行きつけの喫茶店の珈琲が美味 (夕凪楓)
しおりを挟む

序章 行きつけの喫茶店の珈琲が美味
Ep.1 Absence makes the heart grow fonder.









SAOの息抜き程度に書いたやつです。本当はちさたきが好き。



 

 

 

 

 

 ────行きつけの喫茶店の美少女が無茶苦茶構ってくる。

 

 最近、何気無くぶらりと歩いてたら良さげの喫茶店が目に留まった。錦糸町駅北口から少し歩いた墨田区内の下町にそれはあった。

 こんなところに喫茶店なんてあったんだなぁとかフワッと考えつつ、勉強するのに良いかもしれないと入ってみれば、なんとも和の雰囲気が良さげの内装で落ち着くのなんのって。

 

 カウンターの向こうで、ガタイの良い色黒でダンディーな男性が柔らかい笑みでメニュー表を渡してくれる。

 目を通してみれば、甘味はパフェなどもあるが和菓子が中心の癖に、ドリンクは基本的に珈琲。勿論茶もあるらしいが、売りは珈琲らしく、和洋折衷というかしっちゃかめっちゃかで、なんぞこれと初めて来た当初は思った。

 

 しかしながら、店長が淹れてくれた珈琲はまたなんとも美味で。苦いけど。

 そんな空気に完全に酔いしれてしまった俺は、一週間に二、三度の頻度でこの喫茶「リコリコ」に顔を出すようになった。もう完全に虜。

 

 リコリコに出入りするお客さんの大半はリピーター、言わば常連客だ。地域の人達に愛された喫茶店で、お客さんは社会人から学生、老若男女に渡ってそれはそれは多く賑わっている。店員とお客さんだけでなく、お客さん同士も仲睦まじく、勉強しながら横目でそんな雰囲気を眺めつつ、微笑ましくなったのを覚えてる。

 かくいう俺も最近はその常連の仲間になれたらしく、最近は閉店後に開かれるボードゲーム大会に誘われる程には顔を知って貰えていた。なんかむず痒く、けど嬉しい。

 

「気に入って貰えて良かったよ、朔月(さかつき)くん」

 

 鈴の音と共に扉を開ければ、眼鏡で色黒で和服でダンディーで渋くてめちゃくちゃカッコイイ男性───ミカさんが俺を出迎えてくれた。

 

「いつもありがとうございます、ミカさん」

「フッ……そう毎度畏まらなくてもいいんだぞ」

「すみません、性格で……あ、練り羊羹ってありますか?」

「はいよ」

 

 ミカさんはそう言って準備をし始める。俺はいつも通りカウンターに腰掛けつつ、リュックから本を一冊取り出して栞を挟んだところから開く。それを片手に珈琲を一口、砂糖無しのブラック。

 ……うん、苦い。てゆかぶっちゃけ甘いのが好き。ただ、こうして珈琲を片手に時間を潰すこの感じがなんとも“それらしい”ではないか。ただそれだけの為に飲んでる珈琲……うん、後で砂糖入れよ。

 

「マセてるわねぇ……子どもの癖にブラックなんて」

 

 カウンター一つ席を空けて隣りに座る茶髪で眼鏡の女性が、苦い顔で珈琲を飲む俺を嘲笑うかのように見ている。ミカさん同様に和服に身を包む彼女は、リコリコの店員であるミズキさん、27歳独身。結婚願望が凄まじく現在彼氏募集中だとか。

 

「あ、ミズキさん。この前言ってた婚活?パーティー?はどうなったんですか?」

「……予定が合わなくて中止んなった」

「ええ……ただでさえリコリコでしか出会いの場が無い中で漸く漕ぎ着けたチャンスだったのに可哀想……」

「るっさいわね!!」

 

 涙を瞳に溜めながらの、魂の叫びだった。泣くなよ。

 しかしミズキさんの言う通り、17歳でブラックの珈琲を嗜むのは流石にマセてるかもしれない。けどまあ、この在り方がなんとも格好良くて、なんだか大人の仲間入りをしてるみたいで。

 そんな自分に酔ってしまってるだけなのだが、俺はそんな雰囲気にさせてくれるこの店が、店員もお客さんも合わせて好きだった。

 

「そーゆーアンタこそ、ちょいちょい店に顔出してるけど彼女とかいない訳?」

「生憎、中々出会いがなくてですね。いた試しがないんですよ」

「へぇ、意外。顔面の偏差値はやたら高いのに」

「……あ、口説いてますかもしかして。すみません、酒癖の改善が見られない内はちょっと……」

「違うわっ!!」

 

 ミズキさんのこのキレッキレのツッコミが意外にツボで、いつも揶揄ってしまう。本で口元を抑えてクスクス笑っていると、カウンター越しにミカさんが軽く顔を近付け、

 

「しかし、ミズキが言っていた事もあながち嘘ではないんだぞ」

「え?」

「アンタここのお客さんにモテるのよ。最近この店女子校生多いでしょ?」

「や、あんまり周りを気にしてなかったんで分からないですけど……」

 

 そう言ってチラリと振り返って見ると、畳で正座していた三人組の女学生達がこぞって此方を伺うように見つめていた。目線が合った瞬間、慌てるように三人同時に顔を逸らし、メニュー表を食い入るように見始めた。その頬は皆やや赤く見える。

 

「……なる、ほど?」

「自覚無かったんかい。罪な男ねぇ、こんなガキンチョのどこが良いのか」

「確かに……どこが良んだろ」

「……自分で言うのか」

 

 ミカさんが呆れてるのを尻目に顔をペタペタと触る。

 確かに彼処の女子校生達とは会話もした事無いしなぁ。好かれる理由としてはやっぱり顔面か?顔面が良いのか?自分じゃ容姿の善し悪しなんて分からんしなぁ……ただ二人がそういうなら俺って実はかなりイケメンなのでは……あ、そう思うとなんか自信ついてきた。

 つまり客観的には、今の自分は喫茶リコリコに定期的に訪れる、名前も知らない美少年という事……?

 mysterious boy(ミステリアスボーイ)。そんな魅力があったか俺。

 

「二人ともありがとうございます。なんか自信つきました」

「相変わらずわけ分かんない思考回路してるわね」

 

 ミズキさんが呆れたような溜め息を吐く。同時に、カウンター向こうでは、カチャカチャと食器が重なる音が聞こえた。そろそろ目的の羊羹がお出ましかもしれない。

 用意してくれていたミカさんと目が合うと、フッと小さく目を細めて笑う。

 

「今日こそボードゲーム参加していくか?」

「いえ、羊羹食べたら失礼します。またの機会に」

「うーむ、毎度フラれてしまうな……何か急用かい?」

「急って事は……ただ、ちょっとバイトを探そうかと思いまして」

「そうか。それならもう少しゆっくりしてきなさい。そろそろ千束が来る頃だ」

 

 ────千束。

 その名を耳にした瞬間、俺は慌てたように口を開いた。同時に本を閉じリュックにしまい込み、すぐ帰れるよう準備して、羊羹を今か今かと待ち構える。

 

「あ、いえ。錦木が来る前には退散────」

「グッモニーン!!千束が来ましたーーーー!!」

「……したかったんですが」

 

 来てしまった。最近やたらと俺に構ってくる超絶美少女の甲高い声が鼓膜を通過する。

 鈴の音と共に扉を開く音、振り返って最初に目に留まるのは黄色がかった白髪のボブカット。そして左の赤いリボン。赤みがかった制服に身を包み、太陽にも似た笑顔を振り撒いて登場する彼女。

 

 ────錦木千束(にしきぎちさと)。この店のスタッフであり、俺と同い歳の17歳。誕生日は9月23日で血液型はAB型。聞いても無いのに教えてくるからいらん事まで知っている。話すようになったのは少し前なのだが、最近何故かやたらと構い倒してくるのだ。

 

「カナちゃんおはよー!あ、後藤さん久しぶりー!」

 

 店内にいる常連客に挨拶しつつ此方に向かってくる。年齢も様々だ。セーラー服の中学生、そろそろ年金支給が見えてきているご高齢まで多種多様。しかし、その誰にも同じように錦木は軽く、明るく、大音声で挨拶していく。

 相手がどんな人で、何歳であろうと、錦木にとってはみんな最高のお客さん達なのだ。

 その在り方はとても素晴らしい───あ、やべ、目が合った。

 

「お?っ、ああああ!?朔月くん!いらっしゃーい!」

「……さて、と。ミカさん、お会計お願いします」

「まだ羊羹出してないが」

 

 はよ出してくれ。立ち上がった俺のその両肩を背後から錦木が抑え、再び座らせてくる。ちょ、近い近い。

 

「ちょーちょいちょいちょおい!今来たばっかでしょ?もちっとゆっくりしてきなってー!」

「あーすみません錦木さん。実は友人と約束がありまして。それまでの時間潰しだったんですよ」

「アンタさっきバイト探しって言ってたじゃない」

「何故予定を知ってる者の前ですぐバレる嘘を……」

 

 ミズキさんとミカさんが即行でバラした。クソ恥ずかしいなやめてよ。てか羊羹早くして。錦木は早く裏に行け近いからマジで。

 

「てかさー、いい加減にその『錦木さん』ってやめてってばー。ほらぁ、ゆってみー?ち・さ・と♡」

「ミカさん、ご馳走様でした。また来ますね」

「ほら、羊羹だ。食べてからにしなさい」

「いただきます」

「無視すんなこらぁ!」

 

 錦木を無視してやっと来た練り羊羹の乗った小皿を即行で受け取り、テーブルにそっと置く。木製の菓子用ナイフで1口サイズに切り分け、口元に持っていく。

 ……ああ、餡子メッチャ美味い。此処の和菓子はホントに美味しい。何故か珈琲とのペアリングも合う。そんな中でも錦木は此方の肩を揺らしてくる。ちょ、ちょおい触んな触んな心臓に悪い。

 

「私即行着替えてくるから!まだそこに居てよねー!」

「ミカさんすみません、今小銭の持ち合わせが無くて……一万円でも大丈夫ですか?」

「ま、待ってって!すぐ着替えてくるからぁ!」

「……はぁ」

 

 バタバタと慌てて店奥に駆けていく錦木の背中を見送って溜め息を吐く。再び羊羹を口元に運んでいると、クスクスとミズキさんがニヤけていた。

 

「大分千束に気に入られてるわね」

「困ります。女の子に耐性無いんで……心臓に悪い」

「迷惑か?」

「っ……いえ、構ってもらえてるのは嬉しいですよ」

 

 ただ───メッチャドキドキするんです。女耐性無いんだからマジで。勘違いしそうになるし情けない部分見られないようにと、頑張ってスルーするので精一杯なんです。

 こんな可愛い子が構ってくれるのだ、嬉しくないわけがない。ただ、特に理由も無く構い倒して来られるとうっかりコロっていっちゃうからマジでやめて欲しい好きになっちゃう。

 

「朔月くんお待たせぃっ!」

「……いや早いな」

 

 赤い和服に身を包む看板娘。心做しか呼吸が荒く、息切れしてるようにも見える。

 いつも余裕の錦木らしからぬその様子を見て、また心臓が跳ねる。自分の為に急いで着替えてきたのかと思うと、何ともいえぬ感情が押し寄せてくる。いや落ち着け、余裕のある男を演じろ。

 

「ね、ね、今日はボードゲーム大会やってく?」

「や、帰るってば。バイト探す準備しなきゃ。あと近い」

「あー、さっき言ってたね。え、何で急に?」

「……えーと、普通にお小遣い稼ぎ、だけど」

 

 ふーん、と此方をジッと見つめる錦木。……ちょ、そんな見ないで照れる。彼女から顔を逸らし最後の一口を頬張る。含んだ状態で珈琲を飲み、甘みと苦みの調和を感じれば、自然と頬が緩んだ。思いの外、この店の味にハマってしまっている。

 

「っ……」

「……え、何。そんな見ないで」

「え、あ、やー……美味しそうに飲むなぁと思って」

「実際美味かった。ミカさん、ご馳走様でした」

「はいよ。いつもありがとさん」

「ええー、もう帰っちゃうのかよー!」

 

 錦木の野次を無視してレジでお会計を済ませて入口の扉へと向かう。常連のお客さんに会釈をすれば、手を振ってくれたり、同様にお辞儀をしてくれたりと、ここのお客さんは本当にアットホームである。

 最初こそ洒落た隠れ家的な喫茶店だと思ってたのに、入ってみれば気さくで賑やかで……良い意味でも裏切られた。

 扉を開けて外へ出たタイミングで肩をつつかれて振り返ると、そこには錦木が立っていた。追いかけてきたのか。相変わらず可愛い顔である。くそ、見つめんなこっちを。

 

「ねね、次いつ来るの?」

「……時間が空いたら、また」

「明日?明後日?」

「や、分からんけど……んー、明明後日かな」

「何時頃?」

「なんじ……正確な時間までは……何か用事?」

 

 めちゃくちゃ聞いてくるやん……え、なんか用事か?

 錦木の頼み事なんてきっとろくなもんじゃない。いつも自己中というか「やりたい事最優先」の彼女だ、今日みたいにシフト前に喫茶店に来てるだけでも珍しいくらいだ。そんな破天荒な彼女のお願いなんて、そもそも俺が叶えてあげられるかどうか────

 

「んーん、なんにも。ただ、待ってるよーって言いたかっただけ」

「……そっか」

 

 だからやめろってガチで。

 まずい叫び出しそう。この女俺を殺しにきてる。

 どうにか表情が変わるのを抑えて軽く微笑む。錦木は嬉しそうにブンブンと手を振って見送ってくれる。

 その可愛らしい仕草を横目に、最近SNSでリコリコの看板娘が可愛いって口コミがあったのを思い出す。なるほど、確かに可愛いな。これをどのお客さんにもやってるんならそりゃモテるわ。

 

「凄いよなぁ……」

 

 お客さんファーストというか、他人の為に頑張れる錦木を素直に尊敬する。自分も誰かの為になれたらと思って生きているけれど、彼女みたいな地域の人に愛される程に献身的になれているかと言われればそんな事はないと言える。

 自分に無いものを持っている彼女は憧れであり、尊敬の対象でもある。

 

「バイト探し頑張るかぁ……」

 

 あの喫茶店に行くのはきっと────そんな彼女が見たいからでもあり、見たくないからでもある。

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 カラン、と鈴の音が鳴り扉が開く。

 ミカが振り返ってみれば、朔月を見送り終えた千束が立っていた。来客かと思った常連のお客さんもこぞって千束に一度視線を集め、そして二度見する。

 

「っ……ふぅ」

 

 ────千束の顔が、心做しか赤い。

 火照っているのか、右手を顔の前まで持っていきパタパタと団扇のようにしてその熱を冷まし始める。

 

「……ね、ねぇ、先生」

「ん?どうした千束」

「私、ヘンじゃなかったかな……?いつも通りできてた……?」

 

 困惑、焦燥、羞恥。綯い交ぜになったような、そんな笑み。千束にしては珍しい、何とも言えないその表情にミカは目を見開いた。

 その表情を作ったのが、他ならぬ先程の来客だと思うと更に。千束と過ごして十年近くだが、こんな彼女の状態をミカは最近まで見た事が無かった。

 

「ああ、いつも通りだったぞ」

「だ、だよね。やー、良かったぁ……」

 

 分かりやすく安堵の息を吐く千束。

 その様子を、玩具を見付けたかのようなニヤケ顔で見るミズキは、もう揶揄わずにはいられなかったようで。

 

「まっさか、アンタみたいなお子ちゃまが恋愛なんてね〜?」

「っ……!?」

 

 瞬間、千束の顔が一瞬でブワッと赤くなった。態とらしく大声で張り上げたミズキの声は、勿論常連客にも聞こえてしまい────

 

「えー!千束ちゃん、さっきの男の子のこと好きなのー!?」

「良いねぇ、青春だねぇ!」

「千束ちゃん、そーゆー浮いた話なかったものねぇ!」

「なっ、えっ、ちょっ、ちがっ……!」

 

 畳み掛けるような常連客のハイテンション振りに千束も訂正する暇もなく。しかしそれはそうだ。今まで千束の口から恋愛や好きな人の話など聞いた事がない。勿論、憧れは少なからずあったのだろうが。

 ミズキの揶揄いは続き、終いには千束がその感情に自覚を持ち出した際のモノマネまでし始めた。

 

「自覚してからは凄かったものねぇ?『先生、あの人の名前なんて言うのか知ってる?歳は?誕生日は?お願い!私の代わりに聞いてきて〜?(泣)』って」

「ちょっ、ちょおいもう喋んなあああああああ!?」

「千束ちゃん、恋愛は意外に奥手なのね……!」

「やだ、やっぱりこの店ネタの宝庫だわ……!」

 

 そんなお客さんの冷やかし振りにミカは苦笑いするしかない。

 ただ、千束にとってそう思える人ができたというのは、彼女の残り少ない時間の中で良い事なのか悪い事なのか、ミカにはよく分からない。

 けれど────

 

 

「そんなアンタに朗報で〜す」

「?」

「朔月くん、彼女いないって〜」

「っ……へー、ふーん……そう、なんだぁ……ひひっ」

 

 

 ────彼を想って、あんな風に笑える彼女を。ミカはただ嬉しく感じたのだった。

 

 

「あー今嬉しいって思った!やっぱ好きなんじゃない!」

「っ、あ、いや!違うから!そんなんじゃないからぁ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぶえっくしょい!!……風邪かな」

 








続くかどうかは感想と評価とモチベ次第です。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.2 Life is brief. Fall in love, maidens.









最近、百合の良さに目覚めた作者。
百合に挟まる奴は死ぬべきという格言があるからこそ逆張りを書く作者。
ちさたき派ではあるけれど、アニメが完成されてるからこういうのもいいと思うの。
見切り発車なんで書き直しもあるかも。



 

 

 

 

 

 

 

 

「……面接までまだ時間あるな」

 

 錦糸町付近のファミレスの面接までまだかなりの余裕がある。

 カジュアルな私服にショルダーバッグという今どきの着こなしを完全に身に付けた俺(ビッグマウス)は、いつも通り時間潰しの名目で喫茶店リコリコへとその足を運んでいた。いつもならバイクだったり電車だったりなのだが、今日は割と天気も良く時間もあったので、歩きを選択。

 

 錦糸町の街並みが割と好きなのもある。住宅街を歩きながら、ひっそりと佇むあの喫茶店の外観眺めながら向かうのも意外に乙なもので、なんだかんだ好きだったりする。

 ただ今日は休日というのもあって、きっと朝から忙しいだろう。珈琲を一杯楽しんだら早々に退散しよう。そう思って扉を開けると。

 

「うわ……」

 

 扉を開けた瞬間に賑やかな声の束が耳に響く。覗くように入ってみれば、ほぼ全席が埋まっているという驚きの混み具合。予想以上で、今まで俺が来た中でも一番の賑わいではなかろうか。

 やっぱり愛されてるなぁ……リコリコ。なんか嬉しい。や、新参者の癖に常連振った言い方は良くないな。けど忙しそうだし、珈琲はまたの機会にしようかな……残念。

 そう思って踵を返して出て行こうとすると、

 

「いらっしゃい、朔月くん」

「っ……え、あ、ミカさん……こんにちは」

「よく来たな。いつもの席は空いてるぞ」

「あ……はい、お邪魔します」

 

 ミカさんに見つかってしまい、断れるはずも無くカウンターへ。視界端ではミズキさんが接客と会計の往復でひいこら言っているのが見える。

 席に座ると、ミカさんと目が合う。注文を聞く姿勢になってる事に気付き、俺は堪らず口を開いた。

 

「いつもので大丈夫かな?」

「はい……忙しい時にすみません」

「一々気にしなくて良い。……優しいな君は」

「いえ、そんな事は……それにしても凄いですね」

 

 再び辺りを見渡して、お客さん一人一人の顔を眺める。皆笑顔で、お客さん同士での談笑も見て取れる。見た事ないお客さんも多い。

 恐らく休日でもあるからだろう。デートするにも勉強会するにも仕事するにもこの店の雰囲気と居心地は良い。ここの地域の人達は分かってる(何様)。

 

(……あれ?)

 

 ふと、お客さんを捌いている店員がミズキさん一人である事に気付く。汗を流して呼吸を荒らげてるのはミズキさんのみで、いつも自分に構ってくる錦木の姿が見えない。バイトの経験が無い俺には勝手が分からないけど、休日は混み具合も考えて人数増やしたりって事は別に無いのかな。

 ……もしかして、錦木に何かあったのだろうか。思わずミカさんに視線を戻す。

 

「……あの、今二人だけでお店回してるんですか?錦木は?」

「あの娘は買い出しだ。予想以上に混んだからな」

 

 ……なんだ、よかった。

 思ったより真っ当な理由で安心した。なんならちょっと心配しかけた。なるほど、それによって現状ミズキさん死にかけてるって事ね。

 

「……キツそうですね」

「なに、いつもの事だ」

「いつもの事なのか……」

 

 人気過ぎて辛いって言ってるナルシストの気持ちが分かる気がする。

 ミカさん笑ってるけど、これ意外と余裕無いんじゃ……。と思ってる内にまた鈴の音が鳴り響き、振り返ってみれば新たなお客さんだった。来店を理解したミズキさんは絶望に近い顔をしていて……何その顔面白い。

 

 ……いや笑い事じゃないな。ミズキさんがあの様子じゃとても捌き切れないだろう。ミカさんはカウンター向こうからは離れられないだろうし、錦木はまだ来ない……面接までまだなんとか時間はある。

 余計なお世話ならそれでも構わないけれど……と俺は立ち上がってミカさんを呼ぶ。

 

「……あの、俺で良ければ手伝いましょうか」

「な……い、いいや、それはいくら何でも……」

「レジ打ちと注文聞くくらいならできるので」

「う、うちとしては有難いが……良いのか?」

「……ミカさんとミズキさんさえ、お邪魔じゃなければ」

 

 言い切れず顔色を伺ってしまう辺り、臆病だなと自分でも思う。そう言ってチラリとミズキさんを見ると、神を見たかの如くその表情を明るくして此方を見て……うわ27歳ガチ泣きしてる。

 

「もう誰でもいいから助けて……」

 

 相当キツかったのだろう事が顔から読み取れてしまい、少しだけ可笑しくて笑ってしまう。再びミカさんに視線を戻せば、申し訳無さそうではあるが頷いてくれた。

 

「指定の服はありますか?」

「店の奥だ、好きなのを使ってくれ。……助かるよ」

「いえ、こちらこそよろしくご指導ご鞭撻の程」

「いや固いな……」

 

 いつも錦木が向かう先へとその足を踏み込む。初めて入るが、着替えの場所が何処かも大体の検討がつく。店の裏は更に純和風で、やっぱり日本のワビサビが好きだと思いましたまる。

 ロッカールームの一室、そのうちのロッカーの一つを開く。その真下に、黒い浴衣染みた和服が一着。取り出して、ミカさんの帯の締め方を見様見真似で行い、法被?みたいなのを上から羽織る。

 鏡を見て格好を再確認し、これで良いのかと思案しつつミカさんの元へ。

 

「着替えました」

「ああ……フッ、似合ってるじゃないか」

「え……あ、ありがとうございます。自分では良く分かんないですけど」

 

 似合ってる……似合ってるか俺。そうかそうか……なんか自信付いてきたな。そういえばミズキさんが俺の顔面の偏差値が高いと言ってくれていた。俺もSNSでイケメンの男性店員がいると呟かれてしまうかもしれない。自惚れかな。

 俺の活躍で少しはリコリコの集客が見込めるだろうか。そう思うと今後のバイトにも自信が付いてくる。

 すると、畳に座るお客さん───女子校生二人が手を挙げているのに気付く。注文が決まったのだろう、早速お仕事だ。

 

「注文取ってきます」

「ああ、頼む」

 

 割と駆け足で座敷まで向かう。初めての接客だからかだろうか、緊張で若干鼓動が早くなった気がする。靴を脱いで畳を踏み締めると、俺の接近に近付いた女子校生二人が、目を丸くして此方を見上げた。

 

「お待たせしました。ご注文伺います」

「「……」」

 

 ……な、なんかすげぇ見られてる。え、なんか顔に付いてるかな。それとも何か対応が違う……?

 女子校生二人の顔が心做しか赤い。俺を見て呆然としてるというか……えと、ご注文は?

 

「……あの?」

「っ……あ、えっと、えと……あ、この新作パフェ二つ!」

「わ、私も!」

「えっ!?」

「かしこまりました。合わせて四つですね?」

「えっ、あ、ああ違っ……」

 

 口元を咄嗟に片手で覆い隠した。

 あまりにテンプレ過ぎる慌て具合が微笑ましくて、思わずクスリと笑ってしまう。恥ずかしそうに俯く二人を前に、頼まれた新作パフェの名前をメモに取る。

 

「冗談ですよ。新作二つですね。ドリンクは?」

「……珈琲を、二つ」

「かしこまりました。砂糖とミルクはお好みでどうぞ」

「……あ、あのっ!」

「……はい?」

 

 張りの良い声で呼び止められ、思わず振り返る。変わらず赤い頬のまま、学生の一人が此方を見上げて口を開いた。

 

「此処で、バイトしてるんですか……?」

「ああいや、今日は臨時ですよ。錦木……いつもの女の子が買い出しに行ってるんで、その代理です」

「あ……そうなんですね……」

「それじゃあ、ごゆっくりどうぞ」

 

 会釈を返せば、二人ともお辞儀で返してくれる。注文に間違いが無いか再度確認しながら、カウンターまで戻ると、ミズキさんが目を細めて此方を見ている。何か言いたげなので何となく目線を合わせば、ミズキさんが態とらしく溜め息を吐き出した。

 

「腹立つ程女の子ウケ良いわね……」

「初めての男性店員で驚いてただけですよ。あとミズキさんの言ってた顔面、偏差値……?が高いからじゃないですかね」

「他人事みたいでムカつくわねホント」

「や、ホントに自分じゃ分からなくて……あ、ミカさん新作パフェ二つ入りました」

「はいよ」

 

 それを皮切りにお客さんの出入りが激しい時間帯に突入したが、俺とミズキさんで殆どの人の注文と会計を捌き切らなければならないのだからきりきり舞いだ。

 どれだけ力になれてるかは分からないけれど、俺一人増えた事で少しは楽になった……とミカさんとミズキさんが感じてくれてると良いな。

 

「……っ、やべ」

 

 ふと、時計を見て気付いてしまった。

 あれだけ事前準備したバイトの面接の時間が、間も無く過ぎようとしている。

 どこかのタイミングでミカさんかミズキさんに面接の予定を伝えようと思ってはいたのだが、これだけ忙しい中一度引き受けた仕事を放って面接に向かう事は憚られた。

 そのうえ錦木はまだ来てない。恐らくだが相当買い込んでるな。なんなら自分のお菓子とかも経費で買ってそう。偏見かな。

 

(……仕方無い。ファミレスの店長には謝ろう……)

 

 なら、俺の選択肢は迷う事無く一つだった。

 再びメモを持って座敷へと向かう。今度は大学生くらいのカップルが此方に向けて手を挙げていた。

 

「俺、あのテーブルの注文聞いてきますね」

「ああ、頼む」

 

 着慣れない和服でヨタヨタ歩きながら、座敷へ向かってまた注文を伺う。大好きな喫茶店の危機より優先されるものは無かった。

 生まれて初めての面接にはもう間に合わないけれど。今まさに、生まれて初めてアルバイトの雰囲気を味わえているこの状況も、意外に悪くない。

 初めての接客。初めての会計。初めての挨拶。

 

「────……」

 

 ふと、辺りを見渡す。

 お客さんと談笑し、共に笑い合い、常に温かさが消えない空間。他の喫茶店では、きっとこうはいかない。

 この喫茶店だからこそ、リコリコだからこそ感じられるもの。

 

 けど、これが完全じゃないのだ。

 この喫茶店は、ただ明るいだけじゃない。今のリコリコには、足りないものがある。そんなの言わずがもがな、現在進行形で遅刻してる彼女の存在。

 その明るさの中心、笑顔を振り撒き、他人に寄り添い、この喫茶店の温かさを作り上げてくれている人物。

 

 この店には、リコリコには錦木がいないと────

 

「……っ」

 

 チリン、と鈴の音が耳に心地好い。

 思わず振り返れば扉の開閉、その扉の前に両膝に手を付き息を切らす彼女の姿。誰もが勢い良く開かれた扉の先に立つ少女に視線を向けた。

 ────彼女は、俯き肩を上下させていた今を振り切って、上体を起こして片手を挙げた。

 

 

「皆さんお待ちかね!千束が来ましたーーーーー!!」

 

 

 いつもの挨拶。あれルーティンなのかな。いや、本当に待ったわマジで。

 ああ、錦木千束がこの店に来たのだと、知らせるには充分な声量と明るさ。

 

「……やっと来たなこの野郎」

 

 完璧に遅刻なのにも関わらず、悪びれもせず満面の笑みで入ってくる錦木の顔を見て、俺はただただ安心したように笑った。

 

 

 材料を詰めた大きめのビニール袋二つを持ち上げながら、いつも通り周りに手を振って挨拶。錦木は人気なのだろう、みんなが彼女の名前を呼ぶ。その度に気さくな笑顔で応える彼女にドキリとしつつ眺めていると、

 

「せんせー!ミズキ!ごめんね、お待た────」

「……ども」

 

 ────目が、合った。取り敢えずお辞儀する。

 しかしその瞬間、錦木が俺を見て石の如く固まった。微動だにせず、此方を見つめたまま数秒見つめ合うだけの時間が過ぎる。

 

「……」

「……えと」

「……」

「……あの」

 

 だからやめろって。

 そんな見つめんなってこちとら初心だぞコラ。何をそんなに見るとこあんの……って錦木、なんか顔赤くない?

 

「……俺の顔に何か付いてる?」

 

 耐え切れず此方から錦木に声を掛けるも、錦木は固まったまま動かない。どうやら俺の顔、というより俺の着てる和服を見て固まってるっぽい。

 ……あ、もしかして似合ってない?ミカさんは褒めてくれたけどお世辞の可能性ががががが。

 とか考えているとミズキさんが千束の肩に腕を回して、俺を見ながら千束に呟く。

 

「カッコイイって思ったっしょ〜?」

「なっ!?うえぇっ……!?」

 

 ……あ、再起動した。

 

「ええ、な、なんでっ、ウチの店の制服着てんの!?」

「ああ、ゴメン勝手に着ちゃって。もしかして錦木のだった?」

「えっ、あっ、やーそれは別に全然……え、待って、なん……え、え?」

 

 此方から目を逸らし両手で口元を抑えて、ミズキさんと此方を交互に見やり、チラチラと俺の着る和服を見てあたふたを繰り返している。

 こんなに慌ててる錦木を初めて見るかもしれない。心做しか顔も赤い。もしかして体調がよろしくない……?いやでもさっきまでみんなに明るく挨拶してたよな……。

 

 すると一つの考えに至ったのか、錦木が今一度振り返った。今度こそしっかり目が合ったかと思えば、錦木の表情が急に明るくなり始める。

 

「も、もしかして、この店で働くの……!?」

「……いや、働かないけど」

 

 ……なんかちょっと嬉しそうなのやめてよ。喜んでくれてるのかと思っちゃうって。え、逆に申し訳ないわ、何故か知らないが期待させてしまったみたいで。そんな喜ばれる事案だと思ってなくて……。

 錦木が喜ぶくらい人手不足なのか此処。けどそうだよな、この混み具合でスタッフ三人は流石に厳しいよな。

 ……此処ってバイト募集してんのかな。

 

「千束がいない間にかなり込み合ってな。臨時で入って貰ったんだ」

「あ……そうなんだ……」

「あ、今ガッカリしたわよねぇ?」

「ち、ちぃーがぁーいーまぁーすぅー!……ちょっともう好い加減やめてよミズキィ……!

 

 ミカさんの言葉に納得したのか、揶揄うミズキさんを押さえ付けながら、錦木は改めて俺の格好を上から下まで眺める。ジロジロ見んなって、やめろよ。馬子にも衣装と言いたいのか。

 

「今んとこ注文取るか会計しかできないけど」

「ううん、手伝わせてごめんね。助かっちゃった。大変だったでしょ?」

「貴重な体験だったし、楽しかったよ俺は」

「っ……そっか……ふひひっ」

 

 ────普段の錦木と同じ目線に立てた気がして。

 なんて、恥ずかしくて言えないけれど。誰かの為に生きている君と、同じ景色を見れた気がしただなんて。

 

「すみませーん、注文良いですかー?」

「あ、はーいただいまー!」

「あ、俺行くよ」

「いーよ、アタシが行くから。朔月くんは千束の荷物持ってあげて」

 

 ミズキさんはそう言って手を軽く振ると、お客さんの注文を取りに席に向かう。俺は言われた通りに錦木が引っ提げているビニール袋の一つに手を伸ばした。

 

「片方持つよ」

「あ、ごめんねー、ありがと」

 

 錦木がビニール袋を、俺が受け取りやすいようにと持ち上げる。見れば和菓子やパフェに必要な材料がパンパンに詰められていて、案の定経費で買ったろう錦木のお菓子の山が。

 ジトッと錦木を見つめてやれば、態とらしい口笛を吹き鳴らしながらあさっての方向を向いていた。……ったく。

 溜め息を吐きながらビニール袋を受け取る───その瞬間、錦木の指先と俺の指が触れ合った。

 

「っ……」

「あ、悪い」

「う、ううん、別に?」

 

 声裏返ってますけど。そんな彼女の様子が可笑しくてクスリと笑った。

「な、なんだよぅ〜」と口を窄めて軽く俺の肩を小突く錦木に、何でもないよと笑って流す。そうして二人で一つずつビニール袋を店奥へ運び、所定の位置に同時に下ろしたタイミングで、今度は会計を急かすお客さんの声が。

 

「ああ、俺行くよ」

「よろしくー!……あっ、朔月くん!」

「っ……どうした?」

 

 思いの外大きな声に驚いて、思わず振り返る。

 すると、錦木は本当に嬉しそうで、楽しそうな表情で此方を見つめて────

 

「和服、超カッコイイぜ!」

 

 ……コイツってホントマジで。

 もう何度目だろうか、彼女に翻弄されそうになるのは。こういう一直線に感情を伝えられるのも、彼女の美徳だとは思うのだが……時と場所と人を選べマジで。いやマジで。

 

「────……あ、りがとうございます」

「なんで敬語(笑)」

「っ、もう行くからな」

「うん、いってらっさーい!」

 

 逃げるようにその場を後にしようとして、ふと振り返る。錦木はキョトンと首を傾げながら、突然止まった俺を見つめている。

 ……彼女は俺がキョドってるのを見て、してやったりとか思ってたりするのだろうか。これじゃ錦木に揶揄われて俺が逃げ出してるみたいでなんか癪だなと、そう思ってしまう。

 何か意趣返しをしてやろうか……よし。

 

「……錦木もその和服似合ってるよ。実は結構好き」

 

「あ、やっぱりー?私ってなーんでも似合っちゃうんだなぁー!」

 

 ……ダメか。俺が恥かいただけだったわ。

 なんだよもう、慣れない事なんてするもんじゃない。今度こそ逃げるようにそこを後にして、レジへと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「千束、そろそろ前に……何してるんだ?」

 

「っ〜〜〜〜〜!!」

 

 その後、真っ赤な顔を両手で隠して(うずくま)り、声にならない声を上げてる千束の姿があったとか。

 

 

 









千束 「ええええ!?今日バイトの面接だったの!?」

ミズキ「なんでもっと早く言わないのよ……」

朔月「や、忙しかったし……なんか、楽しかったから……」

千束 「……へー、ふーん?」

朔月「な、なんだよ」

千束「んーん、何でもなーいっ」

朔月 「なんだよ、言えよ」

千束 「なんでもないってー♪」

ミズキ 「……何を見せられてんだアタシは」ビキビキ






目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.3 A life lived in love will never be dull.







私が五年かけて書いたSAOの二次創作のお気に入り数をたったの二日三日で超えてしまっている事実に驚愕を禁じ得ない。日間一位だって取ったことなかったのに……。
嬉しいんだけど、なんだろう……この虚しさと切なさは……。




 

 

 

 

 

 

「────ウチで、働いてみないか?」

 

 行きつけの喫茶店「リコリコ」にて。

 いつものカウンター席で珈琲を飲んで苦い顔をしていると、ふとミカさんにそう告げられた。あまりに突拍子が無くて、俺は口をポカンと開けて数秒ミカさんを見つめ続けていたと思う。

 

「え……と?」

 

 俺が言葉の意図を図りかねて固まっていると、フッと柔らかな笑みを向けながらミカさんが続けてくれた。

 

「この前バイトの面接を切ってうちの手伝いをしてくれただろ。ずっと悪い事をしたと思っていてね」

「い、いえ、そんな勿体無いお言葉を。伝えてなかった俺が悪いですし、勝手に出しゃばっただけなんで、これしきの事でご厄介になるわけには……」

「毎度言い方が固いな……」

 

 武家の末裔なんで。いやそうじゃなくて。

 大好きな喫茶店の手助けになれればと思って手伝ったあの日の働き振りを店の人に認めてもらえたのは凄く光栄な事だし、申し出自体はとても有り難いものではある。

 ただ、あの手伝いは俺が好きでやった事だし、それで面接が駄目になったのは自分自身の責任だ。それに対して負い目を感じての提案なのだとしたら、流石にそこまで面倒を見てもらう訳にはいかない。

 

「確かに申し訳無かったとは思っているが、理由はそれではないんだ」

「……えっと?」

「あー、いや……うーむ。何と言えばいいかな」

 

 スタッフの人数が足りないとかかな。

 理由の言語化が難しいようで、腕を組んで考え込むミカさん。こんなミカさん見た事無いな。口を開けては閉じてを繰り返していて、なんか……言う事はあるんだけどそれを伝えるのを躊躇してる、みたいな印象を受ける。

 

「……千束が、な」

「錦木?……が、どうかしたんですか」

 

 突如予想外な名前が飛んできて思わず聞き返す。何故錦木がここで出てくるのか。まさか怪我か風邪?それで一時的に働けなくてスタッフの人数が不足してるとか?

 要領を得ない問答に痺れを切らしたのか、やがて隣りからミズキさんが横槍を入れてきた。

 

「要するに、千束のお願いを叶えてあげたいのよ」

「っ……おい、ミズキ」

「お願い……?」

 

 俺の視線はミズキさんへ。

 それを確認した彼女は、小さく溜め息を吐き出して口を開く。

 

「つまりね、バイトの面接ダメにしたお詫びとかそういうんじゃなくて、単純にあの娘がアンタと一緒に働きたがってるって事よ」

「……」

 

 聞いてしまったそれは、切り返しに困る理由だった。

 驚きで一瞬喉が詰まる。ミカさんを見上げれば、言ってしまったと言わんばかりに頭を抱えていた。故にその言動は信憑性を帯びてきて、事実であると、この場である程度の裏付けが取れてしまっていた。

 だから思わず、ミズキさんに聞いてしまう。

 

「……それ、錦木がそう言ってたんですか?」

「いや言ってはないけど」

「……」

 

 いや言ってないじゃん。ビックリしたわ。

 え、信じそうになったわ。次会った時彼女の顔見れんくなるところだったわマジで。え、なんでそんな呼吸するように嘘吐けるの鳥肌立ったんだけど。ヤバッ、ミズキさんヤバッ、そんなだから(規制)。

 ワケ分からず震えていると、ミズキさんが「分かってないわねぇ〜」と頭を掻きながら此方をジトッと見つめて告げる。

 

「あの娘、最近頻繁に買い出し行きたがるでしょう?」

「……ああ、確かに。店が手隙の時とかも行こうとしてましたね」

 

 実際今もそれほど混んでるわけではないうえに、スイーツ用の材料にも余裕があるらしい。にも関わらず、錦木は現在例によって買い出しに出ていた。

 何故だろうとは思っていたけれど、その答えをミズキさんが教えてくれた。

 

「その間にお店が混めば、またアンタが店を手伝ってくれると思ってんのよ」

「────……それ、は、ええと。反応に困りますね」

「フッ……だろうな」

 

 普通に反応に困る事実が判明して、思わず目を逸らす。今の話だって憶測の域を出るものでは決してないけれど、狼狽えるには十分な火力があったような気がする。次会った時にまともに錦木の顔見れるかな……。

 

「……彼女なら、自分から言ってきそうですけどね」

「アタシもそう思う。あの娘自覚してないんじゃない?」

 

 てか、そういう話って本人がいない所で俺が聞いて良かったやつ?

 しかし、ミカさんもミズキさんも、錦木に対して若干甘いというかなんというか……一スタッフのお願いを察して、彼女のいない所で俺にそんな事を頼んでくるというのは、なんというか(2回目)。

 

「お二人とも、錦木に優しいですよね」

「……娘、みたいなものだからな」

「だから遅刻にも寛容なんですね」

「……そう見えるか?」

「ええ、まあ」

「アタシは毎回頭にキてんだけどねっ!」

 

 確かにミズキさんは毎回キレてるな……と思い出して少し吹き出す。

 そして、この喫茶店のアットホームな雰囲気の背景にあるものに触れた気がして、納得がいった気がする。この喫茶店リコリコが、きっと錦木やミカさん達にとっても家族に近い関係の形。今そこから手を伸ばしてくれているという事実。

 

「それで、その……どうだろう。人手が増えるというのは、此方としても助かるんだが……」

 

 気を遣ったように伝えてくれる、優しい声色。

 今、俺なんかが踏み入って良いのだろうかと躊躇はするけれど、それでも居てくれると助かるとか、一緒に働きたいと思ってくれる人がいるというのは。

 

 ────必要だと言ってくれるのは、初めての経験だったから、答えは一つだった。

 

「……分かりました。ご迷惑でなければ、不束者ですがよろしくお願い致します」

「いや固いのよ」

 

 席から立ち上がって、深くお辞儀をする俺の背を手刀で突っ込むミズキさん。苦笑しながら顔を上げれば、ミカさんが俺の肩に手を置いて微笑んでくれた。

 

「こちらこそ、よろしく頼むよ」

「っ……ありがとう、ございます」

 

 ────そう言って手渡された黒の和服は、なんだかとてもあたたかく感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

 

「貴方、名前は?」

「さ、朔月です」

「歳は?」

「じ、十七歳です」

「へ〜!じゃあ千束ちゃんと同い歳だ!」

「え、ええ、そうですね……」

「ねぇねぇ、顔が良いって言われない?」

「えと、最近言われます」

「強ぇ……」

 

「………あの、ご注文は……?」

 

 お客さんに呼ばれたので注文かと思い座敷に向かうと、そこの常連さん方にまんまと捕まってしまったの図。

 流れるように座布団に座らされ、おじ様やお姉様方、お子さん連れのママさんまでもが俺に興味を持ったのか根掘り葉掘り聞いてくる。

 

「……え、そうなの!?」

「この子が千束ちゃんの……!」

「ひゃ〜甘酸っぱ〜い……!」

「あの……?」

 

 な、なんだか女性陣に滅茶苦茶見られてる。なんかウットリされてる。え、錦木が何?

 いたたまれなくて萎縮してると、向かいに座る伊藤?さんが再び怖い形相で此方を見据えて、

 

「千束と出会ったのはいつ?何処で?」

「え……普通にこの店で……」

「ふむ……面白味に欠けるわね……」

「伊藤さんネタに詰まってるからって聞き過ぎですよ」

「ちょっと待って!もう少しだけ!ねぇ、千束の事どう思ってる?」

 

 ……この人は漫画家なのかな。ネタ帳と漫画のページだと思われるものがテーブルの上と下に散らばっている。

 もしかして、俺をネタに使えると思ってる……?そ、そんな、俺の一言が漫画に反映されるかもしれないと思うと緊張する……漫画受けするようなセリフを言った方が良いのかだろうか?責任重大で困る。

 というか難しい事聞いてくるな……錦木をどう思ってるか、か。

 

「……とも、だちだとは思ってますけど、錦木がどう思ってくれてるのか分からないですし、俺が一方的にそう思ってるだけで向こうは」

「わあ、お兄ちゃんって思ったよりめんどくさいね」

「グサッと来たんだけど。え、今の言葉のナイフは君が放ったのかな?歳いくつ?」

「五つ!」

「将来有望だねぇ、先ずは刃物の使い方を覚えようか」

 

 五歳児の女の子をあやしながら、その様子をジーっと見つめてくる常連さん達。飽く事無く俺を動物園のパンダ並の物珍しさで、観察にも近い視線を突き刺してくる。

 何故こうも興味を抱かれてるのか……やっぱ顔面の偏差値なのかな。

 首を傾げていると、常連の阿部さんがニヤニヤした表情で、

 

「これから千束ちゃんとキミのやり取りをたくさん見る事ができるんだなぁ。いやぁ青春だねぇ、楽しみが増えちゃったなぁ」

「それは、どうも……青春?」

「この子分かってないわね。鈍感系主人公ね」

丼関係(どんかんけい)……?」

「……なんか俗世にまみれてない純粋さを感じる」

「汚しちゃいけないと私のサイドエフェクトが言ってる」

「千束ちゃんも大変だなぁ……」

「???」

 

 ヤベェ、何言ってるかまったく分からん。助けを求めようとカウンターの方を見るが、ミカさんは微笑ましそうに此方を見るだけ。揉まれて来いと目が言っていた。助け無しの模様。

 

「そ、そろそろ戻りますね……」

「あ、待って。最後に誕生日と血液型、アレルギーは?」

「えと……9月9日のAB型Rh-、アレルギーは今のとこありません」

「律儀か」

「病院かな?」

 

 それな。

 因みに血液型に関しては二千人に一人しかいないのが自慢だったりする。だから何って感じで特に話に広がりを持たせてくれる訳でも無いんだけど。

 

「……お」

 

 ────とか思っていると、勢い良く開く扉の音と鈴の音が響いた。振り返るまでもなく、誰が入って来たかが分かってしまうのが、なんだか可笑しかった。

 

「たっだいまー!千束が帰還しまし────うええっ!?」

「や、おかえり」

 

 元気良く扉を開ける錦木の勢いを削ぐように出迎えれば、予想以上に目を丸くして驚いてくれて、ミカさん達と企んだ甲斐があった。既に黒の和服に着替えているので、傍から見れば俺もリコリコの店員だ。

 錦木を驚かせる為だけのムーヴに、予想通り彼女は俺の格好を上から下まで眺めて二、三度瞬きをして漸く理解したのか、段々とその頬を綻ばせていき、

 

「朔月くん!?……え、えっ!もしかしてまたお手伝いしてくれるの……!?」

「……っ」

 

 ────最近、何故こんなに期待されてるのかと、そう思う事がある。

 だって、本当に分からない。何が彼女の好奇心を刺激したのか、自分自身の取り柄や得意な事が何かを全脳細胞が総動員して掻き集めたが、生憎それなりの器用さと凝り性である事くらいしか出てこなかった。

 

 ────それでも。

 両手を組んで此方を見つめ、俺の答えを待っている彼女の視線がただ眩しくて。

 彼女が俺にこの服を着せる為に、そしてもう一度俺と一緒にこの店で働く為だけに、こうして無意識に買い出しの往復をしてるのだと聞いてしまったからだろうか。

 その健気さが可愛く思えてきて、錦木の顔をまともに見れない。いや、自惚れるな。思わず目を逸らす。

 

「……お客さん、増えて来たからな」

「────……!」

 

 ……いやすげぇ嬉しそうな顔するじゃん。そんなに?

 やめろ照れるってマジで。頬染めんな頬、キラキラした目で見んなってガチで(いつもの)。なんでそんな嬉しそうなのホントに。

 こちらが耐え切れず、逃げるように視線を彼女の持つ荷物に向けて、手を伸ばした。

 

「……ほら、荷物持つよ」

「っ〜〜〜!ありがと〜!よーし頑張るぞー!!」

「いつもより元気くね……」

 

 彼女のこの元気の理由が本当にミカさん達が言ってたように、俺がこの服を着て一緒に働く事なのだとしたら、それはとてもむず痒く、言語化できないもどかしさを感じた。

 やりたい事、最優先。我が道を行く、俺の憧れ。他者を愛し、慈しみ、笑顔にできる彼女の在り方が、とても眩しい。そんな彼女に構ってもらえてる今の自分が、身分不相応と自覚がありながらも、どこか誇らしく思えた。

 

「やったじゃん千束ちゃん!」

「うぇっ!?」

「良かったね〜!」

「な、なに言って」

「頑張りなさいよ〜?」

「ちょ、ちょおいみんな、もーやめてよー!」

 

 ……なんかお客さんに揶揄われてるのか錦木が慌ててる。彼女から受け取った荷物を裏へ運ぶ途中で視認する。何故か顔赤いけど……楽しそうだな。

 

(……それにしても)

 

 彼女がそこまで俺と一緒に働きたいと思ってくれているとは……余程俺の以前の仕事振りに感嘆してくれたに違いない。

 だからこそ、彼女がこの喫茶店の戦力として俺を買ってくれているというならば、その期待には答えなければ。

 

 ────ただ、ミズキさんがミカさんに、「けどホントに大丈夫なの?」とか「“裏の仕事”に支障が〜」とか言ってるのを聞いてしまって、それだけが気になってる。

 

 もしかして戦力どころかお荷物扱いされてる?

 “裏”の仕事って店裏でやる仕込みの事だよね?

 料理の下拵えとか得意だよ俺。

 最近覚えたんだよね。

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

「では恒例の……閉店後のボドゲ大会開始しまっす!!」

「「「いえーーーーい!!」」」

 

「……何だこれ」

 

 閉店後にも関わらずお客さんが一卓に集まってボードゲームとカードを囲っている。これ、俺が最近誘われるようになったヤツだよな……。こんな楽しそうな大会だったのか。かなり需要あるんだなあのゲーム……お金とか賭けてるのかな?ヤバイやつじゃないよな……。

 ぬぼーっと眺めていると、ふと錦木がその人の輪の中から顔を上げ、辺りを見渡し始め────あ、目が合った。

 

「あ、朔月くんもやってくでしょ?」

「俺?あー……ルール分かんないけど」

「教える教える!ね、一緒にやろ?」

「……わ、かりました」

「だから、なんで敬語(笑)」

 

 朗らかに笑う彼女を横目でなんとなく流し見しつつ、抱えた食器を運ぶ為に踵を返す。すると「あ、待って」と錦木から声をかけられて、再び振り返る。彼女はわざわざ座敷から降りて、俺と目線を合わせて並び立った。

 

「……え、何?」

「食器運ぶの、手伝うよ」

 

 そう言って微笑む彼女。いつだって笑顔が絶えない錦木を見て、ふと思った。

 今、彼女に。気になっていた事を聞いても良いだろうか。

 

「……あの、さ」

「ん?なあに?」

「俺を手伝わせる為に、頻繁に買い出し行ってたって本当?」

「え……あー、いやー……」

 

 錦木の表情が、一瞬で曇る。誤魔化すように声を漏らして、目線があっちこっちに飛び交う。……なるほど、彼女は嘘が吐けないらしい。

 つまり、ミカさんとミズキさんの言っていた事は事実で、彼女は俺と働きたいが為に、必要の無い買い出しに行っていたという事。それに対して怒りとかは別にないが、ただ純粋に気になっていた。

 彼女の性格なら、「一緒に働かないか」と申し出てくれると思っていたから。けれど、彼女は言葉が見つからないのか、指先を弄んで押し黙っているだけ。

 

「……ゴメン、変な事聞いたわ」

「あ、ううん、こっちこそ……あー、そっか。それでか……ごめん、私の所為で、無理矢理手伝わせちゃったよね」

「バカ言うな。楽しかったよ、俺は」

「っ……そっか、そう、なんだ……ふへへっ」

 

 ────そう言って、本当に嬉しそうに微笑む彼女を見て。

 ああ、なんて愚かな質問をしたんだと思った。錦木を一瞬でも悲しい顔にさせた事に、苛立ちを覚えるくらいに。

 別に彼女が何を考えて、どういう想いが、企みがあったかなんてどうでも良いじゃないか。今日、彼女と同じ時間を過ごせて楽しかった。それだけで、良いじゃないか。

 

「俺こそごめん、変な事聞いて……。錦木が謝る事なんてないよ」

「……でも」

「俺、さ。バイトした事とか、なかったから。今日は凄く楽しかった」

「……っ」

「だから、謝罪とかよりも……もっと、別のものが欲しい」

 

 食器を一度カウンターに置いて、再び錦木に向き直る。すると、彼女も俺の言わんとしてる事を感じ取ってくれたのか、改めて彼女も俺に向き直る。

 そうして、直視できない程に嬉しそうな笑顔で。

 

 

「今日、ありがとう。……私も、一緒に働けて楽しかった」

 

「────……」

 

 

 ……あ、やっぱ無理。この破壊力よ。

 やっぱこっち見ないで。そのあざとい感じちゃんと反省しなさい俺も楽しかったよありがとうございます。

 ただでさえ異性に耐性無いのに、これからほぼ毎日彼女と顔を合わせる事になるのか────ってやべ、そう言えばまだちゃんと錦木に伝えてなかった。

 

「こちらこそ。これからも協力し合っていくんだし、堅苦しいのは無しでいこう」

「うん……うん?ぇ、それっ、て……」

 

 聞き流しかけていた俺の言葉に引っ掛かりを覚えて、錦木が目を見開く。俺はそれを見て、してやったりと言わんばかりに笑って見せた。

 ああ、そうだよ。キミの目論見はまんまと成功した。俺は、この喫茶店じゃないとダメなんだと、キミやみんなと過ごして来た日々の積み重ねに、してやられたんだ。

 

「改めて自己紹介。今日からこの店にバイトとしてお世話になります、朔月(さかつき)(ほまれ)です。よろしくね先輩」

 

「────……!」

 

 ────今日一番の、彼女の笑顔を見た。

 このまま泣くんじゃないかと、そう思えてしまう程に瞳を輝かせてるのを見て、ああ、間違ってなかったんだなと。素直に思った。

 彼女は、飛び上がりそうな程に高揚した気持ちを抑えて、俺が差し出したその右手を両手で掴み取って、満面の笑みで俺に伝える。

 

 

「よろしく!千束でっす!」

 

「……知ってるよ」

 

 







千束「千束で良いって言ってんじゃん〜堅苦しいのは無しなんでしょ〜?」

誉 「錦木だって『朔月くん』じゃん」

千束 「えっ……じゃあ、名前で呼んで良い……?」

誉 「聞くんじゃないよ聞くんじゃ……やっぱダメ」

千束 「なんで!?」

ミズキ 「イチャイチャしてないで片付けしろぉ!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.4 Way to a man’s heart is through his stomach.






最終回良かった。改めてちさたき派だと思いましたまる。
故に逆張りを書く中でせめぎ合う、ちさたきと本作。
恋愛……百合……解釈違い……うっ、頭が。

多くの感想ありがとうございます!多くてビックリです。返せてなくてごめんなさい、けどちゃんと全部見てます。モチベになってます!感謝!

ミズキとミカの視点の後、エピソードが開始します。



 

 

 

 

【ミズキから見た二人】

 

「〜♪」

「お、千束ちゃん今日はいつになくご機嫌だねぇ」

「え〜?そうですかぁ〜?ふひひっ、そんな事無いですよぉもぉ〜!」

 

 嘘つけ、デロデロじゃねぇか。

 お客さんに対してニヤケ顔が収まらない千束を見て、ミズキは目を細めた。接客中だろ真面目に仕事しろ、と舌打ちする。

 喫茶店リコリコは今日もそれなりに人の出入りが多い。常連客ばかりなのでやりやすくはあるのだが、だからこそ千束みたいな気を緩み過ぎる奴が出てくるのだ。彼女が何故あんなにも頬を緩ませながら仕事をしているかだなんて、解明するまでもなく判明してる。

 

「……お?」

 

 会話の中で、千束が対応しているお客さんの視線が、千束の向こうで別のお客さんを接客している男性店員に向いた。細身で透き通るような黒髪の美少年。対応されている女性も頬を赤らめて彼を見上げている。

 

「おお!彼が新しく入った男の子かい?」

「そぉなんですよぉ〜!朔月誉(さかつきほまれ)くん!私と同い歳の十七歳!誕生日も私と一緒の九月で、血液型も一緒のAB型!」

「めっちゃ怖いんですけど。え、何でそんな知ってんの」

「この前伊藤さんに聞いた!」

「……そういや聞かれたな。てか結構一緒だな……」

「でしょでしょ!?」

……だから、なんでそんな嬉しそうなの

 

 お揃いではしゃぐカップルかお前らは!

 ミズキはイライラしっ放しである。

 千束の言動に誉が思わず反応し彼女に声をかける。それを千束は待ってましたと言わんばかりの幸せそうな表情で答え、何とも甘い空気がこのリコリコ内に飛び交う。

 実はこのやり取り何度か続いていて、それを常連客は微笑ましく眺めているのだが、ミズキはそうではない。寧ろイチャコラしてるようにしか見えなくて、繰り広げられる度に歯軋りしている。

 爆発しろリア充共が。滅びろとさえミズキは思ったし、羨ましくて涙が零れそうだった。

 

 ────しかし、その男性客がいつも通りの座敷に腰掛けた時だった。隣りにいた女性陣三人ほどがこぞって彼に迫ったではないか。耳を貸せとそのおじ様を女性陣が引き寄せる。

 

「……で」

「……なのよ」

「ええっ!?そうなのかい千束ちゃん!?」

「はい!?」

 

 コソコソと何かを伝えたかと思えば、その男性は目を丸くして膝立ちした。

 いきなり呼ばれて何のこっちゃと千束が振り返れば、そこには驚いた顔で自身と誉を交互に見やる男性客と、ニヤニヤした女性陣。千束は何かを察したのかすぐさま顔を青くした。

 

「彼が千束ちゃんの好きな────」

「っ!?わ、わああああああああああいっ!!」

 

 店内に千束の甲高い声が響き渡る。今度は顔を真っ赤に染め上げて、両腕を広げてブンブンと誤魔化すように振りながら、座敷に向かって駆け出す。

 千束の声でビクリと肩を震わせた誉も、流石に振り返って千束に声をかけた。

 

「うお、ビックリした……どうしたの急に」

「な、何でもないからっ!朔月くんはそのままお客さんお願い!……ちょおいみんなホントにやめてって……!

「……?あ、すみません。ご注文改めてお伺いしますね」

 

 首を傾げつつも千束に促されて注文を取り直す誉。それを確認して胸を撫で下ろす千束と、その様子を見てニヤけた表情を向ける女性陣。その光景を微笑ましく眺める男性客。

 

「ちゃんと聞いてなかったんだけど、彼のどこを好きになったの?」

「恋だと気付いた瞬間は?」

「もうマジ黙ってて……!」

 

 これからずっとこれを見せられるのかと思うと、発狂しそうだとミズキは思った。ていうか実際に発狂した。

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

【ミカから見た二人】

 

 重ねて言うが、喫茶リコリコにはリピーターが多い。

 若年からご高齢、つまるところ老若男女に常連と呼べるお客さんがいる。ミカの珈琲と、千束の人あたりの良さによる部分が大きいのは事実だが、お客さん一人一人の人格的な部分によるところもある。

 だからだろうか、彼らの人脈というか横の繋がりは広いもので、二日前に入ったばかりの男性店員を一目見にくるお客さんが今日は絶えなかった。

 

 経営者の目線から見ても、今日はやけに女性客の来店が多いなとはミカも感じていた。理由は解明するまでもなく判明しているのだが……とカウンター越しでお客さんの対応をしている男性店員に目を向ける。

 

「あ、あのっ、写真撮っても良いですか!?」

「……俺のですか?」

「は、はい……!」

「……SNSとかに挙げないなら……一枚だけ」

「っ……!あ、ありがとうございます!」

 

 接客のつもりで赴いたテーブルにて女子校生に写真を強請られ、気恥ずかしそうにぎこちなくピースをカメラに向ける黒髪の少年。

 

 ────朔月誉(さかつきほまれ)

 

「リコリコ」に新しく迎え入れた男性店員だ。今日の女性客急増は彼の存在によるところがかなり大きかった。

 恐らく昨日居た常連客の何人かが面白可笑しく流したのだろう。なんといっても、千束が気になってる異性だ。どんな説明をしたかは分からないが、しかしそれによってここまで人が来る事になろうとは想像していなかった。

 

 ────逆に、彼女の反応は想像通りである。

 

「……」

「千束ちゃん?」

「っ、あ、ああゴメンなさい。カフェオレとどら焼きですね!」

「あ、いや、違うけど……」

「あれ、えっ、あー……もっかい注文聞いていいですか……?」

 

 千束に至っては、誉が女性客の注文を取る度、話し掛けられる度にチラチラとそちらに視線を向けてしまい自身の接客に集中できてない。

 勿論千束も気にしないようにと頑張っている……ように見えるのだが、お客さんと話していても、そのお客さんが新人である誉を注文中に話題として取り上げてくるものだから千束も意識せざるを得なくなってしまっていた。

 

「彼が新しく入ったってバイトの子だね。名前はなんていうのかな」

「えっと……朔月、ほ、ほまれ……くん、です」

「カッコイイ子じゃないか。良かったねぇ千束ちゃん」

「なっ、うぇっ!?え、ええ、そうですねぇ……」

 

 男性客の言葉に過剰に反応を見せる千束。声も驚く程裏返って、大きく店内を反響する。流石に離れた席で接客していた誉も千束に視線を向ける。

 バチリ、と目が合ったかと思えばその瞬間、千束の頬が次第に赤くなっていく。遠目からでもそれが分かったのだろう、心配して駆け寄ろうとした誉に千束が何でもないと慌てて手を振り、誉は気にするのをやめて接客に戻っていく。

 安心した、危なかった。そう胸を撫でて息を吐き出した千束。しかしその一部始終を見ていた座敷の女性陣を見ると、ニヤニヤした表情で彼女を見やり、

 

「千束ちゃん、ホントに初心(ウブ)ね」

「まだバレてないと思ってるのかしら」

「チッ、イチャコラしやがって……仕事しろっつんだよ……!」

「そーこっ!黙っててよもー……!てかミズキは人の事言えないでしょー!」

 

 毎度冷やかされ誤魔化すように声を荒らげる千束。あれで隠してるつもりになっているのだから分からない。

 彼女は嘘を吐けない、というよりは嘘を吐くのが下手なのだ。表情に出やすいというのもある。だからこうして今この場では誤魔化してはいるけれど、暫く時間が経ってくると────

 

 

 

 

 

 

 

 

「……むぅ」

 

 ほら見た事か。

 こうしてカウンター席で突っ伏して、誉の人気振りを前にむくれた表情で眺めている。現状、とてもじゃないがうちの看板娘ですと自信を持って紹介できるような顔をしていない。面白くなさそうに、誉の方を睨むように見つめていた。

 女性関係に疎いミカでさえ、千束が誉の女性受けを面白く思ってないのだろう事は想像に難くない。分かってないのは誉本人だけだろう。

 

 つい最近まで、誉の加入をお客さんに自慢する程にデレデレしていたというのに、女性陣に人気が出た途端にこの消沈具合。

 

「朔月くん、人気よねー」

「ホントにねぇ……ったく、デレデレしよってぇ……」

 

 ミズキの発言に、力無く答える千束。素直に答えるとは珍しい。

 しかしそれよりも予想外だったのは、自身の感情に正直に生きている千束が、誉に対してはやたら遠回りした行動をしているように見られる事だ。

 あの千束が、誉との距離を測りかねている。積極的に絡みに行ったかと思えば、話し掛けるのを躊躇ってしまったりと、その行動に一貫性がまるで見受けられない。ミカは、こんな彼女を見た事がなかった。

 

「嫉妬は見苦しいぞー?」

「そっ……んなんじゃありませぇーん!」

「しょうがない、アタシが他の女と一線を画すテクニックを教えてあげましょうか?」

「………………………………アテになんないからいい」

「な・ん・だ・と・コラァ!」

 

 ────あ、でも今ちょっと期待したな。

 ミズキの言葉にピクリと、僅かではあるが確かに反応を示した千束。独身のミズキに縋りそうになる程には、彼の人気の急上昇に内心穏やかというわけにはいかないらしい。彼が働くようになって一緒の時間は増えたが、正直勤務時間中は千束よりも他のお客さんに傾けている時間の方が多いので、距離的な意味で言うならお客さんと千束はそこまで大差は無い。

 あの千束でも、初めての感情には戸惑いを禁じ得ないという事か。ミカは小さく笑って、カウンターに突っ伏す千束を見下ろし、

 

「千束」

「なぁにぃ……?」

「仕事が終わったら、朔月くんに連絡先を聞いといて貰えるか?」

「……!」

 

 耳にした瞬間、バッと顔を上げる千束。

 その手があったか!っと、急に明るくなっていく表情。というかまだ聞いてなかったのか。自分から聞きそうなのに、と思いつつミカは続ける。

 

「連日出勤してくれてるが、どのみち彼のシフトを決めないといけなかったからな。千束が彼との連絡係を引き受けてくれるなら────」

「まっかせてよ!もー、先生まだ連絡先交換してなかったのぉ?ったく、しょーがないなぁ!私が引き受けるかぁ……うひひっ」

「今日イチ元気ね……」

 

 以前の、店員と客の関係の際に聞くには意味深過ぎただろうが、今なら仕事の連絡をする為という建前の元、彼と千束の間に連絡先による関係値を築く事ができる。我ながらナイスアドバイスだな、と千束が楽しそうに笑うのを見て、ミカは仕事に戻るのだった。

 

「……」

 

 ────今度から、こういう支援も千束にしなくてはならないのか、と思わなくはなかったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

「……へ?」

「だから、珈琲の淹れ方、教えてくれない?」

 

 喫茶店「リコリコ」で正式に働く事になって数日の閉店後、座敷で恒例のボドゲ大会が開かれてる中、その勝ち抜けで一人、後ろで閉めの作業をしていた錦木に声を掛けた。

 

 現在、俺が任されてるのはまだ注文を聞く事とレジ打ちのみ。珈琲を淹れたり、スイーツや和菓子の準備などは任されていない。まだ初日だから当たり前なのだが、できる事を増やしたいのは素直な気持ちだった。

 そんな俺の気持ちなど露知らず、頼みを聞いた錦木当人は、キョトンと目を丸くして此方を見ていた。

 

「ぜ、全然良いけど……え、何、どったの急に」

「早く色々覚えなきゃと思って。なるべく面倒かけないようにするから、教えてくれると助かるんだけど……」

「それは、うん。大丈夫だけどぉ……どして私?淹れ方なら先生の方が上手だよ?」

「なんでって……」

 

 錦木暇そうだから……と言おうと思って口を噤む。

 錦木が目線をあさっての方向に逸らしつつ、チラチラと此方に視線を向けてくる。なんとなく何かを期待されてるような瞳。喜ばせるような事言った方が良い場面か、これ。

 彼女を喜ばせるようなセリフ……うん、何も思い付かないな、正直に言うか。

 

「いや、ミカさんボドゲやってるし」

「……あっそ」

 

 いや怖いって。スゲェ目で見られたんですけど。なんなら睨まれてるまである。や、実際ミカさんは今ボドゲ大会に一喜一憂していて、あんなテンション高めのミカさんは初めてで、普段忙しなくさせてしまってる分息抜きして欲しいという思いが勝ってしまったのだ。やっぱ日々疲れてんのかな。

 

「それにほら、ミカさんに教えてもらうのはまだ恐れ多いというか」

「なにそれー!私なら良いってのー!?」

「……まあ頼むハードルは下がるよね」

「なんだとぅ!」

 

 失言だった。プンスカ怒って肩を軽く殴ってくる錦木。軽々しいボディタッチは健在で、この娘まったく反省してませんやめてください耐性無いです。

 その攻撃をどうにか避けながら思い付いたように錦木のまえで両手を合わせる。

 

「頼むよ、先輩」

「せん、ぱい……!なんて甘美な響きぃ……!」

「……いやチョロ」

「聞・こ・え・て・ま・す・がぁん!?」

「おっと、うっかり本当の事が」

「んいぃぃーーーっ!!」

 

 そうやって再び軽い肩パンで襲ってくる錦木。

 視界に映る彼女の、僅かに緩んだ頬と唇。楽しげに絡んでくる彼女の表情や仕草を見てると、なんとなく揶揄いを覚えてしまう。

 錦木は二つ返事で了承してくれて、その足でカウンター近くまで案内してくれる。

 

「それで?コーヒー豆の挽き方は分かる?」

「……なんとな、く?」

「何故に疑問形……いや、そこのミルでこう、グリグリーって……こんな感じで」

 

 そう言って錦木は、カップで測ったコーヒー豆をハンドミルに投下して、器具を抑えて持ち手を回転させる。豆が削れて粉になっていく音と様子を見て、素直に感激した。

 

「おお、凄い……」

「ハンドルを回す速度とかで抽出時間とか味も変わってくるから、その辺は後で先生に聞いた方が良いかも。やり方だけ最初教えちゃうね」

「ありがとう。普通に勉強になる」

「べっ……つに、そんな感謝せんくても……先輩だしぃ……にひひ」

 

 ……今めちゃくちゃハンドルの回転速くなったけど大丈夫それ?というか、めちゃくちゃニヤニヤしてるなぁ錦木。……先輩ってフレーズ気に入ってんのかな。これからもバンバン使うか。

 

 そうして豆を砕き回し切って、全てが粉末状になったのを確認すると、錦木は棚からまた新たな器具を取り出し始める。ドリッパーにコーヒーフィルター、流石にこれらは見た事がある。結構色々道具があるので驚いた。

 それらを手際良く組み合わせ、フィルターにコーヒー豆を入れ、お湯をゆっくり上から注いでいく錦木の横顔を見ていて、なんだかベテランっぽい風格があるように見える。フィルターだけに。いやつまんな。

 

「……なんか、カッコイイね」

「ふふん、そうでしょ?珈琲淹れてる先生も、様になっててカッコイイんだよねぇ」

 

 確かに、といつもカウンター越しで珈琲を淹れてくれていたミカさんの姿を思い出しつつ、得意気に笑ってみせる錦木を見やる。

 コーヒー豆をお湯で蒸らす彼女の姿も、普段の子ども染みた性格から一転して大人びて見えて、凄く格好良く見えた。

 そんな彼女の横顔を眺めていたら、目が合って。錦木が口を窄めてポショリと呟いた。

 

「その……朔月くんも、めっちゃ似合うと思う」

「そう?様になってる頃には見合った美味しさが出せてるといいなぁ」

「先生に追い付くのは大変だぞぅ〜?……ねぇ、まず最初に私に飲ませてよね」

「え、や、最初はやっぱりミカさんに……」

「えーなんでー!さっきハードルがーとかって言ってたじゃん!」

 

 そりゃそうなんだけど……バリスタとして一流なミカさんに最初飲んでもらって、改善点を分かりやすく教えて貰った方が質の向上に繋がるかなぁ、と。

 それを抜きにしても錦木に最初飲ませるのはなぁ……とかって思っていると当人がむくれた顔でジトッと睨み付けていた。

 

「私が淹れ方教えたんですけどー?」

「だからだろ。錦木には、美味いの飲ませたいから」

「え……あ、そーなんだぁ……」

「錦木、ミカさんのを飲み慣れてるだろ?今飲み比べられても味の善し悪しが浮き彫りになるだけだって」

「あー……そーゆー事ね」

「逆にどういう事だと思ったの……」

 

 ……本当は、食べ物を凄く美味しそうに食べる彼女の表情を知ってしまったから、俺の付け焼き刃で淹れた珈琲なんかで曇らせたくないだけなんだけど。

 

(……調子乗せそうだから絶対言わないけど)

 

 珈琲が段々と抽出されていく。湯気と共に、珈琲独特の香りが漂ってくる。ゆっくり、時間をかけて優しく円を描くようにお湯を注いでいく錦木。

 

「ほい完成!千束ブレンドスペシャルコーヒーですっ」

「いや名前……」

「はいはい、文句は飲んでから聞きます。飲んでみ飲んでみ?」

 

 錦木はボトルの中身を空のカップに注いでいき、それを俺の前へと押し出した。喫茶店リコリコの売りである、その珈琲を。

 一瞬だけ彼女と目配せした後、取っ手をゆっくり摘んで口元へとそれを運ぶ。

 

「お、うまっ……けど苦い」

「あはは、朔月くんなんだかんだで苦いの苦手だもんね。全然ミルクとか入れて良いから」

「……」

 

 ……俺が苦いの我慢して飲んでるの、知られてる?

 ミカさんの珈琲、苦いけど美味しいのが分かるから好きで飲んでるんだけど、途中から砂糖とかミルクと入れて飲むんだよな。それを見られていたのかもしれない、と思うとなんだか。

 

「……よく見てるね」

「べっ!?……つに、そんな見てないですけどぉ!?」

「何キレてんだよ」

「キレてませんー!」

 

 よく気付いたなぁと感心しただけなのにめちゃくちゃキレられたんですけど。や、ぶっちゃけ錦木よく気付いたな。……気付かれないように、気を付けてたはずなんだけどな。

 

(……苦い、けど)

 

 ミカさん直伝だからだろうか。彼女の珈琲も、とても飲みやすく感じた。ミカさんのような、飲む人を思っての珈琲なのだと感じさせてくれる一杯。

 砂糖やミルクで自分の好みに変えてしまうのは、なんだか勿体無く感じてしまった。そのままもう一口、口に含む。

 

「え……い、いや、入れなって」

「いいだろ別に。たまにはブラックも悪くないし」

「っ……変なの」

「……錦木?」

「なんでもなーいっ。じゃあ次っ!朔月くんの番ね」

「ちょ、まだ飲んでるから」

「ほらほらはよはよ」

 

 珈琲をテーブルに置いて、ミルに向き直る。

 初めての経験ではあるけれど、手本は先程見せて貰えた。錦木がやっていた事と同じ事を実践するだけだ。

 彼女が見せてくれたようにコーヒー豆を測り、ミルに投下。片手で器具を抑えて利き腕でハンドルを回し始める。

 

「っ、あ、あれ。意外に固いな……」

「ほら、もっと力入れないとー。女の子みたいに細腕なんだから」

「あ、こら、言ってはいけない事を」

「うっそ、気にしてた?ごめんねぇ?」

「……逆にそっちが細腕に見える割にゴリラ────」

「試してあげよっかぁ……?」

「────みたいに可愛いなぁと思って」

「誤魔化せてねぇぞコラ」

 

 確かに。ゴリラみたいに可愛いって何だ。

 錦木が背中を軽くゴリラパンチで小突く。そんなに痛くない、じゃれてくるようなに一撃に軽く微笑みつつ、変わらずハンドルを回し続ける。次第に粉末状になっていくそれを見ながら、再び息を漏らした。

 抽出までの過程を想起しながら、コーヒーの豆を煎じて飲もうだなんて一体誰が最初に思い付いたのだろうかとか、普段考えないような事まで考えてしまう。これを粉末にしてフィルターに入れ、お湯で蒸らしてコーヒーを抽出するという考え方に至るまでにどれだけの時間や背景があったのだろうかと、ただミル回して豆砕いてるだけの作業なのにドンドン思考が沈んでいく。

 

(────楽しい)

 

 知らなかった事、できなかった事がまた一つ、自分の中の経験として記されていく。知識と経験が、脳に染み込んで溶けていく感覚。

 自然に頬が緩み、ハンドルを掴む手の力や回す速度も、次第に心踊り上がっていく。

 

「っ、あ、やべ……」

 

 我に返り、一度ミルから手を離した。思わず回す速度を上げてしまっていた。ハンドルを回す速度は一定にしないと、後にムラができたりして味が変わってしまうらしい。錦木に教えられるまでもなく知っていたというのに、うっかりしていた。

 集中しなければと改めてミルの取っ手を掴み────此方を眺めて微笑んでいる錦木に気が付いて、思わず息を飲んだ。

 

「……な、にか?」

「ううん、楽しそうだなーって」

 

 何を揶揄うでもなく、ただ思った事を素直に言っただけのような彼女。眺めるだけで楽しいのだと、その細めた瞳と緩んだ口元が告げていて、それがとても可愛らしくて、思わずコーヒーミルに目を向けた。

 少し考えてから、ハンドルを再び回し直しながら、

 

「……そう、だね、うん、楽しいよ。新しい事を覚えるのって、なんか好きなんだよな」

「……確かにいつもお店来た時、本読んだり勉強したりしてたよね」

「……まあ、ね」

 

 やがて、コーヒー豆の全てが粉末に変わる。

 新しくフィルターとドリッパーを用意し、抽出準備に入る。砕いたコーヒー豆をフィルターに通し、蒸らすのに必要なお湯をポットで温める。その入口から伸びる湯気を眺めながら、

 

「……小さい頃、色々挑戦する事が楽しくてさ。スポーツ、楽器、勉強……できる事が増えた時、母さんがよく褒めてくれたんだ」

「お母さん?」

「うん……今はもう、いないんだけど」

「え、あ……ごめん」

「なんで謝るの。話し出したの俺からだろ」

 

 もう大分昔の事になるから、気にしてるわけではないないけれど。俺が感覚的にではあるが“こういう生き方をしたい”と掲げてるものにある、その根幹は母親に形成されたようなものだった。

 

「何か新しい事ができるようになって、それが他者に還元できた時、その人が『ありがとう』って笑ってくれるのが好きだった。だからかな……誰かの為に何かできるような人になりたいなって思った。俺を必要としてくれる人に、できる事をしたいって」

「────……っ」

 

 ────それが、錦木の掲げてる信念と同じである事を、この時の俺は知らなかった。

 ただこれは、生まれてここまでの十七年間の中で、少しずつ形を成していった在り方だった。必要だって言ってくれる人に出会って、その人の為になる事をしていきたい。

 

「だから、その為にこうやってできる事が増える瞬間が、楽しくて仕方ないんだ」

 

 色んな事ができる分、色んな人の為になれる。そうすれば、俺がいなくなった後も、その人の心に住めるかもしれない。俺がここで生きていたのだと、忘れないでいてくれるかもしれない。

 そして、初めて言葉でそう伝えてくれたのがリコリコのみんなだった。

 

 初めてこの店に入った時の事を、今でも思い出せる。迎えてくれたのは、隣りにいる錦木千束だ。初対面のはずなのに、何故か最初驚いたような表情をされたのを覚えてる。

 けれどその後はいつもと変わらない表情で迎えてくれて、ミカさんやミズキさん、そしてそこに通うお客さんの全てが絶えなく笑顔を作り出していく。その中心が、いつも錦木だった。

 周りに求められ、必要とされ、それに応える彼女の生き方と笑顔に、否応無く魅せられた。

 

「多分……此処で働く錦木を見て、羨ましく思ってしまったのかもしれない」

「……私?」

 

 錦木は、なんとも思ってないかもしれない。当たり前の事をしているだけで、特に考えがあっての行動ではないのかもしれない。だからこそ純粋で、輝いて見えるだけなのかもしれないけれど。

 

「君が誰かに熱や時間を傾ける姿勢、君が作ったリコリコの空気に心底惚れたみたいだ。楽しそうな君を見たくて此処に通ってたみたいなものなんだよ、ホントは」

 

 そう、俺なんかよりも楽しそうで、嬉しそうで。

 そんな生き方をしている彼女を見たくなくて、けどずっと見ていたくもあって。段々とこの店に足を運ぶ頻度が多くなって。そうして、一緒に働くようになって。彼女が、また近くなった気がして。

 嬉しいような、困るような、複雑な感情ではあるけれど。この時間がただただ楽しいと、今はそう感じていた。

 

「……」

「……?何?」

「へ……?あっ、やー……その……」

「?…………あっ」

 

 ……あれ、もしかして俺今めちゃくちゃ恥ずかしい事言った?錦木の事口説いてるみたいになったかもしれない。そう思うとなんだか顔が熱くなってくる。

 顔真っ赤にして、驚いた表情で此方を見ている錦木を見て漸く我に返った。

 

「……ごめん、今の無しで」

「えっ、なんでよ!?」

「マジで無し。本当はミカさんの珈琲だけが目当てで通ってました。それ以外興味無し。錦木はアウトオブ眼中」

「そこまで言う!?嫌だ無しにしないでー!私目当てで通ってた事にしといてー!」

「ばっ、揺らすな揺らすな今お湯入れてるんだから!」

 

 そうしてわちゃわちゃしながらも、どうにか珈琲の抽出に成功。蒸らす時間の調整やのの字に回して入れたりなど拘りたかったのだが、錦木が横でちょっかい出しまくってくるから予定とズレた。ジトッと横目で見てやれば誤魔化すように口笛を吹き……いや吹けてねぇからなそれ。

 

「ちょっとミカさんに渡してくる」

「えー最初は私でしょー!」

「っ〜〜〜、分かった分かった。じゃあ一杯だけ置いてくから、飲んでな」

「やったぁ!いっただっきまーす!」

 

 カップに一杯珈琲を注いで、錦木に回す。

 彼女が笑顔でそれを受け取るのを見た後、カウンターの向こうに出てミカさんとミズキさんの方へとカップの乗ったお盆毎持っていく。丁度ボドゲ大会に一息付いたらしく、良い機会だと二人に迫る。

 

「あのっ、ミカさん、ミズキさん。珈琲淹れてみたので、試飲していただければ幸いです」

「おお、そうか。じゃあ頂こうか」

「だから固いのよ言い方が。どれどれ……」

 

 そう言って、各々がお盆に乗ったコーヒーカップを持ち上げる。二人がそれを口にするその瞬間にドキドキする。初めてのものを味見してもらうのってこんなに緊張するのか……錦木の感想聞いてから来ればよかった。

 恐る恐る見上げると、二人とも一口飲み終えたのか、軽く息を吐いた。

 

「んっ、美味しい。初めてなのにやるじゃない」

「え……」

「そうだな。多少の粗はあるが、最初にしては上出来だよ」

「……お世辞でも、嬉しいです」

 

 ────何か、込み上げて来るものがあった。

 錦木に教えてもらった珈琲の淹れ方。彼女と話しながらだったし、じゃれ合いながらだったから、求めていたクオリティの全てを出せたわけではなかったかもしれない。けれど、二人がそう言ってくれただけでも飲んでもらった甲斐があったように思える。

 俺の後ろ向きな発言に、二人は顔を見合わせて呆れたように笑った。

 

「何卑下してんのよ。ホントに美味しいって」

「千束を見てみろ。アレが答えだ」

「え……」

 

 ミカさんに言われて、ゆっくりと振り返る。

 そこには、カウンター席に腰掛けて、珈琲を飲む錦木の姿。

 

 

「んっ……うひひっ、へへ……♪」

 

 

 なんで、そんな楽しそうに。

 コーヒーカップを見つめて、嬉しそうに微笑んで。

 一口飲んで、また幸せそうに声を漏らす、そんな彼女の姿が目に焼き付く。

 

「────……っ」

 

 錦木は嘘を吐くのが苦手だ。表情に出てしまうから。

 だからこそ、彼女の今の笑顔に嘘偽りが無いのだと分かってしまう。

 彼女のその満足そうな笑みに、幸せそうな声に、俺の淹れた珈琲を純粋に楽しむその姿に、動揺せずにはいられなかった。

 ……なんであんなに、珈琲一杯に時間をかけて飲むんだよ。一気に飲み干せばいいだろ。一口飲む度にそんな顔するなよ。

 

(……ホントに、やめてくれよな)

 

 今度はもっと上手くなってから。

 今度は、錦木にこそ飲んで欲しいと、どうしようもなく思ってしまうから。

 

「……ま、これから精進だな」

「そうですね。ミカさんにも、ご指導を賜る事ができたらと思います」

「いや固いな……」

 

 そうして、また軽く笑ってくれるミカさん。そこから派生して、自分も飲みたいと言ってくれるボドゲ大会に参加してた常連のお客さん。そうして俺の作った珈琲を飲んで、笑顔を傾けてくれるこの店の雰囲気に、どんどんのめり込んでしまいそうだった。

 

 

 ああ、こんなに良いお店。

 きっと何処を探しても見つからないだろうと、俺は純粋にそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「本日から配属になりました、井ノ上たきなです」

 

「……おお、うん」

 

 

 ────え、リコリコって複数店舗(チェーン)なの?

 

 







個人事業じゃなくて法人経営?




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第1話 Easy does it
Ep.5 Love is blind.








君の知らない君の一面を、実は私だけが知っている。




 

 

 

 

 

 

 ────リコリコで働くようになって、少し不思議に思う事がある。

 

 まず、営業時間にバラつきがあるという事。一応決まった開店時間と閉店時間はあるのだが、状況によってどちらかが、或いはどちらもが遅れたり、早まるケースがここ最近多いのだ。

 それに伴って、臨時休業も多い。これは俺が常連としてこの店に通ってた時からそうで、その時一度何かあるのかとミカさんに聞いた事があるのだが、毎度私用があるといって流されてしまうのだ。流石にプライベートの事まで聞けなかったので納得はしてるのだが。

 

 ただ休日や時間が不定期だと、お客さんがご来店されても営業してません、という状況が考えられるのではないかと思ったが、根強い地域のファンの皆様には周知の事実らしく、それ込みでこの喫茶店を愛して通ってくれている。有難い事です本当に。

 なので、元々出勤する時間であっても急遽連絡が入って、出勤時間を遅らせるよう指示があったり、急遽休みになったり、錦木から言伝を受けることがある。

 

 ……ちなみに彼女から電話が来ると、決まって長電話に付き合う羽目になる。毎度楽しそうに話すもんだから、此方から切る訳にもいかず付き合ってはいるのだが、おかげで最近眠い。

 ……や、俺も楽しいけどさ。

 

 今日も例によって彼女から休日を言い渡されたのだが、昨日に限ってスマホをお店に忘れてしまったのだった。流石にスマホが無いのは不便過ぎるので、早めにお店に向かって、今日は久々にお客さんの気分を味わうべく珈琲でもいただこうかと考えている。

 そうしていつも通り、住宅街にひっそりと佇む目的地が視界に入った時だった。

 

「────あの、この店の方ですか」

「え?」

 

 裏口へ向かうべく、その足を向けた途端に背後から声がかかる。透き通るような綺麗な声音が、鼓膜を刺激する。

 振り返ってみれば、同じくらいの年齢の女の子がキャリーケースを片手に此方を見つめていた。黒髪のロングストレートヘアで、頬には大きめの白い絆創膏。どこかで見た事があるような制服。そして何より、錦木に負けず劣らずの美人……いや、そうやって表現すると錦木が調子乗るから言い方を……兎に角、可愛らしい少女が立っていた。

 

「……」

「……」

 

 な、なんか凄い見られてる。

 というか思い出したけど、彼女の制服って色は違うけどたまに錦木が来てるやつと同じやつ……?

 

「えっと……そうですけど、貴女は?」

「本日配属になりました、井ノ上たきなです」

「はい、ぞく……おお、うん?」

 

 うん……俺、何も聞いてないな。

 てか、この喫茶店異動とかあるのか。複数店舗(チェーン)なの?全国的に展開されてるの?初耳なんだけど。

 てっきり住宅街に隠れる、知る人ぞ知る喫茶店かと思ってテンション上がってたんだけど、まさかス○バみたいな事業拡大をしてるのか。別にショックとかは無いんだけども、なんも知らんかったなぁ……あとでどのくらい有名なのか調べてみようかな。

 

 ……というか、制服って事は彼女学生だよな。引っ越しでこっちに来て、引っ越す前の別店舗(リコリコ)の伝手でこの店を紹介されたって事か。

 しかし、錦木と同じ制服って事は同じ学校だよな、それは良かった。彼女の学校生活は決して過ごしにくいものにはならないだろう。錦木が放っておくわけが無い。男の俺にさえあの絡みなのだから。

 

「えと……承知しました。ああ、此処で働いてる朔月誉(さかつきほまれ)です。よろしくお願い致します」

「よろしくお願いします」

「そしたら、あー……どうしよっかな。取り敢えず表の入口から入っていただければ。俺忘れ物取りに来ただけなので裏から入りますけど……案内しましょうか?」

「いえ、大丈夫です」

「分かりました。そしたら後ほど」

 

 軽く手を振ると、綺麗な姿勢でお辞儀して返してくれた。なんて丁寧な娘……爪の垢煎じて錦木に飲ませてやりたいなぁ、とかなり錦木に失礼な感想を抱きつつ裏口の扉を開ける。

 心当たりのあるロッカールームに移動して、自身のロッカーを開けてみれば案の定、真下にスマホが転がっていた。

 

「……あった」

 

 特に弄られた形跡も無い。しゃがんで取り出してみると充電がもうすぐ切れそうだった。念の為バッテリー持って来てて正解だったな。

 ……そういえば、井ノ上さんはミカさんにはもう会えただろうか。なんとなく気になってその場から立ち上がり、ロッカールームを後にしたその時だった。

 店の表の方から、数人の会話が聞こえてきたのだ。ああ、ミカさんもミズキさんにも会えたか、井ノ上さん。良かった。

 

『来たか、たきな』

『……ああー、DAクビになったってリコリスか』

『クビじゃないです。貴女から学べ、との命令です。千束さん』

 

 ん……なんか聞き慣れない言葉が飛び交ってるな。

 DA?リコリコの会社名(法人名)かな?いや、もう一つ聞き慣れない言葉が。

 

「……“リコリス”?」

 

 リコリス────ヒガンバナ属に属し、日本を含む東南アジアに広く分布する彼岸花、もしくは曼珠沙華と呼ばれる花の園芸種名だ。

 彼岸花は、秋の田んぼや土手を赤く染める馴染みの深い花で、得に中国・揚子江の流域には多く自生し、日本には稲作の伝来と同様に渡来したのではないかと言われている花だ。

 

 花言葉は────『独立』『あきらめ』『悲しき思い出』。あまり良いイメージが持たれる花ではないが、何故今その花の名前が?

 

『転属は本意ではありませんが、東京で一番のリコリスから学べる機会が得られて光栄です。この現場で自分を高めて、本部への復帰を果たしたいと思っています』

『それは千束ではない』

『それって言うな』

 

 ……マジで何の話してるか分からない、けど。井ノ上さんがやたら向上心が高いのは分かった。

 リコリスっていうのは要は隠語みたいなものか。お店によっては店員の事をスタッフともパートナーともキャストとも言うし、DA(恐らく法人名)の店員の呼び方がリコリスなのかもしれない。

 

(あ、いや……段々分かってきたかも)

 

 つまり井ノ上さんは元々本社勤務だったんだけど、何かしらの事情があって事実上左遷という形で一支店の配属になったという事。それは本意ではないので、東京で一番の店員(リコリス)がいるこの店で学んで成果を出して、本部に返り咲きたいという事。

 で、その東京一の店員(リコリス)が、錦木という事……か。多分そうだ。

 

「……」

 

 君たち学生かと思ってたけど、もしかして社会人なの?

 井ノ上さん家庭事情の引っ越しかと思ってたけど学校とかではなくて、単純に仕事の転勤とかそっち系の話?

 あ、でも確かに錦木が学校行ってんの見た事無いかもしれない。いつも店にいるもんな彼女。たまに日中に出るから通信制の学校なのかもと思って深くは聞かなかったけど……え、じゃああれは学生服ではなく会社指定の制服という事?同い歳なのにどれだけエリートなの。

 

 ……ただ、納得はできるような気がした。

 彼女の働き振りやお客さんに対する熱意であったり、ホスピタリティの部分に関してはまさに接客業には欠かせない人材である事は間違いない。まさか東京で一番と本社の人に言わしめるだけの成果を上げているという事実。

 

「……やっぱ凄いんだな、錦木」

 

 ……俺も此処で働き続けたら、いずれはそのまま就職って話にもなったりするのかな。ここの仕事はまだ覚えたてだし、まだまだ先の、それも数年単位の話にはなってくるのかもしれないけれど。

 いずれは錦木みたいな周りを楽しませられるような人に、なれたりとかも……できる、かな。や、ちょっと自信無いかもな。

 

 ボーッとそんな事を考えながら突っ立っていると、表の入口の鈴が鳴るのが聞こえた。この時間帯なのと、僅かに擦れるビニール袋の音を聞くに、買い出しに行っていた錦木が戻ってきたのだろう事を想像できた。

 案の定、入ってきたのは錦木だった。

 

『先生大変!SNSの口コミでぇ、『この店のホールスタッフが可愛い!』って!これって私の事だよねー♪』

『アタシの事だよ!』

『冗談は顔だけにしろよ酔っ払い』

 

 ……ああ、それ見たな。ミカさんとミズキさんからSNSをやってるって聞いて驚いたのを覚えてる。錦木がやりたがるからって聞いて納得したけど。

 ちょいちょい写真撮ったら投稿してるので、稼働頻度はそれなりに多い。ミカさんはあまり乗り気で無いみたいだが、常連客の為にという事らしい。

 

 ……ま、まあ、確かに錦木は可愛い……けど。にしても錦木はミズキさんに対して辛辣過ぎじゃない?や、ミズキさんも綺麗だとは思いますけど。

 というか、え?今気が付いたんだけど、この会社飲食店なのに公式のアカウントとか無いの?

 

『ん?あら、リコリス……てかどうしたのその顔?』

『例のリコリスだ。話したろ千束。今日からお互い相棒だ、仲良くしろ』

『え!?この娘が……!よろしく相棒〜!千束でぇす!』

『い、井ノ上たきなです、よろし……』

『たきな!初めましてよね!』

『は、はい……去年京都から転属になったばかり……』

『おお〜転属組!優秀なのね、歳は?』

 

 凄いテンションでたきなを迎える錦木。声だけしか聞こえないが、矢継ぎ早に放たれる質問攻めに戸惑っているであろう井ノ上さん。俺の時もそうだったけど、めちゃくちゃ喜んでくれるよな、錦木って。

 

 ……ていうかその反応、彼女はその辺の話聞いてたのか。知らなかったの俺だけ……うわ、なんとなく疎外感があって悲しいような寂しいような。まあでも、会社の事はバイトの人間には話しにくい場合もあるだろうし、仕方が無いだろう。

 

 とすると、今からもしかして配属された本部の人との経営関係の会議や話し合い……?あ、これ俺完全に邪魔だな。今日は珈琲を楽しもうかと思ってたけど、流石に帰ろうか。

 

「……散歩しよ」

 

 ────胸に僅かな違和感と、しこりを抱えながら、俺は物音を立てずに裏口から店を出たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「じゃあさ、銃取引自体がなかったって線もあるんじゃない?」

「……そうでしょうか」

 

 桜舞う、真っ昼間から物騒な会話をしている学生服の女子二人。大きな幼稚園の横を二人並んで歩く中で、黒髪の少女はふと、隣りを歩く黄色がかった白髪の少女を見やる。

 

 ────随分と破天荒な人だな、と。

 

 錦木千束に出会っての第一印象がそれだった。

 井ノ上たきなは、今回の異動にはまだ納得がいってなかった。先日の銃取引で商人もろとも機銃掃射で殺した事については、あの場において極めて合理的な判断だったと信じて疑わない。

 けれど、本部もとい司令である楠木にとっては命令違反をした異分子でしかないのだと切られてしまった。ただ、今回の配属で僅かにだが希望の光として見出したのが錦木千束。東京で一番の実力者と名高いファーストリコリスだ。

 

 ────電波塔事件。

 

 十年前に、東京を象徴する建造物だった電波塔がテロリストによって占拠されたが、錦木千束の活躍によって解決された事件だ。当時彼女は齢七歳という年齢で、しかもたったの一人でテロリスト共を制圧した。

 その異常さと、伝説的結果からリコリスの間でも語り継がれている。以降、日本国内では大規模な事件が起きておらず平和が保たれており、故に「最後の大事件」とも称されている。その功績がとても大きい。

 

 今、自身の隣りをニコニコしながら歩く彼女────錦木千束は、自分の想像してた人とは若干……いや、かなり人物像が違うと言わざるを得ない。

 けれど、彼女から色々な経験を得て、学び、自身に還元し、成果を上げる事ができれば、本部への復帰も可能性として出てくるかもしれない。

 そうして、今回自分が異動になったきっかけである、以前の銃取引の事件について千束と話している時だった。

 

「……あっ」

「……?どうかしたんですか?」

「……まーたやってる……ひひっ」

 

 ふと、千束が前を見て目を見開き、足を止めた。口を開けて呆然。その後、楽しそうに微笑む。なんだか少し頬が赤いような……?

 不思議に思い、たきなは千束の視線の先にあるものを追い掛ける。今歩いてる歩道の隣りに立てられた幼稚園、その金網の向こう側。

 黒い制服を着た自分と同じくらいの年齢の男性が、何人もの子ども達に囲まれている。

 

「あの人……」

 

 その青年は、たきなにも見覚えがあった。

 先程、自分をリコリコの入口まで案内しようとしてくれた青年だ。確か、名前は。

 

「────朔月、誉さん」

 

 自身に向けてくれた、優しげな微笑みがなんとなく頭に残っていて。その名前を何故か覚えていた。店長や千束に聞くのを忘れていたが、そういえば彼もDAの関係者なのだろうか。

 

 いや、では何故今幼稚園内に……?と、再び千束を見てみれば。先程と変わらず、誉の方を見つめていた。

 つられてたきなも誉へと視線を戻し、子ども達に囲まれて笑う彼の顔を見つめる。

 

「ね〜、お兄ちゃん今日は遊んでくでしょ?」

「あー……今日は仕事関係の事で勉強しなきゃなんだ。悪いけど、また今度ね」

「え〜つまんない!勉強なんて後でいいじゃん!」

「お兄ちゃん、最近いっつも忙しいよね」

「お仕事とわたしたち、どっちが大事なの!」

「お、おマセさんだねぇ……勿論みんなが……あ、いや……リコリコのみんなも、今の俺にとっては……」

「……なんかごめんね?」

 

 子ども達が顔を見合わせて、しゃがんで頭を抱える誉の肩をポンと叩く。随分と好かれて……いや、気を遣われてるではないか。なんだあの人。

 たきなが訝しげに眺めていると、隣りで肩を震わせている千束の姿が。

 

「ふっ……子どもに、何言わせてんの……ぷっ、くく……ふふ」

「……」

 

 ────思わず、たきなはその目を見開く。

 千束の赤らめたその頬は、今も変わらないけれど。彼を見つめるその微笑みが、可笑しそうに震えるその様子が。同性から見てもとても綺麗で、幸せそうに見えて。

 

「……あ、ああ、ごめんね。知り合いっていうか、実は同じリコリコで働いてる人なの、彼」

「知ってます。朔月さんですよね」

「え、ええっ!?そうだけど……え、なんで知ってんの」

「朝、店の前で偶然お会いしたんです。忘れ物を取りに来たらしくて」

「あ、そーなん……?」

 

 ふーん、と何処かドギマギしたように呟く錦木。出会った時はあれ程忙しなく、子どもっぽい感じだったのに、今では大人しい印象さえ受ける。

 ひとえに、目の前の彼を視認してからの事で、そうやって恥ずかしそうに俯く彼女を見て。

 そんな表情をさせる彼に、興味が湧いた。

 

「……どういう人、なんですか?やっぱり彼も優秀なんですか?」

「もっちろん!接客は丁寧だしぃ、珈琲もめっちゃ美味しくなったしぃ、勉強熱心だし!……女の子に人気なのは、まあ、反省しなさいって言いたいんだけどぉ〜……」

 

 凄く嬉しそうに、楽しそうに話す千束。

 ……いや、聞きたかったのは喫茶店の話ではなく、DAとしての戦果なのだが……。しかしこの話し様、もしかしてと口を開く。

 

「あの……DAの関係者、ですよね?」

「ん?あー、いや?朔月くんは関係無いよ。普通の一般人」

 

 ────さらっととんでもない事を告げる千束。たきなは自身の目と耳を疑った。

 たとえ表は喫茶店であったとしても、仮にもあの店は機密事項の塊とも呼べるDAの支部である事には変わりない。そこに何も知らない一般人を働かせているという事実に、たきなは眉を顰めずにはいられない。

 

「……何故、一般人がDAの支部に?」

「何故って、それはぁ……あー、いや、えーと」

「私達の存在って普通に機密事項だと思うんですけど、あの人は私達の事、知ってるんですか?」

「や、やー……知らないけどぉ……」

「なら、同じ場所で働いてたらボロが出ますよ。バレるのは時間の問題だと思います」

「そぉなんだけどぉ〜……」

 

 先程までハキハキ喋っていたはずの千束が、歯切れが悪そうに言葉を切っていく。

 けど、でも、だって。そんな接続詞を繰り返し紡ぐも、変わらず要領を得ない千束の言葉に首を傾げるしかない。

 するとバツが悪そうに俯きながら、というより目を逸らしながら、指を弄りながら。

 変わらず赤らめた頬のまま、ポツリと。

 

「そうなんだけどさぁ……居てくれた方が、その……私の人生の満足度的に嬉しいというか、なんというか……」

 

 ────人生の満足度とは。

 聞き慣れない単語を耳にして、また首を傾げそうになった……が、その時ふと思った。

 目の前の彼女が彼を見つめる視線や、赤らめた頬や、楽しそうに語る表情、恥ずかしそうに自分の気持ちを吐露する姿を見て。

 そういった感覚に疎いたきなでさえ、なんとなくではあるが感じ取ってしまった。

 

「……あの人のこと、好きなんですか?」

「!?え、ええ!?な、何がぁ!?何言ってんの!?」

「え、いえ、だから……朔月さんのこと」

「ち、違う違う!やー、違うよ?ホントに、そんなんじゃなくってぇ……!」

 

 驚きに目を見開いたと思ったら、みるみる頬が紅潮していき、最後には言葉にならない声を漏らし始めた千束。言葉のイントネーションがちょくちょくおかしく、嘘なのではないかと疑いたくなる程に慌てふためいている。

 両手をぶんぶん振り回し、否定とも肯定とも取れるような大暴れを見せた千束だったが、たきなが何も言わずに見つめていたのに気付いたのか、やがて諦めたようにその両手を力無く下ろして。

 

「っ……そんなに、分かりやすい、かなぁ……?」

「いえ、分かりませんが……多分?」

「うわぁ……まじかぁ」

 

 恥ずかしそうに両手で自分の顔を覆い隠し、蹲る千束を見て。困ったように表情を歪めるたきな。

 東京一、いや全国でも最強格かもしれないとされるあの錦木千束が、ただの一般人に恋をしているだなんて。本部の人間が聞いたらどんな反応をするだろうか。

 

「……あの人のどこが好きなんですか?」

「……誰かの為に、頑張れるところ」

 

 たきなにとっては、よく分からない答えだった。

 けど千束のその表情や態度を見て、『ああ、やっぱり好きなんだな』と、こういった感情に左右された事の無いたきなはただフワフワと考えていた。

 千束の、その好意の対象である誉の方へとたきなは視線を再び戻して────彼と、目が合った。

 

「あれ。井ノ上、さん?」

「……っ」

 

 此方の名前を覚えてくれていたようで、ふわりと。

 最初に見せてくれたような、優しげな笑みをたきなへと向ける。不意打ちにも似た感覚で、思わずドキリと心臓が動いたような気がした。

 

「……先程は、どうも」

「いえ、こちらこそ。……と、いうことは」

 

 誉は立ち上がり、此方まで歩み寄ってくる。そうして金網に触れるまで近付いて見下ろすと、たきなの隣りで蹲ってる千束を、誉は見付けた。

 

「……何してんの、錦木」

「っ……あ、やー……はは」

「……偏見だけど、早速井ノ上さんに迷惑かけてそう」

「ちょっとー!どーゆー意味だぁ!?」

 

 誤魔化すように立ち上がって作ったような笑顔を見せる千束に、誉はただ揶揄うような、ニヤリとした表情で微笑む。そのやり取りが楽しそうで、たきなは何も言わずにそれを見つめていた。

 

「あ、ちさとー!」

「おねえちゃーん!」

「おー!みんな久しぶりー!」

「あれ、錦木此処の子達知ってるの?」

「うん、よく来るんだー。そっちは?」

「俺はたまにだけど……へー、そっか。その割には一回も被らなかったよね」

「うひひっ、今回が初めてだね」

「……だな」

 

 そう言って、お互いに笑い合う。さっきまで顔を真っ赤にしていたはずなのに、千束は誉の前で、最初に会った時と同じような嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 

「あ、そうだみんな!新しいお友達の、たきなお姉ちゃんだよ〜!」

「えっ、なっ……」

「そうだな。みんな、たきなお姉ちゃんに挨拶しようか」

「たきなお姉ちゃん!」

「よろしくー!」

「たきなー!」

「おっと呼び捨てがいたな今」

 

 あれよあれよと子ども達が金網越しで集まってくる。その子ども達全員が、此方に満面の笑顔を向けてきていた。

 たきなが戸惑いながらも顔を上げれば、そんな子ども達と同じように笑う錦木と────それを見て、柔らかな笑みを。あの時と同じような表情を浮かべる、誉の姿。

 

 なんだか、不思議な場所で。

 感じた事の無いような、あたたかな空気で。

 たきなはふと、胸がほんの少しだけ熱くなったような気がした。

 

 

 

 

 







子ども1 「ねーねー、おねえちゃんとおにいちゃんって付き合ってるのー?」

千束 「うええっ!?」

子ども2 「それともけっこんしてるのー?」

千束 「ちょ、ちょい、何言ってんの君たち……」

子ども3 「もうチューとかしたー?」

千束 「◎△$♪×¥●&%#〜!?」

たきな (千束さん、こうして見ると凄い分かりやすいな……)

誉 (……今の喫茶店って外回りの営業とかもするんだ。抜かりないなDA。あとで調べよ)←勘違い継続中









【オリ主プロフィール】

主人公 : 朔月(さかつき) (ほまれ)

長めの黒髪に、浮世離れした容姿を持つ少年。17歳。誕生日は9月9日。血液型はAB型RH-。
暗殺部隊に所属してるような経歴は特にない一般人。自分の知らない事を覚えたり、未知の事に挑戦したりするのが好き。
ふらりと寄った喫茶店“リコリコ”の雰囲気と珈琲の味に惹かれて以来、常連に。今ではリコリコのバイトとして常連のお客さんや女性客からの人気が急増中。




────少し前まで病院生活だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.6 I need you like a heart needs a beat.








忘れるなと声がする。刻まれたそれは呪いのように──。



 

 

 

 

 

 

「それじゃあ、私らこっちだから」

「え……あ、そうなのか」

 

 幼稚園から離れた後、千束が誉にそう告げる。片方の手でたきなの制服の裾を摘んで、もう片方の手を彼に向かって振っていた。視線を誉へと向けると、彼は少しだけ考えたように顔を顰めた後、

 

「……仕事?」

「え?あー、うん。そんなとこ」

「それ、俺も手伝ったりできるやつ?」

「っ……」

 

 仕事───と、彼は言った。ただ千束の言葉が確かなら、彼はリコリスとしての我々を知らないはずだ。恐らく十中八九、喫茶店の仕事の範疇だと思っているだろう。

 しかし実際はリコリスとしての裏の仕事……一般人に務まるものでは無い、というより一般人に話すわけにはいかないものだ。

 先程チラリと見るだけだったが、隣りにいる千束は隠し事がそれ程上手く無いように思える。どう答えるのか、それとも此方がフォローした方が良いのかとたきなが思考を巡らせていると、錦木は意外にも笑顔で受け答えた。

 

「だいじょーぶ!たきなにも色々教えないとだし、仕事って程のものでもないから」

「……そっか、分かった。じゃあまた職場で」

「うんっ!……あ、ねぇ、次シフトいつ?」

「え?や、明日開店からだけど……何かあった?」

「んーん、“また明日”って言いたかっただけー」

「……そうですか」

 

 ────私は一体何を見せられてるんだろうか。

 重ねて言うが、我々リコリスという存在は出自と機密性もあって個人の時間が限られている。他の同年代と同じ生活や時間を過ごせてるわけではない。

 何が言いたいかというと、つまるところDAに在籍するリコリスの殆どが恋愛経験の無い女の子であるという事。常に危険と隣り合わせであるが故にそんな感情に振り回されたり、うつつを抜かしている場合では無いのだ。

 

 そんなエージェントのトップとも呼べる存在である錦木千束が、およそ優秀なのかと疑いたくなる程に緩み切った表情を見せているのだ。恋愛感情や経験に乏しいたきなでさえ、明らかにデレデレしているのが分かる。こんなの、他のリコリスに見せられない。

 彼女をそうさせてしまう目の前の彼が、気にならないはずがない。トップエージェントが惚れ込んでしまうのだ、よっぽどの技術か、もしくは何か素質素養、とにかくそういった部分で惹かれるものがあったはず。

 その秘密が分からないかと視線を巡らせていると、再び誉と目が合ってしまった。

 

「……あの、何か付いてます?」

「っ……いえ、何でもありません。すみませんでした」

 

 ペタペタと自身の顔を触り始める誉を見て、たきなは慌てて目を逸らした。一般人に悟られる程、食い入るように見てしまっていたのかと反省しつつ、小さく頭を下げた。

 

「それと、特に敬語は必要ありません。あの店では私の方が後輩ですし、年齢も変わらないでしょう」

「……わ、かった。よろしくね、井ノ上さん。そんな固くならなくても、気軽に話してくれれば大丈夫なんで」

「固いかどうかに関しては朔月くんは人の事言えないよねぇ」

「なんだとぅ」

 

 再びたきなの目の前でじゃれ合う二人。というか、ちょっかいを出しているのは錦木ではあるが、誉も特に嫌そうな感じではない。

 しかし、見れば見るほど一般人という感じだ。千束が惹かれるような才能や特技、素質があるかもしれないという推理は、間違っていたかもしれない。

 そう思っていると、『じゃあ行くね』と千束が告げた。誉もそれに頷いて、手を振りながら此方に背中を向け……ようとして、クルリと振り返った。

 

「じゃあ二人とも、“また明日”」

「────! うん、また明日!」

 

 誉の挨拶に、千束が本当に嬉しそうに答える。それを横目に、再び誉と目が合う。今度は私の番だと、言わんばかりに。

 おずおずと覚束無い右腕がソワソワと上がり、錦木と同じように手を軽く振って。

 

「……また、明日」

 

 絞り出すような声でそう言った。彼は満足したのか、踵を返して真っ直ぐと歩いていく。その背を、錦木は愛おしそうに眺めていて。たきなは、ゆっくりとその腕を下ろした。

 正直、彼からはエージェントとしての素養みたいなものを感じない。話を聞く限り、DAやリコリスに関しても何も知らない様だった。

 

「……本当に、一般人なんですね」

「そう言ったじゃん。疑ってたのー?」

「別に。尚更関わるべきではないと思っただけです」

「何よ急に、朔月くんなんか気に触るような事した?」

「……いえ」

 

 一般人。そう割り切ってみてしまえば、彼は普通に善人に思えた。正直、たきなも同年代の異性と交流があった訳ではない。だから男性がどういうものなのかを理解し切れていない部分もある。けれど、誉は初めて会った時から丁寧な対応をし続けてくれている。

 だからこそ、思ってしまうのだ。

 

「……良い人、なんだと思いました。だからです。今からでも、巻き込まないように距離を置いた方がいいんじゃないですか」

「たきなぁ……」

「そのうち────」

 

 渋る千束を遮るように、これだけは伝えなければと口にする。

 DAにとって。リコリスにとっては、隣りにいたその人が次の日には死ぬなんて事が、当たり前に起こるのだから。

 

「……そのうち、“また明日”が言えなくなるかもしれませんよ」

 

 あれだけ楽しそうに、幸せそうに話しているからこそ、言わなければならない。その日常が続くのが一番だと思うからこその助言であり通告。

 それでも、それを聞いた千束の表情はさほど変わらなかった。

 

「────分かってるよ」

 

 その笑った顔は、どこか今までのと違って見えて。

 

「分かってるから、大丈夫」

「……そう、ですか」

 

 達観したような、満足したような、そんな笑み。

 決して道楽などではないんだと千束の瞳が告げていた。まるで短い間だけでもと、縋るような瞳にも感じてしまって。

 まるでそれが、いずれ終わりが来ると分かっているみたいだったから。

 

「さて!朔月くんも行ったし、お仕事再開しよっか、たきな!」

「……はい」

 

 ────それ以上、千束のその表情の意味を探る事はできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 当たり前ではあるのだが、図書館では常に静寂が漂っている。煩くしてしまえば周りにとって異分子ではあるが、この中に身を置くだけで集中力や感覚が研ぎ澄まされるような気がして、何か覚えたい事がある時は決まって此処に足を運んでしまう。

 

「“珈琲は北回帰線と南回帰線の間(コーヒーベルト)の約70カ国で生産されており、そのコーヒー農園でコーヒーノキの栽培と果実の収穫が行われる”……」

 

 珈琲の歴史をスマホで調べつつ、必要な部分を探しながら読み進めていく。いつか、珈琲に興味を持ってくれた人が現れた時に、歴史からでも教えてあげられるように。

 

「“珈琲は、植物学的には『アカネ科コフィア属』に分類される樹木の種子が原料。商業的に使われるものは『アラビカ種』『カネフォラ種』の2種に限られる”……」

 

 珈琲の商業的価値や種子の種類と特徴を復唱しながら、珈琲の歴史を紐解いていく。珈琲の種類を尋ねられた時に、説明ができるように。

 

「ブルーマウンテン、キリマンジャロ、グアテマラ、コスタリカ……」

 

 コーヒー豆の種類を口ずさみながら、それぞれの味の特徴をメモ帳に書き記していく。珈琲が苦手な人でも、その人にあった味を考えて、提供する事ができるように。

 

(────楽しい)

 

 その青年───朔月誉は、昔から凝り性というか、一度始めると納得するまでどうにも止められないのだ。誉自身でも困ってる部分ではあるけれど、時間を忘れるくらいに没頭できるというのは、暇を潰せて自分の為にもなるし、一石二鳥の性格だなと少し得してるくらいだとも思っていた。

 

 元々インドアというか、外に出ずに本を読んだり勉強したりする日々が主ではあったので、こういった勉学も別に苦ではなく、寧ろ興味があったものを突き詰める事ができる楽しさを感じていた。

 現在目線を落としている本も、たった今読み終わってしまった。

 

(次、は……あー、英語か……いや、そのまま読むか)

 

 本を換えようか迷ったが、そのまま読み解いていく。日本だけではなく外国目線でのコーヒー観がどんなものなのかを感じながら、その場で和訳しメモに記していく。

 他にもロシア語、イタリア語、フランス語……etc、それぞれの言語での教材で机に本の山を作りながら、一つ一つを読み進めていく。

 

 調べれば調べる程に、色んな種類のコーヒー豆があって、それぞれで味や深みが違う事、それによって焙煎の仕方や珈琲の入れ方なども変わる奥深い嗜好品である事に気付かされる。

 これを意図も容易く操るリコリコの店長ミカさんには、最早尊敬の念しか無い。流石ですマスター、と心の中で独り言ちる。

 きっと、あのレベルに達するまでに相当の努力を重ねたに違いない。素人かつ苦いのが苦手な俺でさえ、珈琲を美味しいと感動させてしまうのだから。

 

 ……ただ、チェーン店ってコストとか手際とかも考えて普通はドリップマシンとかコーヒーメーカーとかの機械での抽出が主だと思っていただけに、人が手ずから抽出するというのは珍しいのではないのだろうかと思ってしまう。その人の力量や技術で味の全てが変わると言っていい。DAってまさか優秀な人材が豊富なのでは。

 もしも自分がこれらの知識を持って、経験を重ねて、そうして珈琲を淹れる事ができたら、ミカさんの淹れる珈琲みたいに、飲んだ人が笑ってくれるようになるだろうか。

 

「……」

 

 

 錦木も、また笑って飲んで────

 

 

(っ……いや、何考えた今)

 

 一瞬、初めて自分の淹れた珈琲を楽しそうに飲んでくれた錦木の表情を思い出した。あんな付け焼き刃で、それも生まれて初めて淹れた珈琲を、あんなに楽しそうに、嬉しそうに飲んでいた彼女の顔を、実は今でもふと思い起こす事がある。

 

「……錦木はついでだ、ついで」

 

 あくまでも二の次だ。まずはミカさんとミズキさんに飲んでもらおう。そう心に決めた瞬間に、錦木の『なんでー!!』という声が脳内で響いたような気がして、誉は小さく微笑んだ。

 近くに居ない時でさえ此方を振り回し始めてきている事実に、彼女の破天荒さが見えた気がした。いてもいなくても、喧しい奴。先程別れたばかりだというのに、まだ近くにいるような気がする。

 

(あ……あと、井ノ上さんにも)

 

 あの後、幼稚園で別れて錦木と井ノ上はそのままどこかへと向かってしまった。恐らく外回りの営業───と誉は思っているのだが。

 何はともあれ、新しい仕事仲間が増えた事に関しては、誉としても嬉しく思う。ましてや同年代だ、仲良くやれればいいなぁなどとフワフワ考えていると。

 

 物音しない静寂の中で、パラパラと紙をめくる音だけが耳に心地好く残り────

 

「……っぶね、寝るとこだった」

 

 いつの間にか目蓋が重くなっていて、ページが一向に進んでなかった。ふと時計を見ればこれから夕飯の準備を始めてもおかしくない時間帯だった。辺りを見渡せば、残っている人は殆どいない。

 

「……帰るか」

 

 随分と長い事此処に居たらしい。毎度の事だが、集中し過ぎるとついつい時間を忘れてしまうのだ。筆記用具とメモ帳をリュックに仕舞い込み、慌てて図書館の入口へと向かう。

 すると、カウンターに腰掛けていた女性職員と視線が交わる。その人は、此処に来るようになってから何度か顔を合わせている人だった。

 

「いつもご利用ありがとうございます」

「あ、はい。今日もお邪魔しました」

「今日は珈琲の教材を読んでましたよね。それも色んな言語……凄いですね」

「へ……ああ、ありがとう、ございます……?」

 

 最近、顔といい色んな場面で褒められるな……そんなに煽ててみんな何が狙いなんだろうか。そのうち何が要求されるのではと震えてるまである。

 ただ昔に勉強する機会があっただけなのだが、そんなに褒められると自信が付いてきてしまう。なんとなく嬉しくなり、つい職員に感謝の気持ちを伝えるべく頭を下げた。

 

「珈琲の事調べてるの初めて見ましたけど、好きなんですか?貸出も全然できますけど……」

「あ、大丈夫です。もう覚えたんで(・・・・・・・)

「覚えたって……あの量の本、全部……?」

「はい。ありがとうございました。また来ます」

 

 誉は、ただ踵を返して図書館を後にする。

 司書は、なんとなく彼の言動に違和感を残しつつも、滞っていた作業に戻るのであった。

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 外に出れば、もう既に日が傾いており、寧ろ夜を迎え始めていた。まだ外は冷える時期であり、両腕を擦りながら歩道を歩く。普段なら電車か自転車なのだが、今日は午前中の天気が良かった為歩きを選択していた。

 本来なら、お店に顔を出して勉強する予定ではあったのだが、偶にはこういう休日も存外悪くない。リコリコに出会う前は、毎日こんな過ごし方をしていたような気がする。

 

「……今からならリコリコ戻っても平気かな」

 

 時間も時間だし、錦木達の外回りも流石に終わっているだろう。集客目的でリコリコの広告塔として歩き回る錦木と井ノ上には頭が上がらない。

 リコリコってそんなに経営状態悪いのだろうか、とか無粋な事を考えてしまったりもするが、朝会った時に錦木が楽しそうだったので、まあいいかと軽く流していた。

 

「……」

 

 ────なんとなく、胸を掴む。

 心臓は変わりなく、安定的に脈を打ってくれている。視界も良好で、頭も痛くない。呼吸が苦しいなんてことも無い。至って健康そのものだ。

 軽く息を吐いた。安堵の息か、肩の荷が降りたような気分。峠を一つ超えたかのような達成感。力が入らなかった身体の細部までもが、今は回復し切っている。

 手のひらを広げたり、閉じたりを繰り返し、

 

「……ん。なんともない。普通に健康体」

 

 そう自分に言い聞かせるように呟いた。

 実際、今は普通に元気である。ただ、最近運動をまったくしてこなかっただけに、少し歩いただけでも疲労が溜まるというだけ。

 やはり、常日頃から運動はしないと身体に良くないな。これからは歩いてリコリコまで向かう頻度を少しずつ増やしていこう。そう心に決めつつ、住宅街に入った時だった。

 

「こんばんは」

「あ、こんばんは」

 

 ふと視界端に、年上っぽい眼鏡の女性が歩いてきているのが映った。知り合いでもなんでもないのだが、すれ違ったら会釈をするのは誉の信条みたいなものだった。彼女も此方に反応してくれて、同じように小さく頭を下げてくれる。

 お互いにすれ違い、特に何も無くそこを後にした。

 スマホを取り出して、帰路へのルートをなんとなくマップで調べながら、近付いてきたワゴン車が通りやすいように道を開ける。こういう狭い路地だとああいう大きめの車は通りにくいよなぁ、なんてフワッと考えた時だった。

 

「っ、きゃあああっ!」

 

「……“きゃあ”?」

 

 すぐ背後から聞こえる、車の扉の開閉音。

 そして、つい先程聞いた気がする、甲高い女性の声に、誉は思わず振り返った。

 そこには、

 

「動くんじゃねぇ!ジッとしてろ!」

「ンンッ、ン────!」

 

 ────たった今すれ違った女性を麻袋に入れ、ワゴン車の中に押し込もうとする、ツナギでグラサンで金髪のヤベー男が居た。

 生まれてこの方見た事の無い光景に、誉が一瞬固まってしまったのは仕方が無い事だった。

 

(────っ、えっ、は、なにやって)

 

 誉は身体の向きを反転させ、ワゴン車に向かって駆け出す。彼が何をしようとしてるかなんて、一目瞭然だった。女性一人を拉致、誘拐。何が目的かなんて言うまでもない。

 一対一なら、勝機はあるか────?いや、考えてる場合じゃない。連れ去られる前に何とかしなければ。くそ、間に合え。

 その男が暴れる女性を無理矢理車に押し込んだのを視認しつつ、車に乗ろうとしたその男の腕をなんとか掴む。

 

「おい、何してんだっ!」

「な、なんだお前!」

「おい、ガキに見られたぞ!」

「えっ……うわ、めっちゃ人いる」

 

 男性の声が車の中から複数。恐る恐る、男から車へと視線を傾けると、同じくツナギでグラサンと男が一、二、三、四……おいおいなんだよこの数は……。

 思わず、気の抜けたセリフを零してしまった。そんな場合じゃないんだけど。

 というか、この人数は流石に想定外────

 

「くそっ!おい、そのガキも入れろ!」

「は、えっ」

「おらっ、こっち来い!」

「やっ、ちょ」

 

 ヤバい、此方も対象らしい。

 くそ、コイツら男でも女でもイける口か。マズイ捕まる、貞操の危機だ。説得して分かってもらうしかない。

 

「早くしろ!」

「無理です!LGBTに理解ある方ですけど俺自身はノーマルなんで!」

「何勘違いしてんだテメェ!良いから来い!」

 

 あれよあれよと車に押し込められ、扉を締められる。車の中の一人に両腕を後ろで抑えられ、その痛みで表情を歪めた。

 目の前には、麻袋に詰められ上半身が隠れた女性の姿。位置は良く分からないが、恐らく頭部であろう箇所にはもう一人の男が拳銃を突き付けつつ、もう一人が女性のバッグを漁り始めている。

 

「……それって銃刀法違反じゃ」

「うるせぇ!黙ってろ!」

 

 ……や、スルーしてたけど何故コイツ拳銃持ってんだ。日本では銃なんてそもそも手に入らないぞ。というより、男が女性を拉致する理由なんて一つしかないと思っていたが、もしかして別の目的か?でなければ銃なんか使う理由がない。

 バッグ漁ってるし、金目のものが目当てなのか?なんとか聞き出すか?それとも、説得してみるか?

 

「……あのさあ、女性一人を四人でって悲しくならない?それもグラサンにツナギって何そのカッコ、ウケんだけど。仕事帰りに犯行に及んでるの?」

「黙ってろって言ってんだろぉ!?」

「痛い痛い痛い!腕!変な方向に決まってるから」

 

 くそ、コイツら取り付く島もないな。女性一人に対しては四人体制の癖に俺を捻るのは一人で十分とか心外過ぎる。と、舌打ちしていると目の前の男が女性のバッグからスマホを取り出してホーム画面を開いた。

 ちょ、コイツらプライベートってかプライバシーの侵害だぞそれ。もしかしてそのスマホの中身が目的?……女性一人のスマホ見る為に四人がかりってなんか……うん。

 

「写真あったか!?」

「ありました!」

「さっさと消せ!写真は他には拡散してないか!?他には撮ってないか!?」

「っ、どうなんだっ!?」

「────!?────!!」

 

 “写真”……?それが奴らの目的なのか。いや、それどころではない。

 女性に再び銃が突き付けられるのを見て、誉は勢い良く後ろに向かって飛ぶ。自身の腕を固めていた男性の背を思い切り背後の扉に打ち付けてやる。

 流石に黙ってられない。拳銃突きつけて脅すような奴らに、屈する訳にはいかない。

 

「ぐぁっ……!テメェ……!」

「なんだよ、女性一人拉致すんのに四人もいないとできないような腰抜け共怖がりゅと思ったのか?」

「噛んでんじゃねぇか」

「言うなよ恥ずかしい。ゴメン、もっかい言い直して良い?女性一人拉致すんのに」

「うるせぇよマジで」

 

 ダメか。時間稼ぎにもならないっぽいです。

 しかし車は止まったまま進んでないから、このままこの停車に違和感を抱いてくれる人が近くを通ってくれれば、警察に連絡をしてくれるかもしれない、今自分にできる事は、彼らが逆上し女性を殺さないよう、ヘイトをこちらに向けさせられればと思ったのだが────と、その瞬間。

 目の前で、銃口を突き付けられていた。女性に突き付けていたその銃を、今はこちらに向けている。

 

「テメェに用はねぇんだ、暴れんじゃねぇよ。殺すぞ!」

「……それ、脅してるつもり?悪いけど、死ぬのなんて怖くないよ」

 

 ────殺す。

 嫌に生々しいその言葉に、ドクリと心臓が音を立てる。その一言を耳にした瞬間、死のイメージが脳裏に焼き付く。自分の中で思い描いていた、死という概念が脳を支配していく。

 そのトリガーに、指がかかる。その指先と筋肉の動き、サングラス越しの視線がよく見える。どのタイミングで撃つのか、あと何秒後か、どこを狙おうとしているのか、研ぎ澄まされる集中力の中で奴の一挙手一投足を見逃さない。

 殺せるもんなら、やってみろ────そう、瞳で訴えたその時だった。

 

 ────パリン!

 

 前方から、何かガラスが割れるような音。左を向けば、車のフロントガラスが波状のようにヒビが入っていた。

 続いてもう一箇所、砕け散るような音と共に再びフロントガラスに穴が空く。蜘蛛の巣のような形で広がっていく。

 

「ぐわぁ……!」

「なっ……!?」

 

 犯人のうちの一人、運転手が急に肩を抑え出す。思わず視線を向ければ、肩から夥しい程の血が吹き出していた。

 突然の出来事にわけも分からずに固まる誉。しかし、外から僅かに聞こえる音と窓ガラスの割れ方、そして目の前の男が肩を貫かれている事実に、一つの結論が導き出せる。

 

「……発砲?」

 

 ────この感じ、音はしないけど銃撃か?

 

 

『取引した銃の所在を言いなさい!』

 

 

 ……外からなんか聞き覚えのある声したんだけど。

 

 

 

 

 










誉 「大体、何の目的でやってるのこれ、女性目当てじゃないならお金?君たちお金の為にこんなことやってるの?なんか可哀想だなぁ。俺なんてこの前宝くじ当たっちゃってさ、良ければあげようか?ほらこれ、三千円当たったの」

グラサン1 「要らねぇよ!」

グラサン2 「バカにしてんのか!?」

沙保里 (な、なんか犯人と仲良さげじゃない……!?共犯!?共犯なの……!?)









目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.7 The course of true love never did run smooth.









大切だから黙ってたんだよ。それは嘘とは違うんだよ。





 

 

 

 

 

 

『取引した銃の所在を言いなさい!』

 

 間断無く、際限無く、フロントガラスが飛び散る音がする。その度に、今外から発砲されているという事実を理解していく。

 車の中で、女性を拉致しようとしていたサングラスでツナギの男性四人は、突然の発砲で戸惑いを隠せぬようで、混乱状態が続いていた。

 

「ムチャクチャ撃って来るぞ!」

「……ほんとそれな」

 

 彼らに混じりつつボソッと呟く。ぶっちゃけ俺にとって、拉致も銃で撃たれるのも初めての経験過ぎて、対処法がまったく思い付いていなかった。グラサン四人は、自分を拘束していた奴も含めて銃弾から逃れるように身を伏せっている。

 

「なんで取引のこと知ってんだ!」

「乱射してるなぁ……被弾したらどうしよ」

「武器商人を皆殺しにした奴じゃないっすか……?」

「何なんだよ……!」

「ホントにな。……うわ、今(かす)った気がしないでもない」

「お前ちょいちょい会話入ってくんのやめろ!」

 

 怒られてしまった。けどなんだろう、やり取りを通じてなんとなく仲良くなった感。仲良し仲良し。

 絆されたようなら、女性を解放してもらおう。

 といっても、最早コイツらが悪人なのか、外から撃ってる奴がヤバいのか、もうどっちなのか分からな……や、どっちもヤベー奴らだな。

 

 ただ、撃ってきている奴は『取引した銃の所在を言え』と確かにそう言った。……いや、聞き覚えのある声だった気がするが、取り敢えずそれは置いておこう。

 話だけ聞くと、あちらとしては銃の回収が目的で、此処にいる彼らがその在処を知っているという確信があっての行動のようだった。

 

「なあ……外の人、アンタらが持ってる銃のこと言ってんじゃない?車ん中だと一方的に撃たれるだけだし、もう白状して渡しちゃえば?」

「そんなわけにいくか!てか、さっきからうるせぇよ!」

「テメェ関係ねぇだろ!なんも知らねぇなら黙ってろ!」

「え、聞けば教えてくれた感じ?マジかゴメン気ぃ利かなくて。えっ、じゃあ銃取引って何のことか教えてくれ」

「そんな場合か!」

「コイツヤベェ!」

 

 何故か叫ばれた。君らに言われたくないんですけど。というより、今なお外から乱射してる奴の方が明らかに怖いでしょ。このままじゃ捕まってる目の前の女性にまで銃弾が当たりかね────おう、今ガチで鼻先掠めていったんですけどヤバ。

 

「仕方ねえ……おい、この女人質にするぞ」

 

 助手席に座っていたリーダー格が、とんでもない事を言い始めた。そんな事させるわけには───慌てて体勢を立て直して助手席に近付く。

 

「え……や、情けなっ。四人もいて女性一人を人質にしてどうにかしようだなんて、犯罪者の風上にも置けないよ」

「コイツ何言ってんだ」

「今出てけばあっちも悪いようにはしないと思うぞ。ほら、俺も一緒に謝ってやるから」

「どの目線で言ってやがんだ」

「とにかく、写真とやらを消したんなら早くその人を」

「この女がどうなっても良いのかぁ!!」

「おい聞けよ」

 

 ダメだった。

 既に拘束は解かれてる。だが迂闊に外にも出れなかったので、仕方無く車の中に閉じ籠っていたのだが……男が人質がいると叫んだ途端に、先程までのフロントガラスを貫く音が消失した。

 

「……おい、銃声が止んだぞ」

「今のうちだ、出ろ!」

 

 その男の指示を皮切りに、各々が車の扉を開け始める。

 は?何故?外の奴らが人質の件で叫んだ途端に撃つのを止めたという事は、人質が奴らにとって有効であるという事。その割にはバンバン撃ってたが……とにかく、救出する意思があるかもしれないという事だ。

 なら、このまま人質ごと車で移動すれば簡単に撒けるのでは……と思ったのだが、扉から僅かに顔を出して見れば、なるほど、どうやら前のタイヤが銃弾によりパンクしてしまった様だった。

 それに、彼らも人質が有効なのだと理解したのだろう。つまり、身動きの取れなくなった奴らを始末しようという腹積もりなのだ。

 

「お前は此処にいろ。動くんじゃねぇぞ」

「……」

 

 左のドアからは金髪のグラサンが銃を此方に突きつけながら、ゆっくりと車を降り始める。右のドアからはもう一方の男が、麻袋で上半身を覆われたままの女性を抱き、人質として活用するべく一緒に降りる。

 不用意に近付けば彼女を殺されかねない。舌打ちしつつも、車で待つしか無かった……が、ふと目の前で肩を抑えている運転手に視線が傾いた。苦しそうに表情を歪める彼を見て、思わず後部座席から近付いて鞄を開いた。

 

「お、おい……何するつもりだ……!」

「ちょっと待ってな。……えと、絆創膏‪じゃ流石に無理だよな……包帯とかあったかな……」

「な、何を……」

「何って……応急処置くらいはしないと、出血多量で死ぬぞアンタ。……ああよかった、タオルがあった」

 

 買ったばかりで、まだ一度として使った事が無かった真っ白なタオル。躊躇いなく運転手に近付いて、そのタオルで彼の傷口を抑えつつ、グルグルと縛り始める。

 

「うっわ、凄ぇ血ぃ出てるじゃんか……グロ……」

「……し、死にたくねぇ……」

「死なせないよ。……ん、弾は抜けてるな。良かった」

 

 しかしながら酷い傷だ。外の奴、容赦無く撃ってきたもんな。ツナギを僅かに脱がせて肩を露出させ、先程自動販売機で購入した天然水のキャップを回す。

 

「これ、まだ開けてない水だから安心して。一回傷口洗うから」

「な、なんで……俺達、お前を巻き込んで……」

「別に理由なんて無いけど……もうまったく知らない仲じゃないし。死なれたら“気分が良くない”。それだけだよ」

 

 何時何処(いつどこ)に居ようとも、誰に何をされようとも。

 それは今の自分にとって、大切な時間である事に変わりない。善人だろうと悪人だろうと、関わった全ての人と、関わった時間はかけがえのないもの。

 だから、理由や経緯がどうあれ自分に関わった人が目の前で傷付いてしまうのは、気分が良いものではなかった。

 

「くそぅ……なんでこんな痛ぇ目にあってんだ……この後、普通に帰って酒飲む予定だったのによぉ……」

「自業自得だろ、悪さするからだ……で、お酒は誰と?」

「……俺達、四人でだ」

「へぇ……プライベートでも仲良いんだ。良いね」

 

 俺友達少ないから羨ましい、と独り言ちてタオルを思い切り縛って結ぶ。流れる血の量が段々と少なくなっていき、再び水で傷口を洗っていく。

 

「……手際が、いいんだな」

「ホント?ありがと。実は医者目指してた事あるんだよね。他にも弁護士とか警察とか、科学者とかさぁ」

「……何になるのか、決まったのか……?」

「いーや全然。やりたい事ばかりで困っちゃうよ。まあ、全部やるような時間も無いけどね」

 

 誤魔化すようにして笑う。

 実は宇宙飛行士になろうと思った事もある。それに今でも、努力次第で何にでもなれると思っていた。夢が多くて、それこそ子どもみたいに。

 だから────

 

「ぐああっ!」

「……っ」

 

 すぐそこで銃声が響く。想像以上に至近距離から音が伝わり、思わず肩が震えた。今上がった奇声は、助手席に座った赤毛グラサンの声だった。

 まさか撃たれた?そう考えた瞬間、再び銃声が響き渡る。今度は連射、六発分。チラリと助手席を覗くと、扉付近で項垂れる赤毛グラサンの姿が。

 

(っ、まさか、殺され────)

 

「ぐうっ……!」

「あああ!!」

 

 考える間もなく、再び銃声。今度は後方だった。

 思わず振り返れば、ガタイのいい男二人のシルエット。右腕を伸ばし、銃を突き付けて、連射しているのが影の動きだけでも分かる。しかし、その片方がすぐに身体を後方へと仰け反らせた。恐らく、奇襲に来た人物に撃たれたのだ。

 相手は、先程銃取引がどうのって言ってた人物だろうか。や、どちらにせよ此方を攻撃している。敵意があるという事。

 

「……っ」

 

 悪人ではあったし、短い間ではあったけれど、自分の生きる時間の中で関わってきた人達。

 今の銃撃戦、攻防の中で。もしかしたら、目の前にいる運転手以外はもう既に────

 

「……ゴメン、ちょっと銃借りますね」

「お、おい、何を……」

「牽制に使うだけ。殺したりしないから」

 

 運転手の懐にあった拳銃を引き抜く。使い方はまったく知らないが、知る必要もない。これを向けて少しでも牽制になれば、話し合いの場を持たせる事ができれば。

 

(────来た)

 

 そのシルエットが、ワゴン車の右側から迫ってくる。窓ガラスが暗くて見えないが、思ったより華奢な様だ。後部座席に座る此方を通過して、運転手のいる前席へと迫る、その瞬間。

 思い切り、誉は扉を開けた。勢い良く、思い切りの良い開閉音。そのままシルエットの行先へと銃を向け、相手も此方の音に気付いて銃を向けて────

 

 

「っ!……え」

 

「────は?」

 

 

 ────お互いに、その動きが止まった。

 

 

「え……朔月、くん?」

 

「……錦木?」

 

 

 銃を突き付けた相手は。銃を向けてきた相手は。

 自分がよく知る、行きつけの喫茶店の看板娘だった。

 黄色がかった白髪のボブカット、赤を基調とした制服。その組み合わせに凡そ似合うわけが無いハンドガン。その物的証拠が、明らかにワゴン車の彼らを襲った張本人であると示唆していた。

 

 ────錦木、千束。

 

「え、ええ?な、なんで、此処に……?」

「……こっちのセリフだ。さっきの乱射も錦木だったのか……あ、いや」

 

 銃取引がどうのって叫びつつ乱射していた声の主も、確かに聞き覚えのある声だったが、錦木のものではなかったと思う。

 つまるところ、消去法で残っているのはたった一人。思わず、というか自然と、錦木のいる方向と逆へと視線を向ければ。

 

「────井ノ上、たきな」

「っ……朔月さん、どうして」

「そこの女の人助けようとして、巻き込まれたんだけど……」

 

 そこには拘束されたツナギのグラサン男と、女性を麻袋から解放し、此方を見て目を丸くする井ノ上たきなの存在だった。

 この二人が、銃を使って彼らを制圧した張本人……状況が意味不明過ぎて、過剰に驚く事もできずに押し黙ってしまう。錦木もやってしまったと言わんばかりの表情で、此方が何も言わないからか、焦ったような表情は変わらない。井ノ上さんも、なんだかバツが悪そうな表情を作っていた。

 

 ────ああ、もしかして俺には知られちゃいけない事だったのか、と感覚的に理解した。

 

 車から降り、ワゴン車の後ろへと小走りで向かう。そこには、気絶したまま拘束されたツナギの男が二人項垂れていた。特に近付くでもなく、呼吸があるのは感じ取れる。

 

(────よかった、生きてる)

 

 それだけで、ホッと安堵の息が漏れた。後ろをついてきた錦木へと振り返ると、彼女はビクリとその表情を固める。

 

「……殺さなかったんだな」

「う、うん……みんな生きてるよ。“命大事に”、が信条だから」

「……そっか、良かった。良い信条だな」

「っ……」

 

 錦木が何故か頬を赤くする。それを尻目に、持っていた拳銃を離れた所へ軽く放った。

 それを目で追っていた錦木だったが、ふと我に返ったように此方に駆け寄ってきて。

 

「そ、それより朔月くんは?怪我とかしてない……?」

「……俺は大丈夫。目に見えた怪我は運転席の人だけみたいだし、良かったよ」

「……相変わらず、他の人最優先だね」

「銃撃つ音が凄まじかったから、誰も怪我してないと良いなって思っただけ」

「うっ……や、それは……」

 

 申し訳無さそうに表情を歪める。俯くその顔を見て、すぐには言葉が見つからなかった。少し皮肉っぽくなってしまったが、いきなりの事で理解が追い付かないだけに、いつもの軽口で場を和ませようと思っただけだったのだが……。

 ただ、犯人達に犠牲者が出なかった安堵も勿論ではあるが、何より。

 

「まあ、でも……錦木が誰も殺してないって知って、それが一番安心したかもな」

「────っ」

 

 こんな、ただの女子校生が拳銃片手に男性四人を蹂躙だなんて、その話自体がそもそもどういう事なのって状況ではあるし、人殺しをしているなら尚更ではあった。

 彼女達が自分の知らないところで何をしているのか、何が目的なのか、何故拳銃を持っているのか、分からない事が多過ぎて混乱はしているけれど。

 

 ────ただ、俺が知らない“拳銃を持つ錦木”も、俺の知ってる“他人に優しい錦木”で居てくれた事が、何よりも安心したし、それが嬉しかっただけだった。

 

「……錦木?」

「っ……ちょ、無理。今こっち見ないで」

「は?え、何急に」

「いいから見んなっ!」

 

 改めて錦木を見上げてみれば……って、コイツ最近すぐ顔赤くなるよな。

 というか、そんなん気にしてる場合じゃない。この状況をどうにかしなければ。

 

「それより、この現場誰かに見られたら最悪だぞ」

「ああ、大丈夫。クリーナー呼ぶから」

「……くりーなー?」

 

 何ぞそれ。ってか違ぇよ。

 普通に流してたけど、君達二人チャカ持って何してるの?銃刀法違反……ってこれ言うの二回目なんだけど。

 錦木は、恐らくクリーナーとやらに電話を掛けてここの片付けを依頼している最中、井ノ上さんは拉致られていた女性に抱き着かれながら、錦木と此方を眺めている。

 

「……」

 

 ────聞いても、大丈夫なのだろうか。

 というより、自分には知られないようにと隠していたのだろうか。であれば、こうして目の当たりにしてしまった俺は、何かしらの処分や証拠隠滅という名目で消されたりするのだろうか。

 井ノ上さんがさっきから凄い視線でこっち見てるんだけど……『彼、始末しなくて良いんですか?』とかって考えてたらどうしよう。恐怖で震える。

 そうなると、井ノ上さんの配属理由に関しても、聞いた話の解釈がまったく違うものかもしれない。

 

「DAとかリコリスとかって……こういう事か」

「っ……聞いてたんですか」

「チラッとだけ。てっきりリコリコの法人名かと思ってた……リコリスっていうのはスタッフの隠語かと」

「……なるほど」

「あ、今ちょっと笑ったでしょ」

「笑ってないです」

 

 

 

 

 

 ────その後、クリーナーとやらが犯人や周りの損傷、車などを片付けてくれるのを見届け、被害者の女性である篠原沙保里さんを送り届けた後、近くの公園で簡単に彼らの事情を聞く事ができた。

 

 喫茶店リコリコは、あくまで表向きの仕事。実際は、DAというテロリスト等の犯罪者を暗殺することでテロや犯罪を未然に防ぐ治安維持組織だという事。

 国を守る公的機密組織であり、政府に協力するが、警察などの機関と異なり独立した特権を有するエージェント───それがリコリスであるという事。

 

 リコリスとは銃器を用い犯罪者を処分することを任務とする、DAの実働部隊員で、犯罪を未然に防ぐための殺人が許可されているという事。

 女子校生の制服を着るのは、そういった犯人や組織に存在を悟られないようにする為の迷彩代わりであるという事。彼女達が────孤児であるという事。

 

 それだけ聞いたら、もう充分だった。

 

 つまるところ、喫茶店はDAの支部であり別に複数店舗(チェーン)でもなんでもなく、リコリスはスタッフの隠語とかでもなく、千束はホスピタリティ溢れる接客で本部から評価されてる訳でもなくて、井ノ上さんが本部に戻りたいのは俺が考えてた理由とは全く違っていた。

 DAも別に株式会社でも有限会社でも合同会社でも組合でもなんでもなかった。

 

 つまり、自分はとんだ勘違い野郎だった。恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、どうしてか。

 あまり、驚かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「……ったく、イチャついた写真をひけらかすからこんな事になんのよっ」

 

 先日のストーカー事件の被害者───篠原沙保里が拉致される理由となった、SNSに投稿された彼氏とのツーショット写真を睨み付ける様に見つめた後、ミズキはそう悪態を吐きながらスマホを千束に返した。

 

「僻まない」

「僻みじゃねーよ!SNSへの無自覚な投稿がトラブルを招くって言ってんのよ!ってか、どうせアンタだってホントは羨ましい癖にぃ!」

「はあっ!?べ、べっつに全然羨ましくなんてないんですけどぉ!?」

「声が裏返ってんのよ!」

 

 相変わらずの喧嘩を尻目に、ミカは千束からスマホを受け取る。

 彼女が拉致される原因となった写真の背景には、以前DAからの依頼があった銃取引の現場が写っているとの事で。

 

「……何処だ?」

「ん〜?ああ、ここ」

「……あの日か」

「三時間前だって。楠木さん偽の取引時間掴まされたんじゃなあい?」

 

 銃取引の現場を抑えようとしたあの日、その時には既に銃千丁近くが存在しなかった。武器商人がいた事を考えると、既に取引自体が終了していた可能性がある。

 つまるところ、DAが掴んだ情報に若干の差異があった可能性が浮上していた。

 

「その女襲った奴らはどーしたのよ?」

「クリーナーが持ってった」

「アンタ、またクリーナー使ったの!?高いのよぉ!?」

 

 クリーナーとは、犯罪の被害に遭った現場の修復や、負傷した犯罪者の回収を仕事とする業者である。しかし、高額の依頼料を支払う必要があり、喫茶リコリコの経営を圧迫する一因になっている事もあり、千束が利用する度にミズキが頭を痛めている。

 

「DAに渡したら殺されちゃうでしょー?それに……朔月くんもそれ聞いて安心してくれてたし」

「……ホントにもうベタ惚れよねぇ。そのうち貢ぎ出すんじゃないの?」

「そんなんじゃないですぅ!殺されちゃうのが気分良くないだけですぅ!」

「じゃあなんで今朔月くんの名前出したの教えなさいよ〜!?」

「うっ……るさいな呑んだくれぇ!」

「やんのか小娘ぇ!」

「やめろ二人共」

 

 いつも通りの喧嘩も、誉が絡むと激しい事この上ない。口では否定寄りでも、最近千束も彼への好意を隠さなくなってきた分、感情が表に出やすくなってきている。良い事なのか悪い事なのか分からないが。

 

「とにかく!DAも此奴ら追ってるんなら、先に私達が見つければ、たきなの復帰も叶うと思います!どう思うたきなー?」

「────やります!」

 

 勢い良く店奥の扉が開いた。そこには、喫茶店リコリコの衣装である和服を身に付けたたきなの姿が。

 基調としたイメージカラーは青。そして、いつものロングストレートではなく、左右に縛ったツインテール。

 見た瞬間、千束が目を輝かせながら立ち上がり、たきなへと飛び付いた。

 

「お?うおっほお〜!か〜わ〜い〜い!なになに、ちょ、ヤバい!写真撮ろ!ほらほら、ミズキも先生ももっと寄って!」

 

 千束を中心に、たきなとミズキ、そして後ろのミカを合わせての集合写真。撮影した瞬間に、千束は嬉々としてその写真を店のSNSへと投稿する。

 それを見たミズキはお酒を片手にジト目で千束を見つめて溜め息を吐いた。

 

「君はさっきまでの私の話を聞いてなかったのかな?SNSへの無自覚な投稿が」

「大丈夫だって、ここには向かいのビルも無いし。……ホントは、全員で撮りたかったんだけど」

 

 ────ボソリと、独り言の様に呟く。

 その一言に、たきなもミカもミズキも、表情を変える。思わず千束の方へと視線を集めれば、彼女のその笑みは、何処か悲しげに見えた。

 彼女の視線が、ゆっくりと店の入口へと向かう。いつもその扉から、客の時も働き出した時も、変わらず顔を見せてくれていた存在。

 いつも、開店前余裕を持って来てくれるというのに、まだ姿が見えない。

 

「……やっぱり、来ないよね」

「……仕方無いですよ。此処で働き続けても、あの人にとっては危険なだけです」

「そう、だよね……」

 

 昨日、DAとリコリスの存在を、そして喫茶店リコリコの裏の仕事のことをほぼ全て説明してしまった。機密ではあっても巻き込んだのは此方で、たとえ一般人であれ説明しなければならなかった。

 

 けれど、話せばきっとこの関係が終わってしまう事も、千束には分かっていたはずだった。バレればきっと、彼はお店から離れていく。命の危険と隣り合わせで、関係者なのだと認識されれば命を狙われる危険だってあった。

 彼を巻き込む可能性があったのはこれまでだって変わりはなかったけれど、知られてしまえば、そこから先どうするのかは彼に選択する権利があった。

 でも常に死が近くにあると知って、その先人がどんな行動をするかなんて決まっている。だから彼も、此処には来ない。

 分かっていた。彼は、自分達とは関係の無い一般人だ。

 

「……千束」

「私は大丈夫。そんな顔しないで先生」

「すまなかった。彼をお店に誘ったばかりに」

「ちょ、やめてよ先生、どうして謝るの?私は凄く嬉しかったし、楽しかったよ?」

 

 ────それに、人並みに“恋愛”をする事ができたし。

 

 そう、言外に伝えているような気がして。ミカとミズキは少しばかりその表情を歪めた。彼女の短い人生の中で、彼女のリコリスとしての限られた時間の中で、彼との出会いが千束の世界に彩りを与えてくれた。

 あんな千束は初めてで、だからこそミカは例外的に誉を招き入れようとしてしまった。バレるのは時間の問題とも思っていたし、隠し通せるものとは思っていなかったけれど、千束が生きている間だけでもと願っていた。

 こんな事なら、以前のようにお客さんとして誉が来るのを心待ちにしているだけの千束の方が幸せだったのではないかと、たらればを考えてしまった。

 

「あ!ほらお客さん!練習通り!」

「は、はいっ」

 

 ガチャリと、鈴の音と共に扉が開く。

 千束はたきなと並んで、笑ってお客さんを待ち受けた。

 気持ちを切り替えなきゃと自分に言い聞かせるような。

 気にしないと言わんばかりの満面の笑みで出迎えて、

 

 

「「いらっしゃいませ!」」

 

「あ、おはようございます」

 

 

 ────普通に誉が表口から入ってきた。

 

 

「え……ええっ!?」

「朔月さん……どうして」

 

 ミカもミズキも、そしてお客さんだと思って待ち受けていた千束とたきなも目を丸くして誉を見つめていた。誉はなんぞやと首を傾げた後、納得したように手を叩いた。

 

「……ああ、紛らわしくてゴメン。表口だとお客さんだと思うよな」

「そうじゃねぇよ」

 

 ミズキの秀逸なツッコミ。「え?」とか言って本当に何も分かってないのか、惚けたような表情の誉に、千束は慌てて近付いていく。

 

「え、な、なんで……」

「……ああ、お客さんとして来てた時の癖でさ、つい表口から入っちゃうんだよね」

「そうじゃなくて!なんで来たの……?」

「え?なんでって……普通にシフトだったし」

「そ、そうでもなくって!昨日の事があったのに……」

「それは仕事サボるのとは関係無いだろ。知ってる?無断欠勤すると転職とかで後々不利に」

「バイトじゃん」

「やっぱさ、常日頃から意識しといた方が良いと思うんだよね」

 

 いつも通りの誉に、一同は混乱を隠せないでいた。千束に関しては、まだ不安を拭い切れずに、戸惑いで瞳を揺らしていた。

 それを見た誉は少しだけ視線を逸らした後、千束に向かって優しく微笑んだ。

 

 

「……“また明日”って、言ったろ」

 

「────!」

 

 

 いつも、最後に交わす挨拶。

 千束だけじゃない。それは、誉も大事にしている言葉でもあったのだ。それをこの場の誰も知りはしないけれど。

 

「ミカさん」

「!」

 

 その場に立ったまま、誉はミカを見つめる。柔らかい表情のまま、けれどその眼差しが真剣そのもので、ミカはただ彼の次の言葉を待ち受けた。

 

「……俺は、大丈夫です。だから、その……これからもよろしくお願いします」

 

 軽く頭を下げ、懇願するような声音で。此処に居させて欲しいと、そう言ってくれた。それを見て。

 此方の都合と我儘で働いてくれているというのに、彼からその言葉を聞いて、ミカ自身も込み上げてくるものがあった。

 

 頭を下げる誉の隣りで、千束が同様にミカを見つめる。縋るような、願うようなそんな瞳。ミズキも困ったように笑い、たきなは不安そうに此方を見つめる。

 断る理由など、最早見つからなかった。

 

「……ああ、こちらこそよろしくな」

「……っ!」

 

 その瞬間の、千束の笑顔は今日一番だった。

 顔を上げる誉に迫る勢いで近付いて、その手を握る。いつかの、彼が働くと決まった日の光景が蘇る。

 

「改めてよろしく!千束でっす!」

「……だから、知ってるって」

 

 太陽みたいに、本当に嬉しそうに笑う千束に。

 気恥しそうに、それでも楽しそうに微笑む誉。

 千束やたきな、此方の事情を知ってなお、離れずいようとしてくれる気持ち。ミカは、彼への評価や印象を高くせずには居られなかった。

 

(────良かったな、千束)

 

「ね!ね!一緒に写真撮ろ!」

「えっ、なんで。やだよ恥ずいもん」

「なんでぇー!?この前JKにせがまれてデレデレしながら撮らしてた癖にぃ!」

「や、ああいうの断って客数減ったらお店に迷惑掛けるかもと思って……てかデレデレしてないって!」

「真面目か!良いじゃん撮ろうよ〜!」

 

(────良い男を、好きになったな)

 

 千束に腕を無理矢理抱かれてツーショットを取られる誉を流し見ながら、ミカは開店準備の為にカウンター奥へと戻って行った。

 

 

 

 







千束 「〜♪」

ミズキ 「いつまで写真見とんじゃアイツは……っとにデレデレしよってぇ……!」

たきな 「朔月さん、あのツーショット待ち受けにされますよ」

誉 「え、マジ?ガチでやめて欲しい。多分写真写り良くないから」

ミカ 「そこなのか……」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話 The more the merrier
Ep.8 Fortune comes in by a merry gate.








変わりない日常が、続いてさえいてくれたら。




 

 

 

 

 

 ────バイト先の喫茶店のもう一人の看板娘が無茶苦茶見てくる。

 

 最近、喫茶店リコリコの裏の顔を知ってしまった誉。錦木千束と井ノ上たきなの追っていた事件に偶然巻き込まれ、任務中だった二人にバッタリ遭遇してしまった事から、裏の仕事であるリコリスとしての仕事、そしてDAの存在と概要を聞いてしまった。

 

「Direct Attack」────通称DA。テロリスト等の犯罪者を暗殺することでテロや犯罪を未然に防ぐ治安維持組織かつ国を守る公的機密組織。政府に協力するが、警察などの機関と異なり独立した特権を有するエージェント。そして、その通称がリコリス。

 銃器を用い犯罪者を処分することを任務とする、DAの実働部隊員で、犯罪を未然に防ぐための殺人が許可されているという事。所謂「マーダーライセンス」である。

 女子校生の制服を着るのは、そういった犯人や組織に存在を悟られないようにする為の迷彩代わりであるという事。

 

 最初に聞いた時はその現実感の無いような、けど小説やドラマの設定としてはありそうな、そのどちらとも言えない生々しい半現実感で戸惑いはした。

 だがこの支部、つまるところリコリコの仕事内容がDAからの任務の他に、「お客様の悩み事を何でも解決する」との建前で、一般人からの護衛などの依頼も請け負っているのだと聞いて、なんとも彼女(・・)らしいと誉が笑ってしまったのは記憶に新しい。

 

 ただし現状、誉の立ち位置は曖昧で、特に裏の仕事に関しての質問はしたが職務の内容自体の変更は無い。深く関わりを持ってしまったとはいえ、そういった経験の無い一般人を巻き込むわけにもいかないのだろうと、誉自身もなんとなく納得はしていた。

 ただ、リコリコ以外のリコリスや支部、ましてや本部などに自身の存在を知られてしまった場合の対処がどうなるかは具体的には分からないらしく、その辺が若干不安な気がしないでもなかった。

 

 だが今は、誉はただの喫茶店の店員だ。

 普段通りに業務を熟すべく、接客の為にフロアを周っていると。

 

「ねぇねぇ、あの娘、最近入ってきた娘でしょ?」

「たきなちゃんって名前らしいよ」

「可愛い娘じゃない。もしかして、千束ちゃんの恋敵(ライバル)になっちゃったりして……!」

「捗るわぁ……」

「捗るな!たきなはそーゆーんじゃないからぁ!」

 

 座敷にて、いつもの様に客対応をしていた千束は、例によって常連客に弄ばれていた。というのも、最近この店に来て働く事になった井ノ上たきなの存在が大きく関わっている。

 何せ、容姿だけ見ても、たきなは千束に負けじと劣らない美少女なのだ。誉と千束の青春を眺めにこの店に来ている人達からすれば、たきなの存在は、進展しない誉と千束の関係に突如混ぜられたスパイスというわけで。

 

 ────しかし、誉はそんな彼女の気持ちも常連客とのやり取りも何も知らないわけで、何のこっちゃと眉を顰め首を傾げるだけである。

 誉の視線に気が付いたのか、千束は振り返り、目を合わせると即座に頬を赤くした。

 

「さ、朔月くん!?い、今の……聞いてた?」

「え?うん、チラッとだけ。看板娘としてのポジションが危ういって話でしょ?」

「ちっがうわっ!」

「あれ、違うの?たきながライバル、みたいな事言ってたからそうなのかと。え、じゃあ何のライバルなの?」

「何ってそりゃあ………………か、看板娘だよ!」

「……え、合ってんじゃん。何が違ったの、発音?」

「い、いいからいいから!気にしないで!さ、仕事しないと!」

「それ君の事ね?話してないで仕事しろってミズキさんが」

 

 誤魔化すように千束が誉の背を押しながらカウンターへと仕事探しに向かっていくのを、やはり常連客は微笑ましく眺めているのだった。

 千束に押されながらもカウンターへと向かい───誉は、井ノ上たきなと目が合った。

 

「……っ」

「あ……」

 

 最近、目がよく合うような気がする。

 というか、何故か見られているような気がするのだ。視線なら最近女性客や常連客に眺められたりするので慣れてはいるのだが、彼女の視線はそのどれとも違って見えた。

 ……何か、此方を観察しているような気がして、誉はどうにもやりにくかった。それを彼女に問いかけても「なんでもありません」とシラを切られてしまうので打つ手も無い。

 

(彼女、しっかりしてそうだもんな……やっぱ、機密組織の支部に一般人がいる事をよく思ってなかったりするのかな……)

 

 誉も、自分が置かれている状況の理解は高く、たきなが考えそうな事まで大体の予測は立てている。ぶっちゃけこの場合、たきなの考え方が正解で、私情全開で誉を店に置きたがっている千束がおかしいまである。

 

(……けど、それなら)

 

 何故ミカやミズキは、一般人を機密組織の支部に配属させる事の危険性を知ってまで、自分をこの店に招いたのだろうかと、誉はそれだけが気になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「……っというわけで恒例のボドゲ大会どぅえっす!」

 

『『『イエーーーイ!!!』』』

 

「……飽きないねぇ」

 

 いや仕事しろ。閉め作業が残ってるだろ。

 と、錦木に言おう言おうとは毎度思っているのだが、これを楽しみにしているからか、入口の扉の札を『準備中』に切り替えて戻ってきた時の高揚とした表情が可愛過ぎて、最近はとてもじゃないが横槍を入れにくい。

 くそぅ、顔が良い女ってホントズルいよな。俺も来世では顔が良く生まれて……や、そういや顔面偏差値が高いって最近言われてる気がする。俺もこの顔でどうにか工夫すれば錦木にお強請りとかできるかもしれん。いけるか。無理か。

 

(……そんで、今日もまた大勢残ってるなぁ)

 

 錦木に始まって、山寺さん、北村さん、米岡さん、後藤さん、伊藤さん、阿部さん、ミカさん……ミカさん!?またやるのボドゲ。その恍惚とした表情何。何がそんなに楽しいの。お金とか賭けてるよねやっぱり。

 そしてミズキさ……ミズキさんまで居んのか今日。お酒瓶片手にカードを束ねてる。ミズキさんも参加してるならあの座敷でやってるの賭博で確定でしょ。ド偏見だけど。

 

 あと錦木もお金とか好きそう。個人の為のリコリスとかで働いてる時に貰うバイト代とか見てニヤニヤしてそう。

 てかマジか、今日の閉め作業俺だけ?

 ……ま、いっか。みんな楽しそうだし。

 

「……さて、やるか」

「手伝います」

「うおっ、びっくりした……井ノ上さんか……」

「レジは私が締めますので」

「あ、ありがとう。じゃあ俺先にフロア清掃入るから」

 

 井ノ上さんは頷くと、早速レジの方へと向かう。それを確認しつつ、自分は掃除用具を持ち出してフロアの簡単な掃き掃除から始める。その間、みんなで一喜一憂しながらのボドゲ大会を眺めながら、埃や塵を探し回り……あんま見つかんないな。毎日やってるもんな。

 

 こういう小さな部分にもホスピタリティというか、この店の良さを垣間見る。だからこそ地域に愛され、人が増え、こうして店が閉まってるにも関わらず常連客でてんやわんやしているのだと思うと微笑ましくなってくる。

 ああ、やっぱり人が笑ってるのって良いよなぁなどとふわふわ考えつつ、掃き掃除とテーブル拭きを、千束が気付いて気を遣ったりしないようにさっさと熟す。

 

「戸締りも……うん、ちゃんとできてるな」

「レジ誤差ゼロ、ズレ無しです」

「お、早い。やっぱり優秀なんだな、転属組って」

 

 窓や扉が閉まってるかを確認してカウンターまで戻ってくれば、既に井ノ上さんがレジ締めを終わらせていた。かなり早い速度で終えているのを見て、ただただ感嘆の息を漏らしていると、井ノ上さんがジロリと此方を見つめた。

 

「……何故それを」

「や、井ノ上さんが転属組って知った時の錦木の反応がそうだったから、優秀なんだなぁ……と」

「……そういえば、盗み聞きしていたんでしたね」

「いや言い方……聞こえちゃったんだよ」

 

 井ノ上さんの視線を浴びながら、今度は普通に溜め息を吐きつつ、裏に回って皿洗いを始める。するとその隣りに井ノ上さんが立ち並び、その手には布巾を持っていた。思わず隣りに立った彼女を凝視する。

 

「……や、一人でも大丈夫だよ?」

「二人の方が早く終わります。効率良くいきましょう」

 

 そう言われ、なんとなく流されつつ皿洗いを始める。

 普通にスポンジを泡立てて、汚れた皿やカップを洗い、水道水で濯いで井ノ上さんに回す。それを待ち構えていた井ノ上さんは、一枚一枚の水気を丁寧に拭き取り、目の前に重ねていく。

 会話は無い。

 

(なんだこれ)

 

 そのやり取りは気不味いようで、そうでもないような気もして。よく分からない感覚のまま暫く互いに黙々と続けていると。

 

「……先日の」

「っ、え、何?」

 

 急に井ノ上さんから声が発された。思わずビクリとなってお皿が手元から滑り落ちそうになったのをなんとか防ぎ、慌てながらも次の言葉を待つ。

 

「……先日の、あの運転手の男」

「どの運転手の男?ゴメン、最近休みの日にタクシーとかバスとか使ってさ」

 

 ちょっと遠出したんだよね。とか言ってると、井ノ上さんが凄い目で見てきた。睨み付けてるまである。いや怖過ぎるんだけど、十六歳が放っていい視線じゃないよね。

 

「……沙保里さんを拉致した、ワゴン車の」

「……ああ、グラサンでツナギの。その運転手?が、どうかした?」

「応急処置がされていました。貴方ですよね」

「うん、そうだけど……え、なんか問題あったかな」

「……いえ。流血も少なく、傷口も洗浄されていて、私の目から見ても手際の良い措置でした」

「?……ああ、それは、うん。ありが、とう?」

 

 今だからこそ分かるが、あれは井ノ上さんの銃撃によるものだった。運転手は肩を銃弾で貫かれ致命傷では無いにしろ出血が酷く、処置はしなければならなかった。タオルと水しか無かったが、即決で手当てできるだけの結果が残せたのは良かったと思う。

 

 態々井ノ上さんがそれを褒める……何か、裏を感じてしまう。そんな娘では無いとは思うけど、別に褒められるような事をしたつもりは無いので、褒める事で彼女に何かメリットが生じる可能性があるのかとか無駄な勘繰りをしてしまう。そう、例えば俺を煽てて気分良くさせて羽振りを良くさせるとか。

 まさか。

 

「……何か、買って欲しいものがあるの?」

「違います」

 

 違った。凄ぇ恥ずかしいわ。また睨まれてるし。

 いや、巫山戯てるわけではなく本当に分からない。何故彼女がそれについて聞いてくるのか……と、思っていると、今度は井ノ上さんが溜め息を吐き出す番だった。

 

「……一般の学生が、医療行為や応急処置を覚えている事が不自然だと言っているんです」

「……ああ、そういう事か」

 

 納得した。つまりただの一般人───それも高校生の子どもが、学校でも教わらない専門的な知識を持っている事、あの土壇場でそれを活かす事ができた事実に彼女は不信感を持っているという事だ。

 確かに、一般市民がDAの支部にいる事って言葉以上に重いというか、異常な光景なのかもしれない。なるほど、最近の彼女の視線はそういう事だったのかと、なんとなく腑に落ちた。そういう事なら、別に隠すような事など何も無かった。

 

「以前に、学ばれた事があるんですか」

「あるよ。何処かっていうよりはほぼ独学だけど」

 

 しれっと、そう答える。嘘偽り無く。

 此方が隠すつもりの無い事を理解した瞬間、井ノ上さんは此方に視線を傾け、取り繕う事をやめて矢継ぎ早に口を開いた。

 

「……別に、覚えなくても生きていける知識だと思いますが」

「あの運転手には言ったんだけどさ、昔医者を目指してた事があるんだよ。他にも弁護士とか警察とか、科学者とか。人を助ける仕事をさ」

 

 ────“貴方は何にでもなれる”、と。

 そう言ってくれる人が居て。誰かの助けになるような仕事も目指せるのだと教えられて。その為ならと、頭の中に数多の知識を詰め込んだだけで……今はその何者にもなれてはいないけれど。

 それでも、覚えた事が無駄じゃなかったのだと、この前の事件で教えられて。自分がたまたま持っていたものがあの運転手の治療という形で還元できたのが、凄く嬉しかったのを今でも覚えてる。

 

「……まあ、今でもなりたいなぁって思う時あるけど」

「……どれにですか」

「ん?全部だよ全部」

 

 今でもなりたいよ?医者も弁護士も警察も科学者も。宇宙飛行士にだってなれると思ってる。そう言うと井ノ上さんがほっそい目で此方を見ていて……なんでそんな目で見んの。やめて、そんな目で見ないで。

 

「……子どもみたいですね。もう高校生でしょう。夢を見るよりも、現実を見て将来の進路を考えた方が良いんじゃないですか?」

「あれ、おかしいな。俺的には何歳になっても童心を忘れないのって美徳かと思ってたけど、急にエグいの刺さったな今」

 

 言い方よね、言い方。

 流石優秀なリコリス。心を抉る銃弾の命中率まで高いんですけど。

 

「……というか、それは井ノ上さんにも言えるでしょ。大人になったらどうするの?ずっとリコリスって訳じゃ無いんでしょ?」

「それは、分かりませんけど……どうしてそう思うんですか?」

「リコリスの制服が女子校生用なのって、“日本で一番警戒されない姿”だからなんでしょ?けど大人になってそれ着てたら、何か痛々しいもん。闇抱えてそう」

 

 都会の迷彩服としての役割は果たせそうにない。三十歳にもなってJKの格好とかしてたらドン引きである。なんなら普通に警察に通報する。

 ただ錦木とかはずっと着てそうだな。その内永遠の十七歳ですとか言い出しそう。超絶ド偏見だけど。

 そう言うと、井ノ上さんはまたも訝しげにこっちを見上げ、何か言いたそうな表情のまま口元を曲げていて。

 

「……というか私達の事よりも、朔月さんです」

「は?え、俺?」

「ここ最近ずっと店に居ますけど、学校は行かなくて良いんですか?」

「……ああ、学校なら行ってないよ」

 

 ────そう言うと、皿拭きに視線を落とそうとした彼女がまた顔を上げた。その瞳は見開かれていたが、俺は特に彼女の視線に答えること無く、目の前の皿にスポンジを当てながらポツリと告げた。

 

「色々事情があってさ。最終学歴は……卒園?」

「……そう、なんですか。すみません」

「俺から言ったんだし、気にしないでよ」

「……皆さんは、知ってるんですか?」

「さあ?シフト出した時に何も言われなかったし、気ぃ遣って聞いて来ないだけなのかも。まあ、機密組織って言うくらいだし、俺の事はある程度調べてるんだろうけど」

 

 まあ、調べれば調べる程何にも無くてガッカリすると思うけど。ゴメンね面白味のない経歴で。一応形式的に持っていった履歴書もほぼほぼ白紙で、ミカさんとミズキさん真顔で顔見合せてたもんなぁ。あの顔はちょっと面白かった。

 

「……まあ、気にするような事でも無いよ。今はやりたいようにやってるし、なりたいものにも、いずれはなるさ」

「……でもさっき挙げた職業ってある程度学歴が無いといけないのでは……」

「そ、だから目指してたのは昔の話。勉強した知識を今も覚えてるってだけだよ。たまにだけど役に立つ時もあるんだ。この前みたいに」

「……じゃあ、今やりたい事って何なんですか?」

「バリスタとかかな」

「……」

「……い、いや、割と本気で」

 

 そんな目で見ないで。

 最後の一枚を濯ぎ終えて、井ノ上さんに渡しながらふと顔を上げた。

 

「この喫茶店で、来てくれたお客さんが『美味しい』と思って貰える珈琲を淹れる事」

「……珈琲、ですか」

「実はさ、この前図書館で珈琲の事勉強したんだけど、未だに納得のいく味にならなくてさ。こういうのって、やっぱり知識だけじゃなくて経験も必要なんだなって思わされたんだよね」

 

 珈琲の豆の種類、環境や地域による味の変化、ローストのレベル、挽き方、入れ方、歴史……etc。しかし、どれだけ知識が完璧になろうと、入れる珈琲の味の変化に劇的な成長が見られないのだ。や、日々美味しくなってはいるのだが、ミカさんの淹れるものと比べ物にならない。勿論、俺とミカさんとでは経験の差というのがあるだろうから、それはまだ分かる。

 

 ただ、腑に落ちないのが────自分の淹れたものよりも、以前錦木が俺に珈琲の淹れ方を教えた際に作ってくれた、彼女の珈琲の方が美味しく感じた……気がする事だった。

 錦木も珈琲を淹れはするのだが、どちらかと言えばお客さんに飲ませるよりも自分で飲みたくて淹れるのだ。味にめちゃくちゃ拘ってるとも思えないのだが、それでも俺の淹れた珈琲よりも美味しかった……気がする。

 

「せめて、錦木よりは美味しくしたいんだよなぁ」

「……千束さん、ですか」

「ああ、うん。アイツ見てるとさ、なんか負けたくないと思うんだよね。接客とか珈琲の味とか、色々」

 

 羨望、憧れと言っても良い。

 彼女に酷く、惹かれている自分がいる。自分のなりたかった姿の体現が、目の前にいるのだと実感している。彼女のように生きたいと、毎日渇望する自分がいる。それが、なんだか。

 

「千束さんの事、どう思ってるんですか?」

「どうって……まあ騒がしい奴だなとは」

「好きなんですか?」

「嫌いって奴の方が少ないんじゃない?彼女といると、みんな笑顔になる。あれは彼女の魅力だよね」

 

 そんな人間になれると、言ってくれる人がいた。そんな人間になりたいと思った。彼女といると、自分の生き方や在り方を、その行動で示してくれているような気がして、なんだか。

 

「アイツのせいで、最近生きるのが楽しくなってきたよ」

「────……」

 

 そこまで告げて。ふと、我に返る。

 慌てて視線を井ノ上さんに向けると、少し驚いたような表情で此方を見上げていた。その反応を見て、自分の言動を振り返り。なんだか柄にも無い事を伝えてしまったかもしれないと気恥しい気持ちになった。

 

「……あー、そうだ。珈琲、みんなに淹れようかなと思ってるんだけど、井ノ上さん飲む?」

「……いただきます」

「っ……そっか、じゃあ待ってて。すぐ準備する」

 

 逃げるようにカウンターへと向かう。

 なんだか恥ずかしい事を言ったような気がする。というか、井ノ上さんって思ったよりも聞いてくる人だな。「好きなんですか?」って何。まるで錦木に恋愛感情を持ってるかを確認するような質問。井ノ上さん、そういうのには疎い印象があったけ、ど────え。

 

「……何してんのそこで」

「え、あ……やー……その、なんていうか……」

 

 ────カウンター裏には、顔を真っ赤にしてしゃがみ込んでいる錦木千束の姿があった。

 

 またボドゲで勝ち抜きしたのか、と思うのも束の間。

 此方を見上げるその表情からは羞恥が読み取れ、瞳が揺れて口元が震えていた。今まで見た事の無いような慌て具合が顔から分かる程で、なんとなく……考えたくもないけれど、予想を立てる事ができた。

 

「……聞いてた?」

「え、ええ……?なにが、ですか?」

 

 ……確定です。

 コイツ、井ノ上さんの質問に対する俺の錦木レビューを聞いてやがった。今度は、俺の頬が熱くなる番だった。

 

「……や、さっきの無し」

「うええぇっ!?」

「アレ嘘だから。相棒(井ノ上さん)には良い顔したいんじゃないかと思って、思わず心にも無い言葉で褒め散らかしちゃっただけだから。やー、柄にも無い事言うもんじゃないな」

「ちょーいちょいちょい!なんでいつもそうやってはぐらかすの!?ねー!ホントはどう思ってるの!?私の事どう思ってるのー!?」

「うるさい。あとうるさい」

「んいいいぃぃぃー!」

 

 豆の準備を始める俺の背を、ポカポカと割と強めの拳で連打しまくる錦木。その背を、井ノ上さんがなんとなく眺めていて。

 さては、錦木が立ち聞きしてるの知ってたなこの野郎。当人は、知らぬ存ぜぬと言った表情のまま、俺と錦木の隣りに並んだ。

 

「……?」

「私も、珈琲の淹れ方覚えようかと」

「……そか。じゃあ見てて。やり方教えるから」

「私直伝だよね!」

「はいはい」

「朔月くん冷たいー!」

「いや熱い熱い!お湯跳ねる!」

 

 そうやってじゃれながら、井ノ上さんに珈琲の淹れ方を教えながら、自分で再び作り上げる。出来上がった珈琲は、錦木に邪魔されてまたも上手くいかず、納得のいくものでは無かったけれど。

 常連のみんなと、何より彼女の表情が笑顔だったのを見て、今日のところは許してやるかと、手元の珈琲を口に含んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「今日から世話になる、ウォールナット改めクルミだ。よろしくな、誉」

 

「……ああ、はい」

 

 ────労働基準法では十五歳以下はバイト禁止なんだけど知ってる?

 

 

 

 

 

 








56条だよ?













ハーメルンサイトの「ここすき」機能って良いよね。
読者が何処を面白いと感じているのかが分かって、次書く話の参考になるし、見てて楽しかった。
いつも読んでくださったり、感想くださったりありがとうございます。モチベです、糧になる……!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.9 Doomed to unhappiness







狂い回り、亀裂を刻み、徐々に錆びゆく運命の歯車。



 

 

 

 

 

 

 

「……」

「……あの、何か」

 

 開店してまだそんなに時間が経ってる訳じゃない。だが誰もが仕事に出掛けようとする時間帯に、鞄一つも持たずに珈琲を啜っている大人という光景がそもそもおかしい。

 と、いうのに割と早朝からスーツ姿でオールバック決めた身なりの良い男性が、カウンターに座ってこれでもかという程に此方を見つめてくる。普通に怖いし、なんなら本気で泣いて見せようか。

 流石に気不味くて声を掛ける。すると、その男性も我に返ったように口を開いた。

 

「ああ、すまない。見ない顔だと思ってね。新人かな」

「……一、二ヶ月くらいは、一応経ってますけど」

「そうなのかい?それは知らなかったな」

「……詳しくは聞いてないんですけど、ミカさんの知り合いなんですよね」

「ああ。長い付き合いになる」

 

 名前は────吉松シンジさん。

 約一ヶ月程前に、俺が買い出しに行ってる間に訪れたという、井ノ上さんが正式にリコリコ店員になってからの初めてのお客さん。どうもミカさんの古くからの知り合いなのだという。

 チラリとミカさんを見ると、小さく頷きながら手元でスイーツの仕込みを始めていた。和服姿のガタイのいい男性と、スーツ姿のジェントルメン。どういう関係の知り合いなのだろう、とふわふわ考えながら珈琲の準備をする。吉松さんの珈琲はミカさんが淹れてくれたので、今作っているのは自分用……というより勉強用である。

 

「……」

「……あの、何か」

 

 めっちゃ見られるんだけど何?この短時間で「何か?」って二回も言ってんだけど。どうしてそんな眼で見つめてくるの?

 ってか此処の人達ってみんな目力強いよね。錦木とか井ノ上さんとかも何でそんな目で見んのってくらいの視線ぶつけてくる事あるし。

 

「いや、淹れてる姿がミカそっくりでね。つい見入ってしまったよ」

「……ミカさんの見て覚えてるんで」

 

 見入った?魅入った?やだ何それ怖い。

 もしかしてミカさんのお友達って男もイケる口?一か月前のグラサンツナギ集団と一緒かもしや。重ねて言うけど俺LGBTに理解あるだけでノーマルですよ。改めて言った方が良いかな。逆に意識させちゃうか、やめとくか。

 

「そうか。といってもまだ、一、二ヶ月だろう?それでそこまで淹れ方が様になってれば、味もすぐにミカに追い付くさ」

「言ってくれるな」

 

 吉松さんの言葉にミカさんが軽く微笑む。それを見て、何かさっきまでの穢れた勘繰りが浄化されたような気がした。

 俺はミカさんの友人になんて思考を……吉松さん、変な事考えててすみませんでしたでした。

 

「あー……それが、味がどうしても近付かないんですよね。珈琲の事、結構勉強したんですけど……」

「例えばどんな?」

「歴史から風土、育つ環境下による味の違いとか、味の感じ方、ブレンド、それに合うフードペアリングとかも」

 

 珈琲を淹れるのに必要な知識は全て詰め込んだと自負してる。と、いうのに。ミカさんと同じ動き、同じ配分、同じ時間や方法で淹れてるというのに、味自体には劇的な変化は無い。

 ミカさん達には褒められるので良くなってはいるのかもしれないが、自分で飲んでみてそんなに変化を感じない。

 

「おお、勉強熱心だね。覚えるのにかなり時間がかかっただろう」

「いえ、そんな。教材やサイト見た程度の知識じゃまだまだって事ですよ。やっぱり本職の人から直接見て、聞かないと」

 

 自分の知識として脳に溶けていく感覚が楽しくて、最近迷惑だと分かっていても、ミカさんやミズキさん、錦木にも時間があれば質問しまくっている。

 ミズキさんは最近面倒そうなのを隠さなくなってきたけど、錦木なんかは「先輩」とか言って煽ててれば色々教えてくれるからチョロい。……本人に言ったら殴られるな多分。

 そう言うとミカさんが深く息を吐いて、吉松さんに呆れたような笑みを見せた。

 

「……最近、開店前と閉店後に彼の質問攻めに合うのが日課になっててね。向上心や好奇心が旺盛で困る」

「す、すみません……」

「ははっ、後継が出来て良いじゃないか。……そう言えば君の名前を、まだちゃんと聞いてなかったね。改めて聞いても?」

「え……あ、はい、すみません。朔つ────」

 

 あ、そう言えば自己紹介してなかったかもしれない。あまりにも失礼な事実に、謝罪しながら苗字を言い切る、その寸前だった。

 

「お待たせー!千束が来ましたー!」

 

 チリン、と鈴の音と共に大きな開閉音。見なくても誰なのかが分かる景気の良い高い声。走ってきたのか、若干息を切らしながら店に入ってきたのは、やはり錦木千束だった。ニコニコしてるとこ悪いけど遅刻ですよ。

 錦木は吉松を見るとその目を見開いて、笑顔で駆け寄ってきた。

 

「あー!ヨシさんいらっしゃーい!ひと月ぶりじゃないですかー?」

「覚えていてくれたんだね」

「まあ、お客さん少ないお店だから……なーんて嘘嘘、たきなの最初のお客さんだもん。忘れませんよー」

「いや座るな座るな」

 

 たたでさえ遅刻して来たというのに、話に花を咲かせようとカウンターに座る吉松さんの隣りに腰掛け、頬杖ついて寛ぎ始めたんだが。なんて図太いの。

 この後仕事だというのに、錦木は知らぬ存ぜぬ我関せずといった様子で吉松さんと会話を続けていた。

 

「今度はどの国に行ってたの?アメリカ?ヨーロッパ?あ!中国でしょ!」

「残念、ロシアだよ」

「……ったく」

 

 ちゃんと注意出来ない俺も、ミカさんやミズキさんの事をとやかく言えなくなってきちゃったな。最近錦木にかなり甘くなってしまった自覚がある。

 呆れて笑いながら、食器を棚に仕舞おうとカウンターから離れて裏に下がると、丁度制服に着替え終えた井ノ上さんとかち合った。

 

「うおっ、と……ゴメン」

「いえ、こちらこそ」

 

 互いに軽く謝り頭を下げ、改めて彼女を見直す。

 すると、井ノ上さんの頬にずっと貼ってあった白い四角めの絆創膏が外れている事に気が付いた。此処に来る前の銃取引の事件にて、仲間内で一悶着あっての負傷と聞いていたから、恐らく張り手かぶん殴られたのかと勝手に想像していたのだが。

 

「……あの、何か付いてますか」

「え?……ううん、(傷跡も残ってないし)綺麗だよ」

「……そうですか」

 

 肌はもう傷跡を気にする事も無く真っ白で、綺麗に整っていた。もう心配無さそうで良かった。

 井ノ上さんは若干下を向きつつ、目を逸らして俺の横を通過する。……何か形容し難い顔してたけど機嫌悪い?

 あ、顔に傷とかって女性気にするみたいだし、頬に突っ込んだの失礼だったかな。後で謝ろう。

 

 二人で裏から表に出ると、丁度吉松さんが錦木にお土産を渡して帰るところだった。ほぼ同時に頭を下げると、吉松さんも会釈してその扉を開いて店を後にする。その瞬間、錦木は座敷へと移動し、文字通り“仕事”の準備をし始めた。

 

「で?どのくらい急ぎ?」

「現在、武装集団に追われている」

「それは大変。たきなー、仕事の話もう聞いてる?」

「はい、一通り」

 

 錦木は会話しながら、目の前の拳銃に弾丸を詰め込んでいる。女子校生の格好をした美少女が笑って会話しながら銃器の準備をしている絵面と、そのパワーワードの威力たるや。

 彼女は“ファースト”と呼ばれる、DAの中でも優秀な、言わばエリート的な存在らしく、齢七歳の頃、電波塔事件をおよそ一人で解決した程の実力者らしい。

 ……ただ、それを聞いても心配するのは変わらないし、いつ見ても目の前の光景には慣れないまである。

 

「オッケー。そう!昨日話してたブツ、そこに置いてあるから帰りに持って帰ってねー?あ、朔月くんも!」

「「……」」

 

 俺と井ノ上さんは二人して近くのテーブルを見下ろす。それは、錦木に勧められた洋画のDVDの束だった。彼女が好きな作品、面白い作品を厳選して袋に詰めてくれている。

 昨日、井ノ上さんには営業中の空いた時間などで語っていたが、何故か俺には夜態々電話してきたなぁそういや。相変わらずの長電話だったのだが、やっぱり楽しそうで切るに切れなかったし、おかげで眠い。

 

 今回は、とある大物ハッカーの護衛だそう。命を狙われているらしく、その警護及び敵の制圧が錦木と井ノ上さんの任務である。詳しい事はあまり聞かされてないが、そこは俺の一般人としての肩書故だ。今更かもしれないが。

 ……こういう時、疎外感というか。自分と彼女達が別の世界に居るような感覚を抱いてしまう。それが寂しいような気がすると主張するのは、我儘だろうけれど。

 

「敵は五人から十人程度、プロよりのアマだ。ライフルも確認した。気を付けろ」

「りょーかいっ。行こっ」

「はい。それでは」

 

 そう言って、錦木の後に続くように井ノ上さんが扉へ向かう。その前に、俺に態々頭を下げて踵を返してくれた。

 学校に行くかのような軽い挨拶に、これから死地へ向かうとは思えない明るさを感じて、酷く異質だと感じた。きっと、これが彼女達にとっての当たり前で、これからも続く日常なのだと思うと、なんだか。

 

「……あの、ミカさん」

「どうした?」

「俺にも……何か、手伝える事とかありますか?」

 

 そう、言った瞬間だった。

 閉まりかけていた扉がまた勢い良く開き、静かな店に鈴の音が鳴り響く。思わず肩を震わせてその音源を辿れば、取っ手を掴んでいたのは錦木だった。

 

「……錦木?」

「っ……さ、朔月くんは、私達が帰ってくるのに合わせて美味しい珈琲準備しててよね!最近勉強してるみたいだから、期待してるぞぉ〜?」

「……そうじゃなくって、錦木達の手伝い的な意味で」

「だーいじょぶだって!こっちは私達に任せたまへよ。それじゃあ、行ってきまーす!」

 

 満面の笑みで手を振って、今度こそ扉を閉めた。

 ……なんか、俺の仕事の手伝いの申し出を、慌てて阻止しようとした様に見えたけれど。やっぱり、素人が首突っ込んでも足手まといとか思われてるのかな。

 

 いや、そんな事よりも、さっきの言葉。他ならぬ言った俺自身が一番驚いていた。彼女達の背中を見て何故か零してしまった一言。素人の俺がいたところで何かできるわけじゃないし、DAやリコリスを知って一ヶ月近く経つけれど、今までそんな事、一言だって言った事無かったのに。

 

「……随分急な申し出だったな。ここ一ヶ月、そんな事言わなかったろ」

「……いえ、俺も……何故かその、無意識で……」

 

 二人となった店内で、ポツリと問いかけられる。ミカさんも、俺の言葉を不思議に思った様だった。

 彼女達が機密組織の一員なのに対して、俺はただの一般人。それどころか、此処に置いてもらって良いのかすら分からない存在だ。DAの本部に知られたらどうなるのかさえ。

 裏社会について何も知らない俺がヘマをしない可能性の方が少ない。何かやらかしてバレれば責任はミカさんや錦木に行く。それが分かっていたから、今まで彼女達の任務をただただ見送るだけに徹していたというのに。

 まあ、それでも。

 

「……けど錦木は、分かりやすく止めに来ましたね。自然と口から零してしまっただけだったけど、あそこまで拒絶されたのは、なんというか……」

「……千束は、君を巻き込みたくないのさ」

「もう充分巻き込まれた気がしますけどね。……でもおかげで、生きるのが楽しくなった」

 

 ────……ああ、そうか。

 この一ヶ月間で、そんな彼女の背中を見送って、これが毎度最後のやり取りになるかもしれないと思いながら毎日を過ごしていたからこそ。

 

「……だから彼女にも、俺が居て良かったって、そう思わせたかったのかもしれないです」

「────……っ」

 

 あの言葉にはそんな意味があったかもしれないと、今になって気付いた。

 錦木に出会ってから今日に至るまでずっと、彼女に貰ってばかりいたからだろうか。もしかしたら、何か返せたらと思ったのかもしれない。彼女が居て、生きるのが楽しいと感じるようになったから。

 

 ────彼女にも、俺が居る事で“生きてて良かった”、と。そう思ってくれたらと。

 あまりにも自惚れで、恥ずかしい限りだ。そう思わせてくれたから、それを返そうだなんて。

 

……先に千束にそう想わせてくれたのは、君の方だよ

「?……何か、言いましたか?」

「いや……まあ、そうだな。自衛くらいはできた方が良いかもしれないな」

「え……あ、い、いえ!無理して教えて頂かなくても……何かあったら警察呼ぶんで」

「嫌に現実的だな……」

 

 大丈夫大丈夫、最近日本の治安良いから。警察とかすぐ来てくれるでしょ。……や、待て。治安が良いのは警察じゃなくDAのおかげ?じゃあ何かあったらミカさん達に連絡すれば……や、本末転倒じゃんかそれ。

 なんだか彼に強くして欲しいと強請ってるみたいじゃないか。たかが一般人が今からリコリスのなんたるかを教えて貰ったって付け焼き刃にしかならない。俺の淹れる珈琲と一緒だ。

 

「DAやリコリスの存在を知った後も、この店に居る事を決めたのは俺です。なら、自分の事は自分で……」

「君を誘い、招いたのは私だ。君に危険が及ぶかもしれないと知りながらも、千束の願いを優先してしまった……ずっと、謝ろうと思っていたんだ」

「そ、そんな、困ります。俺はミカさん達のおかげで楽しく生きられてるので」

 

 彼らはDAとリコリスの存在を知ってしまった俺に、その後の選択を委ねてくれた。機密的な意味でも俺という存在は捨て置けなかったはずなのに、何処までも俺の自由にさせてくれて……そこに、不満などあるはずもなくて。

 

 ────ただ。

 俺をリコリコに招くリスクを考えた時に、ミカさんがDAとしての機密保持の重要さよりも、錦木の我儘を優先したその一点だけが、俺の中でずっと引っかかっていた。

 錦木が俺と働きたがっていると、ミズキさんは言っていたけれど、本当にそれだけの理由だろうか。

 何か、錦木の願いを聞き届けたい理由が、他にあったのではないだろうか。

 

(……俺、錦木にそう思わせるような事、したかな)

 

 分からない。

 錦木千束にとって、朔月誉(じぶん)は。

 そんな、考えるのが少し恥ずかしいような思考を振り払い、誤魔化すように笑った。

 

「ま、まあ?銃なんて撃った事無いし、却って足手まといかもしれないですけどね。ははは……」

 

 実物をこの前の事件で初めて手に持った程度なので、ぶっちゃけ使った反動で上半身が消し飛びそうなイメージしかない。そこまでいかなくても手首がイカれて今後二度とコーヒー豆を挽けない身体になってしまうかも。

 なんて、冗談めかして笑っていると。

 

「……試しに撃ってみるか?」

「……えっ」

 

 ふと、我に返る。

 ミカさんが視線だけ此方に寄越して背を向けていた。一瞬だけ目が合ったのも束の間、ミカさんはそのまま店奥へと歩いていく。試しに撃つ、とそう聞いてまさかとは思ったが、その言葉を耳に受けて、俺は慌てて小走りで駆け寄る。

 

「此処だ」

「……え?」

 

 すると、とある畳の一室の先に下へと続く梯子が現れて、もうその時点で『!?』って反応だったんだけど、ミカさんが杖を抱えながらも四苦八苦しながらその梯子を下り始めたではないか。続けとその瞳が訴えて来ており、耐えかねて彼について行き、下りた先の階段をまた更に下っていくと。

 

「……なあにこれ」

 

 ────そこには、喫茶店にあってはならない射撃場が存在していた。

 規模としては小さいが、的を狙うに十分な広さ。映画とかで見る射撃場そのもので、反現実感が胸に押し寄せてくる。

 ああ、此処って本当に機密組織の支部なんだな……と喫茶店のつもりで最初バイトし始めていたはずの俺の心は、目の前の光景を目にしてさざ波の様に引いていた。なんだこれ。

 

「良い仕事には日頃の研鑽が必要だからな」

「俺ホントにこの店に居て良いのか不安になってきたんですけど……こんなの人様にバレたらどうすんだ……」

「安心しろ、防音だ。金はかかったがな」

「そうじゃないです」

 

 ダメだ。ミカさんもDA側だから常識人ってわけじゃないんだ。リコリコ唯一の理性だと思ってたのに。井ノ上さんも錦木と違った意味で破天荒が過ぎるっぽいし。ガチで俺はどうしたら。

 ……というか、ミカさんが俺にこの場所を見せたという事に対して、少なからず驚いてるんだが。DA自体が俺にバレてしまっているとはいえ、これ以上の漏洩を一般人である俺にするべきではないのでは、とそう告げる前にミカさんが俺に向かって何かを突き付けて来た。

 

「────……っ、これ」

 

 それは、引き金を引けば簡単に人を殺めてしまう武器、拳銃だった。黒光りしたそれは見覚えがあって、錦木が持っていたものと同じ拳銃だった。筋肉質であるミカさんの手の上に乗せられてなお、どっしりとした重量感を抱く程に現実的で。

 そして、それを近くのテーブルへと置くと同時に、銃弾の入ったケースまで。

 

「あ、あの……これ」

「安心しろ。千束がいつも使ってる非殺傷弾だ」

「……錦木、の」

 

 命大事に、が信条だと言っていた彼女。

 あの言葉を疑ってたわけじゃないけれど、目の前の弾を見てそれが嘘偽り無いのだと知ると、途端に嬉しかった。

 

「やってみるか?」

「……俺に、此処まで見せて良かったんですか?」

「言っておくが、君を千束達の仕事に参加させる訳にはいかない。……が、まあ、試しに撃つくらいならな」

 

 そう言ってミカさんは、遠くを見つめるような眼差しを射線先にある的に向けて言葉を続けた。

 

「正直、迷ったが……君がこの店に居る事で傷付くような事があれば、それは私の責任だ」

「そ、そんな事は……」

「それに、さっきの言葉も分からないわけじゃない」

「……っ」

 

 ───“俺にも……何か、手伝える事はありませんか?”

 ───“彼女にも、俺が居て良かったって、そう思わせたかったのかもしれないです”

 

 自分で口にした言葉を思い出した。

 錦木千束やこの店が自分にくれたものを、返せてたらとそう思った。彼女の背中を見送るだけの毎日に、なんとなく歯痒さを感じていた。

 さっき初めて言葉にしただけで、本当はDAやリコリスを知ってから今日までの一ヶ月間、ずっと心の中にあったのかもしれない。

 

 ────手伝わせてはあげられないけれど、自衛の手段くらいは、というミカさんの計らいなのだろうか。

 

「私は君にこの先を強要しない。させるわけにもいかないと思ってる。それこそ、千束に文句を言われそうだ」

「錦木は、どうしてそこまで……彼女にとって、俺って何なんですか?」

「……さあな。本人に聞いてみればいいんじゃないか?」

 

 ……聞けるわけが。

 けれど、前々からずっと気にはなっていた。

 最初こそ、自分の仕事振りを見て一緒に働きたいと思ってくれたのだと考えていたけれど、よくよく考えれば出会った時からずっと、彼女は俺に対して距離が近かったような気がする。

 自惚れかとも思っていたけれど、彼女がそうするに足る事を、俺が何かしたという事なのだろうか。

 

「────……」

 

 こちらこそ、彼女には貰いっ放しなんだけどな。

 彼女の仕事の手伝いでもできれば、少しは頼ってもらえるだろうかとか、楽させてあげられるだろうかと考えていたけれど、自分の身を守れるくらいになれば、安心させてあげられるかもしれない。

 そう思うと、手に持つ銃を強く握り締めた。ミカさんを見上げ、強い眼差しで口を開く。

 

「……やり方、教えてくれますか?」

「すまない、これから出ないといけなくてな」

「……えっ」

「千束達の仕事の関係でな」

「ちょっ」

「ああ、店の戸締まりは宜しくな」

「……完全に教えてくれる空気ってか流れだったような……」

 

 一気にこう……気持ちを冷めに来た感じ。物語だと師匠と弟子的な流れになるような、そんなシーンだと思うんだけど。……まあ、うん。此処の人達にノリとか空気の話してもなぁって割と前から思ってたし。

 

 此方が『ええ……?』という表情で見ているのを気にもせず、ミカさんは杖をつきながら階段を上がっていく。

 するとふと、振り返って此方を見て────というか、射撃場の台の一つを指差して、口を開いた。

 

「それと、使っていいのはそこに置いてある弾だけだ」

「えっ……十発くらいしか無いんですが」

「君にこの手の事に興味を持たれたり、積極的になられては困るからな。それに作るのに費用が高いんだ」

「本音はそっちですよね……?」

 

 最後まで、拍子抜けな発言だった。

 もうちょい名言とか格言とか、胸に刻めるタイプの言葉残してくれても良いのよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

「……ああ、あった。えっと……で、デトニクス、コンバット……ま、マスター?……なにこれ」

 

 スマホでかなり時間をかけて調べてる現状。似たようなデザインの銃ばっかりで見付けるのも見分けるのも苦労したのだが、そもそも3.5インチとか45口径とか、コーンバレルとか訳分からんのだが。

 

 それに撃ち方以前に銃の握り方だのセーフティだのオートだの、ハンドガンでなくアサルトライフルだのスナイパーだのショットガンだの……これ全部覚える必要は無いだろうけど、DAの人達ってみんなこれら使えんの?

 

「俺リコリス向いてないだろうなぁ……」

 

 自分に無い知識を脳に注ぐ時間は楽しくて好きだけど、手間とか面倒とかの感情は自分がその対象にどれだけの興味や関心を傾けているかに比例する。錦木達の手伝いができればとは思ったし、それがダメと言われても自衛くらいならとも思ったけれど。

 拳銃自体にそもそも良いイメージはない。人を殺める事ができる代物で、今もその手に残る重量は命の重さを体感させるかのよう。

 

「……一発、撃ってみるか」

 

 胡座をかいていた所から立ち上がり、的の前に立つ。撃ち方や握り方は事前にネットで調べる事ができた。既に内容は頭に入っており、後は実践するのみ。

 落ち着いて深呼吸し、鼓動を整える。ゆっくりと目蓋を開き、その腕を持ち上げる。

 

「────ロックオン」

 

 言葉にするのは、それがスイッチとなって集中力が研ぎ澄まされるから。まるで呪文のようで、決め台詞のようで、決してカッコイイからとかそういう理由じゃない。……少しだけ自分に酔ってるかもしれないが。

 

「……ふぅ」

 

 銃を的に向け、焦点を合わせる。

 額に滲んだ汗が、頬を伝うのを感じる。拳銃から、その先の的へと視線をズラし、視界先でボヤけていた背景がクリアになっていく。

 そして的と拳銃の弾道が重なったその瞬間に、ゆっくりとその引き金を引いて────

 

 

「……っ」

 

 

 引いて────

 

 

「……っ、え、ちょ……あれ?」

 

 

 引い、て────いや、引き金固くね?

 

 え、拳銃の引き金ってこんな固いの?固いってか硬くない?この拳銃、頑ななんだけどやば。

 錦木毎度こんなん撃ってんの?やっぱりこの前の錦木に対する腕力ゴリラ発言は間違いじゃなかったんだ……女性だからってオブラートにする必要なかったんだ……錦木はゴリラだったんだ……や、待て、という事は井ノ上さんも?

 

 いや、銃によって引き金の重さ軽さは違うかもしれない。井ノ上さんが使ってたのは『S&W M&P』かな。前に彼女が持ってた銃を、記憶を頼りにさっき調べたヤツの名前がそうだったはず。サプレッサー?ての付けてたみたいだから載ってた写真と記憶とに齟齬はあるけれど。

 とかやってる内に引けるかと思ったけど引けない。や、固過ぎて笑えないんだけど何これ錆びてるんじゃ────

 

 

「ひでぶっ!?」

 

 

 ────突如、その引き金が奥へと押し込まれ、意図せず銃弾が放たれた。物凄い破裂音と共に放たれ、手に持った銃は反動で腕ごと天を仰ぎ、上体は反り、足元は覚束無いまま後ろへと仰向けに倒れ込む。

 

 

「ぐぇっ!?……いっつぅ……」

 

 

 思い切り頭を床に叩き付けてしまった。涙が出そうな程の痛みに思わず頭を抑える。悶絶しながらも、落として床に投げ出された拳銃を見つめる。

 ────何だこれ。こんなの、錦木と井ノ上さんは使ってるのか。凄いとかヤバいとか以前に怖いんだけど。

 思わず起き上がって、的を見据える。視線の先には人型の黒い的があり、波状的に線が引かれてそれぞれの枠に7〜10の得点的なものが記載されている。心臓部分が10点なのだろうが、俺の撃った弾は的のどの部位も貫いてはいなかった。

 

「……向いてないな、やっぱ」

 

 理解してるのと、それが実践できるのとではまるで違う。珈琲の知識はあるのにミカさんのような美味い珈琲が淹れられないのと同じだ。こればっかりは、やっぱり経験なのだろうか。

 

 ……もう一発撃つの、もう既に怖いんですけど。反動とかでもう既に手首が痺れて痛い。

 き、今日はもう止めとこうかな、うん。そんな急がなくても、ねぇ?錦木や井ノ上さんはたたでさえ優秀なリコリスだし、そもそも俺がそこに混ざろうとかいう考え方が既に間違っていたんだし。それにあくまで自衛の為なんだから、自分のペースで慣れてけば良いし。

 最悪警察に頼めば、ね?最終的にはプライドかなぐり捨ててミカさんに電話掛ければ助けてくれるでしょ。完全にクズいな今。

 

(……けど悔しいからもっかいだけやろうかな)

 

 なんだか錦木に負けた気がして。珈琲や生き方だけでなく、こんな所で張り合うのもあれなんだけどさ。

 

 

「────反動を修正」

 

 

 また、口に出す。それが合図と言わんばかりに集中力が研ぎ澄まされていく。今度は、銃弾を放った際の反動も加味して的を撃ち抜く事を考える。

 

 

「弾道を補正」

 

 

 反動で銃がブレないように。この非殺傷弾の命中率はそれほど良くないのは、反動に寄る部分が大きい様だ。それを計算して銃を構えなければ。

 浸透、浸透。染み込んで解けるように、調べた内容を口にしていく。

 

 

「腰は両足の間で安定させ」

 

 

「両肘と両膝は伸ばし切らず若干曲げる」

 

 

「右足は半歩後ろで四十五度外側へ開き」

 

 

「左足の爪先は、目標方向へ向ける」

 

 

「握力対比は右手が三、左手が七」

 

 

「姿勢は自然体。首はそのまま銃を目線まで持ち上げる」

 

 

「頭は動かさず、銃を目線の先に突き出すようにする」

 

 

「フロントサイトとリアサイトの高さを合わせ」

 

 

「後に目の焦点をフロントサイトに合わせる」

 

 

「レンジは約二十五メートル」

 

 

「トリガーは指の腹で」

 

 

「視線をずらさず」

 

 

「狙いは違わず」

 

 

「不殺を心に」

 

 

 

 

 

 

 

 

「────チェック」

 

 

 ────撃ち抜く。

 その弾丸による反動で、吹き飛ぶ事はもう無かった。たった一度の学習のみでそれら全てを修正し、その弾丸の行く末を眺める。

 

 銃の反動故に、的に近付かないと中々当たらないと、そう錦木が嘆いていたはずの弾丸は。

研ぎ澄まされた集中力と学習能力によって最適化され、僅か二発目で。

 

 

「……まあ、珈琲よりは簡単かもだけどさ」

 

 

 

 

 ────その人型の的の、心臓を貫いていた。

 

 

 

 

 






〇その頃の原作組


千束 「いやぁ〜みんな無事でほんっと良かったぁ〜!さ、早くリコリコに帰ろっ!」

ミズキ 「愛しの朔月くんに早く会いたいもんねぇ〜?」

千束「ち、が、い、ま、すぅ〜!朔月くんの珈琲が飲みたいだけですぅ〜!朝頼んどいたから、用意してくれてるはず!」

たきな 「今から帰ること連絡しなくて良いんですか?」

千束 「あ、そうだ送んないと」

クルミ 「……誰だ?」

千束 「ウチのお店の仲間なの!後で紹介するねぇ〜!」

ミズキ 「毎度朔月くんの話になる時にデロデロすんのやめろ……!」

ミカ (試し撃ちに没頭してたらどうしよう……ちゃんと珈琲作って貰うよう言ってから来れば良かった……)




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話 More haste, less speed
Ep.10 Reveal a secret









会えない時間も、ちゃんと想ってる。
寧ろ顔が見たいなと思う分、募っていくもんだよ。



 

 

 

 

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「…………ああ、お前か。“朔月くん”とやらは」

「何故名前が割れてるの」

 

 ────誰この子。ミカさんの隠し子かな。

 

 座敷の座布団を取り出そうと一室の押し入れの引き戸を開いた途端、上段に自室を形成し、ご立派なチェアにふんぞり返る幼女と目が合った。

 金髪で小柄で、額を出して頭頂をリボンで縛っている。とても幼そうなのだが言葉遣いや声のトーンはなんだか大人びていて、思わず敬語になってしまった。

 

「どちら様ですか?」

「名前か?ウォールナットだ」

「ウォール・ナット、さん?……外国の人?え、どっちが苗字?どっちが名前?」

「……クルミ」

「???」

 

 ……ん、え?や、何?いや分かんないって。説明凄い面倒そうな顔するじゃん。

 クルミが名前?じゃあクルミ・ウォールナットって事?え、これ本名なの?直訳すると『クルミクルミ』だけど……あ、名前が『胡桃(くるみ)くるみ』って事?や、それはそれで可愛らしい名前だけど。

 ゲシュタルト崩壊起こしそう。

 

 ……あ、もしかして、新しいバイトの娘か?そんな話聞いてないけど……共有が無いって事はDA関連の人か?だよな、そうじゃなきゃこんな小学生か中学生か分からない女の子をこの店に置いておく訳が無い。

 それに、労働基準法56条で中学生のバイトは禁止されてるし……とかって考えてると、後ろから和服姿の錦木が駆け寄ってきた。

 

「朔月くんゴメン!紹介まだだったよね。今日から仲間のクルミ!」

「いや説明雑……えと、DAの人?」

「あー違う違う!一昨日の仕事の護衛対象。ウチで暫く匿う事になったの」

 

 一昨日の護衛対象というと、確か大物ハッカーの事ではなかったろうか。じゃあ目の前のこの娘が件のハッカーで、そのコードネームが『ウォールナット』って事か。なんか思ってたイメージと違うな。

 

「もっとこう……眼鏡で、痩せて小柄な男かと思ってた」

「そ、そんなわけないじゃーん、もう朔月くんったら、映画の見過ぎですよ〜……」

「いや君がそういう類の映画持ってきたせいだから」

「え!?もう見てくれたの!?昨日の今日で!?やっだもう嬉しい〜!ね、ね、どれが面白かった!?」

「テンション」

 

 昨日は休みを貰ってたがする事も無かったので、折角借りたしと思って何枚か観賞したのだが、まさかそこまで喜ばれるとは思わなかった。

 錦木は毎度感情のままの笑顔を見せてくるから、耐えかねて思わず目を逸らしてしまう。そんないつもと変わらないやり取りをしていると、押し入れからそれを眺めていた彼女が────

 

「……お前ら付き合ってるのか?」

「え?」

「ふぁっ!?」

 

 などと言ってきた。というか、錦木のその反応する時の声は毎度どっから出てきてるんだ。

 付き合うって……俺の勘違いとかでなければ男女交際って事だよな。ミズキさんにも前に聞かれた事あるけれどそういや経験無いなぁ。ハッカーの彼女には俺と錦木が付き合ってるように見えたのだろうか。

 特に慌てる事もなくボケっと突っ立っていると、対照的に錦木はこれでもかという程に顔を赤くして慌てふためいていた。

 

「え、な、何言っちゃってんのクルミさん、そんな訳無いじゃないですかぁ〜!」

「そうなのか。あ、じゃあ千束のカタオモ────」

「ちょ、ちょおおおおおおおおい!!!」

 

 押し入れの引き戸を思い切り閉める錦木。いや、今あの娘何か言おうとしてたじゃんか……錦木の反応が早過ぎて聞き取れなかったわ。

 しかし、その後またゆっくりと錦木は襖を引いて、ハッカー少女と顔を近付けて何やらボソボソ呟いていた。

 

「……黙ってなさいっ

「……承知した」

 

 よく聞こえないけどなんか話してるっぽい。

 何言ってるかは聞き取れないが、多分錦木が銃突きつけながら少女に揶揄うんじゃねえよ、って脅してるんだろうなあれ。俺と付き合ってるのかとか不名誉な事聞かれたから。怖過ぎだろリコリス。

 

 そのやり取りを眺めているとふと、彼女の目の前にある画面に目が向かった。何やら一枚の画像の解析的な事をしてるっぽい。なんだこの写真。ビルの窓の奥に人の姿がチラホラ見えて……これ銃取引がどうとかって言ってた写真かな。調べてるのか。

 ハッカーってそういうのもできるんだなぁ……正確にはクラッキングとかって言うらしいけどこの辺りは知識不足だしなぁとかって眺めていると、会話を終えたのか錦木とハッカー少女は一様に此方を見た。

 

「……どうかしたか?」

「や、ハッキングは勉強(・・)した事無いなぁと思って」

「やめとけよ、長生きできないぞ」

「君がそれを言うのか……」

 

 本職だよね君。実際、命は狙われていたようだけど。

 しかしこんな幼い段階から長生きできないと諦観してるというか、達観してしまっているのは中々に悲しい。何故この道を選ぶ事にしたのかも興味があるし、ハッキングって響きがもうなんかカッコイイから勉強してみたい気もするけれど、彼女が止めるなら止めておこうかな。長生きするかどうかはあんまり関係無いとは思うけど。

 

「……よいしょっと」

 

 錦木を退けて、押し入れから飛び降りる彼女。小さなタブレットを小脇に抱えて畳を踏み締めて、俺の前まで躍り出た。下から上まで一通り眺められ、なんとなく気恥ずかしくて目を逸らそうとした瞬間に、彼女から細い腕と小さな手が伸びてきた。

 

「今日から世話になる、ウォールナット改めクルミだ。よろしくな、“誉”」

「……っ」

 

 ハッカー少女が此方に手を差し出す。握手、という事だろうか。

 何故か彼女の後ろに立っていた錦木がピクリと反応していたが、思い返してみると……ああ、なるほど。

 

「……なんか、下の名前で呼ばれんの新鮮だな」

「ん?ダメか?」

「や、そんな事無いよ。よろしく……えと」

「クルミでいい。さっきは混乱させて悪かった」

「……よろしく、“クルミ”」

 

 そういって、差し出されたその手を握り返した。新メンバークルミを迎え入れて、リコリコはよりいっそう賑やかに……や、騒がしくなるだろう。主に錦木のせいで。

 

「……」

 

 ……で、錦木が何か言いたそうにこっち見てる。睨まれてるまである。

 

「どした?」

「べっつにぃ……」

「なんだよ、気になるじゃないか」

「何でもないですぅ」

 

 口を尖らせて部屋から出ていく錦木。それに首を傾げながら、彼女の背を追うのだった。

 あ、その前に。

 

「……ところでクルミって歳いくつなの?」

「秘密だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「────というわけで閉店ボドゲ大会スタート!」

 

『『『イエーーーーーイ!』』』

 

「……何度目だこれ」

 

 物凄く短いスパンで開催されてるなこの大会……最近、ここの時間軸だけループしてるんじゃないかと疑いたくなる程に恐怖を感じてる。

 やっぱりあのゲームで金銭のやり取りが発生してるとしか思えない。賭博か此処は……リコリスとかDAとかって裏の仕事をやってるくらいだ、この喫茶リコリコはあくまでフロント企業、裏カジノ的な事をしていてもおかしくは……じゃなきゃ毎度こんなにメンツが揃うはずが無い。

 俺は震えながら、座敷にて円環を成す常連客に目を向ける。

 

「締切明日って言ってましたよねぇ?」

「今日の私には関係無いしぃ」

 

 と隣りに心理戦を仕掛ける米岡さん。帽子にグラサンで金髪……やばい、賭博のイメージが強くなったせいでその手のヤクザギャンブラーにしか見えなくなってきた。

 そんな米岡さんの忠告を我関せずでニヤつく伊藤さん。や、締切明日なら漫画優先すべきだろ。お金を稼ぐ為の仕事を放棄してまでこのボドゲやるって事はやっぱりお金稼げる賭博だろこれ。警察……いやDAに通報するぞ。

 

「よしましょう、仕事の話は」

 

 ニヤついた表情で格好付ける後藤さん。赤いジャケットがかなり様になって見える。此処で年金稼ごうとしてるのかな。

 そんな彼の言葉に反応するのは、そのまた隣りに座る阿部さんだった。

 

「実は自分も勤務中で……」

「刑事さん、ワルだねぇ?」

 

 ホントだよ。いや阿部さんはこの賭博取り締まる側でしょ何してんですか。

 それ聞いて隣りの山寺さんも不敵な笑みを浮かべている。言い方もなんかネットリしてるし、みんな営業中の時とテンション違う。リコリコカジノ恐るべし。

 

「早く始めましょうよー!」

「じゃあ順番決めるぞー」

 

 既にカードの束を両手にゲーム開始の催促をするのは北村さん。それを皮切りに、クルミが音頭を取り始めた。最近此処へ来た割に、クルミがみんなと打ち解けるのが早くて素直に驚いていると、すぐ隣りに立っていた錦木が、カウンター向こうで片付けをしてる俺の隣りでレジ締めをする井ノ上さんに声を掛けた。

 

「ねぇ〜たきなも一緒にやろうよ〜!レジ締めなら私も手伝うから」

「もう終わりました」

「え、早っ」

「レジ誤差ゼロ。ズレ無しです」

 

 機械のように無駄な動きなくレジ締めを終え、小さく息を吐く。そのまま踵を返して彼らに背を向けると、その背中に常連さん達の声が。

 

「って事は、もう暇でしょ」

「たきなちゃーん、ほらおいでよ。こっちこっち!」

「どうだ、たきな?」

 

「いえ、結構です」

 

 伊藤さん山寺さん、クルミと次いだ再三の誘いを刃物のようにスッパリと断って、店裏へと戻っていってしまう。

 思わず錦木へと視線を戻し、軽く目が合う。困ったように表情を変える錦木や、心做しかテンションが下がった座敷の空気に当てられて、堪らずその背を追い掛けた。

 

「……ちょっとくらい混ざっていけば?明日定休日じゃん」

 

 更衣室に手をかける寸前だった井ノ上さんは、俺のその声で動きを止めて顔を上げる。すると此方に視線を寄越して、酷く真面目な顔で告げた。

 

「────そうすればDAに戻れますか」

 

 ……や、知らない。

 ゴメン、それは分からないけれど。そうじゃなくて。

 折角みんなが誘ってくれたのに、あんなに冷たく断る事もないじゃないかと少し抗議に来ただけなのだが、彼女にとってはやはり此処の時間よりもDAに戻りたい願望が強いのだろう。

 ぶっちゃけ今戻っても、彼女が変わらなければ同じ事を繰り返す気もするけどなぁ……少しだけ、素人だし一般人だけれど、思った事を伝えてみようかな。

 

「……あー、やっぱりまだ戻りたいんだ。じゃあ試しにボドゲやってみたら?」

「……あれに参加して、戻れるわけないでしょう。貴方に聞いた私が馬鹿でした」

「え?や、至って真面目だけど」

「どこがですか」

 

 この娘一言一言に噛み付いてきて怖い。嫌われてんのかな。まあ、何にも知らない一般人にとやかく言われても面白くないよな、配慮が足らなかった。

 ただ、これは素直に感じた事だったので、素人ではあるが聞いてもらいたかった。

 

「話を聞く限り、井ノ上さんの転属の原因ってこの前の銃取引での独断専行なんでしょ?けどDAのリコリスは基本的に組織、最低でも二人一組(ツーマンセル)が基本らしいじゃん。つまり求められてるのはチームワークって事で、なら協調性とか組織として求められる行動に改善があれば良いんじゃないの?あそこに混ざるのは普通に手としてありだと思う」

「……」

 

 それを聞いて押し黙る井ノ上さん。ちょっと納得したのかな。それとも、自分自身に思う節があったのかも。

 どちらにせよ俺の理屈は屁理屈もいい所だけど、先日の沙保里さんが人質として捕まったワゴン車に対しての問答無用の射撃を体験してるから、なんとなく井ノ上さんがそういった独断行動を咎められている線も、あるのではないかと思ってしまった。

 

「……何も知らないくせに、それっぽい事言うんですね。そんなの、こじつけですよ」

「いや組織ならコミュニケーションもチームワークも大事じゃない?井ノ上さんが考えた作戦を、錦木がしっちゃかめっちゃかにして失敗したら面白くないでしょ?」

「……有り得そうなんでやめてください」

 

 だよね。錦木ってそういうの多そう。偏見だけど。

 任務中に遊び散らかしてたり、標的と楽しく会話してたりとか。とにかく彼女が絡むと予定通りに行かなそうだもん。俺なんて毎度珈琲淹れる度に邪魔されるからね。実体験だよ?

 

「……あの時は、あれが一番合理的な行動だと……あんな騒動になるなんて、思わなかったんです」

「……そっか」

 

 多分、機銃掃射の件を言っているのだろう。詳しくは聞いてないが、セカンドリコリスを人質に取られて動けなかったDAの中で唯一、井ノ上さんだけが行動を起こした。その内容が機銃掃射で、商人を全員撃ち殺したという話だった。

 そこに対して、俺自身が井ノ上さんに何か意見したり非難したりはお門違いだと思っている。だから、何も言わずにいたけれど。

 

「……まあ、俺は井ノ上さんのした行動が正しいかどうか言える立場じゃないけど……そこまで責められるようなものでも無い気がするけどなぁ」

「……何故、ですか」

「え、や、だって、井ノ上さんの行動で仲間が助かったんでしょ?非難されるばかりの事じゃないと思うけど。少なくとも、助けて貰った娘は感謝してるんじゃないの?」

「……千束さんと、同じ事を言うんですね」

「そうなの?……じゃあ、そういう事じゃん」

 

 まあ、人を殺すだの人が死ぬだのと言った話は、やっぱり気分良くはなれないけれど。最初に機銃掃射とか聞いた時は鳥肌立ったし。映画だけかと思ったわそんなん。

 

「ま、井ノ上さんの自由だとは思うけど。ああして誘ってくれてるんだし、暇な時だけでも顔出してあげたら?」

「……私は、此処で時間を持て余してる暇なんて……」

「そうなの?だったら尚更、色んな事を経験した方が良いと思うけど」

「……何の為に?」

「何の……や、考えてなかったけど……でも、毎日銃持って奔走するばかりの人生なんて損じゃない?今は此処が井ノ上さんの居場所なんだし、此処での時間を試してみるのもありなんじゃないかって思っただけ。それで嫌なら本部に戻ったら良いんだし」

 

 何の為かと聞かれれば、分からないけれど。

 それはきっと人それぞれで違うものだと思うから。俺にとってそれは、知らなかった事が知れて、周りに還元できて、ありがとうって言って貰えて、それが何より嬉しいからだけれど。

 井ノ上さんなら、また違う理由かもしれないけれど。

 

「……考えておきます」

「『行けたら行く』並に信用ならない……」

 

 話は終わりだと言わんばかりに視線を逸らされ、更衣室の引き戸に今度こそ手をかける────瞬間、後ろの扉が勢いよく開き、赤い和服の錦木が駆け寄ってきた。

 

「ね〜え〜たきな〜」

「なんですか?」

「一緒にゲームやろ?ね?」

「もう帰るので」

「あ、じゃあ明日は?」

「明日は定休日ですよ。……着替えるので」

「そう、だから明日も集まってゲーム会するんだけど」

 

 と、取り付く島ねぇ……。

 ピシャリと目の前で更衣室の扉を閉められる錦木。や、それでめげない彼女も凄いな、普通に尊敬するわ。

 

(……あ、そういえば)

 

「あ、錦木」

「?」

 

 そんな錦木の横顔を見て、ミカさんから錦木に伝言を言い渡されていたのを思い出した。錦木を呼び掛けると、コテンと首を傾げて此方に視線を寄越す。

 

「ミカさんが健康診断と、体力測定?が、終わってるのかって」

「……え、あ、や、まだぁ……あんな山奥まで行くのダルいし〜……」

「いや山奥なのは知らないけど……明日までに行かないとなんでしょ?仕事続けたいなら行ってこいってさ」

 

 DAの本部に戻って受けないといけないらしい。人間ドッグみたいな感じかな。なんか一般企業みたい。なんかライセンスの更新とかにも必要みたいで、期限を過ぎれば剥奪されてしまうらしい。

 つまり、戸籍もなく学校にも行ってない、かつ銃刀法違反の爆弾みたいな少女に成り下がるという事だ怖過ぎ。なんでそうなるまで放置してたのこの娘。

 

「ええ〜……そこは先生がどうにか言っといてくれないかなぁ……先生の頼みなら聞いてくれるでしょー、楠木さん」

「くすの、き……え、急に誰」

 

 知らん人……と思って思わず聞き返した、その瞬間だった。目の前の引き戸────つまり更衣室の戸が勢い良く開かれ、そこには瞳を見開いた井ノ上さんの姿があった。

 その音が大きくて、思わず視線をそちらに向けてしまって。

 

 

「司令と会うんですか」

 

 

 ────下着姿の彼女を目の当たりにしてしまった。

 

 

「っ……!?」

「うおいばっか服ゥ!」

 

 驚異的な反応速度で、錦木は思い切りその引き戸を閉め切る。そして、その視線を引き戸から勢い良く此方へと向けた。

 思わず目を逸らしたが、それでも錦木に凄い視線を向けられているのを圧で感じる。本当にこの店の人達は目力が強過ぎる。

 

「……見たよね」

「……見てない」

「顔赤くなってる。絶対見たでしょ」

「……極力見ないようにはした」

 

 着替え途中の癖に態々男女が会話してるところを、更衣室開けてまで介入してくるとは誰も思わない。

 余程井ノ上さんには聞き捨てならない発言だった様だ。彼女の司令、という発言。どうやら彼女を此処へ転属させた張本人の様だ────と、そんな此方の思考を阻害するかのように錦木が詰め寄ってくる。

 

「っ……あー!ほらやっぱ見たんだ!もう信じらんない!」

「は……!?あ、いや、今のは不可抗力でしょ!」

「朔月くんの変態!最低!覗き魔!」

「のぞっ……!?」

 

 これでもかと言わんばかりの罵倒。顔を赤くしながら錦木は畳み掛けるように俺を口撃してくる。錦木の声が大きくて、座敷の方からなんだなんだと声がして、慌てて俺は錦木を宥める。

 

「や……今のは回避できないでしょ!井ノ上さんが着替え途中に開けてくるのなんて予想できるわけ……」

「────私も連れて行ってください」

 

 俺の言葉を遮るように、再び引き戸か開かれ井ノ上さんがそう告げた。既に制服に着替え終えており、そのまま錦木に深々と頭を下げる。

 あまりの着替えの速さと、突然の懇願に言い合いそうになっていた俺と錦木が固まった。

 

「お願いします」

「「……」」

 

 二度目の懇願。また深く頭が下がる。

 どうしても本部に戻りたいのだと、変わらず刃のような鋭さを孕むトーンで。まるで、ここ数カ月間のリコリコでの日常などに、何も感じていないかのようで。少し、ショックだった。

 

「……分かったよ、たきな」

 

 錦木も、困ったように、仕方なさそうに。微笑みながら、井ノ上さんの肩に手を置いて了承した。井ノ上さんは『ありがとうございます』と感謝を述べて、荷物を取りに再び更衣室へと戻ろうとして。

 

「あ、井ノ上さん」

「……はい?」

「さっきは、その……ゴメン」

「……いえ、気にしてません。いきなり開けたのは私なので」

 

 そう言って更衣室の扉を閉めた。帰宅に伴って荷物の取り纏めをしてるのだろう。閉まった扉の先を想像する俺の横顔を見上げて、錦木が小さく呟いた。

 

「……えっち」

「っ……」

 

 ……な、何かいつもより執拗いな。

 錦木へと視線を向けると、プイッと逸らされてしまった。そして更に、追い打ちをかけるべく言葉を重ねる。

 

「……変態」

「っ……」

 

 ────グサッと来た。

 ……確かに見てしまったのは俺が悪いけど、錦木自身が見られた訳でもないのにそこまで責められる程、此方に非があったとは思ってない。井ノ上さんにだって謝ったし、これ以上錦木にどうこう言われるのは……こう、普通に傷付くんだけど。

 

「……なんだよ、何をそんなに怒ってんのさ」

「……ふんっ」

 

 ……マジで、何故錦木はこんなに怒ってるんだ……。

 回避できる状況じゃなかったし、わざとじゃないし、それを言い訳にこそしたけど謝ったじゃないか。他に何が不満なんだ……どうしよ、錦木まだ怒ってる……困ったな。

 

 というか流石にカチンと来たかもしれない。最近ちょくちょく錦木を甘やかしたり、揶揄われたりを続けてるんだ、今日くらいちょっと仕返しというか意趣返しというか報復というか復讐というか。

 

「……じゃあ逆に、俺はどうすれば今のを回避できたのか教えてよ。そんだけ最低だの変態だの言うんだから勿論あるんだよね」

「えっ……ええと……誰かが着替え中の時はこの扉の前で会話しない!……とか」

「そんな取って付けたようなルール……今みたいなのが起きる前に共有しとくのが普通でしょ。それに、先に着替え中の井ノ上さんにゲームやろうって話しかけてたのは錦木じゃん」

「そ、れは……お、女の子同士だし私はいーの!」

「俺が錦木に話し掛けたのだってミカさんからの言伝があったからで、そもそも俺が伝言しなきゃならなかった理由だって、錦木が今日まで健康診断サボってたからでしょ」

「ぐっ……」

 

 はい論破。何も言わずに俯いてしまう錦木。

 勝った。トップのリコリスに口喧嘩で大人気なく勝ってしまった。というか自分で言ってて今のやっぱり回避しようないじゃんか、とかって開き直りつつあった。

 さて、言い負かしたと良い気になりそうなのを抑え、錦木の様子を見る。彼女はふるふると肩を震わせたかと思うと、顔を上げて口を大にして叫ぶのだった。

 

「朔月くんの女ったらしぃ!」

「っ、おい待て、その悪口はおかしいだろ!」

 

 

 

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

「千束と喧嘩したそうじゃないか」

「喧嘩って程でも……いつもの延長だよ。てかクルミは仕事しないの?」

「こちとら専門は電脳戦なんだ」

「この前和服で接客してたよね?」

 

 相変わらず押し入れの上段でチェアに凭れながら画面を明るくさせてキーボードを叩く彼女を眺めつつ、下の段から座布団を引っ張り出す。今日は千束とたきなが健康診断とやらでDAの本部に行く為に不在で、開店準備のフロア担当は誉のみだった。や、正確には定休日なのだが……ボドゲの為に常連客が押し寄せてくる予定なので、座布団の用意をしていた。

 クルミは我関せずでスナック菓子を口に運んでおり、それを見て誉はただ小さく笑う。まあいいか、なんて思いながら。最近この店の人達全員に甘くなってる自覚もあるのだが、どうにも文句など言えない性格をしている様だ。苦笑しつつ、誉が座布団を重ねて持って行こうと立ち上がった時だった。

 

「朔月誉。17歳、9月9日生まれのAB型RH-。出生は東京の国立国際医療研究病院にて、出生体重は2459gの低出生体重児。へぇ、しかも出産時は泣かなかったみたいじゃないか」

「────」

 

 ────ふと、誉は振り返る。

 押し入れの上部分で、クルミは変わらず眼前のディスプレイを眺めていた。それは、彼女のスキルで調べ挙げられたであろう誉のプロフィールだった。誉は、何も言わずに彼女の次の言葉を待った。

 

「学歴無し……けど不就学って訳でも無さそうだな、ちょいちょい学校には行ってたのか」

「へぇ、そんな事も分かるの?そんなに行ってなくて、単位足りなくて卒業できなかったんだよ」

「や、学校に行ってたかどうかっていうよりは病院の方にお前の診断書とか経過報告の書類があったんだよ。……というか、怒らないんだな」

「え……ああ、調べられてる事?別に隠してるわけじゃないからね。みんなには、聞かれないから答えてないってだけ」

「ふーん……そうな、の……か」

 

 ────そこまで言って、クルミの手が止まる。

 どうかしたのかと彼女を見れば、目を見開いて、画面を食い入るように見つめていた。

 そこに映っている何か(・・)に、いつも無表情の彼女の表情を、変えてしまう程の情報があった様で。

 

「……」

「ん?何?」

 

 クルミは、三度彼の方へと視線を向ける。

 誉は、それこそ我関せずで首を傾げるだけだった。それを見てクルミは、ポツリと。

 

「……これ(・・)、千束達には言ってるのか?」

「言ってないけど」

「……どうして」

「や、聞かれてないから」

「……こんなのピンポイントで質問される訳ないだろ……」

 

 つまり意図的に隠してるのだと、クルミは言外に伝えられたような気がした。最初はDAの支部にたった一人、無関係の一般人がいる事への違和感と、そこに対する興味本位で軽くプロフィールを漁ってしまおうかと思っただけだった。けれど、彼のこれ(・・)は、思った以上に。

 

「……お前、此処にいて平気なのか」

「え?……あ、うん、大丈夫だけど」

「これ、流石にミカには突っ込まれたんじゃないのか?一応この店の店長だろ」

「まあ、ね。けど、俺天涯孤独だから心配するような家族も居ませんよって言ったら、何も言わずにこの店に置いてくれたんだよね。感謝してる」

「……何も言えなかっただけじゃないのか」

「ははっ、そうかもね」

 

 その表情は本当に楽しそうで。

 何かに憂うものでも、諦めて絶望を孕んだようなものにも見えなかった。ただ幸せそうに、嬉しそうに、楽しそうに。それを見て、途端にクルミは罪悪感を抱き始めて。

 

「なんというか……すまない」

「え?」

「いや、プライバシーを漁るような真似……」

「ああ、いいよそんなの。寧ろクルミの腕にビックリしてる。ハッキングって凄いのな。やっぱ勉強しようかな」

「……教えてやろうか?」

「え、本当に?あ、でも難しいのかな」

「それは誉次第だな。先ずは────」

「え、あ、今?や、座布団の準備が……ちょ、待ってて」

 

 誉が慌てて座布団を抱えて、座敷へ運ぶべく飛び出していく。その背中を、クルミはただ眺めた後、再び画面へと視線を戻す。

 そして、一つ一つ調べていたファイルの右端のバツをクリックして、そのページ全てを削除して、深く溜め息を吐くのだった。

 

「……難儀だな、千束」

 

 

 

 

 








電車にて。


たきな 「……」

千束 「……」

たきな 「……あの、何か落ち込んでます?」

千束 「やー、その……言い過ぎたなって、朔月くんに」

たきな 「ああ……私は気にしてなかったんですけど、そもそも何故あんなに怒ってたんですか?」

千束 「……」

たきな 「……?」

千束 「たきな見て、顔真っ赤にしてるの見て……なんか、その……」

たきな 「……その?」

千束 「……おもしろく、ないなぁ……と、思って……」

たきな 「……」

千束 「……」

たきな 「……嫉妬、みたいな?」

千束 「っ!?え、や、ちがっ……!」

たきな (可愛いなこの人)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.11 Enough to quarrel








有り触れた日々でも構わないから、もっとずっとと願ってる。



 

 

 

 

 

 

 

「アンタ、千束と喧嘩したんだって?」

「え、や、してないですけど」

「『変態!』って言われてたもんねぇ」

「いやそれは誤解……」

「座敷にまで声聞こえてたからなぁ」

「やだ何それ恥ずかしい」

 

 ……全っ然集中できんのだけど。

 カウンターで一人読書を楽しんでいようものなら、座敷の方から常連さん達の声が聞こえてくる。聞こえない振りをしようものなら、言葉で背中を刺してくるのだ。

 彼らが言っているのは、つい昨夜の事だ。うっかり井ノ上さんの下着姿を目撃してしまい、それを錦木に突っつかれて多少なり言い合いになってしまった。座敷にいたみんなは詳しくは知らないが、俺と錦木が言い争ってるような声だけは聞こえてきたようで……特に錦木の『変態』『最低』『信じらんない』は店内によく響いたらしく……くそ、あのゴリラめ。

 大体定休日なのにどうしてこんなに常連さんが集まるんだ。どうなってんだリコリコと地域の絆は……とか考えていると、座敷で構えた伊藤さんが手元のメモ帳を開いて此方を細い目で見据え始めた。

 

「で、何があったん?聞かせなさいよネタに困ってるの」

「いや私情丸出し……これは、その……錦木と井ノ上さんの沽券に関わる部分もあるので、ノーコメントって事で」

「?え、どうしてたきなちゃんも……?」

「あ、いや、それは……」

 

 北村さんの突っ込みにしまったと口を閉じる。余計面倒になりそうな予感。うっかり喉から出てしまったと、誤魔化す為に口を開いた時だった。

 

「分かったわ、何かの拍子にうっかりたきなちゃんの着替えを目撃してしまって、それを千束に見つかって言い合ったってところね」

「マジかこの人」

 

 伊藤さん見てたでしょ絶対。鳥肌立ったんだけど。

 この少ない情報だけでそこに辿り着いたりする?それ妄想じゃなくて現実なんですけど。漫画家ってみんなそうなの?恐ろしいんだけど。

 それを聞いた北村さんは、目を見開いてこちらを見た。

 

「えー!そりゃ怒るよ千束ちゃん!」

「や……井ノ上さんには謝ったんですけどね……何故か錦木の方が怒ってて……」

「そりゃそうよ、他の女の子の下着姿見て、どうせ顔赤くしちゃったんでしょ?そんなの、千束からしたら面白くないに決まってるじゃない」

「…………え、なんで錦木が面白くないんですか?」

「マジかこの子……」

 

 井ノ上さんの下着姿を俺が見ると錦木の機嫌が悪くなるって事だよな……?あ、そうか。井ノ上さんと錦木は相棒だもんな。相棒のあられも無い姿を俺みたいな一般人に見られるのはプライド的にも大切な相棒的にも色々許せないとかそんな感じか。

 仲間想いなのは知ってたけど、意外と独占欲強いじゃん錦木。

 

「いや、今理解しました。後で錦木にも謝ります」

「……伊藤さん、彼絶対何も分かってないですよ」

「あんなに千束も分かりやすいのに、好かれてる自覚無いのかしらね」

「……?何か言いました?」

「今の聞こえないとか、鈍感系だけじゃなくて難聴系の主人公ね」

「……南朝系?」

「この子本物だわ」

 

 丼関係に南朝系?……い、一体何の話を……。

 とかなんとか言ってる内に、阿部さんとミカさんとが二人でボドゲで真剣勝負を座敷で繰り広げていた。ミカさん……そんな楽しそうな顔……。こんな賭博(偏見)でストレスを解消しないといけない程には、普段やっぱ疲れてるんだろうな。

 これ完全に錦木のせいだろ。俺も彼女のせい、もとい彼女のお陰で、久しぶりに珈琲をお客さんとして楽しむ気分に浸っていたのを、お客さん達に弄られる標的になってしまったではないか。

 けど、こうして友人間でのやり取りみたいなのを、お客さんとできるのっていいな。なんか……常連の人達に認識されてるのってこう……正式にリコリコに仲間入りを果たした証みたいで、ちょっと嬉しいかもしれない。

 けど、君達少し遊び過ぎじゃあ……?

 

「というか皆さん、帰らなくて大丈夫なんですか?そろそろ夕方ですけど」

「……もうこんな時間か。千束達もそろそろ終わる頃だな」

 

 店内の時計を見上げて、ミカさんがそう一言。

 ……ああ、健康診断の事かと思っていると、クルミがスマホを取り出して、『千束達も呼んでみるかー』と言ってメッセージを送っていた。まだやるのこの賭博……。

 

「ったくもう……」

 

 呆れたように笑いながら、閉じていた書籍を再び開く。

 母親の形見である、勿忘草を押し花として閉じた栞を元にパラリと開かれたページに、再び視線を落とそうとして────今度はスマホの通知が鳴った。

 ……今日も今日とて予定通り、思い通りに進まない日である。俺のスマホに入ってる連絡先などほぼ無い。ネットで買い物なども基本的にはしないので、ここ通知が来るとしたら基本的にはリコリコのグループチャットか錦木の個人メッセージである。

 案の定、送られてきたのは錦木からのメッセージ。クルミの誘いに対しての返事だった。

 

【二人で行くぜ】

 

 そう記されたメッセージの上には、共に笑顔で視線を寄越す錦木と井ノ上さんのツーショット。

 昨日とはまるで違う井ノ上さんの表情や、ぎこちの無いピースを見て、思わず微笑んでしまった。特に、井ノ上さんの小さな笑みにつられたのかもしれない。昨日の冷たい表情はそこにない。

 きっと、本部で何か良いきっかけを得たのかもしれない。

 

(……ああ)

 

 ────やっぱり、錦木と関わったからかな。井ノ上さんが笑えているのは。

 

 そう思うと、何故か自分の事のように錦木が誇らしかった。自分が彼女に感じている憧れは、決して間違いなどではないのだと知らしめてくれている気がしたから。

 

「クルミー、錦木と……あと、井ノ上さんも来るって」

「おー、今確認した」

「え!たきなちゃんも!やった〜!」

 

 北村さんがクルミのスマホを覗きながら喜ぶ。

 その声に反応し、他のお客さん達もわいわいと大盛り上がり。今まで絡みが少なかった、けど関わっていきたいと感じていた井ノ上さんの参加は、きっとみんなにとっても朗報だったろう。

 もしくはカモがネギ背負って来たとか思ってるかも。あくまでもここ賭博だから。ずっと疑ってるからね?

 

【気を付けて帰ってきな】

 

 そう、メッセージを飛ばす。

 昨日と何かが変わったのであろう、井ノ上たきなに会う事が。そして、そう変えた張本人である錦木千束に会う事が、今から楽しみだった。

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「取ったどおおおお!!」

「うっわやられた!」

「いや、こっからこっから!まだ巻き返せますって!」

 

「完全にセリフがギャンブラーなんだよなぁ……」

 

 ミカさん……盛り上がり過ぎでしょ。

 出会った時のダンディーなバリスタという印象は、粉微塵になってシベリアの方へ飛んで行ってしまった。あんなに嬉々としてボドゲをしているのを見ると、やはりこの賭博こそが本業なのではないかと思う。DAも喫茶店も副業とか趣味とかなのかも。軽くショック。

 

「私このキャラめっちゃ好き。この前の話でさぁ────」

「あのシーン描くのに二徹してるんだから────」

 

 別の卓では錦木と伊藤さんが原稿を挟んで談笑している。や、伊藤さんは締切今日だって言ってたな昨日……錦木に手伝って貰ってる……案出して貰ってるのかな。

 今日も今日とて楽しそうである。みんなそれぞれ個性が強過ぎるので、一同に相手するのは流石に大変なのだが。やはり錦木やミカさんは化け物である。

 

「……珈琲淹れよ」

 

 自分の分だけでなく、人数分────相変わらず拙い味だと思っているけれど、中々成長が見られないからこそ、練習しなければ。

 と思ったのだが、先程ミカさんが常連さん達に振舞った和菓子を乗せてた皿の山がシンクに溜まっていた。そういえば、まだ洗ってなかったか。先にこっちを洗ってしまおうと、水道の蛇口を開いて最初の皿一枚を濯ぎ始めた時だった。

 

「……あの」

「ん?」

 

 すぐ隣りに人の気配を感じて、思わず視線を隣りに向ける。すると、そこにはいつもの制服を纏った井ノ上さんの姿があった。

 

「ああ、井ノ上さんか……あれ、ボドゲは?やってたんじゃないの?」

「上がりました」

「いや早いな」

 

 一抜けしたのかこの娘……賭博の才能が?必要無いよ?

 先程までみんなとテーブル囲んでカード束ねてたはずだけど……頭脳戦で切り抜けたのか、はたまた運が良かったのか。どちらにせよ初めてで勝ち抜けしたのは凄い。

 そう感心していると、井ノ上さんは何も言わずに俺のすぐ隣りまで歩みより、袖を捲ると、タオルを持って俺の洗い終えたお皿の水気を取り始めた。

 

「え、ああいや、俺やるからいいって。そんなに数無いし」

「……」

「……」

「…………」

「……あの、井ノ上さん?」

「?……何か?」

「…………や、なんでもない。ありがと」

「……いえ」

 

 彼女が何も言わずに黙々とお皿を拭いてくれているので、行動の意図は読めないが、素直に甘える事にした。もしかしたら、本当に善意で手伝ってくれているだけの可能性もある。……何か、俺に言いたい事でもあるのかとも思ったが。

 

「昨日の事ですが」

「っ……え、あ、うん」

 

 唐突だな。けどやっぱり、何か言いたい事があったのか。前もこんな場面で話を振られたので、なんとなくそんな気はしていた。

 俺はチラリと視線を向けながら、井ノ上さんの次の言葉を待った。

 

「昨日の事……謝ろうかと」

「昨日?……え、何かされたっけ。寧ろ俺が謝んなきゃいけなかったような……」

 

 主に彼女の下着姿を見てしまった事とか。や、ホントに一瞬視界に入ったぐらいで見たとか直視したとかそんなガッツリ見た感じでもないんだけど。錦木もすぐに扉閉めたし俺もすぐに目ぇ逸らしたし、ぶっちゃけそこまで覚えてないっていうかなんというか────

 

「その……私の為に、助言をして下さったのに、あんな態度を……」

「え……?ああ……」

 

 そう伝えられて、思い出す。

 そうだ、常連のお客さん達や錦木の再三の誘いを冷たくあしらっていた彼女に、もう少し周りと楽しんで貰えたらなぁと、そんなふわっとした考えのまま彼女に色々言いたい事を言ってしまったんだった。

 

「……」

「……あの?」

 

 ────ただ、彼女が謝る事なんて、何も無かった。

 

「……俺こそ、ゴメン」

「?……何故貴方が謝るんですか」

「井ノ上さんにも、色々事情とか、想いみたいなのがあったのに……知ったような態度を取ってしまって……一日経って、言い過ぎたなって後悔してた」

 

 DAの事も、リコリスの事も、俺は何も知らない。

 井ノ上さんが此処に配属された理由だって、ミカさんや錦木から聞いただけだ。そこから俺が彼女の問題点を、勝手に推測した挙句に偉そうに突き付けただけだった。

 彼女にも考えがあっただろうに、何も知らない俺が彼女を諭したような態度を。

 

「ただ……みんなと一緒の時間も楽しいよって、そう言いたかっただけだった。あんな、井ノ上さんの悪口を言うつもりなんてなかったんだ」

「……別に悪口という程の事じゃ……私の行動に問題があったのは事実です」

「そうじゃない。そうじゃないんだ。俺は、きっと……」

 

 ────ここ数ヶ月、井ノ上さんの事を見てきた。

 DAの本部に戻りたい、だから仕事で成果を上げたい。それだけが彼女の行動指針で、喫茶店の仕事やそこに係わる人達の時間なんて、些事程度にしか感じてないように見えた。

 

 DAからの直接任務が少ない“個人の為のリコリス”。

 喫茶リコリコで、賞賛や評価を得られるような、目に見えた成果を上げるのは難しい。きっとこの店での時間が、変わらない毎日が、井ノ上さんを焦らせていたのかもしれない。

 

 それがお客さんへと態度として表れ始めていた事に、なんとなく気付いていた。クールなのはいつもだったけれど、それと冷たいのとではまた違う。業務以外の会話はしない、ボドゲの誘いの断りの言葉も刃のように冷たくて。

 そうやってあしらわれ続けるお客さんや────錦木の表情を見る度に。

 

「錦木やお客さん達に冷たい態度だった君に、ずっと怒っていたのかもしれない。だから、昨日の言葉にはきっと……八つ当たりが混ざってた」

「────……」

「……本当に、ゴメン」

 

 皿を洗う手が、皿を拭く手が、互いに止まっていた。蛇口から水が流れ落ちる音のみが鼓膜に伝わる。

 そう、きっと心のどこかで井ノ上さんにイラついていたのかもしれない。長い人生の中で血腥い時間で大半を塗り潰してきた彼女に。またその日常に戻りたいと奮闘してる彼女に、俺が求めて止まなかったこの温かな時間を、否定された気がしていたから。

 

 “時間はある”。“遅くない”。

 彼女に、ちゃんとそう言ってあげる事ができなかった。

 

「「……」」

 

 彼女から返事は無い。それが酷く不安だった。思わず、視線を彼女へと動かす。

 ────そこには、此方を見上げて小さく口元を緩める井ノ上さんの姿があった。

 

「……結構、優しいですよね」

「っ……は……え?」

「そんな事、思ってても態々言いませんよ。というより貴方が言う程、酷い事言われたとも思ってないです」

 

 井ノ上さんは俺から皿を取り、再びタオルを宛てがう。

 どこか、錦木に近い笑みに見えた。重なって見える、その横顔に思わず固まる。

 

「────“お店での時間を試してみないか”、と。“それでもダメなら戻ればいい”、と」

「……え?」

千束(・・)にも、まったく同じ事を言われました」

「……そう、なんだ」

 

 確かに、俺もそう言ったかもしれない。

 井ノ上さんに、ここでの時間が如何に大切なものなのかと、押し付けるような言い方をしてしまったと、そう思っていた。

 けれど錦木のその言葉に、今の井ノ上さんは変えさせられたというのだろうか。

 

「“チャンスは必ず来る。その時、したい事を選べば良い”と。それを聞いて、少し肩の力が抜けた気がします」

「……」

「でも、それを先に言ってくれたのは貴方なので。だから、その……ありがとうございます」

「────……」

 

 そう、言ってくれるとは思ってなくて。

 思わず、身体が固まって。何も言う事ができなかった。彼女の表情が、見た事ない程に明るかった。満面の笑みとはいかないが、先程のように口元が緩んで、笑っている事が分かるくらいに。

 思わず、此方の頬も緩んでしまう。

 

「私も、千束みたいにやってみようと思います。不本意ですけど」

「……その割には、ちょっと楽しそう」

「そんな事ないです。こっち見ないで下さい」

「酷い……」

 

 見てたら、顔を逸らされた。やっぱり井ノ上さんの言葉とか声って全体的にはまだ冷たいから地味に傷付くな。

 というか流してたけど────いつの間にか千束呼びになってる。今まであれだけ錦木にそう呼んでと言われても頑なだったのに。凄いな錦木。人との距離感よ。

 

「前にも別の事で、二人にそれぞれ同じ事を言われた気がします」

「別の事?」

「私の行動で、仲間が救えた、と」

「……あー」

 

 機銃掃射の件か。昨日少し話したかもしれない。

 井ノ上さんにとっては、あれが最も合理的な判断だと言っていたけれど。俺が彼女だったら、どうしただろうか。やっぱり目的よりも仲間を優先したかもしれない。そう思うと、やっぱり井ノ上さんを俺は責められない。

 錦木も、きっと同じだったのではないだろうか。そう思っていたら、井ノ上さんがフワリと、柔らかな笑みを浮かべながら、少し俯いて告げた。

 

「やっぱり似てますよ。千束と……っ、誉さん(・・・)、は」

「────……そう、かな……そっか、うん」

 

 錦木と似てる。憧れたる存在と、似ている。

 あんな生き方を、あんな在り方を、本当はずっと求めていた。彼女のような周りを笑顔にできる、幸せにできるような存在になりたかった。

 井ノ上さんはきっと、彼女と俺の言動が重なったからそう言っただけなのかもしれないけれど、“似てる”と、そう思ってくれている人がいるというのは、なんだかむず痒かった。

 

「……嬉しそうですね」

「そ、んな事ないけど」

「声、上擦ってますけど」

「うるさい、たきな(・・・)うるさい」

「……!」

「……なんだよっ」

「いえ、何でもないです」

「あ、今笑ったろ」

「笑ってないです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……や、笑って」

「笑ってないです」

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 酒場のノリと言っても過言では無い。もう明日に支障が出始めようという時間である。明日普通に仕事であろうお客さんも居るだろうに、誰一人帰ってない事実。

 ここの賭博は麻薬である。人を駄目にする店だなこれ。裏稼業は廃止するべきだろ。足洗おうよみんな。

 

「……できた」

 

 ────カフェインレスの珈琲を淹れて人数分のカップに分けて、トレイに乗せる。

 珈琲を抽出してる間に、井ノ上さん────たきなは、再び伊藤さん達に呼ばれてボドゲへと戻ってしまって、今は一人カウンター向こうの丸椅子に腰掛けていた。

 てゆか伊藤さん……確認だけど締切今日、なんだよね?もう夜だけど、今から担当者に渡すの?遊んでていいの?終わってるの?

 

(今日こそ、納得のいく味になってると良いけど……)

 

 まるで成長していない────味に変化を感じない。

 あの時淹れてくれた錦木の珈琲よりも、なんかこう……美味しくない。ただ今回は錦木の絡みも無くスムーズに淹れられたので、美味しくなってると嬉しいな。

 そう思い、目に付いた一番近いカップを手に、淹れられた珈琲を口に含もうと近付けた瞬間、後方から物音がして思わず振り返った。

 

「あっ……」

「っ……錦木」

 

 赤い制服────ファーストリコリスの証たるそれを身に付け此方を覗いていたのは、黄色がかった白髪の少女。錦木千束だった。

 

「……何してんの?」

「えっ、やー、その……良い香りにつられて?」

「何それ、変なの」

 

 なんか、久しぶりに会ったような気さえする。

 昨日まで一緒だったし、帰ってきてもみんなでボドゲしてるところを眺めていたのに。こうして対面すると、長い事会ってなかった気さえする。

 ただ、その表情は若干暗そうにも見える。スマホに送られてきたたきなとの写真はいい笑顔だったのに。そう思っていると、錦木は覗くのを止めて此方に歩み寄って来た。

 

「……あの、さ。昨日、ゴメンね」

「デジャヴ……なんか謝られる事されたっけ?」

「その……私、めっちゃ悪口言ったじゃん」

「悪口……?」

「え、覚えてないの?」

「???」

 

 え?なんか言われたっけ?ガチで覚えてない。

 たきなに八つ当たり気味に諭した事と、たきなの下着姿をうっかり見てしまった事で怒ってきた錦木を開き直って論破してしまったくらいしか記憶に無い。

 ……そう考えると昨日の俺って結構最低じゃない?

 

「っ……だからその、『変態』とか『最低』とか……」

「え?……ああ、そんな事?」

「お、怒ってないの?嫌いになったりとか……」

「は?何で俺が錦木の事嫌いになるのさ」

「っ……」

 

 全く悪口だと思ってなかっただけに驚いた。そんな事で態々謝ってくれたのか。

 いやあんなの、いつものお巫山戯の延長じゃあ……とか思ってたけれど、よくよく考えて見れば、ああいう風に錦木に感情剥き出しで詰められたのは初めてだったかもしれない。あれを錦木は、言い過ぎだと感じていたのか。

 ……や、謝るも何も完全に俺が悪いんだけどね?

 

「……や、俺もゴメン。錦木の気持ちを考えてなかった」

「っ……え……それって……」

「相棒のあんな姿を、ただの一般人でしかも男の俺に見られたんだ。そりゃ機嫌も悪くなる」

「そうじゃねーよ……」

「え?あれ?」

 

 錦木が額を抑えて溜め息を吐いた。え、何?違うの?

 他に何か怒ってた理由が……?あ、俺に論破されて悔しかったとかか?予想と違う反応に困惑して慌てていると、それを見た錦木がクスリと笑っていて。

 

「もう……ひひっ、ばーか」

「────っ」

 

 何だかスッキリしたような彼女の笑顔が、恐ろしく可愛くて。思わず、目を逸らした。

 勘弁してくれ。そんな目で見んなって、ずっと言ってるだろ。心の中でだけど。

 

「?何、どしたの?」

「……べ、別に?つか、馬鹿って言うなし」

「えー、ばかじゃん。ばーかばーか」

「あー、そんな事言う人には珈琲やんない」

「あっ!嘘嘘!私も朔月くんの珈琲飲みたいぃ!」

「分かった分かった。みんなに配ってからね」

「えー、今飲ましてよ!私先飲みたいー!」

「何でさ」

 

 

 ────その声は、座敷の方まで聞こえていたらしい。

 後に伊藤さんや北村さん、クルミといった女性陣に何故か錦木が冷やかされていた。痴話喧嘩とか聞こえたけど、そんなんじゃない。

 錦木は顔を真っ赤にして否定してたけれど、それを中心に笑うリコリコのこの空気が堪らなく楽しかった。

 

「あ、それもしかして珈琲?」

「え、もしかして朔月くん淹れてくれたのかい?」

「あ、はい。粗茶というか、珈琲ですけど……皆さんでどうぞ」

「貰っちゃっていーの?ありがとー!」

「あーカフェイン助かるわぁ……今から原稿仕上げないとだしね」

「終わってなかったんかい!」

「伊藤さん、仕事せず遊んでたんですか」

 

あ、ゴメン伊藤さん。それカフェインレス。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「朔月くんさぁ……たきなのパンツって見た事ある?」

 

「……え、なに?」

 

 

 ────ある訳ねぇだろ頭沸いてんのか。

 

 









誉 「……や、無いけど」

千束 「えー、でもこの前更衣室で」

誉 「あの時はたきなスカートだったから下は見てな……い……あ」

千束 「やっぱ見てんじゃんかぁ!」

誉 「あれこの話解決したのでは!?」






目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話 Nothing seek, nothing find
Ep.12 As long as possible








他人と比べられないから、同じに扱えないからこそ、それが大事だと確信するんだよ。



 

 

 

 

 

 ────銃声で、早朝の眠気が一気に吹き飛んだ。

 

 着替えも中途半端に、誉は和服を気崩したまま店のカウンターへと駆け出す。慌てて音源の場所へと辿り着くと、そこにはタブレットを横向きにして、それを眺めるクルミとミカの姿があった。

 

「────っ!」

「……お。おはよう誉」

「随分早いじゃないか。おはよう」

 

 此方を認識すると、二人は特に狼狽える素振りもなく、普通に挨拶してきた。今の銃声など知らないと言わんばかり。

 しかし再び銃声が何度も鳴り始め、思わず肩を震わせて───その音がタブレットから流れているのに気が付いた。

 

「お、おはようございます、ミカさん。おはよう、クルミ……え、何見てるんですか?映画?」

「お前知ってたか?この店の地下に射撃場があるの」

「あ、うん。まあ……ミカさんにこの前見せてもらって」

「アホだよな。今、千束とたきなが練習してるんだ」

 

 クルミが可笑しそうに微笑む。それを見て、特に慌てる事態ではない事を理解した。てっきり襲撃とかそういった類なのかと思ってただけに、思わず壁に寄り掛かり、安堵の息を割と深く吐き出した。

 

(なんだ、そういう事か……)

 

 やはり普通の店では無い……非日常がすぐ傍らにある事を、こういった逸脱した場面に出くわすと生々しく感じてしまう。

 

「そろそろ時間だな。朔月くん、二人を呼んできてくれ」

「あ、はい。分かりました」

 

 時計を見たミカにそう指示を受け、誉は二つ返事で歩き出す。向かう先は、以前ミカに教えて貰った射撃場へと続く畳の部屋だった。梯子をスルスルと下りていき、石造りの階段を目の前にする。

 すると、けたたましい銃声が反響し、鼓膜にまで響いてきた。いきなりの発砲音で三度肩が震えた。やはり現実味がない。

 

(……慣れないとな)

 

 以前此処で試し撃ちした時の感触が呼び起こされる。手首が痺れ、鼓膜が震え、何度も撃つ事は精神的にも難しいと実感したあの日から此処に近付いた事はなかったけれど、それを千束とたきなの二人は仕事として常日頃から熟しているのだと思うと、少し複雑である。

 そうして石造りの階段を下りようと足を向けたその瞬間に連射音が止まり、離れた距離から声が聞こえてきた。

 

『……凄いねたきな、機械みたい。実弾でそれだけ上手なら急所を避けられるでしょ。無理に先生の弾撃つ事ないよ』

『……急所を撃つのが、仕事だったんですけど?』

『もう違うでしょ?』

 

 なんだか、少し楽しげな会話が聞こえた気がした。

 中途半端に耳にしたが、どうやら今放たれたのは以前誉が使ったのとは違う実弾だった様だ。そして内容から察するに、たきなは射撃が精密的なまでに上手という事。流石、セカンドであっても優秀なリコリスと言ったところだろうか。

 

(……ん?“先生の弾”って、非殺傷弾の事だよな。“無理に撃つ事ない”ってどういう……?)

 

 人を殺さずに済むのなら、非殺傷弾を使うに越した事はないのではないだろうか。何か、非殺傷弾を使えない理由でもあるのだろうか。急所を避けられる程に命中率が高いなら尚のこと使うべきなのでは……と思っていると、階段を上って来ていた錦木と目が合った。

 

「……って、あれ?朔月くん……?」

「っ……あ、お、はよう錦木……」

「おはよう…………え、何でこの場所知って……」

「あ、ミカさんが時間だからって。呼びに来た」

…………先生、此処にまで来させなくても…………

 

 小さく何か呟いている千束を他所に、チラリと的の方を見つめる。たきなが撃ったと思われる弾の全てが人型の的の心臓部分を撃ち抜いていた。成程、確かに機械染みた腕前である。

 

「……へぇ、凄いな」

「っ、あ、あー!や、朔月くんは興味持たなくて大丈夫だから。ね、ほら上戻ろ?呼びに来てくれたんでしょ?」

「あ、うん……」

「ありがとね。さ、今日も張り切ってこー!」

 

 そう言って千束は誉の横を通り過ぎ、階段を上っていく。その背をある程度追い掛けた後、再び首を元の方向に戻せば、たきなも射撃を終えて此方に向かって上って来ていた。

 

「おはようございます、誉さん」

「あ、うん。おはよう、たきな(・・・)

「……」

「……ん?どうかした?」

「……いえ、何でもないです」

 

 たきなはそう言って、誉の横を千束同様通り過ぎ、階段を上っていった。それを追い切った後、再び射撃場へと視線を向ける。たきなが撃ったとされる、その人型の心臓部分。全ての弾があの部分を撃ち抜いたというのか。

 DAのリコリスという存在の恐ろしさを垣間見た気がした。リコリスともなると百発百中は当然なのだろう。

 

「……」

 

 チラリと、たきなの背を見上げる。右手に掴むその拳銃を一瞥し、頭の中で知識の波に溺れ始める。千束が持っていたのは拳銃の名は、確かデトニクスコンバットマスター。先日誉が試し撃ちに使用したのも同じ拳銃だったはず。

 そして、たきなが持っていたのは。

 

(────S&W M&P9、シルバースライドモデル……だったかな。装弾数は口径によって違うみたいだけど、標準的な9mmパラベラム弾だと十七……いや八、だったっけか)

 

 ()()()()()()()()()()()()()()なのだが、意外と覚えるものである。こんな事覚えても使うかどうかは分からないし、使う機会があるとも思えないのだが。

 しかし、こんな早朝から射撃の訓練とは、リコリスも中々にブラック企業だなと、ふと的を見つめていると。

 

(……ん?外してるのも幾つかあるな)

 

 心臓部分以外の場所も、なんなら人型の的から大きく離れた場所にできた弾痕、風穴も見受けられた。たきなのあの命中率ならあんなに大きく外す事はないだろうし、錦木は言わずがもがな東京一のリコリス。

 ────あんなに弾を外す事なんてあるだろうか。クルミやミズキが撃った、とかだろうか。俺でも二発目で的に当たったのに。

 

「朔月くーん?早く来なってー」

「っ、あ、うん」

 

 なんとなく違和感を抱きながら、誉はその部屋を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

「……朔月くんさぁ」

「……何?」

「たきなのパンツって見た事ある?」

「無いです」

 

 何聞いてんの。ある訳ねぇだろ頭沸いてんのか。

 開口一番飛んでもない爆弾発言に、思わず二度見した。錦木は腕を組んで真剣に考え込んでいて、その表情を見たらあまりにも情けなかった。

 俺の憧れが、あんなに物憂げな眼差しで相棒の下着の事を考えてる……ここ最近リコリコのイメージというか憧れてた部分の鍍金がどんどん剥がれてきている。なんかこう……身内には気を遣わない家みたいな。言い得て妙だな……って、え、なんか睨まれてる。

 

「……何」

「この前たきなの下着姿見てたよねぇ……」

「いや、あの時は彼女スカート履いてたし下は見てな……あ」

「ほらぁ!やっぱ見てんじゃんかぁ!」

「あれ、この話解決したのでは」

 

 完全に墓穴掘った感。いやどう考えてもこんな訳分からない質問してきた錦木が悪いでしょ。

 なんだよ、『たきなのパンツ見た事あるか』って。控えめに言っても馬鹿じゃねぇの。

 

「クルミはー?」

「ある訳ないだろ」

 

 当然即答だった。男どころか同性にだってする質問じゃない。

 クルミは俺が買い出しから帰ってくる前に錦木とたきなとで遊んでいたらしいテレビゲームを押し入れに仕舞いながら、バッサリと切り捨てた。錦木は面白くなさそうに口を窄める。

 

「ちぇー、何でも知りたいんじゃないのかよー」

「ノーパン派か?」

「いやいやいや」

「なら何履いてようが、たきなの自由だろ」

 

 これ俺聞いちゃダメなやつだよな。

 居心地が悪くなり、買い出しの荷物を裏に持っていこうとカウンター隣りの扉を開ける。すると目の前で更衣室に入ろうとするたきなと目が合った。

 ……またこのタイミングか、気不味いな。俺が頭を下げると、たきなもペコリと頭を下げ、そのまま更衣室へと入っていく。それを見届けてから小さく溜め息を吐いたその瞬間、後ろの扉が再び開く。

 

「っ……あ、錦木?」

「────っ」

 

 後ろから出てきたのは錦木だった。しかし、彼女は脇目も振らずに目の前の更衣室へと向かっていき、その引き戸に手を引っ掛ける。

 その先には恐らく、着替えを始めようとしてるたきなが居るはず。

 

(あ、ヤバい)

 

 俺は一瞬で後ろを向く。その後直ぐに、彼女がおもむろに引き戸を開く音がした。見てない。今回の俺は、何も見てないぞ。よくやった俺、ナイス反応速度。

 その後、何か布が擦れるような音がして、一瞬時が止まる。何をしてるのかは見てないのでよく分からないが、暫くしてたきなが口を開いた。

 

「……なんですか」

「……なに、これ……」

「下着です」

「そうじゃなくって、男物じゃん!」

 

 ────え、マジか。たきなブリーフとか履いてんの?

 錦木のさっきの質問はそういう……確かにそれは気になるわ。今更衣室に入ったのはそれを確認する為だったのか。や、それにしても何故たきなはそんなのを……。

 

「……これが指定なのでは?」

「し、指定ぃ!?」

 

 ────え、マジか。DAに下着まで監修されてんの?

 件の楠木さんって人の趣味なの?男なの女なの?リコリスってみんな女の子なんでしょ?揃いも揃って男物の下着履いてるの?ヤバい、DA面白過ぎるだろ。腹よじれるわ。秘密組織の女の子全員ブリーフとかトランクスとか履いてんのか。

 や、けど錦木は驚いてるな。指定ではないのか、錦木が知らないだけなのか。ブリーフの錦木……や、ヤバい、震える程に面白い。吹き出しそう。

 

「────今回は見てないよね?」

「見てないです」

 

 背後からの冷たい声で、感情全部吹き飛んだ。

 見てないよ今回は……ちょ、錦木近い近い。これ言うの久しぶり。

 

 

「聞かせて貰いましょうか」

 

 ────その後の錦木の行動は早かった。帰る身支度を早々に済ませ、たきなと共に店の表へ。

 そして、カウンターをバン!と勢い良く叩く。カウンター向こうで腕を組むミカさんを、睨むような表情で問い詰めていた。たきなは裏へ続く扉付近でそれを眺めており、俺は座敷で帰宅の荷造りをしながらその光景を眺めていた。

 

「『店の服は支給するから下着だけ持参してくれ』、と」

「……どんな下着が良いか、分からなかったので」

 

 ミカさんは特に悪びれずに答え、それに続くようたきながポツリと補足説明する。その説明が既におかしい気がするんだけど、指定の下着って何。下着くらい本人の好みじゃないの?

 たきなからそれを聞いて、錦木は溜め息混じりで問い質す。

 

「だからって何でトランクスなのぉー……」

「いや、店長が」

「好みを聞かれたからな」

「アホかぁー!」

 

 ミカさん……トランクスが好きなのか……そうかそうか、凄いどうでもいい事を記憶してしまった……ここ最近で一番要らない情報だった……。

 というか、たきなもたきなだ。男性に下着の好みを聞くっていうのがもう既になんかパワーワードでしょこれ。

 

「これ、履いてみると結構開放的で……」

「そうじゃなぁい!……たきな、明日十二時駅に集合ね」

 

 そう言って、錦木はたきなの隣りを通り過ぎ、そのまま店の扉に向かう。どうやらお帰りのようだ。たきなは振り返ってその背中に呼び掛ける。

 

「仕事です?」

「ちゃうわ!パーンーツー!買いに行くの!……あ、制服着て来んなよぉ?私服ね私服ー♪」

 

 そう言って扉を閉める────瞬間、何故か錦木と目が合った気がした。

 気の所為だろうか……と考えていると、そのまま鈴の音と共に扉は閉まり、室内を静寂が包み込んだ。なんか嫌だなこの雰囲気。下着の話ばかりの後のこの空気ってこう……地獄なんだけど。帰ろ。

 

「指定の私服はありますか」

「……」

 

 たきなのその質問に、ミカさんは天井を見上げて押し黙った。錦木の詰問でやられたのかもしれない。余計な事は言わんとする固い意思を感じた。娘に甘過ぎるのもミカさんらしい。

 まあ、指定された時点で私服じゃないんだけどね……たきな分かってなさそう。苦笑しながら、俺はリュックを左肩に背負い立ち上がった。

 

「じゃあミカさん、お先失礼します」

「ああ、お疲れ様」

「じゃ、たきなも。明日楽しんで」

「……」

 

 あれ、無視?たきなさん無視?辛いんだけど。

 や、違うっぽい。俺の挨拶には反応してくれてるみたいなのだが、何も言わずに不思議そうに此方を見つめている。なんでみんなそんな見んの。

 

「……誉さんは行かないんですか?」

 

 ────何を言われてるのか理解できなくて一瞬以上固まったんですけど。

 

「……は!?」

 

 ここ最近で一番の声が出た。意味分から過ぎて変な高さの声が出た。俺こんな声出せんの知らなかった。

 

 てゆか、え、何!?俺今誘われてるの!?

 たきなの下着買いに行くのを、たきな本人に!?

 何その事象頭おかしいんですけど。それ一緒に行ったらヤバい奴だしそれ聞くたきなもヤバいんだけど。何がヤバいってたきなが何がヤバいのか分かってないのがヤバい。ゲシュタルト崩壊。

 

「行かない、けど……いや行けないでしょ」

「誉さん明日シフト無いですよね。用事があるんですか?」

「無いけど……何言ってるのか分かってる?たきなの下着買いに行くんでしょ?なんで俺が一緒に行くのさ」

「何が良いのか分からないので、誉さんにもアドバイスをいただこうかと」

「本当に何を言ってるの」

 

 たきなさん本物ですよ皆さん。将来やべー女になる。

 そもそも買い物への同行は錦木が許さない……や、錦木が許しても行く訳にはいかない。道徳的にも倫理的にも同行した事実が知れ渡れば社会的に死ぬ。

 そんな俺の思考を知らずに、たきなは一歩此方に踏み込んで見上げてきて。

 

「誉さんの好みの下着は何ですか?」

「ヒュッ」

 

 変な声出たわ。止めてくれマジで。

 もしかしてミカさんにも同じ質問したのこの娘。恐ろしいんだけど。彼女真顔で聞いてくるのガチで怖い。恥ずかしいという感情が無いのかな?ヤバい、身体が震えてきた。

 

「そ、そういうのは錦木が選んでくれるから大丈夫。男の俺よりも参考になるだろうから」

「……結局誉さんは行かないんですか?」

「や、別に俺は錦木に何も言われてないし」

「千束なら頼めば喜んでくれると思いますが」

「何故それを俺が頼むと思うの」

 

 錦木に『たきなの下着選び、俺も一緒に行っていい?』って言うの?撃ち殺されるけどそれ。どうしてたきな頭良いのにそれに気付かないの?ミカさんもマジかコイツって顔して見てるけど君の事。

 

「では私が伝えましょうか」

「やめてマジで。女の子の下着選びなんて気不味いだけだし、そもそも誘われてない時点で招かれざる客なんだから」

 

 まあ仮に誘われても絶対行けないけど。錦木に『たきなの下着買いに行くんだけど一緒に行こうよ!』なんて言われたら鳥肌しか立たない自信がある。どういう神経してんのって。行っても気不味さしかない。

 というかたきなも何故こんなに聞いてくるんだ。こんなに執拗い事無かったよな今まで。ちょ、流されやすい自覚あるから決定的な事言われる前に帰ろう。

 

「じ、じゃあそういう事だから行くね。また明後日!」

「あ、はい。お疲れ様でした」

 

 たきなに軽く手を振ると、彼女は小さく頭を下げた。何か言おうとしていた様だが、これ以上聞かれると色々困る。逃げる様に入口の取っ手を掴み、大きく鈴の音を鳴らして外へ出た。……そして、小さく溜め息。

 女性に何処か出掛けに誘われるという経験自体が殆ど無かったのだが、まさか最初がたきなで、しかも内容が下着選びって……これDAの教育者に問題があるぞ……ちゃんと女の子にそういった倫理観的な部分も教えておいて欲しい。男性との関わり方とかも。言っとくけど孤児とか関係無いからね?

 

 

 

「……なんか、どっと疲れた……はあ」

「どしたの、そんなでっかい溜め息吐いて」

「いや、たきなが……って錦木」

「よっ、お疲れー……ったくぅ、いつ名前呼びになったんだか……油断も隙もブツブツ……

 

 入口出てすぐ左手のベンチに、赤い制服姿の錦木が座っていた。あのまま帰ったのだとばかり思っていたので普通に驚いた。

 こんな所で何を……忘れ物取りに来たとか?なら店に入れば良かったのに……って、あ、まさかさっきの会話聞かれてた……?

 恐る恐る見ると、彼女は一度此方を見て挨拶した後は、視線を元に戻して俯くだけだった。特に何か言う事も無く、そのまま固まっている。それが逆に不気味過ぎて、思わず口を開いた。

 

「……ど、どうかしたのか?忘れ物、とか?」

「っ、え、あー……や、違くて……そうじゃなくてぇ……」

 

 しどろもどろと口を開く。いつも直球で言葉を伝えてくれる彼女らしからぬ反応に、今度は心配になってくる。何か悩み事とかだろうか。

 

「……明日、たきなと買い物行くんだけど、さ」

「え……ああ、聞いたよ」

「うん、そう……」

 

 下着買うんでしょ……たきなの。それ俺が言ったら変態みたいだから言わないけど。

 で、それがどうかしたのだろうか。あ、もしかしてシフト代わってとかそういう話……でもないな。錦木も明日特に忙しくなかったはずだけど。

 

「……それで、ね?それで、ですよ」

「ん?」

 

 錦木は、手元で指先を弄りながら俯いたまま、いつもより小さな声音で。震えるような声色で、言葉を紡いで何かを伝えようとしてくれている。

 何か大事な事なのかもしれないと思って、俺は思わず歩み寄って錦木の近くまで来た。

 

「っ────!」

「うおっ……」

 

 すると、錦木はいきなり立ち上がって顔を上げた。驚いて思わず声が出る。彼女と視線が交わり、その頬は街灯や店の明かりに照らされてる所為かやや赤みがかって見えて。

 その真剣な眼差しを見て、思わず俺は口を噤んだまま、次の言葉を待って────

 

「その……い、一緒に、行かない?」

「……………………────ふぁ!?」

 

 ────その意味不明な提案に、改めて固まった。

 

 また変な声出たんだけど。声帯どうなってんの。

 てゆか、え、何?俺今もしかして、錦木に誘われた?たきなの下着を買いに行くのを、たきなとは別の人から?

 何その事象イカれてるんだけど。発想までたきなと同じじゃんか。DAヤバい、どんな教育してんの。

 俺は……い、言いたくはなかったけれど、突っ込まずにはいられなかった。もう抑えてられなくて、震えるような声で錦木に向かって口を開いた。

 

「……も、もしかして、俺にたきなの下着選ばせる気じゃ……」

「あ、ち、違くて!その後にもちょっと、遊ぼうかなーと思って……朔月くんもどうかなぁ、って」

「え……」

 

 両手をブンブン振って否定しながら、その誘いの意図を伝えてくれた錦木を、俺は多分素っ頓狂な顔で見ていたに違いない。錦木からそんな遊びの誘いを受けた事がこれまで無かっただけに、意外過ぎて何も言えずに固まっていた。

 

 ────俺、今あの錦木千束に遊びに誘われている?

 

 異性からの誘い。およそ現実味の無い事象。今まで経験した事の無い内容の申し出。

 それに対して返事をせずに無言でいたからか、錦木が俺を見て慌てた様に言葉を付け足していく。

 

「ほ、ほらぁ、ウチらあんまり一緒にどっか行った事なかったでしょ?折角明日は三人とも暇が重なったんだし」

「……まあ、そうかも」

「だから……どう?一緒に遊び行こうよ」

 

 ────そう、錦木が再度俺に告げてきた。

 その表情はいつもの彼女らしい笑顔とは別に、どこか不安そうに見えた。そんならしくない表情を見て、俺はただただ困惑していた。

 

「……」

「……っ」

 

 なんで、そんな顔してるんだ?

 いつもはもっと明るくて、自信に満ち溢れたような顔してるじゃんか。周りの事なんて知らぬ存ぜぬみたいな破天荒さで振り回して、楽しそうにしてるじゃんか。

 俺の返事を、どうしてそんな顔で待ってるんだよ。

 ────俺が、そうさせているのだろうか。

 

「……あの、さ」

「っ……、う、うん」

 

 最近になってなんとなく、けど漸く実感してきた事がある。

 錦木が俺に見せる態度や反応が、店でミカさんやミズキさん、たきなやクルミ、そして常連のお客さん達に見せるものと若干異なっているように見える事。それは決して、嫌悪感や憎悪、苛立ちから来る様なものでは無いとは思う。

 けれど、その所為でどこか、錦木と壁があるように感じていた。一度や二度の事じゃない。俺がこの店で働くようになってからだった。それが遠慮なのか気遣いなのかは分からないけれど。

 

 ────もう、言ってしまおうか、彼女に。

 

 いつもお店にいるみたいな暴走を俺にも向けてくれると、俺もやりやすいというか、嬉しいんだけどな、と。

 遠慮無く無作法で、それでも楽しそうに今を生きている君が良いのだと。もっとずっと、俺を振り回してくれて良いんだと、そうして欲しいと伝えてしまおうか。

 そんな君に憧れて、そんな君が好きなのだと、教えてしまおうか。

 ……いや、恥ずかしいからやめておこうかやっぱり、うん。なんか錦木に負けた気がするしそれに……って、ちょ、そんな目で見ないで照れる。

 

「……駅に十二時集合で良いんだっけ?」

「っ……!」

 

 顔を逸らして、そう告げる。チラリと彼女を見れば、見惚れる程に嬉しそうな笑顔で。俺はまたも目を逸らしてしまう。

 なんで、そんなに嬉しそうにするんだ毎度。常連のお客さんと話してる時も、ゲームで勝った時も、SNSで美少女って褒められた時も、たきながボドゲの誘いに乗った時だって、そんな顔────。

 

「う、うん!良い!十二時集合で……あ!や、やっぱり十一時!」

「え、たきなには十二時って────」

「その前に少しだけ、一緒にお茶しよ!」

 

 ────心臓の音が、彼女に聞こえてしまったのではないだろうか。

 

「っ……え、それ……まるでデートじゃ────」

「じゃあ帰るね!また明日ー!」

 

 嬉しさが勝って、俺の話を聞いてない様子で、手を振りながら走って帰路に立つ錦木。何度も此方を振り返って、太陽の様な笑顔を浮かべて。まるで憑き物が取れた様な、先程の憂いた表情が嘘みたいに。

 その姿が見えなくなる頃、俺は力無くベンチに座り込み、寄りかかって空を見上げた。冷やかしてんのかってくらい星空が綺麗で。夏だからか、けどそれ以上に身体が、顔が、頬が、熱くなっているような気がした。

 

「……いや、マジかぁ」

 

 ────僅か一時間とはいえ、予定より前に集合。それも、俺と錦木の二人だけって……まるで、デートじゃんかよそれ。経験無いんだけど。

 

「……一時間、か」

 

 ……ミカさんに指定の私服無いか聞かないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「……朔月くん、遅刻です」

「うん、君がね?」

「ゴメン……あの、た、楽しみ過ぎて……」

 

 

 ────ああ、そこは錦木らしいままなのね。なんか安心した。

 

 

 









千束 「……あの、さぁ」

誉 「?」

千束 「たきなの事、いつから名前で……」

誉 「え?……ああ、二人がDAの本部戻った後に……なんかたきなが名前で呼んできたから、俺もそうしたってだけだけど……」

千束 「っ……そう、ですかぁ……ふーん……」

誉 (錦木は……なんか、呼ぶの恥ずいな)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.13 A rendezvous








限りがある時間だからこそ、後悔無いようにって欲張れたらな。



 

 

 

 

 

 ────周りの視線が痛い。

 

 気付かない振りと、気にしないようにする為の本も、内容が頭に入らず集中できてない。手元でパラパラと捲っては、今のページの内容何だっけ、と勿忘草を押し花とした栞を挟んだページに戻るのを繰り返している。

 駅前の柱に寄りかかって錦木を待つ事十分程。時刻は既に約束の十一時を過ぎていて、錦木に待ちぼうけを食らっている状況だった。その間、何故かチラチラジロジロと視線が誉の方に向かってくるのを感じて、中々に居心地の悪い時間を過ごしていた。

 

(早く来てくれ錦木……)

 

 周りの視線────特に女性の視線が多いのは誉も感じていた。女子高生、中学生、大学生とも思しき人達と何度も視線を交わしてしまっている。

 最近、リコリコのメンバーや常連のお客さんの態度や反応、そして言葉によって段々と形成され始めていた自覚として、どうやら自分は人に好まれやすい容姿をしている様だと、最近誉は漸く納得した。

 この視線はそういうものなのだという得心もついた。店で女性に声を掛けられる理由もこれなのかもと理解した。今までそんな風に言われたり思われたりといった経験が無いだけに、受け入れるのには時間がかかってしまったが、どうしたらいいのか反応に困る部分においては今までと変わりなかった。

 

 一目惚れ、とは俗に聞くが、顔だけで判断されてしまっても、とも思う。まあ、第一印象が良くなければ中身を知ろうとは思わないと言われてしまえばそれはそれで正論ではあるのかもしれないが、そういった容姿を自分が持っている自覚を持ってしまった事もあって他人事ではいられない。

 

(……錦木も、そう思ってたりするのかな)

 

 錦木千束が今回遊びに誘ってくれた“意味”を、邪推してしまう。

 何せたきなとの待ち合わせよりも一時間前にと指定されたのだ。つまり二人きり。その意味が分からない程には鈍くないと思いたい。自惚れかもしれないけれど、容姿をあれ程までに周りから褒め散らかされてしまっては、勘違いもしてしまうというもの。

 

(っ……いやいやいやいや、なんで錦木が出てくる)

 

 そこまで考えて我に返る。完全に馬鹿丸出しで阿呆の思考だった。誉は頭を振り払う。そんな訳あるかと。

 彼女も言っていたではないか。一緒に遊んだ事がなかったからと。だから遊びに行かないかと。その理由は理屈に合っているし、確かにそれなら納得もいく。それに一時間だけだし、その後はたきなもやって来る。昨日は夜のテンションで浮かれ過ぎてはいたが、これは別にデートじゃない。自惚れるな馬鹿野郎。

 彼女にとってそれ程この一時間は重要ではない。だから彼女は絶賛遅刻中なのだ。

 

(いや……楽しみ過ぎて眠れなくて、寝坊での遅刻だったりとか……)

 

 もしそうだったら、いけない。今から会うの緊張する。

 女性経験が無い誉は、色々と考えてしまう。彼女は誰にでも明るく、好かれやすい少女だ。だから勘違いしてしまう男子高校生の客は少なくない。けれど、これは勘違いしてしまいそうにな……いや待て。

 

(────……あ、いや、彼女が遅刻してくるのはいつもの事だったわ)

 

 そこまで考えて急に緊張感が抜けた。スンッと自惚れや浮かれ具合が抜けて真顔になった。うん、普通に遊び誘われただけだな。他意はきっと無いだろう、うん。錦木千束の普段の行いのお陰で自惚れずに済んだ。

 因みに錦木が遅刻してる事に関しては特に驚きも心配もしていない。いつもの事である。リコリコに遅刻するのと一緒。浮かれる事無かった。

 

(っ……や、そもそも浮かれてなんかない……)

 

 元々はたきなの下着選びだ。そう思うと波立っていた緊張感が損なわれていく。初めての異性からの誘いの大元の目的がバイト先の後輩の下着選びだなんて、情けなくて笑えてくるというか、逆に落ち込みすらする。というよりも、そうだ、別の女性の下着選びに付き合わされてるのだ、そんな感情持たれてる訳がない。慌てて損した。

 改めて、どうして二つ返事で了承してしまったのだろうか。

 

「……やっぱ断れば良かったかもな……」

「朔月くんっ!」

「……っ」

 

 聞き慣れた、透き通った声。

 走って来たのか、吐息混じりの音。焦ったような声色。誰が来たのかすぐに分かって、誉はそのまま本を閉じて振り返った。

 いつもの様に、イメージカラーである赤を基調とした服装。彼女らしい明るい印象。いつものコートワンピース型の制服とはまた違った姿に、思わず目を細めた。頬を紅潮させ、焦ったような表情を目に、荒い呼吸音を耳にして誉は思わず。

 

「お、お待たせ!ちょっと支度に手間取って……」

「────……」

「……あの、朔月くん?」

「っ、え、あ……ああ、うん。おはよう」

 

 いけない。見惚れてしまっていたかもしれない。

 誉は慌てて口元を抑えてそっぽを向いた。穴が空くほど見つめてしまった、セクハラだこれは。そんな事を考えていると、手前で小さな咳払いが聞こえて、思わず視線を戻す。

 

「朔月くん、遅刻です」

「え……………………ああ、うん、君がね?」

「ゴメン……ホントに、自分で言っといて……」

 

 申し訳なさそうに俯く千束を見てから、誉も改めて目線を上に向ける。予定よりも二十分近く過ぎていた。これだと近くの喫茶店とかで時間を潰すにしても三十分居られるかどうか。

 これはとてもデートとは言い難い。ただ早めに待ち合わせ場所に着いたから集合時間まで別のところで時間を潰す構図である。実際そうなのだが。

 誉は、肩を上下させて息を切らす彼女を見て、小さく微笑んだ。

 

「……なんだ、走って来たんだ」

「え……そりゃ、まあ……私が遅れたのが悪いんだし」

「そんな慌てなくても良かったのに。髪乱れてるぞ、全力疾走かよ」

「う、うっさいな……ちょっ、直すから見ないで」

 

 千束は誉に背を向けて髪を両手で弄り出した。

 照れた様に顔を赤くしながら、此方の目を気にしながら慌てて髪を整える彼女を見て、心がまた波打ち始める。彼女のそれは、周りの視線を気にしての行動なのか、それとも自分の目が気になっての事なのだろうか、と。

 

「これでよーし!というか本当にゴメン、遅刻して……」

「なんでそんな謝んの。店とかしょっちゅう遅刻してるじゃん。いつもの事だし気にしてないよ」

「うっ……そう、だけど……そうなんだけどぉ……二人の時間減っちゃうじゃん……」

「……っ」

 

 ────彼女の今の言葉は、聞き逃す訳もなく。

 もう、そういう意味なのではないだろうかと、考えずにはいられない。チラリと此方を見上げる千束から逃れるように、逸らした瞳を空を仰いで。

 

「……別に本命はたきなの下着選びなんだし、そっちには遅れなくて良かったじゃんか」

「っ〜……このニブチンめぇ……!」

「……」

 

 ───流石に、今のを聞いて鈍くいられる訳がない。

 直接的な言葉や伝え方ではないけれど、まさか思うには充分な一言。何故とは変わらず思うけれど、それを受けて誉は、今まで感じた事の無い感情の波が押し寄せて。

 どうにも、考えられないような言葉を吐いてしまう。

 

「その……実は俺も今さっき来たばっかでさ。あんまり気にしてないから」

「おっ、デートで定番の台詞じゃん。もうちょっと早くフォローしてくれれば……」

「……いや、その……本当に」

「え?」

 

 キョトンと彼女は首を傾げる。誉が何を弁明したいのかが分からないようで眉を寄せて此方を見つめている。

 もどかしい事この上ない。くそ、言いたくない、今ので察しろ。と、自分の鈍さを棚に上げて心の中で千束にそう呟きながら頬をかく。

 伝われ、と。届け、と。そう心の中で。

 

「俺も、その……少し寝坊したんだよ。楽しみで……」

「────……っ!!!!」

 

 そう、始めから誉が彼女が遅刻した事を責める資格など無い。結果的に彼女の方が後に来たのだが、集合時間に間に合ってないという意味では誉も一緒だった。私服を悩みに悩み、近くの店を取り敢えずネットで確認し、電車やバスなどの交通手段や時間帯なんかも確認して……要は、浮かれに浮かれていた。

 外で遊ぶような経験が、今まで無かっただけに。

 千束はそう告げた誉を見て、顔を赤くして此方を見つめていた。

 

「た、たきなのパンツ選ぶのが?」

「────は?」

「っ……」

「……………………あー、もうそれでいいや」

「えっ!?ちょ、下着選ぶ気!?ちょ、流石にそれはダメだから!」

「うるさいな。そういえば、たきなに好み聞かれたんだった。会ったら伝えるか」

「ちょっ……!」

 

 慌てる千束を知らぬ存ぜぬとそっぽを向きながら、目的の喫茶店へと早歩く。彼女の声が横から聞こえるが、煩わしい事この上ない。

 

 ────なんでだよ、伝われよ。

 ────この一時間が楽しみだったんだよ気付けよ。

 

 何がニブチンだ、人の事言えないじゃないか。

 この鈍感野郎……と、他人事の様に顔を顰める。

 というか、何で自分はこんなに焦ったり、熱くなったりしてるんだ。多分、目の前の彼女のせいではあるけれど。

 けれど、それをちゃんと伝えるのがどうにも気恥ずかしくて。心臓が脈を強く打ち始める不快感に、なんだか吐きそうになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「何飲もうかな〜……偶には他の店の珈琲も良いかもなー♪」

「……」

 

 ……何故か、無駄に緊張する。

 プライベートで錦木と二人で同じ時間を共有するのって、思えば初めてではないだろうか。当の本人はメニュー表を開いてニッコニコしてるけど、緊張とか無いのかな。

 

「朔月くん何飲む?私ホットにする」

「え……あ、じゃあ、アイスで」

「りょーかい。すいませーん!」

 

 片手を挙げて店員を呼ぶ錦木。既に楽しそうなその顔を直視できなくて、思わず目を逸らした。

 冷静になろうと窓の景色を眺める。この位置からでも傾いた旧電波塔の姿が視認でき、その周りに立ち並ぶ建物やビル、その下を歩く人々をぼぉっと見つめていると『ねーねー』と呼び声が掛かった。

 

「折角だし、なんか食べない?」

「ええ……昼も近いし、たきなが来た時で良いんじゃない?時間もそんな無いし」

「え〜、けどこのケーキ凄く美味しそー……」

「……太っても知らない」

「あー!言ってはいけない事を」

 

 軽く腕が伸びてパンチを噛ましてくる。頬を膨らませてむくれる彼女が可愛らしくて、思わず小さく微笑んでしまう。それにつられたのか、太陽のように笑う彼女に、自然と心臓が高鳴った気がした。

 ……慣れない。何だこれ。

 

「お待たせ致しました。珈琲お二つですね。ホットとアイス一つずつ、砂糖とミルクはお好みでお入れ下さい」

「あ、すみませんありがとうございます。ほい、錦木」

「ありがと。お、いい香り……」

 

 店員から渡されたコーヒーカップを錦木の方へと寄せると、彼女は嬉しそうにそれを受け取って珈琲を啜る。それを確認して、俺も珈琲を口に含んだ。

 最近珈琲を淹れては飲んでを繰り返していたからか、ブラックにも大分耐性が付いてきた。や、耐性と言ったら失礼だな……味の分かる男になってきた。これだ。というより、普通に美味しいなアイスコーヒー。

 

「……この豆何だろう。飲みやすいな」

「……朔月くんも大分リコリコ来て染まったよねぇ。味だけじゃなくて豆の種類とかも気にするようになったし、このまま先生みたいになっちゃいそう」

「それは……どうかな。あんまり味は成長してないし」

「そんな事ないよ。毎回ちゃんと美味しいよ?」

「けど……ミカさんや錦木が淹れたヤツと比べるとそんなになんだよな」

「え……わ、私のも?」

 

 意外そうな反応をする錦木に、頷いて答える。

 それもそのはず、彼女に淹れて貰った珈琲は、彼女が俺に淹れ方を教えたあの一度限りだ。その味を数ヶ月も経った今もなお覚えてる俺の方が、執着してるというか変態というか。錦木が驚くのも当然だった。

 

「錦木に最初に淹れて貰ったやつの方が、全然美味しかった気がして……俺が勝手に対抗心燃やしてるだけと言われればそうなんだけどさ」

「そ、そっか。そっかそっか、うん……あ、あれじゃない?隠し味が足んないんじゃない?」

「……え、は?か、隠し味?珈琲に何か入れてんの?」

 

 いやそれは流石に聞き捨てならない。ただ珈琲の淹れ方次第で味の深みを生み出すミカさん流石だなぁとかって思ってたのに裏で何か入れてたと思うと話変わってくる。なんなら俺の数ヶ月何だったんだと逆ギレするまである。

 錦木は得意気にドヤ顔を決めていて……そういうのいいから早く教えて。

 

「ふふん────ズバリ、愛情どぅえっす!」

「…………なんだ、何か入ってるわけじゃないんだ」

「い、今鼻で……鼻で笑ったなこの野郎……」

 

 錦木のドヤ顔でカッコつけたボイスに吹き出しそうになりつつ、一先ず安心して胸を撫で下ろした。

 あービックリした。賭博やる店だもん、何か危ないもの入ってたらどうしようとか焦りに焦ったわ。というか特に何も入れてないみたいで、それが一番良かった。

 やっぱり淹れ方だよね。流石ミカさん、一ミリも疑ってなかったよ俺は。

 

「言っとくけど、意外と馬鹿んならないよ?誰かの為に淹れたらそれだけ美味しいってもんよ」

「あ、いや、笑ったのはそこじゃなくて……キメ顔で愛情とか言ってる錦木がツボで……」

「こ、こんのぉ……!」

 

 今になって自分の痛さに気が付いたのか、顔を真っ赤に拳を震わす錦木を見て思わず肩が震えたが、それが何だか素の彼女っぽくて、途端に嬉しくて。また少しだけ吹き出してしまう。

 

「そんな笑う事ないじゃんかぁ!」

「ゴメンゴメン……なんか嬉しくってさ」

「な、何がよ」

「あーいや……錦木、さ。俺とみんなとで態度というか、何か違うような気がしてたから。けど今は、みんなといる時と変わんない感じ」

「っ……それ、は」

 

 そう言うと、錦木は言葉に詰まる。

 どうやら無意識でなく、自覚あってのものだったらしい。

 それもそうだろう、“やりたいこと最優先”の彼女が、俺に対してはそのモットーを抑えて遠慮がちに距離を保とうとしている。お客さんや店のみんなには素の自分をさらけ出して自由に遊び回っているというのに……というより、まだ俺が客だった時は錦木もそんな感じだったというのに、最近では彼女の破天荒さが鳴りを潜めていて。

 

「……よかった。錦木最近、俺には色々遠慮がちだし。避けられてんのかと思ってた」

「っ……」

 

 昨日の誘いなんて、たきなには有無を言わせず集合時間の指示までしてたのに、俺に対しては予め、一緒に行かないかと誘う行程を踏んでいる。それがたきな達と俺との違い。差とも言っていい。

 それがマイナスな理由から来てるものだったらどうしようかと思っていたけれど、楽しそうな彼女を見ていたら、それは杞憂なのだと安堵した。

 けれどそれを伝えた途端に、錦木がそっぽを向いてブツブツと呟き始める。

 

「……その、あんまりやると……嫌がられるかなぁ、とか……思ったりしまして……」

「……今更じゃない?」

「うぐっ」

「俺が客の時は帰るって言っても引き止めて来たし」

「うっ……」

「嫌だって言ってんのにツーショット撮らされるし」

「ぐっ……」

「珈琲淹れるのなんて、前まではしょっちゅう邪魔しに来てたじゃんか」

「がっ……」

 

 毎回苦しそうな声出すのやめろ笑うから。

 これまでの行動を反省したのか、やけにしおらしく縮こまる彼女を見ながら、ポツリと思った事を口にする。

 

「俺は……らしくなく気ぃ遣ってる錦木よりも、こっちを振り回してくれる錦木の方が良いんだけど」

「……振り回される方が好きって事?」

「そう聞くとドMの変態野郎に聞こえるの何でだろう」

「そ、そっちの私の方が……好き?」

「俺今結構真剣に話してるよ?」

「私も真剣に聞いてるんですけど……」

 

 彼女のその言動が、俺を冷やかしてるのか、照れ隠しなのかは分からないけれど。そんな彼女に、追い討ちをかける行為かもしれないけれど。

 この数ヶ月間で感じた事を、あの店で過ごして思った事を、ただつらつらと言葉にして、音に乗せて。

 

「俺、さ。つい最近まで、こういう店に入った事すら無かったんだよね。外食なんて、リコリコが生まれて初めてでさぁ」

「え……」

「知らない事、人より沢山あるんだ。珈琲の苦さも、和菓子の甘さも、人との交流も、働くやり甲斐も……けどこれ、全部錦木から教えて貰ったんだよ」

 

 ────あの日あの時あの場所で、錦木に出会ったから。

 リコリコに足を運んだのは本当に偶然で、飲食店なんて生まれて十七年間一度として入った事が無かった。何故店に入るだけの勇気があの時にあったかは分からないけれど、あの店で錦木達に会えたのは、俺にとっては幸運だった。

 

「気が付けば世界は箱庭で……遊園地とか、動物園とか、そんなのはテレビの中での物語みたいで。沖縄とか京都とか、修学旅行なんてものも。外国なんて以ての外で……だからかな。こういう外出に、ずっと憧れてた」

「……」

 

 恥ずかしくて言いたくないけれど、つまるところ俺の世界が今もなお広がっているのも、知りたい事が更に増えていくのも、生きていたいと思えるのも、全部全部。

 

「────錦木が、俺を振り回してくれたおかげ」

「……っ」

 

 錦木が我儘なんてのは出会った頃から知ってるし、今更嫌がったり嫌ったりなんて有り得ない。それに、やりたい事最優先の彼女だから、俺は良いなと思ったし、憧れた。

 

「だから、取り繕わなくていいし、遠慮しなくていい。錦木らしい錦木のままで、これからも色々教えてくれると嬉しいな」

「よっ……くもまあ、そんな恥ずかしい台詞を……」

「何がよ。そもそも、アンタが俺を避けてるみたいな素振りをするのが悪いんだろ。大体、嫌がられるかもって思うならたきな達にもそうすればいいのに。何で俺だけ気にするのさ」

「それ、は……もう、分かってて聞いてるでしょぉ!」

「いや分からないから聞いてるんですけど……」

 

 たきな達と俺の違いなんてDA関係者かそうでないかの違いしかない。そこの配慮を錦木が気にするタイプだとは思わないので、ガチで何で俺に嫌がられないようにって気にしていたのかが分からない……やっぱり、何か俺に対して何かあるのかな。

 

「……決めた。やっぱりケーキ食べる」

「え……え?や、もう待ち合わせまで十分無いけど……たきな来ちゃうよ?」

「大丈夫だってソッコーで食べるから」

「せめて味わえよ……太っても知らんぞ」

「その分任務で動くからだいじょーぶ!」

 

 ────……まあ、いいか。今はまだ聞かなくて。

 メニュー表を見てニコニコする錦木を見て、俺は目の前のアイスコーヒーを口に含む。すると、視線を感じて再び彼女を見やると、ニヤついた表情でビッと指を差してきた。

 

「……ホントに、遠慮しないかんね?」

「うん?」

「全力で行くから、覚悟しとけよ〜?」

「……何が?」

 

 嬉しそうに笑う錦木を見て、俺は何も分からずにただ首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「……」

「……よっ」

「…………来ないんじゃ、なかったんですか」

「あー……錦木に誘われたから」

 

 千束がお手洗いに行ってる間に待ち合わせの駅前に赴くと、普段使ってる学生鞄を背負い込んだ私服のたきなが突っ立っていた。

 年頃の女の子だというのに特に着飾る事無く、適当なTシャツと下がジャージて……逆に目立つぞ都会でそれは……あ、やべ目が合った。凄い目を細めてこっち見て……あれ睨まれてる?

『コイツ私と下着を買いに付いてくるとか変態か?』とか思われてたらどうしよう普通に死ねる。

 

「……私が誘っても断ったのに、千束の誘いなら来るんですね」

「い、いやそういうんじゃなくて……や、女の子の下着選びが目的なのに男の俺が来たら変態だろ」

「……つまり、今日は私の下着を選びに来たんですか?」

「やべぇ逃げ場が無い」

 

 此処にいるって事はそういう事になっちゃうよな。やっぱりたきなからすれば俺は変態に見え……や、そもそもどんな下着が好みか聞いてくるような女の子にそんな風に思われたら逆に心外まである。

 

「今日はたきなの買い物だけじゃなくて、色々見て回るんだと。だから俺も一緒にどうかって誘われたの。下着選んでる時だけ俺は適当に時間潰してるから」

「そうですか、分かりました。……千束遅いですね」

「あ、錦木なら今お手洗いだよ。多分もう来る」

「……千束と一緒だったんですか?」

「え?……ああ、うん」

「……そうですか。……そう、ですか」

 

 そう伝えると、俯いて何か考えるように地面を見つめ始めるたきな。何か癇に障る様な事を言ったか……な……や、待て。

『コイツら私をハブって二人で遊んでたな?』とか変に疑われてたらどうしよう。い、いや違うんですよ、ホントに三十分前に着いたので近場の喫茶店で時間潰してただけで別にたきなを仲間外れにしようとかそんなんじゃー、とかって頭の中で慌てていると、後ろから聞き覚えのある声が響いた。

 

「お待たせ二人ともー……お、おお、新鮮だな」

「私服に問題は無いですか」

 

 背後から駆けて来た錦木は、そのままたきなの姿を下から上まで凝視する。たきなはたきなで問題は無いかと錦木に査定してもらってる様な言い草だ。

 ここは『似合ってますか?』とか『どうですか?』とかじゃないのだろうか。『問題無いですか』って何。機能性の話?任務の延長だと思ってるのかなこれ。昨日をミカさんに『指定の私服はありますか?』とか聞いてたしな……リコリスってみんなこうなんかな……。

 すると、錦木はニコリと微笑みながら……や、目は笑ってないんだけど、その表情のままたきなに向かって口を開いた。

 

「……銃持って来たな貴様ぁ」

「え」

「駄目ですか」

「いや駄目だろ」

 

 リコリスって制服じゃないと銃使っちゃ駄目なんでしょ?何故持ってきてるの……もしかして後ろの学生鞄に畳まれた制服とか入ってる?たきなそろそろ怖いんだけど。当然のように聞いてくるの普通に戦慄ものなんだけど。

 

「抜くんじゃねぇぞ?」

「……千束、その衣装は自分で?」

「……衣装じゃねぇ」

 

 錦木の私服を衣装とか言っちゃう辺り完全に仕事人だなたきな。ちょっとキレそうな錦木を見て思わず苦笑する。

 取り敢えず近場の大きいショッピングモールへと移動する事になり、三人纏まって歩き始めた。錦木とたきなが二人並んで歩くその背を、俺が後から続く様な配置。二人が何やら服の事で話しているのを、特に突っ込む事もせずに聞き流す。

 

「一枚も持ってないの?スカート」

「制服だけですね。普通そうでしょ」

「んーまあ、リコリスはそうだね。ねー買おうよ〜、たきな絶対似合う!」

「よく分かりませんし、千束が選んでくれたら───」

「え!?良いの!?おっほぉー!やったー!テンション上がるわ〜!」

 

 たきなの服を選べる事になり、今日一歓喜の声を上げる錦木。そのまま両手を広げて駆け出していくのを、たきなと俺は呆然と眺める。

 たきな、自主性が無さ過ぎる……服も下着も他人に任せるって……それ『貴方の好みの女になります』みたいな病んだ意味を孕んでそうで将来が怖い。

 

「……千束は何故あんなに嬉しそうなんでしょう」

「そりゃあ、たきなに好きな服着せられるからでしょ」

「それで千束が喜ぶ意味がよく分からないんですけど」

「……そういや、錦木がこの前『たきなは素材が良いからオシャレしたら絶対化ける!』みたいな事言ってたな。それを試せるチャンスだからじゃない?」

「……素材がいい、とは?」

「可愛いとか美人とかって事」

 

 確かに、たきなは控えめに言っても可愛らしい容姿をしていると思うし、着飾れば目を引く様になるだろう事は俺にも分かった。錦木は多分、昨日の内から下着のついでに服も買わせようと画策してただろう。

 まあ、トランクス事件から今の服に対する意識とかも聞いてて、割と察してはいたけれど、たきなオシャレとか興味無さそうだもんな。

 そんなに自分の容姿とか気にしてなさそうだし───

 

「……私、可愛いですか?」

「……え?」

 

 たきなが、此方を見上げてそう尋ねてきた。

 視線が交わる。目と目が合う。ジッと、足を止めて答えを今かと待ち望んでいる。その視線の先にいる俺に聞いている事は明白だった。

 え……たきな、そういうの気にするタイプじゃ────

 

「……」

「……っ」

「……」

「……あ、うん。可愛いと思うよ」

「……そうですか。どうも」

 

 たきなは、それだけ告げると視線を前に戻して錦木の背を追い始めた。髪が揺れ、目元が隠れ、彼女が前を向く事で表情が隠れてしまう、その一瞬に。

 彼女の口元が弧を描いたのを、この目で見た気がした。

 ……何今のやり取り。恥ずかしいんだけど。

 

「ほらー朔月くん!早くしないと置いてっちゃうぞ〜!にひひっ、置いてかないけどぉ〜!」

「っ……ああ、ゴメン。今行く」

 

 思えば錦木とたきな、二人の同世代の子と、それもこんなに可愛らしい二人と遊びに行くのって、かなり贅沢というか、罪深いのではないだろうかと今になって思う。

 両手に花というやつか……毒とかトゲとか無いよね?

 

 小さく息を吐きながら、目の前に立って此方を振り返る錦木とたきなの元へと、その歩を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「さかなー!」

「チンアナゴ〜!」

 

「……いや、何が?」

 

 

 ────知らない人のフリしよう。

 

 












千束 「どんなのが良いかなぁ……たきな、何か希望ある?着たい服の」

たきな 「……誉さんは、どんな服が好みですか?」

誉 「え、俺?急に来たな……や、特に気にした事ないけど。似合ってれば何でも良いんじゃない?」

千束 「……じ、じゃあ下は?スカートの他に着てみたいのとかある?柄とかでも良いよ!」

たきな 「誉さんは何がいいと思います?」

誉 「いや女の子の服なんて分からないよ。取り敢えず色々着てみたら?」

千束 「なんで毎回朔月くんに聞くの……?」(震え声)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.14 Nothing seek








太陽のように笑う君と、月のように静かな君と。



 

 

 

 

 

 

 

「どっちが良いー?」

「……」

 

 この近くで一番大きなショッピングモールの洋服が立ち並ぶエリアにて、ハンガーに掛かったスカートを二つ、適当に掴んで左右交互ににたきなに宛てがう錦木。だがファッションに疎いたきなに美的センスを求めても返事は返って来ない訳で、予想通りたきなは錦木が持ったスカートを見下ろしたまま、ボケッと突っ立ってるだけだった。

 いやたきな凄いつまんなそう。面倒そうにしてるの丸分かりなんだけど。まあ元々そんな乗り気でも無かったっぽいしなぁ……や、単にこういうのよく分からないってだけなのかもしれない。

 

「……誉さんはどっちが良いと思いますか」

「え……」

「は?……え、あ、俺?」

 

 何で俺。急にこっち来てビックリしたわ。たきなにつられて錦木も戸惑った様子で此方に視線を寄越す。心做しか驚いてるような表情を見せる錦木を他所に、彼女の持つ二つのスカートを見比べる。

 ……正直、見ただけじゃあ何とも言えないのが正直な感想だった。というか、面倒だからって俺に決めさせるつもりなのかこの娘。

 

「どっちも似合うとは思うけど……試着してみたら?」

「……面倒ですね」

「あ、それ言っちゃうんだ」

 

 取り繕う気ゼロじゃん。

 仕方無い、フィーリングで決めるかぁ……とスカートを凝視しようとした瞬間、たきながその二つと先に錦木が選んでいた上着を持って、すぐ近くの試着室へと足を運び始める。いきなりの行動で思わず声が漏れる。

 

「え……」

「着替えてきます」

「あ、うん……ごゆっくり……」

 

 カーテンが閉まり、残される俺と錦木。なんとなく衣服が擦れる音が聞こえるたきなの入った試着室から数歩距離を置いて、あさっての方向を向いていると、ポツリと隣りから声が聞こえた。

 

「……なんか、たきなに懐かれてない?」

「え?……そうかな。最近話すようにはなったけど」

「服の好みまで聞かれちゃってさぁ」

「昨日なんて下着の好み聞かれたけど」

「言ってたねぇそういや……な、なんて答えたの?」

「気になってるとこおかしいだろ」

 

 俺の下着の好みより、たきなが男性に好みの下着を聞いてる事の方が問題でしょ。たきな何も分かってないみたいだし。

 というか女性のパンツの事なんて分かる訳ないでしょ。ぶっちゃけパン『ツ』が『ティー』になったり、ショーツだのランジェリーだの忙しい割に全部同じに見えるから、わけが分からないといったイメージと認識でしかない。もうどれでも良いんじゃねってくらいには興味を持てない。持つ訳にもいかないとは思うが。

 

 そうこうしている内に、目の前のシャッターが次々と開かれ、錦木によるたきなのファッションショーが開催され始めた。最近は暑いので涼し気なチョイスが多く、たきなにあった色合いの服を錦木は順番に充てがっていく。

 

「おお……!こっちもこっちも!」

 

 たきなは特に文句も無く錦木のされるがままに服を着こなしていき、

 

「……良いっ!」

 

 その度に錦木はたきなの姿とそれをチョイスした自分のセンスの良さに酔うかの如く褒めちぎり、

 

「良いねぇ!」

 

 ……あの、長くない?

 本来の目的から逸脱し過ぎでしょ。たきなも錦木に褒められまくるから悪い気しません、みたいな顔してるし。ちょっと照れてるだろあれ。

 というか服替える度にこっちをチラリと一瞥するの何で?見てんじゃねぇよって事かな。辛っ。あんまり見るの良くないかと思ってたからこれでも気を付けてたんだけど。

 

 そうして、最終的にこれが最後だと決めて選んだ錦木の渾身のチョイス。試着室を出てそのまま店の等身大の鏡にたきなが映し出される。薄めの灰色を下地に、襟に黒のワンポイント入った半袖、中に紺色を覆った白のロングスカート。

 控えめに言っても、彼女によく似合っていた。

 

「めっちゃ可愛いぃー!」

「……どうも」

 

 錦木にそう言われ、照れた様に顔を背けつつ鏡に映し出された自分を見るたきな。そうだよな、錦木って感情がそのまま言葉に乗るし嘘が吐けない奴だから、ダイレクトに褒められると受け止め切れなくて照れるんだよなぁ……とかって他人事のように独り言ちてると、たきなは鏡からチラリと、此方に視線を傾けてきた。

 

 ……あ、やべまた目が合った。さっきからちょくちょく合うんだけど、見世物ちゃうぞって事かな視線鋭いもん。萎縮するわ一般人よ俺?あんま見ないようにするか、とゆっくり視線をあさっての方向へと向けようとした瞬間だった。

 

「……どう、でしょうか」

「……え?」

「似合ってますか?」

 

 たきなはスカートをつまんで引っ張りながら、コテンと首を傾げて真顔で此方を見据えていた。

 か、感想?俺に言えと?まさか此方に振られると思ってなかったので視線がうろうろするが、錦木が物凄い目でこっちを見ているのに気が付いて、一気に身体が底冷えした気がした。

 錦木のその目何……怖……あ、たきなが折角聞いてるんだから答えてやれよ男だろって事?やだ何それ照れる……あ、ゴメン、はい、褒めます。よし、正直に言おう。

 

「……凄い似合ってる」

「……ありがとう、ございます」

「ゴメン、月並みの言葉で。錦木に散々言われてるだろうけど」

「いえ……その、嬉しいです」

 

 たきなは手に持っていた帽子を頭に乗せ、深く被って俯く。もしかして照れているのだろうか。俺の言葉で特に悪い気にならなかったのなら、それは良かったと軽く微笑んでいると────

 

「……」

「……え、何錦木その顔」

 

 錦木がこっち見てて凄く怖いんですけど。え、何その顔俺褒めたじゃんちゃんと。たきな褒めろって事だったんじゃないの?もっと気の利いた事言えよって事?しょうがないじゃん女の子褒めるの初めてなんだから。

 

「……私も試着する!」

「いやなんでだよ」

「だぁって、たきなばっかズルい!」

「何がよ」

「私も『可愛い!』『似合ってる!』って褒められたい!」

「承認欲求の塊かよ」

 

 そんな事でムキになってたらたきなが逆に可哀想だろ。……ああくそ、さっき喫茶店でこっちを振り回しても良いって言った手前、錦木を止めにくい。

 というか、たきなが自分の服が無いから、似合う服を選びにって事だったと思うんだけど。錦木は特に必要無いんじゃ?いっぱい持ってるでしょ服。態々新しい服選ばんくても、錦木は今着てる赤いヤツがメチャメチャ似合ってると思うけど」

 

「えっ……」

「え?……え?」

 

 錦木がキョトンとした顔で此方を見ている。俺もよく分からず素っ頓狂な声を上げて錦木を見つめている……あ、もしかして声に出てた?

 ぱちぱちと目を瞬かせる彼女を前に、思った事をそのまま口にする事にした。

 

「あー、いやその……錦木は自分の素材、だっけ?その良さが分かってる服だし、似合ってると思うし何なら結構好きなんだけど……今着てるのじゃダメなの?」

「っ……い、いや……ダメ、じゃない」

 

 いやダメじゃないんかい。じゃあいいじゃん新しいの買わなくても。何であんなムキになってたの……。

 目の前の錦木は、俺の褒め言葉を受け止め切れなかったのか、頬を少し染めて髪の毛を弄っている。その反応が本気っぽくて此方も気恥ずかしくなって目を逸らしていると、端の方から声が聞こえてきた。

 

「……あの、そろそろ本来の目的を……」

「「……っ」」

 

 錦木と同時に肩を震わせ、視線を声の方へ。たきなが瞳を細めて此方を見つめていて、それに萎縮して思わず天井を見上げた。錦木は慌てて取り繕いながら、思い出したかのように呟いた。

 

「そ、そっかそっか、下着だった!」

「あ……じゃあ俺近くのソファで時間潰してるから」

「ゴメンね朔月くん、すぐ済ませるから」

「いーよ別に。本持って来てたし、丁度良かった。ゆっくり選びなね」

「……誉さんは行かないんですか」

「行かないねぇ」

 

 錦木が両手を合わせて謝ってくるのを、律儀だなと微笑みながら頷いた。本来の目的はそれだったのだから、是非とも二人には買い物を楽しんで貰いたい。

 手を振ると、錦木も嬉しそうに振り返って手を振ってくる。その隣りでたきなは此方を見て軽く頭を下げた。当然の如く下着選び誘って来たのはガチでビビった。

 

「……さて、と」

 

 彼女達が買い物をするその間、時間潰しと称して開いた小説なのだが、実はいつも読んでる純文学ではなく、最近お店で仲良くなった男子高校生達から教わった『ライトノベル』という、自分の中での新ジャンル。若手でも読みやすく、軽く読めてハマると面白いとの事で、彼らが勧めてくれたものを幾つか購入したのだった。

 常連さん達からは『朔月くんが俗世に(まみ)れていく……』とかよく分からない事を、遠くを見るような目で言われたけれど。

 

 しかし調べれば調べる程に色んなジャンルがあるし、派生してアニメとかもあるんだなぁ。アクション、SF、ラブコメ、ミステリー、ホラー、スポーツ系も何でもござれな感じだな。最近は異世界物とかも流行ってるらしく、調べればネットでその手の創作物を読む事もできるらしい。

 そう、俺はこのサブカルチャーを布教された事によって、新たな知識や単語を取り入れる事ができた。それまで聞いた事もない言葉や造語、考え方や思想など、未知を既知にする瞬間が、ハマれば意外と面白い。

 

「……」

 

 既に遠くなりつつある、錦木とたきなの後ろ姿。並んで歩いて、楽しそうに笑う錦木と、真顔ではあるけれど心做しか微笑んだように見えるたきなの横顔。仲睦まじく歩く相棒同士の姿を見て、俺は思い付いたように呟いた。

 

「……“てぇてぇ”、って言うんだよねこれ」

 

 俺知ってる。最近店で錦木とたきなを見て呟いてる男子高校生が居たから教えて貰って覚えたの。

 

 ああいうの『ちさ×たき』って言うんでしょ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「……」

「どう?好きなのあった?」

 

 ランジェリーショップにて、ズラリと並ぶ色とりどりの下着を前に、たきなは表情は崩さずとも難しく考えてしまっていた。因みにたきなには全部同じに見えている。

 そうして中々反応の変わらない彼女に、千束は一歩近付いてそう尋ねた。

 

「……好きなの、を選ばなくちゃいけないんですか?」

「え?」

「仕事に向いているものが欲しいですね」

「ああ、銃撃戦向きのランジェリーですかぁ?そんなもんあるかぁ!」

 

 何処までも仕事最優先の女の子である。年頃の少女としてはあまりにもお堅い。たきなは視線を落として腰に両手を添えて、自身が履いているもののレビューを呟いた。

 

「これ良いんですけどねぇ、通気性も良くて動きやすい。流石店長だなって」

「いや先生そんな事考えてるわけないだろ……大体、トランクスなんて人に見せられたもんじゃないでしょー?」

「パンツって見せるものじゃなくないですか?」

「いざって時どーすんのよ」

「いざってどんな時です?」

 

 そう尋ねられた錦木は、何を想像したのかみるみる内にその顔を赤く染め上げて、最後には声を荒らげて「知るかぁ!」と言い放った。

 何故そんな反応なのかをたきなは知る由もなかったが、取り敢えず人に見せるその“いざ”って時がいつなのかを自分なりに考え始め────

 

(────あ)

 

 ふと、たきなは思い至った。

 そういえば、以前千束が健康診断の為本部に行くのに同行した前日に、自分の不注意で下着姿を一瞬ではあるが誉の前に晒してしまったのを思い出した。あれが“いざ”って時だろうか。

 ……“いざ”というよりは“もし”とか“万が一”といった感じはするが。しかし確かにな、とたきなは妙に納得していた。

 

(……)

 

 ────自分の下着姿を見て、一瞬にして頬を染めて目を逸らした誉のあの姿を思い出す。そして、千束が慌てて扉を閉めた後に、自分の心臓が高鳴り顔が熱くなったのを思い出す。

 そう、あの時は自分の不注意もあり、誉にも気にして欲しくない為に何とも思ってない風を装いはしたが、異性に裸体を見られるというのはどんな女性にとっても恥ずかしいものだった。見られてもいい下着だったら、多少見られても気が紛れたのだろうか。

 

(…………)

 

 ────そういう下着なら、誉に見られても問題無いという事なのだろうか。

 

「え、ええっ!?」

 

 たきなは千束の細腕を引っ掴み、そのまま試着室へと足を運ぶ。一瞬の流れで為す術なく、千束は素っ頓狂な声を上げながら彼女に引っ張られ、あれよあれよと試着室内に連れ込まれ、カーテンを閉められて逃げ場を失った。

 千束は鏡と背中合わせに両手を広げ、目の前で立つ真顔の、その上真剣な眼差しを向けるたきなに向かって恐る恐る口を開いた。

 

「……何?」

「千束のを見せて下さい」

「ふぁっ!?」

「見られて大丈夫なパンツかどうか知りたいんです」

 

 そう言って、千束の前でしゃがみ込むたきな。ただ千束はたきなのその奇行に絶句して固まっていた。彼女がそんな事を頼んでくるとは思わず、躊躇で迷いの声が漏れる。

 

「え……あ、ええ……えぇぇ……」

「早く!」

「っ……!……う……うぅ……」

 

 何故急かすの───。

 そう思いつつ、千束は渋々自身の履いてたショートパンツを脱いで、下着を顕にする。それを、たきなは目を細めてその柄や色合いなどを真剣に、食い入るように見つめていた。

 何この時間。千束はただただそう思った。

 

「んー……これが私に似合うっていうと違いますよね」

「その通りだよ何で見せたの私!」

 

 何してるんだ本当に。もう終わりにしようと、千束がショートパンツをたくし上げようと両の手を下に伸ばしたその時だった。

 たきなが変わらず千束の下着を見つめながら、真剣な面持ちで聞いてきた。

 

「……これなら、見られても良いって事ですよね?」

「え?」

「こういうタイプの下着なら、見せても問題無いんですよね?」

「……あの、たきなさん?」

「分かりました」

 

 千束の疑問を気にせずたきなは立ち上がり、カーテンを開いて外に出た。慌てて千束もショートパンツを履き直して外に出ると、たきなはキョロキョロと辺りを見渡して、何か見付けたのかそこに向かって歩き出した。

 千束がその背を追いかけていくと、辿り着いたのは柄も色合いも千束自身が履いてるものに近いタイプの下着だった。

 それを見て、先程の行為といい言動や質問といい、それらを振り返って、錦木の中で嫌な予感が浮上した。恐る恐る、たきなの横に立って顔を近付ける。

 

「あの、たきな?」

「これにします」

「誰かに見せる予定があるの?」

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「……………………」

「……………………」

 

 

「……………………別に無いですけど」

「何今の間ぁ!」

 

 

 その後、たきなに合う下着をちゃんと選んで買わせた千束だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「朔月くーん!」

「お待たせしました」

「……お。お疲れ様」

 

 ラノベから顔を上げると、恐らく買ったであろう衣類……や、下着だが。それらを入れたであろう袋を指に引っ提げて千束とたきなが歩いて来た。誉は本を閉じて立ち上がり、ショルダーバッグに押し込んだ。

 何故かたきなよりも千束の方が満足気というか、達成感丸出しの恍惚とした表情してる気がする。一女性としては、たきなが今後男物を履く事が無くなった事で安心するのだろうか。

 

「目的のものはちゃんと買えた?」

「バッチグーよ。これでもうトランクスとはおさらば、男物のパンツは全部処分するからねっ」

「……はい」

 

 そう小さく返事をしたたきなと、ふと目が合う誉。

 ジッと見つめられたかと思うと、彼女は指に引っ掛けていた手提げ袋を顔の近くまで持って来て、コテンと首を傾げて口を開いた。

 

「……見たいですか?」

「なんて事聞くの」

 

 彼女は最近危ない事しか言わないから誉としては心配である。

 たきなの最近の発言はそろそろ矯正した方がいいまである。何が恥ずかしい事で何処までが許容範囲なのかを誰か教えてあげて欲しい。千束に後で伝えようと思う誉だった。

 当の千束は、やっと一区切り付いたと頬を緩ませていた。そういえば、買い物が終わったら少し遊びたいとかって言っていたのを思い出す。元々、その件で誉は今日誘われた様なものだ。

 千束は満面の笑みを誉とたきなへ向けてきた。

 

「さてと!次は千束さんお待ちかねのおやつタイムだぁー!」

「目的は完遂しましたよ?」

「完遂って仕事じゃないんだからぁー、今日は付き合ってよぉー!」

 

 彼女は先程ケーキを頬張っていた気がするが……とはまあ野暮だから言わないが、取り敢えず千束の提案に流されるがまま目的の店まで連れて行かれ、現在は三人で同じテーブルを囲って座り込んだ。

 外の風を浴びながら、千束はメニューを見ながら店員へと注文を告げる。

 

「フランボワーズ&ギリシャヨーグレットリコッタダッチベイビーケークとホールグレインハニーコームバターウィズジンジャーチップスで!」

 

 呪文である。

 名前だけ聞いてもどんな食べ物か想像付かない。全部盛りの予感がする。来る前から食べ切れない自信が誉にはあった。この後に注文するのもかなり恥ずかしい。

 

「……あ、アイスコーヒー、ブラックで」

「かしこまりましたー」

 

 そう言って、女性店員は頭を下げた後店の中へと戻っていく。それを眺めていると、右手側に座るたきなが、向かいの千束へ呆れるように言った。

 

「……名前からしてカロリーが高そうですね」

「野暮な事言わない。女子は甘い物に貪欲で良いのだ」

「寮の食事も美味しいですけどね」

「あの料理長、元宮内庁の総料理長だったらしいよ」

 

 ────流して聞いてたらとんでもない事カミングアウトされ、誉は気になって思わず視線を彼女らに向ける。

 

(その寮何処にあるの)

 

 宮内庁の料理長───つまり天皇陛下へ料理を振舞った経験の持ち主という事だ。興味しかない。どんな料理作るのか凄く気になる。何なら食べたい。

 

「それって凄いんですか?」

「え?凄いだろー。でもスイーツ作ってくれないからなぁ。永久にかりんとうだから」

「私、あのかりんとう好きです」

「そりゃ貴女、最近来たからだよ。十年あれは飽きるよ〜?」

 

 かりんとう……これはまずい。超気になる。

 ここ最近漸く料理の美味しさを実感する事ができたからだろうか。リコリコでも馴染み深い和菓子に位置するかりんとう、たきなが褒める程に美味なら、食指が動いてしまいそうになる。

 今度持ってきてもらおうかな、と頭の中で考えてると、店員さんがトレイを運んできた。千束が頼んだであろうスイーツが恐らく乗っているのだろう。どんなものかと覗いて見れば────

 

「うおっほおおぉぉ!美味しそーーー!!」

「……うわぁ」

「ちょ、朔月くん何その反応」

 

 届いた二皿はどちらもパンケーキ状のスイーツで、生クリームがびっしりというかこってりというかドッチャリというかなんというか。

 見ただけで胃もたれしそうなカロリーの暴力だった。

 

「……これは糖質の塊ですね」

「たきな!人間一生で食べられる回数は決まってるんだよ?全ての食事は美味しく楽しく幸せであれ〜♪」

「美味しいのは良い事ですが、リコリスとして余分な脂肪はデメリットになります」

「その分走る!その価値がこれにはある!んむ、美味ひぃ〜!ほらほらたきなも食べて!」

 

 嬉々としてナイフとフォークを手に、スイーツに入刀して一口頬張ってすぐ表情筋が緩む千束。たきなの戒めも我関せずといった様子でもぐもぐとリスみたいに口元を動かしている。

 ……いや、彼女さっきもケーキ食べてた……いや、よそう。これ以上は野暮だし、太っても放っておこうと誉は彼女を眺める事に決めた。

 

「あ、朔月くんも一口食べる?」

「え?あ、いや俺はいいよ。錦木見てるだけでお腹膨れそうだから」

「っ……な、にそれ……ちょ、そんな見んなっ」

「ええ……」

 

 頬を赤くして、顔を隠す千束。恥ずかしそうに逸らすものだから、此方も取り敢えず視線を外した。彼女の美味しそうに食べるのを見るのが好きなだけに、少しだけ残念だった。

 すると、左手側に座る千束の後ろから、日本人の会話調でない発音や単語が飛び交っているのを耳にして、思わず視線を移す。つられてたきなや千束も誉の視線を追いかけると、別テーブルで向かい合ってメニュー表とにらめっこしている外国人の男女二人組が座っていた。

 

(……フランス語か?)

 

 会話を流し聞いていると、どうやらメニュー表に写真が写ってないので、目当ての食品がどれなのか分からない様子だった。店員の呼び方もままならない様で、誉は思わず立ち上がった。

 

「ちょっと行ってくる。二人は食べてな」

「え……あ、うん……え、朔月くん喋れるの?」

「ああ、うん。少しだけ」

 

 そう言って誉は彼らの座るテーブルへと歩み寄ると、小さく微笑んで挨拶した。

 

『こんにちは。お困り事ですか?』

『まあ!貴方、フランス語が話せるの?』

『少しだけなら。聞こえにくかったらすみません』

『いやあ、助かったよ』

『入口の写真に写っているパンケーキはどれなの?』

『入口……ああ、えっとこれですね。注文の仕方は分かりますか?よければ呼びますよ』

『本当に?ありがとう!』

『っ……いえ』

 

 二人の満面の笑みを見て、言葉に詰まった。

 その心のこもった『ありがとう』が心地好い程に胸に刺さって、どうにも堪らなくなってしまった。

 

 

 ●○●○

 

 

 ────誉は知らないが、この時千束とたきなは目を丸くして彼を見ていた。

 少しだけ、と謙遜していたがかなり流暢にフランス語を話している。発音も違和感無く、フランス人と遜色などまるでない。千束の背後から、たきなの感嘆の声が漏れた。

 

「……フランス語話せるなんて、初めて知りました」

「私も……普通の人は馴染み無いっていうか、あんま勉強しないよね」

「……ああ、でも誉さん、昔は色々目指してたみたいなのでその名残じゃないですか」

「え、何それ」

 

 誉の過去話────それは、千束が彼に聞いてみたくて、けど中々聞けなくてそのままにしていた話だった。どんな子どもで、どんな人生を歩んできて、何を見て聞いて、学んで育ったのか。プライベートの事だから、あまり根掘り葉掘り聞けはしなかったけれど。

 たきなは、それを多少は聞いているのだろうかと、千束はこの時気になってしまった。

 

「色々って?」

「医者とか弁護士とか……あと警察とかって言ってました」

「……知らなかった」

 

 千束は、再び誉へと視線を戻す。異国の人間と言葉を交わして笑い合うその姿が、とても眩しく思えた。

 彼が色々、小さい頃に学んでいた事は知っている。スポーツ、楽器、勉強。あらゆる方向に精通し、それが他者へと還元された時に『ありがとう』と言って貰えるのが嬉しかったから、誰かの為になれる人間になりたいのだと、いつの日かに話してくれたのを思い出す。

 彼が他の言語に通じているのも、その延長線にあったからなのだろうか。千束はたきなが先程羅列していた、誉が過去に目指していたという職業の名前を思い出して、

 

「医者に弁護士に警察……凄いね」

「何がです?」

 

 ────嬉しくて、つい微笑んでしまった。

 

「────全部、“人を助ける”仕事だね」

「……そう、ですね。凄いです」

 

 彼は、小さい頃から誰かの為にと、そう生きて来たのかもしれない。自分を必要としてくれる人にできる事をしたいと。その生き方が、その在り方が、運命的だと感じる程に千束のものと重なって見えた。

 自分は間違ってないのだと、君と私は同じなのだと、そう言ってくれているみたいで、嬉しかった。

 

「千束、ニヤついた顔が不気味です」

「なんて事言うんだ貴様はぁ!……と、とにかく!食べたら三人で良いところに行きまぁ〜す!」

 

 千束は誤魔化すように再びケーキを頬張る。それがまた美味で、自然と頬が綻ぶ。それをたきなは不思議そうに眺めていたが、可笑しく見えたのか彼女の頬も緩んでいて。

 

(────楽しい)

 

 この在り来りな日々が、すごく楽しいとそう感じた。日々の彩りが何度も更新され、毎日が新しい発見で、その一日を重ねる今という時間が凄く楽しいと、純粋に感じた。

 そして、そう思わせてくれた一番の要因は。

 

「……」

 

 千束は、再び振り返る。

 まだ、彼は楽しそうに笑ってる。誰かからの『ありがとう』が嬉しくて、それが隠せないほどに優しい微笑みが、千束の瞳には酷く輝いて見えた。

 

 ────出会ったあの日から、色褪せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ……やっぱ、好きだなぁ」

 

 

 

 








男性客 『ありがとう。本当に助かったよ』

女性客『ありがとう!』

誉 『いえいえ、こちらこそお話楽しかったです』

男性客 『ところで、あちらのお二人は彼女さんかな?』

千束 「!?」

たきな 「……っ」

誉 『え?あー……いや』チラッ

千束 「……」ソワソワ

女性客 『どっちが恋人なの?それともどっちもなの?』

誉 『いえ、友達ですよ。今日は買い物に付き合ってるんです。ただの荷物持ちですよ』

男性客 『けど両手に花なんてやるなぁ坊や!』

誉『毒とか棘とか無いと嬉しいんですけどね』

千束 「あれ私らが分かんないと思って言ってんのかなぁ……?」ピキピキ

たきな 「毒とか棘とか言いたい放題言ってますね」




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.15 Nothing find








理由なんて簡単でいい。複雑でなくても、分かりやすければそれで。



 

 

 

 

 

「『良いとこ』ってここですか?」

「うん、綺麗でしょ〜ここ。私好きぃ〜!」

 

 自慢気に胸を張る千束の隣りで、たきなは彼女に連れられて辿り着いた水族館を見渡した。水族館の中でも比較的小規模ではあるが、故に周り易く一つのショーケースを時間を掛けて見ていられる。

 千束の発言通り、水族館特有の暗がりと、それを照らすライトカラーが幻想的で入口から既に雰囲気に飲まれそうだった。

 

「よく来るんです?」

「ふふん、見てこれ年パスー!気に入ったらぁ、たきなもどうぞー?」

 

 年間パスポートを見せ付けて得意気に笑う千束。確かに、リコリスにはあまり馴染みが無いだけに、こういう娯楽にハマったら何度も来てしまいそうだ。故にパスポートを取るかどうかは、この水族館でハマり具合で決まってくるのだが……。

 

「すぅー……それにしてもだよ」

「……はい」

 

 ────千束とたきなが、意を決して振り返った。

 予想に反して、既にかなりの好感触というか……ドップリガッツリハマった人間が、振り返った先にいたのである。

 

「うわ何この変な形、これも魚なの?あ、クラゲだ、初めて見た……!」

 

「……誉さんですよね?」

「うん……だと、思うけど……」

「子どもみたいにはしゃいでるんですけど……」

「……あ、あのぉ……朔月、くん?」

 

 水槽に両手を付けて張り付かんばかりに水槽内の魚を食い入るように見つめるのは、千束にとっては同い年の異性だった。普段の大人びた印象から打って変わって、聞いた事も無いくらいの大興奮を目の前で見せている。

 あれが……誉?さっきまでと大分印象が違うのだが、と二人が顔を見合せていると、当の本人が急にクルリと振り返って駆け寄って来た。

 

「ねぇねぇ、これ写真撮って良いの?」

「え……う、うん、良いと思うけど……」

「ホント?やった、待ち受けにしようかなぁ、どうしようかなぁ……」

 

「「……」」

 

 ────目の前で大人びた青年が水族館で五歳児並に喜んでいる。誰この可愛い人。何このギャップ。

 水族館でここまではしゃぐ事のできる十七歳がこの世に存在するだろうか。その瞳をキラキラと輝かせて、携帯を開いて横向きにしてズームして笑っているのである。

 あまりの変わりように、千束もたきなも何を言えば良いのか何をしたら良いのか、考えあぐねて動けずにいたが、恐る恐ると尋ねてみた。

 

「さ、朔月くん、水族館も初めて?」

「うんっ、初めて!」

「かっ……!?」

 

 千束から変な声が漏れる。因みに今の『か』は『可愛い』の『か』である。

 たきなは変わらず彼の変貌っぷりを目の当たりにしてその瞳を見開いて固まっており、錦木は顔を真っ赤にした挙句、誉を直視できずに目を逸らしていた。

 

「ねぇ、この水族館イルカはいないの?俺見た事無くて」

「イルカ……は、いないかなぁ……」

「……そっか」

 

 分かり易くシュンと落ち込む誉。

 そんなにイルカが見たかったのか……と思いつつ励ますように、千束は慌てて口を開いた。

 

「っ、あ、ああ!サメ!サメならいるよ!」

「ホント?やった、じゃあ後でみんなで見に行こう?」

「んんっ……!」

 

 ああ、もう駄目だ限界だ。錦木はとっさに口元を抑え、誉に見られぬよう顔を背けて悶えていた。たきなはそれを呆れた様に見つつ、先程千束に教えてもらった事をそのまま誉に伝えた。

 

「気に入ったら、年間パスポートもあるそうですよ。千束はここの常連だそうです」

「そんなのもあるんだ。じゃあ、周り終わったらたきなも一緒に作ろうね」

「っ……え、ええ……良い、ですけど……」

 

 作るの確定なんだ……と、まだ入って十分と経ってないのに年パスを作ろうとしてる誉の、この水族館に対する入れ込み具合が半端では無い事に狼狽えるたきな。

 というか、一緒に作ろうと誘ってくれた誉の真っ直ぐな瞳と言動を受け止め切れなくて、結局たきなも千束と同じように目線を逸らす反応しかできなかった。

 

(……けど)

 

 たきなは、ただ純粋に気になってしまった。

 自分達のような孤児、一般人と比べて異質な環境で育った者ならまだしも、十七歳の一般男性が、()()()()()()()()()()()なんて事があるだろうか。

 

「……」

「……ん、たきな?どしたん?」

 

 前々から朔月誉という青年の、他の人には感じない何か────周囲とのズレみたいなものをたきなはずっと感じていた。一つ一つは些細な、小さな事ではあるけれど、積み重なったそれはたきなに違和感を抱かせる。

 以前、沙保里がワゴン車に拉致された事件に巻き込まれた時もそうだ。彼は車内で銃を突き付けられていたにも関わらず物怖じする事無く、千束とたきなが向かった時もケロリとしていて、とても殺されそうになっていたとは思えない。それどころか、怪我人を手際良く治療する気概まで発揮して。

 千束がその違和感を知ってか知らずにいるのかは分からないけれど、誉に対してその手の話をする事は無い。

 それに、誉が嘘を吐いているとも思えない。そんな嘘を吐く理由だってないし、何より────

 

「錦木、写真撮ってくれない?このクラゲと俺セットで」

「お、おう……え、朔月くんはしゃぎ過ぎじゃない?」

「い、良いだろ別に。何か文句あんの?」

「ううん別にー?可愛いなーと思って」

 

 ────見るもの全てが初めてで、興奮を抑えられないようなあの表情は、決して嘘偽りでは有り得ないと思った。

 

 

 ●○●○

 

 

「どしたの?」

「これ、魚なんですって」

 

 スマホで調べたのかたきなが目を細めて教えると、千束が訝しげに水槽の中に居るタツノオトシゴを眺めた。

 

「……マジ?ウオだったのかコイツ……」

「これも初めて見た……子どもの時に見た図鑑と一緒だ……」

「っ……!」

 

 誉は興奮を抑えられずに千束のすぐ隣りで、同じ高さでそれを見つめる。

 ────その横顔を見てすぐ隣りで頬を赤らめる千束に気付きもせずに。

 

「────“タツノオトシゴ。ヨウジウオ目ヨウジウオ科タツノオトシゴ属。周囲の色彩に合わせて体を変色させる事ができ、雄が育児嚢で卵を保護する繁殖形態が知られた分類群である”……だったっけ」

「お、おお……!朔月くん博識だねぇ」

「子どもの頃、動物の図鑑を読み漁ってた事があってさ」

 

 ああ、見られて良かった……写真連射しよう、とスマホを取り出す誉。

 千束の逆隣りで同様に身を屈めてタツノオトシゴを眺めるたきなも、楽しそうに微笑んでいて。

 

「この姿になった合理的理由があるんでしょうか」

「ご、ごうり?え、理由?えぇー……?」

「なんかあるでしょう」

「あ、俺知ってるよ。前に調べた事ある」

「マジ?」

「そんなピンポイントで調べる様な機会あります?」

 

 その後、思ったよりも詳しいタツノオトシゴの詳細を力説をする誉に、千束もたきなも感心しまくっていた。

 そしてその後も水槽が移り変わり、またも一般的に魚と言われる形をしていない、細長い紐のような魚が砂の穴から漂う様にユラユラしている様を見たたきなは、駆けて行って再びスマホを開く。

 

「これも魚ですか……」

「────“チンアナゴ。ウナギ目アナゴ科に属する海水魚の一種。西太平洋やインド洋の熱帯域に分布し、日本では高知県から琉球列島にかけて生息している。警戒心が強く、危険を察知するとすぐに穴の中へ逃げ込めるよう、砂の中にからだを半分以上埋めている。神経質な個体は、一度警戒するとなかなか穴から顔を出せず、そのまま餓死してしまう事もある”……らしいよ」

「へぇ……誉さんのお陰で、ネット要らずですね」

 

 たきなは小さく微笑みながら、持っていたスマホを仕舞い込んだ。そして屈んで、誉と同じ目線になってチンアナゴを眺める。

 

「随分と臆病な魚なんですね。お腹が空いても出てこないなんて」

「中々押し入れから出ないクルミみたいだな」

「っ……た、確かに……」

「あ、今笑ったでしょ」

「……はい、今のは笑いました」

 

 そうして顔を見合せ、互いに笑い合う。すると、視界端で何やら赤いものがゆらゆら揺らめいていて、思わず二人して其方へと顔を向けると────

 

「……何してんの」

「……何してるんですか」

 

 両手を掲げて海藻類みたいに揺れている千束の姿が目に留まった。集中してるのか、目を瞑って一心不乱に揺れていた。いや、こんな事で集中されても此方が困るのだが。

 というより、本当に何をやっているのだろうかと、誉とたきなが質問するのはほぼ同時だった。

 

「え?チンアナゴだけど?」

「いや聞いても分かんないんだけど」

 

 何故そんな当然ですみたいな顔ができんの、と誉の顔が言っていた。たきなも周りの視線を感じたのか辺りを見渡して、小さな声で千束に告げた。

 

「人が見てますよ。目立つ行動は……」

「なんで?」

「なんでって、私達リコリスですよ?」

「制服着てない時はリコリスじゃありませぇん!」

「五歳児かよ」

 

 ────その後もマンタが漂う大きな水槽の前で、変わらずチンアナゴの物真似を披露する千束の後ろ姿を、誉とたきなは横並びで腰掛けて眺めていた。

 

「……たきな、俺ちょっと御手洗行ってくる。錦木の事見てて」

「あ、はい。分かりました」

 

 因みに誉はというと、先程までのハイテンションから打って変わって静かになっていた。というのも、千束のこの人目を気にしない目立つ行動を見て、水族館に来てからの興奮しまくっていた自分の行動や言動を客観視できた様で、我に返っていた。今やたきなと同じ様に千束の奔放さに困り果てる側である。

 誉のその背を見送っていると、ふとたきなは顔を前に戻し、千束の背中を見つめた。

 

「……」

 

 ────誉が席を外した事で、機会に恵まれた気がした。

 そう、誉もそうだが、たきなには千束にも聞きたい事があったのだ。

 

「……千束」

「んー?」

 

 気が付けば、未だ揺らめく彼女の背に、たきなはその疑問を投げかけていた。

 

「あの弾、いつから使ってるんです?」

「……なーに?急に。てか、朔月くん分かんないでしょその話……てあれ、朔月くんは?」

「御手洗いだそうです」

「そっか……で?急にどしたの」

 

 チンアナゴの真似を止め、振り返って此方に歩み寄った千束は、そのままたきなの隣りへと腰掛けた。横並びで水槽の前に座って、暗い中青い光に照らされながら会話を続ける。

 

「旧電波塔の時は?」

「あの時先生に作って貰ったのよ」

「……何か理由があるんですか?」

「なに、私に興味あんのぉ?」

「……タツノオトシゴ以上には」

「チンアナゴよりもぉ?」

「茶化すならもういいです」

 

 話す気は無いらしい、と諦めた様に水槽へと視線を戻したたきな。揶揄っていた千束はそれを追い掛けるように、同じ様に水槽を見上げて口を開いた。

 

「────気分が良くない。誰かの時間を奪うのは気分が良くない。そんだけだよ」

「……気分?」

「そ!悪人にそんな気分にさせられるのはもぉーっとムカつく!だから、死なない程度にぶっ飛ばす!アレ当たるとめちゃくちゃ痛いのよ?死んだ方がマシかも〜……!」

「……ふふっ、ふふふっ……!」

 

 苦しげにお腹を抑える真似をする、ふざけた様に笑う彼女を見て、思わずたきなもクスクスと笑みが零れる。楽しそうに、可笑しそうに、頬が緩んだ。

 それを見た千束も楽しそうに反応して、此方に肩をぶつけてくる。

 

「なんだよぉ〜!変?」

「いえ、もっと博愛的な理由かと。千束は謎だらけです」

Mysterious Girl(ミステリアスガール)!そっか、そんな魅力もあったか私ぃ!でもそんな難しい事じゃないよ」

「────“したい事最優先”?」

「お、覚えてるねぇ!」

 

 忘れるわけが無い。

 自分がこの場所で、喫茶リコリコで、千束と同じ様な時間を重ねると決意した時の彼女の言葉だ。彼女と───そして朔月誉という少年に、教えてもらった事だったから。

 

「……じゃあ、DAを出たのも?」

「……え?」

「殺さないだけならDAでもできたでしょ?」

「……あー……」

「それも?そうしたいって、全部それだけ?」

 

 途端に歯切れの悪い反応をし始めた千束は、そのまま俯いてしまって。どこか悲しげで、儚げな表情で憂いているようで。

 聞いたらまずかっただろうか、と思った時だった。ポツリと、千束から言葉が紡がれる。

 

「……人探し」

「……なんです?」

「会いたい人がいるの。大事な……大事な人」

「大事な人……誉さん以上に?」

「えっ!?あ、や、それは……その、大事な人のベクトルが違うから!」

「ベクトル……」

 

 顔を赤くして慌てふためくところは未だ変わらない。誉が戻って来て今のを聞かれてるんじゃないかと、千束は周りをキョロキョロしながら両手を顔の前でブンブンと振っていた。

 やがて、先程までの話を思い出したのか、また少し儚げな表情へとその顔が戻り、振っていた両手は力無く下へと落ちる。けれどすぐまたその両腕は、今度は千束自身の首へと伸びて。

 

「……まあ、その人を探したくて、さ。ね、知ってる?これ」

「?」

 

 千束に見せられたのは、フクロウのような形を模した銅色のチャームだった。

 水槽を離れて飲み物を買って、明るい場所でテーブルを挟んで向き合う。たきなはスマホを取り出して、千束の言葉を頼りに彼女のチャームとサイトを見比べていた。

 そこに乗っていたのは『アラン』と呼ばれる支援団体の事が簡単にまとめられていた記事だった。その団体は才能ある若者を見出して、多種多様な支援を施してくれる様で、支援を受けた人にはこのフクロウのようなペンダントが贈られるらしい。

 つまり、千束にもこれを受けるに値する才能があるという事。

 

「……確かに同じですね。何の才能があるんですか?」

「分からなぁい?」

「……それじゃないのは分かります」

 

 壁に貼られたグラビアと同じポーズを取った千束を一蹴するたきな。絶対に色気とかそういう類のものではない。バッサリ切り捨てられたショックで、千束は額をテーブルに突っ伏した。

 

「……自分の才能が何とか分かるー?」

「何かあると良いですけど」

「そんな感じでしょー?」

「……あ、でも最近分かったんですけど、誉さんって凄く記憶力が良いんですよ。この前トランプした時とか誰も勝てませんでした」

「あー、あれね……」

 

 リコリコ閉店後に行われるボドゲ大会は、最近スゴロクだったりトランプだったりといったゲームもする様になった。その際、誉が見せたカードカウンティングという、場に出たカードを記憶して次の手を予想する技術によって、ポーカーやブラックジャックなどのトランプゲームにおいて一位を総ナメされる結果となったのは記憶に新しい。

 

「イカサマだよあんなん……」

「あれは才能ですね」

「たきなの下着姿とかバッチリ記憶されてるかもよぉ?」

「千束のさっきのひょうきんな踊りも記憶されてますね」

「だからぁ、あれはチンアナゴだってぇ……!」

 

「楽しそうじゃん」

「お、おかえりー」

「何の話してたの?」

 

 互いに笑い合っていると、誉が水槽側からそのまま千束とたきなが座るテーブルまで歩み寄って来ていた。楽しそうな雰囲気を見て当てられたのか、ふわりと嬉しそうに表情を綻ばせていて。

 

「誉さんは、千束には何の才能があると思います?」

「才能?何でまた」

「千束がこれを持ってたので、その話になって」

「────……これ」

 

 たきなが手に持った千束のチャームを見せると、誉は目を見開いて固まっていた。

 最近ニュースでも優秀な成績を収めたスポーツ選手が確かアランに見初められた人だったと流れていた事もあり、割とこの手の話はホットなのだが……誉は暫くそれをジッと見つめていた。

 

「……朔月くん?」

「っ……あ、ああゴメン、ちょっとビックリして……それ、アランのペンダントだよね。錦木のなんだ?」

「まーね。で、その才能がなんなのか話してたの」

「錦木の才能、ね……」

「……え、ちょ、何そんな見つめて。あ、朔月くん、もしかして私の才能に気付いちゃった〜?」

 

 そういって千束は、たきなに見せたセクシーポーズを再び誉の前で披露する。急に何だと訝しげに見つめていた誉だが、やがて近くの壁に貼ってあるグラビアの写真と目の前の千束が同じポーズを取っている事に気が付いて、交互に見比べて思わず────

 

「……ふふっ」

「っ……あー!笑ったぁー!今鼻で笑っただろぉー!」

「いや、ゴメ……ふっ、そうやって、人を笑顔にできるのは才能だと思うよ……くくっ」

「ちょ、笑い過ぎだからぁ!」

 

 笑顔にするというか、どちらかと言えば嘲笑された気が……。

 くつくつと笑う誉の腹に、千束が軽く拳で小突く。そして顔を赤くして力無く椅子に腰掛け、誉もそれに合わせて腰掛けた。

 

「……で?何でこのペンダントの話になったの?」

「え?」

「いや、そういう話になった経緯が気になって。まさか何の脈絡も無く錦木がこれ見せびらかした訳じゃないんでしょ?やりそうだけど」

「ちょおい」

「冗談だよ」

 

 そうやって軽く微笑んでから、真剣な眼差しを向ける。そんな瞳と交わって、千束は再びその表情を曇らせた。

 

「あー、その……私がDAを出たのって、会いたい人がいるからなの。けど、十年経って何の手掛かりもなくて、さ」

「……そうなんだ」

「これをくれた人って事ですよね?」

「……もう、会えないかもね」

 

 たきなが腕を伸ばして、預かっていたチャームを千束へと渡す。受け取った千束はそれを見下ろして、すうっとその瞳を細めた。

 たきなと誉は彼女のその表情に、この十年間を賭してその人の手掛かり何一つでさえ見付けられなかった事への諦観染みたものを感じた。

 

「“ありがとう”、って言いたいだけなんだけど……」

「……」

「……」

 

 たきなと誉は、何も言わずにただ彼女を見つめた。彼女が何故その人を探しているのか、どうして大事に思っているのか、どんな想いでその人の事を考えているのか、二人は知る由もない。

 変に励ましの言葉を伝えても、それは誤魔化しでしかないし、偽善に他ならない。彼女の心の内を、誰も知った様に口にする事はできないし、許されない。

 

「────っ」

「……たきな?」

 

 ────だからだろうか。

 何も言わずに離れた水槽を眺める千束のその表情をどうにかしたくて、たきなはきっと立ち上がったのだった。

 そうして水槽の前の広場で両手を重ね、身体を前へと傾けて片足を伸ばして見せた。恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めて、それでも彼女を励ましたい一心で、そうして作り上げた魚のポーズ。千束のチンアナゴに負けず劣らず、身体を張っている。

 

「さかなー!」

「お〜!さかなかぁ〜!よぉーし……チンアナゴォ〜!」

 

 それを見た千束は、途端に笑顔に。

 受け取ったチャームを首に戻してたきなの横へと駆け寄り、並び立つようにチンアナゴのポーズを見せつけ、周りに稀有な目で見られるというよく分からない空気へと辺りが変化する。

『何あれ』と子どもにマジレスされてる中、千束は自身とたきなの滑稽な姿に、阿呆らしいその振る舞い方に当てられて面白可笑しく吹き出してしまった。

 

「……くっふふ……あっはっはっはっ……!」

「……ふふっ、ふふふっ……!」

 

 千束の太陽の様なその笑みにたきなも思わず微笑んで、目を細めて笑い合う。今までに感じた事の無いような感情の波が押し寄せて、それが楽しくて笑みが隠せない。

 そんな姿を、誉はただ眺めていて────スマホを横向きにして此方に翳していた。

 

「これが“てぇてぇ”……」

「ちょっと朔月くん、何撮ってんのよぉ!」

「あ、いや、ミズキさんに見せたら面白そうだなーと」

「やめんかコラァッ!」

 

 そう言いながらも、楽しそうに誉に絡む千束。先程までの憂い顔が消え去って、いつもの笑顔が。周りを照らし、他人までもを自然と笑顔にさせてしまう様な、そんな彼女の顔が、とても眩しい。

 そんな千束の姿を、たきなは瞳を細めて眺めていた。

 

「……ったく、油断も隙も……たきな?」

チャーム(それ)、隠さない方が良いですよ」

「え……そう?」

「ええ。────めっちゃ可愛いですよ。ね、誉さん?」

 

 そうして、誉に言葉を託す。

 千束は思わず、たきなの視線を追った先に立つ誉に瞳が動いた。その両手は、首に下がるフクロウのチャームを掴み、じっと顔を赤らめて誉の言葉を待つ。

 誉はふわりと軽く微笑んで、慈しむような笑みで千束を見つめていた。

 

「……うん。似合ってる」

「っ……そ、そっかそっか……にへへっ」

「なあ、錦木」

「うん?」

 

 誉は、顔を赤くしたまま嬉しそうに口元を緩める千束の名を呼ぶ。

 不思議そうに此方を見上げる彼女の視線から逃げる事無く、変わらない微笑みで彼女に告げる。

 千束にとってその人がどんな存在で、どんな想いを持って探しているのかなんて相も変わらず分からないけれど、会えないと嘆く彼女に誉が言ってあげられるのは、精々持論だったのかもしれない。

 ────ただ、そうだったら良いな、という願い。

 

「会わなきゃいけない人には、絶対に会えるんじゃない?」

「────……うん、そうだよね。にひひっ、ありがと!」

 

 けどその言葉は、確かに千束を救った様に見えた。彼女がまた楽しそうな笑顔を見せてくれただけで、伝えた甲斐があったというものだ。

 千束は、誉とたきなの肩を軽く叩いて、前に出て先導する様に声を上げた。

 

「じゃあ次行こっか!」

「……ちなみにさ、その会いたい人って男の人?女の人?」

「お?なぁにぃ朔月くん、気になるのぉ〜?」

「……や、タツノオトシゴと比べたら別に」

「え……ち、チンアナゴよりは?」

「あー、それと比べたら特に」

「ちょいちょい!もっと気になってよぉー!」

「誉さん、千束、次どこ行きますか?」

「くぅ……よぉし!こうなったら次はペンギン島に行くぞぉ!」

「「ペンギン!?」」

「二人とも食い付きハンパないな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 ────翌日の早朝。

 

 

「ひゃああああああああハレエェェンチィィィイイイイイ!!!」

 

「っ……!?」

 

 既に開店してるリコリコの店裏で響き渡る甲高いミズキの奇声に驚き、その拍子に誉の淹れていた珈琲がカップから溢れ出た。

 

「……っぶね」

 

 うっかりポッドを落としてしまいそうな程に突発的なタイミングで上げられたその声は、何かの事件の兆しなのではとさえ恐怖する。

 表の常連のお客さん達も何だ何だと訝しげに店奥へと続くカウンター、つまるところ誉の方を見ていて。

 その疑問に応えるように、誉は思わずテーブルにポッドもカップも置いてその場から飛び出し、声のした更衣室付近へと駆け寄り────そして、呆れた様に目を細めた。

 

「……何してるんですか」

「コイツが男物のパンツ履いてんのよ!」

 

 そこには、取っ組み合う千束とミズキ……正確にはミズキに首を絞められた千束という構図が出来上がっていた。

 そして今の一瞬で、というかミズキの一言で誉は全てを理解した。先程開店前にたきなの男物の下着を全部捨てる発言をしていた千束だ、恐らく好奇心でたきなの下着に手を出したのだろう。それをミズキに見られた……といったところか。タイミングが悪過ぎる。

 

「白状なさいっ!アンタ朔月くんところに泊まって来たな!越えてはいけない一線を超えたわね私への当て付けか!」

「えっ、あっ、や、違う違う違う違う!朔月くんの家教えて貰ってないし私達まだそんな関係じゃないぃぃぃいいいいでででででで!!!」

「ガキの癖に不潔よ不潔ぅぅうううう!」

「聞けって!違うってえええぇぇのおおぉぉぉおおおおおお!なん……あっ、たきなの!たきなのだからぁ!」

 

 何の話をしてるのか一ミリも理解できずに首を傾げていると、そんな誉に向かって千束が指を差した。……正確には誉の隣りに並び立っていた、裏の様子を見に来た制服姿のたきなだった。

 急に名前を挙げられて何の事か分からないたきな。そんなたきなの事など知らぬ存ぜぬで、ミズキは千束からその腕を離すと、その眼鏡を光らせたきなに急接近した。

 そして────

 

「え────」

「ぶっ……!?」

 

 誉の目の前でペラリと、豪快にたきなのスカートを捲り上げた。

 誉はミズキのその流れる様な動作の所為で目を逸らすのが遅れ、ミズキはミズキで睨む様に目を細めてたきなの下着を見つめ、そしてスカートを下ろして一言。

 

「可愛いじゃねぇか」

「いやだからそれを昨日買ったの!え、あ、ちょいちょい何処へ────」

「皆さーーーん!このお店に裏切り者の嘘吐き野郎が居ますわよーーー!?」

「うおおおおおあああああ!ひいいいぃぃぃいいいい、やめろやめろやめろやめろやめろぉぉおおお!」

 

 表で千束の下着事情、もとい根も葉もない話をミズキにひけらかされそうになったその瞬間に千束の顔が真っ青になり、途端に彼女も表へと駆け出した。残されたのは、誉とたきなの二人だけ。思わず、誉はたきなへと視線を戻す。

 彼女は、今まで見た事も無いほどに真っ赤に、熟れた果実のように顔を染め上げていた。

 

「……み、ま、した……?」

「……ガッツリ見た……ホント、ゴメン……」

「いえ、その……今のは、仕方無いです……」

 

 ────嘘が吐けないのは美徳だと誰か褒めて欲しい。

 この場で公言はしないが、以前のトランクスと比べると明らかに女性らしい下着だった。ミズキの言葉を借りるなら……凄く、可愛いかった。

 

「……それに」

「え……?」

「これは、その……誉さんには、見られてもいい下着だと、千束に聞いたので……」

「────はあっ!?」

「……か、可愛かった、ですか……?」

「言えるかぁ!」

 

 わけ分から過ぎて一瞬固まった。

 ────見せて良い下着!?そんなの存在すんの!?痴女だろソイツ!と誉の頭の中では混乱が渦巻いていた。ちなみに『痴女』って言葉は最近覚えた。

 というか、見せていい下着の割には以前トランクスが千束に見られた時や、誉に着替え途中を見られた時よりも何倍もずっと恥ずかしそうに顔を赤くして俯いていて、それがただただいじらしくて。

 誉は、思わず目を逸らした。全ての元凶である錦木千束が居るであろう表の方を見据えて、目を細める。

 

「……と、取り敢えず、ミズキさんからの攻撃は錦木の自業自得って事で甘んじて受けてもらうか」

「……そう、ですね」

 

 そうしてお互いに気まずいまま、顔を赤くしたまま、お客さんの集まるサービスルームへと二人で足を運ぶと、そこにはミズキに羽交い締めにされたまま、クルミが用意した扇風機を前にスカートの中身を晒された千束の姿があった。

 

「ほれほれ」

「もおおぉぉおおいっそ殺してええええぇぇええ!」

 

 クルミに扇風機と団扇で煽られ叫ぶ千束と、ニヤけた顔でお客さんに千束の下着事情を伝達するミズキ。

 

「見ましたぁ?皆さん、男物のパンツですよぉー?」

「ちょ、違うってええぇ!だからたきなの、や、先生の指示で────」

「え、オッサンの?それって……」

「や、もうそれもややこしいいいいいいとにかくちがあう、違うってえええええ!」

 

 そんな、何とも情けない錦木と大人気ないミズキと、それをわけが分からず眺めるお客さんという地獄絵図。よく分からない空気に当てられて、思わず誉とたきなは顔を合わせて。

 

「……くっ、くく、あっははははは!」

「ふふっ……はははははははははっ!」

「ちょ、何二人して笑ってんの助けてよおおおおぉぉぉお!!」

 

 先程まで気不味くなっていた空気は消え去り、身内の情けない姿を見て、ただ二人で笑い合う。

 そんな楽しげな二人に向かって、羽交い締めにされたまま哀れな姿となった千束は、ひたすら助けを乞うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「弾道を補正」

 

 

「反動を修正」

 

 

「風速を計算」

 

 

「標的を再確認」

 

 

「距離約三十メートル」

 

 

「射程を推定」

 

 

「行動を予測」

 

 

「高低差を計算」

 

 

「握力対比を調整」

 

 

「姿勢は自然体。首はそのまま銃を目線まで持ち上げる」

 

 

「フロントサイトとリアサイトの高さを合わせ」

 

 

「後に目の焦点をフロントサイトに合わせる」

 

 

 ────何度か反芻した、呪文のような動作確認。

 告げる度、耳を劈くような破裂音、いや銃撃による発砲音が響き渡る。そして手元にも、その音を引き起こす代物が生々しく冷たい感触を伝えてくる。

 重い。人の命を奪うに充分な質量。この黒光りする、人を傷付ける為にある力。使い方次第で、誰かを助けるものにもなるのだろうか。

 

 

「狙いは逸らさず」

 

 

 鉄骨の山、歪な骨組み、未完成な建物。

 そして、その高みで此方を狙う、黒い長髪の痩せた男。

 突き付けられたその銃が火花を散らし、刃で切れた様な痛みが頬を掠める。

 

 

「目的を違わず」

 

 

 けれど、逃げるわけにはいかない。

 生まれて一度もこんな修羅場に出くわした事は無い。

 こんな非日常に駆り出される様な未来なんて想定してない。

 それでも、すぐ傍で動けず座り込んでいる彼女の為にも、決してこの場を離れたりしない。

 

 

「────不殺を心に」

 

 

────⬛︎⬛︎⬛︎、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。

 

 

 ああ、声がする。

 懐かしい、酷く懐かしい誰かの声が。忘れたものだとばかり思っていたけれど、一度思い出すと、彼女から貰った言葉を何度でも呼び起こせる。

 それは、笑うように。

 

 

 

 

────⬛︎⬛︎ハ、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎レル。

 

 

 

 

 それは、歌うように。

 

 

 

 

────⬛︎⬛︎ハ、何⬛︎⬛︎モナれる。

 

 

 

 

 それは、囁くように。

 

 

 

 

────⬛︎⬛︎は、何二デもなれる。

 

 

 

 

「────チェック」

 

 

 

 

────貴方は、何にでもなれる。

 

 

 

 

 それは、呪うように。

 

 

 

 

「────来いよ、“サイレント・ジン”」

「っ!」

 

 自分が放ったとは思えない底冷えするような声音で繰り出した挑発的な言動と同時に、奴の銃から弾が放たれる音が響く。

 その瞬間、その瞳を見開いた。直前まで食い入る様に見つめていた奴の顔、視線、瞳の動き、口元、指の動き、筋肉の機微。その全てが、この場で成すべき事を教えてくれる。

 

 

 ────気が付けば、その銃弾を首を傾けるだけで躱していた。

 

 

「……ほまれ、さん……」

「────下がってろ、たきな」

 

 彼女の銃をその手に、風でその髪と服を靡かせながら、大丈夫だと伝えてみせた。そのまま、振り返って目線を上げて、遥か上で此方を見下ろす長髪の男を見上げながら、再びあの声を思い出した。

 

 

────“貴方ハ、何ニデモナレル”

 

 

 きっと、母に求められた姿形ではないけれど。

 何者にもなれるのならば、今、仲間を守れる存在になれているだろうか。

 

 

 

「秒で終わらす」

 

 









たきな 「あ、じゃあタイム測ってますね」

誉 「ただの決め台詞じゃん」


※後書きはフィクションです。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話 So far, so good
Ep.16 Are you ready to travel?







知らない場所、知らない人、限られた時間を君と共に。



 

 

 

 

 

 

 

「ではみんな!今回の依頼内容を説明しよう!とっても楽しい、お仕事ですよ〜♪くっひっひっひっ、んっふっふっふっ……!」

「……笑い方が気持ち悪い」

「ちょ!女性に言う言葉かぁ!」

 

 リコリコが営業時間を終え、珍しく残っている常連のお客さんもいない。それが合図なのだと、数ヶ月此処で働いていれば流石に理解する。

 裏の仕事────つまりリコリスとしての仕事の打ち合わせがあるという事。一般人には聞かせられない。……従業員である俺を除いて。

 

 依頼内容の記載があるであろうタブレットPCを振り回して楽しそうに笑う錦木を眺めながら、チラリとミズキさんの方を見る。普段ならミカさんかミズキさんが依頼内容を説明するからだ。

 しかし、当の本人はたきなと並んで座敷に腰掛けている。それをたきなも不思議に思ったのだろう、疑問をそのまま口にした。

 

「ミズキさんが説明しないのですか?私、もう読みましたけど」

「今回やたら乗り気なのよ……」

「ちょ、ちょいちょいちょい、ちょおい!そこぉ!私語はしない!そしてそこのリス!……ゲームしてない?」

「聞いてるよ」

 

 二階で凭れてVRゴーグルを被りつつ、コントローラーをカチャカチャ操作しながらクルミは呟いた。あ、今日は押し入れの外なのか。

 まあクルミは要領良いし、ながらで聞けるだろうけど……って、錦木が何かこっち見てる。何。

 

「そして!そこの朔月くん!」

「俺関係無いだろ」

「呼んだだけ〜♪」

「……そうかよ」

「イチャイチャすんなら他でやれやぁ……!」

「し、しとらんわぁ!」

 

 千束は慌てた様にミズキさんにそう捲し立て、何事も無かった様に立て直す。態とらしく咳払いすると、タブレットに記載された依頼内容を音読し始めた。

 

「────『依頼人は72歳男性、日本人。過去に妻子を何者かに殺害され、自分も命を狙われた為に、アメリカで長らく避難していた。現在は……きん……き、き、きん……?」

「な、何て?禁忌飢饉(きんきききん)?」

「それなんて終末?」

 

 この世の終わりかな?恐ろしい単語が生み出された予感。

 カウンター越しで珈琲を淹れつつ視線を向けると、目を細めてタブレットと睨めっこする錦木の姿が。……ああ、漢字が読めないのね。

 これだと説明が進まないな、と思っていると二階からクルミの助け舟が出た。しかも、告げられた言葉は聞いた事のある病名だった。

 

筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)

「……ALSか」

「知ってるんですか?」

 

 たきなが驚いた様に此方を見る。千束やミズキも同様に視線を寄越してきた。

 知ってるといえば勿論知っている。何せ、医者を目指した事もあるくらいだ。ALSに関してもよく覚えてる。十年前くらいに症例をこの目で見た事もあった。

 

「……指定難病の一つで、筋肉を動かす神経系───運動ニューロンが障害を受ける病気だよ。その結果、脳から体を動かすのに必要な信号が伝わらなくなって筋肉が痩せていく。発症率で言えば10万人に1人から2.5人。原因は十分解明されてないけど、神経の老化との関連や興奮性アミノ酸の代謝異常、酸化ストレス、タンパク質の分解障害、あるいはミトコンドリアの機能異常といった学説があって、最近だと────」

「わ、分かった!分かんないけど、分かった!」

 

 我に返って顔を上げると、錦木がヘンテコな顔をしていた。何その顔ウケる。

 多分此方の話の半分も理解してないだろう。

 というか、俺も話し過ぎたな。知識ひけらかしてマウントとる奴みたいになるから調子乗るのやめよ。こんなの調べればすぐ出てくるし。

 

「……よく覚えてますね」

「誉、ウィキみたいだな」

 

 座敷でたきなが、二階でクルミがそれぞれ関心していた。いや、クルミに関しては鼻で笑ったろ今。嘲笑だろそれ。言葉尻に(笑)って聞こえたぞ。

 

「じゃあ、自分では動けないのでは?」

「そう!去年余命宣告を受けた事で最後に故郷の日本、それも東京を見て回りたいって!」

「……観光、ですか」

「泣ける話でしょぉ〜?要するに、まだ命を狙われている可能性がある為、Bodyguard(ボディガード)します!」

「発音合ってるそれ?」

 

 ボディガードのとこだけアメリカン入れてたな今。

 てか仕事終わりだってのにやたらと元気だな。何故そんなに明るい……あ、もしかしなくても報酬が良いなこれは。

 錦木がこの手の仕事でニヤニヤしてんのはお金が絡んでる時だあーもー絶対にそうだもうこれしかないこれしか考えられない賭けても良い。

 

「何故狙われているのですか?」

「それがサッパリ。大企業の重役で敵が多過ぎるのよぉ〜、その分報酬はタップリだから♡」

 

 たきなの質問にゲスい恍惚とした表情を見せるミズキさん。

 ほれみろやっぱ報酬良いんじゃん。ミズキさんのゲスな笑顔見る前から明らかだったわ。

 その人も数ある場所からよくリコリコを選んだものだ、とまで考えてふと思った。

 

「日本に来てすぐに狙われるとも思えないけどねー。行く場所はこっちに任せるらしくて、私がバッチリプラン考えるから!」

「…………?」

 

 ……今、なんとなく思ったんだけど。

 よくよく考えてみたら、リコリスって機密機関で一般には知られてないんだよな。だったらリコリコに依頼する人達ってどういう経路で此処を見付けてくるんだろうか。

 

 その違和感を無視するとしても、そもそも今回の依頼主はアメリカに避難していた。その時だって命を狙われている危険は伴っていたはずで、なら既にボディガードが存在しているはず。態々日本に来て錦木達とそれを差し替える理由が分からない。

 しかも観光中はこちら側に一任している。命を狙われている自覚があるならあまりにも自由だし、初対面の錦木やたきなに対しての警戒心が無さ過ぎる。とてもじゃないが、ボディガードを依頼する人間性と矛盾するのだ。

 

 ────……なんか。なんか、違和感があるな。何だろう、このモヤっとした感じは。

 

「旅のしおりでも作ろうか?」

「それだ!ナイスクルミ、早速取り掛かろう!あー時間が無さ過ぎる!朔月くん珈琲私にも!」

「…………徹夜する気?」

 

 なんであんな元気なんだアイツは。ミズキさんなんて歳だからもう眠そ(規制)。ったく、誰の心配をしてると思って……まあ、いいか。錦木もあんなに楽しそうだし。

 彼女の要望通り、珈琲を仕上げてカップに注ぎ、それを人数分トレイに乗せて持ち運ぶ。客間に行けば既に錦木が旅のしおりの制作に取り掛かろうとしていて────その用紙どっから持ってきたの。

 

「〜♪」

「……」

 

 楽しそうな横顔。嬉しそうな鼻歌。

 誰かの為に一生懸命な彼女。今回に至っては、依頼主の為に旅のしおりを夜通し作ろうとしている。普段我儘で、やりたい事最優先を豪語してる割には、意外と人たらしというか、人想いなんだよな。

 ……だから、錦木の人に傾けるその想いが報われて欲しいと常々思う。彼女の思いが伝わって、それを皆が彼女に返してくれるような、報われるような結末であって欲しいと思うのは、傲慢だろうか。

 

「……錦木」

「んー?」

「しおりは紙媒体じゃなく、データの方が良い」

「え、何で?ご高齢だし紙の方が優しくない?」

「ALSで余命宣告されてるって事は多分呼吸筋も麻痺してるだろうから、人工呼吸器を使ってる。そこまで進行してる人だと指が動かせないから、ページが捲れない」

「あ……そっか」

 

 錦木はしおりの表紙を手掛けようとしていたそのペンの動きを止める。俺の言った事に気が付かなかったのか、顔を上げて目を見開いていた。

 

「多分……自動の車椅子か何かで来ると思う。会話も無理だから、多分音声合成ソフトを使っての会話かな。なら、そこまでパソコンが苦な人じゃないから、高齢の人でもデータで大丈夫。それに……」

「……それに?」

「そっちの方が、錦木の優しさが伝わると思うよ」

「────……っ」

 

 ……ちょ、今のは恥ずかしい事言った自覚ある。

 だからそんな顔赤くしてこっち見ないで錦木。カッコつけた自覚あるから。ゴメンて。そんな見ないでって。

 誤魔化す様に視線を逸らし、錦木が手掛ける用紙を指差した。

 

「ほ、ほら、さっさとやるぞ」

「え、あ、でも、私そんなパソコン使わないから……」

「あー、そうだよな……あ、じゃあ素体は紙で作って良いよ。画像データにすんのは俺がやるから」

「え、そんなんできんの?」

 

 カウンター席に腰掛けたまま、驚いた様に此方を見上げる錦木。そういえば、彼女の前でパソコンを使った作業をした事は無かったかもしれない。

 まあ、そもそもパソコン使うタイミングが無いしな。たまに時間ある時に売上とかデータで見てるけど。

 

「最近クルミにパソコンの使い方習ってるから」

「すぐ覚えるからあんま教えた気にならないけどな」

「物覚えが良いと楽だろ、師匠」

「可愛くない弟子だ」

 

 二階でクルミはつまらなそうに呟いた後、カチャカチャとコントローラーの操作に戻っていった。

 彼女の皮肉に軽く微笑みながら、再び視線を下に戻して────え、なんか錦木が目を細めてこっち見てんだけど何。

 

「なーんか、クルミと仲良いじゃん」

「……何、ヤキモチ焼いてるの?」

「っ、なっ、ちが────」

「大丈夫だって、ホントにパソコン教えてもらってるだけだから。クルミとは、錦木の方が仲良いって」

「違ぇよ」

「声冷たっ」

 

 え、怖、何。

 今のどっから出た声ですか。

 

 底冷えするような声を浴びせられて萎縮する俺の隣りで、千束は既に行くところを決めているのか下書き無しで用紙にサラサラとペンを走らせている。

 特に何も言わずにそれを眺めていると、見知った単語がつらつらと書き記されていく。

『浅草』『七夕祭り』『江戸城』『学術文化ミュージアム』『シビックセンター』……有名所手当り次第って感じである。どれも名前だけは聞いた事があるけれど、聞いた事があるってだけ。

 

「……何処も、行ったことないな」

「え?」

 

 思わずポロリと呟いてしまった。

 俺のその独り言を聞いた途端、錦木のペンの動きが止まる。ゆっくりと顔を上げ、その瞳と交わった。

 

「何処も行った事ないの?」

「え……あ、うん。まあ、ね」

「……あれ、家ってこの辺だよね?」

「そうだけど……まあ、色々あってさ。いつかは行ってみたいんだけどさ」

「……そっか」

 

 錦木はそれだけ言うと何か考える様に俯き、やがてしおりの制作に戻っていった。その対応が、有り難いような気不味いような、何とも言えない感覚だった。

 

 俺のいう『色々』を、錦木は踏み込んで聞いてこない。ある程度線引きして、距離を保っているような感覚。俺が学校に行っていない事は、ほぼ毎日平日休日問わず働いている事で分かっているだろうに、気付いているはずなのに今まで一度も触れてきた事は無かった。

 地元であるにも関わらず彼女がしおりに記した場所の一つでも行けた事がない。だからその場所に人並み以上の憧れがあって、思わず零れた羨望の言葉。

 

 俺は、羨ましいと思ってしまったのか。

 彼女は、人を守る為の仕事で赴くというのに。

 言ってしまってから、後悔した。

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「……………………」

「……………………〜♪」

 

 いや、コイツ楽しんでるだけだわ。

 これ絶対錦木が行きたいところだろ私情挟んでんなよ俺も行きたいわ。言った事は後悔しません。

 

「……ったく。あ、ミカさん、珈琲です」

「ああ、ありがとう」

 

 錦木から離れ、たきな達にも珈琲を一杯ずつ渡していき、最後はカウンターの反対席で新聞を広げていたミカさんの前に淹れたての珈琲を置く。いつになっても、ミカさんに珈琲を飲んでもらうのは緊張するなぁ……。

 ミカさんは新聞を畳んで、俺が目の前に置いたカップを手に取った。そして、その視線の先で、嬉々としてしおりを作る錦木を見据えて柔らかく微笑んでいた。

 

「随分と楽しそうだな、千束は」

「……そう、ですね。危ない仕事のはずなのに、そんなの関係無いみたいで。単純に依頼主と東京観光するだけみたいで……なんか羨ましいな」

「羨ましい?」

「俺にとっては、東京で遊ぶのも難しかったんで」

「────……」

 

 その発言の後、ミカさんからの視線を感じた。

 ────ああ、本当に。やりたい事最優先の彼女が、行きたいところに何処までも行こうとするその意志が、行きたいところに行ける錦木が、心底羨ましい。

 

「俺も、機会があれば観光とか旅行とかに行ってみたいです」

「……そうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 そして、任務当日。

 

 依頼主から間も無く到着すると連絡が入ると、それから少しして店の前で車のエンジン音が聞こえた。依頼主だと直感したのか、千束は立ち上がって出迎えの準備を始める。それに続く様に、誉も千束とたきなの出発を見送ろうと立ち上がった。

 鈴の音と共に店の扉の開閉音が聞こえて、全員で来客を出迎えると────

 

「お待ちしておりましたー!……ぁ」

 

 千束の言葉尻が詰まる。

 サングラスの黒服に守られながら、ゆっくりと店の中に入ってきた車椅子の客人は、やはりこの空間では一際異彩を放っていたからだった。

 千束やたきなが依頼主のその姿を見た瞬間に固まって動けなかった中でも、ミカと誉だけは変わらずの態度で挨拶を交わしていた。

 

「松下さん、いらっしゃいませ」

「────遠いところ、ようこそ」

『少し早かったですかね。楽しみだったもので』

 

 依頼主────松下という名のご老人から発せられたのは、やはり誉が先日伝えた通りの合成音声。

 しかし思考をそのまま読み取り言語化し、音声として放っているのか、かなり高性能なソフトらしい。それに関しては誉も心の中で驚いていた。

 

 機械が生成する音声にしては発音が滑らかすぎる。会話も流暢で言葉の節々に感情らしきものすら感じる。合成音声であるはずなのに、何処か違和感が拭えない────が、そういうものなのだろうと納得ができてしまう理由が、誉にはあった。

 

(……箱庭(・・)にいた間に、外の科学は進歩してるんだな)

 

 ただ、やはり彼のその姿は健康体である人から見れば痛ましいものだった。

 自動で動く車椅子に、視力を補助する目的であろう機械的なゴーグル。筋肉は衰え痩せこけており、人工呼吸器特有の空気の排出音が静かな部屋によく響く。無表情に見えるその顔も、筋肉が動かせないが故のもの。

 余命宣告を受けているとの事だが、難病なのが目に見えて分かる深刻さだった。

 

「……あ、いえ!準備万端ですよ!旅のしおりも完璧でぇす!朔月くん!」

「オッケー。PDFにしたやつ用意する。松下さん、アドレスだけお伺いしても良いですか?」

『ありがとうございます、助かります。……後はこの方達にお願いするので下がって良いですよ』

 

 誉にお礼を言った後、松下の自動車椅子の向きが黒服へと移動する。彼の言葉を聞くと、素直に黒服は表に停めていた車に乗って早々にそこから離れて行ってしまった。

 誉はカウンターに腰掛けて、松下の為にPDFをしおりの順に並び替えてセッティングする。千束にそれを覗かれていてなんとなくやりにくい。

 

 その間、今回の依頼主である松下を中心になんとも言えない空気が漂っていた。特にたきな達は、松下という痛ましい姿をした存在の扱いに困るかの如く、何も言えずにただ彼を見つめる事しかできないでいる。

 すると松下当人もそれを感じたのか、誉と千束へとその車椅子の向きを傾けて呟いた。

 

『今や機械に生かされているのです。おかしく思うでしょう?』

「そんな事無いですよ。私も同じですから。ここに」

 

 機械に生かされている事を恥じるような松下の発言を、千束は両手を胸元で振って否定する。そして、その胸の前でハートの形を作ってみせた。

 自分の胸にも、私を生かしてくれる機械があるのだと暗に伝えていた。初耳である誉は、思わずパソコンから目線を外してしまった。

 

『ペースメーカーですか?』

「いえ、丸ごと機械なんです

 

「────っ」

「え?」

 

 ────この時声を出さなかった自分を褒めてやりたいと、誉は思った。

 たきなは思わず声を漏らし、クルミも視線が千束に向いた。彼女の言葉に困惑したその反応は、傍から見れば新顔である三人が何も聞かされていなかったであろう事が伺えた。

 

『人工心臓ですか』

「アンタのは毛でも生えてんだろうね」

「機械に毛は生えねぇっての……!」

 

 この反応からするに、ミズキは知っていたらしい。

 やはり驚きを隠せないたきなは、固まった表情のまま千束を見つめていて。

 

「ど、どういう────」

「誉、まだ終わんないのか?」

「今終わったよ。松下さん、今送ります」

 

 偶然たきなの言葉に重ねる様にクルミからの催促がかかり、誉は小さく息を吐く。完成したものをそのまま貰ったアドレスへと転送する。

 恐らく松下の身に付けた視力補助のゴーグルに、千束の手掛けた旅のしおりが表示されている事だろう。それを閲覧したのか、松下からまた驚きの声が。

 

『おお……!これは素晴らしい』

 

 喜んで貰えた様で何よりだ。やはり画像で用意して正解だった。

 千束のしおりが無駄にならなくて良かったと、そう心の中で思っていると、いつの間にか千束がすぐ近くにまで寄って来ていた。

 

「……ありがとねっ」

「……ああ、うん」

 

 嬉しそうに、楽しそうに笑う千束。

 夜遅くまで準備した割には千束は元気そうである。松下が此処に来るまでも、彼女は自作のしおりを何度も読み返しては、今日一日の予定を頭の中で楽しく復習していた事だろう。

 その顔を見ただけで、提案して、手伝って、喜んで貰えて良かったとそう思える。頑張って良かったと、誉はただ切に思った。

 

「では!東京観光、出発しまーす!行ってくるね!」

「うん、気を付けて」

 

 千束が松下の車椅子の取っ手を掴む。このまま運ぶつもりなのだろうが、松下もそれに対して特に何も言ってこない。行先は千束に任せるという話だったし、彼女がそのまま出口へと向かう事に対しても身を委ねていた。

 この中で唯一、たきなだけは完全に置き去り状態で立ち尽くしていた。原因は言わずがもがな、千束の人工心臓の話をまだ咀嚼できていないのだろう。突拍子も無い話である為、当然だった。

 

「あの、千束の今の話って」

「たきな行くよー!ミズキも車ー!」

「っ、あ、はい!」

 

 ミカやミズキへの質問を遮る様なタイミングで千束から急かされ、たきなは慌てて駆け出す。ミズキも後から続いて二人のその背を追おうとした、その時だった。

 松下の車椅子のブレーキが急に掛かったのだ。押し運んでいた千束は思わず前のめりになりそうになり、すんでのところで立ち止まる。たきなもミズキも急に千束が───いや松下が止まった事によってその足を止める。

 どうかしたのか、と誰かが口を開こうとしたその瞬間、松下から音声が響いた。

 

『彼は行かないのですか?』

「え……」

 

 ────千束を始め、たきなやクルミ、ミカやミズキ全員がこぞって『彼』と言われた存在に視線を集約させる。

 松下の言う『彼』とは、恐らく誉の事だった。誉は自分の事を言われてるのだと一瞬気付かずに固まっていたが、やがて松下の言葉を理解して我に返った。

 

『よければ、君にも同行をお願いできませんか』

「え……ああいえ、自分は」

『人数は多い方が楽しいですし、同性の方が居てくれると色々と有り難いのですが』

「……あー、えっと」

 

 この人は、誉の事も護衛だと思っている様だ。

 当の誉は思わず後ろを振り返ってミカへと視線を泳がす。ミカもどうしたものかと、困った様に眉を寄せていた。

 実際問題、体が動かせない病気となると介護必至だ。何かと同性の方が分かってあげられる事が多いだろうし、その手の事に関しては千束とたきなには期待は難しい。松下のお願いは的を射ていた。

 

(だからって、何で俺……)

 

 それ故に、問答無用で拒否するかと思われたミカも考える様に腕を組んでいる。依頼主、それも重役の提案を即座に否定するべきか否か悩んでいるのだろうか。たきなやクルミ達もそれぞれどうすんだこれ、と言わんばかりに顔を見合せている。

 

 しかし中でも千束は、誉がこの手の任務や仕事に興味を持つのを極端に嫌がる。個人の為のリコリスとして依頼されたものに関しては、内容によって誉が手伝う事もあるが、こうしてDAでの任務に近い銃撃が絡むものに関しては誉から遠ざけようとする部分が大きい。

 それは、千束が言わなくとも彼女の態度と行動で誉自身が自覚できる程のレベルだった。思わず視線をミカから千束へと移動する────千束は、やはりどうしたもんかと困った様な表情をしていてどう断ろうかと思案しているように傍目からは見えていた。

 

「あー……えっとですね、彼は今回別行動で────」

「良いですよ」

「っ……!?」

 

 誉は、たったの二つ返事だった。

 思わず千束は松下から再び誉へと視線を戻す。何言ってるんだと、その表情で訴えかけていた。

 

『おお、本当ですか。ありがとう』

「ちょ、朔月くん……!?」

 

 松下も喜びの声を上げ、引き下げられない状況へと一瞬で変わる。千束は思わず声を上げるも、松下に気を遣ってか即座に口を噤む。けれど、視線は変わらず誉を向いていた。

 そんな彼女から顔を背けて、誉はミカへと振り返る。特に困惑も焦燥も、マイナスの感情は一切無い。ただ、このDA支部の長へと、誉は柔らかな笑顔を傾けるだけだった。

 

「すみません、ミカさん。俺行きます」

「……」

 

 少しの時間、ミカと誉の視線が交錯する。

 普通なら、危険を伴うこの仕事の介入を良しとする人間はいない。ミカ自身、誉に初めて射撃場を案内した際にその手の話は伝えている。巻き込むつもりも巻き込ませもしない。それを止めるのは大人としての、そして何より千束の親としての務めでもある。

 

 けれど、もう既にミカは────誉の事を、この場の誰よりも知ってしまっていた。

『行っても良いですか』ではなく『行きます』と言い放った、誉の在り方と理由を。

 

「……千束の指示はしっかり聞いてくれ」

「っ、先生何でっ……!」

「ありがとうございます」

 

 勿論反対すると思っていたのだろう。

 予想外の発言に、千束は了承したミカに食ってかかりそうになる。それを遮るようにミカに頭を下げた誉は、千束が手放した松下の車椅子の取っ手を捕まえた。

 

「じゃあ行きますか、松下さん。俺が押しますね」

『ああ、すみませんね』

「いえいえ。それよりも観光、期待してて下さいね。錦木前日から張り切ってしおり作ってたんで」

「あ、ちょ……!」

 

 誉はそのまま松下の車椅子を押していき、店から出て車の前へと向かっていく。千束も慌てた様にそれに続き、たきなは千束の人工心臓の件も誉の任務参加もまだ鵜呑みにできておらず混乱で暫く固まっているも、狼狽えながら二人の後を追って行った。

 残されたのは、ミカとミズキとクルミ。ミズキは運転手担当なのですぐに彼らに続くのだが、気になった事をミカへと伝えた。

 

「人工心臓の事、たきな達に言ってなかったの?」

「千束に任せれば良い」

「後でボクにも説明しろ。……で、誉は良いのか?巻き込まれでもしたら……」

「……大人としては失格だろうがな」

 

 そう言って、杖を突いてゆっくりとカウンターに座る。ミズキとクルミが見つめる中、朝に誉が淹れてくれた珈琲のカップを、その瞳を細めて見据えていた。

 

「……彼の、思う様にしてあげたいと思ってしまったんだよ。彼は千束とよく似ている。色々とな」

 

 遠くを眺めるように、優しく告げる。

『似ている』という言葉の意味を、ミズキとクルミは分かりかねていた。

 

「ミカ、誉の事知ってるんだろ。千束とたきなには伝えないのか」

「……ああ、それも朔月くんに任せれば良い」

「千束と誉に任せっきりだな」

 

「……ああ、心底嫌になるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

『すみませんね。年寄りの我儘を聞いてもらって』

「いえ、俺も東京観光に行きたいと思ってたんで、誘ってもらえて嬉しいです」

『おや、そうなんですか。それは良かった。ですが、どうして東京に?』

「理由、ですか?……貴方と同じですよ」

『同じ?』

「死ぬまでに、何処でも良いから旅がしたかったんです」

 

 

 











皆様、毎度感想をありがとうございます。
感想の数だけ、伝わる熱の量だけ励みになります。
息抜きで書いてたはずなのに、モチベーション上がってまた書き進めてしまいます笑
いつもありがとう。。。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.17 Why did you give up?








大切だから、遠くにいて欲しいの。
傷付いて欲しくなくて、巻き込みたくなくて。
それって、我儘なの?



 

 

 

 

 

 

『これは予想外でしたねぇ』

「墨田区周辺は何本も川に囲まれてて、都心を水上バスで色んなところに、渋滞を気にせず移動できるんです!」

 

 ミズキの車を降りて暫く、現在は誉、千束、たきな、松下の四人で船に乗船していた。正確には、東京水辺ラインを跨ぐ水上バスである。乗車と言うべきか乗船と言うべきか、兎も角松下の反応は意外に好感触であった。

 隅田川、荒川、臨海部を運航し、中でも人気の観光地、浅草からお台場を結ぶコースは、毎日定期的に運航している。その他、お台場の夜景を楽しむナイトクルーズ等不定期で運航している便もあるらしい。

 

 浅草の下町の風景を楽しみつつ、手前の橋を潜り抜けるその手前で、旧電波塔が見える位置に水上バスが差し掛かる。十年前に傾いてしまった平和の象徴を前にして、松下がどこか寂しそうに呟いた。

 

『やはり折れてしまってますねぇ……』

「折れてないのを見た事あるんですか?」

『いえ、東京に来るのは初めてで……娘と約束してたんです。“一緒に見上げよう、首が痛くなるまで”って……あの世で土産話ができる』

「まだまだぁ〜!始まったばっかりですよぉ〜?」

 

 松下へと顔を寄せて満面の笑みを見せる千束。

 そろそろ目的地に到達する為、彼の車椅子の取っ手を引っ掴み───その瞬間、誉と彼女の視線が交錯する。

 

「っ────ふんっ」

「あっ……」

 

 千束はすぐに誉から視線を逸らし、到着時すぐ降りれるようにと出口に松下を運んでいく。誉の横を通り過ぎる瞬間に目配せも無く、此方を無視するように彼女は船の中へと戻って行った。

 ────なんとなく、無理して無視してる様な雰囲気を出しながら。されど、誉がそれに気付くわけもなく。

 

「……はあ」

「千束、分かりやすく態度に出ますね」

「あんな露骨に怒ってんの初めてかも……」

 

 意外そうな顔で千束の後ろ姿を見つめるたきなを隣りに、誉は小さく溜め息を吐いた。

 松下の頼みをただの善意で了承しはしたが、本音を言えば東京観光に千束やたきなと一緒に行けるという誘惑に負けてしまったとも言える。先日は千束の私情や私欲で行きたい所を決めてるのではと邪推もしたが、彼女は純粋に松下に楽しんでもらえるものを企画していたに過ぎない。

 松下に頼まれたあの時、私欲でこの仕事に同行したのは他でもない誉自身だった。

 

「錦木がこういう仕事に俺を関わらせるの、嫌がってたの知ってたんだけどさ……」

「依頼主に頼まれての事ですし、今回は仕方無かったと思いますけど……」

「……さっき謝ったんだけどな……」

 

 それすら返事をくれなかったけれど。

 何だかんだ言って最終的に『仕方ないな』と笑ってくれるものだとばかり思っていたから、本当に申し訳ないと思った。松下にお願いされて来てはいるけれど、それを言い訳にしたくなくて、あの後すぐに千束に謝罪した。

 彼女が自分自身を危険から遠ざけようとしてくれているのを、誉自身なんとなく気が付いていたから。

 けれど、取り付く島もない。あそこまで露骨に無視されるとは思ってなかった。

 

「俺的には、たきなも反対すると思ってたけど」

「あの時は色々な情報で混乱していたというか……」

「……ああ、錦木の人工心臓か」

 

 何の脈絡も伏線も無く、突如として突き付けられた千束の人工心臓。黙っていたのは隠したかったからか、聞かれなかったからかは分からない。問いただせば教えてくれたりするのだろうか。

 サラリと告げた誉のあっけらかんとした態度を見て、たきなは思わず視線が傾いた。

 

「気にならないんですか?」

「いや別にそんな事もないけど……錦木も今まで黙ってたんだし、隠してたのかなって」

「でも、依頼主には話してましたよ」

「あの時はああ言うしかなかったってだけでしょ。あの感じだと別に隠してたわけでもなさそうだけど」

 

 誉は手摺に寄りかかって、旧電波塔を見上げる。

 人工心臓────今のテクノロジーで、DAでの危険な任務やそれに伴う運動量を耐え切れる程のものが作れるとは、と思わなかったわけでもない。誉が箱庭(・・)にいたからといって、外の科学の進歩の全てに疎いわけではない。

 千束の普段からの行動力や運動量を垣間見ているからこそ、人の手ずから生み出されたとする機械仕掛けの心臓の存在に疑問が生じてはいた。

 

「…………まあ、想像はつくけど」

「?何がですか?」

 

 ────ただ、千束が以前水族館の一見から、敢えて露出するように付け始めたフクロウのチャーム。あれを見た時から、誉はなんとなく察しが付いていた。その仮説を、たきなに説明する。

 

 アラン機関────およそ百年前から存在するとされている謎の支援機関。スポーツ・文学・芸能・科学などのありとあらゆる分野の天才を探し出し、無償の支援を行っている。

 その支援にて、まだ世に出回っていない先進技術による支援が行われることもある、と聞いた事があった。

 支援者は支援した人物に接触してはならないという規則が存在しているらしく、その為支援された者(アラン・チルドレン)は、自分がどんな才能を見込まれたのか知ることはない。故に、その支援の意味を模索しなければならない。

 

「使命、ですか?」

「……調べれば、すぐに出てくるんだけどさ」

 

 彼女の心臓は、恐らくアランによるもの。

 つまるところ千束は、自身の命と引き換えに世界への使命を与えられたということ。どういう経緯で人工心臓になったのかは知らないが、彼女はアランによって生かされており、そうするだけの価値があるという事だ。

 それも、人工心臓なんてオーバーテクノロジーに見合うだけのもの、それ相応の価値が。

 

 きっと、今いるリコリスとしての立ち位置も、彼女自身の在り方も、それに関わるものなのかもしれない。誉が憧れたあの生き方は元来のものでなく、その“使命”によって形成されたものなのかもしれない。

 

(……人工の、心臓)

 

 嫌な予感がしないでもないけれど。

 彼女があれほど毎日笑顔で過ごしているのを見るに、あまり心配するものでもないのかもしれない。杞憂で終われば良いと切に思う。

 彼女と出会ったのは、本当に偶然。けれど、今にして思えばそれは必然だったのではないかと、そう思う時がある。

 それは、運命にも似た、歪な因果で。出会うべきではなくて、けど出会うべくして出会ってしまったような。

 そんな気がした。

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 

 

 ────井ノ上たきなは、その光景を離れた場所で眺めていた。

 

 場所は変わって、浅草の浅草寺。《雷門》と書かれた巨大な提灯が観光客を出迎えるかの如く、そこへ続く道も人と喧騒で溢れ返っており、気を抜けば固まって歩いている自分達も逸れてしまいそうだった。

 巨大な門を見上げながら、千束が浅草寺に纏わる知識を松下へと披露するのを、たきなは耳にする。

 

「正式名称は『風雷神門』。創建年数は西暦942年!左に雷神、右には風神、浅草寺を災害や争いから守ってくれる神様……あ、ガードマンですね!私とたきなと同じ!私達は松下さん専属〜♪」

『可愛い神様ですねぇ』

 

 松下からのそれを聞いて嬉しそうに笑う千束。何よりたきなが驚いたのは、彼女の持つ豊富な知識。恐らく事前に予習していたのだろうが、隣りにいた誉は目を丸くしながら彼女に話し掛けていた。

 

「……凄い。錦木、よく知ってるね」

「っ……べ、つに、良いガイドする為に覚えただけっ」

 

 誉に褒められて一瞬だけ嬉しそうに表情を赤らめ───すぐに我に返ってそっぽを向いてしまう千束。先程から誉限定でご機嫌ナナメなのは相変わらずである。

 それに誉も多少なりとも落ち込みながら、自身の肉眼で初めて目の当たりにする浅草寺を見て、その瞳を輝かせていた。

 

 雷門は然る事乍ら、千束が松下に説明していた風神と雷神の仏像の荘厳たるや。たきなもこの場所に人並み以上の知識がある訳では無い。テレビ番組などで何度か取り上げられていたのを見ているくらいだ。

 けれど、隣りに立つ誉の感激振りはやはり異常というかなんというか。

 

「……凄い」

「……誉さんって東京在住ですよね。一度も来た事無かったんですか?」

「うん、初めて!」

「っ……」

 

 いつかの水族館で見た既視感。誉のこのはしゃぐ姿は水族館から数えて二度目だが、やはりいつものギャップが大きくて慣れない。直視できないほどの眩しさに、たきなの心臓は不意に跳ね、思わず彼の輝く瞳から目線を逸らした。

 しかし本当に楽しそうに観光する人だな、と不意に思った。やはり彼の年齢にもなって、一度も水族館や東京に赴いた事が無いというのは違和感である。学校に行っていなかったと以前聞いた事があったが、それが関係しているのだろうかと気になってしまう。

 それに、千束の人工心臓の件だってまだ咀嚼し切れている訳ではないのだ、自分の中で色々な思考が脳内を駆け巡る。千束といい誉といい、どうしてこう自分の心を掻き乱すのだろうか。

 

「……っ、あれ」

 

 ふと我に返って辺りを見渡すと、大勢の人混みに囲まれていた。どの方向を見ても観光客で溢れ返っており、身動きが取れずに立ち尽くす。

 そうして、先程まで行動を共にしていた千束達が人混みに紛れて視認すら難しくなっていた。端的にいえば、たきなは彼らを見失っていた。

 

 ────まずい、はぐれてしまった。

 

 この歳で迷子────いや、それよりも任務中に無関係な事を考えて護衛対象を見失った事実に困惑と、混乱が生じた。今までそこまで思考を鈍らせた事がなかっただけに焦燥が走る。

 

 慌てて辺りを見渡し、首を回し、額に汗を滲ませながら、恐らく前へ進んだのだろうと推測しながら前へと歩み始める。人混みがまるで立ちはだかる壁のように固く、中々前に進まない。これならそんなに離れていないだろうと自分に言い聞かせながら、自分の体を人の束に押し込んでいく。

 その中ですれ違う、日本人だけでなく観光に来ているのであろう異国の人間達。まるで日本ではないような、知らない世界にいるようだ。それを知って、ふと自身の心に恐怖や不安に近い様な心細さがあるのを感じた。

 

 前まではそんな事なかったのにと、何度目か分からない思考を繰り返す。

 知らない土地、知らない言葉、知らない人達の中に、まるで一人だけ取り残された様な、そんな寂しさ。

 

「あっ……」

 

 前の人集りに弾かれ、体が自然と仰け反る。

 そのままよろめき、倒れそうになったその瞬間───腕を掴まれ、引き寄せられた。温かく、それでいて優しい腕に。

 その先にいるであろう存在を見上げて、思わず目を見開く。

 

「たきな、大丈夫?」

「っ……誉、さん?」

 

 目の前にあったのは、誉の顔。人混みの中視線が交わる。

 こちらを心配して探してくれたのか、その表情は焦りから、見つけた事への安堵へと変わっていくのが、他者の感情に疎いたきなでさえ分かった。

 また、心臓が高鳴る。よく分からない感情の波が押し寄せて、堪らず視線を逸らした。

 

「す、すみません……私、ボーッとしてて……」

「大丈夫だよ。すぐに気付けて良かった」

「護衛対象を見失うなんて……リコリス失格ですね」

「大丈夫、錦木と松下さんなら近くで待っててもらってるから」

 

 柔らかな笑みで教えてくれる彼の表情を見て、瞳が揺れ動いた。思わずドキリとしてしまう様な、優しい笑顔。

 誉は変わらずたきなの腕を掴んでしまっている事に気が付いて、申し訳なさそうに手を離す。『強く握り過ぎてゴメン』と、お門違いな謝罪までして。

 

「っ……たきな?」

「合流するまでこれでお願いします」

 

 たきなは、誉の服の裾を摘んだ。

 離さぬように、はぐれないようにと。

 また迷子になってしまったらと思うと、不安だった。先程一人になってしまったからだろうか。知らない世界に置き去りになったような感覚を、今まで知らない感情を覚えてしまったからだろうか。

 今まで感じなかったものを感じるようになったのは、千束と誉のせいかもしれない。

 

「そんな顔しなくても大丈夫だよ」

「え……?」

 

 透き通る様な声音を耳に、俯いた顔が上がる。

 変わらず微笑む彼の姿がたきなの眼に映り、裾を摘む力がやや強くなる。

 

「またたきなが迷子になっても、この人混みにまた紛れても、きっと見つける。絶対、一人にしないから」

「────……っ」

 

 そんな、気障っぽい台詞……と、思わなかった訳では無い。

 けれど、そんな格好付けた言葉だって、容姿の整った彼が放てば破壊力も凄まじく。

 

「……なんですか、それ。まるで私が迷子になってて寂しかったみたいな言い方じゃないですか」

「あれ違った?焦った顔でキョロキョロしてるからそうなのかと」

「心外です。なんなら私が誉さんを置いてって迷子にさせても良いんですよ」

「ヤバい事言い出したんだけど。やめて置いてかないで」

「早く進んでください。二人を待たせてます」

「ああ、うん君がね?」

 

 こちらに押されるような形で前進し始めた彼の裾を摘んで、彼に引かれて人混みを掻き分ける。

 それほど変わらない身長差だけれど、少し見上げた先でチラリと何度もこちらを心配して振り返ってくれる彼の瞳が、何度もたきなの心臓を波打たせる。初めての感情に戸惑いを禁じ得ない。

 

 ……寂しそうに、見えたのだとしたら。

 きっと、千束と誉に関わってしまったからだと思った。一人でも平気で、一人で何でもこなせる様にと、思っていた。それが先の銃取引現場での独断専行に繋がった。周りを省みない行為だったと、今では多少なりとも反省している。

 こんなにも特定の誰かと関わった経験などたきなには無くて。だから、こんな感情が芽生えてしまっていたのだろうか。

 

 ───“ またたきなが迷子になっても、この人混みにまた紛れても、きっと見つける。絶対、一人にしないから”

 

 きっと、あの言葉はただの例え話で。

 彼が気休めに放っただけの、なんて事ない言葉なのかもしれないけれど。

 

「────……ありがとう、ございます」

「……?何か言った?」

「いいえ、早く進んで下さい」

「この人混みだぞ、無茶言うな」

 

 何故こんなにも、嬉しくて、堪らなくなるのだろうか。

 どうして彼なら本当に、見つけてくれるかもと思うのだろうか。

 

 世界中何処にいても、どんな大勢の中からも、何をしていようとも、たった一人自分だけを。

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 

 

『……あれが“延空木”ですね』

「十一月には完成らしいです!」

『知り合いが設計に関わってるんです』

「ええっ!?凄っ!」

『そう、彼は未来に凄いものを残してる』

 

 再び水上バスで沖を走っていると、建設中の電波塔“延空木”が視界に入る。新しく平和の象徴となるあの塔は、遠目から見ると空へと打ち上がるロケットの様だ。完成したらいつか行ってみたいなと、誉はずっと思っていた。十一月に完成するなら、行けるかもしれない。

 松下も、機械音声とは思えない程に憂いた声音で、何かを懐かしむ様に語る。何処か寂しそうに聞こえたその横顔を見て、身を乗り出していた千束は嬉々として笑いかけた。

 

「じゃあ完成したら見に来て下さいね!またご案内しますよ!」

『……ええ、またお願いします。君は素晴らしいガイドだからね』

 

 車椅子を千束へと向けて、そう告げる松下。

 千束は、そんな彼の言葉を受け止め、小さく微笑んでいて、誉にはそれが心底嬉しそうに見えた。

 

『今日は暑いですね。少し中で休ませて貰います』

「じゃあ到着前に迎えに行きますね」

『ああ、ありがとう』

 

 誉にそう感謝を述べて、自動販売機で飲み物を購入するたきなの背を通り過ぎると、松下はそのまま船内へと消えて行った。

 それを確認し追えると、千束は自動販売機隣りの長い腰掛けに座り込む。飲み物を買い終えたたきなが、彼女に向けて缶ジュースを差し出した。

 

「どうぞ」

「ありがとぉ〜!」

「誉さんも」

「あ、俺も?ありがとう。幾らだった?」

「良いですよ、さっき見つけてくれたお礼に奢ります」

「歳下の女の子に奢られる絵面……」

「別に良いでしょ」

 

 そんなに高くないですよ、と軽く微笑んでから千束の横に腰掛けるたきな。同時に、缶ジュースを開けてすぐに喉を潤す千束を見ながら、誉もたきなの横に座った。

 

「喜んで貰えてるみたいですね」

「にひっ、私、良いガイドだって!才能あるかもぉ♪」

「依頼者の警護が優先ですよ?」

「……そうだね。そうだった」

 

 忘れてた、と言わんばかりに息を吐いて天井を見上げる。日本に来たばかりで襲われるとも考えにくい、と千束は言っていたしその通りだとは思うけれど、こうして遊んでいるとそんな予感を杞憂で終わるのではないかとさえ思う。そうあってくれればどれほど良いか。

 

「……そういえば、仕事だったんだよな、これ」

「そう、観光気分で付いてきて良いもんじゃないのよ、本当は」

「……ウキウキでしおりまで作ってた癖に」

「何か言った?」

 

 千束の鋭い視線が刺さる。

 彼女の、その自分に対する変わらない態度。一緒に付いてきた事に対して怒っているのだろうが、誉としてはここまで心配してくれる彼女に嬉しさもあり、申し訳なさも感じていた。

 

「錦木、まだ怒ってる?」

「なに、言わなきゃ分かんない?」

「いや、分かるけど……それに、謝ったけど……ぶっちゃけ、今はそんなに悪い事したとは思ってない」

「なっ……」

 

 千束は身を乗り出して上体を傾けて、此方を見上げる様に見つめる。彼女の声音は一瞬ではあるが本気の憤りを孕んでいるように誉もたきなも聞こえた。

 それでも、誉にとっては関係が無かった。

 

「松下さんに頼まれたってのもあるしね。頼ってもらえるのは素直に嬉しいし」

「で、でも、巻き込まれるかもって普通思わないの?松下さん命狙われてるんだよ?」

「いやそんなの、錦木もたきなも同じでしょ」

「同じじゃない!私らはリコリスで、朔月くんは一般人!私らは戦えるけど朔月くんは違うでしょ!」

「や、そうだけど……敵が公共の面前で松下さんを狙うのは考えにくいし、錦木達だって周りに人がいる状態で拳銃は使いにくいでしょ、機密組織なんだし。なら、狙われた時の危険度も対応時に取れる行動も制限されるんだし、俺とあんま大差無いでしょ」

「それ、は……そうだけど……」

 

 言い負かされてしおらしくなる千束。どうにも納得いかないらしく、俯いて唸っている。確かに千束とたきなと危険度は同じというだけで、安全の保障なんてどこにもない。ただの詭弁、屁理屈だった。

 

「……危なくなったらすぐに逃げるよ。ミズキさんやクルミみたいに、戦えなくても別の手伝いはできると思うし、サポート要員くらいに考えてよ」

「……でも怪我でもさせたら、朔月くんの夢の邪魔になっちゃう……」

 

 ────“夢”……?

 脈絡無く放たれたその言葉に一瞬だけ固まる。

 

「……ゆ、夢?え、急になに、何の話……?」

「弁護士とかお医者さんとか、警察とか……色々と目指してるって……」

「え……あ、いや……てか何でそれ知って……」

 

 突拍子もない彼女の発言に、ただただ誉は困惑する。

 彼女に話した事は一度も無かったはず。思わず隣りに座るたきなへと視線を移すと、バツが悪そうに此方を見ていた。

 どうやら、たきなが話した様だ。別に隠してるわけではないのでそれは一向に構わないのだが。なるほど、自分に怪我があって、その結果なりたいものを目指す事が困難になってしまったら、というのを千束は危惧しているわけか。

 

「……そういう事なら、尚更心配ないよ」

「え?」

 

「────もう、目指すの止めたから」

 

 千束はまた、困惑した目で此方を見ていた。

 彼女の発言からするに、たきなからは聞いていないのだろうか。それらを目指していたのは過去、あくまで昔の話で、今は何とも思っていないし、そこに辿り着く為の努力もしていない。

 千束は初耳だと言わんばかりに驚いて、目を見開いていた。

 

「え……あ、諦めたって事?どうして?」

「うん。俺には無理だなって」

「そ、そんな事ないよ!朔月くん頭良いし、何にでもなれるよ!」

「っ……」

 

 ────“貴方は、何にでもなれる”

 

 まるで、古傷を抉るように。深海になんとなく沈めて置いたその言葉が一気に浮上してくる。別に嫌な言葉でもなんでもないし、トラウマとかでもないけれど、何故か千束の言葉が自分の過去と重なった。

 

「……勉強が嫌になったの?」

「え?いや、知らない事を覚えるのは好きだったし」

「じゃあ、他になりたいものができたとか?」

「ううん、別に何も。将来の事は今考えてないよ」

「……なら、何でよ」

「何でって、別に……てか、珍しいね。そんなに聞いてくるの」

「だ、だって……」

 

 実際、普段の彼女は他人の事をここまで詮索したり、突っ込んだ話をしてくる事は少ない。此方の都合を考えない破天荒振りが千束の味だけど、こう見えて彼女は気を遣う方で、彼女なりに一線を引いて接してくれているのは普段の生活から見て取れていたから。

 だから、少なからず彼女の踏み込んだ質問には驚いてしまうし、同時に────少しだけ、困ってしまう。

 

「……そもそも昔の話だよそれ。今は、目の前の事を全力で楽しむ、そんだけ」

「え、で、でも……」

「“やりたい事最優先”、でしょ?俺も錦木と一緒だよ」

「っ……」

「あ、そろそろ到着するし、松下さん呼んでくる」

 

 話は終わりだと態度で伝える様に、勢い良く立ち上がった。まだ開けてない缶ジュースを上着のポケットに仕舞い、そのまま二人に背を向けて船内へと歩き出す。

 

「……はぁ」

 

 千束の表情を思い出して、小さく息を吐く。何故諦めたのかなんて聞くものだから、思わず逃げる様に切り上げてしまった。

 ────聞かれないから答えないだけ、と以前クルミに言ったのを思い出して、情けないと我に返る。ああ、そうだ白状しよう。千束に伝える事にビビっているのだと、認めざるを得ない。

 自分が話せないのに、千束の人工心臓の事なんて、聞けるはずがなかった。自分は一体、何を恐れているんだろうか。

 

「松下さん、お待たせしました。そろそろ到着しますよ」

『……ああ、君か。ありがとう』

 

 船内へと続く扉を開けてすぐに、車椅子の男性を見つけて駆け寄る。車椅子を此方に向けた松下の、そのゴーグルと視線が交わった様な気がした。変わらず人工呼吸器の音が耳に吸い付く様で、少し緊張してしまう。

 彼の後ろに回って、車椅子の取っ手に両手を乗せると、前から松下の音声が響く。

 

『次はどちらに向かうんですか?』

「それはお楽しみですね。錦木のガイド、楽しみにして下さい」

『……そうですね。それが良い。ところで……君と千束はこの観光中まともに会話していない様ですが、喧嘩でもしてるんですか?』

「え……あー……いや……喧嘩とかでは……うーん、言語化が難しいな」

 

 意外と見ているな、と思わず言葉に詰まった。

 喧嘩、というかなんというか。千束が任務に同行した命知らずの自分に怒っていたのは事実だが、別に喧嘩というのとは少し違うような。

 

「……俺、錦木やたきなみたいに戦える訳じゃないんです。だから、松下さんのお願いに二つ返事で了承した俺をよく思ってなかったみたいで。今さっきもその話になって、結構心配させてるみたいです」

『……なるほど。君は千束に随分好かれているんですね』

「っ……そ、そんなんじゃないですよ。危ない仕事だから、巻き込まれに行った俺を怒ってるだけで」

 

 笑って誤魔化すも、松下のその発言に少しだけ頬が熱くなった気がした。

 ただ、あんなに怒って心配してくれるのだ、不謹慎ではあるが少し嬉しかった。千束に必要とされている気がして、大切に扱われている気がして、どうにもこそばゆかったけれど。

 

『では君は、千束の事をどう思ってるんですか?』

「どう、って……松下さん、恋バナなんてまだまだ若いじゃないですか」

『いえ、ただの年寄りの邪推ですよ。お店では仲睦まじく見えたものですから。気を悪くさせていたらすみません』

「全然。……錦木は、煩くて我儘で遅刻魔で人を振り回して、挙句人が買ってきたお菓子を勝手につまむような女王様みたいな奴で」

『酷い言われようですね』

「確かに」

 

 松下の声音がほんの少しだけ笑っているように聞こえて、つられて誉も笑ってしまう。確かに今の部分だけ聞くと酷い言われようである。まあ、事実なのだが。

 けれど、そこが良いと思ってしまうし、そこが彼女の味だと理解していて、それが良いのだと今は思っている。もっと振り回して欲しいとさえ。

 

「でも、誰かの為に何かをしてあげられる奴で……俺の憧れです」

『……憧れ、ですか』

「ええ、ヒーローみたいでしょ?そんな部分を、好ましくは思ってますね」

 

 押していた車椅子を止める。松下に伝えながら、脳裏で彼女と出会った時からの記憶が思い起こされていく。

 そう、初めて出会った時から今日に至るまで、錦木千束という少女の事をつぶさに見てきた。仕事には何度も遅刻してくる割に悪びれもせず大声で入ってくるのは普通に煩いと思うし、やりたい事最優先過ぎて、反対にやりたくない事をやらなかったりする部分は改善しろと言いたくなるし、他人の事を思えるくらいに自己中心的な部分は勘弁しろと思う時もあるけれど。

 

 そんな彼女の、やりたい事をやり切った時の笑顔が好きで。

 誰かの為に在ろうとする生き方や、誰かから必要とされているその姿を見て、誉は憧れずにいられないのだ。

 だから、これは素直な気持ち。嘘偽りない自分の言葉だ。

 

『……そうですか。なんだか甘酸っぱいですねぇ』

「よしてくださいよ」

 

 なんだか、凄く気恥ずかしい。

 松下が聞き上手だからだろうか、あっさりと気持ちを吐露してしまう。流石に大人だ、余裕があるなぁとしみじみ思いながら微笑んでいると、とんでもない事を言ってきた。

 

『お付き合いは考えてるのですか?』

「………………え、ビックリした、なんですかその質問」

『千束と君はとても似ている。お似合いだと思いますよ』

「え、そんな話でしたっけ」

『妻と出会った時の事を思い出してしまって』

「やだ、急に俗っぽい……」

 

 ノリが完全に同年代のそれである。千束も確かこういう話が好きだった様な、とふと思い出した。

 松下、余命宣告されたとは思えない程に会話のフットワークが軽過ぎる件。ただ誉としては、ぶっちゃけこういった話には如何せん疎く、反応に困ってしまう。

 

 ────……いや、というよりもだ。

 

「……特にそういったのは考えた事なかったですね」

『それは勿体無い。誰かを好きになるのはとても良い事ですよ』

「それはそうなんでしょうけど……俺には難しいです」

『……それは、何故?』

 

 何故、と聞かれれば答えに困ってしまう。理由はとても単純で、言葉にすればあっさりとしてしまうけれど。今日会ったばかりの松下に伝えるのはなんとなく憚られた。

 クルミには知られており、DAの特性上ミカやミズキ辺りは知っているだろうが、千束とたきなには何一つ伝えられていないからだ。

 

「……松下さんなら、分かると思います」

『……私、なら?』

「はい。勝手にそう思ってるだけですけど」

 

 けれど、今日限りの関係だからこそ伝えられる様な気がした。先程、千束やたきなに夢を諦めた理由を問われそうになったのを誤魔化し騙し隠しながら逃げて来た罪悪感もあって、その贖罪や懺悔という意味も含まれていたのかもしれない。

 目の前の松下になら、伝えても良いような、共有しても良い様な、分かち合えるような────そんな気がしたから。

 

 誉は、普段と変わらない笑みを松下に向けて告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺も、病気で余命宣告を受けてるんです。実はそんなに長くないんですよ」

 

 

 

 

 








 
たきな「千束、大丈夫ですか?」

千束「あー、うん……大丈夫。……あはは、ちょっと踏み込み過ぎたかなぁ……嫌われてたらどうしよ」

たきな「……あれくらいの事で誉さん嫌いになったりしませんよ」

千束「……そうかな……そうだよね」

たきな「私も、気になってたんですよ。誉さんの事」

千束「え?」
 
たきな「普通の人の割には怪我の応急処置が上手かったり、学校に行ってなかったり、あの年齢で水族館や東京の観光にすら行った事がないなんて……異様です」

千束「異様、か……ふふっ、言うじゃんか」

たきな「千束は気にならないんです?」

千束「いや、そんな事はなかったけど……朔月くんは言わないし、隠してるのかもって思ったら聞けなかった」

たきな「……誉さんと同じ事言いますね」

千束 「朔月くんも?」

たきな 「今朝の心臓の話ですよ。誉さんも気になってるみたいでしたけど、千束が話さないから隠してたんじゃないかって」

千束 「……相変わらず優しいなぁ」

たきな 「本当なんです?」

千束 「あーうん、本当だよ?鼓動聞こえなくて最初ビックリした」

たきな 「触って良いですか?」

千束 「直球だなぁ!公共の面前でそんな事言うな!」

たきな 「……誉さんも、面と向かってちゃんと聞けば、答えてくれるかもですよ」

千束 「……そうだよね。知りたい事、沢山あるし。今日終わったら、色々聞いてみよっか、二人で!」

たきな 「っ……ええ、二人で、ですね」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.18 Find me wherever I go.







たとえ、君が世界の悪意に埋もれていても。




 

 

 

 

 

「千束、大丈夫ですか?」

「あー、うん……大丈夫」

 

 誉が松下を迎えに船内へと消えてすぐに、千束は盛大に息を吐き出した。そこから盛れる呼吸音の中には、微弱ながら後悔や落胆による悲哀が込められている気がして、思わずたきなは声をかける。

 千束は大丈夫だと言いながらも、無理して笑っているように見えて、尚更心が痛かった。

 

「……あはは、ちょっと踏み込み過ぎたかなぁ……嫌われてたらどうしよ」

「……あれくらいの事で、誉さんは人を嫌いになったりしませんよ」

「んー……だと良いけど」

 

 千束は誤魔化す様に手元の缶ジュースを一気に飲み干す。それ一応炭酸飲料なのだが……と細い目で見つめながらも、変わらず儚げに微笑む千束を見て、たきなも思っていた事をポツリと呟いた。

 

「……千束。誉さんの過去とか、身の上の話を聞こうとするのって初めてじゃないですか?」

「……そう、かな?」

「はい。……私も気になってたんですよ。誉さんの事」

「え?」

 

 千束がチラリとたきなを見やる。

 たきなも同様に千束へと視線を送り、手元の缶ジュースを持つ指先に力を込めながら、抱き続けてきた疑問を吐露する。

 

「普通の人の割には怪我の応急処置が上手かったり、学校に行ってなかったり、あの年齢で水族館や東京の観光にすら行った事がないなんて……はっきり言って異様です」

「異様、か……ふふっ、言うじゃんか」

「千束は気にならないんです?」

 

 当然の質問。千束が誉を好意的に見ている事を、たきなは既に知っている。そんな相手なら、色々知りたいと思うのではないかと、なんとなく思っていた。

 案の定千束は『あー……』と図星と言わんばかりの分かりやすい反応を見せるも、すぐに俯いて小さく笑った。

 

「いや、そんな事ないよ?すっごい気になる。……でも朔月くんは言わないし、隠してるのかもって思ったら……なんか、聞けなかった」

「……誉さんと同じ事言いますね」

「へ?どゆこと?」

 

 同じ事、の意味を掴みかねていると、たきなが優しく瞳を細めながら軽く微笑んで、観光を始めた時に誉が呟いていた事を伝える。

 

「今朝の、千束の心臓の話ですよ。誉さんも気になってるみたいでしたけど、千束が話さないから隠してたんじゃないかって」

「あー、そうなんだ……相変わらず優しいなぁ、ったくもぅ……」

 

 頬を赤らめて、それをたきなに見られたくなかったのか慌てて目を逸らし下を向く千束。微かに緩んだ口元が、嬉しさなのか気恥ずかしさなのかは分からないけれど、恋慕の感情が隠し切れずに漏れて現れたものなのだと、流石のたきなも理解していた。

 なんとなく胸にチクリと刺すような何かを感じながら、たきなは朝から気になっていたものの咀嚼にかかる。

 

「それで……今朝の話、本当の話なんですか」

「ああ、胸の事?本当だよ?鼓動無くてビックリしたけど、凄いのよぉ〜これ!」

 

 千束はなんて事無い風に話しながら、自身の胸元を指先で突く。恐らくその奥で、現代の技術とは思えない様な高度なテクノロジーを結晶たる人工心臓が、千束の命を支えてくれている。

 なんとなく鼓動が無いというのが気になって、たきなは思わず左腕を千束の胸元へと伸ばす。すると、それに気付いた千束が頬を赤らめて胸元を両手で隠した。

 

「っ、うぇ、ちょいちょいちょいちょいちょぉい!」

「確かめようと思って……」

「良いけど、公衆の面前で乳を触るな!」

 

 そりゃそうだ。当然の意見だった。

 たきなも思わず辺りを見渡すと、水上バスは人で賑わっており、ああそういえば任務中であったと軽く仕事を忘れかけていた事に気付いた。反省である。

 たきなはふと、千束を見つめた。視線に気付いた千束は変わらず優しげに笑みを浮かべて此方を見る。

 

「……」

「……ん?なぁに、そんな見て」

 

 彼女の話を、聞いてみて思った。

 人工心臓の件を軽く話す彼女を見て、そんなに重い話ではなかったのかもしれないと、たきなはそう思った。聞けば教えてくれるという事は、取り立てて隠す様な事では無かったという事。

 もしかしたら誉も、此方が身構えて聞けずにいただけで、面と向かって聞けば教えてくれたのかもしれない。

 

「……いえ。誉さんに話してあげたら、誉さんも話してくれるんじゃないですか?別に隠してるわけじゃないんでしょ?」

「え……あー……うん……」

 

 途端に歯切れ悪く困った様に笑う彼女の横顔を、たきなは訝しげに見つめる。手元の缶を指先でへこませながら、千束はポツリポツリと秘めていたものを零し始めた。

 

「……隠してるとかじゃないけど、朔月くんにだけはなんとなく言いづらかったかな。そういうのもあって、朔月くんの事、知りたいけど聞けずにいた」

「……千束」

 

 千束は自分が話さないのに、誉の話を聞こうとするのを自分勝手に感じたのかもしれない。

 彼女のこんな不安気な想いの吐露を、たきなは聞いた事がなかった。いつだってたきなにとって千束は、自分の常識を壊し、知らない世界を見せてくれる存在で、“やりたい事最優先”の彼女には、凡そたきなや他の人が抱える様な悩みには無縁の様な印象があったからだ。

 ただ、朔月誉という存在の前では、千束もただの女の子で。DA最強のリコリスの肩書きなんて、まるでないみたいで。

 

「私、さ。最初は誰かの為に一生懸命になれる、頑張れる朔月くんを好きになった。だから、“夢”の話をたきなに聞いた時……なんか、凄く嬉しかった……」

「……人を、助ける仕事」

 

 医者に弁護士に警察に科学者、と彼は言っていたけれど。それはあくまで例えの一部に過ぎなくて、探せば誰かを助ける仕事なんて幾らでもある。人の役に立つという意味でいえば、この世に人の役に立たない仕事なんてないのかもしれないけれど、誉の言っていた職業は“人を助ける”という意味に置いてとても分かりやすかった。

 誰かの為に頑張る誉が、誰かの為になる将来を夢見ていた事が、彼を好きになった千束にはとても嬉しい事だったのだろう。自身の抱いた憧れが、まやかしではなかったのだと、間違いではなかったんだと知る事ができたから。

 

「でもあんなにあっさり『止めた』なんて言うから、ちょっとムキになったのかも。あー、らしくないっ」

「確かにらしくないですね」

「……?」

 

 たきなは上体を傾けながら、元気の無い千束の顔を覗き込みつつ、挑戦的な笑みで瞳を細めて言ってやる。彼女のモットー、信条、座右の銘を改めて。

 

「“したい事、最優先”……なんでしょ?」

「……んもぅなんだよぉ、たきなそれ気に入ったの〜?」

「私もお店に滞在してる間は、そうしてみようと思っただけです。だから、それを教えてくれた千束にそれを曲げられたら困ります」

 

 たきなは立ち上がり、水上バスから見える眺めを一瞥する。つられて千束もたきなの視線を追いかけてその景色へと顔を向けると、間も無く目的地に到着するであろう事がその光景から見て取れた。

 そろそろ移動の準備をしなければならない。千束はふと、たきなへと視線を戻す。たきなも千束を見ていて、その瞳を細めた。

 

「私も、聞いてみたいと思ってたんです。誉さんや、千束の昔の話。仕事が終わったら、色々話しませんか」

「……良いね。じゃあ、たきなの話も聞かせてね〜?」

「流れで誉さんも話してくれるかもしれないですね」

「おっしゃー!二人で問い詰めてやろー!」

「っ……ええ、二人で、ですね」

 

 ────“二人で”

 それを耳にした途端、たきなの心臓が高鳴り、言葉にできない高揚感が芽生えた気がした。

『相棒』だと何度も千束に呼ばれていたはずなのに、何故か今日のが一番嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 観光案内も後半へと突入し、しおりに書かれた目的地を目指す千束、たきな、誉、松下をモニタリングしていたクルミだったが、それを遠くから追尾する黒い影を捕捉し、ミカと顔を見合わせた。

 

 真夏にも関わらず全身黒の装束で覆われ、その上から黒コートを羽織り、頭はフルフェイスを被ってバイクで走行している。

 

 任務で使用しているドローンのカメラには高性能のセンサーと、画像解析プログラムを積んである。飛行しながらでもカメラの映像から被写体の隠れている部分でさえ仮想モデルで構築し、クルミの本体PCへと情報を送付される。

 

 受け取った情報をクルミは訝しげに眺めつつ、小さく溜め息を吐いた。

 

「さっきからついて来てる奴───ジン。暗殺者。その静かな仕事振りから“サイレント・ジン”とか呼ばれてる、ベテランの殺し屋だとさ」

「サイレント……!」

「知り合いか?」

 

 何度も言うが、先日の千束の言う通り、日本に来てすぐに暗殺の手が伸びるとは考えにくかった。ただでさえ余命宣告をされているのだ、急がずとも寿命は短いというのに、まるで予定調和の如く暗殺者は現れた。それも、ミカが知っている人間だという。

 

「千束、たきな、聞こえるか?暗殺者だ。それもミカが知ってる奴。共有するからそのまま聞いてくれ」

『『……!』』

 

 インカム越しでも千束とたきなの息を呑むのが分かる。

 クルミは多少のキナ臭さを感じながらも、“サイレント・ジン”の情報を伝えるミカの言葉を耳にしながらディスプレイを見つめていた。

 

「十五年前まで、警備会社で共に裏の仕事を担当していた。私がリコリスの訓練教官にスカウトされる前だ」

「どんな奴?」

「────本物だ。“サイレント”……確かに声を聞いた事が無いな」

 

 本物、その一言だけで空気が張り詰める。

 音もない静かな殺害こそ、暗殺の本懐と言えるからだ。それが異名になるほどの相手が、松下を暗殺しに来たのだと各自が理解した。

 

『三十メートル先に確認。こっちは顔がバレてない。発信機付けに行くよ』

 

 四人を送り届けた後、別行動だったミズキから連絡が入る。ドローンを飛ばしつつ、遠くからジンを車で追跡していた彼女だが、声音がいつもより冷たく、冷静に物事を進めんとするプロの雰囲気を醸し出す。

 クルミが操作するドローンの位置からではジンの姿を目視できず、そのままミズキへと同様の内容を訊ねる。

 

「……上から確認できない。ミズキの方からは?」

『柱の横で止まった……あ』

 

 その瞬間、ミズキの使用していたドローンのモニタがクルミの画面へと共有される。その瞬間、カメラが捉えていたのは此方に────つまりドローンのカメラに向かって銃を突き付けるジンの姿だった。

 それを理解した途端に銃は放たれ、カメラの視界がブラックアウトする。

 

『クソ!バレてる!』

「……マジか」

「ジンはマズイな……」

 

 ミズキは停車していた車のアクセルを踏み抜く。ドローンが無ければ追跡は不可能。予備のドローンを保管してある駐車場へと即座に移動を始める。

 暗殺者の位置の確認が取れなければ、プロ相手に対応は難しい。クルミは作戦の変更を千束達に伝える。

 

「────二人とも、予定変更。避難させて此方から一人打って出るべきだ。予備のドローンとミズキでジンを見付け次第、攻撃に出る方向で行くぞ」

『そっちが美術館出たら車回すよ!』

『……分かった。気を付けて』

 

 クルミとミズキの指示を、二つ返事で了承する千束の声は、真剣そのもの。クルミは予備のドローンの準備に向かうミズキへと再び通信を飛ばす。保管場所はミズキのいた場所からそれほど離れていない。何かあった際すぐ対応できるようにと車の停車位置とは近付けてある。

 だが、ジンが松下を狙っている事を考えると時間との勝負だ。モタついている間に完全にジンを見失い松下を暗殺されればそれまでだ。ドローンの催促をミズキに伝える。

 

「ミズキ急げ、ドローンが無きゃ何もできないぞー」

『はぁ、はぁ……アンタも、現場に来てサポートしなさいよ────うぐっ!?』

 

 突如、通信の向こうでミズキの声が途切れる。鈍い音が響き、ノイズが走った。その異様な音声にクルミは眉を顰めて口を開く。

 

「どうした?」

『────、────!』

「ミズキ、答えろ!」

 

 聞こえない。通信不良か?こんな時に……。

 いや、先程まで感度良好だったはず。突然ここまで音声を拾えないのは違和感だ、と思ったその瞬間だった。

 甲高いひび割れ音が鼓膜を刺激し、ミズキとの通信が完全に途絶えた。間違いない、ジンがミズキに接触したのだ。

 

「っ……予備のドローンは……!?」

「……電源が入ってない────くそっ」

 

 クルミはその場から飛び降り、手元のドローンに電源を入れる。慣れない運動で足が覚束無いが、無理矢理足を行使してそのまま店の客間へと駆け出し、窓からドローンを放り投げた。

 ドローンはそのままプログラミングされた方角へと浮上していく。それを見届けたクルミは踵を返して再びモニタへと走り出す。

 

「チャンネルを変えて二人に連絡だ!」

「分かってる!」

 

 まったく、此方は電脳戦専門だというのに、まさか短距離とはいえ走る事になるとは……とクルミは再びキーボードに指を乗せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

『……ミズキと連絡が途絶えた。ジンが仕掛けてくるぞ』

「っ……」

 

 ミカからの報告で、千束とたきなは気を引き締める。ミズキが無事だと思いたいが、最悪のケースであったとしても今は感傷に浸っている場合ではない。任務はまだ続いており、脅威は健在。ならば千束とたきなにはリコリスとして、何より松下の安全を預かる者としてやるべきことが残っている。

 

「……錦木、どうかした?」

「っ……ううん、何でもない」

 

 誉を巻き込む訳にはいかない。千束は冷静に息を吐き出す。

 クルミから言い渡された様に、松下を避難させて此方から一人迎撃に向かわせなければならない。ミズキが車を持って来れない以上、松下を放って置く訳にはいかない。経験的な意味でも自分が出るべきか否か、千束が思案していた時だった。

 

「────私に任せて下さい」

「ちょ、たきな!」

 

 思考を巡らせている内に、考えを纏めたのかたきなが飛び出す。言うや否や、千束の制止をすり抜けて駆け出して行った。市街地戦を想定してか、サプレッサーまで用意している。

 たきなも言葉にしないだけで、ミズキがやられたことに思う事があったのか、顔付きを変えながら、クルミの指示に従いながら走り出して行く。

 松下も気になったのだろう、疑問が飛ぶのは当然だった。

 

『どうしました?』

「っ、えっと……あ、トイレに行ってくるみたいです〜!」

 

 千束は上擦った声で笑って誤魔化すが、彼女は嘘が苦手である。それでも必死に暗殺者の来訪を悟らせないように出来の悪い嘘を伝えるも、此方を見つめる誉の視線は言わずがもがなである。既に勘づかれており、誉は小さな声で千束に耳打ちする。

 

「……まさか、暗殺者来てるの?」

「……うん。でも大丈夫、心配しないで」

 

 そういって誉を安心させつつ、小さく息を吐いた。

 目の前の彼だけは、決して巻き込まない。巻き込めない。最早松下だけではない、彼も守って一緒に帰るのが千束の中では任務成功の最低条件だ。

 

 だがミズキも心配だ。彼女の専門は情報処理。身体能力等は平凡、ジンと接敵したのなら結果は目に見えている。適材適所というように、ミズキと千束達では戦う土壌がそもそも違う。

 

 たきなが単身でジンを追ったとはいえ、状況の危険度は差程変わらない。相手は凄腕の暗殺者だ。何度も殺しを成功させている実績持ちで、ミカからの情報もあるし、年月を重ねただけの経験値が備わっている。強敵に変わりは無いのだ。

 

 本当なら千束も加勢に行きたいが、松下がいる為それは叶わない。ミズキに松下を預け、二人でジンを仕留めるプランは既に崩壊している。誉に松下を任せるのは論外だ。

 

 今からでも松下を誉に任せて、千束とたきな二人でジンを追い込むプランにシフトしても、成功率は高いかもしれない。

 だが千束が先たきなを追いかけている間にたきなが敗れ、ジンの居場所を千束が見失えば誉と松下が孤立するのは必定。松下には誰か一人リコリスが付くべきなのだ。

 

 先ずは依頼者を安全な場所に避難させるのが先だ。

 今の自分には、たきなとミズキの無事を祈る事、そして誉と松下を守り抜く事しかできないのだから。

 

 

 ▼

 

 

 ────そんな千束を他所に、たきなは一人、携帯を片手に美術館の通路を小走りで移動していた。インカムから伝わるクルミの情報を元に、自身の行動を決定していく。

 携帯に映る人物こそが“サイレント・ジン”。黒髪長髪のやせ細った男で、黒い装束と合わせて死神を彷彿とさせた。それを見て気が引き締まる。

 

 いや、リコリコに来てからは地域の人達に寄り添うボランティア的な仕事が多かっただけにこういった仕事は久しぶりで、少々気持ちがはやっていたのかもしれない。

 

 漸く巡ってきた、DAに戻るチャンス。腕が鈍くならないように毎日の研鑽を怠る事はしなかった。

 千束のように過ごしてるとは決めていても、それは昇進や本部異動の機会を見過ごす事と同義では無い。成果を上げて、DA本部に返り咲くのを諦めたわけではないのだ。

 

『屋内の監視カメラの映像を顔認証にかける。野外は予備のドローンを向かわせたから、十分後には解析を始められる』

「ミズキさんは!」

『五百メートル離れた場所で連絡が途絶えたままだ。美術館の入口はデパートの通路側だから、館内のカメラで確認する。たきなは出口側に向かって目視で見張ってくれ』

「分かりました!」

 

 クルミの指示に従い、美術館の出口通路へと向かうたきな。カバンを抱えながら壁に背を付けて音を立てずに待機していると、インカムから再びクルミの驚く様な声。

 

『ちょっと待て……ミズキがジンに発信機を付けてた!死んでもこっちに情報を残した!』

「……」

 

 酷い言い草だと、たきなは顔を顰めた。ミカが『死んだと決まってはいないだろ』と突っ込んでくれているが、まったくもってその通りである。

 クルミが楽しそうなのがまたなんとも不謹慎な……と思っていると、クルミから次の報告が飛んでくる。

 

『もう美術館に来てる』

「っ……外ですか、中ですか」

 

 早過ぎる。流石はプロ。侮っていた訳では無いが、“サイレント・ジン”の異名通り、此方が混乱している間に静かに仕事を一つ一つこなしていくその冷徹さに、冷や汗が止まらない。

 恐らく近いだろうと決め付け、銃をカバンから取り出してクルミの指示を待────────────────

 

 

『────後ろだ、たきな』

「────っ!?」

 

 

 ────瞬間、たきなが咄嗟に頭を下げたのと同時に銃声が響いた。

 先程まで自分の頭があった位置が銃弾で粉砕し、砂色の煙が舞う。たきなはローリングしながら銃を構え、背後にいた存在向けて躊躇無く引き金を引いた。

 間断無く三発連射、機械のような精密さだと定評のあるその射撃によって、三発全てがジンの右腕に被弾し、その全てが弾かれ火花を散らす。

 

「……っ!」

 

 ジンは舌打ちしつつ銃をこちらに向けながら、たきなと自身の間にある通路へと逃げ込む。たきなの四発目は惜しくも壁を貫き、対象を視界から外してしまう。先の三発で決められていれば────それができなかった要因は既に理解していた。

 

「コートが防弾です!」

『了解、そのまま千束達から引き離せ。……今、扉を出て右に走って行った』

「はい!」

 

 装填数を確認しつつ、クルミに従って駆け出す。

 標的を見失わないように、返り討ちに遭わないように、集中力を研ぎ澄ませていく。万が一距離が離れてもミズキが残してくれた発信機を元にクルミが居場所を教えてくれる。大丈夫、まだ戦えると言い聞かせながら。

 

「……っ!」

 

 ────再び銃声、床が裂け、礫が飛び散る。

 追う者を牽制する一撃に、思わず足が止まるも、構うものかと己を奮い立たせて尚走る。

 ジンは屋外へとその身を乗り出した様で、発信機を頼りにたきなも追い掛ける。外へ繋がる扉を勢い良く開いて、パルクールの様に建物を移動する。階段を数段飛ばしで下りて行き、銃を両手に走る。

 同時に、再びクルミからの通信が入った。

 

『たきな、朗報だ。ミズキが生きてた。今依頼者を迎えに東京駅に向かってるから、それまで持ち堪えてくれ』

「っ……分かりました!」

 

 ────ミズキが生きてる。素直に安心した。

 しかしこれでミズキが松下の護衛に付いてくれれば、千束と合わせて二対一。ジンを追い詰める事ができる。それまで、自分はジンを千束達から引き離すように立ち回りつつ、かつ千束と合流しやすい場所へと誘導できれば。

 

『ジンの動きが止まった。十五メートル先の室外機の裏に居るぞ』

「……!」

 

 その報告と同時に足を緩め、音を立てないよう別の室外機から覗き込む。真夏に全身黒装備という特徴的な身なりの為、室外機の先ではみ出る黒いコートがよく見える。

 様子見か、休憩か、立ち止まっている理由は何でもいい。千束や誉の方へジンが向かう前に、ここで決着を付ける。

 

 たきなは銃を持って、静かに回り込む。クルミにジンの動向を監視してもらいながら、移動してない事を確認し、奴の背後にまで位置取り、気取られる前に角から飛び出して、その拳銃を突き付けた。

 

「なっ……!?」

 

 そこには、ジンの羽織っていたコートだけが取り残されていた。思わず拳銃を下ろす。慌てて近付いて見れば、コートの襟首に光る小さな粒が。恐らくミズキが付けた発信機だろう。

 

 ────まずい、発信機を気取られ、脱ぎ捨てられたのだ。ダミーとしての役割を十二分に果たされ、たきなは完全にジンを見失った。

 

「クルミ!見失いました!コートだけです!」

『……分かった。千束達は東京駅の近くだ。アイツにも情報は伝えとく。たきなも急いでくれ』

「くっ……!」

 

 悔しげに歯軋りしながらも、たきなはその身を翻して駆け出す。目の前だと思っていたのに、逃げられた。ジンが標的である松下の位置を既に知っているなら、千束や誉の居る東京駅へと向かうのが必定。クルミの指示は的確だった。

 

 それに松下は車椅子で、誉は一般人だ。ミズキが二人を迎えに行く前に狙われでもすれば、千束が二人を守り切るのには限界がある。単独行動が完全に裏目に出てしまった。

 

(急げ────!)

 

 ミズキがジンにやられてしまったかもしれないと、そんな報告を聞いただけでも鳥肌が立つほどに恐怖したのだ、千束と誉の訃報を聞いたりなどすれば、どうなってしまうのか────そう考えるだけで心臓が煩い。そんな事させるものかと脳裏が警報が鳴り響く。

 

 失う事に、これ程までに恐怖している。千束と誉の顔ばかりがチラつく。自分が今こうして走っているのは、任務を成功させて少しでも成果にして、DAの本部に戻りたいからだったはずなのに。

 どうして、どうしてこんなにも焦っている。ジンが松下に────千束と誉に近付いているかもしれない事実に恐怖している。

 

(────ぁ)

 

 たきなは視線をそこ(・・)に固定する。

 東京駅の屋根の上。改修工事途中で鉄骨などの骨組みで出来上がった足場の先、巨大な時計の真上で、長髪を風に揺らしながらサプレッサー付きの拳銃を下に向けているジンの姿を視認する。

 その拳銃の先には────千束と、彼女に向き合う車椅子の依頼者、松下の姿。

 

 ────ドクン、と心臓が脈打つ。

 目を見開き、足を懸命に動かしながら、両腕を上げて拳銃を構えて。咄嗟に、叫ぶように、その名を呼ぶ。

 

 

「千束、逃げて────!」

「────っ!?」

 

 

 放つ、ただ一撃を。

 それはジンの拳銃をピンポイントで直撃し、同時に放ったジンの弾丸の軌道を僅かに逸らす。松下の頭蓋を貫くはずだったその弾は、車椅子の取っ手に直撃し、弾かれ火花を散らす。

 たきなは思い切り床を踏み抜き、その体勢を崩す程の勢いでジンの腰付近にその身を直撃させる。そして上体をよろめかせ、床を踏み外したジンと共に、東京駅の屋根から落下していく。

 

「たきなああああぁぁぁぁああ!!」

「……!」

 

 千束の叫び声が遠くなっていく。それでも、彼女を守る事ができた事の安堵の方が大きかった。何枚もの床板を重力によって貫きながら、下へ下へとジンと共に落ちていき────重ねられた工事現場用土嚢袋の山をクッションに、その身一つで激突した。

 

「痛ぅ……っ!?」

 

 痛みで身体が動かせないなどと言ってる場合では無い。咄嗟にその身を起こして駆け出す。

 瞬間、パシュッと空気の抜けるような、サプレッサー付きの発砲音が数発聞こえた。ジンも近くに落下しているのは当然、自身の仕事の邪魔をしたたきなへと標的を変更し、落下時の体勢のままノータイムでたきなの背へと銃弾を放つ。

 

(っ……拳銃が……!)

 

 たきなはコンテナに紛れる様に駆け出し、坂を下ってその身を隠す。両手を振って思い切り駆け出す中で、拳銃を落とした事にはすぐに気が付いた。先程落下した時に一緒に落としたであろう事は理解していた。

 咄嗟の事とはいえ、流石に今のは向こう見ずが過ぎたかもしれない。

 

「くっ……!」

 

 再びサプレッサーによる小さな銃声と、銃弾が鉄筋を跳ねる音が反響し、休む暇無く駆け出した。接敵し、交戦し、そうして現在に至るまでで、たきなは次第にジンに追い詰められている事を実感していた。

 自身の力に自惚れていた訳では無いが、やはり経験の差だけ対応力が段違いに変わってくる。無論、それぞれの能力毎に見ればたきなの方が優れている点もあるだろうが、総合的な強さは異名を持つだけあってジンに軍配が上がる。

 

 歴戦の殺し屋、重ねた年齢の分だけ積み上げてきた技術が備わっているのに対し、たきなはセカンドリコリスとはいえ、十六歳の少女なのだ。乗り越えてきた修羅場の数から見ても、分が悪いと言わざるを得なかった。

 反撃の糸口を探そうにも、位置取りの関係で逃げる事しかできない。そのうえ拳銃が手元に無い。これでは千束が来るまでの時間稼ぎにもならない。

 

 とにかく時間を稼がなければ。ジンの位置取りに合わせて此方も動かなければならない。このまま突っ込んでくるのか、待ち伏せ(アンブッシュ)か、それとも回り込んでくるのか。

 そこまで思考を巡らせた時────たきなの背筋に冷たいものが走った。

 

「────っ!?」

 

 咄嗟に姿勢を低くし、地面を蹴り飛ばす。

 コンテナや鉄骨をすり抜けるように駆け、そこから急いで距離を取る。地面や鉄骨、コンテナへと銃弾が弾かれる音がして、火花が頬を掠める。

 

 予感がある、すぐ背後でジンが銃を構えているのを肌で感じ取る。しかし振り返る時間さえ惜しい。そのワンテンポの遅れが命取りだとたきなは知っている。奴の死角に入るまでこの足を止め、る────な、

 

(しまった────)

 

 また、銃声を耳にする。ジンは、再びトリガーを引いた。

 連射されたその弾丸は、たきなの脇や地面をすり抜けたかと思いきや、その一つが左足の腿を掠め抉った。

 

「……ぐっ!」

 

 たきなは痛みで足が縺れ、身体を地面に打ち付けた。

 掠っただけでも動けなくなるほどの痛みに、その表情が苦痛に歪む。

 転んだと同時に足も捻ったのか、痛みですぐに起き上がれない。その間も、敵からの銃弾の雨は止まず、たきなの息の根を止めに来る。たきなは慌てて上体を起こし、動かない足を庇いながらどうにかコンテナへとその身を隠す。

 

(────いたい)

 

 痛い、どうしようもない程に。

 すぐに動かなくてはならないのに、足が動かない。この場で迎撃する為の攻撃手段も先程落としてしまった。チェックメイトが、死神が足音を立てて近づいてくるような幻覚が視界を襲う。

 

 こまめに場所を変更しながら千束が来るまでの時間を稼ぎ、千束が来たタイミングで落とした銃を回収して二人で攻めるというのがたきなのプランだったが、そんな追いかけっこにジンは付き合う気は無かったようだ。

 此方が拳銃を使わず逃げに徹していることから、予備の拳銃が無い事も理解しているのだろう。最後の方は、ジンは隠れもせずに此方を追いかけてきていた。

 

 まずい、このままでは死ぬ。

 それだけじゃない、千束がジンを見失えば松下が狙われる事は必定。近くにいるであろうミズキや誉でさえ命の危機だ。それだけは、それだけは絶対に阻止しなければならない。

 しかし、そんな考えも潰されるかの如く、鉄骨を踏み抜き床を駆け抜く音がする。

 

「────っ、ぁ」

 

 ジンは、改修工事によって組み立てられた鉄骨によって敷き詰められた床を利用して上を取り、物陰に隠れたたきなを視認して、銃口を向けていた。

 足を貫かれて動けずに隠れていた事も予測済みだったのだろう、ここに来るまでの行動に迷いの一つも見られなかった。

 

 たきなはそれを見上げながらも、反撃の術が無い為にそれを眺める事しかできなかった。隠れようにも、もう間に合わない。外して貰える様な距離じゃない。

 

 その銃口が、たきなの頭蓋を見据える。

 その引き金が、死のカウントダウンを始める。

 弾が放たれるその銃口が死神の眼のようで、それに魅入られてたきなは固まり、瞳が揺れる。

 

 ああ、これは、ダメだ。

 あと数秒で、自分は死────

 

 

 

 

「たきな────!」

 

「────ぇ」

 

 

 

 

 その声と同時に、ジンの銃声が響いた。

 たきなとジンの前に躍り出る黒い影が、たきなに覆い被さるように現れて、そのままたきなを抱えて飛ぶ。

 

 たきなはその影に抱かれたまま二人して転がり、ジンの銃弾の死角になる場所まで移動する。

 土煙が舞い、ジンからも、そして此方からも互いを視認できないようになって漸く、たきなは自分を抱える存在を見上げる事ができた。

 

 いや、本当は見上げるまでもなかった。

 何度も自分を励まし、色んなことを教えてくれて、迷子の自分を見付けてくれる、安心する人の声。

 

 

「……平気?」

「……ほ、まれ、さん……」

 

 

 ────朔月誉。

 相棒の……錦木千束の、好きな人。

 そして、たきな(自分)を変えてくれた、その人。

 

「ど、どうして此処に……」

「え?あ、いや、外国人に道聞かれて案内してて、戻ったら錦木も松下さんも居なくなっててさ……探してたら道に迷った」

「に、逃げて下さい!此処は危険で────」

「分かって、る!」

 

 たきなを抱いたまま、振り向きざまに誉は右腕を伸ばす。その手には────先程たきなが落とした拳銃が握られていた。そしてその先には、土煙の中現れたジンの姿。

 けれど誉は冷静に、当たり前に、何の躊躇も無くその引き金を引き絞った。

 

「────チェック」

「────っ!」

 

 ジンと同時に放たれたそれは、互いの部位を掠める。

 誉の弾はジンの腹部へと着弾する。が、ジンのそれら全ては防弾の様で、ジンは反撃できる武器があると知るとその身を翻して物陰へと移動する。

 そしてジンの弾は誉の頬を掠め、誉の頬からは決して浅くない傷と、夥しい程の血液が流れていた。

 

「……何あれ、あれ防弾の服なの?凄いなただの布地にしか見えないのに……」

「ほ、誉さん!血が……」

「え?……ああ、ホントだ。それよりたきな、これ実弾?撃った事無いな……この前のは非殺傷弾だったし、銃も違うし……できるかな」

「……何、言って……」

 

 何だ、これは。どうなっている。

 頬を焼かれるような痛みがあるはずだ。実際、たきなも現在自分の足に同様の痛みを持っている。拳銃を持って立ち回るのは難しい。

 けれど、誉は素人で、こんな痛みに慣れてるはずもない。痛いはずなのに、どうしてそんなに冷静でいられる────?

 

 

「弾道を補正」

 

 

 突如、誉が唄うように告げる。

 

 

「反動を修正」

 

 

 機械のように冷静に、解析するように。

 

 

「風速を計算」

 

 

 装填数を確認し、再び銃へと弾を戻す。

 

 

「標的を再確認」

 

 

 ジンのいる方向へと視線を傾ける。

 

 

「距離約三十メートル」

 

 

 自分の立ち位置と標的までの距離。

 

 

「射程を推定」

 

 

 S&W M&P9、シルバースライドモデルを見つめる。

 

 

「行動を予測」

 

 

 瞳を閉じて。

 

 

「高低差を計算」

 

 

 誉とジンの距離と高さを予測。

 

 

「握力対比を調整」

 

 

 グリップを握り締め。

 

 

「姿勢は自然体。首はそのまま銃を目線まで持ち上げる」

 

 

 ゆっくりと立ち上がる。

 

 

「フロントサイトとリアサイトの高さを合わせ」

 

 

 銃を持ち上げ、ジンの隠れた方向へとそれを向ける。

 

 

「後に目の焦点をフロントサイトに合わせる」

 

 

 瞳を細め、銃の先を鉄骨を見据える。

 

 

「────不殺を心に」

 

 

 瞬間、もう一発が放たれた。

 同時に、鉄骨に隠れていたであろうジンが顔を出し、手に持っていた拳銃が撃ち抜かれ跳ね上がった。後方へ飛ばされた拳銃は音を立てて滑っていき、ジンは驚きで固まるもすぐに我に返って、踵を返してそれを取りに向かっていった。

 

「……うん、まあ、いけるかな」

「誉、さん……貴方は……」

 

 今の……今の神がかった射撃。たきなはただ見つめるだけで何も言えなくなってしまっていた。

 今のはつまり、ジンが出てくるタイミングに合わせて、銃を構え撃ち放ったという事。プロの動きを予測して、更に正確な位置に射撃をしたという事────

 

「これ、借りるぞ。井ノ上たきな」

 

 呆然とするたきなへと、誉は振り返る。

 誉は小さな、本当に小さな笑みを向けて、たきなの頭を撫でた。

 

 

「────秒で終わらす。下がってろ」

 

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.18 『 Find me wherever I go.(何処に居ても私を見つけて)

 

 

 







誉 (……秒は無理かな。やっぱ分で計算してもらおう)

たきな (……さっきのって、俗に言うお姫様抱っこってやつじゃ……)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.19 Forget-me-not







誰かの為にできる事をしたいんだ。そうすれば、その人の記憶の中でも生きていけると思うから。



 

 

 

 

 

 

 ───外国人の道案内から戻ったら、錦木も松下さんも居なかったんですけど、もしかして俺置いて電車乗った?

 

 東京駅のホームで電車を待つ人達の中に、あの目立った赤い制服も車椅子も見当たらない。これは完全にやってますね……錦木許せねぇよおい。

 

 いや、流石に気付かないなんて事無いよな。流石に置いてくなら置いてくで連絡とか入れてくれてるはず……いや、『置いてくね』なんて連絡来ても辛いだけなんだけど。

 

 慌てて携帯を開いて確認するも、それらしい連絡は来ていな……あ、今来た。

 錦木から、『東京駅前』とだけメッセージ。いつもはスパムメールみたいに長ったらしいの送ってくるのに今日はこれだけ……まだ勝手について来た事怒ってんのかな。

 流石にキレてるからって仕事中に私情で俺を置き去りにするのって良心が痛まないのか泣いちゃうぞ……いや、泣くな待て。

 

「……や、違う」

 

 もし、現在錦木がこの四文字を送るだけの余裕しか無いとしたら。既に暗殺者とやらが近くにいて、今この瞬間にも戦闘を繰り広げているのだとしたら。

 錦木だけでなく松下がいない事にも説明がつく。松下と一緒に暗殺者から逃げているのかもしれない。

 

 だとしたら、俺はどうすれば良いのだろうか。錦木のこのメッセージは、『東京駅前に来て』なのか『東京駅前には来てはいけない』なのか、どっちなのだろうか。

 暗殺者が来る前に送ってきたのなら『駅前に居るから合流して早く逃げよう』という意味になるが、来た後に送ってきたのなら『駅前でドンパチやってるから来るんじゃねぇ』って意味になる。これだけじゃ流石に分からない。

 

 なら俺が後悔しない選択をするべきだと、この時は即決だった。駅前へと向かうべく、俺は踵を返し───

 

 ────先程外国人に道案内をしたその足で、盛大に道に迷っていた。

 

 

 ▼

 

 

 千束と松下を追っていたはずだったのだが、道に迷った先で何故かたきなと合流し、暗殺者であろう黒髪長髪の女性……いや、男性───どっち?───と、対峙していた。

 

 格好付けたは良いけど、何だこの状況。たきながあの長髪の暗殺者に銃を突き付けられて居るのを見て、咄嗟に拾った銃で発砲し、たきなと奴の間に入る事ができたのは我ながら褒めてやりたい。

 ……咄嗟に拾った銃っていうパワーワードよ。

 

 だが、千束は近くにおらず、たきなは足に被弾して動けずにいる。戦えるはずもなく、この場を乗り切る為には俺がなんとかしなくてはいけない状況だった。

 

 ……てか痛っ。痛い痛い。えっ、頬の傷、深くない?

 瞬間的じゃなくて断続的に痛いんですけど。え、やだ、何これ泣く。

 

 しかし割って入った以上、せめて錦木が来るまでの時間くらいは稼ぎたい。たまたま暗殺者の持つ拳銃に銃弾がヒットしたから良いものの、以前試し打ちで撃った非殺傷弾と反動も使用している銃も何もかも違う。

 屋内と屋外では空気抵抗や風力の差も視野に入れつつ、動く的という事も計算に入れて行動しなければならない。

 

 チラリと、たきなへと振り返る。

 彼女は瞳を見開いて、何も言わず此方を見上げていた。その表情からは驚愕が見て取れる。俺と手元の拳銃を交互に見ているので、言わんとしてる事にもなんとなく察しがつくものだ。『お前こんな危ないとこで私の銃持って何してんの?』って事だよね。

 や、分かってる。ホントゴメン。水上バスで言ってる事と全然違うよな。全然サポート担当の職務じゃない。そんな目で見ないで、ガチで迷子ったんだって。

 

 ただ、たきなが動けないうえに錦木もいないのであれば、付け焼き刃であってもこの状況を打破できる可能性があるのは自惚れなく自分だけなのだ。

 たきなも俺では心細いかもしれないけれど、彼女には大丈夫だと思って貰える様にと虚勢を張って笑って見せた。強がりでも良い、安心させろ。

 

「────秒で終わらす、下がってろ」

「っ……は、はい……」

 

 たきなはポツリと、頬を赤らめてそう呟いた。

 怪我をしていたとしても反対すると思っていただけに、二つ返事で了承されるのは少し意外だったけれど、それは後だ。秒で終わらす(願望)。

 装填数は残り十発、補充の弾を貰っている暇は無い。この残りで暗殺者の行動を停止させねば────

 

「────っ」

 

 土煙の中から、暗殺者が顔を出し……て……え、身長高っ、てか身体ほっそ……ゴボウみたい。

 たきなを巻き込まないよう、此方に視線を向けさせる為に、銃を突き付けながら横に走る。コンテナという死角を巧みに使いつつ、いつでも撃ち抜けると威嚇しながら、暗殺者の視界を此方に釘付けにさせる。

 

 その一瞬の隙さえあれば、たきなが自身の身体を再び動かして、奴の弾道から外れてくれるはず。振り返ってたきなを見れば、予想通り身体を動かしてくれた。視線が彼女と一瞬だけ交わる。小さく頷いてから、視線を暗殺者へと戻すと、既に奴はその銃を此方に向けていた。

 

「……ぶねっ……!」

 

 ────暗殺者から、再びの発砲。続けざまに二発。

 思わず反射的にしゃがむ。瞬間、右肩と左足に一発ずつ銃弾が掠り────痛てててててっ!!なんこれ痛過ぎてウケるんだけど。

 その抉るような射撃に思わず表情が歪むも、どうにか体勢を立て直してコンテナへと隠れる。

 

「痛ってぇ……ええ、銃弾って掠っただけでこんなに痛いの……?あのツナギでグラサンの人よく耐えてたよなぁ……」

 

 錦木とたきながリコリスだと知った初めての事件を思い出す。あのツナギでグラサンの四人組が可愛く見えてくるレベルだ。

 あの人達撃たれた奴の事考えた事あんのかな。というか、あの人達元気かな。

 

(……痛みに慣れとく為にあの時たきなに撃たれときゃ良かったかな)

 

 脱線した、現実逃避してる場合じゃない。

 別に暗殺者を倒す必要は無い。錦木とたきなの会話や、たきながコイツに付きっきりなのを見ると、どうやら暗殺者はアイツ一人だけの様だ。ならば錦木が来るまでの時間稼ぎさえできれば、役割としては上出来だろう。

 ……錦木、というか。女の子に任せっきりな絵面はかなりダサいというか情けないけれど。

 

「……っ!?」

 

 再び銃声、慌ててその場から飛び出す。

 すると、待ち構えていた、暗殺者の姿。出会った時と変わりなく鉄骨で組み上げられた床で此方の上を取り、下で直線上に立つ此方に向かって銃を突き付け、即座に放たれた。

 その銃弾は右腕を掠め、再び痛みに耐えるよう歯を食いしばる。

 

「あっ、ぐ……ってぇなっ……!」

 

 仕返しと言わんばかりに銃を突き出して一発、狙ったのは銃を握る右腕部分────命中。だが再び弾かれてしまう。あれも防弾なのか……火花が散るって、素材何なのそれ。凄い気になる。

 

「……それ、防弾なの凄いね。何処で売ってるの?それともオーダーメイド?」

「────……」

「俺今着てるのただの服なんで、当たっても痛くなさそうで羨ましいな」

「────……」

「いや何か喋れ」

 

 ……全然喋らんやんあの人。めっちゃ静かやん。なんか俺が一人で吹かしてるみたいで恥ずかしいんだけど。暗殺者だと物騒だし、サイレントって呼ぶぞこの野郎。

 しかしどうなってんだあの服。ただの布地じゃないのか。ちょっと欲しいな物持ち良さそう……とかって現実逃避しないとやってられないくらいには痛い。

 会話で油断とかしてくれると嬉しかったんだけど、楽しむ気は無いらしい。問答無用で三発目が飛んでくる。

 

 迎撃せんと、振り向きざまに右腕をサイレントに突き出す。両手で支えて銃を放つ基本的なスタイルから外れ、片手のみで標的を見据える。一発無駄になるかもしれないが、経験値として情報を更新するのにこの一発は必要不可欠。

 

「────ってぇ、相変わらず反動デカ過ぎ腕痺れる湿布欲しい早く帰って珈琲飲みたいぃ……!」

 

 その一発は奴の右肩付近を素通りした。外したようだ。

 しかし撃った際の反動、弾道、命中精度などの記憶全ては、生々しく脳裏に記録されていく。改善、修正、改訂、補正。

 

「……────片手撃ちの情報更新。反動を再修正、弾道を再補正」

「────……っ!」

 

 残り八発。研ぎ澄ませろ集中力。駆け巡れ思考回路。

 間断無く機械のように、情報更新(アップデート)を繰り返す。少ない銃弾で牽制しつつ逃げ回る中でも、奴の癖もパターンも決して見逃しはしない。錦木が来るまで、たきなは俺が守るとそう決めただろ。

 

「高低差再計算、予測との差異を修正、空気抵抗補正、標的の行動予測完了───よし、当たれ(シュート)

 

 というか当たって。で、ちょっとでも痛がって。

 目を見開き、狙いを定め、不殺を心に三発目を放つ。

 サイレントが銃を突き付けるであろうタイミングを見計らっての発砲。予測通り、奴が銃を突き出した位置に丁度弾丸が到着し、奴の銃を再び弾き飛ばした。

 

「なっ……」

「漸く声を漏らしたな、サイレント野郎」

 

 あさっての方向に弧を描く拳銃を見上げ、サイレントは驚愕の表情で此方に視線を戻した。

 狙いはしたけど当たったのは偶然ですよぉ……とかって言うのは煽りに聞こえるかもしれないからやめておこう。

 

「────あと、七発」

 

 心臓が、悲鳴を上げている。

 

 

 ▼

 

 

「……嘘」

 

 その光景を前に、身動きを取る事は叶わない。

 自分を助けに来てくれた彼の姿に目を奪われ、惹き付けられ、魅入られて動けない。目を疑わずにはいられなくて、何かの間違いなのだと思わずにはいられなくて、見つめ続けずにはいられないのだ。

 

 たった一人で強敵を相手にする、一般の学生。

 十七歳の、自分と然程年齢も変わらないその少年が、たきなの目の前で拳銃を片手に暗殺者と渡り合っている。

 およそ現実とは思えない光景が、目の前で繰り広げられていた。

 

(……誉、さん……貴方は……)

 

 これだけでも異常過ぎる光景なのに、驚くべきは彼の射撃能力。二度もジンの手元を狙い、拳銃を弾き飛ばしているのだ。プロの殺し屋相手に偶然では済まされない所業。

 無駄撃ちする事無く要所要所で的確に弾を使って、時間を稼いでくれている。つまり、彼も千束が到着するのが勝ち筋だと理解しているのだ。

 

 場馴れしている、もしくは相当頭が切れる。

 この土壇場で素人が時間を稼ぐという思考結果に行き着くのもそうだが、その為の行動に転じている程の適応力と余裕がある。彼はリコリスのような血に塗れた裏の世界に関わる事など今まで無かったはず。千束だって彼には関わらせなかったはずだ。

 

 ……情報量が多過ぎる。何なのだ、彼は一体。

 学校に行っていないかと思えば人並み以上の知識を有し、かと思えば水族館や、地元の観光にさえ赴いた事の無い程の稀有な十七歳。記憶力も並外れており、初めて出会った時もそうだ、拉致事件に巻き込まれた際もなんて事のない表情で、千束とたきなに笑みを向けていた。

 

 今もそうだ。以前と同様の事件にも関わらず恐怖しないどころか、敵と相対しているだなんて。見たところ五分五分……いや、そんな楽観的な解釈で良いはずがない。

 誉はただの一般人だ、長く保つはずがない。数秒後に瀕死になる可能性だって十二分に孕んでいる。

 被弾するのが────死ぬのが、怖くないのだろうか。

 

「……止めなきゃ……!」

 

 たきなは今も変わらず血を流す左の腿を抑えながら、どうにか立ち上がる。愚かな己に憤りを感じながら、動く度に痺れるように走るこの痛みは、自分の行動に対する罪なのだと、自分に言い聞かせながら。

 

 先程の自分は本当にどうかしていたと、今更ながらに思った。怪我をしていたとはいえ────そして何より、その背中が逞しく見えたからとはいえ、誉に自身の銃を預けたまま飛び出させてしまったのは自分の落ち度だ。

 これではDA本部に成果を報せるどころか、ただ自身の汚点が増えるだけだ。千束にも顔向けできない。決して、してはいけない事だった。

 

(っ……千束……!)

 

 思い出したかのように我に返る。

 この状況を千束に連絡しなければならない。誉の現状を説明して千束がどんな反応をするかなんて考えない。千束の為と、そうやって誤魔化して隠してる場合などでは決してない。彼女と誉と、何より自分の為に。

 

「千束っ……聞こえますか、千束……っ!」

『っ……たきな!?大丈夫!?』

 

 インカムで千束に繋ぎ、痛みを堪えて絞り出すように声を出す。残された希望、任務を成功させる為の活路となる存在を、必死になって呼びかける。

 

「すぐに来て下さいっ……急いで!」

『今向かってる!もう少しだけ待ってて!』

「待て、ません……っ、早く……千束っ……!」

『……た、たきな……?』

 

 ────早く、早く来て。

 何してるんだ、一秒でも早く来て欲しいのに。

 事の状況を分かっていない。貴女がこれまでずっと恐れていた状況よりも酷い事が、今目の前で起こっているというのに。

 

 

「────誉さんが、ジンと交戦してるんですっ……!」

『────……ぇ』

 

 

 千束の、思わず零してしまったような小さな声を耳にした、その瞬間だった。彼女の次の反応を、言動を、謗りを待ち受けていた、その瞬間だったのだ。

 

「……っ!?」

 

 二つの銃声が同時に鳴り響き、思わずたきなは顔を上げた。

 その視線の先で土煙が舞い、その更に先で弾道が交わり、火花を散らせて、そして衝撃が走る。

 

「────ぁ」

 

 ────誉の左肩を無慈悲に貫く弾丸と、波状的に広がる血飛沫をその眼で目撃した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

「……あ、れ」

 

 ────突如、グニャリと視界が歪んだ。

 身体の神経系全てが麻痺したような感覚と共に足元が縺れ崩れ、ふらつく。そして景色が反転し、身体が勝手に近くのコンテナへと流れ、勢い良く衝突した。

 

「っ……てぇ」

 

 物凄い衝撃音を立て、誉はそのままズルズルとコンテナに凭れながらへたり込みそうになるのを、何とか抑える。

 高校生にもなって、なんという体たらく。奴に気取られる前にと、誉はその身体に力を入れ────瞬間、再び銃声と火花が視覚と聴覚を攻めてくる。慌てて身を屈め、距離を保ちながら物陰に隠れた。

 

「チィ……あの妖怪“おとこおんな”め……」

 

 たった今穿たれた、左肩の激痛が凄まじく、身体全体に広がって思うように身体を動かせない。

 舌打ちしつつ再び大地を蹴飛ばすも、飛距離が足りない。縺れた足の粗末さが再び身体のバランスを覆し、誉は地面へとその身を叩き付ける。

 

「……あ、れ……立てないな……もう歳ってか……なわけ……っ」

 

 立てない、動けない。どうして。不安と焦りが心臓に直結する。呼吸は回復するどころか次第に荒くなっていく。

 視界が段々と暗くなり、脳内で心臓の音がうるさいくらいに響き渡る。まるで死の危険を報せる警鐘であるかのように、その鼓動は大きくなっていく。

 

(────痛い)

 

 胸が────心臓が、痛い。

 突然、自身の身体の動きが酷くなり、鈍くなっていく感覚。自覚もあるし、原因もとうの昔に理解していて。

 

「……こんな時に、持病かよ……もうちょっと頑張れよ……っ」

 

 ────ドクリ。

 心臓の音が、鼓膜を震わす程に強く鳴り響いた気がした。視界が暗く染るだけでなく、景色も不明瞭に、朧気になっていく。死が近づく事実を、息苦しさがこれでもかも伝えてくる。

 

 

(……あ。これ、ガチでやば────)

 

 

 ────胸を、強く握り締める。

 

 呼吸、が、段々と早く。

 身体に、ちから、が入らない。

 目の前が、暗く、黒く、染まっていく。

 心臓の鼓動がうるさい。胸が、痛い。苦しい、辛い。

 あ、これ、ダメなやつ、かもしれな────

 

 

 ────“⬛︎⬛︎夫、大丈⬛︎⬛︎から”

 

 

「────……っ」

 

 声がくぐもって、よく聞こえない。

 ただ、誰かが自分に声を掛けてくれている。我に返ったように、ゆっくりと顔を上げると、誰もいない。気の所為か、空耳なのか。

 けれど、ずっと前から知っている声。酷く懐かしさを覚える、優しい声音。

 

 ああ、思い出した。遠く昔の記憶だ、これは。

 いつかの日に、死の淵にまで陥った自分に、これでもかと寄り添ってくれた家族の声。何故、今またその声が聞こえるのだろうか。

 自分が、かつての過去と同じ状態になりつつあるからだろうか。

 

 

『⬛︎、さん……俺、死ぬの……?』

 

 

────“⬛︎⬛︎なこと⬛︎い、大丈⬛︎だよ”

 

 

 朧気に、ところどころ霞んで消えかかっていても、その声の主が分かる。何度も、何度も何度も、自棄になる自分に在り方を諭してくれた存在の声。

 

 

『でも、⬛︎も苦しいし、⬛︎⬛︎もできない……⬛︎んじゃうよ……』

 

 

────“平⬛︎よ、きっと。⬛︎⬛︎、いつもみた⬛︎に想像して?強⬛︎自⬛︎を、病⬛︎なんかに負⬛︎ない⬛︎分を”

 

 

 弱い自分を認めない。強く在ろうとする心を持つ事を、いつだってその身をもって教えてくれた、優しい人の声。

 

 

『む、無理だよ……だって、こんなにも⬛︎い……こんなにも、⬛︎しいんだ……』

 

 

────“大丈夫。大丈夫”

 

 

『……どうして。どうして、そんな事が分かるの?』

 

 

────“だって、⬛︎⬛︎は、私の⬛︎⬛︎だもの”

 

 

 慰めと、励ましの言葉。だが決して、それらの言葉は無責任に放たれたものではなかった。

 いつだって、自分の事を考えてくれて、優しい笑顔を向けてくれた、家族の声。

 

 

────“忘れないで。貴方は、何にでもなれる。これくらいじゃ死なないわ”

 

 

 それは今も胸の中に刻まれている、その言葉。何度も胸の奥で反芻する。歌うように、呪うように。

 望めば、何者にもなれる。想像次第で、強くも弱くも自分を変えられる。なりたい自分になれるのだと、死ぬまで自分に教え続けてた存在。

 

(……忘れない)

 

 突如、正気を取り戻したかのように視界がクリアになった。心臓は次第にその高鳴りを鎮めていき、呼吸が段々と整っていく。どれだけ息を吸っても、酸素が足りず頭痛まで引き起こしつつあった先程の状態が、回復していっているのが分かる。

 額を汗塗れに、そして頬を血塗れにして座り込んでいる自分が情けなくて、その顔は────不敵な笑みへと変わっていた。

 

 

「っ……ああ、そうだな……これくらいで死んでる場合じゃねぇよな……」

 

 

 まだ死ねない。成すべき事がある。

 頬に流れる血を拭って、ゆらりと立ち上がった。残りの弾丸は六発、補充は無い。千束が来るまでの時間稼ぎのつもりだったが、弾丸の節約を考えながらの今の立ち回りこそ、奴の付け入る隙になる。

 

 ならば、戦い方を考えろ。何が自分にできて、自分のどこが奴に勝てている部分なのか。付け入る隙を、奴の動きの癖を、これまでの時間で刻まれた記録と記憶を引き摺り出して、全ては奴からたきなを守る為に。

 

「……はっ、アイツが知ったらどんな反応するかな……」

 

 その生き方に、在り方に憧れを抱かせてくれた少女の背中を思い出す。いつだって自由で、自信に満ち溢れてて、知らない世界をいつも見せてくれる、かつて行きつけの喫茶店だった、“リコリコ”の看板娘。

 

 彼女がこういった世界に自分を関わらせる事を避けていたのを知っているだけに、自分が銃片手にプロの殺し屋と現在進行形で戦ってると知られたら。想像するだけで恐ろしい。

 

 ────だからこそ、その顔を見るまでは。彼女に怒られるまでは、まだ死ぬわけにはいかない。

 

 君が来なくなって、君に守られなくたって、一人で歩いて生きれるように。

 憧れた君のような生き方を、意識せずとも全うできるように。

 

 

「……見てろよ、錦木千束」

 

 

 この弱い心臓に、負けはしない。

 決して、憧れてばかりじゃいられない。

 誰かの心に残れるように、大切な誰かに覚えて貰えるように、誰かの為に在り続ける為に、立ち上がる。

 

 死ぬその瞬間まで、この生き方を貫き通せるように。

 

 

 ▼

 

 

 暗殺者────“サイレント・ジン”は、先程まで相対していた一人の少年に対して、異質さと不気味さを感じていた。

 

 銃を構えるその姿は手本とも呼べる程に綺麗な、基本的な姿勢と構えであり、射撃も正確であることは間違いない。此方の銃を狙って二度も手元を撃ち抜き、銃のみを弾き飛ばす技量に関して言えば流石の一言だ。

 

 両手から片手に持ち替えての射撃も、一発目は外すもそこからすぐに修正を完了し、二発目で命中させる事ができる程の能力を持ち合わせている。これは射撃の才能とか、そんな甘いものではない事は本能で理解していた。

 

 しかし、立ち回りや動きがやや拙い。完全に素人のそれだ。こういった仕事での戦闘経験が少ないのか、それとも本職でないのか。

 

 どう見ても防弾性能のない私服を身に纏って拳銃片手に奔走するその姿は異様と言わざるを得ない。戦闘中に普通に話し掛けてくるところも驚いたが、全体を通しての動きだけを見るのなら、先程の黒髪の少女の方が場馴れしているようにジンには見て取れた。

 

 総合的には先程の彼女の方が優れている────ような気がする。断言できないのは、それほどまで今銃撃戦を繰り広げている彼の正体が不明瞭で、その実態を掴みあぐねているからだ。

 

 標的の護衛をしていた二人の少女。制服も色は違えど同一のものだ。一方の黒髪の少女が拳銃を所持していたのを考えるに、あの赤い制服の少女も恐らく護衛の任を受けているだろう。ならば、その少女が此処に来るまでの時間稼ぎを彼が受け持っているのか、彼もそれを理解しての立ち回りだったのか。であれば、彼はやはり素人では────

 

「────っ!?」

 

 瞬間、銃声がすぐ近くで響いた。

 反射的に銃を下のコンテナの列へと向ける。最後に奴が隠れていた付近だ、上を取っている此方からなら奴の動きに対処できると踏んで、銃を構えて見下ろすが、視界内で動く影は見当たらない。

 

「こっちだオジサン!」

「……!」

 

 奴の、少年の声。思わず右へ視線を向ければ、奴が此方に銃を向けながら右に走って行くのを目撃した。

 先程まで下にいたのに、いつの間に上に────!?しかし、遠目からでも分かる程に額に夥しい程の汗を滲ませながら、呼吸を荒らげて駆けている。ジンは追従するように銃を構えて再び弾丸を放つ、今度は二発。

 

「っ、ぶな……!」

 

 運良くしゃがみ……いや、よろけて体勢が崩れたのだろうか、弾丸は彼の後頭部をすり抜けて近くの鉄骨の柱に着弾する。それを隙と見たか、黒髪の少年は此方とは別方向へと変わらずその足を向けて走り、やがてその速度を緩めていく。

 

 その先には、改修工事で使用すると思われる大量の鉄パイプの山があり、彼はそこに辿り着くと頂点にあるパイプを一本手に取った。

 右手に拳銃、左手に鉄パイプといった、異様な立ち姿。此方を見据えて小さく不敵に笑みを浮かべて、銃とパイプをそれぞれ構えているのを見て、ジンは目を細めた。

 まさか、あれで此方に対抗しようというのか。

 

「────素人だからと油断するなよ、サイレント。プロとしての経歴に泥を塗りたくなければな」

「────……!」

 

 自信に満ち溢れたように、そう告げる奴の声。それと同時に此方に向かって駆け出して来た。疲弊からか、それとも流血によって血を失っているからか、顔色が悪いのが遠目からでもよく分かる。

 やはり素人、この世界の裏を知らない純粋無垢な一般人。そんな奴が何故此処にと考えるのは後だ。奴に乗せられるのは非常に癪だが、その言葉の通り油断などしない。それが命取りだというのがこの世界での常識だ。

 

(────悪いな)

 

 狙いは外さない。一般人とて仕事に置いて手は抜かない。先程の少女と同様にこの標的の護衛の任務に関わっているのなら、沈める事に躊躇は無い。

 少年の右足が、僅かに縺れる。既に肩で息をして、苦しげな顔で迫ってくる奴は瀕死もいいところだ。その右足を撃ち抜いて行動不能にしてやると、その引き金を引き、銃弾を弾き出す。

 

「シッ────!」

「なっ……!?」

 

 その銃弾を放ったタイミングで、少年は右足をずらして躱す。瞬間、弾が床に弾かれ、広範囲に火花が飛び散る。

 少年はまたふらつきながらも、視線を此方に固定して再び迫り始めた。

 

(────何だ、今のは)

 

 ────偶然か?今、銃弾を躱されたような気がした。

 そんな訳が無いと、再び両手で銃を構える。奴の隙を一瞬で見極め、今度は右肩に狙いを定める。拳銃を持つその腕の機能を停止させるつもりで、再び放った。

 

「────らぁっ!」

 

 ────同時に、少年が左手に所持していた鉄パイプが袈裟斬りで振り抜かれ、瞬間火花を再び散らした。ジンは目を見開き、慌てて奴の肩を見据える。撃ち抜かれた様子も、流血した形跡も無い。

 まさか、右肩を撃ち抜くはずだったその銃弾が、彼の振り抜いたその鉄パイプに弾き飛ばされたのか。

 

(────有り得ない)

 

 此方の射線が────銃弾が見えている?

 流石に焦燥が拭えない。再び銃を構える。距離は次第に小さくなっていく。今度は少年の腹部に視線を向けて、その銃を乱射した。拳銃の弾速も考えれば必中距離、決して外しはしな────

 

「っ……!」

 

 まるで分かってたと言わんばかりに、銃の引き金を引いたタイミングで右に横っ飛び。弾を後方へと置き去りにし、その先の鉄骨に弾かれる音が響き渡る。

 

(────馬鹿な)

 

 なんだそれは。有り得ない、銃弾を躱すなど。

 しかも今の至近距離での回避、撃つタイミングが分からなければ躱しようがないではないか。

 

「────っ!」

 

 再び銃を構え────る前に、前方から鉄パイプが振り抜かれる。それは奴の手元を離れ、高速回転しながらジンの眼前まで迫ってくる。

 思わず腕を前に持っていって、咄嗟に防御する。防弾である為にダメージは少ないが、身動きが取れないこの瞬間にも、少年は此方に向かって走り込んで来ており────

 そして、その銃を此方に向けていた。

 

(しまった────)

 

 ────その透き通る様な瞳に、自身の驚いた顔が映り込んでいるのが、この距離でも分かった。瀕死に近い、苦痛に顔を歪めながら走る彼の表情に、尚も背筋が凍るような恐怖が走る。

 

 少年のその銃弾が、再びジンの手元の拳銃を弾く。

 これで、三度目だ。もう偶然で片付けてはいけない。再び放物線を描いて飛んでいく拳銃を視界端に捉えながら、絞り出すように吐き出された少年の声を耳にした。

 

「────あと、四発」

「────んだ、お前は」

 

 それと同時に繰り出された銃弾。

 右脚、左脚に一発全てを撃ち抜かれる。防弾である為致命打にはならないが、身体を即座に動かせない程の激痛が下半身を通して身体全体に響くように。

 身体はよろめき、上体が仰け反り、仰向けに倒れるその寸前に。

 

「何なんだ、お前は」

 

 その少年の、瞳を見た。

 苦しげに歪める表情の中でも、不敵に笑ってみせようとするその気概を見たのだ。

 ジンの質問、それに対する答えは無い。されど、少年は倒れゆくジンの事を見据えながら、瞳を細めて告げた。

 

 

「────Forget-me-not」

 

 

 その言葉と共に発射される弾丸、二発。

 銃声とほぼ同時にジンの肩に激痛か走る。右肩と左肩、そこから痛みが波状的に広がって、指先一つまともに動かせない。向こうは、至るところから血を流していて、今にも死に体だというのに。

 ジンはその場から崩れ落ちるように、空を天井に倒れゆく。視界が薄れる中でも、ジンは目の前の少年から目が離せない。

 

 少年は小さく息を吐き、苦しそうに胸を抑えて蹲り、手元の拳銃を見下ろして小さく呟いた。

 

 

「………………あっ、やべ銃刀法違反……」

 

 

 ────今更かよ。

 ジンは、手放す意識の中で、最後にそう思った。

 

 








皆さん、いつも感想ありがとうございます。
毎話必ずくれる人とかもいてとても嬉しく思います。書くモチベになっているのでとても助かっております。

あと、感想欄でGoodとbadってあると思うんですけど、Goodで80件も貰ってる人がいて、『ああ、感想欄って自分だけじゃなくてみんなも見てるんだなぁ』と思って凄く感慨深かったです。
色んな人の考えや感想を知れるのって面白いです。

今話から頂いた感想に関しては、拙いながらも返事を返してみようと思います。質問やアドバイスなどあればよろしくお願いします。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.20 I don't wanna say good bye yet










都合が悪いから黙ってたんだよ。でも、それは嘘とは違うんでしょ?



 

 

 

 

 

 

「っ……はぁ、はぁ……、はぁ……!」

 

 目の前で意識を失い、無力化された暗殺者を前にして、達成感を抱くよりも先に、息苦しさに襲われた。鼓動が早く、そして弱くなっていくのが服の上からでも分かるようで、此方も意識を手放しそうになる。

 

 暗殺者を流血一つさせずに無力化する事ができたのは、流石に優秀過ぎるのではないだろうかと、自惚れで苦痛を誤魔化して笑ってみせるも、その余韻は長くは続かない。

 

 実は傷の痛みよりも、心臓の不具合から発生する息苦しさの方が誉を苦しめていた。

 

(────本格的に、ヤバい……)

 

 死ぬのが怖い、なんて感情はとっくに耐性が付いてしまっていたけれど、死に一番近付くこの胸の苦しみだけは何度体験しても慣れる事が無さそうだった。

 心臓が破裂するのではないかと錯覚する程の激痛に襲われ、どれだけ深く呼吸を繰り返しても身体全体に酸素が供給されていかない。

 少しでも気を抜けば、意識が途切れる。そうなってしまったら、もう二度と目覚めないのではないかと思うと、それだけは勘弁と、己を律する事ができる。

 

(……まだ、錦木に会えてない……)

 

 何の為に頑張ったんだ、と己に言い聞かせる。たきなを守る為、そして何より錦木千束に近付く為の無茶だった。

 決して彼女が喜ぶはずがないと分かってはいたけれど、それでも彼女の相棒であるたきなを助ける事ができたのは、唯一褒められるべき所業ではないだろうかと、小さく笑った。

 

「っ……誉さん!」

「……ああ、たきな……」

 

 階段を使って上がって来たのか、たきなは此方に向かって駆け出していた。左腿の流血は先程見たよりも大分マシになっていたが、彼女が足を引き摺りながらも此処へ向かってくる姿には、膨れ上がる罪悪感が拭い切れない。

 自分の立ち回りがもう少し上手ければ、彼女にこんな顔をさせる事も無かったかもしれない。

 

「……ゴメン、あんなに格好付けたのに……流石に秒は無理だった……」

「そんな事、どうでもいいですよ……!」

 

 たきなが来て気が緩んだのか、フラリとその身体が倒れそうになるのをたきなはギリギリで抱き留めてくれた。近くの物陰に運んでくれて、鉄骨を背に持たれるようにして腰を下ろす。

 彼女に支えられる事で余計な力を使わなくて済んだおかげか、段々とその息が整い始める。心臓が活動を正常に再開し始めていくのが感覚的に分かる。

 

 けれど、未だ呼吸困難になりつつあるのを、心臓の痛みに悲鳴を上げそうになるのを、どうにか胸を抑える事で堪えている。それはただの痩せ我慢でしかなくて、最早、目の前のたきなに隠す事はできないでいた。

 

「大丈夫ですか……っ、どこか怪我を……!」

「や……全部、掠り傷、だよ……これは……ただの、スタミナ切れ……運動不足だよ……なさけ、ない……」

 

 息が続かずに途切れ途切れになる会話。

 彼女を見やれば、その表情はどこからどう見ても怒りや心配といった表情に見て取れた。

 

「……そんな嘘、吐かないで下さい……」

「……ごめん……」

 

 ……たきなに、そんな悲痛に歪んだような、苦しそうな表情をさせるとは思わなくて、思わず謝罪の言葉が零れる。何かに耐えるように俯く彼女の姿を見て、誉は何処か諦観染みた感情を抱き始めた。

 

 ────ああ、そうか。

 もう、隠し続ける事は、できないんだ。

 

(……くそ)

 

 彼女には学校に行ってなかった事も、水族館や旅行が初めてだった事も知られている。十七歳にもなってそれらに経験が無いというのは異様だ。その理由だって、現在進行形で目の前で苦しんでいる誉自身の姿を見れば、その結論に辿り着くのはきっと時間の問題だった。

 

 ────彼女達に知られるのは、なんだか複雑だな。

 

 誉の視界横で、たきなは鞄を漁り始めたかと思うと、包帯やら消毒液やらを取り出して此方に近付き、誉の怪我の状態を見始めてすぐに息を呑んでいた。

 

「酷い傷……っ、どうしてこんな無茶を……!」

「え……や、だって、錦木も居ないし……たきな、怪我してて……動けなかっただろうし……」

「っ……ですけど……」

 

 たきなも、あの時自分が動けなかっただけにどうにもならなかった事は理解していただろう。それでも、自分に拳銃を預けたままだったのは後悔しているのかもしれない。あの時の彼女の瞳が、そう告げていた。

 危険だと、そう教えてくれたにも関わらずそれを無碍にしたのは他ならぬ誉だった。

 

「俺……後悔は、してないよ……」

「え……」

「後で……錦木に、怒られようと……俺は……自分が、正しいと思った事を……したつもり……」

 

 ボタンの掛け違い、みたいなものだと思った。

 もし自分が“リコリコ”に来なければ。彼女達と関わらない世界線だったのなら、別に自分がこの場に居なくても、きっと錦木が解決してくれたのかもしれない。

 けれど、今回の件で目の前のたきなに大きな外傷が少なく、無事であれたのは、自分が行動できたからかもしれないと、そう思うと。

 

「……たきなが無事で、ホントに良かった……」

「────……っ」

 

 自分が此処で生きていた意味も、少しはあったのかな、と。そう思う事ができるから。彼女が目の前で無事でいるのだと分かるだけで、これまでの自分の行動に誇りを持つ事ができた。

 自身の病気による苦しさと天秤にかけてもなお、たきなの無事をもう一度見る事ができて良かったと、心の底から思えた。

 

 

「────たきなっ!!朔月くんっ!!」

 

 

「……っ、千束……!」

「……ぁ」

 

 その声の主を、誉は知っている。

 この声をもう一度聞きたくて、その姿をもう一度この目に焼き付けたくて、頑張ったと言っても過言じゃない程に。狂おしい程に、その姿を求めていた。

 

 彼女────錦木千束は此方を探して辺りを見渡し後すぐにたきなと、そして何より誉のその瀕死に近い姿を目の当たりにして、その表情を焦燥と困惑、そして恐怖に近い感情を綯い交ぜにした表情へと変貌させた。

 

「……さかつき、くん……っ、朔月くんっ!!」

 

 夥しい程の傷と流血を目にした彼女は、物凄い速度で此方へと駆け寄って来た。背負っていた鞄を走りながら胸元へと持っていき、此方に来て膝を付いたかと思うと、たきな同様に手当に必要な道具を取り出し始めた。

 

「錦木……遅かったね……松下、さんは……?」

「ミズキに任せてきた……それより、この傷……!」

 

 千束が誉の至るところに刻まれた傷を見逃す訳がなかった。声と肩が震えているのが、まだ朧気な視界の中でもよく分かる。そんなに心配する事じゃないよ、と伝えなければと口元が動く。

 

「ああ……掠り傷だよ。舐めときゃ治る……や、足は無理かな……俺身体固くてさ……多分届かないなぁ……」

「何馬鹿な事言ってんの!……ああ、どうしよう包帯足らないかも……たきな、持ってる……?」

「あります!急ぎましょう、ともかく止血を……!」

「朔月くん、パーカー脱がすから、痛かったら言って!」

 

 そう千束に言われるが……確かに正直痛みで身体が動かない。腕も足も掠り傷とはいえ負傷しており、左肩に至っては弾が貫通している。ハッキリ言って無理だった。

 

「……っ!」

「ゴメン、もう少しだから……!」

 

 誉が小さく頷くのを確認し、千束が誉の両肩に手を添え、そのままゆっくりと黒のパーカーを脱がし始める。痛みを堪えるように歯を食いしばっていると、顕になった白のTシャツが血で赤く染み渡っており、ドラマや小説の表現など可愛く見える程に、その何倍も生々しかった。

 

「……肩が一番酷い……!たきなっ……!」

「分かってます……!」

 

 千束の指示よりも先に動くたきな。誉の左側に移動し、ゆっくりとシャツの袖を捲り上げる。痛みが少ないよう、ゆっくりと献身的なたきなの動きと、その懸命な表情に思わず目を細める。

 

「っ……あれ……」

「?…………ぁ」

 

 その間、千束はたきなの後ろ、更にその向こうの手摺りに持たれるように倒れている暗殺者────ジンの姿を見て、困惑でその瞳を揺らしているのを見て、誉は思い出した。

 

 千束は此処に来てすぐ、此方の姿を確認する前にたきなと、そして誉の名前も迷いなく呼んでいた。だが東京駅で別行動になった誉の所在を千束が知る術はなかったはずだ。にも関わらず誉の名を呼んだという事は、誉が此処に居る事を来る前から知っていたという事。

 

 恐らくたきなが千束に連絡をしたのだろう。なら、目の前であの暗殺者が倒れている理由も、恐らくたきなの連絡から察しているかもしれない。

 千束は、震えるような小さな声で、ポツリと呟いた。

 

「……朔月くんがやったの……?」

「え……あ、や、違うよ?全然違う、俺じゃない……この人貧血で勝手に倒れただけだって……ねぇたきな?」

「何故私の前ですぐバレる嘘を……」

 

 たきなは助け舟を出す気すら無いようで、呆れながらもせかせか包帯を巻いてくれている。思わずたきなへと顔を向けたは良いが、その視線を再び千束の方へとは、中々に戻しにくかった。

 特に言い訳を考えていた訳じゃない。千束がこの手の事に自分を関わらせないようにしていたのを知っているから、彼女からの説教は甘んじて受ける所存である。

 

 ────ただこの男、千束に理不尽な事を言われた場合に限っては、彼女の信条である『“やりたい事最優先”をした結果です』で返そうと考えている屁理屈野郎である。

 

 烈火の如く怒り狂うだろうと。

 ────そう、思っていたのに。

 

「……ごめん、朔月くん」

「────え」

 

 突然の謝罪。小さな、弱々しいその言葉に耳にして思わず言葉に詰まった。想像と全く違う彼女の反応や態度、言動を前に、誉は思わず視線が千束へと向かってしまった。

 そこには悲しげな、今にも潰れてしまいそうな程に情けない笑みを浮かべた千束がへたり込んでいて、ゆっくりと顔を伏せて俯いた。

 

「……私が、もっと早く来てたら……こんなに痛い思いさせずに済んだかもしれないよね……」

「っ……錦木……?」

「ごめん……本当に、ごめんね……っ」

「────……違う。錦木の所為じゃない」

 

 彼女のその姿に戸惑い、思わず瞳が揺れ、唇が震えた。

 ────……どうして、そんな風に思うんだよ。どうしてアンタが責任を感じるんだよ。

 違うんだよ。君にそんな顔を、そんな表情をさせたかった訳じゃない。そんな顔を見たくて、俺は頑張って来た訳じゃないんだ。

 

「千束、今は……」

「……うん、分かってる」

 

 たきなに言われ、千束は小さく息を吐くと、目に見えて目立つ傷に消毒液を浴びせ、包帯を巻く。普段ガサツな彼女からは考えられない丁寧な動作に、思わず意外そうな表情を作る。

 

「……言いたい事、聞きたい事、色々あるけど……とにかく無事で良かった……」

「…………錦木」

 

 懸命に、真剣な顔で。普段の笑顔も、ふざけた表情の一つもない。どこか影が差し込んでいて、それが自分の所為なのかと思うと、どうにも心が痛かった。

 

「……ね、あの人、殺してないよね……?」

「え……ああ、うん……“命大事に”だろ?」

「誉さんはそれ言えないですからね」

 

 ジンは見たところ目立った外傷が見られない。にも関わらず、勝者である誉が全身擦り傷だらけというのはいただけない。これではどちらが勝ったのか分からない。

 だが誰一人死ぬ事無く乗り切れたのは良かったと、そう安堵の息を吐こうとした時だった。

 

 

『────殺すんだ!』

 

 

 ふと、離れた距離から機械音声の声が響いた。

 誉とたきなはそちらに顔を向け、錦木も振り返る。そこには、たった一人でここまでやって来たのか、松下が此方に向かって車椅子を動かしてきていた。

 よく見たら後方には疲弊し座り込んでいるミズキの姿もある。それよりもだ、今彼は何て言った────?

 

『そいつは私の家族の命を奪った男だ。殺してくれ!』

 

「……え」

「殺し、た……って」

 

 誉とたきなは初耳であるその情報に目を丸くする。千束は何も言わずに近付いてくる松下を見て悲しげに目を細めた。

 千束のその反応から察するに、彼女は知っていた……いや、聞いていたのだろう。最後まで松下と一緒だったのは彼女だったのだから。だが、千束からの説明が特になくとも、誉とたきなは今の一言で理解してしまう。松下の“本当”の依頼内容を。

 

『本来なら、あの時私の手でやるべきだった。家族を殺された二十年前に……!』

 

 以前、松下の家族を殺したのも、目の前で項垂れ意識を失っている黒髪長髪の暗殺者だという。そこにどれだけの信憑性があるかは分からないけれど、彼を殺し、家族の仇を討つのが松下の目的だったのだ。

 

 なるほど、日本に来たのは暗殺に特化したリコリス、及びDAに助力を乞う事が目的だったのだとすると確かに辻褄が合う。

 アメリカでのボディガードでは自分の身は守れど反撃はできないと踏んで、リコリスの中でも最強と名高い錦木千束に暗殺者を手にかけさせようと────

 

『君の手で殺してくれ。君は“アラン・チルドレン”のはずだ!』

「松下さん……」

 

 ────アラン・チルドレン。

 その言葉を聞いて、誉の視線は目の前の千束に向けられる。この中でアランのチャームを首にぶら下げているのは一人だけ、目の前の少女だけだ。

 まさかこの男。千束に人殺しをさせる気か。そう思った瞬間、誉は思わず体を動かそうとして、途端にその身に激痛が走った。

 

「────、ぐぁ……!」

「っ……朔月くん、大丈夫……!?」

 

 全身に激痛。アドレナリンが効果を切らし、次第に痛みが再燃していく。涙が出るくらいにズキズキと痛み、まともに喋る事も叶わず、堪えるように歯を食いしばるだけ。

 それでも尚、家族を失った悲しみとか憎しみを孕む怒号が、苛立ちを含む機械音声が、場の静寂を壊す様に荒れている。そんな松下の勝手な言い分に、どうにか反論しようと誉がその口を開きかけた、その時だった。

 

 

『何の為に命を貰ったんだ!その意味を良く考えるんだ!早くその男を────』

 

「ごめん松下さん、後にして」

 

 

 ────ピシャリと。その一言で空気が固まった。

 一瞬、誰が言い放った言葉なのか分からなかった。松下も、ミズキも、たきなも。誉でさえ、今の声音とその言葉が千束から出たものなのだと理解するのに数秒かかった。

 

「……千束」

「────……っ」

 

 たきなが名を呼び、誉は思わず千束を見る。けれど、彼女のその表情は今も変わらない。此方を心配し、労るような表情で、懸命に包帯を巻いてくれている。そこにはただ優しさしかなくて。

 誉の傷と包帯のズレがないか、凄く献身的に見てくれる。その動きを止める事無く、千束は小さく、慈愛を持った笑みで口を開いた。

 

「……松下さん。私はね、人の命は奪いたくないんだ」

『……は?』

 

 何を言ってるのか分からないと、そんな呆けた声を漏らす松下。千束は包帯を巻き終えた誉の腕に手を添えて、そのまま下に下がっていき、やがてその指先に自身の指を絡める。

 

「私はリコリスだけど……誰かを助ける仕事がしたい。これをくれた人みたいに。だから、あの人の命を奪うよりも、朔月くんを優先したい」

「……錦、木……」

 

 アランのチャームを持ち上げながら、松下にそう告げる。

 彼女の表情は、柔らかな笑みを浮かべてもなお、どこか悲しみと憂いを感じて、誉が純粋に受け止められるようなものではなかった。

 その表情の意味を、見い出せないでいた。

 

『何を言っ……千束、それではアラン機関は君をっ……その命をっ……!』

 

 松下のその言葉を遮るように、遠くからサイレンの音が。このサイレンはパトカーのものだ。恐らく此処でのやり取りを目撃した第三者からの通報が入ったのだろう。

 ミズキは音源の方向へと振り返って、焦った様な顔で呼び掛けた。

 

「うわヤバ……面倒な事になる前に逃げちゃお、ほらほら!」

「誉さん、立てますか?」

「ああ、うん……ありがとたきな」

 

 たきなに支えられる形で立ち上がる。まだ痛むし、消毒された傷の数々が滲みに滲みるが、それでも幾分かマシになった気がした。

 千束は振り返り、松下に向かっていく。

 

「あの、取り敢えず場所を変えて一度落ち着……あ、あれ松下さん?」

「────?」

 

 呼びかける千束の反応がどこかおかしい。たきなと顔を見合わせ千束の方へと歩いていくと、そこには物言わぬ松下が項垂れていた。

 ゴーグルの電源は切れ、車椅子に装着されていたモニター画面も真っ暗になっている。千束の呼び掛けに反応する事はなく、これではまるで────死んでいるみたいだ。

 千束が何度話し掛けても、揺すっても、彼が何かを告げる事はない。

 

 そして、誉も。

 

「────」

「っ、誉さん……?誉さんっ……!?」

 

 突如、誉の身体から力が抜けていく。一気に彼の全体重がかかった事でたきなが声を上げる。松下に付きっきりだった千束も、たきなのその声で思わず振り返り、項垂れる誉に向かって慌てて駆け出した。

 

「……朔月くん?……朔月くんっ!?朔月くんっ!!」

 

 その声が、次第に遠くなっていく。

 思考が上手く纏まらない。千束のその声だけが、薄れる意識の中で最後まで響いていた。

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「…………うわぁ」

 

 目が覚めて、開口一番がそれだった。意識がまだしっかり覚醒してなくても、自分が横になっている事、着ているものの感触、この空間ならではの独特の空気の匂い、白で統一された部屋。

 そして何より────

 

(……俺が世界で一番嫌いな天井……!)

 

 目を開けて真っ先に視界に入ったそれを間違いはしない。何年、何十年と過ごしてきた“箱庭”を間違うわけがないのだ。

 ここは────病院だ。そしてこの部屋はお誂え向きのお一人様専用の病室。懐かしさを覚えるよりも前に戻ってきてしまった事実を痛感して、逆に居心地が悪くて震えてきた。

 

「っ!朔月くんっ……!目ぇ覚めた!?大丈夫!?」

「……錦木。おはよ」

 

 ベッドのすぐ右隣りで、千束が身を乗り出して此方を見ていた。今にも泣き出しそうなその顔を見て、らしくないと小さく笑う。

 

「良かったです。本当に……」

「たきな……心配かけてごめん」

 

 千束の隣りにはたきなが腰掛けており、誉の覚醒を見て胸を撫で下ろしていた。更にベッドの向かいには、なんとミカとミズキが立っており、ベッドの左隣りにはクルミまで。

 

「‪体は大丈夫か?」

「……まあ、さっきよりは……って、どのくらい時間経ってる?……うわ、外真っ暗じゃん。面会時間過ぎてるんじゃ……?」

「病院に無理を言って引き伸ばして貰ったのさ」

 

 軽く微笑むミカをぼうっと見上げる。そうなのか、となんとなく納得しかけたが、不意に自分の身体を見下ろすと、薄い病院服の裾から先や足には、見るも惨たらしい生傷の数々に、巻かれた包帯がなお痛々しい。

 ふと違和感が脳裏に過ぎり、思わず近くにいた千束へと視線を向けた。

 

「は……え、な、なんて言い訳したの俺のこの怪我。ドンパチやったって言えないでしょ」

「……大丈夫、行きつけの病院だから。リコリス(私達)の事も知ってる。今日は安静にって事だから、此処で過ごして」

「……入院する程の怪我じゃないんだけど……」

「駄目。今日一日だけで良いから、とにかく安静にして」

 

 千束の威圧感が凄まじい。必死というか、何と言うか。言葉にできないそれを肌で感じて、それ以上不満を漏らす事無く落ち着いた。取り敢えず、今日一日は入院を甘んじて受けるとして……まだ、気になっている事があった。

 

「……そういえば、あの暗殺者と、松下さんは?どうなったんですか?」

 

「「「「「────……」」」」」

 

 その質問と共に、誉以外の全員が顔を見合わせる。本来、DA及びリコリスの仕事に一般人を関わらせる事は無い。存在自体が機密情報だからだ。だが今回、彼らは不覚にも誉を事件に巻き込ませてしまった。

 任を受けて護衛と警戒はしていたが、来日して早々に暗殺者が来る可能性の低さに傲っていた部分もあったかもしれない。

 彼らの中では既に、無関係ではいられない誉に説明をする事で話がついていた。ミカは、小さく息を吐いた後に口を開いた。

 

「ジン……あの男は、私の以前の仕事仲間でね。話を聞いた後、そのまま別れたよ」

「ああ……そうなんですね。俺の事、なんか言ってました?」

「私の部下だと勘違いされてしまったよ。“良い腕だ”と。私としては、素直に喜べないな」

「……すみません……で、松下さんは?」

 

 そう聞くとミカは押し黙り、チラリと隣りのミズキに目配せをする。ミズキはそれを伝えるのが自分の仕事だと理解すると、調べがついた内容をそのまま説明した。

 

「……さっき、クリーナーから連絡があってね。指紋から身元も割れてる。先々週に病棟から消えた、()()()()()()()()()だって。もう自分で動いたり喋ったりできないらしいわよ」

「……え?」

 

 その言葉に思わず耳を疑った。千束とたきなに視線をやれば、彼女達は既に聞いていたのであろう、何も言わず納得がいかないような表情で俯いていた。

 それは誉も一緒だ、先程まで松下と共に居たからこそ、彼と話を色々としたからこそ、信じられないという思いも大きかった。

 

「……なら、あの会話は?俺達とのやり取りは……?」

「ネット経由で第三者がお前らと話してたんだよ。ゴーグルのカメラに、車椅子はリモート操作で、音声はスピーカーだよ」

 

 淡々と話すクルミのその話を聞いて感じたのは、背筋が凍る程の恐怖だった。

 その手の込み具合には戦慄せざるを得ない。つまるところ、松下という人間は存在しない事になる。あのボディガードもグルで、

 

「……あの、松下さん二十年前に家族を殺されたって言ってましたけど、その辺の調べは付いてるんですか?」

「……その頃、ジンは私と共に仕事をしていた」

 

 つまり、暗殺者には恨みを持たれる道理が無い。あの話もでっち上げで、架空の話という事になる。

 それに暗殺の依頼を齢十代の女性で構成された機密機関であるDAの、それも干されたといっても過言では無い島流し状態らしいリコリコ支部に依頼するのも狙いが過ぎている。

 

 此処を選んだ目的があるという事。狙いで有力なのは、長年DAに身を置いているミカか、戦闘能力の高い最強リコリスである錦木千束。

 これまでの話から考察し、消去法で物事を考えるのならば。

 

 ────彼は千束に殺しをさせる事が目的だったって事になる。

 

 松下自身も“アラン・チルドレン”の存在を理解していたし、やたらと“使命”を引き合いに出していた。千束の使命を“殺し”に直結させる事が目的なのだとすると、多少無理はあるが辻褄は合う気がした。

 もしかしたら、千束に人工心臓を与えた人間かもしれない。なら、千束のいう“会いたい人”というのは────

 

(……けど、それを千束に言うのか……?)

 

 できるわけがない。確証も無いのに、伝えるのは憚られた。自分はあくまで一般人で、本来ならこの世界の錦木達とは関わりあってはいけない存在だった。

 彼女はただ、救ってくれた人に会ってお礼を言いたいだけなのに。此方から不安にさせるような事を告げるのは、違う気がする。

 なら、この話はもう終わりだ。誉は小さく息を吐いた。

 

「……色々教えてくれて、ありがとうございます。もう大丈夫です」

 

 ────そして、今もなお不安気な視線を変えない周りの視線を見て、誉は聞きたくない事を聞く覚悟を決めた。

 ああ、もう質問するだけの楽な時間は終わってしまったんだと、半ば諦観を抱きながら。

 

「あの……俺の倒れた原因って、もう聞いてます?」

「……過度な運動による心機能障害だそうだ」

 

 ────心機能障害。聞くと何とも分かりやすい単語だ。倒れた原因を言語化するのに、これほど簡単なものもないと卑屈に笑う。

 千束とたきなは不安そうな表情を変えない。千束は、誉から決して視線を逸らそうとはしない。ミカの発言に彼女は改めて驚いたりはしていない。どうやら担当医から既に倒れた原因を、自分が気を失ってる間に聞いたのだろうと理解した。

 

「……どういう事なの」

「……ミカさんから、聞いたんじゃないの?」

「直接聞けって、先生が」

 

 ミカさんへと視線を向ける。彼は何も言わず、ただ此方を見ていた。ミズキも、クルミも────たきなも。

 誉は観念したように、苦しみを誤魔化すように、小さく笑みを浮かべながらポツリと呟いた。

 

「後天性の心疾患でさ……もう長時間の運動ができないんだ。気が付けば病院暮らしでさ……まともに出歩けるようになったのもつい最近のことだったんだよね」

「……ぇ」

「っ……なん、で……」

 

 たきなと、そして千束はやはり知らなかった様だった。話さないでいてくれたのは、ミカやミズキなりの気遣いだったのかもしれない。クルミも個人的に調べていたのを知っていたが、今の今まで黙っていてくれた。

 

 つまりこれこそが、誉が学校に行けず、水族館にも行けず、地元である東京の観光に行けなかった最大の理由。生まれて今日までの十七年間の内の大半を、誉は病院という名の“箱庭”で過ごしてきた。

 

「い、今は退院してるんですか?通院とか……」

「退院は……まあ、してるかな一応。通院はしてない」

「なんでっ……!!」

 

 隣りに座るたきなが驚きで肩を震わせる程の怒声。声の主である千束の瞳が鋭くなる。睨み付けているとも思える程に。口元を引き絞り、怒りや苛立ちを堪えるようなその表情を見ても、誉は特に動じる事はなくて。

 

「病院嫌いだし……行っても意味無いし(・・・・・)

「……意味が、無い……?」

「うん、治んないからね」

「治らないって……じゃあ……」

 

 その言葉の意味を、たきなは図りかねて思わず反芻する。いや、本当は理解しているけど、理解したくないような、そんな表情に見えた。

 そしてそれは、千束も同様だった。けれど、彼女が人工心臓であるという特殊過ぎる境遇だからだろうか、恐らく誉の現状を一番理解しているのは恐らく千束だった。

 

 誉からすれば彼女が人工心臓を移植された経緯は不明だけれど、単純に考えれば病気か任務中の致命傷が原因だ。

 ────そして、彼女の反応とこれから来るであろう質問を考えれば、恐らく前者。

 

 

 ────……なら。なら、もう言ってしまおう。

 どうせ聞かれてしまうのなら、此方から誠意を持って伝えてしまおう。

 

 

「……ゴメンな、錦木。たきなも」

「ぇ……」

「……どうして、誉さんが謝るんですか……?」

 

 二人の困惑した顔が此方に向けられる。誉のその雰囲気から、ミカやミズキは息を呑み、クルミはパソコンから目を外し此方を見つめる。

 

「……え、先生?……ミズキ?」

「……」

「……え、ちょ、何……?」

 

 ミカとミズキ、クルミは知っていて、二人はまだ知らない。

 

 それは彼らに出会う前に宣告された、無慈悲な現実。

 

 

「……半年」

「え……」

「半年、って……?」

 

 

 千束とたきなは突拍子も脈絡もなく告げられたその単語に戸惑い、何の話だと顔を顰める。

 今ので察してくれたらなと苦笑しつつ、誉は普段と変わらない柔らかな笑みで伝えた。

 

 

「────俺の、余命さ」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 空気が、凍り付いた。

 世界中の時間が、停止したとさえ思えた。

 

「……ぇ」

 

 千束とたきな、どちらが零した声か分からない。

 彼が何を言っているのか理解できない。およそ現実とは思えない程の衝撃を前に、二人はただ固まっていた。

 それほどまでに、誉の一言は────

 

「……な、何言って……そんな嘘、笑えない……」

 

 千束はまるで不意打ちに遭ったような驚愕の色が表情から見えるも、受け入れがたい現実のあまり口角が上がっていた。

 たきなも顔を真っ青にして此方を見ていて、誉が口にしたその残り期間を反芻した。

 

「────半、年……?」

「うん。長くても一年くらいだってさ」

「……っ、そん、な……!」

 

 ────半年(・・)

 

 生々しく突き付けられたその残り時間に、病室の空気が凍り付く。一年にも満たない残りの時間、その現実味を帯びた一言に、誰もが言葉を発せられない。

 ミカもミズキもクルミも、何も言わない。恐らく知っていて、そして。

 

 ────千束とたきなだけが、知らされていなかった。

 

 ミカやクルミの視線を気にしないように、見ないように振る舞いながら、誉は『驚かしてごめん』と、千束とたきなに笑いかける。

 千束の顔は、困惑と絶望でもう限界を迎えているように見えた。小さく、震える声音は変わらないまま、再度誉に向かって問いを投げかけた。

 

「……なんで、黙ってたの……?」

「え……」

「心臓の事。言わなかったじゃん……っ」

「……錦木だって言わなかったろ。俺も聞かなかった」

 

 ────それを、アンタが言うのか。

 怒っているように見えた彼女に、そう正直に言ってやりたかったけれど。彼女の人工心臓の件を掘り下げなかったのは、あの時は此方も彼女に伝えてない事があったからだった。

 

「っ……命の危険もあるって……それが分かってて、戦ったの……?」

「え……うん、まあ……」

「身体に負担がかかって、疾患の所為で死ぬかもしれなかったのに、あんな事ができたんだっ……!?」

「……俺はあの時、生きる為に戦ったつもりだったんだけど」

 

 千束に当たるわけじゃないが、あの場で自分が動かなければたきなだけでなく自分も殺されていたかもしれない。殺されて死ぬよりは、自分の残りの寿命を最後まで使い切りたい。その為に、誉はあの時戦ったつもりだった。

 

「……怖く、ないんですか?」

「え?……あー……そう、ね……平気になった」

 

 たきなのその質問は至極真っ当なものだった。残り半年で自分が死ぬと言われても、あまり現実味がないというか、実感が湧かないのだ。だから、楽観的に物事を考えているのかもしれないけれど。

 

「……最初は怖かったけど、自分でどうにもならない事を考え続けても仕方無いって、今は思ってる」

「……」

「その日その日を精一杯、後悔無いように生きる。月並みだけど、俺は今凄く楽しいよ?錦木とたきなと、クルミとミカさん、ミズキさんの六人でリコリコで働くの」

 

 病院から飛び出した先には、誉の知る事の無かった世界が無限に広がっていたのだから。テレビや物語、ネットで調べた知識以上に、その身に刻んだ経験や記憶の全てが、今日まで生きていて良かったと思わせてくれた。

 その出会いを生み出し、増やし、知らない世界を教えてくれたのはいつだって、目の前のリコリス────錦木千束。

 

「……だから、錦木。最後まで俺を、リコリコに置いてくれないかな」

「っ、そんな、の……」

 

 千束に言われる前に、誉がそう口にする。

 この店に誉を招き入れた彼女の事だ、責任を感じてしまう事は目に見えていた。今日みたいな事が起きた時、誉をこれ以上危険に晒さないよう、距離を置こうとするかもしれないと。

 けれど、もう誉の残り人生に置いて、リコリコが傍らにない時間など考えられなくなっていた。

 

「ミカさん、明日からもよろしくお願いします」

「……分かった」

「先生っ!!」

「店長、どうして……!」

 

 ミカのその答えに千束は立ち上がり、たきなは声を上げる。二人は反対なのか、ミカを睨み付ける程に眼光を鋭くさせていた。

 彼は何も言わず目を瞑ったが、その隣りでミズキが深く息を吐き出した。

 

「あのねぇ……そもそも彼を追い出す事ができないの」

「え……な、なんで……」

「今回の件、アンタらが一般人を巻き込んだ事は、多分上に知られる事になる。お偉いさんが朔月くんをどうするのか分からない以上、おいそれと追い出すわけにはいかないでしょ」

「っ……そ、れは……なら、報告しなければ……ううん、したとしても私とたきなで対処したって言えば……」

 

「────“ラジアータ”」

「……ぁ」

 

 ポツリと、クルミから告げられた言葉。

 誉は知らず首を傾げていたが、他のメンバーにはその存在の大きさが分かるようだった。

 

 “ラジアータ”────DAにおいてリコリスの作戦をモニターする際に機密性を担っているAI。 すべてのインフラの優先権を持ち、作戦の全般をサポートする程の高性能。作戦に必要な通信能力、監視カメラ映像、データ収集などは容易く熟す。その気になれば、日本全ての情報を収集する事だってわけがない。

 

「嘘の報告をしても時間稼ぎにしかならない。整合性が低ければ本部もラジアータも、その違和感を見逃さない。朔月くんの存在がDAに見付かるのは時間の問題だ。距離を置くのは逆に危険過ぎる」

 

 ミカのその言葉がトドメになったのか、千束は何も反論できずに力無く腰を下ろした。たきなも、呆然と口を開けて俯く。

 

 誉はもう、常連だった時のような平凡な生活を送る事は叶わない。残り少ない寿命を、リコリコと相乗りしなければならない、その選択肢しか彼には与えられていない。

 

 八方塞がりだ。千束とたきなには、もう打つ手はなかった。特に千束の表情には、絶望に近いものを宿していた。そこから感じるのは、深い悲哀と後悔の念。

 全ては、あの日。彼に出会ってしまったから。彼を好きになって、彼と一緒にいたくて、彼とお店で働きたいと願ってしまったから。

 全て、全て自分のせいで。

 

 

「────千束(・・)

 

「……ぁ」

 

 

 ────その名を呼ぶ。

 

 ゆっくりと、千束は思わずその顔を上げた。

 頬に、肩に、腕に、足に。その身全てに傷を刻みながらも、リコリコに誘ってくれた千束に感謝すれど、恨む事など誉には一つも無くて。

 

「……ごめんね」

「────……なんで」

 

 ポツリと、そう呟かれた問い。

 誉は瞳を細めて、どうにか気持ちを抑えながら告げた。

 

「……俺、“将来の夢”の事は、もう考えられない」

「────っ、ぁ」

 

 千束は、誉の夢を凄く褒めてくれていたけれど。目指すべきだと言ってくれたけど。

 たきなは、夢が多過ぎると窘めてくれたけど。現実を見て一つに絞れと教えてくれたけど。

 その夢のどれか一つでも、今の自分には難しいから。

 

「けど精一杯生きるから。君みたいにやりたい事最優先で。だから……此処に居たい。千束(・・)と、みんなと一緒に。最後の瞬間まで」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

「……はぁ、はぁ……!」

 

 ────どうやって、何を言って、誉の病室を飛び出したか分からない。

 

 ミカやミズキ、クルミとたきな。みんなを置いてそのまま廊下を走り抜いて、そのまま病院の駐車場に停めてあるミズキの赤い車の前まで辿り着き、そうして漸くその足を止める事ができた。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 どれだけ走っても、心臓の鼓動はない。

 人工心臓は、悲鳴を上げたりしてくれない。

 自分が間に合わなかったせいで戦う事になった彼の身体の痛みも、その心臓の痛みさえ、もう自分は分かってあげる事ができない。

 

 

 ────“いえ、丸ごと機械なんです!”

 

 

 機械によって生かされている。強い、機械でできた心の臓によって生き永らえている。凄いだろ、と。

 誉にはまるで、自慢しているみたいに聞こえていただろうか。彼がそんな風に思う人でない事を、千束はとっくに知っていた。

 

 ───“ほら、もっと力入れないとー。女の子みたいに細腕(・・)なんだから”

 

 ───“何処も行った事ないの?家ってこの辺だよね?”

 

 ───“観光気分で付いてきて良いもんじゃないのよ、本当は”

 

 ───“でも怪我でもさせたら、朔月くんの夢の邪魔になっちゃう……”

 

 ───“朔月くん頭良いし、何にでもなれるよ!”

 

 自分は、彼に何度失言しただろうか。

 彼の身体的特徴も、色んな場所に無知である事も、色んな経験に疎い事も、それ故の“こうしたい”という願望や欲も、全てはその境遇故の弊害だった。

 おいそれと軽々しく、触れてはいけない場所だった。

 

 ────半年。

 

 それが、彼の余命(タイムリミット)

 自分よりも少なくて、自分よりも先にいなくなってしまうその事実を受け止めきれなくて。

 言いたい事、聞きたい事の半分も伝える事ができなかった。

 

「……ははっ、なっさけなぁ……」

 

 既に夜、天は星空が覆い、薄暗がりの中街灯だけが千束を照らす。

 その中で暗くて何も見えなかったはずの千束の視界から、雨粒にも似た水滴が地面に落ちた事に気が付いた。

 

「……あ、あれ……」

 

 ふと、顔を上げてその頬に触れる。

 ヤケになって、強く、強く頬を拭う。とめどなく滴り落ち、流れているのは自身の瞳から溢れ出たものだった。

 今、自分は泣いているのだろうか。泣くのなんて、酷く久しぶり気がした。何が悲しくて、何が哀しくて、何が切っ掛けだったのか、今の千束には分からなくて。

 

 

「……どうして……止まんない……っ」

 

 

 拭っても、拭っても、とめどなく。

 今まで経験した事もない感情が、千束の胸に押し寄せて。

 

 

「……なんでよ……なんで……なんでぇ……」

 

 

 ────初めて流すその涙の止め方を、千束はまだ知らなかった。

 

 

 









たきな 「……あ、あの、誉さん」

誉 「たきな?……ミカさん達、先行っちゃったけど」

たきな 「っ、その……言わなきゃいけない事があったので」

誉 「……え、何?怖い怖い、何?」

たきな 「……あの時、助けてくれてありがとうございました」

誉 「え…………あ、はい…………」

たきな 「……」

誉 「……」

たきな 「…………」

誉 「…………え?」

たきな 「っ……で、では、またお店でっ……!」

誉 「あ、うん。また……」

誉 「……」

誉 「…………別に二人にならなくても言えたよな?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

IF.1 If the Valentine







初めから誰もが救われたのなら。
初めから誰もが幸せなのだとしたら。
────これは、そんなあったかもしれない、あるかもしれない、叶わないかもしれない未来の“もしも”。




 

 

 

 

「あ、あの……、これっ……!」

「え……」

 

 ────甲高い少女の裏声が、店内に響き渡る。

 何事かと、店内一同が視線を声の主へと集約させた。常連客だけでなく、ミカやミズキ、駆り出されたクルミ。

 そして、たきなと千束さえ。

 

 そこには、長い茶髪の女子高生が顔を真っ赤にして、何かを持ったその両手を前へと突き出す姿があった。

 その突き出した両手の先に立っていたのは、この店の男性店員である朔月誉の姿が。

 

「な……!?」

「……っ」

 

 千束とたきなのその視線は、少女が手に持つ包装された長方形の物体へと吸い込まれていた。可愛らしい桃色の包装紙に、赤いリボンを基調としたラッピングの物体。

 そのプレゼント仕様の飾り付けと今日の日付を再確認してしまえば、それが何かは乙女でなくても一目瞭然。

 

 ────二月十四日。

 

 そう、今日はバレンタインデーなのである。

 最近はイベント自体が廃れてきているような気がしないでもないが、それでも乙女にとって、錦木千束にとっては一世一代の気合いの入れどころだった。

 仕事終わりにムードやらシチュエーションやらが良い感じになったタイミングで、誉に渡そうかなとふわふわ考えていた千束の脳を直接ぶん殴るかの様な衝撃が、目の前の光景を見た瞬間に襲ってきた。

 

「……えと、これは……?」

「ち、チョコです!バレンタインチョコ!受け取って下さいっ……!」

 

 レジ前に立つ誉は、ジッと女子高生が腕をピンと伸ばして突き出してきた長方形の包み───バレンタインチョコを見下ろす。

 突然の事で誉も驚いているらしく、女子高生とそのチョコをと視線が行き交っている。女子高生は友達連れで、その娘の後ろで友人二人が『キャー!』と声を小さくしつつも、はしゃぎながらその光景を見つめていた。

 

 千束としては想い人である誉がどんな反応を示すのかヒヤヒヤもので、接客も止めて、固唾を呑んで見つめる。

 たきなも同様で、表情は大きく変えずとも気になってるらしく、注文を取るメモの手を止めてジッとその光景を見つめていた。

 

 当人である誉はお会計モードだっただけに状況が理解出来ていないのか、暫くそのチョコを見下ろしているだけで、中々返事を貰えない女子高生はその腕を小さく震わせていた。

 受け取っても貰えないのかと、誉の返答を待つ時間は恐怖そのものだろうと、千束が同情しそうになった瞬間、誉は遂にその口を開いた。

 

「えっと……これ、頂けるんですか?」

「は、はい!手作りなので、口に合うか分からないんですけど……」

「手作り?へぇ凄い……態々カカオから……」

「い、いえ、そこまでは……」

「冗談ですよ。ありがとうございます。大事に食べますね」

「っ……は、はい……!」

 

 その女子高生は泣くんじゃないかと思う程に破顔して喜び、顔を赤くして席へと戻って行った。友人二名からは『やったじゃん!』『渡せて良かったね!』などと賞賛を受けており、その少女も嬉しそうに微笑んでいた。

 

「……あんの女ったらしぃ……!」

 

 千束はこれでもかと誉に睨みを利かせながらわなわなと口元を震わせるも、誉は知らぬ存ぜぬ、帰路に立つ先程の女子高生達三人に『またのお越しをー』なんて呑気に挨拶までしていて、何だか凄くムカつく。

 

「いやー、朔月くんも隅に置けないねぇ」

「モッテモテじゃん!」

 

 すると、山寺と米岡がそれぞれの席でこれでもかと誉を冷やかし始めるではないか。北村も『青春だなぁ……』と頬を染めてうっとりと誉を眺めていて、伊藤は漫画のネタを思い付いたのかメモを開いて何か書き出している始末。

 誉は山寺と米岡の反応の意味が分からないと言った表情で、眉を寄せて混乱していた。

 

「……もってもて?」

「何その初めて聞いた単語みたいな反応」

「ああ、そう言えばこの子鈍感系主人公だったわ……」

「あの、どういう……?」

 

 北村と伊藤が顔を見合せて頭を抱える。誉が首を傾げていると、二人は揃って説明を始めた。

 

「さっきの娘、この近くの高校なんだけど、男子から凄い人気らしいのよ」

「告白とかも凄いされるんだって、この店でよく話聞くんだよねぇ〜……そんな娘からチョコなんて、羨ましいなぁ」

「……そう、なんですか」

「……何、反応悪いじゃない」

 

 伊藤が訝しげに誉を見つめる。確かに、誉はチョコを見下ろしてるだけで、その表情も浮かない。というより、今の状況が理解出来てないような、そんな顔をしていた。

 千束やたきなだけでなく、常連客達もそれぞれ顔を見合せて首を傾げる。すると、誉が伊藤さんへと視線を向けてポツリと告げた。

 

「俺、あの娘に好かれてるって事ですか?」

「今更何言ってんのよ。あの娘来る度アンタにアプローチしてたじゃない」

「アプローチ……いや、偶に話してただけですよ。良い天気ですねー、とか、今日雨凄いですねー、とか」

「……天気の話ばっかりですね」

「あ、確かに……まあ、最近寒暖差激しいもんね」

「……そういう事じゃないです」

 

 何も分かってない誉にげんなりするたきな。

 誉の反応を見るに特に慌てた様子も無い。女子高生から告白同然の行動を受けたというのに落ち着いてるその態度に、千束はほんの少しだけ安堵した。

 

 彼女の事は千束も知っており、この近くの高校で大和なでしこで目の保養だと男子高校生がこの店でよく話していたし、この店に来てくれれば千束自身も彼女と話す機会は多い。

 男性に耐性が無いだろうなとは思っていたが、誉相手に中々アプローチが弱いと見える。まあ、言わずがもがな誉の顔面の偏差値が高いのは要因ではあるだろうが……。

 

「兎も角、あの娘が俺を好きなのは考え過ぎじゃ……?」

「いやいや、チョコ貰っておいてそれは鈍感とかそういう話じゃないから」

「ちゃんと返事してあげないと〜♪」

「え……い、いや、別に告白された訳じゃ無いのに返事なんてしたらとんだ勘違い野郎じゃないですか」

「何言ってんの、明らかに本命だったじゃない。直接『好き』って言われてなくてもその気持ちくらい汲み取りなさい」

 

 北村と伊藤に言われても、納得せず困惑する誉。

 しかし流石に千束にも、誉がさっきの女子高生からの好意を素直に受け取らず、逃げる様に言い訳をしている様にしか聞こえない。自分がいざ誉に想いを伝えた時に、目の前の彼の様な煮え切らない態度を取られれば腹が立つ。

 

 ────千束が眉を寄せてツカツカと誉に近付いたその時だった。

 誉が、目を丸くさせて手元のチョコを見下ろした。

 

「……あの、チョコを渡すと好きって事なんですか?」

 

「────は?」

 

 誰が声を漏らしたのか分からない。ただ、誰もがその声の主と同様の言葉を脳内で発していた事だろう。

 千束でさえ誉が何を言っているのか分からず、暫く固まって動けずにいたが、どうにか思考を巡らせて、誉に向かって口を開く。

 

「……いや、そりゃバレンタインチョコだし、あの娘の反応見ればそんなの……」

「?……このチョコに何か意味があるって事?」

 

 ……なんだろう、話が噛み合わない。

 まるで、この話の根本をそもそも理解してない様な、そんな反応。誰もがその違和感を感じ取っていた事だろう。

 口をポカンと開ける伊藤の向かいに座っていた北村が、恐る恐るといった様子で誉に問い掛けた。

 

「……朔月くん、バレンタインって知ってる?」

 

「え?……このチョコのブランド……というかメーカーさんの名前じゃないんですか?」

 

『『『…………』』』

 

 ────その可能性がある事を、千束とたきな、引いてはリコリコの従業員は知っていたはずなのに、気付きもしなかった。

 

 ま、まさかこの男。

 

 ────バレンタインを知らない?

 

 

 

 

IF Story.1『 If the Valentine(たとえば、こんなバレンタイン)

 

 

 

 

 ▼

 

 

「え……バレンタイン、知らないの……?」

「そんな人この世にいんの……?」

 

 常連客が困惑でザワつく中、それを眺めていた千束とたきなは彼のこれまで平然とした態度と、今首を傾げている姿を見て、少しだけ納得した。

 

「……あー、なるほどなぁ……そっかそっかぁ……」

「誉さんなら……まあ、有り得ますね」

 

『『『有り得るの……?』』』

 

 誉は生まれてからリコリコで働く少し前まで、病気によって入院しており、人生のほぼ全てを病院で過ごしてきた。故に交友関係も希薄だし、相手の感情に疎い部分も多く、彼が時々病院の事を“箱庭”と表現していた事もあり、外部の接触や干渉はほぼ不可能に近かった。その為、知識の偏り方も常人とかなりズレがある。

 

 普通に過ごしていたら触れないような知識もあれば、普通に過ごしていたら常識と思われるような知識の欠落もある。

 彼がバレンタインデーというのを知らない、という事は考えられたはずなのだが、流石に気付けなかった。

 

「朔月くん、節分も知らなかったしなぁ……」

「マジか」

「朔月くんって異国の人なの?」

「……まあ、普通の育て方はされてないですね」

 

 あっけらかんと誉は答えるが、正直十七歳でバレンタインどころか節分すら知らないというのはハッキリ言って異常である。如何に彼が稀有な人生を送ってきたかが知れる。

 皆が訝しげな視線を向けながら、誉という存在の再認識を始める中、彼は我関せずといった様子で柔らかな笑みを浮かべた。

 

「あ、でも節分はもう覚えたから来年は大丈夫。2月3日はミズキさんに向かって大豆を投げれば良いんでしょ?」

「もう何処から突っ込めば良いの……」

「大豆って言ってる人初めて見た」

 

 ────普通は“豆”だろ、と各々から突っ込み。

 そして“鬼”でなくミズキ。既に色々とおかしい誉の節分の知識。常連はこぞって千束とたきなへと視線を向けた。

 

「なんでミズキさん?」

「あー、丁度節分の日にクルミがミズキのお酒落として割っちゃってさー、ミズキがそりゃーもう鬼のようにキレ出したから、皆で豆投げたんだったわ」

「クルミちゃん……」

「ボクは謝ったろ」

 

 それまで黙っていたクルミはそれだけ告げてパソコンへと戻っていく。既に常連以外は店を出ており、そろそろ閉店の時間だった。いつの間にか和服から普段着に着替えており、不貞腐れた顔で息を吐く。

 

「……それで、ばれんたいんって言うのは?」

「え?あ、やー……それは……」

 

 誉は、ふと気になった事をポツリと呟く。それを耳にした途端、千束の表情が固まった。

 ────……これ、説明の仕様に寄ってはこの後のチョコを渡す難易度が跳ね上がるのではなかろうか。

 

 想い人にチョコを渡す日なのだと説明してしまえば、これから千束が誉に渡そうとしているチョコに意味が生まれてしまうのだ。

 いや、そのチョコに込められた意味としては間違ってはいないのだが、義理チョコのつもりで渡すつもりだっただけに此処での説明を間違えると色々と面倒な事に……。

 

「……たきな、お願い」

「っ、ええ……?」

 

 上手く説明できる気がしない。千束は嘘を吐くのがド下手なのだ。千束は近くにいたたきなへと襷を渡し、突然の事でたきなはビクリと肩を震わせる。

 視線を戻せば何ともまあつぶらな瞳を向ける誉に当てられ、たきなの頬が赤くなる。

 

「……バ、レンタイン、とは……えと、世間では女性が男性にチョコを贈る日、ですかね」

「……何故?」

 

 ご最もである。何故?何の意味が?と言わんとしてる。嫌味でなく純粋な眼差しから繰り出された疑問だった。最近、好奇心の権化と化している誉は、外の世界を知らないからこそ色んな事に興味持ちがちだった。

 たきなはどう答える?どう返す?と、千束がハラハラしていた時だった。たきなは真っ直ぐに彼を見つめて。

 

「私も歴史とかに詳しい訳じゃ無いですけど……ただ、好きな人や大切な人に贈り物としてチョコを渡す日なんですよ」

「なっ……」

「……そう、なんだ……へぇ」

 

 千束はたきなのその説明に瞳を丸くする。

 ────誤魔化すどころか、誉に全部正直に話してしまっているではないか。

 誉は驚いた様子で手元のチョコを再び見直していて、その間、千束はたきなを引き寄せて耳打ちした。

 

「ちょ、何ですか千束……」

「こっちのセリフ!なんでそんなバカ正直にバレンタインの説明しちゃうの……!」

「何か問題が?」

「この後チョコ渡しづらいでしょーがぁ……!」

「……千束まだ渡してなかったんですね」

 

 しまった。墓穴を掘ってしまった。

 ジトッと細い目で此方を見るたきなから逃れる様に視線を逸らし、手元で両の手の指先をしどろもどろに遊ばせながら言い訳を漏らす。

 

「え……あ、やー……それは、その……ムードというか、良い雰囲気になった時に渡そうと思ってたから……」

「そんなだから、いつまでも告白できないんですよ」

「っ……い、言ったなぁ……!?大体、そんなんたきなも一緒じゃ────」

 

 

「────私はもう、誉さんには伝えてるので」

 

「……ぇ」

 

 

 ────再び、何か重たい物で後頭部を殴られたかのような衝撃。初耳過ぎるその情報に、千束は固まって動けない。

 たきなは気恥しそうに目線を提げ、二つ縛りの髪の一房を指先でクルクルと弄り出した。

 

「え……え、ええ……?告ったの?い、いつ……?」

「去年、この店でクリスマス会やった日ですね」

「い、いつの間に……へ、返事は……?」

「……秘密です」

「────っ」

 

 たきなは、悪戯っ子の様な不敵な笑みを浮かべて此方を見ていて。千束は、一瞬でその心臓の鼓動を走らせる。不安と焦燥が綯い交ぜになりながら、わなわなと口元が震えた。

 

 告白の返事を聞いた瞬間のたきなからは、想いが報われなかった時の様な悲痛さを感じなかった。故に彼女の想いが誉に伝わり、それを彼が受け入れてしまっているのか────既に、二人は付き合ってしまっているのか、不安で不安で仕方がないのに、それを怖くて聞けなかった。

 

「……たきな、は。もう、チョコ渡した?」

「いえ、まだですけど。でも、渡しづらいとかは無いですね。私はもう、知られてしまっているので」

 

 達観した様に瞳を細め、視線を傾ける。そんなたきなの視線を追っかければ、未だに常連客とバレンタインの定義の話をしている誉の姿があった。

 

「けど、たきながさっき言ってた『大切な人に贈り物として』って事は、別に好きな人であれば恋愛的な意味じゃなくても良いんですよね?だったら彼女が俺の事を好きで渡してきたかなんて分からないんじゃ……」

「アンタさっきそんなに話した事ないって言ってたじゃない。なら、恋愛的な意味以外での好きって可能性は薄いんじゃないの?」

「……あ、それで言ったら、さっき休憩中にクルミからポッキー貰ったんですけど、じゃあクルミは俺の事好きって事になるんですか?」

「朔月くん凄い事聞くじゃん」

「顔面が良いとこういう質問するのにハードルが低そうで羨ましいわね」

「しかもクルミちゃんが渡したのって絶対自分がつまむ用でしょ……」

 

 ────ああ、やだな。

 彼が人気なのは、喜ばしい事なのに。嬉しい事のはずなのに。見れば見るほどに、不安になってしまう。

 

「……恋って面倒だなぁ……」

「まったくです」

 

 

 ●○●○

 

 

「……よし」

 

 和服から黒のパーカーに着替えを終えて、そこから黒ジャンパーとネックウォーマーという防寒着に身を包み、ショルダーバッグを肩に引っ提げる。

 

(二人、はもう帰ったかな……戸締まりはクルミにお願いするか)

 

 今日の閉店準備は俺と千束とたきなのみ。クルミはいつもの押入れでパソコン弄ってるので実質三人のみである。ミズキさんのシフトは閉店前までだし、ミカさんは今日用事があるとの事だった。

 それでも三人だけというのはかなり珍しい。早々に清掃と戸締り、皿洗いとレジ締めを終えて、千束とたきなの着替えが終わってから更衣室にて着替えを済ませ、その足でフロアへと向かう。

 

「……っと、あれ、たきな」

「お疲れ様です、誉さん」

 

 すると、フロアの座敷にたきなが腰掛けていた。

 いつもの学生服に身を包み、足を床に、膝に手を置いて何とも姿勢が良い。リコリコの制服に限らず、学生の制服って冬寒そうだよな……なんてまったく関係の無い事をフワフワと考えてながら、彼女がそこに居る事の違和感が自然と口に出た。

 

「……帰らないの?」

「……っ」

 

 いつもは直帰じゃん、と追加で伝えると、たきなの肩が小さく震えた。

 え、何かマズイ事言った?……言ったな、これは。たきな何か顔赤いし。

 

「……ゴメン、余計な事言った。俺はもう帰るから」

「誉、さんを……待ってました」

「……ぇ」

 

 背を向けた瞬間、たきなが立ち上がる。振り返ると、心做しかソワソワしながらも此方にゆっくり近付いてくる。

 ……え、ちょ、何何怖い怖い怖い……と少しずつ後退りすると、すぐ背後に店の扉が。狼狽える俺を見てたきなは不満そうに顔を顰めた。

 

「何で逃げるんですか」

「や、だって近付いて来るから」

「私が近付くのは嫌ですか。嫌いですか」

「情緒がもう……な、何か用事?シフト変更なら……」

「違います」

 

 たきなは一度深呼吸をすると、意を決した様な顔つきで、その右手を俺に突き出してきた。その既視感ある光景に、思わず彼女の右手へと視線が落ちる。

 そこには、青のラッピング包装の施された、長方形の物体────……あ、これって……。

 

「……私からのバレンタインチョコです」

「っ、ああ、うん……ありがとう……」

 

 やはり、バレンタインチョコか。その手から受け取り、ジッと見つめる。

 さっき話したばかりの代物だ。中々に関係の薄いクルミや女子高生や、あの後常連の伊藤さんや北村さんにも頂いたので、もしかしたらと思わなかった訳じゃ無いけれど、いざ渡されるとどんな反応したら良いか分かんないな。

 

 ……あ、そういえば。

 さっきバレンタインチョコには“本命”と“義理”と呼ばれる、それぞれで意味の違うチョコがあると聞いたっけ。義理チョコは主に家族や友人、近しい人に贈るチョコで、本命はその名の通り、想い人に贈るチョコ────

 

 これ、聞くのってデリカシーに欠ける、よな。

 ……でも、目の前のたきなの、物欲しそうな表情を見ると、まだ何か言いたい事があるように見えて、思わず。

 

「……あー、えと、ちなみにこれ……」

「っ……私の気持ちは、その……既に伝えてると、思いますが……」

「あ、ああ……じゃあ、うん……そっか……」

 

 ───ああ、聞かなきゃよかった。ただただ恥ずかしい。

 つまるところ受け取ったこのチョコは、たきなにとっての“本命”であるという事だ。俺が改めて聞いてしまったばっかりに見た事ないくらいに顔赤くしていて、つられて俺も────

 

「……っ」

「何で誉さんが照れるんですか」

「や、そりゃ、だって……ねえ?」

「いい加減慣れて下さい。私まで恥ずかしいです」

「そっちがいい加減にしてよ!?俺君に告られるのこれで何回目だと思ってんの!?」

 

 イベントの度に言われてる気がする……最近のたきな魔性過ぎて怖いんだけど。たきなってお堅いイメージというか、恋愛とかオシャレとかに無頓着だし、疎いと思っていたから、こんなにグイグイ来られるとは思ってもなかった。

 

「……」

「……っ」

 

 チラリと視線を合わせれば、露骨に逸らす彼女。

 何でそっちから押して来てる癖に、毎度度初々しい態度なの恥ずかしいんだけど……。

 しかもその対象が自分とか……好意的な感情をダイレクトに伝えてもらった経験が無いだけに耐性なんて皆無に等しい。毎度たきなに翻弄されている。

 

「……誉さんの答えは知ってます。だから、返事を改めて聞くつもりは無いです。ただ『こういうのは気持ちだ』と、店長が……なので、受け取って貰えたら、と……」

「……わ、かった。大事に食べる。ありがとう」

 

 ……そんな風な言い方は、ズルいのではないだろうか。

 こういう時どう言えば良いのかが分からなくて、ズルズルとこんな関係を続けるのは、たきなにも良くないんじゃないか。

 返事は、とっくにしているけれど。

 

「……気持ちは、負けてないつもりです」

「え……ああ、うん……あ?うん?」

「私、こう見えて結構執拗いですよ」

「……あの、見たまんまそういうタイプだよ君」

「……そうですかね」

 

 自覚が無いのか、身に覚えがありませんと言わんばかりに腕を組む。が、少ししてすぐ「ああ、でもそうかもしれません」と納得しながら、小さく笑って。

 

「────私、“一番(ファースト)”を目指してるんで」

「っ……それはリコリスの話でしょ……」

 

 何の一番なのか、誰にとっての一番なのか。聞かずとも彼女の言動が、彼女の態度が、彼女の表情が伝えてくる。

 それを言及する様な度胸も勇気も、今の俺には残ってなくて。たきなはそんな俺を見て可笑しそうに微笑むと、踵を返して鞄を手に取ると、裏に続く扉へと手を掛けた。

 

「え……帰らないの……?」

「私は裏から帰ります。誉さんは表から出てください」

「……?」

 

 意図が読めず、自然と首を傾げてしまう。

 たきなはフワリと軽く微笑むと、俺が手に持つチョコを見つめて。

 

「……それ、千束と一緒に作ったんですよ」

「っ、ぁ」

 

 ────千束。

 その名を聞いて、心臓が一際跳ねた。

 時間をかけて、絆を結んで、紡いでいく内に彼女に対して生まれてしまった感情が、自覚出来るほどに頬に熱を生み出して。

 

「……私を諦めさせる気があるのなら、ちゃんと勝負してください」

「……頑張ります」

「よろしい」

 

「では、失礼しますね」と軽く手を振りながら、たきなは扉の奥へと消えていった。彼女の初めて会った時の印象と比べても、かなり彼女は取っ付きやすくなったと言える。

 よく笑う様になったし、千束と一緒に遊ぶようにもなったし、DA本部に戻りたい意志はまだあるんだろうけど、それだけを見つめ続けるような日々からは抜け出せている様に思える。

 

 そして、────人並みに“恋”もできるようになって。

 

『────私、誉さんが欲しいです』

『……は?』

 

 そんな事を突然聞いてきた時はガチで驚いたし、申し訳ないけど普通に『何言ってんだコイツ』って感じだったなぁ。

 欲しいって……物じゃないんだから、と説教みたいな事をして、告白だなんて露にも思わなかったっけ。照れるとか恥ずかしいとかそんな感情より前に混乱とか困惑が出てきたから驚くよね。

 

 そんなたきなが、錦木と一緒にチョコを作ったなんてエピソードがもう感動ものだったんだけど……たきなが千束(・・)と、という部分を強調していた事から察するに、この店の入口の先で……。

 

 ────……錦木、まさか表口で待って……。

 

 こんな寒い中、一人で?

 そう思った途端に、バッグを背負い直して取っ手を引っ掴み、半ば勢いで扉を開けば。

 赤い制服にマフラーを身に付けて、入口付近のベンチに座って星空を眺めている黄色がかった白髪の少女の儚い姿が。

 

「っ……錦木」

「よっ……お、お疲れ……」

 

 突然声を掛けたからか、肩がビクリと震えた。その後ろ姿が恐る恐ると此方を振り返る。此方を目視した途端にその瞳が煌めき、頬が赤く染まるのを見て────ああ、見なければよかったと後悔した。

 

「……お、つかれ」

「何で吃ってんの」

「お互い様でしょ」

「ふひひっ、だね」

 

 ……顔が熱い、気がする。

 いつからだろう。錦木を見て、こんな感情が芽生え始めていたのは。彼女の在り方に痺れ、彼女の言葉を胸に刻み込んで、彼女の動きを目で追っていたのは。

 

 ────この感情に名前が付いたのは、一体いつだったろうか。

 

「……こんな寒い中、何してんの」

「え、あ、やー……そのー……なんていうか、さ……」

「……風邪、引くよ」

「……っ」

 

 パチリと目が合い気不味そうに、気恥ずかしそうに視線が俯く。

 そんな錦木の思わせ振りな行動の一つ一つが、此方の心臓を強く脈打たせる。

 

「…………待ってた」

「っ……そか……待たせてゴメン」

 

 ──── 勘弁してくれ。そんなに心臓強くないんだよ、こちとら。アンタの人工心臓とは違うんだ。慣れない感情を前に煩くなる心臓を、鷲掴みにしてでも鎮めたい衝動が、君に分かるか。

 

 他にも言ってやりたい事があったけれど、錦木の照れた様な笑みから逃れる様に顔を逸らして、彼女の座るベンチの空いたスペースに腰掛けた。

 何を言ったら良いのか、何を言えば正解なのかも分からず、口を噤んだまま暫くの時間が過ぎる。隣りの錦木をチラリと見れば、彼女も此方を見ていたようでバッチリ目が合って。

 

「「……っ!」」

 

 バッと顔を背けられる。けれど、僅かに見える耳が視認出来る程に赤い。そこから動けずに固まっている錦木を見て、焦燥が生まれつつあった。

 用があるから待ってた、という割に中々切り出して来ない錦木。たきなの言動から察するに、恐らく錦木も俺にチョコをくれる、という事なのだろうが……って、口にすると中々に自惚れが過ぎててキモイんだけど俺。

 

「……」

 

 ……けど、そんな風にされたら。そんな態度を取られたら。

 

(……勘違い、するだろ)

 

 渡すだけなら、こんなに時間かからないだろうに。何をそんな、緊張した様な顔で俯いてんのさ。さっさと渡して、それで解散って……いつもの調子で言ってくれないと、さ。

 どうしたらいいのか、分からなくなる。

 

「……よしっ。さ、朔月くん」

「っ……ぇ、ぁ、うん」

 

 突如、何かを決めたかのように小さく頷くと、千束が此方に向き直る。突然の事で間抜けな声を漏らした俺を前にして、彼女は見慣れた学生鞄の中から赤い包装の長方形の物体を取り出して、此方に差し出してきた。

 

「……ん」

「っ……ああ、うん。あり、がと」

 

 ────言わずかもがな、千束からのバレンタインチョコ。

 たきなから匂わされていたとはいえ、いざ実物を渡されると反応に困ってしまう。思わず出した声は、言葉にならない情けない音で。

 

「えっ、何、その反応」

「や、その……ビックリして」

「……何それ。みんなからも貰ってたじゃん」

「いや、そうだけど。バレンタインを知らない段階で貰うのと、知ってから貰うのじゃ、気の持ちようが違うから……っ」

 

 ────失言だった。思わず言葉を途切れさせる。

 俺は、なんてデリカシーのない話を……と、慌てて千束を見る。すると彼女は、「あー……」と困った様に声を漏らし、誤魔化す様に笑って。

 

「……うん。だと思って、渡しづらかったんだけどさぁ……でも、渡せてよかった」

「……っ」

 

 ……これの為だけに、態々寒い中で。

 室内で待ってなかったのは、たきなが居たからだろうか。だとしても、悴んだ手と鼻の頭が赤くなってまで此処で自分を待っていたかと思うと、堪らなくなる。

 両手を口元に近付けて息を吐きかける錦木を見て、思わず俺は自身の手を伸ばして────

 

 気が付けば、錦木のその左手を握り締めていた。

 

「っ……!?な、うえぇっ……!?」

「……ぁ」

 

 すぐに我に返った。何やってんだ、俺。

 これ完全にセクハラだろやべぇやらかした。すぐに手を離し、目をそらす。

 

「な、え……な、さ、朔月くん……?」

「っ、やー、俺さっきまで皿洗いにお湯使ってたからさ。少しは温かかったでしょ?」

「え、や、あ、の……うん……え、うん……?」

 

 自分の行動に自分自身が一番驚く。いきなりの事で言葉にならない混乱の声を錦木は、顔を真っ赤にして呟き続けていて。

 マジで何やってんだ……何今の気障っぽいムーヴ。恥ずかしくて死にたい。

 

「……錦木、寒そうだったから、反射的に……ゴメン、これは痴漢やセクハラで訴えられても文句言えない。慰謝料は貯金切り崩してなんとかするから……」

「スケールが壮大過ぎる……や、全然気にしてないから。けど、そういう誰にでも優しくするの、よくない。私我儘だし、味占めたら付け上がるよ」

「自己評価辛辣過ぎるな……別に、錦木の我儘ってそんな大した事無いし、特に迷惑に感じた事無いけど」

「────……」

 

 ……ん?何だ?錦木、急に真顔でこっち見てるけど。

 何かおかしい事、言っただろうか。錦木の我儘なんて彼処に行きたい、アレしたい、アレ食べたいって子どもの延長だし、俺も楽しいし、ぶっちゃけ我儘に付き合ってる感覚は無い。

 

「……錦木?」

「……じゃあさ」

 

 錦木は、変わらず無表情のまま視線を下に向ける。

 その視線の先を追い掛けると、俺の右の掌────そこまで自覚した途端、その掌に錦木の左手が再び重なった。

 

「……まだ手、冷たいから……このまま握っててって言ったら、握っててくれる?」

「……っ」

 

 繋がれた彼女の左の掌から辿って、再び視線は錦木へと向けられる。今までになく真剣な表情と、揺れ動く瞳に見つめられて、何も言えず言葉に詰まる。

 普段の明るく、巫山戯た態度の錦木千束はそこにはいない。どこか不安を孕んだ様な声音を耳に、俺はただ錦木を見つめ返す。

 

「……どうなの?」

「え……や、別に、良いけど」

 

 彼女の質問に、ぶっきらぼうに答える。それよりも意識が自身の右手に集約してしまって、彼女の質問への回答どころじゃなかった。

 雑な返事になってしまったけれど、千束はそれに満足したのか小さく頷いて。その瞳を細め、伏せ、下を向いて、目を瞑り。

 

「こうして繋いでてって言ったら、そうしてくれる?」

「そりゃあ、まあ、できるかな」

「私が脚を挫いたりしたら、手を引いてくれる?」

「手を引くくらいなら余裕でしょ」

 

 まるで彼女の不安を少しずつ解消していくように、不思議な問答が始まる。彼女の質問の一つ一つを、特に深い意味も考えずに答えていく。

 

「私が風邪で寝込んだら、家まで来て看病してくれる?」

「急に要求高いな……俺錦木の家知らないけど」

「……じゃあ、教えたら?」

「なら、まあ、できる……けど。何なのこの質問」

「……黙って聞け」

「はいはい」

 

 口答え厳禁。厳しい看板娘である。

 何が楽しくてこんなの聞いてるんだと、ムスッとむくれる錦木を見て小さく微笑みながら、彼女の次の問いを待つ。

 そんな俺を見て僅かに頬を赤くすると、錦木は一度咳払いをしてから再び口を開いた。

 

「私が、さ……買い物行きたいって言ったら、一緒に行ってくれる?」

「……まあ、暇なら」

「私が水族館で魚見たいって言ったら、付いて来てくれる?」

「年パス作らされたしな。全然行くよ」

 

 

「私が、ずっと傍に居て欲しいって言ったら……居てくれる?」

 

「……ぇ」

 

 

 ────自然と、視線が彼女の方へ。

 向けば彼女は変わらず俯いていて、その前髪に隠れて表情が読み取れない。何を考えているのか、今の質問の意図は何なのか、錦木の表情から意味を見出す事が、現時点では難しかった。

 

「……ねぇ。それって、そういう意味で言ってんの?」

「……うん」

 

 小さく、消え入るような声。

 紡がれた指先が、僅かに震えているのが分かる。いつも感情のままに行動し、発言するはずの錦木が、俺に質問する度に震えて、怯えて、怖がっている。

 ……何だよそれ。全然、らしくないじゃんか。

 

「……まあ、居られるかな」

「────……っ」

 

 その俺の答えを聞いて、僅かに吐息が漏れるのを耳にする。呼吸さえもが震えているように聞こえて。

 か細い声が、再び質問を紡いでいく。

 

「私が家で一緒に映画を見たいって言ったら、一緒に見てくれる?」

「見れると思う」

「私が朔月くんと……その、一緒に生きていきたいって言ったら、叶えてくれる?」

「……うん」

 

 ……なあ、錦木。

 良いの?こんな質問して。これ、もう、隠せてないぞ。

 

「私、自分の事ばっかで、迷惑かけるかもしんないけど……それでも、良いの?」

「またそれか。“やりたい事最優先”、だろ?今に始まった話じゃない。余裕だよ」

 

 その在り方に憧れて、魅入られて、惚れてしまったんだから。

 そこを変えられてしまったら、困るんだ。だから、そのままで良いんだ。

 

「もしかしたら、結構重めかもしんないし……」

「体重の話?痩せれば良いだろ」

「天然要らないから……気持ちの話」

「あー……別に良いんじゃない?それだけ大切に思ってくれるって事でしょ。それに応えられるように、頑張るよ」

 

 自分で聞いといて、何で涙声なんだよ。

 自信無い癖に、自分卑下するような事言うなよ。

 何をそんな必死になって、何かを繋ぎ止めようと頑張ってるんだよ。そんな必要、最初から無いんだよ。

 

「私……えと、私、ね、他にもね……えっと……」

 

 肩が、唇が、繋がった指先が震えている。

 下を向いてなお表情が見えない彼女の感情が、なんとなく読み取れた気がして、小さく息を吐いた。

 

 ────ああ、そうだ。全部大丈夫だよ、錦木。

 

「錦木」

「……!」

「もういいよ」

 

 繋いだその手を、強く握る。

 決して離れぬように。零さぬように。

 

「……悪かった、全部言わせて」

「……」

 

 鼻をすする音。涙を含んだ呼吸。

 白くなる吐息に、肌を刺すような冷たさ。今にも潰れてしまいそうな錦木を見て、ポツリと呟く。

 

「俺、さ。言ってなかったけど、余命宣告されてたんだ」

「……ぇ」

「入院、としか皆に言ってなかったけど。何度か生死を彷徨った事もあるんだぜ」

 

 自慢になんないけどな、と自虐的に笑って、ふと目を細める。懐かしむ様に過去を振り返り、想いを馳せる。

 

「その死の間際に思ったんだ。何にでもなれるって言ってくれた人がいたけど、自分の在り方や生き方次第で、何者にもなれず死ぬのかもしれない」

 

 誰かの為になる知識を脳に叩き込み、時間と情熱を注ぎ込み、何者にもなれて、万人の救いになれるような、そんな存在になれたはずだった。

 けれど、何も成し遂げずに死ぬ事もあるんだと、誰の記憶にも残らず死ぬ可能性もあるんだと、それを認識した時、何故かそれは、とても恐ろしく感じた。

 

「退院して、これからどう生きるのが正しいかって悩んでた時に、偶然錦木を見かけたんだよ」

「……私?」

「そう。何度かね」

 

 幼稚園で子どもと戯れている錦木、老人の荷物を運んであげる錦木、ヤクザや外国人とも、すぐに仲良くなれる、太陽のように笑う彼女に憧れた。

 その在り方と生き方に、正しさと、理想を見出していた。

 

「誰かの為に、その想いを傾ける事ができる。こんな人が外には居るんだって……病院出て初めて感動させてくれたのが君だった」

「……」

「だから、これまで君の行動に一喜一憂して、君の言葉を胸に刻み込んで、君の事を目で追っていたのも……全部、俺が錦木に憧れているからだって……“羨望”なんだって……ずっと、自分に言い聞かせてた」

 

 多分、そういう“一目惚れ”だった。

 恋を知らない俺が、それを実感するのにはかなりの時間を有したけれど。

 

「けど、錦木を見てきて思った。別に錦木は、正しく在ろうとしてた訳じゃない。自分を必要としてくれる人にできる事をしてるだけの、普通の女の子だって。それを知ってるから……きっともう、“憧れ”だけじゃない」

 

 彼女に正しさや理想を、無責任に押し付ける事を止めてなお、彼女は自分の瞳には輝いて見える。それは、羨望や理想とはまた違うのだと、今はもう自覚出来る。

 

「────千束(・・)。君が好きだよ」

 

「……っ、ぁ」

 

 漸く形になった、感情の名前。

 これが正しく“恋”なのかは、まだ不明瞭で不確定だけど。

 ────けど俺は、錦木に抱いているこの感情を、“恋“にするのだと決めているから。

 

 錦木は、ただ顔を紅潮させながら此方を見つめて。

 嘘だと言わんばかりに、信じられないと言わんばかりに、驚愕を含んだその顔があまりにも間抜けで。

 

「……くくっ、なんて顔してんだ」

「えっ、うえっ」

「アンコウみたいな顔してたぞ」

「ちょっ、見んなっ!」

 

 右手で自身の顔を隠そうとする錦木を妨害する様に、繋がった左手を引いて立ち上がらせる。驚いて顔を上げる錦木を見て、可笑しく笑いながら、その手を引いて。

 

「帰ろっか。風邪引いちゃうし」

「え……あ、うん……や、ちょ、待って!」

「待たない。寒いし帰りたい」

「ま、待ってって!ね、ねぇ、ホント?ホントに、私の事好きなの!?」

「凄い恥ずかしい事聞くじゃん。俺錦木に嘘吐いた事あった?」

「割とあるじゃん!」

「やっぱり日頃の行いって大事だよね」

「誤魔化すなってぇ!」

「言わなきゃ分かんないの?」

「言って欲しい時だってあるでしょ」

「それなら俺はさっき言ったし。寧ろ錦木から聞いてないな」

 

 そう言うと、錦木の足が止まる。

 思わず振り返れば、錦木は此方を見上げていて。

 

「────好きだよ、()

「……おおん」

「ぷっ、くく……何その返事……!」

「……にゃろう」

 

 仕返しか、いい度胸だ。

 俺はその手を強く握る。決して離れないように。千束はそれを認識してその頬を赤らめて、フワリと微笑んだ。

 太陽のような朗らかさを残したまま、此方の指先に指先を絡めて、小さな声でつぶやいた。

 

 

「ホントだからね」

「……ああ」

「本命だかんね」

「分かってる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 千束「……ていう夢を見たの!」

 

 クルミ 「かなりの重症だな」

 

 たきな 「私を巻き込まないでください」

 

 ミズキ「夢の中でくらい私に良い男出しなさいよ!」

 

 誉 (凄い気不味いんだけど、聞かなかったフリとかできないかな)

 

 

 








今日がバレンタインと知って、21時からの3時間で適当に書いた話なので、キャラ崩壊とかクサイ台詞とか文の推敲とか何もしてなくて笑える。
原作とも本作品とも無関係な遊びのストーリーなので、あくまで二次創作として楽しんで下さい。


ほまたき√が見たい方……いる?
アンケートではたきな√希望まさかの最下位だったけど……ミカさんよりも下だったけど……もしかして人気無い?(白目)




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6話 Opposites attract.
Ep.21 Like or Love








今、“死ぬ”よりも“忘れられる”事の方が、恐ろしく感じているんだ。



 

 

 

 

 

 閉店し暗くなった店内の、とある一室の押し入れの前。

 仄暗い空間で青白く展開されたモニターが見せるのは、先日の松下の護衛任務にてクルミが最後に飛ばしたドローンが映し撮った映像だった。

 

 東京駅の屋根の上からその裏側の改修工事現場に至るまでの一連の流れを、生々しく残酷なまでに、そのドローンは鮮明に映し出していた。そこに映る見知った青年の姿を眺めて、その動きを余す事無く観察する。

 

 暗殺者────ジンとの戦闘が長引くにつれて研ぎ澄まされるように動きの荒さが少なくなり、押されていた状況は次第に拮抗し、最後には圧倒するまでの適応能力と学習能力の速さ。

 千束のように銃を躱し、加えてたきなのような精密射撃を熟す映像の青年────朔月誉。

 それを見て、クルミは感嘆の息を漏らした。

 

「……凄いな。凡そ訓練を受けてない奴の動きとは思えない。誉の事は、お前の方でも調べたんだろ?ミカ」

「……ああ。特に経歴に怪しいところは無かった。隠蔽されたとも考えにくい」

「つまり、本当にただの一般人。それでこの動きか。DA顔負けだな」

 

 スナック菓子を摘みながら鼻で笑うクルミだったが、やはり自分で調べた経歴と誉の今回の動きに整合性が無さ過ぎるのが違和感だった。何度か調べ直したが、やはりミカの言うように隠蔽や改竄の後は見受けられなかったし、誉が嘘を吐いているとも思わない。

 だからこそ生まれる、矛盾にも似た違和感。

 

「……以前、地下の射撃場を彼に使わせた事があった。お前さんの護衛任務があった時だ」

「思い切ったな。それで?」

「千束が使ってる銃と弾を十発だけ置いて行ってな……帰って地下に戻ったら、消費されていたのはたったの二発」

「……二発?」

 

 クルミがそう聞き返すと、ミカは腕を組み、小さく息を吐いた。

 

「的には穴が二つ開いててな。一つは的を大きく外していて、もう一つは中心────心臓部分を貫いていたよ」

「……へぇ」

 

 成程、面白い。その光景を目の当たりにしてなくても、この前の映像を見てれば自ずと仮説は立てられる。

 つまり、初弾の外しで反動や射線や撃ち方などを経験し、二発目でそのズレを修正仕切ったという事だ。AI染みた学習能力にクルミは思わず声を漏らした。

 

「経歴に疑う余地は無かった。彼も『二発で限界だった』と、笑っててな。偶然だと、そう思って疑わなかったよ」

「生まれながらのセンス────“才能”かもな」

 

 その一言に、ミカがピクリと反応する。

 クルミはチラリと彼の様子を見上げながら、ふと思った事を口にしてみた。

 

「案外、アランがコイツの才能を認めれば、千束の人工心臓みたいな援助が受けられるんじゃないか?」

「……どうだろうな」

「……?」

 

 冗談半分で告げたタラレバ。それなのにミカはまるで、心当たりがあるかのような反応を見せた。

 けれど、断定しない答え方をする辺り、もしかしたらと思わずには居られない。

 

「……何か知ってるのか?」

「……」

 

 ────ミカは、答えなかった。

 

 

 

 

Episode.21 『Like or Love(好意か恋か)

 

 

 

 

 ▼

 

 

「……まさか入院とは」

 

 あの日だけのつもりだったのだが、次の日になると傷の痛みと筋肉痛の痛みが混ざって死んだ方がマシなレベルで痛かったのは記憶に新しい。

 検査結果も想像以上に悲惨なもので、一日どころか一、二週間の入院を余儀なくされた俺は、現在入院生活五日目である。そろそろ溜めていた書籍が読み終わってしまう。

 

「……っ、てて」

 

 少し動こうとするだけで痛みが走り、堪らずベッドにもたれ掛かる。少し上を見上げれば、真っ白な見知った天井。世界で一番嫌いなこの景色を、また見上げる日々が暫く続くのだと知ると、途端に逃げ出したくなる衝動に駆られる。

 

 ああ、ヤバい。禁断症状だ。

 俺、多分病院アレルギーなんだ……蕁麻疹がきっと出てるし咳も止まらなくなるはずだから、恐らく末期だ末期。よしナースコールしよう、病院にいると蕁麻疹と咳が止まらなくなる予定だから退院させてって本気で言ってみよう……。

 

「……あ」

 

 すると、突如病室の引き戸がガラリと開かれる。

 ナースコールを押す寸前の親指を視界から外せば、その扉の先には見知った制服を身に纏う黒髪の少女が立っていて、此方を視認するとフワリとその瞳と口元を緩めた。

 

「誉さん、こんにちは」

「……たきな」

 

 扉を閉めて此方に向かって歩いてくるたきな。

 俺はナースコールから手を離し、読んでいた本のページに勿忘草の押し花で作った栞を挟み込む。

 チラリとその栞を見た彼女は、ポツリと呟いた。

 

「……綺麗な栞ですね」

「え……ああ、母さんの形見なんだ」

「そう、ですか。傷はどうですか?」

「まあ、何もしなければ平気だよ」

 

 たきなは丸椅子を俺のベッドの左手側まで持ってきて、俺の近くで腰掛ける。そうして彼女は俺の顔を見て……え、なんか、こう……気恥ずかしいんだけど……。

 

「……あの、さ」

「?……はい?」

「いや、その……何も、そんな毎日来る事無いんだよ?」

 

 たきなは、俺が入院してから毎日欠かさず見舞いに来てくれていた。特に用件等は看護師に任せる仕事なので、たきなに何かしてもらう事は殆ど無いのだが、それでも彼女は一日も空ける事無く此処に来ては、こうして俺の話し相手になりに来てくれてるみたいなのだが……。

 

「誉さんが怪我をしたのは、私の責任ですから」

「いやそんな事は……錦木の忠告無視して巻き込まれにいったの俺だし、たきなが責任感じる必要なんて無いよ」

「……いえ、私の責任です」

(かたく)なぁ……」

 

 ええ、何でそんなに重く捉えるの……。

 たきなが市街戦で俺とか民間人を巻き込んだとかならまだ分かるけど、人通りの少ない改修作業中の工事現場での戦闘に横槍を入れたのは、他でもない俺の方だ。

 

「……すみませんでした」

「え、や、ホントにやめて。悪いの俺だから」

 

 自慢じゃないけど、本当に自慢じゃないけど、俺は細身で病弱で一般人で、取り立てて技術も無い素人。

 彼女達の足を引っ張る可能性もあれば、任務失敗のリスクもあった。たきなは俺に対して怒りはすれ、謝る必要なんて何処にも無いのだ。

 

「っ……もっと、できると思ってたんです……」

 

 俯いて、感情を吐露する黒髪の少女。膝の上に置かれた両手は、そのスカートの裾をギュッと握り締める。

 

「本部に戻る為に、成果ばかり気にして……周りが見えてなかった……結果、誉さんを傷付けました……」

「……たきなに付けられた傷じゃない」

「同じです。私が傷を負わせたのと変わらない……」

「別に、松下さんは無事だったんだから良かったじゃん。たきな自分の事卑下……というか、責め過ぎだって」

 

 松下さん……だった人、か。正確には。

 結局、松下さんを外で操っている人間はクルミでも追う事は難しく、謎はそのまま迷宮入りだったらしい。ウォールナットと名高いクルミでも辿れないなんて驚きである。

 

 ……まあ、一番驚いたのは、この前クルミがそれを報告しにたった一人で此処に見舞いに来た事だったけど。それだけ伝えると特に会話もなかったが、一時間くらい病室にいてPC弄ってたっけ。

 命狙われてるはずだよな……?と信じられない様な目で見てたけど、クルミは我関せずだったな。見舞いに来てくれるとは思ってなかったから、素直に嬉しかったけど。

 

 脱線したけど、つまりそういう事だからたきなに自分を責められても困るのが正直なところなんだけど……。

 そうしてたきなは、漸く俯いていた顔を上げたかと思うと、キッと目を細めて此方を見つめて。

 

「っ……誉さんが、私に文句の一つも言わないので……」

「まあまあな言い掛かりが飛んで来て驚いてるんだけど」

 

 俺に責めて欲しいって事?そういう趣味か?

 やらないよ俺。ホントに気にしてないし、そういう趣味も無いし。あ、今真面目な話?

 

「……また、独断専行で悪い結果になってしまいました。リコリコに配属される前と、何も変わってない……」

「悪い結果って……松下さんは無事だったでしょ?」

「……誉さんに、怪我をさせました」

「いや、だからそれは……」

 

 彼女の中で、俺の負傷は相当重いものとして捉えているようだった。これ以上は堂々巡りだ、俺が何を言ってもたきなが納得しなければ根本は変わらない。

 俺自身は、本当に気にしてないし、何なら自分の行動の結果だと思ってる。

 

 それに……まあ、命を軽く見てるような言い方は好きでは無いけれど、関係無い人が巻き込まれてしまうよりは、寧ろ俺で良かったんじゃないかって思ってしまうのは、甘過ぎるだろうか。

 

「……私は、誉さんに軽蔑されても、おかしくないんです」

「……何それ」

「っ……」

 

 ────それを聞いて、思わず本音が零れた。

 心の奥底で湧き出た感情は、怒りや苛立ちよりも悲しみに近かった。

 

「俺、たきなをそんな風に思わなくちゃいけないの?」

「違っ……そういう、訳じゃ……」

 

 俺のその一言で、たきなは押し黙る。

 少し強く言い過ぎてしまっただろうかと、言ってすぐ後悔しそうになった。

 

 ────でもこれ以上、彼女が自分を責め続けているのを見ていられなかった。君の所為じゃないんだと、誰かが悪いとかそういう話じゃないんだと、そう伝えたかった。

 大切な人を傷付けられるのは、我慢ならない。その傷を刻もうとしているのが、たきな自身であっても。

 

「……それに、たきなは、さ。変わったよ」

「……私が、ですか」

 

 たきなは、俺の発言に目を見開く。

 そんなに驚く事じゃないよ。俺から言わせれば、かなり変わった。表情も、声音も、考え方も、人との関わり方でさえ。

 

「……私は、変わってなんて」

「‪初めて来た時と比べて……周りに、周りの人達に、自分の感情とか気持ちを傾けるようになった」

 

 リコリコに来た時のたきなは、不本意な異動にヤキモキしていて。本部に戻る為だけに一生懸命で、それ以外はどうでも良くて。

 成果として上げられる仕事にしか執着が無くて。関係無い仕事には不満そうで、関係無い人には事務的な会話だけ、関係無い時間に関わろうとはしなかった。

 

「毎日楽しそうに生き始めているたきなを見てるのが……なんか、凄く嬉しくってさ」

「……」

 

 けれど、今は違う。

 関わりの薄い常連のお客さんと閉店後のボードゲームに勤しみ、休日は千束と偶に遊びに出掛けたり、千束に勧められた洋画を見たり、表情をコロコロと変えて、段々と女の子らしくなっていって。

 その成長を見ていると、なんだか堪らなかった。

 

「だから寧ろ嬉しかったよ、たきなを守れて。この傷も、名誉の負傷くらいに思ってるから。痛いけど」

「────……っ!」

「……だから、“自分の所為”とか“ごめん”とかじゃなくて……もっと逆の……違うものが欲しい」

「……誉、さん」

 

 そんな、自分とは違ってこれからである彼女に何事も無くて良かったと、そう素直に喜ぶだけでは駄目だろうか。

 たきなには、罪の意識で俯くんじゃなくて、笑顔でいて欲しいだけなんだと、そう伝えるのは駄目だろうか。

 

「……本当に、お優しいですね」

「あれ、優しいのは美徳だと思うけど、何か棘を感じる」

 

 たきなは漸く、小さくではあるが微笑んでくれて。それを見て、俺も多分笑った。

 出会ってから表情を動かす事が少なかったたきなが、こうして笑えている理由に自分が含まれているのだとしたら、それに対する見返りは一重に彼女の笑った顔だった。

 

「……誉さん」

「ん?」

「……助けてくれて、“ありがとうございました”。私が助かったのは“貴方のおかげ”です」

「────……」

 

 “違うものが欲しい”。

 俺が言った事に対する、たきなの答えだった。

 

 “自分の所為”でなく、“貴方のおかげ”。

 

 “ごめん”でなく、“ありがとう”。

 

 ぎこちなく、けれど次第に感情のままに笑えるようになったたきなのその言葉を聞いて、自然と頬が緩んだ。

 

「……こちらこそありがとう。今の言葉、残りの人生の励みにするよ」

「……っ、誉さん……」

 

 それを聞いて、一気に表情の曇るたきな。

 あ、ヤベ失言……。良いムードだったのに完全にぶち壊したかも。寿命の話すんの良くないなやめよう。

 慌てて話題を変えるべく、思考よりも先に言葉が口から零れた。

 

「ま、まあそういう事だから、毎日お見舞いは来なくても大丈夫だよ」

「……ぇ」

「罪悪感とか義務とか、そういった事は感じなくて良いんだし。たきなも忙しいでしょ」

「あ、いえ……」

 

 俺に怪我させたという考え方がそもそも間違ってるんだし、そこに罪の意識を感じるのもお門違いだ。たきなが此処に毎日足を運んでくる必要は無い。

 寧ろ、そんな根本違いの所為で彼女には今日まで負担を掛けてしまったと反省した。もっと前日に言ってあげればよかった。

 

「……そういう訳じゃ、ないんです」

「え?」

 

 小さく、たきなから告げられた否定の言葉。

 視線は、彼女の方へと再び向かう。たきなは俯いて、再びスカートの裾を弱々しく掴み、口元は若干震えているように見える。

 

「たきな……?」

「っ……その……罪悪感だとか、義務とかじゃ、なくて……」

 

 言いづらそうに縮こまるたきな。

 珍しいな。普段なら言いたい事スパッと言うし、言わなくていい事もスパッと言うじゃん。心抉る銃弾の命中精度まで高いセカンドリコリスなのに。

 ……と、思っていると彼女は顔を上げて。

 

「私が……好きで誉さんのお見舞いに来てるので」

「ぇ……ぁ、そう、なの?」

 

 ────返答に困る銃弾が飛んでくる。

 俺の見舞いが好きで来ている。その言葉の意味を理解して、心臓が分かりやすく音を立てる。

 それを告げるたきなの顔が見た事も無いような……こう、上手い表現が見つからないけれど。とにかく照れてるのか怒ってんのか分からない綯い交ぜな表情をしていて、俺はただ頷く事しかできなかった。

 ……どういう感情なのそれ。てかなんだこれ。

 

「……な、なら、楽しみに待ってるよ。また話し相手になってくれるの」

「あ……はい。また来ます」

「お、おお、うん……」

「……」

 

 ……えー、ちょっとやだ何これ恥ずかしい。

 たきなの今まで見せたことの無い表情と赤らめた頬が、目に悪過ぎる。そんなに見られると目を逸らさずに居られない。耐えられる奴いんのこれ。

 

「……そろそろ、行きます。これから仕事なんです」

「あ、ああ、そうなの……危ない方?」

「いえ、リコリコの方です。今日は午後からで」

「あ……なんだ、そっか」

 

 態々仕事前に来てくれたのか、と小さく息を吐く。それは、安堵の意味も含まれていた。

 仕事というと錦木とたきなの場合、喫茶店とリコリスと二種類あるから、本当に心配する。今たきなからどちらなのかを聞けて、心底安心した。

 

「……」

「……ん、ん?何、たきな」

 

 そんな俺の様子を見て、たきながコテンと首を傾けて小さく微笑んだ。

 

「……心配、してくれました?」

「っ……そ、そりゃまあ……いや、何でもない」

「そうですか」

「……ちょ、何、見ないでこっち」

 

 何処でそんな小悪魔みたいな仕草覚えたの。

 誉は今日何度目なのか、たきなから視線を外した。顔が熱い気がして、そんな自分も見られたくなくて。明らかに彼女に翻弄されていると自覚する。

 たきなは満足したのか、カタリと音を立てて丸椅子から立ち上がった様で、その音で我に返って再び視線を戻すと、鞄を背負い直しながらこっちを見下ろしていた。

 

「……もう行かないと」

「あ、ああ……ありがとね」

「何か困った事があったら、連絡して下さい。いつでも構いません」

「え?あ、いや、そういう時は看護師さん居るし……特にたきなに頼むような事も……」

 

 たきな、もしかしてまだ償いみたいに感じてるのか……と思って口を開きかけたが、彼女のしおらしいシュンとした表情と態度を見て、音にならない声が出かかった。

 

「……迷惑、ですか。そうですか」

「いや何も言ってないけど……てか、寧ろ迷惑かける事になると思って……」

「……良いですよ」

「……へ」

 

 たきなは、真っ直ぐに此方を見つめて。ただその瞳は不安げに揺らめいて。思わず見上げると、彼女はいたたまれず目線を逸らしながら、それでも。

 

「私には、迷惑かけてくれて良いですよ。かけて、欲しいです」

「……たき、な?」

「っ……では、私はこれで」

「え、あ、うん……気を付けてね」

 

 我に返ったかのようにハッとして、慌てたかのように顔を背けて。今の発言を誤魔化すかのように、此方に背を向けてスタスタと病室入口の引き戸の取っ手を掴んだ。

 ただそれを眺めるだけだったけれど、やがてたきなが此方へと振り返り、小さく頭を下げて、告げた。

 

「……また、明日」

 

「────……ああ、また明日」

 

 身体の痛みに耐えながらその腕を上げて、たきなに手を振る。彼女から今みたいな挨拶を交わしたのは、初めてだったかもしれない。

 俺が笑うのと同時に、たきなも小さく微笑んだような気がした。こっちが手を振るのに合わせて、ぎこちなく、気恥ずかしそうに、小さく手を振ってから扉を閉めていった。

 

「……」

 

 ……何か、たきな終始様子がおかしかった様な気がするけど、大丈夫かな。こういうのキャラ崩壊っていうの?最近お店のお客さんからオススメされたライトノベルにチラッと載ってたのを思い出す。

 たきな、結構ズバッと物事を発言する様なイメージがあっただけに、しおらしい彼女はなんか、らしくなかった様な気がする。

 

 まあでも、最後は笑って帰って行ったし、そんなに心配しなくても良いかもしれない。大分たきなとも仲良くなれたかもと、自惚れても良いだろうか。

 けど。けれども。

 

「……“また、明日”、か」

 

 たきなの、最後の言葉を。

 別れの挨拶を思い出して、“もう一人の少女”と毎度この言葉を交わしていたな、と思い出して。そうして目を伏せて、ふと思った。

 彼女を傷付けた俺が、会いたいと口にするのは勝手だろうか。

 

 

「……言えなくなる日も、近いんだよなぁ」

 

 

 ────あと何度、自分は明日を迎える事ができるだろうか。

 

 

「……錦木、一回も来ないなぁ」

 

 

 ────あと何度、君に“また明日”が言えるだろうか。

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

「……はい、もしもしー」

『おはようございます』

「どしたの、こんな朝早く」

 

 ────平日の早朝、何の脈絡も無く携帯がコールする。手を伸ばして画面をタップし繋げてみれば、聞き慣れた相棒の声。

 

『千束に共有です』

「何、緊急?」

『いえ、ただ警戒度は高いです』

 

 その声の主────たきなの声音は真剣そのもので、焦っているようにも聞こえる。千束は思わず、彼女の話に耳を傾けると。

 

「……え、リコリスが?」

『はい。四人とも、単独任務中に大勢に襲われたらしいです』

 

 ────今月に入って既に、リコリスが四名殺害されているとの報せが本部から連絡が入ったという。

 

 それぞれが単独任務中に襲撃されており、殺害方法は惨殺銃殺とバラけてはいるが、まるで見せしめと言わんばかりの夥しい傷の量が共通点として挙がっているそうだ。

 同じ遺体に刻まれている弾痕が複数種類である事から、複数による犯行だというのが検視からの見解だそうだ。

 

 問題なのは、女子高生の姿をした少女が狙われているという事ではなく、その対象の全てがリコリスであるという事。つまり、犯人側は機密組織であるリコリスという存在を認知しており、特定にまで至っているという事である。

 

 千束は話を聞きながら、普段のルーティン通りに朝の珈琲の準備を始める。それでも疑問は頭の片隅に残っていて、訝しげに眉を寄せた。

 

「……何で特定されてんだぁ……?」

『……分かりません。例のラジアータのハッキングと関係があるのかも。暫く単独行動は控えるようにと。それと「今月の検診昨日よ」、と山岸先生から』

「あー……そうだったぁ……」

『……行ってないんですね』

「だってぇ……」

 

 たきなの呆れた表情が目に浮かぶ。

 千束は困った様に笑って、言い訳がましい表情で振り返ると、リビングの窓際の長方形テーブルに乱雑に散らばった洋画のディスクの数々。言わずがもがな、ここ最近で一気見したDVDである。

 

「……っ」

 

 ────嫌な事、悲しい事、悩み事、ストレス、それらを払拭したいが為に、忘れたいが為に、逃げ出したいが為に、試行錯誤した結果がそこにはあった。

 

 とある男の子が、脳裏にチラつく。

 思い出した途端に泣きそうになる。

 

「……」

『……千束?』

「っ……あ、ごめん、聞いてなかった……」

 

 ふと我に返り、電話越しのたきなに慌てて返事する。たきなが伝えてくれた件も大事だ、話に集中しないと、と彼女の言葉に集中し始めた。

 

『早速今日から常にペアで行動しようと思います』

「え……や、ペアって、毎日お店で一緒じゃ……」

 

 ────ピンポーン、と千束の部屋のチャイムが鳴り響いた。千束は珈琲豆の袋から視線を上げ、梯子を登って玄関へと足を運ぶ。

 この部屋の存在意義と性質上、普段なら扉を不用意に開けたりはしないのだが、たきなの電話の内容とこのタイミングで、もしかしての予感があった。

 

「……何してんの」

「夜は交代で睡眠を摂りましょう」

 

 玄関の扉を開ければ、リコリス支給の学生鞄の他に大きなバッグを肩にかけ、片耳にスマホを当てた相棒───井ノ上たきなが立っていた。

 その真剣な表情と放たれた言動に整合性が無くて、思わず『え』と声を漏らす。するとたきなは玄関へとその身を入れて、バッグを床に落とした。

 

「安全が確保されるまで、二十四時間一緒に居ます」

「……ウチに泊まんの!?」

 

 相棒の言葉の意味を理解した途端、その表情を綻ばせる。たきなが此処に泊まる、それだけでテンションが高くなった。友人や仲間との普通のお泊まりなんて初めてと言ってもいい。

 しかもただ泊まるだけじゃない、たきなの口振りでは安全が確保されるまで連泊するという事。

 そんなのもう、同棲ではないか。

 

「……元気ですね」

「案内するよー!さ、入って入ってー!」

「……お邪魔、します」

 

 急にテンションが高くなった千束に狼狽えながらも、案内されるがままにお邪魔するたきな。見渡す限り殺風景の部屋────カモフラージュの部屋を見て、たきなは目を輝かせていた。

 

「……プロの部屋だ……」

「何その感想……」

 

 感動するポイントが女の子としてズレ過ぎではないだろうか。千束は困った様に笑いながら、そのままその部屋に進もうとするたきなを手招きする。

 

「あー、そっちじゃないよ。こっちこっち」

「え」

 

 たきなの視線を背中に感じながら、千束は玄関から見て左手にある扉の先の壁を軽く押す。するとその壁が回転し、新たな空間がそこに現れた。

 ────所謂、回転扉という奴だ。

 

「え……ええっ……!?」

 

 たきなは驚きでその目を見開き、口を変な形に曲げていて。そんな表情初めて見たな、と千束は笑った。

 その回転扉の先にある、下へと続く梯子から両手を離し、次いで荷物を担いだたきなが付いてくる。荷物を先に受け取り、たきなが下りてくるのを確認してからリビングへと向かい、たきなの荷物を下ろす。

 

 そうしてすぐに途中だった珈琲の準備を始めながら、現れたたきなに声を掛ける。

 

「その辺座ってー。アイスコーヒーで良いでしょ?あ、味はもう平気?」

「え、ええ……」

「よかったー」

「……何なんですか、これ」

 

 まだこの光景を情報として処理出来てないのか、リビングを見渡して小さな声で聞いてくるたきな。その声を背中に浴びながら、千束はアイスコーヒーの準備を始めつつ説明した。

 

「長く仕事してると色々あるのよ。此処はセーフハウス一号。他に三つあるんだー」

「……セーフハウス?」

「ま、その説明は後で」

 

 ────そうして、たきなへのおもてなしムード全開ではしゃぎ、何の為の同棲なのか忘れるところだったのは言うまでもない。仲間と一緒に暮らせるという事実は楽しいものだが、理由が理由なだけにそんなには喜べない。

 かく言うたきなも、“同棲”とか“お泊まり”と言えば楽しいのに、“共同生活”なんてお固い言い方をするものだから……と千束は苦笑する。

 

「では、これが共同生活を送る上で公平な家事分担です!」

「ねぇその表自作?」

 

 たきなが壁に貼り付けたのは、今後の家事分担が書かれたスケジュール表だった。料理・洗濯・掃除の三つを月曜日から日曜日まで、それぞれ一日交代で役割を交代する、正に公平な家事分担。

 それをボーッと眺めながらストローでアイスコーヒーを啜る千束は、たった一言。

 

「……つまんなぁい」

「つ、つまらない……?」

 

 たきなの声が震える。つまらないと言われたのが割とショックだったのか、途端に腕を組んで考え出す。

 こうして、千束の我儘に振り回されるのが板に付いて来た辺り、たきなは誉によく似て来ていた。千束もたきなもその辺の自覚は無いのだが。

 やがて何か思い付いたのか、恐る恐るたきなは口にする。

 

「では……ジャンケンとかが、良いですか?」

「いいね……それいーね、ジャンケン!」

「そ、そんなに良いですか……?」

 

 千束の好反応に少し嬉しそうにするたきな。

 相棒の期待に応える事の出来た達成感からか、表情も柔らかかった。

 

 

「「最初はグー、ジャンケンポンッ!!」」

 

 

 ────しかしそんなたきなの表情も、このジャンケンの後には歪なものへと変わっていた。

 

「……ぇ……ぇぇ……?」

 

 結果は千束の全戦全勝。

 千束が喜んでいたのは、自分に有利な勝負だったからというだけだった。そんな事も露知らず、たきなは家事担当全ての名前が自身の名前に塗り替えられたスケジュール表を見てどうなってるんだと口を開けて驚愕している。

 

 そんな彼女を知らぬ存ぜぬか、千束はその身を揺らしながらアイスコーヒーを飲み干している。

 楽しそうに鼻歌まで出そうなその姿を、たきなはスケジュール表から視線を外して、振り返って見ていた。

 

「……ん?何、たきな」

「あ……いえ」

 

 何か言いたそうにして、けどあからさまに押し黙るたきな。それを見て、千束は眉を寄せる。

 変に隠し事をされたりすると、気になるのは千束の性分だった。コップを机に置いて身を乗り出した。

 

「ちょっと何、気になるじゃんか」

「……千束は、いつも通りだなと」

「へ……?」

 

 言っている意味が、よく分からない。どういう事、と聞き返そうとした時だった。

 

「……誉さんのお見舞い、行かないんですか?」

「────……っ」

 

 ────“誉”。

 その名前を耳にして、千束の動きが止まる。表情と身体が固まって、鼓動を伝えないはずの人工心臓が、存在を象徴し始めるかのような、一際跳ねたような感覚に陥った。

 

「え……な、何、急に……」

「誉さんのお見舞い。一度も行ってないんですよね?」

 

 切り出されるとは思わなかった話題。彼女の言葉を耳にする度、あの日の光景が蘇る。

 血だらけで、傷だらけで、包帯だらけで、今にも死にそうで……今じゃなくても、近い将来死んでしまうのだと、本人から告げられたその時の記憶が呼び起こされていく。

 

 ────彼に向けて放ったこれまでの不用意な発言と共に、そんな彼を自分の我儘で振り回した記憶が、まるで走馬灯のように。

 

「っ……あー……うん……行って、ない……」

「何故です?」

「何故って……たきなこそ、何でそんな事……」

「いえ、単純に気になって。店長やミズキさんも時折、あのクルミもお見舞いに行ってるので、それも一人で」

 

 クルミ……命が狙われているのもあるが、基本的にインドアな彼女は、外に出る事自体が酷く珍しい。全員での行動ならまだしも、クルミがたった一人でというのは、流石に驚いた。

 普段クールな彼女でさえ、誉の為に一人で病院にまで……なのに、自分は。

 

「……行ってないの、千束だけですよ」

「そっか……」

「……誉さんは、千束に会いたがってると思います」

「っ……どんな顔して行ったら良いか、分かんなくて……」

 

 グッ……と、拳を握り締めるも、すぐに力無く、弱々しく解ける。あの日、彼の余命の話を聞いてから、一度たりとも彼に会ってない。彼の顔を、見れていない。

 

「……だから、検診行かなかったんですか」

「鋭いなぁたきな……」

 

 千束が検診を受けている病院に、誉も入院している。この辺りだと割と大きい総合病院だ、特に驚く程の偶然でもない。

 けどだからこそ、病院にいけば何かの拍子に誉とかち合う可能性があるかもしれない。そう思うと、行く勇気が出なかった。たちまち足が竦んで、とてもじゃないけれど、そこから歩き出せなかった。

 

「聞きたい事、あるんでしょ。二人で聞くって、約束したじゃないですか。まだ聞けてない事、たくさんありますよ」

「……ごめん、たきな」

 

 会いたいのに、会いたくない。彼からの言葉を、今は何も耳にしたくなかった。彼に何を言えばいいのか、何を言われるのか、何も言われないのか。

 ただ、どんな結果だとしても、きっと納得しないような気もして。

 

「なんか……もう、怖くて聞けないや……」

 

 リビングのテーブルに散らばった、数多の洋画のディスク。

 ぐちゃぐちゃに混ぜられた感情を整える為に、嫌な記憶や辛い感情を誤魔化すように、楽しいもので上書きするように、衝動的に、義務的に鑑賞し続けた昨日の夜。

 

 彼の────朔月誉の事を考えたくなくて、他のもので埋めようとした結果がそこにあった。結果は……散々なものだったけれど。

 一瞬だって、一秒だって、彼を忘れた瞬間など無い。いつだって、何処でだって、彼の事を思い出す。彼に出会った時から今の今まで、生まれ育ってきた感情が忘却の邪魔をする。

 

 そうして彼を思い出して────罪悪感で嫌になるのだ。

 自分が恋をしなければ、何か変わったのだろうか。出会わなければ、話しかけなければ、彼はまた違う生き方をしたのだろうか。

 

 

 そんな、そんな悪循環が────

 

 

「……なら、千束はもう要らない(・・・・)んですか」

 

「……え」

 

 

 ふと、顔を上げる。言葉の意味が分からなくて、思わずその声の主へと目線を合わせる。

 たきなは真顔のまま、真っ直ぐに此方を見据えて、再び口を開いた。

 

 

捨てる(・・・)って事で良いんですか」

 

「……な、何言ってんの……?」

 

 

 ────人工心臓が、音を立てた気がした。

 “要らない”、“捨てる”。たきなの言葉の意味が、意図が、理解できない。

 

 いきなり何の話をしているのだと、その口を開きそうになって────止まった。

 

 

「千束が捨てるなら……要らないなら……私が貰っても良いですか」

 

「……たきな……?」

 

 

 たきなが何の話を────誰の話をしているのかを、千束は理解した。

 彼女はずっと、その一人の青年の話をしていたのだと、今更ながらに。

 

 

 

 

 

 

「────私、誉さんが欲しいです」

 

 

 

 

 

 








たきな 「あ、半分こします?」

千束 「朔月くんを!?」

朔/月 「寿命前に死ぬからそれ」

真島 「バランス取らねぇとな」

朔/月 「出番まだでしょ黙って」


※本編とは無関係です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.22 Because I longed for






何色にも染まれるって事は、重ねていけば黒くなるって事。そうなってしまったら、もう変われない。
何者にでもなれるって事は、最後は何者にもなれないって事なのさ。



 

 

 

 

 

 

 ────助手席で車道の反動に揺られながら、誉はポツリと呟いた。

 

「……あの、俺の退院は、山岸先生から?」

「ああ。流石に傷が癒えたばかりの君を歩かせる訳にもいかないからね」

「……そう、ですか」

「……何か、問題があったのか?」

 

 退院の手続き後、病院の自動ドアから出てみれば、いつも通りの和服に身を包んだミカがたった一人で迎えに来てくれていて、誉は素直に驚いた。

 

 退院の日取りは誰にも伝えておらず、サプライズでリコリコに行こうと思ってただけに拍子抜けだ。山岸には黙っておいて欲しいと伝えていたのだが、保護者としてミカには伝えていたのかもしれない。責めるつもりは全く無いが、少しばかり残念な気もした。

 

「退院を知らせず店に行って驚かせよう作戦が……」

「……思ったより元気そうで安心したよ」

 

 誉の落ち込む理由が思ったよりしょうもなくて、ミカは呆れたような、困ったような、そんな笑みを浮かべて呟いた。

 

「だが、そういう事なら大丈夫だよ。現時点で知ってるのは、私とミズキだけだ」

「……態々迎えに来て下さらなくても良かったのに」

「遠慮しなくていい。まだ本調子じゃないんだろ」

 

 ミカの運転する車の助手席で、誉は申し訳なさそうに『……ありがとうございます』、と小さく告げて笑う。確かにまだ万全とはいかない。多少動いただけでまだ痛む箇所も少なくなかった。

 それが分かったからか、ミカも運転しながら心配そうな声で尋ねる。

 

「それより、家で休んでなくて平気か?」

「ずっとベッドの上だったんで、身体動かしときたいんです。お店のみんなにも会いたいですし」

「……そうか。入院中は退屈だっただろう」

「勿論です」

「はは、即答だな」

 

 こちとら病院が嫌い過ぎて、何度脱出を試みた過去を持っている事か。自慢げに言う事でも何でもないのだが、狭い世界で閉じ込められている感覚が、恐怖に近い程に恐ろしく感じて、平然を装ってはいてもやはり好きになれるところではなかった。

 

「……ただ」

「ん?」

 

 ────今回の入院は以前と違って、決して独りきりではなかったから。

 孤独で退屈な永遠にも等しい時間を、読書や勉強で埋めるだけの日々じゃなかったから。

 

「たきなとかクルミとか、ミカさんやミズキさんが何度もお見舞いに来てくれたので、前に入院してた時よりも楽しかったです」

「────……」

「なので……改めて、ありがとうございました」

「……感謝されるような事じゃないさ」

 

 誉はそう言ってミカに向き直って小さく頭を下げた。ミカ達にとっては大した事は無いと笑うけれど、誉にとっては彼らの厚意がとても嬉しい事だったのだ。

 母親が生きていた頃は、多忙な毎日の中で隙間の時間を見付けて会いに来てくれていた。それでも、会えない日の方が多くて、孤独と退屈を重ねるだけの毎日だった。

 

 変わり映えのしない日々の連続。自分は本当に生きてるのか。死んでないだけなのではないか。そんな消極的な思考ばかりで。

 余命宣告によって未来の見えない、目的を見失った毎日をただ過ごしてきて、それをきっと、“生きてる”とは言わなかったけれど。

 

 ────たきな達が来てくれただけで、自分の存在に意味を齎してくれた気がしたから。

 

「……だが……そうか」

「……?」

 

 目の前の信号が赤に変わり、車が停車する。ミカのその声音に違和感を覚えて、誉は視線を隣りのミカへと向けると、何処か遠くを見つめながら、物憂げに呟いた。

 

「……千束は、来なかったか」

「っ……」

 

 ────千束。

 入院してから退院に至るまで、一度として顔を合わせる事が叶わなかった少女の名前を耳にして、誉は身体が震えた。咄嗟に、彼は自分の先程の言動を思い返し、慌ててミカに弁明する。

 

「す、すみません違うんです。さっきのは別に、錦木が来なかった事を悪く言ったつもりじゃなくて……!」

「そんな事は分かってるよ。あの娘がすまないな」

 

 普段と変わらない穏やかな表情のまま、ただ申し訳なさそうに謝罪する。見据える瞳には此方への誠意しかなくて、とても巫山戯たり誤魔化したりができるような感じではなく、誉はただ彼を見上げる。

 

 結局、一週間以上も入院する事になった誉だったが、千束は遂に一度たりとも病室に顔を出す事は無かった。

 ────その理由もハッキリしていて、きっと、どうしようもなく自分が悪かったのかもしれないけれど。

 

「っ……何でミカさんが謝るんですか。全然気にして……ない、事も……ないですけど……や、ホントは錦木来てくれなかったの、ちょっとショックでしたけど……」

「……二人に話した事、後悔してるか?」

 

 誤魔化そうとも、本音が零れて。それを言及するミカへと、その視線が傾いた。

 それは先日の病院での言葉を、錦木とたきなに伝えてしまった自身の余命の話を、悔いているのかどうか。ミカのその問いに、あの時の錦木の表情が鮮明にフラッシュバックされる。

 

「え……あー……どう、ですかね……分からないです……ただ、自分だったら黙ってて欲しくなかっただろうなって思って……それで、思わず……」

「君は、優しいんだな」

「……そんな事、無いです」

 

 ────本当は何も言わずにその時(・・・)を迎えるつもりだったから、多少楽になったような気もするけれど。

 

 錦木とたきなにもあんな顔をさせてしまった事が、正しい事だったのかと言われれば、それは違うと言い切れた。

 ならば、何をどうすれば良かったのだろうか。

 

 たきなは昨日まで毎日お見舞いに来てくれていたけど、特に寿命の事について言及する事もなく、今まで通りに接してくれていた……ような気がした。

 若干、負い目からなのか献身的な態度や行動をしてくれていた様なのだが……。

 

 だが錦木に至って会話する機会すらない。まさか顔も見せてくれないとは思ってもみなくて……それをショックだと感じている自分もいて。

 彼女と仲良くなってると思っていただけに、自惚れていたのだと、無性に恥ずかしかった。

 けれど。

 

(……自業自得、だよな)

 

 ────錦木にあんな顔をさせてしまった原因を作った自分が、今の彼女の態度に文句を言うのは……なんというか、あまりにも巫山戯た話だった。

 

 錦木が自分を巻き込ませない様にと、こういった仕事を遠ざけていたのは知っていた。それを理解した上で松下さんの誘いに乗り、たきなを助ける為に行動したその行いに、後悔は微塵も無いけれど。

 

「……っ」

 

 ────それでも、彼女が悲痛に歪んだ様な表情のまま、此方に背を向けて出て行ったあの日の背中だけが、今もなお脳裏に焼き付いていた。

 

 

 

 

Episode.22 『 Because I longed for (私が、貴女に憧れてしまったから)

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 ────鈴の音を鳴らしながら、その扉を開く。

 

「ミズキ、クルミ、帰ったぞ」

「おかえりなさーい」

「わぁ……久しぶりだなぁ……」

 

 久しぶりに“リコリコ”の店内をその目で見て、なんとなく感動すら覚えた。

 そのまま、ミカの挨拶に気の抜けた返事をしたミズキへと、視線が向かう。いつもの定位置に座り、酒瓶を傍らに置くミズキのいつも通りの姿に懐かしさすら覚える始末である。

 

 もしかしたら涙腺に来てるかもしれない。態とらしく涙を拭うような素振りをしていると、丁度ミズキと目が合った。

 

「お、帰って来たわねー。もう大丈夫なの?」

「はい、一応は。明日からまたよろしくお願いします」

「もう働くの?あんま無茶するんじゃないのよ」

「分かってます。お気遣い痛み入ります」

「固いのよ」

 

 誉の無駄に丁寧なお辞儀と言動に思わず突っ込みが入る。ミカがそのやり取りを微笑みながら眺めつつ、『珈琲を淹れようか』と店奥へと入っていくのを見送ると、反対方向の和室の引き戸が開く。

 

 視線を向かわせれば、クルミが眠たそうな表情でタブレットPCを片手に立っていた。そうして、大きな欠伸と共に歩いて来ていた彼女のその細い瞳が客間にいた誉を認識すると。

 

「……お」

「あ、クルミ……」

 

 途端に、その瞳を見開き────やがて、再び眠たそうな表情に戻った。

 あれ、想像してた反応と全然違う……と思いながら見上げていると、クルミはただ一言。

 

「……なんだ、帰ってたのか」

「ええ……全然驚かないじゃん……」

 

 入院してた患者に対しての言い草じゃない。冷たい通り越して痛いまである言葉の弾丸である。

 クルミは誉の一言に『子どもかよ』と鼻で笑い、普段の定位置である二階に続く階段へと上っていく。

 

 求めていたのとかなり差異のある、圧倒的コレジャナイ感……肩を落としながら、誉は常連客として通っていた頃のカウンター席に腰掛けた。

 すると上の方から、

 

「傷はもう大丈夫なのか?」

「……え」

 

 思わず、顔を上げる。

 二階からクルミがディスプレイを眺めたまま、此方に声を掛けてきたのだと理解するのに数秒かかった。驚いて固まっていると、此方からの返答が来ないのを気にしたのか、クルミは漸く画面から目を離して視線を下ろしてきた。

 

「何だよ」

「あ、ああいや……え、俺に言ってるんだよね?」

「他に誰が居るんだよ」

「だよね……え、心配してくれてる?」

「ボクを何だと思ってるんだオマエ」

 

 ────いや、だってなんか冷たいから。

 今の素っ気ない反応から、あんまり気にしてないのかもと思っていたから、逆に驚いた。だがよくよく考えてみれば、たきなに次いで見舞いの頻度が多かったのはクルミだった気がする。

 病室に顔を見せては、会話するでもなく一、二時間PCを弄るだけの彼女だったけれど、何度か来てくれたのはきっと、クルミなりに心配しての事だったのかもしれない。

 

「お陰様でもう平気だよ。お見舞いありがとね」

「……そりゃ良かった。お前の代わりに仕事しなくて済む……ふあぁ……」

「……俺の感動返して?」

 

 ────涙引っ込んだんだが。

 クルミはやはり平常運転であった。彼女の専門である電脳戦───クラッキングの類に関しては進行形で勉強中の誉。

 最近彼女に宿題感覚で渡されたプログラムの解体が出来るようになってきたのだ、このまま成長して彼女のお株を奪ってやろうか、とまで考えていると、ミカがカウンターの向こう側から淹れたての珈琲の入ったカップを渡してくれた。

 

「わ……ありがとうございます。久しぶりに飲みたかったんです、珈琲」

「気に入って貰えてるようで嬉しいよ。……ああクルミ、頼んでいた件は?」

「今準備してる。始めるのにもーちょい時間かかるぞ」

 

 ミカの質問に端的に答えるクルミ。何の話だとミズキを見るが、彼女は我関せずで酒瓶を傾けていた。当てにならなそう。

 誉はカウンターテーブルを挟んで向こうに立つミカに向かって、なんとなく問いを投げた。

 

「……何か仕事ですか?」

「まあ、な……」

 

 何だか歯切れが悪い、とそう感じた。

 誉自身が関係無いから話せない、というよりも本人達さえも理解できてないような、不安に近いような何かを感じる。

 なんとなく気になってミカに重ねて質問しようと口を開いた瞬間、店の二階の方から此方を遮るように割り込んでいたクルミが、

 

「ボクの専門だよ。弟子にはまだ早い」

「ふーん……どっかハッキングするの?」

「DA」

「は?」

 

 ノータイムで聞き返した。手に持ったカップが揺れ、再び顔を上げて彼女を二度見するが、彼女はなんでもないような顔でボーッと画面を眺めていた。

 リコリスという存在の詳細を知らない誉でさえ、機密組織であるDAをハッキングしているというその意味合いのレベルを理解出来た。クルミに最近その手の事を教えて貰ってただけに、驚くのは尚更だった。

 良いんですかそんな事させて……とミカを見上げると、彼は小さく息を吐いた。

 

「……話しておくか」

「良いのか、ミカ?」

「ああ、もう無関係じゃいられないからな」

「……?そんな深刻な話なんですか?」

 

 少しばかりの不安を胸に、ミカから切り出された話を聞く体勢に入る。

 

 ────噛み砕いて説明すると、ここ最近リコリスの闇討ち事件が増えてきている、との事だった。今月で既にリコリスが四名殺害されているとの連絡が入ったらしい。

 

 それぞれが単独任務中に襲撃されており、殺害方法はバラけてはいるものの、まるで見せしめと言わんばかりの夥しい傷の量が共通点として、同一犯の可能性が高いそう。さらに同じ遺体に刻まれている弾痕が複数種類である事から、複数による犯行だというのが検視からの見解だそうだ。

 

 これだけ聞けば、つまるところ重要な点が何処なのか、リコリスの存在の機密性を知っている誉にも理解できた。

 

「……犯人は、リコリスの存在を認識してる……って、事ですか?」

「……そういう事になるな」

 

 犯人の攻撃対象の全てがリコリスであるという事は、つまり犯人側は機密組織であるリコリスという存在を認知しており、特定にまで至っているという事である。

 

「……それ、錦木とたきなは大丈夫なんですか?」

「何故特定されてるのかが今のところ分からないからな。危険な事に変わりない。ただ……」

「……“ただ”?」

「さっき、たきなから連絡があってな。事件解決の目処が立つまで、千束の家に泊まるそうだ」

「……なるほど」

 

 安全が確保されるまで一人にならないよう行動するという事か。たきならしい考え方かもしれないと納得する。

 ……そういえば、と誉は自身のスマホを開く。早朝彼女から連絡が来たのを思い出した。内容は簡単にまとめると、『仕事でこれから暫く病室に行けませんが、すぐに片付けますので待っててください』というようなものだった。

 

(……退院したの言ってないからなぁ……)

 

 そういう事情なら巫山戯てる場合ではないかもしれないし、退院した事を早いところ連絡してしまおうと指を動かしかけた時、ミズキから深い溜め息が聞こえた。

 

「にしてもタイミング悪いわねぇ……これじゃあ朔月くんの誕生日のパーティーできないじゃない」

「────……ぁ」

 

 スマホ操作が止まり、顔を上げる。ミズキから告げられた『誕生日のパーティー』という言葉を聞いて、誉は思わず固まってしまった。

 

 先月、八月二日が誕生日であるたきなの誕生日パーティーを店の皆で催した時の事を思い出す。誰かを祝うのも、誰かとパーティーをするのも初めての経験で、凄く楽しかったのを覚えてる。

 そんな自分を見たからなのか、九月には誉と自分の誕生日が控えているから、その時もパーティーをしよう、と千束が楽しそうに計画してくれていて。

 

「……そっか。もう、そんな時期か」

 

 ────それが嬉しくて、図々しくも楽しみにしていたのを覚えた。カレンダーを見やれば、成程。あと数日もしない内に迎えてしまう、自分の誕生日。

 

(……あれだけ待ち遠しかったのに、どうして忘れていたんだろうか……)

 

 だがどちらにせよリコリス、ひいてはDAの危機なのだ。そんな悠長な事は言ってられない。自分の事を重荷にさせたくないと、誉は誤魔化す様に笑った。

 

「……そんなの、気にしないで下さい。それどころじゃないんだし」

「……すまないな、朔月くん」

「い、いやそんな謝られる様な事じゃ……錦木の誕生日パーティーまでには事件が解決してくれれば、俺はそれで」

「……そうか」

 

 そう返事はしてくれているが、ミカは変わらず申し訳なさそうに目を伏せる。こういう事に乗り気に見えなかったミズキでさえバツが悪そうで、なんだか此方が居た堪れなかった。

 

 残念だとは思うが、本当に気にしてない。誉にとっては、みんなと盛り上がったあの時間が好きなだけだ。自分のでなくても、千束の誕生日パーティーで集まれるのなら、それは変わらない。

 

 ────それに。

 

「……それに、楽しみが無いわけじゃないんです」

「ん?」

 

「────母が、祝ってくれるので」

 

 そう伝えると、ミカは目を見開く。

 ミズキや、クルミも視線を此方に向けてきていた。誉の肉親は既におらず、彼が天涯孤独であるのを知っているが故に。

 

「君の母親は……」

「あー、その……実は母さ……母が、俺が成人になるまでの誕生日プレゼントを死ぬ前に用意してくれてて……毎年、それを開けるのが楽しみになってるんです」

 

 ────“誕生日が来る度、一つずつ開けなさい”と、そう言われていた。

 

 普段忙しく、病気でいつ危篤状態になるかも分からない息子が居るにもかかわらず、仕事に奔走する日々を重ねていた母親。それが寂しくないと言ったら嘘になるけれど、そんな母親は誕生日には必ず帰ってきてくれていた。

 

「生前は忙しくて中々会えない人だったけど、誕生日だけは一緒に過ごしてくれて……普段一人でも、プレゼントのお陰で寂しくなかったなぁ……」

 

 本だったり、服だったり、時計だったりと色々。

 およそ一般の子どもだとゲームとか玩具とか、そういった物の方が喜んだのかもしれないけれど、誉にとっては母と一緒に居られる時間が何よりも嬉しくて。

 

「……良いお母さんじゃないか」

「どう、ですかね……まあ、偶に仕事抜け出して会いに来てくれるくらいには、大切に思ってくれてたとは思いますけど」

 

 ミカの言葉に、困ったように笑う。

 母との時間はそれほど多くない。他の家族と比べて関係性は希薄なもの。時間が経つにつれて記憶は風化し、錆びれ、色褪せていく様な気がして。

 思い出が少ないからこそ、毎年のプレゼントに縋っているのかもしれないけれど。

 

「そんなに忙しいって……何やってる人だったのよ?」

「え……」

 

 ミズキの素朴な疑問に、思わず固まる。

 数秒間が空いて、ポカンと口を開けて見つめてくる誉に、ミズキは『どうしたの?』と問いかけた。

 

「え……あ、そういや仕事内容ちゃんと聞いた事無かったな……科学者だとは聞いてたんですけど」

「……科学者、か」

「はい……あ、けど色々できる人みたいですよ。医者とか弁護士とか、資格持ってたし」

「……亡くなった原因、聞いてもいいかな」

「多忙だったし過労死かと思ってたんですけど……病気です。あの人も、心臓弱かったらしくて……俺は最後まで知らなかったんですけど……」

 

 自身の病気は遺伝性なのか何なのか。母親の場合は過労もあったのかもしれない。忙しくして会ってくれない事に不貞腐れるばかりで、彼女の仕事内容をそこまで気にする様ことはなかった。最初のうちは。

 けれど、あの人がそこまで頑張っているのは自分の治療の為なのだと主治医に聞かされた時は、もう何も言えなくなってしまった事をよく覚えてる。

 

 だから仕事内容はよく分からなかった誉だが、ふと思い出した事があり、思わずそれを伝えようと口を開きかけて────

 

「あ、ただ───」

 

「────おはよう、労働者諸君!」

「おはようございます」

 

 ────そこまでで、言葉が途切れた。

 背後の扉が鈴の音と共に開かれるのを耳にしたからだった。聞き覚えのある二つの声に思わず肩が震え、自然と顔の向きは扉の方へ。

 

「……誉、さん?」

 

 ────錦木千束、井ノ上たきながそこにはいた。

 

 

「ぇ……」

 

「ぁ……」

 

 

 視線は、千束へと向かった。どうしようもなく、彼女と目が合ってしまった……が、すぐに逸らされてしまう。

 笑顔で入ってきたはずの彼女の表情は固まり、誉も誉でサプライズのつもりで気持ちを作っていたはずなのに、戸惑って表情が作れず。

 久しぶり過ぎて、どんな風に話していたか忘れかけつつ、ぎこちない笑顔で挨拶した。

 

「……お、おはよう、錦木……」

「っ……お、はよ……」

「……」

「……」

「退院、したんだ」

「っ……ああ、うん……」

「……そっか。よかった」

 

 全然視線が合わない。言葉を交わしているはずなのに、目を逸らされただけで、一方通行な会話になってしまっているような、そんな感覚。

 いつもと違う千束の様子に、誉は慌てて次の言葉を重ねた。

 

「あ……そういえば、さっきミカさんから事件の事、聞いた」

「エライ事になってるわね〜」

 

 誉の後ろから、ミズキが同情する様に息を吐く。

 千束は何の話かと眉を寄せて、すぐに思い出したのか口を開いた。

 

「え……あ、ああ……私らDAじゃないから大丈夫だよ」

「可能性はゼロじゃありません」

「そう、だよね。二人とも気を付けて」

「っ……ありがと」

 

 千束は、誤魔化す様な下手くそな笑みを浮かべながら、更衣室へと続く扉へと入っていく。

 その背を見送りつつ、彼女になんとなく避けられたような気がして、誉は溜め息を吐いた。

 

(やっぱこうなるよな……ん?)

 

 すると、すぐ目の前の人の存在に気付いて顔を上げる。

 そこには、セカンドリコリス────井ノ上たきなが真顔で立って、此方を見つめていた。

 

 因みに、退院を隠していたというのに、全然驚いてない様子。今に至るまで、誰も誉の望んだリアクションをしてくれていないという事実。

 そうして暫く見つめ合っていると、たきなから一言。

 

「……退院、されたんですね」

「えっ、あまり歓迎されてない……?」

 

 まさかの対応。寧ろ此方がサプライズである。

 もしかして嫌われてた……?もっと入院してて良かったのに、とかそういう……?うわ立ち直れない泣く……。

 

 衝撃の事実が発覚しそうでガタガタ震えていると、たきなが僅かに眉を寄せて詰めてきた。

 

「……今朝、メッセージ送ったと思うんですが」

「……驚かせようと思って」

「子どもですか」

「……ゴメン、不謹慎だった」

 

 千束とたきなが大変な時に自分は何を……と肩を落としていると、たきなが小さく息を吐いて、ポツリと呟く。

 

「……驚き、ました。怪我が治りきってないのに、病院を抜け出して来たのかと思って……」

「……っ」

 

 ────誉は、顔を上げた。目を逸らして俯きながら、両手で指を弄りながら。たどたどしく伝えてくるたきなの顔を見て、言葉に詰まった。

 

 たきなは毎日お見舞いに来てくれていたのだ。仕事で忙しい日も会ったはずなのに、僅か十分でも時間を作って来てくれていて。やはり、彼女には伝えておくべきだったかもしれないと、今更ながらに反省した。

 

「……次からは連絡するよ」

「いえ、次は無いです。もう入院はしないで下さい」

「あ、ああ、うん、そうね……その方が良いよね……」

「でも、メッセージはちゃんと返してください」

「返す、ちゃんと返すよ」

「それから電話も」

「で、電話?……わ、分かった……電話?」

「私からの電話は三コール以内に出て下さい」

「い、いや、早くない?それ出れない時あるって絶対」

 

『ま、まあ、分かった、一応』と、あれよあれよと彼女の要望を承諾していく誉。このままなし崩し的に色々了承してしまって彼女の思う壷になりそうなのだが。

 

「それから」

「ええ、ま、まだあるの……?」

 

 思わず嫌そうな声を漏らしかけて────たきなの、小さな笑みが誉の視線を釘付けにした。

 

「────おかえりなさい」

 

「────……っ」

 

 彼女の笑顔を、何度か見た事がある。

 最初は無表情で鉄面皮で、感情を表に出さない機械のような印象だったけれど、この店に来て千束や誉、店のみんなと関わるようになって、彼女の笑顔は増えてきたように思える。

 

(……何、その顔)

 

 けれど、誉は見た事がなかった。

 僅かに頬を朱に染め、楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに言葉を音にして。小さく微笑む彼女の姿と、その感情の正体を、誉は知らなかった。

 

「……た、だいま」

 

 

 ▼

 

 

「あ、たきな……」

「千束……」

 

 更衣室の引き戸を開けると、赤い和服に身を包んだ千束が立っていた。目が合うと、気不味そうに視線を逸らして俯く彼女に、たきなは瞳を細めた。

 

「誉さんと、話さなくて良いんですか」

「え……やー、後で話すよ」

「本当に?」

「な、何でそんな事聞くのよ」

 

 煮え切らない。素直じゃない。

 常にやりたい事最優先で、望みや欲に愚直なはずの彼女が、想い人とのすれ違いを解決する努力もせずに引き延ばそうとしている。

 凄いと感じた、憧れた錦木千束が自分から離れていく。

 

「私の宣戦布告、聞いてなかったんですか」

「っ……聞いて、た、けど……ね、ねぇ、ホントに?ホントに、朔月くんの事、好きなの?」

 

 そんな風に慌てるくらいなら、あの人にも積極的になれば良いのに、と思わずにはいられない。

 毎日、病室に足を運んだ。口下手で盛り上がるような話題の提示もできない自分が、初めて誰かの為にと思って必死に話す事を考えてきて。それを聞いて笑ってくれる彼を見るのが、とても嬉しくて。

 

「……私は、千束が羨ましいです」

「え……」

 

 ────けど、千束と同じくらい誉を見てきたから分かっているのだ。時折見せる彼の憂いた表情が、誰を思ってのものだったのか。

 誉はつい最近まで病気で孤独だった。だからこそ、他人と関われるこの店の時間が好きで、この店の人達が忘れられないと病室で話してくれていたのを思い出す。

 

「……嘘じゃないです」

「……た、きな」

 

 その中でも特に、彼の心の中に長く居座っているのが誰なのかも、なんとなく気付いている。

 それでも、関係無い。

 

「────誉さんが好きです」

「……っ」

 

 千束の想い人だと知っている。

 彼女が誉を大切に思っているのを知ってる。

 

 そして、多分誉も────。

 それでも、関係無い。

 

 

「私、誉さんの残りの時間が欲しいです」

 

 

 たきなは、千束に向かって、不敵に笑って見せた。

 

(────戻ってきて欲しい)

 

 今までの千束に戻って欲しい。

 想い人の為に頑張れる、誰かの為に頑張れる、やりたいこと最優先で、格好良い彼女に戻って欲しい。

 

 そう思っての、千束を焚き付ける為に言った言葉ではあったけれど。その言葉に嘘は無い。彼が欲しい事にも、変わりは無い。

 

 

「勝負ですね、千束」

 

 

 ────たとえ、分が悪くても構わない。

 茨の道で、無様に暴れてみようかと思う次第。

 

 







誉 「結局誰も驚いてくれなかったな……」

ミズキ 「いや二人とも驚いてたと思うけど」

誉 「やー、あーいうんじゃなくてですね……」

北村 「こんにちは〜……あれ、朔月くん!? 体調不良が長引いてたって聞いたけど……大丈夫なの?」

誉 「あ……北村さんいらっしゃい……はい、治りました」

伊藤 「あー!朔月くんやっと来たわね!ネタの提供に付き合いなさい!」

誉 「……ミズキさん、コレです。この反応が見たかったんです……!」

ミズキ 「アンタとことん不謹慎ね……」




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.23 Passing each other







今、“死ぬ”よりも“忘れられる”のが恐ろしく感じているんだ。




 

 

 

 

 

「朔月くん!ちょっとちょっと」

「あ、はい、ただいま」

 

 怪我もある程度治ってきて、喫茶“リコリコ”の業務に復帰できるようになって早数日。鈍っていた身体も漸く感覚を取り戻し、今では回復してすっかり通常運転である。

 

 何よりも一番嬉しかったのは、復帰後のバイト初日に、常連さん達が俺の復帰をめちゃくちゃ喜んでくれた事だ。

 みんなには怪我が治るまでの休職期間を体調不良で休んでたー、とその辺フワッとしたストーリーで誤魔化しているのだが、特に突っ込まれる事も無く取り敢えずは大丈夫そう。

 

 それよりも、そんな俺の居ないリコリコを寂しいと感じてくれる人が増えた事に感動を禁じ得ない。俺実際に泣いたかんね?いや、自慢気に言う事じゃないんだけどさ。

 

 今日も変わらず通常業務────だったのだが、手隙になってフロアの消毒を済ませようとナプキンを持って客間を周っていると、いつもの席で伊藤さんと北村さんが俺を呼んで手招きしていた。

 彼女達に従うままに取り敢えず席まで向かうと、伊藤さんがすぐに顔を近付けてきて、小声で囁いてきた。

 

「ね、アンタ達、まーた喧嘩してんの?」

「喧嘩……や、してないですけど……え、誰の事ですか?」

 

 特に喧嘩してる様な人はいないけど……と眉を寄せていると、伊藤さんの隣りに座る北村さんが続けざまに口を開く。

 

「だから、誉くんと千束ちゃんだよ……!」

「ちさ……俺と錦木ですか?してないですよ仲良いです」

「今凄い棒読みだったけど」

「この前一緒に水族館にも行きましたし」

「一ヶ月前の話をいつまで引き摺ってるの」

 

 そこから更新されてないじゃない、と言われ仰る通りですと頭を垂れる。千束……と呼ぶのがまだ慣れず恥ずかしくなって、思わず苗字呼びしちゃうヘタレ具合よ。

 

 ともかく、傍からはそんな風に見えるのか。いや、確かにこの前から若干気不味くはあるけど、そんな事ない……と個人的には思って……や、嘘だ、これは自分に言い聞かせている節もある。

 

「でもアンタ達、私達が来てから一言も会話してないじゃない」

「いやしてますよ会話。お客さんの注文伝えたり、ポジション変更の指示出し合ったり」

「そりゃ業務連絡でしょうが。会話とは言わないのよ」

 

 ド正論万歳。思わず唸ってしまった。

 それにその業務連絡だって錦木から言ってくる事はない。基本的に俺から話しかけにいってるのだが、錦木は曖昧な返事で相槌を打つだけで会話らしい会話ができてないのが実情である。

 

(……まあ、理由は分かってるんだけど……)

 

 あからさまに避けられてて少し落ち込む。

 それにしても最近の伊藤さん、俺との距離感がある程度決まったのか、こっちが言いにくい事や触れて欲しくないとこもズバッと言及してくるなぁ。

 

「いつもは……もっとこう、仕事中に普通の会話してるじゃないの。前の日に見た映画の話とか、店長やミズキさんの面白エピソードとか。けど今日はゼロじゃない」

「あ、ミカさんのそういう話はそもそも少ないんですよ。ミズキさんなら一周まわって笑えないエピソードとかは結構あるんですけど」

「そういう話じゃないのよ」

「あ……そうですよね……ミズキさんの話って毎度悲惨過ぎて笑えないから、ミカさんのお茶目話の方が良いですよね……すみません気が利かなくて」

「そういう事じゃないのよ」

 

 なんならそっちの方が多いまである。

 結婚願望が行き過ぎても怖いよねっていうのを教えてくれる反面教師。錦木とたきなには是非良い恋愛をして欲しい。あとクルミ。クルミは結婚とか興味なさそうだけど。

 

 だが確かに、業務中でも錦木はお客さんだけでなくたきなやミズキとも世間話をする。俺も業務に支障が出るレベルで話し掛けられたりする事もあったけど、ここ数日そういった事も一切無くて、業務に支障がまるでない。

 あれ、良いことのはずなんだけど……。

 

「今日だけじゃないわ、昨日も一昨日も殆ど会話無かったし……」

「伊藤さん毎日ご来店ありがとうございます」

 

 見たところ昨日と同じページですねそれ。

 昨日一昨日どころか一週間連続ってミカさんから聞いてますけど、漫画は捗ってますか?

 

「今日だって此処来て二時間以上経つけど、なんかギスギスしてるっていうか……」

「伊藤さんいつも長い事ありがとうございます」

 

 一日の三分の一は此処で費やしてますよね。

 二時間どころか此処来てもう三、四時間くらい経ちますけど、お仕事順調ですか?

 

「ちょっと、茶化さないでよ」

「お仕事お疲れ様です。休憩に甘味はいかがですか?」

「貰うわ」

「い、伊藤さんチョロい……」

 

 それな。熟れたもんよ。

 てか、毎日来過ぎでしょこの人。今テーブルにばら撒かれてる下書きのページなんて一昨日も見たけど。本当に仕事ちゃんと進んでるか心配です。寧ろ誘惑の方が多くて集中できてないまである。

 その証拠に伊藤さんの俺と千束の観察結果が正確過ぎる。この人漫画描かないで俺らの事見てない?

 

「……とにかく、何でも無いんで」

「じゃあじゃあ、たきなちゃんとは何かあったの?」

「たきな?……いや、それこそ何も無いですけど……なんでですか?」

 

 北村さんのキラキラした瞳にたじろぎながらも、その疑問を投げかける。

 千束ならまあ体感してるし分かるのだが、たきなはあれからも変わらず接してくれているような気がするし、それこそ喧嘩みたいな事は有り得ない。

 

「気付いてないの?……ほら」

「え……?」

 

 伊藤さんに促されるままに振り返る。そこには、テーブルを拭きながら此方に視線を寄越すたきなの姿があった。

 

「……っ」

「えっ……」

 

 パチリと視線が交わったかと思うと、すぐにたきなはテーブルへと視線を落とし、何食わぬ顔で清掃を再開した。

 

 え……な、何今の『別に私見てませんけど?』みたいなアピール。てか、今露骨に目線逸らされたような気が……え、まさか俺そんな事無いって思ってただけで、錦木だけじゃなくてたきなにも避けられてる?

 ……なんか、前もこんな事あったような。

 

「あーやってさっきからちょいちょい朔月くんの事見てるのよ、あの娘」

「何かあったんじゃないの〜?」

「いや、何かやらかしたんじゃないの?」

「何これ酷い言われよう」

 

 日頃の行いも悪くないはずなのに何故。あ、もう伊藤さん達がそんな事言うから何かしたような気がしてきた。

 ニヤニヤする北村さんと訝しげに瞳を細める伊藤さんの視線に耐えかねて、俺は心当たりも無いのに腕を組んだ。

 

(……やっぱり、たきなも気にしてんのかな)

 

 ……彼女のあの態度の理由は、もしかしたら錦木と一緒で、俺の心臓について思うところがあったからかもしれないけれど。

 たきなは別に、あの日の病室に限っては錦木みたいに狼狽えなかったってだけで、ほとぼりが冷めたら次第に錦木と似たような考えに至ったのかもしれない。心の整理が付いていないのかも。

 

 いや、でも毎日お見舞い来てくれてたし……特にその時も何も言われなかったけどなぁ……。

 

 というか、避けられるのは納得いってないよ?

 寂しいよ?

 

 

 ▼

 

 

「中々苦戦してるじゃないか」

「え……あ、ああ、このプログラムの事?もう組み終わるからもう少し待っててよ。まだクルミみたいにタイピング速くなくてさ」

「惚けるなよ、千束の事だよ」

「……っ」

 

 閉店後、クルミが根城にしている押し入れのある部屋にテーブルを構えて、彼女の下でキーボードを叩いていると、彼女が今触れて欲しくない話No.1の話をデリカシー無く差し込んできた。

 しかも何かちょっと笑ってるし。あの、全然笑い事じゃないんだが……?

 

「‪……別に、錦木が避けたりするのって今回が初めてじゃないし。今回のはちょっとベクトルが違うけど……」

「客のみんなにも心配されてたな、千束の奴」

「……錦木、分かりやすいからね」

 

 ────結局、今日一日避けに避けられた。

 極力会話をしないようにと、無意識にだろうが距離を置かれて。それが感じ取れてしまうから、余計に踏み込めなくて、伸ばした手を引っ込めてしまう。

 

 錦木の物憂げな表情は、快活な印象を周りに与える普段の彼女はまるで違う。常連のお客さんが気付かないはずもなくて、どうしたのか、何かあったのか、聞かれる回数は両手では数え切れないくらいで。

 

 その度に錦木は、何でもないと振舞って。元気だよ、と笑って見せて。その姿が痛々しいとさえ、周りに思わせてしまうくらいで。

 

「ねぇ、クルミ……俺が、間違ってたのかな」

「……何がだ?」

「言わなきゃよかったのかな。余命の事なんて」

「そう思うなら、何で話したのさ」

「え、や、そりゃあ……あそこで言わないなんて選択肢無かったし……言うしか、なかったでしょ」

 

 言い訳がましくそう告げて、キーボードを乱雑に叩く。そうして暫くしてすぐ、押し入れの方から全く音がしない事に気が付いて振り返った。

 

「……」

「……っ」

 

 クルミはジッと此方を見下ろしていて、真顔で俺の瞳を見据えていて。先程までの冗談染みた笑みなんて無くて、真剣に此方を捉えていて。真剣に聞いているのが、伝わってしまって。

 

「……錦木、ってさ」

 

 彼女が聞きたがっているのは、そんな取って付けたような理由じゃないと分かって、自ずと口が開いた。

 

「バイト終わって別れた時とか、遊びに出掛けた日の最後とかに、“また明日”とか、“また行こう”とか言ってくれて……けど、その度に思うんだ。いつか、“また明日”が言えない日が必ず来る。特に俺なんかは、割と早く」

 

 いつか、命が尽きる日が誰にでも来る。けれど、俺はそれが人一倍早い。

 何気無い“また”が、嘘になる日が必ず来てしまうのだ。錦木や、たきなよりも早く。

 

「そう思ったら、なんか……なんか、ね……何も知らないアイツに、ずっと嘘を吐き続けてるような気分になって……だから、アイツに正直で在りたいって、ただそれだけだった」

「……」

 

 次の日には、なんて事がない訳じゃない。ただの挨拶で、軽口だと分かっているけれど。彼女とのあの挨拶には、言葉以上の意味と重みがある気がして。

 ────明日が必ず来るとは限らない、それが分かっている者同士の繋がりみたいな気がして。

 

「……隠し事、したくないだけだったんだけどな……」

 

 あの日たきなを助けた自身の行動自体に後悔は無い。

 錦木が俺を巻き込ませない様にと、ああいった仕事を遠ざけていたのは知っていた。それを理解した上で松下さんの誘いに乗り、たきなを助ける為に行動したその行いに後悔は微塵も無いけれど。

 

 ────それでも。あんな風に、お客さんに誤魔化す様な笑顔を向ける彼女が。無理して笑おうとする彼女が、堪らなく嫌だった。

 

 あれは、俺の所為なんだろうか。

 俺が、彼女を心配させたのがいけなかったのだろうか。たきなを助ける為に仕方が無かったと言えば、それは言い訳になってしまうのだろうか。

 なら、どうすれば良かったんだろうか。

 

「ふーん……じゃあどーするんだ?」

「え……どうするって……何も、しないよ」

「……見てるだけって事か?随分と“らしくない”な」

「“らしくない”って……だって、俺があんな風にさせてるのに……それを俺が嫌だって言うの、巫山戯た話でしょ」

 

 好きだった彼女の笑顔。

 奪ったのは他でもない自分。

 憧れた存在である彼女が、周りに自身を偽り、誤魔化し、苦笑してみせるその姿は見ていて苦痛でしかない。

 

 ……でも、それでも。俺が言うのは、違うじゃんか。なら最初から余命の話なんてするなって、そういう事じゃんか。

 アイツに、笑ってなんて、言いたくても言えないじゃんか。

 

「そうじゃない」

「……え?」

「……まあ、お前がそーゆー言い方をすれば、確かにって思うけど」

 

 クルミを見上げる。彼女の視線は、俺からディスプレイへと映る。カタカタとキーボードを叩きながら、ポツリと呟いた。

 

「お前達、いつも言ってるだろ。“やりたい事、最優先”って」

「────……ぁ」

「言いたい事があるのに、ただ見てるだけっていうのは……違うんじゃないのか」

 

 ────“やりたい事、最優先”

 錦木千束のモットーか、信条か、座右の銘か。何度も聞いたその言葉は、いつしか俺自身の生き方にもなっていて、そうする事でリコリコでの日々がとても色鮮やかで楽しくて。みんなで笑い合えれば、それだけで楽しくて。

 

 普段その在り方を見せ続けてくれていた錦木が、そうじゃなくなってしまったからか、いつの間にか俺も、その生き方を忘れていたのかもしれない。やりたい事が出来てなかったのかもしれない。

 

「……そう、だった。忘れてた」

「“忘れる”、か……お前、記憶力良いんじゃなかったか?」

「い、いや自信はあるけど……常日頃から頭の中にあるわけじゃないし……」

「ま、何でもいいけど。店の空気悪くなると困るしな」

「……よく言うよ普段此処でPC弄ってスナック摘んでるだけの癖に……」

「煩い弟子だな」

 

 ムスッと頬を膨らまして不貞腐れる彼女を見て、思わず笑ってしまう。彼女は普段この部屋に居る時間の方が多いだけに、基本的には閉店後のボドゲの時にしか顔を出さないし、出しても常連客と話したりで仕事の手伝いをする事は殆どない。

 だから、こういう時しか関わりが無いかと思っていたけれど、クルミはクルミで周りを見てくれているのだと思うと、それはそれで嬉しく思う。

 

「……プログラム組み終わったよ、そっち転送するから」

「……分かった」

「因みになんだけど、何に使うやつなの?」

「秘密だ」

「またそれか……」

 

 クルミが聞き上手なのか、それとも誰かに零したかった感情だったのか。とにかく、自分の本音を曝け出せたのが思ったよりもスッキリした。

 彼女に教わったPCの技術に思考を追いやって、そうやって一時でも忘れようとして、そうやって感情を誤魔化す為の時間だと思っていたのに。クルミには感謝しなくては。

 

「ん、確認した。ありがとな、手間が省けた」

「別にいいけど。何かしてたい気分だったから助かったし、こっちもありがとう。はい、PC返すよ」

「……」

「……クルミ?」

 

 折り畳んだPCを突き出すも、クルミはそれをジッと見たまま動かない。どうしたのかと彼女の名を呼ぶと、瞳を細めて此方を見て。

 

「それ、やるよ」

「……え?」

「ちょっと早いけど、誕生日プレゼントって事で」

「は?や、いやいやいや……」

 

 急な誕生日プレゼントに驚いて、思わず手元に突き出していたPCを引き寄せる。これ普通に十数万するPCだよな……いや、ちょっと迷ったけど流石に貰えない。

 や、もしかしたらクルミが自分で組んだPCかも……そんなハイスペック、俺の手には余る。

 

「……これ、かなり高価だろ。貰えないよ」

「別に。金なら幾らでもあるし」

「言ってみてぇそんな石油王みたいなセリフ……や、じゃなくてさ」

「いーよ別に、もう使わないし。要らなきゃ捨てる」

「捨てっ……」

 

 ……その言い方は、狡いのではないだろうか。そんな風に言われたら、もう貰うしかないじゃないか。というかこのPC捨てるとか勿体無さ過ぎて……気が付いたら抱き締めていた。

 贈り物を貰うというのが、母以外では初めてなのではないだろうか。

 

「……じゃあ、貰っとく。ありがと」

「────……ん」

「最近ゆーちゅーぶ?っていうのお客さんに教えて貰ってさ。これなら見れる?」

「スマホで見ろ」

 

 しかしPCか……最近触る機会が多かっただけに愛着が湧いていたんだよな実は。あれ、ヤバい、思ったより嬉しいかもしれない。

 ……もしかしてこれを使えば、クルミ直伝のハッキング能力が活かせれば、錦木とたきなが巻き込まれている今の事件の解決に助力ができるんじゃないだろうか。

 

 たとえば街中の監視カメラの映像をハッキングして……いや、よく考えたら犯罪だわ。危な。

 此処に居ると銃刀法とかハッキングとかそういったものが法で禁止されてないみたいな錯覚に陥るから困るわ。捕まるとこだったよ誰か言ってよ。

 今まで俺は何を教わってたんだ……まあいいか、どっかで使い道あるでしょ。もしくはもう寿命短いし、と開き直って色々やらかすのもアリかもしれない。や、ダメかな。たきなに怒られそう。

 

「ねぇ、クルミ」

「ん?」

「ありがとね」

「……さっき聞いたよ」

「違くて。話、聞いてくれて」

「……ああ」

 

 お礼を言うと、視線を逸らされた。えっ、傷付いた。

 もしかして照れてるのだろうか。面と向かって感謝されるのは、慣れてないのだろうか。そう思うと、少し揶揄い甲斐がある。

 

「……てゆかクルミこそ、らしくない事言うじゃん」

「煩い弟子だな」

「そういうの、キャラ崩壊って言うらしいよ。常連の男子高校生達が言ってた」

「水族館と浅草で五歳児みたいにはしゃぎ回ってたお前に言われたくない」

「錦木喋ったな許さん」

 

 早めに仲直りして問い詰めないといけなくなったわ。

 アイツ人の事避けといて喋る事は喋ってやがるな良い度胸だ……水族館でやってたチンアナゴの真似を覚えたてのゆーちゅーぶとやらで動画投稿してやろうか……と握り拳を作っていると、クルミがクスリと小さく笑った。

 

「あれだけ避けられてるのに、お前は変わんないな」

「え?」

「アイツに怒ってたりとか、嫌ったりとかないのか?」

「何でさ。無いよ、そんなの」

 

 笑いながら即答すると、クルミは驚いた様に口を開ける。確かに避けられたりしたら落ち込むし傷付くけれど、コロコロと表情を変える彼女が“らしい”と感じてしまうし。

 それに、生き方やこれからの在り方を教えてくれた恩人でもあるから。

 

「多分、この先()()()()()()……錦木の事、嫌いになれないんじゃないかな」

 

 ……な、なんか今、言っててちょっと恥ずかしかったな。本当の事とはいえ、友達の事を“好き”と改めるのってやはり照れる。

 案の定振り返ってみれば、クルミがニヤニヤと口元を緩めて……ちょおい、その顔やめろ。

 

「なぁなぁ、やっぱり好きなのか〜?」

「や、やっぱりって何。そりゃあ友達だし、勿論好きだけど……クルミは違うの?」

「……そういう意味じゃないんだよなぁ」

「なんだよ、気になるじゃないか」

 

 教えてよ、と言っても何処吹く風。クルミは面白そうにニヤニヤしてるだけで、揶揄ってくるだけで、何も教えてくれない。

 けど、そうやって巫山戯合うのが、何だか楽しくて、クルミと一緒に暫く笑ってた。彼女の言葉のお陰で、忘れかけていた在り方を思い出せて、嬉しかったのかもしれない。

 

 

 ────千束に対する想いを、さっきの言動を、誰かが聞いてるかなんて思いもしなくて。

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 

 ────夜、錦木セーフハウス一号にて。

 

 

「う、うわああああああっ!!」

「ひいいぃぃいいっっ!?」

 

 恐怖で絶叫を上げながらゴミ捨て場から逃げていく二人の男性を、ベランダから銃を突き付けながら眺める千束。

 彼らが去っていき見えなくなるのを確認してから振り返ると、彼らを突き飛ばした際に弾けた窓ガラスの破片と、見るも無惨な部屋の有様に、千束は溜め息を吐いた。

 

「あー……また窓注文しなきゃぁー……」

「この為のセーフハウスですか……」

 

 たきなは納得したように目を細めた。

 たった今、千束の部屋を襲撃してきた連中は、どうやら千束とたきなを尾行して時間を空けて襲いに来た様で、先程たきなが皿洗いをしている時にテレビを見ていた千束のスマホが、部屋の扉に手をかける熱源を探知したのだ。

 

 カモフラージュである上の階を覗いてみれば、部屋に潜入していたのは二人。各々に特徴があったわけでもなく、完全私服の二人組で立ち回りも素人寄り。返り討ちも苦じゃなかった。

 逃げ帰る様を見ても、明らかにリコリスを襲い続けている犯人とは思えない。

 

「まぁねぇ〜……あんな連中ならいいんだけどぉ、昔はリリベルも来てたから」

「……“リリベル”?」

 

 今回の事件の犯人ではなく、いつものよくある襲撃の方だろうと流して説明していると、聞きなれない単語だったのか、たきなが首を捻っていた。

 

「あー、男の子版リコリスみたいな?おっかないよ〜?」

「……それ、普段何してるんですか?」

「ん?さあ?よく知らなーい」

 

 千束としても関わった頻度はそれ程多くない。偶に任務でバッティングしたり、後はこの部屋に命を狙いに来ていたりとか、それくらいだ。

 千束はリリベルに対しての質問をしてきたたきなに向かって、普段の揶揄ったような態度で、

 

「え〜何、たきな男の子に興味……あるん、だよねぇ……」

「何自滅してるんですか。そういう事じゃないです」

 

 そうだ。思い出した。

 自分の相棒は、自身の想い人でもある誉に好意を持っている事を、彼女は盛大に宣戦布告して来たのだから。自分で言ってて自滅してれば、たきなの言うように世話ない話だ。

 表情が一変した千束の様子に、相棒である彼女はいち早く気が付いて。

 

「……その様子だと、相変わらず誉さんとは会話できてないんですか?」

「う……」

「電波塔のリコリスが男の子相手に情けないですね」

「スゲー言うじゃん……」

 

 図星だった。情けないっていうのも、彼女の言う通りで。不貞腐れるような態度を取っていても、そこは変わらない。自分は彼女の言う通り、情けなくも彼に声を掛ける事さえできなくなっていた。

 

「だって……何話したらいいか、分かんないんだもん」

「何でも良いと思いますけど。無難に天気の話とか良いんじゃないですか?」

「馬鹿にしてんのかいっ……て、まあ、それすらできてないんだけどさー……」

 

 ────あの日の、彼の余命宣告時から。後でミカから改めて彼が病気で、病弱で、最近になって漸く退院したという話を聞いてから。

 そしてその退院が、復調してるからではなく助かる見込みが無いから、残りの余生を謳歌する為なのだと聞いてから、これまでの自分の態度や言動、行動を振り返って、どうにかなってしまいそうだった。

 

「今日お店に来ていた女子校生達が、最近誉さんを気にしてるって北村さんから聞きました。知ってます?」

「え……あー、あの茶髪の可愛い娘でしょ?……そういやあの娘、天気の話してたな……」

 

 近所の高校に通っているという、同世代の自分の目から見ても美少女といって差し支えない茶髪で長髪の女の子。友人二人とよく店に来ては誉と話しているのをなんとなく見た事がある。

 

 天気の話なんて、会話の種が無かったり、緊張で話題がすぐに出てこなかった時に使うような、そんな会話の墓場感が凄いのだが……如何にその娘が緊張していたかが分かる。顔を真っ赤にしていたっけ。

 それでもその娘が言えて自分が言えない辺り、既に負けている。

 

「千束、誉さんが他の女の人と仲良さそうだと、焦ったような顔しますよね」

「え、ま、マジ……?」

「そんな顔するなら、さっさと仲直りすれば良いのに」

「べ、別に喧嘩してるわけじゃ……」

 

 自分の頬をペタペタと触る。やはりというか、常連のお客さん達の反応から薄々分かっては居たけれど、自分は感情を表情に出しやすいタチなのか。

 今になって恥ずかしくなり、赤くなる頬を両手で抑える。気を付けようと心に決めつつ、そんな話をしつつも平然としてるたきなが不思議でならず、思わず問い掛ける。

 

「……てゆうか、たきなは何でそんなに余裕なの……」

「え……私、ですか?」

「そんな話聞いて、その娘に取られるかも、とか思わない?」

 

 そう言うと、たきなは小さく目を見開き、納得したように口を開いた。まさかその可能性に気付いてなかったのか、と千束は彼女を見る。

 

「……あまり、心配してなかったです」

「よ、余裕じゃん……」

「あ、いえ……そうじゃなくて……誉さんみたいな人って、普通の女の人には合わないんじゃないかというお話があったので……」

「え……な、何、ど、どゆこと……?」

 

 少し慌てたように訂正し出すたきなに違和感を覚えて、彼女に視線を持ってく。たきなの言ってる事がよく分からず首を傾げていると、たきなは『お店の皆さん達が話してたんですけど……』と口を開く。

 

「誉さんって、順応性が高いと思うんですけど、逆に言えば主体性に欠けると言いますか……流されやすいところがあるじゃないですか」

「……まあ、うん……確かに」

 

 事件に巻き込まれる辺り、流されやすいという言い方をすれば納得できてしまう。常連客だった時に店を手伝ってくれた時や、バイトとして店に加入した時も流された感じだったし、仕事を覚えるのも早かった。

 

「だからこそ、理不尽な状況でも普通に行動ができる。この前の任務の時とかも。でも自分で積極的に行動したり、状況を変えようとする事は少ない。だから、凡そ女性をリードするような気質じゃないとの事でした」

「めっちゃ毒吐くじゃん……」

 

 多分この感じ、伊藤さん達だけじゃなくてミズキとかミカからの意見も混ざってるな……と目を細めて聞いていた。

 

 けれど、的を射た分析だった。

 千束にも覚えがある。死の間際に足を踏み入れた事があるからこそ麻痺している死生観。どんな状況でも驚く事無く、短時間で適応できてしまう。

 

 誉がサイレント・ジンと交戦した際もそうだし、リコリスとしての正体が誉にバレた沙保里の拉致未遂の事件でもそうだ。銃を所持した四人組相手に全く怯えず、果ては怪我人の治療を行うほどの精神力。彼はどんな理不尽な状況でも、適応し順応したけれど、それは巻き込まれやすい、流されやすいのと同義だった。

 

「それで、伊藤さんが言ってたんです。『朔月くんは逆に引っ張って貰わないと駄目なタイプ』だと。それを聞いて、思ったんです」

「……?」

 

 たきなは窓際へと足を運んでいく。月明かりが窓の外から差し込み、そこまで歩いて、彼女は此方に振り返る。

 

「誉さんに合うのは……きっと、千束のような人なんだろうなって」

「え……え、ええっ……!?」

 

 急に名前を挙げられて驚く。たきなに合うと言われて、途端に顔を赤くして。

 けれど同時に、おかしいとさえ思えて。この相棒は自分と同じ人が好きなはずなのに、どうして態々そんな事を。

 

「自由で気ままで、“やりたい事最優先”で周りを巻き込んで、そうやって振り回しても気にしない王様みたいな……そんな人なら、誉さんも合うと思うんです」

「めっちゃ毒吐くじゃん……」

「褒めてるんですよ」

 

 クスリと、面白そうに笑うたきな。その笑顔を、千束はつい最近見た気がした。

 誉が好きだと、自分と勝負だと、自分に宣戦布告してきたあの日の朝の、不敵な笑み。勝負だと口では告げているのに、此方の背中を押すような発言ばかり。

 

 

「────だから、千束は誉さんを大事にした方が良いですよ」

「え……?」

 

 

 たきなのその優しい声色に意識を奪われて、千束は顔を上げて彼女の姿を追いかけた。

 遠くを見つめるような瞳で、窓の外を眺めて。それから。

 

 

「……あの人は、()()()()()()、必ず味方になってくれるでしょうから」

 

「────……」

 

 

 窓の外、月明かりに照らされながら星空を見上げて、たきなは告げる。柔らかな風が破壊された窓から吹き抜けて、彼女の長い黒髪を優しく揺らす。

 その儚げな横顔を見つめていると、何故だか苦しくて。千束は、彼女から目が離せなくて。

 

「……た、きな」

 

 ────この違和感の正体は、一体何だろうか。

 

「……ねぇ、たきな。朔月くんのこと────」

「……そろそろ、戻りましょうか。この時期は夜だと少し冷えます。体調管理も仕事の内ですよ」

「っ……ああ、うん」

 

 そうやって踵を返し、自身の横を通過するたきなの背を、千束は暫く見つめていた。

 

 たきなは、相棒は、どういうつもりなんだろうか。

 彼女の言葉は自分を奮起させようとするような、背中を押すような言葉に思えて。

 分からない。たきなはどういうつもりで自分に勝負と、そう言って挑んできたのか。

 

 それが分からないのが、なんとなく苦しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 サングラスとツナギの集団に囲まれて、俺は冷や汗をかくのと同時に、懐かしさを感じていた。

 この二つの組み合わせに覚えがある。そう、初めて事件に巻き込まれた時、錦木とたきながリコリスであるという事を知った、あの日を思い出すのだ。

 

「さ、朔月、くん……」

 

 後ろで座り込んでいる錦木へと視線を向けて、いつもみたいに笑ってみせる。

 

「よっ、錦木」

「な、にして……」

「何って……た、たまたま通って?」

 

 背中にスナイパーライフル、左手にアサルトライフル、右手に拳銃という俺史上一番の重装備。

 因みにさっき鉄パイプで気絶させた奴らから掻払って来たんだけど、特に背中のスナイパーライフルに関しては興味本意四割、酔狂四割、なんとなくカッコイイ二割からなる完全ハッタリ武装につき戦力には全くなりません。はは、笑えない。

 

「……あ?何だお前」

 

 彼女と、そして目の前にいる奴との間に割って入ったからか、眼前の緑の髪色の男は此方を見据えて目を細め、睨み付け……え、怖。顔怖。

 

「そっちこそ、その髪色天然物?マリモみたい」

「邪魔すんなよ、いいとこなんだから」

「一対多数で寄って集ってって……“バランス“が悪いと思わない?」

「……言うじゃねぇか」

 

 緑髪の男が銃を向け発砲する────と同時に、頭を右へと傾ける。

 瞬間、発砲音と共に何かが頬の横を通過するのを感じて、誉は震えた。

 

「……っぶね……」

「っ……すげっ、お前も避けんのかよ……!」

 

 何故かテンション上がってるマリモを訝しげに見つめていると、後ろから再び声がして。

 

「……朔月くん……!」

「……らしくない声出してんじゃん、千束(・・)

 

 スナイパーライフルを下ろし、拳銃を腰のホルスターへと仕舞い、アサルトライフルをマリモ野郎に向けて構えて。

 そうして今一度、錦木────いや、千束に告げる。

 

 

「とっととコイツをクリーナーに渡して、一緒に帰ろう。珈琲飲まないで来ちゃったんだよね」

 

 

 







千束 「……や、まだ組長さんところに配達行ってない……」

誉 「あ、そうなの……じゃあ、それ終わったら帰ろうか」

千束 「な、なんかゴメン……」

誉 「や、こっちこそ……」

たきな 「毎度締まらないですね」

真島(マリモ) 「無視すんな」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.24 A mad dog






その身を傷付け、魂に亀裂を入れてなお、欲しかったものがある。




 

 

 

 

 ────共同生活を始めて数日が経った。

 

「ギリギリセーフッ!」

「急に降ってきましたよね」

 

 雨の中、二人揃ってマンションへと駆け込む。にわか雨に当てられて少しばかり濡れた制服の水を払い落として、千束とたきなは部屋へと逃げるように入り込む。

 たきなは髪を後ろで束ねると、洗濯カゴを取り出してベランダへと駆けていく。

 

「というかセーフじゃないです。取り込むの手伝って下さいよ、千束!」

「あーごめんごめん、外に干してたんだ?」

 

 そう言いながら千束は特に取り込むアクションを起こしもせず、先程コンビニで調達したお菓子をビニール袋から取り出して、あろう事か開封していた。

 現在夕方17時半。夕飯時がすぐそこだというのに、と細い目でたきなが見据えていると、千束がそれに気付き、ニヤリと口元を緩め、

 

「あ、たきなもお菓子食べる?」

「夕飯、入んなくなっちゃいますよ」

「あぁ〜〜〜〜ん、たきなのゴハンはちゃんと食べるからぁ」

「……はぁ」

 

 相変わらずの自由っぷりである。いや、恐らく一人で暮らしていた時よりも自堕落になってる節さえある。何せ、ここ最近の家事は全てたきな一人で行っているからだ。

 服やタオルを畳みながら視線を戻せば、千束はベッドソファに腰掛けながらキャラメルコーンを摘みつつ、空いた片手で洋画のディスクを取り出し始めていた。いつものルーティーンである。

 

(……相変わらず誉さんと話してる様子はない……)

 

 此処では嬉々としているが、リコリコでいざ誉と顔を合わせれば、彼を避けるいつもの彼女に戻ってしまう。最近そんなのがずっと続いている所為で、流石に常連のお客さんも違和感を感じ始めていて。

 

 たきなも、流石に焦り始めていた。このままではよくない。何とか、二人の仲をとり持てないだろうか……と考えながら千束の家事をする日々。

 彼女の母親になった気分で、少し憂鬱である。何故こんなにジャンケンの勝率が悪いのだろうか。

 

(ジャンケンに負けたとはいえ家事ばかり……これでは何の為に来たのか……ん?)

 

「────っ!!」

 

 その光景を目の当たりにして、たきなは目を見開いた。

 

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

「たきなが変?」

「そーなのよ……」

 

 翌日、リコリコにて千束の相談にクルミが首を傾ける。ミズキと顔を見合わせると、クルミは目を細めて千束に向き直り、

 

「いつもの事だろ」

「ハイ解散」

「ちょいちょいちょい待てや!終わらすな!」

 

 いい加減なクルミとミズキに突っ込みを入れつつも、確かにたきなはいつも変だな……と納得しかけ、話が逸れたと首を左右に振った。

 

「んー……変っていうか……怒ってる?みたいな感じなんだよね」

「いつからだ?」

昨夜(ゆうべ)から、かな……」

 

 ────昨夜、洗濯物を取り終えた辺りからだろうか。千束の目からも見ても明らかな程に、たきなの表情が真剣さを増していた。

 警戒するような、周りを睨み続けているような、まるで狂犬さながらの雰囲気を醸し出していた。

 

「痴話喧嘩かい!」

「ズバリ聞いてみればいいじゃないか。いつもみたくズケズケと」

「ず、ズケズケって……ぁ」

 

 ミズキとクルミの物言いに口元をへの字にする千束。すると、視界先の座敷に座る男性客が手を挙げたのを視認した。

 

「注文いいすか?」

「あ、はーい……っと?」

 

 向かおうとする千束のその足を、肩を掴まれる形で阻む手。その先を振り返ってみると、たきなが冷徹極まりない表情でぬっと現れたではないか。

 

「私が行きます」

「……あ、はぁい」

 

 たきなのその威圧感に、千束は二つ返事で思わず頷いた。

 たきなはそのままその男性客の方へと足を進めていく。その様子をカウンターで見ていたクルミとミズキは、納得したような表情を浮かべていた。

 

「……確かに怒ってるみたいだな」

「てかさー、今アンタ達一緒に暮らしてんでしょ?」

「うぇ?うん……それが?」

 

 リコリス狩りが続いてる事で、その安全が確保されるまでの共同生活。故にその状況になってるのはミズキも承知だった。それがどうかしたのかと聞き返すと、ミズキは苦笑しながら遠くを見上げ、

 

「どーせ無理矢理あの娘を夜通し映画鑑賞に付き合わせたりしてさぁ……」

「ギクゥッ!!……でで、でもでも、そのくらいで怒るかな〜?」

「やっぱやっとるんかい!」

 

 図星過ぎて肩が震えた。流石ミズキ、長い付き合いである。バツが悪そうに目を逸らしていると、カウンターテーブルで頬杖をつくクルミが、ボーッとしながら問いかけてくる。

 

「なら他には?」

「うーん……他にぃ……?」

 

 心当たり、何かあるだろうかと首を傾げ、頭を捻る。呼び起こされる記憶はここ数日の楽しい楽しい同棲生活の記憶。走馬灯のように呼び起こされるのは、日々積み重なっていくたきなのお小言であり……

 

 ────千束!食器を流しに持ってくるくらいしてくださいよ!

 

 ────あの、ゴロゴロされてると掃除出来ないんですが。せめてソファで寝てください。

 

 ────なんでこんなに洗濯物溜め込んでるんですか!?千束!

 

「……………………フッ」

「思い当たる事があり過ぎて逆に分からねぇってツラだな」

 

 まったくである。思い返してみれば見るほど酷過ぎて笑えた。

 いや、これはあれだ、自分も悪いが、たきながなまじ何でもやってくれるものだからついつい甘えてしまうのだ。これはたきなにも問題がある気がする、とまあまあな言いがかりを思い付く錦木千束の脳内思考。

 

「いや、あれは千束に怒ってる訳じゃないんじゃないか?」

「センセー……!」

 

 話が裏で聞こえていたのか、裏に続く扉から和服のミカが出てきてそう告げる。千束は感激したように両手を合わせ崇めているのを他所に、クルミはミカの言葉に眉を寄せた。

 

「……どういう事だ?」

「買い出しに行ってくるから、暫く頼むよ」

 

 ミカはクルミの問いに答える事無く、表口から出て行ってしまった。自分達で考えろ、という意味なのだろうか。

 クルミは口元に手を添えて俯き、思考する。

 

「“千束に怒ってるんじゃない”……?」

「ちさとちゃ〜〜〜ん!」

「あ、はーいただいまぁ〜!」

 

 そうこうしていると、女性客から千束が呼ばれ、今度こそ接客に入る彼女。いつも通り客と談笑する千束だったが、その女性客の背中合わせに座っていた男性客が、その次の注文の予約なのか手を挙げ出した。

 

 ────すると、千束が女性客からの注文を聞き終えて、その男性客へと向き直ろうとした瞬間、たきなが千束のその背を片手で制して押し出し、その男性客の注文を取り出したではないか。

 千束はたきなの行動の訳が分からず「?」と困ったような表情のまま女性客が固まってる方へと押しやられていて、それを見てクルミの中で一つの答えが。

 

「あー……そういう事か」

「なになに」

「いや、分からんが……ゴニョゴニョ」

「フムフム……ほぉ〜……」

「えちょっと、なになに、なんなの」

 

 ミズキとクルミがコソコソと話しているのが気になって、注文を取り終えた千束が再び二人の元へ。そうしてミズキとクルミから、たきなを見て分かった事を伝えられると、千束は笑顔でたきなに抱き着いた。

 

「た〜きな〜!!」

「な、何ですか?」

 

 急に抱き着かれて困惑しながら振り返るたきな。千束はぶりっ子全開の笑みで、ウインクしながら上目遣いでたきなを見上げて、

 

「そんなに千束ちゃんを男の人に取られたくなかったかな〜〜〜?モテる女はツラいわ〜」

「は?日本語で喋って下さい。意味分かんないです」

 

 辛辣である。クルミはそんな千束に「そうは言ってないだろ」と突っ込みを入れる。何の話か分からないたきなの疑問に、クルミが答える。

 

「いや、無意識かもしれないが……たきなが、千束から男性客を遠ざけてるように見えたから」

「っ……」

「なんかあったのか?」

「────……」

 

 

 

 ▼

 

 

「下着泥棒?」

「……はい」

 

 店に到着した途端、女性陣からの冷たい視線を一身に浴びた事で、何もしてないはずなのに罪悪感というか申し訳なさを感じた。な、なんでそんな冷たい視線なの、とか、リコリコの従業員って視線だけで人殺せるよね、とかそんな事を考えながら入店すると、偶然そんな話を聞いてしまった。

 

 何でも、現在共同生活を送っている錦木とたきなの部屋から、錦木の下着か紛失していたという事だった。

 ……いや、まあ何。引っかかったのは、その下着含めての洗濯物をたきなに一任してる錦木の存在なんだけどね?そこは、まあ、別にいいとして。

 

「……あの、俺この話聞かない方がいい?」

「いえ、意見も聞きたいので居てください」

「意見って何」

 

 たきなの理屈が分からず、動けず固まる俺。

 い、いや俺まだ着替えてないんだけど……てか、女性の下着の話とか気まずいなんてもんじゃないよ、一度経験してるんだから、たきなの下着問題で。

 ただでさえ錦木と気まずいのにその上で下着の話とか……うわやべ目が合った。逸らそ。

 

「取り敢えず、客がはけてから聞いて正解だったな……」

「で、どんだけ盗まれたの?」

「千束のパンツが一枚……」

 

 うわこの空間居たくない……何が悲しくて千束の下着の話聞かなくちゃなんないの……ほらもうチラチラ錦木と目が合うもん、なんか。顔赤くして気恥ずかしそうだもん。そうだよね、男にこの話聞いて欲しくないよね。

 たきなの言葉を聞いて、クルミがポカンと口を開ける。

 

「……パンツ一枚?」

「無駄にデカいブラの方は要らなかったのかね」

「無駄ってなんだぁ!」

「此処居たくないなぁ……」

 

 ミズキさんと錦木のやり取りに、恐らく顔を赤くして聞いている俺……や、下着泥棒は重大な話なんだろうけど……なんか、こう、想像しそうになるから生々しい話やめて欲しい……やべぇ……恥ずい……。

 

「ネットで調べたんですが、男性用の下着を干しておくとドロボウ避けになるそうで……」

「……あー、そうやって聞くよね」

「っ……やはり、私は今もトランクスを履いておくべきでした!」

「「「何でだよ!」」」

 

 たきなのあさっての方向の解決策に、女性陣三人が思わず突っ込む。俺の思考は女性物の下着からトランクスへとシフトチェンジ。

 恥ずかしかった気持ちがスンッと消え去る。ありがとうたきな……今俺の頭には千束と下着でなく、ミカさんとトランクスの組み合わせがある……それも中々にキツいものがあるけど。

 

「まぁ、事情は分かった。だからって客を警戒する事無いだろ?」

「っ……そう、なんですが……リコリス狩りが起きてる現状ですし、千束のストーカーという可能性もゼロではないと思いまして……」

 

 クルミの発言に、しどろもどろに答えるたきな。彼女なりに今の現状を真剣に捉えて居るようで、揶揄うような雰囲気にもならない。

 たきなの優しさが、相棒を重んじるその在り方が、初めて出会った時の彼女とはまるで違っていて、その成長振りが微笑ましくて、思わず笑みが零れる。

 

「……誉さんは、どう思いますか」

「え、あ、このタイミングで来んの俺」

 

 感心がすっ飛んだ。え、どうしよ、何聞かれた今。

 あ、今回の事件が錦木のストーカーによるものかどうかって話か。

 なんか、こう……凄いアホくさい……や、そんな事言ってはいけない。今DAを騒がせているという、“リコリス狩り”の犯人の可能性だってあるんだ。

 

 例えば……そう、犯人はまず殺す対象の下着を盗む事で、そのリコリスに殺人の予告をしているとか……うん、ただの変態だなそれ。

 え、じゃあ本当にストーカー……?風に飛ばされただけかもしれないけど……ま、まあ確かに錦木可愛いし……。

 

 ……ん?や、待て。

 

 ていうかさ、たきなは何故自分を勘定に入れてないんだろうか。たまたま錦木の下着がなくなったってだけで、たきなの下着だと思って犯人が盗んだ可能性だって全然あると思うんだけど。彼女も美人だし……。

 

「……ま、まあ、何……警戒しておくに越した事は、ないと思うけど……二人とも女の子なんだし」

「っ……あ、あー、うん……そう、だよね……」

 

 錦木の顔がまともに顔が見れない。気不味いからか、恥ずかしいからか。けどそれは錦木も同じみたいで、顔を逸らして別の方向を見てそう呟いていた。

 それも束の間、錦木はたきなの手を取って、大丈夫だよ、と笑ってみせた。

 

「たきなもっ。あんま深刻になんなさんな」

「そうそう、今頃変態がかぶって遊んでるかもだけど」

「やめーやミズキ!風で飛んだだけかもしれんだろ!?」

 

 寧ろそっちの方が有難いな……変態にかぶらせるよりはずっとマシ……や、待て。拾ったヤツがかぶる可能性もあるのか。

 ……え、そう考えるとヤベェ、今後すれ違う男性全てが、錦木の下着をポケットに突っ込んで隠し持ってる変態にしか見えなくなりそう……この話ガチで聞かなきゃ良かったまである。

 

「あー、てか早く言ってよたきな。そしたら私もまぁ少しくらいは?警戒するし〜……あ、暫く店の乾燥機使っちゃう?」

「千束……待って下さい、私は……!」

 

 肩をポンッと叩きながら励ます錦木に、たきなが何かを告げようとした瞬間だった。

 カラン、カララン、と表口の扉に付いた鈴が鳴り響くのを耳にして、それぞれが視線をそちらに向けた。入って来たのは一人で、一瞬だけ静まった空気を裂くように錦木が笑顔で出迎え始めた。

 

「い……いらっしゃっせ〜!」

「……?」

 

 ……何だか、身なりがとても怪しい。

 夏だというのに深い色のコートに、髪型が隠れる程に深くかぶった帽子。オマケにサングラスまでしていて、コートも大きめの所為か性別も判断がつかない。体幹もしっかりしていて、更にはコートの中から何やら金属がかち合うような音。

 

 うん……なんかお誂え向きにヤバさ全部盛りのヤツが来たな……。今まさに下着泥棒の話をしていただけに、怪しさしか感じないヤバいのが入って来たって感じだ。なら、狙いはやっぱり錦木────

 

「……っ」

「っ……さ、朔月、くん?」

「……!?あ、いや……!」

 

 気が付けば、錦木のその手を掴んでいた。

 自分でもその行動に驚いて、思わずその手を離す。思わず交わる視線に、頬が熱くなるような感覚。錦木も少し頬が赤いような、そんな気がしていると────

 

「千束、誉さん、離れて!」

「っ……ゑ?」

「うぉっとぉ!?」

 

 背後から俺と錦木の間に割って入るように前に躍り出たかと思うと、胸元から拳銃を目の前の怪しげな奴に向けて突き出した……って、え?は?な、なんで拳銃持ってんの!?

 錦木は慌ててたきなに飛び掛かり、座敷へと二人で倒れ込んだ。たきなを下に、錦木が覆い被さるようになり……なんかてぇてぇな。

 

「たきなさん!?なんで店の服の下に拳銃持ってんのかな!?」

「だって変ですよ千束!もしかしたらコイツが────」

「いやいやいやお客さんだよ!?ステイステイステイ!……あ、すみませぇん、今度保育園でやる演技の練習しててぇ〜……って、え?」

 

 視線を戻すと、そこに先程まで居たはずの客の姿が無く、思わず全員でギョッとする。何処に……と違和感を感じて見上げると、先程のコートの人物は、いつの間にか二階へとその身を移動させていた。

 明らかに常人の速度ではない。ならもしや、奴はたきなが危惧したようにリコリス狩りの刺客!?────あ、もしくは錦木かたきなのストーカー。

 

「……」

 

 錦木も目の前の存在がただのお客さんでない事を理解したようで、唖然と二階に経つそのサングラスの存在を見上げていた。

 ……どうでもいいけど、最近サングラスに縁があるな。

 

「千束……私は別に深刻になってるわけじゃないですよ」

「え……」

「千束を守るのが、私の役目なんです」

「たきな……」

 

 ────何見せられてるんだコレ。

 最近仲良くなった男子高校生のお客さん達にあの二人の今の体勢の写真撮って見せびらかしたいな。こういうの百合って言うんだよね最近覚えた。

 いや、そんな場合じゃない。目の前の存在が何であれ只者ではない事は確かなのだ。俺は座敷に上がり、千束とたきなの前に立って奴と対峙する体勢になった。

 

「っ……朔月、くん……あ、危ないよ……!」

「……ぇ」

 

 ────何だよ錦木、その顔。

 

 俺が前に立った途端、彼女の顔が豹変した。今の今まで、目の前のコートの存在を客だと思って疑わなかったはずなのに。

 たきなの銃口に対して迅速に行動した事でただの客じゃないと理解して、俺が前に立った瞬間────

 

「殺すつもりはありません……痛い目見る前に返して下さい!」

 

 それについて問いを投げるその前に、体勢を立て直して銃口を再び突き付けたたきなが、二階に立つその存在に向かってそう告げた。

 我に返った俺は、思わず振り返ってその先の帽子でサングラスでコートの怪しげな存在を見上げる。すると、奴は困惑したように口を開いた。

 

「……返す?なんの事だ」

「とぼけないで。千束の下着です!」

「なんっじゃそりゃあ!!」

 

 その突っ込みと共にその変装が投げられ、隠れていた正体が顕になる。

 そこに立っていたのは、顔を真っ赤にした短髪の少女────あれ、錦木と同じ制服……?って事は……、

 

「フキィ!?」

「……やっぱリコリス(知り合い)か」

 

 フキ……どういう字?蕗?あれ美味しいよね、最近初めて定食屋で食べたけど。

 

 

 ▼

 

 

「……ったく、一体何なんだよオマエらは……」

「やってしまった……」

「た、たきな、そんな落ち込まんでも……」

 

 結局、たきなの勘違いという事が判明した。たきなは、制服以外での拳銃所持という違反を、己の勘違いで行使した事にショックを受けて項垂れていた。

 フキと呼ばれた彼女は、不名誉を着せられた事が不満だったのか、腕を組んで呟いていた。

 

「千束のパンツとか、金貰っても要らんわ」

「あん?フキこそ変装して何なんだ?」

「っ……か、監査だ監査!」

「ホントにぃ〜?」

 

 何故か慌てたように捲し立てるフキさんに、錦木は訝しげに瞳を細める。その視線から逃れるように顔を背けたその先に立っていた俺と、フキさんとの目が合った。

 先程、錦木とたきなを守る為にフキさんの前に出た事で認識されてしまったのだろう、上から下までジロリと一瞥されてから、一言。

 

「お前……この店の人間か?」

「え……ああ、いえ、ただの常連客ですよ」

「……ふーん」

 

 ……って事にした方が良いんだよね?一般人がリコリコの支部に居るのってよく思われないって言ってたし。彼女、納得してくれ……てなくない?これ。なんかジロジロ見てるし。話題逸らすか。

 

「で、えっと……フキさん、でしたっけ。貴女は錦木の友達────」

「あ?違ぇよ」

「承知しました」

 

 眼光鋭っ、口調強っ。逆らえません怖過ぎて。

 けど多分、錦木と同じ制服の色だから……彼女も所謂“ファーストリコリス”と呼ばれるエリートの分類という事か。ぶっちゃけ錦木が戦ってるところ見た事ないから、どれくらいファーストが凄いのかは分からんけど。

 けどまあ、リコリス所属の人間って漏れなく眼力が強いのは分かったわ、うん。

 

「ちょ、ちょっとフキ……朔月くんイジメないでよ」

「ああん?何でそんなしおらし……てか顔赤……えっ……マジ?あ、そういう……!?」

 

 意外にも錦木が俺の前に出てフキさんを制止する。食って掛かろうとしていたフキさんだったが、何に気付いたのか俺と錦木を交互に見やってから、段々とその表情をニヤケさせ始めて。

 

「っ……ちょ、おい待て何を察したキサマァ!」

「おいおいマジかよ!意外と乙女んとこあんじゃねぇか」

「フウウゥゥキイィィイイッ!!」

 

 な、なんか錦木がキレてフキさんと取っ組み合いを始めた……や、他のお客さんに迷惑……あ、今居ないんだった。女の子らしからぬ喧嘩……喧嘩かこれ、じゃれてる様にも見えるんだけど。

 あとどうでもいいけど、二人とも「あん?」とか「は?」とか絡み方チンピラ過ぎんだけど怖。

 

 どうしたもんかと眉を寄せてると、カランと再び鈴の音が鳴り、扉が開いた。そこには和服姿のミカさんが買い出しの袋を携えて戻ってきていた。

 

「みんな戻ったぞー」

「……あ、ミカさん。おはようございます」

「おお、朔月くん。おはよう……おぉ、フキ」

「っ……あ、お疲れ様です……!」

 

 それを店内の各自が理解した瞬間、フキさんの千束を掴む腕が離れ、その顔を赤く────いや、赤いな。林檎みたい。

 ミカさんを見る目が輝いている……え、まさか。あ、そういう……?

 

「どうだい、何か食べて……」

「いえ、もう用は済んだんで。サクラ待たせてますし」

「何しに来たんだ……」

「うるせぇ!」

 

 錦木の疑問にそう返し、フキさんは顔を赤くしたまま、開いた扉から出て行ってしまった。

 そうして再びお店に静寂が訪れて、誰かが一言。

 

「……なんか、どっと疲れた」

 

 それな。みんなで揃って溜め息を吐き出した。

 すると、俺の隣りでジッとこちらを見てくる視線に気が付いて、思わずそちらを向くとたきなが目を細めていた。

 

「……え、何」

「いえ、“自分は常連客だ”なんて、呼吸するように嘘を吐くなと」

「何その酷評辛辣過ぎる。や、だって関係者って言わない方が良かったんでしょ?着替える前だったし、常連客で通せたんじゃない?」

 

 これで和服着て店を切り盛りしてる時に出会したのなら言い逃れは難しいかもしれないけれど、フキさんには錦木を守ろうとしたただの常連客に見え……え、何クルミその視線。

 

「……二人庇おうとした時点で微妙じゃないか?」

「……やっぱダメかな、さっきの」

「まあ、一お客としての行動力ではなかったわね」

 

 ミズキさんの追い討ちに思わず項垂れる。

 確かに、あの時錦木とたきなを守ろうと、フキさんの前に出た時点で目に留まるよな。怪しい人間を前に一般人が取る行動としてはやり過ぎかも……なんなら、錦木やたきなとの関係を疑われるまである。

 あれ、なんか俺やっちゃいました?

 

「っ……や、だって……下着泥棒とか、ストーカーの話があってすぐの事だったから、もしかしたらと思って……錦木なら、そういう類の奴が現れても、おかしくないなって思ったから……」

「……つまりぃ、アンタの目から見てもぉ、千束はストーカーが居てもおかしくないくらい可愛いって事ねぇ?」

「なっ……」

「……っ」

 

 ……どうしてこう、ミズキさんはデリカシーが無いんだろうかと思わずにいられない。

 なんかね、もうね、見なくてもミズキさんの顔が目に浮かぶもん。ニヤニヤしてんだろうなぁ。日頃の鬱憤を晴らさんばかりに煽りに煽ってくるし……あ、ほらやっぱそういう顔してたわ。

 

「……なんか、ミズキさんが結婚できない理由を垣間見た気がする」

「言い過ぎだろ!」

「相応でしょ」

 

 何も間違ってないと思ってます。と、今度はクルミがニヤけた顔で、

 

「けど、ミズキの言った通りなんだろー?」

「……っ、や、そう……は、言ってない、けど……や、違く、もない、けど……」

 

 ヤバい、呂律が回らない。急激に恥ずかしくなってくる。何だこれ、今なんでこんな話してんだ。ヤバい、今錦木とたきなを見たくない。

 チラッと思わず見てしまったが、たきななんて何も言わずにジッとこっち見てていたたまれないし、ミカさんなんて話分かってないはずなのに微笑ましく見てるし。

 錦木に至っては────

 

「っ……ぁ……」

 

 ────錦木は、ただ俺を見ていて。

 俺に向かって、その細い腕を伸ばしていて。

 けど何かを言いかけたその口は、俺と視線が交わった瞬間に閉じられ、視線を逸らされ、伸ばされた腕は引っ込まれてしまった。

 

「……っ」

 

 今、錦木は。

 俺に何かを言おうとしてくれたように見えた。それを、逃してはいけないと思って、咄嗟に口を開いて。

 

「っ……あ、のさ、錦木……」

「わ、私、ちょっと休憩行ってくるね」

「あ……」

 

 錦木は、俺が話し掛けた瞬間に肩を震わせ、俺の前から逃げるようにして、裏に続く扉に向かっていく。その背を呼び止める間もなく取っ手に手を掛け、そのまま裏へと消えていってしまった。

 

「……アンタらまだ喧嘩してんの?」

「……喧嘩じゃ、ないですよ」

 

 ポツリと呟かれたミズキさんの言葉を否定しながらも、自分で言ってて思う。

 ────じゃあ、今の俺達って、何なんだろうか。

 

「誉さん……」

 

 避けられているのを分かった上で、勇気を出して一歩歩み寄って、そうして錦木との関係を元に戻せると期待したけれど。あっちに、その気は無いんだろうか。

 

「……なんかもう、ホントに疲れたな」

 

 仕事前だってのに、余計な気を回したかもしれない。錦木に何かあっても、もうたきなという頼れる相棒がいるというのに、何を自惚れて行動してたんだろうか。

 たった一度、たきなを助けられただけなのに、それが余程自信になったらしい。まったく、それに縋るしかないなんて、情けない話だ。

 

 

 ▼

 

 

 閉店後、たきなが俺に向かって頭を下げた。

 今日の締め作業は俺とたきなの二人。クルミは千束と部屋に篭ってボドゲをしており、ミズキはそこで酒盛中、ミカさんは裏で作業してるっぽいので、現在は客間の座敷で並んで座っていたのだが。

 

「……お騒がせして、すみませんでした」

「い、いや、全然……下着泥棒が居ないってのが分かって、良かったんじゃない?うん……」

 

 ────結論だけ言うと、錦木の下着は見つかった。

 というのも、見つかったタイミングで俺はフロア清掃と店の戸締まりをしていたので、詳しい事は人伝なのだが。

 

 時は閉店後、錦木が下着泥棒の存在に不安そうなたきなを見兼ねてか、制服に着替え中の彼女がいる更衣室に直行した時に遡る。

 なんでも錦木は、気分転換にまた買い物に行こう、とたきなに提案するつもりだったらしい。

 

 その際、更衣室を開けた先にで着替え途中だったたきなは、和服を脱いで下着姿だったらしいのだが、それを目撃した瞬間、錦木は自身の下着を見付けたらしい。

 

 つまるところ────

 

『たきなさんッ!これ!』

『え?』

『これだよ私の下着!!君が履いてるよ!!』

『!?え、千束持ってましたか、こんな薄ピンクの────……』

『いや……あっ!色移りしたんだ!色々纏めて洗濯してもらおうと……え、私のせーじゃん!』

 

 ────と、いう事である。

 

 ……突っ込みどころ満載過ぎる。いや、たきなさん千束の下着把握してて自分の把握できてないのかよ。

 思わずそう突っ込むと、

 

「私の下着は全部千束が選んだので、覚えてないです……」

「そんな事ある……?」

 

 というか、それは答えになってるのだろうか。

 前々から思ってたんだけど、たきなって本当に私服とか下着とか、そういった物に無頓着だよな。着れれば良い、性能が良ければ良い、みたいな。女の子としては珍しいかもしれない。や、リコリスだとみんなそういう考えになるのかな、錦木が特殊なだけで。

 

「流石に自分が恥ずかしいです」

「い、いや、そんな気にする事でも……狙ってる奴とかが居なくて良かったじゃんか」

「……はい。お騒がせしました」

 

 たきなはかなり反省してるのか、顔を赤くして息を吐き出していた。

 だがまあ、何はともあれ、だ。二人とも怪しい奴らに狙われてる訳じゃない事が分かっただけでも良かったかもしれない。気が抜けたのか俺も自然と息を吐き出していた。

 それを見ていてたきなが、ポツリと呟いて。

 

「あ……あと、ありがとうございました」

「……俺、何かしたっけ?」

「あの時、千束を守ろうとしてくれたじゃないですか」

「……あー……」

 

 たきなが何を言ってるのかを理解して、思わず声が漏れる。フキさんとやらが怪しさ満点の格好で店に現れた時の事を言ってるのだろう。

 話の流れから二人を狙う犯罪者かと思い、思わず二人の前に飛び出したは良いが、特に何か出来た記憶とかもない。感謝されるような事ではなかった。

 それに────……

 

「……別に、本当にストーカーだったとしても、何かできた訳じゃ無いんだけど……錦木もたきなと揃ってたんだし、返り討ちにできたでしょ。却って迷惑だったんじゃない?」

 

 出しゃばったといえば、正解だった。

 何かできる事があったわけじゃないし、病気でまともに動けないのに、一丁前に格好付けて、錦木とたきなの前に躍り出て。二人とも俺より強いのに、随分と調子に乗ったものだった。

 

「千束は、誉さんに言えないだけで……本当は、嬉しかったと思いますよ」

「え……?」

 

 自虐的な笑みが崩れ、顔を上げる。隣りにいたたきなは、遠くを眺めているような瞳で、そう呟く。

 

「けど、感謝してしまえば……自分の身を犠牲にする誉さんの行動を肯定する事になるから……ありがとうって、言えないだけ」

「……っ」

 

 ……それは、この前の暗殺者と戦った時の俺の事を言ってるんだろうか。たきなを守る為に、心臓の病があるにも関わらず、死の危険を省みずに立ち向かった事を。

 

「千束は、誉さんに傷付いて欲しくないだけなんです。命に関わる事を、して欲しくないだけなんです。だから、巻き込みたくなかったんです」

「……たきな」

 

 どこか、微笑んでるようにも見えるたきなの表情。千束の隣りにいてそろそろ四、五ヶ月くらい経つが故の、相棒であるが故の見方であり。

 

「────命を省みない誉さんを正しいと思いたくない。だから“ありがとう”が、言いたくても言えないんじゃないかと」

「……錦木の事、よく見てるんだな」

「“相棒”、ですので」

「……そっか」

 

 なんだか、錦木とたきなが羨ましいな。

 俺も二人みたいな、互いにとっての“唯一無二”があれば良いのに、と思ってしまう。

 

 ……千束の気持ちは、よく分かった。

 別に進んでDAの任務に参加するつもりなどまったくもって無いし、前回に関しては、たまたま巻き込まれたというか此方から巻き込まれにいっただけで、同じような事が早々あるとも思えない。錦木の懸念は杞憂に終わるとは思うけれど。

 

「……けど俺、錦木のその気持ちには応えられないと思うな」

「え?」

「彼女が嫌がる事はしたくないって思うけど……でも、やっぱり俺が憧れたのは、千束の生き方と在り方だから」

「……生き方と在り方、ですか」

 

 ……彼女の言葉に、深く頷いた。

 たきなの言葉が本当なら、俺は錦木に対してどう在るべきなんだろうと真剣に考えたけれど。

 彼女に惹かれ、彼女に魅入られた俺が、彼女の生き方や在り方から確立した、俺の生き方と在り方。

 

「自分を必要としてくれる人に、できる事をしたい。そうすればその人の記憶に残って、自分は永遠(とわ)に生きていける」

「────……」

 

 俺が此処で生きていたんだと、誰かが覚えてくれる。天涯孤独で誰にもその存在を知られずに終わるはずだった自分を認めて、必要だと言ってくれる人がいる。そんな人達の為に日々を重ねていきたいと願っている。

 いつか俺が死んでも、その先で誰かが俺の事を思い出して、話題にして、笑ったり泣いたりしてくれた時、自分はこの世界でまた生きていけるような、そんな気がするから。

 

「……っ、なんて、カッコつけたけど、普通は錦木の考え方が正しいんだよな。心配するに、決まってるよな」

「……私は、そんな誉さんの在り方があるから、あの時助かったんです」

 

 誤魔化すように笑う俺を遮るように、真剣な眼差しを向けて伝えてくるたきな。目が合うと、彼女はふわりと小さく微笑んで。

 

「だから、千束の分まで私が言います。“ありがとうございます”」

「────……っ、たきな……俺を手玉に取るの上手すぎだろ……」

「泣いちゃいますか?」

「泣かないよ、何言ってんのさ」

 

 二人して肩を震わせて、顔を見合せて小さく笑い合う。誰もいない店の中で、俺とたきなの笑い声だけが微かに反響する。

 ……こうやって軽口を言い合うの、なんだか凄く久しぶりな気がする。たきながリコリコに来る前は、よく錦木とやってたっけ。

 早いとこ、錦木と仲直りしないとな、と素直にそう思う。彼女の、ちゃんと笑った顔を、久しく見てないような気がしたから。

 

 今、部屋でボドゲで楽しんでるであろう錦木は、ちゃんと笑ってくれているだろうか。

 

 ────せめて俺のいないところでは。俺が彼女の心にいない時には、心の底から笑ってくれてると良いな。

 

 

 










誉「……けどま、とにかく二人とも下着泥棒とかストーカーとかに狙われてなくて良かったよ」

たきな「……私も、ですか?」

誉 「当たり前でしょ……あ、やっぱ自分の事勘定に入れてなかったでしょ。仮にストーカーだったとしたらたきなも対象になるかもしんないんだから警戒しとかないと」

たきな「……どうして、私も?」

誉「そりゃだって、だってたきなもかわい────」

たきな「────……っ」

誉「……や、何でもない」

たきな 「えっ、言って下さい」

誉「え」

たきな 「最後まで言って下さい。私も、なんですか?」

誉 「い、言わない。言わないから」

たきな「千束には言えて私には言えないんですか。そうですか」

誉「いやもう情緒がもう……」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.25 Talent of “Savior”







届けたかった言葉。受け取った言葉。
それはただ、慈しむように君へ────



 

 

 

 

 

 

 

「んー……」

「……たきな?」

 

 それはリコリコ閉店後の空き時間での事だった。俺が着替えを終えて客間に戻ると、和服姿のたきなが座敷に腰掛けて唸っていて。

 どうしたのかと、ミカさんとミズキさんを見ても、首を左右に振ったり肩を竦めたりで、どうやら二人も分からないようだ。そうして暫く考え込むように眉を寄せたたきなを眺めていると、やがて気になったミズキさんが声を掛けた。

 

「どったのアンタ?」

「勝てないんですよ……」

「へ?」

「家事の分担をジャンケンで決めてるのですが、一回も千束に勝てませんね……」

 

 家事の分担……ああ、そっか。今二人一緒に生活してるんだもんな。なるほど、錦木はそれでたきなに自分の下着の洗濯も任せてた訳だ。

 

 因みに前回の下着泥棒の件に関しては完全に解決したようで、千束の下着はたきなが履いてて、たきなの下着は単に干し忘れで、洗濯機の中に置き去りになっていたらしい。

 

 にしてもジャンケン……ジャンケン、ね。錦木とジャンケンで勝負した時の記憶を辿ってみると。

 

「……そういや、俺も錦木に勝った事無いかも」

「誉さんもですか?」

「うん。そんなにした記憶無いけど、言われてみればって感じ……」

 

 買い出しとか、皿洗いとか、ボドゲで先攻と後攻決める時とか。勝率三割の筈なんだけど、思い返すと一度も勝った試しが無い気がする。

 たかだかジャンケンだし、たまたまだと思ってそこまで気にした事なかったけれど、考えてみると確かに俺だけじゃなくてたきなも一度も勝てないっていうのはおかしい話だ。

 

 すると、その話を聞いたミズキさんとミカさんが一度顔を見合せ、納得したような表情を浮かべると、此方に視線を戻して二人は告げた。

 

「“最初はグー”でやってるでしょ」

「それじゃ千束には勝てない」

「「えっ?」」

 

 俺とたきなの声が重なる。

 え、何故“最初はグー”だと勝てないの。因果関係が分かんない……と思っていると、ミカさんから追加の説明が入った。

 

「千束が、相手の服や筋肉の動きで次の行動を予測するのは知ってるだろ」

「いや、知らないです」

 

「「「…………」」」

「俺知らないです、それ……」

 

 不思議な空気。三人が揃ってこっちを見る。

 錦木がリコリスとしてどんな戦い方してるのかとか、そういえば知らないな……え、今の知らないと錦木にジャンケンでそもそも勝てない感じ?てか服と筋肉の動きから次の行動を予測って……凄いな、どうやってやんだろ。

 

 気を取り直したのか、ミズキさんは眼鏡の位置を中指で整えると、ミカさんに代わって説明を続けた。

 

「……まあ、そうなのよ。だからグーから始めちゃうと、次の手を変えるかどうかを読まれちゃう。変えずにグーだと当然パーを出されるし、変えると分かれば千束はチョキを出せば絶対負けないでしょ?つまり、あいこにできる確率が三割」

「勝つ確率はゼロだ」

「え……」

 

 ……何それ。もうチートじゃん。

 開いた口が塞がらないでいると、ミズキさんが煽るような笑みを浮かべながら、再び説明してくれる。

 

「千束にジャンケンに勝つには“最初はグー”をやめて、最初のジャンケンで勝つしかない。あいこになったらもう勝てないし、ましてあいこから始めたら一生勝てないよぉ〜?」

「……」

「うわぁ……」

 

 たきなと俺はそれぞれ何とも言えない顔をしてただろう。に、錦木汚ぇ……って流石にたきなも思ったかもしれない。

 てか服とか手の筋肉見ただけで次の手が分かるっていうのもあんまり信じられないんだけど……そんなに他人の掌とか凝視する事無いから盲点だったわ。俺もやろうと思えばできるのかな。

 

 と、噂をすればだ。裏に続く扉から錦木が出てきた。……な、なんか合羽みたいなの着てる……何あれ、ポンチョ?

 

「組長さんとこに配達行くわー……何よ?」

「……いいえ別に」

 

 俺は兎も角、ジャンケンのカラクリを知ってしまったたきなは不機嫌を隠さず錦木から顔の向きを逸らした。

 まあ、そりゃあこれを知らずに全戦全敗した挙句に錦木の家の家事全部やってるんだもん、あんまり面白くないよなぁ……。

 

「えー、なになに?」

「いーから、早く配達行ってきな」

「……すぐ支度します」

 

 ミズキにそう促され、たきなは不満顔のまま座敷から立ち上がり、二つ縛りの髪ゴムを解いた。

 安全が確保されるまで、二十四時間を共にするというのが、今のたきなの行動方針らしいので、配達について行くつもりだったのだろうけど……その足で更衣室に向かおうとするたきなを、錦木が片手で制した。

 

「ああ、大丈夫。制服がバレてるんだろうって、クルミが」

「……リコリス制服ですか?」

「そそ。これならー、ぜったーい、分かんなーい♪」

 

 楽しげにそう告げ、両の腕を広げると、黄色みがかったポンチョが映えて、不謹慎だがよく似合っていた。どうやらリコリス制服を隠す為のものらしい。

 

 DAのエージェントであるリコリスは制服でないと銃の携帯が出来ないとの事だが、そう考えると確かに制服で特定されてるっていうのは的を射てる気がする。

 この仮説が正しいならば、リコリスは相当に動きにくいだろう。それを踏まえての作戦か。

 

「私服じゃ銃は使えないんだぞ」

「警察に捕まっちまえ……」

「んなこた分かってるよ、下に着てますぅ、ほらぁー!」

 

 ミカさんとミズキさんから予想通りのアウトが飛んできて、錦木はポンチョをたくし上げていつもの赤い制服を見せる。万が一襲われても、これなら銃で対応できるという事か……なんか錦木にしてはよく考えてるけど。

 

「じゃあ、私もそれで……」

「あー大丈夫!たきな、今日も夕飯楽しみにしてるー♪行ってきまーす!」

「っ……ぁ、錦木……!」

 

 俺は扉を開けんとする錦木のその背を思わず呼び止めた。思ったよりも大きな声が出て、錦木の肩がビクリと震える。

 しまった、と思いつつも彼女が止まってくれたと安堵して、けど半ば衝動的にその名を呼んだだけで、大した用事なんてある訳でもないのに。

 

「……」

「……な、なに?」

 

 ────俺は錦木に、何を求めてたんだっけ。

 

「い、や……また、明日」

「っ……うん、また明日ね」

 

 片手を上げると、錦木は少しぎこちない笑みを浮かべてその扉から外へと出ていった。鈴の音が扉が閉まる音と重なり、彼女の足音が遠くなっていくのを聞きながら、力無くその片腕を下ろすと、小さく息を吐いて。

 

「……ヘタレですね」

「言えてる……あー、情けな……」

 

 たきなの辛辣な言葉を受け止める事ができる程に、ヘタレでチキンな自覚がある。クルミに発破を掛けられ、たきなにも気遣われてなお、この体たらくだ。

 ……いい加減、この店の空気を壊すような事したくないのにな……。

 

「早く何とかしないと……」

「それ毎日言ってますよね……分かりました。ではちゃんと期限を設けましょう。明日までには仲直りしてください」

「あ、明日……?や、それは流石に心の準備が……」

「もう聞き飽きましたそれ。千束があのままだと、リコリコの業務だけでなく任務にも支障が出るんです」

「ぐうの音も出ないんだけど」

 

 何にも言い返せないド正論でぶん殴って来たんだけど。思わずミカさんとミズキさんへと視線を逃がすと、二人に揃って逸らされた。ちょっと。

 ……まあ、世間では『明日やろうは馬鹿野郎』という名言があるらしい。そう考えると明日まで猶予を貰えるのは良心的な気がする。先延ばしにした結果、好転なんてした試しが無いのも事実だし……。

 

「……が、頑張ります」

「それも聞きました。結果で示してください」

 

 会社の上司みたいな事言い出した(白目)。

 たきなパイセン……や、冗談はよそう。真剣に俺と錦木の事を考えてくれてるんだもんな。

 

「……分かった」

「言いましたね。破ったらペナルティですよ」

「えっ……俺今そんなにお金の持ち合わせない……」

「……私を何だと思ってるんですか」

 

 たきなだったら罰金徴収とかやりそうだよねっていうド偏見。遊び心あんまり無さそうだし。だから最近冗談とか言ってくれるの嬉しかったりするけれど。

 その変化や成長が、とても嬉しくて楽しくて。ついつい彼女の言葉に折れてしまうのだ。

 

「じゃ、明日気合い入れるよ」

「……ええ、期待してます」

 

 不敵な笑みを再現する俺を見て挑戦的な笑みを浮かべるたきなが、どうにも面白くて再び笑った。

 

「……アンタ、最近たきなに弱くない?」

 

 ────それ、俺も思った。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 ────そして、それは千束が配達に出掛け、誉が帰路に立って暫くした時だった。

 

「わああああああああああああああああああああ!!」

 

 その大声に、客間のカウンターに座っていたたきなとミズキ、カウンター向こうのミカは大きく肩を震わせた。その声は和室───クルミが根城にしている部屋がある方角からで、その声は次第に此方に近付いて来る。

 視線を向ければ、やはりクルミが慌てた様子でタブレット端末を抱えて駆け寄って来ていた。

 

「見てくれ!これは銃取引の時のDAのドローン映像!殺されたのはこの四人だ!これが犯人に流出して顔がバレてたんだ!」

 

 焦燥で汗まみれになりながら、クルミはいきなりとんでもない事を告げてそのタブレットをたきな達に見せてきたではないか。思わず凝視すると、そこには先日たきなが参加した銃取引の現場であったビルの下で待機していたサードリコリスの四人が、顔まで鮮明に映し出されていた。

 

「なんでそんなもんが流出すんのよ!?」

「……あの時のハッキングか」

 

 ミズキの疑問に答えるミカの言葉に、たきなはふと思い出した。以前、千束の健康診断に同行して本部に行った時に千束から共有を受けた話だ。

 

 たきながリコリコに異動になった理由は、表向きはDAの任務中────つまるところ先の銃取引現場にて独断行動をした為とされている。

 だが実際は、DAが偽の取引時間を掴まされ、ラジアータがハッキングされたという失態を上層部に隠匿する為、たきなの独断専行(スタンドプレー)を作戦失敗の原因とし、たきなを左遷する事で面子を守ったのだ。

 つまるところ、あの日DAをハッキングした輩が別に存在しているのだが……。

 

「DAもまだそのハッカー見つけられてない様です!」

「アンタの仲間じゃないの!?さっさと調べなさいよ!」

「……っ」

「何よ」

 

 ミズキの発言を聞いた瞬間、口を噤みバツの悪そうな顔で眉を寄せるクルミ。しかし、ミズキが言及した瞬間、言いにくそうにしながら口を開いた。

 

「……あの時のはボクだ」

「ハァッ!?」

「どういう事だ!?」

 

 ────聞き捨てならない台詞。その場の誰もがクルミに視線を向ける。たきなに至ってはそれが原因でDA本部を追放されているのだ。その言葉の真意を、次の言葉を聞かずには居られない。

 責め立てるような視線に耐えかねたのか、クルミは慌てたように言葉を重ねた。

 

「……依頼を受けてDAをハッキングした。その依頼主(クライアント)に近付く為には仕方無かったんだ……!」

「ちょっと……アンタが武器をテロリストに流した張本人って訳!?」

「っ、それは違う!指定の時刻にDAのセキュリティを攻撃しただけだ!」

 

 叫ぶように問い詰めるミズキに、食い気味で否定するクルミ。

 依頼主に近付く為───事情はよく知らないが、どうやら彼女自身の好奇心と探求心が、結果として悪い方向に向かってしまった様だ。

 

「そうですかぁ!おかげで正体不明のテロリストが山ほど銃を抱き締めて、たきなはクビになりましたぁ!」

「もういい!やめろミズキ!」

「映像はそれで全部ですか!?」

 

 小言を言うミズキをミカが制止する中、たきなは他にも対象のリコリスがいるかどうか問い出す。それが特定出来れば、此方で対応できる幅も、犯人制圧も現実味を帯びてくる。そのつもりの問いだった。

 ────だがクルミはふと、客間をひと通り見渡して、その瞳を見開き戦慄した。

 

「っ……おい、千束はどこだ!?」 

「先ほど配達に行きましたが……」

 

 何故、今千束の名前を────?

 クルミの慌てぶりから、嫌な予感は既にあった。そして、それは数秒後に現実のものとなる確信さえ。

 

「……全部じゃないんだ……!」

「っ……まさ、か」

 

 クルミが再びタブレット端末を三人に見せる。それは先程同様、ドローンからの映像だった。

 しかし、それは先程の銃取引現場の映像ではなく、千束とたきなが一緒にいる映像であり、たきなが初めて千束と共に行動した時の、篠原沙保里を護衛した時のものだった。千束に言われてドローンを撃ち抜いた記憶がたきなにはあり、そこには千束の横顔がはっきりと映り込んでいた。

 

「……っ!」

「いかんな、これは……」

 

 つまり、千束も犯人の標的であるという事で。

 そんな彼女は今、たった一人で行動している。その事実が理解できた時、たきなはその場から急いで立ち上がり、更衣室へと走る。ミカは自分の携帯を取り出し、千束に連絡を入れる。

 

『もしもしもしもし〜?』

「千束っ、敵はお前を狙っているぞ!」

 

 数コール後に繋がり、事を知らない千束は呑気なトーンで電話を受け始める。ミカは慌てて事実を伝えようと口を開く。

 ────その、直後であった。

 

 

『え?……っ、えっあ、ちょいちょいちょいちょいちょいちょおい────!』

 

 

 瞬間、車のタイヤがすり減る音、エンジン音が近付くと共に。

 バンッ!と物凄い衝撃音が走り、その後千束の声は聞こえなくなってしまった。

 

 

「……千束?っ、千束っ!?」

 

 

 何度ミカが叫んでも、彼女が返事をする事はなかった。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

(……痛ってぇ)

 

 車に衝突されて、千束の身体は道路に投げ出されてしまっていた。

 どうにか直撃を免れたとはいえど、身体の節々が先程の衝撃で悲鳴を上げている。普段ならいきなりの事でも回避出来たはずなのに、考え事をしていた所為か身体が動かない。

 

(……最近、朔月くんの事ばっか考えてんなぁ……)

 

 なんて、今考える事じゃないけれど。

 千束はうつ伏せで倒れ込んでる中、此方を撥ねた黄色のスポーツカーから、誰かが降りて来るのを察知する。その後ろからも車が数台。停車した後、ドアの開閉音が幾つも聞こえ、ゾロゾロと足音が此方に近付いてくる。

 

 多勢に無勢。複数の犯行。店を出る前にクルミから教えられた、リコリス狩りの犯行に、以前銃取引で引き渡された銃が使われていたという情報。

 そしてミカの先程の連絡から察するに、彼らが銃の取引先でこの一連の騒動の犯人。クルミの仮説は当たっていたという事。

 

 だが、制服を隠していたのに狙われたという事は、特定材料がそれではなかったという事だ。たきなと別れたのは愚策だった……いや、巻き込まなかったと考えれば、それは千束にとっては悪い事ではなかった。

 

「……はっ、分かった分かった」

 

 千束を撥ねた車の運転手が、そう呟きながら近付いてくる。誰かと通信しているのだろうか。その存在感的に、奴が親玉か。

 

(……来る)

 

 千束は動かず、ただうつ伏せのまま奴が近付くのを待つ。そうすると、奴は足を使って千束の身体を仰向けにさせた。

 女性を足蹴にするとは……いや、それは今はどうでもよかった。

 

「……ほぉーん」

「────っ、オラァ!!」

 

 その男が千束の何か(・・)に反応を示した、その瞬間を隙と見た。千束は瞳を見開き勢い良く立ち上がると、目の前の男に自身のポンチョを覆い被せ、直後手元の銃を乱射した。

 

「ぐぁっ……!」

「うわああああっ!!」

「ぐはっ……!」

 

 ポンチョを被せた男の後ろに控えていた、サングラスでツナギの集団全てを非殺傷弾で倒すと、すぐさま千束は踵を返して反対方向へと全力疾走した。

 千束にとっては既視感のある姿をした集団───そう、初めてたきなと仕事をし、誉にリコリスである事がバレてしまった日の、あの時の犯人達と同じ。全てが繋がりつつある感覚を抱きながらも、今は離脱に意識を傾ける。

 

「っ……行け行けぇ!!」

 

「ちっくしょう……ポンチョ盗られたぁ!」

 

 ポンチョを被せていたであろう男が、背後でそう叫ぶ。それを聞き舌打ちをしながらも、脱ぎ捨てたポンチョを名残惜しむが、流石にこの暗闇の中を相手取るには、人数比が悪過ぎる。先程の車の衝突も無傷では無く、今の千束は万全じゃなかった。

 

「……っ!」

 

 走る度、足を行使する度にズキズキと痛む。歯を食いしばりながらも、なんとかその足を緩めずにツナギの集団を引き離す。ここ最近で一番の危機に、人工心臓が力を発揮する。

 

(……ははっ)

 

 ────ああ、なんて皮肉だろうと、危機だというのに笑えてくる。

 自分を生き長らえさせてくれるこの心臓が、存在して良かったと思う場面に出会す度に、彼の顔を思い出してしまうのだから。

 同じ心臓の疾患を持った者同士で、彼の痛みや苦しみを分かってあげられるのは自分だけだったはずなのに。彼の前で、自分は何度も勝手な言葉を投げ掛けて。

 

 ────彼は、どんな気持ちで私の言葉を受け止めていたんだろうか。

 

「……っ?」

 

 ふとその身が光に照らされて、我に返り振り返る。国道を外れて芝が広がる公園へと進路を変えていたのだが、千束のその背後には一台の白いワゴン車が猛スピードで迫って来ていた。

 後部座席の扉を開けてその身を乗り出していたのは、自分を撥ねた車の運転手。暗くてよく見えないが、ボサボサの緑色の髪が風で揺れ、悪魔のような笑みで此方に迫って来る男が視認できた。

 

「また吹っ飛ばしてやるッ!」

「っ……だぁ〜、しっつこいなぁ!」

 

 千束の走る速度、車が迫る速度。追い付くのは時間の問題だった。その車は法定速度お構い無しに迫って来ており、あと数十メートルもしない内に再び千束を撥ね飛ばし、なんなら轢き殺す勢いだ。

 

「……ッ!」

 

 その足を止め、その身を翻す。

 構えた銃は、その車を迎え撃たんとする意志と共に。迫る車の後部座席から、その緑髪の男はリボルバー────チアッパ・ライノを引き絞り、その引き金を引く、その瞬間を視認する。

 

 放たれたその弾丸と、千束の頭が左へ逸らされたのはほぼ同時。紙一重でその弾丸は千束の側頭部を通過し、それを見た男はその表情を驚愕に染めた。

 

「なっ……!?」

 

 その直後、再び千束は銃を乱射する。その車の運転手と、後部座席に座る、あの親玉目掛けて撃ち続けた。フロントガラスが砕け、運転手の驚く声が耳を伝う。命中精度に難アリの非殺傷弾であるが故の強引なやり方。

 

(っ……なんで、今になってこんなに……)

 

 こんなに、彼の事を想ってしまうんだろうか。

 どうしてこんな状況なのに、頭から離れないんだろうか。

 あれだけ避けて、困らせて、距離を置いて、話さない時間が長くなりつつあったはずなのに。

 

 それでも、彼の姿が頭にあるからこそ、この想いがまだ根強く残っているからこそ、この重い引き金を引く躊躇は、今の千束には無かった。

 

(……死ねない)

 

 その拳銃を逸らさない。

 今まで無いほどに集中しているとさえ思えた。最近の中で一番死に近い現状に、久しぶりの焦燥を感じる。

 

 それでも、“やりたい事最優先”のはずの自分が、“したいのに出来てない心残り”が、まだそのままになってしまっているから。

 

「────ッ!」

 

 その引き金を、三度乱射する。

 その弾丸の一つが緑髪の男の脳天を直撃し、その車から投げ出された。ワゴン車は揺れながら、千束のすぐ横を通り過ぎ、そのまま横転した。

 それを流し見ながら、千束は恐らく親玉であろう、先程車から吹き飛ばした男へとその足を忍ばせる。

 

「アンタが一連の襲撃犯?」

 

 銃を突き付けながら、千束はその緑髪の男に近付く。被弾した非殺傷弾の鈍痛から解放されたのか、その男はゆっくりと起き上がると此方を見て振り返った。

 

「……酷ぇじゃねぇか」

「うっわ……」

 

 振り返った奴の目元は血まみれで、暗がりと相まって人相が伺えない程だった。しかし、このまま奴を無力化してDA本部に突き出すか、クリーナーに回収を頼めば一連の騒動はほぼ解決の一途を辿るはず。

 千束は銃を向けたまま、奴の背後を取ろうと回り込んだ────その、瞬間だった。

 

「……っ!?」

 

 その両手首を捕まれ拘束されたかと思えば、そのまま立ち上がった奴の口から何かが吐き出され、同時に千束の視界が塞がれる。

 目を閉じる寸前、赤黒い何かが飛沫を上げて千束の顔面に直撃する。血液を含んだ唾が視界を奪うと同時に、奴の拳が千束の頬に直撃した。

 

「がっ……!?」

「くっははっ……!」

 

 千束はその容赦の無い威力によろめき、身体が傾く。倒れまいと膝を曲げた途端、今度はその足の支えを蹴り飛ばされる。

 倒れ込み、地面に上半身を打ち付け、先程の車の衝撃を身体が思い出して激痛が走る。それを耐えて急いで起き上がると、今度は鳩尾に拳が飛んできた。

 

「かはっ……!」

 

 視界が暗い。何も見えない。焦りと、ほんの僅かな恐怖───いや、違う。今まで感じた事の無い何かが押し寄せてくる。

 

 失われた視界を補うかのように聴力が研ぎ澄まされていき、段々と周りの状況が理解できる。

 

(……っ、これ、マジでヤバいやつ……)

 

 次第にこの場所へと先程のワゴン車が集結してきていて、千束と目の前にいる緑髪の男を囲うように、ツナギの集団が野次馬のように集まってきていた。

 この一方的な蹂躙を、オーディエンスのように笑いながら、楽しみながら、応援しながら観戦している。

 視界を覆う血をどうにか拭い去ろうとしている中でも、拳の応酬は続いていき。

 

「ゴム弾じゃなくっ!実弾にしとけば良かったなぁ!」

「ぐぁっ……!」

 

 左頬に鈍い痛み。その軽い身体が吹き飛ばされ、背中から床に叩き付けられる。周りの男達は緑髪の男の勝ちを確信し、笑って声援を、千束に野次を飛ばしていて。

 

「……()ぅ」

 

 その上体をゆっくりと起こす。久しぶりに感じる痛みの連鎖に、思わず歯を食いしばる。腕が震えて力が上手く伝達していかない。

 そんな中で、ふと顔を上げると、目の前には銃口が向けられていた。

 

「────……」

 

 緑髪の青年は、その瞳をゆっくりと開く。突き付ける銃の焦点を、千束から変えることはない。距離は問題ではないけれど、この体勢で目の前の敵の銃弾が躱せるかどうかは、恐らく千束にとっても未知だった。

 

(痛い……)

 

 この痛みが身体から来るものか、心から生まれたものか、千束には分からなかった。この戦いの最中で何度も呼び起こされる誉の顔を思い出す度に、胸が苦しくなるから。

 

 頭を殴られ続け、脳が揺れるような感覚に陥る。視界が揺らめき、力が入らず、身体を思うように動かせない。この状態で相手の銃が躱せるなんて、そんな事を思えるはずもなくて。

 もしかしたら死ぬかもしれない────そんな予感が、久しぶりに胸に去来した。

 

「……お前の“使命”は何だ」

「────……ぇ」

 

 急に話し掛けられ、思わず声が漏れる。

 問われた言葉の意味が分からず固まっていると、目の前の男は自身の首元を指差して告げる。

 

「それ」

「?……っ」

 

 奴の視線を辿り、自身の胸元を見下ろす。

 そこにあったのは、梟のチャーム。────アラン・チルドレンの証。支援の対価として世界に“使命”を与えられた存在を意味する証である。

 

「……“アラン”のリコリスか。面白いなぁ」

「っ……使命、なんて」

 

 深く、考えた事は無いけれど。

 けれど、朧気にだが覚えてる。自分を助けてくれた人、誰かを助けられるような人に、憧れた感情が残ってる。

 

(……ああ、そうだ)

 

 その“使命”とやらを、今までしっかりと考えた事は無かったけれど。

 千束はきっと、潜在的に、そして本能的に、もっといえば感情的なまでに。

 

 憧れは────“なりたい姿”は、朧気にはあって。

 そして、ごく稀に頭を中を過ぎる“救世主”という言葉。

 

 なりたい姿。やりたい事。在りたい自分。

 それはきっと、ずっと昔からこの胸にあって。

 そして、つい最近その“具体例”に、千束は出会ってしまっていた。他者の“ありがとう”を大切にする、優しい少年の顔。

 

「────……っ」

 

 それを思い出す度、今は後悔しか生まれない。

 心臓の疾患を知る前の言動と、知った後の自分の振る舞い。

 中途半端で、いい加減で、一体何度、彼を傷付けたか分からない。

 

「おっと」

「がっ……!」

 

 立ち上がろうと立てた膝を、即座に蹴り飛ばされる。ただでさえ弱々しい力が逃げ、再びその身をうつ伏せに打ち付けた。

 その瞬間、湧き上がるオーディエンス。周りに味方は居ないのだと、その絶望的な現実を千束に突き付けてくる。

 死がすぐそこにあるのだと、そう突き付けてくるのだ。

 

「悪いな。これも仕事なんでな。逃がさねぇよ」

「────……っ」

 

 あまりにも惨めで、滑稽で。

 情けなくて、泣きそうになる。

 最近、どうしてか今までにないくらいに涙脆くて。

 その原因である彼の事が、ずっと頭から離れなくて。

 

(……死んで、たまるか)

 

 自分は、本来なら既にこの世に居ない人。そう思って生きてきた。だから、そこまで生に執着はしていなかったかもしれないけれど。

 今、千束は明確に“死にたくない”と感じている。生き残って、成さねばならない事が残っていると自覚する。

 誰の所為でこんな風になってしまったんだと、千束は困った様に笑った。

 

 

「……っ、く……」

「へぇ……頑張るな」

 

 

 ────ああ、そうだよ。全部、君の所為なんだよ。

 

 

「……アンタの目的なんて、知らない」

 

 

 そうだ、私は。

 彼に謝るまでは。

 

 

「……まだ、死ねない」

 

 

 彼に、もう一度会うまでは。

 彼に謝って、そして怒られるまでは。

 傷付けた分、彼に傷付けられるまでは。

 

 

「……立て、私」

 

 

 死にたくない。

 また、会いたい。

 “また、明日”を再び口にするまでは。

 

 

 そして────

 

 

 

「────見付けた(チェック)

 

 

 

 その言葉が、喧騒の中ではっきり聞こえた気がした。

 千束と、そして目の前の緑髪の男が、揃って声のした方を向く。

 

 

「シッ────!」

 

「がぁっ……!」

 

 

 ────瞬間、人影が飛び上がり、目の前の男の顔面を思い切り蹴り飛ばしていた。

 緑髪の男はあさっての方向へと吹き飛び、その人影は千束の前にゆっくりと舞い降りて、着地と同時によろめいて。

 

 

「おっとと……やっぱ重いな、この重装備……」

 

「っ……ぁ……」

 

 

 その背に、分不相応なスナイパーライフルを携え。

 その左手には似合わないアサルトライフルを抱え。

 腰のホルスターには、千束とお揃いの拳銃を差し込んで、そんな姿で“彼”は現れた。

 

 

 ────涙が、出そうだった。

 

 

 本当は、千束こそ決めていたのだ。

 明日また会う時には覚悟を決めて、震えながらでも、泣きながらでも今までの事を謝罪しようと。

 例え傷付けられても、怒られても、無視をされても、自分がしてきた事の償いをしようと。

 

 

 そして、“やりたい事最優先”である自分の生き方と、在り方に誓う。

 今まで恥ずかしくて言えずにいて、その度に後悔してを繰り返して居たけれど。

 

 

 もう決して、それ(・・)を告げる事を、躊躇ったりしない。

 

 

 

 

「────大丈夫?千束(・・)

 

「……()……ほまれぇ(・・・・)……!」

 

 

 

 

 ────今度こそ、君のその名を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.25 『 Talent of “Savior”(救いの才能)

 

 

 

 









錦木千束────喫茶リコリコの看板娘。幼稚園の手伝い、日本語学校の講師、暴力団の抗争の手打ち、漫画家へのアドバイス、ボディガードなど多岐にわたる人助けをしている。ただし人助けするのは「依頼された場合のみ」と自らルールを定めている(wiki参照)。
「やりたい事最優先」が座右の銘。それ故に自分を犠牲にしない。自分を優先させつつ周りの人をも一緒に幸せにできる人。
アラン機関に見出されたのは、「殺しの才能」


朔月誉────喫茶リコリコの男性店員。幼稚園の子どもと戯れ、困ってる外国人は多国語(マルチリンガル)で助け、漫画家に原稿の手伝いを任されても対応可能という適応振りだが、この人助けは依頼や仕事とは無関係の、自身の過去や信条に基づくものであり、そこに依頼かどうかの隔たりは無い。
「やりたい事最優先」が信条。千束の在り方に憧れての真似である。しかし彼は自分の身を犠牲にしてるつもりがない。大切な人に報いる事、優先する事こそが彼のやりたい事であり、自分の気持ちを優先した結果である。
母親に見出されたのは、「救いの才能」。なお、詳細は不明である。





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.26 You can be anything









次元だって飛び越える。君の為ならば。



 

 

 

 

 

 

 一度見れば、その事象を再現できた。

 一度聞けば、その仕組みを理解できた。

 

 検討や施策はほぼ不要。提示された環境に適応するのにそれほど時間は掛からない。一度見聞きした事象や物質の構造、情報を即座に理解し実行、最適解を導き出して完成させる事ができるその才能は、精密機械と呼んでも差異がなかった。

 どれだけの事象を体験させ、どれだけの知識を詰め込めるのか、そんな実験にも似た好奇心の怪物は、その才能を調べれば調べる程に、行き着く先の理想を高く掲げた。

 

 これは、“世界に救済を齎す才能”だと。

 ある者は、“神になれる才能”だと。

 またある者は、“何者にでもなれる才能”だと。

 

 周りがそうして囃し立てるが故に、その才を持つ少年もそう在るべきなのだと、心のどこかで覚悟していた。学問、スポーツ、音楽、芸術、ありとあらゆる分野を突き詰めるだけの日々の中ではあったけれど。

 できる事が増える度に肉親に褒められる事、そして身に付いたものが他者に還元された時、『ありがとう』と微笑んでくれる人の笑顔が少年は好きだった。

 

 ────総じてそれは、“救いの才能”だと、誰かが言った。

 

 だから、そう在るべきなのだと。

 これは自分が好きで、望んだ事なのだと。

 そう在りたいんだと、そう言い聞かせるように。

『何にでもなれる』と、呟くそれは呪いのように。

 

 だから、自分がそう在る事を望んでいると思っていた存在から、その才能の使い方を、思いの丈を綴られた時の事を、今でも覚えてる。

 周りとは違う言葉を、彼女(・・)は掛けてくれていた。

 

 曰く、それは“抱いた理想を実現できる才能”だと。

 曰く、“なりたい自分になれる才能”なのだと。

 

 その当時、少年に自身の才能について自覚があったのかどうかは分からない。

 けれど、それでも。

 

『貴方は何にでもなれる。だから何にも縛られず、なりたい自分になって良いんだよ?』

 

 ────そう言って笑った彼女の顔を、少年は決して忘れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

「……ほま、れ……」

「……なんて顔してんの」

 

 今にも泣きそうな、情けない顔をした最強のリコリス。誉は小さく苦笑しながら、へたり込んで此方を見上げる彼女の表情と、その瞳を見つめる。ここ最近で何度も逸らされていたその瞳と自身の瞳が、久方振りに交わった気がした。

 

(……思ったより元気そうで良かった)

 

 千束の無事を確認し、すぐさま視線を周りに切り替える。突然の乱入者に驚いたのか、周りのツナギでサングラスの集団は互いに顔を見合せて狼狽えている。千束を助ける為に蹴り飛ばした緑髪の男はまだ横たわっており、彼の指示待ちなのか拳銃を取り出す奴は居ても襲ってくる輩は居ない。

 

「耳抑えてて、千束」

「え……」

 

 千束の返事を聞かずして、誉は瞬時にアサルトライフルを構え、此方を円を描く様にして囲う集団の、その足元に向けた。

 奴らが驚くのと、千束の口から驚愕の声が漏れるのはほぼ同時で、しかしそれら全てが今から誉によって放たれる銃声によって掻き消された。

 

「────っ!」

 

 両手で構え、引き金を引く。瞬間、誉のアサルトライフルは全弾発射(フルバースト)を開始。拳銃と違って連射されるその弾丸の嵐は、彼らの足元からかなり離れた前方の芝生に着弾。

 

(くそ、難しいっ……あくまで牽制、当てるなよ俺……!)

 

 それを視認した誉は、反動と次弾発射までの間隔を頭に刷り込みながら構えと弾道を修正していく。次第に連射されたその弾丸は彼らの足元へと軌道が正確に修正された。近付こうとする者の足元は銃弾によって土煙が舞い、迫ろうとする輩全てを牽制する。

 殺す気も、傷付ける気も毛頭ない。誰も傷付けずに彼女を救おうだなんて、傲慢だろうか。

 

「痛ってぇ……うわ、何この威力肩外れそう」

「ちょ、ちょいちょいちょい!待て待て待て!」

「ん?」

 

 彼らが揃って腰を抜かすのを確認し、誉はアサルトライフルを下ろした。見たところ誰も怪我はしてなさそうだ。安心して胸を撫で下ろす。

 アサルトライフル初めて撃ったけど、使えそうで良かった……なんてこの場で考える事じゃない感想が頭の中を過ぎっていると、後ろから千束が大きな声で此方を静止した。

 

「涙引っ込んだわ!え、何その銃、どっから持ってきたの!?」

「ああ、これ?この人達の車、ドア全開でさ。なんかいっぱいあったから借りてきた」

「危ないって!使った事無いでしょ!?」

「大丈夫、最近ゲーセンで射撃ゲームやったから。ただ銃横に振っても再装填(リロード)されないんだよね」

「言ってる事ヤバいんだけど……」

 

 

 

 ────千束は、気が付けば心にゆとりが生まれていた。

 

 この緊迫した状況の中で、唯一普段と変わらない態度。その姿に安堵もするし、不安もする。けれど千束にとっては、一般人である彼のその背がこの瞬間においては何よりも頼もしくて。

 

 何故此処にいるのか分からない。けれど、彼が危険な場所に居る事に怒ったり、逃げてと叫ばなければならない状況なのに、その姿を見て千束は安堵してしまっていた。

 周りはリコリス狩りの犯人集団で多勢に無勢、離脱は絶望的だというのに、それらの理不尽や恐怖の感情全てを押し退けて、自分の為に来てくれたのかと思うと、どうにも堪らなかった。

 

 改めて誉を見上げると、その背には自身の身体と同じくらいの背丈があるスナイパーライフルを背負い、左手には黒く質量のあるアサルトライフル。立ってるだけなのにふらついている様に見える辺り、現状誉が扱えるかは怪しい。

 だが、腰のホルスターには千束と同じ拳銃────デトニクスコンバットマスター。

 

「……その、銃……」

「そ、お揃い。なんか良いでしょ?」

「……っ!」

 

 戦場の中心に立っているとは思えない程に、屈託の無い笑み。千束と同じ物を持っている事に嬉しさを感じているだけのような、そんな表情。

 こんなときに話す事じゃないし、場違いにも程がある。それなのに、何故か安心して、嬉しくなってしまいそうになって。

 

「っ……千束……?」

「ぇ……ぁ……」

 

 ────気が付けば、再びその頬から一筋の涙が滴り落ちていた。

 誉だけでなく千束自身も驚き、千束は目を見開きながらも濡れた頬に触れて、慌てて制服の裾で強く拭う。

 

「え……ええっ!?ナンデ!?ナンデ泣イテンノ!?」

「っ……えっ、や……泣いてないしっ……!ちょっ、もうこっち見んなっ!」

「理不尽」

 

 駄目なのに。巻き込んではいけなかったのに。喜んではいけないのに。こんな状況なのにも関わらず、彼とこうして会話を交わせるのが、こんなにも楽しくて、嬉しくなるものだなんて、知らなかったから。

 

「……痛ってぇな……」

「────っ」

 

 その声を耳にして、千束は顔を上げる。誉も同時に視線を前に戻し、左手に持ったアサルトライフルを構え直す。その銃口の先には、緑髪で目元が血塗れの高身長の青年が、立ち上がって此方を睨み付けていて。

 その男は小さく息を吐き出すと、その瞳を見開いて誉を見据える。彼を見るその視線は鋭く、殺意さえも感じた気がした。

 

「……で?何、お前」

「何って……彼女の友達だけど」

「んだそりゃ、ヒーロー気取りかよ」

「そっちこそ、その髪の色何?天然?小学校ん時のあだ名はマリモかブロッコリーかな?」

 

 ────何故煽る。

 

 千束は信じられないと言わんばかりの顔で誉を見上げる。彼は調べる限りでは裏の世界に精通していない戦闘経験皆無の正真正銘の一般人であり、目の前のような光景に晒される事など、人生においてほぼ無かったといえるはず。

 にも関わらず目の前の男に物怖じせず、なんなら煽ってる始末である。彼の思考回路というか、精神構造はどうなっているのだろうか。

 

「……良いとこなんだから邪魔すんなよ」

「言っとくけど、女の子一人に野郎数十人で囲うって、絵面と字面ヤバいかんね?」

「そりゃ勘違いだ。仲間には手ぇ出させてねぇよ?」

「よく言うよ、さっきまで全員で追い掛け回してたじゃんか。車まで使って…… 不公平(アンバランス)だと思わない?」

「ハッ、言うじゃねぇの」

 

 ケタケタ笑う男相手に、変わらず言葉を重ねる誉。

 目の前にいるような奴に煽った態度を取る事が、後々どういう末路に繋がるかを想像し、焦った千束は誉の服の裾を背後から引っ張る。

 それに気付いて、誉は眉を顰めながら視線は変えず、彼女に顔半分だけ向けて口を開いた。

 

「……ちょ、何。今カッコつけてるとこなんだけど」

「何相手煽ってんの!?カッコつけるタイミング違うから!」

「や、ほら、俺戦闘経験皆無の素人だからさ。バレないように強がってないと」

「もうその発言がカッコ悪い……」

 

 頭を抱える千束に、首を傾げる誉。

 その漫才のようなやり取りに、目の前の男は軽く笑う。

 

「お前もDA関係者か?……の割には、あんま強そうじゃねぇな。ホントに素人かよ」

「まあ、お茶汲みで採用されてるからね。因みに得意なのは珈琲」

「茶じゃねぇのかよ」

「今引き上げるなら飲ませてやっても良いよ?」

「遠慮しとくわ。苦いのダメなんだ」

「何だ素人か。珈琲ってのは焙煎の方法や技術でその豆の持つ甘さを引き出す事もできるんだぞ。俺なんて今絶賛修行中で」

「聞いてねぇよ」

 

 何故か会話が弾んでいるという不思議な空気。

 というかこの男、何故お茶汲みだのDA関係者だのと、嘘がポンポン出てくるのだろうか。千束は、あまりにも物怖じしなさ過ぎる誉の図太さに唖然としていた。

 

「てか、苦いのは俺も苦手なんだ。仲良くなれそう」

「それでよく珈琲が得意だなんて言えたなマジで……ハッ」

 

 だが目の前の緑髪の男もその会話をある程度楽しんだのからか、もしくは飽きたのか、やがて小さく息を吐き出すとその笑みを表情から消し、瞳を細めて誉を睨み付けた。

 

「……生憎お前に用はねぇんだわ。そこを退け」

「え、交番(自首)なら逆方向だけど。刑務所の囚人はツナギだって聞くし、丁度良いじゃん。今捕まっとけば着替える手間が省けるよ?」

 

 その言葉を最後まで聞いた瞬間、男は腕を上げ、銃口を向けた。その先に立つのは、誉。

 千束が目を見開き声を上げるよりも先に、その男は瞳を細め、その引き金に指を掛けた。

 

 

「いいから、退けよ」

 

 

 ────銃声が鳴る、そのコンマ数秒前。

 

 誉が反射的にその首を右に傾ける。直後引き切ったその引き金と共に銃声が鳴り響き、音速の弾丸が誉のその頬を掠めていった。

 先程まで誉の頭蓋があったその位置を誤差無く通過する弾丸を横目で流す彼を、その緑髪の男と────何より千束は、目を見開いて見上げた。

 

 この至近距離から、弾丸を躱す(・・・・・)

 千束同様の神技をやってのけた誉は、その男に向かって不敵に笑った。

 

 

「────やだね」

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.26 『You can be anything(貴方は何にでもなれる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●〇●〇

 

 

「すげっ……お前も躱すのかよ……!」

「躱してねぇよ掠ったよっ()ぇな……!」

 

 緑髪の男が不気味な笑みを浮かべるのを横目に、左頬の突き刺すような痛みを耐えるように歯を食いしばった。

 その部分からは生暖かい何かが滴り落ちる。見なくても流血だと分かる程の痛みに、掠ったとは言ったが思いの外、傷が深かった事を理解する。

 

「やっぱ筋肉の機微とか一回見ただけじゃ、判断なんて付かないって……!」

 

 千束が普段から任務でそうやって銃弾を躱していると聞いてから、その難しさを今こうして体感すると、改めて意味不明だと苦笑する。

 自分にもできるかなんて、軽い気持ちでぶっつけ本番でやるのではなかった。千束が普段から、想像以上にギリギリな戦い方してる事に驚きを禁じ得ない。

 

「え……え、え?い、今、銃躱した……?」

「や、ちょっと掠ったって。やっぱ避けんの無理ゲー……」

「か、掠ったって……」

 

 千束は知る由もないが、今のは誉がミカとミズキの話を聞いて実行した、千束流の銃弾の躱し方である。だが、筋肉や服の動きから行動を予測するのは、現段階で経験の浅い誉には難しかった。

 

 以前にも、誉は“サイレント・ジン”との戦闘で銃弾を鉄パイプで弾いたり、銃弾を躱すという離れ技をやってのけたが、あれにはカラクリがある。

 あれは戦闘技術の基本(セオリー)がある程度身に付いている相手にこそ有効で、要は事前に分かりやすい隙を此方で作る事で、相手が狙う部位と発射タイミングを誘導しているのだ。

 逆に言えば集団相手や、戦い方に一貫性の無い相手にはまるで効果が無い。今回が正にそれだ。

 

 目の前の緑髪の男からは、ジンのような基本に忠実な動きや思考を第一印象からは感じない。どちらかというと搦手も使うラフファイトが得意な印象すら感じる。こういう自由さが武器の相手は予測が難しい。

 故に千束の躱し方は参考になると思ったのだが……既に一発掠ってしまって正直かなり痛かった。

 

「……な、なに?」

「……や、別に」

 

 珈琲の味だけでなく、専門外である戦闘の部分においても、誉は千束に劣っているのがなんとなく悔しいが、それとは別にそのスキルを使ってジャンケンでイカサマしてた事に関しては、誉はまだ根に持っていた。

 

「っ────!」

「なっ……!?」

 

 すかさず一発、今度は千束とお揃いの拳銃を放つ。瞬間、緑髪の男が此方に向けていた拳銃へ着弾し、それは奴の手元から弾かれ離れ、放物線を描いて後方へと吹き飛ぶ。

 たきなに勝るとも劣らない命中精度に、千束は唖然とする。跳ね飛ばされた拳銃を最後まで眺めていた緑髪の男は、本当に楽しそうに笑いながら此方に向き直り、震える声で呟いた。

 

「ハッ……恐れ入ったぜ。お茶汲みはハッタリかよ」

「や、それはあながち嘘じゃないよ。俺DAでもリコリスでもないし、アサルトなんて、今日初めて使った」

「マジかよ凄ぇな。ならお前もそこのリコリスと()()だな。才能ってやつか」

 

 緑髪の男はそう言うと、周りの仲間に向けて首を傾ける形で指示を出す。瞬間、誉の牽制で倒れていた彼らは揃って全員が体勢を立て直し、各々が銃火器を構え始める。

 

「……凄い数の銃だけど、ひょっとして以前の銃取引現場に居たのってアンタなの?」

「なんだ知ってんのか。なら分かってんだろ?俺達がどれほどの銃を持っているか。この人数じゃ勝ち目無いぜ?」

 

 両腕を広げて笑みを浮かべる彼を見て、誉は小さく息を吐き、ゲンナリした表情で呟いた。

 

「なんだよ、結局数に物言わせるんじゃんか。バランス考えろバランス」

「先にそれを傾けたのはお前らDAだろ?俺は帳尻を合わせてるだけだ」

「ふーん……よく分からないけど、犯罪者なりの正義とか美学ってやつ?ちゃんと聞いてないし、真っ向から否定したりはしないけど」

 

 誉はアサルトライフルを左手に、そして千束と同じ拳銃を右手に構えた。真っ直ぐに奴を見据えて、同様に広げる両腕は後ろにいる千束を守るかの如く。

 

「彼女には指一本触れさせない。何人居ようが多勢に無勢だろうが、そんなのは関係無いんだよ」

「……っ」

 

 ────その背が、あまりにも頼もしかった。

 次第に弱っていき、死の予感さえ近付いていた千束の心を、その言葉の一つ一つが優しく温めてくれる。彼はただの十七歳の青年で、DAともリコリスとも関係が無い普通の人間だ。

 それに彼は心臓に病気を患っていて、それを抜きにしてもこの場に居るべき人間ではないというのに。どうして、こんなにも頼もしい。

 

「なら見せてみろよ、ヒーロー。こっからの逆転劇」

「……っ」

 

 緑髪の男のその言葉を皮切りに、周りの連中が持っていた銃器の銃口をこちらに向けてくる。全方位からの掃射は流石に避けられないし対処もできない。

 それでも誉は顔色一つ変えずに、銃を構えて張り詰める。その表情は真剣そのもので、後ろで座り込むだけの千束でさえ息を呑んだ。

 

 ────その瞬間だった。

 

「ぐぁっ!」

「ぎゃあ!」

「あ、足がぁ……!」

「どっからだ!?」

 

 その男の後方で、集団が急に弾かれたように次々と悲鳴を倒れ始めた。緑髪の男も、誉も千束も我に返り、その悲鳴のする方へと視線を向ける。

 見ると、そこには血を流し倒れる男達が痛みに耐えるように歯を食いしばっていた。

 

「……発砲?」

 

 よく見れば、彼らは全て急所を的確に外されたうえで無力化されていた。撃たれてる事を理解した残りの人間は、辛うじて車の影へと逃げ込むように移動を始め、何処からともなく襲ってきた銃撃に備えて警戒を始める。

 そして、その正確な射撃が誰のものかを、相棒である千束は理解していた。

 

「たきな……!」

「え、マジ?タイミング神過ぎ流石かよ……!」

 

 ならば、逃走用の車も用意してるはず。目の前の緑髪の男を引き離せば逃走が可能だと瞬時に理解した誉は、即座にホルスターに拳銃を仕舞うと、左手のアサルトライフルを構え直し、目の前の光景に唖然としていた緑髪の男に向けた。

 

「っ……チィ!」

 

 それに逸早く気が付いた奴は、舌打ちしながら車を盾にするべく横に走り出し、誉はその足元を追い掛ける様にアサルトライフルを連射する。勿論、敢えて当てない様に。

 

「千束!」

「……!」

 

 奴がワゴン車の影に隠れたのと同時に、誉は振り返って千束へと右腕を伸ばす。この乱戦の中でも、彼の柔らかな笑みは変わらなかった。

 

「一緒に帰ろう!」

「……うんっ!」

 

 千束は小さく笑って、地面に転がっていた自分の拳銃を回収してから、誉のその手を取った。固く握り締め、結ばれたその指に力を込めて立ち上がると、同時に後方から赤いスバルのフォレスター。

 

「ミズキだ!行こう誉!」

「分かった!……これ重っ!」

「もう置いてけそれっ!」

「くそ、一回使ってみたかったのに……」

 

 誉は背中のスナイパーライフルを泣く泣く降ろし、千束の背中を追うように走る。ついぞ使われる事はなかったが、使わなくても問題無いのならそれに越したことは無い。

 やがてミズキが車を止めると、後部座席の扉が開く。そこには焦った表情のミカが、めいいっぱいにその腕を伸ばす。

 

「うわ、ミカさんまで居る」

「千束、朔月くん、早く乗れ!」

「と、りゃあっ!!」

 

 千束は両腕を伸ばして頭から後部座席に飛び込み、誉はそれを確認してから振る。

 姿は見えない。だが集団が倒れる方向の逆の位置から撃ってるのは明確。たきなが居るであろう方角に向かって、ありったけで叫ぶ。

 

「たきな、もう大丈夫だ!早く帰ろう!」

「“帰ろう”って……こういう時は、“逃げる”って言うんですよ!」

 

 たきなは茂みから飛び出し、此方へと向かってくる。

 それを視認した誉は、助手席の扉を勢い良く開けて素早く乗り込み、たきなは千束同様に後部座席へと頭からダイブした。たきなが乗り込んだのを確認し、ミカがすかさず扉を閉める。

 

「むぐっ……!?」

「せ、狭い……!」

「詰めてください……!」

「後ろの二人、ちゃんとシートベルトしなよ」

「言ってる場合か!」

「ミズキ、出してくれ!」

「バッチこい!」

 

 後部座席が詰め詰めの状態のまま、ミズキがアクセルを吹かす。凡そ公園内で出していいレベルじゃない速度で車が走り出す。

 外傷の無いツナギの集団が、一斉に此方に向かって銃撃を繰り返し、その弾丸を弾きながら車が走り出す。

 

「逃がすかよっ!」

 

 緑髪の男の怒声にも似た声が僅かに聞こえる。誉は集団の射線から車が外れたタイミングで助手席の窓を全開にし、アサルトライフルを構え直す。

 

「────っ!」

 

 ミズキの運転する車の真正面から、白のワゴン車の一台が突っ込んでくる。よく目を凝らせば、運転席に人が乗っておらず、猛スピードで迫って来ていた。

 使い捨て、自滅覚悟の特攻だ。

 慌ててハンドルを切るミズキを横目に、誉は上半身を窓の外へと預け、ライフルを向かいのワゴン車のタイヤへと向ける。

 

「なっ、朔月くん危ないわよ!」

「────チェック」

 

 ミズキの制止を聞かず、アサルトライフルを発砲。

 瞬間、目の前のワゴン車の左前のタイヤが破裂し、勢い良く空気が抜ける音と共に火花を散らしながら左側へと逸れていく。

 慌ててハンドルを切っていたミズキの運転もあって、ぶつかる事無く各車はすれ違い、そのまま誉達は逃走経路を辿り始める。

 

「っ、ちょ、ハアッ!?」

「……凄い」

 

 誉がワゴン車のタイヤをパンクさせたその命中精度と技術に、運転手のミズキと後部座席のたきなが唖然とする。ミカも目を丸くして誉を見つめ、当人は我関せずで小さく息を吐いていた。

 しかし、それも束の間。通信機からドローンで状況のモニターをしていたクルミから最悪の報告が。

 

『ヤバいので狙われてるぞ』

 

 その声を耳に各々が振り返ると、未だ此方に発砲してきている集団の中で一人、明らかに拳銃やライフルとは違う筒状の物を肩に担ぎ、此方に向けてきていた。

 

「……何あの太い排水管みたいなやつ」

「ランチャーだよランチャー!ロケットランチャー!」

 

 誉の素朴な疑問に千束が慌てた様に答える。

 そして、後部座席で身を乗り出して迎撃していたたきなが座席へと戻り、追加で最悪な報告をしてきた。

 

「っ、弾切れです……!」

「ひいいぃぃぃっ!!」

 

 それを聞いて、千束が半ばヤケ気味に銃を乱射する。数打ちゃ当たる戦法なのか、これでもかと連射しているが、命中精度に難ありの弾を使ってるだけに全く当たる予感が無い。

 

「あああああぁぁ駄目だヤバいヤバいヤバいヤバい!!」

 

 千束の焦った様な叫びが車内に轟く。

 向かい合う様な形で、進行方向先で待ち構えるロケットランチャー。その少し離れたところには、この集団を指揮しているであろう緑髪の男の姿も視認できる。

 

「……100mくらいか」

「誉さん……?」

 

 誉は再び助手席の窓から顔を出し、車の速度とランチャーを持つ人間、緑髪の男との距離を推し量る。

 そして、アサルトライフル────を捨て、デトニクスコンバットマスターを右手に構えた。

 

「ミズキさん、速度上げて!!」

「ちょ、アンタまたっ……!何する気なのよ!?」

「いいから!」

 

 誉の声にミズキやミカ、千束の肩が震える。その一瞬を突くように、たきながその背を後押しした。

 

「ミズキさん!誉さんの言う通りに!」

「〜〜〜っ、分かったわよ!!」

 

 どうにでもなれ、と言わんばかりの表情でミズキがアクセルを踏み抜く。速度を表示するパラメータが右に振り切り、ランチャーを持つ敵との距離が縮まっていく。

 

「────弾道を再補正」

 

 何度も告げてきたそれは、詠唱の様に。

 

「────風向きと移動速度の修正」

 

 風力と風向き、そして乗車による移動速度と揺れを含めて再演算。

 

飛距離(レンジ)は現在50m、空気抵抗補正、標的の行動予測────完了(オールクリア)

 

 徐々に近付いてく双方の距離。それさえも、焦る要因にはなり得ない。ただ集中し、そのタイミングで穿つ、ただそれだけの為に。

 

「目を背けず」

 

 決して、目の前の事から逃げずに。

 

「狙いは違わず」

 

 決して、目的と手段を履き違えずに。

 

「────不殺を心に」

 

 決して、人を傷付け、殺す事はせずに。

 

 

「────Forget-me-not」

 

 

 ────そのランチャーが放たれたその瞬間に、誉は引き金を引いた。

 続け様に数発、反動でブレる事無く連射する。車の揺れも、常識外れな運転速度も、目の前の理不尽な攻撃にも臆する事無く。

 そして、その弾丸全てが吸い込まれるようにランチャーの弾へと向かっていき、やがて激突して火花を散らす。

 そしてその後方には緑髪の男の、驚愕に満ちた表情が垣間見えた。

 

「な────」

 

 瞬間、緑髪の男とその集団────そして、誉達の車の丁度中間地点でランチャーの弾が地面に落下して暴発し、その爆風が炎と共に広がり始めた。

 盛大な爆発。ミズキが全力でハンドルを回し、黒い煙を躱す様にして爆炎の外側を走り、爆発に巻き込まれた連中を置き去りにする様に逃走する。

 

 爆炎に巻き込まれた集団は、されど大きな怪我はしてないように見えた。誉は細心の注意を払って、奴らが怪我をしない、かつ此方を追う事もできない威力をお見舞し、連中全てを爆風で吹き飛ばし、無力化したのだと理解する。

 

「……うっそぉ……」

 

 千束は開いた口が塞がらず、次第に離れていく爆炎を眺めていた。ミカも同様に驚いた表情のまま、その場所から目を逸らせないでいた。

 ミズキもバックミラーからその光景を眺め、信じられないと言わんばかりに誉へと視線を向けた。

 

「……はぁ、危なかったぁ」

「誉さん……」

 

 我関せずに、小さく息を吐き出す誉。

 それを、彼の戦闘を一度だけ間近で見た事があるたきなだけが、驚く事も無く、ただ黙って見つめていた。

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「うぅ……」

「……」

 

 リコリコに戻ってすぐ、クルミは店内の客間の中心で正座して項垂れていた。床に直である。彼女の目の前には無表情で直立するたきなの姿が。

 後方のカウンターではジョッキで酒盛りするミズキ、座敷の席の方には千束と、彼女の傷を治療するミカ、そして二階に続く階段に誉が腰掛けていた。

 

()つつつ……なるほど?」

 

 ミカに包帯を巻かれる度に、腕に痛みが走り苦い顔をする千束。治療されつつ今回の事の顛末を聞いた千束と誉は、一先ず今回の事に納得がいった。

 

 事件はたきなが問題を起こした、銃取引現場に遡る。あの日、DAの頭脳とも呼べる、全てのインフラを司る人工知能《ラジアータ》が何者かによってハッキングされ、その為に通信障害とそれに伴う指示の遅れで現場を抑える事に失敗し、その隠蔽としてたきなが責任を押し付けられる形になった。

 そのハッキングをしていた張本人というのが────目の前のウォールナット。

 

「つまり、全部コイツが原因って事」

「何だよ、助けてやっただろぉ……!?」

 

 ミズキの雑な、しかし告げられた事実にバツが悪そうに返事をするクルミ。そう言い返す声には覇気がなく、なんだか弱々しくて。

 こんな彼女を、誉は初めて目の当たりにしていた。

 

「たきな〜?アンタは被害者なんだから、いったれいったれ!」

「どーすんのぉ、たきな?やっちまうかぁ?」

 

 ミズキと千束が煽りに煽り、何故か楽しそう。今回傷を負ったはずの千束は、そんなクルミの正体と事の経緯を聞いても特段怒ったりはしておらず、気にしてなさそうだった。

 

「千束ぉ……」

 

 だからこそたきなを煽る千束に言い返す事も出来ず、縋るような声を絞り出すクルミ。しかし言い逃れや言い訳、そう言った逃避の考えを改めたのか、クルミは顔を上げてたきなに向き直り、ただ純粋に頭を下げた。

 

「っ……ごめん、たきな!」

 

 店内に響き渡る程の謝罪。そこには大人びた普段の印象も、人を揶揄う時の様な巫山戯た表情も無く、ただ彼女に申し訳が無くて、許してもらおうと謝罪する、その為だけの行為をするクルミの姿があった。

 やがてその沈黙を割るように、たきなが息を漏らす。視線を向ければ、そこには小さく口元を緩めた彼女が居た。

 

「……あれは私の行動の結果で、クルミの所為じゃありません」

 

 それを聞いて、千束とミカは顔を見合せて笑い合う。ミズキは面白くなさそうに、ただ何も言わずジョッキを仰いだ。てっきり怒ると思っていただけに、あっさりとクルミを許すたきなの姿に成長を感じて、誉は小さく笑った。

 

「でもアイツは捕まえる。最後まで協力して貰いますよ」

「勿論だ!早速だが、奴の名前が分かったぞ!」

 

 許して貰ったと理解してから、クルミの表情はより一層明るくなった。そうしていそいそとタブレットPCを取り出して、楽しそうに情報を提示する。

 何だ何だと、誉以外のメンバーが一斉にクルミの開いたPCの画面に近付くと、そこに映っていたのはドローンが撮影した録画映像。

 千束をいたぶる緑髪の男を応援する様に声を上げる、楽しげなツナギの集団が居た。その内の一人が、その緑髪の男に向かって『真島さーん!』と声を掛ける。

 

「……真島、か」

「先生知ってる?」

「いや……クルミ、奴の顔は」

「カメラには顔がちゃんと映ってなかった。千束と誉は奴の顔、はっきり見てるだろ。特徴は?」

 

 そうクルミに問われ、千束が腕を組んで唸る。

 ぶっちゃけ千束が難しい顔で考え始めた瞬間『当てにならなそう』と誰もが思った。

 

「えーとぉ……髪が緑っぽくてぇ……天パっぽくてぇ……あと、目付きが悪い」

「アバウトが過ぎるな……朔月くんは?」

 

 ミカにそう投げられ、千束を含めた全員の視線が集まる。誉は一瞬緊張で息を呑み、やがて顔を下に向けて奴の顔を思い出す。

 

「え、と……錦木と、ほぼ一緒です。ただ……」

「ただ?」

「……目元に手術痕があった。先天的に視力が無かった可能性があると思います。五感は何かが失っていると、他の感覚が優れる傾向にある。俺が錦木を助けようと飛び出したのに気付いてた節もあって……もしかしたら、聴覚が優れてるのかも」

「……成程な」

 

 千束以上に有力な情報を伝えてくれた誉に、一同が感嘆とする。そして同時に、此処に来るまでに誰も触れて来なかった疑問が浮上し始め、それを気になったミズキが、逸早く口を開いた。

 

「……で?そもそも、何で朔月くんがあの場所に居たのよ?帰ったんじゃなかったの?」

 

 ────空気が引き締まるのを誰もが感じた。

 そう、そもそもの話、千束が出掛けた後すぐに帰路に立ったはずの誉が、事の経緯を知る術は何処にも無い。彼が帰る振りをして立ち聞きしていた線もあるが、それをする理由が無いし、車で千束の元へ向かっていたたきな達よりも千束の居る現場に到着するのが早かった。

 

「え、や、そうですけど……錦木が襲われてるの知ったから」

「だから、何でそれを知ってたのよ」

「……えと」

 

 誉は、視線をあちこちへと移動させる。

 ミズキから逸らしてミカ、クルミ、たきな、そして千束。誰もがその答えを求めていて、けど聞けずにいた。それをミズキが問い出してくれた事で、その解を聞けるところまで来た。

 けれど、誉はずっと歯切れが悪く俯くだけ。それを見て、思わず千束は立ち上がった。

 

「い、良いじゃん別に!朔月くんは私を助けてくれたんだし、今回は何事も無かったんだから……」

「何言ってんのよ、アンタが一番彼を巻き込みたくなかったんでしょうが」

「そ、れは……そう、なんだけど……」

 

 今まで誉を巻き込みたくなくて、彼をDAやリコリスの事件に関わらせない様にしてきた。結果的に彼を巻き込み、心臓の病気を知らされて、余計に巻き込ませる訳にはいかなくて。

 今回、此方が何も教えてなくても現場に来た誉。何か、彼が事件を知る手段があったのなら、今後はその要因を徹底的に排除しなければならない。誉に余生を少しでも安全に過ごして貰う為に、それが一番の筈なのに。

 

 助けて貰ったからだろうか。それに対する情なのだろうか。彼が困っているなら、助けないといけないと、身体が勝手に動いてしまって。

 けれど、誉を巻き込みたくない気持ちも、変わらず此処にあって。千束は、結局ミズキに言い返せずに俯いてしまう。

 

「……あー、えと、怒らないって約束してくれます?」

「そんなん内容によるわよ……え、何、まさか盗聴器とか仕込んでんの?」

「や、そんなヤバい事してないですよ」

 

 しかし、千束の気持ちとは裏腹に、誉は思ったよりもあっけらかんとしていた。申し訳なさそうというよりかは、少し苦笑気味で。

 もしかしたら、やはりたきな達の会話を偶然聞いてしまって、それで助けに行こうとしてくれたのか────

 

「……クルミのPCハッキングしました」

「ハアッ!?」

「もっとやべぇわ」

 

 ────予想の斜め上の解答だった。

 

 

 

 

 








千束 「朔月くん、ハッキングできんの……!?」

誉 「あんま高度な事出来ないけど……クルミのPC覗き見るくらいなら」

たきな 「充分過ぎるのでは……というか、何故できるんですか!」

誉 「や、クルミに教えて貰ってたから……」

ミズキ 「つまり、またアンタが原因って事じゃない!」

クルミ 「」

ミカ 「立ったまま気絶している……!」




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.27 Welcome back, my buddy









ただ君の為、それが自分の為。


 

 

 

 

 

「……それで、その拳銃は?」

「……地下の倉庫、からです……ミカさんが、錦木とたきなの任務の度に、武器とか弾薬を取りに下に行ってたの知ってたので……それで……」

「……許可無く持ち出すのは感心しないな」

「……すみませんでした」

 

 ミカさんの事情聴取めちゃくちゃ怖いんだけど。

 や、ミカさんは普通に質問してるだけで怒ってる感じではないんだけど、なんか……なんか、怖い。ガタイと顔の所為かな。や、後ろめたい事をした自覚があるからかもしれない。怖過ぎて俺今正座だもん、床に直で。

 

「クルミのPCへのハッキングに使ったPCは自前かい?」

「いえ、クルミに貰いました……早めの誕生日プレゼント、との事で……」

「……なるほどな」

 

 それを聞いたミカさんが、視線をクルミへと向ける。クルミはバツが悪そうに目を逸らし、その視線の先にはミズキさんが立ちはだかっていた。

 

「言っとくけど、これはアンタの責任だかんね……!」

「な、何だよぉ、この話は終わっただろ?」

「それはアンタがDAをハッキングした事についてであって、朔月くんにハッキングを教えた事はまた別に決まってんでしょうがっ!!」

 

 相も変わらず正座で縮こまるクルミを後ろから詰めるミズキさん。そして、そんな光景を呆れた顔で見つめている一同。いつも大人びてる印象のクルミが泣きそうになってて、なんか可哀想に見える(他人事)。

 

 俺の『クルミのPCをハッキングしました』発言の後すぐに、クルミが慌ててPCを開いて確認し、外部から干渉を受けた形跡があったのを確認した彼女が、絶句した後泡吹いて倒れたのは記憶に新しい。

 

 タイミング的にも、流出したリコリスの映像を見付けた前後だった為、クルミもすぐに気付く事ができなかったという。まさか自分のセキュリティが突破されるとは思ってなかったようで、最初は驚きに満ちた表情で口元をわなわなと震わせていて……正直、悪かったと思っている。

 

「……不用意が過ぎるんじゃないか、“ウォールナット”」

「……っ」

 

 ミカさんはクルミを敢えてそう呼び、クルミは肩を少し震わせる。それを見て、ミカさんは頭を抱えて溜め息まで吐いていた。そして、ハッキングの事実に錦木やたきなまでもが唖然とする他ないといった様子。

 そして当人である俺はというと、バツが悪そうに、というか気不味そうに目を逸らしている。

 あ、ちなみにハッキングって正確には『クラッキング』と呼称するらしい(現実逃避)。

 

「……それで、朔月くんにハッキングを教えていたのは事実なんだな、クルミ?」

「うっ……」

「私、普通にパソコン教えてるだけかと思ってたわー」

「うぅ……」

 

 ミカさんと錦木にそう詰められ、クルミは申し訳なさそうにして……なんか、こうして見ると父親と姉に怒られてしょげている妹みたいだな。

 見た目的にも幼いし、なんか可哀想に思えてくる……てか、クルミ俺の所為で詰められてるんだよなぁ……なんか、申し訳なくなってきたな。

 

「あの、ミカさん。あまりクルミを責めないで下さい。ハッキングに興味を持ち始めていたのは俺の方で、クルミはそれを汲んでくれただけで……」

「そうは言うが、そもそも一般人にハッキングを教えるというのがな……忘れてるかもしれないが、犯罪だぞ」

「ぐうの音も出ない」

 

 言ってる事が真っ当過ぎて笑った。

 や、此処にいると銃刀法とかハッキングとか法に触れまくってるのが当たり前みたいなスタンスが続くから感覚が麻痺するんだけど、そもそも一般人が同じ事やると犯罪なんだよねぇ忘れてたわ。リコリコって治外法権なの?

 

 けどそうか……俺が悪いと思ってたけど、そもそもハッキングを教えたクルミにも責任がある、という考え方もあるのか。そうやって開き直って考えると……あれ、なんか自分は悪くないように思える不思議。

 とか考えてると、クルミがキッと睨み付けて来た。

 

「……何見てるんだよ」

「いやチンピラみたい……何故喧嘩腰なの」

「ボクが怒られてるのを見るのはそんなに楽しいか」

「急に卑屈が過ぎる」

 

 別に怒られて落ち込んでるのが見た目相応で可哀想だなんてほんの少しだけしか思ってないよ?

 リコリコの面子って眼力凄いけど、今のクルミは全然怖くないし、ぶっちゃけ威厳なんてゼロに等しかった。

 

「何か俺の所為で怒られてるの……やだなぁ、と」

「っ……何だよ、同情か?」

「や、子どもに落ち込まれると良心が痛むから……」

「誰が子どもだ!大体、教えてくれって言ってきたのお前だからな!」

「言ってないよ、勉強した事無いって言っただけ」

「嬉々として食い付いて来た癖にぬけぬけと……!」

「やめんか二人とも」

「「はい」」

 

 ミカさんの一言で、俺とクルミの口論が両断され、各々が引き締まった正座を改める。これが正座の見本ですと言わんばかりに背筋を伸ばす。

 それを遠目に眺めながら、たきなは素朴な疑問を口にした。

 

「……ハッキングって、ちょっと教えただけで誰でも出来るようになるものなんですか?」

「そんな訳ないだろ、コイツが異常なんだよ……」

「いやあ、師匠の教えが良かったんですよ」

「煩い黙れ」

「言い方ぁ……」

 

 ノリノリだった癖に凄い辛辣なんだけど。

 専門分野の話をする時やたらと会話が流暢になるの、知ってるアニメの話になった時に勝手に一人で盛り上がって知識をひけらかし始めるオタクみたいだって、凄い具体的な悪口をミズキさんが言ってたぞ。

 

 まあでもぶっちゃけ、クルミから教わった事もそんなに多くない。一通り流れの説明を受けて、身に付けた方が良い知識量を聞いた後は基本独学だったしなぁ。

 ハッキングの癖とかアプローチに関しては、教わったクルミと似通った部分があるかもしれないけれど。

 

 一同は未だに信じられないと言わんばかりの表情で、クルミに向かっていた視線が此方へと集約する。いたたまれなくて、居心地が悪くて、堪らずまた目を逸らすと、錦木が恐る恐るといった感じで口を開いた。

 

「あの、さ……朔月くんって、“リリベル”だったりする?」

「りり、べる……何それ」

 

 久しぶりに聞いた事の無い単語に首を傾げる。

 リリベル……リリーベル……あ、鈴蘭の事かな。別名は“君影草”、“谷間の姫百合”でスズラン亜科スズラン属に属する多年草の一種。花言葉は“再び幸せが訪れる”、“純粋”、“純潔”、“謙遜”……綺麗な言葉ばかり。

 

「……あ、そっか。えと、“男の子版リコリス”みたいな……」

「へぇ……そんなのあるんだ」

 

 この店で花の名前を聞いて首を傾げるのは二度目だ。一度目はたきなが配属された日にリコリスの存在を聞かされた時。その関連からすると、“リリベル”と呼ばれる存在もまた、DAの諜報員に類するものな訳で。

 

「あー……俺別にDAの所属とかじゃないよ。ホントに普通の十七歳」

「で、でもでも、その十七歳の普通の男子は世を忍ぶ仮の姿で、実は裏の世界で名を轟かせている凄腕のエージェントみたいな事って」

「映画の見過ぎです。凄い早口だったな今……」

「カッコイイ二つ名とか……」

「持ってないし欲しくない……」

 

 錦木が平常運転で安心した。最近避けられてたからこそ話し掛けてくれるだけでなんか嬉しいのは単純かな。

 てか話戻すけど、そもそも俺そういう仕事ができる心臓じゃないし、人脈もない。

 

「じ、じゃあ、松下さんの時の暗殺者との戦闘は……?」

「や、あれが初めてだけど……」

「何処かで訓練を受けてた、とかは……?」

「言ったでしょ、俺過度な運動はできないんだ。訓練以前の話だよ」

 

 リリベルとやらになる為に訓練でもしてみろ、準備体操かその後のランニングで既に瀕死だぞ。ラジオ体操は第二に行く頃には息切れを始めてるまである。

 目を見開いて口を開けて、何か面白い顔をしている錦木。すると、彼女の隣りまで歩いて来たたきなが、俺を見下ろして口を開く。

 

「では、あの正確な射撃は?今日だって、千束の非殺傷弾であれほど的確に……」

「いや、それはまあ……二発だけ試し撃ちした事があって……地下の射撃場で……」

「え……」

 

 たきなの問いに対する俺の答えに、声を漏らしたのは錦木だった。目を見開いて口を開けてこちらを見つめて固まる。その後ろでは、俺の言葉に疑問を持ったのか、たきなが戸惑った表情で詰め寄った。

 

「に、二発……それだけ、ですか?」

「え、うん……そう、だけど……?」

「たったそれだけの経験で、あれ程の射撃を?」

「……何回かやれば覚えられるけど……?」

 

 基本的に知識は一度身に付ければ忘れる事はほぼ無い。や、思い出すのに時間がかかったりはするけど。技術的なものも二、三度繰り返せば自分のものにできる。幼少の頃から当たり前だったんだけど、そんなに驚かれるとは思わなかったな。

 たきなも物覚えが良いから、てっきり普通なんだと思ってたけど……てゆか、さっきから錦木のミカさんに向ける視線が怖過ぎるんだけど。

 

「……ていうかセンセェ、クルミにハッキングの事言えないじゃん」

「っ……そう、だな……」

 

 錦木が恨めしそうな視線で隣りのミカを見据え、ミカさんはバツが悪そうに顔を背けて視線をあさっての方向に向けた。あ、これもしかして言っちゃダメなやつだったか。てへぺろ。

 ミカさん、俺に犯罪がどうとか言ってたもんね……地下とはいえ非公認の射撃場で一般人に拳銃持たせたら責任問題だよなぁ。錦木も俺に地下の事は伏せてたし、消去法でミカさんが教えた事になってしまうのか。

 

「や、ミカさんは俺の自衛の為に何発か試し撃ちさせてくれただけで、別に何も教わってないよ」

「……朔月くんも、私がこういう事に巻き込ませたくないって、なんとなく分かってたでしょ」

「でも望む望まない関係無く巻き込まれる場合ってあるじゃんか。例えば俺が錦木にライセンス更新の催促をしてる最中にいきなり下着姿のたきなが更衣室から出てくるアクシデントが不可避なものであっても、俺が錦木に変態呼ばわりされるのは避けられないでしょ?」

「例えが生々しいんですが」

「まだ根に持ってたの……」

 

 理不尽に怒られた事を根に持ってると言われると耳が痛いが、実際問題こちらが何もせずとも巻き込まれるケースはあると思う。

 その具体例を出しておけば錦木も想像しやすいかもと思って過去の話を蒸し返したが……思い出したのか、たきなが恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めていた。ごめん。

 

「でも、朔月くんはDAじゃないのに……」

「……それは関係無いよ、錦木」

 

 ……けど、錦木達も勘違いしてる。確かに俺はリコリスみたいな技術や知識も不足していれば、クルミみたいに情報処理の能力が高い訳でもない。

 ただ、そもそもそんなのは関係が無いのだ。

 

「リコリスであってもそうでなくても、同じなんだ。錦木やたきながどれだけ優秀なリコリスだからって、それは別にミカさん達が二人を心配しない理由にはならないよ」

「それは……分かってるけど……」

「ミズキさんだって、リコリスじゃなくても錦木を助ける為に車出してくれたじゃん。ミカさんも足が悪いのに来てくれた。クルミだって別にDA所属じゃない。俺達と錦木は訓練と実戦を重ねたかどうかの違いしかないし、友達を助けるのは普通でしょ?」

 

 リコリスなんて定冠詞で。

 DAなんて堅苦しい組織名で。

 殺人許可証(マーダーライセンス)を所有する秘密組織だなんていうから、どれだけ冷徹に人を傷付けられる輩なんだろうかと考えそうにもなったけれど。

 

 リコリスであろうと喫茶店の看板娘であろうと、錦木とたきなの在り方は何も変わらなかった。世界の裏側を知ってる人間にはとても思えなくて。

 あの二人は強いから大丈夫、なんて言葉で片付けてしまうにはあまりにも普通の女の子過ぎた。

 

 ────裏表なんてない。

 この店で見てきた彼女達が全てだった。

 

 なら二人と俺の違いなんて、突き詰めれば生存率の高さでしかない。それだけの違いで心配しない訳がない。帰りを待つだけの時間は心細くて不安しかなかった。

 錦木の他者への在り方をつぶさに見てきて、あんな姿で在りたいと憧れを抱き続けてきた俺が、彼女の為になりたいと思うのは時間の問題だった。

 

「錦木の為に何かしたい、助けたいって気持ちを、ミカさんとクルミは汲んでくれただけ……けど、俺もそれを期待して発言してた部分があったと思うから……だから、心配させたのは、その……ごめんなさい」

「誉さん……」

 

 ミカさんにもクルミにも、甘えての発言だったと今は後悔している。二人は優しいし、俺の余命も事前に知っていた。何かしたいという俺の発言や気持ちを尊重してくれるような気がして、打算的な行動があったかもしれないと、思い返す機会が最近あった。

 今では自己嫌悪でしかない。彼らの優しさに付け込んだと言われればそれまでで、今ミカさんとクルミが責められているのは俺の所為なのだ。

 

「でも俺、次また同じ事があっても、手を伸ばせる距離にいられる自分で在りたい。だから、後悔はしません」

 

 それでも、リコリスである錦木やたきなであっても、足を負傷しているミカさんであっても、ミズキさんやクルミであっても俺が行動しただろう事にきっと変わりはない。

 見知った顔の、それも同じ喫茶店で働く仲間である彼らを、能力があるからといって心配しない道理などない。そこにDAと一般人という境界線など存在しない。

 ミカさんはそんな俺を見て、一言告げた。

 

「……“反省”もしない、と?」

「……あっ、いえ、銃を持ち出したのだけはマジで反省してます。ミカさん、本当にすみませんでした」

「締まらなっ」

「うわ綺麗な土下座……」

 

 馬鹿野郎ミカさんに迷惑かける訳にはいかないだろ!

 ミズキさんとたきながドン引きしてるのを感じながらもピシッと綺麗に額を床に擦り付ける俺。視界が床一面でみんなの顔色さえ確認できないというのに、ミカさんの困ったような溜め息だけでどんな表情を浮かべているのかが分かってしまうの悲しい。

 

「……顔を上げてくれ、朔月くん。そんなに謝られてしまっては困る」

「かくなる上は如何なる処罰も受ける次第です」

「いや固いな……不容易に君を巻き込んだのは此方の責任だ。それに、君には感謝しないといけない事の方が多い」

 

 ────思わず顔を上げる。

 ミカさんは膝を付いて俺と視線の高さをギリギリまで合わせると、いつもと変わらない優しい笑みで此方を見下ろして。

 

「ありがとう。千束を救ってくれて」

「…………ぁ」

 

 ────“ありがとう”

 

 自分の行動が他者へと還元された時に返ってくる、その感謝の言葉が好きだった。喜んでくれる笑顔が、それを向けられた自分が、必要とされてるみたいで嬉しくて。

 だから誰かの為になろうと思った、俺の原点。

 

「い、や……救ったなんて程の事じゃ……」

 

 声が震える。視線が傾く。

 誰もが此方を見て笑みを浮かべていて。そうして自ずと、錦木と目が合った。

 

「……っ」

 

 自分の顔を見られまいと、慌てて視線を床に戻した。

 感謝の言葉と耳にすると同時に彼らの顔を見て、何故か泣きそうになって、どうにか堪える。

 

 ────その時、久しぶりに見た彼女の笑顔に救われたのは、きっと俺の方だった。

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「……ふぅ、さっぱりぃ……」

 

 濡れた髪をタオルで吹き上げながら、浴室を後にする。存在自体は知っていたが、何だかんだでリコリコの浴室を借りたのは初めてだ。

 

 あの後、話が一通り纏まったので取り敢えずお開きという事になり、俺はミカさん達に挨拶をして普通に帰ろうとしたのだが、真島軍団(笑)には顔が割れている可能性があるから今出て行くのは危険だとかなり強めに言われた事もあり、今夜は全員でリコリコに泊まる事になったのだ。

 

 女性陣はクルミが押入れを根城にしている奥の客室、ミカさんは従業員室、俺は表の客間の畳に布団を敷く事で部屋割りを決めると、順番に入浴を済ませた。

 かくいう俺も真島軍団との戦闘でかいた汗を流して割と気分が良く、疲労もあってかこのまま布団に突っ伏して数秒で寝れそうまである。

 

「っ、痛ぅ……」

 

 しかしながら、やはり銃弾を掠めた頬は風呂の水に染みた。絆創膏では流石に防ぎ切れず大きめのバンドエイドを当てがったが、痛いのなんのって。

 ミカさんがいうには明日は臨時休業、少なくとも午前中の営業はしないとの事で、錦木はたきなの付き添いで行き付けの病院で今日の傷を見てもらう事になり、一緒に俺も頬の傷を見てもらう事になっていた。

 

 病院やだなぁ……行きたくないなぁ……病院に来ると蕁麻疹が出るアレルギーなんですって言って拒否したい。寧ろ往診って形でお医者さんの方がリコリコに来てくれないかなぁ……などと巫山戯た思考回路のまま、布団を敷いた表の客間への扉を開くと。

 

「……お」

「あ……」

 

 畳のすぐ目の前のテーブル席で、錦木が頬杖をついて座っていた。俺が来た事に気付く直前、俯いてソワソワしていたように見えたけど……何してるんだろうか。

 

「……」

「……っ」

 

 ────先程の錦木の笑った顔が印象に残り過ぎていて、彼女の顔をまともに見れない。

 てか、そのパジャマ何、めちゃくちゃ可愛いんだけど。錦木って意外にピンクとか乙女チックな色合いのもの好きだよね。え、しかも錦木寝る時は髪結ぶんだ。二つに縛っていて少しばかり幼く見える。

 ……まあ普段からお子ちゃまなんだけど。

 

「……あー……お疲れ様?」

「何それ」

 

 なんて声を掛けたら良いか分からずに零れた言葉。錦木が可笑しそうにクスリと笑うのを見て、釣られて頬が緩んだ。

 そんな、既に寝るだけの状態の彼女を見て、なんとなく俺に用があるのだと感じ取った。

 

「……もしかして待たせた?ごめんね」

「い、いや、私が勝手に待ってただけだし……」

「やー、俺ジャンケン負けて最後にお風呂入ったじゃん?あの、何だっけあれ……バスボム?シュワシュワするヤツ。あれ使ってさ、めっちゃ楽しくて長風呂しちゃった」

「可愛いかよ」

「しかもバスボムの中から人形出てくるんだぜ?ほら見て、動物の。楽しくていっぱい入れちゃって」

「ん゛ん゙っ……!」

 

 突然、錦木が変な声出して肩が震えた。えっ、何急に怖……。

 それにしても、最近の入浴剤って凄いのな。球状に固めるのもそうだけど、全部風呂に溶け切ると玩具が出てくるんだぜ?しかも全部で12種類もあるんだってさ!

 お風呂俺が最後だから何しても良いよなーと思って使ったバスボムだけど、動物の人形が出てくるのめちゃくちゃ楽しかったわ。

 ちなみに、当たったリスはクルミにあげた。たきなには……なんとなく犬を。

 

「はい、錦木にもあげる」

「……っ、ぇ、ぁ、良いの!?」

「うん。ほい、犬。たきなとおそろね。あ、猫もあげるよ、ダブってさ」

「おお、イッヌ!ぬこも!可愛いー!」

「……んん、何て?」

 

 何『イッヌ』って。犬の事?じゃあ『ぬこ』が猫?犬がイッヌなのに猫はネッコじゃないんだ(真剣)。

『部屋に飾ろう〜♪』と、嬉々として人形を両手で抱えるようにして、大事に持つ彼女を静かに眺める。

 此方の視線に気が付いたのか、目が合った彼女の瞳が細くなり、口元が緩んだ。

 

「────朔月くん、ありがと」

「っ……ああ、うん」

 

 今日、目の当たりにする二度目の表情。

 その笑顔が普段の彼女と違う、慈しむような感情が介在しているようで。揺らいで、揺れて、視線が逸れる。今までの天真爛漫、自由奔放の彼女とは何かが違う、そんな気がして。

 

「……あと、今日の事も」

「え?」

「助けに来てくれて。……もっと、早く言おうと思ってたんだけど、さ。最近ずっと気まずかったし……」

「……や、俺はそんな事無いけど。避けてたのそっちじゃん」

「っ……ごめん……」

 

 俺は全然普段通りだったけど?

 話しかけても引き笑いで躱し続けてたのそっちじゃんか。事務的な会話しかしてくんなくて軽く落ち込んだんですけど。

 てかやっぱりこれまで避けてたのは、彼女自身に自覚あっての行動だったのか。本当に申し訳なさそうに俯く彼女を見て、俺は素直に思った事を伝えた。

 

「まあ、別に気にしてないけどさ」

「……嘘」

「嘘じゃない。……や、軽く凹みはしたけどさ。でも、仕方ないとも思ってた」

「っ……仕方ないって……」

 

 その一言に、錦木は口調を強めに聞き返した。

 だって、そうだろ?いきなり近しい人間の余命を聞かされるなんて、どうしたら良いのか分からない。考えてみれば至極当たり前の事だった。

 病気を隠したまま亡くなった俺の母親と、やってる事は変わらない。あの時の感情を知っていたはずなのに、俺は彼女やたきなに同じ事をした。

 

「……あの時、俺自分の言いたい事だけ言って、楽になろうとしてた。錦木やたきながどう思うかなんて、全く頭に無かったんだ。余命の事を伝えたのは後悔してないけど、伝えるタイミングが悪かった」

「……っ」

「……だから、ごめん」

 

 隠し事をしたくなかっただけだったけど、あの時、病院で生傷の多い身体で、ベッドの上で伝えた余命。余計に死を連想させる状況での告白は、きっと彼女の心を傷付けるのに充分過ぎた。

 あの時の錦木とたきなの表情を、今でも鮮明に覚えてる。

 

「……私、さ」

「え……」

「嬉しかったんだ……あの時、朔月くんが来てくれたの」

 

 ポツリと、下を向きながら呟く錦木。

 それはきっと、今日の事。真島と彼女の間に俺が割って入った時の話。周りは敵だらけで、銃を突き付けられて、殺されそうになったあの時の光景が過ぎる。

 彼女が初めて俺の名を呼んだ、あの時の顔と共に。

 

「ずっと、私達の事情に巻き込みたくないって思ってた。ホントはリコリスの事もあんまし知られたくなかった。ただ一緒にこのお店で働けたら楽しいだろうなって……それだけだった」

「……」

「朔月くん優しいから、私それに甘えてた。余命の事だって、知らなかったらきっと私、今日まで色んな我儘で朔月くんを振り回してた」

「……だから、避けてたって事?」

 

 錦木は何も言えずに、口を噤んだ。けれど、彼女がどうして俺を今日まで避けていたのかを、俺はなんとなくだけど分かった気になっていた。

 

 錦木も──千束もきっと、俺に急に余命の事を打ち明けられて、どう受け取ったら良いのか、どう接したら良いのか、それが分からなくなってしまったんだ。

 

 優しくて、鈍いようで色んな事に気付いてしまう彼女の事だ、自分のこれまでの言動や行動が俺の心臓の負担になってしまっているかもしれないと考えてしまったのかもしれない。俺を避けていたのは大方、これ以上自分の言動や行動で俺に負担を掛けさせない為の、彼女なりの配慮。

 

 ────そして、その度に見せる泣きそうな表情は、俺への謝罪と後悔を浮き彫りにしていて。

 そんな顔をさせたのが自分だと思うと、堪らなく嫌になった。

 

「……なのに、真島(アイツ)と戦ってた時に考えてたのはずっと朔月くんの事で……来てくれた時はホントに嬉しくて……なんか私、凄く勝手だよなぁ……」

「……そんなの、俺だって同じだよ」

「朔月くんは違うよ」

「同じだよ。俺の願望(我儘)の中に、他人の幸福が偶然含まれてただけ」

 

 そう────これは我儘だ。

 自分が生きていた証を他者に刻む為の我儘。

 

「……我儘」

「言ったろ?『ありがとう』って笑ってくれるのが好きだから、誰かの為に何かできるような人になりたいって」

「っ……そんなの、自分勝手とは違うでしょ」

「勝手だよ、善行の押し売りなんて」

 

 いつだって、俺の在り方と生き方は変わらない。

 色んな事ができる分、色んな人の為になれるから。そうすれば、俺がいなくなった後も、その人の心に住めるかもしれないから。俺がここで生きていたのだと、忘れないでいてくれるかもしれないから。

 そんな、俺の我儘。自分勝手。偽善。

 

「……それでも良いんだ。どんな形でも、誰かの心に残っていたい。残りの時間で、俺が生きていた事を覚えてくれる人を増やして、永遠(とわ)に生きていける」

「……ぁ」

 

 どんな形でも、誰かの心に残ってくれていれば。

 その人の心に、自分が生きていられるのなら。

 

 錦木の────いや、千束の心に残れるように。永遠(とわ)に生き続けられるように。

 君が居てくれて毎日が楽しかったから、君にも俺が居て良かったと思わせたかっただけ。

 

千束(・・)

「……っ」

 

 座敷から立ち上がり、床に膝をついて千束と向き直る。見上げる形で彼女を見つめ、告げる。

 

「俺、ホントは凄い我儘なんだよ。君と同じ。だから、色んな事で千束やみんなに関わっていたかったんだ」

 

 ミカさんに。ミズキさんに。クルミに。たきなに。

 君に『ありがとう』を貰う、ただそれだけの為に。

 

「……だから、謝るのは俺が先だった。DAの事、リコリスの事、真島の事……首を突っ込んで、本当にごめん」

「────……」

「……あ、あと余命の事も、黙ってて悪かった」

 

 謝らなきゃいけない事が、思ったよりも沢山ある。

 最初は『やりたい事最優先だから』と開き直るつもりだった。けど、そんなの言わなくても千束自身が分かっている事だし、どんな理由があっても、それは心配しない事にはならないんだと、先程彼女に告げたばかりだ。

 友達が友達を心配するのは、至極当たり前の話だ。

 

「……は」

「ん?」

「傷は、平気?もう痛くない?」

「え……ああ……こんなの掠り傷だし、もう平気────」

 

 ────顔を上げれば。

 彼女の、二度目の涙を見た。少しばかりの、僅かばかりの、ここまで近付かないと分からない程の涙を。

 その顔が近付いて、その右手が俺の頬の掠り傷に触れる。

 

「……ち、さと」

「……怖く、なかった?」

「────……ぇ」

「痛く、なかった?苦しくなかった……?辛くなかった……?」

「……平気だよ。だから泣くなよ、似合わないから」

「……うん」

 

 彼女の為なら、何度でもこの心臓を突き動かす。

 この小さな鼓動を強く刻んでみせる。そうしたいと、俺自身が願ってる。

 彼女は歴代最強のリコリスらしいから、俺が手を貸せる状況の方が少ない。余計なお世話かもしれないけれど────

 

「────()

「……ぇ」

 

 その名を呼ばれ、目を見開く。

 思わず、彼女の顔を見つめて……そこから、暫く動けずにいた。

 

「ありがとう、助けてくれて」

「────……っ」

 

 ────“ありがとう”

 そう言ってくれるのを望んでいた。彼女の笑った顔を求めてた。

 でもいざ受け取るとどうにもこそばゆくて、泣きそうになってしまって、思わず言葉に詰まった。

 

「……誉?」

「っ、ぁ……や、その……」

「……?」

「……千束、シリアス似合わな過ぎっていうか……泣いてんの合わな過ぎて笑いそうっていうか」

 

 咄嗟に顔と、話を逸らす。

 千束は涙を寝巻きの裾で拭い、目元と顔を赤くして恥ずかしそうに口を開く。

 

「な、何それ!私だって泣く時は泣くよ」

「や、でも前にクルミの護衛任務での泣き顔は情けなかったよね」

「……な、何で知って……」

「え?ミズキさんにそん時の写真見せてもらって────」

「ミズキィィィィィイイイッッッ!!」

 

 

 ……あ、言っちゃイカンやつかこれ。

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「はあああぁぁぁあ……たきなとの同棲も終わりかぁ……」

 

 真島との交戦時の傷を病院で診てもらった帰り、たきなは千束との共同生活(千束はやたら“同棲”と言いたがる)において持参して来ていた衣服や生活品を回収しに、千束のセーフハウス1号に訪れていた。

 結局、今日はそのままリコリコは休む事になり、二人はそれぞれ先日の件もあっての休暇を言い渡されていた。

 

「一緒に暮らして思ったんですけど、千束は何かとガサツ過ぎます。洗濯物はこまめにやってくださいね」

「はぁい分かったよぉ……」

 

 千束は不満そうに頬を膨らませながら、取り込んだ洗濯物を畳んでいく。たきなに言わせれば彼女の畳み方も何かと雑で、もう気になってしまってしょうがない。

 

「千束、服がシワになります。もっと綺麗に」

「これくらいいーじゃん!」

「ダメです。衣服の乱れは心の乱れです」

「先生みたいな事言い出した……」

 

 千束は基本的に家事はできる様だが、如何せんマイペースが過ぎる。定期検診をサボるくらいだからある程度想像はついていたが、色々と面倒臭がりで、結局家事全般を自分が引き受けたくらいだ。

 ……まあ、ジャンケンに負けた事もあるのだが。

 

「それと、食器もこまめに洗ってください。ゴミは溜めないように」

「はいはい、分かったからぁ」

「『はい』は一回」

「はーい」

「伸ばさない」

「親みたいな事言い出した……」

 

 言ってもあまり意味無いんだろうな……とたきなは小さく息を吐いた。

 何だかんだで結構この部屋に長居したが、それも今日で終わり。千束の母親になったと言わんばかりに家事をこなし、その間の千束はソファで横になってテレビ番組で爆笑する日々。

 それが漸く終わるのかと思うと肩の荷が下りる……と、思っていたのだが。

 

 ────思いの外、楽しかったな。

 

 そう思う自分がいる事に、少しばかり驚いた。

 リコリスとして、DAの任務で別の場所で宿泊したりする機会がなかった訳ではないけれど、ここまで他者と関わって笑い合う日々を重ねた事がなかっただけに、千束との生活はこれまでの人生にない彩りがあった事は否めない。

 ……少しだけ、寂しい気もするけれど。

 

「たきな?」

「っ……何でもないです」

 

 千束には悔しいし恥ずかしいから、絶対に言えない。

 思考を振り払うように頭を左右に振り、残りの片付けの指示を千束にする。

 

「ほら千束、部屋の掃除も。このテーブルいっぱいのDVDをどうにかしてください。表紙と中身が違うのありますよ」

「うぇぇ、面倒……」

 

 苦い顔で項垂れる千束にたきなは再び溜め息を吐く。

 こんな姿、誉には決して見せない癖に……と思わずそれを口にした。

 

「はぁ……誉さんにだらしの無い所、見られても知りませんよ」

「う……そう、だよね……」

「……?」

 

 ────……あれ?

 たきなは、なんとなく千束の反応に違和感を覚えた。

 ここ最近の千束は誉の名前を口にしたら表情を暗くするか、気まずそうに顔と話題を逸らすだけだったのに、自分の発言を真に受けてテーブルを片付け始めている……?

 

「……千束」

「うん?」

「誉さんと何かありました?」

「っ!?え、や……何にも、ないよ?」

「絶対あるやつじゃないですか」

 

 ────分かりやすいな、この人。

 そもそも千束が嘘吐くのが下手なのもあるが、とたきなは目を細める。暫く見つめていると、千束は赤らめた頬を隠さずに目を逸らし続けていたが、やがてその場から立ち上がって此方を見下ろした。

 

「……千束?」

「……たきな」

「は、はい」

 

 いつになく真剣な表情に、たきなは物怖じする。

 何を告げられるのかが全く想像つかなくて、少しばかり緊張が走る。洗濯物を畳む手が止まり、呆然と口を開けていると。

 

「この前の話、乗るから」

「……この前?」

「勝負ってやつ」

「……ぁ」

 

 ────“勝負”。

 その一言で、たきなは思い出した様に目を見開いた。

 

『誉さんが好きです』

『誉さんの残りの時間が欲しいです』

『勝負ですね、千束』

 

 それは、千束に発破をかける為に、たきなが持ち出した誉を賭けた宣戦布告。

 相棒として不甲斐なく、看板娘として頼りなく、友人として元気の無い彼女をどうにか再起させようと、頑固な自分なりに考えての勝負。

 

「……誉さんの事、ですね」

「……うん」

 

 ────たきなは、自然とその場から立ち上がる。

 

 見据えた先にいた千束の表情は、誉の余命を知る前の、かつての彼女同様のような頼もしさ。余裕そうで楽観的な笑みの中に宿る、心の強さ。

 

 たきながずっと望み、求め、取り戻したかったものがそこにあった。

 

「────お帰りなさい」

「え……?」

「いえ、何でもないです」

 

 たきなはそう言って小さく息を吐く。

 千束は改めて此方を見直し、口元に弧を描き、瞳を煌めかせて、出会った頃と同じ、自由を彷彿させる笑顔で。

 

「────受けて立つ」

「……望むところです」

 

 ────ああ。まったくもって、分が悪い。

 

 たきなは、ただ嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

Episode.27 「Welcome back, my buddy(お帰りなさい、私の相棒)

 

 

 







誉 「これ、バスボムの玩具です。みんなにあげます」

千束 「みんなー!朔月くんから何貰ったー?」

たきな 「犬です」

クルミ 「リス」

ミカ 「ライオン、だな」

ミズキ 「……なんで私はコモドドラゴン?」

誉 「え、なんかクルミがミズキさんにピッタリだって……」

クルミ 「っ……おいバカ!喋るなっ!」

たきな 「何故ピッタリなんです?」

誉 「コモドドラゴンって『単為生殖』って言って、メスだけで繁殖できるんだよ。だから中には一生独り身なコモドドラゴンも居て……それがミズキさんにピッタリって思ったんじゃない?」

千束 「相変わらず博識だなぁ……」

ミズキ 「クルミイィィィイイイイッッ!!!!」

クルミ 「誉覚えてろよぉ!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7話 Time will tell
Ep.28 Temporary daily life









鼓動が早くなり、弱くなり、溶けて消えてしまう前に。


 

 

 

 

 

 

 思い出す、死と隣り合わせの日常を。

 何も無い平穏な日常を繰り返していると、ふと地獄の日々を夢に見る。

 

 ────胸を、強く握り締める。

 

 呼吸、が、段々と早く。

 身体に、ちから、が入らない。

 目の前が、暗く、黒く、染まっていく。

 心臓の鼓動がうるさい。胸が、痛い。苦しい、辛い。

 あ、これ、ダメなやつ、かもしれな────

 

 

 ────“⬛︎⬛︎夫、大丈⬛︎⬛︎から”

 

 

「────……っ」

 

 声がくぐもって、よく聞こえない。

 ただ、誰かが自分に声を掛けてくれている。我に返ったように、ゆっくりと顔を上げると、誰もいない。気の所為か、空耳なのか。

 けれど、ずっと前から知っている声。酷く懐かしさを覚える、優しい声音。

 

 ああ、思い出した。遠く昔の記憶だ、これは。

 いつかの日に、死の淵にまで陥った自分に、これでもかと寄り添ってくれた家族の声。何故、今またその声が聞こえるのだろうか。

 自分が、かつての過去と同じ状態になりつつあるからだろうか。

 

 

『⬛︎、さん……俺、死ぬの……?』

 

 

────“⬛︎⬛︎なこと⬛︎い、大丈⬛︎だよ”

 

 

 朧気に、ところどころ霞んで消えかかっていても、その声の主が分かる。何度も、何度も何度も、自棄になる自分に在り方を諭してくれた存在の声。

 

 

『でも、⬛︎も苦しいし、⬛︎⬛︎もできない……⬛︎んじゃうよ……』

 

 

────“平⬛︎よ、きっと。⬛︎⬛︎、いつもみた⬛︎に想像して?強⬛︎自⬛︎を、病⬛︎なんかに負⬛︎ない⬛︎分を”

 

 

 弱い自分を認めない。強く在ろうとする心を持つ事を、いつだってその身をもって教えてくれた、優しい人の声。

 

 

『む、無理だよ……だって、こんなにも⬛︎い……こんなにも、⬛︎しいんだ……』

 

 

────“大丈夫。大丈夫”

 

 

『……どうして。どうして、そんな事が分かるの?』

 

 

────“だって、⬛︎⬛︎は、私の⬛︎⬛︎(・・・・)だもの”

 

 

 慰めと、励ましの言葉。だが決して、それらの言葉は無責任に放たれたものではなかった。

 いつだって、自分の事を考えてくれて、優しい笑顔を向けてくれた、家族の声。

 

 

────“忘れないで。貴方は、何にでもなれる。これくらいじゃ死なないわ”

 

 

 それは今も胸の中に刻まれている、その言葉。何度も胸の奥で反芻する。歌うように、呪うように。

 望めば、何者にもなれる。想像次第で、強くも弱くも自分を変えられる。なりたい自分になれるのだと、死ぬまで自分に教え続けてた存在────

 

 

 

 

『ふざけるな』

 

 

 

 

 ────その怒声と共に、目の前の病院食を思い切り振り払った。

 綺麗に配膳された健康食は床へ散らばり、清掃された床を汚していく。静寂を裂くように食器が床に打ち付けられる音と、目の前に立つ女性の僅かながらに漏れる吐息。

 

『っ……そんな、聞こえの良い言葉ばかり並べて……“何にでもなれる”なんて、そんな言葉、励ましでもなんでもない……』

『────……』

『呪いだよ、俺にとっては』

 

 目の前の女性は、何も答えない。

 肩を上下させる、俺の荒い呼吸と震える声だけがこの部屋に響く。苛立ちや怒り、悔しさ、悲しみ、形容し難い感情の固まりが脳を支配し、己を突き動かしていた。

 まともに運動を許されず、筋肉が衰え、歩く事さえままならない程に自由を失って。病院のベッドの上で駄々をこねるだけの、望まれた姿とは程遠い惨めな姿がなんとも情けなくて。

 

 それが、八つ当たりだと分かっていたけれど。

 それが、目の前の彼女の“罪”だと理解しているから。

 

『何がっ、“私の⬛︎⬛︎”(・・・・)だ……俺が、気付いてないとでも思ってるのか……?』

『────……』

『アンタにとっての俺は、ただの⬛︎⬛︎(・・)だろ……!俺が今こんな惨めなのも、いつ死ぬか分からない体も、何もかも……!』

 

 その先は伝えてはいけないと分かっていた。けど、あまりにも毎日が苦痛過ぎて、死んでいないだけで生きてるとはいえない毎日を重ね過ぎて、どうにかなりそうだったのだ。

 いつ死ぬか分からない身体も、外に出る事も許されない事情も、望んだ姿になれなかったのも、何もかも、何もかもが。

 

 

『全部全部っ……アンタの所為じゃないかっ……!!』

『────……っ』

 

 

 ────俺は。

 母親のその涙の理由を、最後まで聞けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.28 『 Temporary daily life(仮初塗れの日常)

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 それは、とあるリコリコでの一日。

 リコリコは基本的にリコリスの仕事とお店の常連客(リピーター)で生計を立てている。や、一応DAの支部らしいから閑古鳥が鳴いてても食いっぱぐれとかは無いと思うけど。

 そういった事もあり、常連のお客さんが居ない時なんかは暇の時間が長く続くタイミングもある訳で、現在の客間では俺を含めて錦木、ミズキさん、クルミの四人が、仕事とは名ばかりの時間を費やしていた。

 

「ミズキー!!」

 

 そんな中、静かな空気を裂くのはやはりこの店一番のハイテンション看板娘、錦木千束な訳で。

 暇過ぎてテーブルと窓の拭き掃除をしていた俺はその大きな声でビクリと肩を震わせた。ビックリして布巾落としちゃったよもう……何急に。

 視線を向ければ、カウンターの椅子に腰掛けるクルミと、ミズキさんが呆れた顔で錦木の次の言葉を待ち受けていた。

 

「なんで教えちゃうかなぁ、ジャンケンの秘密」

「不公平じゃない。賭け事はバランスがあってなのよー」

「え〜、もーっ!たきなとの同棲がかかってたっていうのにぃ〜ッ!」

「あんたねぇ……」

 

 ジャンケンの秘密……ああ、そういえばたきなと共同生活してた時に家事分担をジャンケンで決めてたんだっけか。その際、錦木は並外れた洞察力で相手の次の動作を予測できる天才で、その能力でジャンケンに勝利しているという話をミズキさんから聞いたんだった。

 ミズキさんがたきなと俺にそれをバラした事で不貞腐れてるのか。えっ、小さっ……器っ……小さっ……。

 

「……てか錦木、ズルしてる自覚あったんだ」

「えっ、あ、やー……それはその……」

「うわぁ……」

「ちょ、ちょい!やめて!そんな目で見ないで!」

 

 先日、錦木と俺の怪我を診て貰う為に病院に赴いた際に、もう暫く共同生活を続けないかと、付き添っていたたきなに錦木が提案していたのを思い出す(本人は頑なに“同棲”と言いたがる)。

 しかし、その時は『ジャンケンで千束が勝ったら続ける』とたきなが挑戦し、結果たきなが見事勝利を収め、一先ず共同生活は終了になった。

 そんな背景を思い出していると、話を一部始終聞いていたクルミが鼻で笑った。

 

「同棲(笑)。頼りまくる気満々の癖に」

「そ、そんな事無いもーんッ、映画の準備とかー、お菓子の買い出しとかー、ソファをあっためたり〜……」

「うわぁ……(2回目)」

「これは酷い」

 

 俺とクルミはドン引きである。

 つまるところ掃除洗濯料理、必要最低限の家事は何もしてないという事。自分の好きな物と怠けてる最中に片手間でやれる事を手伝いや家事の一種だと言い訳してる辺り、たきなの不憫さが目に浮かぶ。

 

「ボクは千束と同棲無理だな。誉は?」

「あー……多分俺も難しいかなぁ」

「っ!?」

 

 そもそも二人で住むような予定も今後無いけれど……あーでも、錦木に甘いのは自覚してるし、何だかんだで全部やってあげちゃいそう……と思っていると、錦木が青い顔して、焦ったように捲し立て始めた。

 

「や、違うんだよ?同棲中はたきながやってくれてたから、少し?ほんの少しだけね?怠けちゃったかもしんないけど、私ホントは結構家庭的な女の子なんだよ!」

「何で俺に言うのさ。俺に弁明しても意味無いでしょ」

「だ、だって、勘違いされてたら困る……」

「……や、割と想像付いてたけど」

 

 “やりたい事最優先”な彼女が、“やりたくない事を後回しにする”のは想像に難くない。家事分担をジャンケンで決めるだなんてたきなからの提案があれば、全て任せてしまいそうなのは予想通り。

 洗濯物は溜めてそうだし、調味料なんかは大雑把、四角い所は丸く掃きそうな印象がもう染み付いてしまってる。

 や、普段の仕事は何だかんだで丁寧だから完全にド偏見なんだけど……うん、別に凄い勘違いって訳でも無さそう……?

 

「ち、違うって!……あ、そうだ料理!朔月くん、私の料理は!?美味しかったでしょ!?」

「いや必死……や、まあ、まかないは毎度美味しかったけどさ……」

 

 つい先日錦木がまかないを作ってくれた事を思い出す。

 喫茶リコリコにおける昼食というのは、持ち回りによる当番制である。ミカさんなんかは手早く食べられる真っ当な料理を作ってくれるが、錦木が当番の時は基本的に馴染みのある料理は食べられない。

 

 けど、これは良い意味である。というのも錦木は、食べた事の無い異国の料理なんかを一か八かで初めて作ってみたりと、平日の昼休憩の合間に食べる物とは思えない、イベント的な食事を出してくるのだ。

 この前はなんか……パエリアだったな。俺が食べた事無いだけに凄く感動したのを覚えてる。

 

 逆にたきなは……うん。普通に料理できるんだけど、最近までなんか……効率と栄養重視とかでプロテインとか携帯食料だったなぁ……でも錦木には、ちゃんと料理作ってあげてるのか。

 なんか……ホントに成長したよね、たきな。『食事』を『摂取』とか言ってた頃が懐かしいよ。

 

「……や、でも、全部たきなにやらせてたんでしょ?家事のお礼に料理振る舞ってあげたりとかしてないの?」

「う……それは……」

 

 あ、してないんだ。たきな大変だなぁ。

 クルミが隣りで笑っているのが面白くなかったのか、錦木は彼女の頬を人差し指で突きながら不満を垂れ流し始めた。

 

「にしたって、すぐ荷物まとめなくてもいいじゃん。愛が無いよ愛がッ!!」

「これはたきな、相当嫌気さしてたな」

「もしくはジャンケンにムカついたか〜?」

「聞いてた感じだと錦木側からの愛は感じないしね」

 

 クルミとミズキさんの笑いながらの追い討ち。楽しそうで何より。加えて俺の一言でクリティカルヒット。錦木はそれを聞いてその表情をみるみる青くさせていく。

 どうやら、自分が相棒に嫌われてたかもしれないという可能性が出てきて焦り始めているみたい。そんな心配しなくても良いと思うけど……。

 

「ま、まさかぁ!先生!今日たきなは!?」

「夕方からと聞いてるが……何でも、本部に用事があるとか」

「……DAの本部、ですか?」

「な、何で急に……?」

 

 裏に居たミカさんからの言葉に、俺は首を傾げる。

 このタイミングでDA本部の名前が出るとは思わなかったらしく、錦木もわなわなと口元を震わせていた。クルミとミカさんは示し合わせたように口元を緩め始めて。

 

「あー……これは指導だな」

「今後の補助金を減らされて……シクシク」

「そ、そんなぁっ……!!」

 

 クルミとミズキさんの大人気ない日頃の仕返し。いや、別にそれだけでDAから援助が切られる事は無いと思うけど……あ、でも指定の下着がトランクスの組織だからなぁ……あ、それはたきなだけか。

 

「朔月くん!私たきなに嫌われたかなぁ……?」

「……や、そんな事無いんじゃない?」

「最近の私とたきな見てどう思った……?」

「いや必死か……ええと……や、そう言われると、俺最近まで錦木に避けられてたから、二人一緒んとこあんま見てないなぁ……」

「ぐふっ……」

「あ、トドメ刺した」

 

 オーバーキルだった模様。クルミと目が合う。え、俺がトドメ刺したの今。俺を避けてたの相当反省してる模様。

 ……というか、実際問題たきなが錦木を嫌ってるなんて事は全く無いと思うのは俺だけだろうか。

 

 だってたきな、ここ最近のお泊まり、凄い楽しそうだったし。

 

 

 ▼

 

 

「こんばんは」

「たきなぁ!」

「っ、千束……?」

 

 夕方、予定通りたきなが店の表口からドアチャイムを鳴らしながら入って来た瞬間、錦木が泣きながらたきなに飛び付いた。いきなりの事で状況が分からず、たきなは錦木と俺達を交互に見やり困惑している。

 

「ジャンケンごめんねぇ〜っ!!」

「……えっと」

「ズルして勝ってた事、謝りたいんだとさ」

「ああ……自覚あったんですね」

「うぅ……」

 

 俺がそう説明すると、心当たりのあり過ぎるであろうたきなが納得した様に息を漏らした。ああ、やっぱそういう感想だよね。

 しかし見下ろせば、自身の胸元で涙混じりの瞳で見つめてくる錦木の姿。たきなは恥ずかしそうに頬を赤らめて。

 

「嫌いになっちゃった……?」

「っ……別にならないですよ。少しムカついてますけど……」

「よ、良かったぁ〜……」

 

 ……これ百合か?(最近常連の男子高校生達から勉強中)

 “てぇてぇ”ってやつか?“ちさ×たき”か?推すべきか?

 

 たきなの返答に安堵した錦木の背を見て、ニヤつきながら『良かったねぇ〜』と他人事のクルミとミズキさん。変な勘繰りしてるの俺だけっていう、ね……。

 

 ヤバい、ここ最近で伊藤さんとか男子高校生達のアニメとかラノベとかの話を聞き過ぎて、二人が仲良くしてるの見ると『おや?おやおやおや?あれはもしや?』みたいな感じになるからやめて欲しい。

 流石に気持ちが悪いと自分でも思う。けどソワソワしちゃうのなんか。

 

「それより、これ」

「……トートバッグ?」

 

 そんな思考が巡っている間に、錦木を引き剥がしたたきながトートバッグを見せてきていた。脈絡の無いその存在に各々が首を傾げ、そんな中でクルミが予想を口にする。

 

「なんだ、プレゼントか?」

「いえ、私のお泊まりセットです。本部にも許可を得てきました」

「……!」

「今後、有事などでお世話になる際に、パジャマ、歯ブラシ、化粧品などを置いていただいた方が便利かと思いましてまとめ直しました。ご迷惑、ですかね?」

 

 ……え、そのお泊まりセットの準備の為に本部まで行ったって事……?

 やだ何それめっちゃ可愛い……たきな、錦木とのお泊まり楽し過ぎて連泊の許可貰いに行ったの?本部まで?

 ヤバい、微笑まし過ぎて机叩きそう……これはDAの事は伏せつつ伊藤さん達に共有するべき事項ですね……。

 

「……それって、同棲ってことっ!?可愛いなぁもぉ!」

「どど、同棲じゃないですっ!」

 

 たきなに嫌われてるどころか、本部まで行ってお泊まりセットを準備するくらいに同棲を楽しんでくれていた事実に、錦木は再びたきなに飛び付いて頬擦りする程喜んでいた。

 たきなは変わらず頬を赤くしながら否定しつつ、言い訳の為に視線を逸らしながら、

 

「共同生……まあ、長めのパジャマパーティってとこでしょう」

「……にひっ、じゃあ帰りにお揃いのマグカップも買おう!」

「検討します」

 

 ……何これ尊っ。召されるわ天に。何かお腹いっぱいで今日多分ご飯要らないもんこれ。珈琲だけ作って帰ろう。

 すると、二人の背後でその光景を見ていたクルミとミズキさんが、顔を見合せたかと思うと途端に悪い笑みにその表情を変えて、錦木に向かって呟いた。

 

「良かったなぁ〜、千束。またたきなにご飯作って貰えるぞ」

「掃除と洗濯でもこき使ってグーダラできるわよ〜?」

「なぁっ……!?」

 

 そう言われた瞬間、錦木の顔が赤くなる。そして振り返って俺の方を見て……や、何でこっち見んの。今着てる和服並に顔赤いけど、どした。

 錦木はクルミとミズキさんの方へと睨み付ける様に視線を向けると、慌てた様に騒ぎ出した。

 

「ちょ、ちょいちょい、やめろ!しないって!もうしない!ね、たきな、今日は私がご飯作るから!」

「随分必死ですね。何故急に……ああ、そういう……」

 

 たきなは首を傾げつつ錦木の視線を追うように首を傾け、そして俺と目が合うと納得した様に頷いた。

 ……や、だから何で俺を見んの。俺関係無いよね?

 

「誉さん」

「は、はい、何でしょう」

「家庭的な女性は好きですか?」

「え」

「っ!?!?」

 

 錦木が驚いた様に目を丸くして俺とたきなを交互に見ている。俺はというと、いきなりの発言に困惑して眉を寄せていた。

 

 え、何その質問。俺が好きって言ったらそうなってくれるって事?何それ可愛い……ていうか、たきな思った事直接伝えてくるタイプの娘だから、その質問普通に邪推しちゃうんだけど。

 

 たきな、もしかして俺の事好意的に思ってくれて……や、待て違う、そういやこの娘、ミカさんに下着の好み聞いてたわ危なっ、勘違いするとこだったわ。誰に対しても真っ直ぐ聞いてくる娘だったわそういえば。

 

「……まぁ、家庭的な方が普通に良んじゃない?」

「そうですか、分かりました」

 

 一緒にご飯とか作り合うとか、なんとなく楽しそう……と、思った事を素直に伝えると、たきなは小さく微笑み、その表情のまま錦木に向き直る。

 

「千束、今後も家事は私が担当しますので、いつも通りグータラしてて良いですよ」

「っ……!?」

 

 それを聞いた錦木は、わなわなと口元を震わせて顔を青くさせていた。や、何をそんな焦ってるのか知らないけど……たきなが全部やってくれるというなら、錦木にとっては願ったり叶ったりなんじゃ……?

 何故かたきなの挑戦的な態度と発言に、錦木が今度は顔を赤くして捲し立て始めた。

 

「っ〜〜〜!い、いい!私がやるから!たきなこそダラけてて良いから!ソファで寝転がりながらテレビ付けてのんびりしてなって!」

「千束、アンタ……」

「たきなに家事任せてる間そんなに怠けてるのか……」

「ハッ……!?」

 

 ミズキさんとクルミに引かれているのを知って我に返る錦木。その慌てふためく視線が、何故か再び此方に向いた。や、何故毎度俺を見んの。

 

「や、違っ……違うからね!?」

「……何が?」

「私、普段はそんなに怠けてないからね!?」

「……や、うん、大体想像付いてたけどね?」

「違うんだってええぇぇえええ!」

 

 客のいない客間に、錦木の声が響き渡る。たきなはそれが面白いのか小さく笑い、それにつられてクルミやミズキさんも笑みが零れる。

 そんな空間を眺めていた俺は、自然と頬が緩んでいた────けど、何故か胸に僅かな違和感が、凝りとなって喉に詰まる。

 

 まるで、その暖かな光景が、ただの風景画にしか見えないような、そんな違和感。目の前の世界と、自分との間に隔たりがあるかのような、そんな異質な空気を吸い込んで、小さく息を吐く。

 

 

「……ああ、良いな」

 

 

 ────羨ましい。

 まるで、みんな本当の家族みたいで、と。

 自分は全くの無関係なのだと、何の疑問もなくそう思っていた。

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「……」

「……」

 

 DA本部のとある一室。

 

 静寂に隔離された部屋の中央のテーブルに、向かい合うように座るファーストとセカンドのリコリスが二人。

 監視下の元、二人がペンを走らせる音だけが響き渡り、今二人が描いているものの完成系を誰もが待ち侘びていた。

 

 というのも、リコリス連続殺人事件の重要参考人物である真島と接触した事をミカが報告すると、顔を目撃した千束とたきなを楠木が本部まで呼び出したのだ。カメラに真島の顔がはっきりと映ってなかっただけに、二人に人物絵を描かせる事になったのだが……。

 

「せぇーのぉ!!」

 

 ファーストリコリス────錦木千束の掛け声と同時に、向かいに座っていたセカンドリコリス────井ノ上たきながそれぞれ描き上がった似顔絵を突き出した。

 

 その先に立っていたのは、赤髪で短髪、白衣を身にまとったDA司令官───楠木。彼女は千束とたきなが見せてきた紙に描かれたものを見て、彼女達に問いかけた。

 

「……それが真島か」

「「はい!これが真島です!」」

 

 ────そこには、あまりにも酷い人物絵が二枚並んでいた。

 楠木は表情一つ変えずにそれを眺めているが、隣りの助手は二人の似顔絵の出来の悪さに頭を抱えている。千束のは服装こそ似てるが、髪型や髪色、果てはルックスも何もかもが実際のものと違う。たきなは言わずがもがな……誰だコイツ、といった感じのイラストだった。五歳児と良い勝負まである。

 

「っ……ぶはっ、たきな、何それぇっへっへっへっ!!」

「なっ……千束こそ、その画風漫画じゃないですか!」

 

 たきなは千束の似顔絵を見て絶句。しかし千束はたきなの絵のクオリティに思わず吹き出してしまった。顔を赤くしながら指を指して千束の絵を指摘するたきなと、未だ腹を抱えて笑う千束に、部屋の隅で光景を眺めていたフキが痺れを切らし始めていた。

 

「っ〜〜〜、全然違うじゃねぇかぁ!!」

 

 プロジェクターに映っていた真島の仮の似顔絵を示して声を荒らげる。現状、DAで共有されているその人物画も、中々に形容し難い顔付きをしていて、千束とたきなは目を細めた。

 

「だってそれ似てないし……」

「……似てない」

「そういうから描かせてんだろぉ……!」

 

 怒りを抑えつつも漏れ出し、声が震えるフキ。それを眺めていた楠木が、踵を返して部屋の出口へと向かった。時間の無駄と判断した様子だった。

 

「帰っていいぞ」

「あっ、待って下さい司令!私のは似てます!」

 

 楠木の背を慌てて追い掛けるたきな。

 千束は未だにフキと言い合いを重ねていた。

 

「ならフキが描けよぉ!」

「お前らしか真島見てないんだから描ける訳無いだろ!」

「あーそうか」

「ホント阿呆だな!」

 

 ヤイヤイと騒ぐ千束とフキ。目の前を楠木と助手、たきなが通過するのを眺めながら、フキの相棒であるセカンドリコリス────乙女サクラは溜め息を吐き出した。

 

「リコリスは絵も必修にするべきっすねぇ……」

「くぬぅ……こうなったらぁ……」

 

 ご最もである。

 千束は暫く苦い顔で悔しがっていたが、やがて小さく息を吐くと席を立ち上がり、学生鞄から一枚の紙を取り出した。

 

「はいはい待って、楠木さん」

「……何だ」

「はいこれ、しょーがないからあげる」

 

 そうして、その紙を楠木へと渡す。受け取った楠木は、そこに書かれている人物画をジッと見下ろした。そこには白黒の鉛筆によるものではあるが、明らかに千束やたきなとはレベルの違う似顔絵が描かれていた。

 天然の捻れた髪質、目元まで覆う程の前髪、その下にある細いつり目は、手術痕を思わせる皺までバッチリ描かれており、あの日千束とたきな、そして誉が遭遇した真島当人に瓜二つだった。

 

「これが真島です。リコリスに共有お願いしますよー」

「……」

 

 そう千束が伝えると、ふと楠木がそれを見つめたまま固まる。何か考え込んでいるようで、その様子を誰もが訝しげに眺めていると、楠木は千束へと視線を傾けた。

 

「……何故これを先に出さなかった」

「や、だぁって、なんか悔しいじゃないですかぁ。私もほら、頑張れば書けるかなぁ、なんて」

「……これを書いたのは?」

「えっ!?やー……あ、センセイですよセンセイ!」

「真島の顔を目撃したのはお前達だけだと聞いている。他に情報提供者が居るのか」

「っ、や、そんなの居ませんよぉー!ね、たきな?」

「そうですね」

 

 ────マズイ。千束の背に冷や汗が流れた。たきなも言葉に詰まり、視線を右往左往させている。

 ちなみに、その絵は言わずがもがな誉が書いたものに他ならない。彼は知識や戦闘技術だけでなく、芸術にも秀でていたのだとこの件で知り、色々な面で敗北してる感が否めないのが最近の千束の悩みである。

 楠木から連絡があった時点で誉が念の為にと書いてくれていたらしく、本部に行くにあたって持たせてくれていたのだ。

 

「「…………」」

 

 リコリス以外に情報が漏れていると知られるのは非常にマズイ。誉に負けたくなくてムキになったのが仇となってしまった。

 このままなし崩し的にリコリコに調査に入られれば、誉だけでなくクルミがウォールナットだと勘づかれるのも時間の問題。完全にやらかして────

 

「────失礼します」

 

 突如、部屋の扉がノックと共に開かれた。すると、そこには本部直属の情報担当部署の一人であろう女性が、楠木へと視線を向けて告げた。

 

「司令、上層部からの連絡事項が」

「……分かった、すぐに行く。……帰っていいぞ、ご苦労だった」

 

 楠木は最後、千束とたきなに視線を向けた後、出口へと向き直り白衣を翻して出ていった。その背について行くように助手の女性も扉の奥へと消えていき、部屋には千束とたきなと、フキとサクラが残されるに至った。

 

「っ……はあぁぁぁああぁああああ……」

「千束、気を付けて下さいよ……!これで誉さんの事がバレたら千束の所為ですからね」

 

 なんとか楠木の尋問から逃れられた千束とたきなは、盛大に力を抜いて机に突っ伏し息を吐き出した。

 たきなが鋭い目で千束を睨み付け、千束は肩を震わせ縮こまる。

 

「ごめえぇぇん……あ、でもそうなったら、その……私のセーフハウスに匿う、とか良いんじゃない?」

「っ……言うに事欠いて……!反省して下さい!」

 

 ギャーギャーと言い合いに発展する千束とたきなを、サクラが冷めた瞳で見つめながら、『何やってんすか、あの二人』と興味無さげに呟いた。

 その隣りで────

 

「……情報提供者、ね」

 

 二人を眺めながら、フキがふと呟いた。

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「────……ふん」

 

 暗がりの中、その一室のパソコン画面に映る録画映像を再生しつつ、砂糖入りの珈琲を飲む真島。

 画面に映し出されていたのは、先日の攻防。今までとは打って変わって苦戦を強いられたアランのリコリス────錦木千束との戦闘映像だった。拳銃を躱し、非殺傷弾を連射するファーストリコリスの姿がそこに映っており、それを見た通信先の相手が訝しげに呟いた。

 

『……避けてんのかなぁ……アンタの射撃が下手なんじゃないのかぁ?』

「いいやこの距離で外す訳ねぇ。しかもこの後迷いなく撃ち返してるだろ?当たらないと分かってなきゃできない事だ」

 

 真島の見解として、このリコリスは確実に銃弾を躱している。それを偶然ではなく狙ってそれを引き起こしている。神業的技術は、恐らくアランに裏打ちされた才能に他ならない。彼女が支援されているのは、必然的に銃弾を躱せるこの技術を買われてのもののはず。

 

「そして……問題なのはコイツだ」

 

 画面が切り替わり、映し出されたのは真島の顔面を蹴り飛ばした男。アランのリコリスを助けに入った、黒髪の少年である。アサルトライフルで牽制し、迫るワゴン車のタイヤをパンクさせて軌道を逸らし、ランチャーの弾を拳銃で逸らして此方の集団を退けた。

 

『……ああ、この男な。調べたけど、特に裏に通じる内容は出て来なかったぞ。リコリスでもリリベルでも無いみたいだし、ホントに一般人じゃないのか?』

「一般人の素人がここまでの戦果を挙げられる訳ねぇだろ。経歴と実際に見た事のギャップが釣り合わねぇ、バランスが悪い。絶対に何かある」

 

 真島はその画面に映し出された男────朔月誉の顔に向けて、拳銃を突き付けて、ニヤリと笑った。

 

「お前は、何者だ?」

 

 








千束 「ねぇたきな!待って!私がご飯作るからぁ!」

たきな 「何でですか?今まで私に全部任せてたじゃないですか」

千束 「だ、だってぇ……朔月くんにだらしないと思れたくないぃ……」

たきな (もう思わてるんじゃ……)

クルミ (もう思われてるな)

ミズキ (もう思われてるでしょうよ)

ミカ (思われてないと思ってるのが凄い)

誉 (家事の話してたらお腹空いたなぁ……夕飯何にすっかな……)←別に気にしてない





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.29 Changing daily life








楽しんでる時間なんて、残ってると思ってるの?



 

 

 

 

 

「調べれば調べる程、こちらのお店は変わっていますよね」

 

 その言葉を耳に思わず振り返ると、カウンター席に座っていた男性が、カウンター越しのミカさんに声をかけている瞬間だった。

 

「どういう意味でしょう?」

 

 その男性の発言が気になったのか、ミカさんが作業の手を止め問いかけた。丁度お店も暇になり、俺もカウンターに近付いてって彼の話に耳を傾けながら、ドリッパーで珈琲の制作に入った。

 

 彼の本名は徳田和彦(とくだかずひこ)さん、二十八歳の雑誌ライターだ。本人は『ただの物書きだよ』と笑っていたけれど、記事にしたい事を見つけた時の熱意には目を見張るものがあり、何か凄い記事を書いてくれるのではないか、と傍から見てそう思わせてくれる。

 普段は気の良いお兄さんって感じだけど……そんな徳田さんは、ポツリと説明を始めてくれた。

 

「実は例の喫茶店紹介の企画、少し改変して今も動いていまして……」

「……それってこの前徳田さんがリコリコを記事にしたいって言ってた時の、ですか?」

 

 俺がそう尋ねると、徳田さんは小さく頷いた。

 実はたきなが配属されて暫くが経ったある日、徳田さんが『雑誌でリコリコを紹介したい』と直談判しに来た時があったのだ。なんでも、徳田さんが懇意にしている編集部にカフェ特集の企画を提案していて、そこに記事を……との事だった。

 勿論、この店の特殊性を鑑みても有名になる訳にいかず、ミカさんが丁重にお断りしたのは懐かしい。……錦木は美容院を予約するくらいには乗り気だったけど。

 

「実は、編集部の方がやる気になってしまってね。女の子が楽しめる錦糸町・亀戸特集として雑誌を一冊作る事になって、その中にカフェ特集が組まれる事になったんだ」

「へぇ……どのくらいのページ数で纏めるんですか?」

「十ページ程だよ。メインライターに僕が抜擢されてしまってね」

 

 おお、ページ数結構多いな。凄い。若手ながらそんな大役を任されるなんて。以前取材のお願いをされた時はまだ編集部に提出しただけの検討案件だったはずなのだが、編集部が乗り気になってしまったというのだから、やはり流石である。

 

「……それで、今色々回っているんですが、この辺りで有名な喫茶店と言えば……まあ『すみだ珈琲』はともかくとしても、和のテイストで食事も楽しめる『北斎茶房』だったり、亀戸の駅前のパンチの利いた武者甲冑とイケメン店員が出迎える『コーヒー道場・侍』、さらに観光客が毎日列を成す『船橋屋』とかで、老舗、有名、名店の類がいくつもありますが……妙に和系が多いですよね?」

「……確かに、そう、です、かね?」

「……知らないんだな」

 

 ……今聞いた喫茶店名に何一つ聞き覚えがない。

 俺リコリコ以外に行きつけの店って無いからなぁ……けど確かに店のネーミングだけ聞いてもワビサビを感じる。

 ミカさんはそれを聞いても表情を変えず、特に何でもない様に答えた。

 

「単純に浅草が近くにある事が大きいかと思いますが」

「浅草はむしろ大正ロマン的だったり、もしくは純喫茶のようなレトロっていうお店が多いイメージですが」

「言われてみると確かに……そうなると和系が多いのは……何故だろうな?」

「や、俺に振られても……」

 

 ミカさん急に俺に振ってくるからビビる。や、それその各お店の立ち上げた方々にお聞きしないと分からない内容……徳田さんの言う『浅草が大正ロマン的』とかって話ですらピンと来てない。

 などと考えていると、隣りで徳田さんが尋ねて来た。

 

「こちらの場合は何故、和のテイストで?」

「……徳田さん、取材はNGだと」

「取材OKだとしてくれるならその瞬間から切り替えますが……これはあくまで個人的な質問です」

「では答えざるを得ませんね……単純に私の趣味ですよ、日本かぶれでして。それに昔、実に古き良き日本の伝統を大事にする職場に勤めていた事も影響しているかもしれません」

 

 ……それってDAの本部にいた時の話、じゃないよね?

 ジンと組んでた時期もあるって聞いてたし、古き良き日本の伝統を大事にする職場……がどうにもリコリスの行動指針とマッチしないし。

 じゃあミカさん、DAより前は和風職だったのか。後で内容聞いてみようかな。

 

「そこではいつも最高の和菓子が食べられたので、好きにならざるを得なかった。ただ、私個人がお茶よりもコーヒーの方が好みというのもあって……こういう感じに」

 

 ……最高の、和菓子……だと……。

 そういえばたきなが住んでる寮の料理長、元宮内庁の料理長──つまり天皇陛下へ料理を振舞った経験の持ち主だったと聞く。

 

 え、じゃあさっきのって、やっぱりDA本部に居た時の話なの?DAって古き良き日本の伝統を重んじる社訓か社風なの?

 ……楠木さんって人も仕事の合間にはお抹茶と和菓子で休憩とかするのかなおもしろ。

 

「その前のお勤め先というのは……どこかのお店ですか?」

 

 徳田さんの続いての質問────けれどミカさんは、顔を逸らして微笑むだけだった。これ以上はノーコメントと、暗に示唆していて、俺だけでなく徳田さんもそれを察したらしかった。

 もしかしたら徳田さんだけでなく、俺にも線引きしたのかもしれない。これ以上は知るべきでないと思われてるのか、知って欲しくないと思われたのか。

 

 俺がお客さんとして此処に来ていた時にも感じた境界線。あっけらかんとしていると思えば、急に触れられない何かがある。普通の常連客のように楽しむだけなら何も感じないが、好奇心に後押しされて質問をするとこういった反応をされる時が度々あった。

 事情を知っていると納得だけど。

 

「そうだ、徳田さん」

「っ、はい?」

「和風のカフェで纏めるのも良いと思いますが、錦糸町のカフェでしたら一つオススメが。昔ながらで、素晴らしいホットケーキを出す『コーヒー専門店 トミィ』というお店が北口からすぐの所にあります。一度訪れてみてはいかがですか」

 

 その瞬間、プロライター故かすぐさまスマホにメモを取る徳田さんの姿が視界端に映る。つられて俺もスマホを取り出した。

 あのミカさんが言うなら間違いない。なんとなく俺もメモする。トミィトミィ、と。

 

「ありがとうございます。後で行ってみます」

「……朔月くんも、興味あるかい?」

「あります。俺も今度行きたいです」

「あそこのホットケーキ、めっちゃ美味しいよ!私大好き!」

 

 突如、店の奥からそんな甲高い声が響いた。

 思わず肩を震わせ、視線を運ぶ。頭だけひょっこりと出して来たのは満面の笑みを浮かべた錦木だった。へぇ、錦木も絶賛する程か。なら今日終わった後にでも……なんか抱えてるんだけど。

 

「……それ何」

 

 何やら見た事の無い鉄の塊。

 何だあれ……鉄板?にしては窪みが幾つもある。それを錦木は座敷席の卓の上へと運んでいく。

 俺だけでなくミカさんや徳田さんまで唖然とした表情でそれを眺めていると、錦木が俺の質問に答えてくれた。

 

「たこ焼き器。織元さんところのリサイクル店で、投げ売りされてたの」

「たこ焼き?たこ焼きって……あのたこの足が入った粉物の?」

「朔月くん、食べた事ない?」

「ない。え、何作るのそれ?今?」

「そ!これお昼のまかない。今日私が当番だしぃ、たこ焼きパーティしよ!」

 

 ────たこ焼き×パーティとかいう意味不な組み合わせの単語出てきたんだけど。

 何たこ焼きパーティって。たこ焼きにロウソク立てんの?

 

 マジで言ってんのかアイツ。和風喫茶でたこ焼き焼く事の歪さよ。しかしそれを聞いたミズキさんは「おっしゃー!」と叫びつつ缶ビールを手に現れ────や、ちょい待て、まだ勤務時間内だけど。

 

「お前ら正気か?真昼間の甘味処だぞ」

 

 と、呆れた様子で呟くクルミ。

 止めるの手伝ってと言おうとした俺の気持ちを僅か数秒で裏切るが如く、クルミはそのまま座敷に直行していく。いや君そちらの陣営なのね。

 たこ焼きを作るのは初めてなのか、錦木が大量の食材を卓上に並べていく度に、彼女はまるで犬のようにその一つ一つに顔を近付け、それが何かを確認していた。

 

「……それで、これはどうやるんだ?」

「まあ見てなさいって〜!まず鉄板をガンガンに熱して油を多めに……」

 

 クルミに聞かれ、嬉々として鉄板に油を塗り始める錦木。え、あの、裏でやるとかじゃないのこれ。

 

「待て待て、何故客間でやるんだ裏でやれ裏で」

「朔月くんだって今ホットケーキ食べたいって言ってたじゃーん」

「別に粉物なら何でも良かった訳じゃないんだけど……」

 

 あくまで食べたいのはホットケーキなんだけど……。

 俺の静止も虚しく軽快な音を立てて鉄板が焼かれていき、油で生地が焼かれる匂いが店内に広がっていく。ミカさんが慌てて換気扇を回し始めるが……多分、意味無いだろうなぁ……。

 

「ねえちょっと、これ何の匂い!?外からもめちゃめちゃ漂って来てて、もうお腹空いちゃって!」

「わ!もしかしてたこ焼き!?すっごい良い匂い〜!」

「たこ焼きパーティやってる!?俺も混ぜてよ!」

 

 最初のたこ焼き一陣が焼き上がる頃には、まるで匂いに誘われるかのように伊藤さんや北村さんを始め常連客が次々に訪れ出し、座敷席を埋めて溢れ始めていた。

 ……恐るべしたこ焼きの力。普段甘味や珈琲を出してる時よりもお客さんが来ている事に複雑な気持ちにならざるを得ない。何だろう、なんか悔しいというか虚しいというか。

 

「くっはっ、うんまぁ!!焼きたてのたこ焼きにキンキンに冷えたビール……これ以上ってある!?」

「アッツ……!うっわぁ久しぶりに食べる……染みるわぁ……仕事頑張ろ」

 

 ミズキさんと伊藤さん(なんか泣いてる)が最初に焼き上がった一個を頬張ったその瞬間、常連のお客さん達が一斉に鉄板に手を伸ばし始めた。

 まるで津波が押し寄せるかの如く箸や串が伸びていき、二十個近くあったはずのたこ焼きは一瞬で空となる……最早まかないの域を出ている感。

 千束は嬉々として第二陣の製作に入っており、今が営業時間内なのを忘れて完全に趣味全開の行動をしていた。

 

「千束は相変わらずですね」

「……まあ、あれがアイツの味だからなぁ」

 

 呆れ顔のたきなが俺の隣りに立つ。徳田さんに水の替えを持って来てくれたらしい。何故か俺にも。

 俺は彼女につられて困ったように笑っていると、チラリと彼女が俺を見上げて尋ねた。

 

「……どうしますか誉さん。匂いが付きますよ」

「俺は皆が満足した後で良いよ。最悪食べれなくても……まぁ、うん……」

「……店長は?」

「……まあ、今更遅いしな。たきなも食べてきなさい」 

 

 今更止めろとも言えないミカさんは、たきなを送り出すとゲンナリ顔で溜め息を吐いた。溜め息深っ。

 

「リコリコでは、変わったまかないを出されるんですね」

「……まさか、千束が当番する時だけです。それ以外はふつ……いや、普通とは言い難いものも多いですが……ええ、まあ……」

 

 徳田さんの言葉に色々思い出して更にミカさんが顔を顰めている。まあ……うん……みんな普通とは呼べないまかない作るもんね。

 ミカさんのは和風が多い分俺は洋風で作るんだけど、錦木はイベントチックなものばっか作るし、クルミは基本駄菓子かレトルトだし、ミズキさんは酒の宛になる食材を店の経費で買ってくるというイカレ具合。たきなはつい最近までゼリー飲料やらプロテインやら携帯食料といった効率重視の食べ物だったし。

 

「……ふふ」

「?」

 

 ふと、隣りを見れば珈琲を一口含んで、可笑しそうに笑う徳田さん。丁度俺も自身で作っていた珈琲が出来上がり、つられてそれを飲んで……瞬間、納得したように笑った。

 

「……ははっ」

 

 ────たこ焼きの匂い強過ぎて珈琲の味が全然分かんないんだもん。そりゃ笑うわ。何と脆弱なのだろうか、俺の淹れた珈琲は。良くも悪くも落ち着かない。

 

「楽しそうで良いですね」

「……そう、ですね」

 

 彼の視線の先、常連のお客さん達が人垣を作る、その中心に立つ、たこ焼き器を担う錦木の笑顔。お祭りと呼ぶには温か過ぎて、まるで身内ばかりのホームパーティ。

 改めて思うが、甘味処の客間で営業時間そっちのけでたこ焼きパーティというのは、なんとも滅茶苦茶な光景である。

 でもそれがリコリコらしいと────錦木千束らしいと思ってしまうのだから、俺は完全に毒されていた。

 

「はい、トクさんと朔月くんの分!」

 

 徳田さんと俺のところに、錦木がそれぞれたこ焼きが二つ乗った小皿を持って来てくれた。鰹節と青のりだけのシンプルなたこ焼き。ソースとマヨネーズは皿の端にチョコンと添えられている。味は自分で、という事なのか。

 

 受け取った徳田さんは錦木を見て、それから俺とミカさんを見た。俺はただ頷いて、ミカさんは気落ちした表情のまま告げた。

 

「どうぞ、徳田さん。当店のサービスですから」

「……はは。ありがとうございます。いただきますね」

 

 俺と徳田さんは、同じタイミングで爪楊枝をたこ焼きに突き刺した。そこからなんとなく中身を露出させると、凄まじい湯気が眼前に立ちのぼる。

 絶対熱い間違いなく熱い。よく珈琲を淹れてるから何ともないと思われているが実は猫舌なんです俺。

 

「……いただきます」

 

 意を決して口に含む。火傷しないよう、ゆっくり噛み締めて熱さを感じないよう口内を広げて唇を窄める。……うん、熱くない。熱くない。近くにたきなが用意してくれた水もある。大丈夫大丈夫……。

 

「はふぃー!!」

「……っ!?ぐっ、ふふ……アッツ!」

 

 何今の奇声!?

 思わず吹き出してしまい、瞬間たこ焼きの中身が口内に溢れ出────アッツイ!!

 声のした方を見ると、隣りにいた徳田さんの口から白い湯気が吹き出ていた。冷たいソースやマヨネーズがクッションになってくれなかった様で、たこ焼きの熱さに悶え苦しんでいた。

 

 それを見て、千束が笑う。

 常連のお客さん達も、徳田さんと俺のその様子を見て各々笑い始めた。

 こっちが苦しんでるのに、と思わない訳じゃなかったけれど、水を飲み干し口が空になる頃には、徳田さんと顔を見合せて高笑いし合っていた。

 これが喫茶リコリコの味なのだから。

 

 変わり映えない日常を、千束を中心として彩っていく。

 楽しく、美味しく、嬉しい。それで良い。

 

「……ホットケーキはまた後日かな」

「そうですね」

 

 ────完全に舌が火傷した。

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「ねね、どれが一番美味しかった?」

「えー……そうだな、強いて挙げるならポン酢とネギマヨの組み合わせが一番だったかも。錦木は?」

「え〜?選べなぁい……あ!でもあれかな、朔月くん焼いてくれたやーつ♪」

「あのチーズと明太子の?……ミズキさんのが上手く焼けてたじゃん。俺見様見真似で焦がしちゃったし」

「んーん、あれが一番だった」

「……何それ、変なの。珈琲淹れるけど飲む?」

「え!飲む!」

 

 ……なんてやり取りが、テーブル席の方から聞こえてくる。向かい合うように座っているのは誉と千束。まるで付き合いたてのカップルのような仲睦まじい会話が耳に入り込み、自然とそちらに視線が向いてしまう。

 誉が珈琲を淹れに席を立つと、後からその背を追いかけるように千束が小走りで向かう。

 

「……え、ちょ、何」

「何でもなーい」

「ついて来んなって」

「えー、いーじゃん別にぃー♪」

「そこ座っててすぐ淹れてくるから」

 

 この前までギクシャクしていた二人とは思えない。たこ焼きパーティが終わり、営業時間も終えて常連客達とのボドゲ大会開催中の真っ只中、休憩中の二人の何ともイチャついたやり取りを、離れた座敷席でカードを両手に見つめるたきな。

 

「イチャイチャしてるわねぇ」

「……っ」

 

 ビクリと肩を震わせ、視線を戻す。すると伊藤がニヤついた表情で此方を見ていて、思わず視線を逃がすとその先で北村が同様の表情で此方を見つめていて、逃げ場がなくカードを見下ろした。

 

「やっぱり気になる?たきなちゃぁん?」

「別に気になってません。伊藤さんの番ですよ」

「ぐっ……いつになくたきなちゃんが強い……」

「ね、ね、ちゃんと聞いた事無かったんだけどさ……たきなちゃんって、朔月くんの事どう思ってるの?」

 

 伊藤が顔を顰める中、隣りに座る北村が目を輝かせて問いかけてきた。好奇心か、冷やかしか。

 以前までのたきななら馬鹿馬鹿しいと吐いて捨てていたであろう問答だったろうが、千束と誉と過ごす内にこの店で関わる人達とのやり取りが自分の中で大切なものに昇華しつつある事を認めてからは、業務外の日常的な会話も彼らと交わすようになっていた。

 けれど、色恋沙汰の話になると耐性が無いのは、自分にその経験が無いからなのだろうか。

 

「……どう、とは」

「だからぁ、朔月くんの事、好きなの?どうなの?」

 

 ────好き。

 伊藤のその言葉を聞いて、胸の鼓動が少し跳ねた気がする。北村は嬉々としてこちらの次の言葉を待っていて。

 

「……何故、そんな事を聞くんですか?」

「やー、だってさぁ、千束ちゃんも朔月くんの事好きっぽいから、たきなちゃんはどうなのかなって」

「……千束がそう言ったんですか?」

「いや言ってはないけど……あの娘は、見れば分かるじゃん」

 

 北村と伊藤の言葉を受けて、たきなは視線をカウンター席へと向けた。そのカウンターを挟んで席に座る千束と、向こうで珈琲を抽出している誉の姿。その様子を、頬杖をついて頬を朱に染め、愛おしそうに見つめる千束の瞳。

 ……成程、これ以上無いくらいに分かりやすかった。自分もああいう風に傍から見えてたらどうしよう。

 

「まあでも、朔月くんカッコイイからなぁ。ライバルも多そうですよね」

「あー、良く来るJK集団でしょ?やっぱりこの店ネタが尽きないわね」

 

 朔月誉という少年は、確かに人気があるように見える。容姿はたきなの目から見ても優れたものだとは思うし、性格も悪くなく、能力的にも文句の付け所が見当たらない。

 彼を深く知らなくても、第一印象だけで感情を揺さぶられる人がいても何ら不思議ではない。北村が言うように、競争率が高そうなのは、恋愛感情に疎いたきなでさえなんとなく分かっていた。

 

 ────けどまあ……今の二人を見ていれば、それほど親密度の高くない第三者、この店に来る女性客の大半は大体諦めがつくのではないだろうか。現状の二人の間に割って入れる程の度胸を持ってる女性もそうそう居るものではあるまい。

 誉が千束の事をどう思ってるのか、具体的な部分はまだ分からないけれど。

 

「モタモタしてると千束に先越されちゃうわよ」

「…………」

 

 伊藤のそんな発言に、たきなは三度(みたび)彼らへと視線を向けて、難しい顔をした。

 というのも、千束に“勝負”を持ちかけたのは他ならぬ自分ではあったが、実際あの光景はたきなが望んでいた事でもあったからだ。

 誉の余命発言からお互いにギクシャクして、店の仕事にも任務にもイマイチ身が入ってない相棒が余りにも腑甲斐無いから、『誉が欲しいです』と発破をかけたまで。仲直りして千束がいつも通りになってくれるなら、それで良いとここ暫くは考えていた。

 だから、勝負といえどあそこに割って入るべきかをなんとなく決めあぐねているのは事実であり……。

 

「……難しい」

 

 恋愛とは、なんとも。

 これがちゃんと恋愛感情なのかも、たきなには分かっていなかった。千束の為だと言い訳してまで誉に近付こうとしたのは、何故だったのだろうか。

 やる前から勝敗など目に見えていたのに。勝負にすらならないと理解していた。短い時間の中で築き上げた想いなど、千束の長い時間の中で育んできた想いに勝てるはずもなく。

 他の女性同様に諦めても良いはずなのに、そもそもそれ程悔しくも感じてないないのは何故なのだろうか。

 

 ────自分は、ちゃんと誉が好きなのだろうか。

 千束のように、彼の行動の一つ一つで一喜一憂できる事こそが恋愛感情なのではないだろうか。

 自分はただ、彼から与えられた衝撃が、忘れられていないだけではないのだろうか。

 

 サイレント・ジンとの戦闘。銃弾が足を掠め、痛みに動けず苦しむ中で突き付けられた銃口と目が合った時に感じた死の恐怖。幾ら戦闘経験や訓練過程を経たとしても拭えない感情。

 それでもあの時は千束が来るまでの時間稼ぎ、任務の失敗、本部に戻る為の功績や実績の獲得、そういったものばかりが優先だった気がする。

 リコリスは替えが効く使い捨てと称する上層部の連中も居ると聞く。DAとは、そこに準ずるリコリスというのは、そういうものだと心のどこかで割り切っていたように思う。

 

『……たきなが無事で、ホントに良かった……』

 

 怪我をしてまで自分を庇い、そうして暗殺者を無力化してしまった彼が放った言葉だ。

 そう言って本当に安心したような笑みを浮かべた彼にたきながどれだけの衝撃を受けたか、それを彼は知らない。

 自分の無事を喜んでくれる人間がいる、その事実にたきながどれだけ勇気付けられたか、きっと彼は気付きもしてないだろう。

 

 ただの一般人。守らなければならない対象に守られ、助けられ、無事で良かったと笑いかけてくれる。これまでの自分の常識を意図も容易く覆してくれる、千束のような存在。

 そんなもの、嫌いになれる筈もなくて。

 

 ────ただ。ただ、欲しいと。

 独占にも似た何かが胸を焦がすかのようで。

 

「……たきなちゃん?」

「獲りました。私の勝ちです」

「え……ああっ!?獲られたぁ!」

「……たきなちゃん今日強くない?」

 

 たまたまですよ、と席を立ち上がって告げる。伊藤の悲鳴をその背に受けながら座敷席から下りると、その足でカウンター席へと足を運んだ。談笑していた二人が、ふと此方に視線を向けて、その頬を綻ばせてくれた。

 ────ああ、これだ。

 

「あれ、たきな。もしかして勝ったの?」

「勝ちました」

「凄いじゃん!いつも負けてるのにぃ」

「最近練習してるので」

「この負けず嫌いめぇ〜」

「……そちらは随分楽しそうで」

 

 千束の終始ニヤついた表情が癪に触り、皮肉めいてそう告げた途端、千束はその顔を赤くする。してやったり、揶揄われる側も体験すると良い。

 視線をカウンター越しの誉へと向けると、彼は柔らかな笑みを浮かべながら新たにカップを準備し始めた。

 

「たきなも飲む?珈琲」

「……いただきます」

「はいよ」

 

 そう言って、カチャカチャと陶器を用意する音がする。珈琲の香りが立ち昇り、漸くたこ焼きの匂いが上書きされていくように感じる。

 

「たきな、今日何が一番美味しかった?」

「どれも美味しかったですけど……千束が最初の頃に焼いてた、シンプルなのが好きですね」

「嬉しい事言ってくれんじゃん。たきなが焼いたのも美味しかったぜ」

「あの紅生姜たっぷりのやつな……」

「あ、あれはうっかり落としてしまっただけで……!」

 

 千束と誉に揶揄われ、頬を赤くする。誉は楽しそうにカップに珈琲を注ぎ、隣りでは相棒が『にひひっ』と楽しげに笑う。そんな二人を見るだけで、最近は満足してるような、そんな気さえする。

 結局たきなは、これが見たかっただけなのかもしれない。誉や千束、自分を変えてくれた二人が、生き方を教えてくれた二人が、その生き方を全うし、自分に示してくれるこの光景を。

 

(────でも)

 

 残された時間は、そう長くない。

 誉が告げた余命は、刻一刻と迫っている。この日常が瓦解する時は、そう遠くない内に起きてしまう。

 “また明日”が、言えなくなる時が、段々と。

 

「……っ」

 

 それを忘れているかのように、振る舞う彼らを見て、そんな話をする事もできなかった。ただ考えないようにしているだけなのかもしれないけれど、千束はその事をどう思っているのだろうか。

 自分は、耐えられる気がしない。この光景を手に入れる為なら、何でもやりたいとさえ思う。この時間が長く続く様にと、思考を巡らせて。

 そんな時にふと、たきなは千束を見て思い出した。

 

(────アラン機関)

 

 誉曰く、千束に人工心臓を提供したという、才能溢れる若者を支援しているという団体。たきなも詳しい事は、ネットやテレビでさらった程度のものではあるけれど。

 

 ────もし。もしも誉の才能が、アラン機関の目に留まるような事があれば、その時は千束と同じような心臓が手に入るのだろうか。

 

「はい、二人ともお待ちどおさま」

「キタキタ!待ってました!いただきま〜す!」

「……うーん、ちょっとコクが足りない気が……たきな?飲まないの?」

「っ……いえ、いただきます」

 

 誉に言われ、慌てたようにカップを手に持つ。

 それまでの思考を振り払い、彼が淹れてくれた珈琲に集中する。

 

「────……っ」

 

 普段なら美味と感じる彼の珈琲も、楽しめない。

 時間がない。その事実を自覚した途端だった。

 心の中の焦りが、消えてくれなくて。

 味を、まったく感じなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

Episode.29 『 Changing daily life(変わりゆく日常)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

「……よお、お帰り。邪魔してるぜ」

 

「……………………」

 

 ────もしもしポリスメン?

 なんかブロッコリー頭のテロリストが俺の家で錦木に借りた洋画見ながら帰り待ってたんですけど。

 

 

 






真島 「お前さ、コレ見た?」

誉 「……“ガイ・ハード”?あー、うん。見ろって勧められて一応は」

真島 「誰が好き?」

誉 「え?いや好きとかは別にないけど……マクレーンかパウエル」

真島 「つまんねぇな、一つに絞れよ」

誉 「別に良いでしょ二つでも。左腕と右腕どっちが好きか聞かれても分かんないでしょ?」

真島 「そのレベルの話?」

誉「何か飲む?俺珈琲淹れるけど」

真島 「苦いの嫌いって言ったろ。なんか甘いの無い?」

誉 「珈琲淹れるね」

真島 「聞けよ話」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.30 Crumbling daily life








会いたいと思える人には、いつか本当に会えるんじゃない?



 

 

 

 

 

 

 真島との一件から暫くして、喫茶リコリコはいつもの日常に戻っていた。変わらず賑わう常連のお客さんと談笑しながら、丁寧に仕事を熟していく。

 最近知ったのだが、俺がここに来てもうすぐ半年が経とうとしてるのだ。すっかり慣れたものだと、思わず頬が緩む。

 

「朔月くん、そっちのテーブルにこれ運んでー!」

「分かった、ちょっと待って!」

 

 錦木からの指示を了承し、ホールの注文を受けた後、伝票をカウンターに置いて、交換するように甘味や珈琲を受け取ってテーブルに運ぶ。

 すると、俺を視認した途端にその男子が顔を綻ばせて。

 

「お待たせしましたー、いつものね」

「あっ、ありがとうございます。あ、そうだ朔月さん、この前紹介したアニメ観ました?」

「ああ、観ました観ました。面白かったです。あれ今期のアニメだったんですね、続き追いかけようとしたんですけどまだ放送されてなくて」

「原作は完結してるんですよ。俺漫画持ってて、良かったら貸しますよ」

 

 と、サブカルチャーの話で盛り上がり。

 そしてまた別のテーブルに注文を聞きに行った際は、女子二人組に、

 

「お待たせしました。ご注文は?」

「あ、朔月さん。この前テスト勉強見てくれてありがとうございました!」

「お陰で赤点回避しました〜!これお礼にってみんなで作ったんです!」

「……クッキー?気を遣わなくて良いのに。有難く頂きますね」

「代わりにまた見て下さいねー?」

「賄賂かこれ」

 

 と、このように最近は男女問わず学生さんが来てくれて、同年代と絡む事も増えてきた。漫画やアニメが好きな男子中学生とか、テスト勉強を見る女子高生達とか。

 錦木やたきな以外にもこうして同年代の人達と話をしていると、何だか通学していた時の事を思い出してしまう。

 

「朔月くん私のは!?私の貸した洋画は観てくれた!?」

「や、観てない」

「何でよ!?」

 

 とかって考えると、接客中に後ろから錦木の声が。振り返ってみれば何故か焦ったような落ち着かないような、そんな様子で。

 や、毎日貸し出されても追い付かないんだって。てゆか、何故対抗するの常連さんと……。

 

「絶対観るからもうちょい待って」

「今日!今日ね!私も感想言い合ったりしたい!」

「必死か」

 

 てかそれ、ほぼ毎日やってるだろ。

 深夜帯に電話掛けてきやがって……おかげでこっちは最近寝不足なんだぞ。途中から感想とかじゃなくて普通に談笑だし、それで2時間とか普通に超えるし……鬼眠いんだが。

 

「〜♪」

「へ〜……」

「……何でしょうか」

 

 ……背中に視線を感じる。

 振り返るまでもなくニヤついた表情が目に見えて分かる。微笑ましく此方を眺めていたのは、これまた常連である伊藤さんと北村さんだった。見てない振りして戻ろうとしたその背に、北村さんが声をかけてきた。

 

「朔月くん、千束ちゃんと仲直り出来て良かったねぇ〜」

「や、そもそも喧嘩してた訳じゃ……」

「何言ってんのよ、この前まで事務的な会話ばっかだった癖にぃ」

「そんな事……」

 

 そんな事ない、と言おうとして口を噤んだ。

 以前も否定出来ずに同じ反応をしたように思う。伊藤さんや北村さんの言う通り、ここ最近まで錦木とはまともに会話できない関係と、時間が続いていた。

 

 その理由は俺の余命発言で、錦木はそれを聞いてこれまでの自分の在り方を振り返り、俺に対する態度や行動の正解を決めあぐねていた。そして俺も、そんなよそよそしい錦木にどう接するのが正解なのかが分からず、時間だけが過ぎ去って。

 要は、お互いにビビっていただけだったのだけれど────と、ふと気になって錦木へと視線を向ける。

 

 先程俺が対応した女子校生達のテーブルに向かい、『勉強なら私が教えてしんぜよう!』とやたら偉そうに胸を張って告げていた。俺に常連を取られまいと必死なのか何なのか分からないけれど、楽しそうに笑うその表情に、ギクシャクする前の曇りは一切無くて。

 それが嬉しくて、ふと口元が緩み────此方をニヤついた顔で見上げる伊藤さんと北村さんを見て思わず視線を逃がした。

 

「おやおやおやぁ?」

「へぇ〜?」

「くそ……インク零してしまえ……」

「なんて事言うのよ」

 

 くそ、揶揄われるの分かってた……すぐ恋愛の話に持って行きたがる北村さんもそうなのだが、特に伊藤さんのネタになりそうな現場を見た時に見せるニヤニヤした表情が堪らなく嫌だ。

 伊藤さんめ、手元の原稿の締切に追われてしまえ……仕事しろ……。

 

「……ていうか、やっぱり朔月くんって人気よね」

「最近、男女問わず同い歳の子達が多いですもんね」

「……そう、ですかね」

「あんだけ囲まれてて……自覚無いの?」

 

 伊藤さんが呆れた様に息を吐く。

 確かに最近、同年代のお客さんと話す機会が多いような気はするけど……え、もしかして俺目当てで来てくれてる……?やだなにそれ嬉しい……リコリコの集客や売り上げにに貢献出来てる事実に感動すら覚える。

 看板娘の反対って何だろう。看板息子?

 

「けど皆さんと仲良くなったのってつい最近なんですよ」

「え、そうなの?」

「はい。最初は話し掛けても避けられてしまって……近寄り難い感じ出てましたかね」

 

 話しかけてくれオーラ全開だったんだけどな、と北村さんの疑問に答えながら思った。

 まあけど実際、アルバイトを始めた当初は業務以外のサービスやホスピタリティなんてしてる余裕がなく、お客さんとの会話は事務的なものが主だった気がする。

 あれは会話であって対話じゃない。今思えば、とても仲良くできる店員ではなかったかもしれない。……まあ今がそうじゃないとは言えないけど。

 

「んー……朔月くんって結構見た目浮世離れしてるから、最初近付き難かったんじゃないかな」

「……俺の見た目がこの店の人達の好みにそぐわないという事ですか?うわやだ何それ辛過ぎて泣く……」

「なんでそうなるのよ」

 

 伊藤さんのツッコミを聞き流して凹む俺。

 や、だってさ、つまり近寄り難い程に嫌な見た目をしてるって事でしょ?俺って傍から見たらそんな生理的に受け付けない容姿をしてるって事?うわキツ、そんな風に思われてたら肩震わせて引き篭る……。

 

「違う違う。ほら、その……何て言うのかな、綺麗過ぎて近寄り難い人とかって居るじゃない。そんな感じよ」

「……ああ、ミズキさんみたいな事ですかね。でもあの人は美人だから近寄り難いってよりは酒癖が悪いから近付きたくないみたいなマイナスニュアンスじゃないですかね」

「聞こえてんのよコラァ!!」

 

 ミズキさんがカウンター席から酒瓶持って騒ぎ立てる。ミズキさん、そういうところですよ……。

 くそう、そのミズキさん当人が俺の顔面偏差値高いとか言ってくるから本気にしようと思ってたのにやられた……煽てられて揶揄われただけだったんだ……許せないあの残念美女。

 

「くそ、カッコよくなりたい……自分で自分の事をカッコイイと思える様になりたい……」

「そういうのって自分で言うの良くないと思うなぁ」

「え、錦木なんてしょっちゅう言ってるのに?」

 

 え、錦木なんて毎度SNSで『可愛い』などの投稿を真に受けてニヤニヤしてるんだぞ。『これって私の事だよねー♪』って、どこから来るんだその自信、と思わなくもないけど割と事実だから何も言えない。

 そう口を噤んでいると、原稿から目を離した伊藤さんが此方を見て目を細めて、

 

「でも朔月くん、最初の大人しくてクールな印象だったから話し掛けに行きにくかった人多いんじゃない?話してみたら意外と子供っぽいところがあって面白かったけど」

「あんま褒められてる気がしないです」

 

 逆だったらまだ嬉しかったかも。その評価は錦木やミズキさんにも当てはまると思います。

 

「けど、あれよね。要は朔月くんも、大分このお店に馴染んで来たって事でしょ」

「……そう、なんですかね」

「確かに。いつの間にか、朔月くんやたきなちゃんが居るこの店が当たり前になって来たなぁ」

「────……っ」

 

 伊藤さんと北村さんのその一言で、笑みが固まる。

 意図した訳じゃなかったけれど、北村さんの何気無く放った“当たり前”という言葉が、胸の痼となって痛んだ気がした。

 忘れようとしていた、気にしないようにしていた命に関わる砂時計の砂粒が、サラサラと音を立てている感覚と音だけが脳内を目まぐるしく駆け回る。

 

 ────自然と、自身のその指先が胸を、心臓部分に触れるその瞬間に自覚する。

 

 その当たり前が。その当然が。その日常が。その毎日が。

 “また、明日”が、来なくなる日がいずれ来る。

 それも、かなり近い将来にだ。

 俺は、彼女達にこの話をするべきなのだろうか。

 

「……朔月くん?」

「っ……ああ、いえ、そう思っていただけるなんて感無量、恐悦至極、至福の喜びにございます」

「言い方が固いのよ」

 

 感傷に浸っていたのを誤魔化し、思考から振り払うよう、一緒に頭を振る。伊藤さんに丁寧にお辞儀すると、そんな彼らの眩しい表情から逃げるかのようにその背を向けた。

 

「……」

 

 ────伝えるべきか。俺の残り時間を。

 錦木やたきなには隠していたくなくて告げた余命だった。大切な人に嘘を吐いたままではいたくなくて。けどそれは、この人達にも言える事だった。

 伊藤さんや北村さんだけじゃない。警察の阿部さんにダンディな後藤さん、気の良い兄貴肌の米岡さんに、穏やかな山寺さん、それに一緒にたこ焼きを食べ合った徳田さん。挙げ出したらキリがない程に、今の俺には誠実でありたい大切な人が多過ぎた。

 

 逆の立場になった時、相手にいきなり死なれてたら気分が悪いだろう事は明らかだった。死期を知っているなら尚のこと、どうして教えてくれなかったのだと自分だったら怒るだろう。

 けれど。

 

「……じゃあ、仕事に戻りますね」

「うん、珈琲ありがとう」

「いえ、それじゃ」

 

 あの時の錦木と、たきなの驚愕と悲哀に歪む顔が脳裏を過ぎる。あんな顔をさせたくないと、心のどこかで歯止めが効く。

 あの二人に伝えた事に後悔はしていないけれど、次また同じような事が起きた時に同様の事をするかと問われれば、俺はきっとその場で足踏みをしてしまう。

 

 ────言えない。それが今の結論だった。

 何ともなかったのに、今は伝えるのが怖いと思ってしまっている。それどころか、自らが行き着く“生の終着点”について、考え直している自分がいる気がする。

 生きる事に対して、欲が出てきたんだろうか。

 

「────ねぇ、ちょっと待って」

「……っ」

 

 俺の背を、呼び止める一人の声。

 振り返ってみれば、伊藤さんが真剣な眼差しを向けて此方を見据えていた。いつになく真面目な顔付きをする彼女の瞳に見られて、思わず萎縮する。

 恐る恐る、次の言葉を待つ。開かれたその口から発せられる言葉が、重要なものである事を信じて。

 

「朔月くんは、悪人は殺すべきだと思う?」

「────……っ」

 

 俺は、ただ目を見開いて息を呑んだ。

 ……何、その質問。命について、余命について考えてたこのタイミングで、何故今、そんな事を聞くの。

 

「……俺、は」

 

 伊藤さんのその真っ直ぐな瞳に見抜かれ、射抜かれたように固まるその身体。どうにか俺は、震える口元を必死に動かしながら答えた。

 

「……俺は、誰かの生き死にを決められる程にできた人間ではありませんので……すみません」

「漫画のストーリー展開の相談なんだけど」

「……………………うわ恥ずかしくて死ねる」

 

 キメ顔で言ったの恥ずかしいわ気持ち悪い。

 じゃあそうやって言ってよ最初から。

 俺あんまり冗談通じないんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.30『 Crumbling daily life(崩れる日常)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

「皆さん、リコリコ閉店のピンチです」

「…………ゑ?」

 

 錦木に突如そう告げられ、珈琲を淹れる手が止まった。

 事は閉店後、いつも通り店内の掃除を終え、ルーティンである珈琲の製作に取り掛かりつつ、晩酌しているミズキさんの愚痴をたきなやクルミと共に聞き流していた時だった。入口の戸締まりを終えた錦木が、難しい顔で腕を組みながらそんな事を言ってきたのだ。

 誰もが意味不明で固まる中、詳細を錦木が説明し始めた。

 

 何でも今日のお昼頃、休憩中にミカさんのスマホの通知をうっかり見てしまったらしく、そこに『明後日21時、BAR Forbiddenにて待つ。千束の今後について話したい』と書いてあったそうなのだ。

 

 それが何故リコリコが閉店する事と関係するのかがよく分からないが、ミズキさんが近くにミカさんが居ない事を確認すると、扉を閉めてから錦木に詰め寄った。

 

「人のスマホを覗き見すんじゃありません」

「だって見えちゃったんだもーん……」

 

 ミズキさんに注意され、口を尖らせる錦木。

 まあ、うっかり視界に入ってしまったという言い分もよく分かるよ。俺もたきなの下着をわざと見た訳じゃないしね。けど錦木は全然許してくれなかったよね。

 

「目が良いと余計なもの見てしまうんですね」

「パンツとかな……痛てっ」

 

 クルミが揶揄った瞬間、たきなの丸いお盆が彼女の頭を叩く。何気に痛そう……クルミは頭を擦りながら錦木に問い出した。

 

「……楠木だと何で分かる?」

「そうですよ。司令とは限らないでしょう?」

「いーや、先生を垂らし込んで私をDAに連れ戻す計画じゃわ……」

「自慢ですか。結構ですね必要とされてて」

「あぁんそうじゃないよたきなぁ……!」

 

 事実上左遷の形で此処に配属になったたきなからしてみれば面白くないのだろう、むくれた表情で錦木を見やる彼女に、錦木は抱き着いて必死に『違う違う違うぅ〜……』と弁明していた。

 その間、俺は気になっていた事をミズキさんに聞いてみる。

 

「……あの、それが何故閉店って事になるんですか?」

「小さいとはいえ、一応DAの支部だからねぇ。ファーストリコリスのコイツが居ないと存続できないのよ」

 

 へー、そういうシステムなんだ。まあ、でもそりゃそうか。

 セカンドリコリスであるたきな一人じゃ仕事が回らないって事ね。たきなも優秀なリコリスだと聞いてるけど俺は彼女達の仕事を間近で見た数は少ないし、ファーストとセカンドじゃ何かあった際の責任問題的な部分もあるのだろう。

 

「じゃあ私が戻りますよ」

「うえええぇぇえ、そんなさーびーしーいぃぃぃぃぃぃいいいい……」

 

 あっけらかんと言うたきなに、錦木が頬をくっ付けて擦り寄る。それを真横から見ていたクルミがポツリと呟く。

 

「たきなはお呼びじゃないんだろぉ───うぇっ!」

 

 再びたきなにお盆で叩かれるクルミ。先程より威力強め。『失言だった……スマンスマン……』と謝る彼女を、傍から見て爆笑するミズキさん。

 誰も真剣に物事を捉えてない辺り、流石リコリコの店員である。錦木が言ってる事が大袈裟だと思ってるっぽいなこれ。日頃の行いって大事だよね。

 それを理解した錦木は、慌てたように全員に告げた。

 

「み、皆だってお店なくなったら困るでしょ!?」

 

 その一言で、全員が考える。

 もし錦木の言ってる事が本当だった場合を想像したのだろう、それぞれの表情が曇り出した。

 

「ま、まぁ、私は養成所戻しですし……」

 

 たきなが焦ったような表情に。

 そっか、本部には戻れないから養成所に戻らなきゃならないのか。それは本部で仕事したいたきなに取っては致命的だよな。あと居なくなられたらシンプルに俺が寂しい。

 

「まだ此処に潜伏してないとボクは命が危ない……」

 

 クルミはクルミで此処がなくなると致命的だった。此処に来た経緯は又聞きだけど、今じゃDAや同業者、あらゆる所から命を狙われてるらしい。一度死んだように見せかけてはいるみたいだけど……。

 

「私も男との出会いの場が失くなる……!」

 

 ミズキさんは……うん、まあ、何。相変わらず平常運転ですね。別にこの店でだって特に男性と出会えてる感じないけど。ミズキさん理想ばっか高いからなぁ……。

 

「……ん?」

 

 とかって考えてたら全員がこっち見てきた。

 ……え、何、もしかして俺の番?

 

「俺、は……俺は、そうだな……」

 

 この店が失くなったら……失くなったら?

 全然想像がつかない。俺にとってこの店は、既に残りの人生を過ごすのに失くてはならない存在になっている。店内に広がる珈琲の香り、毎日顔を見合せ笑い合う地域のお客さん達に、俺を迎え入れてくれたリコリコの従業員達。

 生きる屍だった俺に、生き方と在り方を問うてくれた錦木の存在。それらが失くなる想像をして、ただ一言。

 

「……みんなと一緒に居られなくなるのは、なんか寂しいなぁ……」

 

「「「「…………」」」」

 

 そう呟いた瞬間、部屋が静まり返った。

 我に返って顔を上げると、全員がポカンとした表情で此方を見ていて。

 ……え、何、もしかして俺今凄い情けない事言った?うわやだ顔赤くなってきたかも恥ずかしいお嫁にいけない……。

 

「……あ、あの……?」

 

 耐え切れず、思わずみんなに声をかける。

 そんな静寂の中、錦木が俺の腕を掴んで天高く掲げると、一言告げた。

 

「優勝」

 

 瞬間、全員が頷いた。

 え、なんか優勝したんだけど。

 

 

 ▼

 

 

「“BAR Forbidden”……検索エンジンには出ないな……おっ、あった」

「会員制のバーか……」

「うわオシャレ……」

 

 情報収集の専門家であるクルミが、錦木が見たというミカさんのスマホのメッセージに乗っていた単語を調べると、割とすぐに特定出来た。表示されたデータには画像もあり、目を凝らして見るとどうやらBARというだけあってお店らしかった。

 ミズキさんはそのオシャレな内装に心惹かれたのか、心做しか目を輝かせているように見える。俺もだけど。

 

「入れるんですか?」

「そこはコンピュータの人の出番でしょ〜♪」

 

 たきなの質問に、錦木がクルミの顔を覗き込みながら答える。PC画面を見て表情を曇らせながらも、クルミはその期待に肯定した。

 

「偽造は何でもないが……」

「お〜!」

「アンタも偶には働きなさいよ♪」

 

 ……あの凄い今更なんだけどさ、偽造が何でもないってワード無茶苦茶じゃない?もうやり過ぎて罪の意識軽くなってるどころの話じゃないよね。

 

 しかも何が問題かってそれクルミに限った話じゃなくてこの場の全員がそうであるという事実。

 クルミの会員証偽造発言に対して誰もツッコミを入れないどころかそれを容認するという犯罪や違法促進がまかり通っている事なんですよ。流石閉店後にカジノ紛いの事をしてるだけある。まだ疑ってるよ?

 

 しかし、錦木やミズキさんに後ろから急かされてもなお、クルミの表情は晴れない。何か気になってる事があるのだろうか……もしや、偽造に思うところが……!?そうか、やはり罪の意識が……俺は思わず口を開いた。

 

「クルミ、何か気になってるの?」

「いやだって、こんな店で仕事の話するかぁ……?普通に逢い引きじゃないのか?」

 

 全然違ったわ。ああ、偽造は構わないんだ別に……。

 クルミの発言に視線が再びバーの写真へ。なるほど、確かに仕事の話だけするなら最悪電話でも良い訳だし、態々この店に入る理由もない。

 クルミは、錦木の懸念があくまで杞憂で、こんな綺麗な店で態々会ってまで話す内容はまた違うのではないか、と言いたい様だった。

 

 ……楠木さんって人を俺はよく知らないから何とも言えないけど……女性の方、なんだよね?それでミカさんとは旧知の仲でもあると……これは……もしや……?

 

「店長と司令は愛人関係という事ですか?」

「え」

 

 俺が言わんとしてた事を隣りでたきながぶっちゃけた。思わず隣りを見ても、たきな真顔である。いや、何真顔でそんな事言ってんの笑う。

 

「愛人て……」

「アンタの口から……何かっ、興奮するっ……!」

「え?」

 

 錦木も苦笑しており、ミズキさんに至っては爛れていた。たきなは何か間違った事を言ったのかと、素っ頓狂な顔で彼女らを見つめていた。

 普通に恋人かもしれないのに、先に愛人を想像してくる辺り流石DAの英才教育の賜物ある。

 許さんぞ純粋なたきなになんて知識を……しかし、クルミはたきなの意見に同意のようで。

 

「でもそういう事だろ?」

「「ナイナイナイナイナイナイ」」

「何でだよ、有り得る話だろ」

「「ナイナイナイナイナイナイナイ!」」

 

 ……錦木とミズキさん仲良いな。

 けど、二人がそこまでミカさんと楠木さんは確実に愛人関係であるかもしれない可能性に否定的であるという事は、別の可能性が浮上してくるのだが……。

 

「……あの、さ。錦木」

「ん?どしたの」

「錦木がDA戻りたくないの分かってて、ミカさんがそれに応じるって光景があんまし想像付かないんだけど」

 

 ────そもそもの話、ミカさんが錦木をDAに連れ戻す事について首を縦に振るとは思えないというのが俺の意見だった。

 

「ミカさん、錦木が嫌がる事はしないんじゃない?」

「……あー……それは、まぁ、確かに……そうだけど……」

 

 その発言に錦木だけでなく、全員が納得したのか顔を見合わせていた。

 此処で生活をしていれば割と早い段階で理解するのだが、ミカさんは錦木にかなり甘い。彼女の遅刻には寛容だし、お客さんとの会話に花を咲かせて業務放棄の時間があっても小言くらいしか言わないし、店内でいきなりたこ焼きを焼き出しても換気扇を回すだけという仏みたいな人間である。

 いや、諦められてるだけなのかもしれないけど。

 

 それでも、何処か錦木を見る目が親のような時がある。血の繋がらない娘くらいには大切に思っているはず。そんなミカさんが、錦木が嫌がる場所に行かせようとするとは余り思えないのだ。

 錦木もそれを理解したから、現在しどろもどろになっていた。

 

「え、じゃあ、先生は楠木さんと何の話を……」

「……や、だからさ、前提が違うんじゃない?」

「前提?」

「ミカさんが会いに行くのがそもそも楠木さんじゃないかもって話」

「じゃあ一体誰なんだよ」

「いや分かんないけど……それこそ愛人とか恋人とか、そっち方面の相手なんじゃないの?」

 

 クルミの問いに、なんとなくそう答えた。

 もしかしたら完全にプライベートの可能性もある。このお店を普段逢い引きに使っている可能性。錦木とミズキさんが、ミカさんと楠木さんの関係に否定的であるのなら、別に相手がいるのかもしれない。

 

 ……いや、それだと『千束の今後について話したい』ってメールの文章と矛盾するか。なら本当に相手は楠木さんで、ただ純粋に会って錦木の異動については断るけど、それとは別に昔の話に花を咲かせつつ晩酌したいだけって可能性も充分に考えられる。

 

「────……いや」

 

 ────それとも。

 楠木さん以外で錦木の今後を語る相手がミカさんに居るという事……?

 それはそれで不可解なんだけど……楠木さんが一応DAの総司令なんだよな?その人以外と錦木について何の話するんだ……?

 

 ……いや、これ以上の詮索は今は止めよう。

 取り敢えず、ミカさんなら錦木をこの店から追い出すような事はしないだろうし、一先ず懸念は消えたから態々行く必要も無いだろう。

 俺は自分のこれまでの思考を振り払い、錦木達の方を向いた。

 

「先生の恋人……」

「店長の愛人……」

「オッサンの、爛れた関係っ……」

「……ミカの女、か」

 

 ……あ、それはそれで気になる感じ?俺は行かないからね?

 

 

 

 







誉 「ミカさんってそんなに『ナイナイ』って否定される程モテないの?イケオジって感じでモテそうなのに……」

千束 「え……あー……うん、どうだろ……」

たきな 「何か事情でもあるんですか?」

誉 「歯切れ悪いなぁ、気になるじゃんか」

ミズキ 「アンタらみたいなお子様にはまだ早いわよ」

誉 「ミズキさん……さっきクルミが『ミズキに男ができる方が有り得ないだろ』って言ってました」

ミズキ 「クソガキィィィィイイイイイ!!!」

クルミ 「何で毎度バラすんだよぉ!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.31 Blackmail in the name of mission







夢が生まれるのは希望からか、願望からか、切望からか────絶望からか。



 

 

 

 

『……調子は、どう?』

 

 ふと、病室の外から声がして、手元の本から顔を上げる。引き戸の先に立っていたのは、細身を白衣で覆い立つ黒髪の女性だった。自分と良く似た顔立ちの彼女は、此方を真っ直ぐ見つめてそう告げる。

 

『……』

 

 心配しているような言動に聞こえるけれど、少年には分かっていた。その表情はまるで実験動物を観察しているかの様で、心底気に入らない。

 そんな目で見られてしまえば、幾ら家族と思いたくても、幾ら愛されたくても、不安で堪らなくなる。

 

『……別に、問題無いよ』

『そう。なら良かった』

 

 ────本当に?本当に、そう思ってくれてるの?

 なんて、彼女がそれを聞いて煩わしそうな表情をするかもしれないと、その可能性が考えられる、それだけでその一言を躊躇う。

 

『……久しぶり、だよね。来てくれるの。仕事は、忙しいんじゃないの?』

『滞りなく。今日は珍しく時間ができたから』

『……そう、なんだ』

 

 家族と思えない程に、冷め切った互いの声音と会話の内容。

 愛なんて、まるで感じない。彼女の表情、仕草、言動、声音、その何もかもから。気が付いたのは、おかしいと思ったのは、いつ頃だっただろうか。

 そして、まるで鏡写しであるかの如く、少年も自分が彼女を愛しているのかが分からなくなっていく。

 不安が、胸中を渦巻く。ただただ、螺旋のように。

 

『……ああ、そうだ。貴方に相談に乗って欲しい事があって来たの』

『────……な、に』

『何って……いつもと同じ。研究で分からない所……というより、仮説が幾つか出てきたから、擦り合わせをしたいなって』

『……』

 

 それ、俺とじゃないとできないの?

 他の人とも、仕事仲間ともしてるんでしょ?

 もっと、別の話とか心配事とか、俺に対してないの?

 

 

『君との時間はとても有意義。私に無いものをくれるから。流石は私の⬛︎⬛︎だよ』

 

 

 息子だなんて、思ってない癖に……とはいえなかった。

 どれだけ嫌われようと、雑に扱われようと、親を嫌いになれるはずがない。子にとっては親が自分の全てであり、世界なのだから。

 けれど、そう思い込む事にも、限界が近付いているような気がした。

 

 

『生憎、他の人間とは話していても生産性が感じられなくてね。皆、貴方ほどに賢ければ良いのに』

 

 

 ────ねぇ、母さん。知ってる?

 俺、心臓の病気なんだって。病院の先生に言われたんだ。

 医師免許持ってるんなら、何か知ってるんじゃないの?母さんは、何とかしてくれないの?

 

 

『本当に、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎良かったよ』

 

 

 俺、時間無いんだってよ。

 成人できるか分からないんだって。

 

 

『誉も、そう思わない?』

 

 

 ────ねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────なんで笑ってんの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ep.31 『 Blackmail in the name of mission(それは使命という名の脅迫)

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 朝から昼過ぎまでの短めのシフトが終わり、研鑽の為に珈琲を淹れて抽出を待っていると、ふとカウンター越しにいるミカさんと目が合った。実は本日七回目である。

 

「ん……私の顔に何か付いてるかな」

「いえ、滅相もございませぬ。男らしい目と鼻と口が付いておりまする」

「言い方が固いな……」

「キューティクルな瞳とスマートな鼻とプリティなお口がバランス良く付いてますよ」

「言い直さんでいい」

 

 錦木達がミカさんを怪しんでるから、俺もなんとなくミカさんに目を向けてしまっていたのだが、すぐさまその眉を寄せる事になってしまった。

 ……やはり気の所為じゃない。今日、ミカさんは明らかに浮かれている。何故って、ミカさん何か今日肌ツヤ髪ツヤ最高なんですよ。いつもの二、三割増しくらい(適当)。え、何処の保湿クリームとトリートメント使ってんの?そういうのミズキさんに共有してあげた方が良いですよ。

 

「……今日、何処か出かけられるんですか?」

「どうして?」

「や、何かいつもと雰囲気が違う気がして……あ、さてはお化粧してますね」

「してないが」

 

 知ってた。でも明らかに違って見える、主に肌と髪が。これはやはり逢い引きなのでは、と気付かれない程度に探りを入れたつもりだったのだが、ミカさんが俺を見て怪しんでる気がする。

 錦木とミズキさんは否定してたけど、やはり件の楠木さんとやらと錦木の事を話しながらも積もる話を重ねて、そのまま恋愛方面の展開になってしまうのではと、最近常連の学生達に勧められてそういう系のアニメとかラノベに手を出し始めた俺の心がぴょんぴょんしてる。

 

「ああ、よく分かったね。実は今日、昔からの知人に会うんだ」

「知人、ですか。その感じだと結構大事な人なんじゃないですか?」

「はは、さてどうだろうね」

 

 ……濁されてしまったけど、これやっぱり楠木さんじゃない?錦木の事で話があって逢い引きの可能性もあって、しかも昔からの知人で思い当たるのってもう俺の中じゃ楠木さんって人しか居ないんだけど。

 や、俺がミカさんのこと何も知らないからそもそもの選択肢が少ないのもあるけど。

 

 俺はまだ見ぬ楠木さん。DAの司令塔らしいのだが、俺の中ではリコリス達にえらく偏った知識を教えて回るヤベー女性でしかない。主にたきなの下着問題とか愛人発言とかそこら辺。教養って大事。

 みんなに聞いても情報が薄過ぎて、お陰でどんな人なのか未だに想像がつかない。錦木は『口煩いオバサ……女の人』とか言うし、たきなは『司令は司令です』としか言わないし、ミズキさんは『顔の怖いキノコ』って言うし。キノコって何。みんなバラバラなんですけど。

 

 ────そしてそれらを総合すると『口煩く顔の怖いキノコ女』って事になる。ただの妖怪で笑う。

 

 ……けど知人ていうから恋人ではないのかな。そうでなくとも友人ではありそうだけど……なんかいいな、昔の知人友人に久しぶりに会って過去を懐かしむ事ができるのって。そういう思い出話に花を咲かせる、みたいなシチュエーション密かに憧れてたなぁ。昔の知人なんて誰も居ないんですけど。

 

「良いですね、そういうの。俺友人少ないんで憧れます」

「なに、今からでも遅くはないさ」

「……そう、ですかね。今から行動を起こしても、結局無駄になってしまうかもしれないですよ、お互い」

 

 あまり言いたくないけど此方には余命がある。実際問題として今から友人を作ってもすぐに別れてしまうのなら、それは関わってくれた相手にとっての時間の無駄になってしまうのではないかと、ただひたすらにそれが怖くて踏み込めないだけなのだけれど。

 すると、ミカさんは眉を寄せて此方を見据えて告げる。

 

「他人がどう思うかは君が決める事じゃない。もしそれを理由にするなら、君にとっても勿体無い」

「……ミカさん」

「それに、自分を知ってる人間が増えるというのは存外悪くないものさ。この店を始めて、そう思う様になった」

「ぁ……」

 

 確かにそうだ。自分がこう思ってるから相手もそう思ってるだろうなんて考え方は良くなかったかもしれない。今まで関わってくれたみんなに対して失礼にあたる。

 それに、ミカさんの考え方にも納得した。自分を知ってくれてる人間が多ければ多い程、自分は誰かの心の中で永遠(とわ)に生きていられる。それは、俺が求める生き方だった。

 

「少し偉そうだったかな。軽く聞き流してくれていい」

「……いえ、なんかこう、腑に落ちました」

 

 錦木がミカさんを“先生”と呼ぶ理由が分かるような気がした。ミカさんは苦笑しつつ、俺が無言で差し出した淹れたての珈琲を小さく会釈して受け取った。口に含み暫くすると、「成長したね」と頬を緩めてみせた。自分が虜になったこの店の珈琲を作り出している人にそう言われると、何よりも励みになる。

 

「ミカさんの様な至高の領域には程遠いです」

「……前々から思ってたんだが、私を神格化し過ぎじゃないか?」

「いずれは俺も自分で淹れた珈琲でお客さんを咽び泣きさせたいです」

「そんなお客さんは私も見た事ないんだが」

 

 あ、ホント?俺なんて初めて珈琲飲んだ時は感動か苦過ぎてかどっちだったか分かんないけど涙目だったよ?

 

 

 ▼

 

 

「戸締まりとガスの元栓だけ気を付けてくれ。後は頼んだよ」

「はい。行ってらっしゃい」

 

 錦木の見たメールに書いてあった時刻は、もうあと一時間というところまで来ていた。ミカさんは昼に言っていた様に外出するようで、俺達に一声だけ掛けるとそのまま表口から出て行ってしまった。

 錦木達に何の用か伝えてない辺り、本当にプライベートだから干渉して欲しくないのか、はたまた錦木の言う通りDAから錦木を返すよう言われているからその心配をさせたくない為なのか。後者ならミカさんの優しさが垣間見えるのだが、仮に前者であるのなら目の前で尾行の準備をしている彼女達の何とも余計な事……。

 

「……さて」

 

 疲れた。本日二回目の珈琲淹れて帰ろう。

 自然と小さく息が溢れる。カウンター席の裏に周り、普段勉強に使っているメモ帳を開いて、再び珈琲の豆挽きから段取りを開始する。計量器で豆の量を測りながら、ボーッとカウンター向こうの客席でわちゃわちゃしているリコリコ従業員を我関せずに見やる。

 

「みんな準備できた!?」

「千束、忘れ物です!」

「ミズキ早くしろ!」

「待ってろ今着替えてんだからっ!」

 

 ミカさんが居なくなった瞬間、錦木、たきな、クルミ、ミズキさんの四人はそれぞれそそくさと出掛ける準備を始め出した。ドレスコードを準備する錦木とたきな、PCを畳み抱えるクルミ、着替えるべく裏の更衣室に走るミズキさん。

 

「────……はぁ」

 

 ……まあ、何。こういう事あんま言いたくないんだけど……みんな、普段の仕事からそのくらいキビキビ動いてくれるときっとミカさんも嬉しいと思うんだよね。

 どうやら彼女達は、やはり予定通りミカさんの尾行をするらしい。まあ、本当に楠木さんの可能性もあるし当然といえば当然か。でも俺としてはやはりあまり気乗りしない。我関せずを貫きコーヒー豆を挽いてると、ミズキさんが目を見開いて此方を見てきた。

 

「ちょ、アンタ何挽いてんのよ!?」

「え……ああ、アメリカ産のハワイコナです」

「ちっがうわ!豆の種類聞いてんじゃないのよ!こんな時に何コーヒー豆挽いてんのって聞いてんの!」

「これまだ飲んだことなくて、気になってたんですよね」

「朔月くん、私のも淹れといてー!」

「アンタは早よ着替えなさいっ!」

 

 裏の更衣室から錦木の声が聞こえ、それを聞いてもう一つマグカップを用意する。ミズキさんは眉を寄せながら「出さんでいい」と繰り返し呟く。その視界端で何かが動くと同時に聞き慣れた声がした。

 

「誉さんは行かないんですか?」

「いやだって、行ったところで俺は店に入れな、い……」

 

 その声の主────井ノ上たきなを見て、固まった。

 その長髪を後ろで纏め、タキシードに身を包み、凛とした表情と佇まいの彼女がカウンター越しに俺を見つめていた。普段と雰囲気も出で立ちも違う彼女の存在感に圧倒されて、俺は思わずその目を見開く。

 

「……え、何その格好」

「ドレスコードですが」

「今日行くとこってコスプレ限定のバーとかだっけ?」

「会員制のバーですよ。聞いてなかったんですか?」

「いや聞いてたよ?ただ聞き間違いだった可能性を目の当たりにしてるから」

 

 てっきりドレスだと思ってただけに面食らってしまう。な、何か凄いスマートっていうか、カッコイイな……。

 新鮮過ぎて上から下までジロジロ見てしまっていたのか、たきながいたたまれず目を逸らし下を向いて小さく呟く。

 

「……変、ですか」

「え?いやそんなことないよ、似合ってる。てか、カッコイイよ」

「……っ、そう、ですか。それは、どうも……」

「え?……あ、うん……」

 

 少し照れ臭そうにして俯くたきなに思わず生返事するが、こうして見ると確かに様になっている。ただサイトだけ見ればオシャレなバーだったので、てっきり錦木もたきなもドレスなのかと思ってたんだけど……たきなの事だから動きやすさとかで服選んでそう。

 

「んんっ……誉さんは、クルミとミズキさんと待機してて下さい」

「……正直、あんまし気乗りしないんだけど」

 

 俺が朝にミカさんと話した感じだと、相手が楠木さんでも別の誰かでもミカさん本人の私用な気がしている。仮にそうならミカさんのプライベートを邪魔する気は無い。本当に恋人や愛人との逢瀬なら、介入するのは不躾だろう。

 

 楠木さんで確定だった場合は尚更だ。そもそも表向き俺はリコリコと関わりが無い第三者であり、サイレント・ジンや真島との戦闘時の事は伏せてないといけない。

 錦木とたきななら万が一バレても切り抜けられるかもしれないが、俺がリコリコとの関係を楠木さんに追求されたらアウト、故について行くのはリスクでしかない。

 

「中の状況は、クルミが監視カメラからインカムで伝えてくれる手筈です。なので誉さんも車で一緒に」

「い、いや俺は別に……気になったら個人的にクラックして覗けるし、無理に行かなくても」

「言ってることヤバいんですけど……」

「最近感覚が麻痺してきたんだよね」

 

 最近法(銃刀法違反、ハッキング)を犯し、罪でこの手を汚しても何も感じなくなってしまいつつある恐怖……もうあの頃の純粋な自分とはさよならしてしまったんだ……とつい最近までの話を懐かしむ。

 てゆか、それで言うとクルミが行くのもアウトなんだけど……何故ついて行くの。まあ、車の中で待機なら大丈夫だとは思うけど、とか考えていると裏から恐らくまだ着替え中であろう錦木の声がする。

 

「えー!?朔月くん一緒に入れないの!?」

「当たり前です。司令にバレたらなんて説明するんですか」

「あー、そっかぁ……そりゃダメだ……」

「そんなことより、着替えまだですか?」

「はいはい、今終わったよーっと……ジャジャーン!!」

 

 たきなに促されて錦木がカウンター前へと躍り出る。その足音に弾かれるように再び顔を上げると、赤を基調としたイブニングドレスを身に纏い、自信満々な笑みを浮かべて、その姿を見せ付けるようにして立っていた錦木と目が合った。

 

「どーよ朔月くん!私ぃ、似合ってる〜?」

「……」

 

 彼女のイメージカラーはなんとなく赤だと決め付けていたけれど、あまりの親和性に思わず目を奪われる。月並みの言葉しか出てこないけど、端的に言って物凄く似合っていた。

 

「……えと、朔月くん?」

「え……あ、ああ、うん、ごめん……少しボーッとして……やっぱり錦木は赤が合うね」

「でしょ〜!やー、何着ても似合っちゃうなぁ〜!」

 

 見惚れてた、なんて。言えるわけもなくて。適当な返事になってしまったけれど。これ以上見たら変態丸出しの視線と表情になりそうだったから、慌てて下を向いて珈琲を啜る。

 グイッとカップを仰いだ瞬間────此方を訝しげに見つめていたたきなと目が合った。もしかしなくてもずっと見られてたっぽい。何それ恥ずかしい。

 

「な、何。何だよ」

「……いえ、別に」

 

 たきなは俺の問いかけに眉を寄せて不満そうな、難しい顔をしてそう返すと、その場を立ち去り裏の更衣室にいるであろうミズキさんの元へ向かって告げた。

 

「……ミズキさん、私のドレスは無いですか」

「はあ!?何急に!?アンタそれで良いって言ってたじゃない!」

「気が変わりました。私もドレス着たいです」

「我儘言うなっ!!アンタのは無いわよっ!!」

「ならそのミズキさんの貸して下さい」

「アンタ見たいなお子様にはまだ早いわよ」

「ミズキのじゃサイズ合わないだろ」

「うるせぇクソガキ!!」

 

 クルミに煽られ甲高い声で騒ぐミズキさん。確かにミズキさんの服じゃたきなには合わない……や、体型の話とかはそうなんだけど、センスというかジャンルというか……というか何故急にドレス……。

 ふと、カウンター越しで俺の淹れた珈琲を片手に、錦木がにししと笑った。

 

「……あー、私の見てたきなも着たくなったなぁ〜?」

「今日の為に準備してたんならたきなのも用意してあげれば良かったのに」

「あの子がアレにするって言ったのよー、何かあった時に動きやすいからって」

「銃とか仕込んでそう」

「あー、あるかも」

 

 そう言って互いに笑い合う。たきなは暫くすると残念そうな、むくれた表情で戻ってきた。何故か車で待機組のミズキさんまでもがオシャレしていたが突っ込まず、そのまま店の戸締まりを確認しつつ表に停めてくれたミズキさんの車へと向かった。

 

「ほらほら乗りなさい野郎共」

「ミズキさんノリノリですね」

 

 あわよくば自分も高級バーで男を漁ろうという魂胆なんじゃないかと邪推してしまう程に何故かテンションの高いミズキさん。必死さが滲み出てきて何故か泣きそうになる。ぐっ、堪えろ……。

 涙を拭い、錦木とたきなに続いて車へと向かうと────我が物顔で助手席にふんぞり返るクルミの姿が。おい、サイズ的にそこに座るのがクルミなのはおかしいだろ。

 

「……」

「ん?何だよ」

「いや何だよって、助手席……」

「ボクが座る。お前は後ろの真ん中な」

「何故そこまで指定……」

 

 クルミがそこに座るのがさも当然みたいな顔をしているのは流石だとして……え、後ろの真ん中ってつまり、錦木とたきなの間……?いや流石にそれは……なんというか、うん。

 

「い、いや、じゃあいいよ俺は。元々乗り気じゃ無かったし……」

「店の存続がかかってるかもしれないんだぞ。千束に何かあったらどうするんだ」

「仮に何かあったとして俺が何かできると思わないんだけど……精々楠木さんにカクテルご馳走するくらい?」

「肝の座り方が違うんだが」

 

 いや本当にそれくらいしかできることない。先程も言ったが、俺がいても問題が増えるだけでデメリットしかない気がする。そのうえ俺はミカさんのこの用事がプライベート込みのものだと思ってるので邪魔をしたくない。

 

 ただ、仮にクルミや錦木が懸念してる通りなら、何か対処する為の手札として人が多い方が良いっていう案も分からないわけじゃない。というかこうして言い訳みたいなこと言ってるけど本音は二人の間に座るのが恥ずかしいだけ。

 

「……はぁ、分かったよ。ミズキさんトランク空いてます?」

「乗せれるわけないでしょうが」

「……じゃあクルミが持ってたあのキャリーにクルミを入れてトランクに積むというのは」

「お前舐めてるだろ」

 

 ダメか……くっ、仕方無い。流石に事故った時の死亡率が高いと言われてる後部座席の真ん中に他の人を座らせる訳にはいかない。錦木とたきなには辛いかもしれないが真ん中座るか。

 

「ほらほら、気にしないで。おいで?」

「……お邪魔します」

 

 先に座っていた錦木が、そう手招きしてくれる。彼女の隣りに詰める形で座り、その後にたきなが俺のすぐ傍で腰掛けた。二人の肩が俺の両肩のくっ付いて……やめろやめろ、何も考えるな。

 

「いいご身分ですなぁ、朔月くん?」

「……ああうん、そうね」

「うっわ反応悪っ。こんな美女達に囲まれといて。ね、たきな〜?」

 

 返事がつい曖昧になってしまう俺について錦木がそうたきなに振ると、彼女がじっと俺のことを見上げてきた。ちょ、距離近い。その格好で距離近いとなんか無駄にドキドキする。

 

「……誉さん、本当に嫌なら座席替えますか?」

「え?」

 

 眉を寄せて訊ねてくるたきな。気を遣われてしまったかもしれない。年頃の異性と触れ合う機会が少なかったからとはいえ、これしきのことで一々キョドっていたら流石に恥ずかしいし情けない。座席如きで不満垂れるな、男だろ俺。

 

「や、全然平気……あ、そう!両手に花って感じだし」

「そう、ですか……あ、でもこの前外国の人達に私達のこと『毒がある花』だと言ってましたよね」

「ヤベーとこ話振っちまった」

 

 訂正。リコリスにフランス語まで教えてるなんてDAの教育は流石です。楠木さんには頭上がらないです。

 錦木もそれを思い出したのか噛み付かんばかりの目で此方を睨み上げていて震えた。怖。あれおかしいな、予定と違う。

 錦木とたきなの視線に刺されながらも漸く座席に腰を落ち着け、シートベルトを締めると同時にミズキさんがアクセルを踏み込んだ。事前に調べた住所は此処から少し離れているらしく、クルミがマップを確認しながら行き先をミズキさんの隣りで指示していく。

 

「……あ、忘れてた」

「ん?」

 

 小さな声で右隣りの錦木がそう呟く。思わず右を向くと、彼女が何処からか取り出したチャームを首に付けようとしてるところだった。露出の際どいドレスの為に慌てて目を逸らそうとするが、ふと彼女が持っていたその“梟のチャーム”に目が留まり、固まってしまった。

 

「っ……アラン、の」

 

 ────……思わず、声が漏れた。

 

「ん?ああ、これ?何、気になる?」

「……いや、別に……」

 

 水族館で俺とたきなか褒めてからというもの、似合ってると言われたのが余程うれしかったのか、錦木はそれを誇りにするかの如くその首に付けている。

 つられて見ていたたきなも気になったのか、俺を挟んで錦木に声をかけた。

 

「それ、今朝もテレビで……なんか金メダル取ってました」

「あ、そう!私にもそーゆー才能があっちゃうかな〜?」

「弾丸避けるとか誰にでもできることじゃないですけど」

「うひひ、ありゃ勘だよ。弾より速く動けたらメダル取れるんだけど〜」

 

 俺を挟んでの二人の会話。運転席の向こうで、ミズキさんがからかい混じりに一言告げて笑った。

 

「アランさんの手違いだな」

「なんちゅーこと言うんだキサマァ!……ま、金メダルとはいかなくても、誰かの役には立てるでしょ。DAに戻されてる場合じゃないのよ」

 

 ミズキさんに一喝した後、ふと物憂げに窓の外の景色を眺める錦木の横顔。俺は今、それをどんな表情で見ているだろう。

 彼女の言葉の意味を、俺やたきなはもう知っている。彼女がDAを出た理由は、自身の命を救ってくれた恩人に出会うが為。梟のチャームを譲り受けたという話から察するに、相手は十中八九アラン機関の人間だ。

 

 公には知られてないが(・・・・・・・・・・)アラン機関には幾つかの禁忌(タブー)が存在しており、その中の一つに『支援者への直接的な接触の禁止』というものがある。ドナーと患者が顔合わせできないのと同じく、錦木の命を救う為に行動したアラン機関の人間は、支援対象である錦木と顔を合わせる事がそもそもできない。錦木のDAを飛び出してまで会いたいと願うその努力は報われない可能性があるのだ。

 

 それに俺は────錦木が受け取ったあのチャームに、良い意味があるとは思っていない。

 そもそもアラン機関はただ『才能ある者を支援する』のではなく『才能はあるが病気や貧困などが原因でそれを発揮できない者を支援する』団体である。彼らは決して慈善団体ではなく、必ず成果という形の見返りを求めている。つまるところ錦木はアラン機関から、自身の命と引き換えに世界への使命を与えられているはずなのだ。

 

 そこで思い出すのは、夏にあったサイレント・ジンとの一件。松下さんを装っていた何者かは、アラン機関が錦木に人口心臓を与えた意味を知っている節があった。その松下さんが錦木にさせたかったのは『人殺し』だった。

 ……推測でしかないが、松下さんの中の人は恐らくアラン機関の人間で、錦木の人工心臓の提供者の可能性が高かった。松下さんを介してのやり取りも、アラン機関に定められた禁忌(タブー)に抵触しない為だとすれば辻褄が合ってしまう。

 

 導き出される結論として、仮説として有力なのは───アラン機関に見出された錦木千束の才能が、卓越した動体視力で弾丸を躱すことで戦場を蹂躙せしめることのできる戦闘能力───『殺しの才能』かもしれないということだった。

 

「……くだらない」

「ん?朔月くん何か言った?」

「ううん、バーってちゃんとした夕飯とか食べれるのかなって思って。なんかお腹空いて来ちゃった」

「朔月さんは車で待機って言いましたよね?」

「あ、そうだ、素で忘れてた」

 

 思わず吐露してしまった本音を、自然体で誤魔化す。自分が今まさに推測していた仮説も、それが正しかった場合のアラン機関の掲げる理念も、何もかもくだらないと思った。

 

『助けてやったんだから使命を果たせ』だなんて、酷い脅迫だと常々思う。それを踏み倒せる人間がいたら中々の大物だろうと笑いたくもなる。

 この仮説に行き着いた時、何度か錦木に話そうと試みたことがあった。けどその機会に恵まれる度、首に付けたチャームに目線を落としては嬉しそうに笑みを浮かべるもの彼女を見て、俺は────何も、言えなくて。

 彼女の大切で純粋で透明な記憶を、汚したり壊したりしたくなくて。ただの仮説で、妄想の域を出ない話で、確証なんてないのだからと蓋をして。

 

「……才能、か」

 

 それがどういう概念なのか、あまりよく分かっていないけれど。そこがゴールじゃない、その才能を惜しみなく活かす道が必ずしも正解とは限らない。その才能一つで進める道は一つじゃなく、枝分かれした先に無限の可能性があるのだと、何者でも目指せるのだと、俺は知っている。

 

 

 ────貴方は何にでもなれる。

 

 

 かつて俺を生み出した女性から、そう教わっているから。

 

 

 

 

 








誉 「座席のことでこんな時間かかると思わなかったな……なんか疲れた」

クルミ「……なんなら、ボクを膝の上に乗せて座るか?」

誉 「いやそんな……子持ちのパパみたいじゃんか」

クルミ 「やっぱお前ボクのこと舐めてるだろ」








最近SAOの新作『灰を月夜の黒猫』を投稿しましたので、こちらと一緒に感想を貰えると嬉しいです。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.32 Ability in the name of gospel







忘れたくても忘れられない。余計なことばかり覚えてるものだよ。



 

 

 

 

「着いたぞ」

「へぇ、此処が……」

「普通の建物に見えますね」

 

 都心の高層ビルが立ち並ぶ中で、柵に囲まれて聳え立つホテルのような建築物。目的地に到着した途端に俺の左右に座っていた錦木とたきなが車を降りる。

 だがすぐにドアを閉めずに、それぞれが少しばかり顔を覗き込んで此方を見ていた。え、何?俺?降りないよ?そういう話だったよね?

 

「それでは誉さん」

「行ってきまーす♪」

 

 たきなと錦木が二人して俺にそう声をかけてきた。どうやらただの挨拶だったらしい。小さく微笑む彼女達がなんとなく微笑ましくて、俺も視線を交互に目配せながら見送る。

 

「ああ、行ってらっしゃい。気を付けてね」

「はいはーいっ」

「千束の面倒は私が」

「たきなは私のお母さんかっ」

 

 ほぼ同時にドアを閉めると、二人は肩を並べてその建物の入口へと向かっていった。その背が段々と小さくなって扉の先へと消えていくのを見届け、俺はすぐに助手席に座っているであろうクルミのタブレットを覗き込むべくその身を助手席へと乗り出し────ってあれ、クルミがいない……まさかついてった?

 

「おい、そっち詰めろ」

「え……?あ、ちょっ……」

 

 なんとも身の程知らずのリスなんだ、とディスりそうになった瞬間に俺の座る後部座席の左ドア、その開閉音を耳にする。

 思わず顔を向けると、助手席にいたはずのクルミが入り込んできて、タブレットPCに視線を落としながら俺の隣りに座ってきて……えっ、ちょ、は。

 

「え、何で後ろ来たの」

「こっちの方が広いからな」

「いやそんな変わんない……」

「さて始めるぞ、ここからはボクの仕事だ」

 

 見てろ、と俺を一瞬だけ見て小さく笑うクルミ。バーに入る為のパスコードは既に入手しているらしく、事前に錦木とたきなには伝えてあるとの事。

 そこからバーに入ってすぐの監視カメラも、室内のカメラも既に掌握済みときてる。クルミの役割はミカさんと楠木さんの座る場所まで二人をバレることなく誘導することだった。

 

「二人が店に入ってきた」

「お、ナーイス♪」

 

 クルミの報告に、運転席のミズキさんが振り返ってサムズアップしてくる。此処にリコリコの良心は存在しない。完全に治外法権。助けてミカさん。

 

 店の入口の監視カメラから、ドレスアップしている錦木とたきなの二人が並んで入って来るのを目指する。カウンターを挟んで向こう側には、お客様を出迎えるべく男性の受付スタッフが既に控えていた。

 

『ようこそいらっしゃいました。恐れ入りますが、お名前をお聞かせいただけますか?』

 

 名前……そうか、確かクルミが二人分の会員証を偽造してるはず。まさか錦木とたきなの本名で登録してるはずないだろうけど……。

 その直後、自信満々に色っぽく話す錦木と、いつも通りのたきなの声が聞こえた。

 

 

『────山葵(わさび)のりこ』

 

『────蒲焼(かばやき)太郎(たろう)

 

 

 その偽名を耳にした途端、俺とクルミは吹き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.32 『 Ability in the name of gospel(それは福音という名の才能)

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

「っ……くっ……え、な、何……わ、わさびと、のり?」

「か、かばや、き……ぷっ、くく……!!」

 

 誉はクルミのタブレットを見ながら、その偽名のセンスを聞いて笑いを堪えられる訳もなく腹を抱えながら身を捩る。

 

 な、何だよ蒲焼に山葵と海苔て……合わせたらちょっと薬味の美味そうな蒲焼定食の出来上がりじゃないか……ダメだ、笑い過ぎて涙出る。

 何がツボってその偽名を堂々と伝える二人のスタンスがもう面白い。千束の『山葵のりこ(ドヤア)』とたきなの『蒲焼太郎(キリッ)』の言い方が最高にツボ。

 

 一頻り笑っていると、運転席のミズキがクルミの頭を『アホ!』と叩き、クルミの顔がタブレットに埋まった。

 

「そんな偽名があるかぁ!」

「平気だって」

 

 未だ笑いを抑え切れずにいたクルミが、そのタブレットをミズキさんに見せる。眉を寄せていたミズキさんだったが、監視カメラに映っていた男性の受付がデータを参照し終えて告げた一言に目を丸くする。

 

『────確認致しました。蒲焼太郎様、山葵のりこ様、ご案内します』

「マジか!」

 

 これには誉も驚いた。この名前信じたのか受付の人。こんな生まれて三秒で付けたみたいな名前を。絶対に蒲焼と山葵と海苔を食べながら適当に考えた名前だろ。

 隣りを見ればクルミが駄菓子を口に含みながら得意気に此方を見ていて……てかそれ、食べてるの『わさびのり』じゃね?ってなる誉。

 

「データしか信じない人はドンドン阿呆になるなぁ。お前らも気をつけろー?」

「……ねえそれ食べてるの『わさびのり』?」

 

 それは確かにそうかもしれない。

 だってこの名前を聞いた受付のスタッフは内心どう思ってるんだろうとか考えてしまう。普通に考えて蒲焼と山葵と海苔て。嘘だろと思うでしょ。すんなりとは通せないよね流石に。俺あの受付の人だったら黙ってられる自信ない。なんだったら聞き返しちゃうかもしれない『え、山葵と海苔ですか?』って。

 

『……あ、店長来ましたよ』

『わぁ……先生、なんかメッチャ決めてんだけど』

 

 その声を耳にして、誉は我に返る。既に二人はカウンター席から離れた席に並んで座っており、視線はそのカウンター席へと向けられている。

 クルミがカメラの視点をカウンターの後ろに切り替えると、そこには黒シャツに白いジャケットを身に着けたミカが席に腰掛けるところだった。その佇まい、服装と雰囲気から見て、どう考えてもプライベートだった。

 

「ほら、やっぱ逢引きだ逢引き。楠木が来る前に撤退した方が良い」

「だって楠木は……」

『女性だし……って、来たぁ!』

 

 インカムを通してタブレットから聞こえる、千束の最初の言葉に疑問を抱く前に、カメラに釘付けになる。ミカさんの背後から人影が現れ、ゆっくりと天井のライトに照らされてその姿を露わにする。

 

 そのシルエットからすぐに楠木───女性である可能性が排除され、やや細身の体格にミカとは正反対の黒のジャケットに既視感を抱く。やがて頭部までをも鮮明にカメラが映し出した時、誉の瞳は僅かに揺れ動いた。

 

「────……吉松、さん」

 

 ミカの約束の相手は、誉がかつて一度だけ顔を見合せたことのある人物であり、ミカの旧来からの知り合いだという吉松シンジだった。

 仕事の関係で世界中を飛び回っているらしく、その為に長期間店にも来れない状況なのだと千束から又聞きしていただけに此処で現れるとは思っておらず、誉はシンプルに驚いた。

 

『え……ヨシさん!?』

 

 千束もたきなも驚いている様子。しかしその瞬間、ミズキがハンドルを支えに項垂れて深く溜め息を吐き出したので、何事かとクルミと二人で顔を見合せていると、

 

「だぁ〜……逢引きだなこりゃ」

「「え」」

『私としたことが……』

『え……え?』

 

 誉とクルミ、インカム越しでたきなも困惑した声を漏らす。何故そんな反応なんだと問いかけようとして、ふと自分なりに考えた。

 相手が楠木でなかったにも関わらず、千束とミズキから出てきた言葉は『逢引き』……つまり相手が楠木ではなかっただけで、誉の予想通りミカのプライベート……えっと?

 男と男の会合に、何故逢引きという言葉を……え?あ、まさか、そういうこと?

 

「……え、そう(・・)なの!?」

「待て待て、ミカはそう(・・)なのか!?それ先に言えよ!」

 

 クルミが隣りで呆れたようにボヤくのも、耳に入らない。え!?ミカさん、え!?……と、誉の脳内は絶賛混乱の嵐である。

 具体的にはミカ×ヨシなのかヨシ×ミカなのかの緊急事態だった。最近常連の腐女子を名乗る文学女子中学生に教えてもらった知識を総動員してこの脳の混乱を収めるべく情報収集に走り出す。

 

「え、待って!どっちが攻めでどっちが受けですか!?」

「知るかそんなもん!オッサンに自分で聞けっ!」

 

 聞けるかそんなもん。でも知らない世界に興味津々。新しい世界を教えてくれるリコリコのお客さんに感謝。

 確かにミカは今日の昼に話した時『昔の知り合いに会う』と言っていた。それだけで楠木と、誉は判断してしまったが……そうか、吉松も確かに該当する。あとサイレント・ジンとか。

 ただこの事実を知ってしまうと、サイレント・ジンともそういう仲だったのかなぁとか考えてしまう。ヤバい、何かテンション上がってきたかもしれない。体熱っ。

 

『……行こう、邪魔しちゃ悪い』

『ぇ……は、はい……?』

『愛の形は様々なんだよたきな』

 

 千束がこの場を立ち去ることを決め、たきなはまだよく分かってないみたいで首を傾げつつもその背を追う。千束のそれっぽい発言を聞いても、きっと変わらず眉を寄せているだろう。

 クルミのタブレットにはミカと吉松さんの乾杯の背後で、およそリコリスとは思えない格好で情けなくも移動する二人の姿。思わず苦笑しながら眺めていると。

 

「……錦木?」

 

 ふと、隠れて移動していたはずの千束の上体が起き上がった。その視線はカウンター席に座る二人───吉松の方に比重が傾いている気がする。たきなが早く進むよう催促しても固まって動かず、それどころか表情を綻ばせて二人の元へ行こうとしている様に見えて、

 

「千束が動かない。たきな、どうした?」

「何やってんのよアイツ……!」

 

 クルミとミズキがそれぞれ慌てた様に捲し立てる中、誉は立ち去ろうてしていたはずの千束が急に止まった原因であろう前の二人へと視線を戻す。

 二人は互いにそれぞれが持つグラスに視線を落としながらも、口元がタブレット越しでも分かるくらいには開閉していた。

 

「……前の二人、何か喋ってる」

「ホントだ。誉、聞き取れないか?」

「無理でしょ、錦木達のインカムから拾える音にも限度あるし」

「なんだよ、読唇術(どくしんじゅつ)とか使えないのか?試してみろよ」

「ええと……『できてしまったかもしれない……私のお腹にミカとの子どもが』」

「もういい、壊滅的だ」

「最初から無理ゲーなんだよなぁ」

 

 急な無茶振りは凄く困る。その手のことは勉強したことがないので、誉には“読唇”も“読心”も“独身(ミズキさん)”も管轄外である。

『とにかく行くぞ』とクルミが告げると同時に誉も反対のドアから外に出る。『あのバカ……!』とミズキがそれぞれ車を降りて、千束の元へと向かう流れに。

 しかし建物の入口まで来ると、クルミが振り返り一言。

 

「誉は待機な」

「え」

「時間無かったからボクとミズキの会員証しか発行してない」

 

 そう言って、入口まで来たのに閉め出された様な気分になりながらの留守番となった。仕方無い、終わるまで待つか、と都会の景色を眺めながら入口付近の壁に寄り掛かる。この一時間としない内に物凄い情報の波が押し寄せて、脳が熱暴走しそうだったので、正直待機を言い渡されて助かったかもしれない。

 

 何はともあれミカの相手は楠木ではなかった。千束がDAに戻されるかもしれないという話は杞憂に終わったのだ、それだけ分かれば取り敢えずは安心である。

 

(……でも)

 

 懸念はある。千束の話によれば、覗き見たミカのスマホに映ったメッセージには『千束の今後についての話』とあったらしいのだ。相手が楠木でないのなら、その話を吉松から切り出されることに違和感がある。

 

 話を聞く感じだと吉松はDAとは無関係、来店の頻度も少なく、千束を気にかける理由がよく分からない。恐らくミカ達の逢瀬を邪魔しないように努めていたはずの千束は、ミカと吉松の会話を聞いたことでそれを失念してしまったのだ。その会話の内容が何かは分からないが、千束がカメラからでも分かる程に嬉しそうな笑みを浮かべて、吉松の方へと向かってしまう程の何か────

 

「……あ、誉さん」

「……っ、あ、あれ、たきな?」

 

 かなり近い距離からの呼び掛けに肩が跳ねる。慌てて振り返ると、たきなが一人で戻ってきていた。誉は思わず安堵の息を吐き出すと、彼女の辺りを見やりながら眉を寄せた。

 

「……クルミとミズキさんと会わなかった?」

「え?いえ……」

「入れ違いになったかな……それで、錦木は?」

「店長と……ヨシさんと、話があると」

「……何か、あった?」

 

 ヨシさん、と言い慣れてないのかぎこちなくそう告げるたきな。その表情は何とも読み取りにくいものだった。ただ何処か憂いを孕んだその瞳に、思わず誉は口を開いてしまった。

 たきなは途端に表情を強ばらせ、しどろもどろに目線を動かしながら、小さく呟いた。

 

 

「……千束の探していた人が、ヨシさんだったんです」

 

「────……ぇ」

 

 

 その言葉の意味を理解するのに、どれだけの時間がかかったか知れない。

 視界が霞み、瞳が揺れて、口元が震える。今まで靄がかかっていた思考が鮮明になる。これまで錦木の事や松下の事、吉松とミカの関係性などの推測をしていた脳のピースが、次第に埋まっていくような。

 底冷えするような背筋の冷たさと、点と点が線になっていく様な感覚に陥った。

 

 

 

 

 千束が探していた人が、吉松。

 

 

 

 

 自分を助けてくれた、人工心臓を授けてくれた恩人が、吉松。

 

 

 

 

 千束を支援していたアラン機関の人間が、吉松。

 

 

 

 

 ……つまるところ松下の背後にいたのが、吉松。

 

 

 

 

 千束に人殺しをさせようとしたのが……吉松。

 

 

 

 

「────……はは」

 

 

 

 ────“貴方は何にでもなれる”

 

 

 そう言ってた癖に、その在り方を強制しようとした母を思い出して笑ってしまった。吉松が千束に拘る理由に似たものを感じてしまい、辻褄が合っていく感覚だけが鳥肌という形で現れた。

 

 二か月前の松下の護衛での出来事を、言葉を嫌でも想起する。“殺せ”と、“それが使命だ”と、“アラン機関が何の為にその心臓を授けたのか”と、まるで世界に隷属させる為の楔を穿つように並べた呪いの数々。

 “アランチルドレンとしての意味を考えろ”と、そう言い募った松下を背後で操っていた人間が誰だったかなんて、これまで色々推測を立ててきた誉にとっては意図も容易くその真相に辿り着いてしまう。

 

(なんだよ、それ……)

 

 全て、誉の予想通りだった。松下の裏で声を当てて語りかけていたのは吉松だった。彼は千束にDAのリコリスとして人を害し、殺める為の力を才能として見出したのだ。それを世界に届ける、平たく言えば世界に知らしめる為に、錦木千束はその人工心臓を与えられた。

 つまりそう生きよと、アラン機関に定められた。世界から使命を与えられるとは、そういうことだ。

 

 けれど千束は人を傷付け、殺すことを決して良しとしない。たきなからの又聞きや推測もあるけれど、彼女はきっと自らに命を与えてくれたその恩人の“救世主”たるその行動にこそ倣うべきものがあると考えている。

 

 自らに与えられた時間は、きっと誰かを救う為にあるのだと。自分が、そうされたように。それが恩人に報いることであり、憧れた生き方と在り方。

 そしてその与えられた時間を使って誰かの時間を奪うことだけは、決してあってはいけないのだと。松下の言葉を拒否してまで誉の怪我の手当をしてくれた時に、それをひしひしと感じた。

 

 つまり、千束の思想と吉松の思想は完全にズレてしまっている。致命的なまでにすれ違ってしまっている。これでは、千束の想いが報われることなど、吉松に届くことなど、決してない。

 

「……やるせないよなぁ」

「誉さん?」

「ううん、何でもないよ」

 

 千束が可哀想だと、素直にそう思った。これは同情だろうか。それとも共感(・・)だろうか。自分もそうだったから。

 

「……ヨシさんが、千束の心臓を作ってくれたんですよね」

「そう、だね。アラン機関のお陰で、錦木は生きてる」

 

 たきなの言葉に対しての返答を、自分に言い聞かせるかのように呟いた。

 アラン機関がしている行為は見返りを求めるものであり、決して慈善団体などではないけれど。使命という見返りの為の支援には命を救う行為も含まれているというのなら、その活動自体を悪だと切り捨てるのはお門違いではあるのかもしれない。

 

 テレビやネットで報道されている内容はアラン機関の内情の一部でしかないし、噂の域を出ないものも存在するが、支援で救われた人間もいるので間違っているものではない。千束が吉松に向ける感謝の気持ちは、きっと正当のものだ。

 

「……なら」

 

 ────小さく、か細い声が漏れる。

 目の前で、下を向いて何かに縋るように語るたきなが映る。

 

「才能があるなら、支援をしてくれるってことですよね」

「たき、な?」

「千束みたいに……助けてくれるってことですよね」

「……何、言って」

 

 その言葉の意味を追求しようとした瞬間だった。入口前の通りにクラシックな見た目の黒い高級車(ジャガー XJ)が停車した。二人揃って視線をそちらに向けると同時に、たきなのすぐ横にある入口のドアから人影が横切った。

 それは、千束と話をしていたはずのミカの約束の相手、吉松シンジご当人だった。

 

「……吉松、さん」

「ん……ああ、君か」

 

 振り返って此方を見る吉松と、誉との視線が交わる。その瞳に誉は母とよく似たものを感じていた。

 何の感情も浮かんでいない様な、無味乾燥な目つきだった。本当に、あの天真爛漫を絵に書いた様な千束と話した後の表情なのかと疑いたくなる程に冷たく見えた。

 どうして、と言ってやりたかった。千束の想いを、言葉を、ちゃんとその瞳で見て、その耳で聞いて、その心で受け取ってあげたのかと、そう聞いてやりたかった。

 

 ────アラン機関の人間は、みんなそうなのか?

 

「……あのっ」

 

 隣りで上擦った声でたきなが吉松を呼ぶ。吉松は誉ら視線をたきなに向け、誉もそれに弾かれたように意識が覚醒し、誉は慌てて彼女を見やった。

 

「先程は、お邪魔してしまって……でも千束、喜んでました」

「……」

 

 たきなの言葉を聞いて、吉松は小さく微笑む───微笑んだ様な、そんな気がする。それは嬉しくて笑ったようにも見えて、くだらないと嘲笑するようにも見えた。

 

「またお店でお待ちしています。千束はずっと貴方を────」

「君なら分かるはずだ」

 

 たきなの言葉を遮って、吉松はそう告げた。その瞳には使命感や執念にも似た感情を宿しているように見える。

 

「────千束の居場所は此処ではないと」

「……ぇ」

 

 その為には全てを犠牲にすることを厭わないような、そんな瞳。自分も、他人も、そして世界でさえも。

 恐らくたきなには、吉松が何を言わんとしているかが伝わらなかったかもしれない。だが誉には。誉にだけは。

 

「君には期待しているよ、たきなちゃん」

 

 吉松はそう言って、車のドアを開いた。運転席には女性の姿がちらりと見えて、左目で此方を監視するようにして見据えている。

 誉としてはアラン機関について、千束と話しただろうことについて何か言及したかったが、それは千束とミカに可能であれば聞けばいいと、この場では何も言わないことにした。

 

「待ってくださいっ……!」

「っ……ぇ」

 

 しかし、たきなが二度目の静止をかけ、車に乗り込もうとする吉松を再び呼び止めた。いつもと様子が違うたきなを、誉は困惑しながら見下ろす。

 吉松はそれを煩わしく思うような表情もせず、ただ無表情のままたきなの言葉を待っている。

 

「アラン機関は……才能がある人なら、誰でも支援してくれるんですか?」

「たきな……?」

 

 何かに追われるように、焦ったように、必死さが滲み出るように、たきなはそう吉松に問いかけた。その質問の意図も意味も分からずに、誉は何も言うことができずに固まる。

 吉松でさえ何も言わず、彼女のその先の言葉を待ち受け、その瞳でただ見据えて。

 

「たきなちゃんも、何か自分に誇れるものがあるのかな?」

「……私じゃ、ありません」

「────……っ」

 

 たきなの視線が、一瞬だけ此方に向く。刹那ではあったが、確かに目が合った。何故このタイミングで自分を見たのだと、そう疑問を形にした瞬間、それはまさかという予想と共に泡となって消えていく。

 彼女は再び吉松を見る。彼はたきなの視線の先につられて誉とたきなを交互に見やり、その先の言葉に仮説を立てたかの如く目を見開いた。

 

 やめて。

 

 待って。

 

 待ってくれ、たきな。

 

 その先の言葉は、決して言ってはいけない。

 

 

「千束のような心臓を、誉さんに作ってくれることはできますか?」

 

「────たきなっ!!」

 

「……っ!!」

 

 ピシャリと、彼女の想いを否定するように、そう叫んだ。その怒声にも似た声に自身の願いを遮られたたきなの両肩が震えるのを見た。ゆっくりと視線を彼女へと持っていく。

 彼に怒鳴られたことないたきなは、誉が彼女に出会ってから一度として見たこともない表情をしていた。誉のその拒絶に驚いたような、今にも泣き出しそうな、そんな少女の顔だった。

 

 自分の為にとやってくれたことだと分かっている。それでも、今の発言で恐らく吉松は、誉自身の才能……は分からなくとも、心臓に疾患があることを知ってしまった。決して目の前のアラン機関の人間に、それを伝えて欲しくはなかったのだ。

 たきなが俯く中、誉は吉松へと視線を戻し、小さく頭を下げた。

 

「……すみません吉松さん、急に大きな声出して。何でもないんです、忘れて下さい」

 

 まだ自分の中で、アラン機関に助力を乞う選択肢は存在しない。彼らが命を救うことをも支援としている部分には素直に尊敬している。これは嘘じゃない。

 

 ただ誉は、自身の余命を痛感したからこそ、残り少ない人生だからこそ自由に楽しもうと思った。そして毎日が自由で楽しいからこそ、人生は尊いのだとこの数ヶ月、リコリコで過ごして再認識したのだ。

 

 世界に隷属してまで生き残るだなんて、それは自分の意志で生きていると言えるだろうか。死なないよりは良いかもしれないが、そこに至るまでを突き詰めて考えたことはない。だから、今ここで答えを出すわけにはいかなかった。

 

「……君は」

 

 ふと、それまで黙って此方を見つめていた吉松が口を開いた。誉は弾かれたように頭を上げると、彼は変わらず無味乾燥の瞳で聞いてきた。

 

 

「……君は、朔月祀(さかつきまつり)という女性を知っているかい?」

 

 

 ────心臓の音が、鼓膜にまで届いた気がした。

 それまで既視感としてしか、記憶でしか想起しなかった母親の姿と、目の前の吉松が重なって見えた。彼のジャケットの胸元に着けられた梟の瞳と自分の目が合い、そこから逃れられない過去に吸い込まれていくような感覚。

 

(……ああ、そう。そういうこと、か)

 

 以前リコリコで会ったのが、吉松とのファーストコンタクトのはずだった。その時はまだ自己紹介さえできてなかった。それなのに、彼は店での滞在中にずっと此方を見つめていた。それはただ、自分が旧友であるミカの珈琲の教え子だったからなのだと思っていた。

 とんだ狸だ。吉松は初めから、自分のことを────。

 

「……母親です。戸籍上は」

「戸籍上?ははっ、顔が瓜二つだ」

「……ほまれ、さん……?」

「たきな、黙ってて」

 

 たきなの言動の少しでも許せない程に余裕が無い。俺の素性を隣りの女の子に露程にも知られたくない。だが相手には最早誤魔化しも利かないらしい。吉松は確信を持って話している。逃げ道を塞がれていくような感覚。

 

 それまでまともに表情を変えなかった吉松が、初めて心の底から笑ったような、そんな気がした。

 そして一頻り笑うと、その微笑みのまま此方に目線を寄越して訊ねる。

 

「はは、彼女に子どもがいたとは……まあ、秘密主義だったからね。初めて君を見た時は彼女の生き写しかと思ったよ」

「多分話すのがめんどかったか、話した気になってるか、知られてると思ってたかのどれかですよ。あの人案外ズボラなんで」

「実の母親に随分だね」

「……職場(・・)では母がお世話になったみたいで」

「いいや、友人というほどの仲ではなかったよ。ただ彼女は実に多くの才能を世界に届けてくれた」

「お陰で息子を蔑ろにされてちゃ世話無いですけどね」

「はは、間違いない」

 

 死の淵を彷徨っている息子がいても、現地点で病院と職場の距離の近い方を優先するような人だった。そんな母親でも嫌いになれなくて、未練がましく形見の勿忘草の栞まで大事にして。本当に情けない。

 

「……君は、随分と千束に気に入られているようだね」

「錦木が一人ひとり大切に思ってくれる娘ってだけですよ」

「朔月君は、千束の恋人なのかい?」

「まさか、友人ですよ。どうしてそう思ったんですか?」

 

 吉松と誉はほんの数回しか顔を合わせていない。彼の目の前で千束と絡んだ回数も少ない。そう勘違いするには些か判断が早いのではなかろうかと、そう考えた矢先、変わらず品定めするような瞳を向けて、口元に弧を描いた。

 

「────その後、身体の傷(・・・・)は平気かい?」

「っ……ええ勿論。なんならこの場で歌って踊って戦えます」

「それは才能だね」

「違います」

 

 やはり食わせものだ。此方の身体の傷の心配など、松下のカメラを通して見ないと出てこない言葉だ。彼には、かつての暗殺者との交戦で此方が傷を負っていた事も、松下の言葉を遮ってまで千束が誉を優先した場面も目撃している。

 私は知っているのだと、そう暗に伝えてきているのだ。

 

「君はどうかな。傍で千束を見てきたなら、あの娘には然るべき居場所があるとは思わないかい?」

「……それは、貴方が決めることではありません」

 

 それを聞いて、誉は小さく溜め息を吐いた。今の言葉で、バーで千束とどんな内容の会話をしたのか、彼女の感謝をちゃんと受け取ってあげたのか、それが理解できてしまった。

 千束の『ヨシさん』に対する深い想いと淡い願いは、案の定叶うことはなかったのだと。

 

「……そちらこそ、上で錦木と話してきて、何も感じなかったんですか」

「……」

「店で彼女と話して、東京を一緒に観光して、彼女の人となりを見て……何も思わなかったんですか」

 

 千束はきっと、嬉しかったはずだ。長年探してきて、もう二度と会えないかもしれないと半ば諦念を抱いていたはずの日々を重ねてきて、時間を与えてくれた恩人に漸く出会えたことを。

 自らの中の最も純粋で、淡くも透明で、美しい記憶を共に彼と向き合ったはずた。長年積み重ねてきた想いをあの場で吐き出したはずだ。千束は恐らく、誉でも見たことのないような無垢な笑顔を見せてくれたに違いない。お店でも、松下としての吉松との観光でも、バーの時でも、彼女の在り方は変わらない。

 

「錦木の任務での信条は“命大事に”だそうです」

「……」

「人の命を奪うのは、気分が良くないからだそうです。たきなから聞いたんですけど」

 

 そう言って誉は笑う。いつだって元気で自由な、陽だまりのような彼女の顔を思い出して。

 千束の今後の選択肢も、人生での生き方、在り方、過ごし方も。それら全て、誰にも強制することはできないし、許されない。けど、その人となりを見てきたからこそ、その人の能力しか見ていない団体よりも彼女を備に見てきたからこそ、それは違うのだと断言できる。

 

「彼女にDAは……“殺し”は向いてないですよ」

「……」

 

 錦木千束に、に“殺しの才能”などない。そもそも向いていない。向いていないものを才能と呼ぶなど、アラン機関は勘違いをしている。まして、人殺しを肯定するような才能など、あってはならない。

 能力だけを見てその人一人ひとりの生き方や理念、思想を見て感じないから、上澄みを掠め取っただけの結論になるのだ。

 

 誉は知っている。彼女の生き方を。尊厳を。思想を。自由さを。そして、殺しではなく、彼女の本当の────

 

「彼女には、別の“才能”がある」

「……それは、一体何だと言うのかな?」

 

 ────彼女の、才能を。

 自分は、それに憧れ、救われてきたのだから。

 

「吉松さん、お客さんで溢れてるリコリコを見たことないでしょ。開店前か閉店直後の、お客さんがいない時間帯にしか来ないから」

「……」

「今度は、ちゃんとお客さんとして営業中に来てみて下さい。そして錦木千束をその目で見て、肌で感じて下さい。きっと分かりますよ」

 

 ────錦木千束という存在の根底にあるものが。

 そう告げると、吉松は何も言わずに車へと乗り込みドアを閉めた。同時に、そこから逃げ出すかのように一瞬で速度を上げて目の前を通過し、出口へと消えていく。

 

「……年上の人相手に、偉そうだったかな」

 

 自分の言葉に、少しは何かを感じ取ってくれているか。響いてくれているかと聞かれたら、多分NOだろう。

 彼らの言う“才能”には見境がない。法律や倫理とは無関係だ。殺人の才能だろうが戦争の才能だろうが、アラン機関にとっては神聖なギフト、神の贈り物であり、手段を選ばず支援が行う狂信者の類だ。一般人の倫理観など、路傍の石ころくらいの認識かもしれない。

 

 ……けどそれよりも今は。

 誉は、先程から沈黙を続けているであろう少女へと振り返り、案の定下を向いて前髪で瞳が隠れたたきなに、恐る恐る近付いた。

 

「あー……ごめん、たきな。急に怒鳴ったりして。けど……」

「……なんで」

「え?」

 

 小さく、だが確かにそう聞こえた。震えるように、どうにか絞り出した声で、何故、どうしてと口を震わせて。

 

「どうして、言わせてくれなかったんですか……」

「……たきなが言う必要ない」

「何か……何か、変わったかもしれないのに……っ」

「……」

 

 たきなが吉松に何を言おうとしていたのが、察せないはずがない。恐らく吉松に、誉の人工心臓の制作を懇願しようとしたのだ。才能があれば千束と同様の支援を受け、誉を延命させてくれるのだと、そう思ってしまったのだ。

 たきなは誉の余命のことを人一倍考えて、悩んで、抱え込ませてしまっていた。死が近付いているというのに何か打開策を考えもしなかったことでたきなを不安にさせていた、そのツケが回った結果だった。

 

「……アランに頼るつもりはないよ。どんな組織かも分からないのに命を預けたりできないし、錦木のことも気になるしね」

「それは……でもっ……誉さんも、千束みたいに……!」

 

 生き長らえることができたかもしれない、と。たきなの言いたいことも、その想いも受け取っている。それでも、誉はすぐにその気持ちに応える準備も覚悟もできてなくて。

 

「……前に話したと思うけど、アランチルドレンは支援と引き換えに機関から“使命”を与えられる。助けたんだからその才能を活かす道を進むべきだ、こう在るべきだと強制される。やりたいことができなくなるんだ」

「け、けど千束はっ、使命なんて……」

「果たしてるように見えないよね。だから、ミカさんはずっと黙ってたんだと思う。錦木の使命はきっと、錦木が望むものじゃないんだよ」

 

 だから、千束は自由に生きていけてる。吉松が店に訪ねてきていたのも、恐らく千束の状況を確認する為で、千束が見たというミカのスマホに送られてきた吉松からの『千束の今後について』とは、吉松が松下としての素行調査をした結果、千束がアランの望む使命を全うしていなかったことに対しての説明を求めたに過ぎない。

 だから、例外はない。千束はミカに守られていただけで、アランチルドレンとなれば最後、世界に隷属するのが終末だった。

 

「やりたいことができないなんて、生きてる意味無いよ。病院にいるのと何も変わらない」

「……けど……っ」

 

 頭では理解していて、誉の言葉が正しいだろうことも理解していて。それでも、何を言われても、心の奥底では納得いかないと、たきなは拳を握り締めていた。ふるふると肩が震えて、必死に感情を押し殺そうとしているように思えて。

 見ていられなかった。なんてことないんだと、誉はすぐに笑顔を作ってたきなに近付いた。

 

「……あーもう、そんなに深刻になんないでよ。たきなは気にしないでいいんだから」

 

「っ……いいわけないでしょっ!!」

 

 静寂に、たきなの悲痛な叫びが一際響く。

 これまでで聞いたこともない程の大声と、劈くような、悲鳴に近い叫びに。誉は思わず目を丸くする。

 

「……たきな」

 

 後ろで束ねていた髪は、今や普段と同じように戻されていても、彼女の感情に呼応するようにぐしゃぐしゃで、荒い呼吸の中でたきなの嗚咽に近い声だけが耳に届いた。

 

「誉さん、時間が無いんですよ……?今の医療じゃ、治らないんでしょ……?」

「……」

「助かる方法があるなら……それに懸けるべきです」

 

 たきながアラン機関をどう思っているのかは分からない。相棒である千束を救ってくれた恩人だと思っているかもしれない。それは間違ってはいない。

 けれど、誉には。誉にとっては。

 

「私……千束と、誉さんと……一緒にお店続けたいです」

「……っ」

「これからも、ずっと……っ」

 

 それ以上、言葉を続けることは難しそうだった。肩も口元を震え、今にも泣き出しそうで。誉が死んでしまった未来を想像してしまったのかもしれない。

 彼女の気持ちは、とても嬉しいものだった。それほどまでに想って貰えてるなんて、と驚く気持ちもある。こんなに感情を露わにするたきなを、初めて見た気がしたから。

 

「……ありがとう。俺の為に、そこまで考えてくれて」

「……誉、さん」

 

 ふわりと、誉は笑う。リコリコに来た当初よりも明らかに表情が豊かになり、千束達の影響で色んな感情を知って、成長して。そんな姿を見られて心の底から嬉しく思う。

 そして、たきなの気持ちを汲んであげることができない自分を、不甲斐なくも思う。

 

「……ごめん、負担にさせて」

「……っ、ぇ」

「俺……こんなんで、ごめんね」

「ぁ……ち、違っ……違います……なんで、そんな……謝らないで、ください……違うんです……っ」

 

 たきなは、まるで自分の失言に気付いたかのような慌て振りで誉の腕を掴んだ。私が悪かったと、許してくれと、そう懇願しているように思えた。

 

 誉も、自分のそれが何に対する謝罪なのかよく分からなかった。たきなの顔を見て、たきなの言葉を聞いて、思わず出てしまった言葉。漏れ出てしまった気持ち。

 

 彼女の気持ちを無碍にしたことなのか、自分が病気であることに対してなのか。長くは生きられない、彼女のその願いを叶えてあげられないことへの謝罪なのかは定かではないけれど。

 

 ────多分、全部だった。

 

 

「……ごめんね」

「違う……違うの……っ」

 

 

 君の言葉を、想いを、踏み躙るような真似をして、ごめん。

 

 

 君の気持ちを汲んであげられなくて、ごめん。

 

 

 長生きできなくて、弱い身体でごめん。

 

 

 病気になって、ごめんなさい。

 

 

 

 

「……本当に、ごめんね……っ」

 

 

 

 

 ────それでも、彼女にあんな顔をさせてでも言わなければならなかったのだと、今も信じている。

 

 

 

 

 







誉 「……」

たきな 「……」

クルミ 「お、おい……なんか、空気が……」

ミズキ 「なんでちょっと目ェ離した隙にこんな空気になってんのよ……!」




※いつも感想ありがとうございます。励みなりますし、投稿のモチベになっております。これからも本二次創作をよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.33 Curse in the name of ability








君がいて、皆がいて、そこに自分がいられたらきっと幸せだった。




 

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 リコリコに戻り、帰り支度を済ませる中で深い溜め息が一つ。いつもなら珈琲を淹れて気分を落ち着かせているはずなのだが、今はそれをする気にすらなれずにいた。

 

 バーでの一件が終わり、千束とミカを置いて岐路に立った残りの四人は、リコリコに戻るとその場で解散した。たきなとミズキは既に帰宅、クルミは裏の部屋の押し入れでいつも通り過ごしていることだろう。

 

 あの場にいた時間はとても短かったにも関わらず、受け入れるべき情報量があまりにも多過ぎて、どっと疲労が心体に押し寄せてきていた。

 

「────……」

 

 ミカが隠していた秘密、アラン機関である吉松との邂逅、千束の叶わなかった淡い願いに加えて────たきなに対しての罪悪感。

 その中でも特に一番最後のことが誉の心から、脳内から、消えてなくならない。ずっと同じ大きさと鮮明さを保ち、片時も忘れさせてくれない。彼女の言葉を、声音を、気持ちを、表情を、その全てを。

 

「……っ」

 

 後悔してるかと言われれば、正直分からない。時間が経つにつれてこの気持ちが晴れる日もあれば、再び罪悪感に苛まれる日がくる時もあるかもしれない。それでもきっと、いつかは言わなければいけなかったのだ。

 永くは生きられない。いつまでも一緒には居られない。別れは、誰にでも来ることを再認識させるのは、早い方が良かったんだと、そう自分に言い聞かせる。

 

 ────自分をどうにか生き長らえさせようと考えに考えて、アランに縋ろうとしてまで自分のことを想ってくれた彼女の気持ちを、踏み躙ることになると分かっていながら。

 

「あれ?」

「……っ、錦木」

 

 足音がして思わず顔を上げる。裏から現れたのはリコリスの制服に着替え直した千束だった。

 いつの間に帰って来てたのかと時計を見れば、誉がリコリコに着いてから一時間をゆうに超えていた。

 

「……ミカさん、は?」

「先に帰ったよ。さかっ……()、は?何してんの?」

「……何、してんのかな。分かんない」

「なーにぃ、それ」

 

 変なの、と湿った声で笑う千束。普段と変わりなく見える笑顔だけれど、やはりどこか覇気を感じない。

 どれだけ時を重ねても会いたいと願った自分の恩人に会えたのに、願いが叶った人間の見せる表情にはどうしても見えなかった。

 千束はカウンター席に座る誉の隣りに腰掛けると、頬杖をついて此方を覗き込んでくる。

 

「なんかあったのー?」

「……いや、何も。あったのはそっちでしょ」

「え……あー、はは。まあ、そうね」

 

 誤魔化すような乾いた笑み。なんでもないと強がるような、そんな表情に見えた気がした。

 誉が見てきた中での千束の印象として、彼女はなんでもない風を装うのがとても上手い。普段は喜怒哀楽と感情が表に出やすく分かりやすい彼女ではあるのだが、こういう肝心なことは自分の中で仕方ない、しょうがないと割り切っている部分が多い気がする。

 周りに心配させまいとするその在り方は美徳だが、話して欲しいと思う時もある。勿論、無理強いはしないが。

 

「ねぇ、誉」

「ん、何?」

「……私、会いたいと思ってた人に会えたよ」

 

 ポツリと、そう隣りで零れる。

 誉が水族館で言ってた通りだ、と微笑んで。

 たきなから聞いて知ってはいたけれど、相手が吉松であったことも改めて伝える彼女の物憂げな横顔を見て、誉は『そっか』とただ頷いて応えた。

 

「先生が秘密にしてたのも、それが私を助ける為の条件だったからなんだって」

「……言いたいことは、ちゃんと言えた?」

「うん……けど……受け取って貰えなかった。認めちゃいけないって……そういう決まりなんだって」

 

 知っている。支援者は対象と接触してはならない。アラン機関の禁忌(タブー)の一つだ。

 だからこそ吉松は松下として現れたり、刺客(ジン)を送り込んだり、ミカと二人きりで話をしたりと手練手管を使って、千束を自身の才能の活かせる“殺し”の道へと軌道修正しようとしていた。

 

 それを多分……千束はまだ(・・)気付いていない。あくまで“まだ(・・)”だ。それとも、本当は心のどこかでは既に気付いていて、知らないフリをしているだけなのかもしれない。

 

「……言いたいことの半分も言えなかった」

「────……そう」

 

 なんとも言えない、虚しさと報われなさを感じた。

 千束が会いたかった、探していた人と漸く出会えて、救ってもらったとお礼を言えたのならば、もっと満ち足りた表情を、幸せに溢れた笑顔を浮かべていなければいけなかったのに。

 彼女が抱き続けていた理想も夢も。探していた人さえも。あの場所には、何もなかったのではないか。

 

「……あのさ、千束(・・)

「んー?」

「ぁ……いや……ごめん」

「え〜?……もう、なんだよぉ〜?」

 

 千束は困ったように笑って、誉の左肩を拳で小突いた。

 誉は何も……何も、言ってあげられなかった。自分は何も言う資格がないと感じた。口を開こうとした瞬間に呼び起こされたのは、先程まで一緒だったたきなの顔だった。

 

 ────何か言葉にしたら、たきなのように傷付けてしまいそうで、怖かった。

 

「……ヨシさん、またお店に来てくれると良いね」

「……うんっ」

「帰りに入口ですれ違った時にちゃんと言っといたから。また来て下さいって」

「ふふ、ありがとう」

 

 ふわ、っと気の抜けたような彼女の笑み。けれど、いつもの千束に少しだけ戻ったような気がした。

 そのことに───傷付けずに済んだことに、喜びよりも安堵の方がずっとずっと大きかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 高層マンションが立ち並ぶ都会の住宅街、その建物の一角に足を踏み入れる。自動ドアを開き、部屋番号とパスコードを入力し、カードキーを差し込むという手順の多過ぎるセキュリティに毎度辟易しながらも、それら全てを突破してエレベーターに乗り込む。

 目的の階へ昇る為のボタンを押し込み、静寂の中で口を開くこともせず、上がっていくエレベーターの中でぼうっと天井を眺めた。

 

「…………」

 

 いつもはあっという間に着くような気がしたが、今日はかなり長く感じる。何もない無の時間は、ひたすらに彼女達のことが呼び起こされた。恩人に想いが届かなかった錦木に、想いを踏み躙ってしまったたきな。

 かける言葉も、かけていい言葉も、何も見つけられない。何も、伝えてあげられなかった。

 

 目的の階に到着し、項垂れたままエレベーターから出る。左手には部屋がズラリと並び、自身が住む部屋番号を目視で確認していく。

 気まぐれに右手側を見れば、人々の残業によって生み出されたビルの光が集まって、美しい夜景を作り出している。皮肉が利いてて、乾いた笑みが零れた。

 

「……はは」

 

 くだらない、と独りごちると自身の部屋の扉に辿り着いていたことに気付き、足を止めた。鍵を解錠し、ドアノブを捻る。少しばかり重めの扉をゆっくりと開いて中へ入る。

 扉を閉じ、鍵を閉める。玄関の明かりを点け、脱いだ靴を揃える。そのまま廊下を渡ってリビングへと向かうドアの窓をふと見やる。

 

「ただい、ま……え、は?」

 

 暗がりの部屋の中で────明かりが点いていた。

 あの位置は、テレビがある場所だ。出かける時確認したはず、と早歩きで廊下を進んでドアを開ける。

 

 初めに視界に飛び込んだのは、テーブルに散乱するDVDディスクとそのケース。どれも錦木に借りて感想を求められ待ちの作品の山だった。その内の一つがプレーヤーにセットされ、洋画がテレビで再生されている。

 

 向かいのソファーには、細身で長身の人影。暗くてよく見えないが、異色で天然気質の髪が目元まで覆う程に伸び切って、口元は不敵な笑みを浮かべている。

 

 

「……」

 

「……ん?」

 

 

 その男と、目が合った。

 

 

 ────()を、俺は知っている。

 

 

「よお、お帰り。邪魔してるぜ」

 

「……何でいるの」

 

 

 真島が、錦木から借りた洋画を勝手に視聴しているんだが。え、来るなら来るって連絡してよ。準備とか何もしてないんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.33 『 Curse in the name of ability(それは才能という名の呪い)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

「にしても、お前随分良いとこに住んでんだな。高層マンションの最上階って。家賃幾らよ?」

「親の残した資産で借りてるんだ。家賃は内緒」

「けっ、ボンボンかよ」

「来るなら事前に連絡してよね。あとで連絡先教えてやるから」

「友達か俺ら?」

 

 冗談を言っている場合でもない。俺は慌てる素振りを見せないよう、自然な流れでスマホを取り出す。そして電話番号をタップしたら開口一番に不審者の存在を伝えよう。よし、シュミレーション終了。1、1、0と。

 

「……あ、もしもしポリスメン?」

「おっと」

 

 バン!と部屋中に響く破裂音。同時に右頬を掠める風。スマホを弾く指を止めて振り返れば、真島が撃った銃弾が壁にめり込んでいる。おい、誰の家だと思ってんだ……巫山戯るなよ……と、壁の損傷具合を確かめて辟易した。

 

「ねえちょっと、壁に穴が空いたんだけどどうしてくれんの。ここ一応分譲じゃなくて賃貸なんだよね」

「心配すんのそこじゃねぇだろ」

「取り敢えずそこの養生テープ取って。……うわぁもうこんなにめり込む事無くない?弾取れるかな……ね、その辺にピンセットない?」

「聞けよ」

 

 うるさい。此処が防音じゃなかったらご近所さんにも迷惑かかるでしょうが。会ったこと無いし住んでるかどうかも分かんないんだけどさ。

 溜め息を吐きながら壁の弾をどうにか抜こうと躍起になる。その間、真島にはあえて完全に背を向けていたけれど、特に撃ってくる様子もない。振り返れば変わらず銃口を向けた状態でニヤついた顔で目を細めていた。

 

「……へぇ、案外肝が座ってんのな。拳銃突き付けられても飄々としてやがる」

「突き付けられ慣れたって言葉を人生で初めて使った気がする」

「俺がこの部屋にいることには驚かねぇの?」

「今日疲れてるんだ、明日また来てくれたら驚けると思う。悪いけど出直してよ。あ、合鍵いる?」

「気でも狂ってんのか」

 

 人の家勝手に入って漁ってテレビ見て待ってるサイコパスには絶対に言われたくない言葉ですが。帰宅促しても帰る気配ないし。

 仕方ないと割り切った後、ソファーで脚を組む真島に向かって聞こえるように溜め息を吐き出した。

 

「ったく……あー、なんか飲む?」

「お、気が利くな。甘いもんある?」

「あるよ。珈琲でいい?」

「何だったんだ今の質問」

「今俺珈琲が飲みたいんだよね」

「気が利かねぇな」

「そのケース片付けといてね」

 

 いや飲むか聞いただけで何飲みたいかは聞いてないからね?他人の家侵入しといて偉そうに寛いでるなよ?働かざる者食うべからず飲むべからず。

 真島が舌打ちしながらケースの山を片付けてるのを横目に、キッチンで珈琲の抽出を始める。

 そんな中、真島がケースのうちの一枚を取り出して『なあ』と呼びかけて見せ付けてきた。錦木に借りていた一本、“ガイ・ハード”だ。

 

「お前これ見た?」

「え?……ああ、借りた日の夜に見たけど」

「誰が好き?」

「は?いや別に好きとかはないけど……パウウェルとマクレーンかな」

「つまんねぇな、一つに絞れよ」

「良いでしょ別に。てか俺らそんな話で盛り上がれるほど親しくないと思うんだけど」

「親しくない奴に普通合鍵の提案なんてしねぇんだよ」

 

 確かにそうだ。やっぱり今日は疲れてる。真島の話が頭に入ってこない……というか、そもそも真島が此処にいる事実に驚くべきなのに面白いくらいになんとも思わないの逆にウケるんだけど。

 今日一日が怒涛の連続で真島くらいじゃもう驚けないのかもしれない。麻痺してるよ麻痺。

 

「はい珈琲。砂糖とミルクは置いとくから調整しなね。あ、あと買い置きのお菓子あるから適当に摘んでいいよ」

「お前この状況分かってんのか?」

 

 真島は珈琲を受け取り、ミルクと砂糖を片手で器用に入れながらも、もう片方の手で持っている拳銃は変わらず此方を向いている。

 いつ殺されてもおかしくない状況下なのに、何故平然としていられるんだと、そう聞かれているのだろうか。

 

「……何か話があるんでしょ?だから此処に来た。ご丁寧にマンションのセキュリティまで突破して」

「どうかな、お前を殺すのが目的かもしれないぜ?」

「アンタの起こした可能性のある事件は一通り確認してプロファイリングも済んでる。アンタは無関係の一般人や民間人を無闇矢鱈に殺さないと俺は見てあげてんの」

「ハッ、お前もう無関係でも一般人でもねぇじゃん」

「民間の人間ではあるでしょ。あと割と善良だよ?」

「自分で言うのかそれ」

 

 犯罪歴どころか学歴までホワイトだかんね俺。お陰でリコリコに出す履歴書真っ白だったから。なんなら銃刀法違反だのハッキングだの、寧ろお店に来てから経歴に傷を付けたまである。しかも自分で。

 あそこが治外法権でかつそれが俺に適用されることを祈るしかない。信じてるよミカさん(震え声)。

 

「それに殺すだけならいつでもできたでしょ。会話を続ける理由がない」

「……一般人じゃないってとこは否定しないのな」

「いや否定する必要ないくらい一般の人だよ俺」

 

 そこ態々否定するのは逆に怪しいし、と続けようとした瞬間だった。真島が上着のポケットから何かを取り出した。

 俺に見せ付けるように突き出されたそれは、今日一日を通して話題の渦中にあった存在────梟のチャームだった。

 

「……アンタ、アランの援助を受けてるのか」

「ああ。だがこれは俺のじゃない(・・・・・・)

 

 そういって、梟のチャームを俺の眼前へと突き付ける。どういうことかと目を凝らし、漸く気が付く。その梟の裏側に、油性のペンか何かで名前が書かれているのを。

 ……俺はそれに、酷く見覚えがあった。真島は俺の反応が自身の期待するものだったのか、俺の顔を見た途端にニヤけた表情でそれを指さして、湿った声で囁くように告げた。

 

「────これ、お前のだろ(・・・・・)?」

「……流石に他人の机の引き出しを漁るのはアウトだと思うんです」

 

 それは、紛れもなくこの部屋にあった“アラン・チルドレン”の証だった。真島は知ったことかと鼻で笑い、そのチャームを振り子のようにぶら下げながら面白そうに呟いた。

 

「お前も俺やあのリコリスと同じって訳だ。道理で……」

「“あの”って……錦木のこと?彼女は俺なんかとは違うよ。それに、それは俺のものじゃない」

「あん?この裏に書いてあるのお前の名前だろ?」

「なんで俺の名前知ってるんだよ」

 

 真島がチャームの裏に油性ペンで書かれた名前を見せびらかす。子ども文字で『ほまれ』と書かれたそれは、過去を呼び起こすきっかけには充分過ぎた。

 

「子どもの頃に母親に欲しいってせがんだんだよ。あの人は『ただの飾りだから』って無頓着だったけど」

「……ってことはお前の母親もアランチルドレンだったのか」

「どっちかっていうと支援する側だったけどね」

「すげ、マジかよ」

 

 俺の話を聞いて飛び上がる程にテンションを上げる真島と打って変わって、俺のテンションはだだ下がりだった。

 ただでさえ疲れててこの手の話にうんざりしてるというのに、何故リコリコのメンバーにも話したことのないことをよりにもよってコイツに話さなきゃいけないのか。

 

 だが、吉松と対峙したあの場に居合わせたたきなには、もしかすると推測を立てられてしまっているかもしれない。だから、彼女らに話すのも時間の問題だろう。

 

俺の母親────朔月祀(さかつきまつり)は、アランにその才能を見出されたアランチルドレン。

そして彼女自身もまた数多の才能を世界に届ける役目を担った、アラン機関所属の人間だった。

 

 

「……ホント、気分悪い」

 

 

 ────だからこそ、だからこそだった。

 たきなに話して欲しくはなかったのだ。アラン機関と繋がりを持つ吉松に、自分という存在が残っている事実を。

 アラン機関の存在も思想も狂信的な行為も、世界の不条理も酸いも甘いも嫌という程に見てきている。俺があの組織に抱いているのは、決して良い印象ばかりではないのだと。

 

 真島はテレビ横の棚へと視線を向けた。そこには、伏せられた写真立てが数枚。俺のだけでなく、母親の写真も一応はあった。けれど下に伏せ、誰にも見られないようにとひた隠している。

 

「棚の写真伏せてあっけど、母親嫌いなの?」

「や、俺は好きだった……と、思う。あの人の方は……どうかな。愛されてた自信無いけど」

「あの人って……冷たいねぇ、母親だろ?」

「正確には育成担当者だ」

「んあ?血ぃ繋がってねぇの?生き写しかってくらい顔似てるけど」

「血は繋がってるよ。ただ、世間一般で言うところの“家族”だったかどうかは……ちょっと分かんないな」

 

 ハッキリ言って自信がない。誕生日の度に帰って来てはくれていたけれど、祝いの言葉も、プレゼントも、あの頃は何もかもが形式的に思えていた。

 ミカさんに『良い母親』だと言われた時も、素直に肯定する事はできなかった。

 

 あの人の本性を、内に秘めた感情とも呼べない機械染みた理屈の塊を、いつしか世間でいうところの母親とはとても思えなくなってきていた。

 俺はあの人の、何を知った気になっていたのだろう。

 

「ふーん……じゃあ、お前は支援されてねぇのな」

「アランは別に慈善団体でも平和推進機関でもないからね」

「いいねぇ、分かってるじゃねぇの。奴らは才能ってのに純粋なだけさ。良くも悪くもな。じゃなきゃ殺しを肯定なんてしない」

 

 アランについて知ったように語りながら、ソファーから立ち上がる真島。心做しか満足そうに笑っている。

 そのまま俺の隣りを横切り、玄関へと続く道へと足を進めていく。

 

「え、何、もう帰るの?」

「ああ、聞きたいことは大体聞けたからな」

「てっきり錦木のこと聞かれるかと思ってたけど」

「あのアランのリコリスか?それは本人に直接聞く」

 

 ────それを聞いた瞬間、俺はバックから借り物の拳銃を取り出した。ミカさんから託された錦木千束が使用しているのと同じ銃。

 真島のその背にしかと突き付ければ、奴はゆっくりと振り返り、俺を見て笑った。

 

「おいおい止めとけよ、死ぬぜ?」

「どうかな。致命傷を与えるくらいはできそうだけど」

「……それ、この前使ってたゴム弾だろ?駆け引きはまだまだだな」

「試してみる?ここ防音だし一発撃っても外からじゃ分かんないよ?」

 

 そう言いつつも内心で小さく舌打ちする。非殺傷弾であることを知られてしまっている以上、この密閉空間で実際に戦闘して不利に働くのは俺の方だった。

 しかしそれでも、奴を錦木のところに行かせるわけにはいかない。コイツはアランに詳しいのかもしれない。今コイツに現実を突き付けさせるわけにはいかないのだ。

 すると真島はニヤけた顔を変えず、俺の胸元へと視線を落として告げた。

 

「それにその心臓(・・・・)じゃあ、ちと力不足だ」

「────……っ」

 

 右手で銃を突き付けながら、左手で胸元を強く握り締めた。そして真島がアランから見出された才能に震える。その聴覚は、他人の心臓の音までもを鼓膜に届かせることを可能にするのか。

 

「常人の半分もまともに動いてねぇ。いつ死んでもおかしくねぇな」

「……あんまり聞きたくなかったなぁ」

「また会う時までくたばるなよ。お前ともまた()りてぇからよ」

「戦闘狂め……」

「ハハッ、じゃあな」

 

 そう言って真島は、片手をヒラヒラと振り上げながら部屋を後にする。そうして玄関から出て行き、本当に帰ってしまった。それを自覚すると、未だ突き付けていた銃口が行き場を失い、力無くその腕を下ろした。

 今日一日がずっと怒涛過ぎて、漸く身体の疲労を実感する。先程まで真島が座っていたソファーへと腰掛け、項垂れるように俯いた。

 

「……勘弁してよ、もう」

 

 真島は結局、ただ話をしに来ただけなのか。

 いや、恐らく他の部屋も漁られてるはず。俺個人のことはこの部屋の中で完結してしまっている。そこを探られてしまったのなら、知って欲しくないところまで知られているかもしれない。

 この場で殺さなかったことも、恐らく奴なりの犯罪の美学や、掲げている正義があるのかもしれない。

 

「…………っ」

 

 拳銃を目の前のテーブルに置き、その手で再び心臓に触れた。振動も、音も、何も聞こえない。生きているか死んでいるかさえ触れただけではもう判断がつかない。

 いつ死んでもおかしくない……か。

 

 

「……アンタに言われなくても、分かってるんだよ……」

 

 

 思い出すのはいつだって。

 

 千束とたきなの顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 翌日、リコリコは平常通り稼働した。

 常連客で賑わい、従業員もいつも通り接客をしているように傍目からは見える。

 けれど、それぞれが何かを抱え、すれ違いを見せていることに、この時は誰も気付かないでいた。

 

 

 ────錦木千束。

 

 

 ────井ノ上たきな。

 

 

 ────朔月誉。

 

 

 

 

 タイムリミットは、今か今かと迫っている。

 

 







誉 「勘弁してよ、もう……」

誉 「…………」

誉 「……あ、アイツ結局片付け有耶無耶にして帰りやがった……あのバランス野郎……!」

誉 「勘弁してよもう……!」

誉 「…………」

誉 「……え、てかアイツどうやってこの部屋に?セキュリティもどうやって?え、うわ!寝室にまで入ってんじゃんふざけんなよアイツ!!」

誉 「勘弁しろぉ!!」


※あの後じわじわ来た。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

IF.2 Limit Engage






初めから、救いなどないのだとしたら。
初めから、幸せなどないのだとしたら。
────それは、どこかの世界で辿るかもしれない、有り得たかもしれない、逃れられないかもしれない未来の“もしも”。




 

 

 

 

 

 

『っ……誉、さんが……好き、です』

 

『……ぇ』

 

 ────予感はあった。可能性も考えていた。

 

 それでもそんなはずはないのだと決めつけて、切り捨てた考えだったからこそ、たった今目の前の彼女から発せられたその言葉を聞いて、ただただ驚いた。

 

『これ、クリスマスプレゼントです。受け取って貰えると、嬉しいです』

 

 聖夜のイルミネーションに囲まれた、巨大なツリーの真下で。これ以上無いシチュエーションで、いつもとは違う服に身を包み、珍しく化粧までして全身を着飾る彼女の真っ直ぐな言葉と、両の手で差し出された小包に気圧されて、俺は身動きが取れなかった。

 

『……っ』

『……!』

 

 驚きで動けずにいる中、バチリと彼女と視線が交わる。

 

『────……た、きな……』

 

 俺はこれまで、彼女のこんな表情を見た事があっただろうか。

 出会った時はまるで氷のようで、機械のようで、無機質で無表情だった彼女が、相棒の千束と出会い、日々を重ねて毎日を楽しく過ごすようになってからというもの、誉がどれほどその成長にどれほど歓喜し、表情をコロコロと変えるようになった彼女に、魅力を感じていた事か。

 

 熟れた果実のように赤らめたその顔を、直視出来ずに視線を彼女が突き出したプレゼントへと落とす。指先、いや腕が寒さからか、はたまた緊張と恐怖からか震えていて、こちらの言葉を、俺の返事を、この恋慕の結末を今か今かと待ち構えていて。

 

『……ありがとう、たきな』

『……っ』

『嬉しいよ、凄く。勇気出してくれて、ありがとう』

 

 異性に対する告白がどれだけ緊張するだろう事かは誉にも分かっていた。そこから感じ取れる彼女の覚悟、これからの関係が変わる事を恐れない勇気。

 それが錦木と共に歩いた事による記録と記憶の結果なのかは分からないけれど、それでも彼女の在り方は大きく変わった。

 それを嬉しいと思うし、愛しいとさえ。

 

 

『────でも、ごめん』

 

 

 ────だからこそ、震えながらも自分の想いをぶつけてくれた彼女に、嘘を吐かなければならない。

 絶対に、彼女にだけは知られたくないと思った。成長し続ける彼女と対極にいる、どんどん衰えていく自分の姿はあまりにも釣り合いが取れてなくて。

 

 

『────……ぇ?』

 

 

 頬を赤らめていたたきなの表情は、誉のその一言で消え去る。

 それが痛々しくて見ていられないほどに。これ以上の事を、話したくないとすら思うほどに。

 

 ────それでも。

 

 本当なら正直に、全てを伝えてしまいたかったけれど、そんな勇気なんてなくて。彼女の表情がこれまで過ごす中で一度も見た事が無いような、そんなものに変わっていってしまったから。

 それがもう、これ以上見たくないと思ってしまうくらいで。

 

 

『……っ、ぁ…………そう、ですか…………』

 

 

 その声は震えていて、か細く消え入りそうで。

 申し訳なさそうにする俺の事を、見たくない、聞きたくないと俯いて。それでも伝え切らなければならないという意識が、義務にも似た使命感が突き動かしていて。

 

 

『……ごめん、たきな』

 

 

 顔を上げ、目を見開いていて。

 大粒の涙が溢れて、重力のままに零れ落ちていて。

 僅かだが気合いを入れてきたのか慣れない化粧や装飾品、彼女を引き立てる、いつもの制服とも和服とも違う私服姿。錦木に見繕って貰ったのだろう。

 それらの彼女の努力全てを、今この時この瞬間に破壊して踏み躙った。

 

 

 

 

 ────自分は、彼女に伝えられてない事がある。

 

 

 

 

『────……ほんとうに、ごめんねっ……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────きっと、あの時のたきなの表情を、生涯忘れる事はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

IF Story.2 『 Limit Engage(リミット・エンゲージ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 ────二月十四日。

 

 

「あ、伊藤さん、北村さん」

「ん?」

「何?どうしたの?」

 

 閉店後、いつものようにボドゲ大会もたけなわの最中、そろそろ時間が深夜帯に差し掛からんとする時間帯になり、各々が解散の支度を始める。

 そんな中で誉は、常連の女性客である伊藤と北村が身支度する傍らまで赴くと、持参のエコバッグの中から赤いリボンでラッピングされた透明な包みを二人に差し出した。

 

「……何これ?」

「チョコクッキーです。バレンタインデーは大切な人達にチョコをあげる風習があるってミズキさんから聞いてたんで、俺からお二人に」

「いや普通は女の子から……て、えっ、朔月くんの手作り!?」

「はい、一応」

 

 そう答えると二人は互いに顔を見合せて、誉の手元に収まっていた包みをそれぞれ受け取ってくれた。キラキラとした表情で眺めていて、何だかこそばゆい。

 ココアパウダーと砕いたチョコが主体のの簡易的なクッキーではあるけれど、如何せん初めて作っただけにかなり時間がかかった。味に問題は無い……はず。

 

 当の誉はつい最近まで知らなかったが、本日二月十四日はバレンタインデーと呼ばれており、大切な人にチョコレートを贈り物として渡す風習があるのだという。

 誉にとっての大切な人───それは、この店に来てくれるお客さん達に他ならない。バレンタインを最近知ったばかりだったので念入りに準備できたとは言い難いけれど、材料揃えて昨日の内に沢山作っておいて正解だった。

 

 ……まあ、女性から男性へ贈り物をするというのが一般的だが、誉が知ってるはずもなく。

 

「ほい、クルミとミズキさんもどうぞ」

「おー、さんきゅ」

「……アンタ、クッキーの意味分かってる?」

「え…… ああ、確かオランダ語で『小さなお菓子』を意味する“クーク”という言葉が由来ですね。 なんでも、ケーキを焼く前に温度や味を確かめるために少しだけ生地を焼いていた事から生まれたお菓子って説があるそうです」

「違う、そうじゃない」

「何でそんな知識持ってんの……」

 

 相変わらずなんかズレてる。恐らく二人もそういう事を聞きたかった訳じゃないのだが。伊藤と北村は顔を見合せて小さく溜め息を吐く。ミズキに代わり、続けて問いを重ねてきた。

 

「そうじゃなくて、クッキーを渡す意味」

「……なんかあるんですか?」

 

 誉は思わず首を傾げる。え、なんかあるの?皆さんお察しだろうが、誉は案の定何も知らなかった。

 咄嗟に見渡すと、常連のお客さん達もクルミやミズキ達と顔を見合わせ、困ったような笑みを浮かべたり、溜め息を吐いたりである。え、怖い怖い。作ってきたものにマナーやモラルがあったのだろうか。

 

「え……あの、クッキーだと駄目なんですか?」

「いや、駄目じゃないんだけど……」

「クッキーに『あなたとは友達で』って意味があるのよ」

 

 歯切れの悪い北村に代わるようにミズキが答えてくれた。“あなたとは友達で”……?え、良いじゃん別に。何も間違った事してな……い……や、待て待て、もしかして、そういう事……?

 誉は口元をわなわなと震わせる。

 

「……皆さんは、俺に友達だと思われるのは、嫌だって事ですか……?」

「違う、そうじゃない」

「なんで頭良いのにこんなに馬鹿なの……」

 

 伊藤とミズキが再び溜め息を吐き出す。なになにどういうことなの、とカタカタ震えていると、ミズキはメガネの縁を持ち上げて位置を整えると、誉に向かって問いかけた。

 

「バレンタインとホワイトデーの贈り物には、渡すものによってそれぞれ意味があるのよ。だから、渡した時に相手に気持ちを伝えられるってわけ」

「……花言葉、みたいな事ですか?」

「そゆこと。キャンディーなら“あなたが好き”、マシュマロなら“あなたが嫌い”みたいなね」

「……それ結婚雑誌に載ってたとかじゃないですよね?」

「ちっがうわ!!」

 

 折角アタシが丁寧に教えてあげてんのにぃ!と誉の作ったチョコクッキーをガシガシと齧り倒すミズキ。『ツマミにならねぇんだよぉ!!』と涙を流しながら日本酒を仰いでいた。泣くなよ。

 哀れに思いながら眺めていると、隣りで北村がニヤけた表情でこちらを見上げていて。

 

「朔月くんも、今日結構な数チョコ貰ったでしょ〜」

「え?……ああ、まあ……所謂義理チョコとか友チョコとか」

 

 意外と数多いんだよなぁ……食べ切れるかなぁ、誉がまたズレた事を考えてると、伊藤が片手をヒラヒラさせて呆れたように呟く。

 

「いやいや、本命だってきっとあったわよ」

「……キャンディーは貰ってないですけど?」

「ミズキちゃんが言ってたのは間違いって訳じゃないけど……どっちかっていうとホワイトデーのお返しで贈る時の方が浸透してるのよ。貰ったのだって、大抵チョコでしょ?」

 

 確かに、クッキーとかじゃなくて純粋な普通のチョコレートが主だった。では、彼女達がどういう気持ちで自分にチョコを贈ってくれたのかを汲み取る事ができないという事か。気持ちを察するというのは、今の誉にとって凄く難しい事だった。

 

「奥が深いですねバレンタイン。……知らないこと、まだまだ多いなぁ」

「アンタ節分も知らなかったでしょーが」

「万聖節は知ってましたよ」

「ハロウィンをそんな固い言い方するのアンタだけよ」

 

 相変わらず固い表現である。誉にかかればクリスマスはキリスト降誕祭、お正月は元旦、雛祭りは桃の節句である。固過ぎ。

 ……まあ、でも贈り物の意味を知らなかったとはいえ、期待を無駄に持たせてしまうより偶然にもそういった意味合いを含むクッキーを渡せたのは、返って良かったのかもしれない。

 

「あーーー!クッキーーーー!」

「あー、喧しいのが来た」

「っ……錦木」

 

 振り返ると皿洗いから戻って来た千束が、大声で誉の手元の紙袋を指差して駆け寄って来た。ミズキの言い草に、誉は苦笑しながらその紙袋からクッキーの包みを取り出した。

 

「はい、錦木の分」

「いいの!?やったー!」

 

 千束は嬉しそうにその包みを誉の手から受け取ると、瞳を輝かせながら見つめ始めて微笑んだ。

 

「えー何これ美味しそう!何処のお店?」

「お店?材料の話?小麦粉とか砂糖とかは近場のスーパーだけど……」

「……え?」

「え?」

 

 素っ頓狂な顔の彼女と視線が交わる。千束は誉と自分の手元のクッキーの包みへと交互に視線を動かして、もしやと口を開いた。

 

「……手作り?」

「一応、ね」

「……マジか。朔月くん凝り性だと思ってたけど遂にここまで来たか……先生、これいつでも引退できるよ」

「そうだな」

「ヤベェ継がされる。ちょ、勝手に決めないで」

 

 あれよあれよという間にリコリコ継承の流れ。慌てて手を振って拒否すると、千束はニヤついた表情で首を傾け、

 

「いーじゃん別にぃ〜、将来的にこの店を私と切り盛りするのも楽しそうじゃない?」

「……そりゃ、まあ、なに……楽しそう、だけど」

「でしょでしょ?ふひひっ」

「やめてその笑い方気持ち悪い」

「言ったなキサマァ」

「冗談、冗談だって」

 

 誉は笑いながら、拳を振り上げる千束から逃げようと二、三歩後退した時だった。背中に軽く衝撃が走り、瞬間女性の甲高い声が聞こえた。

 誰かとぶつかったと理解し、謝罪しようと慌てて振り返ると────

 

「あ……」

「……っ」

 

 その先に居たのは────井ノ上たきな。

 ここ一ヶ月、気不味さからまともに会話ができてなかった人物だった。目が合った途端、たきながバツの悪そうな顔になって視線を逸らし、誉の横を通り過ぎる。カウンターまで来ると、ミカや千束達を見渡して頭を下げた。

 

「……お先に失礼します。皆さんお疲れ様でした」

「ああ、お疲れ様」

 

 ミカの言葉にペコリと頭を下げて返事すると、そのまま店の入口へと背を向けて歩いていく。北村がその背に向かって慌てて声をかけた。

 

「えー、もう行っちゃうの?たきなちゃん」

「……すみません、予定があるので」

 

 それだけ言うと、また一瞬だけ視線が誉と交わった。その瞬間から逃げるように視線を外され、その扉に手を掛けて出て行ってしまった。

 最近、お客さん相手にも自分の感情を出せるようになったたきなにしては、明らかに素っ気無い態度。今日の、いや連日の職務内容を見れば、流石に常連なら分かる彼女の異変と、その原因。

 暫く静寂が続いた後、眉を寄せた伊藤が誉に尋ねた。

 

「……アンタ達まだ喧嘩してんの?」

「……喧嘩じゃ、ないです」

「箱入りで常識知らずの朔月くんが悪いって聞いてるけど」

「だ、誰がそんな本当の事を……?」

 

 箱入りで常識知らずは余計だが後半は間違ってなかった。伊藤のその言葉に誉はもしや、と振り返る。予想していた千束────だけでなくミズキやミカ、はてはクルミまでもが一斉に視線を逸らした。

 ……つまり、全員に自分の所為だと思われている。その事実に、誉は余計に落ち込んだ。その様子を、卓に座って見上げる伊藤と北村。

 

「……なーんか、今回は長いわよね」

「原因は何なの?」

「え……ああ、いえ、色々あって、そんな大したことじゃないですよ」

「……恋愛絡みとみた」

 

 怖ぇよ伊藤さん。

 何で分かんの。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 ────そうして、全員が帰宅し店じまいが粗方片付いた時のことだった。

 

「……ねぇ、ちょっと」

「っ……はい、何でしょう錦木さん」

 

 ピシャリと、冷たい声で呼び止められて。思わず背筋が伸び、直立したまま固まる誉。振り返れば、案の定不機嫌顔────いや、弱冠ではあるが間違い無く怒っている、そんな表情の錦木千束が立っていた。

 今の誉は和服に袖を通し終えたばかり────つまるところ更衣室であり、入口にも『着替え中』の立札を立てていた訳で。

 

「……あの、此処更衣室なんだけど」

「もう着替え終わってんだから別に良いじゃん」

「逆の立場ならキレ散らかしてる癖に……」

 

 やはりと言うべきか、千束は此方に用事があったらしい。しかも、彼女の表情から察するに決して良い話ではない事は明白。

 

「君の所為で私の相棒の元気が無いんですけどぉ〜……一体いつになったら仲直りしてくれんのさ」

「っ……や、別に喧嘩してる訳じゃ……」

 

 案の定、予想していた内容。

 彼女の相棒である井ノ上たきなの様子がおかしいと、恐らくその原因であろう誉に直談判しに来た、といったところだろう。誉も心当たりがないと言い逃れできるはずもなく、それを表情にまんまと出しながら目線を今更ながらに逸らした。

 

「もうそれずっとゆってるけど、たきなが仕事に集中できてないの相当だから」

「……俺の所為って決まった訳じゃ……」

「ね、それ本気で言ってる?」

 

 ────ふと、冷たく聞こえたその声に思わず視線を戻せば、そこには真剣な表情で此方を見つめる千束がいた。両腕を組みながら、誉を行かせまいと入口に寄りかかって。

 

「……俺、もう帰るから」

「たきなのこと、振ったの?」

「……っ」

 

 ────その問いに誉は息を飲んだ。唇を噛み締め瞳を逸らす。脳裏に蘇るのは聖夜の出来事で、自分が想いと贈り物を拒絶した時のたきなの表情だった。

 靄がかかる事もなく、鮮明に呼び起こされる記憶。思い出したくないと意識すればする程に、彼女の悲哀に満ちたその姿が焼き付いて消えてくれない。

 

「……朔月くんは、たきなのこと嫌い?」

「そんなことっ……ない、けど……」

 

 食い気味に否定し、思わず俯いた顔が上がる。瞬間、真っ直ぐに此方を見据える千束の瞳に飲まれて我に返った。ロッカーの戸に手を触れて、苦しげに下を向く。

 

「俺は、ずっと一緒には居られないから」

「……病気のこと、まだたきなに話してないの?」

「……言ってない。ただ、“ごめん”ってそれだけ」

 

 後天性の心疾患。過度な運動どころか、最近はただ歩くだけでも負担を感じ始めていて。余命宣告された月日はとっくに過ぎているけれど、誤差でもある。体感的には、あと一、二ヶ月保つかどうか。

 別れが必然なのにたきなの想いに応えるなんて事を、するべきなのかどうかが分からなくて。

 

 理由もなく、ただ“ごめん”と、それだけだった。

 彼女は何故、とその理由を求めているかもしれないのに、それだけ伝えて彼女から逃げ帰ってしまった。

 

「言わなくて、良いの?」

「……言えないよ、今更」

 

 千束も、ミカもミズキもクルミも、誉の病気の事は知っていた。けれどたきなだけにはまだ話せてなかったのだ。いつかバレると知っていたのに、弱いところを見せたくなくて、必死に隠して誤魔化して。

 それでも、最初は決して隠してた訳じゃなかった。後から配属になったたきなには、中々に伝える機会が無かったと言うだけ。後回しにしてしまえば、それだけ伝えることが躊躇われていった。

 

「此処に来るまでのたきなってさ……いつも仕事優先みたいな感じで、機械みたいに冷たい印象だった。それが、この店のみんなと触れ合って、漸く楽しそうに過ごしてくれるようになったんだ。それを……」

「……朔月くん」

 

 これは、言い訳だろうか。

 病気だから、不治の病だから、最後まで一緒に居ることはできないから。そんな理由を並べ立てて、想いを拒絶するのは、残酷なことなのだろうか。

 

 自分がそれを伝えたらまた曇らせてしまうんじゃないかと考えるのは、烏滸がましいだろうか。自意識が過ぎるだろうか。それなら寧ろ、伝えてしまえば楽になるだろうか。

 既に、たきなとの関係はクリスマスのあの日に決まってしまったというのに。

 

「……あー、良いなぁ、たきなは」

「え……え?な、何が?」

「べっつにぃ〜?」

 

 千束は口を尖らせてあさっての方向に向くと、そのまま更衣室から離れていく……と、思いきや振り向いて、平たい正方形の木箱を突き出してきた。

 

「ん」

「ん……ん、うん?」

「ハッピーバレンタイン。一応、私からも」

「え……あ、ああ、うん……ありがとう……」

 

 瞳を逸らす彼女の頬は、心做しか赤みがかっていた。おずおずと受け取ると、その木箱からはずしりと重みを感じる。開けてもいいかと瞳で訴えれば、彼女はコクリと小さく頷いた。

 その木箱の蓋に手を触れ、ゆっくりと開ける────その瞬間、ミズキや伊藤に聞いた贈り物の種類による意味合いの話を思い出していた。キャンディーなら好きで、マシュマロなら嫌いで。先程気になって色々調べたのだが、マフィンやマカロン、ガトーショコラなどにも意味が付随するらしい。

 

 それを踏まえると、今から開けるこの蓋の中身には自分に対する千束の気持ちが内包されている可能性があった。そう考えると、急にドキドキしてきた。

 彼女は何を作ったのだろうか。彼女のことだ、奇を衒った変わり種を作っているかもしれないし、意外と乙女なこともあるからちゃんと意味を理解してチョコを作っているかも……いや、もしキャンディとか入ってたらどうする。どうしたらいいどう答えたらいい何を考えたら────

 

「……ん?」

 

 恐る恐る開けた木箱には、一面“黒”が敷き詰められていた。しかし、チョコと呼ぶには淡い気もするし、柔らかい気もする……え、何だこれ。

 

「千束さん特製チョコレートおはぎだよ!お試しあれ〜!」

「……おはぎ?」

 

 ────まさかのおはぎ。しかもチョコレート入りと来た。

 おはぎって何そのチョイス。どういう意味が込められてんだこれには。やはり千束は奇を衒ってきた。予想通り過ぎて笑えてくる。

 

「……はは、ありがとう錦木。味わって食べるよ」

「うんっ、後で感想聞かせろよぉ〜?」

「はいよ」

「よろしい。……ああ、それと朔月くん」

 

 今度こそ更衣室を出ようと背を向けた彼女が、再び此方に目線を寄越す。交わる瞳が揺れる中、彼女は瞳を細めて口元に弧を描いてみせた。

 

「たきなは強い娘だよ。なんたって、この千束さんの相棒なんだから」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

「…………」

「こんばんは、誉さん」

 

 高層マンションが立ち並ぶその一角、そこに今住んでる部屋があるのだが……その入口に見た事ある制服の少女が立っていた。

 

「……何故居るのたきな」

「誉さんを待ってました」

「何故住所が割れてるの」

 

 この住所はリコリコでバイトする上でミカに形式的に渡した履歴書でしか教えた事がない。個人情報をミカが簡単に開示するとは思えない。彼女が此処にいる理由が分からず絶句するしかない。

 

「クルミから聞きました」

「あんのロリハッカー……って」

 

 許せねぇよあのネズミ。あ、リスか。違う、そんなんはどうでも良い。どうしてたきなが此処に……とそこまで考えて気付く。まだ春と呼ぶには寒過ぎる気温の中、制服に身を包んだだけの彼女を見て思わず自身の上着を脱いでたきなに羽織った。

 

「寒いでしょその格好……防寒くらいしなよ」

「っ……ありがとう、ございます……」

 

 心做しか鼻の頭が赤い。律儀にこちらの帰りを待っていたのか。そう思うと、特に約束をしていた訳でもないのに申し訳ない気持ちになってくる。

 

「……あー、えと、俺に用、なんだよね。良かったら、あがる?」

「……お邪魔、します」

 

 小さく、コクリと頷くたきなを尻目に、誉はマンション入口の自動ドアを通過する。エントランスにあるセキュリティを解除し、エレベーターへと向かう。その間、後ろで無言でついてくるたきなを見やれば、珍しいものを見るかの如く辺りをキョロキョロ見渡していた。

 

「……めっちゃ豪華ですね」

「そ、そう?あんまし気にしたことない……」

 

 初めて見るものの感動からか、語彙力が幼くなるたきな。そのままエレベーターで最上階のボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと上っていく。

 

「誉さんって何かの御曹司とかですか?」

「何かの御曹司って何……親が借りてた部屋をそのまま使ってるってだけだよ。お金なら働かなくても良いくらいあるって話だから」

「……誉さんって嫌な人だったんですね」

「何でよ」

 

 あっても使わないんだしこういうところで消費しとかないと、と言い訳染みたことを呟きながら、視線は彼女が持っていた大きな買い物袋へと落ちていく。

 

「……買い物帰り?」

「……ええ、まあ。夕飯はお済みですか?」

「一応、リコリコで簡単に済ませちゃったけど……ダメだったかな」

「そうですか……いえ、問題ありません」

 

 下を向くたきな。それ以上は何もなかった。

 それでも、クリスマス以降初めてのたきなからのアクションに、誉はただただ困惑していた。な、何だ、夕飯をご馳走してくれる予定だったのだろうか?分からない、何だこれ。

 戸惑いながらも最上階へ辿り着き、緊張が走る中玄関を開ける。先にたきなを通させると、リビングに辿り着いた彼女から発せられた一言がこちら。

 

「……凄っ」

「うわ、語彙力」

 

 たきなが目を見開いて辺りを見渡している。高層マンションの最上階で窓の外が街の光で絶景ときた。部屋はファミリーで過ごす事を想定した広さであり、一人で暮らすなど確かに贅沢が過ぎるかもしれない。

 

「……一人で住むには広過ぎませんか」

「まあ……でも、引っ越すのも面倒だったし……」

 

 そっか……俺、嫌な奴だったのか……と何気にたきなの言葉にショックを受けていると、たきながクルリと振り返り、何かに意気込んだように鼻を鳴らした。

 

「では、あの……キッチンをお借りしても良いですか?」

「え……ああ、うん、別に良いけど……えと、用件っていうのは」

「それは……作ってから伝えます」

「あ、はい……」

 

 そう一言告げるとたきなが横を通り過ぎ、そのままキッチンへと赴いた。その背を追い、袋から材料を取り出そうとするたきなと目が合う。

 

「……あの、手伝おうか?」

「いえ、誉さんは寛いでてください」

「わ、分かった……ああ、そうだ食器とか器具とかの場所教えとくね」

 

 そうして一通り器具の場所を教えると、たきなは『座っててください』と俺の背を押してリビングへと追いやった。何だか除け者にされたみたいな孤独を感じながらもすぐ傍のソファーに腰掛けてたきなを見やった。

 

 物凄く真剣な表情で材料と向き合っていて、その形相が完全に仕事のそれである。既にオフの時間であるにも関わらず失敗は許されないと言わんばかりの面持ちで、何故かこっちまで緊張感を覚えて思わず苦笑した。

 

 

────“……朔月くんは、たきなのこと嫌い?”

 

 

「……そんなわけあるかよ」

 

 誉はそんなたきなの姿を見ながら、先程千束に言われたことについて考えていた。自分がたきなの事をどう思っているかについてだ。

 

 ここだけの話、もしこちらの自意識過剰とかじゃないなら、告白される前からたきなは自分に対して憎からず思ってくれているというか、何なら好意的に見てくれているんじゃないかと思っていた。

 男性経験どころか人間関係にも疎いだろう部分は見て取れるが、普段の距離の近さや歯に衣着せぬ直接的な物言いのお陰で寧ろ『もしかして俺の事……』と思ってしまう時があったのだ。

 

 以前みんなで観光に行った際にはぐれてしまった彼女の手を引いた際も抵抗は無かったし、色々あって入院する機会があった際はほぼ毎日お見舞いに来てくれていた。

 それから既に数か月経っているが、その間にもひょっとしてと思う場面がなかったわけじゃない。

 だから、きっとたきなはそれに近い感情を結構前から自分に対して持ってくれていると思う……多分。多分ね?違ったら恥ずかしいから断言しないけど。

 

 ……それに対して、誉はどうか。

 こう言ってはなんだが、誉はこれまでに女性とお付き合いしたことがない。それこそ千束やたきな達と友達付き合いの中で出かけたことぐらいは数度あるが、恋人関係に発展した事はない。

 つまるところ……本当に情けないのだが、女性に対して彼はそこまで免疫がある訳ではないのだ。

 

 それを踏まえて、ちょっと考えて欲しい。

 そんな誉に対して、たきなは懐いてくれている。普段は表情の変化に乏しい彼女だけど、自分が話かけると微笑んでくれて、お見舞いに来た時は普段よりも明るく挨拶してくれる。暇潰しと称したこちらの話に付き合ってくれて、最近は自分が淹れる閉店後の珈琲を楽しみにしてくれて。

 再度言うが、誉は女性に免疫がない。そんな彼に、たきなは明らかに好意的な態度を分かりやすく行動で示してくれているのだ。

 

────もうハッキリ言おう、好きにならない訳がないんですよ(逆ギレ)。

 

 余命という問題だけが誉を思い留まらせている点であり、もし彼が至って健康的な状態で今と同じ状況下に置かれていれば既に告白し直してフラれてるまである。フラれちゃうのかよ。

 それほど、誉はいつの間にかたきなに惹かれていた。

 

「……」

 

 クリスマスに告白された時だって、感情が思わず口から溢れてしまいそうだった。愛おしくて、理性を破壊してでも想いを伝えたいと感じた。

 それでも、幾ばくかの時間しか残されてない自分が彼女にそれを伝えても、いずれ自分が居なくなってしまうのであれば、それはぬか喜びと変わらない。

 

 病気のことを、もうすぐ死ぬのだと彼女に伝えることが怖かった。それを告げた瞬間、奇異の目で見られてしまうことが嫌だった。それを伝えた途端、たきなにどんな顔をさせるのか、自分がどんな風に見られ、思われるのか。

 それを考えるだけで、何故かとても恐ろしく感じた。

 

 ────……いや、これは言い訳だ。

 

「……ん」

 

 ふと、顔を上げる。キッチンの方から仄かに甘い香りが漂ってきて意識が切り替わる。これはもしや……チョコレートだろうか。

 そうして意識してしまうのは、今日がバレンタインデーであるという事実。思えば自分は、たきなにクッキーを渡してないし、彼女からも何も受け取っていない。自惚れじゃないのだとしたら、もしかしたらたきなは現在進行形で自分にチョコレートを作ってくれているのでは……。

 

「お待たせしました」

「……っ」

 

 ま、まずい、途端に緊張してきた。たきなの一言で身体が強張る。思い出されるのは、ミズキ達から聞いた贈り物に備わる意味合いのことだった。

 確かキャンディーなら“貴方が好き”、マシュマロなら“嫌い”、確かクッキーは“友達で”だったよな……彼女からは既に言葉として想いを聞いてはいるけれど、それを拒絶し煮え切らない態度を取りまくっていた自分にはほとほと愛想が尽きて────

 

「……あの、どうぞ」

 

 そうして目の前に置かれたそれは、予想していた全てのものに該当しなかった。グラスに近い容器には、チョコレートソースだけでなく固形のチョコに生クリームやアイス、バナナといったフルーツまで添えられていた。

 

「バレンタインなので、特製チョコレートパフェを作りました」

「────……」

 

 ……ぱ、パフェ……?チョコレートの?

 これは…………何だ、どういう意味だ。奇を衒ってるのかこれは。千束と一緒かこれは。

 贈り物の意味を測りかねて困惑していると、たきなは慌てたように言葉を重ねる。

 

「っ、あ、あの時とは見た目も変えたのでっ……良かったら、食べてみてください」

「あの時って……ああ」

 

 そう言われてふと思い出す。リコリコが以前経営破綻寸前に陥った際にたきなが考案した新メニューが目の前のもの同様チョコレートパフェだった。人気ではあったのだが見た目に問題があり、それに気付けなかったたきなが大恥をかくという盛大な面白案件があったのだった。

 

「……えと、じゃあ、いただきます」

 

 おずおずと、デザート用のスプーンでチョコレートソースのかかった生クリームとアイスを一緒に掬い取り、口に含む。ヒヤリと冷たいバニラの甘さと生クリーム、そしてチョコの甘さが合わさって、普段リコリコで味わう和風テイストの甘味とはまた違う感覚を味合わせてくれる。

 

「……美味っ」

「っ……ホントですか?」

「ホントホント……一口食べる?」

「えっ……あ、いや……」

 

 たきなが何やら慌てているが、それに気付かず誉はそのままスプーンでパフェを掬い、テーブル横で正座するたきなの口元へとそれを伸ばした。

 

「ほい、あーん」

「ぇ……えぇ……あ、あーん……」

「……っ、ぁ」

 

 差し出したスプーンをたきなが口に含んだ瞬間に気付く誉。あ、これは俗に言う恋人がやるやつでは……というか、関節キ……や、よそう、これ以上は互いに恥ずかしい。

 たきなは口元を片手で覆い、気恥しそうに呟いた。

 

「……美味しいです」

「っ……ま、前から思ってたけど、たきなって料理上手だよね」

「……こんなの、料理とは呼べませんよ」

「まかないで出してたゼリー飲料とかと比べたらちゃんと料理だと思うけど」

「わ、忘れてください」

「食事のこと摂取って言ってたもんなぁ」

 

 懐かしいと微笑むと、つられてたきなの表情も柔らかいものになった気がした。

 

「……渡せて良かったです。事前に連絡したら、避けられるかもしれないと思って……」

「……ぁ」

 

 ────ただ、愛おしかった。

 彼女への積み重なった想いを自覚する。この一ヶ月間、避けに避けた罪悪感が、ひとしおに押し寄せてくる。

 

「……そう、だよね。俺、ここ最近態度悪かった」

「……それは、私もです」

「……ごめん」

「いえ、あの……もう、謝られるのは……」

「え、あ、ごめん……ああ違っ、ごめん……あ」

 

 彼女には、先月に何度も傷付ける“ごめん”を繰り返し続けた。彼女の悲痛に歪んだ顔を置き去りにして、逃げるように帰って。そんな自分が、また同じ謝罪を繰り返し、たきなに追い討ちを掛けている。

 違う、そんな事を伝えたかったんじゃない。

 

「俺……たきなに、その……伝えたい事があって」

「……私もです。だから来ました」

 

 思わず、顔を見やる。たきなは既に、何かを覚悟したような表情を作っていて。けれどそれを伝えるのは緊張するのか、一、二度深く深呼吸すると、意を決して様に此方を見上げて口を開く。

 もう既に自分が何を言おうが手遅れ────それが怖くて、誉は思わずその手を突き出した。

 

「色々考えたんですけど、私────」

「あっ、や!待って!やっぱり、先に俺から言わせて」

「えっ……ああ、はい……」

 

 彼女の言葉を聞くよりも先に、彼女に誠意として言わなければならない秘密があって。そして何よりも、伝えなければならない事が、誉にはあって。

 どんな反応をするだろうか。怖くて、口元が震える。小さく深呼吸して、瞳を彼女に向けて。

 

 

「……俺、心臓の病気でさ。もう、長くないんだ」

 

「────……」

 

 

 それは、初めてたきなに告げた秘密だった。

 

 彼女にだけ隠していた、自分の残り時間。

 後天性の心疾患を患い、常に死と隣り合わせの毎日で、最近はその日々を重ねるだけでも苦しくなりつつある。

 きっともう、永くない。その予感だけが身体に刻み込まれていく日々。

 それを聞いたたきなは何も言わずに、此方を見つめていて。

 

「あと一、二ヶ月生きてられるかどうかで……最近、歩くだけでもしんどくなってきててさ……松葉杖とか、車椅子が必要になると思う」

「……」

「っ……どうせ治らないし、分かってた事だった……それでいいと思って、生きてきた」

 

 たきなはまだ黙ったままで。何も言ってくれないのが逆に苦しくて、誤魔化すように笑って捲し立てていく。自虐にも似た何かで自分だけが笑っていた。

 けれど、徐々にその表情は苦しげに、悲しげに移り変わり、顔は俯いていく。

 

「けど最近、みんなと……たきなと一緒に居て、さ。段々死ぬのが怖くなってきたんだ。そんな情けない自分が、堪らなく嫌だった」

 

 今まで、残りの時間を懸命に生きるだなんて、やりたい事最優先だなんて、千束みたいに高らかに宣言してた癖に。リコリコの空気が、箱庭であった病院での生活とあまりに違い過ぎて。

 

 もう少し、あともう少しだけ長く。命よ保ってくれと、日々を重ねる度に祈り続ける毎日で。

 それがなんとも情けなくて、泣きたくなるくらいに悔しくて、そんな自分が嫌いになりそうで。

 

「あの日たきなが想いを伝えてくれたのに……俺はずっと、自分のことばかりだった。死が近い俺が気持ちを伝えても、重荷にしかならないって決め付けてた」

「……」

 

 ────もうすぐ、死ぬ。

 その事実だけが、酷く胸に突き刺さり、抜けずに残ってからの月日は早かった。自分と他の人達との時間の進み方や生への温度差、空気の違い、居心地の違い、死生観や明日に向けての考え方までもが、突き放されてしまうかの如く違っていて。

 自分もそうなりたいと、みんなみたいになりたいと、そう願い出したのはどれくらいの時だったか。

 

 “生き抜こう”から、“生き続けたい”に変わってしまったのは、いつだったろうか。

 “悔いなく死にたい”から、“死にたくない”に変わってしまったのは、誰の所為だろうか。

 

 どれだけ願っても、きっと自分はたきなの目の前から居なくなってしまうのに────そう思うと、彼女の気持ちに応える事ができなかった。

 同じ想いを抱いているのに、伝えてしまえば楽になるのに。ずっと一緒には居られないし、別れは必然なのだからと拒絶した。

 病気だからとか余命だからとか、そんな言い訳ばかりで、たきなの気持ちに対しては何も応えてなかった。

 けれど、そんなのは建前で。本当は、自分が傷付きたくなかっただけで。

 

 

「……拒絶されたたきながどう思うかなんて事も、まったく頭に無かったんだ」

 

 

 誉は、たきなに向かって深く、深く頭を下げた。

 

 

「ごめんなさい」

 

「────……」

 

 

 初めて、人を好きになった。

 だから、どう行動するのが正解なのかはいつも手探りで。嫌われたらどうしよう、失望されてしまったらどうしよう、そんな自分勝手な事ばかり考えて。

 

「病気を知られるのが怖いって気持ちも、あったと思う」

「……知ってました」

 

 彼女が、そう呟く。

 その一言を理解するのに、数秒ほどかかって、やがて顔を上げた。

 

「……えっ」

「知ってました。とっくに」

「…………い、つ」

「三ヶ月程前に、店長とクルミが話してるのを聞いてしまって……確信があった訳じゃなかったんですけど……最近の誉さん、体調の優れない日が多かったので、総合的に考えてそうかなって」

 

 ……誉は目を瞑り、頭を抱える。隠してると思っていた事実が、既に知られたものだった。あんなに必死になって隠していたのに、滑稽過ぎる。

 何やってんだよミカさん……と頭の中で呟き、思わず溜め息を吐いて……ふと、彼女の言葉を思い返した。

 

 ────三ヶ月前(・・・・)。それはつまりクリスマス、彼女が自分に告白するよりもずっと前。その時には既に、自分の病気を知っている。

 ……知ってて、想いを伝えてきてくれたというのか。自分は、伝えることさえ恐怖したというのに。

 

 

「……私にとっては今更で……大した理由(こと)じゃありませんでした」

 

 

 思わずたきなを見れば、彼女はただ悲しげに眉を寄せて、此方を寂しそうに見つめていて。

 

「だから、拒絶された時は……凄く、すごく、ショックでした」

「……」

 

 ────あの日の彼女の涙の理由を、ずっと探してた。

 たきなは、単に拒絶された事に対してショックを受けていた訳じゃなかった。誉が自分自身の気持ちを理由とせず、自身の病気を言い訳にして、たきな自身に向き合おうとしてなかった事に傷付いたのだ。

 彼女の気持ちに何一つ答えを出していなかった。まるで、ただ病気を断り文句に利用しただけのように思えた。

 

「ショックで、恥ずかしくて、情けなくて……いっそリコリコも辞めて、京都に戻ろうかと」

「……えっ」

「千束にあれだけお膳立てされての告白で失敗してるので、気不味いですし……」

 

 恋愛に疎いたきなのことだ、きっと勝手が分からなかったのだろう。千束やミズキに相談する可能性があるのは明白だった。浮いた話の好きな彼女らは、たきなの背中を押し、こうして気持ちを伝える為の手助けもしてくれたのだろう。

 それ故に申し訳なくて、情けなくて、恥ずかしくて。そんな想いは、彼女の気持ちを蔑ろにした誉自身の心にも来るものだった。

 

「たきな……その……」

 

 残り時間が少ないからと伝えても意味無いとか考えておきながら、たきなが帰るとなれば手のひらを返しそうになる。慌てて口を開けば、引き留めようと虫の良い言葉を並べそうになる。

 そうして再び口を噤む誉を見て、たきなは小さく微笑んだ。

 

「……それでも、気持ちを伝えたことは一度も後悔しませんでした」

「────……っ」

「だからこれからも、誉さんのことで後悔はしたくない。……そう考えたら、返って楽になりました」

 

 たきなは顔を上げ、困ったように笑った。

 

「やりたい事最優先で行動したい。だから、この選択でまた失敗してもいいやって」

「────……たきな」

 

 自分もかつては、後悔しないようにと思っていたはずなのに。いつからこんなに臆病になったのだろうか。

 たきなは真っ直ぐにこちらを見据える。彼女と、視線が交わる。そこには悲しみも苦しみもない。ただ真っ直ぐに、此方を見据えていて。決意が固まった、そんな表情。

 

「────好きです、誉さん」

 

「────……」

 

 病気や余命を言い訳にして、彼女の気持ちと真摯に向き合ってなかった。いつだって自分のことばかりだった。そんな自分に、たきなは何度でも告げるのだという。

 この気持ちが届くよう、自分の言葉が刺さるよう、病気なんか関係無く、ただ純粋な気持ちだけを受け止めて貰える日が来るように。

 そんな、献身的にさえ思える彼女の決意と行為に、誉は。

 

「……っ、たきな」

「……はい」

 

 その名を呼ぶと、たきなは小さく頷いた。心做しか震えている。また拒絶されることを恐れている。それでも視線は逸らさない。今度こそ逃げない。

 

「……俺、あの時自分の病気を言い訳にして、たきなの気持ちに対しては何も答えを伝えてなかった」

「……」

「ごめん、本当に」

 

 誉は何かに突き動かされるようにソファーの傍らに置いたバックの中から、皆に配ったものと同じクッキーと、そして────たきなのリコリコでのイメージカラーである青を貴重としたリボンで纏められた包みを取り出した。

 

「これ……バレンタインのチョコレート。女性が男性に渡すって風習知らなくてさ、たきなにもと思って作ったんだけど……受け取ってもらえる?」

「っ……勿論です、ありがとうございます」

 

 差し出したチョコレートクッキーを、たきなは愛おしそうに両手で抱える。

 

「良かったです」

「え……」

「お店でみんなに配ってましたよね。実は羨ましくて……貰えないんじゃないかって、不安でした」

 

 心臓が、一際高鳴る。次が本番だと言わんばかりに震えるその腕を律して、青いリボンの小包をたきなへと向ける。

 

「────あと、これを君に」

 

 たきながまじまじと見下ろすそれをもう少し彼女の眼前へと突き出すと、彼女はおずおずとそれを受け取った。

 

「……これ、は?」

「少し遅れたけど、クリスマスプレゼント。あの日、渡せなかったやつ」

 

 たきなは目を見開いてそれを見直した。それは、クリスマスの夜にたきなの告白から逃げてしまった事で渡しそびれていたクリスマスプレゼントだった。たきなから貰うばかりで何も返せていなかった事実が、今になって自分に罪悪感という形で押し寄せてくる。

 

「……あ、開け、ても……?」

「勿論」

「…………っ、これ」

 

 その長方形の箱に収められていたのは、金色のチェーンに青い小さな花弁が彩られたネックレス。

 たきなには装飾品など生活の役に立たないものは要らないかもしれない、実用性に長けた物の方が嬉しいかもしれないと邪推したけれど、それでもこれと共に気持ちを伝えたいと思った。

 

 誉が一番好きな花────勿忘草のネックレスだった。

 花言葉は、言うまでもない。

 

「君からすれば無意味な装飾品かもしれないけれど、その可憐な面立ちに映えると思って、俺が選んだ品だ」

「誉さん……」

「君が持つ勇気と優しさは、止まってた俺の時間と心をいつだって奮い立たせてくれる」

 

 自分もそう在りたいと思った。そう生きたいと願った。いつだって、彼女が教えてくれた。言葉を選ばず直接的に伝えてくれるからこそ、彼女の言葉に突き動かされてきた。

 たきなが教えてくれたように、自分も後悔しない選択をしたい。

 

 

「君に感謝と敬意を───好きだよ、たきな」

 

「────……」

 

 

 ずっと前から、形になっていた感情の名前。

 これが正しい選択なのかは分からないけれど、選択に後悔が無いのであれば、それはきっと正解なのだも思うから。

 彼女がくれた全てに、応えられる自分で在りたいから。

 

 たきなは、何も言わず目を見開いていた。

 その両手で、両腕で、二つのプレゼントを大事そうに、愛おしそうに抱え込んで、目を瞑って俯いた。

 

「……これ」

「え……」

「着けて、くれますか?私に」

 

 掲げられた勿忘草のペンダント。誉は何も言わず、行動で応える。その箱から取り出して、チェーンを外す。たきなの首に両腕を回して、後ろで繋げた。

 

「……うん、似合ってる」

「……ありがとう、ございます」

 

 たきなの首筋から両腕を離した────瞬間、その両手をたきなに掴まれた。突然の事に身動きが取れず固まっていると、彼女はその両手を自身の手で包み込み、嬉しそうに目を細めた。

 

「っ……たきな」

 

 ────伝えても良いのだろうか。この切なる望みを言葉にして、彼女の重荷にならないだろうか。想いを伝えるのが、果たして正解だったのだろうか。いつ死ぬか分からないのに、彼女にこんな顔をさせて良かったのだろうか。

 あらゆる葛藤を置き去りにして、命の砂時計は、魂の灯火は、刻一刻と時を刻んで淡い光と化していく。

 

 ……それでも。

 

「……最後まで、俺の隣りにいてくれる?」

 

「────……」

 

 たきなは誉のその言葉を、真っ直ぐに受け止めた。こちらを見上げる彼女は、漸く願いを言葉にした誉を見て、仕方なさそうにふわりと笑って。

 

 

「────……はい」

 

 

 制限付きの約束。

 有限の幸福と時間。

 彼女の言葉を噛み締めて喜ぶには、色んなものが足りなくて。まだ、伝えるべきだったのかどうかが脳内でせめぎ合う。

 

「……やっと」

「……え」

 

 そんな中で、ポツリと小さく囁かれた彼女の透き通る声。それを耳にして顔を上げると、彼女は笑顔を浮かべていた。

 それはまるで、千束にジャンケンで勝利した時のような笑みで。

 

 

「────……やっと、私のところに来ましたね」

 

 

 ────心臓が、止まるかと思った。

 今の彼女の表情を、残りの人生で自分はこれから何度見れるか知れない。それほどまでに貴重で、宝石のような、そんな笑顔。

 人を簡単に沼に沈めてしまいそうな、目眩がする程の妖艶さ。

 

「……そんなに時間、残ってないと思うけどな」

「だったら、その時間を濃いものにしていきませんか?」

「……俺で本当に後悔しない?」

「しません」

 

 即答だった。しかも心做しか声音に怒気を孕んでいるように見えた。もしかしたら失言で地雷を踏み抜いてしまったかもしれない。

 

「一時の気の迷いだと思ってますか?」

「い、いや、別にそんな風には思ってないけど……」

「なら……なら、証明、しましょうか。実はその……千束に言われて……準備(・・)は、してきたんです」

「し、証明?準備……?」

 

 一体何の話……とたきなの顔を覗くと、そこには果実の如く顔を赤らめて、無理して言葉を絞り出そうとする彼女の姿があった。

 

 

「私、今日は見せてもいい、下着……なので……っ」

 

「……………………………………………………はっ!?」

 

 

 ────とんでもないことを言ってきた。

 その言葉を鼓膜に届かせるのに数秒、脳が理解するのに数秒、顔を真っ赤に染め上げるのに数秒かかった。彼女、自分が何を言ってるのか分かっているのか。

 

「「……っ!」」

 

 バチリと目が合う。彼女はこちらを見上げ、続く言葉を待っているようで。いや待て、俺に何を言えというんだ彼女は。

 

「────…………ぇ、ぁ、ゃ、ちょ……それ、はなんというか……ぇ、早くない……?」

「ぃ……い、言ったじゃないですか。残りの時間が少ないからこそ、濃い時間を過ごしたいと」

「意味とレベルが違う!そんな急に、ちょ、たきなさん何で立ち上がったの、ちょ、ちょいちょいちょいちょい!」

 

 真っ赤な顔のまま、そして何より誉の両手を掴んだまま立ち上がり、半歩でこちらとの距離をほぼゼロにする。互いの吐息がかかる距離、彼女の艶のある長髪が、頬に垂れかかる程の距離に、誉は瞳が揺らいだ。

 拙い、そしてヤバい。たきな完全にムキになってる。

 

「や、ちょ、待って待って!それこそ一時の気の迷いだって!てか俺そんな体力無い!色んな意味で心臓止まる!」

「大丈夫です。ミズキさんから色々教わったんです。私が動くので、誉さんは寝ててください」

「顔赤っ!リンゴかよ!絶対に今無理する事じゃないだろこれ!しかもよりによってミズキさんからは尚更駄目だよ絶対偏ってる……ちょ、力強っ!」

 

 あの行き遅れに何を吹き込まれて来たのか、拙い、まさかのたきなに喰われる襲われる。離れようとも両の手首を掴む彼女の力が強過ぎる。この華奢な細腕で何故これほどの力が。

 

「……っ、ぁ」

 

 そのまま後ろのソファに寄りかかり、彼女が誉の両の腿に馬乗りになる。普段の彼女から考えられない艶かしい表情と、甘い吐息。心臓が、煩い。

 

「た、たきな?一旦落ち着いて。冷静になろう、たきなにはこれから先いくらでも機会があるんだから────」

「嫌です」

「え」

 

 誉の言葉を遮った彼女の顔を、改めて視認する。

 そこには形振り構わず暴走していた人間とは思えない、気恥しさに頬を染めて、楽しそうな(・・・・・)一人の女の子が微笑んでいる。

 

 ……これ、ムキになってる訳じゃ────

 

 

「漸く私のものになったんです。もう待てません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 

 

 

 

 

 ────“俺で本当に後悔しない?”

 

 

 舐めてもらっては困る。

 この人の代わりなんていない。

 そうでなければ、ここまで焦がれるものか。

 

 

 ────“たきなにはこれから先いくらでも機会があるんだから”

 

 

「……馬鹿ですね」

 

 

 ほかの恋なんて、いらない。

 

 

 この人生に、一生に一度の恋でいい。

 

 

 

 

 この想いを傾ける相手は、生涯でたった一人でいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









たきな 「……という夢でした」

千束 (おっも……!)

ミズキ (重っ……)

クルミ (想いが重いな……)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8話 Another day, another dollar
Ep.34 Lgnorance is bliss








大切だから。愛しいから。失くしたくないから。それだけなのに。



 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 開店前、お店に出勤する前に近くのスーパーで必要な材料の買い出しに出るのがたきなの日課だった。お店が忙しくなって在庫が足りなくなってから対応するよりも今のうちに備蓄を用意して置いた方が良いという、効率を重視する実に彼女らしい行動ではある。

 

(買い出しに随分時間かかっちゃった……)

 

 だが今回は思ったより時間がかかり、たきなは現在小走りでリコリコまで向かっていた。買い足した材料を詰め込んだ重いビニール袋を何度も別の腕へと持ち替えながらお店へと向かう。

 やがて視線の先に小さくリコリコが映り、間も無くこの重労働も終わりに差し掛かる事を自覚すると、逆にこれから始まるであろうリコリコの業務を意識して、小さく息を吐き出した。

 

「……はぁ」

 

 たきなは別に、リコリコの業務が嫌だと感じている訳ではなかった。彼女とて仕事を面倒だと感じる事は勿論あるし、千束にジャン負けして家事を全部押し付けられた際は巫山戯んなと思わなくもなかったが、気が重い理由はそれではなかった。

 

 ────億劫なのは、朔月誉。彼と対面する事だった。

 

「……っ」

 

 呼び起こされる記憶は常に鮮明で、それを思い出す度にたきなは後悔と罪悪感でどうにかなってしまいそうだった。あの日に戻れるのならば、あの発言をしてしまった自分を、彼にあんな事を言わせてしまった自分を殴り飛ばしてやりたいと、何度も何度もそう思った。

 

 

 ────“……ごめん、負担にさせて”

 

 

 ────“……っ、ぇ”

 

 

 ────“俺……こんなんで、ごめんね”

 

 

 ────“ぁ……ち、違っ……違います……なんで、そんな……謝らないで、ください……違うんです……っ”

 

 

 ────“……本当に、ごめんね……っ”

 

 

 ────彼に言わせてしまったあの謝罪が、自分が起こした行動の結果であり、自分の犯してしまった事の全てだった。決して感謝される事を望んでいた訳ではなかったけれど、拒絶されるとまでは思っていなかっただけに、彼の怒りにも近い叫び声を聞いた時は、心臓が縮まるような思いだった。

 

 決して彼の病気が悪い訳ではないのに。負担だなんて、思ってなかったのに。自分がそうしたいから、そうしただけだったなのに。何故自分はあんな事を言わせてしまったんだろうかと、今でも考える。

 

(……私は)

 

 ただ自分は誉に生きていて欲しくて、その為の手段を考えて実行に移しただけだった。彼の意志もアラン機関の事も何も考えず、千束の命を救ってくれた一点のみを見て衝動的に動いてしまった。彼の残り少ない時間が少しでも伸ばせる可能性があるのならと、彼の為にと、そう思っていたはずなのに。

 

「……っ」

 

 ────……誉に、嫌われて、しまっただろうか。

 

 良かれと思っての行動ではあったけれど、突き詰めてしまえば誉に生きていて欲しいという自分の願望、我儘でしかない。

 出しゃばった事をして、彼は怒っているだろうか。失望しているだろうか。嫌悪感を抱いただろうか。それを考えるだけで、なんとも恐ろしい。これほどまでに焦がれているだなんて、思いもしなかった。

 あんなに声を張り上げる誉を初めて見ただけに、その不安もひとしおだった。そこまでいくと、そうさせるまでの存在(・・)を意識せずにはいられない。

 

(……“アラン機関”、か……)

 

 アラン機関────テレビニュースで放送されている情報だけ抜き取って見れば、ただの慈善団体だと思ってしまっても仕方が無いし、たきな自身も以前まではその認識だった。何よりも相棒である千束の命を救ってくれた事実が自分の中では大きく、それ故に誉も同様の援助をしてくれるかもしれないと、都合良く楽観視してしまっていた事は否めない。

 誉の、あの日の言葉を思い出す。

 

『……前に話したと思うけど、アランチルドレンは支援と引き換えに機関から“使命”を与えられる。助けたんだからその才能を活かす道を進むべきだ、こう在るべきだと強制される。やりたいことができなくなるんだ』

 

 ……それをたきなは、松下の護衛の時にも似た事を聞いたはずだった。それをえらく軽く捉えていたものだと今更ながらに歯噛みした。

 

「……っ」

 

 ────それでも、千束の自由さを見たら思わないじゃないか。

 支援と引き換えに“使命”を与えられ、世界に束縛される人生を過ごす事になるなんて。

 

「あっ……」

 

 そうしてふと我に返ると、リコリコの入口まで辿り着いていた。あと数歩で横切ってしまう程に進んでしまった足を戻し、そのまま入口の扉の鍵を開けようと手を伸ばし、止まった。

 

「……あれ、鍵が……」

 

 開いてる────自分よりも早く出勤した人間がいるようだ。たきなはそのまま扉を押して中を覗く。

 すると、そこで待ち受けていたのは────

 

 

「キャ〜〜〜助けて〜〜〜(棒)」

 

「良いよ〜、良い感じだよ〜!もっと身体をくねらせて!」

 

 

 ────腕を後ろで縛られて顔を赤らめる千束と、それを興奮気味に撮影する常連の漫画家、伊藤の姿だった。

 

「……」

 

 ……何してんだコイツら、と眉を寄せて入口から傍観するたきなを余所にカシャ、カシャ!と拙僧無くシャッターを切る伊藤。

 そしてその前で満更でもなさそうにノリノリに身体をくねらせては、わざとらしく色っぽい声を出す千束という酷い絵図。見ると千束は、以前ミカを尾行した際に会員バーで着ていた赤のイブニングドレスを身に纏っていた。

 

「ああ〜ん、助けて〜ん」

「イイ!千束そのポーズ最高っ!」

「あは〜ん」

「……………………」

 

 開店前の店内の座敷使ってマジで何してんだコイツら、というのを隠しもしないたきなの侮蔑にも似た視線。千束と伊藤が彼女の存在に気が付いたのは、その圧を感じてすぐの事だった。

 ギギギ、と錆び付いた人形のような音を立てながら首を回して此方を認知すると、青ざめた表情で震えていた。

 

 

「…………失礼しました」

 

「「説明させてぇ!!」」

 

 

 ────説明って何。ここから挽回できると思ってるのか、変態。

 

 

 

 

Ep.34 『 Lgnorance is bliss(知らない方が幸せな事もある)

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

「なるほど……そういう事情が……伊藤さんの漫画の資料として千束にポーズをとってもらっていたと……」

「ごめんね〜……二人のお仕事の邪魔しちゃって……」

 

 座敷で一つの円テーブルを囲い、正座する伊藤。彼女の漫画の資料の提供という体の写真撮影だったという事で誤解は意外とあっさり解け、それを聞いたたきなは腕を組んで難しい表情をしていた。

 たきなの隣りで、伊藤は申し訳なさそうにシュンと俯き、二人に謝罪する。

 

「どうしても描けないポーズがあって頭を抱えてたところに千束が声をかけてくれて……」

「そうそう!決していやらしい何かとかではないからね!漫画の資料なんだから!」

「いやらしいなんて……別にそこまでは思ってませんから」

 

 キラキラした顔で告げるテンション高めな千束から目を逸らし、たきなは頬を搔く。それと同時に、吉松と会った時の元気の無いように見えた彼女とは打って変わって、いつも通りの彼女に少しばかり安堵する。

 杞憂だったかな、と。そう頭の中で一区切り付けたタイミングで、千束とたきなの間に座っていた伊藤が、おずおずと手を挙げた。

 

「……あの〜……そこでですね、ちょっと二人にご相談が……」

「「?」」

 

 伊藤の方に耳傾ける。千束とたきな、各々がそれを聞いた瞬間の反応は真逆だった。たきなは驚いたように顔を上げ、僅かに頬を赤らめながら慌てて口を開いた。

 

「私もポーズをとるんですか!?」

「いーじゃん、楽しーよ?ほら!こんな事もあろうかとたきなの衣装もしっかり用意してあるから!」

「っ、これ……」

 

 それは、以前ミカを尾行した際にたきなが着用した男性用のタキシードスーツだった。千束もあの日と同じドレスを着ているだけに、嫌でもあの日の光景が蘇ってしまう。

 誉の聞いた事もないような叫びと、苦しそうに告げる謝罪が、嫌でも耳に媚びり付いて。

 

 

 ────“……変、ですか”

 

 ────“いやそんなことないよ、似合ってる。てか、カッコイイよ”

 

 

「────……っ」

 

 ……そういえば、そんな事も言ってくれたっけ。

 できれば男装の自分ではなく、千束のようなドレスとまではいかなくとも女性らしい格好の際に言って欲しかった気もする。

 

 苦い記憶だけじゃない、あの日言われて嬉しかった言葉も、きっとある。たきなは小さく微笑んだ後、溜め息を吐きながら千束からその衣装を受け取った。

 

「……仕方ないですね。分かりました、協力しましょう」

「え、いいの……!?」

「大切な常連さんのお願いですしね」

「たきなちゃん……!二人ともありがとね〜!」

「伊藤さんの為に頑張るぞっ、おーっ!!」

 

 ────こうして、伊藤による千束とたきなの写真撮影が始まった。指定されるポージングは、恐らく伊藤が漫画で展開するであろうシチュエーションを想定してのものだろうと粗方予想は立てていた二人だったが、伝えられたポーズからの横顔の激写などは可愛いもので、それ以降は案の定たきなが千束を抱える所謂“お姫様抱っこ”だったり、千束を後ろからたきなが抱き締める構図だったり、手を“恋人繋ぎ”で絡めたりと、次第に十代の少女には些か照れ臭いものへと変わってき始めた。

 

「エクセレント!!めちゃくちゃ参考になるよ!二人とも息ピッタリだね……!」

「「はぁ……」」

 

 伊藤は最早希望の写真が撮れてテンションが上がってるのか鼻息が荒い。自前のカメラで写した映像を精査している間の待ち時間、千束とたきなは疲労で身体が項垂れていた。

 

 最初こそノリノリだった千束も、一人の時よりも精神的に疲れたのか額に汗が滲み出ている。そんな彼女だが、撮影中たきなの目から見て心做しか顔が赤かったような気がしたが、何かあるのだろうか。

 

「えーっと……じゃあ次は……たきなちゃんが上になってもらって……で、千束は髪を少しだけ崩してもらって……」

「え、と……こう?」

 

 千束が少しだけ上体を起こす形で仰向けに横たわり、その上に覆い被さるような形でたきなが四つん這いになる。その距離の近さに、千束の顔がやや強張った。

 

「そうそう、良い感じ良い感じ!そのまま向き合って!」

「はい!」

 

 伊藤に促されたたきなは、そのまま千束へと向き直る。

 しかし千束は、一瞬チラリとたきなを見た後、またすぐ顔を逸らした。勢い良く逸らされたたきなは、思わずキョトンと首を傾げる。

 

「……あの、千束?何かありました?」

「え?あ、やー……その……」

 

 伊藤に聞こえないよう小声でそう問いかけるも、千束は口篭って要領を得ない。

 

「ごめーん二人とも!たきなちゃんはキリッと、千束ちゃんはあま〜い表情でお願い!」

「「は……はいっ!」」

 

 そう伝えられた二人は、今度こそ向き直る。視線が交わり、息がかかりそうな距離の中で、次第にたきなの顔も赤くなってしまう。友人───いや、相棒とこんなに近い距離にいると思うと、なんだか照れ臭い。というか撮影されていると思うと余計に恥ずかしい。

 

「……っ」

「……ぁ」

 

 まただ。また千束に目線を逸らされた。変わらず頬も赤く、たきなの目から見てもなんだか色っぽい───あ。

 

「……今、誉さんとのこれ(・・)を想像したでしょ」

「っ!?え、なっ……ええっ!?」

「確かに、所謂お姫様抱っこも恋人繋ぎも、後ろから抱き着かれるのも千束好きそうですもんね」

「っ〜〜〜!!」

 

 成程、誉との同様のシチュエーションを一人で妄想してたのか。たきなに図星を突かれ、顔を真っ赤にしてしどろもどろになる千束。

 戦闘に置いて基本的に慌てる事の無い楽観的な相棒が、誉の事になるとここまで分かりやすく余裕が無くなるなんて、なんだか可笑しな話だと改めて思う。

 

「だ、だってぇ……花の十代なのにそんなシチュ、一回も無いんだもぉん……」

「そんなの私もですけど……集中して下さいよ、私まで想像しちゃうじゃないですか」

 

 千束の言動の所為で、自分まで目の前の彼女が誉に見えてしまう───なんて事はないが、やはりどうしても想像してしまう。そんな状況は有り得ない、そんな未来はきっと来ない、と自分に言い聞かせながらもふと、思考が過ぎる。

 彼とこれほど距離が近くなるくらいの親密度を、今後自分は築けていけるのだろうか。

 

「……実現、すると良いですね」

「……たきな?」

「私には……難しそうです」

 

 ────……いや、自分はもう嫌われているかもしれない。先日の吉松との一件は、誉を怒らせ、そして傷付けた。その理由の詳しくを聞けてはいないけれど、それを考えると今この状況の実現が現実的なのは千束と誉の二人だろう、と、たきなは苦笑した。

 小さな声でそう呟くと何を思ったのか、千束の表情が驚きに満ち始め、伊藤の依頼そっちのけで上体を起こして慌てて口を開いた。

 

「え……も、もしかして、たきな、フラれたの……!?」

「……ん、え?」

「だ、だってなんか、諦めてるみたいな言い方だったから……“勝負”って言ったのたきなじゃん……!」

「ぁ……いえ、私はもう……」

 

 その勝負に関しても、始めから敗北が見えた戦いだった。

 それに、あの言葉は弱腰で情けなくなった相棒に喝を入れる目的で言い放った言葉でもあった。誉に特別な想いを抱いているのは認めるけれど、そもそも千束と同じ感情をちゃんと抱けているのか、不安はずっと残ってた。

 この独占欲のような醜い感情が、千束の焦がれる程の想いと同義なのかと、こうも誉の事で自分が狂うと疑いたくもなる。

 

 

 ────ガチャ

 

 

「「……!?」」

 

 扉の開閉音。千束とたきなは身を強張らせ視線を音源へと傾ける。カウンター横と裏へと続く扉のドアノブが周り、扉が開きかける音だと理解した途端、自身の現状を客観視し、これはやべぇと双方理解する。

 

 ドレスコードで至近距離に交わる女性二人など完全に誤解を生む。しかもこれで入ってきたのが誉だったら軽く死ねる。たきなはとんでもない速度で飛び上がり、身体を寝かせていた千束は座敷に転がりその勢いで上体を起こす。

 互いの距離が離れ、やがて扉が全開になって現れたのは、紫色の和服に身を包んだ巨漢の姿だった。

 

「……?何してるんだ、二人してそんな格好で」

 

 よりにもよってミカであった。これもこれで不味いと千束は顔が引き攣る。

 彼の場合はそれこそ同性によるそういった関係に偏見が無いどころか寛容であるからこそ逆に誤解されても問題というかなんというか。

 

「いや〜……ちょっと“柔道”の練習がしたくて、たきなに付き合ってもらってたんだよね〜!」

「そ、そう!そうなんですよ!急に言われて困りましたよ、まったく!」

「よく分からんが……顔が真っ赤じゃないか、大丈夫か?」

 

 適当に誤魔化す二人の朱に染る頬を見て、訝しげに眉を寄せるミカ。顔を赤くする程の羞恥の理由が写真撮影というのもあまりに情けないが、一番は撮影で指定されたシチュエーションの相手で誉を想像した事による恥ずかしさであった。

 

「何でもないよ」

「何でもないです」

 

 互いに一瞬だけ目を合わせ、誤魔化すように逸らした。相棒同士という事もあり、同性でやるにも照れ臭い依頼だったかもしれない。

 とにかく、バレずに良かったと二人して胸を撫で下ろした瞬間だった。

 

「ミカ、ボクがその理由を見せてやるよ」

「見せる……?」

「これでバッチリ撮っといたから」

「「!!?」」

 

 その声に思わず肩が震えた。振り返れば、笑いながらカウンター裏から這い出て来ては、ニヤけた表情で此方を見つめるクルミの姿だった。まさか、ずっとそこにいたのか。

 そしてその手には───なんか高そうなカメラが。

 

「クルミィ……どんな写真が撮れたのかお姉さん達に見せてごらん?」

「内容次第では覚悟しないといけませんよ?」

 

 手を組み指を鳴らす千束と拳銃を構えるたきな。その目はガチだった。

 これを恩師であるミカや想い人である誉に見られたりしたら、二人からしたらたまったものではない。

 その圧に、クルミが青い顔をして震えた。

 

「クルミっ!大人しくそのカメラを寄越しなさい!」

「おいたきなっ!銃を使うのは反則だろぉ!!」

「やっちゃえたきな〜!」

 

 涙目のクルミに向かってモデルガンを乱射するたきなの背に声援を送る千束を眺めて写真撮影を続ける常連客の伊藤という狂った絵図。開店前に清掃したはずのフローリングも座敷も、ドッタンバッタンと埃が舞い出す。

 店内全体を使った鬼ごっこを眺めながら、ミカが一言。

 

「……開店してるんだが」

 

 その呟きは、目の前の騒動に掻き消された。

 

 

 ▼

 

 

「あー……今日もつっかれたぁ〜……」

 

 閉店作業を終え、座敷に伏せるように倒れ込む千束。既に着替えを終え、帰り支度を済ませていたたきなは、小さく息を吐きながらその隣りに腰掛けた。

 

「今朝クルミを追いかけてる時が一番疲れました」

「それな!まあ、写真全部削除できて良かったけど」

 

 いや、バックアップとかされてたらどうしよう……いやでもあのカメラ見た目アナログだったし……と唸りながら眉を寄せる千束。確かにあの一部始終を見られていたらあらぬ誤解が広まっていたかもしれない。

 クルミは涙目だったが回収できて良かった、と胸を撫で下ろした。

 

「今日はボドゲ大会も無いし、朔月くんも居ないしなぁ〜……帰るかぁ……あー、朔月くんの珈琲が飲みたいぃ……」

「……」

 

 ────“家に居ても特にやる事が無い”。

 ほぼ毎日当たり前のように出勤し、休日でもほぼ必ずリコリコに顔を出す程にこの場所に浸かっている誉が、連絡も無しに一日店に顔を出さない日があるのも珍しい。

 

 千束はただ寂しいと思うだけみたいだが、たきなからすれば先日の吉松に対しての失言もある。あの日彼の琴線に触れ、顔を合わせたくもないと思われていたとしたら今日来なかった事にも納得が……言ってて悲しくなってきた。

 

「……明日は誉さん、出勤じゃないですか。今日は我慢してください」

「分かってますぅ……しょーがないかぁ……」

「……」

「……」

「……」

「……それで?」

「はい?」

 

 顔を上げた千束が、チラリとたきなを見上げる。隣りに座るたきながそう聞き返すと、千束は勢い良く起き上がり、たきなの隣りに座ると同じ目線で問いかけた。

 

「その朔月くんと、何かあった?」

「……っ」

 

 それはたきなにとっては、一番聞いて欲しくない質問だった。先程の撮影時の言葉や表情から、千束に何かを読み取られてしまっただろう事は理解していた。やはり挨拶だけしてそのまま帰宅するべきだったかもしれない。

 

「…………」

 

 ……だけど、何かを言って欲しかったのかもしれない。だから、帰る前に千束の元に立ち寄り、その隣りに腰掛けてしまったのかもしれないと、そうも思ってしまうから。この相棒に、縋り付いてしまおうと。

 

 だけど、詳しい事は何も言えなかった。誉の心情を考えると他人に話して欲しくないかもしれないし、また勝手な言動で彼を怒らせてしまうかもしれないと思うと、怖かった。

 

「……あった、と言えばあったんですが……これを、千束に話しても良いものか、分かりません」

「そっか……喧嘩?」

「喧嘩……では、ないですけど……嫌われてしまったかもしれません」

「朔月くんは、そんな簡単に誰かを嫌ったりしないよ」

「即答しますね。流石片想いが長いだけありますね」

「煽っとんのかキサマァ」

 

 千束は揶揄われて赤くなった頬を誤魔化すように、たきなの左腕を右肘で軽く小突く。その反応が面白くて、たきなは思わずクスリと微笑んだ。

 

 彼の事をよく知っている千束がそう言うのだから、少しは安心できた気がする。彼をずっと見てきて、ずっと好きだった千束が言うのだから────とまで考えて、たきなはふと、これまで千束に聞いた事のなかった質問をしようと思った。

 

「……あの、聞いても良いですか?」

「ん?なーに?」

「千束って、いつ誉さんを好きになったんですか?」

「え……な、何急に」

「いえ、聞いた事無かったなと思って」

 

 普段快活な千束だが、やはりこの手の話になるとしどろもどろになるのは相変わらずで、たきなの目の前でその顔がどんどん赤くなっていく。

 

「え……ぁ、ぇ……えぇ……やー、なんというか……」

 

 たきなとしては固まってないで教えて欲しいところだ。その感情が恋だと理解できたのは、どんな時だったのだろうか。

 たきなが今誉に抱いているこの感情が果たして千束と同じ純粋なものなのか、彼女から聞けばそれが分かる気がした。

 

「え〜……なんかハズイなぁ……こーゆーのって、何か自分の胸だけに秘めとくのが乙女って感じだしぃ……」

「何言ってるんですか?」

 

 ダメだ、当てにならない。目の前の相棒は最早、顔を赤くして身体をクネクネさせている変態でしかない。聞いた自分が馬鹿だった、とたきなが溜め息を吐き出す。

 今度こそ帰る為に立ち上がろうと足に力を込めた瞬間だった。

 

「────私ね、まだお店に来る前の朔月くんを、お仕事の行き来で何度か見た事があったの」

「……え」

 

 思わず身体を止め、千束を見る。

 あっちは知らないだろうけどねー、と千束は楽しそうに笑っていた。

 

「見かける度に違う人と一緒にいて、掃除手伝ったり、子ども達と遊んだり、道に迷ってる人案内してるうちに一緒に迷ってたりしてさ」

「……誉さんらしいですね」

「にひひっ、でしょ?……最初はよく見かけるなー、ってくらいだったんだけど。そういうの見てる内に、ああやって誰かに何かしてあげて、見返りもないのに楽しそうな朔月くんが、なんか良いなって思ったんだよね」

「…………」

 

 ────たきなはきっと、恋愛とはどういう概念なのか、その定義が知りたかったのかもしれない。理論や理屈で説明できる、明確な形が欲しかったのかもしれない。

 けれど、千束が述べたそこには理論なんて何もなく、曖昧で抽象的な感情のみ。説明なんてしようがない、と。なんか良い、と。ただそれだけだった。

 

「……ま、その後も“色々(・・)”あったんだけど……そういうのが続いて、気が付いたら目で追ってて、仕事の行きと帰りに会えたりしないかなって探してたりして……偶然お店に来てくれた時は嬉しくて……」

 

 今思えば私ヤバい奴だったかな、なんて苦笑する相棒。それでも、楽しそうな表情がずっと変わらなくて。

 

「これは恋だなーって、思った」

 

「────……っ」

 

 照れ臭そうに笑う千束は、たきなが今まで一緒に居た中でも最高に可愛らしかった。

 歴代最強のファーストリコリス。至近距離でも銃弾を躱し、集団においても個の力のみで圧倒せしめる強さを持つ彼女がここまで骨抜きにされてしまうとは

 たきなでさえ、目の前の彼女を見て少しばかり照れてしまう。

 

「……なんというか、ベタ惚れですね」

「っ、やー、なんかハズイなこれ!やだ!忘れて!」

「聞いてるこっちが恥ずかしかったです」

「知らんわ!たきなが聞いてきたんだろーが!」

「なんか大分語っちゃってましたね」

「んいいぃぃー!!」

 

 掴みかかってくる千束を適当にあしらいながら、そんな彼女が面白くて思わず笑った。千束は逆にそれが面白くなかったのか、むくれた表情のまま言い返してくる。

 

「そーゆーたきなこそどうなのさ」

「え?」

「朔月くんの事、いつ好きになったの?千束さんに聞かせてごらん?」

「……」

 

 そう言われて、思わず考えてしまう。この感情が恋とは別の、醜い独占欲だったとしても、それを抱くきっかけは色々あっただろう。

 それでも決定的だったのは暗殺者との交戦時。銃弾が足を掠めて、痛みに動けず苦しむ中で突き付けられた銃口と目が合った時に感じた死が迫る感覚。

 

 あの頃の自分は任務の失敗への恐怖や、本部に戻る為の功績や実績の獲得に対する執念とか、そういったものばかりが脳裏にあったように思える。

 リコリスは替えが効く使い捨てと称する上層部の連中も居ると聞く。DAとは、そこに準ずるリコリスというのは、そういうものだと心のどこかで割り切っていたように思う。

 

 ───そんな自分を身を呈して助けてくれた誉が、傷だらけになりながらも放った一言が、今でも忘れられない。

 

『……たきなが無事で、ホントに良かった……』

 

 そう言って本当に安心したような笑みを浮かべた彼にたきながどれだけの衝撃を受けたか、それを彼は知らない。

 自分の無事を喜んでくれる人間がいる、その事実にたきながどれだけ勇気付けられたか、きっと彼は気付きもしてないだろう。

 きっと自分は、あの時既に────

 

「……」

「たきな?」

「……嫌です」

「はぁ!?ズルい!私に聞いといてぇ!」

「ちょ、やめてください!」

「こんぬぉー!!」

 

 千束が両手でたきなの黒髪をぐしゃぐしゃにするのを、手で振り払いながら逃げる。

 客間を掃除したばかりだというのに、二人は今朝の時とほぼ変わらぬ勢いで、ドッタンバッタンと店内で騒ぎ散らかし始めた。

 

「いつかなんて知りませんよ!」

「あ、こら逃げんなぁー!」

 

「うるっさい!!さっさと帰れぇ!!」

 

 ────二人の鬼ごっこは、酔ったミズキの一括で終結した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●○●○

 

 

 ────その頃、朔月誉宅では。

 

 誉 「……ねぇ、この短期間で何回ウチに来るわけ?」

 

 真島 「まあ待てって、今映画良いとこなんだからよ」

 

 誉 「ったく……ほら、デザートできたから食いなよ」

 

 真島 「もてなしてんじゃねぇか。……何も盛ってないよな?」

 

 誉 「盛ってないっての。強いて言うなら消費期限間近の食材使ったくらい」

 

 真島 「……切れてはないよな?」

 

 誉 「拘るね……意外と神経質なのな」

 

 真島 「当然だろ。不純物が混じれば全体のバランスが悪くなんだよ。料理も同じだ」

 

 誉 「はいはい、バランスねバランス。ここ最近で一番聞いてるわ」

 

 真島 「バカにしてんだろ」

 

 誉 「してないけど……今回のは期限切れてないから大人しく食べなって」

 

 真島 「おう……え、美味っ!お前何色パティシエールだよ!」

 

 誉「……何お前アニメも見んの?」

 

 

 







誉 「お前の声は料理作る人の側だろ」

真島 「何言ってんだお前」




目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。