けれどその夢、一点の曇りなし。脱童貞の定義を述べよ (とやる)
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けれどその夢、一点の曇りなし。脱童貞の定義を述べよ

おら!2014年の息吹!


 遊んでいたゲームが突然デスゲームになった。

 

 どうしてデスゲームになったのか、なぜゲームで人が死ぬのか。

 無機質にただ淡々と語る赤フードのホログラムの下で、強制的に現実の姿に置換されたプレイヤー達の困惑や悲鳴が上がっている。

 気持ちは痛いほどわかる。

 俺だって、死ぬほど発売を楽しみにしていたゲームがデスゲーム化して平静なわけじゃない。

 むしろめちゃくちゃ取り乱している。

 あまりの絶望的事実に息は乱れて汗は吹き出し、今にも嘔吐しそうだ。

 

 俺たちが幽閉されたデスゲームの名前はソード・アート・オンライン。

 世界初のフルダイブ型MMORPG。

 リアルの自分の姿とそっくりなアバターを、まるで自分の体を動かすように操作して世界を冒険するゲーム。

 

 そう、ゲームなんだ。

 

 漫画とかで見た「これからみなさんにはデスゲームをしてもらいます」とかの、デスゲームではあるけど次元的には3次元で起きてるやつではなく、どっちかというと二次元で起きてるんだ、これ。

 

 この違いは大きい。

 めちゃくちゃ大きい。

 聡明な俺はSAOがデスゲーム化した瞬間に気づいてしまった。

 

 もし、この世界で死んだら、俺は──。

 

「──俺、童貞のまま死ぬのか?」

 

 しかも、卒業するチャンスすらない。

 だってこれ、リアルじゃないからね。

 股間に鎮座するチンの感触はあるけど、明らかに慣れ親しんだ己のものとは違う。

 なんかこう……造形が、雑な感じする。いらすと屋でモデリングしたの? 

 男の象徴、偉大なる朕にこの仕打ち……到底許されるべきではない。

 いやそうではなく。

 男のナニでこの調子であれば、女のナニも似たような塩梅だろう。女にナニはないけど。

 

 ふざけやがって……! IT世代の童貞を舐めるなよ茅場晶彦……! 

 彼女いない歴=年齢で経験はなくても無修正動画で形状は知ってんだ! スマホのブックマークの件数は星の如し。

 お前、実際の場面で動画で慣れしたんだ生々しいソレじゃなくて、日本昔ばなし並みにデフォルメされたソレを目にしてみろよ! 

 もう……! もうなんかコントだろ、それ! 

 

 肝心の性器はいらすと屋で作られ、というかちゃんと作られてたとしても行為は確実にできない。流石にR-18行為が可能なゲームをZ指定せずに通すほど日本の審査期間は緩くない。

 この事実に膝を屈しそうになりながら、というか実際に膝をついてたけど、それでも俺は立ち上がった。

 

 いいや、まだだ。

 仮に行為ができないとしても。

 それでも、せめて……せめて、死ぬのならおっぱいだけでも揉んでから死にたい。

 自分の腕とかの肌の質感はリアルと遜色ないんだ。なら、触り心地だけは保証されているようなもの。

 それに、性器と違って乳首はZ指定に引っかからない。少年漫画が俺に大切なことを教えてくれた。

 だから……おっぱいだけには、おっぱいだけには、希望がある! 

 現実と遜色ない姿と感触かもしれないという希望がよ! 

 

 拳を握りしめて、決意する。

 童貞をおちょくるのも大概にしろよ……! 

 

「俺は……お前には負けないぞ、茅場晶彦!」

 

 宣誓するように空気を握り空を殴った。

 当然なにも起きないけど、気持ちは奮い立った。

 やるぞ、俺はやるぞ。

 当たり前に死にたくはないけど……もし死ぬとしても、おっぱいを揉んでから俺は死ぬ! 

 

 パオーン! 

 昂る俺の感情に呼応するように股間も応えた。

 

 あ……一応勃つのね、君。

 でも今はやめて欲しかったな! 急に叫んじゃったから、周りの人が俺のことをよくない目で見てるから! 

 流石にこんな大勢の人に聳り立つ朕を見られると恥ずかしさでうっかり死にかねない。

 俺は顔を見られないように、そして朕を見られないように前屈みで両手で顔を覆いながらそさくさと始まりの広場を離れた。

 

 ちなみに、ズボンの張り具合からこの世界の俺の朕は現実のものより大きかった。

 しばらく凹んだ。

 

 

 

 

 

 おっぱいを揉むと言っても、ことはそう簡単ではない。

 やるやらないは別として、現実であれば最悪無理やり襲ってしまえば達成できたんだけどな。やらんけどね? 

 SAOの世界でそれは難しい。ハラスメントコードというものがあるからだ。

 デスゲーム化したとはいえ、元々は一般の市場に発売されたゲーム。当然、倫理面の制約はかなり厳しいものが課されている。

 プレイヤーを恣意的に攻撃したものは“犯罪者“となって街に入れなくなる、とかな。

 牢獄なんかもあるし、まあ流石は日本のゲームって感じ。

 そんなわけで、このハラスメントコードも相当に重い代物な訳で。

 

 なんと男は女性に触っただけで、女性が「きゃー! こいつキモっ!」って思ったらその時点で牢獄に強制転移、めでたく犯罪者になるらしい。

 

 いや……重すぎるやろ。

 行き過ぎた痴漢対策を見ているようだ。

 流石に鞄が当たっただけで駅員が飛んでくるようなクソ判定ではないらしいが、おっぱいを触る難易度が相当に跳ね上がっている事実には変わりないだろう。

 というか、これって女性側が悪用したら男を犯罪者にしまくれるのではないだろうか。こう、自分から誘う雰囲気を出して、男が誘いに乗って触れたら必殺! ハラスメント通報! 

 俺は抗える自信はない。股間で生きる決心をしたから。

 もう逆ハラスメント説ない? これ。

 

 俺は貪欲な男だ。そしてエロい男でもある。

 おっぱいは触りたいが、それは触れたか触れてないかの刹那の一揉みではない。

 何度も何度も揉みたいし、柔らかさを堪能したいし、乳首だってつねりたいし、ついでに感じる女の子の声も聞きたい。妄想の中の俺はテクニシャン。技術には自信がある。イメトレを重ねた回数なら負けない。おら! イケメン滅びよ! しまった、「オタクくん、実践経験ないと意味ないよw」って言われた時の記憶が蘇って呪詛を吐いてしまった。

 

 ともかく、おっぱいを揉み、そして堪能するという俺の目的を果たすためには、おっぱいを揉んでも拒絶されないだけの信頼関係を築き上げる必要があるのだ。

 それもう恋人じゃね? バカなの? 俺は恋をしたいんじゃなくて胸を揉みたいのだが……。

 しかし、聡明である俺はすでに解を導き出している。

 

 いるのだ……世界には、恋人でなくてもおっぱいを揉ませてくれる女の子が。

 人は、それをびっちと呼ぶ。

 

 それは社会が産んだ性欲モンスター! 

 性の快感が生きる意味! 誰これ構わず肉体関係を結ぶ、モテない男にとって“ワンチャン“の夢をくれる現代の女神! 

 おお、びっち! ビバ、びっち! 

 びっちな女の子だったら胸揉むぐらい楽勝でしょ! いけるいける! 

 自分、ワンチャン期待しちゃっていいですかね……! 

 

 びっちな女の子とそうでない女の子を見分ける方法は簡単だ。

 すなわち、髪を染めているかそうでないか。

 エロ同人で見たびっちな女の子はみんな髪を染めている(俺調べ)

 デスゲーム化する前のSAOはファンタジー色強いだけあってハリウッド張りの濃い顔の美男美女で埋め尽くされ頭髪も七色カラーズレインボーだったが、リアルの姿に置換された今は圧倒的に黒や茶色が多い。

 自分でメイクしたファンタジー顔ではなく、親にメイクされたリアル顔で頭をゲーミング色にするのは勇気がいる。

 その心理的障壁を乗り越えられるのはびっちか、ヤリチンしかいないだろう。エロ同人のチャラ男金髪率は90%を超える(俺調べ)

 

 だがしかし。

 ここで安易に髪を染めた女の子に「デュフ、おっぱい……揉ませてもらっていいすっかねw」と突撃するやつは二流だ。

 いくらびっちが女神のような慈悲を兼ね備えている現人神とはいえ、ハラスメントコードの仕様上、おっぱいを揉んだ瞬間牢獄にぶち込まれる可能性がある。

 これではダメだ。俺はおっぱいを堪能したいのだ。

 

 たったひとつの冴えたやり方がある。

 数多のなろうアニメが教えてくれた。

 つまり! 

 

 びっち「きゃー! 私ピンチだわ!」

 

 俺「ふっ! はっ! とりゃぁ!」

 

 びっち「私のピンチを颯爽と救ってくれるなんて……! なんてかっこいいの!? 素敵! ぜひ私のおっぱいを揉んでください!」

 

 俺「フッ、当然のことをしたまでさ。しかし、君がぜひにというのなら断るのも忍びない……。その胸、揉み受ける! パイ・ボルク!!」

 

 完璧なシナリオだ……。なんだこの満ち溢れる威厳と男らしさは。一部の隙もない完成されたプランと言ってもいいだろう。

 なろうアニメの女の子はみんなこれで主人公を好きになっていた。そしてなろうアニメの女の子の髪の色は例外なくカラフルだった。おいおい、もしかして真理を紐解いちまったか? 

 それに、なろうアニメの主人公たちは、あんまりかっこよくなくても有能さがあれば女の子から慕われるということも教えてくれた。

 これが俺の生きる道。イケメンとは競わない! 持ち味を活かせ! 

 おっと、でも身だしなみには気をつけないとな。妹にも清潔感は大事だと死ぬほど言われた。あと笑うとキモいとも散々言われたので無表情をデフォルトにしよう。凹む。

 

 窮地のびっちを助けるのもまあいけると思う。

 なんせこれでもβテスターだったんだ、そこらのプレイヤーよりこの世界に適応できる自信がある。少なくとも、序盤の間は確実に。

 

 流石にデスゲームの今最前線に出張る気はさらさらないけど、迷宮にさえ入らなければ、あとリトルネペントの実を破るとかの自殺行為さえしなければなんとかなるなる。

 

「方針は決まりだ。行動に移そう」

 

 待ってろよ、窮地のびっち! 

 颯爽と君を助けに行くよ! 

 俺は意気揚々と始まりの街を飛び出した! 

 

 だがしかしのねるねるね。

 

 あとで知ったんだけど、どうやら髪を染めるアイテムは最前線の方にしかないらしい。

 

 デュフ、それ、自分……窮地の髪を染めたびっちに会うためには、最前線に行かないといけないってことっすかねw

 

 流石に悩んだ。悩んだが……。

 俺がこうして悩んでる間にも、びっちが髪を染めるために最前線に行き、ピンチになっているかもしれない。

 そして、それを俺以外の誰かが……同じく髪を染めるアイテムを求めたヤリチンが救い、出会ってはいけない2人が出会って2人だけのエデンが生まれているかもしれない。

 それは……それはダメだろ! 

 ヤリチン許せねえ! てめえ……! そうやって俺からおっぱいまで奪っていくのか! 

 

 それに何より、俺は股間で生きると決意した。こんなところで決意と股間をふにゃらせている場合ではない。

 いつだって男は鉄のように固くないといけないのだ。

 意志も、股間も。

 あ、いや、股間は肝心な時だけでいいや。歩きにくいし。

 

 だから今は勃たなくていいんですよ。だめ? そうですか……。

 くそ……なんでこんなすぐ勃つんだよ。感情がちょっとでもエロい方面に行ったらすぐ臨戦態勢に入ってる感じあるなこれ。

 俺の股間がエロに弱すぎる。対魔忍か? 

 これで感度の方も対魔忍だったら流石に泣くんだけど。おっぱい触った瞬間に股間のソードスキルが暴発したら凹む。童貞くさすぎない? 

 童貞だったわ。ならいいか。朕のバーチカルアーツでびっちのポッチにスイッチ! コングラッチュレーション! ラストアタックは頂いていくぜ! 

 ちなみにファーストアタックを頂けたことはない。デュフ、まあこれからファーストアタックを頂いてもらうんですけどねってやかましいわ。

 

 

 

 

 そんなわけで最前線近くでレベリングに勤しみつつびっちを探していたところ、リトルネペントの群れに襲われている髪を染めた女の子を見かけた。

 

 なるほどね、状況は大体分かった(分かってない)

 なんだこのクソみたいな状況は……アイドルの握手会みたいな人口密度だ。いやあの会場はチン口密度か。

 緑の巨体、リトルネペントの群れ、群れ、群れ! 女の子に群がるそれは、エッチな格好をしたレイヤーを取り囲むカメコみたいだった。シコっ! Twitterでお世話になってます! 

 

 いやそんなことはどうでもいいんだよ。ともかくこれは、待ちにまった絶好のシチェーション! 

 俺、行きまーす! 待っててねびっち、今いくよ♡おら、死ね! (リトルネペント)

 

 大量のリトルネペントを誘き寄せる“実“を割ってしまっていたのだろう。

 流石に何回か「あれ? これやばくね? 死ぬ?」みたいな場面もあったが、おっぱいへの執念でなんとか全てのリトルネペントを狩り終えた。

 あの茶髪の子のおっぱい……ピピピ! おっぱいスカウター! 

 胸囲72……80……92……バカな!? まだ上がるだと!? 

 童貞だから数字は適当だが、でかいことは分かった。いやでかいな。しかしでかい。でかいな……。うむ。

 

 戦いの高揚感に昂った心とこれからの期待で膨らむ股間。

 

 戦闘後で疲弊しているだろうに、それでも笑顔を浮かべてお礼を述べる女の子、名前は……ミトさんとアスナさんか。可愛い名前だね。びっちっぽくて。

 特にミトさんの方は髪も菫色……紫だ。紫ってなんかエロい雰囲気だよね。ほら、ネオン街とかエロいし。

 これはもう……絶対びっちだろ。

 間違いない。朕のびっちレーダーがうおおおん! これはびっち! って反応してる。

 そして俺の好みのど真ん中である包容力属性……はないな。ないけど可愛い! ロリじゃない! ヨシ! 

 そして何より俺は彼女の窮地を救ったヒーロー! その心はなろう主人公! 

 いける! 

 

 俺は彼女の胸に手を伸ばした! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遊んでいたゲームが突然デスゲームになった。

 

 ミトの心を襲った衝撃は計り知れない。なぜなら、ミトはβテストで最前線を駆け抜けるほどこの世界にのめり込んでいて……何よりも、SAOというゲームが好きだったから。

 ゲームが、ゲームではなくなった。

 HPバーがゼロになった瞬間、本当に現実でも死んでしまう。

 心の中の大切なナニかに傷が入ったように思った。

 

 体の中心に氷の剣を差し込まれたようだった。

 現実感はない。ないけれど、ミトの聡明な頭は、SAO開発者である茅場晶彦が語ったプレイヤーの殺害方法が“可能である“と納得していた。

 

 カタカタと震える体。

 まるで現実のように干上がってろくに震えることさえもしない喉。

 いいや、違う。

 ここは現実なんだ。

 だって、ここで死ねば、本当に死んでしまうのだから。

 

 どこか遠くで、女の子の悲鳴が上がった。

 

 それを皮切りに、プレイヤーが集められた始まりの街の広場には感情が伝播していく。

 恐怖、混乱、憤怒、ありとあらゆる負の感情が、伝播していく。

 あそこの男のように、ただ絶望に屈して膝をついているだけならまだいい。

 だが、この巨大な負の感情の波はすぐに顔を変えるだろう。

 おおよそ1万人のプレイヤーが、やがて混乱する被害者として暴徒になっていく。

 時期にこの始まりの街は混沌の極地になるだろう。

 追い詰められた人間は本質的に何をしてもおかしくはないのだから。

 

 ミトだって、本当は狂ってしまいたかった。

 恐怖に任せて、悲鳴をあげて、怖いと泣いて立ち竦んでしまいたかった。

 誰かに手を差し伸べられるのを待っていたかった。

 助けて欲しかった。

 

 周囲の感情に流されそうになるミトの心をギリギリのところで押し留めていたのは、ミトの隣で呆然としているアスナの存在だった。

 

「これは……現実……?」

 

 ゲームというものにろくに触れてこなかったアスナは、これが現実なのか、ゲームのイベントなのか未だ判断がついていないようだった。

 いいや、現実だとわかっていても、それを信じたくないような。

 

 ……どっちだっていい。

 ミトにとって重要なのは、そこではない。

 重要なのは、アスナはミトが誘ったからSAOを始めたという事実の前では、他のことなんてどうだっていい。

 

 ミトには、責任がある。

 ミトと関わりさえしなければ、SAOどころかゲームそのものに触れる機会もなかったのがアスナという少女だ。

 詰まるところ、アスナをデスゲームという地獄に叩き込んだのは、他ならないミト自身。

 

 それは、絶対に違うことだけれど。

 悪いのは絶対的に茅場晶彦であるはずだけれど。

 もしアスナがこの世界で死んでしまえば、ミトは一生自分を責め続けるだろう。

 そういう精神構造を彼女はしていた。

 

 アスナを守るためにはどうすればいいか。

 答えは出ている。

 今すぐに始まりの街を出るのだ。

 混乱から時期に暴走を始めるだろうプレイヤー達と同じ場所にいるのは純粋に危険だからというのが1つ。

 そして何よりも、すぐに動かなければ周辺のモンスターが“この世界で生きることを決めたプレイヤー“に狩られ尽くし、レベルを上げることも難しくなるからだ。

 

 SAOはMMORPGだ。

 このジャンルのゲームはレベルが絶対的な数字として君臨する。

 ゲームは基本、弱肉強食の世界だ。強い者が、弱い者を狩る。それはデスゲームでも変わらない。

 SAOで生きるためには、強くならなければならない。

 

 何をやればいいかわかってる。

 だけど、どうしても。

 すぐに街を出よう、この一言が、どうしても出てこない。

 

 当たり前だ。

 安全が保障された……絶対にHPが減らない、死ぬことない圏内である始まりの街をでれば、そこはHPが減る死の世界。

 命を刈り取るモンスターが住む世界。

 そんな場所へ、どうして簡単に飛び込めようか。

 

「(言え……言え、言うんだ! 早く行動しないとどんどんリソースがなくなる! βテスターはきっともう動き始めてる! アスナを守るためには……この世界で生きるためには、今、ここで動かないと間に合わないって、分かってるのに、なんで、なんでっ! なんで動かないのよ、なんでっ……!!)」

 

 頭とは裏腹に、ミトの心はすでに重圧と恐怖に屈しかけていた。

 

 周囲のプレイヤーと同じように、絶望に折れてしまいそうだったミトの近くで立ち上がる男がいた。

 

「俺は……お前に負けないぞ、茅場晶彦!」

 

 ミトの視界の片隅で、絶望に膝を折っていた男だった。

 恐怖に震え、込み上げる嘔吐感に耐えるように屈んでいる男だった。

 その男が、今、並々ならぬ決意を滲ませる目をして空を……いや、その上、アインクラッドの最上にいるであろう茅場晶彦を睨みつけていた。

 

 男が、空気を握って空を殴る。拳を突き上げたのだ。

 まるで、宣戦布告をするように。

 お前には負けないと。このデスゲームをクリアしてやると言わんばかりに。

 

 変化は劇的だった。

 男の周囲の負の感情が、まるで打ち消されるように霧散していく。

 それほどまでに、男の声には決意が、信念が、熱が灯っていた。

 この男はただものではない。

 そう感じさせる凄みがあった。

 狂乱しかけていた者まで静まり返り、まるで救世主を見るように誰もが男を見ていた。

 

 言うべきことは言った、とばかりに男が踵を返す。

 けれど、その背中は曲がり、手は口元を押さえていた。

 先ほどの覇気が嘘かのような姿だが、ミトには分かる。

 

 本当は男も絶望に挫けそうだったのだ。

 だって、ミトはあの男が打ちひしがれ、膝を折っていた姿を見ている。

 なのに。

 なのに、あの男は恐怖を気力でねじ伏せ、啖呵を切ってみせた。

 

 それはきっと、恐怖と絶望で今にも感情の風船が破裂してしまいそうな周囲のプレイヤーを安心させるために。

 それをしてしまえば、ゲームクリアという重すぎる希望を背負うことになるというのに。

 

 なんという男だろう。

 彼は、自分もいっぱいいっぱいでありながら、それでも他者を気遣い。

 それだけにとどまらず、このデスゲームをクリアするという重圧も背負ったのだ。

 

「ぁ……」

 

 気がつけば、ミトの体の震えも止まっていた。

 

「街を出よう、アスナ。一刻も早くゲームをクリアするためには、それしかない」

 

 周囲のプレイヤーと同じように、男の熱で心を持ち直していたアスナが困惑の声を上げる。

 それには構わない。

 ミトは、アスナの手を掴んで走った。

 

「理由は後で説明する。今はわからなくても構わない。でも、絶対に……絶対に、アスナを危険な目には合わせないから。私を、信じて」

 

 

 

 

 

 そうして、ミトとアスナはSAOを駆け抜けた。

 

 この世界で戦い、生きて、ゲームクリアを目指して必死で走った。

 時には、他プレイヤーが死ぬ場面を見たこともあった。

 助けには行かなかった。あまりにも危険な状況で、それをすれば2人とも死にかねなかったから。

 心にしこりが残った。もしかしたら、自分は酷い人間なんだろうかと鎌首をもたげた。

 けれど、命の優先順位はもう決めていたから。

 罪悪感で止まることはなかった。

 

 だから、だろうか。

 

 今、2人はいつか見殺しにしたプレイヤーたちと同じように死のうとしていた。

 

「アスナぁ……っ!」

 

 手を、伸ばす。

 届かないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。

 

 右を見ても左を見てもリトルネペントがいる。

 囲まれている、という次元ではない。

 ミトとアスナが存在する空間を塗り潰そうとしているような物量がそこにある。

 一体一体は苦戦するような強敵ではなくても、それが何十、何百といっぺんに相手にするのなら話は違う。

 

 人間の大人同士の喧嘩は、どれだけ強くても3対1までが個の強さの限界だと言う。

 それ以上の数を同時に相手にすれば、どれだけ強くても一方的にぶちのめされる。

 ここはゲーム。システムに定められた数字の強さが絶対的な指標として君臨する世界。

 現実とは違うけれど、それでも、視界に映る100に迫らんとするモンスターの群れは心を圧死させて有り余る。

 

 それでもまだ折れていないのは、近くで大切な友達が戦っているから。

 まだ戦えている。けれど、長くは保たない。

 最後のポーションはとっくに使い切っている。もう後がない。

 死が、現実の死が、足元から這い上がってきていた。

 

「──」

 

 誰か、と助けを求めそうになって、それが無意味だと悟った。

 だって、自分たちもそうだったじゃないか。

 

 見ず知らずの他人を助けるために命は懸けられない。

 それが、99%死んでしまうような死地であれば尚更だ。

 

 ミトがそう決断したように、命を天秤に乗せて、冷静に、冷徹に、価値を定めるのが人間だ。

 誰だって、自分より大切なもなんてない。

 自分の命が、一番大切なんだ。

 

 だから、助けは来ない。

 

 そう、だから。

 

 ──だから、ミトも、アスナを助けに行かなくてもよかった。

 

 それが、幸か不幸かは別の話だ。

 事実として、戦闘中に落石トラップを踏んだミトは、墜落という形でリトルネペントの追撃から逃れることに成功していた。

 

 彼女には選択肢があった。

 

 行手を阻むリトルネペントを倒しながら──回復アイテムが尽きた状態で、命を懸けてアスナの元へ戻って戦う、自殺と変わらない選択肢と。

 このまま、アスナを見捨てて逃げてしまう──約束も、誇りも、心をも捨てて生き延びる、自殺と変わらない選択肢が。

 

 また、視界の隅に映るパーティメンバーのHPゲージが減った。

 色は赤。

 アスナの命の残量は、もう間も無く尽きるだろう。

 

「ぃ、いやだ……嫌だ、見たくない……」

 

 恐慌状態に陥った頭で、震える指でシステムウィンドウを開いた。

 

「ごめん……ごめん、アスナ……」

 

 死への恐怖があった。

 けれど、それ以上に。

 目の前で、親友の死を観測することでそれが確定してしまうのが、何よりも恐ろしくて。

 嫌なことから逃避する子供のように、嗚咽混じりの謝罪を絞り出したミトが、パーティーを離脱しようと指を動かし──。

 

「──状況は大体把握した。後は、俺に任せろ」

 

 刹那、ミトの横を駆け抜けていく影があった。

 

「──ぁ」

 

 その声を。

 その姿を。

 ミトは知っている。

 

「あの人だ……」

 

 あの日、SAOがデスゲームになった始まりの日に。

 ただ1人茅場晶彦に叛逆の牙を向け、混乱するプレイヤー達を落ち着かせるために、言外にゲームクリアを宣言したあの男だ。

 自分だって怖くて震えていたくせに、それでもその重圧をたった1人で背負うと決めた、あの──。

 

 死地に走る男の背中に躊躇いはない。

 迷いがなかった。

 まるで、そうすることが当たり前だとばかりに彼はアスナを助けに行った。

 男が迸らせる裂帛の気合いからは、絶対に助けるのだという魂の叫びが込められていた。

 

「──ッ!!!」

 

 その時、ミトは理解した。

 

 ゲームクリアの重圧? 違う、そんな生易しいものでは断じてない。

 ゲームをクリアするだけなら、ここで命を懸ける必要はない。こんな、どこの誰かもわからない人間を助ける必要なんかないのだ。

 いつか、自分たちがそうしたように。

 

 なのに、男はミトやアスナを命賭けで助けようとしている。

 それは、つまり、それが意味することは、たったひとつ。

 

『俺は……お前に負けないぞ、茅場晶彦!』

 

 あの宣言は、ゲームクリアを指しているのではなかった。

 それよりも、もっと大きくて、困難で、子供が掲げる理想論なようなものだったのだ。

 あの時、男はきっとこう言っていた。

 

 ──お前の思い通りにはさせない。誰も死なせないぞ、茅場晶彦、と。

 

 理屈じゃない。今、ミトはそれを魂で理解した。

 

 なんという茨の道だろう。

 それがどんなに荒唐無稽なことかなんて、分かっているだろうに。

 今、リトルネペントを斬っている男の技量は尋常ではない。その技量を身につけるために費やした時間は、犠牲にしたものは、一体どれほどだろうか。

 

 男は本気で成し遂げようとしているのだ。

 デスゲームと化したSAOで、誰も死なせない……そんな夢物語を。

 

「あんなに震えてたのに……。まっすぐ立って歩くこともできないぐらい、無理してたのに……」

 

 今はもう、その面影はなく。

 鬼神のように戦う男の姿が、ミトの心を熱くする。

 

 死にたくない。

 当たり前だ。

 アスナが死ぬところを見たくない。

 当たり前だ。

 だから、アスナが死ぬところを見なくてもいいように、パーティーを離脱して、逃げようとした。

 それは、おかしい。

 

「今、ここから逃げたらアスナは死ぬ。その瞬間を見なくたって、絶対に死ぬんだ。当たり前の事実から目を背けるな……!」

 

 誰でも彼でも救えるなんて思ってない。そこまで己を犠牲にすることは出来ない。

 

 だけど。

 

 全てを救うなんて馬鹿なことを、本気でやろうとしている男がいるんだ。

 かつてのβテスターNo.2プレイヤーとして。

 そして、たった1人の親友として。

 

 本当に大切な人ぐらい、助けられなくてどうするというのだ。

 

 震える足を殴りつけ、ミトは駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──命懸けで助けたんだ。当然見返りがいるよなあ? 

 

 全てのリトルネペントを倒し、内心のゲス笑いを鉄面皮の奥に押し込みながら推定びっちのミトさんに手を差し伸べた。

 当然、パイタッチの要求だ。

 

「ありがとう……。貴方がいなかったら、私は取り返しのつかない過ちを犯すところだった……。本当に、なんてお礼をしたらいいか」

 

 なんて言っていたので、肝心の好感度の方もバッチリだろう。

 少なくとも彼女や彼女の友達? の命の恩人である俺をすぐさま牢獄に転移させる程のマイナス好感度ではないはず。ないよね? 

 念のため曇なき童貞アイでもう一度見ておくか……。

 童貞アイ発動! ……くそっ! 可愛い! 

 

 そもそも女の子と付き合ったことがない俺に女の子の好感度とかわかるわけがなかった。

 逐一好感度教えてくれる親友どこだよ。あ、俺ってば友達いなかったわ、てへぺろ! 凹む。

 

 まあいい、問題は俺が童貞なことでも友達がいないことでもない。いや後者は問題があるかもしれないが今はいい。

 

 大切なのは今ここで俺がおっぱいを触れるかどうかだ。

 

 どうしよう、ドキドキしてきた。

 夢にまで見たおっぱいだ。緊張もしよう。

 頭の中では天使達が「おーっぱい! おーっぱい!」と音頭をとりながら回っていた。俺の天使煩悩に溢れまくってね? 

 

 安堵したのだろう。

 足の力が抜けたようで、その場に座り込んでいたミトさんは、俺が差し出した手を見て、「ありがとう」と言った。

 立ち上がるために手を貸してくれたのだと思ったのだろう。違うんだよな。手ではなく胸を乗せて欲しかったんだよな。目測で乗せるほどあるかわからんけど。

 違うんだよなあ……なんて考えてる最中に、ミトさんが俺の手に自分の手を重ねた。

 

 瞬間、体の芯にソードスキルを叩き込まれたような衝撃が走った。

 

 な、何これ……や、やわっ……はれぇー!? は、はれぇー!!? 

 え!? 何この……えっ!? や、やわ……おっぱい!!!? 

 

 ぱいぱいっチュレーション! 股間のクイックチェンジOK! 見せてやるよ、これが俺のチーンスキル! クールタイムは短いぞ! 発射! いや発射したら社会的に死ぬ!!!!!!!!! 

 

「くっ!!!!!!」

 

「えっ、えっ!? 急に膝をついてどうしたの!?」

 

 しまった、かすかに膨らみかけていただけの俺の股間が完全に臨戦体制に入ってしまった。

 まずい。これは立てない。いや違う意味では立ってるんだがそうではなく。

 ここで立ってしまったらズボンの惨状を隠すのは無理だろう。サイズも惨状だからバレない? はっ倒すぞ。

 

 やばいやばいやばいやばい。

 流石の俺も股間のエクスカリバーを見せつけながら「おっぱい揉ませてくれ」なんて言えない。

 完全に変質者だろ! 俺が女でも躊躇いなく牢獄にぶち込むわ! 

 妹が言っていた……! 男の顔が性器に見える瞬間はマジ無理と。え? あいつ見たことあんの? 

 俺より……進んでいた……? 

 消失していた兄の威厳に泣きそう。あ、最初からなかったような気もするわ。

 

 ッ!!! 

 しまった! 

 重大なことに気がついてしまった! 

 俺は今ミトさんの手に触れている……! ということは、今、ミトさんに俺のチーンスキルが発動しかけていることを悟られると……! 

 ハラスメントコードに抵触して牢獄いきになるのでは? 

 

 馬鹿野郎おまえまだなんもやってないんだけど!? 

 か……茅場ァ! 茅場晶彦ォ!!! 

 おまっ……お前! 判定が雑すぎるだろ茅場ァ!! さては電車でカバンタッチ痴漢をやってたな!? じゃないとこんなクソ判定にしねーもん! 前科あり! 正体見たりって感じだな。

 

 ミトさんに俺のパオンを悟られるわけにはいかない。

 だがこれを鎮めるのは……無理! くそ、なんでこんなに元気がいいんだ! 自分でシコれないから溜まってるのか? 試したけど無理だったんだよね。……茅場晶彦ォ!!!!! 

 

 ともかくここにいるのはまずい。牢獄行きの可能性が限りなく上がる。

 聡明な俺は、戦略的な撤退をしたのだった。

 

「──成すべきことがある。縁があればまた何処かで会うだろう」

 

「え、ま、待って! どうして、貴方はそこまで……!」

 

 ああん!? 何が!? 今中腰なこと!? 股間だよ! 

 だめだ! あぶねえ! 牢獄には行きたくねえ! 

 

 溢れ出る性欲を押さえつけ、中腰でその場を離れながら俺は言った。

 

「当たり前のことだからだ」

 

 まあ、生理現象だからね。

 そんなわけで、俺は中腰のまま宿屋に駆け込んだ。

 当然、自慰でこのムラムラ叢雲を解消することはシステムが許さなかった。

 

 ……茅場晶彦ォ! 俺は、お前を絶対に許さない!!!



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全乳胸の呼吸!見えた!胸の頂!

 どうもー。プランクトンぼっきでーす……。

 

 股間のサイズの話ではない。クリオネぐらいはあるわ。

 

 命懸けで女の子を助けてもおっぱいすら揉めない負け組の童貞……それが俺。

 涙が出ますよ。

 

 何年もの棒シゴき。

 女とヤれず、何も得ず。

 終いにゃ終いにゃエレクトロ。

 手を握っただけでテント張る。

 実に童貞臭くありゃせんか? 

 

 童貞童貞敗北者! 

 1人でオナニー敗北者! 

 

 今はその自慰すらできねえんだよボッケナスぅ!! 

 

 どんなに辛いときだって、股間をシコればその辛さを忘れることができた。

 オナニーは俺にイき場所くれた。性行為の気持ちよさを教えてくれた。

 俺を救ってくれたオナニーを馬鹿にするんじゃねえ! 

 

 ハァ……ハァ……! 

 許さねえ……! 茅場晶彦……ッ!!! 

 

 まあいいでしょう。

 いや全然良くはないんだけど、無理矢理にでも納得しないと次にいけない。

 

 俺はトライのできる男だ。

 自慰も一度では終わらないように、再度おっぱいチャンスを得るべくアインクラッドを駆けまわったさ。

 

 でもね、そもそもの話ね、SAOって全然女の子いないのよ。

 

 SAOはMMORPGだ。古来よりネトゲを嗜む男の巣窟だったこのジャンルで、女の子はマジの希少性を持っている。

 これは俺の所感だが、プレイヤー人口の偏りは結構エグいことになってると思う。割とマジで9:1ぐらいじゃないか? 

 窮地の女の子を求めて昼も夜もなく駆けずり回っても、人口の問題から窮地に陥ってるのは男、男、男! 

 この前のアスナさんとミトさんは、さながらスマホのセーフサーチをオンにされた中学生男子がウィキペディアで見つけたエロ画像のようなものだったのだ。

 

 実際、それ以前に何人か窮地の男とミスマッチングしてるしね。

 おっぱいを期待して命張ったら男だった時の絶望感よ。でも期待の名残か股間はイキリ立っているんだわ。

 いつだったかな……リトルネペントに襲われてる男2人を助けた時があったんだが、終わった後、片方の男が視線を下に向けてじっとしてんの。

 というか、俺の股間を見てたの。あの時はヒュンっとしたね。玉が。

 よく見たら凄い顔してたし、あれは絶対俺のことを狙っていた。確実にホモだった。冗談じゃない、俺はおっぱいが揉みたいんだ。

 ホモに狙われている恐怖ってやばい。もうマジで速攻逃げたよね。

 でも、エレクトした俺の股間を見られたってことは、俺が同類だと思われている可能性がある。しかし、今更勃起を隠すのは不可能。だから、恐怖でガチビビりしながら、誤解しないように俺は言った。

 

『追い詰められた時に見えるのは、追い詰められた姿だ』

 

 追い詰められ死に晒された生存本能は、子孫を残す可能性を上げるために吐精の準備を行うという。

 つまり、俺のこれは別にホモだからじゃない! 戦闘の興奮とかそういうやつだ! い、一緒にしないでくださいね!!? そっちの趣味ないんで! 

 

 それはさておき、窮地の圧倒的な男率には流石にげんなりもする。もうここまで男ばっかだとアインクラッドがイカ臭くてしょうがない。一瞬自分の部屋かと思ってホームシックになりかけたわ。

 ちなみにほぼ寝てないので朝勃ちもない。いいぞ、このままおとなしくしておいてくれ……! SAOでお前は存在感を出すな……!! 

 

 ……まあ、それでも全く女の子がいないわけではないので、始まりの街に行けば女性プレイヤーを目にすることはある。

 

 というわけでおっぱいを揉みにきました始まりの街。

 しかし空気が死んでいた。俺の朕もシュンとしている。

 まあ、だろうなとは考えてたけどさ。

 

 デスゲーム化しているSAOで、本当の意味での命の危険を犯してまでゲームクリアに踏み出した人は、かなり少ない。

 日夜アインクラッドを駆け回ってる俺の印象だが、そう外れていると言うことはないだろう。

 なら、大部分のゲームクリアに踏み出さなかった人たちはどうしているかというと……始まりの街に引きこもってんのね。

 

 そこには死への恐怖、未来への不安、そして現状の絶望が泥のように重く沈澱していた。

 当然、びっちな女の子がおっぱいブルンブルンさせて練り歩く気配もない。

 人もいないのに店を出し、客の呼び込みをしているNPCの溌剌とした声が不気味に木霊していた。

 

 もう空気が重いのなんの。おっぱいを揉みに来ました! なんてとても言える雰囲気ではなかった。

 しかも、宿に引き篭もるためにもコルが必要だから、コルがつきたプレイヤーからホームレスを余儀なくされる。

 始まりの街に引きこもってるってことは、一歩でも死の危険がある圏外に出ることを恐れたってことだ。フィールドでモンスターを狩って稼ぐなんてできないし、かといって始まりの街でコルを稼ごうと思っても、雀の涙ほどもない。

 

 死への恐怖、明日の不安、現状への鬱憤。

 極度のストレスに晒された人間の精神状態がどれほど脆いか、俺はよく知っている。

 裏路地の方に目を向ければ、金のない人間が、金のない自分より弱い人間に恐喝をしていた。

 まだ爆発していないだけの、いつか爆ぜる爆弾。

 始まりの街はそういう状況だった。

 

 ふざけんなよ! と思ったね。

 SAOの女性プレイヤーの大半がいる始まりの街がこんな空気なら、女の子がずっと震えて引きこもっていたら、いつまで経っても俺がおっぱいを揉めないじゃないか! 

 母数は多い方がいいに決まっている。ただでさえ女性プレイヤーが少ないんだ。よこせよ! 俺に! 出会いの場を!! 

 

 それに、こんな恐慌状態から犯罪行為を行う人たちも見てられなかった。

 犯罪はだめだよ、犯罪は。牢獄入っちゃうよ。

 

 そんでまあ、幸いにも俺には解決手段があった。

 人間、いつの時代も金に余裕がなければ心にも余裕がない。

 金が尽きて住む場所も食べるものもないような状況で、まともな精神状態を維持しろといっても無理があるだろう。

 つまり、金がいる。

 そして、俺は金を持っていた。

 

 伊達に女の子とのワンチャンを期待して他人の窮地に飛び込みまくってない。

 SAOの窮地なんてほぼ全てモンスター絡みだ。男ばっかいるせいでモンスターを狩りまくっている俺の財産はちょっとしたものだった。

 俺自身は食ってもないし寝てもないしで、装備のメンテにしか使わない。どうせ必要のないものだったってのもある。

 

 だから、俺はNPCショップで装備以外のアイテムを全てコルに換金して始まりの街に置いてきた。

 流石に全てのプレイヤーに行き渡るほどの量ではないが、オブジェクト化したときにちょっとした山みたいになったから、ある程度はなんとかなると思いたい。

 これで始まりの街の空気が良くなって、雰囲気も明るく開放的に、女の子の胸元も解放されたら万々歳ですね、デュフw

 

 あと、もう一つ。

 

「やるべきことは見えた」

 

 コルを配る、これはその場凌ぎだ。

 始まりの街を覆う絶望を打ち砕き、望む未来を掴むためには……プレイヤーの心を救わないといけない。

 

 今、彼らの心を犯している恐怖は、死だ。

 そして、その恐怖はデスゲームという壁によって生まれている。

 

 だから、その壁を壊す。

 デスゲームでもクリアできると示し、希望を灯さなければならない。

 そうすれば、心に救う恐怖も和らいで、やがて各々がこの世界での生き方を見つけていくだろう。

 

 そして、プレイヤーが活動的になれば女の子との遭遇率も上がっておっぱいを揉める!! 

 完璧だ……! これでノーベルパイオツ賞は俺のモンだぜ! 

 

 詰まるところ、俺が俺の欲望のために早急にやらなければならないことが……! 

 

「──フロアボスを、斬る」

 

 悪いな、おっぱいのためにお前には死んでもらう。

 

 

 

 

 ほら、お金いっぱい使ったあとってなんか気分がハイになるじゃん。

 全能感っていうのかな……自分が最強になったような感覚があるんだよね。

 それに、おっぱいを揉みしだく構想を練ってたら……なんか……止まれなくなった。

 フロアボスを倒し、アインクラッド解放の旗をぶち上げた英雄、俺! 

 英雄に走り寄る美女……! 彼女は赤面しながらも嫋やかに己の胸元をはだけさせて言うのです。「私のおっぱい……英雄様なら好きにしてもいいわ。いいえ、めちゃくちゃにされたいの!」デュフ、デュフフ! 

 

 こうしちゃいられねえ! 英雄となって女の子のおっぱいを揉むのは俺の権利だ! 誰にも渡さねえ!! 

 先走りには定評があります。シコっ! 

 

 もう興奮で目がギンギンになっていた。もちろん股間もギンギンだ。

 かつてない速度で迷宮区を邁進して、マッピングはしていたボス部屋に……あれ。え。嘘、なんか扉が開いてるんですけど? 

 

 え? もしかしてフロアボス攻略戦してる? 俺それ知らないんだけどぉ!! 

 

 焦って中を確認すれば、ラストゲージまで削れた瀕死のフロアボスへ、攻撃を仕掛ける、青い髪をしたイケメンが目に映った。

 

 青い髪の……? 

 イケメン……? 

 そんなの100%ヤリチンじゃねえか……!! 

 

 ヤリチンが欲張ってんじゃねえ! お前らは英雄の称号なんかなくてもおっぱい揉めるだろう!! 

 俺みたいな童貞はなぁ! 外付けのブースト要素がないと無理なんだよ! なんのために命懸けてると思ってんだ! 

 お前らはいつもそうだ! そうやっていつも童貞をおちょくりやがる! 

 クソが! 許せねえ……! そうやってお前らにばかりいつもいつもおっぱいを揉まれてばかりだと思うなよ……! 

 ヤリチンばっかり女の子と──

 

「ヤらせるかぁぁあああッッッ!!」

 

 英雄となっておっぱいをこの手に掴むのは俺だ! そこをどけぇ!! 

 

 在らん限りの力を持って、俺は大地を蹴り上げた! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ダメだッ!!! 全力で後ろに跳べ、ディアベル!!」

 

 ミトの近くで、パーティーを組んだ少年、キリトが叫ぶ声が聞こえた。

 

「あれは……野太刀……!? 曲刀じゃない!?」

 

 キリト共にフロアボスの取り巻きと戦っていた少年、コペルが悲鳴のように叫んだ。

 

「──ぁ」

 

 ソードスキルの赤い燐光を放つボスにたった独りで駆けていくディアベルの青い背中を見たアスナが、乾いた吐息を漏らした。

 

 ──あの人は、死んだ。

 

 ミトはそう確信した。

 

 走れば、間に合うだろう。

 ボスとディアベルの間に割って入ることができる。他のプレイヤーはわからないが、自分のレベルとAGIならそれができるとミトは確信している。

 

 けれど、それは自ら死にに……それも、犬死にをしに行くのと同義だ。

 ボスが奥の手として秘匿していた野太刀による、ソードスキル。

 あの構えはカタナ専用ソードスキル、重範囲攻撃技《旋車》で間違いない。

 プレイヤーが使用するそれとは訳が違う。

 モロにその一撃をくらえば、相対する相手を確殺する破壊力を秘めた、正しく絶殺の2連撃だ。

 

 ボスが使うソードスキルを知らなくても、ボスが発する“死“の気配を感じ取ったプレイヤーたちが足を竦ませていた。

 無理もない。

 意志を持ったトラックがディアベルを轢きにくる、さあ助けろ。と言われて、一体誰が動けようか。

 まとめて轢かれて、死ぬだけなのだから。

 

「ぁ、ぅ」

 

 ミトも、動けない。

 

 リトルネペントの時とは違う、必殺を携えた強敵が殺しにくるという恐怖が、生物としてミトを震えさせる。

 

 その瞬間にも、ボスは振り上げたカタナをディアベルに叩きつけようとしている。

 くらえばHPを削り斬るほどの……人を殺してしまう、それを。

 

 ミトの中を巡る記憶があった。

 

 ミトはディアベルのことをよくは知らないが、少なくともディアベルに対して悪感情を抱いていたわけではない。

 

 ボス部屋までの道中、キリトが言っていたことを思い出した。

 

『あの日、βテスターの多くは他のプレイヤーを見捨てた。自分が生き残ることを優先して、リソースの独占に走ったんだ。……俺も、そうだ』

 

『僕も、だよ。いいや、僕はもっと酷い。自分が生き残ることしか考えてなくて……挙げ句の果てには、故意にリトルネペントの実を割って、キリトを殺そうとさえしてしまった。言い訳もできない。僕は最低の人間だ。……因果応報だったんだと思う。結局、僕はリトルネペントの群れを捌ききれなくて、死にそうになった。……そして、彼がきた』

 

『リトルネペントの群れの中心に躊躇いなく現れて、そいつは無言で剣を構えた。まるで、そうすることが当たり前のことだとばかりに。実際、あいつの中ではそれが当たり前だったんだ。“人を助ける“。あいつは、デスゲーム化した地獄にいても、大切なことを見失なっていなかった。……俺とは違ってな』

 

『彼はすべてのリトルネペントを倒した後、項垂れる僕にこう言ったんだ。“追い詰められた状態で見えるのは、追い詰められた姿だ“と。……少しだけ、心が救われたような気持ちになった。そして、後悔した。僕は、なんということをしてしまったんだって』

 

『……いいさ。俺は気にしてない。コペルの気持ちだってわかってる。……ああいや、何が言いたいかというと、そうだな……ディアベルを見て、あいつに似ていると思ったんだ。ディアベルも、他のプレイヤーを見捨てずに、率いて、鼓舞して、このゲームをクリアしようとしている。強くなるだけなら、この世界で死なないようにするだけなら、自分1人でスタートダッシュを決める方がずっと効率がよかったのに、だ。俺たちのようなβテスターが出来なかったことを、ディアベルはやってるんだと思う。……凄いと思うよ』

 

 それは、ミトも出来なかったことだ。

 だから、ミトは心の片隅でディアベルのことを認めていた。

 ……あの日、ミトはアスナとそれ以外を明確に分けた。

 それだけではなく、自身とアスナというラベリングもしてしまったから。

 

 ミトが決定的に自分を許せなくなってしまう、最悪の最悪が起こってしまう。

 そんな時に、彼は現れた。

 

 誰も死なせずにゲームをクリアすると、拳を握った男が。

 

 ミトとアスナの窮地を救った後、彼はすぐに去っていった。

 お礼すら、受け取らなかったのだ。きっと、また別の人を助けに言ったのだ。感謝や賛辞よりも、彼は1人でも多くの命を助けることを選んだ。

 モンスターへ立ち向かう恐怖、命を繋いだ安堵を押し殺して、それでも抑えきれなくて、そんな顔を見られたくなかったのだろう。彼はずっと俯いて顔を隠していた。

 そんな彼に救われた自分には、一体どれだけの価値があって、何ができるだろう。

 ミトにしか答えられない問いが、今、目の前にある。

 

「──もし、彼がここにいたなら」

 

 ミトの中を記憶が駆け巡る。

 

 ボス攻略会議にはなかった、彼の背中。

 怖気付いた、とは一瞬も考えなかった。きっと、彼は今もどこかで誰かを助けている。

 そんな彼が、もし、ここにいたのなら。

 そんなの、考えるまでもない。

 

「きっと、こうするッ!!」

 

 強く、強く己の武器を握りしめて、大地を蹴って駆け出した。

 

「え、ミト!?」

 

 鍛え上げたAGIによる疾走がアスナの声を一瞬で振り切った。

 

 ミトのビルドはAGI寄りのアタッカー。当然軽装備だ。ボスの攻撃を受け止めるようなタンクの仕事はできない。

 ボスの凶刃から、ディアベルを守ることはできない。

 

「でも、一撃なら──ッ!」

 

 菫色の燐光が軌跡を描く。

 発動したミトのソードスキルと、遂に始動した、ボスの絶殺の2連撃が激突した。

 

「──ぉ、も」

 

 拮抗すらしない。

 ディアベルとボスの間に割って入るという窮屈な姿勢から無理やり発動させたソードスキルは、あっけなく弾かれ、そのままミトごとディアベルを切り裂いた。

 

 吹き飛ぶ体。

 消し飛ぶ寸前で止まった、赤いHP。

 揺れる頭に、硬直で止まる手足。

 

 そして、震える殺意を叩きつけ絶死の2撃目を放とうとするボス。

 

「君は──く、うおおおおおッ!!」

 

 ミトが盾になったことで、ダメージは負ったものの硬直を免れたディアベルが立ち上がり、ソードスキルのモーションに入ろうとした。

 けれど、間に合わない。

 ボスのカタナが2人の命を刈り取るほうが遥かに早い。

 

 ここに盤面は完成した。

 最初の確信の通り、ミトの行いは犬死にでしかなかった。

 

 けれど。

 

 ミトは、穏やかな気持ちで自身の命を斬るカタナを見ていた。

 

「(どうしてだろう……。怖いのに、後悔だってしてるのに、そんなことないって分かってるのに──)」

 

 理由は、ただ一つ。

 

「──あの人が来てくれるって、私、信じちゃってる」

 

 刹那、男の雄叫びがフロアを貫いた。

 

「殺らせるかぁぁあああッッッ!!!」

 

 高速で振るわれた鉄と鉄が火花を散らし、衝撃が空気を叩く。

 あまりの威力に目を瞑ったミトが目を開けると、そこには記憶の中の、あの背中があった。

 

「俺の目の前で、これ以上は見過ごせない」

 

 振り切った両手剣を軽々と動かし、切っ先をボスに突きつける。

 ミトから男の表情は見えない。

 けれど、その背中が、男の纏う“必ず成し遂げる“という覇気が、ミトに安心感を与えていた。

 そうだ。

 彼の近くで、誰かが死ぬことはない。他ならない、彼がそれを許さないのだから。

 

「……ぁ、キリト! あの人だ!!」

 

「──ヘッ、遅いんだよ」

 

 もう大丈夫。

 男がここにいる。たったそれだけで、ミトだけでなく周囲のプレイヤーさえもそう確信した。

 

 

 

 

 こうして、乱入した男の存在によって士気がかつてない以上に高まったボス攻略は、プレイヤーたちの勝利に終わった。

 最後、ボスのHPを削り切ったのは男ではなく同時に攻撃を放ったキリトだったが……。

 

 自分が倒したと勘違いした男は、引き留めようとする攻略組には目もくれず、迷宮の外へと走っていった。

 

「ど、どうして!?」

 

「待ってくれよ!? 俺、アンタに助けてもらったんだ! せめて礼だけでもさせてくれねえか!?」

 

「……行かせてあげて。きっと、それが一番彼が望むことよ」

 

「おまえさんは……?」

 

「あなたと同じ、彼に助けられたプレイヤー。……あなた達も、感じてるはずよ。彼は、このデスゲームで人が死ぬことを許さない。だから、愚直に誰かを助けようとしてるの。……死への恐怖を押し殺してね。今も、助けを求める誰かを助けに行ったはず。そんな決意をした彼を、私たちが止められるはずがないわよ」

 

「なんて……男だ……! 俺は、感動した! 魂に響いちまった! あいつこそ真の英雄だ……! 俺は、あいつのために何かしてやりてえ……そうだ! 口伝を広めよう! 自身のことは顧みない、滅私奉公の優しい男の物語を……! それが俺にできる恩返しだ!」

 

 熱い涙を流して語る男に看過されたのか、周りのプレイヤーもまた涙を流していた。

 ミトも少しだけウルウルした。

 

 ちなみに。

 

「俺が倒した! 俺が倒したよなあれ!? ひゃっふう!! 俺は英雄! SAOの解放者! おっぱい揉めるぞぉぉぉおおお!!! 早く始まりの街に凱旋しなきゃ!!!!」

 

 ボス部屋から離れたところで叫んだので、男の声が聞こえた人は誰もいなかったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンコン、と扉をノックする音が室内に響いた。

 

「はい、どうぞ」

 

 誰だろう、と首を傾げつつ、少女──朝田詩乃は返事を返す。

 スライド式のドアが軋む音がして、間を置かずに入ってきたのは、初老の男。

 彼は、医者だった。

 

「やあ、詩乃くん。こんにちは」

 

「こんにちは、先生。……私がいることを、知ってたんですか?」

 

「知ってたわけじゃない。ただ、居るのだろうと思った。……あれから、君は毎日こうやって見舞いに足を運んでるから。こんなに可愛らしい妹さんに大事にされて、彼は幸せ者だ」

 

 先生の目線が、詩乃から彼女の隣のベッドに映る。

 そこには、男が寝ていた。

 その頭には、ナーヴギアを被っていた。

 

「……幸せなんかじゃないです」

 

 俯いた詩乃が吐き捨てるように言った。

 

「私が……私がナーヴギアを兄さんにプレゼントしたいなんか言ったから……。私のせいで……私のせいで兄さんは今……ッ!」

 

 握りしめた手の爪が、皮膚に痛々しく食い込む。

 少女の胸の中に巣食う後悔がどれほど大きいのか、先生に計る術はない。

 それは先生の想像でしかないからだ。

 けれど、彼女の心の痛みを思うことは出来た。

 

「思い詰めたらいけない。SAOが……ゲームがこうなるなど、誰にもわからなかったことだ。ナーヴギアを渡した時、彼はとても喜んだのだろう? その暖かな記憶を、1人の狂人の行いの結果で捻じ曲げたら、彼も浮かばれないと私は思うよ」

 

 震える詩乃の小さな肩に乗っている後悔という名の重荷を、少しでも軽くできればと、先生は言葉を選ぶ。

 

「彼がここに運び込まれた時に、少しだけ彼の身の上を聞いたけどね。……話を聞けば聞くほど、とても見上げた若者じゃないか。早くに父親を亡くして、精神的に弱った母親を支えながら懸命に家の中のことをこなして。……例の事件の後、心身を崩した母親に代わって、高校を中退して働き始めたと聞いたよ。……詩乃くん。彼は、ナーヴギアを渡した君のことを、恨むような人なのかい?」

 

「……違います……っ」

 

「うん、そうだと私も思う。だから、もう泣かないでおくれ。君が悔いてばかりだと、彼も浮かばれないさ。今は、ただ、彼が無事に帰ってくることを信じて待とう。……口惜しいけど、私たちにできることはそれだけなんだ」

 

 先生の声には、無力に起因する悔しさが滲んでいた。

 

 話を聞いた時から、強く思っている。

 この若者を死なせたくないと。

 この家族思いで優しい兄を、彼をとても慕っている妹から奪わないでやってくれと。

 

 けれど、ナーヴギアに囚われた彼を解放する目処は未だなく。

 政府の必死の解析も進展はなく、日び募る焦りに憔悴する毎日だった。

 絶食で人が生命を維持できる期間には限りがある。

 それまでに解放されることを願うことしかできない己の未熟さが、やるせなかった。

 

「……君も、早く帰ってきてくれよ。本当の意味で詩乃くんの涙を止められるのは、兄である君だけなんだ」

 

 祈るように伝えて、病室を退室しようとした先生の白衣の裾を、詩乃が掴んだ。

 

「詩乃くん……?」

 

「とても大切な、兄なんです」

 

 涙で震えている声だった。

 

「小さい頃から、お母さんに代わって私を育ててくれた兄なんです。自分も遊びたかったはずなのに、学校が終わったらまっすぐ家に帰ってきて、私のご飯を作ってくれてた兄なんです。そのせいで、友達も出来てなかったみたいで、それでも、泣き言も不安も一回も言わなくてっ、ずっとニコニコしててっ! 時間がない中、お金に余裕がないからって働こうとしてた兄を説得して、でも、あんなに頑張って勉強して入った高校も私のせいで辞めちゃって!! お母さんの治療費とか、私の学費とか、お金が必要だからってずっとずっと働いてて、それでも私は兄さんが弱音を言ってるところなんて見たことなくて……っ! 少しは、自分の幸せも、考えて欲しくて……っ!」

 

 一気に、捲し立てるように言った詩乃の言葉は要領を得ない。

 けれど、詩乃がどれほど兄のことを想っているのかは、身を切るように伝わってくる、そんな叫びだ。

 

「だから、だから……っ! 自分の幸せに不器用で、家族のことばっかりでダメダメな兄を……死なせないでください……っ!」

 

 そんな詩乃の叫びに、先生は床に膝をつき、彼女の手をとって答えた。

 

「……ああ、約束する。ナーヴギア以外の死因で、彼を死なせることは絶対にない」

 

 先生が退出した後の病室で、詩乃は兄のベッドの隣の椅子に腰掛けて、その顔をのぞいた。

 年の割に深い皺が刻まれているのは、兄の努力の証だろうか。

 なんにせよ、見慣れた兄の顔だ。

 兄の顔で、兄の声で、名前を呼ばれることが詩乃は嫌いではない。

 

「早く帰ってきてよ、兄さん」

 

 手を握って、つぶやく。

 気持ちはきっと伝わったような気がした。

 

 その後、体を拭こうと布団を上げた時、詩乃は兄の兄がビッグダディになっていることを発見した。

 

「多分そっちで変なこと考えてるんだろうけど、そういうところは本当にどうかと思う」

 

 さっきまで泣いていたとは思えない冷たい声。けれど、どこか家族の絆を感じる呆れ声だった。




SAO杯、楽しかったです。(遅刻)


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