ!」と暴れ始めた。

 

「や、やっぱりっ! あ、こいしっ、そっちは行っちゃだめです! 芋を踏んづけちゃいます!」

「ふぁ、ふぁふいよぉっ! れーしぇるぅー!」

「あ、ちょ、だからってこっち突っ込んでこないでくだ、わっ!?」

 

 口に入れた芋の熱さに耐え切れなかったらしいこいしが、がばっと俺に突っ込んでくる。どうにか彼女を受け止めようと試みるのだが、突然のことだったので体勢を崩し、ごんっ、とこいしと頭が激突した。

 一瞬、視界が真っ白に染まった。次の瞬間には、地面に体を打ちつけたような衝撃が背中を襲って、次にその逆側から人一人ぶんくらいの重さが俺にのしかかってくる。

 吸血鬼だけあって耐久力も、回復力も相当ある。

 すぐに意識を取り戻し、どうやらこいしに押し倒されるような形で地面に倒れ込んでしまったことを理解した。

 

「こいし……大丈夫ですか?」

「な、なんとか平気ー……レーツェルと頭ぶつけた時に芋も飲み込んじゃったし……」

 

 こいしの顔はすぐ横にあって、その弱々しい声も耳元で聞こえた。ほんの少しだけくすぐったくて、身を捩る。

 

「と、とりあえずどいてもらえますか? その、こいしに先に立ち上がってもらわないと私も立てないですから」

 

 実際にはこいしを押しのけることができるが、それをするとこいしの服を土で汚してしまう。彼女に先に俺の上からどいてもらうことが一番だ。

 そう思って待っていたのだが、どうにも、こいしが起き上がろうとする気配がない。

 

「……どうかしたんですか?」

「わ、私の……私の芋が、私の焼き芋がー……」

「芋? あっ……」

 

 首を捻って、どうにかこいしの視線の先にあるものを俺も追った。その先には一本の鉄の串とそれに刺さった一つの芋、すなわちこいしの持っていた焼き芋が地面に落ちている。

 中身まで土まみれになってしまっているようだった。皮を剥いて、汚れた部分だけを取ってしまえばまだ食べられないこともないだろうが……かなり食べられる部分が減ってしまうことは確かだろう。

 ちなみに俺の焼き芋はしっかりと右手にキープしているというか、頭が真っ白になった中でも無意識に串を強く握りしめていたおかげで、芋にも土はまったくついていないようだった。

 なんだろう、俺ってこんなに食い意地張ってたっけ……。

 少しだけ微妙な気持ちになりつつも、とにかく、それよりも今は全身から力を抜いてしょぼんと落ち込んでいるこいしをどうにかしないといけない。

 

「だ、大丈夫ですよ。一人二つずつってことで六つやってるじゃないですか」

「でも、私の食べるぶんがー」

「それなら私の焼き芋を分けてあげますから。私のこの焼き芋を半分こにすれば、私とこいしの食べる量は同じです」

「……いいの?」

「この前は私が助けてもらいましたから。この程度でそのお礼、なんて言うわけではないですけど、こいしが喜んでくれるならいくらでも分けてあげますよ」

「ほんとっ? わーいっ、ありがとうレーチェルっ!」

「レーツェ、わっ!」

 

 俺が呼び方を訂正するよりも先に、こいしがぎゅうっと強く抱きしめてくる。その際にこいしの髪が俺の耳をくすぐり、匂いが鼻腔を刺激して、さきほどよりも強く身を捩った。

 こいしは嬉しそうに俺に抱きついたまま、どうにも離れてくれない。

 そんな折、ひょいっと彼女の首根っこをつまんでどかしてくれたのは、どこか不機嫌そうに頬を膨らませたさとりだった。

 

「ちょっとこいし、レーツェルが困ってるでしょう? 嬉しがるのもいいけど、さっさどかないとレーツェルが立てないじゃない。服だって汚れちゃうし」

「なにお姉ちゃん。嫉妬? 嫉妬なの?」

「ち、違います!」

「もしかして図星だった? あははー、お姉ちゃんサトリ妖怪のくせに私みたいなのに心読まれて悔しくないの? いっつも妹に弱みを握られたりしてて惨めじゃないのー? 情けないお姉ちゃんを持って私は鼻が高いなぁ、あはは」

「こ、この妹は本当に……」

 

 こいしのこの無駄な煽りスキルは、フランの影響に違いない。フランもよくレミリアをこうしてからかっているし、こいしは無意識にそんな彼女から影響を受けていたのだろう。

 ぷるぷると拳を握りしめるさとりを、素早く体を起こした俺がどうにかなだめた。こいしは直感で行動してるだけでそこまで悪気があるわけではないのだ。たぶん……。

 さとりはしばらくして「はぁ」と小さくため息を吐くと、熾火の中から自分のぶんの焼き芋を取り出した。

 

「まぁいいわ。こいしにまともに構ってたら日が暮れちゃうし……これ、もう食べても大丈夫なのよね」

「大丈夫ですけど、まだちょっと熱いと思いますよ。私はそういうのに疎いので平気でしたが、こいしはあの様子でしたから」

「そうね……こうやって、あと少しだけ待った方がいいかもしれないわね。こいしみたいにはなりたくないもの」

「なにげにお姉ちゃん私のことまだ根に持ってない? 別にいいけどねー」

 

 こいしがじーっと俺の持っている焼き芋に視線を注いでいたが、「まだダメです」と彼女から芋を遠ざけた。俺は平気だが、今のままこれをこいしにもう一度食べられるとさっきの二の舞いになってしまう。さとりと同様、こっちも少し冷めるまで待つべきだ。

 こいしは少しだけ不満そうに口をとがらせていたが、ふいとなにかを思いついたかのように顔を上げた。

 

「なんだか、餌を前にお預けされてるペットみたいな気分だねぇ」

「ペット、ですか。そうなるとこいしは猫でしょうね。いっつもふらふらいろんなところ出歩いてますし」

「にゃーにゃー」

「鳴き声でごまかしながら近づいてきたって、焼き芋はまだ上げませんよ」

「ちぇー」

 

 俺とこいしがそんな会話をしていると、さとりが「猫のペット……」と考え込むように呟いては、俺とこいしを交互に見た。

 

「そういえばレーツェルとこいしは、この前、お燐のお願いでお空の暴走を止めるために奮闘したとか……」

「あ、そういえばまださとりには話してませんでしたっけ……」

 

 お燐にお願いされて、それを解決してからさとりに会うのは、これが初めてだった。

 なにせお空を落ちつかせてからまだ一週間も経っていない。こいしを探したり、一緒に神さまをとっちめに行ったり、霊夢のもとにその神さま二人を連れて行ったり、紫に彼女たちが地底へ降りることの許可をもらいに行ったり、いろいろと忙しくて顔を合わせられなかった。

 しばらくは事後処理についても追われていたが、それが落ちついてきた中、こいしが唐突に「焼き芋しようよ!」と言い出したものだから、こうして地上で久しぶりにさとりと会うことになったのだ。

 

「そうですね。どうせですから、焼き芋がさとりとこいしが食べられるくらいになるまで、その話でもしましょうか」

「ふふんっ、私の武勇伝を聞いて恐れおののくがよいわー!」

「こいしが妙にムカつくけど、よろしくお願いするわ、レーツェル」

 

 

 

 

 

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 

 

 

 

 

 こいしとともに神さまをとっちめ、霊夢と引き合わせた上で、紫の監視下のもとで地底へ送り込む。結論から言えば、今回の異変は俺が立てたその計画通りにほとんどことが進んだ。

 こいしが一緒にいたにしても、それぞれ天地を司る二人の神さまとのスペルカード戦は熾烈を極めたというか、激しすぎたせいで天狗たちに吸血鬼が妖怪の山に入り込んでいることがバレそうにもなってしまった。こいしの無意識を操る能力を使った全力のサポートのかいあって、八坂神奈子と洩矢諏訪子の二人と戦っていたのが吸血鬼だとはなんとか露見せずに済んだが、どちらかというと勝敗よりもそちらの方が危なかった印象がある。

 とにかく、彼女たちが幻想郷に来てから日が浅いことや、俺が幻想郷に来る前より弾幕戦の練習をしていたこともあって、俺とこいしは二人の神さまを相手にどうにか勝利をおさめることができた。

 そしてそのスペルカード戦を行う上で、俺たちは互いに相手に自分の要求を飲ませる賭けをしていた。俺は神奈子と諏訪子の二人がお空の暴走を止めることに今すぐ全力を尽くしてもらうこと、霊夢とともに解決に向かってもらうこと。逆にあの二人は、俺の五〇〇年間培ってきた魔導の力を、これからお空に与えた力を利用して作ろうとしている、核融合エネルギーを取り出すことを可能とする『河童のエネルギー産業革命』という計画に尽くすことを望んできた。

 お空に力を与えた存在がその二人であることを思い出せた俺でも、その目的までは実は思い出せていなかった。まさか、地底奥深くにいる地獄鴉に八咫烏の力を与えた目的が産業革命だなんてわかるわけがない。二人としてはこれからの幻想郷のことを考えて実行しようとしたとのことだが、霊夢とかに相談してからやれというものである。というか、霊夢と引き合わせたら、実際に霊夢がそうやって怒った。

 紫の方は比較的簡単に見つけることができた、というより、彼女の方からやってきたので手間が省けたりした。いわく、強大な力を持つ神さまと吸血鬼がやり合っていたら嫌でも目に入ってしまいます、とのこと。どこにでも一瞬で移動できる境界の力を使って、俺と二人の神さまが賭けをする場面を見ていたようだ。

 地底への不可侵は妖怪同士の条約、とは紫の言。初めて俺が地底に入る時も、人間になりすますのならば大丈夫と言われた。人間だけでなく神もまた、妖怪ではない。

 紫の許可をもらったということで、かくして霊夢と神奈子には、地上を侵略しようとしているお空の暴走という異変を止めるために地底へ潜ってもらった。もう一柱の諏訪子は神奈子とじゃんけんをして勝った後、神奈子だけでも十分でしょ、と悔しがる神奈子の前でふんぞり返っては実際に行きはしなかったが、紫とともに地上からのサポートには徹してくれた。

 

「さとりのところには霊夢とその神さまが向かいましたよね? 事前にそのことを伝えるのを忘れてましたけど……大丈夫でしたか?」

「えぇ、まぁ。霊夢さんしか来ませんでしたけどね。霊夢さんによると私と会う直前でいなくなったようですが、お燐によれば、私と戦った後に灼熱地獄跡へ向かった時には一緒にいたそうですから、神さまの方は、私と会っていた間だけ姿を眩ましていたみたいです。よほど心を読む力を持つ私と顔を合わせたくなかったんでしょうね」

「え、霊夢だけ……? むぐぐ、今度またとっちめてしっかりさとりに謝らせに行かないといけないかもしれな……って、あれ? さとりは霊夢と戦ったんですか?」

「ええ。お空がそんなことするわけない、と少しばかり意地になってしまって。でも、霊夢さんの心の中にレーツェルの姿が見えた時、油断して負けてしまいました」

 

 道中でいろいろと悶着もあったようだが、とにかく、最終的には霊夢と神奈子によってきちんとお空の増長は諌められたらしい。

 ……いや、正しくは霊夢の奮闘によって、かもしない。

 実のところ、神奈子が手を貸そうとしたところ「一人で十分」と霊夢が出張って、神奈子はいざという時に備えて待機していたのに、霊夢が本当に一人でお空を倒してしまったとか。

 正史とは違うのだから霊夢でも敗北してしまうかもしれない、なんて俺の心配は完全に杞憂だったようで、もともと霊夢一人でもなんの問題もなかったらしい。

 そんなこんなで俺が立てた計画はほぼすべて思い通りにことが進んでくれた。お空は霊夢にみっちり懲らしめられたおかげで以前までのお燐の知っていた頃の性格を取り戻し、さとりもことの真相を知ってしまった後でもお空に処分を下すようなことはなかった。こいしやお燐が懇願していたこともあるが、もともとさとり自身そんなことをするつもりなんて欠片もなかったことが一番大きい。

 ただ、思い通りに行ったのはあくまでほぼすべて。俺の予想外の出来事も少なからず、小さいことだけれどいくつか起こった。

 まず、こいしを見つけるのにしばらく時間がかかってしまって、お空の力で灼熱地獄の熱が異様に高まりすぎたせいで地上に間欠泉が湧いて出てしまったこと。しかもお空を諌めても彼女の力を取り上げたことができたわけでもないので、絶賛継続中だった。

 次に、地上と地底の不可侵の条約が絶対というほどのものではなくなったこと。

 元々、不可侵の条約というものは、地底の妖怪が侵略してくることを恐れた地上の妖怪が結んだものだった。しかし今回の異変を通して、博麗の巫女こと幻想郷の代表博麗霊夢は、地底の妖怪が地上の侵略なんてまったく考えておらず、現状の生活に十分満足していることを知った。これからは、地上の存在も比較的自由に地底を行き来することができる。代わりに、地底の妖怪もちょくちょく地上に顔を見せるようにもなったけれど、そんなのはそれより前にこいしがいるのだから今更だ。

 

「――そういうわけで、お空を諌めた後は地上も平和を取り戻しました。私ももう、人間化魔法とか鬼化魔法とか使わなくても地底に行けるようになったので、今回の件は少し助かりましたね」

「なるほど……レーツェル。今回は私のペットがいろいろと迷惑をかけてしまったようで、申しわけありません」

「いえいえ、私が好きでやったことですから。あ……でも」

「でも?」

「その代わりというわけではないですけど……さとりに内緒でいたことで、どうかお燐を叱らないでやってほしいんです。お燐は、お空のことを……自分の親友のことを本当に大切に思って、私に助けを求めただけなんですから」

 

 結局はさとりに知られることになってしまったというか、そもそもさとりに知られずに解決するなんて無理があったことだった。

 俺の懇願に、さとりはぱちぱちと目を瞬かせる。そしてそのすぐ後に、くすり、と口元を緩めた。

 

「ええ。大丈夫よ。私は怒ってなんかないわ。まぁ、これからはもっと私を信頼してほしいって、ちょっと不満に思いはしたけれど」

「あはは……そうですね。私も、さとりなら大丈夫だってお燐に言いはしたんですけどね」

「どうせなら、お燐に相談した後に内緒で私のところに来てもよかったんじゃないかしら。レーツェルはどうせ私にお空を処分させる気なんて欠片もなかったんでしょう?」

「お燐をできるだけ安心させたまま異変を終わらせたかったんです。他のペットに見つからずにさとりに会うなんて無理ですし、仮にそのことが言伝でお燐に伝わってしまったら、お燐は不安に思うでしょうから」

「……今回の件は、レーツェルは本当にお燐のことを考えて真剣に取り組んだんですね」

「そう、でしょうか」

 

 会話をしたのは相談を受けたあの時が初めてだった。だけどそれまでの間に猫の姿の彼女とふれあうことが多々あって、だからこそ彼女が俺を信じ、頼ってくれた。

 だとするなら全力で応えたいと俺は感じた。そして見栄を張って。

 今回は、それを本当にすることができた。

 今の俺は、少しは憧れに近づけているのだろうか。

 あいかわらず自分のことはよくわからない。でも。

 ――ありがとね。

 異変が終わった後、お燐はわざわざ紅魔館の俺のところに訪ねてきては、本当に気持ちのいい微笑みを浮かべてくれた。

 かつて生まれた意味を見失い、帽子屋なんてバカげたことをして、未だ迷い続けているような俺が、お燐のあの気持ちのいい笑顔を作ることができたというのなら。

 ほんの少しだけ、俺は今の自分にも自信が持てるような気がした。しっかり前を向いて、今よりもっと先へと足を踏み出そうと思える気がした。

 

「って、そういえばさっきからこいしが全然会話に入ってきませんけど、いったいどこに……って」

 

 熾火の方に目を向けてみると、すでにこいしは落としたものとは違う二つ目の焼き芋を口に含んで、もぐもぐと頬を動かしていた。

 俺とさとりの視線が向いていることに気がついた彼女は「もうふぁへへふふぉー」と俺たちを手招きする。語感からして、「もう食べれるよー」と言っているらしい。あいかわらず彼女はマイペースだ。

 呆れたようにさとりと一緒にため息を吐く。だけどその後すぐに、俺たちの視線は自然とこいしの食べている芋に向かった。

 

「……私たちも食べましょうか、レーツェル」

「そうですね。あ、こいしー、早くこっちに来ないとこの焼き芋全部私が食べちゃいますよー」

 

 そんな風に呼びかけてみると、彼女は慌てて小走りで近寄ってきた。「分けてくれる約束ーっ!」と頬を膨らませているのだが、それは芋が口の中にあるせいなのか、それともぷんぷんと憤慨しているせいなのか。

 どっちなんだろう、とさとりと顔を見合わせて。でもこうして視線が合っている時点で互いにどっちも正解なんてわかっていない。

 なんとなく、さとりと一緒になって笑い合った。

 

「ほら、こいし。半分ちぎってもいいですよ」

「わーいっ。あ、どうせならあーんってしてよ! 実は昔からちょっとやってみたかったんだよねー」

「な……こいしっ! それくらい自分で食べれるでしょ! レーツェルに無理言わないの!」

「うるさいなぁ、もう。そんなに言うならお姉ちゃんもレーツェルに頼めばいいじゃん。レーツェルの心を奪うって決めたくせに未だにそんなんだから全然進展してないんだよ」

「そ、それは……」

「それに、レーチェルだって別に迷惑じゃないよね?」

「迷惑ではないですけど、私はレーツェルです。あと、さとりと喧嘩するならやりませんよ。ちゃんと仲直りはしてください」

 

 今日のこいしの煽りスキルは絶好調。いい加減さとりをからかうことをこいしにやめさせないと、さとりが可哀想だ。こいしも悪気があるわけではないんだろうし、そろそろきちんと仲直りしてもらいたい。

 こいしは素直にお願いを聞いてもらえなかったことを少しだけ面食らったようにぱちぱちと目を瞬かせた後、どこか不服そうにさとりへ視線を向けた。

 

「むぐぅ……ほら、お姉ちゃんも早くレーツェルにおねだりしてよ! そうすれば万事解決だってレーチェルも言ってるよ!」

 

 どうしてそうなるんだろう。っていうかそんなこと欠片も言ってない。

 さとりがそう否定してくれると思っていたのだが、どうにもさとりの様子がおかしかった。なにかにこらえるように拳を強く握りしめて、顔を真っ赤に染め上げている。

 彼女は、まるでなんらかの意を決したように、俺の目の前に立ってまっすぐに見つめてきた。

 

「そ、その……レーツェル。私も、その、こいしと同じでしてもらったことがなくて……お願い、できますか?」

「あ……えっ、と……」

 

 予想外のセリフに面食らった。まさか、こいしの言うことを真に受けたのか? こいしの心が読めなくても、さとりならさっきのこいしのセリフが冗談だってわかるだろうに。

 そんな風に戸惑っている俺の思考が彼女には見えているはずなのに、どういうわけか、自分の発言を撤回しようとはしない。

 これが示すことは、つまりは一つだろう。

 こいしと同じように、本気でしてもらいたいと思っているからだ。誰かに食べさせてもらうことをしてもらいたい。

 

「ふふ、わかりました。さとりも意外と子どもっぽいところがありますからね」

 

 俺だってレミリアにならしてもらいたいと感じるし、フランもたまに俺にねだってくる。こいしはいつもふらふらしているから、きっとさとりもそういう仲のいい親子だとか姉妹みたいなことに憧れていたに違いない。

 

「……あれ、なにか勘違いされてるような……」

「大丈夫ですよ。全部わかってます。親友ですからね。さとりと違って人の心が読めなくても、私はさとりが相手ならシンパシーのように感じ取ることができるのです」

「いえ、全然わかってもらえていないように思うのですが」

「そんなことないです。ほら、口を開けてください。ちゃんと食べさせてあげますから」

「は、はい。まぁ、食べさせてはもらいますけど……なんでしょう。なんだか納得いかない……」

「先は長いねぇ、お姉ちゃん」

 

 こいしが珍しく、さとりを労るような笑みを浮かべていることが印象的だった。

 ――つい先日までは少し忙しくはあったが、異変が集結した今では、幻想郷も地底もすっかり平和を取り戻していた。

 お燐とお空が元の関係に戻ったり、地上と地底が和解したり、こうして、さとりやこいしと焼き芋をしたり。

 俺がいることで原作より多少ずれたり、あるいは、これから俺が知らなかった方へと大きく傾いてしまうこともあるかもしれない。

 だけど俺はもう前世に戻ることもできないし、その記憶もいずれ忘れ去ってしまう。だとしたら俺にできることはもうせいぜい、その時その時に自分にできることを精一杯考えて、全力でそれを実行することだけ。

 失敗してしまうこともあるかもしれない。思うように行かないこともあるかもしれない。だけど失敗を恐れて逃げていたら、俺はいつまでも強くなることができないだろう。

 それに、今回はいろんな人たちの力を借りて、どうにかお燐を笑顔にしてあげることができたんだ。

 少しずつでいい。少しずつ、俺も俺自身の存在を認めて、自信を持って生きていこう。

 まだ弱くても。もし失敗するようなことがあっても。挫折してしまいそうなことがあっても。

 その時はきっと俺が起こしたあの異変の時のように、レミリアやフラン、さとりやこいし、いろんな人たちが俺を支えてくれる。

 だとすればきっと、どんなに怖かろうと逃げる必要はない。

 後ろから見守ってくれる人がいるというのなら、支えてくれる人がいるのなら、俺は何度でも恐怖に立ち向かって、強くなろうと頑張り続けよう。

 そうして今回のお燐みたいに、いろんな人間や妖怪を笑顔にしていくんだ。

 かつて一人の女の子に救われた赤ん坊がいたように。

 かつて未来から目を背けていた泣き虫な少女が、少女を慕ってくれた多くの人たちのおかげで心を救われたように。

 いつか、咲夜は自分がどう生きたいかは自分自身がいつでも決めることができると言っていた。

 だとしたら俺は人間を、妖怪を、いろんな人を笑顔にして生きていきたい。誰かと笑い合いながら前に進んでいきたい。かつて泣き虫な少女が救われた時のような、かけがえのないクオリアを、少しでも誰かに分けていきたい。

 それが今の俺が望む、この世界でのレーツェル・スカーレットとしての生き方だった。

 

「――――ねぇ、レーツェル」

 

 もうすっかり日も暮れて、さとりとこいしが地底へ帰るのを見送る途中。

 こいしが俺のすぐ隣に寄ってきては、声を潜めて俺に話しかけてきていた。

 レーツェル。珍しく俺を正しい名前で呼んできたものだから、目をぱちぱちとして彼女を見つめてしまう。

 

「どうかしましたか?」

「レーツェルは、あのレプリカって悪魔のことが好きなんだよね」

「レミリアです。別に、お姉さまだけじゃありませんよ。フランもさとりも、こいしのことも好きです」

「あはは、私が言ってるのはそういう意味じゃないよ。もしも私の思ってる意味でレーツェルがそういうこと言ってるんだったら、レーツェルは三流女たらしみたいになっちゃうわ」

「お、女たらしって……」

 

 他人に親愛の意を示すのはともかく、確かに、なんでもかんでも気軽に好きだとかなんだとか言うのは節操がなかったかもしれない。そういう言葉は本来、ここぞという場面で言ってこそ威力を発揮するようなもののはずだ。

 これからはもうちょっと意識して控えめにしていった方がいいだろうか。別に今のままでも余計な勘違いをされることはなさそうだが、なんというか、こう、必殺技的な感じで「好き」って言った方がなんかかっこよさそうだ。

 ……いや、うん。自分で考えておいてなんだけど、かっこよさそうってなにを基準に思ったんだろう。こんなんだから「レーテはたまに変なことを真面目にやろうとする」とか言われるのかもしれない。

 ふと、ちらり、とこいしがさとりの方を確認していた。さとりは近くを飛んでいた蝶を微笑ましそうに眺めていて、こちらに注意は向かっていない。

 

「まぁでも、そんな変態ストーカー三流女たらしさんのことを好きになっちゃってるお姉ちゃんとか……私とかも、アレなんだけどねぇ」

「……なんか今めちゃくちゃ不本意な呼び名が聞こえた気がしたんですけど」

「あははー、気のせい気のせいー」

 

 小声だったからよく聞こえなかったが、絶対気のせいじゃない。捕まえて問い詰めようとこいしの腕を掴もうとするが、それよりも先に彼女はさとりの方へ逃げて行ってしまった。

 

「わぁー! お姉ちゃん! 私、変態さんに襲われちゃうよー!」

「あ、ちょっと! こいしっ、蝶が逃げちゃったじゃない!」

「え、そっち? 私の心配もしてよー。お姉ちゃんのいけずー」

「いや、いけずってなによ……はぁ、まぁいいけど」

 

 なんて会話しながらも、こいしはさとりを盾に俺から身を隠す。回り込もうとしても同じようにこいしも移動するだけで、これではこいしだけを捕まえることはできない。

 別に、さとりを巻き込んでまで聞き出したいわけでもなかった。そもそも、どうせこいしのことだからろくでもないことに違いないし。

 はぁ、とため息を吐いてこいしを捕まえることを諦めると、そんな俺の様子を察したこいしが姉という盾からひょこっと顔を出してきた。

 

「レーチェルとかお姉ちゃんとかよく私の前でため息ついてるけど、そんなにしてたら幸せ逃げちゃうよ?」

 

 誰のせいですか、というセリフは俺とさとりの口から同時に出てきた。俺の場合、その後に「レーツェルです」とも続いたが。

 こいしがマイペースにはしゃいで、さとりがたまにそれを窘めたり、俺がどうにか気を惹きつけてみたり。俺とさとりとこいしの三人が集まった時は、大体いつもこんな感じだ。交流する回数が増えるごとに、さとりのこいしへの対応が雑になっていっている気がしないでもないが、きっと気のせいだろう。

 もうすぐ、冬が来る。俺が異変を起こしてから、一年が経つということになる。

 あっという間、という感想が正直なところだった。

 別に親しい人たちとの関係が激的に変わったわけではないのに、やることがない時も誰かと一緒にいるだけで楽しくて、時間を忘れてしまったり。本当に毎日が充実している。

 かつてのように、頬に手を触れてみた。

 だけどそこにあるのは、かつてのように無表情を張りつけた狂気の仮面じゃない。

 触れた感触からわかるのは、俺が、楽しさの溢れんばかりの緩んだ微笑みを浮かべていることだ。友達と遊んでいることを無邪気に楽しんでいるような、子どもみたいな表情だった。

 それを自覚した途端、なんとなく、その笑みが深まった。

 きっともう、なろうとどんなに頑張ったところで、俺は帽子屋なんかには戻れないんだろうな。

 だって、これをなかったことになんてしたくない。胸の中にくすぶる、こんなにも温かい感情を、なかったことになんてしてたまるか。

 これは長い長い道のりの果てに俺が見つけた、大切な人たちからもらった、俺だけのかけがえのないクオリアなんだから。

 

「また近いうちに地霊殿へ遊びに行ってもいいですか? せっかく堂々と地底に行けるようになったんですから、今度はフランも連れて行ってあげてみたいです」

「あぁ、あの子ですか。もちろん構いませんよ」

「あー、フランかぁー……そういえばレプリカだけじゃなくてフランもいたねぇ。うーん、やっぱり変態ストーカー三流女たらしを狙うのって大変だなぁ……」

「レミリアです。あと、超めちゃくちゃ不本意な呼び名が今度ははっきりと聞こえたんですけど」

「あははー、気のせい気のせい」

 

 いや、今のを気のせいと言い張るのはさすがに無理がある。「気のせいなわけないです」とこいしの左右の頬を両手でつまんで、ぐにぐにといじってやった。

 今日も、幻想郷は平和だ。まぁ、実際には幻想郷の平和なんて外の世界のそれと比べれば危険満載なんだけれども。

 毎日こうして笑顔を浮かべることができる。それだけでも、俺には、この日常がなによりも大切なものに思えた。




実はこの話を投稿した、ちょうど五日前の去年こと2月20日にこの作品の本編が完結していたという事実がありますが、レーツェルくんの誕生日は2月25日なので作品記念日はこっちです。
後日談その六の更新日は未定。投稿された際はどうぞよろしくお願いいたします(ーωー )


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六.南瓜を冠する正義の味方

久しぶりすぎてレーツェルくんのキャラを若干忘れてしまいました(´・ω・`)
文もなんだか淡々としてますが、ご了承くださいませ。

後日談その六。謎の妖怪かぼちゃライダーのお話。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Marisa Kirisame □ □ □

 

 

 

 

 

 秋の入り始めとなると非常に涼しく心地のいいものだが、中盤以降にまで入ってくると肌寒いくらいになってくる。

 少し前までは結構な頻度でいろいろあったものだが、ここ最近はどうにも平和だったからか、時間の流れがいつもより早く感じた。

 去年は暑い夏頃になんか天候がいろいろとおかしくなったり神社が崩れたり。年末にはなんか地獄の鴉が暴れたとかなんとか。今年の春には、空にお宝がありそうなでかい船が見えたので探しに行ったり。

 それらの結果として地獄と地上との関係が若干良好になったり幻想郷に新しい寺が生まれたりもしたが、それももう真新しいとは言えない頃合いだ。

 

「で、霊夢はなんの準備をしてるんだ?」

「なにって、祭りの準備だけど」

 

 賽銭箱の前にある階段に腰かけて肘をつきながら、ぼうっとその辺りに視線を巡らせる。霊夢が珍しく真面目に参道の掃除をしたり、河童が露店のようなものを出す準備をしていたりしていた。

 

「祭りねぇ。この時期ってなにか祭りって言えるような行事ってあったか?」

「んー、私もこの前まで知らなかったんだけどね。なんだか外の世界ではこの時期になるとハロウィンっていうお祭りをやるんだって」

「はろうぃん? あー、言い方からして外の世界でも結構遠くの方のところっぽい行事だな。どんなことをやるんだ?」

「ほら、そろそろ夏も完全に終わって冬の始まり、つまりは秋も中頃に差しかかるでしょう? こういう境界が曖昧な時期には霊たちが、それから人に害を為す魔女や精霊なんかも増えてくるの」

「ふーん。つまりは量産型アリスか。なるほどそれは恐ろしいな」

 

 人に害を為す魔女や精霊が出てくるとなると、その霊たちとやらもただの幽霊ではないものが混じっているだろう。

 悪霊、あるいは怨霊。妖怪の天敵であり、人間にとっても忌むべきものであり、現世におけるほぼすべての者たちから望まれない存在。

 そんな危険な存在が増える時期にお祭りをやるとは、いったいどういうことなのか。

 私が不思議そうにしていることに霊夢は気がついている。問うまでもなく説明を続けてくれた。

 

「ハロウィンっていうのは、そういうよくない精神的存在たちを遠ざけて身を守るための宗教的な儀式のことよ」

「ほー……いや、なんでそれで祭りをすることになるんだ? 聞く限りだとこんなお祭り騒ぎするような行事には思えないんだが」

「宗教的な意味合いがあると同時に、収穫祭っていう一面もあるの。ほら、秋も真っ只中だからね。収穫の秋って言うでしょう?」

「なるほどな」

 

 ただ、まず間違いなく普通は神社でやるような行事ではないだろう。霊夢もそれはわかっているだろうに、こうして準備を進めているのは、これを口実にどんちゃん騒ぎをしたいからか。あるいはイベントを開くことでもっと参拝客とお賽銭を増やしたいからか。

 まぁ、どっちだって構わないか。私だってこういうお祭りは嫌いじゃない。むしろ大好きだ。思う存分楽しませてもらうとしよう。

 

「あー、そういえば……」

「どうしたの?」

 

 河童が作っている露店にかぼちゃの飾り物があることを認め、ふと口から出た呟きに、霊夢が掃除をしつつもちらりとこちらを見た。

 

「いや、最近どうにもおかしな噂話を聞いてな。昨日は興味本位でちょっと探してみたりもしてみたんだが……」

「噂? なんの?」

「……一つ、私はいつも傍にいる仲間の心の強さを知らなかった。二つ、誰に頼ることもしなかった。三つ、そのせいで皆の笑顔を脅かした。私は自分の罪を数えたぜ……さあ、お前の罪を……数えろ」

「…………なにそれ」

 

 とてつもなく冷えた目線で霊夢が私を見据えてくる。やめてくれ、私だってこんなの言いたくないんだ。

 

「う、噂になってる『かぼちゃライダー』とかいう意味不明な妖怪の決めゼリフだよ。どこからともなく影の中からにゅっと現れて人助けをしては、ほんのちょびっとのお菓子を対価に要求して去ってくんだと」

「はぁ? かぼちゃライダー? なにその頭が悪そうな名前の妖怪。見たことも聞いたこともないけど」

「私だって里で噂として聞くまでは知らなかったんだよ。でも実際そいつに助けられたやつもいて、話を聞いてみたりもしたんだ。しかも全部事実だった」

「はぁー……変わった妖怪もいたもんねぇ……ん? 里?」

 

 ぴたっと掃除の手を止めたかと思うと、霊夢は凄まじい勢いで私に詰め寄ってきた。

 

「ちょ、ちょっと待って! その妖怪って里に出てるの!? 妖怪なのに!?」

「あ、あぁ。まぁでも、そんなに問題はないんじゃないか? 別に悪いことしてるわけでもないし。それに妖怪って言われてるけど、そいつかぼちゃの被り物してるから本当に妖怪かどうかとかはわかってないんだ」

「そっちの方が逆に危ないじゃない! 正体不明となるとなにが目的なのかも予想がつけられない……客観的に見たら人助けになってても、もっと別のなにかが目的なのかもしれない」

「うーん……まぁ確かに、それも一理あるか」

 

 一見あまり意味がないように見えても、妖怪という存在にとって深い意義を為すことがある。特定の手順を踏むことで本来の力を取り戻せたり、ある一定の条件下でのみ存在できたり。

 

「こうしちゃいられないわ。私はちょっと里に行ってくる。魔理沙は?」

「私は昨日行ったしな。河童たちの様子でも眺めてるよ」

「一応言っとくけど、勝手に神社の中のものを持ってったりしないでよね」

 

 ふわり、と霊夢が体を浮かせると、急ぎ気味に里の方へ消えていく。

 残されたのは店の配置を話し合ったり実際に組み立てたりと忙しそうな主に河童の妖怪たちと、手持ち無沙汰になった私だけ。

 

「…………ん?」

 

 ふと、河童たちに紛れておかしな格好をしたやつが見えた気がした。

 こう、暗い色をしたボロボロのローブとマントを羽織って、人の顔の形に穴を開けたかぼちゃ頭をかぶった、なんだかいかにもバカっぽい格好のなにかが……。

 こっそり立ち上がり、他のやつらの視線から隠れるようにこそこそと人影が見えた方へ近づいてみる。

 やはり、見間違いではない。かぼちゃをかぶったなにかが河童たちと同じように店を開く準備をしていた。

 かぼちゃの頭をした妖怪なんて最近耳にした『かぼちゃライダー』以外には聞いたことがない。となると、十中八九あれこそが『かぼちゃライダー』だろう。

 私が観察していることがばれていなかったようなので、抜き足差し足忍び足で背後に近寄ると、ぽんっとその肩に手を置いてみた。

 ひぇっ!? と女性らしい甲高い悲鳴が被り物の中から漏れる。その声をどこかで耳にしたようなことがあるような気もしたが、少々くぐもっているせいで正確にはわからなかった。

 かぼちゃライダーが急いで私の方に振り向いてきたので、挨拶するように片手を上げてみせる。

 

「よう。お前、『かぼちゃライダー』だろ?」

「え? あ、魔理沙……」

「ん? 私のことを知ってるのか?」

「うぇ? あ! そ、それはもちろん! 人間でありながら妖怪に一切引けを取らないすっごく強い魔法使いって有名ですよ! あはは……」

「そうか、そりゃ照れるな」

 

 興味本位で話しかけてみたのだが、どうにも挙動不審だ。なにかばれたくない秘密があるような、そんな感じがする。

 

「ところで聞きたいことがあるんだが。お前、里で人助けをして回ってるんだって? なんでそんなことしてるんだ? なにか目的があってしてることなのか?」

「そ、そうですね。特にありませんけど、強いて言うならお菓子をもらうことが目的ですよ。私、この時期に駄菓子とかもらって回るの大好きなんです」

「ふーん。でも子どもにお菓子を配って回ってるとかいう噂もあるんだが、せっかくもらったのに他人に上げてちゃ意味なくないか?」

「も、もらうのが好きなんです。大人からはお菓子をもらって、子どもにはお菓子を配る。トリックオアトリートです。私は幻想郷の皆にもハロウィンを知ってもらいたいと思ってですね」

「ハロウィンを、ねぇ。でも私はハロウィンってのは秋の収穫を祝ったり悪霊を遠ざけるための宗教の意味合いもある祝祭って聞いたぞ。なんで菓子をもらったり上げたりっていうのがハロウィンになるんだ?」

「え? ハロウィンって本当はそんな意味もあるんですか?」

「いや私に聞かれても……」

「てっきりお菓子をもらったり上げたりする行事だと……」

 

 ハロウィンに因んだ妖怪かとも思ったが、どうやら違うようだ。そうなるとなんだ? もしかしてかぼちゃの妖怪?

 というか、なんだろう。この不思議な感覚。こいつとどこかで会ったことがあるような、そんな既視感が会話を始めてからずっと心に引っかかっている。

 

「なぁ、私とお前ってどこかで会ったことがあったりしないか?」

「うぇっ!? そ、そそそんなことはありませんよ? 断じてないですよ? 私はハロウィンにのみ現れる弱きを助け強きをくじく謎の仮面ヒーロー、その名は正義のかぼちゃライダーですし……」

 

 なんだその肩書き。

 

「なら試しにその被り物取ってみてくれないかね。そうすれば私もすっきりするし」

「こ、これは私の体の一部なのでちょっと……これを取ったら、こう、あれです。その……そう! 私の奥底に眠る悪の心が表に出て、お菓子をくれなきゃいたずらするようになっちゃいます!」

「余計に見たくなったな」

「いや、ちょ、その。て、手をかけないでください! 取ろうとしないで……う、うぅうううう!」

 

 半ば強引にかぼちゃの被り物に手をかけてみたが、外すよりも早く両手でかぼちゃを押さえられる。妖怪だけあって異様に力が強い。全然外れる気配がしない。

 それでも諦めずに力を入れ続けていると、不意にばきんっと不穏な音が鳴った。

 これ、まさか……。

 その正体に気づいてすぐに力を抜いたのだが、一足遅かったようだ。

 かぼちゃが私とかぼちゃライダー――主には妖怪たるかぼちゃライダーの力だろう――の握力で完全に割れてしまい、破片がぼろぼろと地面に崩れ落ちていった。

 

「うぁぁうう!? め、目が、目がぁー……!」

「あ、悪い」

 

 そうして現れたかぼちゃライダーの正体は、こいつかよ、と呆れながらもなんだか妙に納得できるような、幼い少女の見た目をした大妖怪だった。

 吸血鬼、レーツェル・スカーレット。

 かぼちゃがなくなったことで容赦なく日差しが彼女の頭と顔を焼いている。私はすぐさま自分のかぶっていた三角帽を取るとレーツェルにかぶせると、その背中をそっと押して日陰の方、賽銭箱近くの階段まで誘導した。

 

「ひ、ひどい目に合いました……無理矢理取るなんてひどいです。外道です。なんたる非道を働くんですか」

「すまんすまん、悪かったって。こんなアホみたいな格好するんだから妖精かなにかだと思ってたのに、まさか中身がお前だとは……」

「アホみたいって……はぁー、いったい魔理沙はなに言ってるんです? めちゃくちゃイカした格好じゃないですか。このセンスがわからないなんて人生の半分は損してますよ」

「その損した半分は私って人生にはいらない分なんだろうな……」

 

 私のつれない反応に、レーツェルは終始不満そうに頬を膨らませている。

 数年前にこいつが異変を起こすまでは常に無表情だったから当時はこういう反応が新鮮だったが、数年も経てばさすがに慣れた。

 他人に気を遣うクセは変わらないが、割と開放的に振る舞うようになったことは良い変化と言えるだろう。

 しかし、いつもだったらもっとこう、保護者みたいに理知的な雰囲気なのに……今日はあれだ。なんだか妙に頭が残念な印象を受ける。妖精レベルだ。ハロウィンというイベントが彼女をそうさせるのだろうか。

 

「……なんでそんなかわいそうなものを見るような目をしてるんです?」

「いや、大丈夫だ。そう落ち込むなよ。きっと妖精ならお前のセンスだってわかってくれるさ」

「別に落ち込んでないですけど、なんだか密かにバカにされてるってことはわかりました」

 

 つんっ、とレーツェルがそっぽを向き、さらには私がかぶせた帽子を深くかぶって顔を隠す。

 悪い悪い、と軽く謝りながら、とりあえず正体が判明してからずっと気になっていることを問いかけてみることにした。

 

「で、レーツェルはなんでそんなアホっぽ……じゃない、変わった格好をしてるんだ? しかも店まで出そうとしてたろ」

「アホじゃないです。この格好をしてるのは、幻想郷にハロウィンを広められたらなと思ったからですよ」

「ハロウィンを広める、ね。なんでその目的でそんな格好になるのかを聞いてるんだが」

「私の前世だと……幻想郷の外の世界でもそうだと思うんですけど、現代ではこういった仮装をしたパーティを開くことがハロウィンってイベントになってるんです。かぼちゃはそのシンボルですね。店はかぼちゃの料理店でも出そうかと」

「ああ、なるほどな。外の世界のやり方か。だから霊夢とお前の認識に差があったんだな」

「みたいですね。子どもはこうした仮装をしていろんなところを訪ねて『トリックオアトリート』、つまりはお菓子をくれなきゃいたずらするぞって言ったりしてですね、とにかくそうして楽しく騒ぐのが現代では主流になってます。元々は違うみたいですけど」

 

 大人にはお菓子をもらって、子どもにはそれを配る。そんなおかしな噂も、レーツェルなりにハロウィンを広めようとしていたのだと考えれば、確かに納得できる話だ。

 

「でもそれだとお前がなんも得しないんじゃないか? 子どもでもあり大人でもあるって感じで」

「そんなことありませんよ? 弱気を助け強きをくじく謎の仮面ヒーロー、その名は正義のかぼちゃライダーはやってて楽しいですし。皆の助けにもなれますしね。ハロウィンを広めることもできて一石三鳥です」

「そ、そうか」

 

 人助けが楽しいというのは妖怪らしくない考え方ではあるが、こいつに限っては今更な話か。それだけじゃなく単純に変装も楽しんでいるようであるし、心配するようなことはなにもなさそうだ。

 

「あー、でも……」

「どうかしたんですか?」

「いや、お前って里でハロウィン広めようと頑張ってたんだろ? 里に妖怪が普通に出現してるなんてなにか企んでるに違いない、ってさっき霊夢が急いで里の方に……」

「……え?」

「正体がお前だって知られたら、たぶんぶち切れるだろうな、あいつ」

「…………や、やだなぁ。魔理沙は冗談が上手ですね。なんにも悪いことなんてしてないのに怒られるわけ……」

「ああ、そうかもしれないな。でもなレーツェル。それ、本気で言ってるんだとしたら相当哀れだぜ」

「うぐぅっ!」

 

 レーツェルは以前にもやらかしているし――萃香との喧嘩の余波で幻想郷に地震を起こし、霊夢を里に繰り出させた――、二度目となるとレーツェルにはそれなりに甘い霊夢もさすがに怒るだろう。

 レーツェルもそれはわかっているらしい。だらだらと冷や汗を流しながら、今の自分の服装を見下ろしている。

 

「……魔理沙。かぼちゃライダーはさっき悪の魔法使いに頭をかち割られて死にました。もうこの世にはいません。悲しいですね」

「どっちかって言うとお前のバカ力で割れてたけどな」

「か、かぼちゃライダーは今日をもって廃業です! 正義の味方は大人になると名乗るのが難しくなりますからしかたないですね! おつかれさまでした! 私はちょっと用事ができたので帰りますね!」

「おっと、いいのか? このままじゃ私、うっかり口が滑って本当のことを霊夢に話しちゃうかもしれないぜ?」

「むぐ……な、なにが目的ですか」

「明日はお前の店の料理をタダでくれよ。あとキノコ料理も追加してくれ。そうすればうっかり口が滑っちゃうこともきっとなくなるに違いないなきっと」

「うー……わかりました。その代わり、本当にそんなうっかりがないようにお願いしますね」

「もちろんだぜ」

 

 レーツェルは私に帽子を返すと、霊夢が戻ってくるよりも先に逃げるように紅魔館の方へと飛び去っていった。たぶん、館に置いてあるかぼちゃライダーとしての活動の証拠品でも処分しに行ったんだろう。

 霊夢は妙に勘が鋭いからな。かぼちゃライダーを探る過程でなんとなくで紅魔館にたどりついて、偶然レーツェルにまで行き着くこともありえなくはない。

 

「ふーむ。そうだな……霊夢には、かぼちゃライダーは私が退治したとでも言っておくか。別に間違いでもないし」

 

 これからはもうかぼちゃライダーなんて意味不明な妖怪は出現しないし、霊夢にこれ以上無駄な捜索を続けさせる理由もない。

 とりあえず、レーツェルが作るというかぼちゃとキノコの料理を楽しみにしておくとしよう。前に食べたあいつのお菓子とかおいしかったから期待できる。

 霊夢はとりこし苦労、レーツェルは証拠隠滅。悪い魔女や幽霊を遠ざける意味もある祭りのはずなのに、実際は魔女たる私だけが得をする。皮肉な話だ。

 

「ハッピーハロウィンだぜ。私だけな」

 

 くつくつと笑いながら、レーツェルから返してもらった三角帽を深くかぶる。

 レーツェルがかぼちゃの被り物をしていたせいだろう。かぶった帽子からは、甘いかぼちゃの匂いがした。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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七.思いに応えるカミの記憶

2月25日はレーツェルくんの日(誕生日)というわけで更新です(ーωー )
なぜ2月25日なのかはカランコエ(誕生花)です。カランコエには「たくさんの小さな思い出」や「あなたを守る」といった花言葉があります。
ちなみにラナンキュラス(こいしちゃんのスカートの模様の花)も2月25日が誕生花に含まれています。こちらは「晴れやかな魅力」など魅力的であることを表す花言葉があります。

後日談その七。香霖堂で買い物をするレーツェルくんのお話。


「うーむ……」

 

 香霖堂。

 そろそろ春が近く暖かくなってきた頃だが、まだ寒さが抜け切らないからだろうか。どうやらいくらか掃除をさぼっているらしく、トーテムポールやらアナログテレビやら、一部の商品には埃が積もっているのが窺える。

 霖之助は割とこういうことが多い。掃除をしないわけではないのだが、どうせまた汚れるのなら、ある程度までたまったところで一気にやった方が効率がいい。

 他にも少しでも興味を持ったらどう考えても役に立たないものまで拾ってきて、しかも頑なに捨てようとしなかったり。そういうところは割と魔理沙に似ている。

 魔理沙は幼い頃からそれなりに霖之助にお世話になっていたそうだし、案外根っこの部分は純粋で、こういう霖之助のダメな部分ばかり真似してああなったのかも……ないか。だって魔理沙だ。たぶん霖之助と関わっていなくともあんな感じになっていたに違いない。

 

「……ふむ。またずいぶんと難しい顔をずっとしているね。それに君が一人でここに来るなんて珍しい」

「あ、霖之助」

 

 香霖堂には今、俺と霖之助しかいない。いつもなら霊夢やら魔理沙やら、あるいはこいしかフラン辺りが付き添っているところだが、今日は一人で来た。

 ずっと唸っていたからだろうか。ロッキングチェアでくつろぎながら本を読んでいた霖之助がページから目を離し、不思議そうに俺を見やっていた。

 

「フラン以外なら、誰かと一緒に来てもよかったんですけどね。今日は私物の買い物ですし、誰かに声をかける必要もありませんでしたから」

「意外だな。君があの子と一緒に来ることを拒むだなんて。君たちはとても仲が良いと記憶していたけど」

「もちろんです。私もフランのことは大好きですよ。喧嘩している、というわけでもありません。ただなんというか……今日はどうしてもフランとは一緒に行けない用事だったというか……」

「この買い物がかい?」

 

 霖之助が訝しむのも無理のない話だ。買い物程度が大好きな妹を連れていけない用事だと言われてもしっくりとこないだろう。誕生日プレゼントとかなら別の話だが、さすがにそれだけ大事なものを古道具屋で買おうとは思わない。

 初めはちょっと気になった程度だったのだろうが、俺がなにを見ているか気になったようだ。霖之助は本を閉じて立ち上がると、隣まで寄ってきて俺がさきほどまでずっと見ていたスペースを覗き込んだ。

 

「あぁ、これは……」

「そうです。神のカードです」

 

 前世の記憶はかなり曖昧になってきてはいるが、まだそれなりに覚えていることもある。今俺が見ているこれもその範疇にあるものだった。

 俺がフランと、最近はこいし、あとたまに魔理沙を交えて行うカードゲーム。それを象徴していた、神のカードと呼ばれた三枚のカードが今、俺の前に並べられている。

 

「神の、カード? 君はこれの正体を知っているのか? もしかして外の神さまが作ったものなのかい?」

「あ、いえ、なんと言いますか……この三枚はとある神さまを模したカードなんです」

「あぁ、偶像の類だったのか。てっきり僕は……」

「僕は?」

「いや、僕の能力のことは君も知っていると思うけどね。この三枚のカードだけ他の同じようなカードに比べて違う用途が浮かぶんだ。だからこうして別のところに置いておいたんだけど……」

 

 霖之助の力、つまりは道具の名前と用途がわかる能力だ。

 俺やフランがやるカードゲームのカードはもっぱら香霖堂でバラ売りされているものを買っている。それがこうして離れて売られていたのは多少不思議に思ったものだが、どうやらそういう理由だったらしい。

 

「いつもの君たちが買ってくれるカードなら『ボードゲームを遊ぶための道具』と出るんだが、その三枚は違ったんだ」

「どう違うんです?」

「『架空世界に存在した闇のゲームを再現するための道具』、だ。闇のゲームだなんて言うもんだからもっと禍々しいものだと思ってたんだけど、偶像の類だったとはね。神さまにとんだ無礼を働いてしまった」

「用途が悪意を感じる要約ですね……」

 

 特にこのカード、と言いながら、三枚のうち不死鳥をかたどった黄金の神のカードを霖之助は手に取った。

 

「このカードからは特にその傾向が強いんだ。少なくとも『ボードゲームを遊ぶための道具』ではないというか、それに使うのはいささか無理があるというか……そのために作られたようには到底感じられない。能力で浮かぶ名前もなんだか霞んでいてね。ラーって部分があるだろう? それがたまにヲーに見えることがあったりして――」

「それ以上はやめてください、やめてください……やめてあげてください」

「え? あ、あぁ、わかった。よくわからないけど……」

 

 不死鳥のカードには間違いなくラーと書かれているのだが、多くの人がそれを拒んだというか……模しているはずなのに、その効果が元々の神としての力とあまりにかけ離れているせいで、その現実を認めなかった者が多くいたからだろうか。その想いがカードに乗り移り、霖之助の能力にも悪影響を及ぼしているのかもしれない。

 ……いや、それっぽく推測を立ててみたがやっぱりちょっと意味がよくわからない。いくら思いや精神の力が強い意味を持つ幻想郷でも、それだけの影響で名前が変わるだなんて普通はありえない。相当な話だ。あまり深く考えないでおこう。

 

「それで霖之助、これって商品なんです?」

「いや、闇のゲームだとかなんだとかなにか不吉そうだったから非売品のつもりだったんだけど」

 

 商品と一緒に並べてあるのに非売品とはこれいかに。

 

「でもまぁ、君ならそれの正体がわかってそうだから売ってもいいか。僕の手にあるよりはよさそうだ。ただ、いつものカードよりレアなぶん割高になるよ」

「大丈夫です。お小遣いはそれなりにあります」

「お小遣いって……そういえば、君たちの館のやりくりは主にうちのお得意さまのあのメイドがやっているんだっけ」

「咲夜のことですか? そうですね。咲夜にはいつもお世話になっています。お姉さまにそういうこと任せていたら後先考えなさそうですし」

「珍しいな。君が姉のことを悪く言うだなんて」

「悪くだなんて言ってません。お姉さまは子どもらしくて愛らしいって言いたいんです。咲夜は大人っぽくて落ちついてますし、とどのつまり長所とか異なりますから。役割分担だってことです」

「人には人の役割がある、か。だとすれば、カードにもカードの役割があったりするのかな? この不死鳥のカードにも」

「え、そ、それは……ど、どうでしょうねー?」

「なんで口ごもるんだい? 君のことだから、はい、なんて即答すると思ってたのに」

「いやまぁその、はい、そうですね……ただ世の中には狭い範囲でしか活躍できないものだってあるんです。とても限られた、しかも普通では起こり得ない条件下でしか力を発揮できなかったり……得てしてそういうものは不遇と呼ばれるんです」

「ふぅん。まぁ確かに、ここの商品はこの店に置いておいて役に立つものなんて一割あればいい方だ。外の世界では便利な道具でも、こんな寂れた古道具屋じゃ置き物にしかならない。道具という存在にとって確かにそれほど不遇なことはないな。少し新しい活用法でも考えてみるか……」

 

 なにやら難しいことを考え始めようとした霖之助に、とりあえずこの三枚をください、とさっさと取引を行っておく。それから三枚のカードを倉庫魔法で異空間にぽいっとしまった。

 これで次こそは必ず……そうして一人で燃えたぎっていると、霖之助がふいとなにかを思い出したように「あれ?」と声を上げた。

 

「ところで、どうして新しいカードを買うことが君の妹と一緒に来ちゃいけないことに繋がるんだい? まだ肝心の理由が判明していなかったと思うんだが」

「へ? あ、あー……それはですね。その、なんて言いましょうか……」

「言いづらいなら言わなくてもいいさ。無理に聞きたいほどのことじゃない」

「いえ、霖之助になら別に言ってもいいです。魔理沙とかだとからかわれそうなので嫌ですけど」

「ふむ。なら、どんな理由なのか、聞かせてくれるかな」

「……負け続きで、悔しかったからです」

「え?」

「最近このカードゲームでフランと遊んでも、どうしてかフランはいつも引きがよくて……ノリノリで『私のターン、ドロー!』なんて言った後すぐに『来たわ! 見せてあげるお姉さま! これが私の切り札……絶対無敵、究極の力を解き放て! 発動せよ、『超融合』!』とか言い出すんですよ! しかもピンチになったら毎回です! 気合いを入れてドローしたら引きたいカードが引けるだなんてアニメの主人公じゃないんですから!」

「お、落ちついてくれ。君らしくもない。第一、たかがゲームの話だろう? そんな必死になることじゃ」

「半端な気持ちで語らないでください! デュエルの世界を!」

「えぇ……」

 

 霖之助がドン引きしている。どうやら少し熱くなりすぎららしい。

 一度大きく深呼吸をして心を整えてから、改めて口を開いた。

 

「とにかく、そういうわけで……フランに勝てるだけの力が、つまり新しいカードが欲しかったんです。それなのにフランを一緒に連れて来れるわけがありません」

「な、なるほどね。しかし引きたい時に引きたいカードを引く、か……まぁ、実際問題、ありえない話ではないのかな」

「え? なにか理屈があるんです?」

「ん、ああ。そうだね……ちんちろりんを知っているかい? サイコロの目を当てるゲームだ。例えば霊夢なんかはそれを百発百中で当てられるらしい」

「はい?」

「宴会でたまにやっているという話だったけど、君は見たことがなかったみたいだね。ああいや、先に言っておくけど別にそれは霊夢だけの特別な能力というわけじゃないさ。彼女の力は『浮く』だけだ。サイコロの目にまでは作用できない」

 

 それは当然の話だろう。応用の範囲として、かつて俺にやったように表情を浮かばせたりということはできても、サイコロの目を当てるだなんてことは浮くという言葉の範疇にはない現象だ。

 

「霊夢いわく、この世界は三つの層から成り立っているんだそうだ。一つ目が物理の層。要するに物理的法則さ。ものを持ち上げて、離せば落ちる。そういう当然の事柄のことさ」

「じゃあ二つ目はなんです?」

「心理の層。人の心、あるいは魔法や妖術が作用する範囲の層だ。君が自分の妹のことを大事に思う気持ちだとか、そういうものさ。大抵の妖怪や僕なんかはこれら二つの層で物を捉えるから、幸運のメカニズムを理解することができないらしい」

「幸運のメカニズム……霖之助は三つ目の層のことを知っているんですよね、霊夢から聞いて。それっていったいどういうものなんですか?」

「記憶さ」

「記憶……?」

「世界は同じことの繰り返しを拒むようにできているんだそうだ。つまり、万物を捉え、すべての出来事を記録し覚える記憶の層。それこそが世界の最後の層なんだ」

「……アカシックレコード、ですか」

「なんだ、知っていたのかい?」

「いえ、実際にあると知ったのは初めてです。もっと詳しく教えてもらえませんか?」

 

 アカシックレコード。この世界が始まった時から起きたこと、すべての生き物が感じた思い。そういったすべてが記録されている世界記憶の概念のことだ。

 現在を構成する物理と心理、そして過去と未来を形作る記憶。その三つの層で世界が成り立っていると言われれば、確かに納得はできた。

 

「僕も霊夢の受け売りなんだけどね。物理の層が物理法則で、心理はその結果の解釈、そして記憶は確率の操作を行う。因果応報というやつだね。今、まったく同じ条件下のつもりでサイコロを二回連続で振ったとしよう。けれどその二回目が仮に物理的、挑む時の心理的に同一だとしても、『二回目のサイコロを振った』という過去の記憶だけは覆せない。記憶の層が違う。だから初期条件が同じ状態で二度サイコロを振ったとしても、同じ結果になるとは言い切れないんだ」

「なるほど……でもそれならなんで霊夢はサイコロの目を当てられるんです? 同じ結果にはならないー、なんてわかっても、それって結局次の目がどうなるかわからないことがわかるだけでなんにもわかってないじゃないですか」

「そうだね。僕もそう思った。だけど違ったんだ。逆なんだよ」

「逆?」

「サイコロの次の目がわからないのなら、サイコロの次の目がそうなるような条件にすればいい」

「いやまぁそれはそうでしょうけど、どうやって引き寄せるんですか。今なにをどうやっても同じ結果は必ずしも起こり得ることはないってわかったばっかりじゃないですか」

「そうだね、必ずはありえない。霊夢だって次にどんな目が出るかなんて知らない。でもサイコロは、霊夢が次のサイコロの目を予想したことを記憶している」

「つまり?」

「霊夢は幸運な存在だと記憶されているから、記憶の層が霊夢が幸運になるような結果を勝手に引き寄せる。霊夢がサイコロの目を当てるんじゃなく、サイコロが霊夢の予想と同じ結果を取る。そしてそれが百発百中に繋がるってことさ」

「……あの、霖之助」

「なんだい?」

「それってつまり元々幸運な人じゃないと意味がないってことじゃないですか! 結局!」

「あはは、まぁ、確かにそうだね」

「むぅー……」

 

 俺も頑張れば幸運になれるかもと思って興味津々に聞いていたのにこの仕打ちである。思わず不満げに唸ってしまうのもしかたがない。

 つんっとそっぽを向いている俺をよそに、霖之助は「話を戻すよ」と続けた。

 

「この世界は三つの層から成り立っている。物理の層と心理の層だけで捉えたら、確かに、君の妹のように次に引くカードに望んだものを引き寄せることはできない。けれど」

「……世界は、フランの持っているカードたちはフランの勝ちたいという思いを記憶している。フランが引きたいと思ったカードを記憶し続けている。そしてこれまでずっとその結果は結びついてきた記憶がある。だから、フランが本気で『勝ちたい』と思ってカードを引けば、カードが必ずその思いに応える……そういうことですよね」

「その通りだ。まぁ、君の妹とそのデッキの相性がよほどよかったからだろうね。使うカードをがらりと変えたりしたら、たぶん引きたいカードも引けなくなるんじゃないかな」

「それじゃ意味がないです。私は、今の強いフランに勝ちたいと思ってここに来たんですから」

「……だとすれば、君もまた彼女と同じなのかもね」

「同じ?」

「君の妹の気持ちにカードたちが答えるように、君の勝ちたいという思いの結果にあったものが、その三枚のカードなわけだろう? それも神のカードだなんて大層なものなんだ。これがただの偶然のはずがない」

「私はこの三枚のカードに導かれたと?」

「そこまでは言ってないよ。君とそのカードたちは少なからず相性がいいだろうってだけの話さ」

 

 うむむ、と倉庫魔法で異空間から取り出した三枚のカードを再び手に取る。

 

「……決めました。私、この三枚のカードと一緒にフランに勝ってみせます! カードが私たちの思いに答えてくれるのなら、私もカードに応えます! というわけで霖之助、そろそろ失礼しますね! 今日は遅くなるまでドローの素振りをして特訓ですっ!」

「え、あ、ああ……素振り……? カードゲームの話じゃなかったのか? それになんの意味が……って、もういないな」

 

 ――この日から俺の日課に一日最低一〇〇回ドローの素振りが追加された。

 ちなみに意気揚々とフランに勝負を挑んだ結果だが、三枚の神のカードのおかげか、割と勝てるようになって満足していた。

 しかもラーに至ってはいつも初手に引いたカードの中にいる。常に切り札が一番初めに引けるのだからそうなる記憶が世界にあるのだろう。勝つ時も負ける時もいつも一緒だ。もはや俺の相棒と言ってもいいカードである。

 ……ちなみに、ラーをフィールドに出した勝負で勝ったことはない。



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八.魔法使いの奇妙なお茶会

お久しぶりです。主人公レーツェルの誕生日ということで、二年ぶりの更新となります。
後日談その八。どう考えても気まずくなる予感しかしないお茶会を開催する魔法使いのお話。


 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Patchouli Knowledge □ □ □

 

 

 

 

 

「パチェっ。明後日、ここでお茶会をしませんか?」

 

 紅魔館。

 いつものように大図書館に引きこもって魔導書を読み込んでいると、一人の少女がやってきて、いきなりそんなことを言い出した。

 金と銀が入り乱れる不思議で綺麗な髪を持った、一〇歳にも満たない程度の背丈の美しい少女。爛々と輝く紅色の瞳は多くの他者を威圧し、恐怖させ、そして魅了する。

 吸血鬼、レーツェル・スカーレット。私が居候しているこの館の主人のレミリアことレミィの一つ下の妹、三姉妹の次女に当たる存在だ。

 

「また唐突ね、レーテ。そもそもお茶会なんて毎日とは言わないまでも、毎週くらいはしていると思うけれど」

 

 長女のレミィがイベント好きなこともあって、一週間に一回くらいの頻度で小さなお茶会を開いている。

 常連のメンバーは開催者のレミィはもちろん、今私の前で目を輝かせているレーテ、彼女たち姉妹の末っ子のフランドールこと妹さま、給仕役のメイド長の咲夜、そして私。

 私は別にレミィほど騒ぎが好きなわけでもないのだが、私の住処にも等しい大図書館で開催する以上、半ば強制参加のようなものだ。

 いつもは一人で静かに本を読んでいるような生活をしているのが私ではあるが……まあ、ああいう時間も案外悪くはないとは思っている。

 

「ダメ、ですか?」

 

 明確な回答を避けて会話を引き伸ばしたからか、途端にレーテがしょんぼりとし始める。

 かつては表情の変化がまったくと言っていいほどなかったレーテだが、今は違う。時には笑い、時には泣き、時には不満そうに口を尖らせたり。

 最初こそ内心かなり戸惑っていた記憶があるが、レーテが自分の感情を表に出し始めたのは、もう数年前もの話になる。

 それだけ経てば、さすがにもう慣れたというものだ。

 今更こんな落ち込んだ姿を見せられても別に心は動かない。冷静に平静に、飄々とした態度で受け流すことができる。

 ……そう、受け流すことができる、けれど。

 まあ、そうね。

 

「ダメじゃないわ。どうしてそんなことを言い出したか気になっただけだから、そんながっかりしたような顔しないの」

 

 できる、ということは、しなくてもいいということ。

 敢えて真正面から受け止める。たまにはそれくらいしてあげてもいいだろう。

 レーテはその私の返答を聞くと、ぱぁっ、と花が咲くような笑顔を浮かべた。

 

「本当ですかっ? ありがとうございます、パチェ!」

「……ふふ。ええ。まあ、他でもないレーテのお願いだもの。しかたないわ。それで、まだその発想に至った経緯を聞いていないけど」

 

 私がそう言うと、レーテは上機嫌に事情を話し始めた。

 

「実はですね、この前こいしと散歩をしていたら猫の集会みたいなものに出くわしまして。すぐ逃げられちゃったんですけど……その時思ったんです。私たちも少しくらいは同族同士で仲良くするべきじゃないかって」

「あなたたち三姉妹はこれでもかっていうくらい仲が良いと記憶しているけど?」

 

 もうほんとこれでもかってくらい。特にレーテはレミィとも妹さまとも、どちらとも凄まじく仲が良い。

 あなたの姉妹はどんな人ですか? というような質問はこの三姉妹には禁句だ。

 一度語り出したら本当に止まらない。文字通り日が暮れるまで、過去のエピソードと一緒に姉や妹を褒め称え続ける。

 

「あ、違います。吸血鬼のことじゃなくてですね、私やパチェのような存在のことです」

「私とレーテ? どういうこと?」

「ふっふっふ、つまりですね……私やパチェのような、魔法使いだけの秘密のお茶会を開こうと言うことです!」

 

 ……。

 

「ごめんなさい、やっぱりそのお茶会参加できないわ。急用でその日出かけるから」

「えぇっ!?」

 

 当然である。

 至極当然なのだが、レーテは「がーん」なんて擬音が聞こえてきそうなくらい、凄まじく凹んでいた。

 

「ど、どうしてですかパチェ! どうして急にそんな……!」

「なんでって……レーテならわかっているでしょう? あなたと私の共通の知り合いで、幻想郷に住む魔法使いは三人。一人は妹さまだからいいとしても……あとの二人、特に顔をよく見る方は私とは致命的に合わないもの。性格っていうか性質が」

「それって、魔理沙のことですよね……」

「ええ。あいつと一緒にお茶会だなんて、とても和やかな空気になれる気がしないわ」

「うぅ……そんな……」

 

 がくり、とレーテが膝をつく。

 ほんの少し申しわけない気もするけれど、背に腹は代えられない。本当に私と魔理沙は合わないのだから。

 話は終わりだ。そんな風に魔導書に手を伸ばそうとしたところで、もう片方の手の袖をくいっと引かれた。

 

「……本当に……本当にダメですか……?」

「ぅ……」

 

 うるうると瞳を潤ませて、懇願するような上目遣いで。

 ともすれば、わざとらしくも見えるかもしれない。

 だが、私は知っている。レーテは自分の感情が表情に出ることを抑えるのが致命的に下手なのだ。

 ずっと無表情だったから。それが普通だったから。だから、表情をうまくコントロールできない。

 つまりこの懸命に縋り付いてくる今のレーテの様子は、彼女の心の状態を写し取った、まさしくありのままの姿であるということ。

 

 ――う、動かない……べ、別に心は動かない。

 

 そう、もう慣れた。これくらいなんてことはない……。

 今の私なら冷静に、平静に、飄々とした態度で受け流すことができる。

 ……そう。できる、けれど。

 できるということは、その、しなくても別にいいということでもあって。

 だから、えぇっと、うん。

 

「……まったく……しかたがないわねレーテは。本当にしかたがない……他でもないレーテの頼みだもの。しかたがないから、そのお茶会、参加してあげるわ」

「え、い、いいんですかっ?」

「レーテの頼みだから、よ。別にあいつと馴れ合うつもりはないわ。あっちもどうせそのつもりはないでしょうし……それでもいいなら」

 

 机に置いていた飲みかけの紅茶を口に運びながら、私はそう答えて。

 

「パチェ……! ありがとうございます! 私だから……えへへ。パチェのそういうところ、大好きですっ!」

「――ごふっ! えほっ、けほけほっ……!」

「ぱ、パチェ!? 大丈夫ですかっ? もしかして喘息ですかっ!?」

「ち、ちが……けほっ。ぜ、喘息ってそんな、ことあるごとに出てくるものじゃないから。レーテが急に変なこと言うからよ……」

 

 別に照れてなんていない。

 断じて照れてなんていないが……もし「大好き」なんて言われたとレミィや妹さまに知られたら絶対に面倒なことになるので、このことは私の胸の中だけにしまっておこう。

 

 

 

 

 

「――で、早速この奇妙なお茶会が始まったわけなのだが」

 

 あれから二日後。

 大図書館に集まった五人の魔法使いの一人、魔理沙が、ものすごく微妙な表情で私を含む全員の顔を見回した。

 

「お前らよく参加することにしたな。レーツェルのやつから話聞いた時は絶対ろくに集まらんだろって思ってたぞ」

「ろくに集まらないって思ってたのに参加したの? 変わってるわね」

 

 と、魔理沙をそれとなくそしったのは人形の魔法使い、アリス・マーガトロイド。

 魔理沙は鼻で笑うようにアリスを横目で見る。

 

「ろくに集まらないって思ってたから参加したんだよ。タダで甘味を食えるわけだからな。そういうお前はなんで来たんだよ、アリス」

「別に大した理由はない。あなたやそこの引きこもりになんて用も興味もないわ。誘ってきた相手が他でもないレーツェルだったから……あと、場所が図書館だったから。有益な魔導書でも転がっていないかと思ってね」

「……一応言っておくけど、一冊だって上げるつもりはないわよ。部外者、ましてや魔法使いの同族になんか」

 

 わかっているだろうが一応私が釘を刺すと、アリスはこれみよがしに肩をすくめた。

 

「ケチね」

「な。ケチだよな」

「……レーテ。別の部屋で本でも読んでていい? やっぱりこいつらとはウマが合わないわ」

「ま、待ってくださいパチェ……まだ始まったばかりですから」

 

 立ち上がりかけた私を、レーテがおろおろと押しとどめる。

 一応、レーテに免じて腰を下ろすが……次また同じようなことがあったら断固として出ていこう、と心の中で決意を固めた。

 

「あ、このクッキーおいしい」

 

 近くで起きてる小争いなんぞ知らん。そう言わんばかりにお茶会開始と同時に菓子に手を伸ばしていた妹さまが、ぽつりと呟く。

 それが合図であったかのように私と魔理沙、アリスはそれぞれの顔を見合わせて、同時に小さなため息をついた。

 

「あー……とりあえずなんでこんな奇妙なお茶会に参加することにしたかでも一人一人話していくか?」

 

 魔理沙の提案に、反対の意見は出ない。

 出ないというか、私を含む大半が意見を考える気もないという方が正しいだろうけれど。

 

「私はさっきも言ったが甘味目当てだ。お前らが来ないでレーツェルとフランだけが寂しくいるところに救世主のように現れて颯爽と甘味をかっさらうのが目的だったぜ」

 

 それは救世主よりも、こそ泥の方が遥かに表現として合っている。

 

「次、アリスだ」

「私? さっき言ったと思うけど、一番はレーツェルの頼みだったからよ」

「お前ってそんなにレーツェルと関わりあったか?」

「そこそこね。たまに研究の材料集めを手伝ってもらったりしてる。お返しがあんまりできてないから、こういう頼みは断れないのよ」

 

 アリスはしかたがなさそうに肩をすくめて。だけど断れないなんてきつい言い方をする割に、案外満更でもなさそうだ。

 

「ふーん。次は、あー、パチュリーにでもしとくか」

「……レーテの頼みだからよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」

「なんだ、お前ら理由がお揃いだな」

「「は?」」

 

 私とアリスの声が完全にハモる。そしてどちらも「お前殺されたいの?」って感じの威圧が込められている。

 さしもの魔理沙も気圧されたように「じょ、冗談だ」と大人しく引き下がった。

 

「ふふん、お姉さまの頼みを断る人妖なんているわけないでしょ? だってお姉さまだもん」

 

 ここまでずっと興味なさそうにお菓子をつついていた妹さまが、ぐてーっと上半身を机に投げ出しながら言う。

 

「もしも仮に断ってお姉さまを悲しませるようなやつがいたら、私が地の果てまででも追いかけて地面に顔面埋めさせてやるわ」

「それ、断らないっていうか断れないだな」

「ふ、フラン。そんなことしなくてもいいですからね……? そんな無理して頼みを聞いてもらってもその人に悪いだけですし……」

「えー。私はお姉さまのためを思ってやろうとしてたのにー」

「うっ……その、で、でも……」

「お姉さまが抱きしめてくれたらやめるわ」

「え……は、はい。わ、わかりました。えっと……こ、これで……いいですか?」

 

 レーテが妹さまの冗談交じりの要望に本気で答えて、隣に座る妹さまに、ぎゅっと抱きつく。

 小恥ずかしそうに頬を赤らめているレーテは、むしろ見ているこっちが恥ずかしくなりそうだ。

 妹さまはそんなレーテに満面の笑みを浮かべると、「まだダメ。もっと」と催促をし始める。

 

「……なんかこいつら、以前にも増して距離が近くなってるような気がするなぁ」

 

 一歩引いたような声音で、魔理沙が呟く。

 いつもこんな感じのような気もするけれど……。

 

「でも……確かに、少しレーテの反応が変わってきたようにも思うわね」

「変わってきた? って?」

 

 疑問の声を上げたのはアリスだ。魔理沙も同じ気持ちのようで、視線で続きを促してくる。

 こいつらにわざわざ教えてやるのは癪だったけれど、これは一応お茶会だ。本当に一応だが。少しくらいは会話を楽しむ努力もしてみよう。

 

「昔はなんてことないみたいに妹さまの頭を撫でたりとか抱きしめたりとかやってたけど、最近のレーテはそれなりに恥ずかしそうって話。ちょうど今みたいに」

「それ、表情が出るようになったからじゃないのか? ほら、例の異変で」

「違う違う。これでも私はレーテと一〇〇年くらい付き合ってきた仲なのよ。表情なんてなくたって、ある程度の感情を読み取るくらいはできたわ。昔のレーテには本当に照れなんてなかった。妹のおねだりを聞くのは姉として当然、みたいにね」

「あぁ、まあ、そういう感じは確かにあったな」

「ふぅん。ま、羞恥心でも覚え始めたんじゃないの? 見た目的にはそういう年齢でしょうし。そろそろ妹離れの時期なんじゃないかしら」

 

 真っ先に疑問の声を上げた割に興味なさそうなアリスのてきとーな発言に、私と魔理沙は同時に口を開いた。

 

「それはないわ」

「それはないな」

 

 言葉のタイミングもトーンも完全に一致した。

 かぶせるんじゃないわよ、という風に魔理沙の方を睨むと、あちらも同じような目でこちらを見てきていた。

 

「……レーテが姉離れや妹離れなんてするはずない。そもそもとして、私たちは妖怪。妖怪の精神は滅多なことでは成長しないの。それはあなたもわかっているばずでしょう、アリス・マーガトロイド」

「大体見た目通りの肉体年齢ではないけど、大体見た目通りの精神年齢だものね。妖怪って」

「なあ、私は妖怪じゃないんだが」

「平気で妖怪退治してるようなやつなんて妖怪みたいなもんでしょ」

 

 と言ったのはアリス。これまたてきとーな発言だが、こればかりは私もてきとーに同意しておく。

 魔法使いなんてものは、その多くが自分の研究や魔法以外にはほとんど興味を示さない閉鎖的な生き物だ。

 魔理沙は職業が魔法使いなだけのただの人間だが、私やアリスは違う。私たちは種族そのものが本物の魔法使い。

 私はレミィやレーテたちと普段から交流があるからまだマシな方だとは思っているけれど、アリスは自分の魔法以外本当に興味がない生粋の魔法オタクと言った感じだ。お茶会の当初から今に至るまで、思いついたことを雑に口に出している感じがありありと出ている。

 ……レーテにだけは少し甘い気がするが。

 まあ、そもそもレーテが甘すぎるせいで調子を狂わされてしまうんだろう。気持ちはよくわかる。

 

「ま、でも、他に考えられる可能性があるとしたら……」

 

 アリスはそこで区切ると、なぜかそのまま閉口した。

 

「あるとしたら、なんだよ」

 

 痺れを切らした魔理沙が詰め寄ると、アリスは小さなため息をつく。

 

「……もしかしたら、ウェスターマーク効果がうまく働いてないのかも、って思っただけ」

「うぇすた………? なんだそれ」

「悪いけど、こういう無遠慮な勘繰りは本当はあんまり好きじゃないの。魔理沙ならともかく、レーツェルが相手なら特にね。気になるなら自分で調べて」

 

 ウェスターマーク効果……この図書館の書物の半分以上は読破している私にもわからない。

 魔理沙は見るからに不満そうだったが、今のアリスはどんなに文句を言ったところで取り合わないと感じたからか、聞き出すことは早々に諦めたようだ。

 ここで一旦沈黙が訪れ、私はふと視線を感じて、レーテの方を一瞥した。

 レーテは妹さまに構いながらも、なんだかものすごく気まずそうに、それでいて小恥ずかしそうにこちらをちらちらと見てきていた。

 よくよく考えてみれば、本人がそばにいる時に話すことでもなかった気もする。

 

「とりあえず次はフランだな」

「私? なにが?」

 

 突然名前を呼ばれて、妹さまが目をぱちくりとさせた。

 

「なんでこのお茶会もどきに参加したかって話だよ。まあわかりきってるが」

 

 私もアリスも魔理沙も、誰もが同じ答えを予想をしていた。そしてその予想は的中していたようだ。

 

「そんなのお姉さまがいるからに決まってるじゃない。あとさっきも言ったけど、参加してこなかったやつを後で地面に顔面埋めとくためにね」

「あれ本気だったのかよ……」

「当たり前でしょ? 残念ながら喜ばしいことに欠席者はいなかったけどね」

 

 ……参加辞退しなくてよかったわ。

 妹さまはやると言ったらやる。相手が私でもレミィでも容赦なしだ。いやむしろレミィが相手なら嬉々としてやろうとする。

 ただしレーテにだけは砂糖菓子のように甘い。レーテに対してだけは、罰として今夜は一緒に寝ることとかそんな感じだ。

 

「最後はレーツェルだが……お前はいいか」

「え。な、なんでですかっ?」

「いやお前私を誘う時にもう話してただろ。猫の集会見たからこの奇妙なお茶会もどきをやりたくなったって。全員聞いてるんじゃないか、それ」

 

 まあ、確かに聞いた。

 アリスも同じようで、口を挟むことはしない。いやアリスなら仮に聞いてなくても興味ないからと口出しなんてしなさそうだけれど。

 

「せ、せっかく良さそうな理由を他にも考えてたのに……魔法使い同士共同で新しい魔法を開発するための会議とか、そんな感じの……」

「またレーテが変なこと言い出したわね……」

「このメンバーで仲良く開発なんてできるわけないだろ?」

「嫌よ。めんどくさい」

「お姉さまと二人きりがいい」

 

 この一体感のなさ。いっそ清々しいくらいであろう。

 レーテはしょんぼりと項垂れると、その落ち込んだ気分をなぐさめるように菓子に手を伸ばした。

 さきほど妹さまも食べていたクッキーを口にして、するとレーテの顔が、ふにゃあ、と、だらしなく緩む。

 つい数秒前の悲しみなんて一瞬で吹っ飛んでしまったような、それほどの幸福感を感じているだろうことを見ているだけ理解できる。

 ……レーテって、なんか……幻想郷に来てから徐々に子どもらしくなってきている気がするというか……アホっぽさが増してきてる感じがするわね……最近は特に。

 

「…………殴った相手をお菓子にできる魔法とか開発してみましょうか……名づけてお菓子パンチ……絶対強い……」

「……」

 

 ……アホっぽさが増してるというか、間違いなくアホになってきてるわね、これ。

 ――そんなこんなで何度か険悪な空気になったりすることもあったが、お茶会自体は滞りなく最後まで行われた。

 仲が深まったとは口が裂けても言えないし、もう一度やりたいと言われても正直断りたい気持ちでいっぱいだが……とりあえず、一つだけ収穫はあったように思う。

 ……この私が知らなくて、アリスは知ってる言葉があるだなんて、ちょっと面白くない。

 知識量だけは他のどんな魔法使いにも負けない自負がある。だからもっとたくさん本を読んで、もっとたくさんの知識を蓄えなければ。

 もちろん、アリスが口にしていたウェスターマーク効果とやらも、いつか必ず暴いてやるつもりだ。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □



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