水雪、イギリスへ行く (ゼリーフィッシュ)
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プロローグその1
人工鳩の電波喰いが終息してから、2年が経った。人々は電波というものの大切さを、身をもって知り、そして再び共存していく道を歩んでいる。
この2年で、交通網や通信網が続々と息を吹き返し、人々は再び自由を手にした。中でもインターネットの復活は全人類待望の出来事であり、電波喰い以前にそれに触れたことのある人たちは存外すぐ操作に慣れて、時代の最先端を謳歌している。
しかし、中にはインターネットやスマートフォンどころか、電話さえ経験したことのない人もいる。電波喰いの最中に生まれた、または物心ついた頃には既に電波喰いが始まっていた世代だ。彼らは「デジタル氷河期世代」と呼ばれており、学校教育で通信機器の使い方が義務化されている。今や生活必需品となった電波を大人同様に使えるようにするため、世界中が奔走しているのだ。
鳴山市に住む一人の少女も、そんなデジタル氷河期世代の一人だった。
「ちょっとお兄ちゃーん、ここからどうすれば良いのさー?」
2年の歳月を経て、彼女は鳴山公空学園の農学部に入学していた。とはいえ、まだ1年生なので、専門的な分野はほぼ勉強しておらず、現在は生物学や語学などの基礎科目を中心に履修している。彼女が入学した年度から、履修登録はインターネットで行うことになったため、現在はそれに苦戦しているのだった。
「パスワード打ってログインして、受けたい科目クリックして登録すればいいだけなのにどうしてここまで時間かかるんだよ……」
「呪文言うなし! ぱすわあど? ってなんだし! ろぐいん? ってなんだし!」
兄の月見里 ソラが部屋に入ってくる。涙目の妹を目の前にすると、どうしても断り切れない。
「前期もこんな感じじゃなかったか? 俺、教えたような気がするんだけど……。パスワード……、じゃ分からないか。このサイトに入る時に打ち込む英数字、覚えてるか?」
「英数字? ああ、『chankondt0721』のこと?」
「それがパスワードだ。というかよくそんなので怒られなかったな」
ソラの言う通りにパスワードと学生番号を打ち込むと、マイページに移った。
「あとはクリックして履修登録するだけだから。もういいか?」
「うん。ここまで来れば出来るかも。ごめんねお兄ちゃん。忙しい時に呼んじゃって」
「いやいいんだ。今日塔子さん夜遅くまで仕事みたいだし。教えられるの俺しかいないじゃん。夕飯の買い出し行ってくるから、車借りるよ」
たどたどしい手つきで履修登録をする水雪を確認すると、ソラは1階へと降りていく。水雪は落ち着いてきたのか、最後は頬杖をついて履修登録を終えていた。ふぅと一息吐いて、1階へと降りる。駐車場に車はなく、家には彼女一人だけだった。何時ものようにお茶を淹れると、ふわっと湯気が上がる。大好きなお茶が目の前にあるが、水雪の表情は暗かった。
「はぁ……。今日お兄ちゃん休みだってのに、あんまり会話出来てないな。まぁ、忙しいから仕方ないよね。薊野教授から言われたら断れないか」
お茶を一口飲むと、視線は自然と窓の外を向いていた。
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プロローグその2
※※※
ソラが目覚めてから半月が経ち、月見里家はいつもの日常を取り戻しつつあった。学園は夏休み期間中だったが、朝早くに水雪がソラを起こし、塔子が作った朝食を摂る。少しだけ自室でゆっくりすると、二人で鳴山公空学園まで歩いていく。昼前に到着すると、
「ソラ、もう身体は大丈夫?」
「うん。まだ激しい運動は禁止されてるけどね」
「兄よ。そんなこと言われても、かぐやと『激しい運動』、やってんだろ?」
「集まって開口一番それかよ! 流石に自重してるよ!」
「あはは、色々大変なんだな、ソラ……」
秋奈は苦笑しながら兄妹の下ネタに付き合う。暫くしてイシマルこと大石 丸夫も合流し、話題は4年生の就職活動に移る。
「それで秋奈、就職出来たんだって?」
「うん! ソラは知らないと思うから説明させて。私、ここでずっとバイトしていたんだけど、名古屋にある系列店からスカウトされたんだ!」
「凄いな。まさかそういうことがあったなんて」
「しかもあたしの勉強していることを説明したら、店舗の設計に関わる部門に配属してくれるんだって! もっとも、最初は試用期間だから、今やってるような店舗での接客とか、事務仕事からだって言ってたけどね」
「そういえば越百さん、音響設計とかの勉強してたもんな」
「そうそう。なんか、初めてこの学部に入って良かったって思ってるよ」
イシマルが砂糖とミルクをたっぷりかけたコーヒーに口をつける。2年前、彼が背負っていたものはベースだった。しかし、今それは参考書とノートパソコンが入った鞄に替わっていた。
「イシマルは? 髪の毛まだ金色だし、就職活動しているようには見えないけど……」
「水雪ちゃん、世の大学生全員が就職活動していると思ったらそれは大間違いだ。ソラなら分かるだろ?」
「まさか、大学院に進むのか? 勉強好きじゃなかったお前が?」
「最後の言葉は余計だ。でもまあそういうこと。電波喰いが終ったから電化製品の需要が高まっただろ? それで、俺も家電の勉強をしてみようかなって思ったわけ。まあ最終的にはじいちゃんの店の名前借りて、開業しようかなって」
「うんうん! 目標が出来たのは良いことだよ。あたし、ちょっと気になってたんだよね。髪の色も戻してなかったからさ」
秋奈が小さく頷きながらイシマルの話に耳を傾ける。ソラは進路が決まった『同期』の話を微笑ましく聞いていた。と、イシマルがあることに気付く。
「そういえばソラよ、お前って学年どうなってんの?」
「ああ、まだ2年生って扱い。俺が眠っている間、塔子さんが休学届を出してくれたんだ。そろそろ復学しようと思ってるけど、おかげで出遅れちゃったよ。二人が羨ましい」
「そうなんだ……。本当なら、あたしたちと一緒にこの学園を卒業できる筈だったんだよね」
「まあ、あんなことがあっちゃ仕方ねえよ。第一、あれが無かったらソラはここにいなかったのかもしれないんだろ? こうやって顔合わせられるだけ幸せだと思えよ、越百さん」
しんみりしかけた雰囲気を、イシマルが再び明るくする。それを水雪は、過去を回想するように見つめていた。ふとコーヒースタンドに視線を移すと、何処かで見たことがあるような女性が注文を待っているのが見えた。
特徴的な上着を羽織る、男子の目を釘付けにするナイスバディな女性。ポケットに突っ込んでいる手は何処か忙しなく動いている。水雪は立ち上がると、その人へと近づいていく。
「薊野教授! お久しぶりです!」
「ん……? なんだ、水雪か。夏休みなのに、こんなところで何してるんだ」
「皆と雑談を楽しんでました。薊野教授もどうですか? お兄ちゃんもいますよ」
「……どうせ、嫌だと言っても連れて行くつもりだろ?」
「え? じゃあ……」
「……好きにしろ」
「やた! みんなー、薊野教授だよー!」
「声がでかい。昨日寝てないんだぞ、全く……」
「具合はどうだ。ソラ」
「昨日、塔子さんに診て貰いましたけど、今の所これといった異常は見当たらないって言われてます。そろそろ復学しても良いんじゃないかとも」
「そうか……。じゃあ今日は何しにここに来たんだ?」
「水雪が誘ってきたんです。散歩がてら学園に寄ってみたら? って。2年ぶりに自分の足でここまで来ましたけど、本当に何も変わっていませんね」
「まあな。大石、越百。お前らともすっかりご無沙汰だったな。最近どうだ」
「うっす! 俺、ここの大学院に入ろうと思って勉強してるんですよ。卒論も終わったし、あとひと月で試験なんで」
「あたしはもう、就職が決まったので、ここでバイトしながら、お父さんと生活してます。名古屋に行ったら、暫く会えなくなりますし」
それぞれの近況を聞いた椿姫は小さく首を縦に振って、再びソラに向き合う。
「ソラ、復学が決まったら私の研究室に来れるか」
「え? まあ大丈夫だと思いますけど」
「分かった。それじゃな。タバコ、吸ってくる」
椿姫は表情一つ変えずに踵を返す。彼女の姿が見えなくなると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「薊野教授からお誘いか、ソラ。あそこにかぐやもいるんだろ?」
「うん。今も教授の助手として、この学園に籍を置いてるんだ」
「そうなんだ……。あ、そろそろお父さんのお昼ご飯作らなきゃいけないから帰るね。今日は会えて嬉しかった!」
「秋奈―、たまにはうちにも顔出してねー!」
秋奈を見送ると、イシマルも鞄を背負って立ち上がる。
「そんじゃ、またな二人とも。俺図書館行って勉強しなきゃだから」
「イシマル。お前の口からこんな言葉が飛び出すなんて思わなかったよ」
「うるせっての! 俺も2年経って変わったんだよ。じゃあなソラ! たまにはうちにも遊びに来いよ! お前の師匠も待ってるからさ!」
「じゃあねー!」
重たい鞄をものともせず背負うと、イシマルは図書館の方へと歩いて行った。
「本当に、戻ってこれて良かったね。お兄ちゃん」
「そうだな。俺が眠っている間、かぐやを介してこの世界を見てきたけど、改めて自分の目で見ると、帰ってきたって実感が湧いてくる」
水雪は水筒に入ったお茶を一口飲むと、ソラの隣に座る。かぐやが近くにいない今、彼を独り占め出来る数少ないチャンスだからだ。
そして、ソラが眠りから覚めた。最初は再会を喜べたが、そこからは怒涛の半月だった。メディカルチェックや各種電子機器への影響など、身体の隅々まで調べることになったのだ。その間、彼は塔子が勤務する総合病院で、半ば隔離されるように入院することになり、水雪は再び孤独になってしまった。
「お兄ちゃんさ、目覚めたと思ったらいきなり病院直行だもん。あたし思わず泣いたよね」
「仕方ないだろ。2年間眠ってて、身体全然動かなかったんだから。半月でここまでになったのが奇跡だって、塔子さんも言ってたろ」
「確かに。歩けるようになるのに、めっちゃリハビリしたんでしょ? 辛かった?」
「うん。最初は100m歩くだけでも息が切れて大変だった。今も走ったら簡単に息切れするし、坂道も自信ない。エスカレーターやエレベーターを使わなきゃ、2階にも上がれない」
「こうやって散歩するのが、リハビリになるってわけだ」
「……そういうことになるな。今日はそれ目的でここまで歩いたのか?」
「まあ、そうだね。でも、本当はもっとお兄ちゃんと一緒にいたかったんだ」
妹の告白に、ソラは表情一つ変えずに傾聴する。やはり、彼女はソラの目を見ずに話した。
「あたしさ、お兄ちゃんがカプセルで眠ってから、お兄ちゃんのこと1日だって考えなかった日なかったんだよ。かぐやの中にお兄ちゃんの意識があったから、それだけでも安心出来たけど、本当はもっとお兄ちゃんの声が聞きたかった。だから、少しの時間だけど、こうして散歩しながら下らない話をするだけでも、あたしはとっても嬉しいんだ」
「……そうか。迷惑かけたんだな、俺」
「そんなことない!」
水雪ははっきりと否定すると、ソラの目を見ないようにそっと、自分の右手をソラの左手に置いた。生きているソラの感触をしっかりと受け止めながら、ゆっくりと手を握る。
「だからこれからは、勝手にあたしを置いて出て行かないで! 本当に、寂しかったんだから……」
言葉が震えているが、水雪はもう、泣いてはいなかった。
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プロローグその3
それから更に半月後、学園の後期日程が始まった。それと同時にソラは復学が認められ、約束通り椿姫の研究室に足を運んだ。いつものように、研究室には鍵がかかっておらず、部屋の中はほんのりとタバコの匂いが残っている。ホワイトボードには、『屋上にいる。13時には戻る。』と走り書きがされていた。
「ここで待ってるか……」
水雪とここに来て以来、彼は毎朝、学園までの道のりを散歩するようになった。体力をつけるリハビリというのも理由の一つだが、2年間の埋め合わせをするかのように、水雪と一緒にいることが最大の目的だった。最初は長めに休憩をとらないと帰って来れないほど疲れていたが、今では休憩なしで往復出来るレベルまで回復している。ふうと一息ついて長椅子に腰を下ろすと、奥の部屋から葉月 かぐやが出てきた。
「ソラ! おかえり!」
「ただいま、かぐや……、おっと、いきなり抱き着くなよ。病み上がりなんだから」
かぐやは心底嬉しそうにソラとハグをする。ソラもそう言うが、満面の笑みでハグに応えた。2年間”一緒に”過ごしてきたが、こうして肌を触れ合うのは起きた直後以来だった。
「薊野教授は、タバコ吸いに?」
「うん。つばき、何度言っても辞めないの。タバコは寿命を縮めるのに」
「まあ、大人になったら色々あるんだよ。あの人、ああ見えて偉い立場なんだから」
「それは分かってるけど……。ところで、つばきに呼ばれてここに来たの?」
「ああ。そろそろ戻ってくる筈なんだけど……」
かぐやが身体を離す。時計の針は1時を指していた。話とは一体、何なのだろう。心当たりがないまま、寄り添うかぐやの頭を撫でていた。
「ソラの手、あったかい。ずっと待ってた」
「俺もだよ、かぐや……」
“一緒に”いた時には気付かなかったかぐやの匂い。ふんわりとソラの感覚を刺激する。深く愛し合う関係になってからは、無限にそれを感じたいと思うようになっていた。二人の視線が熱を帯びる。僅かな理性で、駄目だとは分かっていても、沈黙は了解とばかりに深い口づけを交わそうとした。しかし、その時だった。
「そこまでだ。邪魔して悪いな」
二人が慌てて身体を離すと、出入り口の前に椿姫が立っているのが見えた。彼女は呆れたようにソラを睥睨し、かぐやを無言の圧力で退室させる。
「す、すみません。俺、教授の研究室でとんでもないことを……」
「未遂に終わって良かったよ。ところで、あの時に話した件だったな。かぐや。お前は研究の続きだ。私は奥の部屋でソラと話さなきゃならないことがある」
「……分かった。つばき」
気まずそうな表情のかぐや一人を残して、二人は研究室の奥の部屋に入る。そこはテーブルと椅子、そして数台のパソコンが置かれているだけのシンプルな配置だった。机の上には、何冊かの書類が積まれている。
「座れ」
促されるままに座る。先ほどまでの状況が状況であったため、ソラは椿姫と目を合わせられない。椿姫は灰皿を取り出すと、そこで堂々と煙草を吸い始める。
「復学おめでとう、ソラ」
「あ、はい。どうも……」
「今の立場上、お前は2年生のままらしいな。休学していたから」
「そうなんです。秋奈とイシマルは今年度でこの学園を卒業するって」
「そのことなんだが、お前、あいつらと一緒に卒業できるとしたら、どうする?」
「え……?」
驚きに顔を上げるソラ。耳を疑う話が飛んできた気がして、少し視線を泳がせている。そんな彼を無視するように、椿姫は一つの大きな封筒を開けた。そこには、『卒業認定資格』と書かれていた。
「これは……?」
「要するに、飛び級でこの学園を卒業できる書類だ。学園の中でも極めて優秀な成績を修めた者、スポーツで一定の成績を残した者、今後の未来に繋がる研究を発表した者、そういう連中にチャンスがある。学園内で審議にかけられて、最終的に1年で1名のみ選出される。まあ、そうポンポンと簡単に出るものではないがな」
「そんな大事な書類を、俺が受け取る資格があるんですか?」
「……まあな。お前は自分の意志で、人工鳩による電波喰いを終息させた。そのことだけでも書類を出すに十分な理由がある」
「それじゃあ、今すぐに書類を……」
「いや、そうもいかないんだ。この書類のめんどくさいのは、実績だけでなく、成果物を提出しなければいけない所なんだ。あるだろ? 成績表とか、大会のトロフィーや表彰状とか」
電波喰いを止めたという成果物……? ソラは考えた。そういえば、人工鳩を回収してメカニズムを解明しようとしたことがある。あのようなものを論文に落とし込めば良いのだろうか。自分だけで考えても分からなかったので、ソラは好機を逃すまいと質問する。
「教授、どういった成果物を出せば、卒業できる決定打になるんでしょうか」
「それを今、私とかぐやで取り組んでいる。電波喰いはなぜ起きたのか、どのようなメカニズムで起こったのか、それが解明したとして、他の技術に転用することは出来ないか……。研究内容は尽きることが無い。そのほんの一部だけでもわかれば、お前の助けになる。そして、次の未来に繋がる」
「教授。俺もその研究を手伝って、少しでも前向きな事象が起これば論文として提出すれば良いんですね?」
椿姫が煙草を吹かす。白い煙から見えた彼女の口角は、少しだけ上がっていた。
「病み上がりの身体で申し訳ないが、もう時間がない。今年中に一つでも論文を完成させ、今年度中に卒業できるよう持っていく。明日から、ここに来れるか」
「勿論です」
「返事は良いな。それじゃ、家族にそれを伝えてくれ。2年前みたいに、勝手にいなくなったらそれこそ大目玉だろ?」
ソラは苦笑することしか出来なかった。あの日のことは未だに覚えている。泣きながら背中にしがみついて離れようとしなかった水雪、必死に制止してきたイシマル。そして椿姫には一言も声を掛けずに研究室から去り、かぐやと共に1タミに籠った。特に水雪には、未だに当時のことを言われる。
「分かりました。帰ったらすぐに伝えます。また怒られるかもしれませんけど」
「そうだな。早く行け」
ソラは軽く一礼すると、椿姫の部屋から退室した。かぐやが不安そうな目で見つめているが、彼は心配ないとばかりに首を横に振る。2年前と違って、嬉しい知らせだから水雪もきっと了承してくれる筈だ。家に帰るまでの足取りは、これ以上なく軽かった。
帰宅すると、手持ち無沙汰な水雪が茶魂くんのぬいぐるみを弄っていた。
「それまだ持ってたのか。腰につけてるやつだろ?」
「うん。ちゃんこんくんだよ。2年見てなかったからもう忘れちゃった?」
「忘れるわけないだろ。こんなち〇ち〇みたいな形してる
「ち〇ち〇じゃねぇし、
「ああ、そのことなんだけど、ちょっと話がある」
ソラがソファーに座ると、水雪の表情が曇る。二人分のお茶を淹れると、水雪はソラの隣に座った。
「良いニュースと悪いニュース、どっちから話せばいい?」
「……いきなり何? そりゃ良いニュースの方が良いけどさ」
「じゃあ話す。俺、飛び級で学園を卒業出来そうなんだ」
「え……? マジで?」
水雪の目が驚きに開く。それを見たソラは、椿姫に言われたことをそのまま話した。飛び級での卒業は1年に1人出るかどうかのレベルであることや、研究をする為に講義を休まなければならないことといったことも。
「それ凄いじゃん! 秋奈とイシマルと一緒に卒業できるってこと?」
「ああ。このままいけば、論文を出せさえすれば審議に通るだろうとは言われてる」
「うん! 電波喰いはお兄ちゃんが止めたようなもんだしねぇ」
「……で、悪いニュースなんだけどさ」
またも空気が重たくなる。水雪は言い出しづらそうなソラをじっと見つめていた。
「講義を休んで研究に専念しなきゃいけない。そのために、当分は泊まり込みで研究室にいることになりそうなんだ。だから、お前とまた離れ離れになる時間が増える」
「……そうなんだ。せっかくお兄ちゃんとゆっくり出来ると思ったのに」
水雪はため息をついて俯いてしまう。しかし、それはつかの間のことであった。彼女は再びソラと目を合わせると、笑って見せた。
「でもさ、ずっと会えないわけじゃないじゃん? お兄ちゃんが眠っていた2年間に比べればあっという間だよ。長くても半年でしょ? だったら全然耐えられるって!」
「水雪……」
「良いよ、お兄ちゃんの卒業の為だもん。でもたまには顔見せてね。お母さんも心配すると思うから」
「ああ。塔子さんにも伝えるつもり。また家を空けることになりそうだって」
「オッケー。じゃあ決まりだ。頑張ってね、お兄ちゃん」
水雪はソラの顔を見ずにハグをした。兄の熱が伝わってくると、自然と笑みが零れる。彼女はもう、弱くなどなかった。
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プロローグその4
履修登録を終えた翌日には、講義で使う参考書の販売が始まっていた。水雪は重たそうに参考書の束を抱え、コーヒースタンドで一服することにした。普段、コーヒーは滅多に飲まないが、秋奈の影響で、時々ではあるがここのコーヒーは飲むようになっていた。
「なんで今の時代、紙の本なんて持たなきゃいけないんだよ。電波喰い終わったんだろ? 前時代的過ぎるだろ。それにしても重たいよぉ……」
紙袋に入れた参考書を家まで持っていかなければいけないことを想像すると憂鬱になる。まだ残暑もあるし、帰ったらシャワー浴びなきゃなぁ……。そんなことを考えてコーヒーカップを捨てる。紙袋を持って学園から出ようと正面玄関に進むと、道中の掲示板に目が行った。
「色々あるんだなぁ。なになに? パソコンの資格取得講座、学園内コーヒースタンドのアルバイト募集……、ん?」
掲示板の中央部分に、あるチラシを見つける。その内容に目を通すと、彼女は食い入るように何度も読み返した。
「テンブリッジ大学に短期留学……? 何それ凄いじゃん。あのイギリスの名門、テンブリッジに行けるってこと?」
善は急げとばかりに、水雪は留学担当の教授の研究室へと足を運ぶ。幸い、教授は在室しており、留学の詳細を聞くことが出来た。
留学の期間は1か月であること。イギリスの文化や言語を学ぶための留学となっていること。条件として、書類審査や英語の試験が必要であること。英語や英国文化に関する資格があれば有利に働くことも教えてくれた。彼女の積極性に教授は顔を綻ばせており、二つ返事で資料を渡してくれたのだった。
「ただいま!」
誰もいない自宅に響く水雪の声。それもすっかり慣れた彼女だったが、今日は珍しく、キッチンに塔子がいた。
「あれ? お母さん仕事は?」
「今日は休み貰ったの。最近、あんまり二人に構ってあげられなくてさ」
「そんなこと無いよ。お母さんはゆっくり休んでよ」
「そうさせて頂きますか……。それにしても、まだ参考書なんて使ってるのね。もう電波喰いも終わったから、全部インターネットで講義するのかとばっかり思ったよ」
「あのね、お母さん」
「ん? どうした水雪」
「これなんだけどさ」
水雪は掲示板に貼られていたチラシと同じものを、塔子に渡す。テンブリッジへの短期留学という文字に、塔子は目を丸くしていた。
「あたし、死ぬまでに1回はイギリスに行きたいって思っていたの。試験に合格すれば、旅費は学校が出してくれるっていうから。それにお母さんも、テンブリッジの医学部で学んだことがあるって言ってたよね? あたしもその空気を感じたいの!」
「水雪は積極的だ。でも、学校の単位はどうするの? 1か月もイギリスにいるんでしょう?」
「先生が取り計らってくれるみたい。Eメール? っていうのを使ってレポートを提出したりするだけで良いんだって。講義受けなくても」
「なるほど……。水雪は本当に用意周到だ。留学の為の試験はいつ?」
「今から1か月後。もしかしてお母さん、行っても良いの?」
「ここまで言われて、ダメだって言えないよ。出来る限りのサポートはするから、頑張って」
「……うん!」
水雪は希望に溢れた瞳で、塔子を真っすぐ見つめていた。これで退路を断った彼女は、翌日から留学の準備を開始した。留学に必要な物を揃えたり、休みの日は学園付属の図書館に行き、遅い時間まで英語を基礎から勉強した。
ある日曜日、いつものように図書館に行くと、見慣れた金髪の男がコーヒーを飲んでいた。
「お、イシマルじゃん。おはよう!」
「あれ? 水雪ちゃん。こんな時間からどうしたの」
「聞いて驚け? テンブリッジに留学する為に頑張っているのだ!」
「おぉ! すげえ! そういえばチラシ貼ってあったな。試験あるんだっけ」
それから水雪は、留学の詳細を説明した。イシマルはうんうんと首を縦に振り、机に置かれた英語の参考書と水雪を交互に見る。
「1か月かぁ。ソラと離れ離れになるの、寂しくない?」
「ううん。お兄ちゃんも椿姫の研究室にこもりっきりなんだ。だから暫く会えてないの」
「マジ? あいつ、また水雪ちゃんほっぽり出して……」
「いやいや、お兄ちゃんは責めないで。飛び級で卒業出来そうなんだから」
「は? それ初めて聞いたぞ……。俺、知らないことばかりだよ」
「そのことはお兄ちゃんから追々説明があると思うからさ。イシマルも勉強?」
「まあそんなところかね。夜通しやってたからコーヒーが手放せなくなったよ」
大きく伸びをすると、鞄を背負って立ち上がる。
「それじゃ、帰るわ。水雪ちゃんなら、テンブリッジ行けるって信じてるからな!」
「ありがとう! イシマルも頑張れよー!」
イシマルを見送ると、机に参考書を広げて勉強を始める。家族だけじゃなく、友人も応援してくれていると知った彼女は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
秋の風が吹く頃、水雪は留学の為の試験を受けていた。筆記試験は高等教育卒業程度の難度で、面接は全て英語。参加者のほぼ全員が頭を抱えていたが、彼女だけは日頃の勉強の成果と、誰にでも物怖じしないコミュ力を遺憾なく発揮して乗り切った。それでも試験終了後は、ふやけた茶魂くんのように伸びきっていた。疲れた身体を無理矢理起こして、コーヒースタンドでコーヒーを注文する。
ストローでコーヒーを吸っていると、秋奈が大きく伸びをしているのが見えた。まだバイト先の制服姿だが、どうやら仕事は終わったらしい。豊満なバストが強調されており、童貞男子の視線を釘付けにしている。水雪は自然と、自分の胸元を見つめた。
「いつも思うけど、少し胸の脂肪分けてくれないかなぁ、秋奈」
「……分けられるものなら分けたいよ」
「え? うわ、聞いてたの?」
慌てて顔を上げると、先ほどまでバイトをしていた秋奈が目の前にいた。秋奈は水雪の隣に座って、持参した水筒を取り出す。
「イシマルから聞いたよ。テンブリッジ大学に留学するんだって?」
「まあまだ決まったわけじゃないけどね。今日、選考試験受けてきた」
「お疲れ様! あ、だからこんな疲れた顔して、私の胸見てたんだ」
一瞬だけジト目で水雪を見るが、直ぐにいつもの笑顔に戻る。
「まだ1年生だからね。出来ることはどんどんやっていけばいいよ。もし留学したら、何をするつもりなの?」
「いっぱいやりたいことあって困ってる! もっと英語読んだり書いたり出来るようになりたいし、本場の紅茶文化も体験したいし」
「あはは。若いって良いなぁ。1か月しかないから、時間は大事に使いたいよね」
秋奈がいつもの調子で笑う。それを見ただけで、水雪は心が軽くなるような気がしていた。
「ねえ、秋奈。今から言うことは他言無用いい?」
「いきなりどうした? 良いけど。どうぞ」
「あたしが留学したいのはね、色々学びたいことがあるってのは一番よ?」
「うんうん」
「あと、もう一つ理由があるんだ」
「ほお。それは?」
「お兄ちゃん、学園を卒業する為に薊野教授と研究しなきゃいけなくなって、それで、あたしがいたら邪魔になるかなって思って、日本から出ることにしたんだ」
「そっか……。え? 待って。ソラってまだ2年生だよね?」
「秋奈にはまだ言ってなかったか。お兄ちゃん、飛び級で卒業する為に、人工鳩についての研究をしてるんだ」
秋奈はしばし唖然としていたが、水稲のお茶を一口飲むと平静を取り戻す。
「あたし、今回はお兄ちゃんの邪魔になるかなって思って。少しの間だけでも、研究に没頭出来る時間を作らせなきゃなって」
「……ソラは良い妹を持ったなぁ。その気持ちだけでも、ソラは嬉しいと思うよ?」
「あはは、そうかな?」
「うん! 直接言うのは照れちゃうかもしれないけどね」
「秋奈はなんでも分かってるなぁ……」
その後、二人は日が暮れるまで学園内でお喋りを楽しんだ。終わった頃には、水雪が感じていた疲れはすっかり吹き飛んでおり、憑き物が落ちたような気持ちで家に帰ることが出来た。
留学試験の合格通知が届いたのは、それから2日後のことだった。
それから1か月後、水雪は鳴山国際空港にいた。ソラと塔子、秋奈、イシマルといつもの面子に、この日はかぐやも、国際線のロビーに集っていた。
「これから1か月、頑張ってこい。水雪ちゃん」
「身体に気を付けてね。寂しかったら連絡しても良いからね」
「水雪。1か月経って成長した姿を楽しみにしているね」
三人とそれぞれハグをすると、残っていたのはソラだった。隣にはかぐやもいる。
「みずき。頑張って」
「かぐやも来てくれたんだ。本当にありがとう! 頑張ってくる!」
「うん! ソラも、何か言ったら?」
「ん? ああ。俺からは特別なことは何も言うことないかな……。ただ水雪が1か月無事に留学をしてくれれば、俺は満足だよ」
「えへへ……。まあ怪我なく病気なく過ごすよ。ありがとう、お兄ちゃん」
ソラとハグをすると、ロンドン行のゲートが開いたとアナウンスが鳴る。水雪は皆で集合写真を撮った後、キャリーバッグを引っ張って、ゲートの奥へと消えて行った。
「……行っちゃったな」
「ああ。なんだか凄く、頼りがいのある背中に見えた。ほんと自慢の義妹だよ」
「そういうのは直接言えば良いのに。兄妹揃って似てるんだもんなぁ」
あの日から2年経った水雪の成長は、皆の目にしっかり映っていた。底抜けに明るいムードメーカー的な存在だった彼女が、今度は頼もしさも身につけ始めている。塔子の目には、涙が溜まっていた。
「塔子さん、泣いてるの?」
「当たり前でしょ! これで泣かない親が何処にいる!」
「そうだぞ、ソラ。親っていうのはこういう生き物なんだから」
「イシマルお前、親になったことないだろ。それどころかバキバキの童貞だろ」
「悪いか! 非童貞のお前には俺の気持ちなんてわからねえよ!」
「こらこら、こんなところで下ネタ混じりの喧嘩しないの!」
対する三人は、いつもの調子で笑い合っていたのだった。
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テンブリッジへ その1
約12時間のフライトを終え、指定された場所へと向かった水雪。タクシー乗り場で待っていたのは、一人の女の子だった。茶色混じりの黒髪をポニーテールにしており、ライトグレーのデニムパンツと黒いブレザージャケットをすっきりと着こなしている。見た目は水雪と同年代に見えたが、彼女には女の子の方が何倍も大人に見えていた。
「こっちですよ! 月見里 水雪さん!」
「あ、はい! ってあれ? 日本語?」
女の子の車に乗ると、空港からロンドンの街に向けて出発した。
「初めまして。イングランドにようこそ! あれ? どうしたの? まだ緊張してる?」
「あ、あの……。てっきり私、英語で話さないといけないのかなって思ってて。イリアさんって、日本語話せるんですね」
「ああ、そういうこと。私はね、ほんの少しだけど、日本人の血が入ってるの。だからなのかな? 昔から日本に興味があって。今ではこれくらいなら話せるんだ!」
ホームステイ先の女の子、イリア・リードは車を運転しながら、少し癖のある日本語で話していた。水雪の言うこともきちんと理解できているようで、終始笑顔だった。「今日はもう遅いから」と、1か月お世話になる場所へと案内される。薄暗い裏路地へと入ると、ヘッドライトの明かりがより際立つ。
「この地区はイングランドの有形文化財に指定されていて、およそ400年前の景観をなるべくそのまま残すように作られているんだ。ほら、さっきまでアスファルトだったのに、ここから石畳でしょ?」
「本当だ。なんだか日本の京都みたい」
「京都? ああ。めっちゃ有名な観光名所だよね!」
「うんうん! 景観を損ねないように、高層ビルとか建設しちゃダメな地域があるんだよ。ここもそうなん?」
「そうだね。似たようなものだと思う。石畳は定期的に保全活動で綺麗になっているし、家の外観も修復を繰り返しながら保ってる。あ、そろそろ着くかな」
車を停めて少し歩くと、一軒のパブがあった。今では珍しい白熱電球の明かりが、ほんのりと窓の外から漏れている。
「ようこそ! パブ『カサブランカ』へ!」
イリアが扉を開けると、入店を知らせる鐘が鳴った。中には常連さんと思われる数人の男女が、料理を囲んでエールを片手に談笑している。日本でも居酒屋に入ったことが無かった水雪は、しばし呆然とした。本場のパブを目の当たりにし、いよいよ自分がイギリスに来たことを思い知らされたのだった。
暫くして現実に戻った水雪は、2階の部屋で荷物をまとめていた。留学で使用する勉強道具や、緊急時の翻訳機など、学校で使うものは普段使う鞄に入れる。現地で使う為の現金は、手持ちは最小限に留めて、残りは鍵付きのキャリーバッグに入れる。そして、おなりくんの缶バッジ、茶魂くんのマスコットも忘れていなかった。茶魂くんの方は、飛行機に酔ったのか非常に毒々しい色になっていたが、頭の部分を撫でたらすぐに元の緑色に戻った。
一通りまとめ終わると、ノックの音がする。「どうぞ」と英語で言うと、入ってきたのはイリアだった。
「まだ営業中なんだけど、私の両親が、水雪に挨拶したいって」
「あ、そっか。そういえばまだだったね。忙しそうだったからいつ声掛ければ良いか分からなかったんだ、あたし」
「そういうことだから、レッツゴー!」
急に流ちょうなイギリス英語を口にするイリア。水雪は彼女がイギリスの人であることを改めて知る。1階では、先程までいた常連さんは退店しており、中にいたのはイリアと両親だけだった。
「こっちがママのリタ。こっちがパパのトマス」
「英語で話した方が良いんだよね?」
「まあね。ママは少し日本語分かるけど、パパは全然」
初めてまともに英語圏の人と会話をする緊張で身体が強ばるが、水雪はイリアの両親を見つめて口を開いた。
≪あ、あの、初めまして。あたしは月見里 水雪と言います! 日本の鳴山公空学園から来ました! 1か月という短い間ですが、よろしくお願いいたします!≫
深々とお辞儀をしてから顔を上げると、両親は笑っていた。
≪こちらこそよろしく。テンブリッジを楽しんで≫
≪何か出来ることがあれば言ってくれ。ま、俺達が出る前にイリアが解決しちゃうかもな≫
≪パパ、ママ。私を買い被らないで。水雪、明日は何時から?≫
≪えっと、9時までにテンブリッジの第1ブリッジ前の講堂だって≫
≪オッケー。今日はもう遅いから寝ようか。シャワー借りても良いよ≫
挨拶を済ませると、再びお客さんが入店してきた。秋も深まるロンドンでは、暖を取る為にお酒を注文する客が多い。カサブランカも例外ではなく、この日はエールやスコッチがよく売れた。2階にあるシャワー室を借りた水雪は、イリアの部屋にお邪魔することにした。
「水雪です」
「おお、どうぞ入って」
快く迎え入れるイリア。水雪はまだ緊張しているようだった。
「眠れないの?」
「うん。時差ぼけもあるのかな? 飛行機の中では寝てきた筈なんだけどさ……。ところでカサブランカって、いつ営業終わるの?」
「んー。まだまだ終わらないよ。12時になったら最後のお客さんがはけるから、片付けが終わる頃には2時くらいになってるかな。その分、開ける時間は少し遅いけどね」
「そうなんだ……。イリアのご両親も大変なんだね」
「まあね。私もたまに手伝う時あるよ。だけど未成年だしお酒は出せないから、お料理ばっかり作ってる」
時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうとしていた。日本ではどうしているんだろうか。お兄ちゃんはもう起きて、椿姫と研究をしているんだろうか。日本にいる友達のことばかりが頭に浮かぶ。
「ところで水雪は、どうしてテンブリッジに留学したいって思ったの?」
「あたし? まあそんなかっこいい理由じゃないんだけどね、電波喰いが終ったじゃん? だから好きに海外に行けるようになって。今行かないと、もう二度と行けないんじゃないかって思ったんだ。大学1年生って忙しいと思ったけど案外やること無いし」
「私も一度で良いから、日本、行ってみたいなぁ。祖先がそこに住んでいたって言うから。それとさ、テンブリッジで何を学びたい? 1か月しかないから、そこまで出来ることは少ないかもしれないけど」
「まずは英語、あと現地の文化も学びたい。それと私、お茶が好きなんだ」
「お茶?」
「うん。ティー。イギリスってさ、紅茶の国って呼ばれてるくらい紅茶飲むでしょ? だから、本場の飲み方とか淹れ方とか、この目で見たいし学びたいなぁって思って」
「そうなんだ……。私と同い年なのに珍しいね。お茶が大好きって」
水雪の興味関心に目を見張るイリアだったが、視線はずっと水雪のパジャマに向いていた。
「ずっと気になってたんだけど、このパジャマもお茶由来?」
「うん! お茶の魂と書いて、ちゃんこん君! お茶の精霊っていう設定のキャラクターなんだぁ。ゆるキャラってわかる?」
「ゆるキャラ……。名前は聞いたことあるし、有名なものは知ってる。熊とか梨とか。あそこ……、じゃなかった。お茶のゆるキャラは知らなかったな。あはは……」
流石のイリアも茶魂柄のパジャマを目にしては苦笑いしか出なかったのだった。
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テンブリッジへ その2
翌朝、水雪は登校する為にイリアの車に乗っていた。彼女の操るコンパクトカーは、通勤ラッシュの街を相手に軽快に運転しており、難なく大学の駐車場に到着した。
「私も最初は第1ブリッジ前の講堂で講義があるんだ。一緒に行こうか」
「うん! でもそれにしても広いなぁ。流石名門大学」
駐車場から第1ブリッジまでは歩いて10分と、結構な距離がある。その間に、水雪は道行く人たちを物珍しそうに見ながらイリアについて行っていた。何もかもが初めてで、親鳥について行く雛のような歩き方で、後ろにぴったりついて行く。
「着いた! ここが講堂だよ」
「でか! 何? ここで講義受けるの?」
「そうだね。中に入ろうか」
イリアは事もなげに入室するが、水雪はびくびくだった。自分みたいな人間が、超がつくほど優秀な人間しか入ることを許されないテンブリッジ大学の講義を受ける。恐ろしさや不安と同時に、謎の高揚感が現れ始めていた。イリアの隣の席につくと、暫くして担当の講師と思われる男が登壇する。本日最初の講義、そして水雪の留学が今、ようやくスタートした。
講義は全編英語で行われた。水雪はメモを取るので精一杯で、1限が終っただけで疲れ果てていた。水筒のお茶を飲むと、イリアが笑いながら話しかけてきた。
「水雪、お疲れ様。今日はあと1つだけだっけ」
「うん。あたし農学部だから、そこ中心に講義を受けるんだ。イリアの学部は?」
「私はね、医学部。とは言ってもまだ1年生だから、基礎科目ばっかりだけどね」
「ほえぇ……。お母さんと同じだ。医者になるの?」
「どうだろう。医師免許は取るつもりだけど、そこからは分からない。コナン・ドイルも、医者になってからシャーロックホームズの冒険を書いたっていうし」
次の講義まで2時間以上あるので、水雪はイリアにテンブリッジを案内して貰った。第1から第10までブリッジがあり、各ブリッジ前には講堂や実験室がある。中央の広場には、かつて日本人の学者が研究に使ったと言われる小屋や、大学付属の図書館が建っている。食堂も同じく中央広場にあり、そこで学生は雑談や研究の話題に花を咲かせている。学生寮も敷地を出てすぐの場所にあり、そこでは300年以上前より代々、寮母さんと数名のメイドが切り盛りしているという。
一通り回ると、昼休みになっていた。学生たちの一部はアフタヌーンティーを楽しんでおり、水雪はそれに興味津々だった。
「アフタヌーンティーに興味が?」
「うん! こういう文化って、やっぱり触れておきたいじゃん?」
「今は時間が押しているから出来ないけど、あと1週間もしたら少しずつ落ち着いてくるから、その時に教えてあげるよ」
「やった! お手柔らかにお願いしますねぇ」
「あはは、了解。次は何処だっけ」
「今日はずっとさっきの所だよ。イリアは?」
「第7講堂なんだ。6時に図書館の前で落ち合わない?」
「オッケー!」
イリアと別れる水雪。水筒を取り出してお茶を飲む。日本からホームシック対策として持ってきた粉末の緑茶だ。今頃、皆は何をしているんだろう。片時も頭から離れる時は無かった。
講義の時間には少し早かったが、講堂の席に座る。すると、認知され始めたのか、ちらほらと声を掛ける学生が現れ始めた。
≪初めまして。日本から来たの?≫
≪え? あ、はい! 今日から1か月ここにいます!≫
≪テンブリッジにようこそ。楽しんで≫
≪はい! ありがとうございます!≫
講義を受ける生徒に挨拶されるうちに、水雪は少しずつだが緊張が解けていく感覚になった。この日の講義が終わると、最初に覚えた疲れとはまた違うものを感じていた。
図書館で英語の文献を読みながらイリアを待つ。『農学部の学生へ』という書棚に足を運び、紅茶についての書籍を何冊か借りる。留学生も学生証を見せれば本を借りられることに、彼女は満足げだった。
図書館から出ると、ちょうどイリアが歩いてくるのが見えた。
「お疲れ様。帰ろっか」
「うん!」
「しかし初日だっていうのに、結構馴染んでるね。図書館で本借りてるし」
「それが向こうから話しかけてくれるんだ。日本人ってそんなに珍しいのかな」
「そりゃそうだよ。飛行機が使えなくなってから15年以上経って、日本人を見る機会なんてすっかり減っちゃったんだから」
雑談をしているうちに、イリアの車が見えてきた。水雪は助手席に乗り、運転に揺られる。今日もいつもと同じように帰れると思った二人であったが、生憎彼女らが乗った車は、帰宅時間の交通ラッシュに呑まれてしまった。
「ここの通りって、こういうのあんまり無いんだけどなぁ……」
「私の住んでる場所も地下鉄があるから、あんまり渋滞に引っ掛かったりはしないかな。それにしてもなかなか進まないね」
「はぁ……。まあたまには良いかもね。少しゆっくり話してみたかったし」
「そうだね。まだここに来て2日しか経ってないし」
夕陽に照らされる水雪の笑顔を見て、イリアは安心したような表情を浮かべていた。
「水雪。今日の講義はどうだった?」
「お母さんみたいなこと聞くね、イリア。正直、めっちゃ疲れた」
「だろうね。最初はこんなもんだよ」
「帰ってから、学園に出すためのデイリーレポート書かなきゃいけないし、復習もしなきゃいけないし。予想以上に大変」
「そっか。じゃあ夜中まで勉強だ」
水雪が大きくため息を吐くが、表情から苦痛さは感じられなかった。そんな彼女を、イリアはまじまじと見つめている。
「ん? イリアどしたん?」
「え? いや、なんでもないよ。そうだ! 今日は私が料理作らなきゃいけないんだった!」
渋滞がなかなか解消されないのか、イリアは埒が明かないとばかりに進路を変更した。コンパクトカーでなければ通れないような裏路地を通っていく。大きな通りを走るのと同じくらいの速さだったので、水雪の顔が曇る。
「ここ通って大丈夫? 車擦ったりしない……?」
「平気だって。遅刻しそうになる時はここいつも通るし」
数分で通りを抜けると、朝に通った道が現れた。どうやらカサブランカはもうすぐらしい。そのままスピードを速めていく。水雪が心配そうな顔でイリアを見つめるが、警察官に捕まることなく我が家へと辿り着くことが出来た。扉には『CLOSED』と看板が掛かっている。
≪ただいまー! あれ? 今日は店開けてないの?≫
≪当たり前よ。今日から月見里 水雪さんのテンブリッジの生活が始まるんでしょ?≫
≪それを祝して、今日は早めに店を閉めたんだ。簡単だが料理も作ってるぞ≫
≪今日私がご飯作る番じゃなかった? まあ良いけど。パパ、ママ。ありがとう≫
少し遅れて水雪がカサブランカに入る。彼女は入って早々、本来はお客さんが使っている筈のテーブルに料理が置かれているのが視界に入った。
「え? どういうこと?」
≪水雪さん、イングランドへようこそ! これから1か月、頑張ってね!≫
≪え……? リタさん? 嘘でしょう!?≫
英語で驚く水雪。ほどなくして歓迎パーティーが始まった。料理に舌鼓を打つ水雪とイリア。大人たちは料理はそこそこに、エールを楽しんでいる。彼女らは未成年なので、エールは飲めなかったが、その代わりイギリスの紅茶を頂くことになった。
≪イリアから聞いたよ。紅茶に興味があるんだって?≫
≪はい! お茶が大好きなので≫
リタは沸騰したお湯を陶磁器のティーポットに入れる。人数分の白いカップを用意すると、そこに手際よく紅茶を淹れた。注がれた瞬間からベルガモットの香りが部屋の中に広がり、水雪は今日一日の疲れが吹き飛んだ気分になった。
≪茶葉は何を使っているんですか?≫
≪ダージリンベースのアールグレイよ。爽やかな香りが良いでしょう?≫
≪本当だ……。なんかレモンみたいな香りがする。いただきます!≫
フーフーと息を吹きかけ、一口飲む。口いっぱいに爽やかな味と香りで満たされ、水雪は心底幸せそうな表情になった。本場の味を体験した彼女は、ますます紅茶に興味を持つことが出来た。イリアも料理をつまみながら、リタの淹れた紅茶を楽しんでいる。水雪を横目に見ながら、ふっとため息を吐いて。
夜になった。リタとトマスはまだ酒を飲んでおり、カウンターで談笑している。未成年の二人は2階に上がり、それぞれのやることに手をつけていた。水雪はデイリーレポートの作成、そしてイリアは紅茶を淹れていた。ほどなくして、水雪の部屋をノックする。
≪大丈夫ですよ≫
ドアを開けると、2人分のカップを持ったイリアが入ってきた。
「なんだ、イリアだったんだ。今日はお疲れ様」
「水雪が頑張ってると思ったから。はいこれ。私も紅茶淹れてみた。ママの物真似だけどね」
「おお! ありがとう! これもダージリン?」
「うん。さっき飲んだのと一緒。飲んでみて」
二人でレポートの休憩がてら、紅茶を楽しむ。やはり、水雪は笑顔になった。イリアも釣られて笑ってしまう。
「イリアが淹れた紅茶も美味しいね。お母さんの真似って言うけど、負けてなかったよ」
「ありがとう。水雪が忙しくない時に、淹れ方教えるからね。飲んだら机の上に置いておいて。私、適当な時間に来て片付けるから」
「え? そんな悪いよ」
「良いの。私が好きでやってることだから」
そう言って、イリアは上機嫌で部屋から出て行った。たった10分そこらだったが、部屋の中には眠気を覚ますような爽やかな香りでいっぱいになっている。レポートを手早く終わらせた水雪は、日付が変わる直前まで借りた本を読んでいた。
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テンブリッジへ その3
留学生活は順調だった。10日が経ち、テンブリッジの講義にも少しずつついて行けるようになっていた。講義が終わる度に疲労が滲むが、今や達成感の方が強い。英語で講義を受けることが当たり前になっていた彼女は、自分から英語で生徒に話しかけるようにもなっていた。一日毎に成長していると、肌で感じていた。
そして彼女の支えになっていたのは、イリアが作ってくれるアイスティーだった。毎朝早起きして、水雪とイリアの二人分を作ってくれる。水雪はストレートティーだが、イリアはレモンを搾ってから水筒につめるのが好きだという。この日も水雪は紅茶を飲みながら、次の講義の準備をするために学内を移動していた。
第1ブリッジ前の講堂に着く。この日最後の講義だったが、水雪は疲れた顔一つ見せていない。講堂に入り、教室へと歩いていく。その時だった。
彼女の前から二人の男女が歩いているのが見える。女性は正装だったが、白髪交じりの男性は、長白衣こそ着ているものの、その下に着ている服はラフそのものだった。
「テンブリッジには色んな人がいるんだなぁ……」
呟いて通り過ぎようとしたが、顔を見ると、彼女の足が止まった。
「え……? 日本人?」
彼女の呟くような声に、通り過ぎようとした二人が立ち止まる。
「四五、久し振りにお前以外の日本語を聞いたような気がするんだが、まさかな」
「朝永くん、そのまさかです。聞いてないんですか? 日本から留学生が来ているって」
振り返ると、そこには二人を呆然と見つめる水雪がいた。
「あの……、お二人、日本人なんですね」
「ああそうだ。俺は理学部物理学科名誉教授の
「初めまして。私は理学部数学科名誉教授の
修二は豪快に歯を見せて、四五は優しく笑って見せた。
講義終了後、いつものようにイリアと並んで歩いていた。借りた本を返却する為に図書館に向かっていた所で偶然会った形だった。二人は図書館で紅茶の本を読みながら、今日起きたことを話している。
「ねえ。テンブリッジって日本人の教授がいたんだね。あたし知らなかった」
「ああ、シュウジ・アサナガとヨツコ・ウタカネね。私が産まれる前からテンブリッジにいるらしいんだけど、結構人気あるみたいだよ。なんかあったの?」
「あたし、講義の前にたまたま会ったんだ。凄く印象良かったよ」
「私以外にも日本語が通じる人と会えたってわけだ」
イリアは水雪がテンブリッジにすっかり馴染んだことに安堵していた。日が落ちそうになる時間帯、二人は図書館を出て駐車場に向かう。イリアは何か意味ありげな視線を水雪に向けているが、水雪はそれに気付いていない。すると、先ほど見た二人がブリッジを歩いていた。それに気付いた水雪が声を掛ける。
「朝永教授―! 一二三教授―! お疲れ様でーす!」
「あ、あの子はさっきの……」
「それに、もう一人いますよ。お友達でしょうか」
「ほら、イリアも行こうよ!」
「え? いきなり? あっ……」
水雪がイリアの手を繋いで、二人の名誉教授の元へ駆けていく。直ぐに追い付くと、相変わらず二人は笑っていた。
「お疲れ様。今日はもう帰るのか?」
「はい! あ、この子、イリアって言います!」
「あ……、イリア・リードです。医学部の1年です。よろしくお願いします……」
イリアは二人に挨拶をするが、水雪に握られた方の手を気にしていた。
「随分と日本語が達者ですね。日本人のハーフか何かですか?」
「あ、いえ。日本人の血はほんのわずかですけど……。400年くらい前に、日本人と先祖が結婚したって話は聞いています……」
「そうなんだな。でも君、前に何処かで見たことあるような」
「そうですそうです! カサブランカで両親の手伝いしてるんです! 教授はたまに来るので覚えてますよ! うちの売り上げに貢献してくれてありがとうございます!」
「ああそうだ! 君はカサブランカの看板娘だったな! ん? 待てよ……。カサブランカ、400年前……。あ、まさか」
「朝永くん、もしかして修一郎さん……」
「ん? どうかしましたか?」
「ああいや、なんでもない。俺の祖父、修一郎って名前なんだけども、アイザック・ニュートンに憧れて科学者になったんだ。そのニュートンが万有引力の法則を発見したのって、もう400年前の出来事なんだなぁって。あはは」
「正確には、今は2063年なので、376年前ですけどね」
「うわぁ、一二三教授、細かい……。流石数学科だわ」
修一郎が過去で起こしたであろうことを思うと、修二は苦笑いとため息しか出なかった。もしもタイムマシンが現存していれば、説教しに2017年まで飛んで行こうとも思う位に。それから四人はカサブランカへ向かう。開店直後なのか、店内に客は一人もいなかった。
≪ミスターアサナガ、今日もありがとうね≫
≪今日は偶然、大学でマスターの娘さんに会ったものでね。俺と四五は車で来たから、ノンアルコールビールを頼むよ≫
≪私も同じものをお願いします≫
≪はいよ。何か食べていくかい?≫
≪そうですね。折角なので、ここのうどんをお願いします≫
「え? うどんなんて出してるの? パブなのに?」
「うん。カサブランカの看板メニューなんだって。なんかご先祖様が日本人から教わって、馬鹿みたいに売れたからレギュラーメニューにしたみたいだよ」
≪二人も、食べていきなさい。水雪もそろそろ日本が恋しくなってきただろう≫
両親が厨房へと姿を消す。二人は修二に手招きされ、されるがままに席に座った。こうしてカサブランカの店内で食事をすることは、水雪にとって初めてのことだった。それも、テンブリッジ大学の名誉教授と一緒に。変な緊張感で肩に力が入っている。その様子を、四五は笑って見ていた。
「緊張、していますか?」
「あ、はい。まぁ……」
「ここは月見里さんの家みたいなものなんですから、もう少し肩の力を抜いても良いんじゃないですか? 尤も、私も最初にここに来た時は少し緊張していましたけど」
「初めてここに来たのは、いつなんですか?」
「2017年。朝永くんが科学を辞めようとしていた時です。最初は朝永くんを説得するために、科学の本場であるテンブリッジに行きました。そこで色々あって、カサブランカに辿り着いたんです」
水雪は、目の前にいる名誉教授が科学を辞めようとしていた事実に言葉が出なかった。四五の隣で、修二は面目無さそうな顔をしている。
「まあ、四五の言ったことは事実だよ。あの時は若かったから、俺は科学に向いていないなんて馬鹿な事を考えていたもんだ。でも、テンブリッジ大学を見て、アイザック・ニュートンという人間を知って、考えが変わったんだ。俺はまだ変われるって」
「そうだったんですね……」
「それから私たちは、日本の大学を卒業後、揃ってイギリスに飛びました。テンブリッジ大学の大学院に合格したので。それから、日本とイギリスの往復だったんですけど、電波喰いが始まってからはずっと、イギリスに滞在しています」
簡単に昔話をしていると、厨房から懐かしい匂いが漂ってきた。水雪が匂いの方を向くと、リタが人数分の丼をお盆に乗せ、歩いてきた。
≪これがカサブランカ名物のうどん。熱いから気を付けて食べてね≫
「おぉ……」
水雪は目を丸くしていた。僅かに色がついている程度の透き通った関西風のつゆに、鶏肉とネギというシンプルな具。ご丁寧に割り箸までついており、ここが日本の定食屋だと錯覚するようだった。
「ここは折角なので、日本風の食べ方で行きましょうか」
「ああ、そうだな。じゃあ皆さん揃った所で、いただきます!」
「いただきます!」
三人の日本人と、一人の日本に憧れる女学生が、イギリスの地でうどんに舌鼓を打つ。イリアにとっては店の看板メニューだったが、皆で食べるそれは、少し特別なものに感じられた。それから教授陣はノンアルコールビールで、学生たちは紅茶を片手に食事会を楽しんだのだった。
夜9時、ぼちぼち他の常連客が入ってくる。修二と四五は会計を済ませると、車に乗って帰宅しようとしていた。水雪とイリアが見送る。
「教授、今日はありがとうございました!」
「月見里さんもリードさんも、機会があったら研究室に遊びに来ても良いですよ。今の時期は少しだけ暇が出来たので」
「本当ですか! では水雪と一緒にお邪魔させていただくかもしれません!」
「こっちはいつでも歓迎だよ。じゃあ、今日はお疲れ様。勉強もほどほどに、ゆっくり休んでくれ!」
学生たちが礼をすると、車はゆっくりと走り去っていった。それを確認した二人は、未だに賑わうカサブランカの店内に入る。2階に上がると、水雪はいつものようにデイリーレポートの作成に取り組み始めた。
「うどん、美味しかったね。流石カサブランカの看板メニュー」
「お礼はご先祖様にどうぞ。じゃあ私、紅茶淹れてくる。今日はどうする?」
「いつも通りで大丈夫。あの香り、好きになっちゃった」
「そっか。じゃあ下行ってるね」
イリアは階段を降りていくが、踊り場で立ち止まった。テンブリッジから帰る直前、水雪に手を握られた感触を思い出していた。咄嗟に掴んだ手は、包み込まれるような温かさがあり、シルクのような滑らかさも感じ取れた。
また、あの子の手を握りたい。言葉では表現しがたい感情が、心の奥底から湧き出てくる気がした。
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テンブリッジへ その4
留学してから2週間が経った。水雪は午前中で講義が終わったため、図書館でデイリーレポートを書いていた。書き方にも慣れた彼女は、記憶が新しいうちにそれを終わらせると、第1ブリッジ前にある研究棟へと足を運ぶ。理学部の教授がいる階まで行くと、目的の場所に到着した。
扉には『Shuji Asanaga』と書かれている。教授の研究室に足を運ぶのは、日本にいても数えるほどしか経験が無かったので、彼女はしばし扉の前で立ち止まっていた。しかし、思い切ってドアをノックする。≪どうぞ≫と英語で帰ってくると、慎重にドアを開けた。
「失礼します!」
「ああ、月見里さんか。お疲れ様。今日はもう終わったの?」
「はい。今日は午前中で講義が終わったので」
「あれ? あの看板娘は? 一緒だと思ったんだけど」
「なんか、今日は医学部の付属病院で講義があるから来れないって言ってました。18時に図書館で待ち合わせしてますけど」
修二に促されるがままに腰掛けるが、なかなか落ち着かない。
「あの、朝永教授?」
「どうした?」
「ちょっと、お湯沸かしても大丈夫ですか?」
「ああいいけど、紅茶でも淹れるの?」
「いえ、紅茶ではなく。あたし、日本から持ってきたんです。緑茶」
鞄から真空パックに小分けされた茶葉と、愛用の急須を取り出す。修二からポットを借りてお湯を沸かす。
「……その急須、自分でもってきたの?」
「はい! あたし、お茶が好きなんです。電波喰いが終ってお兄ちゃんが眠っている間に、お茶の資格を色々取るくらいには」
修二にとって少し引っ掛かる部分があったが、水雪の手際の良さを見るとそれも有耶無耶になる。人数分のカップを出すと、少しだけ急須の中で蒸らした後に注ぐ。透き通った緑色のお茶が差し出されると、修二は急に懐かしさを覚えた。
「どうぞ。お口に合えば良いですが……」
「ありがとう。いただくよ」
一口すする。ほのかな渋みと爽やかな香りが口いっぱいに広がると、修二はふっと息を吐いて笑顔を見せた。
「美味しい。流石、日本茶をイギリスまで持ち込むだけあるな」
「えへへ。ありがとうございます。本当はホームシックの対策で持ってきたんですけど、思ったよりここでの生活が楽しくて、使う暇が無かったので……」
「そうだったか。ここでの生活は楽しいか。それは俺にとっても安心だ」
修二は笑顔を絶やさずに、水雪を見ていた。
「ところで、君は鳴山公空学園から来たんだろう? 薊野 椿姫って子を知ってるか?」
「……はい。2年前の夏休みに知り合いました。朝永教授もご存知ですか?」
「それはもう。日本で歴代最年少の教授、知らない人はいないんじゃないか? さっき君が、電波喰いが終って云々言っていたのが気になってね。それは薊野教授がやったのか?」
「はい。でも、あの人だけの力じゃありません」
「葉月 かぐやだな?」
修二から柔和な笑顔が消える。彼は最初から分かっていた。
「葉月 伊耶那博士は、そりゃもう優秀な研究者だった。彼女一人の知力は、俺達テンブリッジの教授陣が束になっても敵わなかったくらいだよ。彼女の発明は常軌を逸する発想から生まれたものばかりだった。特に人工鳩。あれは画期的だと思った」
「……だけど、電波喰いが起こったんですよね?」
「そうだ。俺達テンブリッジのチームも電波喰いの解決方法を探ったんだが、箸にも棒にも掛からなかった。その間に、博士は殺されてしまった。出来ることなら一度顔を合わせたかったよ」
「そうだったんですね……。朝永教授は、葉月 伊耶那博士のこととか、かぐやのこと、薊野教授を恨んでるんですか?」
水雪が単刀直入に質問するが、それを聞いた修二は再び笑みを零した。
「恨んでる? 確かに電波喰いで新たな研究が出来なくなったとかそういう悔しさはあるけど、彼女自身を恨んだことはない。ただ俺は、じいちゃんや四五以外の人に、久し振りに嫉妬したんだ。葉月 伊耶那博士と、彼女と共に活動出来る薊野 椿姫教授に」
「嫉妬、ですか……」
「うん。四五は特に感じていなかったらしいけどな。君は、誰かに嫉妬したことはあるか?」
修二に優しく諭されるように質問されると、彼女はすぐに口を開いた。
「……ちょっとだけ、かぐやに嫉妬していました」
「おお。俺が母親なら君はその娘か。どうして?」
「私の大好きなお兄ちゃんを、取られたような気がして」
「兄……。ああ、月見里 ソラか。あの事故で唯一の生存者としてニュースになってたね」
「正確には血が繋がっていないので義理の兄なんですけど、お兄ちゃん、電波喰いを止めるために、あたしたちの反対を押し切って、2年間の眠りについたんです」
「……なるほど。そういうことか。電波喰いを止める方法、大体理解した。つまり君は、義理の兄のことが好きだったわけだね? そんな彼をかぐやに取られて嫉妬していると」
「付き合えないっていうのは分かってたんですけど、いざお兄ちゃんが他の女の人と一緒になっていると、なんか胸の奥がざわつくというか……。今はそういうことは減りましたけど。どうせ童貞卒業したんだろうなぁとか、今日も帰り遅いからヤってんだろうなぁとか、軽い気持ちで考えるようになりました」
「童貞て。ヤってるて……。麗しの女子学生がこんな言葉使っちゃダメでしょうが」
「え? 家ではいつもお兄ちゃんのこと童貞弄りしてましたよ。例えば、朝起きて直ぐとか」
「どんな家庭だよ。間接的に俺も傷つくよ。こんな露骨な童貞弄り、アリスを思い出すわ」
「どうかしましたか?」
「いやなんでも! 話を戻そう。俺は葉月 伊耶那博士のことは恨んでいない。罪を憎んで人を憎まずってやつだ。ただ、この頭脳をほんのちょっとだけでも、俺に分けて欲しかったなぁとは今でも思っている!」
修二がまくしたてるように話を切り上げると、ウェストミンスターの鐘の音が鳴った。時刻は15時を示していた。水雪はカップを洗うと、茶葉や急須を片付け、鞄に入れる。
「すみません。こんなに長居してしまって。教授もお忙しいのに」
「いや、良いんだ。寧ろありがとう。15年以上募っていた思いを吐き出すことが出来た。これで、電波喰いの恨みつらみとはおさらばだ」
「……そうだったんですね」
「またいつでも来てくれ。2017年の話でもしてあげるから」
水雪は深々と一礼して、教授の研究室から退室した。ドアが閉まる音が聞こえると、修二は大きく伸びをして呟いた。
「……そういやあの子、エミーの声にそっくりだな」
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テンブリッジへ その5
図書館で紅茶に関する本を読んでいると、イリアが来るのが見えた。
「お疲れ様。今日大変だったんでしょ?」
「初めて病院で色々勉強したからね。ほんと疲れたよ」
二人はいつも通り駐車場まで歩いて、車に乗る。気付けば、この行動が当たり前になりつつあった。水雪は今日も本を借りてきたようで、鞄を重たそうに後部座席に載せた。
「勉強熱心だね、水雪は。私も見習いたいよ」
「そんなことないよ。あたしなんかより、お兄ちゃんとかかぐやの方がもっと頑張ってると思うよ」
「お兄ちゃん? かぐや?」
「ああ、イリアには言ってなかったか。カサブランカ着いたら話すよ。今日はデイリーレポートもお昼に終わらせたからさ」
「そっか。じゃあ夕ご飯食べたら私の部屋に来て? 色々聞きたいな」
「オッケー!」
イリアは慣れない場所での講義を終えたにも関わらず、一段と顔色が良かった。この日は渋滞に捉まらずカサブランカに到着することが出来た。この日の夕飯は、バケットにマッシュポテト、魚のフライとサラダだった。リタが二人分の食事を2階に運ぶ。
≪お待たせ。熱いからゆっくりお上がりなさい≫
≪ありがとうございます。いただきます!≫
≪あ、水雪ちゃんは知らないだろうけど、このマッシュポテト、かのウィリアム・シェイクスピアがカサブランカに伝えてくれたものなんだって!≫
≪……マジすか?≫
≪お母さん、噂レベルのことをさも本当のことみたいに話すの止めて≫
≪あはは! じゃあごゆっくり~≫
リタが笑いながら部屋を出ると、二人は食事を始めた。水雪は自然とマッシュポテトから最初に口にしていた。ジャガイモの素材の味に、軽い塩味と胡椒の風味がきいたシンプルな味付けになっていた。
「普通に美味しいんだがこのマッシュポテト」
「まあね。ママが言ってたことだけど、あれは真偽不明だから忘れて?」
「そうする。でも本当だったらロマンあるよなぁ……」
10分ほどで完食すると、水雪はシャワーを浴びようと部屋から出る。すると、イリアが少し顔を赤くしてついてきた。
「ん? どしたんイリア。おしっこ?」
「そんなダイレクトに言うなし。あのさ、今日、一緒に入らない? お風呂……」
「え? マジ? いきなりだね。まあ大丈夫だけど……」
「やった! ありがと! ちょっと準備してくるから先入ってても大丈夫だよ!」
「おう、了解」
軽くシャワーで身体を洗い流して、湯船に入る。イギリスに入ってからは忙しく、シャワーで済ませることが多かったが、この日はたまたま時間が余っているので、遠慮なく浴槽に身体を預けることにした。鼻歌で『時雨ディクショナリー』のイントロを口ずさむなどご機嫌な様子だったが、暫くしてイリアが入ってきた。
「お待たせ」
「お、来た来た!」
イリアは水着をつけており、準備は万端の様子だった。しかし、彼女の身体を見た水雪は、急に不機嫌そうな顔になる。
「むー……」
「ど、どうしたの水雪。何か気に障った?」
「気に障るも何も、どうしてあたしの友達はおっぱいでかい奴しかいないんだぁ! って思っただけ。まあかぐやは日本人の平均くらいだと思うけどさ……」
「あ、あはは……。私だって好きで大きくなったわけじゃないけど」
それから二人で背中を流し合うと、浴槽に入って先程の話の続きが始まった。
「あたしね、2つ年上のお兄ちゃんがいるの。名前はソラ。今はあたしと同じ学園に通ってるの」
「そうなんだ。兄妹揃って同じ学校って珍しいね。かぐや? っていう子はどんな人?」
「えっとね、本名は葉月 かぐや。真っ白い髪してて、顔も凄く綺麗なの。今はお兄ちゃんの彼女」
「彼女さんなんだ! そんな可愛い彼女さんがお兄さんにいたら、嫉妬しちゃわない?」
「最初はちょっと嫉妬しちゃった。でも今は大丈夫。かぐやとも友達になったし」
「そっか。私は一人っ子だから水雪の気持ちには添えないかもしれないけど、私も水雪みたいな姉妹にカッコいい彼氏が出来たら、嫉妬しちゃうかもしれないな……」
「気持ちだけでも嬉しいよ、ありがと」
冗談半分でハグをする水雪と、心臓が早鐘を打つイリア。少しして身体を離すと、イリアはすっかり出来上がっていた。
「大丈夫? のぼせた?」
「え? いいや? 大丈夫だけど? ただハグされて嬉しくてさ……」
若干口が回っていない様子だったが、イリアは慌てて浴槽から出ると、直ぐに着替えて出て行った。最後につい本音が出てしまい、彼女は心底恥ずかしそうに部屋で悶々としていた。しかし、顔を上げると何処か嬉しそうな表情をしており、かと思えば、水雪の温もりを閉じ込めるかのように丸まってしまう。
「あ、あの……。お取込み中?」
「ひゃぁっ! なんだ水雪か……」
「いや何その悲鳴。どっから声出した」
水雪は少し引いていたが、気を取り直して二人分のカップを置く。中には、修二に振る舞ったものと同じお茶が淹れられていた。紅茶とはまた違った香りと色味に、イリアは興味深げにカップを手に取る。
「これ、番茶って言って、緑茶の中でも秋によく飲まれる種類なんだ。カフェインも少ないから夜にも飲みやすいかなって」
「ばんちゃ……。日本のお茶って苦いってイメージあるけど、私でも飲めるかな」
「紅茶とは違う苦味があるけど、飲めなかったら遠慮なく言ってね……?」
無言で頷くと、ゆっくりと飲んでいく。口の中に慣れない味が広がるが、不思議と嫌な感じはしなかった。ふぅと一息つくと、もう一口。今度は最初よりも慣れてきたようで、するすると受け入れていく。更にもう一口飲むと、番茶は殆ど残っていなかった。
「……美味しい」
「ほんと!? 良かったぁ。これ、あたしが自分で選んでここまで持ってきたんだよ! 最初はあたししか飲まないなって思ってたけど、口に合ったみたいで安心した!」
「そっか。水雪が選んだ茶葉だったのか。じゃあ間違いない!」
残った番茶を飲んだイリアは上機嫌だった。水雪も飲みながら、お風呂で話したことの続きを始める。スマホを取り出すと、待ち受け画面を表示。イギリスに入国する直前に撮った集合写真だった。
「あたしの右隣にいるのがお兄ちゃん。お兄ちゃんの隣がかぐや。あたしの左隣にいるおっぱい大きい女の子が越百 秋奈で、その隣の金髪の男の人が大石 丸夫っていうの。皆からはイシマルって呼ばれてる」
「友達多いんだね。コミュ力高いから分かってはいたけど」
「もう2年の付き合いになるんだけど、皆良い奴なんだよぉ! イリアも会わせたいな」
「水雪の友達なら、私もきっと仲良くなれそう」
「うん! 日本語も話せるし、絶対直ぐ馴染むって!」
イリアが日本に行きたい理由がまた一つ増えた瞬間であった。
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テンブリッジへ その6
留学21日目。この日も午前中のみの講義だった水雪は、大学の敷地外に出ていた。イリアには事前に連絡を取っており、あまり大学から離れないという条件付きで許可を得ていた。街の方まで出てきた彼女は、大学に一番近い紅茶店へと足を運ぶ。
店内は紅茶の販売とカフェの形態で、学生がスマホ片手に学友と雑談に花を咲かせている。一人でこのような場所に行ったことがない水雪だったが、ソワソワした様子は見せず、紅茶の茶葉の棚で商品を選んでいた。自分へのお土産を含め数種類の茶葉を買うと、満足して店を出ようとした。
すると、出入り口でばったりと四五と遭遇した。「あっ」と立ち止まるが、直後に四五は優しい笑顔を返してくれた。
「こんにちは。カサブランカ以来ですね」
「はい! 一二三教授もお疲れさまです!」
「ここで立ち話もなんですから、私の部屋でどうですか?」
「え? 良いんですか?」
水雪は二つ返事で了承すると、四五の買い物に付き合った。彼女はお茶菓子を手に取っては成分表や表示内容を凝視している。
「あの、何を確認しているんですか? カロリーとか?」
「それだけじゃないですよ。内容量、成分の含有量、値段も。私は、数字に目が無い人間なので」
「そうなんですか……」
それから二人はお茶菓子を20分ほどかけて吟味して、アフタヌーンティー向けの物を購入して退店した。研究室に到着すると、水雪は「失礼します」としっかり一声かけてから入室する。室内は修二と同じく、教授にしては異様なほど何もなかった。
「この前、朝永教授の部屋にお邪魔したんですけど、一二三教授も、部屋にびっくりするほど何も無いんですね……」
「あら? そうでしたか」
「あたしが知ってる教授の部屋って、本とか研究資料とかがそこかしこにあったので、皆こうなのかなって」
「まあ、私も33日前まではこうでしたね。研究に使う本が235冊、机と本棚に積んでいた論文が109編、コップやお皿、銀食器も15はあったんですけど」
「……まさか全部正確な数覚えてるんですか?」
「はい。この部屋の間取りも」
お茶菓子を来賓用のテーブルに広げながらあっけらかんと答える四五。軽く引いていた水雪だったが、直ぐに気を取り直して、持参した急須と茶葉を取り出す。四五はそれが目に入ると、懐かしそうに見つめていた。
「お茶が好きなんですね」
「はい! イギリスへの留学も、ぶっちゃけ紅茶のことを学びたいっていう理由もあって」
「そうですか。若いのに珍しいですね」
「よく言われます。お湯沸かしても良いですか?」
「どうぞ」
修二の時と同じように、手際よくお茶の準備を始める水雪。白いティーカップに注がれる澄んだ緑色のお茶に、四五の目は釘付けになった。
「まあまあ、まずは飲んでください。お口に合えば良いんですが……」
「そうします。いただきます」
一口飲むと、四五の口元が綻ぶ。どうやら不味くはなかったようで、水雪はホッと胸を撫で下ろした。それから二人でお茶菓子を食べていると、お茶は直ぐに無くなってしまった。
「久し振りの緑茶、ご馳走様でした。日本に帰ってきた気分ですね」
「ありがとうございます。いきなりなんですけど、数字が好きな一二三教授に、今回は特別に水雪スペシャルのレシピをお見せします」
「このお茶の、ですか?」
「そうです! あたしが最適な分量、お湯を沸かす時間、蒸らす時間を研究した結果です」
鞄から一冊のノートを取り出すと、該当箇所を見せる。ノートに穴が空く勢いで読む四五。本当に数字に対して目が無いらしく、水雪が解説する暇もない程だった。
「伊達にイギリスまで日本茶の茶葉を持ってきてませんね。その熱量、良いですね」
「あ、ありがとうございます……」
「今日で留学してから何日目でしたっけ?」
「あ、はい。21日目です。あと10日切りました」
「ここでの生活を満喫しているようで何よりです」
水雪がもう一杯、番茶を淹れる。四五が買ってきたのは、オーソドックスなバタークッキーだった。
「少しお話でもしながら、一緒に頂きますか」
「はい。ありがとうございます」
四五はメジャーを取り出すと、クッキーの直径を測る。それから一口食べ始めた。この光景にもはや慣れた水雪は何も言わず、お茶をすする。
「さて、月見里さんはもう少しで日本に戻ると言っていましたね」
「はい。折角イギリスに慣れてきたんですけど、名残惜しいです」
「私と朝永教授、来年は日本を訪れる機会が増えてくるかもしれません」
「え? マジですか?」
「はい。電波喰いが終って、国際線が稼働するようになったので。電波喰いが終る前は船で行こうとも考えたんですが、日本からイギリスの最寄りの港まで24日もかかると聞いたので、時間の無駄だと思ってやめました」
「……途方もない時間が掛かるんですね。日本に着いたら、何をしたいですか?」
「そうですね。先ずは朝永教授のおじいさんに一声掛けたいと思っています。東京の屋内墓地に眠っていると、朝永教授から言われたので。それから、色々な大学から外部講師の依頼が来ているんです。首都圏を中心に、12の高校・大学から」
修二と四五の評判の良さが日本でも伝わっていることを知らなかった水雪は驚いていた。「はぁ~」と感嘆のため息をつくことしか出来なかった。
「その中には確か、鳴山公空学園とその付属校もありました。きっとそう遠くない内に、貴女にまた会えるかもしれませんね」
「マジすか! じゃあ講演あったら最前列で聴講します!」
「いつになるかは分かりませんけどね、でも、気持ちだけでも嬉しいですよ。ありがとう」
四五がフッと微笑むと、ぬるくなったお茶を飲む。バタークッキーはいつの間にか無くなっていた。
「月見里さん。少し昔話をしても良いですか?」
「はい! 勿論! 何時頃の話ですか?」
「そうですね。私と朝永教授、いや、朝永くんがまだ学生だった頃。2017年の時ですね」
「カサブランカで少しだけ言ってましたね。朝永教授、科学を辞めたかったとかなんとか」
四五は無言で頷く。そこから少しの間を置いて、彼女は語り始めた。
「私は、そんな朝永くんに科学を諦めて欲しくなかった。おじいさん、修一郎さんの存在を重荷に感じていたあの人を、もう見たくはなかった。だから私は、強制的にテンブリッジに連れて行ったんです」
水雪はうんうんと相槌を打つ。
「そこで沢山の仲間と出会って、朝永くんは科学への情熱を取り戻していきました。アイザック・ニュートンやエドモンド・ハレー、アントワーヌ・ラボアジェのことをより深く知っていったことも、あの人の情熱を呼び戻した大きな要因だったと思います」
「あ、なんか聞いたことある。全員科学者の名前ですね」
「そう。ニュートンは言わなくても分かると思います。ハレーはハレー彗星の発見者で、ラボアジェは質量保存の法則の発見者。研究した分野は違えど、あの人たちは全員が科学者。彼らのことを知って、大きな刺激を受けたのかもしれません。私もそうでしたから」
昔を回想するかのように頬杖をつく四五。しかし彼女は、これでも言葉を慎重に選んでいた。タイムトラベルのことは修二や、今は亡き修一郎からも絶対に喋ってはいけないと言われている。情報を取捨選択しながら、水雪に昔話を語っていく。
「月見里さんは、カサブランカについて何か話を聞いていますか?」
「あ、えっと、シェイクスピアが来店して、マッシュポテトを教えてくれたと聞いたことがあります。イリアのお母さんが作ってくれたんですけど、普通に美味しかったですよ」
「それは私も知りませんでした……。さて、私、カサブランカで人生初めてお酒を飲んだんです。それも、朝永くんと一緒に」
「お? なんか話の流れが変わったぞ?」
「私、加減が分からずに飲んだものだから、酔い潰れて眠ってしまったんです。結局、朝永くんが背負って運んでくれましたけど」
「ひょー、朝永教授やるねぇ……」
「あの時は、色々な感情があって、飲んで忘れてしまいたいという若気の至りみたいなものがあったのかもしれませんね。結局、朝永くんに迷惑をかけてしまいましたけど」
「……もしかして一二三教授、朝永教授のこと、好きだったんですか?」
「単刀直入に聞きますね。はい。あの時はそうでしたね。テンブリッジに来た16日目、私は朝永くんに気持ちを伝えました。でも、願いは叶わなかった」
水雪が「あっ」と気まずい空気を作ってしまったような顔になるが、四五はフッと笑って話を続ける。
「でも、今はそれで良かったと思っています。月見里さんが見た通り、朝永くんとは今でも仲良くやっています。流石に住む家は別々ですけど」
そう言って、四五はデスクから一枚の写真を取り出す。そこに写っていたのは、タイムトラベルから帰ってきた直後の修二、四五、そしてタイムトラベルを仕掛けた張本人である修一郎だった。三人とも笑顔が眩しい。
「これが初めてテンブリッジに行った時の私たちです。あんまり人に見せたりはしないんですけど、今回は特別ですよ」
「……一二三教授、凄く綺麗。秋奈に引けを取らないくらいですよ」
「秋奈? 月見里さんのお友達?」
「あ、そうです。教授には見せてなかったですよね。これです」
かつてイリアに見せた集合写真を見せる水雪。それぞれの関係性を一通り紹介すると、四五はうんうんと頷く。
「良いお友達に恵まれたんですね。朝永くんと同じように」
「あたしの自慢の友達とお兄ちゃんですよ」
水雪はようやく、四五と打ち解けられたような気がした。
「あの、ちょっとだけ踏み込んだこと聞いても良いですか?」
「何処までにもよりますが、どうぞ」
「……朝永教授って、童貞ですか? なんとなくそんな感じがして」
四五は腕を組んでうんうんと唸ると、暫くして顔を上げる。
「いいえ。テンブリッジの学生寮で金髪の美少女としていた筈です」
「なんでそこまで知ってるんですか……」
「偶然、目にしてしまったんです。朝永くんを起こそうと思ったら……」
それから二人は、表では話せないような女子トークを日が暮れるまでしていたのだった。
その日の帰り、いつものようにイリアの車に乗る水雪。彼女はニヤニヤが抑えきれていなかった。流石のイリアも苦笑いしかできない。
「あのさ、なんか良いことあった?」
「一二三教授と女子会してきた。あの人えぐいね」
「どうえぐいのかはあまり聞きたくないけど、良いなぁ。女子会か。でも意外だな。一二三教授ってそういうことしない人っぽいのに」
「あの人案外乙女だよ。今度遊びに来ても良いってさ。イリアも」
「良いのかな……。私、教授と全く接点無いんだけど。専攻もまるで違うし」
「大丈夫だよ。あたしなんて農学部よ? 専攻が違うくらいどうってことないって!」
「まあそうだよね! 次は一緒に行こう!」
車を走らせ、カサブランカへ。この日はやることが終っていた水雪は、カサブランカの手伝いをしていた。
彼女はリタに頼んで、皿洗いを担当することになった。お客さんはまばらだったが、ジョッキの量は多かった。それらを一つずつ、手洗いで捌いていく。トマス曰く、≪食器洗いは全部手作業がカサブランカ流だ≫とのことだった。秋が深まるこの時期は水も冷たく、一時は涙目になりながら食器を洗っていたが、それでもめげない。1か月ここに住まわせてくれた、せめてもの恩返しをしたかったのだった。
結局水雪は、日付が変わる直前まで働いていた。お客さんが殆どいなくなると、イリアの両親が軽食を持ってきてくれた。
≪お疲れ様。手が真っ赤だけど大丈夫?≫
≪大丈夫ですよ。お母さんがいない時はよく家事してましたから≫
≪それでも、こんなに大量の食器は洗ったことがなかったろう?≫
≪それはそうです……。いつもこんなに大変なんですか?≫
≪今日はたまたまお客さんが多かったな。本当、水雪がいて助かったよ。ありがとう!≫
自分が役に立ったことが嬉しくて、水雪は笑顔になっていた。かじかむ手で軽食をつまみながら、リタとトマスの仕事ぶりを眺めていると、接客をしていたイリアが彼女の隣に座った。
「お疲れ様! 明日も講義あるのに大丈夫?」
「明日は少し遅い時間からだから大丈夫。デイリーレポートも終わったし」
「そっか。でもまだお店開いてるから、食べ終わったらシャワー浴びて寝なよ?」
「了解。ありがとう。イリアは優しいな」
その言葉にドキッとしたイリアだったが、水雪はいつもと変わらぬ笑顔だった。結局、シャワーを浴び終えたのは夜の1時を少し回った所だった。
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鳴山市 ソラとすもも
水雪が眠った頃、日本ではソラ達が学園のコーヒースタンドに集まっており、何やら話をしているようだった。しかし2年前のような、人工衛星が落ちる時のような深刻そうな表情は見られない。それどころか、皆の顔は晴れやかだった。
「水雪、あと1週間で帰ってくるだろ? その時にさ、お疲れ様のパーティーでもしようかななんて塔子さんと相談しているんだ。皆も、あいつと一緒にいれる時間は長くないと思うから」
「マジか! 俺は大賛成!」
「私も! 皆で集まって何かするなんて、薊野教授の研究室に集まった時以来だよね」
「しかも今回は人工衛星が落ちてくるみたいな緊急事態じゃなくて、水雪ちゃんの無事と留学終了を祝う、すげえポジティブな集まりなんだぞ! 断る方がどうかしてるって!」
予想以上に良い反響を得たソラはホッと胸を撫で下ろした。隣にいるかぐやも、嬉しそうに微笑んでいる。
「みずき、今どうしてるのかな。ソラも心配?」
「まあ、心配していないと言えば噓になるな。でも、あいつならきっと上手くやってるさ」
「とりあえず詳細は越百さんとソラが暇な時に話し合おうぜ。今日もソラは研究なんだろ?」
「ああ。でも今日は午後からなんだ」
「つばき、疲れてるから寝かせてあげようと思って。私が言ったの」
かぐやが椿姫のことを気遣ったのか、割とあっさり提案を受け入れてくれたようだった。4人は椿姫の様子を覗きに行くと、彼女は研究室で静かに寝息を立てており、実に無防備な姿だった。普段かぐやが身に着けている白衣を抱くようにして、幸せそうな表情をしていた。
「……教授、可愛い」
「つばきはいつも可愛いよ?」
「いやそうなんだけどさ、なんかこう、凄くそそるというかなんというか」
「兎に角、薊野教授は大丈夫だから。一旦戻ろうか」
「そうだね……。お邪魔しました」
ドアをそっと閉めると、再び先程のコーヒースタンドに戻ってきた。
「でだ。水雪ちゃんが戻ってくる日、空けられそう?」
「私は大丈夫。バイトって言ってもそこまでやること多くないし、お休みも上司に申請すれば割と簡単に通るから」
「俺達は薊野教授に相談してみるよ。まあ、十中八九大丈夫だと思うけど」
「つばきならきっと、許してくれるよ。1日だけだし」
「うし! じゃあ決まり! 買い出しとか必要なら呼んでくれ。車出すから」
「了解! じゃあそろそろバイトだから行くね」
話は円滑にまとまったようで、秋奈とかぐやは二人で談笑しながらその場を去っていく。残ったのは男二人だけだったが、イシマルはソラの頭を見て顔をしかめた。
「どうしたイシマル。俺の頭に何かついてる?」
「いや、お前さ。鏡とか見ないの? めっちゃぼさぼさなんだけど」
イシマルが男性トイレまで連れて行き、ソラを鏡の前に立たせる。前髪は目にかかりそうになっており、髪は所々はねている。
「……研究室に籠ってからあまり気にしてなかったな。教授もかぐやも何も言ってくれなかったし」
「まあ仕方ねえか……。今の内に髪切ってさっぱりしとけば? こんな状態だったら水雪ちゃん心配するかもよ? 髪切れないほど忙しかったのかって」
学園から出ると、イシマルはそのまま図書館の方へと歩いて行った。とうとう一人になったソラは、自分の頭をポンポンと叩く。確かに、研究に集中しすぎて身辺処理が疎かになっていたのを感じた。
「まあ、午後までには間に合うか」
ソラはイシマルの言葉を忘れないうちに、駅前通りまで歩いて行く。午前中だが、そこは電波喰い当時よりも活気に満ちていた。2年前、かぐやと共に買い物をした記憶が蘇ってくる。駅地下を5分ほど歩くと、目的の場所に到着した。ソラ行きつけの美容院だった。様相は2年前と殆ど変わっていなかったが、ただ一つ、彼の目を引くものがあった。
真っ白な髪をした女性が一人、店主と思しき初老の男性と話していたのだ。2年前にはこんな人見なかったな……。ふとそんなことを思って店内に入る。ドアが開くと、鈴の音が鳴る仕組みになっており、店主と白髪の女性は直ぐに気付いた。
「いらっしゃいませ……、おお! ソラじゃないか! 何年ぶりだ?」
「2年ぶりですね。ここ全然変わらないですね」
「いやいや、変わった所もあるぞ。電話が繋がったお陰で予約を取るのが随分楽になったんだよ。電波喰い前の生活に戻れて本当に良かった! さあさあ、座りなさい。すももちゃん、この人お願い!」
「はーい!」
店主が白髪の女性のことを「すもも」と呼んでいた。珍しい名前だなとソラは思った。電動のリクライニングチェアに座ると、すももが手際良く準備を始める。
「私、桃ノ内 すももと言います。今日はよろしくお願いします」
「あ、どうも。よろしくお願いします……」
「お兄さんは、この近くに住んでいるんですか?」
「はい。学園から歩いて15分くらいの所ですね」
すももは軽快な口調でソラと話しながら、丁寧にカットしていく。彼女は話題が途切れないように、どんどん話題を引き出していく。
「お兄さん、名前なんて言うんですか?」
「月見里 ソラと言います。桃ノ内さんはいつからここで働いているんですか?」
「去年から。とはいっても、フルタイムで働いているわけじゃないんですけどね」
「というと、アルバイトですか?」
「そんなところですねぇ。本業は別にあるので」
手慣れた所作でソラの髪を切るすもも。それでいて、雰囲気が和むような話し方をしてソラを安心させようとしている。
「本業は、ヘアスタイリストなんです。
「松風……、ああ! 最近テレビで見ました! なんか車弄りが好きとか言ってましたね」
「その子を担当しているんです、私……。はい。前髪こんな感じで良いですか?」
こうやって雑談をしているうちに、すももはあっという間にヘアスタイルを作っていく。ソラは長さ、整い具合に満足したようで、直ぐに頷いた。床に落ちた髪を掃除するすもも。ソラの周辺を横切る度に、桃の甘い香りがふわりと漂う。不思議な人だなと思いながら見つめていると、偶然すももと目が合った。
「あの、どうかされましたか?」
「……女性にこんなことを言うのって失礼かもしれませんけど、良い香りしますね」
「あ、ありがとうございます! カンナくんにも言われるんだぁ」
「カンナくん?」
「あ、素が出ちゃった。ごめんなさい。カンナくんっていうのは私の彼氏で、今はプロのカメラマンをしているんです。とはいっても、まだ師匠の下で働いているんですけどね」
「実は俺も彼女がいて。桃ノ内さんみたいに、髪が真っ白な女の子なんです」
「え? 地毛ですか?」
「そうなんです。名前は葉月 かぐや。2年前、今通っている学園で会いました」
「2年前か……。じゃあ私も同じだ。鳴山公空学園の付属で、教育実習してたんですよぉ。自分に教師は合わないって分かっていたけど。そこで、当時不登校気味だったカンナくんを連れ戻して来いって、担任の先生にどやされちゃって。それがきっかけかなぁ……」
それから2人は2年前の話で盛り上がった。ハレー彗星がよく見えたこと、人工衛星が落ちてくると騒ぎになったこと。ソラは自分が電波喰いを止めたことを言わなかったが、すももから「一人の学生が電波喰いを止めたことは噂になっていた」ことを初めて知らされた。
話しているうちに、ソラのヘアスタイルは2年前と遜色ないほどにすっかり整っていた。お代を払うと、すももに一礼する。
「今日は楽しかったです。ありがとうございました。また見かけたら声掛けますね」
「あ、ちょっと待って! 月見里さん、だっけ? これ!」
そういってすももが見せてきたのは、緑のSNSの友達申請コードだった。
「カンナくんとか梓姫以外に、こんなに楽しくお話出来る人と会ったのなんて久しぶりだったから……。良かったら」
「え? 良いんですか? 俺なんか」
「はい! ぜひ!」
すももに促されるままに、申請コードを入力する。出てきたのは最近流行りの『文鳥だるま』のアイコンだった。その下には『桃ノ内 すもも』とフルネームで書いてある。
「今日はありがとう! かぐやさんにもよろしく!」
「はい。ありがとうございます」
「また来てなー」
店主とすももが手を振って見送ると、ソラは気持ちが軽くなったような気がしていた。頭が軽くなると、自然と足取りも弾む。そしてふと、こんなことを呟いた。
「桃ノ内さん、かぐやと声そっくりだったなぁ……」
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テンブリッジへ ラスト
留学28日目、講義が終わった水雪は図書館にいた。いつものようにデイリーレポートを仕上げているが、この日はイリアも同席していた。彼女もレポートをやっており、水雪にデレている時とは考えられないほど真剣に取り組んでいる。
「どう? 水雪。終わった?」
「もう少しかなぁ。イリアは? 簡単には終わらない量っぽいけど」
「下手したらここだけじゃ終わらないかも……。ごめんね、だいぶ待たせちゃうかも」
「大丈夫。イリアも大変なのはわかってるからさ」
水雪の気遣いに頬を赤らめるイリアだったが、気を取り直して作業に取り掛かる。しかし結局、日が傾いてもイリアの課題は終わらなかった。大きく伸びをして、最後のデイリーレポートを終わらせた水雪を見る。彼女は名残惜しそうに英語の文献を読んでいた。
「水雪、最初は英語についていくだけでも精一杯だったよね。今はこんなに本読んで凄いな」
「ここまでくると、慣れなのかなぁって思うよ。課題終わった?」
「ううん。家帰ったら仕上げる。ママに今日は手伝えないって言わなきゃな……」
二人はパソコンを片付け、図書館から出ようとする。すると偶然、修二と四五が歩いてくるのが見えた。
「あ、朝永教授と一二三教授じゃないですか! お久しぶりです!」
「あの時以来か。明日で講義は全部終わるんだよな?」
「はい! 今までお世話になりました!」
「お、今日はカサブランカの看板娘もいるじゃないか。なんでも医学部は今忙しいんだって?」
「ええ、まあ。今日も水雪と一緒に課題やってました。こんな遅くまで付き合ってくれて申し訳ないです」
四人はしばし図書館で雑談をするが、思い出したかのように修二が口火を切った。
「ああそうだ。思い出した。君たち、アイザック・ニュートンは知ってるよな?」
「はい! 万有引力の法則を定義した、イギリスで一番有名な科学者ですよね」
「この図書館には、そんなニュートンの秘密が眠っている。どうだ。知りたくないか?」
「朝永くん、良いんですか? 彼女たちにとって、いえ、私たち以外の人間にとっては刺激が強いものだと思いますが」
「せっかく日本人がここまで来てくれたんだ。それにテンブリッジの留学を終えようとしている。リードさんの娘さんは、いつも俺に旨い飯を振る舞ってくれる。ちょっとしたご褒美ってことで良いじゃないか」
四五を上手く言いくるめた修二は、再び二人に向き合う。
「だけど、これから見るものは絶対口外してはいけない。家族にも、友達にも。それが守れるなら、ついてきてくれ」
「……はい。お兄ちゃんにも絶対言いません!」
「私も! ここだけの秘密にしますから!」
二人はすっかり、アイザック・ニュートンの秘密を知りたいようだった。その勢いに修二はにっこりとほほ笑む。四五は説得を諦めたようで、二人を図書館の奥へと連れて行った。
専門書の書棚の更に奥にある扉の前に立った修二。彼は白衣のポケットから大きめの鍵を取り出すと、扉を開ける。そこは薄暗く、少し埃臭い部屋だった。不気味な雰囲気に、水雪とイリアの顔が少しひきつる。対照的に、修二はこれから起こることを想像して意気揚々と歩みを進めている。
「あたし、ここまで入れるとは思ってなかったよ……。ただ1か月留学するだけのつもりだったのに」
「私もだよ。このまま平凡な学生生活を送るだけで終わると思っていたけど……」
「いやテンブリッジ入れる時点で平凡じゃないと思うんだ。ましてや医学部とか」
「それはそうだけどさぁ」
「二人とも、そろそろですよ」
四五が二人の注意をひくと、薄明かりがついた書庫に到着した。光量を増やすと、そこには図書館に並べられているものよりも明らかに古い書物が敷き詰められているのが見えた。
「ここはテンブリッジの歴史の核と言っていいくらい、重要な書物が並んでいる。俺達みたいな名誉教授クラスしか扱えないから、二人はここで待ってなさい」
四五と一緒に革張りのソファーに座る二人。埃を被った本の表紙を軽く手で払うと、修二はテーブルにそれを置いた。慎重にページを開く修二。紙は経年劣化でぼろぼろだったが、そこにはしっかりとテンブリッジの歴史が記されていた。
アイザック・ニュートンとロバート・フックとのやり合いが記された章もあれば、エドモンド・ハレーとの交流が詳細に記された章もある。
「なんか、言葉に出来ない凄さがある……」
「あたし、ここに留学して良かったぁ……」
ため息を吐くことしか出来なかった。普通の人は一生目を通すことが無い書物を、思いもよらぬ形で読んでいるのだ。物理学や化学が分からなくても、自然と感動と興奮が胸の奥から湧いてくる感じがしていた。気付けば二人は、幼子のように物語の続きをせがんでいた。修二は二人の笑顔や感動した表情を見つめながら、次々とページをめくっていく。四五は2017年の頃を思い出しながら、留学生とその友達からねだられる修二を微笑ましく見つめていた。
「……結婚するということが、ようやく定義出来たような気がします」
「四五? どうした」
「いえ、なんでも。というより、そろそろじゃないですか? 例の絵」
「ああ、そうだったな。二人とも、いよいよ次のページだ」
ページをめくる手を止める修二。水雪とイリアはお互いに顔を合わせる。
「これから見せる肖像画みたいなものは、下手したら物理学の歴史が根底から覆るものだ。だから絶対に口外してはいけない。スマートフォンの電源は切っておいてくれ」
「分かりました……」
「よし、大丈夫だな。それじゃ、ページを開くぞ」
修二は緊張した面持ちになっている二人を一瞥すると、ゆっくりとページを開く。そこに写っていたのは、二人の少女だった。一人は満面のどや顔でピースをして椅子に座っており、もう一人はメイド服を着て佇んでいる。水雪とイリアは絵を見ると、修二の方を見た。
「あの、この絵がさっき言ってた、歴史が根底から覆るものですか?」
「ああ」
「見たところ、可愛い女の子二人が可愛らしく絵になっているようですけど……」
「そうだな。その二人こそ、アイザック・ニュートンなんだよ」
「……え?」
「ええええええええええええ!?」
二人は叫び声に近い声量でびっくりしていた。修二の予想通り、二人は取り乱していたが、四五が落ち着かせることでなんとか場を取り直すことが出来た。修二が咳払いをする。
「いいか? このツインテールのロリっ娘がアリス・ヘッドフォード。このメイド服を着た貧乳がエミー・フェルトン。アリスはテンブリッジ大学で学生をしていて、エミーは学生寮のメイドさんだったんだ」
「まだ信じられないけど、この貧乳二人があの、超天才科学者のアイザック・ニュートンなんですよね? 他に証拠はあるんですか?」
「次のページに進んでみようか」
ページをめくると、再び文が羅列されていた。それを四五がゆっくりと読んでいく。
「この二人は女学生とメイドという身分を隠して、男性の名義で論文を投稿していた。当時テンブリッジの学長だったロバート・フックに対抗し、この大学を根本から変えてやろうという野心と熱意を持って動いていたものと思われる、ですって」
「まあ間違ってはいないかな。最初はアリスだけで動いていたけど……」
「あの、朝永教授。あたし疑問に思ったんですけど、どうして男性の名義で論文を投稿するんですか? あれだけの天才だったら、名前なんて変えなくても通るはずじゃ……」
「私もそう思います。まさか、女性だから差別されたんじゃ」
「そのまさかだよ、リードさん。当時は17世紀。男女平等なんてこれっぽちもない世界で、ましてや大学はバリバリの男社会だ。だから、男性の名義で出せばある程度融通してくれていたんだ」
残酷な真実を告げる修二。イリアの表情が曇る。
「……本当は、アイザック・ニュートンなんて名義を使わなくても、アリスさんとエミーさんは認められたと、私は思います。時代が違っていれば、二人の名前が教科書に載っていたかもしれないのに」
「それが一番良いんだが、なにせ時代が時代だったからなぁ。彼女たちが出来た唯一の悪あがきが、このアイザック・ニュートンという名義だったのかもしれない」
「……決めた。私頑張る。女だからって舐められないくらい、医学の道を進んでやる!」
「その意気ですよ、リードさん。私も朝永教授に負けないように頑張ったから、今の自分があります。今は性別で何かが不利になるというわけではないですから、自分のやりたいことを究めていけば良いと、私は思います」
新たな目標を見つけたイリアを横目で見た水雪は、修二に向き合った。
「朝永教授、今日はありがとうございました。この留学の中で一番印象に残った気がします」
「こちらこそありがとう。これが何かのきっかけになることを願うよ」
「……一二三教授から聞いたんですけど、テンブリッジから出ていくというのは本当ですか?」
「あいつ……。まあ出ていくというのはちょっと語弊があるけど、概ねそんな感じだな。テンブリッジに籍は置いているけど、今後は日本での講演を中心に活動する予定でいるんだ。俺ももう若くないから、日本でじいちゃんに、成長した姿を見せてやりたいなって思ってな」
「あたし、アリスさんやエミーさん、そしてイリアみたいに頭は良くないですけど、もっと勉強頑張ります。そして成長した姿を見に来て下さい! あたしも、お兄ちゃんも、薊野教授も、絶対に歓迎しますから!」
2年前の泣き虫な水雪とは決別したかのように、そこには真っすぐな瞳で修二を見つめる水雪がいた。修二は微笑んで、本を閉じる。
「ああ。楽しみにしてる」
物語はあと少しだけ続きます。
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エピローグ
とうとう水雪の留学が終った。彼女はイリアと彼女の両親と共に空港にいた。
≪寂しくなるわね。1か月お疲れ様でした≫
≪イリアと仲良くしてくれてありがとう。またイギリスに来た時は、是非ともカサブランカに寄ってくれ。エールの1杯くらいならサービスしてあげるからな≫
≪リタさん、トマスさん。1か月の間、本当にありがとうございました! 一生忘れない留学になりました!≫
最敬礼のように頭を下げる水雪。両親はしんみりとした顔になっている。しかし、イリアは笑顔だった。こんな時に暗くさせたくない、彼女なりの気遣いだった。
「水雪、1か月本当にお疲れ様。そして、ありがとう」
「イリア……。あたし、イリアがいなかったらきっとこの留学乗り越えられなかったと思う。本当に、大好きな友達に会えたよ!」
明るく努めていたイリアだったが、この言葉に涙腺を崩壊させられた。たちまち涙が溢れてきて、それを隠すかのように思いきり抱き締めた。声をあげて泣いており、水雪も心配そうに頭を撫でる。
「そんな大げさだよ。SNSで繋がったし、もう一生会えないってわけでもないじゃん!」
「だけど、だけどぉ……」
それから言葉が続かなかった。水雪がイリアをあやすように頭を撫でていると、少しずつ落ち着いてきたようで、悲鳴のような泣き声はあげなくなっていた。身体から離れたのは、それからもう数分経ってからのことだった。イリアは落ち着きを取り戻したようで、やや赤面している。
「ごめん、めっちゃ取り乱した……」
「いやいいよ。ちょっとびっくりしたけど。でも、本当にありがとう」
「水雪……」
「また涙流してる。イリアってそんな感じだったっけ?」
水雪が苦笑すると、アナウンスが発せられる。鳴山国際空港着の飛行機の時間が迫っていたのだ。
「イリア、あたしそろそろ行かなきゃ」
「待って! 最後に一つだけ!」
イリアは両親に見えないように器用に人ごみに紛れると、水雪の額にキスをした。その時間は一瞬だったが、彼女はこれほどまでにないほどの笑顔だった。
≪愛してるよ。水雪≫
放心状態になりそうだった水雪だったが、直ぐに持ち前の笑顔で応えた。
≪私も、愛してる!≫
12時間のフライトを経て、水雪は鳴山国際空港に到着した。国際線のロビーで一旦落ち着くと、塔子とソラにメールを入れる。
『今国際線のロビーに着いたよ!』
数分としないうちに二人から返信が届くと、安心したようにスマホをスリープ状態にする。彼女は帰国直前のイリアを思い出していた。キスをした後のイリアは、これまで見たことが無いほど大人の女性に見えた。彼女の口からあまり出なかった本場のイギリス英語での愛の告白も、それに拍車をかけていた。
「ずるいよなぁイリアは。どうしてこんなに可愛くてカッコいいんだろ」
ふぅとため息を吐いて、イギリスでの出来事を思い出す。出てくるのは、イリアや修二、四五とのことばかりだった。3人がいたから、留学が一生の思い出になったのだった。だが今になって、涙がこみあげてくる。もう泣かないと決めたのに、一筋の涙が頬を伝った。
と、誰かに肩を叩かれる。後ろを振り向くと、一か月ぶりにソラが目の前にいた。
「水雪、留学お疲れ様」
「お兄ちゃん!」
水雪は人前であることを気にせず、勢い良く抱き着いた。イリアが彼女にしていたことを、今度はソラにぶつける。苦笑いした塔子が来たのは、それから数分後のことだった。
車の中で、水雪は留学の出来事を話していた。
「まあ詳しくは家に帰ってから話すけど、テンブリッジには日本人の教授が二人いたんだよ」
「そうなのか。薊野教授なら知ってるかもな」
「うん! 二人も電波喰いの影響で、かぐやのお母さんと薊野教授は知っていたみたい。一度会ってみたいんだってさ。二人から見ても薊野教授って超天才みたいな感じみたいだし」
「水雪、イギリスでは友達は出来た?」
「うん! ホームステイ先の女の子と仲良くなったよ! あとで写真見せるね!」
和気藹々と会話が弾むと、自宅に到着するのもあっという間に感じられた。水雪は久し振りの我が家に心を躍らせており、いち早く車から降りようとした。しかし、塔子が止める。
「お母さん、どうしたの?」
「水雪、ちょっと待ってて。ほんの数分でいいの。ソラ、ちょっと中の様子を見てきて」
「分かった」
ソラが先に車から降りて、自宅に入る。何が起こっているか分からない水雪だったが、対照的に塔子は笑顔を隠しきれていない。何がそんなにおかしいのか。何か企んでいるのではないか。そう思っていると、ソラが出てきた。
「もう準備は完了してるって。水雪、行こう」
「え? ちょっと……」
水雪の手を引いて家に入るソラ。水雪は不安そうに周囲を見回すが、特に不審なものは見られない。「ただいま~」と小声でリビングに入ろうとする。ドアを開けると、そこには彼女にとって予想もしない光景が広がっていた。
「これ、何……?」
「水雪ちゃん、留学お疲れ様!」
「待ってたぜ、水雪ちゃん!」
「みずき、お帰り。これ、皆で考えたんだよ」
テーブルの上には料理が並べられており、『留学お疲れさまでした』とチョコレートでデコレーションされたケーキもある。
「水雪が帰ってくる1週間前から、皆で考えてくれたんだよ? お母さんも本気出しちゃった!」
「マジで……? 皆ありがとう!」
「さ、座って! 主役の登場だ。と、その前にこれ」
イシマルが一通の手紙を渡す。そこには見覚えのある文字で『月見里 水雪へ』と書かれていた。
「薊野教授……?」
「うん。一応誘ったんだけど、研究で忙しいって言われちゃって。だから、簡単に手紙を書いて貰ったんだ」
「そんな、留学から帰ってきたくらいで大げさだよ。でも、ありがとう」
手紙を鞄の中に入れると、指定された席に着く。隣にソラが座ると、お疲れ様会が始まった。
「さて改めて、水雪! お疲れ様!」
「私の為にこういうことを考えてくれてありがとう! 今めっちゃ幸せだー!」
ホームステイ先の話やテンブリッジでの勉強の話、そして修二と四五と出会い、そこで大切なことを学んだことなど、水雪は自分が経験したことを饒舌に話していく。しかし、修二から言われたことは約束通り、この場の誰にも話さなかった。
「あれは、イリアと教授たちとの秘密だから……」
ピースしたアリスの肖像画を思い出しながら、これからの学生生活を歩んで行こうと一人誓ったのだった。
これで水雪のif物語は終わりです。最後まで読んでくださりありがとうございました。
次は白昼夢の青写真Case3を軸に二次創作を書いていく予定です。まったりやります。
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