転がるふたりぼっち (240128 虚無って書けません!)
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プロローグ
1
「あ、君たちは結束バンドの子たちだよね」
ライブハウス・スターリーの扉が開け放たれ、何者かが足を踏み入れたようだった。ぼっちちゃんを待っていた、虹夏・リョウ・郁代はようやく来たか?と一斉に振り向き、その姿を見て唖然とした。
「どうだろう、久しぶりって言えばいいのかな?はじめましての方かな?いつも“私”がお世話になってます」
「「「だ、だれ?!」」」
3人と年は同じくらいだろうか?トップスからスカートまで今風に整えられていて、にっこりと3人に微笑む、めちゃくちゃ顔のいい女だった。どうにも結束バンドと既知の関係にある言い様だけど、
「え、誰あの人?」「めちゃくちゃよくないですか?あの人?!……いや、でも、ダメよ!私にはリョウ先輩っていう心に決めた人が……」「……?」
そうこう言ってるうちに、ぼっちちゃんに用意された残り一つの椅子に、ここいいかな?と女の子が聞いてきて、あまりに顔の良さにいまだ酔いしれる郁代は
「どうぞどうぞ!」
と、ぼっちちゃんのことをすっかり忘れて、勧めてしまった。
「あー、えーっと、どちら様ですか?」
「え?」
恐る恐る虹夏が尋ねると、キョトンとした表情で虹夏を見つめ返した。
「すみません。3人ともあなたの顔に覚えはないみたいで。どこかで会ったことってありましたっけ?」
「あー」
納得したように、女の子は大きく頷いた。少し頭を掻きつつ、背中のギターケースから見覚えのある黒いエレキを取り出した。
「これでどうです?」
「ん?ぼっちちゃんのに似てる?似てるっていうか、同じ?そう言えばぼっちちゃんに顔が似てるかも……」
皆口々に確かにと呟きつつ、目をエレキギターと女の子の顔の、短い距離を往復させている。
「わかりました!ぼっちちゃんの双子のお姉さんでしょう?今日ぼっちちゃんが遅れるから代わりに持ってきてくれたってこと?」
名探偵・虹夏。納得の推理に「おお」とリョウ、「後藤さんって双子だったのね!」と郁代が頷いた。結束バンドの面々は奇妙に沸き上がった。
そんな彼女らの反応に、あははは、はぁ、と乾いた笑いで女の子はため息ついた。
「そうだよな、わからないよなー」
「ん?」
「私が後藤ひとりです。」
「は?」「え」「……嘘ぉ?!」
あまりにもアンバランスな発言だった。
いつもは野暮ったいジャージを着、顔からは精気が抜けていて、そして中々目の合わない俊敏な瞳。それが後藤ひとりという少女のはずだった。こんなオシャレで、陽のオーラを発する人のはずがない!
「おもしろい冗談だけど、ぼっちはそんなに目に光りはない」
断言するリョウ。そうだそうだと外野。
「え~、じゃあどうすればわかってもらえるのかな」
「まずはいつものジャージを着てくるところからじゃない?」
「……。私いつも思うんですけど、よくあんな真っピンクのジャージで"私"って街中歩けますよね」
「オメーのことだ!オメーの!!」
「あっ、私が後藤ひとりだってことわかってくれるんですね!」
「そうじゃなくてっ!」
「ん~。そうだなぁ。今はムリだからなぁ」
考えこむ女の子。
「そうだ!スマホの指紋認証突破できますよ!ほらっ!」
ロインの通知音が鳴り響いたのでおのおのが確認すると、確かにぼっちちゃんから結束バンドのグループに
「後藤です」
と、書き込まれていた。
「……確かにぼっちのスマホが主人って認めてくれてるのかもしれないけど、そんなの指紋認証登録しとけば突破できることでしょ?他人のスマホだったとしてもさ」
「なかなか信じてもらえないですね」
「あ、じゃあさ!」
虹夏が、いい案を思いついたぞ!と、声を上げた。
「今からそのエレキでなんか適当に弾いてもらおうよ!それで決まり!でしょ?」
「確かにね」
「クセとかって出ますもんね!」
既に3人とも、後藤ひとりが本来ギターがうまいことに勘づいているし、虹夏だけはギターヒーローのことをぼっちちゃん本人から教えてもらっていた。
その流れに、目の前の少女はまずいことになったぞと頬を少し掻いた。
「ん~、他に方法はないのかな」
「それが一番手っ取り早いよ!」
前からギターヒーローのファンだった虹夏は、ライブのときのひとりの弾き方から正体に気づけたという実績があった。だからこの認証方法に自信を持っていた。ひとりの演奏のデータは虹夏の中にはバンドメンバーとしてのそれと合わせて、ギターヒーロー名義でアップロードされた動画の数も含められる。
間違えようがないのでは?虹夏はそんなふうに思った。
「じゃあ、あっちの部屋に行こ?」
「は、はい……」
自称ぼっちちゃんはどことなく煮え切らない雰囲気を醸し出しつつも、先導されながらスタジオに入って、演奏した。
曲は我らが結束バンドのオリジナル曲。「あの〜」にしようか「孤独と〜」にしようか、3人は多いに悩み、「孤独と〜」を弾いてもらうことにした。
ギターを構え、にわかに深呼吸したかと思うと、右手が力強く凪いだ。特徴的なストロークから鳴り響くのは、どこか甘い雰囲気を醸し出す音色。もちろんエフェクターの影響はあるだろうが、これは奏者の技巧のためだと思われた。滑るように左手はうごめき、的確に、ミスなく演奏は続いていく。
グリッサンドによって、溶けていくように音が消え、演奏は終わった。
「いや~、うまいですねぇ」
「うまいね」
「うん、うまい……。普段のぼっちちゃんより断然うまいよ」
「「でも、弾き方のクセが違う」」
「そうですね、後藤さんとちょっと違うような?」
3人からの問い詰めるような口調に、
「まいったな」
と、少女はたじたじになった。
「後藤さんのニセモノさん。ほんとのことを言いなさい!」
腕を組んで、うーんとひとしきり悩んだ後、意を決したように重い口を開いた。
「……解離性同一性障害、って言えばわかるかな?」
「えっ、つまり、二重人格ってこと?!」「二重人格……。疼くな」「へえ!」
俄かに沸き上がる面々に、拍子抜けといった表情でぽかんとしていた。それから
「こんなに簡単に信じてもらえるとは思わなかったな」
くつくつと笑った。
「まだ信じてないけど、突拍子もないことをぶちこんでくるのはぼっちちゃんっぽいというか」「到底信じられないからこそ、ぼっちっぽいというか」「後藤さんっぽいですよね」
「で、いまここで入れ替われたりするの?」
「あ、あー。今はできないかな。ひとりは最近人と交流しすぎてパンクしちゃったらしくて。それで代わりに出てきたんだよね」
「へー!とたんに信憑性が増したね!」
「顔でもギターでもムリだったのに、身から出た錆みたいなところからようやく信じてもらえるようになるなんて。"私"っぽいというか……」
「まぁまぁ、そう落ち込まないで……。で、今日はどしたの?もしかしてぼっちちゃんが来れないってこと教えに来てくれたの?」
「事情を含めて教えた方がいいかなって。今後のこともあるからね。もしかすると、ぼくと会うのはこれで最後になるかもしれないし、またあるかもしれないけど、さっさと詳らかにしちゃった方が非常時にも差し障りないでしょ?」
「確かに。わざわざありがとね!」
「はい!こちらこそです」
「で、ひっかかったんだけど、今ぼっちちゃん、ぼく?って言ったよね」
「あっ」
反射的に口を両の手で押さえる後藤。ずっと黙って成り行きを見守ってる風だったリョウが、画面外からズズイと出てくる感じで、
「なに?ぼっちは男の子なの?」
場の中に毒を滴下した。
「い、いやー、なんて言えばいいのか」
「後藤さん、男の子なの?!」
なぜか興奮しつつ、つんのめる姿勢で郁代は問いかけた。すごい勢いだった。後藤も少々、いやかなり引いていた。
「まーまー、今どき一人称がぼくとかおれとかの女の子くらい変じゃないでしょー」
フォローというか、比較的広い視点からの指摘を虹夏は場にもたらしてくれたものの、依然として「後藤ひとりの第二人格=男」という証明は、数学的帰納法ならば n=k+1 の場合を証明すれば終わりというところまで来ていた。
とはいえ。第二人格からしてみれば言うつもりのなかったことが失言から推測された程度のことで、
「隠すつもりはなかったんだけど。だってそんなにぼくと会うことってないじゃない、3人はさ?……うん、ぼくは男だって自認してるよ」
ここでバレてしまったとして何の問題のないことだった。
「きゃーーーーー!!」
耳をつんざくような音。スターリーにいた結束バンド以外のバンドのメンバーたちもなんだなんだと注目するものだから、虹夏も後藤もこれはまずいと、立ち上がって興奮し切った郁代を宥めるように動いた。
「き、喜多ちゃん?!ステイステイ!どうしたの?!」
一瞬で沸騰し切ったかと思いきや、すぐさま郁代は冷静さを取り戻して
「はい、なんですか?」
努めて冷静に、きれいな笑顔とともに反応を返した。そのあまりの急変にはさしものリョウも恐怖を感じて椅子を3センチ後ろに引いた。そしてその郁代は、
「後藤さん。もしよければーー」
何を言い出すのか若干身構えた後藤は、
「お時間の合うとき、ショッピングに出掛けませんか?」
ぎゅっと郁代から手を握られて、そう求められた。
「い、いやー、いつぼくが出てくるかとかぼくにもわかんないし〜」
「そのときは、ロインで……」
その瞳は恋する乙女のそれだった。虹夏は、呑気にパチパチとカップル誕生を祝うように拍手するリョウに少し目を遣りながら、これから起こるだろう三角関係・いや四角関係に、しゅ、修羅場だ……と呟き頭を抱えた。
サークルやバンドの壊滅はグループ内恋愛によるものが多いらしいが、まさか結束バンドの崩壊はこの瞬間に始まってしまったのではないか?
そう、後藤ひとりの第二人格によって。
「喜多ちゃん!!」
「なんですか」
「えーっと、そのー」
しかし言うべき言葉が見つからない!
あなたにはリョウがいるでしょう?!とでも言うのか?そもそも“リョウがいる”ってどういうことなんだ。
一方、当事者の1人たるリョウは既に今日食べる雑草のことを考えてるようだったし、虹夏、孤軍奮闘の極みだった。
「ぼっちちゃん!じゃなくて〜。後藤さん!」
「はい」
「少し、あっちでお話しでも……しませんか?」
「ちょっと先輩!ズルいですよ!」
「話がややこしくなるから喜多ちゃんはちょっと待っててね〜」
「なんでですか?!」
こうして虹夏と後藤ひとりは、少しの間スターリーの階段を上って少し歩いた自販機の側でお話をすることになった。このままだとなんかまずいことになりそうだから、くらいの気持ちで衝動的に後藤の引っ張ってきた虹夏だったが、いざこの場で相対してみると何をどう話せばいいのか見当もつかなかった。
「で、どうしたんですか?」
下唇を触りながら、後藤ひとりが問う。
「ええっと〜」
「ふふ。ズバリ!……怖かったんでしょう?」
「えっ?!」
「グループ活動ってメンバー間のバランスってものが必要だと思ってて、その点、結束バンドって結構いいバランスになってるなってぼくも思います」
「あっ」
「ぼくという異物が混ざると、壊れてしまうかもしれない……。なんて、ね?」
「あっ、あはは。えっと、だいたい、その通り……。気でも悪くしたかな?」
「ううん。結束バンドのリーダーとしてがんばってるんだなって思うよ。一応安心してもらうため言っておくと、ぼくだってバランスとる側の人間で、その辺りは上手いって自負してるから。それに、そもそもそんな顔出さないし」
「そっか!その、ごめんね……」
心底申し訳なさそうに手を合わせる虹夏に、後藤ひとりは少し口元を緩ませた。
「ひとりはさ、これまでの人生こんなに楽しいってことなかったと思うんだ。だからぼくもこのバンド、応援してるんだよね。ずっと続いてほしいって思う」
突然の語り出しだったけれど、虹夏は突拍子なさを感じなかった。頷きながら、続く言葉に耳を傾けていた。
「だから虹夏みたいにしっかりバンドを見てくれて、些細な危機にも気づいてくれる子がいてくれてるのが確認できただけ、すごく安心できたっていうか」
後藤は目を細めて、虹夏を射抜くような視線で貫いた。それからぎゅっと虹夏の手を握る。もう秋になって、いい加減地面を落ち葉が覆い隠さんとする勢いの時節、少しの外出だが寒さに血色の悪くなっていた虹夏の手の甲は赤みを取り戻した。その赤色はぐんぐんと身体を伝わって、顔まで熱くなりつつあった。
「ありがとう、ね」
続くそんなありふれた言葉が耳の奥の中でぐるぐると渦巻きこびりついて離れようとしなくて、頭の中は、一瞬で洗い流されでもしたみたいに真っ白に漂白されてしまった。
「は、はいっ!!」
それで、今度は逆。後藤ひとりに連れられるままに虹夏はスターリーの中に戻っていった。まだ肩がゾクゾクする。触れる手のひらがなんでかフワフワしていた。こんなこと虹夏には初めてのことだったから、スターリーの入り口の、姉の前を通り過ぎるとき、無意識に顔を腕で隠した。姉にこの顔を見られるのは、とても恥ずかしいことに思えた。通り過ぎるときも、少しだけ後藤の側に寄って、影に入ろうとした。
なのに、いつもひとりからする芳香剤のような香りではなくて、フローラルな、惹きつけるような香りが不意に鼻をさしたから、虹夏は逆らえないような気分になった。
果たして、姉の横を通り過ぎた。ぎゅっと目を瞑った。姉とPAさんの話し合いは淀みなく続いていたから、気づかれていないようだった。よかったバレてない。……あれ、何がバレちゃいけないんだっけ?
そうなると冷静になってきて、2人が待つところまで進む活力が生まれた。
「おっまたせー!」
なんてことないように虹夏は席に着こうとしたけれど、郁代とリョウはポカンと虹夏を、というより虹夏と後藤の間を見ていた。
「え、なになに。2人ともどうしたの?」
「いや、その」
郁代は言いづらそうに、けれどはっきりと口に出した。
「どうして手を繋いでるんです?」
「えっ」「あっ」
黙ってしまう2人を見て、郁代は顔を数瞬固め、それから、あはははと笑った。
「そこで黙っちゃうと変なこと疑われちゃいますよ〜!ね、リョウ先輩っ?!」
「ん。さっき裏でなんかあったの?」
「直球すぎます!」
相変わらず何を考えてるんだかわからない、言い換えると、何も考えてなさそうな顔で2人を見ているリョウだったが、ほんの少し見定めるような色が滲んでいた。
「いっ、いやいや何もなかったって!ね!!」
「うん。実際手を離し忘れただけで、変なところなんてなかったと思うけど?」
「いや。なぜ、手を?」
「流れ?」
至極当然、と言った顔で後藤が返すものだからようやく虹夏も、さっきまでなんで自分が慌てていたのかまるでわからないといったくらいに冷静さを取り戻し始めて、リョウ、郁代もほんとうになんでもなかったのでは?と疑念を払拭しつつ、やっぱり“流れ”ってなんだよという疑問も消えない。
「「「……」」」
結果、沈黙。各々長考状態に入る中で、それを破ったのはやはり
「ね、みんな自己紹介しようよ。ぼく、みんなのこと知りたいな」
後藤ひとりだった。
これ幸いにと虹夏も乗り掛かる。
「ようし!ある意味ぼっちちゃんの双子みたいな子が来たわけだし、自己紹介、しよう!私からね!ドラムの伊地知虹夏。下北沢高校2年!最近の悩みは自室がどんどんリョウの私物に占拠されていくこと!最近はイカ墨ーンやってるからもし持ってたら対戦しようね!以上っ」
「後藤さんと同じ、秀華高校1年!ギターボーカルの喜多です、いつも後藤さんにはお世話になってます!イソスタやってるからよかったら見てみてね!えーっと、後藤さんは、その、イソスタやってますか?もしよかったら、その……」
「あー、イソスタなら」
「山田リョウ、ベース。よろしく」
遮るように山田が声を発した。
「ちょっと、リョウ先輩!」
咎めるような響きをもって郁代が嗜めるけれど、リョウはじいっと後藤を見つめていた。睨んでいると言っても過言ではないような、尋常ならざる空気が漂っていた。とは言え、そもそも山田リョウの気怠げな眼差しは時として誤解を受けるものだったし、どのような意味合いの眼差しなのか、当人以外にわかるはずもなかったし、当人でさえわかっていないのかもしれない。
「ううん、平気平気。ひとりがね、一見何考えてるのかわからなくて怖いし、お金せびってくるけど、いい先輩だって言ってたから。まー独特な雰囲気の子なんだろうなって想定してたよ」
「うっ……」
クリティカルを食らったような苦悶の表情を浮かべるリョウ。
「あはは、早くひとりに返してあげてね」
「まだ返してなかったの!?やっぱりバイトの封筒から抜くしか……」
驚愕の虹夏がそう脅しかけると、さすがのリョウも弱々しかった。
「くっ、万事休すか。いや、でも……」
虹夏とリョウが二人の世界に入り込み、あくまでじゃれ合い程度の、戦闘の予感を感じさせる風が密室のはずのライブハウスを通り過ぎる。側にいる郁代も、唾を飲み込むように一触即発の二人に注目する。今やここは地下の薄暗いライブハウスではなかった。ここは西部。荒野に包まれ孤立した、小さな街の酒場前。砂埃舞い散る一面の黄色。カウボーイハットを被った二人が腰に携えられているピストルをいつ抜くか、その読み合いの最中だった。勝負は些細な物音、風に巻き上げられた砂と砂どうしの擦れた音でさえきっかけになり得た。
緊張が走る。
「ちょいちょいちょい!世界に入り込まないで~。まだぼくの自己紹介だけしてないんだけど!」
「「「あっ」」」
緊張は一瞬で弛緩した。
「いいかな、ぼくの自己紹介?」
こくこくと頷く結束バンドの面々を後目に、後藤ひとりは話し始めた。
「ひとりの別人格やってます。母さんからは"もうひとりちゃん"って呼ばれてるけど、ふたりからはお姉ちゃんって呼ばれてるし、父さんからはひとりって呼ばれてる。だからみんなもテキトーに呼んでくれればいいかな。好きなことっていうと、なんだろ、弾いてみた動画見ることと……あと、シーパラに行くことかな。八景にあるんだけど知ってる?」
「八景島シーパラダイスですか?!有名ですよね、あそこ!何回か行きました!よかったら今度みんなで一緒にどうですか?」
「うん、行こっか。あそこ年パスも持ってるくらい好きなんだよね。ジンベエザメがいるんだよ!」
「そうなんですか?……でも、あれ?前行ったときは亡くなったって聞いたような」
「喜多ちゃん、実は新入りがつい最近入ったんだよ。先代は2016年に、ね。あのときは泣いたなあ。ま、みんなで行くときの人格がぼくなのかひとりなのかはわかんないけど」
「ぼっちちゃんとも、ええっと、もうひとりちゃん?とも一緒に行けばいいんじゃないかな?どっちか片方としか行っちゃだめってわけでもないでしょ?時間は合わせにくいかもだけどさ」
「そうですよ!何回行っても楽しいですよ!」
「いや、お金が」
「アナタは浪費癖を改めなさい!」
軽く虹夏からどつかれて涙目になっているリョウが、その実、疲れた部分をどこか大切そうに撫でているのを、後藤は冷ややかな目で観察していた。リョウと虹夏は2人同士の独特な掛け合いをある種楽しんでいたし、郁代は郁代でそんな2人を楽しげに眺めていたから気づきようはなかった。
けれど、そのゾッとするような双眸を、PAさんとの会話をボソボソとしつつ結束バンドの方に意識を多少は向けていた店長だけが気付いていた。
(ぼっちちゃんあんな目もできるんだ……。かっこいいな。っていうか下唇触る癖なんかあったんだな)
いささか期待外れな方向に受け取っていたが。
「よし、時間だ。つきあわせちゃってごめんね。そういうわけだから後藤ひとりは今日練習に参加できないんだ。もう邪魔になりそうだし帰るね?」
「えー。後藤さんギター持ってきてるじゃない!」
「これはね、電車でうたた寝してる間にひとりの人格が戻るかもしれないから一応持ってきただけなんだよね。今までで途中で交代することなんてなかったから持ってきて損するだろうなって思ってたけど、結果的に色々と説明しやすくなったみたいでよかったよ」
それから3人を見渡すように一人ひとりと目を合わせつつ、小さく頷くと
「結束バンドのみんながいい人たちでよかった。ひとりのこと安心して任せられそう。改めてだけど、これからもひとりのことよろしく頼むね」
と、そんなことを、言った。
「「「もちろん」」」
それから後藤ひとりと3人はいくらか会話を楽しみつつ、ひとりがいないから合わせは予定通りとはならなかったけど、いつものスタ練の終了時間ごろにスターリーの入り口で別れた。まずは家が遠い後藤ひとりが駅への目指した。残された3人はそれから、
「後藤さんにあんな秘密があったなんて」
と感じ入りつつ、
「でもぼっちちゃんはぼっちちゃんだよね!」
という虹夏の言葉に、リョウも郁代も大きく頷いた。
最後にスターリーの入り口前に一人残された虹夏は、今日あったことを思い出して少しだけ顔を赤らめた。それから、例えばもしぼっちちゃんから送られたロインだと思ったら、さっきの第二人格の送ってきたものだったという可能性があることに思い至って、少しだけ怖くなった。
でもそんなこと杞憂だろう。
踵を返して、階段を降りていった。
次の日の話になる。虹夏がいつものように寝る前、動画投稿サイトを漫然と眺めていると新着の動画がちょうど来ていた。ギターヒーローのアカウントからで、夏うたメドレーと題した7分程度の動画だった。短いながらも4曲の有名な夏の歌がきれいにつなぎ合わされていた。ギターの癖からすると多分ぼっちちゃんが演奏してると、思う。しかし注目するのはそこではなかった。いや、演奏技術はさすがギターヒーローと、賞賛に値する。しかし投稿者コメントの欄を見るとどうだ。
「今日は彼氏と一緒に水族館に行ったよ〜(絵文字)」
虹夏は
「ぼっちちゃん、まさか!」
一人きりの自室で叫んだ。
「自分の二重人格を……彼氏扱いしている?!」
バンドメンバーの見てはならないものを見た気分になった虹夏は、そっとスマホの電源を切った。
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2
水が十分なら、こんなことにはならなかったのにな。そんなふうに思った。
小学校6年の理科の授業のときの話だ。ビーカーの、尿素がいっぱい溶けた水の中にモールを浸けたら、結晶がモールに付着して、きれいだった。理由を教壇に立つ先生が教えてくれた。要するに渇くばかりで与えられもしないから、限界を超えてしまったという話らしい。それで析出した結晶がきれいなのは、皮肉なことだと思う。水が減れば減るだけ、結晶は増える。最後にすべて渇き切ったとき、残るものなんてあるんだろうか?
確か、このとき初めてぼくが学校に行ったんだっけ。
⭐︎
【日記】って、ノートの表紙に黒のマッキーペンで書かれていて、私はそれを開いた。シャープペンシルを手に取って、日付と、それから今日あったことと。
案の定、学校であったことで書けることはない。いや、喜多さんとギター練習を空き教室でやったな。よかった、書けることがあって!!って、私はいったい何で自分の別人格にまで見栄を張ろうとしてるんだろう。……悲しい。
で、今日はバイトもスタ練もない日だったから、校門まで喜多さんと話しながら向かいつつ、それから……あ、そうだ!もうひとりの私に喜多さんから質問があったんだ。
「今度友達と水族館に行くんだけど、このあたりでいい水族館とか知ってる?」
だって。インターネットで調べれば早いのでは??と思わないでもないけど、こういう小さなところからもコミュニケーションの糸口を見つけられるのが、陽キャってことなのかな。
………いや、私だってそれくらい、できるし!
……できるよね?
…。
ま、まぁ、私に聞かれてもないことを考えても仕方がないよね。うん。あ、あれ?わ、私には聞かれていないってことは、どういうことなんだ?頼りに、されてない?!日記からして、まだもうひとりの私と喜多さんが会ったのって一回だけだよね?うぅ……。
って、違う違う!私は私だもん。もうひとりの私だって私だもん。いやー、私がこんなにコミュニケーション能力があるなんて“客観的に考えても”すごいことだよなあ!
……。はぁ。
って、ごめんね。もうひとりの私に愚痴ばっか書いてるみたいで。いつもありがとう。感謝してます。
あ、そういえばこの前ね、ギターヒーローの動画の概要欄に彼氏と一緒に水族館行きましたって書いちゃった。えへへ、なんだかズルしてるみたい。
私のときは案の定イルカショーとかペンギンのところとかには怖くて行く勇気もなくて。だから代わりに運んでくれてありがとね。起きたらいきなり水族館ていうのもだいぶ面食らったけど、おかげで楽しめたよ。でも周りの人はやっぱり怖かったな……。熱帯魚エリアはなんとか一人で周れそうな感じだけど、人気のあるところは難しいなって思います。
一人で周れるなら、せっかくのあなたの時間を無駄にしなくていいのにね。
そういえばどうして、もうひとりの私はそんなに簡単に人格交代できるの?そういうのができればもっとずっと、色んなことが楽になるのにって思います。コツとか教えてほしいです。
最後に。
いつもありがとう。だいすき。
ひとり
後藤ひとりが学校でいじめを受けたのは、なにも小学5年生のときだけではなかった。既に現在の後藤ひとりにはそんな記憶忘却の彼方で、いじめを受けたことなんてないという認識ではあるけれど、それでも、完全に記憶が消え去ってしまうなんてことあるわけがなくて。
それは思い出さないようにする工夫が上手くなったのかもしれないし、後藤ひとりが目を瞑っている間に誰かが耐えてくれたのかもしれない。もしかして、その2つは同じ意味なのかもしれない。
ただ、注意を入れておくと、5年生以降後藤ひとりがいじめられたことは一度もない。
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3
後藤ひとりが起きたとき、視界は真っ暗だった。まだ夜も明けない内に起きちゃったのかな、なんて思いつつ、暗黒に縦線一筋の光が漏れ出ていたから、扉を横にスライドさせて、今いる場所が押し入れだってことがわかった。雀の鳴き声が聞こえる。そうか、もう朝なんだな。
それにしてもこんなところで目が覚めるなんて、もしかするとと思って動画投稿サイトのマイページを確認すると、今日の18:00ごろに予約されている投稿があった。
動画を確認しようと、クリックする。PCに繋がれた黒いヘッドフォンで耳を覆って、目を瞑った。
溢れ出す音楽。色とりどりの振動が身体を反響している。
後藤ひとりはこの瞬間が好きだった。この瞬間を愛していた。
昨日閉じ忘れたカーテンから、燦々と顔を覗かせる太陽が、押入れの中を暴き出そうとしている。けれどそんなことは許されないと、後藤ひとりは深呼吸をした。後藤ひとりの背中に光はあたり、押入れの中には新たな影ができている。
時刻は5時47分を指していた。
何度か繰り返し聞いた後、カーテンを閉め、布団に潜り込んで目を閉じた。
「ん……?うぅ。また月曜日かぁ。学校行きたくない……」
重い瞼を不用心にも開け、目を覚ましてしまった後藤ひとりは、カーテンで締め切られた部屋の中で静かに起き上がった。今日の18時に投稿する動画の再生数、伸びたらいいななんて考えながら、いつものルーティンをこなして家を出る。
まだ静かな街を歩く。
「眠たい……」
大きなあくびをして、ぼんやりと改札を抜けた。けれど徐々に不安になってくる。
遠くの学校に行くんだ!だから怖いことなんてないんだぞ!
そうやって自分を鼓舞しつつ、ぎゅっと目を瞑る。駅のホームをそそくさと移動するのは、ホームの右端から4番目の乗車位置にいつも中学の同級生が立っているからだった。お願い、気づかないでってお祈りしながら、右肩にかかるバッグをきゅっと両手で命綱みたいに掴んで、そこを通過する。
「中学でも目立たない私だったしそもそも覚えていないんだろう。自意識過剰なだけ!」という楽観的な見立ては正しいのかもしれないし、「気づいたとて話しかけるまでもないと見逃されているだけ」という悲観的なのが正しいのかもしれない。
けれどそこを通るたびに心臓の鼓動が耳にまで届いた。
私はこの人よりも遠くの学校に行ってるんだから、一緒の場所で降りるわけない!
でも、
「駅で後藤見るんだけどさ〜」「え?後藤って?」「中学にいたじゃん、あの陰キャ」「あー、そんなのいたね、それがどうしたの?」「いつも同じ電車でさ〜、どこまで学校行ってるんだろうね」「わかんない、でも確か県外に行ったやつが同級生に1人いるって話聞いたことあるな。もしかして後藤じゃね?」「県外?!何しに?!」「あははは、ウケる」
なんて会話をどこかでしてるかもしれない。どうしようもなく不安だった。なるべく離れた場所に並んで、電車が到着するや否やささっと座席に着く。それから切らず伸ばしたままにした髪の毛をカーテンにして、俯いた。膝の上に乗せたバッグと、床に置いたギターケースを抱き枕みたいに腕で包んだ。
よかった、って心の中で呟きながら、いったいこれのどこにいいことがあっただろうって思って涙が出そうになった。この場所でこれまで何度、もう1人の私だったら!って思っただろう?
電車が5駅移動したら、もう同級生は排出されてしまったはずだ。そう考えるとようやく肩から緊張が抜けた。その拍子に眠気がやってきて、電車のジョイント音の奏でるリズムに溶け込むような浅い眠りに襲われた。降車駅の一つ前でちょうどよく目を覚ました。とぼとぼと電車を降りて、後藤ひとりはようやく誰かの二人称から三人称、いや、もっと遠い、ならされた総体の一部に溶け込むことができた気がした。少しだけ前向きになれたぼっちは駅を出て、学校へ歩いた。
今日も一日が始まる。
「後藤さんって通学時間が長いじゃない?その時間勉強にあてれば、その、言いにくいけどね、成績とか、上がるんじゃないかしら?」
相変わらずの成績で突然の補習を食らい、バイトに遅刻することになったぼっちは、補習を終わらせてスターリーに合流できたとき、心配そうな顔の郁代にそんなことを言われた。
学校のホームルームの後、よしスターリーに行くぞと勢いよく外へ出て行こうとした後藤ひとりは、「あ、そういえば後藤に伝え忘れてたことがあったんだけど」と、まだクラスにたくさん人が残っているときに担任から声をかけられてしまった。教室から移動して、少し離れた人気のないところで、「今日補習な。ごめん、言い忘れてた。ちょっと留年とか危ないから。補習出とけば多少は融通きかせられるから、絶対に出ろ。何か用事あったか?」と言われてしまったら、もう断ることもできない。「れ、連絡入れておきます……」と震える声で呟いた。
先生に連れられて移動した先は偶然にもスターリーに行くときの郁代との待ち合わせ場所だったので、郁代も“後藤ひとり留年説”を陰からしっかりと聞いてしまっていた。
だから、ぼっちがロインで「急に用事が入ってしまったのでバイトに出られません。ごめんなさい!」と若干濁したふうに言ったバイトの欠席連絡の理由を痛いくらいに郁代はわかっていた。
「ねぇ、後藤さん。電車のときっていつもどうしてる?」
「ね……」
「ね?」
「寝てます……」
「……」
しらーとした空気が流れる。
「後藤さん、もう少しだけがんばってみない?それで一緒に学年上がりましょ?……でも、その。もし学年が違っちゃっても、敬語とか、使わないでいいからね?」
「は、はい……」
絶対に留年しないぞ!とぼっちは心に闘志を燃やした。
「まずは電車の中!いい?」
「は、はい!」
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4
「後藤さん、そういえば、そのぉ……」
「え、っと。なんですか?喜多さん」
なんとなく恥ずかしそうにして口をもごつかせている喜多。何事に対しても快活な姿で臨んでいるのを今まで見続けてきただけに、珍しいものを見たという印象。
どうしたんだろう?
少し首を傾げながら続きを促した。
「も」
「も?」
「ももももも」
「も、桃?」
「も、もうひとりの後藤さんって、最近、その、元気かしら?」
ひとりに目を合わせようとはせず、少し伏せ気味で、顔の横に伸びる触覚を何度も撫でるようにいじっている。
「もうひとりの私、ですか?」
「う、うん」
やっとの思いで喜多が捻り出した言葉だったが、今まで、こういうことが何度かあったことをひとりは思い出した。自分にとって悪い兆候ではない。ただ、別の人格のことで周りの人がそわそわしていて、それからしばらくするとその浮ついた空気がため息に変わって、そのままなにもなかったみたいになる。人間関係レベルの低い後藤ひとりにもどんなことが裏で起こっていたのかくらいは予想がつく。
だから、いつも後藤ひとりは、もしも私が……。
「ねぇ、後藤さん!」
「え、わ、はい!」
突如呼びかけられた大きな声にびくついた。さっきよりも俯いていた顔が跳ね上がるように郁代に向けられる。
「体調悪そうよ?ごめんね練習付き合わせちゃって。保健室に行きましょ?付いてくわね」
「だ、だいじょうぶです!ギターの練習しましょう!……その、少しぼうっとしてただけなので」
「そう?ならよかった!」
「は、はい、練習の続きやりましょう!」
「よろしくね!」
もしも、について考えるほどに……申し訳なく思えてしまった。
ギターの練習しているときでさえ、郁代の姿は日陰のひとりを照らすみたいにきらきらしている。
できることなら、"この時間"が長く続けばいいのに。そんなふうに考えてしまう自分が無性に腹立たしかった。
しばらく空き教室での練習をした後、連れ立ってスターリーに向かった。道中の話題と言えば、昨日、廣井から招待された sick hack のライブについて。
「私だってね、練習それなりにしてきたもの、技術がどれくらいすごいかくらいのことはわかるの。でもね、こういう音楽があるんだなってわかったんだけど、ちょっと戸惑ったっていうか。やっぱり音楽の理解が足りないのかしら」
そんなこと、ないですってひとりは言おうとして、言おうとしただけでやめてしまった。少しだけ落ち込んだような郁代にかける言葉の正解がわからなかった。それに、
「だから、もっともっと勉強しないとね!」
私が適切な言葉をかけられなかったとしても郁代は落ち込むだけの人じゃない。だから。そういうところを見るたびに、眩しいなってひとりは思う。
「……は、はい!がんばりましょう!」
って言って、これだけでも返答できたことが成長できたような気もするし、ちょっと上から目線じゃないかなって不安になって。そして、もしも、もうひとりの私だったらもっと喜多さんは笑顔だったかもしれないなって考えて、もっと不安になった。
足取りは重く。
「ほら、後藤さん!もうすぐ着くわよ!」
手を引かれる。目に滲んだ涙が太陽の光を湛え、手のひらの包まれる感覚がやけに鮮明だった。
「どうして――」
掠れたその小さな言葉は続きを紡ぐことなく誰の耳にも認識されないまま宙に浮かんで、秋の青い空に溶けていった。
☆
既にリョウと虹夏は椅子に座っており、だらーっと机を枕にしていた。
「あ、ぼっちちゃん!喜多ちゃん!」「おう来たか、ぼっち、郁代」
勢いよく起き上がって、手を机に支えて迎える虹夏。リョウは突っ伏したままでゆるく手を挙げた。
「先輩、おはようございます!」「お、お疲れ様です!」
「どうする?あと5分だけど。もうバイト始めちゃう?」
「タダ働きは勘弁」
「といっても、今だらだらしてるだけだからねー」
「虹夏ももっとだらだらすればいい」
「だから今してるんだけど、だらだらするのにも飽きてきちゃってさ」
顎を机にのせて干物みたいになっている虹夏を見て、ひとりは私みたいなかっこうだなと思って頬を緩めた。
「虹夏、ぼっちにも笑われてる」
「え!ぼっちちゃん、笑ったの?!」
「え、ええええ!!そ、そそそ、そんなこと」
目敏くぼっちの笑みを指摘する山田と、追従する虹夏にたじたじのぼっちは、さらに郁代から
「そうなの、後藤さん?!」
という予想していなかった方向からの口撃(ひとりにはそう思えた)をくらって、人の形を保てなくなり液状化した。それはFXで有り金を溶かす人の顔から、さらに目や口が顔の枠からはみ出てしまったような、幽霊も驚く人外っぷりで、それを見た山田は満足そうにうんうんと大きく頷いた。
「虹夏、これがだらだらするってこと」
「いや、これだらだらっていうか、どろどろだよね!?」
結局、ぼっちがどろどろしたところでいい時間になったので、バイトが始まった。そして、星歌の温情によって、ぼっちを元の形に成形するのにも時給が発生した結束バンドの面々は、時間外労働のない彼女らのバイト先に対する自信・満足を深めた。また、そんなアルバイトたちの様子を感じ取った店長は内心めちゃくちゃ喜んだ。
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5
文化祭が行われる。それに伴ってステージ演目の募集が行われた。
もちろん硬派な後藤ひとりは出る気がなかったのだけれど、生徒会室前に一枚に紙を持って、提出ボックスの前に立ち尽くしている自分に気づいたときはさすがに驚いてしまった。
いったい誰がこんなものを書いて……って、後藤ひとりが書いてる?!
提出者名に驚いた後藤ひとりが朧げな記憶を辿ると、
「クラスの誰かがライブしたら私惚れちゃうな〜(はーと)」
というクラスの子の会話を聞いて以降のものがあまりにもやがかっている。
「まさか、そんな……!」
ちやほやされたいなんて考えるな後藤ひとり、お前は誰にも負けない硬派なロッカーだったじゃないか!集中すべきはバンド活動!!煩悩には旅に出てもらわないと!
自身のおそろしい事実に気づきかけてしまった後藤ひとりは耐えきれず頭を床にぶつけ出し、そのあまりの必死さに、意識を失って、呆気なくもうひとりの人格に体を明け渡したのだった。
「痛ててて、って、なんでこんなに頭が痛いの?フラフラする……。ん、なにこの紙?」
手の中に収められていたしわしわの紙を広げたもうひとりは、
「あー、そういうことか……」
と、一つ大きなため息を吐き、いまだずきずきする頭を押さえながら立ち上がった。
ちょうどそのときガラガラとドアの開く音がして生徒会室の扉が開いた。
「あの、物音が聞こえましたけど、だいじょうぶで、……って、血??!」
頭からだらだらと血を流していたことに言われて気づいた後藤ひとりは、確かに押さえた手のひらが赤く湿っていることを確認し、それからよろめくように生徒会の子の方に倒れ込んだ。
「わえあっ、っと!!」
なんとか後藤ひとりをキャッチした生徒会の女の子はしばらく慌てふためいた。「ごめんね、保健室まで運んでくれないかな?」と肩を回して、耳元で囁いて、その抗いきれないような声の色に生徒会長は「あ、はい……!!」とまるで頭が蕩けてしまって機能しなくなったような、それでいて心地よい感覚に全身を支配されて、歩き出した。
なぜ頭から出血していたのかとか、あの物音はなんだったのかとか、きっと気になることはたくさんあったはずなのに、まるで自分の外から入り込んできた異物に一時的に身体の支配権を明け渡してしまったように保健室まで体を前進させている生徒会長は、どこからやってきたのかわからない多幸感でいっぱいいっぱいだった。
「じゃあここまでありがとうね。もうだいじょうぶだから。忙しかったよね、生徒会長さん?」
「い、いえ。こちらこそありがとうございました」
「ふふ、変な人。助けてもらったのはこっちなのに。それじゃあね?」
「は、はい!」
ガラガラと閉まった引き戸、廊下に出た生徒会長の姿はすでにない。相変わらずズキズキ痛む頭は、引き寄せられるようにベッドの枕に落ちた。
「ふぅ……。いったい。なにやってんだか、あの子は」
それから、端が少しだけ赤黒く染まった用紙を睥睨するように。
「まったく、しょうがないな」
そう呟いた。
「後藤さん、怪我したって聞いたわよ!!」
再び開け放たれた引き戸から弾けるほどの明るい色を湛えた髪を振り乱した郁代が現れた。ベッドには包帯を頭に巻いたひとりがかすかに寝息を立てながら目を閉じていた。スリープ状態のパソコンみたいな無機質さで、もともとひとりの肌が白いこともあって、人間ではないような印象を受けた。寝息が聞こえなかったらきっと死んでいると感じただろう。不安になってひとりの顔をのぞき込んでも、解消されるわけでもない。近くにあったねずみ色の回転椅子を引っ張ってきて、ベッドの側で座った。
そこにひとりはすでにいないのではないか。生きてるのは確かなんだ、私はいったい何を考えてるんだろうか?というように吐き出したため息は、ここに来るのに急いだせいで荒くなった呼吸と混ぜ合わされていた。
「だいじょうぶなのかしら」
なにも乗せられていない真っ白な机に頬杖をついて、寝ているひとりをまじまじと見つめた。この前、もうひとりと会ったときにもわかっていたけれど、後藤ひとりは猫背だったり顔をちゃんと上げていれば文句ないくらいには美少女だ。
眠っているひとりからはいつものエキセントリックな挙動が削ぎ落とされて、あまりにも透明だった。触れてしまえばすぐに崩れてしまうような。存在感が稀薄というよりは、あまりに透き通っていて別の世界にいるような。
引き寄せられるように、郁代は立ち上がり、枕の上にのせられているひとりの顔に手を伸ばした。
喜多の熱を帯びた指先がひとりの頬に触れようとしたとき、
「ん、あ……。えっと、ここどこ?」
ひとりは目を覚ました。ぼうっと今は天井を見つめているひとりが郁代に気づくのは時間の問題だった。急いで手を引っ込めて、なんでもなかったように取り繕った郁代は、郁代に気づいたひとりに
「よかった!」
と言って、ベッドに飛びついた。
「き、喜多さん?」
「後藤さん、倒れたって聞いて保健室に来たんだけど、どうかしら?頭はもう痛くない?」
「えっと……。あ、はい、もうだいじょうぶです……」
「よかった!今日後藤さんバイトだったかしら?」
「ちょっと待ってください。確認します……」
ポケットの中に入っているスマホで予定を確認した。
「ありますね……」
「そう。後藤さん無理そうだったら代わりに出ましょうか?」
「え?でも喜多さんは用事とかあったんじゃ?」
「遊ぶ約束してた友達がね、えーっと、赤点取っちゃったみたいでね、それでなくなっちゃったの」
「そ、そうなんですか……」
そういえば後藤ひとりもなにかの科目で赤点を取っていた。今見たスケジュール表には今日補習なんて書いてなかったけど、入力し忘れてる可能性もある。少し怖くなってきた後藤ひとりだったが、なにも気づかなかったふりを自分にかけた。
「で、でもだいじょうぶですよ、もう!喜多さんはもともと休みだったんですし、代わってもらうまでもないです」
「そう?気をつけてね。……あ!そう言えば!」
「え、どうしたんですか?」
「掲示板に文化祭のステージ募集してたじゃない?結束バンドで出てみましょ!」
「え?」
「きっと楽しいわよ!後藤さん!」
「わ、わたし……」
「わくわくしてきたわ!ロインのグループでも聞いておくわね!練習頑張らなきゃ。じゃあ、後藤さん!またね!」
「私、出たくないです!」
ガラガラドシャン!と勢いよく扉が閉められて、廊下を鳴らす靴音がリズムよく響いていた。
引き留めようと伸ばした手は宙に浮かんだまま、しばらく下ろされることはなかった。
1巻の時間軸を2018年と思い込んでましたら、2017年でした。結構わかりやすく書いてある部分なのでよく読んでいれば普通に気づくはずなんですけどね。なぜそんな勘違いをしてしまったのか……。
2018年準拠で設定をくみ上げていたので、この勘違い結構痛くて、このまま未完で終わらせるべきか悩みに悩みましたが、一応今後も2018年として投稿を続けていこうと思います。本作内で今年が何年かっていう明確な描写は一切するつもりはないので気にはならないと思います。
しかし、実は読んでて矛盾を感じる箇所がこの二次創作の1話の時点で存在します。それに関しては読んでくださる人の中でうまく補完していただきたいです。
申し訳ありません。
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6
「あーあ……」
保健室に響く声。下唇を親指で何度もなぞりながら、据わった目で扉の先を見つめている。ゴミ箱に一瞬目をやったかと思うとまた一つ大きくため息をついた。
「ちっ、しょうがないか……」
立ち上がって、保健室を出ていく影。ピンク色の髪が揺れる。
「あ、そういえば後藤さん!さっき言い忘れてたことがあって、って、あれ?」
少しして、郁代が保健室に戻ってきた。ベッドの下やゴミ箱の中なども確認したけれど、人の気配はどこにもなかった。
「もうだいじょうぶになったのかしら、後藤さん?」
頭を捻りながら、また郁代は出ていった。廊下を歩きながら、
「そういえば、あれってなんだったのかしら」
と思った。
秀華高校では1週間に一回ゴミ出しをする習慣があった。もちろんゴミ箱の袋いっぱいになればその都度出しに行くのだけど、保健室のゴミ箱についてはそうそうはいっぱいにならないから、滅多なことがない限りは1週間に一回になっている。それを以前、保健室の掃除の係を割り当てられたことのあった郁代は知っていた。
今日がゴミ出しの日だ。そして掃除は少し前に終わったばかり。ゴミ出しを終えた痕跡はあるというのに、既にゴミが少し捨てられていることに少しだけ違和感を覚えた。
ビリビリに、人の手によって破かれたようなあの紙はなんだったのだろう?それも少し赤黒いものがあったし。そんなちょっとした疑問を郁代は、まあ、そんなこともあるわよねと1人合点して、クラスへと戻っていった。
校庭では木の葉がつむじ風に絡め取られている。季節は秋。風の柱に呑み込まれた哀れな葉は、踊り続けることを強制されていた。
「おはようございます」
「ん?ぼっちちゃんおはよう。……?頭の包帯どうしたの?」
「ちょっと怪我をしちゃいまして。でももうだいじょうぶです!」
「そ、そう?ほんとにだいじょうぶなの?」
「ええ!もう元気です」
両腕を曲げて、全然ない力こぶを起こした。
「う、うん」
ぼっちちゃんこんな感じだったっけ?と腕を組みながら、頭をぶった後遺症なんだろうなと納得してしまった店長。
「無理するなよ?途中で帰ってもいいから」
「ありがとうございます。もしつらくなったときには言います」
「ああ。……そうして」
すごい淀みなくしゃべる、郁代並みのキラキラ笑顔を放出する後藤ひとりに、星歌は、後遺症だっていう納得をしてなお違和感を感じていた。なんなら、こういうタイプって苦手なんだよな……と思っているくらいだった。心の中で早く元通りになりますようにと祈った。
ただ、星歌のもとから去り、バンドメンバーの方へ顔を向けようという瞬間に見せた、少しクールというか据わったような目は悪くないなと思った。基本かわいいもの好きの星歌だが、ギャップ、というものは如何ともしがたい引力が備わっているのである。大きくうなずく店長に、呆れたような眼差しをPAさんが向けていた。
「ぼっちちゃん、おはよう!」
「ぼっち。郁代から聞いた。文化祭どうする?」
「あー」
「「???」」
「今日はひとりじゃなくて、二重人格の方なんだよね……」
「あ、そうなんだ。久しぶりだね」
「……」
少しだけ恥ずかしそうにしている虹夏と、相変わらず冷めた感じのリョウだった。
「うん、大切な話しなきゃってときにぼくが出てきちゃってごめんね。スターリー入る前まではよかったんだけど、緊張しちゃったんだろうね、気づいたらスターリーの前にぼくが立ってたよ」
「えー!だいぶ慣れてきたと思ったのにな~」
「ひとり、文化祭に出たくないみたいで。学校でみんなより先に文化祭に出たいってこと聞いてたんだろうね。多分ここに来たら文化祭の話になることくらい予想つくだろうし」
「あー。別に出たくないなら出たくないって言ってくれればいいのに!喜多ちゃんだって、ぼっちちゃんが出たくないってちゃんと言えば出ようとしないと思うな」
「あはは。まぁそれでも自分の意見のせいで誰かのやりたいことを妨げるようなことは極力したくない子だから。きっと自分の心に蓋をして悩んだ末に、出ましょう!って言っちゃうんだろうね」
「ま、"ぼっち"と要相談ってことで」
「リョウ。ぼっちちゃんが出たくないって正直に言えないかもって話でしょ!」
「別に、出たくないなら出たくないって言えるよ。ぼっちなら」
「そうかなー?」
「ま、そんなわけで今日のバイトはぼくが来たってことで。粗相もあるかもしれないけど、ごめんね」
「いいよいいよ、気にしないで。もうひとりのぼっちちゃんもぼっちちゃんだもんね!」
「……うん。ありがとう!」
笑顔を交わす虹夏と、後藤ひとりに、山田は頬杖ついてつまらなさそうにしていた。
「ぼっちちゃんよりもめちゃくちゃ接客がうまいし、即戦力じゃん!!」
バイト中、虹夏のそんな(今は眠れるぼっちに対して)血も涙もない発言が宙を舞った。
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7
「後藤さん、この間はごめんなさい!!」
「え、は、んえ?な、なんですか……?」
「後藤さん文化祭出たくなかったのよね?なのに私……」
「?えと、よくわからないです、けど、その。えーっと。はい」
「……後藤さんはほんとうはすごい人なんだって、学校のみんなにも、わかって欲しかったの」
「え?」
いまなんて?すごいって褒めてくれたの、私のこと??いや、聞き間違いかも?きっとそうに決まってる。でもほんとに言ってたんならもう一回言ってもらいたいな……。
様々な感情が湧き上がりそのすべてが
「え、いまなんて言いました?」
と言葉に発しろと後藤に命じていた。
「ん?だから、後藤さんはほんとうはすごい人だってことわかってもらいたくて」
「……」
黙り込み俯いてしまった後藤ひとりを郁代は心配そうに見つめていた。
「……??ねえ、後藤さん?昨日頭ケガしてたのまだ直ってなかったりする?」
「き!!!」
「?!!!」
いきなり奇声を上げるものだから、郁代はのけぞってしまった。
「喜多さんは、えっと、どうでしょう?私のこととか、関係なく出たいって、思いますか?」
「そうね、楽しそうだなって思うもの。でもね、後藤さんが」
「喜多さん、えっと、出ましょう!私のことなんて、心配しなくて、いいですから!!」
「え、そうもいかないでしょう?みんなが出たいって思うから出ることに意味があるのよ?」
「も、もうだいじょうぶなんで。それよりも申込用紙出しに行きましょう」
「え、なに?どうしちゃったの後藤さん」
「それじゃあ!!」
と言って、後藤は「え、えへへへへへへへへ」と底から響くような音を発しながら廊下の奥へ消えていった。
呆気にとられたままの郁代はその場に立ち止まったままだった。いつも通りの後藤にいつも通りに驚いていると言い換えることもできる。
一方で、既に生徒会室前に設置された申込ボックスに、結束バンドと書いて入れてしまった後藤は、教室に戻る道すがらにようやく冷静さを取り戻し始めていて、
「え?なに?いま、私、なんか変なことしなかった?」
と記憶を辿ろうとするのを拒絶する無意識に対して反旗を翻しながら、意識的に3分前の自分を想起していた。
「だめだ。どうがんばっても何をしてたのか思い出せない……!」
そう言って教室の扉の前で突っ立っていると、背後から「後藤さん!」と声をかけてくる者があった。
「もう申込用紙出しちゃった?」
郁代だった。
「え、あ、ああ……。ああああああああああああ!!!」
鍵をかけていた記憶が、無理やりこじ開けられる。その扉から溢れ出る奔流による衝撃で奇声を発し壊れてしまった後藤が、ようやく意識を取り戻したとき、目の前には天井があった、
「え、ここどこ?……保健室?」
「いきなり大声出しちゃうんだから。びっくりしたのよ。昨日に引き続き保健室ね」
「き、昨日?あっ……なるほど」
「?えーっとね、後藤さん申込用紙出しちゃったのよね?だいじょうぶなの?」
「……」
「一時の気の迷いかもしれないし、もうちょっとよく考えてみて、それでやめようって思ったなら一緒に断りに行きましょ」
「う、はい」
どうみてもだいじょうぶじゃなさそうって郁代がわかるくらい青褪めてしまったひとり。おずおずとベッドから這い出て、
「えと、じゃあ、用紙回収しに、行ってきますね……」
「はやすぎるっ!」
判断に要した時間わずか数秒。じゃあなぜ申し込んだというのか。後藤さんって不思議なひとだなあと他人事みたいに郁代は考えていた。
なんとなく心配になった郁代は、じゃあ私も着いていくわねと、後藤の後ろについた。しかし陰キャラたるもの、人と歩くとき一歩下がってしまうという習性を持つ。
いつの間にか郁代が先陣を切る形になり、生徒会室に着くや否や、「失礼します!文化祭のステージ申込を取りやめたくて来ました!」肩越しに様子を窺う後藤も、郁代に深く同意を示すように、うんうんうんと赤べこ人形のように頷いた。
「ステージの申込の取りやめですか?」
「はい」
「申し訳ありません、そう言ったものは受け付けておりません」
「なんでですか?!」
「規則ですので」
「そ、そんな……」
郁代の背後で縮んでいる後藤はそれを聞き、ついに人の形を保てなくなってしまった。このままではまずいと、背中に伝わるスライムのようなゲルの感触に急かされながら、
「ひ、人の命がかかってるんです」
泣きながら呟く郁代に、
「え?!ほんとうに文化祭の話をしてますよね?!」
「そうに決まってるじゃないですか!!」
結局。結束バンド出演キャンセルを受諾させられないまま交渉は終わってしまった。なんとかひとりを元の形に成形し直すことができた郁代は、道中、接着が甘くて崩れかける身体のパーツを適宜修正しながら、放課後練習の一旦の集合先であるスターリーへと足を運んだのだった。
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8
「どうしちゃったのぼっちちゃん!?」
「それが、実は……」
さっき学校で起こったことのあらましを肩にひとりを担ぎながら虹夏に説明する郁代は、ずいぶんと落ち着いた様子だった。後藤ひとりの心の動きは理解できないままに、行動の傾向だけは先読みできるようになりつつある郁代はきっといつか後藤ひとり博士になれるだろう。流体になった後藤ひとりを素面のまま背負い続ける姿には一種の風格さえ漂う。リョウは虹夏の後ろから感心していた。
「そ、そんなことが……」
虹夏は若干呆れた様子になりながら、相変わらず溶けたままぼっちちゃんに少し目をやった。
「結局文化祭に出ることになったんですけど、その……」
「ぼっちちゃんはだいじょうぶなのかってことだよね?」
「はい……」
ようやく椅子に座らせることができたので、郁代はうちわで冷まして固体にもどるのを促した。
「……。自分で言うのもなんだけどね」
虹夏が語り出す。
「私とリョウって、やりたいことがはっきりしてて、かつ迷いなく行動に起こせるタイプっていうか。だから結束バンド始められたんだと思う」
まぁ、リョウの場合は必要のないものって思うとそっちのリソースも削っちゃうから、それで学校の成績も悪いんだけど。やれば出来る子っていうのかな?
そう付け足しつつ、
「それから喜多ちゃんが入ったり、いなくなったり、ぼっちちゃんが入ったり、喜多ちゃんがもどってきたり……」
「うっ……。すみません」
「あー、そういうことじゃなくてね。自分でもなにがいいたいのか決めずに話し始めちゃったんだ。ごめん。それでね。仮にやりたいことがみんな一つになってたとして、みんな同じだけのモチベーション持ってるかっていうとそうじゃないっていうか。……やり始めるって怖いことなんだよね。ぼっちちゃんはその傾向が強い子で。それでも結束バンドに入ってくれた」
緩んだ目尻でピンクのジャージの方を見つめていた。
「やらないで後悔するよりやって後悔した方がいいなんて、そんなことはないと思う。やって後悔した方が大きな傷を残すなんてことたくさんあると思うし。でも、やらないとその程度もわからないんだよね」
郁代もリョウも、その次に紡がれる言葉を待っていた。
「だから、みんなでがんばろう!がんばって、ぼっちちゃんが後悔しないように、ね!」
「はい!」「うん」
しばらくすると、ぼっちちゃんの意識も戻ってきた。
「虹夏の名演説が聞けなくて残念だったね、ぼっち」
「えっ、えっ??」
「ちょ、やめろ山田ァ!!」
頬を赤くした虹夏が山田を追い回す姿がそこにはあったとかなかったとか。
そんなときだった。
「やっほー!来たよ~~」
手から酒瓶をぶら下げながら廣井きくりが千鳥足で階段を降りてきた。山田を追い回していた虹夏がとたんに迷惑そうな顔に豹変した。山田は
「あ、どうも」
と一礼してそれから
「あれ、SICK HACKって今日FOLTでライブじゃないですか?」
と問いかけるも、廣井は酔っ払いつつどこか泰然自若としていた。
「ん、そだよ~」
「まだこんなところにいていいんですか?」
「おい、こんなところってなんだ山田!」
少し離れた星歌の耳に入りつつ、
「いいのいいの、いつもこんなだから。志麻にあとで怒られるだけ~」
相も変わらず暢気そうな廣井だった。
「あぁ、そうですね」
山田はふだんの廣井のライブ中の奇行を知っているからか、まぁそんなもんか、遅刻してもファンなら罵声を一声でも浴びせれば満足して、かえってそれでこそ廣井とでも言いつつ盛り上がるだろうなと納得したけれど、SICK HACKにくわしくない勢にはそうもいかない。
「いやいや、リョウ。納得するところじゃないでしょ。ほら、廣井さん。はやく行かないと」
しっしっと汚いものを追い払うような手の仕草に、
「ちょっとちょっと、最近妹ちゃんも先輩に負けず劣らず私への扱い悪くない?!」
「当然の扱いだろ。な、虹夏」
「うん」
「姉妹そろって私をいじめてくるんだけど~~!!」
伊地知姉妹から逃げざまに、
「助けてぼっちちゃーん!」
と、ひとりに抱きつこうとした。
しかしあまりの酒臭さに反射的に身体を反らしてしまった結果、廣井は虚空を抱きしめながら地面に沈んでいった。
「あっ、え。ご、ごめんなさい……」
そういって廣井の肩を揺らすけれど反応がない。しばらくゆすり続けるが意識がもどってこない。
「あ、え、わ、私の責任……?!」
後藤ひとりの脳内でドラマが流れ始める。
通報によりまもなくスターリーに突入した警察官に拳銃を頭に突きつけられながら、「容疑者一名確保」と殺人の罪で逮捕された後藤ひとりは、留置所の中で半べそをかきながら、冷たい床を背中に感じながら眠りにつく。時折面会に来てくれる人たちも、「後藤さん、そんなひどい人だなんて知らなかったわ」と捨て台詞を吐くや否やすぐに踵を返して扉を出て行くのだった。
「ああああああああああああああああ!!」
「ぼ、ぼっちちゃん、廣井さん死んでないから!戻ってきて~。意識失ってるだけだよ!それに飛びかかってきたの廣井さんだし。ぼっちちゃんに責任なんてないから!」
「これくらいならちょっとすれば目覚まして何事も無かったみたいに動き出すだろ。しかし、今日こいつライブあるんだって?面倒だけど新宿まで運ばないとな。私は、まぁここの店長だから無理として、どうしよう。FOLTに電話かけるか?……って、ん?」
わずかにバイブレーションの音がしている。廣井のスカジャンのポケットに星歌が手を突っ込むと通知だらけのスマホと、それからチケットがちょうど4枚入っていた。
「お!いいもん入ってんじゃん。おまえらこれ使って今日のこいつのライブ見て来いよ。迷惑被ったんだし当然の権利だろ。それに4枚だし、案外お前らのために持ってきてくれたのかもしれないぞ」
「やった!」
真っ先に山田が飛びつく。無料でSICK HACKが聞けるともなればこういう反応にもなろう。ほかのメンバーも、迷惑被ったんだし当然の権利だという店長の言葉に大いに頷き、あの後藤ひとりでさえ、さっきの慌てふためく様子から一転して特に申し訳なさを抱くことなく新宿行きを決めた。
廣井がいかに細身の身体をしているとはいえ、大人を高校生が運ぶともなれば大変なわけで。交代で廣井を運ぶことになった。下北沢から10分そこら電車に乗るだけだとはいえ、この時間帯ともなればそれなりの混雑で、ぼっちは電車に乗った瞬間にすでに帰りたくなっていた。意識のない廣井を支えようとぼっちは廣井の抱き枕役を頑張った。やっぱり酒臭い。顔を背けようとすると、近くに立っている帰宅途中のサラリーマンと顔が合いそうになるので、結局廣井の顔を向けないといけなくなる。
だからまじまじと廣井の顔を見つめてみた。基本顔を合わせることが苦手なので、改めて見てみると、アルコールで赤くなっているのはさておき普段の奇行がまるで信じられなかった。意識を失い表情を一切失った廣井のかんばせからぼっちが感じたのは、神経質さだった。
(路上ライブお姉さんとやって、すごくうまいことは知ってるけど。でも私ってお姉さんのことなんにも知らないのかな?)
いい機会だし、お姉さんがどんな音楽やってるのか知りたい。そんな思いもあって新宿までなんとか耐え抜いたのだが、新宿を降りたときの混沌具合に限界を迎えてしまった。
「あ、今日のライブ楽しかったですね~。それじゃあさようなら。ありがとうございました」
「まだ会場に着いてもないでしょ!」
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9
「早くこの人起きないかなぁ……」
なんとか4人で廣井を引っ張って、新宿からFOLTまでの道のりをゆく。むにゃむにゃとよだれを垂れ流しているところを見るに目を覚ますのはもうすぐのように見える。
FOLTは新宿歌舞伎町に位置していて、東口から徒歩でだいたい10分くらい。アクセス情報としてはこのようなところで、この情報の中のなにが後藤ひとりにとって問題なのかは言わずもがなだと思う。
"歌舞伎町"である。
夜の世界が広がっているという先行イメージは、偏見も多分に含んでいるとはいえ、ひとりがいつも歩く通学で歩く道に比べて退廃的なにおいを感じ取ってしまうのを助長していた。スターリーを出たときに抱いていた、廣井きくりの音楽への純粋な興味が、今となってはこの街をライブ終了後何事もなく抜け出せるのかという不安に変貌していた。
がくがくと足が震える。今は主にぼっちがきくりを二人羽織のように背負っているから、きくりもがくがくと揺れている。とてつもない振動だった。
「ど、どうしたのぼっちちゃん?変わろうか?」
「あっ、い、いえ。だいじょうぶです。む、武者震い……です」
「いやいや、そんなわけないでしょ。ふたりで一緒に感電してるみたいになってるよ」
あんまり揺れるので、廣井の口元から垂れ流される唾液の量も増えてきている。ピンクのジャージの背面がべとべとになっていく。
FOLTはすでに近い。
「あ、もしかして」
地下へ伸びる階段の側に一人の女性が、なにかを待っているようにスマホを右手にしながら、立っていた。4人と1人に気がつくと、声をかけてきた。
「結束バンドの子たちですか?」
「はっ、はい」
ひとりは背負っていた廣井をその女性に渡した。
「こいつと同じバンドの志麻です。ご迷惑をかけてしまったみたいで」
「いえいえ」
「いつも酔っ払っててどこほっつき歩いてるんだか分からないやつなんで、迷惑だと思ったらいつでも連絡してくださいね」
そう言って志麻とロインを交換する4人。きくりはアスファルトに身を横たえていた。
「えーっと、後藤さんでしたっけ」
「あっ、はい」
ひとりと志麻がロインを交換しているときのことだった。
「最近廣井がよく後藤さんのこと話してるんですよ」
「えっ?!」
そう言われると真っ先に陰口を疑ってしまうのは陰キャのよくない癖である。
「そんな怖い話じゃなくて。先輩風吹かしてる感じでね。……少し前に八景で路上ライブやってたじゃないですか、廣井と」
「……!なんで、知って?」
「アンプとかの機材持ってきたの私なんで。何かしでかしやしないかって、離れたところから監視してたんです。それから数日くらい経って結束バンドのこと楽しそうに話すことが増えて」
「お、お姉さん……」
いつも酔っ払ってて、演奏以外でかっこいいところをみたことがなかった。こんなふうに自分、いや自分たちのことをみていてくれていたんだと、ひとりは感動した。
「おかげで、暴れることが少なくなって弁償する頻度が少し減ったので助かってます」
しかし、志麻からありがとうございますと大きく一礼されて、やはり廣井は廣井なのかと少し呆れてしまった。
それから志麻は何か言い忘れたことがあるような、という調子で数秒考え込んだ。あっそうだ、と手を打ってから大きく頷いてこう言った。
「あのときの演奏よかったですよ。廣井が惚れ込むのもわかるくらい」
「えっ」
「おら起きろ廣井!!いつまで寝てるんだ」
足でぐりぐりと寝転がるきくりのおなかを志麻が踏みつけてやると「ぶわぁぁああ!!」と声を上げながらようやく目を覚ました。
「な、なにぃ?ここどこ?なんで私、志麻に踏まれてんの?」
「迷惑かけて気を失ったから、この子たちに連れてきてもらったんだよ。おら、さっさと起き上がってありがとうございましたって言え」
「ん?……あぁ!ありがとね、ぼっちちゃんたち」
「寝ながら言うんじゃない!さっさと起きる!」
「ちょっ、ちょっと!まだ吐きそうなんだから優しく扱ってよ」
まるで猫でもぶらさげるみたいだった。
「みんな、ありがとね。そうだ!お礼にお姉さんがこれをあげよう!」
おもむろにポケットを漁りだしたかと思うと「あれ、ないない、チケット4枚あったはずなのに!」と喚き出す。
「あ、お姉さん、もうもらってます」
「酔っ払ってる間にあげちゃったのかな~。ま、いっか。それじゃあお姉さんについてきなさーい!」
「廣井そっち逆方向だから」
廣井は志麻に引っ張られながら結束バンドを先導したのだった。ライブ直前なのに依然として、いつもの酔っ払いの挙動のままの廣井をみて結束バンドの面々は心配していた。
「「「こんなのでライブだいじょうぶなのかな??」」」
その中でただ一人、リョウだけがわくわくしていた。
「というわけで、ここが私たちの活動拠点の箱の新宿FOLTで、こっちが店長の銀ちゃん!」
「あぁ?廣井ぃ?」
「なぁに、銀ちゃん?」
「遅い!!遅すぎる!もうあんたたちのリハ終わったわよ!!」
「そんなのいつものことじゃ~ん」
「おい、反省してねぇのか」
突如店長と廣井の横から手が伸びてきて、廣井が締め上げられた。志麻の犯行だ。しばらくして、FOLTの店長・銀次郎が結束バンドの4人に気づく。
「あら、この子たちは?」
「こいつに迷惑かけられてる子たち。ライブ見に来てくれたの」
「あぁ、そうなのね。どうも~。吉田銀次郎、37歳、好きなジャンルはパンクロック、よろしくね~!」
「あ、はい、どうも……」
ここの店長、リップピアス開いてるし、耳も軟骨まで開けてるし、なんか長髪だし、首からドッグタグみたいなネックレス提げてるし、目も切れ長だし、ここ歌舞伎町だし、もしかして私たちには早すぎる場所に踏み込んでしまったのではないかと一瞬思い始めていたリョウ以外のメンバーは、銀次郎が一度話し始めればそのオネエ口調や、柔らかい声色といった、ビジュアルとのギャップに相対することになり面食らってしまった。
そんな彼女たちを置き去りにして、銀次郎、志麻によるきくりへの説教は続く。さらにSICK HACKのメンバー・イライザも「廣井、なにやってたの!遅いヨ!」と言いながら説教に加わる。
「ライブもうすぐなのに、こんなのでいいのかな?」
いったい、今日この感想を何度抱いただろう。しかし初めて入った場所と言うことで抱いていた緊張感が少し和らいだ。だから周囲に対する意識を向ける余裕が出てきたので見回してみると、すでに観客もそれなりに入っている。ここから何人くらいになるんだろう。今は150人くらいか。そして、その観客たちの全員がきくりへの説教を楽しんでいるふうだった。ひとりははっとしたような気持ちになった。それはまさに、金沢八景の駅前できくりと路上ライブをしたときに得た、啓けたような感覚に似ている。
「アットホームな箱、ってことなのかな」
虹夏が総括するその言葉は、ひとりも納得するところだった。ある意味で大げさに怖がっていたこの街に温かさが宿った。
外でもまさに、街灯がつき始める時間だった。
「お姉さんたちのライブ、楽しみだな……」
熱に浮かされたように、無意識に呟いたはずのその言葉。説教中のきくりは少しだけひとりの方に目を向けながら、微笑んだ。
「おい、なに笑ってるんだ。毎回毎回ちゃんと反省してんのか!!」
「ご、ごめんなさ~い!!」
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10
こんなふうになりたいなとか、なれたらなとか、そんなことを思いつつ、暗闇の中光踊るステージを見上げながら、後藤ひとりは途方もないものを感じていた。
底なしの輝きを放つその場所は、突き放すようにどこまでも高みへ昇っていく。
変拍子にも関わらず正確に刻むドラムは、緻密でありながら幻想的な背景を提供していた。感情的かつロジカルなギターは、その世界に奥行きを与えている。そして、ともすれば崩壊しかねない幻で塗り固めたような世界を確固たるものにするベース。
笛吹きの放つ圧倒的カリスマに手を引かれるようにして、観客たちは浮遊していく。たどり着いたその場所で、聴衆はとぐろを撒くようなうねりとなって、ステージ上の彼女たちの装飾品に成り下がっていた。
「すごい、すごいなぁ」
およそ500人。
たくさんの人たちがこの場所で一体となっている。お互い見ず知らずの三人称複数が違和感もなく手をつなぎ合っている。
「わたしも……」
こんなふうになれたらな。
そう呟きそうになって、けれどヴィジョンさえも浮かばないから口をつぐんだ。演奏終了後、観客席にダイブした廣井が群衆の波に乗り、移動していく。最高潮に達するフロア。
どこまでも、どこまでも、どこまでも、
いったい、どこまで?
「すごい、すごい、なぁ」
からからになった喉から絞り出したこの声が、いつの間に体から漏れてしまったのだろう?
どうしてか、隣の虹夏や郁代には、この声が届いていないといいな、なんて後藤ひとりは考えてしまった。
「ぼっちちゃーん、私のライブどうだったー?」
ライブ終了後、楽屋にて、滴る汗をタオルで拭きながら、廣井はニコニコとひとりに問いかけた。
「……すごかったです」
俯き、口を少し緩めて、納得するような口調で返す。
「あっあの、お姉さん、キラキラしてました。……すごく、キラキラしてて。それで。私なんて……」
尻切れて、その先が続かなかった。廣井は目を大きく開いて、そんなひとりを視野に捉えていた。
「ぼっちちゃん?」
「は、はい?」
廣井は、ううんと首を横に振りながら、
「私もね、変わらないよ。学生時代なんて教室の隅っこで、みんなを羨んでた。妬んでたかも」
「えっ」
「いつも私のことどう見えてた?もしかしてただの酔っ払いだって思ってた?実はさっきもね、ライヴ直前まで意識失ってたせいだと思うけど、いつもよりアルコール足んなくてだいぶドキドキしてたんだぁ」
「そ、そうなんですか?!」
「うんうん。どう?私のことキラキラしてたって言ってくれたけどさ、緊張とかを鬼ころで吹っ飛ばしてるだけなんだよ。ぼっちちゃんはお酒の力なんて借りなくてもアウェイの中で演奏できたじゃん!それってすごいことじゃん?……私は高校のときにね、こんな生き方じゃつまんねーって一念発起して、それでロックを始めたんだけど。たまたま好きなバンドのベースが、学生時代は教室の隅っこで本でも読んでるようなネクラなやつでって言ってるインタビュー見かけたのも手伝って、ベースを選んで。……あ、自語りごめんね」
それは、後藤ひとりにとって覚えのあることだった。
中学1年のとき、初めてギターを握ったあの日のこと。
「それで、勇気出して楽器店に行って。ライブハウスに初めて入るときもすっごく緊張したなぁ。階段見下ろしながら、地獄にでも繋がってるのか〜!!って。怖すぎだよね?」
うんうんと赤べこ人形みたいに頷く。
「ね?どれくらい同じかはわかんないけど、私たちって似たものどうしだって勝手に思ってるんだ。違うかな?」
ベースとギター。経験の多寡。
違いを挙げることはできるけれど、挙げられるとしてもこの程度。
「ぼっちちゃんはすごい子なんだよ。私がそう思ったの。これも勝手にかもしれない。でもさ、私だってなんの期待もしてない子のことを気にかけるなんてことしないんだよ。私なんて、って思うのはいいけど、支配されちゃダメ。いい?ぼっちちゃんがキラキラしてるって思ったお姉さんが、ぼっちちゃんのことをすごい子だって思ったってこと、これから先絶対に忘れちゃダメだからね?」
廣井が目覚める前に志麻に言われた言葉をひとりは反芻した。
正直、あんなすごいパフォーマンスをこなせる人にこんなことを言われて、荷が重いったらありゃしないって考えてしまう。
「や、やっぱり、わ、私じゃ無理なんじゃないかなって、お姉さんがこれだけ言ってくれても思っちゃうんです」
悲愴な言葉に反して、ひとりの顔には熱が灯っていた。
「で、でも、一人じゃなくてみんながいるから。今日見たキラキラとは同じじゃないかもしれないですけど、私たちなりのキラキラがきっと見つけられるって、そんな気が、します。……へ、変なこと言っちゃいましたかね?」
「ううん!」
満面の笑みを浮かべた廣井は拳を握った。
「その意気で、がんばれーーーーー!!!」
それから、えいえいおーとでも言うように拳を振り抜く。
FOLTの壁は壊れた。
廣井がひとりを連帯責任にしようとしてくるので、ひとりは慌てふためき、銀次郎は心底軽蔑したように廣井を見つめていた。廣井がひゃくぱー悪いと断言した銀次郎により、ひとりは無罪放免、志麻ガチギレ。再び混沌としてきたFOLT。
「あんまり遅くまでここらへんにいると補導されちゃうかもしれないから、さっさと帰りなさいね」
と銀次郎に言われた結束バンドの面々は真っ直ぐに駅へ向かった。ライブが終わったあと、楽屋で少し駄弁れば、すでに21:00少し前。
学校帰り、突発的に予定が生えてきてライブに参加することになっただけに準備もなく、4人とも制服なのはかなりまずかった。
廣井は保護者として使い物になるはずもないので、志麻が駅まで引率してくれることになった。
「おい!帰ってきたら説教の続きするから逃げるなよ」
と志麻は吐き捨ててFOLTを出た。ドラマーは苦労人が多い。虹夏はその痛ましい光景を目の当たりにし、我がことのように心を痛めた。
同じパートなだけあって虹夏と志麻がドラマー談義をし、それにリョウがときおり口を挟む。郁代とひとりは3人の少しだけ前を歩きながら今日のライブの感想戦をした。
「サイケっていうの?不思議な感じね〜。後藤さんはどうだったかしら?」
「あっはい、みなさんすごくうまかったですね」
「それ、私も思ったわ!前ならそんなことも気づかなかったと思うし、私も成長したのかしらね。私たちも文化祭ライブがんばりましょうね!」
「は、はい!」
ふふふと満足気に微笑む郁代に、ひとりは顔をまっすぐに見返しながら微笑んだ。
志麻に新宿まで送ってもらい下北沢に戻ってきた4人は、ライブで得た興奮冷めやらぬ中、文化祭ライブの予定を固めるために駅近のファミレスに入って、各々メニューを注文する。
3人の前に皿が置かれて、残り1人の前にはお客様アンケートの用紙が置かれた。そいつは何もお客様アンケートを書くために用紙を束の中から引っこ抜いたのではない。
そいつ、もといリョウは、用紙の束の横に添えられた消しゴムつき鉛筆でペン回しをしつつ、セットリストの案を組み始めた。
「持ち時間15分くらいなんだっけ?」
「はい!」
「じゃあ、3曲くらいか。だとすれば……」
リョウは真っ白なアンケートの裏側に鉛筆で案を書き出し始めた。ぐー、ぐー、ぐーと腹の虫の鳴くのを何でもないように振る舞い、セトリについて話し続ける山田。一方の3人の顔の前には、ほくほくとした湯気が漂っている。
「いっただきまーす!」
虹夏が箸をとる。ひとりと郁代はバツの悪そうな顔をしながらうんうん唸っていた。リョウは何事もないみたいに話し続ける。かえって一人だけ皿が置かれていないことが強調されていた。
ぐーぐーとだらしない音が鳴り続けるのに、ついに耐えきれなくなった郁代はこんな言葉をかけてしまう。
「あのー、リョウ先輩にご飯わけちゃだめですか?」
「いいの?ちょうだい!」
「ダメ!」
身を乗り出す山田を、虹夏は腕で遮った。
「いい?リョウはほんとはいっぱいお金持ってるわけ。なのに金遣いが荒いからぼっちちゃんにお金を借りてたわけだし、それに最近まで返してなかったんだよ?少しは痛い目に合うべき!!」
「うっ」
「郁代〜〜」
そう言われれば納得してしまいそうな郁代に、依然として甘えようとする山田。
ぼっちはなんかもういいかなと思って、一人ハンバーグを口に運び始めた。ちっちゃな鉄板の上で、ぱちぱちと跳ねる肉汁。パクリと大口を開けて噛む。溢れ出すジューシー!あまりのおいしさに頬が物理的に落ちそうになるのを右手で押さえた。
他3人は、と言うと。
「3Bって知ってる?ベーシスト・ベーシスト・ベーシストだよ!」
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11
「私が、ギターソロ……」
ファミレスを出て一人になって、駅へ向かう帰り道、リョウに言われたことを思い返していた。
「私たちの文化祭……かぁ」
空を見上げると星が瞬く。
例え郁代の「……後藤さんはほんとうはすごい人なんだって、学校のみんなにも、わかって欲しかったの」という言葉に惑わされただけなのだとして、それでよかったかもしれないと思えた。血迷ってひとりが生徒会室の前のボックスに入れてしまったとき、身から出た錆とはいえとても後悔した。今も後悔していないと言えば嘘になる。相変わらず嫌な想像ばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
でもそんなに悪いものじゃないかもしれない。
「リョウ先輩も、4人いるから痛みも4等分って、言ってたもんね……!」
卑近な台詞ではあるけれど、勇気をもらえた。
「それに4人いるから、うれしさが4倍……!」
そんな出来すぎた言葉を信じるなという自分もいた。
けれど、観客からの歓声の瞬間、後ろを振り向くと虹夏が満開の笑顔でサムズアップしてくれる。そんな初ライブのときの光景が焼き付いて脳裏を離れないから。
もう一度あの光景を4人で味わいたいから。
改札口を通り抜けて電車に乗り込み座席に着く。後ろを振り返り車窓を眺めると、夜の外景は車内の光に覆い隠されていて、代わりに後藤ひとりの明瞭な幽霊が映った。まるで魂一つ切り抜かれてしまったようだと、右手で窓に触れた。冷たい感触一枚を隔てて後藤ひとりとその幽霊の手は重なり合った。
それからもう一人の自分を想う。
「褒めてくれるかな、もうひとりの私も」
当日父が来てくれるのかはわからないけれど、来てくれるならビデオで撮ってくれると思う、多分。それを見てもらいたいな。そう思った。色んなことがうまくいくような、好転していくような、そんな予感がしただなんて口が裂けてもいないけれど、ただ、そうありますようにと目を瞑って祈った。絶えず右手から冷気が身体に浸透してくる。目を瞑っているとき、窓の向こうの"わたし"はいったいどんな顔をしているだろう?もうひとりの私が応援してくれるなら、きっと私うまく行く気がする。
いつもより遅くに乗った電車ということもあってがらんとした車内の中、後藤ひとりはいつまでも冷たい感触を味わっていた。
「お父さん、えっと、文化祭のライブに結束バンドで、出ることになったの……!」
金沢八景までお迎えに来てくれた父の車に乗った後藤ひとりは、いつもなら車に入ってすぐに、お父さんいつもありがとう……だの、お、お願いします……!だの言うけれど今回はこれだった。父は一瞬なにをひとりが言ったのか理解できず、少しずつその意味を咀嚼していった。
「……えっ、ひとり文化祭ライブに出るのか?!それって保護者も入れるんだよな?いや~どうしようかな~。おニューのビデオカメラがようやく使えるなぁ!娘の晴れ舞台っ!楽しみだなあ。歯ギターとかするのか??」
「う、うん。確か、家族の参加はできたはず。……歯ギターやっぱりやったほうがいいかな。当日即興でやったらみんな驚いてくれるかな……」
「うんうん!」
「じゃ、じゃあ!歯ギターやるからっ!ビデオよろしくねっ!」
「おう!任せとけ!」
娘の晴れ舞台に興奮して、父は正常な判断を失っていた。
こうして後藤ひとりの歯ギター計画は結束バンドの3人に知らされることなく水面下で進行していく、なんてことにはならず、家に帰ってすぐに母からの冷静な指摘を受けて頓挫した。
もしこれを知ったら結束バンドの2人は、ひとりの母に感謝を伝えていただろう。
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12
秀華高校の文化祭1日目。あのぼっちちゃんがメイド喫茶で働く、正しくは働かされている、という物珍しさに、虹夏とリョウはそれはもうわくわくとクラスの扉を叩いた。
「ぼっち、もてなせ」
不遜に申し付けたリョウを出迎えたのは、後藤ひとりだった。
「いらっしゃいませ、ご主人様」
つま先の端から端まで整ったような、妙に堂に入ったカーテシーに2人は目を白黒させてしまう。従来の後藤ひとり像からまるでかけ離れた挙動に、思考停止を余儀なくされた2人の脳を再起動に導いたのは郁代だった。
「あ、先輩方!」
「あ、喜多ちゃん!」
後藤ひとりの背後から顔を覗かせた郁代は、2人を見つけて口を綻ばせた。
「私も、後藤さんの様子を見に来たんですけど、実は。後藤さんじゃなくて」
「うん、ぼくは交代人格の方ね」
「あー!なるほど!」
これで合点がいった。もうひとりのぼっちちゃんなら、こんなこと他愛なくこなしてみせるだろう。虹夏はうんうんと、納得するように頷き、山田はどこか不満気な表情をしていた。
「あれ、でも執事じゃないんだね。確かここって、執事・メイド喫茶なんだよね」
「あはは、そうだよ。さっきまではひとりだったんだけど、メイド服を着る段階になって現実逃避しちゃったみたいでさ、それで今はぼくがやる羽目になってるってわけ」
「もう、ぼっちちゃんは……」
「でも久しぶりですよね!初めて会ったとき以来でしたっけ?」
「あー!あのときって喜多ちゃんいなかった?バイト入ってなかったときだったっけ。ついこの前にスターリーに来てたよ」
「え、そうなんですか?!」
振り向くように郁代がひとりの方の視線を送る。
「うん、スターリーに向かう道中で変わったんだっけな、あのときは。そのままバイトしていったんだよ」
「そうなんですね!残念です。その日にバイトを入れておけば!」
「あはは。バイトってしたことなかったからさ。ちょっと新鮮で、楽しかったかも」
「そう?ならよかったなー。即戦力だったんだよ!初めてだなんて思えない、まさに流れるような手捌きでね。私も驚いちゃった」
「そう言ってもらえるとうれしいな。またこういうことがあったらスターリーでお世話になるかもしれないから、よろしくね」
「うん!」「はい!」
そんな和やかな空気の中、我関せずとばかりに一足先に席に着いていたリョウは、机をコンコンコンと中指の第2関節で叩きながら
「で、注文していいの?」
と水を差した。わずかにピリッとした空気が教室を満たした。郁代は少しだけ不安そうにしていた。
我が道を征く山田リョウが、不躾とも取られるような態度を以って誰かに接してしまいがちなことを虹夏は知っている。けれど本人に悪意なんてかけらもない。ただ無愛想なだけなんだ、と。
けれど後藤ひとり、その交代人格と接するときのリョウはなにかおかしいと感じていた。普段より棘があるような気がするのだ。でも気のせいだと信じた。だってぼっちちゃんの二重人格の方も、いい人、なんだから。リョウの気に障るようなことを一体いつしただろうか?一度だってそんなところを見た覚えはない。だとすれば毛嫌いしてるなんていうのは私の勘違いであり、そうでなければリョウが子どもだからよくわからない理由で苦手にしているんだろうな。そう納得していた。
そして今。
「ちょっと、リョウ?態度悪いんじゃないの?」
どちらが正しいのかを虹夏は理解した。
「え」
「何が気に食わないんだか知らないけどさ、リョウの方が先輩なわけだから、そんな大人気ない態度やめなよ。こっちのぼっちちゃんに会える機会なんてそんなにないんだし」
「……」
「こら!そっぽ向かない!」
「あはは、えーっとですね。いつひとりが復活するんだかわからないし、もしかすると本番前日なのにまともに練習できないかもしれないですよね。だからそういう態度をとられるのも理解できるというか……」
「そういうことじゃなくない?どちらかというとぼっちちゃんのせ……っ!!あ、その、なんでもない……」
「「「…………」」」
「あ、あの〜。忘れてるかもしれないですけど、後藤さんのクラスの出し物の真っ最中なので、えーっと……」
「う、うん!ご、ごめんね。えーっと……うん。言葉のあやっていうか、その、ほ、本気で思ってるわけじゃなくて、何て言うんだろう。ううん!ほんとにごめん!」
「本気で思ってることじゃないってことくらい、ぼくもちゃんとわかってるので心配しないでくださいね?」
いつしか握りしめていた虹夏のこぶしを後藤ひとりが優しく包み込んで
「だいじょうぶです」
にこりと笑った。午睡を促すような温かな太陽の光が虹夏の心に差した。
「それからリョウさん」
「なに?」
「仲直りしましょう」
虹夏から手のひらが外されて、山田に差し出される。少し名残惜しささえ感じている虹夏とは対照的に、山田はやむを得ないかと苦虫噛んだ表情をした。そして手は結ばれた。
「あ、あれ、私??」
一瞬表情が抜け落ちた後藤ひとりが、少しした後にわかに焦り始めた。
「な、なんで、リョウさんと、て、手を?」
リョウと結ばれた手を凝視して、慌てふためく。
「お?ぼっち、戻ったか」
「も、戻る?」
「うん。そりが合わなすぎて空気が死んでた。ぼっちが戻ってこなかったら大変なことになってたかもしれないね」
「た、たいへんなこと?」
穏やかではない言葉の数々に不安を感じずにはいられないひとり。
こういう、意識が覚醒するとともに脈絡ない状況に放り込まれるのには慣れていないわけじゃなかった。もちろん、冷静に対応できるとは言っていない。
だから、おおかた数秒前まではもうひとりの私が出てきてたんだろうとは思う。けど、大変なこととは一体どんなことなんだろう?そもそも空気が死んでたとは?もうひとりの私が出ていてそんなことが起きるだろうか?私が表に出てるときなら空気が死んでることは多々あるけど。
自己評価の低い後藤ひとりならではの分析だった。実際、もうひとりの後藤ひとりが出てきている状況でおかしな空気になること自体滅多にないことだった。となると、外部の要因?
そもそもなんでリョウと手を繋いでいるのか。
疑問は尽きない。尽きないが故に、謎めきの奔流が脳を圧し潰して、おろおろとする他ない。今もなお結んだままの手が、どうして離されないままなのかもわからない。リョウがニコニコと、今まで向けられたことないくらいの笑顔をひとりに投げかけ続けているのも全然わからない。
もちろん、そんな光景に黙っているわけにはいかない人間が1人いる。
「あ、あの!忘れてるかもしれないですけど、後藤さんのクラスの出し物の真っ最中なので!!」
郁代のその言葉にはたと気づき、嫌な予感を感じつつもひとりが自分の身体を見ると、フリルをあしらったメイド服を装っていることがわかった。
「あっ……」
目から生気を取りこぼした後藤ひとり。
「じゃあぼっち、席まで連れてって。それから注文ね」
途端に意気揚々としはじめたリョウだった。
「う。お、お連れします」
「?どうしたの虹夏?」
「……っ!!いや、うん、その。ちょっと、ね……」
さっきから黙りこくっている虹夏にリョウが今、声をかけたけれど、別にひとりだって気づかなかったわけではなかった。
ぶらんと力なく垂れ下がった右腕をぎゅっと左手で握りしめて、視線をさまよわせている虹夏に、後ろめたい感情を見出せど、その場にはいなかったせいで原因は見当もつかない。放っては置けないような表情なのに、果たして私は適切な言葉をかけてあげることができるのだろうかという自信のなさ。
「虹夏さっきのこと気にしてるの?そんなならさっさと謝っちゃいなよ。そうした方が後腐れないよ」
それに、私が出る幕もないか。
ひとりは脱力感に襲われた。例えば、虹夏と長く付き合っているリョウだったり、そうでなければ郁代が、ちゃんと気づいて声をかける。だから、いいんだ。そう思うと少し心が軽くなった。代わりにごっそりと体の内側から何か削り取られた気がした。
「ぼっちちゃん、あのね!」
「う、え、はい!」
完全に自分に矢印が向けられると思っていなかったひとりは挙動不審な動きをしてしまう。
「ごめんなさい!さっき、ぼっちちゃんのこと悪く言っちゃったの!」
「え、は、はい。だいじょうぶです。気にしないでください」
「ぼっち許すの早すぎ」
「後藤さんは優しいんですから、伊地知先輩もそんなに怖がらないでよかったんですよ」
「に、虹夏ちゃんは優しい人だってこと、知ってるので。弾みで言っちゃっただけで本意じゃなかったんですよね……?」
おどおどとしながらひとりがそう言えば、虹夏は瞳を潤せながら、
「ぼっちちゃん!!」
とひとりに抱きついた。そんな2人を、リョウと郁代は微笑ましく見守っていた。
ひとりは虹夏に抱きしめられ、にこにことしながら、こんなことを考えていた。
(よかった!私が原因のことで!!)
落ち込んだ虹夏に発破をかけたり、慰めたりができなかった分、許すという行為ができたことで、満足感を得た。
こんなことが本来あるべき姿ではないことに、後藤ひとりは気づかない。
アンチヘイト的なことがしたいわけではないですが、不快に思われた方がいらしたら申し訳ありません。
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13
「ぼっち、ちょっとこれやってみてよ」
「わわ、私にはとてもそんなことは……!」
「でもここに書いてあるじゃん。ねぇ、やって?」
中指の第二関節で、こんこんと山田が叩いた、机の上に置かれた手作りだからか少し簡素なメニュー表に記載されている、ある内容について。そいつをやらせようと、山田は後藤ひとりをにやにやしながら眺めていた。
「ひゃ、ひゃい……」
後藤ひとりは先輩の圧力というやつに耐えきれずに、福○しげゆきがエッセイ漫画中で汗をかきながらおろおろしているときのように身体を震わせながら了承した。
山田の目の前に置かれたオムライスに目をやり、ごくりとつばを飲み込みながら悲壮な表情のぼっちは、もちろんオムライスに飢えているからではなく、重々しくも上げた腕のその先にある手でハートの形をつくった。
まるで、ある日郵便受けを開けたら名簿記載通知が入っていて、裁判員裁判に出なければいけなくなってしまったことが発覚してしまった出勤前のような心境だった。
「あっ、ふわふわぴゅあぴゅあみらくるきゅん……。オムライス、おいしくなぁれ……へっ」
後藤の手のハートから射出された怪光線はのろのろとくたびれたような足取りでオムライスにたどりついたかと思うと、そこで力尽きて、べちゃりと浸透していった。それを山田と虹夏がスプーンで掬い、口に運ぶ。もしゃもしゃと噛みしめる2人。
「……。なんだろう、この」
「パサパサしてる?」
「あっ、冷凍食品なんで」
「ぼっちも食べてみなよ」
リョウがスプーンを後藤の口もとまで運ぶ。給仕の役割を与えられてるわけだけど、食べちゃっていいんだろうかと不安になったけれど、お客様は神様だと言うわけだし、神から受けた施しをつきかえすことに勝る罰当たりはないだろうと自分を納得させて、えいやと咥えた。
「ぱ、ぱさぱさしてますね……」
心の中で冷凍食品だしなと付け加えた後藤だった。そのシチュエーションに憧れたのが喜多だった。
「リョウ先輩!私にもあーんってしてください!!あーんって!」
「ん」
「おいしい!おいしいです、先輩!今までで食べたオムライスの中で一番おいしいです!」
「あ、うん。そ、そうなんだ」
「はい、先輩!」
さしもの山田も、その剣幕に気圧されるほどだった。一方の郁代は、尻尾を振っている犬の姿が幻視されるような態度だった。
「ついでだし、郁代もやってみてよさっきのおいしくなる呪文」
「ふわふわ~ってやつですか?」
「うん」
「あ、いいんじゃない。喜多ちゃんのもみてみたいかも~」
「わかりました、先輩方。では今度は不肖、喜多郁代がつとめさせていただきますね!」
後藤は、なんか嫌な予感がすると思った。もちろん止められるはずがないし、具体的になにがまずいのかこの時点でわかりっこなかったが。
こほんと一つ咳払いをした郁代が、まるで魔法少女の変身シーンのような流麗さで、
「ふわふわ~、ぴゅあぴゅあ~みらくるきゅんッ☆オムライスさんっ、おいしくな~れっ♡」
そうして後藤のとき同様に、郁代の手から射出された光線を受けたオムライスはどこか活気づいたような雰囲気を感じさせた。後藤の怪光線を受けてどこか褪せたような色合いになったオムライスがいまは色艶を取り戻しているようだった。
「うまい!うまい!」
虹夏とリョウがガツガツとオムライスを食べ進める。
「ケチャップのほどよい酸味とソースの甘さが溶け合い、温かな家庭を感じる味に変わった……!?」
その様子をうかがっていた後藤のクラスメイトたちはぞろぞろと郁代の周りを囲い込むと、
「喜多ちゃん!よかったらうちのクラス手伝ってくれない」
「いいわよ~。先輩たちもどうですか。一緒にやってみましょうよ!」
結果。
「私は、いったい……」
光があれば陰もある。
かっこい~、かわい~と黄色い声を浴びる3人の陰にはうなだれる後藤ひとりの姿があった。接客業に長らく身を浸してきた虹夏は言わずもがな、抜群のコミュ力を持つ喜多に、傲岸不遜の態度を崩さず、それがかえって受けている山田リョウ。
「勝てない!……勝てるはずがない!」
後藤の所属する1年2組の模擬店売り上げが1位だったという事実がなんだか、そう、ほんの少し。ほんの少しだけ、苦かった。
少し時間が経って。
下駄箱で靴を脱いで、重たい扉の少し開け放たれた狭い隙間のところから4人は体育館に入り込んだ。潜り抜けた途端に広い空間に解き放たれた。折りたたみ式のバスケットゴールはいつもと違って、その首を縮めて存在感を薄めている。
体育館の中央あたりで4人は固まった。誰が忘れたのか、飲みかけの天然水が4人が立った付近に放置されていた。
明日の文化祭の準備のための、運営側の人たちこそいたけれど、がらんとしていた。ひとりにとっての体育館は全校生徒が犇めき合う空間としてのイメージが強く、初めて体育館そのものを見たような気分になった。
こんなに広かっただろうか?
体育館に入るときにくぐった隙間から少し吹く風が肌をなでつけると、余計に考えざるを得ないものに相対してしまう。
明日この舞台に立つんだ。そう思えば、背筋を駆け上がるものがあった。
壇の下あたりでは明日の準備や進行確認のために生徒会の人たちが話し合いをしている。彼ら・彼女らが壇上に立って、全校生徒の目の前で溌剌とスピーチしているところをひとりはこれまでにもよく目にした。
目いっぱいに瞳を大きくして、もう秋らしくなった小麦色の夕方、体育館を行き交う光をたくさん取り込んでみた。ひとりは、あの場所に立つことがあるなんて入学当時思っただろうかと、感慨深く見上げていた。翌日には、私たちは見上げられる側になるんだと思うと僅かに恐怖が生じた。
「上ってみませんか?」
と郁代が言うので、虹夏も
「お、いいね〜!」
と賛同し、一同は移動、壇上に風景を構えた。
「わ〜、すごいですね〜!!」
見下ろす風景の中で最初にひとりの目についたのはさっき近くにあったペットボトルだった。
(す、すごく小さい……!)
さっきまで立っていたところから少し移動するだけでこんなにも環境が異なるという事実が、後藤の脳をバグらせかけた。あんなにも当初恐ろしかったスターリーが今の後藤にはよっぽど生ぬるい環境だったと思えた。
なんとなく各自、本番を想定した位置に移動した。ギターが重くのしかかるように後藤の背中を押していた。当然ながら明日のこの時間にはすでに演奏はとっくに終わっているはずで、どれだけ足掻こうが、どれだけ寝転んだまま過ごそうが、勝手にそれは訪れ、そして終わる。不可解で、不気味で、なによりも恐ろしい。時間というやつは自分勝手なやつだ。
果たして私は、その止めることのできない時間の流れに対して、適切に進むことができているだろうか?
考えたってしかたがないことを後藤はよく理解できていた。
「れ、練習!」
「ん?」
「練習、行きましょう!」
ギターケースの肩掛けをきゅっと握りしめた後藤ひとり。
それは練習することによってしか解消されるものではなく、もしかすると練習を増やすことで増幅されてしまうものかもしれない。けれど、やはり練習するしかない。
「うん、そうだね。練習行こっか!」
「そうね!」
「うん」
「あっ、ていうかもうこんな時間じゃん!予約してる時間までギリギリだよ!走れ~!!」
「えっ、あっ、はい!!」
結束バンドの4人は、体育館から抜け出し、校門を過ぎ去って、もう薄暗くなり始めた街の中に駆けだした。
「あ、虹夏。家にベース置いてきたんだけど」
「山田ァ?!」
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14
準備はいいか?
そう心に問いかける。少しだけ眉間に皺を寄せてから、緊張でカラカラになった喉に気づくこともなく、ただギターストラップごしに肩にのしかかるギターの重みを、いつもより身体の深くで感じた。
ステージは煌々と輝いていた。思っていた以上の集客数に若干めまいを感じつつ、今演奏しているグループが終わってしまえばいよいよ結束バンドの番だという事実もさらに気を遠くさせる。
後藤ひとりはきょろきょろと辺りを見回した。
「ぼっちちゃん、どうしたの?」
「あ、いえ……。……完熟マンゴー」
ぼそっと呟いた後藤の言葉に、言わんとすることを察したのか少しだけ呆れたような顔をする虹夏だった。いつもよりも悲哀を帯びたその背中は、逆説的にいつもと変わり映えない平常運転の後藤だとも言えた。
ステージでは光を浴びながら、とても楽しそうにギターを弾く少年たちがあった。言うまでもなく、スターリーでの対バン相手よりも技量は未熟だ。郁代の方が数段は上だ。やはり弾きながら歌うというのは難しいことのようで、ボーカルはボーカルオンリーで、それとギターとドラムの3ピースで構成されている。
スターリーよりも大きく、音響も考えられていない箱の中で、冷静に耳を傾ければ音もスカスカなのに、それでも体育館が盛り上がっている理由は彼らの笑顔を見れば十分に理解できる。
一寸先の光の当たる場所は、スターリーとはまるで環境が違う。そう自覚すると、後藤ひとりは緊張の糸を少しずつ張り詰めていく。
「ん?このバンド、やけにドラムの音がうるさいな」
後藤の心臓は飛び跳ねるようだった。
13:30からを予定していた結束バンドの枠は、2つ前の12:30からの枠を任されていたアルミ缶ミカンというグループの開始に少し時間がかかったこともあって、押していた。現在は13:30。本来ならばこのタイミングで既に舞台に出ている。現在舞台に出ているchaos edenは既に2曲を消化しており、3曲目もラスサビに突入していた。準備を少し巻くとして、この分だと結束バンドの開始は13:45ごろになるだろうか。
「もうすぐですね!」
と少し緊張滲む声色で郁代が言うのを、あっ喜多ちゃんみたいな陽キャもこういう舞台で緊張するんだ!と新発見をした気分になった。
スターリーでの初ライブのときの郁代の姿を覚えていないのだろうか。
とは言え、キャパシティでは勝る体育館だとしても、ライブハウスのような通たちの押し寄せる場所ではないというのは、楽観の要因にもなっていた。虹夏、リョウ、郁代について言うならば、多少の緊張は見られるものの、どこか楽に構えている気配がするのは、舞台上から今まさに降りようとしているchaos edenのメンバーたちのおかげだとも言える。
ついに空っぽになった舞台を袖から見つめる4人。幕が降りて準備の時間に入る。
アンプ、マイク、エフェクター、音のバランス、立ち位置調整、エトセトラを終えて、ついに結束バンドの登場となった。
幕がもったいぶるようにゆっくりと上がる。
光が溢れた。
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15
舞台真下では、星歌と廣井が見守るように演奏が始まるのを待っていた。そこから少し離れたところに、後藤家の家族一団が、またさらに離れたところにファン1号と2号が目を輝かせていた。山田家と喜多家の家族がいないのは、おそらく、単に本人たちが文化祭ライブのことを教えていないだけだろう。
郁代が手を叩きながら、場を盛り上げる。つられるみたいに体育館に集った聴衆たちは胸の前で手を叩き出して、場内に一体感が生まれた。上々の滑り出しだった。
そして始まる曲は、「忘れてやらない」。
教室にいて、どうやったって周囲となじむことができなかったな。そんなときいつも机にうつ伏せになって、少しだけ首を横に傾げて、窓の向こうに広がる空を見上げたっけ。
ひとりはそんな感慨に耽りながらギターの弦をはじき始めた。
こんなにいい天気なのに太陽は雲の中に引きこもっていて、ずるいなって思った。お天道様は見ているよなんて言うけれど、私のことをちゃんと見てくれてるような気はしなかった。ずるいずるいって思う一方で私みたいなヤツに相応しいのはそんなものかなとも思う。
誰かが私のことを見ていてくれたらって、それでも期待してしまうのはなんでだろう?
虹夏の正確なドラムが、ガタゴトと周期的に鳴らす電車のジョイント音のように頭の中に響いた。
通学中、小田急線に乗っているとき通り過ぎる準急列車を車窓越しに眺めた。満員電車の中から、通り過ぎていく満員電車を見つめると変な感じがした。それからため息さえも押しつぶされてしまいそうな車内の圧縮率に、私自身加わっていることが恐ろしくも、申し訳なかった。
電車がすれ違い終わった後、車窓からは青空が広がっていた。そして漂う白い雲。電車っていう直方体の輪郭に、たくさんの人たちと一緒にかたどられた私は、輪郭さえ曖昧に青空にもくもくと広がっている雲の自由さがうらやましかった。
郁代が「作者の気持ちを答えなさい」と歌い上げる。
正解はかくあれと大人は言うけれど、そういう正解がどうしても私には正解だと思えなかった。私が陰キャのせいなのかな?きっとそう。じゃあ、誰かがいつだって気にかけてくれるような人たちだったらそんなふうにも思わないのかな?実はみんなもそう思ってるの?……わからない。
ただ、思う。電車の中よりも青空に浮かぶ雲のようにあれたらな、なんて。叶いっこないけど。でも同じ形の雲なんて二度と存在しないことも知っているんだ。
リョウのベースリフが、“私たち”のありのままの形を取り戻した。
ありふれた青春なんてもの、空っぽの教室の中でぽつんと何かを待っていたような私には過ぎたものなのかもしれない。
ただ、虹夏ちゃんに、リョウ先輩に、喜多さん。校庭から聞こえるざわめきとは真逆の方向かもしれない。けれど手を引っ張ってくれる人たちがいて、その人たちと同じ歩幅、同じ場所を進むことができるから。
そして応援してくれてるお父さん、お母さん、もうひとりの私、ふたり。店長さんに、お姉さん、私のファンたち!
あの頃、教室で求めていたものとは別のものかもしれない。でも私はこんな日常を。孤独だったあの頃を笑い飛ばせるような、そんな日常を生きている。
少しだけカッコつけたけれど、、それは紛れもない私の真実だと思う。
いい意味でも悪い意味でも、私はみんなと一緒にはなれなかったし、これから先結束バンドっていうバンドがどうなるのかもわからないにしても、みんなとは違う道を行くわけで。
バンドとしての活動拠点がスターリーだけど、結束バンドの1人としての私のはじまりがどこからかって言えば、誰もいない教室であり、階段下にある埃の被ったスペースでもある。
「絶対忘れてやらないよ いつか死ぬまで何回だって」
だから、喜多さんの声を借りて、数多くの生徒たちの前で宣戦布告する。
「こんなこともあったって 笑ってやんのさ」
黄色のサイリウムが揺れ動く舞台下に、一気呵成の怒濤を送り込んだ結束バンドの4人はこうして1曲目を終えた。
わずかな不協和音の種を携えながら。
とにかく書いて出す!(平均文字数の減少)
音楽系の描写は未経験だとキツイのでなるべく書かないでも済むような方法で逃れないと一向に書けませんね
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16
「ありがとうございました!1曲目、「忘れてやらない」でした!それじゃあ次の曲の前に結束バンドのリーダー、ドラムの伊地知虹夏先輩です!」
「皆さん初めましてー!盛り上がってますかー!?」
わーーーーーっ!!と沸き上がるフロア。
こんなに盛り上がったことは今まで一回もなかったぞ、と虹夏は少し得意げな気持ちがして、手の甲でむずむずする鼻の先を何回か撫でた。
「うちのベースの山田リョウいわく結束バンドはMCがつまらないそうでして。どの口がー!って思うんですけど面白いトークできるようになるまでライブ告知だけにしときますねー」
虹夏に少しいじられた山田だったが、飄々とした態度を崩さず携えたベースを触りながら観客に向けて会釈するに留めた。これが妙にサマになっているというかなんというか、山田リョウの雰囲気クールな印象をいい意味で助長する結果になった。
会場のどこからか、リョウさ〜〜〜〜ん!と黄色い声が鳴り響いた。
よく何も考えていないと辛辣な意見を虹夏から食らうことも多いリョウだが、幼少期の過保護な家庭環境の反動からカッコつけたがりなところがあった。
歓声を受けて満足げな表情をするリョウ。その表情のわずかな変化に気づけるのは虹夏くらいだろう。
「って……まだ次のライブの予定はないんですけど。もし気になるーって人が居たらボーカルの喜多ちゃん……」
「「「喜多ちゃ〜〜ん!!」」」
リョウに負けず劣らずの歓声が響いた。秀華高校における喜多郁代はもはやブランドの域に達している。そして、
「ギターのぼ……後藤ひとりちゃんに今度声かけてください!」
「ひとりちゃーん!!」
歓声は家族のみ。
くぅ、やっぱりこうなった〜〜!!と静かに涙した後藤だった。
「それじゃ次の曲行こっか」
「はい!それでは聴いてください!2曲目で「星座になれたら」!」
そして始まる2曲名。
自分のときだけ会場の反応が悪いということも後藤にとって尾を引く出来事だったのは間違いないけれど、喫緊の問題として
(やっぱりおかしい。昨日までなんともなかったのに。1・2弦のチューニングが異常に合わない……)
背筋を伝うものがあった。最前列で聴く廣井きくりも、星歌に寄りかかりながら、もはや酔いも覚めたと言わんばかりの真面目な顔つきでひとりを見つめていた。
「いいな 君は みんなから愛されて
いいや ぼくは ずっと1人きりさ」
その瞬間1弦が切れた。
(まずい。せめて2弦のチューニングだけでも……)
座り込んだ後藤が、2弦のペグに触れる。
「きみと 集まって 星座になれたら
星降る夜 一瞬の 願い事
きらめいて ゆらめいて 震えてるシグナル」
(そんな……。ペグが故障してる……?!これじゃもうソロは……)
その絶望に満ち恐慌状態一歩手前の不安定な後藤の姿を目の前で見るきくりは、痛いほど状況の悲惨さを理解できた。何かしてあげられないかと思いつつ、しかし何もできない。歯痒かった。唇を噛み締める。
「つないだ線 ほどかないで
ぼくがどんなに 眩しくても」
舞台の照明が、膝をついたままの後藤を背中から照らし出し、後藤の視界は影でいっぱいになって真っ暗になっていた。ソロがやってきて、しかし何もできないままその姿勢で震えていた。
ベースとドラムだけの8小節が流れた。
無力だった。
(せっかくリョウさんからもらったソロだったのに……)
「はるか彼方 ぼくらは出会ってしまった」
本来のソロパート部分が終わり、座り込む後藤は懸命に立ち上がり合流したもののもはやその演奏は精細さを欠いていた。息が荒くなって、別世界みたいに目が霞んで、手もうまく動かなくなった。
もう今となってはどこを演奏しているのか頭の中がぐちゃぐちゃになってわからなくなっていた、
「つないだ線 ほどかないよ
君がどんなに ………
ようやく頭の中にぱっと入ってきた郁代の歌声に目を見開いた。自分で書いた歌詞のくせに、その歌詞の眩しさが耐え切れなくて、最後のフレーズが残っているにも関わらず、後藤は舞台から逃げ出した。
分相応という言葉が頭を過って、それを振り払うようにどこまでも走った。
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17
後藤ひとりは走っていた。コンクリート蓋のされた側溝の上をガタガタ音立てながら、脇目も振らず逃げるようにして。その背中にはギターケースも背負うことなかった。身軽な背格好で駆けるその姿は、自由というよりも背負っていたもの全てを取りこぼしてしまった結果のようにも思えた。
顔は涙でしとどになって、外気と触れ合うことで涙が塗り固められているようなった。
走って走って走って、それでも身体はルーティンを繰り返すから、無意識のうちに普段通りに電車の改札を潜り抜けて、ちょうどホームに停車した電車になだれるように乗り込んだ。
電車に、人はまばらだった。座席に座り込むと、耐えきれず俯き、嗚咽した。扉は閉め切られ、電車はゆっくりと旅立っていった。
車内に流れる空気はひとりを拒絶しているのか、どれだけ呼吸をしても一向に足りることなくて、過呼吸になった。すると地下トンネルを抜けて地上に電車は出た。演色性の高い光が涙に乱反射して目を覆い尽くした。
(もう、どうすればいいのか全然わからない……!)
少しは成長できたのかなって思っていた。初めて虹夏ちゃんに連れられてスターリーに来たあの日、人と合わせるのが初めてだったせいで全然上手く弾けなかった。それから店長さんとPAさんを前にオーディション、初ライブ。オーディションでは、店長さんにはいろんなことを指摘されちゃったけど合格と言ってもらえたっけ。初ライブでは緊張の余り最初は上手く弾くことができなかったけど、途中からは力を合わせてなんとか持ち直すことができたよ。
振り返ってみると、確かに良かったとは言い難い。けれど、どの経験も、終えた後にほっとして「ああ、よかった……」って思わず口に出してしまうような、そんなよかったがあったと思う。それを成長だと自負していた。でも錯覚だったのかな?
夢見がちな後藤ひとりを現実に返そうとでも言うのか、電車は何度もひとりの身体を揺らした。ガタンゴトンと鳴るたびに徐々に心が冷えていくような気がした。それに伴って、少し過呼吸も収まってきたけれど、ひとりの中の重要な何かを別のもので入れ替えたおかげのようにも感じられる。
南武線に乗り換えて、東横線に乗り換えて、京急線に乗り換えた。
小・中学校では学校に馴染めず、逃げ出すように横浜の高校に進むと言う選択から乗り換えて、東京の高校への進学を選んだ。いま、文化祭ライブで失敗した。もうこんな場所にはいられないと心底思ってしまう。どこかにまた乗り換えてって言っても、もう自分自身にはそうそう乗り換え先が残されていないことに気づいてしまう。
ギターヒーローのアカウントがある。こんなに自分のギターの実力を認めてくれる人がいる。それでいいじゃないか。そう納得させようとして、心がズキリと痛んだ。
いつの間にか金沢八景に着いていた。
「帰ろう……」
家へ向けて歩こうとして、でも舞台で家族の想いに応えられなかったなと思うと途端に足が動かなくなる。どこかに座り込もうかと考え始めたところで、普段なら思いつかない発想を抱いて、シーサイドラインに乗り換えた。八景島で降りて、水族館に入った。カップルの溜まり場であるところの水族館に入館しようなんて本来考えつくはずもないことだけれど、それほど余裕がなかった。つまり、緊張の糸が切れていた。
もうひとりの自分がつくっていた年パスを使って水族館に入る。ジンベエザメを眺めながら、呑み込まれてしまいたいと願った。呑み込んでくれと言ったって相手は分厚いアクリル板の先の存在。叶うべくもないけれど、精神的に限界を迎えていた後藤ひとりのその希望は、幸運か不運か叶えられた。
「あーあ、こうなっちゃうんだから。だから文化祭には出るべきじゃないと思ったんだけどな……」
今後説明を挟む予定はないのでここで説明しますと、喜多ちゃんじゃなくてぼっちちゃんが自分で文化祭申し込んだので、喜多ちゃんの責任感が高まらず、リョウと自主練しなかったのが原作との差異になります。
※だからといって喜多ちゃんのせいではないです
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崩壊
1
「お前らはぼっちちゃん追いかけろ」
「こっちは適当にやっておくから!」
星歌と、いつになく真剣な表情のきくりの言葉を背中に受け、それからファン1号・2号らの
「ひとりちゃんのこと、よろしくね!!」
という言葉に、尻に火をつけられ。
後藤家の車の後部座席に、山田、虹夏、郁代の順番で、ぎゅうぎゅうに押し潰されそうなくらいつめて座った。
「後藤さんは、なにも悪くないのに……」
と郁代が呟き、この車の中にいるすべての人たちが頷いて、それを合図に学校駐車場を車が出発した。誰も喋らなかった。
普段からひとりの情緒不安定さは知るところで、それに伴った人外じみた挙動も周知の事実だった。だから今回も、いつも通りの奇行だろうと納得してしまってもいいはずだけれど、この場所にいる人間の誰もが冗談では済まないかもしれないという確信を抱いていた。
30分くらいしてようやく、父・直樹が
「ちょっと窓開けるね」
と了解をとった。第三京浜の風が車内を通り抜けた。リョウは、もう10月か……と内心独りごちた。
(5月の初めに確か虹夏がぼっちをスターリーに連れてきたんだったっけ。5ヶ月か……)
開け放たれた窓から見える景色のほとんどがコンクリートのグレーに染められていて大して変わり映えのしないものだった。
中学からやってたバンドが高1で解散になったときにもこんな感慨を抱いたなと、山田は頬杖つきながらため息をついた。
中学に軽音学部なんてなかった。音楽系であったのは吹奏楽とか合唱くらい。
じゃあ、部活つくるか。
と思って中1の5月に職員室に行ったのが始まりだった。
「「お願いします!!軽音学部つくりたいんです!」」
と、重なる2人の声がした。ん?なんだ?と思って職員室のドアを無遠慮に開けた。
「って言ってもね〜。まず最低人数は3人なんだよね。それから顧問はどうするの?この前紙は渡したんだからさ、ちゃんと必要事項全部書いてから出直してきてよ」
と教員に一蹴されているところだった。
(へー。そっか、先に人集めないとダメなんだ)
なんて他人事のように考えた山田だった。というのもつくれば勝手に何人かは集まるだろうと皮算用していたからだ。
軽音学部をつくろうってときに、先に軽音学部をつくりたいと教師と掛け合っている姿に出くわしてしまって運命を感じないわけではないが、そんな単純な理由でメンバーを決めるのはどうだろうと山田は考える。
それはさておき、関係のある話をしているからということで、耳を立てておく。
「いや、一応昇降口で入ってくれる人よびかけたりしたんですけど……」
「それは知ってるよ。でも集まらなかったんでしょ?」
「学外から募るっていうのはダメですか??」
「うちの校則としては、部活は学内でって決まってるんだよ。校則変えたかったら来季の生徒会に立候補してくれれば、学校側との交渉がしやすくなると思うけど。それと学外からって言ってもねぇ。その子の学校側の校則だってあるでしょ?」
「う、うぅ」
話を聞く限り、こういう問題でよくある先生側の頭が硬いからというような理由ではなさそうだ。至極正論を突きつけていると思った。
(ここで私が名乗りを上げてもいいんだけど……)
そんな簡単にバンドメンバーを決める気もない。それこそ部活じゃなくても学外バンドを組めばいい。そう踵を返そうとしたとき
「みんなの前で演奏させてください!それで誰か入ってくれるはずです!!」
と聴こえた。つい口をついて出てしまったというような発言だった。
「おい、2人でか?」
という先生の呆れた声を最後に、山田は職員室を去った。ツーピースのバンドが存在しないわけではないけれど、中学生2人である程度の水準を保たせて演奏なんてできるだろうか?それにそういうバンドも大抵サポートギター入れてるし。
(虚勢だろうけど……変な人たち。おもしろそう)
結局、その数日後の全校集会の校長挨拶の枠をぶん取った彼女たち下手くそ演奏を聴いて、山田はこのバンドに加入したわけだけれどそれは別のお話。
何にせよそれからおよそ3年間、いい時間を過ごしたなと思う。
末期の目も当てられない惨状を山田は思い返しつつ、でも人生で一番輝いていた瞬間を挙げるならきっと、そうだろうなと思う。
なぜあんなふうになってしまったのか。
そして中3の秋頃からどことなく険悪な空気が流れていたころに、以前から実家がライブハウスだっていう繋がりで仲良くなっていた虹夏との関係が清涼剤みたいに働いて、虹夏につられて現実逃避気味に下高を選んだ。それでメンバーとは別々の高校に。
進路なんて誰かに頼まれて決めるものではないけれど、バンドの進退という意味でそれは良くない選択だったんだろう。
「ただ楽しんでバンドをやりたい!」だったものに、変な恋愛模様が影を落としたり、変に修羅場ったり、表面上の和解をしたり、売れたいっていう気持ちが変な方向に行って個性が失われたり。それを解消するべく行うべきだったコミュニケーションが不全となってしまったり。
山田には、あのときの最善はわからないまま。
ーー今回の最善も、やっぱりわからないけれど。
「ぼっち!」「ぼっちちゃん!」「後藤さん!」
後藤を除く結束バンド3人が、横浜の後藤家まで駆けつけた。
(突き動かされるみたいに横浜まで来たことで、少なくとも後悔なんてしない)
そう思う。
(ぼっちは悪くないと言ってやろう。運は悪かったかもしれないけど。次のライブもよろしくって言えば元通りだ)
「あ、ひとりちゃん、電車で乗り換えとかで2時間くらいかけて来てるから、そういえば車よりも着くの遅いの……」
「「「あ……」」」
新章です
山田と虹夏っていつからの関係なんだっけ?!
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2
「ぼっちちゃんいつ頃帰ってくるんでしょう?」
「うーん、ひとりちゃんがすぐに電車に乗って乗り換えも澱みなくして帰って来れたんだとすれば……あと30分くらいで着くんだと思うけど」
カチカチと秒針が一定のリズムを打っていた。後藤家に集う結束バンドの3人は沈痛な気持ちでその音を耳にしていた。
「あっ、そうだ位置情報とかってわからないんですか?そういうアプリとかありますよね」
郁代の家庭は過保護なので、喜多母のスマホと位置情報を共有していた。後藤ひとりの長距離通学、また下北沢でのバイトのこともあって帰るのが遅くなるということも考えれば、
(うちでも心配して位置情報を共有しようって話になるくらいなら、後藤さんのお家もその方針をとっていておかしくないわよね?)
と考えるのも無理はない。
「うーん、そうしたかったんだけど、色々あってねえ。」
「色々っていうと?」
「まぁ……うん、色々あったの」
いったい何があったというのかはわからない。心配性のぼっちちゃんだし、家族に見守ってもらえるっていうのを肯定的に考えそうもんだけどなあ、なんて虹夏は思いめぐらせたけれど、色々っていうくらいだから口にできもしないくらいに良くないことなんだろう。
後藤母が迷ったように視線を揺らした。意を決して口を開いた。
「えっと……。正直ね、ひとりちゃんがアルバイト始めるときは反対だったの。通学に2時間もかけてる子が夜アルバイトやって、練習して、帰ってくると23時ごろっていうのって、場所も下北沢じゃない?親としては心配になるの。それから帰って色々学校の課題をやって、次の日朝早くから電車に乗って……っていうと身体も疲れちゃうと思うし」
「はい……」
重苦しい空気が流れた。
「時折話を聞く感じ、結束バンドのみんながいい子たちってことはわかるの。それでも私は反対だった」
「その……。じゃあ、どうして、バイトの許可を出してくれたんですか?」
「ずっとバンドを組みたいなって言ってただけの子が、バンドを始めて、なにか始めようとしてたのを見たら、止められないじゃない?やっぱり、すっごく心配だけどね……?」
「家のときお姉ちゃん、明るく……はなってないかもだけど、ほんのちょっとだけ変わったの!私、今のお姉ちゃんの方が好き!」
最近はずっとお姉ちゃんだし。と付け足すふたりに、親子2人は苦しげに笑った。
「何が言いたいのかっていうとね。ありがとうございます、みなさん」
「きっと結束バンドのみんなが連れ出してくれなかったら、ひとりは……どうなってたかな。一応何とななっちゃえそうな下地はひとり自身の力でつくりだせてたんだけど、本当にひとりが望んでたものじゃないんだと思う」
そんな後藤父の話に、3人の中で虹夏だけが、ギターヒーローのことかと合点していた。
「これからもひとりのことをよろしくお願いします」
後藤父が正座をしながら3人に向かって礼をした。
そんな、これからも娘のことをよろしく、だなんて。
「言われるまでもないことです」
「そうですよ!だって後藤さんは結束バンドの大事なメンバーのひとりなんですから!後藤さんがいなかったらきっと私、今ここにいないんですから!」
「ぼっちちゃんと、私とリョウと喜多ちゃんの4人で結束バンドなんで!!」
あれくらいの失敗でどうにかなっちゃうんだとすれば、初ライブなんて3人でもっともっと恥ずかしいことをしたじゃないか!と虹夏は思う。それにあんな失敗談は全国津々浦々のバンドで起こっている事態で、即興で上手く対処できる人間がいたとすればおかしい人だ。今回のを大失敗だと捉えたとしても、そう言うのを含めて4人で成長していけばいい。
「ようし、みんな。明日から練習がんばろー!!」
「おー!」「おー」
そんな3人の姿に、いい出会いができたのねと目尻に少しだけ雫が浮かんだ。
「そういえば、ぼっちちゃんって今どのあたりにいるんでしょう?」
「ううん。まだ20分はかかると思うけど……。もしよければなんだけど、少ししたら駅に迎えに行ってもらってもいい?」
「はい!」
そうして少しした後に、後藤母、ふたり、ジミヘンを置いて、父・直樹の運転で3人は金沢八景駅へと向かった。
「っていうか今日に限って道混んでるね……。今日何かイベントでもあるんだっけ?」
「あ、海の公園でシーカヤックレースがあるみたいなことが立て看板に書いてあります!」
「うーん、その帰りと時間が被っちゃったのかなあ……。まずいぞ、ひとりの帰りに間に合わない。ちょっと道変えるよ」
迂回路を使って、京急・金沢八景に着いた。想定よりも4分程度遅れて駅に着いた。
来年の3月31日にシーサイドラインが150メートル延伸されて京急線との乗り換えがスムーズになる。そのための工事が行われていた。仮設の部分とこれまで使ってきた部分とが混在しており急速に金沢八景という駅が別の何かへと変貌していくようだった。
車から降りた3人はこれまで使っていた上へ繋がる階段をのぼって、改札前まで辿り着いた。ダイヤを確認すると数分前に一本電車が通っていたようだった。何か嫌な予感がしつつ、信じるように次の電車を待った。
「ぼっちちゃん、来ないね」
「はい……」
「……」
40分ほど改札前で待ってみても、後藤の姿は確認できなかった。
「実はもう帰っちゃったとか?」
「だったらぼっちのお父さんが帰ったみたいって連絡もらってるでしょ」
「じゃあ、まだ帰ってない、ってですか?後藤さん、今どこにいるんでしょうか……」
何かよくないことでも起きたのだろうか?と3人が不安に思った。そんなときに電話がかかってきた。発信元は後藤だった。
「ぼっちちゃん?!」
「あ、今日はごめんね。もうひとりです。心配のロインがいくらか来てたんだけど。なんかごめんね」
「あっ、久しぶり!……で、そのぼっちちゃんって今元気なのかな?」
「んー。難しいかも。ひとりが少し不安定なときにぼくが出てきやすくなる……というか。あ、もちろんこれは傾向なんだけどね」
「そっか……。ぼっちちゃんにね、次のライブに向けてがんばろー!って伝えてもらってもいいかな?私たちもまたロインとかで送るつもりではあるんだけど……」
「あはは、ありがとね?こういうときはしばらくぼくに任せてもらおうかな」
「あ、今どこにいるの?」
「シーパラ」
「そういえば初めて会ったときに言ってたね」
「うん、暇なとき行ってみてね。ぼくが案内……っていうほどのことではないけど、案内するからさ。あ、せっかくだしぼくはもう少しシーパラにいるつもりなんだけど、もうこんな時間だし、心配かけてる立場で申し訳ないんだけどまた今度ってことでいいかな」
「あ、うん、わかった!ありがと……。それじゃあね!」
「はーい」
電話が切れた。
「ってことみたい」
「そうなんですね」
「ぼっち……」
一応後藤の無事を確認できた一同は、後藤家に戻った後に後藤父の運転で再び下北沢へ帰っていった。
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3
ーーねぇ、知ってる?2組の後藤さん!!
ーー後藤さん?そんな人、2組にいたっけ?
ーーそうなの!私も全然見たことも聞いたこともなかったんだけど!すっっごく、顔が良いの!
ーーへ〜。ちょっと気になるかも……。授業終わったら見に行ってみようかなあ。でもどうして10月も中頃になって、いきなりイケメン?が出てきたのかな。もしかして転校生?
ーーん〜。イケメンっていうか、女の子なんだけどね。
ーー女の子?それってどういうこと?
ーーなんていうかなあ。かっこいいんだよね。オーラ?なんていったらいいんだろう。とにかく!同性だってことがどうでもよくなっちゃうくらいかっこいいんだって。
ーーへ〜!
「っていう感じなんですよ。後藤さん」
「ん?つまり?」
「もてもてってことです!いろんな女の子が後藤さんの周りに集まってアプローチをしかけてますよ。も~、ずるい!私だってしゃべりたいのに!」
「ふーん。じゃあ人気者だ!」
なんていう虹夏と郁代の暢気な会話を聞き流すリョウは、この日も漫然とスターリーでのバイトに励んでいた。
文化祭前、これからバンドも大事な時期だってことも少し前に話し合っていた。そんなときにあのアクシデント。ひとりはスターリーに顔を出さないままだ。バンドを連想させるものを現在のひとりに与えると極度の精神疲労によって倒れてしまうということらしい。こういう事情で星歌にもことわりを入れて、しばらくバイトを休むことになった。
加えて、学校に来るのはもうひとつの人格の方で、肝心のひとりの様子を郁代もうかがうことができていない。
それがいっそう状況の深刻さを感じさせる。
しかし、虹夏はこの状況を決して悲観していなかった。
「これで一応、ぼっちちゃんも心配しないで済むんじゃないかな」
「そうですね!」
虹夏の勘違いだった。
「あとはぼっちちゃんが戻ってきてくれればいいね!」
「はい!」
確かに、秀華高校の生徒たちはすでに文化祭でのひとりの失敗を気にもしていないのかもしれない。それはきっともうひとりの功績だろう。けれど、それだけだった。後藤ひとりが今、閉じこもってしまっているのはどういう理由なのか?
(このままでいいのかな?)
リョウは手を動かしながら、二人の会話を聞きながら思っていた。
(ぼっち……)
顔を傾けて、地上とつながる階段を見上げた。
(あの日のライブ前、郁代が音信不通になって、虹夏がぼっちを連れてきて。それから形は違うけど、郁代をぼっちが連れてきて。そのときもあの階段で……)
中学のときに結成したバンドがごたごたしてきて解散したとき、うまくいかないもんだなバンドって……と内心思ったことをリョウは覚えている。
結束バンドとして活動してからでも、初ライブのとき。8月のライブ。そして、文化祭ライブ。アクシデントに恵まれて、順調に育ってきたとは言えない。
(ぼっちからもっとお金借りとけばよかったかな)
そう思った。
「いや〜、今日は長かったね〜」
アンコールで押しに押し、1時間延長した。それから清掃だったり片付けを終えて、気づけば11時。
「それじゃあ、リョウ、喜多ちゃん!お疲れ!」
「お疲れさまです!」
「ん」
まず初めに郁代が去っていった。その後ろ姿が曲がり角で見えなくなるまで、虹夏とリョウの2人は黙ったままで見送った。自販機がジーとノイズを鳴らし続けていた。
「それじゃあ、リョウも」
「……。虹夏。ちょっと散歩しようよ」
「え?いいけど。どこに行くの」
「夕涼み」
「はいはい。ちょっと待ってて、お姉ちゃんに言ってくる」
虹夏が階段を降りていった。その間に自販機から缶のコーヒーを2つ買って、ちょうど戻ってきた虹夏に片方を渡した。ただでさえすっからかんな山田の財布はこれでいよいよ5円玉と1円玉4枚になった。
2人とも一口だけコーヒーを含むと、歩き出した。街灯に暴き出された2人分の影は、夜の片隅に身を寄せ合うように揺れていた。
虹夏が横を歩くリョウを横目にうかがった。何を考えているんだかわからない、実際は何も考えていない、いつも通りのリョウの顔があって、少しだけほっとした。
「ぼっちちゃん、心配だね」
「うん」
思い浮かぶのは後藤ひとりと、そのもう一つの人格。
「でも、私たちにできることってあるのかな?」
「……」
「ごめん、今のなかったことにして。……うーん、っていうか夜。寒くなってきたね」
「そうだね」
リョウはあくびを手で押さえつつ、焦点の合わないぼんやりとした瞳で前を眺めていた。辿り着いた場所は、下北沢駅北口、シャッターの降りた店の前。それは喜多郁代が初めて山田リョウの存在を知った場所。
リョウが何度か路上ライブをやったところだ。
いくつかビール缶が捨てられてたままに置かれていた。うっすらとアルコールの香りが漂ってどこか堕落したような空間をつくりだしている。
「解散間際なんて雰囲気ずいぶん死んでたけど、それでも路上ライブはやめなかったな、そういえば」
「私もここで何回か見たよ」
2人はシャッターを背にして、コーヒーを傾けた。暗い暗い夜の街に溶け込んだようなコーヒーは、夜目には黒とも判別のつけられない。
「にっが」
「これやばいね。なんでこんなの買っちゃったの?」
「安かったから」
「そっかぁ」
虹夏は呆れたようにため息をついた。それからぐいっと呷るように飲み干した。
「うえ〜〜!!」
「さすが虹夏」
「褒めてるんだよね?」
「当たり前」
夜風はもう寒気を抱かせるほどになっていた。残暑の頃がすでに恋しい。
つむじ風はとぐろをまいて落ち葉に巻き付いて離さない。リョウはそれを拾い上げて、夜の空に掲げた。それはよくみると、落ち葉というよりは雑草の切れ端で。
「クローバー?」
「カタバミじゃない?それ。雑草図鑑に載ってた」
「さすがリョウ」
「照れる」
「貶してないけど、褒めてもないから!」
「あっ!!」
「どうしたの?!」
珍しく突然声を張り上げたリョウに、虹夏は驚く。
「四葉のカタバミだ」
「すごいの?」
「クローバーよりも、四つ揃うのは珍しいらしい」
「おお!すごいじゃん!」
「あとカタバミはいっぱい食べるとお腹壊すらしいから気をつけてね」
「雑草食べる予定はないかな」
割と仏頂面でいることの方が多いリョウだったけれど、今に限っては朗らかで穏やかな笑みを口元に浮かべていた。
「じゃあ、帰ろっか……」
「虹夏」
「なに?」
「結束バンド」
「?」
「名前がいいと思わない?」
「絶対いつか変えるからね!まだインシュロックの方がいいよ!」
「え?」
シャッターに寄り添うように置かれている飲みかけの缶に向けてこれみよがしにリョウが目をやった。
「インシュロックでもおもしろいと思うよ、虹夏」
「とにかく!絶対いつか変えるから!」
2人はまたスターリーまで引き返した。その道すがら。
「明日学校終わったら、神社に行かない?」
「いいよ」
「せっかくだし、北澤八幡神社に行こう!」
「私、5円と1円4枚しかなんだけどだいじょうぶ?」
「ちょうど5円があるじゃん。……まぁ、私が貸すからいいよ」
「あざっす。あ、もう遅いから今日泊めてよ」
「はいはい。あれ学校の用具はいいの?」
「置き勉してる」
置き勉はよくないのでやめましょう。
一ヶ月が経った。ときおり、もうひとりから経過報告も兼ねてグループロインに連絡が来ることを除けば、後藤とは不通状態。
結束バンドに欠けた穴は塞がることはなかった。
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4
スターリー。アルバイト後。
きれいに磨いたばかりの丸テーブルに顔を乗せて
「あー、疲れた〜」
虹夏はひとつ大きな息を吐いた。今日はリョウも休みで、アルバイトは郁代との2人っきり。郁代とも問題なく話すし。仲も悪くない。むしろ良い方だと思う。
しかし、重苦しい雰囲気に包まれていた。ここ1ヶ月続くこの倦怠感のようなものは一体なんだろう、なんて。答えは分かりきっているのに。
最初の1週間は、「大丈夫かな」「すぐに後藤さん、だいじょうぶになりますよ!」と軽く話し合っていたものだけど、今となっては触れてはいけないもののような気さえしていた。
「お疲れ様です」
郁代が丸テーブルの対面に腰掛けた。普段ならキターンと効果音でも聞こえそうなキラキラを携え笑う郁代にもどこか陰がさしているような気がするのは、きっと気のせいではないと思う。
虹夏にとって出会ったのもバンドに加入したのも郁代の方が早かったけれど、ひとりが連れてきたメンバーという印象が強かった。それは郁代にとってもそうであって、内心で後藤さんのおかげで今のこのバンドにおける立ち位置があると思っている。
「後藤ひとり」という根暗で自信がなくて、すぐに調子に乗ってしまう、なのにバンドがピンチのときにものすごい爆発力で牽引してくれる、頼れるような頼れないようなよくわからない存在の仲立ちによって生じた絆だからこそ、お互いがお互いの関係の中に濁ったものを見出してしまう。
((何とかしなきゃ))
2人ともがそう思って、どうすればいいか頭を抱えていた。
「お疲れさん。で、喜多。最近ぼっちちゃんはどうなの?」
びくっと丸テーブルの2人の身体が動いた。
「いや、なんで虹夏もそんな反応してんだよ。で、どうなの?だいじょうぶそう?」
リンゴジュースにさしたストローを口もとから離して、星歌は紙パックをカウンター台に置いた。
「んー。その。……すごく人気です」
「あー、もうひとりくんってやつか」
「はい。もちろん時折話すんですけど、常に人が張り付いてるような状態で二重人格がどうこうっていう話をするのもちょっと難しいっていうのか……。一応ロインで状況は定期的には教えてもらってるんですけど、快方には向かってないらしいです」
星歌はカウンターで頬杖つきながら、唇を噛んだ。
「それで?」
「現状基本人格が入れ替わった状態みたいで。診察とかも受けてはいるみたいなんですけど……後藤さん出てこないみたいなので、もうひとりさんの方が対応する形でカウンセリングとか受けてるみたいです」
「変わらず……か」
「あ、一応お姉ちゃんにもロインの内容伝えてるんだよね」
「そういえば最初の頃に許可とってましたね」
「うん」
少し星歌が険しい表情を浮かべ、重々しく口を開いた。
「あのさ」
空気が変わった。それを虹夏も郁代もなんとなく理解して押し黙った。
「なんていうのかな。考えて行動してるか、お前ら」
「どういうこと?」
少しだけムッとした表情で星歌に聞き返した。
「ぼっちちゃんはぼっちちゃんで頑張ってる。それはわかってるし、戻ってくれるのを待つ。それもいいと思う。でもなあ、いつまで停滞してるつもりなんだよ。もう1ヶ月だぞ。お前らまともなバンド活動やってるか?スタジオで練習するのはやってるけど、漫然とやってるようにしか見えないんだよな」
「わかってるよ!」
「例えば1年くらいした後に、ぼっちちゃんのことを1年待ちました!っつってその1年って時間の重さを称号にしたいくらいなら、さっさとバンドやめた方がいいぞ」
「じゃあ、どうすればいいんですか!」
声を荒げたのは郁代だった。黙ったままの虹夏をよそに、郁代はヒートアップしていく。
「後藤さんのおかげで私はこの場所に戻ってこれたんです。だから、私は後藤さんのこと待ちたいです。次にステージに上がるなら4人がいいんです。ステージは特別なものだから。だから、みんなで一緒に……!」
「喜多」
目を瞑ったまま郁代の話を聞いていた星歌が口を開いた。
「バンド、なんでやってるんだ?」
「え?」
「虹夏、なんか喋ってみろ。今までの話聞いてどう思った」
「……」
意を決したように虹夏は口を開いた。
「私は、3人でも活動するべきだと思う」
「え、なんで。どうしてですか、先輩」
「目標のために、バンドをやってる、から。もちろん、ぼっちちゃんと一緒にできたらいいなとは、本気で思ってる。でも、バンドで成功したいって気持ち、ずっと抱いてきたから。だからこそ結束バンドを結成したの。私は」
「後藤さんを、裏切るんですか?」
「……私は!」
バンとテーブルを叩いて、勢いよく虹夏は立ち上がった。さっきまで言葉を選びながら喋っていた虹夏の中で、喋りながらようやく思いが定まった。
「バンドで成功したい!ううん、したかった!今は違う。結束バンドで成功したい!でも、このままだと腐って終わり。絶対にそうなる。だから、この場所を守らないといけないの」
目を見開く郁代。
「ぼっちちゃんがこの前みたいなことになっても安心して私たちに任せてもらえるような、そういう大きなバンドになって迎えに行く。うん、私、やるべきことわかったよ。もっとうまくなる。そのためにもっと場数を踏まなきゃダメだ」
「喜多。私もやってたけどさ。メンバーの1人が出てこれなくなっちゃって、戻ってこれたら復活するって息巻いて結局戻ってこれないまま途絶したバンドなんてたくさんみた。まぁ私たちのバンドも畳んじゃったわけだけど。だから、動けよ。ぼっちちゃんがトラぶっても、喜多が支えられるくらいの腕前になれば、ぼっちちゃん安心できるだろ」
郁代は俯いてどんな表情をしているのか読み取れない。虹夏は勢いよく立ち上がった拍子にたおれてしまった椅子を立ち上がらせ座り直し、星歌は空になった紙パックを手の中で弄びながら、反応を待った。
「……少し、考えさせてください。それじゃあ、今日はお疲れさまでした」
頭を下げて、階段を登っていく。
完全に郁代に気配が消えてしまった後、
「お姉ちゃん」
「ん」
「……ありがと」
「おう」
「喜多ちゃん、大丈夫かな」
「大丈夫だろ」
「出てくとき、覚悟決めたような表情してたし」
「辞める覚悟だったらどうするの?」
「それは考えてなかったわ」
「私、もう上あがるから、店じまい終わったらご飯ね」
「うい」
音響も照明も帰ってしまって1人きりになった空間で、
「ぼっちちゃん、大丈夫かな」
星歌は独りごちた。
次の日。
「先輩!これに出ましょう」
郁代が見せたのは「未確認ライオット」と書かれたチラシだった。虹夏と山田は顔をしばしの間見合わせて、それから頷いて郁代に向き直った。
「「やることが極端すぎる」」
「え、ダメでしたか?」
「いや、喜多ちゃんらしいとは思うんだよ」
「ライブぶっちしたりね」
「そ、それはほんとうにごめんなさい!」
「まあでも、目標設定にはいいと思う。とりあえず新曲つくらないと。歌詞はどうする?ぼっちに書いてもらう?」
「んなアホなこと言ってないで!……喜多ちゃん。歌詞書ける?」
「書きます!やらせてください」
「よし、じゃあ、練習練習バイトライブの毎日だね!喜多ちゃん、引き続き学校でのぼっちちゃんも気にかけててね」
「当たり前です!」
「よし、それじゃあ未確認ライオットグランプリ目指して頑張ろう!」
結束バンドに火が灯った。
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5
『あっ、久しぶり〜。ひとり?あ、うーん。まだまだあんまりよくない感じかなって思うんだけど……。うん。あはは、任せてもらってるのにごめんね。一応リハビリとしてはギターヒーローの方で自信つけてからって感じになるのかなって思ってる。ん?……あぁ。まだギターは持ててないっぽいんだよね。ギターヒーロー死んだか?みたいなコメントも増えてるからさ。早く更新できるといいなーとは、我が身の話しながら他人事みたく思ってるんだけどね。うん。うん。ありがとう。ひとりにも伝えておくからね。はーい。はーい。それじゃあ、またね』
「あー、どうしたもんかなあ」
頬杖つきながら、困ったようにピンクの長い髪の少女がため息ついた。
「先輩!今日も練習お願いします!」
「うむ」
ここ数日、郁代はリョウの手ほどきを受けてバイト終わりにギターの練習をしていた。ひとりが遠くから来ている都合、制限のあったひとりを加えた練習に比べて、今は時間管理を多少ルーズにすることができるようになった。納得できるまでやることもできるようになって、練習後の満足感も上がっている。
様々な教本を読み込み独学でギターの修練を積んだ後藤ひとりのギター指導は、彼女のコミュニケーション能力の乏しさを加味しても、様々な引き出しがあった。これまでも的確に郁代のパワーレベリングを手助けしてきた。
それを引き継いで、リョウの音楽に対して持つオールマイティな能力を基にした新たな指導はさらに郁代を上達へと導いた。
ただこういった様々な要因も絡み合っているものの、一番は「後藤さんを支えられるようになりたい」という郁代の強い意志だった。
「郁代、今のいい感じ。もう一回やってみて」
「はい、先輩」
瞳にはどこまでも真摯な熱が灯っていた。
「喜多ちゃーん?」
「……」
「あ」
リョウが口に人差し指を当てて、虹夏に静かにするように求める。そして郁代は難しいフレーズをなんとか弾き切った。
安堵のこもった重たい空気を肺から押し出しながら、郁代は顔を持ち上げた。
「よかったよ」
「喜多ちゃん、上手くなったな〜」
「……ふぅ。ありがとうございます。でも、まだまだ頑張らないとですね」
そう言ってまたギターを弾き始めようとする。
「喜多ちゃん、喜多ちゃん。もう遅いから、早く家に帰った方がいいって」
スマホのロック画面には、21:43と表示されていた。
「えっ、あ、もうこんな時間!……ううん、でももう少し」
「明日平日だよ?学校あるんだしお父さんもおかあさんも心配するよ?だから帰ろう?」
「……そう、ですね。はい、帰ります」
残念そうに伏し目がちに、郁代は背中にギターケースを背負った。
「今日もありがとうございました」
そう言って去っていく郁代は、遠くから響く車のクラクションの音、信号機の緑色のライト、街灯の演色性の高い白光。それらをかき混ぜたような暗闇の中を急かされるように走った。幸いにもアスファルトは足をよく押し返してくれる。
「後藤さんがいなくても、未確認ライオットの最終選考、とまでは行かなくても、実力を示せるだけの結果はつかみたいな」
そんな気持ちで、この前ライオットのフライヤーを先輩2人に見せた。
実力はどうだろうか?新曲を完璧に弾けるように、いまだになっていない。広報のための活動も、MVづくりも、後藤さんがいない分いっぱいいっぱいがんばらないとなのに、全然うまくいってる気がしない!!
郁代には焦りが生まれていた。先輩2人はまだしも、やっぱり自分が足を引っ張ってるのでは?もっと私が上手ければ、ここ最近のごたごたすべてキャンセルできたんじゃないの?
郁代の長所が「明るいところ」だとするならば、それは徐々に翳りをみせていた。家に着いた郁代はいつものルーティンを終えてベッドの縁に腰を下ろして、オーチューブでギターの練習の参考になる動画を探していた。後藤や山田に手取り足取り教えてもらう方が効率もわかりやすさも段違いなのだが、一分一秒が惜しかった。たとえ今の自分には役に立たなさそうな内容だとしてもどこかで役に立つかもしれない。
色々調べる中でおすすめ動画に「ギターヒーロー」というアカウントのライブ配信動画が挙げられた。現在放送中。視聴者数3000人となかなか盛況なようだった。どうにも弾き語り配信のようだった。気になって開いてみると、画面には殺風景な部屋だけが映し出されていて音声もなにもない。
「ん?どういう配信なの?」
まさかこんな無の配信に3000人も集うということがあるんだろうか?動画のタイトルも【リハビリ配信】とモノトーンなものになっていて、不気味さを感じる。
「sick hackのライブみたいな、コアなファンが集まってるのかしら?」
廣井に呼んでもらったあのライブで、人目も憚らず宇宙ネコのような表情を晒してしまったことをよく覚えている。次に行ったときは、サイケデリック・ロックっていうやつの良さもわかるようになってるんだろうか?
あのときはリョウ先輩はすごい早さで解説してくれて、伊地知先輩も後藤さんもライブ終了後どこか熱に浮かされたような表情をしていたのを覚えている。
「またみんなで、行きたいな」
少しだけ目頭が熱く、鼻の奥がつんとした。そんな日が本当に来てくれるんだろうか?最近はそれさえも不安で、けれどとても口にはできないことだった。心の中で思いたくもないことで、だからこそギターの練習を精一杯やるし、未確認ライオットという明確な目標を定めた。
それでも、どれだけ頑張れども、左を向けば少し猫背でギターをかき鳴らしていた少女の姿はない。空席。まさに今見ている配信のようで……なんて考えているところで、ちょうど配信主と思われる少女が画面右横から入ってきた。
『休憩おわりっ、ちょっと水飲ませてね』
ペットボトルのふたを片手で器用に開けながらごくごくと水を飲んだ。鎖骨あたりから下が画面には映し出されている。
『……ふぅ。じゃあ、引き続き。弾き語りで、なにかリクエストでもあれば』
そういいながら下に落ちていたヘッドホンを首からさげて、立てかけてあったギターを手に取った。
『あっ、みんなありがと~。アイドリス、キックダウン、サブティルト、うーん……。どれにしよう。ん、ワタシダケユウレイ?sick hackいいよね。っと、それはさておき』
郁代は(ん?)と思って、10秒巻き戻した。
『sick hackいいよね。』
「ん?」
今度は言葉に出して言った。なにか引っかかるなあと思って、ギターを見ると、これも見覚えがある。レスホールカスタム。到底こんな少女がお金を出して買うことができない程度には値の張るギター、らしい。以前先輩たちがそう言ってたのを聞いた気がする。後藤さんはお父さんから受け継いだと言っていたけど。
そう、画面に映っている少女くらいの子がレスホールを所有しているなんて、相当なお金持ちか、誰かから受け継いだとしか考えられない。そしてお金持ちという割には部屋が殺風景すぎる。というか、この部屋……。
「後藤さんの、部屋よね?」
ギターヒーロー。今この瞬間にもぐんぐん登録者数が伸びて、まさに10万人に登録せんという勢いのアカウント。チャンネル概要欄には「弾いてみた動画を上げています」と書かれている。
よく見覚えのある髪色が配信者が少し身体を傾けるのと同期して画面の中で微かに揺れる。思い出すのは、学校で初めて演奏をしている姿を見たときの、あの惹きつける音色。
なんで普段みんなで練習をするときは、そんなにでもないんだろう?あのときはすっごく上手だったのに。
後藤と同じバンドに所属する中で郁代はそんなことを考えてきたけれど、今になってその疑問も一瞬で氷解してしまった。
「そっか、後藤さんってやっぱり、すごい人だったんだ……」
多分、いま配信主として出ているのは正確な意味で"ギターヒーロー"ではないんだろうけど。
枕の横にスマホを横たえて、郁代自身も仰向けにベッドに寝転んだ。感嘆とも、喪失感に喘いでいるとも言える表情に少しだけ顔を顰めながら、郁代は
「すごい、すごいなあ」
と呟いて、始まっていた耳元から流れるもうひとりの「アイドリス」の弾き語りと、自分の心臓の鼓動が身体の中でのたうち回るのに目を閉じながら耐えていた。
まとめ
もう一方の人格のほうも「あんまりチャンネル登録者数減らすのもよくなかろう」という判断で、基本人格の方よりはギターの腕前に自信はないので、弾き語りの形式で配信を始めました
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