よふかしのあじ (フェイクライター)
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Ex-Night
Ex-Night1「おそろい」


 Happy birthday! 夜守コウ!
 というわけで、コウくんの誕生日なのでナズコウを書いてみました。楽しんでいただければ幸いです。

 あじでの投稿なので、一応その要素も入っています。


『夜遊びなんて不純くらいがちょうどいいぜ』

 

 夜を楽しむための心得のようなモノを以前七草ナズナに言われたことを夜守コウは思い出した。

 あの時–––誤ってラブホテルに入った時–––ナズナを友達として見ていたコウにとって悪くない嗜みだ思ったのを覚えている。清濁併せ呑むとは少し違うだろうけど、ナズナと過ごす善し悪しや喜怒哀楽の行き着く先が『恋』だったら良いなと。

 

(だけど……)

 

 そんなコウは今、買い替えて間もないふっかふかなベッドの上でうつ伏せになりながら必死に声を押し殺していた。

 コウの中で渦巻いているのは羞恥でもあったし、興奮でもあっただろうし、危機感でもあったはずだ。心の中を激しく駆け回る羞恥と興奮の想い自体は経験があった。

 友達–––朝井アキラ–––の前でナズナに吸血された時の恥ずかしさ。

 ナズナが添い寝屋の手伝いをする代わりに《チュー》をしてあげると言ってきた時の興奮。

 その後も何度かそうした場面があって徐々に耐性がついてきたと思っていたコウだった。

 

(だけど、これは……)

 

 しかし、危機感。

 これだけはどうしても。

 

「次は首のツボを押していくよ」

「う、うん……」

 

 目と鼻の先にナース服から伸びる真っ白で綺麗な白い脚が現れたことにコウは更に強い危機感を覚えていた。

 今コウはナズナのマッサージを受けているのだ。

 

(これは不味いだろ……!!)

 

「ふふふ……うふふ……」

 

 青少年の純情を指で撫で弄ぶような微笑みを浮かべながらツボを押すナズナにコウは耐えきれず顔をベッドに埋めた。

 

 

 

 なぜ、こうなったかと言うと––––––

 

 

 

 昨日は大雨だった。

 強風に攫われるように横薙ぎに空を走り、地にぶつかり弾ける雨音が街中に鳴り渡っていた。10月だというのに台風がやってきたのだ。

 当然その日、コウはナズナに会えなかった。

 その分、晴れた今日は星々が迎えてくれるような晴天で、絶好の夜遊び日和だった。

 いつも通りコウはナズナの家に、ナズナはコウの家に向かおうとして、その道中、それぞれのトランシーバーのけたたましいブザー音が鳴り渡った。

 近くにいた。

 これ以外に連絡手段が無いとはいえ、片方は家で待っていても良いはずなのにどちらも相手の下へ歩き出していたのは、双方ともに会うことを望んでいたからに他ならなかった。

 そこから空いてしまった一日を取り返すようにふたりは街を回った。

 ナズナの弱点の抹消をする必要がなくなったいま、特にすることはないが、逆に言えば明確に目的がなくても会いたいのだ。それは相手といるだけで楽しいから。

 街中をぶらぶらと歩き回る。

 自堕落に使い倒すように車道の真ん中を歩いていく。

 

「あ」

 

 視線の先から暗闇を裂くように光が差した。

 ふたりはそれがすぐに車のヘッドライトだと分かり、歩道に移ったものの……タイヤが水溜まりの上を通り、ビシャアアア!と水が跳ねた。

 それは車道側で歩いていたコウの身体めがけて飛んできて、

 

「…………」

「……お、おう…………コウくん、大丈夫?」

 

 頭から被るように雨水を受けたコウの身体は全身がびしょびしょになってしまっていた。ジャージの中のシャツまでも濡れてしまって、体に張り付いてジメッとした生温かさが不快感を煽る。

 コウは不服そうにため息をつきながら、ナズナに目をやった。

 

「ナズナちゃんこそ大丈夫……って全く濡れてない!?」

「アタシはスリ抜けれるし」

「ホント便利だなその能力!!」

 

 人間と吸血鬼の違いを思い知りながら、『ナズナちゃんにかからなくても良かったよ』と呟いて自分の服装を再び見下ろす。

 これはダメだ。

 しかし、着替えなんてモノを持ち歩いているわけではないし、家に帰ろうにも結構歩いてしまっているため時間もかかる。ナズナに抱えてもらって家まで行くのも手ではあるが、せっかく無事だったのに自分のせいで濡れてほしくはなかった。

 

「じゃあアタシん()が近いし、行こっか」

 

 洗濯機や乾燥機もあるから2時間ぐらいあれば乾くよ、と言われたので承諾する。

 

「あ、流しっこする?」

「しないよ!!」

「あはは〜〜」

 

 いつものように揶揄われ、楽しそうに笑うナズナと頬を膨らませるコウは一緒に歩き出した。

 

 

 

 

 暫くして、お邪魔しますと小さく頭を下げたコウはナズナの家に上がる。

 最初は身体はタオルで拭くだけでやり過ごすつもりだったが、風呂も沸いているとのことで「せっかくなら入ってきなよ」とナズナにおしこまれるように浴室に入れられた。

 悪いなと思いつつ、軽くシャワーを浴びてから湯船に浸かって身体を温める。

 

「はぁああ〜……」

 

 水浸しになったのに加えて、最近気温が下がってきたのもあり温かい湯の中に体を沈めるのがとても気持ちよかった。

 身体が整って落ち着いてくるコウの中にある思考が生まれる。

 

「ナズナちゃんのお風呂……」

 

 いつもココを使っているんだよなと邪な妄想が、湯船から昇る湯気のようにホワホワと湧き立ってくる。自分と同じようにナズナが裸になって、湯船に浸かって、シャワーを浴びている姿を想像する。

 赤らめた頬を見えない誰かから隠すように鼻頭まで湯船に浸かって、ぶくぶくと泡を立てる。

 女の人が嫌いというコウではあるが、ナズナと出会ってからある程度治ってきた。それに吸血鬼のセリしかり、バーの女定員しかり、胸元を見れるチャンスがあれば無意識に目が行ってしまう助兵衛な年頃の男の子である。

 特にナズナは普段から上着を剥げばほぼ下着だけなのだから、想像してしまうのは無理ないだろう。

 

時々パンツのチャク開いてるんだよ(ぶぶぶくく、ぶく、ぶくぶくぶく)……あんまり他人に見せて欲しくないな(ぶくぶく、ぶくぶぶく、ぶくぶくぶく)

 

 コウが言ってもナズナは辞めないだろう。

 彼女自身の趣向や主義の範疇にあることで()()()()()()()()()()()()()のだ。

 とはいえ独占欲が思いの外強い–––本人感覚–––コウからすればあまりよろしくない。

 どうしたものかとカウンターに置かれたシャンプーを見つめていると、

 

「お〜いコウくん」

「は! えなに!?」

 

 突然ナズナから声をかけられて慌てて湯船から飛び上がる。

 振り返ってみると浴室のドアの曇りガラスにぼやけているがナズナの姿が映っていた。

 

「どうしたん?」

「い、いやなにも。それでナズナちゃん、なにかあったの?」

「着替え持ってきたからさ。籠の中に置いとくね」

「ありがとう」

 

(長く浸かってるのも悪いし、そろそろ出ようかな)

 

 2時間も入り続けるわけにもいなかいコウは、ナズナが脱衣所を去ったあと入れ替わるように浴室を出た。

 バスタオルで全身を拭いてからナズナが用意してくれた着替えに手をつける。

 

「あれ?」

 

 籠の中に紙が置かれており、それを見ると、

 

『いまコウくんが着れそうな服これしかないの』

「……」

 

 籠には確かに着替えがあるのだけど、コウが想像してたものと違った。手に取り広がるのは丈の短いズボン。ナズナがよく履いている女性モノのショートパンツであった。

 それもそうだろう。

 なんせここは女性であるナズナだけが住むこの雑居ビルに、コウが履ける男物の服が置いてあるはずないのだ。

 

「ナズナちゃん!」

「ん〜〜なに?」

 

 コウが彼女の名を叫べば、少し間を置いて脱衣所のドアの奥にナズナが現れる。ドアひとつ隔てた先にいるナズナにコウは訊ねる。

 

「服ってこれしかないの?」

「うん、ないよ。紙にもそう書いたじゃん」

「流石にコレは恥ずかしいよ。ズボンだけでも……ほら、前に着たナース服のズボンとかさ」

「アレも干してて着れないよ。コウくんの服もまだ洗濯機の中だし」

「そんなご無体な……」

「因みに代わりに着るとしたらスカートになる」

 

 コウはヒラヒラとしたスカートを履いた自分を想像し、背筋を震わせた。

 どちらが良いかなど分かりきったモノだった。

 

「じゃ、アタシしゃゲームしに戻るから」

「分かった」

 

 余計なことを考えないように目を閉じて一息で服を着替えていく。

 膝より上の丈のズボンを履き、そして白いシャツに腕を通す。女性モノの服に袖を通すという男としての尊厳を放り投げるような行為だ。

 

(……どこかで嗅いだことのある匂い)

 

 さらに目を閉じたことで鋭くなってしまった嗅覚が捉えたのはナズナの匂いだ。ナズナが愛用している布団で何度も一緒に寝ているコウの鼻は自然とその香りを覚えてしまっていたのだ。

 覚えのある香りがなんなのか理解したコウはすぐにシャツから顔を出す。

 目を開けて浴室から流れ込んだ暖かい空気を吸い込む。

 目の前には鏡がコウの姿を映していた。頬を興奮で赤らめている少年の姿がそこにはあった。

 それは背徳感から来るモノだろう。好きになりたい人の服を着たことか、好きになりたい人の香りに身を包まれることなのかは言及はしないが。

 

「ふぅ……ふぅ……」

 

 コウは息を整えようとするが、茹だった心は落ち着きを見せない。

 とはいえ、このまま脱衣所に篭るのもおかしなことだし、自分の服が乾くのにも時間がかかる。

 頬を赤らめたまま外に出て、髪を乾かしたのちに居間に入った。

 

「おっ、おぉ……おぉ!! よし、行け!」

 

 コウがナズナの下に戻ると、『YOU WIN』という電子音声が流れた。

 格ゲーをしていたようだった。

 スマ◯ラだろうか?

 

「お、コウくんおかえり」

 

 コウに気がついて、彼の方に首だけ振り向かせたナズナはジロ〜とコウの身体を舐め回すように見つめる。

 時折ナズナがみせる汚いオッサンの視線だった。

 まるで視姦されてる女性にでもなったかのように顔を背けるコウに、ナズナはニヤニヤと笑ってみせる。

 

「おそろいだね」

「あっ……」

「彼Tってヤツだな!」

 

 彼女の服装を見返してみれば、今の自分と同じ白いシャツにショートパンツを身につけている。

 正しくお揃い、彼服なのだが……。

 

「……」

「自分で言ってて照れないでよ」

「悪かったって」

 

 恋の『こ』の字ですら照れてしまうナズナにとって自傷ダメージになる言葉だったのだ。

 コウはナズナの隣に座り、妙な居心地の悪さを感じながら一緒にゲームをして過ごしていく。

 

「そういえばさ、コウくんに頼みがあるんだけどさ」

 

 ゲームが一区切りついたところでナズナがそう切り出した。

 

「どうしたの?」

「マッサージ受けてくれない?」

「え」

 

 ナズナ曰くコウと出会ってから極端に減っていた添い寝屋の営業がここ最近の探偵騒動でゼロになっていた。生活費自体は時折お邪魔している《ゔぁんぷ》という店の給料でなんとかなっているが、添い寝屋をするための技術はそうはいかない。

 

「腕が鈍るといけないしさ」

 

 そうは言われたモノのコウの反応はあまり芳しくなかった。

 普段ならいざ知らず、ナズナの服を着て平常ではない今のコウにとってはやや危ない橋である。いくら不純を認めているナズナ相手でも、流石にコウのあるモノがあるべき形に変化してしまうかもしれなかった。

 それがナズナにバレるのだけは避けたかった。

 

「う〜〜ん、それじゃあさ」

 

 ナズナもコウが乗り気ではないことは察したため、とある札を切ることにした。

 

「またチューしてあげる」

「……」

 

 コウの身体がピクリと跳ねる。

 自然とナズナの方に向いた顔にナズナの両手が添えられる。

 

「ね、だからお願い」

「……なら、お願いしちゃおうかな」

 

 迫るナズナの微笑みにコウは誘惑を断ち切れず、ズルズルとベッドの中に入っていった。

 

 

 

––––––こうして冒頭に戻る。

 

 

 

 

 ベッドに顔を埋めるモノの逆に染み込んだ心地の良い香りが鼻腔を刺激して思考を歪められる。

 

「さて、ラストスパートだ!」

「うぉぉおお……気持ちいぃ……!!」

 

 ナズナのマッサージも逸品級なため余計に思考が鈍る。

 全身がナズナの色香に当てられているのを、なんとか意識して身体に力を込め、ナズナに自身の興奮がバレないように努める。それでも悶々とした感情は溜まり続ける。

 

「あら〜お客様、股間にリンパが」

「集中してない!」

 

 大きな声で否定するコウをナズナは愉しげに見つめながら施術を続けていく。

 身体の上部から降りていくように首に腕、背中とどんどん身体が刺激されていく。的確に凝りを見つけるナズナがその優美な指遣いで的確にツボを押していく。

 

「あっ……あぁぁ……」

「ほらほら、もっと声出してもいいんだよ」

「ふわぁぁぁああぁぁああ」

 

 ナズナのマッサージ師としての力量に負けて、中学生が出すべきではない艶めかしい色のある声をあげるコウ。

 その度ベッドに顔を埋めて声が潰れるので余計に卑猥さを際立てている。

 

「それじゃあ次は陰交(いんこう)ていう腹回りのツボを押すから仰向けになって」

「待って! なにそのツボ!? 絶対イヤらしいじゃん! なんだよインコウって!」

「大丈夫大丈夫、エッチじゃないから。それにアタシは気にしないからさ!」

「なにを!? なにをだい!」

「あらあら、コウくんこれは〜〜」

「ぬああああああ!!」

 

 抵抗虚しく仰向けにされたコウはなす術なくナズナのマッサージに敗北するのだった。

 

 

 

 

 マッサージが一通り終わったふたりは、そのままベッドに横になって同じ掛け布団を共有する。このまま一緒に眠りにつきそうな雰囲気だが、互いに意識を向けていてよそよそしい。

 同じ温もりに包まれるコウとナズナの目線は交わらない。

 

「はぁ……はぁ……」

「ごめんって、ちと張り切りすぎちゃった」

 

 マッサージによって身体は緩みきって幸せなのに、精神は気を張り続けて逆に疲れてしまったコウ。そんな幼い少年を抱きしめるように背中をさするナズナ。

 さっきから目を合わせてくれないコウにやりすぎたと自戒するナズナは柔らかい声色で彼を呼ぶ。

 

「コウくん」

「……なに? ッ」

 

 顔を膨らませながらナズナを見たコウの唇に、微笑みながら彼女は自分の唇を重ねた。

 約束通りのチューである。

 奪われた唇からナズナの体温が伝わってくる。それだけで心の中に留めていた緊張の熱がどこかへ流れ出し、代わりに心が安らぐような熱で身体が包み込まれていく。

 心も体も熱っているのに妙に理性だけは落ち着いていて、コウはその双眸でハッキリとナズナを捉えている。

 幸福感を伴った口付けは実時間数秒ほど経過したところで離れていく。

 

「どうだった?」

「……良かった、です」

「そっか」

 

 満足気に頬を赤らめるコウを見て、ナズナも照れ笑いを浮かべる。

 さっきまで弄ばれたことにムキになっていたのに、キスひとつで籠絡されてしまうことに、コウは我ながら単純だなと苦笑いも浮かべた。

 

「……」

 

 キスを経て、逸らしていたはずのコウの視線はナズナから外れることはなく、意識して彼女を見てしまう。

 コウはなんとなく、凄いなと思ってしまった。

 

「なんか、凄いね。ナズナちゃんは」

「ん? なにが?」

「いや……当たり前にキスしてくるし」

 

 大胆な行動もそうだが、躊躇いもなくキスができてしまうことにだった。

 ふたりは恋をする為の友達という間柄ではあるものの、だからといってコウが易々と唇を重ねられるかと言われればそうではない。

 それはコウが心のどこかでナズナを特別視しているからなのだが、そう考えると、ナズナからは特別視されていないのではと思ってしまう。もちろん、誰から構わずキスをするなんて節操がないことをナズナがしないのは分かっている。彼女が許容する範囲の中に入っていることは純粋に嬉しい。

 けど、彼女が容易く–––ある種、児戯の感覚で–––出来てしまうのが酷く残念だった。

 きっと今着ている服だってそうだ。

 コウだから悪いことにはならないと信頼して貸してはくれる。それはとても嬉しいことだけど、もしかしたらを考えられていない。

 人間と吸血鬼である以上、仕方ないのかもしれないが、やはりどこか対等ではないと感じてしまう。

『恋愛は対等でなくてはならない』という自論を持つ夜守コウにとってはあまり好ましいものではなかった。

 

「そうか?」

 

 首を傾げるナズナはそうは思っていなかった。

 

「児戯でも本気でもアタシがしてるのはコウくんとしたいからだし。少なくともあの夜、本気でしたキスはコウくんだけだから」

 

 さも当然のように言い切ったところで、自分の言葉を省みたナズナは再び恥ずかしさに頬を焼く。コウもナズナが本気で自分を眷属にする決意をした夜にされたキスを思い出し、無意識に唇を触る。

 自分に素直な所も七草ナズナの凄いところだとコウはつくづく思う。

 やりたいか、やらされてるかで、常にやりたいで考えられるナズナの生き方には憧れる所がある。きっと自分がナズナの眷属として吸血鬼になりたいと思ったのは、そんな素直な部分に惹かれたからでもあるのだろう。

 自分も素直に感情を出せたら対等になれるのかもしれない。

 

 

 でも、どうしたらいいのだろうか?

 

 

 コウにはそれが掴めていなかった。

 

––––ナズナちゃんが嬉しいと僕も嬉しい。

––––きっと生まれて初めて自分以外の誰かを大切だと思った。

––––こんなに一緒に居るのにまたすぐに会いたくなる。

 

 ナズナに包まれるような感情で生きているに等しい今、それをもっと強く、もっと大きく素直に吐き出すにはどうしたら良いのだろうか。

 

「コウくんがしたいようにすればいいんだよ」

「俺の、したいように……」

「アタシになら何でも甘えてくれていいからさ」

 

 聖母のような微笑みを浮かべたナズナは、一転して息を荒げながらコウに訊ねてくる。

 

「ね」

「なに?」

「血、吸っていい?」

 

 ふと、コウはとある言葉を思い出す。

 友人とは言い難い、かといって人間という遠すぎる間柄でもない。同じ秘密(存在)を共有する関係をなんと呼べば良いのかコウには待ち合わせがないが、そんな関係の相手から言われた言葉を思い出す。

 

『恋焦がれる相手に自分だけを見ていて欲しいなんて当たり前』と、

『少なくとも自制できないほどの感情があればなれる』と、

 

 彼はそう言った。

 だからなのか、あの時無意識に身体が動いた感覚を真似るように、倣うようにコウはやりたい(願い)を選択する。

 目の前の大切な相手と並べるようにコウはちょっとだけ自分に素直になった。

 

「えっ……コ、コウくん? どうしたの?」

 

 その素直は(はた)から見たら驚くしかないだろう。

 何故ならコウは自らの唇を噛んで、血を流したのだから。

 裂けた箇所からたらりと血が溢れ出す唇をナズナに突き出しながら、コウはまるで媚びるように上目遣いで答える。

 

「いいよ、飲んでも」

「んんっ……」

 

 服装も相まって少女に求められてるような錯覚に陥いるナズナは、唇から漏れ出す血がより淫靡なモノに感じられた。日常と化していたコウからの吸血が一瞬で非日常に塗り替えられる。

 どうしてそんな発想に至ったのか分からないナズナは固唾を呑む。

 しかし、彼女もひとつだけ分かっている。

 キスして血を飲めとコウが言っていることは。

 

「あはは……あははは…………」

 

 ナズナもまた友人に言われた言葉を思い出す。

 

『七草さん超かわいい、ベロチューしたい……』

『見た目が好みで毎日一緒に居たらそういう(・・・・)気に全くならない方が不自然じゃない?』

 

 つまりはコウはいま、そういう気になっているかもしれないとナズナは考えてしまう。

 自身の中にある照れや恥ずかしさを誤魔化すようにあっけらかんと笑うナズナは後ろ頭を掻いて、

 

「これはまた……エッチな子だね〜……」

 

 コウの頬に両の手を這わせ、自分へ近づける。

 抵抗のない彼の顔は、いとも容易くナズナの口元に引き寄せられ––––数秒躊躇ったのちに––––唇を合わせる。

 今度はさっきと違い、味わうように舌を這わせていく。

 以前、偶々唇が切れた時に行った前戯のような吸血とは違う、艶めかしく、淡い色のある吸血にふたりはのめり込んでいく。

 

 その瞬間、確かにコウは幸福だった。

 素直に出した感情が満たされているのをぼんやりと感じ取っていた。

 

「もっと……いる?」

「……この、ドスケベエッチマンめ」

 

 コウが求めて、ナズナが応える。

 一度離れた唇をまた合わせるふたり。

 チビチビと酒を飲むような吸血ではナズナの欲が短時間で満たされないのも相まって、長い時間をかけて求めて、交わっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月が落ちる頃、ふたりの真っ白なシャツにはお揃いの血化粧が彩られていた。




 唐突に原作キャラをやんややんやさせたくなったらEx表記で投稿します。

陰交……下腹部や瘀血の改善で、腰痛や生理に効果があるツボのことである。場所としては臍の真下である。


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EX-Night2「プレゼント」

で、出遅れた……!


 夜になって、目を醒ます。

 掛け布団を吸血鬼特有の力でポンっ、と宙に放って身体を起こす。周りにはソファやテレビ、ゲーム機が置かれただけのがらんとした部屋が広がっている。

 窓の外を覗いてみれば、至る所に星が輝いている良い天気()だ。

 最近は目覚めが良い。

 七草ナズナ(アタシ)的には良いと思う。少なくとも以前より退屈感がない。

 

「それじゃ、着替えるか〜」

 

 といっても、大きめのパーカーを被ればいいだけなんだけど。動きやすいから上着以外は下着同然の姿で動いてるし。以前ほとんど付き合いのなかった友人からも、『おかしいでしょ』と言われたことがあるが、これがアタシスタイルなのだ。

 そうは思いつつも、手にしたパーカーを眺める。

 

「コウくんは他の人に見られたりするのは嫌なのかな」

 

 コウくん。夜守コウ。アタシの眷属候補。

 コウくんはアタシを好きになる為に絶賛恋愛挑戦中。対するアタシもコウくんを落とす為、吸血鬼として恋愛挑戦中な間柄だ。

 彼は恋や愛……ま、まぁ要するに人を好きになるってことが分からないらしくて大苦戦。アタシも吸血鬼だというのに、ニコっぽく言えばモテパワーがない。

 

「モテパワーってなんだよ。アイツら、自分で言ってて恥ずかしくないのか……?」

 

 吸血鬼としてはニコたち(アイツら)が正しい在り方なんだろう。

 

「さっさと着て、出てくか」

 

 なんだか負けを認めた気分になったのが嫌で、アタシは見られている訳でもないのに顔を隠すようにパーカーを上から被る。

 スッと顔を出すとちょうど目線にはカレンダーがあった。

 23日の金曜日。なにかあった気がするがなんだったろうか。

 

『ナズナ、貴女まさか忘れてるんじゃないでしょね……?』

 

 そんな小言が脳の片隅で再生される。

 

「……? 13日の金曜日ならジェイソンが来てたな。怖い怖い…………」

 

 アタシは「あとは華金だな」とだけ呟いて、外へ出かける。

 玄関のドアを閉めた時には、脳裏に誰かからの小言が飛んでくるような違和感は消えていた。

 そして––––外に出て、

 

「おお〜……今日は人がいっぱいだねぇ〜」

 

 駅の近くにまで来た。

 アタシが呟いた通り、今日が華金なだけあって人間たちの姿が多く、まるで空間ごと煌めいているような錯覚さえ起きる。

 

『ご存知だと思いますが、薔薇の花言葉には–––』

 

 店員に花言葉を聞きながら花束を買っている者。家族が待つ家へと足を急がせる者。既に赤くなった顔のまま居酒屋の暖簾をくぐっていく者。浮かれた様子で少女や男子に声をかける男女の姿まである。

 みんな揃って浮ついてる。

 そんな様子を見ていてアタシはつられて浮かれるわけでも、逆に冷めるわけでもなく、ただ平然と歩いていく。

 昔はこの自分だけ周りから離れた場所にいるようで、少し寂しさを感じた。

 そのことを、とある日に実感した。

 ひとりで東京に行った時の話だ。新しく楽しいことを求めていたのかもしれない。しかし、目的もなく、楽しみを共有する相手もなかったアタシには、東京観光は寂しさが色濃く残すだけだった。ナンパもされてあまり良い思い出もない。

 でも、今は違う–––そう思った時、人々が放つ華やかな空気を裂くようにブザーが鳴り渡る。

 

「こんばんは、ナズナちゃん」

「よ、コウくん」

 

 現れたのは、いつものようにジャージ姿をした夜守コウ。

 出会った途端、アタシたちは笑い合う。

 理由は単純で、コウくんと居るからなんだか楽しいことが起きる気がするのだ。あくまで予感。けれど楽しみとは須らく予感から始まるものだとアタシは思っている。

 実際、楽しくなかった昔の東京観光を払拭するように、恋愛勉強の名目でコウくんと東京へ遊びに行ったときは予感が的中した。

 服を見に行ったり、試着室でコウくんの血を吸ったり、肉体関係でコウくんを揶揄ってみたり、夜の動物園にふたりで潜入してみたりと、楽しいことばかりだった。

 だから、今日もきっと楽しくなる。

 

「今日は何して遊ぶ? また東京でも行っちゃう?」

 

 自然とふたりで並んで歩き出していた。

 

「今日はここらへんで遊びたいかな」

「どうして? なにかあんの?」

 

 そう返してみれば、コウくんが不思議そうな顔でアタシの目を覗き込んでいた。

 訝しんでいることを隠さないその顔はなんともまあ失礼なものであったが、頷きながらなにやらひとりで納得してしまうコウくん。

 

「なんだね今の顔は」

「なんでもないよ。それよりナズナちゃんは東京に行きたいの?」

「いんや別に」

「なんじゃそれは」

 

 ハッキリとした理由もない勘繰りや否定をしてしまうあたり、案外似たもの同士なのかもしれない。

 それから取り留めのない会話をしながら夜の街を歩き出す。

 昨日や今日の天気のことだとか、コウくんの頭に猫が乗っかった話だとか、来る途中のレストランで鱈腹(たらふく)飯を食べてた人の腹にキツツキが激突した話だったり、そんなどうでもいい話だ。

 意識がお互いにだけ向いて、あたりの風景が溶けたように流れていく。

 時間も忘れて歩いて、時間の流れに消えるような会話をして、ただ楽しいだけのひと時が過ぎていく。

 

「……あ」

 

 長い間歩くと街の一角にある店に来ていたことに気がついた。

 

「うぅ〜〜ん……珍しい。今日はやってるんだ」

「どうしたのナズナちゃん? ここって服屋?」

 

 明かりがついている店を唸りながら覗き込んでいると、不思議に思ったコウくんもアタシの横で店内を眺めていた。眺めるといっても見えるのは右側手前の数体のマネキンぐらいで、流行りの服を着せられているのが分かるくらいだ。

 

「アタシの行きつけの店だよ」

「へえ、ナズナちゃんの」

 

 そう伝えれば、コウくんは興味深そうに、そして心底意外そうに店内を凝望している。

 少ししてコウくんがアタシの手を掴む。

 

「ひとまず中に入ってみようか」

「え? いいけど」

 

 コウくんに連れられて、店のドアを開ける。

 軽快な鈴の音が耳に心地よさを与えられたのを感じながら入った店内をぐるっと一周見渡す。それだけでこの店の異様さが分かるだろう。

 

「ここは……!! ……!?」

「ふふふ……気づいたかね。コウくん」

「コスプレ屋なの!?」

 

 そこかしこに置かれているのは婦警さんや女子高校生の制服だったり、チャイナドレスやメイド服といった服まで揃えられている隠れた名店なのだ。

 しかも、ネットで買うよりも安い。

 

「添い寝屋に使ってる服とかもここで買ったんだよね」

「そうなんだ」

「コウくんも着てみる? このチャイナドレスとか」

「……。い、嫌だよ!!」

「なに考えたんだよ、ほら言ってみ」

「嫌だ!!」

「誰かしら? 入店早々乳繰り合ってる楽しげな子達は」

 

 アタシがコウくんを揶揄っていると、店の奥からおっとりとしていて、確かな気品に満ちた声が身体に透き通ってくる。

 現れたのは少し長めの黒髪をレイヤーカットで整えている女性だ。

 女性はアタシを見るなり、縞模様のないキリンでも見つけたかのような驚きで顔を愉しそうに歪めてアタシとコウくんを見た。

 

「あらあら、ナズちゃんじゃない。お久しぶりね。……てことは、そっちが噂の夜守コウくんね」

「え、はい。えっと……吸血鬼、ですか?」

 

 話の内容や今まで触れてきた吸血鬼との経験でコウくんも彼女の正体にすぐ気付いた。

 

「この人は午鳥(ごとり) 萩凛(しゅり)。ここの店主だ」

「ちょっと違うわ。ここを経営してるのは眷属で、私はあくまで土地を所有してる遊び人よ。今だって暇つぶしで店を開いてるだけだしね。ラインナップもそう」

「そ、そうすか……」

「にしても、キミが……」

 

 萩凛はまるで品定めでもするようにコウくんのことを舐め回す。特に首周りを重点的に視姦する。

 コウくんに手を出したら殺す。

 

「……ふふ。いけない子ね、人がいる前でポケットに手を入れるだなんて」

「あ、すみません」

「いくら膨らみがあってもいけないわよ」

 

 なんの話だ。ポジションの話か?

 萩凛はアタシを一瞥すると納得したように頷いて踵を返す。

 

「じゃあ私は裏にいるから。そうそう、何か欲しいものがあったら1着だけ……そうね、同じ物なら2着まで持って行っていいわよ」

「え、いいのか!?」

「いいわよ。ただし、夜守くんが選んだものだけね」

「俺がですか!?」

「ふたりへのプレゼントよ。好きな人を思い通りに着飾りなさい」

 

 アタシたちがその申し出に驚いている間に、気にせず裏へとその姿を消し––––

 

「あ、そうそう。夜守くん。ナズちゃんに合うビキニアーマーだったら東側の棚の2段目だから」

「なんですかいきなり!? てビキニアーマー!? なに、え!? え!!?」

「萩凛! お前はもう黙っとけ!」

「はーい」

 

 ニマニマと笑みを絶やさない女性は今度こそ奥へその身を潜めた。

 一瞬で気まずい雰囲気になる。

 照れたままのコウくんからすごく視線が刺さる。特に胸のあたりに。チラチラと見ては逸らされを繰り返される。

 凄くいやらしい雰囲気だ。

 

「……じゃ、じゃあコウくん選んで。アタシは試着室の中にあるから」

「う、うん」

 

 アタシは無言で試着室のカーテンをくぐる。

 横目で追っていたコウくんの姿が、萩凛に言われた東側の棚に向かっていることに気付きながら、試着室の中で待った。

 待っている間、ガタガタとコウくんの苦悩を感じていた。

 トランシーバーによれば時間10分。体感時間1時間レベルの待ちを喰らうとようやくカーテンがごそっと動き服が差し出された。

 それは紫色のビキニアーマー。

 

「……なんだね、これは」

 

 見てみれば見るほどアーマーと呼べる代物ではない。胸と股関節を守るぐらいにしか装甲がない。

 

「コウくん。なんだね、これは言ってみなさい」

「……」

「言ってみなさい」

「……ビ、ビキニアーマー、です」

「これでなにをして欲しいのかね? パフパフしてほしいのかい? しかも紫。中学生だもんねぇ〜分かるよ、分かるよコウくん」

「ち、が!! あの棚こういうのしかないんだもん!! てか紫は関係なくない!?」

「あはは、コウくんは相変わらず弄りがいがあるなぁ」

「もう、やめてよナズナちゃん」

 

 萩凛の思惑通りになったことや人間が生み出した欲望という名の文化に末恐ろしさを覚えながら、カーテンの隙間から覗く真っ赤に燃える炎のようなコウくんの顔に免じて着ることにした。

 じっとその鎧を眺める。顔が熱い。

 アタシは黙って試着してみた。

 

「じゃーーん!!」

「お、おお……」

 

 カーテンを開けてみれば、固まったコウくんがそこにいた。

 着てみた感想としては悪くない。胸周りがキツく、いつもより持ち上げられているのが唯一の悪い点。他のところは面積量はいつもと大差ないし、いつものパーカーを広げればマントみたいでカッコいい。鏡で自分の姿が見れないのが残念なくらいだ。

 

「……どうした? コウくん」

「い、いや……」

 

 だというのに、コウくんはドギマギしているようで落ち着きがない。

 なんだ。似た格好でいつも一緒に寝てるじゃないか。しかも、胸への視線がいつもより鋭い。

 

「ねえ、コウくん」

「つ、次の奴探してくる!!」

 

 その事を言おうとすると、コウくんはカーテンを一気に閉める。足音がドンドン遠ざかっていく。

 なんだ……?と疑問に思うが、彼は思春期。自分の手で破廉恥な格好にさせたのだという自覚がより強い滾りに繋がったのかもしれない。

 そこからは着せ替えショーだ。

 コウくんの好みを知れるいい機会だった。

 

「よ! チャイナ!」

「ナズナちゃんって青も似合うんだね」

 

 青い基調にした服に三日月の意匠が施されたチャイナドレスを着たお嬢。

 

「いつもの」

「またマッサージしてあげようか?」

 

 真っ白で清潔感のあるナース。

 

「お帰りなさいませ、ご主人」

「た、ただいまです」

 

 スカートの裾を持ち、深々と一礼するメイド。

 

「ピョンピョン」

「〜〜〜」

 

 白と黒で彩られたバニーガール。

 なんかもうエロいものしかないんじゃないかと言わんばかりのラインナップなのだが、これも全て午鳥萩凛の仕業なんだ。

 奴はコウくんが慌てふためく姿を見て楽しんでいる……!!

 そうはいっても、そんなコウくんを楽しんでいるのはアタシも同じ。コウくんも真剣に悩む唸り声がカーテン越しに伝わってくるあたり、楽しんでいるのだと思う。

 わちゃわちゃと過ごしているだけで楽しい。

 

「次の服、決まってるの?」

 

 ウサ耳を揺らしながらコウくんに訊ねる。

 目のやり場に困っている彼は、目を逸らしながら「うん」と迷いなく頷いた。

 

「へぇ〜〜次はどんなエッチなものなんですか〜〜博士?」

「こ、これ……」

「ん?」

 

 煽るようにして深く訊ねるアタシにコウくんが渡してきたのはなんの変哲もない服。今までが突拍子もなかったため、逆に面食らってしまったアタシはマジマジと服を見つめながら、それを広げた。

 その服はジャージだった。

 コウくんが着ているのとは少し違うフード付きの淡い青のジャージでアタシのサイズに合ったもの。なにより、そのフードにはあるモノが付いていた。

 

「ネコミミ……?」

「ナズナちゃんに、すごく似合うと思って」

 

 ジャージとコウくんに視線を行ったり来たりさせる。さっきまでとは違いコウくんはこの服がアタシに似合うと思い不安になりながらもこの服を選んでくれた。

 

「分かった」

 

 アタシはすぐに腕を通した。

 見た通りアタシにピッタリのサイズで、アタシの動きやすさの基準もクリアしているこのジャージはとても好みだ。

 しかし、なにより大事なのは。

 

「どう、コウくん?」

「凄く似合ってるよ」

「そっか」

 

 自分の頬が緩んだのを感じたアタシは、試着室を出てコウくんに「これにしよう」と笑いながら言う。

 すると、コウくんも嬉しそうに笑って頷いた。

 

「じゃあ、コウくんも脱いで」

「は!? なんで!?」

「同じモノなら2着まで言いって萩凛が言ってただろ? ジャージなんだし、お揃いのもの着てこうよ」

 

 萩凛に甘える形になるけれど、せっかくならコウくんと同じモノを着てみたかった。一年後には自分の手で着れなくさせると分かっているけれど、残りの時間を共有するモノの一つになるのなら、それも良いと思ったのだ。

 

「いいよ」

 

 コウくんも少し考えたあと納得して、棚から自分にあったサイズのモノを見つけてくる。

 時間はかからなかった。

 重ねてある服の一番上がコウくんのサイズの服だったからだ。

 アタシはそんな事あるか?––––と疑問に思った。

 チラリと店の奥へ視線を移せば、そこには萩凛がひっそりと佇んでいて、唇を震わせずに動かした。

 

『似合ってるよ、ふたりとも』

 

 そう言いたかったのだろう。

 愉しむ様は相変わらずだが、それでも感謝だけはしておこう。

 

「サンキュー」

「……ん? ナズナちゃん、なにか言った?」

「可愛いねコウくんって」

「ナズナちゃんの方が……ずっと可愛いよ」

「お、おう……」

 

 ふたりして照れた顔を逸らして歩き出す。

 鈴の音を背中で聞く。

 夜の街を再び歩き出したアタシたちは、互いの姿を見合う。頭を見ればネコミミが左右に揺れる。

 

「こうした時に鏡に映らないってのも勿体無いね。せっかくお揃いなのに」

「だなぁ〜。コウくんは自撮り棒なんて持ってないだろうしね」

「そういうナズナちゃんこそ、どうなのさ?」

「持ってるわけないだろ」

「だよね」

 

 あははと笑い声を夜に響かせるが、どうしてもやはり意識してしまう。

 いま同じ服を着ている事実に自分の鼓動が強くなり、今までにない新しさが楽しいと言う事実をより濃くさせてくれる。

 さて、ここからもコウくんとどんな遊びをしようか。

 

「そうだ、ナズナちゃん」

 

 突然、コウくんが話題を変えるので反射的に首を傾げる。

 

「どうした?」

「……俺の部屋に来ない?」

 

 コウくんにしては意外な提案に若干驚きつつも、アタシは笑って「行こう!」と彼を両腕で抱えて空を跳ぶ。

 

 

 

 

「よし」と自宅の中を確認したコウくんが呟いて、アタシを家の中に招き入れた。

 一緒に入ってしまえばいいのだが、彼はアタシが言った『吸血鬼は招かれないと家にあがれない』という噂を守って先に上がり少ししてから、玄関のドアを再度開けた。

 アタシが駆け上がるようにして、家に入るのを咎めないことを不思議に思った。

 それよりも不思議だったのは部屋が暗い事だった。

 

「さっき見てきたんじゃないのかよ」

 

 以前訪れた時の記憶を頼りにして、照明のスイッチを探す。

 しかし、その必要はなかった。

 

「あ」

 

 パチとスイッチが押された音がして、すぐに照明がついた。

 押したのはコウくんだった。

 そして、彼は真剣ながらも確かな笑顔で言うのだった。

 

「お誕生日、おめでとう。ナズナちゃん」

「はえ?」

 

 誕生日––––頭の中で復唱したその単語の意味を思い出そうとする。

 コウくんはアタシの横を通り過ぎて、テーブルの傍にあった椅子を引く。まるでアタシにそこへ座るよう促すように。

 テーブルには美味しそうなショートケーキとビールが置かれていた。ケーキには花を模すように象られたイチゴやブルーベリーが乗っており、ビールはアタシが好きな《喉越し生》だった。

 

「9月の23日。ナズナちゃんの誕生日なんでしょ?」

「あぁ〜〜……だから、プレゼント」

 

 そこまで言われて、脳の片隅から飛んできた言葉の正体を思い出す。

 カブラからこんな時期に言われたことがあるのを思い出した。

 

「やっぱり、覚えてなかったんだ」

「吸血鬼だからどうしてもその感覚が薄くてね。コウくんはなんで知ってるの?」

「カブラさんから聞いたんだ」

「あぁ〜〜。それで祝ってやれって言われた感じ?」

 

 アイツも自分だと拒否られると思ってんだろうな、とこぼしてみるがコウくんは違うと首を左右に振った。

 

「言われたのは日付だけだよ。こうしたかったのは俺だから」

「…………そっか」

「て言っても用意できたのはケーキとビールだけだけど」

 

 真っ直ぐアタシを見つめるコウくんに、はにかむような笑みを浮かべながら、やっとの思いで隠せる嬉しさを感じていた。いつも違う嬉しさだった。

 多分、カブラやニコたちだったらここまでにはならない。

 コウくんだから嬉しいのだとアタシには分かっている。

 彼の導きに従って椅子に座り、フォークを握る。

 

「あんがと、コウくん。嬉しいよ」

「良かったぁ〜〜!!」

 

 安堵の息をするコウくんが微笑ましい。

 嬉しい。楽しい。コウくんとのトキメキにも似た感情を、ずっとのものにする為にも、永遠の友達でいるためにも、キミを惚れさせたい。

 

「これからも一緒に居ようね、ナズナちゃん」

「もちろん!」

 

 そうして、フルーツと一緒にケーキを頬張る。口に含んだケーキはアタシが知ってるものよりも段違いに甘かった。



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EX-Night3 虹の空蝉(前)

 よふかしのうた完結記念に書いたものです。
 うぇぶりの方でも1週間経ったのであげたいと思います。
 そのため、ここから先は18巻より先のネタバレを含みますので、もし単行本派の方が居ましたらブラウザバッグ推奨です! また自己解釈が多く含まれた内容となっています!



 また、前があれば後もあるので、そちらは30分後にーーー


 ある国で出会った男は未だ真っ白なキャンバスに筆をつけた。その筆先に色はなく、本人曰く『書けるはずないもの』らしい。

 月光だけを取り入れるアトリエで、七草ナズナはロッキングチェアに身体を預ける。青白く淡い光が照らすこの場は、どこか幻想的にすら思える。

 目線の先では、男が荒い呼吸を繰り返す。

 数秒、数分―――胸を締め付けられる男の吐息と、ゆったりと前後に揺れる椅子の音だけが響く。

 ナズナは可哀想だと心底同情し、そして共感した。

 

「駄目だね」

 

 男はため息の代わりに諦めを口にした。筆を置いて、代わりに軽くかかったパーマの髪先をちりちりと摘んで弄る。

 

「やっぱり描けないや。神の腕はいつまで経ってもご立腹のようだ」

「何回やってもか?」

「そりゃ勿論。君より長く向き合ってる僕が言うんだから間違いないよ」

 

 彼の手には呪いがかかっていた。呪いが鎖となって、ガシャガシャと金切音をあげながら巻き付いている。

 

「呪いと心はニヤイコールだ。強い力で何かを蝕み続けて、見えもしないし掴めもしないから……キッカケがなければこの身が自由になることはない。解呪不可の鎖なんだ」

「あぁ……知ってる。アンタと似た女を知ってる」

 

 悲観的な話をしているが、唇が軽やかだ。その原因は諦めでもあるし、幻想的な空間が心にゆとりを持たせているのもある。

 

「50年間両片思いをした吸血鬼か」

 

 ナズナと目の前にいる男。そして、ナズナが思い浮かべる女性は吸血鬼だ。その証拠にふたりの開いた口から鋭い犬歯が光を反射しながら覗いている。

 吸血鬼に恋をして血を吸われて眷属になる。

 恋で廻る生き物ーーーそれが吸血鬼。

 しかし、吸血鬼は恋を【させる】生き物で、恋を【する】生き物ではない。吸血鬼にとって恋愛とは禁忌なのだ。

 吸血鬼が人間に恋をすること自体が間違いである。その証拠に好きになった人間の血を吸うと、人間に還り、死ぬ。最悪、愛した恋人さえも灰に変えて殺してしまう。

 してはいけない恋をした罰として、解けない恋で苦しむ呪いをかけられる。

 

「『我々にとって、恋とは呪い』ね。恋に生きる僕らが恋をしてはいけないなんて、神様もブラックジョークがお好きなようだ」

「その子は神様じゃないって言ってたぞ」

「いいや、神様だね。ほら、キミが以前いた日本なんてその典型例じゃないか」

「うーーん……?」と七草は首を捻りながら答えを探す。

 

 いつまでも悩み続けるナズナを見かねた男が「七草くんでも付喪神なら聞いたことぐらいあるだろ?」と答えを口にした。

 

「なんだっけ全てのものに神様が宿ってる……みたいな奴だっけ?」

「そう。そして、神を宿すのは心と知恵だ。神話、宗教の始まりは人間の知能。その場に適した共通認識を作ることで、神の試練として過酷な環境を生き残ることができるし、神の罰だとして現状のまま諦めることもできる。集団の心を統率する人間の立派な発明品だ」

「えっと、つまり……腕が動かないのは自分の心の問題だと?」

「その通り!」

 

 男は鬱憤を晴らすかのようにパチンと指を鳴らした。元気に弾けた笑顔を見せるが、男の口端が牙でキツく噛み締められていることにナズナは気づいていた。

 

「僕はね、ただ約束を果たしたかっただけなんだ」

 

 肩の力を抜いて、ゆっくりと脚を窓の方へと動かした。見上げた空には満たされた月が輝いている。誰よりも強く優しい光をここへ届けている。

 

「今日も一番星は綺麗だね」

「ッ……」

 

 ナズナは耳を塞ぎ、目を閉じた。突然耳を劈く不快な音が鳴り渡り、幻想的な空間を破壊したのだ。

 瞑っていた瞳を見開いて、音源に目をやれば男が窓ガラスに爪を立てていた。人の首すら飛ばせるほどに研がれた鋭利な刃が異音を鳴らす。

 

「あ、ごめん……」

 

 無意識だったのだ。自分が爪を立てていることに気づいた男はすぐに手を窓ガラスから離す。

 ナズナはもう一度目線を外すと、深呼吸をして彼に尋ねた。

 

「どんな絵だったんだ?」

 

 その問いに言い淀むが、結局男は話すことにした。

 

「虹の下でキスをする男女だよ」

「それはまあ……随分とロマンチックなことで」

 

 キスをもう一度したいと思うナズナだけれど、面と向かって言われると頬を赤らめてしまう癖は直らない。

 

「あはは、褒め言葉として受け取っておくよ。でも、虹の下で見る彼女の笑顔は本当に素晴らしいんだ」

 

 笑って流す男をナズナは怪訝な表情で見つめる。

「ナズナくんは虹を撮ったりしないのかい?」と男は問いかける。

 

「え、いや……空はあまり撮ってないかな」

 

 あまり、は語弊だ。ナズナは夜空を撮ったことがない。写真に収めるのはいつも大切な男の顔だけだ。

 なによりナズナは虹を見たことがない。本当は目撃したかもしれないが、自分が愛する男と出会う以前の出来事はーーひとつの例外を除いてーー記憶の中で影も形もなくなっていた。

 けれど、流石のナズナも虹が太陽の下にかかることは知っていた。吸血鬼には撮れない光景であることも知っている。

 

「アンタは人間になりたかったのか?」

 

 ナズナはある存在のことを思い出した。

 星見キク。多くの人間の血を吸い、眷属にして、多くの誰かの幸せを壊した吸血鬼。最後は愛した人間の血を吸って、灰になって朝に溶けた元吸血鬼。

 吸血鬼になった時間が短ければ、人間になっても肉体にかかる負担は少ないだろうが彼は少なく見積もってもナズナの倍は生きていた。

 最悪の結末を想像してナズナは身震いするが、男は首を左右に振って否定する。

 

「いいや、私は彼女を吸血鬼にしてあげたかったんだ」

 

 予想外のナズナは椅子の振り子運動を止めて、前のめりになって彼を凝視する。

「どういうこと?」とナズナが思いをそのまま投げかけると、男は薄く笑って応えた。

 

「彼女は吸血鬼になることを望んでいた。僕の絵をずっと見ていたいと言ってくれた。けれど、僕も彼女に恋をしてしまったせいでその夢は崩れた」

 

 吸血鬼と両想いになった人間は吸血鬼にならずに死ぬ。理由は不明だ。しかし、実際に星見キクと共に亡くなった男をナズナは知っている。

 

「だから約束した。僕が恋心を忘れた暁には、彼女が望んだ絵もプレゼントすると。幸い血は吸ってなかったからね」

「それでその絵は?」

 

 無粋な質問だと思った。

 男の視線がナズナからズレた。彼の瞳が納める場所へとナズナも首を動かすと、そこには先ほどのキャンバスがあった。

 

「絵は先に片付けるつもりだったんだ。けれど、出来なかった」

 

 男の声が鉛のように重く、暗くなる。何も描かれていないキャンバスへ歩み寄る。

 

「僕と彼女のことだと思うと、本当にまた好きになれるのか不安で手がつかなくて、かといって他の誰かだと想像しても自分たちが幸せじゃないのに、と祈れない」

 

 恋慕や嫉妬、様々な感情が入り混じる想いを受けとめることができなかった彼はずっと立ち尽くすだけ。

 

「恋心を引き摺って、この歳だ」

「……亡くなったんだな」

「つくづく弱い自分を呪ったよ」

 

 ナズナにとって他人事ではなかった。

 相手の血の味を知らないこと以外瓜二つだった。

 

「虹は幸せの象徴。またふたりで見たかったけど、彼女はもう墓の中。僕はずっとここにいる。もう呪いが解けることはない」

「吸血鬼なのにか」

「知らないのかい? 虹は夜にもかかるものなんだよ。一番星のそばでね」

 

 想像力を働かせてみるが、ピンと来なくて「そいつは見てみたいな」と流すことにした。

 

「虹を見つめるときに心に翳りはない。それは人でも、吸血鬼でも変わらない」

 

 男はキャンバスに向けていた視線をナズナに戻す。瞳に宿った強い意志、それが視線から伝わってくる。真正面から受けとめる。

 

「ナズナくん、忠告しておこう。今のまま事態を好転も悪化もさせず場当たり的に過ごすのもいいが、覚悟は決めないといけないよ」

「できてるよ」

「本当かね」

 

 男は肩を落として呟いた。

 

「できれば、キミらが僕らとは違う道で(まじな)われることを願っているよ」

 

 男はくるりと背を向けて、筆に手を伸ばした。

 再び過去に立ち向かおうとする背中を見ているナズナの腹の中で意思は固まっているはずだ。

 

 

 コウくんが死ぬその時まで、アタシは。

 

 

ーーーー

 

 

 光が差し込んだ。ぼんやりとした視界が次第に力強い輪郭を描き出して、像を形作る。

 寝ぼけながら頭を左右に振る。壁にはシロクマやクジラといったこの地だからこそ撮れる動物たちの写真が飾られている。

 

「やあ、起きたかい? ナズナちゃん」

 

 眠気がおさまらない瞳をパチクリと数回瞬かせてから、声がした方を見た。そこには暖炉に火を起こしたばかりの老婦が人のよい笑みを浮かべながら、ナズナに手を振っている。

「ん、おはよう」と口元を覆っていた真っ白なマフラーを下げてから、彼女は返事をした。

 

「おはよう。時間は夜だけどね〜」

 

 どうやら毛布に包まったまま椅子で寝てしまっていたようだ。

 

「何か手伝う?」

「なら、スープでも一緒に作ろうか。そろそろ晩御飯だからね」

「オッケー」

 

 相槌を打ったナズナは立ち上がり、毛布を椅子の背もたれにかける。マフラーの尾は火にかからないよう背後に回す。

 ふたりで何を作るか話しながらキッチンに向かい、各々準備に取り掛かった。

 

「そういえばこの間の子。また来るのかい?」

 

 老婦が使う食材を出しながら尋ねた。

 この間の子ーーと言われて、ナズナが思い浮かぶのはたったひとりだけだ。

 

「コウくんのこと? ……あれ、おばあちゃんってコウくんに会ったっけ」

「町の子たちが教えてくれたのよ。なんせ浮浪の少女を追ってわざわざこの町にやってくる男の子。話題にならないほうがおかしいよ」

「あはは、客人じたい珍しいもんね」

 

 笑いながらナズナはニンジンを器用に刻んでいく。

 ナズナは旅をしている。夜守コウという自分の眷属候補への恋心を忘れることが目的だ。自分の初恋を終わらせてコウを吸血鬼にする。

 そう意気込んで国を出たのはいいものの、恋が冷める様子はなくずっとのらりくらりと生きていた。

 しかし、数ヶ月前に突如としてコウがナズナの前に現れたことで事態は変わった。

 コウが探偵になった。ナズナのもう一人の友達である目代キョウコ。探偵名、鶯アンコと名乗る女性の助手として精を出している。

 その中で人脈――吸血鬼含め――を広げたコウは、中々戻って来ないナズナに自分から会いに来たのだ。わざわざ外国にまで来るとは思っていなかったナズナは、度肝を抜かれたことを今でも覚えている。

 

「追いかけっこの途中だからね。アッチに時間があって、アタシもここに居るならまたこの町の土を踏むんじゃないかな。前にも話した通り、そろそろ別の場所に行くつもりだけどさ」

 

 いつかまた彼と会えることの喜びも、当然覚えていた。

 

「世界を股にかけた恋愛逃避行か。熱烈熱狂、いい人生じゃない」

「そんな大層なモンじゃないよ」

「でも、こうして料理も上手くなってきてるわけだし、花嫁修行みたいなものでしょ」

「うっ……そういうこと言うなよ」

 

 ナズナは老婦のうっとりとした物言いに照れ臭さを感じて頬を赤くする。

 旅をする過程でナズナは知り合いの吸血鬼からの紹介で理解ある人間の家にお邪魔することが多々あった。老婦もそのひとりで、彼女のご厚意で住まわせてもらっている。

 その礼として家事などを手伝ってきた。その影響で料理や洗濯など一人前になっている。

 

「いつか振る舞えるといいわね」

「いつになるかな」

 

 そんな未来が来るなら来て欲しいと切に願う。

 

「ここを出るなら最後に贈り物代わりにその時のことを聞かせておくれよ」

「ええぇ、人に言うもんじゃないぞ……まったく」

 

 肩をすくめるナズナだが、大好きな人を語れることに不快感などあるはずがなかった。

 

 

 

 

「やっほ、ナズナちゃん」

「早すぎんだろ」

 

 冷えた首を暖めようと摩りながらナズナは目の前にいる青年に愚痴をこぼす。

 

「早く会えるだけ幸せになれるよ」

 

 静かに雪だけが降り積もるこの街にナズナがやってきた数日後、コウはまたぶらりと姿を表した。時期がちょうど春休みとはいえ、いくらなんでも早すぎだろとナズナは目を細めた。大方、旅の途中で会うススキや他の吸血鬼から情報をもらったのだろう。

 そこは問題ではない。

 大変なのは記憶よりも大人びてきたコウの立ち姿だ。大人というには笑顔が幼く、子供に括るには早熟すぎる。両耳にピアスを開けて草臥れたコートを着ているのが、どっちつかずな振る舞いに危険な薫りを加えている要因だ。

 それだけでも魅惑的なのに、彼は怯えることなく首をナズナに見せるのだ。

 襟を立ててくれればいいものを、律儀に折り畳んでいるせいで綺麗な首筋が露出する。邪魔になるものなんてなにもない無垢な柔肌。

 生唾を飲み込む。最高の血が目の前に。

 だから、

 

「効かん!!」

「ふぎゅうううう!?」

 

 手を出そうとするのだが、コウの肩を掴もうとする両手を逆に捕らわれて、粉雪が霙に様変わりしながらナズナの背後へ去っていく。

 瞬きのあと、自分が顔面から雪の上に叩きつけられたのに気づく。べちょりと顔が濡れたことに気を取られていると腕の関節に激痛が走る。

 

「ぐぎぃ!?」

「膝固めじゃ!」

 

 ガッチリと技を決められたナズナは思わず呻き声をあげてしまう。

 吸血鬼は人外ゆえに人間には測れない力を持っている。厚さ何十ミリのコンクリートを打ち砕いたり、腕を一振りで切り落としたりなど枚挙に暇はないが、吸血鬼であるナズナを抑え込むコウの力。それは半吸血鬼と呼ばれる半端者の力。

 

「痛いいたい! また半吸血鬼になってきたね!? しかも技のレパートリーが増えてる!?」

「前のままだと思わないことだ! 今の俺は朽木倒しも腰締めもできる!」

「なんかよくわかんないけど頑張ったね!! タップタップ!!」

 

 ナズナが雪を必死に叩いてパサパサと音を立てると、コウは力を徐々に緩めていく。くるぶしまで積もった雪の中で、バランスを取りながら立ち上がろうとする。

 

「ハッハッハ! リアルファイトだと俺が連戦連勝だね!」

「ふ、ファイトなんてしてないし! 本気でやったらアタシが勝つもん!」

 

 誇らしげに笑うコウを見て、ぷくうと饅頭のような顔にして怒る。

 ナズナとコウが直接対決をしたことはない。あっても今みたいに戯れ愛の延長線上で、全力で戦ったらどうなるかは分からない。分からないけれど、多分やりあったら自分が負けるとナズナは本心では思っている。

(ビルを一発で壊すやつと戦って勝てる気しないし……)

 以前、自分が住んでいた雑居ビルが粉々に粉砕された様を思い出して、思わず身慄いする。

 吸血鬼と人間の狭間を生きる青年。半吸血鬼という異端な存在だからなのか、通常の吸血鬼では出ない力を彼は宿している。

 

「ほら」

 

 桁違いの力が籠っている手をコートの中に入れると、そこからあるモノを取り出した。新鮮で真っ赤な血がたっぷりと入った血液パックだ。

 

「もう何個か持ってきてるからあとで渡すね」

「サンキュ」

 

 和かに笑うコウにナズナは肯首する。

 彼の背後に微かだが雪を被ったアタッシュケースが見える。恐らくその中に入っているのだろう。

 

「はい、ナズナちゃん」

 

 コウは封を開けると飲み口を差し出してくる。艶々の赤色に目を奪われたナズナは、飛びつくように飲み口に口をつける。

 一息にちゅぅと吸い込んで、身体中にエネルギーが広がっていき、自制心と力がどんどん溢れてくる。自分を呑み込む衝動もなりを潜める。

 

「ぷはあ〜〜」

 

 口を離すと、風呂上がりの一杯を思い出させるような満面の笑みを浮かべた。

 

「いやあ、飲んだ飲んだ! やっぱりコウくんの血は最高だな」

 

 できれば直接首を噛んで飲みたいけれど、それは我慢したければならない。パック経由でも飲めるだけありがたいことなのだ。

 

「落ち着いた?」

「おう、バッチリだ!」

「それは良かった」

 

 血液パックを手渡してコウはナズナの左隣に腰を下ろす。ふたりは並んで雪景色が続く地平の彼方を見つめる。白と黒がはっきりと分かれた二色の世界だ。

 厚着をしているとはいえ雪に直接の座るので、じんわりと冷たさが臀部から伝わってくる。

 

「冷たっ!?」

 

 一箇所が冷えると他の場所も異様に冷たく思えてくる。頬に触れる粉雪さえも身体を裂くのではと疑いたくなる。

 コートの端を雪と尻の間に挟むように座り直して、冷たさを和らげようとする。

 動くと視界の端に風に揺れた淡い紫色の髪が現れる。その持ち主へと眼を動かす。

 

「どうした?」

「いや、別に」

 

 何事もないと示すようにコウはぴしゃりと否定しながら、彼女からは見えない左手でコートを強く掴んだ。

(吸血衝動が無ければ一緒に温まれるのかな)

 せっかくコートを羽織っているのだから、ふたりでくっつけばマシになるはずだ。少なくとも人肌の温もりは感じられる。

 けれども、不用意に近づけばナズナが自分の首から血を吸ってしまう。

 自分だけならいいが、ナズナまで死ぬことをコウは認められない。少なくともお互いに覚悟が出来ていない今、最悪の事態が起こることをふたりは望んでいない。

 だから、彼らの間には確かな壁がある。相手を思うからこそ生まれてしまう壁がふたりを阻んでいる。

 その壁はいつまであるのだろうか―――

 

「やっぱり何か隠してるだろ」

「あ、いや、別にぃ?」

「そうやって眼を逸らす。朝井ちゃんとちちくり合ってたのがバレた時みたいな顔してるよ」

「そんな顔してる!?」

「してるしてる」

 

 何度も頷くナズナを見て、自分の顔に手を当てる。自分ではよくわからず、手鏡でも持って来れば良かったなと思った。

 ただ血を吸われないから自分の懸念は、口にしなければバレることない。

 心の内を隠す為、コウは逸らした眼をもう一度ナズナに向ける。

 

「アレから二ヶ月くらい経つけど身体に異変はない?」

 

 問われたナズナは不思議そうに眼を丸くしながら、自分の顔を触る。頬に当てた手が首へと下り肩へ。そして胸や背中から腰、太もも、足先と順に確かめる。

 そしてひと拍子置いて、ナズナは口を開く。

 

「変なところはないけど」

 

 キョトンとした声にコウは緊張を緩める。

 

「血液パック経由でもダメだったらどうしようかと思ったよ」

「そういえば、どうして大丈夫なんだろ?」

 

 以前出会った時は三年の間に何をしていたとか、他の吸血鬼たち――主に本田カブラ――からの伝言だったりで時間が尽きてしまった。

 考えもせずに吸ってしまったが、普通に考えたら死ぬ可能性もあった。

 

「よく躊躇なく渡せたよな」

「大丈夫だって事が分かったからさ。ただ長期間飲んでも問題ないのかはまだ実験途中なんだ」

「今は探偵じゃなくて吸血鬼の生態でも調べてるの?」

「はは、その手伝いも、かな」

 

 曖昧な言い方にナズナは首を傾げる。

 

「ナズナちゃんが帰ってこなかった三年間で色々あってさ。探偵てことで吸血鬼以外の仕事も手伝ってて、聞き込みとかそういうの」

「お。いかにも探偵らしいじゃん」

「でしょ」

「それで? その三年で何があったの?」

「変な科学者に出会った。しかも嬉々として吸血鬼を調べるタイプの」

「絶対マッドサイエンティストじゃん!!」

 

 ナズナの頭の中には得体もしれない薬品が入ったデカいフラスコを持った研究者が『フフフ……っ』と低い笑い声をあげていた。

 お化け嫌いのナズナは自分で想像したものにも関わらず、身体を大きく震わせる。

 彼女が想像するものを雰囲気だけで察したコウは、肯首するか迷った。あながち間違いではないからだ。

 

「五十鈴大智って学者で、とある依頼で偶然知り合ってさ。その時に吸血鬼というか、人間と半々になってるの見抜かれ……見抜かれたのか? まあバレちゃって、吸血鬼について調べたりしてもらってる」

 

 コウの中で五十鈴大智という学者が釈然としないのは、自分が半吸血鬼になれる事がバレた理由が分からないからだ。

 相手の前でピアッサーを使った訳でもないし、吸血鬼について話してもいない。コウの中にある人間とは異なる何かを見通されて、話す事になってしまったのだ。

 しかも大智は『へえ、吸血鬼か。僕たちの世界には変わったものが沢山いるね』と興味深そうにコウを眺めて、吸血鬼の存在を否定すらしない。疑問すら投げかけず受け入れていた。

 

「人間なんだよな?」

「脈はあるって探偵さんも言ってたし、間違いないと思うけど」

「でも、コウくんみたいなパターンもあるしなあ」

 

 ナズナが髪の中に手を入れてクシャクシャと動かす。

 言いたいことは分かる。

 しかし、吸血鬼ではないとコウは思っている。人間、吸血鬼問わず多くの奇人変人と出逢ってきたコウだが、五十鈴大智という男に関しては全く毛色が違う存在に感じたのだ。

 

「ソイツは吸血鬼に何も思わなかったのかぁ?」

「脅威とも思ってないみたい。それに吸血鬼よりも眷属化のメカニズムの方に興味がありそうだった」

「まあ、それで種が増えるからな」

「『感情による変異……ギラギラと人生放棄による幸不幸の逆転現象で引き起こす簡易的な……』みたいなことをブツブツ言ってる」

 

 口に手を当てて呟くコウを見てナズナは目を細める。

 

「ヤベェやつじゃん」

「吸血鬼に言われる人間って相当だよね」

 

 腕を組んでふたりは頷きあう。

 

「そんな人だけど、研究に対しては真摯だからその点は信頼できる人なんだけどね」

「コウくんの血を飲めてるのもソイツのおかげだし、遠い異国から感謝はしておくよ」

「本人は顔も見てみたいって言ってるけど」

「モルモットにされそうで怖いし嫌だよ……」

「ひ、否定しきれない」

 

 しかし、悪人ではないのは確かだ。

 なんせ、彼はコウの願いのために協力してくれる数少ない人間なのだ。吸血鬼についても鼻で笑わないし、よく分からない生態をしている吸血鬼に喰らいつくように研究をしてくれる。

 

「ま。五十鈴が生きてる内に日本に行けたら挨拶くらいはしてみるよ」

「俺としてはいつでも帰ってきていいんだけど」

「ダメにしまってるでしょうが。いつまで平静でいられるのか分からんのだぞ」

「その時はまた締めてあげるから」

「返り討ち前提で話進めるのやめない?」

 

 コウの言いぐさは自信よりも味を占めた感じが強い。

 実際コウは強くなった。通常の吸血鬼から外れた身体スペックや半吸血鬼という変貌による不意打ちなど、元から備わっている力を差し引いても、身につけた技術で暴発寸前のナズナを抑え込める。

 お陰で心理的な壁はあるけれど、傍にいられる。

 そばに居ても大丈夫だとナズナに印象付けることができた。

――けれど、あくまでコウにとっての話だ。

 ナズナにとって、良いことではない。

 甘えが生まれてしまうのだ。

 コウと一緒に夜を過ごすことは、ナズナにとって嬉しいことのはずなのに今は素直に喜ぶことができなかった。

 手に持った血液パックに視線を落とす。

 綺麗な血が入っている。自分に渡すために大事に保管されていたんだと、ナズナはその想いにポッと胸を暖かくする。けれど、その見た目とは違って中にある感情は日を置いた薄味になっている。

 旅の途中でもナズナは時より酒を飲む。血は酒と違って日を置けば美味しくなるものではない。

 直飲みが一番だ。

 いま、この瞬間に、彼が強く思っている血を、月夜の下で首筋からそのまま飲みのが一番美味しい。飲みたい。七草ナズナの舌は肥えてしまったのだ。

 旅に出て飲むことを諦めていた喉が、パック経由で飲めるという事実に甘えて『飲め』と訴えかけてくる。

 キクとマヒルだったから死んだのかもしれない。吸血鬼と人間のハーフである自分が吸ったらうまいこと二人とも死なずに済むかもしれない。

 そんな油断が彼女の心を蝕んでいく。

 ――きっと、

 ―――きっと、そうだ。

 

「ナズナちゃん、聞いてる?」

 

 コウの一声にナズナはびくりと身体を強張らせる。

 血液パックに向けていた視線がいつのまにかコウの首筋に移っていた。

 ナズナは慌ててパックの中の血を飲んだ。一滴も残さないほど豪快に飲み干す。

 

「いやぁ、コウくんってホント美味しそうだよな」

「えっ、待ってそれは血ってことだよね?」

「そのままの意味だよ」

「めっちゃ目がギラギラしてる!? 怖い!!」

 

 もちろん冗談なのだが、本当に襲ってしまいたいほどの衝動には駆られていた。血を飲んだから平常心を保てているが、もしこれが数年ぶりに会った時だったらどうするべきか。

 ナズナには自信がなかった。

 関係を断ち切って『血もいらない』と言えれば簡単だが、コウに会えるのは、コウと話ができるのはやっぱり嬉しい。それにナズナから断ち切った所で目の前の青年は必ず探し出すだろう。

 彼は昔からそうだった。

 コウを落とす決意をしたものの、彼に合わせる顔がなく街を彷徨っていたナズナを彼は自分の力だけで見つけ出したことがある。

 ナズナを突き刺す瞳は、その時の輝きと同じだ。寒空の下だというのに真っ赤に燃えるとすら思えた。それだけ強い意志が彼の中には宿っている。

 知らない土地の、知らない言語すら越えて彼はここにいる。

 以前、自分に会いにきた時と変わらない。

 なんとしても自分を日本に連れ帰る願いを持っている。

 ナズナの覚悟は彼の思いに比肩するものか?

 首を縦に振れない。

 軟弱な心のまま――出来てると言ったくせに情けない。

 

「やっぱり聞いてなかったんだね」

「悪い悪い。で、なんだっけ?」

「この間のリベンジだよ!」

「あー……オーロラとかの?」

「そうそう! エキ氷河も見たいし、クジラやセイウチが見れるクルーズツアーとかさ!」

「……やっぱりコウくん変わったよね」

「そりゃ3年も経てば変わるよ」

「そうじゃなくてさ。昔は口数少なかったり、東京に理由もなく憧れるなとか言ってたのに行動派になったよな」

「だってナズナちゃんと見たいって歴とした理由があるし。せっかく遠くの異国に来たんだもの。ふたりで楽しみたいよ」

 

 私もそうだよ。

 ナズナは遠ざけるための擬弁を心の中に秘めながら鼻で笑う。

 

「いつか春が来たら見に行きたいなぁ」

「その春はいつになるのかな」

「さあ、いつ頃だろうね」

「因みにオーロラは4月までがシーズン。もうそろそろ終わっちゃうよ!」

「でも、あと数日は雪ばっかりだしな。ま、見られる季節になったら、また見つけてくれよ」

「ナズナちゃんはすぐにそう言う……でも見つけるさ。何度でも」

 

 コウが浮かべた笑顔に懐かしさを覚える。

 

「いつかはずっと傍にいられるようにしてみせる」

 

 確信に満ちた声が夜空へ突き抜ける。

 

「っ……」

 

 いつのまにか彼はナズナの手の上に自分の掌を置いていた。温かい。掴み返してあげたい。できない。力で勝るとはいえ、死ぬ引き金になるかもしれないことを承知でやっているのだから末恐ろしい。

 危ないと分かっているのにドキッとしてしまう自分もちょろい奴だと思った。

 

「そうだ! あとね、面白い話を聞いたんだよ! まんまるの虹の話!」

「丸い虹……にじぃ? 月じゃなくて?」

「そう、虹なんだって! なんか夜にしか見れない絶景なんだって!」

「虹かぁ……アタシ、見たことないんだよなぁ……」

「だったら最高の一枚にしなきゃね」

 

 雪が降る空を見上げるコウの横で、ナズナは付き添うように真っ黒な空に浮かぶ七色の輪っかを想像する。

(なんか……空虚だな……)

 興奮する隣の青年とは違い、幸せの象徴に寂しさを感じていた。

 地の果ての何処かに脚をつけている虹は何かのそばにある。けれど、一人っきりで完結してしまった輪には他に何もない。できた円の虚空は、まるでぽっかりと空いた心のようにすら思えてならない。中身はどこに行ってしまったんだ。

 だからこそ、不思議に思えてならない。

 呪いを受けた画家は、なぜそこまでして虹を見たかったのだろう。虹が単なる幸せの象徴だからだろうか。

 

「でも、コウくんとなら良いものが見られる気がする」

「ふたり一緒なら何でも良いものになるよ」

 

 答えは出ている。

 ふたりだから幸せなものになるのだ。でも、虹である必要はどこにあったのだろうか。

 

「月、見えないね」

 

 コウが顔を上げて言う。

 

「空も地平線も真っ白だよ」

 

 ナズナはどこまでも続いていく白い地平線だけを見つめる。

 

「コウくん、また遊びに来てね」

「うん。また見つけるよ。ま、今日はここでゆっくりしてくんだからさ」

「ええ!?」

「大丈夫。今度は迷惑はかけないからさ」

 

 不敵に笑うコウに余念はない。大きめのアタッシュケースには血液パックの他に着替えやふたり分のゲーム機などが入っている。

 

「格ゲーのソフトも持ってきたんだ」

「そりゃいい。さっきのお返しをその身に叩き込んでやる」

「おーし! 昔の俺じゃないから覚悟しておきなよ。またハルカとも特訓してきたんだから!」

「返り討ちにしてやらー!」

 

 闘志を剥き出しにするように各々の牙を見せ合う。

 そこでコウが間の抜けた声を出す。

 

「そうだ。忘れてた」

「ん? どうしたの?」

「渡したいものが他にもあってさ」

 

 コウは思い出したようにアタッシュケースに駆け寄る。積もった粉雪を払って、一度手に息をかけて温めたあとケースを開いた。

 その中から取り出したのは肌触りが良さそうなマフラー。ナズナがいつも身につけている真っ黒なオーバーパーカーと正反対の上品な白を基調にしている。

 

「なんでマフラー?」

「この間あった時、ちょっと寒そうにしてたからさ。ほら、ここって冬場になるとマイナス20度になるらしいじゃん。前入った冬の海よりも寒いんだよ、今だって寒いし」

 

 そのことはナズナも覚えている。

 気温の変化に耐性のある吸血鬼とはいえ、流石に冬に海に入っていられなかった。

 確か、日本の海水温度が5度や10度ぐらいだったと思い出す。それよりもずっと寒いのだから、手で摩りたくなるのは自然な行為だった。

 

「ナズナちゃん、巻いていい?」

「う、うん」

 

 パーカーの首周りにあるボタンを解き、ファスナーを下ろす。背中を向いたナズナの首が顕になって、そこにコウが持つマフラーが巻かれていく。

 

「どう?」

「気持ちいいし、何よりあったかい」

 

 マフラーのおかげでだいぶ寒さが緩和される。見た目通りの肌あたりの良さもあり、柔らかな生地に手を沈ませる。チクチクとした感覚がないマフラーにナズナはぼんやりとだが、これ高かったんだろうな、と思った。

 

「コウくんから見て、どう? 似合ってる?」

「似合ってる」

「良かった」

 

 そう言ってもらえるだけ、彼にとって自分が価値がある存在だと認識できる。血を吸わなくても理解できる感情表現だ。

 

「それじゃあ、そろそろ中入ろっか」

「あ。いいんだ」

「どうせ帰れって言っても帰らないんだろ?」

「正解」

 

 ふたりは雪景色に家までの足跡をつけていく。

 

「今日、家の人は?」

「旅行中。暫くは帰ってこないよ。しかも日本の……うきなんとかって神社に行くって。全くナイスバッティングだよ」

「じゃあ、明後日まで居ないのか」

「今回もそれだけなの?」

「うん。冬休みがもっと長くなればいいのに。せっかく夜が長い時期なのに」

「勿体無いよなー」

 

 コウがナズナと居られる時間はいつだって短いのだ。行って帰ってを含めると本当に時間がない。

 頑張って連れ帰ろう。

 コウは心に誓った願いに準じる。

 

 

「惚気が多い!」

「そ、そうかな……?」

 

 話が終わると、老婆が吼えた。決して嫌気がさした訳ではなく、歓喜が有り余って吹き飛んだのだ。

 

「にしても、好き好きぃって感じだったのに帰らなかったんだ」

「むぅ、そりゃね。いつ暴発するか分からない爆弾を抱えたまま帰れんよ」

「殺しちゃうのは嫌よね」

 

 老婆は食事に使った皿を洗いながらナズナの話に相槌を打つ。

 

「でも、その子は死ぬことも腹に入れてるように思えたけど」

「どうだろうね。それにコウくんの意思とアタシの願いは別でしょ。アタシにしてみれば、好きな人と一緒に死ねるって幸せか分からないし」

「わたしらみたいに永く生きた上でなら満足はするでしょうけど、その子はもっと先がある。若いなら先を求めたくなる」

 

 綺麗になった皿は鏡のように老婆の姿を写し、純粋な輝きを放つ。

 あるはずだった未来を捧げるほど恋してくれるのは嬉しい。けれどナズナは、コウの親友という幼い命と共にこの世を去った星見キクのようにはなれない。

 

「完璧を求めすぎるのが間違いってのは分かってるけどさ。やっぱりコウくんが満足できる最期がいいんだよ」

「でも、このままでも大切なコウくんの時間を浪費させてることになるわよ」

「ッ……」

「足跡をつけてるのだって、わざと会えるようにするためでしょ?」

「うるさいなぁ、コウくんがいないとダメなのは分かってるんだよ」

 

 図星を突かれたナズナは分かりやすく狼狽する。

 ナズナのしていることは、今全てを奪うか、ゆっくりと時間を使わせるかの違いでしかない。そう考えると、星見キクの方が潔いのかもしれない。

 

「なりたい理想があるなら、信じて動かなくちゃ運も掴めないわよ。話を聞いてる限りコウくんは前に進んでると思うけど」

 

 コウは間違いなくナズナの先を進んでいる。

 心も体も、熟そうとしている。

 

「今度会ったらちゃんとデートに行きなさい。その子と一緒にハロの輪が見れたら幸運よ」

 

 老婆が強い口調で言うのでナズナは少し驚いた。尻を叩かなければナズナが動かないことを老婆は見抜いているのだ。

 

「人間、いつ死ぬか分かったもんじゃないんだから。都合よくそばに居られるなんて思わない方が身のためよ。最後に『幸せだったね』で死にたいのなら尚更ね。したいことがあるなら、しておかないと」

「したいこと……ね……」

 

 理想論だと投げ捨てれば楽になれる。

 

「そうだ。コウくん、壁にかかってる写真を見てはしゃいでたよ」

「本当? 天にいるあの人も喜ぶわ」

「それは良かった」

 

 ナズナは視線を落として考える。

 心という名の神による呪いが自分を動かさないのでは。

 最期の時に、コウの身体に流れる確かな祈り(恋心)を感じるにはどうすべきなのだろうか。



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EX-Night4 虹の空蝉(後)

 春が終わり、夏を超えた。

 秋は背後に流れて、冬がやって来た。

 コウがナズナを訪れた最後の日から、あと一ヶ月もすれば一年近く経つ時期だ。

 あれから、コウはやって来なかった。

 何故だろう。何で来てくれなかったんだろう。

 

「……コウくん、コウくん」

 

 ナズナは呟き続ける。

 自分の居場所は日本から遠く離れた異国なのは従順承知している。自分の脚でここに来たのだ。見つけられなくても無理はない。

 けれど、彼は見つけてくれたのだ。

 だから、来ないはずがない。

 来てくれる。

 コウは来てくれる。

 

「コウくんコウくんコウくん……」

 

 自分の痕跡を見つけられなかったのだろうか。

–––手伝いを始めたって言ってもまだ数年だし、仕方ないのかな。

–––先輩もアザミもアタシの足取りが分からなかったのかな。

–––ススキっぴにもここ一年会っていないし。お互い、世界中旅して回ってることを考えたら、ばったり出くわすなんて奇跡か。

–––足跡は残したはずなのにな……

 

「……はあ……はぁ」

 

 ナズナは部屋の隅で膝を抱えて丸くなりながら、荒い呼吸を繰り返している。自分の吐息だけが近くで聴こえる。ひどく疲れ切った身体は小汚く、美しいを象徴する生き物である吸血鬼とは一眼見ただけでは誰も気づかない。

 彼女のそばには空になった試験管と栓をしていたコルクが無造作に床の上を転がっている。中にはひび割れた試験管すらあった。

 割れてガラス片の先から、微かに残っていた血が床に垂れた。

 

「くそ……」

 

 ナズナは血が床のシミへ変わっていく前に指で掬い取って舐める。

 多少は気が楽になるが、本当に微々たる差だ。

 いくら胸にどデカい風穴を開けられても血液一滴飲めば瞬時に回復してしまう尋常ではないエネルギー効率、回復速度を持っている吸血鬼とはいえ、今のナズナにとっては塵に等しかった。

 血が足りていないのだ。

 コウが持って来た血液パックはないのか、と問う者もいるだろう。

 そう、問題はそこなのだ。

 彼から渡された血液パックの量は一年間耐え続けるには少なかったのだ。

 ただでさえ、血液というのは繊細で大切な貴重品。

 日本に出る前に看護師である本田カブラという吸血鬼–––ナズナの母代わりでもある–––に、看護師の仕事について軽く教えられたことがある。

 採血などを行うらしく血を吸う吸血鬼としては天職で、コウの血が吸えなくなったナズナは、血を求めて看護師に就こうとした。

 ナズナはカブラが言っていたことを思い出す。

 輸血用に使われる全血は2度から6度で保管されており、その使用期限は採血後からたったの21日まで。赤血球ですら28日がデッドライン。

 余りにも短すぎる期間。

 その間に使いきれなければ、一部分は出血や血栓を改善するための血漿分画製剤の生成に用いられるが、大部分の血は何にも使われず廃棄される。

 

『だから、皆んなには献血に行って欲しいのよね。私たちの食事のためにも』

『人間に使う期限と吸血鬼が飲む期限って関係あんの?』

『飲んで腹を壊すってことはないけれど、念のためにね。あとやっぱり新鮮味が薄れるの。飲むと、あ、これ古いやつだって分かるくらいには』

『飲んだことあるの?』

『……ハルさんの眼を盗んで少しだけ、ね………』

『看護師がつまみ食いすんなよ』

『悪かったわね! あの時はお腹が空いてたのよ!』

 

「あぁ……確かにお腹が空くなぁ……」

 

 転がっているコルクを小突きながらナズナは力無く口にした。

 周りに転がっているのはコウの血ではなく、ここに行き着く前に売人から受け取ったものだ。

 つい先日購入したばかりだが、新鮮なものではなかった。運が悪いことに、血の本来の持ち主はすでに眷属候補から除外されているのか、喉を抑えたくなるほど不味い。

 しかも、飲んでもエネルギーになった気がしないのだ。逆に身体を害してしまう。

 コウの血が欲しい。

 

「コウくんが見たら怖がるだろうなぁ」

 

 コウが出会ったらしい死ぬ寸前の吸血鬼も、自分と同じ様な苦痛に耐えていたのか。

 いや、自分どころではないだろう。

 なんせその吸血鬼は、10年誰からも血を吸わずに生きて来たのだから。

 

「本当に感服するよ」

 

 自分が弱音を吐くには早すぎる。

 けれど、自分の辛さと他人の辛さを比較して良いことなんて何一つない。自分が辛いなら、他の誰かを付け加える意味がないのだ。

 

「コウくん……早く来て。だめ、来ないで」

 

 彼は何故来ないのだろうと、立ち返って考える。

 やれることがそれだけなのもあるが、自分の飢餓よりもコウの事が心配なのだ。

 病気になってしまったのだろうか? その病気はちゃんと治るのだろうか? 事故に遭ってしまったのか? 星見キクに殺されかけた時の様に溺死してしまったのではないか? 自分の知らない内にこの世を去ってしまったのか?

 嫌だ。嫌な想像だけが彼女の心の中で広がっていく。呪いの鎖が喉を締め付ける。

 コウが初めから会いに来なければ辛い想像なんてしなくて良かったけれど、会えて嬉しかったからこそナズナはより強く苦しむ。

 早く会いたいと願いながらも、会ってはいけないと戒める自分にナズナは苦悶する。

 相手がこちらの居場所を知らないのなら、自分から会いに行けばいい。コウの居場所をナズナは知っているのだから。彼は自分との繋がりを残すために故郷に残り続けているのだから、想い出に向かって足を進めればいい。

 けれど本当に会ったとして、今のままでは絶対に危険だ。

 吸血衝動に駆られている今、コウくんと出会ってしまえば何をするか分からない。けれど、いま動かなければ彼の顔を見ることすら叶わなくなるかもしれない。

 

「どうするかなぁ……」

 

 そう口にしながら、ナズナは壁に手をやってなんとか立ち上がる。

 

「子供が腹括ってるのに親が不甲斐なかったらカッコつかないよな」

 

 重い身体をなんとか支えながらナズナは冷蔵庫の前に立つ。扉を開けると床に転がっているのと同じ、試験管に入った血液が保存されている。

 試験管はプラスチックケースに収められている。

 取り出して中身を覗き込めば、残り1本になっている。初めは20本もあったのに随分消費が早い。

 

「最後の最後まで不味いなんてことはないだろ……」

 

 ナズナはケースから取り出して、試験管を軽く振った。ぴしゃぴしゃと血が弾ける。

 日本に帰るにしても、そのための準備がいる。

 吸血鬼には基本、身分証明書がない。人間として生きていた環境から抜け出すので、失踪から十数年経てば死亡届を出される。

 なので、特殊な方法で飛行機に乗ったり、家を借りたりするわけだが、今回に限っては前者は行えない。血を飲んでも満たされない心のまま、飛行機に乗り込めば大殺戮だ。

 だから、密入国よろしく人に会うことなく国を渡らなければいけない。

 その手配にも時間はかかるし、用意ができるまで此処にいる必要がある。幸いなことに人里離れてはいるが、山を降りればすぐそばに港はある。

 

「でも凍ってたら動けないんだよな。別口の渡りかたも考えておかないと、そのためにも」

 

 試験管からコルクを抜き取れば軽快な空気の抜ける音がする。中に入った血を一気に飲み干す。飲み込むと、やはり喉につっかえる不快感が後味として口の中に残る。

–––慣れて来たけど、やっぱり不味いなぁ……

 だけも、気休めがわりにはなる。

 

「アイツを見つけて血をもらって、日本に戻る話をしないとな」

 

 口を拭って、ハンガーラックにかかったいつものパーカーと、コウから受け取ったマフラーを手に取った。

 今宵の進むべき道は決まった。

 暖炉の火を消すと、室温が一気に下がった気がする。部屋に霜が張るのではと錯覚してしまう。ナズナは温もりを感じるマフラーをギュッと掴みながら、部屋の一角に置かれたベッドを見つめる。

(コウくんとまた一緒に寝たいな)

 願望と視線を切って玄関まで歩けば、冷たいままのドアノブを捻って押し開く。

 冷たい風が家に流れ込んできて身構えながら外に出る。

 白い息が立ち昇る。鬱蒼と茂った木々が作る黒の中に白が溶けて消えていく。

 

「月を拝めるかと思ったんだけど、仕方ないか」

 

 本当なら月が覗く時間だが、広げられた傘によってその居場所を探ることはできない。森の中に届く微かな光は月の光なのか、星の光なのか判然としない。

 ただそれだけの光があれば吸血鬼にとって、暗さはなんの障害にもならない。

 

「うぅ……寒……」

 

 凍えるのは当然で、辺りを見渡せば落ち葉の上に白の絨毯が重ねがけされている。先ほどまで雪が降っていたらしい。

 

「行くか」

 

 眼前にあるなだらかな斜面を注意しながら進んでいく。

 風景はあまり変わらない。白と黒だけが続く世界を眺めながら、いっそのこと吐き出した息のように溶け込むことが出来ればすべてが丸く収まるのではないかと思えてしまう。

 ちょうどいいことに服装は白と黒だ。なんら違和感もないだろう。

 ナズナは自分の中に湧いてくるのが弱音ばかりで嫌になる。コウと出会う前の自分にはこのようなセンチメンタリズムは介在しなかったはずなのに。

 

「アタシがどっかで死んだら、それこそコウくんの人生が無駄になるんだよな」

 

 ナズナには、自分が死んだ後も見つかるはずのない痕跡を探して人生を消費するコウの姿がハッキリと想像できる。

 自分のやるべきことは、コウが満足するまで生き続けること。

 それが今、壊れるかもしれない。

 会わなきゃいけない。

 杞憂ならそれでいい。ちょっとした病気ならそれでいい。また会える日を楽しみにする時間が伸びるだけだ。

 自分の高望みを抑えつけることが最低条件だけれど、血の入手自体はできるのだから待ち続けられる。

 でも、コウのそばに居ないいけない時に、ナズナは知る術がない。不安に思ったなら動かなければいかない。

 コウのお陰で、ナズナは勇気を知った。

 彼のようにナズナを御する力を手に入れたり、ナズナを探し出す知恵を身につけたり、半吸血鬼を使い続けられたりする運を持っている訳ではないけれど、一番大事なものは貰っている。

 所々凍り出した雪や落ち葉に足を取られないよう歩き続けて、木々の縫い目が広くなって来た。

 

「もうそろそろ出れる」

 

 そして、森から一歩踏み出した。

 視界が開けて光がより一層強くなる。重苦しい空気が弾け飛んで開放感のある爽やかな風が吹く。

 耳を撫でる風は冷たいけれど、揺らぎそうな心を真っ直ぐにするには適していた。

 

「今の時間ならアイツは酒場にいるか」

 

 再び付け出したトランシーバー型の腕時計を見る。

 時間は22時を過ぎた頃だ。コテージを提供してもらった時に、取引相手の吸血鬼は『日を跨ぐまでは酒場で男と飲んでるからいつでも来な』と言っていたのを思い出す。

 酒場までは十数分は歩くだろう。人間に会うと襲ってしまいそうで、なるべく人と出会わないよう売人と会わなければ。

 目的地を再確認した、その時だった。

 

 

プ――――ッ

 

 

「え」

 

 久しく聞いていなかった喧しい音が夜に鳴り渡って、ナズナはすぐに首を振りながら辺りを見渡す。

 この音が聞こえたということは、間違いなく。

 

「あ……」

 

 肩の力が抜けていく。

 雪に足跡をつけながら、米粒大のシルエットがこちらに近づいてくる。どんなに遠くても見間違えるはずのない人影に驚きながら、ナズナの息遣いは穏やかなものになっていく。

 ナズナは飛び跳ねるように駆け出して、一気に距離を詰めていく。

 彼もこちらに気づいたようで、足の進みが早くなった。

 お互いに近づき合い、どんどんシルエットが大きくなってきて、ようやく相手の顔が像を結ぶ。

 

「ナズナちゃん、久しぶり」

「コウくん!」

 

 一年ぶりに見た彼はまた大人びてて見えた。けれど変わらない笑顔を浮かべていて、自分の想像が杞憂に終わったことに安堵した。

 そうして、

 

 ―――ナズナの口元から何かが垂れた。

 

「コウくん!!」

「あ」

 

 気づけばナズナはコウを押し倒していた。コウの背が地面に激突した衝撃でクッションになった雪が飛び散ってふたりの頭にかかる。

 頬にへばりつく雪を払うことなく、ナズナはコウの両手を押さえつけていた。

 吸血衝動に駆られていたナズナの身体能力が、生存本能によっていつも以上の力を発揮してしまったのだろうか。

 

「ナズナちゃん、ちょっ痛いよっ」

「コウくん……コウくんの血……」

 

 恐れていた事が起きてしまった。コウの声はナズナに届いていない。

 コウの耳を見れば、ピアッサーで開けたものがなかった。つまり彼はいま、半吸血鬼になっていない。その証拠として、ナズナは彼から吸血鬼の気配を感じていない。

 理由を言ってしまえば、この段階で会えるとは思っていなかったのだ。

 ナズナもまた、コウと出くわすとは思っておらず心の身構えが出来ていなかった。

 なす術なくコウは人外の力で押さえつけられる。

 ナズナの視線の先には首筋が映っている。そこに歯を突き立てれば、美味しい血が飲めるのだ。

 

「ふふ……ふへへ……はぁ……」

 

 衝動のままナズナは恍惚とした表情を浮かべる。

 

「もう……がまんできない……」

 

 口を開けた。

 

「ナズナちゃん」

 

 コウは怯える事なく、開いた口を眺めながら彼女の名前を呼ぶ。

 

「人の血は夜が一番美味しいもんね。いいよ、ナズナちゃん」

「……コウくん」

 

 滴る雫のような曇りのない微笑みがナズナの視界の端に映り、顔が動き、彼の強さを真正面から見つめる。

 今のままではいけない–––

 コウくんを殺したくない。

 コウくんに幸せになって欲しい。

 願いが渦を巻いて、衝動と共にナズナの身体の中で暴れ回る。けれど、それだけでは足りない。反発するたびに衝動が膨れ上がっていく。

 なにか、代わりが必要なのだ!

 コウを強く求めてしまうこの衝動を打ち消して、心に凪をもたらすほどの強い衝動が必要なのだと、ナズナは生存本能の別側面から感じ取った。

 ならば何がある?

 コウと過ごした中で、思い出に色濃く残っていることは、

 

 

『だから、退屈なんてさせない。俺といよう!』

 

 

 あの後、自分はどうしたんだっけ。

……ああ、そうだ。

 

 心の中にフラッシュが瞬くと、不自然なほど自分の心がそちらに向いたことに驚いた。

 そして、今まで通り、唇を押し付けた。

 

「んっ」

 

 コウの瞳が驚いていた。

 あの時は決意と気恥ずかしさが入り混じって、思わず目を閉じたままキスをした。あの時が一番熱の入ったキスだったと思う。

 自分の舌がコウの口の中を犯しだす。

 

「あ、んんっ……っ……」

 

 今度のキスに熱が入っている訳ではなかった。

 それ以外の感覚が消し飛んで、コウと触れ合っているその一点だけが生きているような錯覚に陥る。

 

「ナズナちゃん……」

「コウくん」

 

 コウもナズナの口の中に舌を入れ始めた。

 お互いが相手の舌と口の中を舐め合う。唾液と唾液が混じり合い、艶めく卑猥な音を誰もいない夜の中に響かせる。ブザーのように姦しい訳でもないのに、妙に通りの良い音はふたりの耳朶を打ち、より深みへ嵌め込んでいく。

 抑えつけていたはずの手も次第に解け出し、優しい形で再び結ばれる。

 無心だった。陶酔していた。

 体勢を取り直したのもふたりは気づいていない。

 既にナズナの身体からも、心からも吸血衝動は消え去っていた。

 数分なのか、数時間なのか。幾許かたった頃。

 

「大丈夫だった? 血とかさ」

「全然ダメ。コウくんの血じゃなきゃ満足できない」

「あはは、ありがとうって言ったほうがいいのかな」

 

 名残惜しかったが、ふたりは口を離していた。

 吸血衝動は引いていた。

 各々は穏やかな雰囲気を醸し出しているつもりだが、温もりを確かめるように唇に手を触れているのを忘れてはいけない。

 

「中々会いに行けなくてごめんね」

「いや、悪いとは言ってないんだよ。その……ただ、コウくんにアタシの喉が調教されたというか」

「卑猥な言い方やめない?」

「まぐわいだぞ」

「今は食事だけでしょ!!」

 

 詳しく聞いていくと、彼が一年近く顔を見せなかったのは高校3年という大事な時期だったのもあり、試験が多くコウ自身が多忙だったかららしい。キョウコも仕事の都合が中々つかず、ナズナへの訪問を代わりに行くことが出来なかった。

 

「でも、コウくんの身になにもなくて良かったよ」

「ん? もしかして心配してくれてたの?」

「いや、まあね。外に出てきたのだってコウくんの様子を確かめるためだったし」

「日本に戻ってくるの!?」

「ちげぇよ! コウくんが病気で動けなくなってたら、自分で動かないと会えなくなるだけだし。無事なら行く必要なんてないよ」

「ナズナちゃん」

「不味い血をアタシに掴ませた売人を一発殴りたかっただけだし」

「ナズナちゃん……嘘下手……」

「………」

 

 図星を突かれてナズナは潰れた饅頭のような顔になる。

 事実、特例とはいえ自分たちの力で吸血衝動を押さえ込むことができたのだ。

 

「……これは、どっちなんだろう?」

 

 怪訝な表情でこちらを覗き込むコウの呟きにナズナは「どういうこと?」と返した。

 

「いや、薬の効果が出たのかなって」

「薬?」

「あれ、気づいてなかった? 俺が舌を入れた時に飲ませたんだけど」

「……ん? 待って何飲ませたの!? まさか媚や」

「違うから安心して!!」

 

 少し頬を赤らめながらナズナの口を制止する。

 躊躇いなく下ネタを喋ろうとするところは相変わらずで安心するのだけれど、変態扱いされるのは御免被るといった様子のコウは続けて話す。

 

「吸血衝動を抑える薬だよ。ジーニアス555って言うみたいだけど、名前はどうでもいいよね」

 

 コートの内ポケットに手を入れて、薬ケースからカプセルを取り出してみせる。赤、白、青三色のカプセルを見てナズナは返す言葉を失った。

 忌々しい自分を縛り付ける衝動を消し去ってくれる薬の存在は、瞠目に値するものだった。画期的と言っていいだろう。

 不手際を起こさない限り、薬さえあればコウの隣に居ても彼を襲うことはない。

 適度に誰かの血を飲んでさえいれば問題ないのだ。

 

「なんか……あんまり嬉しそうじゃない?」

「え? 普通に嬉しいんだけどさ。ただ、コウくんとのキスで衝動が消し飛んだと思ってたからさ」

 自分たちの力で押さえ込むことに喜びを得たばっかりだったのもあり、肩透かしを食らった気分だ。

 コウは頑固に首を振って、ナズナの曇りがかった気持ちを晴らす。

 

「ナズナちゃんはさっき、俺の血を吸えたのにキスすることを選んだじゃん。薬なんて使わずにさ」

「いや、あれは結構無心だったし」

「大事な所で踏みとどまれるなら問題ないでしょ。薬だけじゃ足りない部分も今のナズナちゃんなら大丈夫」

 

 下げていた視線にコウの手が割って入って来た。成長して大きくなった彼の手を見て、月明かりが差し込んでいるのだと今更気がついた。

 

「……」

 

 見上げれば、星はなかった。

 ただ大きな月を背にした彼の姿を見て、ナズナはただ彼に見惚れていた。月光が夜闇に彼の輪郭をはっきりと映し出す。あどけない笑顔も、月に負けない輝きを宿す瞳も、ゆさゆさと揺れて愛嬌のある後ろ髪も、その全てが蠱惑的で、とても綺麗だった。

 ナズナにはコウが月そのものにすら見えていた。

 

「どうしたのナズナちゃん?」

「いんや。今までで一番カッコいいなって、そう思っただけだよ」

「……照れちゃうナズナちゃんはもっと可愛いよ」

「ほっとけ」

 

 頬を赤らめたふたりは互いの手を取って、立ちあがる。

 

「あ」

 

 コウが嬉しそうに溢した声に呼応してナズナは跡を辿った。

 

「虹だ」

「ホントだ! ハロの輪だよナズナちゃん!!」

 

 そこにはまんまるの虹が空に円を描き出していて、月は虹の虚空を埋めるように宿っている。

 幸せを映し出す光の源は天に爛々と輝いた。

 昼間であれば拝むことすら光に拒まれたであろう空は、正しく夜だからこそ見える絶景だった。まるでナズナとコウだけを祝福する奇跡のような一枚絵。

(あいつが描きたいって思ったのもわかる気がする)

 自然とナズナはコウの手を強く握った。

 

「コウくん、カメラカメラ」

「え」

「せっかくの景色だよ! 写真撮ろよ!」

 

 ナズナが笑いながらそう言うと、パーカーからインスタントカメラを取り出した。コウも楽しげにレンズの枠の中に映り込もうとする。

 

「ちょ、もうちょい右」

「コウくんは膝立ちになってよ。それじゃ顔も虹も写らないよ」

「ごめんごめん。あ、コートの中入る?」

「入る」

 

 他愛のないやり取りを繰り返しながら、ふたりはポーズを取った。

 

「それじゃあ、はい–––––」

 

 

 

 パシャリ

 

 

 

ーーーーー

 

 

 その女性は冬特有のカラカラになった日差しに危機感を覚えながら、手庇を作って歩いていた。いつものように雑居ビルの中に構えた探偵事務所に向かっている最中だ。

 小道を経由しながら進み、目的のビルが目に入ると飛び込むようにして中に駆け込んだ。

 入ってすぐのところに郵便受けが並んでいる。

 その上から3段目の右端に【鶯探偵事務所】の表記があり、何か郵便物がないか一度目を通す。確認は日課なだけで何も入っていないことが常なのだが、どうやら今日は珍客がいた。

 

「お」

 

 たったひとつだけ、郵便受けに佇む小さな紙袋を取り出した。文庫本ぐらいのサイズの紙袋をコートにしまう。

 そして事務所がある4階まで階段を登っていく。最初は楽だったが、四階に近づくにつれて脚が辛くなってくる。三十代になった体が、以前より悲鳴をあげているのを理解して自分の衰えに嫌気が刺してくる。

 

「お疲れのようだね、鶯さん」

 

 ようやく目的の踊り場まで来ると、スズメの囀りのように柔らかく、それでいて気遣いの欠片も感じない軽薄さを持ち合わせた声がした。

 鶯アンコ――本名、目代キョウコは声がした方向へ顔を動かす。

 

「大智くんか。今日はどうしたのかな?」

「そろそろ夜守くんに頼んでいたものが届く頃かなと思ってね」

「案外暇なのかい?」

「研究のための時間さ。暇ではない」

 

 キョウコを待つ暇つぶしに大きめのフラスコを眺めていた白衣を着た青年は、コートの内ポケットの膨らみを見て、メガネの奥の瞳をニヤッと笑わせる。探偵事務所で吸血鬼の案件を扱う時、時折協力してくれる五十鈴大智と名乗る学者である。

 学者といっても、本人がどのような研究をしているのかはキョウコも知らない。なにやら怪しい動植物の世話をしているようなのだが、本人曰く『キミらが関わることじゃない』らしく、詳細を聴くには時間がかかりそうだ。

 吸血鬼と関わった時点で、他の摩訶不思議にも耐性ができてしまった事にキョウコの人生は、人間として理非の概念の中にはない。

 機会があれば聞いてみるか。

 その程度にしか思っていない。

 それに大智が現れたことは、キョウコにとっても都合が良かった。

 

「七草さん、見つかってよかったね」

「本当だよ。今回は骨が折れた……七草が隠れ上手とは思えないんだけどなぁ……」

 

 一度振り向いてからキョウコが事務所の扉を開けると、彼女の後に続いて大智も中に入る。日差しを取り入れる窓に背を向ける形で置かれている自分のソファに腰を下ろす。そしてコートの中に入れた紙袋をデスクに置くと、背もたれに身体をどっさりと預けた。

 手には紙袋と一緒に取り出したタバコとジッポが握られている。

 

「……」

 

 タバコの先に火をつけて、黙々と昇るだけの煙を見ながらキョウコは神妙な顔つきになる。

 

「気になっていることがある」

 

 壁に背を預け、フラスコをバッグの中にしまった大智は目線だけで問いかける。

 

「キミが作った鎮静剤は画期的だ。けれど、ふたりの行き着く先は別れだ。七草が吸えない以上夜守くんは吸血鬼にはなれないし、夜守くんは他の吸血鬼に恋をする気は微塵もない。現状はすべて、問題の先送りにしか過ぎないのではないか、と」

「……なるほど」

「悲観的かな?」

「いいや。現実的で良い着眼点だ。キミのような人がいて、夜守くんも心強いだろう」

 

 あくまでナズナが衝動的にコウの血を吸うことはなくなり、安心してふたりで居られるようになるのも時間の問題だ。

 事態は好転した。

 好転したが、そこで打ち止まりだ。

 

「だったら、どうして薬を作ろうと思った?」

 

 口から吐いた白い煙が視界を遮る。

 コウはナズナと楽しく過ごせる時間は少ない。歳を取れば体は自由に動かなくなるし、まともな反応すら出来なくなる。半吸血鬼になれるとはいえ、不運に見舞われて病気や怪我――最悪の場合、死ぬかもしれない。

 そうなれば、ナズナはコウの十字架を持ち続けることになる。

 

「夜守くんが口伝で聞いたが、人間への恋は呪いだと言っていたらしい。二度と忘れられない恋。もしそうなら、十字架は永遠にナズナの胸の中に居座り続ける。流石にそれは……酷だと私は思う」

 

 少なくとも友人として喜ばしいことではない。

 瞼を合わせて感情を落ち着かせる。どちらにしろ自分が決めれる範疇に、ナズナとコウの感情がないことは事実。

 開けた視界を覆った白い煙越しに大智を見つめる。

 彼はキョウコの話に耳を傾けているが、表情に深刻さは見受けられない。それは他人事だから、では決してなく大智にとってその事柄全てが杞憂だと分かっているからだ。

 

「今の夜守くんの姿は亡くなった友人に似ているらしいね」

「夕マヒルのことか? そうだな。後ろに束ねた髪なんか正にそれだ」

「つまり彼らはとっくに腹を括ってるんじゃないかな」

 

 淡々とした調子で大智は続ける。

 

「年老いて動けなくなって、喋れなくなったとしても、彼らは血を吸えば気持ちを伝え合うことができる。これからの時間を有意義に進め続ければ、『幸せだったね』と満足して逝くことができる」

 

 コウの心理を理解しているからこそ、大智は鎮静剤を作った。ふたりで過ごせる時間を確保するために必要不可欠なものを最優先にした。

 

「とはいえ、本当に二人揃って死ぬかは分からない。話を聞く限りだと、星見キクと夕マヒルが死亡した状況は余りにも異例だ。まず夜ですらないんだからね。

 夕くんが死んだのも吸血鬼化する際に必要だった血を星見キクが飲み過ぎて、変貌に耐えきれなかったからかもしれない。吸血鬼として特異な七草くんが吸えば問題ないかもしれない。

 本音を言えば、吸血鬼については想像を膨らませる段階だ。これから検証を繰り返していくしかない」

 

 

 大智の話にキョウコは黙って頷いた。

 ふたりの覚悟についてもそうだが、星見キクたちの死亡原因は全く分からないのだ。

 聞いたのは、血を吸って2人とも死んだ、それだけ。

 状況的に両想いで吸血したら死ぬと【仮定】しているに過ぎない。

 コウの血を飲んだら死ぬ仮定は嘘だったと目の前の男が証明したが、他の仮定を実証するには不安要素があまりにも多すぎる。

 

「だから、私たちがすべき事は2人が人生を謳歌する土壌を作る事になるわけか」

「そういうこと」

 

 危険のないふたりがまた共に過ごせる現状の最善策だ。

 

「けど、夜守くんは吸血鬼になれると僕は思っているよ」

「……は?」

 

 しかし、今までの前提を覆して大智は続ける。

 

「彼はまだ信じ続けているからね。七草くんを退屈させず、一緒に生き続けることを」

 

 彼の語り口はとても和かで、悦びに満ち溢れている。

 

「信じてるからってそんな曖昧な……」

「そんな事はない、叶うさ。現に彼は一年ルールという制約を突破して、願いを叶える道を突き進んでいるじゃないか」

「半吸血鬼、か……」

 

 あの存在も謎だ。

 吸血鬼と人間のハーフであるナズナが親であるが故に、眷属化の過程でそうした不安定な存在が生まれたのか。あるいは、ナズナが眷属を作ると半吸血鬼で頭打ちになるのか。

 キョウコを悩ませ続けてきた謎は一向に解けない。

 しかし、この謎こそコウの理想を実現するための希望になるかもしれない。

 

「この世界にはもう幸せの総量も限界もない。皆んなが願った分だけ幸せになれる世界だ」

「神様みたいな視点で言われてもな」

「神様が言っていたからね」

「本気で言ってるのか?」

「本気も何も事実だからね。友達ではないけれど」

 

 ときどきキョウコは大智の物言いがわからなくなる。

 コウほどではないにしろ、大智も十歳近く若い青年だ。だというのに、妙に大胆で歳以上に頼り甲斐がある。研究に関しては頼もしさが顕著に表れている。

 かと思えば、常識から外れたことを容易く口にする。

 

「『Ace with us(一番星はいつも傍に居る)』なんてね」

 

 ニヤッと笑う大智は、どこか懐かしむような笑みを浮かべる。

 

「それに僕の願いは【人間と異種族の共生】なんだ。彼の理想が叶うのは僕の本懐でもあるのさ。もし、何か起これば、その時はまた手を貸し合えばいい。叶うまでね」

 

 つまり、彼は吸血鬼とはまた別の–––––

 

「前から思っていたのだが、キミも吸血鬼じゃないたろうね?」とキョウコは尋ねる。

 

「吸血鬼ではないよ。親戚かもしれないけど」

「はぁ?」

 

 掴みどころのない人物なのも、余計に疑わしい。

 聞いても聞かなくても、骨の髄まで理解はできないのが五十鈴大智という男に思えてきた。

 ため息をつきながら、キョウコはタバコの先端を灰皿で押し潰しながら火を消した。

 そこでようやく彼女の手が紙袋に伸びる。ペン立てに置かれたカッターナイフを取って、紙袋の封を切り裂いた。

 中にはコルクで蓋された試験管二本が入った半透明のケースと、何やら絵葉書が入っていた。

 

「キミが欲しがっていたのはこれだろ?」

 

 キョウコは大智に向かってケースを差し出す。

 

「やっぱり守ってくれた。彼はやっぱり優等生だね」

 

 受け取ったケースを大事そうに鞄にしまうと、大智はドアに向かって歩き出す。

 

「葉書は見てがなくてもいいのか?」

「それは探偵さんたちが楽しめばいいよ」

 

 気にも止めず顔すら動かさない大智に呆れながら絵葉書に目線を移す。そして、絵葉書に書かれている文に目が入った。

 

「大智くん、朗報だよ」

「なんです?」

「七草のやつ、今度遊びに来るそうだ」

「!!!」

 

 知らせを聞いた大智は全身ニッコニコでドアを盛大に開けて、有天頂になりながら軽快な足取りで出て行った。

 

「たくっ」

 

 もう一度絵葉書を見つめる。

 そこには虹が架かった夜空を背にしてこちらにピースサインを向けるナズナとコウの写真が一面に載せられていた。

 その端にナズナの字でこう書かれている。

 

『今度、遊びに行くね!』

 

 キョウコは思わずくしゃっとした潰れた餡饅みたいな笑みを浮かべる。

 

「アイツら写真映り下手くそだなぁ、まっ、取り敢えず……出迎えの準備でもするかーー!」

 

 絵葉書をデスクに置いて立ち上がり、身体を伸ばす。すると、絵葉書の裏面が目に入る。同じ毛布に身を包んで何処かの一室で横になっている写真。

 写真に顔を近づけてまじまじと睨みつける。

 

「ふたりとも、裸か……? 遂にヤったのか!?」

 

 下卑た想像をするのも友達の特権である。

 




 半吸血鬼って結局なんなんだよ!!
 ということで、風呂敷で花火できたら良いなと思いました。ふたりは幸せにならなきゃいけないんだ……


 アニメから入った新参者ですが、最期まで楽しんだ作品でした。二期来ないかな。


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EX-Night5 イヤホン

 よふかしのうた2期決定じゃああああああああああ!!
 やったー! 願いが叶ってよ!!
 てなわけで、急遽作りました。お楽しんでもらえたら幸いです。


 今日もいつもの如く、自分の眷属候補である夜守コウを迎えに行こうと街をぶらつきながら、夜空を飛翔しながら進んでいく。街中の喧騒は誰かの夜の解放感をより一層高め、逆に月に溶けるほど舞い上がれば辺りは静寂に包まれ夜という時間を独占しているようにすら思える。

 

 感じるのは、街の音と風の冷たさと寂寥感。

 

 足元に広がる宝石が散りばめられた空も、見上げた先で樹海のように建ち並ぶビルたちも、全て自分のものにした爽快感がナズナの心に染み渡る。

 

「さてさて……」

 

 進み続けて、樹海の中に見慣れた建物を見つけると人気(ひとけ)のない場所へと急降下。傾けた身体が重力に従って落ちていく。加速していくにつれて、風を切る音が忙しなく耳朶を打っていく。

 そうして、脚を地面に向けると––––カタっと小さな足音だけを鳴らして完全に勢いを殺して着地する。

 吸血鬼であるナズナだからこそ成せる技である。人間では5点着地……いや、男で6点着地でも安全な着地は無理だろうとナズナは自負している。

 

–––え、6点目はどこで衝撃を殺すのかって? ……生えてるものがあるじゃないか。

 

 バカみたいな下ネタボケツッコミを脳内で披露しつつ、ナズナは顔を上げて辺りを見渡す。

 やってきたのは小森団地。

 夜守コウが住んでいる場所だ。

 

「部屋の場所は覚えているから、スリ抜けを使ってコウくんの部屋へダイナミックジャンプ! ってしても良かったけど、流石にぶつかると危ないしな」

 

 中を見ずに突入してコウに激突したら、多分……いや、十中八九彼は命を落とす。最近流行りの異世界行きのトラックではないが、あの世に送る悪質ミサイルが炸裂するのだから。

 夜の道をゆっくりと歩いてコウの自宅へと向かう。

 

「あれ?」

 

 その途中に寂れた公園がある。

 空虚な風だけが渦巻く遊び場には、当然子供の姿などあるはずがない。本来なら––––

 

「コウくん?」

 

 しかし、今回はどういうわけか来訪者がいた。

 遠目だが東屋の木製の長椅子に座っている少年がいた。目的の人物だとすぐに分かった。黒いジャージに黒の短パンを履いて、首筋には絆創膏を張っている少年なんて、この街を探しても彼ぐらいだ。

 身なりを見るともうすぐ10月の半ばを過ぎるというのに、思いの外元気小僧のようだ。

 ナズナは昔、一度だけ通った学校で出来た唯一の友達との会話で『時々いるよな〜……冬なのに短パン履いてる馬鹿なやつ』とその存在を聞いたことがある。

 対人経験があまりにも少ない自分では判断が付かなかったが、コウはその馬鹿なのか。

 

「フッ!? 誰か俺を見てる!?」

 

 ナズナが公園の外から訝しんで見ていると、身体を震わせたコウが首を四方八方に振って辺りを見渡した。残念ながら遠くから見ていたナズナを発見することはできなかったようで、「気のせいか」とまた視線を落とした。

 コウが公園で待っているのは、自分に見つけてもらうためだろう。

 

「ふふっ、驚かせてやろ」

 

 ニヤッと笑ったナズナは、公園を囲うフェンスや木々をスリ抜けてコウの背後に迫る。樹木の足元を覆う落ち葉を音を鳴らさないように気をつけながら歩く。

 一歩、また一歩と着実にコウの背中に近づいて、肩を叩ける場所まで来た。彼はまだ気づいていない。

 ヨシ!と意気込んでナズナは息を大きく吸い、

 

「ワアッ!!」

 

 大声と共に吐き出した。

 突然の声にコウは驚きに身体を震わせて立ち上が–––らなかった。

 

「……ナズナちゃん遅いな」

「あれ?」

 

 想定外の反応にナズナは目を丸くする。驚いてビクッと身体を震わせるのが1番面白い展開だったが、すでに気づいていてジト目でナズナに呆れるでもまだ良かった。まさか無反応とは思わず、ナズナはショボンと肩を落とす。

 コウに気づいてもらえないことが無性に淋しく思えた。

 

「おおい、コウくん? ねえコウくんってば」

 

 後ろから声をかけ続けても全く気づかない。

 こうなったら耳に息を吹きかけてやる。そう考えたナズナが、そっとコウの視界に入らないように耳元に口を近づける。

 すると、ナズナはあることに気がついた。

 

「イヤホン……」

 

 耳に嵌った黒い物体。

 イヤホンの存在に気がついたのだ。

 これだ。これが耳栓がわりになったのせいで、自分の声は届かなかったのだとナズナは確信した。自分が街の喧騒から離れ夜空の静寂という自分だけの世界に浸ったように、コウもまた外界からの音を遮断して自分の世界に入り込んでいた。

 それがなんとなく……本当になんとなくムカついた。

 自然とイヤホンに手が伸びて、耳から蓋を外して間髪入れずに、ふぅ……と息を吐く。

 

「ふあわっ!?」

「あははは!!」

 

 顔を真っ赤にして驚いたコウは飛び跳ねると、耳を抑えながらナズナの方へと振り返った。今度こそ想定通りの反応が返ってきて、ご満悦なナズナは大笑い。

 笑い声が夜空へと天高く飛んでいく。

 

「ナズナちゃん!? え、なに!?」

「コウくんが全く気づかないもんだから、ちょ〜〜っと意地悪をね」

 

 待ち侘びていた来訪者が今日1番に見せた顔はニヤニヤとした笑顔で、コウは肩から力を抜いて『はぁ〜〜びっくりしたぁ』とため息を吐く。

 そして、ビシッと指を力強く伸ばしてナズナに文句をつける。

 

「いや、普通に正面から来ればいいじゃん!!」

「それじゃ面白くないじゃん」

「登場に面白みを求めて何になるの!?」

「登場こそド派手にだろ! 背後で爆発ドカーン!て 敵も味方もドッカンだよ!」

「昔懐かしの子供向け番組じゃないんだよ!? てか味方を巻き込んじゃダメでしょ……!?」

「そりゃおまえ、ドッキリなんてガキの好きの定番だろ!! なんだったら大人だって好きだぞ!」

「子供だからって誰もが好きではないよ!? それに急にやられても困るんだよ!?」

「急にやらなきゃドッキリじゃなくてヤラセだろ!!」

 

 コウは的確にツッコミを入れ自分の意地を曲げず、ナズナはオーバーパーカーをマントのように靡かせて仰々しいポーズを取る。

 両者共に延々とツッコミ合って、肩で息をするまで戦い続けた。

 

「……ひぁ」

「はぁ、はぁ……」

 

 二人とも言いたいことが出切って、満足そうにベンチへと腰を下ろした。

 

「それで今日はなにする? また自分探し?」

「自分探しはまた今度でいいかな」

「そっか、ナズナちゃんには弱点がないしね」

「そうそう。アタシは無敵の吸血鬼なのだ」

 

 ふすんっ、と鼻を鳴らして腕を組むナズナに対して、コウは少し心許ない心境の中に居た。

 コウの頭の中に揺らめく亡霊のようにこびりつく存在。

 (ウグイス)餡子(アンコ)––––私立探偵であり、ナズナ達の天敵の吸血鬼殺しである。探偵という捜査力を遺憾なく発揮して、吸血鬼たちの人間だった頃を突き止め、その時代の私物を使って吸血鬼を殺す。

 以前、コウが友達の(セキ)マヒルと朝井アキラと共に夜間の学校に忍び込んだ時のことを思い出す。吸血鬼になった男性教諭を襲われたところを、助けてもらう形になった。ただその吸血鬼は灰になって消えていった。

 それにコウとっての先輩吸血鬼である秋山(あきやま)昭人(あきひと)という男性が、鶯アンコに滅多刺しにされて殺されかけた。その時は、昭人の親吸血鬼である桔梗セリと共通の友人である蘿蔔ハツカもおり、実質的な3対1の状況だったため事なきを得た。

 

 探偵としての実力、吸血鬼と対峙しても恐れない胆力、ある程度–––恐らく1対1ならば吸血鬼の対処が可能な戦闘力。どれをとっても脅威にしかならないが、何より厄介なのは飄々とした彼女の態度だ。

 切羽詰まっているように見えるのに、どこか不敵で余裕さえ感じる。

 一度鶯アンコから吸血鬼の情報を奪おうとしたコウだが、あっさり返り討ちに遭って警察を呼ばれるという、夜を奪われる一歩手前まで追い詰められた。しかも後日、本人から『警察には私から話を取り下げておいた、良かったね』とケータイに電話がかかってきた。

 どこから電話番号を仕入れたのだろう……頭を悩ませるコウ。

 人間でありながら、吸血鬼の立場に立つコウにとって目下の悩みは彼女の取る行動だった。

 

「まあ、いいじゃん」

 

 コウの頭で渦を巻く不安を断ち切るようにバッサリとナズナは言う。

 

「最近は弱点消しに躍起になってゆっくりしてなかったし、偶には息抜きも必要だぜ」

 

 ナズナの言うことはもっともだ。

 いつも糸を張り詰めていたら、糸は傷んで本来張るべきときに力を発揮できなくなる。ただでさえ、相手の出方も分からないのだから必要以上に注意してもこっちの気力が薄れるだけだ。

 少なくとも、ナズナは死なないのだから。

 

「うん、そうだね。ゲームでもしよっか」

「すまないねぇ。よし! ゲーセンに行くか!」

 

 ナズナも自分のことを気にして、コウが不安に駆られているのは重々承知している。

 だからこそ、自分が荷物を下ろしてやる必要がある。

 もしかしたら自分のせいでもあるかもしれないから––––––

 

「どうしたのナズナちゃん?」

「ん? 嫌、なんでもないよ」

 

 一瞬、ナズナの目元に影から出来た気がしてコウは声をかける。

 返事をするナズナはいつも通りで自分の思い違いだとコウは湧いた懸念を腹の中へと呑み込んだ。

 

「そうだ。さっきは何聴いてたの?」

 

 話を切り替えるようにナズナが訊ねる。

 視線の先にはイヤホンのコードが繋がったケータイがある。何が再生されているのか気になって、ナズナは顔を近づけて画面を見ようとする。

 そこに映ったタイトルと同じものをコウが先に口にする。

 

archetype(アーキタイプ) engine(エンジン)

「え、なんて?」

 

 ナズナは目を丸くして聞き返す。

 

「archetype engine」

「めっちゃ流暢になるじゃん。え、なんだっけ? 前カラオケで歌ってたやつ?」

「そうそう」

 

 秋山の眷属化祝いということで秋山とセリ、ナズナ、そしてコウの四人でカラオケをしたことがあった。その時にコウが歌っていたことを思い出す。

 いつの時代の人間なんだ、とセリ達と目線を交えて頷きあったのを覚えている。

 

「いいじゃん別に。古くてもいい曲だから残ってるわけだしさ」

「否定はしないよ。ただ、やっぱりコウくんはらしくないなって」

「なんだよ。らしくないって」

「いい意味で子供らしくないってこと」

 

 ムスッと唇を尖らせるコウに対して、ナズナは優しく微笑みかける。本当に侮辱している訳ではなく、ただ驚いただけだとコウも察することができた。

 

「にしてもね……ふぅ〜ん」

 

 片耳で音楽を聴きながら、ナズナの相手をしていたことを思い出してコウは右耳に残ったイアホンを外そうとしていた。

 しかし、会話に邪魔なそれを仕舞おうとする指にナズナのジロジロとした視線を受けたコウは、彼女とイヤホンを交互に見てからおもろに口を開く。

 

「……聞く?」

「聞く」

 

 恐る恐る訊ねるコウにナズナは頷いた。

 興味を持ったのは偶々で、いわゆる興が乗ったという奴だ。

 ナズナは足を放り出すようにして立ち上がると、くるりと右足を軸にして半回転。コウに笑いかけると、『stand up!』と言わんばかりに手招きする。

 

「せっかくだし、跳びながら聴きますかね。ささっ、コウくん立った立った」

「あ、うん」

「よっ、と!」

「おわっ!?」

 

 そして、立ち上がったコウの足を払う。バランスを崩し背中から地面に落ちそうになるところをナズナがすかさずお姫様抱っこ。男子相手なので王子様抱っこか?なんて思いながらも、右腕だけでコウを持ち上げる。

 さすがは吸血鬼と言うべき腕力をコウは感じながら、ナズナが空けたもう片方の腕をどこに持っていくか視線を追う。

 ナズナは綺麗で線の細い指で、月の光を受けて艶めかな雰囲気を放つ銀髪を耳にかける。仄かにいい香りがコウの鼻腔をくすぐる。その所作が余りにも綺麗でコウは少し目線をあたりに彷徨わせる。いつもの賑やかなナズナとは違う、色気やセクシーさを感じてしまって鼓動が強く高鳴ってしまう。

 意図した行為ではないだろう––––こちらもまた、人の心を射止めることを生業とした吸血鬼らしい美しさだ。

 

「ほら、コウくん。イヤホンをつ〜けて」

「え」

「え、じゃないよ。つけてもらわなきゃ聞けないでしょーが」

「そりゃまあ、そうだけどね」

 

 コウは両耳ともナズナが着けるものだとばかり思っていた。

 自分のイヤホンは有線なのでナズナと共有するにはいつも以上に接近する必要があって……彼女の耳にイヤホンを宛てがった時にはほんの少しばかり照れてしまった。

 頬を微かに赤らめる少年に目をやりつつ、ナズナは耳に入ってくる異物を受け入れる。聞き覚えのある音圧が強い音楽が流れ込んでくる。曲そのものに奥行きがあるというか、壮大な楽曲だなと思いながらナズナも歌に浸る。

 コウの空間(感覚)だけにあったものがナズナの世界にも侵食して、空間が広がり二人だけの世界になる。

 より強くコウと同じ時間を共有している–––そんな錯覚をナズナは覚える。

 嬉しい錯覚に身が悶えた。

 しかし、どうしてだろうと首を捻ってしまう。

 

「へへ、恋人みたいだね」

「ッ……」

 

 こっちの心情など知らないコウは、和かに笑いながら小っ恥ずかしいことを口にするので、ナズナは慌てて今の自分たちの姿を振り返る。確かに恋人のような、普通の人とは違う近づいた距離にいる。

 それを自分でやったという事実にナズナは、機関車のような排気音を立てながら顔から淡い湯気を立ち上らせる。

 

「うるせっ」

 

 自分でやったことなので、文句はもう言えないナズナだった。いずれは落とさないといけない相手なのだから、恥ずかしがっても損でしかない。コウが惚れる女になる為にも、照れてしまう癖は直さないと、そう考えるナズナ。

 

「自分からやらせたのに……ふふっ」

 

 コウにとって、恋には初心な所もナズナへの好感に触れているのだが、本人には黙っておくことにした。ナズナが男と親密になる行為は自分だけで慣れて欲しいと思って、その過程を見ることがコウの独占欲のようなモノを刺激するからだ。

『さて、行きますかね』と溢したナズナは力を込めて、夜空へと舞い上がる。一瞬、押さえつける風がふたりの全身を叩く。でも本当に一瞬だけで、すぐに全身は風船に包まれたような心地よい浮遊感と共に、夜空の中にいた。

 

「ああ〜……気持ちいい……」

 

 手を伸ばせば、月さえ掴めそうな高さ。

 普通の人間には味わえない夜空の楽しさ。

 静寂に包まれた夜空では、彼女・彼と同じ音楽がより鮮明に聞こえて、少し冷えた風がより相手の体温をハッキリと伝えてくる。

 まるで自分達だけがこの世界にいて、確かな繋がりを持った存在の証拠に思えてならなかった。

 

 

 共に夜の中を進んでいく。

 

 

 ゆっくりと、ゆっくりと落ちたり、登ったりを繰り返しながら目的地へと進んでいく。

 ナズナを感じたくて彼女の腕を持った。

 コウをそばに抱きたくて腕に力を込めた。

 これからも末永く、一緒に喜怒哀楽を過ごしていきたい。

 叶うかは分からないけれど、叶えてみせると誓った自分に嘘はない。

 

 今日も夜を楽しもう。

 ふたりは同時にそう言って、街の中へと堕ちて紛れていく。

 降り立ったはずの街の喧騒を感じない。

 

 

 

 

 感じるのは、ふたりの音楽と、熱と、優しい想いと–––––





 さてさて、問題はアニメで探偵さん編が放送し終えるまでに、こっちもハロウィンまで終わらせられるかだな……


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第1話 ナイトダイブ
第一夜 ナイトダイブ


 ポツリ。ポツリ。

 

 真っ赤な血が落ちて、弾ける。その雫はナニを内包しているのか。

 視界が真っ黒に染まっている。狂おしいと思わせる事しか知らない黒々とした景色。

 

 ポツリ……ポツリ……

 

 首筋が濡れている。

 生暖かく乱れるように身体中が火照る。それでいて、突き刺す風が神経を引きちぎるかのようで凄く忌まわしい。

 噛みつかれる感触が身体を刺激して、脳を(なぶ)る。

 快か。不快か。

 それすらも分からなくなっていく。

 ただ、睨みつける視線を返すように、天蓋の割れ目から満天に咲く月華が光り射す。

 

––––綺麗だ。

 

 そんなことを考えていると、脳に言葉が反芻する。

 

『さぁ、キミの血の味(想い)を教えて』

 

 

 あぁ––––……

 

 

 

 

 夢を見ている時は黒に堕ちるような、浸っている感覚になる。

 幕が降りて、演者たちが軒並み退出して観客達もいなくなった後の(から)の劇場で舞台の上。そこで寝転がり、もう一度物語を想起するような。

 気を張らずとも良い、この黒の時間だけは何物にも変え難い。

 しかし幕はいつか、必ず開く。

 

「…………」

 

 けれども、今日は目醒めが早い。

 いつもは快哉の吐息で起床するはずなのに。

 

––––僕は吼月(くづき)ショウ。中学2年、14歳。

 

 気分が悪い。気力が出ない。

 人の心地はその日の眠りに関係するというが、そのことを身に染みて感じている。

 

「いま、なんじぃ……」

 

 寝返りを打つような形でベットの側に置いた目覚まし時計のボタンを押す。

 画面が緑色の蛍光色に発光する。目には優しい色のはずだが、それでも寝起きの瞳には刺激が強い。

 たまらず目を擦る。

 

「……おふっ」

 

 時間は丑三つ刻に迫る頃。

 こんな時間に起きるのは生まれて初めてだった。

 夜遅くに親という存在に連れ出されたことなんてありはしないし、夜更けに出かけるような知り合いもいないので、当然と云えば当然なのだが。

 

 寝直すためにもう一度掛け布団を被る。

 

「––––」

 

 寝れない。

 

 目を瞑っても眠れる気配すら感じない。

 

 明日のこと––––いや、もう日を跨いでいるのだから、今日なのだが––––を考えれば、本来は寝直すのが良いはずなのだが、どうにも寝付けない。

 もし今日が土曜日であるならば、このまま起きておくのも悪くはないだろうが、案の定、今日は金曜日だ。

 今週最後の学校である。

 本当にタイミングが悪い。

 

「仕方ない、か……」

 

 寝ようと目を瞑れば、()()()()を思い出す。

 そうなってしまえば、もう睡眠どころではなくなる。

 なんともならないのなら、いっそのこと起きてしまおう。起きて身体を動かせば、眠りにつく事ぐらいできるかもしれない。

 そう思い、ベッドから立ち上がって部屋の照明のスイッチロープに手を伸ばす。

 

「……明るい」

 

 掴もうとしたところで手が止まる。

 月明かりだろうか。月光がカーテンの隙間から部屋に差し込み、室内を照らし出す。

 夜に起きたことがない自分にとって、月明かりは物の輪郭をはっきりと映し出すほど輝いているのだと初めて知ることであり、驚きであった。

 

 初めて起きた夜。

 少しだけの好奇が僕を動かした。

 

 せっかくなら外に出てみよう、と。

 

 それを咎める者は(うち)には誰もいないのだから。

 

「えっと……どうしようかな……」

 

 流石に寝巻きのまま外に出るわけにはいかないので、クローゼットを開いて服を選ぶ。

 別に人と会う訳でもなく、目的がある訳でもないのだが、月の光に当てられたからなのか、少しカッコつけた服を選んだ。

 

(どうせ、演劇部の奴らに渡す前にチェックしないといけなかったしな……)

 

 そんな趣向が僕の中にあったことに驚いた。

 改造が施された、一眼見ただけだとスーツとも見間違えそうな学ランに袖を通す。ついでとばかりに、黒色のハットを被る。

 

 そうして––––

 

「……」

 

 初めて、夜への扉を開いた。

 初めての世界に、一歩踏み出したのであった。

 

 閉じる玄関の扉の音が、深更にはよく響く。

 思わず辺りを見渡してしまうほどに音が透き通る。

 

「……ふぅ」

 

 流石に他の部屋の明かりもない時間帯のため、問題はなさそうだ。

 共同住宅を出て、小森団地の道の中央に立つ。

 

「すぅ〜〜……はぁ〜〜……」

 

 残暑もある程度落ち着いてきた9月終わり。明日でもう10月だ。

 日頃に冬へと近づいて行っているのだと実感させる冷たい外気が肌に刺さる。夜の空気を肺いっぱいに吸い込んで、その匂いと味を楽しむ。

 辺りを見渡すと、部屋と同様に明るく感じる。

 夜は思ったほど黒ではない。暗すぎないし、静かすぎる訳でもない。

 

「でもなんか、違う」

 

 悪くない。

 味わったことのない色々なものが、風に乗って身体中を染み込んでくる。

 

「良い……」

 

 初めてのことに身体がハイテンポになって、早速僕の身は目的を忘れかけてしまう。

 この気味合いまま、ひとまず辺りを逍遥(しょうよう)してみることにした。

 

『ニャー』

「ニャー!」

 

 歩道を我が物顔で歩く猫に手を振ったり、猫語で喋ったり。

 

「ーー……」

「おっさん、こんなところで寝ちゃダメだよ」

「グピィ……」

「マジかよ」

 

 ベンチに寝転がって酔い潰れてる中年のおっさんに、本人のものであろう地面に落ちていたスーツを被せたり。

 

「よっと!」

 

 車道の白い区画線をはみ出さないように歩いてみたり。

 暗くもなく、完全なる静寂ではないけれど、ここに立つ色は僕だけだ。

 うん、まるで僕だけが居る、僕だけが動ける止まった世界のように入ったような錯覚。

 

「……真実はいつも一つ!!」

 

 高鳴る胸の内に従うように叫んでみたものの、咄嗟に恥ずかしくなって辺りを見渡す。

 なにをやっているんだか。

 そんなことを気にするくらいなら、こんな無意味なことやらなければいいだけなのに。

 しかし、言葉が返ってくることに安心する。

 起きている人は、少ない。というよりいない。当たり前だ、こんな時間に外出してるなんて気が狂っているとしか思えない。

 

「はは、特大ブーメランだな」

 

 ここまで変わって感じるのは何故だろうか?

 

 やはり、こんな馬鹿げたことをやっていても咎められないという夜という時間の寛大さによる錯覚だろうか。それとも『ここが僕の世界だ』と、『これが僕の自由だ』と思わせる不自然な多幸感によるものだろうか。

 多分、この不自然さの由縁はなにかが欠けているからだ。

 

 そのナニかは分からない。

 

 

「はぁ……」

 

 そんなことを考えながら歩き回っていると、街にある雑居ビルにまで辿り着いた。クラスメイト(隣人)曰く『何をやっているかわからん建物』だという。えっちなお店なんじゃないかと元々言われていたが、最近になって噂が増えた場所。

 漆黒のパーカーを羽織った女性が少年を誑かし遊んでいるだの、時折人の喘ぎ声にも似た物音が聞こえるや、ビルから数人が飛び立ったという動画配信者だったら直ぐにでも飛びつきそうなネタが満載な建物。

 周りも街灯が数個あるだけで、それらしい雰囲気だ。

 

 ……それが本当ならおじさんにでも伝えたほうが良いかもしれない。

 

「……やめておこう」

 

 スマホが入ったポケットに視線を下ろすが、そんな意味のないことをしたところでこの時間を無駄にするだけだ。

 下ろした視線を上げて、ビルの屋上を仰ぐ。

 

「はは、はぁ……」

 

 でも、入るぐらいなら。

 そう思って、僕の脚はそのビルへと向かった。

 

 

 

 

 吼月ショウは優等生である、そうだ。

 優等生の真意はよく分からないが、少なくとも他の学生からは教師陣からはそう思われているようだ。

 

 理由は幾つか浮かぶ。

 

 勉強は常に首位をキープしている。

 運動もしっかり熟せる。

 クラスメイトとの関係性も悪くない。

 行事にも積極的に参加しているし、委員会もやっている。例えば生徒会とかだ。

 それに揉め事の解決も行なっている。

 

 この辺りだろう。

 一眼見れば、まぁ、順風満帆な生活。

 良好、なのだろう。

 

––––本当か?

 

 けど、意味が無い。

 

『行動は自らのイメージを映す鏡である』

 

 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの言葉、らしい。ゲーテの著書自体を読んだことないから実の意味は知らない。

 素直に言葉通りに受け取るとするならば、

 

 それは正しいのだろうか。

 

 僕が起こす結果行動にはなんのイメージも、価値も、意味もない。ただ、それが求められているから受動的にそれを行っているだけ。

 

善行(あたりまえ)】という一般常識の基に。

 あるいは……過ごすための【虚構(ルール)】を基に。

 

 僕は返しとして告げられる感謝に。

 

『サンキュー!』

『吼月さん、ありがとう』

 

 とてつもない虚無感を感じる。

 

 何故だろうか?

 

 感謝とは、厚情を受けた人物がそれらを施してくれた贈り主に向けて示す、ありがたいという気持ちやその感情を表すポジティブな反応である。

 

 辞書くんもそう言っている。

 

 きっといいもののはずだ。

 それは自分も理解している。

 けれども考えてしまうのだ。

 

––––こっちの時間は無駄に消費されただけで、利が何もない。

––––お前たちは何を求めてるんだ。

––––お前らに言われた所でなんも価値ないだろ。

––––お前らもこんなことになんで時間を使うんだ、意味がないだろう。

 

『どうせ、そんなこと、思ってない癖に』

 

 それは相手に対してたのか、自分に対してなのか、理解ができない。

 

 君たちの、僕の真意はどこにある?

 その証明はどこにある?

 

 伸びてきた手を反射的に払ってしまうような歪な感情。

 

「ごめん……わかん、ないや……」

 

 その解の無い感情が膨れた昨日。

 決壊したダムから少しずつ水が垂れるような感覚で口から溢れてしまった言葉に、曇った顔で目の前の女子が背を向けて去っていった。

 溜まらず伸ばしてしまった手は届かない。

 

 感謝も、好意も、価値も、意味も。

 よく分からない。

 

 けど、きっと––––––

 

「これと同じなんだろうな」

 

 雑居ビルにしては磨かれた手摺が顔を映す。手摺に手をやりながら、雑居ビルの屋上を歩いていく。

 

「僕の顔を映すぐらいなら、この街でも映せばいいのに」

 

 この雑居ビルには何も無かった。

 所々綺麗な場所があったり、数個ドアが綺麗に整えられていたりしたが、今は人が居るような気配もなかった。住人に会えれば面白いとでも思えただろうか。

 眠れるような体験ができたろうか。

 

 

––––眠れないのはやっぱり……無頓着に断ったせいかな……

 

 

 (かぶり)を振って、その考えを消し去る。

 

 このことを考えないために外に出てきたのを忘れてはいけない。意識をそっちに持っていけば余計に気が滅入ってしまう。

 

 起こってしまったことについて後悔し続けることほど無駄な事はない。

 

 屋上に座り込み、スマホを取り出す。

 空虚ではあるが、何もやらないよりはマシだ。

 

「眩しっ」

 

 見ているのは眠る方法。

 不眠症の人たちが集まる掲示板を開く。

 悩みの種でもある告白については……振ってしまったものはもうどうしようもないので、フィーリングで勝負するべきだろう。

 

 さて、同種の者たちが見つけた解決策は–––––

 

『家族や信頼できる人に相談する』こと……

 寝てるんだよなぁ……起きてねぇよなぁ……てか、いねぇなあ……

 

「他にはないのか……?」

 

【酒飲まないと寝れねー 無職(25)】

【恋人と話すと良いよね…… 学生(21)】

【ドカ食い気絶部だ! ドカ食いして酒飲兵衛して倒れましょう! 派遣(34)】

【不眠にも悩みにも酒ッス! アルバイト(20)】

 

「大人の特権!! たく……!」

 

 そんなに美味しいものなのかね……酒っていうのは。

 

「……飲んでみたいな」

 

 試してみたくなる。

 気になりはするが身体に悪いと言うし、そんな気絶するような飲み方はしてはいけない。

 

「帰るか……」

 

 まだ眠たいとは思えないが、もうふらつくあてもない。

 仕方がないので、帰ろうとして立ち上がった。

 

「あ……」

 

 目の端に写り込んだビルの下へ、闇へと目をやった。

 

「てか、うぶ、ね、え………」

 

 見下ろした先は漆黒だ。

 雑居ビル同時がせめぎ合う、狭い裏路地が通る闇。雑居ビルの正面と違って全くと言いほど光がなく、まるで奈落の底に目を向けているようだ。

 生唾を呑み込む。

 僕の脚はまで闇から生えた腕に絡め取られたように、屋上端に立つ。

 

「………」

 

 

 魔が差したのだろう。

 振り返れば馬鹿だったと自分でも嘲笑する。

 

「疲れたな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づけば、僕はその闇に身を投げた。

 

 

 

 身体が重力に任せて落ちていく。空を裂き、風が唸る声が耳朶を打つ。

 速度が増すに従い、闇は視界の端に横伸びしていく。

 やがて風は音を失い感触だけの物体へと変わる。

 自分はこのまま落ちて地面に血の花を咲かせて死ぬのだろう。

 こういう時は走馬灯が脳裡を奔るというがそうではないようだ。

 事実、死ぬという実感は湧いてこない。

 恐らくこの暗闇のおかげだ。

 どこまでも続いていく暗闇は果てを感じさせない。故に永遠に堕ちるという工程を行い続けると脳が錯覚し、恐怖すら感じさせない。

 眠るような感覚なんだ。

 ああ、でも、確かに、落ちてるな。

 早く、おわ–––––

 

「キミ、なにやってるの?」

「!?」

 

 眼があった。

 暗闇の中に唯一光を持つ双眸がこちらを見つめる。まるで冥界からの死者のような、その存在を認識したとき喉から胃まで手を突っ込まれたような不快感を覚えた。

 次に、身体にかかる負荷の方向が変わる。

 無理やりに水面から引き上げられる魚のような感覚を味わいながら、映像を逆再生するように僕の身体は上昇していく。

 

 は?

 

 ……は?

 

 待って、なにが起こってる?

 

––––僕は確かに堕ちて

 

 そうして、天に昇っていく身体はついにビルの屋上を越えた。

 

 その時、気がついた。

 見上げた空には、綺羅星が幻想を生み出していた。極彩色で彩られたような妖しく、淡く光る(ソラ)に圧倒される。

 なぜ気が付かなかったのか。

 

 そして白日の元に晒される僕を天へ招いた存在。

 顕になるは、僕を星空の下へと還した存在。

 

「あんな所に堕ちるより、星空に(あが)った方がいいと思うけど」

 

 男性か、女性か。不思議な容姿をした存在。

 その特出して綺麗な容姿が、満点の星空を背にすることによって、その二つは、それはもう神話の一枚絵のような美しさがあった。

 衝動が襲い来る。

『綺麗』『なんだこれ』『凄い』『カッコいい』

 言語野機能が不全に陥るほどに満たされたこの情動をどうすればいいのか。

 

 

 あぁ、コレだけは––––––––

 

 

 

 この衝動には…………

 

 

 





 一応、タイミングとしては6巻第57夜の後ぐらいからのスタートです。
 そのため、過去探しで外に行っているので雑居ビルにコウくんとナズナさんは居なかった訳です。

 アニメ派の人が居ましたら単行本を買いましょう(提案)


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第ニ夜「美味しかったです」

二次創作《パラレル》なので、サブタイは原作と違い漢数字にしています。


 吼月ショウ()を抱えた性別不明らしき人物は、数秒夜空に浮遊すると、ゆっくりと高度を下げて雑居ビルの屋上に着地した。

 

「––––」

「降りないの?」

「あ、ああ……すみません!」

 

 突然のことに呆けていた僕は、目の前の相手の言葉に自我を取り戻し、慌てて腕から降りる。

 気が動転していたからか、思わず顔から地面に落ちてしまった。

 

「痛っい……!」

「……ほんと、大丈夫?」

「うん……」

 

 ずるっと床に擦った頬をさすりながら僕は相手の方を向く。

 第一印象に違わず、ジェンダーフリーなその姿は人を惑わす妖しさがある。前髪をパッツンと切り落としたボブヘアスタイルはとても似合っていた。

 彼なのか彼女なのかは分からないが、服装が女物なのできっと趣向が女なんだろう。

 呼び名が固定できるならしたほうが良い。

 彼女ということにしておこう。

 

「えっと……ありがとうございます?」

「どういたしまして」

 

 さて、と思考が復帰した途端。

 

––––誰だこの人?

––––なんであそこに居た?

––––というかなんだあのジャンプ力?

––––てか浮いてたよね?

––––どう接するべきなんだ?

 

 湯水のように湧き出る疑問が頭に充満する。

 そんな僕の脳の整理を待たず、彼女が見下ろしてくる。

 

「なんで飛び降りてたの?」

「……あぁ、えっと、それは」

なんと言うべきだろうか。

 闇を見ていたらなんとなく、そうしたかった(・・・・・)としか個人的には言えない。

 

「漠然と街を見ていたら……」

 

 どういう意味があったか分からない行動なため、どうしても歯切れの悪い返答になってしまう。

 怒られるだろうか、怒られるだろうなと。

 

「まあ、人はそれぞれ思い詰めたくなる時もあるさ。ましてや、君みたいに多感な時期だもの、変な衝動に駆られることもあるさ」

 

 そう思ったが、女性は数度頷くだけ。咎めるようなこともせず、詮索することもなくただ首を縦に振るだけで受け流した。

 

「ただ、ここは不味いんだよね」

「ここは?」

 

 なんでだ? というか、場所の問題なのか。

 

「ここはね、僕の友達が住んでる所だからさ。厄介ごとを起こして欲しくないんだよね」

「すみませんでした」

 

 迷惑をかけるのはいけない。

 しかし、疑問が湧いてきた。

 

「マジで住んでるんすかここ」

「知ってて来たんじゃないの?」

「いや、別に……ああ、でもそうか、だからあんな噂が立つのか」

 

 流石に人が住んでるところで自殺するほど愚かではないと言いたい。

 それよりも火のない所に煙は立たないとはこのこと。噂が本当のことだったとは。

 小綺麗なところがあったのもそれが理由か。

 ボソッと呟いた言葉に彼女は耳をピクピクと動かした。

 

「噂?」

「えっと……知りません? 最近、ここで怪しいパーカーを着た女性が子供を誑かしてるって話」

「––––––……」

 

 彼女はどこか納得した様子で、首を動かすと手で顔を覆っていた。

 

「なるほど……仕方ないか」

 

 その声はどこか諦めような感情が含まれていた。

 

「……ところで」

 

 顔を覆った手の内から、ジロリと向けられた彼女の瞳が僕の身体中を捉える。

 見つめられること数秒、落ち着いた綺麗な表情のまま満月が照らす彼女の口元だけがニヤリと綻ぶ。

 

「君……いくつ? 出歩いてちゃいけないくらいの歳に見えるけど」

 

 やばい––––

 

 血の気が引き、胸が跳ねる。

 忘れていた訳ではないが、俺は中学生。夜間の外出は原則禁止の年齢で、即ち23時から5時までは要補導対象なのだ。

 

 思わず顔を背け、後退りしながら……

 

二十(はたち)……デス、ヨ–––?」

 

–––––ッ!

 

 カタコトになりながら答えた直後に、クラウチングスタートの要領で走り出す!

 警察に突き出される訳には行かないのだ!

 

 ダッ!と駆け出す!

 

「ふふっ、安心しなよ青少年」

 

 ガッ!と捕まる!

 

––––いや、力つよ!?

 

 いくらスイッチ(・・・・)が入っていないとはいえ、一応体力測定に置いても学内では良い成績を持つ僕が、さっと捕まり微動だに出来なくなるなんて……

 僕を抱えたまま飛び上がった相手に今更だが、なんて馬鹿げた動体視力と握力!?

 

「エエっと、違うんですよ! お、親にツマミを買ってこいって言われて……!」

「なら逃げる必要はないだろう? それに子1人に買い物に行かせる親はどうかと思うけど?」

 

 正論でしかない彼女の言に反論できずに口を窄めてしまう。

 

「くぅっ……ふ、普段は! 今日はたまたまで……ッ! 決して不良なんてものではなく!」

 

 なら事実で取り繕うのみ。

 

「別に警察に連れて行こうなんて大人気(おとなげ)ないことは言わないさ。夜は束縛なんて求めないからね」

「は?」

「さて、理由を言えないのなら当ててあげるよ」

「えっ……!?」

 

 彼女が腕に力を入れた途端、反抗する僕の力は容易く破られる。

 

「眠れないんじゃないかい?」

 

 スッと引き寄せられた身体が強張る。

 近づいたその綺麗な顔に息を呑んで、次の言葉を待つ。

 

「僕が寝かせてあげるよ、君をね」

 

「––––––」

 

 彼女は掴んだ腕を離して、僕の横を通り過ぎていく。

 

「……?」

「ほら、行くよ〜」

「はぇ?」

 

 手招きをして、彼女はビルの下へと姿を隠していく。

 理解し得ぬまま、のそのそとアヒルの子のようについて行き。

 

「………帽子ッ!?」

 

 雑居ビルを抜けた時に、落としたハットの存在に気づいたのだった。

 

 

 

 

 そうして、彼女に連れられたまま歩いた先にあったのは。

 

「コン、ビニ……?」

 

 唯一稼働していることを示すように漏れ出す店内の灯りは、まるでこちらを中へと手招いているようだ。

 人が(たむろ)している日中や晩などのなんとも言えない汚らしさは感じられず、夜夜中(よるよなか)のコンビニは綺麗だ。清潔だった。

 そんな事を思い浮かべながら、僕はここに連れてきた張本人に顔を向ける。

 

「なんでここに来たんです……?」

「僕が食べたいものがあるからだけど?」

「マイペース……!?」

 

 物凄く自己中心的な答えが返ってきて仰け反ってしまう。

 しかも【当たり前でしょ、文句あるの】って顔で言われてしまった。

 返す言葉が見つけられぬ内に、彼女はステステとコンビニに入っていってしまう。僕も追いかけるようにして入っていく。

 

「さて……何にしようかな……」

 

 彼女はスイーツコーナーを眺めながら物色し始める。

 

––––……どうすればいいんだ?

 

 僕はこのまましどろもどろに溶けてしまえばいいのか?

 

「何してるの? 君も選びなよ」

「いや、ええ……」

「ああ、もしかしてお金持ってない?」

「そういう訳では……」

 

 ズボンの後ろポケットに手を回して、少し厚みのある財布の存在を確認する。

 買うといっても……なにを買うやら。

 腕時計を見ると、既に4時半を回っている。という事はかれこれ2時間は歩き続けた事になる。

 そう思うとどことなくお腹が空いてくる。

 しかし、もう【朝】の4時半。

 

「良いですよ、後3時間も経てば朝食ですし」

 

 作る予定の物もあるし、わざわざ買わなくても。

 

–––––ググヴウぅゥ〜〜……

 

 突然、何か軋むような音が聞こえてきた。

 いや、違う。この音が伝ってきたのは耳からではない。体内の骨から伝播してきたのだ。

 

「…………」

「…………」

 

 僕と彼女の目線が一点に集まる。

 そう、僕の胃袋へと。

 

「ね、食べよう?」

「……はい」

 

 観念したように、僕も店内を物色し始める。

 

「というか僕のこと、寝かせてあげるよって言ってたじゃないですか。あれなんなんです?」

「そのままの意味だよ」

「それがコンビニとなんの関係が……」

 

 こんな明るい場所に来たら余計に醒めるだけではないだろうか。

 

「安眠というのはね、今日が良かった、満喫したなっていう心地よさに成り立っているのさ。だから、やりきれなかったことをやろうじゃないか」

「はぁ……」

 

 よく分からないが、取り敢えず買いたいものを買って食べようといっているのだけは分かった。

 僕は、彼女のような甘い物を、という気分でもないので別の場所へと足を動かす。

 

「喉も乾いたし、水でも……」

 

 買おうかとした時にスマホの羅列が脳裏に走る。

 

『酒飲まないと寝れねー』

『ドカ食いして酒飲兵衛して倒れましょう!』

『不眠にも悩みにも酒ッス!』

 

 まるでその他全てに当たっていたはずの光を、そこだけへと向けたように視界にはそれしか映らなかった。

 そして十数分前の自分の言葉を反芻する。

 

『……飲んでみたいな』

 

 唾の塊が喉を通る感触がする。もう一度腹の鳴った音が聞こえた。

 誘惑と空腹というものは余程心を乱すらしい。乱された心と身体に正確な時間経過を求めてはいけない。

 すぐに離れれば良かったものの足を止めたのが悪かった。

 

「ふ〜〜ん♪」

「………」

 

 僕の身体を見つめていた時よりももっと頬を吊り上げた笑みでこちらを見ている女性の顔が真横にあった。

 

「やっぱり不良少年じゃん」

「ち、ちがっ!! こ、これは気の迷いです! まだ、買ってない…! 買っていない!」

「ほらほら、そんな大声を出さないで」

 

 シッと指を立てて、横目を使う彼女の視線を追う。

 深夜だった事が幸いしたのかレジのカウンターには誰もいない。もし聞かれていたら、間違いなく店外に連れ出されていただろう。

 

「それじゃあ、買おうか」

「え!? いや、え……っ?」

 

 彼女は酒がズラッと並べられた棚の扉を開けると、おもむろに一本取り出す。その姿を見て大人なんだなぁ……と場違いなことを考えてしまう。

 

「ほら選びなよ。買ってあげるからさ」

 

 彼女は、止まっているこちらを見てどれを選ぶか促してくる。

 

「でも、僕未成年ですし……」

 

 拒否しようとするがぞぞっと顔が寄ってくる。

 

「飲みたいんでしょ?」

 

 その言葉がまるで見えない壁になったかのように追い詰められた感覚を覚える。躙り寄る彼女を前に僕は––––

 

「飲みたい、そうだよね?」

 

 喉元を指で抑えられる。

 しかし良いのか?

 いやでも飲まずに帰れるのか?

 美味しいのあるの?

 というか本当にバレない? 

 巡るような思考内の問答が始まり。

 

「––––………………せめて……度数が低いやつにしてください……」

「よろしい!」

 

 思考の戦いのもと、欲望に負けたのであった。

 

 

 そうして、彼女に酒代を渡して自分は骨つき肉を選ぶ。久しぶりに来たが、プレミアムチキンが期間限定で復活していたので買ってみた。

 深夜のため、作り置きがされておらず待つこととなる。

 数分後、出来立ての肉を持ってコンビニを出る。

 周囲を見渡すと女性が『こっちこっち』と呼んでいる。

 そこは驚いた事にコンビニの前のベンチだった。それもしっかり防犯カメラに映らない位置であった。

 

「……え? ここで飲むんですか?」

「そうだよ?」

 

 また【当たり前でしょ】という顔で見られた。

 というか逆に驚いた様子だ。

 

 なんでだ………

 

 さっきもそうだがこの人、極度にマイペースだし未成年に酒を飲ませようとしたり、かなりヤバい側の存在だな。

 まあ、こっちは寝れればいいので試すだけでだ。試して結果が出ればいいので、相手の危険度や信頼などを推し量る必要はない。

 脅す目的ならわざわざ防犯カメラに映らない場所で飲ませないだろう。

 

「この時間帯なら人通りなんてないし、あったとしても知り合いぐらいだから」

「……よく知ってるんですね。夜のこと」

「もちろん、夜のことなら、ね」

「へえ……」

 

 割と飲ませる事に対して気を遣ってくれているようだ。実際、そうでなければ飲まないが。

 にしても、自分も大人になったらこんな風に夜も出歩かなきゃいけない事になるのかな。と、勝手な夢想をしながらベンチに腰を下ろす。

 

「はい」

「あ、ありがとうございます……」

 

 彼女は片手に持っていたスマホをポケットに入れると、袋から酒にを取り出して僕の掌に置く。

 手渡された酒缶をまじまじと見つめる。

 第一印象はなんか、普通のジュースと変わらない。強いて言えばより冷たく感じたぐらいだろうか。

 

「–––––ハッ!」

 

 何を思ったのか、僕は辺りを見渡して………

 

 

「キンキンに冷えてやがる……っ!」

 

 

 

「どうしたの?」

「…………言うべきかなって、つい」

 

 たまらずポッと頬が熱くなる。

 それを隠すように、冷やすようにして開けた缶に口をつける。飲みながら人がいないかを確認するように目を動かす。

 

「あっ、飲みやすい」

 

 ラベルを見てみるとどうやら梨系のサワーと呼ばれるものらしく、酸味もあるけれども甘くて、スッキリしていて瑞々しい。喉につっかえるような感覚もなく、スルスルと通っていく。

 

「酒ってこんなに飲みやすいんですね」

「物によるけどねえ〜……特にフルーツものは会社によっては酷いから」

「へえ……」

 

 胸が暖かくなる感覚を味わいながら、女性と一緒に食べ進めていく。こんな深夜に肉を食べながら、酒を飲むなんてことを憚らずにやれてしまう背徳感を強く感じる。彼女もティラミスを美味しそうに頬張っている様子を見て安心感も湧く。

 なにより、星が綺麗だ。

 夜風に当たりながら、星を見て食べ歩くようなことをしたことがなかったので、最高に気持ちが良い。

 口の中と眼が美味しい。

 

「あぁ……そっか」

 

 分かった。夜から感じるあの不自然な多幸感の原因。

 昼間なら必ずある物。ある事が当然のものがないのだ。

 【人の目】が、【他人(ヒト)がいる】という規則が、この夜の世界からは取り払われているんだ。

 その事実が自らの束縛を緩くする。

 今度は憚らずに缶に口をつける。

 

「そういえば、貴女はよくこうやって食べ歩くんですか?」

「うんん、今日は君と同じく偶々。いつもは買いに行ってもらうし、こうやって物を食べることは少ないね」

「その割には慣れてましたけど……」

「君よりは長く生きてるからね。こういうことも多くなるさ」

「なるほど……」

 

 行ってもらうってことは家族と暮らしてるのかな。

 

––––……そういえば、こんな風に誰かと喋りながら食べるのっていつぶりだろう?

 

 夜空を見上げる。

 黙々と夜の環境(在り方)と背徳感を味わう。

 酒って冷たいのに、暖かくなるんだな……アルコール度数が低いやつって言ってたし、スピリタスみたいに高いの飲んだらどうなってしまうんだろうか。

 

「人体燃えそう……あ、飲み終えちゃった」

 

 缶を揺するともうピチャピチャと音を立てることもない。

 

「僕も飲み終えちゃった」

 

 彼女のティラミスの容器と僕の酒缶を交換しあって一緒にゴミ箱に捨てると、こちらにぐるりと向き直る。

 

「どう? 満足した?」

 

 そう聞かれてどう返答するか。

 僕が迷うことは無かった。

 

「……はい、美味しかったです」

 

 僕がそう答えると、彼女はきょとんした顔をして『ふふっ』と笑みを零した。

 

「美味しいか……ハハハっ君、結構独特な感性してるね」

「笑わないでくださいよぉ……だって胸がポワぁポワして、美味しいもの食べて背徳感も味わって、星空も見れたんですよ? 多分、こんなの満足した(美味しかった)としか言えないですよ。

 ありがとうございます」

 

 心からそう思っているのか。

 それは分からないが、少なくとも舌は美味しいと唸っていた。味覚も触覚も視覚も、肉体が流した信号であり判断基準の一つ。

 特別変な病気も患っていない僕ならば、この言葉に偽りはないはすだ。

 拙いながらに感謝の意を述べると、僕のことを見ながら彼女は嬉しそうに頷く。

 

「そっか、じゃあ寝れそう?」

「はい、心地よく」

 

 といっても、数時間なのだが。

 それでもその数時間は、きっと彼女が言った通り安眠だ。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

「………ふぇ?」

 

 

 

 暫くして––––––

 

 

 

「ハツカ様、お待たせしました」

 

 コンビニの前に車が止まり、ひとりの若い女性が降りてきた。

 やはり驚いたのは、

 

「様呼びなんだ……」

 

 なんとなく世界観の違いを見せられた気がする。

 

「それじゃあ行こうか」

 

 高そうな車には見えない一般的な車のようだが、様って呼ばれてる辺り、良いところの御息女なんだろうか。

 運転手に耳打ちしてから再び近寄ってきた彼女に従い––––なんか、ガッツポーズをしている運転手のことを疑問に思いながら–––車の後部座席に乗る。

 奥に座った僕に続いて彼女も車内に入ってくる。

 

 はて、どこへ向かうのだろうか?

 

––––用心だけはしておかないとな。

 

 今日会ったばかりの人の車に乗るなんて、いったいどんな防犯意識してるんだと思うが、誘拐ならビルを出たタイミングにでも出来てるはずだし、わざわざ僕を攫う理由がない。

 

 ひとまず寝ないようにだけしておこう。気を抜いて何をされるか分からないのも事実だ。

 

「君、家どこ?」

「小森団地です」

「この辺りならやっぱりそこになるよね。じゃあ、向かおうか。お願い」

「分かりました」

 

 エンジンを蒸し、ゆっくりと走り出す。

 

「すみません、送ってもらって」

「良いんだよ、それより眠たいんでしょ? いいよ、寝ちゃっても。着いたら起こしてあげるよ」

 

 流石にそれはいかんだろ。

 

「起きたらまた歩かなきゃですし、寝るなら一気に……」

「問題ないよ。次に起きたら、二度寝なんて必要ないくらいスッキリしてるから。ほらほら、君は目を瞑って、夢心地に身を任せればいいんだ」

 

 誘われるままにシートに背を預けて、目を瞑る。

 彼女の言っていた満足する事が安眠にも繋がるなら、それで良い。

 けれども彼女の『必要ないくらいスッキリする』という言葉の意味が気になって仕方がない。

 この眠りになにがあるのか気になる。

 彼女が何をするのか気になる。

 気になると眠れない。

 

「……まぁ良いですけど」

 

 ならば、家に帰って心地よく寝るために彼女の言に片足ぐらいは乗ってやろう。

 息を殺し、顔をハットで隠して寝たフリをする。

 寝たフリは僕の0753番目の技の一つだ。

 

「…………」

 

 しかしまぁ、何をやっているんだと、自分のことながらに呆れてしまう。警戒はしてるとはいえ、知らない人の前で眠りかけようとするのは不用心の極み、ただの阿呆––––もしくは自暴自棄。

 

「どうだい?」

「––––」

 

 彼女は僕が寝たかを顔を近づけて確認してくる。

 余程寝て欲しいようだ。

 

「スゥ……」

 

 怪しまれないように寝息を立てる。

 僕は運動もした。腹も満たされた。酒も飲んでいる。多少のことがあっても怪しまれないだろう。

 いや、本当に寝ちゃいそうだな。

 寝落ち要素が多すぎる。対向車線から走ってくる車でも数えていれば完璧に寝れそうだ。

 

「どう? 寝れてる?」

「…………」

「お〜〜い」

 

 ……人の側で寝るの初めてだから、なんかソワソワする!

 逆にそれがあるお陰で寝ないで済みそうだ。

 

「寝てるかい?」

 

 視線がより強く掛かる。

 

「心地よいかい?」

 

 頬を突かれた。

 なんか凄く気にしてくるじゃん……

 

「……」

 

 幾許かの時間、車が走り続けると突然彼女の口が綻ぶ。

 

「…………ふふ、ふふふ」

 

 どことなく彼女の雰囲気が変わる。

 重い嗤い声。

 目的の獲物が罠に掛かったのを喜ぶマタギのような笑い声。

 

「……下拵え完了♪」

 

 ……下拵え?

 

「ハツカ様もいい趣味してますね、こんな純朴そうな子を。七草様のところの少年にでも影響を受けましたか?」

「そうかもね……このぐらいの歳の子はあまり食べないし」

 

 歳の子……って僕のことか。

 食べるってなんだ?

 

「いやぁ……こんな子供にイケナイことをさせるのは背徳感が凄いなぁ……あんなに幸せそうに顔だったんだ。どんな味か楽しみだなぁ……♪」

 

 彼女の吐息が耳元で聞こえる。

 少しずつ、少しずつそれでも確実に近づいてくる。

 

「ハァ、ハア……それじゃあ……」

 

 鬼気迫ったような息遣いが僕の胸を圧迫する。

 怖いとか畏れといった感情とはまた別の理解し得ない、体験したことのない心理。

 そして––––

 

「いただきます……♪」

 

 

 僕は彼女に口にされた。

 

 

 初めに首に鋭い痛みを感じる。

 『ちぅ……』という吸い付く音が耳朶を打つと共に、痛みと同等の快感が脳を刺激する。

 次に身体の中からナニかが抜けていく。抜けていくに合わせて心臓が高鳴りどんどんと脈を打つ。どれほど時間が経ったか分かりなくなる。

 数秒か、数十秒か、はたまた数分か。

 警戒していたが、これはあまりにも予想外。【想定外は想定内】の範疇を越えており頭が働かない。

 

「…………ッ!?」

 

 彼女は驚いたように口を離す。

 

「–––––––」

 

 くちゅ

 

 離したと思ったら、また首筋に口をつけてナニかを吸い上げていく。

 痛みと快感という相反する信号に僕の脳が蕩けていく。それでも起きているのが悟られないように賢明に黙す。

 程なくして再び、僕の首から顔を離す彼女から嬉しそうな声が漏れる。

 

「すっごい……めちゃくちゃ美味しい……!」

 

 何が起こったのだろうか。

 

 少なくとも、ビルから飛び降りたときのような原因不明の衝動ではない。

 答えは目の前にある。

 

 僕はたまらず振り返る。

 

「なんなんです……今の……」

 

 

 僕と彼女の眼が合い––––

 

 

 

 

 

「え……っ?」

 

 

 

 

–––その美しい顔が固まっていた。




この作品は未成年の飲酒を勧めるものではございません……!

ハツカ様が寝込みを襲うか襲わないかといったら、面白そうって理由でやるだろうなと思っております。



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第三夜「効率悪いだろ!」

 吸血鬼––––––

 

 文字通り【血を吸う怪物】

 

 世界各地に神話や民話、言い伝えとして今もなお語り継がれている伝説上の存在。西欧圏ではヴァンパイア。中国ではキョンシー。マレーシアではペナンガルといった数多くの吸血鬼伝説が広まっている。

 その実態だが、人のイメージによって大半が形成されてしまっている不定型とも言える怪物だ。

 しかし、その中でも人々の思い浮かべる吸血鬼ならば、彼であろう。

 創作物(キャラクター)として吸血鬼の存在を流布することになった、1897年刊行の吸血鬼ドラキュラに登場する【ドラキュラ伯爵】。

 更に遡れば吸血鬼ヴァーニーという本が皆のイメージの先駆けとなったものだ。

 

 そんな吸血鬼の特徴を大まかに挙げるとするならば–––

 

・人の血を吸うことで生きる怪物であり、それは繁殖行動の一つでもある

・タキシードを着ている

・吸血の為に犬歯が大きく鋭くなっている

・嗅覚や聴覚など感覚の鋭敏化及び身体能力が向上する

・獰猛な性格になる

・鏡には映らない

・寝るのは棺の中

・日光にとてつもなく弱く、流水や大蒜(にんにく)も苦手

 

––––ざっとこれだけ挙げられる。

 

 【嗅覚や聴覚が鋭敏になる】【性格の獰猛化】【水や日光に対する嫌悪】といったことから狂犬病もモチーフなのではないかと言われているそうだ。

 

 しかし、現状僕が考えるべきは最初の【人の血を吸うことで生きる怪物であり、それは繁殖行動の一つでもある】だ。

 そして僕の首からは––––

 

「血……か………」

 

 赤く滑る毒々しい鮮血が微かに流れ、触れた手には酸化して黒ずんだ血が付着している。

 

「僕の、血––––だよな?」

「ッ……」

 

 自分の血が付いた手を眺めている間、車内は重たい沈黙が支配していた。自動車は路肩に停車し、目の前の女性と運転手は面白いぐらい困惑した顔をしている。

 とりあえず、確認するべきはことは。

 

「……貴女は、その––––吸血鬼、ということなんですか?」

「……」

 

 彼女は押し黙っている。

 沈黙は肯定か、否定か。もし後者ならば……。

 

「えっ!? てことは血液性愛者(ヘマトフィリア)なんですか!?」

「違うッ!!」

 

 流石に後者なら少年性愛者(ヘベフィリア)も加えてツーアウトってところだったが。

 

「なら」

「……はぁ」

 

 言いづらそうにする彼女も流石に観念したのか、僕に覆い被さったままだった身体を起こしてこちらに目を合わせる。

 

「そっ、僕は吸血鬼。どう? 満足したかい?」

「満足したかどうかはこっちが聞くことな気が……いいけど……」

 

 ようやく腑に落ちた。吸血鬼なら僕を抱えたままビルの屋上に飛び上がることなど造作もない。いや、実際どこまでできるかは知らないが。

 だが、もし伝承通りなら––––

 

「じゃ、じゃあ……僕は、吸血鬼になった、という……ことなんですか?」

「ああ、問題ないよ。なってないなってない」

「ええぇ……?」

 

 彼女はその伝承を首を振って否定する。

 

「おもんな……」

「なりたかったの?」

「いや、どっちでもと言うか……面倒半と面白半ってぐらいですね」

 

 拍子抜けした感覚もある。

 けれども、いきなり吸血鬼に襲われて『人じゃなくなったぞ』と言われても生活習慣にどこまで影響及ぼすか分かんないからめんど臭い。

 だけど、成れるならなってみたいというのが本音である。一般的な男なら人外に憧れることは一度や二度ぐらいあるであろう。

 

「じゃあなんで、僕は吸血鬼にならなかったんですか? そうじゃないか……––––しなかったんですか?」

 

 そこが疑問だ。

 無条件で吸血鬼にするなんて無差別的で幼稚な繁殖を行うようにはなっていないはず。なら特定の行動で吸血鬼化の有無を決めれるのだろう。

 やはり黒魔術とかそっち系の儀式のようなことを行うのだろうか?

 

 彼女は指で頬を撫でながら『……仕方ない』と呟き、続ける。

 

「吸血鬼のことを知った以上は成ってもらう必要があるしね」

 

 彼女の言葉に首を傾げる。

 

「人間を吸血鬼にする方法……正確に云うならば人間が吸血鬼になる方法。それは––––」

 

 僕は息を呑んで言葉を待つ。

 

 一体どんな条件が––––

 

 

 

 

 

 

 

 

「–––––人間が、吸血鬼に【恋】をする事だ」

 

 

 

 

 

 

 

「…………………はぁ?」

 

 

 

 

 

 えっと、今、コイって言ったのか?

 コイって、恋愛の恋だよな?

 

「–––––はぁ……ほぅ……へぇ……恋、こぃ……恋かぁ………」

 

 予想だにしていなかった答えに、今度はこっちが頭を抱える。

 魚の小骨が喉に痞えたような感覚で、飲み込めきれなかった。

 

「そ、吸血鬼に恋焦がれた者が吸血されることによって初めて吸血鬼になれる。そういった点でいえば人間の求愛行動や生殖行動と同じだね」

「確かに……そうかもしれないですけど……」

 

 確かに子作りはまずは愛し合う相手を作るところから始まるが、それは子孫()であって眷属()ではない。

 価値観がズレている気がする。

 

「……本気?」

「本気もなにも、実際にそうやって眷属を増やしてるんだもの」

「いや! だって!? なぜそこで恋!?」

 

 なんでわざわざ他人の感情によって左右される繁殖方法なんて選んで進化したんだ!?

 訳が分からない! ちっとも合理的じゃないし、面倒この上ないだろ!!

 いや、吸血鬼に恋慕を抱かせることで精神的に吸血鬼化を行い中身を作った後、そこから吸血行為を行うことで肉体()も中身に応じて変化をすると云う事なのか……?

 

「そういう眷属()増やしって特殊な因子とかを吸血時に自身の唾液に混ぜて、吸血痕から侵入させるとかじゃない普通!!!? 効率悪いだろ!」

「普通は僕達の方なんだよ。それにそんなの僕達が知る訳ないだろ?」

「ええ……意味わかんない」

 

 現実は小説よりも奇なりと思うことは常々ある僕の人生だが、今回はかなり突飛のようだ。

 

「でも、効率が悪い(・・・・・)なんてことはないんだよ」

「……というと?」

「僕達の吸血鬼は総じて容姿が良い、僕のようにね」

 

 綺麗な黒髪を手で靡かせながら、無い胸を張るようにして彼女は堂々とその自慢の容姿を見せつける。

 確かにこの時代の人間に好まれやすい姿をしている。

 顔は当然のものとして、細くスレンダーな体躯でサラッとした絹のような白い手脚。夜の鮮やかな黒を具として彩られたような艶のある髪。

 それこそ、美の身を追求した彫像が動き出したような存在だ。

 普通なら思わず目を背けたくなってしまうほどに。

 

「吸血鬼はその子孫繁栄の仕方に由来し、人間を惚れさせ効率よく眷属を増やせるように人に好まれる振る舞いをすることに長けてる。男女問わずに僕達はモテるんだ。

 だから、非効率なんてことは決してない」

 

 つまり吸血鬼は【恋愛特化型生命体】という訳か。

 凄い能力の振り方だな。

 恋愛特化といっても人間以上の身体能力も有している。

 恋愛を人間関係などの集団環境の適応能力と捉え、脅威的な身体能力を生存能力と捉えれば、なるほど、否が応でも人間の上位互換と言うしかない。

 

「便利ですね。人間を使って吸血鬼を作れる……それに、吸血鬼同士でも」

「できると思うよ。吸血鬼は人間から生まれ変わるから男女の区別はあるし。やろうと思えば人間とでも……まぁ、人との実例は聞いたこと無いけど」

「なら、下手なことがない限り子孫繁栄ができなくことはないんですね」

「けど、眷属を作るのが主な方法だから、わざわざ腹を痛めてまで産む吸血鬼は稀だけど」

「へえ〜……」

 

 後継者を作る方法が三通りもあるなんて、種としては優れている。

 

「となると、そこの運転手も……貴女の眷属」

「ロングの子は宇津木(うつぎ)美幸(みゆき)。僕のペ……眷属のひとりだよ」

 

 ぺっ……なんだ?

 

「ハツカ様の眷属の美幸です。今後とも宜しく」

「は、はい……よろしくお願いします。 ……今後とも?」

 

 女同士なの、か。男女にモテるって言ってたもんな。

 アレでもさっき僕って。

 ……いや、今は触れない方がいいか。

 

「にしても、恋かぁ……恋ね……」

 

 ある意味、今自分が一番関わりたくない分野である。恋心という観点そのものは理解できるが、それが自分のことになった時どう反応すればいいのか分からない。

 実際昨日、人の告白に理由をつけて返答できず、拒絶のような形になってしまった。

 あまり思い出したくはないことだ。

 

「もしかして、恋愛のれの字にも関心ないのかな?」

「ま、まぁ……そこまで恋愛に興味もないですし……」

 

 今まで恋愛に対する意識など向けてこなかったこともあって余計に関心がない。

 

「けれども、君はもう吸血鬼になるしかないんだよ」

「は?」

 

 成るしかない、とはどういうことだ。

 そういえばさっきも『吸血鬼のことを知った以上は成ってもらう必要があるしね』と口にしていた。

 

「密やかに眷属を増やし、子孫繁栄させることが目的の吸血鬼にとって〈吸血鬼の存在を知っている人間〉は排除する対象でしかない。

 吸血鬼のことが多くの人間にバレてしまえば、不死同然に生命力の高い僕達でも弱点を突かれて殺されてしかねないからだ」

 

 続ける彼女が言うには、最近【吸血鬼を殺す探偵】なる者も現れているそうで、そちらの対応にも苦労しているそうだ。

 

「つまり、君がそんな探偵みたいに成られるのが困る。不確定ではあるけれど脅威でしかない。

 そこで、だ––––君にはふたつの道がある。ひとつは僕に恋をして眷属になり夜の住人になること」

「もう一つは……」

「ここで僕に飲み干されること」

 

 飲み干す……まあ、簡単に言って殺すぞということか。

 ふたつにひとつ。

 前者を取れば吸血鬼として生きられるが、未知のことが多すぎるため良否は現状つけられない。後者なら血液パックとして美味しく飲みきられて終わることになる。

 二度も口にした僕の血はよほど美味しかったのか、彼女は思い出したように舌で唇を潤す。

 その余裕は上位種としてのものだろう。

 

 しかし、なんともまぁ–––––

 

「横暴な生き方だな」

 

 たまらず笑ってしまった。

 

「なに笑ってるの」

 

 それが癇に障ったのか、彼女の声のトーンが一気に下がる。それに連れて車内の気温がドッと低くなる。

 

 ()は気にも留めない。

 ただ周囲を確認するだけ。

 

「確かに、吸血鬼にするか殺すか……俺の命はお前の掌にある。それは認めよう」

 

 こんな狭い車内で、相手との距離はほぼゼロだ。

 彼女がやろうと思えば今にでも殺せてしまうだろう。

 

「けど理解できないし、何の意味があるんだ? 友好関係を築けるであろう知的生命体同士の癖に、過程を取っ払って殺すという発想に至るその短絡さは」

「その方が()()()だろ?」

 

 吸血鬼と人間の価値観はやはり違う。

 

「君は、ガソリンの近くに火が着いたライターをそのまま放置しておくのかい?」

「蹴り飛ばさなければいいだけだろ」

「しかし、それが人なら自ら火元になりにいく可能性もある」

 

 確かに、相手が人間から血を吸う生き物だ。

 存在が露呈すれば勝手に怖がり、安全策と言い繕って魔女狩りの如く皆殺しにしようとするのは想像できる。

 確か何年か前にマウライで吸血鬼と疑われた2人が、集団に殺された事件があったな。

 

「それを言うならお前も爪を研げ。相手の確認すら満足に出来ていないなら、お前らの危機管理にも問題がある」

 

 実際、完全に寝ているか確認してないから俺と彼女はこうなってる訳だ。

 

「……お前?」

「反応するのそっちなのぉ……?」

 

 先ほどから彼女への二人称(ににんしょう)を変えたからか女性は目を丸くする。運転手の美幸から鋭く尖った痛い視線が飛んでくる。

 大事な話を逸らすのは如何ぞ。

 

「んっんッ––––第一に吸血鬼を殺す探偵のように俺がなり得るからこの命を絶つと言ったな。

 だが、人が何かを殺すに当たって実際に行動できる奴はそういない。無知で暇潰しに口だけ言う奴らは、まず力の差がある時点で表に出てこない」

 

 口にすることが目的の奴らは、真の行動を起こすほどの胆力も覚悟もない。まぁ赤信号みんなで渡れば怖くないと言うように、纏まった時になにをしでかすか分からんのがあの狂った連中なのだが。

 

「頭がとち狂った理解不能原理を有する奴らも、まぁ……確かに居るが、人間が個人で行動を起こすとなるとそれなりの起源が必要になる。

 アンタら……その探偵の大切な奴を目の前で消したんじゃないだろうな」

 

 彼女の吸血行動や聞いた吸血鬼の行動原理からすると、憚らずに血を吸うということは少数だろう。

 しかし、少数。存在している可能性も十分ある。

 

「そんな悪趣味な奴は僕の仲間には居ないよ」

 

 彼女の目許が陰り、露骨な嫌悪感を顔に出してくる。

 見た目と違って熱があるタイプか。良いね、そういう情に熱いタイプは大好きだ。

 恐らくこの人本当に、仲間がやっていないと確信している。

 そういう瞳をしている。

 

––––本当か確かめろ

 

「……っ? ……なるほど、アンタの預かり知らぬところで起こったことか」

 

 彼女からすると責任を取ることではない。

 

 でも、もう少し。

 

「それとも、お仲間の中に黙っているクズがいるかだな」

「––––」

「案外信頼されてな––––––グッッ!!?」

 

 ガンッ!と背中が強烈に叩きつけられる。

 衝撃で思わず咳き込み、咽せてしまう。

 

「…………ッ」

 

 数秒して胸ぐらを掴まれたドアに叩きつけられたのだと理解した。あまりに速かったため認識するのが遅れた。

 背中がめちゃくちゃ痛い。ビリビリして熱くなり背中が疼く。

 これが吸血鬼の膂力––––確かに人外パワーだ。良い……なんか次のニチアサがより楽しめそうだ。

 にしても彼女と距離が近くてよかった。加速をつけて攻撃されていたら確実に肉片になっていた。

 

 彼女の顔が俺の目の前に来る。彼女の目許は陰りながらも、確かに灯る眼光で俺を捉える。

 

「次、僕の仲間のことを愚弄してみろ……本気で殺すよ」

 

 痛みで熱くなった背が、ゾッとする寒気で急速に冷えていく。

 恐怖と表せる感情が心の内に渦巻く。しかし、その恐れを抱かせる瞳は、裏を返せば彼女の信頼の証拠である。

 確信してしまうと、思わずニヤっとした笑みが顔から溢れてくる。

 

「……君、立場分かってるの? このまま君を吸い殺すことだってできるんだよ」

 

 開かれた口から人のモノではない鋭く伸びた犬歯を覗かせる。

 しかし、この敵意は心地良い。

 信頼が見える意志は側から見ていても良いモノだ。

 

「ああ……うん、悪かった。アンタの仲間を貶したことは間違っていそうだ」

 

 頭を下げる。

 これで納得してくれるなら安いモノだが、殺されるのも一興だろう。

 

「……––––」

 

 彼女は冷たい目のまま手を離す。

 

「あっ、離してくれるのか」

 

 簡単に離してくれるとは思っていなかったので驚く。

 

「……慈悲だよ、僕たちだって人を殺したい訳じゃない。それとも、飲み干されたかった?」

「別にそういうわけではねぇよ。

 けど今、俺は殺されかけたんだぜ。もし逃したら、あんたの言う通り敵になるかもしれないぞ」

「逃げられると思っているの?」

「さぁな。それより、もうちょい離れてくれ……せっかくの学ランに皺がつく」

「ふんっ」

 

 俺に覆いかぶさるような体勢だった彼女は身体を起こして距離を置く。

 俺は埃を払うようにして学ランに皺がないかを見ながら辺りを確認する。

 

 車のモニターの時計はもう5時を回っている。

 

「さて、腹は括れたかな?」

 

 この流れだと、吸血鬼に成るしかないよな。

 肉体的なスペック差もそうだが、送ってもらうために住んでいる場所を告げてしまったのがいけなかった。

 少し前の自分に呆れながら彼女を見る。

 

「だけど、良いのか? 俺なんかを吸血鬼にして」

「……?」

「いや、そっちの立場を守るためというのは大前提としても一応は眷属()作りなんだろ? そういうのは良いなと思った相手とやるもんじゃないのか?

 気乗りしないのに、やるのは流石に」

「ああなるほど……別に良いよ」

「……俺の血が美味しいから、か?」

「まぁそれもあるけど……君の顔、好みだし」

「…………恋って感情の話だよな?」

 

 頭を抱える。

 見た目か……そうか……。

 いや、まあ、そうだな。恋しなきゃいけないんだよな。

 顔から入るというのも一つの手かもしれない。

 俺も彼女の顔を見つめる。

 

「澄んでて綺麗だ。うん、俺もアンタはとても好みだ」

 

 なにより、この男女どちらともつくような不鮮明な存在の容姿に好奇が生まれる。

 

「ブフッ––––!? ん、んんっ……!」

 

 なんか噴き出したぞ……

 

「そ、そうだね。僕は吸血鬼の中で一番可愛いからね……」

「案外直で言われるのは慣れてないのか?」

「な、慣れてるともっ僕だからね」

 

 この吸血鬼()おもしろ。

 

「なら、僕の眷属になる。そういうことでいいよね」

 

 そうなるんだろう。

 

「––––」

 

 けれども、心の内側が『それで良いのか』と問いかけてくる。

 

「……」

 

 それが()()()()()()()()()と。

 

 ()の決めたルールには–––

 

「ふっ」

 

 また笑みが溢れる。

 ああ、そうだ。

 俺の生き方は––––

 

 

 

 音が聞こえる。

 駆け抜けるような重低音の振動。

 

 

「断る」

 

「は?」

 

 虚をつかれたとばかりに、彼女が目を見開く。

 

「君が俺に選択を迫って、それで決めるというのは気に食わない。

 吸血鬼に成るにしても、俺は示されたことのみで決断するのは耐えられないタチでね。だから、俺は俺の決めた理屈で行動する!」

 

 目の端に光が差し込む。

 月明かりではない。

 地平線に沿って車内を照らすライトが近づく。

 

 待っていたよ–––––

 

 俺の後ろで『カチッ』という音が軽く鳴る。

 それが意味するもの。

 

「っ!!? 美幸早く鍵締めて!!」

「え––––ッ」

 

 流石は吸血鬼。

 反応と判断が早い。

 しかし、眷属の方はそうではなかったようだ。

 

「またね、恋愛上手のコウモリさん♪」

 

 俺はもたれ掛かっていたドアをそのまま背で押すようにして開き、車外に転がり出る。そのまま後転の要領で地面に手をつくと、身体を吹き飛ばす勢いで跳ねる。

 

「ッ!!」

 

 俺の身体が宙を舞う。

 視線が身体に注がれるのがわかる。あの吸血鬼たちからも、走ってきた対向車(・・・)の運転手からも。

 数秒間の滞空の後、ガンッと重い着地音と共に俺は対向車の屋根に飛び移ることに成功したのだ。

 

「CIAO〜」

 

 俺は別れを告げるように吸血鬼達に手を振った。

 

 

 

 

「どうしますかハツカ様! 今すぐ追いかけますか?!」

 

 焦った美幸はそういって蘿蔔ハツカ()に問いかけながら、直ぐにエンジンブレーキなどを解除し彼を追いかけようとする。申し訳なさそうというよりは、恐怖のような感情が顔から滲み出す。

 恐らく僕にお仕置きされると思っているのだろう。

 それを僕は制止する。

 

「もう無駄だよ」

 

 対向車線からまた車がやってくる。

 さっきまでかなり間があったけど、今はそれなりの数が通り過ぎてくる。朝が近づいてきたこともあってか、出勤するための通行量が増えてきたようだ。

 人間の朝は早いね。

 

「今から追えばかえって目立ちかねない」

 

 あの子もそれが分かってたからあんな撤退の仕方をしたのだろう。

 しかも、車のルーフに乗った相手を追うとなると余計に人目につきやすくなる。

 

「……分かりました。すみません、ハツカ様」

「いいよ、今回ばかりは僕も呆気に取られて動けなかったからね」

 

 まさか人間の、それも子供があんな動きをするなんて思ってもみなかった。僕の血を吸われて吸血鬼になったのかと考えたが、彼からは吸血鬼特有の臭いはしなかった。

 となれば、あれが自前の身体能力となる。

 それにあの口調。

 突然の人が変わったように、変化したあの子の性格と表情。

 ビルの屋上やコンビニで会話した時のようなほんわかした気の抜けた顔と同じ持ち主とは思えない、堂々とした顔で僕のことを睨みつけてきた。

 その瞬間的な変容にも気を取られてしまった。

 

「彼の居場所は分かってるんだ。明日捕まえに行っても遅くないよ」

 

 幸い相手は子供だ。

 吸血鬼に襲われたなんて親に掛け合っても変な夢を見たとでも思われるだけだろう。

 シートに深く腰をかけ直して、背を託す。

 

「じゃあ、約束通り遊んであげる。行こうか」

「……いいんですか」

「うん。僕の気持ちが変わらない内なら、ね」

「はい♡」

 

 美幸の深刻な顔が一転して幸福で蕩ける。

 

 

 

 

 

––––必ず君も、この子達と同じような僕に蕩けた顔にしてあげるよ。




漫画購入後「ハツカ様の眷属名前出てないな……」

アニメ最終回で確認
『ロング
 ヒゲ
 ショート』
「くっそ! 雑っ!!」

ファンブック購入後「載ってねえ!!!?」

と言うことで自分でつけました。仕方ないね!

主人公くん、あらすじみたいな俺様気取りのキャラ感出せたかな……?


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第四夜「……このままは嫌だ」

「はぁ、最ッ悪だ––––」

 

 あの後、僕は自動車の屋根に乗ったまま小森団地とは反対側へ走っていった。

 それは良い。

 吸血鬼から一旦身を引くためには仕方のないことだ。

 今後の方針を決めるためには時間を作る必要がある。

 個人的には運転手との揉め事の方が心配だったが、これも上手く丸め込むことが出来た。

 車の凹みや傷は上手く着地できていたからか見当たらなかったことに加えて、映画のワンシーンのような体験ができたことが嬉しかったとのこと。

 運転手の顔は、きっと僕があの吸血鬼()と酒を飲んでいた時の物と似ていたと思う。

 特別な事態に巻き込まれてテンションが上がったのだろう。

 

「じゃあね、お兄さん!」

「おう! 次は気をつけろよ!!」

 

 こうして、帰宅したのが7時前であった。

 

 歩いてクタクタ。

 寝不足で身体が重い。

 吸血鬼なんてものに出会って脳はパンク。

 

 とても朝食の準備なんてしている余裕と体力はなかった。

 踏ん切りをつけて、制服に着替えた後焼くこともせず食パンだけを片手に登校––––

 

「クソ眠い……」

 

 現在、僕は校門の前に立っていた。

 校門を潜り抜けると、人をちらほら見受けることができた。恐らく部活動の朝練か委員会の作業をしている生徒や先生たちだ。

 中には、用もないのに朝早く起きてやってくるヤバい奴もいるのかもしれない。

 

––––朝井アキラが馬鹿みたいに早く登校してるって話だったな……

 

 アイツの話だと、どういうわけだか6時半には来ているらしい。

 

「キチンと寝なさいよ、まったく……」

 

 今日の僕が言えたことではないのだが。

 

「ふぁ……」

 

 ため息と共に、大きな欠伸をする。明らかな睡眠不足で目がしょぼしょぼして視界がぼやけて不鮮明だ。

 またいつもの日常が始まる。

 今日ばかりはそれが非常に億劫だ。

 会いづらい奴がいる。立場的に会わざる終えないのもまた面倒だ。

 その事実が更に眠気を加速させる。

 

––––辛いな……

 

「夜はあんなに冴えてたのに」

 

 深夜という未知に心ときめいたのだろうか。

 ある種の魅惑を味わった後の朝は憂鬱は強い。そのことを持っている学生鞄がいつにも増して重く感じることが示している。

 

「とりあえず、生徒会室にでも行くか」

 

 朝とはいえ、もう人がいる時間帯。

 なので裏道を使う。

 

「よっ……こいせっ!」

 

 校門のそばにある運動場の木に近寄って、もっとも太い枝に捕まる。捕まったまま逆上がりの要領で飛び上がり、その枝の上に着地する。

 

「流石自然、力強い」

 

 ポンポンと足踏みをしてみる。

 何度かこの道を使っているが、かなり太くズッシリとしているため折れる気配はない。

 

「行くか」

 

 勢いをつけて木と木を飛び移るようにして校舎に近づいていく。

 

『……あれ、なんか揺れた?』

『鳥でもいたんじゃない?』

 

「…………」

 

 校舎に一番近い木まで来る。

 飛び移ってきた助走を活かして、飛び跳ねる。

 

「おっ……と、と……」

 

 なんとか校舎の縁に飛び乗ることに成功。

 

「人に会わないならこの道が良いんだよね〜」

 

 縁に立ったまま運動場で生徒が駆け回る様子を見下ろす。

 その気分はまるで街中を駆ける泥棒か怪盗、あるいは民を睥睨する帝王のようだ。

 

 僕がこの道を使う理由はひとつ。

 人に見つからず生徒会室に入れるのその一点だけだ。じゃなければこんな変な入り方はしない。

 

「おはよ〜……っと」

 

 鍵をかけずにいた生徒会室の窓から室内に入る。

 靴を脱いで、片隅に並べて置いてあるロッカーの一つから上履きを取り出す。

 靴は後で仕舞いに行くとして、

 

「はぁ〜〜…………疲れたよ–––」

 

 生徒会室の真ん中に置かれた長机からパイプ椅子を引き出して、力任せに身を預ける。

 パイプ椅子がガンと音を立てる。

 

「始業まであと43分……仮眠を取るぐらいならできるか。けど、それよりも––––」

 

 先に考えるべきことがある。

 目下の大問題は、あの吸血鬼だ。

 さっきは逃げられたとはいえ、小森団地に住んでることは口にしている。

 夜になれば探しに来るだろう。吸血鬼は複数体いるそうだから、もしかしたらその伝で僕の部屋番号もバレてるかもしれない。

 

「ハァ……めんど」

 

 現状、車の中で考えついていた案は三つ。

 1、吸血鬼と恋をして、あちら()側の存在になる

 2、ならずに殺される

 3、どこかへ雲隠れして身の安全を確保する

 

 まず3は現実的じゃない。

 吸血鬼が居るのは、この街だけじゃないだろう。

 彼女から引き出した反応を見る限り、個人主義者の集まりではなく、仲間意識がありコミニティーを作って動いているのは確定だ。種全体のためなら人間の殺害も視野に入れることを考えると、街外のコミニティーが彼女と繋がっていればすぐにバレる。

 というか、そんな身を隠すほどの時間はない。

 

 次に2番。ある意味一番現実的。

 人外パワー溢れる彼女達なら即刻僕を殺せる。

 けれども、死ぬなら死ぬで良い感じに死にたい。

 

「良い感じに死ぬってなんだよ。––––……なんだ?」

 

 とりあえず、3と2は無しだ。

 

「結論として……吸血鬼になるための努力をするしかないわけだ」

 

 いや、でもな……

 吸血鬼側の意思でこっちを吸血鬼に変えれるならポンと身を差し出すだけなのだが、そういう訳じゃない。

 

「吸血鬼になる方法は『人が吸血鬼に恋をすること』ね……」

 

 無理難題を呆れた口調で独りごちる。

 

 真祖様よ、なんでこんな繁殖方法にしたんですか?

 

「恋かぁ……出来そうにないよな……」

 

 薄れる気力に促されるように、長机に倒れ伏した。

 そして顔だけを窓側に向けて、昨日の出来事を思い返す。

 

 

 生徒会室。

 日が傾き、遠い空から降ってきて最後まで残った赤い光だけが街を照らしているのが分かる。

 最近はこの景色を見るのが好きだった。

 綺麗な景色を眺めながら、僕たちは生徒会の作業を黙々と終わらせていた。

 

理世(リヨ)そっちは片付いた?」

「まぁ、ボチボチかなぁ––––ショウはどう?」

「こっちも終わる目処はたった……いや、今終わった」

 

 纏めた資料を揃え、ジャンルごとにファイルに綴じる。

 

 他の役員は居なかった。

 木曜日は本来生徒会の活動日ではないのだ。

 そんな中、何故僕がここに居たかというと目の前の少女––––副会長である倉賀野(くらがの)理世に誘われたからである。

 

「ほら、終わってない奴を渡せ」

「別に良いわよ」

「そう言うな。俺に回した方が負担も時間も減るだろ」

 

 この誘いを断らなかったのには訳がある。

 ひとつは勿論仕事を進めておきたかったこと。

 もうひとつは、理世だけと同じ場に居たかった。

 

 面倒な生徒会の仕事とはいえ、理世と一緒に居るのは気分が落ちる事はなかった。

 どういう訳か、彼女との会話は他の人より純粋に受け止められている気がするのだ。加えて、共通の趣味もあったので時間を潰すのもやりやすかった。

 それは生徒会に限った話ではない。

 

「……じゃあお願い」

「うん」

 

 学校内で考えるなら––––体育などの時間を除けば––––一番共に過ごしているのは理世だ。

 間違いない。

 別に男の知り合いがいない訳ではないが、どういうわけか理世と過ごす時間が多かった。

 なんとなく、過ごしやすかったのだ。

 

「ねぇ、この間のドンブラやばくない?」

「今後次第では雉と犬の仲が大変なことになる」

「元々雉は一方通行の愛をしてる感じだったしね……」

「犬はまだ面割れしてないから、戦隊としてはうまく行くだろうけど……獣人の設定めんどくせぇ」

「ドン家厄介なものしか残さないよね……」

 

 このように趣味を交えながら仕事を進めていく。

 悪くない関係性だ。

 気を遣うようなこともないし、逆に気を遣われるような事もない。無条件の不信感は彼女でも有るけれど、他の人よりもずっと楽なんだ。

 理世と一緒にいるのは。人間らしくいられてる。

 それもあって相性がいい。ベストマッチと言えるほどに。

 

「よしっ、終わり」

「こっちも完了……! 疲れた〜」

 

 疲労を取るように伸びをする。

 

 理世が辺りを見渡す。

 

「?」

 

 他に誰か見て居ないか、聞き耳を立てていないか探るように。

 

「…………」

 

 そうして真っ直ぐと僕を見据えた。

 

「––––ねぇショウ……ちょっと良い?」

「なんだ」

「…………」

 

 真剣な表情になったかと思えば、すぐ照れたようなヨソヨソしい態度に変わる。

 言い淀みながら、その長く綺麗な金髪を(もてあ)ぶ。部屋に差し込む夕陽でより一層美しく見えるその髪は、理世の表情を隠していた。

 そのせいでなにを考えているのか読み取れきれない。

 

「……?」

 

 何かを言い出そうしてパクパクと口は動いているが、声は届いてこない。

 

「なんだ、ハッキリ言え」

 

 焦ったい。

 なにかあるならばちゃんと伝えて欲しい。

 

「––––うん」

 

 決心した。

 

 芯のある顔つきになる理世。

 それほど大事(おおごと)なのだろうか。なにか助けて欲しいことでもあるのだろうか。

 

「あのね、ショウ––––」

 

 理世が一呼吸、置いた。

 こっちも真剣な心持ちになっていく。

 

 

 

「好きです」

 

 

 

 突然の告白に頭が真っ白になる。

 

「付き合ってください」

 

 脳が受け入れるのに数秒。

 意味を理解するのに数秒。

 

「––––」

 

 そうして僕の中に現れたのは、謎の拒否反応。

 思考が一気に黒く塗り潰された。

 

 僕はどんな想いを抱いていたのだろうか。

 

 彼女への嫌悪か?

 彼女の意思への軽視か?

 彼女への不信感か?

 それとも、自分への不信感? 不快感?

 

––––なんで好意を受け取ってこんなことを思う?

 

 僕はどんな貌をしていただろうか。

 

 不理解による恐怖を浮かべていたのだろうか?

 見るに耐えない惨烈なものだったのだろうか?

 相手の決意に唾棄するようなものだっただろうか?

 それとも、なにも響いていない空虚なものだっただろうか?

 

––––好かれてなんでこんな顔ができる?

 

 この時のことをうまく覚えていない。

 汚れた紙に文字が映らないのと同じように、真っ黒になった思考ではなにも記憶出来やしないのだ。

 

 ただ、覚えているのは酷く歪んだ理世の顔。

 

「ごめん……」

 

 それでも感情だけは死んでいない。

 壊れた花瓶から花が倒れ水が流れ出すように、纏まりのない想いを吐き出す。

 胸を満たした言い表せない嫌な情動を言葉にする。

 

「……わかん、ないや………」

 

 僕が言い終わるのが先か、理世は背を向けて走り去ってしまった。

 

「––––」

 

 沈み、光が欠けていく夕陽は、僕の暗澹とした心を指していた–––––

 

 

 

 

「振り返ってみても最低だな……」

 

 自身の畜生具合に腹が立つ。

 しかも、その翌日に別の人へ恋をしなければならなくなったというのも加味すると最低さが極まる。

 だけど、付き合うか付き合わないかで言うならば、きっと付き合わなかった。アイツが僕が好きな理由が全く理解できないのだから。

 

「断るなら……しっかりと断るべきだよな」

 

 それを『分からない』などと曖昧な返答をしてしまうとは。苛立ちが抑えられず、顔を伏せグシャグシャの髪を掻き乱す。

 なによりいけなかったのは、根源が吸血鬼が言うように顔が好きというものであったとしても、最終的には感情の話である恋慕の問題で時間を開けてしまったこと。

 冷静になってしまった時に、その時の感情をそのままに語れるかというと無理だ。

 出来るのなら教えて欲しい。

 

「––––クソが」

 

 記憶がある限りでは、この気持ちの悪い不信感はずっとあったのだ。

 それでも今までは上手くやってこれた。表に出さずに、誰かに相談することもなく普通に暮らしてこれた。

 誰かを完全に信じられることなんてありはしない。

 誰にでもどこか知らない一面()があって、誰にも知られたくない想い《陰》がある。

 普遍的なものと理解できていたからこそ、この不信感にも折り合いをつけて付き合ってこれた。

 

「なのに、なんで」

 

 今になって、こんなに大きくなって(・・・・・・)しまったのだろうか。

 この身と心を犯す病気が悪化したのだと、あの後分かった。

 

「……このままは嫌だ」

 

 胸にそっと手を当てる。

 

「理世のことにしろ、吸血鬼(アイツ)にしろ……このよく分からん情動をどうにかしないと、俺は始まらない……!」

 

 この想いに解を出さなければならない。

 そうでなければ理世に顔向けが出来ない。

 ましてや、吸血鬼に恋をする可能性なんて露の身ほどありはしない。

 

「この感情は危険すぎる」

 

 早く、早く対処しなければ。

 けれども、出来る気がしない。不可能という初めての予測が、僕を強く締め付ける。

 

「…………そういえば」

 

 なんで僕は吸血鬼の仲間に対する信頼に深入りしようとした?

 そうしたいと思ったからと考えるべきなのだが。

 

––––でも、確かめよう……なんて感情、今まであったか?

 

「はっ––––色香にでもやられたか」

 

 馬鹿にするように一蹴する。

 最低だ。最悪だ。

 

 それでも––––いつもの不信感とは、違った気がする。

 

「……ち」

 

 僕は乗せるのは好きだが、乗せられるのは嫌いだ。

 一杯食わせられたのなら、こちらが反撃にでなければ気が済まない。

 

「吸血鬼、か––––」

 

 あのハツカ様と呼ばれた相手のことを思い出す。

 綺麗に整った顔から溢れたニヤッとした笑みは魅力的と評するよりも、蠱惑的と呼ぶほうがあっている気がする。

 人を惑わす優しい笑み。

 その口が僕の首筋を噛んだのだ。

 

「飲まれたんだよな……血を……」

 

 首筋を撫でる。血は乾きもう指を汚すことはないが、小さい傷痕があの瞬間のことを色濃く想い出させる。

 牙を突き立てられ、皮膚を貫かれたあの時の感覚。

 血が抜けて身体が色褪せ冷めていくようで、身体中が熱を帯びるような矛盾した感覚。

 

「……ッ」

 

 気持ちよかった。

 

 恐怖や痛みもあったけれども、現実であることを認識させるそれらがより非日常感を相乗的に増させる。

 

「いやはや、圧倒されたな」

 

 いつかは会う。

 いや、明日には出くわすだろう。

 だからこそ、それまでに答えを出さなければならない––––

 

「せめて、自分が吸血鬼になる目的だけでも掴まないと……」

 

 僕は知っているはずだ。こういった時どうすれば良いのか、どんなことが最高最善なのかを見ているはずだ。

 にも関わらず浮かんでこない。

 答えが出そうで出ない。この痞えるような感覚は、まるで真上から垂れ下がる綱に寸前のところで手が届かないようなもどかしさがある。

 

「はぁ……」

 

 溜め息を吐くのと同時に生徒会室のスピーカーからベルが鳴る。

 

「やばい、もう予鈴か」

 

 さて、乗り気はしないが行くしかない。

 

 ドアに手をかけて、深く、深く息をする。

 

「さぁ、今日も化かし合おう」

 

 今日も無敗で生活(ゲーム)を乗りこなす。

 

 

 

 

「あっ……」

 

 生徒会室(目的地)から人が出てくる。

 昨日置き忘れた教材などの一式を取りに来た倉賀野理世()は、すぐに廊下のぼこっと飛び出した柱の裏に隠れる。

 出てきたのは、昨日自分が告白した相手。

 

「ショウ……、待」

 

 って––––そう言い切れない。

 声も小さく耳に届いていないのだろう。

 

「……–––ッ」

 

 離れていく彼の背が、今の自分との距離であるという錯覚に陥る。

 

「やっぱり、告白したのは間違いだったかな……」

 

 きっと、今なら、今の関係性なら……

 

 この考えが間違っていたのだ。

 私は––––

 

「……まだ戻れるかな」

 

––––1日前の関係性で満足しなければいけなかったのだ。




昼パートは原作だとあまり無いけれど、こっちではある程度書くことになると思います。
よふかしのキャラの名前で、カタカナか漢字かってどうやって決めてるんだろう……?

この二次創作の人間枠である理世は、コウくんで言うところのさくらポジです。


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第五夜「–––––れたらなとも」

 私––––倉賀野(くらがの)理世(りよ)は、先日フラれたのだ。

 とても辛い出来事だった。

 無遠慮に踏み込んだばっかりに、大切な人を––––吼月(くづき)ショウを傷つけてしまった。

 もしかしたら私自身も傷ついたかもしれない。

 

 コレはもうどうしようもない現実で、変えられない過去。

 

「だからもう……仕方がない」

 

 脳内のギアを切り替えて、そのことを見ないようにフルスロットルで駆け抜けよう。

 

 しかし、こういったことがあると面倒なことがある。

 女子特有のことかも知れない。いや、私の周り限定かもしれないが、関係の輪を乱すとそれがこちらに返ってくるのだ。

 告白に失敗した私を遠巻きに見つめるクラス()メイト()

 とある者は心配そうに、とある者はしてやったりといった顔、とある者は安堵の表情を。

 様々な波が遠くから押し寄せる。

 こちらが見返すと、波が引くように顔を背ける。

 

 やましいと思うようなら、わざわざ見ない方がいいのに。

 朝から続けられて気は滅入るが、それも今週はこれで終わり。もう、どうでも良いことだ。

 

「けど、いま体育なのよね……」

 

『ジャンッ……サー!!』

 

 今日の学校もつつがなく進行して昼の過ぎ。授業が六限目までしかない金曜日の中で、最後の授業となった時間帯。

 週末の始まりに学校のストレスを発散ができる体育が来るのはとても嬉しい。

 だが、この度の授業は【バレー】である。

 

「こんなんじゃチームプレイなんてできそうにないのだわ……」

 

 ただでさえ連携が必要な競技の時にコレとは運がない。

 まあ、所詮授業のバレーだからネット際にボールが浮いてこれば叩き込むことはできるけど。

 ため息をつきながら、体育館の舞台に座り込む。

 

「………」

 

 夜は涼しいが昼間まだ普通に暖かいこの時期に、締め切った体育館で激しく動くと熱が篭って余計に暑い。

 水筒の中に入れたスポーツドリンクをあおる。

 

『いったよー!』

 

『おら喰らえー!』

 

 ふたつのバレーコートを男女がそれぞれ使って駆け回っている。バレーをやりこんでいる人、運動ができる人が多く走り、苦手な人はそれを端から見るという体育ではよく目にする構図だ。

 けど、その人数が普段と違う。

 

 ブザーが鳴り響いた。

 

「あっ……ショウ……」

 

 試合時間が終わり、次のチームに変わっていく。

 その中にはショウの姿もあった。並んでコートに入っていくような人は居ないが、チームを組んでいる相手になにかを告げているようなのが、口の動きから分かる。

 フラれたというのに自然と目で追ってしまうなんて我ながら女々しいなと思う。

 今は顔を合わしたくはないのだが、眺める程度なら。

 

「……こんな時に限って、岡さん休みになるなんてね」

 

 いつもならレシーブ練習などから始まるのだが、今日は男子体育担当の岡村先生が休みのため急遽女子と同じ内容となった。

 教師ひとりで2クラス分見ることはできないということで、準備体操以外試合形式の授業で時間が進む。

 それもあってか男子にしろ女子にしろいつもより気合が入っている気がする。

 

「アホらし……」

 

 フラれた自分が言うと負け惜しみに聞こえて情けないが、実際いつも通りやらなきゃ空回りするだけだろうに……と思う。

 私がぶう垂れていると、舞台袖から私を呼ぶ声がした。

 

「理世ちゃん!」

 

 声がやってきた方に視線を向ける。

 

「さくらちゃんじゃない、こんにちわ」

 

 舞台袖にいたのは、浅倉さくら––––ある意味私と同じ人。夜守コウという人物に1ヶ月くらい前にフラれた子である。

 愛らしい顔つきが笑みを浮かべると、とてもキラキラしていて見てるこっちもつられて笑ってしまった。

 

「こんにちわ! 隣、座っていい?」

「良いけど」

「わーい!」

 

 弾ける笑顔のまま私の隣に腰を下ろす。

 

––––このタイミングで態々話しかけてくるということは、なんだ……?フラれた者としての同情か?

 

 しかし、そんな雰囲気は一切見せない彼女は体育館の中を見渡す。

 

「まさか岡村先生が休みになるなんてね〜」

「そうね。あの人いつも元気そうなのに」

「風邪ひかないコレぞ体育会系! ってかんじだよね」

「歳には勝てないってことですわ」

 

 ハハとふたりで笑い合う。

 ひとしきり笑い、少しの世間話を交わすとさくらちゃんがスッと落ち着いた顔になる。

 そこで分かった。

 私の告白とは違う別の話題であり、さくらちゃんからの話であると。

 

「ねぇ、理世ちゃん」

「どうしたの?」

「いや、あの……この間の件ってどうなってるかな?」

「この間の––––あぁ、夜守コウ君の?」

 

 さくらちゃんがコクリと頷く。

 

 夜守コウ––––

 中学2年の14歳。誕生日は8月28日。母は確認されているが、父親は不明。

 成績優秀で、スポーツもやり方を知ればそこそこ優秀。気さくで明るく、学校間ではかなり好かれている人物で通っている。

 噂ではスニーカーと(セキ)マヒルのこと好きらしい–––この言い方だと少々語弊が生まれそうだが。

 

 そして絶賛、不登校(・・・)中。

 

「ごめんね、生徒会は動けてないの」

 

 夜守コウが不登校になった外的要因は単純。

 浅倉さくらの告白を断った夜守コウに、直接(・・)ケチをつけた女子生徒がいたのだ。関わりがないので名前は覚えていないが、周りからは【さっちゃん】【みっちゃん】と呼ばれていたはずだ。

 多分、そのふたりとしては友達の想いが無碍にされたことに憤りを感じていたのだろう。

 愚かなことだ。

 

 以前からさくらちゃんからは夜守コウが復学できるように働きかけてくれないかと相談されていたが、私たちは動いていない。

 理由はショウが認めないからだ––––。

 

「そっか……ごめんね! 無理言って––––」

 

 でも、と言いたがな彼女の顔はどこか親近感を覚える。

 

「夜守くんに謝りたくて」

「––––……」

 

 浅倉さくらの言いたいことは分かる。

 

「辿れば自分が原因、だから?」

「……うん」

 

 自分をキッカケに好きな人が傷ついて、そのまま目の前からいなくなってしまったのだから。

 根が純粋で優しいさくらちゃんなら、より堪えるのは想像しやすい。

 でも、そんなことはない。

 

「そんなこと思う必要ないわよ」

 

 ハッキリ言える。

 彼女が悩んでいるのなら背を押す。それが生徒会長(吼月ショウ)を支える副会長の務めだ。

 

「告白したのは貴女の決断で、告白をフッたのも夜守コウの決断。そこに善し悪しなんてものはないの、だからさくらちゃんが思い悩む必要なんてないわ」

「理世ちゃん……」

 

 それに、さっちゃんやみっちゃんに関しては生徒会(こっち)で念を押してある。

 もう下手な問題は起きないだろう。

 

「……ありがとう、慰めてくれて」

「慰めるほどワタシは優しくないわよ……? まあ、前を向く区切りとして夜守コウ君と口を交わすというのはいいと思うけどね」

「––––うん!」

 

 呑み込めきるないだろうけど、どこか腑に落ちたように納得したさくらちゃんは頷く。

 そんな顔はとても輝いていて綺麗だ。

 こっちも見ていて気持ちが良い。

 

「…………」

「え、なに? どうしたの?」

「いやぁ〜〜……ワタシ、夜守コウ君のことあまり知らないからあれだけど、さくらちゃんをフッた理由が分からない––––ワタシが嫁に欲しいくらいなのだわ」

「ええっ!?」

 

 夜という名が着くから、浅倉さんのような昼間属性には相入れなかったのかしら?

 そんなことないか。

 

「嘘嘘、ジョークよ。けど待つのも大事よ、相手も整理するための時間は必要だろうし」

「そうだね。フフッ、また夜守くんに会いたいな〜」

 

 フラれても『会いたい』と言えるのは彼女が思いの外図太いのか。いや、純粋に夜守コウの方が好きなのだろう。

 そんな恋心は応援したい。

 友達としても生徒会としても。

 

「けどそっか……生徒会、動かないんだ。なんというか、驚き?」

「どうして?」

「だって、人助けが趣味って云われるあの会長だよ」

 

 さくらちゃんの視線が動き、それに追従する。彼女が見つめていたのは、バレーコートで落ちかけるボールを丹念に払い続けるショウの姿だ。

 なるほど。

 ショウなら動くだろうという考えだったのか。

 

「––––いや、別にショウも生徒会も、何でも屋じゃないのよ?」

「でもこの間、演劇部の服の改造を頼まれてたの見たよ? 写真部にヘンテコなカメラ渡してたのも見たし……それに街のおばあちゃんの自転車も直してた」

「アイツ……」

 

 人助けが趣味––––どこかで聞いたことがあるような設定だが、まあ側から見ればそう映るのと理解はできる。

 ただ、それは正確ではない。

 

「ショウはあくまで良いことだからやってるだけで、人助けって認識はないと思うわよ」

「え、そうなの?」

「そそ」

 

 必要以上に断らないのはショウの悪いところではあると思うけど、そこがショウの人の良さでもある。

 

「まぁ、あとはそうね……要するにいまと同じよ」

 

 さくらちゃんが首を傾げる。私はその首を手前で男子が使っているコートに向けるように促した。

 

『やった当たっ……ぁ……』

 

 どうやら打ち込まれたボールを、ショウのチームがブロックで止めようとしたようだが、当たった箇所が悪かった。本来の軌道から弾かれたボールは大きく弧を描きながら天井付近まで飛んでいく。

 コート外に落ちるのは誰の目にも明らかだ。

 

 バレーの用語なら……確かブロックアウトと言うのだったかしら。

 

『これは仕方ないわー……』

『よっしゃ、ラッキー!』

『やっと……落ちた……」

 

 敵は点が決まったのを嬉しがったり、ラリーが途切れることを喜ぶ。味方は後一歩というところだったのを残念そうにする。

 ショウのチームメイトは自分達を飛び越していくボールを眺める。

 

 しかし、まだ決まってない。

 

『………ッ!』

 

 飛翔するボールが体育館のキャットウォークに乗りかけようとしたその時、行手を何かが阻む。

 手だ。

 手の陰がボールを覆い隠す。

 

『ほいっ』

 

 伸びていたのはショウの手だった。

 体育館の壁を使って2段ジャンプのような形でボールの高度に追いついたのだ。

 ショウの腕に当たったボールは、軽快な音を立て進行方向を変えて、味方コートの真ん中に飛んでいく。

 

『ええ……』

 

 誰かが困惑を声に出した。

 

『持ってこーい!!』

 

 掛け声が困惑を掻き消す。

 着地したショウはその足で方向転換すると、一気にコートへ駆ける。

 対角線上、コート右側に走り込んだショウは横跳びでスパイクの体勢へ移り–––––味方の数人以外、完全にショウに目がいっている––––トスを待つ。

 トスを上げるセッターがボールに手を伸ばす。

 ショウの他にもうひとり跳んでいる。

 

『オラっ!』

 

 それでもセッターはショウを選択。

 セッターが彼に追いつくようにボールを急発射。ボールがショウに追い縋るようにコートを横切っていく。

 

『……ッ』

 

 しかし、何故かショウが顔を顰めた––––気がした。

 それは一瞬。

 おそらく他の人……隣にいるさくらちゃんやチームの人達すらそのことを認識していない。

 

「あっこれは……」

 

 足りない、距離が。

 横に流れていくショウの打点に合わせるには力及ばず、ボールは彼の左肩の側で失速、落ちていく。

 これではもう打てない。

 右打ちの体勢で構えているショウには触れることはない。

 

『ちっ……!』

 

 それでも––––まだ、ボールはネットより高い。

 ならば、ショウが取る手はひとつ。

 

『セイィヤッ!』

 

 体勢を急反転。無理やりに左打ちの姿勢に持っていき、そのままショウはボールを相手のコートに力強く叩き込んだ。

 打ち込まれたボールは、鋭く相手のコートに突き刺さった。

 破裂音にも似た振動が鼓膜を揺らす。

 

『ふぃ〜……』

 

 そのまま床を滑るようにして着地––––良かった怪我してない……

 

 綺麗な流れに、教師も含めて喝采があがった。

 チーム内でもショウがハイタッチを求められる。

 

『いや……よく打ち切ったな…………ショウに釣られた俺がいうのもアレだが』

『問題ない、君のトスは一品級! あのタイミングであそこまで合わせられたのも君だからだ––––ただ、次は囮として、ちゃんと使ってくれよ? 君なら可能なのだから』

『ああ……っ! しっかり使ってやるよ!』

 

 パンと乾いた音が体育館に響く。

 ハイタッチを求めた男子はショウに褒められて嬉しそうに、そして期待に応えようと微笑んでいた。

 

「おお……」

 

 さくらちゃんが思わず声を漏らす。

 

「単純にアイツは負けず嫌いなのよ」

 

【最高最善のために勝ちきる】がショウのモットーなのだ。

 そんな彼は今日もカッコいい。

 

「実は夜守くんのことは学年主任からも指示されてるんだけど、ショウがそれを許さないのよ。きっと……無理やり連れ戻すのは、彼の傷を広げるだけと思ってるんでしょうね」

 

 そのことの擦り合わせはショウと私で済んでいる。

 居たくもないところに来させるのは、教師の傲慢であると。

 

「だからショウが言いくるめて、教師が夜守コウ君に干渉しないようにしてるの」

「……なるほど。う? えっ、それ大丈夫なの?」

「問題ないわよ。ショウだもの」

 

 普通の生徒が聴く分には驚く……というよりは引くような話かもしれないが。

 まぁ、ずっと連れ戻さないというのは問題でもあるのだから。

 

「安心して、必要なら連れ戻しにいくわ」

「そっか、理世ちゃんが言うなら間違いないね」

 

 どうして私が言うから確信できるのかは分からないが、彼女の中で腑に落ちたならヨシとしよう。

 

「夜守くんが戻ってきたら仲直りするぞー!」

 

 笑顔でそう宣言する彼女の意思は、再び盛り上がるコートの喝采に呑み込まれた。

 

「………」

 

–––––そうだ、彼女は前を向いている。

 

 聞いてみても、良いかもしれない。

 

「ねえ、さくらちゃん」

「どうしたの?」

「……もし、夜守くんが帰ってきたとして、()の関係に戻りたいと思う?」

 

 そう訊ねると、彼女は少し考え始める。

 しかし、返答までそう時間を必要としなかった。

 

 元から腹は決まっていたのだろう。

 

「それはね……できれば前みたいな関係(・・・・・・)でいられたら良いなと思ってるよ––––」

 

 その彼女の言葉を聞いて私も腹を決めれた。

 私も元の関係に戻ってみせる。

 

「–––––れたらなとも……けど、その前に仲直りを……って聞いてる?」

「うん、聴いてる。ありがとう、私も決心できたわ」

 

 彼女が再び首を傾げる。

 

––––ああ、この子は別に私とショウの関係を知ってる訳じゃないんだ

 

 声をかけられた時に狐疑の眼を向けてしまったことが恥ずかしい。

 羞恥心に駆られた時にブザーが鳴る。

 

「あっ次、私たちの番だよ! 理世ちゃん!」

「そうね、サクッと大事に一気に決めますか」

「慎重に行くのか大胆に行くのかどっちなの?」

「そういうツッコミは良いの」

 

 私は舞台を飛び降りて、さくらちゃんと一緒にコートに走っていった。





 さくらちゃんってあんま描写ないから分かんないけど、多分コウくんのこと諦めないような気がする。それはそれとしてコウくんとナズナちゃんのことを知ったら、泣きながら応援はしてくれそう。


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第六夜「大変そうだし」

 チャイムが鳴り、生徒たちが一斉に立つ。

 

「起立、礼––––さようなら」

 

 学級委員長の声に合わせて、皆が頭を下げる。

 軍隊じみたこの行動を何年も繰り返していると考えれば狂っていると思うが、このルーティンが週末を告げる鐘の音に変わる時は、確かな達成感が湧いてくる。

 

 辺りを見渡す。

 大体の生徒が教室から抜け出し、部活動や委員会があるものはその面子と共に、何もない者はひとりだったり集団で帰っていく。

 先生も同様に立ち去っていく。

 

 その中でひとり、疲れた顔で動いている者がいた。遠い目で黒板を消しているのは、先ほど号令をかけた学級委員長だ。

 

 俺は数秒、夕陽の中に取り残されたようにぼうっと立ち尽くしてから、動き出す。

 

 教室の整理、窓の戸締りなどなど––––別に俺の仕事ではないが、困っているんだから手伝うべきだろう。

 

「ほいっ、鍵」

「いつもありがとね」

「良いよ。委員長、大変そうだし」

「ハハ、そんな大変じゃないよ。それに吼月くんほどじゃないし……これから生徒会でしょ?」

「……まっ、何かあったら頼れよ」

 

 学級委員長は想定より早く終わったからか、笑顔で最後の扉の鍵を閉めると小さく会釈だけして離れていく。

 俺も彼女の足音を背にして歩き始める。

 

「たく……」

 

 今日の疲れがどっと出てくる。

 

––––大変じゃないならあんな顔をするな。

––––なぜ意味のない嘘をつく?

––––辛いなら辛いと言うべきじゃないのか?

––––それを吐き出せないなら、ありがとうじゃないだろう?

 

 ため息に混じって相手を否定する考えが出てくる。

 

「いかんいかん……」

 

 頭を振って疲れと一緒に邪な考えを祓う。

 しかし、今日を過ごしてみて理解できた。

 あの意味不明な不信感は確実に膨れ上がってきている、と。

 

「やっぱり寝れないと疲れが出やすいのかな……」

 

 不愉快だ。

 今まで出来ていたことが、出来たくなるというのは。

 

「体育の時もヤバかったしな……」

 

 あの時、チームを組んだメンバーからとある要望があった。

 バレーができる面子からは【なるべく試合をしたいから、せめて俺たちの失点を無くして時間を作りたい】【気持ちよく打ちたい】といった要望。

 バレーが苦手、コミュニケーションが不得意な人からは【あまり試合に関わりたくない】といった要望。

 

 そのために必要なことはやった。

 失点については、何遍なくボールを拾える配置を考えたし他のメンバーじゃ落ちるモノは無理でも俺が拾った。

 バレーに関わりたくない者については、せめて嫌な気持ちで1日を終えてほしくないので、無理はさせないし、レシーブやトスが上手く出来るように練習に付き合ってスキルも向上させた。

 気持ちよく点を決めたいという要望にも応えた。目が見入ってしまうであろうパフォーマンスで敵を釣って囮になる……それが本来の作戦だった。

 ホームランになったボールを拾った時に、あんな大袈裟な掛け声を出したのもその一環だ。

 

 にも関わらず、味方のセッターはあろうことか俺に釣られてトスを出してしまった。

 バレー部の部員なのもあって、鷹を括っていたあるが、あの時は本当に焦った。

 

 顔が歪んだのが分かったから。

 

 直ぐに戻しはしたが、バレてないか不安だった。

 

「まぁ、杞憂に終わったのは幸いだったな……」

 

 自分のやりたいことの道筋すら通れないのかと言ってやりたかったが、あそこで怒っても無駄だ。

 それに誰にも変に思われていなかったし、全試合勝てたから良しとするが気をつけなければならない。

 理世にはバレてるかもしれない。

 別のクラスだから放課後の生徒会まで会わないと思っていたが、まさかフッたその翌日に合同授業になるとは。しかも理世のやつ、他の女子から離れるためか、男子コート側に来て舞台に座っていたのだから慄いた。

 あの後、なにか言われるわけでもなかったから気づいていない。もしくは確証を持てていないといったところだろう。

 

「変な視線も感じたし……もう嫌だわー……」

 

 恐らく理世関連だろう。

 昨日の今日だというのに、相変わらずだな。

 夜守コウの件でも異様に広まりが早かったそうだし。

 

 誰もいない廊下で独り言っていると、突き当たりにある階段と出向かう。

 そこを降りると南校舎の2階になるのだが、この階は基本的に実験室などの特別教室や、空き教室となっている。

 階段の目の前にある部屋が、生徒会の活動場所だ。

 顔を上げれば【生徒会室】と簡素な看板が見受けられる。

 その生徒会室の扉からは、部屋を抜けて朱色に染まった夕陽が光を差している。射し込む光がひとつの陰をこちらへ伸ばしていた。

 陰に視線を這わせて、相手を追うとそこに居たのは––––––

 

「ッ––––」

「あっ……」

 

 倉賀野 理世だった。

 どこか窓でも開いているのだろうか。

 冷たい風が彼女の綺麗な金色の長髪を靡かせる。

 

「……」

「……」

 

 沈黙が場を支配する。吹き抜ける冷たい風が、その沈黙をより強く、より濃く感じさせる。

 交わっていた視線が外れる。

 俺が外したのか。理世が外したのか。

 ……恐らく、両者だ。

 

「もうみんな来てるみたい。はやく入りましょ」

 

 理世が開いた扉の向こうに三人分の影が見えた。

 

「そうか。分かった」

 

 早く生徒会を終わらせよう。

 なるべく昨日のことは気にせずに。

 なるべく嫌な雰囲気にならないように。

 視線を合わせることなく、言葉だけ交わして俺たちは生徒会室に入っていった。

 

 

 

 

 そこから1時間近くが経過した。

 何事もなかったかと問われれば、なにもなかった。

 生徒会メンバー揃ってちょっとした話し合いもしていたが、俺たちふたりは互いで言葉を交わすことなく、ただただ無言。

 もちろん、話し合いではあるので俺も理世も意見は言うが、そこへどちらかが口を挟むと云うこともなかった。

 

「お疲れ様でした〜……」

「また来週です! 吼月先輩!」

「お前らも、さっさと互いの用事を済ませたら早く帰れよ?」

「ああ、こっちもキリがついたらすぐ帰るさ」

 

 そういって他の三人は足早に帰っていった。

 

–––––悪い……

 

 心の中で呟いた。

 雰囲気が良くなかったかと問われれば、そうではない。ただいつもは率先して話を回す理世が無口になってしまっているのと、俺自身どう会話すればいいのか掴めずタジタジになってしまっていた。

 昨日俺たちが仕事を進めて早く終わったとはいえ、この空気の中に1時間もいたのだ。

 気分も悪くなって当然だろう。

 

「…………」

「…………」

 

 そこからも、お互い喋らずに時間がゆっくりと過ぎていく。

 

「……っ」

「! ……」

 

 時折相手を伺うように視線が上がり、それが交わるたびにふたりして瞳を下に向ける。

 こうしていると、人との関係性は容易く変わってしまうのだと肌で理解してしまう。

 たかだか付き合う付き合わないの返答だけで、つい数日までは––––自分基準とはいえ––––多分仲良く話せていた相手と口すらきけなくなる。

 胸を抉るような事実が目の前にある。

 そう俺が苦悩している––––と、思う–––と、理世が口を開いた。

 

「…………今日さくらちゃんに、夜守コウくんへの対応を話しておいたわ」

「………そうか」

 

 目は変わらず俯いたままだが、特に問題はない。話題はなんでもいい、声が交わせればそれでいい。

 そうでなければ始まらない。

 

「当たり障りのない程度に。さくらちゃんには安心してもらえてると思いたいけど……でも、本当どうするの? このままって訳にもいかないでしょ」

「なにがだ?」

「なにがっ……て、ずっと不登校じゃこの先の進学とかにも響いてくるのよ? 流石にそれは……可哀想よ」

 

 理世は俺の判断だから従ってはいる。

 けれども、やはり一般的な考えでは連れ戻そうとする方が良いとされるのだろう。

 

「俺たちがする心配ではないな。少なくとも今は問題ない。澤先生が口にしたことを信じるなら、な」

「澤先生って……夜守コウの担任の?」

「ああ––––あの人は『大丈夫』と口にしていた」

 

 そこで初めて理世が顔をあげた。口をポカンと開かせながら。

 

「えっ? それだけで?」

「そうだが」

「いや、適当言ってるだけかもしれないじゃない」

 

 なるほど……確かにその通りだ。

 

「確かに俺も半信半疑ではある。しかし、ひとつの証拠がある……持ってはこれないがな」

「……? なによ」

「笑顔だ」

「はい?」

「俺自身、教師が熱心に生徒を見ているだとか、守ろうとしているなどは微塵も思ってもいないが、だからこそ……その笑顔には価値がある。

 澤先生は俺が夜守コウについて聞いた時、微笑んで(・・・・)大丈夫と言ったんだ。

 ……恐らく、澤先生はどこかで夜守コウと出会し、その良否を見定めることができたのだろう。安心できるほどに」

 

 生き物の歯を見せるような笑顔は威嚇から来ているとされているが、道端に咲く花を眺めるような微笑ならば……それは安心以外の何物でもないだろう。

 

「一生徒の不登校で、思い出すように微笑む必要なんてないだろ?」

「確かに……そうかも、だけど……」

「ただでさえ口下手な澤先生なんだ。本音さ」

 

––––––多分。

 

「だから、いま俺は動かない」

 

 それがきっと夜守コウにとっての最高最善であることを祈って。

 

「そっか……なら、私は貴方を信じるだけね」

「––っ」

 

 嫌な気分が漏れ出そうになる。

 それを堪えて口を閉じる。

 

「…………」

「…………」

 

 ダメだ–––––このままでは振り出しに戻ってしまう。せっかく、話せる機会を作ってもらえたというのに逃すのは不味い。

 

「なあ」

「ねえ」

 

 ふたりの声が重なった。

 

「「–––––」」

 

 また沈黙。

 嫌だ。辛い。黙っていたくない。

 

「なあ………流石にコレは辛くないか?」

「そ……そうね……みんなにも悪いし……」

 

 想いをそのままに告げると、理世も肯首する。

 

「とりあえず……昨日のことで話をしたい」

 

 俺がそう告げると、理世が唾を飲み込むのが分かった。喉が渇き、唾液が大量に放出されているのは自分も同じだから。

 

––––しかし、どうする?

 

 まず本題に切り出すにしろ、もうひとつクッションが欲しい。

 

 けれども、この話題の中でいい話が思い浮かぶはずもなく。

 なにを思ったのか。

 

「––––昨日の告白、何でしようと思った」

 

「……それ聞くの?」

 

 理世が絶句する。

 ごめんよ……ごめんね……

 

「俺は好きだとしか聞いていない。なぜ、その行動に移ったのか知りたい」

 

 しかし、せっかくなんだ。

 このことだけは聞いてしまおう。

 昨日から気になっていたんだ。

 俺は少なくとも、優等生と言われる振る舞いは出来ても、好かれるような人柄ではない。だから告白なんてされたこともないし、しようとも思ったこともなかった。

 

「……」

 

 何故、俺と付き合おうと思ったのか訊いただけなのだが、理世は困ったように考え込む。

 

「あぁ、うぅ……」

 

 そうして、絞り出すように答えを吐き出す。

 

「–––––……ええっとぉ……なんとなく……」

「なんとなくて」

 

 驚いたと、いうのが一番。

 恋慕という感情だからこそ、それなりの決心と情動があってのことかと思ったが違うらしい。

 

「いや、《いける気がする!》……って」

「お前なぁ……ハハッ」

 

 なにか湧いた感情を通り越して、面白くなってしまう。

 勇気の根源が『いける気がする』だとは––––

 

「ほら、恋愛って必ずしも大きい感情がある訳じゃないと思うのよ。結婚という契約を交わすならまた別だけど、恋人であればあくまで親友の延長線上の事柄だし」

「……なるほど」

 

 ならば、それは。

 

「理世は俺のことを【信頼】している。ということでいいのか」

「……? まぁ、そうだけど。ショウなら最期まで付き合ってもいいし」

「そうか、……っ」

 

 面と向かって言われてもなお猜疑する。

 そんな感情を抱く自分が嫌になる。

 しかし、口には出さない。顔にも出さない。出してしまえば余計に話が拗れるだろうから。

 

「今度は私からいい?」

「どうぞ」

 

 仕草で次を促す。

 

「なんで断ったの?」

「……それ訊くんだ」

「そっちも訊いたじゃない」

「それもそうだな。答えないと割に合わないな」

 

 どう答えるか。どう答えるべきか。

 自然と顔を手で覆ってしまう。

 

 理由はハッキリとしている。

 根源不明の人間不信のような拒否感が、思わず彼女の手を払ってしまった訳だ。

 しかし……『原因は分からんが嫌だった』と答えるのは如何なものか。

 この感情自体は理世限定ではないし、生徒だろうが先生だろう町の人だろうが湧いてくるものだ。

 それでも、あの時拒絶反応がより濃くなったのは事実。

 

 

 ならば、真っ直ぐ伝えるのがベスト。

 

 

「付き合うという関係性ではない、と思ったのだろう」

 

 遠回りな言い方は余計な手間が生まれる。

 

「他人事!?」

「……仕方ないだろ、そうとしか言えないんだ」

 

 拒否反応はいつも出るが、告白でより強くなったという事は本能的にしたくなかったのだろう。

 

「理世もなんとなくと言っただろ」

「っっ…………待ってつまり……なんも分かってないじゃない!?」

「そういうことだな」

 

 実際、理由わかってないしな。 

 

「……あのさ、ショウ」

「なんだ、また聞きたいことか?」

「そうじゃなくてね––––」

 

 理世はどう伝えるべきなのかを思案するような態度で、こちらを伺いながら言葉を紡ぐ。

 

「……こうやって私が告白して貴方がフッた訳だけど、それでも生徒会としての活動とか学校生活とかまぁ一緒になっていかなきゃいけないことは沢山あるし」

「待て」

 

 俺が彼女の言葉を遮ると、その目が右往左往しているのが分かる。

 

 それはいけない。

 少なくとも––––理世に言わせることではない。

 理世が言いたいことはきっと……。

 

「俺も出来れば、今まで通りの距離感でいたい。だから告白はなかった(・・・・)ことにしたい」

「…………」

 

 理世の本心と寸分の狂いもなかったのだろう。瞬きほどだが図星を突かれたような雰囲気が出ていた。

 

–––––そんなことは無理に決まっている。

 

 時計の針を戻すようなことを現実で出来はしないし、簡単に忘れられるようなことでもない。

 俺ができたとしても、理世ができるかと言われれば甚だ疑問だ。

 起こってしまったことは変えられない。

 理世もそれが分かっているから、あんな回りくどい口上を垂れたのだ。

 

 しかし––––

 

「分かったわ」

「ありがとう。俺も今まで以上になれるよう努めるから」

 

 そんなこと関係ないと言える関係性は作れるはずだ。

 信頼しきれいない俺でも虚飾で彩って生徒会長にまでなれるのだ。それぐらいは偽れるはずだ。

 

–––––理世どころか、自分すら信じられていないのに……出来るだろうか。

 

「……ありがとう」

 

 そう呟いた彼女に、俺は頭を下げた。

 

「それじゃあ、帰りましょう」

 

 理世は鞄を取って立ち上がる。

 

「ああ……また来週」

 

 そこで俺たちはそれぞれの帰路へ別れて(・・・)向かった。

 

 もう、ひとりだ。

 

「……」

 

 昨日と同じ暗澹とした朱だけで染められた廊下にポツリと立つ。

 夜とは違った自分だけの世界。

 同じひとりのはずなのに。

 

「––––––最ッ悪だ」

 

 俺の脳裏には、どこか寂しそうな笑顔で礼を言う理世の顔がこびりついていた。

 悲しみに耐えたその透明な瞳を見つめることすら出来なかった。

 

 

 

 

「––––––今日は眠れるだろうか? 吸血鬼よ」

 

 

 

 妖しく美しい……あの姿を思わず求めてしまったのは、彼女の持つ信頼に憧れたからだろうか。

 よく、分からない。



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第七夜「救世主ってことだね」

 学校が終わり、生徒会が終わり、僕は帰宅した。

 憂鬱な一週間の学業に終わりが告げれ、高揚した気分になる。

 なんてことはありえない。

 

「へんな味……」

 

 晩御飯を作り、食べているのだが食っている気がしない。

 完全に噛んでるだけ。

 味のないガムみたいだ。それも1,2時間噛み続けた後の、中途半端に味がある残念な感じだ。

 

「まっず……」

 

 客観的な推測。

 誰が言ったか、大好きなものを食べていて美味しく感じなかったら、それは精神が異常な事態に陥っている証らしい。

 目の前には、赤いタレが食欲を刺激する鶏肉とカシューナッツの炒め物…… 宮保鶏丁だったか? ツルッとした目玉焼きが乗ったシーザーサラダ。最後に日本の主食の白米があるのだが……どうにも不味い。

 いつもの分量で作っているから美味しいはずなのだが、美味しく感じないのだ。しかも、食うよりも呆けている時間の方が長く、ご飯は冷めてしまっている。

 

「これは結構……参ってるんだな……」

 

 理世のことを思い出してしまう。

 

 あんな悲しそうな笑顔を見せられれば、誰だってこうなると思う––––

 

 どうすればいい?

 あの解答が正しいものだったのか?

 どうしたら理世の目を見れる?

 どうやったら人を完全に信じられる?

 俺はなにを望んでる?

 いまの俺に出来ることは?

 

 そう自問自答するだけで時間が流れる。

 壁にかかった時計を見るとなんともう22時を回っていた。

 どれだけ細々と食ってるんだ僕……。

 

「……ラップだけして明日食うか」

 

 見下ろす食事達に礼だけ言って、ラップをかけて冷蔵庫に入れる。

 

「今日も月は綺麗だな」

 

 灯を消した部屋が妖しい光に染まった。

 満ちる光は月夜から。

 カーテンが開かれた窓からこちらを覗く月は、昨日に劣らず美しい。

 そのまま床に就く。

 掛け布団を頭まで被り、一切の光を遮断する。

 

「………」

 

 数分すれば寝れるだろう。

 

「…………………」

 

 目を瞑り、眠りを待つ。

 這い寄ってくる眠り()に身を任せればいい。

 それだけで寝れるはずなのだ。

 

「…………………………」

 

 シン……として静まりかえった部屋からはなにもやってこない。

 今日という舞台が幕を引くことを実感させるが、その肝心な幕がいつまで経っても下がってこない。

 このままでは、また嫌な事を考えてしまいそうだ。

 

 こういう時は羊を数えるのが一番だ。

 

 羊が1匹……羊が2匹……羊が3匹…………

 

 頭の中で、1000匹を超える羊たちがブランコに乗って何周も回転しているが、寝れる気配はやってこない。

 仕方ない。

 

「セイタカアワダチソウヒゲナガアブラムシが1匹…… セイタカアワダチソウヒゲナガアブラムシがにひ……なっが……」

 

 疲れるわ。

 そのくせ、余計に寝れなくなるし……

 

「………っ」

 

 コソッと布団から顔を出して時間を確認する。

 カーテンを開けているからか、昨日と違ってランプをつけなくても視認できた。

 

「0時……もう2時間たったのか……」

 

 いつもなら数分で眠りにつけるというのに。

 

「………なるほど」

 

 吸血鬼の言葉を思い出す。

 

『安眠というのはね、今日が良かった、満喫したなっていう心地よさに成り立っているのさ』

 

 満足いくわけがない。

 良かったなんて思うわけがない。

 これから自分がなにをすべきなのかすら、見出せていないのだから。

 

「……行くか」

 

 気がついた時には俺の頭上で、月が優しく輝いていた。

 

「すぅ〜〜……」

 

 また、夜へ出かけた。

 夜更かしの世界にやってきた。

 

「空気が美味しい」

 

 大して強くもない天から降る光を隠すように手庇を作る。

 

「この街、こんなに星が綺麗だったんだな」

 

 夜空を見上げながら歩き続ける。

 目的があるわけではないが、他人に気を張らなくていいこの時間は本当に特別なのだと感じる。

 気分の悪さもこの夜に溶け込んでしまったようだ。

 

「てっきり捕まると思ったんだけどな〜……」

 

 歩き始めた時は、すぐに吸血鬼に捕まるかなとドキドキしたが小森の団地はかなり広い。ひとりふたり、いや4人以上いたとしても標的の人間を1人見つけるだけでもかなり苦労する。

 いつか見た、この街を上空から納めた写真はまるで街そのものが大迷宮と化しているようだった。それはある種の幻想を具現化してるようだった。

 

「まっ、いまはひとりのほうが気楽で良いかな……あっ」

 

 昨日と同じところで似たようなおじさんが寝ていた。

 

「……ふふ、良い夢みろよ」

 

 疲れているのだろう。夜なんだから、そっとしておこう。

 僕はそのまま立ち去った。

 

 自分を縛る人の眼がない事––––それが夜の世界が、昼の世界と異なる法則。

 

 その一点だけで今ある(しが)らみから解放された気分だ。

 わざわざ己や他者が放つ言動の虚実に囚われることもなく、たった一度の問答で壊れてしまう関係性もないこの世界こそ、自分が生きる世界なのだ。

 

「夜の世界も良い」

 

 夜の世界も素敵だ。

 気兼ねなく暮らすならばきっとそれが答えで、求めたものだ。

 

「…………本当に?」

 

 自分の事なのに、本心すら推し量れないとは。

 なんとも腑抜けたことだ。

 

「理世みたいに……なんとなくで進めたらどれだけいいことか」

 

 理世の行動原理……絶対的なポジティブ思考は未来に進むためには必要なものだろう。自分の意思で進むために、自分を信じることができるなら。

 

「––––」

 

 いけない。姿の見えない視線に囚われるところだった。

 せっかくの夜を台無しにする訳にはいかない。

 

「美味しい店あったりするのかな」

 

 昨日のこともあり、夜にしかやっていない居酒屋などで飯を食べてみたいという好奇心がある。

 店ならばスマホを使えば探せるだろう。

 けれども、それよりも美味しいものは空に広がっている。

 

「ホント星が綺麗だな〜〜––––まずは」

 

 自然となにかを探すように首が動いて、見つけた。

 目的地となった場所に足を進める。

 

 そうして到着したのは、昨日の雑居ビルの傍にあるより背の高いビルだった。

 どういう訳か、このあたりのビルは警備がザルらしい。

 宇宙牢獄みたいな警戒レベルだ。

 僕みたいな不審者に簡単に入られてしまっている。

 

「……登って来たは良いけども」

 

 天に輝く星々との距離を考えれば、ビルの屋上に上がった程度微々たるものなのは知識として理解していたが、やっぱりそんなに近づけていない。

 

「変わんね〜〜なぁ……」

 

 一転、街を見下ろす。

 街を照らすのは射し込む月光と、コンビニや居酒屋などの人工灯だけだ。

 けど、今いるビルの高さを脳が把握するには十分だった。

 

「僕、昨日こんな高さから落ちたんだよね……」

 

 思い出すのは、闇に堕ちた時のこと。

 こんな明るい場所で真っ逆さまに落ちていたら、流石の僕でも泣いていただろう。

 疲れたと口にしたのは、メンタルがやられていたからだろうか。

 それもあって泣かなかったのかもしれない。

 

「我ながらバカな事を……」

 

 そう思うとやっぱり黒でよかった。

 そして、黒は反転し極彩色に視界は染め上げられた。

 

 吸血鬼によって。

 

「…………」

 

 身体が一歩、(くう)に近づく。

 感覚が研ぎ澄まされる。

 

 

 

 

––––––––コツン

 

 

 

 心地の良い音が聞こえた。

 胸が震える。

 

「キミ、また死ぬつもり?」

 

 待っていたよ、両腕を広げてそう言いたかった。

 

「正に鬼、だな。神出鬼没。なぁ……吸血鬼」

 

 振り返った屋上の中央に、奴は悠然と立っていた。

 ツンとした見た目に反して柔らかい笑顔が似合う蠱惑的な存在––––吸血鬼、ハツカ。

 

「こっちこそ聞きたいんだが、死にかけるのがお前たち吸血鬼を呼び出すプロセスなのか?」

「だったら、僕はキミの救世主ってことだね」

 

 事実、一度救われているのそう言って差し支えないだろう。

 

「せっかく眷属も使って団地内を探したっていうのに、まさかすれ違うとはね」

「ああ、やっぱり来てたか。それは悪いことをしたな」

 

 吸血鬼は『大したことじゃない』と手をヒラヒラさせる。

 

「さて、それじゃあ返事を聞こうか」

 

 来たな。

 

「僕の眷属になって吸血鬼になるのか、それともここで死ぬのか」

 

 目の前に提示された問題。

 時間はあったのに考えてこなかったツケが回ってくるのは、宿題そのものだ。

 もう土曜日だというのに勘弁してほしいね。

 コッチはそれどころじゃなかったってのに––––––

 

「僕としては、恋して吸血鬼になる事をオススメするよ。僕の眷属はみんな幸せだからね」

「……ッ、だから俺は」

 

 恋というワードに反応してしまう。

 恋を経由して吸血鬼になる生態上どうしようもないのだが、胸に針が刺さったような感じがした。

 昨日は関心がない程度だったが、今日を経て変わってしまった。

 

「恋愛はもういい……かな」

 

 憎悪していると表現すると流石に言い過ぎだが、もう金輪際関わるべきではないだろう。

 一度の口約束で、人間関係が狂うなんておかしい。

 

「…………なにかあったの?」

 

 その変化は吸血鬼の興味を引いた。

 勿論、話すことではない。

 

–––––けど、コイツなら

 

 名前は伏せたが、同級生から告白されたこと。

 それを明確な理由を告げずに断ってしまったこと。

 他人の言動を疑いかかってしまうこと。

 自分の本心すら理解できないこと。

 自分のことすら疑ってしまうこと。

 今までそれらと上手くやってきたのに、出来なくなり始めていること。

 

 だから、俺は恋愛はできない。

 だから、俺は吸血鬼になることはできない。

 

「へえ–––––中学生の恋愛模様も色々あるんだね」

 

 今、俺を悩ませること全てを吸血鬼に話した。

 

「……なんか、話したらスッキリよ。ありがとう」

「誰にも相談できない悩みを話すのは心の負担を軽くするからね。いいよいいよ」

 

 心にゆとりが出来たところで、本題へ。

 

「これでわかったと思うが、俺はとても恋出来るような人間ではない……もし、無理に恋したとしてもこの胸の疼きは止まない。今みたいに理由の分からない怪しさは溢れてくる。

 どうしても考えるんだ。『どうせそんなこと思ってないくせに』って……だから、もう諦めるか殺すの二択にした方がいいぞ」

「なら、止めたのは不味かったかな?」

「かもな」

 

 自然と笑みが溢れる。

 これが乾いた笑いというものだと実感した。

 

「生まれて初めてだよ。出来ないと思ったのは」

 

 星を見上げる。

 極彩色の空がこちらに降り落ちてくるような絶景。

 これが最後の風景なら惜しくはない。

 

「なら–––––」

 

 声を漏らす暇もなく、いつのまにか吸血鬼は俺のそばに来ていた。

 思わず見惚れてしまう顔が寄ってきたことに胸が灼けそうなったのは、男としての本能だろうか。

 

 

 

 

 

 

「なおさら、キミは吸血鬼になるべきだ」

 

 

 

 

 

 

 その返答に、俺は目を見開いたことだろう。

 

「いや、だから……」

 

 不可能を告げよう。

 二度言うことは無駄でしかないが、それで理解してほしい。

 俺が口を開くよりも早く、吸血鬼は次の句を紡ぐ。

 

「昨日、夜を味わった時どう思った」

「………」

 

 楽しかった、満足した。

 

「キミは美味しいと言っただろう。それはなんでだい?」

 

 それはわかっている。

 

「……人の眼なんてなくて。…虚偽を気にせずただ、ただ楽しいことをした。食べる飲むなんて普通のことなのに、非日常()が混ざるだけで変わって––––夢想の中にいるみたいに。

 自分を取り巻く、負の存在が夜に染められて無くなった気がして」

 

 ひとつひとつの言葉を噛み締める。

 楽しさが、非常識が、脳に行き渡っていく。

 

「そう……この世界に楔はない。この世界はなにも拒まない」

 

 きっと、それは子供心の真実で。

 

「いま、キミを取り巻く煩わしくつまらない世界はこちらの領分ではない。もっとも、遠い場所」

 

 夜の世界なら可能なことで。

 けれどもやっぱり無理なのだ。なることは出来ない。

 

「それにキミ、吸血鬼になりたいでしょ?」

 

 目の前にいる吸血鬼はそれを否定する。

 

「えっ、いや……」

「なりたいか、なりたくないかで『できない』のはおかしい。つまり、キミは吸血鬼にはなりたいけど、無理だから諦めてるってことだよね」

 

 俺の頭の中を読んだような物言いに圧倒される。

 

「だけど……やっぱり無理だ。俺に恋はできない」

「できるよ」

 

 諦めは断ち切られる。

 二言は言わせない。

 

「昨日、屋上で会ってばかりの時、キミは僕に着いて来たよね。見ず知らずで正体不明のボクに。

 それってキミが僕の言葉に信頼を置いた(乗った)ということじゃない?」

「…………」

「キミに都合が良かったからかもしれない。藁にもすがる思いだったのかもしれない。けれども、大きくなった不信感を越えて僕の言葉を信じた。ならできる」

 

 彼女は余白を大きく取る。

 どんな言葉が待っているのだろうか。

 

 それはきっと俺の望んだ。

 

「–––––キミは信頼()しきれる」

 

 理世の言葉を思い出す。『恋人であればあくまで親友の延長線上の事柄』であると。

 親友も、恋人も、即ち信頼……絆を拠り所にしている。

 見えないものを。

 そう思っていないかもしれないものを。

 

 吸血鬼、ハツカは俺に手を伸ばす。

 

吸血鬼(こちら)へおいで。退屈な世界とはおさらばしよう–––––僕ならキミを吸血鬼にしてあげられる」

 

 俺の吸血鬼になる理由––––なりたい理由–––––

 俺がなすべきこと––––望んでいること–––––

 夜の世界も良い––––

 

 

 

–––––– ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「なんか……行ける気がする…………ッ!」

 

 

 

「でしょ」

 

 俺の言葉を、真意をどう受け取ったのだろうか。

 吸血鬼はただ微笑む。

 

 俺がやりたいことは、ひとつだ。

 

「……止まっているだけの世界にとどまるつもりはない。だから吸血鬼、頼みがある」

「なにかな?」

「今宵、それだけでいい。覚悟を決める––––自分が進む覇道を!」

 

 胸に手を当てる。

 鼓動が早鐘を打つ。

 ドキドキが止まらない。

 

「覇道って……吸血鬼になるだけなのに随分と大袈裟だね。まっ、それくらいなら、良いよ」

 

 伸ばした手をそのままに、吸血鬼は俺の胸に触れて、

 

「ホラ」

 

 小突いた。

 

「えっ?」

 

 たったそれだけ。

 それを人間の範疇で考えてはいけない。人外の力で押し出された身体は宙を舞って……落下する。

 

「はあぁぁぁぁああああああああああああ!?!?」

 

 突然の出来事に俺は喉が裂けるのではないかと疑うほど絶叫した。

 身体が落ちていく。

 昨日と同じ条件であればまだ良かった。

 しかし、今日は明かりが灯っている世界では、死が這い寄ることを脳が理解して、生存本能から叫びが止まらない。

 

 死ぬ、死ぬ……? え、死ぬ!?

 死んじゃうのか!?

 

「死ぬッ!!?!?」

 

「大丈夫」

 

 耳元で囁かれたと認識した時には、吸血鬼は目の前で浮遊する。

 そんな彼女から迫る死から救うための手のひらが伸ばされる。

 俺はその手を掴む。

 

「さぁ––––夜を楽しもう」

 

 

 

 高鳴る俺の身体は再び夜空へと。

 

 

 

 

「っ––––」

 

 蘿蔔ハツカ()の腕に抱えられた少年が息を呑んだ。

 僕たちが目にするのは街。

 夜に沈んだ黒色の世界。

 面白味は欠けているのかもしれない。

 

「凄いでしょ?」

 

 少年は頷いた。

 

「……ジオラマみたい」

「確かに、僕たちが生きてる世界がこんなに小さくなるんだもんね」

 

 でも、圧倒される。

 まるで世界が自分のために広がっているのではないか。

 高いところから眺めるだけならば、東京にあるタワーに登れば良いだけだけどそれはあくまで他人の手によって魅せられているもの。

 自らの力で跳んで、眺めることができる吸血鬼からすると下の下だ。

 動いて、確かめて、堪能する。

 この景色は吸血鬼だからこそ味わえる。

 

 こうしていると、少し前に夜守くんを警官から守った時のことを思い出す。

 吸血衝動に負けた吸血鬼に友達が襲われて。

 その吸血鬼を殺す探偵が現れて。

 吸血鬼になる決心が揺らいでしまったけれども、僕との対話で自分のやりたいことを……吸血鬼になりたい理由を見つけた夜守くん。

 そんな彼はこの景色を見て笑っていた。

 恐らく七草さんにこの景色を魅せられたのだ。思わずニヤけてしまうほどに。

 

 僕をフッたことについては思うところがあったけど、楽しんでいるようで何よりだった。

 

 視線を少年に戻す。

 

「…………」

 

 見た目からして夜守くんと同世代か。少し歳上か。

 きっとこの子も好きになるんじゃないかと思ってこの手段を選んだ。

 少年は変わらず見つめている。ただ茫然と空間を眺めるその瞳からは彼の意思が読み取れない。

 楽しんでいるのかいないのか。

 

「––––ハハッ」

 

 僕の眼に気づいたのか少年は呆然とした顔から頬を緩めて楽しそうに表情を変える。

 その笑みは真意にも見える。

 

–––––なるほど、聡い子だ

 

 相手が求めているものを察する力に長けている。

 だからこうして彼はこの景色を楽しんでいるように繕う。相手が楽しくいれるように、相手が安心していられるように。

 

「キミっていつもそうなの」

「え……っ?」

 

 少年は不思議そうに首を傾げた。

 

「そうやって他人に合わせて顔を変えるのとかさ」

 

 口を閉ざして、考え込む。

 少し眼を僕から離した後、夜の街を見下ろす。

 

「……そうだな、俺はいつもこんな風だ。気を遣わせたなら、謝る」

「なんでそんなことしてるの。面倒じゃないか」

「……なんでって、だってその方が良いだろ?」

 

 やっぱり。

 

「誰かと知らない話題で笑ってみたりして我ながら馬鹿らしいな〜……とも思うよ。だって、こっちからしたらなんの意味もないし、時間の無駄だ。人助けだって、きっとそうだ」

 

 独り言ちる彼からは笑みも呆然も消えている。

 

「けど、自分の好きな事を誰かひとりとでも共有できるのは嬉しいことだと、辛い時は誰かひとりにでも助けて欲しいと俺は知っている。なにより––––そんな生き方は正しいと知っているから」

 

 まるでショーにでも登場するヒーローのような事を口にする彼からは疲れが滲み出ている。

 

「本当に正しいと思ってやってるのかい?」

「知っているなら意識しなくても出来るよね。まっ、そんな感じで八方美人やってる俺は優等生になりましたさ」

 

 八方美人。

 良い意味で使われない言葉だ。きっと彼はわざと使っている。

 

「誰かひとりとでも、か……なるほど。キミにとっての好きな事を分かち合える相手と告白で拗れて夜更かしってわけか」

「うっせえ……」

 

 確かに––––居場所がないのは辛い。

 

「それに俺、こういう時どうすればいいか知らないんだよ。こうやって遊んだ事ないし」

「えっ……?」

 

 それって––––

 

「キミ……ボッチなの? 可哀想に……」

「ちっっげぇえよ! そうじゃねえ!!」

「だったらなんなのさ」

「………俺と一緒に居たいから誘われるってことがない、だけ」

 

 少年はそれを『俺の疑念が見せる幻惑だろうけど』として、少し寂しそうな眼で街を見つめる。

 

「件の同級生の子とは?」

「……出かけたりとか、したことない」

「仲よかったんでしょ? それなのに遊んだことないの?」

「うっさいよ––––別にいいだろ」

「…………」

 

 この話題はやめた方がいいかな。

 きっと彼の心が拒絶し始める。

 

「今後のことを見据えれば、笑い話にすれば良いだけなんだよな……悪い。けど……進むべき指針は見えたんだが、やっぱり気持ちが分からないんだ」

 

 僕よりも先に少年は次の話題を提示する。

 

「……ひとつ、聞きたい」

 

 怯えた子供の声はこちらの心も揺さぶる。

 

「やるべきことも……信じることも決まっていて……行けるかもってなっても–––––それでも自分の本心が見えない時、アンタはどうする」

 

 困惑と苦しみが詰まったその問いに、僕は即答できる。

 

「身を任せればいい。そうして自ずと出てきたものが、キミの本心だ。後はそれを解放するかどうかだ」

 

 僕の話を聞いた彼は数回頷いて、自分の中に落とし込んでいく。

 

心の叫び(・・・・)、というやつか…………あの時のも」

「そうだね。そうと決まれば、実践だ」

 

 浮遊していた身体が沈み、どこかのビルの屋上に着地する。

 本心を見るのが難しいならば、無理矢理にでも直視させてあげれば良い。

 

「舌、噛まないようにね」

「えっ?–––––うわああぁぁぁあ!!?!?」

 

 床を力の限り、目一杯蹴り上げた。

 少年が反射的に僕を強くしがみついたり

 僕たちの身体は空気を裂いて、どんどん上昇していく。高くなるにつれて身体が冷たくなる。周囲の建物も小さくなる。

 

「ッッ!!」

 

 そして僕らの星が傍にある、そんな錯覚。

 

「さぁ少年くん! 声を大にして叫ぶと良い! キミの衝動を!!」

 

 少年がこの全てに眼を奪われているのが伝わってくる。

 そして、声が漏れ出した––––

 

「はっ……ふふっ……!」

 

 パカっとした明るい笑顔になった彼からは次々に言葉が出てくる。

 

「ホントすごいよ!! 僕、生まれて初めて見た!!! こんな景色見れるなんて最ッッッッッ高ォ!!!」

 

 精神年齢が一気に下がったような––––いや、この方が年相応かもしれない–––彼を見て、こちらも笑えてきてしまう。

 滞空、降下、飛翔を繰り返して様々な場所を僕らは睥睨する。

 

「行きたい場所はあるかい? 少年くん」

 

 彼は迷わなかった。

 

「ねぇ! あそこ行こう!!」

「良いよ」

 

 驚いたことに少年が指差したのは、小森の郊外にある山だった。

 

「ほいっ………」

 

 街の屋根や電信柱などを足場にして僕らはそこまでやって来た。

 

「ほらほら、あっちに行こう! 吸血鬼!!」

「声に出してその事を言うんじゃないよ……」

 

 僕の腕から降りた少年は狂奔の体で山を駆け上っていく。

 流石の急変にため息を吐きたくなるけど、この調子なら堕とせる。

 

「偶には山の空気もいいね」

 

 より深く、より濃い夜の空気がここにはある。

 こぼれ始めているが、まだ青々とした葉が残る木々が生い茂る森の間を清々しい風が吹き抜ける。

 

「……ちょっと怖いな」

 

 森のざわめきに背に汗を走らせる。

 

「と、見失っちゃう……そろそろ行かないと」

 

 吸血鬼なら月が射す木漏れ日だけでも彼を捉えることができるが、離れすぎるとそれも難しくなる。

 彼の背を見つめながら歩き出した。

 小さな背に翻弄されながら、山をぶらつくなんて子と父みたいなことをするなんて想いもしなかった。

 

「–––––」

 

 父親か。

 

「………今まで飼ってきた子達全員、見た目僕よりも歳上だったしそう思うのが初めてなのは当然か」

 

 程よい山の雰囲気を体験しながら、彼の足跡を追っていると眼前に思いもよらぬ光景が現れる。

 

「………おおぉ」

 

 その場所だけ木々がくり抜かれたように、月明かりが強く射し込みスポットライトのように地を照らす。

 青い光がこの一帯を制した。いや、月明かりが照らしていた、というよりはこの場全体の色そのものなのかもしれない。

 僕だけに拵えた物のように現れたその光景に釘付けとなり、自然と足が向かう。

 

「綺麗だ……」

 

 天然のスポットライトに足を入れたその時。

 

「バッッ!!」

「うふゃぁあああ!!?!?」

 

 突然の奇襲に、たまらず声を上げてしまった。

 後退りながら襲いかかってきた者を見る。

 

「やっ」

「……キミねぇ」

 

 先ほど山を駆けていった少年がニヤニヤしていた。

 結構、意地が悪いな……この子。

 

「ごめんね。普通に声をかけようとしたんだけど、予想以上に虜になってたからせっかくだしドッキリさせてみた!」

 

 ついさっきまで小難しいことを考えていた少年と同一人物か確かめたくなる。

 

「にしても、気に入ってもらえて良かったよ」

「……? もしかして、元々これ目当てだったのかい?」

「それはそうでしょう、じゃなかったらわざわざ山になんて来ないよ……真っ暗じゃあヒルの対処も難しいし」

「ここヒルいたっけ……にしても、なんで?」

「なんでって……そりゃ」

 

 僕の問いを背中で受けて、彼は月光の中心へ。

 大きな月を見上げる。

 絵に描いたようなまん丸の満月が目の前にいる。

 

「お礼と食事、だよ」

 

 立ち止まり、振り向いた彼は柔和な笑みを浮かべて–––––首筋を乱暴に露出させた。

 背から光を受けて晒された柔肌に眼が囚われる。

 昨日僕に噛まれた痕が見える。少し赤くなった肌。

 僕の食事である真実。

 

––––––たまらないッ……

 

 イヤらしい仕草に顔が火照る。

 

「まさかこの夜だけで……自分のやるべきことも、願いも……本心への向き合い方も教わった。予想外だったけど、僕は今日に満足できた……と思う」

 

 僕も月明かりで作られた舞台の上に立つ。

 

「昨日のことを考えたらそういった時に血を飲むのがいいのは察せるし、後は舞台だけだな〜……って考えて、探してたら、こんな良いところが見えた」

 

 無言のまま彼に近づく。

 

「これがいま僕のやりたい事。吸血鬼にアンタには礼をすべきだから……喜んでもらえたら、嬉しいな」

 

 唾液が口の中に充満する。

 食欲に脳が侵される。

 

「–––––ああ、嬉しいよ」

 

 喉を鳴らして、彼の肩を掴む。

 手が食い込むのではないかと思うほどに、強く握る。

 僕の方から滴った唾液が少年の首を汚す。

 

 そうして–––––

 

「頂きます♪」

 

 月夜に怒声と嬌声が入り混じったような叫びが響き渡った。

 

 彼が発する音楽が、さらに僕の食欲を掻き立てる。

 こんなシチュエーションで美味しい血を飲めるなんて、色んな意味で滾ってくる。

 けど、昨日と味が少し違う。

 吸血鬼は血を吸う時、その相手の感情や考えていることが知ることが出来るのだ。

 昨日は安心といった和やかな味わいだったけど、それに加えて期待と興奮といった味の刺激を増すスパイスが加わっている。

 確かな味に、心揺さぶる調味料が合わさることで極上へ登り詰める。

 

 

 満天に咲く月の下で、その血を僕は夜と共に堪能した。




最初はこれを2話分で出そうと、これを作りましたが、一つにした方が纏ってていいなと思ったので合体投稿です。

キクさんみたいなのは論外として、一般吸血鬼は自暴自棄で未来が見えない人たちにとっては希望だと思います。


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第八夜「堕としてみせろ」

ついに明日14巻の発売ですね!ワクワク


 喉が満ちるときは、心が満ちる時だ。

 

「ぱぁ〜〜––––」

 

 吸血鬼が僕の首筋から口を離す。

 あまりの美味しさからか、その口許は緩んでしまっている。僕の血が美味しいのだろうと考えるのは、おそらく立ちくらみのせいだろう。

 見える彼女の唇には血がついていて、とてもイケナイ事をした気分になる。

 吸血鬼に食された後の僕は言葉に出来ない面映い感情を抱いたように、首を撫でながら顔を赤らめる。

 

「…………やらし」

「キミの首が刺激的で、血が美味しいのが悪い」

「喜んでいいのかわからない褒められ方だ……」

 

 でも、嬉しい。

 

「……?」

 

 うん、嬉しい。

 

「クンクン」

 

 脳に奔ったなにかは、吸血鬼の鼻を鳴らす音で離れていく。

 見れば僕の顔の横で吸血鬼が僕の臭いを嗅いでいる。

 

「……なにしてるの?」

「吸血鬼にはね、吸血鬼特有の匂いがあるんだ。だから、眷属になったらすぐ分かるんだけど–––––しないね」

「簡単に恋するなら悩まないよ」

「それもそうだね」

 

 にしても、吸血鬼になると体臭も変化するのか。

 変化すると言っても吸血鬼同士だからこそ気づける程度のことならば、人間社会に溶け込む分には問題はないだろう。

 

「クンクン……分からん」

 

 僕も試しに嗅いでみるがやっぱり分からない。

 

「はぁ……でも、良かったよ」

 

 吸血鬼は安心したようで、胸を撫で下ろすようにホッと息をする。

 この『でも』は、僕が吸血鬼になることを決めたことに対する安堵–––––しかし、

 

「そうだね。良かったよ……本当に良かった。こうも簡単に飲んでくれて。フフ……っ」

 

 安心した吸血鬼を見て、僕からナニかが生まれる。

 それは喜びから出てくるものだ。

 漏らす声は褒められて嬉しい感情と、都合の良い奇跡を手にした時のような感情の二つだろう。

 

 笑みを内に仕舞った僕は月明かりの舞台から降りていく。

 木々の中に入っていき暗闇に囚われた途端、僕の存在がぼやけたかような感覚に陥る。足持たぬ幽霊になったような不安がやってくるが、直ぐに目的の場所に辿り着いたことが分かると地に足がつく。

 見上げた場所にキラリとナニカが光った。

 ニヤッと口が歪むのが分かった。

 木の枝から下へ伸びるように固定されていたソレを回収して、吸血鬼の下に戻っていく。

 沢山血を吸われた後とは思えない程に軽やかな足取りは、まるで唄を口ずさんでいるのだと実感する。

 

「さて、どうかな……?」

 

 その手に握ったのはスマートフォン。録画状態になったカメラをオフに切り替える。

 ここまで言えば分かるだろう?

 僕はソレを再生する。

 眩い月光で照らされた光景。

 

「おっ、ちゃんと撮れてる」

 

 吸血鬼に近づくとそれはもう凄い顔だった。眼がいいから僕が何を持っていたのか分かったのだろう。

 嘘であって欲しい。酷く嫌な予感がした。心臓が喉にまで迫り上がってくる。

 意識しなくても吸血鬼の想いは手に取れるようだ。

 

「……なにを…………撮ったの?」

 

 吸血鬼は恐る恐る尋ねてくる。

 

「もちろん、貴女の吸血シーン」

 

 小さな画面に映されているのは、吸血鬼が僕の首筋に噛みつき血を吸う姿。それを丁寧に動画を再生してみせる。

 自分で撮っておいてなんだが、気恥ずかしいな。

 

「なんで!!?!?」

 

 数秒呆けていた吸血鬼の心から飛び出てきた文句はそれだった。

 当然であろう。

 吸血鬼が一番他人に見られてはいけないもの。

 自分達の存在を証明してしまう決定的な物。

 それを僕は手にした。

 なにより–––––

 

「さっきお礼がしたいって言ってたじゃない!」

「うん」

「僕を謀ったの!?」

「それはそれ、これはこれ。必要なことだ––––化かされてくれて助かったよ」

 

 ニヤリと嗤って、手で狐を作り『コンコン』と鳴かせてみせる。

 意識が俺状態の自分に戻っている。

 目の前にいる存在と正面切って話すなら、この状態が最適だ。

 

「まずもって考えてみろ。昨日、寝込みを襲って血を飲んできた相手になんの対策も講じないってバカの極みだぞ? いくら子供でも対策ぐらいするさ」

 

 ドッキリを仕掛けたのも––––半分は初めてやってみたかった想いもあるが––––吸血鬼がこの月光舞台に眼を奪われて、俺を認識できていないか確認する為だった。

 驚いたこの吸血鬼()の顔が見れてお得だったが。

 

「まっ……まあそうかもだけど……」

 

 吸血鬼は絶句している。

 

「だが、礼がしたかったのは本当だ。

 貴女のおかげで進むべき道が見えて、なすべきことが分かったんですから。その事については全くもって不純物となる意思は存在しない」

「……確かに」

 

 てっきりこの段階で飛びかかられるかと思っていたので、拍子抜けするら俺だが気になるのは吸血鬼の納得。

 

「信じるんだ」

「吸血鬼、だからね」

 

 妙に理解しているというか、知っているような。血を吸うと相手の意思が分かったりするのだろうか。

 それなら……ちょっと羨ましい。

 

「でも、解らないな。どうしてこんなことを?」

 

 吸血鬼が構える。

 それを見て反射的に俺はスマホを持った手を身体で庇うようにして背後に回す。

 

「キミは僕に殺されても仕方ない事をした。そして、ここで僕が君を殺せば全て帳消しになるんだよ。分かってるの?」

「勿論。でもね、それはオススメしないよ」

 

 不敵に嗤ってみせる。

 

「もうパソコンの方に転送し終えたし、数日間ログインしなかったら自動的にネットにばら撒かれる」

「……なっ」

「最近は便利だよね。時刻さえ設定すれば勝手に投稿してくれるんだもの」

 

 ハッタリではない。

 

「それに……これは保険だよ」

「保険––––?」

 

 この吸血している様子だけでは、動画のためのビックリ映像程度に思われて終わりだろう。それでも吸血鬼側からすれば、油断ならないはずだ。

 俺はその危機意識を利用する。

 

「そう、貴女を逃さないために」

「僕が逃げる……?」

 

 『ああ』と俺は頷く。

 

「昨日、俺は言ったよな。『俺は俺が決めた理屈で行動する』って––––吸血鬼になるのはいい、けどその理由が貴女によって示された……ただ生きたいか死ぬかで決めるのは嫌だ」

「それはわかっている」

 

 だろうな。

 だからこそ、この吸血鬼は他人との関係による束縛なんてない夜の世界に行くという理由を与えたのだ。

 自分自身が気づくような形で仕向けてきた。

 その事に気づいたのは胸を押された夜へと飛ばされる直前。

 けど、それでは駄目なのだ。

 

「そして、さっき貴女に言われて……考えて、気づいたんだ」

 

 俺は清々しい面で天を見上げる。

 

「この胸に宿る疑念を捨て去る糧を手にする事が出来れば、俺はもっと大きくなれる! 過去を超えた明日を手にする事ができる!

 そして!! その糧となる証明は俺の目の前にある!!」

 

 強い意志が宿った瞳をもって、吸血鬼に対峙する。

 

「人が吸血鬼になる方法は、人が吸血鬼に信頼()した時。

 ああ!! ならばしてみせよう! やってのけよう!!

 それが君を信じきった証ならば、俺は君と偽りなく歩みきってみせよう!! 信頼しきってやろう!! 本当に、それしかないのならば––––––」

 

 月に吼え、己の誓いを嘯いた。

 昂り、乱れ混ざり合う思念をそのままにスッと息を吐く。

 

「けれども、俺の未来は吸血鬼だけではないはずだ」

 

 俺の抱えている物からすれば、今を捨てて容易に吸血鬼になる選択を取った方がいい。

 害を知らないだけかもしれないが、それでも利の方が多いだろう。

 何より目に見えた結果が現れるのは魅力的だ。

 そう考えていた刻、

 

 信頼の証明はそれだけだろうか?

 

 ふと生まれた疑問。

 それを見出す為に、俺はまだ捨ててない。

 捨てる選択肢を持っていない。

 

 吸血鬼は問う。

 

「キミ、人として生きることも諦めてないね?」

 

「当然。俺の目的はあくまでこの気を許せない邪念を払い、信頼し切ること! それは恋慕ではなく、友情かその延長線かもしれない。でもそれでいい。俺からすれば、信頼しきることさえ達成できればもう問題ないんだ。

 俺が貴女を『ダチ』と呼べたなら」

 

 目的は信頼しきること–––––恋して吸血鬼化するというのはあくまでその目標(しるし)にすぎないのだ。

 成れたら得、その程度。

 俺が信頼出来たと、満足してしまえば吸血鬼になる必要がない。

 

「俺にはやるべきことがある」

 

 俺は()の眼の下、親友(理世)の眼を受け止めなければいけないのだから。

 それがいま、俺が果たすべき使命。

 

「それだけじゃない……俺は生きやすい夜を知った。その世界の住民である吸血鬼になることに利は多い。

 しかし、陽を手放す意味はない! 生きるならば宵も、陽も、味わい尽くす! それが出来るのは、人間だ」

 

 吸血鬼になってしまえば、陽を浴びれば死ぬかもしれない。生きれたとしても、昼間に身体を動かすのも億劫になり愉しむなんて出来やしないだろう。

 そんな無くす必要のないものを無くすのは愚の骨頂!!

 辛くても捨てたくない昼も、自由な夜もどちらも手にする!

 

「……吸血鬼にならずに、君が人を信じられるようになると思うかい? それに中途半端は身を滅ぼすよ」

 

 吸血鬼は更に問う。

 

「さあな。でもひとつ、貴女のお陰で思い出したことがある」

 

 どんなに辛いことがあっても、困難が待ち受けていたとしても。

 進むならば––––

 

「俺は、()()()()()()()()()()

 

 それが自分が成長する上でもっとも大切な事。

 人を信じようとするなら、まずここからだ。

 

「そう––––でもね」

 

 この吸血鬼が言うとしていることは––––

 

「だめ、なんだろう?」

「そうだ、吸血鬼にそれは許されない。僕らを知ってしまった人間(キミ)にも」

「だろうな。でなければ、わざわざ俺を殺すと脅しにこない」

 

 人間は人間と。

 吸血鬼は吸血鬼と。

 それがコイツらの世界だ。

 

「なら」

 

 だからこそ、こんな言葉があるんだろう––––

 

「そんな世界は忘れるに限る」

 

 そうだ、そんなつまらないルールがあるならば。

 

「俺が変えてやろう。そんな常識(ルール)

「無理さ、吸血鬼にとって人は餌か眷属。一時期は友達であったとしても、いずれはその二択を迫られる」

「いまは、だろ?」

 

 訝しむように吸血鬼は睨みつける。

 そんな鬼の手を、俺は取った。

 途端、吸血鬼が理解に苦しむような表情へと変わる。

 

「………?」

「今は吸血鬼と人間は友達では居続けられないならば、俺がその垣根を超えてみせよう」

 

 そう。理世に対する行動が陽の世界でやるべき事ならば、

 

「俺が吸血鬼(貴方)信頼()させてみせる」

 

 これが宵闇の中で俺が切り拓くべき道。

 

 その為にはまず大事なもの。

 制約が必要で。

 

「–––––ああ。そうか」

 

 吸血鬼がハッとした。

 この映像は、俺が吸血鬼に殺されないためのものではない。

 とても簡単なこと。

 俺と吸血鬼が向き合う上での大前提。

 

「僕が殺すという手段を取らないようにするための」

「そうだ」

 

 踏み出した一歩で、その呟きを俺は肯定する。

 

「これは俺からの挑戦状だ。これは俺から示す契約だ––––––吸血鬼」

 

 月明かりがより強くなった気がする。

 それは俺の気持ちの変化によるものだろうか。

 

「貴方は俺の命を握っている。俺は貴方の存在を握っている。これで対等だ」

「僕はいま君を殺さないし、君は今後僕から完全に逃げられなくなった」

「俺が貴方に堕ちず、貴方が俺に堕ちなかった時」

「それが君の死の刻」

 

 俺が目的を果たし人間として有り続けても、吸血鬼から信頼を得られなければこの証拠と共に死ぬ。

 この勝負を成り立たせる為には、人間で有り続ける意思を認めさせた上で殺されず、吸血鬼に俺を堕としに来させる必要があった。

 その為の保険。時間稼ぎ。

 

「フフ……ふふふっ………ハハハッ!! 自分の死をベットして将来投資!? なんて馬鹿げてるんだ君は!! フハハハァッ!」

 

 吸血鬼の腹から笑いが込み上げてくる。

 

「しかもその勝負が、まさか吸血鬼に恋勝負!? 

 そんなの–––––––

 

 

 

 

 

 

 

 僕が勝つに決まっている」

 

 俺が示す挑戦に、吸血鬼は獰猛な犬歯を見せて相対する。

 

【俺を夜の虜にし、夜だけに住まわせる】

 

 それが蠱惑的な吸血鬼の勝利条件。

 

 あまりにも無謀な戦いだ。

 人間には不利な戦いだ。

 だからこそ、湧いてくる。

 

「どうかな、俺も案外負けず嫌いでね。恋にやられっぱなしなのは気に食わない」

 

 負けるつもりも簡単に堕ちるつもりもない。

 

「最後に勝つのは、俺だ」

 

 これが俺の生きる道なのだ。

 そして、俺が初めて出来ないと考えたモノに、越えて行けるという願い(イメージ)が付与された最初の行動。

 

「いいよ。それが君が決めた覚悟なら。その契約、乗ってあげる–––––名前は?」

「吼月……吼月ショウ、人間だ」

「僕は蘿蔔ハツカ、吸血鬼」

 

 ここで初めて、俺たちは名乗りあった。

 

「さあハツカ様––––– 俺を夜に……貴方に堕としてみせろ」

 

 きっと、俺に信頼を魅せてくれたこの吸血鬼(ヒト)なら。




ひとまず、ナイトダイブ終了です。
次の日曜日ですが、お休みさせていただきます。

ここまでご清覧ありがとうございます!


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第2話 メイカー
第九夜「またこのパターン」


アンケートにご協力くださった三名の方、ありがとうございます!
第2話スタートです!


 ひょんな事から吸血鬼を知った僕こと、吼月(くづき)ショウはめでたく不良少年となった。

 僕自身に為すべきことがあり、なにより吸血鬼–––蘿蔔ハツカとの契約の下、僕には夜に出歩く必然性が生まれたからだ。

 

 人が吸血鬼になるためには、人が吸血鬼に恋しなければならない。

 吸血鬼を知った人間は眷属になるか、死ぬかどちらかを選ばされる。

 

 僕は吸血鬼になる気はない。

 目的は他者を信頼し切りたい、その一点。

 そのために、僕に信頼を実感させたことのある蘿蔔ハツカの傍で学び、答えを得る必要がある。

 けれども吸血鬼は、蘿蔔ハツカはそれを許さない。吸血鬼の安寧のために。彼は僕を墜としにくる。僕が彼に恋するように。

 それは僕が吸血鬼にならなければ殺しにくる、ということでもある。

 突破口はひとつ。

 僕が蘿蔔ハツカを信頼しきり、吸血鬼に僕が信頼しきられること。

 夜空の月を遮る雲ではないと証明すること。

 

 僕は吸血鬼に恋せず、吸血鬼を信頼()させないといけない。

 

「しかし、信頼……信頼の定義とは––––」

 

 近しい言葉に【信用】がある。

 けれども、それぞれの意味が指し示すものはまるで逆だ。

 信用とは–––– それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。

 信頼とは–––– その人自身の人柄や考え方、立ち振る舞いなどに重きを置いた評価。

 つまり、信用とは実績を見て過去から来る確信であり、信頼とは本人を見て未来を行く期待ということになる。

 

 過去を見るモノ、未来を見るモノ。

 確実を見るモノ。夢幻を見るモノ。

 証拠から来るモノ。期待から来るモノ。

 事実から来るモノ。心情から来るモノ。

 

 様々な対比がある。これは類義語、対義語などの問題ではないのかもしれない。

 

「む、難しい……感情を理屈にすること自体おかしいが……」

 

 意識して衝動に身を任せるのだって、つい昨日の出来たことだ。いくら、未来の自分を信じてみよう、と考えても、それを確実と断言はできない。

 しかし、そんな想いも蹴散らし進むしかない。

 

「––––準備もできたし、行きますか!」

 

 ドアノブに手をかけて、ゆっくり回す。

 キュッと回転音がして、鍵が解除される。

 夜に出かけようとする時において、ここが一番脳に響く。本来鳴るはずのない音は、夜という静かさの中では不協和音となる。それが周囲の眼を集めるのではないかという威圧感を与えてくる。

 これが夜の門番である。

 

「……問題なし」

 

 夜の旅を始める難所を越えた僕は、今日も気の向くままに妖しく照らされる街中を歩き出す。

 少し早めに出たからか、団地にも明かりが灯っている。

 夜に遊ぶのは悪くない。

 以前、先生が『夜更かしなんてのは、大人になったら嫌でもするんだから』と言っていたが、それは業務という縛りの中だけで生きる者だからこそ。

 子供だからこそ、気ままに夜更かしが出来るのだと思う。

 これは信用。

 昨日、体験した事実だ。

 蘿蔔ハツカが教えてくれた、この心の叫び(衝動)のままに楽しもう。そこに嘘はないのだから。

 

「しかし、目的がないのはアレだな……」

 

 この歩いているだけで飛んでくる楽しい衝動を味わっていたいのと同じぐらい、僕は願いを達成したい。

 なら、大雑把な目標としては、蘿蔔ハツカに会うが第一ミッションにしよう。

 

「昨日はあのまま別れちゃったからな〜」

 

 夜に出始めてからいっさい確認していなかったので気づかなかったが、思いの外時間が経っていた。

 それに、僕のハッタリ劇が終わった後、ハツカ……ハツカ様?は眠たそうに、喉の奥まで見えるようなあくびをしていた。夜の初めから僕を探していたようで、疲れていたのだ。

 彼は小森団地まで僕を送り返した後、『疲れた、また明日ね』と言い残して夜空に消えていった。

 

「僕を抱えて色んなところ飛び廻ってたから疲れて当然だよね……」

 

 去り際まで綺麗だった彼の影を眼で追い続けていたものだ。

 なにかお礼でも持っていけたらいいのだが。

 

「にしても––––」

 

 どうやって会えばいいのだろうか?

 蘿蔔ハツカも僕を探しているはずだが、連絡先を交換できていないのは悪手だったか。

 

「ひとまず人目のつきやすい場所には来てみたけど……」

 

 明かりが集う場所に向かう足が速度を失う。駅前までやってきた。

 僕は辺りを見渡した。

 

「気が抜けてるな、みんな」

 

 よく見る光景とはまるで違う。

 学生や子供連れの家族が全然いない。他に比べて明るいこの一帯でも、コンビニと少しの居酒屋らしき店以外は暗くなっている。

 

『もういっぱぁ〜〜い』

『こらこら、話しきけよぉ』

『じゃ、もう一件回りますか〜〜』

 

「あの3人仲良さそうだねえ」

 

 駅前には、酔っ払って大声を出しているサラリーマンやタバコを吸っている人たちがチラホラ。煙がもくもくと昇って闇に溶けていく。

 日の出ている時と違い、どこか淋しさを感じる。今日使った火が僅かに燃えてもうすぐ消えてしまいそうな、儚い印象。

 それでも、明暗がハッキリしているのが、力強さを感じる風景だ。

 

「こんなに変わるモノなんだね」

 

 同じモノを見ているのに、全く別の知らない場所を見ているようだ。

 それでも僕からしたら良いものだ。

 

「新たな側面、か」

 

 本棚の隙間に本がまたひとつ納められたような充足。昨日まではただ感じるだけで漠然と新しいモノと捉えていたが、自分の無知を示されるのと同時に満たされる。

 それは更なる欲求を見出す。

 他になにか新しい事はないかと、蘿蔔ハツカを見つかる過程に付加価値を生み出した。直ぐに会えないことが、こうした発見に繋がると思うと面白いものだ。

 

「試してみないと分からないな」

 

 退屈しない。

 

「蘿蔔ハツカを探しがてら、あのサラリーマンたちの跡を追ってみるか。美味しい飯屋があるかもしれない……!」

 

 過程ひとつ取っても目に映る光景が新鮮で、探すということに煩わしさがない。

 未知というのは良い。

 そして、僕にとって最大の未知といえば。

 

–––––そう、吸血鬼……

 

 ひいては蘿蔔ハツカ本人について。

 

「なんも知らないんだよね」

 

 吸血鬼についても、蘿蔔ハツカについても。

 知りたい。学びたい。

 アイツらについて。蘿蔔ハツカについて。

 それは有益で、価値のあることだから。

 

「教えてくれるかな?」

 

 とりあえず会ったら訊いてみるか。

 できれば、様付けで呼ばれている理由が知りたい。興味本位でしかないのだが。

 まずは彼を理解するところから信頼のスタートを切ろう。相手の価値観を知り、共有してこそ相手との深い関係を生める。

 普段は、すべき、で行う好奇心だが、今日はちょっと違う。

 興味と好奇が僕の足の廻りを速める。

 そうして見つかりやすい場所を動き回ったり、面白そうな所を見て回ったり、蘿蔔ハツカの背中を求めて夜を徘徊したわけだが––––。

 

「見つからない!!」

 

 歩き回って時間が経った頃には、人波の濃度も薄まり見かける数がゼロに近づいた。

 自分としてはこの静かさが好きだが、今回は目的としていない。

 代わりに珍しいモノを見つけた––––自販機に金を入れてボタンを押す。

 どきどきするな。

 

「こんな自販機、ここでしか見た事ないぞ」

 

 ガタンガタン、ガタンガタンと音を立てて、飲み物が落ちてくる。

 

「…………2本」

 

 出てきたのはビール缶。

 今ではとっくに絶滅危惧種になっている酒がある自販機で、しかも、カードが必要ないタイプ。そんなモノ存在するのかと思った。あるならあるのだろう。

 物の試しで金を入れていたのだが、なにかの手違いで2本出てきてしまった。

 

「まっ、残りは僕が飲めばいいか」

 

 蘿蔔ハツカには温くなる前に渡したいので、それまでに見つけられたらいいのだが。

 その近くで見つけたベンチに腰を下ろす。

 

「もういっそのことまた飛び降りてやろうか」

 

 二度ある事は三度ある。

 

「……迷惑だからやめよ」

 

 待てよ。

 

人気(ひとけ)のない方が出てきやすいのか?」

 

 遭遇した場所は2回ともビルの屋上で、人の眼がない。

 あんな身体能力を持っているとはいえ、普通の人に見られるわけにはいかない。人混みの中を歩いて僕を見つけるか、空から見つけるにしても人目に入らないように慎重に行動するだろう。

 

「初手で間違えたのか」

 

 失敗を空気に溶かすように息を吐く。

 天を仰いだ。

 見つめる空に月が綺麗に輝いている。今日は少し欠けているが、それでも美しい。

 

「あっ」

 

 夜空で一番輝く星をナニかが横切った。

 

「見つけた」

 

 月を横切ったナニかが目の前にある電信柱の上に現れた。そのまま、ふわりと浮遊して僕の目の前に降りてくる。

 探していた相手。吸血鬼、蘿蔔ハツカだ。

 相変わらず夜空によく映える姿なことで。

 

「やあ、ショウくん」

「……」

 

 昨日と殆ど変わらない立ち振る舞いで近づいてくる。

 そんな中で、俺にとっては大きな変化がひとつある。

 

「どうしたの?」

「いや、名前で呼ばれたからビックリしただけ」

 

 ほぼ初対面で名前を呼ばれたのは理世以来だ。というか理世以外に名前を呼ばれたことないな。

 

「良いじゃないか。コレから君は僕を好きになるんだからさ」

「なんねぇよ」

 

 そう簡単には。

 しかし、いきなり名前呼びされたら反応してしまうあたり、俺も甘いらしい。

 

「気を取り直して、こん–––––ばんは、蘿蔔ハツカ」

「そうだね、こんばんは」

 

 よし、合ってた。

 

「結構元気そうだね。沢山血を吸ったから心配してたけど」

「ふっ、レバニラを食ってきたからな。それに朝にはエアロビもやっている」

「なんでエアロビ?」

「土曜日、だからな」

 

 蘿蔔ハツカは理解できていない––––分かるはずもないだろうが––––ので頭にハテナを浮かべるだけ。

 俺も来年の今頃にやっているかは分からない。

 健康に良いから続けるべきだろうか。

 

「そんなイベントあったかな?」

 

 蘿蔔ハツカの目線が低くなる。俺が手に持ったビールに向かった。

 

「はい、どうぞ」

 

 片方の、なるべく冷たい方のビール缶を渡す。

 

「気が利くね。ありがとう不良少年」

 

 ビール缶を受け取った蘿蔔ハツカは、俺の隣に座ってからそれを開ける。釣られて俺も缶を開ける。この間買った酒より開けた時の音が軽快だ。

 

「あーーーおいしっ。久しぶりのビールもいいね」

 

 ビールに口をつける蘿蔔ハツカを見て、躊躇いながら口をつける。

 

「に、苦い……けど美味しいな。工場見学のやつよりはずっと飲みやすい」

 

 小学生の工場見学で麦芽を飲んだが、すっごく苦くて嫌だったなアレ。

 それに比べて製品として出されてる分、このビールは飲める。けど、俺は以前のサワーってやつの方が飲みやすいな……。

 

「君も普通に口をつけるようになったね」

「まっ、夜だからな。飲み過ぎには気をつけるけど……」

「それがやりたい事ならやりなよ」

「血が美味しくなるからか?」

「一理ある。けど」

 

 良からぬ笑顔で俺を見る。

 

「また君のポワポワした顔が見たいな。あっちの方が可愛いよ」

「うっせ」

 

 可愛いって言われて喜ぶ男子って実際どれくらいの比率なのだろうか。

 意味としては、愛着をもって大事にしたいや無邪気で子供らしいということなのだが、後者はともかく前者は褒め言葉なのだから案外多いのだろうか?

 

「貴方の方が可愛いよ」

「ブフッ–––!? ま、まぁ当然だね」

 

 事実、ここに存在している訳だ。

 確かに普段クール系の彼が、今みたいに吹き出したり、()を前にして涎を垂らしてしまう所は、子供のような意外な一面として可愛いとは思う。

 

「なぁ、蘿蔔ハツカ」

「……その呼び方、面倒じゃない? 嬉しくないし」

 

 彼は昨日のように『ハツカ様』と呼べばいいと勧めてくるが、そう()ぶ気にはならない。

 アレはあのテンションだからこそ口にできたのであって、いつも呼ぶわけがない。だって、俺は従者じゃないのだから。

 

「だったら、幾つか質問に答えてくれ」

 

 なに?と首を捻る蘿蔔ハツカ。

 

「貴方……男、だよな?」

 

 ポカンとした顔になって、軽く口が開いている。

 

「うん、男だよ」

「隠さないんだ」

「どっちにしろ変わらないしね」

 

 特に彼は誤魔化すこともなかった。

 確かに綺麗のは変わらないのだが……しかし、あれか、この姿でモノがついてるって事なんだよな。

 なんか、それはそれで––––と思わなくもない。

 

「よく気づいたね」

「昨日、手を握ったろ。その時の感触で違うのかな、って」

「ああ……えっ? 僕の手、そんなにガタゴトしてる?」

「そういう訳じゃないが……筋肉のつき方が男寄りだなって」

 

 見た目としては女だったし、雰囲気としてどちらとも取れるから仮定として彼女で置いてたのもあって、昨日手を取った時に驚きかけた。

 多分、化かしていなかったら数秒はフリーズしてただろう。

 

「なんで女装してるんだ? 貴方なら男の姿でもモテるだろ」

「似合うからに決まってるじゃない」

「へえ……」

 

 不信感––––とは違う。

 その感情もあるけれど、本質的に何か違うものを感じる。

 

「なんか知らないけど、こっちの方が男女どちらからもモテるんだよ」

 

 効率的、というやつか。

 LGBTが唱えられている現代ではあるが、まだ女性である方が男女共に受け入れやすい空気があるのはあるだろう。

 しかし、違和感のある言い方だな。

 

「好きでやってるのか?」

「似合うから楽しんでる。そんなもんだよ」

「そうか」

 

 似合うから楽しめてはいる……か。楽しいと好きは別というわけか。

 好きでやってる訳じゃない。心が女性とかいうタイプでもない。

 では、なぜ始めたのだろうか?

 いくら吸血鬼が恋愛生命体とはいえ、男性が好きでもないのに女の服装に手を出すだろうか?

 穿った見方かもしれないが、まるで初めから自分は女装(そっち)方が似合うと知っていたように聞こえる。

 蘿蔔ハツカも通常の手順で吸血鬼になったとするならば元々は人間。普通に男が当たり前の暮らしをしていて、女装をすることなんて趣向以外に無いと思うが。

 

「なら、問題ないな」

 

 上手く眷属を増やす方法を模索している時に、偶々着た女装が男女から一番好まれたというだけかもしれない。

 少なくとも俺が口を出すことじゃない。

 それに男とバレても慌てる様子はないし、これならちゃんと俺を堕としにきてくれる。

 俺のやる事も変わらない。この吸血鬼に堕とされないようにして、信頼させるそれだけだ。その後にでも訊けばいい。

 

「人生初ビール終了」

 

 またひとつ、本棚に新たな一冊が格納された。

 同時に蘿蔔ハツカも飲み終えて、俺の前に立つ。

 

「さて、ここからどうしようか? キミのしたいことを言ってごらん」

 

 俺のしたいこと、なら。

 

「吸血鬼について教えて欲しい。そして、貴方についても」

 

 それが今日の目的。

 

「……そうだね、吸血鬼化について話しておかなきゃいけないこともあるし。いいよ」

 

 良かった。

『敵になるかもしれないから教えません』と言われるぐらいのことは考えていたのでホッとした。

 

「じゃあ、僕ンちに行こうか」

「…………え?」

 

 差し出された手を戸惑いながら取ると、

 

「行くよ」

「あ、ああ–––ああああああ!!?!?」

 

 身体が重力に逆らい、一気に天へ昇る。大人たちが鬱憤を解放する煙よりも高く跳ぶ。

 今日も夜空を駆けて、夜風に当たる。

 街の夜景を堪能しながら、数分ほど経ったのちに彼の目的地に着いた。

 蘿蔔ハツカに抱えられて訪れたのは、彼の(うち)があるマンションのようだ。

 

「着いたよ」

「…………」

「ほら、あがりなよ」

 

 彼の腕から下ろしてもらう。

 扉を開いて俺を招き入れる蘿蔔ハツカの姿を見つめたまま突っ立ってしまう。

 

「どうしたのさ?」

 

 こうして、家に招待されたのわけなのだが。

 

「俺、他人(ヒト)の家に初めてあがる……!」

「ああ〜〜……」

 

 初めてだ! 少なくとも覚えている限りでは初のことで嬉しいのだ!

 興奮していると蘿蔔ハツカが俺の肩を優しく叩く。

 

「なんだよ」

「大丈夫」

「…………」

 

 凄い憐れんだ眼で見られるのは可笑しいだろ。

 そんな変なことだろうか?

 

「ただいまーー」

 

 促されるままに家にあがらせてもらうと、彼の声が室内に響いた。

 

「ただいま?」

 

 誰かと暮らしているのか。

 この間の迎えに来ていた宇津木(うつぎ)美幸(みゆき)か?

 

–––––ガチャ

 

 初めに、廊下の奥で鍵が開いた音がした。

 次に家が揺れる。このマンション全体が震えているのではないかと思わせるほどの激しい揺れ。

 そして肌感覚で、とある事実を理解する。

 震源が近づいていることに。

 

「…………!?」

 

 最後に現れたのは三つの影。

 それは人である。曲がり角から現れた人は、廊下の壁に身を打ち付けながら速度を上げてやってくるのだ。

 

「ハツカ様ァァァァァアアアアアアアアアア!!!!」

 

 3人分の声に廊下が裂けてしまいそうだ。

 ただ茫然と俺はそれを見続ける。

 怖いより先に困惑が来る。眉間を摘んで唸りたくなるような非現実的な有様。

 

「お帰りなさいハツカ様!!」

 

 蘿蔔ハツカの前で立ち止まった3人の声が重なった。

 うるさ……近所迷惑だろ。

 

「うん、ただいま」

 

『ハツカ様』と叫び続けながら鬼気迫る勢いでやってきた3人の熱量に比べて、蘿蔔ハツカは冷え切っていた。

 半目状態で彼らをジッと見ている。ジト目というやつだ。クラスメイトに教えてもらったことがある。

 

「あたし、言いつけしっっかり守りました!!」

「俺もです! 俺も!!」

「昨日だってハツカ様の為に頑張りました!!」

「えらいね」

 

 奇怪な光景だ。

 まず目につくのは蘿蔔ハツカの前にいる男性。見る限り渋めのかっこいいおっさんなのだが、おでこ丸出しで美少年に頬を赤らめながら『様』しているのは、言い難い罪深さがある。

 その両隣にいる茶髪ショートの女性と黒髪ロングの女性も、おっさんと同じく頬を朱に染めて蘿蔔ハツカに褒めてもらおうとしている。

 

–––––揃いも揃って犬みたいだ。

 

 崇拝や信仰といった感情かと考えたが、これはあまりに行きすぎている。

 蘿蔔ハツカに視線を移す。

 彼は冷ややかな目のままの適度に褒めている。撫でたりすると彼らの絶叫が最大音量になる。建物が本当に揺れている。

 焼け石に水だが、耳栓でも買っておくべきだったかな。

 そうして、ひとしきり眷属を褒め終えた彼が、一度俺に意識を(くべ)る。

 

「それでね。いきなりで悪いけど、今日も僕のお客さんがいるから帰ってくれるかな?」

 

 稲妻、疾る。

 3人の顔がそう称するべきものへ変貌する。

 

「またこのパターンですかああぁぁ!!?」

「しかもまた同じぐらいのガキ!! なんでですかアアア!?!? 」

「ずるいですよ!!! 昨日頑張ったら遊んでくれるって約束だったじゃないですかアアァァ!! 嘘つきぃ!!」

 

 硬直していた3人が叫び出す。

 怒号が俺に向かって突き刺さりにくる。いい反応だ。本音をぶつけてるって感じ。

 しかし、それは蘿蔔ハツカの望む反応(モノ)でなかった。

 

「前にも言ったよね」

 

 声のトーンが明らかに変わって、後ろで見ている俺も圧倒される。

 

「彼は僕の(・・)お客さんなんだよ? そんな人に汚らしい言葉使っちゃうんだ。しかも2回」

 

 冷ややかだった声が完全に凍りついた。

 怒号を制する凛とした声に、ビクリと背筋が震えているのが見て取れる。

 彼らは苦々しげに俯いて、受け止める。

 そこで俺は理解した。

 

「…………」

 

 まさか、様付けの理由が王様……いや、女王様だったからとは。

 

 これは–––––

 

 3人を見て、さっきまで威圧していた蘿蔔ハツカが穏やかになる。

 

「みんながやるべきこと、わかってくれぬぬぬぬ––––!?」

「蘿蔔ハツカって餅肌なんだ。柔らか」

 

 気づけば俺は、ニコっとした蘿蔔ハツカの頬を引っ張っていた。ぷにぷにした肌触りに何度か揉んでしまう。

 パチンと離すと、彼の頬が少し赤みを帯びている。

 そんな光景を見せられた眷属たちは、目を丸くする。

 

「なにするの–––!?」

 

 声とは真逆の冷徹で見開いた目がやってくる。

 3人に向けられていたモノが全て俺に向かってきて、背筋が寒くなるのを感じる。なるほど、確かにコレなら黙ってしまうのも不思議ではない。

 けど、俺に向けられる理由は分からん。

 

「わざわざ帰ってもらう必要ないだろ? 俺と貴方は話をしたい。そこに彼らがいて邪魔になる事はない。なら、居てもらえばいい」

 

 腹を割って話し合うなら居てもらわない方がいいが、俺としては蘿蔔ハツカの印象が聞けるなら彼らがいるメリットがそれを上回る。

 

「それに、約束してたんだろ?」

「むっ––––」

「約束は果たさないと。ねえ〜〜––––皆さん、ハツカ様と遊びたいよね」

 

 元気よく手を伸ばす。ピンと腕を張る。

 戸惑う3人が小さく頷く。

 そうそう、素直が1番。

 

「はぁ……分かったよ。君がそれでいいなら」

「うん。俺はこれがいい」

 

 蘿蔔ハツカは観念して『お風呂入ってくるから奥のソファで待ってて』と告げて去っていく。それを追うようにして、嬉しそうにおっさんと茶髪ショートの女性が動いた。

 

「……君は、この間の」

 

 残ったのは、黒髪ロングの女性–––––

 先ほどとは違い、落ち着いて俺を見ている。

 

「宇津木……美幸?」

「よく覚えてたね」

 

 気づかなかった。

 この間、会った時は小綺麗だったのが、なんというか蘿蔔ハツカにのみ執着した根暗な感じになっている。

 自動車を運転していた時と雰囲気がまるで違うのだ。

 恐らく蘿蔔ハツカの獲物だった俺に危機意識を持たせない為、この感情を抑えていたのかもしれない。

 迎えに来た時にガッツポーズしていたのは、ご褒美貰えるからかな。

 

「他の2人も眷属?」

「そう、みんなハツカ様の眷属なの」

 

 宇津木美幸は首を縦に振ると、俺を奥へ通す。

 

「こっちに来て」

「別にいいですよ。早く行かないと、2人に全部奪われちゃいますよ?」

「問題ないわ。フッヒヒ……こうした方が後で良いご褒美もらえるの」

「なるほど。なら宇津木、お願いするよ」

「……呼び捨ては直した方がいいと思う」

 

 俺は、そうかな? とだけ返して、彼女に案内された。




アニメで見た3人のシーンめっちゃ怖かったです(初見時感想)
動きがある分、漫画より迫力あるんですよね……

にしても、寒くなってきましたね。
明日は気温がマイナスになるところが多いそうで、
みなさま、体調には気をつけて夜更かししてください。


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第十夜「吸血鬼の本」

 宇津木美幸に居間へ通された俺は、置かれていたソファに座った。

 なぜかは分からないが、そのソファは一つしかなかった。それが気になっていた俺に美幸は『問題ないよ』とだけ言い残して、この部屋を出ていった。

 女王様だから、眷属たちは自身の後ろに立たせたままなのだろうか?

 だとしても、やはりひとつ足りない。

 

「……にしても凄いな」

 

 ひとりになって、改めてこの部屋を見渡す。

 大きい部屋だった。さっきの騒々しさが一転して静寂に変わったからか、余計にガランとしている。僕もいくつかの部屋を渡ってきたが、あまり見たことない広さ。

 あの人数で生活を共有する時間があるなら丁度いいだろう。

 

「風呂に入ってる間は暇だよな」

 

 きっとモテる吸血鬼だから美容は大切にしているし、その分だけ待つ時間は長くなる。シャワーを浴びるだけなら十数分だろうが、風呂に浸かるから数十分は待つことになる。

 手持ち無沙汰だ。

 

「少し物色させてもらおうかな」

 

 ソファから立ち上がる。

 手をつけさせてもらうのは、ここに通されて最初に目についたソファの後ろにある棚に置かれている陶芸品や、部屋の一角に設けられた書斎だ。

 これらの所有者は恐らく蘿蔔ハツカ。

 眷属3人には『帰ってくれないか』と口にしていたあたり、実家として暮らしているのは蘿蔔ハツカだけなのだろう。

 壺なども置かれているが、陶芸品の類は眷属からの貢物なのかもしれない。

 部屋にある物は所有者の人柄や趣味を知る手掛かりになりやすい。

 その代表例は本。

 書斎の中に入る。

 

「よし」

 

 僕は手が綺麗なのを確認してから、本棚の中から一冊だけ抜き取る。

 

「絶対可愛いモテ大人女子……大人なのに女子?」

 

 言葉遊びの類だろうか。パラパラと読んで、その中身を暗記する。

 

「なんか落ち着いた服装だな」

 

 本棚に戻して別の本を読み出す。

 蘿蔔ハツカの趣向は幅広かった。『M◯RU』というファッション雑誌や植物図鑑、音楽に関する物など、様々なジャンルに関する本が置かれている。

 コーヒーの淹れ方や吸血鬼についての本もあった。

 

「なんで吸血鬼が吸血鬼の本を持ってるんだ……?」

 

 こんなオカルト染みたものより、自分達の方が多少なりとも信憑性があるだろうに。

 疑問が湧いてくるだけで、蘿蔔ハツカに近づいている気がしない。ここまで多いと、どれが1番好みなのかは分からないのだ。

 実際、好みではないのかもしれない。相手を堕とすための努力としてコレらを持っている可能性もある。

 モテやすい吸血鬼でも、こういった努力をするんだなと思う。

 善いことだ。

 

「……?」

 

 そんな中で僕が目を引く物があった。

 手に取った本には、こう銘が打たれていた。

 

 

–––––【帝王学】

 

 

 

 僕もこの分野に関しては手を出したことがない。

 

「アレだよな、リーダーシップ云々でよく言われる」

 

 せいぜい三鏡という考え方を知っているぐらい。

 身なりを大切にしろ。過去から学べ。人の忠告は心に受け止めろとか、そんな感じ。

 割とあたりまえのことを言ってるもののはず。

 

 しかし、なぜこんな物があるのだろうか?

 女王様然とした振る舞いになにか関係があるのだろうか?

 趣味? それとも人間を堕とすため?

 自分を引っ張ってくれるような存在が好きな人の為に学んでいるのか?

 

「……これだけじゃ分からないな」

 

 いま分からないことに手を出しても意味がないか。

 ひとまず、読むだけ読んで––––

 

「––––戻ってきたか」

 

 その前に、足音が聞こえた。

 一対の足音に遅れて三対の足音が、床を伝ってくる。

 僕は取り出した本を元に戻して、ソファに座ろうとする。

 

「ショウくん、寛いで––––……なんで立ってるの?」

「悪い。なんで1個しかないんだろうなあって考えてたら。つい、な」

 

 風呂帰りの4人が突っ立ったままの俺を見ている。彼らがやってくる実感が出てきた途端、本当に座っていいのかと疑問を思い出して座れなかった。

 頷く蘿蔔ハツカは、頭に被ったタオルを残った僅かな水滴と共に取り去る。仕草だけでも艶めかしい彼は本当に男なのか疑いたくなる。

 

「そのソファに座ればいいよ。僕には別のがあるから」

「別の?」

 

 心当たりを探すように目を動かすが、そんなものはひとつもない。

 蘿蔔ハツカはそんな俺を見て妖しく笑う。

 

「ほらみんな、いつもの」

「はい!!」

 

 蘿蔔ハツカは、宇津木にタオルを渡してから手を鳴らす。

 すると、後ろに控える眷属たちが一斉に動き出す。

 デコ出しおっさんはスリッパを脱いで綺麗な四つん這い状態となる。腰もしっかり入っており、吸血鬼であることを差し引いてもビクともしなさそうだ。

 他の女性ふたりは厨房に消えて–––––宇津木は別の場所を経由してから––––すぐに戻ってきた。それぞれの両手には、フルーツやクッキーなどが盛られた大きな皿がある。

 指示を出した蘿蔔ハツカ本人は、

 

「よいしょ……うん、いい座り心地」

「ハツカ様」

「あ〜〜ん」

 

 四つん這いになったおっさんの背中に座って、女性たちから食べ物を口に運ばれている。流れがとてもスムーズでみんな、動きが板についている。

 蘿蔔ハツカが『みんなできて偉いぞ〜〜』と褒めれば、3人とも至福の時を噛み締める。

 

「…………」

「クッキー美味しいね……ん? もぐもぐ……ショウくん、ちゃんとソファに座りなよ。お行儀悪いよ」

「この状況で座れるわけねぇえだろうが……」

 

 食べながら喋るのも行儀悪いだろ。

 

「なんでそんなことやってるの……?」

「君がこの子達と遊んであげてって言ったんじゃないか」

 

 俺が知ってる遊びと違う……。

 

「いつもこうなの?」

「まさかあ! いつもはソファ(そこ)が僕の場所だよ。今日は君が座るから椅子になってもらっただけ!」

「うん……そっかぁ……」

 

 平然と人間家具をやらせて、自然に受け入れてる人なんて初めて見たので脳の処理が追いついていない。おっさんは息遣い荒いし、女性ふたりは見惚れてるし。

 現代社会でこんな光景を見ることになるなんてなぁ……。

 俺のせいなのかなぁ?

 

「偏見だと言って欲しいのだが、吸血鬼って、みんなこうなの……?」

「むぐむぐ、う〜〜ん、どうだろう。でも僕は常識的だよ? 僕の仲間には好きな相手がいる人を狙って堕とすのが好きな吸血鬼(ヒト)もいるし、学生が自分に対して好意を抱くのが好きな教師だったいる。至って普通だよ」

「全部アウト! スリーアウトだ!!」

 

 この光景を見せて【常識的】と豪語できるあたり、やっぱりこの吸血鬼(ヒト)やばいわ。しかも、それと同等の癖が出てくるとは思わなかった。

 本当に常識的なのかもしれない。

 見ると、蘿蔔ハツカは凄くニコニコしてる。

 

「俺は貴方の1番の笑顔をこうやって見ることになるとは思わなかったよ……」

 

 思わず眉間を摘んで唸る。

 

「少年!!」

「––––ッ、なに……?」

 

 おっさんが突然俺に意識を向けてきたのでビクリとしてしまう。

 

「……ハツカ様がいい笑顔とは、本当か?」

「え? ……」

「ふふ」

 

 尋ねられたことを確認するように、蘿蔔ハツカの顔をもう一度見る。

 

「いい笑顔だよ。驚くほどに」

 

 おっさんの角度だと蘿蔔ハツカの顔見えないもんな。

 

「そうか––––」

「おっさあああああん!?!?」

 

 おっさんは天に召された。

 

「こら、力抜けてるよ」

「ハッ……! すみませんハツカ様!!」

 

 まるで精神が身体からすり抜けたように脱力して、整っていた四つん這いが乱れるが、蘿蔔ハツカが背を叩くと蘇った。

 

「おぉふ、わっかんねぇ……」

 

 おっさんたちは楽しんでいるし問題はなさそうだ。

 

 

 

–––––これも、空白()けたままにしてはならない。

 

 

 

 知的好奇心が疼く。

 しかし、ここに来た第一目的を忘れてはいけない。

 俺が招かれたのは吸血鬼と蘿蔔ハツカについて知るためだ。それを捨てて、優先順位を変えてはいけない。

 

「それじゃあ、吸血鬼についてだね」

「うん。教えてほしい」

 

 蘿蔔ハツカの方から切り出してくれたおかげで、思考を切り替えられた。

 

「まず、キミに伝えなければいけないのは、僕ら吸血鬼は自分達についての知識があまりないんだ」

「えっ……ああ……」

 

 本棚に置かれていた吸血鬼関連の書物はそういうわけか。

 

「自分達への興味とか湧かないのか?」

「どうだろうね。ある吸血鬼(ヒト)はあるだろうけど、大抵の吸血鬼はそんなこと気にしない」

「そうか」

「すんなり受け入れるんだね。悪態をつかれるかと思ったけど」

「……いや、振り返れば分かることだった」

 

【人類に似ていて、より生命力の高い生き物の研究】なんて大それたことをすることは、吸血鬼の活動の仕方からして難しいだろう。大掛かりなことをしようものなら、自分達の存在の秘匿にも影響が出てくる。

 吸血鬼が吸血鬼だけの研究施設を作って、完全に情報の漏洩を防ぐなんて無理難題だ。

 資金源は? 土地の確保は? 研究材料は?

 どこから来るというのだ。

 しかも、どう広めればいい。

 本としてか? それでは数多ある書物の中に埋もれるだけだ。

 

「なら、実感からはどうだ? 俺の血は美味しいって言ってただろ? 下拵えしたとも言ってたし」

「それも良く分かっていないんだ。実感––––というよりは本能や経験からになるけど、吸血鬼になって日が経つと自然と分かってくる。

 人の心が満たされている……充足感があると言ってもいいかな。どんなものであれ感情が昂るほど、濃いほど味が良くなるら

 

 だから、1日の締めくくりである夜に人間の血を吸うのが一番美味しいと語る。

 

「けど、なぜその方が味が良くなるのか、どう作用して美味しくなるのか。なにが原因で不味くなるのか、それすら僕ら吸血鬼は知らないんだ」

「…………」

 

 自分達のことを全く理解できない。

 そのことについて––––俺はどう思っている?

 なにも分からなくて残念なのか。

 それとも無為な時間を過ごしたことへの呆れなのか。

 

「吸血鬼は【生きること】以外に何もしない。だから、本当はみんな何も知らないんだ」

「…………」

 

 多分、俺はなんでだろうと思ってる。

 

「……話の方向を変えるか。吸血鬼はなにが出来る?」

「吸血鬼ができることか。そうだね、驚異的な身体能力もそうだけど……ショウくん、なにか投げられるものある?」

「え。ああ……財布でいいか?」

「なんでも良いよ、それを僕に投げてみて」

 

 クイクイと指で自分を指す。

 

「……? 分かった」

 

 ズボンの後ろポケットから財布を取り出して、蘿蔔ハツカへ放り投げる。

 彼はそれを取るような素振りすらなく、ただ眺めている。自分は飛んでくる物体から目を逸らさない。

 

「あぶっ––––」

 

 顔に当たる。そう思った時–––––

 

「は?」

 

 すり抜けた。

 財布は霧に投げ込まれたかのように、蘿蔔ハツカの身体を通り抜けたのだ。硬い床の上で一回跳ねてから財布は止まった。

 

「面白いほど良い反応してくれるね」

 

 良い反応とはなんだ。

 こんなの見せられたら誰だって固まってしまうだろ。

 

「吸血鬼はものをすり抜けられる。他には、コレとか」

「すげっ、爪が伸びたり縮んだりしてる……」

 

 仕草に使った人差し指の爪が鋭く延びては元に戻る。

 

「近くで見ていい?」

「いいよ」

「おお……!」

 

 人間とは異なる身体の仕組みに興味が惹かれる。

 その指を掴もうとする手が空を切る。蘿蔔ハツカの指をすり抜けたのだ。

 

「フフッ」

「この!」

 

 出来ることなら解剖して、原理原則を解き明かしたい。

 というかコイツら、こんなことができるのに自分達に興味湧かないとかおかしくないか?

 

「くそっ、マジで触らねえ……!」

「まっ、出来ることはこんなものかな」

 

 透過で俺を弄んだ蘿蔔ハツカは、それを解除する。

 周りの眷属から痛い視線が刺さるが気にする必要はない。

 ただただ気になるのだ。

 

「俺がビルから落ちた時に急に現れたのはこれ?」

「そうだね。見つけた時には落ちかけてたから、ビルの壁をすり抜けて先回りしたんだ」

「便利だな……」

 

 物理攻撃しか基本ない世界で透過は強すぎる。

 

「ハァハァ……これは、その……アレか? 異能とかそんな感じの? 特殊な細胞……吸血鬼細胞?–––とかが本人の意思を汲み取って発現するタイプの」

「そんなファンタジーなモノじゃないよ」

「吸血鬼がすでにファンタジーなんだよ……まぁ、化け物にも神にもなれる奇跡の細胞で……ってことではないわけか」

 

 流石に面倒なことになるヤバい方向へ突っ込まれると俺も困るが。

 

「……そういえば、ここに来る前、言わなきゃいけないことがあるって言ってたけど、それは?」

「ああ––––吸血鬼化についてなんだけどね。これにもうひとつルールがある」

「ルール? 掟とは別の?」

「掟ではなく縛り(・・)。吸血鬼になれるのは、初めて血を吸われた日から1年の間だけ。それまでにならなければ、不適合。もう一生吸血鬼にはなれない」

「例外は?」

「ない」

 

 つまり、俺の戦いはこの1年にかかっているという訳だ。

 

「良いな、その方が面白い」

 

 あと1ヶ月早ければ、9月スタートだったのだが。

 それでも一年という括りがあるのはいい。ダラダラやっていても、成長できないし意味はないのだから。

 

「楽しみにしていなよ、君が僕に堕ちる1年なんだから」

「そちらこそ」

 

 2人して笑う。

 威圧的に漏れる。

 そこから更に吸血鬼についての話が続き、

 

「これで一通りの話はしたかな」

 

 ひと段落すると、ハツカはなにかある?と態度で訴えてくる。

 

「………」

 

 吸血鬼についての情報はある程度同等になった。まだ出していない引き出しはあるだろうが、また別の機会にしよう。

 

 なら次に得るべきモノは––––

 

 俺の目線が蘿蔔ハツカから外れる。

 

「ねえ––––おっさん」

 

 自然と俺はおっさんの眼前に座り込み、目線を合わせる。

 

「おっさん」

 

 二度目でこちらの声が届いた。

 

「なんだ?」

「コラ、勝手に喋っちゃだめでしょ」

「蘿蔔ハツカは黙ってて、俺が喋ってる」

「ッ」

 

 おっさんを制止する蘿蔔ハツカに文句をつけたからか、彼はムスッとした態度になる。

 

「貴方のお名前なんて言うの?」

「なんで俺が教えないと–––」

 

 楽しいひと時を俺が邪魔したからか、敵意が表れる。

 ……蘿蔔ハツカと同じような敵対心だが、あの殺意とは別種で、しかも弱いな。なら、少し話を合わせて。

 

「俺はコレから君たちの友達になるかもしれないんだよ? なら、仲良くしたいじゃん」

「……」

「同じモノを好きになる者同士、仲良くしよ?」

 

 おっさんの視線が上に、蘿蔔ハツカに向いた。それは他の眷属も同じだった。

 彼らは数刻、そうした後に。

 

「君はハツカ様の眷属になる、ということだな」

「そうだね」

 

 無垢に微笑む。

 

「良い選択だ、少年」

「––––、でしょ」

 

 俺と蘿蔔ハツカの関係の一端を理解したおっさんは、俺に対する警戒心が肩の力と共に緩める。

 賭けに関しては言及していないので、眷属達はただ俺たちは吸血鬼とその見習いという解釈なのだろう。それはこちらとしても都合がいい。

 

久利原(くりはら) (ごう)だ」

 

 久利原豪か、記憶。

 

「そちらの貴女は?」

「えっ、アタシ!?」

「うん」

 

 今度は茶髪の女性に同じ話題を振る。

 

「アタシは香澄。時葉(ときは) 香澄(かすみ)だよ」

「そっか、教えてくれてありがとう! では、俺も–––––……蘿蔔ハツカの眷属候補(・・)、吼える月と書いて吼月……俺の名前は吼月ショウ。今後ともよろしく」

 

 丁寧に頭を垂れて、笑顔を飾る。

 彼らは玄関先で向けてきた牙の片鱗すら無くして『よろしく』と僕を受け入れてくれた。

 

––––さあ、警戒は解いた。

 

「俺に教えて欲しいんだけど」

「なんだ吼月くん」

「楽しい?」

「ああ、もちろん!」

「なんで?」

 

 おっさんの顔に瞳を近づける。

 この男の変化の片鱗を見逃さないように。

 どんな特徴も見逃さないように。

 

「教えて」

 

 おっさんの表情が瞬きほどの間だが崩れた。

 が、それもすぐに戻った。

 

「ハツカ様の役に立っていると実感できるからだ」

「でも、これ全然遊びじゃないよね。なのに楽しいの?」

「君は子供だから分からないのだ。ハツカ様に仕えるという幸福が……!」

「子供だと分からないの?」

「ああ……これは大人だから分かる尊さなのだ。自分よりも大きな存在を支えることができる幸せ、それを教えてくれたハツカ様に身をもって––––(中略)––––故にそこには自身の証明が––––(凄く中略)––––なにより、ハツカ様の存在を重みとしてお尻を感じることができる……これを愉しいと言わずとしてなんというか!!」

「ほら、身体が揺れてるよ」

「すみません!!」

「ハハッそっか、久利原はそんなに蘿蔔ハツカ様へ何かをすることが好きなんだね」

 

 熱はあるのはなんとなく分かる。

 しかし、実感が湧いてこない。

 大袈裟にでも首を傾げたくなる。

 

「宇津木や時葉は? 蘿蔔ハツカ様にどんな想いを抱いてるの? 蘿蔔ハツカ様のどんなところが好きになったの?」

 

 なら、もっと情報がいる。

 彼らの心に落ちるような声色で伝える。

 

「もっと教えて、みんな。俺が蘿蔔ハツカ様を好きになるように」

 

 それはきっと、君たちが蘿蔔ハツカに尽くすことでもあるんだよ。

 

「蘿蔔ハツカ様もそれでいいですか?」

 

 彼は少し沈黙してから、興味なさそうに頷いた。

 

「みんな、教えて」

 

 こうして、彼らは口を滑らかに動かした。

 

「教えよう!!」

 

 

 

 

 賭けのことは告げていないが、俺が蘿蔔ハツカの眷属候補であること––––まぁ負けたら実際そうなので、ひとつの未来だ––––を知った西園寺たちは蘿蔔ハツカについて饒舌に語る。

 まるで酔うように。好き勝手に述べる。

 

「まだまだ語り尽くさないが……分かったかな、吼月くん」

 

 3人を代表して久利原が尋ねる。

 

「う〜〜ん……良く分かんないや!」

 

 あまり良いことは聞かなかった。

 

「仕方ない。君は練度が足りないからな……また今度教えてあげよう」

「お願いするね」

「ああ!」

 

 もっと彼らがハツカに恋焦がれた過去のことが聴きたかった。彼らは蘿蔔ハツカを褒めるだけで、4人の内面を見ることができなかった。

 どんなことをしてきて、どんな想いを抱いているのか。

 どうして蘿蔔ハツカを信頼()しきるに至ったのか。

 自分の中に、知識としてすら落とし込められなかった。

 

 彼らが大きな感情を抱いているのは、彩られた声の数々で把握できた。しかし、それが蘿蔔ハツカに対する真の感情なのかが分からないのだ。

 

「–––––」

 

 なんとなく自分が苛立っているのが分かる。彼らと話しているとなぜか歯痒い気持ちになるのだ。

 彼らの根底にある蘿蔔ハツカの姿を目で追うと、相手もこちらを見ていた。

 

 壁にかかった時計の音が鳴る。

 

「もうすぐ朝だね」

「ですね。ハツカ様、そろそろ私達も帰ります」

「うん、またね。楽しかったよ」

 

 蘿蔔ハツカの言葉に眷属たちは笑顔になる。

 最後は思いの外すんなり帰った。

 もう少しごねるかと思った。

 一緒に遊ぶことができたからか、夢心地で彼らはこの家を後にした。

 

「俺も帰るか」

 

 財布を回収して、俺も続き玄関へ。

 つけていた腕時計を見る。

 あと1時間もすれば夜明けだ。

 

「そういえば、蘿蔔ハツカ––––」

「なにーー?」

 

 忘れ事がひとつ。

 

「今日は飲まないのか? 俺の血」

 

 服を着崩してから襟を引っ張り、首を露出させる。

 契約として、教えてくれた情報の対価として、それを差し出す。

 

「……キミ」

 

 集中が伝わってくる。

 蘿蔔ハツカのぐるりと渦巻く瞳が俺の首を覗き、ふらついた足取りで近寄ってくる。

 

––––えっ、なに怖い。

 

 妙な迫力がある。

 

「ねぇ……!」

「なに!? ()ってぇ!?」

「首を簡単に露出させないで……次やったら、飲み干すよ」

「わ、分かった」

 

 慌てて服を元に戻す。

 蘿蔔ハツカも呼吸を深くして、平静を保つ。

 

「最近の中学生はなんの躊躇もなく首を晒しすぎだよ。せめてジャージは上まで閉めるとかさ……」

「お、おう」

 

 俺はジャージじゃないんだが。

 

「忠告するけど、君の首は刺激が強い。そんな首がふらふら〜〜って漂ってたら知らない人に襲われても文句は言えないんだ。というより君が悪い」

「襲った本人から言われると、なんかこう……凄く来るものがあるね」

 

 吸血鬼独特の感性なのか、栄養のある血を見つけるための器官があるのだろうか。

 蘿蔔ハツカは顔を意図的に背けながらなにか呟いている。

 

「美味しい血を持ってる子はみんなこうなのかな……」

「……?」

 

 俺は自分の血が美味しい自覚はないからなんともいえないが。

 今度手首切って飲んでみるか。

 

「でもいいのか? このままパクって行かなくて」

「飲ませてもらうよ。でも––––」

 

 物足りなさそうに、彼は言う。

 

「君、まだ満足してないでしょ」

 

 少し、声が詰まらせてから。

 

「…………ああ」

 

 そうだ、俺はまだ知りたいよ。

 

「美味しくしてくれよ」

 

 この不審な苛立ちを。




 ハツカ様、眷属達との関係性明かさずに恋愛するかと考えたら、コウくんに自分の恋愛哲学を聞かせた上で堕とせる宣言してるから……
 当然見せるよね!

(まぁ、3人を残るようにしたショウが1番悪い)

※ハツカ様の眷属のひとりの名前と職種が判明しましたので更新しました。
西園寺→久利原


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第十一夜「僕好み」

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 蘿蔔ハツカ曰く、今の俺は美味しくない状態、らしい。

 俺は蘿蔔ハツカの餌である。

 実が熟すのは満足した時。

 俺の今日の目的は、吸血鬼と蘿蔔ハツカについて聞くこと。まな板の上でそれなりに手を施されたはずだが、彼が望むほどではないようだ。

 故にまだ俺の血を吸わない。

 俺もまだ帰らない。

 

 彼は俺の問いに答えてくれるだろうか。

 

「それで教えて欲しいんだが」

「ああ……待って、奥に行こうか」

「?」

 

 彼に従い、一階降りてとある部屋へと向かう。なぜ賃貸の家の部屋の中に下へと続く階段があるのかは聞かなかった。

 

 そこにあったのは、寝室。

 

「なんで?」

「僕が寝るからだけど?」

「ほんとマイペースだなアンタ!!!」

「なんか苛立ってる?」

「……ッ、別の意味でな!」

 

 痛くなる頭を叩いていると、蘿蔔ハツカはベッドに身を投げる。ふかふかのベッドが沈み込み、押し込まれた力の分だけ反発する。

 

「お話、聴こうか––––」

 

 返ってくる力を利用して、彼が起き上がる。

 

「……」

「なんでも言ってごらん」

 

 なんでも、と言われてもこちらからは話しかけられない。

 苛立っているのは分かるけど、それはなんとなくだ。夜空を見上げて、群青の中にある宝石を見て興奮するのとはまた違う。

 本心でムカついているのは分かるけど、容易く纏まってくれない。もう少し時間が欲しい。

 

「はぁ……」

 

 苛立ち始めたのは久利原たちの奉仕を見てからだ。

 ならば、そこを辿ればいい。聞きたいことが聞けない今は、やるべきことを優先しよう。

 

「あ、あの……」

 

 知的好奇心を満たすことに比べれば些細な事だが、それでも普通に生きてた人にとって、この願いは羞恥心が湧いてくる。

 

「……なぁ、俺もやっていいか」

「ん?」

「その、ほら……アレだよ」

「なに?」

「蘿蔔ハツカへの……奉仕、だよ……」

 

 自分で言ってて顔が赤くなるのが分かる。

 いま俺の顔を見たら、

 

「イチゴみたいだよ、可愛い」

 

 微笑ましいものでも見たように、彼はクスクスと声を漏らす。

 なんとかしてニヤついた顔を止めてやりたい。

 

「いいよ、ほら––––」

 

 彼がスッと綺麗な右脚を差し出す。

 

「僕の物になるってことを教えてあげる」

 

 屋内だから、その脚を隠すものを何も身につけていない。彼女––––じゃない、彼の持つ白は何よりも透き通っている。

 多分、この家に置いてある陶芸品が比べ物にならないほど、1番美しい。

 ……人の脚をマジマジと見てしまうのはいけない。

 自ずと目を逸らしてしまう。

 男の脚に見惚れてしまう自分も嫌だし、男の脚だからと嫌と思ってしまう自分も好かない。とても面倒くさい。

 

「フフッ––––いい顔」

 

 透過で俺を弄んでいた時よりも楽しそうな笑顔。

 手のひらの上で転がされているようでなんか嫌だ。

 

「なにをすれば良い?」

 

 しかし、何事も経験。

 やってみれば思いの外楽しく、西園寺たちのことが理解できるかもしれない。

 

「そうだね、マッサージでもしてもらおうかな」

「畏まりました。我が女王」

 

 蘿蔔ハツカの爪先の前に、仰々しく跪く。

 

「結構ノリノリだね、ショウくん。発音は独特だけど」

「なんとでも言うがいい」

 

 これから先の人生で、このタイミングほど適した機会はまず無い。

 後悔したくなかったのだ。

 というか、さらりと女王であること認めたぞ。この吸血鬼(ヒト)

 

「なら一人称は私で、僕のことはハツカ様って呼んでみようか」

「……なんとでもってそういうわけでは」

「コラ、私語は謹む」

「わ、分かりました……ハツカ様」

 

 さて、どうしようか。

 俺にマッサージの経験などない。なんだったら、親の肩揉みすらやったことないんだぞ。

 

「ほぅら、早く」

「はい」

 

 内心慌てながらも落ち着いてた体を装って、蘿蔔ハツカの冷めた足を両手で包んだ。

 稚拙なのは彼だって分かっている。

 俺がやるべきことは真摯に仕えることのみ。

 

「精一杯ハツカ様に仕えさせて頂きます」

 

 人の身体を揉むのだから、力加減は大切だよな。

 まずは普通くらいでやってみよう。

 両手で包み込んだ足裏を親指を使って揉み込んでいく。相手の足の形、表情の変化、足の動きなど彼の全身に気を配り、どう反応しているか見極める。

 

「もう少し強く揉みますね」

 

 彼には至って変化はなかったので、先ほどより強く押し込んでいく。

 すると彼から声が漏れる。

 

「……あ、んっ……」

「–––––」

 

 蘿蔔ハツカが妙に甘い声を漏らすものだから、見てはいけない気がして顔を上げず足裏ばかりを見てしまう。

 汚れひとつない足裏が目に入る。

 

「……もっと、全体的に…………」

「こうでしょうか」

「ん、そうだよ……悪くない……ひぁ……」

 

 色っぽい声を出さないでくれ。

 変に意識して、やっちゃいけない事をしているみたいに感じる。

 

「足の指、一つひとつを–––––そう、はぁ……いいよ、このまま(ふく)(はぎ)もお願い」

「分かりました」

 

 立てていた膝に、彼の踵を置いて手を脹ら脛へと伸ばす。

 柔らかい––––下手な人間の女性よりも女らしい筋肉のつき方じゃないだろうか。なのに、あの身体スペックだ。とても興味深いな吸血鬼は。

 

「最近はお疲れなのでしょうか?」

「そうだね〜〜どこかの誰かさんを連れてよく飛ぶから」

「……も、申し訳ございません」

「ハハ、冗談だよ。吸血鬼はこんなことじゃ疲れないから」

 

 意地悪そうに犬歯を見せる。

 流石吸血鬼。

 

「うっんん……にしても、結構上手だね」

「ありがとうございます」

 

 集中して作業するのと同時に、思考を分裂させ西園寺たちが言っていた『仕える楽しさ』についてまとめるが、やはり実感が湧かない。

 知識として、こういうことをするのが好きという人がいる、というのは分かった。

 しかし、楽しいが味わえない。俺の趣向が違うというのもひとつの理由だろうが、根本的になにか食い違えている。

 俺の腹の心地がすかないのは、きっと行動原理が未開だからだ。

 

「…………」

 

 知りたい。

 苛立ちの原因はそこにあるはずなのだ。

 そして、彼らの根底は、蘿蔔ハツカだ。

 

「ハツカ様」

 

 マッサージに集中したまま、名を呼ぶ。

 

「なに?」

「ひとつ、お聞きしてよろしいでしょうか」

「いいよ」

 

 許可は得た。

 なら、語り出そう。

 

「先程の3人の眷属……彼らは本当に貴方の事が好きなのですか?」

 

 俺がそう尋ねると、蘿蔔ハツカは気持ちよさそうな顔から、無の貌へ。この家に訪れた時、眷属たちに見せたあの冷たいものへと変わる。

 

「彼らは仕える事が楽しいと評していました。しかし、それでは玄関先でのあの態度が腑に落ちません」

「なにが」

 

 俺はここに引っ掛かりを覚えたのだ。

 

「最初は大好きな貴方に約束を無碍にされたがために怒りに身を焦がしたのだと思いました。そうして私は、酷いやつだな、と貴方に思いました」

「……最後の余計じゃない?」

「本音ですから」

 

 だがこの行動は、ある事を否定することになる。

 

「もし、彼らが本当に貴方に仕えることへ喜びを感じているのなら、何も言わず、あの申し出を受け入れられるはずです。主人も望みなのですから」

 

 仕える事自体を怒りで否定してしまっているのだ。

 あそこまで酔心している者達が、その相手との幸福をわざわざ手放すことをするだろうか。

 

「私は考えました。なぜ、彼らが怒ったのか」

「答えは出たの?」

「なんとなく。まず、彼らは貴方に堕とされているとは思いました」

「眷属だからね」

「ですが、彼らの想いは正常な恋慕であるようには思えません。恋慕とは人によって形の差はあれど、どれもが他者に向ける想いのはず」

 

 でもあの3人は違う。

 

「私から見ると、3人が貴方への感情を向けてるようには、感じない」

 

 これは俺の特有の穿った見方だ。

 いつも通りの不信感。

 

「彼らはまるで【蘿蔔ハツカに仕えている自分が好き】であるように思えます」

 

 他者に向かっているようで、本当の行き先は自分の中。

 宇津木がご褒美目当てで俺の所に最後まで残ったのも、久利原が蘿蔔ハツカの宛のない笑顔で魂が抜けかけたのも、彼らが蘿蔔ハツカを語り尽くしたのも、まるで、彼らはそれが自分の価値のように振舞っている。

 曇った鏡のような幸せ。

 独りよがりの幸福。

 

「これはあくまで想像です」

 

 本当はそうではないかもしれない。

 怒ったのだってそこまで仕事人ではないだけだろうし、蘿蔔ハツカのことが純粋に好きなのかもしれない。

 だから、根底を知る必要がある。

 

「教えていただきたい。貴方は彼らをどのようにして、恋させたのか」

 

 見上げた彼は笑っている。

 

「そして、貴方は、俺をどう堕とすつもりなのですか?」

 

 より卑しく嗤う。

 

「そんなの簡単だよ」

 

 絶対という自負に満ちた顔は、どこか癪に触る。

 

「僕は他の吸血鬼(みんな)より優しくないから。

 要は僕のことを【好き】だって脳みそに勘違いさせればいいだけ。ぼくがいないと生きていけない精神状態にして、言いつけを守ればご褒美を、破ればお仕置きをする。

 そもそも、恋愛感情は洗脳のようなものだしね」

「…………」

「だから、僕の眷属はみんな幸せそうだよ」

 

 崇拝や信仰とは違う。その一線を越えた依存。

 他者に向ける感情で、自分を保つために好きである。

 

 だから、彼らの中に蘿蔔ハツカという存在はあっても、見ているのは自分なのか。

 

 楽しい。

 蘿蔔ハツカに仕える自分が好きだから。

 怒り。

 自分の好きな、蘿蔔ハツカを仕える自分のために。

 

 好きにさせられている。

 

「それがハツカ様の恋の定義?」

「そうだよ。実際、みんな不幸にはなってないだろ? 楽しく僕と遊んでる」

「でも、そこにいるのは誰なの? 吸血鬼? ペット? 人形?」

 

 君はなんなの、蘿蔔ハツカ。

 

「吸血鬼だよ。強いていうなら……ペットの、かな」

 

 僕に信頼を見せつけた貴方の意思はそんな力づくのものなの?

 信頼は出来るのに、恋と捻じ曲がっちゃうの?

 嘘をつかず、無知であることを口にできる誠実さがあるのに?

 

「……」

 

 疑問は尽きないけれど。

 なぜ、彼らの感情が自分の中に向いているように見えたのかは。

 

「なにか不満かな」

「私もああなるのでしょうか」

「うん、君もあの子たちみたいに僕に飼われるんだ」

 

 蘿蔔ハツカは酷く穏やかな顔で肯定する。

 

「問題はないだろう? ちゃんとみんな、僕を信頼しきっているんだから。自分には絶対に僕が必要、って」

 

––––やはり、そうか。

 

 なんとなく、苛立った理由が分かった気がする。

 

「そうですか」

()ッ––––!」

 

 脚を揉む力が強まり、蘿蔔ハツカが顔を歪ませる。

 

「なに」

「ちょっとした、イタズラです」

 

 ニヤっと嗤う。

 彼の笑みを返すように。

 

「もう、大丈夫」

 

 俺が苛立った理由は、多分、彼らが蘿蔔ハツカを見れていなかったから。そして、このまま彼の思い通りに堕とされたら、俺も蘿蔔ハツカを見れなくなるから。

 その姿は––––

 

「なんとなく、似てると思いました」

「……?」

「昨日、お話しましたよね。告白を断ったと」

「ん、ああ……言ってたね」

「その後、仲直り……とは違いますが、告白を無かったことにしようと話しました」

「そんな馬鹿なことしたんだ」

「ええ、馬鹿ですよね。ですが、必要だった……相手もそれを望んでいましたから」

 

 理世は元の関係に戻りたいと願った。

 口で確認した訳ではないけれど、表情や態度からしてそうとしか考えられなかったし、口にした後の図星を突かれたような反応が真実であることを教えてくれる。

 

––––そんなもの御為ごかしだ。

 

「けど、それが本当に相手のためだったのか。今でも分かりません……自分のためだったのかもしれない」

 

 理世もそう思っていると押し付けて、身勝手に行動した。彼らが俺に蘿蔔ハツカのことについて好き勝手に語ったように。

 願い事が必ずしも本音ではない。妥協案であることも存在する。

 

「それが嫌だった」

 

 自分を保つために相手に頼ろうとする。

 自分も同じではないか–––––と。

 理世を見ずに、自分に目を向けていた。だから、俺は不必要なほど心的ダメージを負っていた。

 もしかしたら、蘿蔔ハツカに出会う前に湧いた衝動も理世の告白をちゃんと返せなかったことへの身勝手が原因かもしれない。

 

「あの吸血鬼(ヒト)たちを見ていると、そう突きつけられてる気がしたんだ」

 

 なんとも身勝手な苛立ちだろうか。

 同族嫌悪より最低だ。

 

「ふぅ……」

 

 だから–––––もう、問題ない。

 言語化できた今は、なんら支障はない。

 

「ハツカ」

「ハツッ–––……えっ、なんで?」

「親しくなるための印さ」

 

 突然、呼び名を変えたからかハツカは驚く。

 

「俺がハツカと呼びたい」

「––––いや、だからって呼び捨てはないでしょ!?」

「だってハツカを見て『くん』と呼ぶのも、『ちゃん』と呼ぶのも違うし、様は対等じゃないから嫌だ。それに元々不要なモノはつけない主義だ」

「ならせめて、さん付けでいいよね!?」

「お前さ、忘れるなよ? 俺たちはあくまで敵対者だ。敵に敬称はつけない」

 

 西園寺たちと同じ道を辿るつもりなどない。コイツの恋愛哲学を聴いて、余計に湧いてきたぜ。

 

 信頼させ切ってやる。

 

「それに……今は、敵対者(そんな奴)が自分に服従してると思うと、興奮するでしょ?」

「……」

 

 マッサージを再開しながら上目遣いで見る俺の視線と、彼の視線が交わる。

 沈黙し、数秒俺を見た後に。

 

「フッ、確かに」

 

 ハツカは鼻で笑い、そして『でも』と紡いだ。

 

「?」

「こっちの方が僕好みだ!」

「––––––グェッ!?」

 

 マッサージをしていた右脚が突然伸びてくる。喉を突かれ、肺の中の空気を無理やり吐き出す。

 ハツカは、伸ばした脚の指で俺の服を掴んで天へと掲げた。

 

「–––––––!?!?」

 

 足の指から離された身体は宙に放り投げられた。

 俺は『なんか最近よく跳ぶな……』と思いながらハツカを飛び越え、数秒滞空してからベッドに墜落する。

 

「いでぇ!!」

 

 ベッドの上で軽くバウンドする。

 1回、2回と弾む身体は、仰向けで大の字状態となる。かなりの衝撃が全身に奔る。

 

「–––––この!」

「させない」

 

 反抗心が叫びとなる。

 しかし、行動を起こす前に俺の上にハツカが乗り掛かる。

 女王の澄んだ瞳が目の前に来る。

 

「ッ!?」

「顔真っ赤だよ」

「………! 力入らない……っ!」

 

 なんとか抜け出そうとするが、ハツカは身体に上手く乗り掛かって俺が力を入れられないように巧みに手脚を動かす。

 多分、真上から見れば今の俺は、潰れたカエルみたいになっているのだろう。

 

「無駄だよ。力比べじゃ人間に勝ち目なんてないのに、こうも完璧に組み敷かれたらどうやったって逃げられない」

「…………」

「それじゃあ、お仕置きだね」

「お、お仕置きって……!?」

「僕に生意気な口を叩いたんだ。そんな悪い事をする子はちゃんと教育しないとね」

「べ、別に俺は悪いことなんてしてないだろ!」

「敵とはいえ、いま君は僕に仕えてるんだよ。それなのに主人を『お前』呼ばわりなんて、悪いこと以外のなにものでもないよね?」

「……ぐっ」

 

 揚げ足取りされてなんでもを了承してしまったのが間違いだった。

 しかし、悪いこと–––––

 そう言われてしまうと、

 

「分かり、ました……」

 

 自然と力が抜けてしまう。

 

「そうそう、ちゃんと命令は守らないと♪

 ひとまず……今の粗相と僕への生意気な口が2回、頬をつねったこと、別の女の話をしたこと、勝手に家を探ったのを含めると」

「待て! なんで物色したの知ってる!?」

「吸血鬼の無知を話した時、妙に納得してたでしょ? それに美幸(あの子)が座らせたはずなのに立ってたのも考えれば、僕の書斎に勝手に入ったことぐらい分かるよ」

「…………ッ」

 

……マジかよ。

 

「さて、そんな君への罰は……動けなくなるまで血を吸うことにしよう!」

「はぁ!? それってころ」

「殺しなんてしないよ。せっかくの美味しい血なんだから」

「俺はドリンクサーバーじゃないんだぞ!」

「お仕置きなの、忘れてないよね?」

「ぐっ!」

 

 ゆっくりと顔が近づいてくる。

 綺麗な顔が寄ってくるもあって少々恥ずかしくなる。俺が視線を外すと、意図せず首を差し出す形になる。

 

「このお仕置きが終わったら名前呼びを認めてあげる––––……それじゃあ、頂きます♪」

「ンン––––––」

 

 突き立てられた牙から痛みと快感が流れ込む。今の状況もあってか、耳元で聴こえる吸血音が色っぽく耳朶を打つ。

 声を漏らさず噛み締める。

 叫べば、負けな気がしたのだ。

 

「…………」

 

 宣言通りに長い、長い吸血。痛みで心臓が跳ね、血がより濃く通う。身体を巡る血液がどんどん彼の物になっていく。

 これで良い。

 俺はハツカと呼びたいのだから。

 コイツに俺を見せるためには、それはまずやらなければならない。意識させなければいけない。

 迷わずハツカを見ることができれば、理世とだって曲げずに見つめられる。

 ハツカの哲学に負けなければ、見てもらえる。

 

「ぷはぁ……っ、美味しい……」

「そうか、よ……かっ、たぁ……」

 

 視界に霞がかり、意識も暗くなっていく。

 瞳を閉じる。

 

「ご馳走様、ショウくん」

 

 ベッドに身体を完全に預ける。

 それに–––––

 

「はつか、おやすみ……」

「うん」

 

 

 

 

 蘿蔔ハツカ()に押し倒された吼月(くづき)くんが、瞳を閉じた。

 彼をベッドの左側に寄せて、空いたスペースに寝転がる。

 

「……寝ちゃったか」

 

 お仕置きなのもあってテンションが上がった昨日よりも沢山飲んでしまったけど、大丈夫だろうか。

 普通に寝息出ているから問題ないだろうけど。

 

「にしても」

 

 ムカつく。

 

「僕に血を吸われてるのに他の女のことをまだ考えてるなんて」

 

 吸血鬼としても、蘿蔔ハツカとしても。僕がいるのにそんな邪念があるなんてプライドが許さない。

 必ず堕とす。

 僕のことを好きにさせてやる。

 

「はぁ……よくこの状況で寝れるね」

 

 このまま殺されてもおかしくないのに、彼は安心して寝ている。あの映像があるゆえの余裕だろうか。

 

「違うか」

「はつかぁ……」

 

 僕の名前を呼ぶ。

 自然とその頭を撫でる。

 緩み切った顔は幼く、中学生よりも下に見える。

 首輪を付けて飼いたくなるぐらいに愛らしい。性格も含めて、ほんといじめ甲斐のある顔をしている。

 

 今度は、ため息じゃない物を吐き出した。

 

「–––––おやすみ」

 

 一緒にシーツを被って、僕は朝を迎えた。




 吸血シーンって、食事なのに加えて凄い色っぽいから、もっと濃く描きたいけど難しい……
 永遠の美少年(めちゃくちゃ歳上)と一緒に寝る中学男子の構図で今年を締めます。皆様、来年も宜しくお願いします!

 一応、年始の日曜日と木曜日は休むと思います。

 良き年末を


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第十二夜「いらない設定」

みなさま、あけましておめでとう御座います。
今年も宜しくお願いします!
新年一発目なので慣らし運転です。



 暗闇から意識が顔を出す。

 

「ふあぁ……ごほっごほっ」

 

 開いた口から否応なく沢山の酸素が入ってくる。許容値を超えた量の空気に思わずむせて、咳き込んでしまう。

 上下の瞼がゆっくりと動き、目が開く。相変わらず寝の起きの目はしょぼしょぼと視界を歪めていて、手でこすると多少はマトモなものになる。

 

「……どぉこぉ……ここぉ」

 

 知らない天井を見上げている。久しぶりの出来事だが、何度も繰り返していれば、子供心に訴えるドキドキも無くなる。

 にしても、本当にどこだろうか––––ふと考えた後に、思い出す。

 

「そういえばぁ……ハツカのベッドで気絶するまで食べられたんだっけ……」

 

 ベッドから身体を出して起き上がる。凝り固まった関節をほぐすようにストレッチを行う。

 ハツカはおいたをした僕に––––強く揉んだこと以外、悪いことではないはずだが––––お仕置きとして、今までより多くの血を飲んだ。

 気絶するほど飲まれるって今更ながら大変なことである。けれども、そんなことでやられる訳がない、といえる頑丈な身体を持っているのが僕である。

 

 まっ、それで倒れたまま朝を過ごしたわけだ……

 

「……いま何時なの」

 

 腕時計を見る。

 表示された時刻を見て分かったのは、すでに外は夜の帷を下ろしているということだ。

 それはつまり、

 

「ニチアサ見過ごした。まぁ……録画あるしなんとかなるか」

 

 焦る必要はない。

 でも、今回犬塚回だったんだよなぁ……見たかったなぁ。

 

「……ハツカ、いない」

 

 シーツを畳むも、そこに吸血鬼の姿はない。

 

「暖かい」

 

 僕が寝転がっていた場所の隣を手で触れる。ほんのりと体温が残っていた。少し前までハツカがここで寝ていたのだろうか。

 起こしてくれればいいのに。

 

「熱でいたか確認するの変態だよね」

 

 その事実に耐えられなくなり、手を離して服で拭う。

 思考を切り替えよう。

 さて、どうしようかな。そう思って寝室のドアを見る。

 

「あっ」

 

 ドアノブが独り手に傾いた。

 

「やあショウくん。起きたんだ」

 

 寝室のドアが音もなく開くと、そこには昨日と同じくタオルを頭に被ったハツカが立っていた。

 まだ少し濡れているのか、照明の光で黒髪が艶やかに輝いている。

 

「風呂はいってたのか?」

「そうそう、気持ちいいよ〜。なんだったら一緒に入る?」

「は!? なんでだよ!」

 

 改めてその姿を認識すると、なんとなくいけないものを見てるように感じてしまう。昨日はあの眷属3人がいて、相変わらず綺麗だな、ぐらいにしか思っていなかったが風呂上がりという要素を自覚すると、なんかエロく思えてくる。

 いつもより大きめの服だからか、窮屈感のないゆったりとしたシルエットなのに露出している量が全身で見ると変わらない。脚ばかり出ていた昨日と違い、手脚が共にバランスよく露出していて、余計に風呂上がりであるとその熱った身体が、脳に示してくる。

 なにより紺色を主体に赤いストライプの寝巻きが似合っている。

 

 やばい、他のことを考えよう。

 

「……拭こうか?」

 

 なんで、他のことを考えた結果がこうなるんだ。いや、やりたかったのは事実なのだが。

 心の中でため息をつく。

 

「ハマった?」

「当たらずも遠からず。ただ、従者ごっこが好きになったわけではないぞ」

 

 ニヤリと口端を上げるハツカの言葉を否定する。

 そう、決して服従関係が良いなと思ったわけではない。

 そう、決して綺麗な髪を間近で見てみたいなどという事ではない。

 

「純粋にやってみたいなって」

「やっぱり好きになってるじゃん」

「好奇心と言って欲しいな」

 

 親の髪を拭いたりするなどの事はやったこともない。

 だから、興味があったのだ。

 

「ほら」

「あっ、とと……」

 

 ホイっとタオルを投げ渡してくる。ふわりと宙を舞ってやってくるソレを抱くようにして受け止める。

 そのタオルは濡れていて、数秒黙ってしまう。

 

「……良いのか?」

「良くなかったら渡さないでしょ」

「てっきり髪は命だから触らせないのかと」

「下手には、ね。僕の命令通りに動いてもらうよ」

「分かりましたよ、我が女王」

 

 寝室の片隅に置かれていたスタンドミラーの前にあるチェアにハツカが座る。その後ろにタオルを持った俺が立つ。

 

「じゃあ、始めるよ」

「ああ」

 

 俺はハツカの指示に従いながら髪の毛を乾かしていく。

 

「濡れてない面で僕の頭全体を包んで––––」

「……こんな感じか?」

「そうそう、いいよ。そのまま頭皮と髪の根本を押さえるようにして、優しく……優しくだよ」

「分かってる、分かってるよ。2回も言うな」

「そっちも2回言ってるよ」

 

 両手で軽くタオルを押し込む。

 濡れてる髪が一番弱い状態だから、下手に触るなとは理世に言われたことがある。アイツわざわざドライヤーを生徒会室に持ってきて髪を乾かしてたんだよな……。

 

「なんでこんなに念入りにやってるのさ?」

「モテるから」

「すっごい恋愛生物らしい理由」

「髪の毛って顔全体で見ても割合が多いでしょ。そこが整ってると印象良いんだよ。人の目も引けるしね、『綺麗な髪だね』って。君だって不衛生な人よりも綺麗な人といたいだろ?」

「確かに」

 

 まずもって、不衛生なのは人としてあり得ないと思うが。

 民族間での風習であったり、金銭面などの環境要因以外で身なりを整えないのは人と接触する上で無礼な事だ。

 人と向かい合うならばやるべきではない。

 

「あとはそうだね。楽になるから、かな」

「というと?」

「寝起きに寝癖がつかなくなるし、元が整ってるとスタイリングする時の時間が短くなるんだ」

「へえ〜〜……それもあの大人女子に載ってたのかい?」

「あれも読んだの?」

 

 キッとした目がコチラに向いた気がした。

 現在俺からでは、ハツカの顔は見えない(・・・・)からハッキリと断言できないが、恐らくそうだろう。

 

「うん。そ––––」

「皆まで言わなくて良いよ。女性はいつまでも心に子供がいるのさ」

「そうじゃないよ……」

 

 いや、実際にそれも気になっていたけど。

 

「ショウ君はやったりしないの? 髪の毛、結構綺麗だけど」

「うんん……しないな。しなくても綺麗だし」

「自慢?」

「そっちから聞いておいてそれは酷い。まぁ、必要分はしてるよ。女性みたい……というか、気を遣ってる人ほど念入りではないけど」

 

 にしても、ほんとこういったところはマメにやるんだな。

 

「ふふっ」

「なに?」

「いや、なんか良いな〜〜って」

「–––?」

 

 ハツカの顔は見えないが、雰囲気で疑問符を頭に浮かべているのが分かる。

 

「吸血鬼だからそんなことしなくて良いって風に、胡座をかかずにしっかり積み上げてるのは好感持てるなって」

「吸血鬼だって努力はするさ」

「知ってる」

 

 あの本棚を見れば分かるよ、とは言わずにいた。

 

––––まっ、そんな胡座をかくやつなら俺は落とせないからな。

 

 元より俺はそんな奴は眼中に入れない。

 得手不得手を自覚するのは大事だが、持っているポテンシャルの伸び代を突き詰めずに諦めで頭打ちにしているやつらは本当にイケナイ。なぜ、そんなことをしているのか分からない。

 嫌いだからといって投げ出す人も愚かだ。

 それを克服するための練習で、授業で、積み重ねなのに自分を磨くこともしないで、楽しくないからやらないは阿呆の極みだ。

 出来なくて楽しくないのは当たり前だろうに。

 

「で……さっきの話に戻るけど」

「髪の話?」

「そうじゃない」

「僕が綺麗って話?」

「違う。その話はしてない」

 

 ハツカの指示を再現しながら顔を上げる。

 見つめるのは、目の前に置かれた姿見だ。

 

「…………」

 

 そこに映る様子に思わず顔をしかめる。

 

「ああやっぱり気持ち悪い!」

「なにが?」

 

 そこには俺だけが立っている。姿見にハツカの姿はないのだ。

 

「吸血鬼は鏡に映らないって本当なんだな……」

 

 居るのに映らないという現象が、脳を混乱させている。

 

「ああ。確かにね〜、ほんといらない設定だよ」

「設定として書かれてるならクソみたいな仕様だな」

 

 ハツカが姿見を足で指した。

 映るのは浮いているタオルとそれを弄る俺だけで––––事情を知らない人が見れば怪現象に他ならない。

 というか実在しているのに鏡に映らないのはどういう理屈なんだ?

 そういうもの!ってことなのか?

 

「顔洗うときや化粧する時に顔を見れないの不便なんだよね」

「ああ〜……」

 

 想像すると確かに不便だと感じ、同意し頷く。

 

「いつか始祖にでも問い詰めてみたいものだよ」

「始祖とかいるんだ?」

「いるんじゃない? って程度の話。この手の話題には付き物だよ」

「ホモ・ヴァンパイアの始まりか……あ、もしかしたら人間から枝分かれした突然変異種とかもありそう。どちらにしろ普通のホモ・サピエンスではないけど」

 

 この手の想像はいつも心を沸き立てる。

 子供心から純粋に、そして未知という事柄で面白い。

 

「て! 映らないの分かっててここに座ったの?」

「もちろん」

「……なんで?」

「僕が座りたいから以外にないでしょ。あ、次から指示は感覚でするから頑張ってね」

「……うぃ」

 

 少々呆れながらタオルを構える。

 根元を押さえた場所から、両手でタオルを持ちタオルで髪を挟んで水分を吸収していく。挟んだままタオルを動かすと傷つけてしまうとのことで、髪を挟んで水分吸収、緩めて移動、また髪を挟むの順で乾かしていく。

 

 自分の身なりにしっかりと気を遣っているのを見て体験させてもらえると、かなり参考になるので助かる。

 それに豆知識も教えてくれるのが個人的にはとても嬉しい。

 例えば『髪の毛は死滅細胞で自己再生しないから、トリートメントで外から栄養を与える必要がある』などだ。

 話し方が上手いからか、聞いているこっちが今度からやってみようかなと思うほどである。

 髪に合う合わないで選んでいた所があるので、これからは気をつけて買ってみよう。

 

 そうして、なるべく髪とタオルが擦り合わないように動かすが、それでも当たってしまうもので、ハツカの綺麗な黒髪が揺れる。

 揺れるのに従ってふんわりと柔らかい優しい香りが鼻腔をくすぐる。

 

「っ……」

 

 心地の良い香りに思わず頬を赤らめそうになるが、努めて平常心を保つ。同時にこういった事に対して感情が揺さぶられている事に驚く。

 昨日の羞恥心とは違う、ある種興奮に近い感情が湧いてくる。

 

––––いかんいかん。

 

 首を振って邪念をはらう。

 

「どうかしたの?」

「なんでもないさ」

 

 これはハツカの努力によるもの。自分の邪な感情を発露させて穢すことはあってはならない。

 

「……」

 

 しかし、やはり気にはなってしまうので。

 

「髪、綺麗だな」

 

 タオルを置いて、櫛でといた髪がまた香りを広げる。

 でも感情は落ち着いている。

 

「ふふっ、そうでしょ」

 

 それと同じぐらい柔らかい口調でハツカはそう告げる。

 まぁ、これを言うぐらいなら問題ないだろう。

 気持ちを切り替えて、髪をほぐしていった––––

 

「うん、上出来」

「良かったぁ」

 

–––そうして、乾かした髪を撫でるように眺めたハツカは、ご満足の様子であった。

 その言葉にホッと肩の力を抜く。

 また粗相をしたって言われて血を吸われて気絶するのはまずい。金曜日や土曜日なら良いが、明日は学校、今日みたいに寝過ごすと大変だ。

 

「それじゃあ、ご褒美をあげないとね」

「は?」

「は? じゃないよ。ほら、何がしたい? なんでもしてあげるよ?」

「……」

 

 えっと––––と口から困惑が漏れそうになる。

 そういえば昨日『言いつけを守ったらご褒美を、破ったらお仕置きを』みたいなことを言っていた。

 つまり、これはそういう––––

 

「これは俗に言う……あの、なんでも良いぞ案件?」

「さぁ? どうだろうね」

 

 ニヤニヤと微笑むハツカ。

 

「そう……」

 

 気をつけて素っ気なく返して、俺はハツカを眺める。

 もしその通りなら、ハツカにマッサージさせるということも出来るわけである。女王様然とした態度の相手を雌伏させるのは、快感になる。それもこんな綺麗な相手で、しかも人外、上位種。

 

「……ゴク」

 

 思わず生唾を呑み込む。

 

「なにして遊ぶ?」

 

 ギロリと俺の顔を見てくる。それは面白そうで、愉悦に浸っているような顔。

 

「なら……」

 

 しかし、ここで選択を間違えると相手の距離感がおかしな事になる。

 本来、俺はハツカを信頼させ、信頼する関係にならなければいけないわけで、それを自分の欲望で遠のかせる訳にはいかない。

 

「まっ……」

 

 堂々巡りの中で、俺が出した答えは–––––

 

「–––––美味しい飯屋を教えてくれ」

 

 理性が勝った。

 よくやったぞ俺自身よ。

 なにより、ここまでなにも口にしなかった俺に感謝したい。

 自覚すると空腹感が一気に襲ってくる。

 うう、お腹すいた。

 

「……そっ、分かった」

 

 ハツカは面白くなさそうに頷いて、立ち上がる。まるで水族館で目当ての魚が見れなかったような表情だ。

 

「やっぱりお前、俺の反応を見て楽しむつもりだっただろ」

「バレた?」

「やめてくれよ……ホント」

 

 心臓に悪いんだから。

 想像だけでも危険物だ。

 

「気を取り直して。今日も夜遊びを始めよう」

「おう」

 

 そう言ってふたりで外へ出る準備をする。




 ハツカ様に似合う服ってどんなのがあるだろう……
 ファッション知識クソ雑魚なので、アイディアがある方は教えてくださると助かります。


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第十三夜「ゲームバーって店」

 俺とハツカは準備を終えたあと、夜の街に繰り出した。歩調を揃えて進んでいく。

 

「なあハツカ」

「なに?」

「昨日の3人って大丈夫なのか? 構ってあげないと死んじゃわない?」

「ウサギじゃないんだよ?」

「側から見てたら十分そう思えるんだぞ」

「ふぅん。そういう風に躾けてるからね。でも、大丈夫。今日はちょっとした仕事をお願いしてるから、気にしなくてもいいよ」

「……仕事ねぇ」

 

 どんなのだろう? そう頭に疑問が浮ぶ。

 そうした所で『そういえば』とおおかたの予想はつけた。

 

「以前言ってた探偵のことか?」

「そっ、相手は吸血鬼(僕たち)について詳しいみたいだからね。他の眷属たちと協力して弱点の抹消したり、相手の視察をしたりね」

 

 相手は不死である吸血鬼を殺せる探偵だ。

 しかし、命の危機がそばにあるのに、ハツカはこうして俺と遊んでいる。余裕があると考えるべきか。俺を相手にしないと不味いと考えているだけか。

 

「どちらにしろ大変だな。ハツカたちも」

「……」

「ん? どうした」

「別に」

 

 ジロッとした視線が俺の顔を這ったが、目線の主は顔を背けた。

 

「にしても探偵ね。名前は知ってるのか?」

「名前は(ウグイス)アンコ。私立探偵らしいよ」

「鶯アンコ、ねぇ。知らない探偵だな」

「ハハッ、まるで探偵の知り合いが居るみたいな言い草だね」

「コナン君は知ってるよ」

 

 隣で笑うハツカをよそに考え込む。

 わざわざ敵対の意思を見せていることを考えれば、殺し殺されになる事は相手も想定しているだろう。ならば、この名前はアナグラム? それとも共通項からの変換か?

 いや、それが分かったところで意味はない。

 必要なのは行動原理の取得だ。

 

「うぐいすあんこ……っと、……検索しても直ぐには出てこないか」

 

 スマホで検索してみるがその名前は上がってこない。

 居場所が割れたら襲われかねないし、簡単には上がってこないのかもしれない。

 意味がないと分かると、アプリを閉じる。

 

「そういえば連絡っと……」

 

 理世からも、他の誰からも来ていないのを確認してスマホをポケットにしまう。しまったところで、ハツカが足を止めた。それに合わせて俺も止まる。

 

「着いたよ」

 

 たどり着いた店を眺める。暗い夜闇の中にはっきりと存在を主張するその店は、言い表しにくいがあまり知らない雰囲気だ。光が灯る『CLEAR』の文字がこの店の看板なのだろう。玄関先には数種類の綺麗な花が飾られていた。

 

「怪しい店?」

「ちょっとした飲み屋だよ」

「……いわゆるバーってやつ?」

 

 ハツカは『うん』と肯首する。

 

「酒がメインだけど、料理も楽しめるから行きつけのお店なんだよね」

「そうなのか。てっきり、そっちは居酒屋のテリトリーなんだと」

「ここはそれだけじゃないんだけどね。ま、入ってみれば分かるよ」

「ちょ、おれ入れるの?」

 

 ドアを開くと、鈴の音が響く。

 入った最初の印象は、明るいと綺麗だった。

 子供ながらに考えるバーは、薄暗い店の中でクラシック音楽が流れて入りずらい場所みたいなところだ。いや、ほかの男子とかからすればそこがカッコいいのかもしれない。

 そのイメージとは真逆に、快活な雰囲気で、照明もしっかりと灯っているここは、窮屈な場所では無いと直感させる。

 ざっと辺りを見渡すと、店内にいる人たちすべてが、楽しそうに酒や料理に手を出しながら話をしている。しかし、決して騒がしいわけでもなく落ち着きも同居している。

 

「…………?」

 

 なぜか一瞬、全員の視線がこちらに注がれた気がした。

 俺というよりは、ハツカにだ。

 

「ほら行くよ」

「う、うん」

 

 カウンターが空いていたので、ハツカに手を引かれるまま並んで席に座る。

 それと同時に俺たちの目の前に一人の男性が立った。

 

「やぁ、いらっしゃい蘿蔔ちゃん」

「ちゃん……」

「マスター、僕はいつものを頼むよ。彼には……」

「オレンジジュースをお願いします」

「分かりました」

 

 白いYシャツに黒いベストでガタイのいい壮年の男性だ–––––この服装からすると。

 

「もしかしてバーテンダーさん?」

「そうだよ。そして俺がここのマスターだ。––––えっ子供?」

 

 似合うな、良い、そんなことを思った俺を、数秒固まったマスターがジロジロと見てくる。

 まぁ、そうだよな。

 ハツカと身長は大差ないが、ハツカはこの店に通っていて問題ないのは分かっているけど、俺はまったくの初対面だ。疑うのが当然。驚くのは当たり前。

 というか、ハツカのやつ、どうやって身分とか証明してるんだろうな……。

 

「やっぱり俺が来るのはいなかったですか?」

「いいや、構わないさ。ここは皆んなが入ってこられる場所。例えそれが子供でも。楽しんでくれよ、坊や。あ、年齢確認だけはするからね」

「もちろん。分かっていますよ」

 

 気の良さそうな笑みを浮かべて俺の入店を許可するマスター。

 

「はい、シュウくん」

「ありがとう」

 

 俺は近場にあったメニュー表をハツカから手に取った。

 

「ほんとだ。色んな料理がある……うぅ……うん、チキンステーキで」

「おっ、ガツンと食うね。ちょっと待っていてくれよ」

「はい」

 

 マスターが奥にある厨房らしき場所へ消えていく。

 

「ハツカは頼まないのか?」

「うん。僕にとっての料理は隣にあるしね」

 

 舐め上げるような視線に身体を震わせて、首筋を撫でる。

 俺はメインディッシュなのか。良いのか、悪いのか……いや確実に良い扱いなのは分かるのだが、なんというか、素直に喜ぶべきなのか変わらない表現だ。

 

 マスターは厨房にメニューを伝え終えると、自分はハツカか頼んだ酒の準備を進めていく。3種類のお酒を大きめのグラスと手持ちが長いスプーンでかき混ぜていき、スポイトのようなものでなにか赤い液体を垂らした。

 滅多に見ることのない光景に目を奪われる。

 しかし、ジッと見るのも悪い気がするので、ちょろちょろ目を動かしながらテキパキとした仕事ぶりを眺めていた。

 

「そんな気を遣わなくても見たければ見ればいいさ。酒も料理も出てくる前だって美味しいんだから。ね、マスター」

「ああ、じっくり見惚れてくれよ」

「分かりました」

 

 ハツカとマスターに言われ、今度は堂々とソレを眺めた。

 

「マンハッタンです」

「ありがと」

 

 体感数秒、実時間だと3分ほどでその酒は出来上がった。差し出されたのは紅褐色の飲み物。この場だとカクテルという部類の物なのだろうか。

 ハツカはそれに口をつけて、満足気に口角を上げる。

 

「坊やには、はい、オレンジジュース」

「ありがとうございます」

 

 続けてマスターから差し出されたジュースを、会釈してから口をつける。

 

「やっぱりこの店に子供が来る事は少ないんですよね」

「まあね、バーってこともあって小さくても高校2年生とかだし。そういえば君は何歳なの?」

「14歳ですね」

「へえ14……え? 14!?」

「? ええ」

「って事は、中学生?」

「そうですね。いま中2ですから」

「……」

 

 俺の年齢を聞いたからか、マスターが呆然としてハツカへ視線を移す。

 

「蘿蔔ちゃん。流石に中学生は犯罪臭がするよ?」

「アハハ、でもそれくらいが刺激的だよ」

「……?」

 

 犬歯を見せながら笑うハツカと戸惑うマスターを見ながら、意味がわからず首を傾げてしまう。

 そんな俺に、唸りながらマスターが別の疑問を投げかけた。

 

「しかし、中2……中学生か。ん? ということはキミ、マヒルくんの友達かい?」

「真昼? マヒ……ああ。マヒルって(セキ) マヒルですか?」

「そうそう、そのマヒルくんだ」

「ふぅん」

 

 その問いになぜかハツカも反応し、俺を見る。

 

「えっと……俺、夕マヒルとはあまり関わってないんですよ。同じクラスにもなった事ないですし」

 

 というよりかは、夜守コウと同じで、どう関わるか困るタイプなんだよなぁ……アイツらは人との関わりに何もなさすぎるというか。俺とはまた違った仮面をつけたタイプ。

 平坦すぎるんだよな。

 まるででこぼこのない、アスファルトで舗装された道のように。脇道に草すら生えない荒野のように。

 近頃は、付き合う人付き合わない人を選び始めており、人間味というべきものが出てきたように思える。実際に会って確かめた訳ではないので、本当にいい方向へ進んでいるかは分からないが。

 

「俺としてはマスターが、夕マヒルのことを知ってる方が驚きですよ」

「店の外に花が飾ってあっただろ? あの花は、マヒルくんがいつも持ってきてくれるんだ」

「そういえば夕マヒルの家は花屋でしたね」

「関わってないっていう割には知ってるんだ」

「夕マヒルは学校では有名だし」

 

 いっても、俺が詳しく知ったのはつい最近だ。

 夜守コウについて調べるにあって洗う必要があった人物だからだ。

 

「夕マヒルもこの店に来るんですか?」

「そうだね、花屋の手伝い以外だとたまにかな。来る時は食事ついでに……あ、もちろん酒は出してないよ? で、アレで遊んだりしてるよ」

 

 俺たちがいるカウンターの傍を指し示しす。そこには大きなスクリーンがあり、その前にはなにやら大きな機材が設置されていた。

 その前に二人の大人が立っていた。ちょうどショットガンの偽物を機材に設けられたホルダーの中に入れるところだった。

 

「アレは?」

「クレー射撃のゲームさ。ほら、ゲーセンとかにあるシュータウェイみたいな奴だよ」

 

 遊んだことないから分からないが、クレー射撃自体はオリンピックなど大会が放送されていたことがあるので知っている。

 

「でもゲームバーって店、以前摘発されてませんでしたっけ?」

「よく知ってるねそんなこと……アレは著作権などが絡んでたから捕まったけど、これは機材からゲームまで自作だから問題ないよ」

「作ったんですか!?」

「それは初耳ですよ」

「あれ? 蘿蔔ちゃんにも言ってなかったっけ? あのゲームは、うちの弟が専門学校で教師をしてて生徒と一緒に作ったんだ。で、置き場所ないし、学校ではやれないから使わないかって」

「そこまで聞くとゲームそのものよりも作った人たちの方が気になるな」

 

 しかし、自作ゲームか。

 グルーブでワイワイと長い時間をかけて作ったのだろうか。

 

「料理が来るまで時間あるから、遊んでおくといいよ」

「……」

 

 と、言われてどうしたものかと悩んでしまう。

 

「坊やはゲームは苦手だったかな?」

「いや……」

 

 あまりやったことがないのは事実だが、出来ないか、苦手かと言われたら違うと言い切れる。言葉が詰まったのはそこでは無い。

 

「ハツカがやるなら、やる」

「え、僕?」

 

 俺の答えに予想していなかったと言わんばかりのハツカ。

 

「ああ。アレ、スコア制だろ? 100点取るゲームで、ひとりでずっと100点取ってても面白くないし」

「すっごい自信」

「ま、実際出来ますから」

 

 この手の遊びはタイミングと角度さえ合わせれば簡単なのだ。

 

「それに、せっかく2人分あるんだから一緒にやろうぜ」

「だってさ、蘿蔔ちゃん。お誘いだよ」

「まっ、これを知ってて連れてきた訳だしね。いいよ、一緒に遊んであげる」

 

 短く息を吐くようにハツカが了承する。

 そうして、まず俺が腰を上げた。

 マスターの話では、カウンターに置いてあるカード––––支払いの時に使うバーコードが印字されたモノ–––を機材に読み込ませれば動くようなので、その手順に従う。

 

「難易度は……ナイトメアでいいだろ」

 

 機材のモニターでゲームの設定を行い、ヘッドホンをつければいよいよスタートだ。

 1ステージ目の準備完了ボタンを押す。

 そんな時にハツカから声がかけられたので、そちらを向く。

 

「シュウくん、本当にできるの?」

「もちろん。そうでなければ言わないよ……このぐらい––––!」

 

 シュッ––––

 

 青々と下がった芝と快晴の空を映した画面の端。その左端からひとつ、右端からふたつ皿が宙へ飛び立つ。

 緩急が激しい皿の動きを、俺は振り返りざまに捉えて、バンッ! バンッ! バンッ! と正確に撃ち抜いた。

 

「おお、やるね」

「ハツカの番だぞ」

「……よっと」

 

 今度はハツカが席を立ち、機材の前で銃を構える。そして、数秒後、俺と同じ枚数の皿が画面端から射出された。

 

「ッ––––!!」

 

 バンバンバン!

 

 続け様に裂けるような電子音が耳朶を打つ。射出されたのとほぼ同タイミングで、画面内の皿が弾けた。

 

「ざっ–––と、こんなもんだよ」

「流石……!」

 

 やはり吸血鬼というべきか。いやハツカが凄いのか? 

 どちらにしろ凄いことには変わりない。

 やっぱり、良い––––

 

「張り合いがある」

 

 思わずニヤッと笑ってしまう。

 

「ハツカ、勝負しようぜ」

「スコア対決?」

「そ。賭け事なしの純粋な勝負!」

「元からそういうゲームだよ」

「いいだろ。こういうのはハッキリとしておきたいタイプなんだ」

 

 それに俺、こうやって純粋に遊ぶの初めてなんだよな。

 

「さて、始めますか!」

 

 完了ボタンを押して、俺はハツカのように射出された瞬間を狙う––––

 

 

 錫の音を掻き消すように、乾いた裂帛音が響く。

 

 

 

「あぁ……クッソ。引き分けか……」

「まっ仕方ないよね」

「そういうもんだしな〜」

 

 吼月くんが頬杖をつく。

 料理が来るまで、彼に付き合い蘿蔔ハツカ()も遊びに興じた。この手の娯楽に手を出す事は中々無いけれど、誰かとこうした遊びをするのは楽しい。

 勝負の内容は引き分け。

 僕は吸血鬼だし、人間用に作られたゲームで外す事はないが、それでも吼月くんも宣言する通りに上手だったため決着はつかなかった。

 どちらかがミスするまで続けても良かったが、それをするには時間が足りなかった。

 

「次は確実に勝ち負けがわかるやつにしようぜ」

「マリカとか?」

「ハツカってマリカやるんだな……」

 

 だったら、今度七草さんのところに行って、一緒に四人プレイもいいかもしれない。七草さんのところコントローラ四つあったかな?

 どっちにしろ次は僕が勝つけど。

 

「あと少しかな?」

 

 吼月くんが腹を摩る。ゲームが思いの外サクサクと進んでしまったため、まだ料理は来ていない。

 

 昨日気絶してから何も口にしてないから仕方ないか。

 

 にしても––––

 

「なんだよ?」

「なんでもないよ」

「……そうには、ん?」

 

 何やら奇怪な電子音声と共に、彼のズボンのポケットが震えた。

 

「あっごめん。電話だわ」

 

 そういって、吼月くんは化粧室の方へと姿を消した。

 

「ん……」

 

 僕の目的を洗い直そう。

 現状、僕の目的は吼月ショウを堕とすことな訳だが––––おそらく、あっちは僕のことを意識している。しかし、それはあくまで敵対者として、あるいは友達としてだ。恋人のそれではない。

 僕の身体を見て恥ずかしがったりなど、一般的な反応がないわけでは無いから完全に脈なしというわけではないが、押せてないのが現状だ。

 なにより、あの口調。初めに会った時は僕だったのに、今では俺になったままである。

 明らかに線を引かれてしまっている。

 

「どうしたものか……」

 

 まず、ここは崩していきたい。

 でなければ、吼月くんが堕ちるときの引っ掛かりとして邪魔なものになりかねない。

 しかし、吼月くんのことあまり知らないんだよな。

 直接聞くのが吉か? それとも飼ってる子達にでも偵察させるか? 彼はどうせ学校にも行くって言うだろうし、ここらで昼間に動かせる子でも作っておくか?

 

「あの––––」

 

 僕が考えに耽っていると、後ろから声をかけられた。

 どこかで聞き覚えのあった声。

 振り返った先にいたのは、

 

「ハツカさん、でしたよね」

「君は確か–––」

 

 先ほどマスターとの話題に上がった少年。

 

「夕くんだったね」

 

 僕のグループの仲間、星見キクの眷属候補。

 夕 マヒル本人であった。



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第十四夜「特別」

 蘿蔔ハツカ()に声をかけてきた少年、(セキ)マヒルは清潔感があり整った風体はまさしく好青年といえる。そんな彼だが、その顔は困惑に染まったままだ。

 

「よく僕がいるって分かったね」

「いやあ。これだけ視線を集めていれば分かっちゃいますよ」

 

 辺りを窺えば、周りの客が男女問わず僕を見ている。

 吸血鬼は顔も振る舞いも良く、その場にいるだけで注目を集めてしまうのだ。耳を傾ければ、彼ら彼女らは僕のことを話題にあげている。

 

『すっごい本から飛び出したみたい』

『現実にあんな子が実在するんだな』

『一緒にいた子が妬ましい……!』

 

 驚きと敬意に満ちた思いで溢れていた。

 この視線は吸血鬼にとっては日常的なものだから忘れていた。改めて羨望に晒されるのは悪い気はしないと自覚する。

 

「お花屋さんのお手伝い?」

 

 それを彼は肯定してから、言葉を紡ぐ。

 

「ええ。マスターさんに同級生が来てるよって言われたので中を見てみたら、会長とハツカさんが居て気になって」

「夕くんは偉いね」

 

 ゲーム開始したあたりからマスターの姿が見えなくなっていたのは、夕くんと話していたからのようだ。

 

「ハツカさんにウチのこと話しましたか?」

「してないね。さっきちょうどマスターと夕くんの話になって、その流れで知ったんだ」

 

 湧いた疑問に納得した夕くんだが、困惑の理由はそれではないようで視線が動いている。

 その目が指ししめすのは化粧室。

 彼が見ていたのは吼月くんのようだ。

 これは吸血鬼の話になりそうだ。彼も吸血鬼側(こっち)の存在であり、僕が吸血鬼であることを知っているのだから。

 

「どちらの話かな?」

 

 僕はそう言って犬歯を僅かに見せるようにして、ソレを指先で叩くような仕草をする。

 その意図を理解した夕くんも同じ仕草を返してくる。

 

「ちょっと外で話そうか。時間大丈夫?」

「え? はい」

 

 スマホの時間を見て、問題ないと判断した彼を連れて席を立つ。できれば、吼月くんが戻ってくるまでに終わらせないと。

 支払いを済ませて、吼月くんだけは残っていることを店員に伝えて僕は夕くんと共に店を出る。

 そして、店の傍にこじんまりとある裏路地に入っていく。射し込む光は、通りに並ぶ街灯の心許ないモノだけ。

 

「ううっ、さむ。ハツカさんは寒くないんですか?」

「吸血鬼は気温の変化に強いからね」

「思えばキクさんも結構薄着だったな」

 

 そんな路地に人気があるはずもなく、吹き抜ける気味の悪い風が夕くんの背筋を震わせた。

 少ない光がより静かさと冷たさを引き立てる。

 

「一応確認なんですけど……さっきまで一緒にいた相手の名前って“吼月ショウ”だったりしますか?」

「苗字が吼える月なら同じ子だね。会長って?」

「吼月さんはウチの学校の生徒会長なのでそう呼んでるですよ」

 

 吼月くんが生徒会長ね。

 驚いたというよりは、彼の性格からすれば教師に頼まれたりでもしたのだろうかと勘繰ってしまう。

 

「本当に会長なんだ」

 

 納得していない。

 それよりも、今まで見ていたものが嘘だったのかと言わんばかりに当惑しているように見える。

 

「彼がここにいることがそんな驚き?」

「脳が坂を勢いよく転げ落ちるぐらいですよ」

「そこまでなの?」

「多分、コウが見ても同じこと言いますよ。学校での会長のイメージとあまりにかけ離れてたら」

 

 彼の声色からして本当に違うようだが、そこまで変化するものなのだろうか。

 

「それより! ーーーっ」

 

 身体を僕へと突き出して顔が寄せた彼に微笑みかけると、頬を赤らめてすぐに引き戻す。子供らしい可愛い照れ顔が距離を取る。

 

「照れた? キクちゃんが知ったら嫉妬に狂っちゃうよ〜」

「や、やめてくださいよ! 俺はキクさん以外には靡かないんですから!!」

「だったらもっと毅然としてなよ!」

「–––、ほっっとに!」

 

 心を落ち着かせるように目を閉じてから、夕くんは話し始める。

 

「会長は吸血鬼のこと知ってるんですか?」

「知ってるよ」

「コウの事もそうだけど、俺たちの周りには吸血鬼が多すぎる気がする」

「ここまで吸血鬼と絡んでる友人関係は滅多にないけどね」

 

 人間《夜守コウ》は吸血鬼《七草ナズナ》と。

 人間《夕マヒル》は吸血鬼《星見キク》と。

 

 友人同士が同時期に吸血鬼になろうとしていることはそう見られることではない。しかも、七草ナズナも星見キクも吸血鬼(僕ら)の仲では特に変わり者なのだから驚いていた。

 

 方や他の吸血鬼と関わりを持たず、眷属を作ることがなかった七草ナズナ。

 方やより多くの眷属を作りながらも、その行動と不透明な考え方から吸血鬼の輪を乱していた星見キク。

 

 このふたりの眷属が、同タイミングで生まれようとしている。何か奇妙な縁が働いているかのようだ。

 そして、僕にも不思議な結びが繋がった男がひとり。

 

「……」

「会長も吸血鬼になってるんですよね」

「なるよ。してみせるよ」

 

 吸血鬼になる気がないとしても、彼にはそれ以外の道はない。

 

「あれ?」

「ハツカさん?」

「え?」

 

 少し顔が強張ってしまった。こちらを心配するような瞳で夕くんが僕の顔を覗き込んでいた。

 夕くんは吼月くんが吸血鬼になってるって言ったのか?

 

「……ああ、ごめんね。そうだ、夕くん」

「なんですか?」

「ショウくんを吸血鬼にしてあげたいと僕は思っているんだけど、どうしても彼のことを知らなさすぎてね。少しでも良いんだ。君が知ってるショウくんのことを僕に教えて欲しい」

 

 吼月くんと夕くんは関わりは薄いという言質はある。しかし、ないよりはあった方が今後の役に立つ。

 

「良いですよ」

 

 夕くんは考え込んだあとに『俺が知っているだけでよければ。その後でいいので俺の相談にも乗ってほしいです』と言った。

 そうして、彼は語り出した。

 

 

 

 

「ふぅ、なんとか目処は立ちそうだな。ん?」

 

 吼月ショウ()が通話を終えてトイレから出てくると、周りからなにやら異様な視線を送られてきた。

 首を傾げながら戻ると、カウンターに座っているはずのハツカの姿はなかった。彼が座っていた場所からグラスも片付けられている。

 

「はぁ?」

 

 瞬きを繰り返し、現実であることを理解する。

 ハツカのフリーダムさは数日で体験しまくっているわけだが、流石にこれは。

 

「これはないだろ」

 

 いきなり消えていなくなるなんて。

 ラインを交換してないからといって、せめて書き置きぐらいしてほしい。

 てか、なんで居なくなっているんだ。

 

「ハッまさか––––っ!? 女性トイレに…っ!」

「坊や。蘿蔔ちゃんなら少し前に出て行っちゃったよ」

 

 バッ!と背後を見た俺に、厨房から出てきたマスターがキッパリと否定した。

 

「……よかった」

「よかったの?」

「あっいえ。こちらの話です」

 

 ジェンダーフリーを言い訳に、女性トイレに突っ込んでいるなら流石に警察に突き出すところだった。そこまで突飛な奴ではないよな。癖はぶっ飛んでいるけど。

 席に座り直すと、マスターが俺の目の前にチキンステーキと白米を置いた。

 

「おお……!」

 

 鉄板の上で蒸気を立ち昇らせながら、タレと油の弾ける音が食欲を唆る。皮目のパリッと焼かれた鶏肉の香ばしい色も目を楽しませてくれる。なにより、副菜として乗っているコーン、ブロッコリー、ニンジンがより皿を鮮やかにしてくれる。

 早速、肉から口へ頬張る。音を立てて皮が破ける。

 

「肉汁うまっ噛みごたえめちゃ良い」

「君みたいに美味しく食べてくれるのは嬉しいよ」

「ほんと美味いです。凄いな……」

 

 口角を歪めながら食べ進めていく俺をマスターは心底嬉しそうに見ているような素振りをする。なに考えてるんだこの人。

 

「他の接客は大丈夫ですか?」

「暫くしたら予約で来る客でちょっと面倒になるけど、新しい客もいないし今は落ち着いているから」

 

 ふむ。店内にいる人の数はそう多くはない。

 夜の店は人は少ないがひとりが頼む量が多いか、質が良い分多く取ってるから利益として回っているのだろうか。

 

「これだけ美味しいのに千円いかないの安いですよね」

「そう! ウチはリーズナブルも売りなのよ!」

 

 見合った価値をつけるべきだと思うが、札を使うか使わないかだとやはり手を出せる難易度は変わってくるもんな。

 これが商売の悲しい性か。

 そうして食べている内にどんどんと他の客が減っていく。

 

「ここって閉店何時でしたっけ」

「午前1時だね。ちょうどこの時間帯は第二ウェーブ終了で、人が少なくなるんだ」

 

 そういうことか。

 人が減るに伴って周りからの視線も薄まり料理も食べやすくなる。

 

「なぁ坊や」

「あ、マスター。それだと分かりづらいので、吼月でお願いします」

「気軽に教えてくれるね」

「こんな美味しい物を出してくれるんですから、金額に上乗せということで」

 

 これなら相手も喋りやすいだろう。

 

「吼月くんは、蘿蔔ちゃんとはどういう関係なんだい?」

「いきなり聞きますね」

「ははっ、気になっちゃったからね」

「仕方ないやつですね」

 

 答えるがどう言うのが正解だろうか。

 こうして関係を聞いてくるあたり、ハツカが吸血鬼なのは知らない可能性が高い。知っていれば『ああ、新しい眷属か』となるぐらいだ。ハツカと宇津木が車内での話を聞く限り、七草と名乗る吸血鬼が俺と同じぐらいの子供を眷属か眷属候補にしているようだから、歳として俺が特例という訳ではないだろう。

 それに知っていれば、吸血鬼側だということを小声ででも伝えてくるだろう。

 なら、吸血鬼のことは触れずに一番偽りのない答えを出さなければならない。

 

「ハツカと俺は、恩人以上友達未満ですね」

「恋人じゃないんだ」

「なぜそう思ったのか俺は大変気になります」

「ハハハッ、遊んでた時とか普通にカップルみたいに仲が良かったから」

「……? え? カップルってアレですよね。恋してる者同士のアレですよね?」

「それしかないよ」

 

 そんな風に見られてたのか?

 カップルみたいに思われていたということは、そう見せるほどに充実していたということか?

 

「それに吼月くんみたいな子供が、こんな時間に家族でもない歳上の女性と一緒にいる。そんな理由は恋してるからとしか考えられなくて」

 

––––嘘くせぇ。

 

 恐らく今日一番俺が俺を信じれた感情だ。不信感が一番信じられるとはなんとも情けない話だが。

 だが、この不信感はなんだ?

 拒絶感はある。いつものアレだよな。マスターの言動が信じられないだけだ。

 いや、もしかしたら本当に恋をしていて負けを認めたくなくてわざとこんな反応をしているのか?

 

「どうしたんだい?」

「い、いえ。お構いなく、はしゃぎすぎた俺が悪いんです」

 

 眉間を摘み、考えを整える。

 あんなカッコつけて堕ちない宣言して、数日で恋しましたとか洒落にならないぞ。

 気分を変えるために肉を口へと入れる。

 美味しい。

 うん、そこまで気は落ちていないぞ。

 

「ご馳走様でした」

「お粗末様。そっかあ、恋人じゃないのか」

 

 否定されたマスターはどこか納得した表情で、それでも腑に落ちない感情を宿した目をしている。

 

「吼月くんさ。なんで蘿蔔ちゃんのこと追わないの?」

 

 予想外だった。

 

「戻ってきたらいきなり姿を消して、店を出て行ったなんて言われたら普通怒るよね。恋人だとしても、友達だとしても。恩人だったとしても」

「なんです? 感情相談?」

 

 なぜわざわざその事をマスターが気にするのかは理解できないが、側から見てもハツカの行動が非常識なのはそうだ。

 恋人のように見えていたとなれば、それこそ相手を置いてどこかへ消えた非情な彼女に映る。しかし、マスターは目の前の出来事を、そのまま受け止めているのだろうか。

 

「キョトンとしているね? てっきり傷ついてるかと思ったけど」

「なんでです?」

「いや、ええぇ?」

 

『そっちこそ何故気付かないんだ』と言いたげな顔のまま、眼があたりに右往左往する。

 

––––そういうことね。

 

 戻ってきてからの異様な視線は哀れみか。

 それならマスターみたいに声をかけたりしてくれた方が、余程意味があるだろうに。

 

「ハツカが俺をここに連れてきたのは、あくまでご褒美です」

「ご、ご褒美ィ?」

「ええ。手伝いをちゃんとできたご褒美、とでも思ってください。そこで俺は『美味しい飯屋を教えてくれ』と頼み、ハツカはここまで連れてきてくれた。そして実際に美味しかった。

 ならこれ以上、こちらがアイツを縛れる道理はないですよ」

「子供なのにサッパリとした考え方だね」

「まぁでも、最初見た時は『うわぁ〜マジか〜』って思いましたけどね。伝言ぐらい欲しかったなって。まぁ、店員に伝えてくれてたので問題ないですし。

 アイツにやりたいことが出来たんですよ」

「……それがもし他の男と遊ぶためでも?」

「他の人と遊びに行ったんですか」

「あっ、いやぁ……」

 

 なるほど。尚更納得だ。

 

「ハツカってここでもモテてます?」

「え…? まぁ、そりゃ可愛いし愛想もいいし」

「恋に堕ちてるレベルで?」

「それは……そうだね」

「もしかしてマスターも堕ちてたり?」

「………」

 

 口を止めて他の作業を始めるマスター。

 図星なのかな?

 

「ハツカが連れ出した相手は?」

「どうだろ。彼は一目惚れって感じではなかったけど。知り合いというか」

「なら大丈夫ですよ」

 

 居なくなっていた訳が分かった。普通の世間話なら俺とは逆側の席に相手を座らせればいい。

 そうしなかったのは常連蘿蔔ハツカではなく、吸血鬼蘿蔔ハツカとして話があったからだ。

 吸血鬼同士で俺を堕とす相談をしているのか、ただ人の血を吸いにいったのかは分からないが、それだけのことだ。

 

––––他の人の血を吸うとなると、今日は吸ってもらえないか。

 

 そして、ハツカはここに戻ってくるか外で待っているかのどちらかになるだろう。そしてハツカは不意なことがない限りは義理で動いてくれる。ならば、彼のとる行動は前者になる。

 ならばどっしりと構えておこう。

 俺はハツカを吸血鬼と知っている理解者だからな。

 

「本当に?」

「…………えぇ。俺はそんな関係じゃないので」

 

 ハッキリ返せ、俺。

 これではハツカは変に疑われたままだぞ。

 

「吼月くんはさ。蘿蔔ちゃんとどういう関係でいたいの? なりたいの?」

 

 ほら、俺が未練あるように思われてしまった。

 

「なんですか藪から棒に」

「ごめんね。個人的に聞きたいんだ。別に蘿蔔ちゃんがどうこうじゃなくて君の率直な心を聞きたいんだ」

 

 なりたい関係?

 そんなもの決まっている。

 

「ダチです」

 

 そう断言する。

 

「つまり、それは友達?」

「ダチはダチです。心で通わせた揺らぎのない信頼。それがダチです」

「素直に友達じゃダメなの?」

「誤解を恐れずいえば親しい相手(友達)なんていくらでもいるんです。だけど、それでは俺は今の俺を超えられない。必ず先に進まないといけない。だからハツカといます」

 

 友達なんて事ものはいくらでも生み出せる。やり方を変えれば友達と定義する事だってできる。

 しかし、ダチは違う。

 この定義から外れることはない。

 

「俺はハツカを信頼しきりたい。そしてアイツにも俺を信頼しきってほしい。そのためだったらなんだってします」

 

 その為に待つ必要があるなら、やって当たり前のことだ。

 俺とハツカには縛りがある。それがある限りアイツは逃げやしない。

 

「あ、すみません。初対面の人から、いきなりこんなこと言われても意味わかんないですよね」

「……いや熱意は伝わったよ」

 

 戸惑いながらも、俺の意思を呑み込もうとするマスターには、誠実さを感じられる。

 

「なら次はこちらですね」

「え?」

「交互に問答してるんですから、こちらにはまだ一回質問権がありますよね」

「そういうことだったっけ……?」

「その方が区切りがつけやすいですから。最後の一回」

 

 マスターは観念して俺を見る。

 

「マスターとハツカはそれなりに付き合いがあるんですよね

「ああ、そうだな。数年ぐらいは」

「そんな貴方は、ハツカが本当に俺を置いていったと考えてますか?」

「思わないから聞いたんだよ」

 

 そうか、なら答えられるか?

 

「それは信頼ですか? 信用ではなく」

「うん」

 

 マスターが俺の瞳をじっと見つめる。止まった時計の針のように動かない。

 

「でしたら、教えてください。マスターの信頼のあり方を」

 

 先人の知恵は何より俺を満たすものになる。

 

「親切な人生の先輩に教えてもらいたい。俺を助けて」

 

 頼られるのが嬉しかったのか、マスターは頬を指でぽりぽりとかきながら、『分かった』と口にした。

 

 さあ、語れ。お前の信頼を。

 

 

 

 

「ありがとう、(セキ)くん」

「いえいえ。俺のほうが相談に乗ってもらってましたし」

「仕方ないよ。君のことは、僕も気にかけてるからいつでも話においで」

「ハツカさんは男ですもんね。外見で忘れかけちゃうけど……」

「だから君とも他の吸血鬼()たちより話が合うだろうし、頼ってくれればいいよ」

 

 夕くんとの話で、少しは吼月くんについて知ることができた。

 しかし、対価として時間がかなりかかってしまった。

 

「それで、さっきの言葉を言えば吼月くんは喜ぶんだよね?」

「た、多分」

「よく意味がわからない……いや、分かるけど、これで喜ぶ意味がわからない。それに、んんーーー」

 

 なんか嫌だ。

 なぜ吼月くんがフッた相手との言葉を使わないといけないんだ。

 

「会長、本当に理世さんと付き合ってなかったんですね……」

「ショウくんとその……倉賀野理世? は仲がいいの?」

「周りが告白を諦めるぐらいには。理世さんはいつも会長と一緒にいますし、会長は会長で気を許してますし。あと、あの二人だけだと独特の雰囲気が」

 

 僕といるのにその子のことを考えるぐらいだから、周りから恋してるのではと思われても不思議ではないか。

 

「ハツカさんはこれから会長の血を吸うんですよね」

「まぁね。彼の血は絶品だから」

「いいなぁ」

 

 夕くんは苦虫を噛み潰したような顔をする。

 

「まだ吸ってもらえないんだ」

「……はい」

「キクちゃんも変わってるからなぁ」

 

 苛立ちを隠せないのだ。

 吸血鬼である星見キクのことが好きなのに、一度も血を吸ってもらえないことに焦燥感を抱いているから。

 

「そう焦っちゃいけないよ」

「分かってます」

「いいや、君は分かってない」

 

 僕はそう強く言うと、彼がビクリと跳ねる。

 

「教えておくけど、キクちゃんは今まで吸血鬼である事を明かした相手は君以外にいない。伝えたうえで君のそばにいるということは、キクちゃんにとって夕くんが《特別な存在》であることの証拠なんだ」

「特別……」

 

 瞳が正気の籠ったものに変わる。

 

「俺はキクさんにとっての特別–––!」

「じっくりと構えておけばいいよ。君は夜守くんたちと違って、無期限でキクちゃんの眷属になれるようなものなんだから」

「はい!」

 

 名の通り、真昼の太陽のように晴れやかな笑顔で彼は礼をする。

 

「また何か分かったら連絡しますね!」

「お願いね」

 

 自転車に乗って去っていった。通りには誰もおらず、好きな人と会う為に夕くんは勢いよく走る。

 僕は彼の背を見送ったあと、『CLEAR』店内へ戻ろうとノブに手をかける。

 時間をかけすぎた。

 他の男を連れてこれだけ席を空けたのだ。彼はどんな風に思っているだろうか。

 連れ出した男へ嫉妬を向けるのか。

 それとも自分に対する無力さを感じるのか。

 僕に対する感情を無くしてしまうのか。

 何があったとしても、彼が僕から逃げることはしない。

 

 鈴が鳴り、店内に踏み込む。

 

「おっ」

 

 鈴の音に遅れて声が耳に通る。

 目の前で支払いを済ませようとしている吼月くんがこちらを見た。

 

「どこいってたんだよ」

「ちょっと裏路地にね」

 

 微笑むと、彼もなにも気にする事なく笑みを返した。

 特に驚いた様子もなく。

 そうなるだろうなと分かっていたような顔で。

 

「マスター、また今度」

「頑張れよ!」

 

 吼月くんはマスターに手を振ると、僕と一緒に店を出る。

 

「なんか仲良くなってる?」

「さぁ? 好悪されることすらないでしょ」

 

 二言三言、口を交わすと、扉の前で向かい合う。

 沈黙が場を支配する。

 

「なにも聞かないの?」

 

 それを破るのは僕だ。

 

「普通、自分と一緒に来た相手が別の男と店を出て行ったら思うことがあるでしょ?」

「そうらしいな」

 

 彼は『でも、俺はハツカが吸血鬼だって知ってるから』と僕が人を連れ出した事を否定しない。普通の人間だったら怒るか、メンヘラな態度になるのに。

 

「現にこうして迎えに戻ってきた。俺から言えることはないよ」

 

 憂鬱な瞳が揺れ動く。

 彼の手が首筋を撫でている。

 

「そこの裏路地で食事は済ませたのか?」

 

 吼月くんが、はにかみながら僕の食欲を尋ねる。

 僕は不敵に笑いながら彼へと歩み寄る。

 

「ふふっ、もちろん––––」

 

 –––––まだだよ。

 

「っ」

 

 耳元での呟きが脳を震わせたのか、ゾクッ身体が脈打つのが分かる。

 掴んだ彼の身体から熱が伝わる。

 そのまま彼を裏路地に引き摺り込む。

 心臓が大きく跳ねた。

 

 

 

 

 薄暗い裏路地に追い立てられ、店の外壁に背中を預ける。

 

「そっか」

 

 ほっと胸を撫で下ろす。

 ハツカの咥内でチラつく牙が光を返す。その牙の存在に胸が高鳴る。

 

「他の血を飲んでたとしても、必ず飲むさ」

 

 首筋を舐め上げて、鋭利な牙を剥く。

 そして、彼が意外な言葉を口にする––––

 

「だって、君は僕にとってのベストマッチ(・・・・・)なんだから」

 

 偶々、彼の頭に浮かんだモノだったのか。

 実際に一番身体に馴染むから称したのかはわからない。

 理由はわからないけど。

 

「あああんんんんんッッ」

 

 もし、それが俺を見ようとしてくれた結果なら、嬉しい。

 

 

 

 

 困惑、驚き、焦り。様々な感情が身体の中で渦を巻く。彼の血の味はやはり絶品で、なにより幸せの感情は僕の脳を蕩した。

 彼の幸福が伝わると、夕くんから聞いてよかったと思った。

 口から溢れ、滴る血も舌で舐める。

 

 ああ、美味しい。

 

 この僕だけが味わう快感に酔いしれる。



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第十五夜「興味深い」

 あの後俺たちは街を暫くぶらついてから帰宅すると、心地よくベットに飛び込んでそのまま熟睡した。

 目覚めた時はとても気持ちよかったが、学校が始まると思うと憂鬱だった。

 そうして日が昇り。

 

『おーいったぞー!』

 

 月曜日の昼下がり。

 今日もまた学生が体育館で宙を舞うボールを追いかける。俺たち男子体育を受け持つ岡村先生は、金曜日に引き続いて風邪を拗らせているらしく、男女ともにバレーをやっている。

 そんな中で、俺はクラスメイトである男子とレシーブの練習をしていた。俺が打ち下ろしたボールをクラスメイトがレシーブ。拾ったボールを俺がトスして相手がスパイク、そのボールを俺が上げてというように交互に進めていく。

 

「吼月悪いな。また練習に付き合ってもらって」

「気にしなくていい。それより上達したじゃないか」

「マジ!?」

 

 淡い金色の髪を垂らした男子生徒で苗字は飯井垣だ。よくつるんでいるのは(セキ)マヒルやその周りの人達。

 

「腰の下ろし方や面の向きが前とは段違いだ。しっかりと俺の頭上にボールが返ってくる。いい上達ぶりだ」

「へへ。お前にそう言われると照れグエッ!?」

「あっ」

 

 彼は腰を力を入れ忘れ、打ち下ろされたボールの勢いに負けて跳ね返った球が顔面へと直撃した。

 ボールが体育館を横断する緑色のネットを小さく揺らした。

 ビタンと床に倒れ込む飯井垣は、赤くなった額をさする。

 

「痛ってェ……」

「冷やすの持ってくるか飯井垣?」

「ああ、冷たいのはいいや。大丈夫。なぁ、でも強くね今の」

「そうか? 君なら取れるよ。今は気が緩んでたけど、次は上げられる」

 

 俺がそういうと飯井垣はニコッと口を歪ませると、立ち上がる。

 

「ま。少し休むか」

「よっしー」

 

 飯井垣から離れて、体育館の壁に背を預ける。

 タイマーを見やるり1ゲーム10分で進めているのだが、どうやらその半分以上は練習していたようだ。

 

「んんぅーーー」

「なんで着いてきただよ?」

「いけなかった!?」

 

 伸びをする流れで首を隠す俺の横に、飯井垣が胡座をかいて座りコートを見る。

 いけないわけではないが、こうして近くにやられると少々面倒なのだ。特に首を見られるのが。絆創膏で首筋の傷痕を見られないようにしているものの、もし剥がれでもしたら大変だ。

 

「……」

 

 飯井垣の視線を追って試合をしているメンツを見直すと、飯井垣がいつも一緒に遊ぶ人たちが含まれていた。ぼさぼさ頭とか、ちょっと落ち着いた奴とか、そんなの。

 

「今日はあの子らと一緒じゃなくていいのか?」

「え? ああ。うん、最近は別に。吼月はいいのか? 他の奴らだって呼ばれてるだろ?」

「いいさ。今日は君のためだけに付き合う」

「……ありがとう」

 

 何言ってるんだかと内心で怪訝な想いを向ける。そんな疑いの念を感じることなく飯井垣もまたストレッチをする。

 そのまま横目で飯井垣が呟く。

 

「なあ」

 

 そして、無遠慮というものを知らないのか彼は『吼月。マジで理世ちゃんフッたの?』と訊いてきた。

『うん、フッたよ』と俺は気にすることなくそう告げた。

 

「マジなの?」

「嘘を言ってどうする。お前たちのことだ。金曜の時点で知ってたんだろ」

「あはは。バレてら」

「あれだけ見られれば嫌でもわかる」

「悪いな」

「そう思うなら初めからやらないのがオススメだ」

 

 嫌な視線であったの事実だし、今後のためにも釘を刺しておくのも悪くない。今後夜守コウのようなことがあったらいけないしな。

 

「でも何で付き合わなかったんだよ」

「付き合う気がなかった。それだけだと思うよ」

 

 好意の理由も分からないのだ。

 理世から俺へ。俺から理世へのも。

 きっと恋愛的な好きという感情は湧いたこともないのだろう。

 

「なんで他人事なんだよ」

「理世みたいなこと言うな……」

 

 飯井垣は愕然として、それ本人に言ったのか? と口にしないだけで雄弁に語ってくる。

 

「理世ちゃんあんなに吼月にべったりだったのに。ああぁーー俺ならあんないい女逃さないのに。あんな(ツラ)のいい女」

 

 ()のいい女、か。

 飯井垣の思春期特有の眼が、ネットの奥にいるコートで動き回る理世を映す。

 

「まあそうだな」

 

 理世の顔は良い意味で目立つ。動いて大きく靡くその金髪も、その健康的な肉体によく似合っているし、鼻も口も、目も整った位置にある。

 

「いい脚だよな」

「とりあえずおまわりさん呼ぶか」

「待て待て! 呆れるお前がおかしいだろ! 中学男子なら見惚れるだろ!? てか大人でも見惚れると思うぞ!」

 

 慌てて取り繕ろうも、言っていることは殆ど変わらない。飯井垣の反応を見ると、これが一般的な男子生徒の感情なんだろうなと思って微笑ましくすらあるが。

 

「まっ、フッたけどそう変わらないさ。俺とあいつはベストマッチだからな」

「前からふたりでちょくちょく口にしてるそれはなんなんだ」

「最高の相棒ってことだよ」

 

 俺たちが見ていると、理世があがったボールを相手コートに叩きつけた。ボールが強く跳ねる音が体育館に響く。

 

「!」

 

 着地した理世はこっちに気付いたのか理世がピースサインを送ってくる。

 賞賛として俺はサムズアップを送る。

 

「ほんとに別れたのか?」

「別れることなどない」

 

 ニヤリと笑う理世がこちらを見据える。

 しかし、こうして理世からコンタクトを交わしてくれると思わず『よかった……』と吐露したくなるものだ。

 自分勝手な約束で理世を苦しめてないかと思っていたから。

 ブザーが鳴り、コート内のチームが入れ替わる。

 せっかくならと、ネットの奥にある理世に話しかけてみた。

 

「いいスパイクだったじゃないか」

「見惚れた?」

「ああ。良い出来だ」

 

 微笑み返しながら口を聞き合う。

 普通に会話できている。よし、今はなんとか目を見て話すことができている。目を合わせられていることに内心安堵していると周りの男子や女子からの視線を集めてしまう。

 周囲の目を受けて、理世が俺に訊く。

 

「約束。覚えてるわよね?」

「勿論さ、いつも通りに、そして今以上に」

 

 俺たちは確かめ合う。

 

「ふたりとも、仲直りしたの?」

「わたしたちはベストマッチなのよ。いつまでも変わらないわ」

 

 自信満々に宣言すると、周りの生徒は『なるほど。よく分からん』と首を傾げた。

 

「じゃあ、また今度」

 

 手を振って別れる。

 ベストマッチか。

 俺の指は自然と傷痕を撫でた。

 

 

 

 

 そうして授業が終わり演劇部にコスチュームを届けたあと、俺はとある場所に向かった。

 生徒会への道中にある部屋。限られた生徒だけが黙々と目の前の本と向き合う図書室である。

 入ってみると生徒が疎に椅子に腰を下ろしている。

 歴史書。漫画。小説。色んなものがあるけれど、簡単に本が手に取れる場所があると言うのは幸せなことだと思う。暇があれば放課後はこうして本を読んで時間を潰しているのだ。

 家に帰ってもやることないし。ハツカに会うまでにも時間があるので、それまで時間を潰そう。

 俺がやってきたことに図書委員の女子が気づくと『あら会長。今日はなんの本をお探しですか?』と訊ねてくる。

 彼女が居座る業務机に歩み寄る。

 

「やあ斎藤さん。帝王学の本ってあるか?」

「帝王学ですか?」

「ああ」

「またどうしてそんなモノを」

 

 そうだな。なんて言えばいいのかな。

 

信頼()しきるため、かな?」

 

 そう聞くやいなや斎藤はギョッと目を丸くした。

 

「えっとお。会長って理世ちゃんのこと……」

「斎藤さんも知ってるのか。でも、これはちょっと違う。恋は恋でも恋愛ではないから」

「は、はぁ……」

 

 戸惑いながらも斎藤は図書室用のパソコンを弄る。

 しばらく待つとその手が止まる。

 

「見つからないですね。田中先生、図書室に帝王学の本なんて奇抜なモノありましたっけ?」

「そんな本誰も頼まんぞ」

 

 そう言って図書室の奥にある事務室から長身の男が出てくる。

 俺のクラス副担任であり、国語の教師でもある田中である。夕方になって少し伸びてきた顎鬚を触りながら俺を見る。

 

「おお吼月くん、君だったか。なんで帝王学?」

「恋するためだそうですよ」

「……お前、流石にそれは酷いぞ」

「なんで教師が知ってるんですかね?」

 

 いくらなんでも広がりすぎだろ。

 

「でもまあ、お前は夜更かしとか二股とかしないだろうから心配はしてないけどな」

「俺だって夜更かしぐらいはしますよ」

「え。その辺、真面目そうなのに」

「そんな真面目じゃなだろ俺は」

 

 この分だとガッツリ酒も飲んでるしバーにも行ってるなんて、口が裂けても言えないな。言ったところで信じてもらえなさそうだし。

 

「帝王学か……()世民(せいみん)の本だったか? それなら社会科の雪寺先生が持ってたと思うぞ」

「本当ですか。なら今度借りれるか交渉するか……うん。でしたら、星空についてのいい本ってありますか?」

「それならいいの知ってますよ。お渡ししますね」

「頼むぞ」

 

 斎藤が業務机から離れて本棚に消えていく。

 さて、熟読しますか。伸びをして斎藤を待つと、図書室の扉が開いた。

 

「失礼します」

 

 チラリと中を覗いてくるのは––––(セキ)マヒル……?

 学校一の人気者である夕マヒルであった。

 夕マヒルは俺を見つけると『あっ』という顔になって近寄ってくる。

 

「よっ、会長」

「夕マヒルじゃないか。俺になにかようか?」

 

 珍しい。というより初めてか。

 あっちから声をかけにくるなんて。

 

「今日って暇か?」

「夜前ぐらいまでならな」

「おし! なら今日どこか飯でも食いかね?」

「……頭でも打ったの?」

「飯誘うだけでそれは酷くないか!?」

 

 そりゃそうだろう。

 今まで関わりというものがなかったのだから。そんな奴からいきなり遊びに誘われたら驚くわ。

 と、考えたところで思い出す。

 

「あー……相談事?」

「そうじゃないけど」

 

 一瞬、なにを考えているのかと訝しんでしまった。しかし、俺が断る理由もないので首を縦に振る。

 

「よしきた! ならラーメンでも食いに行こうぜ!」

「ハイハイ、騒ぐのは外でやってくださいねマヒルくん。あっ、会長こちらが私のおすすめです」

「これか、読んでみるよ」

「ぜひ感想を聞かせてください」

 

 本を借りる手続きだけして、俺は夕マヒルと共に学校を出た。

 

 

 

 

 学校を後にした俺たちは小森団地へと向かいながら、いつもとは違う道を歩いていた。

 

「良い店知ってるのか?」

「いや全然!」

「あてないのかよ」

「いいじゃん。気ままに歩いて見つけた先で食うのも楽しいぞ」

 

 夕焼けに染まる空へ徐々に()がかかっていく。

 昼と夜が入れ替わる逢魔時。離れていく陽の光が赤みを帯びて、1日の終末が始まる。

 吸血鬼という存在を知った今だと、この時間に心が躍る。

 そんな時、マヒルがこう訊ねてきた。

 

「会長ってさ。学校楽しいか?」

 

 特に学校で良かったことはないが、悪いと答えるのは嫌なので『ぼちぼちかな』と答えた。

 

「夕マヒルは最近どうだ? 楽しいか」

「マヒル」

「なに?」

「前から思ってたけど、なんでフルネーム呼びなんだよ」

「いやだったなら謝るよ」

「そうじゃないけどさ。会長ってほら、クラスメイトとかは苗字で呼んで、理世ちゃんは名前呼びなのに、俺とコウだけはフルネームで呼ぶだろ? なんでだろってずっと思ってた」

 

 なるほど。

 言われてみればそうだな。違和感を覚えても無理はない。

 ハツカだって気にしていたし。

 

「君たちふたりのことよく分からなかったからな。判断がつかなかったんだ。どうでもいいのか、仲良くなりたいのか」

「友達になりたいんだったらこっちに来ればいいだろ?」

「学校では馴染み深い顔なんだから、お前も他の学校の奴らも全員友達ではあるだろ」

 

 俺の仲良くなりたいはそういう意味じゃないし。

 

「それで結局どうなんだ? ようやく友達を選び始めたそうだけど」

「会長のクラスにも居たな面倒くさいの。アイツらから聞いたのか?」

「いいや、先生から。で、そいつらと付き合うの飽きたのか?」

「楽しくないからな」

 

 横目で見る夕マヒルの顔はどこか晴れやかなものだった。

 身体の動きも憑きものが落ちたといった軽やかさ。

 

「友達は捨てるべきじゃないって思うか?」

「いいや。逆にそんな風に思われてるなら心外だな。俺としてはとてもいいと思うよ。やっと人間味が出てきてる」

 

 すると、マヒルがポカンと間抜けな顔をして。

 

人間(ヒト)に見られてなかったのか!?」

「《いつもニコニコ、誰とでも》は美徳だ。誰とでも仲良くできるのは良いことだしな。でもヒトである以上は好き嫌いがあるはずで、格差は出てくる。けど、キミや夜守コウにはそれがない。

 ひとつの側面でみれば真人間。もうひとつの側面でみれば非人間。俺は後者からも見てたってこと」

「…………」

「いやあヒトは面白い。こう考えると、君たちふたりは興味深い観測対象だったのかもしれないな」

「俺とコウはネズミじゃないんだぞ……」

 

 本当であればそんな相手にこそ関わって友達になれば良かったのだ。

 でも、しなかった。

 その理由は、それでも良い人になろうと努めていた彼らを応援したい気持ちと。

 

「いつも笑顔だっていうなら、会長も同じなんじゃないのか?」

「まさか。こんなイカした仮面があると思うか? それに君たちと同じなら、理世と付き合ってるなんて噂流れないだろ。今回のことで真実が流布されることは祈ってるけどな」

 

 取り繕ったところで仮面を被っているのは事実で、俺と夕マヒルはある意味似たことをしている。同種の相手に口出ししていいとは思えなかったから。

 結局のところ自己満足である。

 振り返ってみると、どうしようもないクズであることを自覚する。

 

「変われてよかった思うよ。毎日楽しいし」

「そっか」

 

 話しながら歩いていると、通りに一軒のラーメン屋を見つけた。

 

「ここにでもするか?」

「そうだな。ここ来たことないから楽しみ」

 

 扉を開けて店員の挨拶を聞きながら、店の中を歩く。

 中は思ったより広いようで、奥のテーブル席にふたりで座った。

 

「ご注文をお聞きしても宜しいでしょか?」

「何にしようかな。……よし、特製ラーメンをひとつ」

「俺もそれをひとつ」

「分かりました。特製ラーメンふたつぅ!」

 

 注文を頼み終えるてテーブルに置かれたコップを手に取り、水を飲む。

 

「続きだ、夕マヒル。キミに変えてくれた相手はだれ? 好きな人でも出来たのかな?」

「ん––––……ふふふ」

 

 照れたながら口元を抑える。

 

「え、なに?」

「ちょっと……うん。好きな人がいてさ」

「どんな人?」

「俺のことを子供扱いしなくて……俺が悩んだ時には背を押してくれる言葉をくれる。優しい人なんだ」

 

 焦がれにようにも見えるその表情は、とても幸せそうだった。

 

「その人のこと大好きなんだね」

「ああ超好き!」

 

 その表情を見て、俺は少し“良いなあ”と思った。俺も純粋に相手を信じられたらな、と。そしてなんで俺は、とも。

 夕マヒルは恋焦がれた相手について話していく。

 名前は《キクさん》。とっても美人で、性格がいい。母親みたいな優しさで包んでくれる人でもあるそうだ。

 出会いのきっかけは花。

 花屋の手伝いをしている時に偶然出会い、普段ならしない店としてではなく、夕マヒルとしてキクさんに花をひとつ手渡した。理由は初めて会ったこの人の前でカッコつけたいと思ってしまったから。

 その出会いがあってからは、嫌々だった花屋の手伝いが一番の楽しみになったそうだ。

 

「あの人と恋するためだったらなんだってするよ」

「頑張れよ」

 

 キクさんを思い出す夕マヒルは笑顔を浮かべる。良い出会いがあったんだなと思うと、こっちまで嬉しくなってくる。

 人を想ってする笑顔というのはとても美しい。

 

「告白はしたの?」

「こく……告白……うん」

 

 一段と頬を赤くして頷く。

 顔を手で覆って、今にも湯気が立ちそうなほどだ。

 

「ねえ、どんな風に告白したの?」

「『俺は……キクさんのことが好きだから……』って思わず」

「じゃあもう付き合ってるんだ」

「いや、それはまだ……返答待ちというか。キクさんはまだ心の準備ができてないって」

「そっか。付き合えるといいね」

 

 そのキクさんというのは、罪な人だなと思う。

 相手にこんなに思わせて、じっと待ち続けさせているだから。

 

「て、吼月知ってるだろ」

 

 不意に夕マヒルがそんなことを訊いてきた。

 知るわけないだろ。

 夕マヒルの話題なんて教師や『CLEAR』のマスターからしか出されないし。

 

「知らないけど」

「嘘言うなよ。ハツカさんから聞いてるだろ」

「はい?」

 

 え?なんて言った?

 

「もう一回言って。誰から聞いたって?」

「いやだからハツカさんから」

「ぶううーーーー!?」

「うお!? ばっち!!」

「ご、ごめん! え!? ハツカ!?」

 

 なんでハツカを夕マヒルが知っているんだ!?

 

「え……聞いてなかったの?」

「そんな俺聞いてない……!」

 

 夕マヒルの瞳に絶句した俺の顔が映っている。

 これは深く話をする必要がありそうだ。



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第十六夜「7不思議の8番目」

「誰もいないな」

 

 デリケート(吸血鬼)な話になるため、周りに人がいないか確認した後襖を閉めてこの場を俺たちだけの完全な個室にした。部屋ひとつにテーブルはひとつだったため、今後人が来るとしても店員ぐらいだろう。

 俺と(セキ)マヒルは席について真っ直ぐ向かい合う。

 手始めに『君とハツカは知り合いなのか? 吸血鬼のことも知っているのか?』と訊ねてみた。それに彼は肯首する。

 

「キクさんも吸血鬼でさ。想いも伝えたけど中々血を吸ってもらえなくて、そんな時にコウに相談したらハツカさんとアニキ。アニキっていうのはあっくんさんってまた別の吸血鬼になんだけどさ。ふたりにも相談のってもらってその時に知り合ったんだ」

「…………」

「会長?」

 

––––いや……ちょっと情報量が多すぎますね!

 

 ええ、と。つまり。

 夕マヒルの想い人である《キクさん》は吸血鬼であり、彼はそれを知った上で吸血されたい。心の準備がってそういう……。

 で、コウって夜守コウのことだよな? アイツも吸血鬼繋がりなのか……。

 あっくんさんっていうアニキがいる。多分敬称なんだろうけど、どんな人なんだ?

『なんというか濃密だな』とりあえず、そうとだけ答えた。

 

「まさかこんな身近に吸血鬼繋がりがいるとはな」

「そういうわりに直ぐに呑み込むんだな」

「ハツカの眷属が『またガキを!』みたいなこと言ってたし、俺と同い年ぐらいの子が吸血鬼に関わってることは想定してたしな」

 

 ホントここまで身近だとは思いもしなかったが。

 

「夕マヒルって夜にはジャージとか着るのか」

「俺は基本パーカーだけど。ジャージならコウじゃないか?」

 

 つまり、先見者は夜守コウだったか。

 アイツはハツカに血を吸われたりしたのだろうか……ないか。

 吸血鬼を知っているなら俺と同じくハツカの眷属候補として動いているはずだ。いや、惚れさせる為に他の人に会ってないと思わせる可能性もあるが、あの3眷属がいる時に家に招待したハツカがそんなこと考えるとは思えない。

 恐らく、ハツカが俺の血を吸うキッカケになった七草という吸血鬼の候補と見るのが妥当だろう。

 それよりも夜守コウが久利原たちと同じく、ハツカに顔を赤らめながら息を荒くしてるのとか想像したくない……。

 

「ふたりはどうして吸血鬼のことを知ったんだ」

「えっとぉ……」

 

 夕マヒルは少しばつが悪そうに目を逸らしてから口を開く。

 

「この事は黙っててくれるよな?」

「いいよ」

「前にさ、夜にコウとアキラと一緒に学校の《7不思議》を確かめに行ったんだよ。花子さん確認したり、増えたり減ったりする階段を登ったり二宮金次郎像が動き出すか見に行ったりさ」

 

 普通に不法侵入してるよこの3人。

 なんで開いてるんだ学校。

 花子さんは隙間風を空耳しただけだろうし、階段に関しては数え方によって変わってくるから人によって違うのは理解できるが。

 

「ウチに二宮ないよな?」

「ああ。なぜこれが7不思議の8番目になっていたのか分からない」

「しかも8なのかよ!? オーバーしてんぞ!!」

「だけど問題はこの先。9つ目の不思議に有ったんだ」

「まだ有ったのか7不思議……」

 

 うちの学校ちょくちょくバグってんな……。

 

「それで《10年前に失踪した教師が夜な夜な教室に現れる》って噂知ってるか?」

「聞いたことはある」

「ウチの学校特有のだったからワクワクしながら確かめに3()2に向かったんだ。その時に––––」

「吸血鬼に出会った。と」

 

 3人が出会った吸血鬼は件の失踪した男だった。

 その吸血鬼に朝井が襲われ、押し倒された。当時吸血鬼の存在を知らなかった夕マヒルは混乱していたが、引き剥がそうと尽力。夜守コウが吸血鬼を椅子でぶん殴ったことでなんとか朝井を助かることが出来たらしい。

 

「それで逃げ帰って次の日は普通に学校へ登校。なんてことはないよな」

「うん。その時に探偵が現れた」

「吸血鬼を殺せる探偵か」

 

 その時はどう殺したかは分からなかったそうだ。ただ、何かをその男性に握らせた(・・・・)としか。

 

「俺はどうなってるのか分からなくて。コウやアキラは知ってるみたいだったけど、俺だけなんも知らなくて……そこで渡された名刺の住所の場所に向かって教えて貰ったんだ」

「名刺貰ったの? 探偵の」

「あ、ああ。ほら」

「ホントだ……」

 

 夕マヒルは財布のポケットから名刺を取り出すと、こちらに名を向けて差し出す。テーブル中央に置かれたその名刺を身を乗り出して覗き込む。

 俺は『私立探偵事務所 (ウグイス)餡子(アンコ)』と記された紙が目の前にあることに驚きを隠せない。

 

「この場所にちゃんと鶯アンコは居たんだよな?」

「居なかったら名刺の意味ないだろ」

「そうだよな。……この事をハツカに言ってるのか」

「もちろん。憧れの人たちの敵だからな」

 

 つまり、吸血鬼(アイツ)らは敵の場所を知っていながら攻め入っていないということになる。吸血鬼の掟もそうだが、ハツカの言動からすると探偵なんて殺す選択しかないはずだが。

 既に別の場所に避難していたか、あるいは温情か。

 どちらにせよ、相手は《吸血鬼の生態に詳しい脅威》なんだ。

 

「それで、探偵になにを教えてもらったんだ」

「……吸血鬼の恐ろしさ」

 

 恐ろしさ、ね。

 探偵は夕マヒルに吸血鬼がどれだけ迷惑で、存在してはならないかを語ったそうだ。

 吸血鬼であることを隠して惚れさせ、知らぬ内に血を吸う。吸われた人間は何も知らず人の輪から放り出される。

 そして人でなくなったことを絶望しながら生きている吸血鬼がいる。

 人の尊厳を奪う悪魔。それが吸血鬼である。

 吸血鬼は人間の害でしかないと決めウチしているようだ。

 

「ふっ」

「なんだよ?」

「お前って中々図太い性格だよな」

 

 夕マヒルは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする。続けて何かを言おうとしたが、俺はそれを制止する。

 数秒後、個室の襖が開かれた。

 

「特製ラーメンふたつ!」

「ありがとう」

 

 店員が俺たちの目の前にどんぶりを並べていく。麺、焼豚、メンマにネギとシンプルなラインナップだが、昇り立つラーメンの香りが美味しさを表現する。麺もしっかりしていて噛みごたえがありそうだ。

 店員が離れていくのを確認したあと、再び襖を閉める。

『いただきます』と俺たちの声が不揃いに響く。

 

「おお……焼豚結構ぶ厚いのに柔らか」

「麺も味がしっかりしてて美味しい」

 

『やっぱり王道。シンプルなのが一番いいよな』と俺が言う。

『分かる! たまにもやしが多すぎる店とかあるけど、あれ量がキツかったんだよな』と夕マヒルも俺の意思に賛同する。

 昨日のキチンステーキもそうだが、やっぱり美味しい物に余計なモノはいらないな。

 ラーメンを啜っていく俺たちの胃袋が段々と膨れていく。

 

「それでキクさんが吸血鬼だって知ったのは?」

「さっきの件でコウとの仲が拗れかけたんだ。そんなつもりはなくて、仲直りしたかったけど踏み出せなかった俺を後押しをキクさんがしてくれて、コウと話に行ったんだ。

 その流れでキクさんが吸血鬼だって知って……」

「そっか」

 

 それを聞いて俺は微笑む。

 

「やっぱりキミ、いい根性してるよ」

「なんだよ」

「吸血鬼が危険な存在でもあるって知った上で、《吸血鬼のキクさん》のことが今でも好きなんでしょ? だったら十分図太いよ」

「悪かったな、図々しくて」

「良いじゃないか。それを乗り越えたことは、キミがキクさんを好きであることの証拠だよ」

 

 彼は吸われさえすれば吸血鬼になるだろう。後はキクさんが夕マヒルを吸血鬼にする覚悟を決めたらハッピーエンディングだ。

 そんなことを考えていると、夕マヒルの目線が俺の首に注がれている事に気づく。

 特に絆創膏が貼られた場所へと。

 

「やっぱり会長は昨日、血を吸われたんだよな」

 

 昨日だって?

 

「えっと、そうだな」

「やっぱり首から吸うのが良いのかな。キクさんはどこで吸うんだろう……」

 

 昨日って確定で話しているが、俺はその事について口にしていない。

 

「昨日まさか《CLEAR》にいたのか?」

「居たというか、花屋の手伝いで」

「……どのあたりから」

「ふたりがゲームやり始めたあたり」

 

 思わず顔を両手で抑えて、どう思ったか訊ねてみた。

 

「楽しそうだったよ。付き合ってるのかなって思うぐらいには」

「……ッ! お前らさ、マスターもそうだが男と女が一緒に遊んで楽しそうにしてたら付き合ってるって短絡的な発想をするんじゃない!」

「自覚なかったのか?」

「自覚なんてあるわけないだろ。こっちは単純にアイツとやるゲーム楽しい!でやってたんだから。どう見たら付き合ってるように思えるんだ」

「だって会長。ただただ笑顔だったぞ」

「……いつも通りでは?」

 

 その返しは想定していなかったため、一瞬真顔になってしまう。

 

「会長は学校だと笑ってるって言うよりは、微笑んでるってイメージだったからさ。あんな子供っぽく笑うんだなって驚いた」

 

 確かに《ニヤッ》って笑った自覚はあるけども。知らぬウチに素が出てしまっていたのか?

 ハツカ曰く、ポワポワしてるらしいし。

 てか、俺もうちょい感情豊かな反応してるはずなのだが。

 俺は内心を繕うようにして『それは違うぞ』と言う。

 

「違くないだろ」

「いいや分かってない。純粋に俺とやり合えるやつなんてそう居ないんだぞ? 勝負になってるのマジで楽しいんだからな!」

「会長って自信過剰だよな」

「負けないのは事実だからな」

 

 実際この間は引き分けだったし。

 てか、過剰ぐらいじゃないとボロでそうだし。

 

「吸血鬼にはなってないんだもんな」

「そうそう。俺はハツカにお前の言う恋はしてないの」

「でも会長も吸血鬼になりたいんだろ? このままだとまずいんじゃないか? 確かに相手は一応男性だから精神的に難しいのかも知らないけど」

「……?」

 

 彼の言葉に頭の上に疑問符を浮かべる。

 その反応が返ってくるということは、つまりハツカから俺たちの関係は聞いていないのか?

 

「俺、吸血鬼になるつもりはないぞ?」

 

 俺の言葉に夕マヒルは呆然と口を開いてからと個室に彼の声が児玉する。

 

「なんで!?」

 

 仰天といった様子で頭がこんがらがっているようだった。

 

「別になる必要が絶対ではないから、としか」

「必要とかじゃなく、え、なのに血は吸わせてるの?」

「そういう契約だからな」

「どうしたらそんな契約になるんだ……」

 

 吸血鬼になりたい側である彼からすれば疑問でしかないか。

 

「簡単に言うとゲームだ」

「ゲーム?」

「そう。アイツが俺を堕として吸血鬼にするか、俺がアイツを堕として人のまま吸血鬼の隣にいるか。これはそういうゲームだ」

 

 初めての夜更かしで外に出た時、訳あってハツカとであったこと。ハツカに送っていくと言われて素直に車に乗ってしまったこと。

 その車の中で寝たフリをしていたら血を吸われ、ハツカが吸血鬼であることを知ったこと。

 日を越して、再びハツカと会った時に決心して自分の目的のため、人間であり続けると決めたこと。そして、眷属化可能な一年以内に吸血鬼を納得させられなければ殺されると言うことを話した。

 自殺しようとした件や酒を飲んだこと、そして不信感などについては話が脱線するのは目に見えていたので伝えなかった。

 

 

 伝えたあと、夕マヒルは『なんかめんどくさいな』とだけ口から溢したのだった。

 

 

 

 

「この近くに子供でもビールが買えるところがあるんだよ」

「そんなのあるわけないだろ」

「今から見にいく?」

「いいよ。飲まないし」

 

 ラーメンを食い終えた俺たちは小森団地近くの公園をぶらついていた。夕陽を落ちかけて赤みがかっていた空はもう黒い天蓋に覆われかけようとしていた。

 

「なあ、会長」

「どうした?」

「会長はさ、吸血鬼にならないんだよな」

「俺はなる気ないよ」

 

 そう言い切ると、夕マヒルが俺の前に躍り出る。彼の目には決意が籠っているようで、真っ直ぐ俺を見つめてくる。

 この意思は俺に何を望んでいるのだろうか。

 

「なら誓ってほしい。もし吸血鬼にならなくても、あの人達の敵にならないでくれ」

 

 彼の願いは和平だった。

 人並みの願いを俺に投げかける。

 

「キクさんは探偵さんのことすごく怖がってた……『ただ生きたいってだけのことも許されないの』って。『血だってそれしか栄養にならないから仕方なく最小限吸ってるだけなのに』って。だから、頼む……! 敵にならないでくれ」

 

 ちゃんと考えているんだろうなと思った。けど、俺はそれに対して答えられるものは一つだけだった。

 

「さあな」

「さあなって……!?」

「俺はそのキクさんについて知らなさすぎる。だから約束はできない。もし俺の道とキクさんの道が交わった時、味方かもしれない、邪魔者かもしれない」

 

 夕マヒルは目を閉じて、グッと拳を握る。

 

「誠実であるために約束はできない。だけど、俺にとって吸血鬼は害ではない」

 

 俺にとっての敵対者はあくまで吸血鬼の価値観であり、その代表者として俺の前に立つハツカだけだ。

 吸血鬼がいること自体は悪でも害でもない。

 俺の二の句に閉じた瞼をゆっくり動かした。

 

「それだけは言えるよ」

「そっかあ」

 

 安心したように拳を開いて顔を伏せた。

 

「今日誘ったのはこのためか?」

「まあ……そうだな」

 

 そう問いた時、安心したその顔には陰りがあった。

 何を隠してる。

『他にも何かあるのか?』と訊くと、ため息をついてから大きく頷いた。

 

「学校の奴らってさ。自分のことばっかで俺がちょっと遊んでやらないとネチネチネチネチ煩かったんだよ。それで楽しくないって突き放したらそいつらは寄ってこなくなった」

 

 飯井垣もマヒルとつるんでいたが、最近はあまり遊ばなくなったと人伝で聞いたことがある。

 

「その時に思ったんだ。『ああ、俺ってやっぱり友達いなかったんだな』って」

 

 夕マヒルの想いが捻じ曲がっているとは考えられない。けど周りの奴らは見放されることは嫌う。自分を肯定していた存在がいきなり拒絶するのだから。

 そんな相手は『嫌な奴』と罵る。不愉快な物は攻撃したくなるのは人間らしい。

 この世の中で相手が捻じ曲がってると思っても、真正面から受け止められるような男は存在しないのかもしれない。

 

「夜守コウや朝井がいるだろ」

「アイツらは俺の一生の友達だ。でも、出来るならやっぱりもう一人ぐらい欲しいなって」

「そっか」

 

 それが俺を誘った理由にどう繋がる?

 

「昨日ハツカさんと楽しそうに笑ってる会長を見て、吸血鬼って秘密を共有できる会長なら……って」

「つまり、俺と友達になりたい。と?」

「仲のいい友達としてな」

 

 確かに俺と理世も好きな物を重ねているから話が合って仲が良いと言える。そして秘密は、普通に共有できるものとは比重が違う。

 なるほど。そういう形もあるのか。

 

「一つ、聞かせてくれ」

「……なんだよ」

「それは信頼か?」

 

 考え込む。ほどの時間は彼にはいらなかった。

 

「信頼してるよ。会長は言ったことは曲げないから」

 

 言い切れる彼の中には、間違いなく《人気者》としての生き方の片鱗があった。

 

「昨日の一面を見ただろ? 捻じ曲がってるかもしれないぞ」

「そんなことない。だってほら、顔笑ってるし」

 

 口に手を当てる。

 笑っている。微笑んでいるんじゃなくて《ニヤッ》としている。

 

「お前もだぞ」

「え、マジか」

 

 俺たちの笑い声が公園に響く。

 

「ああ。良いだろう。俺とお前は友達だ」

「宜しく友達」

 

 こうして正面切って友達だって言ったのは初めてかもしれないな。

 やっぱり相談事じゃん、とも思ったがこうして悩みを打ち明けてくれないよりはずっと良かった。

 俺たちは更に歩き、ちょうど良い時間帯になったところでお開きになった。

 

「これからデートか?」

「へへ。そうだ!」

「いいね、楽しんでこいよ。じゃあ、俺はこっちだから」

 

 別れた道をそれぞれ進んでいく。

 

「……」

 

 少し名残惜しくて離れていく背に向けて。

 

「じゃあなマヒル! また遊ぼうな」

 

 俺の声に振り返る彼の顔は凪のように平坦で、瞬間ポツリと雫が垂れ波打ったように表情が変わる。

 

「おう!! またなショウ!!」

 

 大手を振ってマヒルは、目的地(キクさん)へと走り出た。

 名残惜しかったのは、何故なのだろうか?

 

 

 

 

「ん〜〜ッ、いい(てんき)だ!」

 

 満天の星空を見上げて考える。ビルの屋上にまで足を延ばしてきた僕は座り込み、その横には一つの本がある。図書室から借りた夜空を楽しむための本だ。

 にしても、今日はいい1日だった。

 マヒルと話せたのはとても良い刺激となった。

 

「僕を知っているのは、僕とハツカだけ」

 

 そう実感すると、どこか恥ずかしさを覚える。

 秘密というのは形として残る信頼のカケラかもしれない。

 なら尚更秘密にし続けよう。秘密は隠し通すからこそ意味がある。

 ハツカの中にだけある。秘密という点はハツカの心に。

 

「ペガスス、アイツは強敵だったな。人の秘密と掛けて、夜空に輝く星座と解く。その心は……(ここ)の内にある」

 

 この点がいつか、しっかり繋がれば良いな。

 

「……あ」

 

 見上げた空に再び彼は現れた。

 

「やあ、ショウくん。なんか嬉しそうだね」

「そうか。そうだな」

 

 立ち上がり夜空より飛来する綺麗な恋愛生命体に俺は笑いかける。

 

「今日もよろしく。友達」

「……? よろしく」

 

 キョトンとした目でこちらを見つめるハツカに手を伸ばした。

 

「お前、昨日一緒にいた相手ってマヒルなのかよ」

「夕くんに嫉妬した?」

「いいや。でも、会ってくれたのがアイツで良かったと思うよ」

 

 本当にコイツがマヒルと話してくれていて良かったと思う。そうじゃなかったらアイツは俺に声をかけなかったかもしれない。

 

「喜べ、ハツカ。今日の俺の血はとてつもなく美味しくなるぞ」

「へえ〜〜。ならさっそく、夜更かしを始めようか」

 

 さて、今日も夜遊びと行きますか!



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第十七夜「マネキン」

「星が綺麗だね」

「この街って異様に星が綺麗だけどなんでだろうな?」

「特別なことはないよ。綺麗な心、純粋な想い、それさえあれば空は輝いて見える。夜は心を躍らせ、見える物全てを華やかに描く。つまり」

「心の持ちようってことか」

 

 言葉を取られたハツカが細めた横目で俺を見つめた。

 

 マヒルと友達になった夕方から連日が経った。その間、ずっと夜を散歩してからハツカと遊び、彼の家で夜明け前まで過ごしている。

 毎日血は吸ってもらっているので、首筋にはしっかりと痕が残っている。

 

「せっかくならもっと良い眺めで見たいよね」

「……だったら、街外れにある高台とかは? 今日行きたかったし」

「あそこかあ。確かにいいかも。それじゃあ––––はい」

 

 差し出された手を取って、俺たちの身体は空へと上昇する。

 

「わっはっはっはっ!!」

「独特な笑い方だね」

 

 夜の空で、俺の––––いや、ここは『僕の』というべきか––––笑い声が響いた。

 ハツカの顔を見上げながら、夜空を眺める。

 

「吸血鬼も飛ぶわけじゃないんだよな」

 

 夜空を駆け回る吸血鬼に飛行能力なんてものは存在しない。持ち前の身体能力によって瞬間的に高高度へ飛び上がり、恐ろしく長い滞空時間によってそう見える。

 限定的な力ではなく素のスペックでこれなのだから凄い。

 

「飛ぶじゃなくて跳ぶ、だからね。何も無しに飛翔するのは夢がある話だけど、人型で飛び回ってたら目立ちすぎるから」

「飛んでたら今頃UMA扱いで大騒ぎだもんな」

「僕としてはこっちの方がすきだよ。風の中を自分の力だけで行き来してる感じがして」

 

 ビルの屋上や電信柱などを利用して彼と共に移動する。

 風の中で俺の背筋が震えた。数日経っただけだというのに、初めて夜空を駆け回った時よりも風が冷たくなっている。

 暫くすると目的地が見えてきて『降りるよ、舌噛まないでね』と俺に警告する。

 急降下する力に自然と身体が力む。

 バォン!という着地音と共に俺たちは高台へとやってきた。

 ハツカの腕から降りて、木目の足場に足をつける。

 

「ここって夜だとこんなに雰囲気変わるんだ」

 

 昼間なら見晴らしの良いすっきりとした雰囲気の高台も、夜になれば様変わりしてどこかしっとりとした落ち着きのある雰囲気になっている。

 この高台はかなり高い位置になる場所で、目を向ければ小森のある街全体が見渡せる。街を構成する家やビルなどが照らし出す光で生み出された光景に思わず息を呑む。

 超デカいイルミネーションのようだ。

 手摺から身を乗り出してその夜景を見つめた。

 

「飛び降りないでよね。下は緩やかな傾斜だけど、それなりに高さあるから。人が落ちたら大変だ」

「死なねえよ」

「どうだか。君のことだから、目を離したうちにピョンって行きそうだけど」

「アハハ……」

 

 誤魔化すように目を逸らした。

 ハツカとの出会い方が出会い方だったので、そう思われてもしかないけど。

 

「最近は湧いてこない?」

「自殺衝動は無くなったよ。ハツカにつき落とされたのが効いたのかな」

「怪我の功名だね」

「怪我じゃ済まないんだよ」

 

 街灯で照らされて死の恐怖をしっかりと感じたこともあってか、あれ以来ふっと身体が動くようなことはなくなった。

 

「けど、今起きても大丈夫だろ」

「なんで?」

「ハツカが助けてくれるからな」

「今度は助けないよ」

 

 確かに吸血鬼の秘密を持っている俺が死ぬのは彼らにとってはメリットだろうけど。

 

「じゃあやってみる?」

「疲れるからやめて」

「やっぱり助けてはくれるじゃん」

「ふん。僕に恋せず死ぬなんて許せないからね」

 

 始めた勝負を中途半端なところで終わらせる奴でもない。

 

「……こんな景色を見たら嫌な気分なんて溶けて消えるよ。声を大にして叫びたい気分だ! 厄介ごとがない時に来たいなーーー!!」

「それもそうだね。風が気持ちいい。ふあ……」

 

 ハツカは高台にあるベンチに両手をつきながら腰を下ろした。夜景を背にして、靡かせた髪が風に煽られる。

 そんな姿を俺はただ見つめて、『なあ』と言葉を紡ごうとした時。

 

「さて……今日の“従者タイム”だ」

 

 そう言ってハツカはこちらに足を差し出してきた。

 

「ここでやるの?」

「問題ないでしょ。決め事なんだから」

 

 《従者タイム》というのは俺から提案したものだ––––間違えてほしくないので付け加えるが、名前はハツカが付けたものである。

 今日もそうだが、久利原たち3眷属は弱点の排除に動いている。もちろん自分の弱点の抹消も行っているが、彼らの性格上自分のことよりも優先してハツカの弱点を葬るために活動する。

 その事情により連日ハツカのそばにいるのは俺だけ。彼の家でただ過ごさせてもらうだけでは居心地も悪いので『して欲しいことを言ってくれ』と伝えたのだ。

 結果、俺は彼の世話をしていた。

 

「分かりました。我が女王」

 

 靴を脱がせて、そばに置く。

 なぜこんな使われ方になった。

 おかしい。家事や清掃などの身の回りのことについて振られると思っていたのに。

 ……いや、コイツの性格上こうくると踏んでおくべきだった。

 眷属をペットとして飼っているような相手なのだ。足を舐めろ、などと言われないだけ気を遣われているのかもしれない。

 

「ショウくんって思いの外従順だよね。前だってオイタをしたら素直に罰は受けてたし。もしかしてMなの?」

「自分で言い出したことだしな。納得さえすればやるが、俺は至って“フラット”だ」

「頷けば椅子にもなってくれるわけね」

「おう納得させてみせやがれ。久利原みたいに尻がって理由は無しだぞ」

 

 マッサージをしながら反論する。

 久利原たちについて大丈夫かと不安になったこともあったが、どうやらハツカによると3眷属たちには別のところで世話をしているらしい。

 世話されてるのはハツカなのにな……。

 

「足指ひとつひとつ揉んでね。……んっ」

 

 ハツカの生活費を含めた殆どがあの3人や他にもいる《飼っている子》によって賄われている。住んでいる家すら眷属からの献上品だというのだから驚きだ。

 

「ほんとあの3人に感謝しろよ」

「なんで?」

 

 曇りなき眼が真っ直ぐこちらに向く。穢れなんて何ひとつなく、純真な瞳だった。

 

「あの子たちは僕に貢ぎたい。そのお返しで僕は褒めてあげてる。ちゃんと成り立ってる」

「褒めるってどんな」

「う〜〜ん。『頑張れ頑張れ』」

「それだけ!?」

「それだけ。そしたらあの子達は『がんばりまーーす!』って張り切っちゃうから」

 

 末恐ろしいとはこの事だと理解した。

 以前ハツカは『恋は洗脳』だと言っていたが、洗脳とかそんなレベルじゃないだろ。お互いが対価としてそれを認めているなら俺から言うべきことはないので、もう口にはしないが。

 

「王は民につくされ、尽くされた分を望みとして返す。それだけだよ」

「言葉の魔力って恐ろしい」

 

 言い換えるだけでとても真っ当に聞こえるんだから。

 

「ハツカは昔から人を尻で敷くみたいなことが好きだったのか?」

「楽しいよ。優越感がある。君みたいに生意気な子が僕の脚を丁寧に揉んでくれるもん」

「そんな生意気か?」

「自分で言ってたのに……。実際猫被ってる子が内心イヤイヤでやっているなら優越感増し増しで気分がいいし、もう堕ちてるなら可愛いから良し。キミが相手だと1度に2度美味しいから好きだよ」

「こんなところ人に見られても知らないからな」

「見られてダメージあるのはショウ君だよ」

 

 思わずまた強く揉んでやろうかと思ったけど、グッと踏みとどまった。今の俺は従者なのだ。主人に歯向かうのは悪いことなのだ。

 

「好きと言えば、以前ハツカの家でさ色々見せてくれたじゃん?」

「勝手にね」

「コーヒーとかクラシックとか、色々あったけどアレってハツカの趣味?」

「僕の趣味になった物はあまりないかな。強いて言えばコーヒーはそうかな。起きた後に淹れるようになったし」

 

 つまり、裏を返せば家にあった事柄に関しては熟せるか、人と話せる程度の知識はあるということだ。

 しかし、それはつまりやり続けたいことではない。

 やっぱり不透明だ。この吸血鬼。

 余計に知りたい。

『ハツカは好きなことを知りたい。知って近づきたい』と俺がそういうと、少し考え込むようにして唸る。

 

「デートとかは?」

「デートは生き様だよ」

 

 物凄く吸血鬼らしい返答が返ってきた。恋で眷属()を作る吸血鬼にとってデートは自らの道の正念場だもんな。

 そこから数回首を捻ると『お酒』と『可愛い子を可愛く仕立てるのが好き』とハツカは答えた。

 

「……洋服選び?」

「そうだね。この間は七草さんの服を選んだなぁ〜……あの時の七草さんの表情は良かったあ」

 

 七草。夜守コウの吸血鬼か。ほんと、繋がってるものだな。

 

「だったらファッションデザイナーでもやれば良いじゃないか。好きなことを仕事にできるんだから」

「嫌だよめんどくさい」

 

 そんな俺の提案は無惨にも切り捨てられた。

 

「少しは働く意欲をみせてくれ」

「吸血鬼にそれを求めるのはナンセンスだよ。第一、好きなことを仕事にできれば幸せってことでもないでしょ」

「そうか? 絵描きが自分の絵を仕事にできたら嬉しいと思うけど」

「やりたいことに自分以外が決めた期限やルールが入ってくるのって段々嫌にもなる」

「まあ、そうかもしれないけど」

「妥協してやっていくのもいいけど、やりたいことは自分の中で落とし込んでやりたい。好きな事7割、目標2割、あとは適当にやっていくのがベスト。

 その点吸血鬼は仲間のコーデができるから楽しいのだ!! みんな可愛かったり綺麗だから仕立てがいがあるんだよね!! 例えばさっき言った七草さんの––––」

「ああ、うん。分かった。分かったからいまは脚をジタバタさせるな!! マッサージできないでしょうが!?」

 

 滅茶苦茶テンション上がるじゃん。ここまで激しい気分のギアチェンジはあまり見ないな。一通りファッション談義を語らせて落ち着かせた後、マッサージを一気に完了させた。

 ホッと一息つきながら俺はハツカの隣に腰を下ろして、夜空を見上げた。

 

「こんなに星が出てたのか」

 

 見上げた更には真っ暗な天を覆い潰そうとほどに光り輝く星たちがあった。改めて見ると驚愕する。

 

「星が多すぎてやばい」

「語彙力が消えちゃってるよ。でも、これは花咲く夜空とでもいうべき絶景だよね」

 

 確かに、と俺は肯定する。

 花が一つ咲いていても『綺麗』という月並みな言葉が出てくるだけだが、その花が一面に多く咲き乱れていれば、それはもう絶景だ。

 しかも、俺たちが見ている花は地の花ではなく空の花。

 行けばいつも見られるものではないことも加わってより心に染みる。

 

「星が落ちてきそうってこういうことを言うんだな」

 

 星に見惚れてうっとりとしてしまう。

 そんなことを思うと、ふとこんな考えが浮かんだ。

 

「星空と人って似てるよな」

「いきなりなに言ってるの?」

 

 呟いた俺にハツカが凄い目で見てくる。

 そこまで変なこと言ったか?

 

「今は近くに星を感じるけど、実際は何光年も離れてるじゃん。で、人も近くにいるのに距離を感じることがある。そう比べると似てない?」

「う〜〜ん……そう。かなぁ〜……」

「そうだよ!」

 

 力強くそう断言する俺と唸るハツカの心は遠かった。

 

「《物質的な距離=精神的な距離》じゃないのはそうだ。だから距離“感”な訳だしね。相手、環境、状態、少し違えば近くにいるように思えるし、遠くにも思えてしまう。自分に対してもそうだ」

 

 ハツカが口にしたこと。心当たりは最近多い。

 例を言えば、マヒルとのこと。

 顔馴染みの知り合い(友達)ではあったけど関わらなかったし、距離もあった。けど吸血鬼という共通の秘密によって俺たちの仲は近づいた、と思う。

 そして今は契約で近くにいることを明言しているが、理世とだってハツカと出会わなかったら遠い関係になっていたかも知れないし、近い関係だったとしてもいつかは霧散する関係になったかも知れない。

 

「しかも心はふとした瞬間に、結ばれもすれば決別もする。なにかひとつ変わってしまうだけで一瞬にして崩壊する」

 

 悪い方にも容易く変わってしまうのは、本当に怖い。

 

「けど崩壊もあれば創造もまた起こる。雨降って地固まるとも言うしね」

 

 コレは良い方にも行けることもあるという可能性を含んだモノ。

 うん、行ける気がする。

 試してみたい。

 

「なにかあったら相談してくれればいいからね」

「……案外心配してくれてるんだ」

「その不信感は僕に恋する為には邪魔な物なのは分かってるからね。その為なら僕にも相談して欲しい」

 

 変に気遣ったものではなく、真っ直ぐ本心らしい言葉を言ってくれるのは嬉しい。

 より深く、相手との繋がりを得る為に必要なことを選び取る。

 ハツカと俺だけの繋がりのために。

 

「……だったら《僕》って性格のことさ」

 

 素面でしっかりと会話することは少ないので照れてしまう。

 

「他の吸血鬼にも、人間にも言わないで欲しいんだ。この秘密はハツカとだけであって欲しい。仲良くなりたい相手だから」

 

 彼は包み込むような笑顔を向けて、受け入れた。警戒すること自体が愚かだと言わせるほどの、優しさから出ていると感じさせる微笑。

 それだけで安心してしまう。

 親が子に対して微笑めばこんな想いを自然と抱くのかもしれない。

 嘘をつかないことと本音を喋ることは別物なんだなと感じた。先ほどとは別の意味で照れてしまい、顔を背ける。

 

「ふむ」

 

 隣でハツカはなにやら意味深に頷いた。

 

「僕が好んだ顔なだけあってショウくんも良い。。今の照れ顔とかめちゃ可愛い……」

 

 キョトンとしたまま突っ込むと、ハツカがずいっと近づいてくる。その綺麗な瞳が目の前にやってくる。

 

「一度ぐらい僕のマネキンになってみない?」

「マネキン」

 

 ハツカから離れようと身体が後ろに傾く。

 

「いい感じのコーデしてあげるから。男物もいいけど、僕と同じで女装も合いそうだな–––」

「やめろ!? 押し倒すなッ!!」

「僕みたいになれるんだよ? そう怯えずにさ!」

「今はダメだ!!」

 

 俺にそっちの癖はない。俺は男で、男の格好を好む者だ。

 数秒間ベンチの上で格闘する。

 

「もうひとつくらい秘密が増えたところで構わないだろ?」

「困る秘密もあるの! あるんだよ!! 俺にこれ以上変な属性を足そうとするんじゃない!! 今はやめろ!?」

 

 ただでさえ面倒な性格してるのに!!

 

「こっちばかり好きなこと探られるのは好きじゃない。そっちこそ好きなことはあるのかい––––!」

「秘密知ってるやつがいけしゃあしゃあと……ああ、あるとも!」

 

 何個あるだろうか。

 

「料理、とか」

「いきなり弱きになるじゃん。やっぱり不信感で好きな物も曖昧なの?」

「食べ物が自分好みかは感覚で伝わってくるから問題ないよ……」

 

 料理が好きなのは、その味が好みな理由が分かるからというのも大きい。

 

「キミ食べるの好きだよね。この間は深夜なのにステーキ食べたりして」

「アレは丸一日なにも口にしていない弊害だぞ。それを差し引いても、食べたり作ったりするのは大好きだけど」

「案外家庭的なんだ」

「それしかやることないしな」

 

 後は日ごろの筋トレや片付けか、興味が出たことをやるぐらいで。

 

「ハツカは料理を作ってもらったりするのか?」

「いいや。僕たち吸血鬼には血以外は大してエネルギーにならないんだもん」

「えぇ……味蕾死んで、るわけないか」

 

 イチゴ美味しい言ってたし。しかし、あのイチゴだって久利原たちと遊ぶために食べていたものかもしれない。

 仮定にすぎないが、もし本当にそうなら少し悲しい。

 

「なんで作らないんだよ」

「いま言ったでしょ。エネルギーにならないから」

 

 当たり前のように言うハツカに絶句する。

 

「いやおまえ。エネルギーにならないから食べませんとか、それ、身体に悪いので僕はハンバーガー食ったことないんですと同じだぞ!? 料理って食べたいものを作るから良いのであって、栄養になるエネルギーになるだけで考えてたら意味ないだろ!!」

「断言するほどではないでしょ」

 

 好きなのはありそうだし、ハツカなら『これが食べたい』と言うタイプだろうから問題はない。

 以前まで人間だったんだし、ひとつやふたつはあるはず。

『こうなったら今度作って食わせてやるからな。食べたい料理リストアップしておけよ』と指を差した。

 

「ほんと料理好きなんだね」

 

 そう肯定してもらえると、実際に俺が好きであると認識できるからありがたい。

 

「前に言ってた『ベストマッチ』っていうのは?」

「日曜の習慣だし。平成を駆け抜けた今、好き嫌いとかの概念ないから」

「そんな長生きしてないよね?」

 

 後、好きなものがあるとすれば–––

 

「ん?」

 

 目の前にまで迫ってくるハツカの瞳と、小さく開かれた口から覗く牙に意識が持っていかれる。

 

「–––––」

 

 やっぱり綺麗だ。思わず顔を背けてしまいそうになる。

 しかし、ここで逸らしてしまえばなにを考えているのか察する材料になってしまう。なんとなく、なんとなくだが、それは避けたかった。

 

「ふ〜〜ん」

「な、なんだよ」

 

 ハツカは意地の悪いニヤニヤとした揶揄うような笑顔で、俺の耳元まで口を持ってくる。そのまま小声で呟く。

 

「気づいてるかも知れないけど、吸血鬼は血を吸えば相手の考えてることがなんとなく分かるんだ」

「……それが?」

 

『だから、今君の血を吸えば』と、そこで言葉を切って首に付いた傷痕を舐める。ちくりとした沁みる痛みと背徳的な悦が首を這いずった。

 

「言わねえよ!」

 

 スルッと身体を横にして彼から押し倒されずに逃げ出そうと、身体を滑らせる。

 

「そうは問屋が卸さない」

「ぐっ!?」

 

 スルリと抜け出して見せたものは良いものの、後ろから抱きつかれるような形で拘束される。

 

「秘密は共有してこそ、でしょ」

「……知られていないってことも安心できるんだよ」

「仲良くしたいなら、本心は語らないとメーだよ。ダメな感情なんてないんだから。俺も、僕も」

 

 優しく語りかけられながら、そのまま高台の手摺のところまで移動する。

 吐息が首のすぐそばまでやってくる。

 首にかかる暖かい息が焦ったく思える。

 

「それじゃあいただきます」

 

 

 

 

 吸い終わって口の端についた血をハツカが手で拭う。

 

「今日も美味しかったよ」

「こんな星空見たら満足もするさ」

 

 夜景を背にするハツカは笑う。

 その様にまた圧倒されてしまう。空、街、光、その全てが衝動となって俺の心を弄ぶ。

 やはり《ここは良い場所》だ。

 ここならより解放感は上がる。

 あの目的も果たせそうだ。

 

「今日はお前に頼みがあったんだ」

 

 指について血を舐め取りながら俺を自身の瞳に収めたハツカに話しかける。

 ハツカは俺の背後で輝く月を見上げた。

 面白い玩具を見つけたようなその顔はとても可愛らしかった。



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第十八夜「私の子供」

 私には嫌いな物が2つある。

 1つは会社と。

 

 起きた時に見上げる空を小面憎しと睨んだ。燦々と照りつける太陽が今日も私の心を苛立たせる。

 いつもの服に腕を通していると、またいつも通りの日常を送るのだと脳に負担がかかる。

 

「疲れる……」

 

 園田(そのだ)仁湖(にこ)。26歳。

 小森に来て、そして働き出して4年。

 大手家電メーカーの小森支店で渉外担当をしている。

 この仕事自体は悪くないのだ。色々な場所に行けたりもする。契約が結ばれたときには達成感もある。なんとなくで選んだ職業だが、まあまあ納得していた。

 けれども、人付き合い。

 これが致命的に私に向いていない。

 

「おはようございます」

 

 名前に因んで、笑顔は大事にしろ、と親から口うるさく言われてきたこともあってか笑顔は得意だった。

 

「おはよう」

 

 にこやなかに微笑んで職場に入る私に返されるのは華のない声だ。

 こっちは挨拶してんだぞ。もう少しした側も気持ちよくなるような返事をしてほしいものだ。

 しかし、ここはまだいい。

 

「明日の取引先の資料でこの部分変更になったから」

「この資料の更新日–––」

「そんなこと言ってる場合か! すぐに頼むぞ」

「分かりました」

 

 ため息をつきたくなる気持ちをグッと堪えて、笑って受け取った。

 全身逆鱗だらけで何を言っても怒るのがこの上司のクズなところだ。この現代社会でここまでのパワハラ上司がいるのかと思った。なにかきっかけさあれば、こちらに手をあげてくるだろう。

 変更されるのは客の都合だが、その連絡が週を跨ぐとなれば明らかに上司のミスだ。

 自身の過ちもちゃんと謝れないなんて人としていかがなものか。しかも攻撃する時は周りから見えないところでやっているからタチが悪い。

 

「––––それで園田さん。このこと都雉(ときじ)さんに伝えてくれない?」

「構いませんが、なぜ?」

「いやだって……あの人仕事はできるけど話しかけづらいじゃん。最近はなに考えてるのか分からないし」

 

 だったら電話でいいだろ。それかメールを送れば良い。

 こっちにも仕事があるのに、なんで私を経由するんだ。自分の好き嫌いを他人に押し付けないでよ。

 

「う〜〜ん……そうは言ってもね……ひとりでは仕事は成り立たないんだから、仕方ないところもあるよ。上手くかわして」

「……はい」

 

 私の会社は苦痛に満ちていた。

 なんとかやり過ごしているが、身と心には相当な負荷がかかっていた。

 極め付けは飲み会だ。

 

「私はここで」

「女ひとりじゃ危ないだろう。送って行こうか? それとも–––」

「いえ、この辺りは治安もいいので」

「鬼が出ても知らないぞ〜〜?」

 

 アハハと愛想笑いをしてからタクシーを降りて、そそくさと離れる。

 なんでお前になんか送られないといけないんだ。

 

 研修が終わり、私がこの部署に配属されてから暫くして『新入社員歓迎会』というお題目で飲み会が開かれた。自分を含んだ同期の祝いの席という名目につられたのと、人付き合いの悪さを改善しようと参加したのが間違いだった。

 いざ始まると、自己紹介や好きなこと、得意なことを一人ひとり喋らされ、中途半端に歳を食ったジジイからはセクハラ同然の品のない冗談を言われる。

 食事の場だというのに、上司へのお酌ばかりやらされて肝心の食事にはありつけない。なんだったら、お酌のマナーで怒られたりもした。

 クソだ。イライラする。

 しかし、参加しない訳にもいかず今もズルズルと続けている。

 

 あぁ……思い出すだけで腹が立つ。

 タクシーで途中で降りて歩くのだって私の聖域()に手を出されないためなんだ。なにが『鬼が出ても知らないぞ』だ。そんなの出る訳ないだろ、いい加減にしてほしい。

 こんな厄介で胃をキリキリさせる職場だが、まだ支払いは良い。いや、残業量を考えればもっと稼げてるはずだが……。

 

 でも生活のためにはやるしかない。

 私には不満をぶつける場所がないのだ。

 嫌味を言ったところで変わらないのは上司も会社も同じ。親に話したところでなにも変わらない。

 愚痴を言ったところで、会社には行かなきゃいけない。

 

「早く帰ってひとりで飲み直そ。米と魚と……」

 

 そうしよう。そうしなければやっていられない。

 風呂入って酒を飲んで寝よう。まあこんな時に限って寝付けないのが私なのだが。

 求めに従うように、帰宅への進む私の足が動き出す。

 けれども、徐々に動きが鈍る。

 

「疲れた」

 

 気がつくと足は止まっていた。

 

「頑張ってくれよ〜 私のあし〜……」

 

 家まであと少しだというのに、身体は動かない。

 最悪なのだわ。

 

「あっ」

 

 目に入ったのは道の傍に置かれていたベンチだった。

 私の脚は自然とそこは動いて、腰を下ろした。

 

「…………はあ」

 

 私は空が嫌いだ。特に夜の空は。

 夜特有の静けさは自身の希薄さをより際立たせ、己を損失してしまうのではないかという錯覚を促す。見上げた空は(よど)んで、今にも降り注いで襲いかかってくるのではないかという恐怖を誘う。

 

「子供に戻りたい……」

 

 ため息をつく。私が幼い頃夜に外へ出たことはなかった。もしその頃、夜の街を探検していれば、夜のことを多少は好きになっていたかもしれない。

 何も考えずに遊んでいたあの頃が懐かしい。

 

「うちの会社の方が澱んでるか」

 

 他の会社で働いたことがないから当社比だが、ウチの会社はビックリブラックだ。インターンやパンフレットでは分からなかったのが痛い。あの会社は隠すのだけは一流のようだ。

 知っていれば同じ職種の他の会社で働いていたことだろう。

 

「昔は良かったって言ってたけど……今の会社からは想像出来ないな」

 

 四年前までは部長が違ったそうだ。

 その人は私と同じ女性で、各地を転々としていたらしい。その人が支える職場は明るく、多少の負荷はあったそうだが今よりは遥かに楽しかったそうだ。

 しかし、その女性は4年前に急逝してしまったらしい。

 結果が今の有様、というわけだ。

 

「鬼はテメェだっての……」

 

 いっそのこと、本当に鬼にでも襲われた方が面白いのではないか? なんて馬鹿な発想をしてしまう。

 確か瞬きをすれば眠たくなるんだったかな?

 目が疲れて自然と瞼が落ちてくるという。私は何を思ったのか、瞬きを始めてしまった。

 

 1回。吹き付ける風が黒髪を弄ぶ。

 

 誰でもいい。

 

 2回。コツ。視界が暗転と明転を繰り返す。

 

 なんでもいい。

 

 そして、3回。

 

 私をこの世界から解放してくれ。

 

「やあ」

「…………え?」

 

 瞼を開けた次の瞬間。

 横から声が聞こえて視線を向けると、そこには––––––

 

 

「お嬢さん、眠れないのかな?」

 

 

 

 鬼がいた。

 

 

 

 私は漏れ出した声を飲み込むように、唾を胃に送り込んだ。

 誰だとか。いつそこに座ったのだとか。なんで声をかけたのとか。私は一切思いつかなかった。

 鬼の姿が、あまりにも常軌を逸していたから。

 風で靡く髪は淡い葡萄(ぶどう)のような色。鼻筋がすっと通った高い鼻に、しっかりとした二重でとても整った幼い顔。

 着ている服装は司祭着のような物だが、清らかな印象を与えると同時に男女どちらにも魅せる妖艶な逸品。

 

 御伽話に出てくるような存在を目にした。

 私は、その鬼に見惚れてしまっていた。

 

「……はい」

 

 見入った私は鬼の言葉に頷いた。

 

「ついておいで」

 

 一度目を合わせると、彼は車道に出た。え、と再び声を漏らすが、迷うことなく私は鬼についていった。

 

「…………」

 

 私と鬼は、喋ることなくただ車道の真ん中を歩いている。

 

–––––広い。

 

 この辺りはそれほど都会でもないから、夜にもなると車が通ることもない。実際、私がタクシーに乗っていた時も他の車は見当たらなかった。

 でも、いつも昼間は車がたくさん通っているこの道なんだ。そこを歩くというのは、非日常を感じる行為だった。

 

「あ。あの」

 

 鬼は顔だけ振り向いた。車道の真ん中で私たちは口を交わす。

 

「貴方は……鬼さん? なんですか?」

 

 どうしてこんな質問をしたのだろうか?

 もっと色んなことを聞けたはずだったのに、胸から出た疑問はそれだった。

 鬼さんは笑った。侮蔑する訳でもなく、ただ優しく微笑んで『そうだよ』と肯定して、続けた。

 

「君がそう思うのなら僕は鬼だ」

「……?」

「時には人として、時には狐として、時には––––鬼として、僕は存在する。ここでは、君が望んだ答えが正解だよ」

 

 ふんわりとした答えが返ってくる。

 つまりは私次第で、鬼さんは何にでもなれると言っている。

 まるで『夢の中にでもいるような』と、私の心を視ているかのように鬼さんは呟いた。

 

「そう。夢だ。僕は君が望んだ夢と共にやってくる。眠りを求める者たちの前に現れる」

 

 なら、私はわたしが望んだままに過ごさせて欲しい。

 

 

 

 

 魔法や奇跡なんて物は存在しないけど、彼と歩いている時間はドキドキした。まるで人間以外の不思議な生物と一緒にいるような気持ちが湧いてくる。

 だから、私はこの子を《鬼さん》と呼ぶことにした。

 そうであって欲しかったから。それを受け入れてくれる。

 

「鬼さんはどこから来たんですか?」

「今日は貴女の心の中から。そう言ったら信じますか?」

「あははっ、なら鬼さんは私の子供ですね」

 

 普段だったら『何を言っているのか』と一蹴するような返答も、非日常感と彼の不思議さがそう思わせない。

 彼からは何も聞いてこない。

 それが安心できた。彼とは関係がないということが、私であれるという関係性を生み出していた。

 

「ここは」

 

 鬼さんと歩いていると着いたのはコテージだった。周りに明かりがついていたので直ぐに目についた。寂れた印象はなく、コテージは私を歓迎しているかに思えた。

 しかし、存在を主張するコテージは、静かなこの一帯から浮いた異質感を出している。

 妖怪の住む館にはうってつけだ。

 

 ここは鬼さんの所有地なのだろうか。

 自然もあって、交通の弁も悪くない。ここで起きれたりすれば、多少は朝日も好きになれるだろうか。

 中に入ってスリッパに履き替える。外見同様に清掃が行き届いたコテージ。使われている樹の香りが鼻腔をくすぐる。知らない場所というのも合わさってワクワクしてきた。

 修学旅行に1人でやってきたような背徳感。

 

「あちらへどうぞ」

「え。はい?」

 

 差し出してきた手に私は鞄を渡す。

 鬼さんが促した方向へ私は歩いて行った。

 

「お風呂だ」

 

 そこにあったのは浴室。

 歩いて汗もかいたから入りたいなとは思っていたけど、どうしようか悩む。知らない家の風呂に入るなんて、普通ならありえない。

 けど、今は普通じゃないんだ。

 

「入ってから考えましょう」

 

 冷えた身体は白い湯気を立ち昇らせる湯船の誘惑に抗うことはできず、浴室と廊下の間にある脱衣所で服を脱いでいた。

 身体が解放感を帯びる。

 浴室に入り、全身をお湯に浸からせた。

 

「あたたか〜〜い」

 

 

 

 

「気持ち良かったあ……」

 

 数十分後、暖かいお湯を満喫した私は脱衣所に戻る。

 

「タオルと着替えが出てる」

 

 戻るとそこには湯上がり後に身体を拭くために使う大きめのバスタオルと、白装束が置かれていた。

 私の着ていた服にチラリと目が動く。

 

「触られてない、わよね」

 

 特に触られた形跡もなく私が脱いだままになっていた。

 タオルの上には子供っぽく丸い字体で《拭いたタオルは籠の中に入れておいてください》というメモ書きが置かれていた。

 

「可愛い」

 

 鬼さん、こんな字書くんだ。

 

「ゆったりしてて着やすい。もふもふしてて暖かいし」

 

 用意された装束を着てみると少し大きめのサイズになっており、締め付けるような感覚もなく身軽だ。

 そのまま廊下に出ると、また鼻腔がくすぐられる。

 先ほどの樹の香りではない。

 

「美味しい料理の匂い……」

 

 身体が操られるように香りがする方へと歩いていく。

 たどり着いたところはダイニング。中央にはテーブルがあり、ホカホカの料理たちが並べられていた。白米をはじめ、鯛の兜煮や茄子の甘辛焼き、刺身にお味噌汁など。そしてお酒が置かれている。

 思わず感嘆の息を出した。

 

「私の心の中から来たって言ってたけど……まさか、本当に?」

「ほんとですよ」

 

 私の後ろからエプロン姿の鬼さんが現れた。

 

「もしかして鬼さんが作ったんですか?」

「ええ、チョチョイと」

「いまですか?」

「もちろん。料理は出てきた瞬間が1番美味しいですから」

 

 鬼さんは私を追い越して、テーブルの椅子を引いた。

 私はそこに座る。少し眺めてから、料理に手を出した。

 

「美味しい」

 

 一口ひとくちが私の為の味だと理解するにはさほど時間は要さなかった。味付けも、辛さも、魚の身の解け具合も何もかもが私の好みだった。

 

「良かった」

 

 鬼さんは私の簡単な感想に嬉しそうに笑った。子供が親に初めて作った手料理を褒めてもらったようなそんな笑顔。

 それだけなのに私も嬉しかった。久しぶりに人?といて気が休まる。

 

 しかし、風呂に入ったことで多少は意識が落ち着いたのか、常識的な考えも自ずと湧いてきた。支払いとか、ここに連れてきたどうするつもりだとか、そんな感情。

 

「かからないよ」

「え?」

 

 それも鬼さんにはお見通しのようで、私の考えを否定した。

 

「夢の中で金を支払うなんて常識的じゃないよ?」

「そう、ですよね」

「楽しんで」

「……うん!」

 

 これは夢。そう、これは夢なのだ。

 設定だとか、心の幻影だとか、瞬きをしていた内に本当に寝ていたとかでもなんでも良い。

 今はただ、この心地のいい夢に浸りたい。

 酔ってきたのだろう。ふんわりとしたいつもの感覚に襲われる。

 

「鬼さんはいつもこんなことをしているんですか?」

「いいえ。貴女が初めてです」

「そっか」

 

 私だけの物なのだと分かると胸の中に喜びが満ちる。

 

「この料理も、この服もそうだけど、ここにはなんでもあるの?」

「喫茶ルナールカにないモノはない」

「喫茶店なんだ……杏仁豆腐ある?」

 

 視線を移すと、大きな月が輝いていた。

 鬼さんと話している内にわたしの気持ちはより軟化して、敬語を使わなくなっていった。

 

「月明かりの下にのみ現れる夢の喫茶店。ここにない物はない。過去でも、居場所でも、瞳でも、杏仁豆腐でも、全てがある。貴女がしたいことをする場所、そして……それができる場所だ」

 

 鬼さんが手を振ると、ダイニングの明かりが消えた。

 代わりに強い月明かりだけが部屋を照らす。それは不可思議な存在が歩く神秘的な光景として似合っていた。

 

「杏仁豆腐です」

「ありがとう」

 

 小さく頷いて、1房のさくらんぼが乗った杏仁豆腐を受け取った。

 

「小さい頃好きだったなぁ……」

 

 真っ赤なさくらんぼをしばらく見つめてから口に運ぶ。

 

 私の脳内で、鬼さんの言葉が反芻する。

 やりたいこともしたいことも、ルナールカは全てできる。

 ない物はない。居場所もあるのだから。

 

「ねえ、鬼さん。私の話を聞いてくれますか?」

 

 息を深く吸ってから私はそう尋ねた。

 

「いいよ」

 

 妖しく思考すら蕩けさせるような笑みで鬼さんは––––

 

 月明かりが陰る。

 雲がかかって部屋の明かりがなくなっていく。

 次第に鬼さんの顔が見えなくなる。

 

 視界が暗転し、そして明転する。

 

 ぼんやりと見えるのは口元だけ。

 

「話そう。わたし」

「––––」

 

 何故だ。よく知る笑顔がそこにあった。

 それが脳に突き刺さる。

 何故だ。よく知る声が聞こえてきた。

 それが脳を震わせた。

 

 口以外が黒塗りされた人形が––––小さい《わたし》が笑っている。

 なんとなく。なんとなくだけどそう思った。

 あどけないその笑顔は小さい頃の私の笑顔のように思えた。

 

 目の前にいるのは《わたし》だ。

《わたし》という子供だ。

 

 抱えてる秘密ぐらい受け止めてくれるよね。

 

「……私、最近辛いの。仕事自体はやりがいもある。けど、人間関係に疲れちゃって」

 

 微笑みを返す私は《わたし》に打ち明ける。

 

「身勝手な怒りを振り撒く上司も、自分の都合でしか動かない同僚も、そんな人たちが集まる飲み会も……全部全部嫌い。 1人では仕事はできない? それだったら自分のせいで迷惑かけてることぐらい自覚しろよ!」

 

 私自身ここまで抱えていたのかと言いたくなるほど叫んだ。

 

「面白くない冗談で笑わなきゃいけないとか、それこそ冗談だよ。楽しそうにしなきゃいけないとかなんなんだよ! 楽しくないのに楽しくしなきゃいけないとかただの拷問だよ……」

 

 真っ暗な部屋の中で白い装束をギュッと掴む。

 

「私の名前も名前だよ。なんなの仁湖って。そんなキラキラネームつけないでよ……(アンタら)は良いかもしれないけど、こっちには良い迷惑なの……こんな名前呪いだよ……」

 

 したくもないことを強制されるような自分の名前にも束縛を感じていた。育てて親に怒りをぶつけるなんて褒められたことではないかもしれないけど、それでも嫌だった。

 

「そうだ……そうだよ……」

 

 ブワッと溢れ出す想いに、白い装束が濡れていく。

 ひとつ、またひとつ水滴が落ちる。

 

「もう行きたくないよ! 会社なんて行きたくないよ〜〜〜ーーーー!!!」

 

 ここには外の夜のような澱みはない。

 壊れた器の中から純粋な想いだけが溢れてくる。

 

「それがわたしの想いだよ」

 

 夢の中で児玉する私の想い。

 子供のように泣き崩れた私の身体は、大きな音を立てる。

 

「い、いたぁ……」

 

 嫌だ。だめ。

 いま痛みを感じたら、現実に引き戻され––––––

 

 

 

 ブブブブーーー

 

 

 

 耳をつんざく現実(悪夢)の音がした。

 

「…………」

 

 電話だ。上司だ。なんで、こんな時に。

 

「いつも、いつも……こんな時に呼び出すの……」

 

 倒れたまま私は《わたし》を見た。

 

「ありがとう、わたし。現実に戻るね」

 

 月明かりがかすかに戻ってくる。

 本当は嫌だけど、行かなきゃいけない。

 

「行かなきゃ。行かなきゃ……」

 

 うわごとのように繰り返して、私は音のする方へ這いずる。

 光が漏れる鞄の中に手を伸ばす。

 

「ッ……」

 

 しかし、その手は寸前で止められた。暖かくて小さな手によって。

 

「やめてよ、わたし。行かなきゃいけないんだよ」

「なんで?」

「なんでじゃないよ。仕事なんだよ。呼ばれたら行かなきゃダメなの……!!」

「本当にそう思ってる?」

 

 思ってるわけないじゃない。

 

「行かなくていいんだよ」

「ダメだよ行かなきゃ。それが社会人なんだもん」

 

 社会人だからなに?

 行きたくないところに我慢して行くのが社会人なの?

 あれ? 私はどうしてこんなことしてるんだろう?

 

「あ……っ」

 

 私を急かすようになら続けるスマホを《わたし》が鞄から取り出した。それを背に隠すようにして持つ。

 

「ねえ、私。私が行かなきゃいけないって考えも理解できる。でもね、行かなくたって別に問題はないんだよ」

 

 微笑んでいた《わたし》の顔からスッと色が抜けて真顔になる。

 変化した雰囲気に私の意識も強く引き締められる。

 

「私と会社は契約で結ばれている。私が自分の時間を使って、会社にとって利益になる働きをする代わりに賃金を貰う。それが私たち社会人の立場」

「……うん」

「わたし達の時間はどこまで行っても私たちのもの。それを剥奪する権利は会社にはない」

「でもやらなきゃ約束は破っちゃ」

「破ってるのはあっちでしょ。今週だけで何時間残業したの?」

 

 ……なんじゅう時間だっけ。

 

「しかも今は丑三つ刻。こんな時間に呼び出すあの上司は狂ってるよ。狂った神様だ。それに連日呼び出されることもある。クタクタな日も続いてる」

 

 この間なんて7連勤したのに、代休どころか有給すら再来月に飛ばすことになった。

 もう嫌だ。やっぱり行きたくない。

 でも–––とまだ反抗する心がある。

 

「今日ぐらい自分を許そうよ」

「…………」

 

 私の欲しい言葉。

 

「だって今は夜だよ。自由の時間だ」

「自由……」

「だから私を解放したんでしょ?」

 

 わたし(・・・)自身が選んでいいもの。

 

「どうするわたし。神の愛を享受するのか? 摩天楼の愛を胸に燃やすのか?」

「わたしは……」

「私は、わたしの決断を応援してるよ」

 

 私はスマホを差し出した。

 

「–––––」

 

 そうして、鳴り続けるスマホの着信ボタンを押した。

 耳に当てて、聞こえてくるのはあの上司の声。

 

『何をしてるんだね園田! さっさと出ないか! はあ……まあいい。すぐ会社に戻って別の資料を作成をし』

「嫌です」

『はあ?』

 

 私が拒否するなんて想像していなかったのだろう。上司の声がプルプルと怒りに震えているのが分かる。

 

「嫌ですよ。なんでこんな時間に呼び出すんですか……それに残業時間だってもう40時間越えてるんですよ?」

『それがどうした! さっさと』

「嫌です! 来て欲しいならもう少し自分の態度ぐらい見直したらどうですか!! 変更があるなら連絡があった日に伝えるぐらい社会人のマナーですよね! それがなんで二週間経った後なんですか! そんなんだから係長止まりなんですよ!!」

『なっーー! 君ね!! ふざけるな!!』

「わたしは行かないですから! 自分のミスぐらい自分でカバーしてください!!」

 

 吐き出すだけ吐き出したわたしは、叩きつけるように電話を切った。

 

「はあ……疲れた」

 

 でも、気持ちよかった。

 晴れやかな想いになった時、部屋の明かりがパッとついた。

 

「あ」

 

 目の前に立っているのは《わたし》ではなく、鬼さんだった。

 自覚すると急に心苦しさが喉を締め付ける。さっきまで私の愚痴を聞いていたのは紛れもなく鬼さんだ。《わたし》なんかじゃない。

『私の怒りを関係ない鬼さんにぶつけてごめんなさい』と頭を下げようとする前に鬼さんは口を開く。

 

「良かったです」

「え?」

 

 呟いたはずの鬼さんもキョトンとした顔をして胸に手を当てた。

 そして。

 

「うん。貴女の本心が聞けて本当に良かった。ちゃんと見つめることが出来ましたね、自分を」

 

 心の底から嬉しそうな瞳で私を見てくれた。

 

「ごめんね。恥ずかしいところを見せちゃって」

「カッコよかったですよ」

「ありがとう」

 

 鬼さんは私の頭をそっと撫でた。

 子供に戻った気分だった。

 何でもいい。お礼がしたいな。この不思議で優しい鬼さんに。

 

 

 

 

「夜風が気持ちいいですね」

「そうだね。うーーーんっ……はあ〜〜」

 

 お礼がしたいと鬼さんに告げた私は、小森の町の外れにある高台まで来ていた。

 寝る前にどうしてもここに来たかったそうだ。

 

「さっきはありがとう。秘密を受け止めてくれて」

「約束だもん。お母さん」

「ちょっとやめてよ。まだそんな歳じゃないよ」

 

 ハハハハッと2人で笑い合う。

 ここから眺める光景に圧倒されて心が熱くなる。いつも行き来しているはずの街が、時間や視点が変わるだけで良いものに見えてくる。

 

「鬼さんは夜景が好きなの?」

「マイブームです」

 

 鬼さんが目を瞑る。

 

「なにしてるの?」

「夜を感じています」

「なにそれ〜」

 

 鬼さんも冗談言うんだな。

 振り返ってみれば口にすることの殆どが、冗談みたいなことばかりだったけど。

 

「そろそろだな」

 

 目を開けて、腕時計を触った鬼さんは私の前に立つ。

 

「…………ッ」

 

 正面に立たれるとその整った顔を直視することになる。

 また見惚れてしまう。

 

「行くよ」

 

 ヒョイッと手摺に飛び乗った鬼さんが手を差し出す。

 それを私が掴むと–––––

 

「さあ最後だ!! 夜を楽しもうッッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「え?」

 

 

 

 

 

 

 気づけば私は夜空を飛んでいた。




 唐突に自語りを始めて、最終的に空へ投げ出されたOLさん(26)
 


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第十九夜 メイカー

 現在進行形で、園田 仁湖()は夜空を翔る星になっていた。

 

「なんなのおおおおおおおおお!?!?」

 

 夜空を舞う私の声が轟いた。

 きっと街中に響いたに違いない。それぐらいの大声を出した。

 え?

 なに? なにが起こったの?

 鬼さんと夜景を見に来たら……投げ捨てられた?

 

「死ぬッ!?」

「死なない」

 

 ふわりと、身体が浮力を得た。

 伸ばした手に再び暖かさが伝わってくる。

 

「大丈夫。この世は不思議だらけだ」

 

 私と鬼さんは空に浮いていた。何秒、何分か分からないがそれだけの長い時間、わたしたちは空を飛ぶ。

 

 人の常識から外れたこの状況に私の脳は追いつかない。

 

 大人を片腕で投げ飛ばす腕力ってなに?

 つまり鬼さんは本当に鬼なの?

 

 溢れる疑問を知らずに、その主である鬼さんは両手で私を抱えて夜空を見上げ叫んだ。

 

「見たまえ! この星空を!!」

 

 眼が有無を言わさずその光景を映す。

 それを見上げて、息を呑む。瞬間、胸の中から死への恐怖が吹き飛んだ。圧倒的な星空が広がっていた。

 空に遍く星々の光は余りにも真っ直ぐで、澄み切っていて、途方もなく美しくて、たちまち私はなにも言えなくなった。

 知らない世界が目の前にあるようだ。気圧されて、頭がくらくらする。澱んだ空なんて存在しなかった。

 

「凄い」

 

 思考が鈍るほどの絶景にそう漏らすしか私には無かった。

 ゆっくりと私たちは地上へ落ちて行く。

 

「ふぃ〜」

「……」

 

 着地したとき衝撃はなかった。

 しかし、あまりの出来事に鬼さんの顔を見て呆然としてしまう。

 

「どうだった?」

 

 死ぬと思った。

 けど、それ以上に綺麗だった。

 

「手荒だけど、これが一番貴女に見て欲しかった光景だから」

 

 鬼さんは後悔はしていないといった感じに笑う。

 

「もうちょっと心配してよ!? 腰抜けたよ……」

「あはは、ごめんごめん」

 

 しかし、私は彼が魅せてくれた景色には満足した。

 迷わない。それだけは間違いないから。

 

「でもこんなに夜空が綺麗に見えたのは初めて」

「そっか。良かったあ」

 

 鬼さんはホッと胸を撫で下ろす。

 

「僕もあの景色は大好きなので」

 

 彼の視線は月へ向かっている。

 そっか。本当に好きな物なんだ。

 

「もう一回。お願いできる?」

 

 私の望みに彼は笑って頷いた。

 

「もう一度だけですよ」

 

 高台まで勢いよく跳ねて戻って行く。

 明日からどうしようとか、もう仕事無くなっちゃうのかなとか。そんな気持ちなんて消し去るほど、私は夜を楽しみたい。

 でも、不安は片隅に残っていた。私を絡め取ろうとする恐怖はまだある。

 

「夢から覚めても、また逢えるかな」

 

 瞼を閉じて次の瞬間、ベンチで寝ていたりしたら、悪夢は続いたままなんだから。

 そんな私の心を読み取ったのか、彼は私の手を取って握る。

 

「君が望めば、僕はそこにいる」

 

 変わらぬ微笑で私を見つめて。

 

「僕は君の心の中にいるのだから」

 

 再び、高台から飛び立った。

 高く、高く。もっと高く、空へ舞い上がる。

 今日の最後の景色は満天の星空。

 私の中から不安は消えた。

 視界は暗転し続ける。彼が見せてくれた景色は、過去一番良い眠り心地を与えてくれた。

 

「夜で逢いましょう」

 

 

 

–––––そして、しばらく時間が経ち。

 

 

 

 

 目を開けると、そこにあったのはコテージの天井だった。

 私は白いふかふかのベッドの上で寝ていたのだ。シーツを払いのけて起き上がり、辺りを見渡す。

 

「夢じゃない」

 

 その事実に私は頬を緩ませる。

 今日もあの鬼さんに会えるかもしれないと思うと、とてつもなく嬉しかった。

 しかし、コテージの中を歩いてみても誰もいない。

 代わりに作り置きされた手料理と、綺麗に畳まれた服。

 そして、一枚の手紙。

『お嬢さん。昨日の夢はいかがだったでしょうか––––』と始まる内容。

 

「……」

 

 私はその手紙を鞄の中にしまうと、着替え出す。

 急いで、コテージの外に出る。

 

「いい天気」

 

 降り注ぐ太陽の光を手庇を作って防ぐ。

 見るとコテージのすぐそばに、一台のタクシーが停まっていた。そのタクシーに乗り込んで、行き先を伝える。

 するとタクシーは迷わず発進する。

 数十分後、目的地である私の会社に到着した。

 

「っ……」

 

 昨日のことがある手前入りづらかったが、心配ないと力強くドアノブを捻った。

 直後、物凄い視線を感じた。

 ウザい上司、人を駒のように使う同僚、多分昨日私がいかなかったせいで割を喰らったであろう後輩。

 たじろぎそうになるが、深く呼吸をしていつもの席へ。

 心配することなんてない。

 

「園田ァ–––––!!」

 

 私の行手をクソ上司が塞ぐ。

 青筋を立てて、ギチギチと歯を鳴らす。

 

「よくも私のことをコケにしたな! お前はクビだ!!」

 

 威勢良く息巻く上司が腕を振り上げた。

 

「ッ」

 

『もし僕を信頼し切ることができたら、会社に行ってみてください』と手紙には書かれていた。

 だから私は安心してここに来た。

 不安なんて無かった。だって《鬼さん》はいるのだから、信頼できる。

 振り上げた掌を、上司が振り下ろす。

 その瞬間、ガシッと音がした。私と上司の間に伸びてくる腕。

 

「誰だ!!」

 

 上司の腕を掴んだのは。

 

「…………誰?」

 

 誰も知らない黒いスーツの男だった。

 その男は淡々と自身の立場を告げた。

 

「労働基準監督署です」

「労基ッ––––!?」

 

 

 なんで?

 

 

 

 

仁湖(にこ)様。これからの御成長、期待しております」

 

 軽快な金属音が手元で鳴った。

 頭上を越えてコインが舞い、夜の街に銀色の硬貨が煌めいた。速力を失って、目の前に落下してくる。

 硬貨を掴み取って、最後の文を紡ぐ。

 

「月の狐より」

 

 ズボンのポケットに入れていたスマホが震える。僕はスマホを取りだして、画面を見てみるとそこには《春樹(はるき)さん》の文字。

 俺は、春樹さんがかけてくるんだと思いながら電話に出る。

 

「吼月です」

『お久しぶり吼月くん』

 

 電話の奥から聴き慣れた男性の声が聞こえた。声からは疲弊しているのが伺える。恐らくはここ最近、仕事に忙殺されていたのだろう。

 

「お久しぶりです春樹さん。えっと……以前にお会いしたのは俺が名古屋で顔を見せに行った時でしたっけ?」

『そうそう、あの時のお土産美味しかったよ。それでごめんね。夜遅くに電話して』

「いいですよ。ちょうど起きてたので」

『夜更かし? いつも21時には寝る健康体質だったのに。夜遊びでもしているのかい?』

「夜遊び……そうですね」

『へえ––––吼月君が。良いことがあったんだね』

 

 冗談まじりに聞いてくる春樹さん。

 俺がそれを認めると、春樹さんは夜遊びを否定することなく、ほどほどにねと釘を刺してくれた。

 一呼吸置いて、春樹さんが話題を変える。

 

『今回の件。うまくいったよ。君が持ってきてくれた音声が決め手になった』

「当然でしょうね」

 

 音声。仁湖さんとその上司の電話のことだ。

 

『話によると朝も暴力振るおうとしたらしいよ』

 

「仁湖さんにですか?」と尋ねた。

 春樹さんは確認するように呟いた。

 

『園田仁湖。そうだね。見計らうように現場入りした労基署の人に止められたそうだけど』

「良かった」

 

 仁湖さんに危害が及ばなくてホッとする。

 

『そのまま神崎さんたちも会社に来て、上の人たちのキチンとお話しして今日だけで大方の事は決まったそうだ』

 

 春樹さんの言う《神崎》というのは弁護士だ。

 労基署の立ち会いもあったことで、他の違反について浮き彫りになるだろうとのこと。その際は、他の労働者とも話をして、会社へ訴えを起こしていくつもりだと神崎は口にしていたそうだ。

 

「ひとまず区切りはついたんですね。……なら、神崎先生が直接連絡してこればいいのに」

 

 俺はてっきり神崎から電話が来るものだと思っていた。以前、バーにいた時に電話をかけてきたのも神崎だった。

 

『神崎さんは君に会いたがってたよ。今度顔見せに行ったら?』

「時間があったら行きますね」

 

 こっちからしたら会う必要なんて全くないのだが。仕事に専念して、今回の件を完全に片付けてほしい。

 

「USBは名古屋の方の事務所に送ればいいですか?」

「いや東京の方でいいよ。塁も来週まではそっちにいるから」

「そうでしたか。では、数日の内に届けますね」

 

 それでは、と俺たちは通信を終えた。

 夜空を見上げる。今日は一段と星々が輝いて見える。大きく明るい月は、俺の心の充足感に等しかった。

 当然だ。俺は信頼の印となるモノを目撃したのだから。

 俺の想いを正しく表す月に影が差し込む。

 

「調子はどうだい」

「ああ、心地いいよ」

 

 俺の後ろにハツカがスタっと降り立つ。

 

「成功したの?」

 

 俺は頷いて、結果を示す。

 仁湖さん、キミのおかげで俺は見つけたよ。

 ハツカを眺めて、高台での会話を思い出す。

 

 

 

 

「俺をマネキンにしたいって言ったよな。いいぞ。ハツカのマネキンして欲しい」

「さっきは嫌がってたのに突然どうしたの?」

 

 ハツカは訝しみ、冷ややかな眼で俺を捉える。格闘–––もといじゃれあい–––をしながら拒否したことを『やってほしい』と告げているのだから。

 

「頼まれごとがあってな。だから服を選んで欲しい」

「う〜……ん。なんで?」

「だってハツカに頼めば俺に似合う服選んでくれそうだし」

「そこはいい。僕が聞いてるのは、どんな頼み事でそうなってるのかってこと」

 

 俺は腑に落ちて数回首を振った。

 てっきり欲求のままに、手をつけてくれると思っていた。『僕がしたいから良いよ』ってぐらいには軽く手伝ってくれると。

 

「都雉って生徒が学校でどんよりしていてな。声をかけたら、親が会社のことで困ってるそうで、原因は働いてる会社がめちゃブラック企業で心が潰れかけてるからでした」

「君に背負えることじゃないよね?」

「そこで知り合いの弁護士を紹介した。相談だけなら無料だったし。そしたら、会社を訴える方向で話が進んで……結果、その証拠集めのために協力することになった」

「厄介ごとってそういう」

 

 冷ややかな目に合わさって口元が歪む。ハツカが俺を見て冷笑する。よくやるよホントって感じで呆れているのか、また別なのか。

 

「厄介ごとは別だよ。で、タイムカードや業務内容については親が抑えたそうなんだけど、もう一押し欲しいとのこと。

 そこで都雉の同僚である《園田仁湖》と接触する必要が出てきたんだ。上司が色目を使っていて、セクハラパワハラを受けているのがその人らしい」

「……? だったら直接その人に言って協力して貰えば」

「問題がそこだ。園田仁湖は人当たりはいいのだが、気質的にイエスマンで反論できないタイプ。都雉からすれば、相談したらこの話が広まっていくのでは?という懸念の方が勝ったらしい」

 

 考えすぎな気もするが、クライアントの意向なら仕方ない。

 なんともくだらない話だ。今回の件では救う対象にもなる園田は、逆にその被害を受けている状況故に信用されないとは。

 

「そこで園田仁湖に伝えず、上司と電話してもらいその命令を断ってもらう」

 

 懐から俺は緑と黒でデザインされたUSBメモリを取り出して、彼に見せる。

 

「この中には特製のアプリがあってね。挿せば自動的にアプリがインストールされ、双方の会話を録音できるんだ。これを使ってデータを抜き取る」

「それがあっても電話が来た時にアプリを起動できなかったら意味がない」

「そう! そうだよ! そこが今回の難所なんだ。弁護士たちも無理だろって言ってたよ。話もせずにそんな怪しげなアプリを使ってもらうなんて」

 

 ハツカはこの作戦の不可点を突いて、バッサリと切り捨てる。

 いくら信じられないとはいえ、相談してしまった方が簡単だ。利害だって一致するのだから。

 

「でも俺は知っている」

 

 ハツカに向かって指をさす。

 

「ハツカのように相手に入り込み、堕とすことができればそれも可能だと」

「僕のやり方なら園田仁湖の思考やスマホの権限ぐらい掌握できる。けど、君の意図も目指すところも違うだろ?」

「そりゃそうだけど。自分の意思で遂げてもらう、それがゴールだ」

 

 もし上司のことが外部の影響で片がついたとしても、それではきっと負った傷は治らない。傷もそれだけではないはずだ。

 自分の意思で進み、自分の行いと時間で癒していく必要がある。

 

「園田仁湖にできると思うのかい? 話を聞く限りでは無理に思えるけど」

「出来るさ」

 

 ハツカの忠告を俺は否定する。

 今回限りは確証はある。

 

「ハツカのおかげで俺は出来たからな!!」

 

 ハツカがまるで鳩が豆鉄砲を撃った場面を見たかのように目を丸くする。

 俺はハツカに出会い、悩みを打ち明けた。そしてハツカのおかげで覚悟を決めて、自身の弱さを乗り越えようと挑んでいる。

 今の俺がいるのは間違いなくハツカのお陰だと告げる。

 

「俺がその人にとってのハツカのようになる事ができれば可能なはずだ!」

「……ふ〜〜ん」

 

 ハツカは髪を弄りながら、睨みつけてくる。

 

「それに俺にとっても大切な実験なんだ」

 

 俺はハツカに悩みを打ち明けた。すなわち己の秘め事を相手と共有するということ。

 もし、俺がハツカになりきることが出来たら、園田は俺に対してどんな信頼をするだろうか。俺は園田に対して信頼し切っていくことが出来るのだろうか。

 

「俺は知りたい。だから、俺の手でやる! 秘密というモノが信頼しきる印のひとつかを試してみる」

「困ってる人を利用するなんて君って結構わがままだよね。酷いやつって言われない?」

「なんで? 俺は信頼を試すだけだぞ」

 

 あと、ハツカにだけはわがままって言われたくない!

 

「けど、服だけでいいの? せっかくならプランも練ってあげるのに」

「ありがたいけど、今回は俺のイメージでやらせてもらうよ。あの日のハツカの行動を参考にさせてもらう」

 

 ハツカに出会った日にしてもらったことを振り返る。

 まず第一に分かっているのは、俺はハツカが好みだ。いや、見た目と雰囲気の話だぞ? 多分あの日、のこのこ着いて行ったのはそこが大きいと思う。

 だから、身なりについて聞きたかった。

 残りはこれから考えていく。

 

「ハツカが何を考えて俺と……僕と一緒に居たのか知りたいから」

「ここで答えを教えてあげようか」

「俺は宿題は解答を見ずにキチンと解く派なんだ」

 

 今度試してそれで分からなかった時に答えを聞くとしよう。

 

「なら、ひとつだけヒントを出そう」

 

 ハツカは人差し指を立てた。

 俺を試すような微笑みで、自論を口にする。

 

「園田仁湖を堕としたいのなら、ショウくんをその人の心の中に住まわせろ」

「心の中に?」

「ああ、それが堕とすための第一歩。信頼させる為に必要なことだよ」

 

 どういう意味だろうか。

 精神的な比重を他のものではなく、俺に傾かせろってことか?

 そういえば、悩みを打ち明けた時も俺とハツカだけだったな。俺と園田だけの密室の空間を作った上でことを進めろと。

 

「なるほど、分かった!」

「……まあ応援してるよ」

 

 月を見上げるハツカはまるで俺を嘲笑うかのようだった。けれども、とても面白そうで、俺がどうなるのか楽しみにしているように見えた。

 

「じゃあこのまま店に行こうか、マネキンくん!」

「程々にお願いしますね」

 

 るんるんと鼻歌を歌って俺を着せ替え続けるハツカのマネキンとして夜を過ごしていた。

 

 

 

 

「そうだ。コテージ貸してくれてありがとう」

「いいよ。使ってなかったし。それで実験は上手く行ったのかい?」

「ああ! 成功だ」

 

 俺はこの考え方に納得した。

 

「仁湖さんは俺と秘密を共有し、夜空を見てから満足げに眠りについた。誰とも知らない怪しい奴と秘密を共有して、しかも幸せそうに眠るなんて普通は出来ない。自ら秘密を明かし、そして相手の想いも胸に秘めること。それこそが信頼の印になる––––!!」

 

 間違いない。

 俺は今日、知った。秘密こそ、信頼の印になり得ることを!!

 

「これなら俺は克服できる。俺は俺を超えれるぞ!!」

「本当にそうかな?」

 

 うかれている俺にハツカは待ったをかける。

 

「……なんだよ」

 

 水を刺された俺はちょっと不機嫌に顔を歪めてしまう。

 

「秘密を相手に打ち明ける。それは相手を認めたからだね」

 

 その事についてはハツカも同意した。

 

「それなら僕たちは? シュウくんは別に僕を信頼はしてる?」

「……してる」

「だったらなんで僕の前で素直な君でいてくれないの?」

「ッ–––」

 

 俺はそれに返すことができなかった。

 時折顔を出すことはあるが、二人きりでいてたとしてもずっとは見せていない。

 

「だって、アレは……ほら、お前に嫌な気持ちに」

「僕の頬をつねっておいて何を今更。変に顔色窺われる方がずっと嫌だよ」

「それもそうだよ、な」

「仮に秘密を打ち明けることが信頼だとして、ショウくんはなんで僕に話したの?」

「……それは」

 

 なんで俺はハツカに弱音を話したんだ?

 元気にしてもらったからか。いや、関係ない。その場凌ぎをしただけだ。ふたりきりだったからか。違う、そんなこと2人きりだからと言って話すわけでもない。だったらなんで仁湖さんは俺に秘密がバレても文句を言わなかったんだ。

 どうして無邪気な僕も見せたんだ?

 元々僕の方を見られてたから。言われたままにやったから。無知だったから。

 別に信頼はしていないよな。

 

「ショウくんさ。逆に、僕が君を《信頼した。もう殺さない》って言ったら、信じきれるかい?」

 

 実際どうなのだろうかと思い、『ああ』と色良い返事を口にする。

 

「っおええ」

 

 と同時に、強烈な眩暈と胃の中が逆流しそうなほどの吐き気を催した。

 

「ぅぅえ……」

「やっぱり」

 

 ハツカは予想できていたように肩をすくめる。

 完全な勘違いなんだ。じゃあまた別のを考えないと。

 

「正解だけどね」

「––––ッ」

 

 風が騒がしく渦を巻き音を立て、カラスたちが慄くように羽ばたいて離れていく。不意に水を浴びたかのように心が震える。

 ハツカが俺を見つめている。いつものように俺を見られているだけのはずなのに、身体の隅々まで血の気が引いたように青白く、冷たくなる。

 あの時と同じ、美しいと言えるほど狂気的な瞳に俺は吸い込まれる。

 

「君と契約が成り立っているのは、君が僕の眷属候補で、僕が面白がっているからだ」

「それで?」

 

 俺はそれ以外なにも言えない。だって、本当にそれだけの関係だ。

 負けないようにハツカへ微笑み返す。

 

「僕が君から興味がなくなったら殺す。僕は吸血鬼(僕ら)の為なら君を殺すつもりだよ」

 

 だったら––––と、思うだけ。

 ハツカは優しげに笑い、縛られるような雰囲気を解いた。

 

「安心しなよ。相手がこの僕なんだ。君は吸血鬼になる、ただそれだけだ。死ぬことはない」

「相変わらずの自信だな」

 

 そんな自身に満ちたハツカは輝いてみえた。

 

「さて、優しい優しいこのハツカ先生が迷える狐に、ちょっとだけ答えを教えてあげよう」

 

 ハツカがゆっくりと近づいてくる。

 殺すのか、殺さないのか。どちらなのか俺には判断できない。

 ハツカの余裕からかんがえると殺さないかもしれない。でも、吸血鬼としては今後害になる可能性がある俺を殺すかもしれない。

 結局、信じられていない。

 

「僕が出したヒントは覚えているよね」

 

 俺は小さく頷いた。

 覚えている。だから実践してきたよ? 間違っていたの?

 

「園田仁湖が君を信頼した。そこは間違ってない」

 

 だったらなんだんだよ。

 

「けどそれは秘密を明かしたからじゃない」

 

 ハツカが俺を締め付けるように抱きついた。

 

「キミが園田仁湖にとって他人じゃなくなったってことさ」

 

 首に痛みが走る。快感ともに全身を駆け巡り、熱を浴びる。

 園田仁湖はどうやって俺を信じきったんだよ。

 

 

 

 

 

 殺されるかもしれないというのに、俺は心地よかった。

 

 

 

 

「今回は失敗だったね。でも、また創ってみればいいじゃない。それが実験の醍醐味でしょ? 焦らず行こうよ友達」

 

 もし出来たなら僕に見せてね、と俺の背を押した。その激励は同時に、証なんて存在しない、と俺に予感させた。




 こんなブラック企業ほんとにあるんですかね……?
 ハツカ様については理性的だし感情に走らないタイプだけど、躾のためなら殺気を普通に飛ばすイメージが自分の中にある(主に3眷属達への対応からだけど)。

 さて、ここで一区切り。
 次から三話に入ろうと思います。
 バトル要素出したいな!夜守くん出したいな!タグ回収頑張ります!!


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第3話 ドープアップ
第二十夜「鬼ごっこ」


 Bar(バー)《CLEAR》のカウンター席でオレンジジュースのストローに口をつけて、すぐに離す。

 店内を見渡すと人は少なくちょうど客の波が引いたころだと分かる。だからか、以前の時のようにマスターは、吼月ショウ()の前でグラスを拭きながら話しかけてくる。

 

「うまくいくと思ったのにな」

「蘿蔔ちゃんとのこと?」

「アイツに限った話じゃないですけどね」

「今日は一緒じゃないんだ」

 

 ここにひとりで来たことに意味はない。ひとりなのは、単純に今日はハツカと顔を合わせられていなかっただけだ。夕方にハツカにラインしてみたところ、今日はあの3眷属たちと遊ぶとのこと。

 いつも俺ばかりハツカと一緒にいるのも申し訳ないので、今日は3人と遊んでもらうことにした。純粋に遊んでるんだろうなあ。

 

 てなわけで、今日は俺ひとりなのだ。

 

 俺からしても、ちょうどよかった。

 頭の中で整理をしたかったからな。

 

「それでどうなんだい? 蘿蔔ちゃんとはダチになれたのかい」

「いやあ。ちょっとまだですね」

「ま。人間関係はそう上手く進まないよ」

 

 マスターには話が通る程度にはこちらの情報を開示している。

 だから今日は《CLEAR》に来ていた。

 ほら、勉強だって他の人に教えると自分がその事柄についてどういう理解をしているか確認できるだろ? 自問自答という手もあるが、自分じゃない他人とやり取りすることは新しい情報と対面できる機会が増えるメリットがある。

 

「心を通わせたのがダチだっけ?」

「なので心の奥に潜むもの、秘密が心を繋ぐアイテムだと思ったんです」

 

 望んでいなかった偶然でそれぞれの秘密を知ったのが俺とハツカだ。それに俺が弱みを話した理由はない。あったのかも知れないが、知る余地は俺にはない。

 

「なんでそんなに証に拘るのさ」

「あった方がないよりいいでしょう」

 

 その証があればきっと不信感を抑え込むことだって出来るはずだ。そのためには俺への証も、相手への証も必要だ。

 心ふたつに証ふたつ。これだけあればきっと抑えつけられる。

 

「そりゃその方が安心はするだろうけどさ。人生、アンバランスさを楽しむのも良いものだと思うけどな」

「誰も彼も疑い続けるような人生なら死んだ方がマシだと思いますよ」

「吼月くんは肩に力が入りすぎだ。もっと気楽に行こう」

「気楽に、か」

 

 ハツカも焦らず行こうって俺に投げかけてくれたな。

 

「俺、そんなに焦ってます?」

「う〜ん……焦ってるってほどではないけど、重く受け止めすぎだとは思うよ。君ぐらいの年代ならそんなこと気にせずに遊べばいい。人との関係なんて数十年生きても分からないものだよ」

「マスターでも分からないことあるんですか?」

「もちろんだとも」

 

 マスターは短い言葉で認めた。

 

「前言った弟なんて『生徒とゲーム作るのたのしー!』っていう癖に次の日には『アイツら嫌い!』って言い出すんだぜ? なんて声かければいいのか分からん」

「ま、まあ生徒なんて、文句だけは一丁前で相手のことなんて考えてないですし……」

「今でいう良い先生って生徒に都合のいい教師の事だろ? アイツらが何のためにいるのかわかってない子も多そうだよな」

「弟さんがそう言ってたんですか?」

「まあな」

 

 教師って大変だな……。

 ブラックな職場なのもそうだし、もう少し教師への眼を広げておくか。

 

「まあ焦らなくてもいつかは出せる時が来るんじゃない? 若い頃からそうやって向き合えてる君ならさ」

「だといいんですけどね」

 

 期日は一年後なんだけどな!

 なんてことをマスターに話せるわけもなく、俺は笑ってから、またオレンジジュースに口をつけた。

 

「でも少しぐらいは進展したんじゃないのかい?」

「……友達にはなりました」

「十分、十分!」

 

 マスターは俺とハツカの仲が深まったことに喜ぶ。

 しかし、俺が勝手にそう呼んでるだけだろうから、なんとも言えない気分になる。ハツカは別にそんな気はないと思うし。

 

「自分がそう思えるようになるだけ十分な進歩だよ」

「それは流石に自分本位では?」

「人への感情なんて基本自分勝手なものだよ。相手に受け取って欲しいなら、伝え方は考えないといけないけどね」

 

 そこに関しては完全に同意だ。

 

「吼月くんはさ。蘿蔔ちゃんとどんな関係になりたいの?」

「それ前にもききませんでした?」

「あの時はキミのアバウトな目標しか訊かなかったからさ。キミは蘿蔔ちゃんと今後どうしていきたいのか訊きたい」

 

 首を捻りながら考え込むが、やっぱり浮かんでくるのはダチになりたいという関係だけ。

 

「やっぱりダチとしか」

「ダメダメ! そうじゃなくてさ。もっとこう……具体的にさ!」

「具体的にって」

「3年後も一緒にいたいな〜とか、明確な姿をイメージするだけでいいんだ。そうすればもっと仲良くなれると思うよ」

 

 俺自身が今後ハツカとどうなりたいか想像するか。

 なんなんだろうな……俺はアイツとどうしたいんだろうな。

 

「友達になってるなら心配はしてないけどね」

「ゆっくりやってきますね」

 

 俺はオレンジジュースを飲み干して、店を後にした。

 

 

 

 

「くッッら!」

 

 今日はもう特別やることもないので、自宅への帰路についた。とはいえ、ただ帰るだけではまた眠れなくなる気がしたので、いつもは通らない灯りの少ない道を選んで進んでいた。

 月明かりだけが照らす道の様子は、マヒルたちが以前肝試しに学校な七不思議?の話を僕に思い起こさせた。

 

「ッたく……」

 

 落胆した心がため息をつく。

 秘密を共有すること。それが信頼の証になるのだとマヒルを見て考え、仁湖さんを見て確証を得たつもりだった。

 けれども、秘密を明かすことはあくまで結果でしかなく、大事なのは何故そうしたのかだった。つまり、秘密を明かすことそのものは代えのきくものだということだ。

 

「問題はその《なぜ》が分からないんだよな」

 

 僕自身、はっきりとした理由もなくハツカに悩みを打ち明けている。逆に考えればこれを言語化できれば、ゴールは目前な訳だ。

 

「出来てたら苦労しないんだけどな」

 

 またため息が出そうになる。

 もし仁湖さんに出会うことが出来たなら、なぜ僕に信頼したのか教えてもらうことができるかもしれない。

 しかし、そんなことはないだろう。

 彼女はいま正常であるべき会社の在り方を取り戻しつつある場所で働いている。こんな時間に出歩いている訳がない。

 

「イメージ……イメージね」

 

 いけない。暗い気持ちになっていたら心の問題なんて向き合えることはできない。

 こんな時こそ、夜空を見上げて––––

 

「え?」

 

 ヒトがいた。

 暗闇の中でまるで底なし沼の水面に立っているような人がいた。

 最初はハツカかと思った。けど、違うとなんとなくだが分かる。ハツカならもっとこの薄い月明かりでも、もっと輝かせてみせるだろうという華がある。

 しかし、目の前にいるヒトはそうじゃない。

 ポツンとただそこに佇んでいるのが当たり前と思わせる。闇の中の黒色が集結して人型を成していると脳が錯覚するほど自然にそこにいた。

 

「キミが吼月ショウくんだね。話がしたいの」

 

 人型が淡々と俺に問う。暗闇に反響する綺麗で甲高い声から相手が女性であろうことが推察できた。

 しかし、抑揚のない声はとても不気味だ。

 

「誰かな? 名を名乗れ、話すのはそこからだ」

「……カオリだよ」

「吼月ショウだ」

 

 呟く彼女の声に返すように、俺も改めて自分の名前を伝える。

 この暗さに目が慣れ始め、人型の顔を薄らと認識する。

 

「場所を移そっか」

 

 その人型はかげろうのような口の歪みをこちらへ見せる。俺を手招くと闇の中でなにかが波打ってから顔が消え、人型も闇の中へと消えていく。

 この街の七不思議みたいなやつか?

 いや、吸血鬼と考えるのが自然か。

 

「面白いッ!」

 

 心霊現象にしろ、俺の知らない吸血鬼にしろ俺の中の本棚を埋めてくれる。ただうちに帰るだけよりも、こうした刺激があるほうが楽しい。

 月明かりさえ当たらない暗闇に俺の身体を放り投げた。

 

「キミはなんであの子と一緒にいるの?」

 

 前か。後ろか。上か。

 右か。左か。

 音が反響したように全体から聞こえて、どこにいるのか掴めない。

 

「遠回しに言うな」

「なんで蘿蔔ハツカと一緒にいるの?」

「お前も吸血鬼か。それとも探偵の仲間か」

「質問しているのはワタシ」

「答えて欲しいなら自分の立場ぐらい明らかにしてくれ。それで話せる範囲も変わる」

「……吸血鬼」

「ハツカの同種か。それでアイツといる理由だったな」

 

 律儀に答えてくれるあたり人は良さそうだと考える。

 それも本当かどうか分からないが。

 さて、どこまで話すか。ひとまず当たり障りのないところからだろうな。

 

「ハツカに血を吸われた。そして吸血鬼の存在を知ったから一緒にいる」

「吸われた? 無理矢理?」

「無理矢理ではない、かな。人の世に隠れて闇に紛れて血を吸うのがお前たちだろ。ただ狸寝入りしてた俺が血を吸われたのに気づいただけだ」

 

 一対の足音が俺の右側で鳴る。目線をやるがそちらにはもう居ない。

 

「やっぱり無理矢理」

 

 なんだコイツ。

 バレる吸血をしてるハツカに文句があるならともかく、恋してない俺が吸われたかどうかなんて吸血鬼が気にする必要がないだろう。

 

「吸血鬼がそれを心配するのか?」

「気にする者は大勢いる。吸血鬼の行いによって人の世が乱れることはあってはならない」

 

 彼女の返答に俺はフフッと小さく微笑む。

 

「笑ってる?」

「そりゃな。アンタ、良い鬼って呼ばれるだろ」

「悪人じゃないし」

 

 悪鬼じゃないのかというツッコミを入れたかったが、のどもとで俺は言葉を呑み込んだ。

 

「でも珍しい。蘿蔔ハツカの眷属はみんな彼の奴隷になってるのに」

「久利原たちのことか、安心しろ。俺は奴隷にはならないから」

「眷属になってるのに?」

 

 今度は足音が俺の左側で鳴る。

 

「いない」

 

 にしても、俺がハツカの眷属になっているだと?

 

「なあ。そろそろ顔を見せてはくれないか? 鬼ごっこも楽しいが、事情を知っている者同士。面と向かって話し合おうぜ」

「顔は見せないのがワタシのルール」

「暗殺者かなんかなの?」

 

 彼女は違うと否定した。

 

「吸血鬼同士の争いは泥試合もいいところだから、手荒なことはしない。代わりにワタシはキミに顔を教えない」

 

 顔がバレた後で追撃されたら敵わないと彼女は言う。

 

「こっちの顔は知ってるくせに」

「警戒してる相手に不用意には近寄らないのも自衛のため」

「警戒?」

 

 なんでだ。吸血鬼と人間とのスペックを考えれば警戒する必要なんて殆どないはずだが。

 それに俺が彼女と敵対する理由が分からない。

 

「俺、カオリに何かしたか?」

「ワタシにはしていない。けれども、貴方たちは他から見ても面倒な吸血鬼なの」

「勝手に面倒な奴らって括られても困るのだが」

 

 俺まで吸血鬼扱いされてて困惑する。

 別に俺は吸血鬼でもないのに。

 

「カオリがわざわざ俺に会いに来たのは確認のため?」

「そう。そして忠告」

「なにかな?」

 

 と俺は首を傾げる。

 

「吸血鬼の力を人の前で使うのはやめておいた方がいい。なんのつもりか知らないけど、眷属にするつもりもない人にその力を無闇に使えば他の吸血鬼たちから粛清される」

 

 なんか話が噛み合わないな。

 今のところ彼女は《俺はハツカの眷属である》《警戒している》《俺が吸血鬼の力を使っている》と考えているわけだ。

 そのことから考え出せるとしたら––––

 

「このあいだ高台にいたのか?」

 

 投げかけた質問から数秒後、闇に波が立つ。

 彼女が首を上下させたのだ。

 

「なるほど。そういうことね」

 

 人がいないことは確認してたはずなんだけどな。だからと言って、今更どうこう言えるものでもないし、見られてしまったのもは仕方ない。

 しかし、訂正だけはしておこう。

 

「カオリ。キミは勘違いをしている」

「なにを?」

「俺は吸血鬼じゃない。人間だ」

 

 俺の正面に闇の奥に二つの光が映った。それは驚いて見開いた彼女の目だ。

 釣れた、と俺は思った。

 

「あの高台で園田仁湖を投げた力は吸血鬼以外ありえない」

 

 そこまで調べあげられているのか。

 俺ひとりのためによくやるな。感心するよ、アホらしい。

 

「だから吸血鬼、か? だったら近寄って俺の匂いを嗅げばいい。吸血鬼かどうかは匂いで判別できるんだろ」

 

 わざとらしく鼻を触ってみせた。

 目を開いていた彼女が、今度はお地蔵さんのように眼を細めて俺を疑う。ジロジロと脚先から頭のてっぺんまで、俺の身体を這う視線には気味の悪い感触を覚える。

 

「だったら反抗の意思はないと示して」

「これでいいかな?」

 

 俺は両手をあげて手を振った。

 

「ダメ。ワタシの指示に従って。両手は頭の後ろで組んで地面に膝をついて。できれば額を地面につけて欲しい」

「用心深いのはキミの良いところだが、もう少し相手が呑める要求にした方がいい」

「……じゃあ手だけで許してあげる」

 

 彼女の指示に従い、俺は両手を頭の後ろで組んだ。

 そこから彼女はゆっくりと歩き出す。双眸が近づいてくることで俺はその距離を把握できる。できればこちらが相手の顔を視認できる距離まで近づいてきて欲しい。

 10メートル、5メートルとどんどん近づいてくる。

 あともう少しでその顔を拝める。

 

「ッ––––」

 

 そう思った時、彼女の眼が消え同時に風がさざめいた。

 俺が認識した時には、後ろでスタっと軽い足音が鳴って両手首に痛みが走る。彼女が片手で俺の手首を掴んだのだと分かった。更に彼女は左腕で俺を抱き寄せ身体を背後から密着させて、振り向けないように俺の身体を固定する。

 

「これでキミは何も出来ない」

 

 確かに、これでは裏拳や回し蹴りも出来ない。最悪、変なことされたら股でも蹴り上げてやろうか。吸血鬼もそこが急所になるのか確かめてみたいし。

 

「そんなに顔みられるの嫌なのか?」

「なにが見られたくないかは人によるわよ」

 

 顔を見ることはできなかったが、声がする位置から考えれば俺より高身長。手足は感触だけだが結構華奢だ。

 それでいてこの握力なら、吸血鬼であることは間違いない。

 

「それもそうか」

 

 俺の言葉を無視して彼女は首裏に顔を近づけて鼻を鳴らす。生暖かい彼女の息が俺に当たり、背中にゾワゾワした感覚を奔らせる。

 ハツカからやられる時とはまた違う感触だ。

 女性に触られて興奮しているとも自覚できないし、なんかハツカの方が良いなと思いながら彼女に嗅がれ続ける。

 ハツカって相手に抱きついたりするの上手いんだな。

 

「……吸血鬼の匂い。でもこの子のじゃ、ない? 人間の匂いもちゃんとする」

「ああ。最近ハツカといること多いし、一度一緒に寝たからアイツの匂いがついたのかな」

「ねた……寝た––––ッ!?!?」

「やっとまともな反応をしたな」

 

 恥じらうように驚く彼女の声は“生きている”と俺に主張してくる。

 

「いや、え? キミ、男の子だよね?」

「俺が女に見えるか」

「蘿蔔ハツカも男だし……え? え? 君たちふたりって身体の関係なの?」

「……? まあそうだな」

 

 血を吸うのに身体を交えてるからそう言えるだろう。

 

「た、爛れてるッ!!!?」

「おい待てどこまで考えてる」

「だって男の子と男の娘だなんて……いやね! 良いと思うよ!」

 

 闇夜に響く彼女の声は妙に色づいている。

 コイツどこか捻じ曲がった考え方してるな?

 

「ただ吸血されてるだけだぞ」

「え?」

「だ、か、ら。俺はアイツの眷属候補で血を吸われてるだけだ」

 

 俺の後ろにいる彼女が息を止めて、硬直する。暫くして心臓が再び血を運び出したかのように動き出す。

 

「あ、あぁ〜〜……そういうこと。そういうことね」

 

 納得したのか彼女が首を振っているのがなんとなく分かる。

 吸血鬼の中でもその手の文化ってあるんだな。

 

「それでどうなんだ。俺は人間か? 吸血鬼か?」

 

 彼女の判断を待つ。手首を掴む力が強くなって、俺の血を巡らす脈打つ力も高まっていく。

 ドクン、ドクンと心臓が血を流す。

 

「……キミは人間だよ」

 

 噛み締めるように呟く彼女はやはり納得していないようだった。

 そしたら次に聞いてくることは。

 

「だったら、あの力はなに?」

 

 そうなるのは当然だろう。

 

「アンタが顔を見せてくれたら考えてやっても良いぞ」

「……っ」

「おッ、と」

 

 心底顔を見られたくないのだろう。

 彼女は俺を突き飛ばして距離を取る。大の字になって地面に飛び込む俺は、受け身を取りながら数回転がってから止まる。

 見上げるように彼女の目と視線を合わせる。

 

「交渉決裂ってわけだ」

「答える気なんてない癖に」

「酷いな。そっちが素顔を見せてくれないから言ってるだけじゃないか。ギブアンドテイク。情報交換の基本だろ?」

 

 服についた土と埃を払って立ち上がる。

 耳に入る彼女の声は、先ほどの気を昂らせた少女のようなものはなく、冷淡な仕事人の声に戻っている。

 

「あの力は狐の幻術ぐらいに思っててくれ」

 

 右手で作って狐を鳴かせると、訝しむ彼女の目がより鋭くなる。

 見つめ合うこと数秒後、諦めたのかゆっくりと彼女の眼が離れていく。

 

「なんだ、帰るのか?」

「今はもう聴けることはない」

「カオリも吸血鬼なんだろ。血を吸わなくて? 俺の血は美味しいらしいぞ」

「……ワタシは人から血を吸わない」

「そんな吸血鬼もいるのか。面白いな」

 

 つくづく変わっているというべきなのか。

 しかし、俺自身、ハツカや3眷属以外の吸血鬼と関わりを持っていないから断定はできないか。

 

「最後にひとつだけ」

「なんだい?」

「身の回りには気をつけて。キミがやったことがみんなにバレれば殺しにくる。吸血鬼は恐ろしいから」

 

 それだけ伝えて彼女の気配は完全に消えた。

 

「吸血鬼は恐ろしい、ね」

 

 本当にそうなのかな?

 

「サンプルが少ないな。キクさんに七草……あとはハツカの仲間に会えたらいいかな」

 

 さて、早く家帰って学校の準備でもするか。

 闇に俺の足音が強く鳴り渡った。




【報告】
 皆様。申し訳ないのですが、今月と来月は私事で予定があり、投稿できない日が多々あります。
 何卒ご理解のほどよろしくお願いします。


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第二十一夜「焦がれてる」

 蘿蔔ハツカ()は女王である。

 正確には()王ではない。しかし、その性別を覆い隠すほどの美しさから他者は女王と称する。

 僕自身、どう呼ばれようと構わない。王様であろうが、女王様であろうが。そんなことはもう瑣末ごとだ。

 

「ハツカさま」

「あ〜ん」

 

 僕の眷属である久利原の上に座り、宇津木と時葉から差し出されたリンゴを口に含んで咀嚼する。今もこうして3人の吸血鬼を侍らせて夜を楽しんでいるのだ。

 

『俺はどうしようもねえバカでクズだけど……そんなことは絶対にしねえ。どうして……どうして誰も信じちゃくんねえんだよ!!』

 

 テレビの中で草臥れた白いシャツを着た青年が泣き崩れた。青年はやるせない怒りを握った拳で地面に叩きつける。

 

「…………」

 

 僕には最近悩みがあった。

 ひとつは自分の正体を知った少年、現眷属候補の吼月ショウについて。

 人が吸血鬼になるためには《人は吸血鬼に恋をしなければならない》。暗黙の了解であるものの掟として《吸血鬼の存在を知る人間は吸血鬼になるか、殺すかの二択》というものが存在する。

 僕は未だ自身の欠点の克服の糸口を見つけられていない少年から、恋心を引き出せないでいた。

 その事実は僕の感情を非常に揺さぶっていた。

 

––––殺すのは億劫なんだよね……

 

 両手に目線を落とす。

 

「はあ……」

 

 そして、もうひとつ。

 

「それじゃあ行ってくるね」

 

 自身の過去に繋がることに接触することになるのが辛かった。

 テレビの再生を一時止めてからソファから立ち上がり、3人の眷属に手を振って家から出る。

 

 

 夜空が後ろに過ぎ去っていく。

 変わり映えのしない星々が線となって流れていく。

 

「よっと」

 

 小森の街にはそれなりの高さがある丘がある。以前、僕が吼月ショウと訪れた高台もその丘を利用したものである。

 丘へと続く道に着地してからは、俯いたり空を見上げたりしながら歩いていく。

 

「あ」

「おっ……」

「ハツカさん」

 

 鬱蒼と翳りをみせる感情と戦いながら歩いていた僕は、目の前からやってきた人たちを見てささめく。

 相手もこちらを見つけてリアクションを起こす。

 

「あれ? 七草さんに夜守くんじゃない。どうしたのこんなところで」

 

 変わり者の吸血鬼《七草 ナズナ》のストレートに長い銀色の髪を結った三つ編みがゆさゆさと揺れる。その横に眷属候補である《夜守 コウ》がいつもの黒いジャージを着て歩いている。

 

「そっくりそのまま返してやる」

 

 と七草さんが言った。

 

「久しぶりにコテージにでも行こうと思ってね」

「ハツカさんのコテージも持ってたんですね」

「オイオイ、そんなことしてていいのかよ。弱点探しとかさ」

「そのついでだよ」

 

 僕ら吸血鬼は不老不死である。

 そんな存在でもひとつだけ《人間だったころの思い入れの強い私物》という弱点が存在する。

 弱点を突かれてしまえば不死である吸血鬼でも殺されてしまうのだ。

 吸血鬼を憎み、皆殺しにしようとする探偵 (ウグイス) 餡子(アンコ)よりも先にそれらを見つけ出して破壊するべく吸血鬼たちは行動していた。

 

「弱点に向き合うとなると疲れるし、終わったら静かな夜の中でお酒でも飲もうと思ってね」

 

 せっかくあるコテージだから有効活用してみようということで吼月くんと話して諸々の準備をお願いしている。嫌がることもなくやってくれるのだから、ホント良い子なんだなと思う。

 

「だったら俺たちも手伝う?」

「いいな! 酒があるならビールもありそうだし!」

「ナズナちゃん。目的はそっちじゃないよ」

「いいじゃん別にー」

 

「あの眷属()たちが来ると言っても?」

 

 ふたりが思わず『あ……』と気まづそうに顔を強張らせる。

 七草さんも夜守くんも僕の眷属とは顔を合わせたことがある。その時の印象が強く残っているのだろう。

 

「冗談だよ。今日あの子たちはお留守番だから」

「じゃあ誰とやるつもりだったんだよ」

「そうだよ。2人以上じゃなきゃ危ないよ」

「心配しなくても、僕の遣いはあの子たちだけじゃないから」

 

 せっかくだ。

 今のうちに紹介しておくのもいいかもしれない。

 

「僕の新しい眷属候補だよ。でも……そうだね、手伝ってくれるならビールくらいは飲んで行っていいよ」

 

 手招きをして再びコテージまでの道を歩き出す。ふたりは僕に少し遅れて動き始める。

 

「このタイミングで新しい眷属作ってんのかよ」

「返答が難しいんだよね……そのへん」

「あ?」

「吸血に失敗したの」

 

 今思うと『最悪だ』の一言だ。

 

「吸血する時に寝かせ損なってバレちゃったんだ」

「ナズナちゃんみたいなことしてる」

「コウくんうっさい」

「あははっ、ふたりはそんな感じで始まったんだ」

「それでどんな人なんですか。またおじさん? それともお姉さん?」

 

 と夜守くんが尋ねる。

 彼の中ではあの子たちのイメージが強く、僕のタイプがあの辺りなのだと思っているのだろう。

 そういえば、吼月くんは(セキ)くんと同い年だから、夜守くんとも同級生なんだよね。

 

「君と同い年だよ」

「え?」

「キミと同級生で夕くんの友達だ」

「……」

「うわっすっごい。コウくんが絶句してる」

 

 額から汗を垂れ流し口を抑えて、夜守くんが苦悶の表情を浮かべる。

 

「待って。そんな奴がいるのか……? いやマヒルくんの友達ってだけだと多すぎて誰か分からない。でも、アイツらの誰かか? ……ブツブツ」

 

 夜守くんが思考に没頭して独りごちる。

 

「ひとりの世界に入っちゃった」

「今なら吸血してもバレなさそう。……嘘だよ」

「よろしい」

 

 七草さんは独占欲から眉間に皺を寄せ、口も曲げて威嚇してくる。

 わざわざヒトの獲物を横取りしなくても、僕には吼月くんがいるから僕からしたら他人の怒りを買うデメリットしかない。

 それに七草さんと夜守くんの恋路を僕は心から応援してる。

 邪魔をする気なんてまったくない。

 

「コウくんの同級生って朝井ちゃんじゃないよな」

「あっナズナちゃん!?」

「……はっ!? ごめんコウくん!」

「君たちね………」

 

 僕の知らない名前で、彼らが慌てるってことは吸血鬼のことを知る人間なのだろう。七草さんたちのコンプラの欠如はもう仕方ない。

 必要なら––––今はいいか。

 

「で、誰なんだよ?」

「それはね」

 

 彼の名前を告げると。

 

「そっか」

 

 どこか納得したような顔をしていた。

 

 

 

 

「七草さんとはその後どうなの?」

 

 ビールを楽しみにしているナズナちゃんから距離を置いて、ハツカさんが俺に尋ねてきた。

 

「まあ……ボチボチかな」

「進展なしなの?」

「進展がないっていうか」

 

 ハツカさんが不思議そうにこちらを見つめてくる。俺はナズナちゃんと東京を訪れた時に感じた悩みを打ち明けた。

 

 

––––ナズナちゃんが嬉しいと、俺も嬉しい。

––––きっと生まれて初めて自分以外の誰かを大切だと思った。

––––いつも一緒にいるのにまたすぐに会いたくなる。

 

 

 そんな感情を抱いているのに。こんな初めての想いを向けているのに、俺は吸血鬼(ナズナちゃん)に恋をしていない。

 

「焦がれてるね–––!」

「なんで楽しそうなんですか」

「ごめんね。微笑ましくて」

 

 貶すような意図のない微笑みは、どこか添い寝してくれる時のナズナちゃんに似ていた。

 

「それに探偵さんに言われたことがあるんです。『恋愛感情そのものが欠落してるんじゃないか?』って」

 

 今はより重く深く胸の中に突き刺さって、どうしようもなく不安になる。

 もし、そうなら俺はナズナちゃんに恋できない。

 恋できなかったら、ナズナちゃんともう一緒に居られなくなるのかな?

 

「大丈夫だよ」

「え?」

 

 俺は思わず聞き返す。

 確信に満ちた背を押す声はとても勇気をくれる。笑顔と同じく安心感を与える声だが、今の俺には悩みを深めるものでもあった。

 けれどもハツカさんが不確かなことを言うとも思えない。突破なことを言うハツカさんだけど、そこには確かな知性がある。

 例えば俺が本当に吸血鬼になりたいのか悩んだ時。それがキッカケでナズナちゃんが俺の代わりに処罰されそうになった時、ハツカさんは『僕の眷属になればナズナちゃんを助けられる』と提案した。この人の眷属の作り方はまあまあ……いやかなり歪だと思うけど、それでも俺とナズナちゃんを思って提案してくれたことなのは確かだ。

 

 すると、ハツカさんが夜空を指さした。

 

「夜守くん。キミは夜空に声をかけてことがあるかな?」

「ないですけど」

「アハハ。夜守くんってちょっと暗いからね」

 

 いきなりディスられた理由は分からないけど、ちょっとというか自分でも暗い奴なのは自覚してる。

 でも、今の話がこのモヤモヤにどう繋がってくるのだろうか。

 ハツカさんは『僕から言えるのはここまで』と話を打ち切った。

 どういうことなのか分からず問いかけようとすると、ナズナちゃんが何かを見つけたようで俺たちを呼ぶ。

 

「おっ。あれじゃないか?」

 

 歩き続けると暗闇の中に炎が燃え上がり、パチパチと弾けながら火の粉が宙を踊る場所を見つけた。どうやら、大きめのドラム缶の中に火を起こしているようだ。

 そばにはコテージがあり、目的地に着いたのだとすぐに分かった。

 

「……」

 

 思わず俺は辺りを見渡す。ハツカさんの話が本当ならここに吼月くんがいるはずなんだけど。

 コテージに近づくと夜に感化されたような綺麗な声が聞こえた。

 

「運命の瞬間をスタンバイ、それぞれが抱くドラマ……Trust(トラスト)Last(ラスト)

 

 綴る言葉で歌を歌っているのだとわかった。

 耳に入る歌声がやってくるのはコテージの屋根からで、そこにいたのは学校で話したことのある知り合い–––吼月ショウだった。

 白と朱色のトレンチコートを羽織った黒髪の少年だ。

 

「……」

 

 俺は本当にいた事にも驚いたけど、それよりも吼月くんはとても子供ぽかったことに驚いた。

 

「む」

「?」

 

 隣を歩くハツカさんが愉快に歌う吼月くんを恨めしそうに見つめていたのが気になった。

 

「今日はえらく上機嫌だね。ショウくん」

 

 彼にいちばん最初に声をかけたのはハツカさん。

 そこでようやく俺たちの存在に気づいた吼月くんは、固まりながらガチガチと音が聞こえそうな動きでこちらに振り向く。

 

「…………いつからそこにいた?」

「運命のって口ずさんでたあたりから」

「……」

 

 口答えできないほど吼月くんは恥ずかしそうに顔を赤らめる。

 でも分かるな。夜だと誰もいないって感じておっきい声で歌ったりして、気づいたら近くに人がいて恥ずかしいやつ。

 

「?」

 

 見下ろす視線がこちらを捉えた。何度か瞼を動かして、俺たちの存在を確かなものだと認識する。

 

「ひ、久しぶりだね。吼月くん」

「〜〜〜っっ」

 

 それはもう耳まで真っ赤になって立派な茹でダコ状態になってから。

 

「帰っていいですか?」

 

 泣きそうな声で縋った。

 

 

 そこから吼月くんは屋根から降りてきて地べたに座り込む。

 

「見られた……しかも学校の知り合いに……」

「まあまあ。俺は学校行ってないし」

 

 湯冷めしたように顔色が落ち着いたのだが、それでも先ほどのことは堪えたようで両手で顔を覆っていた。

 

「油断してたショウくんが悪いでしょ」

「うるせえ!! 着くなら連絡ぐらい入れろや! 夜守コウたちも来るなら尚更いれろ!? 飲み物足りないかもしれないだろ!」

「途中で会っちゃったんだから仕方ないよ」

「ライブ感の塊かよ!」

 

 夜闇に叫ぶ吼月くんの声に怯えて、鳥たちが羽ばたき飛び立つ。いけないと思ったのか、反射的に口を抑えた。

 

「アイツがハツカの眷属ね……イメージしてたのとだいぶ違うな」

「どんな想像してたの」

「なんか『ハツカ様万歳!』な、忠犬?」

 

 あの3人のせいだよ、と俺は言った。

 ナズナちゃんも頬を引き攣らせながら同意した。

 吼月くんはハツカさんの眷属たちと違って、自立してるしハツカさんの飼い犬や眷属ではなく–––––

 

「友達みたいだな」

「俺たちが言えたことじゃないけどね」

 

 でも、なんだろう。

 

「人手は多い方がいいでしょ」

「だからってさ!」

 

 そんな彼を見ていると、なんとなく安心した。

 

「仕方ない」

 

 両頬を叩いて気持ちを切り替えた吼月は立ち上がってハツカさんに向き直る。

 

「久利原たちの分は処分し終わったぞ」

「そっか。後は僕の分だけか」

「ああ。でもいいのか? アイツらのと一緒に燃やしておいて良かったんじゃ」

「それだと本当に僕の弱点か分からないじゃないか」

 

 ハツカさんを気遣ったのだろうが、それは却下されてしまう。

 

「アイツらが集めたハツカの分はそこのテーブルに置いておいたぞ」

「ありがとう」

 

 彼の視線をなぞって歩いていくとそこには木目の大きめなテーブルがあり、その上に綺麗に広げられた状態で何着もの服などが置かれていた。

 俺とナズナちゃんはその服を見て同じことを思ったのだった。

 

「ハツカさんらしい、というか」

「女物ばっかだな」

「うん」

「結構残ってたな」

 

 どれも女性物の服装で、今のハツカさんよりサイズの小さい物もあるし、逆に大人用の服もある。それに制服もセーラー服だったのには驚いた。

 けどその殆どが異様に古いものばかりだった。吸血鬼だし、何年も前のものだろうから当然なんだろうけど。

 

「悪かったね。ハァ……ッ」

「お、おい大丈夫かよ。……?」

「ハツカさん大丈夫?」

「想像してたより堪えるね……はぁーー……ハァッッ……!!」

 

 一気に多量の弱点に近づいたことによる影響なのか、額や首筋に大粒の汗が流れて息が荒くなる。弱点は触れてこそ発揮するものだけど、ここまで多いと見てるだけで気分が悪くなるのかもしれない。

 ハツカさんも予想外だったらしく立ち眩みを起こす。ふらつくハツカさんを後ろから慌てた様子の吼月くんが抱き支える。

 

「やっぱり俺が焼いとくから奥で休んでおけ。な?」

「うっさい。キミが血を吸わせてくれたら大丈夫だから。せっかく七草さんたちも来てくれたし」

「……たく。わかった。けど、俺がダメだと思ったらすぐに連れてくからな」

 

 ハツカさんはそれに頷く。

 

「いや、そこまで辛いなら素直にやめときなよ」

「やるって言ったらハツカはやるの知ってるだろ。諦めろ夜守コウ。……よっと。ハツカが気を失う前に終わらせるぞ」

 

 弱るハツカさんは吼月くんにおんぶされる体勢になると、顔を彼の後ろから出すとカプリとその首筋に噛みついた。

 冷や汗は未だに出ているけど、さっきよりは格段と体調が良くなっている。

 

「すまんが夜守コウ、七草。手伝ってくれ」

「うん。分かった」

「ハツカ、本物だと感じたらサムズアップ、違うと思ったらサムズダウンだ。いいか」

 

 返事をするようにハツカさんが弱々しく親指を立てる。

 

「まずはこれからだな。いくぞハツカ」

 

 それを見たナズナちゃんがテーブルのいちばん上に置かれていた服を手に取って突き出した。

 

「カーディガンもマル。ベレー帽もマルっと」

 

 ハツカさんの昔の私物を確認して、服などの燃やせるものは炎の中に突っ込んでいく。燃やせなかったり、燃やしたら有害なものを出す私物は別途処分する。

 

「こっちは……–––ッ!?」

「コウくんのエッチぃ」

「不可抗力!!」

「夜守くん……」

「お前らちゃんとやれ?」

 

 女物の下着なども混じっているので、下手に触っていると頭が真っ白になって判断力が低下してしまう。

 だってここにあるのはハツカさんが昔使っていたものってことだし、好きになるつもりはなくても意識はしてしまう。

 その様には吼月くんも苦言を呈する。

 処理を続けていると、吼月くんがこちらをみた。

 

「どうかしたの?」

「いや、やっぱり雰囲気変わったな。夜守コウ」

「そうかな」

 

 自覚はしてないけどそうなのか?

 まあ色々あったからなあ。ナズナちゃんと出会って、吸血鬼のみんなから学んだり、大人の知らない一面を見たりした。

 かなり濃密な時間だ。

 そんなこと思っている間もハツカさんがテキパキと答えを示してくれるので、確認は着実に進んでいった。

 

「最後はこのセーラー服だな」

 

 複数枚で使い回していたのだろう。最後はセーラー服で、ナズナちゃんがハツカさんに見せようとする。

 学生時代のものなら、良くも悪くも思い入れがあるだろうから最後に回したのだ。

 

「っっ、もっとゆっくり吸ってくれ」

 

 構えるように血を吸う。血行?がよくなるハツカさんの代わりに吼月くんが艶めきのある呻き声をあげる。

 ふたりの吸血を見てると以前、俺の友達であるアキラに吸血されるところ見られた時を思い出す。今は立場は逆だけど、見る側もかなり恥ずかしい。

 最後ということもあり、今までより多く吸っている。

 よくそこまで飲まれて平気だな吼月くん。

 

「こい」

「よし」

 

 準備万端のハツカさんにナズナちゃんはセーラー服を突き出した。

 

「……」

「どうしたんだハツカ」

 

 先ほどまではすぐに反応を返していたのにここにきてそれが鈍い。

 もしかして偽物か、と考えが浮かぶがしばらくしてハツカさんが僕らに向けてサムズアップを返す。

 

「気持ち悪い……」

「……なんだビビらせるなよ」

 

 こうして、特に問題もなくハツカさんの弱点の処理は終わった。

 

 

 

 

 ビール缶のプルタブが開くとカシュと軽快な音が鳴る。

 

「あ"ーー……ひと仕事終わった後のビールは格別だな!」

「いちばん働いたのはハツカさんだけどね」

「良いだろ。手伝ったのは事実なんだから」

 

 吼月くんが持ってきたビール缶を勢いよく呷り喉奥へと流し込んでいくナズナちゃん。

 俺たちはさっきまでハツカさんの弱点が置かれていたテーブルを囲んで座っていた。

 

「今日はなにか作ったりしないの?」

「ふたりも追加で来るなんて聞いてないから作れるものはない。ハツカはいいのか、体調とか悪くなってるんだろ?」

「過去と向き合うのは嫌だったけど、もう終わったし大丈夫」

 

 処理も終わり憂鬱な気分も終わってハツカさんもビールを口に含む。

 

「それじゃあ俺も。夜守コウも飲むか?」

「え? うん」

 

 吼月くんがまた別の酒缶を2本取り出す。

 ひとつを僕の前に滑らせて渡し、もうひとつを開けようとプルタブに手をかける。当然のように開けようとする彼に呆気に取られる。

 

「いや待って待って!? 吼月くんなに普通に飲もうとしてるのッ!? 俺たち学生だよ!?」

「いいじゃん誰も見てないんだし。夜でも優等生やってんのか?」

「そーだそーだ。コウくんも飲んじゃえよ」

「無礼講だし、たまには羽目を外したら?」

「ダメだよ!? 未成年の飲酒は禁止なんだから!! ほら吼月くんその缶置いて!」

「ちぇー」

「ちぇー」

 

 俺に促された吼月くんは肩をすくめながらその酒をハツカさんへ渡す。俺もナズナちゃんにその酒を手渡した。

 吸血鬼2人組のほうが残念がっているのはなぜだ!

 

「それで、お前は……くづき、ショウでいいだよな?」

 

 とナズナちゃんが吼月くんに尋ねた。

 

「そうだ。ハツカの眷属候補。そんなキミは七草……で、下がナズナなんだな」

「……」

 

 ナズナちゃんが頷いた。

 なんだろう。確認のために下の名前を呼んだだけなのに、どうにも気に食わない。

 

「貴女が夜守コウの親吸血鬼にして、初恋……をしようとしてる相手でもある。だろ?」

「……!? ちょっと! なんで俺が初恋だって知ってるのさ!」

「俺に知らないことはない」

「コウくんそうだったの!?」

「言ってなかったっけ!?」

 

 ナズナちゃんが顔を赤ながら俺を見る。

 話を振った本人は、常識を語るような態度でジュースを取り出してこちらに手渡してくる。気にされることもなく流されて『ありがとう』と言ってジュースを受け取るしかなかった。

 

「それで話を戻して悪いんだが」

 

 彼の瞳が今もなおパチパチと燃える炎を映す。

 

「なんでアレが弱点になるんだ」

「私物のことか?」

「ああ。あんなもの毒でもなんでもない。どういう理屈なんだよ」

「……そういえばなんでだろ」

 

 以前、学校で俺とアキラ、マハルくんを襲った吸血鬼が探偵さんに殺されたときも、銭湯で秋山昭人(あっくんさん)ことメンヘラさんが探偵さんに殺されかけた時も、その弱点を用いて襲撃された。

 実際に殺してたし、効果も出てたからそういうものだと思い込んでいたけど、そう聞かれると答えられないな。

 

「ひとつだけ、あるよ」

 

 その問いに解を出したのは、やはりハツカさんだった。

 俺たち3人はハツカさんの話に耳を傾ける。

 

「さっき弱点を見て感じたことを含めても憶測の域を出ないけど、恐らくは……」

 

 そこで一呼吸おいて、続ける。

 

「人間への逆行」

「逆行……?」

「この間七草さんの家に集まった時に話したこと覚えてるかな」

「えっと……《人間の頃の話が共通認識でタブー》《人間だった頃の記憶を少しずつ思い出せなくなる》《吸血鬼になるっていうのは生まれ変わるに近い》って話、であってる?」

「あってるよ。それでさっき自分の弱点を見ていたとき、人間だった頃の記憶が蘇ってきたんだ」

 

 ハツカさんが語る記憶の復活はまるで走馬灯のようだったそうだ。思い入れによってその復活の量は様々。

 

「その記憶が蘇るにつれて身体が衰弱するのが分かった」

 

 その話を聞いて俺も探偵さんが口にしていたことを思い出す。

 

「初めて俺たちの前で探偵さんが吸血鬼を殺した時も『人間として死なせてあげる』『思い出せ人間だった自分を』って言ってた。『あなたは人のまま死ぬ』とも」

 

 その最中、吸血鬼はもがき苦しんで……最後には灰になった。

 

「それが比喩かどうかは分からないけど、もし人間だった頃の私物に触れることが引き金になって記憶が蘇り、それに合わせて吸血鬼の肉体が人間へ戻るとしたら……あっくんの著しい回復能力の低下や、本来不死のはずの吸血鬼を殺せるのも一応納得はできる」

「吸血鬼になる代償が人間だった頃の記憶を失うこととも言えるから、間違ってはない、かも」

「弱点を見た時、触れた時の不快感は、その逆行を防ごうとする吸血鬼としての防衛意識の表れ。そして吸血鬼の体が灰になったのは、肉体が人間に戻ろうとする力と吸血鬼のままであろうとする力が反発した結果の自己崩壊かもしれない」

 

 俺とナズナちゃんはハツカさんの話に息を呑む。

 人間への逆行……もし、それが本当だとしたら確かに吸血鬼を殺せることに頷くことができる。

 

「あくまで想像だし冗談と受け取ってくれてもいいよ」

 

 しかし、探偵さんは吸血鬼の弱点にどうやって気づいたのだろうか。

 

「灰……」

 

 俺たちと一緒に話を聞いていた吼月くんはどこか茫然として焦点がいっさい定まっていない眼をしていた。

 

「吼月くん?」

「ん、ああ……っ! 悪い悪い! にしてもやっぱり死ぬ時は灰なんだな。てっきりこれも伝承と違うのかと思ってたわ」

 

 意識が戻ったように俺たちと目線を合わせた吼月くんはあっけらかんと笑う。

 

「全然知らないから話に着いていけなくてな……」

「そっか。そうだよね」

「にしても良かったな! 弱点は消したし、これでハツカたちが灰になるなんてことはないわけだ!」

 

 取り繕ってる訳でもなく、ただ本当にハツカさんの心配ごとが消えたことを喜んでいる。

 そうだよね。

 好きになろうとしてる相手が灰になるなんて考えたくもない。俺が好きになろうとしてるナズナちゃんは《生まれながらの吸血鬼》だから、弱点は存在しない。

 けど、もしナズナちゃんが灰になってしまったら。

 その瞬間が脳裏によぎり背筋が震える。

 

「安心しろコウくん」

 

 気づけばナズナちゃんが俺の手を握ってくれていた。

 

「アタシはここにいるから」

「……うん」

 

 震えた手と手は互いの温かさを伝え合うと落ち着いた。

 俺たちを見て吼月くんは微笑んだ。

 

「吸血鬼になったらコウくんのも処分しないとな」

「このトランシーバーともバイバイしないといけないか。それはちょっと嫌だな」

「また新しいの買って遊ぼうぜ」

 

 俺は『そうだね』と答える。

 悲しいけど、別れないといけないものだから。

 

「だったらその時は吼月のも一緒に捨てるか! 同級生なんだし。コウくんの友達の……誰だっけ」

「マヒルくん?」

「そう! 夕マヒルも呼んで一緒に焼くか! な。ハツカ」

「……ああ、さっきは言ってなかったね」

「ん?」

 

 ハツカさんはめんどくさそうに椅子に座り直すと、吼月くんになにかを言うように顎で促す。

 彼は応えるように胸を張って、俺たちを見る。

 なんだろう?

 

「俺こと、吼月ショウ。蘿蔔ハツカの眷属候補ですが––––––俺は吸血鬼になるつもりはありません!」

「…………へえ」

 

 俺たちはそれぞれ飲み物を口に含んだ。

 なるほど、吸血鬼になるつもりはない。

 そうか、そうなんだ。

 

––––––は?

 

「「はあああああああああああ!?!?」」

 

 再び夜空に鳥たちが月へと飛び立った。




 弱点に関する解釈は完全にオリジナルです。
 実際はこうではないでしょうし、かなりご都合が入っている解釈ですが、ひとまずこの考えを念頭に置いて進めます。
 原作でその辺りの内容が描かれたらそれらに合わせていきたいと思います。もし、こうではないか?という意見がありましたら教えてくださると嬉しいです。

 因みにコウくんの「コテージも持っていた」と口にしたのは、公式のミニアニメの内容で、他にもハツカ様が所有している家があることを知っているからです。
https://twitter.com/yofukashi_pr/status/1542160975381417984?s=46&t=d4zyBlJXrrdYZbcY__tiDg


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第二十二夜「独り占め」

 鳥の羽ばたきが俺たち4人の中に流れる静寂をより濃くする。

 吸血鬼にはならない、そう宣言する吼月くんに夜守コウ()とナズナちゃんは驚きを隠せなかった。

 

「えっと……吼月は吸血鬼にはなるつもりないの?」

「絶対になりたいって感じもしないし」

「なりたいなりたくないじゃないだろ!?」

 

 俺とナズナちゃんが同時にハツカさんを見た。

 以前ハツカさんは『この先どうなろうと眷属になるしかないんだから』と俺に言った。つまり、吸血鬼の存在を知った者は誰かの眷属として吸血鬼にならなければいけない。

 

「僕もこの子にひと通り説明したんだけどね」

「しかし、聞いてほしい七草さん。元を辿れば俺が起きてるかちゃんと確認せずに血を吸ってバレたのが原因だぞ。なのに『吸血鬼知ったからこれからは夜だけで生きてね』って言われて納得できるか?」

 

 ナズナちゃんがなんとも言えない顔で頷きながら俺を見た。

 悪かったね。普通じゃなくて。

 

「納得しないで。それに僕はちゃんと確認したからね! 起きてる?って」

「見知らぬ人の車の中で寝るほど俺は肝座ってないし、あの状況で『おきてるー』なんていうわけねえだろ」

「車の中で吸ったの? ……それってカーセッ」

「七草さん」

「ごめんって。だけど眷属候補ではあるんだろ?」

 

 そこが気になった。吼月くん自身は吸血鬼になる気はないけど、ふたりとも眷属候補としても接しているのは何故なのか。

 

「今回の論点は『吼月くんが吸血鬼の存在を他の人間に露見させる可能性がある』ということ。僕はそれを防ぐためにショウくんを吸血鬼にする。逆にショウくんは吸血鬼になりたくないから、この一年間僕に惚れず吸血鬼にとって脅威じゃないと僕たちを信頼させる。

 そういった契約で眷属候補ということにしてるんだ」

「勝負が成り立ってるの?」

「難しい方が面白い」

 

 吼月くんって無茶苦茶な生き方してるな。

 恋愛経験のないナズナちゃんみたいな吸血鬼ならともかくハツカさん相手だと勝負になるようには思えない。

 

「だから、夜守コウやマヒルたちと一緒に私物を燃やせる日が来るかはわからない」

「そ、そうか。頑張れよ」

 

 ハツカさんを労るような目線がナズナちゃんから送られる。

 

「あっビール無くなっちゃった。吼月〜おかわり」

「……もうないわ」

「ええ! なんで!?」

「俺たち来ること自体考えてなかったから仕方ないって」

「……確か冷蔵庫の中に何本か残ってた気がする。僕も飲み足りないし、一緒に取りに行こっか七草さん」

「オッケー!!」

 

 そうしてふたりは立ち上がり、コテージの中へと姿を消していく。

 残ったのは俺と吼月くんだけ。

 お互いに相手の様子を伺っている。

 仲良くない訳ではないけど、共通の友達がいなくなって話が弾まないような状況。アキラやマヒルくん以外の相手だと、どうしても優等生モードに引っ張られて相手のことを気にしてしちゃうな。

 

「七草さんといるのは楽しいか?」

「楽しいよ、すっごく。学校みたいに気を張らなくてよくなったし」

「自分でいられるのは楽だよな〜」

 

 吼月くんも思い当たる節があるのか何度も頷く。

 

「吼月くんはどうなの? ハツカさんと一緒にいるの楽しい?」

「楽しくなかったらいないだろ」

「それもそうだね」

 

 交わす言葉はあまりないけれど、そこから俺たちは少し口を開くようにした。多分あまり口を交わさないのは、俺と吼月くんってマトモに話したことはなかったからな気がする。

 

「てか、優等生モードやめなよ」

「そう? なら遠慮なく」

 

 軽く世間話をしたあと吼月くんが『驚いたろ? 俺が吸血鬼と一緒にいるなんて』と聞いてきた。

 けど、俺は納得したんだよな。その返答に吼月くんが疑問符を浮かべる。

 

「いつだったかな……一年生の冬だったかな」

 

 その頃は俺も学校で頑張っていた。委員会の作業を終わらせた後、運動場で凍える冷気に身体を震わせながら急いで校舎に入った時だ。

 下駄箱で靴から上履きに替えて、委員会に使っている教室に戻ろうと歩いていると視界の端に人が映った。

 

『吼月くんだ』

 

 通りかかった教室の扉の窓から中にふたりきりでいる生徒たちがいた。

 その片方がキミだ。

 面識の少ない俺でも顔と名前は知っていた。

 マヒルくんのような人気者という訳ではないけど、吼月くんの性質(さが)ともいえる人助けと何やらせてもひと通りできる実力から、遠巻きで見つめる人は学年問わず多かった。

 俺もそんなクラスメイトから吼月くんのことは聞いていた。

 

 その日もきっと人助けをしていたのだろう。

 俺や吼月くんよりも背の高い男子生徒––––見たことないから上級生だろうか––––が頭を下げてから教室を後にした。吼月くんはニコニコとした顔で小さく手を振って送り出した。

 

『よくやるよな』

 

 俺から思わず溢れたのはそんな一言だった。

 そう思った。

 

『…………?』

 

 ニコニコした顔が一転して、雲がかかったような暗い顔になる。自嘲するように鼻で笑うキミの顔は、俺が吐いた言葉を呟いているようだった。

 なんというか、その時の顔はとても印象的だった。

 そんなとても疲れた顔は一瞬で消えた。

 

『やっば』

 

 踵を返して教室を出ようとし始めたのを認めて、俺は焦り始めた。

 けど、立ち去るには遅くて気づいた時には俺の目の前の扉が開いていた。

 

『? 夜守コウか』

『やあ、吼月くん』

 

 扉の前で固まっていた俺をキョトンとした眼が捉えた。

 見てたのバレたか?と慌てる内心を必死に抑えて、明朗快活な自分で話す。吼月くんは俺が扉の前に居たことには特に気に留めておらず、それよりも俺の汚れた手を見ていた。

 

『委員会か?』

『え、うん』

『そっか、まあ何かあったら頼れ。応援してるぜ』

 

 脈略のない声援をかけて、肩をポンと叩いてからキミは立ち去ったんだ。

 

「………………マジで?」

「マジ」

 

 昔話をすると吼月くんの顔があり得ない事実を耳にしたように喫驚する。

 

「うそうそ。そんな、いつだ」

 

 両腕に顔を埋めて、必死に思い出す。

 ホントに気づいてなかったんだ。

 

「上級生? この間もあったし……でも夜守コウと話した冬の時期だと……ああ……そっかあ……」

「思い出した?」

「呑み込みたくないけど」

 

 眉間を摘みながら、吼月くんは受け入れたくない事実を咀嚼して取り込む。そんな態度とは正反対に、声には俺に知られていたことへの不快感はなかった。

 

「だから、俺と同じで学校が疲れちゃったんだろうなって」

「……まあ疲れはするよな。お互いに」

「ははっ、間違いないね。くそつまないし、めんどうだもん学校とか」

「ぷっ、はははっ。実際メンドくさいよな」

 

 あの日に『応援してる』と言われた意味は分からなかったけど、いま思い出してみて分かった。澤先生みたいに吼月くんも俺が優等生を演じていたのを知っていたのだろう。

 見ている人は本当に見てるんだな。

 

「めんどくさいのに学校に行き続けるの?」

「学校は俺にとっては昼の象徴だ。せめてハツカに負けるまでは通うさ」

「吸血鬼になったら強制リタイアだよ」

 

 俺には吼月くんがわざわざ辛いことを続ける理由は分からないし、はぐらかそうとするならそれでいいと思う。

 

「けど、辛くなったら吸血鬼(こっち)に来ちゃえばいいよ」

 

 辛いならやめて放り出していいんだから。

 つまらないことを続ける必要なんてないし。

 

「……お前、俺にそんな気をかける奴だったか?」

「う〜〜ん。確かに」

 

 学校の連中は《優等生 夜守コウ》を友達と言ってくれる人たちであって、今の俺を友達と言ってくれる訳じゃない。それに吼月くんとは優等生状態でも友達と言える関係でもないし。

 

「友達じゃない相手とこうして話のも初めてかもしれない」

「殆どの奴らを人間って括りでしか見てなさそうだもんな。マヒルと朝井ぐらいだろ」

「倉賀野さんしかいない吼月くんに言われたくない」

「俺は学校の奴ら全員友達だぞ」

「絶対意味が違うよね」

 

 また俺たちの小さな笑い声が響く。優等生じゃない俺でも普通に学校の人と話せるんだなと思いながら、ジュースに口をつける。

 

「気にかけてもらったついでにお話でもしようか」

 

 吼月くんがニヤリと口元を歪めた。

 

 

 

 

「大変なことになったな」

「まったくだよ」

 

 コテージの廊下で蘿蔔ハツカ()は肩をすくめる。

 

「ハツカは吼月みたいなのもタイプだったの? アタシみたいに手頃な相手から吸ってるってわけじゃないだろ」

「同性だし顔も良かったから、最初は出来心でね」

「……そんなもんか」

 

 軽く頷く七草さんが思わぬことを僕に進言した。

 

「なにかあったら協力するぞ」

「––––ッ!? え? 七草さんが!?」

 

 彼女の顔を二度見してしまう。

 

「そこまで驚かんでも」

 

 いや、でもだって今まで吸血鬼の仲間とも集まらなかった七草さんが、この間僕を飲みに誘っただけでも驚きだったのに、まさか気をかけてくれるなんて。

 

「七草さんが変わり始めてて本当に嬉しいよ」

「誰目線なんだお前は」

 

 そんなことを言う七草さんだが、何かを思い出すように頬を指でかく。

 

「まあ……お前のおかげでコウくんに『いつも可愛い』っていってもらえたから」

 

 顔を背ける七草さんだが、湯気が立つような雰囲気から顔を真っ赤にして照れているのはすぐに分かった。

 ホントに変わったなあ。

 

「それは七草さんが可愛いからで僕のおかげじゃないよ。僕が作ったのは口にするきっかけだけなんだから」

「ありがとう。でも、礼はきっちり返したいんだ」

「……七草さんがそういうなら甘えてみようかな」

 

 相談するかどうか悩んだが、吼月くんが他人にバレるのを嫌がってるのは《僕》という性格なんだ。

 なら、こっちは話しても問題はない。

 

「人間不信?」

「そ。どうしたらいいか分からないんだよね。はい、ビール」

 

 冷蔵庫から漏れる光が暗いダイニングの一角を照らす。開けた冷蔵庫から取り出した数本のビールを袋に詰めて立ち上がる。

 

「サンキュ。……ハツカと吼月が出会ったのっていつ」

 

 ビールのプルタブを開けながら七草さんが聞いてくる。

 

「半月も経ってないぐらい」

「そりゃ不審がられるだろ」

「普通の人ならね」

 

 信頼関係はお互いが協力してレンガを積み上げていくようなものだ。僕が置いて、吼月くんがその上に置いていく。その繰り返しでより良い信頼関係が生まれていく。

 心理学だと信頼関係の構築をラポール(懸け橋)形成という。

 一般的にラポールが形成されるのは三ヶ月前後と言われていて、カウンセリングなどではその辺りを目安に、患者の深い悩みを聞けるようになると非常に良いとされている。

 本来であれば、全然焦るタイミングではない。

 

「問題は相手がショウくんってことなんだよね」

「? なんだよ、アイツになんかあるのか」

「僕のこと信頼してるのって訊いたら吐かれかけた」

 

 あの時のことを思い出して、頭が痛くなる。わざとやったとはいえ、目の前で吐かれかけると流石の僕でも傷つく。

 

「はあ? どういうこと」

 

 七草さんが耳を疑うように僕に聞き返す。

 

「本人曰く《原因不明の不信感》らしい」

「なんだそりゃ。普通理由があって信じられなくなるだろ」

「話を聞いた時は精神障害かと思ったんだけどね」

 

 人目を集めることや恥をかくことを極度に嫌う社交不安障害や、相手が自身を意図的に欺いたり陥れようとしていると考えてしまう猜疑性パーソナリティ障害など、様々な精神障害がある。

 しかし、前者であれば人の眼を集める生徒会長なんて役柄はやらないし、後者であれば簡単に僕についてきた説明がつかない。

 他の障害も合致する部分が少なくて、本当に人間不信なだけなんだろうなとしか思えなくなった。

 

「血を吸ってもか?」

「さっきの話のすぐ後に吸ってみたけど、なんにも分かんなかった」

 

 不信感を呼び起こしてから飲んだことはなかったから、試しにやってみたものの収穫はゼロ。いつもならぼんやりと分かる相手の感情も霧がかかったように分からず、ただ味が濃くなって美味しくなっただけだった。

 

「本人も憶えていない、感情にも出てこない。なんなんだろうな」

「変わった子……だけで終わらせるには些か疑問が多すぎる。けど手がかりすらないんだよね」

 

 このままでは吼月くんがフッた女の子同様、積み上げてきたレンガを大事なところで崩されかねない。

 それは彼の想いから考えても絶対にダメだ。

 

「コウくんも変わった奴だけど吼月も別方面で変わってるんだな。それを解決しないと吸血鬼にもできないってことだろ? どうするんだよ、一年後にも解決してなかったら」

「その時は吼月くんは死んでくれる」

「ええ……命に無頓着すぎるだろ」

 

 七草さんは少し躊躇ったようにも見える顔で冷静にドン引きしてくる。

 でも、きっとこれは事実になる。

 もし一年後、彼の問題が解決しなかったらあの子は本当に身を投げかねない。僕と出会った最初の夜のように。

 

「僕はショウくんを吸血鬼にしたい……」

 

 そう呟いた僕の顔を七草さんが覗き込んできた。

 

「どうしたの?」

「いや、しなきゃいけない、じゃないんだなって」

 

 指摘されて自分でもなんでだろう、と思ってしまった。

 

「僕は探偵さんみたいに好き好んで人を殺しにいく訳じゃない。それもあんな年端もいかない男の子が身を投げる姿なんて見ていたくないよ」

「……」

「七草さん?」

「あ、あぁ……悪い。考え事してた」

 

 呆けたように思考を放棄していた七草さんの顔を手をかざして声をかけると少しして意識がこちらに戻ってくる。

 

「だったらニコにでも訊いたらどうだ? アイツ教師だろ。最悪、カブラって手もあるけど」

「あ〜〜……ニコちゃんは物事が自分中心で回ってるって考えてる節があるしな」

「カブラにも触れてやれ」

「だってカブラさんが知ったら寝取りにくるに決まってるじゃん」

「間違いないな。コウくんにもちょっかいかけてたし」

 

 しかし、ニコちゃんに相談か。ダメ元で一度してみるのも手かな。

 

「まずニコにはこの事言ってあんの?」

「お互いに弱点探しで忙しくて言えてない。言うなら直接言わなきゃだし……そういえば七草さんの弱点は」

「アタシは大丈夫」

「もう片付け終えたの?」

「いや、アタシ生まれながらの吸血鬼みたいでさ」

「は?」

「話せば長くなるんだが……かくかくしかじか」

 

 と話し始める七草さん。

 その内容はあまりにも衝撃的なものだった。

 

 

 

 

 俺と吼月とはしばらく、取るにならない話をした。

 たとえば吸血されたときの痛みと快感、そしてそのメリットについて。たとえば吸血鬼に出会ってからどんなことがあったのか。

 知らない人が聞いたら奇々怪々な話だけど、俺たちのとっての本当について話し合った。

 

「吼月は男が好きだったの?」

「コウがそんなこと気にするなんてな、意外だわ。まあ俺はハツカの顔とか好みだし」

「一般的な話じゃん。でも分かる。顔は可愛いよね」

「顔は可愛いより綺麗だと思う」

「変わんないじゃん」

「てか、七草さんがいるのにハツカの話していいのかよ」

「ナズナちゃんの方が可愛いし問題ない」

 

 ふたりで吸血鬼話をしていると吼月が訊いてきた。

 

「それでコウは吸血鬼になれそうなのか?」

「行き詰まりかな。ほんと恋心って分かんないよ」

「あぁ……その話は俺も不得手だからアドバイスできないけど。ハツカには訊いたのか?」

「ここに来る途中で聞いてみたけど、曖昧なことしか言ってくれなくて」

 

 ハツカさんには大丈夫だと言われたけど、その理由も分からないし『夜空に声をかけたことがあるか』の意味も不明で釈然としない。

 

「アイツ、精神面の話になると詩的になるからなぁ」

「吼月も言われたことあるの?」

「信頼させたいなら自分を相手の心に住まわせろって言われた」

「なにそれ……」

「よく分からん。けど、自分たちで気づいて欲しいんだろ」

 

 口で説明されても実感湧かないだろうし、それしかないんだろうけど。

 恋に悩める俺たちは唸りながら考え込む。

 暫くしてから、吼月くんが。

 

「ナズナはいい女だな。アイツの眷属になるのも悪くないかもな」

 

 ケラケラと笑うように吼月くんがナズナちゃんを呼び捨てにした。

 その瞬間、俺の内心でブワッと何かが噴き出そうになるのを感じてしまう。

 

「やっぱり、それじゃねえの」

「え」

「だ、か、ら。七草さんへの独占欲だよ」

 

 バレてる。

 

「俺ってそんなに分かりやすい?」

「優等生モードよりずっとな」

 

 ナズナちゃんと出会ってから、何度も感じてきた想い。

 ナイトプールでナズナちゃんをナンパしてきた相手にも、ナズナちゃんが俺以外に血を吸ったことがあることを話した時もいい思いはしなかった。最近だってナズナちゃんが恋をして吸血鬼になったわけではない事実に、束縛感を微かに刺激されて安心した。

 

「カッコ悪いし……ナズナちゃんもキモいって言ってたし」

 

 もし、独占欲が行きすぎて一時期のメンヘラさんみたいになってナズナちゃんの負担になるのは避けたいし。

 

「別にいいじゃん」

「だめでしょ」

「恋焦がれる相手に自分だけを見ていて欲しいなんて当たり前だし、キモいわけないだろ。限度はあるだろうけど、コウはそれを表に出さなすぎるんだよ」

「そうかな……?」

「『ナズナちゃんは俺の吸血鬼だから、俺以外が名前で呼ぶな!』ぐらいの方がコウは釣り合い取れてると思うぞ」

「俺、一番その人種が苦手なんだけど」

 

 誰かに恋していないと寂しい恋愛脳。恋愛感情を燃料にして冷たくされるとすぐに燃え尽きるような恋愛脳。

 俺は恋愛こそが人生の本質みたいな奴が苦手だ。

 

「毎日七草さんのことを考えてる奴が恋愛脳じゃないとは驚いたな」

 

 おかしなものを見た時の笑みを浮かべる吼月に、俺は思わず眉をピクリと動かす。

 

「それとこれは違うだろ!? いやまあナズナちゃんと一緒に居たい気持ちは大きいけどさ! 恋とは」

「お前がそういうならそうかもな。でも、焦がれてるだけじゃ吸血鬼にならないなら、心火を燃やすしかないだろ。少なくとも自制できないほどの感情があればなれるんだから」

 

 確かにセリさんの眷属であるメンヘラさんも人間の頃は過激な好意を寄せてストーカーみたいになってたし、血を吸われさえすれば吸血鬼になれるマヒルくんだって衝動的な行動が多かった。

 そうでもしないと吸血鬼になれないのは理解してる。

 

「一度やってみようぜ」

 

 吼月は立ち上がってそばに寄ってくる。

 

「来たぞ」

「ん?」

 

 気づいた時には、ビール缶に口をつけながらナズナちゃんとハツカさんが帰ってきたいた。吼月くんはナズナちゃんに目線を合わせてから、友達を呼ぶような軽い口調で声をかける。

 

「やあナズナさん」

 

 突然呼びかけられたナズナちゃんは困惑しながら返事をする。

 

「ん? え急になに」

「ひとつ頼みがある。俺と友だちになってくれるかな?」

 

 瞬間、パンッと乾いた音が響いた。

 音が止んだ後には、何が起こってるのか分からず目を丸くしてるナズナちゃんとハツカさん。そして俺の目線の下には頭を両手で押さえて丸まっている吼月がいた。

 頭をさすりながら後ろ目で俺を見てくる彼に、俺は思わず『あっ』と声を漏らした。

 

「どうだった?」

「そのぉ……スッキリした」

「そうかそうか。だが、次はもおぉうちょい優しく叩けッ!」

「ごめんって!!」

 

 でも、こういうのも偶には悪くないかも。

 

「え? ……なに? コウくん頭打ったの?」

 

 なにがなんなのかわからないナズナちゃんは俺と吼月を交互に見つめる。

 ハツカさんは何かを察したようにナズナちゃんに声をかけていた。

 

「七草さんと同じでしょ」

「は?」

「独り占めしたいのは七草さんだけじゃないってこと」

 

 吼月に絡まれてなにを伝えたのかは分からなかった。

 そのままハツカさんは笑いながら片手に持っていたビニール袋を掲げて近寄ってきた。

 

「ほらふたりともジュースも持った方から飲もよ」

「サンキュー」

「ハツカさんありがとう」

 

 俺たちは再び燃える炎に照らされながらテーブルを囲った。

 

 

 

 

「じゃあね吼月」

「またな、コウ。今度は礼をさせてくれ」

「……俺、何かしたっけ」

 

 ジュースと酒を飲み終えたところで俺たちは解散となった。

 コウは吼月ショウ()に、ナズナさんはハツカに軽く別れを告げる。そして、夜空へ消えていった。

 俺は星々が煌めく中へ跳び立つふたりに手を振って見送った。

 

「はあ〜……ねみぃ」

 

 大きな欠伸をしながら、腕を天に伸ばす。今日は心地よく寝れるだろうという確信がある。

 

「なんだか嬉しそうだね」

「まあな。コウが笑ってたから安心したよ。ナズナさんもいい吸血鬼(ヒト)だって分かったし」

「……なんで『さん』づけなのさ」

「コウを変えた人だぜ? 尊敬するさ」

「なにそれ」

 

 納得がいかない不機嫌な顔で俺を見つめてくるハツカは、言語化できないけどどこか可愛らしい。

 そんな彼には僕は『バーカ』と子供っぽく否定した。

 

「僕がこの世で一番尊敬してるのはハツカだよ」

 

 じゃなかったら信頼を学ぶ相手に選べやしないんだから。

 突然素を出したからか、ポカンと戸惑いながらハツカが一歩足を引いてくる。

 

「また化かすつもりじゃないだろうね」

「前科があるとはいえ、ハツカが言ったことなのに……」

 

 辺りを見渡すハツカに心配する必要はないとなんとか説得する。

 

「ハツカがこっちが好きなら僕もこっちでいるよ」

 

 だってハツカなら僕を受け入れてくれるもんね、とは口にはしなかったけど彼の雰囲気はそのことを肯定しているようだった。

 

「それじゃあ行こうか」

「うんハツカ」

 

 なんとなくだけど。

 人の心に住むっていうのはコウやナズナさんみたいなことを言うんだろうなって–––––ハツカとそうなれるかな。

 

「素のことふたりにもバレちゃったけどいいの?」

「テンション上がっただけって通したから問題なーし!」

 

 僕たちも夜空に溶けていく。




来週日曜日
暴太郎戦隊ドンブラザーズ
ドン最終話『えんができたな』が放送する……すごく悲しい……
皆様、視聴ましょう


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第二十三夜「一緒にやりませんか?」

 今日は生徒会室に集まって自主活動をしていた。

 

「もうだめ〜……嫌だもぉ……」

「そう突っ伏すな。あと5問だろ?」

 

 自主活動といっても、生徒会の活動ではなく後輩が出された課題の面倒を見ているだけなんだが。

 俺の他に、理世と同級生の男子と後輩ふたりが長机に向かって座っている。

 

「でも吼月先輩聞いてくださいよ……」

「北原が授業中に遊んでるからですよ」

「バレないと思ったんだよ! 周回するだけだったし!」

「だったらオートにして鞄に入れておくべきだな」

「そうだぞ。もっと上手くやるべきだ」

 

 プリントを前にして、机に倒れ頭から湯気を出している男子生徒、北原に横で一緒にテキストを進めている女子生徒、宮内が睨みを効かせる。

 プリントに苦悩している後輩を肴にスマホでゲームをしている同級生の男子、応野が話しかける。

 

「会長も応野先輩も甘やかさないでください」

「成績自体は問題ないんだ。あとはどう見つからずにやるかだろ」

「さすが吼月先輩! 宮内と違って物分かりがいい!」

「成績が下がらず授業の邪魔になっていない前提で、だがな」

「ぐっ–––!!」

 

 呻き声をあげた北原がきまりの悪い表情になる。

 これはゲームにハマって成績落ち始めてるな。そんなのなら、授業中にやりきって放課後や下校後にやりきればいいのに。

 

「記憶力良くなりたいな。そしたら世界史とか楽になるのに」

「なら日記でもつけてみたらどうだ」

「日記?」

「見た夢を書き起こすと記憶力上がるって話だっけ?」

 

 理世が話に入ってきて俺に尋ねた。

 

「それはちょっと危険だって話だが……普通に日記帳にでも100文字ぐらいの感想文を書けば鍛えられるぞ」

「会長もやってるんですか?」

「昔からの習慣だからな」

 

 最近はあまり書けてないから、帰ったら一度今日までの分を書ききるか。だいたいハツカかマヒルのことになりそうだな。

 

「日記か……夏休みの時の課題も楽に書けないんだよな……」

「そんなのだからダメなのよ」

「毎日じゃなくても決まった日に書くだけでも問題ないさ。日、水、金とか」

「それなら行けるかな?」

「無理でしょ」

「うるせえ! やったらあ!!」

 

 宮内が横からバカにするような眼で北原を見つめながら、テキストを進める。北原はその眼に対抗意識を燃やして再びプリントに手を出していく。

 分からない内容に答えながら俺も自分の手を動かす。

 その俺の手に視線が注がれるのがわかる。

 視線を辿ると持ち主が口を開いた。

 

「ところで」

「ん?」

 

 理世だけでなく、北原と宮内も不思議そうにこちらを見てくる。厳密にいうと俺が持っているものに視線が注がれる。

 

「なんでショウは枕なんて作ってるのよ」

「だって眠いし」

「眠いしで普通は枕を学校に持ってこないし! ましてや作らないのよ!!」

「自分の体に合うのは手作りなんだよ」

 

 別にいいじゃん。眠いし。

 こっちは夜更かし気味なんだよ。

 

「ほれ、北原か宮内使ってみるか?」

「じゃあ俺が」

「ダメ。北原が使ったら寝るでしょ」

 

 未完成品だが中身をしっかりと入ったお手製の枕を掴もうとする北原から宮内が奪い取る。

 そのままテキストを退けて枕を置くと、宮内がダイブした。

 

「ふわぁ〜〜やわらか〜〜……ぐぅーーー」

 

 そして瞳を閉じた。

 なんだ宮内も夜更かししてるのか?

 

「ねた!?」

「早すぎだろ」

「……ほい!」

 

 理世と応野が一瞬で眠りについた宮内に驚くなか、北原がその首筋に冷たいペットボトルを当たる。

 

「うひゃっ!?」

 

 宮内は上擦った声で悲鳴を上げると顔をあげた。

 身体を震わせて飛び起きた宮内は、首に手を当てて辺りを見渡し正気を取り戻す。

 

「ハッ……! わたしはなにを」

「ショウ。それ没収ね」

「断る」

 

 お手製の枕は生徒会室で使用禁止になり、そのあと後輩ふたりの課題が終わるまで俺たちは面倒を見たのだった。

 

 

 

 

「じゃ、わたし先あがるから」

「お疲れ」

「……お疲れ様です理世さん」

「お疲れみんな」

 

 理世さんが手を振って笑いながら生徒会室を出ていく。

 

「俺も片付いたし帰るわ」

「おう。じゃあな吼月」

「……会長、お疲れさまです」

「また明日な」

 

 吼月さんも軽い足取りで退室していく。

 

「「「…………」」」

 

 それを見届けた私たちの間に沈黙が流れる。

 宮内()と北原、そして応野先輩の目線が合う。

 

「どう思います?」

 

 私が沈黙を破って切り出した。

 

「いつも通り、な気がするけどな……」

「でも前だったらふたりで帰ってましたよ」

「それだって校門までだって吼月たち言ってたしな」

 

 吼月さんと理世さんはフッたフラれたの関係だ。一週間くらい前に吼月さんは理世さんの告白を断ったのだ。私たちとしては意味分かんなかったし、それを受け入れて仲良くしてるふたりはもっと訳分からなかった。

 でもあの二人のことだから、私たちが首を突っ込むことじゃないって言うだろう。口を出せずに居たのだが。

 

「吼月先輩って学校で寝るような人じゃないですよね?」

「それが最近ガッツリ寝ててな」

「え。そうだったんですか」

「昼放課の時にうとうとし始めて丸々睡眠に使ってる。律儀に予令の三分前には起きてるけどな」

 

 応野先輩曰く、それだけしか変化はないとのこと。だけど、そのタイミングが理世さんをフッた直後からだと言う。

 

「倉賀野先輩フッて不眠症になったとか?」

「それなら付き合ってるでしょ」

「だよなあ。そこら辺、吼月先輩なら後腐れなくキッパリ断るだろうし。自分がやったことで傷つくなんてな……」

「考えられないと言うか、一番縁の遠いやつというか」

 

 そこは私も共感する。理世さんならともかく、吼月さんは立場的にも性格的にもそのあたりは気にしないイメージだ。翌日は流石に気不味い雰囲気はあったが、週が明けてからは元通りになっていた。

 

「他の生徒から悪口を言われたとか?」

 

 上級生の夜守先輩は、告白を断ったあと校舎裏で文句を言われ、不登校になっている。あ、知ってるのは吼月さんから報告を受けた先生経由です。

 もしかしたら吼月さんも––––

 

「『俺が決めたことだ』ぐらい言って圧倒しそうだけどな」

「会長だしね……」

 

 吼月さんならやんわりと躱すか、それでも噛みついてくるなら叩き潰してくれるから気にしないだろう。

 

「俺たちが考えても仕方ないだろ」

「けど、元はと言えば私たちの所為だし」

「それは、そうだが……」

 

 思い返すのは9月の終わり。

 

『倉賀野先輩と吼月先輩って付き合ってるんですよね』

『え?』

 

 ことの始まりは北原が無遠慮にして、当然のことを口にしたのがきっかけだった。

 ふたりの事は一年生の間でも話題になる事が多かった。

 理世さんは容姿端麗で成績優秀。文武両道を地で行き、決してそれに驕ることはなく前向きな人柄は、数回会話しただけのわたしでも惹かれるものがあった。

 なんとなく『ああ、この人モテるんだろうな』と思ったのを覚えてる。

 

 吼月さんも似たような評判ではあるが、理世さんとは違い『モテる』といった好意ではなく、『凄い』といった尊敬の念が勝つ。

 

 そんな2人だが、告白される事はまずない。

 理世さんと吼月さんの関係性のせいだ。

 

『私たちは別にそんな関係じゃないけど』

 

 鈴を転がすようなという表現にピッタリな声が、呆気に取られた音色を出した。

 その言葉を信じられず私と北原が瞬きを繰り返す。

 

『またまた冗談を』

『そうですよ。あんなイチャイチャして』

 

 心当たりがないようでポカンと過去を思い浮かべている。

 

『この間なんてイヤホンひとつずつ使って一緒にスマホ見てたじゃないですか』

『ショウが風都探偵を見れてなかったからよ』

『だとしても普通付き合ってもいない異性と片耳イヤホンなんてしないんですよ』

『弟ともするけど』

『家族は別ですよ!?』

 

 この反応は確かに付き合ってない人のものだ。

 親密なのに、付き合ってはいないという歪な関係。近すぎて恋しているという感情に発展していないのかもしれない。

 わたしと北原は憂うため息をついてしまう。

 

『いつまでもその調子じゃ、会長を誰かに取られても知りませんよ』

『取れるの?』

『……』

 

 謙虚で自信過剰になる事はない理世さんだが、事実に関してはかなり素直に言ってくる。

 吼月さんを理世さん以外の誰かが奪うシーンを想像してみるが、私には思い浮かばなかった。北原も同じようで頑張って他の人が吼月さんと付き合うイメージをするが唸ってばかりいる。

 妄想でも勝つことができないことに屈辱を覚えていると、ガラガラと音を立てて生徒会室の扉が開く。

 入ってきたのは応野先輩だけだった。

 それはおかしいことだった。

 

『……ショウは?』

『PC室のエアコンを直した後に、柔道部の奴らにわっしょいされてった』

『なんで……』

『百人組手をして欲しいらしい』

『うちの柔道部の二十人しかいないじゃない』

『全員五回ずつトライするんだろ』

 

 先に戻っててくれ、と言われたそうでひとりで戻ってきたようだ。

 応野先輩は扉を閉めると理世さんを見た。

 

『それでそっちは面白そうな話してたけど』

『盗み聞きは感心しないわよ』

『聞こえたんだから仕方ないだろー。それで倉賀野と吼月がどうしたって?』

『付き合ってないんですって』

『はあ……? アレで?』

 

 理解できず、棘のある淡白な驚きのまま応野先輩は、面白そうなものを見つけた目を向ける。

 

『さっさと告白しろよ』

『だから私たちは恋人とかの関係じゃなくて』

『だとしてもいつまでもそんな関係だといつか気づいた時に後悔するぞ』

『…………』

『そうですよ! 倉賀野先輩も早くコクっちゃいましょうよ!』

 

 押され気味になる理世さんが首を傾げ、考え込む。それを見た私たちは駆り立てるように或いは冷やかすようにそう責め立てた。

 

『理世先輩が告白したら会長も喜びますよ!』

『……そう』

 

 そこで理世さんが折れて、私たちから目線を逸らした。

 

『わたしが告白したらショウはどんな顔をするかな』

 

 楽しそうに少しだけ口角を上げて頷く。その顔はどこか人並みの女性として笑っているようにも見えた。

 わたしたちはその微笑みに喜びを感じた。

 しかし––––

 

「結果はあの通り……」

「思い返すとかなりウザい絡みしてるな俺ら」

 

 皆同意するように深く頷いた。

 学生間ではかなり恋愛沙汰は良くも悪くも盛り上がる。自分も面白がって囃し立てるように告白を迫っていた。

 どうにかしてもう一度仲良くして欲しい。

 

「仲の良い人に仲介して復縁させるとかはどうでしょう」

「倉賀野先輩はともかく吼月先輩は誰にするんだよ」

「それは……」

「吼月と仲良い友達って誰だ?」

 

 吼月さんはこの手の話題になると詰まってしまう。

 友達はいるし常日頃から誰かが横にいるイメージはあるけど、一緒にいる相手が理世さん以外に思い浮かばない。

 

「最近だとマヒルか? なんかよく喋ってるし」

「良いじゃないですか。(セキ)先輩なら上手くやってくれそうですし」

「いや……どうだろ。倉賀野と仲良いかって言われると疑問があるし、今のマヒルはな」

「ああ。マヒル先輩、なんか友達と仲違いしたんでしたっけ」

「仲違いというか周りの奴らがやっかみつけてるだけだけどな……それを考えなくても今のマヒルは付き合い悪いし」

 

 理世先輩と夕先輩が仲良いという話も聞いたことがないし、そもそも吼月さんも夕先輩はフルネーム呼びするくらい遠い関係じゃなかったっけ。

 

「そうだ! 夜守先輩の様子を見に行く体でふたりっきりにすれば」

「確実にふたりが嫌がるだろ。てか夜守に悪いわ……とりあえずアイツらがどう思ってるか知らないとな」

「なにか案でも?」

「直接聞けばいいだろ。吼月なんだから」

「「確かに」」

 

 吼月さんなら嘘をつかない。

 いま理世さんについてどう思っているか聞けば必ず答えてくれる。

 

「それで誰が聞くんですか」

「……同級生の俺しかないだろ。ちょうどいいし誘ってみるか」

 

 応野先輩がスマホを取り出すと操作し始める。

 

「吼月とラインするの初めてだな」

 

 それを私たちは黙って見守った。

 

 

 

 

 学校から帰宅したあと、夜の帳が下りたころを見計らいハツカの家を訪れた。

 

「はい、ハツカ様」

「あ〜ん」

 

 食べたい物を考えてくれと頼んでいた結果、クッキーになったので、タヌキの型からくり抜いたチョコクッキーを作ってみた。

 クッキーを盛り付けた皿からひとつ掴み、ハツカの口へと運んでいく。

 

「どうでしょうか?」

「しっとりしててチョコの味もしっかりしてる。見た目もキラキラして可愛いね……でもなんでタヌキ?」

「元のレシピがタヌキだったのと……あとタイクーンですから」

「ショウくんって徳川が好きなの?」

「『最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える』って言葉は参考になりますが概ね普通です。それに僕の中ではちょっと意味が違いますし」

 

 分からないネタを深く踏み込んでも仕方がないので、ハツカは風を流すように納得した。

 

「口の部分の透明なのは飴?」

「細かく砕いた飴を焼く前のクッキーの口に入れると溶けて蓋みたいになるんです。

「それをふたつ重ねると中のホッピングシュガーが出てこなくなると。ステンドグラスクッキーというやつだね。もぐもぐ」

 

 シャカシャカとクッキーを振って心地よい音を立てた後、ハツカは自分の口の中へと入れていく。

 美しい白い歯を僕が作ったクッキーで微かながら黒く汚れる。それだけじゃなく、舌や唾液すらチョコ色に染まっているのを見るとなんというか凄く来るものがある。

 僕の首筋をいつも噛んでいる歯を自分の手で汚していることになんとも言えない興奮を覚える。僕が作ったものに彩られているのだから、実質ハツカの口はもう僕のものなのかもしれない。

 西園寺たちがいなくて良かった。アイツらが居たらこの感情を見抜かれていたかもしれない。

 

「……そういえば」

 

 下校中に来たラインのことを思い出す。

 

「ハツカ様ってバスケは興味ありますか?」

「興味はないけど、どうしたの」

「ないならいいんだ」

「どうしてか言ってくれなきゃ僕は決められないよ」

 

 質問を返しながらその訳を訊いてくるハツカ。

 好きじゃない事に誘う形になってしまうのは残念だけど–––そう前置きしながら続ける。

 

「同級生から今度バスケしないかと誘われまして。それで……」

「それで?」

「ハツカ様、一緒にやりませんか?」

「なんで?」

 

 僕がこういう言い方している時点で、気づいているだろうにわざわざ言わせるのはハツカらしいというか。

 

「……僕がハツカ様と一緒にやりたいから、です」

「ふふっ、いいよ」

 

 僕が《ハツカ》とバスケをしたいと口にしたのがお気に召したのか、イタズラ好きの子供のような可愛い笑顔を浮かべる。

 

「いいんですか?」

「興味がないのと、やりたくないは別でしょ。久しぶりに体を動かしたいし」

 

 それに、と続けるハツカはどこか嬉しそうに。

 

「君から誘ってくれるのは初めてだしね」

 

 思い返してみると確かにそうだ。今まではハツカから『どこか行きたい?』と聞かれてから提案する事しかなかった。

 そう理解すると良いなと思った。

 

「楽しみだよ、ハツカと遊ぶの」

「そう?」

「ああ、俺は強い奴とやる方が楽しめるからな!」

「口調」

「ごめんって。でも勝負事になると俺って口調の方がノリやすいんだよ」

 

 ハツカと勝負したい。

 勝ちたい。

 

「でも、その友達は良いって言ってるの?」

「外付けの理由は穴埋めで来て欲しいだけだそうなので。増える分には問題ないですよ––––送信」

 

 スマホを取り出して応野にラインを送る。

 これで幸福に変わる。

 

 だろう。




 ドンブラザーズ最終回良かった……
 


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第二十四夜「色目」

 応野から連絡を受けた翌日、僕たちは小森の市民公園へとやってきていた。

 俺の少し前を歩くハツカのコーデは、エレガントなマーメイドスカートと、ラフなスウェットを合わせた落ち着きのある大人らしいものだ。ゆったりとしたラフな服装であるのも、自由のあるハツカらしいさが垣間見える。

 

「夜に来ると市民公園(ここ)ってこんな感じなんだな〜……こんなこといつもいってる気がする!」

「目新しいってことだしいいんじゃない?」

 

 公園といってもあるのは大きな体育館とグラウンドだけで遊具といったものはない。けれども広場などがあり、昼間はスポーツ大会や子供連れの家族が遊びに来れる場所だ。

 傍にはフットサルコートやテスニコートもありスポーツをするには最適な環境だ。

 

「なにより花が綺麗!」

 

「うん。職員さんたちが大切に育てているのが分かるね」

 

 道端に設けられた花壇にはコスモスや撫子(なでしこ)竜胆(リンドウ)といった色とりどりの植物たちが、夜風に当てられ頭を左右に振っている。

 そんな花たちを慈しむようにハツカは屈んで、コスモスの花びらを撫でる。

 

「花、好きなの?」

「好きだよ。なにしろ植物は大人しいし、逃げないし、暴れないからね。心を込めて育てるには最適だよ」

「……左様でございますか」

 

 絵面を見れば完璧なのだが、優しい声音で言っていることが怖い。いや、口にしている内容は理解できるのだが、眷属たちに女王様然とした態度を取るハツカが語ると少々圧を感じるのだ。

 ハツカの家にも観葉植物があったことを思い出す。種類は分からないけど、アレも立派だったからな。

 

「春に来た時は夜桜も綺麗だったよ」

「そうなのか……夜桜ね……」

 

 立ち上がり、スポーツウェアを入れた袋を揺らしながら、ハツカは昔を懐かしむようにしみじみと溢す。

 

–––夜桜か、いつか観に来れたらいいな。

 

 そう思いながら、体育館へと歩いていくと人影が見えた。

 傾斜の緩い階段の先にいるのは、今宵。俺を呼び出した応野であった。

 毎日学校で見ているモノも、夜だと輪郭の大きさが変わるというか、はっきりするというか、静かさ()の中に立つと存在感が変わる。

 

「よっ吼月、来てくれたか。……?」

 

 俺たちを見つけた応野が愕然とする。

 針で刺すような視線で見つめるのはやはりハツカだった。応野から見てもやはりハツカの姿は魅力的に映るのか、愕然とした顔から見惚れたように口角が緩む。

 ややあって正気を取り戻した第一声で俺を非難した。

 

「いや吼月最低だぞ–––!?」

「開幕早々罵声をかけられる俺の身にもなってほしい」

「いや、だって! お前この間フッたばかりだろっ!? なのに」

「綺麗なヒトを連れ歩いてるって?」

「ああ……ああ!!」

 

 慌てふためく応野だが、ハツカを綺麗だと褒めた点については良しとしよう。

 

「なにちょっと笑ってんだよ」

 

 コウと応野も、ハツカの容姿が良いというのだ。

 これなら誰が見ても魅力的だろう。そんなことは『CLEAR(クリア)』を訪れた時から証明されているのだが。

 

「ハツカ、紹介するよ。俺のクラスメイトの応野(おうの) 秀明(ひであき)。中学ではバスケ部に所属してる」

「よろしく応野くん」

「どうも……」

 

 応野は一歩引いた態度でハツカを見つめる。

 

「で、応野。彼は蘿蔔(すずしろ) ハツカ。俺の友達だ。夜の、な」

 

 変な紹介はしたくなかったが、俺の夜の象徴であるハツカに対してはそう言いたかった。

 ひとまず双方の挨拶は済んだが、このままでは理世の話を持ち出されかねない。応野のやつ、俺たち付き合ってないって一番知ってる立場の人間だろうに。

 すると、応野が俺に近づき小声で呟く。

 

「この人とどういう関係なんだよ……しかも夜だけって」

「なんもないよ。普通ふつう」

 

 ただ人間と吸血鬼ってだけだし。ただ美味しく飲まれてるだけだし。

 肉体関係はあるけど、普通だ。人間と吸血鬼なら。

 

「あんま変なことやってると倉賀野が悲しむぞ」

「変なことはしてないから悲しまないぞ」

 

 成長のためにハツカといるんだから。

 さて、仮にも俺を落とそうとしてる吸血鬼(ヒト)が、他の女の話を聞いて居心地良いわけがない。話題を変えようと俺が『ところで』と口にすると、その声が重なった。

 

「二人で仲良く喋ってるのはいいけど、着替えてこなくていいの?」

 

 発言主はハツカだった。

 

「僕、先に行っちゃうよ」

「あ、ああ。え? 僕?」

 

 突然割って入られた応野は、ハツカが僕と自身を呼称したことに戸惑う。

 ちょうど良いこのまま話を切り替えさせてもらおう。

 

「ここの体育館使ったことないな。更衣室どこなんだ?」

「この先の突き当たりを右に曲がっていくと更衣室があるけど」

「ならもう着替えながら話そうか。そっちの方が早く済む」

 

 話を一度切ってから俺と応野は、ハツカの後を追うようにして清潔に磨かれたクリーム色のタイルの通路を歩いていく。困惑が続く応野は、俺とハツカを交互に見ながら、何を言うべきか悩んでいるようだった。

 

「今日は呼んでくれてありがとな」

「いや、俺の方がありがとだわ。急だったのによく来れたな」

「俺、暇人だしな」

 

 実際、ハツカと過ごすぐらいしか予定がなかったけど、具体的なやることができて俺も嬉しかった。ハツカってバスケ上手いのかな。

 歩いているとボールが弾む音が大きく反響して耳朶を打つ。音がする方には両開きの大きな扉があり、その中を覗くと、そこがアリーナなようで既にバスケを始めている者たちもいる。

 

「開始って何分だっけ」

「30分。好きが高じてやりに来てる人たちだし、集合時間はあくまで目安になってるけどな」

 

 なるほど。好きがあるのはいいことだ。

 

「てか、今日先輩たちに二人来るぞって言ってあんだけど」

「問題ないぞ」

「いや問題大有りだろ! 俺たちがやってるのは男子バスケで」

「すぐに分かる」

 

 言いかけたところで視界の上側に更衣室と書かれたプレートが現れる。プレートの下にある扉を開けて、俺たちの前を歩くハツカが男子更衣室の中に入っていく。

 

「え?」

 

 臆することなく男性更衣室の中に入っていくハツカを見て応野は困惑して、すぐに駆け寄った。

 

「待て待て!? アンタ、おんな……」

 

 またしても応野が硬直する。

 そこには既にコインロッカーに百円を投入してカバンを収めたハツカが、豪快に上着を脱ぎ去っていた。

 露出するヘソの部分が異様に目が入ってしまう。同じ男性であるはずなのに刺激的なモノを見てしまった気になる。

 

「なあ吼月」

「なにかな」

 

 応野がギコギコと擬音がつきそうな動作で俺を見る。

 

「男なのこの人!? この容姿で!?」

「性別不詳でも通る容姿してるからな」

「いやどこからどう見ても女じゃん!?」

「てか、彼って紹介しただろ」

「吼月にしては珍しい語弊かなって……」

 

 俺もここまで中性的かつカッコいいと綺麗を合わせてる存在なんて見たことないしな。

 初めて見る応野が驚くのも無理はない。

 俺は応野の背を押しながら歩き出し、ハツカの隣のコインロッカーに百円を投入する。応野はその俺の隣のロッカーに持ってきていた袋を入れる。

 

「ハツカは大胆に脱ぐんだな」

「ショウくんは僕に恥じらいながら脱いで欲しかったの?」

 

 ハツカは襟で口許を隠しながら、わざとらしく頬を赤らめて俺を上目遣いで見つめる。見た目相応のあどけなさ全開の恥じらう表情は端的ではあるが、とても可愛らしかった。

 その姿を隣で見ている応野も『可愛い……』と思わず溢してしまうが、俺はあまり好かない。

 

「可愛いが、一気に脱いだ方が俺の知ってるハツカらしいし、清々しくて良い」

「そっか。ならもう脱いじゃうね」

 

 ハツカは仕草を解くと、一思いに上の服を脱いで、それをロッカーの中へと投げ入れる。ロッカーの中に手を入れて、スポーツ用のTシャツを取り出す。

 そのTシャツを着ると次はスカートに手をかける。俺は思わず手を背ける。

 

「なに、目を背けちゃって」

「なんでもねえよ」

 

 反射的に意識してしまったのを悟られ、ハツカは唇を弓なりにする。

 楽しむようなそれとは違う視線が背後から刺さる。

 

「お前、男の()趣味だったの?」

「違うけど……」

 

 男、女、男の娘なんて関係ない。

 ハツカは《ハツカ》って枠組みだろ。

 

「というかふたりって同い年?」

「……いや歳上」

 

 不老不死の吸血鬼であるハツカの年齢をどう返すか言い淀み、ひとまず当たり障りのない答えを提示する。

 

「完全に先輩じゃないですか……なんで吼月はタメで喋ってんだよ」

 

 何年生きてるか分からない相手に年功序列とかクソほど役に立たないし、なんて言えるわけもなく笑って誤魔化そうとした時。

 

「僕がタメでいいよって言ったんだ。ショウくんとは今後とも仲良くしたいしね」

「そうだったんですね」

 

 今後とも、ね。俺がハツカの眷属になったら西園寺たちみたいに仲良く遊ぶことになるのかね。

 ふたりがそんな話をしている間に俺は辺りを見渡す。ロッカーに遮られて奥の方までは見えないが俺たちよりも歳上の人たちしか使っている様子しかない。

 

「なあ、今日って中学の集まりなのか?」

「いいや高校生」

 

 さらっと答えた応野に俺は『中学バスケじゃないのか?』と問い直す。

 

「ほら、ここの近くって小森工校あるだろ。兄貴がそこの卒業生なんだけどそのツテで入れさせてもらった。俺にはちょうど良かったし」

「応野はバスケの推薦で高校目指してるんだっけ」

「ああ。だから腕試しにはちょうどいいし」

「応野はバスケ上手いからな」

 

 しかし、それなら高校生を誘うのが通りじゃないだろうか。高校生主体でやっているもので人も足りないなら、中学生である俺を誘うよりも実りがあると思うが。

 

「勧誘も兼ねてだよ。今日は自主練だけど、普段はクラブで使ってるからさ。あそこに貼ってあるだろ」

 

 応野が流した視線を追うように顔を動かすと、出入り口の横にバスケクラブへの勧誘ポスターが貼られている。

 

「先輩と話してたら『お前の同級生誘ってこいよ』って言われてな」

「先言っとくけど入らんぞ」

「無理に入って欲しくはないぞ。今日は人数合わせだし。ほら、行こうぜ」

 

 話している内に着替え終えた俺たちは、靴だけ履き替えて更衣室を後にする。

 

 

 

 

「にしても、ハツカはよくバスケジュースなんて持ってたな」

「僕の友達に以前『スラムダンク読み直したからバスケやりたくなった!』って突然呼ばれたことがあってね」

 

 ハツカの友達だから吸血鬼なんだろうけど、行動力凄いな。

 自由気ままなのはどこの吸血鬼も同じなのかな。

 

「黒バスじゃないんだ」

「今の子はそっちなんだ……」

「どっちもかなり前じゃん」

 

 3人で雑談しながらアリーナまでやってくる。

 アリーナに入ると先ほどよりも大勢の人間がバスケを行っていた。アリーナの中央を両断するように垂れる緑の大きなネットに分たれてコートが二分割されている。右手側では俺たちが目的としている男子バスケの人たちがチーム戦を始めている。一方左手側には、普段お目にかかれないことをやっていた。

 

「車椅子バスケか」

 

 車椅子に乗った10人の選手がコートを駆け回る。

 普段のバスケと比較してみると、選手の立ち回り激しく、ボールの行き来も速い。ついさっきまで手前のリングの下にいたのに、すでに奥の3ポイントラインの内側まで攻め込んでいる。

「珍しいだろ。お役所としては障がいを持った人でも積極的にスポーツに取り組んでほしいってことで推してるクラブなんだ」

「あっちはクラブなんだね」

「人数的に1コートで足りるから、話して使わせてもらってるんです。それじゃあ吼月。先輩に話してくるから」

「行ってら」

 

 応野を送り出してから俺は再び車椅子バスケをやっているコートへ目を向ける。

 にしても凄いな。ボールを操るだけでも苦手な人は沢山いるのに、車椅子という拡張装置を用してあそこまで動き回れるなんて。

 というか、ダブドリしてる人混じってない?

 車椅子バスケのルールには明るくないからなんとも言えないが。

 

「すげえ」

「素が出てるよ」

「おっとと」

 

 本来の目的を忘れて目移りしてしまった。

 応野が先輩と話しているのを遠くから暫く眺めていると、その人が応野と一緒に歩いてきた。近づくに連れて身体の仕上がり具合が分かる。肩幅もあり頑丈な体つきは、彼が力強いことをこれでもかと示していた。

 その人は俺とハツカの前に立つと人の良い笑顔を浮かべる。

 

「君たちが応野の友達だね。初めまして、東代(とうだい) 優治(ゆうじ)だ。今日はよろしく頼むよ」

 

 そんな爽やかな笑顔が徐々に変化する。俺たちを一瞥した視線がハツカに釘付けになったのだ。穴が開くような視線をハツカは嫌がることなく、むしろ凛々しさそのまま優しく微笑んだ。

 返された笑顔にまるで惚れ込んだかのようにハツカを熱く見つめるが、応野が横から小突くと頭が冴えたのか、ひとつ咳払いをする。

 

「応野、ここ女子バスケじゃ」

「そのネタはもうやったんすよ先輩」

 

 東代へハツカの説明をする俺と応野。事情を聞く東代は先ほどの応野と同じく驚きに満ち満ちたものになる。

 

「男の娘だとッ!? ……それはそれで」

「おい」

 

 無駄話はここまでにして、と東代は思考を切り替えてコートの方へ向き直る。応野も東代の側に立ち、俺たちに背を向けた。

 その間に俺はそっとハツカに耳打ちする。

 

「アイツ、お前にほの字じゃないのか? どうする、眷属()にでもするか」

 

 俺が尋ねる。

 しかし、間も無くハツカはそれを否定する。

 

「彼は良いかな。ガチムチ系は好みじゃないし」

「だったらなんで色目なんて使ったんだよ」

「なに。嫌だったの?」

「な訳あるか」

 

 ハツカが誰に色目を使おうと俺の知ったことではない。

 単純に気がないのにその気にさせるような振る舞い–––いや、アレで惚れるのか?––––をしたのかが気になるだけだ。

 

吸血鬼(僕ら)はそういう生き物なのさ」

「はい? ……今度詳しく聞かせろよ」

 

 代名詞を使い、そう告げるハツカ。

 答えになっているような、なっていないようなあやふやな返してくる。

 わざわざ代名詞を使うあたり、ここで吸血鬼の話題を出すのは小声でもやめておいた方が良さそうだ。

 話し終えると東代の周りには人だかりが出来ており、そこにいる人たち皆、先ほどまでコート内で駆け回っていた人たちだった。

 

「はい、今日は新しい参加者が来ているので初めに自己紹介。それでは、吼月くんから。お願いね」

 

 東代に呼ばれて、一歩前に踏み出す。

 胸を張って笑顔を湛えながら、彼らを見渡して口にする。

 

「この度、友人である応野くんからの誘いでお邪魔させていただくことになりました、吼月ショウです」

 

 淀みなく、ハキハキと喋りながら言葉を繋ぐ。

 

「応野くんと同じく中学2年生で本来であれば立てる舞台ではありませんが、皆様から沢山学びたいと思っております! 今日はよろしくお願いします!!」

 

 言い終えてから一礼すると、パチパチと拍手が送られた。

 学校での挨拶だと先生が言ってるからやるイメージが強い拍手だが、ところ変われば自分でやりだす辺り体育会系らしいと思える。

 クラブの人たちの視線がハツカに向く。

 俺よりも強い眼差しが向き、主役を見ているといっていいほどのものだ。

 

「初めまして、皆様のご厚意に預かりこのバスケットボールクラブに参加させていただきます、蘿蔔ハツカと言います。こうしたクラブに加わることはなかったので、皆様との時間を楽しみにしていました。

 本日はよろしくお願い致します」

 

 ひとりひとりに声が届くよう配慮して、最後には丁寧に頭を下げた。その上品な声音がクラブの人たちの脳を刺し、自信を伴った整った美しい所作が目を刺激する。

 こうした少しの動きからでもハツカの身体の使い方のうまさが分かる。人に媚びるとは違う自然な動き。吸血鬼は人を魅了するのか得意なんだと実感する。

 

「チームを分けて早速試合するぞ!」

 

 東代の指示により、チーム分けが為され早速試合が始まった。




 久しぶりにツイッター覗いたら、よふかしのうた、小学館の漫画賞を受賞していたんですね。
 今更ですが、おめでとうございます!!
 あと15巻の書影も来てましたね。
 よふかしのうたって単行本になるペース早い気がする(比較対象が遅いだけかもしれないけど)。
 楽しみ!!


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第二十五夜「負けてないが!?」

 俺は応野(おうの)秀明(ひであき)

 同じ生徒会長である吼月ショウと副会長の倉賀野理世が、告白をきっかけに疎遠になっているように他の生徒会役員には見えたため、いま、吼月をバスケを理由に呼び出している。

 バスケをしているのは偶々俺がクラブの先輩から、いつものメンバーで来れない人がいるので、せっかくなら俺の知り合いを呼んでくれと頼まれていた。それを吼月を呼び出す口実に利用させてもらったのだ。

 この間にタイミングを見計らって、倉賀野との関係は本当に元に戻ったのか、強がっているだけで本当は離れ離れになっているのではないかと訊くつもりだったのだが––––

 

「楽しそうだな……アイツ……」

 

 蹈鞴を踏むように話しかけられないのは、タイミングの神様の悪戯と罪悪感からの戸惑いと笑いながらバスケを楽しむ吼月への躊躇からだろう。

 思い通りにならず不服な想いを乗せた視線で、俺はコートの外から試合を見ている。他にも数人のメンバーがコートの外に立っている。

 

 眺めている試合で目立っているのは、クラブのメンバーではなく吼月や蘿蔔さんだ。ボールを持つ回数や時間が多いので目立っている。2人とも辺りがきちんと見えているのだろう。相手のディフェンスがマークするために動いた時に生まれたスペースに上手く入り込み、ボールを繋いでいく。

 

「こっちだ!」

「吼月くん!」

 

 しかし、チャンスがあればしっかりと二人とも攻め込む。

 例えば今、吼月はボールを持つと目の前の敵であるカステラ先輩––––根本だけ茶色になった髪と伸びた金髪がカステラに見えるのだ––––に対して、速度を上げて右斜に走り込んで、攻める。自身にしっかり着いて来たカステラ先輩を見て、踏み込んだ足で急ブレーキ。ボールをバックチェンジで右手から左手に入れ替える。

 

「いい位置」

 

 突然の変化にカステラ先輩は体勢を崩す。ディフェンスが振られ、目の前に壁がない吼月にとっては絶好のシュートチャンス。

 その体勢に入る。

 しかし、カステラ先輩が必死に吼月に喰らいつく。

 

「撃たせん!」

 

 その動きに俺は見覚えがあった。いつか動画で新しい技を探してた時に見つけたストップ・バック・ショットヘッジ。一瞬、シュートを撃つかのように見せかけたがそれはフェイク。隙間が出来た右側をドライブで駆け抜け、カステラ先輩を突破した。

 

「間の置き方完璧だし。アイツ、ほんとクソゲーだな」

 

 ゴール下まで切り込んだ吼月は、飛び上がってレイアップシュートを決めようとする。これは確実に決まってしまったか。

 しかし––––速い。ひとつの影が視界に入った時、そう思った。

 

「!?」

「ふっ」

 

 バンッ!とバックボードが音を立てた。リングへと向かっていたはずのボールが、いつの間にかコートの中央へ飛んでいっていた。吼月の手から離れあともう少しでゴールするところだったボールが、リングに向かう途中で行く道を強制的に変えられたのだ。

 

「ハツカァ!!」

「甘いねショウくん!!」

 

 ボールを弾き飛ばしたのは、蘿蔔さんだった。

 きっちりとボールが最高到達点に達する前に弾いているのでゴールテンディングにはならない。

 

「うそぉ……」

 

 今の弾けるのかよ。

 シュートを止められたというのに、吼月が出した声がどこか嬉しそうな悲鳴に聞こえるのは気のせいだろうか。

 着地した蘿蔔さんは未だ浮いているボールを掴むと、そのまま攻め込んでいく。それを吼月が嬉々とした表情で追いかける。

 人の合間を縫ってパスが繋がりどんどん前へと駆けていく。そしてボールが蘿蔔さんへと再び渡る。阻むように吼月が立ち塞がる。

 

「止められないよ」

「やってみろ!」

 

 蘿蔔さんに並んだ吼月。

 しかし、それを急停止することで–––––これは。

 

「さっきの吼月のより速い……」

 

 数段速いストップ・バック・ショットヘッジで、吼月を抜き去った蘿蔔さんはそのままダンクでボールをリングの中へと叩き込んだ。激しく叩きつけられたボールが凄まじい音を出し、蘿蔔さんが掴んだリングが軋む。

 マジでダンクしやがった……。

 驚きで開いた口が塞がらない。

 

「だあーーー! くっそめ!」

「僕を相手に決めたいなら最後まで油断しちゃダメでしょ」

「だったら次は決めてやる!」

 

 吠えるように宣言する吼月は、伸び伸びとしているように思える。

 アリーナに設けられた壁掛け時計を見る。時間は20時を過ぎており、既に始まってから1時間以上たっている。

 試合の間ずっと吼月を見ていて分かったのは、蘿蔔さんとぶつかりに行くことが多い。蘿蔔さんと対峙するのが好きなのかと言いたくなるほどに。

 その時に限って吼月はニタりと笑う。

 倉賀野を除けば1番吼月と関わっているのは俺だろう。そんな俺が知らない吼月がいる。倉賀野といる時とも違う吼月だ。

 わざわざ誘ってきたのだから、蘿蔔さんとバスケをやりたかったのかもしれない。

 あの人といるのが吼月は楽しいのかな。

 

「……マジで惚れてないだろうな」

 

 杞憂だろうけど、吼月が倉賀野をフッたのが、蘿蔔さんのことを好きだっただとしたら、どうすればいいんだ。

 男が男を好きになるのはおかしいだろ……。可愛いのは認める。しかし女装好きとはいえ、相手は歴とした男なんだから。

 

 というか、蘿蔔さんも大概だ。更衣室で着替えてたとき、なんで吼月に色目を使ったんだ。

 

 ブザーが鳴る。交代の合図だ。

 小休憩でみんながコートの外に出て水分を補給する。

 

「はいショウくん」

「……ありがとう」

 

 少し遅れて出てきた吼月に蘿蔔さんが寄り添う。

 笑みを湛えた蘿蔔さんの顔は美しく、何人かのクラブメンバーが遠巻きでうっとりと眺めている。そんな微笑を浮かべたままの蘿蔔さんに差し出されたペットボトルを、吼月は小さく会釈しながら受け取った。

 倉賀野といる時みたいな雰囲気とは違うけど、どこかいい関係に見えるのは気のせいであってほしい。

 

「勝つ」

「ははっ、頑張ってねショウくん」

 

 うまく表現出来ないが、友達という距離感であると同時に、節々で見せる2人の仕草はまるで小さい吼月(子供)を世話する蘿蔔さん(大人)みたいにも見えた。

 

「……」

 

 よし、と俺は背を預けていた壁から体を起こす。

 こちらから出向かう必要はなかった。吼月が蘿蔔さんから逃げ出すように俺の下にやってきた。

 

「さっきは惜しかったな吼月。お前が負けたの初めて見たわ」

「負けてないが!?」

「負けた奴はみんなそう言うんだよ」

「まだ1ゲームあるから! 結果はその後だ……でもアレは入るだろぉ?」

「想定外を考えておかないから……」

「逆に想定内ではあるんだよなあ」

 

 蘿蔔さんから受け取ったペットボトルの中身の半分を一気に飲み干していく。

 

「逆にってなんでだよ」

 

 元々知っていたような口ぶりをする吼月に問いかける。

 すると吼月は微笑みながら、首を回して視線を俺から外す。

 

「ハツカは色々と強いから。身体能力もそうだし、今だってほら」

 

 見るとそこにはチームを組んでいるメンバーに囲まれている蘿蔔さんがいた。

 

「さっきはナイスブロックアンドシュート!」

「あのシュートは君のパスがあってこそだよ。ありがとう」

「〜〜っ、おう! 次も頼むよ蘿蔔さん!」

「ドリブルやポジショニングとか上手いけど、なにかスポーツでもやってたの?」

「知り合いの影響でバスケよ他にハンドボールやサッカーを齧ったことがあってね。体を動かすこと自体は慣れてるんだ」

「てか蘿蔔ちゃんめっちゃ高く跳んでなかった?」

「ジャンプは得意中の得意なんですよ」

 

 小休憩ごとに大勢に詰め寄られるのを見ると、大変だなと思うと同時にそれに臆せず気軽に話返せていることに感心する。会って2時間も経っていないのに、あそこまでチームに溶け込めているなんて恐ろしい。

 

「コミュ力たっか」

「あんなすぐに輪に入れるの凄いよな」

 

 俺はそれ以上に吼月が蘿蔔さんに敬慕の瞳を向けているのにも驚く。

 

「……もう一度聞くけど蘿蔔さんって男なんだよな?」

「さっきも男だって言ったし更衣室も一緒だったろ」

「いやあ……俄かに信じられない……女が男ですって偽ってる方が信じられるというか」

 

 実際ちゃん付けしている人がいるように、男と説明した東代先輩以外のメンバー–––いやあの人は男の娘として見てる節があるが–––は女と見ている。

 

「そんなまどろっこしいことをハツカはしないと思う」

「……お前は蘿蔔さんのこと好きだったりしないよな」

「マヒルと似たこと言うな。ハツカに恋はしてないよ」

 

 恋といった感情が含まれていないと分からせる素っ気ない答えに、俺は安心してしまう。てか、マハルって呼び捨てにした?

 

「尊敬してるだけだよ」

「なにを?」

「う〜〜ん……」

 

 吼月は憧れを言語化しようと唸り、整理できた頭の中から言葉を出してくる。

 

「自信満々だったり、自分を持ってるとか。自分がありすぎてマイペースなところがあるけど」

「それはお前もだと思う」

「いいや違うね。ハツカのは事実と実力で裏打ちされたものだから、余計にかっこよく見えるんだよ」

 

 吼月は蘿蔔ハツカという人物を理解しているように語る。

 俺はコイツがここまで褒める相手が今まで居ただろうかと蘿蔔さんと今の吼月に珍しさを覚えていた。

 

「なにより信頼できてる」

「……?」

 

 吼月の顔が俺の視界に映らなくなり、どんな表情をしているかは分からなかった。けど、どことなく語尾が弱くなっていた。そんな気がする。その理由はわからない。

 

「それでさ、吼月––––」

「吼月くん」

 

 ある程度会話が進んだところで、俺は本題を切り出そうとする。

 しかし、その声に被るようにして東代先輩が吼月に話しかけて来た。仕方なく、俺は口を閉じて東代先輩に会話の主導権を渡す。

 

「どうしましたか?」

「このまま出続ける形でいいか。疲れてるなら交代でいいけど」

「疲れてないので出れますよ」

「なら頼むぞ」

 

 東代先輩が、吼月の背を押してコートに入っていく。

 ……間が悪いな、ほんと。いいや、俺が追っかけて話しかければいいだけだ。でも、と動けず俯いてしまう。

 そんな俺の頭上から声がかかる。

 

「応野は出ないのか?」

「え?」

 

 吼月が東代先輩から逃れたのか、戻って俺を見下ろしていた。

 

「さっき何か言いかけてたよな。試合しながらでも話さないか?」

「……」

 

 ちゃんと聞こえてたのか。それでわざわざ戻って来たと。

 

「律儀な奴だな」

「なにがだ」

 

 そうだな。一緒に出れば、合間を縫って話ができるかもしれない。

 その誘いに乗ろうと言葉を返そう。

 

「いいよ。ここで話すことじゃないし、もう少し休憩するから」

 

 一歩立ち止まり、何故か断ってしまう。試合に一緒に参加した所で話せる時間があるのか分からないし。でもあと30分もすれば今日の練習は終わりなんだよなと、断ってしまったことに後悔が生まれる。このままだとズルズルと話す機会を掴めず終わってしまうかもしれないのに。

 しかし吐いた唾は戻らないように、訂正することも出来ずにいた。

 吼月は一度辺りに視線を配ったあと、俺を見たままいつも通り微笑んで「そう」と呟いた。

 

「俺は応野ともやりたいんだが」

「蘿蔔さんとやりたいんじゃないのか」

 

 俺とバスケをして楽しいのか?

 そう言いかけるより先に、

 

「楽しいよ」

 

 ドアを開けるようにピシャリと言い切る吼月。

 

「ハツカといるのは良いものだ。しかし、この場においては応野も強い。俺は強い奴と戦いたい。ま、応野が出るか出ないかは勝手だがな」

 

 一部惚気に聞こえる所もあったがそこは置いておいて……ハッキリとそう口にする言葉に嘘はない。俺はお前のお眼鏡にかなっているのか?

 

「お前、勝負事好きだな」

「ルールがある勝負事(ゲーム)は1番信頼できるからな。互いが課せられた法を遵守させるように務めさせられ、最後には確固たる結果だけが提示される」

「守らない奴もごちゃまんといると思うが……」

「その為の審判だろ。それに何か一つでも崩れれば俺の尊いとする勝負事(ゲーム)ではなくなる。仮に下法を使う奴が俺の道に立ち塞がれるわけがない。勝手に潰れるだけだ」

「凄いこと言うな……」

 

 確かに約束事を守らなきゃとならないとゲーム自体が成り立たないからな。吼月の言う通りゲームはではない。

 

「さて、それじゃあ後試合まで少しある。ひとつゲームをしようか」

「は? なんでいきなり」

「お前が勝てばそのまま休憩。負ければ交代。どうだ?」

「どうだ? じゃないぞ?」

「なんだ運試しでも俺に勝てる気がしないのか? なら、アイコでも応野の勝ち、俺は最初にこれを出す。これなら文句ないだろ?」

 

 吼月はそう言って握り拳(グー)を突き出してくる。

 

「確かに勝率は上がるけど……なんで急に」

 

 突然振られた勝負に俺が怖じ怖じすると、チラリと吼月の瞳が一瞬だけ蘿蔔さんへ向けられた気がした。そして少しニヤリと笑って俺を見る。

 

「俺が戦いたいだけだけど……?」

「……なんだお前ぇ」

 

 プライベートだとこんな感じなのか?

 ホント知らない吼月だわ。

 

「それじゃあ始めよう」

 

 そうして「最初は–––」と掛け声を始める。

 俺が出すのはグーだ。宣言通り出してくれれば俺の勝ちだし、仮に別の手を出すとしてもパーを警戒してチョキにする可能性の方が高いだろう。

 2人同時に手を振り下ろす。

 

「……」

「俺の勝ちだな」

 

 吼月が出したのはパーだった。

 負けれたことにどこか安心した俺がいた。そんな俺を見て吼月はいつも通りに微笑みかけてくる。

 そもそもこの場に吼月を呼んだのは俺だ。話をするのにウジウジとしていたら、楽しんでもらえず悪い気分にさせてしまう。

 それだけはダメだ。

「なら交代だな」と言って、吼月が後ろを向く。

 

「東代先輩、応野が変わってくれるそうです」

「そうか。悪いが頼むぞ応野」

「え? 東代先輩と交代するの?」

「ちょっと休みたいんだって」

「……」

「せっかく友達を誘ったんだ、チームとして組んで楽しめ」

 

 ほんとコイツはいっつもこうだな……。

 まんまと乗せられて笑い声を漏らしながら、俺はコートの中に入って行った。

 

「そっすね」

 

 ブザーが再び鳴り、試合が再開される。

 さて、話せる機会があれば良いけど。

 

「……」

 

 

 

 試合が再開してから暫く経った。

 ボールがコートラインを割って試合の流れが止まる。ボールが勢いよく転がりアリーナの外に出ていってしまったので、ボールを休憩してる人が取りに行ってる。

 

「ふう……やっと時間が出来たな」

 

 吼月ショウ()の横で応野が肩で息を吐く。

 

「また囲まれてるよ。大変だな」

 

 ハツカは、と視線を走らせるとまた他のメンバーに声をかけられている。

 ……まあいい。やっと出来た時間だ。さっさと終わらせよう。

 俺は応野に『さっき何を言いかけようとしたのさ』と声をかける。応野は息を整えてから俺に向き直る。

 

「最近、倉賀野とはどうなんだよ」

「良い関係だぞ。なんなら更に良くなっている」

「良くなってはないだろ」

 

 予想通りの問いにありのままの現状を話すが、応野は俺の答えに納得していないらしい。

 

「前は校門までは一緒に帰ってるって言ってたのに」

「そこを気にしてたの?」

「そりゃそうだろ」

 

 毒付くような尖った声色を応野が出す。

 いきなり今までと違う状態になったら、事情を知らない立場である応野たちからすれば心配することなのだろう。

 

「さっきのジャンケンもそうだけど、物事を見た通りに受け止められるのは応野たちの良い所だ。そこから見えない所をイメージできるようになれば更に良くなるぞ」

 

 俺が言えることではないけどな。

 それを聞いた応野は、首を捻りながら自身の金髪の髪をわしゃわしゃと弄る。いまいちピンと来ていないようだった。

 

「どういうことだよ」

「物事は目の前だけで起こってるわけではないということさ。信じるかどうかは応野次第だけどな」

「……隠れて何かやってるんだな」

 

 そこから先は教えたとしてもなんの意味もない。やっているという事実さえあれば良いのだから。

 

「まあ、お前らの雰囲気は前からよく分からないし、吼月が面と向かってそう言うなら信じるけどさ」

 

 応野が欲しかったのは直接の言質だ。なら、それを与えてやればもう踏み込んではこないだろう。

 今日の課題をクリアした所で伸びをしようとして、俺の身体は固まった。

 

『ッ––––!』

「綺麗……」

 

 アリーナを横切る大きなネットの奥。車椅子バスケをしているコートの中でひとりの男性が、片手で持ち上げたボールをリングへと放った。そのボールはまるで線路でも敷かれているような的確な放物線を描いてリングの中へと誘われる。

 ネットに掠れた音すらせず、ボールはコートに着地する。

 

「おお……片手で3ポイントとかすげえ」

 

 綺麗なシュートに見惚れた俺は思わずそう呟いた。

 

沙原(さはら)さんか。あの人めっちゃ上手いんだよな」

「知ってる人?」

「……まあね」

「応野がよく知ってる人なのか」

「そうじゃないけど」

 

 言いにくそうにしているが、よく知っている訳ではないと答える辺り人伝でなにかしらの情報を耳にした形か。

 人柄が悪そうには見えないが、綺麗に得点を決めた割には喜びもしていないし、かと言って作業をこなすだけのような無機質さもない。

 ただ身振りに影のようなものを感じる。

 気怠そうに車椅子を漕ぐ沙原の顔は上がっている。その先に向けて俺も天井を仰ぐ。

 アリーナの2階には観客席がある。

 別に公式戦などではないため人はほとんどいない。観客席に2人ほどおり、観客席の後ろにあるランニングコースを走っている人が数人いる程度だった。

 

––––どこを見てるんだあの人。

 

 沙原の視線は観客席にいる人に向けられてはいなかった。

 人を待ち続けるように虚しく空いている青い座席へと彼の瞳は試合が再開するまで向けられたままだった。

 

 誰か待っているのか……?

 

 彷徨った視線が地上に戻る。

 ピッ、と笛が鳴ると沙原は意識を変えたように、苦しさを僅かに見せた顔つきから選手の顔へ変貌しバスケに集中し始めた。

 

「………?」

 

 俺が気になった点はもう一つ。

 沙原を見つめていた者が俺以外にもう1人いた。それも観客席から。

 視線が交わることはないが確かに沙原を見つめている男性がひとり。遠目のため断定は出来ないが、外見だけであればこの場にいる高校生たちやハツカと近い年齢に見える青年だった。それもかなり整ったシルエットをしている。

 

「………」

 

 そんな青年と俺の視線がかち合う。気づかれるほど見ていたのかと思って「やべっ、見過ぎた」と心の中で呟くとすぐに顔を逸らした。

 顔の向きを戻した時にはボールが戻ってきていた。

 

「勝つぞ応野!」

「分かってるよ!」

 

 俺は応野の背を叩いて、戦闘態勢に入る。

 

「蘿蔔さん!」

 

 ボールがコートへ投げ込まれ、ハツカへとパスが繋がっていく。

 

「次こそ勝つ!」

 

 意気込んでハツカへと向かっていく。

 その時にはもう––––青年から微笑みかけられていたことは頭から消えていた。




【報告】
 次の投稿ですが、過密スケジュールで執筆が困難な状況にあるため一週間先延ばしにさせてください。
 申し訳ございません。


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第二十六夜「年頃」

 いつのまにか15巻出てた……木刀持って友達追いかけるのは不味いですよコウくん!?
 それはさておき、キクさんがマヒルくんを好きになったと気づいた時とナズナちゃんがコウくんに発破かけた時、両方とも『ドキッ……』って演出入ってたけど、なにか意味あるのかな?
 次吸われたら吸血鬼になるのかい?


「–––––」

「おーい、ショウくん?」

「だーめだこりゃ。同点になって賢者タイムに入ってやがる……なんで賢者タイムしてんだコイツ……」

 

 俺とハツカ、応野の3人は体育館の通路を歩いている。少し俺が先を行き、そのあとから着いてくる形で2人が何やら言っている。

 試合が終わり、今日のバスケの練習は解散となった。東代たちは片付けをするからと言って、俺たちを先に返してくれた。実際はもう少しだけ自分達主導でバスケがしたいだかのようだが。

 結果としては最終スコアは同点の引き分けなのだが––––

 

「一度も蘿蔔さん抜けなかったからな」

「ッ」

「あっ、はねた」

「打ち上がったばかりの魚かよ」

 

 確かに結果は同点。俺とハツカの得点数も、俺が3ポイントライン外から打つことが多かったため等しいものになった。しかし、俺がその3ポイントシュートを打つことが多くなった理由の大きな理由がハツカを突破出来なかったからだ。

 あの手この手で出し抜こうと試みたが、悉く塞がれてしまった。

 

「こっちからすれば蘿蔔さんたちのレベルに合わせないといけなくて大変だったわ」

 

 しかし、ハツカは全力を出していない。

 吸血鬼の本領を発揮せずこの実力とは思わなかった。一度くらいはなんとか抜けるだろうとタカを括っていたのだが、と肩を落としていたのである。

 以前、吸血鬼同士でバスケをしたことがあると言っていたが、どんな異次元バスケが繰り広げられていたのだろうか。エンドラインから直接ゴールへボールを叩き込んだりしていたりして……。

 もうダメだ。

 負けた––いや、負けてないけど–––イメージが強すぎて、やってらんないわ。

 

「飯買ってくる」

「また? ほんと好きだね」

「あんだけ動けば腹減りますし。じゃあ俺、メロンパン買うか」

「メロンパンが売ってるのか。俺もそれにしようかな」

「自販機にしてはここのメロンパン美味しいぞ。……あれ……あっ財布ロッカーの中だわ……」

「俺が買ってくるぞ」

 

 俺は財布を取り出してそう告げる。

 

「悪いな、後で返す」

 

 すまんな、と両手を合わせるポーズを取る応野。金の貸し借りに関してキッチリしてるからそこも好くところなんだけどな。

 

「蘿蔔さんは?」と応野が言った。

「僕は用意があるからいいよ」とハツカは答えた。

 

 視線を俺––––厳密に言えば俺の首筋–––に這わせてくる。確かに吸血用肉体(血液パック)がここいるけど、そんなに視線を向けるな。俺はハツカの眼差しに盛り付けられた刺身の照りを見るような卑しさを感じ取る。舌舐めずりをしているのではないかと疑いたくなる。

 

「あの袋の中に入ってたんですか? ……結構少食なんですね?」

 

 吸血鬼のことを知らない応野は、ハツカが持参してきたスポーツバッグの中に食べ物が入っているのだと想像したのだろう。思い出したハツカのバックの大きさでは、それほど胃が満たされる飯は入れられない。

 飯が俺だなんて知ったら応野はどんな反応をするだろうか。

 

「……販売機どこ?」

「ここの道を曲がらずにまっすぐ行けばジムがあって、そこの正面にあるぞ」

「分かった。じゃあ先に着替えてくれ」

 

 俺がそう言うと、ふたりは頷いて歩いて行った。

 

 

 

 

 吼月くんと一旦別れたあと、僕は応野くんと共に更衣室へ戻った。ガラガラと横開きのドアが小さく音を立てた。

 見渡す限り僕たち以外に人は居ないようだった。

 空っぽの更衣室にニ対の足音がよく響く。

 100円ロッカーの鍵を挿して、くるりと回すと100円硬貨が鍵穴の下に設けられた排出口から出てくると同時に扉が開錠される。

 扉を開けて手を中に入れてタオルとコールドスプレーを取り出す。コールドスプレーでタオルを軽く冷やしてから、かいた汗を拭っていく。

 こうしないと汗を拭いた後でも、身体の中に熱がこもってまた汗が出てくるから嫌なんだよね。

 でも、吼月くんとバスケをするのは楽しかったし、代わりとしては丁度いいかな。

 

「準備いいですね」

「これくらいは普通じゃない?」

「この時期に冷汗スプレーを持ってくる人はそういない気が……寒くないんですか?」

「うん。特に寒いって感じないし」

 

 応野くんは頷いて自分のロッカーに手を伸ばす。ロッカーの中身を探りながら彼は口を開いた。

 

「……蘿蔔さんと吼月ってどういう関係なんですか?」

 

 僕の顔を見ずに応野くんが聞いてくる。

 元々吼月くんが彼に呼ばれた理由––––フッた女の子との仲はどうなっているのか––––のことを考えると至極当然の質問だろう。

 

「どうって?」

「いや……女装してる男性と仲良さそうにしてるって気になりません? しかも夜だけって言われたらなおさら」

「特にないよ。いまは歳の離れたお友達。強いて言うなら相談相手かな?」

「いまは、なんですね……」

 

 かなり癪だけど。

 

「蘿蔔さん、なにか悩みでもあるんですか」

「なんで僕が悩んでる前提なの」

 

 そう思うものの、応野くんが見ている吼月ショウという人物は––––

 

「てっきりアイツがまた変に関わったのかと」

「変な出会いだったのは否定しない」

 

 吼月くんは人助けが趣味みたいな人だと(セキ)くんからも聞いている。今の時代には珍しい性格だと思う。

 実際は真逆で、吼月くんが自殺しかけて僕が助けたのだけど。

 

「……え? 吼月に悩みがあるんですか?」

「誰にでも悩みのひとつやふたつはあると思うけど」

「……そうですね。蘿蔔さんはいつぐらいから吼月の相談に乗ってるんですか?」

 

 本人から直接問題ない、と言われたのにまだ探ってくるなんて随分と信用されてないんだね。少しばかり吼月くんに憐れみを向けてしまう。

 致命的な欠点はあるけど社交性がない訳ではない。バスケしてた時も応野くんや他の子たちと楽しそうに話せてたから、良好な関係を築ける程度には持ち合わせている。

 

「今月の初めだけど」

「初め……わぁ、うわぁ……」

 

 顔を抑えるようにして呻き声を断続的に上げ始める。

 ……なんとなくだけど、読めてきたな。

 

「なにかあったの?」

「……実はですね」

 

 悪ノリで倉賀野ちゃんに告白するように言い迫ったこと。その結果、フラれてしまい2人の関係が変わってしまったこと。ぎこちない雰囲気が週明けからは全くしなくなって不自然なこと。発端が自分達にあるため負い目を感じていること。

 なるほど––––と、僕は相槌を打ってみせた。

 

「結末がそれだと、どうしても嫌な気分にはどうしてもなってしまうよね。でも、恋バナは人が浮かれやすくて囃し立てちゃうのも分かるし、決断したのはその倉賀野ちゃんであって、君たちが無理矢理やらせた訳ではないんでしょ?

 だったら、そっと見守る方が健全だよ。悪いと思うなら倉賀野ちゃんに直接謝る……まあこれも互いに気を遣わせちゃうからオススメしないけど」

「そぉっすけど」

「それに安心していいと思うよ」

 

 パタンとロッカーの扉を閉めて、彼に顔を向ける形でそばにあった長椅子に座る。

 

「僕と一緒にいてその子のことを考えるぐらいにはショウくんも倉賀野ちゃんのことを考えてるから」

「本当ですか?」

「ホントだよ」

 

 ベッドの上に押さえつけられて、血を吸われているにも関わらず僕ではなく倉賀野さんという子を思い浮かべているあたり、この子の比重が吼月くんの心の中で大きいのは間違いない。

 にしては––––

 

「……? どうかしたんです?」

「倉賀野ちゃんとショウくんって仲良いんだよね?」

「そりゃまあ。フッた理由が分からないくらいには」

 

 不信感について相談してきた時、倉賀野さんの告白をフッたことについては微塵も負い目を感じてなかったんだよな。弱っていた理由も、明確に理由を説明できない衝動的で生理的な嫌悪感から来るような物に対して悩んでいたのだし。

 自分の不信感で傷つけたことを悔いているだけ。

 

「アイツら自分達でベストマッチだってずっと言ってますし。いや言ってるのは倉賀野だけか?」

 

《恋人》や《好きな人》という言葉を使わずに《ベストマッチ》という単語を強調している辺り、仲が良い以上のことを求めていないとも取れる。仲のいい男女だが、恋人にはなりたくないから「俺たち友達だよな」と予防線を張るようなものだ。

 だとしたら、なぜ告白するつもりになったのだろう。

 流されて仕方なく? 突発的な行動? 実は以前から好きだった?

 あげ始めたらキリがないので僕は思考を中断してスカートを穿く。

 

「最近はどうなの?」

「以前とあまり変わらない……けど、前よりは一緒にいることが減った気がしますね」

「ふぅん。それなら、ショウくんが言ってた通り、目につかない所でなにかやってるんだと思うよ」

「ですね……本当ならいいんですけど」

 

 どこか遠い目をした応野くんを見て、僕は以前吼月くんが話していたことを思い出す。

 

「気になったんだけどさ。聞いていいかな?」

「なんですか」

「なんでショウくんだったの? 倉賀野ちゃんに聴きに行くのが君たちとしては自然じゃない?」

「……聞けないですよ。自分達のせいでもあるのに」

「そっか。踏み込みすぎて関係を壊したくはないしね」

 

 僕がそう訊ねると、応野くんは押し黙りながら頷いた。

 

「吼月くんとは仲良くないの?」

「そういうわけじゃ、ないですけど……」

 

 応野くんはふたりが問題ないと仲直りしてから首を突っ込んだ。

 仲直りする前はぎこちない雰囲気だった事を知った上で関わってきているのなら、吼月くんに触って欲しくない後ろめたさがあることぐらい察せられるはずなのに。

 

「仲は良いですよ。ええ。アイツも友達だって言ってくれますし。ただ……遊んだりとかはしないですね」

 

 遊ぼうと、誘われたことがないと吼月くんは僕に話してくれた。それに吼月くんが口にする友達の考え方が一般的なものと同じではないのは考えなくても分かる。

 だとしたら、吼月くんと応野くんはただのクラスメイトで学校の生徒会の同じ役員というだけで、特別深い関わりがあるわけではない。

 なのになぜ、吼月くんから聞こうとするのだろうか。

 

「らしいね。ショウくんも言ってたよ。君たちぐらいの年頃なら仲良いなら外で遊ぶことぐらいしそうだけど」

「……吼月はそのことでも悩んでたんですか」

「さあ? 気になるなら本人に聞いたらどうかな」

 

 僕はわざと茶を濁すような返答をした。

 あの時の論点は、人と遊んだことがないから一緒にいた時にどうやって感情の発露をさせればいいか分からない、という話だった。吼月くんの口ぶりからは寂しさは感じられなかった––––気取っ(化かし)ているだけかもしれない––––が、ちょうどいいので利用させてもらう。

 

「お節介って訳じゃなくて、ショウくんの人間関係を知りたいだけだから話さなくてもいいよ。ただ彼の相談役として教えてくれたら嬉しいな。あの子の嫌いな所も聞かせて欲しい。今は僕たち以外誰もいないし、僕を頼って欲しいな」

「……子供扱いしないでください」

「そうだね。だからキミの考えを聞かせて」

 

 応野くんは顔をロッカーの中に入れるようにして隠し、僕に背を向けたまま再び沈黙する。僕は念押しする形で「ショウくんが来たらすぐに教えるから」と口にした。

 すると、少ししてから応野くんは話し始めてくれた。

 

「元々アイツが中学になった時に小森に越してきた転校生だったから他の奴らより遊ぶ機会が少なかったってのもあるけど…………ほらアイツ、人助けが好きじゃないですか。そのことは知ってますよね?」

「そうだね。聞いてるよ」

 

 本心から好いているかは疑問があるけど。

 あと今さらっと新しい情報が出てきたね。吼月くん、転校生だったんだ。

 

「アイツを誘って遊んでる時にもし人助けなんてされたら時間も潰れるじゃないですか。それに俺たちと遊んでるのに他の関係ない人に目が行かれたら嫌なんですよ」

「妬いてるの?」

「違いますよ!」

「けどそうだね。その光景は想像出来るな」

 

 以前、園田という女性を化かすことになった発端も、学校で都雉という生徒が暗い顔をしていたからだ。僕も応野くんが持つ懸念については共感することはできる。

 しかし、理解はできない。

 

「だけどこの世の中、毎日毎朝毎晩、目につくほどゴロゴロと不幸が転がっている訳じゃないんだ。一度くらい誘ってからでも良いんじゃないかな?」

「…………でも……」

 

 言葉に詰まった応野くんに僕は「でも? 別の不安があるの?」と心配している口調で次の句を促す。

 

「別に吼月が嫌って訳じゃないんです。……ただ、アイツってなんでも出来るんですよ。今日も凄かったでしょ?」

「そうだね。僕の張り合えるぐらいだもの」

 

 吸血鬼だから人よりも運動神経が優れていてうまく立ち回れていたから全て防げたけど、もし僕が人間だったらどうなっていただろうか。それもあって彼とのゲームはより楽しかったけど。

 

「……もし一緒に遊んで、楽しいって思われなかったら……長続きしないですよ。俺だって遊んで疲れるだけとか絶対嫌ですし。今回は蘿蔔さんが居たから吼月は楽しそうでしたけど、俺1人だったらと思うと」

「自信がない?」

「……はい」

 

 なるほどね。

 ……今の中学生って誰も彼もがこんな風に悩んでるの?

 

「重く考えすぎ、とは言わないけどね。相手と一緒に楽しむというのは簡単なようでかなり難しいことだし」

 

 彼の悩みを肯定した事で肩の力が抜けているのが見ているだけでも分かった。

 

「でもショウくん相手なら大丈夫だよ」

「なんでそう言い切れるんですか?」

「だってあの子、人の家に遊びに行ったのもこの間が初めてだって行ってたし」

「え?」

 

 鳩が豆鉄砲を打ったのを見たような驚きの表情を見せる。

 当然の反応だろう。14歳になって人の家に遊びに行くのが初めての子供なんてこの街にどのくらいいるのだろうか。

 

「人と遊ぶのに疲れる主な原因は慣れなんだ」

「慣れ、ですか」

「うん。何度も遊んでいたらいつかは新鮮味が薄れてくる。楽しかったはずなのにいつのまにか気乗りしなくなって、やる気も失せてくる。こんなはずじゃなかったのにと、自分の中ですれ違いが起こる」

 

 だから人の心はいつか他者()といる楽しさよりも人付き合いの煩わしさに負ける。

 例えば、社会に出る前に仕事を選ぶ時が来たとして『楽しさ』か『やり甲斐』かどちらを重要とするか。楽しさというのは自分の感情であるが故に飽きがくる。やり甲斐は他者への貢献なので使命感が生まれ、飽きが来ることはない。

 大人はやり甲斐のある好きな仕事を選ぶように子供へ促す。慣れて、飽きてしまえば業務に支障が出るから。

 それは遊びも同じ。

 

「けど、ショウくんはいつも目を輝かせるよ。それこそ生まれたての子供みたいに、なんでも新鮮に映ってるんだ」

 

 そんな子供らしいところが可愛らしくて僕っ子モード吼月くんの良いところなのだけど。

 

「だから、君と遊ぶ事も楽しんでくれる。君といる事も新しいことのはずよ」

「…………」

「僕が保証する」

 

 僕は彼に微笑んだ。「別に普通に今まで通り過ごすだけで良いなら遊ぼうなんてしなくていい」とも告げた。

 応野くんも少し嬉しそうにして、心の中に落とし込むように深く頷いた。そしてどこかを見つめるように顔をあげた。

 

「そうですね……自分なりにやってみます。少なくとも嘘をつかない吼月なら『いても楽しくない(・・・・・・・・)』なんて思わないだろうし」

「だね。頑張って」

「はい」

 

 ––––その言葉は誰に向かっているのだろうか。

 心寂しさを含んだ彼の声は、少なくとも吼月くんに向けたものではない。それだけが僕には分かった。

 そして、吼月くんの嘘を知っている僕には、応野くんの嬉しそうな声も空々しく聞こえた。

 

「…………」

「どうしたの?」

「いえ、相談乗ってもらって悪いな……って」

「いいよ」

 

 夕くんはあまり吼月くんと関わりが無いようだったし、ある程度近い人から意見も聞きたかったので特に問題はなかった。

 

「……俺も聞きたいことあるんですけどいいですか?」

「うん。答えられる範囲でなら」

「でしたら」

 

 彼は恐る恐る口を開いた。

 

「蘿蔔さんってなんで女装を始めたんですか?」

 

 そう訊ねられた瞬間。

 

『綺麗だよ––––』

 

「–––––」

 

 ザーーとノイズが脳裏を走り、それが視界に侵食してくる。一瞬立ちくらみが起き、足がおぼつかなくなる。

 なんだ? 誰だ? 

 聞き慣れた声が頭の中で反響する。

 

「おい、応野」

 

 応野くんの質問に間を置かず、横から声が飛んできた。僕は意識を取り戻すと同時に声がした方向から、ひとつの影が僕らの目の前を通っていく。

 その影を応野くんが両手で受け止める。

 

「メロンパン、それで良いよな」

 

 飛び込んできた影の正体は大きめのメロンパン。そのパンを投げたのは吼月くんであった。

 しまった。さっきの頭痛で吼月くんが戻ってきたことに気づかなかった。

 

「そうこれだ。サンキュ……で、吼月はなんだ。メロンパンじゃないのか?」

「試しに買ってみたんだクリームパン」

 

 更衣室に入ってきた吼月くんが指で摘んだクリームパンの袋を左右に揺らす。ゆらゆらと揺れる袋には特製クリームパンの文字が。

 

「吼月は知ってるのか? 蘿蔔さんが女装してる理由」

「知る訳ないだろ。そんなもん知って何になるんだよ」

「……だって気になるだろ」

「楽しい、それでいいだろ。それよりもさ––––」

 

 吼月は僕と応野くんの間に割って入るように立って、着替え始めた。そのまま、応野くんと別れるまで絶えず吼月くんは喋り続けた。

 

 

 僕含めて3人とも着替え終えると、そのまま解散する事になった。

 

「ありがとね。応野くん」

「こちらこそ助かりました」

「……じゃっ、またな」

「ああ! じゃあな」

 

 体育館の前で応野くんと別れて吼月くんと一緒に歩いて行く。体育館にやってくる時に使った道ではなく別の道を進んでいた。体育館とグラウンドを挟むように南側には花壇のある道が、北側には大きな池に架けられた橋がある。

 僕たち2人はその橋を歩いている。

 今は夜なため月明かりのみ照らされた池だが、話によると昼間は鯉が泳いでいる様子がハッキリと見えるらしい。今は人間と同じくお眠なのか池の底でぷかぷかと浮かんで寝ているのだろ。

 

「楽しかったかいショウくん?」

「ハツカのおかげで楽しかったよ」

「昨日はあんなに嫌そうだったのに」

「ハハっ、応野とバスケするのは楽しかったけどな。ただ終わったことにケチつけられるのって嫌じゃない? こっちは終わったって言ってるのに」

「間違いないね」

「さすが当事者の吸血鬼」

 

 雲ひとつない嬉しそうな顔が池に映る。

 応野くんも僕らを狙う探偵さんも過ぎたことに手を出してくるという意味では同じだし、良い気持ちではないのは凄く理解できた。

 

「嫌だったら断っちゃえばいいのに」

「俺が変に理世をフッたのが原因だしな。応野たちも理世のためにやってるわけだし、無下には出来ないよ」

「そっか」

 

 元々吼月くんは傷つけた(フッた)側であることを考えて心配されること自体期待してない。とはいえ、やはり不憫だと思った。

 でも慰めをかけるのも違うので「着いてきた良かったよ」と僕は応える。昨晩、僕を誘った時には本当に不機嫌な様子だったので、笑顔で終われてよかった。

 

「ハツカは?」

 

 吼月くんが僕はどうだったかと訊ねてくる。

 

「僕も楽しかった」

「……そっか」

 

 水面に映る吼月くんの目に心苦しさが滲み出る。

 

「信じられない?」

「うん」

「素直だね」

 

 ここで俺モードになって取り繕わない辺り、少し仲が進展したとして良しとする。けど、その信じられない気持ちはどこからだろうか。

 いつもの不信感だろうか––––吼月くんは「それもある」と応える。

 

「聞いてた? 更衣室での話」

「……ごめんなさい」

「なんでキミが謝るのさ」

「聞き耳立てるのって悪いことだし」

 

 立ち止まって僕の方へと向き直った吼月くんがぺこりと頭を下げた。聞いていたのは本当に最後で、応野くんが僕の女装について訊いてきたところからのようだった。

 

「誘ったのは僕だし、そのせいでハツカに嫌な想いをさせたなら–––」

「ほい」

「いっ–––!?」

 

 ズルズルと悪い気分になっていく吼月くんのデコを弾いてみせた。真っ赤になった額を抑えながら、驚いて目を見開く。

 

「なんでぇ……?」

「暗くなってるのが悪い」

「えぇ……心配するのは普通じゃん……」

「子供が大人の心配をするなんて早いよ」

「……そうだな」

 

 せっかく楽しかったんだからそんな顔して欲しくない。

 

「少なくともショウくんとバスケをしたのは楽しかったし、キミのフォローも良かったから主人として褒めてあげる」

 

 ちょうど顎の下の高さまで下がっていた頭に手を乗せる。

 

「よしよし」

「あ、ちょっと……っ。やめっっ」

「嫌なら逃げれば良いじゃない」

「この……」

 

 あやすように頭を撫でると吼月はそれを拒否してくるが、もう一撫してあげれば悪態はつくけど逃げようともしない。

 キミみたいな年頃は、背も伸びて少し思考もまとまってランドセルを下ろす。ちょっと大人に近づいたからか、子供扱いされるのが気に入らなくなる。

 だけどキミはそのままを受け止めて、嬉しそうに目を細めるだけ。素直で可愛らしい子供。

 今まで狙ってきた獲物とは違う良さがある。

 

「なにかご褒美でもあげようか?」

 

 いまのがご褒美でも良いけど、もう少し餌付けしてみたい。

 吼月くんは撫でられたまま暫く黙考する。黙っているのは深く考えたいからか、それとも赤くなった頬を隠すして照れを見せないためだろうか。

 

「保留で」

「なんで?」

 

 まさかの回答を放ってきた吼月くんに僕は足を滑らせながら訊ねた。

 

「今は一緒にいるだけで楽しいし、本当にして欲しいことが出来たらお願いするよ。だから願いの持ち越しを要求します!」

「……仕方ないね。今回だけだよ」

「いえー!」

 

 自分の要求が呑まれた吼月くんは嬉しそうに腕を伸ばす。こういうところも子供らしいんだよね。

 

「で、これからどうする? まだ早いけど」

「そうだね……ショウくんも汗かいたよね?」

「適度には」

 

 その答えに僕は「だったら」と継いで––––

 

「行くよ」

「あ、えっ?」

 

 戸惑いながら吼月くんが僕の後に続いた。




 四月からの投稿ですが「不定期更新でもいいから完結を」という意見が多かったため、自分の都合に合わせてこれからも投稿させて頂きます。
 今までと変わらず日曜日は投稿、余裕があれば木曜日にも投稿していくつもりです。
 ただ週一投稿も無理がある場合は、1週間前までには報告します。

 軟弱者ですが、これからもよろしくお願いします。


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第二十七夜「気持ちよかった」

 ハツカが吼月ショウ()を先導して歩いて行く。背を見ながらただただ彼の後に続く。

 

––––頭、撫でられた。撫でられたな……

 

 自然と僕は自分の髪の毛を弄っていた。

 人の頭を撫でることは前にもあった。仁湖さんがそう。頭を撫でる行為は相手に幸福感や安心感を与えることができる。オキシトシンというモノが脳内に分泌されてストレスを軽減したり血圧を低下させるのだとか。

 とはいえやるとしても、やってもらうにしても、相手は限られる。

 

「初めてだったな……」

「ん? どうしたの」

「いや、なんでも!?」

 

–––……きっと、初めてのことを体験して嬉しかっただけだろう。

 

 僕は考え事をやめてハツカに尋ねる。

 

「どこ行くのさ」

「銭湯」

「せ、ん、と、う」

 

 一音ずつ噛み砕きながらその言葉を理解する。

 

「ふむ」

「まさか銭湯にも行ったことないの……?」

 

 肯首すると、呆れたを通り越し無表情になるハツカ。瞳だけは饒舌で、一体どんな生活をしてきたの、と言わんばかりの眼差しを向けてくる。

 近場に銭湯や温泉の類のものがなかった–––今に関しては知らなかったが正しいかも–––のもあり、行く気がなかっただけだ。

 

「ウチの風呂で事足りるし」

「大きな湯舟に浸かりたいとか思ったりしないわけ?」

「しない」

「極冷えだねぇ……」

 

 気分が乗ったら長く浸かりはするけど、そこまで拘りはない。ひとりで大きな風呂に入っていても虚しくなるだけな気がする。それはそれで嫌いではないと思う。

 

「まっ、楽しもうよ」

 

 見上げた先にあったのは『小森湯』という銭湯だ。少し古ぼけた看板を見れば、この銭湯が長いこと続いていることが分かる。となればハツカの行きつけの銭湯なのかもしれない。

 ガラガラと木製の引き戸を開けて中に入る。男湯の暖簾を潜ると、番台があり、ここの主である若い青年が雑誌を開きながら座っていた。店番であろう青年はこちらを認識すると、雑誌を閉じてかけている丸眼鏡の位置を整える。

 

「やあお兄さん」

「おやいらっしゃい」

 

 顔馴染みなのか気さくに挨拶を交わすハツカと青年。

 この手の店番っておじいちゃん、おばあちゃんがやってるイメージだったけど、普通に若い人もやるんだな。

 ハツカが「お風呂セットをふたつちょうだい」と青年に伝えると、すぐにタオルや桶などの一式を準備して、こちらに差し出した。

 

「はい、これ持って」

「うん」

 

 ハツカから僕用のお風呂セットを受け取ると脱衣所へ向かう。

 コインロッカーの前まで移動して衣服を脱ぎ始める。今日はよくお世話になるなと思いながら服や荷物をロッカーに詰まる。

 しかし、そんな些末事よりも僕が気になることがある。それは、ここが風呂場であるということだ。

 

「大丈夫なの? 銭湯だし、姿見あるんじゃ……」

 

 身体を洗うときに使う鏡が備えられているが銭湯の定石だ。

 吸血鬼であるハツカは鏡に映らない。万が一にでも他の誰かにでも見られたら大事(おおごと)になってしまうだろう。

 

「この時間の銭湯ならほとんど客もいないから。それに––––」

 

 着替える訳ではないのに、躊躇わず服を脱ぎ捨てて行くハツカの姿は彼が男としての素をちゃんと持っていると思わせるのには十分だった。

 

「人は信じられないモノを見た時は自分の意識で塗り潰して忘れちゃうから」

「……」

 

 僕は肯定の意を返さず、脱衣を終えたハツカを見る。

 傷のない手入れの行き届いた肌はとても綺麗で、スラっと伸びる脚からその先まで……いや腕や腰周りなど含めても扇情的で魅入られそうになる。

 そうして嫌でも目に入るモノがあって、それらを認識すると脳が誤作動を起こすように頭痛がし始めた。

 

「……」

「? どうしたの?」

「やっぱりハツカも男なんだなって」

 

 ハツカが身じろぎひとつすれば、男性であれば必ずついているアレが揺れる。ハツカの股間には、かなり立派なものがついている。

 僕の視線が行ったり来たりを繰り返す。

 

「もしかして男のモノを見て興奮してるの? ショウくんって案外ド変態だね」

「ち、ちがうわ!」

「おや、吃ったけどどうしてかな? それに顔も赤いけど」

「うっさいばーか! 〜〜っ」

 

 露骨に目を逸らそうとしたのがいけなかったのか、僕がなにをどう見ていたのかバレてしまいハツカに揶揄われてしまう。

 こうして下ネタ気味な話で弄られることが無いので口が詰まってしまう。

 

「てっきりハツカは下ネタは嫌いだと思ってたよ」

「節度は守るよ。ただ男友達とならこんなもんじゃない?」

「そうなのか……」

 

 思い当たる節がないのはきっと僕の人付き合いの悪さからかもしれない。基本的にプールの授業だと職員に頼まれてみんなより先に入ってるからな……。

 ふたりして服を脱ぎ終えると浴室へ入って行く。

 

「おぉ……」

 

 見覚えがある空間が広がっている。ざっくり言えば去年の九月から何度かテレビや映画で映っていた光景だ。

 洗い場には姿見鏡と固定されたシャワーヘッド、バスチェアが一定間隔で横並びに置かれている。奥には富士山が描かれた綺麗な壁画があり、その下に本命の浴槽があった。立ち昇る白い湯気が離れた位置からも視認できる。それほどまでに温かいのだろう。

 

「こっちこっち」

 

 幸いな事、というべきか僕たち以外の人はいなかった。

 ハツカが僕を誘いながら人のいない洗い場の中を物色しながら歩き始める。まるでこの銭湯は自分の所有物かのようにバスチェアやシャワーヘッドをいじり、吟味する。

 何故わざわざ探り回るように動くのだろうか。

 行き慣れた場所なら安心できる位置など知っているだろうに。最終的には、やはり端の一目につきにくい場所を選んでバスチェアに腰を下ろす。僕はその隣に座する。

 首を振って辺りを見渡すと、ここは本当に人目につきにくく、浴槽からも脱衣所からも死角になっている。

 

「気持ちいいね……」

「うん……」

 

 今日はバスケのこともあり、これが初風呂だ。

 それぞれシャワーを浴び始め、シャンプー、コンディショナーを使って頭部から洗っていく。

 泡で視界が塞がる中で横目でハツカを見ると、彼は髪の毛を丁寧に清めている。

 その様すら美しくて思わず声が漏れそうになる。瞼を閉じた顔はとても怜悧で、普段は艶め気のある髪がしっとりと濡れていて普段とは違うものにしか見えない。女性が隣で身体を洗っているようにしか思えなくて、僕は口にできない罪悪感を覚える。

 動きが悪いよ。ハツカの仕草整ってるもん。

 そこまで見ている自分にもイケナイものを感じてしまう。

 雑念を流すため、ボディソープで身体を覆いシャワーを一気に出す。ザアア、と勢いよく流れる水流の音が身体全体を支配する。

 

「水を浴びる僕はそんなに綺麗かい?」

 

 髪の毛を洗い終えたハツカがそう尋ねてきた。

 かなり集中して洗っている様子だったからバレないと思ったが、僕の読みは甘かったようだ。

 身体を洗い終えてから僕は応える。

 

「当たり前じゃん。ハツカなんだもん」

「……。キミってストレートに褒めるよね」

「綺麗な人に綺麗って伝えるのに飾りはいらないでしょ」

 

 純粋な賞賛を僕はハツカに送る。

 いつもと違う色っぽさ?のようなものあることは言わずにおいた。その衝動を正しく言い表す事が出来ないからだ。

 賛辞を受け取ったハツカは嬉しそうだけど、思ってた反応とは違うものが返ってきたと感じてるようだ。

 少し考え込むようにしてから、頷いたハツカが体の向きを僕の方向に合わせる。

 

「じゃあ始めようかな」

 

 僕はこの場に座ったのは、鏡に映らないことを隠すためだと思った。

 

「……?」

 

 しかし、楽しむような、少し意地の悪い笑みからそうではないと悟る。

 ハツカがこちらにスッと綺麗な右足を差し出した。

 なるほど。これはいつものアレだな。

 

「従者タイムか」

「命令されたいの?」

 

 そう聞き返すということは、ハツカとしては僕の意思に任せているつもりのようだ。

 わざわざ人の眼から死角になる場所を選んだのはこれが理由だったのか。

 

「んな訳ないよ」

 

 しかし「はい、洗わせていただきます」なんて言えるはずもない。

 誰が好きこのんで人の脚を洗いたいと思うのだろうか。

 

「だったら––––洗え」

 

 ツンとした低く冷たい声で命令を出す。

 

「分かりました。ハツカ様」

 

 僕は仕方なく、本当に命令だから仕方なく床に跪ついて、ボディソープを両手で泡立ててからハツカの右足を取る。

 足に手を滑らせて綺麗な白い肌を泡で覆っていく。側から見ればマッサージと似た構図だが、実際にハツカの足裏を触るとぷにぷにとした餅肌がいつもよりしっとりとしていて感触がどこか異なる。

 風呂場という空間なのもあり、慣れたはずのマッサージすら全く別のものに思える。

 

「マッサージ上手くなった?」

「図書室にあったその手の本を読み漁りましたから」

 

 それでも平常心を保ちつつハツカの脚を洗っていく。

 目線はずっと足先に向ける。

 

 さて、普通なら上から下へと洗い流していくものだが、今回に限ってはその逆順で進めている。

 その点はどうするのかと訊こうと一気に顔を上げると、

 

「ん〜〜〜」

 

 極々自然に上半身は自分で洗っていた。

 

「なんか楽しそう」

「僕を騙した狐が跪いて僕の足に奉仕してるんだからね。ゾクゾクして愉しいよ」

「あのこと根に持ってたのか……」

「僕は屈させたいと思ったきっかけはずっと覚えてるから」

「……などと申しており」

 

 ふふっ、と笑ってしまう。

 

「なにかおかしい?」

 

 不意に出てしまった笑みにハツカは不満気なご様子。

 

「いいや。それだけあの時はうまく化かせたんだなって思ってな」

「キミさ」

「そう怒るなよ」

 

 化かすのは嘘をつくことじゃなくてどう見せるのかが重要なんだ。だから、あの時思ったことはちゃんと本音だよ。

 –––多分。

 それに狐を演じたことがハツカが僕を屈させよう(堕とそう)とするきっかけになったのが嬉しいんだよ。

 –––––恐らく。

 過去のことだからその衝動が正しいかったのか朧気だが、まあいいだろう。

 

「怒ってない」

「怒ってるじゃん」

「怒ってないけど」

「ふふ。ああ、そうだな怒ってないな」

 

 人と何気ない世間話をしてること自体珍しい。

 ある程度こちらの素を知っている相手と話すのは楽なだけじゃなく、楽しいものだと最近分かってきた。

 今は普通ではない状況だけど、そんな状況も中々楽しい。

 

「僕に、その……肌を触れさせることについてはどう思ってます?」

「……? 別に?」

「なにかひとつくらい思ってください」

 

 他人に肌を触らせてるんだから、愛好の意なり、嫌悪感なりどちらかの感情は抱いて欲しい。そうでないと僕がやってる価値がないじゃないか。

 西園寺たちにもやらせているだろうから、僕じゃないといけない理由はないのだが。

 足の指一本一本をよりしっかりと洗っていく。

 

「ショウくんってさ、ほんと脚フェチだよね」

「脚フェ……?」

「しかも僕の脚限定の。命令する前から僕のつま先に夢中だったよね」

 

 そう言われて、思い返す。

 体育の時に理世の姿を見たが露出している脚に対して何も感じなかった。理世とは肉体を触り合うような爛れた関係ではない。

 仁湖さんも風呂上がりの姿を見たが特に反応した記憶はない。こちらはある程度仕事という面があったからかもしれない。

 

「ハツカ様のスキンシップが激しいだけです」

 

 取り繕うように返した言葉は中身がないような気がした。

 本心では綺麗だと思っているし、触ってて不快感すらない。心のどこかでは西園寺たちに悪いなとすら思っている。

 多分、ハツカに言われた通りだと思う。

 直すべきだろうか?

 

 チラリと目線を上げれば男性固有のモノが目に入り、嫌でも奉仕している相手が男であることを認識させられる。

 男なのが嫌なわけではない。それでも、やはり脳がバグるのだ。

 屈辱感が全身を駆け巡る。超えたい相手。負けちゃいけない相手。同性同士でより強く感じてしまう向上心からか、屈辱感が2割増しぐらいある。

 

「かもね。他の子達にはこんな風に触らせたりしないし」

「……では何故、私にはこのように?」

「決まってるじゃん」

 

 ハツカはやっぱり愉快そうに嗤う。

 

「常識とのギャップに悶えながら僕に奉仕するキミの顔が大好きだからだよ」

 

 僕だけを映す鏡を見る。

 確かにハツカの言う通り、どこか悶えているのを我慢しているような苦しそうな顔がそこにあった。

 顔を振って普段の表情に戻す。

 鏡に映る顔も変わって良いものになっている。

 

「こんな感じでよろしいでしょうか。ハツカ様」

 

 両足を洗い終えて確認を取る。

 

「うん、良い感じ。そのまま太腿まで洗ってもらおうかな」

「……」

「拒否は許さない」

「……分かりました」

 

 ハツカの言葉に背を押される形で洗い始める。

 

 そしてもうひとつ、最近わかった事がある。

 触ったり、見たりはできないもの。

 なんとなく、と察するようなものだけど。

 

 彼の太腿を洗うために先ほどより近寄る。

 もはや、ハツカの脚を支えにしているといっても良いかもしれない。それに伴って僕の顔もまたハツカの身体に近づいた。

 

「捕まえた」

 

 突然、両頬に力が加わった。

 目の前に泡が舞う。

 

––––あ、飲むんだ。

 

 僕の顔を両手で捕えるハツカが僕を引き寄せる。抗えない力に、(あらが)わず僕はされるがままになる。首筋を差し出した。

 この時、僕は従者から餌へと変わった。

 

「どうぞ」

 

 恥ずかしさなかった。いつもと変わらないから。

 強いてあげるなら、音だけ。耳音に本来、聴こえないはずの水音が鳴る。その音が吸血音をより引き立たせる。

 身体が温まり速くなっていた血流が、ハツカの手によって整えられていく。身体が少しヒンヤリとする。

 数秒経過する。

 

 そろそろ終わりかな、そう思った時。

 

 心地よい吸血音を遮るほどに大きな音が鳴った。

 

「はああ〜〜疲れたぁ!」

「仕事終わりはやっぱり風呂だよなあ」

 

 人が入ってきて、初めてドアが開けられたのだと気がついた。

 やばいと本能的に感じ取る。

 それでもハツカは吸血をやめない。むしろ僕の顔を自身の胸に埋めさせる。

 

 なんで?

 どうして? 

 吸血鬼だってバレたら大変だよ?

 

 浮かぶ疑問は口に出さない。口にしてしまえば入ってきた他人に俺たちのことがバレてしまう。

 そして一番は俺にとしては心だ。張り裂けそうなぐらい心臓がバクバクと高鳴っているのが分かる。

 見知らぬ人がいる中で吸血される、この場面。

 

 ここが死角だとしても緊張する。

 しかし、胸を躍らせる楽しさもある。

 眼が向けられている気がして恥ずかしい。

 しかし、麻酔を打ったような安らぎすらある。

 

「なあ、なんか変な音が聴こえないか?」

「どこかのシャワーから漏れた水音だろ」

 

 見つかったらどうしよう。どうなるんだろう。

 妙に色っぽく聴こえる音に恥辱を覚えながら、今度は自分から泡々としたハツカの胸に顔を埋める。

 

 

 嗅ぎなれない匂いの中に、一度だけ嗅いだことのあった香りが鼻腔をくすぐった。

 

 

 

 

「パァッ……」

 

 他人が来てから数十秒以上経ったであろう–––少なくとも俺はそう思った–––あと、俺の首筋から口を離したハツカが浅い息を漏らした。

 

「ご馳走様」

「…………なにやってんの……俺はともかくハツカがバレたら……」

 

 俺は躊躇わずハツカを凝視する。自分で何をやったのか分かっているのか、という意思を全力でその目線に乗せる。

 怪訝全開な目を受けながらも、ケロッとしているハツカ。

 まるで俺だけがのぼせてしまったかのように彼は冷静だった。まるで見られるはずがないと分かっていたように。

 ハツカは質問に答えずに言い放つ。

 

「取り繕わないといけないほど気持ち良かった?」

 

 身体が一気に冷たくなったのに、頭の中が一気に熱くなる。

 たった一言が俺を支配する。

 

 なにからそう感じたのだろうか?

 

 恐らく吸血されて、俺の感情を読まれたのだろう。

 

「湯船で温まって、サウナにでも入るとしようか」

 

 立ち上がったハツカは身体を洗いながら、満足気に床に跪いたままの俺を見下ろす。

 

「ね、僕のワンちゃん」

 

 キュッとシャワーが止まる。

 

「––––」

 

 美少年は嗤いながら、俺の鼻についた泡を拭った。

 

「この……っ」

 

 今宵の僕は、ずっとハツカに弄ばれたままだった。




 TPOは大切。


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第二十八夜「ニガくない!」

 真っ青な空から降り注ぐ心地よい陽の光。日中の気温も日に日に低くなり始めているが、この天気であれば快適に過ごすことができていた。

 そんな日光にも溶かせないものがある。

 俺の憂鬱だ。

 ハツカと銭湯に入り吸血されたとき、感情が昂っていた自覚はあった。人に見られるかもしれない状況で吸血されるという普通の人であれば味わえない興奮。血を吸われる時に感じる快感とはまた別物だ。

 人の胸に身体を預けることも加わり、かなり胸が跳ねていた。

 吸血されれば考えていることも知られることを忘れ、俺はその感情に浸っていた。

 その興奮がバレるのはいい。仕方のないことだ。

 それに吸血鬼になっていないのならば––––興奮を一時的に抱いたとしても、俺はハツカに恋していないと証明ということでもある。

 しかし、アイツが愉しめる想いを抱いていたのは事実。

 邪な感情であろうそれは、少なくとも敵対者であり友達であるハツカに向けるべきものではない。

 

–––––犬なのか、狐なのか……

 

 ヘンテコな想いのせいで嫌な寝不足だ。

 二度寝してしまおうかと思ったが、それでは日課を過ごせなくなる。そして、日課を過ごした後の時間帯は中途半端で寝るにも、昼食まで1時間程度しかない。

 時間潰しに部屋の片付けをやり始めた所、眠っていた書類の中から一枚の手紙が現れた。

 ため息をついてから、暇つぶしをかねて外を出歩くことにしたのだった。

 

「「睨めっこしましょっ、あっぷっぷー」」

 

 そうして俺はいま、小学生–––直接訊いた訳ではないが–––と睨めっこをすることになった。

 

「あははははっ!!」

「おら薬!」

「ふぐっ!?」

 

 顔を押しつぶした俺の表情に、ベンチで隣に座っていた小学生は口を大きく開けて破顔する。その子の口の中に錠剤を指で弾いて投入する。突然咥内へ入ってきた異物を小学生は驚きながらも一気に飲み込んでしまう。

 

「どうだ?」

「…………ニガくない!」

「だろ? 少し大人になったな、少年」

 

 自分が薬の飲み込めたことに驚く小学生の頭を撫でてやる。

 

「えへへ〜。おクスリってニガいのしかないとおもってた」

「苦味は舌で味わうものだからね。口に含まずに喉に流し込んでしまえば特に殆ど感じないよ。勿論、錠剤だからっていうのもあるけど」

「へえ〜」

 

 俺が今いるのは、小森東病院という少し大きめの病院だ。真っ白な外観は病院らしい清潔感があり、茂て揺らめく青草のような若々しさがある。その敷地内にある小さな公園。遠くに出歩けない人たち用に設けられた施設に置かれたベンチに座っている。

 隣にいるのはその病院で出会った少年なのだが、薬が苦手ということでにらめっこをして笑ったら飲むという勝負をしたのだ。

 そうして残り二つの錠剤を小学生は躊躇わずに喉へ流し込んだ。

 

「でも、この粒がこんなに飲みやすいなら粉じゃなくてずっとコレにしてくれればよかったのに」

「粉って苦いし飲みにくいよね……」

「ホント! マズいしニガいし。ねえ、なんで粉ばっかり出てたの?」

 

 俺ではなく専門家に聞くべき事柄だが、生憎とそんな相手との連絡網は限られている。そして、この子が話しかけているのは俺なのだから、俺の言葉で答えるべきだろう。

 

「キミ、いくつ?」

「えっとね……」

 

 俺がそう聞くと、小学生は手を出して指を折って数え出していく。6本折れたところで動きが止まり「むっつ!」と元気よく答えてくれた。

 

「むっつか……なら仕方ないね」

「? なんでしかたないの?」

「先生たちの中の約束でね。粒は5歳以上じゃないとダメなんだ」

「どうして?」

「キミぐらいの子達はまだ呑み込む力が弱いから上手く飲み込めないことがあるんだ。今だって結構力を入れて飲み込んだろ?」

「うん」

「それに粉薬は先生たちが君の体に合わせて作ったものなんだ」

 

 子供は薬を分解・排泄する力が弱いので薬の影響を受けやすい。そのため服用者に合わせて慎重に容量の調整をする必要がある。それが最もしやすいのが粉薬。薬剤師が子供の体重などを聞くことがあるのはこのためだ。また、飲みきり形の袋詰めなため保存や携行するのに適している。

 そのことを上手く噛み砕いて説明すると、小学生はなるほどと頷いてみせた。

 そこからしばらく話していると、この子の名前だろうか。「天谷(あまだに)!!」と呼ぶ声がした。

 

「おーーい! 天谷! キャッチボールやろうぜ!」

「あっ! うん! お兄ちゃんありがとね!」

「おお〜元気に遊んでこいよ〜」

 

 友達に呼ばれて走り去っていく小学生こと天谷。敷かれた天然芝生を踏みつけ走るその背中に手を振り返した。

 一息つけると肩を下ろすと、天谷と入れ替わるようにこちらはやってくる人影を認める。歩くのに合わせて揺れる首からかけたタグに入ったカードには八雲(やぐも)(ひとし)の文字がある。

 

「お疲れ様」

「八雲先生でしたか。お疲れ様です」

 

 スらっとしたシルエットを伴ってやってきたのはこの病院の医師だ。ブルーのワイシャツに紺色のネクタイ、そして皺や汚れひとつない白衣を身に纏ったその姿は清潔感を示していた。

 少し歩こうか、と言う話になり、俺は立ち上がり八雲の少し前を歩く。

 

「ありがとね。食堂の手伝いだけじゃなくて子供たちの相手までしてもらっちゃって」

「いいですよ。俺なんか食堂の飯まで食べさせていただきましたし」

「子供食堂だからね。キミのような子のためにある場所だよ」

 

 1人分増えても問題ないとする八雲。

 珍しいことに小森東病院では子供食堂も開いている。

 公園もあり、休日も子どもの世話をできない親からはここの病院は頼られているらしい。先ほど俺が相手をしていた天谷もそのうちのひとりだった。

 

「いい日差しですね」

「そうだな〜……帰って寝たいな」

「ハハっ、気持ちいいですもんね」

 

 今日初めて会った相手に当たり障りのない言葉をかける。

 

「吼月くんって、ま……う〜ん……暇なの?」

「酷いですね、事実ですけど」

「せっかくの日曜日なんだから友達と遊べばいいのに」

「安息日は自分を労るべきですよ」

 

 今だって昼寝をするために出歩いているのだから。

 腹も膨れて、陽の光もたくさん浴びた今なら心地よく寝れそうではある。

 

「そうだ。これ、どうぞ」

「? なんですこれ」

 

 八雲がポケットから取り出したのは小さく白い封筒。

 急拵えなんだろう。この病院の印字がされた封筒だったため、先ほど買ってきたものだと予測は立てられた。

 

「今日のお礼だよ」

「受け取れないですよ」

「でも、礼儀があるしね。手伝ってもらった訳だし」

「だったら今回はお気持ちだけ。次からはそれも含めて契約しましょ」

 

 中身が何かはわからないが、受け取ってしまえばコレを理由にこちらの都合が悪い時に用事を入れられる可能性がある。

 それにお礼として何かを差し出される意味が分からない。

 

「そっか。分かったよ」

 

 八雲は大人しく封筒を再び自分のポケットに収めた。

 

 さて、あとは適度に話を切り上げて帰るとするか。

 

「……?」

 

 たわいの無い世間話を八雲と交わしながら公園内を歩いていると、ガラス張りになった病院の一角を通ることになった。

 リハビリ施設だろうか。本格的なジムさながらの機材なども置かれており、老若男女問わずその中で汗を流している。

 その中にひとり見覚えのある顔があった。

 俺につられて八雲もそちらを向く。

 

「沙原か?」

「ん? 奏斗(かなと)くんと知り合いなの」

「いいえ。顔と名前を知ってるだけです」

 

 不思議そうに俺を見つめたあと、八雲は視線を沙原に戻した。どうやら八雲も彼のことを知っているようだ。

 俺も沙原を再び見つめた。

 やっているのはウェイトトレーニング。チェストプレスを用いたトレーニングのようだ。

 

「結構激しくやってるんですね」

「近々大会があるそうだからね。そのためじゃないかな」

「……なるほど」

 

 昨日と変わらずどこか切羽詰まったような苦しげな表情をしている沙原に、八雲は憂うような目でこんなことを呟いた。

 

「今日もひとりか」

 

 すると、プルルプルルと電子音が耳朶を打った。

 

「おっと、俺みたいだ」

 

 八雲が小型の内線電話を取り出すと、受け答えをし始める。

 少ししてから電話を切る。

 

「ごめんね吼月くん。俺、呼ばれちゃったからさ」

「構いませんよ。早く患者のところへ行ってあげてください」

「うん。今日はありがとね!」

 

 くるりと背を向けて立ち去っていく八雲。

 俺はその背を見つめず、沙原の方だけを見ていた。

 

「……名前言ってないよな」

 

 

 

 

 クルクルと車椅子を回して沙原奏斗()は進む。

 

「あぁ……くっそ」

 

 ジムを出ようとして時に立ちはだかるドア。何度もやって慣れているはずなのに、どうも最近はやりにくい。

 少し前にジムがリフォームされ、引き戸から押し戸になったことが原因だろう。

 何故こうも不愉快な事ばかりが起こるのだろうか。

 

「なんもかも面白くないぜ……」

 

 ぶうたれるように吐き捨てて、車椅子の向きを変える。

 幸いここは病院。呼べば看護師やらなんやらが来て、ドアを開けてくれる。

 手頃な相手を探そう首を動かす。

 しかし、その必要もなく背の方からドアが開いた音がした。

 

「どうぞ」

「え? ……ああ、ありがとう」

 

 ドアを開けたのは中学生くらいの男子。

 その子には見覚えがあった。どこでだったかと思い返しながら、俺はドアを潜り抜けていく。

 

「沙原奏斗、であってるか?」

「……確かきみ、昨日隣でやってた」

「吼月ショウ。吼える月と書いてくづきだ」

 

 その顔を見て思い出す。昨日バスケをしていた時に俺を見つめてた男子で、東代たちよりは確実に上手い若手メンツの片割れだった。

 ジムに用事があるわけではないようで、ドアを閉めるとこちらに歩み寄ってくる。

 なんだコイツ……。

 

「なにか俺に用か?」

 

 身構えるように強張った声で話しかける。

 

「お話をしたいのだが、少し時間を貰えるか?」

「……とりあえず……シャワー、浴びさせろ」

 

 それだけ文句をつけるように言い放つと、吼月は納得したように「失礼しました」と頭を下げた。

 

「すぐに済むお話だから、移動しながらでも」

「……分かった」

 

 俺に近づくと背後に回り、車椅子のハンドルを握る。

 

「押すよ」

「いいよ、自分でやれる」

「お疲れなんだから、人を頼っていいぞ」

「……ちっ、さっさと押せよ」

「露骨な舌打ちやめない?」

 

 俺は“余計な世話をして何を今更”と喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。

 自分の意思に左右される事なく車椅子が動き始める。

 

「…………」

 

 徐々に速度を増していく車椅子。俺はどこか強張った状態で背を預けていた。

 

「昨日、少しだけ見させてもらっていたが、バスケ上手なんだな」

「……見てたといってもいなくなる数分前からだろ」

「よく見えてるな。残り10分ぐらいからだ。とはいえ、他の奴らよりアンタは激しく見えた。カッコいいと思った」

「……見ず知らずの相手によくそんな事言えるな」

「テレビに映る選手相手に褒める言葉を選ぶような人がいるか?」

 

 近くも遠くもない関係だからこそ物怖じせず口にできる。

 それは俺にも覚えがある。

 

「練習ってどのくらいやってるんだ?」

「毎日」

「さすが。今日みたいなトレーニングも含めてか?」

「そうだな……ジムを使うのは週3くらいだ」

「結構な頻度だな」

「ここのジム、受診者だと無料で使えんだよ」

 

 あくまでリハビリって体でだが、と付け加える。

 今の俺には本当に建前だけだ。

 

「だからあんなシュートも打てるのか」

「ああ、3Pのことか?」

「that's right!その通りだ。あの時のフォームほんと綺麗でしたよ」

「どうも」

 

 お世辞ではなさそうだが、かと言ってただ褒めるために俺がいる病院まで来たのか、と思ってしまう。

 俺はそのことについて問うと、吼月は「偶々だ」と言った。

 見たところ体のどこにも異常はなさそうで、いかにも健常者といった具合だ。ただ寝不足なのか、車椅子を押している間に時折、天を仰ぐように見つめていることがある。

 とはいえ、それだけなので本当に偶々なのだろう。

 

「今日も練習するのか? 大会が近いと聞いたけど」

「まぁ、な」

 

 含みを持たせた間を作りながら、俺は間違えて答えてしまった。

 しかし、俺が気になったのはどうしてその事を知っているのかだ。

 

「応野のやつからでも聞いたのか?」

「いいや。八雲先生から」

「あの人は……」

「クライアントの個人情報を漏らすってどうかと思うよな」

「間違いない。が、それを聞いたお前に言う資格はねえだろ」

「ルールを破ったのはアレだが、自己申告したし、悪さもしてないぞ」

 

 悪びれもせずそう口にする辺りいい性格をしている。

 

「でも、そうか。今日も……」

「なんだよ」

「……大変だなと」

「いいだろ–––」

 

 別に、と言いかけてから口を噤んだ。

 ……わざわざこんな知らない奴に言う事じゃない。

 数秒黙ってしまうが、タイミング良くシャワー室が見えてきた。

 

「では、俺はこれで」

「……聞きたいことって今のだけなのかよ」

「なんですか? もっと俺と話したかったんですか?」

「ちげえわ! もう用事ないならさっさと帰れ!」

「はーい」

 

 ケラケラとした笑みを浮かべて吼月は車椅子から手を離すと、踵を返して離れていく。

 

「じゃあ、また会いましょ」

 

 背を向けたまま振り返ることもせず、手だけを振ってあの子は離れていった。

 俺はアイツが残した言葉に引っ掛かりを覚えるものの、すぐに脳の端に疑問を追いやった。というか消し去った。

 

「……ちっ」

 

 どこか見たことのある無遠慮な態度は今の俺を苛立たせる。

 

「どうしてるかな」

 

 幾度となく浮かんできた思いと儚い期待だけを俺は取り出したスマホに残して、シャワー室の扉を開けたのだった。

 

 

 

 

 スマホを見る。

 暗がりの中で目を覚ましたばかりの目にはこの光はよく沁みる。目が良い分、増し増しで光が目に刺さる。

 ロックを解除した画面の下。

 ラインのアイコンの右上に赤い丸の中に数字のカウントが表示される。私はメッセージを開かず、遠回りをしてロック画面から内容だけを見る。

 

『いまどうしてる? 最近、顔見せてくれないけど、体調でも悪いのか?』

 

 毎日、ひとつひとつ溜まっていくこのカウントに心が痛む。

 

––––––どうすればいいのだろうか。

 

 いいや、分かっている。

 こんな時、やるべきことは。




 第三話が思いの外長い……!


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第二十九夜「ダンチ」

 コトヤマ様が病気になったと聞いて心配しましたが、風邪だったそうでひとまず安心しました。いや、風邪も不味いですけど。
 急な気温変化がある時期ですので、みなさま体調にはお気をつけてください。

 序盤はライダー要素濃いめです。


「このデザインのやつ……1話の怪人かな」

 

 今日は日課として、蘿蔔ハツカ()はテレビを眺めている。

 画面に映るのは、黒いゴリラのような巨体の怪人–––スマッシュと、その怪人に殴りかかる茶髪の青年–––万丈龍我だ。ただし、万丈の方も純粋な人間ではないので怪人といえるだろう。

 

『うおおおお!!』

 

 蒼いボトルを振りながら怪人に果敢に攻める万丈だが、強化個体なのか怪人のカウンターパンチで後方に停められていたトラックまで吹き飛ばされる。ガンッ!と大きな金属音が響く。

 

「……」

『こいつ、前より強くなってやがる……!』

『だったら勝利の法則を探すしかないな』

 

 見始めた番組を楽しく観ている。恐らくは吼月くんが好きな作品で、タイトルはビルドというようだ。

 よく続くね、このシリーズ。

 元々、吼月くんとの話題作りの為に見始めたものだが、これが案外面白い。吼月くんが遊びに来たりするし、飼ってる子達の相手で中々進められていないが、暇があれば観てみようと考える程度には。

 ドリル型の武器を手に持ちスマッシュへと肉薄する万丈の下に、この作品の主役、トレンチコートを着た青年––––天才物理学者こと桐生戦兎が駆けつける。

 敵と対峙しながら水色と赤色、2つのボトル型のアイテムを取り出して、カシャカシャと音を立てながら振る。振り終えるとボトルのフタを同時に回す。腰に巻いた実験器具のようなバックルに装填する。

 しかし––––

 

《海賊!》《消防車!》

 

『ベストマッチじゃない』

『ハアッ?』

「えぇ……」

 

 万丈と僕の考えがマッチする。いや、戦いながら変えなさいよ……。

 選んだアイテムがお気に召さないようで、すぐさま取り替える。次に選んだのは、取り出してた赤色のボトルとチェンジした白色のボトル。バックルに挿し込むと、流れる特殊音声と共に戦兎が発狂。

 

《ハリネズミ!》《消防車!》

 

『《ベストマッチ!》来たぁぁぁ!!』

 

 ハイテンションで叫びながらバックルの右側についたハンドルを勢いよく回していく。

 僕はその代わり様を眺めている。

 物を製造するような機械音を放ちながら、戦兎の周りを白と赤の2種類のパイプが展開され彼の前後にふたつのアーマーを形成する。

 

『変身ッ!』

 

 構えを取ると戦兎がそのアーマーに挟み込まれた。

 装着が完了し、煙を放つ。

 そうして戦兎はメカニックでカッコいい白と赤の異形の戦士––––ビルドへと姿を変えたのだ。

 

《レスキュー剣山! ファイヤーヘッジホッグ! イェーイ!!》

 

「なんでハリネズミと消防車?」

 

 この組み合わせに何か意味があるのだろうか、なんて事を考えていると、ピコンと僕のスマホから電子音が鳴る。

 

 タイミングわっる……。

 

 この時間帯に僕に連絡を入れてくるとしたら、一人ぐらいだろう。

 スマホを開いて画面を見てみると、ラインのアイコンに赤丸で《1》と表示されていた。吼月くんからメッセージが届いていたのだ。

 内容は、夜更けに逢いに来るとのこと。

 僕たちはいつ会う、どこで会うといった取り決めはしていない。あるのは漠然と《必ず会おう》といった暗黙の了解だけだ。

 だから『分かったよ。また連絡してね』と返信を打つ。

 

「……」

 

 僕はスタンプで『早く逢いたいな』と猫が微笑みかけるスタンプを続けて送った。

 どちらもすぐに既読になったが、後者の方には反応がない。

 

「なにか反応しなよ」

 

 一人相撲をしているみたいじゃないか。

 愚痴りながら僕は再び目線をテレビへと移した。

 

「今の現状をどうにかしないといけないよね」

 

 必ず会うべき––––彼はそう認識しているようだが、これはあくまで僕に会いたいという訳ではない。

 信頼し合うためのゲームの土俵を作るために会いに来ているようなもの。

 もし代替品があれば、もし他の吸血鬼から学ぼうと彼の気持ちが変わってしまえば、吼月くんを眷属に出来なくなる。

 悔しすぎる。

 吸血鬼の平穏のためには好みの吸血鬼についていって惚れた方が手っ取り早いのだが、逆にいえば吼月くんにとって僕はその吸血鬼より劣っていたということになる。

 

「……」

 

 想像しただけで不快だ。

 彼には他の用事を挟む意思を介在させることなく、僕に逢いたい、僕と居たいと思ってもらわなくちゃいけない。

 

「いつも手が使えたら良いんだけどな」

 

 宇津木たちにしたような洗脳を施せればいいのだけど、それではいけない。

 そうは思うものの、何故いけないのかパッと口に出さない。

 

 とはいえ、しばらくは大丈夫なはずだ。

 彼が《僕》と口にする相手はこの僕だけだし、あの子供らしい顔を見せるのも現状僕だけだ。銭湯で吸血した時の顔を埋めてくる反応も、飲まれた後の火照ったような顔も好感触だった。

 あの時は純朴な子供を手のひらで転がすような背徳感と高揚感が相まって僕も興奮しかけていた。

 

「……女装させてぇ」

 

 そんな欲望を吐き出して、スマホを見下ろす。

 

 カタッ

 

「ふふっ」

 

 ベランダから聞こえてきたふわりとした着地音と、ラインのメッセージが追加されたのはほぼ同時だった。

 

 

 

 

「すぐにお持ちしますので、お待ちください」

「お願いします」

 

 フロントにある受付の中にいた男性が奥へと消えていく。

 その様子を眺めながら俺は少し前のことを思い出す。

 

「……あれで良かったかな」

 

 ハツカにいつもより会いに行くのが遅くなることを伝えたメッセージ。

 最初の返信内容はいつも通りだったが、次が厄介だった。猫スタンプで『早く逢いたいな』と送られてきた。

 思わず、えっ、と思ってしまった。

 俺を落としたいハツカのことだ。その気にさせるためについた(ノリ)だろう。

 頭では分かっているが、妙に意識してしまった。

 

––––もしかして、俺ってチョロい……?

 

 どう返すべきか迷った結果、こちらもハツカが望んだであろう『僕もだよ』という月並みな言葉を選んだ。

 

「返信しないよりはマシだ」

 

 そう納得してスマホをポケットの中にしまった。

 

「そんなことよりもだ」

 

 俺はここで買ったペットボトルを弄びながら、昨日も通ったクリーム色のタイルの通路を歩き出す。いま居るのは小森市民公園の体育館。来た理由は興味本位というのが正確だろう。

 

「さて、沙原は……」

 

 メインアリーナの方から猛々しい声が聞こえてきた。

 しかし、それに伴って聞こえてくる音はボールが弾むような音ではなく、カッと何かを打ち合う空気を裂くような音。

 見てみると、全身を藍色の防具で包んだ者たちが雄叫びをあげていた。

 

「今日は剣道なのか」

 

 空気を裂く音は竹刀を振る音だったか。

 目的とは違うものだったため、すぐに踵を返す。他に練習ができそうな場所を探そうとすると、ちょうど目の前、通路を挟んだメインアリーナの対面に小さなサブアリーナがある。

 そこに居るかな、と近寄ってみると見覚えのあるシルエットを見つけた。ひとりでコートを車椅子で駆け回り、集中力を漲らせる沙原の姿だ。

 天井の照明を浴びたボールの影がコートに筆を引くように移動する。三次元の動きを二次元に落とし込むとこんな感じなのか。

 数秒後、ボールの弾む音が響く。シュートが決まったようだった。

 バウンドするボールを沙原が取りに向かう。

 

「それじゃあ……ほいっ」

 

 手に持っていたペットボトルをサブアリーナの扉から沙原に向かって投げる。

 それを––––

 

「ッ–––!?」

 

 驚きながらも、沙原は見事キャッチしてみせた。

 やっぱり視野が広い。

 

「お見事! 流石ですね」

「お前は……吼月」

「覚えてくださったのですね。嬉しいです。沙原さん」

 

 少々大袈裟に手を叩いて、俺は破顔した表情のまま近寄る。

 

「マジで来たのか」

「マジで来ました」

 

 沙原が向けてくる目線は訝しむものであり、そして奇々としたものだった。

 しかし、俺が昼間の去り際に、また、と口にしたことから来るかもしれないと察してはいたようだ。

 分からないのは理由ぐらいだろう。

 俺は辺りを一瞥する。

 やはりサブアリーナに居るのは沙原だけで、他に人は見当たらないしアリーナの端に置かれている荷物もひとつだけだ。

 

「今日はおひとりで練習なんですね」

「自主練だからな」

「でも大会前の練習ですよね。失礼ですが、他の人は呼ばなかったんですか?」

 

 そう訊ねると、沙原は肩を落として応える。

 

「アイツら、エンジョイ勢だから」

「ああ……沙原さんはガチ勢で熱量がダンチってことですか」

「やる気のない奴らとやっても意味ないし。ひとりの方が–––」

「?」

「楽だからな」

 

 言いかけてから口を止め、言い直した。

 バスケをしている時以外は気怠げな印象を受ける沙原だが、いまはどこか空虚な目をしていた。気づかれぬように小さくかぶりを振ってこちらを見た。

 

「人の楽しみ方はそれぞれですし」

「自分が気楽なだけが楽しいのならよそでやってほしいけどな。勝つことが目的なんだから」

「違いない」

 

 一番早いのは自分に適した所へ移ることだと思うが、わざわざ言うことじゃないだろう。

 やれるならやっている。金銭面や時間の都合など、やれない理由なんて探せばいくらでもあるのだから。

 それは沙原に限ったことじゃないようだが。

 

「しかし、なるほど……やる気があって強い相手がいればより練習し甲斐があるってことですね!」

「どうしてそうなる」

「違うの?」

「そうだが……」

「認めましたね」

 

 沙原が首を傾げるが、少し考えるように固まるとハッとして呟いた。

 

「え? お前、まさかやる気か?」

「当然!」

 

 そのために来たのだから、と胸を張ったその時に後ろからひとりの男性がやってきた。

 

「どうぞ。ご予約にあった車椅子です」

 

 持ってきたのは車椅子。通常のものとは異なりタイヤがハの字についた競技用の車椅子である。

 本来、競技用の車椅子は使う本人に合わせたオーダーメイドが一般的なのだが、これはビギナーズ用であるこの車椅子にはそういった調整は施されていない。

 それを受け取り、腰を下ろす。

 

「いやぁ〜……事前に言っておけば使わせてもらえるなんて役所も偶にはいい仕事をする」

 

 確認したところ、パラスポーツの人口を増やす目的で予約すれば誰でも使わせてくれるようだった。

 それを知った俺は病院から帰宅後すぐに予約したのだ。

 

「なんで?」

「なんでやるの? って意図ですね。理由は単純明快。新しいことだから。やってみたいことだから」

 

 慣れない座り心地に心をゾクゾクさせながら、頬杖をついて沙原と向き合う。

 

「練習なら人は多い方がいいだろう?」

「……」

「少なくとも、沙原さんの云う“エンジョイ勢”よりは動けると思うよ」

 

 目線が交わる。

 ゆっくりと意思を飛ばし合う。

 

「……はぁ」

 

 ボールが勢いよく弾む。

 何を言ってもやめないと悟ったのか、はたまた練習相手に使えるかもしらないと考えたのか、沙原はこちらにボールをパスしてきたのだ。

 

「お前、やったことは?」

「ない。けど、基礎知識は頭に入れてきました」

「情報だけでやれるほど簡単じゃないぞ」

「知ってる。だから教えてください」

「たく……さっさとやるぞ」

 

 肩で息をついてから俺とゴールの間に位置を取る沙原。

 そうこなくっちゃね!

 

 

 吼月とかいう中学生がやってきた。

 断っても自分だけで勝手に練習し出しそうだったので、俺の練習に組み込んだ。パスやドリブルなどの基礎練–––ふたりでやるものを選んだ–––をしてから、沙原奏斗()とコイツはいま1対1のゲームをしている。

 

 自主練の時にフルコートで遊ぶの久しぶりだな。

 

 自分で言うだけはありしっかり動けるようで、方向転換する時の体重のかけ方や、車椅子を漕ぐ(プッシュ)する時には望んだ移動距離に合わせて力を入れている。

 使い方も素人にしては出来ている。

 

「行け……ッ!」

 

 基礎知識を入れてきたというのも本当のようだった。

 ドリブルで攻め込んだ吼月はレイアップシュートを打つ。ボールがリングに吸い込まれるように落ちた。

 俺がボールを拾う。

 

「今日初めて知ったんですけど、車椅子バスケってダブルドリブルないんですね」

「2プッシュ以内なら何回でもドリブルし直せるからな」

「3回漕いだからやるとトラベリングなんでしたね」

「そうだな。だから––––」

 

 俺は自分の前にボールを投げ、バウンドさせてから拾い直す。

 基本の動きだが、これなら距離も稼げてトラベリングの回避にも繋げられる。その分、隙も多いのだが。

 俺の前に吼月が割り込んでくる。

 

「よし! とめっ、あああああああ!!」

「ああぁ……」

 

 しかし、動かすことに慣れてきたためか調子に乗って勢いをつけすぎた。吼月の車椅子は俺の前で止まることなく取りすぎていった。

 

「くそめ!」

 

 吼月が床に足を突き立てるようにしてブレーキをかける。

 キィィィ、と音を立てながらサブアリーナの壁面ギリギリで車椅子を止まった。ホッとしたように「セーフ……」と言葉と共に焦りを漏らした。

 

「沙原さん、ブレーキはやっぱり必要ですよ」

「ルールだからな……仕方ない」

 

 安全面からそこに突っ込みたくなる気持ちも分からなくないため、俺も苦笑いを浮かべてしまう。

 

「よっと」

「ああああ!!」

 

 その間に俺がひょいっとシュートを決めると、吼月が指をさして声を張り上げる。叫びはするものの自分のミスなので、何か文句を言うわけでもなく拳を自分の太ももに振り下ろした。

 リアクション大きいなコイツ……。

 

「もう一回……お願いします……!」

「いいぞ。よっと」

 

 コイツの強さは驚異的ではある。

 いくら俺が練習や筋トレで疲れているとはいえ、初めて1時間のうちに俺から点を取れるぐらいになっている。身体能力が高いのもあるが、それよりも基礎練で俺の言うことをちゃんと聞いて実践してくれたのが大きい。

 俺が鍛えれば、よい練習材料になりそうだった。

 ゲームを再開しようとしたその時、ジジジッ、とサウンドが鳴った。

 音がした方へ目を向わせる。あるのは俺が持ってきていた荷物で、その上に置いていたスマホからアラームが鳴っていたのだ。

 

「俺だわ」

「もうそんなに経ったのか」

 

 吼月が自身の腕時計をポケットから取り出して言った。体感よりずっと時間が進んでいたようだった。

 もう少しで親が迎えに来る時間になると話して、今日は解散することにした。

 荷物のそばにまで近寄って片付けを始める。

 

「今日はメロンパン売ってるかな」

「まだ売り切れだったぞ」

「はぁ〜〜……ちっ。昨日も売り切れてたんだよな……」

「俺が買って売り切れたからな」

「テメェかよ!」

「二つあって欲しかったな〜」

「欲張りすぎたボケ。あと、そこは三つにしろや」

「ふたつ買いたかったんですよ。三つあったところで他の人が食べるかもしれないでしょ」

 

 そんな他愛無い雑談をしながらサブアリーナの片付けを済まして、俺たちは体育館の出口に向かう。

 

「返却です」

「分かりました。ここにサインを」

「はい」

 

 フロントで借りていた車椅子を返したと吼月がこちらへやって来る。

 

「明日も来るから」

「また来るのか?」

「1日だけで習得できるなんて思ってませんよ」

「……勝手に来い」

「ああ、俺はただバスケをやりにくるだけだからな」

 

 小さく手を振って、別れを告げて背を向ける。

 

「では、機会があれば」

 

 別れ際、吼月がスマホを見た。

 それにつられて俺も自分のスマホを覗いてしまう。

 

「…………帰るか」

 

 俺はスマホをしまって駐車場まで車椅子を漕ぎ始めた。




 ハツカ様が見ていたのは、仮面ライダービルドの8話『メモリーが語りはじめる』です。ネタバレ無しで書くのって案外難しい……。
 なんやかんだ男の子な所もあるハツカ様ならヒーロー作品も好きそうなのでぶち込みました。


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第三十夜「元気」

「ご注文の品、お持ちしましたぁ」

 

 蘿蔔ハツカ()の目の前に大型のジョッキが置かれる。溢れんばかりに注がれたビールの泡が置かれた衝撃で左右に揺れた。

 いま訪れているのは行きつけの居酒屋【二日酔】だ。

 ビールやウィスキー、日本酒、焼酎など数多くの酒を提供してくれる店であり、そのツマミとなる料理も豊富に取り揃えられている。

 

「飲むのはいいけど随分急だね」

 

 テーブルを挟んで向かい合う相手を見て僕は言った。

 生大ジョッキに手を伸ばしてグピっと一気にあおる女性の名は平田ニコ。

 僕は彼女の誘いで【二日酔】に飲みに来ていた。

 顔をあげた拍子に動いた前髪に隠れていた左眼がこちらを覗き、今呑み込むからと手のひらをこちらに向ける。

 

「ふぅ……おいしい……急に暇ができたからさ」

「なるほどね。道理で僕ひとりなわけだ」

 

 テーブルを囲んでいるのは僕とニコちゃんのみ。突然の誘いに乗ることが出来たのは僕だけのようだ。

 

「カブラさんたちは?」

「カブラは仕事でミドリはオフ会?ってやつ、セリは秋山くんと一緒に弱点探し」

「みんな大変だね〜」

「だなぁ」

「あと、ベランダから来るのやめない? そういうところが七草さんと似てるんだよ」

「ハツカも思ってたのか!?」

 

 目を見開いて驚くニコちゃん。驚く時は素直に反応することも七草さんと似ている。

 

「ハツカは誘ったら来てくれるからな」

「まるで僕が暇人みたいな言い方するじゃん」

「だったらなにしてるのさ」

「ペットの躾したり、この間は七草さんや夜守くんと飲んだよ」

「またお前だけ飲んだのか。ナズナのやつ……」

「僕の弱点消しの手伝いついでだったし。そうだ。ニコちゃんの方はどうなの?」

「アタシの方も眷属に頼んで粗方消したよ。それでな––––」

 

 情報共有を兼ねて近況を話していく。

 僕からは弱点の抹消、夜守くんと七草さんの進展、あとは朝井アキラという女子の話など。ニコちゃんからは同じく弱点の始末についてと、僕たちの仲間である本田カブラについてだ。

 どうやらカブラさんが勤めている小森第三病院に、吸血鬼殺しの探偵–––鶯アンコがやってきたらしい。

 狙いはその病院の中にある、かつてカブラさんが使用していた一室に保管されていた人間だった頃の私物。

 夜守くん達が事前に弱点のことをカブラさんに伝えていたため、眷属を使って破棄しており事なきを得た。それでも、かなりギリギリであったようだ。

 

「…………」

「どうかしたのか?」

「いや、そっちに行ったんだな。と」

「その探偵、ハツカも襲うぞみたいな口にしてたんだったか」

「うん。あの時は秋山くんに専念してたからだと思ったけど……」

 

 にしては、日が経ち過ぎている。

 あの時鶯アンコは「今回、蘿蔔ハツカ()には用はない」と言っていた。

 だから、どこかのタイミングで僕を襲ってくるかとも思っていたが音沙汰なし。吼月くんが居たからとも考えられたが、秋山(あっ)くんが襲われた時は僕と夜守くん、そして夕くんも居たためその考えは捨てるべきだろう。

 わざわざ警戒させるだけさせて何故カブラさんのところへ向かった?

 殆どの弱点を消されたから襲うのをやめた? 

 

「探偵が人間の味方を気取っているとしたらカブラを狙うのもわからなくないけどな」

「カブラさんの悪い癖はね」

 

 カブラさんは人の物を欲しがる癖––––寝取り好きである。相手がたとえ妻のいる夫であっても、他の誰かの眷属候補であっても。

 だから標的として狙われる理由は分かる。

 

「納得いってなさそうだな」

「ちょっと引っかかってね」

 

 僕は箸を置いてあの日のことを思い出す。

 秋山くんが襲われた後、僕とセリちゃんで探偵さんを撤退させた。確かその時、鶯アンコは––––

 

「ねえ、七草さんって眷属いないんだよね」

「居たら大きな噂になってるだろ」

「だよねえ。いたらニコちゃんが逃すわけないし」

 

 鶯アンコの去り際の言葉を思い出す。

 

––––夜守くん。七草ナズナは元気か?

––––それと夕マヒルくん。星見キクは……

 

 僕は何故か出会った日に吼月くんが言っていた事も思い出ししていた。

 

––––アンタら……その探偵の大切な奴を目の前で消したんじゃないだろうな。

 

 目の前で殺すことはなくても吸血鬼化を発端に何かしらの問題が発生した可能性は十分にある。特にキクちゃんは様々な問題を抱えている。優秀な吸血鬼であるキクちゃんだが、その後の処理に問題があり、彼女への対応は吸血鬼でも困っている。

 僕の主観が多く含まれているがキクちゃんに言及する探偵さんの声はどこか震えていた。

 身を焦そうとする怒りのようでもあり、得体の知らないものに触れるようなものでもあった。

 

「元気、か」

 

 それ以上に僕が気になるのは七草さんへの言葉。

 キクちゃんについて言及する声とは真逆のもの。

 

「ニコちゃんは七草さんと付き合いは長い方だよね」

「そうだな。一番はカブラだとは思うが……ナズナはそれを認めないしな……」

「だったら夜守くん以外の友達って知ってる?」

 

 そう訊ねると、ニコちゃんが一瞬強張った。

 いつものスッキリとした涼しい表情に戻った後も、深く考え込むように瞳を閉じる。

 少ししてニコちゃんの口が開く。

 

「すまない。アタシからはなんとも言えない」

「そう」

 

 何か手掛かりになりそうなことは知っているようだった。

 僕はそれ以上何も訊かなかった。

 下手に問い詰めなくてもニコちゃんならば正しい判断をしてくれる。それが分かっているから僕はここで話を区切った。

 

「せっかくお酒飲んでるのにいやぁ〜な話ばっかりしてちゃ不味くなっちゃうからね」

「飲むべのむべ」

 

 空気を入れ替えるように僕たちはまた生大ジョッキを注文する。

 

「そういえばハツカ」

「どうしたの」

「お前、ツマミ食う派だったっけ?」

 

 ニコちゃんが目を向わせたのは僕の前に置かれた皿。

 炙りエイヒレが青葉と一緒に盛り付けられているものだが、料理が置かれていること自体が彼女からしたら珍しく映ったのだろう。

 吸血鬼は血しかエネルギーにならない。ならなくはないが、得られる栄養は微々たるもので、血液以外の食事を摂る吸血鬼は少ない。

 僕は思わず苦笑してしまう。

 

「ははは、最近は食事にうるさい子が出来てね。つい頼んじゃったんだ。食べる?」

「食べる」

 

 皿をテーブルの中央に移動させて、ふたりでエイヒレを食べていく。

 食事を進めながらニコちゃんが、僕の言った食事にうるさい子(吼月くん)について訊いてくる。

 

「なになに新しい眷属(子供)? どんなヤツ?」

 

 吸血鬼が人と接触する時は基本眷属にするか血を吸うかだ。今回はパターンは前者であり、恋愛が絡む内容。

 恋バナ好きのニコちゃんはさっきと打って変わって楽しそうな顔だ。

 にしても、どんなヤツ、か。

 どう説明したものか。

 

「……狐?」

「妖怪を相手にでもしてんの?」

「当たってるような……はずれてるような……」

 

 彼の代わりようは妖怪といえるだろう。

 

「写真とかあるの?」

「写真……あぁ、たしか以前に撮ったものが……」

 

 僕はスマホの写真アプリを開いて画像を探す。

 写真はすぐに見つかった。

 吼月くんをマネキンにした時に試着室で撮ったものだ。黒と青色を基調にした退廃的なデザインのゴスロリ姿をしている。

 堂々と胸を張ってフリルスカートと淡い葡萄色の髪–––このウィッグを使うことはかなり序盤で決めた–––を靡かせてはいるが、目線がカメラに向いておらず頬も微かに朱に染まっている。

 この写真を見たニコちゃんは目を丸くして驚く。

 

「おおぉ……人間にしてはかなり綺麗だな……雰囲気も本人に合ってるし。でも、女の子? ハツカってこんな趣味あったか?」

「夜守くんのこともあったし、偶にはこんな子もいいかなって。あと男だよ」

「え!? これで!?」

「ふっふん! 凄いでしょ」

 

 素材の良さを活かし切る僕の手腕があってこその美しさだ。街を歩かせても十分通じるだろう。

 

「普段からこんな格好してるのか?」

「さすがにそれはないよ」

「そ、そうか……やっぱり違うか」

 

 ニコちゃんは「リラちゃんの友達になれるかと思ったけど……」と少し肩を落とす。反応を見る限りリラという子もロリータ系のファッションをする人なのだろうか。

 

「もしかして邪魔したか?」

「ん? なんで」

「だってほら」

 

 写真のある一点をニコちゃんは指を差す。

 それは試着室の奥にある鏡だった。

 

「鏡に映ってるということはまだ候補なんだろ。今日も一緒にいるつもりだったんじゃないのか?」

「いいよ。この後会うし」

 

 別に焦ったところで何も変わらないし、時間はあるのだからたっぷりと使って彼を僕に染めるべきだ。

 しかし、ニコちゃんの懸念はそこではなく、

 

「もう夜遅いけど大丈夫なのか? 親にバレたら不味いんじゃないか?」

「夜守くんだってそうじゃん」

「彼は例外だろう」

 

 改めて考えてみると確かにそうだ。

 夜守くんや夕くんのこともあって夜に来れて当たり前と考えていたが、普通は違うよね。

 

「夜守くんと同い年なの?」

「うん。同級生。この間は楽しそうにどつかれてた」

「どういう状況?」

 

 けれど初めて僕の家に来た時、気絶するまで飲んで結果、一晩泊まることになっても特に怒ることもなかったので割と緩い家庭なのかもしれない。

 

「でもそうか〜……ナズナの次はハツカがか……セリも眷属作ったし、アタシもそろそろ六人目作ろうかな」

「目ぼしい生徒さんはいるの?」

「去年の卒業式に告白しに来てくれた子とか良いかな〜〜って。でもあの子は熟してからの方が……」

「相変わらず教師にしては歪んだ想いを」

「いいだろ。これが教師の本懐なんだよ。立派になった生徒が会いに来てくれてもう一度アタシに想いを伝えてくれる。ほんと、感動するんだよなぁ……」

「そこでパクッと行っちゃうと」

「いいや。もう少し様子を見る。生徒と教師だったシチュからアタシの厳正なる審査()を通ってはじめて眷属になれる」

「ほんと教師の立場を満喫してるねニコちゃん」

 

 楽しそうに笑うニコちゃんにツッコんでいると、店員が新しいジョッキを持ってやって来た。

 

「飲み物お待ちしましたあ」

「ありがとう」

 

 ふたりで受け取り、酒をつまみながら吸血鬼トーク(恋バナ)を再開していると、

 

 ポコリン。

 

 ニットワンピースのポケットから聞こえてきた電子音。僕のスマホへの着信だった。

 

「おっ。件の男の()ちゃんから?」

「そうみたい」

 

 見てみると、メッセージが入ってきていた。

『思ったより早く終わった。いまどこにいる?』と呟いている。

『二日酔って居酒屋』と返信すると、すぐに既読がついた。

 

『居酒屋か……お仲間も一緒?』

『そうだよ。よく分かったね』

『だって出ていく理由がなかったらハツカって基本引きニート気味だし』

『よし。分かった。とくとお仕置きしてあげる』

『事実じゃん……』

 

 冗談まじりに会話を続ける。

 僕には素直なままで良いとは言ったけど、もう少しオブラートに包むことを覚えるべきだ。

 今日はそのことをじっくり教えてあげよう。

 

「ふふっ。ヒキニート……」

「なに?」

「まあお前、サッカーの祭りの時も出てこなかったしな」

「……」

 

 いつのまにか僕の隣にまで移動してスマホの画面を覗き込むニコちゃん。口は抑えているが、目の微笑みは隠せていない。

 え? もしかしてニコちゃんにもそう思われてるの?

 

「なんか友達みたいなやりとりだな」

「まあ、まだ友達だしね」

「へえ……」

 

 もう一度、画面に視線を落とす。

 

『でも居酒屋でしょ? 子供も入れるのところ?』

『入れるよ』

『分かった。じゃあそっちに行くから他の吸血鬼にもよろしくね』

 

 店のリンクと座席の番号だけ送り、スマホをしまう。

 

「え、待って。吸血鬼だってことバレてるの……?」

「うん。僕とショウくんの現状(いま)を話しておくけど……」

 

 

 

 

 俺は送られてきたリンクから二日酔のホームページまで飛ぶ。

 最近わかってきたことなのだが、俺は口下手なのだろう。応野や飯井垣、斎藤といった面子には意識しなくても上手く会話できるのに、ハツカや理世に対してとなるとなぜか本音のまま話してしまうことが多い。

 気を許しているのかと言われればハッキリとは答えられない。

 ただ、血を吸われれば考えていることがバレるハツカはともかく、理世にもそのまま喋ってしまうは不味いだろう。

 

「お仕置き……」

 

 なにをされるんだろうか。

 また血を吸われるだけなんだろうなと考えてしまい、それほど脅威に感じられない。

 だとしても、その仕置きで俺の欠点が直るのであれば万々歳だ。

 

「ま。ひとまず第一関門はクリアしたし、今日は仕置きされに行きますか」

 

 そういえば、と辺りを見渡す。

 

「今日はあの変な男、居なかったな」

 

 昨日、観客席から沙原を見ていた謎の青年。

 車椅子バスケの団体からのスカウト……なんて夢ある話ならいいのだが、なにか引っかかる。既視感のようなものを覚えているのだ。

 青年という個人としてではなく何か漠然と覚えがあるような。

 俺はもう一度首を振って視界を広げる。

 周りには誰もいない。

 

「ん?」

 

 そう思えたがひとつ、街路樹に隠れるようにしながらも確かな気配を感じた。同時に聴き馴染みのある電子音が聞こえた。

 

 ピコリン。

 

 電子音が聞こえた場所に目を向けると、俺は八雲が口にしていた「今日もひとりか……」という言葉を思い出す。

 少し立ち位置を変えるとハッキリとシルエットがキチンと分かる。

 

「……思いの外、尻尾を出すのが早いな」

 

 かなり若い女性だった。

 街灯に照らされた姿は、恐らく沙原と同い年ぐらいで制服を着ている。女子高生だろうか。見た目はかなり派手で、一番最初に目につく髪色は根本は金髪だが、毛先にかけて紫色へ変わるグラデーションがかかっている。

 それを見て俺はあんな髪色する人実在するんだな、なんて思っていた。

 

 ピコリン。

 

 また音が鳴る。

 けれども彼女は気にしていないのか、はたまた気づいていないのかスマホを手に取らない。

 

「……」

 

 けれども、派手な見た目とは裏腹にどうにも思い詰めたような顔をしている。それはどこか沙原が見せる貌と似ていた。

 こちらには気づいておらず、背を向けて去っていく沙原だけを見ている。

 

「たくっ……」

 

 自然と俺の足はその女性の下に向かっていた。

 背後を容易く取れるほど、彼女の意識は沙原に囚われていた。

 

「ねえ」

「ひいっ……!?」

 

 突然後ろから声をかけられた女性は、悪寒が全身を駆け巡ったかのように体を震わせる。ゆっくりと俺の方へと向き直る。

 この場合、端から見たらどちらが不審者なのだろうか。

 

「き、キミは……」

 

 震えた声のまま尋ねてくる。

 

「沙原とさっきまでバスケをやっていた男だ」

 

 名乗る必要もない。

 相手もこれ以上は求めてないだろう。

 

「アンタが沙原といつも一緒にいる人だろ。ここでなにをやっているんだ」

「なにやってるって……」

 

 念を押すように最低限の確認をする。

 わざわざ俺が出張る意味なんてない。あのままでは尻込みしたまま動けなくなってしまいそうで、ここを逃せば発破をかけることすらできなくなるかもしれない。

 俺の問いかけに、一瞬彼女の目線だけが沙原に戻った。

 それが答えだろう。

 

「沙原、寂しがってたよ。早く連絡するなりして足止めしないと帰っちまうぞ」

 

 嘘だ––––沙原からはなにも聞いていない。俺が沙原から感じる意思を、そしてこの女から感じる衝動をそのまま出力しているだけだ。

 そんな俺の戯言を彼女は、

 

「うん。ありがとう」

「っ!?」

 

 肯定し、躊躇わず俺の手を取った。

 

「キミの言葉でほんの少し、勇気が出たよ!」

「……」

 

 一般的に可愛げのある仕草とはにかんだ笑顔で感謝を述べる。平々凡々な人間なら落ちてしまいかねない微笑み。

 こんな自然な笑顔があるのかと思わせるほどのもの。

 

「ありがとね!」

「おい、まだ話は終わってない」

「じゃあーねー!!」

 

 俺の制止には聞く耳を持たず手を振って、もう見えなくなった沙原の後を追いかけていった。

 

「……しくじったか」

 

 けれどもそれ以上に、

 

「なんだろう、凄いデジャビュを感じる……」

 

 まさか、そんなことは––––と考えるものの確証はなかった。

 俺がいま言えることはただひとつ。

 

「空回ってるねぇ〜……」

 

 不安が的中しないことを願いながら、ただ暗い夜道を歩いていく。




 


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第三十一夜「餌の務め」

 予感は的中した、と言うべきだろう。

 体育館前から市民公園に設けられた駐車場までの暗い道のりの間に沙原とあの女性はいなかった。

 駐車場へ辿り着く前にエンジンを蒸す音が聞こえ、車道を照らすヘッドライトが俺の後ろ側に走り去っていたことがあった。恐らくそれが沙原を乗せた車だったのだろう。

 しかし、気になるのはあの女性。

 間に合わなかったとしても、駐車場には居ると思ったのだが見当たらない。どこへ消えてしまったのだろうか。

 

「仕方ない」

 

 踵を返し、俺はハツカとの待ち合わせ場所に向かったのだった。

 

 そこから暫く経ち、俺は居酒屋【二日酔】の前まで来ていた。

 店内の喧騒が外まで届いてくる。

 戸に手をかけた時少し隙間があるのを認める。恐らくここから声が漏れ出していたのだろう。

 

「こんばんはー」

「いらっしゃいませー! ……て吼月じゃん」

「おお、戸郷じゃないか。ここでバイト?」

「そうだぜ!」

「そっか。それでなんだけどさ––––」

 

 入店して店員に話しかけると偶々知り合いだったためスムーズに話を進められ、ハツカたちの座席番号の場所へ案内された。

 

「じゃあ頼むな」

「ごゆっくりーー!」

 

 店員と別れて俺は案内された座席に目を向ける。

 そこにいるのは数杯のジョッキを乾したハツカと長身の綺麗というよりカッコいい女性が向かうようにしてテーブルを囲んでいる。

 

「よっ」

「やあ。……嫌なことでもあった?」

「別になかったけど。それより、俺って変な匂いする?」

「いいや、しないけど」

「そっかなら良かった」

 

 小さく手を振り合って、俺はハツカの隣に座る。

 確認するように俺は目の前の女性に尋ねる。

 

「貴女がハツカのお知り合いのコウモリさん? 俺は吼月ショウ、小森第二中で生徒やってる」

「平田ニコだ。よろしく……小森工業高校で教師をしている」

 

 長身でスーツ姿の女性は俺の感性から言えばカッコいいになる。

 美人で動くと確定で画になる。回し蹴りしたときに前髪に隠れた瞳を映すカットとかあったら見入っちゃうかも。

 ぜひ、坂◯監督に撮っていただきたい。

 

「教師。ああ、生徒好きの」

 

 そして、恐らく沙原が通っている学校の教師。

 吸血鬼だろうから、顔見知りかどうかは怪しいけれど。

 

「私が好きなのは教師ならではのシチュだよ」

 

 平田と名乗る女性はどこかピリッとした口調で返事をする。そこで俺は気づいたがこの場の雰囲気自体がひりついているようだ。

 コウモリという用語が気に食わなかっただろうか。直接的な単語を使わずに彼ら彼女らを表すにはピッタリだと思うのだが。

 

「俺との勝負のこと話した?」

「話したらこうなったの」

 

 あのやり取りのあと平田に現状の説明をしたそうなのだが、その時の彼女はかなり苛立っており、ここが店でなければテーブルを叩き割っていたとのこと。

 片手でテーブルがバキンと真っ二つになるイメージが湧いてくる。

 しかし、先に説明してくれて助かった。また変に驚かれるのは面倒だ。

 

「ハツカにも言ったが、吸血鬼の存在を広めかねないキミは殺した方がいいと思っている。夜守くんと違ってキミはハツカへの恋愛感情もなければ、吸血鬼になるつもりもないのだから」

「知ってるよ。それがアンタらのルールらしいからな」

 

 そう答えはするが、平田からは殺気を感じない。

 あくまで雰囲気が固まっているだけ。

 ハツカの時みたいに少し煽るべきだろうか、と思いながら平田を見つめていると彼女はスッと肩から力を抜く。

 俺は首を傾げる。

 

「しかし、もうひとつ夜守くんと状況が違う。それは相手がハツカだということだ」

「……」

「だから落ちそうになった時はとくと恋バナを聴かせてもらうよ」

 

 理性的な彼女はただ俺だけを見つめる。

 問題ないと言いたげなサッパリとした彼女の顔を見て、俺は心から嬉しくなった。

 

「なんで笑ってるの?」

「さあな。口だけじゃなかったと嬉しくなっただけさ」

「……?」

 

 きっと平田からのハツカへの信頼が、俺が背を見る相手として間違いないと認められているようなものだったから。

 その事実がこの上なく嬉しい。

 

「案外大丈夫そうだな」

「?」

「注文の生大と烏龍茶、鉄板焼きです!」

 

 平田が不意に呟いた言葉を聞き取ることができず気になるが、店員の声に遮られて聞き直すタイミングを失ってしまう。

 しかし、終わった話を蒸し返すのも悪いのでそこまでの話は遮って雑談を始めた。

 

「コウと俺の状況が違うって言ったけど、吸血鬼に関わってるのは同じだろ? ナズナさんのことは信頼してないのか?」

 

 相手がコウだから。そう言った理由ならば俺もわざとらしく肯首するとこほではあったが、吸血鬼であるナズナさんならハツカと性格が違えど恋に落とせる信頼はあるだろう。

 その答えを平田はすぐに提示してくれる。

 

「ナズナは今まで眷属を作るどころかマトモに人間を落とそうとしたことがないからな。ハツカと比べたら当然不安はある」

「一緒に飲んでた時に夜守くんが初恋だって知った時、顔真っ赤にしてたでしょ? 七草さんって恋愛初心者だから恋バナになるとああなっちゃうの」

「……あれってそう言うことだったのか。てっきりハツカと同じでストレートな物言いに照れる初心なのかと」

「ハツカ?」

「いきなり僕に飛び火してくるじゃん」

「だって俺が可愛いって言ったら噴き出してたし」

「そんな台詞言わなさそうなキミが言ったから驚いただけって言ったでしょ!」

「それが照れてるって言ってんだろ!?」

 

 本気で言ってたのかと仰け反る。

 今まで照れ隠しだと思ってたぞ。

 

「へえ〜〜吼月くん。そのへんの話をもうちょい詳しく」

 

 注文をしながら、すこし前の話を交えつつ会話していく。

 

「吼月くんは血自体は吸われてるんだよな」

「そりゃまあ。じゃなかったら勝負が成り立たないし」

 

 左の首筋を撫でると、平田は俺の指先が触れる肌をじっくり見つめてくる。

 知的な吸血鬼(ヒト)ではあるのだろうが、血への欲求は本能的なもののようで卑しい視線を向けてくるのも変わらないようだ。

 

「ふぅ〜ん。興味あるな、キミの血の味。ハツカ、どうだった?」

「……美味しいよ」

 

 ハツカは答えたくなかったのか、少し間を置いてから俺の血の味を認めた。

 それを聞いて、また俺は安心していた。

 

「なら、吼月くん。飲ませてもらっていいかな」

「構わないが……イテェっ!?」

 

 服の襟に手をかけようとした時、パチンッと乾いた音が鳴った。同時に手の甲に痛みが走る。

 結構いたぃ……。

 

「なにぃ?」

 

 手を叩いた本人であるハツカに俺は目を移す。

 ハツカは語らないが、言わんとすることは察しがついた。『勝手に僕のものを他の人に渡そうとしてるの』と言いたげな横顔でジャガイモとベーコンの鉄板焼きに箸を伸ばす。チーズがトロリと糸を引く。

 腹が減って生命活動的にしないといけないから飲ませてくれってことじゃないのか?

 ……しかし、ハツカのこの表情。

 通路には誰もおらず店員も通らない。喧騒の中なら少し騒いでも紛れるだけ。

 よし、ちょっと遊んでみるか。

 

「良いぞ平田。こっちに来い、飲ませてやる。いや、やっぱり俺から行くわ」

「は?」

 

 俺の行動に驚くハツカ。

 血を飲みたがっていた平田も少し驚いている。そんな彼女を俺はただ一点、瞳にだけ笑みを湛えさせた表情で見つめる。

 平田が一瞬、ハツカに目をやった。

 

「いいのか?」

 

 それはハツカに向けたものだったろう。しかし、ハツカが答える前に俺が口を出す。

 

「ああ、俺の血は誰ものでもないからな」

 

 ハツカの隣を離れて平田のそばに近寄ると、彼女の左手と右肩に俺の掌を重ねる。彼女の顔へ首を近づける。

 

「なにも言わないご主人様より、飲みたいと言ってくれる方に差し上げるのが人間()の務めだからな。それとも生徒に襲われるシチュエーションは嫌いですか? 先生?」

「……悪くない」

 

 俺はわざと平田に生徒–––俺ではなく担当している相手たち–––を空想させる。空想の仕方は大事だ。よりイメージできる状況であればあるほど、その空想は強い力と価値を持つ。

 しっかり空想できた平田は頬を朱に染める。

 吸血鬼よ、やはり耐性弱いのでは?

 

「いい趣味をなされてますね。じゃあ俺に付き合ってくれ」

「なるほどな」

 

 こちらの意思を汲み取ってくれたのか、平田は意味ありげに楽しそうに笑う。

 以前、ハツカに吸血鬼は顔がいいと言われた覚えがあるが、確かにと思った。ハツカと平田、ナズナさんも総じて容姿がいい。方向性はそれぞれ違うが、だからこそ多種多様な人を眷属にして種を増やせるのだろう。

 

「先生」

「……なんだ」

「血を吸ったら俺の悩み、聞いてくれますか?」

「え? あ、あぁ……ハツカじゃダメなのか」

「ええ、ハツカじゃダメなことです」

 

 彼女はどう答えてくれるだろうか。

 俺はちらりと横目でハツカを視界に入れた。

 

「ねえーー」

「俺、雰囲気読むの下手くそだからな〜」

「……っ、っ」

 

 俺はハツカの言葉足らずな制止を無視する。ハツカの眉がピクリ、ピクリと動いたのがわかった。

 やべえ、楽しい。

 

 しかし、飲まれるのなら美味しい血を平田にも口にしてほしい。

 俺の感情の昂りが味の良さに作用するんだったな。いっそのこと平田の事を押し倒してやろうか。いや、それだと店にも迷惑がかかるし、なにより今の状態で吸血鬼を押し倒せるとは思えない。

 だから、今まで通り俺は服を引っ張り肩まで露出させる。

 

「ハツカおすすめの俺の血。どうぞご堪能あれ」

 

 右側の首筋を差し出すと、平田も口を開いて犬歯を見せてくる。焦らすようにゆっくりと、これでもかとスローモーションで牙を近づけてくる。

 

「……」

 

 そして遂に平田が俺の首筋に牙を立て。

 

「いただきます」

 

 

 

「ストップ!!」

 

 

 

「おや」

「おっと……」

 

 血を飲む直前でハツカが割って入ってきた。

 

 

 

 

 気がつけば僕は吼月くんとニコちゃんの間に身体を滑り込ませていた。

 思わず透過を使ってしまった。

 僕は吼月くんと向き合う。首筋に傷はなく、ギリギリ飲まれずに済んだようだ。

 

「何考えてるの」

「なにって?」

 

 分かってるくせに、と僕は目を細める。

 

「なに怒ってるの? 言えよ。言ってくれなきゃ分からないぞ。……俺は吸血鬼ほど人の機微には疎いからな」

 

 欺くように語る吼月くんに憤りを覚える。

 

「ハツカは誰の、なにが、自分のものであって欲しいの?」

「……」

「王は民につくされ、尽くされた分を望みとして返すんだろう? だったどう尽くして欲しいのかくらい言ってよ。言えないなんて女王様失格だよ」

「むぅ……」

「ほら、誰の血がハツカのものであって欲しいの? なあハツカ様?」

 

 微笑む吼月くんはあどけなくそれでいて妖しい美しさがあった。僕の独占欲を利用するケラケラとした笑い。最近は子供らしさしか僕だけの前では見せなかったから、敵対関係である事を失念していた。

 自分の口から言いたくはなかった。ニコちゃんが断ることを望んだが、なんか思いの外楽しんでいるので期待できなかった。

 僕は諦めて––––

 

「……ショウくんの血は僕だけのものだ」

「にひひ、分かった。照れて可愛いハツカに免じて、これからはハツカ以外に飲ませないね」

「吹ッッッ飛ばすよ」

「ねえ平田。ハツカ、照れてるよね」

 

 振り向いてニコちゃんを見ると、静かに頷いていた。

 吼月くんは満足げに元の席へと戻った。

 それに続いて僕も元の席に座った。

 

 

 

 

 心が満たされるのを感じる。

 昨日はたっぷり弄ばれたので、今度は俺がハツカを弄んでみたかった。相当恥ずかしかったのか身体がプルプルしてる。クールだったり王様ムーブのハツカからは考えられない顔の赤さ。

 王様してるときのハツカの感情を少し学べた気がする。

 大きな収穫だ。次はより上手く立ち回って学ばなければ。

 それよりも、ハツカだけの血か。

 

「なんかいいな……」

 

 この声はハツカには届いていなかったようだ。

 そうだ、と俺は思い出して隣に座り直したハツカを見る。

 

「ねえ、ハツカ」

「なに?」

 

 不機嫌そうに顔を逸らすハツカ。

 

「それだと取れないぞ」

「なにが」

「唇にチーズがついてる」

「え、ほんと」

 

 向き合った時から気になっていたこと。

 ハツカの下唇にチーズがくっついていた。恐らくピザ風鉄板焼きのチーズが残っていたのだろう。慌てて拭こうとハツカもテーブルナプキンへと手を伸ばす。

 俺はそれに待ったをかける。

 それだけの為に使うなんて紙の無駄だしな。

 

「取ってやるよ」

「別にいいって」

「取らせてよ」

「あっ」

 

 顔がこっち向いた瞬間、手を伸ばして指でチーズを掬い取る。そのまま指についたそれを自らへと口に運んだ。

 

「うん、美味し。ハツカ味のチーズだね。……あっ、うっう!……だな」

 

 クリーミーなチーズに少し半透明な液体が混じった代物を俺は飲み込んだ。

 

「ほぇ……」

「おぉ」

「?」

 

 チーズをパクりと平らげると、ふたりがなんとも言えない表情で俺を見つめる。体感だが数十秒は続いただろう。

 

「ちょいちょい。2人とも、少し良いかな」

「なに?」

「どうかしたの?」

 

 気を取りなおすように平田が話を始めた。

 

「まずハツカ」

「……」

「頑張ってこのキツネを狩れ。協力するから」

「うん」

「?」

 

 俺は激励としてしか受け取れなかったが、平田の声はどこか含みのある言い方をしていた。

 

「次に吼月くん」

「なんだ」

「人を出汁にして遊ぶのはやめなさい」

「ハツカはわやわやしてるのを見たかったのも確かだが、平田を出汁にはしてないぞ」

「いつも血を吸われてる首筋とは逆の方を出しておいてなにを言ってる。元々アタシに飲ませる気なんてなかったのだろう」

「まさかまさか。それは位置の関係もあるし、飲ませる気はありましたよ」

 

 飲まれたら飲まれたで、生徒を傷物にした教師がどんな反応をするか楽しみではあったけど。

 平田も結構乗り気だったし。

 

「それに悩みくらいいつでも聞いてあげるから。わざわざ血を払う必要なんてないよ」

「……? なんでですか?」

「これでも教師だからね。子供の悩みと向き合うことに対価を求めるつもりはないからね」

「……」

 

 へえ、と俺は思わず心の中で呟いた。

 そうして俺はスマホを取り出して、ラインアプリを起動する。

 

「だったら、これ。登録して貰っていいですか」

 

 平田にスマホのQRコードが表示された画面を見せる。

 特に嫌がる素振りを見せずに平田はそれを読み込み、俺のアカウントを登録してくれる。平田のアカウントが友達登録される。

 ハツカに止められるかなと考えたが、そこまで制限するつもりはないようだった。

 

「ありがとう。では、今日は俺が奢ろう」

「いや、子供に払わせるわけには」

「そう気負うな、さっき化かしたお返しだよふたりとも。ここのメニューは見た限り酒もツマミも安価だしな。酒ばかりなら俺でも払える」

「……キミ、結構裕福なの?」

「浪費家じゃないだけさ。ハツカも飲んでくれ、俺の血を飲むのに相応しい機になるまでな」

 

 それに多分、金だけならまた来るだろうし。

 

「なら、飲まれすぎて味を落とさないでくれよ」

「問題ない。払いたい相手に注ぎ込むのに気を落とすわけ無いだろ?」

 

 カズミンならそうするだろうし。

 そうして、俺たちは飲み明かした。




 この後、ショウはたっぷりお仕置きされたんだと思います。もしかしたら、ニコちゃん先生も加わったかもしれませんね。
 需要があったらその手のやつも書いてみたいな……。女王ハツカ様とニコちゃん様。相手はコウくんとナズナちゃんかな。
 せっかくならナズナちゃんにはカブラさんも加えて。

 次回の日曜日ですが、よふかしのあじを投稿できるか分かりません。
 その事だけ、よろしくお願いします。
 


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第三十二夜「スカウト」

「よっしゃ今日も終わり!!」

 

 クラスの誰かが授業で溜まった疲れを吐き出した。

 委員長が発した号令のあと、教室の中が騒がしくなるのに反して俺は静かに席に着く。騒がないのにも理由はいくつかあるが、最近はこのタイミングになると猛烈な眠気が襲ってくるからだ。

 

「ふぁ……」

「今日も眠たそうだな」

 

 たまらず漏らしたあくびが近づいてきた応野の耳に入った。

 

「ゆっちゃん先生も心配してたぞ」

 

 ゆっちゃん先生というのはウチのクラスの担任である|由実梨先生だ。以前授業中に『夜更かしなんてのは、大人になったら嫌でもするんだから』と忠告していた先生。俺はそれに逆らってガッツリ夜更かししてるのだけど。

 

「授業中に寝てないんだから別にいいだろ。ふぁ、はっは……眠み」

「流石優等生。ムカつくほど真面目だね」

 

 近寄ってきた応野は、そのまま既に持ち主が帰った俺の前の席に座る。

 顔だけ応野に向けながら荷物をカバンの中にしまっていく。

 

「にしても珍しいな。応野が教室で話しかけて来るなんて」

「いつも話すのは生徒会の時だしな」

「そうそう。槍でも降るのか?」

「俺はお前の不吉かなにかか」

 

 目を細める応野に「まさかまさか」と手をひらひらと動かして誤解だと表明する。

 しかし、珍しいのは本当だ。

 応野が教室で話しかけてきたのはこれが初めてなのだから。

 驚きはするものの、俺はそれよりも眠い。

 目尻にうっすらと涙を浮かべ、間延びした声を上げた。気の抜けるイビキが教室の喧騒に消えていく。

 そこから少し応野と雑談を始めた。

 

「今日も倉賀野と遊ぶのか?」

「いや、理世はクラスの奴らと喫茶店巡りだってさ。俺はマヒルと遊ぶ」

「……そうか。それで次のテストだけどさ、また教えてくれ!!」

「他の奴らも言ってくるだろうし、一緒にやるか。応野が今回の範囲で苦手なのは古文かな」

「頼む」

 

 俺たちは口を交わしていく。今度ある定期テストへの勉強をどうするか。応野の買った新しいゲームの話。土曜日のバスケのことといったなんの含みも持たない世間話だ。

 数分話した辺りで応野が話題を変える。

 

「お前は……また蘿蔔さんと遊んでたのか?」

「遊んだのは別の人。ハツカとは飲みに行ってた」

 

 そう答えると、応野のはどこに行ったのかと食いついて来る。

 

「居酒屋。ええっと、二日酔って店。知ってる?」

「駅の近くにあるとこか?」

「ああ」

「不良じゃん」

「酒は飲んでないぞ」

「そこまで行ったらもう飲めよ。親父に連れられて行ったことあるけど、あそこのコーラハイ?だっけ? 隠れて飲ませてもらったけど、美味しかったぞ」

「バレたら店が死ぬんだよなぁ。ま、機会があったら試してみるわ」

 

 聞いていると子供でも親に連れられて居酒屋に行くことは往々にしてあるようだった。そうした一幕を想像してみると中々微笑ましいものがある。

 

「蘿蔔さんって酒飲むんだ」

「めっちゃ飲むぞ。昨日なんて五、六杯飲み干したからな」

「へえ、意外。肌あんなに綺麗なのに。親父なんて酒のせいで肌荒れ酷いのに」

「そこら辺は上手くやってるからな」

 

 というよりは、吸血鬼の肉体が持つポテンシャルなんだろうけど。

 肌の手入れにも気を遣って生きてはいるけど、あくまで吸血鬼なのを加味しての活動だ。

 果物なども摂るが、ハツカが食べるものはクッキーやチョコレートなどかなり糖分が多いものばかり。吸血鬼だから良いものを、人間の肉体なら面倒を見るべきだった。

 西園寺たちの私生活も覗けたら吸血鬼にも健康不健康があるかの参考になるのだが。

 栄養士の本、家庭科の先生持ってたかな。

 俺が首を捻っていると、応野が少し前の言葉について突っついてきた。

 

「てか、別の人? 誰と遊んだんだよ?」

「沙原」

「……え? なんで?」

「車椅子バスケ教えてもらってた」

 

 俺の返しに、とても微妙な反応を示す。呆れた訳ではないが、理解できていない様子だった。

 

「吼月も大概変わってるよな、倉賀野ほどじゃないけど。わざわざなんで車椅子? 借りるのにも一応結金かかるじゃん」

「でも、楽しかったぞ」

 

 沙原のフォームは見ていて気持ちいいぐらい整っていて参考になる。アイツと車椅子バスケをするのは俺の成長にとって重要な要素だ。

 その為の出費なら惜しむつもりはないのだが。

「あっ」と声を漏らしながら沙原の話で思い出す。

 

「気になってたんだけど、沙原の奴っていつも練習してるのか? オーバーワークな気がするけど」

 

 俺はそう尋ねた。

 応野は首を横に振って否定した。

 

「……前はそんなことなかったぞ」

「そっか、ありがとう。教えてくれて」

 

 八雲の話も合わせて考えれば、原因はやはりあの女の可能性が高いか。

 

「どうしたものかな」

「なんか言ったか?」

「土曜日にさ。観客席から沙原を見てた人がいたんだけど、誰か分かる?」

「女子高生?」

「男。遠目だったから確証はないけど」

「うーん……あれかな。スカウトの人かな」

 

 少し考え込んだ応野がそう答えた。

 

「スカウト? ホント? 凄いな」

「去年は沙原さん目当てでそれなりに来てたぞ。元々上手い人で、新聞にも載ったことあったって兄貴には聞いたけど」

「へえ……」

 

 となると、この間の人物は特に問題ないと考えてもいいか?

 

「サンキュ」

 

 片付けを終えた俺は席を立つ。

 教室から去ろうと歩き出す。

 

「そういえば」

 

 応野の姿が視界から消えたところで、俺は振り返る。視線が戻って来るとは思わなかったのか、応野の身体がピクリと震えたのが分かった。

 

「また、気分が乗ったら遊びに誘ってくれよ」

「……」

「じゃあな」

 

 こんなことを言われるとは思っていなかったのか、ぽかんとした顔で応野は俺を見送った。

 その戸惑いに気をかけることなく俺は教室の外からかけられたマヒルの声に応じて、遊びに出かけた。

 

 

 

 

 俺はマヒルとゲームセンターで程よい時間まで過ごした後、互いに目的の人物に会うため別れたのだった。

 ハツカと連絡して所定の時間まで自由行動となり、いまは市民公園の体育館で車椅子バスケをしている。

 因みにハツカは散歩しているそうだ。

 獲物でも物色してるのかな?

 

「セイッ」

 

 3ポイントラインからバスケットボールを放つ。

 綺麗な放物線を描いたボールはそのままリングに吸い込まれていった。シュッとボールとネットが擦れた音が耳朶を打つ。

 

「ちっ」

 

 気に食わないな。

 もっとボールの最高到達点を高くして、リングの真上から垂直に落ちるようにするのがベストだな。

 そのためには––––、と考えながら車椅子を転がしていく。

 バスケットボールが弾む音も、車椅子のタイヤの回転音もよく響く。静かなサブアリーナのコートを使っているのは俺だけだった。

 腕時計が示すデジタル調の時間を見る。

 

「もう、20時だぞ」

 

 約束した訳ではない。けれど、昨日のことがある。

 可能性として良い場合と悪い場合を考えるとしたら、

 良い場合は、よりを戻した2人が息抜きに遊びに出掛けていて、今日は練習しに来ない。

 悪い場合は、関係が完全に拗れてバスケをやる気力すら起きない。

 今後関わるとして、俺が解決するためにできることはあるのか? まず昨日はどうだったのか知らないといけないのでは?

 考えるけれども、俺が耽ったところでなんも変わらない。

 バスケットボールを拾うと一度気分を戻すためにコートの外に出る。用意していた水筒に口をつけて喉を鳴らしながらお茶を飲み込んでいく。

 

 アイツらがなんで疎遠になったのか分からないと対策のしようもないんだよな……。

 

 そう心の中で呟いたとき、カラカラとタイヤが回る音が鳴る。

 俺が鳴らしたものではない。サブアリーナの外を見る。

 そこにはバツの悪そうな顔をした沙原がいた。

 

「よ、よぉ……ホントにやってるんだな……」

 

 戸惑った声は、俺が既にやっていることも含まれているのだろう。けれどもそれだけではない。少し震えているようにも思えるその声は、バスケをするために来たとは思えなかった。

 

「やりたいからな。で、お前は?」

「は?」

「バスケ、やりに来たのか」

 

 視線が俺から外れる。

 

「顔色、悪いぞ」

「そうか?」

「ああ、すっごく。目元真っ黒だぞ」

 

 元々悪い人相が、目元にくっきりと残った大きなクマによっていつにも増して酷くなっている。顔色も青白くなっているように見える。

 睡眠がしっかりと取れていない証拠だった。

 

「あからさまに体調悪いですって顔をされたらバスケはできないな」

「……」

「俺は疲れたし外に行くつもりだが、ついてくるか?」

 

 車椅子から立ち上がった俺に目を合わせた沙原はこくりと頷いた。

 

 自販機でメロンパンを買った俺はそれを手に、沙原の車椅子を押して体育館の外に出た。

 体育館の北側にある池にかかった橋を渡りながら、見つけた木製のベンチの前で足を止める。車椅子をその脇に停めて、俺はベンチに腰を下ろした。

 

「ほら、メロンパン」

「悪いな」

 

 手に持っていたふたつのメロンパンのうちひとつを沙原に渡してから口にする。

 

「あっっま」

 

 皮に砂糖が満遍なく振り掛けられており、中にはメロンクリームがぎっしり詰まっていた。噛んだ瞬間クリームが口の中に流れ込んでくる。甘さたっぷりのパンに口の中が占領される。

 

「この甘さがいいんだよ。うま」

「いやこれ太るぞ?」

「男なのにそんなこと気にしてんの?」

「男女関係ねえだろ……」

 

 数日ぶりに食べたであろう沙原も満足しているようだった。

 美味しいって言えるなら病んでるまでは行っていないのだろう。ちょびっとだけ安心した。

 

「てか、吼月さ」

「ん?」

「敬語使うのか使わないのかどっちなんだよ」

 

 そう沙原が尋ねてきた。

 

「バスケ以外で沙原のこと尊敬してないし」

「バッサリ言うなお前……歳上には敬語使うべきだぞ。学校とかどうしてんだよ」

「プライベートと仕事は切り替えてる。人間関係なんてそんなもんだろ」

「上っ面だけのいい子ちゃんかよテメェ」

「いい子に見られたいなら今も使ってるよ」

 

 なんで私的な時にまで敬う意味もない奴らに気を遣わなけりゃならんのだ。ただでさえ全てがフラットになる自由な時間()なのに。

「そこまで来るとこっちも清々しいわ」と沙原は苦笑いを浮かべた。

 

「はは……アハハッハッ」

 

 苦笑いは徐々に変化し、大きな笑い声になる。

 

「そう簡単に切り替えられたら楽なんだろうな……」

 

 笑い声は収縮し、迷いが溢れる。

 反応を見るからに昨日は失敗に終わったらしい。なにを持って失敗とみなすべきかは定かではないが、少なくとも目の前の男は辛そうだ。

 

「女か?」

「……え」

「詳しく言うと髪の毛が紫がかったギャルっぽい」

「エマのこと知ってるのか!!」

 

 俺が女の存在を示すと、沙原はガタッと車椅子が音を立てる勢いでこちらに振り向く。まるで飛びかかろうとでもしているかのような体勢だ。

 

「知らん。昨日お前をストーカーしてるみたいに木の影に隠れてた」

「それで?」

「声をかけて、沙原の後を追わせた」

 

 俺がエマという女と知り合いだと勘違いしていたようで、萎えたように肩を落とした。そこまで感情が上下するほどエマについて考えているのかと驚いてしまう。

 しかし、目にクマが出来てしまうのも納得の態度だった。

 

「なぁ……」

「ん?」

「いや、なんでもない」

「なんだよ」

「え、あ、えっと……」

 

 沙原はモゴモゴと口を動かしている。

 どうにも言い難いことがあるようだった。

 

「言いたいことあるんだったら言って欲しい。俺は勝手に口を出したんだ。文句を言う権利がアンタにはある」

「吼月に不満とかは、ない、けど……」

「あるようにしか見えん」

「ううっ。いや! お前は悪くない!」

 

 顔を寄せながら問い詰める。

 なぜ、不満や嫌なことがあるのに言うのを躊躇うのだろうか。目の前に言うべき相手がいるのだから吐き出せばいいものを。

 ジリジリと沙原との精神的な間が狭まる。

 こちらを伺う視線は不安を滲ませていて、深く息を吸ってから沙原は口を開いた。

 

「なあ、吸血鬼がいるって言ったら信じるか?」

 

 恐る恐る発した声色。

 しかし、沙原はすぐ訂正するようにまた笑い始めた。

 

「嘘ウソ。本気にすんなって」

「信じるよ」

「は?」

 

 沙原の顔が色が消えた。

 

「この状況で嘘をつけるなら大したものだしな」

「……本気で言ってる? 吸血鬼なんて馬鹿げた話だぞ?」

「意味のない嘘をつくのが嫌いでね。本気だし真面目だよ」

「……」

 

 本来であれば到底信じられない話だ。

 吸血鬼が存在する、そんな使い古された怪談話など。

 しかし、話したのが俺だったから真に受けることができた。それに予想はしていた。

 なんとなくこうなるだろうと云うのも。

 

「彼女さんが吸血鬼だったのか?」と俺は尋ねた。

 沙原は首を振ることもなく、ただ「分からない」と俯きながら呟いた。

 

「実際に吸われた訳じゃない。ただ、そうしようとしか思えなかった」

 

 吸血鬼が血を吸う場所の定番である首には傷跡は一つも見当たらない。反対側も車椅子を押していた時に確認したためそちらに噛まれたわけでもない。

 もちろん、首筋じゃないといけない理由はないだろうが吸われていないというのは事実だろう。

 

「昨日、エマと逢ったんだ。どこから現れたんだって感じに、ふらっと突然に。なんか、空から降りてきて……目を錯覚だと思った。

 それで最初は軽い挨拶をするつもりだったけど、いつぶりだってくらい逢ってなかったから駆け寄って……何をしてたのか聞いたりしたら急にエマに抱きつかれて……」

「噛まれそうになったと」

 

 沙原は力強く頷いた。

 

「一瞬牙が見えて、殺意のようなものを当てられた気がして背筋がぞくってしたよ。でも、直ぐに離れて……どっかに行った」

「……」

「もう何がなんだか分からなくて……やっと会えたのに……」

「そのことをずっと考えてたら」

「朝になってました」

 

 頭を抱えながら、沙原は昨日起きた出来事を整理していく。それを聴きながら俺も身の回りの吸血鬼から得た情報を元に話をまとめていく。

 エマという女が吸血鬼なのは本当なのだろう。

 元々俺が吸血鬼じゃないかと疑ったのは身振り手振りを含めた雰囲気だけで確証はなかった。けれど、沙原の話が事実と仮定すれば間違いないだろう。ハツカが俺から別の吸血鬼の臭いを判別できなかったのは接触が少しだったからと考えればいい。

 昨日、俺が駐車場に着く前に別れることができたのも、彼女が吸血鬼の力で道中を素早く移動したからだろう。

 考えながら俺には幾つか新しい疑問が生まれる。

 まず最初に確かめるべきなのは。

 

「お前ってそのエマのこと好きなの?」

「は?」

「エマに恋してるかって聞いてんの」

「あ、はえい、……」

 

 俺の質問に戸惑いながら唸り始める。顔を右往左往しせながらどんどん赤くなっていく頬は照れの証なのだろうか。

 暫く葛藤していた沙原はついに認めた。

 

「はい……好きです」

「へえ。付き合えるなら?」

「付き合いたいです……」

「甘い、このメロンパンみたいに甘いよ」

 

 最後の一欠片のメロンパンを頬張って俺は言う。

 

「待て! これ関係あんのか!? 俺の反応みて楽しんでんじゃねえのか!?」

「ある」

「あるのか……」

 

 俺も最初はそう思ったので沙原の考えも理解できる。

 しかし、そうなると吸血しなかった理由はエマ個人の拒否によるものになる。

 吸血鬼の存在を知らない沙原にならエマが血を吸ってしまえば直ぐに眷属にできる。抵抗されたとしても純人間と吸血鬼なら、エマが力が強く押し切ることができるだろう。

 

「八雲が言っていたのもその子か?」

「あ、ああ……時折トレーニングの手伝いもしてくれて……その時に見られたんだろ」

「昨日と同じなら昼間だよな?」

「夜遅くまでやってないからなあのジム。今にして思うと夏にも長袖でいたのはそういう……」

 

 吸血鬼は日光に弱いと思っていたが、服装さえ気をつければ死ぬことはないようだ。

 だが、どんな理由でわざわざ苦手なものを浴びることを選ぶのかな。

 気になるな。

 やはり昨日、一緒についていくべきだったか。終わってしまったものは仕方がない。どうにかしてふたりを会わせないと……

 

 これからどうするか思案していると沙原が俺を覗き込んで訊ねる。

「なあ、吼月さ。なんか吸血鬼?に関して妙に詳しいけど、なんなの?」と当然抱くであろう疑問を投げかけてきた。

 

「個人的な境遇で吸血鬼について調べてる」

 

 自分の知的好奇心を満たすためと、カオリという吸血鬼が言った『吸血鬼は危険な存在』という言葉が真実であるかどうか確かめるために。

 沙原は首を捻ってから。

 

「ヴァンパイアハンター……みたいな?」

「俺は違うがこの街にいるらしいぞ」

「いるのか、ヴァンパイアハンター……会ってみたいな」

「遭ったらエマが殺されるかもしれないな」

「それは嫌だ!」

「だったら関わらないことだ」

 

 首を縦に振りながらも否定する。

 俺も一度事務所に押しかけてみたかったから。

 

「さて、俺はゴミを捨ててくる。その間にお前はどうしたいか決めておけ」

「なんで上から目線なんだよ」

「上だからな」

 

 立ち上がった俺は、ちょうど沙原もメロンパンを食い終えたところだったので空になった袋を受け取る。

 そして、折りたたんだ一枚の紙を渡した。

 沙原がその紙を見る。

 

「俺のラインのIDだから、登録しといてくれ。あと、ブラックコーヒーでも買ってくるか?」

「いや、今日はゆっくり寝たいから飲まん」

「そっか。じゃあ待っててくれ」

 

 そうしてゴミ箱がある場所へと歩き始める。

 方針だけ決めて具体的な話は明日にした方がいいだろう。長い間会ってなかったことを考えると連絡手段もほぼないと見て良いだろう。こちらから連絡したとしてもエマが取らないのだろうから。

 

「ハツカに相談……するわけには行かないよな……」

 

 ハツカ–––というよりは吸血鬼全体–––の考え方として、人間は眷属か餌というのが前提にあるのは確かだ。

 なんらかの理由で眷属にしたくない吸血鬼と事情が分からない人間に、ルールを守らせようとするハツカを会わせたりするのは少々危険だ。

 だとしたら、利用すべきはカオリか。

 

「必要な情報をうまく聞き出すしかないよな」

 

 やるしかない。

 会えるかどうか分からないが、(アレ)を餌にすればやってくるかもしれない。

 

 

 

 

「……なんなんだろうな、アイツ」

 

 ぼやきながら沙原奏斗()は受け取ったIDを登録しながら吼月について考える。

 

「境遇で吸血鬼について調べてる、か」

 

 吸血鬼となにかあったのだろうか。

 しかし、ヴァンパイアハンターに会うのはやめておけと忠告してくれるあたり、吸血鬼?に恨みとかがあるわけではない。

 逆に親しげな雰囲気すらあった。

 俺の馬鹿げた話も茶化すことなく聞いてくれた。無礼な奴ではあるけれど、間違いなく良いやつだ。

 そこは信じていいだろう。

 

「俺はどうしたいか」

 

 どうしたい?

 

 本当に吸血鬼なの?

 それとも違う理由があるか?

 なんで何も言わずに居なくなったんだ?

 

 どんどん溢れる疑問は間違いなく俺がエマと逢いたい証拠だった。

 

「会って話さないと」

 

 思い立ったが吉日。

 昨日だって会えたんだ。

 だったらまた会えるという安心感が大きくなる。

 

 吼月と作戦を練ろう!

 

 そう思った時、草木が揺れる。

 

「ん?」

 

 乾いた無色の風が頬を撫でると共に誰かがいた。人気のないこの空間に確かな気配を伴って、その青年は俺の前に姿を現した。

 暗い夜だというのにシルエットも、顔立ちもはハッキリとしている。

 

「やあ」

 

 その人物に見覚えがあった。

 以前から、よく俺の練習を観客席から覗いている青年だった。

 

「沙原……奏斗くん。だね」

「ええ」

 

 面の良い笑顔を浮かべたままコチラに近寄ってくる。

 そして、美青年はこう言った。

 

「俺の名前は岡止(おかとめ)士季(しき)–––––エマの親友だ」



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第三十三夜「望み薄かな」

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「エマの親友……?」

「親友で幼馴染みたいなもの、かな? 昔から親絡みで関わりがあって仲が良かったんだ」

「……彼氏とかではなく、ですか?」

 

 俺の前の現れた青年–––岡止(おかとめ) 士季(しき)は、俺の問いに小さく笑みを浮かべながら首を横に振る。携えている軽くパーマがかかった白い髪が左右に揺れて、赤いメッシュが見え隠れする。

 

「恋人とかそんなんじゃないよ」

 

 その返答を聞いて、俺は胸を撫で下ろしてしまった。

 岡止さんはゆっくりとこちらに近づきながらエマについて口を開く。少し痛んだ橋の床から音が鳴る。それでも岡止さんの声は異音をモノともせず、鋭い矢のようにこちらに飛んでくる。

 

「ここ最近エマの様子がおかしくてね。少しキミに尋ねたいことがあったんだが–––」

「俺に答えられることなんてないですよ。親友さん」

 

 岡止さんとの会話を拒否するように、強い口調で俺は言う。エマの事を知っているということはただの観客ではないといわけだ。

 

「なんだったら俺のほうが知りたいんだ。エマが何を考えているのか」

 

 岡止さんから目を移すことなく、俺はいつでも移動できるように車椅子の向きを変える。

 近づいてくるたびタイヤを後ろに回す。親友だと言うなら普通に話してもいいはずなのに、逃げ腰になっている俺がいる。理由は明白、怖いのだ。

 相手の足が長いため、間隔を保持するのに苦労する。5メートルほどの距離を保ちながら硬直した時間が過ぎていく。

 そう思っていた。

 

「は、え?」

 

 いつのまにか岡止さんが目の前にいた。

 なぜそこにいる? どうやってこの距離を一瞬で詰めた? といった疑問は湧かなかった。

 エマは吸血鬼かもしれない。

 だとしたら、この男も同じく吸血鬼かもしれないんだ。

 吸血鬼とはなんなのか全く分からない俺からしたら不思議ではあるが、不自然ではなかった。

 

「エマのやつ元気がないんだ。自分でも何をしたいのか分からないって感じで、やらなきゃいけないことにも手がついてない。ずっと、頭を抱えるように生きてるんだ」

「……」

 

 俺は息を呑みながらその話を聞く。

 既にタイヤを動かす手は止まっていて、代わりに俺の手は動かない脚を撫でていた。岡止さんは少し汗の滲んだ自らの手でその手を握り、慈愛に満ちた声音で言った。

 

「アイツには元気で居てほしい。だから、キミが必要なんだ」

「俺が……?」

「ああ、頼む」

 

 岡止さんは俺の目線と同じ高さに合わせるため屈んでから、頭を下げた。

 エマの事を案じているとしか思えない態度。心の隅にあったであろう恐怖は霧散し、俺はしっかり首を縦に振った。

 

「分かった……」

 

 俺が。今度(・・)は俺がエマの助けになりたい。

 

「俺もエマには笑顔でいて欲しいから。岡止さんに力を貸します」

 

 そう口にした時、ぎゅっとした温もりと「ありがとう」という呟きが全身に伝わった。

 

「流石はエマが見込んだ眷属()だ」

「……?」

 

 彼の瞳を見ていると、思考がゆっくりになる。視界も朧げになり、徐々に輪郭も曖昧で、形がどんどん崩れていく。

 まるで脳が動くことをやめたような感覚。身体から精神が抜け落ちたような錯覚。

 眠る一瞬前に近い状況だった。

 意識が消えかける。

 と同時に––––

 

 

––––パーン!!

 

 

 乾いた裂帛音が響いた。

 

「は?」

「え?」

 

 聞き間違えようのない銃声に身を震わせた。

 意識が強制的に覚醒させられる。

 俺もそうだが、それ以上に岡止さんが驚愕の表情で後ろを振り返った。腕の力を緩めたため、俺は急いで離脱した。

 そして、岡止さんのさらに奥に立つ人物に目があった。

 

「吼月……」

 

 そこに居たのは吼月だった。

 

「目を離した隙にこうなるとは。さっきの音で誰か来てくれたら嬉しいが……望み薄かな。この静けさだと」

 

 スマホを片手にこちらへやってくる。

 先ほどの銃声は恐らくスマホで開いた動画サイトから取り出したものなのだろう。

 

「お前は……蘿蔔さんと一緒にいた」

「へえ、ハツカのことも知ってるのか。なら、吸血鬼側確定かな」

「ちっ」

「……本当に吸血鬼なのか……?」

 

 静かに吼月を睨みつけているのが彼の背中越しでも分かった。感じたことのない鋭利な視線。これは殺気だろうか。

 それが吼月に突き刺さるが、なにも感じていないのか話を続ける。

 

「アンタ、なにやってんの?」

「俺たちの用事を済ませにきた」

「血でも吸いにきたのか?」

「最初はそのつもりだったが……必要なくなった。で、なんで邪魔したんだよ? お前だって蘿蔔さんの眷属候補なんだから分かってるはずだろ」

 

 俺は目を丸くしながら、その言葉の意味を考える。

 眷属というのはこの場合、人間が吸血鬼に血を吸われた結果、吸血鬼になった者のことを指すのだろう。

 つまり、吼月も吸血鬼になろうとしていることになる。

 そりゃ吸血鬼について詳しそうな訳だ。

 

「分からないな。人間に吸血鬼だと悟られるようなやり方をすること自体」

 

 吼月は怪訝な眼差しを岡止さんに向ける。

 

「問題ねえだろ」

 

 それに対して岡止さんは口端をあげながら、殺気と共に吐き捨てた。

 

「沙原くんには今のまま居られると困るんだから」

 

––––は?

 

 頭の中でその理由を探そうとするが、呆然とした今の俺には考えることすらできなかった。「どういうことか分からないようだね?」と岡止が俺に答えを提示する。

 

「あのガキの言う通り、俺たち吸血鬼は人間にバレることを良しとしない。眷属にするつもりもない人間に悟られる事をするなんて以ての外……だというのに、エマは吸血しにいくだけ行って、眷属にするわけでもなく殺すわけでもなく逃げ去った。情けない……愚か者だよ」

「……吸血鬼にとって人は餌か眷属ってやつか?」

「そうだよ」

 

 餌……つまり、血を吸われるためだけの存在ということ。

 岡止は凄ませていた眼を伏せる。

 

「だから、俺が来た」

 

 エマは吸血鬼としてのルールを破って、俺に正体を悟られてしまった。

 だからこの男は俺の前に現れたんだ。

 

「……」

 

 俺はまたタイヤを後ろに漕いだ。

 直後、風が身体の中をすり抜けたような感覚に襲われる。

 

「逃げんな。キミは男だろ?」

「な、なんで……?」

「動くなよ。俺はただ話したいことがあるだけだからさ」

 

 後ろから声がして、喉元にちくりとした痛みが走る。目だけを動かして首元を見ると、異様に伸びた爪先が俺の首に当たっていた。

 

「話しだって?」

 

 俺はなるべく体を動かさないようにしながら尋ねた。

 

「最初に言ったろ。尋ねたいことがあるって」

「血を吸うのが目的じゃないのか?」

「必要なことではあったからな」

 

 もう逃げようがなくこれから殺されるのか、と俺は喉奥を掴まれるような恐怖に襲われた。

 そこに「エマは望んでない」と吼月が待ったをかけるように言った。

 

「望む望まないじゃないんだよ。ここまで来たら、彼には––––」

「やらせると思うかよ」

 

 吼月が床を強く蹴り抜くと、キィとより大きな甲高い音が鳴る。

 

「バカかお前。人間のくせに無闇に突っかかってくるとか」

 

 当たり前だが岡止は余裕の態度を崩さない。

 吸血鬼と人間。大人と子供。

 それだけで明確な差が生まれるのだから。

 

「それに俺ひとりで来てるなんて言ってないだろ」

 

 その呟きが俺の耳に入った瞬間、吼月の後ろにシルエットが浮かび上がった。

 

「吼月ッ!」

「!!」

 

 俺が叫んだと同時に吼月は前足で急ブレーキをかけると、その脚で飛び上がる。子供の跳躍力とは思えないジャンプで跳ぶと身体を捻り、シルエットの頭部目掛けて、右回し蹴りを振り抜く。

 

「足癖の悪い坊やね」

「ッ!?」

 

 しかし、風を切る音を立てる蹴りは後方に現れた存在の頭へ命中することは無かった。まるでそこには居ない幽霊に攻撃したかのように、脚が通り抜けたのだ。

 

「すり抜けか–––ッ」

「ふっ」

 

 岡止はこうなると分かっていたように鼻を鳴らす。

 悠然と立つ女性はしなやかな腕を伸ばして、宙を漂う脚を掴み取る。そのまま回し蹴りの勢いで背を見せる吼月の襟首を握りと、その背を自身に密着させるようにして捕縛する。

 

「捕まえたわ」

 

 抱きしめられている吼月はなんとか抜け出そうと踠くが、まるで微動だにしていない。

 

「ダメよ、動いちゃ。怪我しちゃうわよ」

「良くやった、午鳥(ごとり)

 

 物腰の柔らかい穏やかな声とは裏腹に冷たく落ち着いた黒い瞳は薄寒さを感じさせる。彼女の物言いはどこか軽薄で、本当にそう思っているのか、いないのか俺には分からない。

 

「邪魔が入らないうちにその子を連れてったら?」

「そうするとしよう」

 

 後ろで見えないが、岡止が俺の車椅子を掴んだことが振動として伝わってくる。

 俺は震えながらどうにかならないものかと吼月を見つめてしまう。歳下である中学生に助けを求めてしまっている現状が酷く情けない。

 

「……」

「思ったより落ち着いてるわね……そっちの方が楽でありがたいけど」

 

 吼月は俺とは違い冷静に辺りの状況を観察しているようだ。

 

「坊やがハーちゃんのお気に入りの子よね」

「ハーちゃん……? ハツカのことか?」

「そう、ハツカだからハーちゃん」

 

 午鳥はおっとりとした優しい顔で吼月に話しかけた。

 

「気になるのよねぇ〜……ハーちゃんを虜にするキミの血。ねえ、一口飲ませてくれないかしら」

「は?」

「ねえ、シっくん。いいわよね」

「好きにしろ」

 

 岡止と午鳥の会話に嫌悪感のようなものを顔に滲ませながら吼月は苛立ちを露わにする。

 

「断る」

「あら、つれないわね。でも私、美味しそうな人間()には目がないのよね」

 

 抵抗できない吼月の左の首筋に午鳥の口が迫る。その光景を見て俺は、これから吸血されるのだと肌レベルで理解する。

 吸血鬼と人間の交わり。

 

「この!!」

 

 血を吸われそうになり初めて吼月が声を荒げた。

 

「いいわよ、もっと懋がいても。嫌々してるのを血を吸われる快感で蕩けさせるのも味になるから」

「だったら–––!」

「いいわ〜……」

 

 嫌がる吼月を見ながら、恍惚とした笑みを浮かべて––––

 

 俺はその時、何故か腕時計に手を伸ばしている吼月を視認した

 

「いただきます」

 

–––– 午鳥は口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「––––!?」

 

 齧り付いたかと思った次の瞬間、午鳥の腕の中から吼月の姿が消え、何かが宙を舞っていた。

 少ししてボタッ、と橋の上に落ちた。

 浮いていたのはなんだったのかと見てみると、それは午鳥の右腕だった。その事実に上ずる悲鳴を漏らした。

 そして、岡止が苦々しく口を溢す。

 

「蘿蔔さん……!!」

 

 新たに現れた第三者が、吼月をその両腕の中で抱えていた。

 

 

 

 俺を掻っ攫うように吹いた突風に気を取られ口を閉じる。

 

「やあ、大丈夫? ショウくん」

「は、ハツカ……?」

 

 抱きかかえた僕に微笑むハツカ。夜空を飛び回る時よりも強く僕を抱えてくれる腕の力にはとてつもない安心感がある。

 こんな状況だが、綺麗な夜空も相まっていつにも増してハツカが美しく見える。

 

「人間のくせに吸血鬼に抵抗しようとした心意気は買ってあげるよ」

「……うん……ありがとう。……」

 

 俺が口にした「ありがとう」はどちらに対するものだったのだろうか。

 ハツカは僕を立たせた後、午鳥を厳しい視線で見据えた。

 

「僕の獲物に手を出すなんてどういう了見かな? 萩凛(しゅり)さん」

「カブラにも言ってあげなさいよ。その言葉」

 

 午鳥は俺の血を吸おうとしたことにも、腕を切り落とされことにも執着せず飄々としている。右上腕の半分から下がなくなった腕を見ても狼狽えることすらない。

 

「池に落ちなくて良かったわ。もし落ちてたら探すのに時間がかかるもの」

 

 断面から血すら滴ることのない不気味な腕を持ち上げると、欠損部に押し付けると腕が繋がり始める。

 凄まじい回復速度だ。

 ……これなら不死身と評されても不思議ではない。

 

「キミたち、自警団だろう?」

 

 腕を断ち切った本人であるハツカはそのことに負い目を感じている様子はなく、口を開くと警告として使う。

 

「立派だけど、その為に僕のモノに手を出すならタダじゃおかないよ」

 

 顔色ひとつ怒気に染まることなく淡々と言い放つハツカ。しかし、言葉の端々に明らかな殺意があることを感じた。

 躾をするときに見せるものとはまた別の意思。完全な敵意だった。

 

「流石ハーちゃん。お姉さん怖くて泣いちゃいそう」

 

 午鳥は泣きマネをしながらハツカの敵意をサラリと受け流す。

「自警団……?」と俺が戸惑いながら問う。

 

「俺や午鳥、それにエマは、所謂『吸血鬼の平穏を護りましょう』という理念で自警団をしている。そのためには、吸血鬼が大勢の人間にバレないようにする必要がある」

「目立ち過ぎると厄介だからね。たとえば……吸血鬼がカラオケ店で壊したドアを秘密裏に修理したり、悪目立ちする吸血鬼を懲らしめたり、とか」

「最近は吸血鬼界隈も物騒でな。何事も早急に手を打つ必要があるんだ」

 

 口ぶりからすると、彼らも鶯アンコの件に携わっているのだろう。

 

「沙原に会いに来たのもそのためか?」

「吸血鬼の存在を知った以上、人間のまま生かしておくわけにはいかない」

「だから……俺を殺しにきた、のか……?」

 

 青白い顔になった沙原が焦点の合わない眼で俺たちを見る。

 吸血鬼の腕とはいえ、それが切り飛ばされた瞬間を目撃したんだ。普通の人ならば恐怖するだろう。

 容易に人体を切断できる存在が自分の狙いに来ている。自身が午鳥のようになっても不思議ではない、と想像してしまったのかもしれない。

 

「安心しろ。俺たちだってそんな無慈悲じゃない」

 

 岡止は口を沙原の耳元に寄せて囁いた。

 

「キミが取れる道はふたつある。ひとつは、このまま死ぬこと。もうひとつは、君が恋してるエマを探して血を吸ってもらうことだ。あぁ一応説明しておくと、恋をしないといけないのはキミの《恋心》が吸血鬼化のトリガーだから。

 眷属を増やすために俺たちは人に恋させる」

「……」

「確認だけど、キミ、今まで血は吸われたことないよね」

 

 沙原はその問いに苦々しく頷く。

 

「なら、決まりだ。キミだって死にたくないだろう?」

「おい、ふざけるな」

 

 話しを聞いているうちに、俺の口は勝手に動き出していた。厳しい視線が自分に移っていることを理解する。

 

「選択肢は3つだろ。人間のままエマやアンタらと過ごすって道が残ってる」

「っ……」

「はぁ……お前なあ……」

 

 俺の提示した道に岡止は頭を掻きながら呆れ果てていた。

 

「お前も吸血鬼(こっち)側なら割り切れよ。それに沙原くんが人間であり続ける理由なんてない」

「は?」

「今の生活を捨てなきゃいけないが……それを差し引いてもメリットが大きい。人間にできて吸血鬼に出来ないことなんて、昼間の陽を浴び続けることと、日中の仕事ぐらいだ。対して変わらない」

 

 十分変わると思う。

 吸血鬼になると価値観すら変化するのだろうか。

 

「それに吸血鬼になれば……この脚も……治る」

「……!」

 

 そこで初めて縮こまっていた沙原がピクリと動いた。

 

「吸血鬼化というのは人から吸血鬼への転生で、肉体も相応のものに生まれ変わる。だから吸血鬼になれば見えなかった眼も治るし、脚だって治って、前みたいに自分の脚で動き回ってバスケだって出来る。怪我をしてもすぐに治るし、病気にも罹らない。人間の頃よりもずっと気楽に暮らせる」

 

 俺は沙原の脚を見る。

 そういえば、この脚はどうして壊れたんだ……?

 

「だったら治して、趣味として楽しくバスケを嗜みながら自分が好きな女と一緒にいた方がずっと良い」

「……」

 

 口を閉ざし続ける沙原の顔は俯いていて伺うことができない。ただ、ズボンをキツく握り締めている。

 岡止は優しい声で沙原に呼びかける。

 

「沙原くん、少し時間をあげよう。俺たちがエマを見つけるまでに、覚悟を決めておいてくれ。くれぐれも探偵の所に駆け込むマネなんてしないでくれよ? 易々殺される俺たちじゃないし、あの探偵が真っ先に殺すとしたら、キミを吸血鬼に出来るエマだろうから」

 

 そして、睨みつけるように俺を見てからハツカに告げる。

 

「蘿蔔さん。その喋りすぎのバカ、ちゃんと躾けておいてくださいよ」

 

「それでは」と岡止が短く別れを告げてから、ふたりは夜空に飛び立った。

 すぐさま俺は沙原に駆け寄った。

 

「おい、沙原。……どうする?」

 

 沙原はそれを無視して車椅子を漕ぎ始め、俺の横を通り過ぎていく。

 

「ひっ」

 

 俺の後に続いていたハツカが視界に入ったのだろうか。沙原はまた悲鳴をあげた。その声はハツカに強く恐怖しているように俺には感じられた。

 

「おい……。っ!」

 

 振り返って沙原を追いかけようとする俺の腕が掴まれる。ハツカがやはり厳しい視線で俺を見つめている。

 

「邪魔だ、ハツ」

 

 カ、と俺が言い切ることはなく、突然意識が闇に沈んでいく。

 

 

 

 

「……ここは」

 

 次に眼を覚ました時、目の前にはいつか見た天井が広がっていた。清潔感のある白い天井、ハツカの寝室だった。

 どうやら、あの橋からここまで連れてこられたみたいだった。

 しかし、どうして俺は気絶した?

 

「目が覚めたかい?」

「ハツカ……」

「まったく、キミというやつは」

 

 ベッドに横になっていた身体を起こすと、壁に背を預けたハツカがいた。

 なぜ邪魔をしたか–––そんな答えが分かりきった質問を投げかけはしなかった。

 俺はすぐにスマホを取り出す。もし、沙原が俺のアドレスを登録してくれていたら連絡自体はできる。返信が来る確率は低いが、それでもかけないよりはマシだ。

 

「人の話はちゃんと聴きなよ」

「なっ」

 

 ハツカは俺が操作していたスマホ取り上げると、冷たい瞳を向けてくる。これも初めてハツカの家に来た時に、西園寺たちが受けていた強烈な雰囲気。

 

「また人助けでもするつもり?」

「……」

「やめておいた方が賢明だよ。吸血鬼を知った以上」

「眷属になるしかない、だろ」

 

 ハツカの言葉を遮って、俺が答える。

 吸血鬼側の意見はコレに尽きる。

 

「分かっているなら、なんでさっき士季くんに食ってかかったのさ。キミだって聞いただろう? 吸血鬼になることにデメリットはあまりないんだよ?」

「らしいな」

「変に人のままで居られる希望を持たせられると困るんだよ。今の僕とキミや七草さんと夜守くんは例外なんだよ」

「俺は俺に不似合いなことはしない。やるべきことは今が教えてくれる。それだけだ」

「自分勝手なこと言ってるの分かってるの? キミが嫌っていたことだろう?」

 

 確かにそうだ。

 自分の感情に折り合いをつけるために、心を快の方に寄せようと自分のことばかりを見ている時のもの。

 

「『人助けだって自分には無意味だし、時間の無駄』。そう打ち明けてくれたのはキミじゃないか」

「ああ。だから、あの時までの俺はなんでもいいから理由を探して、どんな結果でも納得できるようにしていた。でも、今は違うよ」

「……?」

仁湖(ニコ)さんの時と同じさ」

 

 スッと息を吸って、小さく吐く。

 どこか発表会の時、人前に立つ時の緊張感に近い。相手はたった一人だというのに、全校生徒を相手に壇上で話すときよりも胸が高鳴る。

 そして、俺は今の心情をとある存在に見立てて話す。

 

「ある所に、幸せがわからない王者がいます。故にその王者は人を幸せにして、幸せを学んでいます」

「は?」

 

 突然の虚構話(フィクション)にハツカは素っ頓狂な声を溢す。

 

「それと同じだよ。俺は信頼が分からないし、受け付けられない。だから、俺は人の心と信頼を守って……信頼を学ぶ」

 

 自分で言っていて、妙にしっくり来る。とても納得がいく。きっと仁湖さんが苦しさを吐き出した時に、嬉しい、良かったと思えたのはそういうことだろう。

 俺の言葉を聞いて納得してしまったのか、ハツカもなにも言わない。

 

「あの時と同じようで変わってる。けれど、ハツカとはスタンスが違うのは変わらない」

 

 俺はハツカからスマホを奪い返すと、打ち終えていたメッセージを沙原に送信する。

 

「待ちなよ。……次、邪魔したら殺すことになる」

「正しいことだろ? 吸血鬼としては間違ってない」

 

 さも殺せるような物言いを肯定しながら、俺は思わず鼻で笑う。

 

 可能か?–––可能だ。

 できるのか?––––分からない。

 

 だって、彼らは。

 

「そうだ。ひとつだけ聞いて良いか?」

「……なに?」

「さっき、わざわざ午鳥の腕を落としたのは、そうじゃなきゃ俺を助けられなかったから……か?」

 

 ハツカは何も言わなかった。

 吸血鬼側であるハツカの場合、その行為すら付加価値をつけれるように行動していそうなんだ。

 帰ってこない返事をずっと待っていても仕方がない。

 足早に寝室を出ると、ショートカットに切った金髪の女性でハツカの眷属である時葉がこちらに向かってきていた。

 

「あら、吼月くん。ハツカ様いる?」

「ええ、居ますよ」

「そっか。そうだ、久利原さんがキミと話したいって–––」

「すみません、これから用事があるので。それでは!」

 

 俺は沙原を探しに向かった。

 

「……せめて、嘘でも『そうだよ』って言って欲しかったな」

 

 俺は人がいなくなった所で、ふと想いを言葉にしていた。

 

 

 

 

 吼月くんが外へ駆け出していった。

 どんどん足音が遠ざかって、小さくなっていく。

 

「……黙って信じてて欲しかったな」

 

 あの状況で腕を切り落とさずに助けられるほど僕も万能ではない。しかし、事情は離れた所から聞いていたから立場上岡止くんたちに寄っている。肯定することもできない。

 

「高望みがすぎるよ」

 

 僕はそのままベッドに身を投げ出して、部屋の隅に置かれた観葉植物を見つめる。

 流石に吼月くんも相手が吸血鬼と分かっていて、下手な真似はできないだろう。人間が吸血鬼に正攻法で勝つのは一部を除いて難しい。

 

「でも、何しでかすか分からないんだよね……」

 

 少し前までの人助けを使命感でやっていたであろう吼月くんなら言いくるめられた。けれど、明確に求めるものが出来てしまった彼を止めることは出来ない。

 応野くんにズレた答えを返してしまったのは、こうした時に必ず動いてしまうと分かっていたから。

 それに自分を殺すと言われても鼻で笑いながら正しいと肯定した上で動き出すんだ。

 

「なんなんだよ……アイツ……」

 

 どうしようか。眠るには、まだ早い。

 ガチャリ。寝室のドアが開く。

 

「ハツカ様、今日は–––」

 

 やってきたのは時葉だった。ちょうど良い。

 僕は身体を起こしてから、時葉を手招きながら話しかける。

 

「時葉、少し良いかな」

「なんでしょうかハツカ様!」

「頼み事があるんだけど––––」

 

 時葉は嬉しそうに僕の話を聞いてくれるのだった。




よふかしのうたよ、広まれ。

なので、とりあえずこれだけ爆撃しておく。
https://twitter.com/cot_510/status/1659463048778903553?s=46&t=KZ3etvIizK4aUPbdIDnA-Q


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第三十四夜「親(仮)」


 新刊は6月16日頃らしいですね。


 小森の街は夜空を跳んでいたら分かるのだが、光が密集している場所とそうでないところがかなりハッキリとしている。

 未だ人が寝付く時間帯には少し早い深夜前。

 小森団地やオフィス街、居酒屋などがある場所は敷き詰められるように明りが灯っているが、少しそこから外れてしまえばほぼ闇だ。

 理由をひとつ挙げるとしたら、空き家や廃工場があること。

 特に空き家が目立つ。

 昭和30年頃にはブームを起こしていた団地住まいも移ろい、バブルの全盛期による地価高騰や家賃の上昇によって郊外の一戸建ての住居に住もうとする動きが小森でもあった。その時に建てられた住宅や別荘が沢山残っている。それもバブル崩壊によって今では殆ど人はいなくなってしまった。

 もちろん、その中には明かりがついている家もある。作った年代もあってか和風な趣の家が多い–––興味本位で入ってみると畳張りの床が殆ど–––なのと、底地の所有権付きでただ同然から数百万円で購入できることから、最近は外国人が度々購入しに来るそうだ。

 

「って、久利原さんが言ってた」

「あのヒト、仕事柄その手の話に詳しいものね。だから、こんな人気(ヒトケ)のない場所にも詳しいわけね」

 

 岡止士季()の話を聴きながら、コツンと午鳥(ごとり)が空っぽな家が点在する闇の中に降り立った。それに続いて俺も闇に足音を鳴らした。

「なんでわざわざついてきた」と午鳥に尋ねる。

 

「アイツらと先に飲んでても良かったんだぞ」

「良いじゃない、沙原くん捕まえ損ねたんだから」

「別にその為だけに集まったわけじゃないんだが」

 

 元々、沙原くんを連れ出した後、俺たちのグループで策を練るつもりだった。もし、エマが見つからなかった時には他の誰かが彼を眷属にしなければならない。

 そのため、仲間にも集まってもらっていたのだが––––

 

「あのバカ人間め……」

「面白かったわねあの坊や」

「なんも面白くねえだろ」

 

 この辺りにある数少ない街灯が心許ない光で午鳥を照らす。薄く色づく唇を楽しそうに歪めるのを見て、俺は呆れ果てていた。悪い状況になってきているというのに、それも含めて愉快に感じているのがこのヒトだ。

 たく、蘿蔔さんの眷属候補が邪魔さえしなければ事は上手く運んだというのに。

 

「まあ、良いじゃない。探偵に駆け込むようなことはしないだろうから」

「忠告もしたとはいえ、大丈夫だろうか」

「問題ないわよ、まったくシっくんは心配性ね。ハーちゃんのお陰で吸血鬼に対する畏怖とエマちゃんへの憂いがあの子には宿った。落ちた腕も嬉しがってるわ」

「……もしかして、わざと腕を落とさせたのか?」

「まっさかぁ〜、完全に死角だったもの。無理よ。む、り」

 

 落とされた腕を撫でながらのらりと答えを返す午鳥だが、どこまでが本当なのか分からない。

 

「でもまさか、あのハーちゃんが私の腕を落としてくるなんてね。それだけ大事な子なのかしら」

「本田さんみたいな事をするなよ。面倒だから」

「はーい。分かってる」

 

 軽薄な物言いに深く俺はため息をついた。でも確かに蘿蔔さんが派手に力で解決するとは思わなかった。

 自分の眷属候補が他の吸血鬼に狙われたのだから怒るのは当たり前ではあるのだが、蘿蔔さんのイメージに合わなかった。

 俺が思い返していると午鳥が話題を変えた。

 

「それでシっくんの言う情報屋(・・・)さんとはここで待ち合わせなの?」

 

 俺は午鳥の質問にポケットの中に入っていた紙を取り出してから肯首する。その紙は情報の受け渡し場所が書かれたものだった。

 

「期日と場所はあっちが指定してくるからな。……たまに箱の中に情報だけ入れてあったりするけど」

「箱ね。どんな?」

「片手で持てるぐらいの段ボール箱だな」

 

 軽く首を振ってみても辺りにそれらしい箱は置かれていない。午鳥も身体を左右に捻りながら見渡している。

 そんな時、わざとらしく足音が鳴った。

 

「ん?」

 

 存在を知らせる呼び鈴のような足音が闇の中に響いた。

 暫くするとうっすらとシルエットが浮かび上がってきた。俺たちを照らす街灯の光の縁に入らないギリギリの位置で、そのシルエット立ち止まった。

 そのせいで相手の顔までは見ることができない。

 

「貴方が情報屋さん?」

「そうよ」

 

 午鳥が尋ねると情報屋は頭をこくりと動かす。

 彼女の名前は分からない。なので便宜上、情報屋という呼び名で会話をしている。彼女としているのも、シルエットと声での判断でしかない。

 

「そちらの目的は果たせなかったようね」

 

 そう口にするということはこちらの現状も把握しているということだろう。先ほどの現場を見ていたのか、それとも俺たちの会話を聞いていたのか。

 どちらでも構わない。ひとまず要件だけ済ませよう。

 

「エマの居場所は見つかったのか?」

「いいえ。中々うまく逃げ回っているみたいね、彼女」

「……ちっ。情報屋というのに集め方が下手なんだな」

「いえいえ、目の前でエマから逃げられた貴方たちほどでは」

 

 煽り返してくる情報屋の態度に俺は顔を顰めた。この女性はいつからどこまで知っているんだと問いただしたくなる。

 だが、昨日の今日で見つけろというのは酷な話だったかもしれない。

 

「で、殺すの?」

 

 情報屋は淡々と口にする。沙原くんへの対応のことだろう。

 

「……殺すよ。必要なら」

「そう、私には関係ないけれど」

 

 口調そのままに俺の返答に興味なさそうに応えた。

 

「あら」

 

 しばらく目を細めて対峙していると、情報屋の興味が午鳥の殆ど治りかけた右腕に移ったのが雰囲気で察せられた。

 

「どうしたの、その腕?」

「ちょっと腕を切り落とされてね」

「ふぅん」

 

 彼女は簡素に応えて相槌を打つ。考え込むようにして黙り込んだと思ったら、すぐに別の質問をしてきた。

 それも意外なヤツの名前が彼女の口から飛び出したのだ。

 

「吼月ショウがやったの?」

「吼月……?」

「蘿蔔ハツカの新しい眷属候補」

「沙原くんがそんな名前で呼んでたな」

 

 目的に全く関係ないから気に留めていなかったが、あのガキ、そんな名前だったんだな。

 しかし、吼月が沙原くんと遊び出したのは昨日の段階から分かっていたことだが、なぜ午鳥の腕を飛ばしたのがあのガキという発想になる?

 

「あの坊やと会ったことがあるの?」

「あるわ。私的な都合で調べてる」

「私的、ね……けど残念。ワタシの腕を飛ばしたのはその子の親(仮)よ」

 

 午鳥の答えに情報屋は落胆したように、そう、とだけ返事をした。

 

「その子のことで何か変わったことは?」

「随分とご執心のようね。といっても変わったところなんて……」

「やけに足が速いこと、とか?」

「確かに子供なのによく跳ねてたわね。それにハーちゃんに抱かれて喜んでたのと、異様に吸血鬼の匂いが濃いことかしら」

 

 俺たちの話を聞く情報屋は、まるで自分の持ち得る情報と俺たちの体験を照らし合わせているようだった。

 

「あとは俺たちの事情に首を突っ込もうとしてることぐらいか」

「エマの件に?」

「ん? そうだ。沙原くんに人のままでとか抜かしてるバカな子供だ」

「分かったわ。ありがとう」

 

 元々朧げだった輪郭が薄くなっていくのと同時に彼女の気配が遠のいていく。

 

「はい」

「っ。これは」

 

 闇の中から折り畳まれた紙が俺の元に飛び込んでくる。少し驚きながら片手でそれを掴んでみせた。

 

「定期連絡は終わり。今度はその紙に書いてある日に来て。エマの場所はその時には教えてあげるから」

「嘘じゃないだろうな」

「これでも情報屋だもの。相手との信用は守るのがポリシーだわ」

「そうかよ」

 

 だったら、さっさと見つけてこいとは言わなかった。ここで反感を買って情報を貰えなくなっては面倒だからな。

 

「最後に––––」

 

 消えかけた彼女の気配が言葉を残す。

 

「狐に化かされないように気をつけなさい」

 

 私からのささやかなプレゼント。

 そう評して彼女は俺たちに忠告してきたが、全くもって意味が分からない俺たちは首を傾げていた。

 

「どういうことだ?」

「…………さぁ、なにかのヒントかしらね」

「キツネ、ね」

 

 俺は情報屋が残した言葉を理解できずに夜を過ごした。

 

 

 

 

 分かってはいたが市民公園に沙原の姿はなかった。ラインで送ったメッセージも既読にならず、完全に無視されているようだ。

 今は吸血鬼のことなど考えたくない、いや考えられないのだろう。

 俺が血を吸われかけた時に声を荒げなければダメージも減ったかもしれないが……。

 そこで俺は元々の方針にあったカオリの捜索に移った。

 しかし、日の出まで町中を駆け回ったが彼女も見つからない。俺は今は諦めて学校へと向かうしかなかった。

 

「このAOとCOが同じ長さであるため–––」

(ね、眠い……!)

 

 疲労感と睡魔に襲われながら教室の席に着き、授業を受けている。

 数学の教師が黒板に横に寝かせた砂時計のような図形を描いていた。説明も併せて行ってくれているが、今の俺には霞がかって聞こえる。

 今までの夜更かしでは歩くかハツカに連れて行ってもらっていたので疲弊することも少なかったが、今回は走り続けたこともありいつも以上に眠たいのだ。

 

(授業中に居眠りしたいと思ったのは初めてだぜ。……マヒルもこんな感じなのかな……)

 

 眉間を指で摘み、目を細めるながら思う。

 これが最後の授業だ、頑張ろうと意気込んだそのとき教師と目が合った。

 

「吼月くん、答えてくれるかな」

「はい」

 

 タイムラグなく返事をして、黒板の前までやってくる。

 お題は先ほどの図形で辺の長さが等しいことを証明してくれ、とのこと。俺は話に沿って、書き上げ読み上げる。

 

「正解だ。キミはサクッと解いてくれるから助かるよ」

 

 説明を聞いた教師が頷く。

 

「ありがとうございます」

 

 立ち上がってから着席するまでいつも通りの表情でやり通す。

 席に腰を下ろすと、内心ため息を溢した。

 

 そして暫くすると授業も終わり、終業の号令も済んだ後、俺は応野の下に足を運んだ。

 応野はクラス内外の奴らと集まってどこで遊ぶか話しているようで、周りには男子が纏まった数でいた。「よっ、応野」と俺が声をかけると、応野だけでなく他の同級生まで視線を向けてきた。

 

「ちょうど良かった。吼月、一緒にゲーセン行かね?」

「ああ……悪い。今週いっぱい? ぐらいは無理そうだわ」

 

 優先すべきことがあるため応野の申し出を断る。応野は少し残念そうにして、そっかと頷いた。

 

「で、どうしたんだ?」

「確認なんだけどさ、沙原って小森工業生?」

「えっと……そう。そのはず。兄貴の後輩だし」

「サンキュー!」

「あ、ちょっ……」

 

 応野の言葉を聞いて、礼だけ告げて俺は鞄を持って全力で走り始めた。

 腕時計を見ると、今は4時過ぎだ。工業高校なら部活動ないし課題活動ぐらいはしているだろうが、沙原を逃がさないためには急いで突入する必要があるんだ。

 

 

 

 

「またアイツ人助けやってんのかな……」

 

 応野 秀明()は吼月が出ていった教室のドアをぼぅと見つめていた。突然やってきて速攻で居なくなる様は正しく嵐のようだった。

 沙原さんのこと聞いてきたけど……変なことに首突っ込んでなきゃいいけど。吼月なら大丈夫か。

 そんなことを考えていると、俺の机に尻を乗せているデコを広く出した男友達–––ではあるはず–––の皆川(みながわ)が話しかけてきた。

 

「なんで吼月のやつ誘ったんだよ?」

「え、なんでって……この間遊んだ時も楽しかったし、アイツも誘ってくれって言ってくれたし」

「お前ら、そんな遊ぶような関係だっけ?」

「ちょっとな」

 

 アレも俺から誘ったものの、理由が告白騒動の引け目だったので濁した言い方になってしまう。

 そこから話が吼月のことに逸れていく。

 

「吼月なら誘っていいんじゃないか?」

「やめとこうぜ。アイツが絶対勝つじゃん。……ガンゲーやらせるか」

「鉄拳ならなんとか」

「吼月が来るならチーム戦だと引き込んだもん勝ちってことだしな」

「賭けとかやるんだったら同じチームになりたいよなぁ〜……誰かさんみたいにズルしようとかしないし」

「うるせぇ〜〜! あの時は手が滑っただけだよ!」

 

 勝手な印象で俺たちは吼月について有る事無い事言いやっていく。吼月の話は割と男女関係なく盛り上がる。男子からはなにをやらせたらどこまで出来るのだろうと、女子からは容姿も整っていて性格も悪くないので恋バナ的にも話がいく。家庭科の授業で家事もひと通りできるのは分かっているので、普通に優良物件だ。

 けれども、倉賀野の存在によって実際に告白まで行く者は誰も居ない。

 それにどちらかというと、吼月は外から見ていたいタイプだから。

 

「ま、少なくともマヒルよりは良いわな」

 

 すると、皆川が突然そう言った。コイツの言葉に俺はまだ根に持っているのか、と頭を抑えたくなる。

 皆川はマヒルに対して、ちょっとした恨みのようなものがある。

 恨みといっても完全な逆恨み。

 

「マヒルみたいに嘘ついてまで人気者になるやつじゃないしな」と皆川の隣にいた真鍋が口を合わせる。

 

「アレがアイツの素なんだろうな。じゃなかったらあんな人助けとかしないだろ、普通。マヒルとは元が違う」

 

 マヒルへ対する棘。

 皆川と真鍋は、マヒルから直接『一緒にいて楽しくない』と言われたそうだ。

 それ以来、コイツらのマヒル嫌いは著しい。それはふたりだけではなく、他にもいるため、この話が火蓋となって吼月を使ってにマヒルに対する愚痴が始まった。

 

「マヒルのカッコつけしいも大概にしろってんだよな」

「必死に人気者やってたと思うと笑えてくるよな」

「そうそう。馬鹿みたい」

 

 俺はそうだなと喋るが、さっきより周りに見苦しい雰囲気が流れていた。基本的にみんな、こうした奴らの態度には辟易しているのだ。

 しかし、口だけは同じにする。

 

「今度、小野ちゃんたちと遊ぶ時にマハルの代わりに誘ってみるか」

「いいかもな!」

「……そうだな」

 

 そこで一度会話を終わらせて、机から腰を上げる。他の面々も話しを途切らせて荷物を持つ。

 そうして、俺たちは教室をあとにした。

 

「この間さぁ、夜に理世っち見てさ–––」




※ハツカ様の眷属のひとりの名前と職種が判明したそうです。
そのため、西園寺から久利原に変更になりました。


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第三十五夜「けっこう日が経ってんな」

 目の前には俺が通う小森第二中のモノよりも年季が入った校舎がある。その学校の正門から下校を始める生徒たちが、三々五々散っていく。

 正門には『小森工業高等学校』という表札が出ている。睡魔に襲われる体にムチを打ち、超速攻でここまで足を運んだのだ。

 ここへ来る途中に平田ニコに連絡しようかと考えた。

 しかし、教師として生徒の個人情報を教えるはずがないし、ハツカと同じ理由で彼女は使えない。アドレスを貰った意味が無かったな、とぼやくより先にまた生徒たちが校門を通り過ぎていく。

 

「なあ、少し良いか」

「え?」

「第二中の子? 知り合い?」

「いいや。違うけど」

 

 俺のそばを通った生徒たちに話しかける。

 この時期に高校へ中学生がやってくるのは珍しいのだろう。彼らは奇異の目線を俺に浴びせてくる。

 

「この学校の2年生に、沙原奏斗という学生がいると思うんだ。俺はその男に会わないといけないんだ!」

 

 俺が少し切羽詰まった口調で言い寄ってみると、生徒たちは数歩下がりながら互いに認識を確かめ合う。

 

「……沙原…………」

「アレじゃね? バスケが上手かった」

「あれか。デザイン科にいる車椅子の」

「そうそう。バスケ部やめて、今はパソコン部やってる」

「知ってるんだな。そのパソコン部ってどこにあるんだ?」

 

 彼らの話に、いやバスケは今もめちゃ上手いだろ……と野暮なツッコミを入れかけたが本筋を守る。

 俺が訊ねると、生徒たちは流されるままパソコン部のある教室の場所を、彼らが持っていた地図の写真で教えてくれた。その写真を俺は自分のスマホで撮って、礼を言う。

 

「ありがとう!」

「お、おう。頑張れよ〜」

 

 そうして俺は正門を潜った。近くにあった昇降口に入ると、カバンの中に詰めていた上履きを取り出して校舎を歩き始める。

 パソコン部の部屋は一番北の校舎の3階にある。

 

「こんにちは」

「……こんにちは」

 

 目的の場所までの道すがらに出会う生徒たちにも挨拶していく。すれ違う人たちは一様に「え? なにコイツ?」という反応を示すのだが、教師の下に連れて行こうとする人は現れない。

 事なかれ主義という奴だろうか?

 どうせ沙原に声をかけたあと摘み出されるのは目に見えてるし、こそこそ会いにいくより堂々としておいた方がバレない。

 

「こんにちは」

「こんにちは」

「……?」

 

 今度は教師が反対側からやってきた。

 その立ち姿と気のいい笑顔に見覚えがあり、どこだったか思い出そうとする。白いYシャツの上にネイビーのベストを着たガタイの良い男性––––そうだ。

 

「マスターの弟?」

「ん?」

 

 そう呟くと、通り過ぎていった男性教諭がこちらに振り返ったようだ。俺も男を見直す。再び見えるその顔立ちは、バー《CLEAR(クリア)》を経営しているマスターと瓜二つだった。

 マスターが言っていた弟が勤めている専門学校は、ここのことだったのか。

 俺が脳内で疑問を片付けていると、マスターの弟が翻ってやって来た。

 

「キミ、中学生だよね。なんでここにいるの? てか、龍一のこと知ってるの?」

「とりあえず、一番目だけ答えます」

「? お、おう」

「沙原奏斗に会いに来ました」

 

 俺の目的にマスターの弟は少し顔を歪めていた。

 

「キミ、名前は? 沙原くんとはどんな関係なのかな?」

「俺は吼月ショウ。沙原とは長い付き合いがあるバスケ友達です」

「バスケ友達……。彼はまだバスケをやっているんだね?」

「ええ、昨日もやりには来ました」

「どんな風に?」

「楽しそうに」

「それは本当か? 無理してたりしないか?」

「嘘をつく必要がどこにあるんですか? バスケットボールを触っている時は人生が楽しそうでしたよ」

 

 職質でも受けているかと思わせる剣幕でマスターは質問を繰り返してくる。この人からすると、沙原はバスケをすることが苦痛になっているようだった。それともバスケをやめて欲しいだけか。

 

「それで沙原くんと会って何がしたいのかな?」

「話す、それだけ。だから会わせてください。数分で済みますから」

「……友達なら、任せた方がいいかもな。学校にまで来てくれたってことは彼が抱えてる事情も知ってるのだろうし」

 

 マスターの弟はどこか思うところがあるのか、思慮しながら首を縦に揺らす。まるで気持ちを咀嚼して自分に取り込んでいるようだった。

 彼の反応からして、学校生活でもかなり影響が出ているようだった。

 いや、出ていなければおかしい。

 ……少し前の俺なんかの比ではないくらい、心に影を落としていても不思議ではない。

 

「マスターの弟さん。学校、来てるんですか?」

「琥次郎だ、東根琥次郎。東根先生でいいぞ」

 

 マスターの弟は名を口にしてから、俺の質問を肯定した。

 

「来てるよ。以前は遅刻ギリギリも多かったけど、ここ最近は落ち着いてる。ただ、昨日と今日……特に今日は何かに怯えてるような感じがあってね」

「怯えてるですか。沙原の両親は共働きですか?」

「そうだな。両親とも働いてると去年の面談で聞いた。けど、今の彼のこともあって、母親が早めに上がれる仕事に就いているらしい」

 

 十中八九、恐怖の対象は吸血鬼だ。

 今日学校を休まなかった理由は、家にひとりになってしまえば襲われる確率は高くなるからだろう。無理にでも人混みの中に紛れたほうが、吸血鬼に襲われる心配はなくなる。

 人の中で目立つのを良しとしない彼らなら尚更だ。

 

「裏目に出たかよ……」

「え?」

「東根先生、生徒のこと見てるんですねと思って。さっきの事も相手のことを見ようとしなければ感じもしないですよ」

「そう言ってくれると助かるよ」

 

 肺の中に貯まったただならぬ空気を吐き出す代わりに、東根の追求を躱すことになる。相手が快に感じる方向へ舵を切る。

 

「これでも一応、沙原くんの担任だからね。気には留めてるんだよ」

「そうなんですね」

 

 なに当たり前のことを言ってるんだろうか。

 

「沙原はウチの部活の要だし、なんとかしてやりたいんだけどな」

「だったら話くらい聞いてあげればいいじゃないですか」

「……個人的な話に他人が易々と立ち入れるものじゃないよ」

 

 そんなありふれた傍観の一言を東根が漏らした時には、コンピュータ室と書かれた札が視界の上に現れていた。東根は俺を廊下で待たせ、コンピュータ室の鴨居を背を屈めて潜った。

 

「ちゃんとお前らやってるか?」

「うぃーす、やってるよ先生。もう少しでグラフィック完成」

「音もいい感じ」

 

 グラや音とか言っているが、確かCLEARにあるゲームも東根が作った奴をマスターが貰ったと言っていたので、ゲーム開発の話かもしれない。

 

「沙原、ちょっといいか?」

「え、あ……はい……はぁ……」

 

 元気のない声で東根に返事をするのは沙原だ。氏名が同じの別人ではない。

 しかし、元気は全くなくため息を吐く回数があまりに多い。

 

「お前にお客さんだぞ」

「……? 客?」

 

 それでも来客と聞くと話が変わる。

 神経を研ぎ澄ませた声は敵の攻撃を疑っているものだった。疑われようが別にいい、話さえできればいいのだから。

 

「俺だ、沙原」

「……。……!?」

 

 教室の中を見てみると、パソコンの前で車椅子に座りながらキーボードに手をやっている沙原がいた。沙原も俺が来たということを認めると、視線を宙に彷徨わせる。

 

「来い」

 

 車椅子を漕ぎ始めると、俺の手を無理やり掴んでコンピュータ室から出ていく。抵抗することなく身を任せていると、ふたりで別の教室へ入った。

 

 

 

 

 俺たちふたりは近くの空き教室に入った。

 

「高校の教室って中学校とあんまり変わんないんですね」

 

 机や椅子は後ろに固めて置かれており、床も少し埃っぽく使われている様子はない。吼月に言われて思い返すが、使われている備品や間取りなどは俺が通っていた中学校の教室とあまり大差ない。

 まあ、公立だしな。

 タイヤが回るとそれに応じて埃が舞う。

 

「敬語はやめろ。気持ち悪い」

「そう? じゃあ、言葉に甘えて」

 

 吼月の敬語には薄気味悪さがある。コイツが敬語の使い分けをしていることを自分が知っているからかもしれない。

「……どうしてお前がここにいるんだよ? 不法侵入だろ」と問いただす。

 吼月は、教師は了承してるから問題ないだろと答えた。

 ちゃんと追い返せよ、仕事しろよ教師。

 

「なんで来たんだよ」

 

 吸血鬼のことだろう。そう思うと目の前の吼月の顔を見れず、心を蝕む淀んだ想いが身体中に広がるような不快感が生まれる。

 

「もう答えは決まってるだろ。吸血鬼になる」

 

 俺は吸血鬼になるしかない。だから、笑って誤魔化すのだ。

 

「この不自由な脚も吸血鬼になれば治るみたいだしな! 悪いことじゃねえよ!」

「違う。それはまた今度。今日はエマのことだよ」

「っ」

 

 想い人の名を告げられると、俺は思い出したくないように暗い顔を顰めた。

 

「アイツがどうしたんだよ……」

「沙原とエマの馴れ初め? 出会い? のこと俺は知らないからな。聞きたくてやって来た」

「お前が話してなんになるんだよ」

「未来が変わる」

 

 彼は臆面もなく、はっきりと断じた。

 

「なにが変わるんだよ」

「道の豊かさだよ」

 

 判で捺したようなその答えに、俺は内心でため息をつきたくなる。行き着く先は変わらない。俺はエマの眷属になって、吸血鬼として暮らしていくんだ。

 だというのに、優しく微笑む吼月は自分の言葉を信じて疑っていない。気が付けば自然と吼月を見上げていた。

 

「無理に決まってるだろ」

「なら、話してくれるよな。結局変わらないなら、話してもいいってことだし」

「話さないと帰るつもりないだろ」

「正解だ」

 

 その笑顔には、なぜかエマの面影があった。

 

「……聞いたら帰れよ」

「大丈夫。だから、聞かせてくれ」

 

 喋り出す俺の口はおもかった。

 

 

 一年前まで俺は普通の高校生だった。

 学校に通って、好きなバスケをして、趣味のプログラムや3Dプリンタでの作成をしたりしていた。やっぱり比重は勉強よりもバスケの方が多い。部活動もあって土日に練習するなんてこともザラだった。

 それでも苦ではなかったんだ。

 好きなことだし、中学校の頃からメキメキ成長して自分に実力がついていたのが分かったから。

 なにより夢がある。

 父親が大のバスケ好きなのもあって俺も幼い頃からバスケの試合を観ることが多くて、実際に大きな会場まで足を運ぶこともあった。

 俺が本当の意味でバスケに見惚れたのはその時だと思う。

 平面的でなく立体的に大きく躍動する選手たちが俺が一番だと主張するように活躍している。生で見たダンクはちょっと怖かったけどカッコよくて俺の心を掴んで、放った瞬間周りがシンと静かになるような3ポイントシュートも俺を虜にした。

 もっと面白かったのが、片方のチームがポンポンと点を稼いでいたのが急に止むと今度はもう片方のチームの得点ラッシュが始まった。子供ながらに父親が言っていた『流れが変わる』瞬間というものを味わった。

 

「俺もやりたい……!」

 

 そこから俺は父親に頼んでクラブチームに入れてもらった。

 

「俺、将来バスケ選手になれるかな」

「ああ、なれるとも。奏斗が頑張れっていればな」

 

 父親は俺の夢を聞いて、笑って頷いた。

 それから時は流れて、中学生になり、高校生になった。

 部活動で友達と会える奴らも結構出来た。

 その中でも歳の差を越えて仲良くしてくれたのが応野先輩と東代先輩。他の部員–––同級生には既に幽霊な奴もいる–––とは違い、バスケが大好きなのようで、教師に許可を取っては一緒に残って練習をした。特に東代先輩に関しては市民公園の体育館を借りてバスケをしていた。俺も時折、便乗させてもらったことがあった。

 

「ほっと、お前バスケ上手いよな」

「身体の使い方が良いのかね」

「一番は眼な気がするな。コイツの場合」

「そりゃ俺はバスケの神に愛されていますから」

「自信満々だな。その調子で頼むぞ」

 

 その日も、学校の体育館に残って練習してた応野先輩や東代先輩に俺は自信満々に返した。

 自惚れだが、バスケに関してはマジで天才だと思った。

 夏には一年生ながらに三年の先輩たちと大会に出てかなり良いところまで行ったし、敵も俺を一番マークしてくれてた。

 自分の実力が認められているようで快いものがある。

 嬉しかったのはスカウトの話が来た時だ。大会を偶々見に来ていた選手の目に止まったらしいとの事。

 俺はすぐに返事を出すことはしなかった。

 まだ後2年近くあるのだから、より強くなった俺をスカウトしてもらえると思った。というか高校一年の段階でどこに行くか決めるなんて正直早いしな。

 2年後には更に大きなチームから声をかけられているかもしれない。

 

「沙原」

「? どうしたんですか、監督」

「冬の大会も出てもらう」

「……はい!」

 

 冬の大会にも出させてもらえることが決まって俺は心が踊った。

 大きな舞台でバスケがまた出来るのだから。

 

 

 

 

 

 だけど、現実は理不尽だった。

 

 

 

 

 とある月曜日。

 日曜日にも練習試合があり、月曜日の部活動が休みになっていた時のことだった。

 俺の家は学校から少し離れた場所にあるから自転車で登下校していた。

 青空から射す乾いた太陽の光を受けながら、信号が青になったので漕ぎ始める。

 その時だった。

 

「は?」

 

 視界の端に大きな鉄の塊が映った直後、身体に強い衝撃が走って俺の意識は暗転した。

 

 次に視界が開けた時には、汚れひとつない真っ白な天井が映っていた。なにかに寝そべっていた。

 どうしてそんなところにいるのは分からなかったが、ひとまず身体を起こそうと床に手をつくと横になっていたのはベッドだと理解した。軋む身体だけが記憶の連続性を訴えかえてくる。

 

「あ」

「えっと……」

 

 上半身を起こすと、初めに目があったのはナース姿のふたりの女性。その時点で俺はここが病院だと知って、薬品の匂いが鼻についた。

 

「せ、先生呼んできて!!」

「はい!」

 

 慌てたようにひとりの看護師さんがベッドの周りを囲っていたカーテンを開けて、病室から出ていった。

 暫くして看護師さんが複数の足音を伴って戻ってきた。ひとりは一緒に白衣を着た男性––––八雲先生だ––––で、もうひとりは俺の母親だった。

 

「奏斗!!」

「母さん……?」

 

 病室に入るなり突然抱きしめてくる母親に困惑した。数分間抱擁を受け止めていると八雲先生が俺たちに声をかけた。

 

「沙原奏斗くん。これから検査を行います」

「検査ですか?」

 

 俺の質問に八雲先生はゆっくりと頷いた。

 先生に従うため俺はベッドから脚を出そうとして––––

 

「……あれ?」

 

 動かなかった。

 

 車椅子が用意され、それに乗って俺は検査をした。

 具体的にどんなことをしたかまでは覚えていないが、脚や腰の辺りを重点的に見られたのは覚えている。

 そして、時間が経って別の部屋に移動した。そこには俺と母さん、八雲先生に加えて仕事場から駆けつけた父さんがいた。

 

「簡潔にお伝え致します。……奏斗くんの脚は動かない」

 

 ドクターチェアに腰をかける八雲先生が神妙な面持ちで口にする。

 足腰の神経がイカれたとか言っていたが、この時の説明は断片的にしか覚えていないし文として繋がらなかった。

 そこから父さんや母さんとの答弁が始まった。「本当に治らないのか」「リハビリでなんとかならないのか」「せめて歩く事ぐらいは」など、ふたりに責めたてられる八雲先生。

 ふたりの詰問に対してしっかりと答えを返していた様子なのだが、俺にはその会話は遠かった。まだ意識は保っていた。

 しかし、次に八雲先生が紡いだ言葉が俺の心臓を引きちぎった。

 

「もうバスケをする事は出来ないでしょう……」

 

 その瞬間、俺の世界から色が消えた。

 

 

 

 

 それから数日だったか、数週間だったか、数ヶ月だったかが経った。

 俺の身に起こったことを話すと、どうやら車に撥ねられて脚が動かなくなったらしい。

 

 

 相手が俺を轢いたのは脇見運転だったとのこと––––

 

 退院前、一度だけ謝罪しに来た。

 やって来たのは老婆だった。

 ぶん殴ってやろうと、いや本音を言ったら殺してやろうと思った。けれどもその分は母さんが……それ以上に父さんがぶつけてくれた。『お前のせいで奏斗は夢を失ったんだ』と。

 そこで初めて俺はバスケが出来なくなったんだと自覚した。

 責め立てるふたり(・・・)にただひたすら頭を下げる老婆は譫言のように「申し訳ございません」と口にするばかり。

 

「もう良いよ、父さん」

「奏斗……」

 

 そんな場面を見て俺は最早どうでも良くなったかのように、ふたりを制止した。

 

「責めたって、もう……どうにもならないんだから……」

 

 ふたりが老婆を責め立てる様は見ていて良いものでは無かった。

 なによりもう俺の脚は動かない。このババアを殺して治るのであればいいがそうではない。

 文句なんて言っても全部無駄なんだ。

 

 

 その日以来、時間の経過というものが俺にはなくなった。

 母さんに学校まで送ってもらい、テキトーに授業をして……部活には行っていなかった。脚が動かなくなってバスケが出来なくなった俺は監督と話し合い–––ほぼ決定事項だったが–––パソコン部に移動することになった。

 

「聞きました? 沙原のやつ事故ってバスケ出来なくなったらしいですよ」

「らしいな! いい気味だぜ全く!」

「調子乗ってるからバチが当たるんだよな」

 

 一度、ふらりと部活に顔を出しに行こうとした日に、体育館からそんか声が聞こえた。同級生と三年生か二年生がそんな事を話していた。

 俺はなんでそんな風に言われないといけないんだよ。

 

「……なんでだよ…………」

 

 俺が悪いことしたのか?

 そんな笑われるようなことをしたのか?

 なんなんだよお前らは……?

 

「お前たちなにサボってるんだ!! また外周行ってこい!!」

 

 ウゲぇ……と声を漏らす部活の面子から逃げるように俺はその場を離れた。

 逃げるように母さんが校門前に停めた車に乗って、言葉を交わすことなく帰宅する。

 事故によって変わったのはなにも学校生活だけではない。家庭環境だってそうだ。

 

「奏斗、今日の学校はどうだった?」

「……普通だよ、普通」

「そうか」

 

 俺のことを気にしてかけて父さんは仕事を早く切り上げるようになっていた。

 それ以上に父さんが変わってしまったことがある。

 

「父さん、バスケの試合……最近見に行ってないけどどうしたの?」

「あ、いや……あはは、土日も仕事で忙しくてな。そんな時間は中々取れないんだ」

「……そっか」

 

 曖昧に笑う父さんの分かりやすい嘘だった。

 俺が事故にあってから父さんはバスケに関するもの全てを捨てた。多分、バスケが出来なくなった俺に気を遣ってバスケにまつわるものを遠ざけたのだ。

 口にすることもなくなっていた。

 きっと俺は父さんのバスケへの熱すら奪ってしまったんだ。そう思うと辛い気持ちで一杯だった。

 母さんも口にはしないがそう思っていたに違いない。

 俺は張り裂けそうな想いを抱えながら、誰にも吐き出せない。学校にも家にも居場所を見出せなくなりつつあった。

 

「……」

 

 学校には居たくない。でも、家にも居ずらい。

 そうした結果、俺はひとりで外出することが増えた。別にどこか目的があるわけではない。ただの散歩で、夜の街をぶらついていた。

 真っ黒な空を見上げながら車椅子を漕ぐ。

 すると、とある場所が目についた。

 

「……最近、来てなかったな」

 

 そこは家の傍にあるこぢんまりとした広場だが、その横にひとつだけバスケットコートが作られている。

 小さい頃はここでもバスケをしていた。

 俺は無意識に車椅子を進め、広場の横を通り過ぎていく。バスケットコートの近くにまでやって来ると、なにかが弾む音と失敗に呻く声が聞こえてきた。

 

「もう一回!」

 

 コートを囲む金網の中で、一人の少女がバスケットボールを頭上で構える。そして、力いっぱい放った。

 ガコンとボールがリングに弾かれる音がした。

「やばっ」と不注意を示す言葉と同じ方向からやってきたのはオレンジ色のバスケットボール。弾む力が無くなると、バスケットコートの出入り口へコロコロと転がって、俺の車椅子にぶつかって来た。

 俺はバスケットボールを拾い上げた。

 

「……バスケットボール」

「すみません!」

 

 溌剌とした女性の声が飛んでくる。

 その声にハッと我に帰る。少しの間だが、気を取られてしまうほどボールを見つめていまっていたようだ。

 バスケットボールが転がってきたその声の持ち主も追いかけるように出て来る。

 

「あ……」

 

 駆け寄る女性はゆっくりと動きを鈍らせた。

 

「めちゃバスケが上手い子」

「はぁ……?」

 

 キョトンとした顔が俺に向けられている。買い揃えたばかりの綺麗なバスケットシューズを履いて両脚で地面を踏み締める女の子。

 俺はこの女子と知り合いではないし、相手も『バスケが上手かった人』って認識だから市民公園の体育館でやった試合を見ていたのかもしれない。

 

「あの、バスケットボール」

「そ、そうだね。ちょうだい」

「よっ。……やべ」

 

 俺はバスケットボールを片手を使って投げ渡した。そのボールはかなりの速度で飛んでいく。車椅子に乗った状態で投げるのは初めてだったので、勢いをつけすぎてしまった。

 

「おっとと……ありがと」

 

 しかし、女子はそのボールを易々と片手で受け止めてしまった。

 仮にも男の力で投げたというのに凄いなと関心しながらも、前ならもっと上手く渡せたのにと思う自分がいた。

 そんな自虐思考を脳の隅に追いやって、俺は女子を見る。彼女はコートの中に入り、フリースローラインに立って再びボールを構えた。

 

「もう一回……よっと、っ!」

 

 放ったボールは放物線を描いてリングへと吸い寄せられる。軽い金属音を鳴らしてボールがリングの中に入った。

 少女はグッと拳を握ってガッツポーズを決めた。

 

「キミってさ、たまに市民公園でバスケやってた子だよね」

「え? ああ……まあ、そうだな。部活の試合もあそこで開かれることが多いし」

「小森の生徒だよね。最近、見なかったから心配してたんだ。……本当に脚悪くしちゃっただなんて思いもしなかったけど」

 

 ゴールの下までボールを拾いに行った女子はとても残念そうな声で自身の意を伝えてくる。

 

「ねえ、バスケやりに来ないってことは、もう辞めちゃうの?」

「やめるもなにも、この脚だと出来ないだろ、無理なんだよ」

「そうかな? 脚が悪いだけ、だよね。まだ」

「っ……! その脚が……」

 

 重要なんだろうが。

 シュートを入れるためには腕の力だけではダメで、脚の力だって大切だ。相手の攻撃を止めるためには張り付くようにマークしないといけない。

 

「にゃはは言い方が悪かったね。じゃあさ、シュート打ってみてよ」

「は?」

「良いから良いから!」

「なんだお前……!?」

 

 車椅子を押される形で俺はコートの中に入れられ、先ほどまで女子が立っていたラインの前まで移動する。女子は「はい」と可愛らしくバスケットボールを目の前に突き出される。

 意図はわからないが、俺はそのボールを受け取った。

 

「ここから打てって……?」

「そうだよ。バスケの神に愛されてるんでしょ? なら決めてみせてよ」

「おま、なんでそのこと!」

「はやくぅ〜〜」

 

 俺を急かす少女は楽しそうに微笑んでいる。今か今かと俺のシュートを待つ屈託のない笑顔を見て、思わず顔を逸らした。

 彼女の笑顔に耐性のない俺は照れてしまったのだ。

 

「決めればいいんだよな」

 

 彼女を見ずに確認を取る。なんとなく頷かれた気がした。

 全くもって意味がわからない。しかし、俺は手に持ったボールの感触が久々で、懐かしくて、とても胸が高鳴っていたのは確かだった。

 

「ふぅ……」

 

 深呼吸をしてからボールを額の前で構えて––––放つ。いつもとは違う自分とリングとの高低差を考えて、ボールを軌道を想像した角度と威力で解き放ったシュート。

 それは大きな山を描いて、音を立てずにリングに真上から突き刺さった。

 

「……ああぁ」

 

 気持ちいい。

 あたりが静かな夜なのもあって、自分のシュートの正確さがよく分かる。夜風だけが吹く静寂を乱すことなく決まったシュートに彼女も「やっぱり綺麗」と惚けていたのをしっかりと覚えている。

 たった一発のシュートが入る。それだけで胸が躍った。

 少女は立ち上がってボールを取りに向かう。

 

「できたね、バスケ」

 

 彼女はそう言って俺にボールをパスしてきた。ふんわりと飛んでくるそれを両手を使って受け止めた。

 頭の中で今の少女の言葉が反芻する。

 

「……バスケが出来た」

 

 自分の口でも呟く。

 

「うん、出来た。これでも無理って言える?」

「……バスケはできる」

 

 けれども、それだけじゃ俺にとってはマイナスのまま。彼女は俺の後ろ向きな答えに寄り添うように俺の横に腰を下ろした。

 

「キミ何歳?」

「は? ……17、だけど」

「わっかあ〜い!」

「アンタと大差ないと–––」

 

 俺が文句を言おうとした時、笑いながらシッと声を止めさせるジェスチャーをする。女相手に年齢を聞くな、とでも言いたいのだろうか。

 その女は会話の主導権を奪ったまま名乗りだす。

 

「エマ」

「え」

止岐花(トキハ)エマ、私の名前。それでキミは沙原–––名前なんだっけ?」

「……奏斗、奏でるに(マス)って書くやつ」

 

 なるほど、と彼女は大仰に相槌を打った。

 

「奏斗くん。あんまりこの街に慣れてないでしょ」

「は? 生まれてからこのかたずっと小森暮らしだが?」

「と、言う割にはあんまりこの街を見てないよね」

「……?」

 

 彼女の物言いに俺が首を傾げるのは自然だろう。結局、何を言いたいのか分からないのだから。

 

「この街の夜にはキミにとって、ハッピーなことがあるみたいだよ」

 

 どこからか取り出した紙を差し出した。そこに書かれていたのは、俺にとっての大きな希望になったんだ。

 

 

 

 

「それで車椅子バスケのクラブに入った訳か」

「ああ。父さんと母さんにそのことを相談したら久しぶりに笑ってくれたよ。競技用の車椅子も知らないうちに買ってくれてさ」

「愛されてるんだな」

「俺もそう思うよ」

 

 だからこそ、エマには感謝してる。

 エマと出会ってなければ俺は好きなバスケを続けることもなかったし、今も辺りが色褪せたものに見えていたに違いない。

 エマのおかげで今がある。かけがえのない大切なものを取り戻せた。

 いや、それ以上かもしれない。

 

「その日から俺はエマとよく会うようになったんだ。体育館で一緒にバスケをしたり、暇な時には一緒に食べ歩いたりもしたな……本当にあの時は楽しかった。

 突然手を握ってきたりしてからかってりしてきて、俺が照れると面白そうに笑ったりさ。最初は変な奴だなって思ってたけど、会うたびに幸せになるんだ。少しでも話ができたら、ちょっとでも笑顔が見れたら、嬉しかった」

 

 エマから声をかけてくることが多かったけど、連絡先を交換して俺からも話しかけられるようになると自分から誘うことも自然と増えていた。

 初めてメッセージを送ろうと思った時、どんな言葉がいいかどんな雰囲気がいいかなど苦戦した記憶がある。

 けれども––––そう口にするより早く、吼月が「なるほど」と頷いた。

 

「お前が毎日バスケをしてた理由が分かった気がするよ。……ずっと、待ってたんだな」

 

 それを正解としていいのか、俺自身には分からなかった。

 突然現れなくなったエマのことを考えると芽生えてしまう寂しさを紛らわせるために好きなバスケをしていたのか、それともバスケという繋がりを感じていたがために毎日あの場に通っていたのか。

 できれば後者であって欲しい。

 

「なあ、ひとついいか?」

「聞くだけ聞く」

「今でもエマのことは好きか?」

「……うん」

 

 遅れた答えは俺に迷いがあることを示していた。俺の反応を見た吼月は一呼吸置いてから「怖いのか?」と尋ねてきた。

 怖いのか、と訊かれれば間違いなく。

 

「怖いに決まってるだろ」

 

 思い返せばハッキリと昨日のことが瞼の裏に蘇る。

 吸血鬼と目を合わせた途端に薄れゆく自我のことも。楽しそうに人の血を啜ろうとする瞬間も。容易く吸血鬼(ヒト)の腕を切り飛ばせる埒外の力も。血すら流れない人の像をとった別の何かであることも、見たままを思い出せる。

 忘れたくても忘れられない現実。

 

 なによりも、俺が嫌だったのは。

 

「なあ、今度は俺から訊かせてくれよ」

「なんだ」

「お前さは、いつから吸血鬼と一緒に居るんだ?」

「先月の終わりだ」

「けっこう日が経ってんな……ははっ」

 

 だからこそ俺はコイツの考えてることが分からない。

 昨日はあれほど声を荒げていたというのに。

 

––––なんで、お前は平然として居られるんだよ。

 

 さっきまで一瞬たりとも俺から目を逸さなかった吼月が視線を彷徨わせた。

 胸の内に留めておくだけのつもりだった言葉が堪らず溢れていた。

 

「なんでお前あんな奴らと一緒に居られるんだよ!人間なんて簡単に殺したりできるような化け物だぞ!?やろうと思えばそうだお前のヤバい吸血鬼みたいに腕や首を飛ばしてくるかもしれない!!あんな化け物とお前一緒にいるんだろ?怖くないのかよッッ!!アイツらについて調べてるって縁を切るためか!?なあ、昨日の夜、お前俺を追いかけに来なかったよな。なにがあったんだ?お前もなにかされたんじゃないか!?」

 

 怒鳴りつけるように捲し立てる。自覚するともうそこからは流れ出すだけで、押し留めていた感情が決壊したダムのように心の声が止まらない。

 感じたことのない恐怖で胸が締め付けられる。

 

「昨日言ってたよな『どうする』って……あんな奴らが吸血鬼になれって言ってきたら成るしかないだろ。怖えよ」

 

 俺は吸血鬼が恐ろしくて溜まらない。

 こんなこと、吼月にぶち撒けても仕方ないっていうのに。

 しかし、吼月は俺と顔をしっかり見つめて恐怖を受け止める。

 

「怖いよな、あんな力。当然だよ」

 

 目を伏せて呟く吼月は唇をかみしめていた。

 

「……それに価値観が違う」

 

 俺はアイツらがどうして俺を殺しに来なきゃいけないのか全くわからない。

 吸血鬼の平穏のため?

 俺が吸血鬼になにかしたのか?

 ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな。

 

「なんで俺がアイツらのために怖い想いしなきゃならねえんだよ!」

 

 本当に、この世の中は理不尽だ。

 再び痛感した事実に心を抉られた時、

 

「今のアイツらは怖い」

 

 俺の思いを肯定した上で吼月は、でも、と紡ぐ。

 

「沙原が怖いのは本当にそれだけか?」

「……」

「たとえ相手が吸血鬼だったとしても、お前にしてくれたことは変わらない。しかし、内包する意味合いが変われば……見方も変わる」

 

 ゆっくりと語りだす吼月を見て息を呑む。

 

「沙原が本当に怖いのは、漠然とした親切でエマが自分に接してくれていたのではなく、自分を餌として見ていたかもしれないこと、じゃないか?」

「……もし、エマが餌か眷属にするために俺と接していたならアイツは相当悪趣味だよ。お前には分からないだろうけど、絶望を味わってそこからすぐあげられたと思ったらまた落とされるんだからさ」

 

 俺は妬みも込めて吼月を肯定する。

 

「なあ、教えてくれよ。なんでお前は当たり前のように吸血鬼と居られるんだよ。なんで、あんなのを見せられて嬉しそうだったんだよ」

 

 お前だって–––

 

「お前だって、アイツらのモノなんだろ?」

「俺はハツカのものだよ」

 

 瞬きもさせない内に吼月は言い切った。

 怖さなど微塵も感じていないようだ。

 

「でも、アンタと俺は違う。吸血鬼を見ようとした時間が違う、それは俺にも言えることで俺はエマについて全く知らない。だからこそ、俺に分かることがある」

 

 俺の前に屈んで、顔を合わせる。それは昨日の吸血鬼を思わせる構図で、思わず後ろへ下がってしまう。

 吼月はさせまいと俺の手を握ってきた。

 

「沙原はエマを好きだと言える答えを持ってるよ」

 

 俺を労るように、出来る限り優しい声色で吼月はそう言った。

 

「……」

「きっと色々ありすぎて見て見ぬふりをしているだけだ」

 

 俺が見ようとしていないこと。

 

「それじゃあ、俺はこれで」

「お、おい……」

「さっさと認めろよ。なんでエマが血を吸わなかったのか」

 

 それだけ言い残して、軽く手を振って吼月は教室から立ち去った。

 

 

 

 

「東根先生。ありがとうございました」

「沙原くんに何かあったらまた会いに行ってあげてくれ」

「はい。それでは」

 

 沙原と別れた後、俺はパソコン部の部室で東根に頭を下げてから学校を出た。

 校門を通り抜けて人間が通らなさそうな小道に入った直後から心が脱力を求め、俺の思考はそれに従う。

 こんな所なら誰も来やしないだろう。

 俺は外気に晒されてひんやりとしたコンクリートの塀に背中を預けた。力を抜いた瞬間、たまらずため息を吐いた。

 沙原と話し終わってから俺の中にはモヤモヤが生まれていた。

 

「化け物」

 

 思わず抱えた頭の中では沙原の言葉が反芻し、それが心にモヤを作り出していた。

 沙原の言い分は正しい。

 俺からして見ればあの時は助けられたという温かい想いが湧くが、側から見れば常識はずれの力を持った生き物。そんな者たちが従わなければ自分を殺すと言ってくるのだ。怖くて当然だろう。

 吸血鬼としてのルールを守らせたいハツカからしたら、釘を刺すような目的もあったのだろうか。

 彼からは何も言われない。肯定も、否定も。

 

「何か言ってくれよ。そしたらぶっ潰すだけなのに」

 

 俺とハツカの立場が逆で、俺がハツカの血が吸えたらアイツの気持ちが分かるのだろうけど……。

 それは叶わないことで。

 とてももどかしかった。

 

「一度、帰ろう」

 

 風呂に入って飯を食べたらこの染みついたモヤは晴れているだろうか。



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第三十六夜「山の事は樵夫に問え」

 一度帰宅して、食事などの用事を済ませた俺は落ち着くために寝室の扉を開けた。倒れるようにベッドへと飛び込んだ。

 窓の外を見てみるともう黒い傘に空は覆われていた。

 真っ暗だ。何も見えなくてザ・夜って感じ。

 腹も満たされ、徹夜の疲れもあって眠気は凄まじいにも関わらず寝付ける実感が湧いてこない。

 胸の奥でモヤモヤっとした気持ち悪さが根付いている。

 

「やることは変わらない」

 

 こびりつくような沙原の言葉は今はいらない。

 考えるべきなのは他にある。

 

止岐花(ときは)の行方なんて知るわけねえよ」

 

 足で見つけるにしても目星を付けないとダメだ。

 ポケットにしまったスマホを取り出して、地図アプリを起動する。

 可能性があるとしたら、市民公園や沙原と出会った広場、あとは八雲が勤めている病院。この三つは沙原との会話で提示された場所。市民公園はないとして、残りのふたつ。

 このふたつも名前が出た場所でしかない。他にも思い出深い場所はあるだろう。

 

「いるか分からない点は実際に確認してからでいい。逆にアレだな。自警団なら吸血鬼間での情報網は広そうだし、吸血鬼が行かない、行きづらい場所に隠れてる可能性もあるか」

 

 まずバーやカラオケ、映画館がある場所。いわゆるデートスポットや出会い系スポットに分類される箇所は除くべきだろう。

 小森の街にある調べたキーワードにヒットする場所から大雑把に半径100メートル以内にはいないものとして、捜索範囲を絞っていく。少なくともハツカと出向いたことのある場所は消す。もちろん、ハツカと行った高台もだ。あそこはカオリに見られたという実績がある。

 そこから少し離れた住宅地などに潜んでいる可能性の方があるな。山の近くとかにある……。

 

「情報が足りない。マヒルとコウに連絡してみるか」

 

 俺とハツカの状態を悟られないまま知識を得られるかもしれない。

 

「しかし–––」

 

 これだって岡止たちが既に探している可能性がある。相手の規模や思考が読めないと対応のしようがない。

 それに前提で止岐花がこの街にいると仮定しているが、自警団から逃れるために離れてしまっているかもしれない。

 自分で吸血鬼にしなかった女が対象を残したまま出ていくのは考えづらくはあるが。自分が吸血鬼にしなければ罪悪感が芽生えない性格なら、そうとも言えない。

 

「考えても埒が開かないな。……よしっ」

 

 寝そべっていてもどうしようもないなら、動くしかない。

 俺はベッドから起き上がって地図を一瞥してから寝室を出ると、玄関へと向かう。

 行く先は広場。沙原と止岐花が初めて話した場所。

 電話は走りながらすれば良い。行くぞ!と、探す準備を整えた俺は玄関のドアノブへと手をかけて、ガチャリと一気に回して押し開いた。

 

「おおおぉ!?」

 

 俺は走り出そうとした足が失速する。

 驚愕の声が夜に響いた。

 大声だって出るさ。

 なんせ目の前には––––般若の仮面をつけた誰かが立っていたのだから!

 

「いってぇ……」

 

 ぶつからないよう背中へ体重をかけたことで尻もちをついてしまう。ズキンとした痛みを感じた患部を手でさする。

 

「……大丈夫?」

「ああぁ……って、え? その声は」

 

 般若が伸ばしてきた手を掴む。

 手の感触に力加減。それにこの声は間違いない。

 

「お前、カオリか?」

 

 俺を立ち上がらせた般若はこくりと頷いてみせた。

 以前会った時は暗闇でハッキリしなかったが、思いの外背が高い。身の丈としては平田ニコより少し小さいぐらいだろうか。それもナズナさんのようなオーバーサイズのパーカーのフードを被っているため正確ではないだろうが。

 

「なんで般若なんてつけてるんだよ」

「いいでしょ。これが私だもの」

「構わんが次やったらツノ折って福笑いにしてやるからな」

「やったらキミを顔の下地にしてあげる」

 

 結構したんだから、これと仮面を手で庇いながら続けた。

 

「キミ、エマのことに関わってるの?」

「っ……! 止岐花のこと知ってるのか!!」

「声大きいわよ」

「わ、悪い」

 

 隣人たちに気づかれていないか首を動かす。出てくる様子もないため気にされていないようだった。

 改めて俺はカオリに尋ねた。

 

「止岐花の居場所、知らないか?」

「私の忠告忘れたの」

「覚えてるよ」

 

 人前で吸血鬼の力を使えば粛清される。

 カオリと初めて出会った夜に告げられたことだ。

 

「前の件も、今回の件も全て延長線上にある。突き詰めれば吸血鬼の存在を露呈させないためだもの。キミが目指していることは吸血鬼にとっては邪魔なのこと」

「どうでもいい。その問答はもうやった」

 

 吸血鬼側だけの都合など俺の知ったことではない。

 忠告に来てくれたのはありがとうとしておくが、俺にとってはハツカに言われただけで十分だ。

 カオリは諦めるようにため息をついた。

 

「知ってるわよ」

「そうか。さす……え?」

 

 面を食らった。思わぬ返答に暫く瞼をパチパチと動かしている。

 

「ホントに?」

「本当よ。昨日だってここで待ってたのに、夜明けまでに帰ってこないもの」

 

 確かめるようにもう一度尋ねたが、カオリは鬱陶しそうな態度で再びため息を漏らした。

 ため息をつきたいのは俺もだ。

 自宅に直行すれば会えたなんて思うわけがない。そもそもカオリが俺の家を知っていること自体驚きなのだ。

 けれどもそんなこと気にしていられない。

 

「なんだよ。首突っ込ませる気満々じゃねえか」

「キミは訊かなくてもやってくるでしょ」

「知ったようなことを」

 

 面白い。俺のことをさも分かってますというような口ぶり。

 誰に聞いたのかはまた今度教えてもらうとしよう。

 

「行くわよ」

 

 俺は頷いてカオリに抱かれ、夜空に飛び立った。

 

 

 

 

 夜空をハツカ以外と跳ぶことになろうとは思いもやらなかった。

 

「ホントに吸血鬼なんだな」

「疑ってたの?」

「ぼんやりとは信じてたよ。でも、人間から血も吸わないって言うし」

「血液パックを貰ってそれを飲んでるのよ」

「へえ〜〜……ええ?」

 

 どうやって入手してるんだそんなもの……。

 

「夜風に当たるのは頭がスッキリするな」

 

 冷たい風を全身に浴びながら、話を切り替えて街を見下ろす。

 眼下には闇に支配されてた街が広がっていた。所々に光が灯っているのは分かるが、オフィス街のような群れた光ではない点在する個々の光。繋げば星座になりそうだ。

 

「いるか座みたいだな」

「なにやってるのよ……」

 

 光と光を指でなぞるとひし形に尻尾が一本生えたような像が生まれる。

 そんな遊びをしている俺を仮面の奥から呆れた瞳が覗いていた。

 

「エマに会ってどうするつもりなの?」

「話を聞く」

「そう。キミに任せるけど」

「任せろ。会わせてくれるだけでいい」

 

 相手の言葉を聞かなければ大切な土台を作れない。

 だから俺は止岐花に会わなければいけない。

 

「そろそろ降りるわよ」

 

 噴き上げるような風が背中を押す。身体が宙に浮きかけて落ちてしまうのではないかと背筋が凍った。

 ドゴンッと大きな衝撃音を鳴らして俺たちは目的の場所へと辿り着いた。

 

 心の中で下手くそ……!と呟いた。

 

「運んでもらえるだけありがたいと思いなさい」

 

 胸の内で文句をつける俺を睨みつける般若の眼は変わらず怒っている。

 カオリからすれば俺は自分の力で跳べばいいのだ。そうさせないで連れて行ってくれているのだから愚痴を言うのは悪いだろう。

 足をつけた俺の前にあったのは空き家だった。

 小森の街には空き家が多いことは知っていたが、まさかこんな所に住んでいたとは。

 

「ここが止岐花の棲家?」

「違うわ、ここは私が押し込んだだけよ」

「ええ……そうなの」

「だって吸血鬼やたらと大きくて高い場所で暮らすんだもの。こんなところには住まないわよ、人も招けないし」

「家もモテやすい特徴のひとつってか」

 

 思い返せばハツカの家があるマンションも、ナズナさんが借りている雑居ビルも高くて広い場所だった。

 カオリの言葉通り、殆どの吸血鬼がそうした部屋を選んでいるなら習性というべきか。

 

「さあ、入りなさいな」

「お邪魔します」

 

 俺はポツリと建った日本家屋へ足を進める。引き戸を動かして中へ入ると土間があり、そこには女性の物と思われる白いレースアップブーツが置かれていた。

 ひとり、女性が住んでいることは一目瞭然だった。

 奥を見ると通路に光が差し込んでいる。南側へと伸びるそれは月明かりのような自然光ではなく照明によるものだ。

 

「電気通ってるんだ」

「一応ね。電力会社や水道局の知り合いに通してもらってるのよ」

「ほへぇーー……」

 

 色んなところにいるんだな吸血鬼。

 靴を脱いで照明がついている部屋の前までやってくる。部屋の中には丸まったようなひとつの人影がある。

 

––––よし!

 

 思いっきり開いた襖が端に当たって音を鳴らす。

 

「ふええ!?」

 

 突然全開になった襖に銀白色の畳が敷かれた和室にいた女性がビクリと跳ねた。その部屋の中央に置かれたローテーブルに腕を置いていたのを見るに、今までそこで突っ伏していたことが分かる。

 

「…………あ、あれ? キミは」

 

 顔にかかった紫のグラデーションが入った金色の髪をどけて俺を見た。目を丸くして女性は間違いなく日曜日の夜に出会った相手。

 止岐花エマで間違いなかった。

 

「おい、お前から事情を……? お〜い……ええ?」

 

 カオリを呼んでも一向に般若の顔はやって来ない。

 不自然に思って廊下を顔を出すとそこには誰もいなかった。

 

 なんで?

 

 開いた口が塞がらないまま和室に顔を戻すと、止岐花が俺を訝しむ瞳で見つめていた。

 

「とりあえず……座る?」

「……お言葉に甘えて」

「正座じゃなくていいよ、楽に座りなよ。私の家じゃないけど」

 

 ローテーブルを挟んで止岐花の対面に座り、胡座をかく。

 

「紹介されたらしいな」

「場所だけ教えられた形だけどね」

 

 聞くところ日曜日の夜、沙原と別れた後どうするか途方に暮れていたところに女性が現れてここの住所が書かれたメモを渡されたらしい。そしてたどり着いた先にあったのがこの家屋で、昨日から使わせてもらっているらしい。

 その女性とは間違いなくカオリのことなのだが、俺と会った時同様に闇に紛れていたらしく素顔も見ていないし名前も知らないそうだ。

 

「俺もその女にここを教えられた」

 

 わざわざはぐらかす必要はないが、止岐花と俺の情報量の差を考えるとカオリは相手に応じて出している情報に違いがあるようだ。ならば俺もそれに合わせるとしよう。

 

「そっか……そうだ! お茶! 喉乾いたよね!」

「お構いなく」

「いいのいいの!」

 

 止岐花はお茶を淹れるため、和室を出ていく。

 完全に意識を整えるために離れられたな。

 

「お待たせ〜」

 

 少ししてお盆にふたつの湯呑みを乗せて戻ってきた。ひとつずつ俺と自分の前に置くと、畳に腰を下ろした。

 

「ありがとう」

「いえいえ」

 

 目の前に置かれた白い湯気の立つ湯呑みを持って一度口をつける。夜風で冷えた体に暖かくてスッキリした味わいのお茶が染み渡る。

 

「ほうじ茶おいしい」

「ふぅ〜……ふうぅ〜……」

 

 止岐花は手にした湯呑みに息を吹きかける。

 

「……猫舌か?」

「ダメなの」

「いいや。リアルで見るのは初めてだったから」

「そんな珍しいことでもないでしょ」

 

 自分で淹れるんだから冷たいのを持ってくれば良かったのに。

 白い湯気が殆ど昇らなくなるほど冷やした所で止岐花はお茶を飲んだ。

 

「自己紹介がまだだったな。俺は吼月ショウ」

「私の名前は、知ってるんだよね」

「聞いてるよ」

 

 俺が頷くと明るく振る舞っていた彼女の顔に陰が生まれる。

 

「吸血鬼のことも分かってるんだもんね」

「匂いか?」

「うん、初めて会った時に。……ここには士季くんに言われて来たの?」

 

 俺はため息をつく代わりに小さく鼻から息を吐き出した。手に持った湯呑みの湯気が不規則に曲がる。

 あの時、から元気で沙原の元へ向かったのは、俺が岡止から監視として送られた存在だと思っていたからか。

 

「安心しろ、岡止と俺は仲間じゃない。アンタの居場所を知っていたら自分で確保に向かうタイプだろ」

「だったらどうしてここに?」

「それはアンタがよく分かってるだろ」

 

 止岐花は顔を伏せて、言葉が喉に詰まっているかのように喘ぐ。

 今の状況から沙原関連であることを察するのは容易いだろう。

 

「どうしたい?」

「……どう、したいんだろうね」

 

 頑張って絞り出した彼女の声はとても弱々しかった。

 

「アタシは吸血鬼だから奏斗くんを眷属にしないといけない。……でも、したくない」

 

 頭の中に使命感とは別の感情が混ざり合って、自分のやりたいことがはっきりとしない。その中にはきっと、眷属にする、しない以外の想いだって含まれている。

 それこそ、一度は吸血をやめてしまうほどに。

 俺には想像しきれない。

 まず相手の感情を自分の尺度に落とし込もうとすること自体–––

 

「アンタは、バスケをしてる沙原が好きか?」

「好きだよ。あんなに輝いているモノ、見たことなかった。これから先も応援していたい」

「アンタも沙原のシュートを見た時、綺麗だと感じたそうだな。俺も同意だよ」

「奏斗くんのバスケやってる時の所作って激しいんだけど丁寧で、早いはずなのにスローに見えるの。なんていうかな、初めて目を開けた時に見た星空の優しい光みたいな美しさがあるっていうか」

 

 俯いたままだが、それでも口は重たくない。

 この変化はつくづく似ている。

 

「そんなにバスケをしている姿を見たいのなら吸血鬼にすればいいじゃないか。今よりも永遠に見ていられるぞ」

 

 俺の言葉に彼女の晴れた顔が再び曇りだす。

 

「もし、今から沙原に会いに行け、と言ったら立てるか? アンタは」

 

 止岐花は小さく頭を横に振った。

 

「今度会ったらどうなるか、自分でも分からないの」

 

 感情が分からず整理すらままならない岐花。

 それでも、彼女の心の軸の拠り所は大体分かった。

 

「人間と吸血鬼が友達でいるのは異例。普通なら許されないこと」

 

 故に俺はありえる可能性を語ろう。

 

「本当にそうか?」

「……なにが言いたいの」

「俺はとある都合からひとりの吸血鬼と友達をやっている。それに俺の尊敬する男も吸血鬼とは友達だ」

 

 初めて吸血鬼としてハツカと話した時から不思議で不思議でしたかなかったこと。

 

「名目上はあくまで俺やその男を惚れさせるための時間として他の吸血鬼には認められている。だけど、友達は友達だ。それには変わりない。なのに、なぜアンタと沙原はダメなんだ?」

 

 止岐花は喉元に溜まっていた言葉と共に唾を呑み込んだ。

 吸血鬼として立場であるために。

 

「アタシたち吸血鬼は人間にその存在を知られるわけにはいかない。多くの人間にバレれば、対策されて殺されることだってある。だから、アタシたちについて詳しくなりかねない沙原くんは」

「そんな能書はどうでもいい。アンタにとって沙原は『大切なヒトの秘密』を守ることすらできない人間なのか?」

「でもこのままだと奏斗くんも危なく」

「それと友達でいることは無関係だ。沙原の身が危なくなることはまた別で対策を取ればいい。なにより、相手のことを吸血鬼と友達(レッテル)だけで見て魔女狩りじみたことをやっている時点で正常じゃない。そんな悪意に満ちただけ人間こそ殺すべきだ」

 

 怯えるように沙原を吸血鬼にする理由を並び立てる止岐花。

 それが俺には自分の意思から目を背けるための言い訳にしか聞こえなかった。自分の価値観や捉え方が歪んでいるのだろうか。

 止岐花の思いはわからない。

 

「明日には俺の手によって吸血鬼の存在がバレるかもしれない。だというのに彼らはその可能性を放置している。

 だったら、アンタらがその道を歩んだって良いはずだ」

「そんな我儘は許しちゃダメだから」

「大切な相手とそのままの関係じゃダメだなんて、とんだディストピアだったんだな。この世界は」

「アタシだって自警団のひとりなわけでさ」

「自分の立場を理解しているのはいいことだ。けれど、別の吸血鬼が今のアンタと同じような境遇になった時、自警団としての使命感と吸血鬼への奉仕だけで相手を律することができるのか?」

「そ、れは…………」

 

 沙原が吸血鬼になったとして、人間から吸血鬼への生まれ変わり作用による記憶の損失でアイツの悲しい過去が無くなったとしても止岐花はそうは行かない。

 もし、もし……止岐花が心に思っている事が俺と似ているのなら、それは彼女にとっては最悪な顛末だ。

 俺の目の前にいる吸血鬼(ヒト)は浅く呼吸を繰り返す。肩を何度も上下させる。

 

「過去に置いたままの未練はいずれその先にとって正しい生き方を惑わすカスになる。私は出来なかったのだからという行き場のない恨み、お前ばかり都合のいい生き方になるなという妬み。そんなカスを払うにはふたりで乗り超えるしかない」

 

 心を押し殺して生きた道に価値はないのだから。

 

「だったらなによ……!」

「–––––!」

 

 急に伸びて来た手が俺の服の襟を掴む。

 引っ張られて強制的に伸ばされた脚がテーブルにぶつかり、俺の顔は止岐花の真前に来た。

 鋭い瞳に確かに燃えているものがある。

 溜まっていた鬱憤を吐き出すように口を開いた。

 

「さっきから綺麗な言葉ばっかり並び立てて! 自警団や奏斗くんへの想いがアンタなんかに分かるわけない!! ご立派な道徳だけでなんとかなるわけないよ!!」

「なるさ」

「なんでそう言えるのよ!!」

「アンタが願っているから」

 

 きっぱりそう言い切ってみせると、止岐花は信号を体に走らせるのを辞めたように停止してから、馬鹿にするように笑い始めた。

 

「ハハハっ。若気の至りここに極まれり。……とんだ阿呆ね」

 

 襟から離した手は自分の紫がかった金髪に伸びて、指を絡めて弄りだす。

 憂いを浴びた瞳を合わせて拗ねた子供のような弱さを感じさせる。

 

「だったら答えてよ。正しい生き方ってなに? どんなもの?」

「悪意を知り、夢とヒトを見る善意だ」

 

 俺は3つの指を立ててみせる。

 

「正しく生きるためには三つの善意が必要になる。

 相手の心に耳を傾けて隣に立つ優しさ。相手や状況に対して正しい知識を仕入れ吟味して実践し続ける誠実さ。そして、ここだけは譲れないと誇りを持つ自分への正直さ。

 これが未来を正しく生きる方法だ」

 

 数えおろして握った拳を見る。

 それこそが俺の歩んでいきたい道で流儀だ。

 

「キミ……よくエゴイストや偽善者って言われない?」

「あいにく俺にはそんなこと言ってくれる相手はキミが初めてだよ」

「だったらアタシの心にも耳を傾けてみなよ」

「そのためにキミの想いを示してくれ。止岐花エマはどうしたいんだい?」

 

 俺はまだ完璧ではない。

 だから、聞かせてくれ。

 だから、見せてくれ。

 

「言葉でも分からないことがあるのに、口を交わさなかったら余計に拗れるだけだよ」

 

 せめて沙原にだけでも。

 俺の問いに止岐花は再び押し黙る。

 でも、答えを出さないといけない時は迫っている。

 

「今回のようなことはこれからも起こり続ける。親と眷属()としての友人関係ではなく、吸血鬼と人間としての共生関係。それが表面化している今こそが、変えるチャンスだ」

 

 だからこそ、もし、キミが望んでいるなら。

 

「会いに行ってやれよ。アイツは聞きたがってるよ、アンタの真意を」

 

 飲み干した湯呑みを置いて、俺は立ち上がる。

 そして、沙原と同じく俺のアドレスを書かれた紙を渡す。俺と紙の間で視線を動かし続ける止岐花に、俺は意味ありげに笑ってみせる。

 

 

–––––「キミたちが望むなら俺は力を貸す」

 

 

 

 

 音を立てないように引き戸を動かして、この日本家屋を跡にする。

 すると横から声がかかった。

 

「余り進展なかったようだけど」

 

 横にいたのはいつのまにか消えていたカオリだった。

 般若の睨みが俺を射る。

 

「おおっと。外にいるならいるって言いなさいよ」

「見張りぐらい必要でしょ。隠れてるんだもの」

「気を遣ってくれてたのか? ありがとう」

「素直に礼は言えるのね」

「過剰分には礼儀を出すさ。聞きたいんだが、カオリは知ってるのか? 岡止たちがなんで沙原を吸血鬼にするためにあんなに躍起になってるのか」

 

 俺の質問にカオリは迷わず答えた。

 

「吸血鬼が殺される数が増えてるのよ。その影響でしょうね」

(ウグイス)アンコの仕業か?」

「目代キョウコのこと? さぁね、そこまでは。私だって彼女を丸裸に剥いたわけじゃないもの」

「キョウコ……杏子……餡子」

 

 調べたわけじゃないと軽々しく言う割には、相手の本名と思われるモノを口にするあたり恐ろしい諜報力だなと認識せざるおえない。

 

「その女はまだ事務所に?」

「いいえ。もう引き払ってるわ」

「当然か、マヒルやコウが知ってるんだもんな。でも誘い出すことぐらいはできるよな? 吸血鬼の弱点を餌にして」

「……なに? その探偵殺したいの?」

「必要とあらば。俺が言っているのは場所を変えた程度で潰せないモノなのかということだ。自警団なんてものがいるなら、弱点を餌にして誘い出して殺すという策だって行えるはずだ。そうしない理由が分からなくてな」

「万が一殺されたらたまらないでしょ」

「吸血鬼にも名前がバレてないカオリみたいな奴らを奇襲に使えばいいだろ」

 

 カオリの反応を見るに吸血鬼たちは騙し討ちは行っていないようだった。

 相手の手札が分からないとはいえ、やりようは沢山あると思う。

 考え出すと、吸血鬼が鶯アンコのことを知った正確なタイミングが分からない。ひとりの吸血鬼が知ってることを他の誰も知らないなんてあるのか。俺と違って既に行動を二回以上起こしてバレやすい。

 

「……とりあえずは置いておこう」

 

 情報を噛み砕くのを止めた俺にカオリは「それで彼女の説得は失敗したのかしら?」と尋ねる。

 

「問題ないよ」

「あれじゃあ吸血鬼にすることなんて出来ないわよ。キミにとっては良いのかもしれないけど」

「それはカオリの方じゃないのか?」

「……どういうこと」

 

 腕を後ろ手に組みながら俺は星を見上げて歩き出す。

 そんな俺が異様に思えたのだろう。

 カオリが歩幅を合わせて隣にやってくる。

 

「余裕そうね。どうなるか分からないっていうのに」

「俺は行ける気がするけど」

「その根拠はどこから来るのよ」

「態度かな」

 

 吸血鬼を恐れているのに吸血鬼を殺せる探偵について俺に何も聞かない沙原。

 吸血鬼なのに人間を眷属にしようとしない止岐花。

 似たモノ同士かもしれないね、あの子たちは。

 

「でも、これからどうするのよ」

「海の事は舟子(しゅうし)に問え、山の事は樵夫(しょうふ)に問え。昔からの習わしだが、今でも充分通じる言葉だ」

 

 俺は立ち止まって、カオリを見つめた。

 

「手を貸してくれるかな、カオリ」

 

 俺の顔は般若の奥の瞳はどう映ったのだろうか。

 カオリはゆっくりと頷いた。



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第三十七夜「あっちだったよな……」

 16巻を読み出したが、色んなキャラの感情がぐるぐるしてる……
 来月にも新刊出るのメチャクチャ嬉しいですね!


「なんなの、いったい……」

 

 あの吼月ショウと名乗った少年が帰った後、止岐花エマ(アタシ)は奥にある一室に敷かれていた布団を見下ろした。

 敷き布団に横になって膝を抱えながら丸くなる。

 呻き声を押し殺しながら、ひたすら頭の中に蠢く可能性を否定する。

『なぜアンタと沙原はダメなんだ?』

 彼の言葉を聞いた時、一瞬「アタシが聞きたいよ」と言いたくなってしまった。呑み込むことが出来なかったら、さっきよりも吸血鬼としてダメな想いまで吐き出してしまいそうで、怖かった。

 彼と話して分かったことがひとつある。

 アレは無垢な化け物だ。

 何も知らない子供が理想論だけを振りかざして、他者を堕としていく。しかも、その理想論が間違っていないと信じてる。

 

「奏斗くん大丈夫かな……」

 

 もしあの子供の言葉に惑わされて、吸血鬼に歯向かうなんてことを選んだりしたら。

 奏斗くんが傷ついてしまうのではと思うと自分のことのように怖い。

 もし、奏斗くんが吸血鬼(アタシ)達の下に来てくれるなら。

 そんな都合のいい妄想をするけれども、それは奏斗くんに人間としての生活を全て投げ出させること。彼が馳せていた想いも捨ててもらう必要がある。

 それも嫌だった。

 

「なんでこうなっちゃったかな……」

 

 アタシ、なんで奏斗くんと会うようになったんだっけ。

 偶々バスケをしていた時に奏斗くんと出会って、それでよく一緒にいるようになって……その理由は。

 そろそろ1人ぐらい眷属にするため?

 気楽に会える相手が欲しかったから?

 人間だった頃の記憶もある程度覚えているというのに、一年前の想いは思い出せない。

 漠然と、ただ––––

 

「あぁ〜〜〜……!」

 

 堪らず声が漏れ出した。

 ダメなはずなのに少年の言葉はアタシにとっては魅力的で、彼の立場はアタシにとっては許せなくて。

 仕方ないことだと分かっていても、人間のまま吸血鬼と友達でいられるあの子供のことが許せない。

 

「あぁ……ダメだ」

 

 少年の言った通りになっている。

 これから同じ立場の吸血鬼たちが現れたら、アタシは許さないと思ってしまう。嫉妬して、恨んでしまうだろう。

 始まりだって、アタシのせいなのに。

 

 けれども、どうしろと言うんだ。

 奏斗くんはいい子だから吸血鬼の敵にならない。そんな楽観論をいくら優しい士季くんでも認めてくれるはずがない。

 なにより自分が原因なんだから、ケジメをつけないといけない。

 

 奏斗くん、アタシはどうしたらいいの?

 士季くん、アタシはなにをしていいの?

 

『会いに行ってやれよ。沙原(アイツ)は聞きたがってるよ、アンタの真意を』

 

 あの少年の言葉がまた脳内で再生させる。

 アタシは掛け布団を勢いよく被った。

 

「会いに行く……会いにいく……」

 

 真っ暗な布団の中で手にしたスマホの光だけが輝いている。

 連日続いていたメッセージの着信も日曜日を最後に止まっている。

 約一ヶ月ぶりにアタシはラインを開く。きっと見ていけば自分が考えていたことを思い出せる気がしたから。

 

『いまどうしてる? 最近、顔見せてくれないけど、体調でも悪いのか?』

『ねえ、どうしたの?』

『お〜い返事くれよ』

『今日は遊べる?』

 

 今まで貯めていたメッセージをゆっくりと見ていく。

 言葉自体は見たけれど、こうして遡るようにじっくりと彼の言葉を読んでいくのは初めてだ。

 改めてみると不在着信の多さに驚いた。

 

『時間ができたら会いに来てよ。いつもの場所でバスケしてるから』

 

 会いに来て欲しい。

 この言葉を覚えていたから、アタシは市民公園に出向いて奏斗くんと会った。

 けど、逃げた。

 抱きついて、血を吸おうとして、逃げた。

 何も伝えることもせずに。

 

「なにやってんだろ、アタシ……」

 

 一度夢を無理矢理奪われて、また傷つくことになってしまったら。

 それもアタシのせいで。

 嫌だ。

 嫌だ。

 

「違うよね。とっくに」

 

 アタシはとっくに奏斗くんを傷つけている。

 あの時、久しぶりに会った時に吸血鬼であることをしっかりと伝えていたらこんな風に悩まなくても良かったのかもしれない。

 唇に痛みが走る。

 無意識に吸血鬼特有の鋭い犬歯で唇を噛んでいたようだ。

 

『今日も楽しかったね』

『また遊ぼうね』

 

「結構少ない……」

 

 貯まっているのは僅かな量で、数十回スクロールするとそれより前のコメントは出てこなくなった。

 なんでこんなに少ないんだろう。

 アタシは奏斗くんに自分の家を教えたことはなかった。逆に言えばアタシも奏斗くんの家は知らない。市民公園で待ち合わせて、そこからバスケを一緒にしたり食事に行ったりしていたから。

 どこで会うかは決まっていた。

 何をするかはその時ふたりで決めた。

 なにか会った時はいつも食べながら、遊びながら話していた。

 だから特にいつ会うかぐらいで、特にラインで済ませることがなかった。

 確かに、そう考えればこの少なさも納得だ。

 一番上に表示されたコメントを見る。

 驚いたことに一番最初にメッセージを送ったのは奏斗くんからではなくアタシからだった。

 

『今日もシュート綺麗だったよ! ギラギラしててカッコよかった!』

 

 自身の過去の呟きを見て思い出す。

 

「そうだよね。そうだったね……」

 

 アタシが奏斗くんと会えた理由。

 奏斗くんを吸血鬼にしたくなかった理由。

 ただバスケをしているだけじゃなくて、ギラギラしてる奏斗くんが好きなんだ。

 

「アタシが会わなきゃいけない。でも––––」

 

 怖いよ。

 会うのは、いきなり抱きついて、噛みつこうとした相手に会おうなんて彼は思ってくれるだろうか。

 それに士季くんが奏斗くんにあってなにかしているかも知れない。吸血鬼そのものに恐怖を覚えているかもしれない。

 そうなれば吸血鬼にすることはできない。

 アタシがやれることはない。

 

 また逃げてしまう。

 

 スマホの電気を切って枕の傍に置いた。

 夜に寝るなんて人間みたいな事、久しぶりだ。

 

 

 

 

 ここにきて二回目の横臥の姿勢だが、不快でしかない。

 

 

 

 

 

 吼月と話したあとのことは朧げだ。

 部活に戻った記憶もあるけど大して手を動かさなかったから作業はできていない。家に帰った後も吼月に言われたことばかりが頭に渦を巻いている。

 

「奏斗、大丈夫?」

 

 沙原奏斗(自分)の部屋に入る直前、母さんが訊ねてきた。

 

「どうしたの、急に」

「昨日も今日も暗い顔してたから……なにか悩み事でもあるの? お母さんじゃだめなら、お父さんにでも……」

「ううん。ないよ、大丈夫」

「あのね、お父さんが今度の休みにバスケの––––」

「それはいいや。じゃ、おやすみ」

 

 俺は首を横に振って、母さんの返す言葉を聞く前に部屋に入った。明かりをつけずに車椅子から降りて布団に横になる。

 

「ーーーー」

 

 眠れない。夜が怖い。これも全て吸血鬼のせいだ。

 もしかしたら突然家に攻め込まれて殺されるかもしれない。吸血鬼になる気概さえあれば見逃してくれるとは言っていたが、気分が変わって殺されるかもしれない。

 親に相談することすらできないのも心苦しい。

 

––––今のうちに謝っておいた方がいいかな……

 

 さようなら、とだけ告げて離れた方がいいかもしれない。

 いきなり帰ってこなくなったら父さんたち悲しむかな。

 

––––俺が悪いのか? いや、悪くないだろ……?

 

 なんで俺ばっかりこんな目に。

 そう吐き捨てなければやっていられなかった。

 だけどきっと俺だけじゃない。この街にだって俺以外にも吸血鬼になるように迫られている人がいるかもしれない。納得してやり過ごすしかない。

 どうしようもない偶然なんだから、文句を言ったって仕方ないんだ。

 それでも俺だけの偶然がある。

 

『さっさと認めろよ。なんでエマが血を吸わなかったのか』

 

 吸血鬼曰く、人を吸血鬼にするためには、人を惚れさせてから血を吸わないといけないらしい。

 なぜ吸血鬼にすることができたのに血を吸わなかったのか。

 なぜエマは俺に話してくれなかったのか。

 純粋な優しさか、単なる悪意か。

 せめて吸血鬼になるしかないなら、それだけは聞きたい。

 その答えが優しさであってくれたらと願っている。

 接してくれたこと全部が俺を騙すためだったなんて思いたくなかったし、思えなかった。

 

 エマと出会ったことは偶然だ。

 俺がたまたま広場で会って、車椅子バスケの存在を教えてもらって、それからずっと一緒に遊んでいた。

 

 話して、初めから吸血鬼にするつもりでした、ならそれはもう俺が馬鹿だっただけだ。

 

 その時はもう全部諦めよう。

 

 失望するだろうから。

 話を聞くのは最後がいい。

 嫌いになってしまっては吸血鬼になることは出来ない。

 

––––会えるかな……

 

 暗い一室の中で俺はスマホを見つめる。

 電話をかけたら出てくれるだろうか、メッセージをうてば読んでくれるだろうか。

 聞きたいことが沢山ある。

 知りたいことは多いというのに指はスマホの電源ボタンすら押すことができない。

 

『色々ありすぎて見て見ぬふりをしているだけだ』

 

 やらなきゃいけないことだと分かっていても、怖いものは怖いんだ。

 心に楔を打たれたように動けないから指も止まってしまう。

 どうせ見られないんだからと、俺はスマホを布団の外に放り投げた。

 今までも見てくれなかった。

 どうせエマは気づかない。

 

 見てくれない。気づいてくれないなら、どうすればいい……?

 吼月、俺はどうしたらいい?

 

 頭の中が不安と恐怖と疲れでいっぱいになると自然と瞼が下がっていく。

 

 

 

 

「––––仲良さげだと思ったらそんな関係だったんだ」

「だから岡止士季は必死なのよ」

「そういう感情って普通なのか?」

「人間に当てはまれば、そうでしょうね」

 

 カオリの返答に俺は「それはよかった」と呟いた。

 俺とカオリは帰り際に情報を交換していた。交換といっても俺の考えと彼女が持っている知識なためかなり不釣り合いだが。

 

「止岐花と沙原の関係がバレたのはなぜだ? 逐一見張っていたのか?」

「流石にそこまでしないわ。キッカケはそうね、小森第3病院は分かる?」

「いい感じの街病院みたいなところだな」

「……小森第3病院は吸血鬼が運営しててね。自警団はそこと協力しながら人間から血を吸うことに慣れていない新人の吸血鬼に血液パックを配布していたのよ」

「カオリが飲んでる血液パックもその類か。その血、献血時にでも抜いてたのか?」

「残念。採血時よ」

「常習犯……!?」

 

 なんか今日だけでグッと吸血鬼の生活状況についてしれてる気がする。情報源が多い事に越したことはないからいいけど。

 しかし、抜き取った量と違いがあれば問題になりそうなものだ。採血した量は記録されていたかな。

 

「非常用にその採血から抜いた血を自警団の吸血鬼たちは何かしらの形で携帯してることが多い。例えば……あの自警団だと、ススキって吸血鬼の発案で金魚の醤油差しに入れたりね」

「理由は?」

「可愛いし持ち運びやすいし」

「かわいい……かわいいかな……?」

 

–––アレを可愛いと思う着眼点はなかったな……

 

「もちろん血は無限にあるわけじゃないし、非常用の血の量なんて微々たるものよ。使い切ってもすぐにもらえない。

 だけど、それをエマはせがんで余分に非常用の血を受け取っていたのよ」

「話が見えてきたぞ。極少量なのもあって初めはバレなかったが、この一年の間で足がついた?」

 

 俺が言葉の先を予測すると、カオリは首を縦に振って予測を正しいと認めた。

 

「病院から連絡があり、士季たちが調べてみたら昼間に人間と会ってると分かって自警団数名の中でそれが問題になった」

 

 用途はすぐに分かった。沙原がリハビリという名目で利用している病院のジムで、止岐花が一緒にいた話のことだろう。

 陽の光を苦手とする吸血鬼がどうやって長時間活動していたのかわからなかったが、止岐花は非常用の血を吸って体力を回復させてたのだろう。

 

「もし気を失って倒れて、検査のためと肉体を調べられでもしたら、人間とは違う存在がいることが露呈する危険性があった。……飛躍してるかもしれないが、大体こんな感じか?」

「吸血鬼憎しの人間に痕跡を見つけられると厄介だからね。加えて明らかに恋している相手を眷属にせず会い続けてるものだから、反感を買っちゃったのよ」

「そこで士季が止岐花に血を吸うように命令した。発覚から一ヶ月なのか、命令から一ヶ月なのか知らないが、吸血チャレンジしに行ったのがこの間の日曜日」

「失敗から逃走。士季もエマも焦ったでしょうね。まさかこんな事になるなんて」

「…………」

 

 鼻で笑うカオリの話を聞いて、俺はふたりとも今の状況は想定していなかったのだろうと理解した。

 止岐花が【綺麗な言葉】に異様に反応を示した原因は自身の過ち。

 

「いま渡せる情報はこれくらいね。他に聞きたいことある?」

「ならひとつ。岡止たちは最悪沙原を殺すつもりではいるわけだろ?」

「私が聞いた限りではね」

「本当に沙原を殺してしまった時、もしくは障害である探偵を殺したとしてその死体はどうするんだよ。存在がバレたくない吸血鬼にとって自分達が殺した死体なんて目の上のたんこぶだろ」

 

 しかし、カオリは俺の考えを否定する。

 

「危険なのは間違いないわ。けれども、そう簡単にバレはしないわ」

「なんでだ?」

「後処理をやってくれる吸血鬼たちがいるのよ」

「……マジかよ」

「ホントよ。吸血鬼の中には『ヤ』から始まる職についてる者もいるから」

「ヤクザまでいるのか……」

 

 俺が丸っと口にすると横から視線が飛んでくる。わざわざ含みを持たせたのに……という不満の目だ。

 含みを持たせて伝わらなかったら意味がないだろ。伝えたくないのなら別だけど。

 カオリは具体例を挙げるようにひとつの事件を語り始めた。

 

「10年前、この街にとある家族が居たわ。父親に母親、そして1人の娘。当時高校三年生だった。事件の発端が始まる前は仲睦まじい家族だったのだけれど、不幸が重なり父親は吸血鬼になってしまい、母親を吸血して殺害、娘も殺そうとした」

「その吸血鬼はどうなったんだ」

「死んだわ」

「……殺害現場は自宅か? 人間だった頃の」

「吸血鬼を殺せる環境で、母親と高校生の娘が一緒にいるならそれくらいだもの。そして母親は死に、父と娘は行方不明……吸血された母親は不審死として扱われたものの内々に処理されたわ。広まったとしても近所の与太話程度。それもすぐに消えたわ」

「誰かが指示したのか?」

「いいえ。この事件は原因が特別だったから自ら動いてくれる吸血鬼もいたのよ」

 

 この話が事実だと仮定すれば確かに問題はないだろうし、俺の意見に首を横に振っても不自然ではない。

 

「…………あれ」

 

 だとすると、どうしてという疑問が当然生まれる。

 

「? どうかしたの?」

「ああ、いや。気になるんだけどさ、もし、吸血鬼の棲家のそばで人間が自殺したらさ騒ぎが起きるわけじゃん。死んでも死ななくても」

「自殺の名所じゃない限りは騒動になるでしょうね」

「それも隠蔽などはできるものなのか?」

「可能でしょうね」

「このことって吸血鬼なら把握してることか? ハツカとか?」

「なんで名指しなのか分からないけど、蘿蔔ハツカなら知っていそうではあるわね。平田ニコや本田カブラとも親しいし」

「人間が死んでもある程度は対応できるのか」

 

 心の奥のモヤモヤがまた大きくなる。不信感による自己の意思否定が惹起したときとは異なる不快な異物に胸をギュと握りしめる。

 ハツカは知らずに助けた?–––モヤモヤは薄まるが釈然としない自分がいる。

 それとも知っていて助けた?–––モヤモヤは強くなるが安堵する自分がいる。

 

「……」

「どうしたの、さっきから黙りだして」

ハツカ(吸血鬼)って面倒だなと思ってた」

「吸血鬼にも面倒事が多いわ」

 

 そこで一度会話が無くなるとカオリは「それじゃ–––」と言って地面を蹴った。

 

「また明日。みんなが寝った頃に会いにくるわ」

 

 別れの言葉を残してカオリは夜空の中へと消えていった。

 

「俺も帰ろう」

 

 住宅が点在しているここら一帯は街灯が少ない。そんな道を歩くのは星明かりもないから目を瞑っているようなモノだ。もしかしたら目の前に穴があって足を踏み外すのではないかと漠然とした恐怖がある。

 しかし、一歩足を鳴らすたび安心感が恐怖を上回る。

 

「お家、あっちだったかな……」

 

 感情の乱高下も静かで暗いひとりの夜の楽しさだ。

 

 

 

 

 

「帰りも送って欲しかったなッ!!」

 

 心なしか一人である事に感謝しながら俺は闇に溶けていく。



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第三十八夜「うなじ」

 一限目の授業が終わり、生徒たちが教室から流れ出た。移動教室だったので自分たちの教室に戻るためにみんな歩いている。俺もその流れに沿って部屋を後にする。

 廊下を歩き始めるとすぐに横目に綺麗な金色の髪が宙を漂っているのが分かった。

 

「おはよう、ショウ。今日は寝れてそうね」

「おはよう理世」

 

 その腰まで伸びた髪の持ち主は倉賀野 理世である。

 

「今日は2時に寝れたからな」

「それ、ちゃんと寝れたって言うの? てか、なんで?」

「ふむ……山の中に置いてけぼりにされてな」

「可哀想」

「憐れむな」

 

 1年の時からいつの間にか俺の隣にいることがあるんだ。

 去年は同じクラスだったからまだ分かる。今年はクラスだって違う。なぜさも当然のようにここにいるのだろうか。

 そんな疑問を抱いて半年が過ぎ、これが日常になっていた。

 ふたりで並んで歩いていると理世から視線が送られてきているのを感じ取った。

 

「どうした?」

「首の絆創膏、ホントに取ったのね」

「昨日から取ってただろ」

「ここ最近、ずっとしてたじゃない」

「中々深くて傷の治りが遅かったんだよ」

 

 理世から指摘されて一瞬鼓動が強くなってしまうが、口を止めることなく返答する。余計なことは言わずにありのまま。

 すると興味を失ったのか、理世は別の話題を提示してくる。

 今日の予定を立てながらクラスに戻っていると、話を切り替えて、理世はスマホの画面を俺に向けてくる。

 

「せっかくだから人波外れてどこかでゲームしない? なにか観ながら」

「場所一択じゃねえか」

 

 俺はそのスマホを手で押し返した。

 

「悪い。この後、約束あるんだ」

「また(セキ)くんのところ?」

 

 また、と言われるレベルで俺とマヒルは学校内ではよく話すようになっていた。外でもゲームセンターなど相手の都合がつかない時は遊ぶが、基本的には学校で喋ることが殆どだ。

 隣を歩きながら「朝は居なかったけどどうかな? サボりはないと思うけど」と理世が呟いた。

 

「なら昨日みたいに昼放課になにか見る?」

「ふたりのマイティを予習しておきたい」

「予習って……なら私はドンブラのオーディオコメンタリーが見たいわね。けっとうソノ2のやつ、見てないのよね」

「ジャンケンだな」

 

 ふたりで話しながら歩いていると階段の踊り場付近までやってきた。階段に足をかけた時、後ろから声がかかった。

 

「ねえ、会長」

 

 ふたりで振り向いて、相手の姿を見るとそこに立っていたのは(セキ)マヒルの親友であり、その中で唯一在学中の女子 朝井(あさい)アキラだった。

 

「やっほーアサちゃん」

「こんにちは理世ちゃん」

 

 癖っ毛がある黒い髪、四白眼と頬で微笑んでみせる少し草臥れた印象を抱かせるこの女子は、時折り実年齢を間違えているのではないかと疑いたくなる落ち着きがある。

 あの2人の親友らしいと言えるかもしれない。

 

「どうしたのかな、朝井さん」

「……少しさ、話がしたいんだけど」

「マヒルのことかな」

 

 朝井はゆっくりと肯首した。

 仲がいい相手だと聞いているがわざわざ俺を経由するということは本人には聞きづらいことだろうか。

 人の波から外れた廊下の隅で尋ねてみると、そうではないと朝井は答える。

 

「最近、会長はマヒルとよく遊んでるみたいだし、聞きたいんだけどアイツ……大丈夫?」

 

 それは俺から見たマヒルの安否。

 マヒルへの心配はよく耳にする。

 遅刻は増えるし授業中はよく寝るようになった。マヒルに限ってそんなことなかったのに。

 友達を蔑ろにして別の人と遊んでいるところを見かけた。マヒルに限ってそんなことなかったのに。

 マヒルに限ってなんだろうか。

 

「話す前にひとつ聞きたい」

「? なに?」

「なぜそんなこと俺に訊きたいのかな? 親友であるキミから訊ねた方が本音は聞けると思うけど」

 

 朝井は慎重に言葉を選ぶように口を動かしていく。

 

「マヒルが理由(ワケ)があって友達と関係が悪化したのは、多分知ってると思うんだけど……会長とよく遊んでるってことは結構堪えてるのかなって。私にも少しだけどマヒルの悪口とかは入ってくるし」

 

 やはりよく分からんな。朝井もそうだが、沙原にしろ止岐花にしろ、なんで直接話し合えば一番進展するのに他人を経由するんだろう。

 少なくとも話し合った俺と理世は進めている。

 

「俺のこと負の象徴みたいに思ってない?」

「サスペンス物で『あ、事件起きるな』ってセオリーみたい感じかな……」

「ショウ、あなた探偵(死神)だったの?」

「さすがに死神じゃなくて孤島に向かう時の船ぐらいだよ」

「帰りに爆破されるじゃないか!?」

「コナンくんと金田一のゲームにそんなカットあったわね……」

「なにその地獄みたいなゲーム」

 

 コントのような流れに会話を任せながら、朝井の視点からの俺を考える。

 俺と居ると自分が悪い事態に陥ってると強く認識してしまうのか? だから本音を話してくれないのか?

 俺が関わるとなにか不穏なことに巻きこまれていると思われるのか? だからみんな本人に気を遣って俺に?

 

「わかった。なら、おいで。朝井さん」

 

 俺は微笑んでから、抑えたくなる頭の痛みを内心の吐息に変えた。

 朝井を手招いて、もう片方の手でポケットから取り出したモノを弄ぶ。

 

「鍵……?」

 

 首を傾げながら朝井が階段をのぼる俺の後に続く足音が聞こえた。

 

 

 

「それじゃ、またな」

「またね」

 

 別れ際にふたりは手を振って、クラスへの道から逸れて朝井アキラ()と会長は2階の廊下を歩く。弄ばれる鍵の擦れる金属音を聞きながら、彼の後に続いていると、頭上に部屋を示すプレートが現れる。

 生徒会室と書かれたその部屋の前にはひとりの生徒が先にやってきていた。

 

「おはようショウ」

 

 そこに居たのは夕マヒル。私の友人が立っていた。

 

「おはようマヒル。今日も重役出勤だな」

「真っ当に来てるお前がおかしいんだよ! ……あれ、なんでアキラも一緒なんだ?」

 

 楽しそうに話すふたりに気を取られていると、マヒルが私の存在をようやく認識した。

 一瞬、どう誤魔化そうか迷ったが会長の聞き返しを思い出して察する。

 心配なら自分の口で伝えろということなのだろう。

 

 私は、会長に話したことを包み隠すことなくマヒルに伝えた––––

 

「そっか」

 

 伝え終えると、照れ臭くなって目を逸らした。なにもやましい事はないのだが自身の気持ちを伝えるとほんの少し恥ずかしくなる。

 横目でマヒルを見ると嬉しそうに笑っている。その笑みは作ったものではないように私には思えた。

 

「心配してくれてたんだな」

「友達で幼馴染だし、背を押した責任もあるしね」

「ありがとなアキラ」

「マヒルも朝井も仲睦まじくて良いことだ」

 

 心配だったのは本当だ。

 だからこそ、私はマヒルが元気に話しているだけなのを見れてホッとしている。

 目の前の扉の鍵が開く音がすると、会長は生徒会室の扉を開けた。

 

「ほら、入りなよ」

「いいの?」

「いいさ。ここの家主は俺だからな」

 

 会長に促されて生徒会室に入る。簡素な長机を挟むようにして置かれているパイプ椅子に私とマヒルは並んで腰をかける。

 

「お菓子食う?」

「いらないです……」

 

 生徒会室といっても教室より狭い普通の小部屋。私は学校なのにテレビやお茶菓子が置かれている事に疑問を抱く。

 

「それでキクさんとはどうなってるんだ?」

「うぅ〜ん…絶賛片想い継続中かな〜……とほほ」

「焦らすねマヒルの女」

「片想いならマヒルの女じゃないでしょ」

 

 それともうひとつ尋ねたいことが生まれ、会長が鍵を掛け直すために背を向けるのを確認するとマヒルにそっと耳打ちする。

 

「あの女の人のこと会長に話したの?」

「え、うん。話してるけど」

「いいの? あの人も吸血鬼なんでしょ。バレたらどうするの?」

「大丈夫だぞ。ショウも吸血鬼と一緒にいるからさ」

「は?」

 

 自然と会長を見ていた。

 少し眠たそうにあくびを押し殺す姿に私は連想する。眠気、最近の学校での居眠り。原因は夜更かしで、その根底にいるのは吸血鬼の存在。

 納得したくなかったが、出来てしまう自分が悲しい。

 それもこれも隣にいるマヒルや七草ナズナ、なによりコウのせいだ。

 

「え、じゃなに? 会長も吸血鬼になるの?」

「なる気ないんだとさ」

「ならないの!?」

「どうした、いきなり吸血鬼の話で盛り上がり出して」

「さも当然のように受け止めてる……」

 

 吸血鬼の存在を認めているのを見るとマヒルの発言は本当らしい。

 

「でも吸血鬼にならないんだったら会長は殺されちゃうんじゃ……」

 

 長机を挟んだ向こう側に座る会長を見る。

 コウから聞いた吸血鬼の一年ルール。それを越して吸血鬼になれなかったものは脅威とみなされて殺害対象となるらしい。

 

「だから絶賛恋愛勝負中さ。ノーマルエンドが吸血鬼化で、バッドエンドが死亡なわけだ」

「ハッピーエンドは?」

「吸血鬼が俺に惚れたと信じられる世界」

 

 堂々と口にする会長は微笑んでいる。

「またそんな変な事を言って……」とマヒルが隣で溢していたので、初めからこの考え方なのは間違いないようだ。

 見たことがないニヤっとした笑みに変えた会長は話を変えた。

 

「さて、焦らされ続けるマヒルは今日どんな話を聞かせてくれるのかな?」

「それがな。この間、キクさんの家に行ったんだ」

「そこまでの関係になったんだ」

「ああ」

 

 横で語り始めるマヒルの口調はとても真剣だった。

 私もその言葉に耳を傾ける。

 誰とでも仲良くしていたマヒルに初めて出来たであろう––––きっとコウや私よりも大事な––––相手。その吸血鬼(ヒト)とどんな恋愛をしていたのか興味があった。

 

「そこでうなじを見た」

「……ほう」

「ーーーー」

 

 のだが、マヒルが続けた言葉に私は首を傾げた。

 え? うなじ?

 うなじってアレだよね。首の後ろの部分の。

 

「キクさんが住んでるのはとあるホテルで、そこにはキッチンがあってさ。部屋の間取りの関係で料理してる時はキクさんが俺に背を向ける形になるだけど、その時にさ! 見えるんだよ、うなじが!」

「うん」

「……うん?」

 

 ふたりで相槌を返すが、私はイマイチ内容が飲み込めずにいた。困惑によって生まれたズレに興奮したマヒルは気づかない。

 

「普段はうなじとか見えないわけだよ。けど、料理してると動くわけで、その髪が揺れるんだ。その時にチラッと見えるのよ。なんかそれがすっごく魅力的でさ」

 

 分かるだろ? マヒルが情熱的な目線でそう訴えかけてくる。

 けれども私に全くもって理解できなかった。

 素直に言おう。キモい。

 うなじなんてただの首の後ろでしかない。吸血鬼ならまだしも人間がそんなところに夢中になるなんてあるのか?

 助けを求めるように会長へ視線を流す。

 

「うなじ……うなじね……。……ああ」

 

 会長も初めは理解できていない様子だったが、自身の首の後ろに手を当てて少し考え込むと共感の息を漏らした。

 

 分かったのか……。

 

 悩み続ける私は未だに星見キクさんのうなじについて語っているマヒルの目を盗み、スマホを弄り出す。

 開くのはライン。宛先は目の前の男。

 2年生になって初めて同じクラスになって、関わりが出来た時に『縁ができたな』と貰ったライン。学校の行事ぐらいでしか互いに出番がなかったラインをここで久しぶりに使う。

 

『なんか分かったみたいだけど、どういうこと? 全然分からない』

 

 送信。すぐに会長が一瞬だけ私に目配せした。

 どうやらメッセージに気がついたようだ。

 会長はマヒルと顔を合わせて頷きを返しながら手を長机の下に入れた。

 私のスマホが震えた。

 

『興奮してるんだよ』

 

 どういうこと……?

 余計理解できず唸っていると、会長から更なる返信が来る。

 

『マヒルの興奮はチラリズム?と同じ原理だと思う。

 うなじも下着も本来であれば見えない部分に位置するけど、それが偶然見えてしまった。隠れた、隠された場所って書いた方がいいかな。うなじを見たマヒルは《キクさんの見ちゃいけないところ見えちゃった……》となってる。

 隠されたものを覗きたがるのは人の(さが)だろうしね。

 今回はシチュエーションも込みでの話だろうけど』

 

 長文が送られてきて、読み終えた時にはどっと目が疲れた。

 つまりなに? うなじはパ、パンチラ……とかと同じってことなの?

 未だ実感が湧かない私に追伸が届いた。

 

『同性だと分かりにくいから、水泳の時のコウを想像するのがイイと思うぞ』

 

 コウの裸か。今年もそうだけど、プールは男女同じ日にやってて近くで観れてたんだよね。腹筋とか割れてはなかったが、程よく筋肉もついていて、引き締まっていた覚えがある。小学生の頃は気にしなかったけど、やっぱり男の子の身体なんだなと思った。

 イケナイものを見てしまった気がして、すぐに目を逸らしたけど。

 

「––––それでな。……どうしたんだよアキラ、大丈夫か? 顔赤いけど」

「あ!? いや、別に何もないけど!!」

「何もないわけない反応だけど……」

「なんもない!」

 

 言い終えるよりも早く私は物凄い勢いで顔を背けた。

 普段は見えないコウの腹筋とかその他諸々。隠れた場所を見てしまう興奮を私は理解してしまった。

 

––––み、認めたくない!!

 

 こんな形で分かってしまうなんて!

 目に映った会長の顔は相変わらず笑みを湛えていた。『ニコッ』というよりは『ニマニマ』といったもの。

 

 あ、あの人、私が照れてるのを見て楽しんでるのか–––ッ!!

 というかなんでコウって名指ししてきたのさ!

 

 愉悦に浸るような笑みを私たちに向けながら、会長は途切れたマヒルの会話に口を挟んだ。

 

「うなじが見えてしまったなら仕方ない」

「だろ!」

「……なにが、だろなんだよ」

 

 強く否定できない自分が悲しい。

 

「しかもキクさんがマヒルの為に料理してるってシチュエーションだ」

「そうそう! 髪が揺れ動いてるのもさ、俺の為に頑張って作ってくれてるんだな〜て考えたらなんか……もう……ああぁ……嬉しくて!」

「愛されてるんだな」

「ふへへ」

「–––––」

 

 私とは違う意味で頬を赤らめるマヒルは嬉しさのあまり顔を両手で覆っている。醸し出す雰囲気はさくらちゃんがコウの好きなところを話していた時のモノと似ている。

 またスマホに視線を落とした。

 

『もしかしてコレ、惚気話?』

『もしかしなくてもノロケだぞ』

 

 気がつけば私は背けていた顔をマヒルに向け直していた。

 

「……どうした、アキラ?」

「アンタたち。まさかいっつもこんな話してるの?」

「「そうだが」」

「ええ……」

 

 息ぴったり合うほど仲良くなっているふたり。

 惚気話をしてる本人はともかく、ただ聞いてるだけの会長はなんで楽しんでいるんだろう。

 

「ねえ、会長。面白い? この話?」

「俺がいる前でよく言えるな!?」

「面白いよ。初々しい話は聞いてて楽しいし」

「ならいいけど」

 

 マヒルはいい相手を見つけたかもね。こんな純粋に惚気話を楽しんで聞いてくれる人ってそう居ないと思うし。

 

「朝井も聴きたくなったらまた呼ぶけど?」

「お断りします」

「聞くだけはタダだぜ」

「今日だけで私はもうお腹がいっぱいで甘々なの!」

「朝井って甘々とか言うんだ」

「アキラも女だしな」

「なんなのさアンタら!?」

 

 ガヤガヤと3人で喋り出す。

 私が本当に朝の2時に起きて学校へ行っているのかとか。最近、コウに会ったのかなど、そんな他愛もない世間話で短い休憩時間を使い潰す。

 ああ、楽しい。

 コウがいればもっと楽しいかもしれない。

 

 

 

 

 危うさを感じていた俺が流す汗を額を伝った。

 うなじ自体の良さを俺は知らないから理解できずに焦ったが、以前ハツカの髪を乾かした時に触れていたことが功を奏した。

 ハツカが長い髪をしてくれていてとても助かった。

 もしハツカが髪を短く切っていてうなじが隠れていなかったら思いつくことすらなかった。

 ありがとうハツカ。

 

「キクさんに会いたいな〜!」

「早退すれば?」

「–––その手があったか」

「……昼間に会っても意味ないのに?」

「寝てる姿見られるし」

「マヒル、キモいよ」

「な!?」

 

 やっぱり良い……。

 目の前でマヒルと朝井が楽しそうに話している。

 理世から聞いていた話でしかないけれど、小学生の頃、コウも含めてこの3人はとても仲が良かったらしい。世間一般的な仲睦まじい関係とは少し違う、気づけばそこに収まっていたという自然な繋がりらしい。

 俺が知ることができる中学生になってからは、疎遠になってしまったがこうしてまた縁が戻り始めてる。

 だから––––

 

「コウはズルイよな〜。学校行かずに朝は寝て、夜には好きな人の所に会いに行けるんだから」

「それにコウは七草ナズナの家で寝泊まりしてたしね」

「ハァ!? まじで!!?」

「うん。私は途中で起きたけどコウは夢心地で私に『行ってらっしゃい』って言ってからまたグッすり」

「……なんでアキラも一緒に寝てんの?」

「雨が降ってたから仕方なく……いつの間にか寝落ちしてた……」

「あんな不健康な生き方してるから」

「マヒルにだけは言われたくないんだけど!?」

 

 ここにいるのが俺じゃダメなんだよな。

 

「……」

「どう思うよショウ!」

 

 突然振られた話に惑うことなく返答する。

 

「朝井の生活は驚きだよ」

「そんな、そんなことないでしょ……!?」

「胸を当てて聴くのです。すれば分かることでしょう」

「なんで神父みたいに言ってるの」

「でも聞いて欲しい。普通、深夜に中学生がひとりで出歩いてたら補導されるんですよ」

「確かに。そこを見るとマヒルやコウより朝井の方がよっぽど不良だな。ふたりには保護者(吸血鬼)がいるし」

「え、うそ……」

 

 陽の威光が背を照らすマヒルと冷静にツッコむ朝井。そのやり取りを見て思わず笑ってしまう。息を吐くような小さなものだが、俺は尊い想いが詰まったものだ。

 笑い終えた俺は二人に尋ねた。

 

「ふたり、いや三人はさ、これから吸血鬼になる、その友達になるって関係だけど、これからもずっと親友かい?」

 

 意図が分からなかったのか、一度ふたりで視線を交えさせる。

 そして首を捻ってから、まずマヒルが答えた。

 

「どうだろ、先のことは漠然としてしか考えられないけど、アキラやコウとは一緒にいるイメージかな。悪いことは起きないと思う」

「高校とか、大学とかまでは一緒にいるってなんか自然に考えてたなぁ」

「俺とコウは普通の高校には通えないだろうけどな」

「なにそれ。私だけ除け者にする気?」

「違うって! ただ、どうしてもそうなるだろ!?」

「はいはい。私だけ老けますよーだ」

 

 不貞腐すように顔を膨らませる朝井を宥めるようにマヒルが取り繕うと必死になる。そこには険悪な雰囲気などなくて、戯れ付くような仲良しふたりが色々と言い合っている。

 この様子なら、もし、この先で吸血鬼になろうとならなかろうと、きっとこの二人とコウなら大丈夫だろう。

 

「大丈夫にしてみせよう」

 

 瞼を下ろさず、二人を見ながら目を閉じる。

 閉じるのは心の目だ。

 上がってきた胃液をもう一度飲み下しながら、そんな空想で心を切り替える。

 

「まあ、頑張りなさいよ。吸血鬼候補さん」

「おう」

 

 吸血鬼と知っても普通に暮らしてる人間がいて。

 本音を伝えて笑い合ってるふたりがいる。

 ならば沙原たちだって問題はない。道はあのふたり次第だ。

 

「そうだ、マヒル–––––––」

 

 終わりを告げる鐘が鳴る。



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第三十九夜「クモの糸」

 窓の外を見つめると空は真っ赤に染まり、太陽が本日最後の頑張りを見せている。

 夕暮れ時になったこの時間帯は部活動の時間であるのだが、いるべき場所に沙原奏斗()はいなかった。

 終業後、パソコン部の部室に向かい作業を始めようとしたものの何とひとつ手につかなかった。数十分は部室でパソコンと向き合っていたものの、今後のことが頭の中をぐるぐる回って集中できない。

 俺は東根先生の許可を得て外に出た。

 先生は「わかった」と言うだけで、なにも言及してこなかった。元々生徒に干渉しない教師なのは分かっていたが、今回限りはそのことに感謝した。

 

 諦める覚悟はしているはずなのに、どうしても動くことができない。

 

 吸血鬼のこと、エマのことを考える為に昨日と同じ空き教室に来ていた。

 

「会わなきゃいけないのは分かってるんだけどさ……」

 

 俺は盛大にため息を吐いた。

 吼月に言われたようにエマの本心を聞きたいと思っている。

 けれども、この一ヶ月間まるで連絡を貰えず会えたと思ったら何も言わずにどこかへ消えてしまっているのだ。ただ連絡を取ろうとしても無駄だ。

 いっそのこと他の吸血鬼たちが連れてくるのを待てばいいのではないだろうか。

 

『それで本当にエマの心が聞けるのか?』

 

 言われた覚えのない言葉が吼月の声で脳内を駆け回る。動きたいと考えている俺が、吼月が問いかけているように頭の中で生み出した幻想だ。

 

「ああ〜〜くそっ!」

 

 昨日の夜と同じ考えが堂々巡りして、解決に至らない。何を始めるか決心することもできない。

 不甲斐なさ、情けなさにため息を吐く。

 気持ちを切り替えたくて俺は窓を少し開けた。冷え始めた風がツンと頬を撫でて、焦れる気持ちが少し落ち着きを見せる。

 

 どうしようか–––そう悩んだ時だった。

 ガラガラと木製の扉が音を立てて開いた。俺は当然振り返っていた。

 

「え……?」

「あ」

 

 ドアの前に立つ人物が目をしばたたかせていた。

 俺が目にしたのは綺麗な女性だった。片目は前髪で隠されており、手脚がすらっと長くて本当に【綺麗】という表現にぴったりな人だった。

 

––––……違う、そうじゃない。

 

 ここに入った時に鍵をかけるのを忘れていたことを思い出した。自身の不注意に頭を抱えながら、ドアの前に立つ女性に目線を流す。

 一冊の本を抱え、シワのない整えられたスーツを着た如何にも仕事ができる風体の人だが、こんな女教師を見たことがない。一年か三年の担当の人だろうか?

 四月の教師発表の時にこんな人いた覚えがないが……。

 

「えっと……デザイン科の先生……ではないですよね?」

「アタシは夜学の担当の平田ニコだ。よろしく」

「よろしくお願いします」

 

 にこやかに笑う先生に会釈を返す。

 小森工業高校は昼間に通えない人たちのために定時制の授業も行っている。彼女の顔を見たことがなかったのはそのためだった。

 

「平田先生はなぜここに?」

「授業前の息抜きだよ。この時間帯なら焼けた空を眺められるからね。……眩しっ」

「教師って忙しそうですもんね」

「とっても大変だぞ〜。でも、この学校は良い子もいっぱいだから苦ではないがね」

「その本は?」

「これかい? 授業の教材だよ。答えられないことがないか最終確認をさっきまでしていてね」

「そんなことまでしてるんですね」

「事前に知っておくということは大切だからね。教材だって全部が全部正しいわけじゃないから。人が作っている以上、語弊やミスもある」

 

 教卓の上に本を置いた平田先生は俺の隣までやってくると、窓際に設けられた手すりに両手を置いた。にこやかな笑顔は知的な風貌を柔らかくみせ、親しみやすさを抱かせてくれる。

 そのおかげか初対面でも苦なく会話することができた。

 

「涼しい……」

 

 開けた窓からまた風が吹き込む。

 平田先生の髪が風に揺られるといい香りが教室に漂う。母さんがする香水とはまた違う飾りっ気のない純粋な香り。

 エマと会っていたときも同じような香りがしたなと思い出す。

 綺麗な人は総じていい匂いがするのだろうか、と我ながら変態的な考えをしていた。

 会いたいな……。

 

「そういうキミはどうしてこんなところに?」

 

 突然投げかけられた質問に胸が高鳴る。

 

「悩み事かな? ……それも人間関係の」

「ッ……! よ、よく分かりましたね」

 

 核心をつかれて鼓動の高鳴りが引いた代わりに上ずるような声が出た。俺は苦笑を浮かべながら首を縦に振る。

 平田先生は、これでも長いこと人間(ヒト)を見てきているからね、と理由づけると笑顔から一転して真剣な面持ちになる。

 

「その悩みはひとりで解決できること?」

「……え」

 

 彼女は子供が想像するような生徒想いの教師の顔になる。

 俺はそんな彼女の誠実さに驚き、またこの学校に生徒の悩みを聞こうとするタイプの教師が居たことにも驚いた。

 

 車椅子生活になってから腫れ物扱いを受けることはあった。

 例えば部活動の変更の時には、話し合いという体であるが、既に退部届にサインだけする状態になっていた。パソコン部へ移ったのは、現状行なえる上で得意だったのか他になかったからだ。

 悩んでいた時期なんてきっと沢山あったけど、教師たちは邪魔だなという視線を送るだけで俺の話を聞こうとしなかった。そんな人たちの一員である平田先生が俺の話に耳を傾けようとしたことが信じられなかった。

 

「どうしたんだい? 虹の根元を掴めてしまったような顔をして」

「あ、いえ……」

 

 平田先生がありえないことを喩えにするほどに俺の顔は驚愕に染まっていたようだ。それほどまでにありえないと思えたものだったんだ。

 

「教師に心配されたことが初めてだったので……」

「そうか。なら、そんな初めての教師に助けられることはあるかな?」

 

 こちらを真っ直ぐ見据え邪念を感じさせない瞳から俺は目を離せないでいた。

 

––––……まあ、そりゃいるか。

 

 吸血鬼がいる世の中だ。それに学校を跨いで関わろうとしてくる吼月だっているんだ。一般的に想像できてしまうような教師がいるくらいおかしくもなんともない。

 ここに吼月が居たら、話せよと言ってくるだろう。

 

「えっと、なら……聞くだけ聞いてもらっていいですか……?」

 

 俺がそう尋ねると、平田先生はおもむろに首を縦に振った。

 一呼吸置いてから悩みを話し始めた。

 好きな人がいるが、その相手の考えていることがわからないこと。その相手の行方が分からないこと。相手の親代わりの人から付き合えと強制されてること。しかし、付き合うとやりたいことが出来ず、両親とも離ればなれになってしまうかもしれないこと。その判断もすぐにしないといけないこと。

 自分でも思っていた以上の悩みを打ち明けた。

 吼月に吐き出したことでなにが嫌なのか分かり、そして平田先生に話す事で鮮明に言葉にできた。

 吸血鬼のことを省かなければいけなかったため、どうしてもちぐはぐなところが生まれてしまったが平田先生はそこに言葉を挟むことはなかった。

 きっと、それは平田先生の優しさだと思った。こちらの言えない事情を汲み取ったのだろう。

 

「簡単に言えば、キミの事情を無視して婿養子にさせられるといったところかな? それにキミは納得していない、と」

「大体そんなところです……」

 

 俺はゆっくりと大きく肯首した。

 

「キミの好きな人にこう……言いたくないが、危ない所の娘さんだったりしないかい?」

「ま、まぁ……ぶっ飛んでるのは確かですので……」

 

 危ないも何も吸血鬼なんて化け物だしな……。

 含みを持たせた言い方をしたせいか、平田先生も複数の意味を考えるように何度も小さく唸る。

 

「それに相手の親御さんは不埒なことが嫌いなのだろうか……? 純愛厨のような」

「純愛厨……」

 

 視線を落として考え込む彼女の口から思いがけない言葉が飛び出して、俺はそちらに一瞬気を取られる。

 少しして考えがまとまったのか、もう一度俺に視線を当てる。

 

「キミはどうするんだい?」

「どうするって言われても婿養子はならなきゃダメですし……」

「それは絶対なのかい?」

 

 その念を押すように訊ねられる質問に俺はすぐに返すことはできなかった。それは仕方なく吸血鬼にならざる負えない現状への反発よるもの。なにより俺には肯定するための情報も、否定するための情報も待ち合わせていなかったから。

 知らないと再び認めた時、吼月の『吸血鬼を見ようとした時間が違う』という言葉を思い出した。

 

「分からない、です……」

 

 俺が吸血鬼について知っているのは、人間を(かた)って近づいてくる存在であること。人間に恋をさせて血を吸って眷属を増やすこと。人の腕を容易く切り飛ばす力など人外らしい能力があること。

 片手で足りるほどのことしかわかっていないのだ。

 

「なら、キミの一番大切なモノはなんだい? そういえば、さっきはやりたいことがあるって言っていたけれど、どんなこと?」

「……。……俺、バスケ選手になりたいんです。こんな脚ですけど、小さい頃に観たバスケの試合が忘れられなくて、俺も大きな大会で強い相手と戦って、勝ちたいなって」

 

 平田先生はただ頷くだけだった。

 無理だと否定することもなければ憐れむような眼差しを向けてくるわけでもない。かといって、無責任な慰めを投げかけてくるわけでもない。

 俺の夢を情報として取り込んでいる。

 

「アタシはこの手の話題に詳しいわけではないから、できるできないの話は置いておく。この話題自体は関係ないからね。なりたいと思っているならキミのほうが詳しいだろう?」

「……一応、ネットや本では調べてあります」

「なら、その事はより詳しい人と話すとして」

 

 平田先生は俺に問う。

 

「キミは夢と想い人、どちらを選ぶ?」

 

 俺はすぐに返答する事はできなかった。

 バスケ選手になって大会に出たいという気持ちも強いが、それと同じくらいにはエマと一緒にいたい。

 答えなんて出せるはずがなかった。

 唇をまごつかせていると、不意に平田先生が微笑んだ。

 

「その彼女さんは凄いな」

「……?」

「長年追い続けてた夢と同じほどの熱をキミから向けさせているんだろう? 凄い事じゃないか」

 

 改めて考えると確かに凄い事だと思う。

 俺にとってバスケは唯一無二だった。家族とのかけがえのない繋がりでもあるし、自分が誇れる一番のものだ。その想いに負けない感情をたった一年で勝ち取られてしまったのだ。

 だからこそ、俺はエマの事が好きだと言える。

 言えるのだけど––––

 

「でも、単に誑かされただけかもしれなくて」

「本人には直接聴いたの?」

「い、いえ……」

 

 俺が否定すると、平田先生は目を丸くした。

 

「キミを貶めるようなことをする子なのかい?」

「……違いますよ。……そんなこと、きっと」

「彼女が嘘をついてる?」

「……それを知るのが怖いんです」

 

 質問を重ねられる度に、歯切れの悪い返答になっていく。

 

「仕方ないでしょう。本当になにも分からないんですから……」

「なるほど」

 

 まるで真っ暗な森の中で歩く道が分からなくなったかのような錯覚に陥り、俺は呻きながら項垂れた。

 平田先生はもう一度首を縦に動かすと、膝を折って俺と視線を合わせる。

 

「キミ、蜘蛛は好きかい?」

「……? え?」

「空の雲じゃなくて、糸を吐くほうの」

「……嫌いですけど」

 

 特別嫌いになる理由はないけれど、家の一角に糸を張られるのは不潔だし、なによりあの脚をうようよさせる姿には生理的な嫌悪感を抱かされる。

 漠然と近くにいられるのは嫌だ。

 埃だらけのここにも、もしかしたら––––と考えると一瞬背筋が冷たくなった。

 

「アタシも嫌いだった」

 

 意図がわからない話に首を傾げた。ハハっとはにかむように微笑む平田先生は俺を見据えながら話し続ける。

 

「昔ね、森を歩いていたら蜘蛛の巣に引っかかって、顔に大きな蜘蛛が張り付いてきたね。それ以来、怖くてたまらなかったよ」

「それは……クモの糸を触るだけで嫌ですよ……」

「だから家に出る蜘蛛とか見つけ次第潰そうとしてたんだ」

「……みんなそうでは?」

 

 俺は蜘蛛を見つけて大声を上げたり、スプレーを片手に蜘蛛を打ち倒さんとする平田先生を想像する。どちらも知的な印象を与える彼女からはイメージがつかない姿ではある。

 でも、女性だし怖がって大声を上げるのかもしれない。

 

「ある時、本屋に出かけてたら蜘蛛の図鑑が置いてあったんだ。家に出る蜘蛛の対策なども載った本がね。このまま怖がり続けるのも疲れるから、手にとって捲ってみたんだ」

「……よく見れましたね」

生物(なまもの)の写真が載ってるから心臓バクバクだったけどね。でも、怖がりながらも読んでいると、蜘蛛って案外怖くないのかなって思えてきてね」

「普通に怖いと思いますけど……」

「例えば、キミも知っていると思うが、家に出る代表はアシダガグモだが、彼らは巣を張らない徘徊型の蜘蛛だ。彼らは我々が嫌う黒い怨敵を食べてくれる」

「あぁ……ごき」

「それ以上は口にするな」

「あ、はい。でも、それはなんか聞いた事はありますね」

「そもそも彼らが人の家に棲家を作るのは、隙間があって入ることができたり、荷物に紛れてついてくるハエなどの餌を求めてやってくることが殆どだ。身の回りを綺麗にしておけば遭遇すること自体ない。

 つまるところ、自分たちでカバーできなかったところを掃除してくれるボランティア員のような子達なんだ」

 

 その事を理解した平田先生は常日頃から部屋の清掃を心がけているらしい。

 他にも外に出るとよく見かける毒々しい黄と黒の縞模様が印象的なジョロウグモは、毒を持つが人には効果がないし視力も悪い、ただ噛まれればいたいので注意は必要。

 

「ジョロウはアシダガと違って造網型だが、地上に落ちてもカマキリなどに遭わない限りは死なない。壊した後に……今なら巣作り防止用のスプレーをするのがいいかな。スズメバチも食べてくれるらしいから、益虫の括りにいるけど」

「勝手戦え……」

「ふははっ、確かに。でも、こうやって知っていくと、本当にやるべきことが見えたり、無駄に怖がらなくてもいいんだって心が穏やかになるんだ」

「心が穏やかに……」

「今のキミも心がざわついて、何もかもを悪い方向に考えてしまっているんじゃないかな?」

 

 俺は平田先生の問いかけを認めるしなかった。

 吸血鬼ってなんだよ。

 恋させて眷属にするとかなんだよ。

 悪態をつくように心の中にはまた不満ばかりが溢れていた。

 

 その原因は彼女に言われた通りだ。

 意味のわからない、得体の知れないものである吸血鬼に対する漠然とした恐怖が俺を取り巻いている。心は落ち着かないし、怖がってみることもできないし、悪くなることばかり考えている。

 

「キミは知らなさすぎる。そして、彼女はキミに伝えなさすぎている」

 

 俺の現状を的確にかつ簡素に言い表した平田先生の瞳は鋭く、そして透き通っていた。心の奥まで見通そうとする瞳の力強さに負けて、俺は目を合わせることができない。

 

「キミにはやらなければいけない事がある。それは分かるかい?」

 

 彼女の声がより気の籠ったものになる。それは俺に自身の弱いところを直視させるには充分な迫力があった。

 平田先生は吼月と同じく、エマの事を知れ、と言っているのだ。

 

「今のキミにどれだけの時間があるのかはアタシには分からない。彼女の本心がキミを傷つけるかもしれない。けれど、現状の自分や環境をキミが納得できる形に持っていくには情報が必要だ」

 

 何も知らなければ、道を選ぶことすらできない。

 

「相手が本当はどんな立場にあって、どんな人なのか。本当にキミが相手の婿にならなければいけないのか。本当に親御さんと離れて暮らさないといけないのか。本当に夢を諦めないといけないのか。

 キミには答えられないことが沢山ある」

「……はい」

「キミが夢も彼女も欲しいなら答えを知る必要がある。そして、その答えを求めるなら、それこそ本人に会うのが一番だが……会えないのなら、詳しい人に尋ねるんだ」

「詳しい人に……」

「そうだ。正しい知識で少しでも納得の行く答えを出せるために。もしかしたらその人が相手の行方すら掴んでいるかもしれない。もちろん、これは楽観論だ」

 

 俺の頭に浮かぶ顔はひとつだけ。

 

「ただひとつ、たとえ怖くても知ろうとすることを辞めてはいけないよ。それを放棄したら選択する権利すらキミには与えてもらえない」

 

 精一杯俺のことを考えて背を押そうとする彼女に俺は自然と目を合わせていた。

 そして、彼女はふたたび俺に問いかけた。

 

「––––私に助けられることはあるかな?」

 

 俺は一度呼吸を整えてから。

 

「ありません」

 

 それだけ答えた。

 吸血鬼に関わればこの優しい先生だって巻き込まれる可能性だってある。吸血鬼たちに知られない、ということは第一条件だ。

 ならば、誰を巻き込むか。吸血鬼の存在を知っていてかつ俺の立場でも考えてくれる相手である吼月を頼る他に俺には選択肢がない。

 アイツは吸血鬼について調べているといった。きっと俺よりは多くの考えを持っているだろう。

 

「頼りたくなったらちゃんと声をかけてくれよ」

 

 平田先生は優しい声音で俺の選択を受け入れてくれた。

 はい、と力強く答えた俺は平田先生に頭を下げて、教室から出ようとする。そこで彼女に呼び止められる。

 

「最後に、キミが一番知りたい事はなんだい?」

 

 そんなものは決まっている。

 

「エマの気持ちが知りたいです。本心からの言葉が」

「頑張っておいで」

 

 我ながら単純だと思うほどに背を押されれば、簡単に前を見ている。

 ガラガラと扉を開けて、スマホを手に取っていた。

 

 

 

 

 ポコリン。

 

 

 

 

 ガランと音を立ててドアが閉まった。

 必死に車椅子を漕いで空き教室を出ていく生徒を見送ったアタシは、静かに息を吐いた。

 

「独りで呆然としてたから何事かと思ったけど––––」

 

 アタシには彼の事情の全てを察することができない。

 力になれる事ならあると思ったのだが、彼にはアタシ以上に頼れると思える相手がいるようだった。吸血鬼であるアタシにはそのことがよく分かった。

 それは人との繋がりがちゃんとある証左でもあるのでとても安心できた。

 

「あまり大っぴらに振る舞うわけにはいかないしな」

 

 吸血鬼として前に立てれば手を貸せることは多くなりそうなのだが、そう簡単にいかない。

 それに今の彼なら、本当に危ないと分かれば警察などに駆け込むという正常な判断を下せるだろう。

 ……ヤクザの娘だったりするのかな。時折変な噂は耳にするが、この辺りにそんな危ない人たちが住み着いてるなんて聞いたことはないが。

 連絡先でも交換できればいいんだが、流石に同じ高校にいる生徒のものをもらうのは禁止だ。

 今だと送っていくのにも申請が必要だしなぁ。

 

「一応、他の先生に彼のことを聞いてみるか。……手遅れになるのは不味いしな」

 

 教卓の上に置いた教材を持って、アタシも空き教室を出ていく。

 

 

 

 

 ポコリン。

 

 暗くなった街に電子音が響く。捲っていた紙束を脇に抱えて、ズボンのポケットにいれていたスマホを取り出す。トーク画面を見ると、『覚悟を決めたよ』というメッセージが記載されていた。

 

『だから、もしもの時は利用させてもらう』

 

 なんせアンタは俺を使うしかないんだから。

 それが分かっていたから、俺は予め打っておいたメッセージを送信した。

 

『任せろ。今の世界なんて忘れさせてやる』

 

––––さて、俺も頑張りますか。

 

 樹木に預けていた背をひとり立ちさせて、その奥側を見る。屹立する木々に囲まれる形で俺の前に鎮座するのは四階建てのビジネスホテルだ。騒がしさとは無縁の静けさに満ちたここは、夜を過ごすにはピッタリな場所だ。

 殆ど目線がないのはとても俺好みだ。

 このホテルに俺の目的とする人物がいる、らしい。

 

「そうなんだろ?」

「ふっ……さあね。まあ、これで契約は終了ね」

 

 俺の頭上からカオリの声がした。

 

「いけば分かるさ」

「殺されるかもよ?」

「そうなりかけた方がアンタには得だろ。–––行ってくるよ」

 

 再び鼻を鳴らすカオリにそれだけ言い残して、手に持った紙袋を揺らさないようにゆっくりと歩き始める。フロントを通り、エスカレーターを使って上の階まで上がっていく。

 幸い、係員に呼び止められることもなく驚くほど簡単に動くことができた。悪くいえばかなり無防備な状態だ。不自然さを感じるが、すり抜けが使える吸血鬼相手に防犯なんて無意味だと思い出す。

 目的の部屋の前にやってきた俺はその玄関を一瞥する。そして、玄関の横に設けられたインターホンの呼び出しボタンを押した。

 

「夜分遅くに申し訳ございません、小森第二中の者です」

 

 身につけた俺のアナログな時計がチクタクと時を刻む。静まり返った周囲によって1秒1秒の進みがハッキリと判る。

 その震えを数十回ほど味わったところで、インターホンから声がした。

 

『……どういったご用件でしょうか?』

 

 返ってきた声は若いが確かな疲れを感じさせる女性のものであった。

 

「吸血鬼の件についてです」

 

 俺が曲げることなく告げると、明らか向こうにいる人物が狼狽したのがインターホン越しにも分かった。

 

「あまり……外で口にできることではありませんので、すみませんが中に入れていただくことは可能でしょうか?」

『……わかりました』

 

 彼女の声が重くなったのが分かった。

 再び少し待つとカチと鍵が開錠され、目の前のドアが押し開かれた。現れたのはベージュのコートを羽織る長身の女性で、声から察した通り気だるげな風体をしている。

 

「どうぞ、御入り––––」

 

 女性の言葉が不意に途切れた。

 招くはずの相手にかける声は想定していた目的地を失って霧散し、代わりに飛んできたのは丸眼鏡の奥から向けられる訝しむような視線だけ。

 そんな彼女に俺は笑って右手を突き出した。

 

「こんばんは、(ウグイス)アンコさん。これ、ケーキです」

「え、あ……どうも……」

 

 俺が差し出した紙袋を探偵–––鶯アンコは、訳も分からず受け取るしかなかった。



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第四十夜「メリット」

祝!よふかしのうたアニメ1周年!
……1周年? マジで?


 探偵である鶯アンコ()の前にひとりの少年が現れた。

 吼月ショウ。蘿蔔ハツカの眷属候補。

 事務所を引き払い誰も知らないはずにも関わらず、少年は私がここにいると確信を持っていたように尋ねてきた。

 

「いい所に住んでますね。ところで、なんで俺の名前知ってたの?」

「……吸血鬼に関連する人脈にはひと通り探りを入れている。特に今のキミは夕マヒルと友好的な人物だからな」

 

 特に何も無い部屋を見渡す少年。

 家にあげる前に名乗られはしたが、それ以前から私は彼のことは調べている。短時間で知れる程度だが、彼が吸血鬼と共に過ごしているのは間違いない。

 

「流石は吸血鬼殺しの探偵だ」

 

 私の話を愉快そうに聞く彼の心情は理解し難い。

 

「殺される。そうは思わなかったのか?」

「吸血鬼なら弱点をつかなければ殺せない。人間なら殺したとしても隠滅が面倒でしょう。しかも借り物の部屋で即座に銃を撃つのもどうかと思いますし」

 

 振り向いた少年は、私が着ているコートの胸の内ポケットを指差す。無意識に空いている手を胸にやれば、そこには不自然な重い塊がある。

 指摘通り拳銃である。無論、偽物ではない。

 

「よく分かったな」

「一応ブラフのつもりだったんですけどね……」

 

 空の手を下ろして、渡された紙袋の中身を見つめる。上部に買った店のマークが描かれた手提げがある小さな長方形の白い箱は、おそらく彼の言葉を鑑みるにカットケーキが入っているのだろう。

 その箱を見下ろしていると、頭をキューと締め付けられるような痛みが私を襲い出す。息を整えながら、ほぐすように身体を動かす。

 

「……もしかしてケーキ、お嫌いでしたか?」

「いいや、そうじゃない」

 

 あまりいい思い出がないだけだ。いや、いい過去はあるはずなのだが、それ以上に嫌なことばかりを思い出してしまう。

 ケーキの上に刺さった18本の蝋燭が灯す火を一息で消して、そのことを祝福される日。私は––––いや、昔へ思いを馳せるのは今じゃない。

 備え付けの冷蔵庫の中に入れると、なぜケーキを持ってきたのかを尋ねた。

 

「お礼ですよ、吸血鬼を殺してくれた」

 

 その返答は彼の立場からすれば出るはずのないもので、私は警戒心を高める。部屋の空気が張り詰めたのは相手にも伝わった。

 彼は自身の行いにケチをつけられたのが気に食わないのか、ため息をつきながら頭をポリポリと掻いた。

 

「別に毒なんか入ってませんよ。それを分かっていただくために市販のものを買ってきたですから」

 

 彼は私の瞳に微笑を浮かべながら自身の目線を絡めると、返答の意味を答え始めた。

 

「以前、マヒルとコウ、朝井を襲った吸血鬼を殺してくれたんですよね? その時のお礼です。あなたのおかげで3人は助かりましたから」

 

 彼が指しているのは、10年前、小森第二中学校から姿を消した教師–––加納(カノウ)ミチヒサという男を私の手で灰に変えたことだ。失踪した秋山(あきやま)昭人(あきひと)と呼ばれる大学生の行方を追っていた時に、偶然出会った怨敵の被害者。

 その場に夜守くんたちが居合わせた。

 

「……その人についてどこまで知ってる?」

「その男については、マヒルと朝井からは、錯乱状態の襲われたこととなにか後悔していたこと……このふたつぐらいしか聞けませんでした。名前は一応ネットで調べて、加納とは知っています」

「そうか」

 

 夕マヒルには加納の件についても話してある。

 巻き込みすぎないように元凶の名前は告げなかったけれど、充分な知識を与えた。

 もし、目の前の少年が本当の事を言っているなら、夕マヒルは完全に吸血鬼側に立ったということ。そちら側に行ってほしくなかった。それ以上に教えたはずの吸血鬼の危険性をしっかりと人に伝えていないことが、とても悲しかった。

 

「加納は吸血鬼に騙されたんだ。何も知らされず、何も分からないまま10年の時を過ごして……死んだ。私が殺した」

 

 その憤りが表に出てしまう。

 彼を睨みつけて、感情が籠った声になる。

 

「吸血鬼たちには《魅了》と呼ばれる能力(チカラ)がある。相手を魅入らせて、人間のまま行動を操ることができる。意識的にしろ無意識的に使ってるにしろ、人間が吸血鬼に恋するのはこれが理由だろう」

「そんなチカラが……アイツは言ってなかった。でも……」

 

 私は釘を刺すように、あるんだよ、と力強く断言する。

《魅了》の力はあくまで一説によるものだ。創作上の吸血鬼の能力のひとつでしかない。しかし、彼が吸血鬼に抱いている感情を虚偽のものであると考えさせるのには充分だ。

 

「すみません。俺は生徒会長として、マヒルたちを助けてくれたことに感謝したかっただけで……吸血鬼の被害者である加納さんの介錯をした探偵さんには、後味の悪いことだったでしょうけど……」

 

 少年は交えた視線を解いて頭を下げる。

 

「いや、頭を上げてくれ。私も睨みつけて悪かった」

「……はい」

「そこにある椅子に座りたまえ。話は別にあるんだろ?」

「そうです」

 

 ただ感謝を告げるだけなら、これで帰ってもらうつもりだった。

 しかし、彼とやり取りをしていると私が想像していたものとは違う立場なのかもしれないと思わされた。

 顔を私に向けた彼は、促されるままそばにあった黒縁の椅子に座る。

 

「タバコは大丈夫かい?」

「構わないですけど、先をこっちに向けないでくださいね」

「そんな行儀の悪いことはしないよ」

 

 手庇を作るようにして目から鼻までを覆ってみせる彼の了解を得て、私は使い古したジッポライターをコートから取り出した。燃やした紐に咥えたタバコの先を当てて火をつけると、私もソファに腰を下ろして彼と向き合う。

 

「ふぅ……吼月くんでいいかな?」

「はい」

「それで吼月くん、まずは確かめたいことがある。手首を出してくれ」

「……? あぁ……どうぞ」

 

 差し出された手首を掴むと、ドクンドクンと脈打つ人間の命の振動がしっかり私の手に伝わってくる。

 吼月くんは人間であることは間違いなかった。

 

「脈で吸血鬼かそうじゃないか分かるのか」

「奴らには血が流れていないからな」

「流れてる吸血鬼もいたりはしないんですか?」

「少なくともここ数年見てきた限りではいなかった」

 

 奴らが私の居場所を知っているなら直接襲ってくるはずだ。罠だとしても、人の居ない場所に連れ出す方が奴らの考え方としては合っている。

 人間に人間を殺させるなんて余計な足跡を残すことはそうしないだろう。

 

「でも、マヒルと一緒にいる所を見てるんですよね? なら、学校に行ってるのも–––」

「知ってる。だが、吸血鬼はしっかりとした服装や用具さえあれば日中でもある程度活動できる。確証が欲しかったんだ」

「……血を吸う必要は?」

 

 彼の質問に私は瞬きほどの間だけ、思考を回した。

 アイツはどうだったか–––––

 

『まぶしいし、すごくだるい』

 

 ふと小生意気な声が脳に児玉した。

 吼月くんの問いに、私は正しい答えを出せなかった。

 

「分からない。個体差にもよるだろうが、血を吸わずとも全身を覆うような服で日傘さえあれば陽が高くても問題ない。それがなければ気絶するレベルだろう」

「なんか、見たことがある感じですね」

「……何体も殺してきたからな」

 

 濁した答えに彼は頷いて本題について語り出す。

 

「それで話なのですが、探偵さんの力をお借りしたくて」

「私の力?」

「今の吸血鬼を倒すために力を貸してください」

「待て。なぜキミがそんなことをする? もしかして、吸血鬼になるつもりがないのかい?」

「信じてもらえないでしょうけど。俺は今の状況とは相容れない」

 

 吸血鬼と関わっている人間は基本的に奴らに恋をしていることが殆どだ。例外も恋愛感情が死んでいそうな夜守くんぐらい。

 そんな夜守くんだって相手が吸血鬼と知っても肯定的だ。

 そんな相手の腹の中にこちら側の思想も持った人間がいるなんて。

 思わず口を噤んで、目だけで先を促す。

 

「俺の友人が偶然吸血鬼の存在を知ってしまいまして。吸血鬼にされるか、死ぬかを迫られているんです」

「奴ら……」

「彼には人間としてやりたいことがあるのに、身勝手な吸血鬼たちに無理やり奪われるかもしれない! ……はぁっ……俺は、それを食い止めたい」

 

 吼月くんがズボンを強く掴む。よほど切羽詰まっているのか苦しそうに呼吸を繰り返す。

 

「はぁ……ふぅ……その為に力をお借りしたいんです。悪い吸血鬼を倒すために」

「そうか、友達のために」

「友達だからだけではありません。……彼は家族と離れ離れになるのも嫌がってましたし」

 

 吸血鬼は人を騙し欺き食糧とするもの。人の恋心を利用して近づき、破滅に追いやる悪しき存在だ。夜守くんと同年代である吼月くんの友人ならば中学生か、高校生ぐらいだろう。

 そんな若い子の将来を奪うことは許されない。

 

「その通りだ。吸血鬼に関われば、不幸になるのは恋した人間だけじゃない。その家族だって悲しい想いをすることになる」

「探偵さんもその苦しみを–––」

 

 言葉を遮る形で私は頷いてみせれば、吼月くんがそれ以上迫ることはなかった。

 

「職業柄、人探しは多くてね。依頼された行方不明者が吸血鬼に関係していたケースは少なからずある」

 

 そして、それは《星見キク》と呼ばれる吸血鬼に行きたくことが殆どだ。加納もあの女の被害者のひとりだった。

 私も吸血鬼によって苦しめられる者の気持ちはよく理解できる。それは探偵としても、一個人としても見てきたからだ。

 

「吸血鬼は存在自体が悪だ。人の不和を起こし、崩壊させる」

 

 恋愛は容易く人の関係を壊すことができる。それが家族という枠組みに住む人ならそう簡単に後戻りできなくなる。

 私の言葉を聞いて、吼月くんは再び頭を下げた。

 

「そのお友達と話すことはできるかい?」

「出来ません。探偵さんと話すな、と吸血鬼たちに脅されてしまっているので」

 

 聞けば、吸血鬼によって人の腕が飛ばされる現場を目撃してしまったらしい。それにより吸血鬼に対する恐怖が根強く、逆らう気が起きていなかったそうだ。

 

「もしかしたら、電話やメールだってバレてしまうかもしれません。仮にかけても、こんな時間ですから出れないでしょう」

「こんなこと御家族にも相談できないしな」

「……だから、ここにも俺が来ました」

 

 吼月くんが絡んでいるとなれば、蘿蔔ハツカもこの件に関わっているとみるべきだろう。

 あの女のような男は吸血鬼の中でも聡い部類に入る。以前、秋山を襲った時に吸血鬼の弱点を看破したのも蘿蔔だ。そして、頭の回転だけでなく、戦闘での立ち回りも他の吸血鬼より手慣れている様子だった。

 相手の初動を潰すことぐらい視野に入れているかもしれない。

 

「しかし、吼月くん。キミだって眷属候補だろう? 蘿蔔ハツカの。なのにここへ来れたいのかい?」

「ハツカの眷属候補だからこそですよ。面白いですよね。話をした限り、ハツカのならまあ大丈夫だろうと、他の吸血鬼たちは俺への警戒は薄くしているんです。立場として、今後吸血鬼になるが俺なので」

 

 不敵に笑ってみせるの彼だが、本当に大丈夫なのだろうかと思えてしまう。

 

「俺が探偵さんにお願いしたいのは、撃退または撤退を前提とした時間稼ぎです」

「時間稼ぎ? 殺すではなくか?」

「はい。殺すべきなら殺した方がいいですが、明日の夜明け頃……日の出前にはこの街の外へ動き出す手筈になっていますので、弱点を見つける時間はないでしょうし」

「……え? 明日?」

 

 肯首する彼を見て、私は目を瞬かせた。

 明日の夜明けということは–––––時間を確認しようと壁面に視線を這わせるが、事務所を引き払った時に捨てたのを思い出した。ため息をついて、この部屋の時計はどこだったかと目を動かす。それに気づいた吼月くんは左腕につけたGショックのような腕時計をこちらに見せてくる。

 

「23時……56分。もう殆ど今日じゃないか!?」

「仕方ないじゃないですか、今日決まったんですよ」

「だからってね……昼間からではダメなのかい?」

「先ほども鶯アンコさんが仰っていたじゃないですか。準備さえすれば日中でも見張ることができると。それに明日は平日です。普通であれば学校があって、普段とずれた行動をするとなれば目が厳しくなります。

 それに吸血鬼が出なくても、吸血鬼側にいる人間だって使われるでしょうし。すぐに動いた方が……効率がいい」

 

《魅了》の存在を信じているのに今さら否定すれば、こちらの言葉が彼に届かなくなる恐れがある。

 だから、私はその形で受け入れるしかなかった。

 吼月くんは姿勢を正してこちらを見直す。

 

「無理にとは言いません。下手に関われば殺される危険性だってありますから、俺がひとりでなんとかします」

「やらないとは言っていないだろ」

「いいんですか?」

 

 ああ、と私は頷き返す。

 吸血鬼は殺す、必ず。

 

「ありがとうございます。でしたら––––」

 

 吼月くんが私に礼を言うと、さっそく作戦について話し合う。できれば彼にも吸血鬼が如何に恐ろしい存在か理解できるよう努めよう。

 

 

 

 

「今日の日の出前に会う?」

 

 月明かりだけが照らす夜道で男–––岡止士季がポツリと安堵した呟きをする。街灯もない暗がりでその声を聞く者は私たち以外いない。

 情報屋としてカオリ()は岡止と午鳥に会っている。先日渡した紙に書いた場所、日時がこのタイミングだったからだ。

 

「ええ、ふたりは沙原くんの自宅のそばにある広場で会う。掴めたのはその情報だけよ」

「……そうか、よかった」

「探しても見つけられなかったものね」

「ほんとに……はぁ……」

 

 エマと沙原くんが出会うことを伝えに来たのだが、その事を知っただけで彼は嬉しそうにしている。大方、エマがようやく血を吸うのだと考えているようだ。

 隣にいる午鳥もホッとして少し気を緩めていた。

 おめでたい頭だこと。毒付くように私は肩を落とした。

 

「本当に大丈夫だと思っているの?」

「……流石にもう大丈夫でしょう」

 

 岡止の代わりに午鳥が口を開いた。

 私は即座にそれを否定する。

 

「身内に甘いのは自警団としてどうなの? 血を吸うとは限らないのは、あなた達が一番分かっているじゃない」

 

 ムっと口を尖らせた岡止もそれはキチンと理解している。

 自発的とはいえ吸血鬼を諌める立場に居ようとする存在が、自分の知り合いには融通を効かせたらもう話は聞いてもらえなくなる。道理とはそういうものだ。共通しているからこそ、道として成り立つ。

 

「今日の日の出のことを考えれば、5時20分にはいるべきでしょうね」

「分かっている。やるべきことは最後までやる」

「ええ、貴方ならそうするでしょうね。集められるだけ仲間を呼んでおくこともオススメするわ」

 

 責任感のある彼ならやってくるのは想像できるが、強いることで行動を確定させておきたかったのだ。

 話を終えて私は背を向けた。

 

「待て、血は?」

「いらないわよ。予定より二日も待たせたんだもの。取引に使える分があるなら、なにかあった時のために備えなさい」

 

 情報の対価として血を貰う。それがこの取引の最初の在り方だったが、それは反故にすべきだ。

 

「そうそう。もし、彼女が貴方たちに逆らうようなことがあれば……目を潰しなさい」

 

 私の忠告に岡止の顔が引き攣った。どうせ吸血鬼なんだからすぐ治るのに、どうしてそんな顔をするのかしら。

 私は背を向けたまま空へ舞い上がり、彼らの視界から姿を消した。

 

 さて、見せてもらうわよ吼月ショウ。

 

 

 

 

「沙原奏斗。にしても、よりにもよって小森工業か」

「ええ。あの学校にも吸血鬼がいる」

「平田ニコ、10年前から夜学で勤めている教師。はぁ……面倒だな。止岐花エマというこれまた吸血鬼を知ってしまった女性が、彼を街の外まで運んでくれるんだな?」

「ええ、その通りです。探偵さんには吸血鬼が追ってきた時に所定の位置で対応をしていただきます」

 

 吼月くんからひと通りの話を聞き終えた私は首を傾げた。

 急拵えの作戦のため大きな粗があるのもそうなのだが、

 

「本当にこの作戦でいいのか? 私の役割が本当に時間稼ぎだけだが」

「問題ありません。それだけ時間を作ってくだされば、残りはこちらでなんとかします」

「だが––––」

「大丈夫です」

 

 二の句を継ごうとする私を一言で制する。突き放すような口調の少年は自信に満ちているが、危険なことに変わりはない。

 本来なら私が全てやるべきだ。

 こんな子供が吸血鬼と関わって欲しくない。

 しかし、私が表立ってその場に出向けば余計に対立が激しくなるだろう。

 

「こんな時のために吸血鬼たちを見てきたんですよ。俺がここに来れたように、使えるモノも増えましたから」

 

 だが、言っても止まらない。仮に代わると提言してもそれを彼は認めなかった。ひとりで突き進みそうな危うさがこの子にはあった。

 ここに助けを求める時点で、彼は吸血鬼に殺されても仕方ないと判断されるだろう。

 そんな危険な立場にいることをまるで自覚していないように。

 

「それに本当の事を言えば、吸血鬼たちが来るかもわからないんです。来なければ、そのままこの街を抜け出す。現れれば時間を稼せぐ。なので……もしかしたら、鶯アンコさんの出番もないかもしれません」

「そうなる事を願っているよ。弱点がなければ殺せないしな」

 

 奴らに話が通じるとも私には思えないが。

 話を一度区切り、彼に尋ねた。

 

「なら、キミはどうする?」

 

 今度は彼が首を傾げた。

 

「俺の吸血鬼の対処であれば先ほども話した通り大丈夫です。切札もあります」

「そうじゃない」

 

 その切り札について気になるのは確かだが、今はこの少年の安否も大事だと私は思う。

 

「でしたら、なにを?」

「その切札が機能したとしても、それを持っている君が今まで以上に危険に晒される恐れがある。キミはこの街に残らなければならないし、一年後にはキミは殺されることになる。それではキミが救われない」

 

 そう告げた瞬間、吼月くんの瞳から光が消えた。

 

「……? どうした、大丈夫か?」

「あ、え、? あ、あぁ、単純に言われ慣れない言葉だったので、つい……吸血鬼のことですよね!まあ、そうっすね眷属候補ですし。でも沙原や止岐花は高校生ぐらいなんで稼げますけど俺はまだ中学なので最終学歴が中卒もないは不味いですからまだあと一年ありますしなんとかアイツとはチグハグな関係を」

「もっとゆっくり喋りなさい。聞き取れないから」

「すみません……」

 

 私が声をかけ直せば瞳に明かりは灯ったが、浮かべる愛想笑いはどんな心が籠っているのだろうか。本当は吸血鬼側の人間で、脅威を感じていないのかもしれない。

 だけど、なんだ? 別の意図が含まれているような気がしてならない。

 深呼吸をして落ち着きを取り戻した彼は、私に問う。

 

「俺も吸血鬼から救うとして、どうするんですか?」

 

 そんなもの決まっているだろう。

 

「吸血鬼を私が皆殺しにする。これでキミは救われる」

 

 その発言で部屋の空気が凍りつき、吼月くんが唾を飲み込む音が聞こえるほど静かさが極まった。

 さぁ、どう思う?

 以前、夜守コウにこの話をした時は『俺はあんたの考えを肯定できない』と手を払い除けられてしまった。吼月くんが敵なら夜守くんと同じ道を通るだろう。

 できれば、私の手を取って欲しい。

 

「……本当に、吸血鬼を全て殺すことができるんですか?」

 

 望んだ答えではないが、彼にとっては当然の疑問。

 

「ああ。キミが人間と生きるならそのために私はなんでもする。だから、安心したまえ」

「なんでも」

「命をかけて成し遂げるよ」

 

 彼は言葉の意味を噛み砕こうと少し黙考してから口にした。

 

「鶯さん……ありがとうございます」

 

 子供らしいあどけない笑顔を浮かべるのだった。

 彼は十中八九、私側の人間だ。

 

 

 

 

 では、また後で。

 それだけ鶯アンコに言い残して、吼月ショウ()は彼女の家を後にする。

 生活感が殆ど無い綺麗なだけの部屋から俺が通路に現れると照明に灯りがつき、ひりつく人肌まで温まったようなに思える。それは精神的な温度差であった。

 ひとりでいる方が好きな俺ではあるけれど、人といてここまで辛くなるようなことは初めてだった。いや、この衝動すら正しいのか分からない。

 理由が分からない。

 原因も知らない。

 でも–––––彼女の望みが叶うとしたら方法はひとつだろう。ポケットにしまっていたスマホを強く握る。

 照明の数を数えながら通路を歩き、エレベーターを使って一階まで降りる。

 ビジネスホテルの自動ドアを潜り外へ出る。

 辺りを囲う木々の壁を通り過ぎると、視界の上部で何かが動いた。

 

「ハツカ?」

「残念、私よ」

 

 目の前に降り立った彼女は、今日も般若の仮面をつけた奇抜な面で俺を見る。

 

「どこに行っていた?」

「岡止のところよ。貴方は……上手くいったのかしら?」

「まあ、大体な。カオリは早々にここから出て行ったな」

「望みのものは見れそうになかったし」

 

 その言い草はまるでゲームを視聴する観客のような気楽さを含んでいる。

 探偵さんと会う前の『殺されるかもしれない』というくだりで、俺を関わらせた理由の一つは分かった。あの吸血鬼紛いの能力をその目でもう一度観たいのだろう。

 けれども、ホテルに入ってすぐ視線を感じなくなった。すぐに見切りをつけて岡止達の下に向かったのだろう。

 それは俺にとって朗報だった。

 

「どちらにしろ、貴方は後戻りはできないわ。もう始めるしかないもの」

「そうだな。だが、それはお前も同じだ」

「言っておくけど私は情報屋よ。貴方に話を流そうが、岡止に情報を渡そうが仕事でしかないもの」

「いいや。高みの見物なんてさせやしない。お前には鶯アンコを守ってもらう」

 

 俺の言葉を理解しながらも彼女は仮面の奥にある目を瞬かせていた。

 

「あの探偵を守って私になにかメリットがあるの?」

「あるに決まってるだろ」

 

 この女が俺と初めて出会った時に示した生き方。

 

「『吸血鬼の行いによって人の世が乱れることはあってはならない』––––その主義が守れるんだ。自分を大切にする以上のメリットかあるか?」

 

 仮面で表情を確認することはできないが、足元を掬われたような苛立ちが覗く瞳から伺える。

 暫し、視線を交えているとズボンに入れていたスマホが震えた。寝静まっていた時に唐突に跳ね起きたような振動は、集中してる時の心臓には負担が大きいなと思いながらスマホを取り出した。

 

「お前が自分で敷いたルールなんだろ? 実現してみせろよ」

「……ホント、貴方は」

 

 俺はカオリの横を通り過ぎて別れた。

 そして、スマホの画面に表示された名前を見て、なぜかニヤリと笑ってしまった。

 

「もしもし、ハツカか?」

「久しぶりだね」

 

 聞こえてくる声は二日ぶりだと言うのにとても久しく感じられた。耳を委ねたくなるような綺麗な声だ。

 

「いま、なにをしているのかな?」

「……分かってるだろ」

「やっぱり、まだ関わってたんだ」

 

 子供の無茶な行動に呆れる親のような声でハツカはそう言った。俺の主観だがとても面倒で、やって欲しくない否定の声音でもだった。

 

「ハツカは岡止たちの状況をどこまで把握してる?」

「……探偵さんによって吸血鬼の被害が増えているから、エマちゃんを危険から遠ざけるために士季くんが躍起になってる。吸血鬼化はふたりで長く一緒に居させるためでもあるし、身を守る手段でもある。調べられるところまでは聞いたよ」

「……鶯アンコに人間が殺せるのか?」

「好きな人が襲われていて、止めに入れないほど恋心は死んでないよ沙原くんは。探偵さんは実際、夜守くんや夕くんにも手を出していたし。吸血鬼とはいえ、相手の体を嗤いながら何度も刺すような女だ。なにをしたって不思議じゃない。はずみで殺してしまうかもしれない」

「いいや、彼女に人間は殺せない」

 

 本当にそう思っているのか?

 自身の疑惑が喉元に迫り上がってくるのを押さえつけながら、俺は断言してみせた。理世やハツカへの衝動じゃないんだ。まだ耐えることが出来た。

 彼女は善人だ。

 マヒルから聞いた話と解釈が合っているか確認するために化かしてみたが、彼女の中にあるのは憎悪だけじゃない。他者に向ける優しさと後悔があると思えた。

 こちらがわざと語らなかった部分もあるけれど、彼女はきっと俺との会話で悲観的なことを考えていたと思う。

 

『吸血鬼は恐ろしい存在』–––鶯アンコさんとカオリの証言。

 

 存在を語られず吸血鬼にされる人間は一体限りだという思考も確かに俺の中にはあったのだろう。

 余りにも能天気な考えだ。決めつけて、動かずに後回しにしていた。

 きっと想像よりも多くの人が嘆いてる。

 やはりこの状況は変えなければいけない。

 

「あの人も正しいよ」

 

 俺の衝動はハツカからの不信感を買うには充分だった。

 

「今どこにいるの?」

「さあな。少なくとも必要な場所に来ているよ」

 

 電話の向こうの彼は、俺が鶯アンコに会ったのではないかと想像できたのだろう。明らかに声量が大きくなり、背筋まで凍えるような女王様の声になっていた。

 

「……ひとつ、訊かせて」

「なんだ?」

「スタンスは変わらない。その言葉に偽りはない?」

 

 その問いにまたニヤリと微笑んで、肯定した。

 

「俺の生き方は変わらない」

「そっか。ならキミの作戦、聞かせてもらいたいな」

「ダメだな」

「僕が吸血鬼側だから?」

「それだけじゃないさ」

 

 時計を回して、明日の1秒に進めるために必要なトリガー。前に歩くためのトリガーは誰にも教えちゃダメなモノだから。

 

「俺のゲームに乗るなら、ヒントぐらいはやるぜ」

「……いいよ。乗ってあげる」

 

 ゲームに参加する意思をハツカが見せてくれて俺はホッとしていた。カオリが岡止たちに流したであろう情報をハツカにも渡してから、ヒントを語る。

 

俵藤太(たわらのとうた)百足(ムカデ)退治。知ってるかい?」

「滋賀県の民謡だった気がするけど。それが?」

 

 簡単に整理すると––––

 

 瀬田の唐橋に大蛇が横たわっていた。

 人々は怯えて渡ることが出来ず困り果てていた時、そこに俵藤太が通りかかった。彼は臆することなくとぐろを巻く大蛇を踏みつけて、橋の向こう側に渡った。

 大蛇はその勇気を認めて、人の姿を借りながら、俵藤太に巨大百足の退治を依頼をすることになる。

 

––––これが、この物語の始まりだ。

 

「弓が得意な俵藤太が矢に唾をつけて念じ、それを放ってムカデという災いを葬るのが結末だ。そう、唾をつけてね」

「そこが–––」

「おおっと、質問は受け付けないぜ。吸血鬼ならここから答えを出してくれよ?」

「そう。なら、いいよ」

 

 電話からハツカが鼻を鳴らした音が聞こえてきた。なんだかとても楽しそうな雰囲気な彼には余裕があるのが分かる。

 まるで玉座と錯覚させるほど、いつもの赤いソファ––––もしくは久利原–––に悠然と腰かけ、大層な頬杖をつく彼の姿が容易く想像できた。

 もう話すことはなく、俺たちは電話を切った。

 

「さあ、今宵も化かし合おう」




 


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第四十一夜「入れ知恵」

 17巻、今週発売ですね!
 マヒルくんが木刀持ってる表紙だったから、ちゃんと渡せたのかな?


 寝静まっている父さんと母さんを起こさないよう玄関の引き戸を開けて外に出た。後付け用のスロープを使って目の前の階段を苦もなく降りていく。

 

「……バレてないな」

 

 安堵のため息を吐く。ここで呼び止められたらどう言い訳をしようか困るので見つからなくて良かった。

 

 一度スマホの時間を確認して–––5時20分–––これなら約束通りに着く。

 

 昨日、エマから連絡があった。

 吼月に相談して後だったとはいえ、目を疑うほど驚いた。俺から連絡することはあっても、彼女から来るとは思ってもみなかったから。

 そして『広場へ5時25分ちょうどに来てください』と書かれていた。

 

 広場へ向かって車椅子を漕いでいくと、アスファルトの小さな段差が車椅子を小刻みに揺らしていく。目の前には空を遮る建物はなく、地平線が闇なのか光なのか曖昧な光景を見せてくれる。

 黄色から赤へ。赤から青へ。青から藍色へ。そして黒へ。グラデーションがかかった空はとても不思議で心を刺激する。

 その景色だけが脳に残るだけで、久しぶりにエマとマトモに会えると考えていると気づいた時には広場にいた。滑り台やジャングルジムといった数少ない遊具が鎮座しているだけの寂れた場所を横切ると、金網の向こうにひとりの女性が立っていた。

 間違いない、エマだ。

 バスケットコートの中央に立つ彼女はこちらに背を向けて、その表情はまだ見えない。

 少し怯えながら震えた声で彼女の名前を呼んだ。

 

「……おはよう、エマ」

 

 コートに入るとエマも俺に気が付き、くるりと身体をこちらに向けた。

 

「おはよう、奏斗くん」

 

 快活で嬉しげな返事を投げかけてくるが、いつもより影を感じる。

 俺たちは近づいて、あと数歩だけ進めば相手に触れられる距離になる。声をかければ確実に聞こえるけれども、口をまごつせて切り出せずにいる。

 話を聞きたいと決心したは良いけれど、いざ聞くぞ!となると緊張する。

 

「ごめんなさい」

 

 沈黙を先に裂いたのはエマだ。深く頭を下げる。

 

「いろいろ怖い思いさせたよね」

「……ああ、それはもう」

 

 岡止に連れ去られそうになったのも、蘿蔔と呼ばれる吸血鬼が同じ吸血鬼である午鳥の腕を切り裂いた時も当然怖かった。切断された腕が宙を待って橋に落ちる光景は夢にまで出てきた。

 それにエマから殺気を浴びせられながら首を噛みつかれかけたときも、それなりに怖かった。

 愚痴を話すように、この身に感じた恐怖を語るとエマはもう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。

 

「だったら、俺の聞きたいことに……ちゃんと答えてくれるよね?」

「うん、答える」

 

 心が落ち着かせるように周囲の冷たい空気を吸い込んで、一思いに吐き出してから尋ねた。

 

「エマは俺を吸血鬼にするために一緒に居てくれたの?」

 

 俺が一番知りたかったこと。

 首を左右に振ってエマは否定した。

 

「違うよ。きっと出会ってすぐの頃はそんな感情も少なからずあったんだと思うけど、それよりも大きなモノがあったから」

「それってどんな?」

「ラインで最初の頃に送ったメッセージ覚えてる?」

「えっと、確か……『ギラギラしててカッコよかった』だったかな。なんか独特な表現だったから記憶に残ってる」

「……独特」

 

 というのは半分本当で、半分方便だ。

 ラインを交換してすぐのことであり、俺が初めて車椅子バスケの公式試合に出た時のことでもある。けれども、エマが見ている前での試合だったので余計に印象に残っていた。それが本当のことである。

 

「初めて会った時、アタシ、バスケしてたじゃない?」

「そうだな」

「きっかけは奏斗くんだったんだ。去年の夏の頃、市民公園の体育館で奏斗くん試合してたじゃん。友達に誘われてアタシもその場にいてさ、観てたんだよね」

 

 エマは出会う前から俺のことを知っている様子をみせていたので腑に落ちる。

 

「その時の奏斗くんのシュートがカッコよかったから、興味が出て練習してたんだ」

 

 このバスケットコートを教えてくれたのもその友達らしい。エマもそうだが、吸血鬼の中にもバスケを楽しむ者がいるのはなんとなく嬉しかった。

 

「そこから暫くして奏斗くんと出会って、バスケしたり遊んだり、時々トレーニング手伝ったりして……人間と友達みたいな関係って初めてだな〜楽しいな〜って思って過ごしてた時に、夢の話してくれたじゃん。バスケ選手になりたいって」

 

 俺の夢についてはエマにも話していた。

 だからエマがその夢を壊すために仕掛けた罠かもしれないと最悪の想像をしてしまったのだ。

 

「それで気付いたんだ。奏斗くんがバスケに真摯に取り組めるのも、ギラギラしてるのも夢のおかげなんだなって。……アタシは夢とか見たことなかったから、余計に感じちゃってね。

 だから、このあいだも……吸血できなかった」

 

 しかし、そんなものは杞憂だったんだ。俺は吸血されそうになったときに殺気を感じたが、それはエマが吸血すれば俺の夢を壊すことになるのを自覚していたからだ。

 今度はエマが大きく息を吸って俺を見据える。

 

「私はまだ奏斗くんに夢を追っていて欲しい」

 

 その声は一言一句ハッキリと言い間違えることも、聞き間違えることもない真っ直ぐなものだった。エマの意思が面と向かって俺に投げ渡されているのが分かる。

 エマは俺に『吸血鬼になって欲しくない』のだ。

 

「アタシの言葉、信じてくれる?」

「うん、信じるよ」

 

 迷うことなく俺も返事をする。まるで答えが間違いじゃないと心の全てで理解しているかのようだった。

 もし理由があるとすれば、好きだから肯定できるのかもしれない。

 途端に身体中の力が抜け始める。

 

「はあぁ〜……疲れた」

「だ、大丈夫?」

「いや、肩の荷が降りるってのを実感してるわ。エマが性悪女じゃなくて本当に良かった」

「……念の為聞きたいんだけど、どんな想像してたの?」

「俺の夢を壊して不幸を楽しむクソ女」

「酷くない!? いや、まぁ……状況が状況だから否定できないけどさぁ……!!」

「だったら、なんで本当のことを言ってくれなかったんだよ」

 

 エマはどう答えたものかと悩みながら数秒ほど唸ったあと小声で呟いた。

 

「だって信じてもらえないと思ったから……」

「え?」

「吸血鬼って急に言われても信じないでしょ。昼間にも会ってるわけだし」

「でもエマが言うならそうなんだろ? 漫画ならよくある設定な気がするけど」

「そう、なの……? その辺りは詳しくないから」

「なら今度面白いの教えるよ!」

 

 そこから俺たちは取り留めのない話を交わし出す。

 

 昼間に会いに来てた時は辛くなかったのか?

 ––––辛かったけど、服で対策したり余りの血を飲んだりして耐えてた。

 この一ヶ月間どうしてたの?

 ––––ずっとお互いのことを考えてた。

 ここに来るまで嫌じゃなかった?

 ––––嫌われてるだろうと思うと凄く苦しかった。

 

 一ヶ月間の空白を取り戻すように俺たちは喋り続けた。ただ互いの気持ちを確かめているだけでもとても楽しかった。あれだけ疑っていたのにも関わらず、こうして話してみるとすんなりと真実として受け止められている。

 

「……気になることがあるんだけど聞いていい?」

「いいよ」

「岡止って吸血鬼とはどんな関係なの? 幼馴染って言ってたけど」

「えっとね、士季くんはね……」

 

 士季くん。

 ムカつくなぁ〜……。

 

「私の親吸血鬼、なの」

「……ふむ。……?」

 

 一度飲み込もうとしたものが喉につっかえるように、理解を阻む感情があった。

 人間が吸血鬼になるには、吸血鬼に恋心を抱いた状態で血を吸われる必要がある。そして、岡止がエマの親吸血鬼ということは、

 

「え!? エマの初恋の相手なの!?」

「初恋といえば初恋だけど、多分奏斗くんが想像してるのとは違うと思うよ」

 

 言いにくそうに頬を掻く。

 

「人間だった頃、アタシ、病院に居たんだ」

「え?」

「確か免疫疾患だったと思う。最初は風邪だと思ってみんな軽く見てたけど、次第に目も見えなくなるし、体も動かなくなるしで……入院して、時間経って、お医者さんからもう治療できませんって診断されててね。

 お母さんもお父さんも入院し始めた頃は見舞いにも来てくれたんだけど、治らないってわかった途端来なくなってね。でも、士季くんは欠かさず来て手を握ってくれてね……縋れる相手が彼だけだったから、いつしか––––っていうのが正解だと思う」

 

 吸血鬼になると人間だった頃の記憶は次第に薄れていくと彼女は言うが、中々この頃のことは忘れられず、朧げだが覚えていた。今でもあまりベッドで横になるのが好きではないらしい。

 本人曰くショートスリーパーだから、長く寝る理由もないとのこと。

 

「ある時、突然目が見えるようになって体も動くようになって、そばには士季くんが居た。何がなんだか分からなかったんだけど……彼からは『エマは吸血鬼になった。病気も治ったよ』って言われてね。

 説明は受けたけど、最初はよく分からなかった。吸血鬼って薬品でもあるのかな、とも思った。でも少し昔通りに生きてみたら、陽の光は痛いし辛いし、士季くんから渡された血を飲んだらすごく美味しかった。

 そこで初めて、アタシ吸血鬼になったんだな〜って自覚したよ」

 

 エマの話を聞いていると吸血鬼ってなんなんだろうと考えてしまう。

 陽の光が痛くなるってどんな感覚なんだろう?

 血が美味しいってどんな味なんだろう?

 なんで吸血鬼を知ったら人間は眷属にならなくちゃいけないんだろう?

 湧いてくる疑問は尽きない。知りたいと思った。

 

「突然吸血鬼にされて嫌じゃなかったのか? 家族にも会えなくなるんだろ?」

 

 その中でいま一番聴きたかったことを訊ねた。

 

「家族はもうアタシが居ないとして生活してたし別にいいかな。そこら辺ももう朧げだけど。少なくとも恨むなんてことはなかったよ」

「……」

「だって、人間だったら見れなかった物が沢山見れるようになったんだから、恨むはずがないよ」

 

 すごくにこやかに笑ってみせる彼女はまだ登らない朝日よりずっと輝いている。

 

「士季くんには恩がある。だからアタシは吸血鬼の自警団にも入ってる」

「……岡止から聞いたよ」

「本心からは奏斗くんには夢を追い続けて欲しいと思ってる。けれども、アタシの立場からはキミには吸血鬼になって貰わなくちゃいけない」

 

 エマの身を案じるなら吸血鬼になった方がいいと俺は思う。

 

「奏斗くんはどうしたい? 人間として夢を追うか、吸血鬼になって私たちとずっと一緒にいるか」

「俺は––––」

 

 だけど、それはまだ早いとも思った。

 人間のまま吸血鬼と一緒にいる術があるかもしれない。

 

「俺は人間のままがいい。エマの本心が望んでることで俺が目指してる夢だから」

「そっか。なら、仕方ないね」

 

 頷くエマの顔は歪だった。

 目元は自分を助けてくれた親とも呼べる存在を裏切らなければならない辛さ、あるいは、俺を吸血鬼にしようとする悲しみで陰ができている。その一方、口元は俺が夢を追いかけたいと宣言したことが嬉しいのか笑みを湛えている。

 

「吸血鬼のままバスケ選手になれたりする?」

「無理だよ。大会に出ようとして、バレかけてシメられた吸血鬼が何人かいるし」

「前例があったのか……」

「力をひけらかしたいだけの吸血鬼もいるしね。それを糺すための自警団だし。……よし、覚悟決めますか」

 

 彼女の目元の陰が消えた。

 顔を上げ、目線をより高くした。

 

「ねえ、どこかで聞いてるんでしょ? 士季くん!」

 

 声を張り上げれば、その返事かのようにコツと足音が鳴る。

 俺の背後からだ。

 車椅子を動かして後ろを見てみれば、エマの親吸血鬼である岡止士季の姿がそこにあった。

 彼だけではない、午鳥萩凛と呼ばれていた女性ともうひとり見たことのない眼鏡をかけた男性が居た。

 

「何のつもりだ、エマ」

 

 

 

 宙から士季くんと午鳥さん、それにメガネをかけた男性–––白山(しらやま) 和樹(かずき)さんがやってきた。

 3人から奏斗くんを守るように間に立つ。

 

「お前も自警団ならやるべきことは分かっているはずだ。吸血鬼の存在を知った人間は我々の脅威になりかねない。眷属にするか、殺す。その二択でやってきた。

 なにより今の沙原くんはお前の人間の頃の話を聞いてしまった。もし、これが吸血鬼殺しにでもバレれば取り返しのつかないことになる」

 

 吸血鬼にとって人間の頃の話は弱点に繋がるタブー。無意識下で話さないようにしてしまうぐらいには。

 

「そうだね。でも、ちゃんと応えたかったから」

「……エマ」

 

 士季くんは失望よりも私のことを心配してくれている。

 覚悟を決めたつもりでいたけれど、その優しさが胸を強く締め付けて、今でも沙原くんの血を吸って楽になりたいと考えてしまう私も居る。

 

「それに沙原くんはそんなことしないよ」

 

 だけども、引くわけにはいかない。今まで奏斗くんと触れ合ってきた私が士季くんの憂いを否定する。

 そしてアタシは短く息をして、思考を整える。

 

 –––––昨日のメッセージのやり取りを思い出す。

 無視を続けてきたアタシに奏斗くんからメッセージが届くことはなく、縋るようにラインを送った。

 

『キミならなんとかできるの?』

 

 送り先は吼月ショウと名乗った少年だった。

 吸血鬼の友達に相談しようにも、自警団という立場と吸血鬼の中にある掟によって結論ありきの会話になってしまう。吸血鬼になってから多くの人間の男に言い寄られるようになったが、相談できるような人間はいない。

 そんな私が本音をぶちまけられる相手は吼月くん以外居なかったから。

 

 キミたちが望むなら俺は力を貸す、という言葉に微かな希望を持っていたのも事実だ。

 

 甘言だの、奏斗くんが唆されていないかと心配しておきながら、自分で頼っているのだから情けない。

 少し待つと返信が来た。

 

『できるぞ』

 

 端的で明快な答えだった。

 自分で尋ねておいて悪いとは思うのだが、どうしてそこまで自信を持てるのだろうか。まるで正解までの道筋が書かれた地図を見ているかのようだ。

 

『止季花はどちらか片方だけを選びたくないんだろ? その願いは正しいよ』

「……っ」

『その願いを叶えるための準備は進めてる。あとはお前たちふたりが面と向かって想いを告げて、応えるだけだ』

 

 続くメッセージが胸に突き刺さる。肯定された安堵を自覚すればより深くへ言葉が食い込む。

 

『沙原は腹を括ってる。岡止を説得する手段も見つけてる』

『そんなものがあるの?』

『あるぞ』

 

 また短い文で返してくる。

 どんなものかと彼に問う。

 

『生きてる存在を理解するには時間がいる。なら、作ってやればいい。沙原が止岐花に恋した時間、止岐花が沙原を信頼するに至った時間。【一年分】と同等のものを岡止たちに示すために。

 俺たちと同じ、友達にまで堕ちてこい』

「……ぁぁ、そうだ。……そうだね」

 

 強調された一年という月日の流れ。

 吸血鬼である自分がこんな大事なことを失念していたなんて、思わず笑いが込み上げてきそうだ。

 つまり、スマホ越しの少年はこう告げているのだ。

 吸血鬼たちを落とせ、と。

 士季くんたちを信頼させて、奏斗くんを人間のまま居させるために。

 

『だから、会いにいけ。傷つけたくないなら自分の手で守れ。臆するな。沙原はキミが思うよりもずっとキミのことが好きだ』

 

 そのためには、時間を作る!!

 

「親不孝だけど、やりたいことをやらせてもらうよ」

「そうか。なら……どけ!」

 

 蹴った地面が抉れるほどの力で士季くんはアタシに飛びかかった。爪を鋭く伸ばした手を視認すれば、怪我を負うことを想像させる。

 腕が斬り落とされても平気なぐらいには吸血鬼は痛みに対して人間より鈍感だ。

 けれどちゃんと痛みはあるし、それを味わうのは嫌いなんだ。

 治りはするけど痛いんだから。

 透過してしまえば怪我をしなくて済むけれど、アタシの身体を突き抜けた手は奏斗くんに届いてしまう。

 これからのことを考えれば傷は負いたくないし、奏斗くんに傷を負わせたくない。

 ならば、どうするか––––こんな世界は忘れさせてもらおう。

 

「吼月くん!!」

 

 アタシがそう叫ぶと金網がガシャン!と音を立てるのと、士季くんが身体をくの字に折って吹き飛ぶのは同時だった。

 目の前には既に少年が立っていた。

 風で黒髪を靡かせる吼月ショウの姿がそこにあった。

 彼の拳を士季くんは寸前のところで両腕をクロスさせて防いだ。足を地に突き刺して音を立てながら勢いを殺した。コートの中央からコートラインの外まで続く深く抉られた痕が彼の拳の凄まじさを物語る。

 

「……なんだ?」

 

 士季くんは赤く腫れた腕を見る。そのアザはすぐに治癒していくが、それでも驚愕の事実であることには違いない。攻撃を受けた本人だけではなく、午鳥さんと白山さんも理解できていない様子だ。

 かくいうアタシも戸惑っている。

 

––––人間が吸血鬼を殴り飛ばした……?

 

 士季くんの想定の外から殴りつけたから透過を使うことができなかったのも判る。

 けど、吹っ飛ばせるか普通……?

 彼からは吸血鬼の気配なんてしないのに。

 

「さて、ゲームを始めようか」

 

 不敵に笑う彼から目線が送られ、アタシは相槌を打つことでその疑問を振り払う。

 

「行くよ! 奏斗くん!!」

「え? お、おう!!」

 

 奏斗くんのもとへ駆け出して、彼を抱きかかえる。

 ガタッと車椅子が激しく揺れる音がした。

 

「––––いや、たっか!?!?」

 

 振り返り見下ろしてみれば、既に地上から十数メートルは飛び上がっていた。広場には呆然としている士季くんたちの姿があった。

 

「え? なに? どういうこと!?」

「吼月くんが言ってたでしょ? ゲームだよ」

 

 アタシは近くにある電柱の上に立つ。

 

「追いかけるぞ!!」

「ちょっと待てよ」

 

 士季くんが命令を出して跳び立とうとするのを吼月くんが襟元を掴んで阻止する。成人男性分の質量が金網に激突し、大きな音を立て揺れる。

 

「––––吼月ッ! お前!」

「ルール説明がまだだろ? 話ぐらい聞いてけよ」

「訊いてる場合か!」

「おっと」

 

 士季くんが鋭い爪を振り上げるようにして反撃の一手を繰り出す。それを上半身を逸らして躱し、手を離して距離を作る。

 ふらりの身を引いた吼月くんに士季くんが吠える。

 私たちを見つめる他の2人の吸血鬼の視線も厳しくなる。

 

「これもお前の入れ知恵か」

「正解だ」

「ごめんね、士季くん。これだけは譲れないの」

 

 広場に設けられた時計台が指し示す時刻は5時40分。昨日の日の出の時刻が50分だったから……。

 

「日の出まであと10分。ちょうど1クォーター分。それまでアタシたちが士季くんたちから逃げきったら話を聞いて欲しい。もし捕まったら奏斗くんを吸血鬼にする。奏斗くん。付き合ってもらうよ」

 

 両腕に抱えた奏斗くんに目をやると、彼も私を見つめて相槌を打ってくれた。

 

「そんな勝手なゲームに乗るわけないだろ」

「いいや、乗ってもらう。そのために俺がいる」

「ふざけるな!」

 

 怒りに身を任せて士季くんが拳を握り、吼月くんに迫った。

 不味い–––と思わず二人の間に身を投げ出しそうになるが、攻撃が届く直前、吼月くんがアタシを見た。俺が負けるはずがないだろ? と不遜で絶対的な自信に満ちていた。

 少年は早く行けと促している。

 だから、アタシは広場に背を向けて空に舞い上がった。

 

「え、エマっ!! 吼月は大丈夫なのか!?」

「分かんない! でも、今は吼月くんの作戦通りに行ってる!!」

 

 チラリと後ろに目をやるも、コートで何が起きたのかはもう分からない。その代わりにアタシたちを追う人影が見えた。

 恐らく午鳥さんだ。士季くんの頭に血が昇っていることを察して、先んじて命令を出していたのだろう。

 

「もうやるしかない!! アタシも奏斗くんには人間で居てほしい!!」

「……エマ」

「だから、街の外まで逃げるよ!」

 

 人目につくのを避けながら、アタシたちは鬼ごっこを始める。

 

 

 見上げれば夜を示す星々の明かりが徐々に失われ始めていた。それは僕たち吸血鬼にとっては鎮まる時を知らせる合図。

 しかし、遠眼鏡越しに街を見下ろせば、分かれて動くふたつの集団がいる。

 ひとつは、エマちゃんと沙原くんたち。その後を数人の吸血鬼たちが人間達の眼に気を配りながら動いている。エマちゃんも同じで、派手に動けば追っ手を刺激して本当に殺されかねない。

 幸い、まだ朝早いこともあって人間の数は少ない。……いや、少ない道を通っている。

 もうひとつは吼月くんと士季くんたちだ。

 彼らは戦いながら場所を代えて、近くの雑居ビル–––七草さんが住んでいるような使われていないビル–––に入っていく。何度も士季くんたちがエマちゃんの追跡に向かおうとしていたが、その悉くを吼月くんに邪魔されていた。

 今もちょうどそうだ。

 

「白山! キミは先にエマを追え!」

「分かりました!!–––グッ!?」

「そう簡単に行かせるわけないよね」

 

 彼らの口を読み解けば、内容はザッとこんなものだ。

 白山くんが跳び立とうとすれば、踏み込み足を吼月くんに押さえつけられ、その流れで腹部に膝蹴りを叩き込まれる。

 鳩尾に一発もらった白山くんはよろめきながら後退る。

 容易く攻撃を受けてしまうのは、人間相手だから手加減しているのだろう。それに加えて、太陽が顔を出そうとしているから吸血鬼の力が弱体化しているのかもしれない。

 だとしても––––

 

「……何を考えているんだ。ショウくん」

 

 それ以上に読めないのは彼の目的。

 初めは蘿蔔ハツカ()が彼を吸血する映像が納められたデータを使って、士季くんたちと交渉するのだと考えていた。しかし、彼と交わした電話でのやり取りでそうではないと悟った。

 彼が思い描いている結末は想像できている。ただ、それをこんな荒事で求める理由が分からなかった。過程が大事とする主張を違えていないのなら、この暴挙にも意味があると思うが、考えすぎだろうか?

 子供だからと油断していっぱい食わされたことがある以上、警戒するに越したことはない。

 

「今は踊らされてあげる」

 

 なぜか口元が弛んだ。

 その時、ブワッと風が吹いて長い髪が攫われる。太陽から身を守る日傘をさして、風に押されるようにビルから身を投げる形で落ちていく。

 僕はエマちゃんたちを俯瞰しながら見つめ続ける。



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第四十二夜「お見せしよう」

 祝え!
【よふかしのうた】ジャパンエキスポ最優秀新作漫画賞の受賞を!!
もはや言葉は不要!!
ただこの事実を噛み締めるがいい!!(ウォズボイス)


 待て、と叫ぶ声が俺たちに追い縋る。今にも強張りそうな顔を取り繕うエマからは、張り詰めた緊張の糸が見え隠れしていた。

 声を遠ざけるように俺を抱えながら、建物と建物の合間を壁面を使って飛び跳ねていく。

 ビルの窓ガラスが溶け出して流れているかと思えるほどの速度だ。

 

「脚、大丈夫?」

「大丈夫」

 

 本当は痛むけれど、頑張っているエマの前で弱音を吐きたくなかった。

 

「戻ってこい!!」

 

 吸血鬼の声がまた聞こえた。

 

「飛ぶよ!」

「あ、ああ!」

 

 未だ日が顔を出し切る前の時間に人の姿は見つけられない。

 代わりに、後ろからは三人ほど吸血鬼の姿がある–––いま、人影が別れた。それに建物の陰に隠れて見えないが、他にも吸血鬼が俺たちを取り囲むように動いている。

 あくまで俺の土地勘–––散歩してた時に覚えた–––と建物に遮られる前の動きからの推察だ。

 

「何分!!」

「43分!」

「まだ3分しか経ってないの!? こんなに走ってるのに!?」

 

 1クォーターは10分。

 広場からキロメートル単位で動いているのに3分ほどしかかかっていないのは、さすが吸血鬼と言うべきなのだろうか?

 俺は漠然とすごいなと思っている。

 なぜなら、やることがないからな!

 動いているのはエマだし、かといってなにか手伝えるようなことは–––––

 

 自分にできることを模索するように辺りに集中する。

 

––––すると、建物の壁面が波打った。

 

「なんだあれ」

「まっずい」

 

 俺の視線に沿うように目を動かしたエマがはしゃげた苦笑いを浮かべる。

 理由が分からず俺はその一点を見つめていると、腕が生えてきた。

 

「は?」

「見つけたぞ!」

 

 瞬きを終えると腕だけでなく全身がその壁面から飛沫を伴って飛び出し、男性の吸血鬼が姿を現した。

 迫る追っ手の爪がエマへ伸びる。

 そのとき、喉がキュッと絞められるような恐怖を覚えた。

 

「このぉ!!」

「ぐはっ!?」

 

 声を荒げながらも、エマは慣れた体捌きで跳んでくる吸血鬼へと体勢を合わせて、タイミングよく蹴りを叩き込んだ。

 出直してらっしゃい、とその吸血鬼を踏み台にしてさらに跳ぶ。

 

「ありがとう、奏斗くん」

「エマが助かったならいいんだ」

 

 顔に一発蹴りを入れられた相手は再び建物の中へ消えていく。少し不憫に思いながらも、エマに問いかける。

 

「それよりもいまのなに!?」

「吸血鬼はね、色んなところをすり抜けられるの」

「反則だろ! どこから来ても不思議じゃないってことじゃんか!?」

「うん……日の出前だけど、この時間なら人も出てきそうだから、使わないと踏んでたけど……今の子を見る限り、何人かはマジでアタシたちを殺しにきてるかも」

 

 喉を締め付けられる感覚が強くなる。

 吸血鬼は人ならざる力を持っている。蘿蔔ハツカという容易く相手の腕を切り落とすような奴だっているんだ。

 エマとは違って、本気で殺しにくる吸血鬼だって居てもおかしくない。

 

「あんな吸血鬼が沢山いるのか?」

「今は怖いけど、いい人たちだよ」

「あれで?」

「吸血鬼としての戦闘力?ならまだ下の下だし、自警団として何度か会ってるけど、普段なら優しい人たちだから」

「……エマが言うなら本当なんだろうな」

 

 一瞬、エマの顔が暗くなる。

 ……元々仲のいいグループと喧嘩しているんだもんな。俺のせいで。吸血鬼でも誰かとか関わりを壊したくはないんだ。

 もし。

 

「違うから安心して」

 

 暗いと思っていた彼女の顔は笑顔だった。

 まるで錯覚していたかのようだ。

 いや、確かにそうなのだろう。俺の罪悪感が見せた彼女の辛い一面。

 

「アタシがアタシの願いのためにやってることなんだよ」

「……強いな」

 

 俺が惚れた女は本当に強い。そんなヒトの想いが自分に向いていると思うと、頬が緩んでしまいそうになる。

 俺が吸血されれば終わるなんて考えは捨てなければならない。

 緩みかけた気を瞬時に引き締める。

 

「8時の方向から来る!」

「ッ–––!!」

 

 俺の指示に素早く合わせて身を翻したエマ。宙に浮きながら寝転がるような体勢になると、彼女の鼻頭の少し上を吸血鬼の爪が掠めていく。

 飛んできた吸血鬼が対面のビルの中に溶け込んだ。

 

「多いわね」

 

 俺の視界の端にビルから別のビルへ溶け込んだ吸血鬼の姿が映る。彼が出てきたビルは、先ほどエマが蹴りを入れた吸血鬼が姿を消した建物だった。

 

「さっきの吸血鬼……追ってきてるな。それに後ろにいた吸血鬼も減ってるから、建物の中に入ったひとが多そうだ」

「……よく見えるね」

「目は良いから。それより、10人くらい追いかけてくるけど大丈夫か?」

「う〜ん……ずっと後ろに張り付いてるふたりくらいは撒きたいな」

 

 チラリと背後に目をやるエマ。俺も首だけ動かして同じ場所を見つめた。

 そこには俺たちが使ったのと全く同じ建物屋上や電柱を足場にして進んでくる存在の姿があった。遠目で見にくいが、ひとりは耳に何かを当てている。

 

「電話でアタシたちの場所を他のヒトに知らせてるね、あれ」

「さっきの吸血鬼がピンポイントで出てきたのは、あの吸血鬼たちのせいか……」

 

 散開していたのも考えると別の場所からも俺たちを監視しているのかもしれない。

 指示している人の動きを止めるべきか。

 

「なら、ちょっと頼ってみようかな」

 

 エマが俺の体勢を保ちながらスマホを取り出す。

 画面に映っているのは地図の写真だ。この付近の地図のようで、赤丸がうたれた場所がある。

 走れば5分。いや、吸血鬼なら1分と経たずに辿り着くことができるだろう。

 

「そこに誰かいるのか?」

「少なくともアタシたちの助っ人であることは確かだと思う。吼月くんは『俺を信じられるなら、頼れ』ってラインしてきた」

 

 不安になる言い回しだった。

 けれど、エマはその言葉を信じたのだろう。着地した飲食店の屋根を強く蹴って、地図が示す場所へ跳躍していく。それは高さのある跳躍ではなく、殆ど横への動きに力を使った疾走だ。

 それに合わせて後方のふたりも速度を上げた。

 足場になるところは全て使って目的の付近にやってくると、エマは手前の裏路地に着地した。

 建物が密集した中にある裏路地は、空の明かりがなければ不安になるほど暗い。近づいてようやく分かった曲がり角を一気に駆ける。

 

「あらら、ほんとに来ちゃった」

 

 足音から俺たちの存在に気が付いた待ち人が残念そうにつぶやいた。

 暗い路地に人魂のような赤い火がダラリと垂れる。辺りに霧散していく香ばしい臭いはタバコのもので、待ち人が息を吐けば口からも白いモヤが昇る。

 

「いきなり場所は変わるし、走るのも一苦労したよ」

 

 もう一度タバコを咥えようとして火の灯りが待ち人の顔の前に来る。火に照らされたのは感情が引いたような冷笑を浮かべる女性だ。

 彼女が協力者なのだろうが、それよりも印象的だったのは、待ち人を見た時のエマの表情だった。

 

「……なんで?」

 

 動揺が隠しきれないエマがその瞬間だけ足を止めかける。けれども、後ろから聞こえてくる二対の足音を聞いて、唇を噛み締めながら遅くなった脚で地面を強く蹴り抜いた。

 事情が分からない俺はただエマを見つめるだけ。それはとても嫌なことだった。

 

「沙原くんと止岐花ちゃんだね。吼月くんから話は聞いてるよ、ここは私に任せて––––」

 

 距離が近づいたことで協力者も俺たちを闇の中で認識した。励ます態度を取っていた彼女は、俺たちの姿を見るや否や口を閉ざしてしまった。

 

「吸け」

「探偵さん、お願いします!!」

 

 衝撃から解放された彼女の一言目に被せるようにして、頭を下げたエマが協力者の隣を一気に過ぎ去った。

 

 探偵–––たしか岡止が……

 

 通り過ぎる瞬間、探偵と目が合った。まるで怨念が宿った瞳は、見開いているのに喉元に突き刺してくる鋭さがある。

 思わず目を逸らしてしまう。

 無言の威圧に耐えられなかったのだ。

 エマは奥にあるT字路を左に曲がるとすぐに宙へ舞い上がった。

 

「いまの人……もしかして……」

「吸血鬼殺しの……探偵」

 

 思考が止まってしまうほどの衝撃が脳に叩きつけられ、絶句するしか俺には無かった。

 

 

 何がいったいどうなってるの!?

 

 アタシはそう思わずにはいられなかった。

 吼月くんが呼んだ協力者は(ウグイス)アンコ。吸血鬼を全滅させるために、この街へやってきたとされる吸血鬼殺しだ。

 そんな彼女がアタシたちに素直に手を貸すとは思えない。

 恐らく吼月くんは、彼女にアタシが吸血鬼であることを伝えていないのだろう。探偵さんが沙原くんを抱えて走っている姿を見て、驚いていたのがなによりの証拠だ。

 

「吸血鬼殺しってエマのことを知ったら殺しにくる人だろ!? アイツ、なに考えて––––!!」

 

 アタシの身を案じて、奏斗くんが不安を腹の底から吐き出した。そんな彼を見て、吼月くんの考えが脳裏をよぎる。

 

「大丈夫。あの子は悪いことを考えるわけじゃないと思う」

 

 きっと、アタシにこの場を降りることをさせないためだ。

 

 もし、吸血鬼に対する憎悪を抱けばどうなるか?

 奏斗くんも探偵さんのようになるぞ、と吼月くんはアタシに示しているのだ。

 

 鶯アンコは吸血鬼によって()()()()()()()()()のだから。

 

 吸血鬼に不幸にされた人間がどうなるか。それを彼女の存在を見せることで印象付けているんだ。

 探偵さんのことを思うと、胸が強く締め付けられて息苦しい。

 

「なあ、エマ。ひとついいか?」

「……なに?」

「俺にも手伝わせてくれ」

「え?」

 

 張り裂けそうな緊張感の中、彼がアタシに手を差し出してくる。

 

「守られてばかりは嫌だからな。エマは動くことだけに集中してくれ、吸血鬼センサーになってやるから」

「でも……」

「安心してくれ、眼は昔から良いんだ」

 

 確かに奏斗くんは目が良い。

 バスケで全体を見ることに慣れているからなのか、先ほどの吸血鬼の攻撃もアタシが把握する前に教えてくれた。

 

「分かった。お願いするね」

「ああ、一緒に頑張ろう」

「うん」

 

 思わず笑ってしまう。こうして笑い合える関係でアタシはずっと居ていたい。

 だから、発破なんてなくても、後戻りするつもりなんてないよ!

 また一段と高く空へと跳びあがる。

 

 

 吼月くんからふたりの逃走経路が変わったと電話が届いて、この裏路地までやってきた。走るの苦手だったけど頑張った。チョー頑張った。

 せっかく機材とか設置したのにな。

 いまから設置する時間もないし……と少し落胆していると、彼らがやって来た。せめてエールぐらい送ってあげようとしたが。

 

「……なにがどうなってる?」

 

 ようやく彼らの姿が見えた時、私はどう形にして良いか分からない想いが生まれた。

 この10年間、私は吸血鬼を追い続けて来た。その中で吸血鬼かどうかは雰囲気で目星がつけられるようになった。それに華奢な女の子が高校男子ひとりを抱えて走ってくるのだ。人間を上回るフィジカルがある吸血鬼を想像するのは自然なこと。

 

『高い!! すごく高い!!』

『そうだろう高いだろう!! どうだ目代(メジロ)先輩!!』

 

 二人を見て、昔の繋がりを思い出してしまう。タバコを吸って、吐いた煙がその過去を覆い隠す。

 

「移動手段なのは違いないが……吼月くんは吸血鬼を無料タクシーとでも思ってるのか?」

 

 もし、吸血鬼が来ただけなら私は迷わず牙を向く。残念極まりないが、罠に嵌められたならため息だけ吐いて利用するつもりだった。

 あの笑顔が嘘だとは思いたくないが。

 けれども今は事情が違う。

 男子を抱えながら走る彼女の姿は必死そのものだった。止岐花は私のことを探偵だと知っていながら、頭を垂れて頼って来た。

 

「彼女も吸血鬼の中にいる––––」

 

 呟きかけた言葉を首を振って遮った。彼女たちを追いかけてきた足音がここに近づいてきたのが分かったからだ。

 やって来たのは垢のない精悍な顔立ちの男たち。キリッとした真剣な眼差しを向けてくる彼らに、

 ああ……吸血鬼だなこいつら。

 と本能的に理解する。

 

「お姉さん、ここに高校生ぐらいの男と女通らなかったですか?」

 

 そう気易く問いかけてくるが、目が合えば彼らも驚いた様子で足を止めた。

 

「アンタは吸血鬼殺しの……」

「おお、私も有名になったみたいで嬉しいよ」

 

 飄々と言ってみせるが、内心では混乱している。

 仲間割れだろうか。もしかしたら、彼女もこちら側の名誉人間。

 その考えを首を左右に振って否定する。

 

 吸血鬼は人間の敵だ。

 

 己を鼓舞する呪いを唱える。

 

「アイツら、まさか……」

 

 私が止岐花エマの協力者であることを悟った男–––ロン毛を後ろで束ねた男性–––は手に持ったいたスマホを耳に当てようとする。

 そうはさせまいと私は腕を振るう。

 ロン毛男がスマホ越しにいる仲間に話しかける前に、ガシャンとひび割れる音が裏路地に響いた。ロン毛男の呻き声があがる。

 

「え–––!?」

 

 驚いた彼の視線の先にあるのは壊れたスマホだ。ナイフが画面に突き刺さり、完全にお釈迦になっている。

 そのナイフを投げたのは私だ。

 ハワイではないが、とある場所で習ってきたのだ。

 

「さて、キミたちには私と遊んでもらおう」

「……とっと片付けて、エマさんたちを追いかけましょう」

「ああ、仕方ない」

 

 腰を下げて襲いかかる構えをとる吸血鬼たちに、私は呆れるしかなかった。

 なぜなら––––

 

「ハッ!!」

 

 

 

 

 無人のビルの中にシュッ、と空気を裂く音が鳴る。硬く握られた拳が吼月ショウ()の真横を通り過ぎていく。

 少し動くだけで床に積もった塵や埃が舞う。

 

「フンッ!」

「おっと!!」

 

 汚れた霧を突き抜けて襲いくる輪郭だけの拳を反射的に回避して、半身ほど距離を置く。

 

 俺がいるのはとある雑居ビルの中、ここは誰にも使われていない上に壊れている箇所も少ないため、日除けにはもってこいの場所だ。

 ここを戦う場所に選んだのはカオリだ。

 吸血鬼が暴れるにはもってこいのフィールドだ。

 

 チッと舌打ちが古びた一室に反響する。

 攻撃を躱された岡止が苛立ちを吐き出したのだ。

 

「やっぱり()えてるな」

「力に任せた単調な動きだったら避けれるさ。人間を下に見てる証拠だな」

「よく回る舌だ」

 

 彼の苛立ちは俺に対する殺意ではなく、エマを追いかけられない焦ったさが含まれている。

 俺は着地と共に重心を整えて、すぐに押し飛ばすような前蹴りを岡止へと見舞う。

 しかし、彼がありふれた攻撃を容易く受けるはずがない。

 

「効くわけないだろ」

 

 突き出した右脚が岡止の身体をすり抜けた。

 

 吸血鬼が持つ透過のチカラだ。

 彼らと対峙する時、一番厄介なのは超人的な身体能力ではなく、この透過だ。攻撃をすれば今のように身体を突き抜けて無効化される。逆に彼らの攻撃を防ごうとすれば、盾にした壁や腕を通り抜けて鋭い爪が首を切りつけてくる。

 透過に慣れている相手と戦えば、こちらの攻撃は通じず、ただ回避に専念して体力を消耗していくことになる。一言で言い表せば、面倒なことになったというのが正しい。

 

「けど、これでいい」

「は?」

 

 俺は軸足で地面を蹴った。透過したままの岡止の身体を通って、その向こうにいる午鳥と白山に狙いを定める。

 回避するために透過を使えば、後ろを守る盾としての役割が果たされなくなる。その隙をついて駆け抜ける。

 彼女らは岡止が俺を引きつけている内に止岐花のもとへ向かおうとしていた。

 

「アイツ!」

 

 その声に午鳥たちも俺が接近していることに気がついた。

 ふたりの間に割って入る形で飛び込んで右の拳を突き出す。表情が一瞬歪んだのが見えた。広場で岡止を殴り飛ばした一撃を想像したのだろう。

 跳躍を断念したふたりは左右に散開して攻撃を避ける。

 俺の拳は虚しく空を切る。ただ、それだけだ。

 

「普通のパンチね」

「ええ、人間らしい一撃ですね。……さっきのはまぐれか?」

 

 警戒しすぎた彼女らは尚も訝しむ視線を俺に向けてくる。

 

「いい加減にしろよ」

 

 岡止だけは同時に怒りが籠った瞳をしている。

 

「なぜ吸血鬼の輪を乱そうとする? 吼月も吸血鬼になるんだろ?」

「吸血鬼の決め事を守ることは大事だ。でも人間の輪を不要に乱すのも違うだろ」

「あくまで俺たちは別種族だ。守るべきルールは吸血鬼としてのものだ」

「人間社会に住み着く側である吸血鬼が相手のルールを尊重しないなんて横暴じゃないか? 少なくともエマは吸血鬼も人間も大切にしてる」

 

 岡止が顔を顰めて俺を睨む。

 互いの立場からモノを言うだけで、全く実にならないやり取りを続ける。自分でやっていてなんだが、売り言葉に買い言葉とはこんな状況なんだろう。

 (じれ)ったさに耐えかねて岡止と白山が構えて、俺に勢いよく迫った。

 

(のろ)いな」

 

 その速度に俺は思わず落胆する。駆け出したとわかってしまう速度であることが残念だった。

 先ほどの攻撃はマグレで俺はまだ人間であると認識してるため、手加減してしまうのは理解できるが、彼らの中ではもう敵と考えていいはずだ。

 それこそ鶯アンコさんと同じとしてもいい。

 だと言うのに、殺意のような圧迫感で身が震えない。反射的に彼らの攻撃が避けれてしまう。吸血鬼の力なら目に止まらない速度を出せるだろうに。

 

「どうした? そんな単調な攻撃じゃ俺には当てられないぞ?」

「このォ–––!」

 

 白山が風を切って左の手刀を伸ばしてくる。

 首を傾けることでそれを回避すると、動かしたタイミングに合わせて岡止も手刀を突き出してくる。これは首だけの回避では間に合わない。最小限で回避するため、上半身を右後ろに退け反らせる。

 

「ッ–––」

「おっ」

 

 が、岡止は白山とは少し違うらしい。

 通常の手刀であれば躱せたものだったが、突然、少しだけ間合いが伸びてきた。

 爪だ。

 吸血鬼は任意で爪を伸ばすことができる。鋭さを増した小さな凶器が俺の首を撫でる。直接、俺の拳を受けた岡止は白山とは異なり必要な手を打ってくる。

 

「あっぶね〜」

「お前に構ってる暇はない」

 

 しかし、奇襲とも言える小細工だが、それでも俺に攻撃は当たらない。

 それは岡止も分かっているのか、大して驚いていない。当てることよりも牽制としての価値を見出している。

 先ほどと変わらず、午鳥をエマの下に行かせようとしているようだ。

 

「それに蘿蔔さんの眷属になるお前をあまり傷つけるつもりもない。手を引いて、エマたちがどこに向かうか教えれば見逃す」

「断る。約束は果たす」

 

 このままお喋りして時間稼ぎをしてもいいが、無駄に時間を過ごしても目的が果たせない。

 ならば、手数を減らした上で俺に引きつけて戦うのが最善だ。

 

「かまう理由を出してあげようか」

 

 岡止は俺から目を逸らさずに軽く首を傾げた。

 

「お前らはどうしてか俺が吸血鬼になると思い込んでいるようだが、望んで吸血鬼になるつもりなんてないぞ」

「……は?」

 

 ふたりの攻撃の手を止めてしまった。それほどまでに驚きだったようだ。彼らだけでなく午鳥も間抜けな声を漏らした。

 これまで幾度となくしてきた話だが、やはり皆同じ反応をする。

 

「だったらなんで」

「事故。一緒にいるのは俺の成長のためにハツカが利用できるから。ただそれだけ」

「いや、だが」

「信じてない顔だな。おめでたい、おめでたいね〜……俺がアンタらになにをしたかぐらい覚えてるだろ?」

 

 抑揚をつけた声で煽るように言ってみせる。

 事実、彼らには思い当たる節があるだろう。

 沙原を連れ去ろうとしたのを妨害したこと。吸血鬼の考え方を否定するような物言い。今回の作戦を考えて止岐花と岡止が対立する形に仕向けたこと。

 しかし、一番の決め手は吸血を拒絶したことだろう。

 

「だから、あんなに嫌がってたのね」

「いきなり血を吸われるなんて普通は嫌がる」

 

 初めに俺の言い分を真実と受け止めたのは、俺から血を吸おうとした張本人。

 

「残念ね。ハーちゃんはキミのことを結構気に入ってそうなのに」

「ん? 好んでるのは血だけだろう? 吸血鬼にするのだってそちらの勝手なルールがあるからだ。アイツだってわざわざ俺を眷属にしたいとは思ってないよ」

 

 俺はハツカが手が出せないコウの代わりでしかない。別に俺だから欲しいというわけではないし、吸血鬼のルールを除けば、アイツからすれば血を吸うだけの関係だ。

 

「お前、本当にそう思ってるのか?」

「ハツカが俺と一緒にいる理由なんて吸血鬼としての義務感と美味しい血を吸う利益ぐらいだろ」

 

 岡止が呆れたようにため息をつく。

 

「なら、ちょうどいいかも。ねぇシッくん、この子もらってもいいわよね」

「……やめておけ。蘿蔔さんがどれだけ魅力的でも、こんな考え方のやつは一生恋愛なんてできない。なら、午鳥でも無理だ」

「捻じ曲がった部分は私好みに曲げ直すだけよ」

「午鳥さんも大概捻じ曲がった性癖してますけどね」

「褒め言葉として受け取っておくわよ、和樹くん」

 

 サラリと酷いことを言われた気がする。

 不信感のことがあるので今のままでは恋愛ができないのは、事実なので、まぁいいでしょうとしておく。

 

「……どうするの?」

「蘿蔔さんには悪いが……コイツにはここで消えてもらう」

「いいね。そうこなくっちゃ」

 

 少しぐらいは本気になってくれると嬉しいのだが。

 

「さっきのこともあるからな。すぐに終わらせてやる」

 

 その時、ほんの少しばかり身が震えた。捉えきれない速度で彼らの姿が消えたからだ。

 考えるより先に身体を投げ捨てるかのように横へ弾き出す。完全な回避には至らない。数本の髪の毛と袖の布を裂かれ宙を舞う。

 背を地面に打ちつけて埃を身体中に纏う。

 今日は黒いジャージを着ているから余計に汚れが目立つな。

 

「ははっ、やる気になったな」

 

 もっとあげろ。もっと俺を危険視しろ!

 その上でお前たちがどう出るかが重要なんだ!

 吸血鬼の中にある根底に辿り着こうとしている俺はとても胸が高鳴っていた。とめどない衝動が溢れている。

 

「もう一度だけ言うぞ」

「ん?」

「真面目に蘿蔔さんに恋をしろ。お前はまだ吸血鬼になれる。例え男でも、あの人なら十二分に恋することができるだろ」

「……はぁ」

 

 その一言に俺は熱を奪われる。

 なぜ岡止がハツカをそこまで買っているのかは理由は知らない。平田ニコが言うのと同じく、ハツカに実績があるからだろうか。もしかしたら眷属なのかもしれない。

 普段の俺なら尊敬する相手として良いものと感じられるだろう。

 だが、今回はそのせいで欲しいところまでいかないのがなんとも歯痒い。

 

「そうじゃないなぁ……」

「だったら、死ね」

 

 その言葉に思わず、薄いと呟いた。

 殺気が薄い。薄寒さを感じない。迫力が足りない。

 ハツカならもっと俺の心を締め付けられたぞ。

 ハツカならもっと俺を竦ませることができたぞ。

 ハツカなら俺を殺すことができるぞ。

 

「だったら、はこっちのセリフだ」

 

 殺すしかないと分からせてやる。

 5時44分––––残り時間まで6分を示していた。俺は時計の額縁(ベゼル)を回して、別の時を進める。

 

「ハッ!!」

 

 岡止が爪を伸ばしてこちらへ駆け出した。

 

「お見せしよう。これが––––」

 

 そして、俺は腕時計に備えられたスイッチを押した。

 

 グサリと時計から音がした。

 仕込まれた針が皮膚を裂き、血流に触れ(タップ)すれば、それは身体に奥深くに潜むチカラを起爆させる合図となる。

 

 するとどうだろうか、先ほどまで影しか捉えられなかった彼らの姿が視界の中でハッキリと象られる。彼らの驚いた表情から、指の細かな動き、隙間風でひらめく髪の流れまでもが、どんよりとした速度に囚われる。

 まるで人のレベルにまで落ちたかのような、否、俺が上げたのだ。

 人間としてあるべき均衡を崩し、彼らと同等の力に。

 

 

「え?」

 

 

 午鳥と白山の困惑を掻き消すように、微かに陽が差し出したビルに轟音を響かせた。




17巻凄かったですね……
マヒルくん……マヒルくん……キミの覚悟、見せてもらったよ。
しかもナズナちゃんもヤバいことになってきたし、今後も楽しみすぎて心の中のジーンが騒ぎ出してる。

にしても、今後の展開どうしようかな!?

そして、今日の創世の神 英寿様、吸血鬼並みにカッコ良かったですね……現実で白髪碧眼が似合う男がいようとは……


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第四十三夜 ドープアップ

オージャーとギーツの映画見に行ってきました。
総じて最高でしたが、一言つけるなら……
ミッチー推しは絶対に観ろ。





 何が起こったのかまるでわからなかった。

 吼月が腕時計に触れた途端、その身に纏う雰囲気がガラリと変わった。直後にその姿を見失い、背後から爆発に似た衝撃音が耳に雪崩こみビルを揺るがした。

 振り返れば壁面には大きな穴が開き、奥の部屋には。

 

「午鳥!! 白山!!」

 

 床に背をつけて動けなくなったふたりと、その顔を握る吼月がいた。

 

「なんで……お前……」

 

 意味が分からなかった。いや、警戒はしていたし、俺を殴り飛ばした時点でおかしな点はあったが、それでも理解できなかった。

 吼月から感じられる気配は間違いなく。

 

–––なんで……吸血鬼になってやがる……!?

 

 人間から吸血鬼になることはあっても逆はない。その変貌は不可逆のモノだからだ。

 にも関わらず、目の前の少年からは吸血鬼のような気配がする。

 それだけじゃない。人間の気配も残っている。

 

「なんなんだ……お前……」

「すごい、首へし折ってもちゃんと息してる。頑丈だ」

 

 俺の疑問に答えることはなく、酷く平坦な声音でふたりの状態を語る。午鳥の鼻や口を指で触ったり、白山の胸の動きを見て生きてることを確かめていた。

 死んでいないことにまずは安堵した。吸血鬼は暴力だけでは殺せない。しかし、心配はするんだ。

 吼月は壊した壁の瓦礫を乗り越えてこちらの部屋に戻ってくる。

 

「これで余計な手間をかけずに済みそう」

「てめぇ–––!!」

 

 自分がしたことを理解していないような物言いに声を荒げる。

 エマを惑わし、仲間に手を出されてはケジメを取らせなければ。ここで手を出さずに退いて、話に乗るわけにはいかない!!

 埃と塵が舞わせながら駆け出せば、吼月も合わせて走り出す。

 

「ハッ!!」

 

 俺たちの拳が正面から激突する。拳を中心に周囲に衝撃波が伝わり、漂う煙のようなゴミたちが一気に吹き飛んだ。

 拳を合わせ、近づいてみてよく分かった。

 

「このパワー……やっぱり、お前」

 

 吸血鬼になってるな。

 そう言いかける前にこちらの腕が押され始めた。吼月の方が拳速が速く、こちらが全力を出すより先に衝突したからだ。

 

「ちっ–––!?」

 

 即座に後ろに飛び退いて突きつけ合う拳を引いた。

 透過では俺の拳が奴の頬にめり込むより先に攻撃がやってくる。たとえ俺の方が速く拳を届かせたとしても、吼月も吸血鬼なら透過で回避できる。

 着地して吼月の姿を捉えようとすれば、瞬間、脇腹に強烈な痛みが走った。気がつけば俺の体が再び宙に浮いていた。

 

 なにが–––––

 

 

 

 

「はっや……」

 

 手にしたケータイを覗けば、吼月が予定通り、カオリ()が教えたビルの中で岡止と戦っている姿が映し出されていた。ビルの色んな箇所にカメラが仕掛けてあり、画面をスワイプすれば彼らを追うように別の視点の映像に切り替わる。

 しかし、戦闘と形容すると少し語弊がある。

 

『!!』

 

 蹴り飛ばされた岡止が体勢を整えて、着地し勢いを殺す。そして目の前の敵を捕捉しようと目線をあげる岡止だが、彼の視界にはもう吼月は居ない。

 

『どこだ……!』

「完全に頭に血が上ってるわね」

 

 視線を絶え間なく動かして捉えようとするが、見つけることもできず岡止がくぐもった声をあげる。

 吸血鬼の領域からも外れた速度は、相手を撹乱することで速やかな排除を可能とする。

 攻撃を加えた直後に地を蹴って、吼月は岡止の死角に陣取る。

 完全な防戦一方の状態になっていた。

 

 いっけん無法と思える吸血鬼のスリ抜けにも明確な弱点が存在する。

 正攻法は透過に透過をぶつけることだ。

 理屈としては数学の乗法・除法と同じ。

 通常時を(プラス)、透過時を(マイナス)と考え、片方が負であればそのままスリ抜けるが、負と負が衝突した時は両者とも正に反転しスリ抜けが無効化される。

 この事を理解している岡止や止岐花はスリ抜けに対処が可能だ。吼月くんが普通の吸血鬼で、ただ速く、スリ抜けを多用するだけであれば、軽くあしらわれていただろう。

 ただ、もうひとつだけ攻略法が存在する。

 

『ハッ!』

 

 スリ抜けを使われるより先にぶん殴ることだ。

 スリ抜けの発動はあくまで本人の意識によるもの。よほどの熟練者でない限り、無意識に使う事はできない。

 だから、相手の反応速度を上回るスピードで認識外から攻めることができれば対処もできる。

 

「けど、普通はできないわよね……」

 

 画面の中の少年はその普通はできないことを熟している。何度もそのチカラを使い、完全に修めている手練なのは明白だ。

 死角から迫る攻撃に岡止は後手に回り続けて反撃ができない。

 一つ、二つ、三つ。鋭い蹴撃がダメージを与えていく。

 しかし、それは致命傷にはならない。疲弊させることはできても、速さだけの一撃はすぐに治癒できるモノでしかない。

 加えて何度も死角から攻撃を繰り返せば、岡止も慣れてくる。

 

『ッ!……グッ!…………そこ!!』

 

 繰り返した果て、遂に岡止が側面から襲いかかった吼月の拳をいなした。軌道をズラされた拳は勢いのまま透かる。

 それでも吼月くんは表情を変えず、すぐさま離れて視界から消える。いま一度、岡止の側面、もしくはその後方からの奇襲を行うつもりだろう。

 

「無理ね」

『ッ!!』

『捉えた!』

 

 見切られた拳は岡止の手に握られて––––

 

「は?」

 

 岡止の頬を狙った拳を受け止めようとした手がスリ抜けた。

 透過か? いや、違う。

 側面に居たはずの彼の姿がいつのまにか宙に浮いていた。パルクールでもするかのようにぐるりと飛び越えて、ガラ空きになった岡止の正面に着地する。

 全て囮だったのだ。

 岡止の視界と意識を限定させ、懐を開かせるために。

 彼の狙いは––––初めから正面突破。

 考えを限定されたことによって、正面の防御が緩くなった。

 直後、高域の衝撃音が周囲の空間を(つんざ)いた。彼の膝蹴りが岡止の喉元を捉えて、その身体を吹き飛ばした。今度は体勢を立て直すこともできず、部屋の一角に突っ込む。大きな音を立てながら、敷き詰められたステンレス製の棚やテーブルワゴンがバラバラになって飛散していく。

 音を拾うマイクにノイズが混じり、つけていたイヤホンを反射的に外してしまう。

 

「あぁ、耳痛い……どうなってるのかしら」

 

 すぐさまスワイプして岡止の安否を確認しようと、画面に指を伸ばす。

 その時、私の目線が–––正しくは隠しカメラが–––吼月と目が合った。

 偶然か。いや、彼は分かっている。

 こちらから人が見ていると理解して、手を振ってきたのだから。表情を殺したまま手を振る彼にびくりと震えて、彼からは分からないのに手を振り返した。

 そして、スワイプして吼月と交わった目線を切った。彼が飛んでいったのは2階の西側に仕掛けたDのカメラがある場所。

 

()っわ」

 

 にしても理解ができない。

 吼月は間違いなく人間だった。けれど、今の力は間違いなく吸血鬼のものの同じだ。

 彼は一体なんなのだろうか。

 そして、もうひとつだけ違和感がある。

 

『アッ……痛ッてえな……』

 

 口元を拭って岡止が立ち上がる。

 ポケットに手を入れていることから、恐らく血を取り込んで喉を修復したのだろう。

 そこに吼月くんが徐に歩いてくる。

 

『頭は冷えた?』

『冷えるわけねぇだろ、ボケが』

 

 悪態をつくものの、すぐに飛びかからないところを見るに冷静さは戻りつつあるようだった。

 

『そうか』

『……気味の悪い声しやがって』

 

 私は岡止の意見に頷いた。

 

「やっぱり様子がおかしい」

 

 心を失ったかの如き少年を見つめる。

 

「……さっきまでのテンションとの差を考えると、精神が能力に関与? いや、だったら園田さんの時と食い違うし…………」

 

 以前、園田仁湖に対してこのチカラを使った彼の様子との比較でしかないが、今の彼は感情が死んでいるように思える。

 園田さんには夜を魅せるように快活な声をあげていたが、岡止と話している吼月はまるで機械が話しているかのようだ。口ぶりが同じだけの別人。

 なにより、顔に表情がない。まるで鉄仮面のように動かない。

 

『吼月、お前はなんなんだ?』

『なんだ、とは? この力のことでしたら答えられないぜ。この身体で使える力なだけだから』

『それだけじゃない。お前から吸血鬼の気配がするのは』

『アンタも吸血鬼だと思うんだ』

 

 も、というのは間違いなく私のことだ。

 

『残念ながらあり得ないことだよ』

『あくまではぐらかすつもりだな』

 

 せめて彼の犬歯を見ることができれば、吸血鬼になっているか分かるのだが。

 岡止が再び腰を低くして、戦闘体勢に入る。

 エマや午鳥たちの件も当然あるが、彼からしてみれば吸血鬼として自覚がない少年が、自分達と同等の力を持ったうえで敵対しているのだ。

 野放しにはできないだろう。

 

『戦いを続けるのは構わないが、本当に勝てるのか? 殺せるのか?』

『……馬鹿にするのも大概にしろ。殺してやる』

『でしたら、吐くだけで終わらせないでくださいね』

「吼月が吸血鬼なら殺せないけどね……」

 

 岡止の中にあるのは意気込みか、虚勢か。

 

『さて、最後にひとつだけ』

「……?」

 

 吼月が私を一瞥した。

 

『やるべきことを見誤るなよ』

 

 戦いの再開のスタートを切ったふたりから私は目を外す。

 俺の戦いを見るだけではなく、(お前)がやることもちゃんとしろよと釘を刺してきた。

 彼からの『鶯アンコを守れ』という命令。

 

「私が無視するとは思わないのかしらね」

 

 ケータイをコートのポケットにしまって立ち上がる。そして、ビルの真下を見下ろした。

 地上では吼月たちとは別の戦いを繰り広げている者たちがいた。

 ふたりの吸血鬼がひとりの人間を攻め立てている。

 吸血鬼側はロン毛の男と屈強な肉体を持った男。

 人間は鶯アンコだ。彼女は吼月とは違い特別な力を持った異常な人種ではない。

 しかし、10年間吸血鬼を追ってきた過去がある。

 その中で彼女は吸血鬼にある傾向を見つけていた。

 

「悪いが……これ以上吸血鬼(俺たち)に手を出すのであれば、倒させてもらうぞ!!」

 

 頑健な肉体を奮って男が鶯アンコに突撃した。吸血鬼のフィジカルを全力で使った攻撃は人の眼で追うことはできない。人間と比較すれば、やはり凄まじい瞬発力だ。

 動きを視ることは叶わない。

 けれども––––

 

「お前たちはいつもそうだな」

「!?」

 

 躱すことは容易だ。

 一般的な吸血鬼はあくまで力があるだけの存在に過ぎずしっかりと扱えるものは少ない。そのため殆どの吸血鬼は、()鹿()()()()()()()()のを好む。

 なら、吸血鬼が駆け出した進路からズレれば良いだけなのだ。

 だから、簡単に避けられてしまうし、攻撃パターンが割れていれば反撃も可能となる。

 

「力だけ持った愚者だな。吸血鬼は」

「え」

 

 グチャリ。

 茹で卵を握り潰したような生めかしい音が適切だろう。その音をかき消すように力自慢の男の苦悶の声があがる。

 鶯アンコの手にはナイフが握られていた。

 ナイフの刃先は……なんと、男の眼球を貫いていた。そのまま真一文字に横は振るうと両目ごと切り裂いた。

 

「アハハハハハ!!!」

 

 眼球を手で覆い崩れ落ちた吸血鬼を見下ろして狂い嗤う探偵。

 

「痛いか、吸血鬼? 痛いよな。お前たちは所詮は死なないだけの化け物だ。目を裂けば当然苦痛に感じるし、声を荒げる。考えることができなければスリ抜けも使えない」

 

 鶯アンコが倒れ伏す男の水月を足で蹴ると、抵抗もできずアスファルトを転がっていき建物にぶつかる。

 流石の私もひえっと思わず声を漏らしてしまう。

 

「探偵ィ–––!!」

「はぁ……」

 

 今度はロン毛の男が鶯アンコに突撃してきた。伸ばした爪で彼女の首を刎ねようとするが、結果は変わらない。

 嗤いを心に納めて、ため息をつく。

 身を翻してその攻撃を躱しながら、手に持っていたナイフを投げ捨てる。

 回避されるのは目に見えていた。

 目の前で同じことをしてやられた仲間がいるというのにそれを繰り返す。まるで威嚇するだけで殺す気がないように思える。

 

「よっ、と」

「グゥ!?」

 

 そんな腑抜けた者が吸血鬼殺しの相手にはならない。

 飛翔するナイフが突き刺さったのは倒れ伏す男のアキレス腱。深々と刺さったナイフを見る限り、もうあの男が立つことが出来るのは、日の出後になるだろう。

 ただ、その結果は私が予想していたものと少し異なった。

 

「なんでかしらね」

 

 吼月が鶯アンコに頼んだ内容は時間稼ぎのはず。

 撃退か撤退を前提にしているとはいえ、今のチャンスがあればロン毛のアキレス腱にナイフを刺して動きを封じたほうが得策だ。

 どちらも動けなくしてから確実に攻撃が命中するようにした方がいい。

 

()なよ、吸血鬼」

 

 煽るように手招いて、鶯アンコは吸血鬼の攻撃を促す。見え透いた挑発に乗っかってロン毛の男は追撃を開始する。

 それを身体を屈めたり逸らしたり、時には道端に開かれたゴミ箱などを使って巧みに躱して場所を変えていく。体力を切らさぬように自分は適度に足を止めて休憩し、スウェーで突撃を回避する。

 

「この道、もしかして」

 

 仕舞ったケータイを取り出して、マップを開く。彼女が背を向けて走っていく道筋の行き着くさきに私は覚えがあった。

 

『お前には鶯アンコを守ってもらう』

『やるべきことを見誤るなよ』

 

 今回の作戦の結末は沙原くんが人間のまま居てもいいと思わせるための時間作り。言わば立場上、自分と同じよう保護される存在に据え置くことだ。

 吼月もそう考えている。

 そのために探偵さんを使うのは不合理だが、私の予想通りだとするなら、これらの言葉の意味は恐らく。

 

「どちらにせよ、行かなきゃいけないわけね。協力するって返事しちゃったし」

 

 ポケットの中を漁り、口に赤いキャップの付いた金魚を取り出す。その中には満たされた血が入っている。

 吼月の思惑通りに動かされるのは少し癪だけど、このゲームの盤面に乗ることにしたのだった。

 

 

 ショウの脚と岡止の拳が交錯する。風を抜き去る速度でぶつかり合うそれらが起こす摩擦熱で辺りを漂う埃に火をつける。

 衝突すれば深追いせずに彼の脇の下を通り抜けるように離脱する。

 慣れられたとはいえ、ショウの戦法は変わらずヒットアンドアウェイによる撹乱だ。

 ハツカが午鳥の認識外から腕を斬り飛ばしたところから考えついた吸血鬼攻略法。透過が使えないショウにとって、吸血鬼と正面から戦うには他にない。

 

「フッ! ハッ!」

「フッ! ハアッ!」

 

 しかし、絶えずショウの流れが続くわけではない。距離を置く過程で接近されれば否が応でも対応せざる負えない。

 ショウは槍の如く鋭い拳を叩き捌き、瞬時に左拳をその胸部に叩きつける。

 

「ハアッ!」

「ンッ!! フンッ!」

 

 追い討ちとばかりに伸びた右拳を、岡止はショウの右脇に滑り込むようにして躱し、強烈な拳が撃ち込まれる。

 力を込めた一撃。その証か、床を見れば岡止の足元から放射線状に亀裂が入っている。

 

「!!」

 

 ショウはその一撃の衝撃を流すように、横は大きく跳ねて一気に距離を取る。

 

「ーーッ!?」

 

 更なる一手を繰り出そうとする岡止だが、次の瞬間には視界の端に脅威が映った。追撃を許さないショウは、息をつかせる暇もなく間合いを詰め直す。

 ビルの柱ごと砕きながら彼を蹴り飛ばす。岡止は咄嗟に頭部を両腕で庇い、ショックによる戦闘不能を防ぐ。

 地に伏せる岡止を今度はショウが追う。

 

「!?」

 

 その追い打ちは誘われたものだとすぐに気がつく。

 ピクリとも岡止が動いたと察した時には、一面を遮るほどの大質量の攻撃が目を覆う。

 

「オラッ!!」

 

 岡止はそばにあった人の背丈より一回りも大きい棚を、片手で軽々しく振って薙ぎ払う。まるで重機をそのまま叩きつけるような一撃。

 振り向きざまに放った面制圧での攻撃は、ショウも流石に()なせない。

 ガゴン!と金属が凹む音と共にショウは吹き飛ばされる。ステンレス製の棚には攻撃を防ごうとするショウの姿がくっきりと写っていた。

 地に何度も背を数回打ちつけて、ようやく止まった。

 

「効いてすらないのかよ」

 

 凄まじい衝撃であったはずなのに、ショウは血を流すことも骨が折れている様子もなく平然と立ち上がる。

 改めて、吸血鬼だと確信する。

 再び距離が開いた二者は、互いの様子を伺いながら構えを取り––––接敵する。

 ここまでの攻防は、言葉を交わして戦いを再開してからそれほど経っていない。一分にも満たない間に床には抉り取られ階下が見える所もあり、柱は蹴り砕かれて大きく欠けている。

 

「ッ!」

 

 足元には散乱した瓦礫がある。

 急発進と急停止で背後にいる岡止へと身体を向けると、すでにこちらへ詰めてきている。やはり、徐々にだが彼もショウの速度に対応し始めている。

 そのことを理解したショウは瓦礫を軽く蹴り上げた。

 絶妙な強さで弾き出された瓦礫たちは分裂して、無骨な凶器になって岡止へと飛翔していく。

 辺り一面に広がる弾幕に逃げ場はない。すでにショウヘと駆け出した彼に横へ回避する余裕もない。

 一番に向かう破片が彼の眉間に迫る。

 

「ふっ」

 

 岡止は迫る危機を鼻で笑う。

 スカッと擬音を付けたくなるほど、何物にも遮られることなく破片たちは岡止をすり抜けて奥の壁面に突き刺さる。

 石如き、吸血鬼の障壁にはならない。躊躇うことなく岡止は突き進む。

 それでいい。蹴り飛ばした破片はあくまで視線誘導にすぎない。

 目的は着地狩り。

 スリ抜けは発動した瞬間全身にかかるものではなく、意識して『ここに使う』というものである。ショウに指を触らせなかったハツカや今破片をスリ抜けた岡止が、透過を使った瞬間、強制的に全身に効果が現れれば、座ることも走ることもできない。

 だから、上半身だけに攻撃を集中させた。

 足元から注意を逸らすために。

 

「いただきます」

 

 後ろ脚が浮き、前脚が床に着こうとしたタイミングを狙い、転倒させて動きを封じる。

 地を踏み締めようとした右脚にショウは手をかける。

 

「……」

「お前も吸血鬼らしくズルいな」

 

 掴んだ、そう思ったのも束の間、手の中の感触が消失する。急いで振り向けば岡止の姿もない。

 ショウはすぐに首を振った。

 相手の姿がいないのはスリ抜けで一階に降りたからだ。吸血鬼ではない自分がここに止まるのは、屋根裏に潜んでいることがバレた忍者並みに不味い。槍責めのように見えない攻撃に追い込まれかねない。

 

––––1発目は不味い。

 

 1階に通じる階段に向かうための扉を見つける。

 そこへ走り出そうとすると足元に違和感がある。見てみれば、ズボンの左脚の裾を貫いて、床に突き刺さる破片。楔のようにショウの足を固定していた。

 破片はショウが蹴り飛ばしたもの。岡止はその中で長く床に突き刺さるほど鋭利なものを選び取ったのだ。

 その事実はショウの思考に暗雲を広げる。

 

「ッ!!」

 

 自分が岡止の立場ならどこを狙うか。

 敵を制圧するのに一番適した場所を考えついたのと、ショウの真後ろの床が波打つのは同時だった。

 

「ハッ!!」

 

 裂帛の一声とともに床から飛び出してきたのは岡止だ。目の前の敵の力を封じようと背骨を折らんと蹴り掛かった。

 

「フッ!!」

「!?」

 

 ショウも容易く喰らうわけではない。

 自分の左足ごと破片を蹴り飛ばして、宙に寝転がるような体勢で回転しながら間一髪で安全圏に離脱する。ついでとばかりに、蹴り上げた破片を掴み取って岡止へ投げつけた。

 クナイのように尖った破片は風を切る音を鳴らして、岡止の後頸部(こうけいぶ)をスリ抜けた。

 

「……」

 

 ショウが着地して、辺りを見渡した時にはすでに岡止の姿はない。

 ここからは吸血鬼(岡止)の独壇場だ。

 

「ッ……!」

 

 再び岡止が1階から2階へスリ抜けてきた。ショウは身を捩りながら髪の毛数本の差で回避する。

 下に逃げ込まれてしまえば、ショウは岡止を認識できないにも関わらず、岡止は床につけられた傷痕からショウを見上げることができる。

 更には、この建物は上がある。

 

「こっちだ!!」

「今度はうえ」

 

 下からの攻撃が当たらなければ、2階を突き抜けて3階までスリ抜けていく。そして体を反転させて、天蓋を蹴ってまた2階に戻ってくるのだ。

 それもかなりの速度で跳ね回っているため、回避に使える時間が少ない。反射だけで避けているようなものだ。

 

「1」

 

 せめてもの抵抗か、床に散乱している破片を拾いながらすぐに投げつける。それを岡止はスリ抜けか弾くことで捌く。

 

「1、2」

 

 変貌する前のショウと岡止との攻防関係より悪化している。

 ショウもなんとか岡止の考えと動きを読み解きながら、下から見えない場所へ移動しつつ最小限の動きで対応する。

 

「どうした! 動きが緩慢になってきてるぞ!!」

 

 この状況を終わらせるにはショウ自身も一階に陣取る必要があるのだが、1階へ降りるための階段に向かうのは斬ってください表明しているもの。

 岡止の指摘通り、序盤に比べて速度が安定しておらず、これでは辿り着くまでにやられてしまう。少ない動きで躱しているのもこのためだ。

 ジリジリと追い詰められているショウ。

 とはいえ、岡止の攻撃も長くは続けられない。

 攻撃を躱されるたびに一瞬だが、確かに唇を噛み締めている。

 

–––さっさと終わらせねぇと……

 

 時間もそうだが、体力的にも限界が近い。

 変貌したショウの速度に対応するためにいつも以上に集中力を使っているし、血を飲んでダメージ自体は回復できたものの蓄積されている疲労がすべて取れたわけではない。

 初撃が届かなかったこの戦法の意義は、ショウの焦りを生み、一撃で仕留めるためのものだ。

 

「1、2。……1、2。…ッ?」

 

 速度を増して真上から迫る岡止に、ショウがついに蹈鞴(たたら)を踏んで床に背をつけた。

 

「捕まえた!!」

 

 ショウへと鋭い爪を持つその手を伸ばした。

 そうすれば、いやでも気がつくだろう。

 なぜ、ショウの動きが鈍くなっていたのか。

 

「ッ」

 

–––吸血鬼の気配が弱まってる……?

 

 否、殆ど人間の気配だけだ。

 もし、このままショウへ手を振るえばどうなるか。

 腕を失った目の前の男は間違いなく死ぬ。その事実が岡止の脳裏に奔る。

 

 だとしても殺せ。

 吸血鬼の脅威となる存在(人間)は殺すのが掟だ。

 

 心に決めていても喉が詰まるような緊張感が生まれる。その一瞬の硬直を表すなら、迷い、躊躇い、慈悲。

 

––––本当に殺せるのか? いや、殺していいのか?

 

 それでも身体を進み続ける。

 進んでしまった以上、否が応でも決断する時が来る。

 

「……死ね!!」

 

 吐き捨てるだけの言葉が彼から飛び出した。

 返すようにショウも口を開く。

 

「やっぱりキミは俺には勝てない」

「ッ!?」

「捕まえた」

 

 奇しくも岡止と同じ言葉を呟いた。

 一瞬の迷いが誤差を生んだ。ショウは身体を転がすようにして、紙一重で岡止の手から逃れる。

 一瞬、ふたりの目線が交わった。

 追い込まれているというのに不動を貫くショウの顔が、岡止にはとてつもなく悍ましいモノに映った。そのまま岡止は床を通り抜けていく。

 

「くそ!!」

 

 スリ抜けを解除して受け身を取ると、すぐさま2階へと飛び立つ。

 その焦りで跳躍したのがいけなかった。

 

「1、2……ここ」

 

 膝立ちに体勢を取ったショウは、腕時計のスイッチをタップする。

 突き刺す痛みを起点に再燃する力を感じながら、(きつ)く握った拳を床へ振り下ろした!

 

 ドゴォォッッ!!

 

 まるで二階全体がプレス機に押し潰されたかと錯覚するほどの衝撃が奔る。

 

「マジかよ……!」

 

 2階を見上げる岡止にもその異変は降りかかる。眼前には驚きの声をあげるのも仕方がない現象が起きていた。

 文字通り、天井が岡止を押し潰さんとばかりに落ちてきたのだ。

 天井が動くなど誰が想像するだろうか。

 その下がり幅は大きく、岡止がスリ抜けを発動するよりも速く落ちてくるそれは彼の全身を強く(プレス)した。声にもならない潰された音を漏らした。

 

「俺の結論に揺らぎはない」

 

 破片を無闇矢鱈に投げていたわけではない。

 スリ抜けのオンオフの切り替えを行うタイミングを見計らうために絶えず攻撃していたのだ。

 

 岡止を呑み込むように崩落が始まる。

 

 ここで終わらせようと、徐々に崩壊し、粉々になっていく瓦礫の位置を全て把握し––––その時だけは、ショウには全てが止まって見えていた––––最短で岡止に飛び込むため、足場にできるモノを判別して肉薄する。

 岡止はもはや手も足も出せない状態。

 

「決着だ」

 

 睨みつけてくる岡止の胸ぐらを掴み、床に叩き伏せようとして

 

 

 

 コンマ数秒後、腕が弾け飛ぶ音と共に血飛沫が岡止を濡らした。




 拙いながらにやっと書けた吸血鬼の戦闘!!
 いや……【バトルシーン多め】とタグにしておきながら、初戦闘が40話越えてからってマジかよ自分……
 バトルシーンについてなにか感想やご意見がありましたら、今後の糧となりますのでして下さると嬉しいです。


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第四十四夜「穴だらけ」

 崩れていく粉々の瓦礫の中で岡止士季()に魔の手が伸びる。

 酷く澄んだ冷たい葡萄(えび)色の瞳が俺を見つめる。

 人間に戻ったと勘違いして躊躇ってしまった。心が全く見えないこの怪物のような子供相手を殺さなかった。

 そして今、吸血鬼に化けた少年に俺はやられかけて。

 

「決着だ」

 

 胸ぐらを掴まれて––––このままでは午鳥たちと同じように動けなくなりエマを止めにいけなくなる。

 もしそうなったら、沙原くんが人間のまま居られるよう言ってくるだろう。

 アイツが勝手に言っているルールなんて無視してやればいい。

 けれども、それでは然りが残ってしまう。心の中にある不満が爆発してまた同じようなことをされては困るし、それこそエマを傷つけることになる。更にもし沙原くんの足取りから探偵に見つかり、エマが殺されてしまうかもしれない。

 一番全体へのダメージが少なくなるであろう沙原くんの吸血鬼化こそが取るべき答えだ。

 だから、ここでやられるわけにはいかない––––その手が俺の中へとすり抜けて、弾けた。

 

 ビキッ

 

 スリ抜けは本来、慎重に使わなければならない力。

 もし、通り抜けようとする物体の中で透過が解除されれば、本来そこにあるはずのない物体と重なり合い、互いに粉砕される。

 

 気づいた時には、交わっていた視線が多量の血がカーテンのように覆い被さって完全に遮ってきた。

 

「あ」

 

 無意識下で行われた攻撃に俺は思わず声を漏らした。

 そして、吼月の表情もほんの瞬きの間ほどだが変化した。吸血鬼化した吼月が初めて見せた感情の揺れは、人らしい肝を潰された者のそれだった。

 すぐに叩きつけられる衝撃が身体を打つ。地面に打ち付けられた俺たちは一度跳ね上がって真逆の方向へ転がっていく。

 

「うっ……おぉ……!」

 

 幾度と天と底の光景が入れ替わり立ち替わりして、船酔いのような気持ち悪さが襲ってくる。身体を床に打ちつけてようやく止まったかと天井を見上げれば、先ほどまで戦っていた一室の床が見事なまでに消えている。見えるのは2階の天井だった。

 すぐさま立ち上がって自分の身体を見た。

 吼月の血で濡れた上半身。その中心、人間であれば心臓が位置する場所にぽっかりと穴が空いていて、覗けば向こう側までハッキリ見える。

 俺は吸血鬼だ–––吼月の血を浴びたことによってこの怪我も急速に回復している。

 

「完治っ……」

 

 偶然口の中に入った舌も喉も蕩けるような血の味に痛みは掻き消されていた。不謹慎にもそちらへ思考がブレかけた俺は頭を振って邪念を払う。

 すぐに顔を上げて吼月へ視線を移した。

 

「!?」

「グゥ、ぅぅ–––!!」

 

 そこには右の二の腕の半分から先がなくなり、痛みに悶えながら左手で残った腕を押さえた吼月がいた。腕の断面から漏れ出す血がどんどん広がり、吼月の身体が少し浸かるほどになっている。

 頬を地面に擦り付けるようにしているため、その表情は見ることはできないが、苦痛に満ちた声からどんな顔をしているかはハッキリしていた。

 

「う、腕かぁ……腕を落とすぅ、発想はなかったなぁ……」

 

 吸血鬼のような気配もする。人間の気配もする。なら、アイツにとってこの一撃は完治可能なのもなのだろうか。

 急激に膨れ上がっていた吸血鬼に似た気配も今は殆どなりを潜めていて、殆ど人間の気配だけという事実に呼吸が荒くなる。

 もしかしたら、吼月は俺たちと違って–––––

 

「お、おいッッ!!」

 

 俺の芯が罪悪感という恐怖に一気に染まり、駆け出そうとする。

 しかし、その足もすぐに止めた。

 

 血を取り込んだ影響だろう。

 とても強い感情が波濤のように押し寄せてきた。あるいは劇場のスクリーンに一枚一枚、過去の記録が映し出され、目に焼き付けられるような光景が広がる。

 俺はスクリーンを眺める中央の座席に座っていた。

 

『なぁ、吸血鬼がいるって言ったら信じるか?』

 

 映っているのは沙原くんだ。ベンチの横に位置取って、車椅子の肘掛けに腕を乗せている。

 沙原くんの問いに記憶の主は頷いた。

 

『お前はそのエマの事好きなの?』

 

 まず最初に映ったのは、頬を朱に染めながら目線を顔ごと動かしている沙原くんだ。場所を移して、いまは市民公園のベンチの辺りだろうか。

 

『はい……好きです』

『へえ。付き合えるなら?』

『付き合いたいです……』

 

 感じるのは不安と溢れるばかりの恋慕。

 そのシーンはすぐに次へと捲られる。

 聞こえてきたのは、内へ内へ抑え込まれた苛立ちが爆発した怒鳴り声。

 

『なんでお前あんな奴らと一緒に居られるんだよ!人間なんて簡単に殺したりできるような化け物だぞ!?やろうと思えばそうだお前のヤバい吸血鬼みたいに腕や首を飛ばしてくるかもしれない!!あんな化け物とお前一緒にいるんだろ?怖くないのかよッッ!!アイツらについて調べてるって縁を切るためか!?なあ、昨日の夜、お前俺を追いかけに来なかったよな。なにがあったんだ?お前もなにかされたんじゃないか!?』

 

–––それだけじゃない。

 

 不安は膨れ上がり恐怖へと変わる。

 

『さっさと認めろよ。なんでエマが血を吸わなかったのか』

 

 だとしても諦められない欲望が、言葉にできずとも目の前の青年の瞳には宿っている。吼月の問いかけに唇を噛み締める姿は、親としてとても嬉しかった。

 

『さっきから綺麗な言葉ばっかり並び立てて!』

 

 今度はどこかの民家が映し出され、目の前に座っているのはエマだった。吼月に焦燥を吐き出していた。

 

『自警団や奏斗くんへの想いがアンタなんかに分かるわけない!! ご立派な道徳だけでなんとかなるわけないよ!!』

 

 責任感から来る焦りに満ちた声に俺の胸がギュッと痛む。

 それから短い間、吼月の記憶や感情が断片的に流れ出す。殆どのここ数日の沙原くんやエマとの会話やラインでのやり取りを盗み見た。

 沙原くんがどれだけエマの事を想っているのか。

 エマがどんなに板挟みになって苦しんだのか。

 

「そうか、エマは……」

 

 今回のゲームの根底がなんなのか。だからといって簡単に容認できるものではないが、少しの映像だけでも確かに伝わってきた。

 

 しかし、何故だろうか。

 吼月の血から得たものであるはずなのに、アイツの意思は殆ど感じられない。まるで吼月という媒体を通してふたりの感情を見ているかのようだ。

 吼月には人の心が無いような強い違和感。この違和感が真実だとすれば、あの生気すら見えない綺麗すぎる瞳にも納得がいく。

 

 たった一度あるとすれば、午鳥から蘿蔔さんに助け出された時に沸いた想い。

 

 ボタッとなにかが落ちた音がして、視界に大きく映ったのは戦慄が全身を突き抜けて怯えた顔をした沙原くん。

 夜空を見上げれば蘿蔔さんの微笑み。

 その二つを見て、少年はこう想った。

 

 こんな状況なのに、吼月ショウ()はなんで喜ぼうとしている?

 いや喜んでいる?

 せめて、俺だけは沙原側に居なくちゃいけないのに。

 

 あの時、吼月は笑っていた。

 午鳥から血を吸われそうになったところを助け出されて、救われたことに喜んでいたはずだ。

 俺が感じているのは––––助けてくれてありがとう、我が救世主。

 

 

『ありがとう。……』

 

 

––––気が付かないでくれてありがとう、ハツカ。

 

 

 

 

 

「なぁ……」

 

 ブツリと二分割されたスクリーンの映像がブラックアウトした。火照るような熱さに胸を焼かれるような高揚感とともに強制的に現実へ帰還する。

 

「はぁ……聞かせて欲しいんだ……止岐花はそんなに大切か?」

「ッッ、俺の眷属だぞ。大事に決まってる」

「……そうだな。死んで……欲しくないから、吸血鬼にしたんだもんな。……初めから吸血鬼だったのか?」

「そんなわけあるか。たまたま、出会ったんだよ。その吸血鬼の手を借りて、エマのために恋をした」

「それはまぁ……ぅ……いい覚悟だことで……」

「喋ってる状態じゃないだろ!」

 

 息も絶え絶えに頬を床に擦り付けながら話す吼月にもう一度駆け出そとして考え直す。

 ここは腕を持って行った方がいい。辺りを見渡すと、吼月の右腕は俺の背後にある。もう一度吸血鬼になってもらえれば、腕だって治るはずだ。

 しかし、人間の気配もしていた吼月が、普通の吸血鬼と同じように治るのか分からない。

 先ほどの戦いでもただ身体が頑丈になっていただけかもしれない。

 それでも、と取りに向かおうとしたとき、交わった視線に足を押さえつけられる。

 

「おい」

「っ……」

 

 覗く葡萄色の片目は俺を従わせるだけの迫力があった。

 

「話し終えてからにしろよ。……血を浴びたし見た? 感じた? かもしれないが、俺、止岐花に『自警団への想いが分かるわけがない』って言われたんだ」

「ああ、見たよ」

「本当にその通りなんだ。俺さ、沙原への想いは感じたけど、自警団への想いってのサッパリなんだ。だから、教えて欲しい」

 

 そんな呑気に状態じゃないだろ、今のお前は。

 歯痒い気持ちを抱きながら吼月の話に付き合うことにした。

 

「恩返しだよ、多分」

「助けてくれたことのか?」

 

 俺はゆっくりと肯首した。

 ただひとつ、吸血鬼全体に、とだけ付け加えた。

 

「俺が自警団に入ってるって知ったエマはすぐに入団してきた。本心ではあまり気が進まなかったよ。ことによっては他の吸血鬼と戦うこともあるしな……でも、自分を助けてくれた人たちに、なにかしたかったんだろうから止められなかった。

 せめて、目の届く範囲にいて欲しかったから……入団させた」

 

 そこからはとんとん拍子で周りと馴染んだ。

 午鳥や白山ともすぐに仲良くなったし、手先が器用だったから物の修理なども買って出てくれた。頼まれ事もたくさん引き受けてくれた。

 

「凄いな、それは……」

「きっと人間だった頃の反動だろうな」

「家族に居ないもの扱いされてたことか?」

「そうだよ。エマの親も最低だからな」

「……死ぬって分かっていて子に会うのは辛いだろ。なら、確実に未来も生きれる妹に目を向けるのは……人間の弱さじゃ仕方ないと思うけど」

 

 俺はその仕方ないを否定する。

 

「いや、元々あの親どもは来てない。エマは中々忘れられないって言っていたけど、視界もなくて、音もない状態で本当のことを覚えられてるはずがない。ましてや、40年以上前の手の感触なんてマトモに覚えられてる方が嘘だろ。

 大半が俺とした昔話で……真実が()けた、いや暈したものだ……エマはちゃんと覚えてないんだよ」

 

 俺にも言えることで、エマよりは事実に近いが、その時見た通りではない。吸血鬼になって薄れ出す人間の頃の記憶を無理矢理補填しているのものだが、それでも【なんとなくこんなことがあった】と都合のいい解釈をしてしまうのが記憶だ。

 

「……なんで覚えてないって本当のことを言わなかったんだ」

「嘘だと思ってないんだよ。アイツは自分の過去も、俺も信じてるからな」

「なぜ、そんな簡単に信じられる?」

「お前も変なことを訊くな。疑うより信じたいが先に来るだろ」

 

 吼月が目を伏せて、苦しそうに呟いた。

 

「岡止は?」

「ん?」

「岡止は止岐花に何をしてもらったんだ? 助けるために吸血鬼に成るほど大切だったんだろ?」

 

 そう問われて俺は–––不意に頬を摩って–––『なにもしてもらってない』と答えた。撫でた頬に鋭い痛みが走るような錯覚が起こる。

 

「ただ一緒にいてくれただけだ」

「そっか……」

 

 吼月の呼吸が荒くなる。

 

「お前らも大変だな。なんとなく、あの時に士季が沙原に吸血鬼になることはメリットしかないって口にした理由が分かった気がするよ。

 本心か無意識かはお前次第だけど……親と離れられることも利点だもんな」

「いつかは親離れするのが子供だ。大人になっても実家を出るのも、吸血鬼になって出るのも同じことだ」

「そうだな」

 

 吼月は俺の言を肯定し、そして立ち塞がる。

 

「だったら止岐花にとって、今がその時だ」

 

 ポタポタと血を垂らす腕を抑えることすらなく、青白くも何ひとつ表情を変えていない怪物の顔がそこにはあった。

 ただ真っ直ぐ俺を見つめる瞳は絶えず俺を縛る。

 

「なぜアンタたちは人を吸血鬼にすることに拘る?」

 

 先ほどの苦痛が嘘かのように歩み寄ってくる。

 

「眷属候補だとしても俺のような存在だっている」

 

 一歩、こちらへ歩き、今を突きつける。

 

「鶯アンコが救った加納という吸血鬼のように、吸血鬼なったことを後悔して10年間、血を吸わずに死のうとする存在だっている」

 

 一歩、また近づいて、禍根を示す。

 

「もしかしたら、吸血鬼の中にも鶯アンコと同じ者が––––そう考えていけば、アンタたちの【吸血鬼を知った人間は死ぬか眷属になるか】という掟は穴だらけだ。本能に裏打ちされた決め事ですらない」

 

 歩く様は戦地を進む化物ではなく、そこらの路地で友達と出会したかのように敵意も、不自然な力みもない。

 手を振りながらであっても不思議はないほどに悠然と歩く。

 ただ諭すように俺に語りかけてくる。

 

「アンタたちはただ、証が欲しいだけだろ。吸血鬼の仲間だというちょっとした証拠が」

「……違う。無益な殺生をしたくないだけだ」

「敵対した瞬間に俺の首を刎ねることだってできた。探偵を誘い出し、根本から事態の解決へ動けたはずだ」

「それは……」

「力を持っただけで、殺したくない優しさも殺されたくない恐怖も人間と大差ない。だから、そうならない為の塩梅を探してる。……君ら吸血鬼は変わらず人だよ。化け物じゃない」

 

 出来ないことを言うのはやめておけ、と無感情に吐き捨てる。しかし、その嘘や媚びでもない真っ直ぐな意志が俺に深く突き刺さる。

 既に取り乱した姿を見せているので否定できずにいた。

 

「たとえ、岡止の言う通りだったとしても子供が信じた相手ぐらい信じようとしてみせろよ。アンタだけでも止岐花の真っ当な親でいただろ?」

 

 吼月の瞳に心が映り込む。その瞳は曇りの無い水晶のように俺をハッキリと映し出していて、そこに見えるのは酷く歪んだ顔をしている自分。

 まるで吼月の言い分が当たっているかのようじゃないか。

 

「俺の記憶を見たなら分かるはずだ。止岐花は岡止たちと敵対したい訳じゃない。でも沙原を吸血鬼にはしたくない。……少なくとも今は。

 そのためにアンタたちに見て欲しいんだ。1年間、沙原がどんなヒトで、信頼に足る人物かどうか」

 

 先ほどまで殺し合っていたというのに、至極当然のように近寄ってくる少年を俺は懐に受け入れていた。

 

「疑うより先に信じたいんだろ? なら、寄り添うような心意気で生きてこうぜ」

 

 微笑みながら俺の胸を人差し指で小突いた。

 その姿を見て、傷つけて焦ってしまったことも殺さなければ勇み足してしまったことも全て馬鹿馬鹿しくなってしまった。

 

「お前、よく触れるな」

「ん? なんで?」

「いや、腕………」

「ああ、これ? いいよ、別に岡止が悪いわけじゃないし。少なくとも俺は殺し合いのつもりだったから」

 

 視線が欠損した右腕に集まる。

 吼月が触れたのはその腕と共に粉砕された胸で、敵対している状況でそこへ無防備に手を出せるのは能天気というべきなのか、余裕というべきなのか。

 不敵に佇む吼月から察するに余裕なのだろう。

 治るんかな……?

 

「まだ殴り足りないなら3回までなら殴っていいぞ」

「お前なぁ……」

 

 どちらにしろ、俺の中にあった闘志は燃え尽きていた。戦いでも、心意気でも勝てる気がしなくなった。

 

「分かったよ。だが–––」

 

 その時、カランコロンと傍で音がした。

 今になって石が落ちてきたようで、俺はすぐさま吼月の胸元を掴んで一緒に横へと飛び跳ねた。離れた直後、轟音とともに先ほどまで俺たちが立っていた床が陥没した。

 

「何やってるんですか、岡止さん」

「白山……」

 

 振り向けば、怪我の治癒が完治した白山が地に拳を突き立てていた。

 

「なに懐柔されてるんですか。エマさんが探偵に狙われないにようするためでしょう。沙原くんを信じる信じないとか問題じゃないんですよ! 少なくとも、アンタが一番納得しちゃいけない!」

 

 言い終えるより先に爪を研いだ白山が吼月に向かって肉薄してきた。殆ど人間になっている今の吼月が、あの爪に切り裂かれればひとたまりもない。

 ただでさえ、血を着るような出血なんだ。

 庇おうとして前に踊り出ようと–––

 

「問題ない」

「なに馬鹿なこと言って」

「遊び足りないなら付き合ってやるよ。ただし」

 

 左腕で俺を制止したかと思えば、その瞬間、奇怪な光景が広がった。

 

「な、え?」

 

 欠けた右腕を伸ばしたと思えば、浮いて漂い、そして流れる血筋がその断面へ紐づいた。俺の衣服についた血も例外ではなく、その殆どが宙を蠢いていた。血という糸に手繰られながら、砕かれた骨が、裂かれた血肉が、地に落ちた右腕が次々に虚空で踊る。

 吸血鬼としてすら異質なその力にゾワリと肌が粟立つ。

 白山が伸ばした爪を振り下ろした時には。

 

「フンッ!」

 

 完全に治癒された右腕をもって、その一撃を阻止してみせた。白山の勢いも殺しきり、振り下ろされた左手の首をガッチリと掴んでいた。

 拳を合わせた時のように衝撃波が空間を打つ。

 

「クソッ!」

「マジかよ……」

 

 反応の差こそあれど、俺も白山も驚愕するしかなかった。

 

「強い言葉は自分の丈を見誤らせるぞ」

「!?」

 

 掴んだ左手を自身の後方へ流せば、体勢が崩れた白山の胸部はガラ空きとなって–––そこへ拳を突き出した。

 

「「待った!!」」

 

 二つの声が重なった。

 直撃する寸前で俺は吼月の拳を受け止めた。驚くほど軽い拳はすっぽりと俺の掌の中に収まってくれた。

 対する白山を見れば反射的に脚を振り上げていたが、その足先はもう一人の声の持ち主である午鳥が掴んでいた。

 ちょうどその時に、吼月から吸血鬼のような気配は完全に消え去った。

 

「いまこの子を殴ったところで自体は変わらないわよ」

「ですが……!」

「ケジメは後で取らせればいい。それよりエマちゃんを追うのが先決よ」

 

 午鳥がは白山の怒る肩を静ませてほぉぅとため息をつく。

 

「ふぅ……危ないあぶない。死体処理なんてしたくないもの」

「死ぬかも分からないしな。白山も落ち着け、吼月も……」

「一番落ち着いてなかったヒトに言われたくないです」

「ぐっ……し、白山……」

 

 自覚はあるため言い返せなくなり言葉が詰まる。吼月はというと無言で、ジャージのファスナーに手をかける。

 そして一気に下ろして、バッ!と開かれたジャージの中に現れたのは。

 

『➡︎右に同じく』

 

 紫のTシャツにデカデカと書かれた文字だった。

 真顔でロゴシャツを見せつけてくる吼月に対して、俺たちは三者三様の反応を見せた。

 

「ぷぅっ……」

「えぇ……」

「……」

 

 不意打ちのギャグに思わず吹き出してしまう午鳥。まずなんでそんなロゴシャツを着ているのか分からず目を瞬かせる俺。脳が理解に追いつかず眉間に皺を寄せて頭を抱えて絶句する白山。

 

 スッと隙間風が首を撫でる。

 眉間の皺を広げて、頭を抱えてから。

 

 

 

「なんだお前えぇぇええええ!!!?」

 

 

 

 白山の叫び声が夜明けの街に響き渡る。

 

 

 

 

「ふっ、着てきて正解だったな」

 

 無惨に散り散りになって地べたに落ちてるジャージの布切れなどを見下ろす。腰を屈めて俺は破片を手にする。

 そんな俺を訝しむように見つめるのは白山だ。

 

「自分、まだ納得してないんですけど……」

「そうだろうけど」

「いいよ、いま納得しなくても。納得させるから」

「その必要はないじゃない」

 

 待ったをかけるように声を上げたのは午鳥で、おもむろに士季へと歩み寄る。彼女が妖艶に笑う様はどこかハツカと同じ余裕を感じられる–––いや、それよりは下だな–––その原因に気づいた俺はハッと立ち上がる。

 目に入ったのは士季の口元。

 その端についている赤い液体。

 

「その血、あの子のでしょ? なら、これを飲めばあの子の考えてること大体分かるでしょ」

 

 腕を修復する時に回収し損ねたのであろう血がしっかりと付着していた。

 その血を指で掬い取ると瞳を半月状に歪ませる。嗜虐心に満ちた目で血を眺めているのが背を向けられていても伝わってくる。

 

「士季くん。美味しかった?」

「……美味かった」

「そう。なら、試食させてもらうわね」

 

 赤く濡れた指先を伸ばした舌に這わせようとして–––

 

「ダメ」

 

 俺はその手をガシッと掴んでへし折るような力で彼女の手首を捻る。

 

()たたた……!!」

 

 正しく間一髪、あと数ミリで舐められるところだったので、俺の心臓がバクバクと高鳴っていた。焦る鼓動が納まらない間に、指先についた血を空いている片手で拭い取った。

 午鳥はそれを見て、ああぁと残念そうにしょぼんと肩を落とした。

 

「いや、なんで止めたんだよ。知ってもらった方が吼月にも得だろ」

「俺の血はハツカだけのモノ。ハツカだけが飲むものと約束している。だから–––ダメだ」

 

 一度、呼吸をして溜めを作ったあと、より強い口調で却下した。

 納得してくれただろうかと三人を見ると、俺が想像していたのとは違う口をポカンと開けた間の抜けた様子で見つめ返してきた。

 やはり最初に口を開いたのは午鳥である。

 

「えっ……とぉ……つまり、この間嫌がってたのも、それが本当の理由?」

「ああ」

「士季くんは飲んだじゃない。なら、私が飲んでも誤差でしょ」

「士季が血を取り込んだのは、戦いの中で俺から勝ち取ったことだ。だが、アンタは違う。飲みたいならせめてハツカの許可をもらうんだな」

「硬くない……?」

 

 ここまで言うと瞼を何度も上下に動かしながらも渋々納得してくれたようだった。

 けれども、同じ話を続けていれば午鳥がどうにかして俺の血を飲もうとしてくるのは目に見えていたので直ぐに話題を切り替える。

 

「で、士季」

「ん?」

「さっき、だが、と言いかけたな。探偵の件だろ?」

「! ああ……」

「鶯アンコへの一手なら既に講じてある。見てないのか?」

「見えたのは沙原くんやエマのことだけだ」

 

 となれば、吸血で知れる範囲は限られる。可能性とすれば、吸われた時に強く思っていたことに起因する記憶が見える、などだろうか。

 それを確かめる術は俺にはないので、腕時計を見ることにした。

 首を傾げる3人を気にせず、腕時計を見ればまだ50分まで数分残っている。完璧、予定通りだな。

 

「さて、時間は残ってるからお前らも早くエマを追えよ?」

「いや、お前らの目的は……」

「さっき午鳥も言ってただろ。優先すべきはエマを追いかけることで、ゲームは50分まで逃げ切れるか、だ。沙原を吸血鬼にしたいならさっさと向かうのをオススメするよ」

「キミが邪魔をしてたんだろうが」

「俺の目的に必要だったからな。もう足止めする必要はない」

 

 ベゼルを回して、再びスイッチを押し込んだ。

 

「また……」

 

 ひとりか。あるいは全員が溢したのか。

 恐らく彼らの中では俺は吸血鬼なのだろう。カオリと同じく何故か誤解しているようだ。

 窓を開けてその縁を足場にして俺は跳ぶ。

 

「日が昇るまで遊ぼうぜ」

 

 それこそ、吸血鬼の如く跳躍して空を舞う。

 俺は掌の中にある破片を見つめる。

 それはカメラの残骸だ。

 

 

 

 

 吼月が飛び去ったあと、午鳥が俺に尋ねてきた。

 

「とりあえず、なにを見たか教えてちょうだい」

「分かってる。跳びながら話そう、来てくれた他の吸血鬼にも連絡が必要だろうし」

 

 ふたりは頷いて、一緒に壁をすり抜けた。

 

「そういえばアイツ、なんか名前呼びしてきたな…………」

 

 なぜだろうか?



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第四十五夜「心許せる」

 あと4分もしない内に日の出だというのにこの路地は本当に暗い。背の高いビルが所狭しと並び立つこの一帯。表の通りであれば、もうそろそろ人がやってくるだろう。

 吸血鬼の調査でいまの小森の街をくまなく見てみたが、朝の5時には人が動き出し、6時になればまばらだが会社に出勤する人の姿も多くなる。飯はコンビニの菓子パンやおにぎりだろうか。

 いやはや会社勤めの方々の早朝出勤には尊敬するしかない。

 かくいう探偵 鶯アンコ()も負けていないが。

 殆ど徹夜で路地裏を走っているし、飯もアンパンにコーヒー牛乳、それにケーキだ。

 

 それに、こんな朝早くから吸血鬼と命懸けの鬼ごっこをしている大人なんて私ぐらいなものだろう。

 

 吸血鬼(化け物)の鉤爪が暗闇の中で微かに煌めきながら私めがけて閃を描く。

 

「ふんっ!」

「!?」

 

 身体が後ろに倒れ込むような動きと腕捌きで、巴投げの如く後ろへ大きく吸血鬼を弾き飛ばした。特別な技術を使ったわけではない。自らの身体能力を過信し真正面から突き進む吸血鬼には、ただタイミングを合わせていなしてやればいいだけだ。

 それだけで奴らの攻撃は当たらない。

 

「どうだい私のなんちゃって巴投げは!」

 

 躱されたあげく、攻撃を利用され投げ飛ばされた吸血鬼が体勢を崩したままカッ!と目を見開いた。それを嘲笑うように私はギュッと右拳でガッツポーズを取ってみせる。

 突っ込んできたそのまま勢いを使われた相手はビルの壁面へと、レーザービームとも言えるほど真っ直ぐ進む。

 

「……ぐっ!!」

 

 呻き声をあげてめり込んだロン毛の吸血鬼の背後には、壁面に作られた大きなクレーターが生まれていた。まるで隕石でも激突したかのような凹みっぷりに投げ飛ばした私自身が少し背筋が凍る。

 その痕を見れば誰であって人間が受けていいものとは考えないだろう。

 

「じゃ、お先〜」

「この……待てッ……!!」

 

 丁字路の壁面に埋まる吸血鬼に手を振って走り去る。

 その右折方向の地面に置かれた真っ赤な光–––放置されてなお香ばしい匂いを発するタバコのものだ–––を私は踏みつけて、その光を消しながら走っていく。

 

「さっきの奴も今のロン毛もスリ抜けを使わなかったな。……使い手によって差があるのか」

 

 私が透過の能力を知ったのはごく最近。秋山(あきやま)昭人(あきひと)を殺そうとした時に、蘿蔔ハツカに妨害されたのがきっかけだ。

 これまで–––この10年間–––スリ抜けを使った個体はいなかった。差があるのもそうだが、吸血鬼によってはその能力の存在すら知らない個体もいるのだろう。

 それこそ吸血鬼にさせられた途端、親吸血鬼から見放されたりして。

 

「……気が滅入るな」

 

 面倒な力なのは間違いない。蘿蔔のように状況に合わせて冷静に使ってくるタイプの吸血鬼は余計に厄介だ。

 

「ああぁ〜……はっ、はっ、あははキッツ!」

 

 顔を少し後ろに向けて追っ手を見てみれば、追い縋るのはまだロン毛の吸血鬼だけ。

 奴だけであればスリ抜けで翻弄されることもないだろう。

 

「予行演習! 予行演習!!」

 

 所定ポイントに向かうために走って、今度は吸血鬼の攻撃を躱しながら近づけすぎず、かと言って離しすぎない距離を保ちながら疾走する。

 えずくように空気を求める肺に歳を食ったことを強く自覚させられる。今後のために少しトレーニングをした方が良さそうだな。

 

「鬼さんこちら〜」

「このクソ探偵!!」

 

 煽るように手招いてみれば、安い挑発に容易くノってくる。

 建物をすり抜けて襲ってくることもないのは、もし中に人がいた時にバレるのを危険視しているのだろうか。それに透過で私の左右を挟むビルの中に入っても、私の位置を知らせる眼がないのでは意味がない。

 奴らが私の前に訪れた時スマホを手にしていたのを見るに、彼らこそ沙原くんとあの女吸血鬼の居場所を知らせる役割を担っていただろう。

 

「これでふたりの手伝いになればいいけれど」

 

 問題はあの女吸血鬼。吼月くんからは止岐花エマと言われた女性。

 なぜ吸血鬼同士で追いかけあっているのか––––理由は思いつかないわけではない。

 吸血鬼の存在を知っている沙原くんは吸血鬼にとって危険な人間。彼が吸血鬼に恋をしていない、もしくは吸血鬼になりたくない––––前者より後者の方が可能性があるだろう–––と考えたとする。そして、沙原くんを連れてきた止岐花エマが彼を吸血鬼にしたくないと思ったのであれば、ふたりして逃げているのも納得がいくが。

 吸血鬼が人間を慮ったことをするだろうか?

 片方が吸血鬼だったとして、なぜ吼月くんは言わなかった?

 やはり吸血鬼の罠?–––だとしても、後ろの吸血鬼も私がいることを知らない様子だった。

 

 人間の為に命を張るような吸血鬼がいるとは––––

 

『よっす、先輩!』

 

 瞼の裏に編んだ銀色の髪を揺らす少女の姿が現れる。もう既に捨てはずの過去にも関わらず、古い記憶が再び滲み出てくる。

 必死に走ることで誤魔化した。

 酸素が不足気味の脳内では、考えても纏まった回答が出さない。

 

「今は考えても仕方ないか」

 

 託されたのは時間稼ぎなのだから。

 

「不味い時間が……」

 

 焦れた吸血鬼が速度を更にあげる。踏み出し方や目線から吸血鬼の攻撃を予測し、対処し続ける。

 何度か火のついたタバコを足で踏み消して走れば、辺りのビルの背が低くなってきた。先ほどよりだいぶ光が差し込むようになってきている。

 この時期には珍しい暖かい陽の光が私を導いてくれている。

 

「?」

 

 最後のタバコを踏み消して足を止める。

 振り返れば、よりハッキリと顔が見えるロン毛の吸血鬼が猛禽類を思わせる獰猛な目つきで私を見据えていた。

 ジリジリと地面を靴底で擦るように後退り立ち位置を考える。相手も間合いを見計らいながら近寄ってくる。

 そして、

 

––––これで……!

 

 投げつけたナイフの空を切る音が合図となり、獣が放つような戦意を身に滾らせた吸血鬼(化け物)は地を蹴った。

 ナイフを叩き落とし、瞬間移動かと思うほどの速さで私との距離を一気に縮めてくる。

 

「フッ!」

 

 自身の目的が果たされることを確信して後ろへ身を投げるようにして飛び退いた。間合いが狂い、私を裂くことなく煌めく爪は空振った。

 同時に右肩に軽い衝撃が走る。躱すために勢いよく飛び過ぎたからか、ビルの壁面に当ててしまったようだ。

 その明らかな隙を見逃す吸血鬼ではない。

 着地すると共にもう一歩深く踏み込んで、追い縋る。構えた右拳が私を穿たんと振りかぶられて–––––よし、と私は微笑んでいた。

 

 しかし、その微笑を掻き消すように黒い影が槍の如く私と吸血鬼の合間に割って入ってきた。

 

「!!」

「なっ」

 

 死角からの襲撃に私も奴も足を止めてしまう。空より降ってきたのは光を絶対に通さないと示すように真っ黒な傘であった。

 何がやって来たかが分かれば、次に目で追うのはその軌跡。自ずと傘の射線を見上げるのは自然な行為だろう。

 仰ぎ見るのはビルの上。

 そこに佇むのは女性か、男性か。

 

「まさかこんなことになっているなんてね」

 

 感情の起伏が見えないのにも関わらず、艶があって魅入られそうになる吸血鬼らしい優しい声に私は覚えがあった。

 その吸血鬼はビルの縁から臆することなく足を外すと、ふんわりとまるで風に乗っているかのように地上にまで降ってくる。顔を出し始めた朝日の薄らとした光が、奴をまるで天から遣わされた使者のように演出する。

 吸血鬼は人間を魅了する。

 一瞬、たった一瞬でも奴を–––蘿蔔ハツカを天使と称えてしまった自分が心底憎い。

 

「やあ、探偵さん」

 

 蘿蔔は傘がアスファルトに突き刺さった場所に降り立った。

 本当に来ていたのかと言いたげな目と視線を交えると、奴はしんどそうにため息をついた。

 私の方こそ内に秘めた苛立ちを吐き出したかった。吸血鬼が目の前に平然と立っているその事実すら心臓を杭で打たれるような事実だ。

 

「銭湯の時以来だな、蘿蔔ハツカ。私を助けてくれたのかい?」

「キミが死ぬ気だったならそうかもね」

 

 こうして、目を合わせるのは二度目になる。

 私は警戒心を高めて蘿蔔の隅々まで観察する。

 

「僕としては出来れば関わりたくなかったよ」

「私も殺すその瞬間以外関わるつもりはなかったよ」

「相変わらず悪趣味やめれてないの? 良いカウンセラーでも紹介しようか?」

「お前の女王様癖の方がよっぽど矯正した方がいいと思うがね。躾けてやろうか? 大根くん」

「キミの方こそ僕の眷属にでもなる? あ、七草さんでもいいけど」

 

 できれば蘿蔔から感情を引き出して手を出させたかったが、冷ややかな態度は変えられない。

 対して蘿蔔は容易く私の琴線に触れ、そして弾いた。

 

「少なくとも今よりは幸せになれるよ、無駄に吸血鬼を恨まずに済むからね」

「……無理だな」

「そう」

 

 恨んでいる相手と同じ存在になることが幸せになる方法だと語るその口は、歪みを認識せず真っ直ぐ私に言葉を飛ばしてくる。こんな捻じ曲がった奴が中学生を眷属にしようとしてるのかと思うとゾッとする。

 

「ショウくんに呼ばれたの?」

「クライアントの情報を漏らすとでも思ってるのか?」

「そういうのはいいから。沙原くんは探偵さんの居場所なんて知らないし、エマちゃんがわざわざ頼るとも思えない。なら、この二日間でやけに吸血鬼に詳しくなって、探偵さんの肩を持つようにもなった吼月くんぐらいだよ」

「そうか」

 

 蘿蔔から感じるそのしんどさの正体は眷属候補(吼月くん)への苛立ち。

 半月以上一緒にいるのにも関わらず、蘿蔔に恋心すら抱けていない少年が遂には私の元にまでやってきた。吸血鬼にとってこれ以上目障りなことはないだろう。

 その苛立ちはあの子の立場を明確にしてくれる。

 

「ひとまず難所は乗り越えたのかな。で、吼月くんはどうした?」

 

 蘿蔔がここに来たということは話し合いが終わったと言うことだろう。

 しかし、奴からの返答は私の考えを否定するものだった。

 

「さあ、知らないよ」

「は?」

 

 否定するどころか、我関せずといった態度で首を傾げてみせる。

 一瞬、最悪の光景が瞼の裏に映し出される。肉体の全ての血を吸い取られ、ミイラのような姿になった少年の姿を想像してしまう。

 返す言葉が喉から出てこない。

 

「なんで止めたんですか」

「ん?」

 

 私の意思を取り戻すきっかけはロン毛男の一言だった。

 男は爪を伸ばしたまま臨戦態勢を維持し続けている。

 戦う意志を示す男にとって吸血鬼の邪魔者である私を護るようなことは疑問でしかないだろう。

 

「決まってるでしょ」

 

 踵を返した蘿蔔が手を伸ばしたのは地面に落ちたナイフ。

 その瞬間、聞き馴染みのあるモノよりも力に満ちた音が鼓膜を揺らした。

 

「!?」

 

 振り向き様に投げつけられた銀色の刃が飛翔する。

 刃は私を突き刺そうと敵意という理性に従って向かってくる–––いや、違う。刃が撫でたのは私の頬から数ミリだけズレた空気で、本当に突き刺したモノはガシャンと背後で音を立てて崩れ落ちた。

 

「……」

「やっぱり」

 

 横目で地面を見てみれば、そこに落ちていたのはカメラだ。レンズが刃に貫かれていて、詳しく見なくてもお釈迦になっているのは分かるほどだった。

 敵意に当てられた空気を吸い込めばピリピリと身体を内側から刺激してくる。その刺激は全身の神経から脳に伝わり、目の前の吸血鬼は危険な存在であるとより強く認識させてくる。

 

「あのまま突っ込めば壁を壊した挙句、吸血鬼の痕跡を作るところだったんだよ」

 

 弓形に口元を曲げて微笑む蘿蔔にロン毛男は小さく頭を下げた。蘿蔔は私から目を逸らさず、すぐに頭を上げさせる。

 

「気づいてたのか?」

「まあ、あらかさまに誘導してたしね。探偵さんと吼月くんは……うん、ある意味似たモノ同士なのかもね」

「……?」

 

 吸血鬼と敵対しているのは同じだが、その他の素行に似通った部分なんて殆どない。

 こちらへの警戒は怠っている様子はない。

 隙があれば蘿蔔の目にでもナイフを投げつけてやろうかと考えたが、そう上手くはいかないな。

 

「ほら、行くよ」

「え、え?」

「彼女の目的が時間稼ぎなのは分かってるでしょ。いつまでも構ってあげる必要はない」

「でも」

 

 でも、殺してしまえば問題ない。

 力を持った化け物らしい奴の眼の奥に隠そうとしていた野蛮な意思が透けて見える。

 私に分かるのなら、蘿蔔にもその意思は汲み取れる。より深くその深層心理すら。

 

「でも、なに? できるの?」

 

 微笑みが消えた。瞳から光が消えた。

 圧政者の如きその有無を言わさないオーラで蘿蔔は相手の意志を踏み躙る。自分の望み通りにするために。

 あまりの威圧感にロン毛の男は一歩下がる。

 

「……分かりました」

「うん。もう一人の子は大丈夫、先に行ってる」

「本当ですか!」

「誰かが血を飲ませてくれたみたい。……エマちゃんたちは殺しちゃいけないよ」

「……! わかってます。吸血してもらえばいいだけですから」

 

 喜色染んだロン毛男は足に力を込めて、跳び立とうと––––させない。

 

「行かせない」

「それはこっちの台詞だよ」

 

 ロン毛男を空いた右手で掴もうと駆け出す。しかし、それよりも先に蘿蔔が地面から引き抜いた傘の先を私の前へ突き出して妨害してくる。

 その一瞬でロン毛男は空へと舞い上がった。

 私が苦々しく舌打ちだけして、すぐに対象を切り替える。

 左手に持ったナイフを蘿蔔の目に向かって投げつける。が、当然それは奴の顔をすり抜ける。

 

「効かな–––」

 

 それは1本目のこと。

 すり抜けたナイフの後に続くように、もう一本のナイフが現れた。既に透過を解除した奴は驚きを隠せない。

 その眉間を穿つようにナイフが飛翔する。

 

「!」

 

 奴は一撃を避けて、撤退するつもりだったのだろう。

 既にスリ抜けを解いていた蘿蔔は反射的に傘を引き戻すと、斬りあげるようにナイフを天へと弾く。キンッと軽薄な音が武器の心許なさを表した。

 私はそれで構わなかった。

 傘が奴の視界を覆った瞬間、その懐に地を滑るような足運びで入り込む。接近に気づかない蘿蔔は後退することもできない。

 

「–––––ッ!!」

 

 吸血鬼は弱点がない限り暴力では殺せない。

 しかし、いま重要なのはそこではない。

 吸血鬼の急所は()()()()()ということだ。腕や脚であれば斬られても痛いが治るし平気な奴らが多い。けれども、鳩尾を蹴れば苦しむし、目を抉られれば–––それはさっきの吸血鬼の仲間で実証済み。

 

 ならば、男の象徴にして生き物としての弱点であるソレを潰せばどうなるか?

 

「なっ……!?」

 

 蘿蔔の股下に入った右脚をひと思いに振り上げる。

 

–––ブッ潰れろ!!

 

 瞬間、伝わってきたのは想定外の感触だった。本来弱点を蹴り砕くはずの足先ではなく、向う脛に衝撃が走る。ガンと骨に響くような痛みに足が震える。

 寸前のところで脚を押さえていたのは傘だ。逆手に持ち替えた傘を直ぐに下げて私の攻撃を防いでみせたのだ。

 

「大人しく悶絶しとけよ吸血鬼」

「いや……そこは反則でしょ」

 

 ここで終わりではない。

 すぐさま次の一手を打つ。

 コートの内ポケットに入れていた奥の手を取ろうと手を伸ばす。

 

「フッ!」

「!?」

 

 しかし、私の動き出しよりも早く蘿蔔は傘を使って私の脚を薙ぎ払った。払われた脚は傘と共に蘿蔔の身体をすり抜ける。バランスを失った身体は重心を保てなくなり、左肩を下にして倒れていく。

 受け身を取ろうとするが、地面についた手も傘で払われた。

 硬いアスファルトに身体を打ちつけて軋むような痛みが襲う。取り込んでいた酸素が一気に吐き出されるのが分かる。

 それでも思考は生きてる。体勢を整えようと–––

 

「もうやめておきなよ」

 

 叶わなかった。

 首筋にひんやりとした傘の先端が添えられた。鋭利に尖ったその凶器は、少し力を入れれば容易く私の首の皮膚を裂くこともできる。

 せめての抵抗として、私を睥睨する化け物を睨みつけて問いただす。

 

「殺すか?」

「前にも言ったよね、僕らにヒトを殺す趣味はないって。相手が探偵さんでも吼月くんでもそれは変わらない」

 

 そんなわけが無い。

 知っただけで人間を化け物に変えてくるお前たちが言えたことじゃない。中学生の子供たちを化け物に変えるだなんて。

 それを容認してるお前らは存在自体が歪んでいるんだ。

 吸血鬼は憎まなければいけない悪だ。

 

「お前らは生きてるだけでヒトを殺してるんだよ!」

 

 現に吼月くんは吸血鬼になることを望んでいないのだから。

 蘿蔔の物言いだげな目線が私の髪の毛から足先までの隅々を這っていく。ロン毛の男に向けたような圧政者の瞳に違いを見出すとするならば、なにかに心が揺れている様子だった。

 

「それならどうして無理やりにでも吼月くんを止めなかったの?」

「……ッ」

 

 また喉に息が詰まって、言葉を無理やり吐き出そうとすれば餌付くような声を漏らすだけになった。昨日感じたことを口にするだけなのにも関わらず何故か声が出ない。

 

「吸血鬼と話し合いなんてできない。吸血鬼を信用しちゃいけない。キミがかけそうな言葉は数あるだろうけど、本当に危険だと思ってるなら当然止めるよね?」

「……」

「私が行けばかえって立場が悪くなる、とでも考えてたの?」

 

 不本意に私の意思を語ったのは蘿蔔で、

 

「でもそれ、本心じゃないでしょ」

「何が言いたい」

 

 その意思は正しくないと切り捨てられた。

 そして、『吸血鬼殺しとか本当はどうでも良くなってるんじゃないの?』と奴は私の心の片隅に追いやっていた感情を引き摺り出してきた。

 

「何を言って……!」

「もっと具体的に言ってあげようか? キミは全ての吸血鬼を恨めない。それどころか–––」

「黙れ!!」

 

 ポケットに入ったナイフを取り出そうとするが、首に添えられていた傘が過敏に動き、私の手を弾いた。

 

「ナイフも弱点も使わせない」

 

 反撃を許されず、蘿蔔を睨みつけることしかできない。

 

「あっくんを殺しに来た時、別れた後を狙えばいいのにわざわざ番台で待ち伏せしてたのは、どう考えてもキミのメリットに合わない。現に夜守(やもり)くんや(せき)くんの対処もしてる間に、僕がセリちゃんを呼べたわけだしね」

「……桔梗セリはお前が呼んだのか」

「そ。しかも、襲撃がキッカケで僕に吸血鬼の弱点を看破された。僕らを甘く見たのかもしれないけど、そうでなくても分の悪い闘いだ。

 それにキミが本当に吸血鬼(僕ら)を不幸にしかしないと思っているなら、僕があっくんを助けるために夕くんを盾にすることも視野に入れられるはず。

 人間を殺さない主義ならなおさら」

「そんなことをすれば彼はキミらを裏切るぞ」

「いいや、彼が惚れてるのはキクちゃんだ。吸血鬼だからじゃない。実際彼は友達が吸血鬼に襲われた上でキクちゃんの眷属になろうとしてる」

 

 苦し紛れの反論は容易く切り返されてしまう。

 どの道(セキ)マヒルくんは吸血鬼側の人間だ。仲間を助けるための演技として切り抜けられるだろう。

 

「キクちゃんと無関係なあっくんの腹を、容赦なく滅多刺しにしてる探偵さんが吸血鬼を憎んでいないわけがない。けれど心の中には確実に甘さがある。だから、キミは吼月くんを独りで行かせることができてしまった」

 

 殺し続けてきて理解は出来ていたが後に引けなくなったのか、実際に私が受けた優しさなのかは、蘿蔔には知る由がないこと。

 

「だけど、キミが心許せるとしたなら、それは……」

 

 奴は話を締めくくるために思わぬ名前を突き出してきた。

 

 沈み震える怒りすら、晴れやかな気分に変えるその名は––––

 

「七草ナズナ、じゃないかな」

 

 

 

 

 蘿蔔ハツカ()の違和感が確信に変わったのは吼月くんが士季くん達の前に独りで現れた時だ。

 不可解で鮮烈な登場だったため、そちらへ意識が向かってしまうが肝心なのは、人間である吼月がひとりで吸血鬼と話し合いに来たいう点だ。

 

『彼女に人間は殺せない』

 

 深夜にやり取りしたこの言葉に僕は頷くことはできない。探偵さんが現れなかったのも吼月くんの願いかもしれない。

 けれども吼月くんが息が苦しくなるほど彼女の主義を信じようとしているのだ。危険に晒される子供を見て見ぬふりをする大人に、身を切られるような想いを抱くはずがない。

 吼月くんは知ってか知らずか、身をもって証明してみせた。

 

 ならば、探偵さんが吸血鬼を恨みきれない理由があるはず。

 

 コテージで探偵さんの話をした時の七草さんの物言いたげな呆けた顔。

 飲み屋でニコちゃんが見せた七草さんの友達への反応。

 そして、探偵さんの七草さんへの言葉。

 

 総合した結果、探偵鶯アンコは七草ナズナの友達だと悟った。

 せっかく巡り合わせなのだから尋ねてみたくなった。

 

 僕の問いに探偵さんは唇を噛み締めることで応えた。

 

「やっぱりそうなんだ」

「いつから気づいてた」

「探偵さんが夜守くんに『七草ナズナは元気か?』って聞いたでしょ。あの時からだよ」

「……七草の話はするモノじゃないな」

 

 胸に手を当てて吐き出す息には昔を懐かしむような温かさはなく、悲壮感だけが含まれているように思えた。

 彼女らはどんな関係だったのだろう––––それを推察するには僕では力不足だ。

 

「私をどうするつもりだ?」

「何度も同じことを言わせないでくれる。僕らにヒトを殺す趣味はない。眷属にするのも……」

 

 僕は探偵さんともう一度目を合わせる。戦意はもう感じられない。

 吸血鬼への怒りという唯一の光が消し去られて、諦めが満ちる澱んだ瞳が僕を見る。

 

「その目だからやっぱりいいや」

「私の目のどこが悪いんだ」

「色だよ」

 

 声と同じく得体の知れないナニカを感じさせる瞳。初めは吸血鬼殺しとしての狂気から放たれる光によるものだと思ったが、本当に恐ろしかったのはその奥の闇だ。

 

 その目には見覚えがあった。

 見たのはいつだろうと記憶を辿ると、脳裏に映し出されるのは初めて吼月くんと出会った時。

 雑居ビルから飛び降りた彼を助けようとして、見つめてしまった瞳の闇だった。誰も気づけないビルとビルの合間の闇に容易く同化してしまうような生気のない瞳。

 

「キミのそんな目はあまり好みじゃないんだ。今にも死にそうな目は」

 

 探偵さんが吼月くんの話に乗った理由には自殺願望もあったのかもしれない。もちろん僕の憶測でしかない。

 

「……」

 

 その闇に差はあるけれど、間違いなく同じ種類の瞳。

 子供がビルから身を投げて自殺するような闇を抱え続ける探偵さんがおかしいのか。探偵さんと同じ闇をあの歳で、一瞬だとしても抱いた吼月くんがおかしいのか。

 少なくとも、二人とも病んでいるのは確かだ。

 

「そんな眼をするくらいなら、吸血鬼殺しなんて辞めてなにか楽しいことでも見つけたら? 見たところキミまだ二十歳後半ぐらいだし、やれることは沢山ある」

「……」

「僕らも、もうキミには関わらないからさ」

 

 ここから先、探偵さんの領域に入るべきではない。

 僕は彼女に背を見せる。

 

「それじゃあ、僕はムカデ確保に行かなきゃいけないから」

「なぜムカデ……」

「吼月くんがそう言ったんだよ。……そうだ、七草さんに伝えておきたいことはある?」

 

 暫し、友人への言伝を待つ。

 せめて、それぐらいはしてあげよう––––

 

「そうだな……」

 

 その甘さが仇となった。

 金属と汗で湿った生地が擦れる音がしたと思い、慌てて探偵さんに振り向く。

 銃を真っ直ぐ僕に構えていた。消えていた殺意が再び灯っていた。落ち着いた動作で撃鉄を起こ終え、引き金に指を添えた姿を見て、思わず息を呑む。

 

「死ね」

 

 絶対的な殺意が僕に当てられる。

 僕か? 違う、僕じゃない。

 もう誰に向けたのか理解できていない意志が牙を剥いて、夜明けの街に炸裂音が響く。

 何発も。

 

 

 弾数を優に超える数十発の炸裂音が鼓膜を破らんと流れ込んできた。

 無数の火花が目を焼かんと僕らの間で溢れ出した。

 

 

 

「––––!?」

 

 膨れ上がった光と異様な炸裂音に銃撃ではないと理解させられる。

 ふたりして目を覆い、耳を抑えて鳴り止むのを待つ。やがて路地裏に静寂が戻ると、目を守っていた腕を退ける。

 目の前には……般若が立っていた。

 

「ふたり揃って子供に化かされるなんて面白いわね」

 

 真っ黒なコートは飛び散っていた閃光でよりハッキリと輪郭を持つ。僕の首筋を撫でる生暖かい風が緩やかにコートをなびかせる。

 自らが僕らの境界線だと示すように突然現れた。

 

「……誰だ」

「さあね、誰でしょうね」

 

 身の丈よりもあるロングコートに身を包み、顔は般若の仮面とフードで隠されていてどんな人相をしているのか全く分からない。

 まるで本物の妖が現れたかのような事態に僕らは戸惑う。

 ただ雰囲気で分かるのは、彼女が吸血鬼であるということだ。

 

「吸血鬼か」

 

 呆けた顔から復讐者の顔に変わった探偵さんが問いただすと、彼女は肯首した。

 

「ただし、貴女と同じく吼月くんから命令を受けてきた者のよ」

 

 ……もしかして、この吸血鬼が吼月くんに情報を流した存在か?

 

「どういうことだ」

「簡単よ。貴女を守れと言われてきたのよ」

「お前が守ったのは吸血鬼(蘿蔔)だろ!」

「いいえ。私は貴女を守ったのよ、死なせないようにね」

 

 般若が僕を訝しむように一瞥した。

 彼女の言う通り、あの一発を受けていたら、今後のことを考えて探偵さんに傷を負わせるぐらいはしていたかもしれない。

 

「鶯アンコ、少なくとも今は手を引きなさい。そしたら今後楽になるわよ」

「誰が吸血鬼の言うことなんて!」

 

 探偵さんは銃の照準を今度は般若に合わせて引き鉄に指をかけ直す。

 しかし、それよりも早く般若が探偵さんの背後に回り込みポケットから取り出したハンカチで鼻と口を覆った。

 

「ッ!?」

「はい、おやすみ」

「ぅッ……っ…………」

 

 銃を構えていた腕がダラリと力無く垂れ、身体を彼女の胸に預けてしまう。般若を睨みつけていた双眸もゆっくりと瞼を下ろして閉じられた。

 ハンカチを探偵さんの顔から離す。

 見れば何かの液体を湿らせたシミが見受けられる。ドラマみたいに睡眠薬でも染み込ませていたのだろうか。

 

「寝てる時ぐらい良い夢みなさいよ」

 

 その願いが本物なのか僕には分からない。

 胸の中で眠る彼女を労る般若は口に指を這わせて、探偵さんの口角をあげさせる。強張った表情が歪められていく。作られた笑みでなければとても良い寝顔だと僕は思った。

 探偵さんの小さな寝息が路地裏に消えていく。

 般若は銃を回収し探偵さんのコートの中に戻すと、軽々と右肩に担いで立ち上がる。手脚が力無くだらんと垂れ、般若が身じろぎするだけで揺れる。

 飛び立たんと脚に力をこめる彼女を僕は呼び止めた。

 

「待って」

「なに?」

「探偵さんをこっちに渡して欲しい。彼女は危険すぎる」

「なるほど」

 

 心底めんどくさそうに僕を見つめてくる般若は、少し考え込むと相槌を打った。そして再びコートの中に手を突っ込んで銃を引き出して、僕に向けてきた。

 

「バン」

「は!?」

 

 引き鉄が躊躇わず引かれ、カチッという音に僕は思わず固まってしまう。

 しかし、その銃口から飛び出したのは僕を殺すための弾ではなく、真っ赤でか細い炎だった。

 まるでドッキリのネタバラシをされた時のような肩透かしを喰らった僕は呆然と般若を見つめた。

 

「馬鹿ね。普通の人間が拳銃なんて持ってるはずないでしょ。気が動転してオモチャに頼ったのよ」

「……驚かせてくれちゃって」

 

 火を消した銃をクルクルと指で一度回してからコートの中にしまって般若は続ける。

 

「小森湯でのことを気にしてるなら忘れていいわよ」

 

 般若は見通していると言わんばかり態度で、僕がずっと気にしていたことを容易く言い当てた。

 

「この()は貴方の弱点を持っていないもの。持っているなら既に使ってるわよ」

「……そう。よく知ってるね」

「最後に––––」

 

 彼女はできるだけ優しい声音で僕にこう言った。

 

「吼月ショウとは今後一切関わらないことね」

「どういうこと?」

「私の優しさよ」

 

 士季くんを殴り飛ばした力のことなのか、探偵さんに会いに行ってしまうような無鉄砲さのことなのか。それとももっと別のことなのか。

 適切な理由は僕には分からないけれど、それでも彼女の願いは受け入れなれない。

 

「だったら無理だよ。ショウくんは僕の眷属になる」

「せいぜい後悔しないようにね」

 

 危険なのは貴方が一番分かっているでしょうに、とため息をついて般若は再び脚に力を込める。

 

「じゃあね。早く追いかけないと––––エマちゃんたち、殺されるよ」

「ッ!? それはどういう!」

 

 夜明けの空へ溶け込んだ般若が何かを放り投げてきた。何本もの紙筒が紐で括り付けられ、火がついた尾を持つ––––いわゆる爆竹であった。

 閃光と爆発音が目と耳を再び眩ませる。

 鳴り止んだ時には既に姿はなく、追うことは叶わらない。

 

「……行くしかない」

 

 僕もすぐに夜明けの空へと跳び立った。




 今日のギーツの話で、五十鈴大智への感想で『異種族(人間)の方が自分たち(怪人)について詳しいことがある』ってのを見て、探偵さんを思い出してしまった。
 悔しい……めちゃくちゃ悔しい……

 銭湯で襲撃されたとき、セリちゃんは連絡を受けて駆けつけたのか、はたまた、元々メンヘラしながらあっくんをつけてきていたのか。
 正解は……

 


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第四十六夜「ゲームオーバーだ」

「8時の方角!」

「分かった!!」

 

 迫る吸血鬼の存在に気づいた沙原奏斗()が指示を飛ばせば、エマはすぐさま体勢を敵へ向ける。

 グッと俺を掴む力が強まった。

 漂うだけの浮遊感が急旋回による負荷に代わる。見下ろしていた街並みがいつの間にか頭上にあって、眼下には襲いかかった吸血鬼の姿が。

 

「ハッッ!!」

「グゥッ!」

 

 飛びかかってきた吸血鬼の行き先に俺たちの姿はなく、伸びた爪は空振るだけ。エマはその吸血鬼の胴を踏み台にして、進路を大きく変えた。

 蹴り出して俺たちの身体は、弾丸のような勢いで少し離れたビルの屋上へと向かう。

 

 激突する!

 

 普通であれば息を呑みかけるが、不要な心配は必要ない。

 エマは先程と同様巧みな体捌きで体勢を整えると、床にしっかりと両足をつけてキィーッとノイズを立てながら停止した。

 宙に浮かんでいて、かつ俺を抱えているにも関わらず、安定した姿勢制御に俺は思わず感嘆の息を漏らす。

 

「はぁ……ふぃ……奏斗くん大丈夫? 姫様抱っこ辛くない?」

「大丈夫、あと少しだし」

 

 息を切らして辺りを見渡すエマに訊ねる。

 

「ふぅ……ひぁ……」

「エマの方こそ大丈夫か?」

「……顔が痛い」

 

 チラリとエマの視線が止まったのは地平線の向こうに煌めく太陽だ。

 もう殆ど顔を出している太陽から射す光は吸血鬼にとって毒。動きも遅くなっているし、息が切れる事が多くなってきた。

 スマホで時間を確認すればあと3分ほどとはいえ、辛いことは事実だ。

 

「日の当たらない場所に逃げよう」

 

 俺がそう提案すれば、エマは少し考えてから「そうだね」と肯首した。数分前までならばこの案は通らなかったが今は事情が違う。

 

「せっかくみんなの連携が崩れてるから、今のうちに目につかない場所に隠れよう」

「これも全てあの吸血鬼殺しの探偵のおかげ、かな」

「だと思う。感謝しないとね」

 

 俺たちが引きつけた指示出し組の吸血鬼ふたりを探偵の元に誘導し、戦ってくれたおかげで吸血鬼たちは俺たちの居場所を正確に把握できなくなったようだ。

 実際、吸血鬼の数が半分以下。それどころか、ずっと俺たちを追っているふたりしか攻撃を加えに来ていない。

 探偵さんは何秒釘付けにしてくれたのだろうか。狙いは俺たちだから、そう長くは探偵さんと戦ってはいないと思う。

 俺としてはエマと自分への危機が減ってとても嬉しいのだけれど––––

 エマは探偵さんの自身への反応を見るに、吸血鬼だということを知らないだろうと結論づけていた。

 そのため吸血鬼を殺すの準備も持っていないだろうとも。

 

「……やるしかない」

 

 決意のある眼は揺らぐことはないけれど、小さく溢したエマの言葉からはどうしても憂いを感じる。

 逃走するために仲間に手を出すことはしていても、負わせているダメージは決して重いものではない。吸血鬼がすぐに復帰して追ってくるのが何よりの証拠。

 自分で振るう力は制御できる。

 しかし、それを他者に任せるときは違う。

 俺が事故にあったように他者の不注意、吸血鬼殺しでいえば殺意によって取り返しのつかないことになり得る。

 

「無事だといいな」

「うん。でも、今はまだ戻らない」

「相手がこのルールを守るかわからないのにか?」

「守るよ。士季くんたちはそういう吸血鬼(ヒト)だから。じゃなかったら、時間が経って話し合おうとした時に囲めばいいだけだし」

「……確かに」

 

 最初、こんな常識外の力を持つ吸血鬼がやられるイメージが湧かなかった。

 けれども今は違う。

 俺がなんとか攻撃を見切れている事実。

 あの探偵が吸血鬼を殺している事実。

 なにより俺が好きなエマが他の吸血鬼を信じているという事実。

 それが俺の中のイメージを覆そうとしてくれる。

 

「……なんか妬けるな」

「わぁ、いじけてる」

「うるさいなぁ……! こっち見んな」

 

 その信頼に妬いてる自分がなによりの証拠だ。

 だからエマが願っている限り、探偵が無事で、せめて吸血鬼も死なずにいて欲しいとは思う。

 

「そろそろ行こうか」

 

 その時、辺りの雰囲気が変わった気がした。

 背を押すような追い風から体を押さえつけるような向かい風になったからか、これから良くないことが起きるのでは?と不安になる。

 それは風向きだけが原因ではない。

 

「……なに?」

 

 エマが異様な気配を感じ取る。

 続いて俺もそれに気づいて、視線を追う。

 背後にいたのは真っ黒な人型。

 オーバーパーカーというなのだろうか?

 全身を覆う黒い衣がまるで影が持ち主を喰らって起き上がったかのようだ。身の丈に合わない装いが相手の輪郭を掴ませてくれない。

 フードを深く被って俯いた人型はピクリとも動かず、鼓動しているのかすら疑わしい。吸血鬼なら血がないだろうから当たっているかもしれない。

 

「吸血鬼か?」

「……? なにあれ」

 

 エマは理解ができないと顔に文字が浮かび上がるような困惑を示す。

 どうした、と聞くだけ無駄だ。知識がない者に尋ねたところで返ってくる言葉は一様であると、吸血鬼について知らない俺が一番わかっている。

 俺は黒ずくめに訊ねる。

 

「お前はなんだ?」

 

 黒ずくめの顔が上がる。

 応えてくれるのかと期待したが、目を合わせて無理なのではと考えがよぎる。

 

「……あんな鉄仮面…………吸血鬼の中ではトレンドなの?」

「そんなわけないよ–––!?」

 

 フードの下にあった顔は鉄の仮面で覆われていた。

 大きくて重厚感のある顔型の檻のような仮面は、まるで中世の拷問器具を思わせる形をしている。鍵をかけられたら最後、決して抜け出せない牢獄のようだ。

 一言つけるなら、センスない。

 

「っ……」

 

 ふと、一歩足が下がった。エマが後退した。

 合わせて鉄仮面が一歩だけ詰め寄る。

 離れては近づかれを幾度か繰り返すと途中で体が震えた。屋上の縁にエマの踵が当たった。ギリギリまで追い詰められたのだ。

 そこを好機とした鉄仮面は、懐に手を入れる。

 

「!?」

 

 その手を躊躇いなく突き出すと、銀色の影が俺たちに迫った。

 影がナイフだと理解したのは、咄嗟にビルの下に飛び降りたエマの頬に切り裂いた痕が残っていたからだ。

 切り傷はゆっくりと–––あくまで吸血鬼基準で–––治癒された。

 俺は押し黙るしかなかった。

 

「……ホントになんなんだ?」

 

 今までの吸血鬼は殺気のような迫力があった。

 しかし、奴は違う。

 淡々と決められた作業をこなすロボットが俺たちを殺すためだけにやってきたかのよう。迫力であれば通常の吸血鬼の方が上だが、怖さであれば確実に鉄仮面が上回っている。

 振り向けばいつの間にか肩に手を置かれているような。

 

「アイツもエマの仲間?」

「違う違う。あんなやつ居ない。居ない……」

 

 俺は鉄仮面を見上げる。

 檻の中から覗かせるふたつの眼の球がグリグリと動いて、俺たちを見つめている気配がした。本当に見えているわけではない。でも、そう思わされた。

 狙いを定めたのか奴もビルとビルの合間に飛び降りる。壁面を這うようにして降下する鉄仮面は、身体を俺たちに合わせると壁を蹴って加速した。

 見る見るうちに距離が縮まる。右手にはナイフが握られていた。そのナイフを握った手がパーカーの袖の中に隠れ、刃先が見えなくなる。

 俺を狙っているのか、エマを狙っているのか分からなくなる。

 この鉄仮面に慈悲という考えはないのだろう。

 他の吸血鬼のように捕まえたり痛い目を味合わせて眷属にさせようとするのではなく、完全に殺すという一択だけがある。

 

「ヒィッ–––」

 

 恐怖が胃液を吐き出すような声になって漏れ出した。それは鉄仮面を見ていたエマも同じだった。

 怯え()が全身に広がってガタッと体勢が崩れてしまう。

 その瞬間、鉄仮面が一気に壁を蹴った。

 

––––見えない

 

「ごめん! 奏斗くん!!」

「え!? オォォォ!?」

 

 目の前に鉄仮面が近づいたと気づいた瞬間に俺は空を独りで舞っていた。エマが俺を上空へ投げ飛ばしたのだ。

 ただでさえ下半身が使えないというのに、上空に昇る身体に強い風と圧がかかってバランスを大きく崩してしまう。

 

「この!」

 

 なんとか上半身だけで体勢を保とうとしながら、顔だけ振り向いてエマへ視線を落とした。

 直後、鉄仮面が突き出したナイフが奴の身体ごとエマを通り抜けた。

 スリ抜けだ。エマも吸血鬼だから透過が使えるんだ。

 安堵から小さく息を漏らすが、攻撃をやり過ごしたエマは唇を噛み締めながら苦しんでいた。

 

「そんなこと分かってる–––!」

 

 何か問いかけられたのだろう。

 反論するように吠えたエマが身体を捻ってスリ抜けた鉄仮面の右側頭部に向かって回し蹴りを放った。

 だが、鉄仮面はそれを読んでいたようにエマの足と自身の頭部の間にナイフを動かす。柄を右側頭部に当てるように構えられたナイフは、スリ抜けでその刃だけ躱されることを防いでいた。スピードに乗った脚の道筋を変更することもできず、エマはスリ抜けを使って攻撃自体を辞めてしまった。

 ふたりは地面に着地すると、鉄仮面はエマへ飛びかかりエマは俺に向かって飛翔した。

 

「クソッ!」

 

 敵の位置を伝達することは出来ても、それ以外は何も出来ないお荷物状態だ。位置の把握だって見切れたのは、先ほどまでの吸血鬼の手加減があったからなのだと、あの鉄仮面を見ていると思い知らされる。

 

「後もう少しだっていうのに……」

 

 もうすぐ俺たちの目的達成だが、奴を見ていると叶うとは到底思えない。

 呆然とした意識で俺は空を見上げる。

 藍色に染まっていた空はもうほとんどが蒼色に塗りつぶされていて、陽の光が差し込みヒラリと空の一点が煌めいた。

 その煌めきが落ちてきて、思わず俺はそれに手を翳す。

 同時に身体がガシッと抱えられた衝撃を受けて、バランス感覚を取り戻し安定した。

 

「大丈夫だった!?」

「あ、ああ……」

 

 俺を掴んだエマの問いかけに、曖昧に返すしかなかった。

 振り返れば、目と鼻を先に銀色のナイフが閃いた。鉄仮面は確実に俺たちを殺すという意志だけが感じられる視線で見上げていた。

 

「もうちょっと我慢してね!」

 

 そのまま青空を闊歩するように飛び跳ねて、辺り一帯にある電柱やビルの屋上を足蹴にして鉄仮面から離れる。

 俺は後ろを見続けていた。

 姿が見えなくても纏わりつくような視線が俺たちを追っているのが肌で伝わってくるんだ。

 エマも同じで、しきりに背後に視線を送っていた。

 だから、俺は思わず呟いてしまった。

 

「なぁ、エマと探偵さんで協力してあの吸血鬼だけでも殺せないのか?」

 

 相手も吸血鬼で、殆ど不死身の存在なのは分かっているが、それでも吸血鬼と吸血鬼殺しが組めばなんとかなるのではないかと考えてしまう。

 そして、俺は両手に隠し持っていた物の柄を強く握ってエマに見せた。

 

「それって、あの吸血鬼の……」

「ナイフだよ」

 

 握っていたのはナイフだ。

 空に煌めいていたのはナイフだった。それを俺は掴んでいたのだ。微力だけど、これがあればエマの力になれるかもと思った。

 エマの瞳が揺らいだ。

 傾きかけた決心に悪いとは思いつつも、俺は殺した方がいいのではと考えてしまう。

 

「吸血鬼にもエマみたいなヒトがいるのは俺が一番分かってる。……けど、やっぱり……怖いんだよ」

 

 覆されかけていた俺の中の吸血鬼という存在が鉄仮面のせいで完全に押し戻されていた。俺の意識を奪いかけた岡止も怖い。吼月の吸血鬼である蘿蔔はもっと怖い。目の前に迫ってくる脅威も怖い。

 このゲームに乗ったのは俺だけど、だからと言って死にたくはないし、エマにだって傷ついて欲しくない。

 

「……だからさ」

「出来ないよ」

 

 エマは俺の眼をしっかりと見つめた後、首を横に振った。

 

「さっき、あの吸血鬼さんに言われたんだ。『俺たちだって死にたくない。お前たちのせいで吸血鬼は探偵に殺される』って」

 

 エマが瞳が強く背後を見つめていて、そこにはあの鉄仮面がいた。淡々と俺たちを追い続け、また握ったナイフを引いてエマへ突撃してきた。

 

「こんっのっ!!」

 

 エマが身体を前傾姿勢に変えると、降下する速度が上がる。変速した俺たちはその勢いで紙一重め鉄仮面の斬撃を躱す。

 そのとき俺と奴がすれ違った。

 

「吸血鬼だって死にたくない」

「……っ」

 

 感情は見えないけれど、生への執着が分かる俺たちと同じく願いを持った真っ直ぐな声だった。

 ビルの屋上に着地したエマが続く二撃目を跳び上がって避ける。

 

「私は探偵さんを頼った。だから後戻りはしない」

 

 攻撃を辞めさせたいならば表に出ればいい。しかし、エマは人目を避けたビルとビルの間で、絶えず続く攻撃を躱しながら言葉を紡いだ。

 

「でも、死にたくない吸血鬼(ヒト)たちの気持ちも分かる……私も生きたいって願ったことあるからさ。殺すために探偵さんの力を借りたくない」

 

 死にかけたことがあるエマだからこそ一言一言に強い光があった。奴に怯えて刃を向けられたばかりだというのに、生きて欲しいと思える優しさがとても明るく見えた。

 そして、俺も死にかけたからその光に共感できた。

 

「安心して奏斗くんは私が守るから」

 

 大元を辿れば俺たちの願っていることが原因でこの騒動が起こっている。

 

 俺が吸血鬼になると言っていれば問題なくて。

––––なりたい訳じゃないのに。

 でもはルールで決まっていて

––––なら仕方ないのか?

 でもやりたいことが俺にもあって。

––––その願いが間違ってるのか?

 でもエマは受け入れてくれて。

––––そうだ間違ってない。

 でもエマが信頼する人は願いを否定していて。

––––岡止はエマの心配をしていて。

 だけど俺は自分もエマも死ぬのは嫌で。

––––当たり前だ。

 でもそれは吸血鬼だって同じで。

–––だから、あの鉄仮面だって必死で。

 

 考えれば考えるほど、なにも間違っていないとしか言えなくなってきた。

 こんなに同じことを思ってばかりの俺と吸血鬼。

 俺たちと吸血鬼のやり取りはどんな形で落ち着くのだろうかと考えてしまい、自然とナイフに目が移った。

 どうするのが正解だろう。

 個人的に言ってしまえば、鉄仮面が約束を守って俺たちを見過ごしてくれるとは思えない。

 思えないなら–––

 

「エマ、速度を落としてくれ」

「えっ……」

「頼む」

「……分かった」

 

 エマが身を翻すと、鉄仮面が俺たちと同じ高さまで上がろうとしていた。

 鉄仮面が俺たちの目線の高さに来るまで待ってから俺は、

 

「…………」

 

 カランッとナイフが地面に落ちた音が微かに耳朶を打った。

 突然自分へ身体を向けたのが気になったのか、ナイフを落としたことが気になったのか分からないが、薄らと困惑した様子だけは伝わってきた。

 

「あ、あの……! 鉄、仮面……さん?」

 

 その呼ばれ方に少し固まった吸血鬼は顎で続きを話せと促してくる。

 

「俺たちやりたいこともあって……死にたくもないんです。それは鉄仮面さんたちも同じで……考えてくることは大体同じじゃないですか! ですから……ここまで……やっておいてアレですけど……」

 

 言葉を閉じ込めるような粘ついた唾を飲み込んでから口を開いた。

 

「だから、少しお話できませんか? 知ればきっと……仲良くやっていける……」

「奏斗くん……」

「俺だってエマには死んでほしくない! 今はエマがあるから吸血鬼(アンタ)たちも死んでほしくないって思ってるけど、アンタのことも知れば、本当に死んでほしくないって思える日が来ると思うんだ!」

 

 都合が良すぎるのは分かっているけれど、でもきっと俺がやるべきはこれだから。

 

「そうか」

 

 鉄仮面はゆっくりと頷いて、ナイフを地面に落とした。

 俺の気持ちが伝わったんだと思った。

 エマもホッとしたようで安堵からか力が少し抜けた。

 

「だが、俺は化け物だ」

「え?」

 

 しかし、頷いたまま先ほどのエマのように姿勢を前に倒し、近場にあった電柱にすかさず飛び乗った。

 不味い–––脳裏にその言葉が浮かぶ前に鉄仮面は再び跳び上がった。今までよりも強い力で跳ねるその姿は、飛翔と評するべき速さだった。

 得物ではなく吸血鬼特有の剛腕を持って俺たちを殺さんと肉薄してきた。砲弾の如き速度を伴って放たれる一撃など想像もつかない。

 その光景にエマが真っ二つに切り裂かれる最悪のイメージが浮かび、本能的にエマの盾になるように鉄仮面に背を向けた。その上から包み込むようにエマが俺を抱いた。

 互いが互いを守ろうとして、瞼を強く閉じ唇を噛み締めた。

 

––––来るな!

 

 瞬間、身体の中を何かが横切った感覚に襲われた。

 

「ゲームオーバーだ」

 

 その声に、眼を開けてゆっくりと見てみれば、そこには俺たちを守るように立ち塞がるひとりの吸血鬼がいた。

 その姿に俺は強いギャップを覚えた。

 なぜなら、彼女は––––

 

「蘿蔔さん!!!」

 

 喜色に満ちたエマが呼ぶ名は間違いなくあの夜に午鳥という女性の腕を切り落とした吸血鬼であった。

 

「せっかく良い事を言ってくれたんだ。武器を振り翳すのは無粋だと思うけどな」

 

 鉄仮面の振り下ろされかけた腕を掴み、傘で突撃を抑えこみながら俺たちを守る後ろ姿は背丈以上に大きく見えた。

 

「ッ!!」

「往生際が悪いよ。キミみたいなのが居るから面倒な事が起こるんだ」

 

 力尽くで押し通ろうとした鉄仮面は遥か彼方へ蹴り飛ばされ、地平線の中に吸い込まれる。

 俺の眼前では、軽く靡いた黒髪の一本一本が顔を出し切った太陽に照らされ、流れ星の如く輝いていた。

 その持ち主は振り向き、俺たちに手を伸ばしてこう言った。

 

「大丈夫だった? ふたりとも」

 

 エマに恋している俺が見惚れてしまうほど明媚な微笑みが脳に焼きついた。

 

 

 

 

 なんとか間に合った……。

 エマちゃんたちと地上に降りた蘿蔔ハツカ()は心の内でそう呟いた。

 吼月くんと繋がっているらしい謎の吸血鬼の忠告を受けて、念の為急いで来たのが幸した。後少しであの吸血鬼にやられるところだったんだから。人通りや陽の当たり方などでふたりの進路を予測して駆けつけたけど、予想が外れていたら、あと一瞬でも遅れていたらどうなっていたことか……。

 ラインで吼月くんに『どこにいる』と送ってみれば、すぐに『車椅子を取りに行ってる』と返信が来た。

 ……そうだった。沙原くんの車椅子、広場に置きっぱなしだ。

 

『言いたい事が沢山あるんだ』

『なら、今日の夜に市民公園に来てくれ。そこでゆっくり話そう』

 

「まぁいいや。ショウくんめ……後で文句言ってやる……」

 

 僕は『分かった』と彼の提案を呑んだ。

 探偵さんのことも、この騒動のことも、なにより吸血鬼を日の下に駆り出すなんて、どう落とし前をつけたものか。

 お仕置きを考えている僕にエマちゃんが声をかけてきた。

 

「蘿蔔さん、ありがとうございます」

 

 ペコリと頭を下げたエマちゃんの顔には疲れが色濃く現れていた。日が当たる場所にも出て行かなきゃいけなかったし、疲れて当然だ。

 逆によく倒れないなと感心すらする。

 

「そ、その……」

 

 エマちゃんに抱えられている沙原くんが僕を見て、口をまごつかせていた。

 

「……ありがとう」

 

 一度息を吸ってから吐き出した感謝の言葉はどう伝えようか迷った末の素直なモノだった。

 

「ふたりが無事で良かったよ」

 

 僕もありのままを伝えると、照れを隠すように顔を背けた。

 その頬の赤みは僕に落ちた訳ではなく、恐怖を上塗りする衝撃によるものだと僕には分かった。萩凛さんの一件で沙原くんは僕へ恐怖を感じていたようだが、それも今ので消し飛んだようだ。

 怯えられるよりも、受け入れられる方がずっと良い。

 

「でも、探偵さんを引き入れた事はロン毛くんたちに謝っておきなよ」

「頼ったことは後悔できない……だから謝れないです。でも、これが終わったら我儘に付き合わせてしまったことは、ちゃんと頭を下げにいきます」

「そう、分かったよ」

 

 自分の願いをやり通そうとする芯のある眼。

 これならまだみんな納得してくれるだろう。

 一発ぐらい頬を叩かれた方がいいとは思うけど。

 

「それで最初から知ってたの? 探偵さんがいること」

「……い、いえ。協力してくれる人がいることしか知らなかったです」

 

 その答えに僕は驚くこともなく納得してしまう。吼月くんのことだから、エマちゃんが頼るしかない状況を作り出したのだろう。

 好意的に考えれば、人間を守ろうとする吸血鬼の存在を探偵さんに見せつけるために。

 敵対的に考えれば吸血鬼の存在の証拠を掴ませるために。

 

「あっ……」

 

 エマちゃんが空を見上げると、そこには3人の吸血鬼の姿があった。

 

「士季くん」

「蘿蔔さん」

 

 コツンと小さく音を立てて地上に降り立ったのは士季くんと萩凛さん、そして白山くんと呼ばれる青年だった。

 

「色々話したい事はあるけど、今は……」

「はい、分かってます」

 

 僕の話よりも優先すべきとかがある。

 エマちゃんはゆっくりと彼らの下に歩み寄る。

 

「士季くん、お話し聞いてくれる?」

 

 そう訊ねると、士季くんは「いや、必要ない」と答えた。

 それはエマちゃんの話を拒否している訳ではなく、既に要求を理解している穏やかな声色だった。

 

「なら、士季くんたちはエマちゃんたちの要求を呑むってことでいいかな?」

「一部は、です」

 

 その切り返しにエマちゃん達は息を呑む。

 

「今はまだ人間でいい。だが、俺たちとしては沙原くんには吸血鬼になってもらわなくちゃいけないのは変わらない」

 

 沙原くんはこの先どうなろうと眷属になるしかないのだから。

 その価値観は変わりはしないけれど、といって人間と吸血鬼でこれ以上のスレ違いが起こるのは許容できない。

 

––––気持ちよく吸血鬼になってもらうために、この1年で沙原くんにはエマちゃんと永遠に居たいと思わせよう。

 

 僕の意見に士季くんが頷いたのを見て、

 

「え? なんです?」

「???」

 

 僕は沙原くんに近づいて、微笑んだ。

 そして––––

 

「いただきます」

 

 僕の口の中が新鮮な生き血で満たされる。

 

「〜〜〜〜〜ッッッ!!!」

 

 血を啜る卑猥な水音が耳から彼を刺激し、痛みと快感が身体の内側からこの瞬間を焼き付けつける。

 吸血鬼に血を吸われるとはどういうことか。

 その喜びを強く印象付けるよう念を込めて僕は血を飲んだ。

 

「ぷはぁ〜……うん、唾つけさせてもらったよ」

 

 口を離せば、頬を朱に染めて首筋を抑える沙原くんと、驚愕で表情を引き攣らせて固まるエマちゃん達がいる。

 やっぱり、この事も聞かされてなかったのか。

 ちょうど良い薬にはなるかもね。

 後ろには、仕方ないだろうと頷く士季くんと白山くん。萩凛さんが羨ましそうに唇に指を当てる。

 

「私にやられてくれればいいのに」

「中立な僕の方が適任でしょ。沙原くんの血を僕に吸われて嬉しいよね、エマちゃん」

「〜〜〜!! こんなの寝取られだよ!!」

「なら、吸うしかないよね。今のままなら僕のモノだね。あ、そうだ。沙原くん、このまま僕の眷属になる気はあるかい?」

「……」

「ダメですよ! するなら私の眷属だから!!」

 

 固まった表情が茹ったように赤くなり、溶け出した感情が叫びを上げた。

 僕はひっそりと吸血の衝撃で口が利けなくなっている沙原くんには耳打ちする。

 

「エマちゃんに吸って貰えばもっと気持ちいいかもよ?」

「………っっ」

 

 エマちゃんに血を吸われた時の想像をした沙原くんは悶えてしまった恥ずかしさに打ちひしがれ、そしてエマちゃんにしてもらえたら嬉しいなと身体が勝手に身構えていた。

 それをエマちゃんは誤解してしまったらしく。

 

「え!? 奏斗くん!? 何言われたの!!」

「なんでもねぇよ!!」

「だったら教えてよ!!」

「エマだけには言わん! 知られたくない……!」

「ええーーー!!!?」

「ふふっ、あはは!」

 

 より一層赤みを増した沙原くんとエマちゃんを見ているのはとても微笑ましかった。

 その光景には、心のうちに吸血鬼になるのも良いと思える時がきっと来ると確信させる暖かさがあった。エマちゃんの優しさなら沙原くんも吸血鬼になりたいと思える。沙原くんならエマちゃんの眷属になりたいと焦がれる想いがある。

 

「さあ、みんな。今日はこれでお開きだ」

 

 吸血鬼に惹かれて、焦がれて一生を捧げていいと思った時こそが吸血鬼になる最高のタイミングだ。

 きっとこの暖かさが極まった時に訪れるモノ。

 吸血鬼の魅力で人間の道理なんて引っ込めさせよう。

 それで僕の望み通りだ。

 

 

 

 

 

 

「これから1年間、頑張ろうね」

 

 

 

 

 地面に背をつけた身体をゆっくりと起き上がらせる。街を飛びながら受けた猛烈な風で乱れてしまった髪を、片手で適当に整える。

 そして、先ほどのふたりの姿を思い出す。

 

「……良かったよ奏斗先輩、エマ」

 

 相手の声に耳を傾けようとする勇気と願いのために誰かを利用する胆力に、今になって僕は心打たれた。今になって強く胸を打つのはようやく感情が再起したからだろう。

 しかし、なにより絶景だったのは。

 

「ハツカ……」

 

 瞼を閉じれば僕の前に対峙したハツカの姿がありありと映し出される。

 僕の一撃を受け止めて、奏斗先輩とエマを守るその姿は正に《騎士(ライダー)》。理不尽に晒されるふたりの下に誰よりも速く駆けつけ、僕から護り通した。

 ヒトの中にある《普遍的な原型(アーキタイプ)》を彼らは待ち続けている。

 やはり彼はヒトだ。焦がれてしまうほどにヒトなんだ。

 

「やっぱりカッコいいよ。ハツカ」

 

 さて……車椅子を持って行ったら、今日も学校だ。

 陽の光を受けながら俺を大きく欠伸をした。



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第四十七夜「自分の意思で」

 今日は記憶が吹っ飛んでいる。

 路地裏で待っていた奏斗先輩とエマの下に車椅子を届け自宅に送った後、ようやく帰った自宅から登校を始めた。

 そこからは殆ど覚えていない。

 理由は眠気だろう。

 日曜日から今に至るまでの睡眠時間は4時間だけ。

 仁湖さんに比べれば……マシかもしれないが、街中を駆け回ったり吸血鬼とバトルしたり肉体に蓄積した疲労は、1週間眠りこけても良いのではないかと思えるものだ。

 初めて授業中に眠ったかもしれない。

 ただ、ノートを見れば、教師の口頭だけの知識をメモする欄にしっかりと書き込みがあるので、無意識に授業自体は聞いていたのかもしれない。あらかじめ教科書や便覧を見て、ノートを作っておく派なので、板書の必要がなかったのも幸いしたのかもしれない。

 不確かな1日を過ごし、ある程度体力が回復した頃には空には星々が瞬いていた。

 

「よっす、奏斗先輩」

 

 ハツカへの宣言通りに市民公園に来た俺は、体育館のメインアリーナを車椅子で駆けていた奏斗先輩がコートから出てきた所で声をかけた。クラブチームの仲間に一言告げてこちらにやってきた。

 

「精が出ますね」

「もうすぐ大会だしな」

「ご活躍期待してますよ、先輩」

 

 車椅子を漕ぎながら俺を見る視線は訝しげだ。しかし、昨日までの気怠げな眼ではなく、生気に満ちた冴えた眼をしている。

 

「……なんで名前呼びになってんの?」

「朝から呼んでたじゃないですか……」

「敬語も気持ち悪いからやめろっつったろ」

「ソレ、ここでも通るんですね」

 

 なら、と口調を以前と同じくして『尊敬しただけですよ』と返せば、より目を細めてくる。

 実際吸血鬼に捕まることなく日の出までやり通したし、吸血鬼に自ら歩み寄ろうとしたことも俺からすればとても凄い勇気がいることで、尊敬に値したのだ。

 軽く口を交えながら外へ出ることにした。自動ドアを通り、人気の少ない場所に移って青いタイルが敷き詰められた壁に背を預ける。

 

「それで、今日は学校に行かずに家でエマとイチャコラしてたの?」

「イチャコラ言うな!! い、一緒に寝ただけだよ……」

「やっぱりイチャコラじゃないか」

 

 実を言うと、奏斗先輩は今日学校に行っていない。

 自宅に送り届けた時に出迎えてくれた両親たちに『今日は疲れたから明日から学校に行ってて良い?』と奏斗先輩は切り出したのだ。今までであれば、ついに学校に行くことまで嫌になってしまったのかと思われていただろうが、今日のゲームを超えて精神的に前に進んだ奏斗先輩は負の一面は持ち合わせていなかった。

 また前進するための小休憩。

 両親もなにかが変わったことを悟ったようで何も聞かずに『分かった』と頷いていた。

 

「まさかエマが窓から(うち)に来るとは思わなかった……」

「血を吸われると思ったのか?」

「いや、そこは心配してねぇよ。ただ親にバレたら不味いだろ」

「どう不味いんだ?」

「それは……アレが……これで……」

 

 俺の切り返しに慌てる奏斗先輩は言い淀む。

 その時夜風が首を撫でるように吹けば、奏斗先輩は自然と首筋に手を添えた。首筋には絆創膏が貼られており、その下にはきっとハツカに吸血された痕があるのだろう。

 

「ハツカに吸われたの気持ち良かった?」

「………」

 

 答えはしないが、不満そうに膨れた顔が雄弁と語っていた。

 吸血は生きる為に必要な食事という訳ではなく、子供を作るためのまぐわいでもある。吸血に痛みと快感を伴うのはまぐわいの一面からだろうと俺は予測している––––と言う話は置いておいて、

 まぐわいである以上、好きな人にやって貰いたいと願うのが本心だろう。

《恋をして眷属になる》という吸血鬼の性質を知っているなら尚更。

 

「エマに吸われたいって思っちゃった?」

「うっせぇよ……」

「いいんじゃない? 一時の快楽を求めてしまうのも人間らしいと思うよ」

「エマに吸われたら俺は吸血鬼になるんだよ!」

 

 こう返してくるあたり、ちゃんと人間として生きたいという芯は変わっていないようだった。

 それよりも俺は、吸われれば吸血鬼になると確信しているあたりが本当に凄いと思った。

 恋をしている人はそれを自覚するのだろうか? ならば、理世に対して自覚していない俺はやはり恋はしてないということになる。

 

「……待て、お前何で知ってる? 俺は蘿蔔さん?に吸われたこと言ってないよな!」

「ん? 俺がそうなるように仕向けたからな」

「吼月、お前さ……探偵さんもこともだけど先に言えよ!」

「先に言ったら利用しないしだろ」

「そりゃそうだろ。あの人のおかげで助かったのは事実だから俺は感謝してるけど、エマは探偵さんに当てがった二人をかなり心配してたんだぞ」

「なんだっけ。鶯さんと戦ったふたりにも『付き合わせてごめんなさい』しに行ったんだっけ?」

「聞けば片目抉られたらしいじゃん……」

「あぁ……眼は痛いな……」

「痛いどころじゃないんだよ。嫌だな……吸血鬼でも痛いよな……」

 

 俺の想定通り–––いや、それ以上に–––鶯さんが強かったらしいとはいえ、奏斗先輩の人間としての未来を奪うことを前提に動き、このゲームに乗った時点でどんな攻撃をされても仕方ない。『自分たちは大丈夫』『無事でいられる』なんて甘い考えで参加していたなら、底が知れているのではないだろうか。

 それならそれで構わないけれど、なんて考えていると、自動ドアが開く音がした。

 

「こんな所にいた!」

 

 ドアを潜り抜けてきたのはエマだった。

 

「あれ? もう終わったのか?」

「うん! 許してくれたよ!」

「本当か〜?」

「嘘ついても意味ないでしょ!?」

 

 俺が軽く煽ってみれば、大きなリアクションで返してくるエマ。

 こっちもこっちで、明るくなったというか、初めて会った時のよそよそしさがなくなっている。憑き物が落ちたと言うのに相応しい代わりようだ。

 

「けどなんで中から……?」

「ふふふっ、むふふ……」

 

 ニヤニヤと笑いながら後手に隠していたモノを俺たちに見せてくる。

 その手には奏斗先輩の好物であるメロンパンが入った袋が3つ握られていた。うちふたつを奏斗先輩と俺に手渡してくる。

 

「はい、どーぞ!」

「サンキュー!」

「ありがとう……? なんで俺まで?」

 

 好物を渡されて笑顔になる奏斗先輩と対照的に、俺は目の前に突き出されたメロンパンを受け取りはするが、なぜ自分の分まで買ってもらえたのだろうかと首を傾げた。

 

「なんでって、私たちの為に色々動いてくれたわけじゃん? そのお礼!」

 

 なるほど、社交辞令的なやつか。

 

「ありがとう、俺も好きなんだ。甘すぎるけど美味しいよね」

「甘すぎるは余計だ。撤回しろ吼月」

「そうだそうだ!」

「……ふたりはコーヒーに角砂糖を何個入れてる?」

「5個」

「8個」

「やっぱりふたりが甘党なだけでは!? 素直にカフェオレ飲みなよ!?」

 

 8個なんてもうそれ、中身ドロドロだろ。

 俺とエマで奏斗先輩を挟む形で壁にもたれながら甘党御用達のメロンパンの封を開けて、俺も少しずつ食べていく。

 やっぱり甘い。とはいえ、嫌わけではなくここまで甘いと逆に癖になってきて、ふと思い出した時に食べたくなるタイプだ。

 メロンパンに扇状の凹みができたあたりで奏斗先輩が俺に呟いた。

 

「俺も吼月には感謝してるよ」

「?」

「吼月のおかげでエマにちゃんと話せたわけだし、今もこうして人間で居られるのも……一応、お前のおかげだ。探偵さんのこととか言いたいことあるけどさ、ありがとう」

 

 そうではない。知り合い(カオリ)がエマの居場所を知っていて、俺を利用するために知らせてきた。俺のおかげではなく、あの場にふたりを導いたのが偶々俺だっただけだ。

 あくまで俺は––––とその感謝を否定しようとするが、

 

「あとさ……悪かったな」

 

 より理解できない話を展開されてしまう。

 奏斗先輩になにか気に触ることをされたか思い出してみるが、やはりそんな節はない。そうなれば自然と聞き返してしまうのが普通だろう。

 

「それこそなんだよ? なんかあったっけ……?」

「ほら、学校で吼月に怒鳴っちまっただろ。お前に言っても仕方ないのにさ」

 

 示された過去の出来事にそんな事もあったなと思い出す。あの時は奏斗先輩からすれば吸血鬼に対して怖い一面だけ見てしまうのも無理はなかったし、その事について俺は理解していたつもりだ。あくまでつもりだが。

 

「あぁ〜なんで平然としてられるんだよ!ってやつだな。構わんってあんなの」

 

 あっけらかんと笑って心配無用だとしてみれば、奏斗先輩もそこまで気に病むことではないと分かってくれたらしい。

 しかし、その話を止める気もないようだった。

 

「俺はさ、蘿蔔さんのこと突然やってきて腕を切り落としたって印象に考えがもってかれて怖がっちゃったけどさ……そうだよな。そうだもんな、蘿蔔さんは吼月を助けたんだもんな。俺も黒い吸血鬼から助けられてよく分かったよ」

 

 止めさせればいいものを俺はまるで続く言葉を待っているかのように、『ああ、そうだな』と短く返した。

 思い出すのは、夜空を背に笑うハツカ。

 

「あの時はどうして吼月は笑ってられるんだって思ったけど、アレだけカッコよければ笑っちゃうよな。な、エマ」

「本当だよね! サッと現れてヒーローみたいだったよね!」

 

 その言葉に口の中から飛び出してしまいそうになるナニカを抑えるようにメロンパンを頬張って、

 

「だから、悪かったな。吼月の好きな吸血鬼(ヒト)を化け物呼ばわりして」

 

 途端に甘い過ぎるメロンパンの味が全く感じなくなってしまった。胸の内にかかっていたモヤモヤも分からなくなり、完全に無の状態になってしまった。

 そうだ、ハツカはかっこいい。

 ハツカは化け物ではない。

 ハツカはヒトも化け物も関係なく助けてくれた()吸血鬼(やつ)だ。

 

「吼月? おーい、吼月どうしたんだ?」

「これはね〜……好きな人を褒められて嬉しがってますねぇ〜〜」

「吼月も人並みにそんな反応するんだな」

「中学生の初心な照れ可愛いなぁ。一枚撮っとこ」

 

 無の中にいる間だけは、外野が口にしている言葉がまるで文字化けしたかのように意味のある形を成さないでいた。

 少しして、息を忘れていた俺が無から舞い戻った時には、メロンパンを押し込んだ口が酷く歪んでいるのが分かった。なにより–––それを自覚すると、胸の中にあったはずのモヤモヤが空気洗浄機にかけられたようにスポンと消えてしまっていた。

 結局、あのモヤモヤはなんだったんだろうか。

 

「……悪い、今何言ってた?」

「いいのいいの。気にしないで」

「なんかスッゴイニヤニヤしてるけど……」

 

 エマのニヤリとした笑みにも疑問を持つが、口にしないならそれで良いだろう。

 何かを思い出したように奏斗先輩がエマに問いかける。

 

「そういえばあの黒い吸血鬼には認めてもらえたのか?」

「う〜ん、それが誰も知らないんだよねあの吸血鬼。吸血鬼なのかもよく分かんなかったけど、私も仲間の吸血鬼たちも見たことないって」

「ええ……もしかしたらまた狙われるかもしれないのか?」

「大丈夫だろ。アンタらが吸血鬼の意思も尊重している限り」

「破る気なんてないけどさ、もう少し話してみたいよな」

 

 よほど怖かったのだろう。

 顔が引き攣り声が震える奏斗先輩だが、何がの琴線となるのか理解しているようで、偽吸血鬼()の恐怖を否定しなかった。

 

「というか、蘿蔔さんに血吸われたけどエマが考えてた交渉が通ったってことでいいのか? 上手いこと吸血に興味持たされただけな気がするけど」

「大丈夫だよ」

 

 断言したエマが、奏斗先輩に眷属になる(1年)ルールを説明してこう続ける。

 

「必ず眷属にしたいなら期限なんて作らずに奏斗くんが納得するまで吸血鬼の良さをアピールした方がいいでしょ? わざわざ期限を作ったってことは最悪人間のままでも良いって暗に言ってるじゃないかな」

「恋なんていつ冷めるか分からないモノを放置していざ吸ったら、眷属にできませんでした、なんて可能性もあるわけだから認めたと解釈していいだろ」

 

 士季は俺の血を浴びたこともあってこちらの意図は既に理解している。吸血鬼としての自信も含めての解答だろう。

 小さく頷いていると、エマがなにやら俺を睨みつけていた。

 

「は? 冷ませないけど? なるとしても私の眷属ですけど?」

「エマとしては冷めた方がいいだろ」

「分かってないね吼月くん。眷属にするならこの子がいいなぁ〜って思ってた相手が違う人に血を吸われて眷属になってたら悲しいじゃん! 泣くほど眷属にしたくなくても、なるとしたら私の眷属であって欲しいし! 蘿蔔さんや午鳥さんに取られたら寝取られでBSSなの!」

「寝取られでBSS……」

 

 聞きなれない単語–––寝取られは一応調べたので知っている–––に俺は首を傾げて訊き返した。

 

「BSSってなに……?」

「…………」

 

 問いかけにエマはハッと我に返り、目線をものすごい速度で180度回転させた。風を切る速さで目を逸らされては追求しずらい。

 とはいえ意味がわからなければ、エマの考えも分からない。

 なので、今度は奏斗先輩に訊ねてみると。

 

「BSSってなに……?」

「僕の方が先に好きだったのに、でBSS。つまり、ちょっとエッチな言葉だ!」

「エッチじゃないし!!」

「エッチなんだ……」

「だ、か、ら、違うってぇ!!」

 

 必死に否定しようとするエマが面白いのか奏斗先輩がくすくすと笑っている。

 そういうシチュエーションね。

 そうか。俺は吸血鬼したくないことを念頭に話していたが、その先の誰の眷属になるか、例えば『午鳥に最悪取られるぞ』と発破かけたら、エマもすんなり動いた可能性があるのか。

 今度はこの考え方も持つとしよう。

 そう考えたあたりで、俺は思い出したかのように不思議に思っていたことを奏斗先輩に訊ねた。

 

「そういえば俺、先輩から急に『エマの場所知らないか』って電話かかってきて驚いたんだよな。あんなにビクついてたのにどういう風の吹き回しなんだろうって」

 

 怒鳴られた翌日にそんな電話がかかってくるから驚くのも当然だろう。あと三日四日はかかると思っていたので嬉しい誤算だった。

 

「えっと、それはだな……学校の先生に話を聞いてもらって、あっもちろん吸血鬼のことは言ってないぞ! ただ背を押してもらったんだ」

 

 俺は思わず、『へぇ』と凄く感心を込めて呟いた。あの状況の奏斗先輩が自分から打ち明けることはないから、その先生が自分から訊ねに行ったのだろう。

 周りが見えたうえでちゃんと接することができるいい教師だ。

 となれば、誰なのかが問題だ。

 

「どんな人?」

東根(あずまね)ではないだろうし」

 

 エマと俺がその教師について求めれば、少し迷った素ぶりを見せながらも答えてくれる。

 

「定時制の平田ニコっていう教師で……初めて会ったのに優しくしてくれたんだ。やりたいことを認めてくれるいい人だよ」

 

 その名を耳にした俺とエマは数秒固まったあと、軽く吹き出してしまった。あはは、と笑う俺たちを見て奏斗先輩は話す内容がすっ飛んだかのように間の抜けた顔で呆然としてしまう。

 

「なに? どうした!?」

「いやそうか。ニコ先生か、ふふふ……うふふ……」

「そっか、平田先生ってあそこの定時制で働いてるんだもんね」

「え? お前ら知り合い?」

 

 そこまで分かればあとは簡単。

 

「ということは……平田先生も吸血鬼?」

 

 ピンポーンと効果音が鳴りそうな雰囲気でエマが指を鳴らした。

 なんと奇妙な縁だろうか。

 吸血鬼が、吸血鬼との関係に悩む青年の背中を押すことになった。しかし、そのことをニコ先生は何も知らずに–––善意か使命感かは分からないけれど–––確かに奏斗先輩を助けた。

 彼女の『これでも教師だからね。子供の悩みと向き合うことに対価を求めるつもりはないからね』という言葉が嘘ではないと分かり、ニヤッと笑ってしまう。奢ると言ったのに逆に奢ってくれたりしたので、常識のある大人なのは元々知っているだけども。

 本人が知ったらかなり頭抱えそうだな。

 

「いやいやいやいや……多すぎだろ! この街!」

「あはは本当だな〜ここまで来るとクラスメイトが吸血鬼だったりしてね!」

「流石にそれはない……とは言い切れないな」

「ま、昼間の学校にいるわけないけどね。私だって屋内で1、2時間しか居られないのに……」

「今度からは夜に一緒に居ような」

「そうだね! これからのためにもね」

 

 《これから》を考え笑い合うふたりに尊さを覚えるが、彼らの中には微かな不安も見え隠れする。士季たちに認められなければ、一年後には吸血鬼にさせられる。おおよその現状は変わっていないけれど、少なくとも《選び取れる現状》には変わっている。

 するしかない、という一択ではなく、するために、という二択になった。

 

「何はともあれ–––」

 

 不安はあれども、きっと善い道が増えたと願いたい。

 中身がなくなった袋を綺麗に畳んでポケットの中に入れて、少し歩いてからふたりに向き直る。

 彼らが俺を見つめた。

 

「君たちは吸血鬼相手に生き方を勝ち取った。否定する者も沢山いるだろうが、少なくともこの一年は君たちの生き方は肯定される。それが続くかはキミら次第だが……俺から言えるとしたらただひとつ」

 

 今後の彼らに似合う言葉はなにかと模索した時、思いついたのはこの言葉だった。

 

「夢に向かって飛べ、かな」

 

 スポーツマンになる夢も、大切な相手と居たい夢もどちらも手にできるように。

 心の底から願ってみせるから、頑張ってくれ。

 

「それじゃそろそろ行くか」

「……行くってどこに?」

 

 エマが首を傾げて俺に問いかける。

 

「エマ、キミたちがやらなきゃいけないのは謝罪だけではないだろ?」

 

 ハッとした顔は、まさかまさかと驚きの色が差した。

 

 

 

 

 吼月くんたちが笑い合ってるのを遠くから蘿蔔ハツカ()らは見守るように話していた。そばにいるのは士季くんと萩凛さんだ。

 

「ようやくひと段落だ……」

「お疲れ様」

「いやホントですよ……」

 

 僕の隣で士季くんが地面にへこたれて大きなため息をつく。数十秒は続いたため息からはここ一ヶ月間の疲れが一気に放出されているのが分かる。

 自分の眷属が昼間に無理して出歩いたり、吸血鬼を知った人間を眷属にしたくないと言い出したり、自分たちと敵対したり。更には探偵に頼った……いや頼らされてしまったんだ。

 士季くんがどれだけ頭を抱えたか想像できる範囲外だろう。

 

「ホント今回はどうなるかと思ったわ」

「でもエマもみんなも欠けなくて良かった……」

 

 それでも安堵の笑みを浮かべる士季くんに、僕もつられてわらってしまう。

 

「にしても、よくあの2人許してくれたね」

 

 あのふたりというのは、もちろん探偵さんと対峙した吸血鬼たちのことだ。特に探偵さんに目をやられたという筋肉くん–––名前知らないからね–––は本当によく許してくれたと思うよ。

 士季くんはポケットに手を入れながら答えた。

 

「蘿蔔さんは隆間(りゅうま)……あの筋肉くんが知らない吸血鬼に血を飲ませてもらったのは知ってるんですよね?」

「一応それはあのロン毛くんを見つける前に聞いたよ」

「なんかその時に……『恨むなら吼月ショウにしなさい。彼女たちも騙されてるだけなんだから』ってこんな紙を」

 

 ポケットから取り出した紙を受け取り広げてみると、それはここ二日間のラインのトーク画面をコピーしたものだった。アカウントはエマちゃんと吼月くんだ。僕のラインに登録してあるアカウントと同じだから間違いない。

 見ればメッセージや写真で作戦内容が送られていた。しかし、その中に探偵や鶯アンコの文字はひとつもない。電話をした履歴もない。

 口頭で伝えたのかもしれないが––––今度は僕が頭を抱えた。

 

「なので隆間たちは今度、吼月を引っ叩かせて欲しいって言ってましたね」

「……吸血鬼が殴ったら死ぬって」

「いや……死ねますかね、アイツ……」

「???」

 

 その返しに思わず首を傾げた。歯切れの悪い口を動かす士季くんが、どう切り出すか探すように小さく唸る。

 見かねたように誰かが士季くんの中の疑惑を形にした。

 

「ハーちゃん、あの子は……吼月くんって何者?」

 

 そう問いかけてきたのは萩凛さんだった。

 彼女の意図が見えず、普通に『人間でしょ?』と答えようとしたが今朝の広場でのことを思い出す。吼月くんが突然現れ、士季くんを殴り飛ばしたあの瞬間を。

 

「あの後、何があったの?」

 

 質問を答えないまま返してしまうが、こちらだって答えを持っていないのだ。

 その事を察したふたりが口を揃えてこう言った。

 

「吼月は吸血鬼になった」

「は?」

 

 初めに自分の耳を疑った。

 次に僕は彼らの口を疑い、目を疑った。

 何を言っているんだとしか思えなかった。

 普通に考えれば、僕以外の吸血鬼–––あの謎の吸血鬼とか–––に恋をして眷属になったと考えるのが妥当だけど。

 首を動かしてエマちゃんたちと談笑している吼月くんを見る。

 

「人間だよね」

「ええ、今は人間に戻ってるわね」

「吸血鬼になった? 人間に戻ってる? なにそれ……??」

「俺たちも訊きたいんですよ……」

「私と白山くんなんて首の骨折られたのよ? だから彼の血を吸わせて」

「……どうしよっかな」

 

 僕らの理解の範疇を超えた話に困惑し続けるしか無かった。

 

「少なくとも吼月は()()()()()()()()()()()()()んです」

「……そんなこと」

 

 

 

 

「聞いた事ないな」

 

 

 

 突然声がした方角に僕らは意識を向けた。街路樹に隠れるように息を潜めていた存在にようやく気がついた。

 

「鶯アンコ……!!」

 

 

 現れたのは探偵、鶯アンコだった。

 彼女は僕らと対峙し、鋭く視線をぶつけてくる。かと思ったが、その視線は僕らをすり抜けて背後に向けられていた。

 

「来てくださったんですね、鶯さん」

 

 振り向いてみれば、指で作った狐を鳴かしながら微笑みを湛える吼月くん(妖怪)がやってくる。

 

「キツネ……」

 

 士季くんが溢した一言に僕はこう思うしかなかった。

 

 

 

 また化かすつもりか。




 面白い! 面白すぎたよギーツ!!
 多くは語るまい……ただ良かったよ!!

 でもコレ冬映画とかvシネどうなるんですかね……?
 


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第四十八夜「ぶっ潰す」

 昨日は申し訳ございませんでした。
 楽しんでいただけたら幸いです。


 俺が歩き出した時、ハツカたちと(ウグイス)さんが対峙していた。近寄るだけで互いを意識し合い、睨みつけて戦闘態勢に入っているようだった。

 近くに事情を知らない人間はいない。出入り口からも結構離れているから、人に聞かれる心配もなかった。

 

「性懲りも無くまた来たの?」

「呼ばれたのさ。キミの眷属候補にね」

 

 近づけば4人が俺に視線を移した。

 

「くくく……っ」

「なにがおかしいのかな? 吼月くん」

「いえ、すみません鶯さん。ちょっと黒幕っぽく笑ってみたかったので」

 

 笑いを堪えるように口元に手を添えていれば、今にも弾丸が飛び出しかねない迫力を持った静かで鋭い眼力が俺を貫く。

 その視線は鶯さんだけではない。ハツカや士季たちからも敵愾心の籠った目が向けられる。

 

「あ、本当にいる」

「こ、こんばんは」

「……こんばんは、沙原奏斗くん」

 

 俺に続いてやってきたエマと彼女に車椅子を押されてやってきた奏斗先輩が鶯さんと視線を交える。鶯さんの瞳には、どろっとした砂糖の主張が激しいコーヒーのように猜疑心がたっぷり溶かされていた。

 

「ショウくん。これはどういう–––」

「俺が教えた。それでいいだろ」

 

 俺が事実を簡潔に伝えると、鶯さんは自身のコートの内ポケットに雑に手を突っ込み一枚の紙を取り出した。

 

「私のコートにこんな紙が入っていた。『今晩21時に市民公園の体育館前で会いましょう』とな。私を眠らせた吸血鬼が入れていったのだろう」

 

 眠らせた吸血鬼。カオリのことだろう。

 

「これもキミが奴に命令したことか?」

「ええ、奴とは今回目的が合致しましてね。その流れで。そんな紙切れなどなくとも鶯さんであれば、ここを突き止められると俺は思っていますが」

 

 誇張でもお世辞でもなく俺はそう思っているのだが、鶯さんは「そうか」と淡々と言葉を返す。

 

「吼月くん、少々癪だが蘿蔔と同じ質問をしよう。これはどういうことだ?」

「聞きたいことはこの体育館に詰め込まないほどあるでしょう。なぜ奏斗先輩がここにいるのか、なぜ吸血鬼と仲良くしているのか、なぜ普通にハツカや士季たちに監視された状況なのか。

 ええ、沢山あるでしょう。お訊きください。ゲームの主催者である俺にはその問いに答える義務がありますから」

 

 しかし––––と指で鶯さんが言葉を紡ぐ前に、シッと口を閉じてほしいというジェスチャーをする。

 その後、俺は奏斗先輩とエマへ目を向けると彼らも怪訝そうに俺を見る。鶯さんへの敵意ではなく、俺に対して「お前何やってんの?」と言いたげなものだった。それはハツカたちも同じく。

 

「ふたりも訊きたいことはあるだろうけどどうする?」

「分かってるよ」

「俺も行く」

 

 ふたりはそのまま鶯さんの目の前へ近寄った。鶯さんがその気になれば、一呼吸でエマの喉元を刺したら抜けるほどの距離だ。

 一撃の距離であるのはエマも同じで、鶯さんも気を張っているのが解った。

 だからこそ、彼女たちがかける言葉には意味がある。

 

「ありがとうございました」

「……は?」

 

 自然と声が重なった感謝の言葉に鶯さんは事態を把握できないかのようで、脱力した口から一言だけ溢した。手に持っていたカップを落とし、割ってしまったことにすら気付かないような硬直のまま、吸血鬼殺しの探偵は呆然としていた。

 ただ一点。自身に頭を下げた吸血鬼を見下ろしている。

 

「おいふたりとも!?」

 

 彼らに待ったをかけるように声を張り上げたのはエマの親である士季だ。

 

「探偵さんの手を借りるって最後に決めたのは私なんだし、感謝はしないのは無礼だよ」

「俺も実際助けてもらったし」

「いや、お前らなぁ……相手は俺たちの敵だぞ!?」

「それはどうかな?」

 

 また、くくく、と不敵に笑ってみせれば全員の視線が俺に集まる。

 

「さてさて、鶯さん。これはどういうことか……簡単ですよ。叶えたんだ、人間と吸血鬼が笑い合える世界を!!」

 

 その結末は大切な人と一緒に歩んでいける結末だ。そして、より多くの道を選べる結末でもある。

 俺の物言いに感情を取り戻した鶯さんは、煙草を取り出し一服。天まで登る煙を吐き出してから、努めて冷静に対峙する。

 

「私の下に来たときは沙原くんの夢を奪わせたくないと言っていただろ。吸血鬼と一緒にいるなら現状は変わらない。眷属にされる可能性はだって残ってる」

「いいや、大きく変わったよ。あの段階では吸血鬼のルールで、奏斗先輩は吸血鬼になることを強いられていましたから」

「……っ」

「貴女の協力もあって、奏斗先輩自身の意思で人間のまま生きるか、吸血鬼になるかを選べる世界になったのだよ!」

 

 あとはふたりがこれからどうしていくかによるが、人間も吸血鬼も彼の視点からは善し悪しはつけられないだろう。

 

「まず考えてもみてください。吸血鬼になれば、今まで以上のスペックで立ち回ることができるし、ちゃんと自分の脚で立つことができる!! 空だって跳べるし、普段の生活だってより便利になる!!

 なにより不老! それがあれば奏斗先輩はずっと大切な相手(エマ)と一緒にいられる!」

 

 奏斗先輩が人間で居たい理由は周知の通り。

 だが、士季の言う通り吸血鬼になることにも確かなメリットが存在する。

 

「こんな人智の及ばないチカラ。使うか使わないかをたかだか数日で決めなきゃいけないなんて……おかしいとは思わないかい?」

 

 俺の言葉に奏斗先輩が首を傾げる。

 

「え? 待って、俺を吸血鬼にしない為に動いてくれてたんじゃ……」

「誰もそんなことは言っていない。俺に味方も敵もない。人間も吸血鬼も分け隔てなく、ただみんなが自分の意思で道を選べればそれでいい」

 

 吐露した考え方にこの場にいる殆どの者は面喰らっている。奏斗先輩たちの視点では俺は味方に属していたのだろうが、本当は味方でも敵でもないのだ。

 ただひとり、ハツカだけは知ってるよと言わんばかりに不敵に笑う。

 

「人間のままならその脚は治らない。とはいえ、吸血鬼になればエマへの想いも家族への感情もゆっくりと忘れてしまうから、これから一年、吟味しろよ?」

「……なんかめっちゃお膳立てされてる気がする」

「アンタの為の計画なんだから当然だろう」

 

 ニヤッと笑ってみせれば、奏斗先輩はどう返すか少し迷ってから照れるように笑った。

 

「『悪い吸血鬼を倒したい』という言葉はなんだったんだ?」

「ん? 言っただろ、叶えたって」

 

 過ぎ去った過去として俺は【悪】を示す。

 たったひとつの道だけしか見ようとしない化け物の思考はもうここには存在しないのだ。

 

「ハツカ、奏斗先輩を吸血した理由は?」

「吸血は快感を伴う–––時々いるのさ、吸血で虜にされる人間も。結局、沙原くんはエマちゃんに落ちてるんだから、一年ぐらい猶予があっても変わらないさ」

 

 最後には吸血鬼を選ぶ。選択の結果そうなるとハツカに信じている。

 絶対的な吸血鬼の魅力を自負として体現し続ける、ヒトであるハツカらしい答えでとても良い。

 

「なら、士季は?」

「……知ってるだろ」

「士季の口から直接聞きたいな〜〜」

 

 一度言い淀んでから、顔を逸らしながら答えた。

 

「まあ、人間のままでも……良いかなって」

 

 エマの想定通りの答えにハツカは驚愕に顔を染め、士季の後方に控える午鳥は困惑を極めた顔を片手で覆い隠そうとしていた。

 そして、鶯さんは驚きと戸惑いに、今までの常識がひっくり返される拒否感をかき混ぜた表情を表に出していた。

 

「……ホント、なに考えてるの士季くん?」

「でも蘿蔔さん……吸血鬼にめっちゃ怖がってるのにエマのことだけはちゃんと好きでいてくれたり、エマが傷つくなら探偵に会いたくないって言っていう子だし……」

 

 俺の血を浴びて見た記憶を自身の中でもう一度想い起こしながら、士季は奏斗先輩が人間で居ても良いかもしれない理由を連ねていく。

 その途中、俺を見て–––

 

「よく分からない吸血鬼からエマを庇おうとしてくれるような子が、わざわざエマを危険に晒すようなことはしないでしょうし」

「彼がどうであれ眷属にしないといけないのは変わらないわよ?」

「解ってるよ。だから、ちゃんと吸血鬼になりたいと思えるようにするんだからさ」

 

 自分の感情をどう整理していいか分からなくなってきた士季は頭を抱えた。その悩みは健全でとてもヒトらしい揺れ動きであった。

 

「やはり吸血鬼も外傷での変革よりも、内障での変革の方が効くみたいだな」

「……士季くんになにをしたの?」

「俺がやったというよりは単なる自滅かな。士季は俺の腕を裂いて()()()()()()()()()

 

 告げた言葉にハツカは原因を悟った。

 

「吸血には二つの性質がある。ひとつはエネルギー補給。吸血鬼だからね、血を吸わなければ生きていけない。そして、もう一つが感情の取得だ」

 

 彼らは吸血によって吸った相手の感情や思考、一部の記憶すら読み取ってしまう。その余りにも深い理解は、他者と同化すると言い換えてもいい。

 血に含まれる感情や思考が大きければ大きいほど、吸血鬼本人の新たな価値観を付与できる。抵抗することすらできずに、感情の波に曝されるのだ。

 だからこそ、奏斗先輩とエマに直接話たことは俺にとって大きな意味があった。

 そう語れば士季が一杯食わされたと言わんばかりの顔で俺を見た。

 

「あれも織り込み済みだったのかよ」

「ふっ、化かされたな」

 

 俺の中のプランZだかな。

 指で作ったキツネを鳴かせながら俺は鶯さんを見る。

 

「ね、倒せたでしょ? 吸血鬼を知った以上、絶対に眷属にするって常識」

「たったひとりじゃないか」

 

 無意味さを含んだその言葉を俺は首を横に振る。

 

「まずはひとりだよ。俺の血にも、理性にも限度があるけど、まずはひとりに伝えてそこから新しい考え方を広げる努力していくさ。士季に理解してもらえたんだ。今は端から端まで手が届かなくても、いつかはきっと常識が覆る」

 

 ヒトが自覚してキチンと選び取ることができれば、より善いモノへと移りゆく。

 

「けれど、感情だけでは納得できない吸血鬼(ヒト)もいる。だから、実績と実物として、奏斗先輩には架け橋になってもらう必要がある」

 

 しかし、これはあくまで吸血鬼であるエマが1年間一緒に居て、大丈夫って実感があるからできる裏ワザだ。誰を信頼するかは吸血鬼側で新しい線引きを作る必要がある。

 それを考えるための一年でもある。

 

「俺も吸血鬼になる気はないからな。万が一、片方が落ちても問題はない」

「え? 蘿蔔さんの眷属になるんじゃないの!?」

「なんないけど」

 

 エマや奏斗先輩が驚く後ろで、午鳥も「吸血の約束してるじゃ–––」とハツカに話しかけている。何度もこのくだりを見る辺り、吸血鬼を知っている時点で眷属になるという考え方が強く根付いているのだろう。それもこの一年で変えてやる。

 ここまで話した上でハツカが疑問を突きつけてくる。

 

「そこまで考えてるなら、なんで探偵さんなんて呼んだのさ」

 

 鶯さんと共にカオリに会っているハツカからすれば、わざわざ探偵に頼む必要なんて見つからない。人間を守るスタンスの彼女であれば、時間稼ぎもやってくれただろう。

 扱い方を間違えれば余計にエマと奏斗先輩の立場を悪くするのだから、身体にできた小さな膿のように触らずがベストだ。

 

「吼月くん。キミも……私が間違っていると言いたいんだな」

 

 誰かに自分の願いを否定されたことがあるのだろう。そのことを思い出し、落胆したように鶯さんの声が重く、そして暗くなった。

 

「いいや、命をかけたアンタの理想の世界も立派だよ。だけど、貴女のやり方では足りないものがある」

 

 彼女の予想に反した答えが、瞳孔の境目すら分からない真っ黒な眼に微かな光を生み出す。

 

「ひとつお聞きしましょう、鶯アンコさん。ハツカは強かったですか?」

「…………」

 

 鶯さんはハツカを一瞥した後とても不服そうに沈黙し、

 

「だったらそのチカラ、貴方の手で使ってみる気はありませんか?」

「……どういうことだ」

 

 俺の進言に鶯さんは思わずフィルターを強く噛み、顔が歪に捻じ曲がった。

 

「吸血鬼の力を使う? なにを馬鹿なことを言って!」

「馬鹿な事ではありませんよ。鶯さんはひとりで吸血鬼と戦っているんですよね?」

 

 彼女はゆっくりと首を縦に振る。

 もの寂しい人の出入りがない部屋を見て協力者が少ない、または居ないことは予想できていたし、時間稼ぎでひとりだったから間違いない。

 

「現状のやり方を見てもワンオペは明らかにキャパオーバーです。ですから、吸血鬼を呼び出したり、捕まえるぐらいは同スペックの吸血鬼たちに任せましょうよ。その方が楽ですよ」

「は!?」

 

 なにも人間である鶯さんがわざわざ危険な真似をする必要はないんだ。独自の情報網やスリ抜けという能力がある以上、吸血鬼に任せた方が得策だ。

 

「それに鶯さんが元々狙ってるのはひとりでしょう? もしその吸血鬼を殺すのが絶対条件なら、吸血鬼パワーで首を跳ね飛ばせばいいわけだし。自分で仕留めたいなら吸血鬼が拘束しつつチェンソーで––––」

 

 午鳥を見る限り再生能力自体は高いけど、俺のように血を使って身体が能動的に修復することも無いだろう。あくまで【不死と評していい】のが吸血鬼であって、完全な不死ではない。

 

「お前……怖いこというなよ……」

「殺す選択を取るなら確実に殺せるのを選ぶだろ」

「いやまず同族殺しさせるなよ!」

「なら俺やるけどスリ抜けだけは対策しないとな……」

「そういうことじゃねえ! まず殺せねえから!!」

 

 辺りを見ると吸血鬼たちが絶句していた。午鳥は実際俺に首を折られたからか少し怯えながら首をさすっている。

 

「まず、シレっと僕らが手伝う前提で話してるの?」

 

 そう問いかけて来るのはハツカだ。

 協力してもらう(カシラ)として俺が名を出したのだから驚くだろう。しかし、自分に刃を向けられてるの分かってるのにそんな反応するのだろうか。

 

「鶯さんを産むような吸血鬼がいるから面倒なことになるんだろ? 本来、人間と吸血鬼がいがみ合う必要なんてないんだ。そのために士季たちだって集まってるんだから」

「俺たちは平穏に暮らしたいだけだからな」

「だろ?」

 

 そのために彼らだって悪目立ちする吸血鬼は懲らしめているという。

 

「だから、吸血鬼にとっても悪い話じゃないと思うんだ。鶯さんは吸血鬼による被害を無くしたい。吸血鬼としても人間と対立して平穏を壊したくない。人間も吸血鬼も同じモノを求めてるんだから、手を組めばどちらも被害を最小限にできる!」

 

 鶯さんも士季たちもただ生きていたいだけなんだ。

 同じ方向を見ているなら敵対していても一緒に歩んでいけると、俺はそう考えている。

 

「吸血鬼はいるだけで悪なんだ。人を騙すことを正としてる化け物などと手を組めるわけがない」

 

 尻すぼみになりそうな声を腹に力を込めて、なおも彼女は吸血鬼と対峙する。

 

「いるだけで悪なら、奏斗先輩もコウもマヒルも、吸血鬼と一緒にいようなんて思わないよ。絶対的な悪っていうのはいるだけで誰からも忌避される存在なんだから」

 

 吸血鬼と一緒にいて楽しいという者たちが確かに存在するんだ。

 

「鶯さんだってエマが奏斗先輩を人間のまま居させようとしたの見たでしょ? 士季は俺が血を噴き出した時に慌てふためいてさ、ハツカなんて殺される寸前の奏斗先輩とエマの前に身を投げ出したんだよ? 吸血鬼のルールのせいで霞んで見えるけど、善意は間違いなく人間と変わらない。

 少なくとも、ここにいる奴らは化け物じゃなくヒトだよ」

「そんなことは–––」

「ない、なんて言わせないよ」

 

 俺が奏斗先輩に目を向ければ、俺の言葉を認めるように何度も頷いてくれた。

 

「蘿蔔さんは本当に俺を助けてくれたんです!」

 

 一度ハツカへ視線が移った彼女の瞳を俺は強く見つめる。彼女の瞳がまるでヒビが入ったように歪んで、間違いなく彼女の中の常識が音を立てて崩れ始めていた。

 

「さて、次は現実性の話だ。吸血鬼の被害をなくす為に吸血鬼を皆殺しにする……これは事実上、不可能だと俺は思っています」

 

 その一言は鶯さんの心を壊す可能性を秘めていると知ったうえで、俺は続ける。

 俺の手元にある情報で吸血鬼が死ぬと確定している方法はふたつ。

 ひとつめは弱点を使った襲撃。

 一番有効打とされているが、何年生きているか分からない–––エマや士季ですら40年以上前––––敵の人間だった頃の遺物を全個体分、探し出すなんて不可能だ。

 

 ふたつめは吸血鬼に10年、血を吸わせないことだ。

 吸血衝動を抑え込んで吸血せず10年経てば、エネルギーが足りなくなり勝手に死ぬ。これなら弱点がない吸血鬼も殺せる。

 しかし、全個体に適応させるとなれば、人間社会に吸血鬼の危険を露呈させることが必要になる。

 俺で言えばハツカの吸血姿を暴露することがそれにあたる。

 

 ただ、この作戦は前者以上に色々問題がある。

 吸血鬼の手によって話を有耶無耶にされることを無視しても、話を信じて誰も夜に出歩かなくなるなんてことはない。

 当然、身を案じる人もいるだろうが、吸血鬼に好奇を抱くものも少なくないだろう。ファッション吸血鬼などと言い出して、吸血鬼の真似事をする者も現れるだろう。マウライのように吸血鬼警察の如く確証もないのに私刑を行う者まで現れるだろう。

 

 もしここに、人間はそこまで愚かではない、という人が居るなら敢えて言おう。

 

 

 

–––––【人間も愚かだ】

 

 

 

 だから絶対にそうなる。吸血鬼を理由に人間同士で勝手に攻撃し合う。

 そう考える自分にため息をつきたくなる。いつも通り内心で強く否定してくれればとても嬉しいのだが、都合よくそう思うこともない。

 ともあれ、どんな方法でも吸血鬼を絶滅させることは不可能だ。

 

「だったら君ならどうする?」

「忘れさせるんだ。今の世界なんて」

「ふっ」

 

 俺の言葉を聴き、鶯さんは呆然としたのちに笑い始めた。俺の思想は愚かだと、無謀だと馬鹿にする嘲笑が夜に響く。

 

「子供の妄言だな。そんなこと出来るわけがない」

 

 確かに無駄に壮大で、眩暈がするようなる事だけど––––それでも、俺は知っている。

 

「いいや、行ける気がするよ。優しい貴女がいれば」

「何を言って……?」

「だってアンタがやってきたこと全てが切り札なんだから! 鶯アンコォ!!」

 

 俺は胸を張って叫んだ彼女の名は夜の静寂を揺るがした。その声を聴き街が目覚めたように風が叫び、鳥が飛び立ち、木々が唸る。

––––彼女は家族を失ったヒトたちの話に耳を傾けて、悲しみを知っている。

 

「その血を飲めば、悲しむ誰かが居ることを知る」

 

 左腕につけた腕時計を取ってポケットにいれる。

 自分の言葉が地についたモノだと信じるためにゆっくりと着実に彼女の下へと歩き出す。アスファルトが熱で溶け出したような不安が足元から伝わる。

––––彼女は吸血鬼になって消えた人たちを追いかけて、知らずに吸血鬼にされた者の怒りを知っている。

 

「その血を飲めば、眷属()を作る責任を知る」

 

 朧げながらもしっかりと進みつづけ、体感ではとても長い時間をかけて彼女の目の前にやってきた。目の前で揺れる火に身体が震える。

––––彼女は人間を吸血鬼から守ろうとしてきて、襲われた者の恐怖を知っている。

 

「その血を飲めば、自分たちの力を知る」

 

 それが出来るのは吸血鬼殺しの鶯アンコであり––––

 

「人間の証である鶯さんの真っ赤な血に流れる祈りが必要だ」

 

 人間の血が吸血鬼を変えるのは実証済み。

 だから––––俺は彼女の本当の名で呼んだ。

 

「貴女の意志で世界を変えろ……目代(めじろ)キョウコさん」

 

 その瞬間、叫びを上げる風が、響く鳥の羽ばたきが、大きくしなる木々の音が俺の言葉をかき消していく。それでも彼女にだけは明瞭に伝えられた。

 

「なんでそのことまで……」

 

 ありえないと言わんばかりの顔で俺を見る彼女に、誤魔化すように微笑んで話を続ける。

 

「吸血鬼を全て殺すことは出来ないけれど、その価値観なら貴女の血で創り変えることができる。士季たちと協力すれば、より多くの吸血鬼に理解してもらえる。新しい常識が広がっていけば血を超えて理解してもらえる。悪い吸血鬼と戦うしかない時も、ハツカたちと力を合わせればきっと命を危険に晒す必要なんてない」

 

 吸血鬼同士で対峙すれば彼らの枠組みだけでも問題があると理解してもらえる。人間への被害は血で理解させられる。

 

「復讐をしたい相手がいるなら手伝います。鶯さんが今もなお追っているならば、その吸血鬼はまだ同じことを繰り返しているのですから。な、士季?」

「…………お灸ぐらいは据えておくべきだと思う」

「私も手を貸してもらった恩返しはしたい」

 

 頭を掻きながら応える士季とすぐに首を縦に振るエマ。彼らの返答でやはりその吸血鬼は殺した方がいい存在なのだと理解した。

 

「これが俺たちの答え。鶯さんも、ハツカも、奏斗先輩もエマも士季も……みんなみんな前に進んで、平穏な幸せを掴むための答え。

 俺が貴女に渡せる()()()()()()()()()()()()です」

 

 俺はハツカと鶯さんを一瞥する。

 これならば、ハツカは殺されずに済むし、鶯さんの復讐も果たせて全ての吸血鬼に殺意を抱こうとしなくて済む。

 タバコごと唇を噛み締めてながら自分の価値観に苦しむ彼女へ俺は手を伸ばして、

 

「受け取ってくれますか?」

 

 その手が繋がるのをジッと待った。

 命を賭けてどんな手段を使ってでも吸血鬼を殺すと言った鶯さんならば、きっとこの手は掴んでくれる。

 彼女にだって叶えたいことがあるのだから。

 この手は利用する価値がある。

 

「私は……」

 

 そして–––––彼女の手が伸びて

 

 

 

 

 

 

 

 パチンと俺の手が払われた。

 

 

 なにが起こったのか理解できず首を傾げていると、少し焦げた臭いが鼻を刺すと同時に俺は押し飛ばされてしまう。

 鶯さんがタバコを握った手で突き飛ばしたのだ。

 か細い火の粉のような小さな力。けれど、抵抗する発想も暇もなかった俺は簡単に倒れて、地に背を打ちつけた。

 

「吼月!」

「吼月くん!?」

「っ……!?」

 

 押し倒された俺に奏斗先輩とエマが駆け寄る。

 すぐ顔を上げてみれば、肩を震わせて俺を睨みつける悪鬼のような顔の女性がそこにいた。般若よりも恐ろしい怒り。苦痛に歪むその顔を見た途端、俺の中に寂しさが湧いてきた。

 

「何度も言わせるな!! 吸血鬼は存在してるだけで人間を不幸にする!! だから吸血鬼は皆殺しにしなくちゃならないんだ!!」

 

––––ヒトを不幸にするのは悪意であって、吸血鬼か人間かという外面ではないですよ?

––––なんで自分を追い込むことばかりするの?

––––復讐だけ考えてたら次にやること見つからないよ?

 

 心の声を抑え込んで、俺は彼女を肯定する。

 

「それがアンタの道を選ぶならそれを認めるよ。だけど–––」

 

 彼女を否定する言葉を容易く飲み込めたのは、自分を縛り付けてるように叫ぶ彼女がとても痛々しく思えたからだ。

 まるで自分の意思で叫んでいないような、そんな錯覚。

 

「だけどじゃない! 子供のキミには分かりやしないさ!」

 

 そんな彼女の姿になぜか既視感を覚えていた。

 

「10年……10年だ。奴を……お前たち吸血鬼を追い続けてきたんだ……中途半端なところで終われるか!!」

「だったら俺もその復讐に相乗りしよう。だから俺は貴女にも」

 

–––恨みを捨てて、笑顔で幸せになってほしいんだ。

 

 そう叫ぼうとする俺の前に1人の陰が立ち塞がった。俺を庇うようにハツカが立っていた。

 

「もういいよ、ショウくん」

 

 いいわけがない。

 すぐに立ち上がって彼女に駆け寄ろうとするのが、それはハツカの腕によって制止させられる。

 普通であれば聞く必要なんてない。

 けれど彼の瞳には強い力が宿っていて、それは任せろと雄弁に語っていた。まるで魅了されたように俺は足を止める。

 

「じゃあね、裏切り者の吼月くん。吸血鬼になれるキミは敵だ」

 

 断言できる事実を話しても彼女は信じないだろう。

 鶯さんは踵を返して、足早にこの場を去ろうとする。拒絶されたのだとひしひしと伝わって来る。

 なら、敵なりのやり方で彼女を変えてやる。

 

「鶯アンコ–––」

 

 そんな彼女の背にハツカはとある名を投げかけた。

 

「七草さん、泣いてたよ」

 

 凛とした芯のある声色が波紋のように一帯に広がれば、ざわめく夜が声に応じ静かになった。まるでハツカがこの場を一帯を支配したかこのように。あるいは鶯さんの心の内を表したかのように。

 鶯さんの足がピタリと止まっていた。

 

––––……そうなのか

 

 ハツカが任せろと思わせたのは他でもない。彼女が本当に頼るべき相手がいるからだ。

 それがコウを変えたナズナさんだというならば、彼女の居場所がそこにもあるならば、ハツカたちと組めと無理強いをする意味などない。

 

「蘿蔔ハツカ、止岐花エマ……もうお前らには関わらない。お前らを殺すのは私ではないからな」

 

 鶯さんはそれだけ告げて、逃げ出すようにまた歩き始めた。

 とても重い足取りだったのは言うまでもなく、最後の言葉も強がりにしか俺には思えなかった。

 ハツカもそう感じて「強がりだね」と呟いた。

 

「いつでも待ってますからね〜〜〜!!!」

 

 遠ざかる彼女にそれだけは覚えていて欲しくて、俺は場所を憚らず叫んでいた。

 そして、声が夜空に吸い込まれ消えると、力が抜けた俺は地面に座り込む。本当なら倒れ込みたかったがここで背をつけるのは情けない。

 複数の足音がコチラに向かって来るのを感じながら、ただぼぉっと空を仰げば真っ暗な星空があった。

 当然だが、俺は満足していなかった。

 

 望み通りに行かないのはハツカとの約束を破ってしまったから–––––のかもしれない。

 

 

「大丈夫か吼月!」

「問題ない、眠たいだけだ。士季、悪いがもう少し鶯さんを落とすのに時間をくれ。ナズナさんにコンタクトを取って」

「ねえ、ショウくん」

 

 澱んだ夜空を遮るようにハツカが顔を出した。呆れたと感心が入り混じった表情をさせながら、冷たい目で俺を睥睨する女王の姿がそこにはあった。

 それすら独特の美しさを持っているのだから凄いと思う。

 

「やりすぎ」

「今回の騒動の根本はあの人が敵対してるからだ。なら、それを消さなきゃ解決にはならないだろ」

「キミはいつも欲張りすぎなんだよ。あと地雷めっちゃ踏んでた」

「ハツカみたいな奴もいるって、悪だけじゃないって分かってもらうには絶好のタイミングだったんだよ」

 

 俺の返答に肩をすぼめてため息をつくハツカは、周囲の温度を簡単に下げてしまう眼光で見下ろしてくる。

 

「……ころっ……怒らないのか?」

「今後たっぷりお仕置きするからいいよ。叱ったとしても、キミの性分は簡単には変わらないでしょ?」

「よく分かってらっしゃる」

 

 ハツカの冷たい視線がとても好ましかった。ハツカやエマたちを危険に晒した上でこんな失敗してしまったことと、俺の生き方に順じた行動することを別で考えてくれている。

 だからこそ、より強く自分の失敗が大きくのしかかり、身に沁みる。

 

「アレはもうボクらの手ではどうしようもない。けど、キミが彼女を追い詰めてくれたおかげで、少なくとも僕やエマちゃんたちの安全は確保できた。そこだけは褒めてあげる」

 

 伸びてきたハツカの手が俺の頭の上に置かれて、小刻みに動き始めた。

 

「追い詰めるじゃダメなんだよなぁ……」

「褒めてるんだから素直に受け取りなよ」

「あはは」

 

 頭を撫でられると罪悪感が生まれる。俺は『ごめんなさい』という苦い言葉を笑いながら頑張って噛み殺していた。

 まだ終わってないのだ。

 しかし……鶯さんも笑顔でいて欲しかったのに、結果としてハツカたちを危険に晒しただけの俺の行動に価値は有ったのだろうか。

 価値なんてあるはずがない。

 

「ありがとう、ハツカ」

「どういたしまして。キミも頑張ったね」

 

 この言葉がどう伝わったかは分からない。

 ただ微笑んでくれた彼がいるだけで、許されない満足感が身体に広がった。

 

 どう見たって本心ではない。

 それでも––––




 ここで3話も一区切り。
 次回からもよろしくお願いします!


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第4話 ブラックブックス
第四十九夜「赤の他人で大切な」


第4話のスタートです。
対戦、よろしくお願いします。


 鶯アンコは逃げ帰った。

 というには余りにも悲痛な姿で、とても見ていられるものではなかった。自暴自棄と大雑把な括りをするが、殺されかけた身からすれば妥当だ。

 できればもう関わりたくはない。けれどそうもいかない。

 

「吼月くんはさ、あの探偵ちゃんと仲良いの?」

 

 口をつけたワイングラスをテーブルに置いた萩凛さんが、頬を赤くする吼月くんに探偵との関係を訊ねていた。

 

「友達の恩人ってぐらいだから〜……つまり、友達だな!!」

「友達の括り雑すぎるだろ」

 

 ツッコミを入れた士季くんに蘿蔔ハツカ()は次いで肯首した。

 

「にしては随分と肩入れしてたじゃない。まぁあの子も整えれば綺麗になりそうだもんね。勿体無いわよね〜」

「鶯さんが聴いたら発狂しそう……けど美人枠というか、ポテンシャルはあるよな。人間のまま吸血鬼を捕まえるには相応の容姿や態度が必要になってくるわけで、あの人は実際にやってきた。凄い人ですよ」

「ニヒルな感じと爛れた雰囲気が刺さる吸血鬼は居そうだしな。吸血鬼殺しじゃなければ……」

「思ってた反応と違うわねぇ……」

 

 目を細めてチラリと僕を見る萩凛さんの眼は確かな()いがあった。

 どうやら萩凛さんは吸血鬼への被害軽減の他、探偵さんが吼月くんの好みだからあそこまで手助けしようとしているのでは? と、勘繰っているようだった。

 それは的外れだ。出会って数十分程度の彼女には分からないだろう。

 

「なんで助けようとしてるのよ? ハーちゃんだって殺されかけないのよ?」

 

 僕を気にした言い回しをやめて直接訊ねることにした萩凛さんに吼月くんは首を傾げながら答える。

 

「縁ができたからですけど」

 

 対面に座る萩凛さんと士季くんの表情筋が死んだかのように固まった。下心という利己など何もない純粋な良心だけが乗った声音が彼らを停止させた。

 彼には【出会ったらヒトを助けるのは当然】という原理があり、【辛い時は助けてほしいと願ってる】という思い込みがあり、【信頼を守り、ソレを理解したい】という動機がある。

 結果はどうであれ、どうしようもなくヒトの為に動いてしまう。

 原理を聞いたふたりが固まっているのを見て、吼月くんは一瞬寂しそうな目をした。

 それだけならまだいいのだが–––––

 

 

「で、本当なの? あの話」

 

 

 

 

「それでは皆さん、また今度」

「吼月くんと士季くんも一緒にバスケやろうね!」

 

 探偵の後ろ姿が見えなくなると、沙原くんとエマちゃんはバスケの続きをすると言って体育館へ向かう。

 手を振ってエマちゃんたちと別れる。

 僕は焦げ跡がついたシャツを見下ろしている吼月くんに話の続きを求めた。

 

「ねえ、吼月くん。士季くんたちから聞いたんだけどさ、吸血鬼になれるってなに?」

「あぁ、士季たちの勘違いじゃないのか?」

「はぐらかすなよ。ちゃんと応えろ」

 

 その力の体験者であるふたりも納得のいく説明を望んでいた。

 自分の意思で吸血鬼になれる。そんな話、僕は愚か、きっとニコちゃんやカブラさんだって聞いたことないはずだ。

 前代未聞とはこの事だと僕は頭の片隅で思っていたのだが、吼月くんは「違うと思うけどな……」溢しながら義務的に答えた。

 

「身体能力を引き上げる力は使えるぞ。吼月ショウが()()()()()()()だけど」

「は?」

 

 その返事に士季くんたちの声が重なった。

 僕は直接見ていないため半信半疑だが、ふたりの反応からすると本当に吸血鬼の臭いや気配がしたんだろうと思えた。

 そうなれば、余計に話がこんがらがる。

 

「吸血鬼は血を吸われてから一年以内に眷属にならないといけないんだろ? だから違うと思う」

「い、いや……はぁ!?」

「本当なの……? それ?」

「嘘ついても仕方ないだろ」

 

 彼は今、中学2年の14歳だったはず。

 つまり生まれた時から使えるなら、とっくに眷属候補から外れていているはず。ただでさえ人間から吸血鬼になれるだけでも特殊なのに、生まれた頃から使えるだって?

 ダメだ、頭が痛くなってきた……。

 

「へぇ、ますます興味が出てきちゃった」

 

 しかし、その理外の存在が面白く感じた萩凛さんは、吼月くんの首筋と顎先を繊細さが宿る白魚の指でなぞった。その眼は捕食者のソレで、吼月くんの血を今すぐにでも吸ってしまおうかと言わんばかりの雰囲気だ。

 吼月くんはその指を心底嫌そうに手で弾く。

 

「あらあら、フラれっちゃったか。なら、もっと責めにしないとね」

 

 良いところを知ってるの。

 萩凛さんは微笑みを湛えながら歩き出し、僕らをその背で案内し始めた。夜の街を闊歩して、やって来たのは––––

 

「なんで『CLEAR(クリア)』……?」

 

 優しいネオンライトの光で存在を現すその店は、僕が吼月くんを連れてきたことのあるバーだった。吼月くんと同じように僕も小首を傾げていると、萩凛さん裏手に僕らを誘ってこう言った。

 

「だってここも私の土地だもの」

 

––––そうだったんだ……

 

「この裏路地で吼月くんの血を美味しそうに飲んでたものね、ハーちゃん」

「あれ見られてたの……!?」

「……気づかなかった」

 

 萩凛さんが愉快そうに笑いながらポケットから取り出した鍵を使って中に入っていくのに続いて僕らもドアを潜る。

 

「お待ちしてました午鳥さん」

「あらアズマネくん、こんばんは」

 

 声をかけてきたのはこのバーのマスターである東根龍一だ。いつものバーテンダーの服を着て清潔な佇まいで僕らを待っていた。

 どうぞおくつろぎください、と彼の言葉に促され階段を登っていく。吼月くんは登り出すまでマスターを目線をくべていた。

 

「ささ、座って」

 

 辿り着いた部屋には大きなテーブルとソファが対面にひとつずつ。そこだけ見れば簡素な作りになっているが、そんな印象を掻き消すほどに妖艶さがこの部屋を包み込んでいる。明朗快活な雰囲気に満ちた一階とは違う人の婀娜(あだ)な魅力を思わせる空間だ。

 その理由は色と香り。

 

「スカイライトなんてあったんだ」

「あとこれは……花の匂い?」

「ふふ、良い香りでしょ」

 

 ドーム型の天井に設けられたステンドグラス製のスカイライトが月の光を受けて部屋を様々な色に彩る。そして花の香りが鼻につく訳ではない丁度いい塩梅で漂っている。人間の鼻ではただ甘ったる匂いにしかならないかもしれないけど。

 僕や士季くんとしては好みな雰囲気だったから気にすることもなくソファに座る。萩凛さんは暗闇へと姿を消していく。

 

「……」

 

 吼月くんだけは何度も僕に目を向けてムズムズと身体を震わせながら居心地の悪さを感じていた。

 初めてだもんね。慣れてないと驚いちゃうよね。

 

「あの……場所……変えないか?」

「ダメだよ、今日はここで過ごす。それに吸血鬼の話をするのにピッタリな場所そうそうないし」

 

 キミの望み通りになんてしてあげない。

 そのまま嫌なことを忘れて、夜の色に当てられながら恥辱と高揚感で血を熟成しろ。そして、僕に美味しい血をたっぷり飲ませろ。

『そうか、分かった』と割り切った吼月くんは僕の隣に腰を下ろした。もぞもぞと居心地が悪そうなのはそのままだ。

 

「飲みながら話しましょうか。吼月くんにはオレンジジュース」

「ありがとう」

「ハーちゃんはマンハッタン。士季くんはジンソーダね」

「サンキュー」

 

 脚色された月明かりの外から戻ってきた萩凛さんが僕たちの前にグラスを置いてから士季くんの隣に座る。

 その時、刺激の強い臭いが僕の鼻腔を微かにくすぐる。この色香の中、吸血鬼だからこそ分かったが、吼月くんのオレンジジュースから唐辛子の臭いがした。

 萩凛さんを見れば今にも口をつけようとしている吼月くんをニヤニヤと楽しそうに見つめている。

 

 この人、酒を飲ませる気だ……!

 

 恐らく香りやクセの少ないウォッカと唐辛子を使ったインフュージョン。それをオレンジジュースと合わせたカクテルがあのジュースの正体だろう。

 酔わせて正常は判断能力を失わせて話を聞き出す算段だ。テーブル周り以外に明かりがないのは、何を入れてきたか誤魔化すためか。

 つまりここは萩凛さんの狩場のひとつ。

 

–––今度からここを吼月くんに使わせるのはやめよう……

 

「これ本当にジュースか? なんか辛いけど」

「ええオレンジジュースよ」

「……ハツカ、飲んでくれ」

 

 一口飲んで違和感を覚えた吼月くんが僕に判断を委ねてきた。断っても良かったがあえて僕は了承し、ジュースという名のカクテルを飲んだ。

 彼が口をつけた場所を使う。

 吼月くんは僕の口元を見て少し恥ずかしそうにしていた。こうした所は思春期らしいんだけどなぁ。

 一口飲み下してグラスを吼月くんに返す。

「オレンジジュースだったよ」と僕は嘘をついた。

 今回の件も含め、口を割らせるには丁度良かった。

 

「士季も……いや、やめとく」

「なんだよ」

「同じ答えが返ってきそうだし」

 

 ご明察。

 普通にカクテルだった。しかも結構度数が高めのウォッカを使ってる。元の酒の度数は50度ぐらいかな。割っているとはいえ子供に強すぎるんじゃないかな。

 そんな心配などされることなく「それじゃあ–––」と話し始める。

 吼月くんは恐る恐る二度、三度とカクテルを飲んでいく。本人は首を捻って疑い続けるが、その間にも頬が赤くなり良い感じに出来上がってきた。

 僕らはその様を暖かく見守っていた。

 

 そうして探偵さんを助ける理由など軽く話を挟んでから、僕らは本題に入る。

 

「で、本当なの? 生まれた頃から使えるって話」

「ホントだよ。よく覚えてる」

「小さい頃の話なのによく覚えてるね」

「俺だからな。あーーあ、あとなんか、首に視線感じるだけど」

「気のせいよ、気のせい」

「そうだ気のせいだ」

 

 萩凛さんだけじゃなく士季くん、キミもか。

 アルコールが入ったからか声が間抜けに伸び出した。酒で緩くなった頭を小刻みに左右へ動かす吼月くんに士季くんが訊ねた。

 

「どうやって使ってるんだよ。なんか時計いじってたのは見えたけど」

「ふふふ〜……それはなぁ〜……」

 

 ズボンのポケットから取り出したのは吼月くんがいつも付けている腕時計。それの赤いスイッチを僕らに一度見せた後、腕時計の底面を地面と水平になるようにしてスイッチを押し込む。

 すると、シュッと軽い音を立てながら針が飛び出した。スイッチから指を離すと針が引っ込む。

 何気なく見ていた僕らは思わずギョッと背を震わせた。ニヤニヤしていた萩凛さんの顔も青ざめている。

 

「凄いでしょぉ。この針が皮膚を裂いて血管にたどり着くとあの力が使えるようにしたんだ。あ、こっちはスイッチを離すとすぐ引っ込むけど、士季たちに使ったのは別パターンでね。元だと馬鹿みたいにパワーアップするけど、発動時間は一瞬。ベゼルを一周回して押すとゆっくり戻ってくんだぁ。これだと長い間使えるんだ。まぁ動いたりして血流が激しいと大体5分ぐらいになる。どっちにしろ凄いでしょ! 俺の発明品!」

「う、うん……そうだね……」

 

 無垢な同意を求められるが僕らからすれば、怖い以外の何物でもない。

 

「……傷つけないと使えないのか?」

「必要なのは痛みと血だから。制御には感情? 自己暗示?……もあるけど。それ以外だと発動しないんだよ。深ければ深いほど、激しければ激しいほど力が出る」

 

 変なテンションで語られる話に耳を離そうとしてしまう。中学生が嬉々として自分への自傷を語るなんて、彼と僕の耳に間にどれだけフィルターを挟んでもこの悍ましさは薄まらないだろう。

 

「時計なのは?」

 

 萩凛さんはなんとか話を逸らそうと試みる。

 

「俺のルーツだから、あとはカッコいいのと持ってても不思議じゃないから。ナイフやピアッサーって手もあったけどいつも携帯できないし、爪だと浅いんだよね」

「そう……」

 

 ダメだった。話の肝に自傷があるせいで必ずそこへ辿り着いてしまう。

 しかし、聞かなければその全容は把握できない。

 

 昔からそのやり方なの?

 –––そうだよ。

 身体能力があがる以外になにか変化はある?

 –––う〜ん……感覚が敏感になるのと目の色が黒から葡萄になる。鏡で確認したからこれも吸血鬼との相違だね。

 力の使い方は誰かに教えてもらったの?

 –––独学だよ。自分の知恵でこの制御不能の力を手なづけたのさ。

 会得にはどれくらいかかったの?

 –––半年から一年の間くらいかな。

 本当に人間なの?

 ––––人間だよ。病院でも肉体に異常があるとは言われたことがない。

 

 酔っているという理由があるおかげでスラスラと話が出てくる。

 この流れなら、と僕は話を切り出した。

 

「だったらここで使ってよ」

「嫌だ。俺のルールに反する」

「勝手なルールを……」

「お前らのと違って他人に影響しないだろ。必要な時以外使いたくないんだよ」

 

 ルールと言うが吸血鬼を知った者は眷属にするという僕らの掟とは違う彼なりの矜持と言えるモノ。落とすと決めたら必ず恋させるという僕のプライドの方が近い。

 僕が思慮していると首を傾げながら士季くんが『その必要もないですよ』と呟いた。

 その理由を僕は尋ねた。

 

「どういうこと?」

 

 士季くんは一呼吸置いてから確かめるように言い放つ。

 

「……最後にエマや沙原くんを襲ったのお前だろ」

「そうだよ」

「は!?」

 

 真っ直ぐ見据えられた言の葉に特に感じるモノもなく吼月くんは軽々と答えた。他人事にも思える反応をされたので、僕の方が大きな声を出してしまう。

 

「ふたりを襲ったのがショウくん……?」

「うん、最後だったしね。俺がやらないと〜って」

 

 ふたりとあの鉄仮面の間に割って入った時のことを思い出す。焦っていたこともあって確かとは言えないが、あの鉄仮面からは吸血鬼の気配がしていた。

 それを吼月くんが肯定しているなら本当に吸血鬼になったのか?

 

「なんであんなことをした?」

「え、タラレバにしかならな」

「いいから答えろ」

 

 語気を強めた士季くんに詰め寄られ、彼は仕方なく答える。

 

「演出だよ」

「は? 演出だ?」

「元々士季に攫われかけるわ、無理矢理俺の血を飲もうとする午鳥を見せられるわ、その午鳥の腕を吹っ飛ばしてハツカが登場するわ。奏斗先輩の頭の中で【吸血鬼=化け物】ってなってたのを変えないといけなかった。だったら、いっそのこと吸血鬼に救わせようと思ってね」

 

 沙原くんの中で吸血鬼は危ない生物だと思われていたのは僕に怯えていたことからも明らか。エマちゃんは1年間の付き合いがあるから例外的に信用されただけ。

 そして、終わってみれば彼の目論見通りになった。茶番と知らないふたりが命の危機になって、それを僕が助けた。僕の姿を見て沙原くんの中の吸血鬼像が逆転した。

 彼の言い分は正しくもあるが、それでも危険すぎるし結果論とも言えるのだ。

 

「必ず僕が来るとは限らないじゃん」

「だから士季にも追いかけろって言ったし、最悪2人が来なくても俺がやるなら腕を止めてやればいいだけだからね」

「他の吸血鬼たちが手を出すかもしれないじゃない」

「邪魔になりそうなのは先に倒した」

 

 淀みなく答える彼に僕らは半ば呆れるような感心を抱いた。

 下手をすれば友達との関係を壊してしまいかねないことを、必要だからと容易く出来る姿勢は歪みでしかない。

 

「あとは釘を刺すのもあるかな。こんな吸血鬼もいるから好き勝手やってたら殺されるぞ〜って。予測通り奏斗先輩たちは俺を怖がって吸血鬼に害すること出来なさそうになったし」

「必要ないだろ。あそこまでふたりはやったんだぞ」

 

 血に感化された影響か、元々親吸血鬼だから、訳を探せば色々あるがエマちゃんたち寄りの士季くんが吼月くんを睨みつける。

 突き刺すような眼光を受けても吼月くんはふたりに向けられた想いが嬉しいのか口角をあげて笑う。そして、僕と萩凛さんを一瞥する。

 

「ふたりもそう思う?」

「そうね、吸血鬼に悪いことするってことはエマちゃんの立場が悪くなるってことだし」

「ふたりの結果としては?」

「悪くはないんじゃないかしら」

 

 僕も萩凛さんの意見に同意なので頷いた。

 肯首する僕らを見て「そっか」と呟いた吼月はスマホを取り出してコール音を鳴らし出した。チラリと見えた画面には【奏斗先輩】の文字。

 その姿を見てなんとなく嫌な予感がしたので、僕は彼のスマホに手を伸ばしすぐに終了ボタンを押した。

 

「え、なに?」

 

 困惑する吼月くんよりも僕は戸惑っていたんだと思う。僕に顔を向けた途端、首を大きく傾げたからそう思った。

 

「なんで沙原くんに電話したの?」

「ストッパーとして役割が必要ないならバラしても問題ないじゃん」

「いやいや! キミら友達でしょ!?」

「友達だよ。でも、エマが戻ってきたから別いいだろ。これからは士季たちも居るんだし」

 

 ここまで薄っぺらい友達を僕は知らない。

 こんな事を言う人は大体『キミも友達だよ』と承認欲求を満たすのが理由だが、彼からはその意図が全く感じられない。

 僕らが呆れを通り越して唖然としていると、折り返しの着信音が鳴った。

 

「なるほど」

 

 勝手に自己完結した吼月くんが電話に出るのを止めることは出来なかった。

 

「あーもしもし、吼月だ。……はい、ちょっと話したい事があったんだけど、明日会って伝えたいんだ。ほら、結局ニコ先生にも御礼に行きたいし。

 –––––明日の放課後に来い? いいのか? なら一緒に御礼に行こうか」

 

 僕らが止めた理由を、友達なら直接会って伝えるべきと湾曲した吼月くんがスマホをポケットにしまった。

 その姿がとても怖かった。士季くんと萩凛さんも目を逸らしてしまっている。

 

「お前、ホントそういうとこだぞ」

「なにが?」

「『なにが?』じゃねえよ。自分勝手に行動するところだよ! 今回は丸く収まったけど、お前のせいで蘿蔔さんが責任を負う可能性だってあったんだからな!」

「なんでハツカのせいになるんだ? 俺だけが起こした事なのに」

「お前なぁ……」

 

 指をさしてお叱りする士季くんだったが、いまいちピンと来ていない吼月くんの態度を見て唇を噛み締める。

 見かねた萩凛さんが割り込んで彼に助け舟を出す。

 

「ハーちゃんがキミの親だからよ。仮とはいえ自分の眷属候補が騒ぎを起こしたんだもの。ケジメを取るとしたらキミではなく、身内であるハーちゃんに向く」

「俺を殺せばいいだろ。なんでハツカに」

「吼月くんが死んでも監督責任がある。結局ハーちゃんも危険に晒されるのよ。子供が問題起こしたら、だいたいの大人は責任取って動くでしょ?」

 

 それでも理解できず、萩凛さんの言葉をなんとか咀嚼して飲み込もうとする吼月くん。

 

「ああ、だからあの時」

 

 数秒唸ると、理解に至る節があったのか僕を向いて頭を下げた。

 

「ごめんなさい、ハツカ。もっと上手く責任が俺だけに向くようにしておくべきだった」

「まず動くなよ」

 

 やっぱり捻じ曲げちゃうか……。いや、そこが吼月くんの美徳でもあるんだけどね。

 

「あの……」

 

 吼月くんが口を手で押さえ始めた。

 

「すみません、お手洗い……どこですか?」

「え、えっと……お手洗いはさっきの階段を降りて右手側にあるわよ………」

「お借りします」

 

 一礼してから立ち上がった吼月くんがぽっかりと開いた階段の口に入っていった。

 3人揃ってため息をついて、

 

「おかしいだろ」

 

 士季くんが端的に答えた。

 

「お節介な所とかは感心するが……アイツが吸血鬼になれることもあの考え方もどうにかしないと不味い」

 

 探偵さんを助けたい理由を【関わったなら助けるのは当たり前】とするように、日常の中に人助け–––人によってはお節介–––がある。そして、その為に出来る限り頭を回すし、その為なら手段を問わない。

 

「今は『人間も吸血鬼も』って境目に立ってるけど、いつ探偵ちゃん側に傾くか分からないもの。チェンソーで吸血鬼の首を斬ればいいって、普通思ってても口にしないわよ」

「実際に殺せると思う?」

「胸を貫いても血さえあれば死なないのが俺たちですからね……」

 

 頭を抱えながら喘ぎ声を漏らして僕らは呻く。

 

「対立もだけど他人への意識もだよな。鈍いっていうか。蘿蔔さんへの迷惑もそうですけど、沙原くんのためにあそこまでやった癖に終わったらすぐバイバイって。沙原くんも嫌だろ」

「ついさっきまでパン食べながら仲良く話してたのにね」

「自分のことは例外って考えてる節があるわよね。ハーちゃんへの想いもそうだけど」

 

 なぜ僕の名前が出てくるのか分からず僕は首を傾げる。

 

「ハーちゃんが気に入ってるのは自分の血だけで、自分に対してなにも思ってない。吸血鬼としての義務があるから眷属にするだけ……自分なんかを眷属にしないといけないハーちゃんが可哀想って感じだったわね」

 

 その言葉に僕は頭の中を金槌で勢いよく殴られたようなショックを受けた。僕なりにしっかり彼を見ていたのだが、やっぱり伝わっていなかった。

 同時に納得がいくモノだった。

 

「バカじゃねーのって。蘿蔔さんが奇襲してまで助けてくれるなんてそうそうないのに。嘘でもついていいのと悪いのがあるわ」

「ハーちゃんが初手で暴力振るうってまず無いからね。それを言ってもあの様子じゃ血を守るためって考えそうだけど。あれは嘘って感じはしなかったもの」

 

 彼は以前人の顔色を伺って表情を変えると言っていた。実際僕も見ているから嘘ではないだろう。

 けれど、その機微は場を取り持つよりも、自分と周りの価値観のギャップを隠す側面の方が大きいのではないだろうか。人助けをする時の大言壮語な振る舞いは、価値観の違いを理想に変えて他者を魅せるためのもの。

 それらを取っ払うと露出するのは、あの子の自己肯定感の無さだ。

 応野くんが女装について僕に聞いたあと吼月くんが取り乱して謝ったり、必ず会う必要のない沙原くんには自分と居たいわけじゃないと惜しげもなく言う。

 さらに情報というフィルターが邪魔をしてこちらの真意が伝わらない。

 

「信じるのに根拠なんて要らないのにな。てか、自分が嘘をつく生き方してるから他人の言葉も信じられないじゃないのか?」

「そうあって欲しいと願うだけでいいのにね。あの子みたいに予防線を張っておくのも正しいけど、なにか出来ない理由でもあるのかしら」

 

 萩凛さんが忠告するように深刻な面持ちで僕を見つめる。

 

「真剣に考えた方がいいわよ。いくら対人経験が未成熟とはいえ、意志が硬くて容易く人との関係を捨てられるメンタルだと、今までみたいな洗脳やお仕置きが通じるとは思えない。真っ当に恋させないと」

「う〜〜ん……」

「無理なら私が代わるわよ」

「血が飲みたいだけですよね?」

「それもあるわ。でも、それ以上に不得手でしょ? ハーちゃんの恋愛観であの子を落とすのは」

「そんなことないですけど」

 

 しかし、有効打がないのも事実だ。

 あの生理的不信感について殆ど分かっていないのだ。殆ど、としたのは探偵さんの姿を見てなんとなく察するものがあったからだが、それが正しいかはわからない。

 

「貴方はちゃんとあの子のこと知ってるの?」

「互いのことはあまり話さないから」

 

 結局、こっちから信じさせるしかなくて、萩凛さんの言う通りあの子の根底を知る必要がある。

 思い返せば僕はあの子のことなにも知らない。

 いま知っている情報は偶然が重なったから手に入ったものだし、夕くんや応野くんから聞いた話は外行きの姿だ。

 更に血を飲んでも感情ばっかりであの子の考えは見えてこない。

 

 萩凛さんが戸惑いながら士季くんを見る。応じるように口を開く彼は、意外にも僕の援護をしてくれた。

 

「蘿蔔さんに対する想いはひとしおなんですけどね。さっきも蘿蔔さんに危害が向くなら俺を殺してくれって言ってるようなモノですし」

 

 そして、血で吼月くんの中を見た彼は言う。

 

「蘿蔔さん、救世主ってなんですか……?」

 

 以前、僕が戯れで放った一言。

 けれど、それが吼月くんにとっての闇に触れると悟った僕は。

 

「さあ? なんだろう?」

 

 あの子の核心に至るモノを伝えられなかった。

 

 

 

 

 ツマミを捻れば、ジョージョーと蛇口から水が流れ出す。冷たい水に手を入れれば、体全体に神経を伝ってその冷気が巡り出す。外気に晒されてここまで冷たくなったと思うと、冬に近づいているのがよくわかる。

 熱った体を冷ますにはちょうどよく、吼月ショウ()は考え事をしたくなった。

 

「みんな、俺のこと気味悪がってたな……」

 

 自傷して使う狐の力は仕方ない。

 しかし、鶯さんの力になりたいと願うことや、奏斗先輩がエマと一緒に楽しく居られることに侮蔑の眼を向けられたのは本当に寂しい。まるで誰かが幸せになることを否定するあの目を向けられるのは価値観の違いを突きつけられたようで寂しかった。

 

「……そんなこと考えないよな」

 

 あの眼は学校の奴らと同じだと思う。

 俺が遊びに誘われない理由が人助けなのも分かっている。まぁ気味が悪いよな、ヒトはこんなことはしない。だから俺から誘うこともない。

 自分を曲げるつもりもないし、貫いて迷惑をかけるつもりもないのだ。

 けど、ハツカに迷惑がかかるならもっとやり方を考えなくてはならない。

 

「うえぇ……うえっ」

 

 唐突にぶり返した吐き気が俺を襲う。

 

「うっ、ぐぼ……気持ち悪い……」

 

 吐き出しそうになった胃の中のものを押さえ込んで言葉だけを漏らした。

 とにかく最優先は士季に血を飲まれたのを謝ることだ。謝ってハツカから罰を受けないと吐き気も収まらない。

 約束は破ってはならないのに。

 

 一通り話を終えたところでハツカに頭を下げよう。

 

「よし……」

 

 手を洗い終え蛇口を閉めたその時、背後からゴソっと何かが擦れる音がした。

 顔を上げて目の前にある鏡を見てみても、後ろにはなにも映っていない。

 それでも確かにわかる。俺の背後に誰かがいる。

 

「……カオリか」

「ええ、そうよ」

 

 またゴソゴソと音が立つと、それが布と紙が擦れる音だと分かった。

 

「回収させてもらったわよ」

「そうか。服と仮面、ありがとな」

「いいわよ。仮面は前より綺麗になってるし」

 

 服と仮面。俺が奏斗先輩たちを襲った時の装いはカオリから借りたものだ。

 しかし、回収したことを告げる為だけにここに来たなんてことはないだろう。

 

「……目代キョウコのこと、残念だったわね」

 

 重くなった声色に俺はゆっくりと頷いた。

 

「本当に残念だ。……やっぱり俺だったのが悪いのか? なにが足りなかった?」

 

 そう問い掛けてみれば、見定めるような間を取って彼女は答えた。

 

「強いていうなら遅すぎたのよ、貴方が彼女と出会うのが」

「……『アレはもうボクらの手ではどうしようもない』か。でも、復讐ぐらいハツカたちを利用すればいいのに。あの人の生きるための宿願だろ」

「やめろ、とは言わないのね」

「間違ってないことをやめろとは言わんだろ。やり方を考えろとは言うけど」

 

 あの人がやろうとしてることは、人生を狂わされた人たちが沢山いるのに、吸血鬼だから裁けない。なら、私が殺しますだからな。

 この考え方も普通の人からすれば悪と捉えられんだろうな。私刑と同じだし。人間らしく考えるとめんどくさいなと思う。

「他人事みたいな言い草」とカオリが言う。

 

「みんな、赤の他人で大切な愛すべきモノだよ」

 

 なんとなく、なんとなくだが……人間を醜いなと思ったりもする。こんな俺が醜いなんていうのは厚顔無恥にも程があるが、それをひっくるめて俺の目の前にいる生き物にはそう感じている。

 その言葉に鎌をかけるかの如く彼女は疑問を浮かべた。

 

「本当にそうなの? てっきり私は––––」

 

 映らない彼女の表情は訳知り顔で微笑んでいるのか、無表情で憐れんでいるのか分からない。

 ただ、俺の首に言の刃を添えて彼女は口にする。

 

「目代キョウコに、死んだ母親を重ねてるのだと思っていたのだけど」

 

 俺の手にザラザラとした違和感が蘇る。



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第五十夜「特別なヒト」

 アンケートにご回答してくださった方々ありがとうございました!


––––目代(めじろ)キョウコに、死んだ母親を重ねてるのだと思っていたのだけど

 

 カオリはそう言った。

 

「俺が……(ウグイス)さんとオバさんを重ねてる……?」

 

 繰り返した言葉が脳の中で反響し記憶の奥底にその姿を、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いや、分かんねえわ」

「あっれ〜……?」

 

 蛇口から流れる水を止めてのっそりと後ろを振り返れば、微妙に首を傾げてカオリは困惑していた。

 俺は構わずもう一度回顧(かいこ)する。

 清潔にされた白いベッドから上半身だけ起こして、人生に疲れ果てた彼女の姿は、鶯さんに重なりそうで重ならない。

 オバさんの顔を思い出そうとして––––対峙する真っ暗な瞳が僕を睨みつけていて–––俺はカオリが分からない程度に頭を振った。

 

「眼……とかは、似てたかもしれないけど、似てるか? 似てるかなぁ……?」

 

 4年も前のことだから、どうしても細かな表情や雰囲気までは覚えていない。

 

「死んだ時点で年齢は一回り違うし、オバさんは鶯さんと違って自分の力だけで動こうとする気概なんてないしなぁ」

 

 個人的な好意としては鶯さんに傾く。

 理由は生きてるからだと思う。可能性を含めた好意の総量の話だけど。

 しかし、カオリがオバさんまで知っているとは思わなかった。

 

「カオリはオバさんの死因なんて聞いてる?」

「……? 病死って聞いてるけど」

「合ってるよ」

 

 最悪の経緯を辿っていないことに俺は酷く安堵していた。

 

「貴方さ……さっきからなんなの?」

 

 ん?と反応してみれば、カオリが肩を怒らせる。語尾が心なしか強気で俺を恫喝するかのようだ。

 

「自分の母親でしょ? 事情があるのはわかるけど……なんでそこまで他人みたいに言えるのよ」

「言っただろ。大切な他人だって」

「大切のハードルが低すぎるわよ。マトモな人間関係作ったことある?」

 

 嫌味を返すように俺が視線を下ろしてみれば、彼女が無意識に踏み出していた一歩を引き戻した。その一歩を戻せるだけ彼女はとても理性的だ。

 とはいえ––––

 

「こっちの地雷を踏んでおいて、勝手に自分の地雷で爆発しかけるのやめてくれない?」

「その割には落ち着いてるじゃない」

「内心ハラハラだよ。俺は乗り越えたことを周りからブツブツ言われるのが大嫌いなんだ」

 

 オバさんについて触れたことが問題なのではない。

 こっちでは終わったことなのにちょっかいをかけられるのはとても苦手で、関わらないで欲しい。もう終わったことなのだから。

 

「けど、俺の心の内なんて知りようないし。一度目だからな。まぁいいでしょう、としておこう」

 

 何事もゆとりを持つことは大切だ。

 わざわざ怒ることでもないし、目先に囚われずに色々考えることができる。

 

「だったらなんであんなに取り乱していたのよ」

 

 理由がなくなれば話題が振り出しに戻るのは必然で、カオリは再び問いかけてくる。

 

「あの人といるのが嫌だったんだよ」

「……嫌なのに、大切なの?」

「嫌い嫌いも好きのうちってね。ひとりで何年も抱え込んで無理やり進んできた人が、今にも自棄(やけ)になって破裂しかかってる人が居たら、誰だって息苦しくなってなんとかようと動くだろ」

 

 10年間、ひとりで頑張って吸血鬼を殺そうとしてきた。

 多分それ以外にあの人の中身には何もない。培ってきた経験や積み上げた結果などの話ではない。過去に依存せず、これから先を進む理由のようなもの。俺で言えば謎の不信感を克服してより良い自分になりたいといった精神的な支柱だ。

 きっとあの人にはそれがない。

 

「それが目代キョウコを助けたい理由?」

「俺の理想はあの人も笑っていられる世界だからな」

 

 なんでコイツらは揃って理由を求めるのか。

 しかし正直に、関わったなら助けるべきだ、と口にしても士季たちと同じく納得されないだろうから俺は頷くことにした。

 

「また大袈裟なことを……で、今後はどうするつもり? まだ探偵と関わるの?」

 

 相槌を打ちつつ、彼女はこれからについて尋ねてきた。

 

「色々進めるよ。代替案を考えるのと、ナズナさんに協力をあおぐ。あとは鶯さんが無敵の人にならないよう楔を打つ」

「前二つはともかく、無敵化はどうするのよ。もう半身ぐらい浸かってるわよアレは。子供にやろうとしたこと否定されて、意固地になってるもの」

「ナズナさんがうまく作用してくれたらなと思ってる」

「七草も吸血鬼なの忘れてない?」

「でも、友達なんだろ? 俺やハツカが行くよりは可能性が高いし、結局は鶯さんが【吸血鬼 七草ナズナ】と見るか、【友達 七草ナズナ】と見るかだ。性格的にも精神的ストッパーついでに、復讐相手を一緒に殴りに行きそうだし」

 

 ナズナさんへの認識についてカオリとブレが少なく、彼女も肯首した。

 

「それにあの人が笑顔になるのに必要なことだよ。ナズナさんって居場所は」

 

 鶯さんがナズナさんやコウと一緒に笑っている姿を、勝手だが想像するととても微笑ましい。そんな未来になって欲しいと俺は強く願う。

 ただひとつ、問題があった。

 ふたりを会わせたとして、余計に関係拗れると厄介だ。俺だけの責任で終われるならいいけど、失敗したらナズナさんとハツカの信頼も無くなる。ナズナさんとコウもハツカの弱点消しの手伝いをするくらい仲が良い。その仲を俺のせいで裂かれるのは間違ってる。

 ハツカからも了承を取らないと。

 

「これで満足か?」

 

 聞けば彼女は鼻を鳴らす。

 

「血液の配布のこともそうだけど貴方、子供なのにホントよく頭回すわよね」

「子供だからって言い訳できないしな。あと資料まで用意してもらったのに、役立てれなくてごめんなさい」

「いいわよ。印刷すればいいだけだったし」

 

 当然のことといわんばかりに語る彼女はとても好ましい。

 

「カオリの用意周到なところ好きだよ」

「当たり前よ。これでも情報屋よ」

「それだけじゃない。頼まれたことは私情を挟まず動けることも尊敬できるし、ちゃんと人間を守るって信念に身を遵守できるところも大好き。人間から吸血はしないのもそのためだよね。自分の信念に合わせて行動を取れるのもちゃんと頭を動かしてるって分かる。他にも俺とハツカが一緒に寝てるって誤解した時の反応も可愛かったよ。それにそれに––––」

「待って! 分かった! ごめん。そんなに褒めないで……」

 

 もっと良いところがあるにも拘らず、カオリは照れたように組んだ両腕を伸ばしてストップをかける。

 彼女が話題を逸らすように咳払いするので俺も合わせて別のことを訊ねる。

 

「なんで目代家で起きた事件を名前伏せて話したんだよ」

「吸血鬼だって言っても信じなかったじゃない」

「ムッ……」

 

 そこを言われると痛い。

 彼女からの情報は半信半疑で聞いている。出所も証拠もない口伝えなのだから信じすぎるのは可笑しい。

 

「私としてはよく繋げれたわねと感心したわ」

「個人名、事件の概要まで教えてもらったからな。そこに小森のワードさえ入れたら見つかった」

 

 裏付けの意味もあるのだけれど調べていて良かったと思う。

 そして、実際に彼女に名を突きつけて鶯アンコの本名が目代キョウコであることは確定した。

 カオリがゆっくりと頷いた。

 

「さて、カオリの話はそれだけか?」

「これだけなわけないでしょ。もう少し付き合ってもらうわよ。……貴方だと面倒だから吼月でいいよね」

「ああ」

 

 俺は彼女の話に付き合うことにした。

 

 

 

「救世主ね……」

 

 あの子なら言いそうね、と呟きながら萩凛さんが蘿蔔ハツカ()に訝しむ目を向ける。

 理由は僕がその言葉の意味をはぐらかしたからだ。

 僕が【救世主】と発したタイミングが二度目の自殺直前。アレが本気だったのか化かしだったのかは僕の知るところでは無いが、伝えて良いのか決められなかった。

 話の流れからすると、助けてくれてありがとう、だけどやはり勘繰ってしまう。自殺なんて不用意に広められたくない。

 

「吼月くんの中を知ってるのはハーちゃんと士季くんだけ。片方しか知らないことだってあるだろうけど……実際にどんなのを見たの?」

「俺の時は……吼月がテレビだった」

「え? テレビ?」

「アイツを媒体にして沙原くんやエマの感情を見てるというか……自分の感情が殆どない代わりに二人の感情を使ってるというか。僅かにあったのが、午鳥から助けられた時の救世主って想いで……」

 

 自殺のことを知らないことにホッとしながら、よく吼月くんの血を飲んでいる僕からすると、士季くんの言葉には信じにくいものだった。

 萩凛さんが士季くんの話に頷きつつ、今度は僕に話を振る。

 

「僕の時は感情しかないんだよね」

 

 楽しい、嬉しい、羞恥、困惑。

 士季くんの時とは違いダムを決壊させる程の洪水のようにあの子の感情が押し寄せてくる。当然他人の感情ではなく、彼自身のモノだ。記憶や思考が薄く代わりに、今の感情が僕の胸を滾らせる。

 相反する主張に首を傾げる僕らだが、要因は全員が察していた。

 

「血を吸ったらしいけどそれは吸血鬼化した時なの?」

「そうですね」

「どんな風に?」

 

 僕は少し不満気に訊ねる。

 

「どうと言われると……すり抜けでアイツの腕を胸に通した後、解除してバキンと砕いた弾みに……」

「えっ!? そんな乱暴に!?」

「仕方ないでしょう!? 一瞬マジで殺されると思ったんですよ!!」

「吸血鬼……」

 

 その時のことを思い出して、冷や汗を流し身震いする士季くん。本当に怖かったんだね……。

 

「でも……そうか。吸血鬼化してる時に血を吸えば、あの子の古い記憶も見えるのかもしれないわけだ。試してみる価値はあるね」

 

 そうしたら、あの子の吸血鬼化の原因も自殺の原因も分かるかもしれない。

 

「…………」

「もしかして躊躇ってるの?」

「あの子は過去を探られるのも嫌いだから、なるべくバレないようにしないとって」

「そうね。そのままにしていいのか、触らないといけないのか、合わせていけば良いわね。あわよくば、ハーちゃんが首輪をつけれるといいわね」

「首輪って、午鳥……」

「比喩に決まってるでしょ。彼も子供よ。危ない橋を渡りかけたら大人が手綱を引いてあげないと。それが吸血鬼(私たち)のためにもなるしね」

 

 沙原くんを探すと飛び出した時は身の危険ぐらいは回避するだろうと思っていたが、チカラを持っているなら事情が異なる。

 士季くんたちを納得させるには必要なことだっただろうし、探偵さんを仲間に引き込めたら吸血鬼の被害は少なくなる。実際に必要なことならば、彼は容赦なくやり遂げようとする。

 探偵さんのことだって諦めてない。

 だから、萩凛さんが口にしたように吼月くんに無茶させないためにも手懐ける必要がある。

 ただ吸血鬼のためになる。それは違うと僕は思う。

 

「……でも普通に似合いそうね」

「女装なら尚更ね」

 

 反論はせず、萩凛さんの想像に頷いた。

 

「それと蘿蔔さん」

 

 慎重な面持ちで僕と視線を交える士季くんは、僕らの仲間であり、1番の問題児の名を出した。

 

「星見キクには関わらせないでくださいね」

「知られるのもアウトな気がするわ。私たちが口を塞いでもダメでしょうけど、知られたら本当に眷属にできないかもしれないわよ」

「でも、避けては通れないよ」

 

 七草さんは探偵さんの友達だった。だとすれば、キクちゃんに向けた怒りは間違いなく復讐の根源だろう。

 もし吼月くんがキクちゃんのやってきたことを知れば必ずアクションを起こす。良い方向に向くか悪い方向に向くかは分からない。夕くんのこともあるからと甘く考える訳にもいかない。

 

「士季くんはさ、キクちゃんのことどう思ってる?」

「……殺すべきだとは思います。けど、やれるかも分からないし、全部が吸血鬼として間違ってるわけではないですし、アソコには単独で処理をやってくれる人もいますし」

 

 とはいえ、現状無視できないのも事実。

 さてどうしたものかと唸りながら酒を煽る。

 

「あのさ、ひとついい?」

「……どうぞ」

 

 萩凛さんが一度階段の入り口を見てから僕らに尋ねる。

 

「吼月くん、遅くない?」

 

 つられて僕と士季くんも入り口に視線を移した。

 話に気を取られて疎かにしていたが、お手洗いにいっただけにしては時間がかかりすぎている。

 嫌な予感が過ったのか士季くんの頬が少し引き攣っていた。

 

「まさか抜け出して七草さんのところに行ったのか……?」

「それはないと思うよ」

 

 立ち上がり、ふたりに軽く手を振ってから階段を下っていく。

 月明かりから遠ざかり、ひとりになると思わず考えてしまう。

 探偵さんの人間がして良いモノでないドス黒い憎しみや怒りがに詰まった瞳が生まれてしまった理由。自身を制御できないほどの過去。

 キクちゃんのせいなのだろうか。

 いや、言い直そう。キクちゃんだけのせいなのか。

 

「……どう説明するべきかな」

 

 階段を降り終え、辺りを見渡してそばにあった手洗い場へと歩いていく。

 

「ん?」

 

 男性トイレの傍まで行くと声が聞こえてきた。

 

「––––」

「〜……–––」

 

 最初は吼月くんが失敗に頭を抱えて独りごちているのかと思ったが、そうではなく、どうやら誰かと話し合っているようだった。

 反射的に聞き耳を立て会話を捉える。

 

「––––奏斗先輩とエマをどう思うか? ……一般的には両想い? そんな感じにも見えたけど」

 

 片方は当然、吼月くんの声だ。

 

「やっぱりそう見えるわよね」

 

 ホッと安堵するのは女性の声。

 般若の仮面をつけた吸血鬼のモノに酷似していた。

 ここ男性トイレなのにな……。

 

「これで私が聞きたいことは終わりよ。で、吼月が聞きたいのは?」

「キクさんについてだ」

 

 吼月くんの言葉に、思わず意識を尖らせる。

 

「元凶が星見キクなの知ってたの?」

「鶯さんは俺をハツカの眷属じゃなく、マヒルの新しい友達として認識してたからな」

「夕マヒル……あの可哀想な子ね。で、友達の想い人を殺すのを手伝うの?」

「前にも言っただろ。必要とあらば、て。鶯さんの事情は理解してるとはいえ、マヒルからは星見キクのいい所しか聞いたことないからな。もっと知る必要がある」

 

 友達の好きな人を殺す作戦を立てるなよ。そうツッコミを入れたいが、先の話を聞きたいがために口を閉じた。

 話の内容通りに彼はまだ決めかねている。必要な制御をするのはもう少し待ってからでもいいだろう。般若から聞かなくても、いずれ僕やエマちゃんに訊くだろうから。

 

「アレは最低よ」

 

 般若はそう言い切って、話を進める。

 

「星見キク。いつの時代から生きてるのか分からない。何十年、何百年前なのか。眷属の数すら把握できない。50人なのか、100人なのか。なにより問題なのが……吸血鬼という正体を語らず、自身に恋をした人間に全てを捨てさせた上で血を吸うこと」

 

 星見キクは吸血鬼であることを眷属候補に伝えない。そのくせ、眷属化させた人数は他の追随を許さない。それが彼女の性質。だから、夕くんに自身が吸血鬼と知られた上で眷属候補としている現状はとても異例だ。

 しかし、それよりも意味がわからないのは。

 

「眷属にした相手を見てアレはこう溢すわ。『また眷属にしちゃった。こんなはずじゃなかったのに……』と涙を流して、眷属とはそれ以降会うことはない」

 

 キクちゃんは本当に不可解な吸血鬼だ。

 同じ吸血鬼である僕からすれば、『分かってて吸血してるのになに言ってるの?』としか言えない。その話を聞いた僕やニコちゃん、セリちゃんといった吸血鬼たちも扱いに困っているし、なんだったら怖いと思っている。

 

「結果として、彼女がヤリ捨て放置された眷属たちによって事件が起きる。探偵の父親もそのひとり」

 

 探偵は鶯アンコのことでいいだろう。

 やはりそうなのか–––と唇を噛みかけたとき、般若はもうひとつ付け加えた。

 

「因みに吼月が戦った白山も奴の眷属よ」

「……そうなのか?」

「奴に恋して家まで飛び出したのに星見に捨てられて、けれど吸血鬼だから家にも帰らず何年も孤独のなか浮浪者として生きていたわ。そんなの時にエマが彼を見つけて自警団に連れてきた」

「白山もエマへの執着が強かったが……それが理由か」

 

 犬歯が唇に食い込み鋭い痛みが奔るを感じながら、僕は吼月くんの反応を待った。

 暫く無言の時が続いた。

 ふたりにバレないようにしながらトイレの中を覗く。

 

「……」

 

 吼月くんは目を伏せて、いま得た知識を噛み砕き正しく捉えようと頭を回す。その様は子供とは思えないほど–––ましてや素の子供らしさの欠片などない–––知的に見える。

 般若も無言のまま吼月くんの次の言葉を待つ。

 

「……いくつか質問してもいいか」

「どうぞ」

 

 目を開けたのか分からないほど薄らと瞼をあげると、うわ言のように疑問を並べていく。

 

「鶯さんが星見キクを殺しにいけないのは人間だった頃が昔すぎて弱点がないからか?」

「そうね。人間だった頃は本人すら覚えてないわ」

「眷属が推定100人近くいると言ったな。仮定だが、星見キクが800年前から生きてるとしてその人数は妥当か?」

「妥当じゃないわね。基本的に吸血鬼は眷属作りをそれほど求めない」

「そうなのか?」

「人間でも一人の女性だけでそこまで産もうとはしないでしょ? それと同じ。ひとりで満足という吸血鬼が殆どで、多くても……吼月も知ってる平田は五人くらいだし、上にいる血酔いの午鳥でも十人ほどよ」

 

 そこからも次々と質疑が続く。

 事態に対して俯瞰するように知識を得ていく。

 加納ミチヒサという男はキクちゃんの眷属か。イエス、被害者のひとりで十年間血を吸わずに生きてきた。探偵さんの他にもキクちゃんを恨む人間はいるか。……ノー、吸血鬼の存在を知らない人間たちからは恨みようがない。キクちゃんはハツカ()の仲間か。イエス。

 傍から聞いているだけのはずなのに、まるで自分の首を締め上げられているような錯覚に陥る。

 

「被害の種類は加納のパターンも白山のパターンだけか?」

「……というと?」

「加納は普通の被害者、白山はマシな結末。ならあるだろ、三つ目の最悪のパターンが」

 

 般若は少し答え辛そうにしながらもゆっくりと語る。

 

「私が知る限り一番酷いのは……昔、キクに眷属にされた子が同じ事をしていたの。人間を惚れさせ眷属にしてから捨てるってことをね。その子はキクと違って純粋な悪意だけで行動してたけど」

 

 聞いているとまた唇が痛んだ。無意識のうちに唇を噛んでいたようだった。

 僕ら吸血鬼は【恋愛】によって誕生し、未来に種を繁栄させ続けている。だからこそ、人間(ヒト)の恋心を愚弄する行為は許せない。

 一番酷いと枕をつけるのに違わない醜さがあった。

 

「他の吸血鬼は知らなかったのか?」

「少なくとも日本にいる吸血鬼は噂レベルでも殆どが知ってるわ。ただ吸血鬼として眷属を作るのは間違ってないという言い訳で見逃してる」

「自業自得か。……探偵さんが吸血鬼全体を恨む理由が分かったよ」

 

 肺の中に酸素がなくなったような息苦しさが僕を襲う。吼月くんの瞼の奥を覗けば、そこにあるのはとても冷えた心のない瞳。

 きっとあの子は–––僕に嘘をつかれたと思っている。

 僕と初めて会ったとき吼月くんは『探偵の大切な奴を目の前で消したんじゃないか』と言った。100点ではない。それでも80点は取れる指摘に、僕は『そんな悪趣味な奴はいない』と反論した。

 しかし、騒動の原因は僕の仲間で、その原因を僕らはずっと容認していたことになる。キクちゃんは吸血鬼として極々自然な眷属作りをしているだけと、甘く見ていたのがいけなかった。

 もう少し想像力を働かせていればキクちゃんに忠告のひとつぐらいはできたかもしれない。

 そこまで聞いて漸く吼月くんはしっかりと目を開けた。その瞳に般若の鋭い視線が刺さる。

 

「……待てよ。これ今一番やばいのマヒルか?」

 

 どういうことだろうかと耳を澄ませる。

 

「眷属にされた奴が星見キクへの愛憎に取り憑かれたら……愛情があるだけマシか。もし吸血鬼化の影響で星見キクへの愛だけ失われたら、いま星見キクと楽しく生きてるマヒルへの嫉妬や憎悪が火種になって–––」

「夕マヒルが殺される可能性がある。だって吸血鬼は殺せないのだから。自分よりも別の誰かを愛してるなんて許せないから。そんな理不尽に晒されるかもしれない」

「死ぬギリギリで眷属にしてもらえたらいいが、星見キクがいない所で襲われたら救えない」

「自警団の連中もキクのお付きの奴らも対処しない。普通に夕マヒルを殺そうとする奴らもいるでしょうね。吸血鬼、人間を問わず」

「マジかよ……」

 

 ふたりの話を聞いて息が荒くなってしまう。

 キクちゃんという吸血鬼が産み落とした禍根の数々。そして、禍根を見て見ぬふりしてきた僕らの過去に重責を感じる。

 

「吼月ショウ。ひとつ訊くわ」

「……なんだ」

「この事を知ってもまだ吸血鬼に味方できる? 蘿蔔ハツカと一緒にいられる?」

 

 ああ、なるほど。彼女が吼月くんにキクちゃんのことを話したのはそのためか。なぜ彼女が吸血鬼(僕ら)から吼月くんを引き剥がしたいのかは分からないが、敵対させるには都合のいい事実だ。

 どうしようか迷った。

 割って入って全部出鱈目だと否定するべきか。無駄な事だと割り切ってこのまま聞き続けるか。黙考する彼が作る無言の時間で、僕は後者を選択した。

 

「ふっ」

 

 だって、意味がないのだから。

 般若も吼月くんの本質を理解していない。

 

「居るに決まってるだろ」

「は?」

 

 その返答が思い描いていた通りで僕は笑みを溢してしまう。

 

「吸血鬼が人間を不幸にすることもあるのは分かってるんだ。やることが増えるだけ。償いはさせる。現状(いま)誤謬(ごびゅう)も正す。それだけだ」

 

 吼月くんは吸血鬼を知った以上、眷属か死かのルールを是正するためにも僕と一緒にいる。吸血鬼による人間の不利益があるなんて最初から分かっている。その上で『人間と吸血鬼が一緒に笑っていられる世界』と口にするのだ。

 萩凛さんは吼月くんが人間と吸血鬼の境目にいると評したが違う。彼にとってはぐるっと円をひくように全部守る対象なのだ。

 

「それにハツカは身を投げ出してしまうような俺だって助ける良い奴なんだ。仲間のことを馬鹿にされたら真っ直ぐ怒りをぶつけてくる凄い奴なんだ。今までは見て見ぬふりをしていたかもしれないけど、今からでも変わって償っていける」

「……蘿蔔はまだ吸血鬼のルールの中にしかいないわ」

「だとしたら、俺が変えてやる」

 

 真偽は分からない。でも、憧憬が強く混じった彼の声色に僕は照れ臭くなって頬を掻いてしまう。なんでキミはそう思ってくれてるのに、僕からの想いはちゃんと伝わらないかな。吼月くんは僕の眷属候補なのに。

 

「だとしても、簡単に変わる訳ないじゃない」

「少しでも世界をより良くしたいなら積み上げていくしかない。ヒトも当たり前だって全部そうだ。もちろん、星見キクには即効策も打つ必要がある」

「どんな手段よ。探偵さんみたいに殺すの?」

「何百年と生きてきて普通のヒトみたいに死にたくないと思う感性があるなら殺してもいいが、でも、肉体的を止めるだけが殺しじゃない。

 何より奴を殺したところで吸血鬼にされた者たちは戻らない。なら、眷属にした人たちの情報を吐かせて、ケアやフォローに回らせるのもひとつの手だ。土下座廻りってやつだな」

 

 価値観の塗り替えは予定通り鶯さんの血を使ってな。

 見せかけの自信を纏って不敵に笑ってみせる吼月くんは、思わず背を預けたくなるような頼もしさがあった。

 

「よくそんな簡単に吸血鬼を信じられるわね」

「俺は信じてなんていない。ただ知ってるだけだ。吸血鬼の中にも、人間を殺したくないと、一緒に上手くやっていきたいと願っているヒトの心があると。ならば、奴らにも償いはできる。もし、その心がないなら吸血鬼を利用して、最後には殺す。それだけだ。俺は俺のルールで動く」

 

 自身の思い描いた結末にならず般若は舌打ちをして、仮面の奥の瞳で吼月くんを忌々しそうに睨みつける。

 

「この実年齢五歳児め……!」

「やっぱりそのことまで知ってたか……」

 

 嫌味を吐く般若は力を込めていた瞳を緩めてため息をつく。

 僕っ子状態バレてんじゃん……!

 

「まあいいわ、話はこれだけだから。くれぐれも眷属になろうなんて考えないようにね」

「なる気なんてねえーよ」

 

 僕の眷属になることを否定しつつ、吼月くんは般若を見送るための言葉をかける。

 

「もし困ったことがあったら言えよ。手を貸すからさ」

「……あっそ」

 

 驚きと困惑を混ぜた呟きを吐き捨てて、般若は上へと舞い上がり天井をすり抜けていった。

 その姿を見届けたあと、僕は踵を返す。

 少し離れて彼を待つことにした。階段の途中まで上がる僕は小さく鼻歌を歌った。

 

 

 

 

 マヒルのフォローや星見キクの目的の調査、吸血鬼の価値観の是正。ナズナさんに協力を仰ぐのはもちろん、その為にハツカに責任が行かないよう対処する。ハツカに話の裏どりをする。探偵さんにも会いに行く。

 やることが……やることが多い……!!

 計画を進め方を考えつつ階段を登っていく。

 

「やあ、ショウくん」

 

 階段を一歩一歩登っていると、その途中で声をかけられる。

 投げかけてきたのはハツカだった。

 

「ハツカ? どうかしたのか?」

 

 薄暗いからハッキリとしないが、真剣な顔つきに思えたので俺は足を止める。

 

「星見キクのこと知ってる?」

「うん、知ったよ。俺がやることに変わりはない」

 

 先ほど聞いたばかりの存在のことを尋ねられ胸が跳ねるが、臆せず俺は頷き、自分の立場を示した。

 ハツカは、そう……と呟くと俺の下にゆっくりと降りてくる。

 

「やめろといっても無駄だぞ」

「分かってるよ。僕がしたいのはそんな話じゃない」

「……どういうことだ?」

 

 俺より一段高い場所で足を止めると、ハツカは想定外のことを口にした。

 

「僕と協力してキクちゃんの対策を練ろうか」

「……本気か?」

 

 治っていた吐き気や眩暈が再発し、何もない胃から込み上げてくるのを感じつつ、立ち眩みを起こす。けれども、なんとか足腰を踏ん張り立ち続ける。

 

「探偵さんの言葉は信じられるのに、僕の言葉は信じられないの?」

「こっちはお前らの不始末だって知ってるんだ。そう簡単に信じられない」

「……そうだね」

 

 ハツカもそれを自覚しているのか、指摘すると唇を強く噛んでいる。

 

「それに鶯さんはハツカとは違うから」

「……? 何が違うの?」

 

 不思議に思ったハツカはキョトンとした目で俺を見る。

 

「鶯さんは大切だけど他人だ。仕方ないで割り切れる。他のみんなもそうだ。……でも、ハツカや理世は違う。その枠に押し込めていたくない」

 

 だから、俺はこの不信感をちゃんと受け止められるようになりたいのだ。

 

「つまり、僕はキミにとって特別な吸血鬼(ヒト)なわけだ」

 

 ハツカの物言いに少し疑問を持った。

 特別。ハツカと理世は俺にとって特別––––考えてみて、確かにそうだと思った。ハツカと理世は俺を助けてくれるし、一緒にいてくれた。なら、俺にとって特別だ。

 

「キミは言ったよね。『未来の自分を信じるよ』って。なら、今の自分だって信じてみなよ」

 

 できたら苦労しない。

 訳の分からないモヤモヤも理解できずに消えて、自分の意思がなんなのか分からない。この不信感という衝動も同じだ。

 でも、頑張らないと変わらない。

 

「ハツカ様。僕の血を飲んでください」

 

 俺は襟をガッと引っ張り首筋を露出させた。

 ハツカが本当のことを言ってくれるかは分からない。血を飲んだとして本心かは分からない。でも、不信感を抑える薬にはなると思ったから。

 ハツカだって最近飲んでいないだろうからと考えた。

 しかし、その狙いは弾かれる。

 

「ダメだよ。ちゃんとキミの口で言うんだ」

「でも–––」

「でもじゃない」

 

 ハツカは子供を叱りつける親のような口調で俺を躾ける。

 

「無理だと思うなら僕の言葉を復唱するんだ。もちろん吐いちゃダメだよ」

 

 ハツカの言う通り吸血鬼の力を使っていては、本当に必要な時に役立つ証には辿り着けない。それにハツカと組む明確なメリットがあるんだ。

 口にしている俺がやれないでどうする……!

 

「……わかった」

「それじゃあ行くよ」

 

 いつもならニヤニヤとイタズラ好きな子供のような笑みを浮かべていただろうが、今のハツカにそんな不純物はない。真剣に俺と向き合ってくれている。そう願いたい。

 

「僕はハツカ様の言葉を信じます」

「ぼくは、はつかさまの、ことばを、しんじます」

「ハツカ様の言葉を信じた僕を信じます」

「はつかさまを、しんじたぼくを、しんじます」

 

 まるであやされる赤子のようだった。

 吐き気や眩暈に襲われ、精神的に弱っていたからか発する言葉がすべて平仮名に聞こえるような声になってしまう。

 それでもなんとかハツカの言葉を繰り返して信じようと進めていく。

 何度もその二つの言葉を繰り返していく内に、まるで面白い小説を読み進めていく感覚で言葉を発せられるようになる。

 

「僕はハツカ様の言葉を信じます」

「僕はハツカ様の言葉を信じます」

「ハツカ様の言葉を信じた僕を信じます」

「ハツカ様の言葉を信じた僕を信じます」

 

 良い感じだねとハツカが頭を撫でてくれる。

 嬉しい。

 そして、ハツカは「最後に–––」と呟いて、僕に目を閉じさせた。

 

「僕はハツカ様の眷属候補(ペット)です」

「僕はハツカ様の眷属候補(ペット)です」

 

 僕はハツカのペット……。

 ……ん? なにか今おかしくなかったか?

 しかし、俺が抗議の声をあげることはなかった。なぜなら、困惑の最中にハツカが俺の首筋に、

 

「ご褒美だよ」

 

 人間のソレよりも大きな犬歯を突き立て、皮膚を裂いて血を飲み始めたからだ。

 強烈な快感と痛みが一気に身体中を駆け巡る。ふたつの感覚を声に変えて逃がそうとするが、即座に鼻と口がハツカの手で塞がれて逃げ場を失う。

 さっきまで感じていた吐き気や眩暈なんて消し飛んでしまっていた。

 

「ぷは〜〜……やっぱりショウくんの血は格別だなぁ。特に恥ずかしがってる時のは」

「ハツカァ……!!」

「遊び心だよ。遊び心」

 

 牙を覗かせるイタズラ好きの猫のように笑うハツカはとても愉しそうだった。

 文句のひとつぐらい言ってやりたかったが、その遊び心のお陰で鬱屈とした感情はどこかへ霧散したのだから噤むことにした。

 

「ほら、一緒に行こう」

 

 ハツカが俺に手を差し伸べてくれた。

 

「利害一致だぞ。よろしく頼むぜ、ハツカ」

「素直になりなよ。僕と居たいんでしょ?」

「ちげぇーよ、バーカ!」

 

 俺は躊躇わずその手を取り、一緒に階段を上がっていく。

 

「てか俺、吸血鬼になってないよな?」

「……なってないね」

 

 納得できずに前を向いたまま顔を顰めるハツカ。

 羞恥心や戸惑いで頭がしっかりと回っていないけれど、そんなハツカの仕草すら美しいと僕は思った。

 

 

 二階に戻ると、なんとも不思議そうな目で俺たちを見る士季達がいるのだった。




 今回のキングオージャーでヒルビルの声、聞いたことあるな……と思ったら、探偵さんのCVの沢城みゆきさんだったことに今更気づいた者です。
 なんというか、周りが洗脳されることに説得力がありすぎる声だなとすごく思いました。
 あのボイスがほぼ毎週聴けるのやばいなぁ……。


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第五十一夜「いつ始めても、いつ終わってもいい」

 彩られた月光の下。

 対面に座る士季は吼月ショウ()たちを見て「やっぱりか」と溢した。

 

「––––で、結局」

 

 俺とハツカを交互に見ながら士季が肩を落とす。

 星見キクをどうにかしよう同盟–––仮称だ––として動くことを士季たちに伝えた。

 そして、星見キクに関するカオリからの情報にズレがないか確認もした。星見キクの動向や白山が眷属である事実に間違いはなかった。ただ、眷属が悪意を持って星見キクの真似をした事件については知らないらしい。

 

「ふたりで星見に殴り込みに行くことになったですか? どういう成り行きで……?」

「お前らが疑わしきは確認後実刑を行わないからだぞ」

「身から出た錆だしね。あとショウくん、それを言うなら『疑わしきは罰せよ』じゃない?」

「それだと冤罪の可能性もあるから……」

「探偵さんの前では殺すぞって息巻いてたのに?」

「だって鶯さんは肉体を殺すことしか考えてないし」

 

 星見キクの現状をどうにかしようとする理由は沢山あっても、しない理由は一つもなかった。

 ハツカと会話を続けると視界の端では士季が、悩みなど一杯詰まった頭を抑えてなんとか顔を下げないようにする。

 彼の隣に座っている午鳥も気怠げにため息をついた。

 

「吼月くんは遅いし、呼びに行ったハーちゃんも中々戻ってこないから何事かと思ったら……まさかハーちゃんが落とされて帰ってくるなんて……お母さんは悲しいわ」

「誰がお母さんだ」

 

 ハツカから寸分のズレのない綺麗なツッコミが入る。

 よよよ、と見れば分かる泣き真似をするあたり午鳥は察していたようだった。士季が溢した言葉も同じこと。

 

「ハーちゃんはまだ良いとして……吼月くん」

「はい?」

「キクに関わるならキミは十分気をつけないとダメよ」

「……どういったことを…………?」

「あの子は不機嫌になると、相手の首にナイフを突き立てながら礼儀説くような事をするから」

 

 午鳥から視線をズラすと今度は士季が俺と目を合わせる。

 

「アイツに関わると碌なことならないからな。動くなら十分に注意しろよ」

 

 話を聞く限り星見キクは弱点のない不死身。透過を含めて厄介なことに変わりはないが、倒せないわけではないだろう。やり合う必要があるならだが。

「それよりなんでお前らは手を出しに行かなかったんだよ」と俺が訊ねれば、士季は「色々有ったんだよ」とはぐらかすように答えた。

 曰く、吸血鬼の繁殖としては間違いではない–––肯定もしきれないようだが。

 曰く、星見キク専門で防止・隠蔽などを行う吸血鬼がいるとのこと–––カオリが言っていたヤクザ吸血鬼のことだろう。

 

「なにより白山との約束で星見キクには手を出さず、吸血鬼にされた相手の対処に動くことにしてるんだよ。自警団(ウチ)はな。

 当たり前だが、いま吸血鬼にされる人数よりされた人数の方が多いからな。世帯が多い自警団だからできる道を選んだ」

「なるほどな」

 

 根本を枯らさない限りまた生えてくると思うが、そこはヤクザ吸血鬼に任せてるという訳か。

 

「随分前に外部の子からは『殴り潰しに行こう!』って言われたけどね」

「野蛮な子だね……」

「誰かがストッパーにならないと、新幹線の最高速度でヒトに突っ込みかねないから」

「ススキさん、めちゃくちゃ強いけど、なにもかも腕っぷしで片付けようとするところあるからな……

 

 ススキ……血を入れた金魚の醤油差しを考えた吸血鬼だったか。

 結構好戦的な性格なんだな。

 

「俺たちの方でなにか手伝えることがあったら言ってくれ。……蘿蔔さんの言う通り、白山や探偵の件は吸血鬼側の不祥事だからな」

「僕ら全員、キクちゃんの行動の不自然さは知ってた訳だし」

「しかも、今はこの町にいることが分かっていて、さらに眷属候補も分かってる。これほどキクに接触しやすい機会はないわ。あの子に文句の一つや二つ言うには今しかないくらい」

(せき) マヒルだったか。あの子が最後に花を配達するバーによくいるんだったな」

「自警団の吸血鬼(ヒト)から交代で見張りをやってくれると助かる」

「マヒルの今の安否は俺が聞いておく」

「けど、それだと昼間はカバーできないですから–––」

 

 3人の話を聞いていると–––母数が少ないとはいえ–––分かり合えない存在とは到底思えない。

 他に知っている吸血鬼はニコ先生やナズナさん、エマぐらいだが、全て滅ぼさなければいけないほど価値観が遠いわけでもない。

 当然だ。吸血鬼はあくまで人間から地続きで変貌して、少しずつ人間の頃の記憶を失っていき吸血鬼になる。人間の記憶がある間に感覚や習慣を覚え込ませれば、基本的には社会から外れた行動を取ることもない。

 

「……」

 

 その過程が俺には羨ましかった。

 ぼんやりと3人の様子を眺めていると、俺が口を挟まなくても話は進んでいき一区切りとなった。士季が疲れを取るように伸びをした。

 

「さて、吼月に聞いて答えられそうなことも、星見のこともある程度話し終えたし……これからどうする?」

「一度解散でいいんじゃないかしら。私も下のバーで餌を漁りたいし」

「そうするかー……蘿蔔さんや吼月もそれでいいか?」

「僕はそれで構わないよ」

「………俺は」

 

 どうするか、と思ったが午鳥のやりたいことで聞くべきことがあったと脳が再び活動を再開した。

 すでに立ち上がっていた午鳥に目を向ける。視線に気づいた午鳥は柔和な笑みを浮かべながら目線を交えてくる。

 

「午鳥はよくここに来るんだよな?」

「一年ごとに新しい客も来るし、目が飽きないわ」

「前にマスターがハツカのことが好きだって反応してたんだよ。午鳥の方が先に会ったはずなのになんでハツカなんだ?」

 

 バスケクラブでのハツカや、エマが初対面の俺に取った対応。そして星見キクの存在。吸血鬼には人間を惚れさせる本能があり、それが無意識レベルで出てしまうのだと思っていた。

 そうなれば、マスターが午鳥に惚れてないとおかしい。

 ハツカの「……マスターが僕に惚れてるのが変なの?」という視線を受け流しながら午鳥の返事を待つ。

 彼女の口が開いた。

 

「そんなの簡単よ。長年吸血鬼をやっていれば、どうすれば相手を惚れる一歩手前のままにできるか分かるのよ。人の心の揺れ動きを楽しむのも吸血鬼の醍醐味だもの」

 

 因みにアズマネくんの血も堪能済みよ。

 おっとりとした雰囲気でふふふ、と淫靡に微笑む彼女はとても吸血鬼らしい妖しさがあった。

 チラリとハツカを見れば、本当だ、と頷いていた。

 

「そうですか。凄いですね、萩凛さん」

「んっ?」

 

 つまり、彼女の言葉はそれだけ相手の信頼を勝ち取ってきた証左である。なにより無闇に他者の人生を壊さない線引きが出来ているヒトなのだと思った。

 

「なら一度体験してみる?」

「ハツカに許可取ったからにしてください……」

「もぉ〜……キミは本当に固いわね」

「あとこのジュース、酒ですよね?」

「あれ、バレちゃった?」

「分かりますよ……」

 

 やはり吸血鬼という種族は凄いな、と俺は思った。

 

 

 

 

 少しスマホを弄ってからバーを出て、ふたりに「またね」とハツカと一緒に小さく手を振れば、彼らも「またな」と返してくる。

 ハツカと二人きりになって表通りをゆっくりと歩き出す。

 話し込んでいたのもあって、すっかり夜も深くなり辺りを見渡せば、殆ど人の姿はなかった。

 人間よりも夜を我が物顔で徘徊する野良猫やカラスの方が目につく。そんな動物たちも僕らの前は歩かない。僕が手を振れば、ニャーニャー、カーカーと返事をする。可愛い。

 ハツカも野良猫に手を振った。

『フシャーーー!!』と鳴いて野良猫は消えた。

 

「「……」」

 

 離れていく猫にハツカは「なんで……」と不満気にボヤき、頬を小さく膨らませた。振った手は宙ぶらりんで行き場を求めている。

 彼の丸めた背中がちょっと猫に似ていて背をさすりたくなった。

 

「いまの猫ちゃん、威嚇してきたよね?」

「ハツカが可愛いから嫉妬したんじゃない? 猫は自分の可愛さを自覚してるって言うし本能的に負けを悟ったんだよ。ほら」

 

 消えたと思った猫は路地の陰に隠れたままハツカを見ていた。ハツカはなんとも言えぬ表情で「猫と比べられても困るよ」と呟いた。

 僕は希少な一面だなと思いながら横から眺める。

 

「なんか凄く久しぶりな感じがする」

「まだ4日ぐらいだよ?」

「十分だよ。ハツカと歩くのが好きだから余計にそう思う」

「……」

 

 数日しか経っていないはずなのに、夜の街をぶらつくのが懐かしく感じる。正確にいえば奏斗先輩やカオリを探して走り回ってはいたが、じっくりと夜を眺めることはできなかったし、考える暇すらなかった。

 

「この後どうする? キクちゃんのところに突撃する?」

「流石にそれはないよ。マヒルの心の支えは星見キクだし、攻め方を考えないと」

 

 もう少しマヒルにはやるべきことがある。

 本格的に動くのはそれが終わってからでも遅くはない。

 

「さっき連絡したら『楽しいよ』って返ってきた。あと、学校に遅れるとも来た」

 

 だから『身の回りだけは気をつけろよ、お前が狙われるかもしれないから』とだけメッセージを送り、用心するようにだけ伝えた。

 

「そっか。なら……ショウくんはやりたいことある?」

「ハツカとブラつければいいかな。その方が僕は気楽だし。やるとしても他の飯屋にハシゴするとか? 近くにおでんの屋台あるし。あ、でも店主には俺状態でしか会ってないからなぁ……」

「ショウくんって本当食べるの好きだよね」

「美味しいのを食べれるだけで幸せになるんだよね」

「分かるよ。僕もショウくんの血を飲むと幸せになる」

「僕を辱めて味わう血はそんなに美味しいか」

「おいしいッッ!」

「ああもう純粋な欲望!!」

 

 僕なりに彼を幸せにできることがあるのは嬉しいことだった。

 

「なら今度、その店に行ってみようか」

「夏にでも行くか〜」

「おでんなのに!?」

「夏のおでんも良い。らしい」

「食べたことないんかい」

 

 他愛のない話をしながら夜の町を歩けば、まばらに歩いていたら人の姿は無くなっていた。

 

「ねえ、ハツカ」

「なに?」

 

 最後の一人が視界から消えた所でハツカの前に立ち、頭を下げる。

「ごめんなさい、約束を破って」と僕が言えば、当の本人はよく分かっていないのか僅かな間ができた。

 

「えっと……なんのこと?」

「ハツカ以外に僕の血は吸わせないって約束したのに士季に吸われた」

 

 今思い出したように、ああ……と何度か頷いた。

 

「化かされたなって言ってたよね?」

「作戦として立ててはあったけど、あくまでアドリブだよ。最初は奏斗先輩の血をハツカと士季に飲ませる予定だった。まさか腕を砕かれるとは思わなくてさ……」

 

 代わりになる物があるのに、何故ハツカとの約束を破る作戦を軸にして考えなければいけないのか。本当に不注意だった。透過を解除すれば、元々そこにあった物体と今そこにある物体が同じ空間に重なって、互いの形を維持できないなんて、考えればすぐ分かるのに。

 しかし、ハツカは気にも止めず話を続ける。

 

「僕に沙原くんを助けさせたのも血を吸わせやすくするためでもあるんだよね?」

「そこを拒絶されると話が成り立たないから」

「結果的に良かったんじゃない? 男に血を吸われる趣味は沙原くんには無いだろうし」

「ハツカも男だろ……」

「キミが言えることかい? 僕はこんなに綺麗なのに」

 

 ハツカは白と黒のブラウスを弄ってから、自身の美しさを示すようにヒラリと回る。脹脛の半分が隠れる白藍のワンピースの裾が広がり、彼の白くて健康的な太ももが露出する。身体を回す中で顔にかかりかけた髪の毛をきめ細やかな指で払う仕草も綺麗だ。

 外身だけでなく、内面にまで気を遣っている彼は、教えてもらわなければ、触ってみなければ男とは分からないだろう。

 ……そうじゃない。

 ハツカの意図としては合っているが、そこではない。

 

「あれ? なんかあまり気にして……ない……?」

「うん」

「なんで……?」

 

 意味が分からなかった。

 約束を破ったのに、ふらーっとどこ吹く風で気にしていないハツカに僕は心底驚いていた。

 

「いや、キミが事故で士季くんに血を浴びせたのは聞いたし、吸血させた訳じゃないなら別にいいよ」

「でもさ–––」

 

 そう言いかける前にハツカから待ったがかかる。

 

「僕が気にしてないって言ってるんだから、それ以上なにが必要なの?」

「いや、悪いのは」

「だから良いの。一度謝ったんだし。何度もやったら自己満足にしかならないよ? 謝って不快にさせるなんてショウくんも嫌でしょ?」

「……うん」

「なら、よし。もう忘れよう」

 

 自己満足か。たしかにそうなったらおしまいだ。

 謝罪は相手が納得するために必要なのだから、いらないと言われてしまえばこちらからは何も言えない。

 僕の中で割り切れないモノがあるけれど、ハツカはサッパリしていて気にかけるべきモノの判断がすぐにできる。凄いところだと思う。

 

「せっかく楽しい時間を濁すようなことしてごめんね」

「そう思うなら、なにかしてもおっかな〜」

「できるやつで頼むよ……」

 

 そうだな……と歩くハツカの後に続いていく僕は。

 

「ん?」

 

 ふとハツカの足が止まる。

 目線がそばにある建物に向いた。その店の札を見れば、そこが団地のそばにある『スポーツ山口』という小さなスポーツ用品店だと分かる。

 僕もハツカの視線を追ってガラス張りで中が丸見えの店内を覗いてみる。

 彼が何を見ていたのか判別する前に横から声をかけられる。

 

「アレ、やろうか」

 

 大きく振りかぶって、ハツカは虚空のボールを僕に投げた。

 

 

 

 

 小森団地のそばにある小さな公園。寂れたブランコは風が吹けばギィと甲高い音を鳴らし、滑り台は月を霞んだ星として映し出す。

 そんな公園の真ん中で蘿蔔ハツカ()らは向かい合うようにして立っていた。

 

「よっ」

 

 僕が軽く声を出しながら腕を振えば、ボールが綺麗な放物線を描いて飛んでいく。夜でもハッキリと見える真っ白なボールは十数メートル離れた吼月くんのもとに辿り着く。

 

「っ……よっ!」

 

 ポスンと小気味良い音を立てながらグローブの中心でボールを受けると、ボールを右手に持ち替えて僕へ投げ返してくる。

 ズレなく飛んでくるボールを取って、また投げる。

 

「驚いたな。ハツカがキャッチボールをしたいだなんて」

「こう見えてもアウトドア派なんだよ」

「この間のこと根に持ってる……?」

「さあ、どうだろう」

 

 いわゆるキャッチボールで、遊びとしては素朴なものだが気が向いた時にやると楽しかったりする。体を動かすのは嫌いではないし、ちょうど良い汗をかきたい時には持ってこいだ。

 

「男の子の遊びって吸血鬼になってからはしてないからさ」

「この間だってバスケしたじゃん」

「アレはスポーツでしょ? もっと緩い感じの……いつ始めても、いつ終わってもいい気楽な遊びの範疇がしたいのさ。ほら!」

 

 さっきより勢いをつけて投げてみる。

 ボールが風を切る音がした。

 

「–––おっ!? 強く投げるな吸血鬼!」

 

 速度が上がったボールに驚く吼月くんだが、しっかり反応して受け止めた。

 キャッチボールは–––というよりも、勝負ではない遊びもとても良い。ゆったり話しながら体を動かせるし、勝利という一つの目的だけを考えて動かなくて気疲れしない。

「いつでも終われるのは楽だよな」と吼月くんも共感しながら、ボールを投げ返してくる。それを僕は気楽に受け取る。

 

「ねぇ、士季とエマってさ。異様にハツカのこと買ってるけどなんでなの?」

 

 吼月くんが訊ねてきたことに僕は「あれ、気づいてないの」と少し呆けて返してしまう。彼のことだから、てっきり知っているのかと思っていたからだ。

 

「え、なにが」

「エマちゃんの苗字。聞き覚えあるでしょ」

 

 吼月くんは考え込むようにエマちゃんの苗字を呟く。

 

「止岐花……ときは……ときは…………? あれ、そういえば時葉と同じ音か」

 

 そう、僕の眷属である時葉 香澄と同じ音の苗字である。

 

「偶然の–––」

「一致じゃないんだな、これが。士季くんは時葉の眷属だからね」

 

 吼月くんは驚きの声をあげる。

 そりゃそうだ。普段僕にばっかり惚けている時葉が–––いや、僕の眷属たちが自分の子供を作るだなんて吼月くんからすれば想像できないだろう。

 

「えっ、えぇ……待って、でも文字が違うのはなんで? しかもなんでエマなの……?」

「エマちゃんが吸血鬼になったころ、『新しいお母さん』って時葉にベタベタだったからね。士季くんは父っていうより兄って感じだし。それではじめは時葉と話した時には同じ苗字にする予定だったけど、あくまで士季くんの眷属()だから文字だけずらしてるんだ」

「そっか……そういう……」

 

 僕らの感覚に戸惑ったのか、一瞬視線を落とした吼月くんだったが、すぐ投げる構えに移る。手慣れた様子の綺麗なフォームで僕に向かってボールを投げる。

 

「士季くんの音が違うのは、好きな人を自分に振り向かせてから同じ苗字にしたいそうだよ」

「頑張れ、士季」

「ふふ。キミ的には二万年早ぜってやつかな」

 

 破顔した笑みを浮かべる吼月くん。

 その顔は純粋に本心から応援しているものだった。

 そこから少し間、雑談を交えながらボールが行き交う音を僕らの間で響かせる。

 

「最近学校はどうなの? 応野くんとかさ」

「応野? 普通だよ。今度遊びに誘われた」

「僕のことでてっきり避けてるのかと思ったよ」

「引き合わせたのは僕のせいだし、応野を恨むのは筋違いだよ」

「じゃあ、遊びに行くの?」

「そうだね。必要なことだから」

 

 違和感を覚える返しに疑問を持ちつつも、先に優先したいことがあったので聞き逃す。

 さて、そろそろ切り出すか–––

 

「そういえばさ。吸血鬼がキミを殺すのを『正しい』って言ってたけど、アレは本心?」

 

 普通ならばかなり気を遣う話題ではあるけれど、吼月くんにとってはさほど毒にならないボールを投げる。

 

「本心も何も、いまの吸血鬼のルールで考えれば僕がはみ出してるのは事実だし、殺されても仕方ないよ。やったことには責任が付くし。僕とハツカの契約だって、ハツカが見切りをつけたら自由に僕を殺すってものだし」

 

 やはり意にもかえさず自然とそう答えた。

 自分の生死に関する話だというのにとてもフランクだった。

 

「……いつもそんなこと考えてるの?」

「頭の片隅にはね」

「血を吸われた時とか怖くないの?」

「怖くはないかな。ハツカが見限るってことは僕に落ち度があったからだろうし。それに––––うん」

 

 ボールを投げ返して、吼月くんが受け取るとグローブで顔が見えなくなる。それでも口元だけは見えていて、愉快そうにニカッと歪んでいる。

 

「ドキドキするじゃん。ハツカに心臓をしゃぶられてるような感覚って」

 

 吼月くんの笑みを見て、僕はジトーと目を細める。

 

「……キミって変態だよね」

「ハハッ! ハツカにドMって言われた時点で自覚しとるわ! 銭湯での奴もそういうことだろ! 社会的な死での背徳感!! オラ!!」

「オッ–––と!? 開き直った!?」

 

 豪速球が吼月くんから飛んでくる。仰け反るようにして勢いを殺しキャッチする。

 萩凛さんは、この子には洗脳や調教は効かないと言ったけれど、想定外の意味で効かなくなってるな。これはホント予想外だ。久利原だって僕の尻に敷かれることが好きになるのはもう少しかかったのに。慣れるの早いなぁ。けれど、いい感じに照れてくれるから遊びがいもあるんだよなぁ。

 

「でも、僕はショウくんにも死なれたくないよ」

 

 僕も一般的な価値観を把握はしているわけで、何日も一緒に過ごしている相手を–––ましてや、子供の死を容易く受け入れるほど性根は腐っていない。

 しかし、吼月くんは理解できていないのか首を傾げる。

 

「僕の眷属になる子は等しく愛情を注ぐに決まってるでしょ」

「いや、そうじゃなくて。僕は別にハツカが好きこのんで眷属にしたい相手ではないでしょ?」

「いったいいつ僕がそう言ったのさ」

「だってハツカが眷属にしたいのってコウでしょ?」

「え???」

 

 なんともまぁ的外れな言葉に、投げようとしたボールが手から滑って天高く飛翔する。

 

「あちゃ……」

「あ〜〜……僕、取ってくる」

 

 公園の外へと飛び出したボールを追って走り出す吼月くん。その背中を呆然と見つめながら、どうして僕が夜守くんを眷属にしたいという構図が彼の中で生み出されているのかを考える。

 

「なんで? どうしてこうなってる?」

 

 夜守くんを眷属にできたら嬉しいのは事実だ。男の子同士だから話しも合うだろう。相談に乗ったりもするから仲がいいのも事実だ。

 しかし、それは吼月くんも同じ。

 心当たりがあるのは、初めて血を吸った時に夜守くんの存在を仄めかす話をした時と、夜守くんと七草さんが僕の弱点燃やしの手伝いをしにきた時ぐらい。

 

「それだって血と手助けってだけで特別僕が意識しているようなことは……」

 

 頭を抱えていると、何食わぬ顔で吼月くんが戻ってきた。片手にはボールが収まっており、問題なく回収できたのが分かった。

 そのボールを投げようとしたので、その前に「ストップ!」と吼月くんを制止した。

 

「どうしたんだよ?」

「それはこっちの台詞。なんで僕が夜守くんを眷属にしたくて、キミの事を見てないって構図になってるの?」

「いや、だってハツカ。『ジャージは上まで閉めろ』って言っただろ?」

「そうだっけ」

「その時ジャージじゃねえけどって考えてたら、コウのことだって聞いてさ」

「……うん」

「コウが久利原たちみたいにハツカに鼻息荒くしてなかったことに安堵しつつ、七草さんに遠慮してコウに手を出さないのか……可哀想、って思って……どうした」

「……」

 

 僕は硬直したまま、脳内で叫びを上げる。

 

 えええええええーーーーーーーーーー!!!!

 そこぉーーーーーーーーー!?!?

 

 それはもう大絶叫で、お化け屋敷に行ったときのような断末魔に似たナニカだった。きっとお化け屋敷の中なら建物ごと揺れていたに違いない。仕方ないだろ。確かに僕の失言ではあるけど、でも、普通そこを気にするとは思わないじゃん!

 

「違う違う! そんな昼ドラみたいな三角関係じゃないよ!!」

「違うの?」

「僕は健全にふたりを応援してるから!!」

「そうなんだ。良かった……コウのことを思って、枕を抱いて夜な夜な咽び泣いてるハツカはいなかったのか」

「キミは僕のことをなんだと思ってるのさ!?」

「無自覚なコウに知らず知らずの内に落とされた哀れなコウモリちゃん」

「逆でしょふつう!!」

 

 鋭く刺すような声を出す。

 吼月くんの中の僕が悲しい負けヒロインみたいになってることも、僕が落とされたみたいになってるのも納得できない。

 しかも、僕が知ってる夜守くんとイメージが合致しない。

 

「キミにとって夜守くんはなんなの? たらしなの?」

「はい」

「はいッ!?」

「だってコウは大事な括りに居ない相手に、男女問わず「〜〜さんのこと好きだよ」って言っちゃうから、てっきりハツカも誑かされたのかと」

「えぇ……」

「そこがコウの怖くも善いところではあるんだけどね」

 

 僕は夜守くんにまさかの一面に驚きながらも、脳をしっかり働かせて話をまとめる。

 

「僕が眷属にしたいのはショウくん! 夜守くんは関係ない! 以上!!」

「そうなのか」

 

 夜守くんへの嫉妬が抜けて安堵するわけでも、僕がちゃんと見ていたことに衝撃を受けるわけでもない。

 ただ首を傾げるだけだ。

 

「気になってるなら僕に言って欲しかったんだけど」

「言う必要あったか?」

「あるでしょ。秘密主義もいい加減にしなさい。困ったことがあるならちゃんと聞け」

「はーい」

 

 またジト目で吼月くんを見つめる。

 自分が大切にされていると理解してもらいたいのだが、黒い紙に鉛筆で想いを記すような愚行に思えてくる。

 この反応や、沙原くんとエマちゃんへの対応を見ている限り、根本的に他人から大切にされる意味や感謝される嬉しさを知らないんじゃなかろうか。

 そんな当たり前のことすら分からないはずは––––と思うが、そんなあり得ないことが起きてしまうのかもしれないと想定しておくべきだろう。

 ヒトならざる力を幼い頃から持っている。

 生理的に吐き気を催すような感覚を患っている。

 それだけでも人間の中で生きていくには難しい。人が言う当たり前の人生を送れていたのか甚だ疑問だ。

 

––––それにまだ吼月くんは僕に隠し事しているはずだ。

 

 僕には『僕っ子状態は内緒にして』と言う癖に、般若には『やっぱり知っていたか……』とぼやく。妬いているわけではない。さっきの様子から約束を破ることに強い抵抗があるのが分かる。そんな吼月くんが、容易く流せるモノだろうか。

 違うことなのではと、思ってしまう。

 それに般若はあくまで『実年齢五歳児』といった。おかしい。吼月くんは14歳だ。

 きっと、まだ隠し事がある。

 攻めたい。暴きたい。隠してること全てを詳らかにしてやりたい。

 嗜虐心にも似た探究心が動き出す。いけないのは分かるが、人間誰しもダメだと言われたことをやりたがるモノだ。

 そうでもしないと吼月くんは教えてくれない。

 

「さて、そろそろ準備運動も終わりかな」

 

 両肩を一回、二回と回してほぐすと僕は今度は両脚に力を入れる。

 

「……?」

「よっ!––––––と」

「!?」

 

 勢いをつけて飛び上がれば、次の瞬間には公園のそばにある電柱の上に僕は立っていた。

 驚いた吼月くんが電柱の真下まで駆け寄ってくる。

 

「なにやってんだよ。それじゃあキャッチボールできないよ!?」

「できるでしょ? その腕時計を使えば」

「……!!」

 

 彼がつけた腕時計。それを使えば吼月くんは吸血鬼になれる。

 もう一度、僕の目で確かめたかった。

 しかし、吼月くんは嫌だと首を左右に振る。

 

「別に普通のキャッチボールでいいじゃん! どうせ見たいだけでしょ!」

「地上にいるだけじゃ夜を活かしきれないよ。せっかくの自由な時間だ。その力を使うことを咎める人なんて誰もいないよ」

「でも、ダメだよ!」

 

 一瞬交えた視線に憧憬が混じっているのを感じた僕は、どうしてダメなのか訊ねてみた。

 すると、彼はルールがあるから、と答えた。

 そういえば以前、俺の決めた理屈で行動するって言っていたっけ。

 

「どんなルールがあるの?」

 

 まるで発表会かのように胸を張って応える。

 

「ひとつ、みだりに力を使わず、周りを笑顔にするために使いましょう。

 ふたつ、キチンと我を持って自分の考えで動きましょう。

 みっつ、色んなヒトの話を聞いて正しい知識で行動しましょう。

 よっつ、子供だからと言い訳せずにできる限りのことをしましょう。

 いつつ、ただ一つのことに縛られた化け物の思考にはならないようにしましょう。

 以上!!」

「……」

「だから、遊びに使うのはだめだ。例外を一度でも作ると甘えができちゃう」

 

 中学生で生きる為の指針を明確に答えられる子はどれほどいるのだろうか。

 そんな彼が頑張って作ったルールの中に確かな隙を見つける。

 

「だったら、問題ないじゃん」

「え?」

「他人を助けるために使うことだけが、笑顔にすることじゃないでしょ?」

 

 常々思うが、力を振るうのは持った者の特権。持っているなら有意義に使うべきだ。責任はあくまで力の有無ではなく、行動によって生まれるのだから。

 

「それは……そうかもだけど……」

「ここにいるのは僕たちだけだ。だったら、僕らが楽しむために使うのだって正しいはずだよ」

「……」

 

 吼月くんが唇を強く閉じて、黙考する。

 もう少しで倒れそうだと察した僕は追い込むように続ける。

 

「何かあったとしてもまた助けてあげるよ。僕はキミの救世主だからね」

 

 驚いたのは一瞬、彼の目が潤んだことだった。

 すぐ平常の眼に戻った吼月くんは、間を置いてから「分かった」と口にして腕時計をつけた左腕を胸の前に持ってくる。

 

「楽しくなくなっても後悔しないでよ」

 

 そして、ベゼルを回転させ腕時計に右手を翳す。

 

「……!」

 

 途端、彼が纏う雰囲気が一転する。彼の中の感情が抜け落ちたような表情になり、瞳は黒から葡萄色へと変化した。

 

「マジで吸血鬼じゃん……」

 

 そして顕になる吸血鬼のような気配。

 膨れ上がるように大きくなったそれは彼が本来持つ人間の気配を塗りつぶした。確かにこれは吸血鬼だ。しかし、人間の気配もするから【半吸血鬼】といった所だろう。

 ホントなんなんだろうな、この子……。

 

「シャッ」

 

 吼月くんは抑揚のない掛け声を出して、僕の隣の電柱へと飛び乗った。身体能力も吸血鬼と遜色ないものだ。

 

「顔や声のこと気になってる?」

「え? まぁ、そうだね」

「ごめんね。力を使う時は感情を無くすようにしてるんだ。でも–––」

 

 吼月くんは精一杯の感情で儚げな美しい冷笑を浮かべ、僕にボールを投げてきた。

 それが彼なりの僕への想いだと受け取った。

 いつか見た作り笑いのような微笑みだけど、僕と楽しみたいのだろう。

 でも、どうして心を殺す必要があるのだろうか。

 知らないことだらけだ。

 

「うん。さあ、夜を楽しもう」

 

 今はまだだ。

 それよりも打ち解けよう。楽しもう。

 

 夜空の中に僕らは飛び立つ。

 

 

 吼月ショウの身体が空へと昇る。あるいは落ちる。

 目の前には遠くから光を放つ星々が瞬く。翻って見れば、まばらに光を放つ街並みが、闇にその輪郭を侵食され夜空を模した絶景を生み出している。

 双璧をなす夜空はまるで宇宙のようだ。僕は宇宙に放り出されたような感覚を味わいながら、僕はボールを投げる。

 空間を裂くように飛ぶボールはすんなりとハツカのグローブの中に収まった。

 

「ナイス!」

「ハツカもナイスキャッチ」

 

 心配だった。

 狐の力を使っている時の僕は感情を消し去らないといけない。

 さっきのように声を張り上げながらワイワイと楽しむことができない。ただ薄く唇を歪めることしかできない。

 ハツカが本当に遊びたいのであれば申し訳なかった。

 しかし、ハツカは残念そうな様子を全く見せず、楽しんでいるように遊んでくれる。

 だからせめて言葉で伝えよう。

 

「ハツカ、楽しいね」

「そうだね。吸血鬼だからこそできる遊びだ」

 

 夜を縦横無尽に駆け回り、ボールが夜空に閃を描いていく。

 もし、この力を感情を出しながら手なづけられたなら僕はキチンと楽しめただろうか。

 分からない。そうであって欲しいと僕は願う。

 

「ねえ、パスしながら星座を描いていこうよ」

「いいね。だったら最初はうお座にしようか」

「肩慣らしだね」

 

 でも、必要ないかもしれない。

 だって、僕はきっと満足すると思うから。

 頭がグラグラする。血を吸われすぎたかもしれない。

 でも、もっとこの時間を楽しみたいと思うだろうから。

 

 

 だから、悟られないように頑張ろう。




 僕っ子状態の主人公書くの久しぶりだなと思ったら、5ヶ月ぶりだった。鬼ビックリですわ……


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第五十一・五夜「早さが命」

 今回は箸休めの回です。
 時系列的には少し前後するのですが、その所よろしくお願いします。
 


 ある日のこと。

 授業が終わり、先輩の頼みで一緒に猫探しをしたあと、吼月ショウ()は学校から団地にある家に帰宅した。宿題を終え、干していた服を取り込んだり明日のゴミ捨ての準備を行ってから風呂に入る。

 軽く湯船に浸かってから浴室を出て、新しい服に袖を通しながら見た時間はまだ19時半過ぎ。

 今からハツカを尋ねても問題はないだろうが腹が空いている。普段なら自炊するのだが、せっかくならハツカの家に行く前に外で食べに寄っていくのも悪くない。

 

「あそこに行くか」

 

 玄関へ向かい躊躇わずにドアを開ける。こんな時間帯ならばそこまで周りを気にする必要がなく躊躇いなく外に出れた。

 とはいえ、ここ数日は夜中にハツカに会いにいくのが殆どなので躊躇いなんてものはとうの昔に捨て去ったのだが。

 街を逍遥し始めてはや十数分。

 冬に向かう気配を感じさせる外気で温まったはずの身体が冷え始める。ぶらっと体を震えるので、両腕で身体を包むようにして体温を逃さないようにする。見渡す傍にいる辺りにいる人たちも同様で、先月よりも厚着をしている者たちが増えている。

 見つめた中には、団地のそばにある八百屋さんやマヒルの実家がやっている花屋があった。花屋はまだ営業していて、明かりが灯っている。

 花屋の中を覗いてみるがマヒルの姿はなかった。視線を落とせば土を掻き分けるようにして付いた真新しい細いタイヤ痕がある。自転車を使ってキクさんに会いに行くついでに手伝いをしているのだろう。

 

「入れ違いになっちゃったかな」

 

 両親の手伝いをするってどんな感じなのかな。

 目当ての相手に会うこと以外、作り笑いをするロボット作業になっているのだろうか。歩を進めながらマヒルの心の内を想像しようとしてみる。しかし、情報が不足していて満足にはできなかった。

 頭を振って思考を切り替える。

 団地を抜けたあと数分歩けば駅のロータリーに出るところまで来た。

 

「さてさて……」

 

 空を見上げれば一面に広がる星々はそのすべてが強い輝きを放っている。この光景ひとつ取っても、自分の心持ち次第で変わってしまうのだから面白いものだ。

 これもまた自分の心を知るための指針と言える。

 気持ちが沈んでる時にはわざわざ顔を上げるなんて面倒くさいことしないしな。地を見ながら平凡に歩けばいいだけだ。そうしないのはハツカと会いたい、楽しい事をしたいと前向きなことを考えているからかもしれない。

 明言できない感情に悩む。

 

「う〜〜ん……」

 

 未来に期待をしているから信頼と呼べるのかもしれないが、あの不信感としか言えない衝動を抑え込めるかと言われたら別だ。

 いけない。楽しくないことを考えてしまった。

 飯を食べる前に食欲が下がることを考えるべきじゃない。

 

「あ」

 

 唸っていると目的の場所に辿り着いていたことに数秒経って気づいた。

 目の前にあるのは屋台だ。店先に垂れる暖簾には『おでん』の文字が書かれている。

 ここを知ったのはつい最近。

 ハツカを見つけるために街を歩き回っている最中、サラリーマン3人組の後を追って見つけたのがこの屋台であった。

 

「よし」

 

 初めてのことに若干胸の高鳴りを感じつつ近づいて、暖簾をかき分けて屋台の中へ入る。そこでは具材ごとに仕切られた鍋から店主である男性がちょうど蒟蒻を掬い上げていた。

 どうやら先客が居たようだ。

 注文された品を客の前のカウンターに置いたあと、店主が僕を見る。

 

「いらっしゃい。おや、坊やひとりかい?」

「はい」

「なら、そこに座っておくれ」

 

 促されたのは先客の左隣の椅子だ。右隣の椅子には鞄が置かれており、中には青い半透明のバインダーが見え隠れしている。

 

「お隣失礼します」

「どうぞ」

 

 僕は示された席に座り込むと、隣の客を見て軽く会釈を––––

 

「ん?」

「あ」

 

 顔を見合わせて数秒、ジィっと互いの顔を確認する。

 

「吼月くんじゃないか」

 

 先客の正体はハツカの眷属のひとりである久利原(くりはら)さんだった。

 

「久利原……?」

 

 ワイドカラーのシャツを着ているのは変わらない。しかし、ネクタイを締め、スクエア型の黒縁メガネをかけたその姿は、不惑に至った外見年齢も相まってより思慮深い知性に溢れた姿をしている。

 俺が知るハツカ狂いとのギャップによって久利原であると認識するのに数秒要してしまった。

 

「なんだい、久利原くんの……息子さんの友達かい?」

「いえ、私に息子はいませんので。そうですね、私の主が新しく目をつけた子供、といったところでしょうか。その縁で」

「そうなのかい? にしても副業までやっているなんて、キミは本当にバイタリティに溢れるね」

「ありがとうございます」

 

 軽く唇の端を持ち上げた笑みは余裕のある男性の顔だった。

 凄い。脳が違和感に塗れて「誰?」と言いまくっている。

 

「何にするんだい?」

 

 店主が優しい声で問いかけてくる。

 目の前に広がる幾つもの具材をゆっくりと見渡す。大根、タコ、ゲソ、卵、牛筋、巾着などなど種類は豊富だ。ぱっと見ただけでも十数種類はある。

 困る。出汁が染み込んで照明の光を反射する大根の肌も、肉厚たっぷりなタコやゲソの姿も、丸々として可愛げすら覚える卵も–––沢山の具材たちが俺を虜にしてくる。

 目移りばかりして本当に困ってしまう。

 

「ここは牛筋がオススメだよ」

 

 そんな俺に久利原が助け舟を出してくれる。

 店主が苗字を知っているぐらい入り浸っているのならば、その言葉に間違いはないだろう。

 

「でしたら牛筋をふたつ」

 

 舟に乗ることにした俺は牛筋を注文した。

 店主は慣れた手際で牛筋を二本取り出すと皿に乗せて俺に差し出した。目の前で白い湯気が立ち昇る。

 

「いただきます」

 

 手を合わせたあと、すぐに一口齧る。

 料理は出てきた瞬間が一番美味しいのだ。一口目は早さ勝負だ。

 齧った瞬間、しっかり煮込まれた肉が不快感のないコリコリとした食感を楽しませてくれる。崩れ出した肉から飛び出した肉の甘さを内包した肉汁やそれをより強調させる出汁が舌に触れれば、『美味しい』という純然たる暴力を伴って幸福感が押し寄せてくる。

 牛筋を取り込んだ身体が芯から温まるのを感じる。最高だ。

 

「昔からこの味ですか?」

「何年もかけて育ててきたここだけの味だよ」

「ここの出汁は完成された味だからね」

 

 どんどん味わいながら食べ進める。

 長年続いている店なのだろうか。考え込まれた具材や出汁。

 俺はぜんぜん料理に造詣が深いわけではないから深くまで突っ込んだ言葉は出さないが、それでもこの店が凄いことは分かる。

 自然と顔が緩む。多分、情けないぐらい緩む。

 

「美味しいのだ〜……」

 

 さて、空いた串を皿に戻してもう一本を取ろうとして––––もう、なかった。代わりにあるのは肉の消えた串が一本だけ。

 

「ん……ない!?」

「もう食べたよ……?」

「!? …………!?!?」

 

 気付かぬうちに2本目を平らげていた事実に驚愕する。

 これが無我の境地か、などとのたまいながら次の注文をした。頼んだのは卵としらたきのふたつ。店主が注文に従い出汁で満たされた鍋からそれぞれ取り出して、皿に乗せる。

 

「ほい」

「ありがとうございます。……あれ?」

 

 差し出された皿を受け取った後、よく見てみれば頼んでいないものまで乗せられていた。それは先ほど美味しくいただいていた牛筋。

 

「おかわりは頼んでいませんけど」

「いいのいいの。あんな美味しそうに食べてくれたんだから。サービスだよ」

 

 断ろうと思うがこの流れでは無駄な応酬が続くだけの並行線。

 俺は美味しいものにはキチンと金を払いたいタイプだ。だからサービスと言われてもあまり納得はしないのだけれど、会計の時にサービスされた分も払ってしまえばいいと考えて、礼を言って身を引いた。

 牛筋は最後として、先に白滝に箸をつける。

 

「そういえば、久利原って仕事してたの?」

 

 白滝を一息で啜り終えた俺は久利原にそう訊ねた。

 

「昔から不動産の仕事をね。今は特定の客専門にやっているよ」

「つまり鞄に入っているのは」

「そう。物件の資料だね」

 

 特定の客というのは恐らく吸血鬼相手ということだろう。

 

「これから仕事?」

「いいや、丁度契約を取り付けてきたところだ」

「おお! 凄い!」

 

 久利原が胸を張って答える。

 十分な成果があったようで、やり手なんだなと感心する。

 

「なんというか。意外です」

「そうかい?」

「ええ。失礼を承知で言えばちゃんと自立して働けてること自体驚きだ」

「流石にそれは酷くないか……?」

 

 俺は「すみません」と苦笑いを浮かべる。

 

「ハツカへの態度しか見れていなかったので余計に思った。てっきりハツカに会えないことに呻いて、仕事に手がつかないものだとばっかり……依存せず自立してるんだな。誤解をしていてすみません」

 

 頭を下げて謝罪する。

 そんな俺を見下ろしながら久利原が口を開く。

 

「依存して何が悪いんだ?」

「ツッコむところそこなの……」

 

 まさかそこに訂正が入るとは思わず顔を上げてしまう。

 

「依存してる人はあまり印象が良くないんだよ。ハツカがいなくなった時に、支えがなくなって大変だろ」

「そうならないためにも、私たちはハツカ様を日夜お支えしようと努力しているのだ。なにより私の生活の基軸はどこまでいってもハツカ様なのだから当然だ。あの人が求めるならなんでも差し出すし、手に入れて見せよう。あの人のそばに居るためなら天国にだって追いかけて行くさ」

「極まった推し活みたいな感じだな」

「これは推し活どころか、恋活だがな」

 

 目の前の湯立つ鍋の熱量を軽く超える意思の炎が久利原の全身から燃えている。普段の態度から本当に出来てしまうのではないだろうかと疑う。

 それ以上に凄いなと思ったのは、ハツカが地獄に行くことはないと確信しているからだ。

 なぜそう思うのか問えば「ハツカ様だから」と即答された。

 

「吼月くんはハツカ様が地獄に落ちるような吸血鬼(ヒト)だと思うのかい?」

「思わないけど……さらっと断言できる久利原が凄いというか」

「好きな人に地獄に落ちて欲しいなんて思うのは中々稀と思うけど」

「それもそうですね」

 

 だとしても、知らない一面があるというのは大前提にあって、もしかしたら地獄に落ちるようなことをしているのかもしれない。

 それを想像できないような人ではないだろう。

 その上で、ハツカだから、と彼の全てを肯定できるのだから凄い。

 

「……」

 

 いや、ハツカは以前、洗脳してるとか言ってたから、想像しないようになっているのかもしれない。

 こうした想像を反射的に行うから人を信じられないんじゃないかと思てしまうが、リスク管理としては……妥当な行動だろう。

 

「なによりハツカ様の笑顔は良いものだからな! そのために惜しむものなどなにもない!」

 

 箸ごとバキっと握った拳を胸に当て、上を向く久利原。

 

「元気いいねぇ、久利原くん。それはそうと、箸、折れてるよ」

「あ、いかん」

「はい。新しいの」

「ありがとうございます」

 

 彼の姿を見て俺は再認識する。

 彼らはやはりハツカという存在に依存している。

 しかし、それは共生を伴った依存だ。

 たとえ初めはハツカによって【自分がいなければ生きていけない精神状態】に追い込まれた結果、恋をしたとしても、久利原を含めて今の彼らはひとりでもやっていけるだけの自力がある。

 なにより吸血鬼になった以前の記憶–––つまり、調教されたことも自分の中から抜け落ちていくのだから、抜け出そうと思えばできるのかもしれない。

 その上でハツカがいるという土壌に望んで立っているのだ。

 ハツカが居るから彼らは頑張る気力が湧いてくるし、彼らが居るからハツカは安定した生活を過ごしていける。だからこそ、ハツカは彼らの願いに応える。

 ハツカに叱られて慄いていたのも、自分の立つ場所が崩れ出したと考えれば当然怖くなる。いつ奈落に落ちるか分からないような状態なのだから。

 

 そんな依存だったなら、僕にも違った可能性だって––––

 

 俺は食事の時に考える事じゃないと首振って卵を箸で挟む。少し焦って掴んだ卵はツルンと滑って皿へ舞い戻る。何度も掴もうとして悪戦苦闘する。

 ようやく掴んだ卵を頬張って噛んでみれば、卵の中に封印されていた熱気が黄身と共に飛び出して咥内を襲う。突然の熱さに驚いた口が何度とぱくぱくと動く。

 

「お、おお……大丈夫かい?」

 

 久利原が心配そうに俺に訊ねてくるので、口に手を当てながら頷いた。

 美味しい熱さだったのでよし!

 

「にしても不動産か……」

 

 卵を飲み込み、牛筋をまた一瞬で溶かしてしまった俺は呟く。

 

「ここら辺の物件だけですか? それともこの街以外の……ずっと遠くの物件もあったりするんですか?」

「もしかして引越しするつもりなのかい」

「ええ、まあ。高校に行くにしろ行かないにしろ……街は出たいと思ってる。ハツカにも会える距離がベストだけど」

 

 早く高校生になりたいなと思っている。

 バイトもできるし、金を稼げばバイクの免許だって取れる。更に歳を重ねればやれることも増えていく。

 この街を出て自由に暮らしたい。

 

「なるほど。今は基本的にこの街の付近のものばかりだけど、紹介はできるぞ。ただ、あまりに遠いと実際の景観や治安が見れないからそこは注意してね。いまはオンライン内見もあるからそれを使うのもありだ」

「オンラインですか。今風ですね」

「昔はこんな便利なものなかったからね。お客様とのやり取りもチャットとかでできるからテンポよく話が進んで助かってるよ」

 

 スマホを片手に感慨深そうに呟く久利原。

 

「実際に見てもらうでも映像でも、ちゃんと確認してもらえるとおとり物件だと疑われるのも少ないし」

「ここまで聞いちゃうとどんな風にやってるのか知りたくなるな」

「だったら、一度見てみるかい?」

「良いんですか!?」

「ハツカ様の家に向かう途中にある物件だけどね」

「お願いします!!」

 

 楽しくなってきた俺は勢いよく頭を垂らした。

 久利原は嬉しそうに小さく笑い声を漏らすと、うん、と頷いてくれた。

 

「いまはゆっくり食べるとしようか」

「なら、俺はゲソと油揚げをお願いします」

「私はがんもをひとつ」

「あいよ」

 

 差し出されたふたつの皿を取って、俺たちは飯にありつく。

 

 

 

 

「おぉ〜……! 高っけぇ……!!」

「街を一望できる40階。周囲に遮れる建物もなく、部屋全体に光を取り込むように広げられた窓による絶景を楽しめるよ」

 

 晩飯を食べ終えた俺と久利原はとあるマンションに居た。

 約束通り、道すがらにあった物件を見せてもらっているのだ。仕事という訳ではないから、久利原も少しネクタイを緩めてラフな格好をしている。

 

「ハツカの家でも思ったけど、吸血鬼って高くてデカい家に住んでいるんですか?」

「高さはそうだね。みんな最上階を望むことが多いかな。大きさに関しては……これでも小さな方だよ」

「これで、小さい……?」

 

 周囲を見渡してみるが、数人で同居しても持て余しそうな広さをした室内で、小さいと言われるべきものではなかった。

 

「ハツカ様の部屋って下もあるだろ?」

「ええ。マンションなのに部屋の中に階段がありますもんね」

「あれ元々別の部屋だったんだけど、ハツカ様が購入するにあたってぶち抜いたんだよ」

「は? ぶち抜いた?」

「吸血鬼のみなさんは、隣の部屋なり下の部屋なりをぶち抜いて使うことが多いからね。一部屋だけなら小さなものだよ」

「スケールが違え……」

 

 吸血鬼だからできる事なのだろうか。それとも人間、吸血鬼問わずによくある事なのだろうか。

 どちらにしろ自身が持つスケールの上の話に変わりはなくて、俺は驚きを隠せずにいた。

 

「そろそろハツカさまの下に向かおうか」

 

 俺は頷いてから久利原と共に一階へと下り、夜の街に戻る。ひんやりとした空気が体にまとわりついてきた。

 

「それにしても、よく付き合ってくれましたね」

「なにがだい?」

 

 歩きながら訪ねてみれば、前を見ていた久利原が俺に視線を移した。

 何も気づいていないようなその眼と目線を合わせる。

 

「俺は久利原たちからはよく思われてないものだと」

「敬語のことかい? キミなりの考えがあるんだろ。呼びたくなったら呼べばいい」

「そこではないのですが……ありがとうございます」

 

 器量の大きさは大人としてか、吸血鬼としてか。

 長い年月を生きる彼らからすれば年齢など超越しているからか、気にするほどのことではない些末事なのだろう。

 

「ハツカ様には言ってあるのか?」

「はい。まぁ、ハツカは尊敬してるけど、敵でもあるから使ってないですが」

「……? ……私たちは尊敬されてないってことか!?」

 

 ハッとした久利原が俺を強く見つめた。

 

「吸血鬼ってだけで人間よりは尊敬してますよ。形はどうであれ、俺にできてないことを成し遂げてる訳だから。ただ、色々印象が強すぎるのと、俺はあまり三人のこと知らないので。

 だからこそ、ハツカのことが好きな久利原たちは、眷属になる気がない俺のことをよく思ってないと考えてました」

 

 すでに久利原と宇津木、時葉の三人にはハツカの関係を話している。二回目にあったのもハツカの家なのだが、ハツカとふたりで口にした。

 話していて驚いたのは、三人の狂信っぷりに反して俺に対する罵声等がなかったことだった。

 その時はてっきりハツカの手前、客として呼ばれている俺に汚い言葉を浴びせる訳にはいかなかったからだと思っていたのだが––––

 

「そうは言っても、キミは私たちの話をよく聞いてくれたしねえ」

「話……?」

「ほら、最初に会った時にハツカ様のここ好きポイント話しただろ? そのことは流石に覚えてるよね」

「もちろんです」

 

 信頼に至るための知識を得ることはできなかったが、ハツカのこんな所が好きという話を聞けたのは良かった。

 それだけでハツカへの視点が広がったのだ。

 

「あれだけ真剣にハツカ様の話を聞くような子を悪く思うなんて、私たちはそこまで落ちぶれてないよ」

「久利原たちが俺以上に真剣だったからだよ。あそこまで熱心に話すヒトから耳を逸らすなんて普通できないし」

「ふふっ」

 

 返した言葉に久利原は微笑みながら頷いた。

 

「キミって根っこから善い子だよね」

「学校のやつからもよく言われます」

 

 よくわからないけれど。

 

「それにハツカ様との時間を奪う訳でもなければ、貶めようとしてる訳でもないしな」

「……? でも、俺を落とすためにハツカが時間を使えばその分遊ぶ機会は減りますよね?」

「そこはもう慣れっこさ。吸血鬼の眷属()というのは、同じ人を好きになる者の集まりでもあるから。そこに文句をつけ出したら、ハツカ様の足を踏むようなマネになる」

 

 眷属の中にも上手くやっていくための線引きがあるようだった。そうでなければ、俺が来た段階でちょっとした騒動になっていただろう。

 そう考えた所で、俺はありえない仮定を久利原に訊ねてみた。

 

「もし、久利原なのか、宇津木なのか、時葉になるのかは分からないけれど、ハツカが3人のうち誰かと付き合うって言い出したらどうする?」

「殺す」

 

 物凄い威圧感を伴った語気に思わず体を振るわせる。自分の含めて殺すと発言する辺り、他ふたりの意思を含めたものだろう。つまり三人揃っての殺意だ。

 しかし、その力の入り方には納得がいく。

 

「今の形で大満足とはいえ、それでも私は何十年もハツカ様に恋をしている。もし他の誰かに掠め取られると考えたら、悔しいし受け入れられない」

「何十年も片思いか。すごいな、三人とも」

 

 膨大な時間を抱えている吸血鬼とはいえ、親を振り向かせるのは大変だと感じた。

 しかし、それ以上に何十年も好きだと言える気持ちを持ち続けていることに敬意を持ってしまう。

 

「ハツカに恋した時の記憶はあるのか?」

「覚えてない。けど、好きなことに変わりはない」

 

 吸血鬼は片思いで成り立つ生き物。

 身体能力も高く、不老不死とされる吸血鬼が、なぜ子をなす意味があるのかは分からないが、吸血鬼が眷属()を作るなら親からの感情は恋ではなく親愛であるべきだ。この相手を子にしたいという感情。

 ひとりで満足する吸血鬼なら良いが、ハツカのように複数人を眷属にするものにとって、たった一人に固執する感情は、引け目など後ろめたさを生み、ふたりめの眷属作りの妨げになる。

 俺の憶測でしかないが、吸血鬼になった者が記憶を失っていくのは、相手に恋をさせる上でこうした精神的な妨げを無くすためだと思う。

 そう考えると、今もこうして恋心を持っている彼らは少し不憫なのかもしれない。

 

「恋敵としての有力候補はキミなんだがな」

 

 久利原がわざとらしく嫌味を含んだ言い方をして、俺を睨みつけてきた。

 

「どうしてだ? 何年も一緒にいる久利原達の方が有利に思うけど」

「何年もいるからだよ」

 

 その言葉に俺は首を傾げていると、久利原が夜空を見上げる。星ではなく当てのない闇を眺めるような遠い眼をした久利原からは哀愁が漂っている。

 

「私も最初は長い時間を使ってでも振り向かせたいと思っていたよ。ハツカさまは私に取っての命であり、恋をした相手だからね。

 しかし、たとえ自分から攻めたとしても何年も変わらずにいると、その形で関係が固まって動けなくなる。私たちの関係は変わらないかもしれん」

「……何事も有限というわけか」

「この世に無限も、いくらでもは存在しない」

 

 悠久と呼べる時間を過ごすことになる彼らだからこそ時間の在り方に重みが増していくのだろう。結局、短命だろうが長命だろうが、やるべきことは変わらない。

 

「もし、ハツカ様を落としたいという願いを叶えるなら……関係を変えられるキミが一番可能性が高いんだよ。ほら、【恋愛は早さが命】とも言うだろう?」

「なるほどな」

 

 使い方次第で物事は変わっていく。

 それがこの世の摂理だ。なんて大層なことを分かったように考える。

 

「とはいえ! 私もまだ諦めた訳ではないからな! これからも、いや今まで以上にハツカさまに尽くす!!」

「頑張ってくださいね」

 

 寂しげな口元がニカっとした笑みに変わって、これならの在り方を誓う久利原を見て俺もまた笑ってしまう。くしゃっと曲がる自分の口元で、彼の姿を良いものだと心底感じているのだと分かった。

 

「なんだ、そこは『俺も負けませんからね』じゃないのか?」

「恋愛する気はないって言ってるじゃないですか。俺がしたいのは信頼という恋です」

「恋愛って言うのはいつのまにかしてるものだよ、若人よ」

「そうですか」

 

 しかし、それを望んでいないかといえば嘘になる。

 人間として居たいのは、あくまで昼間にある楽しい娯楽を捨てたくないのと、吸血鬼側の勝手なルールで無理やり吸血鬼になる一択を選ばされているからだ。

 ただ、前提として俺が自分も相手も信頼できるようにならなければ意味がないし、ハツカを信頼させなければ生きられない。

 吸血鬼になるのも悪いことじゃない。

 

「でも、俺はならないですよ」

 

 笑いながらそう口にすれば、不服そうに「どうして?」と久利原が訊ねてくる。

 そんなこと決まっている。

 揺るがない意思が形となって口から自然と飛び出した。

 

「俺が恋をしなければ、ハツカは血に困らず生きていけるじゃないですか」

 

 ハツカには笑って生きてほしい。

 その為に俺の身が必要ならいつでも差し出そう。

 久利原は少し立ち止まった後に「そうか」とだけ呟いた。

 彼の顔はどこか意外そうで、なにより親近感を覚えたような顔つきをしていた。

 

「……やはり、同志だ。今日の椅子係はキミに譲ろう」

「ご褒美にならないだろ。やってみますけど」

「それでこそ」

 

 そんな話をしながら、俺たちはハツカの住むマンションまで歩いていく。

 当然、道中の話題はハツカのこと。

 ハツカのことが好きな人と話すのは楽しい。

 そして、恋敵というなら敬語を使うのは随分と先になりそうだと思う俺だった。




 久利原の設定が開示された辺りで書きたかったのでやりました。


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第五十二夜「折り合い」

 眠っている。

 意識の全てを呑み込む黒の中に俺は浸り、心地よく眠りについている。

 

 にも関わらず、なぜ意識があるのかわからない。

 

 分からないなりに現状へ知識を持って応対すれば、これは夢であると結論づけられた。

 真っ暗だった景色がまるで目を開くように光が灯り色がつく。

 明かりがついたそこは劇場で、僕は舞台の上で横になっていた。視界の右端に巨大なスクリーンがあり、左端には何段もの続いていく座席が並んでいてまるで映画館のようでもあった。

 けれど、一番目について、その眼を離せないのは内装ではなく––––

 

『……っ』

 

 目の前の女性の姿であった。首から下はしっかり浮かび上がっているのに、顔は口元以外影に覆われたように黒ずんでいる。

 思わず抜け出そうともがくが、仰向けのまま両手脚を女性に抑えつけられた僕では叶わなかった。

 

『しょ……ぅ……しょう……』

 

 女性は僕の名前と共に『ありがとう』『信じてたわよ』『私だけの息子だもの』『愛してる』と呟き続ける。呪詛のように降り注ぐ譫言が僕の身体と精神を蝕んでいく。

 乗り越えたはずの恐怖で身体が動かなくなる。

 

『悪い子には罰を与えないとね』

 

 その言葉に僕は咄嗟に身構える。

 

『ッッッ–––!?!?』

 

 その甲斐もなく全身が断末魔の叫びをあげるような悲鳴を出す。まずは右脚、左脚。続いて左腕、右腕。痛みが連鎖する。

 苦痛で視界が歪み、頬が何かに濡れた感触がした。叫び声は上げることはできなかった。口を顎ごと押さえつけられていたから。

 

『ふふっ……』

 

 もがいていた四肢が動かなくなる。まるで達磨になった気分で、身じろぎしても全く身体が動いてくれない。些細な服の擦れる音すら聞こえない。

 

『本当のショウは私の言う通りにしてくれるいい子。だって私の息子だもの。だから、謝りなさい。私に。ほら、ごめんなさい』

 

 まるであやすような優しさ声色が恐ろしくて僕は彼女に従うしかなかった。

 彼女が僕の口から手を離すと、空気を求めて浅く呼吸を繰り返してからごめんなさい、と涙ながらに謝った。

 

「ごめんなさい」

『愛してるわショウ』

「ごめんなさい」

『信じてたわショウ」

 

 僕の顔が涙でドロドロになった頃、繰り返した謝罪の果てに彼女の顔の全てが映し出された。

 そのタイミングで彼女は笑いながら指で僕の瞼を無理やり大きく開かせる。

 

『昔みたいに私の目を見て』

 

 完全に恐怖に支配されていた僕は言われた通り彼女の目を見た。

 目が落ち窪んだ骸のような目つきの中に生気を取り戻した確かな光が渦を巻くそれは、異様な禍々しさを持っていた。生気はあったとしても正気とは言えない瞳が僕を見る。

 

『……』

 

 何時間、何日とも言えるほど長く感じる見つめ合いの中、次第に女性が笑顔から虚無へ、虚無から邪気に満ちた形相へと変わっていく。

 そして、彼女はこう言い放った。

 

『誰よアンタは!!』

 

 その後も続く言葉は殆ど解読できない罵声で、まるで全ての文字が伏せ字になっていてる。

 愛している、と言う言葉は容易く反転し、信じているという言葉は簡単に殺意へと様変わりする。

 

『⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ーーーーーー!!!』

 

 その全てが僕の存在を否定するものであることだけは……確かだった。

 

『⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ーーー!! ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!!』

 

 それでも彼女が何を求めているのか分からなかった。

 彼女が何を欲しているのか分からなかった。

 何にを考えているのか分からなかった。

 

『⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎……⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎……⬛︎⬛︎!』

 

 何かが顔に落ちてきた。

 それは女性の口元から滴る涎で、ボト、ボトと次々に顔に垂れてくる。醜く歪んだ唇も、流れ出す唾液も、まるで餌を目の前にした肉食動物そのもので理性のある存在がしていい風体ではなかった。

 また彼女の舌が伸びて、先ほどよりも大粒の涎が降りかかる。

 

『⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎』

 

 咥内に鈍色の光が鋭く煌めくと––––

 

「いやぁ!!!」

 

 僕は泣きじゃくりながら生存本能に突き動かされるようにして、動かないはずの腕で彼女を突き飛ばした。

 重なる衝撃音。

 それに隠れるように、けれどハッキリと後ろから声が聞こえた。

 

『化け物––––』

 

 

 

 

 目を醒ませば目の前にはテーブル。ネジや配線、ドライバーなどの道具が散乱しており、その中央に手のひらサイズの箱のようなものが鎮座している。その様を見て僕は寝落ちしたのだと分かった。

 そうだ。ハツカと遊んだ後、マヒルに渡せるものはないかと思い作業していたのだ。

 

「あったまいたぃ……」

 

 昨日飲まされた酒の影響なのか頭痛がする。

 それに体中がジメッとした不快さに襲われたので上半身を起こしてみれば、服が汗まみれになっていた。

 僕はため息をついてから、着ていた服全て脱ぎ去って全裸になると、服を脱衣所の洗濯カゴに叩き込んでから浴室に入る。

 

–––さっさと洗い流して、支度をしよう。

 

 ノズルを捻ってシャワーを出す。

 顔を重点的に水をぶっかける。

 さっさと、速やかに、至急、消え去れ。

 

–––そうだ、封筒の準備もしないと。

 

 風邪を引いてしまうのではと思うほど、冷たい水流に身をさらしながら僕は今日やるべきことを考える。

 そうして、ようやくノズルを締めて浴室の外に出た時には8時過ぎ。

 

「やっば……」

 

 急がなければ遅刻になる時間だった。

 

 

 急いで学校に駆け出した俺は遅刻ギリギリで教室に駆け込んだ。一ヶ月前まで二番目には教室に入っていた俺が、チャイムが鳴る寸前に登校するようになるとは夢に思っていなかった。

 その変化に不思議がっている人も教師含めて沢山いるようで最近は視線が多い。応野からは「蘿蔔さんと一緒にいるのも程々にしろよ」と言われるし、吸血鬼事情を知っている朝井からは「ちゃんと寝ろよ」と意志が詰まった視線を半開きで細めた眼から送られてきた。

 マヒルやコウと同じくただ優等生をやっている朝井が人に気づかれていないとはいえ、気怠げな目を向けてくるのは驚いた。

 更に驚いたのは––––

 

「マヒルもだけどさ、会長もちゃんと寝なよ」

 

 朝井が直接それを言いに来たことだった。

 

「……気をつける」

 

 面食らっている俺は軽く口を開けたまま。蔑みのつもりか、身を案じてくれているのか判断がつかず、曖昧で無難に応える。

 数少ない教室に残っている面子も少し驚いた様子で俺たちを眺めていた。遠目からなので会話はろくすっぽ聞こえていないだろう。

 

「とりあえず、場所変えよっか」

「ん、分かった」

 

 いつもの優等生風じゃないぶっきらぼうな返答を受け取って俺と朝井は教室をあとにする。俺の背を追うようにして朝井がついてくる。

 

「生徒会室でいいか?」

「いいけど、またマヒルと喋るの」

「正解、マヒルから誘われてな。俺は教師の手伝いがあったから先に待っててもらってる」

 

 俺は朝井の疑問に頷きと共に応える。

 ツンとした物言いの朝井ではあるが、この間の惚気話で懲りて会いたくないわけではないらしく俺の少し後ろを歩き続ける。

 先ほどよりも足の回りが早い気がする。

 

「マヒルの惚気話がそんなに好き?」

「好きだよ。でも、それ以上にマヒルがちゃんと笑ってるのを見るが大好きかな」

「ちゃんと笑ってる?」

 

 朝井は見定めるように俺の顔に視線を移す。彼女はなにか思い当たる節があるのか、こちらの言い分を咀嚼している。

 

「マヒルって作り笑いとかスッと出てくるじゃん? でも、星見キクの話をしてる時のマヒルはその人のことに没頭してるから、素の笑みが溢れるというか」

 

 これはあくまで俺の考えでしかない。

 友達以上の友達である朝井はどう思うのだろうか。その反応を見て、自分と他者の意見を擦り合わせよう––––そう考えて、彼女を見ればどこか虚をつかれたような驚きの顔になっている。

 

「……違ってた?」

「あ、いや……『ふへへ』なんて惚けるマヒルが作り笑いをしてない間違いないんだけどさ……」

 

 言うか言わないか悩むように瞼を下ろした朝井が目を開けるのを待ち数秒後、言うことに決めたようで俺に視線を戻した。

 肩に力が入っていて緊張しているようだった。

 

「会長はいつからマヒルがフリをしてるって分かってたの?」

「一年の六月ごろ」

「はや……!? え、そんな頃に?」

「反則ありだけどな。二ヶ月ぐらい観察してたら、なんか全員に同じ対応してるなー怖いなー……て。それで理世と話してたら、マヒルとコウは元は物静かで大人しい子。朝井は男勝りな元気っ子って聞いてな」

 

 俺の思い過ごしかと思ったが、理世のおかげで確信できた。

 しかし、どうして変わったのかまでは分からない。

 

「よく覚えてるね理世ちゃん。マヒルが物静かだったのなんて、随分昔のことなのに」

「アイツも頑張ってる人達のことは好きだからな。他の人より覚えておこうとしたんだろ」

「頑張ってる?」

「だって君たち三人とも周りの人たちと上手くやるために……なのかは定かじゃないけど、頑張って優等生やってるんだろ? 好きになるさ」

 

 やりたい事のために頑張ること自体はやって当然だと考えがある俺だが、その意思に従って歩いている人たちのことは当然とは思わず好きと言う括りに入る。

 理世も同じ考え方を共有しているので、アイツが好きなのも断言できる。

 

「でも結局嘘だし」

「頑張って相手と上手くやろうとしてることは褒められるべきだ。調和できることは才能と言ってもいい。どこかの誰かさんたちみたいに、嘘をつかれる価値がなくなったことにすら気付ず攻撃する奴らよりは数倍マトモ。

 見栄張ってない自分や嫌なことなんて見せたい相手にだけ見せればいいし。だから、俺はマヒルもコウも朝井も大好きだよ」

「…………」

「……朝井?」

 

 長々と喋りすぎただろうか。

 返答がないので朝井に目を移せば気の抜けたように肩の力を緩め、唇は弓形になっていた。薄いけど、どこか機嫌の良さげな笑いかたに見えた。

 

「はぁ〜〜〜〜……」

 

 朝井がすごく長いため息をつく。

 吐き出し切った息をもう一度吸い込むと、完全に力が抜けたようだった。

 

「なんか悩んでたのが馬鹿みたいに思えてくるじゃん」

「悩んでたのか? 別にいいと思うぞ、悩むのも。何かあれば手伝うから」

「たとえば?」

「親友との引き合わせ役、とか」

「え、そんなにマヒルに会いたいって感じに見えたの? いやまぁ確かに中学になってからは疎遠になってたけどさ」

「見えたぞ。マヒルの話をしてから足の回り早くなったし」

 

 ふたりして足元を見れば、朝井の方が三歩ほど早く歩いている。

 先ほどまで後ろを歩いていたはずなのにこれは凄い。よほどマヒルと喋る機会があるのが嬉しいと見える。

 けれども朝井が「これは誤差でしょ」と反論するので、やはり心の僅かな部分で動いているのだと思い、そうかもなと笑って返した。朝井はあまり納得いっていないようだった。

 

「お、やっと来たか!」

 

 生徒会室前までやってきた。すでにマヒルがドアの前で待っていた。

 

「やぁマヒル」

「おう。て今日も来たんだな、アキラ」

「なぁに? 私が来たら不味い話でもするつもりだったの?」

「そ……そんなことは、ないよ……?」

「おもっきりあるって顔じゃんか!」

「はいはいおふたりさん。喧嘩なら中でやりましょうね」

 

 出会い頭さっそく喋り始めるふたりの間に割って入る形でドアの鍵を開ける。

 

「ほら、どうぞ」

「お邪魔しまーす」

 

 促せばマヒルは慣れた雰囲気で中へ入っていく。

 ただ朝井だけは立ち止まったままで俺を見ている。彼女の眼は絆創膏で隠された吸血痕がある俺の首筋に向けられている。昨日遊び終えたあと、また吸われたのだ。

 彼女はその痕跡があることが不思議に思っているようだった。

 

「失礼します」

 

 俺が訊ねる前に視線を切った朝井が一礼して生徒会室に入っていく。

 職員室でもないのに律儀に断りを入れるのはなんなんだろうなと思いながら続いて俺も中に入る。

 以前と同様に俺の対面にマヒルと朝井が座る。

 そうして、彼らと話をしていくと時間が過ぎていく。

 

「マヒルってなんで吸血鬼になりたいの?」

 

 惚気話を聞き終わった所で俺はそう切り出した。

 

「急にどうした?」

「いつも星見キクが好きだってことは聞いてるんだけどさ。好きだったり一緒にいたいだけなら別に人間のままでもよくない?」

 

 その話しは–––これに限定はしないが–––必要な情報収集。

 マヒルがどこまで星見キクに対して考えているのか、どこまで彼女のことを知っているのかコチラは詳細を知らない。

 まずはマヒルが眷属になるとしてどう考えているかだ。

 

「最悪人間でもいいんだ。ずっと一緒に居られれば」

 

 本質的な願いは傍に居られることなのだと捉えてよさそうだ。

 しかし、星見キクの客観的な情報だけを持つ俺からすると、人間のままにしろ、眷属になるにしろ、近くに居られる確証があまりにもない。

 

「けど、なんていえばいいかな……うーーーん……」

 

 どう伝えればいいか言葉を探すマヒルが唸る。

 

「吸血鬼になった方がキクさんに受け入れてもらえる気がするんだよね。寿命の問題とか関係なく、やっぱり生物的に同種族の方が安心するというか」

 

 見つけた言葉でふんわりと形にする。

 気がするということは、あくまでマヒルの価値観。それ自体は否定しないが、星見キクの言葉ではないし、俺自身が実感できなかったので「そういうものか」と曖昧に返した。

 もしかしたら、吸血鬼たちが同族にしようとするのはこの考え方があるのかもしれない。

 

「ただなぁ……キクさんのことを忘れちゃうのが嫌だな……」

「結構そこがネックだよな。記憶が欠けていくスパンがわからないけど、好きになったこともその理由も忘れちゃうんだよな」

 

 俺もそこに関しては同意見で吸血鬼化のデメリットだと思っている。

 しかし、そこで反対意見を言うものがひとり。

 

「なんで? 別に良くない忘れても?」

 

 朝井アキラだ。

 

「良くはないだろ……」

 

 彼女の言葉を否定するように目を細めて訝しむマヒルに、首を傾げながら彼女は口にする。

 

「たとえば友達から贈り物を貰って凄く嬉しかったとしても、幾つか時が過ぎれば、嬉しかったよな……ってぼやける。だったら、人間でいても吸血鬼になっても大して変わらないでしょ。生きてれば大半のことは忘れるわけだし。好きだった事実が残っていればいい」

 

 さらっとしているが、凄く腑に落ちる言葉に俺は納得してしまう。事実ということは証だ。俺が求めているものでもあったからか、容易く理解できた。

 マヒルも何度も頷いて「なるほど……」と感嘆の想いを零した。

 

「なんというか、朝井って子供っぽくないこと言うよな……カッコいい……」

「コレで子どもらしくないは会長だけには言われたくないよ」

 

 呆れた様子の朝井からすると、もしかしたら他人から見た俺はこんななのかと思ってしまう。

 それはない。俺は子どもでこんな頼りになる言葉は言えない。

 軽い自己否定を首を振ることで振り払っていると、目の前でマヒルが証となるモノを想像してきた。

 

「好きだった事実か。手紙とか?」

「恋文とか古典的だな……写真がいいんじゃないか?」

「吸血鬼って写真映るの? 鏡には映らないってよく言うけど」

「鏡には映らない。けど動画になら映るから多分行ける」

 

 とはいえ、人間の頃の物では弱点になって触ることすらままならない。眷属になってから、記憶のあるうちに作った方がいいだろう。

 俺が吸血鬼志望のマヒルに告げていると彼の眼が俺たちからズレた。

 

「どうしたマヒル?」

「やっぱり俺、あんまり吸血鬼について知らないんだよな」

「……星見キクには教えてもらってないのか?」

「キクさんといて吸血鬼の話になることがまず無いし、タイミングもな。一年ルールだってコウから教えてもらったし」

 

 そうなれば、彼女がやってきたことも知らないだろう。

 失礼すぎるだろ–––と思ってしまう。

 

「親睦を深めるためにお互いのこと話し合ったら?」

「ふむ……やっぱり踏み込むべきかな」

「それがいいんじゃないか? もっと互いを知れば楽しいことも広がるだろうし」

「だよな〜……キクさんの好きな事は俺も好きになりたいし。自分から聞かなきゃダメか」

 

 それしかない。相手が話さないのならば、話せる用意をしつつそれまで待つか、無理やりにでも吐かせるしかない。

 頭を掻いて悩むマヒルが一番に聞いてみたいことがあるそうで、俺たちに相談したいと言ってきた。

 

「……年齢って聞くのありかな?」

「なし」

「吸血鬼相手に意味ないだろ」

「そっか……」

 

 多分相手が女性だったからと言うのもあるが、残念そうにしているのは吸血鬼相手という前提のドキドキもあるのだろう。マヒルも「百歳とかなのかな……」と呟いている辺り楽しみだったようだ。

 隣にいる朝井は呆れた様子の目を向けていて、モノローグが出るとするなら『人間相手ならクソ失礼な奴だな……』というような瞳。

 その視線を切って、彼女は俺に視線を移す。

 

「そういえば会長はなんで吸血鬼と一緒にいるの?」

「え?」

「吸血鬼にならなきゃ殺されるって言うのは知ってるけどさ。会長を見る限り嫌々ってわけじゃなさそうだし、吸血鬼になる気はないのにここ半月ぐらいずっと絆創膏つけてるじゃん。殆ど毎日血を吸われてるってことだよね?」

 

 そこまで訊ねられて、ドアの前で朝井が俺の首筋を見ていたことを思い出す。

 

「それ、俺も気になってた。前は目的があるって言ってたけど何なんだ?」

 

 マヒルも便乗して前のめりに聞いてくる。

 はぐらかして答えずにいたいのが本音だ。

 ハツカが例外なだけで話したとは思えないし、話しても聞いてても気分のいいモノじゃない。酒場(バー)のマスターのように今後、会わなくてもいい相手でもない。

 雰囲気で察してくれと言いたいが彼らはずっと俺を見つめているし、なにより俺は『空気を読め』が嫌いで、本音を漏らさぬよう取り繕っているのもある。

 しかし、ここで弱味を少しくらい見せておいた方が、相手に深く入り込めるというのも分かっている。マヒルと今後、円滑な関係が必要になってくるかもしれない。

 

「お前らが隠してることを話してくれたら、言ってもいいぜ」

 

 心の中の折衷案は、取引をすることだった。

 後ろめたさと怖さで、今すぐにでも背もたれに身を預けてため息を漏らしたいほどの憂鬱に苛まれながらも、普段通りの戯けた表情で彼らを見る。

 

「なんだよそれ〜〜」

「いいだろ。先に言っておくがコレは俺の弱味なんだ。おいそれとどうでもいい相手には話さない」

 

 それだけ口にして、今後の利と害を考えるなら––––

 

「俺は人をどうしても信頼できないんだよ」

 

 理世にも口にしたことのないことを彼らに話すことにした。

 

「だから、恋という信頼を生業にしてるハツカからそれを学びたい」

 

 他人の言動に対して拒絶するような衝動のようなものが湧いてしまうこと。不信感としか言えない感情があることから始まり、その対処法として、周りにいる理世とハツカ以外からはどう思われてもいいとしていたこと。

 気になりはするし、何を考えてるだと思いはするけど、無視して進むことにした。ありのままを彼らに伝えた。

 幻滅するかな。聞いててよく感じないよな。

 そう思いながらふたりを見れば、

 

「まあ、そういうのもあるんじゃない?」

 

 まず朝井がそう言い切った。

 

「……」

 

 俺の考え方のように、どうでもいい、と思っても少しくらい腹立つかと思った。しかし、その予測を裏切って、朝井は特になにも感じていない。それどころか頬杖をついて事もなげに口した。

 

「なんで驚いてるの?」

「いや、一発叩かれるぐらいは考えてたので」

「『嘘でも頑張ってるなら褒められるべきだ』って言ってるのに、なんで自分は例外にするのさ……もしかして会長の座右の銘は『自分には厳しく、他人には甘く』なの? ダブスタはカッコ悪いぞ」

「そういうわけでは……」

「だったらいいじゃん。別に私は気にしないしさ」

 

 断言する彼女の姿は心身ともに育っていて、健やかなる戦士のようだ。普通に生きてる人間を戦士とたとえるのは些か悪い表現かもしれないが、その表現がしっくりきた。

 そして、ハツカが俺の悩みを聞いた時、こんな心境だったのかなと思い耽た。

 

「マヒルだって––––」

 

 彼女が言いかけながらマヒルを見れば、彼の視線は強く俺に向かっていた。

 

「ショウもさ、無理して周りと一緒にいるのか? それなのに人助けしてるのか?」

 

 鬼気迫る雰囲気を滲ませながら彼は問いかける。距離は詰められていないのにも関わらず、ズズっと這い寄ってくるような圧迫感があった。

 マヒルの問いにアキラも納得したようで視線を俺に戻した。

 

「無理というか自分勝手な悩みは多いけど、それはそれ、コレはコレで集団でいなきゃいけないときは割り切ってるしな。距離感も明確にしてるし。それに他人に笑顔になってて欲しいのは俺の理想だから苦はないよ」

「…………そっか」

 

 張り裂けそうな風船から空気が抜けたように気が抜けたマヒル。まるで仲間を見つけたと思ったら、知らない人に声をかけてしまったようなしょぼくれ具合。

 その姿を見て、疑問が生まれる。

 ––––なんでマヒル、優等生やってたんだ?という謎。

 

「それより良いの? 私、隠してるとしたら嘘ついて優等生やってることぐらいしかないのに話しても」

「いいよ、先払いだ。この話をどう使うかはふたりに任せるし、必要な時に腹割って話してくれればいいよ。アキラも、マヒルもな」

 

 今聞いたところで答えてくれないだろうから、この場では流すことにした。話せるようになるまで待つとしますか。

 

「そうするよ」

 

 マヒルが小さく微笑みを浮かべる。

 これは作り笑いだ。俺が知ってる笑みに比べて拙いものだったからすぐに分かった。

 

「うん。……ん? なんで名前呼びになってるの……?」

「俺、プライベートだと尊敬してる人以外名前で呼ばないし、苗字でさん付けは心底どうでもいい相手にやるから」

「そっちの方が割とショックなんだけど–––!?」

「ショウって善悪どっちも人間性に問題あるよな……」

 

 中々酷い言われようだが、事実なので仕方ない。

 と話しを区切りマヒルが話題を変える。

 

「ショウは蘿蔔さんのどこが好き?」

 

 聞かれればどう答えればいいのだろうか。

 ふむ。純粋にクールだったり猫みたいな可愛げがあったり、コロコロと雰囲気が変わる様が凄く好きだ。なんて言ってしまうのもいいが、コレだと話が広がらない。

 

「脚。というか下半身」

 

 俺は漠然と答えることにした。

 

「男の脚が好きとはニッチな奴だ。俺は全身」

「マヒルの方こそ欲張りな奴。しかしその欲望、素晴らしいッ!」

「変態どもめ……て、待って男の脚!?」

「ショウの吸血鬼は男だからな」

「会長ってそっち系なの!?」

 

 飯井垣との会話でこの手の会話で盛り上がられるのは把握済み。一度試してみたかったのだ。この場には各々の相手もいないしな。

 ただ、アキラよ。もう俺にとってハツカは性別ハツカだから意味がないのだ。

 

「因みにコウはひっそりガッツリ胸見てるムッツリだからな〜……多分アイツ、尻も好きだけど」

「マヒルはなんでそんなこと知ってんの!?」

「コウと一緒に花屋の手伝いしてたときがあってさ、その時にお客の胸をガン見してたんだ」

「サイッッッテーーー!!」

「でもアキラも好きなのあるだろ?」

「は!? なんで!?」

「だって、うなじの話してたとき照れてただろ?」

 

 顔を赤らめて目を逸らしているアキラへマヒルが一言告げれば、矢が突き刺さるような音がした。

 変なところで目ざといなコイツ……。

 

「ショウは何か知ってる?」

「知ってる」

「マジか!!」

「な!? それは違うし、言うな––––

 

「詳しく教えろよショウ!」

「ジャンケンで俺に勝てたらな」

「よし! Vamos(バモス)!!」

 

 やめろこのやろーー!! それが尊敬してる人に対する態度か!!」

 

 勝つのは俺だがなと思っていると、アキラが恥ずかしさからか、いつもとは違うテンションと高すぎる声を張る。右拳を握ってマヒルに襲いかかる。

 とはいえ、マヒルはかなり動ける。避けることなど––––

 

 勢いよく立ち上がった拍子にスカートが広がる。

 

 一瞬、マヒルが目移りし立ち止まる。

 その硬直は致命的で、

 

 バコンッ!!

 

「思春期の敗北だぁねえ……」

 

 大きな音を立てて、マヒルの頭から湯気を立たせた。痛みで湯気が出るの初めて見た……と思っていると、アキラの目線が俺に向く。

 

「ちょっと待て–––」

「成敗!!」

 

 流れに巻き込まれて、当然俺にも矛先は向くのだった。

 

 

 

 殴られた頭を癒すように摩るマヒル。

 

「いいじゃんかよ別に……」

「女子をそう容易く弄るな」

「こういう時の女性の盾って狡いよな……」

「全くだ。俺が負けるはずないのに」

「そういうことじゃない!!」

 

 アキラの拳骨をくらった俺とマヒルの頭から登っていた湯気が消えた頃、俺たちは小腹が空いたので備蓄してある煎餅を出して食べていた。

 

「マヒル、今日はキミに渡したいものがある」

うんぅんん(なんだ)?」

 

 マヒルが出されていた煎餅を齧りながら俺を見る。

 俺はポケットから取り出したAirPodsのケースような物体をテーブルの上を滑らせて、彼の前に差し出した。

 

「ライト……か?」

「それに歯車?」

 

 マヒルはそれを手に取り眺める。隣にいたアキラも物体を覗き込む。一部が透明になっているそれは謂わば防犯グッズ。

 

「マヒル用に改造した護身用のアイテムさ。今の状態ではライトだが、その透明になっているカバーを外して横のボタンを押してみてくれ」

「これか」

 

 促した通りにマヒルがカバーを外して、ボタンを押す。

 

「ん?」

 

 すると––––バチバチ! と強い音と共に閃光が散った。

 突然の聞き慣れない異音と光にふたりは目を丸くする。

 マヒルが無意識レベルでそれをアキラに向けるものだから、マヒルより先に彼女が声を上げた。

 

「え、なにこれ……!? スタンガン!?」

「その通り、ハンドメイドのスタンガンだ」

「……なんでこんなものを俺に?」

 

 アキラの声に反応して思考力が戻ってきたマヒルが首を傾げた。

 

「身も守れる手段が増えるだろ。いつ狙われるか分からないんだから」

「そっか……また探偵に襲われる可能性もあるのか」

 

 図るようにしてもう一度スタンガンに目を落としたマヒル。その目にはスタンガンの閃光にも負けない強い光のようなものが宿っているように思えた。

 そうして、ゆっくりと頷いた。

 

「ありがとう。今度探偵さんがキクさんを襲ってきたらこれで返り討ちにしてみる」

「素直に礼を言われると複雑だけどな……」

 

 実際、渡してるのは凶器なわけだから、拒絶ぐらいされると考えていたので俺が驚いている。

 それほどまでにキクさんのことが大切なんだろう。

 

「吼月、反対側についてる歯車はなに?」

 

 さっきの一件からかアキラは俺を会長ではなく吼月と呼び捨てするようになった。コウと同じ呼び方な辺り似たもの同士だなと思ったりしてる。

 

「それは電力調整用のギアだ。緑色ドッキリに使えるほどだが、回すと黄色、赤色に変わっていく。赤になると3秒当てれば成人男性が尿垂らして失神する。無論、赤の時は長押しでは3秒しか動かない」

「……なんでこんな物持ってるんだよ」

「親代わりの奴に無理矢理渡されたんだ。仕方ないだろ」

 

 しかし機能や仕組みぐらいは理解しておいた方がいいと思い、春樹さんのツテで詳しい人に教えてもらったり、本を読んだりした結果、簡単な改造ならできるようになった。

 

「……親代わり?」

「時折ウチに見に来る人がいるんだよ。最近は弁護や出演で忙しくて来ないからせいせいしてるけど」

 

 マヒルが視線を落とした。

 彼の声はいつも通りだけれど、その目はどこか俺に同情しているような憂いを帯びたものだった。隣にいるアキラからは前髪で隠れて見えないだろう。

 なんだろう。今の話に同情されるような所はなかったと思うけど。

 気になりはするけれど、追求しても受け流される気配があったので口にせず、代わりに生徒会室に備え付けられた時計を見た。時刻は16時半。

 もうそろそろ出る準備するか、と話が変わる。それぞれが立ち上がる中で、俺は彼らに訊ねる。

 

「マヒル、最後に一ついいか?」

「なんだ?」

「これに関してはアキラにも聞きたいことだ」

「私にも……?」

 

 ふたりの視線が俺に集まる。

 

「最近マヒルの悪口を言う生徒がいるのは、分かってるよな」

「この間アキラが来たのもそれが理由だろ」

「うん」

「で、その悪口を言ってる連中と遊ぶ機会が近いうちに来る」

「……そういえば、マヒルの代わりに会長をどうこう言ってたね。あの人たち」

 

 察しはついていたので別に構わないけれど、マヒルは納得いかずに不愉快そうに顔を歪ませて俺に言う。

 

「あんな奴らとわざわざ付き合う必要はないって。そんな時間があるなら蘿蔔さんと遊んだ方がよっぽど有意義だぞ」

「否定はしない。が、利用はできる」

 

 アイツらと遊ぶだけなら特別理由がない。

 しかし、現状はとても都合が良かった。

 

「もし今後アイツらがマヒルに手を出した時、悪口の録音データでも有ればマヒルが有利になる。あと親代わりに伝えれば、絶対にアイツらを他の学校に移せる。余分な手続きは必要だけど」

 

 好きな人と楽しむ時間を作るために、アイツらから危害を加えられるのはおかしいと思っている。

 星見キクに吸われるまでという区切りがあるとはいえ、期限が不透明では危険の方が大きく見えてしまう。

 

「どうする? 俺は三人には幸せでいて欲しい。マヒルとアキラが望むなら俺はできる限りのことをする」

 

 余計なことはしてはいけない。望まれないことはしてはいけない。だからこそ、ふたりの判断で動かなければならない。

 ふたりは互いを見合わせた後、どうするか戸惑うような顔する。

 そしてアキラがマヒルに託すように鞄を持って生徒会室を出ていった。

 

「いいよ、あんなモノ気にしなくて」

 

 マヒルが雑草を踏むような気兼ねなさで言い切った。

 彼の顔は笑顔とは程遠い切実に真っ直ぐな表情で俺を見ていた。迷いはないようで、俺は「そうか」とだけ返した。

 カバンを手に取ってドアに向かって歩いていく。

 

「なあ、ショウ」

 

 後ろから声がかかる。

 もちろんマハルなわけだが、先ほどとは一転して陰のある声で俺を呼ぶ。

 

「両親は生きてるのか?」

「母にあたるオバさんは死んでる。父にあたるオジさんは健在」

 

 母親が死んでると言われ立ち退くような衝撃を受けるマヒル。

 

「……ショウはその父親とはうまくやってるのか?」

 

 申し訳なさが顔色に現れたが、それでも止まらずに彼は訊ねてくる。

 答えにくい質問であることに変わりはないが構わない。

 

「上手いかは分からないけど、お互い、ちゃんと折り合いつけて生きてるよ」

 

 俺たちの結論はもう覆らないのだからありのまま答えればいい。

 

「やっぱり、お前もすげぇよ」

 

 悔しさが滲んだような声色に自然と首を傾げる。

 お前は何を隠してるんだ。本当はなにを思ってるんだ。

 尽きない疑問。

 それ以上に、マヒルの言葉は嫌なものだった。

 

 

 

 

 学校から出れば、マヒルは星見キクの下、アキラは団地で各々が別の道を歩くものだから校門の前で別れることになった。

 そして、俺が今いるのは、

 

「これだけ入れてくるか」

 

 人気(ひとけ)のないホテルへ、それなりに厚みのある封筒を持って入っていった。要件はそれだけだった。




 18巻って来週なのか来月なのか分からん!!
 どっちなんだ! ◯mazon!!

 今日の蔵出しデザグラ見て、原作よふかしにも尺調でカットした場面とかあるのかなと思ったりしてる。あったら見てみたいな〜。


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第五十三夜「チャンネル」

 ホテルで用事を済ませたあと、吼月ショウ()は約束通り小森工業高校に来ていた。着いたころには空は日の入りを果たし、帷が降りていた。

 事前にニコ先生には話を通してあり、以前奏斗(そうと)先輩と会っていた空き教室で待ち合わせをしている。道中で奏斗先輩と合流し、ガラリと空き教室の扉を横に滑らせれば、ニコ先生が椅子に座っていた。

 

「来たね」

「お待たせしました」

 

 頭を一度下げたあと、俺は教室へ足を踏み入れる。

 

「失礼します」

「どうして沙原くんが……?」

 

 続いて奏斗先輩も車椅子を動かして入ってくる。

 伝えたいことがありますとだけ連絡していたのもあり、奏斗先輩と一緒の来訪に彼女は微かに目を見張った。前髪で隠された片目も使って奏斗先輩を見つめていたので、彼女の驚きは大きかったようだ。

 

「椅子はあるから使ってくれ」

「分かりました」

 

 教室の中にはニコ先生と向かい合うように椅子が置かれていて、それに俺が座るとその横に奏斗先輩が車椅子を停める。

 

「それで話しっていうのは?」

「ざっくりと説明しますとね––––」

 

 脇目で奏斗先輩を見るニコ先生に、俺はここに至るまでの経緯(いきさつ)を話した。

 奏斗先輩が好きになった相手が吸血鬼–––止岐花(ときは)エマだったこと。奏斗先輩は吸血鬼になる気がないこと。その件で俺が相談を受けていたこと。ふたりの関係で他の吸血鬼たちと騒動を起こしたこと。折衷案としてこの一年間で眷属になるかを決めていくことになったなど。

 吸血鬼になる気がないと口にした辺りで、脳震盪でも起こしたのかと思うほど唇を噛み締めるニコ先生だが、説明が終わるまでは聞くに徹してくれた。

 

「やってくれたな吼月くん……!」

 

 聞き終えたニコ先生からは厄介ごとが増えたと恨めしそうに睨みつけられてしまった。

 ふたりの件は結果として皆が納得がいった事を悪く言いたくないので「はい、やりました」とニっと笑って返した。

 

「つまり沙原くんたちはキミとハツカの関係と似た状態というわけだな」

「ただ、俺と違って奏斗先輩はもうエマに恋はしてるので、あとは吸血鬼になりたいと思わさればいいだけ。俺よりはよっぽど楽だと思いますよ」

「それは沙原くんが夢よりもエマと一緒に居たいと思ったら、という条件つきだろ?」

「正解です」

 

 吸血鬼に分があるようにも語ってみせるが、大事な要素を理解しているニコ先生には幼稚なまやかしは通じない。

 回転させていた脳の動きを緩めるようにニコ先生はそっと鼻を鳴らした。

 

「分かった。ふたりのことは胸の中に入れて騒ぎにしないでおこう」

「てっきりすぐに落とすための動くのかと思ってました」

「やることはいつも同じだからな。それに吼月くんの言う通り、恋愛感情がある分楽とも言えるからな」

「まだ足りない、と?」

「もちろん」

「やっぱり眷属にするには恋させるだけでは足りないんですね」

「恋のその先。未来を捧げてまでついて行きたいと思わせないといけないからな」

 

 未来を捧げる。言いすぎた表現ではないだろう。

 本来あったはずの人間としての道を放棄させて、吸血鬼の道へと転進させるのだから。ある意味、眷属化を選べる時点で吸血鬼は皆、久利原たちのような価値観の片鱗を有しているとも取れる。

 その善し悪しは本人と、親吸血鬼によるものだと言うのは理解している。少なくとも久利原たちはとても幸せそうだ。悪いことばかりではない。

 逆に言えば加納のような結末があることも知っている。

 

「ふたりは元々知り合いなのか?」

「いいえ。日曜日に初めて話して、初めて一緒にバスケしました」

「すぐに打ち解けられるのはいいことだ。ふたりとも人とうまくやれるんだな」

「…………」

「どうしたんだ、奏斗先輩」

「ふむ」

 

 ニコ先生を見つめて固まっていた奏斗先輩がくっついていた上下の唇をようやく離す。

 

「平田先生、この間はありがとうございました」

「いいよ。教師としての勤めだ」

 

 背を押してくれた人に苦労をかけることも含め頭を下げる奏斗先輩に対し、ニコ先生は彼の負い目を拭うようにさっぱりとした応えをする。

 根からの教師なのだろう。凄くマトモだと思う。

 

「けどマジで吸血鬼なんですね。平田先生」

「まあね」

「歳はおいくつなんですか……?」

「マジか。聞くのか……!?」

「歳? ふふ、そんなものとっくに超越してるよ」

「かっけぇ––––!!」

「答えるのか……」

 

 答えになっているのか?という疑問はさておき、目の前に存在するファンタジーの塊(吸血鬼)が胸を張って答えるのを見て、童心に返ったように目を輝かせる奏斗先輩。

 堂々たるその姿は男から見てもかっこいいものだった。

 加えて––––

 

「そんな美女教師も蜘蛛が怖かったという人間らしいギャップもあっていいですね」

「ん? そのことも聞いたのか?」

「はい。ここに来る途中に奏斗先輩から。かっこいいスマートな立ち振る舞いからは想像できない姿を」

「ギャップがあって可愛いだろ?」

「ええ、妬みが生まれないほどに」

 

 一芸特化じゃ人は落とせない。克服はしているが、そうした一面も普段のかっこよさを引き立てるエッセンスになってより魅力を引き出すと彼女は言う。それを本人が言うかと脳裏によぎるが、彼女において実際間違いじゃないので口を噤む。

 曰くモテパワーマックスの秘訣らしい。

 

「蜘蛛の件は吸血鬼の頃の話なんですか?」

「いいや、人間の頃の話だ。弱点を消す時に軽く思い出してね。人間のアタシはハイキングが趣味だったようだ。もっとも、その記憶ももう殆ど朧げだが」

「思い出してもすぐに消えるんだ」

「ああ、殺される心配がなければ感傷に浸るにはいいものなんだがな」

 

 その思い出に浸った記念に新しい図鑑を買ったそうだ。蜘蛛の図鑑ではなくもっと枠を広げた生物の図鑑らしい。

 

「……」

 

 俺たちの話を聞いていた奏斗先輩が考え込むように壁にかけられた時計を見たあと、俺に視線を移す。

 

「俺もエマの弱点消すの手伝った方がいいか」

「そうだな。士季たちのことだから既に動いてる可能性もあるが、一度訊いてみるのはありだな」

「このあと訊いてみるかー。吼月、時計見せて」

「どーぞ」

 

 生まれた疑問を今日の予定に組み込む奏斗先輩に、腕時計を見せれば「あっ」と声を漏らした。

 

「もうそろそろエマとの待ち合わせの時間だわ」

 

 なら–––と俺は呟きかけたところで、ひとつ訊きたいことを思い出した。

 

「そうだ、ニコ先生」

「ん? どうかしたか」

「最後にひとつだけ訊きたいのですけどいいですか?」

「構わないよ」

 

 奏斗先輩に先に行くよう頼むと「正門の前で待ってるぞ」と言われたので、「すぐ追いつく」と返した。

 カラカラと回る車椅子の音が消えてから扉を閉じる。

 ふたりっきりになって教師と生徒が向かい合う。去年行った二者面談みたいだな、なんて考えながら背筋が伸びる。

 

「それで訊きたいことなのですが…………」

 

 訊こうとするが少し無礼ではないかと思い、間を作ってしまう。

 とはいえ、無駄な時間をニコ先生に使わせる訳にもいかないので、早速質問を投げかける。

 

「ニコ先生は自分の名前は好きですか?」

「ん? 好きだぞ。ニコ。いい名前だろ?」

 

 ニコ先生は内容に驚いたあと、名前通りニコっと笑いながら簡単に言い切った。

 

「それにしても、どうしてそんなことを訊きたいんだい?」

「先生と同じ音の名前の人間が居まして」

「その人はニコという名前が好きではなかった、と」

 

 俺はニコ先生にかいつまんで話す。

 以前、園田(そのだ)仁湖(にこ)という人と関わり、仁湖さんは自分の名前と親からの想いに引っ張られ、無理やり笑って過ごしていた。その反動により笑顔でいることが苦痛になっていた。加えてキラキラネームという側面もあり、自分の名前を呪いとまで言うようになった。

 

「なるほど……それは名前自体もそうだが、環境の問題に思えるな。しかも長い間、笑うように縛り付けられていたなら余計に心に来るし、その生き方が染みついてしまって抜け出せない。

 できるなら早い段階から親元を離れたほうがいいが––––」

 

 問題の核となっている部分をすぐさま見抜いたニコ先生はどうするべきだったか、今後はどうするべきかといった解決策を模索し、ひとりでぶつぶつと考え出してしまう。

 聞いてる分には興味深い話だが、奏斗先輩との約束もあるので切らせてもらおう。俺はパチンと手を鳴らす。

 

「お〜〜い、ニコ先生」

「あ、すまない。考え込むとついな」

 

 音に気づいたニコ先生が顔をあげる。

 

「その人はもう自立してるんだったな」

「ええ。一人暮らしのOLです」

「社会人なら家庭裁判で名前を変えるのもアリだと思うな」

「でも、名前や苗字を変えるのって結構手間かかるんですよね……パッパッと変えられるならいいんですけど」

「だがこれから先も束縛を感じるよりはマシだろ?」

「間違いないですね」

 

 ハハと口の端を弓形に曲げて笑っていると、ニコ先生は俺を見定めるように頭から足先まで眺めた。

 

「……今度はアタシから良いかな」

 

 ニコ先生が人差し指を立てた。

 

「ハツカのこと、キミはどう思っている?」

「……と、言いますと?」

 

 問いかける雰囲気自体は緩んだものに変わらないが、ニコ先生の目は真っ直ぐ俺を見据えた真面目なものだった。マヒルたちと話す時ようなおちゃらけた答えではいけないと思い、漠然とした範囲を絞るため彼女に訊ねる。

 

「吼月くんが感じてるままでいいのだが……そうだね。ここが可愛いなって思ったり、ここが良いなってところはどうかな?」

 

 率直な言葉が欲しかったようだが、感じたままと言われても広すぎて答えられないと俺の意図を読んだニコ先生は細かなモノに変えてくる。これなら答えられそうだと、俺は頷いた。

 

「クールだったり、マイペースなお転婆だったり雰囲気がコロコロ変わったりするのは可愛いですね。昨日なんて猫に避けられたんですけど少しショボンとしてて良かったですね。普段見ないハツカって感じで……ただ、猫より可愛いって言ったら少し不満そうにしてたのはなんでなんだろうって思ってます」

 

 いつもよりペラペラと褒め言葉が出てくる。

 基本的に綺麗と可愛いは別のモノでハツカの姿は綺麗に属するタイプだと考えているが、雰囲気がどうであれ楽しそうにしているハツカは可愛いと思う。

 訊ねられたことをそのまま答えていると、ニコ先生は驚いた様子で語る俺を見つめた。

 

「けっこうハツカのこと見てるな」

「もちろん。他者(ヒト)の良いところを探すのは人生を良いものにする秘訣ですから」

 

 良いところを見つけることができれば、その相手を肯定できる材料が増えることに繋がる。俺にとってはとても大事なことなのだ。

 

「ハツカといるのは楽しいかい?」

「楽しくなかったら一緒に居ないんですよ。勉強ってだけで傍にいるなら苦痛と眠気が襲ってきますから。ほら、好きでもないテレビを起きて見続けるって苦行じゃないですか?」

「好きじゃないなら別のチャンネルに替えるな」

「ですよね。嫌ならタイミングを考えて替えてますよ。まあ、少なくとも今は何をしていても楽しいです」

 

 学校と夜更かしの両立は難しい。授業中に寝かけてしまうし、以前とは全く違う生活リズムになっているせいで身体が追いついていないのも感じる。成長のために、この一年かテスト週間以外はコウのように学校をやめてしまえばいいのだが、そういう訳にもいかない。

 でも、やっていきたいと思っている。

 

「それにハツカに会いに行けば、楽しいことも新しいこともあると思っていますから」

 

 ハツカといて飽きることが想像できないのだ。

 思わず俺が微笑みながら答えれば、ニコ先生はおもむろに頷いた。

 

「なら、キミは大丈夫だ」

「……? それはどういう?」

「キミは眷属になれるってことかな」

 

 俺としては大丈夫ではないのだが、目的のうちのひとつが果たせる可能性があると言われれば嬉しくはある。

 しかし、この言い方。まるで俺を応援しているような–––もしかして、ハツカが不信感の話もしていたのだろうか。

 

––––悪いようにはならんだろ。

 

 視界が暗くなる。瞼が降りていたのだ。

 もしそうだとしても、ハツカが必要だと思って話した相手だ。それに自分としても尊敬できる相手だ。なら大丈夫だろうし、最悪ハツカのフォローが入るだろう。

 

「そうですか。良かったですね」

「ああ、ホントに」

 

 瞼を開ければ、ニコ先生が挑発するような笑みを浮かべている。

 

「なら、そろそろお開きにしようか」

「分かりました。今日はありがとうございました」

「いいよ。何かあったら頼ってくれ。ただし事、を起こすなら先に言ってくれ」

「分かりました」

 

 お互いの話が終わったところで終わりとなり、俺は頭を下げて教室をあとにした。小走りに奏斗先輩と来ているであろうエマの下へと小走りで向かっていく。

 

 

 

 

「自分へのノロケを聞いた気分はどうだい?」

 

 吼月くんが出ていったのを確認すれば、平田ニコ(アタシ)は窓の外にいる吸血鬼に声をかける。

 すればひとつの窓ガラスが波を打ち、広がった波紋の中を通り抜けるようにして人影が教室の中へと現れた。

 

「ま、悪い気はしないよね」

 

 その人影は蘿蔔(すずしろ)ハツカだ。

 先ほどの会話を外から隠れて聞いていたのだ。無論、始めからだ。

 着地したハツカは先ほどまで吼月くんが座っていた椅子に腰をかける。いつものように丁寧な所作で座るハツカだが、様子がいつもと違っている。

 

「……ん?」

 

 青いブラウスの上から黒いカーディガンを羽織っていて、下にはくるぶしまで隠れたスラックスを履いている。落ち着きのあるハツカに似つかわしい格好だ。

 そこまではいい。

 しかし、全体的に––––

 

「今日はやけに男っぽい格好だな?」

 

 元が美少女としてもやっていけるハツカだからか、どことなく男装の麗人のように思える。アタシは、ふむ、とハツカを見定めてしまう。もしハツカがウチの生徒として育っていたら目をつけていたかもしれないと思ってしまう。

 

「あ、これ? 今日はちょっと予定があってね」

 

 八重歯を見せるように笑うハツカはどこか楽しそうにポケットからスマホを取り出してくる。他の奴らと遊ぶ約束でもしているのだろう。

 アタシが頷くとハツカは話を切り出した。

 

「それで吼月くんと話してどうだった? 本当に人間不信だと思う?」

 

 居酒屋でハツカと飲みながらふたりの状況を聞いた時に吼月くんの症状については聞いていた。どこかでふたりっきりで話を聞いてみたいと思っていたのだが––––

 

「当たらずも遠からず」

 

 交わした口数は少ないが少なくとも人間不信とは思えなかった。

 

「やっぱり?」

「根本が人間不信ではないだろう。他者に対して何かしらの原因で拒否感が出てるのは事実だが、ハツカへの信頼はできているし、夜守くんや夕くんと違って今まで関わりのなかった沙原くんとも問題なく話せていた」

 

 そして、なにより彼が最後に見せた眼だ。

 

「ハツカから話を聞いたと匂わせた時の吼月くんは何かに怯えていたように見えた」

 

 瞼を落とす直前。多分人間では認識できないくらいの間しかなかっただろう。それでも間違いなく吼月くんの眼は潤んでいて、まるで膝を抱えて縮こまり泣き出す直前の子供のようだった。

 しかも勝手に話したハツカへ対してではなく、目の前にいるアタシに向けての想い()だった。

 

「ハツカが見てきたのもさっきのような症状だったのか?」

「もっと酷いよ。吐き気や動悸に汗をかいたり、顔が赤くなったりも……これは酒のせいかもしれないけど。出てくる症状としては彼が言う人間不信のモノではあるんだけど、原因がね」

「あくまで不信感と言っているのはあの子なのだろう?」

 

 アタシが訊ねればハツカは首を縦に振った。

 

「確かな原因があって人間への恐怖を感じている。そこから不信感に繋がっていると考えるのが妥当じゃないかなと僕は思ってる」

「今までは気づかなかったのか?」

「違和感は当然あったよ。けど、今までは漠然としか分からなかったのもあって否定できなかった」

「血を吸っても分からなかったんだっけ。なにか掴んだのか?」

「一応ね」

「……?」

 

 ハツカはとても受け入れ難いものがあると言わんばかりの歪んだ表情をしている。吼月くんの言う通り、クールな見た目と違って表情が豊かなハツカだが、考察する時に関しては冷静の一言のみだ。だから、ここまで感情を乗せることは珍しくアタシは首を傾げた。

 

「一番可能性があるとしら心的外傷ストレス障害(PTSD)だと……僕は思う」

 

 ハツカの言い分に「下手に不信感と括られるよりもしっくり来るな」とアタシは納得する。

 

「普通の子供がPTSDになるとしたらなにがあると思う?」

「そっちの路線で考えてるのか?」

「うん」

 

 ハツカは何か掴んでいるようでその補強としてアタシに訊ねてくる。今度はアタシが視線を落として考える。

 人がPTSD–––よりもトラウマの方が分かりやすいか–––に陥る原因は人によって多種多様だ。沙原くんの見に降りかかった交通事故を初め、災害や戦争といった命の危機。強姦のように人としての尊厳を著しく穢された時––––などなど。

 そして、子供がトラウマを抱くような被害に遭うとしたら、

 

「やはり学校での暴力か家庭での虐待じゃないか?」

 

 子供のトラウマはこの辺りが一般的だろう。学校内での事件の認知件数は数年連続で増えているし、一歳時にエアガンを打ったりする親も居る。

 特に虐待。

 先ほど吼月くんは親につけられた名前に対してどう思っているかアタシに訊ねた。あの子なら単なる知的好奇心の可能性も十分あるが、あの歳でキラキラネームでもない自分の名前を嫌がっているとしたら、相当複雑な家庭、ということになる。

 

「虐待、か……」

 

 ハツカは目を伏せながらアタシの話に納得して相槌を打つと、それに持論を付け加える。

 

「あの子の場合、イジメも虐待もあり得そうなんだよね」

「というと?」

「ショウくんは転校生なんだよ」

 

 つまりハツカは以前の学校で被害を受けて、小森に越してきた可能性があるわけだ。

 

「もしイジメも虐待も受けてたとしたら死にたくなる……かな?」

「この仮説が正しいなら、今はどうであれ当時は居場所がなかっただろうかな。死にたいと思った時ぐらいあるんじゃないか」

 

 最悪のケースとして簡単に口にはできるが、教師としても大人としても当たってほしくない仮説だ。しかし、ハツカには思い当たる節があるように何度か頷いて自分の中に落とし込もうとしている。

 そうなると謎は両方の被害–––少なくともハツカはそう睨んでいる–––が起きる原因だ。恐らくそれがトラウマのルーツになるのだろう。

 

「つまり吼月くんは自覚できていないが、確実に人に恐怖を覚える原因があるってことになる。ハツカは原因になりそうなモノを知っているんだろ? それはなんなんだ?」

 

 アタシが訊ねてもハツカは答えない。

 見れば唇が微かに動いている。ハツカは返答に困っているようで、言葉が足りず表現の仕方を探しているようだった。

 数秒後首を捻ったまま、アタシにはまだ答えられないと告げた。

 

「コレっていうものはあるんだけど、本当に原因になってるのかは曖昧なんだ。あまりにも突拍子もないことだし。だから、この事を話すのはまた今度でいいかな」

「……分かった。本当に確かめないといけないことが山ほどあるみたいだしな」

 

 ハツカが何を握っているのかは分からないが、それでも吼月くんの拠り所になっているのはハツカだ。

 他の吸血鬼や人間が下手に突くよりも彼の心の平穏は保たれるだろう。

 吼月くんが今の調子でハツカへ心を委ねてくれれば、問題は解決していくのではと思っている。眷属になることも含めてだ。

 

「さて頑張らないとな」

 

 ハツカはいつも以上に慎重に物事を見ようとしている。

 今までの相手はそれなりに社会を経験した人間だったが、今回は幼い男の子だ。ハツカなりにうまい攻め方を考えているのだろう。

 

「今日はありがとね」

「構わないさ。酒もあったら良い(さかな)に出来そうだったし、今後が楽しみだ」

 

 肴と口にして、吼月くんの自覚なきノロケでのハツカへの疑問を思い出した。

 

「ハツカってさ、ネコ嫌いだっけ?」

「好きだけど」

 

 猫は可愛い生き物の代名詞だ。悪い意味で使われたとは思えないのだが、何が不満だったのだろうか。

 ハツカも吼月くんの話を思い出したのかニヤッと笑う。

 

「猫より可愛いっていうのは、ふつう僕がショウくんに言うもんじゃん? 猫は愛玩動物なんだもん。鳴くのはあの子だよ」

 

 とてもハツカらしい答えにアタシはクスッと笑う。

 同時に吼月くんが眷属になり飼われた姿を想像し、人間にしてはかなり整った顔立ちもあって似合っていると思ってしまってまた笑う。

 

「まあ見てなよ。今《だけ》は楽しいなんてもう絶対に言わせないからさ」

「そうか。頑張れよ、飼い主さん」

 

 自信満々にハツカは手を振りながら校舎の外へとすり抜ける。夜の中に彼は落ちていき姿が消えた。

 今のふたりの様子なら、順調に進めば今回のような突拍子もないことを吼月くんが起こすことは少なくなるだろう。

 

「んん〜〜……アタシもそろそろ行くか」

 

 アタシも立ち上がり授業に向かった。




来月からリアル事情の影響で投稿が不定期になるかもしれません。
申し訳ございませんが、よろしくお願いします。


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第五十四夜「初めてのご帰宅」

 校舎を出て正門まで駆けると、外灯の黄色がかった光に照らされたふたりの人影があった。ひとりは奏斗先輩であり、もうひとりは止岐花エマである。エマが車椅子の手押しハンドルに手を置きながら辺りを見渡しており、その時俺と目があった。

 

「お〜〜い、こっちこっち」

 

 手招きされる俺は徐々に走る速度を緩めながら彼らの目の前で止まる。

 

「悪い、結構話し込んじゃった」

「構わんけど、それで俺たちに話したいことってなんだ?」

「そうそう、なに?」

 

 俺が奏斗先輩へ告げたいことがあったのが今日の本題なのだ。エマも気になっているようで微笑みを浮かべながら耳を傾けてくる。

 奏斗先輩だけでなくエマも関係してることなので構わない。

 

「この間の鬼ごっこでさ、最後にふたりを追いかけてきた奴いるじゃん?」

「なんか凄い淡々としてた不気味なやつか」

「あのヘンテコな吸血鬼のこと知ってるの?」

「知ってるよ」

 

 断言してみせればふたりと更にこちらへ意識を向けてくる。殺しにきた相手だから余計に知りたいのだろうか。

 

「だって俺だもん」

「「はい?」」

 

 答えてもふたりが即座に理解できない、腑に落ちないのは分かっていた。

 まず首筋の絆創膏を引き剥がす。そして腕時計のスイッチを彼らに見せるようにし、ベゼルを回転させてからスイッチを押した。

 全身が爆発するように一気に熱くなるにつれて、自分の内側にある情を急速に冷めていく。

 

「……ッ!?」

 

 先に気づいたのはやはりエマだ。

 吸血鬼である彼女ならばハツカたちと同じく俺に起こった変化をいち早く理解できるだろう。

 

「え、え……? ええええ〜〜〜〜!?」

「どうしたんだエマ……?」

「いや、だって。ええ……吼月くん、ほんとに吸血鬼になってる……!? というか混じってる? マジであの時の意味わかんない怖い吸血鬼なんですけど……」

 

 相手が吸血鬼かどうかを匂いを含めた気配でも判別できるようだが俺にはイマイチピンとこない。

 一応今の俺ならエマから心地のよい匂いするのは分かる。けれど、これが香水なのか吸血鬼としての香りなのかは分からないからだ。

 

「もしかして吸血鬼と人間が混じってるから怖かったの?」

「意味わかんないものは怖いでしょ……」

「ヒトにとって一番恐ろしいのはわからないことだって言うからな」

「でもそう言われれば、士季くんを殴り飛ばしたり、三人とやりあって無事なのも納得がいくよ」

 

 繋がることを放棄していた点と点が線で繋がりエマは頷いている。

 すると彼女の視線が俺の首筋で止まる。

 

「噛み跡なくなってる……昨日血を吸われたんだよね?」

「ハツカにな」

「……変な体質のせいなのかな?」

 

 どういうことか分からず、大きく首を傾げてみる。

 

「だって吼月くん、ハツカさんのこと好きじゃん? 昨日だって奏斗くんにハツカさんのこと褒められて嬉しがってたじゃん」

 

 エマは取り出したスマホを取り出して、俺に突き出した。スマホには写真が表示されていて、それは俺が両手で顔を覆っているものだった。頬が朱を差したように赤くなっていて、嬉しそうに照れているのが俺にも分かる。

 あのモヤモヤが晴れた時、自分がこんな顔をしているとは知らなかった。

 こんなの撮ってたのか……いつの間に……。

 

「けど、恋心じゃなくて友愛とかの可能性もあるじゃ」

「まあね。実際眷属になってないわけだしね」

「えっと、つまり吼月は眷属になってないけど、パチモン吸血鬼にはなれるってことだな……?」

 

 傍らでエマの驚愕と慄きを感じ取った奏斗先輩も俺が人間から外れた存在になっている事実を呑み込んだ。

 

「けど––––」

 

 漠然と俺の変異を受け入れた奏斗先輩の目つきがナイフよりも鋭利なモノとなって俺を突き刺す。

 

「なんで俺たちを殺そうとしたんだよ。俺もそうだけど、エマだって怖かったんだ。返答によっては……ぶん殴るぞ」

「答えるよ。ふたりにとって必要ならね」

 

 吸血鬼の様々な一面を知ってもらうために俺が吸血鬼に扮してふたりを襲ったことも、その影響で吸血鬼と和解し血を吸われる土台を作ったことなど俺は士季たちにも話したあの時の作戦の道筋をふたりに明かした。

 そして役割を終えた俺はもうふたりには必要ないだろうとも口にした。

 

「なるほど。動機も話そうとした理由も分かった」

 

 話し終えると奏斗先輩はコホンと一度咳払いをする。

 

「やっぱり殴っていい?」

「どうぞ」

「オラッッ!」

 

 恨めしそうに俺を見るのでとりあえず殴ることを許可すると、躊躇いなく奏斗先輩は俺の水月の部分に拳を叩き込む。

 

「…………」

「痛がれや!」

「痛くないからな」

「そこじゃなくない……?」

 

 椅子に座った状態で足腰の力も入っていない拳に呻き声をあげるはずもなく、俺はただ彼を見つめるだけだ。

 

「殴られた理由を訊いていい?」

「普通逆じゃない!? 殴られるより先に訊くよね!?」

「いいんだよそんなもん」

 

 口を挟むエマを脇目に捨て置いて、俺は奏斗先輩へ目をやる。

 奏斗先輩は吐き捨てるように俺に問う。

 

「お前さ、バスケしにきた理由なんだよ」

「やりたかったから。あとはまあ心配もあったかな」

「ならいいじゃねえかよ。別に俺たちに気を遣って来なくなる必要ねえよ」

「だけど、奏斗先輩が居たいのはエマだろ? 別の日に独りでやるよ」

 

 奏斗先輩は「そのとおり」と大袈裟に頷いてみせる。

 

「けどな、もう一度言っとくぞ。俺はエンジョイ勢が嫌いだ」

「はい」

「で、お前は好奇心からでも真面目に練習するし、テンション高いけど上手くなろうとして楽しんでる。実際のところクラブのメンバーよりお前のほうがやってて楽しい」

「ゲームはレベルが近い方が楽しいしな」

「だからエマと復縁したとはいえ、別に吼月が来ることのが嫌になるわけない」

 

 奏斗先輩にとってエマとは別枠で俺には居てもらう必要があるわけだ。エマも士季も吸血鬼だから練習相手としては使うには些か分が悪い。

 道理は理解できたので「なるほど」と相槌を打った。

 そこに割り込むようにしてエマがまた話に入ってくる。訝しんでいますと言わんばかりの顔つきで突き刺すような視線を彼女が向けてくる。

 

「アタシたち、吼月くんにありがとうって言ったじゃん。そんな人間(ひと)に『用済みだからもう来ないで』なんて薄情なこと言うわけないじゃん。それともアタシたちと遊ぶの嫌い?」

「いいや、嬉しいよ。でも本当に居たい人だけ居る方が楽しいじゃん」

 

 わざわざ付き合いが面倒な相手とプライベートまで一緒にいる必要なんてないよ。学校じゃあるまいし。

 

「一緒に遊ぼうよ」

「だったら今日も一緒にバスケするか?」

 

 それができるのであればハツカに連絡するのもやぶさかではない。よりバスケが上手くなる。

 しかし、今日は予定が合わない。

 

「悪いけど今日は車椅子取ってないんだわ」

「ちぇっ、だったら今度予定が合う時にでもまたやろうぜ」

「次は俺が勝つ」

「は? 負けないが?」

 

 こうした時、普段の俺は寂しかったりする。

 理由があるとはいえ、本能的に捉え方がズレているんだなと感じてしまうのは少し寂しいものだと俺は考えている。

 

「できれば連絡は2日前に頼むぞ」

「わーってるよ」

 

 そこから少し軽く話をして、区切りがついたところで俺たちは別れる。

 やりたいことも別だからだ。

 

「じゃあな〜〜!」

「今度は一緒に遊ぼうね!!」

「またな」

 

 去りながらも手を振り続ける彼らが地平線と闇に呑み込まれたのを認めてから俺は夜空を見上げる。

 普通の夜空。暗すぎず、眩しすぎず程度に星々が輝いている。空気が乾いてきたのもあってか、一日過ぎるごとに星が見やすくなっている。

 感情の上下もないフラットな今に沿った夜空であった。

 

「……あ」

 

 見上げていた夜空に星がひとつ瞬いた。

 

「こんばんはショウくん」

「よ、ハツカ」

 

 空から現れたのはハツカだ。今日もいつも通り綺麗な姿だなと思いながら、いつもと異なる姿をしている彼は新鮮だった。なぜなら彼はいま男装をしていたからだ。

 男なのに男装というのは少し変かもしれないが、ハツカである以上女装もするし男装もするだろう。

 

「今日も綺麗だね。男装は初めて見たけどとても似合ってるよ」

「久しぶりに着たけどやっぱり僕は全部似合うよね」

「冬になったら革ジャンとか着てみない? カッコいいと思う」

「いいよ。魅せてあげる」

 

 ニコ先生もそうだが、吸血鬼というのは口にした通り似合ってしまうので下げることは何も言えない。褒めることしかできない。あくまで自分を磨いているヒトだけだろうけど。

 

「それでふたりと話してどうだった?」

「また遊びに誘われたけどよくわかんなかったよ」

「どうして?」

「居たい人居ればいいのにわざわざ不純物を入れる意味とか、ありがとうって言われても」

 

 俺ならハツカと理世、マヒルならばコウやアキラ、そしてキクさんが居ればいいと思うように本当に必要な相手とだけ居ればいい。

 そして『ありがとう』という社交辞令は知っているが、俺が勝手に動いたことにその言葉は必要ないし、契約したことなら基準に達してれば問題ないわけだから意味がよく分からない。

 

「ふたりと俺の考え方が違うからっていうのは分かるけど、どうしても腑に落ちないというか」

「キミだって『ありがとう』ぐらい言うだろ?」

「会話の流れが変になるからね」

 

 そう口にすればハツカが悩むように顎に手をやる。

 別にいい。ここら辺も他人とのギャップだ。

 理解し難いと同時に、俺にとって『ありがとう』は疑うべきモノでもある。その裏まで読まないと気が済まなくなる、そんな不安だ。

 

「相手から伝えられた嬉しさを純粋に受け入れることが苦手なんだよ。というわけで、ショウくん」

「はい」

「今日は働こうか」

「はい?」

 

 ニヤリと愉しそうに微笑むハツカを見て、僕の背中に悪寒が駆け巡るのだった。

 

 

 力を使い終えて十数分。

 

 

「…………ほえ?」

 

 

 僕が立つのは小森の町の一角にある店。見上げれば可愛らしいフォントで『ゔぁんぷ』と書かれた看板が飾られている。そしてその看板にはもうひとつ……メイド喫茶とも書かれていた。

 いや、そこまではいい。

 ハツカだってメイドに癒されたいと思うこともあるのだろう。学校の先輩と話しているとここは活力を得るための場所と聞いた。

 問題はさっき彼が『働こうか』と僕に言ったことだ。

 

「……ええ、と………あ〜……その、これは?」

「分からないの?」

 

 潤滑油の足りず動きの悪い機械のようにガチガチと顔をハツカの方に向ければ、彼は理解できていない俺に不満気な顔を見せてくる。

 いや、ハツカの考えそうなことはなんとなくだが分かるので、僕は「まさか–––」と詰め寄るが、

 

「あ、ハツカ! こっちこっち!」

 

 背後からハツカを呼ぶ声がして追及を断念。

 振り返ればミニスカタイプのメイド服を着た女性が立っていた。その女性はハツカとは違いふわっとした印象で女子が好きそうな可愛いぬいぐるみを人に変えたようなヒトだった。

 そして吸血鬼特有の雰囲気を感じる相手でもあった。

 

「メイドだ……」

 

 見たモノに感銘と困惑を同時に覚えたのは初めてだった。

 そんな俺を袖にしてハツカがその女性の下へ歩いていくので、後を追うように俺も脚を動かす。

 

「やあミドリちゃん」

「やほ。その子が例の吼月くん? 私は小繁縷(こはこべ)ミドリっていうんだ。よろしくね」

「あ、はい。吼月ショウです。……えっと、今日はよろしくお願いします?」

 

 メイドさんこと小繁縷さんは俺の歯切れの悪い言い方を受けて、ハツカを眼を軽く細めて訝しむ。

 しばらく眺められると、小繁縷さんは徐に頷いてから俺の肩に手を置いた。

 

「とりあえず吼月くん、話は中でしようか」

「逃す気はないんですね……」

 

 小繁縷さんに案内されるまま店内に通され、脚を運んだのはバックヤード。

 

「とりあえずテキトーに座ってくれればいいよ」

 

 部屋の中央に置かれた長机を挟むようにして小繁縷さんの対面にあるパイプ椅子に腰を下ろした。

 小繁縷さんとハツカも腰を下ろしたところで俺は話を切り出した。

 

「初めに確認なのですが、ここで働くというのはあくまで事務作業であって接客というわけではないですよね?」

「ホールだよ。キッチンスタッフが足りないならまだやりようは幾らでもあったんだけど」

「もちろんメイド服を着てね」

「っ……」

 

 ミドリさんの話を聞いていくと、急用で本日入る予定だった人が出れなくなってしまったため、人手が必要になったらしい。

 しかし、他に出れる人間が見当たらない。どうしたものかと唸っているとハツカ(吸血鬼)たちのグループラインで俺が女装をした写真が流れていたことを思い出し、ハツカに連絡をしたそうだ。

 男の娘ならハツカでいいじゃないかと訊けば、『吸血鬼同士になると人気の取り合いになると嫌じゃん』と言われた。そのため知り合いに高校生ぐらいの吸血鬼(ヒト)もいるそうだが、対象外となっていた。

 因みに以前暇つぶしでチラシ配りをするときにハツカはメイドになったことがあるらしい。見たい。

 

「ホントはナズナちゃんに頼めたらよかったんだけど、ほらナズナちゃんってスマホ持ってないでしょ? だから連絡もできないし家にもいないし」

「……いや、そういうわけにはいかないです」

 

 小繁縷さんの話に少しばかり納得しかけるが、俺がやるには些か問題が多すぎるので首を強く横に振る。

 

「ここメイド喫茶で女性が求められてるのに男がやってるなんて知れたら大事だ」

 

 至極真っ当–––だよね?–––な疑問をぶつける。

 俺はスマホを取り出して小繁縷さんに頭を下げる。

 

「大丈夫。私たちがフォローしてあげるし、バレたらバレたでマニア受けするかもだし」

「マニア受け……!? いや、他の店員も嫌じゃないんですか? 男が店でメイド服を着てるなんて」

「その辺りはみんなに写真見せたらオッケーしてくれたから」

 

 次は代打を立てることで店の損を最小にしようと試みるが、結局その相手が来るまでの間は俺が入ることになるから意味がない。

 もっと安全な策はないかと悩んでいると、ハツカが頬杖をつきながら口を挟む。

 

「いいじゃん手伝ってあげなよ」

「呑気なこというなよ! で、ハツカの狙いはなんだ?」

 

 彼の意図が読めない。ただ俺に女装させたいだけかもしれないが、あの話の流れでそれはない。肯定力の向上あたりだろうか。

 ハツカは不服そうに僕に語りかける。

 

「ここは異空間だ。一般人をアイドルのように扱いもて囃す。普通の常識からは離れた場所。つまり、自分への好意や感謝を浴びてちはほやし合うこの場では、一挙手一投足が自分にとっても特別になる。あとは自分で考えなよ」

「自分にとっても特別?」

 

 ハツカなりの考えで俺をここで働かせようしている。自分が変わるための思わぬきっかけがあるかもしれないが––––

 店側が認めている以上、結局は俺の意思次第だ。

 ならば……答えはひとつ。

 

「分かりました、手伝います」

「お! ありがとう! そこのロッカーを使ってくれればいいから。じゃ、私は外で待ってるから着替え終わったら教えてねー!」

 

 問題が解決した小繁縷さんは嬉しそうにバックヤードから出ていく。

 残されたのは僕とハツカのふたりだけ。

 

「この際着るのはいいとして、僕に合う丈のやつってあんの?」

「事前に持ってきたから問題ないよ。ロッカー開けてみて」

 

 恐る恐る僕は小繁縷さんに指されたロッカーを開けてみる。

 

「………マジであんじゃん」

 

 ハツカのいう通りメイド服がかけられていた。取り出して自分の身体に当ててみれば確かに僕の丈にピッタリ嵌っている。

 肩をすくめながらハツカを見ればとても愉快そうに晴れやかな笑みを浮かべている。

 

「それじゃあおめかしを始めようか。ショウちゃん」

「……はい」

 

 ワキワキと両手を蠢かせなから近づいてくるハツカを受け入れるのだった。

 

 

「イヤー……写真でも思ったけど吼月くんって女装いけるよね。詰め物とかしないの?」

「これで女性に見えるなら余分は要らんでしょう」

 

 小繁縷さんがメイド姿の俺を足先から頭まで撫で回すように見つめてくる。

 自覚はないが俺はそこまで女顔なのだろうか。服装はミニスカタイプのメイド服で、いつものズボンよりは束縛感がなく動きやすくはあるが、なにぶん風の通りと視線が気になる。

 ハツカと理世はいつもこんなモノを履いているのかと思うと尊敬する。

 

「ま、とにかくマナーとかはさっき説明した通りね」

「分かりました」

 

 着替え終えた俺は小繁縷さんにメイドとしてのマナーや挨拶を教わった。客とは触れ合わないこと、記念撮影はオプション、連絡先を訊かれても流すか無理なら頼ってとのこと。

 特に疲れを癒すために来ている人もいるため、常に笑顔で寄り添うことを忘れずに。

 ようは学校と変わらない。その場で良い選択をするだけだ。

 

「呼び方はみどりさんで良いんですよね」

「基本的に下の名前がフルネームになるから」

(あざな)みたいなモノですか」

「そんな感じだね。吼月くんも今日は『しょうちゃん』だからね。よろしくね、しょうちゃん」

「茶化さないでください」

 

 わざとらしくちゃんを強調する小繁縷さんから俺は逃げるように顔を背けながら喉元を触る。喉仏の確認ではない。幸い俺の仏はまだ輪郭を表してすらない。

 ではなにか。単純だ、声を変える。それだけだ。

 

「あーー……ああー……こんなもんか」

 

 すると俺の声がいつもよりも気持ち高めの爽やかで愛らしい声色に変化する。隣で俺の声を聞いていた小繁縷さんはその変化に素直な驚きを見せる。

 

「え、なにそれ……めっちゃ女声じゃん」

「ハツカとみどりさんの声を合わせてみました。変声は得意なんですよ」

「日常生活で全く役立たなそうな特技だねえ」

 

 間違いないと頷きつつ俺は、案内を始める小繁縷さん。

 

「最初は私について流れを見てみよっか。その次は自分でやってみよう」

「粗相しそうで怖いですね。マトモな接客はやったことないので」

「そこは仕方ないね。でもミスしても、周りがフォローするからなんとかなるって思えばいいよ」

 

 そうして話しているうちにホールにたどり着く。

 ホールの間取りを脳に叩き込むことため、周囲を一瞥する。

 

『お帰りなさいませ! ご主人さま♡!』

『萌え萌えぎゅ〜〜〜〜〜ん』

『いってらっしゃいませお嬢様!』

 

 ホール全体が赤やピンクなどの明るい色を基調にしているのに加えて、メイドたちやそれに触発されたお客たちによって部屋が丸ごと淡く甘い空間に染め上げられている。

 

「なんかすげぇ……」

 

 今まで感じたことのない雰囲気に圧倒される。異世界感と言えばいいのか。しかし、怖くはない異世界感だ。

 

「それじゃ行くよ」

「は、はい……!」

 

 小繁縷さんに背を叩かれて平常心を取り戻した俺は彼女の後についていく。すると、そこには赤と白のチェック柄のシャツを着た男性がテーブル席に座っていた。

 

「お待たせしましたご主人さまぁ〜〜」

 

 甘い声色でご主人様()へ呼びかければ、彼は慣れた様子でこちらに顔を向ける。気恥ずかしさなど微塵もない堂々とした態度のご主人様は相当場慣れをしている。常連のようだ。

 

「本日ご案内をさせていただきます『ゔぁんぷ』メイドの『みどり』と、こちらが新人メイドの『しょう』ちゃんです。しょうちゃん、ご挨拶して」

「はい。それではご挨拶させていただきますね」

 

 打ち合わせ通り小繁縷さんからバトンを渡された俺はご主人様に会釈する。彼はこちらを試すような眼で見つめてくる。

 しかし、俺は想定通りやればいいだけだ。

 

「『ゔぁんぷ』メイド、『しょう』です! 僕の好きな食べ物はチョコとイチゴのパフェ。休日はニチアサを見るのと色んな国の料理を作ることが大好きです! よろしくお願いしますご主人さま!」

 

 臆することなく胸の前で両手を使いハートを作って弾けるような笑みを浮かべる。しかし、それでは新人感があまりないので内にある気恥ずかしさも微かに出す。

 引っ掛かりを覚えながらもこれが今の俺にできる全力全開。

 ダメなら自分だけではどうしようもないが––––ご主人様を見れば「僕っ子、かあ……!!」と感嘆している。

 

「あどけなさがミルクのような愛らしさを引き出しているのと同時に、メイド特有のミントのような可憐な凛々しさもある。まるでメイドさんたちがかける魔法のような心地よい甘さだ。キミは将来有望だよ」

「ほんとですかあ!? しょうもご主人様に甘々に褒めてもらえて嬉しいです!」

「そのあっまい評価に叶う未来になってくれよ」

「はい!」

 

『僕』に感銘を受ける理由は分からなかったが、ご主人様は満足そうにしているので良しとしよう。

 それにしても褒め方がすごい。一眼あっただけでここまで相手を褒める材料を揃える洞察力もさることながら、言語化できる頭の回転がすごい。当たり前のことをこうも褒めれるとは。しかもすごい甘い言葉で。

 

「それではご主人様。今日はお久しぶりのご帰宅ですよね?」

「ええ」

「でしたらメニューを忘れちゃってると思うので私たちが少し説明をしたいと思います!」

「お願いしちゃおうかな」

「分かりましたご主人さま♡」

 

 小繁縷さんがメニューの説明から受付まで主導してくれる。その流れを見ながら自分の中に落とし込んでいく。

 言葉運びから相手への目の配り方まで丁寧で、彼女と話しているご主人様はとても楽しそうに話す。彼女に取り繕っている気配はなく何事も澱みない。

 経験もあるのだろうがきっとそれだけではない。

 ご主人様の意識が小繁縷さんに向いているうちに視界に映る範囲で他のメイドを眺める。

 

『ありがとうございます! ありさ嬉しい!』

『お呼びくださればすぐに駆けつけますので♡』

 

 小繁縷さんに限った話ではない。この場にいるメイド全員に言えることだ。

 これを身に付けたい。しかし、本当にそれがハツカの言ったことか?

 

「ご注文、承ります!」

 

 注文を一通り受けた小繁縷さんと共にご主人様の元から離れる。そして身体中に張っていた緊張を少し緩める。

 

「ふぅ……」

「結構上手くやれたじゃん。キャラ付けもいいし、自己紹介が詰まることなくできれば他のことも大体やっていけるよ」

「ありがとうございます」

 

 小繁縷さんから及第点は貰えたようなので胸を撫で下ろす。

 

「なら、次はちょっと大変だろうけど案内から注文までやってみようか」

 

 もうすぐ次のお客が来ると予言するような口ぶりの小繁縷さんが店の出入り口へ俺を向かわせる。

 するとカランカランと来客を告げる鈴の音が鳴った。

 あと数回は反復練習で口を慣れさせるとしよう。意気込んで新たに来店したお客の下へ行く。

 

「お帰りなさいませ! ご主人さま♡」

 

–––お帰りなさいって初めて言ったな……

 

「ただいま。しょうちゃん」

「………」

 

 で、その初めての『お帰りなさい』を告げた相手はハツカだった。理解した途端に面映さで顔が赤くなってしまう。

 俺をメイド服に着替えさせた後、どこに行ったのかと思ったら客として来やがった。

 

「そ、それでは案内いたしますハ、ご主人様」

「ふふっ。お願いね」

 

 思わずいつもの流れでハツカと口にしてしまうのを止め、呼び直す。

 俺はハツカを一番角の席に連れていく。柵があって他の人の目が届かず、しかしハツカが身を乗り出せば店内全域を見渡せるテーブル席だ。

 ハツカが席につくと俺は柵に隠れるようにして傍に立つ。

 

「お前まさかこのために男装してきたのか!?」

「今日はキミが女の子で僕の推しとして愉しみたかったからね」

「お前な……!」

 

 ひっそりと、それでいて確かな抗議の意思を伝える。やらせたいなら家で言ってくれれば着るのに。

 けれどハツカは俺の反抗を気にも止めず笑みを浮かべながら俺に告げる。

 

「そんな口を利いていいのかな。いま僕はキミのご主人様、なんだけどなあ〜」

「っ……!」

他人(ひと)に隠れて罵るなんて酷いメイドさんだな」

「もっ……申し訳ございませんご主人さま……」

 

 俺はいまメイドなのだ。

 ハツカの愉しみとして俺の恥辱が消費されるのは我慢ならないが、それはそれとして役割をこなさなければいけない。

 いつかはハツカにやらせてやる。

 

「ご、ご主人様は初めてのご帰宅でしょうか?」

「うん。初めて帰って来たよ」

 

 初めてご帰宅という中々の不思議なワードではあるが、そこはもうメイド喫茶の世界として受け入れる。

 

「でしたら、ご挨拶させていただきますね」

 

 浅く息を何度か繰り返してから胸の前でハートを作り、自分の名を語る。

 

「『ゔぁんぷ』メイドの『しょう』でっ、つぅ……!」

 

 先ほどはすんなりと言えた名乗りだが、ハツカの前で容易く口にできるほど図太い神経をしていない俺は恥ずかしさから噛んでしまう。

 

「……」

 

 その姿を見たハツカは何を言うでもなくただ俺を見つめている。叱るわけでも慰めるでもない。まるで「それで終わり?」とまるで挑戦状を叩きつけられた気分だ。

 いいだろう。必ず最後まで名乗ってやる!

 

「『ゔぁんぷ』メイド、『しょう』です。僕のしゅ、好きな……く!」

「アタシ」

「『ゔぁんぷ』メイド、『しょう』です。アタシの好きな食べ物はチョコとイチゴのパフェでつ」

「もっと感情を込めて」

「アタシは––––」

 

 しかし、羞恥が消えることはなく何度も失敗し言い直す。その度にハツカから名乗りの注文をつけられて、合わせて改変していく。ハツカに弄られるのは慣れたはずだったのだが、所詮はつもりだったか。

 ハツカの文句は悪質クレーマー極まりないが、俺とハツカなのでそこはご愛嬌だ。

 

「アタシはご主人様専属の『ゔぁんぷ』メイド『しょう』です♡! 好きな食べ物はチョコとイチゴのパフェで、休日はニチアサを見るのと色んな国の料理を作ること、そしてご主人様に奉仕することが大大大好きです! よろしくお願いしますご主人さま!」

 

 十回近くリテイクを繰り返してようやく仕事になるレベルになった。口調も感情も女性になってしまいそうで恥ずかしさで胸が張り裂けそうだった。

 仕事ならやれて当然なのに。

 しかし、まあ……柵があるからいいが他の人に見られていたら憤死ものだ。

 

「あはは、キミと遊んでると癒されるな〜〜」

「もう何やらせるんですかご主人様!」

「楽しくてつい。ふふ、でもよくできたね」

 

 褒められると余計に恥ずかしさで顔がより熱くなって目を泳がせてしまう。しかし、ここまで出来れば悪い気は全くしないし、もう怖いものはないだろう。

 

「でも、アタシってホントは僕っ子なんですよ。受けもいいですし。ご主人様は『アタシ』じゃないと嫌ですか?」

「いいや、僕っ子もいいと思うよ。でも僕の前では身も心も女の子で居て欲しいな」

「分かりました。ご主人様の仰せの通りに! それではメニューをご説明させていただきますね」

 

 ハツカがどこまで本気なのか分からない。

 もし、いつもそんな欲求を(アタシ)–––一応約束なので–––に抱いてるとしたら結構おっかないというか、狼というか。少し身の危険を感じ恐ろしく思う俺であった。

 

「–––と、ゔぁんぶメイド特製トロピカルミックスジュースですね。承りました!」

 

 そこからハツカの注文を確認し終えると、ハツカがまた俺に訊ねてくる。

 

「それで、しょうちゃん。目標は達成できそう?」

 

 メイドとしてではなく吼月ショウとしてのものだ。

 

「……どうでしょう。五分五分といった感じです」

「とっかかりは見つけたんだ」

「一応は。ここの人たちは人を見る眼も話す時の自信も凄いですから、色々学びたいです。けど、ご主人様の言っていた『一挙手一投足が自分にとっても特別になる』が噛み合わないというか」

 

 メイドがお客を褒めるのは商売だ。理解できる。

 だが、メイドとして普通のことをやっているだけなのにあそこまで持ち上げる理由はなんだ? メイドたちはなんで嬉しそうなんだ?

 

「それが分かれば一皮剥けてもっと可愛い子になれるよ」

 

 ハツカがそっと俺に微笑みかけたと思うと、下げていた手に温もりを感じた。目線を下げれば、彼が俺の手の甲を撫でていた。

 ビクリの背が跳ねる。

 

「頑張ってね」

「……あ、うん」

 

 メイドへのお触りは厳禁だと口にすることなく僅かに距離を取るだけで、俺は頷きを返す。

 俺の視点は間違っていないということなのだろう。だったらこの機会に学べることは学びたい。

 ハツカに会釈して、場を離れようとする。

 その去り際、

 

「そうだ。『ありがとう』が好きになったらご褒美をあげる」

「……?」

 

––––ご褒美、か………なんでだろう……?

 

 でも出来たとしたらハツカに何か命令できるのだろうか?

 微かだが想像が膨らむ俺は足取りを速め、明るく次の客の下に進む。



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第五十五夜「叩いて出る埃」

 メイドとして働き始めてから数時間が経過した。

 男であるとバレずに仕事に支障があるわけでもなく俺は明朗快活なメイドとして店内を忙しなく動き回っていた。俺も流石にミニスカートを履いて歩く経験は無い。周りから脚へと刺さる視線が多く見破られないか心配だったが、そばで働くミドリさんたちの歩き方を模倣してやり過ごしていた。

 

「お帰りなさいませ、ご主人様! お席へご案内致します」

 

 ハツカのある種調教もとい特訓のおかげでメイドとしての言葉遣いも板についた。出迎えから案内、自己紹介に注文。そして雑談と滞りなく笑顔で熟せる。

 それもあってか時間が経つと多くの指名を貰えるようになった。指名というのはインスタントカメラによる撮影–––通称チェキなどを言う。

 

「しょうちゃん。犬……いや、猫の方がいいかな。猫のポーズでお願い!」

「分かりましたご主人様」

 

 例えば、現在進行形で俺が頼まれているようなことだ。

 ポーズの指定や、メイドだけ(ピン)かツーショットといったオーダーがあるのだが、前者は客の好みに応えるだけだし、後者に関してはチェキの種類による。ツーショットなら記念撮影のチェキ、ピンならコレクション用のチェキといった具合だ。値段は異なるが基本的にツーショットだ。

 

––––また猫か。犬猫多いな……

 

 俺はご主人様()へ身体を向けて、右手を頭より高く左手を顎の辺りまで持ってきて軽く握る。イメージはナーゴの変身ポーズ。

 ご主人様は俺の喉元に指を当てて撫で始める。喉仏が出る前で良かったと心底思った。あとウィッグを被っているので頭を撫でられずに済んだのも大きい。

 

 そばにいたメイドに持ってもらったカメラに視線を向けて、フラッシュを細めながらも優しい目で受ける。口元は少し開く。

 ジィーという音と共にインスタントカメラからフィルムが排出される。

 現像が終わったそれを俺が受け取ってからご主人様に手渡す。

 

「うわぁ……すげぇ、うっとりしたような緩んだ顔も、細めた瞳も本当に猫みたいで可愛い。もしかしてしょうちゃんって猫の生まれ変わり?」

「そうですにゃ〜、て言ったらご主人様は信じますか?」

「信じます!!」

 

 サービスを加えながら相手をする。

 俺の喉元に指を向けてきた時点で、ご主人様がメイドから気を許された存在でありたいと考えていたのは理解できたので、要望通りにすればかなり満足してくれたようだった。

 

 こうしたサービスを行うには理由は幾つかあるが、分かりやすいのはふたつ。

 

 ひとつはインセンティブ制度。

 これは時給や残業手当とは別枠で本人の行動や成果が評価の対象になりそれに応じた報酬が与えられる制度で、ここでいえば、先ほどのチェキなどが多いと給料が増えるのだ。

 

 もうひとつがメイド喫茶にはランキングというものが存在する。

 この店のホームページで月毎の人気ランキング投票というものがあるらしく、自分をよく見せる手法として今のようなサービス会話があるようだった。

 

 手伝いである俺がサービスをする必要はないのだが、働いている以上その場に準じた感情で対応すべきだ。でなければ不自然に浮いてしまう。

 やることは学校と変わらない。いつも通り勝てばいいだけだ。

 

 区切りをつけるとそのテーブルを離れる。

 個人的に先ほどのご主人様は良い方なのだろう。大学生ぐらいの歳に見えるが聖域–––所謂メイドとの距離感–––は守るし、清潔感もある。

 ミドリさんから聞いた話では、メイド喫茶には冷やかし目的で来る人もいるそうだ。

 できれば出逢いたくないな––––

 

 

 

 

「え〜〜どうしよっかな。やっぱりしょうちゃんに浮気しちゃおうかな〜」

 

 当たってしまった。

 仕事終わりのサラリーマンなのかYシャツ姿の男性をテーブル席に案内し終えたあと、注文を聞きながら軽く雑談を交わしていると突然そんな事を言われた。

 どうやらこのご主人様は他に推しのメイドがいるようで俺と比較しながら会話を続ける。ご主人様は所謂推し変を話題にしてきたのだ。

 ニタリと下品な笑いを浮かべる男の顔は醜悪で、俺に会話を振り続ける様に既視感を覚える。

 

「最近そっけないんだよな〜〜あの子」

 

 俺はその先輩メイドについて知らないし、実感も湧かないから面白くない。この手の会話をしたことがない俺はどう返していいのか分からず、テンションを変えながら相槌を打つだけだ。

 俺はミドリさんが口にした冷やかし客への想いを思い出す。

 

『アレはクソだよ。引っ叩きたくなる』

 

 心の底で力強く頷く。

 本音で言えばこの客とは関わりたくなかったが、別の視点では興味深い材料でもある。

 

「うわっ」

 

 誰かがひっそりと呟いた。目の前のご主人様に聞こえなかったのは幸いだ。

 この手の話はメイド全員を傷つける可能性だってあるし、下手をすれば裏方で陰口を叩かれる問題なりかねない。どちらかを下げるような話題は論外だ。

 普通のファミレスなどの接客業にはない、ランキングというシステムがあるメイド喫茶だからこその問題。

 メイドって大変なんだなと身に染みてきた。

 辺りを見れば、近くで話を聞くメイドや客もあまりいい気分ではなさそうだった。

 そうしたメイド喫茶への理解を深める材料であるご主人様だが、同時に俺の目的に使える材料でもあった。

 話を続けるご主人様に、俺は時に「はい」と満面の笑顔で、時には「はい」と少しトーンを下げた暗い口調で返す。どんなリアクションだとどうした反応をするのか見ていた。笑顔ならよりテンション高めに、無表情ならムスッとした顔になる。

 そして分かったことが一つあった。

 

「どう? 俺に推されてみない? 俺さ–––」

「ダメですよご主人様。自分の大切なメイドの気を引くためにそんなこと言っちゃ」

「……!」

 

 俺はご主人様を黙らせるようにシッと人差し指を唇に当てる。小蝿のように煩かった彼は面食らったように押し黙った。

 沈黙は後退。ご主人様の後退は俺の好機。

 

「それほど容易くご主人様が捧げてきたメイドへの熱は変わらないでしょう?」

「え? は、はい……」

「なら素直でいないと。素直なご主人様の方が素敵ですよ」

「そうかな」

「ええ。間違いなく」

 

 俺がおもむろに頷けばご主人様は少し嬉しそうに口元を緩める。

 このご主人様の傾向は【構ってちゃん】という奴だ。

【構ってちゃん】と言われると俺がパッと思い出すのは獣電鬼と呼ばれる怪人だ。ざっくり説明すると攻撃的な言動とは裏腹に夫や息子がいなくなって淋しい気持ちを抱いた迷惑クレーマーが変貌した怪物。

 すなわち承認欲求モンスターである。

 ご主人様はそれと似たようなもので自分には価値があると見せるために大袈裟な振る舞いをするし、こっちが離れるとしょぼんと顔を暗くする。

 なら、その欲求をうまく叶えてやればいい。

 

「だからこそ勝ち取る価値がある」

 

 叩かれ落ちていく蝿を逃さぬため追撃をかけるかの如くズイッとご主人様に顔を近づける。

 ハツカ評の鼻筋のよい端正な俺の顔が突然近づいてきた男は顔を赤く染める。と同時に、男は心臓を両手で包み込まれるような雰囲気に呑み込まれたかのように、微かに出していた吐息すら漏れなくなる。

 

「安心してください。先輩はそう簡単に(おく)れをとるメイドではございませんし、ご主人様がぼくに浮気する時は()()()()()()()()ので」

 

 嘘偽りを感じさせない胸を張った宣戦布告。先輩メイドへの尊敬の念もあるが、同等の負けず嫌いが遺憾無く発揮された物言いは客を圧倒するには十分。

 

「……」

「それではご主人様。ご注文をお聞きしますね」

「お願いします」

 

 数秒間互いに見つめ合うと、俺はメイドとは思えない含み笑いを一度浮かべてから顔が離す。それを惜しむご主人様は縮こまりながら何も言わずに俺を見上げる。

 その後のご主人様はさっきの冷やかしが嘘のように俺と目を合わせながら頷くだけでめっきり静かになった。周りの空気が良くなったのも感じる。

 

「ご注文承りました!」

「あ、あの……」

「どうしましたか? ご主人様?」

「……食事の後、チェキをお願いしてもいいですか?」

「もちろん、ご主人様が宜しければ!」

「お願いします!」

 

 問題を解決して、一定の収穫も得た俺はとても晴れやかだった。

 なぜご主人様たちは仕事で褒めているのにも関わらずあそこまで喜んでいるのか––––自分の承認欲求が満たされるからだ。

 なぜメイドたちはご主人様たちに褒められて嬉しいのか–––店内ランキング、つまり仕事の評価に直結するからだ。

 ご主人様たちは注文通りの奉仕が来て満足するし、メイドたちは仕事に応じた報酬が貰える。実力社会だが、よい相互関係だ。

 だがハツカから言われた『一挙手一投足が自分にとっても特別になる』がランキングに関係することとしたら、それが適用されない奏斗先輩たちとの一件とどう噛み合うのかが分からない。

 

 もしかしたら俺の認識が間違っているのかもしれない。

 

「基本的に合ってると思うんだけどな」

「やあ、しょうちゃん」

 

 キッチンにオーダーを伝え終えて考え込んでいると、後ろから声をかけられた。

 

「アリサさん、お疲れ様です。どうかしましたか?」

 

 声をかけてきた主はアリサさん。

 彼女もメイドであり、みどりさんと並ぶ『ゔぁんぷ』の人気メイドだ。実際、彼女を指名する人たちはみどりさんに次いで多く、とても優秀なメイドさんだ。

 彼女が浮かべるおおらかな笑みは人気メイドと称されて当然の物のように思えた。

 

「さっきのご主人様のこと。上手くやってくれてありがとね」

「仕事ですから当然ですよ」

 

 ハツカからは『ありがとう』が好きになると良いなと言われている。

 だから俺は無碍にはせず、似たような笑みを浮かべながら答えれば、彼女は僅かに驚いたような表情を浮かべるのだった。

 また俺は解釈違いを起こしたのだろうか。

 

 

 あれはニアミスしてるな–––同僚と話している吼月くんの姿を見て蘿蔔ハツカ()はそう思った。

 そんな僕の視界の端で人が近づいてくるを認めた。

 

「ありゃもしかして取られちゃったかな。凄いね、あの子の営業スマイル」

「ミドリちゃんじゃん」

「はい、お待たせしましたご主人様。ご注文のブラックコーヒーのホットになります」

「ありがとう」

 

 追加で注文したコーヒーカップを持ってみどりちゃんが僕の下へとやって来た。ご主人様と口にはするが、あくまで友人間でのじゃれ合いのようなフランクさだ。

 

「ミドリちゃんのご主人様だったの?」

「いんや、別の子のだよ。でも、簡単に落とされるとこっちもやる気出てくるよね」

「ヒートアップしすぎてボロ出さないでね」

「ボロ? わたしに叩いて出る埃なんて一切ないよ〜」

 

 ミドリちゃんは身を隠すように柵を背にして僕の前に立つ。流石にホールで表立っていつものような会話をする訳にはいかないようだ。

 僕はコーヒーを一口味わった後、彼女に礼をする。

 

「今日はありがとうね。助かったよ」

「こっちのセリフだよ。服だってハツカ(そっち)で用意してくれたわけだし」

「それは良かった。で、メイドさんはこんな所にお喋りに来ていいのかな?」

「はい、ご主人様と話したくて! な〜んて。ま、忙しい時間も過ぎてったから気が抜けるし」

 

 ふむ、友達だからなのか、彼女にご主人様って言われるのも中々どうして悪くない。いや、とてもいい……。

 絶えずにこやかなミドリちゃんは続けて僕に訊ねる。

 

「吼月くんをここで働かせたのはあの理屈っぽい性格を直すため?」

「やっぱり違和感あった?」

「そりゃもうビシビシと。特に私がご主人様()と笑ってる時なんかホントすごい。アレって私が褒められて嬉しそうにしてるのがわからなかったタイプでしょ? 割り切って仕事が出来るすぎるのも考えものだね」

「大正解だよ。さすがミドリちゃん」

 

 小繁縷ミドリという少女の観察眼は素晴らしいの一言だ。彼女本来の鋭いセンスが吸血鬼になりより先鋭化された賜物なのだろう。

 

「自分の理屈を捏ねて基準がバグっちゃってるやつだね」

「あの子がやってることは当然じゃなくて、褒められたり感謝されていいものなんだよね」

「そりゃね。さっきの件とかまさにそれだし。手伝いの相談をした時も、女装をやるのを嫌がるより先にバレたらゔぁんぷ(ウチ)がどうなるかって心配ばっかりしてたし」

 

 さっきの男にしたあの対応は褒められて然るべきだ。逆に言えば、探偵さんの件のようにやりすぎて叱らないといけないこともあるけれど。

 厄介なのは全ての返礼に違和感、或いは気持ち悪さを覚えていることだ。

 

「まぁ……あの子の場合、感謝される前にどっかに消えているっていうのもあるんだろうけど」

 

 別に俺はいらないだろ?–––彼は昨日そう口にした。問題を解決して自立した相手とは接点を断つことが彼の中で常習化しているのだろう。

 つまり感謝や賛美に対する器が出来上がっていない可能性すらある。これもまた厄介だ。

 

「それでも知識としてその価値観は持ってる。チヤホヤされるの好きじゃないのかな?」

「今回で好きになってほしいよねえ」

 

 ヒトは結局他人に認められるのが好きな生き物だ。それが自分を好きになるために必要な要素だし、無くしてはいけないモノだ。

 少なくとも僕の信頼を欲している彼にもあるはずだ。

 僕の悩みを察したミドリちゃんが浅くため息をついた。

 

「夜守くんより面倒かもね。でも直さなきゃいけないことなの? 上手く付き合ってるのに」

「ショウくんが自分を好きになるには必要なことだよ」

「ふぅん」

 

 現状がダメな所があるから吼月くんは変わろうとしているわけで、その欠点を直していくことは最終的に吼月くんの障害の解決に繋がると僕は睨んでいる。

 一年以内に障害を排除しつつ堕とすという場合によっては過密スケジュールになりそうだが、僕だし問題はないだろう。

 腑に落ちたミドリちゃんは頷きつつ僕を見据える。

 

「……で、メイドをさせたかったもうひとつの理由は?」

「男も女も味わえた方がいいからに決まってるでしょ。せっかくあの顔であの歳なのにもったいない」

「若干キレ気味なのはなんなの?」

「自分の想いが伝わらないとムカつくじゃん」

「他の人に好き勝手やられてますがそれはいいの?」

 

 ジトっとした目がホールの中央へと向かう。

 

「萌え萌えギュ〜〜〜〜ン!!」

 

 先ほど問題が起こしていた客の食事へ吼月くんが魔法をかけているところだった。甘い声を響かせながら唱える彼の姿を見ていると、とてもムカついてきた。

 

「……家に帰ったらもう一度全部やらせるから」

「強欲だねえ」

 

 人気が出始めているのは想定外だ。まあ、僕が好む顔で学校でも優等生で通ってる彼なら必然だったかもしれない。

 ミドリちゃんは「ハツカらしいな」と言ってからトレイを抱えて歩き出す。

 

「じゃあ、彼を強奪をしてこようかな」

「ミドリちゃん」

「こういうのは早い者勝ち、でしょ?」

 

 顔だけ振り返る彼女は獰猛な笑みを浮かべて僕を挑発する。

 

「吼月くんってニチアサ好きなんでしょ? あの界隈って厄介ファンというか変だったり凄かったりでオタクが結構多いからさ。しかも童貞。夜守君と同じで私の守備範囲なんだよね」

「まあ、頑張って理屈を捏ねるタイプが『好き〜!』って頭いっぱいになったら可愛いだろうしね」

「てなわけで少しちょっかいかけてみようかな」

「いいよ。ちょうどいい刺激になりそうだし」

「む、余裕だね。じゃあご主人様。ごゆっくり〜」

 

 ひらひらと手を振って離れていくミドリちゃんは面白おかしそうな笑みに面を変えて、吼月くんの下へと歩み寄っていく。

 ま、どうであれ上手く作用してくれれば問題はない。

 けれどもう少し大きな刺激が欲しい。

 

「僕が与えるべきかな、やっぱり」

 

 眉をハの字に折りながら、ミドリちゃんの背についていく吼月くんの姿を追うことにした。

 

 

 

 

 アリサさんから驚かれた後、自分と他のメイドたちとのギャップについて考えていた。本当は話を続けられれば良かったのだけれど、アリサさんも俺も別々の客から指名を受けてしまっていた。

 やっぱり間違っているのだろうか–––そんな悩みを見透かされたのかミドリさんから声をかけられた。

 

「私と少しお話ししようよ」

「え?」

「しょうちゃんの話が聞きたいな」

 

 流石にホールのど真ん中で話をするわけにも行かず別の場所へと移る–––

 

「て、ここカウンターの中じゃないですか!?」

「そう。ウチはお酒も提供してるからその整理も兼ねてね」

 

 ゔぁんぷにはカウンター席があるのだが、そこにはビールから日本酒、ワインといったアルコール類の瓶が、まるでメニュー表の代わりのように並べられている。

 実際、客の前でカクテルを作ることもあるそうで、その用具はここから取り出しているそうだ。

 

「仕事しながらの方がしょうちゃんも安心するでしょ?」

「……流石ですね」

 

 俺があんじていたことを見透かしていた彼女は気を遣いこの場での会話を選んだようだった。

 軽くカウンターの拭き掃除や整頓を行いながら話し始める。

 

「しょうちゃんはニチアサが好きなんだよね。色々あるけど何が好きなの?」

「基本的には箱推しですけど、強いて言うなら自分はジオウですね。なかったら自分がいないレベルに思い入れがあります」

「お、そこまで言う。私は戦隊ものが好きかな、キョウリュウジャーとか。ライダーなら電王」

 

 彼女が弾ませる声は不快感を感じさせないとても優しい。贔屓目で見ても特撮関連やプリキュアなどのニチアサ関連の作品はどうしても色眼鏡で見られることが多いのだが、彼女はそんな素振りは一切見せない。

 

「ミドリさんも好きなんですか?」

「好きっていうのもあるけど、ほらニチアサ出てた人が声優になることって結構あるじゃん? m・a・◯さんとか。だからチェックしてる。それに戦隊って殆どロボットアニメみたいなもんだし。今はふたつともプリキュアの後にやるからね」

「ああ、シンケンブルーの相◯さんも声優でマジェプリのイズル役もやってますもんね」

 

 ミドリさんはアニメ好きなのだろう。

 

「そうそう! しょうちゃんもロボ系好きな感じ?」

「自分はスパロボ30をやって知りました」

「スパロボやってるの!? 好きなキャラは? やっぱりグリッドマンかULTRAMAN?」

「よく使うのはデヴォゲのゲッター1ですね。三人版のストナーサンシャイン撃ってくれますし。流石にゲッターアースのシャインスパークは出てこなかったですけど」

「デヴォリューション読破してるんだ!?」

「ええ。それでミドリさんの好きな機体や作品は?」

「私はね–––」

 

 思わぬ繋がりを見つけたミドリさんは嬉しそうに破顔する。

 

「私たち意外と気が合うかもね〜」

「そうですね」

「……」

 

 そこからほんの少しだけ雑談を交えると、彼女はスッと俺の方に視線を向ける。

 

「さてさて、本題に入ろうか。しょうちゃんにとっては大切なことだしね」

「……!」

「大方キミの悩みについては聞いてるよ」

「答えを教えきてくれたんですか? 優しいですね」

「答えにはならないと思うな。キミがどう捉えるかの問題だし。ひとまずキミの口からも悩みを聞きたいな」

 

 彼女の言葉には頷くしかなかった。

 俺の実感の問題である以上、言葉で教えられても分かるものではないからだ。

 

「ミドリさんってご主人様たちに褒められるとよく笑ってますけど、アレはなんでですか?」

「チヤホヤされて嬉しいからだけど?」

「ランキングや給料にも直結しますもんね」

 

 ミドリさんの眷属関係は知り得ないが、ハツカのような関係性でなければ吸血鬼とはいえ自分で稼がなければならない。

 この店の仕組みを考えるとミドリさんがここで働くのは最高に相性がいい。なんたって人を惚れさせるのに特化した吸血鬼なのだから、他の仕事に就くよりも自分を活かしてより簡単に稼げるのだから。

 

「そうじゃないそうーじゃない。いや、間違ってるわけでもないだけどさ」

 

 しかし、ミドリさんの真意はそこではないようで首を左右に振る。

 

「自分を褒められるとさ、まず純粋に嬉しくなるんだよね。そこから私のこと『好き〜』ってなってるご主人様を見ると愛おしくなって、そんな人たちと話してると楽しくなる。しょうちゃんにはそんな経験ない?」

「ないですね。……というより褒められる理由が分からない」

「キミにとって普通のことをしてるから?」

「自分が周りと気質が違うのは一応理解はしてるんですけど、契約上の仕事を熟すことも、人助けをするのも……生きてるなら普通じゃありませんか?」

「私は普通じゃないと思うけどな。さっきだって面倒なご主人様()に絡まれても上手く対処してくれたでしょ? 新人には酷な相手なわけで、1日目の子ができることじゃないよ。ましてやキミ接客とか初めてなわけでしょ? アレだけやれたら普通じゃないよ」

「そんなことないですよ」

「……一応理由を聞こうか」

 

 彼女の賛美を頑なに受け入れられない俺は顔を歪ませるしかない。紡ぐ持論も結局は俺の価値観でしかないから意味があるとは思えなかったが、求められたので口にした。

 

「ふざけた話ですが、教師から関係ない上の学年のいざこざの仲介を押し付けられることも多々ありました。そんな経験もあった僕のだったから偶々上手く行ったというのは分かります。でも、それがなくてもやりようはあります」

「たとえば?」

「フォロー、してくださるんでしょ?」

「……」

「自分で対処できなくても慣れたミドリさんに……手が空いていなければアリサさんに話を持っていって場を納めていただくことは出来ます。使える物は全部使ってより善い決断をする。仕事ですから」

 

 返答はなく、口を噤む彼女を見て少し悲しくなる。

 やっぱり俺がおかしいんだよな。人間(ヒト)らしく、吸血鬼(ヒト)らしくいるってやっぱり難しいな。

 でも、褒められるのって分かんないし、嫌なんだよな。

 

『愛してるわショウ』

 

 いきなり頭の中に覚えのない言葉が黒いシミのように広がった。反芻する声に思わず身体が震えてしまう。その震えは微弱なものだったが、隣で俺を訝しむように見つめる彼女にはバレていませんようにと祈るしかない。

 

「なあ、しょうくん……」

「はい」

 

 ミドリさんは感情が抜けた顔で俺に告げる。

 

「私、キミのこと嫌いかもしれない」

「そっすか」

「ちょっとは嫌がりなよ! そういうとこだよ!!」

「理不尽!!」

 

 真顔で嫌いと言われてしまったら仕方ないのだが、受け入れたら怒られるのは納得いかずに大声を張り上げてしまう。ふたりの声が響き、俺たちへ客の視線が一瞬集まる。慌てながらカウンターの下に屈み込んで視界から外れる。

 ミドリさんは不服そうにため息をつく。

 

「はあ……まあしょうくんよ。私はハツカと同じで人間の頃の記憶も抜け出してるし、昔のことなんて覚えておこうとは思わないけどさ。確かに私にも承認欲求が歪んだキッカケ自体はあるわけ。他の子たちもそう」

 

 彼女はメイド服のポケットからスマホを取り出す。

 ささっと手早く弄ったスマホの画面をコチラに見えるように向けてくるので、顔を寄せるようにして覗き込む。そこにはラインのトーク画面が表示されており、相手はアリサさんで、彼女の自撮り写真が送られてきていた。

 

「アリサちゃんとはある時を境によくラインするようになってさ、話してくれたことがあるんだけど、小さい頃に友達から『可愛い!』って言われてのが嬉しくて忘れられないんだって」

 

 それがアリサさんが褒められることが好きになったキッカケ。些細なことだし、極々ありふれた会話の一幕にありそうな言葉。それでも自分の支柱になる大切なものなのだろう。

 

他人(ヒト)から送られた言葉が核になるなんてザラにあるんじゃないですか?」

「うん。そして誰でも10年近く生きてれば言葉なり行動なりで承認欲求を育む機会はあるはずなんだよ。逆に芽を潰す機会があるかもしれない。でも、キミを見てると芽が出てすらいないように思える」

「仕方ないじゃないですか。チヤホヤされるとか分かんないですもん」

 

 まるで先ほどの迷惑客に振られた話のように、全く知らない話題について話さないといけないような居心地の悪さも感じるのだ。

 なんで当たり前のことに感謝するの?

 キミは一体なにを求めているの?

 賞賛や感謝の裏にあるものはなに?

 

 分からないよ。

 

「キ–––」と言いかけたミドリさんは一度呑み込んで言い直す。

 

「ねえ、本当に直さなきゃいけないことなのそれ?」

「はい?」

「今だってその癖と上手く付き合えてるんでしょ? 無理やり直す必要ないと思うんだけど」

 

 彼女の言うことも一理ある。

 けれど、俺が今まで生活に問題ナシとしてきたことがハツカからすると問題に見えたということ。そして俺の事情を知る彼が考えたことならば、試してみる価値はある。

 

「……俺が俺であるためには必要なことです。変わらなきゃいけない」

 

 僕を超えることこそが本懐なのだから。

 納得したのか、不服だが呑み込んだのか判断はつかなかったが彼女は頷きながら俺に問い続ける。

 

「だったら……本当に誰かの言葉で嬉しかったことはないの?」

「僕が嬉しいと思ったこと……」

 

 なんだろう? 

 目を閉じて、意識の中に一冊の本を取り出すような夢想に浸る。何ページもある本。もし他人の本があればより明らかに少ないであろうページ数の本。その前半部分は論外として、後半の中学校に上がってからのことを振り返る。

 しかし、嬉しいと思ったことか。

 理世と一緒にいると居心地が良かったことだろうか。けれどもそれは褒められたわけではない。そもそも俺は告白されたことで不信感が肥大化してるのだ。賞賛を受けること自体が俺に出来ることではないのではなかろうか。

 鉛のように重い感情が自分の中で蠢く。

 

「ハツカと居て嬉しかったこととかさ」

「……」

 

 ハツカに言われてこと––––

 

「あ」

 

 俺は自然と首筋を撫でていた。

 山の中で血を吸われた時のこと。あの時は確かに嬉しいと感じていたはずだ。自分の血でハツカの口元が濡れているのが、見てはイケナイ物を見ているようで凄く興奮したし、美味しいと言われて嬉しかった。

 てっきり今後の関係を見越しての喜びだと思っていたのだが、もしかすると褒められて喜んだのかもしれない。

 そう考えると種はある?

 

「もうひとつお聞きしたいのですがいいですか?」

「いいよ」

「少し前に友人からハツカのことを悪く言われて、理由も納得できる事だったんですけどなんかモヤモヤして……紆余曲折を経て誤解が解けたのですが、突然モヤモヤが消えたんです」

「へえ……」

「人に悪く言われて変な気持ちになることが初めてでよく分からなくて」

 

 彼女にそう告げるとホッとしたように顰めていた顔を緩ませる。まるで家出をした猫が帰ってきたことを喜ぶ少女のようだった。

 

「つまり安心したってことだね」

「安心、ですか?」

「好きなもの悪く言われて苛立ったけど、今は好きだって言ってくれて嬉しかった。てことは安心したってことでしょ? そう首を捻ることでもないよ。ヒトらしい普通の感性だよ」

「……」

 

 彼女が言うことは分からなくはない。

 俺が好きなニチアサなんてその最たる例だろう。中学生にもなれば弟や妹がいない限り自然と見なくなっていくし、色々指さされることがある。理世も「なんでそんなモノ見てんの?」と言われたことがあるらしくムカついていた覚えがある。

 

「……」

「ありゃ、あんまり実感ないタイプ?」

 

 対して俺はどうでも良かった。

 自分が楽しければそれでいいからだ。誰にだって自分にとって大切なものがあるのだから、客観的に見てその人と同じその良さを理解できるはずがない。できるのは考えぬくことまで。

 だからこそ、大切なモノなわけだし。

 

「あーキミ、自分が好きなら別いいじゃんって思ってるでしょ」

「むっ……! はい」

「好きを通せるのは良いこと。でもなにも知らない奴から悪く言われたら素直に納得できないじゃん。他人の考えに嫌だと思うのも大事なことだよ。悪くない嫌悪だ」

 

 達観した視点での彼女の言葉に、ああ–––この人もちゃんと長く生きてきた存在なんだなとしみじみ思う。

 

「良かったよ。キミにもちゃんと欲求があって。初めてのことだったからちゃんと湧いたのかな」

「流石に欲求がなくなることはないですよ」

「何を言う。嫌いって言われてもどうでも良さげな態度を取られたらそう思うわ。自分にすら興味ないのかと思ったぞ。……」

 

 先ほどの会話がよほど気になったのか、安堵の表情がドンドンと険しい顔になっていき俺を睨みつけてくる。

 

「なんかムカついてきたな」

「ええ……」

「さっき私を袖にしたこと忘れんぞ……!」

「え、いつの事です?」

「嫌いって言われてそっけなく返した時だよ!? あれ、女としても人としてもナシって言われてようなもんだからね!? これで2回目だよ!」

「いやミドリさんにはぬいぐるみのような愛らしさもありますし、仕事もできるじゃないですか。女性としても人としても尊敬してますよ。僕の好みじゃないだけで」

「グフッ–––」

「え!? ミドリさん! ミドリさん!?」

「追い討ち……このクソ野郎……!」

「ああ、口が悪くなってる……」

 

 突然膝から崩れ落ちたミドリさんを抱きかかえれば、その頭の上に幻影が見えているのか目がぐるぐると回っている。

 

「なんか天使が……天使がミドリさんの頭の周りを……」

「ラブ君が、天使に……ガッ……」

 

 彼女は目を閉じた。

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 数秒経つとミドリさんは目を覚ました。

 俺を見る厳しい視線に変わりはないけれどひとまずは落ち着いたようだった。

 

「まあ、良かったんじゃない? 芽は出始めてるわけだし、あとはちゃんと育てていくんだよ」

「頑張ります」

「それと自分のやってることを役割で括り過ぎないようにね。ちゃんと偉いことやってるんだから」

「偉いこと……」

 

 視線の鋭さとは真逆の優しく俺に声をかけるミドリさんはパチンと手を叩いた。

 

「それじゃあそろそろご給仕に戻りますか」

「はい!!」

 

 同時にカランカランと店のドアが開く音がした。彼女に「自分が行きます」と言ってホールへと足早に戻る。

 彼女の時間を奪ったことも含めてちゃんと仕事もしなければ。

 

「お帰りなさいませ! お嬢様!」

 

 勇むように足を進めれば、ドアの前に立っていたのは女性、というよりは女子。俺と同年代に違いないお嬢様()

 顔にかかった金髪を弄びながら店員を待つ女子と目が合った。

 

「え?」

「……」

 

 視線が混ざり合い、お互いがそれぞれの顔を認め合うと彼女の方が先に驚きの声を漏らした。

 何故ここにいるのか分からないと言った引き攣った顔のまま彼女は続ける。

 

「……なにやってるの?」

 

 来店してきたのは誰あろう、倉賀野理世に間違いはなかった。



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第五十六夜「勿体無い。色々と……勿体無い」

 倉賀野理世–––生徒会副会長であり、吼月ショウ()の相方。

 学校では生徒会室を利用–––もとい私物化–––して、お互いに好きな番組やゲーム、本などを教え合って一緒に楽しんだりしている仲だ。学年問わず、教師なども含めていちばん一緒に過ごしているのは間違いなく彼女だ。

 そんな彼女が今、俺の目の前にいる。お嬢様()として。しかも目の前のメイドが俺だとバレている。

 理世の浮かべる苦悶の表情は受け入れ難い真実を目の当たりにした時のもの。

 俺はというと疑問でいっぱいだった。

 あと頭の中で絶叫していた。赤子が何を思ったのか癇癪を起こして泣き出した時のような驚き。何気なく見ていた映画で前日のミスを想起させられたような居心地の悪さ。なによりめちゃくちゃ恥ずかしい。

 

「……」

「……」

 

 お互いに見つめ合って数十秒、いや、数分経ったのかもしれない。

 その間他の客の存在が消失したかのように音が無くなり俺たちだけの世界となっていた。認識できるのはお互いだけになってしまった、そんな感覚。

 

「……たく」

 

 先に静寂を破ったのは理世の方だった。

 微笑むような一声の後、理世は周囲を一瞥する。

 俺の耳に他の彼女以外が発する音も自然と戻ってきて、後ろからミドリさんが首を傾げながら俺を突いているのが分かった。

 

「ほらしょうちゃん、接客」

「は、はい!」

 

 ミドリさんの声に失われていた脳の回転が正常に戻り、慌てて理世の元に駆け寄る。

 理世はこちらに向かって歩いてきていた。さっきは笑ったのに今はまるで自分のペースが乱されて不機嫌な時のハツカのような足取りだった。それがお嬢様として形になっている美しさなのだから余計にハツカを連想させる。

 と同時に、やばい–––となんとなくだが悟った。

 自分が楽しみにしていた憩いの場に学友が女装して働いているのだから腹を立てるのも当然だろう。

 

「お嬢様、お席にご案内致します」

 

 俺は焦りを心の中に仕舞い込んで、今にも引き攣りそうな顔を力一杯口角を上げて接客する。

 そんな俺に対して理世は、

 

「––––」

「え?」

 

 なんの反応をすることなく脇を通り抜ける。と同時に俺の左手が彼女に掴まれてそのまま引き摺られていく。

 理世は誰の目線を気に止めることなく、家主が自室に戻るように歩き続けた。

 

「みどりちゃん、スタッフルーム借りるね」

「え? は、はい」

「ほら行くよ。しょうちゃん」

 

 何が起きてるのか呆然としているミドリさんは、余りにも自然な振る舞いで歩く理世に思わず頷いてしまう。俺も力を入れれば対抗できなくないが、下手に事を荒立てるよりも流れに身を流した方が良さそうだった。

 理世はスタッフルームへ続く扉を惜しげもなく開いて、俺と一緒にその中へ入っていく。ガチャリと扉が閉まり、俺たちを見つめていた視線が切れる。

 

「はあああ〜〜〜!?」

 

 そして、ホールから思考を取り戻したミドリさんの叫び声が耳を劈いたのだった。

 叫びたくなるのも当たり前と言えばそうなのだが、ご主人様たちの前で大丈夫なのだろうか。割と汚い叫び声だったが……。

 しかし、あの場で理世と話すのは問題だし、かといって一度帰すのも店としては憚れる。俺からは彼女に身を預けるしかなかったのだが、

 

「ねえ、そろそろ離してくれない?」

「離したらそのまま押し倒してメチャクチャにしていいの?」

「なんでだよ!?」

「そりゃ自分の好きな人がメイドになってたら襲うわよね」

「やめろよ!?」

 

 突然の暴論に俺は思わず彼女の手の拘束から器用に離脱する。束縛を逃れた自分の手を眺めてため息をついた。まさかメイド以外立ち入り禁止の通路にズカズカと入ってくるとは思わなかったし、引き摺り込まれるなんて想像もしていなかったからだ。

 

「それでショウは大丈夫なの?」

「ん? バレてないからな、問題ないぞ」

「……そう」

 

 理世は軽く頷いて平然とこの通路を歩いていく。

 

「そうなのね」

「んだよ。……?」

「よく胸に何もつけずにいてバレなかったわね」

「やめろや」

 

 彼女の隣について歩けば、理世は俺の胸部に手を押し付けてくる。

 俺はその手を払いながら訊ねる。

 

「で、理世はここで働いてたのか?」

「いいや。普通に客だけど」

「だったら大人しくお嬢様として接待されてな」

「男が手助けやってるよりは遥かに安心だと思うけど」

「グゥッ……」

「はい、ピース」

 

 パシャリといつのまにか取り出していたスマホでメイド姿の俺を写真に納める。理世は写真を見てうっとりとしながら笑う。

 

「待ち受けにしよ」

「やめろ!!」

「は〜〜い」

 

 俺の制止を聞きながら理世はスマホを弄り続ける。

 どうするべきかとため息をつきたくなる。

 少しして俺と理世はスタッフルームの扉の前まで来ていた。中に入られた以上、もうメイドとしてホールに出てもらった方が良いだろうと考えているが、それをミドリさんたちが許可するかどうかが問題だった。

 ツタツタと小さな足音が聞こえてきた。それも2対の足音だった。

 

「ちょっと何してるのキミ!?」

 

 声を張り、指を差すのはミドリさんだ。メイドの聖域でもあるこの場所を土足で踏み荒らそうとする不届者を睨みつける。

 

「まぁまぁ、面白いしいいじゃない」

「ハツカは呑気な事言ってー!」

 

 その後ろを見ればハツカもいたが、ミドリさんとは対照的に面白いことが起きたと言わんばかりの愉快そうな笑みを浮かべる。

 

「なにってメイドになるのよ」

 

 現れたふたりに興味を持たない理世は、湛えていた笑みを消してドアを開けて中に入る。

 

「ちょっと待ちなよ! キミがなんでメイドになるの!?」

「人手が足りないんでしょ? ならやるわよ」

 

 続けて俺たち三人もスタッフルームに入る。

「丈合うのあるかしら」なんて呟きながら理世はドアのそばに置かれていたハンガーラックにかけられたメイド服を物色している。

 俺はミドリさんとハツカに視線を移す。

 

「吼月く〜〜ん?」

「これはどうしようもないですよ」

 

 ミドリさんは俺が事情を話したと思っているようだが、俺は一切語っていない。語っていないが、理世はどうしてここに俺がメイドをしているのか理解している。

 

「だとしても、ホールからこっちに入るのは駄目だろ」

「こうしなかったら手伝わせないでしょ? アソコから入れば否が応でも従業員として私を扱わないといけなくなる」

 

 その辺りは首を横に振るか、縦に振るかは分からない。

 現状、これ以上他人の手を借りる必要があるほどではないし、このタイミングで俺と入れ替わっても、バレる心配は余程のアクシデントがない限りないから意味はない。

 しかし、残りの時間の心配をするなら入れ替わった方がいいだろう。

 

「わざわざショウにこんな事させる必要がなくなる」

 

 理世はバレて店に負担がかかる心配をしているようだった。

 

「第一、ショウもショウよ! なんで私を呼ばなかったのよ!」

「その時、俺がメイドになる必要があったんだ。呼んで来るまでにも時間がかかるならそこに居る俺がやるべきだ」

「アンタねぇ……! ストーカー気質の奴だって居るかもしれないのに!」

「そんな奴に俺が負けると思うのか?」

「負けないでしょうね! でも、それとこれは話が別でしょ!?」

 

 確かにストーカーになる客がいないとは言い切れない。しかし、ストーカーがいるとしても容姿はメイド服やウィッグで騙しているし、仕草はメイド用にミドリさんたちのものを使っているから問題はない。

 強情な理世はそれを理解しながらも犬みたいに噛み付いてくる。

 

「ねぇ」

 

 そんな様子を見続けるミドリさんは呆れたように割って入いる。

 

「こっちをそっちのけで喧嘩するのやめてくれない?」

「あ、ごめんなさい」

 

 流石に申し訳なさに負けて俺と理世は頭を下げる。

 

「それにしてもふたりはなんなの? えっと……」

「理世。倉賀野理世ですよ」

「なんで理世ちゃんは吼月くんが手伝いでやるって分かってて、吼月くんは呼んだら理世ちゃんが来るって断定してるのよ」

 

 ミドリさんの質問に俺たちは互いの顔を見合わせることもなく口にする。

 

「こいつだから」

 

 それだけだ。

 つまり––––まぁ、コイツならそうするだろう。という思考なのだ。

 俺たちの言い分にミドリさんが不思議そうに見つめてくる。少し首を捻りたくなったのは、一歩引いた位置で俺たちを眺めていたハツカが訝しむような視線を向けてきたことだった。

 まぁ、ハツカとしては一応落とそうとしている相手が、別の相手と合わせる事なく同じ言葉を重ねたのが面白くないのだろう。

 

「……キミらはどんな関係なの?」

「フラれた人です」

「フッた人です」

 

 そう答えるとミドリさんはいよいよギョッとした目で俺たちを見つめるようになった。

 

「後味悪くないか? このネタ……」

「笑いの種にできる方がいいわよ。一度告白を断れたぐらいならね」

 

 今後学校の奴らに聞かれたらどうするか。

 それを考えてきたときに理世が「いっそのことネタにしよう」と言い放ってきた。俺も最初驚いたけれど、理世にとって善いならそれで良い。

 口にした通り、釘を打たれるような罪悪感が心に宿るのだが。悲しさは理世も同じだろうかいいけれど。

 

「キミらってそういう関係なの……!?」

 

 固まっていたミドリさんが再び動き出して、俺とハツカを見やる。その顔は確かに驚いているが、どうなるか分からない面白さに心が飛び跳ねているようでもだった。

 

「まぁ……そうっすね……」

「珍しい仲の良さだね」

 

 告白を断った一般的な人たちの関係性がどうなのかは知らないが、学校の奴らの反応を見るに疎遠になることが殆どなのだろう。

 そう思うとこの関係は俺として、やはり有難いものだ。

「でも、そうか–––」と呟くとミドリさんの視線が、俺たちの鼻の位置から下に向かう。

 

「勿体無い。色々と……勿体無い」

「うん。確かに勿体無いね」

 

 残念そうにぼやくミドリさんの視線の跡を追うようにしてハツカも目だけを動かした。

 俺は何を見ているのだろうかと首を捻る。首の付け根あたりを見ているのは確かなのだが–––

 

「ふたりはどこを見てるんです?」

「どこがって、そりゃ……大きいところ」

「……?」

「まあ何がとは言わないよ」

「そうよ。ショウにはまだ早い事だわ」

「腹立つな〜〜」

 

 ハツカとミドリさん、挙句に理世までもが腕を組みながら大袈裟に頷き合っていた。理世が腕を組むとふたりは目と鼻を強く開いていたのが気になったが、それを訊ねる時間はなかった。

 

「吼月くん、一回ここを出ようか」

「え?」

「出るだけで良いから」

「え、はい」

 

 いっそのこと理世にもメイドをやってもらうことにしたのだろう。

 ミドリさんに促されて俺はスタッフルームの外に出ていくため、ドアノブに手をかける。

 

「……朴念仁」

「は?」

「もう少しこの人たちみたいに変態(バカ)になりなさいよ」

「…………最初のはよく分からんが、馬鹿になるのは善処はしよう」

 

 外に出て俺は三人の会話を待つことにした。

 

「……」

 

 静かな通路に俺はひとりきりで立つ。

 ここを出ていろ–––とだけ言われると、ホールに戻って仕事だけしていればいいのか、通路で待って理世と交代するべきなのか分からず手持ち無沙汰になる。

 辛い。暇というのが辛い。

 寝るということもでき–––

 

「立って寝ればいいのか」

 

 いや、流石にそれは仕事をしている人達がいる中で手伝いの俺が寝るのはいけないだろう。

 どう暇を潰したものかと考えながら唸る。

 

「あれ? でも着替えるならハツカも外に出ないといけないよな」

 

 普段の姿ならバレないとしても今日は男の姿だし、なによりハツカがそこまでして理世の着替えを見たいと思うだろうか。吸血鬼である彼が手順を踏まず、欲望に身を任せて嫌われるようなことをするとは考えにくい。

 やるなら眷属にしてからでも。

 というか、女の着替えが見たいなら宇津木や時葉に頼めば良い。あのふたりだってスタイルいいし、なにより自分の眷属なのだから。

 

「気になるな」

 

 ハツカが何をしでかすのかと思いながら、俺はドアにそっと耳を這わせる。中の声を聞き通ろうと集中する。

 

「……」

 

 中で会話する三人の声がドアを伝って耳朶を打つ。

 

「倉賀野ちゃんってさぁ、大きいよね」

「何がです? ミドリちゃんも貴方もハッキリ言ってくださいよ」

「……それはねぇ、僕から言うのは憚れるよね」

「ふむ。おっぱい大きいよね」

「揉みます?」

「……!?」

「いいの……!!」

「いいよ、ふたりとも」

 

 三人の雰囲気を悟り、俺は思わず顔を両手で覆った。一触即発という雰囲気ではないし、理世も楽しんでいる節があった。

 

「……」

 

 それでも俺にとって何か大きなものが勢いよく叩かれた気がして、ホールへと覚束ない足取りで進み出す。

 ホールへの扉を押し開いて、ご主人様()の前に立つ。

 辺りを見渡せば何事もなく仕事は進んでいるようで、彼女たちがうまく回してくれたのだと確信した。良かった。俺のせいで逆に運営が滞ったらいけないし。

 

「あ、しょうちゃん」

 

 俺が戻ってきた事に気がついたアリサさんが駆け寄ってくる。

 

「大丈夫だった?」

「……」

「しょうちゃん?」

 

 アリサさんが俺を覗き込んで来るので、俺は思わず彼女に告げてしまった。

 

「アリサさん……」

「どうしたの?」

「み、ミドリさんたちに穢されました」

 

 彼女の両手を握り、訴えるようにしてそう話した。

 アリサさんは俺の目と手を交互に見つめながら、それ以外動きが停止してしまっていた。

 

「は」

 

 ついに動き出したと思えば彼女は口を大きく開いて叫ぶ。

 

「はいぃぃい!!!?!?」

 

 ホールに激震が奔る。

 

 

 

「いやぁ〜〜参ったね。まさかアリサちゃんが飛び込んで来るとは」

「しかも、何故か僕らが吼月くんを汚したみたいな話になってるし」

「『何やってるんですか!! ミドリちゃん!!』て、あそこまでの叫んでるアリサちゃん初めて見たよ」

 

 吼月くんを外に出して倉賀野ちゃんの胸の話をしていると、突然アリサと呼ばれるメイドが飛び込んできた。

 彼女は蘿蔔ハツカ()らが吼月くんに何かしたという話で聞いていたようで、その事についてはすぐ誤解は解けたのだが、タイミングが問題だった。

 

「理世ちゃんの胸をガン見してた時に来るとはアリサちゃんも間が悪い」

 

 飛び込んできたのがミドリちゃんが倉賀野ちゃんの目の前で触るか触らないか決めかねていた時だったので、こちらは大慌て。

 

「あはは、おっかしぃ〜〜」

 

 騒ぎの中心であるはずの倉賀野ちゃんは騒動を気に留めることもなく、自分のスマホを見て笑っている。

 突然の来訪者に驚いた僕らの写真を眺めているようだ。

 吼月くんの親友なだけあってこの子も中々食えない子供だった。

「キミも食えない子だね……」とミドリちゃんも同意見らしく少し照れながら呟いた。

 

「それでミドリちゃん、私のは柔らかかった?」

「………はい、沈み込むほど良いモノでした」

「……」

「あ、蘿蔔さん。ちょっと羨ましがってるでしょ」

「ないよ」

 

 ミドリちゃんが照れているのは、倉賀野ちゃんによって彼女の手が胸に押し当てられたことが原因だ。

 突然の来訪のあと突如として手に伝わる感触に驚き続けたミドリちゃんの顔はそれはもう朱に染まるなんてレベルではなかった。その姿も倉賀野ちゃんのスマホの中に収められている。

 本人は「後でチェキ代として払えばいい?」と口にしている。

 

「ま、嫌なら後で消しますよ」

「なら消して」

「はい」

 

 恥ずかしそうに頬をかきながらお願いするミドリちゃんに見せるようにして、倉賀野ちゃんは迷いなく写真を消し去ってみせた。復元もできないようにしっかりと消すから、彼女にとっては執着などない遊びなんだ。

 

「キミって意外と破廉恥なの?」

「どうでしょう。女子だけだと触り合ったりもしますし、それが嫌いな子がいたら遠ざかるだけですから、破廉恥云々よりも純粋な遊びって感じですね。ウチのクラスにもおっきい子いるので」

「ふーん」

 

 頷きながら僕は中々性格が違うなと思った。

 もちろん相手は吼月くんとのわけだが、彼女は明るく気さくだ。(セキ)くんの話では、倉賀野理世は真面目な生徒だと聞いていたが、固すぎるわけでもなくちゃんと相手を見て遊んでいる。

 遊び心のある優等生だ。

 人助けに邁進する吼月くんとは気質が違うというか、少なくとも表面上のタイプとしては彼女は夕くんの方が近いだろう。気質としては夕くんだけど、それでも噛み合っているのが吼月くんと倉賀野ちゃんなわけだ。

 

「ふたりって本当に仲良かったんだね」

「なんですかそれ? フラれた人に対する嫌味?」

「いいや。ふたりは『ベストマッチだから』って聞いてて、気になってたからさ」

 

「そう言うわけですか」と彼女は頷いた。

 

「キミも人助けとかするの?」

「必要ならしますよ。当然でしょう」

 

 その返答だと、どのあたりが彼女の範疇なのか分からなくなってしまったのは吼月くんと過ごした弊害かもしれない。

 それを見抜かれたのか彼女は続ける。

 

「ベストマッチですから。ショウと私は価値観が似てるので、大体やろうとすることは同じですよ。自分のやれることをやるだけです」

「……それは他の学校の子でも困ってても助けるってことだよね」

「ええ。安心してください。私たちはお互いにできることもできないことも自覚してますから」

「本当に?」

「もちろん。だってバッチがない人に弁護士は任せられないのは一目瞭然ですよね」

「……ああ」

 

 その例えを言われてひとまず彼女の言い分を呑み込んだ。園田の件では下手に自分が動くのではなくキチンと知り合いの弁護士に話を持って行っているのだ。

 分かってはいるのだろうけど、必要なら、出来ることなら突き進むという危うさを彼女は肯定していた。

 

「それで気が合って好きになったの?」

「いいえ。そこは普通にヒトとして当たり前のことですから。できないなら化け物ですよ」

「それは言い過ぎじゃない?」

 

 そう言い返す僕らに彼女は少し驚きながら目を左右に動かす。

 

「なら吼月くんのどこが好きなの?」

「あ。それ僕も気になる」

 

 容姿はともかく深くまで彼を知ろうとすると、彼のダメな部分も見えてくるから一度恋愛的な好意を抱いている子の声を聞きたかった。

 

「そうですね。ちゃんと善いところは良いって、悪い部分はいけないって言えるところ。しかも悪い部分は口だけで終わらせずに、バレーが苦手な子から頼まれれば教師に褒められるレベルになるまで一緒に練習しますし。

 そんな最高最善を目指す姿が好きなんですよ」

「へえ〜〜」

 

 中学生の恋バナにミドリちゃんは楽しそうに聴いている。

 

「女装を見破ったのも好きだからだったりして」

「当然でしょう。好きな相手の一挙手一投足を見破らないほど落ちぶれていませんよ」

「けっこう強火だな……」

 

 彼女の口ぶりから本当に好きなんだと伝わってくる。吸血鬼だからより鮮明に理解できる。

 吼月くんが吸血鬼になったら真っ先に眷属になるのは彼女だろう。

 

「本人には? 吼月くんには直接言ったの?」

「言って理解してくれると思います?」

「あぁ……」

 

 しかし、倉賀野ちゃんの言い分にミドリちゃんが落胆する。当然僕も流石にため息をつきたくなる。

 恋してくれてる相手の言葉すら信じられないもんな……吼月くんは。

 

「最高最善ね」

 

 確かに間違いなく美点だし、優しい一面でもある。

 学校生活で他にどんな事があるのか僕は知らないから深くまで言えなかったが、限度というものはある。

 

「そういえば教師からも頼まれごとするって言ってたっけ」

「あぁ……多分それはアレですね。部活へのクレームの」

「部活のクレーム?」

「最近よくあるじゃないですか。生徒の声が煩いってやつ」

「ニュースとかでたまに見るね」

 

 確か公園でも騒音だって騒いでた奴らがいた記憶がある。

 

「その時に教師や生徒、保護者からの話とか、クレームを出した人が小森にいつから住んでるのかを調べて黙らせた事があるせいで、無駄に頼られるようになってしまって……」

「……え、それは自分からやったの?」

「いいえ。一年の時に教師から生徒会に流されてきたモノを押し付けられただけですよ」

「あの子はもぉ……」

「情報収集用のメールや集計、クレーマーへの説得もひとりでやったせいで去年の生徒会は教師の贔屓であの子一強になって、また押し付けられてるし」

「……えぇ」

 

 頭が痛くなってくる。押し付けられたとしても、生徒がやるようなことではないと教師に戻すべきことだ。

 

「今も生徒会はやってるんだよね? それも押し付けられて?」

「あ、いやそれは……そのぉ……」

 

 語尾が弱くなっていく彼女の姿を見て僕らは首を傾げる。

 

「私のせいなんです。生徒会に入ったのは」

「どういうこと……?」

「えっとですね。多分知ってると思うんですけどウチには夜守コウや夕マヒルって生徒がいるんですよ」

「あ、ああ、よく知ってるよ」

 

 いきなり知っている名前がふたりも出てきて僕らの背筋が少し伸びる。なんせどちらも吸血鬼候補だから、変に気を張ってしまった。

 

「ショウは少なからず2人に憧れがあったので」

「そうだったの?」

「ショウが憧れてるって自覚してるかは分かりませんけどね。けど、あの子の人並みな笑顔は2人を見て覚えたものですよ」

「……へぇ」

 

 吼月くんが夜守くんと夕くんに憧れているいうのは初耳だ。しかし、そう考えれば吼月くんが夜守くんと再開して一晩で名前呼びになったのも頷ける。

 

「……盗撮専門の探偵にそんな子がいるとは」

「待ってください。ウチの生徒はここで何をやってるんです?」

「倉賀野ちゃん。脱線するから後にしよう」

「そ、そうですね……」

 

 倉賀野ちゃんは頷いて話し続ける。

 

「けど同時に違和感もあったようでして」

 

 名前ではなくフルネームだったわけ。

 尊敬もしているが、同時に異物感を覚えてしまった原因。

 

「その違和感っていうのが–––」

「なんで大して居たいと思えない相手と一緒にいるのか」

「その通りです」

 

 僕の推論を彼女はおもむろに肯定した。

 

「人助けしてれば多かれ少なかれそれ以外の人にも囲まれるもんじゃないの?」

「いえ、ショウの場合は助けたら去っていくタイプなので、学年問わずに仲が進展しなくて悶々としてる人が多い感じですね」

「つくづく勿体無いことをするね」

「……自惚れないためっていうのもあるのですが、ふたりと違ってショウはコミニティーを作る理由が分からないんです。ある時、私に『なんでアイツらは態々興味もない奴らといるの?』と聞いてきたことがあったんです。

 それで『なら部活か委員会にでも入れば分かるんじゃない?』って言った結果……」

「生徒会に入った、と……」

「ええ。元々優等生として見られていましたしすんなり入って」

 

 クラスでコミニティーができないなら集いに参加するのは手だろう。学校じゃなくても沙原くんのようにクラブでも良い。

 でも、今の吼月くんからの様子として理解はできなかったのだろう。

 

「ショウのことなので仕方ないことではあるのですが、ただ負担を増やすだけになってしまって……」

「罪悪感でキミも生徒会に入ったってこと?」

「学校では私が必要ですし」

 

 遠回しな惚気か?というツッコミは胃の中に収めつつ、僕は理解する。少なくとも彼女は吼月くんにとって僕レベルで大切な存在なのだから、それを口にする権利がある。

 少なくとも心配で、悪意があるわけではないのだからいい。

 

「色々心配なんですよ。しかも夜守コウが不登校になってからは自分から率先して助け出すようになってますし……」

「ん? なに。夜守くんの不登校にショウくんが絡んでるの?」

「いいえ、全く。仲良かったわけでもないですし」

「だったらなんで?」

「夜守コウが無理してるのを知ってたから」

「あぁ……」

 

 彼女の口にする理由は吼月くんが考えそうなことだった。

 同時に勿体無い生き方だなとつくづく思う。だって自分の関係のないところに深入りしすぎても、自分のためには決してならないのだから。

 

「だから、気になってるんだけど–––」

 

 今度は倉賀野ちゃんが僕を見据えて話しかけてきた。

 

「なんでショウにあんなことやらせてるの」

「……?」

 

 僕は思わず首を傾げた。

 知らない人からすれば男である吼月くんをメイドにすることに違和感を持つ人もいるかもしれない。しかし、彼女が発するのはどこか怒りのようなものに思えてならなかった。

 

「わざわざショウに接客させるなんて。あの子がメイド喫茶なんて来るはずないじゃないのだから、貴方がやらせたんでしょう」

「合ってるけど……そっち……?」

「え?」

 

 どうやら着眼点自体が違ったようで僕の反応を見て彼女は戸惑いながら、何かボソリと呟いた。

 

「なに?」

「いいえ。意地悪でやってないならいいんです」

「失礼だな。……」

 

 僕は黙って倉賀野ちゃんの様子を観察し、思考する。

 接客をさせるなんて–––というのは衝動のことを言ったいるのだろうか。

 彼女の様子からして時折吼月くんが相談しているのは間違いないのだろう。価値観の違いはともかく明確な欠点を話すことはないだろう。だととしても、彼女は吼月くんの衝動のせいで目の前で告白を断られたのだ。

 馬鹿みたいに仲が良いと言われる関係でフラれた。

 なら、何かしら勘づいていても不思議ではないが。

 

––––それにしても他人を嫌っているって決めウチしてる言い方だな。

 

 彼女の言い方はあまりにも断定的すぎる。

 

「あの子は子供ですから関わるならちゃんと面倒を見てあげてくださいね。5歳児……いや、6歳児を扱うつもりで」

「そのつもりだよ」

 

 彼女の喩えに眉毛をピクリと動かしながら頷いた。

 言われなくても眷属にするのだから当たり前だ。

『子供ですから』と念押しされるほどのことではない。脈略もなく百足伝説を例えとして使ったり、頭を撫でられて嬉しそうにしたりする。知恵も精神も子供だ。

 僕の返答に彼女は肩の力を抜いた。

 

「……なんというかさ」

 

 沈黙していたミドリちゃんが口を開いた。

 

「ふたりって気が合うっていうか……なんか保護者みたいだよね」

「ある意味親みたいなもんだし」

「私はまぁベストマッチですし」

 

 当たらずも遠からず。

 あの子に接しようとすると自然とこれが最適解かなと思って行動している。吸血鬼の本能か、血に左右されたのかは分からないが僕がやる事だから間違っているとは思わないし。

 

「ま、応援しましょうよ」

 

 そこまで言われて倉賀野ちゃんは思い出したようにミドリちゃんに訊ねる。

 

「それで私ってメイドとしてそろそろ出ていいですよね?」

「あ、そんな話してたね」

「すっかり忘れてた」

「大事なのに……」

 

 倉賀野さんが肩をすくめながらぼやく。

 

「だって、私の休憩が終わったら吼月くんと交代して終わりだし」

「マジですか……?」

「マジマジ」

「うっっわ、やらかした〜……! 最後に顔出ししてメイドのひとりですってやっていいです?」

「いいよ。今後呼んだら手を貸してくれる?」

「予定が合えば構いませんよ」

 

 スマホを出し合って連絡先を交換するふたりのついでに僕も頂いた。

 人騒がせな子だなと思いながらも、あの騒動も吼月くんのためなんだろうなと僕は思う。吼月くんがどう受け取ったかは分からないが、『わざわざショウにこんな事させる必要がなくなる』という言葉は間違いなく不安から来るものだろう。

 こんな子がそばにいるのによくもまぁ……信頼できないなんて言えたものだ。

 いや、倉賀野ちゃんでもダメだったから『できない』って思ったんだろう。

 

 価値観だって合うし、好きなものだって似ている。

 だというのに、それでも無理なのは根本的に人間のことが––––

 

「たく、世話が焼けるよ」

 

 ちゃんと僕のモノにして、何もかも曝け出させてやる。

 

「そうだ。倉賀野ちゃん」

「はい? どうかしましたか?」

「さっきの答え、教えてあげる」

 

 逸らしていた話の答えを僕は彼女に伝える。

 

「頭を撫でたらあの子がもっと笑えるようにするためだよ」

 

 僕の答えに彼女は少し嬉しそうに笑った。



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第五十七夜「夢中にならないでください」

–––あはは……

 

 メイドとして働いている限り表には出さないが、俺の心の中に乾いた感情があることを自覚していた。

 発端は理世たちの会話にあるのだが、何故か分からないが強いショックを受けていたのだ。それがひとつのワードに衝撃を受けたのか、それとも会話全体に対して衝撃を受けたのか自分でも判然としない。

 

「まさかミドリちゃんが顔を真っ赤にして驚くとは……」

「先ほどはお騒がせしました……アリサさんには本当に頭が上がりません」

 

 数分で何度も口にした謝罪をして、会話をしていたことを思い出す。

 ホール作業に復帰すると、俺はご主人様やお嬢様たちに軽く会釈して回っていた。その流れでアリサさんとチェキをすることになった。お嬢様とアリサさんとチェキを撮り終えた所で、軽く会話することになったのだ。

 

「状況が悪かったよ。みどりちゃんもアレ言ってたし、触ってたし」

「……」

「なに、アレを具体的に言って欲しそうな目をしてるんです?」

「してないですよ。あと触らせたのは理世ですよ」

 

 流石に客の前で場をわきまえたのか、アリサさんは少し頬を赤らめながら言葉を濁す。潜めた声が余計に恥じらった様子を際立たせる。

 何を指すのか。率直に言ってしまえばミドリさんの『おっぱい大きいよね』発言のことだ。

 

「もしかしてしょうちゃんってあまり免疫ないタイプ?」

「別にそういうわけでは……その手の話題をしたこともありますし」

 

 体育で一緒になる飯井垣から理世の容姿が良いという話題を振られたことがある。その時には『いい脚だよな』なんて言われていた。

 もしかしたらアイツとは趣味が合うのかも–––などと余計な考えは捨てておくとして、特別変な感情を抱くことはなかった。少なくとも心に大木を叩きつけられるような感覚には襲われていない。

 

「その辺りの感性が最近になって育ってきた節はありますけど」

 

 人の部位に対する好感を性欲と一纏めにするのは憚れるかもしれないが、個人的にはそうした話題に対して自分が反応するようになったのはハツカと会ってからだ。詳しく言えば、ハツカと銭湯に入ってからだと思う。

 俺は顎を引いて、自分の胸を見る。

 なんら恥じることのない男らしい胸筋の凹凸のみがある、なだらかな胸だ。けれども、この場において正しい物なのだろうか。

 視線を上げて目の前にいるアリサさんの胸を見る。

 

「アリサさんの大きいですよね」

「言葉だけならセクハラなのに全く不純を感じない……なんか納得いかないですね」

「いまは欲の話はしてないですから」

 

 理解さえしていれば特に慌てることない。

 アリサさんの胸は女性らしい豊かな膨らみがメイド服という特殊な装いの影響で更に強調されている。思い出してみればミドリさんの胸も突き出ていた。

 メイド服というのは女性の特色を強く出せるように設計されているのかもしれない。

 

「嘆く訳ではないですけど、やっぱり詰め物とかした方が良かったですか……?」

「今更じゃないかな」

 

 ミドリさんの口ぶりからして頼めば貰えたかもしれない。

 自分で断ったこととはいえ、やはり付けておいた方が良かったかなと今更後悔してしまっている。

 

–––いいや! 俺は男だ! 何も間違っていない!!

 

 俺の意思を後押しするように近くの席から待ったをかける声が飛ぶ。

 声の主は先ほどチェキを撮ったお嬢様だった。どうやら耳を立てて潜めていた会話を盗み聞きしていたようだった。

 

「しょうちゃん、待ちなさい。まな板にはまな板の良さがあるんです!」

「……?」

 

 俺は意味がわからず、すぐにアリサさんに耳打ちで訊ねる。

 

「まな板ってどういうことですか?」

「えっ……とねえ、胸が小さい人のことかな」

「僕はそのタイプの需要がある人に人気なのか」

「需要……需要だけど、しょうちゃんの場合はちょっと違う気がする……」

「どういうことです?」

 

 俺は首を傾げていると、またお嬢様から進言が来る。

 

「背が伸びたらスレンダーになってしょうちゃん平野も見栄え良くなって……そうだ! ふたりとも、猫耳カチューシャつけてもう一枚チェキお願いして良いですか?」

「ええ、構いませんよ」

 

 アリサさんが笑顔で頷くとすぐにこちらに振り返る。

 

「つまりね、猫や犬を愛でる時に雌でも普通、胸とか気にしないでしょ? それとおんなじだと思う」

「待ってください。自分、本当に愛玩動物として見られてるってことですか!?」

「それは目元が原因かなあ」

 

 自覚はしていないが媚びるような目線をしているのだろうか。

 ……そう思うと自分が情けなく感じてしまうが、ここでは良い働きをしているので良しとしよう。

 

「胸、ね……」

 

 衝撃を受けたのは今まで理世を性欲が混じった目線で見たことがなかったからだろうか。胸が大きいなんて目に止めたこともなかったから、ハツカたちに言われて初めて気がついた。

 俺は今まで理世のことを女子として見ていなかったのだろう。

 これは男として見ている訳ではなく、男女を差し引いて理世という個体で見ていたからだと思う。個人的にそれが悪いことだと思えないが、今後は女子だということも意識して関係を作った方がいいかもしれない。

 そしてハツカのことだが、いつもは見た目が女なだけでアイツの軸は割と男だ。女性の大きな胸が好きでも当然だろう。

 

 宇津木も時葉も胸大きいもんな……。

 

 俺が胸のことを気にするなんて阿呆らしいと思うが、ハツカはよく俺に女装をさせる。男ではなくハツカと同じ女装側に立たせるつもりでいるならば、俺は自分の身体を見直した方がいいのかもしれない。

 そう頭の中で考えを巡らせるが、どうにも納得できない。俺自身が男だという主張もそうだが、きっと他にもある。

 理世がハツカに気を許すのも、ハツカが理世に興味を持つのも理解できる。しかし、なぜか釈然としない。それが何故なのか分からない。乾いた感情に水をやれども、逆に中の水分が奪われるような感覚に陥る。

 

「はい、ピース!」

 

 猫耳カチューシャをつけて再度アリサさんと一緒にチェキし終えると、別の客からの呼び出しベルが鳴る。お嬢様に別れの挨拶をしてからそちらへと向かう。

 呼び出したのはハツカのようだった。

 

–––ハツカのところか……てか、アイツ普通にスタッフルームの方に来てたけどバレなかったのかな……?

 

 今更疑問に思うが、吸血鬼だし人に見つからないよう壁をすり抜けてきたのだろう。

 柵で姿を隠す席に座るハツカの下に歩み寄る。

 

「お待たせしました、ご主人様」

「おかえり」

「やっほ〜しょうちゃん」

「……ひぅ?」

 

 ハツカだけが座っていたはずの席にもう1人、珍客がいた。理世がハツカの対面に座っていたのだ。

 いつの間にか戻ってきたのだろうか。

 理世はケラケラと笑いながら俺に手を振る。

 そんな彼女はメイド服を着ていた。

 

「お嬢様のメイド姿、僕、とても好きですよ。大変似合っております」

「そう? ありがとう」

 

 どうやらメイドの仕事をやるつもりのようだが、彼女の前には既に半分ほど飲み干されたミックスジュースが置かれている。食い尽くされたオレンジがジュースに浸かっている。

 

「お聞きしたいのですが、仕事するのかしないのかどっちなのでしょうか。お嬢様?」

「そう急くんじゃないの。呼んだのは蘿蔔さんだし、私だって元々客として来たのよ? 代金も払うし、これくらい良いじゃない」

「しょうちゃんのお友達ってマイペースだよね」

「……お嬢様。この方に言われるのは相当だと思いますよ。ご主人様もかなりマイペースですので」

 

 俺がそう言うと、二人揃って「え?」という驚きがそのまま顔になったかのような表情になる。コイツら、自覚ないんか。

 

「それではご主人様、ご注文をお聞きします」

「コーヒーのホットのお代わり。ところでしょうちゃんよ。語尾にニャはつけないの?」

「なんでだニャ?……あ」

 

 ハツカを訝しむ俺は、自分の頭に猫耳をつけていたことを思い出す。

 友人に猫耳姿を見られるのは恥ずかしい。

 チェキ用ということもありすぐに取り外そうとするが、頭へ伸ばそうとした手を理世に掴まれた。

 

「なんでしょうか、お嬢様」

「待ちなさい。そのままの姿で魔法をかけなさい」

「既に魔法はかかっていると思われますが」

「魔法をかけてるしょうちゃんの姿が見たいのよ。あとぎゅんじゃなくてニャでお願い」

 

 俺のその姿にどんな魅力があるのか分からないがして欲しいなら仕方がない。すっ、と胸の前に手でハートを作る。

 

「萌え萌えぎゅ〜〜〜〜ん!!♡」

「んんーーっ!!」

 

 ハートを突き出して魔法をかける。

 ジュースに向けてではなく半ば理世にかける意識で魅せるように魔法を使うと、理世はスッと片手で自分の口元を覆う。

 なんやコイツ……。

 

「ふぅ……すぅ……」

 

 深呼吸を数回繰り返してから落ち着いた理世がジュースに口をつける。

 一口飲み下して、息を吐く。ジュースに目線を落とし満足そうに笑みを溢す理世に、俺は微笑んだ。

 老若男女問わず嬉しさのあまり不意にこぼす笑みは美しいものだが、理世のこうした何気ない笑みは本当に綺麗だと思う。なにか不純なものが混じっている様子がないのだ。

 その見つめた綺麗な三日月を描く唇を見て、俺はある事に気がつく。

 

「お嬢様、口元」

「え?」

「果皮が付いていますよ」

 

 オレンジの白い繊維が口端についていたのでメイド服のポケットからハンカチで取り出した。

 ハンカチで口元を拭う時、確認のため自身の顔を理世の横顔に寄せる。

 彼女の荒い鼻息が聞こえてくるが、気にせず果皮を取り除く。果皮は微かに唾液で濡れていて、ハンカチ越しに俺の指に染み込むが理世の唾液なので問題ない。すぐに乾くだろう。

 

「これでお綺麗な顔がもっと美しくなりましたね」

「……」

 

 赤くした顔のまま理世はジュースから視線を外すと、チラリと俺を視界に収めたあとハツカを強く見据えた。そしてハツカに見せつけるようにメイド服でより強調された胸を張る。

 妖しい笑みを浮かべる理世は手に持っていたジュースをその胸の上に置いた。

 

「……!?」

 

 ハツカの目線が理世の胸元に釘付けになった。

 紳士的で欲望に忠実な瞳だ。ナズナさんのような初々しさがあれば少しは可愛く見えたかもしれないが、照れなど見せず堂々と瞳に理世の胸を入れる。

 ホントこういう所は男だなって思う。

 傍から見ればかなり失礼かもしれないが、理世はハツカと同じく自分の容姿に自信がある。胸を見せつけられるのもそれ故で、男女問わず露骨でも見られるのは悪い気がしないのだ。勿論、ある程度のパーソナルスペースに入れた相手にしかやらない分別はある。

 けれど、どちらにもいい気分がしない俺がいる。

 別にハツカが理世に興味を持ち果てには眷属にしようと久利原たちと同じだけだし、理世が未知(ハツカ)に興味を持って揶揄ってるのもいつものことだ。自分が口を出すことではない。

 

「はしたないですよお嬢様。ご主人様も胸にばかり夢中にならないでください」

 

 俺はそう思いつつも腕で抱えていたトレイを理世の胸の前に出し、ハツカの視線を切った。そして俺は理世の大きな胸に目下ろす。下品だが、触ったらどんな感触がするのだろうと思った。

 してやったりとニヤケ顔をする理世が俺に訊ねてくる。

 

「蘿蔔さんとはどんな関係なの?」

「どんな関係って理世と同じくらい特別仲のいいと思ってる相手だよ」

 

 俺がそういうとふたりとも面白くなさそうな顔をする。

 

「友達ってこと?」

「今はそうですね。今後はダチになりたいと思ってますよ」

「なるほど。いいポジションじゃない」

 

 訝しむ理世が俺の答えに理解を示して頷いた。

 一方ハツカは「君たちだけで分かる言葉使うのやめてよ」と最もな反論をしてきた。

 

「蘿蔔さんは分からなくていいのよ」

「そう。僕らだけ分かればいいのさ」

 

 別に興味ないことにわざわざ共感してもらおうとするつもりはない。

 俺の趣味や価値観に共感など必要ことなどなく、そのままのハツカでいいのだ。

 

「それではご注文をお聞きしますね、ご主人様」

「今度は僕もミックスジュースを頼もうかな」

「でしたら、こちらのオムライスとのセットであればお得になりますよ」

「へえ、そんなに僕に魔法をかけたいんだ」

「ご主人様は自意識過剰すぎますよ」

 

 そうも思うけれど、俺はそっとハツカの耳に口を近づけて、もうひとつ本心を付け加える。

 

「……ハツカ様にならいつでもかけますし」

 

 ひっそりとした声。トレイを使って理世や他の客に口を読まれないようにしながら伝えた。俺の息が耳にかかり背筋を震わせるハツカは可愛らしい。

 何故か頬が熱くなる。いま鏡を見たら顔が赤々と熱を帯びているに違いなかった。顔はトレイで隠したままだ。それでも目線を逸らすのは嫌だったので目元だけは露わにして、真っ直ぐハツカを見つめ続けた。

 

「やばい」

 

 ハツカはそんな俺の姿に目を見開く。理世の胸を見ていた時よりも大きく瞼を開けていた、と思う。

 

「ベロチューしたい」

「分かる」

「いきなりなに戯言をほざいてやがりますか」

「ねえ、倉賀野ちゃん。このメイドちゃん口悪いよー」

 

 せせら笑いながらぼやくハツカは俺の文句なんか気にしている様子はない。言葉を返す理世も「素直になれないもんね」と言い出したのだから、実に困る。

 まるで俺がハツカたちに玩具にされたいみたいじゃないか。

 恥ずかしさに耐えかねて俺は話を元の路線に戻す。

 

「ご注文は以上でしょうか」

「うん、ミックスジュースとオムライスをお願い」

「承りました」

 

 オムライスも頼んでくれるんだ。僅かな達成感を抱きながら一礼して去っていくことにした。

 

 

 

 

 吼月くんが去ったあと、蘿蔔ハツカ()は倉賀野ちゃんと女装談義に交わしていた。

 

「ショウってやっぱり女装似合うわね……鼻血でかけちゃった」

「学校でもショウくんを女装させたら……て、話をするの?」

「しますね。上級生とは特に。私がいるから恋人は無理でも、て。その時考えてたのもAラインの服でしたね」

「メイド服ってAだから男の子特有の脚の線を誤魔化してくれるけど、ショウくんは太すぎる訳じゃないし、Iでもいけそうだよね」

「チュールスカートとか良さそうですね」

「それも良いかも。あとは黒のタイトスカートにこの間着てたコートを合わせるか、今ならメンズスカートもあるし」

 

 女装をすることに理不尽な嫌悪感を持つ相手ではなかったため、気軽に話すことができた。それどころか、異性装–––あくまでさせる側だが–––にも元々興味があったようでとても話が合う。

 こうして異性装の話ができる相手が増えるのは喜ばしい限りだ。

 

「学校とかでもショウくんの話で盛り上がったりするんだ」

「盛り上がりますけど、楽しくはないですね」

「なんで?」

「だって、ショウのこと分かってない人と話してても楽しめないでしょ。今のメイドの姿しか知らない相手と話してて盛り上がる訳がない」

 

 つまり、彼女だけが楽しめていない、ということか。

 

「なら、僕とは楽しいんだ」

「蘿蔔さんは本当にいいヒトですから」

 

 返事としては嬉しいモノだが、吼月くんを落とす相手として舐められている気がする。吼月くんからの好感度が倉賀野(人間)と同じという時点で易々と喜べないし、納得もできないけれど。

 

 さっきも仕事だからか分からないけれど、口についた食べカスを取るときのやり方が僕と違うのも腹が立つ。

 僕の時よりもずっと紳士的な対応だった。

 

 ムカつきはするけれど、見方を変えれば自分を好いている相手には紳士的な男の子が、僕の前だけでは女の子っぽくなる。目の前の少女が知らない一面を作り上げていることに快感を覚える。

 現状ふたりはとても仲がいいし、周りからは付き合っているようにも見えていたのだから、僕がやっていることは略奪愛とも言える。

 カブラさんが歪みを自覚しながらも、少なからず楽しめてる理由が分かる気がした。

 

「さっきショウにベロチューしたいって言ってましたけど」

「唐突に話題振るね」

「どんな風にするつもりですか? かなり下品な言い回しですけど」

「下品は余計だよ」

 

 そう聞かれるとどんなシチュエーションが良いかと改めて考えてしまう。

 無理やり押し倒してでもあの子はきっといい反応するだろうから楽しめるだろうけど、あの子にとっては大切なモノになるだろうから、もっと丁寧に印象付けたい。

 

「あの子の記憶がぶっ飛ぶタイミングで入れるよ」

 

 吼月くんが僕に完全に心を開いた時にやる。あの子が望みそうな劇的なタイミングでやるのが適切だろう。

 

「そういえば、キミは嫌じゃないの?」

「嫌じゃないですよ。ショウにベロチューとかしてみたいですし」

「そうじゃないよ。キミってそう簡単にショウくんを諦めるタイプでもないだろう? 僕があの子の唇を奪うの嫌だったりしないの?」

「ショウがしたいと言ってくれるなら、私の唇なんて何番目でもいいですよ。私が最高のキスをすればいい」

 

 中学生という若さならもっと駄々を捏ねてもよさそうなものにも関わらず、達観した口ぶりの彼女は、やはり吼月くんと似た少女だと僕に思わせる。

 その理性があるからこそ、そんな風に思ってる相手と一度も遊んでないっていうのはやっぱりおかしく思えてならない。

 

「ホントはショウが蘿蔔さんを尻に敷いてアタシと一緒に取ってくれると嬉しいんですけどね」

「二人同時になんてそんな甲斐性があの子にあるとは思えないけど」

「でも、蘿蔔さんって全身を縛られてる姿もお似合いだと思いますよ」

「はい?」

 

 彼女の感想に素っ頓狂な声をあげる。

 僕が吼月くんに縛られるのがお似合い?

 

「メイドにリードを引かれるご主人様とかいいじゃないですか!」

 

 結構アブノーマルな性癖をしている子だった。

 

「いい趣味をしてるねキミも。ショウくんを取っちゃう僕への意地悪かい?」

「はい意地悪です!」

「遠慮なく言うね」

「好きな人にベロチューするなんて惜しげもなく言うからですよ。愛人許可証代わりですよ」

 

 ここまで笑顔でハッキリ言われる清々しくある。人間から言われるやっかみなんて慣れたものだが。

 

「でも、やる気があればショウだってできると思いますよ」

「ありえないね」

 

 なぜ倉賀野ちゃんはどうしてあの子を評価しているのだろう。

 人の為に動けるというヒトとして大事な柱は持っている。運動もできるし、家事もできる。なにより僕が認める顔だ。一見しただけなら好きにはなるだろう。

 けれども、彼には精神面で難がありすぎる。俺口調でカッコつけなければ人助けどころか、普通学校生活ですらできていないのだ。

 プライベートで遊んだこともない彼女が、気を張っている時の人助けノンストップの吼月くんの子供らしい内面を僕以上に知ることは出来ない。

 その筈なのに、子供のように扱えと言ったり、人と合わせるなと過保護な事を言ったりする。彼女は吼月くんのなんなのだろうか。

 

「さっきは僕に人に関わらせるなって言ってたけどさ、もっと前からキミが人助けをやめさせれば良かったんじゃない?」

「止まると思っているんですか? 止まらないから善いのに」

「心配なのに?」

「心配することと好きでいることは同時にできますよ。迷わず考えて動けるからこそ、善いんですよ」

 

 もちろん、私の力が必要なんだと言われたら迷わず手をかす。

 そう口にして、惚けるように顔を緩ませる彼女に僕は見覚えがある。久利原たちだ。彼女はいま保護者ではなく久利原たちと同じく崇拝の相手に溺れるような雰囲気に包まれていた。

 僕は彼女が吼月くんに向ける想い不思議で不思議で仕方なかった。

 

「なによりショウが生きてるだけで、私は好きですもの」

 

 その言葉に僕は眉を微かに動かした。

 

「……ショウくんに昔なにかあったのか聞いたことある?」

「私はなにも聞いていませんよ」

 

 吼月くんの過去を知っているのかと思ったが、微かに首を傾げる彼女からは全く嘘の気配がしなかった。

 

「蘿蔔さんこそショウのこと知ってるんですか?」

「知ってるよ。……キミ以上に知っているかもね」

 

 なにを子供相手に熱くなっているのか、と自分でも言いたくなるほどに喧嘩腰になりかけた口調を一回深呼吸して整える。

 相手は探偵さんでもないのに、吸血鬼が人間を敵視するなんて馬鹿らしい。そう思うと一気に気が楽になってくる。

 肩の力を抜く僕は心底愉しそうな倉賀野ちゃんを見つめる。

 

「そうですか、楽しいですね。ショウのことを知ろうとする相手と話すのは。ははっ、はははーっ」

 

 彼女はそう言いと、スマホの時計を見る。そしてスッと立ち上がる。そろそろメイドとしての仕事を始める時間のようだった。

 ならば最後にひとつだけ言っておこう。

 

「倉賀野ちゃん」

「はい、なんでしょう?」

「僕が居る限りショウくんが死ぬことなんてないよ」

 

 僕がそう言うと彼女はまた笑って、

 

「ショウの救世主になれるといいですね。応援していますよ」

 

 そう言ってひらひらと手を振りながら去って行った。彼女の背が見えなくなった後、僕は軽くため息をつく。

 

 救世主ってなんなんだよ……

 

 

 

 そろそろ交代の時間か。

 店内の壁にかけられた時計を見ると、ミドリさんから指示された時間になっていた。辺りを見るとミドリさんもホールに戻ってきている。

 吼月ショウ()は手持ちの仕事を捌ききることにした。

 

「しょうちゃん、残りの仕事預かるわ」

「理、りよちゃん」

 

 その前に理世が俺の肩を軽く叩いた。

 どうやら残りの時間は理世も入るようだった。しかし、俺の仕事のためこれだけは俺が片付けようとするが、すでに休憩時間に入ったためさっさと休めた持っていたトレイを華麗に奪われてしまった。

 

「文句すら挟めなかった」

「ふっふ〜。私ですから」

 

 仕方がない。俺は肩をすくめスタッフルームに続く扉まで歩き出すと、理世が小声で俺に告げる。

 

「蘿蔔さん、いい人ね。ショウのことをちゃんと見ようとしている」

「……うん」

 

 ありきたりな言葉だったけど、仄かに嬉しさが身体に広がった。

 嬉しい。そう、嬉しかった。

 

「これからも頑張りなさい」

「なんの応援だよ」

「進化の応援。ちゃんとダチになりなさいよ」

「応えてやるよ」

 

 じんわりと感じる心地よい感情のまま扉を開けて中に入る。

 ちょうどその時だった。

 スマホが震え、ピコリンと聞き覚えのある電子音が鳴る。俺だけがポツリと立つ通路に軽快な音がよく響く。

 

「ん?」

 

 スマホを取り出して画面を見れば、そこにはメッセージが表示されていた。主を確認すると、意外な人物から送られてきていた。

 

「……ハツカに連絡だけしておくか」

 

 俺は戸惑いながらもその内容に従うことにした。

 さて、もうひと頑張りといきますか!



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第五十八夜「入るつもりかい!?」

いやだ! あと8夜でよふかしのうたが終わるなんていやだ!
あと80夜はないと嫌なのだ!!
完結してもちょくちょくよふかしのうたのアフターを描いて欲しい!!
供給して欲しい!!


 夜道を独りでぶらつくのは好きだ。

 真夜中を更に過ぎた丑三つ時なんてもう最高だ。そう考えると時間が早くて靄ってしまうが、それでもいいものだ。

 俺を知る者たち。朝を主体とする者たちなんていやしない。いるのはそう……夜の住民だけだ。人間でも外をぶらつく者なんて稀で、基本的には酒場(バー)なり、クラブなり室内で夜を楽しんでいる。夜では中にいる方が顔見知りと遭遇する可能性があるのが奇妙で面白い。外で言えば吸血鬼が跳び回っていることはあるだろうが、人間に紛れる彼彼女らも同様のことが言えるだろう。

 なんせ、さっき理世に出会ってしまったばかりなのだから。

 

「何の用があるんだろう?」

 

 夜風が服の下から入り込み、スゥと全身を撫で回るような感触を感じて身体を震わせる。

 俺は送られてきたメッセージに従い目的地へと歩いていた。

 手伝いも終わったのでハツカと一緒に向かっても良かったのだが、相手がそれを拒んだため俺は独りきりだ。独断専行ではハツカに迷惑がかかるかもしれないし、現状着ている物も彼が所有物なのだから連絡だけはしている。

 

「さて、もうそろそろだな」

 

 目的地の近道となる裏路地を見つけて、俺はその道へと歩み寄る。

 すると、背後から声が俺に向かって投げかけられる。

 

「ねえ、そこのメイドちゃん」

 

 軽薄な声が耳障りで顔を顰めてしまうが、気づかないふりをして俺は歩き続ける。知らない人に声をかけられても振り返ってはいけないのだ。

 しかし、それを妨害するように横からサッと人影が現れる。

 

「ねっ、無視しないでよ」

「俺たちの声だって聞こえてるでしょ? そこの店、いい酒があるんだけどさ」

 

 俺の目の前に一人、背後にもう1人。

 どちらも大学生くらいの男だったが、メイド喫茶で相手をした客とは違いシルバーやピアスを幾つか身につけチャラチャラした服装だった。

 酒を飲んだあと特有の息の臭さがあって酔いって怖いなと思いながら彼らを見つめる。

 

「あの邪魔なんですけど」

「そんな冷たいこと言わないでさ。メイド服、着てるのは今度のハロウィンの予行演習?」

「それならいいコスプレ屋知ってるんだ。一緒に行かない?」

「これは友達の趣味で着せられている物です」

 

 いかにもな竿師崩れの男たちは俺の行手を阻み続ける。

 彼らが薄らと浮かべる笑みには下卑たものだった。俺を物として見ているような不快な視線だが、それは彼らが俺を女子として見ているからだろう。

 よくもまあハツカや理世はこんな視線を受けて平然としていられるなと尊敬してしまう。

 

「友人と待ち合わせをしていますので失礼します」

「釣れないな〜。そんなんじゃせっかくの可愛い顔が台無しだよ」

「はい?」

 

 訳を話してから脇を通り抜けようとすると、目の前の男が俺の手首を掴み上げて俺を連れて行こうとする。思わず力を入れて逆らうと、男は若干苛つきながら俺の手首を裏路地を挟む建物の壁面に押し付けてきた。

 狭い裏路地を使おうとしたのが失敗だった。俺を囲うようにして男たちが立ち塞がると前の進路は閉ざされ、背後は壁になってしまい普通の手段では抜け出せそうになかった。

 メイド喫茶に来てくれたらお話ししますよ–––別の話題を誘導してみてと、おそらくこの男たちは自分たちの要求を無理にでも通すだろう。

 力づくで欲を満たそうとするのはある意味ハツカと同じ–––俺に女装させるし–––だが、ハツカはやる事も理由も透明だ。理解ができるし俺の意思に無理強いはさせない。

 しかしこの男たちは何をしたいのか分からない。

 少なくとも、このまま流れに身を任せるのは不味い。

 

––––どうしたものか

 

 俺がそう頭を悩ませると、

 

「キミたち。なにをやっているのかね」

 

 来訪を告げる一声が俺たちに飛び込んできた。

 突然のことで手首を掴んでいた男の力が緩み、ここぞとばかりに俺はその手を振り払った。その機会を作ってくれた本人へと視線を向ける。男たちもすでに彼女に目を向けている。

 

「女の子に無理強いさせるナンパなんてダメじゃないか」

 

 おもむろにコチラに歩み寄ってきたのは探偵 鶯アンコであった。左手の人差し指と中指で持っているタバコから白煙がもくもくと夜の空へと昇っている。

 

「……!」

「あ」

 

 彼女は慣れた動きで男たちの間に割って入る。左手を胸に添えて、右手で俺の手首を掴んで優しく引いてくれる。男たちとは違う力ではなく気持ちで道を歩かせるような心地よさがあり、俺は自然と従った。

 

「ほら、行くよ」

 

 俺たちは手を引かれて歩き出す。

 鶯さんは後ろ手で男たちに手を振る。

 

「キミたちもシャンとしたエスコートをしたまえ。あ、練習相手なら私がしてあげてもいいぞ」

 

 顔だけ振り返り、ニヒルに笑って彼女は言う。

 

「愛煙家の女が嫌じゃなければ、ね」

 

 タバコを咥えて駆け足でこの場を煙に巻く。

 男たちの目線はすでに俺ではなく鶯さんに向けられていて、酔いが深まったように呆然と立ち尽くしていた。

 見返り美人とは正しくこのことだと思った。

 裏路地へ深くまで入り込むと、男たちの姿どころか俺と鶯さん以外の気配は感じられなかった。

 

「助けてくださいありがとうございます。カッコよかったです」

「どうということはないよ。私も知人と会うのにあの道を通りたかったのもあるしね」

 

 仕事柄あの手の輩とはよくやり合うしな、と探偵を生業としている彼女らしい一言も添えられた。

 

「しかし、キミもキミだ。メイド服なんて着て夜道を歩いていたら誘ってくださいと言っているようなものだ。ハロウィンはすぐそこなのだから、それまでは家で着ていなさい」

 

 優しく諭すように言う彼女と眼が合う。空の天辺に居座る月の明かりで彼女の眼が照らされる。

 

「……?」

 

 そうして、ようやく彼女の顔が引き攣りはじめた。

 

「もしかしてキミ……吼月くん、かい?」

「ええ、そうですよ」

「ついにそこまで行ったのか!?」

 

 思考が一旦停止した彼女の叫びが夜を劈いた。

 建物が密集する裏路地の中だからか声がとても響く。児玉し、重複する驚きが彼女の驚きをより鮮明にする。

 俺としてはドッキリ大成功!というわけだ。

 

「まったく。なにをやっているんだね、キミは……それにその声に髪は……」

「メイドさん?」

「それは見れば分かる!!」

 

 鶯さんはリアクションが大きいので話していて楽しいなと思う。

 そんな感想はさておき、俺は彼女の問いに答える。

 

「ほら、『ゔぁんぷ』ってメイド喫茶があるじゃないですか。あそこの人手が足りないし代わりも見つからないから頼まれたんです。メイドやって!て」

「小繁縷ミドリのところか。……だが、女装は違うだろ。ましてや外で着るなんて、蘿蔔に感化されたのか?」

「女装は嫌ですよ。仕事なだけですし、知り合いには見られたくない……見られたくなかった。ただ俺は今日、家に帰っていなくて制服しかないんですよ。それよりはマシかな、と」

「ふうん。制服で来てたら速攻でお巡りさんのお世話だな」

 

 吸血鬼と会うのをやめさせる口実になる、彼女はそう言いたげに鼻で笑う。そのまま俺を見下ろし、頭から足先までじっくり眺める。

 警察に連絡されるのは俺としても大問題だからご勘弁。

 

「それにお嬢様相手なら見せてもいいかなって。どうですか? 似合ってます?」

 

 俺はミニスカートを広げるようにして、くるくると回る。彼女に褒められたらどう思うかと考えての行動だった。

 傘のように開くスカートから太腿が露出するのを、触れてくる乾いた風で感じ取る。そしてもうひとつ、太腿を突き刺すのが鶯さんの視線だ。膝を抱えてしゃがみ込むと広がったスカートの中の脚を嗜めるように見つめてくる。

 

「ふむ……男なのが惜しいくらいの美脚だな。中学生らしい綺麗で健康的だ」

「あ、あれ? これ、まだ回ってたほうが良いやつですか?」

「回れ」

「はい」

「どれどれ」

 

 鶯さんの願いに従い回り続けていると、彼女がスカートの中に手を入れた。

 何をするんだ。俺は首を捻りながら彼女が満足するのを待ち続ける。

 すると、サワっと両の太腿に何かが触れてくすぐったさと驚き、なにより羞恥で俺は飛び跳ねて後退る。

 

「は!? ええー!?」

 

 スカートを裾を押さえて距離を置いた相手の顔を見る。月明かりが差し込み、満足げな彼女の顔がよく見える。

 嗜虐心に満たされたかなり悪い表情だった。タバコから昇る煙が彼女の顔半分を隠すので余計に口角が吊り上がって見えた。

 

「ようやくそのしたり顔を歪ませられたよ」

「〜〜〜!!」

「なにを照れているんだい? 自分から見せつける淫売男のくせに」

 

 そんな顔のまま鶯さんが俺に迫る。

 

「キミのソレはただの現実逃避なのかい? それとも何もかも無かった事にしたのかい? いや、ホントは私にこうされたかったんじゃないか?」

 

 騙された腹いせなのか唇を噛み締める俺を見てご満悦の鶯さんは捲し立てるように続けた。近づいてきた彼女が俺の太腿から右の腹までを手のひらで撫で上げる。

 

「吸血鬼になるのをやめたまえ。そしたら、蘿蔔の代わりに私が爛れた関係となってキミを助けてあげよう」

 

 迫る彼女の妖艶な顔を見て俺はどうするか迷ってから、

 

「さあ、どうなんだい?」

「はい、鶯さんがお望みならばどんな関係でも」

「んっ」

 

 彼女は真っ当に返されるとは思っていなかったようだ。妖艶に笑ってみせていた顔が一気に崩れ、照れ出して顔を背ける。

 タバコを咥えてその先から昇る煙で俺からの視線を遮った。

 自分から仕掛けておいて誘いになられたら照れ出すなんて、まるで恋バナになった時のナズナさんのような反応だ。

 

「したり顔、崩れましたね」

「このぉ……! ……はあぁ」

 

 ムカッと青筋を立てる彼女だが、煙と共に苛立ちを大きく吐き出せば一気に落ち着いた。

 

「ちっ。化かし合いだと敵わないにないな」

 

 鶯さんはそう吐き捨てると、静かに俺を鋭い眼で睨みつける。しかし、その瞳には昨日別れた時のような完全に俺を敵と見做す澱んだものではなかった。

 

「……蘿蔔は来てないだろうな」

 

 鶯さんが一瞥するのは俺の服装。恐らく目立つ服装をしてハツカに分かりやすくしているのでは、と疑っているのだろう。

 彼女の問いに俺は迷いなく肯首する。

 

「ええ。探偵さんが、独りで来てって言うから待っててと伝えてあります」

「言ったのか!?」

「いきなり居なくなったら騒動になりますよ」

「言ったら確実に探すだろ!!」

「その点は大丈夫ですよ」

「何が大丈夫なんだね……」

 

 理由、そんなものは簡単だ。

 俺はメイド服から取り出した物を頭を抱える鶯さんに見せた。

 

 

「はあぁぁぁ〜………」

 

 蘿蔔ハツカ()のため息が止まらない。盛大に吹き出すため息でミックスジュースの水面に波紋が生まれる。

 僕の近くに立ち寄っていたミドリちゃんが首を傾げてきた。

 

「どうしたの、ハツカ? 顔色悪いよ」

「いや、ちょっとね……」

 

 僕が歯切れ悪く応えるとミドリちゃんの疑問は更に大きくなったようで、心配そうに僕を見つめる。

 

「そういえば吼月くんはまだこっちに来ないの?」

 

 手伝いが終わったためミドリちゃんの呼び方がしょうちゃんから吼月くんに変わっている。

 彼女の疑問に僕は尚も歯切れが悪く言い淀む。

 

「それがね–––あぁ……まぁ……いいか」

「え? なに? どうしたの?」

 

 身体を前に突き出すほど怪訝そうにミドリちゃんは僕に問いかける。

 躊躇いながらも僕は彼女にコッソリと話し出す。

 

「実を言うとショウくんが探偵さんに会いに行っちゃっててね……」

「は……? 誰って?」

「吸血鬼殺しの探偵」

「はぁ!?」

 

 飛び跳ねるように驚くミドリちゃん。着地の衝撃でテーブルや椅子がガタッと揺れ動いた。

 気が動転したようすの彼女が重ねて問いかける。

 

「え? なんでなんで?」

「なんか呼び出されたらしくてさ。それで『探偵さんに会ってくるけどいいよね?』って友達に会いに行くような感じで言われてね……」

「止めなかったの!?」

「止めたよ。けど『誰の弱点を持ってるか確認するのにちょうど良くない?』って言うし、一緒に行くって言ったら探偵さんの条件で『ダメ待ってて』って言うし……」

「それを呑むハツカじゃないでしょ」

「なんだけど……」

 

 僕はそっと席をずらしてホールを見渡し、倉賀野ちゃんを視界に収める。

 彼女はいま二人の男性客と写真(チェキ)を撮っていた。しかしその目線はカメラではなくその先にいる僕に向けられていた。

 

「あの子に監視されてるんだよね……」

 

 さっきからずっと僕は彼女の眼に晒されている。唯一外れるのはシャッターが切られるその瞬間だけだ。

 

「吼月くんの指示なわけか。あの子、理世ちゃんが自分のこと好きだって知ってて良いように利用してるとかは……」

「多分、利用されてたとしても彼女は分かった上で従う子だよ」

 

 実際のところは利用なんて考えもしないだろうけど。

 写真を撮り終えた彼女がスマホを取り出すと、ニヤッと笑ってからそれをこちらに向けてきた。スマホを持つ手を振るようにして、ちゃんと見ているから、と僕に釘を刺す。

 

「……たく、諦めが悪い子だよ」

 

 思わず愚痴をこぼす。あそこまで拒絶されたのに会いに行ける神経はどうかしている。

 でも唯一安心していることがある。それは吸血鬼になれる彼が殺されることは無いということだった

 僕はスマホを眺めて、またため息をついた。

 

 

 吼月ショウ()が見せたスマホで鶯さんは一応納得はしてくれた。

 理世とのビデオ通話でのやり取りを彼女に確認してもらったのだ。その映像では、メイド喫茶の中で理世を恨めしそうに見つめるハツカの姿が映し出されていた。

 鶯さんは見ている途中、『画面を揺らすな、酔うだろ』とツッコんだいた。やはりノリがいい人である。

 

「お嬢様」

「お嬢様言うな」

「なら、鶯さま? アンコ様? 鶯エンプレス?」

「……お嬢様にしろ。あと、最後のはおちょくってるだろ」

「はい。それでは今宵、お供させていただきます。お嬢様」

 

 俺は立ち止まって手に持っていたスマホをポケットに仕舞う。

 そしてスカートの端を持って鶯さんにお辞儀する。大衆が想像するメイドのお辞儀といえばコレだと、学校の人達から聞いたことがあった。

「そのハイはどっちなんだね……」とボヤきながら、鶯さんは髪の中に手を入れて頭を掻く。

 

「にしても良く俺を呼び出しましたね。てっきり俺の顔なんて見たくないものだと思っていました」

「ああ。見たくはなかったよ、色んな意味でね」

 

 俺たち二人は裏路地をあてもなくぶらついていた。

 

「しかしキミのせいで会わなければいけなくなってしまった」

「……?」

 

 鶯さんがコートの左の胸ポケットに手をやった。

 彼女が俺を呼んだ理由はなんだろうか、と考えながらハツカやミドリさんたちの弱点を所持しているのか知るためにどう誘導しようか彼女の様子を見ながら図る。

 

「それよりも……キミはいったいどちら側なんだね?」

 

 よく意味のわからない質問だったから続きを待った。

 

「裏切り者で吸血鬼に肩入れして私と敵対しているのかと思えばこちらの条件はキチンと呑む。だからと言って吸血鬼と敵対している訳でもない。なんなのだね、キミは」

「別に吸血鬼の味方だと人間の味方でもないだけですよ。自分の理想の邪魔は倒す」

「一番信用ならないタイプだな」

「どっちつかずだからですか?」

 

 彼女はゆっくりと深々と頷いた。

 

「そうだ。つまりキミは考え方が合わなければどっちにでも着く風見鶏という訳だろう? いつ背中を刺されるか分かったもんじゃない」

 

 鶯さんの考え方は真っ当だ。

 守りたいものは守る、狩りたいものは狩るは個人の裁量に準じたスタンドプレーだ。当人に芯があっても他者から理解を得るには時間がかかる。

 なにより鶯さんのように相手全てを敵視している人からしたら、敵の仲間としても映るのだ。

 

「それは蘿蔔からも言える事だ。キミは自分の立場を分かっているのかい? キミの考え方や行動は今すぐにでも吸い殺されて仕方がないものなんだよ」

「だから吸血鬼と一緒にいるのはやめて、お嬢様側につけと?」

「そうだ。私は奴らの戯言を信じちゃいない。キミはまだ吸血鬼になっていない。まだ引き返せる場所にいる」

 

 俺は自身の手首に視線を移す。

 

「さっき俺を男たちから引き離すとき手首を掴んだのは吸血鬼か確認するためですか?」

「そうだ。夜に目立ち、綺麗な容姿で異性を釣るのも吸血鬼がよく使う手口だからな」

「俺、お嬢様のそんな強かな所も大好きですよ」

 

 もし、吸血鬼だったら手を掴まれて人気が無い場所で目を抉られ、口の中で銃を咥えさせられていたかもしれない。殺しはできないだろうが、男たちが吸血鬼に犠牲になる可能性をゼロにできる。

 感想を語る俺を鶯さんは蔑むような視線で射抜いた。

 

「残念だが、私はキミみたいな日和見が嫌いだ。アイツらが見せている優しさは人をたらし込むための罠でしかないし、殺さなきゃいけない化け物だ。それを人の優しさ()を食べさせて理解させようなんて甘い事を……」

「理解じゃなくて洗脳ですよ」

「なんだって?」

「思想の変革なんて理解では生優しい。洗脳だと言った方が適切です」

 

 通常の感情では成し得ない、奏斗先輩たちのような極まった感情が相手の意識に深々と突き刺さったそれは、味わうなどという工程を飛び越えて、強制的に当人の意識を芽吹かせると表現したほうが良いと俺は思う。

 

「殺す術が吸血鬼が人間だった頃の私物なんて手に入るか賭けになるものしかないのなら、確実に手に入る血という精神干渉剤を使って考え方を植え付ける手も合わせて打った方がいい」

「それで変わらない奴がいるのだよ」

「ええ。士季のように仲間への想いを感じて考えを改める吸血鬼も居れば、星見キクのように自分に向けられた恋心を直に感じられるにもかかわらず他者のことも思慮に入れない吸血鬼もいる。そう……お嬢様のお父様の血を吸ったにも関わらず」

「……!」

 

 星見キクという名前が出た途端、鶯さんの顔つきが険しくなる。その輪郭はカオリが身につけている仮面のように敵意に満ちたものだった。

 口にするのも憚れるような静かな殺意が彼女の周りを漂っている。

 

「だからこそ、俺はお嬢様の血の力をお借りしたかったんですけどね」

「被害者の血だからか?」

「自分のせいで起こった事件です。暴行と組み合わせて使えば、少なくとも脳裡に引っ掛かりはするでしょう」

「……どうだか」

 

 鶯さんは立ち尽くして、夜の中に諦めを吐き出した。渦巻いていた敵意や殺意が一気に霧散していき、代わりにドロリとした重たいものが彼女の中に溜め込まれているのを感じる。

 

「奴は多くの男を眷属してきたが、その後に付き合いがあったものを私は知らない。アイツにとっては誰もが有象無象にひとりにすぎないのかもしれない。……私の父も」

 

 悲しくて辛い声色だった。

 幸せだった家族を壊したキッカケの吸血鬼が眷属にした自分の大切な父親をポイ捨てしたとなれば、どんな想いが内に渦巻くのか俺には全くもって想像できない。

「クソビッチですね」としか俺は言えなかった。

 鶯さんは乾いた笑みを浮かべながら、ああと肯定の意を溢した。

 

「だけど、わたしの感情が本当に怒りに満ちているかわからない」

「それはどういう?」

「……きみはあのヘンテコな吸血鬼に私の事情を聞いたんじゃないのかい?」

 

 ヘンテコ吸血鬼……カオリのことだろう。

 俺は「あらましだけは」と彼女に答えた。

 

「なら分かるだろう。結果がどうであれ……私の父にも問題はあったんだ」

「……??」

 

 突然、鶯さんが被害に遭った自身の父親に謎の罪を着せてるので俺は思わず首を捻るしかなかった。

 そんな俺を見かねて鶯さんは「子供にはまだ早かったかな」とあやすように呟いた。

 

「星見キクと一緒に居られなかったとはいえ、父は吸血鬼になった。間違いなく奴に恋をしていたんだ」

「ええ、そこは分かります」

「そのあと父は……私と母に浮気を認めて、『大事なものを思い出したんだ』と謝ってきた。やり直そうって言ったんだ」

「……」

「その言葉が真実なのか私には分からない。フラれて傷心し自分の立場を守り為についたホラじゃないのか? 私たちのことなんて微塵も省みてなかったんじゃないのか。

 そんなことを考えると問題の全ては父にあったんじゃないかとすら思えてくる」

 

 俺は鶯さんの吐露を黙して聞いていた。

 その間、ジッと彼女の瞳だけを見つめて。

 

「本来、不貞行為は第三者にあたる星見キクには問題がないとされ、全面的に悪いのは妻子が居ながら浮気をした父にある」

 

 だから、と浅く呼吸を繰り返しながら彼女は紡ぐ。

 

「だから、私がやっていることは父を取られたただの腹いせにすぎなくて……本当に吸血鬼に怒っているのか分からなくなるんだ」

「つまり八つ当たりをしてるに過ぎない……?」

 

 俺の言葉に鶯さんは「ああ」と肯定するわけでも、相槌を打つわけでもなくただ自嘲するように笑ってみせた。

 彼女の想いは本心だろうか。

 

––––違うな。悲しい演技で間違っていないって言って欲しいだけだ。

 

 鶯さんの願いがどうであれ、俺の意思には全くもって響かない。

 響く必要なんてないのだから。

 俺は一度、大きく……大きく息を吸ってから言い放つ。

 

「鶯さんって案外間抜けなんですね」

 

 彼女の顔が一瞬で文字通り間の抜けたものになり、それが見る見るうちに怒りへと染まっていく。踏み抜かれた地雷が爆発するように怒りが広がる。

 

「このォッ……!!」

 

 当然だ。家族を奪われた悲しみも、過ごせたはずの幸せな時間を無くした者にかける言葉として、聞き流すことは出来ない言葉なのだから。

 

「ふざけるなよ! 家族を奪われたことなんてないくせに! 無理やり幸せを壊されたことだって無いくせに!! ノコノコと吸血鬼と一緒にいるくせに!!」

 

 臨界点に達した彼女は、遂に俺の胸ぐらを掴んで怒鳴り始めた。

 聞いていて心が痛くなるような叫びで、俺は思わず目を瞑りかけたがそれはダメだと鞭打って彼女の顔を、色の消え失せた瞳を見据え続けた。

 泣き袋が膨れ上がって今にも溢れそうだった。

 こぼせ、吐き出せ。俺は心の中で叫ぶ。

 

「わたしは、私は嬉しかったんだよ! 久しぶりに家族が揃って……誕生日を祝ってもらえて! これからまた幸せに過ごすんだなって! 七草との約束を破ってでも家族と居たかった!」

 

 十年間溜め込まれてきた感情が噴き出される。

 弾けるような怒りのまま彼女は右の手で拳を作り、構えた。ググッと引き絞られる拳も震えている。

 今にすぐに一撃が放たれても不思議ではない。

 

「なのに……なのに……!」

「それでいいんだよ」

「は?」

「キョウコ様も正しいんだよ」

 

 俺は鶯さんの身体に腕を回して抱きしめる。自分の熱が伝わるようにギュッと力を込めて。

 一瞬、彼女の力が抜けて……穴が空いた風船のように怒りが萎んでいく。

 

「キョウコ様、落ち着いて聞いてください。まず貴女の父が恋をしたことと、貴女の家族が壊れてしまったことは無関係だ」

「なにを馬鹿のこと言って……」

「恋をしてしまうのは仕方のないこと。人の心に歯止めをかけること自体が間違いだ。そしてお話を聞く限り、父親がキョウコ様や母に恨みがあったようにも思えない。なにより、貴女のご両親は事実を受け止めた上でもう一度やり直すことを決意したように感じた。

 本人たちが一緒にいると覚悟を決めた以上、分からない心に文句をつけても仕方がない。貴女のご両親が選んだ道に間違いなんてないんですよ」

「……っ」

 

 今度は彼女が俺の言葉を静かに聞いていた。

 いや、彼女の面食らった表情を見る限り、呆気に取られていたと言った方がいいかもしれない。

 

「もし、問題があるとしたら星見キクがキョウコ様の父に吸血鬼にしたことを……吸血鬼とはなにかを伝えなかった事に他ならない!!」

 

 そうだ。唯一問題があるとしたらそこなのだ。

 

「もし貴女の父が吸血鬼を知っていたら母親の血を吸い尽くすことなんてなかった! 夜にしか活動できなくなったとしても仕事を変えながら一緒に暮らして行けた! 吸血鬼として不都合があればキョウコ様はナズナさんを頼る選択肢だって使えた!!

 そう! 全ては星見キクが吸血鬼にしたという事実を教えなかったからだ!!」

 

 この世に絶対悪があるとしたら、知る術を奪う事。そして語る義務を放棄する事だ。

 だからこそ、断言しよう。

 

「貴女は正しい!」

 

 そこまで言い切れば鶯さんは自然と胸ぐらを掴んでいた手の力を緩めた。引っ張り上げられ、爪先立ちになっていた足がピタリと地面を捉える。

 地に足をつけ、俺はそのままの勢いで語りつづける。

 

「この世の中、判断基準なんて道理が通ってるかいないか! そして自分が気に食うか食わないか! このふたつなんです! 星見キクがキョウコ様の家族にしたことは道理も通っていませんし、貴女はムカついている! なら星見キクに関しては問題ないじゃないですか!!」

「………」

 

 言いたい事を言い切った俺は絶えず鶯さんの眼を見据える。

 

「ふっ……ふふふ……」

 

 アハハハハハーーー!と夜を裂く笑い声をあげ始める。

 笑顔になることを想定していなかった俺はどうしたらいいのか戸惑ってしまう。間違いなく泣き出し沈んでいる顔よりはマシだからいいのだが。

 なにより破顔した彼女の顔は素晴らしいと思えた。

 

「はぁ〜〜……」

 

 ひとりしき笑いきった彼女は抱えていた腹から手を退けて俺を見る。

 

「まさか子供に鼓舞されるとは思わなかったよ。仮にも蘿蔔の仲間である星見キクを殺す事を肯定するなんて頭がおかしいのか」

「そうですかね? コウとか少なくとも星見キクは殺した方がいいんじゃないかなって言うタイプですよ」

「親友の親になるかもしれない奴に言うとは思えないがな」

「まあ……アイツ、マヒルのことになるとちょっとキモいからな……」

 

 学校で少し関わった時にマヒルの話になったコウの顔を思い出す。

 マヒルの話題になるとアイツグイグイ来るんだよな……。

 そんなことを思い出していると、鶯さんは再び色の灯った瞳で俺を見据えた。

 

「だけど–––」

「皆まで言うな。俺は鶯さんが笑ってくれたらそれでいい」

「……そうか」

 

 彼女は小さく微笑んでいた。

 内心俺はホッとしている。明確に地雷を踏んでこれでもダメなら、もう俺には手が負えなかったからだ。

 しかし、これで鶯さんがハツカの敵に回ることはなくなったということだ。

 良かった……良かった……。

 

 

 

 

「なら、コレからも私は吸血鬼を皆殺しにするために動く事にしよう」

「はい? 俺が認めたのは星見キクのことだけですよ」

 

 表道に出て歩いていると、不意に鶯さんがそういうので俺は思わず目を剥いた。

 

「私の行動は何も間違っていないのだろう?」

「過大解釈!?」

「それに吸血鬼を野放しにしておけば同じことが起きるかもしれない。なにより星見キクを放置してきた奴らを許せない」

「……それを言われちゃ何も言い返せないっすね…………」

 

 俺もその点についてはアイツらの問題点だと認識しているのでただ頷くしかなかった。

 ここまで意志を固められると尊敬の域に達してしまう。

 片棒を担いだのは俺なのが悔しい。

 

「やっぱり鶯さんの考え方は俺の邪魔ですね〜」

「ハッ、言ってろ」

 

 ニヤッと笑う彼女を俺は睨みつける。

 

「蘿蔔ハツカや昨日のメンツに手を出されたくなかったらキミがしっかりするんだな」

「……チッ、この……!」

 

 温情をもらったというところだろうか。

 しかし、それでは安心しない。昨日存在を知ったらしい士季やエマたちはともかく、ハツカは以前から知られている。現時点で弱点を保有しているか知らなければならないし、本題を聞いていない。

 なによりニヤケ顔がムカつく。

 どうしたものかと夜空を見上げて考え事をしていると、自分の半身が明るく照らされていることに気がついた。

 

「にしてもさっきは悪かったな。キミに家族を–––ん? どうした?」

「ファミレスか」

 

 身体を照らす光源を求めて首を動かせば、そこにあったのチェーン店のファミレスだった。掲げられた看板も真夜中でも目立つように明かりが灯っており、そこには【24時間営業】とも書かれていた。

 

「……」

 

 看板を見つめながら俺は腹をさする。

 

「うん、ここで話をしましょうか」

「は?」

「要件はさっきのことだけじゃないでしょう?」

 

 気ままに店内へ足を進めようとすると鶯さんが止めに入ってきた。

 

「待て待て。その格好で店に入るつもりか!?」

「え、いけないんですか?」

「恥ずかしくないのかい……?」

「でも、制服に着替えに行くのも面倒ですし。ここのファミレスの規約にコスプレ禁止の項目はありませんから」

 

 規約にもなく、なにより仕事である以上、店員達は普通に接客してくれるはずだ。気にしないといけないのは俺の方だと思う。男だとバレるわけにはいかないからな。

「しかしだな–––」と反論を続けようとする鶯さんに俺は待ったをかける。

 

「実を言うと俺、今日は昼からなにも食べてないんですよ」

 

 腕時計が示す時間を見ればすでに22時半を回っていた。

 昼食も眠気が影響して少ない量をゆっくりと食べていた。噛む回数が多いから満足感は作れているのだが、やはり量が足りない。……足りない、量が!

 そう自覚すると、グゥと腹の虫が鳴り始めた。

 

「……」

「お願いします」

「……仕方がない。分かったよ」

 

 懇願するように鶯さんを見上げれば、良心の呵責からかしばらく黙ったあと渋々頷いた。

 彼女の返答に俺はグッと拳を握った。

 

「イエス! なら、行きましょう!」

「押すな押すな……全く、大きな弟を持ったみたいだな……妹か?」

「店ではしょう呼びでお願いします。色々問題があるので……」

「注文が多い子だな。……むむ」

 

 俺は彼女の背を軽く押して入店しようとする。彼女の顔は意を決して覚悟のあるものだった。

 

「いらっしゃいませ〜」

 

 店に入れば深夜でも通常運転の店員の声が聞こえてきた。

 

「何名様でしょうか?」

「ふたりです」

 

 奥から出てきた女性店員と鶯さんが話し始めたので、俺は彼女の陰を踏まない位置で待機している。

 話しながら店員は俺のことをチラチラと見ている。彼女だけではなく他の店員たちもだった。

 幼いメイドがコートを着た女性に付き添いながらファミレスにやって来たら否が応でも目につくだろう。

 

「……し、ショウ、喫煙席でもいいか」

 

 鶯さんが振り向き、俺に尋ねる。

 平静を装っているが言葉の節々に照れ臭さが滲み出ている。

 

「はい、お嬢様のお好きな席で構いません」

「……お嬢様?」

 

 一言でザワっと喧騒が店内に広がって、突き刺す視線が鶯さんに注がれる。それが彼女の羞恥を決壊させる最後の一押しとなって、

 

「ああ!! もうその呼び方やめろ!!」

「はーい、鶯さん」

「店員さんお願いします!!」

「あ、分かりました〜〜!」

 

 顔を真っ赤にした鶯さんに手を開かれて、俺は店内を歩いていた。



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第五十九夜「今はまだフリーなんです」

 俺と鶯さんは店員や数少ない客の視線を浴びながらファミレスの中を歩いていた。喫煙席ということで他の人の目線を遮る壁もあり、ふたりでテーブルを囲った時には周りの人たちの眼は消えていた。

 

「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのタブレットからお願いします」

「分かりました」

 

 最後の店員も立ち去って、残ったのはタブレットを手に取った俺と口をモゴモゴと動かしている鶯さんだけだ。

 

「酒飲みます?」

「飲まん。まず私は弱いんだ」

「へえ〜……」

「なんだ。胃が軟弱とでも言いたいのかい?」

「いいえ。酔った姿も見てみたいなって思いました。その時の鶯さん、もっと可愛いのかなって」

「絶ッッ対に飲まん!!」

 

 朱の入った頬を鎮めるように彼女はお冷を手に取って、グイっと一気に飲み干した。空けたコップをテーブルに叩きつけて、そっぽを巻いてしまう。

 気を紛らわせようとしたのだろうが、顔の赤みは増すばかりだ。

 

「酒はともかく……とりあえず俺は頼み終えましたけど、鶯さんはなに食べますか? 焼売とか」

「ツマミじゃないか。キミだけ頼めばいい」

「……分かりました」

 

 注文を終えた俺はタブレットを元の場所に戻すと、俺は鶯さんを見つめ直した。

 

「それで俺はなんで呼ばれたんですか?」

「ようやくだな。キミを呼び出したのはコレが理由だ」

「……?」

 

 恥ずかしさを消した真剣な顔になる鶯さん。

 彼女はコートの胸ポケットの中に左手を突っ込んで、懐から取り出したのは封筒だ。俺が学校帰りに彼女が住まうホテルの郵便受けに入れたものだった。

 そっちから出すんだと思いながら彼女を見つめる。

 それはすでに封が切られており、彼女が雑にテーブルの上を滑らせれば中身がパラパラと撒き出される。出てきたのは一万円札が数枚。中にはまだ結構な数が入っているので、封筒には厚みがある。

 

「これはいったいなんなのだね?」

「依頼料です」

「依頼料?」

「依頼した奏斗先輩たちの件の料金を支払っていなかったので–––」

 

 そう言いかけたところで俺は口を閉じて考える。

 

「五十万では足りませんでしたか!? すみません。命を張ってもらったのにこんなハシタ金しか用意できなくて……自宅ですぐ出せたのがこれだけだったので……」

 

 言い訳がましくなってしまうが本当のことなのだ。

 

「あ。以前事故にあった時の慰謝料だったそうでして、別に怪しい金がではないですよ!」

「逆に怪しく思えてくる……が–––」

 

 なにか言いたげな鶯さんだったが、深入りすることを避けて彼女は言う。

 

「それは返す」

「ダメですよ。俺はあくまで個人ではなく、吸血鬼殺しの鶯探偵事務所に依頼して命まで張ってもらったんですから。無銭は認められないです」

「私が良いと言ってるんだから問題ないのだよ」

 

 鶯さんの意思ならば頷くしかなくなるので、こちらとしてはかなり困る。彼女とは金でもなんでも良いから最低一つでも明確な繋がりを残しておきたいのだ。

 やはり依頼した段階でキチンと話を詰めておくべきだった。

 

「それにもう金なんて使う予定なんてないしな」

 

 独り言を呟くような、今すぐにでも消え入りそうな声を聞きながら俺は手に持った封筒を見やる。

 使う予定がない。

 社会の中で生きていくならばあり得ないことだが、それを言われてしまえば俺が取るべき手段は一つになる。

 

「だったら俺を雇ってくださいよ。その給料としてなら、返金を認めましょう」

 

 俺の言葉に彼女は目を丸くしてハテナを浮かべる。

 

「つまり探偵として雇えと?」

「そうではなくて。この格好を見たら分かりません?」

 

 いま一度見せつけるようにして、俺は両手をソファについてゆったりと全身を見せつけるような姿勢を取る。

 そんな姿の俺を鶯さんは一瞥してから声を張り上げる。

 

「まさかキミをメイドとして雇えというのかい!?」

「鶯さんが俺をメイドとして使いたいならそれで構いませんよ。炊事洗濯やゴミ出し。それから書類整理や椅子までなんでも。どんな風に使っていただいても構いませんよ」

 

 鶯さんが望むなら、メイドとして下僕になったり、サンドバッグといった扱いをされても俺は構わない。あくまで男子にメイド服を着せる趣味が彼女にあるのならばだが。

 個人的には召使いというよりも家事代行サービスくらいを想像していたのだが、今回は服装が悪かった。だってメイド服だもの。

 

「マッサージはダメですよ。俺よりも適任がいますから」

 

 俺はマッサージだけは禁止した。

 それを鶯さんにすべきなのはナズナさんだからだ。

 けれども、彼女が反応したのは椅子という言葉。

 

「い、椅子ぅ?」

「あ、すみません。ウチのハツカがよく久利原にやらせているので」

「アイツらの所にいると毒されるぞ……?」

「でもクッキーとかケーキとか、菓子系作るのも楽しいですし、メリットとデメリットの帳尻はうまく合わせられてますよ」

「嫌ならやめればいいじゃないか……」

「自分から言い出したのに引っ込んだら負けた気がするんです–––!!」

 

 拳を握る俺をよそに、鶯さんは俺のメイド服姿をまじまじと見つめている。

 

––––そんなに似合ってるのだろうか……?

 

「鶯さん?」

「あ、んん!」

 

 鶯さんは咳払いを繰り返したのちに俺にもう一度告げる。

 

「いいと言っているだろう。結局返すならいま全部持っていけばいいだろ」

「そうしたら鶯さんに暇ができないじゃないですか」

「……? 生憎探偵っていうのは年がら年中潤ってるというわけでは」

「でしたら、休日はなにしてるんですか?」

 

 俺が尋ねれば、鶯さんは答えにくそうに目線を逸らしながら「吸血鬼の情報収集とか、捕獲や討伐とか」と口にした。

 それがあくまで昆虫標本ならぬ吸血鬼標本みたいなものであれば、まだ悍ましい趣味程度で済んだかもしれないが、彼女の働きの範疇としては仕事である。

 

「それ仕事じゃないですか」

「いや! 私にも–––」

「あんな私物が何もない部屋で趣味があるは無理があると思いますけど」

「……うるさい。悪かったな、趣味が吸血鬼の拷問だけで」

 

 取り繕おうとする鶯さんだが、無趣味という事実を否定できず肩を落としてしまう。瞳が見えなくなるほど目元に濃い陰がかかる。

 かなり気分が落ち込んでいるようで、元々気にしていたことのようだ。

 家族を殺されてからずっと吸血鬼を殲滅することだけ考えていて生きていたとなると、俺の心の内にも暗い靄がかかる。

 

「今はない、ってだけですから大丈夫ですよ。これからは時間作って楽しいことを増やしながら願いを叶えましょう」

 

 暗くなっていた顔がキョトンとした、聞き間違いかと疑うような表情に変わって俺を捉えてくる。

 

「何か変なこと言いましたか?」

「キミは……ん、いや。なぜキミはそこまで私に構う? 同情か?」

「すっごく今更ですね」

 

 間違いなく同情もあるけれど、俺の意思は既に伝えている。

 

「さっき酔った姿を見たいと言ったのと同じですよ。鶯さんには楽しく笑ってる姿が可愛いし、似合うと思うから」

 

 そして、その妄想は裏路地で高笑いをあげた時に確信した。

 

「だから、俺は俺の理想の世界のためにあなたに尽くします」

 

 鶯さんが幸せになることは俺の願いの一片である。

 自分が幸せになれるからこそヒトは他人の幸せを願う余力が生まれてくる。過去とのケリをつけて、これから幸せになることができたら、きっと鶯さんもナズナさんもコウも、そしてハツカも笑える世界になる。

 その為に必要ならば彼女の望みは出来る限り叶えるつもりだ。

 

「それに俺は鶯さんの話を聞くの好きですし、一緒に居てもいいなって思ってます」

 

 不確定な情報の中で、矜持と優しさから俺の依頼を呑んでくれた鶯さんならば、問題ないと試してみる価値はある。

 

「つくづくキミは……」

 

 鶯さんはその先の言葉を呑み込むと、首を微かに振ってから唇を歪める。意識して敵であろうとするような顔だ。

 

「どうせ」

「あ、そうだ」

 

 言いかけた声を塗り替えるように俺は手を鳴らして話を遮る。そのまま彼女の話に割り込んで語り始める。

 

「鶯さんは好きな食べ物とかありますか? 和食なのか洋食なのか……中華なのか。俺はやっぱり量が多い中華系、宮保鶏丁とかが好きなんですけど、鶯さんはどうです?」

「……私はこれといって特に」

「それは勿体無いですよ! 胃袋を満たすのは人が良くなる原動力なんですから! すっからかんだと身体中痛くて痛くて仕方がないですし」

 

 ほんと、あの苦痛だけはもう体験したくないな。

 独り言を呟くように口にしていると、視界の端で店員がコチラに近づいてくるのが分かった。

 俺たちの下にやって来た店員は「お待たせしました」と断りを入れてから、テーブルに皿を置く。

 持って来たのは焼売とか辛味チキンだ。

 俺はテーブルに備えられた小皿と箸をふたつずつ取り出す。

 

「深夜に肉か」

「背徳的でいいですよね。はい、どうぞ」

 

 箸を割って小皿に焼売をひとつ乗せてから鶯さんの前に差し出した。彼女は目を疑うような素振りを見せる。

 

「いや、だから私は」

「いいじゃないですか。楽しみを見つける為にとりあえず、ここでひとつ! 試してみるのも」

 

 俺は鶯さんにも楽しく生きる術を見つけてほしい。それが食事かスポーツ、読書なのか、はたまた一緒に居たい人といることなのか。

 それは分からないけれど、少なくとも考えるキッカケぐらいは作りたい。

 俺の提案を拒絶するわけでもなく、鶯さんが目線を落として焼売を見つめた。

 どうするか悩む彼女の最後のひと押しとして俺は箸を置く。

 

「ここの焼売、美味しいんですよ」

「そうなのか」

 

 悩んだ末に鶯さんは箸を手に取る。

 俺も自分の小皿に焼売とチキンを乗せてから、

 

「「いただきます」」

 

 手を合わせて食べ始めた。

 

 

 

 

「ここのイカの箱舟も美味しいですね。甘辛いタレとチーズが合っていて」

 

 ふたりで食べ始めた後、少しずつ単品のメニューが運ばれて来た。すでに焼売と辛味チキンの皿は回収されるだけの時間が流れている。

 

「ああ、そうだな」

 

 だというのにさっきの緩和しそうな空気はどこへやら。俺たちの間には停滞した雰囲気が漂っていて、俺はどうしたものかと考えあぐねていた。

 無言の時間が多いものだから、メインとして頼んでいたミートドリアも食べ終えてしまっていた。

 鶯さんと一緒にいられる時間も残り少ないというのに、この体たらくとは自分が恥ずかしい。

 

「今日はどこに行ってたんですか?」

「名古屋」

「名古屋ですか! あそこはひつまぶしとか美味しいですよね!」

「……」

「……」

 

 なんとか話題を広げようとするが、何故か俺を訝しむような目で見られてしまう。

 初めて一緒に飯に行った時のマヒルや他の奴らと違って、吸血鬼という明確に話題になりそうなものはあるが、趣味を作ろうというのに吸血鬼の話をするのは如何なものだろうか。

「何か最近好きなものあります?」と訊いても、曖昧な回答が返って来そうだ。

 

「七味か辛子いります?」

「……辛子が欲しい」

「どうぞ」

 

 俺は常備されている辛子が入った小袋をひとつ手渡した。

 小袋を開けて小皿に辛子を出すと、半分だけ残っていたイカリングに辛子をつけて頬張った。微かに口角があがり、ちゃんと美味しいと感じながら噛み締めているのもを見ると、今も悪くはないとは思う。

 悪くはないが、これでは一過性の興味になってしまい持続せず、趣味探しもこの場限りのことになってしまいそうだ。

 できれば俺が促さことなく、自分の手で注文用のタブレットを手に取って欲しいのだが––––

 

「なあ吼月くん」

「は、はい!?」

「そんなに驚かなくていいじゃないか」

 

 突然声をかけられて背筋をピンと張って彼女を見る。

 

「わざわざ私に遠慮していいぞ。元々キミは蘿蔔たちの弱点を私が持っているか確認する為に来たんだろう? 吸血鬼の話でもなんでも構わんよ」

「ありゃ、バレてましたか」

「探偵を欺こうなんて早いのだよ」

「ハツカの弱点は消し炭にしているので最終確認程度なんですけどね。ただ鶯さんの口から聞きたくて」

 

 けれども、弱点の仕組みがバレてからそれなりに経っているし、もし弱点を持っているならミドリさんにしろニコ先生にしろ、もう襲っているはすだ。

 その事を彼女に告げると、

 

「チッ」

 

 鶯さんが小さく舌打ちした。

 吸血鬼に対して不快感が根強く残っているのがよく分かる。

 

「やっぱり持ってないんだ」

「……」

 

 イエスともノーとも言えない顔で鶯さんは俺を見るが、目線が俺の顔を直視できていないことから図星なのだろう。

 

「そうだな。だとしたら、どうする?」

「お話しした通り手を組んで欲しいですね。呉越同舟。弱点を持っていないのならハツカも受け入れやすいでしょうし、手を組んでる間、鶯さんこことは俺が守りますから」

 

 変わらない俺の案に少し驚きの色が鶯さんの顔に浮かぶ。考え込んだあと、彼女はその疑問を素直にぶつけて来た。

 

「やはりキミとは相入れないな。そこまで吸血鬼に入れ込むにも関わらず、私にも手を貸そうとする? それに私を守るだなんて」

「現状アキラが吸血鬼に襲われてたんですよ」

「朝井アキラか」

 

 鶯さんは思い耽るように目を閉じる。

 

「ええ。加納のような吸血鬼が居ると、いつ理世や他の生徒たちが危機に晒されるか分かりませんから対策は練っておきたいんです」

「この間も言っていたな。生徒会長だから、だったか」

「それは鶯さんに納得してもらうための大義名分でもありますけどね。普通、知ったなら動くべきです」

「子供が出る幕ではないよ」

「でも、鶯さんだけでも解決しないでしょ?」

 

 鶯さんが眉間に皺を寄せる。しかしそれだけで、返す言葉も出ないのか彼女は合わせた唇をモゴモゴと蠢かさる。

 事実とはいえ十年間頑張っても問題解決の糸口すら見出せていないのだ。それを理解はできても納得はできないというのが彼女の実情だろう。

 気に食わないから吸血鬼と手を組まないのは、家庭崩壊だけが原因じゃなくて今までを否定することになるからかもしれない。

 彼女の背景的に仕方ないのだが、吸血鬼の話題になるとやはり暗くなるな。半分近くは俺のせいなのだけれど。

 

「ホント、キミと蘿蔔の関係は歪だな。敵でもあり味方でもあるなんて」

「……? 鶯さんからは俺たちはどう見えてるんです?」

「そうだな––––」

 

 煙を上げたまま灰皿に置かれていたタバコを咥えると、彼女は毒を身体に取り込んでからそれを吐き出す。

 頭が冴えたのだろう。俺を見つめて推論を語りだす。

 

「出会いは夜守くんと同じく深夜徘徊をしていたところ偶々出会い、行動を共にした後、血を吸われて蘿蔔が吸血鬼だと気がついたと言った所か。蘿蔔は七草と違って吸血のために誘い込む場所が確定していないから……眷属の宇津木あたりにでも車を走らせて、そこで吸われたのかな」

「……」

「路上で、しかも車の中で無理やりとは強姦魔な奴らだな。吸血は痛かっただろ? 怖くなかったのか?」

「どうだったかな……怖いとはなんか違う感じだったと思います……」

「……それでキミはこの間蘿蔔を利用しているといったが、それは吸血鬼の特性である人を騙す、言い換えれば信頼させる信頼する術を学ぶためかな。対人恐怖症なのだから、わざわざそんなことしなくてもいいだろうに。

 倉賀野理世をフッたのもそれが原因だろ? 一年以上ともに過ごして無理だった女子もいるのに奴もよくやるな」

 

 概ね……いや、それ以上に合っている。

 なぜそこまで知っているのかと言いたくなるほど自分が曝け出されていて、彼女のことが怖くなってしまう。

 動悸が早くなり、呼吸が浅くなるのが自分でも分かった。

 

「よく見ているのは特撮番組と昼にやっている料理番組。この間言っていた『ぶっ潰す力』云々もいまやってる作品のキャラの口癖?らしいな。厨二病なのかい? まあキミは仕方ないところもあるか。あとは音羽探偵–––」

「凄いですね。殆ど合ってます」

 

 そこまで知られているのなら後は予想がつくので、鶯さんの話を遮って、いや割り込んで中断させた。

 

「俺は吸血されるの好きですよ」

「……もしかして痛いのが好きになって乗り越えたのかい? はやく癖を捨てないとドMってことになるぞ。私のメイドになりたいのもそれが理由なのかい?」

「いや! あ、まあ……でも! 吸血って痛いのと気持ちいいの同時に来るじゃないですか」

「アレは基本的に痛いだけだった気が……」

 

 鶯さんに虐げられるのが好きなのかと言われるとショックを受ける。いや、ハッキリと否定できなかった俺が悪いし、その気が出てきているのでなんとも言えない。

 

「あれ? もしかして鶯さんって血、吸われたことあるんですか?」

 

 彼女の言いぐさに違和感を覚えた俺が尋ねると、鶯さんが気まずそうにイカリングを頬張った。それから暫く黙ったかと思うと、唐突にため息をつきつつ首を縦に振った。

 

「七草に血を吸ってもらったよ」

「吸ってもらったんですね」

 

 単純な餌だったのか、眷属予定だったのかは図りようがないが、それでも鶯さんはナズナさんに血を吸われるのは認めているようだった。

 少なくとも一緒にいた頃は。

 

「鶯さんの血は美味しいんですか?」

「どうだろうな。七草から血の感想をもらった記憶はないし、今は不味いからな」

「血って不味くなるんですか?」

「一年以内に吸血鬼化しなかった者は眷属になる可能性がゼロになる。そんな人間の血を吸わないように本能レベルって訴えてるんだろう。キミだって好きこのんで不味いものを食べやしないだろう?」

「……そうなんだ」

「蘿蔔にずっと自分の血だけ飲ませようなんてことはできないのだよ」

 

 その指摘に喉元が痛くなる。

 彼女の話が本当ならば、少々俺の計画にも変更が必要かもしれない。

 

「なる気がないキミはまだ良いが、どうであれ吸血鬼になるのはオススメしないよ」

「人間を騙す悪だからですか?」

「それもあるが、吸血鬼になれば狂うからだ」

「というと?」

 

 俺は首を傾げて尋ねた。

 

「本田カブラなんかがいい例だが、相手が好きでその相手も自分の気持ちを理解しているのに恋人同士にもなれない。それ故に恋愛感情を拗らせて歪んでいく。

 あの女は吸血鬼への初恋を拗らせて他人(ヒト)の男を取るようになったからな」

「……ああ、不倫」

「そうだ。それだけで家庭は容易く壊れるからな」

 

 本田カブラという吸血鬼には会ったことがないが、鶯さんの地雷を踏み抜くタイプなのは確かだ。

 以前ハツカが言っていた寝取り好きの吸血鬼は本田のことだろう。

 そして拗らせている吸血鬼といえば、俺にも心当たりがあった。

 

「拗らせているといえば蘿蔔の眷属たちもか。でもアレは通常の恋慕と括るのは違うが……」

 

 ハツカに従順で嫌われることを極度に嫌う久利原たちもそうだ。

 言いつけを守れば褒美が貰えて、破ればお仕置きされる。ハツカのイメージを借りればペットと称するのが相応しいのは分かる。

 

「けど、久利原たちにも純粋な恋心も残ってたと思いますよ。他の二人がハツカと付き合ったら殺すと言ったり、時間が経ちすぎて動けない関係になってるから俺の方が有利だとか」

「ふぅん」

 

 鶯さんは心底意外そうに相槌を打つ。

 

「前者はともかく吼月くんの方が有利だ、なんてあの蘿蔔狂いの奴らが口にするのかな? 私には到底想像できないのだが」

「でも実際に言われましたよ?」

「それはキミを焚き付けるための撒き餌じゃないのか」

「ハツカの魅力を信じてる久利原がわざわざ言いますかね? だって俺の背を押さないと、ハツカが落とせないって暗に示してるようなものですよ。そんなハツカを貶すようなマネをする方こそ解釈違いというか」

 

 だから俺はあの時の久利原の言葉をすんなりと肯定できたのだが、もしかして違ったのだろうか。

 

「例えば蘿蔔が、夜守くんや夕くんの血を吸ったら嫌にならないかい?」

「特には。相手が吸血鬼になる事を望んでいないのに自分に恋してる人間の血を吸うこと以外はアイツの自由ですし」

「それだろう」

「???」

「吼月くんには独占欲というのがまるでない。如何に吸血鬼(蘿蔔)が魅力的でも、キミにエンジンが乗っていないのならどうしようもない」

 

 まるで悪いことのように言われている独占欲のなさ。

 独占欲の有る無しを気にしたことはないが、現時点でハツカが望んで眷属にした三人がいるのに俺がでしゃばると雰囲気が崩れる。見た目としては歪な関係をしているとはいえ、四人で上手くやっているのだから水を差す理由もない。

 

「恋愛感情は独占欲の発露でもある。それに歯止めがかかっているのではキミが恋をすることはないだろう」

「悪いことなんですか?」

「とても良いことだ。吸血鬼にならないのだからね。ある意味で、恋愛感情がない夜守くんよりも安心できる」

 

 ここでコウを引き合いに出されるのは、アイツがナズナさんを呼び捨てにすると無意識レベルで殴る男だからか。

 あの時の拳はかなり痛かった。

 ホント人間に殴られたのか怪しいレベルだった。

 

「俺は久利原たちと違ってハツカのダチになりたいだけですから別に構いませんけど」

「キミは本当に吸血鬼と友達になれると思っているのか?」

「鶯さんだってナズナさんと友達だったんでしょ?」

「っ……」

「ナズナさんはナズナさん。星見キクは星見キク。ハツカはハツカ。一人が悪さをするから全員同じなら、とっくに社会なんて崩壊してますよ」

 

 それは俺が一番分かっている。

 

「よく言うでしょ。少ない悪人のために大勢のいい人を見捨てるわけにはいかないんだって」

「……そうか」

 

 俺の言葉に鶯さんは残念そうにしていた。

 その顔はどこか俺の価値観と他人の価値観が離れていることに寂しさを覚える時のものに近い気がした。

 

「なら、キミに放ったらかしにされている吸血鬼はなにを思っているんだろうね」

 

 意地悪そうに訊ねる彼女はどこか虚勢を張っているように思えた。

 

「大丈夫ですよ。休憩時間まではハツカから指示を受けてませんし、今はまだフリーなんです」

「でもギリギリだろう」

「まあ、そうですね」

 

 スマホの時間を確認すればあと5分以内にここを出ないと間に合わない。テーブルの上の皿はすべて空になっているのでいつでも店は出られる。

 しかし、進展もないまま鶯さんを独りにはしたくない。

 

「そうだ! 吸血鬼に拷問するのも好きなんですよね?」

「ん? まぁ、それは好きだな。スッキリする」

「だったらいい手があります」

 

 自信満々に口にする俺に若干引きながら鶯さんは恐る恐る耳を傾ける。

 

「メイド喫茶に行けばいいんですよ」

「馬鹿なのかね」

「酷い!?」

 

 的確なツッコミに俺は思わずガーンと項垂れてしまう。

 

「まあ話だけは聞いてあげよう」

「……ミドリさんは鶯さんが吸血鬼殺しなのを知っています。もし、そんな相手をお嬢様と呼んで接客しなきゃならなくなったら、結構屈辱だと思うんです」

「ふむ」

「想像してください。吸血鬼特有の可愛らしい顔が驚きと恐怖で歪むんですよ。しかも客だからミドリさんからは手出しできない……更に今ならハツカも付いてきます。内心ビビりながら鶯さんとチェキを撮らざる終えないふたり。チェキの間なら体に触れることもできるので、頭に手を置いたり首を掴んだりすることも可能。煽るには適切だと思います」

 

 吸血鬼への嗜虐心やマウントを餌に釣ろうという策だ。

 厳密に言えばハツカはメイドじゃないのだが、俺が頼めばやってくれなくもないと思う。というかせっかくなので、理世とハツカの並んだメイド姿が見たい。

 俺の願望込みの作戦だった。

 その作戦を聞いた鶯さんの評価は–––

 

「いい性格してるよ。楽しそうだ」

 

 と、割といい評価だった。

 

「なら!」

「ダメだな」

「クソめ! やっぱりナズナさんとコウが居ないとダメか!!」

「居たら余計に行かんよ」

 

 この最後の案が却下されてしまえば現状打つ手はない。そして、時間も押していて次の手立てを考える余裕もなかった。

 張り詰めた表情の鶯さんを見ながら、俺は仕方がないと納得をつけてソファから立ち上がる。

 

「タイムアップですね。また会いましょう」

「もう来るな」

「いいえ。次も貴女から来させますよ」

 

 タブレットに表示された金額だけは確認して、そのまま立ち去ろうと背を向ける。その前に俺は思い出して鶯さんへ顔だけ動かす。

 

「そうだ。鶯さんが助けたアキラですけど、お陰様で元気にやってますよ」

「……そうか」

 

 別れの直前とはいえ緩んだ顔が見れたのは良かった。

 

 

 

 

 吼月くんがいなくなってから鶯アンコ()はタバコを咥えて肺いっぱいに煙を吸い込んだ。

 

「蘿蔔と小繁縷の恥ずかしがる顔か……見に行けば良かったかな」

 

 今更ながらに後悔しながら、私は吼月くんについて考える。

 彼は自分が危険な立場にいることを自覚しながら、それを当然のことのように受け入れている。それどころか自ら、危険な場所に立ち入っている。

 吼月くんが蘿蔔と関わった時点で吸血鬼に深入りするのは確定していたのだ。

 後戻りできるタイミングがあったとすれば、蘿蔔が吸血鬼だと気づいた時。そこで無視されしていれば、関わることもなかったかもしれない。

 

「……いや、違うか」

 

 吼月くんが沙原くんと出会ったのは蘿蔔が原因ではないらしい。

 どちらかというと彼自身に起因している。クラスメイトが倉賀野理世をフッたことに疑問を持って、探りを入れるためにあの市民公園にある体育館に連れて行ったのだ。

 どちらにせよ彼は吸血鬼に関わることになったのだ。

 

「まったくもって嫌な道だな」

 

 人と関わることに抵抗を覚えるのは事実だろう。実際、私が対人恐怖症と口にした時に反応があった。しかし、彼は容易く他人と過ごせている。それは即ち普通の生活なら送れるレベルにまでなったという証左であり、不必要に触るような部分ではない。

 なにより彼は率先して他人を助けようとする。人間でも吸血鬼でも関わらず、勿論私にもだ。

 それが嫌かと言われると否定しよう。

 

「ここまで他人(ヒト)といるのは何年ぶりかな」

 

 確かに彼と居るとペースが乱されて、上手く行かないので対抗心が燃えてしまうのはある。蘿蔔の仲間でもあるのは確かだから。

 しかし、楽しくはあった。

 夜守くんと茶はしたことあるが、ここまでしっかり他人と食事するなんて久しぶりだった。

 目的を果たそうとしながらも彼には、私を籠絡しようなんて気配はなかったし、寧ろ気遣われていた方だろう。子供に気を遣わせるなんて大人として情けないが、それだけに私のことを考えながら一緒に居てくれる人と過ごすのは十年近く感じていなかった。

 そんなキミを私が頼れば快く手を貸して、それどころか文字通り従者として働いてくれるだろう。

 彼の理想の世界から外れない限り。

 けれども、私は吼月くんとは居られない。

 

「私はキミのようにはなれないよ」

 

 彼の思想はポジティブで絶えず前を見ようとするものだ。

 七草は七草だというのも。

 全員が悪人じゃないというのも。

 居たい相手と居ればいいという持論も。

 私には理解できないくらいに真っ直ぐで綺麗なものだった。

 だって、彼は––––

 

「……」

 

 左胸ポケットからスマホを取り出して、電源を入れる。

 メモ用のアプリを開くと、その中には今日、名古屋に行って調査してきた内容が記されていた。

 私はゆっくりとスクロールして眺めて、数分かけて読み切ったそれに堪らず顔を覆ってため息をついた。

 

––––なんで化け物って言われてイジメも……周囲から虐待も……ましてや……

 

「化け物なんてありえない。吸血鬼どもの戯言なんて信じないが……七草という前例も……」

 

 私が漏らした息が感嘆のものだったのか、呆れだったのかは自分でもわからない。

 唯一言えることがあるとしたら、吼月くんは乗り越えたのだろう。

 それこそ過去に置き去りにしてしまうほどに。

 

「そうじゃなかったら私に脚を触れるなんてこと許すわけないよな」

 

 私と彼は違う。私に吼月くんを理解することはできないし、吼月くんも私を理解することはできない。

 停滞している者と乗り越えた者の差が確かにある。

 それが境遇なのか、他者の力があることに由来するのはわからない。

 

「……いいよな、キミは。死にたくなるような夜なんてないんだろうな」

 

 夜守くんもそうだが、私は彼らが心底羨ましくなってしまう。

 キミらのように過ごせたらどれだけ良かっただろうか。

 再びタバコの煙で肺を満たす。

 

「ふぅ–––ん……?」

 

 息を吐いたときに目についたのは注文用のタブレット。吼月くんが触ってから電源が入ったままになっていたようだ。

 それを見ていると吼月くんの優しい声が脳裡で響く。

『いいじゃないですか。楽しみを見つける為にとりあえず、ここでひとつ! 試してみるのも』

 自然と自分の腕が動くことに驚きながらも、止めることはなくタブレットを手に取った。

 

「……」

 

 その画面に触れて、悩む。

 私が目の前に置き忘れられた封筒に気付くのはもう少し後だった。

 

 

 

 

「良かった」

 

 タブレットを眺めながら真剣に悩む鶯さんを見て吼月ショウ()は思わず微笑んでしまう。

 それだけ確認し終えて、ようやく俺は本当に店内を立ち去る。

 

「またいらしてくださいね、メイドさん」

「……はい、機会があれば」

 

 メイドとして過ごした俺は最後まで男と気付かれることもなかった。



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第六十夜「ツーン……」

 パシャリ。

 シャッターを切る音と共に俺はピースサインを手で描く。スマホの中に切り取られた空間には、俺の他にミドリさんとアリサさん、そしてエマがメイド服姿で映っていた。

 スマホの持ち主であるアリサさんが満足そうに頷いた。

 

「うん、二人ともバッチリ」

「アリサさん、私にも見せてください!」

 

 撮り終えた写真を理世とアリサさんが一緒に眺める。

 鶯さんと別れ、ゔぁんぷに戻ると閉店後の片付けをした。清掃が終わると他の多くの従業員は帰宅したのだが、アリサさんやミドリさん、そして理世が意気投合したらしくメイド姿で自撮りをしていた。

 

「俺たちも写真に映って良かったんですか? 1日限りですよ?」

「いいのいいの。そういうのも含めてのものだから」

 

 撮影した幾つかはゔぁんぷのSNSに投稿する予定らしい。

 その流れで俺も記念に数枚だけ撮影することになった。集団撮影なんてクラス写真ぐらいなので、とても新鮮で貴重な体験だった。

 

「でもホントに1日だけのつもり? 多分アリサちゃんに聞けば男の娘系の良いメイド喫茶とかも知ってると思うけど」

「俺は別に女装が好きなわけではないんですよ……?」

「だってさ。残念だったね、アリサちゃん」

「えーー……吼月くんも筋がいいし、働いてくれたら推しにいくのにな〜」

 

 再び自撮りを再開していたアリサさんが相槌を打ちながら言う。

 彼女の趣味はメイドカフェ巡りなので知っていても不思議じゃない。俺がメイドをやることに否定的でないことから男の娘メイドも問題ないタイプなのだろう。

 

「でもハツカと居るんだし、そっちに傾くかもしれないから未来に期待だね」

「メイドになりたくなったらラインしてくださいね」

「あはは、その時が来たら考えますね」

 

 流石にもう人前で女装はするつもりはない。

 今後女装をしたとしても個人間で–––ハツカか理世に–––頼まれた時か、今回のように必要な時ぐらいだろう。

 二人の気持ちに俺はひとまず礼だけする。

 アリサさんは納得すると俺たちに提案する。

 

「そうだ。せっかくですし、ホールで写真撮りませんか?」

「私はさんせー!」

 

 アリサさんの提案に理世が手を挙げる。

 次いでミドリさんも「私も行く」と了承する。

 残るは俺だけなのだが、チラリと目だけを動かして少し離れた場所にいる一人を視界に収めたあと、俺は首を横に振る。

 

「俺はここで待ってますよ」

「そっか」

 

 少し残念そうにしているアリサさんの背中を理世が間髪入れずに押した。

 

「三人で行ってくるわよ。撮りたくなったら出てきてね」

「おう」

 

 理世のフォローを俺はゆっくりと頷いて受け入れた。

 そうして三人はスタッフルームから出て行く––––その途中、俺はミドリさんだけを呼び止めた。

 

「あの……ミドリさん」

「なに?」

「……さっきからハツカはどうしたんですか?」

 

 俺たちは揃って同じ場所へと視線を向ける。

 そこにはスタッフルームの長机に頬杖をつきながら、大きなジャッキに注がれた生ビールを乾そうとしているハツカの姿があった。酒が入って少し頬が赤くなっている。

 酔っているわけではなさそうで、瞳は綺麗なままで理性がしっかりと残っている。

 

「ホントに分からないの?」

「えっ、どういうことですか」

 

 俺はなにか気に障るようなことをしたのだろうか。

 けれども、思い当たる節がなくて悩んでいるとミドリさんが溜め息をつきながら口を開く。

 

「そりゃ一緒に来た子が自分を放って別の人の所に遊びに行ったらムカつくでしょ……というよりも、今のハツカは胃がキリキリして大変なんだよ。キミが私たちの敵と当たり前のように逢ってるんだからさ」

「酒は百薬の長って言いますもんね」

「そうじゃない」

 

 ドン引きしつつ眼を細めるミドリさんに俺は首を傾げて応じる。

 鶯さんに逢いに行ってハツカがストレスを感じる原因について俺は考える。

 今回はキチンと事前に連絡しているから自分勝手に動くのは当て嵌まらない。それに俺の理想を知っているハツカが俺の裏切りなんて見当違いなことを考えるとは思えない。かといって俺のことを心配するなんてありえない。俺の力のことを知っているのだから余計にだ。

 他にも心当たりがないか頭を中を捏ねくり回してみるが、皆目見当もつかない。

 

「本人同士で話し合いなさいよ。それが一番手っ取り早い」

「……そうですね」

 

 ミドリさんがスタッフルームを出て扉を閉めたあと、俺は直接ハツカに尋ねることにした。

 ハツカが座る椅子の真横にまで歩み寄れば彼は俺をそっと見上げて優しい口調で俺に言う。

 

「ショウくん、どうしたの?」

 

 柔らかい言葉に反したツンとした態度を向けられて、無自覚に悪いことをしたのではという考えが大きくなる。

 まるで俺を押し返そうとする雰囲気。

 女王様モードの時に何度か味わったことのある冷たく刺すような気迫とも違って、極々自然に嫌われてしまった思わせる態度だ。

 鼻にケチャップが付いているなんて冗談を言って、一度空気を緩和させることも考えるが、それだとふざけていると思われてしまう。それはハツカに対して失礼だ。

 

「ハツカはなんでツーンってしてるの?」

「ツーン……」

「悪いことをしたならちゃんと謝るから教えてよ」

 

 ハツカをジッとして見つめれば、彼は強かな笑みを浮かべて話に応じる。

 

「さて、なんでだと思う? 考えられるだけ言ってみなよ」

 

 俺はもう一度唸りながら頭を巡らせる。

 発端となったのは間違いなく鶯さんの件なのだろうが、怒る理由がわからない。けれど、関係しているなら口にだけはしておこう。

 

「えーと……鶯さんと会ったこと」

「キッカケはそれだね」

「ハツカのことを放ったらかしにしたこと」

「それも正解」

 

 ミドリさんの言葉も提示してみると正解の一つだったことに驚いた。ただそれは、正解が複数あることに驚いたのではなく、俺に放置されたことで何かしら感情が動いたことになる。

 

「その時の僕の心情を答えてみようか」

「国語のテストかよ……」

 

 俺が一時的に場を離れた程度でハツカが想うこととはなんだろうか。

 ミドリさんは、ムカつくでしょと言った。

 けれどもハツカは以前、マヒルと話しをするために俺を置いて外に出て行ったことがある。その事と合わせてみればお互い様にしかならない。

 それにあの時は反応を見るためにワザとやっていた所もあった。

 まるで俺がハツカに放置されたことで傷ついたり、嫉妬したりするのを望んでいたような。

 つまり俺をハツカに置き換えて考えた場合–––

 

「もしかして鶯さんに嫉妬したの? 俺が取られて」

「残念だけど違うよ」

「だよな。ハツカが俺にそんなこと思うわけないもんな」

「……」

 

 ハツカが1時間程度、鶯さんと会った程度で嫉妬するなんてありえない。

 

「でも、悲しかったよ」

「は?」

 

 一瞬だけ、交えていた視線が解けて遠くを見つめるハツカの顔は少し沈んでいる印象を受ける。

 芝居だろうと怪しむが、表情も視線も、声のトーンも全てを含めた機微が絶妙で嘘なのか本当なのか分からない。赤みがかった頬も邪魔をして真意が掴めない。

 どちらで考えても納得してしまうほどだから、余計にどう受け止めていいのか判断がつかなかった。

 

「キミの特別って相手を蔑ろにしていいって意味だったんだなってさ。僕としては結構嬉しかったんだけどな」

「そういうわけじゃ……」

「でも今のキミは僕に聞かなきゃ相手がどう思うからすら想像もできないんでしょ?」

「…………」

 

 重ねて責められるものだから戸惑ってしまう。

 ハツカが眷属予定程度に滲ませる想いではないと理解はしているけれど、あくまで自分の思考の中の話だ。

 俺が想定している以上にハツカは傷つきやすいのだろうか。

 あまり出さないだけでテンションは爆上がりする時もあるし、喜怒哀楽だってその内三つはコロコロと表情に出たりする。哀だけないなんてことはない。

 けれども理解できないことだって残っている。

 俺にハツカがそんな感情を向ける筈がないというのもそうだが–––それよりも、別に俺は彼との間にある約束を違えたわけではない。

 

「別に約束を破ったわけでもないじゃん。ちゃんと連絡もしたし、休憩時間をどう使おうと俺の自由じゃん」

「それって僕よりも探偵さんと居る方が大事だったんでしょ?」

「鶯さんのことは早めに手を打たないとなにするか分からないし。楽しみか危機管理かだったら後者の方が優先順位は高いだろ」

 

 一緒に夜を過ごそうと思えば会いに行けるハツカ。

 いつ帰ってくるのか、居たとしても応じてくれるのか分からない鶯さん。

 接触できる機会の希少性は比べるまでもない。

 

「少なくとも俺は間違ったことはしてないよ。あの人、独りにしてたらダメなタイプだから」

「旧友みたいに言うね」

「まぁ、似たタイプの人も知り合いにはいたからさ」

 

 チラつくのは俺を睨みつけるオバさんの顔だ。ベッドに横たわりながらも俺を呪い殺さんとばかりの気迫を持つ形相。

 そこだけはやっぱり似ている気がする。身を差し出さないと、気づいた時には目の前で亡くなってしまうような感覚がとてもそっくりだ。

 

「だから鶯さんに会いに行ったことを間違ってるなんて言うつもりはない」

 

 俺の決断に、信条に違う狂いは一切ない。

 

「……そっか、ちょっと残念だな。いや、結構残念だよ。理性の方が勝っちゃうんだもん」

「常に理性が勝つのがヒトである証拠だよ」

 

 俺の反論にハツカは薄らと小さく卑下するような笑みを浮かべる。

 どういう心境なんだろう。

 他人との価値観のギャップで寂しく感じるのは理解できる。

 自分を優先してくれると思っている相手が、違う相手を優先したら普通は悲しくなるらしいし、マスター曰く傷つくらしい。

 問題はハツカから俺への認識にその不安が適用されるかどうかだ。

 やはり俺を騙すためのハッタリなのか。ホントの本当に俺が鶯さんを優先したことが悲しかったのだろうか。

 

––––嘘に決まってるだろ。自分を意識させるためのハッタリだ。

 

 自分が悲しまれるような存在かと言われたら絶対にNo、ありえない。

 しかし今のままにしておくこともできない。

 元より自分の決断以外の要因で理世との関係が絶たれるのが嫌だったから、不信感を克服したいのだ。

 故に甘えは許されない。

 絶対に曖昧な答えは許さない。

 

「とはいえハツカが悲しんだのが嘘かホントか分からないけど、問題ないって後回しにしたのは事実だ。だから……今日、残りの時間は俺をどう扱ってくれてもいいよ」

 

 悲しかったというならその溝より多くの土を盛って山を作るぐらい埋め合わせはしてもいいとは思った。

 俺の言葉にハツカは意外そうにした後、薄っすらとした笑みに愉快さが加わえた。

 

「……いいよ?」

 

 それはどちらが上で、どちらが下にいるのか示せと暗に言うものだった。

 俺はハツカと対等な立場で居たいと思うのが、今回ばかりは無理だった。

 それでもいいと俺が受け入れてしまっていて、小さく、それでいてハツカにはっきりと伝わる声で立場を告げる。

 

「どうか俺をハツカ様の好きなように使ってください」

「そっかぁ、なら仕方ないね」

 

 ハツカはニヤッと少し意地の悪い–––それでいて蕩けるような笑顔を浮かべながら俺の耳元に口を寄せる。

 

「帰ったらたっぷりとお仕置きしてあげるから期待しててね」

 

 呟かれた声に頭から足先まで、体毛の一本一本が震える。

 その震えに名前をつけるのは今の自分の尊厳を守るために、誰にも–––もちろんハツカにも–––決してしたくないことだ。

 しかし、それは自ら口にしなければいいわけではない。

 

「嬉しそうだね。なんだったら今からでもお仕置きしてあげようか?」

「いいえ。結構です」

「拒否権があると思ってるの?」

「……何をするおつもりなのですか?」

「その綺麗な顔を足置きにでも使ってあげようかと思った」

「……わかりました」

 

 冗談めかしに言う彼に俺は尋ねる。

 

「聞きたいのだけど、実際どのくらい怒ってるの?」

「せっかくなら二足歩行禁止にして、タグつきのチョーカーでもつけてあげようかと思ったぐらいかな」

「俺に人間をやめろと言っているのか……?」

「お仕置きなんだから当然でしょ。キミにとって得になったら躾にならない」

「そこまで怒るの……?」

 

 今度は俺を押し潰さんとする冷淡な言葉を投げかけられ、本来持ってる筈の尊厳を剥奪される恐怖と羞恥のあまりに顔を背けかけてしまう。冷や汗が背中で大量に流れているのが伝わってくる。

 恐怖はまだどうとでもなる。しかし、恥ずかしさだけはダメだ。

 自分から口にすれば羞恥心は削れるのに、他人から指摘されると恥ずかしさが増すのは何故なのだろう。皮相であるという安心感があったからだろうか。

 もし理世やミドリさんに見られれば、とりあえず気絶する。

 

「僕に心配させたんだから当然の報いだよね? 親に眷属を見殺しにさせるなんて大罪だよ」

「え」

 

 心配させた–––思わず俺はハツカを見つめながら首をかしげる。

 ハツカは一転して柔和な笑みを浮かべる。

 

「僕はキミと違って探偵さんが人間には危害を加えないなんて思っていない。ショウくんがいくら死にそうにないとはいえ、キミは出会い頭に刺されてもおかしくないからね」

 

 ここでも認識の違いがあったか。

 けれどもハツカが最後に鶯さんを見たのは、俺を張り倒した時なのだから理解できる。

 それに自分の主義を矛として使われてしまってはどうしようもない。

 

「だから、キミを大切に想う僕の気持ちを置いていかないでね」

 

 今までで一番優しい声だった。

 多分、人生で一度だけ聞いた事があるような声。

 

「……うん、分かった」

 

 僕はそれを受け入れたいと強く思った。

 

「それで結局探偵さんとはうまくいったの?」

 

 話に区切りをつけてハツカが訊ねてきた。

 

「多少は進展したかな。まだ深くまで入り込めていないけど……でも、やっぱり鶯さんは根は善人だよ。だって、俺がナンパされた時助けてくれたし」

「な、ナンパ……!?」

「うん。メイド服で行ったから変な男たちに絡まれてさ」

 

 鶯さんと会う道中で起こったことを話すと、ハツカは絶句しながら声を張り上げる。

 

「やっぱり僕もついていった方が良かったじゃん! ねえ、ミドリちゃん!」

「ミドリさん!?」

 

 そして、彼は首を動かして部屋の出入り口に向かって声をかける。

 声に反応して扉が開くと陰に隠れるようにしてミドリさんが立っていた。乾いた笑みを浮かべながら彼女が部屋の中に入って、そっと俺の肩に手を置いた。

 

「あ、はは……」

 

 つまり、さっきの会話をミドリさんは聞いていたことになる。

 

「思った以上に調教されてたんだね」

「ううぅ–––! 待ってくださいミドリさん! 違うんですよ!!」

「違くないでしょ」

「ハツカは黙っとけ!」

 

 俺は赤面しながら長い……長い弁明が始まり––––

 

 

「さて、そろそろお開きの時間なわけだけども」

 

 

–––話の全容を聞いていた事もあって、思いの外弁明は早く終わった。

 

 そこからホールで写真を撮っていた理世たちと合流して、写真を撮った。

 やることを終えた俺たちにミドリさんが終わりを切り出した。

 

「吼月くんと理世ちゃん。こっちにおいで」

「なんですか?」

「ミドリちゃん、なになに?」

 

 手招きするミドリさんのそばに近寄る。

 

「はい、これ」

 

 すると、彼女はメイド服のポケットから色の異なるふたつの封筒を取り出した。今日はよく封筒を目にする日だなと思いながら、俺は理世と一度目を合わせる。

 お互い、どうするのコレ–––と戸惑った顔だ。

 その中身は十中八九、日給だろう。

 

「どうせ二人のことだから要らないって言いそうなので、ふたりはこの封筒を持ち帰るまでが仕事とする」

「そんな帰るまでが遠足みたいな……」

「ちゃんと受け取りなよ。自分たちが頑張った分なんだから」

「あと、理世ちゃんは吼月くんの個人撮影分の代金引いておいたから」

「分かりました」

 

 ミドリさんから封筒を押し付けられる。

 ただ手伝いをしただけなのに金銭を受け取るわけにもいかなかったが、返金拒否されてしまってはどうしようもない。多分ミドリさんのことだから、この場に置いていくと追いかけてきそうだ。

 理世と一緒にマジマジと封筒を見つめ––––同時に口を開く。

 

「貰いましょうか」

「ありがとうございます」

「よろしい!」

 

 澱みなく重なった声は思ったよりも快いものだった。

 

 

 そうしてお開きとなって、全員が店の外に出た。

 

「受け取ってしまったが……まぁ、今日の食費分を回収できたとしよう」

 

 吼月くんと倉賀野ちゃんがそれぞれの封筒を雑にポケットにしまうのを見ると、やはり不服なようすだ。さっきは少し嬉しそうにしていたのにも関わらず、どうして納得できないのだろう。

 ここまで来ると独善に思える。

 自分の行動にケチをつけられたくないのかもしれない。

 元々感謝や賞賛すら不純物と言うのだからあくまで自分本位の行動であり、本当は他人のことなんて知ったことではないのかもしれない。

 蘿蔔ハツカ()は心の中で首を振って否定する。

 

「食べてきたの?」

「夜中まで何も食べてなかったからさ。いや、軽くせんべいは口にしたけど」

「あんまり腹の足しにはならないよね」

「そうなんだよなぁ」

 

 間伸びした返事と共に彼は相槌を打つ。

 

「よし、みんなお疲れ様。また明日ね」

 

 ガチャリ。裏口の鍵を締めたミドリちゃんが言う。

 

「うん! 明日は休みだから……今度は会いに行くね」

「待ってますよ、お嬢様」

「私も明日また来ようかな〜……アリサさん、一緒に行きませんか?」

「なら19時にここで待ち合わせる?」

「そうしましょう」

 

 最後に軽く話だけして帰路に着く。

 各々が手を振りながら足を進め出すと、吼月くんが「そうだ」と呟いて倉賀野ちゃんの下へと駆け寄った。

 

「理世」

「どうしたの?」

「送ってくぞ。流石に夜中に一人はまずいだろ」

 

 彼の進言に倉賀野ちゃんは面食らって足を止める。振り向きはしてないが明らかに動揺していて、好きな相手からの誘いに頭を悩ませた。

 

「……」

 

 吼月くんの行動自体に間違いはない。女子中学生を真夜中にひとりで彷徨くのを黙認するのは人として問題がある。

 その点で言えば彼に好感が持てるが、納得いかないな。

 

「う〜〜ん……別に良いや。私のウチ、すぐ近くだし」

 

 悩んだ末に倉賀野ちゃんはひとりで帰ることにした。

 その選択に僕は少々驚いた。せっかく好きな相手に居られるチャンスなのに、と思ったが、今の吼月くんにただ送ってもらうだけでは友人から逸脱することはできない。

 夜だし強引に行く手もあるが、僕がいるからやめたのだろうか。

 ひとりで解釈していると、吼月くんもまた驚いていたが僕とは異なる箇所に疑問を持っていた。

 

「あれ? そうだっけ」

「そうそう、だから安心して。いざとなったら(ワン)ちゃんでも呼ぶわよ」

 

 犬ちゃんは警察ってことなんだろうけど……今時犬呼びする子も珍しいなと思わず口元が緩んでしまう。

 

「……分かった」

「私よりも制服のまんまのショウの方が心配よ」

「うっ……言い返せん」

 

 渋々と言った様子で頷いた吼月くん。

 

「困ったらちゃんと呼べよ、俺のこと」

「ふふっ、そうね。ショウならまた来てくれるわよね。じゃ、また明日」

「またな」

 

 互いに笑い合い手を振ったあと、今度こそ二人は別れる。

 本当に仲がいいなと思う。

 それと同時に僕の中の吼月くんという攻略ハードルが高くなった気がした。

 

「ごめんなさい、待たせちゃった」

 

 吼月くんが僕の下に駆け寄ってきた。

 

「いいよ。それぐらい」

「……ホント?」

「ホントだよ。嘘ついてどうすんのさ」

 

 ズイっと顔を寄せて、文字通り穴が開くほど僕の顔を見つめてくる。

 そんなに僕の言葉が信用ならないの?

 そう文句をつけたくなったが、先ほど吼月くんの気持ちに揺さぶりをかけたばっかりなので疑うのも無理はないか。

 

「そっか」

「わかればよろしい、行こうか」

「うん」

 

 ようやく僕らも帰路に着く。

 表通りに出て横並びになって歩き出す。

 

「結局どうだった? 僕の言葉、理解できた?」

「う〜〜ん……そうだねえ……」

 

 ふたりきりになった途端、吼月くんの口調が幼いものへと切り替わる。

 いつも思うがその一気にネジが緩むのはなんなんだ。気が緩んだなんてレベルではなく、突然酔い出してネジが飛んだみたいだ。

 

「褒める言葉や感謝が相手にキチンと伝わることは自分の存在感、俺に置き換えれば自己肯定感が増す。そしてその言葉を受けた側は無性に嬉しくなる。例えばやったことが本人にとって普通でも他人とは基準が違うし、相手が恩義を感じてるなら胸を張るのが礼儀。

 ミドリさんの話や今日の諸々の体験で出た解答かな」

 

 かと思ったら、ガチガチにスパナでネジが締められたような理屈を纏ったいつもの調子に戻る。

 ミドリちゃんが遠回しに答えを教えたのだろうか。

 感情的な回答ではないのは減点ポイントだが、頭で理解できたなら自ずと身体の方も慣れていくだろう。

 

「なら、沙原くんやエマちゃんの気持ちはわかったかな?」

「いいや。やっぱり違和感はあるし、共感はできてないよ。さっき封筒をもらった時はそこまででもなかったんだけど」

「流石に一晩では慣れないか」

 

 この子、自分はそんな存在じゃないと本能レベルにでも刻まれてるんのか?

 どんな生活を送ったらこんな価値観になるんだ。

 

「一応確認するけど僕にお仕置きされたいから嘘ついてるってわけじゃないよね?」

「そんな被虐趣味じゃないよ……」

 

 僕としてはまだ被虐趣味だった方が理解が早くて助かるのだけれども、血を吸っても似たような感情が返ってくるだけだろうな。

 

「そっか、ならご褒美はなしだね」

「仕方ないか。ハツカのメイド姿見たかったけどな」

 

 この間の応野くんの一件で頼んでくれたら着てもいいのだけど、吼月くんは忘れているのか?

 

「失敗は失敗だからね。でも–––」

 

 肩をすくめながら僕が言葉を紡ごうとするに被る形で吼月くんも口を開く。

 

「でも、ハツカのことを褒められると俺も嬉しいのはちゃんと分かった気がする。理由はまだハッキリしないけど、心が暖かくなって安心する。だからきっと……大切な人の良さだけは共感できるようになると思う」

 

 彼は真っ直ぐこちらを見て屈託のない子供らしい笑顔を浮かべる。

 無垢な顔がとても可愛らしくて理屈ばかりこねくり回す時の顔とは似ても似つかない。

 

「……」

「どうした? 真顔になって」

 

 思いがけない事をストレートに言ってくるキミが悪い。

 衝撃が僕の全身を駆け巡ったせいで彼の心配に反応できなかったのだが、ここで止まっていては僕の吸血鬼としての尊厳に関わる。

 

「そっか、良かったね」

「俺も少しはヒトらしくなったかな」

「なんだそれ。ま、そう言うことならショウくん、頭を下げて」

「え?」

 

 首を傾げながらも僕に従って頭を下げる。その頭に僕は手を置いて撫でれば、吼月くんは素直に受け入れる。

 うー、と小動物を想起させる鳴き声をあげる。

 

「これって褒められてるの?」

「そうだよ。嬉しい?」

「……よく……分かんない」

「その割には可愛らしい声を出してるよね」

 

 頭を撫でていた手を動かして、今度は喉元を指で撫でる。

 

「むにゅ……」

 

 ホント猫みたい。少し前までは飼い主以外には吠える忠犬タイプかと思ったけれど、彼は普通に飼い主にも爪を立てる猫だった。

 実を言うと僕は猫より犬派である。

 犬は人につき猫は家につくと言うように、吼月くんはまだ僕ではなく自分のセオリーの中で生きている。

 だが近いうちに犬にしてあげよう。

 

「……それでさ」

「どうしたの? ソワソワして」

「これ外でやってるのはお仕置き要素なの?」

「そんなわけないじゃん」

「でも流石に外でこれは恥ずかしいよ」

 

 また顔を赤らめる吼月くんを見下ろしつつ、僕はここからどうするか考える。いつも通り僕の家で躾けるのも悪くないが、僕も吼月くんの内情について深く知らなければならない。

 だから、僕はこう尋ねた。

 

「せっかくだし僕はショウくんの家に行きたいな」

「え」

 

 吼月くんの瞳が揺らいだ。

 瞬きにも満たないほどの間で、彼はその後すぐに「いいよ」と笑っていた。その微笑みは、とても歓迎しているようには思えなかった。

 

 

 

 

 私は歩きながら夜空を見上げる。

 建物に左右を遮られ、星々が流れる一本の道になっていた。

 とても……とても晴れやかな夜空を見る私はとても気分がいい。そこらの店で十数人でも男女をひっかけて、自分の虜にしたくなるほど天晴れな1日のスタートを切れそうだ。

 

「……蘿蔔ハツカね。最初は直接ミドリちゃんが呼んだのか、夜守コウ経由で添い寝屋ナズナ……もしくはこの間の小森工業の繋がりで平田ニコかと予想したけど、思わぬキャラが出てきたわ」

 

 本田カブラはショウの行きつけの病院じゃないし、マヒルくん繋がりの星見キクはあり得ない。星見は今の面子に仲間意識とかホントないし、身内の職場を律儀に覚えているタイプじゃない。

 ある意味一番妥当な人選……かも?

 

「どちらにせよ、私にとって都合のいいヒトだわ。–––ん?」

 

 ぺしゃり。足元で不快な音がなった。

 見下ろすとそこにあったのは葛の葉だった。

 誰かがここに種子でも運んだのだろうか。地面を這うよう葛のつるを目で追うと、地面の隅っこにあるアスファルトの割れ目から幾本もの葛が繁茂していた。

 

「あらあら、縁起が悪いわね」

 

 自分の苗字を冠する葉を踏むなんて–––不吉に思いながらもクスクスと小さな笑みが溢れて仕方がない。

 葛は無限だ。

 何度でも、何度でも壊されても成長し続ける。それこそ人間が恐れてしまうほどに。

 私は踏んだ葛の葉を強い踏み躙る。

 残ったのは当然バラバラになり土と葉が入り混じった残骸。けど、そうやって壊されても植物だった名残は見て取れる。葉はどんなことがあっても葉なのだ。壊れたとしても元の片鱗まで奪えない。

 

「それがたとえ……」

 

 言いかけた言葉を嚥下する。

 変革したとしても、私が好きになった理由に嘘偽りはない。

 指を見つめれば爪が伸びる。鋭く刃物のように尖った爪だ。その伸びた爪で左の薬指に一筋の傷をつければ、そこから血が滴れ落ちる。

 真紅に輝く宝石のような血だ。私が誇るこの世で一番綺麗な血だ。もしこの血を固めることができたなら一億の価値はあるだろう。

 

「ふふ」

 

 今日はこのまま帰るとしよう。余計な男や女を引っ掛けなくてもいい夢が見られそうだ。

 一度屈んでから葛の葉に手を伸ばす。

 時が戻ったように治癒した葛の葉を拾って、私は草笛を鳴らす。可憐な音色を聴きながら、美味しい血の味が口の中に微かに広がる。

 歩きながら楽しむこの一時は至福だった。

 

 

 

 今日の眠りはきっと素晴らしい。




 寒くなってきましたね。
 今年も残すところあと一ヶ月……早い……
 皆様、暖かくしつつ楽しい夜更かしをしていきましょう!


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第六十一夜「アップルパイ」

 僕は天を仰ぐように目の前に立ち並ぶ共同住宅たち。それは吼月くんや夜守くんが住まう小森団地である。

 乳白色の壁面はひび割れた箇所もあり長年この場所に鎮座してきたことが分かる。もしかしたら僕よりも長生きしているかもしれない。

 

「……今日は何もないな。それじゃあ行こうか」

「うん」

 

 自宅の番号が記されたポストの中身を覗いた吼月くんは肩を下ろしたあと、こちらを一瞥すると背を向けて、近くにある階段へと脚をかける。その後に僕も続く。

 2階、3階、4階–––階段を登り出して数分後、踊り場に出ると、そのすぐそばに吼月くんの自宅がある。

 鍵を解いて玄関の扉が開かれる。

 

「……どうぞ」

「お邪魔します」

 

 吼月くんに促されるまま彼の家にあがる。

 三和土で靴を脱ぎながら玄関を見つめるが、そこに置かれているのはいま吼月くんが履いているスニーカーと同サイズのものがひとつだけ。傘立てにも一本だけ挿さっている。

 なにやら寂しい玄関だったが、下駄箱の中に使っていなかったり親の靴が入っているのだろうか。

 その後、吼月くんに居間へと通された。

 

「へえ……ここが吼月くんの家か」

「別に面白いものなんて何もないよ」

「確かに」

 

 8畳ほどの広さの居間の奥にはフローリングが敷かれたダイニングがある。居間には特になにもなく、ダイニングにはキッチンと冷蔵庫、食事用のテーブルの他には水切り用ラックの中に食器やコップが置かれている。あとテーブルを挟んだキッチンの反対側にテレビが置かれている。

 別の部屋はどうなっているのだろう?–––そう思って、近くにあった襖に手を伸ばす。

 開けて、中身を見てみれば当然暗闇なのだが、窓から差し込む月明かりがベッドを照らしていた。そこは寝室だったのだ。

 蛍光灯から垂れる紐を引っ張って灯りをつける。

 

「……?」

 

 最初に目に入ったのはカレンダー。

 首を振って辺りを見渡す。

 寝室は勉強部屋も役割も兼ねているようで、勉強机には数冊のノートが立てかけられた小さな本棚、隅にはライトスタンドが設置されている。他には姿見なども置かれている。

 シワひとつないベッドは真っ白でまるで病床のように汚れがない。

 寝室というより完全に自室だ。

 

「すごく片付いてるんだね」

「汚すところなんてキッチンぐらいだし」

 

 整理整頓が行き届いていて塵ひとつない綺麗な家だった。

 よく言えばそのような月並みな表現になるのだけれど、一見の僕としてはしっくりと来るものではなかった。違和感を覚えるのは間違いないのだけれども、喉に引っかかる理由が分からない。

 

「てっきり玩具が煩雑にばら撒かれてるのかと思ってたよ」

 

 吼月くんが見ているヒーロー物は結局販促番組でもあるので、自室には数え切れないぐらいの玩具が所狭しと置かれていると想像していた。

 その想像とのギャップもあって違和感を覚えているのかもしれない。

 

「DX系の玩具のことかな。そっちを買う用のお金はあまりないしな……せっかく買うなら大人になってからプレバンのセットを買うよ」

「ねだったりとかしないの?」

「それは無理かな」

 

 頭を振って否定する吼月くんを見て、僕は思い出したように問いかける。

 

「そういえば親は?」

「ふたりとも帰ってこないよ」

「お仕事?」

「オジさんは多分そう。今日も来ない。あとオバさんは死んでる」

「え、あ……そうなんだ」

 

 母親の死をこともなげに言うものだから、意味を理解するのが遅れてしまう。彼が受け止められているのは、物心つく前に亡くなったのか、それともただ乗り越えただけなのか。

 

「ハツカが暗い顔なんてしないでくれよ。俺たちとしては既に終わったことなんだ」

「そっか。キミらしいね」

「おう」

 

 吼月くんの口ぶりからして後者なのは間違いない。悲しい顔もしておらず母親の死に対して興味もないのか僕の方に顎先すら向いていない。流石に反応が薄すぎじゃないか。

 それに自分の親を『オジさん』『オバさん』なんて呼んでる事も少し引っかかる。

 しかし、吼月くんとしては追求されたくないことなのは理解できる。深掘るのは今じゃなくてもいい。

 

「つまり……誰にも邪魔されない僕との蜜月のひと時が過ごせるってことだね」

「言い方が卑猥だよ!!」

「別に蜜月ってエッチな言葉じゃないよ? それともなに? これからエッチなことされるとでも思ったの?」

「違ッ……ハツカの言い方が悪いじゃん! いやまぁ、奴隷メイドとかそっちしか思い浮かばないけどさ!」

「うわ……変態……」

「ハツカが言い出したことなのに!?」

 

 意図して話題を逸らしたが想定より食いつきがよく、空気が落ち込まずに済んだ。

 その流れで吼月くんは口をモゴモゴと動かして数秒迷った後、蛇のようにうねる唇を開いた。

 

「それでさハツカ……」

「どうしたの?」

「約束通りにするから、少し待ってて」

「ここで着替えてもいいんだよ?」

「ストラップショーの癖はないよ!!」

「あははは! 冗談だよ。着替えておいで」

「もぉぉ……!!」

 

 吼月くんは恨めしそうな眼を僕に向けたまま寝室から出ていく。

 

「脱衣所で着替えるから入ってくるなよ!」

「それ完全にフリだよね?」

「え……違う!!」

「素で言ってたの……?」

 

 時折感じる口下手さに戸惑いながら僕は彼を待つ。

 口にした通り、僕の目の前で着替えさせても良かっただろう–––そっちの方が罰としていい–––けど、寝室を彼の目が無いうちに色々と見たいのもあった。

 

「部屋の中、物色しててもいい?」

「待って……うん。どうぞ!」

 

 襖の先にあった吼月くんの気配が消えると、僕はスマホのライトをつけてベッドの下を屈み込みながら覗く。

 

「何もない……そんなはずは……」

 

 隠された本のひとつやふたつ有ったら良いなと思いながら覗いたものの、ベッドの下にも汚れひとつない。

 立ち上がって勉強机に向かう。

 天板を支えるように置かれているサイドワゴンの三つの引き出しをそれぞれ引っ張ってみるがどれも鍵がかかっている。サイドワゴンの側面にフックがあった。恐らく鍵をかけておく場所なのだろうが、なにも引っかけられていない。

 引き出しの中身は諦めて、机の上の小さな本棚に目をやる。

 本棚にあるのはノートだけ、

 

「ん?」

 

 ではなく、その陰に隠れて一冊の本を置かれていることに気がついた。ちょうど文庫本と同じサイズのものだが、赤いカバーが付けられていてどういった本なのかは見た目では分からない。

 その本を手にとって、日焼けし色褪せたページを捲る。

 

「日記帳か……ようやく生活感が出てきたな」

 

 また珍しいものを見つけてしまった。

 そう思うと同時にこれは吼月くんを知る大きなヒントになる物だと確信した。

 日記帳はどうやら去年の春頃から書き出されているものだ。

 

「後にするか」

 

 もう少ししたら吼月くんも着替え終えて戻ってくる。

 この日記帳にあまり知られたくない話が載っていたとして、彼に僕が読んでいる所を見られたら明日には破棄されているかもしれない。

 そうなれば彼の傷に触れず大きな情報を得るチャンスがなくなってしまう。初めて見つけた血に頼らない情報源。手放すには惜しい。

 吼月くんが寝付いたあとか学校へ行ったあと、回収するとしよう。

 

「バレませんように……と」

 

 日記帳を元の場所に戻すと、僕は再び部屋を見渡す。

 パソコンも勉強机もあるけれど綺麗すぎて人が住んでいるような雰囲気がしない。まるで長年留守にしている家主を、親族が帰りを待ちながら家を引き払う準備をしているような–––そんな寂しさを覚える。

 母親は死んでいる。父親は滅多に帰ってこない。

 

 一時であれば解放感が生まれることでも、日常的に放置されているとなると……

 

 なるほど、彼が独りにされて悲しいと感じないことにも納得がいく。慣れてしまったのだろう。

 キクちゃんが夕くんの寂しさの穴を埋めるような形で関係を作れたら、吼月くんの内側に深く入り込むのも簡単なのだろうけど、完全に真逆を行っているのが彼だ。

 しかし、そのおかげで彼が自由に夜を行き来できていると思うと、中々善し悪しがつけられない。

 

 一度、親とは顔を合わせてみたかったんだけどな。

 

 自分の意思で吸血鬼になれる子供。

 昔吸血鬼に恋をして血を吸われたとしても、吼月くんのような半端者が生まれるなんて聞いたことがない。

 可能性があるとしたら……七草さんと同様、人間と吸血鬼のハーフという線。それなら僕が称する半吸血鬼なんて存在が生まれても不思議じゃない。

 

「さてさて、どうなることやら」

「……ハツカ? なにかあったのか?」

 

 ひとりごちる僕の声が聞こえたのか、吼月くんが襖越しに尋ねてきた。

 

「何でもないよ。それよりキミは着替え終えたの?」

「……うん。メイド服、着てきたよ」

 

 震えた声が耳朶を打つと、襖が恐る恐る開かられる。

 そこに立っているのはミニスカメイドの吼月くん。可愛さと大人っぽさが交わるメイド服をきた影響で、くりっとした大きな瞳を持つ童顔にサラッと整った黒いショートヘアという幼いメイドとしての可愛さと凛々しさを両立させた容姿がより鮮やかなものに変わる。

 頭にはカチューシャの代わりに猫耳をつけさせた。

 ふむ、やはり吼月くんとメイド服。それぞれの素材が良い。

 

「ど、どう……?」

「今度から僕の世話をする時はそれが制服ね」

「ハツカの前だけなら……良いけど。好感触か……」

 

 ゔぁんぷでは仕事だから割り切っていたが、プライベートで着るとなるとまだ恥ずかしさが捨て切れていない。恥じらい上擦った声はまるで僕に気があるサインにさえ思える。

 しかし、吼月くんは僕の好みが釈然としないようだ。

 

「僕が着させてるのに似合ってないと思ってるの?」

「似合ってないとかじゃなくてさ……」

 

 吼月くんは目を落とすと自身の胸を摩る。

 

「ほら、ハツカだって理世の大きな、そ、その……」

乳房(ちぶさ)?」

「そ、そう、乳房をガン見してたじゃん。……僕もそういう詰め物とかした方がいいのかなって」

 

–––め、雌猫……

 

 まるで僕に女としても見て欲しいと言わんばかりの上目遣い。ほんのりと緊張し強張った赤い顔。

 それは彼に望んだ僕色の表情だった。

 

「ふふふ……あはははーーー!!」

「な、なんだよ……!」

 

 必然的に彼の中に好調の兆しが見えた僕は人間が静まる夜だと言うことを忘れて哄笑をあげる。

 

「だったら、本当に女の子になってみる?」

「……い、嫌」

「嘘でしょ。僕の為に女の子になりたいんだよね」

「うう……んっ……弄らないでよ」

 

 軽く挑発してみれば反発はするが、吼月くんは僕の為に僕色に染まりたいのだ。独り占めも寂しさも感じることが少ない彼が見せる初々しい反応がたまらない。

 倉賀野ちゃんに感謝しよう。

 彼女に対するジェラシーのおかげで僕に対する意識が強まった。

 

「やっぱりハツカは僕に女になって欲しいの?」

 

 吼月くんの問いに僕は首を横に振る。

 

「ショウくんが女の子になるなんて魅力が半減するだけだよ。まず考えてみてよ、ショウくんは僕が本当に女だったら良かったなって思ったりする?」

「ううん。ハツカは男らしさも女らしさもあって良いなって思う」

「僕も同じだよ。ショウくんには男の娘として居て欲しいんだ」

「……そっか」

 

 素っ気ない返事をして俯く吼月くんの口元は緩んでいた。それは本当に小さな微笑みで彼自身、気づいていないだろう。

 そのままミニスカートの両端を持って、綺麗な所作でお辞儀に移る。

 

「それではハツカ様、愚鈍で卑しいメイドである僕をご自由にお使いください」

 

 気弱な本心が表に出た自身を卑下する前口上は上擦った声も真似相まって、僕の嗜虐心の奥深くをくすぐった。彼に考えさせた言葉だが、自分では絶対に言いたくないと思っているのが僕の支配欲を満たす。

 なんせ人間としてではなくモノとして見ろと言うのだ。『お申し付けください』ではなく『お使いください』なのだから。

「ああ、使ってあげる」と僕が言えば、吼月くんは嬉しそうな笑みを浮かべる。しかし、その口端は引き攣っている。無理に笑っている証拠だ。

 

「本が読みたいんだけどある?」

「電子書籍であればございますが、構いませんでしょうか?」

「構わないよ」

 

 彼は頷いてからメイド服のポケットから鍵を取り出す。それは勉強机を支えるサイドワゴンの一番上の引き出しの鍵で、カチャリと音を立てて開錠する。やっぱり自分で持っていたのか。

 

「どうぞハツカ様」

「ん」

 

 吼月くんは引き出しからノートパソコンを取り出すと、それを分割してタブレットだけにすると、少し操作をしてからそれを僕に手を渡した。

 タブレットを受け取った僕は吼月くんの趣味を探るように購入履歴の画面をスクロールしていく。

 

「……」

「なにかお気に召すものはございましたか?」

「いや、そうじゃなくてね」

 

 僕が画面に向けていた視線を吼月くんへと移せば、彼は理解できていないのか瞼をパチパチと瞬かせている。

 一度ため息をついてから僕は言う。

 

「いつまでご主人様を立たせておくつもり?」

「え」

「え、じゃないよ。早く椅子が欲しいんだけど」

 

 僕の苛立ちが分かるように棘のある言い方をすれば、彼はすぐさま勉強机の中に納められていた椅子を引き出そうとする。

 それに僕は待ったをかける。

 

「違う。言わなきゃ分からない? キミが椅子なんだよ」

 

 吼月くんが絶句する。

 考えてもみなかったという顔をしているが、いつも久利原の姿を見ているんだから察しはつくだろ。

 

「早くしろ」

「……わかりました」

 

 従順に見えて実は嫌々。そうといった様子で吼月くんは僕の目の前で四つん這いになる。そうでなくてはお仕置きにならないので構わない。

 彼の四つん這いは中々整った姿勢で座り心地は良さそうだ。

 僕は吼月くんの背中にドサっと乱暴に腰を下ろす。人ひとり分の重量が一気にかかり衝撃で彼は体勢を崩しかけるが、なんとか持ち堪える。人間の子供だから仕方がないが、久利原ほどの安定感はない。しかし、僕を落とさないよう必死に支える彼の頑張りは評価してあげよう。

 座り心地は見て感じた通りに悪くない。

 もっとも座りやすい位置を探るように僕は尻を動かしていく。

 

「あ、んんっ……」

 

 僕の尻の感触に悶える吼月くんの姿が姿見に映る。姿見には僕の姿はないから、独りで四つん這いになって喘いでいるというとても滑稽な姿で、これも僕の心をくすぐる。

 

「あのハツカ様ぁ……動くのやめていただけないでしょうか?」

「なんで?」

「その……」

「当ててあげよう。僕の尻が気持ち良くて仕方ないんでしょ」

「……」

 

 恥ずかしそうに唇を噛み締める吼月くんを見て、酒が飲みたくなる。

 

「キミの意思なんて関係ないけどね。椅子が勝手に動かな、喋るな」

「くっ……」

 

 しかし、少し反抗的な態度が見え過ぎだ。

 僕は彼のスカートを捲り、形のいい桃尻を顕にする。突然、冷たい空気に触れる臀部に吼月くんの身体が跳ねる。

 

「なにをやっているのですかハツカ様!?」

「お仕置きに決まってるじゃないか。スパンキングはお仕置きの代表だろ?」

「おし……」

 

 吼月くんの顔に今度は酷い脂汗が流れる。僕が座る背中も少し汗ばんでいて、慄いているようにも思えるし焦っているように見える。

 

「男の尻ですよ!? なにが楽しくて」

「雄以前にペットの尻だよ。ほら、尻を叩いてあげるから合わせて僕の言葉を復唱しろ」

「……はい」

「ちゃんと顔をあげてね」

 

 使ってくださいと口にした以上、彼は自分の言葉を真っ当する。それは間違いなく吼月くんの良いところだ。

 良いところも落とすために利用しちゃうのが僕なのだけれど。

 僕はそっと吼月くんの綺麗な尻に手を添えて–––引っ叩く。乾いたいい音が鳴る。

 

「吼月ショウは蘿蔔ハツカの従順なペットであり、主人の言葉を疑いません」

「吼月ショウは蘿蔔ハツカの従順なペットであり、主人言葉を疑いません」

「吼月ショウは蘿蔔ハツカの家具でもあり、ハツカ様の許可なく喋ることも動くこともしません」

「吼月ショウは蘿蔔ハツカの家具でもあり、ハツカ様の許可なく喋ることも動くこともしません」

 

 吼月くんは姿見の奥にいる自分に言い聞かせるように僕の言葉を口にする。

 何度か繰り返して、吼月くんは人から物へと変わり果てると僕は手を止めた。正に椅子のように手脚の震えを止め、口を噤む。言葉と疲れを噛み締めているのが鏡を見れば分かった。

 僕の尻が擦り付けられているのだから喘ぎ声を出したくなるのも無理はなかっただろうけど。

 座り直した僕はもう一度タブレットに目を落とす。

 彼が購入している本の殆どは料理や掃除といった私生活に関するものばかり。

 

「2001年宇宙への旅……懐かしっ。映画見に行ったな」

 

 当時の空気感で見るのが一番面白い作品だ。

 他にも小説や図鑑もチラホラあるが、彼が中学生だと知らなければ、誰もが主婦か主夫が買ったものと勘違いするだろう。というかやっぱりエロ本ないな。

 まだ履歴にも先があるので更に見ていくと、実写のスーツが描かれたサムネイルが出てくる。

 

「へえ……ライダーって小説もあったんだ……」

 

 小説なんて読むどころか知ってる子供いるの?–––と言いたくなるが、現にこうして吼月くんは持っているので、それなりにはいるのだろう。

 

「ビルドが無い」

 

 僕が見てる作品……ビルドもあるか探してみるが、全く見当たらない。ライダーだけでも20冊もあるのに何故なんだ。

 検索をかけてみるとどうやらまだ売っていないようだった。

 仕方がないので別のを読むことにした僕は、彼が購入した中でお気に入り登録されている物を選んだ。

 

「ライダー……?」

 

 サムネイルのスーツ。その顔の部分にデカデカと『ライダー』と記された時計を象った仮面の戦士。額には小さく『カメン』とも書かれている。

 ジオウと呼ばれる作品らしい。

 ページを開き、読み始める。

 キャラ紹介・用語解説と続いてようやく本編がスタート。

 しかし数秒後、僕は理解する。

 

–––テレビの内容見ないと分かりにくい奴だ……

 

 最初から『時間という概念の外側にいる私』だったり、『常磐ソウゴは歴史を新たに創造した』など壮大なスケールの物語が語られる。

 それでも決して初見さんお断りというわけでもなく、キチンと小説内で説明がされる––––例えば第一話にあたる“起源の日”と、最終回?にあたる歴史再編後の同日“始まりの日”など–––ため、僕は読み進めることにした。

 一人称視点でこの物語は始まる。

 キャラの名前は【ウォズ】という。元から語部の役割を果たしていたキャラのようだが、登場人物として世界にキチンと影響を与える存在のようだった。あと、結構辛辣なことを本編主人公–––【常磐ソウゴ】に思っていた。

 

「今のベルトってやっぱりうるさいんだな……」

 

–––ギンギンギラギラギャラクシーって……

 

 特徴的な音声に驚きながらも僕は読み耽る。バトル物としても、タイムトラベル物としてもクオリティは良い部類じゃないかと思う。

 タイムトラベル物特有の複数の時間軸が絡む展開を噛み砕きながら読む途中で、吼月くんが疲れから身じろぎしたりするので僕は思わず尻を叩いたりもした。

 赤くなっている彼の尻を見下ろして、ニヤッと意地の悪い笑みを浮かべてしまう。

 バトルに関しては、未来を確定させるノートVS時間逆行を駆使した異能力バトルで楽しめる内容だった。

 敵の正体であったり、ウォズの見つけた答えなど見どころも沢山あった。

 あと、時折吼月くんが口にする「なんか、行ける気がする」というフレーズが最後に出てきた。小説がお気に入りなのも合わせるとジオウ自体彼が好きな作品なのだろう。

 

「面白かった」

 

 読み終えてタブレットの時計を見ると、読み始めた頃から数時間が経過していた。

 吼月くんを見下ろすと顔が真っ赤に染まったまま、微かに腕がぷるぷると震えている。

 僕は彼の脚を優しく数回叩く。すると吼月くんが首だけこちらに向けて振り返る。

 

「ん?」

「いいよ、喋って」

「はぁ……疲れる……」

 

 喋る許可を出すや否や、盛大に疲れを吐き出した。

 

「何を読んでたんですか?」

「ジオウ」

「え、どうして?」

「キミのお気に入りに入ってたから」

 

 瞼をパチクリと動かしながら戸惑った様子の彼に僕は続ける。

 

「この作品、面白いね。キャラもストーリーも面白い。王宮の描写がじっくり書かれてたのは著者の趣味?」

「うん。下○さんは城とかに詳しい人みたいだし」

「あと時間ものへの文句とか思わず吹いちゃったよ」

「……」

 

 思ったことをそのまま口に出す僕に、吼月くんは疑うような、それでいて気を遣うような視線を向けてくる。

 そして一度顔を伏せた後、そのまま僕に訊ねてくる。

 

「ねえ、どうだった? どこが好きだった?」

「さっきも言った通りキャラも話も好きだけど、一番はそうだね……」

 

 頭の中でまとめてから僕は応える。

 

「今の自分に向き合って、真剣に生きることが自分の意義に繋がるって作風かな」

 

 なんというか吸血鬼である僕らにも刺さるテーマだと思った。

 人間だった過去は消えてしまったけどその時本気で恋をしたから吸血鬼になって現在(いま)があり、その現在を楽しく真摯に真剣に生きることで不老不死という果てのない未来でも自分を見失わずに生きれている。

 

「『自分が一体何者で、どこから来て、どんなことがあったから、今の自分なのか? そのことに向き合い続ければ、そのうち未来は向こうからやってくる気がするけどね』」

 

 応えるように吼月くんが呟いた。

 それは小説の中で常磐ソウゴの叔父である順一郎が口にした言葉だった。

 

「うん、僕も好きだよ!」

 

 満面の笑みを鏡越しで浮かべる吼月くん。

 まるで自分の全てを僕に肯定してもらったかのような心地よさをたっぷり含んだ笑顔で、一瞬だけ僕は見惚れてしまう。

 僕に座られている状況でなければもっと良いモノに映ったに違いない。

 

「よくアカペラで言えるね」

「ふふっ! ジオウは僕の起源だからね!」

「それは言い過ぎでしょ。……たく」

 

 四つん這いのまま胸を張る吼月くんの頭を僕は無性に撫でたくなった。

 

「ちょ、待って……!」

「ダメだよー!」

 

 くしゃくしゃと頭を撫でていると、僕は同時に腹をさする。

 

「あとね、ショウくん」

「なんですか?」

「アップルパイが食べたくなった」

 

 別に腹が減っているなんてことはないのだけれども、心を刺激された欲望は止まらない。

 

「あるよ」

 

 彼は満面の笑みのまま返事をした。

 

 

「よいしょ」

 

 僕は彼のベッドに座り直していた。その横にはふたつのアップルパイを乗せた皿を持った吼月くんがいて、内ひとつを僕の前に差し出してきた。

 

「お召し上がりください」

「あ〜〜ん」

 

 口の前に迫ったアップルパイをひと噛み。

 サクサクとしたパイ生地にリンゴのしっとりとした食感が口いっぱいに広がる。咀嚼しながら味わいを楽しんでいると奥からバターの香りが現れて、口の中がより賑やかになる。

 口の中の騒がしさに反比例するように、心は落ち着き、穏やかになる。

 

「それにしても珍しいよね」

「何がですか?」

 

 口の中のアップルパイを飲み込むと僕は吼月くんに話しかける。

 

「ライダーにしろ戦隊にしろ、ヒーロー物ってキミぐらいの年頃だと、とっくに卒業してるもんじゃない?」

「そうだね。ウチの学校だと他に見てるのは理世しか知らないな」

「中学生ならそっち見るより○NE PIECEとかの方が多いんじゃない?」

「間違いない」

 

 吼月くんは小さく頷いた。

 

「ただ僕はライダー見始めたのが四年前なので。ジオウが始まる少し前からなんだけど」

「ビルド?」

「そうそう。日曜日の朝だけは自由だったからさ、ある日隠れてテレビをつけてね……まあ色々見てたんだけど、○NE PIECEの方は原作を基にストーリーが何年も続いてるから、前の話を見てなきゃ分からなくてハマらなかったんだよね」

「ああ。確かに一年ごとに作品が変わるライダーとかの方がとっつきやすいか」

「再放送やDVDがあればそっちにハマってたかもね。漫画の方は完結が近いらしいから終わってから読んでみようと思ってるよ」

 

 見ない人の常套文句を聞きつつ、僕はそちらにも手を出していないなと思った。ミドリちゃんなら貸してくれそうな雰囲気はあるので訊いてみようかな。

 

「ジオウって面白いの?」

「僕は大好きだけど、強いて言うなら宇宙への旅と同じかな」

「というと?」

「放送されてた時期が平成の終わりで令和の始まりなんだよ」

「4年前だからちょうどその頃か。当時の雰囲気だからこそ味わい深いタイプの作品?」

「うん。それに映画になると元号を使い倒すから。放送が終わってから知ったけど、天皇が生前退位だからできたところもあるし、ホントに色々偶然が重なってできた作品だよ」

 

 元号を使い倒すってなんだ?と首を傾げる僕に彼が問う。

 

「それにしてもハツカ様がビルドに興味があるなんて知らなかったです。なにかキッカケでも?」

「キミと倉賀野ちゃんが良く言ってるらしいじゃんか。ベストマッチだって」

「……まさか、それで?」

 

 吼月くんは驚きと迷いの混ざった顔で僕を見つめる。

 

「それは嘘? それとも本当? 無理に合わせなくていいんですよ。ハツカ様はそんなことせずとも–––」

「ハッ。僕に気を遣わせるほどキミは偉くないだろう。第一、面白くなかったら話題になんてしないんだよ」

「……確かに」

「でしょ? アップルパイちょうだい」

 

 コクリと彼は考え込むようにして小さく頷くと、アップルパイを差し出してくる。一口頬張って、美味しくいただく。

 

「ひとつお聞きしたいのですが、ハツカ様はどのあたりまでビルドをご視聴なさったのですか?」

「もぐもぐ……っ、ラビタンのトゲトゲ泡あわ版が出てきたところ」

「間違ってないですけど……せめて炭酸とか……」

「それなら普通にスパークリングって言うよ」

「なら初めからそう言いなよ」

 

 僕の喩えにもう少しいい例えなかったのかと訴える吼月くんは、肩をすくめたあと重ねて訊ねてきた。

 

「それで冬映画は見ましたか?」

「いいや。え、映画見ないとその先分からないの? というか冬?」

「万丈の精神面での成長がその映画で描かれるので、見ないよりは見たほうが良いかと」

「……見れる?」

「ありますよ」

 

 首を縦に振る吼月くん見て、僕は愉しくなってきた。

 面白いものをより面白く感じれるのはとても良い。僕を楽しませる素晴らしいことだからだ。

 

「なら一緒に観ようか。準備しよう」

「一緒に……一緒にか。いいんですか? 僕を椅子にとかは」

「好きなものが同じなのにひとりで観るなんて勿体無いことはしないよ」

 

 また、吼月くんは深く俯いて考え込んだ。

 

「どうしたの?」

「いいえ、なんでもありません。僕もハツカ様と一緒に見たいです」

「よろしい」

 

 次に顔を上げた時、彼の顔はまるで新しい発見をした科学者のような嬉々とした表情で僕を見つめる。

 僕はまた頭に手を置いた。

 人間大の猫の鳴き声が部屋の中に溶けていく。

 

 

 とても……とても愛らしい。



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第六十二夜「先っぽだけ」

 アップルパイを食べ終えた僕と吼月は、映画を観るためテレビがあるダイニングへと場所を移していた。

 僕は既にテーブルの中に仕舞われた椅子を引き出して座っている。ただ置いてある椅子が一つしかないもんだから、吼月くんは自室にある物をこちらに持ってきている。

 

 なぜ椅子が一つしかないんだ?

 父親が全く帰ってこないから。

 

 これが繋がるのは分かるのだが、それでも一人分しか買ってないのはおかしいだろ。押し入れにもう一個ぐらい入ってたりしないのか。

 

「ファイナル見るの久しぶりです」

「玩具は持ってないのにディスクは持ってるんだね」

「映画だけでも金を落としておきたいし、メイキングも付くから買って損はないので」

 

 ディスクをBDレコーダーに入れて、リモコンをウキウキと操作する吼月くんを尻目に、僕はもう一度、ダイニングと居間を見渡した。

–––……やっぱり見当たらないな。

 母親が亡くなっているならば、当然あるはずの仏壇が置かれていないのだ。仏間も床の間も見当たらなかったので、僕らの目の前にあるガランとした居間に鎮座していても良いはずだ。

 

「あのさ、ショウくん」

「どうかしましたか?」

「僕もキミのお母さんの仏壇に挨拶したいんだけど、どこにあるの?」

「……え?」

 

 当たり障りなく訊ねてみれば、吼月くんはキョトンとして……仏壇の存在をたった今思い出したと言わんばかりの顔をする。

 まるで仏壇の存在を知らないかのような無垢な疑念が彼の中に湧いているようにすら思えた。

 

「あぁ! 仏壇だけど(ウチ)の問題でないんですよ」

「宗教上とか?」

「考え方の相違です。とはいえ仏壇なんて要らないですよ」

「……なんで?」

「だって僕はずっと大切に思っていますから」

 

 おおらかに笑う彼の言葉は違和感がある。

 

 自分の気持ちが分からないと、信じられないから、信頼の証が欲しいと言っていたキミが断言するのか?

 

 それこそ仏壇を置き、毎日手を合わせている方が吼月くんらしい。もし仏壇がなかったとしても写真立ての前に線香を焚くなどやりようは幾らでもある。

 大人の意見に容易く従う彼ではないのだから。

 

「そろそろ始まりますよ! 暗くしますね!」

 

 ここで話は終わりだと言わんばかりに吼月くんは椅子を跳ね飛ばす勢いで立ち上がった。

 手を伸ばしてダイニングの照明から垂れる紐を引っ張る。カチっと小さな音と共に僕らを暗闇が包み込んだ。

 明かりとなるのは窓を覆うカーテン。その隙間から差し込む月明かりのみだが、今日は晴天だったのもあり映画を見るには丁度良い光量だった。

 映画が始まり、東映作品特有の高波荒れる海岸に企業ロゴが表示される。

 吼月くんは既に映画の世界に没入している。

 僕もテレビの方へ顔を向けている。けれども向いているだけ。

 見ているのは月明かりに照らされた彼。あどけない微笑を浮かべながら映画を楽しむ彼はどこにでもいる中学生にしか見えない。

 

–––でも、もっと他人とは違うなにかがあるはずなんだ。

 

 明らかにはぐらかされたことで僕の中に渦巻く疑念はより濃く、確かな方向性を持って彼に向けられていることを自覚する。

 そして疑念よりも強い感情、喉の中にまとわりつく気味の悪さを僕は強く感じていた。

 帰ってこない父親。仏壇すら置かれない母親。殆ど空っぽな家。妙に私生活に関する本が多いタブレット。

 

–––もしかして育児放棄(ネグレクト)か?

 

 その可能性も大いにあるだろう。

 とはいえ吼月くんは中学生だから身の回りのことは彼自身に任せていることだって考えられる。帰ってこない父親だって仕事が夜勤なだけで、昼間には帰ってきている可能性だってある。吼月くんの事を考えると、父親が吸血鬼で、その実力からホストをやっているなんてこともあるかもしれない。

 この家庭に疑念を抱きはするけれど、吼月くんが他人(ヒト)に怯えるようになる原因があるようにはまだ思えなかった。

 それでも異質なこの家庭に目を張る必要はある–––僕にはその確信が有った。

 確信を抱いたその時、映像がピタリと止まる。

 

「さっきの仏壇の話、考え方の相違はホントですよ」

 

 吼月くんはビデオを止めてこちらに顔を向けた。

 

「僕と違って、オジさんは前に進むために忘れたいらしいので」

「……簡単に忘れられることなの?」

 

 仮にも奥さんだった女のことを易々と忘れられるとは僕には思えない。

 自分の中にあったその人のためだけの椅子に座ることができる他人なんて居ない。忘れたくても忘れられない。僕らみたいに記憶を失っていかない限り、椅子ごと無くすなんてできやしない。

 それが良い記憶でも、悪い記憶でも。

 その記憶の名残である吼月くんだっている。

 けれど吼月くんは首を横に振って否定した。

 

「忘れられるよ。思い入れなんてないですから」

「仲悪かったの?」

「言ったでしょ。無いって」

「でも結婚してキミを産んで」

「形だけね。オジさんに聞いたけど家の都合での結婚らしいから、大した愛もなかったらしいよ」

「……」

 

 二言交わして僕は遂に押し黙ってしまった。

 家の都合での結婚。ドラマなどで時折見る政略結婚が近しいのだろうか。今の時代にもそんなことがあるのか。

 それでも、キミぐらいは愛されているじゃないか––––と浅はかな僕の想像はやはり封殺されることになる。

 

「僕も偶々当たって親に言われただけで、堕した方が正解だったって言われたよ。元々分かってたから何も思わなかったけど」

「本当なの……それ?」

「ボイレコあるけど聞きます?」

「いいです……」

 

 気にする様子もなく語る彼の声色は、こちらが注意していなければ左耳から右耳へすり抜けてしまうほど自然で、まるで言葉を夜風に擬態させたかのようだった。

 心残りなんて感じさせない彼を見ていると、作り話なのではと疑いたくなってしまう。

 だが、この状況でわざわざ自分から嘘を語る必要なんてあるのだろうか。嘘であれば、いずれバレると彼なら悟るはずだ。

 僕がいまやるべき事は話を疑う事でも、この話を追求する事でもない。

 

「そんな家族もいるよね。ニコちゃんも似たようなこと言ってたし」

「ハツカたちと違って、歳食っただけの馬鹿なんていくらでもいますから。あんなのに何かを期待する気も起きないし」

「だろうね。不出来な親と違って僕はキミのこと愛してるからね」

 

 吼月くんが無色の顔を上げて僕を見る。

 この意思に嘘はない。

 親吸血鬼になればどの吸血鬼も基本理解するが、眷属には本人なりの愛情を向ける。セリちゃんやミドリちゃんならば友愛になるだろうし、七草さんだったらそれこそ恋愛になるかもしれない。

 そして……僕は親愛だ。

 

「なに言ってるの?」

 

 月明かりの青白い光が脳が理解せず答えが出せないでいる無表情な彼に色をつける。

 嘘だと疑うよりも前に立っている。本当に親子愛を感じたことがないのだろう。

 

「僕はキミの親になる存在だよ? キミが困ってる人を当たり前に助けるのと同じように、僕だって親として自分の眷属(子供)を愛しているさ」

「いや、待て! ペットとしてだろ!? 親愛じゃなくて愛玩じゃん!」

「ペットとしても可愛がるけど、親としてもキミの面倒を見るさ。それともなにかい? 僕が両立出来ないとでも思っているのかい?」

「両立できるできないじゃなくて、ハツカとはダチに成りたいと思ってるし……」

「僕の眷属になる時点で格付けは決めるのだよ! キミは僕の子供になるのさ!」

「だからなんで眷属になる前提で話してるんだよ!?」

 

 彼が心の中で親への求愛がなく、無色ならそれで構わない。

 その空白に僕色をどんどん重ね塗りして、キミの心の中に夜のような鮮やかな黒を、決して消せない黒を作り出してやる。

 

「キミだって分かってるんだろ。眷属になるということは親子の性質を吸血鬼への転生という形で得ることになる。眷属になった当初は恋心を抱いていても、いずれ人間の頃の恋慕は無くなっていく。

 だから、残るのは親子としての繋がり、そして友達やペットという在り方だ」

 

 親離れをして10年後、友達として再開する吸血鬼たちもいる。

 逆に僕のようにずっと周りを囲わせて人間の頃からの関係を持続させる吸血鬼たちもいる。

 

「キミが望めば、僕はキミの親にもダチにもなってあげられるよ。もちろん飼い主としてもね」

 

 吼月くんの言う、ダチになる事は眷属になった後にも出来ることだ。

 それに彼の、人を信頼したいという願いも、吸血鬼(僕ら)になることでより実現しやすくなる。なんせ人を落とすことを生業とする吸血鬼なのだから、生きていけば何故人を信頼できるのかぐらいは容易く見つかる。

 少なくとも人間として生きるよりはそのことに敏感だ。

 じっと見つめ合うと、吼月くんは目を伏せる。

 

「ばーか。そんな甘言で『じゃあ眷属になります』なんて言うわけないですよ」

「なんだ、残念」

 

 次に目を開いた時には、鼻で笑い、いつもの生意気な態度を見せつけるかのようにして肩を落とした。

 こんな理屈で簡単に折れてくれるなら、もうとっくに眷属になる決心もつけただろう。ダチという–––多分、恐怖心を克服した間柄ってことだと思う–––関係が常に対等である必要があるかは、甚だ疑問だけれど。

 

「でもこんな状況なのに、人間のままでいる必要あるの? 倉賀野ちゃんとの記憶が無くなるのも嫌だったりするの?」

「その気になれば会えるだろうけど、やっぱり理世が覚えるのに僕が覚えてないって嫌ですよ。昼間の飯が食べられなくなるっていうのもあるし」

「前から思ってたけど、ランチよりディナーの方が手が込んでて美味しくない?」

「ランチ限定のメニューもあるでしょう。それに–––」

「それに?」

「やらなきゃいけないことが残ってるから」

 

 僕は首を傾げながら聞き返す。

 

「やらないといけないこと? それが終われば僕の眷属になってくれるの?」

「だからならねえって」

 

 吼月くんは少し言いにくそうにして、唇を離したりくっつけたりしてまごつくのを数秒繰り返したのち、ようやく話し始める。

 

「ほら、高台に星を見に行った時に言ったでしょ? 厄介ごとがあるって」

「え、ええっと……ああ、そんな事言ってたね。園田さんとは別件って」

「万が一にもハツカに恋をしたとしても、眷属になる前にそれだけは片付けないといけないから」

 

 人間を辞められない心残りになるもの。

 家族との関係以上に心残りになるもの。

 自分が終わらせないといけないこと。

 眷属になるための禊ぎとしてやること。

 なんで中学生の男子がそんなものを抱えていないといけないんだろうな。

 

「それはキミだけで解決できる事なの?」

「あと一手で詰みまで持っていける。最低でも半年で終われたらいいなと思ってる」

「なら僕が出る幕はないかな」

「うん。逆に出てくると面倒なことになる」

「酷くない?」

「だって神崎のやつ、僕が夜遊びしてるなんて知ったら家の前に張り付くだろうし……」

「神崎って誰だよ」

「園田ニコの会社の案件を担当した弁護士」

「この間の一件の」

 

 この子、ホントよくわからないツテを持ってるな。

 僕の知らない吸血鬼ともいつのまにか協力関係になっているし、必要な相手と手を結べる運とコミュニケーション能力は評価するしかない。コミュ力は……立場を利用したものだから、繰り返して使えないけれど。

 

「オジさんの旧友でさ。僕の親代わりの人だよ。根はいい人だし、弁護士としては間違いなく正しくて善人なんだけど……ちょ、いやだいぶ面倒くさい人でね……仕方ないんだけどさ」

「弁護士ってだけで面倒くさそうだね」

「六法全書を覚えるのに心血を注ぐ変態たちの集まりだからな……あ、これは神崎の後輩が言ってた言葉ね」

「自覚あるのか……」

 

 吼月くんは「にゃはは」と猫みたいに目を細めて笑う。猫耳カチューシャをつけたままなのが猫らしさを底上げする。笑う時に頭が揺れると、本当に猫耳が生えているかのようにピコピコと動く。

 

「そんなわけで僕は人間の内にやらなきゃいけないこともあるし、眷属にならない理由もあるのだ!」

 

 彼は笑顔のまま宣言して、テーブルに置いたリモコンを手に取った。

 

「これで憂いなく映画を楽しめるだろ?」

「ありゃ。やっぱり気を遣わせたかな?」

「気を遣わせたのはこっちもだから。おばさんたちのことなんて忘れて映画見よ、僕もハツカと一緒に楽しく観たいし」

「ふふっ、くるしゅうない」

「なんだよその言い方ぁ。それじゃあ始めるぞ」

 

 ポチっと。映画の中の人々が再び動き出す。

 それを僕らは静かに見つめて、時には心を熱くして盛り上がる。

 偶には男同士でヒーロー物を観るというのも悪くないと思いながら–––いまの吼月くんは女の格好だけど–––感情の起伏を月下の元に晒している。

 

 映画を見ている間は驚きの連続だった。

 なんせ僕が見ているは【ビルド】という作品に登場するライダーだけなのだが、この作品にはたくさんのライダーが登場する。

 デザインは……先ほどの顔面に仮面ライダーと描くジオウが居たからまだ納得でき……まあ、出来たけど、それ以外も驚いた。

 喋るバイクが序盤に出てくるので、人工知能でもついているのかと思えば、

『仮面ライダーだよ。人がバイクになるキャラ二代目だ』

 ふたりもバイクになるライダーがいるのかと目を丸くした。

 中盤に進めば、クロスオーバー作品らしく過去作キャラもどんどん出てくるのだけれど一人だけ軽く別世界に移動してるキャラがいて、誰だよ!?って驚けば

『神様だよ。今は地球を離れて別の星をテラフォーミングして暮らしてる』

 仮面ライダーってそんな惑星間の話だったっけと昔に思いを馳せてみたりした。

 そして敵の目的が別次元の地球を衝突させて、双方の地球にいる自分と合体して不老不死になることだと明らかになる。なぜ、そんな超理論に辿り着くのかと訊けば、

『ライダーの世界だからね。未来のアイテムを使えば時を止められるし、平成ライダーの力を19個集めれば古墳が現れる』

 もはやなんでもありだなと僕は一種の境地に達した。

 

「おもしろ……いや疲れ……でもやっぱ面白ろぉ……」

「楽しんでもらえたなら良かった」

「でも凄いジェネレーションギャップを感じたよ」

 

 見終わった頃には僕は情報量の多さに打ち震えて、グデっとテーブルに身体を伏せていた。

 ストーリーが煩雑になっていたわけでもなく、勧善懲悪を主軸とした物なので理解しやすかった。作品自体が異なるので個々のキャラが抱く思想は当然異なるが、それでも向かっている先は一つなのもヒーローものとして良い。

 手が届くなら人を助けると謳う旅人。ダチを作り続けるために世界を守る教師。人間の可能性を信じる住職。誰ひとり見捨てないという神様。患者の笑顔を取り戻すドクター。そして愛と平和の科学者。

 そんな人たちと冤罪をかけられた人間(万丈)が接すれば、精神的に成長するのも理解できる。

 実際関わる人や環境っていうのは本人の精神面に大きく作用するものだし。

 

「ショウくん、ショウくん」

「どうしたんですか?」

「ベッドまで運んで」

 

 ジタバタと手脚を動かして駄々をこねて頼んでみる。

 それを見た吼月くんは目を細めながら言う。

 

「僕のお布団なんですけど」

「一緒に寝ればいいじゃん」

「な……一緒って……ハツカだし問題ないか。二度目だし」

 

 問題ないという割には狼狽えながら、自分の耳朶を指でいじり出す。観るからにもっちりとした耳朶が潰れては膨らむ。それを繰り返すのちに吼月くんは平静を取り戻していく。

 彼には僕はどんな風に見えているのだろうか。

 男装麗人? それとも眉目秀麗な美少年?

 どちらにせよ、同じベッドで夜を過ごすことに支障はないというけれど、間違いを想像するほどには僕のことを意識しているのが確かだ。

 落ち着きを見せた吼月くんが腕時計に目をやる。

 

「もう4時だし、せめて2時間は寝たいな」

「1日ぐらい休んじゃいなよ」

「ずるずると落ちちゃいそうなのでやりません」

 

 対面に座っていた吼月くんは立ち上がると、テーブルを回り込んで僕の傍へとやってきた。

 

「脚を伸ばしてください」

 

 言われた通りに脚をピンと針金のように伸ばせば、膝裏と肩に手を回して僕を抱きかかえる。彼を椅子にした時とは違って、がっしりと支えられ落ちる気配はまるでない。身体が樹木になっているかのように体幹がしっかりしている。

 そうして、必然的に僕ら夜空を散歩するときとは真逆の立場になる。

 抱えられる側になって分かったが、相手の顔がよく見える。運ぶ側になるとある程度進路などを気にしないといけないから、相手の顔を眺める時間はそう多くない。

 見てみれば、吼月くんは–––男の子にしては–––大きな瞳を隠そうとする瞼を意識して持ち上げている。毎日僕と朝方まで遊んで、すぐに学校に行っているんだから不思議はない。

 器用に襖を開けて僕をベッドまで運ぶ。ベッドに沈み込むようにして降ろされる。ふっくらと柔らかい布団が背中を優しく包み込む感触に晒されて、そのまま小さな寝息を立ててしまいそうだ。

 足元で丸まっている掛け布団を勢いよく広げて被れば、ぬくぬくとした暖かさに全身の力を緩む。

 

「ほら、一緒に寝よ」

 

 身体を窓側に寄せてもう1人分のスペースを作る。シングルサイズのベッドなため僕の家のベッドよりも幅がキツく、一緒に寝るとなるとほぼ密着することになる。鼻と鼻が、互いの額が……なにより唇だって不意に繋がる距離だ。

 吼月くんも当然気づいて、耳朶を触っていた指が頬をつたって鼻に向かう。ピクピクと微かな香りも逃さんとする鼻頭を弄ると、顔を逸らしながら一歩後退(さが)る。

 

「キッチンの椅子で寝るからいいよ。ハツカはベッドを使って」

「さっきは別に良いかって言ったくせに。僕のくっつくのがそんなに照れるんだ。身体の中を僕で満たされるのがそんなに怖い?」

「同じベッドで寝たらハツカの香りを回避なんてできねえだろうが!」

「そんなに犬みたいなことしたかったの? ワンワンって言ってくれたらいつでも胸を貸すのに」

「ワンワンニャーニャー、て! 僕は小動物じゃないぞ!? あと俺は媚びてないからな!」

 

 悪態をつく割には少し潤んだ目と赤くなった鼻が僕を誘う。

 メイド喫茶でも思ったが、半分吸血鬼だからなのか他人に取り入るのが吼月くんは上手い。

 普段は少し陰が–––きっと親以外にも問題は–––あるのに加え落ち着きを見せる彼の元気溌剌な異端な姿。学校の子が見ればギャップ萌えすら感じてしまうかもしれない。

 僕がそんな想像の風に揺られて思考を巡らせていると、吼月くんが話を区切るように咳払いをする。

 

「それに……ハツカ様に少々お伝えしたいことがありまして。あ、窓少し開いてるから閉めて」

「分かった……それじゃ、聞こう」

 

 神妙な面持ちの彼に僕は胡座を組んで対峙する。

 

「鶯さんから訊いたのですが、血の味は初めて吸血されて日から一年過ぎると不味くなるようなんです」

「一年……それって眷属化できる間は美味しいってことだよね」

「察しが早くて助かります」

 

 つまり味の良し悪しは眷属化できるかできないかを味覚で感じるためのものなのか。

 以前夜守くんが探偵さんの血は不味いと言っていた。彼女の血を吸ったのは恐らく七草さんだろう。そうなると七草さんにとっては夜守くんよりも前にいた眷属候補……だった可能性もあるのか。

 

「なので、このままで良いのかなと思いまして」

 

 七草さんと探偵さんの関係に持って行かれていた思考を吼月くんの方へ戻して、僕は首を傾げて「はて?」と思った。

 

「美味しいから良いじゃん。結局は僕の眷属になるわけだし」

「ホント自信がすごいな……」

「それにショウくんは何年も吸血鬼になれてるんでしょ? 普通のルールはキミに適用されないと思うけど」

「僕は認めないんですよ。話の流れが悪くなるから合わせてるだけで」

「キミも頑固だな……」

 

 吸血鬼の臭いだってしたし、気配も–––人間のも混ざっているとはいえ–––吸血鬼のものと考えていい。

 いつものように信じられないのか。はたまた信じたくないのか。それはいま気にすることではない。

 

「つまり、これからは僕に好き放題マーキングされながら吸血されたいと、そう言いたいわけだね」

「……メイド服着たのもハツカ様が喜ぶと思ったからだし、僕はハツカ様専用の血液パックなわけだし。そりゃ味は僕の感情に左右されるとはいえ、シチュエーション次第ではハツカ様も興奮して更に美味しくなりますし」

 

 空腹は最高のスパイス。そんな言葉もあるくらいだし、自分の状態でも美味しく感じられるかどうか変わってくるのは理解できる。

 

「なら、興奮したり楽しくなるように吸血をお互いにひとつずつ考えてみる?」

「僕が言ったこともちゃんとやってくれるんですか?」

「うん。なにか案はあるのかい?」

「行き当たりばったり考えなし」

「ダメじゃん」

 

 吼月くんは良い案はないかと首筋を指でなぞり始める。綺麗で白い柔肌を這う指までもがどこか色っぽく見えて僕の食欲を刺激する。

 そんな僕の視線に気づいたのか吼月くんは指を見て、「あ。そうだ」と溢すと踵を返す。

 勉強机に近寄ると、先ほどノートパソコンを取り出したサイドワゴンの引き出しの中を覗き込む。そしてその中から何かを取り出した。キラリと鋭利な輝きを発するのはカッターナイフ。

 

「え?」

 

 吼月くんはカッターナイフの刃を左の人差し指に添えると刃を引いた。流れ作業のように躊躇いもなく行われた異様な手段に僕は身を引いてしまった。

 仕事を終えたカッターナイフの刃をしまい、勉強机に戻す。

 切り付けられた指からは、ぷくりと極小の風船が膨らむように血が出ている。その指を僕に突き出して、

 

「飲んでください」

 

 彼はそう言い放った。

 10秒ほど思考が凍結する。さらに数十秒、僕は差し出された食事に目をやって、ようやく溶け出した脳を動かしていく。

 指から流れ出す血を飲むのだ。

 どうやってかは簡単だけれど、とても僕の心を乱す行為。飲むためには僕が彼の指を咥えなければいけないのだから。

 吸血は食事とまぐわい。

 つまり吸血鬼にとって血を流す指を舐めることは–––一瞬、彼の股座に目を移す–––その行為に及ぶと考えてもいいものだ。

 ましてや、それをしゃぶるなんてことは……

 

「変態!!」

「え? いきなりなんですか。気持ち悪いな……」

 

 大声を張る僕に慄きながらも吼月くんは指を差し出すのをやめない。彼は血が落ちないように指を傾け、手のひらへと赤い筋を残して血が集まる。溜まっていく血を見て、僕は小さく咽喉を鳴らす。

 

「分かってるの? 僕に咥えさせるってことは口淫になるってことが……」

「そっちを咥えさせられるよりは顎が痛くならないから問題ないですよ。それに僕の血に喉を鳴らしてるじゃないですか」

「……!!」

 

 不味い。これ以上、血を見ていたら本当にしゃぶりたくなってしまう。

 目を逸らそうと意識するが、吸血鬼の本能が許さない。目の前にある美しいほどに澄んだ真っ赤な鮮血は、極上の味だと知っているからだ。

 思い返せば、脳が覚えこんでしまうほどに僕は毎日彼の血を飲んでいた。

 

「メイドがご主人様を見下ろそうとは良い度胸だねぇ……!」

「声が震えてますよ。お可愛いですね、ふふっ」

「この……っ!」

 

 頑張って反抗的な目だけは向ける。

 しかし、鋭くした眼すら今の彼にとっては微笑ましいものようで、愉しそうに更に指を突き出してくる。鼻先に真っ赤な血が添えられて、甘美な香りが鼻にまとわりつく。

 食欲が止められない。

 口の中に涎が溜まって、口の端から漏れ出しそうだ。

 

–––やるっていったのは僕だしね……

 

 あくまで良識の範囲内だろと言いたいが、吸血鬼との擦り合わせだから誤差があるのはどうしようもない。

 それに自分で口にしたことを反故にするのは主人としてダメだ。

 

「仕方ないね」

「ふふふっ。さあ……お舐めてください、ハツカ様」

 

 やっぱりこの子、楽しんでるな。

 僕はジッと彼のことを睨んでから、ようやく舌を出して指先についた血を舐めとる。溜まったいた唾液が指を濡らせば、それが潤滑液の役割を果たして血の流れを速くする。

 溢さぬように僕はすぐさま指を口に含んだ。クリームや果物をふんだんに使ったショートケーキのような甘美な味わいが口の中にじわっと広がる。

 この味は吼月くんの恥ずかしさや愉悦が色濃くが反映されている。

 彼を見上げれば、その頬は赤く染まっている。自分で言い出したことだけど、やってみると想像以上に恥ずかしいと味蕾から伝わってくる。

 

(か、可愛い……)

 

 僕を見下ろす彼の感情が伝わってくる。

 

(女王様なハツカも良いけど子犬みたいな今のハツカも可愛い……! これがギャップ萌えってやつか……!!)

 

 思考とはまた別の、感情だけが言葉を持って身体に流れてくるいつもの感覚。この僕がこんな痴態を晒しているのだから可愛いと思わずにはいられないだろう。

 

–––このぐらいでもう良いだろ

 

 意識して口を離そうとするが、舌がずっと彼の指を纏わりついて離せない。舌から伝わってくる甘美な味わいに口がすっかり虜になっている。

 まるで口にしてはいけない禁断の味を知ってしまったかのようだ。

 ついに僕は理性とは裏腹な行動を取ってしまう。

 口を窄めてドンドン奥まで咥え込み、指をストローにして血を吸い上げる。舌は絶えず彼の指を温め、とろとろに濡らして、血の流れを促進させる。

 

「ハツカ様、いますごくエッチな顔をしていますよ。猫耳をつけたらもっとエッチになりそう」

 

 吼月くんは自分がつけていた猫耳カチューシャを今度は僕の頭につけてる。頭上から微かな圧迫感がやってきて、本当に付けられたんだと理解する。

 その後メイド服のポケットからスマホを取り出す。そのレンズを僕に向ける–––映りを気にして反射的にピースサインをしてしまう–––と、

 

「はいピース」

 

 パシャパシャパシャと連続で撮影した。

 

「ほら」

 

 スマホの画面には猫耳をつけながら、美味しそうに指を口いっぱいに頬張る僕の姿が映っていた。それも無様姿を撮られるのが嬉しいかのように僕は顔の横でピースサインを作っている。

 今ここに僕の黒歴史が爆誕したのであった。

 身体が爆発したくなるほどの羞恥が僕に宿る。それを見た吼月くんの血の味が変化して、甘美だが、まるでタルトのビスケット生地のような香ばしい味わいになる。

 この子もあれか? 人を弄んで楽しむタイプか?

 そういえば山の中でも僕を驚かせて楽しんでたしな。

 

「……そろそろ抜いて(うあうあんんて)

「はい、お粗末さまでした。ハツカ様」

 

 舌ったらずな声で吼月くんに告げると、彼は僕の頭を軽く撫でたあと指を抜いた。

 足りなかった酸素を補給しようと肩で息をしながら彼の指を眼で追えば、口と指が唾液と血でできた橋で繋がっていることに気づく。

 精神的に老成している部分もあるのに、僕はその光景が堪らなく不埒に思えた。

 

「次はハツカ様の番ですが、どうしますか?」

「立ち上がってそのままでいて」

「え? わかりました」

 

 ベッドから立ち上がり、吼月くんの後ろに立つ。

 そしてその背中を思いっきり–––ゴン!

 

「おっ!?」

「よいしょ」

「ぐえっ!」

 

 突き飛ばしてうつ伏せになるようベッドに沈めれば、その上から覆い被さる。カエルを踏み潰すかのような様だが、不快感はまるでなくそれどこか快感すら湧いてくる。

 

「仕返し? いえば倒れるくらい……」

「突き飛ばすのが大事なんだよ」

 

 顔だけを動かしてこちらに振り向く吼月くん。焦りが滲んだ顔色は仄かに照れも秘めている。

 何故ならば以前僕の家でやったように動きを封じるような手脚、そして重心のかけ方はしていない。抜け出そうと思えばできる状態。

 つまりされるがままされているという事は、彼が僕に負かされたいと思っている証拠。

 

「それに僕だけ恥ずかしい思いをするなんて負けたみたいじゃん?」

「ハツカって意外と負けず嫌いだよね」

「そうだよ。でも僕に押し倒されるの嬉しいでしょ」

「嬉しくなんてないです」

「なら、血に訊こうかな」

 

 吼月くんは返しの言葉を紡がない。

 当たり、だね。

 

「そうだ。チューの件だけどさ」

「なんですかいきなり」

「キミは本気にしてないだろうけど、僕はしても良いと思ってるよ。ほら」

「……な」

 

 ポンッと茹った音が聞こえるように吼月くんの顔が赤くなる。

 それは何故か。振り向く彼の頬にそっと唇を添えたからだ。唇から伝わる吼月くんの体温を数秒味わってから、それを離す。彼の頬が僕の唾液でしっとりと濡れている。

 何が起きたのか理解できなかった彼は石になって固まり続ける。僕が血を眺めていた時間よりも長く固まる彼の頬をつつけば、ようやく現実を直視して動き出す。

 

「な、ななななに何やって!?」

「おねんねの挨拶だよ。良い夢見ようね」

「……。くぅ–––!!」

「にひひっ」

 

 一瞬でも変な想いが頭の中を過ぎったのだろう。

 思考の全てを吹き飛ばしてしまうほどの衝撃的なナニカが走ったのだと、その表情から見てとれた。

 

「そうそう。今日は右の首筋から飲むね」

「……何の意味が?」

「両の首筋に痕をつけておけばキミはおいそれと誰かに首を差し出さないでしょ?」

 

 これで完全にキミの首は僕のものだ。

 そう耳元で囁けば、ぶるんと彼の体が震えた。

 

「それじゃあ頂きます」

「あ、ああ……ぁぁぉぉぉぁああ〜〜!!」

 

 首筋に牙を立てて血を吸い上げる。

 そのまま覆い被さって一緒に寝てしまえるほど、僕は心地よい味わいを堪能した。

 仕込みは万端だ。

 

 

 

 

 そうして、僕らは共にベッドの中に入った。

 吼月くんはぐっすりと眠っている。

 最後の最後に手玉に取られてしまった不甲斐なさにシクシクと枕を濡らしながら、溜まっていた疲労と共にベッドに撃沈してしまった。

「僕は負けてない……負けない……」となんとも情けない寝言も呟いている。

 

「負けてるやつのセリフ……さて」

 

 そんな彼を僕は真剣で張り詰めた意思を宿した瞳で見据える。

 この時を待っていた。

 眠りについて夢の中に旅立ち、精神が無防備になるこの時を。

 

「ベゼルを回して……スイッチを押すだったな」

 

 士季くんは半吸血鬼状態の彼の血を飲んだ時、はっきりと過去を感じることができたと言う。

 ならば、今こそが彼のことを知る絶好の機会。

 日記はまた今度も見れる。

 今は彼の記憶を探る–––!

 

「過去の先っぽだけでも見れたら、大きな手がかりだ」

 

 意を決して口を大きく開き、先ほどつけた吸血痕に重なるよう牙を添えた。

 

 

 

 ドクン。

 

 嫌な鼓動が全身に波紋を広げた。



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第六十三夜「かけた」

 まず意識を覆ったのは擦り切れたテープを再生したような砂嵐(ノイズ)。耳朶を抑えたくなるほどの異音と共に現れたそれは、一種の拒絶反応にも思えた。

 耳を塞いでも無駄だ。

 これはあくまで意識の中で共有する記憶の断片。脳に直接語りかけているものなのだから、肉体の外側を塞いでも意味がない。

 吼月くんの血を吸っても–––それどころか久利原たちを含めても–––これまで、こんな砂嵐に苛まれたことはない。

 士季くんも血を浴びた時に軋むような脳の痛みを感じたのだろうか?

 僕はじっと耐えながら、次の場面が流れ込んでくるのを待つ。

 

 そして––––視界が真っ暗になった。

 

 顔に微かな温もりと羽のような肌ざわを感じると、身体を起こした。否、これは記憶だ。僕の意思で上体を起こしたわけではなく、記憶の保持者である吼月くんがその時していたを追体験しているのだ。

 真っ暗な視界がずり落ちて、瞳に燦々とした光が突き刺さった。

 それは窓の外から差した陽の光。吸血鬼になってから拝む機会が消えた太陽。他の星の明かりをかき消して、青空は俺のものだと言わんばかりに天辺から熱線を吐きつけられて、喉がひどく乾かいた。

 視線を落とすと、綺麗に磨かれたガラスに今よりもずっと幼い吼月くんらしき顔が映っている。小学校低学年ぐらいだろうか。

 僕が……いや、これだと間違えてしまいそうだ。僕の意識だけが吼月くんの身体に憑依してしまったかのようで、とても変な感じだ。

 吼月くんが辺りを見渡すと、そこは汚れひとつ許さない真っ白な一面で構築された病室だった。身につけている物もガウタタイプの患者衣で入院していたのだと察しがついた。

 ただ不思議だったのは吼月くんの視界を覆っていた物。

 右腹部に引っ掛かるようにしてギリギリ病床から落ちずに留まっている白い布は、人が亡くなった時にかけられるものではなかっただろうか?

 

「……え?」

 

 突如耳朶を打った声に顔を上げて、声の発生源を見つめる。

 開いたドアの先に幽霊を見たかのような顔で佇んでいるナース姿の看護師さん。

 女性と吼月くんの視線がかち合い、吼月くんはただ首を捻りながら見つめ、看護師さんの顔は困惑から次第に驚愕、そして恐怖に変わっていき……遂には悲鳴をあげた。

 窓が震え、外の青々と茂った木々の葉さえ彼女の叫びが揺らしていると思わせるほどの絶叫に、ハイエナの如く他の看護師たちもぞろぞろと集まってくる。出遅れた人たちはまるで物見遊山のように面白そうにぴょんぴょん飛び跳ねて病室を覗く。

 吼月くんはパンダじゃないんだぞ。あと、病院だ跳ねるな。

 僕はそんな事を考えていたが、当の本人は何も感じていないし考えてもいない。吼月くんはとにかく今の状態が分かっていないように感じられた。

 耐えず野次馬たちを見つめれば、最初に現れた女性に話しかけるように別の看護師がぽろりと溢した。

 

「ねえ、あの子……死んだんじゃなかったの……?」

 

 今のは聞き間違えか? 吼月くんが死んだ?

 記憶を辿り始めたばかりだと言うのに僕の心の中には暗雲が立ち込めた。

 暫くして、白い病室に響く黒い声は霧散していた。吼月くんの担当医らしき人の一声で騒がしかった野次馬たちは三々五々散っていったからだ。

 姦しかった人たちを追い払ってくれた担当医はいま、ベッドのそばに丸椅子を置いて問診を行っている。

 

「……じゃあ、コレは分かるかな?」

 

 担当医は胸ポケットに挿さっていたボールペンを差し出した。

 しかし、吼月くんはボールペンを受け取る訳でもなく、返答もしない。それどころか担当医の言葉すら分かっていないのか、うんともすんとも言わない。

 彼を取り巻くのはハテナだけ。その疑問には言葉すらない。

 困った様子の担当医はボールペンのノックカバーを頭に押し当てて考え込む。そして次に取った手段は、持っていたバインダーに挟んでいた白紙にボールペンを走らせる事だった。

 

「なら、これは読めるかな?」

 

 筆を止めた担当医が見せてきたのは『これはりんごです』という簡素な文だ。吼月くんのイメージを引っ張りだすためなのか、担当医の遊び心なのか、文の尾にはリンゴの絵が描かれていた。

 

「……?」

「ならこっちはどうだい? キミの名前だよ」

 

 再びボールペンを動かして、吼月くんに見せる。

 そして僕はそこに書かれた名前を見てギョッとして、少し背筋が凍るような感覚に襲われた。

 名前は、しょう。吼月くんの名前だった。

 けれど、その苗字は僕の知らない––––葛樹(くずき)ショウと書かれていたのだ。『吼える月とかいて吼月』と彼は口にしていたはずなのに。

 

「分からないかぁ……声が出ないだけなら数ヶ月意識が無かった影響だと納得できたが……」

 

 変わらず言葉を発さない吼月くんを見つめながら途方に暮れた様子の担当医は、堪らず出そうになった溜息を呑み込んだ。

 苗字もそうだが、この記憶の吼月くんは狂っている。頭がおかしいわけではない–––ある意味ではそうかもしれない––が、まるで今の僕のように、何も持たない無垢な赤ん坊が、彼の身体に憑依したようなズレがあった。

 

 精神年齢が一気に下がったような…………

 

 そうか。そういうことか。

 僕がどんよりと重苦しくなった思考を引き摺るように動かしていると、担当医にひとりの看護師が駆け寄った。

 

「先生、葛樹さんと神崎さんがお見えになっています」

「……そうか、分かった」

 

 担当医は丸椅子から腰をあげると、そこにいる相手の機嫌を伺うようにしながら振り返った。

 個室のドアの前。呆然としながら、やはり亡霊でも見つけてしまったかのような顔をしている男が立っていた。パキッと筋の通った真っ黒な背広を着た清潔な男で、顔立ちに吼月くんの面影が微かに見てとれた。

 葛樹は傍に知人と思われる男を控えさせながら吼月くんを見ていた。

 奥に控えている男–––神崎は他の人達と違い安堵の色も浮かべてはいたが、やはり見てはならない物を見てしまったように顔を引き攣らせていた。

 どうしてだろうか。神崎という男の顔には見覚えがあった。

 

「葛樹さん、今日はお見えになったんですね」

「すぐに仕事に戻らないといけない。アレの状況を手短に説明してくれ」

 

 葛樹と呼ばれる–––––恐らく葛樹くんの父親は、薄気味悪そうに吼月くんに一瞥した後は時計ばかりを気にしていた。

 その態度で僕は完全に認めた。彼は吼月くんに対して何の思い入れもないのだと、そして吼月くんの言葉が真実であると悟った。そして何かしらのキッカケで関係を断つことになったのだと。

 着ている服と同じくらい腹の中まで黒そうだ。

 

「……分かりました」

 

 渋々来たことを理解しろと言わんばかりの態度の父親に、担当医から全身から針の山が飛び出さんばかりの不快感が出ているのを僕は感じ取った。あくまで吸血鬼()だからこそ感じ取れたものなわけで、当の本人は全く気づいている様子はなかった。

 担当医は一度肩の力を抜いてから、口からこぼすように答える。

 

「詳しいことは精密検査を行ってからしか言えませんが、記憶障害の類いでしょう。それも赤子に戻ったような状態です。しかし、あの事故で五体満足なだけでも奇跡です」

「そうか」

 

 父親と僕は同じタイミングで頷いた。

 この肯首に含んだ感情が正反対なのは言うまでもなかった。

 

 

 一通りの検査を終えた後、吼月くんは再びベッドで休んでいた。

 検査には長い時間を要した。もう一度、吼月くんが窓の外を見上げてみれば、傲岸不遜に輝いていた太陽は地の底へ沈み、空の玉座は月に奪われていた。

 

「やっぱりこれまでのこと、覚えてないんだよね?」

 

 投げかけられた声に頭を動かして反応を示す。コクコクと小刻みに首を振ってみせるその姿は、不慣れなのもあってかボブルヘッド人形のように感じた。

 吼月くんの検査結果だが、やはり記憶障害に間違いなかった。

 吼月くん自身は周りの言葉を理解できなかったが、彼を通して見ている僕は理解していた。専門用語も話の流れから察することもできた。

 どうやら今の彼は中々珍しい状態のようだった。

 なんせ生まれてからの全ての記憶を喪失しているのに加えて、言葉の意味や、生きる為に習慣になっていたはずの読み書きすらできなくなってしまったのだから。

 

「先生が『赤子に戻った』『まるで生まれ変わったようだ』って言ってたけど……本当かもね……髪色も黒になってるし」

 

 穴でも開けるかの如く訝しい視線でこちらを射るのは、神崎と呼ばれた男性だ。吼月くんが言っていた親代わりというのはこの人のことだろう。

 グレーのスーツに赤いネクタイを身につけ、落ち着きのある大人の雰囲気を醸し出している。そんな身なりと対照的に口調はフランクで、ゆったりとした話しかけやすさも兼ね備えている。

 神崎はムムムと唸ると「記憶喪失なら当時のことを伝えたら何か思い出すかもな」と独りごちた。

 

「ショウくん。私は琢磨の、いや君の父親……さっきの感じの悪い男の人とは学生の頃からの親友でね。神崎って言うんだ。よろしくね」

 

 人の良さげな微笑みを受けながらも吼月くんは何か言うこともなく頷くだけ。差し伸べた手が宙ぶらりんになったような少し寂しさを滲ませる神崎はコホンと咳払いをして話を続ける。

 

「キミは数ヶ月前に事故に遭ったんだ。交通事故、覚えて……ない方がいいかな。火傷もないみたいだし」

 

 神崎は吼月くんに注意を払いながら言葉を選んで会話を続ける。

 

「居眠り運転をしてたトラックが歩道を歩くキミに突撃してきて、何メートルも引き摺られて……トラックのっ、爆発にも……巻き込まれて……」

 

 余程悲惨な事故だったのだろう。

 当時の出来事を追走していくに連れて、神崎の顔色が次第に暗く澱んだものになっていく。息も絶え絶えになって周りから見ても思い出したくない光景が、僕の意識の中で形作られる。

 吼月くんが流す血を轢き潰すかの如くアスファルトに色濃く残っているタイヤ痕。事故の影響で漏れ出したガソリンに火が引火して周囲を巻き込む爆発を起こした。その炎に吼月くんは焼かれた。

 神崎の言葉から想像できるのはそんな風景。

 担当医が口にしていた五体満足などでも奇跡と言う言葉が現実味を帯びてくる。

 きっと吼月くんが助かったのは吸血鬼の力があったからだろう。

 しかし、記憶がないとなると、吼月くんはどのタイミングで力の存在に気づいたのだろうか?

 

「––––だから、生きてて本当に良かったよ。亡くなったと聞いていたから」

 

 神崎は事情を説明し終えると、焦燥に駆られた顔色に隠された安堵の色が表に出てくる。

 実父の有り様を見た後だと、吼月くんが神崎を親代わりだと言うのも納得が行く。それどころか、面倒な人扱いをしている吼月くんの方が無礼ではないかと思ってしまう。

 無礼なのはいつものことか。

 僕が頷いていると、ガッと胸の辺りが鷲掴みされるような違和感が毒を吐いていた心を侵した。それは吼月くんが感じた衝動。

 彼は不快感に従って俯く事を選んだ。

 

「でも死亡届って訂正できるのか? アイツはこっちでやっておくって言ってたけど……今回は認定死亡にも当てはまらないだろうし」

 

 吼月くんの内心を推し量る事もなく神崎は首を捻りながら今後のことを考えている。

 死亡届が受理されるには、医師が書いた死亡診断書が必要になる。

 それが出ているということは吼月くんは一度本当に死んでいたのだ。医師すら死亡と判断してしまうほどに終わりに近づいた。

 思い出そうとするだけで僕の肌が粟立つ……これはきっと吼月くんが感じていた恐怖に違いなかった。妙に悪寒を感じる僕らに気付かぬまま、神崎は丸椅子から腰を上げた。

 

「それじゃあ、そろそろ私も帰るとするよ。お医者さんもリハビリを頑張れば数週間で退院できるって言っていたから、よく寝てよく動くんだよ。元気になったらお母さんにも顔を見せてあげるんだよ」

 

 神崎は微笑んでから、さも良いことを思いついたと言わんばかりに左の掌に右拳をポンっと下ろした。

 

「アイツの代わりにまたお見舞いに来るからさ、その時に何か欲しいものがあったら教えてね。もちろん今日みたいに琢磨も引っ張ってくるよ」

 

 警察庁のお偉いさんは自分の子供のことも顧みなくなるのかね。

 吼月くんが理解できない今だからこそ吐き出すことができた愚痴には、しっかりと不快感が刻まれていた。

 神崎は所在なさげに手を振りながら病室のドアを閉めた。

 そうして––––吼月くんは独りになった。

 月が登り、そして下がり出すまでひとりぼっちで虚空を見つめていた。何をするわけでもない、ましてや何かできるわけでもない。ただがらんどうになった病室をぼんやりと見つめて、実際の広さよりも遠くに感じ寂しさが際立つ。

 

「…………ぁ」

 

 漏らした声は産声のように病室内で鮮明に響き、耳朶を打った。

 意識の覚醒の合図だったのかはまだ分からなかったが、声は死んでいなかった。そして、意識がまとまり出した頃、僕の自我の中に浮かんだのは先ほどの神崎の言葉––––『アイツ』。

 

「あ……ぃ……っ……ノ……」

 

 まるで赤ん坊が親の言葉を真似して音を覚えるように、今日耳にした音を断片的に繰り返し始めた。

 意味はわからない。けれど、音は出せる。

 喋れなかったのは知識がないからだ。

 

「あ……い……つ……の……か……わ……」

 

 ものは試しと言わんばかりに何回も、何回も反復練習を行う。数ヶ月間マトモに使っていなかった喉はガラガラで、声帯が振動するたびに痛みを感じる。

 喉を裂くような痛みは直接脳へと突き抜けていくように伝播する。

 辛くて、休んでしまおうと何度も思いながらも口を動かし続けた。しかし、せっかく音が出せるのなら使うべきだとして彼は酷使する。水の存在を知るわけもなく喉を潤すこともしない。

 理由は至極単純でそちらの方が良いと判断したからだ。

 言葉が通じず不満気な医者の姿や言葉のない返事に寂しそうな顔を浮かべる神崎。生物的な本能なのか、自身に非があると無意識に感じてしまったようだ。

 

「あいつ……の……かわり……にま……た……おみま……いに……」

 

 音を操る稽古は彼が倒れて視界が暗転するまで続いた。

 

 

 気絶するまで発音の練習をした夜から数日が経った。

 

「今日のリハビリは終わり」

「はい」

 

 午前中の日課になっていたリハビリを終えて、吼月くんは松葉杖を脇に抱えた。

 あれから声の再生のため、吼月くんのお経じみた練習は継続していた。その甲斐もあって想像してたよりも早く喋れるようになり、時折問診に来る担当医や、目の前に居る看護師とも声で意思疎通ができるようになった。

 音や言葉は分かっても意味はピンと来ない物もあるので、それらは問診に来る担当医に尋ねたりしていた。

 

「じゃ、病室で大人しくしていてね」

 

 あまりにも事務的すぎる言葉だけを告げる看護師に違和感を覚えるのは僕だけだった。

 吼月くんは足早に背中を消した看護師を見送ったあと、松葉杖をついて病室に戻り始めた。

 午後の予定は特になかった。

 薄味の病院食を平らげる以外にあるとしたら、言葉の勉強のために図書ルームから借りている辞書を引いて意味を覚えるくらいだ。最近覚えたのは『父親』『母親』『ボールペン』『松葉杖』『本』といった身の回りで触れられる単語。それらを率先して覚えているのは興味があるわけではなく、自分に対して使われた物だから優先度が高くなっているだけだった。

 そうでなくても、恐らく1週間もすれば辞書の言葉を丸々覚えてしまいそうな勢いがある彼なら、数日後には脳に叩き込んでいただろう。

 ひとりで俯きながら歩いていると、

 

「……」

「……」

「…………」

 

 ひそひそ。

 周りにいる誰かが呟いているのが聞こえた。

 それだけなら赤の他人の世間話で済むのだが、この身体を突き刺す奇異の視線が否応なく自分を話題にしているのだと悟らせてくる。

 本人もキチンと感じ取っていて、流石にむず痒くなったの彼は足を止めて視線を放つ場所へと顔を向ける。

 

「……あの」

 

 声をかけると通路で輪を作りながら吼月くんを見ていた看護師たちが、そそくさと立ち去っていく。まるでオタマジャクシの大群が戯れる水面に石を投げ込んだ時のような逃げ足の速さだ。

 吼月くんは思わずため息をついた。すると彼の頭の中に文章が浮かんでくる。

 ため息––––気苦労や失望などから、また、感動したときや緊張がとけたときに、思わず出る大きな吐息。

 

「つまりぼくはあのひとたちにかんどうした……? なんで?」

 

 いや普通は失望だろ。

 心の中のツッコミが伝わったのか、吼月くんは「ないな」とひとり納得する。

 ぐるりと首を回して辺りを見渡す。

 声をかけたことで周囲の人々は散り散りになり、突き刺すような視線はもうなくなっていた。そのおかげで随分と気が楽になった。

 

「ん?」

 

 動かしていた首が突然止まる。

 

「ナースさん! ナースさん! 見てみて描けたよ!」

「あら、上手ね! タヌキ……?」

「犬!!」

 

 彼が見つめた先にあったのは小児科にある児童用のスペース。

 様々な色のマットやクッションが置かれた憩いの場では、患者衣を着た子供たちと看護師ふたりが一緒にクレヨンを持って絵を描いていた。

 

「俺も描く!」

「私も私も!」

 

 後ろから現れた子供たちが飛び入り参加して、憩いの場は慌ただしさを増していく。喧騒が広がるが、静まり返って気を落ち込ませるよりはずっと健全だ。

 

「……」

 

 好奇心に突き動かされたのか、人の輪に入りたかったのか。はたまた、第3の理由があったのかは僕にすら分からなかったが、自然と吼月くんの脚が子供たちが笑顔で集う場所に向けられた。

 スリッパを脱いでマットの上に乗る。松葉杖は近くの壁に立てかける。身体はまだ痛みはするが、それでも短時間なら問題なく歩くことができた。

 

「かりていい?」

「いいよ! クレヨンどうぞ!」

「くれよんどうも」

 

 マットに置かれた画用紙とクレヨンを拝借し、絵を描こうと画用紙と向き合う。

 

「……かけない」

 

 まず何を描いていいのか分からなかった。

 なので、参考に周りの子たちの絵を見て考えることにした。モチーフは決まっていなかった。思い思いに描いているらしく、中でも動物や果物、車、ゲームやアニメのキャラクターなどが人気だった。

 吼月くんが選んだのは、太陽が輝く病院の外。

 描くものが決まると自分の感性や認識に従って白紙の画用紙に色をつけていく。

 眩しい太陽は黄色と白で輪郭がはっきりとしない輪っか。青空と雲はまるで太陽が纏う二色のマントのように靡かせて、流動的な姿をしっかりと表している。その下には病院の前にある木々が青々とした葉をつけて並び立っている。

 初めてだから拙い部分は数多くあるけれど、上出来だと褒めてあげれるレベルに仕上がった。

 

「うん……かけた」

 

 吼月くんも納得したのかクレヨンを戻した後、画用紙を持って近くにいた看護師に声をかけに行く。

 

「ナースさん、みてください。ぼくもかけた」

 

 声に気づいて振り返った看護師に絵を胸元に掲げて見せる。

 吼月くんの頭の中には「どうだろう?」「うまくかけたのかな?」「このひともすきになるかな?」と期待と不安が入り混じっていて、その想いがふんだんに乗った瞳で彼女を見る。

 変な物を描いているわけでもないし、看護師も酷評するようなこともないだろう。

 しかし、彼女の顔は予想外のもので、

 

「あはは……」

 

 苦笑いを浮かべるだけで何も口にしない。良いとも悪いとも言わない、まるで腫れ物に触るような態度で、吼月くんがいること自体を嫌がっているようだ。

 確かに父親は子を顧みないダメ親だ。それでも吼月くんまで腫れ物扱いするのはいかがなものだろうか。

 

「……?」

 

 対人経験が皆無な吼月くんが気づくはずもなく、ダメだったんだと受け取って新しい画用紙を手にした。

 今度は周りの子たちと同じく果物や動物の絵を描いて、看護師に見せに行くのを何度も書き直した。吼月くんはうまく描けるようになりたいと思いながらクレヨンを動かしていた。彼の中には、上手いとは自他が認めるものだという認識があったからだった。

 

「これはどうですか?」

「どう……だろうね……」

「……」

 

 玉虫色の答えばかりが続いて腕が疲れてきた頃、

 

「貰い!」

「あ。……」

 

 近くに居た子供に握っていたクレヨンを奪われたことで心が折れた。

 使った画用紙などをゴミ箱に捨てて、松葉杖を抱え直して憩いの場を離れていく。

 

「かんごしさん! かけたよ!」

「わー! すごい上手だね!」

「僕のも見て!」

「いいよ!」

 

 クレヨンを奪った子は叱られることもなく、それどころかよくやったと言わんばかりに描いた絵を褒められていた。

 自分が居なくなり再び賑やかになった背後の光景に吼月くんは視線を落とす。何故とは問いただしには行かない。これが普通だと思っていたからだ。

 僕の中に彼の孤独感を強く流れ込んでくる。それは本能的な衝動で、吼月くんはその強い揺らぎに言葉を付けられない。

 しかし、分かってしまう。いくら世間をしないとはいえ、ここまで露骨に煙たがられてしまえば誰だって分からされる。そして、精神的に幼い彼はとても無防備だ。そして、傷を傷と認知出来るほどでもなかった。

 吼月くんに声をかけられないのが心苦しかった。

 

「ねよう」

 

 そうして病室の前まで戻ると、いつまでも表札がつかないドアを開く。

 

「……」

 

 ベッドで横になるとサイドテーブルに置かれていた辞書をひき始めた。

 気を紛らわせるように……今日のことを忘れるように……気を失うまで読み続ける。

 思いの外すぐに視界は闇に落ちた。

 

 

 今度は数週間が経過した。

 アレから吼月くんはリハビリを除いて病室から出ていない。自分から傷つく場所に出向こうとは考えない–––もう一度だけ挑戦したが結果は同じ–––し、お見舞いには誰も来ない。来ても自分のことを目障りに思っている病院関係者だけだった。

 だからといって、横になってばかりではリハビリの意味がなくなってしまうから、今では日中はサイドテーブルに手を置きながら立って読書やストレッチをして、夜には自然に眠っていた。

 

「外か……」

 

 ストレッチの本を読みながら身体を動かしている彼は窓の外に目をやった。窓は微かに開いていて、入っていく隙間風が心地よい。風が前髪を撫でて目にかかることを除けば、彼に取っていま一番の娯楽だった。

 早くことを出ていきたい。窮屈な場所から解放されたいという強い願いを秘めた瞳が、曇りのないガラスに映し出されている。

 

 

 そして、ある日––––

 

 

「おい、帰るぞ」

 

 

 前触れもなく現れた父親、琢磨が嫌そうな顔を隠しもせずに現れた。




新年のガッチャードのキービジュアル出ましたね。
半分以上以外知らないライダーだ……

そして爆上戦隊ブンブンジャーも発表!
すごい名前だな……近年の戦隊こればっかり言ってる気がするけど。
顔面のタイヤが変わることで性能が違うとかかな。オールテレーンタイヤはバランスタイプ、スポーツタイヤはスピードタイプみたいな感じで。

なにより、来年の最序盤で遂によふかしのうたは完結。
最後まで見届けたい……全身全霊で見届けよう。


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第六十四夜「悪い子」

 意外だったのは父親本人が迎えにきたことだった。

 吼月くんに対して興味もなさそうな男がわざわざ自らの足を運んで迎えにくるというのがとても違和感があった。

 神崎が迎えに来ると思っていたのもある。

 なにより神崎の言葉を借りるなら『母親は心配している』そうなので、そちらがやって来るのならまだ理解はできた。見舞いにも来ない母親だが、本当に心配していたなら息子の訃報を聞いて意気消沈してしまったのかもしれない。

 

「えっと……琢磨……さん? か、ん崎……さんが言っていた僕の父親ですよね」

「喋れるようになったんだな」

「ええ……なんとか……」

 

 数少ない記憶から男の顔と名前をなんとか思い出す。

 舌ったらずだった言葉ももう一様に喋れるレベルまで到達した。

 しかし、父親の興味なさげな態度は変わらずそれ以上の言及はなかった。

 

「さっさと支度をしろ」

「服……これしかないですけど」

「それはウチのだ。病院(ここ)のじゃない」

「なら、もう行けます」

 

 踵を返して独りで歩き出していく父親に吼月くんは素直についていく。

 道中にしたことは借りていた本を返したぐらいで、医者や看護師とは何も話さなかった。元より話ができるほどの関係にもなれていなかった。

 当然の権利と言わんばかりに子供を傷つけているのだから、その程度の質だっただけなのだろうが、子供にありがとうとすら思われない病院は如何なものか。

 ふたりはスタスタと病院を抜けて外へ出た。

 吹き付ける暖かく少し湿った風が頬を撫でて、新鮮な感覚に吼月くんの心が踊った。

 

「外だぁ……すぅぅ……はあぁ〜〜……」

 

 張り詰めていない解放感に溢れた空気と、それでいて自分がここにいるのだと感じさせてくれる重みのある風が吼月くんを高揚させる。

 病院の出入り口先で深呼吸を繰り返していると、視界の端では既に父親は歩き出していた。

 それに気づいた吼月くんは急いであとを追い始める。

 

「乗れ」

 

 少し歩いたあと、駐車場の一角に停められた自動車のロックを解除すると、父親は端的な一言で乗車を促した。

 何をどうすれば良いのだろう。

 首を傾げていると父親が運転席側のドアを開けたのを見て吼月くんも目の前にあるドアに取手があることに気付き、それを引いた。

 助手席に座ると初めてのものだから興味があるのかその場にある物を触り出した。灰皿には三本ほど吸い殻があり、フィルターが全てこちらに向けて放置されている。サンバイザーを下ろすと開けっぱなしになっていたミラーに吼月くんの顔が映る。

 鏡に映る瞳はキラキラと輝いている。記憶を失ったことで目に見えるもの全てが新鮮に見えるのだ。

 

「おい。さっさと座れ」

「……ごめんなさい」

 

 ワクワクが止まらない吼月くんを睨みつけながら父親は語気を強く叱る。

 しょぼんと肩を落とした吼月くんは大人しく腰を下ろした。

 

「シートベルトをしろ。……左肩の近くにある帯があるだろ。その先の金具を座席の所にある器具に挿せ」

「えっと……これかな」

 

 シートベルトが分からないことを察した父親が先んじて説明すると、吼月くんは言われた通りにシートベルトを着ける。

 父親は無言のままクルマを発進させた。

 

「……」

「……」

 

 病院を抜けた自動車は快晴の空の下を法定速度を守って道なりに進んでいく。

 揺れの少ないゆったりとした走りと身に沁みる暖かな日差しが相まって、僕ならうたた寝をしてしまいそうだ。原因はもうひとつあって、深く腰をかけた座席から優しくて甘い香りが仄かに鼻腔をくすぐる。

 ただそれを差し引いても、吼月くんの肩肘を張っている。

 叱られたばかりなのもあるが、父親があまり自分を快く思っていないことを悟っているからでもあった。

 吼月くんからすると、父親も看護師達と同じ存在なのだ。元より記憶を失ったことで、親子という繋がりも希薄になっている。

 父親はそれ以上に何もない。あちらは気色悪い存在とすら思っている。

 だから自分から父親に話しかけることはなかった。

 窓の外に目をやる。輪郭を崩して背後へと溶けて流れていく風景を眺めていた。ビルや喫茶店、コンビニなどなど。見たことのない物ばかりで脳が思わず舞い上がりそうになる。

 そうして暫く無言の時間が続くと、

 

「見せておきたいものがある」

 

 赤信号で自動車が停まったところで父親から声をかけられて、ビクリと体が跳ねる。サイドミラーに映った自分の顔を見て『これがギョッとするってことか……』と勝手に学びを得た。

 父親は懐から一枚の写真を取り出すと押し付けるように渡してきた。

 そこに映っていたのは1人の女性。一眼で分かるほどその女性は吼月くんに似ていた。

 

「……この人は?」

「母親だ」

「お母さん、ですか」

 

 首を傾げてしまうのはやはり実感が湧かないから。

 どう答えればいいのか判断がつかなかった吼月くんは自分の感性に従って『綺麗な人ですね』と月並みの台詞を口にした。

 そしてもう一度写真を見つめる。

 容姿も整い服装は少し草臥れてはいるが、清楚な純白のワンピースが光を受けて綺麗に輝いている。お淑やかでその女性の雰囲気にマッチしていた。好意的に解釈すればそうなるのだが、僕が本当に思ったのは【儚げ】だ。

 白装束の女性は意思が薄い微笑を浮かべながら、小さくせり出したお腹を優しく摩っている。恐らくその腹の中に胎児である吼月くんがいるのだ。

 

––––どういうことだ……?

 

 必然、僕の中に疑問が落ちてくる。

 気になるのはこの写真を撮影した場所が屋外–––それも陽の光を直接浴びれる草原だったことだ。

 写真の中の母親と絶賛お天道様の下を車で走る父親。どちらも陽の光を浴びても問題ない人間。もしくは、どちらかが元々吼月くん同様に半吸血鬼ということになる。

 そうなれば記憶の中で判断するのは難しい。人間状態の吼月くんの感覚器官では吸血鬼の匂いを判別することはできないし、気配だって吼月くんが感じ取れるか分からない。

 手がかりが消失したことに暗然とした。

 

「わざわざ写真まで持ってるってことは琢磨さんにとって大切な人なんですね」

 

 吼月くんはせっかくの家族の話題だからと考えた末、二人の関係を羨むことにした。

 しかし吼月くんの期待は全くの見当違いだ。

 

「いいや。それしか見せるものがなかっただけだ」

「……」

 

 突き放す物言いに吼月くんは返答のしようがなくて黙り込んでしまう。

 この男には子供といい関係を作ろうと努力する考えが頭の片隅にも浮かばない愚鈍な存在なのだろうか。

 思わずため息をつきたくなる僕は、吼月くんの視界の端に映ったハンドルを握る父親の左手の薬指に意識を向ける。

 そこには何もついていない。

 警察に結婚指輪をつけてはいけないという規則はなかったと思うが、仕事中に抜けてきたから何処かに保管しているのかもしれない。

 それはない。ただ着けるつもりがないのだろう。

 

「いいか、コレのことを母さんと呼ぶな」

 

 父親の言葉に吼月くんは首を傾げる。

 

「……? 母親なのにですか?」

「俺のことも父さんなんて呼ぶな」

「……」

 

 わかりました、オジサン。

 吼月くんは一度だけ空を見上げると、すぐに俯いて鉛を吐き出すようにしんどそうな声で呟いた。

 青信号に変わり進み出した車の負荷だけで今の彼は潰れてしまいそうだった。

 

 

 

 

 到着して目についたのは大きな一軒家。

 小森とは違う街に立つ白い家。

 遠くから見ても異様な気配が漂うにも関わらず白塗りの家なのがとてもミスマッチにしていた。

 父親はガレージに車を入れるからと、吼月くんに鍵を渡して先に家に入らせた。

 

「ここが僕の家……」

 

 父親が戻ってくるまで家の中を歩き回った。

 とても殺風景なリビングは現在の吼月くんの部屋と重なって見えたが、それは直ぐに錯覚だと気づく。

 無駄なものが何も置かれておらず生活感が感じられないのはそうだが、どこかカビ臭いというか、腐臭が漂っていて鼻につく。脳を刺激し不快にする。既に精神的な不快感を溜め込んでいる彼は異臭を嗅ぐだけで気が立ちそうになる。

 この臭いはどこから来るのだろうか。

 まるで持ってるだけで何年も使っていないのような住居。一応とはいえ生活感のある吼月くんの家とは違う。

 その一階を歩き尽くすと、目についた階段に向かった。

 

「……?」

 

 2階に上がると呻き声が聞こえた。

 声がした場所に顔を向ければその先に扉があった。とても重厚な扉は中に獣でも閉じ込めているのではないかと錯覚させる。

 

「–––––」

 

 僕にはそれが–––感覚的に–––人の声だと分かった。

 吼月くんも気配を感じ取り、ゆっくりとドアを引いた。重そうなのは見た目だけで割とすんなり扉は動いてくれた。

 生まれた隙間から中にいる人物に気取られないよう息を潜めて中を覗く。

 

「あ……」

 

 吼月くんは驚きから小さく声を漏らした。

 膝を折り倒れ伏しながら呻き声を垂れ流す女性がいた。

 吼月くんのお母さんだった。

 美しくはあるが写真で見たお淑やかさは皆無でただ小汚い。しかも、その汚さがなくなってしまえば、いよいよこの世界から消えてしまいそうだった。

 『儚い』では言葉が足りないほどだ。

 吼月くんは部屋の中に入った。

 心許なさが心配になって彼を突き動かしたようだ。

 

「––––」

「…………」

 

 女性がこちらを見た。

 月並みだが死んだ魚のような真っ暗な瞳は、それが目だと認識するのに数秒を要するほど落ち窪んでいた。まるで生きた屍が吼月くんに狙いをつけたようだ。

 必然的に身体が硬直する。恐怖したのだ。

 全身を絡めとる異様な感覚を知っている。吸血鬼(僕ら)だからこそ知っているのものだった。

 

「っ……ぅ……」

 

 顔を床に擦り付けるようにして彼女が這い寄る。

 一歩、這い寄る。一手、這い寄る。人間のものとは思えない異様な気迫を纏って蠢くように前進。煩雑に伸ばされた黒い髪が床に積もった埃を絡め取るように伝う。

 

「し……ぅ……」

 

 しどけない姿でなにかを呟いている。小さな呻き声は人間の耳ではうまく聞き取れないし、僕にとって気にしている暇もなかった。

 吸血鬼化に必要なのは『痛みと血』だと吼月くんは言った。

 必死に彼女に傷口がないか探す。

 顔や手首など露出している部分には見当たらない。彼女が這いずる床にも血痕などは残っていない。

 

「し……ょ…………ぅ……しょ……う……」

「……お」

 

 近づいてくるほどその声は大きくハッキリとしたものに変わる。

 待ち侘びたものを手にする子供のような声だ。

 

「しょ……ぅ……しょう……」

 

 自分の名前を呼ばれたことが琴線に振れた。身体の中で熱くなった何かがある事が証左だった。

 求める声で自分の名前を呼ばれたことに嬉しさが突き抜けそうだった。

 

「お母さん」

 

 揺れ戻しでその言葉を零してしまう。

 

「しょう……!」

 

 一際大きくなった声をあげると生気を取り戻した瞳が見開かれた。

 同時に肩と背中に強い衝撃が奔る。咳き込み、何度もえづく。遅れて後頭部が床に激突して、一瞬視界が点滅し思考が飛びかける。

 

「しょう! シょウ……! ショウ!!」

 

 先ほどまで距離があったお母さんの顔が目の前にあった。

 その姿に僕は何かが重なった。

 まるで古い記憶を呼び起こすかのようで、

 

––––え、いや。やめ……

 

 耳鳴りのような痛みを感じるが、それは一瞬で通り過ぎていった。

 痛みが引いてようやく僕は、吼月くんが押し倒されたのだと気がついた。これが大人との差なのか身体の中から骨が軋む音が鳴っているのを感じる。

 荒く生暖かいが顔に降りかかる。鼻と鼻の先が擦れあい若干自分のものが押しつぶされている。

 反射的に手足をバタバタと動かしてもがく。

 

「やっぱり死にやしないわ……わたしたちの子だもの……私だけの子供だもの……死ぬわけない。あの嘘つき、殺す殺す殺す。ショウ……ショウ……貴方も悪い子ね、お母さんを待たせるなんて」

 

 薄汚れた四肢が全身に絡み合い動きを封じる。吼月くんと言う存在を確かに感じるために顔も、鼻も、腕も足も胴も脇も彼女の身体と同化するかのように混ざり合う。彼女の鼓動が伝わってくる。

 夢だと思いたいが、彼女の冷たい身体が現実である事を理解させてくる。

 僕の思考すら追いつかない。

 何が起こった?

 これはどういうことだ?

 全く整理がつかないのは吼月くんの中に渦巻く恐怖心が大量に流れ込んできたからだ。それは僕の脳では処理できないほどの戦慄と恐れだ。

 萎縮した身体はピクピクと痙攣している。

 

「もうどこにも行っちゃダメよ。悪い子には罰を与えないとね」

 

 背中が床と擦れて熱い。彼女が吼月くんの身体ごと前進しているのだ。

 彼女の上半身が浮いて少しするとガチャと頭の上から音がした。鍵がかけられたのだ。

 

「そうね逃げられないように……足折っちゃいましょうか」

 

 その言葉を理解する間もなく体感することになる。

 

「ンンーー!」

 

 激痛。僕の意識がチカチカと点滅する。

 全身が叫び出し悲鳴が口から噴き出ようとしたが、「ダメでしょ叫んじゃ」とまるで諭すような優しい口調でお母さんは口を押さえつけた。

 悲鳴が漏れることはなく、くぐもった声が周囲に溶けていくだけ。

 

「……!」

 

 左脚に力が入らない。

 先ほどまで動かせた両脚がうんともすんとも言わない。折られたのだ。どうやったのかは理解できないけれど使い物にならなくなったのは確かだった。

 

「次は右脚を折って……いっそのことダルマみたいにでもしてあげましょうか」

 

 その言葉に咄嗟に身構える。

 お母さんが口にすれば次の瞬間には右脚に先ほどと同質の痛みが奔り、脳が呻き声をあげる。脳しか叫ばなかった。口は顎ごと砕かれるのではと錯覚するほどの力で押さえつけられており、叫び声を上げることは叶わなかったから。

 

––––や、やめ……

 

 しかし、口が動いたとしても泣き叫べてかは別問題。

 全身を支配する恐怖が本来取るべき行動を阻害しているようだ。

 その甲斐もなく全身が断末魔の叫びをあげるような悲鳴を出す。右脚に続いて左腕、右腕。痛みが連鎖する。

 苦痛で視界が歪み、頬が何かに濡れた感触がした。叫び声は上げることはできなかった。口を顎ごと押さえつけられていたから。

 せめて叫ばせてほしかった。

 吼月くんの記憶だと知らなければ自我を保っていられない。

 そうだ。これは吼月くんの記憶なんだ。

 僕は大丈夫だ。大丈夫なんだ。

 

「ふふっ……」

 

 もがいていた四肢が動かなくなる。身じろぎしても全く身体が動いてくれない。些細な服の擦れる音すら聞こえない。

 

「本当のショウは私の言う通りにしてくれるいい子。だって私の息子だもの。だから、謝りなさい。私に。ほら、ごめんなさい」

 

 まるであやすような優しさ声色が恐ろしくて僕は彼女に従うしかなかった。

 彼女が僕の口から手を離すと、空気を求めて浅く呼吸を繰り返してからごめんなさい、と涙ながらに謝った。

 

「ごめんなさい」

「愛してるわショウ」

「ごめんなさい」

「信じてたわショウ」

「ごめんなさい」

 

 僕の顔が涙でドロドロになった頃、繰り返した謝罪の果てに彼女の顔の全てが映し出された。

 そのタイミングで彼女は笑いながら指で僕の瞼を無理やり大きく開かせる。

 

「昔みたいに私の目を見て」

 

 完全に恐怖に支配されていた僕は言われた通り彼女の目を見た。

 目が落ち窪んだ骸のような目つきの中に生気を取り戻した確かな光が渦を巻くそれは、異様な禍々しさを持っていた。生気はあったとしても正気とは言えない瞳が僕を見る。

 

「……」

 

 何時間、何日とも言えるほど長く感じる見つめ合いの中、次第に女性が笑顔から虚無へ、虚無から邪気に満ちた形相へと変わっていく。

 そして、彼女はこう言い放った。

 

「誰よアンタは!!」

 

 顎を押さえていた両手がズルっと這い下がり、首を力強く掴んだ。常人の元とは思えない力で締め付けられて息ができない。通りもしないのに本能的に空気を求めて口をぱくぱくと動かす。

 爪が食い込み皮膚が裂ける。切れた皮膚から血が流れ出し、首筋を伝っているのが分かる。

 

「た……す……」

「助けて欲しいのはこっちだ!! お前なんて要らない!」

 

 彼女が構えた拳が躊躇いなく降ってきた。

 顔面に加わる激痛は一回、二回と何度も続く。彼女はまるで仇をとらんばかりの明確な殺意を持って拳と暴言を振るう。

 鼻が曲がり目元は腫れ、真っ赤な鮮血が辺りを濡らす。

 なんでだ。

 さっきまであんなに求めていたのに、何がそんなに不満なんだ?

 

「返してよ!!! ショウを返してよ!!」

 

 その全てが僕の存在を否定するものであることだけは……確かだった。

 

「ふざけるな!! 誰なんだ!!」

 

 それでも彼女が何を求めているのか分からなかった。

 彼女が何を欲しているのか分からなかった。

 何にを考えているのか分からなかった。

 

「ああもう……たえられないの……はぁ!」

 

 何かが顔に落ちてきた。

 それは女性の口元から滴る涎で、ボト、ボトと次々に顔に垂れてくる。醜く歪んだ唇も、流れ出す唾液も、まるで餌を目の前にした肉食動物そのもので理性のある存在がしていい風体ではなかった。

 また彼女の舌が伸びて、先ほどよりも大粒の涎が降りかかる。

 

「いただきます」

 

 咥内に鈍色の光が鋭く煌めくと––––

 

「いやぁ!!!」

 

 僕は泣きじゃくりながら生存本能に突き動かされるようにして、動かないはずの腕で彼女を突き飛ばした。

 まるで衝撃波が周囲を震わせる感覚のあと、一人分の重量が凄まじい勢いで壁面に叩きつけられる鈍く重い音が響いた。

 それに紛れて嗚咽のような悲鳴が聞こえた。

 

「ぐぅ……ああぁ……」

 

 母親は壁に打ち付けられ、ぐったりとだらしなく割れた壁面に身体を預けて動かない。

 そんな母親を心配できるほど余裕があるわけでも、とち狂っているわけでもない。

 治ったと認識するよりも早く身体を反転させてドアの鍵を解錠する。そのままドアを押し飛ばすようにして開き、早く母親から離れようとーーー

 

「………」

「お、オジサン」

 

 ドアを開けるとそこにいたのは父親、琢磨だった。

 

「た、助けて」

 

 父親を見上げそう呟くが、僕は直ぐに視線を落とす。

 あまりにも醜い怪物でも目撃したかのような厳しく嫌悪感をひしひしと伝える父親の姿に負けてしまったからだ。

 そして、男は僕を殺すように言葉を振り下ろした。

 

「化け物––––」

 

 なんで……僕が悪いの……?

 そこで視界が再び暗転した。

 

 

 次に目を開けた時、僕がーーそう、蘿蔔ハツカが目にしていたのは大きなスクリーンだった。

 まるで映画館のような風景に変わったことに戸惑う暇もなく、身体を両腕で抱えた。

 記憶を覗いたとはいえ自分のことではない。

 分かっている。けれど、全身の震えがまったく止まる気配を見せない。

 狂信を浴びる恐怖。

 殺される恐怖。

 理不尽に突き放される恐怖。

 

「…………!

 

 俯くしかない。

 記憶を失い、産まれたばかりとなったことを差し引いても耐えられる事じゃない。心に傷をつけるなんてレベルじゃない。

 

「なんであんな親どもを……」

「『大切だ』なんて言えるのか、かな?」

「え」

 

 突然声がして、慌てて振り向くとそこにいたのは、

 

「く、吼月くん……?」

 

 今よりも幼い姿。

 入院していた頃と同じ背丈の吼月くんが本を抱えてそこに立っていた。

 ただその姿は異様でーー笑みを浮かべる顔はひどく疲れ果てていて、なにより左眼周りが黒塗りになったように損失していた。右腕も二の腕から先が欠損している。

 目を背けたくなる痛々しい姿のまま、彼はぶっきらぼうに僕を呼ぶ。

 

「やあ、蘿蔔さん」

 

 心の空隙を強く思い知らされるようだった。




今年も残すところ僅かになりました。
拙い部分は多々ありますが、来年もよろしくお願い致します。


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第六十五夜 ブラックブックス

 新年明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。


 聞き馴染んだ声に呼びかけられて振り向けば、そこにいたのは記憶の主である吼月くんだった。こちらを警戒しながらゆっくりと階段を降りてくる。小学生ほどの背丈しかないのは彼の新しい自我が生まれた時期からすると妥当だろう。

 

 しかし、何故ここに彼がいる?

 

 自分を抱きしめなくてはならないほどの恐怖に、突然の困惑が混じり広がっていく。片腕を失い、左眼が真っ黒に染まった彼の異様な姿を見て恐怖が薄れることはなく、より一層恐怖と焦燥感に苛まれることになった。

 

「なんてことはない。ココは僕とキミの意識の交差点や架け橋のようなものだ。とはいえ、覚醒意識でやってきたキミら吸血鬼と違って、僕は深層記憶と無意識の普段表面化しないものだけどね」

「無意識?」

「だって表の僕は寝てるじゃん」

 

 冷淡。いや、半吸血鬼になった時の感情をセーブした時と同じ無機質な口調のまま彼は言う。

 寝ている間は意識が働かず、精神が丸裸な状態とはよく言うが、きっと彼がその【ありのままの心】なのだろう。

 彼は付け加えて『お互いの意識が混ざりきっていないのは言葉という境目を作っているから』と補足した。

 

「キミの記憶は無くなったままってことなんだよね?」

「その通りだ。さて、蘿蔔さんの知りたいことはさっきので全部かな?」

 

 吼月くんは傍にある座席–––一面にズラッと並ぶ映画館のようなシチェア–––に持っていた本を置くと、残る左腕をスクリーンへと伸ばす。

 彼の意思に呼応したかの如く黒くなっていた画面が波打つ。

 まるで吸血鬼が壁をすり抜ける時のように黒い水飛沫を辺りに散らして何かが飛び出してきた。角ばった物体が僕の頭上を勢いよく通り過ぎていき、その先には吼月くんがいた。

 

「よっ–––と」

 

 軽く声を漏らしながらスクリーンが噴出した物体を片手で掴み取る。光すら吸い込むほどの黒塗りの本で、あの内容を纏める本の面としてはピッタリだと僕は口を尖らせながら納得してしまう。

 きっと僕が先ほど体験した吼月くんの記憶が詰まった本なのだろうが、映画なのにフィルムやディスクじゃないのはどうしてなのだろう。

 それに飛んできた本はかなりの速度があったと思うがら夢の中なので過程も結果も本人の思うがままなのかもしれない。

 そんなことよりも僕は彼に聞かなきゃいけないことがある。

 

「ねえ、吼月くん–––」

 

 続きを言いかけて僕は違和感を覚える。

 努めて冷静に話しているはずなのに、どうして僕は彼のことを『ショウくん』ではなく『吼月くん』と呼んでいるんだ?

 その疑問は、こちらの戸惑いを見抜いた吼月くんが答えてくれた。

 

「ここは意識の狭間だと言っただろ? 口に出さなければいいが、声にしてしまえば心の奥底で思ってることがそのまま出てくる。嘘はつけないのさ」

 

 僕は思わず視線を逸らしてしまう。

 彼の言い分がどこまで真実かは分からないが、正しいと考えて動くほか僕には道はないし分かりもしないことに余力を割くつもりもなかった。

 

「傷つけちゃったかな?」

「よく言えるねそんなこと。安心しなよ。僕の気を引くために名前を呼んでるのは表の僕だって分かっていることだ」

「でも、あの時のキミは嬉しそうだったよ」

「表の僕は人混みの中でも生きれるように作った人格だから基準値は僕に比べて低くなる」

「他人のことが怖くなったのは……その本に綴られたトラウマが原因なんだよね」

 

 会話を交わす中で情報を得つつ、本題に入る。

 彼に気分を害した様子がないのは僕の目的を把握しているからに他ならないだろう。

 

「だったらなんで僕に嘘をついたの?」

 

 彼は衝動に理由が分からないと言っていた。

 僕には知られたくない出来事なのは分かるが、少なくとも現状を打開しようとしている吼月くんが『何もない』という性格ではない。『あるけど今は話したくない。話すことができるようになりたい』というのが、彼が歩もうとする道らしく思える。

 

「嘘は言っていない。それに告げたとしても信じないだろ」

「でも、あの記憶がキミの感じたことなんだろ?」

 

 僕の目的は吼月くんのトラウマを拭って、落とすこと。

 吼月くんが語った過去が真実かなんて関係なく、強弱はあるとはいえ一様に彼を襲った恐怖に寄り添うことが僕の役割だ。

 彼は意外そうに上下の唇を縫い合わせて固く閉ざした。僕の言葉には一顧の価値はあったようだ。

 

「……表の僕がキミに僅かにでも気を許している理由が分かったよ」

「同じ記憶を持ってるのに分からなかったの?」

「悪いが僕は表の奴よりも多くの記憶を持っているからね。そこに至れるまでの道のりが遠いのさ」

「どういうこと?」

「僕は表の僕にとって無意識であると同時に別人格みたいなものだからね。捨てたい記憶を押し付けられたり、とか」

「捨てたい……記憶……そうか、吼月くんが言っていた衝動の正体はキミか」

「僕も一応吼月くんなんだけど。許そう、僕は寛大だからね」

 

 別人格というのは強ち間違いではないだろう。

 事故に遭い記憶を失った直後に、母親から襲われて、助けを求めた父親には侮蔑の視線で見下される。

 トラウマによる解離性同一症。きっとそれが彼らの正体。

 

「ま、表の僕も事実は覚えてるさ。ただ恐怖だけは心の奥にしまい込んで、捨てて忘れようとした」

 

 つまり吼月くんは周りからの異質な扱いを受け止めた上で前に進んだ。いや、進んだと思い込んでいることになる。

 別人格と断言しないあたり、ふたりの吼月くんは繋がっている。それは膨らませたふたつのシャボン玉の泡が分裂せずに連なった姿のように。だからこそ、内に潜めた恐怖の記憶を持った彼が衝動として僕らの前にも姿を表すことができる。

 何もしていないのに自分だけは蔑ろにされ、あまつさえ命の危機に晒されたのにも関わらず、どうして自分に大きな負担がのしかかる生き方を選んでしまったのか。

 

「押し込んだのは恐怖だけ?」

「おかしなことを聞くね。たとえば?」

「寂しさとか」

「……それなら別にないから安心しなよ」

 

 寂しさがないと言い切るのは引っ掛かりを覚えるが、あの状況だと欠落感はあったとしても他人の温もりを求めようとする前に恐怖が出てくるのは間違いない。

 あと不自然な間が気になるが、尋ねても口を閉ざすだけだろう。

 

「さて、君が知りたいのはアレだけで良かったかい? もう知りたいことがないならさっさと血を吸うのをやめて帰りなさいな」

「せっかく会いに来たのにつれないね」

「久しぶりに叩き起こされたこっちの身にもなったくれよ。僕はひとりがいいんだ」

「でも、僕の話はまだ終わってないんだよね」

「直接聞く度胸もないくせによく言うよ」

「聞いたら壊れかねないじゃん」

「かもしれないな」

 

 自分のことを馬鹿にしながら鼻で笑うと、彼は劇場の壁面へと身体を向ける。

 すると、真っ黒だった壁から突然本棚が現れる。

 意識の中とはいえここまで奇想天外なことをやられると僕も驚いてしまうが、吸血鬼がいる時点でファンタジーなのは分かりきったことだろう。

 

「それで聞きたいことってなに? 別の記憶が必要なら掘り出すけど……キミが求めてる情報は僕の両親が吸血鬼かどうかじゃないの?」

「そうじゃない。キミの根底の話だ」

「根底ね……アレと同じぐらいのことはいっぱいあるけど……」

 

 スクリーンから取り出した本と抱えていた本を本棚にしまいつつ、他の本を取り出して僕に見せつけてくる。その度に乱雑に周囲に落としている。

 口ぶりからしてあの両親は吼月くんにアレ以上の仕打ちを加えたのか。腕を折り、足を折り、殺そうとして、助けてを求めた手を振り払った上で、更なる虐待をしたのか。

 沸々と胸の中で怒りが渦巻いた。自分が身をもって体験したのもあって、その熱は秒読みで膨れ上がる。

 僕は立ち上がり吼月くんに近づく。

 

「キミはなんで人を助けようとする生き方を、誰かに価値を見出そうとする生き方を選んだの? 無視されて傷つけられたなら、いっそのこと他人は無価値だと決め込んだ方がいいことはキミだって分かってるだろ」

 

 いつから誰かを助けるのはヒトとして当たり前だと口にするようになった。自分が命の危機に晒されて助けてもらえなかったのにも関わらず、それが出来てしまうのは何故なのだろう。

 

「蘿蔔さんはどう思ってるの?」

「考えはある。けど、その答えを彼の口から聞きたいと思ったんだ」

「そうか」

 

 階段までやってきた僕を見下ろしながら、吼月くんはどこか納得した様子で告げる。

 

「対抗心だよ」

「警察官のくせに助けてくれなかった父親や自分を蔑ろにした看護師たちへのものかい?」

「父親や看護師に限らずあんなモノはどうでもいいよ。名前を呼ぶ価値すらないし、どちらかと言うと復讐心だしね。僕が本当に心を燃やすとしたら……そう、自分自身だ」

「自分自身?」

 

 その答えはきっと表面上をそのまま見てはいけないものだと悟りながら、僕は見極めるために問う。

 首を縦に振ったまま彼は続ける。

 

「この目に見えるモノは自他ともに影響し合う世界だ。一人っきりになれる世界じゃない。僕と関わり合うのは確固たる個人で、僕の記憶とは関係のだとも理解している。だからこそ何かひとつでも取りこぼせば、見捨ててしまえば……余波は僕や僕の周りを脅かす害悪になりかねない。神崎や鶯さん、星見キクもそうだ」

「キミは自分を守るために人を助けようとしてる、てこと?」

「違うな。守るために傷ついてどうする」

「……」

 

 表の吼月くんは価値観の違いで寂しいと言った。

 感じ方が異なることはあっても他人と違うことが嫌だと思うのは当たり前のことで、誰にだって起こり得ることだ。けれど、僕と彼の価値観は距離どころか分厚く天をつくような壁になって僕らを隔てる。

 傷つきたくないと言ってもいいんだよ。

 僕のことを怖いと言ってもいいんだよ。

 だってキミは思ったよりずっと子供で、僕が知ってるよりもずっとずっと深い傷を負わされているんだから。

 

「自信だよ。怒りも恐怖も……そんな負の力の全てを捨て去った先にある自分の意思で選んだ道だ。自分が望んだ、人間として不変の未来を送るための力だ」

 

 そこで初めて目の前の吼月くんは口角を曲がるが、痛々しい身なりも相まって無理して笑っているような自暴自棄になった者の狂気の笑みにしか見えなかった。

 階段を登ろうとするが、ドス黒い闇に染まった瞳を見て一瞬足がすくむ。僕の嫌いな瞳で彼はしばらく何も言わずに見下ろしてくる。

 

「……そうすればきっと、やってくるんだ」

「やってくるって何がだよ」

 

 足を止めてしまった自分に腹を立ててしまったのもあって、八つ当たり気味に口調が強くなる。

 劇場に声が響くが気に留めない彼は僕を見ることなくスクリーンへと視線を移し、焦がれるように憧れを溢す。

 

「僕の摂理を覆す……スゴイジダイ、ミライってやつさ」

 

 その未来に途方もない胸騒ぎがした。

 

「聞きたいことは終わっただろ? 吸血をやめて現実に戻りなよ」

「待ってよまだ話は!」

 

 踵を返して去ろうとする吼月くんの背を掴もうと駆け上がる。

 凄く嫌な想いが胸に棲みついて出て行こうとしない。その想いが僕の背中を強く押した。

 自分の一部だというのに粗末に扱われた本たちが行き場を遮る。どれもこれも真っ黒な本ばかりで足場を隠すので上手くあがれない。

 普段であれば絶対にしないが足に力を入れて勢いよく飛び跳ねる。

 ここが意識の中だというなら、彼と同じく都合のいい結果を導けるはず。

 全力で跳んだ僕は瞬間移動を思わせる速さで吼月くんの首根っこを–––––

 

「馬鹿が」

 

 掴もうとした寸前のところで視界が真っ二つに割れた。

 身体が裂かれた訳ではないが何かを境にして僕の視界に隔たりが生まれた。

 

「キミとの関係は最終手段として残しておきたいのだけど、無闇に突っかかったからなら仕方ない。この本でも読んでおけ」

 

 グッと顔面に押し付けられていたのはフィルム代わりの本。

 顔にあてがわれた本は僕の中に溶け込むようにして入っていく。

 

「……あ、あ……あぁ」

 

 また、視界が砂嵐に覆われ始める。

 耳が痛い。頭が痛い。立っているのもやっとで全身が痛くて辛い。

 なんだ。

 今度は何を見せられるんだ。

 

「安心して。これは数秒で済むから」

 

 僕は再び記憶の断片への旅を始める。

 

 

 身体が鉛に変わったかと錯覚するほどに鈍い。

 いや、今は吼月くんの記憶の中だろうから動こうとすること自体が間違いなのだろう。

 口の中にどろっとした液体が溜まっている。舌を刺すような生暖かい鉄錆の味は……そう、血の味だ。

 吸血鬼になって血は美味しいと感じるようになったが、人間のままではあまり美味しくない。それどころか劇物だ。苦すぎる。

 喉でつまる不快な味で目が嫌でも開く。

 光を得た視界にはひとりの女性の像を映した。

 

––––誰だ?

 

 見知らぬ老婆が吼月くんの上に跨っている。その顔は吼月くんの母親にも、父親にも似ておらず親戚とは思えなかった。

 

「いや……やめて……」

 

 吼月くんの怯えた声が微かに漏れる。恐怖に染まり、骨を伝って歯がガタガタと鳴っている。

 

「止めるわけないだろ。施設から引き取ってやったってのに、アタシの命令が聞けないどころかあの人に色目まで使い出して……!」

「し、知らないよ……そんなこと……」

「はあ!? し、ら、な、い!? まあ、このクソガキは礼儀ってものを知らないのかね!!」

 

 身を竦めて赦しを乞う彼に老婆は嗜虐心に歪んだ悪魔を彷彿とさせる顔で握った拳を振り下ろした。激痛と共に口の中で広がる血の味は濃さをどんどんと増していく。

 再び僕の中に吼月くんの恐怖が波のように迫ってくる。

 状況を理解できていない僕は身構えることすらできずに、絶望の濁流に飲み込まれる。

 

「育ててやってるのに恩知らずだねアンタは!」

(知らない知らない。ずっとこうやって殴ってくるだけじゃん)

「こっちの苦労も知らないでいいご身分だねえ!」

(だったらアイツらみたいに僕を捨てればいいじゃんか……やめてよ……)

「そうやって『やめてえー』て媚びてれば、あの人たちが寄ってくるんだからいいわよね!! あーー! 穢らわしい!! アンタなんかアタシの憂さ晴らしと金のための道具なんだよ!!」

(知らないよ……意味、わかんない……もう……)

 

 殴られ続けて息も絶え絶えになるが、気絶しようにも鳩尾を殴られる度に息を吹き返す。そして、再びサンドバッグとして扱われる。

 地獄のような時間がノロノロと流れていき、無限にも思える暴虐を受けた彼はもう一言も発することはなかった。

 その様子に飽きを覚えた老婆は僕らの顔に唾を吐き捨てると、何かを思いついたらしく胸のポケットを弄った。

 

「クソ爺さんも言ってたわね……殴れば殴るほどアンタは輝くって。確かに気味悪いほどに綺麗に見えてくるわね。化け物が」

「……っ」

「だ、か、ら」

 

 1文字ずつ音符をつけたような楽しげな声と違い、取り出したのはタバコとライターだ。老婆は慣れた手つきでタバコに火をつけて、吸い込んだ煙をコチラに向かって吐き出した。

 普段なら鼻につく白煙の臭いも今は全くわからない。

 殴られ続けた身体の痛みを処理しようとしている脳にとって、そんな瑣末ごとは無に等しいものだった。

 タバコを口から離した女はとても上機嫌だ。まるでこの先起こることが幸福でしかないと確信しているような。

 再び嫌な予感が胸の中でざわついた。

 

「これをキミにあげるわ」

 

––––は?

 

 近づいてくる。

 パチパチと先が焦げ広がっているタバコが僕の目の前に迫ってくる。エグ味のある独特な臭いが鼻につく。

 まさかそんなことを子供にするなんて。

 過ぎった最悪の結末が杞憂であってほしいと願う僕だったが、それは老婆は小馬鹿にするように笑いで否定される。奴は止めることなくタバコを下ろしてくる。

 不味い。

 これは本当に–––––!!

 

 ジュッ。

 

 最後に感じたのは生焦げした不快な臭いと、遠くで聞こえてくる叫び声だけだった。

 僕は耐えきれずに逃げ出した。

 

 

 起きてすぐに感じたのは血の穏やかな香り。それが今に限っては嫌悪感を膨れ上がらせ、思わず吐き出してしまう。

 

「はあ……はぁ……」

 

 彼の記憶から現実へ避難した僕の息は荒く、肩で息をしていた。

 目の前にベッドで横になっている吼月くんがいる。辺りは吼月くんの部屋だ。間違いなく記憶の中ではない。

 安堵する僕だったが、すぐさま吼月くんの顔を……なにより両目を確認した。

 

「んっ……っ……」

「ある、ちゃんと両目とも……」

 

 指で瞼を開かせるという強引な手段を使ったため彼が目覚めないかという心配は僕の頭の中にはなく、ただその両眼の無事を今すぐにでも確かめなくてはならないと躍起になってしまっていた。

 だって、だって眼をたばこで焼かれるなんて、そんな狂ったことを。

 僕はもう思い出したくない。

 できれば暫くタバコという3文字は聞きたくないし、見たくもない。

 

「吼月くん」

「–––ぃゃ、ゃめっ……」

 

 彼の頬や額に触れれば汗が滲んでいるのが分かった。そこだけではなく、背中にもジンワリと広がる汗染みが彼の恐怖の大きさを表しているようだった。

 それに顔は青ざめて血色はかなり悪く酷くうなされている。

 膝を抱えて小さく丸まっている彼を抱きしめながらベッドに横たわる。掛け布団を僕らふたりにかかるように広げた。

 

「大丈夫だよ」

 

 ごめんね、と謝ることはしなかった。

 傲慢だろうけどきっと僕がやるべきことは頭を下げることじゃなくて––––

 

「キミは何を隠しているの。どれだけ無理をしてきたの。教えてよ」

 

 彼の熱が消えないように強く抱きしめる。

 小さくてか弱い少年がこれからも安心して眠れるように少しだけでも力になりたいと願いながら、僕は瞼を閉じる。

 

––––絶対に今の世界を忘れさせてあげるから。絶対に落としてみせるから。

 

 待っててね、ショウくん。

 

 

 

 

 ケータイの着信音が鳴る。

 それは同僚からのメールだったが、仕事の連絡だろうか?

 

「羽倉からか。なんだ……?」

 

 メールに眼を通すと仕事の話ではなく、どうやら吼月くんについての事らしい。明日、彼の家に出向くことになるのでその確認だろうか。

 しかし、読みは外れたようで彼の私生活について嬉しい情報が手に入ったという。あの子が友達と仲良く?遊んでいる写真だという。

 

「ん? SNSのアドレスか?」

 

 貼り付けられたリンクをタップすると、一応登録だけしてあるアプリが開かれて画面の真ん中に写真が現れる。

 そこに映っていたのは––––

 

「く、吼月くん……!」

 

 メイド服を着た吼月くんが他の女性たちと一緒に楽しそうに映っていた。間違いない。親友の息子を見間違えるはずがない。

 そこはまだ、いい……しかし、問題は。

 

「ふざけるな……!!」

 

 私は今し方仕事で出た灰を踏みつける(・・・・・・・)

 それだけは絶対に許さない。

 あの子の人生をこれ以上捻じ曲げさせたりはしない。



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第5話 アクシデント
第六十六夜「成り行き」


 古臭い夢を見た。

 今となっては未来へと糧となった過去。

 不幸は幸せになるための対価だ。

 周りの人たちから底気味悪いと言わんばかりの視線を向けられ、オバさんからは殺されかけ、父親からは見捨てられた夢。これは夢であっても偽りではないと吼月ショウ()は知っている。

 周りが僕を恐れた理由は幾多か有る。

 一つの理由は間違いなく不思議な……他人にはない力だ。

 これはどうしようもないものだ。生まれついたものだから付き合っていくしかないと諦めはするけれど、周りの人間はそれで納得するほど出来た存在ではない。

『本当の敵は自分自身』なんて頭の中に腐ったみかんが詰まっている人が口にするセリフを時折耳にする。

 けど本当の敵はやっぱり世界だ。

 周りの人が不理解を貫いて、化け物だと罵りながら無防備なコチラを有形無形の刃で襲いかかってくればどうしようもない。僕も体質を口実に目を焼かれたり、食事を与えられなかったりなど肉体や精神を犯されることを幾度となく受けた。

 金銭や暴力。【暴】とは物理的でも言の刃でも構わない。それがある人なら自分だけで打開できるが、多くの人はそうではないだろう。

 そう考えると自分はまだ強い側の存在だったのだろう。

 紆余曲折あって、いまの僕は小森の街にいる。

 過去は辛いことではあったのだろう。

 今の俺には実感も湧かないし、なんだったら当時の自分も「なぜ?」と疑問に思いながらも自分の体質のせいだと納得していたから恐怖があったのかは覚えがない。

 でも、脳が軋むような感覚に襲われるのはきっと–––––

 

––––鼻腔を撫でる嫋やかな香りに強張った身体がほだされた。

 

 その香りは自分を着飾るための見せ掛けの香りではなく、本能が求めてしまう生物由来の穏やかな真っ白な香気を放っていた。

 いつもより嗅覚が鋭敏になっているのか微かな香量の変化すら察知できてしまう。安らぎの源が薄まればすぐさま補おうと意識がそちらに近づくし、相手から近寄ってくるなら躊躇わず受け入れた。

 できれば、ずっとこのままでいたい。

 

 

 ピロロロ……ピロロロ……

 

 

 現実というのは無常。

 無慈悲に鳴り渡る目覚まし時計の軽薄でデジタルな音で僕は目を覚ました。

 

「うっ……ううっ……」

 

 燦々と煌めく光線が薄く開いた瞼の合間を縫って目を穿つ。どうやらカーテンの隙間から木漏れ日が差しているらしい。

 一度瞑り直して、手庇を作りながら僕は目を開ける。

 

「ん?」

 

 寝覚めれば一面が黒く染まっていた。

 何故だろう。まだ夢の中なのだろうか?と疑問に思って、黒い塗りの視界をよく観察してみれば、それがシャツだということが分かる。僕の鼻先がシャツに擦り付いていて、どうやら心地の良い香気の発生源はここのようだ。

 分かったのはいいのだが、これは誰のものなのだろうか。

 考える必要もなくすぐに心当たりを見つけてた僕は視線を枕元へと動かした。

 

「スゥ……」

 

 匂いの持ち主はハツカだ。ハツカならいい匂いがするのも首を大きく縦に振って納得できる。

 ただ今の彼は寝つきが良いわけではなさそうで、綺麗なピンク色をした唇は固く結ばれていた。

 吸血鬼だから朝の日差しにやられているのだろうか?

 僕はハツカを起こさないようにそっとカーテンへ手を伸ばそうとする。

 

「あれ?」

 

 疑念を口にしたのは腕が動かなかったからだ。左肩から指先まできちんと動くし他の部位もきちんと動くにも関わらず、腕の大きな動作だけができなかった。

 どうやら何が僕の身体に巻き付いているようだ。

 ほんのりと温かいそれに目線を移すと、

 

「ショウくん……」

 

 どうやら僕はハツカに抱きしめられながら眠っていたようだ。

 吸血鬼の力なら動けなくもなるのも道理だ。気の狂った笑い声を上げてしまいたくなる事実に口を開けようとするが声が出てこない。

 

「あはは」

 

 やっとの思いで出てきたのも乾いた声は、まるで何日も飲まず食わずの喉で喋った時のようだ。

 だって、なんでハツカが僕に抱きついているのか全く理解できないのだから!!

 ボンッと破裂寸前の爆弾のように顔に熱が一気に溜まる。

 今にも溢れ出そうとする熱の源は動揺と少しばかりの興奮という2種類の火だ。先ほどまで安らぎを与えた香りは一転して心の平穏を奪い去っていく風となって、火の勢いを一際強くする。

 落ち着くためにはここから離れなければならない。

 けれどハツカを起こせば、熱を帯びた心を容易く読み取られ、したり顔を浮かべられるかもしれない。愉快そうに笑うハツカを想像すると敗北感が全身に広がっていく。

 それだけはNO!

 僕の反抗心が断固拒否している!

 しかし、その反抗心すら心の高揚をより鮮明に映すための火種となって冷静な心がどんどん燃えていく。残ったカケラほどの冷静さは一人相撲だと理解することに使われ、それもまた炎を大きくする要因となった。

 早く抜け出さなければ心が保たない。それに学校にも遅刻してしまう。

 

–––さて、どうしたものか?

 

 できるとしたら声をかけたり、より身体を密着させることぐらいだ。

 他にはあとひとつだけ手段はあるが、それはハツカの言葉を信じることでもあり自分の妄想を試すことになる。

 吸血鬼ではない僕には出来ないことだ。

 絶対に。

 考えを改めて、思いついたのは密着することだった。上半身が弓形に曲がって僕の顔がハツカの胸にくっついていたので、体勢を直して全身が擦り付くぐらい近づけば隙間が出来て、彼の腕から抜け出せるかもしれない。

 よし、と意気込んで少しずつ身体をズラしながらハツカに近づく。

 上半身にかかる圧迫感が弱まっていくにつれて脱出の確信が大きくなっていく。これなら上手く抜け出せると安心する。

 身体を動かすこと数分。ハツカを起こさないように動くとなると慎重にならざるえなかったので、時間がかかるのは仕方ない。

 それよりもハツカが全身が重なり合うほど近くにいることの方が問題だった。

 

「こんな優しい顔して寝るんだな」

 

 鼻先に触れるか触れないかの距離にハツカの顔に思わず息を呑んで見惚れてしまった。

 慈愛に満ちたその表情は、普段の冷静さ故のカッコ良さに内包された笑顔や愉快で楽しげに笑うモノとは別物だった。まるで心優しい親が子供を大切にしている時のような顔だ。

 まあ、愛情なんて注がれたことないから僕の妄想でしかないのだけれどね。

 それでも背中を押してもらった時よりも親しみと包容力のある雰囲気で僕を抱くハツカの姿にそう思わざるおえない。映画を見ていた時に彼が口にした言葉を思い出す。

『僕はキミの親になる存在だよ?』

 頭では吸血鬼の親と眷属の関係性を理解してしても、面と向かって告げられると心を締め付けられて取り乱してしまった。

 悪くないかもしれないという安堵と、ハツカの依存する生き方をしてならないという戒めが僕の中に湧いたからだ。それは僕にとって、ペットとして生きるよりも中毒性の高い劇物だという確信があったからだ。

 僕は目を閉じて想像する。

 もし、初めて好きになるヒトが自分の親になるというのはどんな感情なのだろうか。

 望んだ形とは違うが側に居られる幸福感か。

 大切な存在として自分を見てもらえる安心感か。

 いつまでも隣に立つことが出来ない自分への絶望感か。

 或いは傾慕の想いも記憶と共に消えていく喪失感か。

 考えてもやはり答えは出なくて。

 大切な想いが消えていくのは儚いなとしか思いつかなかった。

 ハツカはハツカだ。

 僕の親ではなく、目標(指針)のひとつであると思い返す。

 

「……好きになるには独占欲が必要なんだっけ」

 

 鶯さんの恋愛持論では恋心は【独占欲の発露】らしい。

 独占欲。自分の思いを無理矢理でも突き通そうとするモノだと解釈している。

 もし自分にとって必要だとしたら僕はどうすべきだろうか。

 僕は不思議と頬を撫でた。ハツカにキスされた自分の頬と陽の光に照らされて淡く輝く彼の頬に優しく触れる。

 いくら精神年齢が低い僕とはいえ、キスが本来特別な意味を持つのは理解している。ここ日本ではより特別視された相手への好意の示し方だ。

 けれど、吸血鬼として少なくても3人は落としているハツカにとっては特別ではなく、したいならする行為なのだ。その許容範囲に自分がいること自体、とても嬉しいし好ましいことこの上ない。

 

––––けどなぁ……なんかムカつくんだよな……

 

 児戯的なもの。それも頬にしたキスではあるが、容易くやられてしまったことの悔しさと多少の腹立たしさがある。

 スヤスヤと僕を腕をかけながら眠るハツカの頬をもう一度見つめる。

 キスマークというのは口紅の痕ではなく内出血が原因で起きるものだという。

 この色白の頬に自分の痕跡を残したらどんな快感が襲ってくるのだろうか。痕をつけられたハツカはどんな顔をするだろうか。

 無論、自前の血液を保たない彼らにしても好意の刻印が残らないのは百も承知。

 それでも口の中に溜まった唾液を飲み下すと、自然と顔が彼の左頬に寄っていく。寄り添ったままだから唇が近付くのは想像よりも口元のそばだった。

 

「………」

 

 やはり子供なんだな。

 肩の力が抜けていく。

 してやろうと欲望に任せても寸前で止まってしまうからだ。

 相手が起きてない時にするなんて卑怯だし、した気になった所で僕が大人になるわけでもハツカを信頼している証拠にもならない。

 取るに足らない理由を並べて僕は納得した。

 気づけば心の中で燃え上がっていた想い下火になり始めており、渦巻いた欲望も微かに波打つ水面へと変わっていた。

 できることなら、ハツカが笑顔でいる時に––––

 そう思って、顔を離すが、

「ンッ……ダメ」と呟いたのが聞こえ、遠ざけたはずのハツカの顔が一瞬で眼前にやってきた。意思と無関係に近づくハツカの口先へと視線が動き、すぐに唇が視界から消えた。

 

「大丈夫だよ、僕がそばにいるからね」

「…………」

 

 僕が抱き寄せられたと気づいたのはハツカが起きた後だった。

 寝起きの瞳は潤んでいて、とても……とても綺麗に思えた。

 

 

 

 

 目覚めた時、眼前に頬を赤らめた可愛い女の子がいた。

 女の子ではない。メイド服を着た男の娘であるショウくんなのだが、昨日着せたまま寝かせたことを思い出す。記憶を覗いた影響で、それ以前にしたことが曖昧になっている。

 そうだとしても、目覚めたら僕好みの顔をした子が–––男の娘でも構わない–––目の前にいるのは眼福以外の何事でもないし、ショウくんが消えていなくてとても安心した。

 全身が密着しているのは僕が彼を腕に抱いて眠ったからに他ならないのだけれど、お互いに息がかかるほど近づいていただろうか。

 いまだに落ちてくる瞼を手で擦る。

 

「おはよう、ショウくん」

「お、おはよ……ハツカ……」

 

 そばにある時計を見れば、6時半を示していた。

 どうりで眠たいわけだ。肌が荒れそうで心配になるが、服も寝間着ではないから別の服に着替えてもう一眠りつこう。

 腕を解くと彼はするりとベッドから抜け出して僕から距離を取った。

 

「どうしたの?」

「学校があるから朝食の支度をするの」

 

 背を向けて突き放すような口調でショウくんは言う。

 衝動的ではあったが、抱きしめて寝るのは彼のパーソナルスペースに深入りしすぎてしまっただろうか。無意識の中の彼はまだ僕に心を開いていなかったので可能性はある。

 

「へえ、メイドさんが作ってくれるんだ」

「ハツカは少し前に血を吸ったろ!? うとうとしちゃうぐらいには捧げたよね!?」

「キミの血が絶品なのが悪い」

 

 また吸いたいと胃袋から手が生えてくるほどに、彼の血は存在を知っているだけで僕の欲求を掻き立ててくる。

 ただ理性は欲望を抑えつけようと、ある出来事が僕の脳に蘇ってくる。

 

「ッ……」

「どうした?」

 

 前触れもなく顔を顰めた僕にショウくんが振り向いた。

 

「大丈夫。日差しを浴びて立ちくらみがしただけだよ」

「気が利かなく悪い。すぐに閉める」

 

 心配になったショウくんはすぐにカーテンへ手を伸ばす。

 隙間からの光ぐらいならば問題じゃないが、日差しがなくなったことで怠さが微かに引いたのは事実だ。

 けれど、本当の原因は彼の過去。

 彼の血のことを考えると、どうしても記憶の断片がチラついてしまう。母親の殺意と父親の虚無感。そして瞳を焼く痛烈な暴力が僕の記憶にも刻み込まれた。

 ショウくんも、彼の血も関係ないのに思い出してしまう。

 そう。彼はちっとも悪くないんだ。ここで僕が怖がってしまえば余計に彼との距離が開いてしまう。

 

「ただ血とか関係なく朝ごはんをメイドさんが作ってくれるのって憧れない?」

 

 だから強引にでも話しを切り替えようと意地張って、ショウくんに悠然として見えるようにベッドに座り込む。

 柔和な笑みをすると彼もひとまず安心してくれたようだ。

 

「そうか……いやっわっかんねぇわ……」

 

 少し言い淀んだあと、ショウくんは照れくさそうに視線を落として呟いた。

 

「……だったら、ハツカも朝ごはん食べる?」

 

 迷ったのは僕が吸血鬼だからだろう。

 吸血鬼にとって主食は血でそれ以外は殆どエネルギーにならないし、強いていえば人間の食事は娯楽のひとつだ。高台での小競り合いを経て彼もその事を承知している。

 不調の原因が陽光を晒されたからだとも思っているので、余計に無理して欲しくないのだろう。

 本当に優しいな。

 たとえ、それが自分自身を肯定し守る為であったとしても、身を差し出して他人の為に動ける美しさが目の前の幼い少年には宿っている。

 気づいた時にはショウくんの頬を指で撫でて、困惑極まった表情になった彼を眺めた。

「一緒に食べよう」と僕は彼の顎を指で持ち上げてから答えた。

 

「わっ、分かった。なら和食か洋食、どっちがいい?」

 

 驚いた彼は言葉を詰まらせながら応えた。

 

「和食かな。あっさりとしたものが食べたい」

「塩焼きと和物かな。少しかかるからシャワー浴びてていいよ」

「うー……ん、後でいいや。料理を作ってるキミを見ていたい」

「なんも面白くないよ……? まぁ、ハツカが見てたいならいいけど」

 

 ちょっと待ってて。

 ショウくんはそう言って一度寝室から抜け出した。

 僕も食事するのだからダイニングに行けばいいのだけど、彼自身、落ち着くためにも距離を取りたかったのだろう。

 

「パジャマを持ってきたよ。サイズとかはハツカにも合ってるはず」

 

 少しして戻ってきたショウくんの腕には寝間着があり、それをこちらに差し出す。

 僕は受け取って、自分の体に当ててみると彼の言う通りサイズ感はピッタリだった。

 

「普段着のままだと寝にくいと思って。皺がついてもダメだろうし」

「そっか。ありがとう」

「じゃあ着替えたら、服はベッドの上に置いておいて」

 

 開いていた襖の隙間をするりと抜けて再び寝室を出ていった。足早に去っていく彼を引き止めることはできず、言われた通り僕は今着てる服を脱いで着替え始める。

 寝間着を身につけるとふわっと優しい花のような香りがする。なにより下ろしたての爽やかな匂いが心を落ち着かせてくれる。

 深呼吸をする。長く長く息を吸って、軽く吐く。心を穏やかにする香りが肺の隅から隅まで溜まっていく。

 

「これ、ショウくんの服なんだよね」

 

 今はありがたいが、香りの物足りなさを覚えてしまう。

 着替え終えた僕は着ていた服や靴下を畳んでベッドに置いた後、ダイニングへと向かう。

 歩いていると、冷たい床に足裏が驚いて飛び跳ねる。どうやら感覚が鋭敏になっているようで、僕はそそくさと足の速度を早めて目的の場所へ。

 ダイニングに辿り着くと、最初に目に入ったのは明かりだ。頭上を見上げると蛍光灯がついており、本来朝の日差しを取り入れる窓は雨戸が閉められている。僕に配慮してくれたのがすぐに分かった。

 まるでこの部屋だけ夜になったようにすら見えた。

 キッチンに視線を移すとメイド姿のショウくんが立っていた。

 

「いま作るから座ってて」

「分かった」

「そうだ。ハツカって卵焼きは砂糖あり、なし?」

「あり」

「はーい」

 

 テーブルには映画を見た時のままで、木製の椅子と回転椅子が置かれている。僕は木製の椅子の方に腰をかける。

 僕は視線を切らずに、手際よく調理を進めるショウくんを眺める。

 溶き卵がフライパンに流し込まれジュウという食欲を誘う音を立て、魚焼きグリルからは魚の香ばしい匂いが漂ってくる。

 そして待つこと数分。僕の目の前には、卵焼きと大根おろしが添えられた鰤の塩焼き、ミニトマトと塩昆布の和物、そして白米と味噌汁が並んだ。

 対面に座ったショウくんと手を合わせると「いただきます」と僕らは声を揃えて言う。

 初めに鰤の塩焼きを一口。背側の切り身に臭みはなく、身がしまっており魚本来の旨味や歯応えが口の中を楽しませてくれる。火加減もバッチリでパサパサしていないのもいいし、塩も主張しすぎず湯気が立つ熱々の白米と共に食べると最高だ。

 卵焼きは甘くしっとりとした味わいで食べやすいし、和物は旨みが口の中にずっと残ってくれるような味わい深さがあった。

 

「うまい」

 

 純粋にそう思って、僕は吐露してしまう。

 ショウくんは面食らったのか照れくさそうに頬をかきながら「そっか」と口角をあげた。

 

「ポン酢いる?」

「かける」

 

 大根おろしと一緒に食べたり、ポン酢をかけたり味変を楽しむのも忘れない。ここに日本酒があればぐいっと背をのけぞって一気飲みしていただろう美味さだ。

 同時にショウくんを観察するのも当然欠かさない。

 ふたりで食事をしているとホッとする。

 僕が美味しそうに食べていると笑みを浮かべるショウくんを見ていると、彼の中に僕がいることが分かる。そうでなければ、彼がここまで嬉しそうにするとは思えない。

 嘘の笑いとも考えられなかった。

 それともうひとつ、ショウくんを見ていて気づいたことがある。

 彼の視線が僕のある一点に注がれている。僕にバレないようにチラチラと視線を泳がせながら、必ずそこに戻ってくるのだ。

 

「僕の口に何かついてる?」

「はえっ!? あ、いやなんでもないよ!」

「……そう?」

「うん! ハツカの口はいつも綺麗だよ!」

 

 露骨な慌てっぷりに僕は表情を変えず、心の目で訝しんだ。

 食事中でも僕の食べ方が綺麗なのは当然だ。ニコちゃんと飲んだ時は彼の気を引く為にやったが、こちらが僕の所作の本来のレベルで、彼の言うことは的を得てはいる。

 しかし、彼の慌て具合からも別のことなのは明白。

 

–––怪しい……

 

 状況を整理すると、僕が寝る前は丸まっていたはずのショウくんが、目覚めると僕と全身を擦り付ける状態になっていた。僕が強く彼を抱きしめて鼻がくっつくほどに顔が近かった。

 僕が起きる前からショウくんは起きていたので、彼だけが認識できること。

 目を開けた時、僕の顔が近くにあったから?

 違う。昨日の体勢のままなら最初に目につくのは僕の胸だ。

 僕の顔が間近で見たから?

 違う。それなら唇だけでなく、顔すら照れて目を背けるだろう。

 だとしたら一体何が……と、考えたところで一つ、予測が生まれた。

 

「ねえ、ショウくん」

「どうしたの?」

「昨日、僕にキスされてどう思った?」

「……」

 

 箸を止め、口を縫った彼は一度僕の唇を経由したあと、視線を白米へと落とした。鎮まっていた頬も再び加熱されていく。

 そこで僕は『確定だ』と心の中で頷いた。

 無心に白米ばかり口に運ぶショウくんに続けて訊ねる。

 

「なら僕にキスをしたときはどうだった?」

「……ッ!!」

「寝ている間に僕の唇を奪ったんでしょ?」

 

 わかりやすくビクンと体が反応していて、見ているこっちは楽しくなってくる。僕がニヤニヤしていくにつれて、彼の顔が限界ギリギリまで熱されたフライパンのような色に変わっていく。

 

「ねえ、どうなの?」

「いやっ! それ、そよ……そのアクシデントで!!」

「どんな?」

「ハツカのせいのんだよ!」

 

 のんだよ……。

 語彙がおかしくなっているのも含めて大分彼の心を揺さぶったのが分かる。

 

「えー……僕のせいにするのぉ?」

「だってハツカが僕を抱きしめるから! そのままの偶然触れちゃって!」

「僕に抱きつかれた勢いでキスするの嫌だった?」

「嫌じゃなくて! 気が動転してなにがなんだか……!!」

「ふふふ」

 

 不快感よりも好意が勝っている様を見るのは心地よい。

 好きで頭がいっぱいになって慌ててる男の子はとても可愛いが、ショウくんは飛び抜けて可愛い。容姿も、振る舞いも、てんやわんやしているだけでも愛おしくて仕方ない。

 七草さん風に言うなら少々下品だが、勃ちそうだ。

 加えて数時間前に吸って、さっきも吸わないでおこうと思ったのに吸血衝動に駆られそうになる。

 最前まで美味しく感じていた飯も薄く感じてしまう。味の抜けたガムを噛んでいると錯覚してしまうほどに。

 

『ああもう……たえられないの……』

 

 そんな自分が一瞬、ショウくんの母親と重なってしまう。

 

「…………」

「どうしたの? やっぱり僕にされるの嫌だった?」

「ううん。起きてれば不意打ちベロチューできたのになぁ〜〜て」

「やめてくれ。寝起きの心臓に悪い……!」

 

 うまくはぐらかせただろうか。

 自然と彼の首筋に残る吸血痕に目が行く。

 僕に押し倒されて気絶するまで血を吸われた時、ショウくんはなにを隠していたのだろう。いや、隠すほどに恐怖を押し殺していたのだろうか。

 もし僕が衝動にかまけてショウくんから血を吸えば、彼のトラウマを完全に再発させてしまうかもしれない。

 それに家族関係が壊れたのも吸血鬼が原因かもしれない。

 

––––探偵さんを助けたいのはキミの家族のこともあってなのかな……

 

 彼は自分の境遇を探偵さんに重ねているのだろうか。

 だとすれば無理矢理にでも関わろうとするのも納得がいく。

 

「ショウくんってさ、吸血されるの好き?」

「どうしたの? 改まって」

 

 首を傾げながらもショウくんは躊躇いなく口を開く。

 

「好きだよ。ハツカへそのとき感じた想いを全部伝えられてる気がするし、素直に気持ちいいというのもある。痛いのには慣れてるからさ」

「そっか」

「てか、殆ど毎日飲んでるんだから知ってるだろ?」

「ああ、知ってるよ」

 

 なるべく平然に僕は彼への返答を紡ぐ。

 

「僕ら吸血鬼にとって吸血は子作りだからさ。眷属にしようと思える時点でキスぐらいは余裕だよ」

「僕とは成り行きだろ?」

「またそんなことを言う。僕の正直さを買って、僕に憧れたんだろ?」

「……あははっ。だからこそ、ハツカの口は綺麗なんだろうね」

 

 自嘲にすら聞こえる笑い声を漏らすとショウくんはため息をつく。

 

「ハツカはしたいようにするよな。僕を眷属にする気がなかったら別の吸血鬼に当てがってるだろうし」

「それはそれで僕のプライドが許さないんだけどね」

「相変わらず面倒くさい奴だ。ふふっ」

 

 自嘲はすぐに肩の力を抜いた笑みに変わる。

 

「ご馳走様でした」

「お粗末さまでした」

 

 少ししていい具合に腹が満たされると僕らは食事を終えると、空っぽになった皿を洗うことなった。

 もうすぐ学校へ行く彼に片付けまでさせる訳にはいかず、「僕が代わりにやっておくよ」と申し出るが、彼は「客にやらせるわけないでしょうが」と言って聞かないので、少し口論したあと妥協案でふたりで進めることにした。

 順調にことは進み、時間は七時半過ぎ。

 目の前には制服に着替えたショウくんが立っている。

 

「悪いね。手伝わせて」

「美味しいものを食べさせてもらったお礼だよ」

「そうか、そうだな」

 

 彼に澱みなく違和感を引きずる様子もない。

 

「僕が帰るまでベッド使ってくれればいいから」

 

 寝室に用意されていた鞄を持ってショウくんは玄関へと去っていく。襖が閉められて見えなくなった背中に僕は少し違和感を覚える。

 なにかが足りない。

 中途半端に簡単なジグソーパズルを完成させてしまったような物足りなさ。ここで止まってていいのかという不満。

 何故かと考えると僕はすぐにピンと来て、彼を追いかけて襖を開ける。

 

「ショウくん」

「ん? どうしたの?」

 

 三和土で靴を履いていた彼が不思議そうに顔だけをこちらに向けている。

 そんな彼に僕は足りなかった何かを吐き出して、伝える。

 

「いってらっしゃい」

「……え」

 

 気が動転したのではなく不意打ちを喰らった顔。

 予想外の言葉に呆気にとられたショウくんは目線を切ると深呼吸をした。数秒の間、重鈍な空気がこの場と僕の心を支配する。聞こえてくるのは長い息の音だけだ。

 

「……ふ」

 

 後で知ったが、彼にとって僕の言葉は初めてもの。

 

「行ってきます!」

 

 立ち上がった彼はいつにも増して元気な笑顔を携えてドアを開け、日の当たる場所へと歩いていく。




 初めての家族


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第六十七夜「買い替えてもらうしかないし」

 俺は学校の校門前まで来ていた。

 ここまでの道のりはぼんやりとしか覚えていなかった。

 踏みしめているはずのアスファルトが燦々と降り注ぐ日差しを浴びて溶け出したような実感のなさ。地面が無くなり宙に浮くように覚束ず、気を抜けばすぐに転んでしまいそうだ。

 ハツカに初めてのことをされたのはこれまでにもある。今朝の唇の衝突もそうだが、頭を撫でられたり酒を一緒に飲んだりと様々なことがあった。

 

「いってらっしゃい、か……」

 

 どうしても脳に焼き付いてしまうのはやはりキスなわけだが、それすらも掻き消してしまうほどの衝撃。味わったことのない嬉しさが込み上げてくた。

 途方もない高揚感に身を任せつつ、表情を再確認して歩んでいた。

 

「おはよう会長」

「おはよう三藤さん」

「よぉ吼月、おはようさん!」 

「宇土くん、おはよう。今日も朝から元気がいいな」

 

 学校へ進んでいく生徒達の流れに逆らわず中に入っていけば、俺に気づいた生徒が声をかけてくる。気さくに挨拶を返せば彼らは笑顔のまま手を振って去っていく。

 

「ごめん会長! ウチのスコアボードが壊れて、今日見てくれない!?」

「それは構わないけど部顧問に通してからにしてほしい。最悪買い替えてもらうしかないし。あとバレー部の方に予備のお古のボードがあるから、問題なければ数日はそれを使えばいいんじゃないかな?」

「おしゃかになってたらどうしようもないしね……ウチとバレー部の顧問に話してみるね!」

 

 技術の先生に道具を借りないといけないので余計な仕事が増えて嫌になるが、それすら些末事になるぐらい俺は上機嫌だった。

 先輩後輩問わず、かけられた言葉に返答をしながら教室を目指す。下駄箱で上履きに履き替えたあと、階段を登る。自分の教室に辿り着く前に通りすがる他クラスの教室を覗きながら歩いていると、やはりというべきか、マヒルの姿は見当たらなかった。

 もうそろそろ8時を過ぎるが、登校していないのを見るにまた星見と過ごしていたのだろう。

 

「……アイツ、家はどうしてんだろうな」

 

 帰って寝ているのか、ネカフェなどで過ごしているのか、星見キクとの関係が進展して同じベッドで昼を過ごしているのか。

 昨日の会話からマヒルの異変の根本は家族にあるのだと思う。でなければ、わざわざ家族のことで俺に追撃をかけることもしないだろう。

 俺の家みたいに戸籍上は同じ家に住んでいるが、かんとう同然の扱いになっている。だから、学校に行っていなくても別に何も言われないことも考えられる。

 

「上手いこと星見キクを使えたらいいんだけど」

「キクさんがどうしたって?」

「おおぅっ!?」

 

 考え込んでいると背後から突然声をかけられて体が跳ね飛ぶ。ジャンプした勢いのまま後ろへぐるりと回れば、そこにいたのは遅刻だと思っていた(セキ)マヒルだった。

 訝しげに細めた瞳で俺を見つめ「そんな驚かなくていいだろ……」と呟く。

 

「め、珍しいな。マヒルが朝からいるなんて。それに……元気そう」

 

 今月では初めてじゃないだろうか。

 その理由はきっと星見だろう。

 側から見てもマヒルは嬉しそうで、俺と同じような高揚感のある幸せを隠すことなく雰囲気で纏っていた。顔もいつもより血色が良く、寝心地が良かったように思える。

 

「またキクさんに飯を作ってもらったんだ!」

「おお、それは良かったな! なにを食べさせてもらったの?」

「生姜焼きとか、極々一般的な家庭料理だよ」

 

 星見は食という娯楽にある程度価値を見出しているのか。吸血鬼は酒を嗜むと聞くし、そのつまみとして作れるよう腕を鍛えているのだろうか。

 見る限り、マヒルはガッチリ胃袋を掴まれているようだ。

 星見の悪い事実がなければ、このままマヒルの幸せが続けば良いのにと簡単に願うことができたのに。

 

「それでキクさんがどうかしたのか?」

「星見が、というよりはマヒルは星見と一緒に寝てるのかなと」

「あー……基本的には(ウチ)で寝てるな」

 

 間延びした声を漏らしながら、彼は少し驚いた様子で俺を一瞥した。その驚きはどこか羨望を交えたものだった。

 ぽりぽりと頭を軽く掻いたマヒルは首を縦に振った。

 

「てか普通さ、女性と一緒に寝るなんて簡単にできないだろ」

「そうなの? いや、そりゃそうだな。好きな人なら尚更しにくいか」

 

 友人関係であるハツカとは気軽に寝れるが、マヒルと星見は一応片想い中の間柄だ。気にしていない相手ならいい。しかし、マヒルにとってあまりに大胆な行動は、今後の関係に大きく響く。

 逆に言えばここ半月では、そこまで関係が進展していない。

 

「ショウは女の人と一緒に寝たことあるのかよ?」

「あるよ」

「あるの!? 誰!?」

「OLの人。まあ、その時は相手が熟睡するまで添い寝しただけだよ」

「えぇ……お前、蘿蔔さんがいるだろ」

「ハツカとも寝てるし」

「ずるい!!」

 

 ……いいよな、お前も。

 羨望を超えて嫉妬心が滲む言葉を自分が呟いたのを、マヒルは少し間を置いてから気づいた。

 

「あ、いや……悪い」

「なんのこと?」

 

 気づいているが俺には相手の妬みで優越感に浸る趣味も、マヒルから無意識の言葉に嫌悪するほどの情動もない。

 吸血鬼になるために血を吸われているコウや、ハツカとの勝負で吸血されている俺を見ていると、マヒルがやるせない気持ちになるのは仕方ない。

 マヒルはもう星見が好きで、変わる切符を掴んでいる彼は相手と満ち足りた生活を望んでいるのだ。

 にも関わらず自分たちの関係は変わらない。

 その隣で確実に仲良くなっている者たちがいたら悶々とした気持ちを抱くのは当然。昨日も手料理という喜ばしいことはあっても、星見から真新しいことは何も教えてもらえなかったのだろう。

 

「ふむ……いい策はあるぞ」

 

 俺は顎に手を当てながらマヒルに話しかける。

 

「え? マジ?」

「一緒に寝る。寝顔を見るって目的ならな。少なくとも目的を後者とするなら、簡単に達成できる」

「どんな方法?」

 

 マヒルは今すぐに教えろと言わんばかりにぐいっと顔を近づける。

 

「自分の家か相手の家、もしくはホテルとかの宿泊施設で一晩楽しんで、朝になるまで待つって方法。俺は早朝近くまで俺の家で遊んでたからハツカは帰ることもできず、ベッドもひとつだから一緒に寝ようと言ってくれたし、朝起きたら寝顔も見れた。

 マヒルも星見の家にはあがったんだろ? なら後は、どこで一緒にいるか、何時まで居ていいか、だ」

「時間はなんとかなるとしても……場所だな」

 

 吸血鬼という生態ゆえ、日が昇っている内は用意がなければ身動きできない弱点を利用する手段。

 本音では、ずいぶん年上な吸血鬼なんだから「一緒に寝よう」と甘えればいいだろと助言したいが、マヒルは星見を『自分をガキ扱いしない相手』として見ている以上、それは中々ハードルが高い。中学生が添い寝を頼む時点でそれなりにプライドを捨てないといけないし。

 マヒルだって大切な相手にはカッコつけたいのだ。

 もしそうだとしたら、俺にも少しは理解できる。

 

「……場所って、自分の家以外ならどこがいい?」

 

 この質問の意図が、星見に自分の家の事情を教えたくないということなのかは測ることはできなかった。

 それにしても、場所か。

 手軽に一泊できて、お小遣いを使えばなんとかなる範囲……

 

「小森湯の近くにあるラブホテルとか」

「ブフーーーーッッ!!!」

 

 俺の言葉にマヒルは顔を真っ赤にして、噴き出した。

 

「どうした?」

「い、いやだって! お前! そういう場所はさ!!」

 

 慌てて声を荒げ、俺を追求するマヒルの姿に俺は首を傾げる。キョトンとしていると、マヒルは顔を真っ赤にしながら眼を逸らしつつ、言葉の真偽を確かめようとする。

 

「お前、そ、そういう……えっ……なところとか入ったことがあるのかよ?」

「いんや。コウとナズナさんが休憩がてら入ったって言ってたからさ」

「!?!?」

「なんか手頃な価格で入れるし、ベッドも大きくていいぞって。あと、追加料金でゲームやカラオケできるとも」

「…………」

「マヒル?」

「コウぅ……お前ってやつは、そんなところに」

「ん???」

 

 遂に顔を両手で押さえながらぶつぶつと呟き始めた。

 先ほどのような嫉妬が含まれたものではなく、羞恥心にも似た声色をしている。以前、手の隙間から覗く彼の顔は、俺とハツカが一緒に寝たと聞いた時のカオリを思い出させるりんご飴のような色をしている。

 ありゃ、なんか間違えたかな。けど、カオリの時とは違って先に休憩って目的は伝えたし。

 俺は誤解された理由を探しながらマヒルが復帰するのを待つことにした。

 そして暫くして頬の赤みが落ち着いた頃、マヒルが俺に口を開く。

 

「でも、やり方はなんとなく掴んだよ。ありがとな」

「あくまで俺の経験だし、星見用に対策が必要なら言ってくれ。一緒に考えよう」

 

 俺の申し出にマヒルは快く「おう」と頷くと、続けて気になっていたことを尋ねてきた。

 

「それにしても、上機嫌だったのは蘿蔔さんと一緒に寝たからか?」

 

 え、と俺は一瞬表情を崩しかけてる。

 

「惚気てる時の俺みたいな顔してたからさ」

「そんな鼻歌を歌いそうな顔してたのか?」

「見えた。てか、惚気てる時の俺ってそんなのなんなのか」

「うん」

 

 廊下の磨き上げられた窓ガラスに近づけば、自分の顔がうっすらと映り込む。眺めてみても愉快な表情はしておらず、和かな笑みを湛えている顔が目の前にある。

 いつもと大差ない顔つきに首を傾げてしまう。

 確かに上機嫌なのは否定しようないが、だからと言ってバレるほど顔に出ているわけでもない。事実、ここに来るまで話した生徒達からは何も言われず、揶揄われたりもしなかった。

 

「マヒルって目聡いよな。正解だよ」

「ふっふん。褒め言葉として受け取っておく」

「ああ、褒めてるよ。流石の観察眼」

 

 世渡り上手なマヒルだ。もし俺の変化に気づくとしたら彼か、理世ぐらいだろう。

 マヒルは安堵した素振りをみせながら俺に言う。

 

「このまま吸血鬼に落ちちまえよ。そしたら、夜中に遊ぼうぜ」

「なら、賭けてみるか? 俺がハツカに落ちるか」

「いいぜ」

「だったらマヒルも頑張ることだな。星見のことを知れるように」

「ああ、負けねえよ」

 

 そこでチャイムが鳴り渡り、人混みに紛れながらお互い別々の教室に入る。

 今後のマヒルのことを今考えてもどうしようもない。

 彼の想いを知るまではどうしようもない。

 気持ちを切り替えて、担任が来るのを待つ。

 マヒルへの不安は脳の片隅に追いやられ、登校中の心地いい気分が全身を支配する。一日中寝ずに過ごせそうなほどの昂りに身を任せて、俺はチラリと青空を見上げる。

 

 

––––本当に喜ぶだけでいいのか?

 

 

「痛っ」

 

 絆創膏の上から撫でた噛み跡が痛んだ。今まではこんなことなかったのに、今日はどうして痛むのだろう。

 

「……水を差すなよ」

 

 分かってるんだから。

 不安はあるのだ。

 何度も血を吸われることの不安は、なにも吸血鬼になることだけではない。

 理解している。すでに起こっているかもしれない不安を、胸元を拳で小さく叩きながら払っていく。

 

 

 

 

「うーー……」

 

 ベッドに身体を預けながら僕は呻き声をあげていた。

 一度目が覚めてしまった身体をすぐに寝かしつけるのは中々難しい。昼夜逆転は美容に良くない。いつも通り9時間は熟睡したいので何度も枕に顔を沈み込ませるが、眠気は全然やってこない。

 

「何か読んで眠くなるのを待つか……なにか見るか」

 

 顔を上げて、体を放るようにベッドから抜け出す。

 勉強机に近寄れば片付けられたテーブルの上にタブレットが置かれていた。タブレットには付箋が貼られており『暇になったら使ってね』というメッセージのあとにパスワードが書かれている。

 

「不用心だなぁ」

 

 僕が悪さするとは考えなかったのだろうか。

 けれど手渡した段階でも僕が好き勝手弄ることは出来たわけで、このタブレットにはそこまで大事なデータは入っていないのだろう。僕が吸血している映像もここにはないかもしれない。

 

「それか僕のことを信頼して、かな」

 

 自分で口にしておいて根拠なく不安になってきたので、僕は手に取ったタブレットをテーブルに戻す。

 その時チラリと目に入ったのは本立ての中の一冊。

 ショウくんの日記だ。

 読もうと思っていたショウくんの過去が記された本。覗いた限りでは小森に越してきてから書き出したもので、過去を追求されたくない彼が父親との関係について言及してはいないだろう。

 あの父親はどうにもならない。何ヶ月も会っていないようなので一文でも書かれていたら奇跡と言っていい。

 それよりも気になるのは、最後に見たあの謎の老婆と神崎という男について。

 頭のイかれた老婆とショウくんは訳ありの関係のようだった。

 

「施設、捨てた」

 

 よぎった考えで顔がひしゃげたのが分かった。胸糞悪くなる予測を頭を振って払い、僕は日記から目を背ける。

 今のメンタルで日記を読んだら、また良からぬ発見をしたら耐えられる気がしない。ショウくんが帰ってきた時、マトモに会話すら出来なくなっていれば怪しまれてしまう。

 僕が彼の過去を知っていることは内密にすべきだ。

 あんな過去、触られたいなんて思うはずもない。

 

「はぁ……陰鬱になるな……ショウくんの性格がうつったかな」

 

 気分を変えるために寝室から離れることにした。

 ダイニングにある椅子に座ってテレビのリモコンに手を伸ばす。特に見たい番組があるわけではない。ましてや朝の番組なんて何年ぶりに見たか分からないぐらいだ。

 テレビをつけるとニュース番組が映し出された。芸能人のスキャンダルに対してアナウンサーや芸能人が持論を展開する様子を見ながら僕はあくびを出した。

 

「犯人だって決まってないのに、確定してる言いぐさで皆んな語ってるの面白いな」

 

 推定無罪の原則が打ち上げ花火になって消えちゃってる。

 知識だけあっても、それに沿って動ける人なんて稀だよな。

 

「ジンの兄貴じゃないんだからさ。ま、これも売り物だからなぁ」

 

 今時ニュース(他人事)は動画サイトやネットなどの電子記事で事足りる時代だが、テレビが無作為に投げてくる話題を見るのも楽しいものだ。自分と関わりのないニュースの中に、思わず耳を立てたくなる物が転がっていることもある。

 つまらなければ、そのままテーブルに突っ伏すだけだ。できれば今は寝てしまえるモノであって欲しい。

 そうして閉まり切った空間で朝か夜かの感覚を無くしながら、ボンヤリとテレビを眺めた。

 

『では次のニュースです』

「…………ん?」

 

 内容が切り替わった。

 より専門的で事件性の高いモノになり、アナウンサー達が場所を開けて専門家が用意された雛壇に上がった。

 そこに立ったのはなんと、

 

『先日起きた児童虐待について神崎 和法(かずのり)弁護士にお越しいただきました』

『神崎 和法です。よろしくお願いします』

「神崎……?」

 

 ショウくんの親代わりであり彼の身内で唯一マトモそうな男だ。

 外見はあまり変わらないが、仕事として表に出ているのもあって記憶の中でみせていた親しみやすさは引っ込んでいた。代わりにメリハリをつけ、堂々と喋る様は威厳すら感じさせる。

 

「道理で見覚えがあるわけだ」

 

 夜中に放送されているニュース番組でも彼の姿を見たことがあった。

 僕はやっと眠たくなってきた瞼を擦りながらケータイを取り出す。検索アプリで神崎のことを検索すると、すぐに出てきた。彼が所属するグループにも経歴が載っている。

 他のサイトで人柄などを調べてみた。

 やはり表立って話す時と、個々人と対面で喋るときでは雰囲気が異なっているようだった。それこそ、今の解説をしている様子とショウくんに寄り添った時ぐらいの違いだろう。

 そんな情報の中で驚いたことがある。

 

「この人、事故で家族を亡くしてるのか……」

 

 若い頃に父親や母親を亡くしていた。原因はショウくんと同じく交通事故だったようだが、流石に詳しい内容までは分からなかった。

 事故の経緯をショウくんに語る時に異様なほどに震えていたのは過去のトラウマからか。

 

「事故にあった後は苦学生として身を削り妹の学費も面倒ながら司法試験を突破か。就職後は金銭面も安定していて不自由はない。メディアへの露出が増えたのはここ数年から……そんなことやってる暇があるならショウくんを引き取りなよ」

 

 そう思うのは傲慢すぎたか。

 少なくとも親代わりという程には交流はある。しかも、弁護士である彼は、現状について人並み以上に適した動きができる知識を持ち合わせていることになる。

 だというのに、そのまま放置している。

 訳を思い浮かべるとしたら––––

 

「いやダメだダメだ。寝るつもりがどんどんのめり込んじゃう。はぁぁ……」

 

 しかし、その今があるから僕はショウくんを吸血鬼にできる。

 それも他の眷属とは違って時間は無限の少年。だからといって僕は悠長に時間を浪費するつもりはなく、機を見計らって動くつもりだ。

 

「考えたくなることが多すぎるんだよな〜〜」

 

 霞を掴もうとする試みに、悶々とした気持ちを抱えてクシャクシャと髪の中に手を突っ込んだ。

 何年経っても収まらない吸血鬼の力–––半吸血鬼。

 七草さんのように、胎児の段階で片方の親が吸血鬼というわけでもないのにも関わらず、力の一端を使いこなせる。

 しかし、少なくともショウくんが事故に遭った時には母親は確実に吸血鬼だった。

 どのタイミングで吸血鬼された? ショウくんもどんな経緯で半吸血鬼なんて特異な存在になってしまったんだ?

 

「……考えられるなら母親はショウくんを産んだ直後に吸血鬼になった。そして幼少の頃から常習的に吸血されていて、いつしか恋慕を抱くようになった。その時期に交通事故に遭って中途半端な転生になってしまった……とか?」

 

 あの母親なら僕と同じようにショウくんを洗脳、支配していてもおかしくない。それがわざとなのか、無意識なのかは分からないが、実際に僕がやれているのだから不可能ではない。ましてや、精神が育ち切っていない小学生相手なら刷り込むのも容易だ。

 強制マザーコンプレックスとは恐れ入る。

 神崎から聞いた事故の詳細から、ショウくんが話す半吸血鬼化のトリガーである【痛み】と【流血】はクリアしている。

 

「そうなってくると記憶喪失は半吸血鬼化の影響か? 生命の危機に瀕したことで無理やり使われた吸血鬼の力の反動によって記憶が消し飛んだ?」

 

 色々と推測するけれど、結局は根拠のない机上の空論。

 ただでさえ人伝でしか吸血鬼の知識を得たことがないのだ。弱点の存在だってここ最近分かったことなのだから、僕らが知らない吸血鬼の力や存在だって沢山あるだろう。

 しかも相手は半吸血鬼というイレギュラーだ。

 僕個人だけが考えたところで分かるわけがない。

 相談するとしたら、人間と吸血鬼の子である七草さんとその育ての親であるカブラさん。あと心当たりはもう一人。そう、探偵さんだ。ただ反応からして半吸血鬼のことなんて知らないだろう。

 

「ダメだな。また目的を見失ってる」

 

 寝付ける気がしない。ショウくんのことが気になって、眠る気力すら湧いてこない。

 僕は何気なく読んだ小説の言葉を思い出す。

『自分が一体何者で、どこから来て、どんなことがあったから、今の自分なのか? そのことに向き合い続ければ、そのうち未来は向こうからやってくる気がするけどね』

 ショウくんが大好きだと言った作品の、心に残っている台詞。

 

「……あの子も分かってないのかな」

 

 半吸血鬼という人ならざる力を持った自分は何なのか。

 どうやって自分は生まれてきたのか。

 生まれるまで何があったって、あの悲劇が起こったのか。

 彼の異様な向上心や知識欲は相手を理解したいという想いの裏返しで、その根源はあの時母親が自分に何を思っていたのか知りたいという欲求。

 

–––お前たちは何を求めている?

 だから、相手の心の隅から隅まで知ろうとしてしまう。

–––お前らに感謝されてもなんも価値ないだろ。

 けれど、愛情が容易く裏返ってしまうのを目の当たりにした以上、感謝も納得もどこまで行っても満足できない。

––– お前らもこんなことになんで時間を使うんだ、意味がないだろ。

 そんな自分にも、理解し得ない相手にも呆れてしまう。

 

 僕が初めてショウくんの血を吸った時、喜びの中にあった歪な想い。あの時の自分では二度口をつけても形容できず、ただ濃厚な感情としてしか見ることはできなかった。

 けれど、今なら分かる。

 母親に殺されかけた時から残っている傷だ。

 

「そう易々とは埋まらない傷で……無くすとしたら、彼の存在そのものを本当の吸血鬼にするしかない」

 

 片腕が欠け、片目が焼け落ちたショウくんの姿を思い出す。

 月日がかかり、少しずつしか記憶を捨てることができなかったとしても彼が幸せになるにはこれしかない。何度も記憶を失うなんて都合が良いことは起こりはしない。

 

「吸血鬼にするためにトラウマを無くすという方針が、トラウマを無くすために吸血鬼にするという逆転が起きてるなぁ〜〜……まあ、なんとかするか」

 

 僕とショウくんの関係は良くなっている。少なくとも一年間もの月日を使って、親睦を深めなかった倉賀野ちゃんよりも彼の奥へと入り込んでいる。

 

「……よし」

 

 僕は寝ることをやめ、その欲求に従って動くことにした。

 寝室に戻ってタブレットを手にすると、僕はベッドに座って操作を始めた。パスワードを解除して、タブレットに表示されたアイコンのひとつ。動画サイトのアプリをタップして開いたら、キーワードを入れて検索を開始。

 

「あった。ジオウ」

 

 心の比重をもっと僕で満たしたい。

 いつも僕と接している表の彼だけではなく、その裏でひとりぼっちのままの彼にも僕を。

 ただ今を知るためにその糧となった過去は知らないければ。辛い過去ではなく、それを超えるための過去を。これ以上の辛い過去は彼が自分から話してくれるのを待つとしよう。

 作品をタップすると、荘厳で重厚感のある曲と共に物語が再生された。




ああ!! 今週で夜更かしが終わるぅ!!!
しかもネットでネタバレ画像が出回ってる(発狂)!!


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第六十八夜「嫌だねえ……」

 放課後になると吼月ショウ()は金曜日恒例の生徒会業務な励んでいた。来月に控えた修学旅行のための資料作りだ。

 長机にノートパソコンを広げ、キーボードを叩く俺の両脇から理世と応野が画面を覗き込んでいる。

 

「ここの修学旅行は北海道か」

「小学校の時も北海道だったから今度は沖縄が良かったな〜」

「あの時とは違って自由に動けるからいいじゃない。ショウは北海道ならどこに行きたい?」

「ホッキョクグマ館かな。あとはジンギスカンを食べに行きたい」

「金があればね。割り勘ならいけそうだけど」

「理世と応野は?」

「藻岩山でロープウェイに乗りたい」

「特にないかな〜」

 

 資料は修学旅行のしおりと観光地マップだ。

 とはいえ、しおりは基本的には去年ものを流用するし、表紙のイラストは美術部の生徒にお願いしている。喋りながらでも簡単に終わることができるレベル。変更点を挙げるなら目次の内容だったり宿でのタイムスケジュールぐらいだ。

 主に観光地マップに時間を使っている。グループでの自由行動の参考のため、北海道の観光地や飯屋の資料で、その中には、季節の影響で風景が変わっている場所、工事中で観れない場所はどこかなどの資料も入っている。

 せっかく楽しみにしてたのに、現地に着いたら観れないなんて肩透かしにも程があるからだ。

 

「いいなぁ。俺も早く修学旅行に行きたい」

 

 ペンを回しながら呟いたのは後輩の北原だ。遊び好きの彼は修学旅行を楽しみにするタイプの人間だ。元気よく何でも楽しめるのは彼の良いところだ。

 

「修学旅行が終わったら年末年始。楽しいけど、その後からは一気に入試用に対策していかないとね」

「うげっ。やめてくれよ」

 

 北原に釘を刺すのは宮内だ。

 調子に乗って勉強を疎かにしやすい北原には良い薬なので口にはしないけれど、楽しい話をしている時に水を差すのはしっかり者の悪癖だろうか。

 

「楽しいことも面倒事も両方やってくるのは仕方ない。北原も宮内も修学旅行の後に直ぐに切り替えられるよう、受験なんて忘れて楽しめば良い」

「ですよね! 切り替えが大事ですから!」

「すぐ調子に乗る……」

「だから次のテストは練習のために勉強会は無しで行こうか」

「待ってください! それは不味いです!!」

「安心していい。次のテストまでには勉強のコツも含めて教える。後一年もしたら俺たちはいないんだから、自立できるようになれよ」

「……ぐぅっ。頑張ります」

「よろしい」

 

 頷く北原を見て俺はパソコンに視線を移す。

 

「……」

 

 視界の片隅で応野が顔を逸らして歯痒そうな雰囲気を醸し出している。

 

「………」

「応野?」

「俺もお願いする……」

「いいぞ」

 

 そこでようやくマップ制作へと戻っていく。

 個人的には夜も肩の力が抜けない修学旅行は億劫でしかないのだが、生徒会長である以上、キチンと立ち回る責務がある。風邪ひかねえかな。

 宿の位置と修学旅行のタイムスケジュールを基に、移動距離や移動方法などを考慮しつつ観光パターンを何個か、三人であれこれ言いながら作っていく。

 手持ち無沙汰な北原と宮内は課題をこなしている。プリントにシャーペンを北原は苦悩しながら止め、宮内はサラサラと走らせる。

 

「うゔぅ……」

 

 北原の集中力が切れ出した。それを見かねたか、気分を変えるように「聞いた? 廃ビルで崩落事故があったみたい」と宮内が北原に話しかけた。

 

「ああ、確か2階が老朽化で突然崩れたんだっけ? 地域新聞の片隅に載ってたらしいな」

「市民体育館あたりにあったやつだな」

「怖いですよね」

「肝試しでそこを選んでたら危なかったな」

「アンタは何なってんのよ」

「肝試しか、いいな……」

「みんなそういうの好きよね」

 

 ふたりの話に応野も軽く口を出していく。

 自然体俺の背中にじんわりと汗が滲み出す。三人が話しているのは十中八九、士季たちと争っている時に俺が壊した廃ビルのことだろう。

 内容を聞いている限りでは、人為的ではないと考えられているようだ。崩落直後誰も居なかったとされているのと、爆発物などの類が全く見つかっていないからだそうだ。

 朝方で人通りが少ないとはいえ服だって木っ端微塵になったし、破片から人が居たくらいはバレそうなものだが、

 

––––カオリが裏で手を回したのか……?

 

 半信半疑だった吸血鬼による情報操作や証拠の隠蔽が真実味を帯びてきた。

 

「嫌だねえ……」

 

 星見キクの件とも合わせて肩の荷が増えた気がして、俺は呟かずにはいられなかった。ため息をつきたくなったが、代わりにノートパソコンを閉じることで気を晴らす。

 

「終わったー!」

「よぉし、今週も終わりだ」

「お疲れ様です」

 

 応野が1週間分の学校の疲れを搾り出すように、大きくのけぞってストレッチを始める。土日の休みを迎える時は誰でも気が休まるものだ。それは俺も例外ではなく、水筒に入れた温かいお茶を飲んで眉を開く。

 

「そろそろストーブを出したくなるな」

「10月も末ですからね。もう冬ですよ、雪ですよ」

「あと二ヶ月で冬休み……」

「北原は休みのことばっかりね」

「だってスキーとかスノボーとかやりたいじゃないか!」

 

 スノボーか、やったことないな。

 スケボーなら去年場当たり的にやる羽目になったことはあるけれど。

 

「そういえば思い出したけど、吼月」

「どうした?」

「明日みんなで遊ぶんだけどお前も来るか? 沙原さんの件も終わったんだろ?」

「奏斗先輩? 解決はしたけどよく知ってるな」

「前に言ってた女の人がまた来ててさ。一緒にバスケしてたから吼月がまた終わらせたんだろうなと」

「そうか」

 

 応野の目にはもう悩みなどは晴れて、楽しそうにバスケをしてるように映ったらしい。ふたりがまた楽しく過ごせるようになって思わずくしゃっと頬が緩んだ。

 

「それで明日だったな。昼間なら予定は空いてるよ」

「なら、他の奴らにも伝えておくよ」

 

 休みの日ぐらいゆっくりしていたい、というのが本心だ。いつものように昼間はゴロゴロと家で自堕落に過ごしたあと、夜にハツカと遊ぶというルーティンを繰り返したい。

 しかし、せっかく新しい機会なのだ。

 やってみて楽しければ今後も遊ぶし、乗り気じゃなければ上手くはぐらかしていけばいい。どちらにしろハツカが味わう血に変化が着く。アイツが美味しいと言ってくれたらそれでいい。

 それに加えて、俺はもうひとつ動こうと思っていたのだ。

 

「理世も来れるか?」

「そうね。明日は予定もないし問題ないわよ」

「もう一人増えるけどいいか?」

「お、おう。俺は構わんけど」

 

 自分でより仲良くなると誓ったのだから、コチラからアクションを起こす必要があった。

 そうカッコつけた理由があるけれど、純粋にいえば理世と遊んでみたかっただけである。理世も嫌がる素振りもなくいつも通りの反応だけ返してくれて、俺はホッと胸を撫で下ろした。

 

「多分夜まで遊ぶことになると思うぞ」

「それは不味いかも」

「……蘿蔔さん?」

「ああ。遊んだあと、そのまま家に行くかな」

 

 流石にハツカも家に帰るだろうし、事情を話して明日の夜は家で待っててもらうとしよう。

 俺が予定を立てていると応野が尋ねてくる。

 

「お前さ、蘿蔔さんと遊んでること倉賀野には言ってあるのかよ?」

「なんでわざわざ言わなきゃいけないんだよ。てか、一応昨日会ってるし」

「会ってるの!?」

「色々あってな。遊んでた時にばったり出くわしたんだよ」

「……誤解されなかった?」

「お前が想像してるような誤解はな。昨日は普通に男の姿だったし」

「そうか……そうか……」

 

 応野が安堵するのは、理世と俺が告白直後にギスギスした空気になったことを思い出しているからだ。あの時の居心地の悪さは、まるで地雷のすぐ傍で無理やり空気椅子をさせられているようなもの。俺だって二度と体験したくない。

 幸いハツカとは意気投合していたから問題はない。

 問題があるとしたら、ふたりの交わした話題が俺の女装姿ということだけ。

 流石の理世も俺が女装癖があるなんて勘違いはしてない。

 してないはずだ。

 

「……? ふふっ」

 

 チラっと目を動かせば、理世が俺の視線に気がついて小さくほくそ笑む。ニヤついた顔は愉快なおもちゃでも手にした子供のようにも見える。

 理世がパソコンから少し離れた部屋の隅でこちらを手招くので、腰を上げて理世へ近づくとガシッと肩を掴まれる。

 

「うおっ」

「はい」

 

 思ってもみなかった力で引き寄せられて呻いてしまう。そんな俺のことは気にせずに–––それどころかニヤニヤと反応を楽しむ素振りすらみせながら、理世は俺にスマホを見せてきた。

 映っていたのは猫耳カチューシャをつけてピースをしているメイド服姿の俺だった。

 

「また遊ぼうね、ショウちゃん」

 

 耳元で囁かれると、ぞわりと背筋に何かが這い回った。不快感や嫌悪ではない。けれど、まるでつけられた首輪をリードで引っ張られるような感覚。

 愉しげに笑う理世はどこか機嫌がいい時のハツカのようだ。それも女王様モードのハツカに似ていた。

 視線の多さから心地悪さを感じて、「ああ」と素っ気なく答えながら拘束を解く。

 俺は応野たちに帰りの支度を始めるよう促す。

 

「区切りもついたし今日は帰ろう」

「さんせー!」

 

 三人の合意のもと本日の生徒会が終了し、各々生徒会室から出ていく。

 ゆっくりと帰りの支度をしながら理世に話しかける。

 

「一緒に帰るか?」

「ええ、話もあるでしょうし」

 

 俺と理世は相槌を打ち合うとドアを開け、潜り抜ける。職員室に鍵を返したあと、下駄箱で靴を履き替えて外に向かう。

 

「それで私は何を手伝えばいいの?」

 

 陽が地平線に沈みかけ、辺りを赤く染めている。

 赤く彩られた道を理世と足並みをそろえて下校していると、突然彼女が尋ねてきた。脈略が読めなかった俺は「なんのこと?」と素直に返してしまう。

 

「明日、マヒルくんの悪口言ってる奴らの成敗するんでしょ? 私はどう動けばいいのか教えて欲しいんだけど」

「あ。そういうこと……」

「なんでちょっと元気なさげなのよ」

 

 疲れるのは分かるけどさ。と理世は言う。

 理世からして見れば分かるはずがない。彼女が知り得るのは、アキラからマヒルが有象無象から悪口を言われてる相談を受けたところだけ。

 その後、マヒルの様子を見て安心し、俺からの提案を彼らが断ったことは知らないのだ。

 だから、勘違いさせてしまったのだろう。あの場で直接訊いてこなかったのは、マヒルの悪口を言っている応野がいたからだ。

 分かってはいるんだけれども、やり場のない不満が身体の中に溜まっていく。

 

「ただ理世と遊びたかっただけだよ。今までしてこなかったし」

 

 掃き溜めのような不満を吐き出した。

 

「え? それはどういう?」

 

 ぽかんと口を開けて、理世が尋ねる。

 

「昨日とか理世ってメイド喫茶好きなんだ、とか……同じ趣味はあるけど、それ以外のことってあんまり知らないし。踏み込んでこなかったから、せっかくだし誘おうと思ってさ」

「本当の本当に?」と理世は疑いながら覗き込む。

「楽しいことに嘘は言わん」

 

 マヒルやアキラと話したことをかい摘んで伝える。事情が分かっていくにつれて理世の顔がどんどん緩んでいく。まるでふんわりとしたクマのぬいぐるみのような笑顔だ。

 喜んでいるのだろうか。そうだと嬉しいなと俺は思っている。

 

「だったらふたりっきりで遊ぼうよ。アイツらのことなんて放ってさ」

 

 理世は弾ませた声で、さも当然のように約束を反故にしようとしていて驚いてしまう。第一約束したのは俺とだし、理世も思いの外頭に来ていたのかもしれない。

 申し出はありがたいのだが「約束しちゃったからダメだ」と俺は首を横に振った。

 

「ちぇー、だったら今日は?」

「買い物ついでの買い食いぐらいなら」

「なら近くのスーパーにジェラートの店が入ってるところあるし、そこ行こうよ! いつもの八百屋や肉屋で買うつもりだったんでしょ? 偶には違うところで見ようよ」

「それはそうだが。あのショッピングセンターにそんなものが……」

「ショウは素通りして買い物だけ済ませるタイプだろうしね」

「ぐぅ……」

 

 図星を突かれて俺は思わず口を固く結んでしまう。

 理世は笑いながら歩調を早めると、前に躍り出て振り返る。軽やかな足取りに合わせて夕陽に照らされた綺麗な金色の髪がふわふわと揺れる。

 

「パルフェの店があったら狩ちゃんヒロミッち遊びできたのに」

「パフェパルフェ論争をやろうとするじゃない。どっちでもいいじゃないか」

「パルフェだけど」

「食いつくなよ。……理由は?」

「こっちの方が美味しそうだから」

「お前の好みじゃねえか」

「私の好みなんだから大切なのよ」

 

 理世とは価値観自体は近いと思うのだが、目に見えて違うところが多々ある。主体的というか、自分のやる事や好きな事に誇りがある。

 それは自分の気のままに生きているハツカの感性に近い気がした。

 

「このまま行くの?」

「その予定。バックは持ってきてるし」と俺は準備のよさを示すように学生鞄を軽く叩く。

 

「なら、早く行きましょう?」

「待って、ハツカに連絡を……」

「そんなことより早く行かないと、今日はおばさん達が買いあさりに来るかもしれないよ」

「そんな激戦区なの?」

「戦わなければ生き残れないわ」

「そんなに……!?」

 

 俺たちは何気ない会話を繰り返しながら、ショッピングセンターへと歩いていく。理世に案内される形で団地への帰路から逸れた道のりを進んでいった。

 

 

 

 

「つ、疲れた……」

「お疲れ様〜〜」

 

 買い物が終わった俺たちは、ショッピングセンターに併設されたジェラート屋のテラス席に座り込んでいた。買い物袋を空いてる椅子に置いたあと腰を下ろすと、同時に身体中から疲れが溢れ出してテーブルに突っ伏してしまう。

 

「ひとが……人が多い……!」

「もみくちゃにされたわね。ほんとスポンジみたいだったわ」

「お前もだろ。卵のところですり身にされてたくせに」

「ははは……それは言っちゃいけないのよ?」

 

 どうやら金曜日の夕方ということで、特売がやっていたらしくそのタイミングを狙った人たちと目当ての商品を取り合う事になったのだ。

 買いたいものは死守できたので良いのだが、大勢の人の中に入るのが精神的にキツかった。士季と戦った時より肉体に負担がかかったかもしれない。

 顔だけ上げながら理世を見ていると、店内からウェイトレスががこちらにやってきた。ウェイトレスは「こちらがメニューでございます」と腕に抱えていたメニュー表をこちらに差し出す。

 それを理世が受け取ると、俺たちは席を寄せ合ってメニュー表を一緒に眺める。

 

「何する?」

「俺はキャラメルのジェラートとアメリカンコーヒー。理世は苺ミルク?」

「そうね。ダブルでティラミスも合わせようかな。それとレモンティー」

 

 それぞれ注文する品が決まるとウェイトレスに伝えていく。再確認が済んだ所で理世はウェイトレスにメニュー表を返しながら、話を付け加える。

 

「あと、お会計はバラバラでお願いします」

「承知しました。少々お待ちください」

 

 小さく礼をしたウェイトレスが離れていく。

 俺は視線を理世に移すと何の話題を振ろうか考える事にした。いつもの趣味の話でもいいけれど、大型の娯楽施設に行くどころか大所帯で遊ぶ事自体してこなかったので、そちらの話をするのもいい。それと、ハツカ含めて理世は俺の女装のどこが好きなんだと問いただすのもありだろう。

 悩んでいると理世から話しかけてきた。

 

「にしても平日に買い物なんて珍しいわね。いつもは土曜日に買ってるイメージだったけど」

「お前は俺の何を知ってるんだ」

 

 当たってるのが怖い。

 コイツの情報はいったいどこから来てるんだ。

 

「保たなかったんだよ。最近は外で食べたり、軽く済ませてて買う量が少ないし。今日はいつもより多く作ったんだ」

「メイドやってやけ食い?」

「昨日ハツカと話してただろ。アイツの分の朝飯も作ったから足りなかったんだよ」

「え!? 飯を食べたの!?」

「そんな驚くことか……?」

 

 いやハツカは吸血鬼だし、人間の食事はエネルギーにもならないから驚くのは分かるが、それはあくまで事情を知っている俺だからだ。

 なぜ理世が意外そうに声を張り上げるのか分からず、彼女を注意深く見つめる。

 

「私も食べたいな〜……それにお泊まりね。それも良いなあ」

「お前なぁ、ははは」

「なによ。ふたりだけいい関係になって、どうせ家でもメイド服着たんでしょ」

「なんだ? ハツカに嫉妬でもしてるのか?」

「偉そうに……ッ!」

「ま。機会があったら着せてみるんだな」

 

 理世を見ていると杞憂に過ぎないと理解できる。

 もし彼女が吸血鬼と夜を過ごしていたとしても、星見キクのような相手なら俺は止めなければいけない。できれば、ハツカのような相手の選択を尊重できる者が望ましい––––そう思うのは、俺の我儘だ。

 しかし、大切な相手に安全に幸せに生きてて欲しいと願うのは間違ったことではないのだ。

 

「料理ぐらいなら作りに行ってもいいし」

 

 俺がそう言うと、椅子を蹴り飛ばすような反応を理世は見せてくれるので無性に嬉しくなってしまう。自分が作ったものを美味しく食べてもらえるのは光栄だ。

 

「え!? ほんと!?」

「ああ、理世なら俺は全然いいよ」

 

 料理を振る舞う相手が増えていく。

 ハツカは気まぐれで焼き菓子などを頼んでくるし、理世は人間らしく好きなものと栄養のバランスを取れた食事にすればいい。あと、鶯さんだ。鶯さんの好みも知れたらいいのだけれど、あの人とは関わりが少なすぎる。

 もう少しコンタクトを取れたらいいのだけれど。

 

「でも、蘿蔔さんが泊まってるならショウの機嫌が良かったのもわかる気がするわ」

「はっ……!?」

 

 微笑みを浮かべる理世が突然口にした言葉に、思考がグイッと持っていかれる。

 

「お前も分かってたのか!?」

「ええ、当然じゃない。も、ってことは……マヒルくんやアサちゃん辺りにはバレたのかしら?」

 

 理世は正確に事実を口にしてくる。俺と明らかな関わりがあるのは理世を除けばマヒルとアキラぐらいなので、予測は立てやすい。けれども、それ以前に理世にまで容易く見透かされてしまった事に俺はきょうが驚愕した。

 

「どんな風にわちゃわちゃしてたのかしら? 気になるわね」

「別になんでもないぞ」

 

 平静を装いながら、俺は昨日からハツカとしたことを思い出す。

 メイド服を着せられて実際にメイドとして働かされて恥ずかしさを感じ、家に帰ったらメイド服姿でハツカの椅子になったりアップルパイを食べさせて気ままな一時を過ごし、指から血を出して舐めさせた時は良くない興奮を覚えた。そして、偶然とはいえアクシデントが起きて、行ってらっしゃいも言ってもらえた。

 一晩だけなのにとても濃厚な時間だった。

 

「か〜な〜り、充実した時間だっだみたいね」

「否定はしない」

 

 たぶん、今の俺の顔はダラシなくなっていたのだろう。自分でも分かってしまうレベルで気が緩んでいた。

 ここまで来ると「お帰り」まで期待してしまう自分がいる。

 

「なんか妬けちゃうな」

 

 理世は怒り浸透と言いたげにぷくうと顔を膨らませる。

 彼女に妬かれると困ってしまう。ハツカとの関係と、理世との関係が同一になることはない。行為的な意味も潜在的な意味も、友人と相方の違いでしかない。

 理世とハツカが張り合うようなことはないのだ。

 罰が悪くなって頬を掻いていると、理世が力を抜いてニヤッと笑う。

 

「けど、最後に理想を叶えるのは私だから」

「理想ってお前な……」

 

 不敵に笑う理世の姿は強がりではないように思えた。

 少なくとも俺にはそうとしか感じ取れなかったのだが、そうなるとどうしても分からない部分があるのだ。

 

「理世ってさ、一応俺のことは諦めてないんだよな?」

「好きなものは手中に収まるまで諦めるつもりはないわ」

「理世は俺をペットかなにかと誤解してないか?」

「人間相手でも好きな相手のことなら全部手にしたいと思うわよ。良いところでも悪いところでも欲しくなる。浮き沈みがあるのが生き物だもの」

 

 自分の快や不快、都合ではなく、自分の成し遂げたいことのためにルールに沿って動くことができる。そのルールは信条と世間の良識だ。それに従い動けるのが理世の尊敬できるところだ。

 人間の良識すべてを吸血鬼に当てはまるのは間違いなので、大きく首を縦には振らないが、この長所はハツカより立派だと思う。

 

「だったら聞きたいんだけど俺の良いところってなんだ?」

「自分で言えるようになったら答え合わせをしてあげる」

 

 理世は以前『なんとなく好きになってしまった』と俺に告げた。俺には長所がないと言いたいのか、それとも本当は答えを持っているが口にしないだけなのだろうか。

 教えてもらっても俺は信じられるのか分からないので、考えるのは不毛なことだと俺は気づいている。

 

「難しく考えずとも貴方は立派にやれてるわよ」

「だろうな」

「馬鹿にはなるべきだけどね」

「ひでぇけど間違いないな」

 

 ふたりで「ふくく……」と笑い合う。

 こうして外で理世と喋るのは初めてだったが、特に苦になることもなく時間を過ごすことができて俺はそこはかとなく満足していた。

 あとはジェラートが来れば完璧なのだが……。

 

「で? 蘿蔔さんとは家でどんなことをしたの?」

 

「それは言えない事になっている」と俺は視線を店内に向ける形で、理世からの追求を逃れようとする。

 

「ほっほぉ〜言えないことなの。へえ、私にすら言えないことなの」

「卑しいことじゃないから気にするな」

「そこまで言われたら気になるじゃない」

「そうそう。ちゃんと話すべきだと思うよ」

「うるさいな、お前ら」

 

 ら?

 

 自分で口にしていて違和感が極まる。ひとつ、会話が多かった。そのことに理世も気づいたようで、彼女も口を閉じてしまっていた。

 視線をテーブルに戻すとプリン頭の女子高生が興味深そうに俺たちの話を両頬杖をつきながら聞いていた。まるで好きな番組を見るために30分前からテレビの前で待機している子供のようだ。

 

「やっ、吼月くん」

 

 勝手に空いていた椅子に座った女は、十年台の旧友に話しかけるような親しさで俺の名を呼んだ。

 すると今度は少し離れた場所から不機嫌そうな声が矢の如く飛んでくる。その声の主である男にテラスの花壇付近に雑多に置かれたコーンバリケードを軽々と乗り越えてやってくる。

 ピアスをつけた垢の抜けた男性に、女子高生が腰を捻って上半身だけ向けて手を振った。

 

「早く来なよ、あっくん!!」

「もぉう……セリちゃん」

 

 もう、は俺たちが言いたいのだ。

 

 

 

 

 

––––誰なんだよ!! 吸血鬼(アンタら)は!!!!




 ああ……よふかしのうたが完結してしまった……だがまだだ……まだ希望は残っている。47日後の発表で、新しい何かが、きっと……!!
 sns覗いたら寄せ書き企画とかあって、驚いたけど面白かったです。
 世の中には行動力がラブくんな人たち結構いるな……


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第六十九夜「私にとっては素晴らしいもの」

 陽が傾き、吸血鬼が過ごせる夜に近づいた頃で桔梗セリ(アタシ)は、自分の眷属であり友達の秋山昭人(あっくん)と合流した。

 住宅街から少し離れた場所にある大通りをふたりで歩く。

 退勤ラッシュで混み合っている車が背後に流れていく様や、制服姿の学生たちがわいわいとゲームセンターで楽しんでいる光景を見ると夜が迫っている感じがしてアタシは好きだ。

 

「今日は何して遊ぶ?」

「どうしようか。前みたいに近場の喫茶店に入ってゲームでもする?」

「いいね! 新しく配信されたクエストがうまくいかなくてさ」

 

 スマートフォンの地図アプリを開いて喫茶店を検索すると6個の赤マーカーが立つ。遠くにも四つ、近くにふたつ喫茶店があるのだが、人の目がある内は遠くに行くのも一苦労なので近場を選ぶ。その中で立ち寄ったことがなく、人気の店は……。

 

「下木通りにある店だね」

「ジェラートが美味しいお店なんだ。最近はあんまり食べてないな」

「僕も。買う機会ってあんまりないよね」

「専門店って中々無いしね」

「なら、さっそく行こうか」

 

 行く先を決めたアタシたちの足取りはワンテンポ早くなる。

 

「セリちゃんはアイスを食べるなら夏冬どっちが好み?」

「うーん……冬かな」

「セリちゃんも冬派なんだ。理由は?」

吸血鬼(アタシ)らってあんまり暑い寒いに堪えないからどっちでも良いし好きなんだけど、冬だとアイスが溶けにくいから慌てなくて済むじゃん? それに溶けたアイスで服が汚れるのも少なくなるし」

「かき氷。冬に食べる人いるみたいだしね。じっくり味わうなら今ぐらいがちょうど良いのかな」

「そうそう。特にジェラートはアイスと比べても味がしっかりしてるしね。肌寒くなってきた冬前が一番美味しい」

 

 入り組んだ細い路地を出ると、大竹通りと言われる片側二車線の通りを歩く事になる。歩道を右方面に向かって進むと一分と少しで下木通りと交わる交差点に行きたく。

 横断歩道を渡って、左に曲がってすぐの場所。この位置からでも見えるが、大きめのショッピングセンターの傍に目的の喫茶店がある。

 残念な事にアタシたちが渡るまえに信号が赤になり、足を止める事になってしまう。待ち時間が苦痛になるなんてことはない。あっくんと話すだけで時間は溶けていくのだから。

 

「何にするか今のうちに決めておく?」

 

 あっくんがスマホで店のホームページを開いてアタシにも見えるように近づけてくれる。

 

「そうだね。アタシは……あれ?」

「どうしたの?」

 

 一緒にメニューを見ようと目線を動かした時、横断歩道の先に見覚えのある顔が視界に入ってきて、そちらに意識が向く。するとあっくんも顎を持ち上げてアタシの視線をなぞる。

 向かいの歩道を歩く顔立ちの良い1組の男女。ちょうど夜守くんと同じぐらいの歳に見えて、実際に彼らが着ているのは小森第二中の制服だった。

 そこまではいい。よくある事だ。

 ただ、そのアベックの片割れである男の子の方に妙に見覚えがあったのだ。

 

「ん〜……?」

「セリちゃん、知り合い?」と声を低くしてあっくんが訊いてくる。

「違う。待って、どこかで見たことがあるんだよね」

 

 最近の記憶の断片を拾い集めるようにして、どこで見たかを思い出す。頭を働かせて数秒後、手にしていたスマホで別のアプリを開いた。ニコやミドリたち吸血鬼のコミニティーで作ったグループのつぶやきを遡る。

 その中で見つけた写真をタップして拡大した。黒と青を基調にしたフリルスカートのゴスロリ衣装を着た少年だ。

 

「女の子? あっちの金髪の子?」

 

 覗き込んでいたあっくんが言って、アタシは「あ、間違えた」と首を横に振る。この写真だと誤解を招いてしまう。すぐさま別の写真をスクロールして探すと最近のコメントに添付されていた。

 それを開くと、ちょうど歩いて行った男子の制服姿が映っていた。確か名前は吼月ショウだ。

 写真と目の前を歩いた少年と見比べる。

 

「あの子、ハツカの新しい眷属候補だ!」

「へえ、蘿蔔さんの。なんでちょっと楽しそうなの?」

「いや、だって! 身内の子が男女で和気藹々としてたら気になるじゃん!」

 

 そこでちょうど信号が青になり、横断歩道を渡ってふたりの背後を取る。

 吼月ショウの右の首筋には絆創膏が貼られていて、その下にはハツカの吸血痕があるはずだ。美味しいって言ってたんだよな。隠されてるからか、余計に吸いたくなってくる。

 

「ショウはさ、休みの日とか何してるの?」

「いつもの見る以外だと料理かな。気晴らしに散歩して、あったらバッティングセンターに入ったりするけど。理世はどうなのさ?」

「昨日見た通りよ。喫茶店で美味しいもの食べたり友人と遊んだり、やれる事やりたいことは沢山あるわ」

「理世がおすすめする店か……今度一緒に行くか?」

「イエス! その答えを待ってたわ!」

 

 吼月くんの隣を歩く金髪の女子、理世という子が嬉しそうに指を弾く。

 その様子を後をつけながら見ているアタシたちは、目の前の現場に内包される意味について思考を巡らせる。

 

「どう思う? あのふたり」

「蘿蔔さんも隣の子も美人系だから、普通に吼月くん?にとっての眷属候補が隣の女の子なんじゃないかな。そういえば、吼月くんは蘿蔔さんが男なのは知ってるの?」

「知ってる。ハツカも言ってたし」

「中学生で両刀とはストライクゾーンが広いな」

「実際、ハツカは男もひとり眷属にしてるから男の子にもモテパワーは通じると思うんだけど、問題はあの子はハツカの眷属になる気がないんだよね」

「ないの!?」

「しーーっ」

「あ、ごめん」

 

 驚愕のあまり声を張り上げてしまうあっくんの口を手で塞ぐ。気づかれていないか目線を向けるが、彼らは振り返ることもなく楽しげに会話している。

 あっくんの叫び声はそばを走る車の走行音にかき消されたようだ。あるいはただ夢中になって話しているからアタシたちの声が耳に入らなかったのか。

 

「吼月くんにとっての本命があの子だとしたら、つまりこの状況はハツカの略奪愛! 自分には大切な相手がもういるのに、いつのまにかハツカに……ってちょっと興奮しない?」

「中学生が体験するには早すぎる経験な気がするけど、まあ、分からなくもないよ」

「だよね!」

 

 男の子同士ってだけでもワクワクするのに、両片思いしながら眷属持ちのハツカに岡恋するかもなんてあーー! たまんねえ!! 夜守くんと歳はおんなじみたいだし、ウブな恋心が揺れまどってたりするのかなあ! 徐々に気持ちがハツカに傾いて狼狽えたりするのかな!?

 

「はぁ……はぁ……」

「汗すごいことになってるよ」

「ちょっとたぎりすぎたかな」

「あと興奮しすぎて息遣いも大変な事に……」

 

 あっくんの忠告を聞き流しながら額に滲んだ汗を裾で拭う。

 やることは決まった。風の吹くまま気の向くまま、この状況を楽しめとアタシの心は言っている!

 

「ごめん、あっくん。ジェラート食べるの後でいい?」

「いいよ。蘿蔔さんの眷属がどんな子か僕も気になるし」

 

 アタシたちは吼月くんたちとの距離をギリギリ気配をさとられない所まで詰める。

 そこからは中々の難易度だった。

 

「やっぱり人が多いな」

 

 てっきりアタシたちと同じく喫茶店に入るのかと思ったふたりは、スーパーの方へ入っていた。吼月くんがカートにカゴを乗せると、主婦たちでごった返し始めている店内を進んでいく。

 子供なのに自分で買い物するんだ。

 ふたりに注意を払いながら、あっくんとはぐれないよう彼の左袖を小さく掴む。

 

「人多いから手、繋ごうか」

「本当はあっくんが繋ぎたいだけでしょ」

「そうだよ。セリちゃんは?」

「当然」

 

 笑い合ってからお互いに手を取り合う。

 アタシたちは友達として仲良くやっている。いや、あっくんはまだアタシのことが好きだから片想い中なんだけど、その辺りの感情や考えは吸血鬼だから、と納得しているんだ。

 なにより現在進行形で彼の中の恋慕は友情に変わっている。

 吼月くんの後を追いかけるのは偶々都合が良かっただけ。

 今後あっくんは人間だった頃にアタシと居た記憶がどんどん無くなっていく。少しずつ変化していく想い。この関係はきっと長くは持たないから、記憶が残っている内に思い出は増やしておくに限る。今の想いが解けたとしても、いつかはまた友達として巡り合うことができる時のために。

 

「なんか大変そうだね」

 

 視線の先にいる吼月くんたちを再度見つめてからアタシは言った。

 どうやらこの店では今セールスをやっているらしく、ごった煮の現状の原因がそれだ。その中でも卵や油がかなり値下げされていて、人がより集中している。その中にふたりは突っ込んで、めみくちゃにされていた。

 

「……食品売り場だと、どうしても人が密集するからね」

「ピアスとか買う時とかはあんまり多くないのに」

「そっちはあくまで高級品とかだしね」

「やっぱり楽だなって思うわ」

「食事のためだけに金と労力をかける必要がないのは僕らの特権だよね」

 

 吸血鬼は人間ひとりを誑かして、隙をついて血を吸えばそれで終わり。人間と違って毎日栄養を摂り続けなくてもいいし、吸血のために人を魅了することに特化しているから現地調達も簡単だ。

 しかし、

 

「つ、潰される……! ちょっと手貸して!」

「ほら引っ張り出してあげるから」

「よっ。サンキュー」

 

 人混みをかき分けて戻ろうとした吼月くんを外側で待機していた女子が引っ張りあげた。

 こうして、しっちゃかめっちゃかした生き方も日常を彩るものとしては大切なのかもしれない。苦労は買ってでもしろ、ってやつかな。

 

「いや、やっぱり苦手だわ」

「はははっ、セリちゃんって思ったより人が多い所苦手だもんね」

 

 暫くすると二人の買い物が終わり、ショッピングセンターを出る。このまま帰りなのかと思えば、私たちが目的地としていた喫茶店に脚を進めた。テラス席に座って、ウェイトレスに注文するのをアタシたちは近くの花壇の影から見守っていた。

 

「肩を触れ合わせてメニュー見てるし……アレで付き合ってない方が無理ないかい?」

「女子もこれくらい普通って感じで受け入れてるし、なんか距離感が兄妹みたいだな」

「兄妹でも流石にここまで……あ、普通に席戻した」

 

 二人の様子を見て、アタシはひとつの結論を見出す。

 

「これは元の距離が近すぎて進展しないタイプだ」

「セリちゃんの読みが外れたかもね」

「残念。吼月くんの方も恋心って感じじゃないし」

「これからを考えると相手の子がちょっと不憫に思えるな。仕方ないことだけどさ」

 

 ひっそりと呟いたあっくんの言葉を「ねー」と肯定した。

 立ち上がって花壇の影から一歩踏み出す。

 

「そろそろ隠れるのも限界だし、いっそのこと相席にしちゃおっか!」

「あっ、ちょっと!?」

 

 

 

「て、感じなわけ」とセリちゃんは注文したラムレーズンのジェラートをスプーンで掬いながら言う。

 吸血鬼やストーカー紛いの行動の話を抜いて、大まかに流れを説明した。つまり、殆ど嘘をついたのである。仕方ない、仕方ないのだ。

 事情を説明し終えた頃には辺りは夜に沈んでおり、テラスを包み込む光は夕陽ではなく、軒先に吊るされた多角形のペンダントライト。忘れちゃいけないのが月明かり。

 ガーデンライトもあるようだけど、壊れていて点灯しない。赤コーンが立っていたのはそれが理由でもあるようだ。

 夕方より少ないとはいえ、ショッピングセンターに併設されていることもあって人気はそれなりにある。買い物ついでの女性が多い印象だ。

 セリちゃんが食べているので分かると思うが、各々が頼んだ食べ物も囲っているテーブルに置かれていた。

 とはいっても、話を聞いている間に吼月くんとその友達である倉賀野さんはジェラートを食べ終えてしまっている。

 

「本当に相席で良かったのかい?」

 

 テーブルを中心に車座になっている秋山昭人()は、隣の椅子に腰を下ろす吼月くんに訊ねる。

 

「構わないですよ。理世も良いと言いましたし」

 

 せっかく楽しいひと時に割って入ってしまった僕の申し訳なさを爪弾きにするように彼はキッパリと否定した。

 そして倉賀野さんも同様に首を縦に振る。

 

「嫌だったら、軽い自己紹介だけで済ませてますよ。ね、桔梗(ききょう)さん」

「そうじゃなかったら声かけないし」

「私としては目に良いものが二つも増えたのでプラマイゼロ、よりもプラス寄りです」

 

 そう言って僕とセリちゃんを見て愉快な笑みを浮かべる。指で作った輪を虫眼鏡に見立てて僕らを覗き込む様は、自分の欲に見合ったコレクションを目の前にした好事家のようだ。

 彼女の瞳は好みの相手を選別する吸血鬼のようにも思え、いつもと逆の立場になった事と女性である自分もコレクションの一部として見られたセリちゃんが「え?」と声を漏らす。

 女子から慣れない興味を受けてセリちゃんの顔色が照れの赤に変わる。

 

「あら先輩、かなり可愛い反応。そうだ、私も貴方のことセリちゃんって呼びたいです」

「それは構わないけど」

「ありがとうセリちゃん。私のことは理世でいいですよ」

「おう。で、もしかして理世もどっちもいける口なのか?」

「好きな物は好きですよ。分け隔てなく良いな!って思ったら私にとっては素晴らしいものですから」

 

 胸を張って堂々と語る倉賀野さんの見た目の歳よりもずっと大人びて見えた。纏っている雰囲気が身体よりも大きく、自分の指針が形となってハッキリとしている。

 中学生ぐらいの歳なら、好きな人といる時間を潰されたら駄々をこねても良さそうなものだが、嫌悪感はないし額面通り楽しんですらいる。

 不思議だ。この子は吼月くんのことが好きなんだと思っていたけれど、本人を目の前にして他の男のことを好きと言えるなんて。

 僕は、吼月くんはどう思ってるんだろう?と怪訝な眼差しで覗き込むが、彼も特に気にはしていない。

「にしてもハツカの知り合いか」と吼月くんが口を開いた。

 

「友達が気にかけてる子だからね。ついつい声をかけてみたくなったんだ」

「それは構わないが、好みは人間(一般)的なんだな」

「普通にいい男って感じで、お手付きもまだ多くなさそうだし」

「ニコやカブラ達みたいな特殊な癖はアタシには無いからね」

「制服姿なのは十分癖だと思うぞ」

 

 吼月くんの一言に、セリちゃんが持つスプーンの手が一瞬だけ震える。

 

「似合ってるから良いじゃない」

「土台が良いうえでの癖だろう。ハツカの女装と同じだ」

 

 いやセリちゃんの女子高校生姿はコスプレの一言で片付けられるものでは決してないのだが!?

 

「そうそう。アタシは一番可愛いからさ」

「可愛いのは知ってるよ。アンタは一眼でそう思う」

 

 なんとも噛み締める味のない好感に、セリちゃんはジェラートをその綺麗で魅惑的な口の中に運んでいく。なんとも言えない敗北感をジェラートの味で誤魔化している。

 声のトーンも表情もお世辞を言っているようには思えない。もし僕が人間のままなら、素直に同意していただろう。

 ただ、【可愛い】と自分が【好き】であるかは別なように、自分の意思ではなく世間一般から見た可愛さの基準で語っている。可愛い、とだけ口にしたのは、セリちゃんの『一番可愛い』という自信を遠回しに否定しているのだ。

 蘿蔔さんや倉賀野さんの方が可愛いぞ、と。

 セリちゃんは絶対に気に食わないのだろう。自分にだけ敬語じゃないし。ムスゥとした顔で彼を見つめているが、吼月くんは不平を不思議そうな表情で受け止めながらコーヒーを飲んでいる。

 ここまでセリちゃんに興味を抱かないとかえって安心するのだが、それはそれとして『セリちゃんは一番可愛いだろ!!』と言ってやりたくなる。

 

「どうしたんです? 兄貴さん」

「キミにひとつ言っておきたいことが……え、兄貴さん?」

「マヒルがそう言っていましたから。それともメンヘラさんの方が良かったですか?」

「なぜそれを……!」

 

 僕がセリちゃんに対してヘラってたのは本当だ。セリちゃんが知らない少年–––夜守くんのことだけど–––と一緒にいた時、何を思ったのか二人が入ったカラオケまで後をつけ、カラオケボックスのドアを叩いた。

 それはもうバンバン、バンバンと。

 セリちゃんには苦労をかけたし夜守くんは怖がらせてしまった。心から反省しているのだが、ここまでメンヘラ呼びが広がっているのちょっと心配になる。蘿蔔さん経由で夜守くんの呼び方が伝わっちゃったのかな。

 どう呼ばれたいかと訊かれたらひとつなんだが、

 

「兄貴のほうで……あーいや、そっちもむず痒いからあっくんと呼んでおくれ」

「分かりました、あっくんさん」

「私もあっくんさんって呼んでいいです?」

「いいよ」

「あっくんはすぐ誰にでもあだ名で呼ばせるよね」

「言われ慣れてるからね」

 

 人間の頃から呼ばれていたあだ名だから、馴染みがあるだけだが、セリちゃんは気安く納得できないようだ。不服そうに目を細めて僕を見てくる。

 僕としてはその反応が嬉しかったりもする。

 倉賀野さんは僕らを交互に見ながら楽しそうに「昔から仲が良いんですね」と口にする。

 

「まあね。それで吼月くんはハツカとは趣味で繋がったの?」

「どの趣味?」

「ほらゴスロリ服着てたじゃん」

「グホッ、げぼっぇっあっ」

 

 セリちゃんの言葉に驚いてコーヒーが肺に侵入したのか、吼月くんはえづいてしまう。

 

「だ、大丈夫かい?」

「はい……大丈夫です」

 

 僕が背中をさすると、次第に調子を取り戻していく。

 

「ゴスロリ服ってなんの」

「ほら、コレ」

 

 そう言ってセリちゃんが見せたスマホには、僕に一番最初見せた写真が表示されている。

 吼月くんは黒と青のゴスロリ姿の自分を見て、呻き声をあげながら頭を抱える。グループラインに載った写真を表示されている。彼は他の吸血鬼たちにも女装姿が広がっていることに悶絶しているのだ。

 同時に同級生にもそれが見られたことも羞恥を倍増している。

 

「そうか……あの時、ミドリさんが職場の見せたのってこれかぁ? いやいやいやいやマジかぁ……」

 

 様子を見る限り、蘿蔔さんと違って他人に見られていいほど女装が好きというわけではないのか。初見だと女子にしか見えないのでレベルは高いとは思うが、好きじゃないなら何故こんな服装をしたんだ。

 

「ショウ、貴方やっぱり女装も好きになってくれたのね」

「待て。お前が期待してるようなことはない。単純に仕事に使う服をハツカに見繕ってもらっていたら、その流れで着せられたんだよ」

「その歳で仕事してるの?」

「仕事っていうのは……」

 

 彼が続きを言おうとした、その時だった。

 ピキッと何かが割れた音がして、続け様に人が倒れる音がした。

 

「え"っ、ああ!」

 

 それは転倒したのは女性のようで、酷く驚いた声を張り上げた。

 僕ら全員、反射的に顔を悲鳴がした方向へ動かすと、喫茶店の照明が灯す光の外へ、右脇に何かを抱えた人影が飛び込んだのが見えた。月明かりにだけ薄く照らされた暗闇を誰かが駆け抜けている。

 女性の周囲にはビニール袋から飛び出した食品や日用品が散乱している。割れたヒールが足元に転がっている。

 これはもしかして––––「ひったくり」

 女性の声より先に僕らのすぐそばで物が倒れる音がした。

 それもふたつ。

 

「理世!!」

「分かってるわよ!!」

 

 椅子を押し倒す勢いで吼月くんと倉賀野さんが飛び出した。

 しかし、向かっているのはふたりとも別の方向。吼月くんは犯人らしき人影を追って駐車場へ走り出し、倉賀野さんはスマートファンを耳に当てながら女性の下に駆け寄った。

 ショッピングセンターの端にある喫茶店のそばで起きたから、駐車場にはあまり車が停まっておらず、いま追いかけなければ逃げられてしまう。すぐに追跡し出した吼月くんの選択は正しいと思う。

 突然発生した事件と中学生の手慣れた動きに僕らは呆気に取られてしまう。

 

「セリちゃん」

「あ、ああ!」

 

 僕らも慌てて女性の下へ駆け寄った。その女性は倉賀野さんの肩を借りて、そばにあった椅子に腰を下ろしていた。

「大丈夫ですか」と声をかけた僕に、倉賀野さんは気づいて『よし』と言いたげなニヤリ顔になって応える。

 

「セリちゃん、あっくん、その人を頼みます!」

「え?」

「いや、警察に」

「連絡してある!!」

 

 まさか追うつもりか。

 駆け出そうとする彼女を見て、僕は不安が脳裏をよぎる。すぐに駐車場の方へと視線を向ければシルエットだけで人相は見えないが、へっぴり越しのまま何かを突き出す人物と、悠然と立つ少年の姿があった。

 吼月くんの前に立つ人物が握っている物に月明かりが反射して、薄く鈍い光が宿っている。人肌を容易く引き裂くナイフだ。

 

 

 いや、待って、

 

 

 人間で、しかも中学生でしかないのに。

 

「このぉ!」

 

 犯人が吼月くんに襲いかかった。

 僕らが行けば問題は解決する。吸血鬼の力なら二人の間にすぐさま割って入ることもできるし、鎮圧だって簡単だ。

 辺りを見渡すと、女性の悲鳴のせいで買い物に来ていた客や喫茶店の人達の目がこちらに集まっている。

 この場で吸血鬼の力を使うのは、無理だ。

 僕は人並みの速さ、その中の最高速度で吼月くんとひったくり犯の間に割って入ろうと走り出す。

 

「邪魔!!」

「はい!?」

 

 倉賀野さんの叱責と共に、ガコン!!とプラスチックが強い衝撃で凹むような音が背後から鳴る。振り返ってみれば、花壇の周りを囲っていた赤コーンを片手に掴んで夜空に掲げている。

 何をするつもりだ。

 そう問えるわけがなかった。

 思わず僕はセリちゃんと目を合わせる。彼女も舌を巻くように黙り込んだまま僕の方を見つめていた。

 

「ロォォォォォオオオイイイ!!」

 

 獣じみた叫びをあげた彼女の手から、オーバースローで赤コーンが放たれる。投げ槍の如く投擲された赤コーンは、僕の髪の毛を数本散らしながら通り抜けていく。風切音を立てながら突き進む。

 豪快な一撃と共に靡く金色の髪を持つ少女は異質な美しさを持っていた。

 

「……」

 

 倉賀野さんはその場にある物を容易く凶器へと変貌させた。

 それはまさしく、吸血鬼の力そのものであった。

 

 

 好きな人を奪われる。

 この想像は撤回した方がいいかもしれない。

 

 

 暗闇を飛翔する赤コーンという黙するしかない絵面を見て、そう思った。

 

 

 

 

 女性に駆け寄る間も私はショウを見つめていた。

 人目なんて気にせず初速から全てを振り切るハイスピードで犯人に追いついた彼は、横に回り込んで犯人の右の腹部にタックルをかます。肘がしっかりと犯人の内臓を抉る完璧な一撃だった。

 

「ふんっ!!」

「グッ……!?」

 

 右腹部を襲った衝撃に耐えられず転倒する犯人の行手を阻むようにショウは立ち、向かい合っていた。

 

「ガキぃ? クソが!」

 

 ベタベタな三下台詞。いいわ、小物らしい。

 犯人は小物のくせに一丁前にナイフを懐から取り出すが、そんな物をチラつかせただけで彼が怯えるわけがない。

 犯人が左手で構えたナイフを見てただ微笑む。どこか気配がいつもと違う。

 

「金欲しさにひったくりかい? せっかくの夜なんだ。他人の目を気にするような刻にして欲しくないんだがな」とショウは自信満々に左手を掲げる。

 その手に握られていたのは、犯人が奪ったであろう女物のバックだった。

 ようやく失態に気づいた犯人の顔色は赤鬼のようになっているだろう。赤鬼に失礼だったわ。

 

「このぉ!」

「甘いな」

 

 子供に馬鹿にされたことに腹を立てた犯人が激情に駆られたままナイフを振り回す。型なんてない上下左右、無差別に振るう刃がショウを襲う。

 しかし、ショウは天性の瞳からその攻撃をすべて見切る。

 身を引いたり、スウェーで回避したり、最後には回し蹴りで左手首を弾いてナイフを夜空に捨て去った。

 その瞬間、私の手に力が籠って、握っていた赤コーンが音を立てる。

 

「はぁ!?」

 

 鈍い光を追って犯人の視界からショウの姿がなくなった。

 いやぁ、もう好き。

 頑張ってカッコつけてるショウのこと、私は大好きだよ。

 叫んじゃう。

 構えていた赤コーンを感情の昂りのまま投げつける。

 叫んじゃった。

 

「クソ!! なんなん」

 

 狙いは犯人の頭部上空だ。そこが最高のポイント。

 犯人が視線を戻した時には、もうショウはそこには居ない。

 

「終わりだよ」

「は?」

 

 犯人の背後に回っていたショウはおおよそ中学生とは思えないジャンプ力で、犯人の上空を制すると飛んできた赤コーンを右手で掴み取る。

 その赤コーンを犯人の頭をぶち込むように叩きつける。コーンの空洞に犯人の頭がすっぽりと収まった。

 

「うぐぅーー!?」

 

 パーティグッズの帽子を被ったような間抜けな姿を晒す犯人は、空からやってきた一撃にくぐもった声を漏らす。

 頭部に強い一撃を喰らった犯人はそのまま倒れ伏すのだった。

 振り返ったショウを私に言う。

 

「ナイスパス」

 

 良かった。何事もなくて。




 私用で来週、再来週は投稿できないかもしれません。
 申し訳ございませんが、よろしくお願いします。


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第七十夜「意思は関係ない」

1週間ぶりです。
19巻の表紙、ちょっと……ヤバかったですね。主に探偵さんの半開きになった唇が。


 ひったくり犯は捕まった。頭部に赤コーンを叩きつけられたことで気を失った犯人は、いま腕をネクタイで、脚をベルトで縛られている。両方とも吼月くんが制服に使っているものだ。

 野晒しで捨てられている犯人は、浜に打ち上げられた魚のようにピクピクと震えていて滑稽な姿を見せる。まるで人ではないと言わんばかりの仕打ち。他の客たちも笑いながら馬鹿にして近くを通り過ぎる。

 このまま放置したら踏みつけていく人も出てくるかもしれない。

 そうして、捕らえてから数分後、パトカーが二台やってきて喫茶店前の駐車場に停まった。パトカーから降りて辺りを見回している制服警官たちに、吼月くんが声をかけた。

 

「警察の皆さん、お疲れ様です」

「ん、ああ……キミ、この辺りでひったくりがあったと通報を受けて来たのだが知ってるかい」

「ええ。犯人はあそこでピタンと伸びてる人物です。現行犯なので周りに聞いてもらえば分かりますよ。証人はたくさん居ますから」

「そうか、協力ありがとう」

 

 歩きながら警察官たちに現状を説明しつつ、歩く先にいるのは被害に遭った女性だ。警官たちはすでに犯人が捕まっていることに驚き、そしてほんの少し気の緩ませていた。

 警官たちは女性と相対すると彼らのひとりが「貴方が被害に遭った方ですね」と口にした。

 

「大丈夫? 話せますか?」

「ええ、ありがとう倉賀野さん。私がひったくりされました」

「でしたら、その時の状況をお聞かせください」

 

 女性を見るとその背中を倉賀野さんが摩っていた。被害に遭った女性の隣に座って会話をしていたところだったのだ。

 取られた鞄も手元に戻り、散らばった食品などもビニール袋の中に回収済み。温かい紅茶も飲めるほど女性はなんとか平静を取り戻していた。

 落ち着いて話ができるので、警察官たちも滞りなく事情を聞けている。犯人を捕まえた吼月くんも一緒に会話している。

 そこまでは良い。

 犯人が捕まったのはめでたいことだ。

 問題は別にある。

 

「セリちゃん、どう思う?」

「どうって分かるわけないじゃん。少なくとも今は……普通の人間だし」

 

 セリちゃんに訊ねたのは、倉賀野さんが吸血鬼かもしれないという疑惑。

 赤コーンを投げる瞬間、吸血鬼に()()()()()()()()()()()()に僕らは曝された。そして力は吸血鬼と遜色ない。

 吸血鬼歴の浅い僕だけが感じていたのなら思い過ごしだろうけど、他の吸血鬼とも多く接しているセリちゃんも疑っているなら信じるに値する。

 しかし、一緒にテーブルを囲んでいた時に吸血鬼の匂いや気配はまったく感じなかった。

 

「赤コーンを投げた時の力はきっと人間でも出せる。けど、あの速度を狙って出そうとするなら人間じゃ無理だよ。吸血鬼の力をセーブしてようやく実現できる……ぐらいだと思う」

 

 声量が尻すぼみになっていくのは、現状に知識が追いついていないからだ。確信を持ちきれず、言葉が弱々しくなってしまうのも無理はない。

 人間から吸血鬼に自発的に変化するなんて、セリちゃんすら聞いたことない事態らしい。

 

「いったいどうなってるんだ?」

 

 投擲された赤コーンは花壇のそばに戻されている。もちろんバリケードも復旧してあり、先ほどまで彼女が投げた赤コーンにヒビがないか撫でながら確認していたのを思い出す。喫茶店の店員から怒られてはいなかったので、壊れてはないだろう。

 そう考えると丈夫な赤コーンだな。

 僕らが倉賀野さんに目線を戻すと、彼女もこちらに気がついて警察官たちに断りを入れてから立ち上がった。吼月くんに女性の補助を頼んだ。

 こちらにおもむろに歩き出し、喫茶店の明かりにその顔が照らされる。申し訳さなそうに僕ら–––いや、僕だけを見つめて小走りで近づいてくる。

 そして、目の前に立ち止まるとパチンと手を鳴らす。

 

「あっくんさん、さっきはすみません!!」

「え、え?」

「んっ」

 

 いきなり手を合わせて頭を下げられて僕は困惑する。隣にいるセリちゃんも思わず首を傾げてしまっている。

 頭を下げる意図が理解できていないのが伝わったのか、倉賀野さんは決まりが悪そうに含羞みながら言う。中学生らしい愛らしさのある仕草は、最前見せた獣の如き凛々しい美さとのギャップもあり、倉賀野さんという存在の幅広さを如実に感じさせる。

 

「いやぁ、勢い余って『邪魔』って言ってしまったので……」

「そのこと? 気にしてないよ」

「そうなんですか? あっくんさんってやっぱり優しいんですね」

 

 そう言って倉賀野さんはずいっと顔を前に突き出してくる。

 

「あの、手」

「あ! す、すみません。つい」

 

 何気なく彼女は僕の手を両手で包んで、すぐさま離して微笑んだ。上目遣いで見つめる倉賀野さんから視線を外しながら、僕は彼女の思わせぶりな態度に既視感を覚えた。

 僕がセリちゃんと過ごしている時にトキメいてしまった時のこと。そう、一緒に––––いや違う、今は回想するタイミングじゃない。

 まるで倉賀野さんの仕草は相手を落とそうとする吸血鬼のようだ。

 しかし、今の彼女からはさっきの吸血鬼に近い気配を感じない。

 

「おい、理世」

 

 セリちゃんが声を低くして、僕と倉賀野さんの間に割って入った。不機嫌な声で倉賀野さんの名前を呼んで、隠しきれない苛立ちが顕になっている。

 倉賀野さんは何食わぬ顔で「なにセリさん?」と応える。

 

「……お前はなんなんだ?」

 

 どう尋ねるか迷って、やはり漠然とした問いかけになった。

 神妙な顔のセリちゃんに対して、倉賀野さんは先ほどと変わらない表情をしている。それどころか、先ほど謝られた僕のように意図が分からず戸惑っているようにも思えた。

 

「通りす–––んっんっ。なんなんだって言われても、わたしだ、としか言えないですよ」

 

 僕とセリちゃんは一度顔を見合わせる。

 もう少し真っ直ぐに踏み込んだ話をしよう––––小さく頷き合って、倉賀野さんに続けて問いかける。

 

「倉賀野さんはこの世界に吸血鬼がいるって知ってる?」

「うん。知ってるわよ」

 

 やっぱりと思った矢先に彼女は予測を叩き壊すことを口にする。

 

「まあ、ヒトがいるくらいだし探せばいるでしょ」

「……」

 

 掴みどころのない物言いに僕らは口を動かすことができなくなる。

 空想の産物を妄想する幼気な少女の言葉なら気にする必要なんてない。吸血鬼に変身できる人間の言葉だとしたら訊ねたいことがある。

 僕は小さく空気を吸う。

 彼女から漂うのは人間の匂いで、学校の規則なのか香水といった類の香りもまったくしない。やはり吸血鬼の匂いなんて微塵も感じない。

 軽く会話を挟みながら喫茶店の前から離れ出すことにした。

 

「おふたりがどう思っていようが私には関係ないですけど。もし危険だから抹殺しようなんて、幼い考えならオススメしませんよ?」

「へえ、どうしてか教えてくれよ」

 

 腰を落としながら爪を構えるセリちゃんは臨戦体勢に入っていた。得体の知れない相手と対峙して、周囲の空気が肌を引き裂くほどの緊張感が纏わりつく。

 そばに人が居たなら、必ずここを避けて通るだろう。遠巻きに僕らを見つめながらビクビクと震えて歩いていくのだ。

 見えない爪を全身で感じ取るが、倉賀野さんは変わらず飄々としている。

 

「だって貴女達ふたりでかかっても、私には勝てませんもん」

「流石にアタシらのこと舐めすぎじゃないか?」

「実際に……まぁ別にいいけどさ。そんな脅す? ふつうー」

「悪いけどこっちにも事情があってね」

「あっくんさんが襲われたんですか?」

「っ……ああ」

「じゃなきゃ庇う必要なんてないですよね。無闇に人間を襲う必要なんてない」

 

 倉賀野さんが言う通り、セリちゃんは彼女から僕を引き離すと同時に壁として立ち塞がっている。いくら倉賀野さんに敵意がないとはいえ、正体不明である以上は用心するにこしたことはない。

 特にセリちゃんは、以前僕が鶯アンコに滅多刺しにされたことで、過敏に反応しているのだ。

 雰囲気から察している倉賀野さんだが、「身内だけか……」とズレた不服を漏らす。

 

「アタシだって馬鹿騒ぎをしたいわけじゃない。理世が人間なのか、それ以外なのか。それさえ教えてくれれば済むんだ」

 

 煽られて熱量を増すセリちゃんとは対照的にどこか萎えるような態度を示して、倉賀野さんは耳元の髪を指で弄っている。

 ここまで緊張の糸が張っている中でこの態度が取れるのは余程の自信があるのだろう。でなければただの鈍感だ。

 

「セ、セリちゃん」

「大丈夫だよ。もう一度その気にさせて、はっきりさせればいいんだから。傷つける必要なんてないし」

 

 実際に力を振るう必要なんてないし、セリちゃんが本気でやり合うなんて思ってはいない。そばに人が居ないとはいえ、店の目と鼻の先にある。ここで吸血鬼の力を大っぴらに使えばどうなるか分からないし、警察官だって居る。

 分別がしっかりしているセリちゃんがその事を理解していない訳がないし、そう易々と選択を誤るはずがない。

 けれど、やっぱり雰囲気が刺々しい。倉賀野さんを怖がらせてしまう。

 ただ、その原因が僕であることが嬉しかったりする。ここまで身をあんじてくれるなんて嬉しい限りだ。

 

「理世は吼月を眷属にしたいのか?」

 

 セリちゃんは目つきを鋭くして、警戒しながら問い続ける。

 彼女は吸血鬼に近しい存在になれるのは確かだ。好きになってしまった相手が居たなら、落としたくなるのは吸血鬼として当然のことなのではと僕は思う。

 さらに相手は蘿蔔さんに日常的に血を吸われて、その吸血痕を隠すために絆創膏を常にしている。吸血衝動に駆られてもおかしくはない。

 

「んふ、ふふふっ」

 

 呆気に取られて小さく口を開いてしまう倉賀野さんは、次第に腹の底から声が溢れ出そうになるのを防ごうと口を左手で覆う。

 

「ふふ。さぁ……どうでしょう。もし、ショウをちゃんと私の子供にできるのならやってもいいかもね」

 

 けれど、抑えられなくなってニヤつきながらそう言って、

 

「これでいいですか」

 

 倉賀野さんはもう片方の手の指で結っていた髪を弾く。

 視線がかち合う。強く、強く、僕らを穿つような葡萄(えび)色に変化した瞳が輝いて、目に映る全ての像が解けて溶けてしまうほど僕らの心を惹きつけた。少しの間、ぼっとしてしまう。

 しかし––––

 

「なんも変わんないね」

「じゃあ、何もないんじゃない?」

「そうですね。すみません理世様」

 

 それだけで僕らは何も感じない(・・・・・・)

 勘違いだったと悟ったセリちゃんは指先までまっすぐ伸ばして、綺麗な気をつけの姿勢を取る。そして、おもむろに頭を下げた。

 

「いいんですよ、セリちゃん。その呼び方、ジンジン来ちゃうから許しちゃいます」

「ありがとうございます」

「でも、罰も必要よね。吸血鬼、やめましょうか」

 

 首を垂れたセリちゃんの頬を両手で持って、自分と目を合わせさせる。そして、粘土で遊ぶ子供のようにセリちゃんの顔を押し潰したり、摘んで左右に引き伸ばす。

 

「……」

 

 倉賀野さんは僕に何かを求めるような、督促する視線を向けると、横目で僕を捉えたまま呟く。

 

「セリちゃんの豚鼻かわいいー。写真撮っておこうかしら」

 

 セリちゃんの形のいい鼻を指で押し広げていく。豚の鼻になった。薄ら笑いを浮かべる倉賀野さんは、セリちゃんに他人には決して見せてはいけない表情を次々と取らせる。

 馬鹿にするような笑みで見つめながら写真に収める。

 

「理世さま、もっと撮って!」

 

 すっかり魅了されたセリちゃんは、自分の端正な顔を玩具にされることを嬉々として受け入れた。次第に命令ではなく自分から玩具になっていく。

 自分から尊厳と品性を捨て始め、数分が経過した。

 その顔はこの場に100人居たら、100人がドン引きしながら卵や生ゴミを顔面に投げつけるレベル。理由は腹が立つからだ。

 

「あっくんさん、今のセリちゃんの顔どう?」

 

 尋ねられた僕はセリちゃんの変顔を見る。

 倉賀野さんから借りたセロハンテープで鼻を押し広げ、口は指を突っ込み歯茎が見えるほど引っ張っている。強風が顔を殴りつける時のように皮膚が外へ外へ広がった顔では、喋っても人の言葉にはならない。それどころか、セリちゃんは長く伸ばした舌先を鼻の穴に入れている。

 人前でやっていい限度を超えた変顔だが、その中に隠しきれない愛嬌を見た僕はゆっくりと頷いた。

 

「綺麗だよ。ホント普通の人なら関わりたくない変顔だけど、基がセリちゃんだからどうしても可愛くなっちゃう。周りの人は自分との差を感じちゃうだろうね」

「惚気てるのも大概にしてください。フィルターかかりすぎですよ。そんなことより貴方も目醒めないんですか?」

「え。嫉妬してるの? 舌を出すのもペロちゃんマークみたいで可愛いでしょ!」

「え、じゃないんですし、嫉妬もしてないですよ。子供と睨めっこしたら泣くレベルなのに、吸血鬼になる人ってみんな……まあ、それは私もだな。ショウが変顔したらあっくんさんと同じ事言うもん」

 

 そう言いながら倉賀野さんは、セリちゃんの顔が傷をつけないようセロハンテープを外し、手を下ろさせると新たな命令を出す。

 

「お座りをして、お手」

「アンッ!」

「あらあら、元気なワンちゃんね。よしよし〜」

 

 彼女の指示に服従するセリちゃんは犬のお座りをして、倉賀野さんの手に自分の右手を置いた。耳や尻尾がないことに目を瞑れば完全に擬人化した犬少女だ。

 可愛い。

 命令を守ったセリちゃんの頭をよしよしと撫でる倉賀野さんは笑う。

 

「ふふふ。本田カブラとか他の吸血鬼でも思ったけど、やっぱり顔がいいからこその映えよね」

 

 笑っているが、どこか空虚な響きが夜空に余韻を残す。チラリと彼女が僕の方を見た。

 

「どうしたんですかぁ?」

「なんでもないわよ。あら、舌出しておばかで可愛いわよ。はい、ふせて」

「わふっ」

 

 セリちゃんは主人を呼んで構ってもらおうとする。人以下に成り下がることに愉悦を覚えたのだ。舌を出した間抜けな顔も可愛い。

 尊厳を捨て去った犬芸大会を見続けていると、倉賀野さんの雰囲気が少し変わった。自嘲と呆れを肺の中でかき混ぜると、ため息として一気にこぼす。

 

「次は仰向けになって、可愛いわね、よしよし……セリちゃんみたいな子もひとり欲しいわね。今度テキトーにsnsで自撮りをあげてる女子高生の中から見繕ってみようかしら」

「アンッ」

 

 屈んで犬の物真似をし続けるセリちゃんの頭を撫でながら倉賀野さんは、一枚だけ写真を撮ったあとはずっとスマホを弄っていた。自分以外に興味が移りだした主人に高い声で甘えるが、倉賀野さんはセリちゃんには眼をくれずに僕を見た。

 

「あっくんさん。ちゃんと自分の大切な人ぐらい守らないとダメですよ。鶯アンコが襲ってきたらセリちゃんを助けるのは貴方なんですから、私に良いようにされてたら大事な時に動けませんよ」

「え? まあ、うん。でも、今は別に大丈夫だよ。セリちゃんは倉賀野さんの玩具だし」

 

 僕がそう言うと、倉賀野さんは目線を落として、バツが悪そうに髪に手を突っ込みクシャクシャとみっともなく掻き乱す。

 

「……やっぱり突破できないのね。本当に最低な力。蘿蔔みたいな女王ネタも、コレを使ったら意味も面白みも欠けるし」

 

 何に気分を害したのか分からないけれど、苛立ちながら倉賀野さんは頭を下げる。

 

「大切な人の前でごめんなさいね、セリさん。あっくんさんもごめんなさい」

 

 顔をあげるとパンッと乾いた音が鳴り響く。倉賀野さんが手を叩いた音だ。

 

「それじゃあ普通に立って」

「はい!」

 

 命令は絶対遵守。セリちゃんはスパッと立ち上がると、再び整った気をつけの姿勢になる。僕も彼女の隣に立って、倉賀野さんの瞳をまっすぐ見つめた。

 

「最後にこれ以上、不必要に私の詮索しないこと。言うべき時が来たら伝えてあげるから。あと念のため、人間を自分勝手な理由で傷つけない事」

「分かりました」

「よろしい。破ったら変顔の写真送りつけてあげる」

 

 僕とセリちゃんは絶対に破ってはならない約束を交わすと、頭をもう一度下げた。

 

「最後にこの場にいる全員、さっきまでセリちゃんがしたことは全て忘れること」

 

 一際澄んだ、甘い声が脳に突き抜けていく。

 倉賀野さんはより強い光を瞳に宿して辺りをぐるっと見渡すと––––

 

 

パチンッ

 

 

 夜空の漆黒を映し取ったような黒い瞳がこちらを眺めている。

 

「あれ、あっくん。いまアタシ、なんか変なことしてた?」

「特に何もしてなかったけど」

「それでふたりとも、私は吸血鬼なんですか?」

「いや、さっきも違うって言ったじゃん」

「ごめんね、変なこと聞いて」

「いえいえ。普通に生きてて『お前、吸血鬼か?』なんて聞かれることないですし、面白い体験ができて良かったです」

「そ、そうか……」

 

 吸血鬼の気配がするようになったわけではないし、人間の気配が消えたわけでもない。倉賀野さんは自分の中のナニカを変化させたようだが、僕らはそれを知覚できなかった。

 完全な思い過ごしだったことにセリちゃんも肩の力を抜いて緊張の糸を緩めた。

 にしても、変な人たちだと思われたかな……。

 彼女も言った通り、人間とは別の種族がいるなんて普通は考えないし、妄想だと思われて当然だ。

 

「まあ、別にいいじゃないですか。人間だろうが、吸血鬼だろうが大した差なんてないんですから」

 

「いや、あるだろ」と即座に返したセリちゃんに僕は小さく頷いた。種族単位の違いを差がないとは言えない。

 人間である倉賀野さんは首を振って否定する。

 

「血を吸うために人を化かすだけなら普通は一線を越えることはないですし。他人の人生を容易く棒に振る輩は、単純に心がない化け物ってだけで」

 

 肩をすくめながら彼女は僕らの背後へ視線を外し、恍惚としてその先にいる相手を見つめていた。相手は誰かなんて考えるまでもなく、吼月くんだろう。

 

「大事なのはヒトの心を持っているかどうかですよ。それだけで生きていい資格はあるんですから」

 

 噛み締めるような笑みは憂いを秘めていて、それだけ大切な存在なんだと伝わってくる。

 

「あ」

 

 倉賀野さんの表情がパッと明るくなって走り出した。僕らを抜き去った彼女を追って、僕らも背後に振り向けば、丁度吼月くんの聴取が終わっていた。

 犯人と被害者の女性が別々のパトカーに乗せられている。女性はこちらに気がつくと、「ありがとうございました」とこちらにも感謝をして、パトカーの中に入っていった。

 会釈しつつ僕らも倉賀野さんの後に続いて、吼月くんの下へ歩み寄る。

 

「吼月くん、話は終わったみたいだね」

「でも女の人、なんでパトカーに乗せられてるの?」

「彼女のヒールが壊れたから家まで送って欲しいって頼んだんだよ」

 

 僕らは相槌を打って納得した。

 手持ちの道具ではヒールが直すことが出来ず、その話をすると警察側から送っていくと申し出てくれたという。

 

「警察なんて信用できるの?」

 

 妥当な判断だと思っていたら倉賀野さんが可笑しな疑問を投げかけた。

 吼月くんは慎重すぎる彼女を小馬鹿にすることなく「半々だな」と答えるので、流石に警察に対して不信感がありすぎるのでは?と僕は首を傾げてしまう。

 

「だから理世にも頼みがあるんだけどいいか?」

「言ってみなさい」

 

 服を内側から持ち上げている胸を更に張って、倉賀野さんは威勢よくバンッと手で叩く。

 

「あの人と一緒に帰ってもらいたい。同性がいるのといないのだとやっぱり気分が変わってくるし」

「ショウも一緒?」

「残念ながら刃物で斬られそうになったからな。その分の被害届も出すことになって、俺も送ってもらうことになっちゃったし」

「妥当ね。分かったわ」

 

 ふたりの話が纏まると、僕らを一瞥した吼月くんは優しい笑顔を浮かべながら訊ねてきた。

 

「そう言えばおふたりにお聞きしたいんですけど、ハツカってワッフル好きだったりしますか?」

「どうだろ、僕はあんまり関わらないし。セリちゃんは知ってる?」

「ハツカなら甘い物なら基本的に好きだぞ。よく眷属にクッキーとか食わせてもらってたし」

「やっぱり焼き菓子系が好きなのかな。ありがとうございます」

「買ってくの?」

俺の血(主食)は別だとしても、前菜ぐらい買っておこうと思いまして。それに自分だけ美味しいものを食べるのは気が引けます」

「そっか」

 

 想像していたよりも蘿蔔さんのことを大切に思っていることに僕らは安堵した。

 

「それでは俺たちはここでお暇させていただきます。また、時間があったらお話ししましょうね」

「そうか、ふたりとも、気をつけて帰りなよ」

「吼月くん、ハツカによろしく伝えておいてくれ」

「それではまた」

 

 一礼したあと、吼月くん喫茶店の中へ、倉賀野さんは日没前に買った荷物を持ってパトカーの中に入った。数分後、洋菓子箱を片手に出てきた吼月くんは再度僕らに手を振ってから乗車する。

 そして、走り出したパトカーはサイレンを鳴らさず、夜の静寂を大事にしながらこの場から去っていった。

 

「さて、それじゃあこの後どこいく?」

「ドッグカフェにでもハシゴしようか。あそこお酒も出るし」

「なら、早速行こうか」

 

 僕らも彼らに続くように喫茶店を後にした。

 

 

 

 

 理世と被害者の女性を送り届けたパトカーが小森団地の駐車場へとやって来た。いくら送迎とはいえ、赤いライトをチカチカ点滅させたパトカーに乗せられるのはあまり居心地の良いものではなかった。

 警察が好きではない、という個人的な事情を捨てても、まるで自分が捕まったような錯覚に陥って嫌になる。

 憂鬱になった心にパカっと軽薄な音が入り込んで、ドアのロックが解除されたのだと気づく。やっとこの息苦しい空間から逃れられる。

 

「着いたよ。キミが最後だ」

「はい。お疲れ様です」

 

 買い物袋と学生鞄、そしてケーキ箱を器用に両手で持ちつつ送ってくれた警察官の顔をバッグミラー越しに見つめる。

 

「こっちこそ助かったよ。時間をかけずに済んだからね。もしかしたら表彰されるかもね」

「いりませんよ、そんなもの」

「こればっかりはキミの意思は関係ないからね。上の決定で進んでくから」

 

 それじゃ。

 降りた俺に別れを告げて、半分夜に溶け込んだ車が赤いライトを照らしながら団地を走り去った。

 また、ということにならないようにしたいな。

 そう思いながら俺は帰宅する。

 集合住宅の階段前にある郵便受けがずらっと並んだ中にある自分の自宅の番号のものの前に立つ。日課の確認で、いつもは何も入っていないのだが、今日は封筒が入っていた。

 とても見慣れた封筒だった。病気になった人の肌のように青白い封筒の中にはいつものように手紙が入っているに違いない。

 

「いつもいつも。こんな暇があるならちゃんと面倒見ろってんだ」

 

 ここで引き裂いてしまっても良かったが流石に人の目がある。

 封筒をぐちゃぐちゃに丸めてポケットに突っ込んだ俺は、自宅まで無言で階段を登っていった。

 

 アクシデントはあったが、概ね良い1日だった。

 

 マヒルとも話せたし、理世とはデザート食ったし。あっくんさんもマヒルが見た通りのいい人だったし、桔梗セリは例に漏れず変な人だし。面白い1日だった。

 ハツカも今日の血を喜んでくれたらいいな。

 そう思いながら、帰ってきた自宅の玄関の鍵を開けてドアノブに手をかけた。




 すまん。セリちゃん。


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第七十一夜「虎の尾」

 最終巻の表紙が発表されましたね!
 雪の中のナズナちゃんかわいい! ちょっと嬉し泣きしそうになって頬が赤い顔がいい! そして、47日の正体はフジテレビの24年度放送アニメ発表会らしいですね!やはり2期か?


 帰宅すると、出迎えたのはいつもの静寂。シン……と部屋から全ての空気を抜き去ったかのように何も伝わってこない。

 夜になってもハツカが起きていないことに不安を覚える。ハツカが騒ぐタイプではないのは知っているが、夜はアイツのテリトリー。テレビやタブレットから聞こえる纏りのない煩雑な声や、僕の日記を捲る紙擦れ音すら聞こえないのは少々怖い。

 

「ただいま……」

 

 ドアの開閉音で容易くかき消されるほどの小さな声で帰りを告げる。居間に入るが誰もいない。その先にあるダイニングにもハツカの姿はなかった。

 まだ寝ているのだろうか。

 荷物をしまい、雨戸を開けてから寝室に向かう。

 

 なるべく音を立てないように襖を動かして、中を覗けば………いた。

 

 ベッドの上で、ハツカは眠っていた。

 驚くほど無防備な寝姿を晒した彼は、掛け布団すら羽織っていなかった。だから、小さな寝息が聞こえるたびにハツカの胸がゆっくりと上下しているのが見えた。脱力した左腕がベッドからはみ出して床に向かってだらりと垂れている。

 枕元にタブレットが置かれてる様子から、何か観るなり読むなりしたいるうちに寝落ちしてしまったようだ。

 

「綺麗だな……ホントコイツ……」

 

 優しい寝顔をしているハツカは見惚れてしまうほど綺麗だ。

 足音を立てずに近づいて彼のそばに近寄る。掛け布団で彼の身体を覆って寒さを防いだあと、ハツカの顔をもう一度見る。

 手がズボンのポケットへと動いた。

 取り出したスマホの写真アプリを開くと、フラッシュとシャッター音をオフにしてハツカの顔をレンズで捉える。

 一枚、二枚……角度などを変えたり、頬や鼻を指で触ったりして何枚かハツカの寝顔を写真に収める。

 

「綺麗だ」

 

 寝顔って無防備な分、表情を作らないから綺麗に見せることはできない。その上で美しく思えるのは、基から顔のいい彼だからこそ。生態は鬼だが、顔つきや優しさは真逆に思える。

 赤鬼と青鬼のように優しい童話があるし、一概に鬼が悪と断じることは間違いなのだけれども。

 

「待って。寝込みで写真を撮るのは……変態じゃないか?」

 

 黙り込む。

 黙り込んで数秒だけ考えるが、指を舐めさせたりしたことを思い出し、今更だったと反省する。

 その時の写真をスマホに表示する。

 一心不乱に指から血を吸うハツカの姿は、背徳的で僕の背中をざわざわと揺さぶる。ただ咥えるだけじゃなくて、唇から舌がはみ出しているのも犬が骨をしゃぶっているみたいで愛らしい。

 

–––この唇に触れたんだよな……。

 

 しかも、蕩けた顔してカッコいい時、ホントカッコいいからな……。ダメだ。頭がバカになってる。

 カッコ良さも相まって嗜虐心というものを俺は改めて理解する。

 男とか女とか関係なく––––心の片隅をくすぐられる。

 

「横髪とか刈り上げたりしてるし、男っぽさも十分あるんだよな……」

「うっ……んん……」

「あ」

 

 手入れされた髪だと刈り上げても柔らかく、程よいちくちく感を堪能できてしまう。躊躇わず触っているとハツカが声を漏らしたので、手を引っ込めた。

 合わせて、近づけていた顔も離す。

 そのタイミングでハツカの瞼がゆっくりと開き、三回ほど瞬きを繰り返してから完全に目を覚ました。

 

「またキスしようとしたの?」

「第一声がそれなのやばいよ」

「でも、したかったでしょ?」

「……してないです」

 

 想像はしたけれど。

 ニヤッと微笑みながら起き上がった彼はあくびをしたあと、言った。

 

「おかえり」

 

 僕は目を逸らして、一瞬笑ってから

 

「ただいま」

 

 もう一度、1夜限りの同居人にそう告げた。

 

 

 

 

 寝室の雨戸を開けると彼は言う。

 

「喫茶店でワッフル買ってきたけど食べる?」

「食べる」

「ドリンクは?」

「キミの血」

「注げと!?」

 

 手首を抑えながらショウくんは「えー、えー」とぼやきながら首を捻って、コップに自分の血を淹れる姿を思い浮かべていた。冗談に決まっているのだが、彼は時々純粋にバカな方向へ頭が舵を切る。

 それだけ蘿蔔ハツカ()の前で気を緩めている証拠であり、良いことだ。

 素直な反応を返されると駄犬感があって首をつけたくなる。

 メイド服を着せて、首輪をつけて、僕の眷属としてずっと––––

 

「今日はメイド服、着てくれないの?」

「1着しかないからな。それだって乾かしてるし」

「あったら着てくれるんだ」

「言葉の綾だと気づけ、馬鹿」

 

 口を尖られせてぷいっとそっぽを向くが、強く否定するのはメイド姿で僕に奉仕する姿を想像したからに他ならない。

 その恥じらいは大事だ。

 羞恥心が無くなるのは、僕の眷属になってからが望ましい。環境的な理由がない状況で女装を躊躇ってしまうのは一般的な男の感性であり、今までの自分とのギャップで恥じらうのが僕の心をくすぐる。

 

「ほら、食うならあっちに来いよ」

「はーい」

 

 なにやらズボンのポケットから丸めたゴミを取り出して屑籠の中に放り捨てる。そのまま襖を開ける。

 

「俺の分作った後に温め直すからテーブルで待っててくれ」

「分かった」

 

 ベッドから抜け出して、彼と共にダイニングへ向かう。

 たっぷりと寝たから冴える頭がよく回る。朝では飲むのを躊躇った血も半吸血鬼状態でなければ問題ないし、過ぎ去った事である以上下手に触らず傷を埋め、癒す薬として僕と過ごしゆっくりと籠絡させる。

 澄み切った思考が明確な指針を打ちだし、道を示してくれた。

 

「……」

 

 ジッと彼を観察する。

 制服姿のままエプロンを羽織ったショウくんがフライパンなどの道具を取り出し始める。朝にも思ったが、流れるように手慣れた動作だ。どこにどの道具が置いてあるかキチンと覚えている。

 完全に主夫の姿だった。

 

「あのさ」

 

 ショウくんがふりかえって口を動かす。

 

「なに?」

「そんなにメイド服、着て欲しいのかよ」

「分かる?」

「だってお前、欲望に忠実な時ほど眼が猫みたいだし」

「僕のそんな眼してるの!?」

「鏡に映るなら直接見せてやりたいぐらいだ」

 

 澄み切った思考の中には当然の如く私欲が混ざっていた。

 テーブルに腰をかけたあと、自分の猫のような眼を想像する。

 目尻が上向きで夜中を徘徊する猫のように黒目が大きく、眉が細長くシャープでカッコいい猫のような眼––––あれ、

 

「それいつもの僕の眼じゃない?」

「自惚れるなよ。さっきのお前はもっとニヤニヤといじらしい目をしてた。悪魔の耳でもつけるのがちょうどいい」

「小悪魔ちゃんってこと?」

「なんでそんなに着て欲しいんだよ」

 

 当然のように流されてしまった。

 代わりに問いかけが返ってきた。ショウくんは冷蔵庫の中に顔を入れている。ワッフルを中にしまったとしても探すには時間がかかり過ぎているので、恐らく顔を見られたくないから突っ込んでいるのだろう。

 理由がどうであれ恥ずかしがるのだから、隠したって意味ないのに可愛い奴だな。

 

「だってメイドとして仕えれ続ければ、僕以外にキミの視界に入るものはいなくなるだろ?」

 

 僕の言葉に彼の身体が僅かに跳ねた。頭隠して尻隠さずとはよく言ったもので、どれだけ隠そうとしても本心は漏れてしまう。

 メイドになって僕のモノになるということは、昨晩のように椅子にされたり苦渋を飲んで僕に好き勝手されることを意味する。ペットとしての素質が元々あった上に、ガッツリ支配されることを楽しめるよう刷り込んだのだ。

 

「それだけはダメだ。絶対にならない!」

 

 夜なのを無視して吠えるショウくんだが、僕には全く届かない。

 現にショウくんの左手が自分の背中に伸びて、僕が座っていた場所をさすっているからだ。あの時の感触を確かめるように手がゆっくりと動いている。

 ニヤつきが収まらない。

 

「なんで? 昨日あんなに僕の尻の感触を楽しんでたのに。あ、また椅子になれって命令されたくてツンケンしてるんだ」

「ちっがう!! 黙れ能天気!」

「だったらなんで背中を触ってるの?」

「……? っ!?」

 

 無意識にやっていたらしい。

 自分の欲求に驚愕したショウくんは反射的に飛び跳ねて、後頭部を冷蔵庫の棚にぶつける。

『ぐぎゅぅー』と情けない声を漏らして、膝から崩れ落ちた。

 なんとも不甲斐ない。なんとも愛らしい。

 ショウくんは冷蔵庫から顔を出すと、ケーキボックスをキッチンのワークトップに置くと恨めしそうに僕を見つめる。

 

「ドMだって明言してたくせに今更恥ずかしがってるの〜?」

「ッ! 恥ずかしがってなんて」

「あっ、そっかあ。自分から言っておくことで本当に落ちた時の言い訳に使うつもりだったのか」

「は!? 違えし、俺はハツカに弄られるのを楽しんでいて」

 

(バカみたいな話だな……)

 

 傷口に塩をぬる会話をしているけれど、特に不快感を露わにしていない。負けん気と羞恥心を原動力にして僕の話に付き合っている。

 仕草も表情も全て観察して結論づけたわけだが、内に秘めている感情のことを考えると早計に過ぎる。

 アレだけの過去があって傷に触れる行為をすれば、隠すことのできないレベルの忌避感が出る。あの他人を突き放す衝動が現れる。危険を告げるサイン。

 このサインを目安にしてはいけない。

 最低ラインだと弁えておかなければ。

 

「ホント、ハツカは僕を弄ぶの好きだよね」

 

 ショウくんが愚痴を溢すので、一瞬で気を張ってしまう。声の張りがなく、くぐもった低い声で言うものだからラインを見誤ってしまったかと冷や汗が背中を流れる。

 一度こちらに目線を向けたあと、すぐに床に落とす。

 

「……嫌だった?」

「嫌か、はまぁ……好んでしようとは思わないよ。けど、久利原たちだって楽しそうにしてるし、楽しみが増えることは悪くないから。それに–––」

 

 前髪で瞳が隠れて表情からはなにも窺えない。

 しかし、次第に晴れていく声に安心し始める自分がいる。

 

「ハツカは他の奴らとは違って、ちゃんと僕の大事な一線を守ってくれる。そう思いたいから」

 

 言い切った彼は、恥ずかしさなどまるでない純粋な幼子の笑みを浮かべている。

 燦々と人を照らす太陽を想起させる笑みを向けられると、その少年の一喜一憂を肴に楽しんでいた僕が小さく思えてしまう。じんわりと脂汗が背中で滲む。

 一旦、雲に隠れてくれと言ってやりたい。

 手を当てられないほど顔が熱くなって、頬を細々と爪で掻くことしかできなかった。

 

「どうしたの? 恥ずかしがってる?」

「キミじゃあるまいし。ほら、こっち来て」

 

 僕が手招きすれば、ショウくんは警戒することなく近寄りだした。目の前まで来たので、今度は背を低くするように促す。

 

「膝立ちになって」

「え?」

「ほら」

 

 ここまで来たら察してもいいが、鈍い彼は何をされるのか全く気付かない。

 ちょうど頭のてっぺんが目線の下に来た。

 頭の中央で渦を巻くつむじがはっきりと見える。つむじを覆うようにして彼の頭に手を置くと、軽くショウくんの体の力が抜けた。

 滑らかな髪の毛の流れに従って撫でていく。頭部のツボなどを意識しながら指や手のひらに力を伝えていくと、だらしない声が漏れる。

 

「ふにゅー……」

「ふふっ」

 

 間違いなくショウくんの声なのだが、余りにも緩み切った放心の息だったので思わず笑みが溢れてしまう。顔を覗いてみると、目を細めて気持ちよさそうだ。

 気持ちいいのは彼だけではない。

 猫や犬を撫でていると、人間も気持ちよくなる。愛情ホルモンであるオキシトシンが分泌されるのが理由らしいが、今の僕も同じことが起きている。

 まるで小動物、あるいは自分の子供に癒されているようだ。

 子供なんて作ったことないけど。いや、人間的な意味でね? 眷属は三人いるし。

 

「どう? 気持ちいい?」

「うん……気持ちいい……」

 

 頭が撫でられてこそばゆくなったのか、身体をくねらせる。ムズムズという擬音が彼の周りを漂っているみたいだ。

 一動作すべてが小動物じみていて、愛着がどんどん湧く。

 癒された流れで僕は言う。

 

「嫌な事があったら、ちゃんと嫌って言ってね。僕も知らず知らずのうちに虎の尾を踏んじゃうかもしれないしさ」

「吸血鬼だったら全部見破ってよ」

「吸血鬼はエスパーじゃないんだよ。血を飲まなきゃ相手の心は分からないんだから」

「十分超能力なんだよな……でも、分かった」

 

 そう言って、ショウくんは床に膝を擦りながら僕へと這い寄ってくる。背中に手を回してきて、顔は僕の下腹部に埋める様は側から見れば、事案にしか思えない。

 背中に手のひらが這って、思わず笑い声が溢れそうになる。

 彼の頭を撫でて、平静を保つ。愛らしいものは精神安定剤だ。

 今まで以上に気を許してくれたのだと、すぐに分かった。

 

「ハツカも気持ちよさそう」

「僕? そうだね。やっぱり可愛いものを撫でると癒されるよね」

「お前にとって僕はペット扱いなんだね」

 

 ショウくんは不愉快だと言わんばかりに口を尖らせる。

 最低限、人間の立ち位置で扱われたいようだ。当然の感覚だろう。僕としては幼子の感覚で扱っていたのだが、どうして間違われるんだろう。

 確かに首輪をつけてあげたいと思うが、あくまで僕の目の届く範囲にずっといて、今みたいに傷つくことなく癒し癒されの関係になりたいだけなのに。

 もちろん眷属としてね。

 

「ペットが嫌なら僕を落としてみなよ。それが僕らのゲームだろ?」

 

 言い返せなくなったショウくんは暫く黙ったあと、「分かった」と呟く。埋めていた顔を軽く上げて、細めた眼が僕を射抜いた。口許は不敵に笑ってる。

 

「だったら今日は僕の勝ちだね」

「なんで?」

「だってハツカ、思いっきり照れ隠しじゃん。証拠にほら、汗ダラダラ」

 

 背中に回していた手を戻して、掌を僕に向けてくる。

 見てみれば数滴、雫が付着している。それは間違いなく僕の汗だったので、また顔が赤くなってしまう。

 

「室温は寒いくらいなのにどうして汗かいてるの? 汗っかきではなかったよね? やっぱりさっき褒められて照れたんじゃないの?」

「……」

「ねえ?」

 

 落とす標的に照れさせられたことで、僕は強い敗北感を覚える。

 

「ねえ、言って。僕に褒められて照れちゃったって」

「……い、嫌だ」

「じゃあ、血、抜きね」

「なっ–––!?」

 

 大きく反応したのは悪手だった。

 毎日飲みたいほどに美味しい血なのは大手を振って認めるが、だからと言って毎日飲まなくても僕らは生きていける。だというのに反応してしまったから、取り上げられたくないと思われてしまった。もう後戻りはできない。

 ニヤニヤと楽しんでいる彼は絶対に血を飲ませないだろう。

 僕が言わない限り、ずっと躱し続ける。彼にとって血を飲まれるのはあくまでゲームの一環でしかないのだから。

 それだけはダメだ。

 

「どうする?」

「……くぅ……」

 

 観念して項垂れた僕は物憂げに口を開く。

 

「て、照れました」

「WhoとWhyをつけなさい」

「……僕はショウくんに褒められて照れました」

「録音完了」

 

 言い切った僕に、にまぁと笑うショウくんの手にはスマホが握られていた。それが目に入った瞬間、全身の気という気が頬に集まって赤くなり、抑えが効かない猛りを解き放つ。

 

「キミィィーーー!!」

「あはははっ!! はははーーー!!」

 

 笑い声をあげながらショウくんがスマホと一緒に宙を舞った。

 

 

 

 

「たく……良い加減、化かすのやめてよ」

 

 結果として、ショウくんは録音はしていなかった。ただ僕にスマホを見せて誤解させただけなのだ。

 はやとちりして、声を荒げた僕を観てずっと楽しそうにしていた。自分が笑いながら、指で作った狐も笑わせている姿を見れば、心底愉快だったとすぐに理解できる。

 この子がドッキリ好きなのを忘れないように心に刻んでおこう。

 

「ごめんね。モジモジと恥じらうハツカは珍しいから」

「珍しいからやられちゃ、こっちの身が保たないんだけど?」

「可愛いからってメイド服を着させられるこっちの心も保たないんだけど?」

「ぐぅっ!」

 

 ショウくんは箸を動かして、冷しゃぶを取りながらそう言った。

 僕の心に一直線に飛んできた矢が勢いよく突き刺さる。ぐうの音も出なかった。僕とショウくんはどこかしら考え方が似ているのかもしれない。

 

「メイド服を着て欲しいなら、あと二着は持ってきてよね。じゃないとサイクルを作れないからさ」

「制服が1着だけじゃ流石に無理か。それより着てくれるんだ」

「ハツカと二人きりなら良いって言ったしね。それはまた今度ということで、食べよ」

 

 僕らの目の前にはいくつか皿が並んでいる。

 見下ろせば1番そばにあるのは、ショウくんが買ってきてくれた大きめのワッフルだ。それぞれ買ってきたらしい。そばには白い湯気をふんわりと立ち昇らせているコーヒー。

 ワッフルはオーブンで温め直したばっかりなので、香ばしい生地の香りが漂ってくる。その上には真っ白で、眼と鼻に濃厚だと訴えかけてくるバニラジェラートが乗っている。

 僕はワッフルの熱で微かに溶け出したジェラートを、切り分けたワッフルの上に乗せて口の運ぶ。ジェラートの濃厚なミルクの香りと、ワッフルのバターのいい香りが口の中で広がっていく。噛んだワッフル生地は、上側がしっとりとバニラの味も含んでいて、下側はサクッと歯応えのある感触。一度に二度美味しい。

 

「おいしいね、このワッフルとジェラート」

「それはよかった」

「どこの店?」

「近くのショッピングセンターにある店。夜遅くまでやってるみたいだし、今度は直接行ってみたら? ハツカの友達の桔梗セリとあっくんさんも来てたし」

「セリちゃんが行く店か。なら安心かも。今度一緒に行こうか。焼きたても食べたいし、他の味も見てみたい」

 

 美味しいから、僕はゆっくりと食べる。

 食の進みが緩やかなのは目の前で夕食を取っているショウくんのスピードに合わせているからでもある。

 ショウくんの前には、白米、冷しゃぶ、お吸い物、朝作った和物が置かれている。彩りも落ち着いていて質素にも見えるが、十分楽しめる食事だ。

 それでも、僕の方が早く食べ終わってしまう。

 速度を合わせるようにコーヒーカップを手に取った。

 

「ひとつ、聞きたいんだけどさ」

「なに?」

「桔梗セリってさ、ドM?」

「ぶ、え? ドM?」

 

 予想外の発言に口に含んだコーヒーが吹き出しそうになる。慌てて手で放出を防いで、ショウくんに訝しんだ表情を向ける。

 僕の顔から心の内を読み取った彼は相槌を打つ。

 

「違うんだな」

「うん。そんな話聞いたことないし。あっくんならまだ分かるけど……それに吸血鬼で被虐趣味を持ってる人はごく僅かだよ?」

「人間でもそうだが。でも、久利原達だっているだろ?」

「あの子達はずっと僕の眷属だからね。ずっと親にべったりな眷属は珍しいんだよ。普通の吸血鬼は、人間の頃の記憶を失っていくにつれて親離れしていくから、そんな癖は自ずと捨てて逆に狩る側に回ってくよ」

「じゃないと子を作れないからか?」

「それもある。けど、吸血鬼の(さが)かな。人間関係、こと恋愛においては自分の思惑通りに進めたくて、相手の上に立とうとすることが多いから。僕らにとっては生き様で勝負事みたいなものだし」

「ゲームね」

 

 落ち着くためにもう一度コーヒーを啜る。コクのあるハッキリとした味わいが甘いワッフルと相性がいい。バターの香りとは違う香ばしさが鼻腔をくすぐると、自然と身体が暖かく、心は鎮まっていく。

 

「ところで、セリちゃんはどんなことを?」

「言わない」

「えー……誰にも言わないからさ!」

「だめ。人に漏らすことじゃない」

 

 ショウくんはため息をつきながら「理世を問い詰めてみるか……」と溢すと。箸で塩昆布と和えたミニトマトを取ると、口の中でぶっつんと潰した。

 

「そうだ。枕元にタブレットが置かれていたけど、なに見てたの?」

「ジオウを見てたよ」

「なぜビルドをやめたの……?」

「小説も読んだしせっかくならね」

「ビルド走り切ってからの方がいいよ。ジオウとビルドの映画もあるし」

「なら、そっちの方がいいか」

 

 本当はキミの心の支えを知りたいんだよ。

 そう言えたらいいのだが、僕はショウくんの過去を知っていないはずなので出まかせを吐いた。

 

「そういえばさ、ジオウの話の中で主人公も改変する時あるじゃん? 余命僅かな少年を助けられる医師を父親に紹介したりさ。でも、事故で亡くなった女性は助けなかったりする。あれは単純にまだ助けられる人ともう亡くなってる人の違いでいいよね」

「うん。というより、当事者に選択の余地があるかないかだね。父親は本来、ちゃんと医師を探せば息子を助けられたのに、敵に騙されて時間を浪費した結果息子が助からなくなった。選択の機会を奪われたから改変された時間を元に戻した上で、より良い結果になるよう主人公は助言した。

 事故は理不尽だけど相手を罰して受け入れるしかない」

「だから、代わりに時間を取り戻して前に進ませようって話だもんね」

「その後が描かれてないからなんとも言えないけどね。あと、下手に交通事故で亡くなった人を助けると『他の人はどうなんだ』ってやっかみつけられるし」

 

 ショウくんは冷しゃぶをレタスに包んで、ポン酢に二回潜らせると口の中に頬張った。シャキシャキとレタスの葉音がこちらまでやってきて、気味の良い音が耳朶を打つ。

 こちらの目線に気づいたショウくんが嬉しそうにしながら「最後の食べる?」と訊ねてきたので、僕は肯首した。

 豚の冷しゃぶを一枚、レタスに包む。

 

「ポン酢はつける?」

「お願い」

「食べさせてあげようか?」

「食べさせて」

「分かった」

 

 ポン酢を入れた小皿も持って、こちらにまで回り込んでくる。

 そして一度冷しゃぶにポン酢をつけると、「はい、ハツカ様」と開いた僕の口の中へ箸を入れる。唾液を引きながら箸だけが、するりと口から脱出する。

 この子、もう躊躇いなくハツカ様と呼ぶようになったな。あとは常習化するだけだ。

 噛めばレタスのシャキッとした歯応えを楽しみ、その中にある豚肉はしっとり柔らかく、ポン酢もよく絡んでいて食べ応えがあった。

 最後の一枚なのが心苦しい。

 飲み込んで喉が動くと、ショウくんは微笑んで言う。

 

「それでは最後にメインディッシュを」

 

 絆創膏が貼られた首筋とは、逆の方を僕に差し出した。

 

「良いのかい? 歯を磨いてないけれど」

「歯を磨くのは食事の後でしょう。ハツカ様が餌の心配なんてする必要はないんですよ」

「良い心がけだね。それじゃあ、おねだりして」

「おねだっ……」

 

 突然振られた話に戸惑いながら、嫌だと言わないのは彼には僕の餌だという自覚が強いからに他ならない。

 どうなだるか迷っていると、ショウくんは一瞬、僕の唇に見惚れた。それと同時に何を言うか決まったようだ。

 

「愛玩用の僕の血で、ハツカ様の嫋やかな唇を汚させてください」

 

 小動物と見間違えそうになる潤んだ瞳がこちらを覗く。

 僕は喜色満面に溢れた顔になりながら、肩と胴を掴んだ。口をあんぐりと開く。舌を這わせて首筋を濡らせば、彼の身体が細かく痙攣するのが伝わってくる。昂りが大きいほど血の味は美味しくなる。

 痙攣が最大限、大きくなるまで舐めると、気持ちよさを噛み殺すようにしてショウくんが言う。

 

「は、はしたないですよ……ハツカ様……」

「卑しいのが好きなんだろ?」

「……」

「どっちなの?」

「……はい」

「大好きでしょ」

「大好きです」

 

 いやらしい笑みが抑えられなくなって、僕は遂に牙を突き立てる。

 

「いただきます」

 

 

 

 

 

 

 

ピンポーン

 

 

 

 

 

「「え」」

 

 想定外の異音に口が止まった。昂っていた情念が冷え出した。

 呼びベルが鳴ったようだが、このタイミングでやってくるなんて空気が読めないにも程がある。神様がこれを仕組んだのなら殴ってやりたいぐらいだ。

 

「誰か来る予定あったの?」

「いいや、全く。誰だろ?」

 

 ショウくんが玄関に向かっていく。お預けを食らって僕の喉が悶々としている僕も、気を紛らわせる為に立ち上がると一緒に歩く。

 彼も残火に身体を熱らせて、首筋を手で拭うと僕のねっとりとした唾液をまじまじと見つめている。

 制服のズボンのポケットに入っていたハンカチで唾液を拭き取る。どこか名残惜しそうにしているのは僕としては高得点の機微だ。

 玄関までやったきて、ショウくんが覗き穴から外を見る。

 

「誰だ。……」

 

 赤くなっていた顔が落ち着いて白くなり、次第に病的なまでに青白くなっていく。

 どうしたのか気になって仕方がない。

 

「誰がいたの?」

 

 そう問い掛ければ、彼は声を震わせながら言った。

 

「なんで、仁湖(ニコ)さんがここにいるんだ……?」

 

 僕の声は届いていなかった。




 キングオージャー最終回良かったですね!
 超絶怒涛究極完全体キングオージャーもopバッグでの超合体でカッコよかったし、ロボ戦等身大戦それぞれのフィニッシュも美しかった! それに『二次創作などみんなの中で物語を紡いでいってね』エンドなのに、早速宇蟲王ギラやりだすし、二次殺しの痒いところまで手が届く公式さまだぜ…。
 あまり語りすぎると見てない人のネタバレになるのでここまでとして……
 Vシネ、なんでハルカ&ヒメノvsリタ&ソノザの構図になってるんです?
 


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第七十二夜 アクシデント

 突然の来客に驚きながら玄関の前に立つ。自分の背より少し高いドアアイまで背伸びして左眼をすりつければ、扉の先の光りが瞳に届いて像を作り始める。

 

「誰だ?」

 

 覗き込んだ先にいるのは誰だろうか––––こんな夜中に、ましてや吼月ショウ()の家にやってくる人物なんて誰もいないはずだ。

 訝しんで、目を更に細めると朧げだった像がハッキリした。

 1番最初に眼に入ったのは髪だった。

 ふんわりとした丸みのある髪上部から流れる黒髪は鎖骨あたりまで伸びている。ウルフカットと呼ばれるものだ。ハツカが持っていた本で読んだことがあったから知っている。

 その髪の持ち主は誰かが問題なわけだが、それは思ってみなかった人物だった。

 

仁湖(ニコ)さん?」

 

 一眼では気づかなかった。

 園田仁湖–––以前、相談に乗った同級生の都雉の親からの頼みで、上司からのパワハラを録音するために近づいた相手。想像以上に今に苦しんでいた相手。

 精神的に相当参っていた仁湖さんとは一夜を共に過ごしたことがある。

 会社のブラック体質も神崎が正常化させていると、耳に届いていたが違ったのか?

 もしかして、クソ上司に逆恨みされて嫌がらせでも受けたのか?

 それとも、あの出来事がキッカケで会社から腫れ物扱いされているのか?

 自分がやったことは事態を悪化させただけのか?

 だから僕を探し当てて仕返しにきた?

 彼女がここに来れた理由も、訪れた理由も真っ当なものが全くもって思い浮かばない。

 身体が冷える。この空間が極寒の氷の内部に早変わりして、どんどん身体から熱を奪っていくのが分かった。

 怖い。

 

「なんで、園田さんがここにいるんだ……?」

 

 どれだけ考えても訳なんて知る由はない。

 ただどうやってここを嗅ぎつけたかは想像できた。あくまで本当に上手くいっており、春樹さんが嘘をついていないなら、可能性はひとつだけだ。

 それは今の僕らにとって最悪の事態だった。

 

「ハツカ来て」

「え、ちょっと」

 

 事態が飲み込めていないハツカの手を引いて–––彼の靴をビニールに詰め込みながら–––自室に急ぐ。

 

「すみませーん! もう少し待ってください!!」

 

 玄関の先にいる仁湖さんに声をかけながら、バタバタと走る。ハツカが抵抗しなかったのですんなりと寝室に辿り着くと、僕は勉強机の棚から日記帳を取り出す。

 そして、自室にある物置になっている押し入れの襖を開いて、そこにハツカを押し込んだ。

 

「え、あの、ショウくん!?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。少しの間、僕が戻ってくるまでここに隠れてて。危ないって思ったらすぐに逃げてくれていいから」

「危ないってどういう」

「この日記帳もってて。でも読まないで」

「え、うん。分かった」

 

 ハツカと会話する余裕なんてない。鼻風邪を引いたような上擦った声で頼むと、ハツカは察してくれたのか頷くと、靴と日記帳を抱えて押入れの中に隠れてくれた。

 自室の明かりを消した。

 その後俺はすぐに食器や服など、ハツカがいるとバレないよう痕跡を残さず片付けると玄関へと戻った。

 いつもより大きく見える扉の前で、大きく息を吸う。肺に空気を通して、脳へと酸素を回す。思考を取り戻し、理性をもう一度確立させていく。腕時計のスイッチを押して首筋の傷を癒やして、絆創膏を引っ剥がした。

 身体の熱が戻り、笑顔を作り直すと、酸素が全身の隅々まで行き渡ったと理解して俺はドアノブに手を伸ばした。

 

「あ」

 

 俺が出てくると、焦れた顔を花咲くような笑顔に変えて仁湖さんは俺と対峙した。彼女は仕事終わりのようでベージュカラーのパンツスタイルスーツを着ていた。

 

「こんばんは、鬼さん」

「やっぱり、仁湖さんですよね」

「うん。夜分遅くにごめんなさい」

「いえいえ。仁湖さん()構いませんよ」

 

 頭を下げてくる仁湖さんに慌てて顔を上げさせる。

 ぺこりとお辞儀したことで見上げていた彼女の顔が俺の眼前にやってくる。以前会った時と同じく草臥れた様子ではあるものの、血色はかなり良くなっていて健康そのもの。

 ふわりと髪の毛が揺れると、落ち着きのあるバニラのような甘い香りと花のような優しい香りが調和しながら漂った。この香りは以前はなかったものだ。

 総じて以前よりゆとりが出来たと見て取れた。

 

「どうぞ、家の中に入ってください。お茶ぐらいしか出せませんけど」

「いいの、お礼に来ただけだし。それにせっかくなら夜の街を散歩しながら話さない?」

「良いですね。夜、好きになったんですか?」

「お陰様で」

 

 憑き物が落ちた彼女の口は軽やかで、仕返しや文句を言いに来たわけではなさそうだ。悪くないと思った。仁湖さんの笑顔もそうだが、夜風に当たるのは自分のささくれ立った心境を落ち着かせるには適してる。

 俺はドアを鍵を閉めると、仁湖さんの手を繋いで引っ張っていく。

 

「なら、行きましょうか。お嬢さん」

 

 あの時の男性とも女性とも言えない、不性別な声に変えて仁湖さんを呼ぶと、彼女は嬉しそうに「うん」と俺の手に従った。

 15分だ。それまでに帰ってこよう。

 

 

 

 

 押入れに隠れていると、ガチャンとドアが閉まる音がした。ショウくんは外へ行ったのだろうか。

 一度出て、様子を見にいく事も考えたが、頭の中で彼の顔が–––今にも泣き出しそうな酷く歪んだ顔が、蘿蔔ハツカ()の身体を縛り付けて動かさない。

 怯えきった彼の眼は焦点を定めることなく、部屋の中を忙しなく泳いでいた。

 何があると言うんだ。

 園田という女はそんなにも暴君なのだろうか。彼女に接触した一晩のうちに、怯えなければいけない程の暴力を振るわれてしまったと考えるのが自然だ。

 いや、違う。

 そんな理不尽に傷つけてくる相手のことを彼が名前で呼ぶはずがない。

 そうなれば誰に怯える?

 答えはひとつだけ思い浮かんだ。

 父親だ。もし、園田さんの件で神崎と一緒に父親が絡んでいるなら、彼女に家の場所を教える流れで現れても不思議じゃない。

 

…………カチ

 

 思考を整理し、明瞭な意識の中に小さな音が耳に飛び込んできた。

 もう戻ってきたのかと思ったが、ズカズカと粗暴な足音がショウくんではないと証明していた。足音が近づくたびに近くの部屋から何かを探す物音がした。あまり物がないため、聞こえてくるのは扉を開ける音や椅子を引く音。それと食器などの陶器が触れ合う音が響いた。

 盗人だろうか。

 仮に空き巣ならば、ショウくんが持ってるもの以外の貴重品はこの部屋にあるだろうから、ここでポケットに入れた瞬間とっ捕まえてやろう。

 そう思って僕は、不自然に思われないように、先んじて視界を確保しようとひっそりと襖を開けた。

 数秒後、自室の入り口の襖の擦れる音がした。

 明かりがついて、侵入者が部屋の中へと入ったきた。僕が確保した視界の中へと脚を踏み入れた相手の顔を見ようと目線を上げる。

(……は?)と溢しそうになる口を両手で急いで塞いで、声を鎮める。

 顔をあげる途中で不自然なものが目に映ったからだ。

 恐る恐る相手を見る。現れたのは、僕が先ほど怯える相手として思い浮かんだ相手とは真逆の人間だった。

 

「吼月くん……大丈夫かな……」

 

 現れたのは神崎和也だ。

 その手には––––銃が握られていた。

 鈍く、冷たく光るソレを見た瞬間、僕の首周りがキュッと締め付けられる感覚に襲われる。

 

 大丈夫かな、はお前だよ。

 

 

 

 

「仕事帰りですか?」

「うん。今日はちょっと残業あったけど、すぐ終わったし」

「今が20時ですから、19時ぐらいまでやってたんですか?」

「そんなところ」

「多くないです?」

「これでも全然マシな方よ」

「闇が深い……」

 

 会社の闇を聞きながら、その暗黒に勝るとも劣らない夜の闇に目を向ける。その闇を裂いて光を届ける月の下を仁湖さんと歩いていく。

 時折、車道をブゥーンとエンジン音を引っ提げて通り過ぎていくヘッドライトの明かりが仁湖さんの顔をハッキリと映す。その度に彼女の表情を窺う。突然手を引いて、あの場を強引に離れてしまったが不快ではなかっただろうか。

 下手なことがあると、仁湖さんの身に何が起こる分からない。

 ハツカだけなら、隠せる場所もあったし聡明な彼の事だから見つかるヘマはしないだろう。それに非常事態が起きてもすり抜けなどで脱出だって出来る。

 しかし、大丈夫と決断できたのは、あくまで【吸血鬼であるハツカ】だからだ。人間である仁湖さんがアイツに巻き込まれれば、取り返しのつかないことになる。

 俺は確かめるように仁湖さんに尋ねる。

 

「どうやって俺の家を知ったんですか?」

「えっとね。あの弁護士の人に教えてもらったの。神崎ってテレビでよく見る」

「ああ–––」

 

–––やっぱり、あの野郎。

 

 心の中で毒づきながら、俺は視線を真っ直ぐ前に向け直す。

 

「それで……えっとぉ……」

「吼月。吼月ショウですよ。ま、鬼さんでも好きな方で呼んでくれればいいです」

「なら、ショウくん」

「はい。なんでしょう」

 

 仁湖さんの歩速が早まって、俺の隣に着いた。そのタイミングで俺から手を離すと、頭上から楽しげに弾む声が降りかける。

 

「この間はありがとう。お陰でだいぶ気が楽になったよ」

「会社の方はどうです? 上司から逆恨みとかされてませんか?」

「あのばか……パワハラ上司は飛ばされたよ。下手に辞めさせるとかえって何をしでかすか分からないから、遠い部署に置いておくことにしたって。それに残業時間も減って、なのに給料が上がるという万々歳な状況なの」

「アイツら、最低賃金も払ってなかったのか」

「それもだけど、残業手当出てなかったんだよね。サービス残業ってやつ? 神崎さんたちから指摘されて初めて気づいたの。それだけ仕事に忙殺されてたんでしょうね……」

 

 明細表を見る暇すらなかったのだろう。光景を想像するだけで嫌気が差してくるが、これが良くある話だと言うのだから俺たちにとっては悲しい現実だ。

 肩をすくめていると、仁湖さんが俺の前に躍り出る。声と同じ喜びが弾けるような笑顔を湛えながら僕に言う。

 

「本当に感謝してるの。ショウくんのおかげ。私の命の恩人」

「俺も嬉しいです。貴女が幸せそうで」

 

 自分の中に生まれた二つの感情。そのうちの片方を胸の奥へと仕舞い込む。

 感謝されながら、俺が感じているのはいつも通り嬉しさ半分困惑半分の曖昧なモノだった。気分が悪いわけではない。むしろ良いぐらいだ。

 仁湖さんが今も笑って暮らしていると思うと、心の底から嬉しくなる。けど、本当に感謝されるべきは摘発に動いた労基や弁護士事務所の人たちだ。俺がした事なんて微々たるモノだ。

 それに彼女も大事なことはキチンと自分でやったのだ。

 

「でも、俺だけではないでしょう。あの時の上司からのパワハラをキチンと引っ叩いて、次の日に出社できる胆力がなければ実りが出ることもなかった。貴女自身の力ですよ」

「ふふ。お世辞が上手いのね」

「さあ、どうでしょう。俺としては本心なんですけどね」

 

 でも、せっかくミドリさんの所で練習もしたんだ。すぐに慣れるわけではないが、せめて困惑することがないようにしたい。

 

「ゆとりができて良かったです。香水とか、自分に目を向けられる時間ができたみたいですし」

「あ。匂ってた? キツくないかな?」

「いいえ。近づくと程よく香ってくるので心地いいですよ。それに仁湖さんの落ち着いた雰囲気に合ってます」

「そ、そうかな?」

「それに髪もそうですよね? ふわっとした感じがして俺は好きですけど、美容院に行ったんですか?」

「うん。元々お客とはよく話すから気を遣ってはいたんだけど、せっかくならいつもと違うところに行ったりしてさ」

 

 嬉しそうにニヤケて笑う彼女に俺は首を傾げる。今の会話で面白い箇所があっただろうか–––俺の感性か? そうだな。変だもんな。

 仁湖さんは右足を軸にくるりと回って、背中を見せる。

 再び歩き出した俺たちは、あてもなく夜の街を歩く。途中、オレンジ色の街灯が照らす公園が目に入って、『あそこで座りましょうか』と俺が訊ねる。仁湖さんは『ベンチあるかな?』と目を細めながら単色の公園に脚を進める。

 

「神崎とは今も話したりするんですか?」

「……少しはね。近況はどうか、とかそう言うこと聞いてくる。殆ど、私じゃなくて都雉さんだけど」

「あの人が本来の依頼人ですからね」

「話を聞いた時は驚いたなー……様子が変だった理由が告発だったなんて」

「そうでもしないと本人が潰れてたでしょうからね」

「仕事の振られ方はあの人が1番ヤバかったからね……」

 

 神崎の事務所を勧めたのは俺なわけだが、会社での都雉の親の様子を俺は詳らかにしていない。そもそも俺は学生の方の都雉の相談に都度乗ったり、名刺を渡しただけで親には会っていない。

 ただ話ではかなり憔悴しきっていたようだ。親がその状態では家族だって気が気じゃないだろう。

 今は問題が解決して、親子共々楽しそうに暮らしているらしい。

 

「一応、神崎に言えば変えることができますけど、するつもりですか?」

「え? なにを?」

「名前ですよ。この間言ってたじゃないですか。『こんな名前呪いだ』って」

「あーー……」

 

 公園に入ってベンチに座ると、仁湖さんは月を見上げながら唸る。

 

「あの時は勢いで言っただけなの。でも、変えれるなら変えてみたいかな。親には悪いけど」

「別にいいじゃないですか。親が勝手につけたレッテルなんて」

「漢字もめんどくさいし……あれでニコって呼ぶのもね。もし、私が変えたいって言ったら一緒に考えてくれる?」

「ええ。案を出すだけなら構いませんよ。決めてと言われると困りますが」

「最後は私が決めるよ。でもそっか、手伝ってくれるんだ」

 

 微笑んだ仁湖さんは顎を引いて、俺の方へと顔を向けた。

 舐めるように動く視線は俺の全身を確かめている。不快感があるわけではないが疑問に思うし、くすぐったく感じる。

 暫くして、頭のてっぺんから足先まで眺め終えると、彼女が口を開いた。

 

「あの時とやっぱり性格? が違うよね。俺呼びだし、学生だし」

「キャラは作ってましたからね」

「なんでそんなことを?」

「正体をバラすつもりが無かったからですね。日跨いだ時間帯だったので、下手に子供が関わっているとバレれば事務所に影響がありますし。知らない人からしたら、弁護士事務所が子供を使うなって言いたくなるでしょ」

「子供を働かせてるって他の人に知れたら責められるだろうしね。法の仕事をしてる所なんだし」

 

 責められているわけではない。

 けれど、俺の素性を知ろうとしているのは、証拠を取るために利用されたことが腹立たしいのだろうか。

 

「やっぱり利用されるのは、嫌でしたか?」

「うん。いい気分ではなかったかな」

「そうですか」

「だから、ひとつ……聞きたいことがあるの」

「なんでしょう」

「えっとね……」

 

 一呼吸置いて、口を開こうとしてすぐに閉じた。何度か言うのを躊躇うので、本当に聞きづらいことなのだと肌感覚で分かる。

 何がそこまで彼女の口を縫い付けるのは分からないが、五回も躊躇われるとこっちは焦ったくなる。しかし、ここで急かせして、理世のときの様に答えを出せなかったら余計に彼女を傷つけてしまう。

 

–––どうせ碌なことじゃない

 

 胸の内で俺が言った。

 ドクンと胸が跳ねる。

 

「貴女がキチンと言えるまで待ちますから、ゆっくり言えばいいですよ」

 

 俺は彼女が語りまで、心の中で数を数え下ろして心を落ち着かせることにした。感情は魔物だ。行動の邪魔になるなら3秒で払い除けろ、と以前読んだ小説で言っていたから、それを真似ることにしたのだ。

 20……19……18……17……

 そうして、俺の心から焦ったさが無くなるのと、彼女が口を開いたのは同時だった。

 

「あの時、もし仕事じゃなかったら……私に声はかけなかった?」

「かけましたよ。死にそうな顔をしている仁湖さんがいたら、放っておけるわけないですよ」

「ショウくん……そっか……」

 

 仁湖さんの肩の力が抜けて、身体をベンチの背もたれに預けたのを見て、俺も安堵の息を吐く。

 特にこれと言って怖がる必要のない問いだった。変な不信感が起きなかったのは、彼女の想いの話ではなく俺の矜持についてだったからだろう。

 気を張って損したと言うのは簡単だが、いざと言う時の安らぎを得る方法を見つけたのだからヨシとしよう。

 

「でも良かった。……てっきり俺、なにか仁湖さんの地雷を踏んだかと思いましたよ」

「そんなことないよ! 本当に感謝してる! 他の人たちの助けがあったのは間違いないけど、私のとっての一番の恩人はショウくんなの」

 

 それでね–––と言って、背もたれに右肩を当てながら俺の方へと上半身だけ捻る。彼女はスーツとカッターシャツの襟を引っ張って首筋を露出させた。

 

「は?」

 

 きめ細やかで、掴めばスルリと抜け落ちていきそうな滑らかな肌が突然目の前に現れて、俺はどうしようもなく混乱する。

 さらに混迷を極める一言が彼女の口から走る。

 

「血が飲みたくなったら、私の事、好きにしてくれていいから」

 

 頬を赤熱させて、潤んだ瞳で俺を見る仁湖さんが目の前にいる。血を吸うことを求める眼が俺を貫いて、離そうとしない。はしたないとは思わなかったのは、気怠げな印象の彼女がぐったりと背もたれに身を預けている様が似合っていたものあるだろう。

 しかし、そんな事よりも俺の脳は別のことに囚われていた。

 

「あはは、やっぱり一回りも違う女の血は吸いたくない?」

 

 いや、貴女は見た目も実年齢も十分若いんだから、そこは気にしなくていいだろ。

 

「とても魅力的に見えたのですが、なんで俺を吸血鬼だと思ってるのか分からなくて……」

 

 あの晩、ハツカの真似と仁湖さんの心を晴れやかにするために力を使った。夜空へ彼女の体を放り投げたのだ。つまり、見せた力は怪力でしかない。

 怪力(イコール)怪物なのは想像できるが、怪物=吸血鬼なのは飛躍しすぎだ。

 

「あれ? 違ったの?」

「俺の力はあくまで狐の力なので。血を吸いたいとも思いませんし」

「ええ……てことは、あの噂ってキミのことじゃないの?」

 

 勘違いの原因について、俺が頭を捻ると彼女は姿勢を戻して、説明し始めた。

 

「『夜の街に出ると血を飲み干す鬼がいるから気をつけろ』って噂。血を飲む鬼なんて吸血鬼ぐらいじゃない?」

「確かに。ピンと来るのは吸血鬼ですね」

「ショウくんのことを鬼さんって呼んだでしょ? アレ、会う直前に上司が『鬼に気をつけろ』ってふざけた事を言ってたから、その流れで呼んでたの。その話を同僚と話してたら、そんな噂があるって教えてくれてさ。あ、もちろんショウくんの力のことは話してないよ。あの秘密を人間で知ってる人……あまり居て欲しくないし」

 

 相槌を打ちながら、俺は頭の中で情報を整理した。

 そして、もう少し内容が欲しいと思い訊ねることにした。

 

「相手のデマではないですか?」

「それはないと思う。別の部署でも結構な人数が知ってたし」

「いつから噂されたものですか?」

「分からないけど、比較的新しいものだよ。一、二年前のものじゃないかな。昔も似た様な怪談はあったらしいけど微妙に違うし」

「似た怪談?」

「辻斬り。夜遅くに出歩くと血を啜る落武者に殺されるって話」

「それは……雷のヘソと同じで子供の躾のための話ではないんですか?」

「かもね。鬼もそうだけど、辻斬りの方は子供を狙うって話だし」

 

 彼女と問答を繰り返しながら、以前から頭の中で引っかかっていた疑問を取り出していた。

 

『なあ、吸血鬼がいるって言ったら信じるか?』

 

 奏斗先輩がエマに血を吸われそうになった時のこと。

 彼はエマが吸血鬼であると半信半疑で疑っていた。牙が見えて、噛まれそうになったから吸血鬼だと言ったが、吸われてはいないのだ。彼の身に起きたのは、あくまで()()()()()()所までだ。牙が見えた所で、少し人より伸びた犬歯だと思っても不思議じゃない。

 もし、吸血鬼だと考えたきっかけがこの噂なら納得が行く。奏斗先輩も仁湖さんも、精神的にまいっている状態で話を聞いた。与太話を信じても無理はないだろう。

 問題は吸血鬼が多く存在する小森の町でこの噂が流れた理由が、辻斬り話が歪んだせいか、意図的に流されたのかだ。

 前者はまだいい。後者なら鶯さんが流したのだろうか。

 その場合のメリットを考えるが、噂ばなし程度で人の動きを止められると考えるほど鶯さんの思慮は浅くない。確認はしておくべきだろうが、気にすることでもないか。

 

「とにかく俺は吸血鬼ではないですよ」

 

 少なくとも、今考えた所で答えは出ない。

 

「そ、そっか……あはは……」

 

 仁湖さんは恥ずかしそうに熱った首筋を抓り、居心地が悪そうにモジモジとし始める。

 そんな彼女の肩に俺はポンと優しく手を置いた。微かな震えが手を伝ってくるのに連れて、俺は微かな高揚を徐々に腹の中へ溜めていた。

 

「それで仁湖さん」

「は、はい!?」

「さっき俺に首を差し出したけど、吸血鬼の子作りの方法は知ってますよね?」

「……ひとのちを……のむこと……です」

 

 大の大人が赤子の様に訥々と喋る姿は滑稽だ。同時に愛らしく感じている自分もいた。

 

「つまり、仁湖さんは僕の子供になりたかったんですか? こんな……一回りも小さい子供の眷属に」

「……」

「俺が本当に吸血鬼だとしたら人間として死ぬかもしれなかったのに、血を飲まれたかったんですか? どうなんです?」

「……いいの、眷属になっても。じゃなきゃ、吸血鬼は死んじゃうでしょ」

「優しい人ですね」

 

 愛おしく思えたのは何故だろうか。常識とせめぎ合いながら、俺の為に身を差し出そうとする様な行動に何かを感じたのだ。

 血を飲みたくなったら、自分のものを飲んで良いと彼女は言った。彼女の視点では会社での憂鬱も無くなって、これから楽しくできるというのに人間を捨てるメリットなんて無い。

 そこで俺はぼんやりと掴んだ気がした。

 自分の行動を他人から見ると、どう映るのか。価値観が近すぎる理世とも違う、利害関係と勝負事のハツカとも違う、距離を置いた相手だからこそ映る意思。

 

「ありがとうございます」

「え?」

「もし、俺が吸血鬼になったとしたら、貴女を俺の眷属(こども)にしてあげます」

「えっ」

 

 ベンチから立ち上がって振り返れば、仁湖さんは夢が現になったように惚けた顔をしている。

 

「なんて、ね。冗談です」

 

 仁湖さんの目の前に手を差し出せば、戸惑いながらも彼女は俺の手を取った。

 

「そろそろ帰りましょうか」

「……うん。分かった」

 

 再び立ち上がると俺たちは歩き出して、帰路についた。

 

 

 

 

 団地が目の前に現れ、視界の半分以上を覆った頃、俺たちは団地のそばに設けられたタクシー乗り場に来ていた。駐車場に作られたスペースにいるので、家には徒歩でも一分もかからない。

 誰かが帰ってきたようで、タクシーが一台停まっていた。

 仁湖さんはそのタクシーで帰るという。

 

「そうだ。連絡先の交換しますか?」

「いいの? 何処の馬の骨とも分からない女の電話番号だよ? 親御さん、心配しない?」

「それは大丈夫です」

 

 スマホを取り出して、仁湖さんと電話番号やラインのアドレスを交換する。それらで軽く会話したあと、彼女はタクシーのドアを開ける。

 

「それじゃあ、機会があったらまた遊ぼうね」

「ええ」

 

 手を振り合って、見送る。

 車の影が無くなったタイミングで俺は聳える団地の建物を仰ぎ見る。そして、腕時計へと目線を落とす。

 

「ちょうど15分か。……よし」

 

 戻ろう。

 ハツカの無事を確認しよう。



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第七十三夜「いつもながら」

 照明の光を受けて無粋な鈍色の光を放つ銃が、かすかに開けた襖の先でゆらゆらと銃身を揺らしている。温もりとは無縁の凶器の口が見える度、毛穴が開いてジンワリと汗が滲む。

 蘿蔔ハツカ()の身体に粘りつく空気は凍りついているにも関わらず、額から汗が垂れてくる。拭いたいが、いま少しでも動けば襖一枚挟んだ先に立つ男に気づかれてしまうかもしれなくて不用意に動くことはできなかった。

 銃程度であれば、気にすることはない。

 なんせ僕は吸血鬼。弱点を突かれなければ死ぬことはない不老不死の存在だ。ダメージを負ったとしてもショウくんが血を飲ませてくれるからすぐに癒える。

 銃そのものを脅威ではない–––そう言い聞かせて、思考を切り替える。

 

「いつもながら殺風景というか、机もベッドも綺麗に整頓されてるな」

 

 本当の問題は、ショウくんの部屋に当然と言わんばかりにやってきた男だ! 男は神崎なわけだが何故彼が急に現れたのか分からない。親代わりだと言っていたし、変なことをしていないか抜き打ち検査で確認しにきた……んなわけあるか! その為に拳銃を持ってくる奴がどこにいる!!

 

「一年経っても子供らしい物が殆どないし……今の子供ってこんな感じなのか?」

 

 しかも、本人は心の底から少年らしい豊かさを持たない彼の部屋に、哀傷を受けてひとりごちていた。

 襖の隙間から辺りの様子を眺める。

 

「ノートも綺麗に取ってあるな」

 

 神崎は勉強机に手を置くと、本立てに置かれていたノートを手に取った。次々にページを捲って、読み終えるたびにまた別のノートに手を伸ばす。

 なぜこの男がいるのだろうか。

 神崎が入ってきたのは、ショウくんが園田さんと出かけて暫く経ってから。

 僕が見つかるのを恐れた–––理由は分からない–––訳なのだから、ショウくんが部屋に招き入れた線はない。合鍵などを使った進入してきたと考えた方がいい。

 どうして彼がいないタイミングで上がってきたんだ? 彼と話がしたいなら玄関の前で帰りを待っていればいい。

 

––––子供の部屋に銃を持ってくるのはないだろ……

 

 副業で暗殺者でもやってるのか?

 自分で殺して、自分で弁護して……なんてできる訳ないか。

 

–––それにしても、ショウくんの周りにはやばい奴しかいないのか?

 

 母親然り、父親然り。当然、あの老婆も含めて。

 眼を細めて訝しみながら神崎を見ていると、ノートを一通り見終えた所だった。手に持っていたノートを本立てに戻して次の標的に手を動かしていると、ビタンと急ブレーキをかけて腕を止める。

 

「あれ? 日記帳がない」

 

 胸がギュゥと雑巾搾りされたように一気に苦しみだす。振り返った男の面が額に皺がやった酷く険しい顔なのもあって、身体に張り巡らせた緊張の糸が、どんどんキツくなる。

 

「どこだ? あの子が失くす訳はないし」

 

 物音を立てないようゆっくりと腰を動かして、押し入れの奥へと移動する。視界を捨ててしまったので外で何が起きているかは見えない。足音が右往左往して、音が大きくなる度に僕の心が息を詰めることになる。

 恐怖が胸の内で疼くのは、目の前の男の危うさをショウくんが把握しているから。神崎のことを語っていた時、もしかして僕にこの事を気取られないようにしていたのではないかと思考が巡る。

 

「ベッドの下にもないか」

 

 腕に抱えた日記帳を見る。神崎が探している物。ショウくんの一日いちにちが記されている。

 これを読めば、僕と出会う前の出来事が–––何に喜び、何に悲しんだかさえも知れて、より彼の内側を推し量ることができる。情報が少ない僕にとってはやはり強く魅かれるものがある。

 静かに靴を置いて、日記帳を開こうとページの端を摘んだ。

 

–––ダメだ。

 

 心が『いけない』と歯止めをかけてくる。

 彼から辛い過去は語ってもらおうと考えたばかりだし、ショウくんは『見ないで』と言って、僕は首を縦に振ったのだ。

 誘惑を断ち切って、再び外へ意識を向ける。

 神崎が日記帳を探す物音は止んでいた。足音が同じ場所をぐるぐると回るように鳴っているから、恐らく考え事をしているのだろう。

 

「日記帳はどこにある? 机にもベッドにもないとすると、ダイニングのほうか? 狭い所が好きなんてこともないだろうし」

 

 押入れに神崎の視線が動いた気がして、キュッと小さくまとまって身を強張らせる。

 

「アレが唯一の手がかりなんだけどな」

 

 日記帳が見当たらないことにヤキモキしながら、神崎は暗い声で呟いた。

 

「大丈夫かな……クソどもに誑かされていなければいいが」

 

 危険な事に巻き込まれていないか心配しているわけだ。バレちゃいけないことなら日記にすらつけないだろうが、そもそもショウくんには悪い虫が着く時間すらない。僕と遊んでいるわけだからね。

 足音が離れていく。引き出しが開く音がして、僕は襖の隙間に眼を寄せた。背を見せる神崎は一段一段入念に日記帳を探す。

 どれだけ探しても見つからない–––中には僕が鍵がかかっていて、探れなかった棚もある。やっぱり合鍵を持ってるのか。

 3つの引き出しのうち、真ん中の物から何かを取り出した。今のままでは見えない。頬が襖にギリギリ触れない所まで顔を近づけて、視界を広げる。

 

「…………まだコレを持ってるのか」

 

 溢した言葉は、聞いている僕までも暗澹とした気分になるほど陰鬱とした物を孕んでいた。神崎は手に持ったナニカを引き出しに戻す。

 その手をスーツのポケットに入れる。

 手が出てきた時に握っていたのはスマートフォン。それを軽く操作して、画面を仇を刺殺さんとする鋭い眼で眺めた。

 そして、恨みが籠った一言が僕の耳を殴りつける。

 

「小繁縷ミドリか蘿蔔ハツカ……どちらでも必ず殺す。これ以上、あの子の……人生を壊されてたまるか」

 

––––は?

 

 思わず襖から立ち退いた。

 それがいけなかった。ビニールが床と擦れ、クシャッと渇いた音が鳴る。ダメ押しに靴が倒れた音が響いた。

 

「ッ–––!」

 

 ガンッと叩き壊す勢いで襖が開き、光が差し込んだ。

 

 

 突然、ビニールが潰れた音と何かが倒れた音が耳朶を打った。

 まさか–––と思った。

 吼月くんがあのふたりの内どちらかをあの薄い襖の先に隠しているのではないかと。

 思考すらよりも早く動いていた体が、襖を横へと一気に開放した。

 

「ん?」

 

 上下で仕切られた押入れには誰も居なかった。皺が寄ったビニールもなければ、倒れそうなものも置かれていなかった。

 思い過ごしか。

 

「……歳かな」

 

 最近幻聴が酷いからな。

 昔の家電を直すように頭をポンポンと叩いた後、拳銃を懐にしまって床に膝をつくことにした。

 

「ふむ」

 

 不可解な事は探り尽くすに限る。

 いつもの証拠探しのように私は床に眼を近づける。蜘蛛のように床を這って、些細な痕跡の見落としすら許さないと自戒して探し出す。

 例え、髪の毛一本でも見つけ出す。

 吸血鬼(奴ら)の足跡があったら––––周囲にも気を配りつつ、銃をいつでも抜けるように用心しておこう。なるべく吼月くんの目の前で撃たなければ。

 もしもの時は、殺そう。

 どちらだとしても……切り札はある。

 

 

 風に煽られて身体が滑らかな髪の毛のように左右に揺れる。

 

「あっぶな……」

 

 襖を開けられる直前、靴と日記帳を抱えて外に向かって飛び出た。部屋と屋外を隔てる壁は一枚だけだったので、特に注意する必要もなくスリ抜けることができた。

 僕は壁面を東西に走る支柱の出っ張りを掴みぶら下がっている。苦はない。吸血鬼パワーがこのような形で役に立つとは夢にも思っていなかった。出っ張りに靴を置き、ズボンのポケットに日記帳を仕舞う。

 

「んっ、よいっ……しょ」

 

 全身の力を使って器用にショウくんの部屋の窓枠を目指す。眼下には夜から人通りはない。

 寒い風が吹いて、僕の耳元を撫でる。

 先ほどの緊張感が尾を引いて、僕の身体が細かく震えた。

 

–––カーテン開いてるな。これなら中の様子も

 

 軽く閉められただけのカーテンは、室内を見渡せるだけの隙間が十分にあった。覗き込めば、先ほどまで僕が隠れていた押入れに神崎が膝をついて中に探りを入れていた。

 入念に僕がいた痕跡を探す男の姿を見ながら、僕は考え始める。

––––なぜ吸血鬼を知っている?

 彼はショウくんの母親と生前から親しくしていた。どこかで違和感を覚えても無理はないだろう。

––––彼も吸血鬼殺しなのか?

 口にしているあたりそうなのだろう。この街、敵多くないか。

––––いつショウくんといるのがバレた?

 ミドリちゃんと一緒に怪しまれてるのだから、昨日のメイド喫茶が原因だろう。SNSにあげる物に幾つか僕がチラリと映り込んでいる写真もあった。

 

「しまったな……ナマで見ないと分からないぐらいの女装なのにバレるなんて。変態か? なにより」

 

 一番の問題は神崎が、ミドリちゃんか僕を『殺す』『殺せる』と確信に満ちていることだ。

 浅薄な知識から来る過信ならば問題はない。しかし、あの男が僕らの弱点を持っているならば、本当に殺されかねない。

 僕の中に嫌な予測が立ってしまった。

 もし過去の遺物の中に––––

 

「最悪だ」

 

 本当に嫌な籤を引いてしまった。

 

「違う、違う。そうじゃないだろ」

 

 頭の中を一瞬支配した弱気を首を振って追い払う。

 銃を携帯しているのは吸血鬼対策。殺すのは無理でも、足止めはできる。目を撃ち抜かれてしまえば、治りはするがかなりの苦痛を招く。

 ショウくんは心配要らないが、吸血鬼を人間と認識している眷属候補の目の前で撃てば、人ではないと理解させられる。合理的だが、凶悪な法法。

 吸血鬼を撃つのに躊躇いはない。探偵さん曰く『吸血鬼は存在自体が悪』だから。酷い決めつけだね。

 

「それだけじゃないな」

 

 本当に吸血鬼を殺すだけなら、ショウくんはあそこまで怯えない。

 もしかしたら常習的に悪を断罪する大義名分で誰かを傷つけているのかもしれない。その矛先は吸血鬼でも、人間でも構わない。

 神崎は弁護士だ。

 立場で容易く悪と判断すれば取り返しのつかないことになる事ぐらい容易に想像できるはず。

 

「めぼしい物は見当たらないな」

 

 押入れから身体を出して立ち上がった神崎が、部屋全体を一瞥し始めた。彼の視界に入らないように頭を下げる。物音を立てないよう静かに、風に揺られるのを耐えながら待つ。

 数秒後、『やはり気のせいか』と呟いた神崎が苛立ちを隠さず大きな足音を響かせていた。窓の外にも聞こえる大きな音で、窓枠が微かに振動しているのが指先から伝わってくる。

 顔を上げて再度部屋の中を覗くと、苛立ちをそのままに爪を噛みながら部屋を出て行こうとしていた。

 その時だった。

 ガタンと、物が倒れる。

 考え事に集中していた神崎がゴミ箱を蹴り倒してしまった。こぼれ落ちた中身を膝をついて元に戻し始める。丁寧にゴミを一つひとつ入れていく。

 量は少なく、大した時間もかからないだろう。

 そして、最後の一個を拾うと神崎は手に持ったゴミを何秒か見つめて、叩き入れた。

 

「クソッ」

 

 暴言を吐き捨てた後、立ち上がった神崎は駆け足でこの場を去った。

 ……なんだ、今の。

 神崎の気配がショウくんの家から無くなったあと、僕は指の力だけで身体を跳ばし、窓枠に乗った。ソックスが汚くなるが仕方ない。

 窓をすり抜けて部屋へと戻る。

 

「何を見てたんだろ」

 

 足音を立てないようにして、ゴミ箱へと近づいた。1番上に乗っているのは丸められた青い紙だ。取り出して広げてみれば封筒だった。

 学校でもらってきた物……ではなく、差出人も宛先も書かれていない封筒は、封すら切られていなかった。

 触ると中に紙ペラが一枚入っていることに気がついた。

 普通の封筒だが、これの何処に神崎を怒らせる要素があるのか。答えは中に入っている紙にあるはずだ。

 単純な疑念、あるいは幼稚な好奇心に取り憑かれた僕は、伸ばした爪で封を切り裂いた。テープで留められていた封がビリと音を立てる。

 開いた口から紙を取り出す。

 

 皺がつき、折り畳まれた白紙を開くと、そこには–––––

 

「なんなんだよ」

 

 太く角張った文字で『死ね』と怨恨を書き記していた。

 気づけば、僕は力を込めて紙をグシャと握りつぶしていた。

 

 

 

 

 駆け足で家まで戻ろうとする最中、蛍光灯の光を阻む自転車置き場の屋根や月明かりを遮る住宅によって生まれた闇の中から足音が聞こえてきた。

 こちらへ力を込めて突き進んでくる相手を俺は知っていて、思わず冷や汗を垂れ流す。

 光が当たる場所に足音が近づいてくるにつれて、想像通りのシルエットが浮かんできた。

 遂にシルエットが色を帯びて存在を露わにする。

 

「やあ、吼月くん」

「こんばんは。神崎さん。珍しいですね、こんな夜遅くに来るなんて」

「ちょっとね。仕事が立て込んでいてね」

 

 やはり来ていたか––––この道を通っているならば、既に俺の部屋には入っているのだろう。

 奴は俺の家の合鍵を持っているが、合鍵を渡したのは俺ではない。オジサンが勝手に神崎に譲渡して、出入りできるようにしてしまったのだ。

 今までは問題なかったのだが、ハツカと会ってる時に奇襲をかけられるとやはり困る。これからはドアチェーンも活用していこう。

 

「とりあえず、なんで仁湖(ニコ)さんにバラしたんですか?」

「しつこく訊かれちゃったからね。なまじ接点が続いているのがいけなかったかな。でも、悪い人じゃないだろ?」

「後々困るのはアンタらですよ。一応、テレビにも出てるんだから。オジサンと同じくパパラッチ共のいい餌になるかもしれんのに」

「そこら辺はうまく始末するから大丈夫」

「おっかないことを言わないでください」

 

 涼しい顔をしているが、何を地雷を踏めば何をしでかすか分からないのが神崎という男だ。思想が過激というわけではないのだが、兎にかく一緒に居るのが疲れる相手……というのが俺の結論だ。

 

「神崎さん……まさか裁判の証拠品とかも、そうやって手に入れてるんじゃないでしょうね。でっちあげとか」

「まさか。それをしたら偽装になるじゃないか。証拠はキチンと合法な手段で手に入れて、真実だけを示すよ」

「そうじゃなかったら、次こそ事務所を追い出されますよ?」

「ハハハっ。痛いところを突かないでくれたまえよ」

 

 笑っている神崎に対して、俺は肩の力を緩めながら頭を掻いて誤魔化すしかない。

 以前、神崎の弁護を思い出す。殺人事件の弁護の時にこの男を待つために傍聴席に入ったことがある。その時、なぜか守るはずの被告人が犯人であるという証拠を自ら掴み、提示して罪を立証してみせただけでなく、余罪さえも告発して犯人を無期懲役にした。

 その時の検事と裁判官の顔は面白かった。絶望した犯人の顔も面白かったが、ポカンと間の抜けた顔が厳かな雰囲気とのミスマッチぷりが凄かったのだ。

 もちろん冤罪ではない。

 しかし、被告人を守る義務を捨て去った男が事務所に居られる理由は、この逆もあるからな訳で、例えば、完全に有罪ムードだった被告を無罪にしたことすらある。

 弁護士としての有能さであれば、巷でスーパーをつけて呼ばれるほどの弁護士なのだ。だから、多少の無茶苦茶は事務所の所長からも見逃してもらっている。

 ただ、人間として良い人かと聞かれると、俺は難色を示す。

 

「紹介料はポストの中に入れておいたから」

「分かりました」

 

 これも仕事だと思って、封筒を掴まされるのは割り切るしかない。

 

「要件はそれだけですか?」

「いいや。もっと大事な話があって来た」

 

 神崎はいつになく真剣な顔つきになる。それこそ、裁判の時よりも重々しくコチラも真面目に聞かなければいけないと思わせる雰囲気がある。

 場を取り巻く空気に身を委ねがら、次の言葉を–––神崎の言う大事な話を待った。

 

「琢磨が再婚することを決めたよ」

「そうですか」

 

 待った甲斐はなく、なんとも拍子抜けな内容で肩を落としてしまう。オジサンが再婚しても俺にとっては大した変化はない。どうせ会わないし、形だけの親権を持つ人間がひとり増えるだけだ。

 多少、安堵はしたけれど。

 

「いつ籍を入れるんですか?」

「来年ぐらいだと言っていたよ」

「来年かー……再来年が良かったな」

 

 中学を卒業すれば俺もキチンとバイトできるし、奴らが知らない場所に越して行ける。その前に吸血鬼問題などもあるが、その結果がどうあれこの街を出ることに変わりはない。

 

「それで本当にいいのかい?」

「別に良いんじゃないですか?」

 

 生みの親が再婚するというのに、大きな感情が湧かないのは繋がりがないからだ。あの人達が生きてることが気に食わないかと問われれば首を縦に振るだろうが、その恨みも昔の話だ。

 地球の裏側で誰かが天寿を全うして死んだとしても形式的な悲しみしか胸の内に宿らないのと同じように、あの人達に特別な感情を抱くことはないだろう。

 だが、俺の想いなど知ったことないと言わんばかりに神崎は食い下がる。

 

「でも、あんなクソビ–––」

「理由がどうであれ、今度はオジサン自身が選んだ相手です。それに今の俺とオジサンは絶縁関係レベルなんですよ。一緒に聞いてたでしょ?」

「……ッ」

「だから、この話は終わりです」

 

 それが嫌だから俺はいつも壁を作るのだ。

 何度でもキッパリと拒絶して、有無を言わさずに立ち入りをさせない。他人に口出しなんてさせない。俺とオジサンの関係はもう決めたのだ。

 神崎も押しても意味がないと察して追求をやめた。

 

「そういえば、日記どうしたの?」

「今は学校にあります」

「日記帳なのに?」

「一緒にいて楽しい奴が居るから、その思い出を業後に書いてる」

「あぁ……そうなんだ」

 

 自分を納得させるように何度か頷いてみせる神崎は、胸のポケットからスマホを取り出して俺に近づく。距離が狭まるほど不穏な空気がピリピリと肌を刺激する。

 

「だったら、最近のことだけでいいんだ。教えて欲しいんだけど」

 

 そう言って、神崎が見せてきたのは––––

 

「なんでキミがコイツらと一緒にいるのかな?」

「え」

 

 メイド服姿で理世達と映っている写真だ。SNSに載せるために撮った写真だとすぐにわかった。その写真の中で神崎が指を刺したのは、ミドリさんとハツカだ。

 ゾワっと全身の毛が逆立って、危険信号の悪寒が脳を刺す。

 つまり一瞬、なにも動けなかったのだ。

 その隙を作ったのがいけなかった。

 

「ねえ」

 

 神崎が苛立ちを隠さず、大きな一歩で俺に近づいてくる。

––––やっべ、面倒くさいことになった。

 今までの経験から危険を感じ取ったけれど、ここで不用意に動くと更に厄介な事になると知っていた。

 だから–––

 バチンッ!と乾いた音が夜空を突き刺すように鳴り渡った。

 

「ッ……!」

 

 –––頬を叩く神崎の右手を躱わさなかったし、続けて鳩尾を深々と突き刺す膝蹴りを防ぐ事もしなかった。

 晩飯が胃から這い上がって、吐き出しそうになるのを堪える。蹴り飛ばされた勢いで強く尻餅をついて倒れ、夜の冷たさで神経が鋭くなっていた頬がいつもよりズキズキと痛む。

 地面にへたり込んだまま神崎を見上げれば、焦燥しきった顔で、親の仇でも見ているかのような冷酷な眼差しを俺に向けている。その瞳は正気とは思えない、暗く澱んだ黒色をしている。

 地雷を踏んだか、或いは豹変スイッチでも押したか。

 ただ分かるのは、ああ……これはあと数発は殴られそうだな、という危険。すぐにポケットに手を入れた。

 

 

 その矢先、左の脇腹を蹴り抜かれる。

 

 

 

 

 神崎が去ったあと、僕は靴を回収して履き終えると、地上に降り立った。

 フワッと虚空に漂っていた髪を払いのけてすぐさまショウくんの下に駆け出す。問い詰めなければいけなくなった。彼の現状も、彼の想いも、きっと、きっと僕が感じたことよりもずっと辛い現状で––––

 建物と建物の間。蛍光灯が照らす道路にふたりの人物が向き合っているのが見えた。

 僕はそばにあった自転車置き場に身を潜めて、ふたりの様子を伺う。片方が地面に腰を下ろしており、俯いているが明かりに照らされているので誰かは判別がついた。

 ショウくんだった。

 なら相手は神崎だろうと予測を立てて身を乗り出せば、鈍くかなりの重量があるものが地面に叩きつけられる音がした。

 

「……」

 

 僕は声すら出せなかった。

 神崎がショウくんを殴り出した。顔を蹴り、脚を踏みつけて全身を満遍なく殴打する。

 

「ねえ、なんでキミが奴らと一緒にいるの?」

「待って! やめ!」

 

 どうしてショウくんが殴られているのか全く理解できなくて、僕の頭の中は完全に真っ白になって動きを止めた。今にも泣きそうになっているショウくんが、必死に堪えながら呻き声だけを漏らしていた。

 やらせてはいけない––––と、泣き声が脳を刺激し全身に警報を鳴らす。

 飛び出そうとしたその時、

 

「–––––」

「え」

 

 ショウくんと目が合った気がして、その瞬間、彼が来ちゃダメだと手をコチラに突き出した。

 

「待って、来ないで!」

「何を言ってる!」

 

 読み取ったままが、彼の思惑かは分からない。でも、向かおうとする度に彼が制止してくる。

 なんで? なんでなの?

 神崎は吸血鬼を目の仇にしている。僕から神崎を遠ざけたくて、身を隠させたとしたら怯えていたことにも一応の辻褄は合う。

 そんな事はどうでもいい。

 

「どうして自分は助けようとしないだ」

 

 僕は動くことができずにショウくんが殴られている所から目を背けた。

 服の上から爪が皮膚に食い込んで痛かった。

 

 

 せめて、出来ることは––––

 

 

 

 

 殴られ続けて幾星霜。長時間経っているわけではないけれど、夜空を見上げれば月の傾きが変わっていたので、結構な時間が経っているようにさえ思えた。

 自転車置き場の陰。誰かの気配があって、危険だから来るな!と神崎にバレずに伝えるのは大変だった。こんな馬鹿げたことに巻き込まれるなんて可哀想だ。

 

「最近夜更かしが酷いそうだね! なんでそんな悪い子になってしまったんだ!! 辛いことがあるならちゃんと言いなさい!!」

 

 現在進行形で吐きそうで辛いです。

 もう殴られるのは慣れてしまって特別嫌な事とも思わなくなった俺だが、吐き気だけはどうにもならなかった。

 絶え間なく降り注ぐ暴力の雨に俺は挽回する余地すら見出せなかった。

 

「どうしてキミが小繁縷ミドリと一緒にいる? 遂に唆されたのかい?」

 

 殴る最中、奴らやミドリさんの名前を口にする。

 どうしてだ? なぜ貴様がミドリさんやハツカのことを気にする? 

 

––––その答えは分かりきっているだろう?

 

 一段と強い吐き気に遭わされていると、神崎は胸ぐらを掴んで俺の顔を引き寄せる。自然と体が起き上がる。

 

「私は–––」

 

 首を振れば頭突きが出来てしまうほど近くに迫った神崎の顔は悲しみで歪んでいた。唇を噛み、目尻に涙を湛えながら彼は言う。

 

「キミには妹のようなって欲しくないんだ。前にも話しただろ?」

「それは……はい……」

 

 とても嘘とは思えなかった。

 なぜ妹の話が出て来るのかはわからない。けど、神崎が俺を心配しているのは見て取れる。

 だからこそ。この男は恐ろしく、現れる予兆があるだけで周りに気を配らなければいけなくなる。もし俺のそばに居る誰かが敵だと判断されたら、何をするか予想もつかない。

 吐き気がひどい。眩暈もする。

 そこで、ああ……いつもの症状が出てきたんだ、と分かった。

 ハツカ。

 ハツカ、ハツカ。

 キミは何も手を出されてないよね。

 逃げて、逃げてて。

 

「……」

 

 神崎が再び手を張り上げる––––勢いよく頬に向かって振り下ろされた手が激しい痛みを俺に与える。

 

 ニャァーー

 

「あ?」

 

 突然、猫の鳴き声がした。

 やけに注意を引く鳴き声だった。

 張り詰めた空間を和ませる愛らしい声が神崎の腕から力を根こそぎ奪った。ズルリと手から襟がずり落ちて、膝をつきながら俺は着地する。

 

「猫か?」

「みたいですね?」

 

 何度も殴られて肺から抜け出していった空気達をかき集めながら立ち上がる。

 猫ちゃんナイスだ。

 サイコーだよ。

 

「で、さっきの話ですけど」

 

 取り込んだ酸素が、バクバクと唸る心臓から急発進で全身へと血に乗って巡っていく。全身に力が戻り始めて、ふらついた足が安定する。

 落ち着いた俺は暴力へと脱線した話を正しい路線へと導く。

 

「隣にいる金髪の子いるだろ?」

「え。あぁ……」

「ソイツが同級生で俺の相棒。理世がその喫茶店が好きらしくて、スタッフの人手が足りないから手伝って欲しかったらしい」

 

 平静を取り戻し始めたのは俺だけでなく、神崎も同じく空虚な瞳にハイライトが戻っていた。

 

「だ、か、ら!」

 

 説得する好機と見た俺は力強く断言する。

 

「そのミドリさんとも俺は関わりがないの!」

 

 すると神崎は完全に力を抜いて、

 

「なんだ、そう言うことだったのか」

 

 胸を撫で下ろして喜んでいた。

 俺は内心「くそッたれ」と蔑んでいたが口にも表情にも出さないようにした。

 制服についた土やゴミを払って立ち上がり、俺は言う。

 

「あっちの方は進んでるんですか?」

「ん? ああ」

 

 一瞬、とぼけたように間を作るが怪しくて、嘘だなと俺は判断した。

 春樹さん達にも依頼しておいて正解だった。

 ちゃんと終わらせておかないと–––––

 

「それじゃあ、私は帰るから。何かあったら言うんだよ」

「ええ」

 

 半ば呆れながら言ってみせるが、神崎は全く気づかない。

 俺の赤く腫れた頬を見て何も感じない。奴にとっては躾なのだろう。暴力と薄寒い善意だけの効果が無い教育で、ハツカの躾とは比べ物にもならない。

 奴とハツカでは立っている場所すら違うのだから–––––

 神崎が消えるまで緊張の糸を張り詰めながら待った。完全にその背が見えなくなった所で肩から力を抜いて、ため息をつく。

 

「あの野郎……外でバカスカ殴りやがって……」

 

 殴るならいつもみたいに家でやれ。

 猫に止められるなんて大人の恥だ。

 腕時計のスイッチを入れて力を発現。腕を刺す痛みの後、傷が直る。

 そして、猫に感謝の撫で撫でをしようと僕は自転車置き場に近づく。あとでお刺身でも持って来ないと。

 

「あれ?」

「ショウくん……」

 

 自転車置き場の陰には猫の代わりにハツカが立っていた。

 どこにも傷はないし、衣服が破れた箇所も見当たらなかったことにまず安堵した。よかった、本当に良かった。

 しかし、安心とは真逆の想いも膨れ上がって一歩後退る。

 

「ヒッ」

「ねえ!」

 

 離れる俺を止めるように、

 

「ねえ、今のなに……? なんであんなことになるの?」

 

 嫋やかな香りが鼻をくすぐった。全身を包み込むように熱が伝わってきて、数秒遅れてハツカに抱きしめられたと分かった。優しい腕の温もりにはがっしりとした強さがあった。

 飯を食って腹が満ちて、風呂入って全身が程よい温かくなって1日が綺麗に終わるような幸福感が全身を支配していた。

 ハツカが耳元で囁く。『ごめんね、大丈夫だった?』と澄んだ声色で言うから、僕も思わず『うん』と心なしか弱々しく応えた

 そっと頭を撫でられる。

 

「ねえ、教えてよ。キミのことを。母親に襲われて、父親から見放されて……今も……キミの辛いことも知りたいよ」

 

 僕はあの暴力にも耐えただけの価値があったなと思った。

 だからこそ、俺には–––––無理だった。

 

 

 

 

 

 

 ハツカを突き離す。



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第七十四夜「死亡届」

「どうしてなんだ……?」

 

 僕はどうして独りでショウくんのベッドに座っているんだろうか。全身の神経が取り出されたかのように力が入らない四肢を、目だけ動かして眺めている。

 瞳が止まったのは僕の右手。離れようとしたショウくんの手を掴もうと伸ばした手だ––––––

 

 

 

 まず突き飛ばされる理由が分からなかった。

 呆然としていれば、ショウくんは罪悪感で押し潰されそうになっていて僕から目を背ける為に俯いた、ように思えた。

 俯く一瞬、僕の目に映った彼の顔は酷いものだった。頭を押さえて苦痛に歪んで、目は虚としていて焦点が定まっておらず、口元は吐瀉物を吐き出さないよう微かに膨れ、歯が唇に食い込むほど硬く閉じられている。

 誰からどう見ても異常だ。

 いつもの症状以上だった。

 ズリッと擦る音がして、足元に目線を合わせれば一歩、後退っていた。

 頭を回すことすら困難な痛みは全身に心へ服従することを促す。また一歩、また一歩と僕から距離を置く。

 

「ごめん、ちがっ。ハッカはわる、く…な……」

 

 呂律も回らなくなって、千鳥足で離れている。

 僕から離れるたびに外灯に照らされた光の領域に足を踏み入れていく。だというのに、次第に彼自身が溶けて消えてしまうような危うい希薄さがあって僕はどうしようもなく不安になった。

 どうして僕の前から消えようとするの?

 

「なんで? ねえ!」

 

 口にしたかどうかは覚えていない。

 気づいた時にはショウくんの目の前に僕は立っていて、逃げ出しそうな手を強引に掴み取っていた。

 

「そんな酷い顔をして、何を溜め込んでるの? 言ってくれなきゃ分からないよ!」

 

 逃しちゃいけない。逃したらこの子がどうなるか想像もつかなかったから。

 ショウくんの顔があがる。

 再び彼の表情が光の中で露わになる。

 

「……凄いね、ハツカは」

「は?」

 

 向けられた視線は虚なものではなく純粋な尊敬や憧憬といった、まるで子供が大人の背を見るような極々ありふれたもの。

 しかし、その輝きもすぐに消え去った。

 思わず脱力してしまった僕の手から、ショウくんの手が逃げ出した。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 必死に謝りながら光の中を走り去り、闇の中へとその身を投げた。慌ただしく鳴る足音も次第に薄れていく。

 

「……なんで?」

 

 僕はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 その後はどう道のりだったかは覚えていないが、ショウくんの自宅に帰っていた。確か鍵はしまっていたからスリ抜けは使った気がする。

 

「ショウくん」

 

 まるで僕が神崎と同じ存在だと思われたとすら感じてしまう。

 拒絶された実感に僕は自信を無くしていた。

 

「吸血鬼の名が泣いてるよ」

 

 吸血鬼なんて関係ないと分かっている。

 けれど、愚痴でも溢していないと心が保たないのだとも僕は理解していた。

 

「なんで僕まで……」

 

 でしゃばりすぎただろうか。

 友達だと言うのに、神崎や……もしかしたら、彼の両親と謎の老婆に向ける瞳と同じモノを向けられてしまったことに強い損失感が湧いて来る。

 今までかなりいい調子で仲を深めていたと思っていた。頭を撫でてるし、唇が触れたら動揺もしてくれた。少なくとも、良い関係ではあった。

 勘違いだったのか。

 少なくとも、危険な奴らと同列に扱われることが僕にはどうしようもなく辛かった。

 

「どうしよう」

 

 どうにかして捕まえて、誤解を解かなきゃいけない。電話をかけても出ないだろうから、まず彼を探すのは後だ。

 その前にまず彼はなぜ僕に怯えたのかを知らなきゃいけない。でなければ、見つけてもあの綺麗な笑顔を歪ませるだけだ。

 

 なぜだろうか––––頭を捻り、唸り声を漏らす。ゆっくりと瞼を下ろして、思考だけに専念する。

 神崎に殴られている所を見られたからだとしても、殴られるだけで済ます子ではないと僕は知っている。逆に強かな一面を……いや、あの怯えようだ。神崎相手では通常の頭を回転を発揮できないかもしれない。

 弱みを見せたことが原因?

 いや、彼が初めて弱みを吐露したのが僕なのだから、今更拒絶するとは考えにくい。

 やはり、記憶を勝手に覗いたことが原因か。

 過去のことをグチグチ言われるのが嫌いな彼のことだから、トラウマレベルの過去を掘り起こされるのは回避したかったのかも。慌てて母親のことを知っていると言ってしまったのが痛かったか。

 

「くそ……ん?」

 

 苦渋を噛み締めながら、目を開けるとそこには般若がいた。

 

「ぬおおおおお!?––––痛っ!?」

 

 いきなり目の前に鬼の形相が現れて、飛び退くように後ろに身体を下げれば、仕方なし……壁に後頭部を激突させる。

 痛みが走った患部を手で宥める僕に般若は「大丈夫?」と言わんばかりにこちらを覗き込んでくる。

 

「う、うん」

「シッ」

 

 首を傾げると般若は僕の唇にそっと右の人差し指で触れて、口を開くのを阻止する。流れで唇を摘まれた僕の口はアヒルのようになる。

 そうして、僕を黙らせると般若が次に取った行動は……屈んでベッドの下を弄ることだった。

 腕を入れること数秒、何かを剥ぎ取る音がした。握った手を僕の目の前に持ってきて、ゆっくりと開く。掌に乗せられていたのは、小型スピーカーのような物。

 スピーカーを見て、頭の中ですぐに思い浮かんだのは。

 

––––盗聴器?

 

 般若はグシャリと力を込めてスピーカーを握り潰す。

 そして、立ち上がると次は勉強机の裏、キッチン、居間、玄関などなど家の中を巡って同様のモノを破壊していく。

 

「フッ!」

 

 最後の一個を握りつぶして、般若はようやく口を開いた。

 

「流石にやりすぎよ。もう喋っていいわ」

「う、うん……でもそれ」

「さっきの男が仕掛けたんでしょうね」

「何でそこまで」

 

 親友の息子とはいえここまで来ると立派なストーカーだ。さっきの独り言も聞かれたかもと考えると薄気味悪くてゾッとする。

 

「誰が自分の知り合いの周りに吸血鬼が居て欲しいと思うの?」

「……キミも吸血鬼じゃないのかい」

「吸血鬼が吸血鬼を好きとは限らない。それは貴方だって自覚したんじゃないかしら」

 

 僕は押し黙ってしまう。

 吸血鬼が嫌いな吸血鬼……きっとキクちゃんの眷属たちを指しているのだ。

 

「ショウくんにこっぴどく振られて意気消沈しちゃってる蘿蔔は、これからどうするつもり?」

「振られてないけど!? ……ないよ」

「……調子狂うわね」

「ほっときなよ」

 

 仮面に遮られても良さそうなのによく通る声だ。苛立ちを吐き捨てれば、般若は呆れながらため息をついた。

 自分でも驚くぐらいにダメージを受けている。

 でも、川に落ちた木の葉が川の流れに逆らえないように、口から出た言葉は戻らない。

 僕としたことが選択を誤るなんて。

 

「貴方はどこまでショウくんのことを知ってるの?」

「……」

「安心しなさい。少なくとも、私は貴方より彼の事情に詳しいから」

「……記憶を失ってから母親に襲われるまでと、知らない老婆に虐待された辺りだけ」

「母親に襲われた? ……ああ、そう」

 

 般若は頷いて、僕の話を咀嚼する。

 数回首を振ってから「分かったわ」と言うと、僕の前に立って見下ろした。怨嗟と義憤に満ちた顔が僕を睨みつけ、容赦なく僕の意識を持っていく。

 

「もっと知りたい? ショウくんのこと」

 

 僕は首を振ることが出来なかった。

 本音を言えばどんな手段でもショウくんについて知りたかった。けれど、本人以外から訊くことが正しいのか今の僕には分からなくなっていた。

 勝手に知ってしまえば、余計に拗れるだけではないかという不安が僕の胸で疼く。

 

「あの子が気にしてるのは過去に指をさして何か言う事。知る事自体は問題ないわよ」

「……そうだね」

 

 胸のざわめきを抑え込みながら般若の語り口に耳を傾ける。

 

「あの子はね。まだ死んだままなのよ」

 

 語り口は汚水でも飲まされたかのように苦々しかった。

 

 

 

 

 静かな夜だった。

 それは私が好きな夜で、部屋の明かりもつかないまま虚空をゆったりと見つめていた。唯一の光は口先で煌々と燃え、芳ばしい香りを白煙と一緒に立ち昇らせるタバコの火だけだ。

 

––––このままでは手詰まりだ。別の手段があるとはいえ個々の消滅ができるのなら、やはりそちらが手堅い。

 

 蘿蔔ハツカに弱点のことを見破られてしまったのは痛かった。

 キッカケ自体は自分のせいだが、あの夜以来七草周りの吸血鬼たちが弱点の排除に乗り出した。結果として、弱点の入手が出来なくなった。

 ため息代わりに口から異物を排出する。

 

 まあいい、これで決心が––––そう思った時、

 

 ピンポーン。

 

 軽快な電子音が部屋に響き渡った。

 各部屋に設けられている呼び出しベルが鳴ったらしいが、この時間帯に来る相手なんて指の一本で事足りる。最悪の場合、もっと多くなるが心配はいらないだろう。

 タバコの先端を灰皿に押し付けて火を消すと、コートを羽織って玄関まで歩き出すことにした。

 

「やれやれ……はーい」

 

 壁に手をつきながら全身で盾を作るようにドアを開けると、思った通りの少年が愛想笑いを浮かべながら立っていた。

 

「こんばんは、鶯さん」

「あー……こんばんは」

 

 吼月ショウ。

 夜守コウくんと同じ学校に通う異端の少年。それは吸血鬼と共に夜を過ごしている意味でもあるし、彼の生い立ちとしての意味を含んでいる。

 昨日の今日で来たのか。

 本気で家事代行サービスをやるつもりなのだろうかと、怪訝な表情で吼月くんを見つめながらじっくりと観察する。

 服装はマトモ。メイド服と比べたら何でもマトモになりそうだが、今回は制服姿のままだった。首筋には吸血痕はなく、代わりに細かな汗が滲んでいる。走ってきたのか? それに左頬を庇うように私と目線を合わせている。特に傷もないし腫れてもいない。

 観察しているだけでは先に進まないと判断して、仕方なく口を開いた。

 

「それで……なんで来たのかな?」

「様子を見に来ました」

「よし、ならもういいな。帰れ」

「それと––––」

 

 吼月くんは言いづらそうに唇を合わせると、目線を落としてから言う。

 

「親から逃げてきました」

 

 私の視線が彼から逃げ出した。

 ホッと息をついて部屋の中への道を開ける。

 

「ん?」

「だったら、部屋の掃除でもしてくれ」

「……ありがとうございます」

 

 心臓から絞り出すように呟いた彼は年相応の心許ない存在に見えた。

 吼月くんを中へ通して、明かりをつける。事務所を引き払う時に残しておいた掃除用具が置かれたクローゼットの場所を告げると、彼は黙々と作業に取り掛かった。

 私はここの主人として椅子でふんぞり返ることにした。肘掛けに腕を置いて、脚を組みながら吼月くんの仕事ぶりを見る。

 雑巾を手にして、ベッドルームの床を徹底的に磨き始めた。

 この掃除自体に意味はない。サービスとして、三日に一度は清掃担当の人が綺麗にしてくれる。ただ、今は彼に仕事を振ってでも嫌な沈黙が訪れるのを避けたかった。

 

「親と一悶着あった所を蘿蔔に見られでもしたか?」

「……流石ですね。正解ですよ」

「逃げ出してきたのが本当とはね」

 

 親から逃げてきた––––肉親だが義父扱いである葛樹琢磨のことなのか、父の友人である神崎和也のことなのか。ネームとしては蘿蔔も当て嵌まるが、この際どうでもいい。

 大事なのは家族関連で問題があったうえ、その場面を蘿蔔に見られたなどあって奴を頼ることも出来なかった結果、今に至るということなのだろう。

 私が彼の過去を調べたことは既に知っている。

 だからこそ、私を頼ったのだろう。

 

「別にウチじゃなくても、公園の遊具にでも隠れておけば良かったじゃないか」

「警察に見つかるとまた厄介なことになりますし……以前団地の近くでパトカーがバカみたいに来てたことあったので」

 

 制服姿のまま行く宛もなかったところ、唯一吼月くんの過去について知っている私を頼ったのか。妥当ではあるな。その気になれば、私は留守番を頼んで外に出ればいい。

 彼は手を抜くことはせず、ベッドの下も余すことなく綺麗にしていく。

 ゆっくりと時間は過ぎていき、やがて床のフローリングも、窓も、ベッドのシーツさえも綺麗に整えられた。流石に彼もバスルームまでは入らなかった。

 

「……ふむ」

 

 ここからどうするべきか。

 嫁いびりする姑の如く、ダメ出ししてやろうと窓のそばまで近寄って窓枠に指を這わせる。微かな埃も逃さぬように人差し指を滑らせて、その腹を確認。

 うん。文句のつけようもないくらい綺麗だ。

 ちくしょう。自分でやるより綺麗にされてるの悔しいな。

 

「この後はどうなさいますか?」

 

 蘿蔔への接待で慣れているのか、主人に対する丁寧な所作で彼は尋ねてくる。

 食事も外で済ませてしまったし、ゴミ出しもない。事務所を構えていた時なら書類の整理などもあったのだが、ホテルに移り住む際にその辺りも全て捨ててしまった。

 椅子に座って頭を悩ませた果てに、私は逆に彼に訊ねる。

 

「蘿蔔にはいつも何をやっているんだ」

「先ほどのようにお部屋の掃除をしたり、お菓子を食べさせたり。あと一応……足のマッサージなどを」

「なら、マッサージをしてくれ」

「よろしいのですか?」

「なんだね? 私の脚を触れて、興奮しそうなのかい?」

「……違います」

 

 吼月ショウの情欲めいた話はあまり聞かない。

 付き合っている女がいる。そんな話は聞いたものの、実際は恋仲ではないことも、彼自身がフッたことも知っている。しかも、年頃の男の子にしては色欲––––夜守くんで言えば、巨乳が居るとツイツイ目で追ってしまうなど–––––がまったくない。

 今の彼は少し頬が赤くなっている。

 気分がほぐれるのは良いことだが、流石に踏み込みすぎたかな? まあ、ちょうど良い仕返し……ぐらいに思っておこう。

 

「それじゃ、よろしく」

 

 組んでいた右脚を私の下に跪いた吼月くんに向ける。焦燥感と情欲を捏ねくり合わせたような表情をする彼の鼻頭を、爪先で弄れば彼は嫌がる素振りも見せず「んかりました」と言って私の足を持つ。

 これから目の前の少年に脚へ奉仕させ、見下ろしている事実に背徳感を強く背中をくすぐる。自分が微かな興奮に湧ているのも分かった。

 

「それでは始めさせていてだきます」

 

 彼は掃除の時と同様に黙々と足ツボを押していく。

 適度な力加減で刺激されるので、痛気持ちいいという好感触。マッサージにはあまり詳しくないが、かなり上手だと思った。

 これのためだけに呼びつけてもいいかもしれない。

 

「あ"っ、んんっ……!」

「喘がないでください」

「想定より気持ちよくてな……なんだ、興奮したのかい?」

「くすぐりますよ?」

「足裏は弱いからやめてくれ……」

 

 眼を逸らすこともなく吼月くんは私の足裏に集中する。軽く指の腹が足裏を撫でるので、声を漏らしかけてしまう。

 

「くふっ–––!?」

「ふふ」

「たく……」

 

 私は口を抑えながら、彼を見下ろす。

 

––––それにしても……

 

 いつもの吼月くんならば、『頼むなら俺ではなくナズナさんにしてください』と文句の一つぐらい言いそうなのだが、簡単に従うあたり、かなり精神にきてるようだ。

 

「どうでしょうか?」

「ちょうどいいよ。足の裏が終わったらふくらはぎも頼む」

「分かりました」

「……」

 

 尋ねるか迷ってしまうが、私はしばらく考えたのちに訊くことにした。これはあくまで裏取をかねての行為である。

 

「頼ってきたのは君の過去を私が調べたからだろう?」

「……そうですね。優しさに漬け込んでしまったことには謝ります」

「なら、昨日はぐらかされてしまったから答えて欲しいのだが……キミは本当にあの葛樹ショウでいいのか?」

 

 吼月くんは目線を変えないまま呟く。

 

「【あの】というのが何を指すかは分かりませんが、死んでるはずの葛樹ショウであれば、合ってますよ」

「……そうか」

 

 私はコートから一枚の写真を取り出して、彼に向ける。

 そこにはかなり幼い少年が笑っている。小学一年生の頃の吼月ショウ––––いや、葛樹ショウの姿が映っていた。顔立ちも似ていて、写真の少年が成長したら吼月くんのようになるだろうと想像できるほど、似ていた。

 

「養子であるはずのキミと事故で亡くなったはずの葛樹琢磨の息子が、異様に似てることが気になっていた。他人の空似なのか、はたまた……」

 

 一拍置いて、深く呼吸をしてから言う。

 

「辿り着いた真相は、キミは親に殺されたままにされた。違うかい?」

「ええ。その通りですよ」

 

 吼月くんは顔色を変えずに頷いた。

 

「自分は一度死にました。けど、息を吹き返した。多分自分の異様な力が原因なんでしょうけど、その時には既に死亡届が出ていて……オジサンはそれを訂正しなかった。後のことも知ってるんですよね?」

「まあ、一応な。キミは遊園地で捨てられて、施設に送られた。葛樹……分かりづらいな。もうクズノキでいいか? 過去のキミのことは」

「別に何でもいいですよ」

「クズノキが死んだ場所が東京で、キミが捨てられたのが名古屋の遊園地。この事を考えれば、親戚の家にでもたらい回しにされた事ぐらい察しはつく。事実、名古屋にはキミの母親である葛樹真那(まの)の弟が暮らしている」

 

 再び頷く彼を見て、自分の嫌な予想が合ってしまったことに胸が苦しむ。

 どこの頭のネジが緩めば、自分の子供を死んだままにして捨てれるようになるのか聞いてみたいものだ。

 少なくとも、家族から興味をもられないというのは自分の存在すら揺らぎかねない。本来であれば心の拠り所であるはずの場所から除け者にされる寂しさも、視界すら入らない苦しさも私には痛いほど分かる。

 私も、父親の不倫によって母親が病んでからは、朝帰りをしても気付かれないことがあった。その時は思わず泣いて叫んだ。

 辛かった。

 

「口にするか迷うが、ハッキリ言ってキミの家族はクソだな。……辛くなかったか?」

「……」

 

 問いかけても、吼月くんはピンと来ていない様子で首を捻った。まるで、知恵のない人に質問を投げかけて苦笑いを浮かべられてしまった時のようなお互いの食い違いが、目の前で顕になっていた。

 

「よく分からないです。家でも学校でも殴られるか無視されるかですし、『なんで?』とすら思えないほど日常化してたので」

 

 辛くないはあり得ない。恐怖は生命の本能的な部分なのだから。当時の吼月くんは間違いなく恐怖やストレスを感じていたはずだ。

 しかし、幼いほど外部からの刺激に対する許容量が小さく、事態を正しくを捉えることができない。さらに、許容値に近づくほど脳へのダメージも大きくなり、後の生活への悪影響も及ぼすことになる。トラウマなどがいい例だろう。

 幼児への強姦や虐待がタブーとなっているのは、この許容値を容易く超える刺激を与えてしまうからだ。

 そして彼の幼少期は正しく、過負荷そのものだ。

 

「施設に引き取られた後は短期間だが学校にも通っていたんだったな」

「ええ。もっとも、俺の特異性に気づいた子から殴られるか、仲間はずれにするか……総じて『化け物』扱いです。殴ってもすぐに治るので、階段から突き落とされたり、サンドバッグにもされてました。先生も同様でした」

「知ってる。そのイジメの対象が施設の子達全体に広がったのも聞いている」

「施設の子は帰る場所も同じで周りから見ても一つのグループとして見られますからね。だから、他の子達も化け物扱いで暴力を振るわれたりして……施設でも目の敵になりました」

「よく頑張ったな」

 

 月並みだが、私にはそう言うしかなかった。

 少なくとも暴力に走っていたら、ここに彼は居なかっただろうから。

 

「いいえ。怪人はやられることが務めですから」

 

 寂しさも辛さも見せずに淡々と言ってのける吼月くんは、やはり他人とはかけ離れた価値観を形成しているように思えた。

 それは彼には悪いが、私にとって吉報にも思えた。

 

「そんな折に、俺を引き取る人がいるって話が出てきたんです」

 

 口を閉じ区切った彼は、息を吸う。

 そして、この先を私に聞くか聞かないかの選択肢をその眼で迫った。

 当然、私の選択はひとつだけだった。

 

「私は知っている––––」

 

 

 

 

「この中に里親として引き取った人達との日常が書かれているわ」

 

 そう言って、般若が蘿蔔ハツカ()に手渡したのは手帳だった。

 その手帳はショウくんの勉強机の引き出しの中にあったもの。神崎が取り出しては恨めしそうに見つめていた手帳であった。

 

「引き取った人達っていうのはご老人?」

「そうよ。年金生活と里親制度の支援金で遊び歩いてた人達」

 

 その中にショウくんの目を焼いた老婆もいる。

 つまり、彼にとっての辛い日常が記された一冊である。

 開く前に周りを見てみれば、表題には丸みを帯びた可愛らしい文字で『かんさつにっき』と記されている。しかし、本当に目が行くのはタイトルなどではなく、表紙にべったりと染みついた黒い液体であった。

 

「……血?」

 

 息を呑みながら、意を決してページを捲った。




ああ、ポストカードの吸血鬼メンバーで花火やってる絵めちゃくちゃいい〜〜!! なんでニコ先生はカメラ担当してるの……映ってよ……

と、遂に最終巻をガッチャ!したので本編バレがない程度で荒れます。

ニコ先生は変態だったし、あっくんはいい感じに思春期の男だし!ラブくんは相変わらずLGだし!セリちゃんの意見にはマジ同意だし!カブラさんはきも……面白え女だし!!
なにより◯◯◯服姿のコウくん! いい……良い……清澄さんに見られるのもいい……

 最後の四コ……八コマ漫画もとても良かった
 あとポストカード的からして春には一度、夜守君に会わずにニコ先生たちと花見しに来たの……? ナズナちゃん…?


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第七十五夜「スゴイ!ジダイ!ミライ!」

 これは自分の体をアレコレ壊して力を制御するためのトリセツである。

 目的。

 ジオウの映画?に行きたい。そのためにジジババを外の人たちに突き出してお金をもらう。

 

 今のショウくん(ぼく)の体。

 1、殴られたり、切られたりして壊れてもすぐに直る。

 2、大人を片手で吹き飛ばせるだけのチカラがある。

 

 まず1をどうにかして、傷を残るようにしないとジジババに殴られていることを証明できない。運がいいことに映像を撮れるカメラもあった。両方揃わないと、また嘘だって言われちゃう。

 2は我慢。アイツらを殴ったところで意味がない。オバサンみたいな人も作りたくない。

 期限は夏まで。今は足に霜が張るほどに寒い冬だから、少なく見積もったら6ヶ月以内には力を使いこなせるようになりたい。

 本当は今やっている映画にも行きたいけどお金もないし、行き終わったらまた地獄に逆戻りするだけだから頑張って死ねるようになる。

 探りを入れる方向性はすでに決めてある。

 クソババが僕の眼を焼く前に『殴ったらその分僕はよくなる』みたいな事を言っていた。多分、1も2も怪我をしたあとに発生するタイプ。

 

 うん。

 書き出してみたら、頭が落ち着いてきた。

 またお尻になにか突っ込まれて凄く痛かったけど、この小さなノートと鉛筆が見つかって良かった。

 これから頑張ろう。

 

––––僕は1ページ捲った

 

 ▲(七日ごとにジオウがやるので、1日ごとに個別のマークを打つ)

 今日は刺されることはあったけど、比較的殴られるのは少なかった。クソジジが腹に刺しっぱにしたカッターナイフを引き抜くと苦痛で身体が焼き切れそうだった。しかし、直ぐに完治して痛みだけが残った。そのあと自分の足首を切った。すごく痛かったし、左足がまったく動かなくなって焦っちゃった。力が全然入らない。

 癒える度に深さを変えながら足を切り付ける。深くなるほど早く直っていく。

 

––––流し読みになりかけた意識を元に戻して、更なるページへ

 

 ▼

 今日は久しぶりに顔を水につけた。

 首を掴まれた状態で、何分も息ができない水中に顔を入れていた。酷く苦しかったけど、それだけで死ぬことはなかった。馬鹿力が出る様子もなかった。

 

––––所々血で読めない場所がある。読めるところだけ見る

 

 ●

 反応しないようにするのも慣れてきた。

 拳も蹴られるのも、切られるのも身体の中を掻き回されるのも完全にどうも思わなくなっている。面白みが無さそうにぼくを見下す爺婆を見て、やっぱり怒りや苦痛は捨ててよかったんだと確信した。

 ◉

 痛みになれてくると、次第に爺婆は新しいやり方でぼくを痛めつけることにしてきた。背中を灰皿?代わりにされた。火傷は中々直らない。切りつければ直りが速くなるけど、めちゃくちゃ痛い。

 ⬛︎

 書き始めて二ヶ月ほど経った。ようやく進展があった、確信がある。

 発動条件は出血だ。

 急速に直ったり馬鹿力が出る時はいつも血が出る時だ。切り傷や内出血、食い破られた皮膚など血が出る時が直りが早く力も出る。

 逆に首を絞められたり、水に顔を突っ込まされたりした時は力が出ない。

 血が原因なら、やっぱり出てくる量や傷の深さ? あれ、血って体内にずっとあるよな? 血があるところに見えてまた別の理由? 

 少なくとも血が身体から出ることが目標なのは違いない。

 ✖︎

 ここに来て半年くらい経ったと思う。

 今日はババに椅子で殴られた。最近始まった造花作りで、ひとつだけ出来が悪かったらしい。脇腹が赤くなっていた。多分内出血ってやつだ。痛みもすぐに引いたし、赤黒い色をした肌もすぐに戻った。血が出るなら何でもいいのか?

 ババはその後すぐにジジイみたいに腰につけた棒で僕の腹の中を掻き回した。

 

––––手に力がこもって、紙が微かに破れる

 

 ◆

 お腹が空いた。

 飯が出なくなってどれだけ経っただろうか。今日みたいに時々ジジババが居なくなるタイミングがあるが、冷蔵庫にはチェーンがつけられている。意地でもぼくに金を使いたくないらしい。飢え死にもしないので辛い。

 ネズミが僕の指を食べていた。美味しいのかな。

 

––––終盤のページに差し掛かる

 

 ▼

 分かった。痛みだ。血と痛みが原因だ。

 痛みは興奮したり恐怖に震えさせたりして、感情を昂ぶらせる。叫びたくなるほどの痛みだと瞬間的に直るけど、慣れた今では数分かけて直る。心臓の鼓動が速くなるからとかなのかな。

 詳しい理屈はどうでもいい。

 欲しい未来のために捨てるべき力が見つかったのだから。できる。未来の自分を信じる。

 ◉

 まだできない。

 ◆

 まだできない。

 ✖︎

 まだできない。

 

 

 

 

 

 

 

 ●

 できた。

 

 

––––先はない。ここで僕は彼の過去を読み終えたのだ。

 

「……」

「どうだった? 少し前のあの子は」

 

 メモ帳に視線を落としたままの蘿蔔ハツカ()は、軽く呻き声を漏らすことしかできず般若の女に返事すらできなかった。

 何度破り捨てようとしたか分からない。

 わざわざ預かってのにそこから虐待して、金稼ぎまでやらせて、なにより……想像しただけで吐き気がして、直ぐに手で口を抑えた。

 

「最悪だよ……」

 

 数分経ってようやくマトモに返事ができた。

 

「元々金目当てでショウくんを預かったんだね」

「里親制度だったかしら。あれ、施設から依頼を受ける形でやってるから支援金がもらえるのよね」

「ねえ、その施設さ……ショウくんを早く手放したいから調査とかせずに渡したりしてない? 今の審査は厳しかったはずだけど」

「あの子がいた児童園は相談所も兼ねてるから、不和の元凶をさっさと追い出せた」

 

 僕はまた口を閉じて、思案する。

 施設に全ての責任があるわけではない。大元はショウくんをはじめとして施設の子達を虐めた学校の子達であり、その子達を見て見ぬふりをした学校の教師たちだ。虐待だって、ショウくんを預かった老夫婦が原因だ。

 それでも、ショウくん一人だけを悪者にして突き放したのは許せない。

 せめて……責任を持って、預ける相手がどんな人物か詳らかにして欲しかった。

 

「ねえ、このメモ帳の流れからして老夫婦たちを突き出したところまでは想像できるんだけど……その後からどうやって琢磨のもとに帰ってきたの?」

 

 僕の疑問に、入念な彼女は澱みなく答える。

 

「ショウくんが虐待を暴露するのに利用したのが、音羽探偵事務所。あのクソ夫婦の家のそばに看板があったらしいわ。で、そこと協力していたのが」

「神崎か」

「その通り。同時期に神崎も失踪した……戸籍がないから失踪ですらないんだけど、あの子を探してた。ちょうど捜索依頼が探偵事務所に来ていて、神崎に連絡が入って琢磨の下へ帰還した。お互いにとって最悪な帰還だけどね」

 

 結果はご存知の通り。

 般若はこのガランとした自室全体に眼をやって、重く湿ったため息をついた。ここまで不運にかこわれて生きてきた少年のいまが、ネグレクトのど真ん中、なのだから嘆息を吐き出したくなるのも分かる。

 関わりが少ない彼女ですら暗澹とした気持ちになるのだから、僕が辛い気持ちになるのは当然だった。

 

「過去が地獄で、今は虚無みたいなもの」

 

 今までずっと心細かったに違いない。

 

「さらに彼は神崎が吸血鬼を目の敵にしていることを知ってしまった。それも唯一繋がりがある貴方とその友人である小繁縷ミドリを敵視している」

 

 そうなったら、彼が取りそうな手段はひとつ。

 

「貴方が取るべき手段はひとつだけ。このまま受け入れることよ」

 

 彼は僕の身を守る為に、僕のそばから離れるだろう。

 

「知るか。そんなもの」

 

 

「スッキリしたよ」

 

 一通りマッサージを終えた吼月ショウ()は、処置前に比べて動きが軽やかになった鶯さんを見る。彼女はパタパタと両足を交互にバタつかせたり、ゆっくりと両肩を回している。脚だけでなく、他の部位のマッサージも行ったので結構な時間がかかってしまった。

 マッサージの途中は何気ない会話をした。

 俺の過去について知っているからだろうが、爺婆に引き取られた後の事を彼女は殆ど聞かなかった。尋ねてきたのはたったひとつ。

 

『ひとつ気になっていたんだが、あんな地獄でよくテレビなんて見れたな』

『後から聞いたけど、名古屋って東京と違って9時ちょうどからパチンコ屋が開くので開店前には出ていくんですよ。当たり続ければ一日平穏なんですけど、負けるがこむとすぐ帰ってきて俺で憂さ晴らしするんですよね……』

『パチカスめ』

 

 憎しみめいたものを一言で吐き捨てた。

 金が欲しいならわざわざ負けが多くなる設計のパチンコに金を注ぎ込むのはどうかと思う。まだ真剣勝負の競馬の方がチャンスはあるだろうに。

 床に座るとする俺に鶯さんが言う。

 

「ベッドに座ってくれていいぞ」

 

 そう促されて従うことにした。ベッドがふんわりと沈み込んで俺の体重を優しく受け止める。質のいいベッドだなと思った。

 鶯さんは虚空を彷徨わせていた両足を床にピッタリつけると、俺を見て言う。

 

「よく他人の脚を触れるよな。誰かに傅くのが好きなのか?」

「違いますよ。別に悪いことをされてないですし、人が気持ちよさそうに笑うのを見るのは気分がいいです」

 

 ふぅん……と納得いかなさそうに鶯さんは頷く。

 

「……」

 

 仕事がひと段落つくと、会話が無くなる。

 ハツカどうしてるかな……神崎の奴に襲われてないかな、大丈夫かな。神崎の関心が無くなるまで会うのは控えて、でも、ハツカに狙いを定めたなら俺が会わなくても殴り込みには行きそうだし遠目からハツカのことを見守ってそれではハツカに迷惑がかかるしどちらかと言うと神崎に張り付いてアイツの動向を探る必要があるかアイツが吸血鬼関連で恨みがあるのは間違いないじゃなきゃあんなに恐ろしい瞳の闇が現れるはずがないもし神崎がハツカの弱点を持っていたら最悪だな俺が原因でハツカに鶯さん以外の脅威を俺がいなければ良かったんだいや本当にやるべきことは分かっているだろ。

 

「っくん……吼月くん!」

「え」

「やっと返事をしたな」

 

 知らぬ間に沈み込んだ意識を持ち上げると、鶯さんがこちらを心配そうに覗き込んでいた。

 

「チェスでもやるか?」

「………あるんですか?」

「本格的なチェス盤はないが、タブレットにアプリが入ってる」

「でしたら、お願いします」

 

 なんでも良いから別の事で頭を回していないと、気分がどうきても落ち込んでしまう。部屋を照らす蛍光灯がちゃんとついているはずなのに、あたりが真っ暗に見えてくる。

 自分が正常じゃないのがよく分かった。

 理由は単純で、また逃げ出した自分がとても情けないのだ。

 

「キミが先行だな」

 

 ベッドに座り直した鶯さんと俺の間に置かれたタブレットに手を伸ばす。指定した駒の進む道を選んでいく。出番交代で鶯さんが黒い駒を動かした。

 ふたりして黙々と駒を進めていく。

 すると突然、

 

「ここに来るまでに何があった?」

「……別に何も」

「他の人には助けを求めろと言っておきながら、自分は塞ぎ込むのはナンセンスだぞ。吐き出すだけでいい。蘿蔔に言えない事ぐらいは聞いてやる」

 

 そう言われたのは勝負が終盤に差し掛かった頃。

 ハツカに負担をかけるぐらいなら、そう思って話すことにしたのだ。

 

「神崎がハツカを殺そうとしてます」

「……?」

 

 鶯さんは数秒、キョトンとして瞬きする。

 そして内容を理解した途端、出てきたのは『は?』という困惑の声。

 

「待て、奴が吸血鬼だっていうのは」

「知ってると思います。ミドリさんも一緒に名指ししていたので」

「う〜〜ん……あれか? 行方不明になっている妹さんが発端か?」

「おそらくはそうだと思います」

 

 神崎の家族構成は元々両親に加えて妹の四人。親は若い頃に交通事故で亡くしており、唯一残った家族である妹もある日を境に家に帰らなくなったらしい。

 なるほどな、と肯首しつつ鶯さんが駒をひとつ動かした。

 

「良いことじゃないか。これでキミも夜から卒業できる。なんせ、キミが居るから蘿蔔が狙われるんだからな」

 

 鶯さんは悪気があって言っているわけではない。彼女はあくまで吸血鬼の敵というスタンスなのだから。

 それでも胸の中からナイフで刺されるような痛みが走る。嗚咽を漏らしそうな激痛を押し殺して、俺は間をおかずに言う。

 

「離れたところで一度目をつけられたら何処までだって殺しに行きますよ。そういう奴ですから」

「神崎は暗殺者なのかい?」

 

 鶯さんが腑に落ちないのも理解できる。殺すという前提で考えているのは、吸血鬼を知っていることと鶯さんという前例、なにより神崎の殺気からの憶測に過ぎないのだから。

 なにより彼女が首を傾げるのは、

 

「弱点は消したのだろう? 私が言うのも変だが、心配する必要なんてないだろ」

「あくまでハツカが覚えている範囲でしか消せてません。もしその外側から私物を引っ張ってこられたら、ハツカは……殺される」

 

 マヒルやアキラたちのように事情を話して納得するならいいのだが、一緒にいる時点で即殴ってくる男に和解の余地はない。

 なら、打開策はないのか?

 そう尋ねられたら、現状を打破できる駒は存在すると答えられる。

 

「キミの力で黙らせることはできないのか? 良くも悪くもキミの力は」

「それだけは絶対にダメです!!」

 

 突然張り上げた声に、鶯さんは微かに慄きながら身体を震わせた。引き攣る彼女の顔を見て、投げ返ってきたブーメランにぶつかったように俺は居心地が悪くなってしまう。

 

「力だけで屈服させても意味がない。俺が心まで吸血鬼側(化け物)になったと誤解されるだけで、何も解決しないんだ」

 

 口調が荒くなる。

 自分が幸せになるだけでは俺は俺じゃなくなる。神崎に殴られたことも沢山あるけれど、爺婆と違って純粋な怪人(悪意)じゃない。事故で両親を亡くし、最後に残った妹さえも失踪してしまった過去から来る歪んだ善意。【家族は一緒にいることが幸せである】という価値観の押し付けで、それを覆さなければあの人も幸せにできない。

 俺も家族の楔から抜け出すことができない。

 親から離れてでも幸せになれることを証明しなければならない。

 

 これが正解なのかは分からない。

 

「それにこの力でもうオバサンみたいな人を作りたくない……」

「……どういうことだ?」

 

 恐る恐る訊ねてくる鶯さんの瞳は鋭くて真剣なんだと嫌でも理解させてくる。

 

「虐待されてた時の痛みとか記憶って結構曖昧にしてるんですけど、オバサンに殺されかける前に『いつもみたいに目を見て』って言われたことは鮮明に覚えてるんです。きっと……それは、オバサンが言いたかったことって…………」

 

 息を呑んで、僕は言う。

 

「魅了をかけて欲しかったんだと思います」

 

 交えた視線が解けて、険しかった鶯さんの眼が混迷の底に向かって下へ下へと潜るように落ちていく。理解できない様子からして、彼女も吸血鬼に【魅了】という能力が存在している確かな確証は持っていないようだった。

 けれど、鶯さんが以前言ったままの力があるとしたら––––辻褄が通ることがあるのだ。

 

「四年半前、オバさんは病院のベッドの上で死にました」

「あ、ああ……真那(まの)が病死なのは知ってるが……」

「オバサンは衰弱死で死んだんです。病死なのは、オバさんが勤めていた会社の人たちに伝えるために偽造したものなんです」

「そんなことまで。でも、病院でだろ? それに葛樹真那はかなり若かったはず」

「おかしいですよね。精神的に参っていたとはいえ、ちゃんと点滴で栄養も摂っていてカウンセラーもついていたんです。なのに突然俺の目の前でポックリ逝ったんです。俺の……クズノキの、10歳になる年のことです」

 

 眉間に皺を寄せながら鶯さんは言う。

 

「じゃあ……なんだね。母親である真那はキミを産む少し前から血を控えて、10年間吸わずにこの世を去ったとでも言いたいのか? それもキミが魅力の効果で母に血を吸わせないようにしていたと?」

「オバサンが望んだ事なのか、昔の俺が誘導したのかは分かりませんけど」

 

 俺がおもむろに頷くと、鶯さんは耳を劈くような声で否定する。

 

「バカな妄想だ! そんなこと考えなくて良い! 衰弱死だって、若い人でもなることはゼロじゃないんだ。キミはちゃんと人間だ。真那から聞いた言葉も聞き間違いでサバイバー症候群あたりが原因だろう。自罰的な思想に走るというからな」

 

 捲し立てるように声を張る鶯さんの剣幕に俺は後退る。

 聞き間違いだった?

 記憶の濁流の中に揉みくちゃにされて、自責の念に駆られた俺の妄想だったのだろうか。確かにそれなら気分は楽になる。

 でも、でも––––押し倒されて、骨を折られた感触と共に脳ではなく全身に刻み込まれたあの記憶が、俺のつくり話だとは到底思えない。あの時、確かにオバサンは俺に何かを求めたんだ。見つめるだけで何かが起こるとしたら、昔から俺の中に棲みついた異様な力だけだろう。となれば、形容する言葉は違えど、似た力を有したなにか。

 異様な力が吸血鬼の力なら、もし完全に吸血鬼になった俺はどうなる? ハツカの意思でも歪めるのか? 嫌。そんなことしたくないよ。

 俺はどうするべき––––変わらない。未来の俺を信じたなら、やり徹すしかない。人間のままいて、あの不信感を乗り越える。

 

「はぁ……はぁ……変わらない……」

「吼月くん」

「はい? ––––ん?」

 

 声に反応したとき、グラッと視界が動いて見える物の殆どが九十度傾いていた。唯一変わらなかったのは、俺を見ている鶯さんの顔だけ。鶯さんの手によって、ベッドに横にさせられたのだ。

 

「もしキミの言うとおりなら私とキミは同類かもな」

 

 投げかけられた言葉は、同情が色濃く含まれた今までより一層優しい声色をしていた。

 

「葛樹真那は自分が吸血鬼であることは知っていたのか?」

 

 尋ねられた俺は、最期に会ったオバサンの姿を思い出す–––––

 

 

 

 俺と入れ替わるようにして、オバサンは入院していた。

 場所は別だったが運んで行った救急車に書かれていた病院名を覚えていたので、自分で歩いて向かった。

 独りで会いに行ったのは、オジサンが全く興味を示さなかったのと、当時暮らしていた家の人たちからは居ない者として扱われていたからだ。

 病室に入って最初に思ったのはガランとした、寂しさばかり清潔感だった。輸液ボトルからベッドに向かって何本かの管が延びていて、そこにオバサンがいた。カーテンに遮られて光が殆どない部屋。ベッドの隣には各病室に備え付けてある花瓶に見窄らしい花が活けられている。

 ベッドは背上げされていて、彼女の顔も入ってすぐ認められた。顔色はとても悪く微かに動く口元からは『あの人のせいで……みんなみんな、消えればいいのになんで私ばっかりこんな目に……』と壊れた蛇口のように呪詛を垂れ流していた。

 幼い頃の俺でも、それが憎悪であることはハッキリと分かった。

 こちらから認識できるならば、相手も同じ。

 

『ハアッ––––ッ』

 

 息を呑んだ彼女の青白い肌に突然力がこもって、険しい表情で俺を睨みつけている。ぶつけどころのない怒りと途方もない悲しみが同居した、正しく般若の顔のようだった。

 気圧された俺はすぐに顔を俯かせる。単純に怖かったのだ。

 

『化け物め……!』

 

 そして、その選択が間違いだったと気付かされたときには、固い何かが俺の頭に激突して、耳のそばで大きな破裂音がした。目の上から伝ってきた液体を手で拭うと真っ赤な血で、あたりに散乱する花と破片から花瓶が破れたのだとようやく理解した。

 

『お前のせいだ! お前が生まれたせいだ! お前なんか本当は産みたくなかったのに、アイツらが無理やり産ませるから! それにあの人も……信じてたのに! みんなを見ていても……嫌だ気持ち悪い……!』

 

 怒りは次第に怯えに変わり、誰に対してか分からない言葉を吐き出し始めた。ベッドの上でのたうち回り、彼女の動きに従ってスタンドが倒れていく。

 部屋の中も外も騒がしくなる。

 見ていられなくなって、俺は一歩踏み出す。

 

『オバサン……』

『来るな! 化け物!』

 

 暴れた末にベッドから落ちたオバサンは、腕に切り傷を残しながらそばにあった花瓶の破片を拾い上げ俺に向ける。彼女の手から滴る物は何もない。

 

『私は化け物なんかじゃない……違う、違うなんなのこれ……』

『オバサン』

『いや、来ないで』

『なんで? なんでなの? 誰に騙されたの?』

『い––––』

 

 カタっ。

 手から滑り落ちた破片が音を立てた。

 続いて、オバサンが力無く倒れた。

 

『ん?』

 

 放心しかけた身体を、グーで太腿を叩いて起こす。

 決心して近づく。彼女の脇の横に膝をついて体を揺する。起きない。何も言わない。力も入っていなくて、少し冷たく感じられた。

 完全な異変だと分かったのは、この後で…………

 

『なんだろう?』

 

 彼女の体を揺すっていた手に違和感を感じて見てみれば、そこにあったのは––––

 

 

 

 –––––灰色の粉だった。

 

 

 

 

 思い出して、あの人は何も知らなかったと思います、と俺は言いながら、手に染みついた違和感を祓うようにズボンで何度も拭う。

 

「そうか。なら、やはりキミと私は似ているかもね」

 

 苦々しげに呟く鶯さんは、どう表情を作ればいいか忘れているような顔をしていた。瞳は真っ黒に染まった孤独な色だった。

 

「恋心のせいで家庭が崩壊して。ひとりになって、傷ついて、ちゃんと–––」

 

 自嘲するように鼻を鳴らして、彼女は続ける。

 

「申し訳ないんだがね、安心したんだ。キミが自分のことで助けを求めてきたことに」

「どういうことですか……?」

「虐待もイジメも跳ね除けて、今を過ごせているキミのことが羨ましかったんだ。人間にも吸血鬼にも優しくできる生き方もムカついたし、ナズナはナズナだと言えるその心の強さが憎たらしくて遠くに感じたんだ。

 けど、今のキミを見ているととても親近感が湧くんだ」

 

 ああ……この子もちゃんと壊れてるんだなって。

 彼女は恥ずかしそうに目を逸らして微笑む。どう返していいのか分からず、困惑しながら耳を傾ける。

 

「私は時々死にたくなる。キミは?」

「突拍子のないことを聞きますね……この間、ビルから飛び降りました」

「え? マジ?」

 

 鶯さんは絶句したように目を丸くした。

 

「まぁ……はい……そこをハツカに助けてもらったんですけど」

 

 ハツカの話題を出すと、鶯さんはこれ見よがしに顔を顰めた。吸血鬼が人間を助けた事実が気に食わないのだろう。

 しかし、不快に思ってはいないようで、顔色の中には安堵の色も確かに見えた。

 曲げないなこの人は。彼女と相対し、瞳をまっすぐ見つめる。

 

「でも、俺は鶯さんが思っているような子ではないですよ。生きてるのだって死ねないから開き直ってるだけですし、優しくするのだって魔王の言葉があったからだし。それに俺は大口を叩けるような男ではないですし」

「……魔王?」

「えっと……虐待されてたときに見てたジオウって作品の主人公なんですけど、年明けにスゴイ!ジダイ!ミライ!2022って回があったんですよ」

「頭悪そう」

「変身音なんですよ……その回で好きなセリフがあって」

 

 それは『未来の自分を信じられるなら、力を捨てる勇気だって持てるはずだ』というもので、当時の俺には誤った道に進もうとしたものを善い道へと誘う言葉に聞こえた。

 

「自分に当て嵌めると、捨てる力ってなんだろうな……って考えたら異能と現状を憎むだけの心だなって思って、それを捨てることにしたんです。そしたら、爺婆も哀れな人たちに見えてきて、どうせ治って諦めがついて騒ぐ気力も無くなったんです。代わりに頭を回して、今を掴み取りました」

 

 力や憎しみを捨てる考えを持たなければ、いつ暴発して爺婆を殺していたか分からない。

 捨てることとは、忘れること。

 忘れることとは、何か別のものと入れ替えること。

 俺にとって幸せへの欲求が怒りの代わりで、優しさが憎しみの代わりだったのだろう。

 

「……私を助けようとするのは実体験からか」

「それ以上に鶯さんには怒りや憎しみだけで、今も先の未来も終わらせて欲しくないんです。優しい日向に向かい続ければ幸せになれる。鶯さんの日向が見つかるまで一緒に居たいんです」

 

 きっと彼女も幸せになれる。

 だから俺は決して止まることは許されない。関わったのなら最後まで尽くす義務がある。

 

「なら、私もだな」

 

 俺が頭にハテナを浮かべていると、再び彼女の腕がこちらへ伸びてきた。ずるっと引き寄せられて、両頬を女性特有の柔らかい感触が覆う。

 はにかみ笑いを作れるだけの余裕は俺になかった。

 

「私もキミのそばに居よう。信じる事の出来ない相手が集まる学校では虚勢を張り続けて、恋をしてはいけない相手との未来を賭けたよふかし……心の底から気が休まる時はないだろう?」

「違いますよ。嘘をつかなくていいから、なんでも直球で言ってくれると思ったハツカだから」

 

 首を小さく振りながらも、優しい声と温もりに身体の力が緩まる。

 ハツカに抱きしめられた時と同じような感覚に陥りながら、俺は大した抵抗をすることなく彼女の話を聞き続ける。

 

「……それもだ。私と居ても虚勢を張っているだろう。それはもうやめてくれ。私のそばに居れば、いくら弱点を持っていないとはいえ蘿蔔が近づいてくることもない。逆にキミが神崎の手から蘿蔔を守りたいと言うなら好きにするといい。止めても無駄なのは分かってる。神崎とのクッションにだってなってあげよう」

 

 正直な話、魅力的な内容だ。

 ハツカとの距離も置けて、自由にハツカの警護ができて、神崎と話す際に間に入ってくれる。無闇にハツカを危険に晒す必要だってなくなる。鶯さんの世話だってできる。入り浸っている理由だって、道のどこかで野垂れ死かけていた鶯さんの日頃の世話をやいていると言うことにすれば神崎も納得するだろう。

 少なくともこれ以上、ハツカと神崎が接点を持つことはない。

 

「どうだ? 私に雇われてくれないかい?」

 

 彼女の問いかけに重ねるようにして、胸の中で這いずる気味の悪い衝動が再び胎動を始める。

 

––––手を掴もうとしてくれたハツカから逃げた俺が、今更アイツと向き合っていいはずがないだろ? 今度は逆の立場で失敗したお前をアイツは認めてくれない。

 

 心の中に住む不信感()がつらつらと言い当てる。

 頭を優しく撫でられる。

 

––––神崎は吸血鬼を殺す。だから、俺も殴られるのか。ハツカも同じだ。俺がいるからハツカは殺される。

 

 化け物()が居るから殺される。やっぱり僕は生きてちゃいけなかったんだ。

 抱きしめる力が強くなる。

 

「壊れた者同士、末長く仲良くしよう」

 

––––信頼したい相手を神崎なんかに近づけたくないだろ?

 

 次第に頷きたくなって、俺は鶯さんの顔を見上げる。

 

「ぼ……俺を」

 

 ハツカとの約束がよぎり、言いなおす。

 ゆっくりと動き出す唇と喉にエネルギーをもう一度流し込む。

 

「雇ってくださ––––」

 

 言い切ろうとしたその時。

 ブブブブーーーー!!と大きなバイブ音が足元から響き渡った。

 

「はい?」

「え?」

 

 なんとも都合のいい––––まるで俺の言葉を遮るタイミングで鳴ったのはスマホ。今も震え続けるスマホに手を伸ばして、彼女の膨らんだ胸元から脱出して画面を見つめる。

 

 そこに書いてあった名前も、なんとも最高の相手。

 

「ハツカ……?」

 

 なぜハツカが電話をかけてくれたのかことだけが分からなかった。

 ああ……でも、ハツカの声が聞こえる。



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第七十六夜「日向へ」

『ショウくん、話したいことがあるんだけど』

 

 ハツカからの電話を思わず取ってしまったが、出るべきだったのだろうか?––––遅すぎる疑念を抱きながら、俺と鶯さんはスマホを眺めていた。

 身体を抱いてくれていた腕は離れ、ベッドに横並びでうつ伏せになっている。

 チラリと横目で鶯さんを見れば、『なんで出たのさ』と言わんばかりの不服そうな顔をしていた。反射的なものだったからどうしようもなかったんだ……。

 ふたりして沈黙していると、ハツカが怖いことを言う。

 

『聞こえてる? 聞こえてるよねショウくん。探偵さんと見つめあうじゃなくて僕と話して欲しいんだけど』

「……」

「ええ……」

『ええ、じょないよ探偵さん』

 

 開いた口が塞がらないというのは正にこの事だ。

 ハツカの口調に最前に会った時のような焦りはない。淡々と俺を追い詰めるように話す彼は、何故か俺の現状を把握していて、どうやってか俺と鶯さんのやり取りを見破っている。

 まるで監視されているかのようで背筋が寒くなる。声こそ穏やかだが、スマホの向こう側にあるハツカの顔はきっと目元に陰がかかった冷酷なものだろう。

 

「ヤンデレストーカーみたいなことしてるのか? コイツ……」

 

 鶯さんも似た懸念を抱いたようで、窓の外へ目を向けていた。

 

『返事をしなさい。さもなければ、探偵さんの家に突撃する』

「なんで知ってるんだよ……」

『キミが知ってることを僕が知らないわけないだろう』

 

 ひっそりと呟いたのにやはり聞き取られていて、首が締め付けられるような錯覚に陥る。飼い主に首輪をキツく締められる犬のような気分だが、悪い気はしなかった。

 

「おい、蘿蔔」

『なんだい探偵さん?』

「どうやってこちらの事情を知っているのかはこの際聞かないが、この子はキミとは会いたくないんだ。もう切らせてもらうぞ」

『切るのは別にいいよ、そっちに行くだけだし。ただね、ショウくん』

 

 話があるという割には特に焦る様子も見せないハツカに、鶯さんは怪訝な表情でスマホを睨みつける。

 ただ、俺には彼の意図はなんとなく分かったし、次にハツカがなにを紡ぐかも想像できていた。

 それは––––

 

『そのまま止まってるつもり?』

 

 俺の退路を断つための言葉。電話越しだというのにどっしりと目の前で待ち構えているように思えた。

 

『それじゃ、迎えに行くよ』

 

 ハツカが言い終えると、プツー……と電子音が静まり返った部屋に響き続ける。繰り返される電子音が次第に遠退いて、俺の中に響く音が鼓動に変わっていく。

 

「行かなきゃ」

 

 逸る気持ちに鞭打たれた身体はベッドから立ち上がり、玄関の方へと足を進める。待ってくれてるんだ。なら、行かなきゃ。俺にはその義務がある。

 しかし、俺の意思に反するように退路へと引っ張る力が身体にかかって足を止めてしまう。

 

「……鶯さん?」

 

 不思議に思って振り向けば、上半身だけ起こした鶯さんが俺の腕を掴んでいた。幼い子供のような瞳で俺を見上げている。

 

「わざわざ行く必要はないだろ」

 

 彼女の力が強まって、俺を逃さない……逃したくない意志が強く感じられた。

 理由はわかる気がする。鶯さんは俺の事を同類と評して、優しく抱きしめてくれた。それは憐れみなんかじゃなくて、本当の意味での同情だ。10年間吸血鬼と独りで戦い続けて見つけた、似た傷の持ち主。

 

「鶯さんは俺と一緒に居て、孤独を埋めたいんですか?」

「……ッ」

 

 彼女は開きかけた唇が硬く閉じられて、歯を食い込ませた。目線を泳がせているのも考えて、本心を言い当てれたと見ていい。

 鶯さんが慰めたいのは俺ではなく、自分自身だ。

 死にたいと言った彼女の根本的な原因は、生きていく甲斐を見つけられないからだ。本当に殺したい相手は何百年と生きている星見キク。弱点なんて見つからない。そうなれば、彼女が今までやってきた10年間の努力が徒労に終わってしまう。嫌だと思えば思うほど不満は溜まっていき、最後には現状への失望になってしまう。

 ようやく見つけた新しい存在意義を失いたくないんだ––––と考えてしまうのは、自意識過剰だろうか。

 鶯さんと寄り添うキッカケに俺の過去が使えたなら、とても嬉しいことだった。あの過去にもやはり意味はあるのだ。

 

「キミがトラウマを治すために蘿蔔と一緒にいるのは分かってる。けど、それは治さなきゃいけないことなのか? 蘿蔔じゃないといけないことなのか?」

「……そうですね。以前の俺なら多分、鶯さんの言葉に従ってたと思います」

 

 今はお互いの気質によって保たれているが、理世との仲が不信感によって拗れかけた。

 そして、今日もまた拗れた。

 

「キミの母親を見捨てた奴の仲間だぞ」

 

 昏く沈んだ縋るような声が耳朶を打とうとして、俺はそれを跳ね除ける。

 

「だからこそ、俺にはハツカと向き合う責任がある」

 

 同種だからこそ、今度こそ逃げずに見定めなければいけない。

 

「俺はハツカと居るのは純粋にあいつがカッコいいと思ったからです。自分の欲求に対して凄く素直なんだけど、ちゃんと周りを見て一線を越えずに最善の行動を取ってくれる。どんな言葉も裏表なく言ってくれると思って、心地よい場所だと思ったんです」

「……嘘をつかないなんてあり得ないだろ」

「そうですね。最初は本心だと考えようとした言葉も、過ごしているうちに吸血鬼として俺を落とすための言葉だと思うようになりました。今日だってハツカの言葉だけじゃなくて、気質も疑った」

 

 何故ハツカが俺に優しくするのかは分からない。けど、せっかく彼が掴んでくれた手が怖くなって離してしまった。

 逃げ出したのはハツカに危険が及ぶ事を憂いただけじゃない。過去を知った彼に後ろ指を刺されるのが嫌だったんだ。ハツカがする筈ないと思っているのに、どうしても不安が拭えない。

 

「私だったらそんな事はしないよ」

「……どうですかね。そこはハツカと同じで、今はまだ多分言い切ることはできません」

「トラウマっていうのは、自力で治そうとして治るものではないよ。キミのやっていることは意味がない」

「かもしれませんね」

 

 彼女の言う通りで治る気配なんて全くない。

 だからこそ、証が必要なんだ。自分の信じたいという気持ちを勝たせる証が俺を導いてくれるはずなんだ。

 けど、今は順序が違う。

 俺は空いた片手の掌を見つめる。

 

「ハツカは解いた手をもう一度握ろうとしてくれてる」

 

 証が試練となっている。

 信じて欲しいという相手の手を掴めるか。手を掴むことこそが試練であり、証になっている。それは当然のことで、結局のところ『信じてよかった』『信じてはいけなかった』なんて結果は進んだ先にしかない。

 今までは元々ある証を手にして、盾や剣にして進む事を考えていた。

 けれど、それだけじゃない。

 信頼の証とは安息地でもあるのだ。

『安眠というのはね、今日が良かった、満喫したなっていう心地よさに成り立っているのさ』とハツカは言っていた。

 つまり答えはベッドの中にあるのだ。今、自分の選択に後悔がなければ、満足して眠ることができる。先のことは分からないが、未来に不安はなく大丈夫だと言いはれる。

 なら今、どうする?

 

「俺は応えないといけない。俺の安眠にはハツカも必要だ」

 

 差し出された手を掴むんだ。自分の手で安眠を創るんだ。

 だから仁湖さんには悪いが、もう一人、俺の力を知っている人間を増やさせてもらう。

 

「え?」

 

 鶯さんごと俺の腕を引っ張り上げれば、彼女は驚愕の色に顔を染めて先ほどまでの暗さを見失う。そして、俺の両腕で抱えられた彼女は目をパチクリとさせながらそのまま固まった。

 

「…………? ……ちょっと待て! 待て!!」

「どうしたんですか? 暴れられると落ちますよ」

「いや、なんで? 私をその……抱えて?」

「だって鶯さん、俺と居たいんでしょ? でも俺はハツカとも会いたいし、なら連れて行くしかないでしょ」

「置いていけばいいだろ。わたしなんて」

「ダメですよ。俺の安眠にはキョウコさんも必要なんですから。嫌でも連れて行きます。一緒に日向へ行くことを約束しましたし」

「……強情だな……キミは」

 

 茫然としたままのキョウコさんを抱えて玄関へと向かう。

 すると彼女は、はにかみ笑いを浮かべながらポツリと言った。

 

「せめて外に出てから抱いてくれ」

 

 

 

 

「さて、どうしたものか」

 

 蘿蔔ハツカ()はいま、夜空を闊歩している。薄らと光る星々に近づいては離れてを繰り返しながら探偵さんの家へと近づく。近づいているはずなのだけれど、どの建物なのだろうか。

 

「般若から教えてもらった方角はこっちだけど……」

 

 般若から探偵さんの家を聞き出そうとしたが、頑なに拒否されてようやく聞き出せたのがどのあたりにあるかだけ。一戸建てなのか、賃貸なのかすらも分からないまま進んでいる。

 コッチに来るまでに、久利原に電話して簡単に寝泊まりができるマンションやホテルはないか確認済み。久利原が言うにはビジネスホテルが怪しいとのこと。

 

「ま、ショウくんの家との間にいれば見つかるだろ」

 

 盗聴器が仕掛けられていた以上、あの家にもまだ見つかっていない物もあるかもしれない。本当なら彼が来るのを待ちたかった。僕の信頼に応えてもらいたかったのだが、神崎に聞かれる危険を冒すのは僕としても、ショウくんとしても認められない。

 どこでどう聞かれてるか分からないのだ。

 現に––––

 

「見つけた」

 

 不安に駆られる中、僕の瞳が急速に近づいてくる人影を捉えた。

 僕の声が微かに、だけど確かに弾んでしまった。その声は目的の人物のとても平坦な声と重なっていてニヤリと笑いたくなる。

 そして、やっぱりか、と言いたくなる様子の彼に僕は肩をすくめる。

 どこかの……一際高く夜空へと伸びるビルの屋上に僕とショウくんは着地した。

 

「ホント、きみは」

 

 彼の腕には探偵さんが抱きかかえられており、かなりの速度で街を飛び回ったからか彼女の目尻には涙が溜まっている。下された探偵さんが膝に手をつきながら、明後日の方角を向いて息を整えている。

 

「はぁ……はあ……早いよ吼月くん……」

 

 彼女から視線を外し、ショウくんと相対した。

 宝石のような美しさを持っている葡萄色の瞳が瞬きをした瞬間、薄らとした輝きを秘めた黒色に変わる。

 

「……ハツカ」

 

 口を開けば、気まずそうに僕の名前を呼ぶ。

 しかし、彼の声に応答することもなく足早に近づいて手をあげた。スッと伸びた手にショウくんは一瞬固まるが目を背けることはなかった。

 逃げ出した自分は殴られても仕方ないとでも思ってるのかな。

 

「叩くとでも思ったの」

 

 僕の言葉に彼は不思議そうに瞳を動かした。僕が触っているのはショウくんの制服の襟で、そこに隠れた異物を指で摘んだ。

 引きがして掌に乗せる。

 取り外された黒く小さな異物をショウくんは覗き込んで首を傾げる。

 

「え、なにこれ」

「……蘿蔔、お前……盗聴器は気持ち悪いぞ……?」

「は!? 盗聴器!?」

 

 震えから復活した探偵さんも一緒になって覗き込み、一瞬で異物の正体を言い当てた。自分の身体に盗聴器が仕掛けられていたことに流石のショウくんも驚きを隠せない。

 僕が仕掛けたと思われているのが腹立たしいので、握りつぶした上できちんと訂正させてもらおう。

 

「仕掛けたのは神崎。僕はそれが拾った音声を利用しただけ、家も仕掛けられてたよ」

「うわウッソ……気持ち悪、あの野郎プライバシーってものがないのかよ」

「多分僕と接触するか盗み聞きするためのものだろうね。ほら、他にも仕掛けられてないか見るから万歳して」

「わ、分かった」

 

 薄気味悪くて身体を摩っているショウくんの腕を、月に向かってピンと立たせる。彼の服に手を這わせながら確かめていく。探偵さんも「どれどれ……?」と一緒になって探す。

 大人二人が子供の身体を(まさぐ)ってモジモジと小さく震えさせるのは背徳的というか、淫靡な雰囲気を周囲に漂わせる。

 

「んっ、んんっ……あの変なところ触らないでくれませんか? 主にキョウコさん、絶対脇とか関係ないですよね? ハツカも尻触らないで」

「あるかもしれないだろ? 次は脚を見てみるか。脱ぎなさい」

「触ってるのはポケットだが? 横のポケット……太もも辺りも見てみるか」

「絶対俺をいじって楽しんでるだろ!?」

「まぁまあ」

 

 一通り盗聴器がないことを確認し終えて手を離す。ショウくんは安堵の息を吐くと、すぐに髪の毛の中に両手を突っ込んでぐちゃぐちゃに掻き乱す。

 

「さっきの会話も聞かれてたのか? はぐらかした意味がねえじゃねえかよ! どうするかな……もう殴り込みにいくか? バレたなら時間勝負か。所長に言えば本当に必要な時以外関わらなくて良くなる気がするし……」

 

 ショウくんの不安はもっともだ。僕を殺すかも知らない相手が、自分の服に盗聴器をつけていたのだから不安に思わないはずがない。慌てながらも解決策を見出そうと考え込む彼は細々とぼやく。

 身をすくめている彼を微笑みながら見ていると、横目に探偵さんの姿が目に入る。

 タバコを一本取り出して火をつける。白煙をもくもくと星空に伸ばして、おもむろに息を吐く。

 

「おい、蘿蔔」

「なんだい探偵さん?」

 

 声をかけられて彼女へ身体を向ける。

 臨戦体勢も忘れずに。彼女の内心も知っているとはいえ、今も変わらず吸血鬼にとっては敵なのだ。

 探偵さんの雰囲気も少しピリついている。

 緊張の系を張りながら彼女が口を開いた。

 

「……本当のことを言わなくていいのか?」

 

 さすが探偵、と褒めておこう。状況と流れをよく読めている。

 

「悩み中。僕のことで必死になるショウくんをもう少し見てたいんだよね」

「悪趣味だな」

「だってあの子、今まで僕の為に必死になることってなかったし新鮮でいいんだよね。それに同情を使って、ショウくんを自分のものにしようとした探偵さんには言われたくない」

「チッ、腹はやっぱりドロドロだな。支配欲しかないのか」

「支配欲だって悪いわけじゃないさ。相手に自分を見て欲しいという純粋な思いなんだからね。もちろん行き過ぎには注意だけど」

「洗脳して恋させるお前がそれを言うか?」

 

 呆れた口調で言われてムスっと口を尖らせる。洗脳の何が悪いんだ。欲しいから僕を必要とするように誘導するだけなのに。

 文句を言った本人は僕の不服を鼻で笑いながらショウくんに声をかける。

 

「心配する必要はないと思うぞ」

「え?」

「聞こえてる可能性があるならまず電話じゃなくてラインかメールにするだろ。なのに電話だったということは神崎には既に伝わらなくなっていると考えるのが筋だ。……そうだな、後で聞けるようにクラウドに保存されてるとしたら本来の保存先とは別の場所に転送されるようにしたとかか?

 蘿蔔が保存先を知ってるとは考えにくいし、大方この間の爆竹女が教えたんだろう」

「正解」

 

 僕はおもむろに肯首する。

 付け加えれば、本来の保存先には別の音声が転送されるようになっているらしい。探偵さんも察しているだろう。

 この洞察力が敵なのは本当に厄介だ。対峙する時は準備をする時間を与えずに、動揺を誘ってマトモに思考できなくさせるのが1番だ。

 僕らの話を聞いたショウくんは、数秒で話を噛み砕いて「あ……そっか」と肩の荷を下ろすように呟いた。

 

「だったらなおさらさっきの身体検査いるの!?」

「じゃないとキミ、暗くなりっぱなしじゃないか」

「それはハツカもだろ!? あんなに取り乱して!」

「あんなの見せられて取り乱さない方がどうかしてるよ」

 

 友達–––悲しいことにまだ友達–––が傷つけられて黙っていられるような男じゃないのは彼も知っているだろうに。感情を表に出しすぎたのは確かに失敗だっただろうが、それぐらいこっちも必死だったのだ。

 

「別になんでもいいじゃないか。必要なのは僕に会いたいという心意気だけで、結果としてキミは来てくれたわけだ。他の暗い気持ちなんてビルの下にでも放り投げておけばいい」

「……俺、なんて謝ればいいか考えてたのに」

「謝る意味ある? キミがしないといけないのは、そうだな……」

 

 ショウくんは悪さをした子供が親に叱られることを怯えるように身をすくめて、俯いた。そんな彼を見て、僕は元より決まった答えを思案するような仕草をしてから、微笑みながら垂れた顔を手で持ち上げる。

 

「一生僕のそばにいて、僕を守ることだ」

 

 色んな想いが透けて見える。僕を突き飛ばした罪悪感、僕を傷つけてしまうかもしれない戸惑い、それでも僕と一緒にいたいと願う強い思いと嬉しさが撹拌された色が顔にベタ塗りされている。

 吸血鬼だからこそ分かる。吸血鬼で良かったと思える。

 いまここで血を吸ったら最高に美味しいだろうな––––本能の声を抑え込む。血を飲んで答えを得るなんてナンセンスだ。

 

「それでいいの……?」

 

 ショウくんが恐る恐る口を開いて、呟いた。僕への問いかけにも思えたし、自分自身への問いかけにも聞こえた。

 まだ不安があるのだろう。

 僕は手を差し出した。

 

「嫌なの?」

「嫌じゃない。嫌じゃないよ!」

「約束だから絶対に守りなよ?」

「うん……うん……!」

 

 何度も頷き僕の手を掴んだ彼の瞳は赤く腫れている。涙を流してはいないが、まるで咽び泣いているようにすら見えた。

 キミはちゃんと泣けたことがあるのかな。

 僕はもう一度優しく抱きとめる。

 

「あー……もう、口調が崩れてるよ。人前では僕っ子は隠すんでしょ」

「なら言わないでよ……」

「押し通そうなんて無理に決まってるよ」

 

 当事者である探偵さんは神妙な顔をしていて、腕を組みながら僕らを見ている。

 彼女ならショウくんの人柄を見抜くことは容易く出来る。

 人間である自分ではなく吸血鬼である僕を選んだことが不満だが、彼の境遇を考えると人間の中で暮らすよりも吸血鬼として暮らす方がいいのでは判断せざるおえない。

 吸血鬼を憎む探偵さんにとっては苦渋の決断だ。

 

「妬けるな……」

 

 溢した言葉に僕はニヒルに笑った応える。

 

「これが救われる側と救う側の違いさ」

「腹立つ言い方するな……!」

「だったら友人との喧嘩ぐらいはやりきりなよ」

「……」

 

 今度は探偵さんが口を尖らせて顔を逸らす。

 

「なんで口喧嘩してるの……?」

「キミのせいだからな」

「なんでえ!? いや喧嘩なんかしないでさ! 月綺麗だから三人でお月見しようよ!」

「1ヶ月遅れてるよ〜」

「いいじゃねえかよ、時期なんてさあ! ね、キョウコさん!」

「それはダメだなあ、風情が崩れるぞ」

「ええ……」

「はは、冗談だ。キミの友達は乗り気じゃないみたいだし、2人でやるか」

「分かりました!」

「やらないとは言ってないだろ!」

 

 なんだろう。

 ショウくんと話していると楽しい。敵であるはずの探偵さんとも軽口を叩きながら一緒に居られるという不可思議な空間で、僕の笑い声が夜の街に小さく響いた。

 そうして夜空を見上げれば雲がはけて、顔を出した月がいつもより強い光で僕らを照らしている。心地よい光を浴びて僕は伸びをする。

 

 

 

 良かった……戻ってきた。

 

 

 

 

 

 ああ……失敗失敗。別れさせようと思ったのに、結局ショウくんと蘿蔔が仲良くなるだけだった。

 目的は果たされなかった。

 にも関わらず、そこまで落ち込んでいない自分に驚いていた。

 

「あの子にとって人間でいるのも吸血鬼でいるのも苦痛だろうし。茨の道なのは変わらないわね」

 

 心許ない淡いオレンジ色の光を放つ街灯の上に立っている。目と鼻の先に真っ黒な夜の中に異彩を放つ真っ白な一軒家が建っていて、一階には灯りがついているが、二階の部屋はすでにカーテンが閉じられている。

 手頃な足場に乗り移りながら私は屋根に降り立ち、二階の窓のそばにやってきた。

 

「どちらも不憫ね」

 

 憂鬱に頭を悩ませながら窓をすり抜けて部屋の中へと侵入する。かおにかかったカーテンを片手で払い除ける。

 部屋はこぢんまりとした子供部屋。でもテレビやゲーム機、漫画といった娯楽らしいものは目につかず、ベッドや学習机が置かれているだけの子供らしくない部屋。

 ここはショウくんの部屋と似ているが、理由が少し違う。

 

「……」

 

 フローリングの床に足を滑らせてわざと、キュっ、という異音を放つ。すると、ベッドから物音がしてシーツが動き出す。

 

「今日も来てくれたんだ、鬼のお姉ちゃん」

「仕方なくね」

「えへへ、ありがとう」

 

 ひっそりとした声で話しかけてくるのは中学生になったばかりの少年だ。携えている黒髪が暗闇に溶け込んで、顔だけが宙に漂っているようだった。

 

「またゲームしながら、お兄ちゃんのお話聞かせてくれるの?」

「今日はとびきりのネタがあるわよ」

「どんなの?」

 

 階下にいる人物にバレないよう声は小さいものの、ベッドから身を乗り出して興味津々といった様子だ。

 

「そうね……キミのお兄ちゃんがメイド服を着てるなんて言ったら信じる?」

「メイドお兄ちゃん–––!」

「相変わらず変な子ね。ならゲームを始めましょうか、翔くん」

「うん!」

 

 私は服の内側から取り出したゲーム機を少年へ分け与えた。

 ……本当に不憫ね。



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第6話
第七十七夜「住んでる」


「お邪魔します」

 

 ハツカが開いたドアを潜って、彼の家に入っていく。ここ一ヶ月、入り浸っている部屋なのだが今日は一段と緊張して、いつものハツカの家じゃないみたいだ。

 妙にソワソワして顔があっちこっち動いて落ち着かない。

 どうしてかというと––––

 

 

 

 

 

 

「ショウくんさ、もう僕の家に住みなよ」

「はい?」

 

 彼が言い出した一言から始まった。

 それはビルの上でハツカと和解して、コンビニで仕入れてきた饅頭をキョウコさんも含めた三人で食べていた時だった。餅は売り切れて置いてなかった。

 ポカンとしている俺に対して、キョウコさんが反論する。

 

「わざわざ神崎に狙われる貴様の家に住まわせる必要はないだろ。蘿蔔よりも私の家の方が良いし、生活費ならこの子から貰ってる」

「こればかりはキョウコさんに賛成かな。俺がハツカの家に住んでるってバレたら突撃してくるだろうし」

 

 今は誤魔化せてるし、ハツカとミドリさんを警戒はしても早急に殺しにかかる可能性はないはずだ。しかもハツカが一人でいる時は少ない。ハツカの弱点を持っていたとしても、俺がそばにいるし、久利原たちだっている。流石にあの三人の弱点まで全て持ち歩くことはできないだろう。

 どちらかというとミドリさんの方が心配だ。

 

「わざわざ餌をやって引き寄せる意味がないのはそうだ。けど、探偵さんに預けても結果は変わらないと思うよ」

「というと?」

「あの人はショウくんと吸血鬼が接点を持つこと自体が嫌なんだ。ゔぁんぷの写真は積極的にミドリちゃんの傍にいるわけじゃない。現にキミの隣に映っているのは倉賀野ちゃんだ。だから、探偵さんも排除の対象になるかもしれない。

 なら、基本的に死ぬことのない僕の方が安全だろ?」

 

 その物言いにキョウコさんが少し驚いた様子を見せる。

 

「貴様が私の身代わりになる……と言いたいのか?」

「僕がショウくんを飼い殺しにしたいだけだよ」

「なあ、吼月くん。やっぱりコイツはやめておきなよ。怖いぞ……?」

「ハハハ。でも、ハツカは会った時からこういう奴なのは知ってますし。ハツカにも一理あります。それに盗聴器のことを考えれば、所長に話して行動を制限してもらうこともできるかな」

 

 驚きもすぐに呆れに変わってしまうのだが、率直なハツカらしくて良い。ただ親の一面も見せる自信があるとはいえ、ハツカにとっては眷属は基本的に従者とかペットでしかないんだなと、少し寂しく思う。やはり眷属になることはないな。

 

「もし危なく思ったらキョウコさんが俺を引き止めてくださいね」

「分かった。その時は私が一生ペットとしてキミを飼ってやろう」

「なんでアブノーマルな方に行きたがるんですか。別にキョウコさんになら飼われてもいいですけど」

「僕のだぞ」

「分かってるよ。もう揃って首輪でもつけてくれ」

 

 約束を守りつつ、神崎を縛れる。

 それにハツカが望んでると口にするなら、彼の言葉を信じよう。

 

「よし、ハツカの家に住むよ」

 

 

 

 ––––そう、腹を括ったのだが。

 

「芋虫の行進みたい」

「モジモジするのは仕方ないじゃん」

 

 一ヶ月前までは友達の家に泊まることすらなかったのに、今ではその家に住むことになった。浮き足立つとは少し違う、喜びと不安が混じった空気に包まれるようだ。

 

「生活費は気にしなくていいよ。探偵さんからコレ預かってるし」

 

 ハツカが懐から取り出したのは茶封筒だ。以前、僕が契約金としてキョウコさんに渡した50万が入っている封筒で、チラリと中にある金額を確かめる彼は驚愕していた。

 ハツカに渡した張本人は、押し付けるようにして『やることがあるから』と饅頭を食べたあと屋上を去った。引き止めたのだが、『イチャイチャを見せるな』と突っぱねられてしまった。

 

「これなら食費とか賄えるだろうし、問題ないでしょ」

「そっか、よかった」

 

 少し肩の荷が降りた気がして、体が軽くなる。

 

「久利原たちは?」

「少し出てもらってる」

「話しておかないと大変なことになりそうだな……」

「わざわざ言う必要あるの?」

「ハツカの眷属だってこと忘れてる?」

 

 三和土で靴を脱ぐとふたりで通路を歩いていくと、ハツカが訊ねてくる。

 

「あの盗聴器だけで神崎に釘を刺せるの?」

「そこはご心配なく。もっと重大な物を打ち込むから」

 

 僕がズボンのポケットから取り出したのは、お馴染み便利アイテムのスマホだ。アプリを開いて、再生ボタンを押せば––––

 

『ねえ、なんでキミが奴らと一緒にいるの?」

「待って! やめ!』

 

 僕が殴りつけられる音ともに、神崎との一部始終が収められた音声が流れ始める。

 

「一応テレビに出れるくらいには身分がある弁護士なんだ。事務所としてもそんな人物が子供を虐待してるなんて公にしたくないだろうし、交渉はできると思うよ」

「抜かりないな」

「ふふ。殴られたのも今日だけじゃないしね」

 

 家で殴られた時の映像を晒すことだって僕には可能だ。オジサンも鬱陶しくしているだろうし、そこに付け込めば社会的な立場を無くすなんて簡単にできる。

 

「だから、大丈夫だよ。無償にしてくれるだろうし」

「もうお家芸だね」

 

 関心しながらも呆れた口調で言うハツカは、リビングのそばにある脱衣所の前に通りかかると立ち止まった。

 

「ショウくん、まだ風呂に入ってないでしょ」

「そりゃ入ってないけど……」

「温まってきなよ。もう入ってるから」

「いつの間に……」

「今の世の中は便利だよね。スマホひとつで風呂が沸かせるんだもの。それに走ったのか、キミ、少し汗臭いしさ。ほら入った入った」

「え、ちょっと」

 

 半ば強引に脱衣所に押し込められる。

 汗臭いと言われたら疑問符を浮かべるが、吸血鬼になると臭いにも敏感になる。ハツカに不快な思いはさせたくないので渋々服を脱ぎ始める。

 服を畳んで浴室に入ると、ほんわかとした暖かい空気に身体中がうっとりする。

 シャワーで汗や汚れを流してから、人ひとりが入るにしては大きい湯船に浸かる。

 

「はあ……はあ……」

 

 1日の疲れによって汚れた空気が温度を上げながら体内から這い上がってくる。吐き出す回数が多くて、今日の疲労が並々ならないものだったとおもい知る。

 ひったくり犯にであった。神崎に殴られた。

 心が跳ねるように嬉しいこともあったけれど、疲れの密度があまりにも大きく疲弊はもう隠せなかった。いや、ハツカから『そばに居ていいよ』と言われた時点ですでに破綻してたものが倒壊しただけだ。

 

「力が出ないな……蘇生しなきゃ……」

 

 人間 温かい風呂に入れば復活できる、と言うしな。

 身体が更に湯船の中に沈んでいき、水面でブクブクと泡が割れ始める。次第に溺れ始めて呼吸ができない。でも暖かくて、羽化前のサナギが繭にくるまる時のような心地よさ。

 

I'll be back(ぶくぶくぶく)……」

 

 おっとりとした気持ちのまま、親指を立た右手だけ突き上げる––––と、

 

「なにやってるの!?」

 

 勢いよく引き上げられて、そう叱られた。

 

「……? あれ、ハツカ。どうしたの?」

 

 目の前には浅い呼吸を繰り返すハツカがいる。

 

「それはこっちの台詞……! なに!? もうのぼせちゃったの!?」

「いや風呂が気持ちよくて……」

「だからって寝ちゃだめだよ……心臓に悪いな……動いてないけど」

 

 掴んだ手をゆっくりと下ろしてハツカは安堵の吐息をはくと、そのまま湯船に脚を入れ始める。

 彼の姿を見直せば、なぜか裸だった。

 気がつけば僕は背を向けて、また口許が沈むぐらいまで湯船に浸かる。

 

「どうしたの?」

「それはこっちのセリフなんだけど。なんで裸なんだよ……!」

「風呂に入るからに決まってるじゃん」

「いや出てけよ!!」

「入っていいか聞く前に君が溺れてたから入ってきたんだけど」

「うぐっ」

 

 痛いところをつかれて押し黙るしかない。

 ぽちゃんと微かに水飛沫が飛び、僕の後頭部に降りかかる。水面の波の動きからハツカが近づいてくるのが分かるが、端によっていたため離れることはできないし、立ち上がって風呂から出る気力もなかった。

 

「よっと」

 

 ハツカの腕が僕の両肩から伸びてきて、背中に密着するように抱きついてきた。鼓動が強く高鳴って、異様な表情になったら顔を覗かれないように湯船の隅に身体を寄せる。

 

「ふぅ……ん、僕から逃げれると思ってるんだ」

 

 耳元でハツカの声が聞こえる。よく響く浴室なのも相まって、いつにも増して魅惑的な声色をして、耳が蕩けそうになる。

 久利原たちには知られてはいけない。

 贅沢すぎる。

 

「ねえ、ショウくん」

「なに」

「この間銭湯に行った時も本当は嫌だった? さっきの尻を触った時もさ」

「……どういうこと?」

 

 彼と向き合ってから首を傾げている。

 ハツカは、爺婆に引き取られていた頃を血濡れの日記帳で垣間見た、と打ち明けた。あの日記の細部については今や曖々たるものだが、確か似たような場面もあった気がする。言うまでもなく快不快は真逆だ。

 

「キミは僕が思ってるより無理やり隠すのが得意みたいだから、気になってさ」

「もう終わったことじゃん。それにほぼ裸な相手に近づくのを怖がってたら、水泳の授業は受けられないし」

 

 ハツカが胸を撫で下ろす。僕の胸と擦りあってハツカの体温が伝わってきた。湯船の中にも関わらず、はっきりと彼の温もりだと分かる。凄く不思議な気分に晒されて、僕は彼にされるがままだ。

 

「ハツカはなんで僕に優しくするの?」

「理由いるの?」

「……いるっていうか、違和感があるんだよ。ここに来るまでなに言っても聞く耳持たない人たちばっかりで、今さら優しくされても分かんないっていうか」

 

 余りにも差がありすぎるのだ。しかも理由が不透明で、納得ができない。ありがとう、も同じだ。

 

「話してくれてありがとね。これから慣れていけばいいよ」

 

 でも、ハツカの『ありがとう』は少し嬉しかった。殺される危険を背負ってでも僕の傍に居てくれる覚悟と矜持が感じられて、彼の意思が愛おしく感じられた。

 

「どうせこれから一緒に暮らすんだからね」

「うん。これからよろしくお願いします」

「よろしい」

 

 ニタっとした微笑みを浮かべながら濡れた髪の上に手を置いて、頭を撫でてくれる。気持ちよくて再び沈んでしまいそうになる身体を、ハツカに抱きつくことで耐える。

 その流れで彼の顔を意図して近づけた。

 

「ちょっ……!? ショウくん!?」

 

 引き寄せたハツカが耳まで真っ赤にして目を泳がす。さっきまで悠然と僕の首に腕を回していた人物と同じとは思えない動揺した声が、浴室に響いて全身に染み渡る。ワントーン上がった声が可愛らしい。

 

「あの……顔が近いです……」

「は! 珍しい……ハツカが敬語になった」

 

 ス、スマホが欲しい。

 僕の願望にハツカは呆れたように口を開く。

 

「あのね、僕らの状況わかってる?」

「……? 風呂場で裸のまま抱き合ってる」

「そう。普通だったら真っ赤になるんだよ」

 

 口調は元に戻しているが、やはり鼻と鼻が触れ合う先にある彼の顔はリンゴが真っ青に見えるほど赤々としている。嬉々として脚を触らせているハツカが今さら動揺するのか。

 

「男の身体に興奮するのかって言ったのはハツカだろ」

「僕の身体なんだから興奮して当然だろ」

「本当お前は……」

 

 否定はしないけどさ。

 銭湯に入った時は見た目とのギャップもあり、ハツカのアレも目に入ってしまい異様に意識しすぎていた。ハツカにドギマギしたのは事実だが、すでに克服した。

 

「キミさ……タブレットにもそのての本や写真とかなかったけど……したりしないの?」

「なんのこと?」

 

 尋ね返せば、ハツカは言いにくそうに唸り声をあげながら顔を上下左右に動かして悶え続ける。見たことないハツカの照れ顔を保存できない今の状況が妬ましい。

 

「保健の授業で習うやつ」

「オリンピック……?」

「自家発電」

「筋トレ?」

「……わざとやってる?」

「いや分かんないよ。何の話なのさ」

 

 本当に何か分からないのだが、肝心のハツカは唇をモゴモゴと動かしているだけだ。そんなに恥ずかしいことなのかと訝しんだ表情で彼を見る。

 するとハツカの瞳が羞恥の色から嫉みの色に変わっていく。

 

「僕ばっかり恥ずかしい思いをしてる気がする」

「自爆だと思われるが」

「なら、死なば諸共よ」

 

 そう言って、ハツカは口元を僕の首筋に添えた。次の瞬間、快感が突き抜けて、強張った身体がより強くハツカを抱きしめる。

 言葉にならない声が耳朶を打つ。「温かくて美味しい」と満足気に呟いている。

 風呂の中で吸われているから血の減り方が早い気がする。本当にのぼせてしまいそうだ。

 のぼせているからか、ふと僕はふしだらなことを考えてしまう。

 彼ら吸血鬼にとって、吸血は食事と同時に子孫繁栄を行うもの。つまり人間にとって性交としての役割も担う行為であり、それはハツカも認めている。

 僕とハツカは、食事として見れば餌と捕食者だが、まぐわいの観点からすると対等なパートナーということである。もしハツカがまぐわい相手として僕の血を選び続けてくれたら、どれだけ嬉しいだろうか。それだけで自信が持てる気がする。

 親子という関係だけでなく、歪んだ欲望にも手をつけようとしている僕は、やはり欲張りだろうか。

 でも、『二兎追うものは二兎とも取れ』とも言う。

 ハツカが望んだらいつでも血も体も差し出すのにな––––

 

「––––ッ!?」

 

 バジャン!!

 

 水柱でも立ったかと誤解してしまうほど豪快に水面が弾ける。反射的に顔を腕で覆って降り注ぐ湯の粒を防ぎ切り、ほっと息を吐く。

 腕をどかしてハツカに視線を向ける。

 勢いよく立ち上がったハツカは天を仰いでいて、僕は思わずギョッとしてしまう。脳が雷に打たれてしまったような感覚で、釘付けになってしまう。

 

「……………え、……どうしたの?」

 

 彼の異様な反応から吸血鬼になってしまったかと思って首筋に手を当てるが、噛み跡からはまだ血がプクゥーと小さな風船を作りながら垂れている。

 血のついた指を見ていると、ハツカが頭上から声をかけてくる。

 

「流しっこしようか。今日は洗ってあげよう」

「ん? 普通逆じゃね? それに僕の体って穢れてるし」

「いいじゃないか。親が子の身体を洗うほうが普通だし、生きてたら穢れるよ」

 

 ハツカは早急に、速やかに、波を立たせながら後ろを向いて湯船から出ていく。絶対に様子が変だったが、拒んでも無駄なのは分かりきっているので僕も湯船から出る。

 少しひんやりとした空気に身を震わせる。

 冷たい空気に当てられて頭が落ち着くと、僕は自然とハツカに目を向ける。視線が下がり腰のあたりに動いた。

 先ほど見上げた時に映ったアレを思い返す。

 

 

––––もしかして、読まれたか?

 

 

 口を手で覆って、緩んだ頬を整える。

 

 

 

 

「ふぅ……じゃあ洗ってくよ」

「はーい」

 

 蘿蔔ハツカ()の宣言にショウくんが間延びした声で返す。

 石鹸で泡立てた両手で艶めかな体を包んでいく。泡を立たせるならタオルを使うのが手っ取り早いが、手の方が肌に合う合わないを考慮する心配がない。僕の場合は関節が柔らかいので背中も手でしっかりと洗える。これは自慢だ。

 

「あがったら何する?」

「外に出るってわけでもないよね」

「今日は家でゆっくり過ごそうか」

「だね。ゲームとか? ……そうだ、◯リカーある?」

「あるよ」

「あるんだ……ミドリさんとでもやるの?」

「ミドリちゃんもそうだし、セリちゃんともやるよ。七草さん以外とは集まること多いし」

「女子会じゃん」

「ひとり男だけどね」

 

 茹ってしまった頭が、程よく温かい空気に馴染み自分の思考が落ち着いていくのが分かる。さっきは突然のことで飛び起きてしまった。血を飲んでいると相手の感情を直に取り込むから、心が揺れ動きやすいのかな。

 冷静に分析していると完全に心が平静を取り戻した。

 さて、手で洗うことにはもうひとつ良いことがある。

 

「なんか……すごい不思議な気分」

 

 背を向けて風呂イスに腰を下ろすショウくんが独りごちる。

 

「どうしたの?」

「新鮮……というか、感動なのかな……不思議な感じ」

「手で洗うとマッサージにもなるからね。好きかい?」

「大好き。ハツカに触れられるのは気持ちいい」

 

 彼の過去を考えると経験がなくて当然だが、悲壮感すらない戸惑いだけの声色で口にされるとやはり労しい。あの過去でキッパリと他人との関係を断絶せず、ましてや積極的に他人と関わって助けようとするのは狂気すら感じられる。

 心の支えになったのがヒーロー物だからだろうか。

 愛おしく思うのと同時に、好意を薪にして燃え出すふしだらな欲求が僕の中にはあった。

 

「でも、良かったの? 僕が洗ってもらっちゃって」

「構わないよ。探偵さんにやった以上のことを僕にしてもらうだけだから」

「そこから聞いてたの……」

 

 ショウくんがチラリと顔だけ後ろに動かす。彼の口はまごついて、言葉を出さないでいる。

 いったい僕に何をされる想像をしているのだろうか。

 その可憐な唇はなにを戸惑っているのだろうか。

 抑えないといければ身体が震え出すほど凄くゾクゾクしている。

 

「どうしたの? 身体が震えてるよ?」

「いや……これは……恥ずかしくて」

「ふぅん……恥ずかしいことを考えてたんだ。ヤっても良いって考えてたくせに今更恥ずかしがるんだ」

「〜〜〜!!」

 

 恥ずかしそうに顔を赤く染まるが、同時に嬉しそうだった。

 自慰の知識はないのにこの言い回しは分かるのか、と心でボヤきながら、以前僕は七草さんに話した言葉を思い出す。『見た目が好みで毎日一緒に居たらそういう気(・・・・・)に全くならない方が不自然じゃない?』という実直な願いを肯定するものだが、僕らは正にこの言葉に沿っている。

 

「前は自分で洗うからいいよ」

 

 ショウくんはまだ僕のことを恋愛としては好きではないけど、身体を委ねていいと思えるほどには特別な好意を持っている。

 僕は顔も体も好みなショウくんのことを意地でも僕のモノにしたい。穢された身体なら、僕が穢して上塗りしてやりたい。最後には崇高な心さえも僕で穢してやりたい。

 つまり、僕らは互いにそういう気分になっているのだ。

 キスを含めて。

 

「ハツカだって恥ずかしがってたくせに」

「いきなり脳に流し込まれたら驚くよ」

「意外と純情だよな……ハツカって……童貞?」

「ノーコメント」

「ええ……」

「分からない方が面白いだろ? それじゃシャワーかけてくよ」

「うぃ」

 

 シャワーヘッドから噴き出す水流が1日の汚れを洗い流していく。呻き声のような、浮かれたような声も一緒に漏れ出して水に溶けて排水溝へと落ちていく。

 せっかく綺麗にした身体。

 様々な理不尽に遭ってなお傷ひとつない身体を、僕色に穢すことができたらどれだけ嬉しいだろうか。そして、彼も喜んでくれたらどれだけ嬉しいだろうか。

 

「次は僕だね」

 

 ショウくんは風呂イスから立ち上がる。立場交代。今度は僕が風呂イスに座って、彼が手に泡をつける。

 泡が僕らの身体にまとわりついて、繋がる。

 

「ハツカ……」

 

 彼が背後でボソっと言う。

 

「僕……眷属にはなりたくないけど、ハツカの隣にはずっと居たいよ」

「隣、だなんて欲張りだね」

 

 背中から伝わる彼の柔らかくも力強い感触が心地よい。

 ようやく……僕が彼の心に居座った。



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第七十八夜「首輪」

 風呂から出た僕は夢心地のような微睡の中にいた。風呂に入ったあとは身体がポカポカして、頭が働かないってことがよくある。

 光悦したままの僕は脱衣所でハツカから渡された服を着たあと、リビングに移動していた姿見の前に座っていた。その鏡は奇妙にもまるで髪が独り手に形を整えている様を映している。

 鏡では僕の背後には誰も映っていないのに、気配や声はしっかりするのは違和感がどうしても拭えない。二つの情報に頭が混乱して、脳が正転逆転を繰り返しているみたいだ。

 

「ほら、できたよ」

 

 最後にハツカは前髪を触って横に流す。目の前を横切った手からもう一度姿見へ視線を移すと、対峙しているのは女の子と口にして間違いない人相をしていた。

 ここ一ヶ月で伸びた髪は、ふわっとボリュームがありハツカに整えられたのもあって正面から見るとダイヤのような形をしている。

 加えて、僕が着ているのは女物のセーターに、ロングワンピースという完全な女装だからだ。寒くもないし、動きやすい。それでいて、メイド服ほど股の辺りに風が通らないから悪いわけではない。寝る時でも邪魔になる服装ではない。

 

「どう? 可愛いでしょ」

 

 僕の羞恥心を飴にして舐めるかのような蠱惑的な響きがある声がする。

 右耳が死ぬほど心地よい。

 鏡に映らないハツカの顔は充溢した支配欲で喜色に歪んでいるに違いなかった。

 きっといい笑顔なんだろうなと思った。

 

「ねえ、どうなの?」

「……そりゃ、可愛いと思うよ」

 

 彼の言う通り、今の僕は可愛い女子と言えるだろうが、これも自分との認識の差で酔いそうな恥ずかしさがある。

 

「そう、キミは可愛い男の娘だ。なんで女の子の服を着てるの?」

「は? いやだって」

 

 身につけているのにも勿論理由がある。

 どうやらこの服しかなかったらしく、ハツカが持ってきたコレを渋々着たのだ。自分で言っておきながら、なにを問いかけるのかと訝しんだ表情で後ろを見ようとする。

 

「だめ、ちゃんと自分を見て」

 

 しかし、僕の意思を押し返すように両手でグイッと元の方向に固定される。

 

「キミは僕が男物の服も持ってることを知った上でこの服を着たよね?」

「……それは」

「本当に嫌なら突き返してるよね?」

「ハツカに渡されたからだよ」

 

 どこを取り繕っても僕は男なんだ。女装は趣味なわけではなく、ハツカへの恩返しも含めて彼が好きだからやっているのだ。

 にも関わらず、否定する僕の声は石ころが転がる音よりも小さい。

 

「恩返し? 本当にそんな理由で女装してるの?」

「そうだよ」

「違うよね」

 

 右頬を包んでくれていた手がぬるりと身体を這う。肩から胸へ、そのままセーターの内側に腕が侵入して左脇に触れる。そこで止まらず、彼は僕の身体を味わうように抱きしめてくる。

 ハツカの吐息が空いた頬にかかる。

 

「僕に女装してる姿を褒められるのが好きなんだよね。女装の方が僕の気を惹きつけれるって分かってるから」

 

 俺は顔を背けず、できる限りイエスともノーとも取れる表情を取り繕う。

 オバサンやクソ爺婆も顔が触れるか触れないかぐらいの距離に近づかれたことは多々あったが、なべて気味が悪かった。

 けれどハツカに触れられるのは違くて、風呂場でもそうだったが、身体を這いまわられること自体が嬉しく感じてしまっていた。

 

「僕に逆らわないのが気持ちよくて仕方ないんだよね。自分のせいで僕を突き飛ばして離れちゃって、でもやっぱり僕と居たくて堪らない」

「……うん」

「僕が望んだ通りにすればキミは僕の傍に置いてもらえると思ってる」

「……うん」

「自分で言ってみて」

「…………」

「言ってくれないの?」

「一度言ったことは二度も言わない」

「好きは何度も口にするべきだよ?」

 

 それは––––……知っている。

 

「なら、ゲームと行こうか」

「負けたら言うってわけ?」

 

 賭け事の提案に僕は首を傾げながら訊ねると、ハツカはニタニタと笑いながら僕の前に立つ。

 

「それだけじゃないよ。これからキミが僕の家に住むにあたって、マナー以外の特別ルールを勝った側がひとつずつ決めていく。これでどうだい?」

「僕もハツカを縛れるってわけか。ゲームのお題は?」

「◯リカーでいいでしょ。3レース1セットで、先に2レース取った方がルールを作れる」

「いいだろう。乗った」

 

 威勢よく笑ってみせると、ハツカも頷いてゲームの準備に取り掛かる。

 

「さてさて、どんな風に縛ってあげようかな〜」

「なに勝ったも同然みたいに言ってんだ。どんな命令でもいいのか?」

「勝った側の自由だしね」

 

 話し合った結果ルールが10個に到達するまで勝負することになった。賭け事の大まかな取り決めとして、

 

 1、1回で複数個のルールを作れるようにはしない。

 2、勝ちを1つ使って相手からのルールを1つだけ取り消せる。

 3、取り消したルールは復活できない。

 

 1番目は常識だが明文化することで、万が一を防ぐことができる。そして、2番と3番があれば本当に嫌なことは無くすことができるし、自ずと相手の変えちゃいけない一線も見えてくる。

 ハツカが僕に許してくれるのはどの辺りまでなのか、純粋に知りたい。

 

「カセットって棚の中のまま?」

「そう。オリーブの木の隣に棚があるでしょ。そこ引き出しに入ってるよ」

 

 訊ねると愉快そうな顔そのままに、どこか優しげな微笑みも薄らと感じ取れる顔のハツカに疑問を抱きながら言葉に従う。

 青々と茂っているコロネイキの隣にある棚の……確か2段目にあったはずと思い出しながら引き出しを引っ張る。

 すぐに引き出しを押し戻した。

 

「……すぅ……」

 

 未だに頭がのぼせているのか、俺は幻覚を見てしまったようだ。眉間をつまんでから溜め息を吐いて、もう一度中身を確認する。

 引き出しの中を覗き込むと先ほどと変わらず、ゲームカセットの上にそれは我が物顔で鎮座している。どうしても目についてしまう鮮やかな緋い色をした革で作られており、輪っかを作る形のまま金具で止められている。

 間違いなく、首輪である。

 

(首輪!? なんで!? 犬を飼う予定なのか……? でも、そんな話一切聞かないし……)

 

 見れば、首輪にはタグがついている。犬がどこかに走り去ってしまった場合、保護してもらうために犬の名前や飼い主の名前、住所が記載される所謂ドッグタグと言われるものだ。

 棚に頭を打ち付けて記憶を消したい。

 一度記憶失ってるんだから、もう一回ぐらい行けるだろ。

 

「キツツキの真似?」

「……お前のせいだぞ」

「どっちでもいいけどさ、早くやろうよ」

 

 真後ろからハツカに急かされるものの、僕は頭を抑えながらどうするか迷ってしまう。

 タグの今見えている面には、飼い主であるハツカの名前と住所などしか載っていない。つまり犬の名前を見るには裏返す必要があるということ。

 カセットだって、首輪に触らず取り出せる。

 なら、無理して見なくても–––––しかし! 知ってしまった以上、こっちは悶々とした疑念に苛まれながらゲームに挑まなければいけない! 絶対に集中なんてできなくなる! パッケージに記されたナンバリングを見る限り僕が負けることはありえないが、勝負において一抹の不安すらあってはならないのだ!

 ゆえに! 見るしかないのだ!

 僕は首輪へと震える手を伸ばす。

 ゆっくりとタグをひっくり返すと、お座りをしながら舌を出す犬のロゴがあった。犬用の首輪だと安堵して肩の力を抜く。

 

「ふぅ……」

 

 その時、名前がチラリと目に入ってしまった。

 

「負けたら首輪をつけて散歩しようね、ショウくん」

 

 囁かれた声に胸が弾け飛びそうになる。

【吼月ショウ】と一言一句間違うことなく、タグに印字されていた。消すことのできない従属の烙印として、己の名前が使われているのを見てどうしようもなく舌が渇く。

 空気の中にある露にさえかき集めたいほど、凄い乾きだった。

 でも、まだ物足りない。

 

 

 

「それにしても、わざわざオンラインでやる必要ある? 僕ら以外NPCで良くない?」

「まぁ……ちょっとね。知り合いいないかなって」

「ゲーム仲間いるの?」

 

 ゲームの開始のために僕らはメンバーが集まるのを待っている。その間にコースを選択したり、テキトーにコメントを送る。

 時間を潰しながら、僕は赤いソファの上から床に座るショウくんを見下ろす。

 

––––全勝確定かな。どうしようかな〜〜。どんな奴隷としてのルールを作ってあげようかな〜〜。

 

 コントローラーを握る彼の手は微かに震えていて、力の入り具合からしてもマトモな操作はできそうになかった。

 ブラフを張ることは成功したと言っていい。

 さっきの首輪は前々から買ってあったショウくん用のチョーカーだ。チョーカーに合わせた服装だって調達済みである。服のサイズは、以前彼をマネキンにした時に調べてあった。

 なんで買ったかは、似合うから、と答えておこう。

 胸の内で勝ち誇りながらコントローラーを握り、テレビに視線を向ける。

 メンバーが集まり、ゲーム開始の準備が整う。

 深呼吸をする吐息が聞こえる。

 

「ふぅ……」

 

 ピッ、ピッ、ピーー!

 

 3カウントが数え下されると共に、レースランプが青になった瞬間にロケットスタートを決める。グイッと後続の走り屋たちとの距離をつき離す。

 首位をキープしつつ、キチンとコインを最大量持ったまま僕は爆走し続ける。

 対するショウくんは勝つ気概があるのかないのか、はたまた僕の術中に嵌って操作すらできないのか、最後尾争いをしていた。

 

「ここでインをしっかり攻めて……一気に加速する!」

「ミニターボうまいな」

「早く追いついてきなよ。張り合いがないじゃないか」

「そう焦らずにさ、見てなよ」

 

 彼はレース開始前とは打って変わってどこか余裕を持った表情をしているが、現状と反りが合わない。言い草からは、開き直って僕に支配されるのを受け入れたとも違う。

 訝しんでいるとレースは三周目に突入。

 変わらず僕が首位で、彼は最後尾。勝ったも同然だが、ここまで張り合いがないとゲームを変えた方がいいかもしれない。

 

––––ゲッ……

 

 そんな怠慢を砕くように天から光が迸る。端的に言えば、サ◯ダーだ。スターもテレ◯もない僕には対処しようがなく、身体を打つ雷によって一時停止しスピードが遅くなる。

 くそ、誰だ……と思っているとテレビ画面を真っ二つにした左側を走るショウくんのキャラは無事だった。悪あがきをしやがって、大人しく僕に負ければいいんだよ。

 きろりと彼を睨むと、ニヤリとした笑みを返しながらボタンを押した。

 

「ちょ––––」

 

 体感数秒のことだった。

 ショウくんはもうひとつ所有していたアイテムで、砲弾に変身して一気に上位に食い込むと、そこから黄金のキノコで首位に迫り、赤甲羅で僕を狙撃する。

 

「あぁ……」

 

 僕が立ち直った頃には彼がゴールしていた。

 開いた口が塞がらないとはこのことだった。

 しかし、こんなラッキー何度も起こるはずがない。

 

「ま、まぁ一回ぐらいなら偶然もあるよね」

「だったら同じものを見せてやるよ」

 

 第二レース––––

 

 先ほどと展開をほとんど同じだ。僕が首位で、ショウくんがドベ。たった一つ違うのは、僕が後続とよりを大きく離しているところだろう。

 アイテム運があるなら、あっても意味がないくらい開きを作ってやればいいだけだ。細かなコーナーではミニターボを、大きなコーナーでは利用してウルトラミニターボを的確に決めて速度を上げる。

 そして、崖を最速で飛び立つ!

 

「久しぶりにやるけど、やっぱりこのコース曲がり角多いな」

「赤甲羅ひとつでも当たるとすぐ落ちちゃうからね」

「そうだな。気をつけろよ」

「ん?」

 

 右下にあるコース表示を見ると、最悪なものが迫ってきていた。赤甲羅なんかよりももっと嫌なもの。トップの天敵。青いトゲトゲ甲羅が見る見るうちに僕との距離を詰めてくる。

 不味い不味いーー!

 尊厳を踏み躙るように頭上にやってきた悪意の塊は、許しを乞う暇すら与えずに谷底へと僕を叩き落とす。

 

「早く復帰! 復帰!」

 

 しかし、最悪は重なって、

 

「危ないよ」

「え」

 

 愉悦に浸した声が僕の耳朶を打つ。

 ようやく復帰した僕のキャラだったが、このゲームでも弾丸になったショウくんのキャラに吹き飛ばされて、再び深い深い闇の中へと舞い戻る。

 敗北の一撃として相応しかった。

 結果、ショウくん1位、僕が最下位になって最初のゲームは彼の勝利となった。

 

「…………アイテム運酷くない!?」

「そういうゲームだからな」

「絶対違うからね!?」

 

 ミドリちゃん相手ならともかく、他の人に負けるだなんて。

 横目で彼を見ると、両手を合わせて僕へと向き直っている。愛想のいい表情だけど、目だけは小動物を咀嚼しようとする猛禽類のようだ。暗闇でもきらりと光って獲物を捉え続けるだろう真っ暗な瞳に晒されて、背中がゾクゾクとする。

 

「さて、ハツカをどんな風に縛ってあげようかな〜」

 

 このままでは僕の尊厳が大変なことになる。

 脳が最大レベルで警報を鳴らしている。

 それにアイテムだけでやられるなんて、納得できるわけがない!

 

「待った!」

「往生際が悪いぞ。さっさと僕のお人形になりなさいよ」

「ルールで手繰る前にチャンスをくれ!」

「……なら、次勝ったらさっきの勝利を帳消しにしてこの戦法は今後取らないし、追加権もひとつやる。代わりに、次負けたら僕はルール追加権と取消権をもう一つずつ手に入れる。これでいい?」

「うん」

 

 今度こそ負けない––––!

 

「ああ!! ちょっと待ってここで◯ンダーは不味いて!ってキミはなんでそんなにキ◯ーに愛されてるんだよ!!」

「愛されてるんじゃなくて、どのコースでどの順位でどんな距離感なら、どういったアイテムが出るか知ってるだけだよ」

「なわけあるか!」

「一応ランダムとはいえ、システムなんだからできなくはないだろ」

「宝くじの当たりを確実に引けるって言ってるようなものだよ!?」

「去年は◯リカーをやることが多くてな。休みの日は勝利への道を模索していたのさ……これを知るのに夏休みの何日かを潰した思い出も……」

「悲しい思い出……」

 

 再び負けて、

 

「そろそろこの戦法も飽きてきたんだけど、まだやる?」

「負けるか……!」

「ハツカって負けず嫌いだよね。口汚くなるし。そんな好きだよ、折ってあげたい。はい青甲羅」

「さっき別のやつが投げてきたばっかりなんだけど!?」

 

 負けに負けて、最後には……

 

「くぅ……」

「結局僕の3連勝で、追加権が4つと取消権がひとつか」

「……」

「メソメソしないの。飽きてさっきのセットは普通に走ったけど、普通に負けたからって」

「だったら傷口に塩を塗るな……!」

 

 真剣にやってここまでコテンパンに負けるなんて、悔しさで胸が張り裂けそうだ。張り裂けた胸の中に涼しい風が入り込む錯覚があるのは、清々しさすら感じる負け方だから。

 いくらゲームとはいえ、賭け事で勝負だ。勝つ気でやっていた分反動も大きい。

 

「ここまでやられなら言い返しもできない。好きなルールを作って……ください」

「分かった。そう言うなら縛らせてもらうね」

 

 今日、僕はショウくんのおもちゃになる。

 ショウくんは変わらず猛禽類を想起させる微笑みをしながら、手を叩いた。パンッと部屋に響くいい音だった。

 

「ハツカ、四つん這いになってね」

「分かった」

 

 彼が作った1つ目のルールは『ショウくんが手を叩いたら、僕は命令された姿勢をすぐに取り、次の命令まで維持し続けること』だ。負けた側に抵抗する権利はなく、どんな体勢も取らなければいけない。

 ソファから立ち上がって、その前で四つん這いになる。敗者だから言い訳できないが、悔しくて腕が震える。

 

「ハツカ、もう少し尻を上げて。背中が傾いてる」

「はい」

 

 命令通りに尻を突き上げると、ショウくんは僕の背中を手で軽く払うと腰をかける。形が良く、肉付きもいい尻の感触が背中から伝わってくる。重さが気にならなかったのは、僕が吸血鬼だからだ。

 一番座り心地のいい場所を探るように擦り付けられる尻に、僕は歯を食いしばって無心になろうとする。

「これハツカにやってみたかったんだよね」とショウくんが独り言る。

 

「……この間の仕返し?」

「単純に興味だよ。ハツカってどんな座り心地なんだろうなってね。どうせ後で消してくれるだろうし、1番最初はやりたいことやろうって」

「感想は?」

「0点」

「は!?」

「そういうところだよ。尻動かしたら、ハツカすぐに嬉しそうにモゾモゾするじゃん。それに……」

 

 スカートをビラっと捲られて、一気に下半身をヒンヤリとした空気が取り巻いた。そして、僕の尻肉にパンツ越しでも分かる温もりが伝わる。

 

「ハツカがよく言ってるよね、椅子が勝手に喋っちゃダメだって。自分でできないのにやらせるなんて、僕はガッカリだよ」

「ちょ、ちょっと待って」

「はい、3回目。『僕は自分で言った約束を守れない駄犬です』と懺悔の気持ちを強く込めて」

 

 2つ目のルールは『僕が粗相をしたら、ショウくんにお仕置きをもらって命令されたことを口にする』である。僕がやりたかったことだったが、先に越されてしまった。

 パチンッ!と乾いた良い音が鳴る。

 

「僕は自分で言った約束を守れない駄犬です」

「ダメ。もっと大きな声で」

「僕は自分で言った約束を守れない駄犬です!」

「そのまま言うことが謝ることなの? 重役謝罪ですか?」

 

 ショウくんの許しが出るまで繰り返す。

 絶え間なく尻から聞こえてくる打音は、臀部から脳天まで衝撃と共に駆け抜けてくる。快音だけじゃなくしっかりと痛みもあるスパンキングで、彼の手で尻肉が押し潰される度に力が緩んで体勢を崩しかける。

 

「僕はご主人様であるにも関わらず、自分で言ったことすら守れない馬鹿な駄犬です!!」

「よく言えました。いやぁ、長かったね」

「……はぁ、はぁ。はい」

 

 何度も声を張ったから息を切らしてしまう。次も来るかと思ったが、身体をくねらせるが来なかった。

 その代わりに、上から声がかかる。

 

「ハーツカ、上向いて」

「え?」

 

 そう言われて、首だけを使ってショウくんを見上げればパシャリとシャッターが切られた。僕を椅子にしてます、と言わんばかりにピースサインをしながら自分と僕を写真に収める。

 因みに3つ目のルールは『なんでも撮影可にすること』だった。

 けれども、どうして今なのか分からず僕は困惑する。

 疑念が消えないままショウくんの興味は僕の赤く腫れたであろう尻に移って、それを撮影している。

 

「ふふふ」

 

 スマホを弄っている彼は含み笑いを浮かべている。ただ僕の恥ずかしい所をとって優越感に浸っているようにも見えるが、それだけではなさそうだ。意外そうに曲がった口許から、どこか驚いているようにも感じられたのだ。

 しかし僕はいま、問える立場にはいない。

 

「ハツカって意外にやられるの好きなの?」

「なに馬鹿なこと言ってるの……?」

 

 都合のいいことに相手から話を振られる。目の前にスマホが突き出されて、映っているのは先ほど僕の顔写真。

 その顔は驚いたことに……頬を淡く赤色に染めて、頬が少し緩まった心地良さそうな笑顔をしている。まるで椅子にされることを喜び、尻を叩かれたことを快感に思っているような僕がいた。

 

「ありえない……ありえない……!」

 

 拒絶しなければならない現実だ。相手を自分好みに支配するのが好きなこの僕が、逆にお仕置きをされて、あまつさえそれを喜ぶ。尊厳が音を立てて崩れるような錯覚に陥って、息が荒くなる。

 ショウくんは楽しそうに唸る。

 

「でも、事実だからな」

 

 スマホの画面を切り替えて、カメラのアプリを起動。自撮りモードになっているカメラに僕の顔が映される。

 理屈は分からないが、吸血鬼は鏡には映らずカメラには映る。

 

「今だって嬉しそうにしてるし」

 

 確かに僕の顔は先ほどよりも赤く染まっている。耳まで真っ赤になって、唇を硬く結んでいて––––辱められて自分が喜んでいると、僕は認めたくなかった。

 

「違う! 絶対に違う!! 嫌がってるようにしか見えないよ!」

「まだ認めないの? 自覚したら、笑顔を変えちゃうのは分かるだろうに……あ、でもハツカが尻を叩かれるのが好きなのは証明できるよ」

「え」

 

 警戒した理性がきゅっと下腹部に力が籠る。これ以上醜態を晒したら僕は彼の前でご主人様として居られなくなる気がして、普段では考えられないくらい全身に力が入る。

 そして、僕の尻に軽くショウくんが触れると、

 

「馬鹿な……この僕が……」

 

 自分でも理解ができなかった。

 軽く触れられただけで、自分から彼の手に尻を擦り付ける。円を描きながら掌をもっと感じたくて仕方がないと言わんばかりに、卑しい娼婦のような動きを身体はやめない。

 なにより尻を撫でられて気持ちがいいと感じてしまっている僕がいた。スマホに映る顔も笑顔になろうとするのを堪えているが、耐えきれず口元が緩んでいる。

 

「ほら、やっぱりハツカはド変態なんだよ」

「なんで……なんで……」

 

 ショウくんに手玉に取られたのが悔しくて、声が自然と震えている。

 

「理由は簡単じゃない? 僕の血を飲んでるから」

「まさか……」

「そう、そのまさかだ」

 

 神妙に呟いて、結論に至る。

 ドMが感染した……という馬鹿げた理屈を僕は正面から受け止めなければいけなかった。

 思えば士季くんもショウくんの血を飲んで考えを改めた。毎日赤赤とした彼の感情を愛飲している僕が影響を受けないはずがないのだ。

 

「尻を叩かれたい変態になれたね」

「クソ……クソッ! 絶対に百倍返してやる……!」

 

 次こそ勝って、僕に逆らおうと思えないほどペットとしての心構えを教えてやると心に誓う。

 しかし問題は、彼が従順になればなるほど根深くなることだ。

 

「別に僕としてはハツカにやられる分には好きだし良いんだけどさ」

「無敵かコイツ」

 

 ショウくんは不敵に笑いながら一度立ち上がり、スマホスタンドを部屋の中から探し当てると僕の顔の高さに来るように調整する。

 

「それだけハツカには心を許してるって捉えて欲しいな。でも、僕を躾ければ、僕の血を吸うハツカも変態になるってことだけどいいの?」

 

 ショウくんの指摘に間違いはなかった。

 今の関係上、吸血は切っても切り離せない。僕は彼を眷属にしたいし、格別な血の味を堪能していたい。彼は契約上絶対に血を吸わせてくれるし、むしろ吸血されるのが好きだ。

 恋するまで吸血を控えればいいだけの話なのだが、今更他の血で満足できるかと言われたら––––

 

「ほい」

「あ」

 

 目の前に血が滴る指が現れる。人差し指と中指の腹についた切り傷から、ぷっくりと溢れ出す血に目が奪われる。生気がたっぷりと乗った甘美な香りが僕の鼻腔をくすぐる。

 涎が出そうになるのを必死に堪える。

 さっき飲んだばかりだというのに、目にすると食欲が刺激される。吸血鬼である以上、血への欲求は抑えられない。

 吸血痕を見ただけですら僕らにとっては刺激が強すぎるのだから、本物の血が目に入ったらこうもなろう。しかも、彼の血は美味しすぎる。抗いたいと思えないのだ。

 いつのまにか僕の背中に座り直した彼に言う。

 

「洗脳はぁ……ダメだって……言ってたじゃないか」

「うん。でも、血はハツカに必要なものでしょ」

 

 否定できない事実に僕は押し黙る。

 彼だって僕の意思を蔑ろにしたいわけじゃない。それどころか、彼の独白を聞けば拒絶するような行為だ。

 けど、吸血鬼である僕が生きるには必要なもの。

 そして、いま僕が飲んでいたいのは、他の誰でもないショウくんの血だ。

 

「だから頑張ってずっと女王様で居てね、ハツカ様」

 

 無邪気な要求に僕は思わず戦慄する。

 これから一体どんな躾をされてしまうのだろうと、想像すると身体が嫌な熱りを放つ。きっと彼は、本当の意味で僕を調教するのだろう。

 

「くぅ……」

「負けちゃったんだから仕方ないよね。偶には弄ばれる夜も悪くないよ」

 

 弾んだ気持ちを携えた赤い2本の指が、僕の鼻の両穴を蹂躙する。鼻に指を抜き差しされたり、鼻の穴をみっともなく広げられているのに全身がだらしなく緩んでいる。

 嫌だけど、嫌じゃない。

 

「焦らさないでよぉ」

「だったら、言うべきことを言わないとね」

 

 スマホに映る僕は、鼻についた血を舐め取ろうとはしたなく舌を伸ばしている。

 これが僕なんだ–––だらしなく血を乞う姿が吸血鬼である僕の姿なんだ––––と、悪意のない声に心が震える。

 

「尻を擦り付けてんだから、ルールに従うくらいわけないでしょ。ハツカは悪くない。ルールで縛る僕に意識を向けるんだ。ほら、自分がなんなのか、ちゃんとルールを守って言ってみて」

 

 大義名分はもうあるんだから。

 今日だけは、もう負けてしまっているのだから。

 再び背後に感じた手の気配を尻でしっかりと確かめる。

 

「ぼ……」

 

 血反吐が詰まった言葉を蹴り飛ばすように、目の前の自分に吐き出す。

 

「僕は吼月ショウ様のペットです」

 

 吸血鬼は真っ赤な生命(人間)からは逃れられない。

 口を犯す彼の指からは、いつもとは–––さっき飲んだものさえ–––比べ物にならないくらい美味な血が流れている。

 

 

 

 

 ハツカという巨城は陥落した。未だ悔しさが馴染んだ声をしているが、それよりも喜びが大きいように思える。

 一度口の中に指を突っ込んで、食欲を刺激してやれば彼の脳は僕の血に翻弄されて、理性が蕩けてしまうのだ。

 

「また勝手に指に吸いつこうとした……何回目なの?」

「ごめんなさいご主人様。でも美味しすぎるご主人様の血も悪いと思うんです」

「何回目なの?」

「……10回目です……」

「謝るの下手くそだね……次は1時間延長。はぁ……早く終わらせないと次のゲームに行けないんだけど。それとも引き伸ばしたいの?」

「うぅ……ちがぃますぁ……」

「なら、ありがとうの練習しようか」

「……尻丸出しにするので延長無しにしてくれませんか?」

「だめ。けど丸出しにはして」

「くぅ」

 

 ハツカは片手でずりっとパンツを下ろして、肉付きのいい美尻を曝け出す。要求が通らず渋々といった不満に、どこか期待に満ちた色も含めて声を漏らす。

 餌を目の前に出して、勝手に舌を出して舐めようとすれば躾として今みたいにお仕置き。

 

「蘿蔔ハツカはご主人様の血に目がない卑しい吸血鬼です! お仕置きありがとうございますっ! 蘿蔔ハツカは節操もないダメな男です! お仕置きありがとうございますっ! 蘿蔔ハツカはルールを守れない女王です! お仕置きありがとうございますっ!」

 

 ハツカの謝罪に合わせて尻を叩く。

 この姿は始まりから終わりまでしっかりと録画されている。ハツカの顔を映すように僕のスマホが、尻の動きをハツカのスマホが置かれている。

 そこに映る彼は、尻を叩かれるたびに弾けた笑顔を見せている。

 

「ありがとうができたご褒美」

 

 血が滴る指を今度は唇に当てる。するとハツカは喜んで口に咥えて、頬を窄める。

 

「美味し〜」

「ホント僕の血が好きだな」

「僕で遊んでくれるほど良い香りだし、美味しくなってます。頭狂いそう。嫌なのに、好きなの」

「いいよ、狂っちゃって。負けちゃえ、負けちゃえ」

「〜〜〜っ」

 

 口の中から指を引っ張り出す。

 両手で尻と頭を撫でてやれば、嬉しそうにハツカは舌を垂らす。凄く全身が疼いて、自分でも調子に乗ってることが分かってしまう。

 ハツカが好きなのも頷ける。

 

––––ただ、なんなんだろうな……僕の血……

 

 別に他の血でも問題ないはずなのに、それでもハツカが口にしたくなる美味な血。

 頭の中で生まれた疑問を今は片隅に追いやって、いつもとは真逆の立場に、調教に専念する。

 彼の目の前にセットしたスマホを取って、写真と映像を確認する。全て他人に見せてはいけない痴態が収められている。

 その中の1番最初に撮った写真を拡大する。

 

「ふふふ」

 

 ハツカに見せたものほど照れてもない。恥ずかしさと嬉しさ、敗北感から戸惑った笑みを浮かべるハツカだ。

 実のところを言うと彼に見せた写真はハッタリだ。最近よく広告で見るベストショットを作るためのアプリで、写真の編集アプリで顔だけ加工したものだ。

 1番最初に喜んだという情報を刷り込んでしまえば、あとの写真はハツカが我慢していると思わせられる。自らの意思を懐疑的にさせ、本当に喜んでいるのでは?と錯覚させる。

 そして、ハツカが尻を触られるのが好きだというのも、

 

「叩いて欲しいならおねだりしないと。血もあげないよ」

 

 体を少し傾けるとハツカが尻を突き出す。

 僕が意図的に重心をずらすことよって、四つん這いになっているハツカがバランスを取ろうと無意識に体勢を整えているだけだ。

 

「ご主人様の手でハツカの尻を虐め抜いてください!」

 

 つまり、全ては僕の思い通りにハツカが誘導され繰り返した結果で、今や重心を傾けなくてもハツカは僕の手の気配を察知して尻を擦り付けてくるまでに至った。

 

「どう? 悔しい?」

「っ! 悔しいに決まってるでしょ!」

「なら、次こそ勝って僕を穢さないとね。あと1時間38分頑張ってね、ハーちゃん」

「んっっ!」

 

 悔しく思いながらも、それが本心なんだと思い込んで僕に身を委ねる。

 姿勢も言葉も、欲求さえもルール()に縛られているとはいえ、ここまでペットに成りきれるなんてハツカは本当な可愛い。美しいハツカがやるからこそ価値がある。

 まだまだ夜は浅い。

 たっぷりと時間はあるしアイツもいなかったから、この賭け以外にやることはない。

 残り6個のルールを作りながら、もっとハツカを沼に引きずりこんでやる。血の底なし沼は、吸血鬼である彼を絶対に逃がさない。

 僕は血のついた指で、ハツカの野晒しになった首裏を撫でる。血の跡をぐるっと一周つけて、薄い赤い線を首に巻く。

 

「先に首輪をつけさせてもらったよ」

 

 呟いた言葉は羞恥心と嬉しさに震えるハツカには聞こえない。

 支配し合って一緒に落ちていこうね。

 首を締める赤色がもっと濃くなった時が、ハツカを物にする瞬間かもしれない。

 その為にも僕が好きなことを、ハツカにも知って欲しい。

 僕もハツカを躾けていく––––

 

 

 

 

 

 ザワザワザワと、ゾクゾクゾクを知ったのだから。

 

 

 

 

 

 

 とはいえ、簡単に終わるはずもなく。

 

「え? 誰ですその子」

「足おき、だよ」

「たっぷりお仕置きし返されました……」

 

 ゲームが終わったタイミングで呼び戻し、ようやく来た久利原たちにハツカの足置きにされている所を目撃させた。ソファに座わった彼の投げ出された裸足の裏が、正座した僕の顔の上に乗っている。

 

「吼月くん」

 

 女装だとか、姿勢だとか。色々言いたいことはあるだろう。

 しかし、彼らが重ねた一言目はやはり、

 

「踏まれるなんて狡いぞ!!!」

 

 みんなもハツカに好き勝手されるの好きだね。

 

「ふふっ」

「嬉しそうにするな」

「はい、ハツカ様」

 

 顔を押し潰す足の隙間から覗けるのは、照れながら尻を触るハツカの姿。

 そんな彼の首には赤黒い首輪が残っている。




 今回の理屈書いてても思ったんですけど、これだとナズナちゃんがコウくんの癖知っちゃってヤっちゃう概念書けそうですね。


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第七十九夜「所有物」

 ガタン……ゴトン……

 規則的に思えて、本当は不規則な振動が体を揺さぶる。一段強い揺れがやってくると、自分を押さえつけてくる周囲のものと纏めてメトロノームのように左右に倒れる。

 ガタン…ゴトン……ガタン……ゴトン

 吊り革は掴まっているし、体幹だってある方だと自負している吼月ショウ()だが、パンパンに積み込まれた人間の密度には圧倒されてしまう。以前八百屋のおばちゃんに貰ったミカンが詰め込まれた段ボール箱を思い出したが、そちらの方がまだゆとりがあった。

 なんせあちらは基本的に同じ大きさの球で、こちらは大小様々な形を持った人間で、よっこらせと人を押し込んだ電車の中だ。

 ガタンゴトン……ガタンゴトン……

 以前コンサートの行列で人が圧殺される事故があったと聞くが、体験していると頷くほかない。

 しかも感じる視線が多く、余計にストレスが貯まる。

 そんな地獄もそろそろ終わる。

 

『次は––––』

 

 電車の中に響くアナウンスが、目的地の名前を告げる。

 乱立する人の壁をなんとか掻い潜りながら出口の扉の前までやってくると、ちょうどキィィと金属音を鳴らしながら電車が減速して–––––ホームに停車した。

 素早く踏み出して進み、改札口を通り抜けて、駅の外に立つ。

 

「ふぅ……うっ!」

 

 張り詰めた身体の力が抜けると、胃の中から迫り上がってくる物を感じて必死に押さえ込む。

 不特定多数の見ず知らずの誰かと体を寄せ合うというのは、中々どうして不愉快だった。朝早くというわけでもないが、やはり休日だから人は多かった。

 

「電車は苦手だな。修学旅行もこうなのかな……ふわぁ……」

 

 初めて乗ったが心地よくない。まさか遊ぶ前にどっと疲れてしまうとは情けないが、移動しながら日差しを浴びればリラックスできて、疲労ごと眠気も取れるだろう。

 空に燦然と輝く太陽様を見上げるため手庇を作って顔をあげる。

 

「天気はいいんだがな」

 

 どことなく息苦しさがあった。

 駅から徒歩数分の場所に目的地はある。看板が見えてきたのでスマホに表示していた地図を消して、小走りに駆け寄る。

 現れたのは大型アミューズメント施設。今までの俺なら縁のない場所だった。スマホでラインを起動して『着いたよ』とだけメッセージを送ってから集合場所に向かう。

 自動ドアに映る自分の姿を見て、(僕はハツカ様のペットです)と心の中で呟いた。

 中に入って感じたのは、煩い、に間違いなかった。

 

「ツラ……」

 

 幾ら10時前とはいえ、さすが遊び場。見渡せば必ず人がいる。

 

「色々あるんだな」

 

 出入り口近くにあるエスカレーターに乗って1階を眺めていると、部屋に引き詰められたクレーンゲームなどの筐体の多さに驚く。電車で鮨詰めになった人間たちにも勝るとも劣らない数ほどあった。

 これならどれだけの人が来ても問題ないだろうなと考えていると、2階についた。

 軽く首を振れば、ロビーの周りに10人の男女が屯していた。会話をしたり、スマホを見たりと様々だが一様に俺と歳の近いグループ……応野や都雉、以前バレーを一緒にやった飯井垣。マヒルとよく遊んでいたらしい森や小野さん、世木さんといった面子がいる。

 その中で面倒なのは皆川くんと真鍋くんか。アイツらがマヒルの悪口言ってる核なんだよなぁ……面倒なことにならなきゃいいけど。

 数えれば俺含めて男子7人、女子4人といった内訳だ。

 その中に当然、理世もいた。

 そこへ脚を進めて、彼らに声をかける。

 

「やあ、おはよう」

「おお、吼月。おそいぞ」

「ごめんな。朝にちょっと寄らなきゃいけないところがあってさ。それに時間には間に合ってるだろ? ……応野?」

「いや、おま」

 

 声に反応したのは、俺を誘った張本人である応野だ。

 しかし、彼はこちらに振り向いたのはいいものの、声の主と想像していた相手の姿が噛み合わないようで2回、3回と目を擦る。目元が微かに赤くなると、今度は顔が引き攣り出した。

 応野に続いて、他のメンツも俺の方を見て、応野と同様の反応を見せる。

 唯一違ったのは、理世だけだった。

 

「おはよう、ショウ。可愛い服ね、似合ってるわよ」

「ありがとう、アイツに伝えておくよ。理世はデニムジャケットとスキニーか。動きやすそうだし似合ってるよ」

「お褒めの言葉頂戴するわ。このスキニー柔らかいから好みなのよね」

「……………ハァア!?」

 

 二言ほど俺たちが交わすと、周りに居た同級生の驚きの声がロビー全体の喧騒をかき消した。

 感謝するよ、感性普通の人たち。驚いてくれないと自分の性別について問い直さないといけなくなる。

 なんせ今の俺の姿は、黒のレースシャツの上に紺のテーラードベストを羽織って、下は–––ハツカ曰くジェンダーレス仕様の–––黒のロングスカート……つまり、中性的に見える風貌なのだ。

 

「会長かわいい!」

「えっと……吼月って、いや、すげ……ええ?」

「会長はそっちタイプだったの……?」

「理世ちゃんは受け入れすきじゃない!? なんで!?」

 

 皆川くんや森といった男子はもちろん、小野さんや世木さんたち女子も慌てふためく。たぶん上だけなら特に言われないが、どうしてもスカートを履いていると女装していると思われてしまうのだろう。俺もなんとなくスカートは女性か女装、コスプレが好きな人がやるイメージだ。

 けれど、流石にロビーで騒いでいると周りにいる他の人たちに迷惑がかかる。

 

「ほらほらみんな!」

 

 理世がパチンッ!と手を鳴らしてみせれば一瞬で静まり返る。

 

「ショウの服装に驚くよりさっさと遊ぼうよ。その為に来たんだろ?」

「まあ、確かにそうだな」

 

 全員が我に帰えると渋々といった様子で理世の言葉に従い、各々販売機に並んで入場用のチケットを購入する。買い終わって、店員に渡すとQRコードのついたリストバンドと交換になった。

 なんでも退場、再入場の時に必要になるらしく無くすと面倒なことになるらしい。しかも、屋内のアトラクションだけでなくボーリングなどの予約もスマホとQRコードを使って行うらしい。

 

「予約だけならグループのひとりがやれば良いだけでいいがな」

「へぇ、そうなのか」

「ホントに何も知らないんだな。会長ってあんまり遊んだことないのか?」

「お恥ずかしながら皆川の言う通り、行く機会はないな。だから、みんなから呼んでもらえて嬉しいよ」

「そっか……良かった」

「そうだ。飯井垣たち、別に学校じゃないんだから会長呼びじゃなくていいぞ」

「ほんじゃ、吼月」

「吼月くんはなんで女装してるの?」

「小野さ、俺のセリフ取るなよ」

琥太郎(こたろう)は細かいこと気にするねえ」

「小野さんは豪速球すぎかな」

 

 気にならない道理がないのは先ほども言った通りだが、目を配れば男女問わず奇異の視線を向けてくる。好奇心混じり、怪訝な視線混じり、様々であまり好ましくないが、エレベーターを待ちながら慣れるしかない。

 

「蘿蔔さんか?」

「応野はわかっちまうか、正解だよ」

「お前さ……」

 

 俺の返事にため息を溢す応野と同時に、他の面子––––主に女子––––が、一斉に理世へ顔を向けた。中にはご愁傷様と言わんばかりに両手を合わせる者さえいる。

 

「なんで私の方を見るのよ」

「いや、だって取られちゃったのかなって」

「取られてないから」

 

 取られた取られてないといった謎の大騒ぎをしているのを傍からただ眺めていると、脇に結構強めな肘打ちが数回叩き込まれる。

 俺は痛がるふりをして、応野に言う。

 

「い、痛かったぞ……応野……」

「だったら弁明しろよ。誤解されてんぞ」

 

 弁明することなんてあるのか––––そう首を捻りかけたが、この服装を見て理世に矛先が向くとしたらひとつだろう。

 

「別に好きとか、付き合ってる相手じゃないぞ?」

「あ、そうなの?」

「ただの友人だよ」

「普通の友達に女装させられるなんてことないと思うけどな〜」

「てか、蘿蔔さんも女装男子だぞ」

「相手もそうなの!!」

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」

 

 眼を弧にしながら追求してくる小野さんに割り込む形で応野が援護してくれるが、余計に食いつきが良くなる。指を忙しなく動かしながらジリジリと近寄ってくきて、身に危険を感じた俺はタイミングよくやってきたエレベーターの中へと避難する。

 当然、彼女も俺を追いかけようとしてくるが、

 

「その人とはどんな関係なのかもっと詳しく教えてよぉ」

「こら、およせ」

「痛ッ! ふにゅ……」

 

 声と共に振り下ろされた褐色の手刀が目に映った。

 ニカニカと笑う小野さんを押しつぶす一撃が脳天へと炸裂する。頭部から煙を立ち昇らせる彼女は、わざとらしく声を漏らしながら膝から崩れ落ちた。

 俺は振り下ろされた手刀の持ち主に視線を動かす。

 

「酷いよ、(あおい)ちゃあ!」

「ありがとう岡村」

「こっちこそ悪かったね、吼月。優花(ゆか)は色恋沙汰が好物なんだ」

 

 蹲る小野さんの頭を抑え込み、ポニーテールを揺らしているのは岡村蒼という別のクラスの女子だ。背中まで垂れる髪を青いシュシュで一本に纏めたポニーテールと、シュッとしたいかにもなスポーツマン体型が心地よいほど噛み合っている。

 係り自体は少ないが、生徒会での部活動の備品チェックなどで時々顔を合わせる間柄だ。

 小野さんを御している岡村を皮切りに全員がエレベーターの中へ流れ込む。押し潰されそうだが、それなりにゆとりは取られるので電車よりは精神的にもマシだった。

 

「あのさ……吼月」

「どうしたんだ?」

「あ、いや……」

 

 流れで俺のそばに来た岡村が暗い声を潜めて話しかけてくる。浮ついた様子の声ではないから思わず首を傾げるが、彼女は一瞬目を逸らしてから、

 

「本当に恋人……ではないんだよね?」

 

 と、仄かに熱の入った声で聞いてきた。

 

「……? お前もかい」

「どうせショウのことだから、賭けにでも負けたんじゃないの?」

 

 俺の隣を陣取った理世が、こちらの顔を覗き込みながらぶっきらぼうに事実を言い当てる。辟易した様子すら見せない彼女は、問い詰められている俺を見て楽しんでいる節すらあった。

 

「ねえ、ショウ。どんな風に負けちゃったの」

「別に負けではないさ。だって俺、似合ってるんだから」

「……若干、蘿蔔さんに似てきたわね?」

 

 本当のところは8対2で総合的には勝っているんだと付け加えたいが、この姿を見る限り、疑わしいとしか言いようがないだろう。

『蘿蔔さんもいい趣味してるわ。ちゃんとショウの脚の良さが』と呟きながら、理世は俺の女装姿をスマホで撮っている。

 その様子に応野はため息をつき、小野さんは理世に倣って『分かる。あ、タイツ履いてるじゃん!』と写真を撮り始め、飯井垣や岡村は目を点にしながら驚いている。

「だからって男としての尊厳まで捨てるなよ」と応野の肩を叩きながら、森くんが俺に言う。

 

「捨てはしなさ。せっかくなら両取りしてやろうと思ってね。どう、森くん。俺、可愛い?」

「…………そりゃ」

 

 大所帯なのでエレベーターの中で振り向くことも出来ず、肯定の意で色濃く顔を染めた森くんは負け惜しみを言うように声を絞り出す。その顔を見ていると、背中がサワサワする。

 なんだろう。近い言葉だと、楽しい、になるのか?

 

「おい、森」

「いやだってさぁ……付き合いなかったら女にしか見えないだろ……そういう応野はどうなんだよ」

「………………」

「お前もじゃねえかよ」

「んふふ。これでもハツカが選んだ服だからな」

 

 森くんや応野を見ていると、まるでハツカに照れさせられた自分を見ているようだ。

『他人の振り見て我が振り直せ』ではないけど、相手に見られると少し情けないというか、相手のペースに呑まれそうになるのは避けるべきかな。見栄を張ってる時にハツカに照れさせられたら、ポーカーフェイスを維持できるように頑張ろう。

 ピコーンと電子音が響いて、目的の階層についたことを知らせてくれる。

 

「する〜と上に来たけど、なにやるの?」

「サッカーとかバスケか……兎に角空いてるものから潰してく」

「お天道様が真上にいる前後なら確実に人が少なくなるけど、ここって天井がガラス張りだから、昼間だと日差しがちょっとね……」

「今日は日差し強めだからな。肌を気にする人にはNGってわけか」

「日焼け止め塗れば良くないか?」

「琥太郎は分かってないね……薬だけじゃ全ては防げないものなのだよ。誰もが蒼みたいな肌になりたいんじゃないんだから」

「唐突にアタシをディスるのやめてくんない?」

「俺は岡村の薄小麦色の肌好きだぞ。健康的な快活元気っ子って感じで、岡村に合ってて凄くいい」

「そうか? 好きって言われると照れるな……く、吼月もかわいいよ」

「ありがとう」

 

 今度は赤くなっている岡村の顔を見て、背筋がサワサワする。

 

「でも1番いいのはやっぱり理世ちゃんだよ〜〜、海に遊びに行った時、日焼け止め塗ってないのに全く焼けないんだもん! まったくどうなっているんだね、君の肌は!」

「私の肌は無敵だからね」

「あい変わらず餅肌ぁ〜」

「本当だ。柔らか」

「待って、優花も蒼もつまむのはやめて」

 

 戯れあっている女子たちを男子勢が引き連れて、最上階のフロアに入る。

 森くん達が言った通り、サッカーやバスケ、テニスといった色々なコートが敷き詰められた遊戯場になっていた。奥を見ればアーチェリーやバッティングセンターも設置されていて、充実っぷりに圧倒される。

 

「ここだけで1日潰せそうなんだけど」

「時間制限あるから思いの外全部回れるぞ」

「譲り合わなきゃいけないしね」

「ちょうどバスケのコートが空いたみたいだな」

 

 応野の視線を辿れば、数人の大人が別の場所に移動しようとしていた。次に使う人はいないようなので、敷居代わりのネットを潜る。

 俺たちはコートの周りに置かれたベンチに荷物を置いてから、チームを決めようと円陣を組みながら全員が拳を握る。

 

 

「納得いきません!」

 

 目の前にいる男に睨みつけるようにして、デスクの天板を両手で強く叩く男は神崎和也だ。相対しているのは、周りに置かれている物に比べて一回り大きいデスクに見合った革製の椅子に腰をかける男––––ここ、大未栄(おおみえ)弁護士事務所の所長、大未栄 幸治(ゆきじ)だ。

 所長とこの事務所で1番の弁護士の衝突に、私も、所長室の外で仕事をしているであろう他の所員たちも冷や汗を背筋に垂れ流している。

 

「だがね……」

 

 所長は歳の割によく生えている髪を触りながら、予想通りに想定以上の食い下がりを見せる神崎さんの威嚇を意に介さない。それどころか、少し呆れてすらいる。

 

「キミが納得いかなくても、悪いのはキミの方なんだよ」

「わたしは!」

「子供を殴ることが正しいとでも言うつもりか」

 

 その一言に神崎さんがグッと唇を噛んで黙り込む。

 騒動の発端は、彼が贔屓にしている友人の息子である吼月ショウに暴行を加えたことから始まる。何が起爆剤になったかは分からないが、一緒に遊ぶべきではない相手と夜を過ごしていると、『誤解』したのが原因だ。

 そう、誤解。

 これがまた厄介なもので–––––

 

「君の沸点がよく乱高下するのは知っているが、だからと言って、子供の話を聞かずに殴り飛ばす弁護士が……大人が居ていいと思うのか?」

 

 所長が懐から再び(・・)取り出したのは彼のスマホ。

 そこには神崎さんが吼月ショウに暴行を加える始まりから終わりまでの音源が入っている。

 十数分近く殴られた音声が続くので、私も右耳から左耳に聞き流そうにも聞くに耐えないものだった。それが何個も届いているらしいから、全部聞けば耳にタコができるだろう。

 

「さっきも言ったが、これを聞いた時は心底驚いたよ。これまで好き勝手やっていたが一線を守っていたキミが、易々と飛び越えるとはね……これが口外されることはキミにも、私たちにも大きな被害が出る。神崎くんが有名になりすぎた弊害かな」

 

 神崎和也、調べればすぐに名前と写真がヒットするレベルで有名な弁護士。最近はテレビにも出始めているので、余計に人の目に晒されることが多い。

 そんな彼が児童虐待をしていると世間にバレたら大変なことになる。最悪この事務所潰れたりするのかな、と私はぼんやりと大した危機感もなく思っている。

 

「だが、吼月くんもそれは望んでいない。口外しない代わりにとある条件を出してきた」

「……それが彼への接触と私の単独行動の禁止ですか」

「その為にこの子がキミの監視係となる」

「大未栄弥恵(やえ)です。よろしくお願いします」

 

 私は姿勢を正して、神崎さんに軽く会釈する。

 

「孫娘だ。これから吼月くんに会う時はこの子と一緒か単独で行かせるといい」

 

 神崎さんも同じだけの深さの礼を返してくれるが、内心では納得していないようだ。所長もそれを見抜いていて、神崎さんに更に追撃をかける。

 

「そろそろ腰を据える時が来たというわけだ。せっかくテレビにも出て広報活動だって好調、もう少し落ち着きを見せたらどうだね。何事にも、例えそれがキミの嫌いな家族関係でも」

 

 歯が砕けているのかと錯覚するほど強く噛んだ音がした。

 

「少なくとも、彼は君の所有物でもなければ不満を発散させる吐口でもないよ」

「…………」

 

 神崎さんは目を閉じてから一度呼吸をすると、張っていた肩の力がげっそりと抜ける。そうして、『分かりました、失礼します』とだけ言って所長室を去っていった。

 

「……神崎さんってもう少し大人な印象でした」

「十分大人だよ。ただ」

「家族のことになるとどうしても蘭花(らんか)のことをね」

「こんにちは、朝霧さん」

「どうも弥恵ちゃん」

 

 入れ替わるようにして所長室にやって来たのは朝霧日和(ひよ)。神崎さんとは5つ違いの女性だが、今の流れからして昔馴染みのようだ。

 

「その……よろしければ、蘭花さん?という方についてお聞きしても?」

「訊くと言っても、言えるのはひとつだけ……殺された妹さんなの。少なくとも人としては」

 

 肩を落としながら彼女は言う。

 

「分からなくて良いのよ。でも、気をつけなさい……鬼に噛まれないようにね」

 

 彼女が言うとおり、よく分からなかった。



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