【完結】腐血のサルヴァトーレ:TS悪役外道転生 (WhatSoon)
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本編
1話:奇跡の始まり


「う、あ……な、んで……なんで……」

 

 

目の前で、私と同い年の男子高校生が蹲っている。

服が汚れる事も厭わずに、蹲って……私の足元を見ている。

 

上を見る。

動いていないクレーン、錆びた金属の壁。

穴の空いた天井からは月が見えている。

 

月は少しも欠けていない。

月明かりが私たちを照らしていた。

 

 

夜、そして廃工場。

私と彼は二人っきりだ。

 

 

視線を下す。

 

私は足元にある『肉片』を踏んだ。

それを見て、男は顔を顰めて私を見上げた。

 

 

「なんで……こんな事をしたんだ、稚影……」

 

 

その顔は、目の前の光景を信じられないという顔。

現実を受け入れられず困惑している顔だ。

 

 

「和希に苦しんで欲しいから……かな?」

 

 

私はそう、口にする。

意識的に頬を吊り上げて、無理矢理に笑う。

 

 

そして──

 

 

足元にある『肉片』を蹴った。

 

 

転がったそれは、和希の前で止まる。

 

血を流しているそれは……白く、細い指。

爪先にはマニキュアが塗られていていた。

しかし、血に汚れ、割れてしまったそれは……もう、原型を留めていない。

 

擦り傷まみれになってしまった、少女の手だ。

 

 

「あ、ぁ……」

 

 

和希はそれを見て、呆然としている。

 

それはそうだろう。

彼にとって、大切な人の手……たった一人の家族である、妹の手なのだから。

 

 

「……僕と、稚影は……僕は、想っていたのに……」

 

「へー、嬉しいなぁ」

 

 

本当に……嬉しい。

 

 

「希美だって、稚影のことを親友だって、家族だって……なのに!」

 

 

あぁ。

私も、今だってそう思っている。

 

貴方達の事は大切だと、そう思っている。

 

だけど、だからこそ──

 

 

「ねぇ、和希」

 

「……稚影」

 

「今、どんな気持ち?」

 

 

私はそう訊く。

 

……訊かなくても、気持ちは分かる。

 

信じていた親友に裏切られ、妹の一部を投げ捨てられた……そんな彼の気持ち。

 

憎くて、憎くて、憎くて、憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて、許せないだろう。

 

 

「大切なものを自らの力不足で失う気持ち……信じていた人に裏切られる気持ち。私に、教えてくれないかな」

 

 

分かりやすい挑発に、和希は歯を食いしばっていた。

 

怒り。

それが彼を支配しているのだろう。

 

上手くいった。

想定通りだ。

 

嗜虐的な笑みを浮かべる。

物語の悪役に相応しい、下衆な笑みを浮かべる。

 

だけど……私の心は軋み、悲鳴をあげている。

 

辛い。

苦しい。

悲しい。

 

その気持ちが『私』と『貴方』を強くする。

恨むなら、この世界を作った人間を恨んで欲しい。

 

 

「稚影……お前だけは、僕が……」

 

 

いつの間にか、和希の手には……半透明の『剣』が握られていた。

青白く濁ったガラスのようなものに、赤い血管のような筋が浮いている……そんな『剣』だ。

 

美しく……恐ろしい姿だ。

 

だが、それは観賞用の芸術品ではない。

人を殺すための武器だ。

 

常識という現実から剥離した状況で、彼が『剣』を構える。

私も手を宙に翳せば……宙に『剣』が現れる。

 

 

「そうこなくちゃ……」

 

 

それを私は握り締めた。

 

彼の『剣』とは色も形も異なる。

赤黒いガラスに、青紫色の管が走っている。

 

まるで対象的なそれは、月明かりに照らされて光を乱反射させた。

 

 

私は、貴方には幸せに生きて欲しい。

その為なら、どんな事だってする。

例え、貴方に嫌われようとも。

憎まれようとも。

 

 

「さぁ、どこからでも掛かってきなよ」

 

 

私が『剣』を構えれば──

 

 

「僕が……殺して、やる……」

 

 

和希も『剣』を構えた。

 

 

大切な親友……いや、それ以上の相手に、私は『剣』を向けている。

そして、『剣』を向けられている。

 

 

あぁ。

 

 

どうして、こんな事になってしまったのか?

 

 

一言で言うなら、自業自得。

だけど、どうしようもなかったのも……事実。

 

私の選んだ選択の末路だ。

 

 

この世界に生まれた時の記憶が蘇る。

まだ死にかけてもいないのに走馬灯なんて、我ながら気が早すぎると思うけれど。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

私の名前は『楠木(くすのき) 稚影(ちかげ)』。

この世界に産まれた時に、そう名付けられた。

 

この世界……と言っているのは、元々、私はこの世界の住人では無かったからだ。

 

 

前世では冴えない研究職だった。

特に取り柄もないが、さしたる欠点もない。

そんな男だった。

 

『だった』と言うのは、今生では女だからだ。

 

しかし、男から女……性別の転換よりも、よほど大きな問題があり、私はそちらに気を取られていた。

 

その『大きな問題』とは、この世界が前世に存在していたゲームの世界だと言う事だ。

 

前世の名前や容姿すら曖昧だが、何故かゲームの記憶はハッキリしていた。

 

『腐血のサルヴァトーレ』。

 

それがこの世界の、ゲームの名前だ。

ジャンルはアドベンチャー。

選択肢を選んで進んでいき、ヒロインを攻略する……まぁ、所謂ギャルゲーと言う奴だ。

 

ただ、『腐血のサルヴァトーレ』は学園でイチャイチャするような可愛らしいギャルゲーとは違った。

 

題材は『精神的苦痛』。

 

主人公達は魂の発露を武器に押し込めた『剣』を創り出せる、異能者だ。

その『剣』は様々な異能を行使する事が出来る……炎を生み出す、記憶を操る、未来を見る、瞬間移動……発現した人によって異なる力を持つ。

 

そういった能力を持った異能者達の戦いがメインテーマの……言うならば『異能バトルもの』の作品だった。

 

だが、その『異能』の強さは、心の強さに依存する。

心を強くするにはどうするか?

 

一度、心をズタズタに引き裂き、再度繋ぎ合わせるのが良いだろう。

まるで筋トレでズタズタになった筋肉繊維が、治癒と共に太く千切れぬように強くなるように。

 

故に、『精神的苦痛』なのだ。

 

このゲームでは最善の選択肢を引き続けてはならない。

精神的苦痛を受けずに戦い続ければ、いずれ敵に勝てなくなってしまう。

 

最も大切な物を守る為に、何かを切り捨てる必要がある。

それが『腐血のサルヴァトーレ』のテーマだ。

 

 

私はそれを思いだした時、吐き気を催した。

こんな理不尽な死がすぐ隣に住み着いている世界なんて……ゲームとしてプレイするのは良い。

だが、当事者になりたくはなかった。

 

そして、私、『楠木 稚影』は『腐血のサルヴァトーレ』の登場人物でもある。

名も知らぬモブならば、目を逸らして生きていくことが出来たのに。

 

だが、『楠木 稚影』は立ち絵もない、セリフもない……名前しか出て来ないようなキャラクターだ。

 

何故、姿形も立ち絵も出ないのか。

 

それは……ゲーム開始時に、既に死んでいるからだ。

 

 

このゲームに登場する悪役、『楠木(くすのき) 影介(えいすけ)』の妹なのだ。

 

彼が昔に受けた『精神的苦痛』として登場する。

彼の目の前で、非業の死を遂げる。

それが『楠木 稚影』に纏わるエピソード……そう、それだけでしかない。

 

そして、極度の精神的苦痛で異能者として目覚めた『楠木 影介』は自分の利益の為に力を振るい……何人も、何人も人を殺していく。

 

選択肢によっては主人公の恋人や親友を殺す。

プレイヤーから嫌われている悪役だ。

 

そんな悪役の妹として産まれ、将来的な死亡が運命付けられた私は……それはもう荒れた。

 

唐突に記憶を思い出した私は癇癪を起こし、自暴自棄になり、自室に篭った。

 

今、この瞬間も布団に包まり闇の中で涙を流していた。

死ぬのは怖い。

 

一度死んだから分かる。

死ぬと何もない暗闇に行くのだ。

 

嫌だ。

二度とあそこに戻りたくない。

 

 

 

 

 

コツコツと、ノックの音がした。

 

 

「入るぞ」

 

 

軋む音がして、ドアが開いた。

そこには今生の兄、影介がいた。

 

 

「…………」

 

 

私は黙り込み、無視をする。

 

 

「なぁ、急にどうしたんだ?そんな……引きこもって。嫌な事でもあったのか?」

 

「…………」

 

 

無視する。

兄は私の5つ上……だとしても、私は9歳。

兄だって、まだ14歳だ。

死がどうだとか、何とか、そんな事言っても分からないだろう。

 

いや、分からないだけなら良い。

頭がおかしくなったのだと思われるかも知れない。

 

……事実、頭がおかしくなったのだろう。

前世の記憶なんかを思い出して、死の恐怖に怯えている。

 

 

「……はぁ、何とか言ってくれよ」

 

「兄さんには関係ない」

 

 

私はそう、断言した。

……良い兄なのだろう。

蹲る妹を励ましているのもそうだが、昔から兄は私を溺愛していた。

 

だが、将来的に何人もの無実の人々を殺す犯罪者予備軍だ。

心を開く事はない。

 

 

「妹がそうやって、落ち込んでるのに関係ない兄貴がいるのかよ」

 

「良いから放っておいて」

 

 

兄はため息を吐いた。

開いていたドアが閉まる音がした。

 

ようやく出て行ったか、と思うと布団を無理矢理、剥がされてしまった。

 

 

「やめっ──

 

「あのなぁ、放って置ける訳ないだろ。兄貴だぞ、俺は」

 

 

頭上には眉を顰めている男の、兄の顔があった。

 

 

「兄貴、兄貴って……兄さんは、私をどうにかしなきゃならない義務でもあるの?」

 

「ある」

 

 

そう言うと、兄がニヤリと笑った。

 

 

「たった二人の家族だからな」

 

「うっ……」

 

 

私は言葉が詰まってしまった。

たった「二人」の家族。

 

父も、母も既に他界している。

私の物心がつく頃には既に居なかった。

今は親戚が家政婦を雇って、私達の世話をしている『つもり』になっている。

 

親戚は自身の住む家に私達を置かず、両親の財産を食い潰し、最低限の世話だけをしているのだ。

 

そんな私が、兄が家族と呼べるのはお互いに兄妹だけなのだ。

 

 

「苦しい事があったら……まぁ、教えてくれた方が良いけど。無理して言わなくてもいい」

 

「……言わなくても?」

 

 

普通、聞きたいモノじゃないのか?

そう思って、訝しむ。

 

 

「いい。家族だからって全部が全部を共有する必要はない。苦しい事の理由なんて言わなくても良い」

 

 

そう言うと、兄は私の頭を撫でた。

歳下の……精神的な歳下に撫でられるなんて……。

 

だけど、嫌ではなかった。

 

 

「でもな、その苦しみは分かち合って良い。二人で補い合えば良い。何も言わなくても良い。俺に八つ当たりしたって良い。ムカついたら暴言でも何でも吐いて良い」

 

 

少し、乱暴に撫でられる。

私の目は兄の顔に向けられた。

 

 

「あ……」

 

 

その顔には……私の事を、妹の事を思いやる兄の姿があった。

 

 

「だからさ、そうやって自暴自棄になるなよ…………飯、出来てるぞ。今日はカレーだよ。お前、好きだろ?」

 

 

私は、その笑顔に惹かれてしまった。

その無償の愛を注ぐような笑顔に……どこか、懐かしさを覚えてしまった。

 

 

「……うん」

 

 

絆されている。

実感がある。

でも、それで良いと思った。

 

未来の事なんて今は忘れよう。

いつ死ぬかなんて恐れなくてもいい。

 

 

「で、食うか?カレー」

 

「食べる」

 

 

私は布団をベッドにたたみ直し、立ち上がった。

 

そして、目の前の大きな姿鏡を見た。

これは母の形見らしい、大きな、だけど華美な装飾はない質素な姿鏡だ。

 

そこには薄紫色の髪の毛を持つ、少女の姿があった。

涙で濡れた瞳の下で、その唇は薄っすらと微笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

記憶が戻ってから3年の月日が経った。

つまり、12歳になった。

 

中学校の制服に着替えた私は、鏡の前でくるりと回った。

私服では滅多に履かないスカートが翻る。

 

はぁ、とため息を吐いた。

 

 

「いい加減に慣れないと」

 

 

『楠木 稚影』として生を受けて12年。

未だに、前世の男性としての記憶が足を引っ張って、スカートを履く事に苦手意識を持っていた。

 

私は将来、近いうちに死ぬ。

これはゲームで決まっている事だ。

 

だが、その運命に抗おうなんて、そんな事は考えてはいない。

 

決められた終わりがあるとしても、それまでは楽しく生きられれば良い。

そう考えている。

 

だって、どうやって、いつ死ぬのかも……何も分からないなら、対策のしようが無いだろう。

考えても気が滅入るだけだ。

 

机に置いてある腕時計を腕に巻いた。

イルカを可愛くデフォルメした何だかよく分からないキャラクターが文字盤に書かれてる、小さくてピンク色の腕時計だ。

 

中学生が着けるにはデザインが幼い。

そう思いながらも、私はそれを気に入っていた。

 

何故なら、兄が一年前の誕生日に買ってくれたプレゼントだからだ。

女の子の趣味なんてコレっぽっちも分かってない兄が悩みながら選んだ腕時計だ。

 

私はそれを可愛らしいと思いつつ『自分には似合わないな』なんて考えていた。

 

この時計のデザインが好きな訳ではないし、機能が優れている訳でもない。

だけど、着けていると『私は兄に愛されているのだ』と実感できる。

だから、外に出る時はいつも着けていた。

 

学生鞄を手に持ち、自分の部屋を出る。

 

私は今年入学の中等部の一年生。

そして、今日は入学式だ。

 

兄は……もう、先に家を出ていた。

私の5つ歳上で、高校生なのだ。

彼にも学校があり、入学式には来ない。

 

そう聞いていた。

 

 

朝食に食べたパンのビニールゴミが、ゴミ箱から顔を覗かせていた。

 

 

「何度言っても反省しないんだから」

 

 

私はそのビニールゴミをゴミ箱に押し込み、蓋を閉めた。

 

時間はまだまだ余裕があるが、家を出る事にする。

 

学校指定の真新しいローファーを履き、玄関を出る。

パステルカラーのキーポーチについた鍵で、玄関の鍵を閉める。

 

そうして私は、ゆっくりと目的の中学校へ向かう事にした。

 

アパートの階段を降りて、横断歩道を渡る。

赤く点滅する信号機を前に、ふと周りを見る。

満開の桜立ち並ぶ遊歩道に、幾人かの同じ制服を着た学生と大人が共に歩いている姿が見えた。

 

入学式に参加する私の同級生、新入生なのだろう。

そして、その両親か。

 

今生の私には、もう両親と呼べる人も居ない。

だから彼等と違って、一人で入学式に向かっていた。

 

そうやって家族連れで歩く集団の中に、一人、少年が歩いているのを見た。

その周りに大人の姿はない。

 

私は頬を綻ばせ、その少年に近付く。

 

 

「おはよー!」

 

 

ほんの少し、気持ち大きめな声を出しながら、少年の肩を叩いた。

 

 

「うわっ……あ、楠木か。おはよう」

 

 

驚いた様子を隠しつつ、少年が呆れた様子で振り返った。

 

 

彼の名前は『望月 和希』だ。

少し気弱だけど、根は優しい……私の友人だ。

 

そして、『腐血のサルヴァトーレ』の主人公だ。

そう、これから耐え切れない程の悲しみを背負い、苦しみ、怒り、嘆き、そして強くなり、世界を救ってくれる主人公だ。

 

そして、私の兄が悪役として散々に痛めつける相手だ。

 

言うならば兄の敵となるだろう。

 

まぁ、それでも私には関係ない。

どうせ生い先は短い。

物語が始まるまでには、私は死んでいるのだから。

 

死んだ後の話なんて関係ないのだ、私には。

 

前世の記憶が蘇り、落ち込んでいる時に和希は声を掛けてきてくれた。

その好意を跳ね除けることは私には出来ない。

 

なし崩しに、私達は友人となった。

 

 

「楠木の兄さんは?一緒じゃないのか?」

 

「うん?兄さんは高校の始業式で来れないって」

 

「残念だな」

 

「あ、でも、午前中だけらしいから帰りの迎えには来てくれるって言ってた」

 

「へー、そっか」

 

 

和希に兄との面識はない。

彼等は将来的に殺し合う仲なのだから、知り合わない方が良いかも知れない。

 

ふと、私は口を開いた。

 

 

「希美ちゃんは?」

 

 

『望月 希美』……和希の妹の名前だ。

私達の一つ歳下だ。

同性という事もあって、歳は違えど仲は良好だ。

私の事を姉のように慕ってくれている。

 

 

「希美は小学校。去年と始業式の日は一緒だぞ」

 

「あ、そっか」

 

 

『望月家』も『楠木家』と同じく、家に両親がいない。

 

複雑な家庭で、元々存在していた望月家には和希しかいなかった。

妻が病死し、新たに再婚した妻が連れてきた娘が希美なのだ。

 

整理すると……。

和希は父が再婚する前の息子。

希美は母が再婚する前の娘。

 

つまり、血の通っていない兄妹になる。

 

 

そして、現状……希美の実母は事故死し、和希の実父は他所に女を作って家に帰ってきていない。

生活費だけを振り込んでいる状況、それが望月家の現状だ。

 

 

彼等も「両親がいない」「頼れるのは兄妹だけ」と楠木家と似通っている為、私は親近感を抱いていた。

 

恐らく、彼等も私に親近感を抱いている。

 

 

「……僕も見習って、妹の迎えぐらいはした方が良いか?」

 

「うん、そうした方が良いよ」

 

 

和希は頬を緩めて、頷いた。

彼は家族として、兄として、妹を愛している。

 

それは私の兄のようで。

兄妹愛の強い私としては、それだけで好感度が高いというもの。

 

まるで、歳下の子供の善性を見て微笑むように……見ていて癒されるのだ。

 

 

「ところで和希、どうかな?」

 

「……どうって、何が?」

 

「ほら、制服。似合う?」

 

 

私はスカートを翻した。

それを見て、和希は目を逸らした。

 

 

「まぁ……似合ってるんじゃないか?」

 

「ありがと!和希も制服、似合ってるよ」

 

 

だからこうやって、揶揄いたくなってしまう。

 

 

「似合うも似合わないもあるのか?学校の制服に……」

 

 

気恥ずかしそうに和希は頬を掻いた。

 

まだ彼は若い。

男女の仲なんて分からないような年齢だ。

だけど、少しは意識し始めている、という事だろう。

 

 

「ふふ……」

 

 

その様子が面白くて、私は頬を緩めた。

 

和希は話題を逸らしたいのか、口を開いた。

 

 

「そんな事よりさ……入学式が終わったら希美を迎えにいくけど。その後、飯でも食わないか?」

 

「うーん。でも、兄さんがいるから──

 

「じゃあ、その『兄さん』も連れてさ……会った事もないし、紹介してくれよ」

 

 

思わず、私は眉を顰めた。

物語の『主人公』と『悪役』、二人を会わせて良いものかと。

 

少し悩んで──

 

 

「うん、分かった。兄さんには私が説明しとく」

 

 

そう、頷いた。

 

彼等が殺し合うのは、私の死後。

言ってしまえば……関係のない話だ。

 

だけど──

 

ここで兄と和希が仲良くなって、兄が善人として生きられるなら……それは、嬉しい事だ。

私は兄が好きだから。

 

 

昨日見たテレビの話。

面白かった漫画の話。

和希の友だちの話。

これから入学する学校の話。

 

 

なんて、中身の全くない会話をしながら学校に到着した。

 

 

クラス分けの掲示板を見て、自分の学籍番号を探す。

和希が掲示板を指差して口を開いた。

 

 

「あったぞ」

 

 

和希が指差した先には、私の学籍番号があった。

 

 

「私はBクラスね。和希は?」

 

「僕はAクラス、別だな」

 

「えー、残念」

 

「まぁ、どうせ毎年変わるんだから……どうでも良いだろ?」

 

「それもそうだね。来年は同じクラスだと良いね」

 

「……気が早いな」

 

 

たわいもない会話で一喜一憂しながら、教室に向かう。

壁に貼ってある案内の貼り紙を見ながら、廊下まで着いた。

 

和希の方へ振り返り、私は口を開く。

 

 

「ここでお別れかな?」

 

「あぁ、じゃあまた入学式が終わったら」

 

「うん、じゃあまた」

 

 

私は手を振り、和希と分かれた。

 

クラスで担任教師の挨拶があった後、入学式を体育館でやるらしい。

右手に巻いた時計を見ながら、スケジュールを確認していた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

入学式が終わると、門の前では学生とその両親達が記念撮影をしていた。

門前の桜が綺麗だから、桜の下で撮りたいんだろうな、と考える。

 

……何だか、居心地が悪い。

部外者な気分だ。

 

そのまま兄を探して──

 

 

「あ、兄さん」

 

 

声を掛けると兄が振り返り、嬉しそうに笑った。

 

 

「お前も、もう中学生か……」

 

 

しみじみと言うから、私は不機嫌な顔をする。

 

 

「そうだよ?」

 

「いやぁ、あんなに小さかったのに……」

 

「なんか発言がジジ臭いよ」

 

「失礼だな、俺はまだ17歳だよ」

 

 

乱暴に頭を撫でられた。

私の方が精神年齢は年上なのに……なんだか、少し嬉しい。

 

肉体に精神が引っ張られてるのかな?

なんて考えながら、私は兄の手を払った。

 

 

「なんだ?反抗期か?」

 

「セットした髪型が乱れちゃうでしょ?デリカシーがないんだから」

 

「あ?セットなんかしてるのか?」

 

「してるよ、そりゃあ私だって、女の子だよ?」

 

 

昔はしていなかったけど……友人の妹である希美に、その辺を叩き込まれてしまったのだ。

私は彼女に女子力で完敗している……元が男だから、仕方のない話だと思うけれど。

 

女の子として生きるなら、最低限やらなければならない事……らしい。

希美曰く、だけど。

 

 

「ははは、悪い悪い」

 

 

ヘラヘラと笑う兄を細目で睨みつける。

 

 

「あ、そうそう、紹介したい友達がいるんだけど……今日、お昼一緒に食べに行かない?」

 

「友達?あぁ、いっつも言ってる奴か?」

 

「そう、和希」

 

「良いけど、なんつーか、稚影が友達紹介したいって言うのも初めてな気がするな」

 

「む、私、学校では友達いっぱい居るからね」

 

 

嘘じゃない。

成人男性の記憶のおかげで勉強は出来てる方だし、明るく社交的な態度を心掛けてるからね。

 

まあ、心の底から気を許せてるのは兄と……うん、望月家の兄妹ぐらいかも知れないけど。

 

 

「まぁ良いか……それで?何処で待ち合わせしてるんだ?」

 

 

してない。

待ち合わせなんて、してない。

 

 

「ケータイで連絡しよ」

 

「はぁ……お前、そう言う所が杜撰だよな」

 

 

ショートメッセージのアプリを開き、和希にメッセージを飛ばす。

 

 

『兄さんと今一緒にいるけど、どこで顔合わせする?』

 

 

そのままスマホを閉じてポケットにしまおうとしたら、即座に電子音が鳴った。

返信が早い。

 

 

『今、希美と合流した。だけど、一旦家に帰る。着替えてからでいいか?』

 

 

確かに、入学式は午前中に終わった。

腕時計を見ると11時を指していた。

 

じゃあ、12時に公園前でお願い……っと。

 

 

「兄さん、12時に待ち合わせ場所に集合だから……一旦、家に帰ろ?」

 

「あー、うん。でも何というか今更だけど……お前らの間に入ると気まずくないか?」

 

「そんな事ないと思うよ。いい人達だし」

 

「いや、気まずくなるのは俺だけど」

 

「紹介するって話なのに、兄さんが居なかったら、どうしようもないけど?」

 

「……まぁ、そうだが」

 

 

妹の友人と一緒に飯を食べるって、やっぱりハードル高いかな?なんて、思いながらも無理矢理、納得させた。

いや、説得したが正しいか。

 

了承のメッセージを受け取って、今度こそスマホをポケットにしまった。

 

 

「じゃあ、帰るか」

 

 

兄が踵を返し、門へと向かった。

 

 

「あ、待ってよ」

 

 

少し小走りで兄を追いかける。

 

兄の身長の方が私より高い。

勿論、足の長さも兄の方が長い。

 

つまる所、兄の方が歩幅が広いのだ。

 

普通に歩いてたら、距離は離れ行くばかりだ。

 

私が追いついて、連れ添って歩き出すと兄は歩みを緩めた。

 

それを少し嬉しく思って、頬を緩めた。

 

 

「ん?なんだ?」

 

「なんでもないよ」

 

 

この瞬間。

幸せは此処にあるんだと、私は感じていた。

 

未来への不安や、恐怖、そんなモノを感じられなくなるほど、幸せだった。

 

遊歩道、信号機が赤く点灯していた。

私と兄は足を止めて信号が変わるのを待った。

 

ふと、風が頬を撫でて前髪を右手で触った。

 

これから、悪役になる予定の兄と、主人公になる予定の和希が会う。

何が起こるか分からない未知に、心の奥底が少し冷えたように感じる。

 

私のしている事は、物語の未来を打ち壊す浅はかな行動なのかも知れない。

 

だけど、それが希望ある未来に繋がるのであれば──

 

 

考えれば考えるほど、泥沼にハマっていくような錯覚をする。

 

そして、突如、私は突き飛ばされた。

 

 

「えっ?」

 

 

突き飛ばしたのは……兄だ。

 

私は歩道の奥で尻餅を付いた。

 

 

「にっ──

 

 

声を出す間も無く、巨大な何かが兄に衝突した。

 

 

「……あ」

 

 

頬に何か、粘着質な液体が。

ダメだ。考えるな。

理性が脳を、思考を鈍化させる。

 

 

「……兄さん?」

 

 

通り過ぎたのは車だ。

トラック、白い、通り過ぎた。

そして、壁にぶつかって……止まった。

 

兄は、兄は?

 

 

「兄さん……?」

 

 

そこには、関節があらぬ方向に曲がっている兄が……兄の、死体があった。

瞳は虚ろで、生気を感じさせない。

 

 

「……なんで?」

 

 

そこに居るのは私の筈だ。

死ぬのは私の筈だ。

兄が生き残る筈だ。

 

どうして私は生きている?

何故、兄が死んでいる?

 

 

「……え?」

 

 

擦れた声が口から漏れた。

倒れた時に足首を捻ったようで、鈍痛が走る。

 

周りの人間が悲鳴を上げていた。

 

 

「うっ……えっ……」

 

 

鈍化した思考で、少しずつ理解していく。

私は強烈な吐き気を催し、道端に吐いた。

 

 

その様子を、先程まで兄だったモノの、二つの瞳が見つめていた。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

死体は、兄は大きく欠損していた。

顔合わせ出来るような姿をしていなかった。

 

 

警察が来た後の記憶がない。

私は病院のベッドの上で蹲っていた。

 

親戚の叔父が葬式の話を持ちかけて来て、兄が死んだ事を実感した。

ずっと面倒も見ていなかった癖に、こんな時にだけ顔を出してきて……本当に、腹が立つ。

 

兄を轢いた運転手は、気が動転していて真っ当な受け答えもできないらしい。

 

私は──

 

幾度か、洗面器に吐いた。

病院食が味気ないのか、それとも私の味覚がおかしくなったのか、何を食べても味はしない。

そして、口にしたモノを何度も吐き出した。

 

胃酸が逆流し、口の中の不快な酸味を噛み締めた。

 

鏡を見ると虚ろな目で、無表情な少女の姿があった。

 

 

「……楠木、稚影」

 

 

どうして、私が死んでいない。

物語では私が死ぬはずだった。

 

どうして、兄が死んだ。

彼は未来でやるべき事があるだろう。

 

どうして、どうして、どうして……。

 

 

私は鏡に写る少女を睨みつけた。

 

そうだ。

コイツが死ねば良かったんだ。

 

そもそも、兄は死ぬ運命じゃ無かった。

兄はコイツを庇って死んだんだ。

コイツが悪いんだ。

 

コイツが、楠木稚影が、私が悪いんだ。

 

 

私は頭を鏡に叩きつけて……看護師の人に止められた。

割れた鏡の破片が額に傷を付け、血を流していた。

 

気付いたら、私は両腕をベルトのようなモノでベッドに縛り付けられていた。

 

 

私のせいで死んだんだ。

私なんて生きている意味がないんだ。

死にたい。

死なせて。

 

そう願い続けていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「そう、ですか」

 

「えぇ、稚影ちゃん。さっき頭をぶつけて、自分が死ねば良かった……って」

 

「……すみません、失礼します」

 

 

そう言って、僕は眼鏡をかけた看護師の前から離れた。

 

 

僕は……『望月 和希』は、大きく息を吐いた。

胸の奥に残る不安を吐き出すように。

 

病院の廊下を歩くと、椅子に腰掛けている妹……希美の姿が見えた。

 

希美が僕に気付いて立ち上がり、声をかけた。

 

 

「どうだった……?」

 

「…………」

 

 

何も言えなかった。

先程、聞いた情報を希美に伝えたくなかった。

 

僕は楠木を友人だと思ってる。

最も仲の良い友人と言っても差し支えないだろう。

 

だが、希美と楠木の仲は、僕よりも深い。

同性だから、気兼ねなく話をしていた。

一緒に服を買いに行った事もあると、言っていた。

 

そんな妹に……言えるのか?

楠木が……死にたい、なんて言ってると。

 

 

「……あんまり、良くないんだね」

 

「……あぁ」

 

 

ただ、沈黙する事で暗に語ってしまったようだ。

言わなくても、言っても、関係のない話だった。

 

 

「私……稚影ちゃんと会いたい。話したい」

 

「それは──

 

 

会わせて良いのか?

僕は、僕だって……会いたいが、会うのは怖い。

もし、今まで話して来た楠木が……もし、本当に壊れてしまっていたら……。

 

 

「お兄ちゃん。稚影ちゃんが一番辛いんだよ。慰める……ううん、違う。立ち直れる切っ掛けになりたいの」

 

 

希美を見ると、その目には決意が宿っていた。

 

 

「……そうか」

 

 

なんだ。

会わせるべきか、なんて僕が考える事じゃなかった。

希美を守る為、なんて考えても、ホントは僕が怖かっただけだ。

 

希美は僕よりも強いんだ、大丈夫だ。

なら、僕も強くならなきゃな。

 

 

「希美」

 

「うん」

 

「面談、申し込んでくるよ」

 

 

僕は希美を連れて、受付へ向かった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

和希と希美から面談の申し込みが来たらしい。

断ろうとして……少し悩んで、許可を出した。

 

眼鏡の看護師さんはホッとした顔で、そそくさと部屋から出て行った。

 

故意に頭をぶつけてから、別室の個室に隔離されていた事を少し感謝した。

他の人がいたら、恥ずかしくて呼べなかったかも知れない。

 

看護師さんに腕のベルトを外してもらう。

 

 

少しして、恐る恐るといった様子で二人が入ってきた。

 

希美は私の姿を見て驚いたような顔をして、痛ましいモノを見るような顔をして、すぐ笑顔に戻った。

 

優しい子だ。

憐れみを見せまいと、笑顔を取り繕っている。

 

和希はあまり驚いた様子がなかった。

無関心、ではないだろう。

あらかじめ話を聞いていたのだろう。

 

決して短くない時間、だけど長くもない時間、二人は黙って私を見ていた。

何度か口を開こうとして、言葉が出ずに引っ込んでいるようだった。

 

そして、希美の震える唇が開いた。

 

 

「えっと……稚影ちゃん?」

 

 

……名前を呼ばれた。

悩んだ末に、結局何を言えば良いのか分からなかったようだ。

 

 

「うん」

 

 

私も擦れた声で返事をした。

吐きすぎて喉が痛いんだ。

 

 

「えっと……えっと……」

 

 

兎に角、何か話さないと。

そう考えている様子が見られた。

 

 

「楠木」

 

 

そうして待っていると、今度は和希が声をかけてきた。

 

 

「なに?」

 

「大丈夫……じゃない事は分かっている。苦しんでいる事も、分かっている」

 

「そっか」

 

 

思い詰めた表情で、和希は私の瞳を見つめて来た。

そして、私は……その目を……兄の物言わぬ眼を思い出して、目を逸らした。

 

 

「だけど、楠木の苦しさを僕は分かってやれない。分かってるなんて、そんな簡単な言葉では片付けられないよな」

 

「そう、だね」

 

 

彼は私が『苦しい』のだと理解している。

だけど、『どれだけ苦しいか』は理解できないと……ハッキリと言った。

 

それを無情だと考えるか?

いいや、私はそれが心地良かった。

 

分からない、とは否定の言葉ではなかった。

この感情は私だけしか理解できないのだと、肯定してくれたのだ。

 

 

「ありがとう、和希」

 

「……結局、僕は何もしてやれない」

 

 

和希が俯いた。

希美も申し訳なさそうに声を出した。

 

 

「わ、私も……何も言えてないし、何も出来なくて……ごめんね」

 

「ううん、良いよ。ありがとう、希美」

 

 

彼女が気を遣ってくれているのを、私は感じていた。

それだけで充分だ。

 

言葉だけが慰めじゃないのだ。

彼等の表情が、態度が、行動が……慰めてくれる。

 

 

「二人とも、ありがとう。私はもう大丈夫だよ」

 

「でも……」

 

「もう、死のうとなんてしないから」

 

 

私が死んだら、二人は悲しむだろう。

自惚れなんかじゃない。

彼等は私の事を『大切だ』と思ってくれている。

 

それはどんな陳腐な言葉よりも、その深い沈黙と思いやりでこそ私に伝わった。

 

だから、もう私は死のうと思わない。

彼らを悲しませたくない。

 

 

「本当にありがとう」

 

 

私は二人に微笑みかけた。

虚ろな心を隠して、頬を緩めた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

その後、二人とはたわいも無い話をして、帰って行った。

 

看護師は話を聞いていたようで、私の腕の拘束具を外したままにしてくれた。

感謝を述べると、困ったような笑顔で笑っていた。

 

 

そして、深夜。

私はベッドから立ち上がった。

 

足首に少し痛みがあったけど、耐えられない程ではない。

 

私は、鏡の前に立った。

 

 

望月 和希。

望月 希美。

 

二人は私を『大切だ』と思ってくれている。

 

私は?

勿論、彼等を『大切だ』と思っている。

 

そして、二人に降り掛かる災厄を思い出していた。

 

特に、希美の……。

 

希美も、私と同様にゲームでは立ち絵すら存在しない。

……将来、死ぬからだ。

ゲーム通りならば、回避できない未来。

 

 

だけど、私の兄は死んだ。

私のせいで死んだのだ。

 

 

それは既に原作から乖離している現象だ。

それが私によって引き起こされたのなら、私にも未来を変えられる。

 

それならば、私が彼等の絶望を取り除こう。

例え、何をしても。

 

 

だけど、今の私では力不足だ。

ただの少女に未来を変えられるほどの力はない。

 

ゲームの設定にある『異能』。

 

『能力者』は怒り、悲しみ、嘆きをトリガーに成長していく。

 

私が彼等を助ければ……その絶望を取り除けば、主人公である和希の成長は失われ、そして……死を迎えるだろう。

 

 

だから、和希には絶望を与えなければならない。

 

その役目を行なっていたのは?

兄だ、『楠木 影介』だ。

 

それなら──

 

 

「私が兄さんの代わりになる」

 

 

私は強く、強く、念じる。

 

『異能』は、素質を持った人間が心にダメージを負い、強く『何か』を願う事で目覚める。

 

そして、『異能』の有無は血の繋がりによって継承される。

 

つまり、『能力者』になる予定だった兄の妹である私には、素質のある可能性が高い。

 

精神的なダメージ……愛していた兄が死んだんだ。

私にとって、これ以上の苦しみはない。

そう断言できる。

 

目覚めない訳がない。

兄の死を、この悲しみを、苦しみを否定させない。

 

鏡を強く、強く睨みつけ、願う。

 

力が欲しいと、未来を変えられる『武器』が欲しいと。

 

 

直後、私の手元がボヤけた。

そして、そこに『剣』が現れた。

 

 

ガラスのように半透明で不明瞭。

青い血管のような生々しい管。

曲線を描いて、私の身長と同じぐらいの大きさ。

なのに、重さは少しも感じない。

本当に現実に存在しているのか分からない……いっそ、幻覚なのだと言われた方が信じられる。

 

そんな、禍々しい『剣』。

 

まるでゲームから直接抜き出したかのような……あぁ、ここは、ゲームの世界だった。

歪んだ価値観を押し付けられた、創作物の世界だ。

 

 

しかし、鏡には『剣』は映らない。

この『剣』は『異能力者』にしか見えない、不可視の凶器だ。

鏡に映らず、映像にも残らない。

 

私の苦しみ、怒り、負の感情が形として具現化した『剣』なのだ。

現実の物理法則を断ち切り、物理法則を歪める『異能』の『剣』だ。

 

 

私は……鏡に向かって笑いかける。

 

 

「私が兄さんの代わりに……」

 

 

二人の友人の姿を頭に浮かべる。

 

和希。

 

希美。

 

 

「ハッピーエンドの為に……」

 

 

左手で自分の頬に触れた。

 

 

涙はもう流れない。

渇き切った。

 

悲しみに嗚咽は漏らさない。

その資格は無くなった。

 

これから私が行うのは、人が知れば怒り、恥知らずと、恩知らずと、蔑むような事だ。

 

二人の幸せの為に、二人を傷付ける。

 

その覚悟がわたしにはある。

 

 

「私が、悪役になる」

 

 

月明りが溢れる病室で、私は仄暗い覚悟を抱いた。




次回は、1月15日(日曜日)予定!
よければ感想とか評価貰えると嬉しいです!


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2話:非現実の凶刃

あれから、1年が経った。

親友の、楠木 稚影の兄が亡くなってから……1年だ。

 

あの日見た生気を感じさせない虚な目を忘れられるほど、時間は経っていない。

 

 

それでも──

 

 

「稚影ちゃん、みりん取ってー」

 

「はい」

 

 

キッチンを前に並ぶ、妹の希美と、楠木。

彼女達は笑顔を浮かべていた。

 

不幸を乗り越えて、気丈に振る舞っている。

ふとした時に悲しそうな顔をするが、それでももう絶望はしていない。

 

 

楠木は現在、一人暮らしをしている。

兄と一緒に暮らしていたアパートの一室で、今も暮らしている。

親戚の家に引き取られるかと思っていたが、彼等は薄情なようで楠木に興味を示さなかった。

楠木も……兄と過ごした家を失いたくないと、今も留まり続けている。

 

少し心配だが、それは良い。

彼女の選んだ選択だからだ。

 

それは良かった……のだが。

 

 

 

退院してから一ヶ月後。

希美と一緒に、彼女の住むアパートを訪ねた際の話だ。

 

リビングのゴミ箱はカップ麺のゴミや、レトルト食品の袋、ファストフードの包み紙が山積みになっていた。

希美は驚いて、楠木を問い詰めた。

 

結論として、彼女の生活は荒れに荒れていた。

食べられれば良いと、栄養の偏った生活をしていた。

 

……あの時の様子を思い出す。

 

 

 

 

 

「稚影ちゃん!ちゃんとしたご飯を食べないと!」

 

「えー、でも……面倒だし」

 

 

一人暮らしの自炊生活は、よほど料理が好きじゃないと長続きし難い。

彼女はそう語って……いや、言い訳していた。

 

それでも、『こんな生活を続けるのは不健康だ』と希美は怒っていた。

要らぬお世話かも知れないが、彼女は楠木を心の底から心配していた。

 

 

「稚影ちゃん、それなら……晩御飯の時は(うち)に来てよ」

 

「え?希美ちゃんの家に?」

 

「そう、一緒にご飯を食べようよ!料理も一緒にしてさ……ね?」

 

 

楠木が僕を一瞥した。

迷惑をかけるかも、と思っているのかも知れない。

 

僕はゆっくりと頷いた。

迷惑なんて、かけてくれても構わない。

僕はただ友達を支えたかった。

 

僕が反論してくれない事に気付いたのか、楠木は希美に視線を戻した。

 

 

「……え、えと?」

 

「分かった?」

 

「……はい」

 

 

有無を言わさぬ真剣な眼に気押されて、楠木は頷いた。

 

以降、週に6回は夕食時に望月家に来ているのだ。

 

 

 

 

楠木は『簡単な料理ぐらい出来る!』と豪語していたけれど、実際は……まぁ、うん。

 

死ぬほど味の濃い味噌汁や、卵焼きと自称するスクランブルエッグ、生焼け魚などが食卓に並んだ時点で……希美が楠木をキッチンへ連行していった。

 

そして、希美が楠木に料理を教える事になったのだ。

 

 

……その時ぐらいから、僕がキッチンに立つ事は減っていった。

当初は希美と当番制だった筈なのに、希美の料理勉強とか何とかで気付けば週一ぐらいになってしまった。

 

代わりに掃除、洗濯とかは出来る限りやっているけど……まぁ、とにかく僕は料理当番から外されてしまった訳だ。

 

 

閑話休題(それはともかく)

 

キッチンは戦場だった。

料理が始まると希美の叱責と、楠木の悲鳴がよく聞こえていた。

……まぁ、それも最初の頃ぐらいだ。

 

 

一年経った今は……二人、キッチンで並んで笑顔で会話しながら料理している。

それだけ上達したという事だろう。

 

僕は料理が盛られた皿を、机に並べた。

 

 

 

「「「いただきます」」」

 

 

三人が食卓に並び、声を出した。

 

視線を下す。

今日は焼き魚と、味噌汁、白いご飯、煮浸しだ。

 

味噌汁を啜り、焼き魚を口にする。

 

 

「お兄ちゃん、どう?」

 

「……ん?美味しいけど」

 

 

味噌汁は……いつもと少し、味が違う気がしたが確かに美味しかった。

 

僕が返事をすると、希美はにへら、と笑った。

 

 

「良かったね、稚影ちゃん」

 

「うん」

 

 

楠木が照れ臭そうに頬をかいた。

僕は目を瞬く。

 

何の話だろうか?

 

 

「お兄ちゃん、今日の味噌汁は稚影ちゃんが担当なんだよ!私、何も手伝ってないから本当に一人で作ったの!」

 

「へぇ……初日とは比べ物にならないぐらい、上達したんだなぁ」

 

「こら!そんな変な褒め方しない!」

 

 

希美に叱られて、僕は苦笑した。

……まぁ、確かに楠木に失礼な発言だった。

 

 

「えっと、ごめん。楠木」

 

「ううん、良いよ。嬉しいから」

 

 

楠木は頬を緩めて、仄かに笑った。

 

胸の奥が、少し縮んだ気がした。

最近、楠木を見ていると、こうなる時がある。

 

それがどんな感情か……分からない。

いや、分かりたくない。

 

この関係は心地いい。

だから、気にしない。

気付いたら……壊れてしまうかもしれない。

 

 

希美が笑いながら、楠木に話しかける。

 

 

「稚影ちゃんは私にいっぱい感謝するように!」

 

「うん、ありがとう。希美ちゃん、すごく感謝してる」

 

「え?えへへ……?」

 

 

楠木の反応が予想外だったのか、希美も照れ臭くなって頬をかいた。

 

気まずい空気だ。

決して、嫌ではないけれど……僕は視線をずらした。

 

テレビを見る。

ニュース番組が流れていた。

 

 

『二ヶ月前、東京都内で身元不明となっていた遺体が──

 

 

眉を顰める。

この町ではない……だけど、隣町での事件だ。

決して他人事ではない、事件の報道。

 

僕の様子に希美が気付いた。

 

 

「食事中にニュース見るの、禁止!」

 

 

希美が机の上にある、テレビのリモコンを取ってチャンネルを変えた。

芸人が並ぶバラエティ番組が表示された。

 

 

「これでよし」

 

 

……だけど、僕の脳裏にあるのは先程のニュース……殺人事件のニュースだ。

 

一年前から発生している、無差別殺人事件だ。

警察は未だ犯人を捕まえられていない……ネットでも警察をバッシングする記事は多く出ている。

 

一年間で……3人、死亡している。

被害者に共通して言える事、それは……死体の損傷具合だ。

 

どれもこれも、まるでゼリー状に溶けて……原型を留めていない。

恐ろしい猟奇殺人事件だ。

 

被害者に共通の知人は居ない事から、無差別殺人事件だと言われている。

しかし、ニュースでは報道されていない、もう一つの被害者達の……共通点。

……誰も彼もが『素行が良かった』とは言い難いらしい。

ネットで語られる話なんて嘘か本当か、信憑性は低いが……そう言われている。

 

人によっては天罰だと──

 

 

「お兄ちゃん?箸が止まってるよ?」

 

「あ、あぁ、悪い」

 

 

僕は慌てて、箸を味噌汁に付ける。

 

 

「どうかしたの?さっきのニュース?」

 

「いや、何でもない……」

 

 

豆腐が崩れる。

 

別に僕は、そんな猟奇的な事件が好きな訳じゃない。

寧ろ、嫌いだ。

 

……ただ、身の回りにいる大切な人達が巻き込まれたらと……そう考えると、怖い。

被害者の誰もが悪人だとか……そんなの、全く信憑性のない都市伝説に過ぎない。

 

それに、殺されていい人間なんて居ない。

死んで当然な人だとしても、殺されて良い訳がない。

 

普通は誰もが、そう思ってる筈だ。

だからこそ……犯人が何を考えてるか、全く分からない。

 

もし……噂が本当では、なければ。

見境なく殺すような奴ならば。

 

 

目の前にいる、楠木を見る。

 

 

僕は怖い。

母は交通事故で死んでしまった。

彼女の兄も。

 

人の死は急に訪れる。

大切な人であろうと、善人であろうと、お構いなしだ。

 

だから、僕はもう、これ以上……失いたくなかった。

 

 

「楠木、ご飯食べ終わったら家まで送るよ」

 

 

だから、そんな事を言った。

死体を溶かしてしまうような狂った殺人鬼相手に、僕は何も役に立たないだろうけど。

 

それでも……せめて、僕は。

 

 

「別に良いよ、一人でも──

 

「ダメだ」

 

 

思わず、食い気味に否定してしまった。

希美が目を瞬かせて、楠木が首を傾げた。

 

 

「和希?」

 

「あ、いや……最近、物騒だろ?だから……」

 

 

そう言うと、希美が首を縦に振った。

 

 

「うん、稚影ちゃん。お兄ちゃんじゃあ、あまり頼りにならないかも知れないけど……送ってもらえば?」

 

 

頼りにならない、は余計だと思った。

自分で思っているのと、他人に言われるのは別だ。

 

楠木は何度か目を瞬いて、ゆっくりと頷いた。

 

 

「……うん、和希。分かった。エスコート、お願いするね?」

 

「エスコ……あ、あぁ。送っていくよ」

 

 

変な言い方をするから、僕は思わず咽せてしまった。

その様子を見て、希美は笑っていた。

 

何が面白いのか、サッパリ分からなかった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

夜の街を歩く。

月明かりの下で……二人。

 

僕と、楠木の二人で。

 

 

「少し、遅くなっちゃったかな?」

 

 

そう言って、楠木が僕を見た。

電灯の下で見る彼女は……何故か、輝いて見えた。

 

 

「そう、だな。あんまり遅くなると、危ないから良くないと思うけど」

 

 

そう言うと、楠木が頬を緩めた。

 

 

「心配してくれるんだ?」

 

「当たり前だろ」

 

 

僕の返事に、楠木が少し驚いたような顔をした。

 

 

「楠木は友達だから……危ない目にあったら、僕は悲しい、から……うん」

 

 

そう口にして……僕は楠木から顔を逸らした。

少し恥ずかしい事を言ってしまった気がする。

頬が少し熱い。

 

 

「そっか……ありがと、和希」

 

 

だから、感謝の言葉をかけてきた楠木の顔を見れなかった。

 

 

「……なぁ、楠木──

 

「あ、それなんだけど」

 

「それ?」

 

 

楠木の方へ、視線を戻す。

彼女は仄かに笑っていた。

 

 

「『楠木』ってやつ」

 

「……名前だろ?それがどうかしたのか?」

 

「うん、どうかしてるよ」

 

 

何が言いたいのか分からなくて、僕は首を傾げた。

 

数歩、楠木が僕の前を歩いた。

そして、ゆっくりと振り返った。

 

 

「『稚影』って呼んで欲しいなって」

 

「……なんでだ?」

 

 

僕にとって彼女は親友だ。

だけど、それでも……女の子だ。

 

妹でもない女の子の名前を、苗字じゃなくて……名前で呼ぶなんて、恥ずかしくて。

 

 

「だってさ……苗字は──

 

 

楠木の顔が曇る。

……楠木、という苗字。

 

それは彼女の兄も指している。

だから……だろうか。

思い出させてしまうから、だろうか。

 

何故かと聞いてしまえば分かる話だ。

だけど、それが彼女を傷付ける事になるのなら──

 

 

「わかったよ、『稚影』」

 

 

そんな僕の恥ずかしさなんて、捨ててしまえば良い。

頬を掻いて、そう呼んだ僕に……楠木……稚影は、笑顔を返した。

 

 

「うん、ありがとう。和希」

 

 

心の距離が、一歩近付いたような気がした。

呼び方なんて、何でもないような事かも知れないけれど……それでも、そんな気がしたんだ。

 

 

……楠木の、稚影の住むアパートは、望月家から少し歩く。

と言っても、20分ぐらいの距離だ。

 

歩いている途中で、稚影が少し早歩きになった。

 

 

「く、稚影?」

 

 

まただ。

また楠木と言い間違えそうになった。

……慣れるまで、少し時間が掛かるかな。

 

稚影が振り返り、コンビニを指差した。

 

 

「ちょっと寄って行こうよ、和希」

 

「……変な寄り道はしない方が良いと思うぞ」

 

「えー?希美ちゃん、お留守番してるんだからプリンぐらい買って帰った方が良いと思うなぁ」

 

「稚影が食べたいだけなんじゃないか?」

 

「……ま、そうだけどね?」

 

 

言いくるめられた僕は、ため息を吐きながら楠木の後ろを歩く。

 

コンビニに入って、プリンを三つ手に取る。

そのままレジに持っていって……会計する。

 

……家に帰って来ないクソ親父だけど、金だけはしっかりと口座に入れている。

キャッシュカードで定期的に下ろしているが……多分、きっと、育児放棄はしていないって自分に免罪符を与えようとしてるんだ。

 

……クソ、嫌な事を思い出してしまった。

 

三つ買ったプリンのうち、一つは稚影に渡そうと思って……あれ?どこにいるんだ?

 

コンビニの出口の方へ、視線をずらして……彼女が何か、男に絡まれているのを見てしまった。

 

 

「お、おい!稚影!」

 

 

慌てて、僕はコンビニの外へ出て……割り込んだ。

 

男は……多分、高校生だ。

身長も僕より高い。

服の着崩しや態度から見て……いわゆる、不良ってやつだ。

 

 

「んー?なんだ、クソガキ。今、俺はこの女と話してんだよ」

 

 

僕は稚影の方を見た。

……顔を俯かせていた。

 

怯えている、のだろう。

男へ、視線を戻した。

 

 

「そ、その、稚影が何かしたんですか?」

 

「……あ?何だ、女の前だからってカッコ付けてんのか?」

 

「そ、そんな訳じゃ──

 

 

腹部に、痛みが走った。

 

蹴られたのだと、気付いた時には……僕は地面に転がっていた。

コンクリートに手をつくと、少し冷たかった。

 

 

「う、ぐっ……」

 

 

さっき食べた夕食が、胃の中で渦巻いているのを感じた。

 

 

「その女、俺にブツかっておいて、謝りもしなかっ──

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 

稚影が謝った。

彼女は食い入るように口にして……倒れた僕の側に近寄って、肩を掴んだ。

弱々しく、僕は……庇われたのだと気付いた。

 

 

「あ、謝るから……これ以上は……」

 

「……チッ、気分悪い」

 

 

興が削がれたのか、男は唾を吐いて……僕をもう一度蹴った。

かなり、痛かった。

 

だけど、黙って、歯を食いしばって……気付けば、男は居なくなっていた。

 

 

「和希……」

 

 

呼吸が乱れて……咳き込む。

痛みで涙腺が緩んで、泣きそうになる。

 

情けない。

恥ずかしい。

 

そう思った。

 

何が『殺人犯から守る』だ。

ただの不良にも一方的に殴られるような僕が……稚影を助けられる訳がなかったんだ。

 

 

「稚影、ごめん……」

 

 

そう謝りながら、顔を上げると──

 

 

 

 

 

 

稚影の表情から、色が抜け落ちていた。

 

 

 

「……稚影?」

 

 

悲しいとか、怖いとか、怯えとか、怒りとか、そんなものを少しも感じさせない……無表情だった。

 

そして、視線は去っていった不良の方へ向いていた。

 

 

僕は驚いて目を閉じて……再度、開いた。

 

 

稚影は心配そうな顔で、僕を見ていた。

さっきのは……幻覚、だろうか。

 

そうだ。

幻覚に違いない。

だって、そんな顔をする理由がないからだ。

 

 

「和希、ごめんね」

 

 

彼女の謝罪で、僕は現実に引き戻された。

 

 

「あ、あぁ……えっと、僕の方こそ」

 

「ううん、違う。和希は助けてくれたから……」

 

 

稚影に腕を引っ張られて、立ち上がる。

砂のついたズボンを叩いて、蹴られた拍子で地面に落ちたビニール袋を見る。

 

 

「あっ……」

 

 

声を上げたのは僕か、稚影か。

袋の外からも、プリンがグチャグチャになっているのが見て分かった。

 

……買い直すか、そう思った瞬間、稚影が僕から離れた。

 

 

「わ、私が買い直すから!そこでジッとしてて!」

 

 

そう言われて、返事をする間もなく稚影はコンビニに入っていった。

 

……僕は駐車場にあるブロックの上に座る。

息を深く吸って、吐く。

 

身体の痛みは引いてきた。

だけど……風が手に当たって、痛んだ。

大きくはないけれど、擦り傷が出来ていた。

 

思わず顔を顰めていると──

 

 

「おまたせ、和希」

 

 

ビニール袋を持った、稚影が側に来ていた。

そして、袋から何かを取り出した。

 

プリンではない。

ペットボトルと……小さな箱だ。

 

 

「……稚影、それは?」

 

「水と、絆創膏。ほら、手を出して」

 

 

僕が手を出すと、稚影はペットボトルを開けて……水を手に流した。

 

 

「痛っ……」

 

 

傷に染みる。

 

思わず声が漏れたけど、稚影は気にしていなかった。

そして、彼女はハンカチを取り出して、濡れた僕の手を拭いた。

優しく……痛まないように。

 

そして、箱から絆創膏を取り出し……擦り傷に貼った。

 

 

「うん、これで良いかな」

 

 

処置をしてもらった僕は、稚影に対して頭を下げた。

 

 

「ありがとう……それと、ごめん」

 

 

感謝と謝罪をすると、稚影が首を傾げた。

 

 

「……ねぇ、さっきから、どうして謝ってるの?」

 

「だって……情けなかったし。僕は何の役にも立たなくて──

 

「ううん、謝らなくて良いよ」

 

 

稚影が首を振った。

彼女の髪が揺れた。

 

 

「情けなくなんかないよ。寧ろ、カッコよかったよ」

 

「……地面に這いつくばってただけなのに?」

 

「うん、カッコよかった」

 

 

真面目にそう言うのだから……お世辞かと疑った。

だけど、彼女の瞳は茶化すような物ではなく、真剣に僕を見ていた。

 

……思わず、照れ臭くなってしまった。

 

そして、稚影は僕の手からビニール袋を取り、もう一つのビニール袋を預けてきた。

 

 

「このプリンは私が貰うから……希美ちゃんには綺麗な方を食べて貰ってね?」

 

「あ、あぁ……ありがとう」

 

 

手元にあるビニール袋を覗く。

プリンが……二つ。

希美の分と、僕の分だ。

 

……思わず、一つ彼女に返そうとして──

 

 

「あんまり遅くなると希美ちゃんが心配するから、行こっか?足とかは……大丈夫だよね?」

 

「あ、うん……まぁ、大丈夫だよ」

 

 

返すタイミングを失って、僕は稚影の後ろを歩く。

彼女は時折、僕に向かって振り返りながら進んでいく。

 

 

そして……彼女の住むアパートの前まで辿り着いた。

ペンキが塗り替えられたばかりの壁の側を、彼女は歩き……僕の方へ振り返った。

 

 

「和希、今日はごめんね?」

 

「……全然、別に良いよ」

 

 

そう言いながら、頬を掻いて……少し、疑問が湧いた。

 

 

「一つだけ良いか?なんで、あんな……絡まれてたんだ?」

 

「あー、それは……私が、ぶつかっちゃったから……」

 

 

稚影が眉尻を下げた。

申し訳なさそうな顔をしている。

 

 

「……ちゃんと、前見て歩かないとな」

 

「うん、気をつけるよ。本当に」

 

 

そのまま稚影はアパートの入り口前に立った。

そして、振り返った。

 

 

「和希、助けてくれて……ありがとう」

 

「ん、まぁ……うん」

 

 

素直に受け取られず、誤魔化して……何か、忘れている事に気付いた。

 

そうだ。

不良の男は「稚影が謝らなかった」と言っていた。

何故、謝らなかったのか……?

 

いや、問い質すような事じゃないか。

きっと、怯えていたのだろう。

僕は勝手に納得して、彼女に手を振った。

 

 

「じゃあ、また明日」

 

「うん、また明日ね」

 

 

そうして、僕は踵を返して……自宅へ戻る事にした。

 

……自身を苛む無力感に耐えながら。

少し、陰鬱な気持ちで夜の街を歩いた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

路地裏で、蠢く。

皮膚を失い、内臓を露出させた『何か』が、蠢く。

鳴き声も出さず、ただ静かに……。

 

 

踏み込む。

 

 

夜も遅い。

人通りは少ない……ビルの隙間ともなれば、誰一人としていない程には。

 

 

「…………」

 

 

私は電灯も存在しない、月明かりだけが照らす路地裏に立っていた。

 

右手には……赤黒い半透明の『剣』。

青い筋が脈打って、まるで生きているかのように錯覚した。

 

足元には……大量の『蛆虫』。

それは人の指のような形状をした、醜悪でグロテスクな臓物で出来た虫がいた。

 

 

視線を『蛆虫』から逸らして、前方の大きな『肉塊』を見る。

見覚えのある服が、はち切れそうなほど膨張した『肉塊』を縛っていた。

 

 

「さっきぶり、だね」

 

 

口を塞がれても無理やり叫ぼうとしているような声が……耳に聞こえた。

断続的に、何度も、何度も、何度も……助けを呼ぼうとしているのだろうか?

 

しかし、言葉になり損なっている音では、判別する事など出来ない。

 

その様子に私は満足げに頷いた。

 

 

「良かった。まだ、ちゃんと生きてるね」

 

 

先程、コンビニで出会った男が……姿を変えて、そこにいた。

 

蠢いている。

ぐじゅる、ぐじゅると音を立てる。

実を震わせる度に、粘液が擦れる音がした。

 

 

「私、貴方にはちょっと申し訳ないかなって思ってたんだけどね」

 

 

話しても、聞こえてるとは思っていない。

彼にもう、耳はない。

 

 

「自業自得かな?って思えたよ。そういう意味では、貴方の愚行にも感謝してるよ」

 

 

手を振っても、見えるとは思っていない。

彼にもう、目はない。

 

 

「ううん……やっぱりまだ私、少し怒ってるみたい。ごめんね?」

 

 

返事をするとは思っていない。

彼にもう、口はない。

 

肥大化し、赤黒く変色した肉塊が、鼓動に合わせて脈打っている。

まるで大きな心臓のようだと、私は思った。

 

 

 

『能力者』の持つ『剣』にはそれぞれ異なる特殊な力、『異能』が伴う。

 

私の持つ『剣』……それには私に相応しい、醜悪な『異能』が備わっていた。

 

それは──

 

 

「今から、私の力の練習台にさせてもらうけど……安心していいよ。痛覚は切ってあるから」

 

 

『肉』だ。

何の肉でも好きに創り、弄り、操る事が出来る能力。

 

地面を這う、人の指のような形をした『蛆虫』は、私の『異能』が生み出した存在だ。

こいつらには脳は存在せず、五感も存在しない。

ただ、私はそれを無から生み出して、操る事ができる。

 

……別に、蛆みたいな形でなくても良い。

『眼』を作れば、視界も共有できるし……『歯』を生やせば、噛み付く事だって出来る。

 

だけど、何も付けないのが一番手軽で簡単だ。

『異能』の行使には体力を使う……量を増やせば、質を高めれば、複雑にすれば……それだけ疲弊する。

それなら、複雑な機能は要らない。

 

 

そして、もう一つの『使い方』。

私の創り出した『肉』と接触した『肉』を、私の『異能』の制御下に置く力。

だからこそ、創り出す『肉』は『蛆虫』のような単純機能だけで良い。

触れるだけで人を操れるなら、『爪』も『牙』も武器は必要ない。

 

和希とコンビニに行った時、この『肉蛆』を、ぶつかる振りをして埋め込んでおいた。

それは、彼の身体に入り込み……先程、その『異能』によって彼の身体を作り替えた。

 

 

まだ、彼には脳がある。

心臓もある。

だが、もう五感は存在しない。

 

私の『異能』によって『肉のオブジェ』に作り替えられたのだ。

 

 

 

まとめると、私の能力の使い方は主に二つ。

肉塊を生み出し、自在に操ること。

人の肉体を操作して、自在に創り変えること。

この二つだ。

 

 

さて、この『異能』だが……汎用性が高く、応用が効く。

出来ることは多い。

 

物理法則を無視した形状変化も出来る。

……自身の身体だって、作り替えられる。

 

練度によって、正しく万能と呼べる能力になるだろう。

 

だからこそ、この力を訓練する必要があった。

熟達し、如何なる状況にも対応できるようになる必要が……。

 

 

……そう。

だから、検証するための『実験体』が必要だった。

 

 

私は『肉蛆』を使って街の中を探り、対象を探していた。

 

今日の相手は……この、『榊原星斗』だ。

 

 

彼は昔、同級生の女の顔に硫酸をかけている。

だが、少年法に守られて実名報道もなく……彼は罪に問われなかった。

 

硫酸をかけられ顔が焼け爛れた少女は病んでしまい……自殺してしまった。

だが、加害者であるコイツは何食わぬ顔で生きている。

死んで当然のクズだ。

 

 

どうして、そこまで詳しいか?

 

それは、彼もゲームに登場するキャラクターだからだ。

彼に関するエピソードは胸糞悪く、私もよく覚えていた。

 

だから、探していた。

……今日、偶々出会えたのは運が良かっただけだ。

 

 

一年前から。

私は『腐血のサルヴァトーレ』に登場する屑をピックアップし、殺して回っている。

 

これ以上、被害者を生み出さない為に……?

いや、違う。

建前に過ぎない。

 

 

本音としては──

 

 

「……さて、と」

 

 

必要だから、だ。

 

 

『剣』を彼に突き刺す。

ドス黒く濁った、腐ったような臭いのする血が流れた。

 

 

頭の中で鮮明なイメージを思い浮かべて、『剣』に意識を集中する。

肉塊となった男は捻れて、形を変える。

 

大きくなったり、小さくなったり。

太くなったり、細くなったり。

硬くなったり、柔らかくなったり。

捻り、曲がり、伸びて、縮む。

 

 

それでも、彼は死なない。

脳や心臓はダメになっていない。

まだ、生きている。

 

 

最初の方は、こんなに上手くなかった。

急速に変形させては、内臓に負荷を掛けすぎて殺してしまった。

 

だけど、今なら……形を作り替える事も容易い。

その気になれば、戻す事だって出来る。

 

 

肉塊が地面に根を張り、上に突き上がる。

両腕を横に伸ばして、壁にへばり付く。

 

男は、醜悪な芸術品へと変わり果てた。

 

 

「……うん、もういいや」

 

 

『剣』を持ち上げて……横に薙ぐ。

背面のコンクリートもバターのように深く切れ目が入って……その前にある肉塊は真っ二つに割れた。

ドス黒い血が地面に溢れる。

 

 

『剣』は人の精神を具現化した形だ。

だから、常に切れ味は何よりも鋭く、刃こぼれなど起こらない。

どれだけ斬っても衰える事はない。

例え、特殊な『異能』がなくとも、非常に強力な『凶器』なのだ。

 

 

視線を肉塊に戻す。

切断された肉塊はゼリーのように溶けて、自重に耐え切れず崩れ落ちた。

 

べちゃり、と音がして地面に溢れた。

泡立ち、溶けていく。

 

切断した瞬間に、肉体を崩壊させたのだ。

 

手に持っていた『剣』を消せば……肉で出来た蛆虫は、泡のようになって消えた。

まるで最初から幻だったかのように。

 

『異能』で生み出した物は解除すれば消滅する。

そして、一般人には見る事すら出来ない。

『肉蛆』は人に見えないし、解除すれば消滅する幻覚のような存在だ。

 

だけど、『異能』によって作り替えられたモノは残る。

作り替えられた肉体は、現実に存在する現象として残る。

 

 

だから、残ったのは『榊原星斗』だった死体だけだ。

 

 

 

私は地面に垂れた『人間だったもの』から目を逸らし、踵を返す。

 

 

「……帰ったら、プリン、食べようかな」

 

 

屋根の上から見張らせていた『肉蛆』も溶けてなくなる。

そして、私は家にあるグチャグチャになってしまったプリンを思い出して……先程の死体を連想してしまった。

 

 

「……やっぱり、大人しく早寝しよっと」

 

 

慣れはしない。

人を殺す度に、兄の顔を思い出す。

最近は、和希と希美の顔も。

 

責めるような幻聴も聞こえる。

自分が何をしているのか、分からなくなる時がある。

 

だけど、立ち止まる事は出来ない。

 

力が必要になった時に、経験が足りなかったからと……失態を犯す事は許されない。

この世界はゲームの世界だが、リセットボタンやセーブポイントは存在しない。

 

たった一度のミスも許されない。

だからこそ……私は『努力』も『犠牲』も惜しまない。

 

 

それに。

 

 

私が気に病む……という事は、それだけ『異能』の出力が上がるという事だ。

効率のいい、自傷行為(リストカット)でもあるのだ。

 

 

暗闇の街中を、私は歩いていた。

足音が静寂の中で響く。

 

 

月は雲に隠れている。

私をもう、照らしてはいなかった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

照り付ける日光の中……車から降りる。

ネクタイを指で緩めて、コンクリートで革靴を鳴らす。

 

少し歩けば、黄色と黒の規制テープの前に立つ。

そこに立つ警官に、自身の警察手帳を見せる。

 

手帳には『神永(かみなが) 啓二(けいじ)』という名前と、二十代中盤の眼鏡をかけた男の顔写真が写っていた。

 

 

「ご苦労さん」

 

 

労いながら、テープをくぐる。

ビルとビルの間……路地裏へと足を踏み入れる。

 

途端に、異臭。

キッチンの三角コーナーの悪臭を圧縮したような腐臭だ。

 

スーツの下から灰色のハンカチを取り出し、鼻を覆いながら奥へと向かう。

 

青いビニールシートが被せられ、中は見えないが……およそ、人間一人分ほどの山が出来ていた。

数人の鑑識が現場検証をしていた。

 

その中の一人、顔見知りに声を掛ける。

 

 

「……被害者(ガイシャ)の様子は?」

 

 

振り向いた鑑識の顔は、少し血の気が引いていた。

 

 

「どうもこうも……見た方が早いですよ」

 

「そうか」

 

 

手を伸ばして、ビニールシートを少し捲る。

 

……眉を顰める。

赤黒いブヨブヨの『何か』がいた。

それは溶けてゼリー状になった人間の……死体だ。

 

 

「薬物で溶かしても、こうはなりません。まるで、調理器具に入れられて……細胞膜を破壊されたような状態です」

 

 

鑑識が眉を顰めた。

俺は握っていたビニールシートを、元の位置に戻した。

腐臭が鼻にツンと来る。

 

死体が発見されてから、半日程しか経っていない筈だが……どうして、こんな腐ったような臭いがするのか。

 

鑑識の男が口を開いた。

 

 

「……人の死に方じゃありませんよ、これは」

 

 

もう見たくない、と言った様子だ。

鑑識という職業柄、死体を見る事は多い筈だが……それでも、こんな惨状では仕方あるまい。

 

俺は口を開く。

 

 

「と言っても、これで4人目だ。良い加減慣れないか?」

 

「無理ですよ。こんなの普通じゃないですって」

 

 

あんまりな言い分に、俺は自分の頬をかいた。

慣れている俺が、普通じゃない……みたいな言い方だな。

 

 

「……まぁ、確かにな」

 

「……すみません。神永さんの事じゃないですよ」

 

 

俺が怒っていると勘違いしたのか、謝ってきた鑑識に手を振る。

 

別に怒っている訳ではない。

図星だったから、気まずかっただけだ。

 

 

「いいや、まぁ普通じゃない。この死体は……だからこそ──

 

 

自分の顎を撫でる。

 

 

「普通じゃない奴が必要なんだ」

 

「はぁ……?」

 

 

理解してない様子の鑑識から目を逸らし、裏口の入り口を見る。

何やら、声が聞こえる。

 

そこに居たのは未成年の少女……いや、女性か。

まぁ、どっちか割り切りがたい年頃の女だ。

 

封鎖しているテープをまたごうとして、入り口の警官に止められているようだ。

俺はため息を吐いて、口を開いた。

 

 

「何やってんだ、結衣(ゆい)

 

 

目を細めて、阿笠(あがさ) 結衣(ゆい)を見る。

長い黒髪をゴムで纏めているが、全体的に癖っ毛だ。

薄手のコートを着ているが、その下はラフな格好をしている。

 

俺が声を掛けた事に、警官が気を取られ……その隙に結衣はテープを潜り現場に入ってきた。

警官が慌てた様子で静止しようとする。

 

 

「ちょ、ちょっと、困りますよ!」

 

 

結衣が眉を吊り上げて、俺を睨んだ。

 

 

「啓二、コイツらが中に入れてくれない。どうなってるんだ?」

 

 

慌ただしい様子に、再度ため息を吐いた。

 

 

「悪い、コイツは通してやってくれ」

 

「え、あ……はい?」

 

「何かあったら、俺が責任持つから」

 

 

無理矢理、結衣を招き入れる。

犯行現場に素人を引き入れたなんて知られたら……普通、叱責程度じゃ済まないだろうが。

生憎、俺もコイツも普通じゃない。

 

特にコイツは。

 

 

「オイ。私を呼んだのは、お前なのに……何故、ああも入るのに手間取るんだ」

 

「……はぁ、あそこの警官に俺の名前を出せば、穏便に済んでただろ?なんで無理矢理入ろうとしてるんだ」

 

「時間の無駄だ」

 

「『急がば回れ』って知ってるか?」

 

「知っているが、理解は出来ん」

 

 

憎まれ口を叩く結衣に辟易しながら、二人、ブルーシートの前に立つ。

鑑識を追い払って、路地裏の奥にいるのは俺と結衣だけにする。

 

ここから先は、あまり人に見られたくない。

まぁ、見ても何やってるか分からないだろうが。

 

 

「こいつか……」

 

 

結衣が死体を見下ろして、顔を顰めた。

 

俺は、周りから人が居なくなった事を確認して、結衣に視線を戻した。

 

 

「結衣、頼めるか?」

 

「当然だ。そのために私を呼んだのだろう?」

 

 

結衣が手を上に上げて……目を瞑った。

そして……何かを握るような動作をして、手を下ろした。

パントマイムのような一連の動作だ。

 

しかし、地面に『いつの間にか』鋭い切り傷が出来ていた。

 

まるで『見えない大きな刃物』を擦ったような傷だ。

 

 

「……あんまり現場を荒らすなよ?」

 

「分かっている」

 

 

そう言うが、多分、きっと……彼女は気を付けようなんて思わないだろうな。

 

まぁ、そもそもの話だが。

現場検証程度で証拠が見つかるような相手じゃないのだから……別に構わないだろうが。

 

結衣が真剣な目で青いビニールシート……死体を見ている。

両手で見えない『何か』を握りながら、その手に力を込めている。

 

俺は結衣に声を掛ける。

 

 

「どうだ?」

 

「……チッ、無理だな。殆ど視えん。時間が経ちすぎている」

 

 

結衣が舌打ちをして、ため息を吐いた。

 

 

「『こっち』方面でも成果は無しか……」

 

 

膝を折って、俺はしゃがみ込む。

流石に堪える……最近、この連続殺人事件に付きっきりだ。

 

世間では、警察の職務怠慢だと何だのでバッシングの嵐が巻き起こっている。

上からも下からも突かれて、俺は疲労困憊って訳だ。

 

そんな様子の俺を、結衣は見下ろし……いや、見下(みくだ)した。

 

 

「『能力』の傾向が掴めない。ここにある弄られた死体から、タンパク質を操作するタイプの『能力』か……物質を溶かす『能力』だと思うが。確証はないな」

 

 

結衣が眉を顰めて、言葉を繋げる。

 

 

「まぁ、犯人の持つ『能力』が分からない内は深追いするべきではない。手詰まりだ」

 

 

そして、ため息を吐いた。

結衣は呆れた表情で、黙っている俺に話しかけてくる。

 

 

「啓二、犯人のプロファイリングは進んでるのか?」

 

「……被害者は社会的に一癖も二癖もある、所謂『悪人』『半グレ』『不良』どもだ。前科のある奴だっていたな」

 

「なるほど、正義感による私刑(リンチ)──

 

 

そう、犯人は恐らく正義感が暴走した人間だ。

悪人に対する怒りから、遺体を溶かして──

 

 

「いや、違うか」

 

 

しかし、結衣が続けて呟いたのは否定の言葉だ。

 

 

「違うのか?」

 

「……さっき、少し視えた。こいつらは拷問目的で弄られた訳じゃない……何か、弄った後に殺されている。死体を見ろ」

 

 

俺は立ち上がり、遺体の前に立つ、

ブルーシートを剥がせば……溶かされた後に、切断されたであろう跡が見えた、

切断面も溶けている。

 

……切断、つまり殺害と同時に溶解したのか?

用済みの死体を、ゴミ箱に捨てるかのような感覚で……?

 

 

「これは……遊んでいるのか、試しているのか?」

 

「急に『力』を与えられた人間は、己の力量を試す為に……使い方を学ぶために辻斬りする事もあるだろう?」

 

 

言われてみれば、確かに……と納得する。

だがしかし、普通の精神状況ならば、そんな事はしない筈だろうが。

 

犯人は『異常』って事だ。

 

 

「悪人を殺したがっている訳じゃない……逆だ。力を試すために、殺せる相手を探しているだけだ」

 

「……俺達の想定していた目的と手段は、逆って事か」

 

 

殺害された被害者が、加害者として傷付けた誰か……被害者の被害者を調べていたが無駄足かも知れない。

 

無差別殺人事件……かつ、凶器は不可視で、立証も不可能か。

深く息を吐いた。

 

 

「……全く、厄介だ」

 

「都内に監視カメラをバラ撒けないのか?」

 

「残念ながら反対派が多い……らしいし、俺の管轄じゃない」

 

「クソだな」

 

 

結衣が吐き捨てるように言い、俺は眉を顰めた。

そんな俺の姿に結衣が訝しみながら、口を開いた。

 

 

「啓二、何か文句でもあるのか?」

 

「いや……言葉遣いが荒いな、と」

 

「で?文句があるのか?」

 

「あぁ、保護者として俺には責任が──

 

 

瞬間、結衣が顔を顰めた。

 

 

「二度とそんな事を言うな。不快だ」

 

「……でも、事実だろ?」

 

「フン」

 

 

結衣が鼻を鳴らした。

じゃじゃ馬な結衣にため息を吐きつつ、踵を返す。

 

 

「……啓二、もう良いのか?」

 

「これ以上、見ても仕方ないだろ……それこそ、目撃者でも出てこない限りは無駄だ」

 

「……まぁ、そうだな」

 

 

結衣が頷いた。

 

 

「科学的な根拠とかは鑑識が見つけるだろうが……どうせ、現代科学じゃたどり着かないだろうな」

 

「……情報が足りないなら仕方ないか。次に期待だな」

 

 

結衣の発言に眉を顰めて、俺は振り返る。

 

 

「あまり、そういう物言いは良くないぞ。まるで死人が出る事を望んでいるみたいだ」

 

「……そうだな、気を付けよう」

 

 

俺の叱責に、結衣は眉を顰めて……神妙そうな顔で頷いた。

現場の入り口で待機していた鑑識達を戻して、そのまま路地裏から出る。

 

 

「啓二、昼食は食ったか?」

 

 

突然、そう聞かれた。

 

 

「ん?あぁ……いや?まだだが」

 

「奢れ。それで今回の報酬代わりにしてやる」

 

 

俺は車のドアに手をかけて、ため息を吐く。

 

捜査に協力してもらったのは事実だ。

何かしら見返りは返すつもりだったが……今からか。

 

結衣が頬を緩めた。

 

 

「私は肉が食べたい……ステーキが良いな。ファミリーレストランではない、ステーキ屋のステーキだ」

 

「結衣……俺は給料、そんなに多く貰ってないんだぞ?」

 

「知るか」

 

 

結衣が回り込んで、助手席に座った。

俺も運転席に座って、キーを刺す。

 

エンジンをかけながら、結衣に視線をズラす。

 

 

「というか……さっきの光景を見て、よく肉を食おうと思えるな」

 

 

そう言うと、結衣が表情を歪めた。

 

 

「別に何とも思わない……啓二もそうだろう?」

 

「……まぁ、そうだが」

 

 

俺達は普通じゃない。

この世界の非常識、理外の力に対する知識を持っている。

 

『異能』。

 

それは社会に知られてはならない力。

結衣は、その『異能』の力を持っている。

俺はただ……知識として知っているだけで、そんな力は持っていないが。

 

彼女の兄もそうだった。

俺の友人で……まぁ、今はもう亡くなっているが。

数年前に、不可思議な方法で殺された。

『異能』による殺人事件だ……犯人はまだ、捕まっていない。

 

 

だから、友人である俺が彼女を引き取った。

彼女は……兄の死によって『異能』に覚醒したらしい。

 

そして今もまだ、兄の存在を引き摺っている……兄を殺した犯人を探しているのだ。

 

 

俺は『異能』関連の事件を調査したい。

結衣は『異能』関連の情報が欲しい。

 

協力……いや、互いに『利用』し合っている。

 

 

結衣が肘を、ドアの縁に乗せた。

 

 

窓の外を見る顔は……睨み付けるような顔だ。

昔はよく笑っていたらしいが、兄の死後……随分と気難しくなってしまったらしい。

 

 

俺はアクセルを踏んだ。

 

彼女には……大人しく、普通の女の子として生きて欲しいが。

 

無理だろうな。

 

兄を殺した犯人を捕まえたい……と言ってるのは、きっと建前だ。

本当は殺したくて、殺したくて、堪らないのだろう。

 

 

俺のやっている事は……彼女の為にはならない。

だがしかし、事件の調査に彼女の手助けは必要だ。

 

 

また、ため息を吐いた。

 

 

「何をやっているんだろうな、俺は」

 

「……何か言ったか?」

 

「何も」

 

 

後ろめたい感情を抱えながら、俺は車を走らせた。

 



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3話:血と臓物の序曲を

呼吸を乱して、走る。

朝の照り付ける太陽の下、僕は走っていた。

 

一定の間隔で息を吸って、深く息を吐く。

同じ歩幅で、同じ速度で、体を動かす。

 

焦っている訳じゃない。

ただ、同じ形で、同じ時間で、同じように走っているだけだ。

 

河原が見える道路を走り、石の階段を登る。

ジャージの下のシャツは汗で濡れており、少し気持ち悪い。

 

そのまま、帰路を走って……自宅のドアを開けた。

 

 

「あ、お兄ちゃん、お帰り」

 

「……ただいま」

 

 

玄関に置いてあるタオルを手に取って、汗を拭く。

そのまま廊下を歩いて、浴室へ。

シャワーを浴びて、体を冷やす。

日課のランニング……それでかいた汗を流す。

 

 

鏡を見る。

 

……ちょっとだけ、筋肉付いてきたかな。

肌を撫で……いや、なんか恥ずかしいな。

ナルシストっぽいし……やめよう。

 

 

稚影を守れず、情けない姿を見せてから一年経った。

 

 

あの時は偶々助かったけど……次、もしまたあんな目に遭った時……運が悪ければ。

そう思うと、居ても立っても居られなかった。

 

 

強くなりたかった。

大切な友人を、家族を守れるように。

 

 

毎朝、結構な距離を走って……寝る前にちょっと筋トレして。

なんて、やってる意味があるのか、たいして意味はないのか。

きっと、それは自分の無力感を慰めているだけにしか……ならないのだろうけど。

それでも、何もしないよりはマシだ。

 

息を深く吐いて、頭からシャワーを浴びる。

毎朝のランニングは、身体を鍛えながら目が覚めて一石二鳥だ。

 

栓を閉めて、浴室を出る。

タオルで身体を拭いて……制服に着替える。

 

リビングに向かえば、希美が朝のニュース番組を見ながら菓子パンを食べていた。

ニュース……と言っても、バラエティよりの番組だ。

 

新しく出来たショッピングモールがどうだの、新型の携帯電話がどうだか、新作の映画が……そんな情報が垂れ流されている。

 

でもまぁ、それで良いのだろう。

朝から陰鬱なニュースを見たい人は少ない。

 

だから、決して流れないだろうけど……。

 

 

今も、死体を溶解させる連続猟奇殺人事件は続いている。

未だに警察は犯人を捕まえる事ができず、犠牲者の人数も9人となった。

 

しかも、一度、この街でも死体が発見された。

 

あの事件を僕は、どこか遠い場所の出来事だと勘違いを──

 

いや、違う。

ただ、そう思いたかっただけだ。

僕達には関係のない話だと信じたかったんだ。

 

僕は椅子に座り、机の上の菓子パンを手に取る。

袋を開けて、口に含み──

 

 

「お兄ちゃん?」

 

 

……手が止まっていたらしい。

 

 

「……どうかしたのか?」

 

「いや、何もないよ」

 

 

指摘をされても、知らないフリをして食べ進める。

 

 

「……変なの」

 

「…………」

 

 

ほんの少し、静寂があって、希美が目を逸らした。

 

平穏な朝。

安らかな日常。

怖がる必要なんて何もない。

 

 

筈なのに……。

 

ほんの少し、僕は怯えていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

家のドアを閉めて、希美と通学路を歩く。

希美も今年で中学生になった。

通学時間は一緒だから……毎朝、一緒に学校へ行っている。

 

……そうして学校へ向かう途中。

通学路から少し離れて、寄り道をする。

 

角を曲がって、視線を前に向けると……見知った少女の姿があった。

天使の形をした銅像の下で、本を持った少女が立っている。

本には手作りの布製のカバーがかかっていた。

 

 

「おはよう!稚影ちゃん!」

 

 

希美の声に、持っていた本から顔を上げて……僕達へ視線を移した。

 

 

「おはよう、希美ちゃん。和希も」

 

 

仄かに笑いながら、本を閉じて鞄にしまった。

自然体で、僕も返事をする。

 

 

「うん、おはよう。稚影」

 

 

僕の挨拶に稚影が頬を緩める。

希美が稚影に近付いて、ハグをした。

二人は仲が良い……まるで本当に姉妹みたいだ。

 

三人、並んで歩く。

希美が真ん中で、稚影と僕が両端だ。

 

 

「でね、稚影ちゃん──

 

「うん、うん」

 

 

希美が稚影に話しかけて、稚影は笑顔で頷いている。

 

昨日見たドラマが、今日の晩御飯は、お気に入りのリップクリームが。

 

あまり、僕の入り難い会話が続くけれど、別に嫌ではなかった。

僕の大切な妹と、大切な親友が……二人、仲良く戯れあっている事が嬉しかったからだ。

 

朝の日差しに目を細めていると、何かが僕を下から覗き込んだ。

思わず、口を開いた。

 

 

「稚影……何してるんだ?」

 

 

稚影がパチパチと、瞬きをしていた。

 

 

「うん?何だか元気ないなって」

 

 

元気、元気か。

何か嫌な事があった訳じゃない。

寧ろ、毎日平穏に楽しい日々を生きている。

何も困った事はない。

理想的な日常だ。

 

だからこそ……少し、怖い。

それが失われる事が怖い。

だって、当たり前の毎日なんて……ずっと続くとは限らない。

 

クソ親父の顔が、脳裏に浮かぶ。

 

幸せな家庭だと思っていた。

父と母と、僕と妹。

だけど……捨てられたんだ。

 

急に、突然……目の前から──

 

嫌な記憶を振り払い、無理矢理に笑う。

 

 

「何でもないよ、稚影」

 

 

そう笑うと……稚影は、希美を一瞥した。

そして、頷いた。

 

 

「ふーん?まぁ、いいけど……何か辛い事があったら、教えてね」

 

 

そう言って心配するような事を言いながら、頬を緩めた。

笑顔を作る唇の間から、白い歯が見えて……僕は目を逸らした。

 

内面で渦巻き、奥底で時折顔を見せる不安……それを無理矢理に押さえ込んで、僕は笑顔を返した。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

下駄箱で下履きに履き替える。

すぐ後ろで、稚影も下駄箱を開けていた。

 

僕とクラスが異なるから、背後の下駄箱だ。

希美は学年が一つ下だから、そもそも下駄箱の場所が違う。

 

だから、この場にいるのは僕と稚影だけだ。

 

 

「あっ」

 

 

短く、驚くような声が後ろから聞こえた。

 

 

「……どうかした?」

 

 

稚影の方へ振り返ると、何か、懐に隠した。

白い紙のような、封筒のような……。

 

 

「な、なんでもないけど?」

 

「なら、良いけど」

 

 

訝しみながらも、何でもないという言葉を信じて頷く。

 

下駄箱に入っているのは上靴ぐらいだ。

それ以外に、それこそ懐に入れられるような物なんて無い筈なのに。

 

 

「もう、ほら。希美ちゃんが待ってるし、はやく行こうよ」

 

 

稚影が身振り手振りで誤魔化して、指差した先には希美が待っていた。

 

 

「まぁ……そう、だな」

 

 

……まぁ、こんな所で無駄な時間を過ごしても仕方ない。

僕は上靴を履いて、稚影と共に希美と合流した。

 

 

校舎を三人で歩く。

僕は意図的に歩幅を狭めて、足取りを合わせる。

希美が途中で別れて、自分の学年のクラスへ向かう。

 

……二人、並んで歩く。

さっきの話を訊き直したい。

だけど、言いたがらないって事は……訊かない方が良いのだろう。

 

だってこれは、心配してる……訳じゃなくて、ただ好奇心で訊きたいだけだからだ。

 

 

やがて、稚影のクラスの前まで来た。

僕のクラスは、もう少し奥の方にある。

だから、ここで短いお別れだ。

 

 

「和希、今日なんだけど……」

 

「うん?」

 

「少し、遅くなるから先に帰ってて良いよ」

 

 

僕も、希美も、稚影も部活には所属していない。

放課後に用事がある事なんて無い。

 

だから、僕らは毎日、三人で揃って下校している。

なのに……今日だけは、用事があると言う。

 

 

「……用事があるなら、手伝おうか?」

 

 

何の用事があるのかは知らない。

だけど、彼女の手助けがしたかった。

 

しかし、彼女は首を振った。

セミロングの髪が揺れた。

 

 

「ううん、大丈夫だから。ね?」

 

「……分かったよ。じゃあ、晩御飯は?」

 

「えっと、それは食べに行くよ。大丈夫」

 

 

稚影は僕が心配している事に気付いたのか、少し微笑んだ。

思わず目を逸らした。

見つめ続けていたら、変な空気になりそうだったからだ。

 

 

「じゃあ、また晩御飯の時にね」

 

「うん、またな」

 

 

軽く、小さく、手を振った稚影が教室に入っていった。

同級生達に挨拶して、男女分け隔てなく楽しそうに会話を始めた。

 

このまま、ここに居ればストーカーみたいだ。

僕は彼女のいる教室から離れて、自身の教室へ足を進めた。

 

 

頭上にあるプレートを一瞥する。

 

2-A。

教室のドアを開けて、中に入った。

 

既に何人も居て、騒がしくしている。

僕が入ってきた事なんて誰も気付いていない。

いや、気付いていても……気に掛けないだろうな。

 

自身の席まで到着して、椅子を引く。

鞄を掛けて、一限のノートや教科書を取り出して──

 

 

「よっ、おはよう。和希」

 

「……おはよう、沢渡(さわたり)

 

 

前の席に座っている奴が、僕に挨拶をして来た。

 

こいつは『沢渡(さわたり) 雄吾(ゆうご)』だ。

同級生の男で……お調子者の……まぁ、そうだな、僕の友人だ。

 

 

「今日も陰気臭いな……何かあったか?」

 

「何か?いや何も──

 

 

ふと、先程の出来事を思い出した。

 

 

「稚影の様子がおかしかったんだ」

 

「楠木さんの?何でだ?」

 

 

同級生の女の子の、それも下の名前を呼び捨てにしているのは僕ぐらいだ。

少し恥ずかしいが……まぁ、沢渡相手なら今更だ。

 

 

「いや……分からないんだが、下駄箱の中に何か入ってた。それが原因かも知れない」

 

「下駄箱か……なるほどな?」

 

 

沢渡がニヤ、と笑って頷いた。

何かに気付いた様子だ。

 

 

「……何か分かったのか?」

 

「そりゃあもう。ずばり、それはアレだよアレ」

 

「アレ?」

 

 

俺が目を細めると、沢渡が親指を立てた。

 

 

「ラブレターって奴だな」

 

「は?」

 

 

思わず呆れた声を出してしまった。

眉を顰める。

 

 

「何を馬鹿な事を──

 

「馬鹿言ってるのは和希の方だぜ。間違いなくラブレターだ」

 

「そんな漫画じゃあるまいし……」

 

 

確かに。

希美が買って来た少女漫画に、確かにそんな描写があったが……それは創作の話だろう?

 

 

「それに、稚影がまさか、そんな……」

 

 

だって、稚影だぞ?

あの……いや、でも……あれ?

……でも、だって。

 

 

「和希さぁ……楠木さんと仲が良いんだよな」

 

「あ、あぁ。そう、だと思うけど」

 

「だから慣れちゃって気付いてないんだよな……」

 

 

沢渡がしきりに頷いた。

 

 

「楠木さんって、まず可愛いじゃん?」

 

 

そうか?

と分からないフリをしようとしたが……いや、実際、確かに……それは、認めるしかない。

彼女は可愛らしい容姿をしている。

 

 

「で、性格も良いじゃん?」

 

 

確かにそうだ。

誰にでも分け隔てなく、優しい。

それに明るくて、誰とでも仲良くなれる。

 

 

「だからさ、モテるんだよ」

 

 

理屈では分かる。

分かっているが……何故か、納得したくなかった。

 

心に嘘を吐いているような気がしたが、それでも認めたくなかった。

理由も分からないのに。

 

……僕の様子に、沢渡がため息を吐いた。

 

 

「楠木さんは彼氏を選び放題って事だな」

 

「……なんか、嫌だな」

 

 

思わず、口にした。

何が嫌なのか、それは少しだけ分かった。

 

 

「独占欲って奴?」

 

「……違う」

 

 

いいや、そうだ。

口で言っていても、心は誤魔化せない。

 

 

学校で楽しそうに笑っている稚影。

明るく振る舞う稚影。

クラスメイトが知っている稚影。

 

 

……ふとした時に見せる憂いを帯びた稚影。

疲れた表情で、ソファに横たわる稚影。

希美に叱られて慌てて逃げ出す稚影。

僕を見つけて、嬉しそうに笑う稚影。

 

 

きっと、僕と希美しか知らない稚影が……誰かに知られるのが嫌なんだ。

家族だからか……それとも。

 

 

「ふーん……?」

 

 

ニヤニヤと沢渡が笑う。

何だか見透かされた気がして、眉を顰める。

 

 

「なんだよ?」

 

「気にならないなら、楠木さんがラブレター貰ったって関係ない話だよな」

 

「それは──

 

 

チャイムが鳴った。

教師が入って来て、沢渡は前を向いた。

話は中断されて、授業が始まる。

 

 

僕は……どうしたいんだ?

邪魔をしたいのか?

彼女の恋路を……実らせたくないのか?

それは何故?

どうして……僕は、僕は……彼女と、どうなりたいんだ?

 

僕は教科書を読むフリをして、思考の渦に飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

チャイムが鳴る。

放課後になって、鞄を持って席を立つ。

今日は……一年生は一限多い曜日だ。

つまり希美だけ、僕らより下校時間が遅い。

 

先に、稚影と一緒に……いいや、違う。

彼女は今日、放課後に予定があるんだった。

 

僕には関係のない話だけど、一緒には帰れない。

そうだ。

 

 

鞄を持って、稚影のいるBクラスの横を通り抜けて……廊下の端で、物陰に隠れる。

 

あー、もう。

全く……何をしてるんだ、僕は。

馬鹿なのか?

 

今すぐ止めなきゃならない。

こんなの、稚影は喜ばない。

彼女は僕に手紙のことを言いたがらなかった。

なのに、それを盗み見ようなんて……良くない事だ。

 

 

稚影が、ドアを開けて出て来た。

そのまま、人混みに合わせて歩き出して……僕は後ろを離れて歩く。

 

歩いて、歩いて。

 

僕の心臓ははち切れそうなほど、動悸していた。

これは悪い事だ、悪い事だ、悪い事だ。

 

稚影が知ったら、悲しむかも。

嫌がられるかも。

嫌われるかも。

 

なのに、だめだ。

足は止まらない。

隠れて、そのまま後ろを歩く。

 

彼女が人混みから離れて、校舎の裏へ進んでいく。

 

 

そして──

 

 

知らない男が立っていた。

多分、学年が違う。

恐らく、一つ上の先輩、だろうか。

 

僕は隠れて、息を殺して、耳を澄ませる。

……何か喋っている。

だけど、聞き取れない。

 

少しして……男が勝手に盛り上がっているようで、何やら声を荒げている。

稚影は彼を落ち着かせようと、手振りで示している。

 

尋常じゃない様子に、僕は思わず身を乗り出した。

だけど、ここから出ていく事はできない。

 

ここで僕が現れたら、彼女の隠したがっていた事を暴こうとしたって知られてしまう。

 

 

それは──

 

 

 

男が、稚影の肩を掴んだ。

僕は飛び出して……男の手を握った。

 

 

「なっ──

 

服の上から、骨張った手首を掴んだ。

 

 

「なんだよ、お前!」

 

 

強く、強く握った。

骨の感触を強く感じる。

 

捻り上げて、軋ませる。

 

 

「っ!痛ぇ、離せよ!」

 

 

僕は握っていた手を離して、男を押し退けた。

……見たところ、この男は運動部などに所属していないようだ。

握った手の感覚に、鍛えている様子は無かったからだ。

 

 

「…………」

 

 

無言で睨みつける。

 

稚影を好きな男なら、稚影を幸せに出来る人間なら……稚影が、その男を好きになれるなら……僕は出てくるつもりは無かった。

嫉妬はしただろうけど、それでも。

 

だけど、コイツは……稚影に手を上げようとした。

それだけは絶対に許せなかった。

 

 

「なん、だよ……お前、関係ないだろ!」

 

 

情けなく喚く男が、稚影に近付かないように割り込む。

顔を向けあって……それまで、攻撃的な表情をしていた男が、途端に怯えた。

 

 

「……く、くそっ、後悔すんなよ!ブスが!」

 

 

そう捨て台詞を吐いて、男はその場を離れていった。

手を抑えている様子から……それだけ、強く握ったのだと自覚した。

 

……日頃の筋トレの賜物、なのか?

 

 

「和希?」

 

 

背後から、そう言われて振り返った。

 

 

「稚影……」

 

 

その表情は状況が理解出来ていないような、不思議そうな顔だった。

対して僕は……目線を逸らした。

 

罪悪感があった。

気まずかった。

 

だから、口を開いた。

 

 

「その……ごめん、稚影」

 

 

出て来たのは謝罪だ。

 

 

「勝手に後ろから……えっと、尾行してたんだ。気になって……それで、その」

 

 

幾つも言い訳が思い浮かんで、それは誠実ではないと捨てて行く。

何を言えば良いか分からなくて、僕は──

 

 

「ぷっ」

 

 

稚影が笑った。

思わず、といった様子で笑ったんだ。

 

 

「な、何で笑うんだよ……」

 

「だって……」

 

 

稚影が目を擦った。

先程までとは違う、心の底から嬉しそうな顔で笑った。

 

 

「別に、和希は悪い事してないのに、謝るから」

 

「いや、悪い事はしてるよ。だって勝手に……」

 

「それって私を心配してくれたんでしょ?」

 

 

それは……違うけど。

いや、でも心配はしていた。

それ以上に、どうなるのか気になっていただけで。

 

 

「……まぁ、心配もしてたけどさ」

 

「だから良いよ。それに、助けてくれたしね?」

 

 

目を細めて、稚影が笑った。

 

 

「アレって……先輩、だよな?」

 

「まぁね。おかしいよね?たった数回話しただけで、私のことを分かったつもりになって……告白だなんて」

 

 

稚影が男の去った方を見た。

僕は彼女の横顔を見ていた。

 

 

「……まぁ、おかしいよな」

 

「うん、変な人だよ」

 

 

稚影の眉が顰められた。

 

分かったつもり……か。

僕は……稚影を分かっている、のだろうか?

それこそ、程度の違いはあっても、先の男と一緒で、分かったつもりになっているだけ……なのかも知れない。

 

本当の彼女とは……彼女にしか分からないのだから。

だから、もしかしたら、僕は知らないだけで……彼女には──

 

 

「稚影はさ……」

 

「うん、どうしたの?」

 

 

思わず、口から言葉が漏れた。

 

 

「稚影は、誰か好きな人って……いるの?」

 

 

慌てて口を塞いだとしても、もう遅い。

一度出て来てしまった言葉は、取り消す事なんて出来ない。

 

失態だ。

恥ずかしくて、情けなくて、思わず目を逸らしかけて……稚影が口を開いた。

 

 

「うーん……和希はさ、どっちがいい?」

 

「どっち?」

 

「うん。私に好きな人が居る方がいい?それとも、居ない方がいい?」

 

 

質問したのは僕の筈なのに、気付けば質問を投げ返されていた。

 

僕は……焦る。

何でこんな質問を返して来たのだろう?

何で僕が、どちらが良いか答えなければならないんだ?

それは……もしかして、きっと、彼女も……僕を?

いや、違う……自意識過剰だ。

 

僕は返事をしようと口を開き──

 

 

「ふふ……冗談だよ、和希」

 

「じょ、冗談?」

 

「そ、冗談。だから、本気にしなくて良いよ?」

 

 

思わず、眉を顰めた。

冗談?

何が?

どういう事なんだ?

 

 

チャイムが、鳴った。

それは次の授業が終わった合図だ。

 

 

「あ……丁度いい時間だし、希美ちゃんを迎えに行こうよ。一緒に帰ろ?」

 

「あ、えっと……あぁ」

 

 

何だかモヤモヤした気持ちのまま、僕は稚影に連れられて歩き出した。

結局、彼女に好きな人は居るのか、居ないのか……それも分からない。

 

 

だけど──

 

 

「あ、そうだ」

 

 

稚影が振り返った。

 

 

「さっきは、ありがとう。和希」

 

「い、いや……まぁ……どういたしまして?」

 

 

ニッコリと満足そうに笑う、彼女の姿。

揺れる髪の毛。

日陰から出て、太陽の光を反射する艶。

風が吹いてフワリと、スカートが揺れた。

 

 

……あぁ。

きっと、僕は──

 

 

「うん、カッコよかったよ。まるで物語の主人公みたいだった」

 

 

僕は、彼女の事が……好き、なのだろう。

 

思わず頬が赤くなりそうなのを、顔を逸らして隠す。

 

言えない。

言える筈がない。

好意は伝えられない。

 

彼女が僕や希美の家に来てくれて、共に過ごしていられるのは『友達』だから……いや『家族』だからだ。

 

もし僕の好意が、稚影にとって迷惑だったら?

彼女と過ごす穏やかな時間は、二度と戻って来ないかも知れない。

 

僕の身勝手な好意で、稚影の居場所を奪う事になってしまう。

僕の身勝手な好意で、希美の友人を疎遠にしてしまう。

 

それは出来ない。

 

 

僕は校舎の裏から出て、希美のいるクラスへ足を進める稚影を見て……歩き出した。

 

僕は失う事が怖い。

何も失いたくない。

大切な人も、大切な関係も、時間さえも。

 

だから、これで良いんだ。

僕が僕の心に嘘を吐いていれば、何も失わずに済むのだから。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

私の後ろで歩く……和希を一瞥し、思わず頬が緩んだ。

 

中学校の先輩に告白されたのは予想外だった。

そして、断った結果、私に暴力を振るおうなんて……それこそ、思っても居なかった。

 

振るわれたら、まぁ……その時は、そう。

 

 

 

 

殺してしまっていたかも知れない。

だって、生きている価値なんてないでしょ?

想いが成就しなかった程度で人に暴力を振るうような存在が、これから先、どう生きていけるというのか。

 

それなら、死ぬ事に意味を持たせてあげた方が、まだ有意義だと思う。

 

 

 

 

だけど、実際は和希が助けてくれた。

私の肩を掴んだ手を握って……その時、私は彼の横顔しか見えなかったけど。

私の事を心配していて、守ろうとしてくれて。

 

別に殺す程でもないなって、思いとどまれた。

 

うん。

カッコよかった。

まるで……いや、本当に『ゲームの主人公』そのものだった。

 

頬を緩める。

 

嬉しいからだ。

安堵からだ。

 

大丈夫。

私のしている事は間違っていない。

彼なら……きっと、どんな巨悪にも逃げずに立ち向かってくれる。

 

後は彼に必要なのは力……『異能』だけだ。

つまり、覚醒の為の精神的な苦痛だけ。

安心して、私はこの道を歩んでいける。

 

目を離して、下駄箱を開けている希美を見つけた。

 

 

「希美ちゃん!」

 

「え?あれ?稚影ちゃん?」

 

 

希美が驚いたような顔で首を傾げた。

普通なら私達は一限早く下校している筈なのだ。

それなのに、こんな時間にいるから不思議がっているのだろう。

 

 

「一緒に帰ろ?和希もいるし」

 

「お兄ちゃんも?」

 

 

希美が私の背後にいる和希に気付いたようで、目を瞬いた。

 

 

「……え?何かあったの?」

 

「まぁ、いろいろね。用事があったんだよ」

 

「……ふぅん?」

 

 

私の言葉に希美が鼻を鳴らして、首を軽く捻って……頷いた。

納得はしてなさそうだけど、頷いてはくれた。

 

 

「和希、ほら、早く」

 

「え?あぁ」

 

 

和希を手招きして、靴を履き替える。

そして、靴を取ろうと屈んだ彼の耳元に近付く。

 

 

「さっきのこと、私達だけの秘密ね?」

 

「……あぁ、希美を心配させたくないしな」

 

 

和希は頷いた。

彼の頬は少し赤かった。

 

……思春期だなぁ。

なんてちょっと思った。

 

彼も、もう中学生だ。

子供から大人へ、身体が作り変わって行く。

心も同様に。

 

まだ私にとっては、子供のように見えるけど。

 

私も、いや、私は……私は元男だ。

そして、ゲームにおいてヒロインでもない。

この世界はゲームの世界だ。

主人公には、主人公に相応しいヒロインが存在する。

清く、綺麗で、優しいヒロインが。

 

だから、私と彼が結ばれる可能性はゼロだ。

いつかきっと、彼は……彼のヒロインを見つけるだろう。

 

それまでの短い間の夢でしかない。

私への好意なんて。

 

 

「さ、帰ろう」

 

 

だから私は気づかないフリをする。

彼の好意に。

 

 

 

三人で並んで、歩く。

朝来た時に通った道と、全く同じ道を。

巻き戻すように、歩いて行く。

 

ここにあるのは平穏だった。

希美が笑って、和希が笑って、私も……心の底から、笑えていた。

 

三者三様で、同じ笑い方ではなかった。

きっと思っている事も違う。

笑っている理由も違う。

 

だけど、これで良かった。

 

ずっとこうして、穏やかに生きていければ良いけど。

 

彼は大きな使命を抱いていて。

彼女は将来的に死ぬ未来が待っていて。

私は薄汚れた罪人で。

 

 

この時間は一時の、夢でしかない。

だけど、夢の中だとしても幸せを噛み締めたい。

 

 

ゲームの始まりは、和希が高校二年生になってからだ。

それまで……もう、3年しかない。

 

希美の死も、あと3年の間に来る。

私は……それを回避したい。

 

だけど、その出来事が無くなれば、和希はきっと『異能』に目覚めない。

 

 

私は……思い付く限りの残虐さを、嗜虐を、彼の心を苦しめる景色を……創造して、代用しなければならない。

 

少し歩いて、私は和希を見た。

 

笑っている。

この、笑顔を歪めなければならない。

 

何も悪い事をしていない、善なる少年を苦しめなければならない。

 

今更、後悔なんてない。

躊躇う事もない。

 

だけど、私は……私は……。

 

 

私は。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

夜が更けていく。

稚影と希美、僕の三人で食卓を囲む。

 

 

「希美ちゃん、お醤油とって」

 

「はいはーい」

 

 

焼き魚に箸を入れて、身を取る。

口に入れて、咀嚼する。

骨から取って、また口へ。

 

ちら、と稚影の皿を見る。

身と骨が綺麗に分かれていた。

 

比べて希美は……お世辞にも綺麗とは呼べない。

ぐちゃぐちゃになっていた。

 

 

 

三人で囲む食卓は、僕が最も幸せを感じる時間だ。

穏やかで、安らかで、掛け替えのない日常。

 

『家族』のようだ。

血の繋がっていない妹、そして親友。

だけど、『家族』だ。

 

血の繋がりなんかよりも、よほど……僕にとっては『家族』なんだ。

 

食器を片付けて、皿を洗う。

晩御飯は希美と稚影が作ってくれた。

だから、これぐらいは僕の仕事だ。

 

稚影と希美はソファに座って、二人でバラエティ番組を見ている。

仲良く二人、会話をしながら見ていた。

 

 

その様子に頬を緩めて……食器を置いた時。

 

 

背後の机に置いていた携帯電話が鳴った。

眉を顰めた。

 

だって、希美も稚影もそこに居る。

それなら、この電話は誰の電話なんだ?

 

蛇口を閉めて、手を拭く。

携帯電話を手に取り、着信相手を見る。

 

 

「……クソ親父」

 

 

そこには『望月(もちづき) 正人(まさと)』という名前が書いてあった。

 

僅かに躊躇い、電話に出なければ怒鳴られそうだと思い直し……ボタンを押した。

 

 

「もしもし……」

 

『あぁ、和希!少し話がしたかったんだ!』

 

 

明るい様子で、明るい口調で話しかけてくる。

まるで、久しぶりに話す息子との会話が嬉しいかのような素振り。

 

こんな奴に、そんな態度を取れる資格なんてない。

 

 

「何の用事……ですか?」

 

『うん?どうしたんだ、そんなに改まって』

 

 

思わず、話し方が丁寧になってしまった。

取り繕わなければ、罵倒や暴言が出てきてしまいそうだったから。

 

 

「なんでも……ないです」

 

『ん?まぁ良いか。用事ってのはな──

 

 

嬉しそうに、クソ親父が語る。

 

 

『これから帰る事にしたんだ』

 

 

僕にとっての、悪夢を。

 

 

「え?」

 

『いやぁ、一緒に過ごしてた女の人がな?何故か、何処かに居なくなったんだよ。だから、ちょっと帰る場所がなくてな』

 

 

何を言ってるんだ?

何様のつもりなんだ?

 

 

『な?嬉しいだろ?そういえば希美とも随分会ってないなぁ、大きくなったか?』

 

 

何なんだ?

何でこんな事を言えるんだ?

 

お前は、お前は……僕と、希美と、母さんを……もう一人の母さんも捨てたんだぞ?

 

憤る。

 

だけど、この怒りは言葉に出来ない。

 

 

「あ、あぁ……分かったよ。準備してるから」

 

『おぉ、俺は優秀な息子を持って嬉しいよ。じゃあ、日が変わるまでには帰るからな』

 

 

ブツリ、と電話が切れた。

 

この家の家賃を払ってるのは誰か。

僕達の食費を払っているのは誰か。

父だ、望月(もちづき) 正人(まさと)だ。

 

クソ親父だとしても、アイツが居なければ僕達は生きていけない。

 

 

……クソッ。

 

 

携帯電話を机に置いた。

思ったよりも、大きな音がした。

 

 

「お兄ちゃん?」

 

 

ソファから立っていた希美が、机の向かい側に立っていた。

きっと、僕の電話の様子から、只事ではないと思ったのだろう。

 

 

「……希美」

 

「何か、あったの?さっきの電話?」

 

 

僕は……躊躇って、震える口を開いた。

 

 

「……親父が帰ってくる」

 

「お父さんが?」

 

 

希美は不思議そうな顔をした。

親父が僕達を捨てていった時、まだ僕も希美も幼かった。

 

だけど、僕は……家の、お金の為に何度も親父に会っている。

代わりに、希美は会っていない。

 

僕が合わせたくなかったからだ。

 

だから、親父がどんな人間か知らない。

顔の知らない父親……とだけ。

 

 

視線を上げると……稚影と目が会った。

 

 

「和希、大丈夫?」

 

 

大丈夫なんかじゃない。

だけど、僕は……彼女に、こんな弱い姿を見せたくなかった。

 

 

「大丈夫、だよ」

 

「……そっか。いつ頃帰ってくるの?」

 

「今日、日が変わるまでには」

 

 

僕の言葉に希美が驚いた。

 

 

「えっ!?今日なの!?……いつまで?」

 

「それは分からない……けど、一日や二日では無さそうなんだ」

 

「そ、っか……」

 

 

希美が細い指で、自分の口を覆った。

そして、眉尻を下げた。

 

 

「……稚影ちゃんと、こうやって夕食を食べられるのも……」

 

「やめた方が良いかもね」

 

 

稚影が口にした。

 

 

三人で作った、安らかな時間は……ほら、たった一つの介入で崩れてしまった。

僕はまた、失って──

 

 

「でも、大丈夫だよ。希美ちゃん」

 

 

励ますように、稚影が希美を撫でて……僕を見た。

その目は、笑っていた。

 

 

「きっと直ぐにまた、一緒に居られるようになるから」

 

 

それは何も根拠がない筈だった。

なのに、まるで筋の通った確定事項のように……稚影は口にした。

 

そして、希美と稚影が抱きしめあった。

 

 

「稚影ちゃん……」

 

「稚影……」

 

「うんうん、大丈夫だよ。和希もハグしてあげよっか?」

 

 

頬は笑っていた。

朗らかな笑みだった。

 

だけど……目は──

 

 

「大丈夫だよ、何とかなるから」

 

 

目は、笑っていないように見えた。

 

僕は驚いて瞬きをして……彼女の目は笑っていた。

見間違いだ、ほんの一瞬の幻覚だ。

 

稚影が希美から手を離して、希美はそれを名残惜しそうにしていた。

するりと、抜けて……稚影が僕達から離れた。

 

 

「二人とも、今日はもう帰るね?」

 

 

いつもより、早い時間だった。

だけど、僕は頷いた。

稚影とクソ親父を会わせたくなかったからだ。

 

 

「稚影ちゃん……」

 

 

希美が寂しそうに声を漏らした。

 

 

「希美ちゃん、和希も……また、明日ね」

 

「あ、あぁ……」

 

 

稚影は玄関へ向かい、そのままドアを開いた。

 

……何だか、無性に止めなきゃならない気がした。

だけど、止める理由が思い浮かばなかった。

それに、止める必要もなかった。

 

手を伸ばそうとして……その手を僕は握った。

 

 

稚影が出ていったドアを、僕はただ、眺める事しか出来なかった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

夜道を歩く。

一人、街灯に照らされて、私は歩いていた。

 

望月(もちづき) 正人(まさと)か。

知っている。

よく、知っているとも。

 

希美の死の原因で、和希が『異能』に目覚めた原因だからだ。

 

奴は無類の女好きの……性欲が肥大化した屑だ。

そして、自己中心的なサディストだ。

 

奴がふらりと望月(もちづき)家に帰って来て……希美は彼を嫌う。

好かれる要素なんてないからな、分かるよ。

 

だけど、その態度はプライドの高い正人を逆上させた。

 

その結果、希美は……。

 

 

 

 

 

 

 

それは性欲からではない。

ただの躾のつもりだ。

 

彼は知っている。

女を屈服させたければ、どうすれば良いか。

 

それを実行したまでに過ぎない。

 

 

 

私は無意識のうちに眉を顰めた。

生理的悪寒からだ。

 

 

 

希美は和希に打ち明けられず、何度も何度も……そして、彼女はやがて……死ぬ。

 

自身の通う学校から飛び降りて、死ぬ。

死んでしまう。

 

あの、優しく、可愛らしい、朗らかな彼女が……自ら、死を選ぶ。

 

 

 

自らの手を握る。

ギリギリと、音を立てた。

 

 

その原因を遺書から知った和希は、怒りと悲しみ、己の無力感から『異能』に目覚めて……父を、正人を斬り殺す。

 

それが物語の始まりより前に発生した、彼の原初の罪……そして、和希の『精神的苦痛』だ。

 

 

だが、そんな過去は認められない。

私がぶち壊す。

私がぶち殺す。

 

彼に罪を背負わせない。

彼女を苦しませない。

その為に、私はここにいる。

 

 

手を解く。

握っていた手に、少し痕が付いていた。

 

 

自宅のドアを開けて、中に入る。

引き出しに閉まっていたビニール袋を開ける。

 

真っ黒な、レインコートを手に取る。

それを掴んで、私は踵を返す。

 

 

 

殺す。

私が殺す。

私が助ける。

必ず、私が。

 

だけど、それだけでは不十分だ。

和希が『異能』に目覚めなければならない。

 

大丈夫だ。

ずっと、考えて来た、私の演劇を見て貰えば良い。

 

陰惨で、残酷で、嗜虐的で、精神を抉り取るような惨劇を……和希に見せるだけだ。

 

 

「和希……」

 

 

出会ってから何度も見て来た笑顔を思い出す。

胸が痛む……これから行う事に……彼を傷付けなければならない事に。

 

だけど、私に傷付く資格はない。

ずっと、無関係な人間を殺してきたのに……今更、何を苦しんでいるんだ。

 

そんな普通の人のように、ただの女の子のように、一人前に苦しむ事が許される訳がない。

 

そうだ。

 

私は大丈夫だ。

必ず、殺せる。

 

私は問題ない。

必ず、傷付けられる。

 

私は省みない。

必ず、成し遂げられる。

 

私は突き進む。

必ず、幸せにしてみせる。

 

 

だから、見て欲しい。

目を逸らしたくても、見て欲しい。

 

和希には見て欲しい。

見なくちゃならない。

 

 

私の作った、血と、臓物に塗れた……物語の序幕(プロローグ)を。




次回の更新は1/29 23:00です!


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4話:惨劇を貴方へ

評価、お気に入り、感想、誤字報告……いつもありがとうございます。


俺、望月(もちづき) 正人(まさと)は流れるまま、ただ楽な方へ、楽な方へと流れて生きて来た。

 

抱きたい時に女を抱いて、飲みたい時に酒を飲んだ。

 

それを許される才能が、俺にはあった。

 

俺はフリーランスのデザイナーだ。

それも引くて数多だった。

有名ブランドのポスターを手掛けた事もあるし、一等地の街頭に掲げられる看板だって俺が作ったものだ。

 

誰からも尊敬されたし、誰からも好かれた。

 

だから許された。

俺には人を食い物にしていいと、神様が許してくれたんだ。

 

 

だから、だから。

 

 

だから。

 

 

だから。

 

 

 

こんなの、何かの間違いだ。

間違いなんだ。

 

 

暗い路地裏で、俺は壁に背を向けていた。

人通りの少ない道で『こいつ』を見つけた瞬間に、俺は逃げ出した。

逃げ出した筈なのに。

 

気付けば足が、こんな、路地裏に……何故か、運ばれていた。

 

 

そして『コイツ』。

 

目の前にいるのは……何だ?

誰だ?ではない、何なんだ?

 

黒いレインコートを着た、2メートル近い巨体。

レインコートの隙間からは青白い皺くちゃの肌が見える。

それはまるで死体のような皮膚で、少なくとも真っ当な人間ではない。

 

そして、顔は。

 

かろうじて、人だとは分かった。

だけど、人ではない。

人の形をした、化物だ。

 

溶けてケロイド状になった皮膚に、二つの充血した目が付いていた。

口は……皮膚が溶けて、上と下の唇が繋がっている。

鼻は削ぎ落とされていて、骨すら見えない。

 

それでも口がある筈の裂け目から、低く深い呼吸音が聞こえた。

 

 

「ひ、ひぃっ……」

 

 

目の前にいる『何か』が歩く。

キリキリとコンクリートが擦れる音がした。

ひとりでに、地面に切り傷が出来ていた。

 

何も持っていない筈なのに、何かを持っているような仕草をしている。

『コイツ』は物理法則を無視した、本物の化物だ。

 

現実な訳がない。

俺は薬なんてやってないのに、なんで幻覚を見ているんだ。

 

 

叫ぼうと口を開いた、瞬間。

 

 

目の前の化物の手が伸びた。

腕を捕まえられ、引き寄せられる

そのまま俺の体に巻き付いて、先端が口元へ近づいてきた。

 

まるで、触手のようだ。

 

そんな触手がずるりと、変な液体を散らしながら……俺の口の中に入ってきた。

 

 

「ん、んむぐっ!?」

 

 

声を出すことは出来ない。

喉までそれは到達していた。

 

嗅覚に腐臭が充満する。

舌に強烈な酸味と苦味がくる。

喉が焼けるように痛い。

 

吐きそうだ。

だが、死なない為には鼻で呼吸する必要がある。

 

刺激臭に涙が止まらなくなる。

 

 

『ネぇ』

 

 

低く、鈍い、奇声のような男の声が聞こえた。

現実に存在する人間とは思えない声に、悪寒が走る。

 

 

「んぐっ、んがっ、ぃい……!」

 

 

叫ぼうとする。

身を捩ろうとする。

 

だが、万力のような力で締め付けられて何もできない。

 

 

『シズかにシて?』

 

 

短い言葉だった。

だが、その命令を断れば……どうなるのか。

理解できなくて、それでも怖くて俺は黙って従った。

 

俺が静かに、抵抗をやめた事を確認し……目の前の『化物』は顔を近づけた。

血の臭いがした……それに、腐った魚のような臭いもした。

 

 

『ムスコに、デンワをかけテ?』

 

 

息子?

和希の事か?

何でだ?

何なんだ?

何が目的なんだ?

 

俺が戸惑っていると、俺の口元を覆っている触手が太くなった。

呼吸がし辛くなって、慌てて剥がそうとする。

 

無理だ、剥がせない。

万力のような力で固定されている。

 

 

『ベツにイイヨ。ムリなら……アナタをコロして、ベツにカンガえるから』

 

 

充血した赤い目が、俺を覗き込んだ。

『コイツ』は俺の命なんて、どうでもいいんだ。

 

あぁ、分かった。

この超常現象みたいな人殺しの化物。

コイツが巷で噂になっていた、連続猟奇殺人鬼の──

 

 

『ワかッたなら、クビをフって?イマすぐに──

 

 

必死に首を振る。

触手が喉まで届いていて、嘔吐きながらも必死に頷いた。

 

死にたくない。

少なくとも……ニュースで報道されるような、溶けた死体にはなりたくない!

こんな所で意味も分からず、ゴミクズのように殺されたくない!

 

 

触手が緩んで、片腕がフリーになった。

 

俺はその手で懐の携帯電話を取り出し……パスコードをうつ。

画面を開いて、電話を掛けた。

数回のコールの後、通話が開始した。

 

 

『どうかしたんですか?』

 

 

他人行儀な息子の声が聞こえた。

どうかしたかって?

どうかしてるに決まってるだろ?

俺は声を出そうとして──

 

 

「んぐっ、ん、がっ……」

 

 

喉の弁が塞がれたような感触があった。

柔らかくてブニブニとした感触が喉に充満する。

吐き気と共に、視界の半分が真っ暗になった。

息が鼻からしか出来ない。

 

苦しい、苦しい、苦しい苦しい苦しい!

 

何で俺が、こんな目に遭わなきゃならないんだ。

意味が分からない、理不尽だ!

 

 

『もしもし……?』

 

 

返事を、返事を、助けを呼ばっ──

 

 

 

ずるり、と何かが胃の中に入ってきた。

触手の先端が千切れて、俺の身体の、中に──

 

 

触手が俺の口から離れる。

やっと、呼吸が出来る……息を吸おうとして、咽せた。

咳き込んでいると、口元に携帯電話を押し付けられる。

 

だけど俺は今、それどころではない。

体の中で何かがビチビチと蠢いて、俺の体に、内側からくっ付いて──

 

 

「あぁ、和希。荷物が多くてな、迎えに来て欲しいんだ」

 

 

それは俺の口から漏れた。

勝手に口が動き、勝手に話した。

 

 

『え?あっ、ちょっ──

 

「頼んだよ」

 

 

言ってない!

言ってない!

そんなこと、言ってない!

何で、勝手に!?

 

 

そして、怪物が太い指を器用に使って通話を切った。

体に巻き付いていた触手が離れて、俺は地面へ降ろされた。

 

ごろり、と転がる。

冷えたコンクリートで肌が擦れたが、気にもしない。

 

咳き込む、腹を叩く。

指を喉に突っ込む。

体に入れられた『何か』を吐き出そうとする。

 

咳き込み、咽せて、強烈な吐き気が──

 

 

『アーあ、ムダなのにネ』

 

 

目前の怪物が太く、ブヨブヨとした指を振った。

人間離れした容姿の怪物が、人真似をしているように見えた。

 

一瞬、気を取られた。

 

そして。

 

 

「んぐ!?」

 

 

喉元で何かが膨れた。

さっきまでと違う。

 

完全に呼吸が出来ない。

息が出来ない。

 

死ぬ、死ぬ、死ぬ。

 

頭でパチパチと火花が散る。

視界の縁が黒く染まる。

ボヤける。

 

 

「んぐ、む、むむむ、ぐむ、むむむ……!?」

 

 

くぐもった声を出すけど、息は吸えない。

パニックになり、身を捩る。

 

立ち上がれずに、コンクリートを爪で擦る。

爪が割れて、血が出る。

痛みを感じる、それでも止められない。

苦しさは紛らわせない。

痛みと息苦しさで気が狂いそう……いや、狂っていく。

 

 

『ダイジョウブ、シタイはムダにしナイから……』

 

 

意識が朦朧とする。

霧がかり、もう体を動かす余力もない。

ただ、横になる。

 

熱った体に、コンクリートの冷たさを感じる。

 

地面に転がる携帯電話が、着信音を鳴らしている。

 

 

嫌だ、嫌だ、嫌だ!

 

 

『アンシンして、死んデ?』

 

 

嫌だ!死にたくない!

嫌だ嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!

死にたくない!死にたくない!

嫌だ!

嫌だ!嫌だ!

 

 

嫌だ!

 

 

嫌だ。

 

 

嫌、

 

 

だ。

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

僕は携帯電話を握って、駅前に来ていた。

クソ親父に呼ばれて……一人でだ。

 

希美は留守番だ。

どうせ帰ってきたら顔を合わせるだろうけど……それでも、合わせたくなかった。

 

 

「……くそっ、どこで待ち合わせるかぐらい言ってから切れよ」

 

 

手元の携帯電話を開いて……山積みになった不在着信を見る。

この辺りに駅は一つしかない……ここに来ていると踏んで足を運んだのが……。

 

苛立ちながらも、もう二度と会えなければ良いのに……なんて考えた。

 

そして、携帯電話を閉じようとして──

 

 

通知音が鳴った。

 

 

 

「……ん?」

 

 

だけど、通話の通知じゃない。

ショートメッセージで……座標の情報が飛ばされて来た。

恐らく、クソ親父の現在地だ。

 

それは……ここから歩いて5分ほどだ。

 

 

眉を顰めて、僕は指定された場所に足を進める。

 

 

「全く、何がしたいんだ……?」

 

 

僕は少し眠気を感じながら、苛立ちつつ……進んでいく。

夜ももう遅くなって来た。

 

駅前から離れれば人はもう居ない。

 

夜は更ける。

 

頭上の月は雲に隠れていた。

街灯だけが街を照らしている。

 

背筋が冷えて、ゾクリとした。

灯りを失った看板が、夜風でカタカタと音を鳴らしている。

 

こうやって、暗闇にいると嫌な事ばかり思い付く。

脳裏に、ずっと気に掛けている連続猟奇殺人事件の記事が──

 

 

「……早く、連れて帰ろう」

 

 

誰に言う訳でもなく、自分に言い聞かせる。

 

怯えているのか?

あぁ、そうだとも。

 

怖いんだ。

 

恥ずかしくはない。

現実的な危険が見えている時、それから逃れようと心が警鐘を鳴らすのは……おかしい事じゃない。

 

 

完全に人影はなくなって、それでも足を進める。

 

 

そして……ビルと、ビルの間に立った。

 

 

「……え?」

 

 

位置情報から読み取れなかったけど、ここは……路地裏だ。

道ではない……何で、こんな所に?

 

位置情報は奥の暗闇を指していた。

 

ごくり、と喉を鳴らした。

口の中は乾いていた。

 

 

「くそ、くそっ……本当に、面倒くさい……!」

 

 

膝を叩く。

震えていた。

 

一歩、一歩、奥へ進む。

 

怯えながら、それでも……大きな事は起こらないだろうと楽観的な観測を持って。

 

だから、奥へ進めた。

進んでしまった。

 

 

そして──

 

 

 

ぴちゃ。

 

 

ぴちゃ、ぴちゃ。

 

 

何か、水滴が垂れる音がしていた。

 

 

雨……いや、今日は降ってない。

水漏れ、だろうか。

 

 

ぴちゃ、ぴちゃ。

 

 

奥へ進めば進むほど、音は大きくなる。

 

何の音だ?

何が溢れているんだ?

 

 

僕は奥へ、進み──

 

 

 

「あ」

 

 

 

見た。

 

 

自身の父親が……大きく、膨れ上がり、転がっているのを。

およそ、人の形状を保っていないほど、大きく風船のように膨れ上がっているのを。

 

人相が歪むほど、膨張しているのを。

 

そして、目を含む身体中の穴から血を垂れ流しているのを。

 

 

「え、あ……?」

 

 

その側に……黒いレインコートを被った、巨体が立っているのを、見た。

レインコートの下はブヨブヨの肌で、血の気を感じさせない。

 

僕の声に反応して、そいつが振り返った。

顔はぐずぐずに崩れていて、充血した二つの目がバラバラに動いていた。

 

ギョロリ、ギョロリと。

 

僕を、見て、いた。

 

 

「あ、あぁ……」

 

 

思わず、腰が抜けて、尻餅をついたんだ。

なんで、なんでなんで……?

こんな所で、腰を抜かしている場合じゃないのに。

 

僕の掠れた声を聞いて、化け物は興味を失ったように膨張した肉塊に顔を向けた。

 

ブツリ。

 

肉が裂ける音がした。

膨張した肉体は傷口から血の泡を吹き出した。

 

父親の反応は全くない。

 

死んでいるんだ。

分かってしまった。

 

 

でも、なんで……何を使って切り傷を作ったんだ?

 

何も持っていないのに、何で……?

 

 

いや。

 

違う。

 

 

何か、持っている。

 

 

血が付着した見えない何かを持っている。

 

 

それは、まるで──

 

 

視界にノイズが走る。

手元に握っている何かが見えてくる。

 

 

『剣』だ。

フィクションに出てくるような……ガラスで出来た芸術品のような『剣』だ。

 

赤黒い半透明の剣に、青い脈が走っていた。

 

それが父を傷つけた物の正体だ。

 

 

……ぶぶぶ。

ぐちょぐちょ。

ぎちぎち。

 

 

瞬間、異音が耳に響いた。

 

 

怪物への注視をやめて、見渡す。

 

剥き出しになった内臓のような何かが、壁を伝って這いずっていった。

 

 

「な、んだこれ……?」

 

 

人の目がついた蛆虫が、地面を這いずっていた。

人の手のような形をした蛾が、壁に張り付いていた。

人の腸に足が生えたような姿をしたムカデが、歯音を鳴らしていた。

 

 

不可思議で、不愉快だ。

口の中に酸っぱいものが混じる。

 

 

まるで、臓物で作った昆虫園だ。

悍ましい悪夢のような光景だ。

グロテスクで悪趣味な宗教画のようだ。

 

 

そんな見る事も躊躇うような気持ちの悪いバケモノ達が……質感を持って、僕の脳を恐怖で焼いた。

 

 

「う、うあ、あぁ」

 

 

悲鳴が漏れる。

情けなく、か細く、声を漏らした。

 

視線を仕切りに動かす僕に、バケモノが振り返った。

 

充血した目が、僕を見下ろしていた。

 

 

『ミえた?』

 

 

低く鈍い、ノイズの走った声が聞こえた。

 

 

「あ、えっ……?」

 

『ミえた?ミえた?ミえたんだ?』

 

 

ガリガリと、バケモノの持つ『剣』が地面を削った。

 

 

『アァ、ヨかった。ならモウ、この死タイはイらないネ』

 

 

剣が振るわれた。

横に薙いで肉塊を……僕の父親を切り裂いた。

真っ二つに裂けて、臓物が溢れる。

 

……そして、切断された死体は──

 

 

「と、溶け……?」

 

 

溶け始めた。

腐臭を撒き散らしながら、ゼリーのような姿になっていく。

 

 

「あ、ひっ、なんっ」

 

 

僕は知っていた。

見た事はないけれど、溶ける死体の話を知っていた。

 

何度もニュースで見た。

数年前から、知っていた。

 

嘘か本当か、都市伝説でも語られていた。

 

 

死体を溶かす、連続猟奇殺人鬼の話を。

 

 

ギョロリ、と目が動いた。

左右、まばらに動いて、僕を見た。

 

 

『ハヤく、『剣』をミせて?』

 

 

血と臓物を撒き散らしながら、口を開いた。

ゴトリ、と溶けた死体が倒れた。

 

 

「ひ、ひっ!?」

 

 

叫んで地面を手で叩いて、後退りした。

転がるように逃げようとして……周りにいる肉で出来た虫達が僕を見ていることに気づいた。

 

視線、視線、視線、視線。

悪意に満ちた醜悪な視線が、僕を貫いた。

 

 

立ち向かう?

そんな事、少しも考えられなかった 。

 

 

初めて感じる命の危機に、心臓は痛いほど鳴っていた。

 

 

「う、うわあああぁぁ……!?」

 

 

僕は足を無理やり立てて、逃げ出した。

路地裏から出て、夜の街を走る。

 

寒気か、怖気か、身体を冷やしながら走る。

息も切れて、肺や内臓が痛くても、足を止めない。

 

追いつかれたら死ぬ!

死んでしまう!

殺される!

 

 

逃げて、逃げて、逃げて。

 

 

背後を振り返ると……追いかけては居なかった。

安堵の息は吐けない。

まだ怖い……怖い、怖い。

 

 

「か、ひゅっ……げほっ……」

 

 

喉が枯れている。

呼吸が乱れている。

動悸している。

 

目を強く閉じる。

涙が出てくる。

 

嘘だ。

今見た景色は夢だ。

現実じゃない。

 

だって、あんな、現実味のない景色は──

 

 

鼻はまだ、血の臭いと腐臭を覚えていた。

目を閉じれば、グロテスクな光景が視えた。

 

 

「う、ぷ……」

 

 

用水路に吐瀉する。

喉の奥が酸っぱい。

鼻が詰まって、口で息をする。

 

ここが安全だという保証はない。

どこかに逃げなきゃ。

どこに?

 

僕は重い足を進める。

思考が定まらないまま、現実から目を逸らして。

 

 

 

そして。

 

 

気付けば、自宅まで帰って来れた。

僕は震える足で、玄関のドアを開こうとして─

 

ガタン!

 

と、扉に向かって倒れてしまった。

 

 

鍵を開ける余裕もない。

僕はドアに向かって倒れこみ、朦朧とする意識を休める。

 

玄関に向かって走ってくる音が聞こえた。

屋内から、慌てた様子を感じとれた。

 

そして、玄関のドアが開いた。

 

 

「だ、誰ですか……?」

 

 

視線が僕を見下ろす。

希美だった。

 

目が合った。

その目は驚愕に染まっていった。

 

 

「お、お兄ちゃん!?」

 

 

ドアが勢いよく開かれて、希美が飛び出した。

 

 

「希美……?」

 

「え、あれ!?大丈夫!?どうしたの!?と、とにかく中に入って!」

 

 

手を引かれて、玄関へと引き寄せられる。

震えながらも、かろうじて足は動いた。

 

 

「お兄ちゃん、何があったの?お父さんは……?」

 

 

身体が震える。

玄関を入ってすぐの廊下で、僕は蹲っていた。

 

希美の声が聞こえて、安堵から涙を流す。

ようやく、あの異常な世界から逃げ出せたのだと……息を深く吐いた。

 

深く、深く、深く息を吐いた。

少しずつ落ち着いて来て……それでも流れる汗は止まらない。

 

暑いからじゃない。

恐怖から、ストレスからだ。

 

 

「ねぇ、お兄ちゃん……?」

 

 

自分の体を抱く。

大丈夫だ。

大丈夫なんだ。

 

きっと、大丈夫だ。

そうだ、さっきのは……きっと夢だ。

現実なんかじゃない。

 

大丈夫、大丈夫だ。

 

明日から、また普通の日常が始まるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ハヤく、『剣』をミせて?』

 

 

脳裏に、バケモノの顔が浮かんだ。

言葉が耳に聞こえた気がした。

 

剣?

剣って何だよ……?

 

バケモノの握っていた……あの『剣』のことか?

そんなの、僕に出せる訳がないだろ……?

 

僕は……ただの、子供だ。

 

 

「……お兄ちゃん」

 

 

希美の声が聞こえる。

それでも、反応出来なかった。

 

今の僕に少しの余裕もない。

僕には誰も守れない。

 

ただ怯えるだけの……無力な子供なんだ。

 

 

涙を流して、鼻水を垂らして、僕は嗚咽を溢し続けた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

ずるり。

ずるりと。

 

顔が蠢く。

まるで火傷を負って溶けたような肌が、蠢き、形を変える。

 

白く肥大化した皮膚も、骨格レベルで変形していく。

 

 

『ン、グ……え、う、ぎ──

 

 

激痛に身を捩りながら、身体を作り替える。

 

そして。

 

 

「っ、く……はぁっ……う、ぷ……気持ち、悪い……」

 

 

元の『楠木 稚影』に形を戻した。

 

肉体操作による、高度な変装。

……いや、変身か。

それは、実験によって培われた技術だ。

被験者を死なせずに形状を変えて、元に戻す……そんな実験を繰り返していた。

自身の身体に行うのは……まだ、片手で数えられる程しか試していないが。

急激に変化させれば内臓に負荷がかかるが、時間をかければ問題ない。

 

そしてもう一つ。

人体の声帯を操る技術。

和希の父、正人に喋らせた技術だ。

肺や喉などの肉を操り、喋らせる事ができる。

他にも足の筋肉を操る事で狙った場所に走らせたり……なんて。

 

結局は私が殺してきた時に検証して、訓練した能力だ。

彼らの死は無駄にはならなかった……それだけで、少しは心が軽くなる。

 

 

目の前の鏡を見る。

ここは廃棄された野外トイレだ。

経営破綻した工場の側にあり、不法侵入している。

 

人影はなく、誰も来る事はない。

 

そこに、全裸で……いや、黒いレインコート一枚だけを身にまとい、立っていた。

 

 

息を吐いて、トイレに隠していたリュックを手に取る。

レインコートを脱ぎ捨てて、リュックに入っているズボンとシャツに体を通す。

スニーカーを履いて、袖を嗅いだ。

 

 

「……臭いな」

 

 

……家に帰ったら、シャワーを浴びよう。

少し、臭う。

 

和希の父を溶かした時に発生した腐臭と、血の臭いだ。

 

 

私は空のリュックを背負い、黒いレインコートを手に持つ。

レインコートには……返り血が付着していた。

それが手に付かないように注意しつつ、外に出る。

 

空を見上げると、月が雲に隠れていた。

好都合だ。

 

暗闇は私に味方してくれる。

私の悪行を隠してくれる。

 

立てかけられた錆びたドラム缶に、レインコートを投げ入れる。

そして、側に隠しておいたペットボトルを手に取り……中の液体を投入する。

 

使い捨てのライターを点火して、そのライターごとドラム缶に投げ入れる。

すると勢いよく発火した。

 

メラメラと。

 

パチパチと。

 

音を立てて燃えていく。

 

炎に私の顔が照らされる。

熱を感じる。

 

 

「……ふふ」

 

 

そこでようやく、私は目論見が達成したのだと実感した。

 

 

「……ふふふ」

 

 

ずっと、待っていた。

ずっと、練っていた。

この時を……あの瞬間を、成し遂げるために。

 

 

「……うふ、ふふふ」

 

 

和希は異能者として覚醒した。

私が作った演劇で……彼は目覚めた。

 

私の『剣』を目で追った。

並べておいた『肉蛆』達に気付いていた。

 

後は、もう少し。

『剣』を作り出せるようにさえ、なれば。

 

 

「……う、ふ……ふふ……」

 

 

和希の顔を、思い出した。

揺らいだ目で、私を見ていた。

 

 

「う、ひ…………」

 

 

彼は怯えていた。

苦しんでいた。

 

人並みに、ゲームの主人公だとか、そんなの関係なく。

 

 

「……ひ……うぐっ……」

 

 

彼は傷付いていた。

彼は泣いていた。

 

私が傷付けた。

 

 

「うぐ……ぐ、うぅ……うっ」

 

 

彼は、あんなにも良い人なのに。

善性を持っていて、誰かを守るために頑張れる人なのに。

 

それなのに。

 

 

「うぅ、うっ……ぐすっ……う、うぅ……」

 

 

友達である筈の私が傷付けた。

酷い奴だ。

最低だ。

 

 

「わ、だし……何で……泣いて……」

 

 

涙が溢れる。

頬は笑っていても、笑おうとしても……。

 

涙と嗚咽だけが溢れていく。

 

 

自分の行っている行為は正しい事なのだと言い聞かせる。

大局を見れば正しい事だ。

 

彼が『剣』に目覚めなければ、より多くの人が苦しむ事になる。

彼が精神的苦痛を受けず、力が弱いままなら……何人もの罪のない人が死ぬ。

 

だから、正しい事なのだ。

 

 

「う、うぅ……ぐ、う、うぅ」

 

 

それでも、だけど。

 

私は。

 

私に。

 

私に、彼の友達を名乗る資格はない。

和希に好かれる価値はない。

希美に慕われる価値はない。

 

分かっている。

分かっているのに……やめられない。

止まる事なんて出来ない。

 

今更、もう。

 

 

あの日、兄の死に誓った願いは……呪いは、私から切り離す事なんて出来ない。

 

 

「私が、やらないと……私が、傷付けないと……私が、私が……私、私……」

 

 

酷い人間だ。

 

他人を殺して、友人を傷付けて、裏切って……そして、勝手に自己嫌悪している。

 

正しい事だと言い聞かせて、誰かがしなければと言い続けて、私は悪行を重ねている。

 

だけど、もう走り出してしまった。

私が敷いたレールだ。

そこから外れる事は……今まで走って来た道を無意味にする事になってしまう。

 

兄の死も、私が殺して来た人も、苦しんでいる和希も。

 

みんな、みんな無駄になってしまう。

 

 

「和希……希美……兄さん……」

 

 

あぁ、そうだ。

 

だから、こんな所で挫ける訳にはいかない。

涙を拭い、私は立ち上がる。

 

 

『剣』を召喚して、強く握る。

赤黒い刀身の、青紫色の筋が脈打つ。

 

能力を行使している証拠だ。

 

 

自分の身体を弄り、神経伝達物質を分泌させる。

ストレスを緩和し、身体を安らげる。

苦しいと思う感情を消して、いつもの私に戻っていく。

 

 

大丈夫。

笑えている。

 

私は大丈夫だ。

何も問題はない。

 

 

深く、息を吐いた。

 

 

……ズボンのポケットに入っている、携帯電話が震えた。

マナーモードを解除しつつ、画面を見る。

 

そこには『望月 希美』の名前があった。

 

通話の開始ボタンを押して、耳元に近付ける。

 

 

「もしもし?どうしたの、希美ちゃん?」

 

 

私の声はもう、震えていない。

薄暗い夜空の下で、私はいつもの笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

一体いつまで、僕は蹲っていただろう。

廊下から場所を移して、自室に籠って……震える身体を布団で包んで。

 

赤子のように……怯えている。

 

先程より、少しマシになった。

警察に電話しないと、なんて脳裏に浮かんだ。

 

それでも、電話を掛ける事すら出来なかった。

 

希美に事情を話さないとならないのに、声が出なかった。

 

 

失うのが怖いと思っていながら、何も行動出来ない。

その事実がまた、僕を怯えさせた。

 

もし。

 

あのバケモノが僕を探して、この家に辿り着いたら……どうなる?

希美を逃さないと……僕が、足止めでも出来れば。

 

無理だ。

今の自分に何が出来ると言うんだ。

 

僕は何もできない。

誰も救えない。

 

全てを失うとしても……僕は何も──

 

 

コツコツと、ノックの音がした。

そして……少しして、ガチャリ、とドアが開いた。

 

僕は怖くて、ドアを見れなかった。

蹲ったまま、暗い部屋で……何も出来ない自分を蔑んでいた。

 

なのに、部屋に入って来た誰かは……僕に向かって、近づいてきた。

 

足音が一歩、また一歩、近付いてくる。

怖い、怖い、怖い。

 

そして、何かが僕の背中に触れた。

指だ。

指の感触が僕の背中を伝った。

 

 

「和希……大丈夫?」

 

 

声が聞こえて、覆っていた布団から顔を出した。

そこには……いつもの笑顔を浮かべている稚影の姿があった。

 

 

「稚影……?」

 

「何か……ううん、何があったの?」

 

 

僕は話そうとして、口を開いて……咽せた。

胸の奥が震えて、上手く声に出来ない。

 

 

「大丈夫だよ、和希。ゆっくりでいいから」

 

 

背中を手のひらで撫でられた。

服の上からだけど、不思議と温かさを感じる。

 

僕は目を強く瞑った。

大粒の涙が溢れた。

 

 

「あ、えっと……僕、その……」

 

「うん」

 

 

稚影が僕の小さな声を聞き取ろうと、顔を近付けた。

その頬は優しげに緩められていた。

僕を安心させようとしてくれている。

 

情けなく感じながら、少しずつ勇気が湧いてくる。

好きな女の子に……こんな、情けない姿は見せたくないからだ。

 

 

「さっき、実は──

 

 

僕は少しづつ、先ほどの……現実感のない、悪夢のような出来事を話し始めた。

例え、信じてくれなかったとしても……。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった和希を見る。

 

どうして、私がここにいるのか。

……それは、希美からの電話で、和希の様子がおかしいから助けて欲しいと呼ばれたからだ。

 

一度家に帰り、体についた悪臭を洗い流し、ここまで来た。

 

最初は……私が、どの面を下げて彼を慰めようとするのか……断ろうと思っていた。

だけど……希美の不安そうな声を聞いて、私は自分の感情に蓋をして、和希に会いに来た。

 

和希の様子は……想像していたよりも、酷かった。

こんな姿は見た事がなかった。

 

そうだ。

彼はまだ、中学生だ。

若く、幼い。

 

怯えた様子で、先ほどの事を話す彼を見ると……胸が痛い。

痛む権利など、ない癖に。

 

 

「和希、警察には電話したの?」

 

 

だけど、そんな様子は顔に出さない。

出したら……全て、無駄になってしまうからだ。

 

 

「あ、えっと……まだ、かな」

 

「なら、した方がいいよ。ほら」

 

 

机の上にあった和希の携帯電話を、手に取って渡した。

和希は……それを見て……何もせず、私の方へ視線を戻した。

 

 

「……どうしたの?」

 

 

不思議に思って、首を傾げた。

 

 

「稚影は……信じて、くれるのか?」

 

「何を?」

 

「あんな……意味の分からない、変な、僕の話を」

 

 

そこでようやく、和希の言っている事が分かった。

 

あぁ、そうだ。

確かに……私の演じたグロテスクな風景、殺害現場、怪物。

どれもこれも、幻覚と疑われても仕方ない。

 

普通の人間ならば、和希は頭がおかしくなったのだと、そう疑うだろう。

 

 

でも──

 

 

「信じるよ」

 

 

私は違う。

 

それは彼を信じているから……ではなく、私が作った演劇だからだ。

 

……もし、私が前世の記憶に目覚めず、彼が『剣』で父を貫いて……それで、もし非現実的な光景を告白されたとしたら……信じられるだろうか?

きっと、信じられない。

 

だけど。

 

 

「稚影……」

 

「誰も信じてくれなかったとしても、私が信じるよ。だから、ほら……私は和希の味方だから」

 

 

和希の頭を撫でる。

……和希は少し頬を緩めて、その後、嫌そうな顔をした。

 

……うん、男の子だもんね。

頭を撫でられるのは嫌なんだろう。

 

 

「僕は……電話、掛けるよ。警察にも話すよ……」

 

 

少しずつ、気を取り直していく和希に私は頬を緩めた。

 

 

これから先、彼は何度も傷付くだろう。

いや、私が何度も……傷付ける。

 

打ちのめされて、傷付いて、苦しんで。

打ちのめして、傷付けて、苦しめる。

 

そうして……私は──

 

 

「大丈夫だよ、和希」

 

 

和希を抱きしめる。

 

 

「稚影……」

 

「辛い事があったら、何度でも……いつでも、私が慰めてあげるから」

 

 

これから先、どれだけ辛い思いをさせるのか。

だとしても、私は彼が大切だという気持ちは本物だから。

 

 

「……ありがとう、稚影」

 

 

ようやく、和希が笑った。

少しは立ち直れたようだ。

 

 

私は……あぁ、なんて酷い人間なのだろう。

クズだ。最低だ。恥知らずだ。傲慢だ。異常者だ。悪人だ。ゴミだ。唾棄すべき人間だ。許されない。

 

腹を引き裂けば、腐りきった血が流れているだろう。

 

だとしても、私にはもう……この『道』しかない。

 

裏の私が、彼を傷付けて。

表の私が、彼を癒す。

 

……罪悪感を感じたとしても、目的へ行動を止める事はない。

 

いつか、和希に私なんかよりも好きな女の子が出来て。

 

いつか、私の事が必要なくなるまで。

 

その時までは。

 

 

「……ごめんね」

 

 

小さく、彼に聞こえないように謝った。

 

傷付けて、ごめんね。

裏切って、ごめんね。

これからも、ごめんね。

 

許してくれなくても良いから。

許して欲しいなんて、思ってないから。

 

それでも、私は。

 

ただ、ただただ、小さく……独りよがりの謝罪を溢した。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

僕は希美に父が死んだ事を告げて……警察に電話した。

真正直に話はしなかった。

 

どうせ信じてくれないからと……黒いレインコートを着た大男が、父の溶けた死体と共にいたと……そう通報したのだ。

 

警察は疑いながらも、現場に向かい……死体を確認したらしい。

 

ただ、夜も遅く、僕の憔悴具合から……細かい事情聴取は翌日になった。

 

 

 

僕は……僕と、希美と、稚影は、同じ部屋で寝た。

彼女たちは僕の事を心配してくれていた。

 

その事実が嬉しくて……僕は……もう、怯えていられないと、奮い立たせた。

 

 

川の字に並んで……恐怖と共に、恥ずかしさを感じながら。

ゆっくりと手が伸びてきて、僕を安心させようと抱きしめた。

 

 

 

そのまま僕は眠りに落ち──

 

 

 

稚影に抱きしめられながら、翌朝を迎えた。

悪夢のような夜が過ぎ去ったんだ。

 

汗臭い身体をシャワーで流して、顔を洗う。

……目の下が少し黒くなっていた。

 

深く息を吐いて、呼吸を整える。

水道水を口に含んで……吐き出した。

 

 

テレビの電源を付ける。

……昨日の、父が殺された事件の話が放送されていた。

 

死体の身元は分かっているはずなのに、不明と、そう放送されていた。

被害者が分かってしまえば、遺族に迷惑が掛かるからと報道規制しているのだろう。

 

 

「お兄ちゃん」

 

 

ドアが軋んだ音を立てた。

希美がそこに立っていた。

 

 

「あ、あぁ……希美か」

 

「うん……朝ごはん、食べる?」

 

 

食器棚の籠から、菓子パンを取り出して……僕を見た。

 

 

「……貰おうかな」

 

 

吐いた所為で腹が減っていた。

僕は受け取った菓子パンを口に含む。

すると、机にゴトリと音がした。

 

希美が牛乳の入ったコップを置いたのだ。

彼女は無言で、僕に笑いかけていた。

 

希美は……父の事をよく知らない。

思い出もない。

他人のようなものだったはずだ。

だから……気丈に振る舞えているのだろう。

 

 

「……ありがとう」

 

 

コップに入った牛乳を口に含んだ。

 

感謝の言葉は、朝食に対する事だけではない。

蹲っていた僕を励ましてくれた事に対してもだ。

 

その事は希美にも分かっているようで、薄く笑った。

 

 

「稚影ちゃんにも、ちゃんと面と向かって言った方がいいよ」

 

「……そうだな。うん、分かったよ」

 

 

食べ終わった菓子パンのゴミ袋を、ゴミ箱に投げ入れた。

そして、椅子から立ち上がって──

 

 

「あ、稚影ちゃん、今シャワー浴びてるからダメ」

 

「え、あ……あぁ、そっか」

 

 

額を揉んだ。

普段なら慌てたり、恥ずかしがったり……しただろうけど、今はそんな気分になれなかった。

 

そのまま座ろうと、椅子を引いた。

 

 

 

……チャイムが鳴った。

 

 

 

「……誰だろう?」

 

 

希美が首を傾げた。

僕の脳内には、昨日の化物の姿がフラッシュバックしていた。

 

 

「僕が出るよ」

 

「え、お兄ちゃん、大丈夫?」

 

「あぁ、大丈夫だから……そこに座っててくれ」

 

 

居間のドアを開けて、廊下に出る。

傘立てが視線に映る。

 

……無いよりはマシだ。

最悪の事態を予測して、僕は傘を一本、手に取った。

 

こんな物で……勝てるとは思わない。

だって、相手は……大きく、鋭い『剣』を持っていたのだから。

 

日本には銃刀法がある筈なのに……どこで、あんな凶器を?

 

 

脳裏に、ノイズが走った。

 

 

『ハヤく、『剣』をミせて?』

 

 

バケモノの言葉を思い出した。

 

 

「『剣』、か……」

 

 

まるで、僕も持っているかのような言い草だった。

もし、『剣』があれば……僕は、自分の身を守れるのだろうか?

大切な人を守れるのだろうか?

 

首を振る。

アイツは異常だった。

 

異常者の言葉を信用する訳にはいかない。

絶対に嘘だ。

狂ってるんだ、アイツは。

 

 

僕は足を進めて、玄関の鍵を開けた。

喉を鳴らして、ドアを開いた。

 

 

そこに居たのは、スーツを着てメガネを掛けた男の姿だった。

 

 

「おはよう、君が望月 和希くん?私はこういう者なんだけど……」

 

 

見せられたのは……警察手帳だった。

そこには神永 啓二という名前と、彼の顔写真が載っていた。

 

 

「あ、はい……」

 

「少し、お話いいかな?」

 

 

啓二さんが身を引いた。

……外に出てこいって意味か。

 

別にやましい事はない。

僕は靴を履いて、ドアの外に出た。

 

家の前には黒い軽自動車が止まっていた。

パトカー……らしくない見た目に困惑しながらも、啓二さんについて歩く。

 

 

「……すまないね。少し、中で話そう」

 

 

そう言って、車を指差した。

僕は黙って頷いて……車の裏側に誰かが立っていることにきづいた。

 

それは長い黒髪をゴムで止めている、癖毛の女性だ。

歳は……僕より一回り年上か。

それでも若そうだ。

 

 

「……おい、結衣。車で待っておけって言ったよな」

 

 

隣の啓二さんが忌々しげに呟いた。

その言葉遣いは僕とは違い、親しげな……気を許した相手への言葉遣いだった。

 

結衣、と呼ばれ女性が啓二さんを見た。

 

 

「……フン、手っ取り早く、確認した方が良いと思ってな」

 

 

結衣……さんが、僕の方を見た。

底冷えのする鋭い目付きだった。

まるで僕を信用していない、突き放すような視線。

 

そして、その手には──

 

 

「……お前、見えてるな?」

 

 

緑色の半透明な素材で出来た、細身の剣が握られていた。

橙色の筋が走っていて……まるで……昨日、見たバケモノが持っていた剣と似ていた。

 

 

息を呑んだ。

日常に帰ってこれたのだと、そう思っていた。

だけど、どうやらそれは思い違いだったらしい。

 

 

非現実が、僕の日常を侵しに来たのだと……逃げる事は出来ないのだと、僕は悟った。




次回は、2/5(日)の23:00です。


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5話:人、剣、願い、思惑

すみません、定時投稿失敗しました。


目前に僕より少し年上の女性。

その女性は緑色の、半透明の剣を握っていた。

 

まるで、先日出会った、あの、父を殺した──

 

 

「…………」

 

 

女性……先程、啓二さんが結衣と呼んでいた人が、剣を横にずらした。

キリキリと、足元のコンクリートから音がした。

 

僕はそれを視線で追った。

半透明の剣は朝日を反射して、煌めいていた。

 

 

「……やはり、『能力者』で間違いないな」

 

 

何かに確信したようにそう言った。

僕は視線を結衣さんへ戻すと……彼女は剣を……僕へ向けた。

 

 

「あ……」

 

 

思わず怯んで、後退る。

呼吸が荒くなる。

怖い。

 

この人も……あの、バケモノの仲間なのか?

同じような剣を持っているし……でも、警察官である啓二さんの仲間……?

分からない。

分からないから、怖い。

 

 

「お前、人を殺したことはあるか?」

 

「え……?」

 

 

混乱している思考から、現実に引き戻される。

 

 

「答えろ」

 

「……い、いえ、無いです、けど」

 

 

鋭い視線が僕を射抜く。

殺気の籠った視線だ。

 

僕は喉を鳴らして──

 

 

瞬間、剣が地面に下ろされた。

 

 

「そうか。なら良い」

 

 

カツン、と剣が地面に当たり音が鳴った。

鋭い目付きは変わらないが、少し雰囲気が緩んだ気がした。

 

……バケモノとの関わりは分からない。

だけど、何となく、この人は『違う』と思えた。

少なくとも……僕を殺そうとはしていない。

 

 

「おい、結衣」

 

 

啓二さんが咎めるような声色で、名前を呼んだ。

 

 

「何だ?やり取りで分かるだろ。コイツは『剣』が見えている……警戒するに越した事はない」

 

「そうかも知れないが……時と場所をだな」

 

「私のやり方に口出しするな」

 

 

啓二さんと結衣さんが険悪な雰囲気になる。

そんな中、ガチャリ、と音がした。

背後でドアが開いた音だ。

 

 

「か、和希……?」

 

 

稚影がドアの外に出ていた。

先程までシャワーを浴びていた体は少し熱っている様子だ。

彼女は薄着のまま僕と、結衣さんと啓二さんに視線を向けて……慌てて靴を履いて家から出てきた。

 

 

「な、何してるんですか?」

 

 

稚影は不安そうな顔をしながら質問を投げる。

その様子に結衣さんは訝しむような顔をして……瞬間、結衣さんが腕を上げた。

 

剣先は、稚影に向けられていて──

 

 

「稚影!止まれ!」

 

「え?」

 

 

稚影が慌てて足を止めた。

 

緑色の剣。

稚影の胸元。

その距離は、数十センチしかない。

 

あと、数歩、歩けば突き刺さる……そんな距離感だった。

 

 

「か、和希?」

 

「頼む、動かないでくれ……」

 

 

僕の言葉に、稚影が不思議そうな顔をしていた。

胸元に剣を突きつけられてるのに……何で、そんな何も分からなさそうな──

 

違う。

そうか、見えてないんだ。

 

見えるか?という質問……つまり、あの剣が見えない人もいるという事だ。

……俄には信じられない、不可思議な現象だけど……間違いない。

 

だから稚影は剣を気にせず、突き刺さりそうな距離まで近付いて来てしまったんだ。

 

僕は視線を結衣さんに向けた。

剣を突き付けたまま、稚影を睨んでいる。

 

 

「……見えない、か」

 

 

目の前で緑色の剣がボヤけて……消えた。

まるで、元から持っていなかったかのように、跡形もなく消え去った。

 

……でも、あの剣は幻覚じゃなかった。

証拠に、地面に擦り傷が出来ていた。

夢や幻では現実に干渉する事はできない。

 

今、見えたのは……現実だ。

昨日の出来事も……間違いなく。

 

 

稚影が不安そうに僕を見た。

 

 

「えっと、和希?何が──

 

「大丈夫、大丈夫だから……少し、家に戻っていてくれるか?」

 

 

僕がそう促すと……啓二さんが間に割り込んだ。

そして、警察手帳を出して稚影に見せた。

 

 

「事件に彼が関わってる可能性があるんだ。少し彼を借りるよ」

 

「事件にって──

 

「ああ、いや、大丈夫だよ。被害者の親族として、目撃者としてだから。悪いようにはしないさ」

 

「……そう、ですか」

 

 

稚影が後退りして、家のドアを後ろ手に開けた。

僕を不安そうな目で見ている。

 

 

「和希……」

 

「大丈夫だよ……少し、話するだけらしいから」

 

「それなら、私も──

 

「同行は認めない」

 

 

結衣さんが稚影の言葉を遮った。

稚影が少し、眉を顰めた。

 

その様子を見て、結衣さんが鼻を鳴らした。

 

 

「何だ?不満か?部外者は大人しくして──

 

「結衣」

 

 

啓二さんが、結衣さんの言葉を止めた。

 

 

「逸る気持ちは理解出来るが、少し落ち着け」

 

「……私は落ち着いている」

 

 

そう言い切って、憎々しげな顔をして車に乗り込んだ。

……いや、不貞腐れているようだった、

 

啓二さんが稚影に視線を戻した。

 

 

「夕飯頃には送り届けるよ。だから、安心してくれていい」

 

「……そういう、事なら。分かりました……」

 

 

眉尻を下げて、不安そうな顔で稚影が頷いた。

そして、僕に視線を向けた。

 

 

「和希、晩御飯用意して待ってるから」

 

「……あぁ、ありがとう、稚影」

 

「うん、だから……和希も頑張って」

 

 

何を応援されているのか、具体的には分からなかったけど、励ましてくれているのは分かった。

頷いて、僕は啓二さんの車に乗り込んだ。

 

その様子を見て、啓二さんも乗り込んだ。

 

 

啓二さんが運転席で、結衣さんが助手席。

僕は後部座席だ。

 

 

「和希くん、少し場所を変えるよ」

 

 

啓二さんがそう言うと、エンジン音が聞こえた。

車は家から少しずつ離れていく。

しかし、稚影はこちらに視線を向けたままだった。

 

やがて、曲がり角を曲がって、完全に家は見えなくなった。

 

 

「ところで、さっきの女の子とはどういう関係なんだい?妹?」

 

 

バックミラー越しに、啓二さんの顔が見えた。

 

 

「……いえ、友人です」

 

「そうか。彼女は事件の事をどこまで知ってる?」

 

「僕の知ってる事は殆ど──

 

 

助手席に座っている結衣さんが、振り返った。

 

 

「お前、喋ったのか?」

 

「えっと、まぁ……はい」

 

「……チッ、そいつ以外には?」

 

「誰にも言ってないですけど……」

 

 

僕が首を傾げると、啓二さんが口を開いた。

 

 

「悪いけど、事件の話はもう誰にもしないでくれるかな?」

 

「それは……何故ですか?」

 

「君は見たんだろう?事件を……あと『剣』も」

 

「ええと……はい」

 

 

……僕は頷いた。

警察への電話では、不可思議な現象については黙っていた。

 

だから、知る筈がないのに……何故?

 

 

「事件は公に出来ない。少なくとも、『剣』の事は話せないね」

 

「……一体全体、何が起きてるんですか?僕にはもう……何が、何だか」

 

 

もう何も分からなかった。

昨日から僕に中にある現実……常識、日常、全てが乱されている。

 

……結衣さんが、また僕の方へ振り返った。

 

 

「この世界には、非常識で理外な物が存在する」

 

 

視線は、鋭い。

 

 

「お前は超能力者の存在を信じるか?カードの裏から透かして見たり、触れてもないのに物を動かしたり、無から炎を生み出したり、人の思考を読む……そんな非常識な能力を持つ者を」

 

「……いえ、それは──

 

「信じない。いや、信じたくない……だろう?」

 

 

眉は顰めたまま、頬を吊り上げた。

 

 

「人は自分の知る『現実』を信じたがる。法を逸脱した、己の知識の外にある『危機』を信じたがらない」

 

「……それはっ」

 

「それが己の心を守る術だと知っているから。そこに矛盾はない」

 

 

鼻で笑った。

バックミラー越しで啓二さんが複雑な表情を浮かべている。

 

 

「だが、お前は『見た』のだろう?」

 

 

探るような目で、僕を見ている。

 

 

「父親の死を……お前は見た。『剣』を見た筈だ……私と同じ、逸脱した人間の存在を」

 

「…………」

 

「結果、お前は目覚めた。力を持つ者を野放しに出来るほど、この世界は無関心ではない」

 

「何の話を……してるんですか?」

 

 

また、鼻で笑う。

端正な容姿で、それでも疲れたような、忌々しい物を見たような表情をしていた。

 

 

「同類だよ」

 

「……誰と、誰が、ですか?」

 

「私も、お前も、お前の父親を殺した奴も……全員、同じだ」

 

 

僕は、思わず首を振りたくなった。

違うと、否定したかった。

 

 

「常識の理外に存在する『能力者』だ。お前には力の扱い方を知る義務がある」

 

 

僕が……?

否定する事を忘れて、顔を見た。

 

眉は顰められていた。

頬は緩んでいた。

瞳は……濁っていた。

 

 

「……着いたぞ」

 

 

啓二さんが、そう言った。

 

窓の外を見ると……警察署ではなかった。

古びたビルが、そこにあった。

 

その中でも二回の窓に書いてある文字が、目に入った。

『総合探偵社アガサ』……そう、書かれていた。

 

 

「……ここは?」

 

「言ってなかったか。私のフルネームは阿笠(あがさ) 結衣(ゆい)……アレは私の事務所だ」

 

 

助手席の結衣さんがドアを開けた。

 

 

「私は異能事件も扱う……能力者の探偵だ」

 

 

鋭い視線が僕を射抜いた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

『異能』

それは現実を書き換える力。

物理法則を無視して、質量さえも無視する力。

 

『能力者』

異能に目覚めた人間。

過剰なストレスによって目覚める人もいる。

 

 

 

らしい。

 

 

「理解したか?」

 

 

赤い合成皮革で出来たソファに、結衣さんが座っていた。

彼女が足を組み替えて……僕は、視線を落とした。

 

A4のコピー用紙に書き込まれた、図形と文言。

それは彼女が先程、ペンで書き示しながら説明してくれた痕跡だ。

 

 

「僕が……僕もその、『異能』に目覚めたって言うんですか?」

 

「そうだ。見えるだろう?『剣』が」

 

 

視線の隅には、彼女が手に持つ緑色の剣。

それは滑らかな曲線を描く、細身の剣だ。

 

 

「『剣』……」

 

「名前や呼び方はどうでも良い。偉い学者に名付けられる程、世間に知られていない。だから、そのまま『剣』と呼んでいるだけだ」

 

 

結衣さんが深く、息を吐いた。

 

 

「『異能』は『能力者』にしか見えない。『剣』も同様に……だから、お前も『能力者』だ」

 

「でも、僕は……そんな、『剣』も、不思議な力だって……」

 

「ある。気付いていないだけだ」

 

 

目の前に紙コップが二つ、置かれた。

湯気を立てている黒い液体……恐らく、コーヒー。

それを置いたのは啓二さんだ。

 

結衣さんは感謝の言葉も示さず、コーヒーを手に取り、口に付けた。

 

僕は啓二さんに視線を移した。

 

 

「その……お二人はどんな関係なんですか?警察官と……探偵?らしいですけど」

 

 

啓二さんが苦笑いして、口を開いた。

 

 

「亡くなった友人の妹だよ。僕にとってはね」

 

 

そして、口にした瞬間……結衣さんが啓二さんの脛を蹴った。

 

 

「いっ!?」

 

 

そして、結衣さんはまた、無言でコーヒーを啜った。

……どういう関係なのかは分からなかった。

だけど、気心が知れた仲だという事は分かった。

 

そして、先程、口にした言葉が引っかかった。

 

 

「『亡くなった』、ですか?」

 

 

訊くと、結衣さんの眉がピクリと動いた。

少しの間、無言になって……視線が鋭くなった。

 

思わず、失言したかと焦るほどに……彼女の表情は怒りに歪んでいた。

 

 

「そうだ。私の兄は……6年前に殺された」

 

「……殺された?」

 

「あぁ」

 

 

彼女はコーヒーを飲み干し、紙コップを握り潰した。

 

 

「行方不明になった後……河川敷に死体を捨てられていた。額から引き裂かれ……頭の半分は今も見つかっていない」

 

 

……僕は、絶句した。

非現実的で残虐な事件だ。

 

 

「切断面は綺麗だった……いや、綺麗過ぎた。現実では不可能な切断面……だが、実際に起きた」

 

 

思わず、息を呑んだ。

 

 

「だから、私は犯人を探している。そして犯人は間違いなく『能力者』だ」

 

 

コツコツと、結衣さんが指で自分の額を叩いた。

 

 

「この事務所を立ち上げたのも、それが理由だ。異能事件を片っ端から解決していれば、いつか犯人に出会うだろうと……そう考えた訳だ」

 

 

彼女は頬を歪めた。

……凡そ、常識のある人間とは思えない笑み。

 

だから、僕は恐ろしくなって質問をした。

 

 

「犯人が、見つかったらどうするんですか?」

 

「ブチ殺す」

 

 

間髪入れず、そう返された。

思わず、啓二さんを見る。

ため息を吐いて、彼は首を振った。

 

そして、口を開いた。

 

 

「現在の日本じゃ、『能力者』を捉えるのは難しい。犯行を止める為なら……殺されても仕方ないんだ」

 

「……そう、なんですか」

 

「異能の力は公に出来ない。間違いなく国は混乱する……もし、隣人が既存の法を無視して人を害せる可能性があると知れば……誰もが疑心暗鬼になる」

 

 

啓二さんは困ったような顔をしていた。

 

 

「だから、異能の事を知っているのは……国でも一握りだけだ。俺の所属している警視庁七課も、その一握りってだけだ」

 

「……七課?」

 

「聞き覚えはないだろうね……これも公にされてない部署だからね」

 

 

眼鏡の縁を指で上げて、啓二さんが笑った。

 

 

「警視庁異能犯罪対策七課、そこに俺は所属しているんだ」

 

 

懐から警察手帳を『二つ』出した。

片方は先程、僕が見たもの。

もう一つは……成程、所属部分が『七課』と書かれている。

 

 

「まぁ、とにかく俺は犯人を捕まえたい。結衣は……自分の追ってる事件の手掛かりが欲しい」

 

「……そう、なんですか」

 

「だから、君には今回の事件の事を教えて欲しいんだ」

 

 

啓二さんが、何か機械を置いた。

……ボイスレコーダー?

 

 

「君は通報した時に話した事以外に……何か、見たんだろう?」

 

 

脳裏に、赤黒い肉で出来た虫達が思い出された。

 

 

「話してくれないか?君の見た……犯人の『異能』を」

 

 

僕は息を呑んで……ぽつり、ぽつりと事件について話し始めた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「稚影ちゃん。お兄ちゃんは……その、大丈夫かな?」

 

 

希美が不安そうな表情を浮かべている。

私はそれを愛おしく思って、頭を撫でた。

 

 

「大丈夫だよ。きっと……うん、大丈夫」

 

 

私は向かいの席に座って、テレビを見る。

 

今日、学校は三人とも休んだ。

だから、こうして平日の昼間なのに望月家に居座っている。

 

希美には笑顔を見せつつ……私は思考する。

 

 

今朝の出来事を。

 

阿笠結衣、そして神永啓二か。

どちらもゲームに登場するキャラクターだった。

 

実の父親を殺害した和希を追って、出会う……筈だった。

そして、和希は警察の監視下に置かれて、罪滅ぼしとして異能犯罪者達と戦っていく。

筈だった。

 

しかし、和希の父は私が殺した。

既にゲームとは剥離している状況だ。

どのように転ぶかは謎……だとしても、彼らが和希を殺す事はないだろう。

 

 

「希美ちゃん、晩御飯、何が良いと思う?」

 

 

私はそう訊きながらも、思考を巡らせる。

 

 

今朝、結衣は私に『剣』を向けていた。

疑っている……のだろうが、特別私だけを疑っている訳ではない。

 

彼女は臆病だ。

何もかもに疑心暗鬼になっている。

 

目前に『剣』があった時は驚いたが、彼女は無闇に他人を傷つけない……その確信があったからこそ、私は知らぬフリが出来た。

恐らく、彼女は私を能力者ではないと考えているだろう。

 

 

「……お兄ちゃん、食欲あるか分からないし、うどんとかで良いんじゃないかな?」

 

「うん、それが良いね」

 

 

私は席を立って、外へ出る準備をする。

 

 

希美。

 

 

彼女を助けた瞬間から、定められた物語とは大きくかけ離れてしまった。

 

あまり、物語の知識を参考にするのは……良くない事かも知れない。

 

 

「……さ、買い物に行こう?希美ちゃん」

 

 

小さなバッグを持って、望美に笑いかける。

彼女は心配そうな顔をしながらも、努めて笑っていた。

 

彼女の父親は死んだ。

兄は今、警察に連れて行かれた。

 

不安じゃない訳がない。

彼女は普通の人間なのだから。

 

 

……私は。

私の行動の結果だ。

だけど、命は守れた。

それでも……。

 

 

大丈夫だ。

事は全て上手く進んでいる。

 

 

希美が鞄を持って、私についてくる。

 

例え、どんな事があろうとも……過程でどれだけ傷付いたとしても……私は和希と希美を幸せにしなければならない。

 

それだけが、私に残された……たった一つの、行動理念だ。

それだけが私の生きる意味なのだから。

 

必ず、私は誰にも知られずに……成し遂げる。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「……なるほど」

 

 

目前で啓二さんが頷いた。

顎に手を当てて、眉を顰めた。

 

 

「つまり、君の父親を殺した犯人は……爛れた皮膚をもつ、2メートル近い大男なんだな?」

 

「……はい。信じられない話、ですけど」

 

 

僕がそう言うと、啓二さんが結衣さんに視線を向けた。

 

 

「結衣、どう思う?」

 

「……間違いなく、その姿は本物ではないな」

 

「……えっと、でも──

 

 

結衣さんが壁に立て掛けられていた板を持ってきた。

ホワイトボードだ。

 

そこにペンを抜いて、書き記す。

 

 

「巨体に特徴的な風貌……そんな人間離れした姿なら、事件はもっと早く解決している。犯人は『異能』を使って変装していた……そう思って良い」

 

「でも……『異能』は『能力者』にしか見えないんですよね?だったら、出会った瞬間は……僕はまだ『剣』が見えなかったし『異能』では──

 

「『異能』による物質の操作……無から生み出した存在は確かに見えない。だが、何かを変形させたものなら……見えるだろう」

 

 

更にペンでホワイトボードに書き込む。

 

元々存在した物質の『変形』は『見える』。

新たに創造した物質の『具現化』は『見えない』。

 

 

「つまり、犯人の『異能』は『肉体を変形させる能力』。もしくはそれに近しい能力」

 

「……自分の身体を変形させたって事ですか?」

 

「あぁ、それなら死体の姿にも納得できる。他人の血肉を変形させ、死体を溶かしているのだとしたら……私達以外の、一般人にも見えるだろう。自身と他人、それぞれの肉体変形能力」

 

 

また、ペンで書き込む。

 

 

「そして、もう一つ。肉で出来た虫……これは見てわかる通り『具現化』だ。『異能』に目覚める前までは気付かなかったんだな?」

 

「えっと……そうです」

 

「つまり、『肉虫を創造する』能力もあるという事だ」

 

 

ホワイトボードに書かれた文字を見る。

 

①犯人は自他問わず人間の肉体を変形させられる。

②犯人は血肉から生物を作り出して操れる。

 

 

「根本としては『発火能力(パイロキネシス)』に近い。『炎』を生み出す力と、『炎』を操る二つの性質を併せ持つ」

 

 

ペンに蓋を閉めて、縁に転がした。

 

 

「それの『肉』版と言った所だな……『発肉能力(クレアスキネシス)』とでも呼ぶべきか?」

 

 

顎に手を置いて、結衣さんが難しそうな表情をした。

 

そして、啓二さんが口を開いた。

 

 

「……少し良いか?」

 

「何だ?」

 

「結衣、犯人の目的についてだ。和希くんが話してくれた、犯人の口ぶりからして──

 

「あぁ、分かってる」

 

 

僕を無視して、二人は何かに気付いているように頷いた。

思わず、口を開いた。

 

 

「……何、ですか?」

 

「いや、和希くん。落ち着いて聞いて欲しいのだけど──

 

「犯人の狙いはお前だ。望月 和希」

 

 

喉が渇いた。

口を開いて……紡ぐ。

 

分かっていたからだ。

……震える体を無理やり、両腕で抑える。

 

その様子を見て、結衣さんが感心したように笑った。

 

 

「……なるほど、理解はしているようだな」

 

「えぇ……分かりますよ」

 

 

あれだけ僕に執着するような発言をしていたのだ。

気付かない程、鈍いつもりはない。

 

 

「なら話は早い。お前には奴を誘き出す囮になって貰う必要がある」

 

「囮……」

 

「いや、餌か?」

 

 

怖い。

怖くて仕方がない。

 

昨日の出来事も、今日聞いた非現実も、これから迫り来る恐怖も。

 

だけど──

 

 

「……結衣さん」

 

「何だ?」

 

 

彼女はポケットに手を突っ込んで、首を捻った。

 

 

「僕は……僕の周りにいる人を守りたいんです」

 

「無理だな」

 

「そう、ですね。今の、ままでは……だから──

 

 

僕は彼女と目を合わせる。

鋭い視線と、僕の視線が交差する。

 

 

「僕に教えて下さい。『異能』について……『能力者』との、戦い方を」

 

「…………」

 

「僕は強くならなきゃならないんです……」

 

 

無言のまま、結衣さんは視線を逸らした。

しかし、その頬は暴力的に吊り上がっていた。

 

僕の方へ向いた時、彼女は笑っていた。

 

 

「……丁度、助手が欲しかった所だ。ウチの事務所で雇って……死ぬまでこき使ってやる」

 

 

そう、言い放った。

 

 

「おい、結衣……」

 

「別に良いだろう?それにコイツの生活費はどうするつもりだ?稼ぎ頭は昨日死んだんだぞ?」

 

 

結衣さんの言葉で、嫌に現実的な事を思い出した。

父は死んだ。

 

僕には……妹を養う事は出来ない。

親戚もいない。

 

どうすれば良いか……など。

 

 

「そうだ。丁度良い、啓二。お前がコイツの保護者になれ」

 

「…………は?え!?」

 

 

啓二さんが驚いたような声を出した。

僕も出しそうになったけど。

 

そして、彼は結衣さんへ口を開いた。

 

 

「何を言ってるんだ!?」

 

「孤児院になど入れられたら、使い辛いだろう?探偵事務所で働かせるには拙い。未成年搾取だなんだで煩いだろ」

 

「それは、そうだが……」

 

「生活費は私が給料として払おう。これでも依頼で儲けている。啓二は保護者として……そうだな、七課の特権でも何でも使って法的な保護者になれ」

 

 

啓二さんは僕の方を一瞥した。

疲れたような表情をしている。

 

 

「……和希くんは良いのか?」

 

「いえ、あの……啓二さんが良いなら」

 

 

僕は今の生活が気に入っている。

それはきっと、希美もだ。

孤児院に入れられたら……今の生活は崩れ去ってしまう。

もし、逃れる方法があるのなら藁にでも縋りたい思いだった。

 

啓二さんがため息を吐いた。

メガネを外して、額を揉んでいた。

 

 

「……あー、もう。分かったよ。分かった」

 

 

そして、眼鏡をかけ直した。

 

 

「和希くん、後で君の家に行こう。妹さんが居るんだよね?」

 

「え、あぁえっと、はい」

 

「説明しないとね。全く、初対面の人間の保護者になるなんて……」

 

「……すみません」

 

 

申し訳なくなって、謝る。

すると啓二さんは苦笑した。

 

 

「いや、君は悪くない」

 

「なんだ啓二、私が悪いと言うのか?」

 

「言ってないだろ……そんなこと」

 

 

啓二さんの発言に、結衣さんが噛み付く。

……仲が悪いのか、良いのか分からなかった。

 

そして、結衣さんが笑顔のまま僕へ視線を向けた。

 

 

「よし、そうと決まれば……まずは、お前の『異能』を調べよう」

 

「え、でも……」

 

「出せる筈だ、『剣』が」

 

「どうやって──

 

 

結衣さんが机に乗り上げて、僕へ顔を近付けた。

 

 

「願え」

 

 

仄かに香水の香りが鼻に匂った。

 

 

「お前は力を手に入れて何を成し遂げたい?それを願え……力がいると、成し遂げるための力が欲しいと」

 

 

僕は椅子から立ち上がって、後退る。

そのまま……手のひらを上に向けて、見つめる。

 

何が欲しいか?

力がいるんだ。

 

何故いるんだ?

守るためだ。

 

希美、稚影……僕にとって大切な、家族だ。

僕が守らなきゃならない。

 

脳裏に血肉で彩られたグロテスクな景色が蘇る。

父を殺した男を思い出す。

 

僕は、守らなきゃならない。

妹を、親友を。

 

強く、手を握る。

目を閉じる。

 

人を虫ケラのように殺す、そんな邪悪な存在に打ち勝つ力がいる。

大切な人を守るための力がいる。

強い力が……武器がいる。

 

脳が痛む。

目に力が籠り、額に皺が寄る。

 

力がいるんだ。

助けるんだ。

他の誰でもない僕が。

逃げなくても済むように。

 

もう、これ以上、失わないために。

奪われないために。

 

僕が──

 

 

直後、手に何かを握った感触があった。

 

 

「…………」

 

 

恐る恐る、目を開ける。

 

手元に……『剣』があった。

青白く濁ったガラスで出来た剣だ。

真っ赤な血のような筋が浮かんでいた。

 

 

「……これが」

 

「そうだ。それが、お前の『剣』だ」

 

 

結衣さんが頬を緩めた。

 

 

「さぁ、見せてみろ。お前は何が出来る?」

 

「何が……」

 

「分かる筈だ。『異能』は『剣』が教えてくれる……見せてみろ」

 

 

『剣』が教えてくれる?

僕は視線を落とす。

 

そして、意識を集中し──

 

 

「あの、結衣さん?」

 

「何だ」

 

 

僕は『剣』から視線を逸らし、結衣さんを見た。

 

 

「……僕って何が出来るんですか?」

 

「はぁ……?」

 

 

呆れたような、驚いたような顔で……結衣さんが僕を見た。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

コインが宙に投げられた。

そして、それを結衣さんが掴んだ。

 

 

「表」

 

 

それに対して、僕は答えた。

手を取り除けば……確かに表だった。

 

結衣さんが渋柿を舐めたような顔で、ため息を吐いた。

 

 

「的中率は90%……ポーカーでも勝率は高く……くじ引きで当たりを引く確率も異様に高い」

 

 

机に並べられていたのはトランプや、くじ引き用に色を塗った割り箸、とか色々。

 

 

「見えている訳じゃないんだな?」

 

「えっと、まぁ、はい。何となく……表っぽいなーって思っただけです」

 

「……何となく、か」

 

 

結衣さんが眉を顰めたまま、指を自分の顎に当てた。

 

 

「……勘が鋭くなる能力か?」

 

 

納得いかないような声で、そう言った。

 

普通、『能力者』は『剣』を生み出した時に『異能』の使い方を知るらしい。

脳に使い方をインプットされる、と結衣さんは言っていた。

 

そう、普通は分かるはずなのだ。

なのに、僕は何故か分からなかった。

 

だから、こうやって検証している。

 

 

「だが物理的にではなく、完全なランダムでも当たりを引きやすい……引きやすいだけで確実ではない。運が良くなる能力か?」

 

 

結衣さんが深く、息を吐いた。

 

 

「クソの役に立たないか……それとも」

 

 

視線が僕を射抜いた。

 

僕は視線を逸らして、結衣さんの持つ剣へ移した。

緑色の『剣』だ。

 

 

「……そう言えば、結衣さんの『異能』って──

 

「私の『異能』は『サイコメトラー』……物の持っている記憶を覗き見る能力だ」

 

「物の記憶?」

 

 

僕の疑問に結衣さんが笑った。

 

 

「例えば、使用済みの割り箸に使えば誰が使ったか分かる……ような能力だな。事件の証拠品から犯人を探る事もできる」

 

「……凄いじゃないですか。それなら、僕の父を殺した犯人も──

 

「無理だ。見られるのは6時間前まで……それも、時間が経過すればするほど、ノイズが走ってまともに見れなくなる」

 

 

結衣さんが腕を組んで、足を組んだ。

彼女は短いスカートを履いている。

タイツは履いているが……大人の色気というか、そんなものを感じてしまって視線をズラした。

 

 

「まぁ、良い。はっきりと効果が分からない以上は頼らない方が良いだろうが──

 

 

獰猛な笑顔を僕に向けてきた。

 

 

「お前の能力は便宜上、『運が良くなる能力』としよう」

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

恐らく結衣は、和希の持つ『異能』を『運が良くなる能力』……または『勘が鋭くなる能力』と誤認するだろう。

 

そう、誤認だ。

 

 

「稚影ちゃん、きゅうりも買っとく?」

 

 

隣にいる希美が、スーパーの野菜コーナーで野菜の入った袋を持っていた。

私は彼女の言葉に頷いて、カゴに入れる。

 

日常を過ごす表面を取り繕いながらも、内面では思考を巡らせる。

 

 

『運が良くなる』だけではない。

それは彼の『異能』の側面に過ぎない。

もっと大きな……この世界の法則を捻じ曲げる強い力の一端だ。

 

その力は無敵だ。

異能の出力さえ上がれば、何者だって負けはしない。

 

主人公に相応しい、並外れた力。

 

だからこそ、和希が……彼の力が必要なのだ。

この世界には……彼の力が。

 

私だけじゃない。

希美だけでもない。

 

多くの人のために、彼の力が要る。

 

 

私にも対処出来ないような、大きな邪悪に打ち勝つには……彼が。

 

 

だから──

 

 

「稚影ちゃん?」

 

「ん?どうしたの、希美ちゃん?」

 

 

カートを押しながら、私は希美に笑い掛ける。

 

 

必要なのは過程だ。

望むべき結果のために、私は過程を作り上げなければならない。

彼の心を折り、絶望を植え付け、力を強めていかなければならない。

 

 

「稚影ちゃん……疲れてるの?」

 

「……ううん、別に?でも、どうしたの?」

 

 

笑い掛ける。

薄暗い景色は彼女には見せたくない。

 

ただ安らかに、平和に生きていて欲しいだけだ。

 

 

「……稚影ちゃん。何か困った事があったら言ってね?悩みでも、私が聞くから」

 

「うん、ありがとう」

 

 

希美は……良い子だ。

人の心配が出来て、優しくて、可愛くて、それで……。

 

 

「稚影ちゃんは私の……大切な家族だから」

 

 

恥ずかしげもなく、そうやって私の欲しかった言葉を掛けてくれる。

 

……私には勿体無い。

本当に、勿体無い。

私には、私なんかには。

こんな、血と、臓物と、傷と、悲鳴が入り混じった私の、私、私が──

 

 

「うん、私にとっても……希美ちゃんは家族だよ」

 

 

私は、笑った。

後悔も、懺悔も、今は必要ない。

 

ただ、この掛け替えのない日常を失わないために……守るために。

 

私は、どんな残虐な事もできると、そう思った。




次回は2/12 23:00予定です。


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6話:特別な貴方へ

「死ね」

 

 

『剣』を突き立てる。

生暖かい液体が、男から溢れる。

悲鳴を上げているようだが、耳には入れない。

 

 

「死ね、死ね、死ね」

 

 

何度も突き立てる。

ざくり、ざくりと穴が空く。

男は身を震わせて、失禁した。

 

もう、悲鳴は上げる事も出来ない。

 

踏み付けて……『剣』を振り上げる。

 

 

「死ね、死ねっ、死ねっ!」

 

 

血よりも赤い色をした『剣』を、振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

僕の父……望月 正人が死亡してから、二年が経った。

 

啓二さんが僕と希美の保護者となり、僕は『総合探偵社アガサ』……つまり、結衣さんの探偵事務所でアルバイトをしている。

……中学生の頃は労働基準法的にコソコソとしていたけど、僕ももう高校一年生だ。

公にバレても問題なくなった。

 

さて、探偵事務所でのアルバイトだけど……異能関連の事件は起こっていない。

あの日から、死体を溶解される連続殺人事件も起こらなくなった。

 

目的を果たしたからか……何故なのか。

不審に思いつつも、人が死なないのは良い事だと胸を撫で下ろした。

 

なので、僕は結衣さんの助手をしているけど……実際にやってる事は迷子の動物を探したり、不倫調査だったり……そんな、命の危機もない調査ばかりだ。

結衣さんの『異能』は尾行や、調査に有用だ。

 

……あんまり、僕が役に立っている気がしない。

 

 

『異能』関係といえば、日課のトレーニングに剣技の練習を取り入れた。

本を読んでの練習で、指導なんかもされてないけど……。

 

そうして、二年の月日が流れて。

 

 

 

 

今日、ついに──

 

初めて、『異能』関連の事件へ、足を踏み入れる。

 

 

「和希、朝飯は抜いたか?」

 

「……何でですか?」

 

 

結衣さんの言葉に、首を傾げた。

 

 

「死体を見るのは初めて……ではないだろうが、慣れてはいないだろう?」

 

 

結衣さんの気遣うような言葉に驚く。

何というか……結衣さんは、その……我が強く、個人主義みたいな所がある。

人を気遣うイメージがなかった。

 

 

「現場を吐瀉物で汚されたら、堪らないからな。吐いたら、お前を蹴る」

 

「結衣さん……」

 

 

上がった株は、一瞬で暴落した。

まぁでも、そんな事だろうと思った。

 

僕は物々しい黄色と黒のテープを潜り……事件現場へと入る。

場所は公衆便所……男子トイレだ。

 

……誰かいる。

人影は一つだけだ。

 

 

「……あ、啓二さん」

 

「ん?……和希くんと、結衣か」

 

 

啓二さんが、青いビニールシートの前にいた。

鼻に、むせ返るような焦げた肉の臭い。

 

床のタイルを見れば、赤黒く変色している箇所が複数あった。

血にしては、黒過ぎる。

 

 

「啓二、退け」

 

 

結衣さんが『剣』を発生させながら、ビニールシートの前に立つ。

ビニールシートは山のような形を作っている。

そして、恐らく、その下は……死体だ。

 

結衣さんの持つ『剣』が、脈打つ。

彼女は目を瞑っていて……能力を行使している。

 

物の過去を見る力。

それは生物には無意味だが……その生物が着用している衣服から見れば良いだけの話だ。

見える『物の記憶』は昔であれば昔であるほど、見え辛くなる。

今は早朝……犯行は恐らく、昨日の深夜だ。

 

 

どれだけ見えるのか、それは──

 

 

「……チッ」

 

 

結衣さんが『剣』を消滅させた。

それを見た啓二さんが口を開いた。

 

 

「……少しは見えたか?」

 

「多少はな……犯人の容姿までは分からなかったが」

 

 

結衣さんが、ビニールシートに手を触れる。

そのまま少し、捲れば──

 

 

「うっ」

 

 

大量の刺し傷、切り傷……しかし、それらが霞む程に異常な死体があった。

 

黒く、変色していた。

焼け焦げて体の中心は炭化している。

 

焼死体だ。

焼け焦げているのは胸の部分と、左足だ。

 

 

「啓二、お前の考えている通りだ。これは『能力者』による犯行だ」

 

「……引火性の化学物質の痕跡は出ていなかったからな。これほどまでの火力が出せるのなら、何かしら痕跡が残る筈だ」

 

 

つまり、焼死体に化学薬品の痕跡も残っていない……そこから、『異能』による殺人事件だと予想したのだろう。

 

啓二さんが死体に視線を向けた。

……僕は結衣さんに視線を向けた。

 

 

「『発火能力(パイロキネシス)』って奴ですか?」

 

「そうやって固定観念で決めつけない方がいい……『異能』の性質は人によって異なる。全くもって同じ能力は存在しない」

 

 

結衣さんが、ため息を吐いた。

 

 

「例えば、だ。『炎を作る能力』、『物質を発火させる能力』、『物を火に変える能力』、様々な物が存在する。決めつけて掛かれば、足元を掬われるぞ」

 

「す、すみません」

 

 

思わず謝って、一歩引く。

結衣さんがしゃがみ込んで、遺体に顔を近づける。

 

 

「……遺体の発火元は胸元と左足。範囲は極小……しかし、炭化させるほどの高熱。服の燃焼具合から、短時間で瞬間的に焼き焦がしている」

 

 

視線をずらし、公衆便所の床を見る。

 

 

「燃え移った箇所はなく、発火元に収束している……」

 

 

結衣さんは鼻を鳴らして、天井を見た。

電灯が光っている。

 

結衣さんはそれを訝しむように見て、啓二さんへ視線を戻した。

 

 

「啓二、被害者に何か特筆すべき点はあるか?」

 

「……そうだな、素行はあまり良くなかったらしいぞ」

 

「フン、そんなもの。見れば分かる」

 

 

僕も遺体を見る。

思わず、顔を顰めて……なるほど、確かに。

偏見かも知れないけど、あまり真面目そうには見えない。

 

 

「名前は柏木 隼人、22歳、フリーター。配偶者はなし。母親と父親は存命だが、一人暮らし。近所からの評判はあまり良くなかったそうだ」

 

「大した情報ではないな。他には?」

 

「彼の知人が一人、先週死亡している」

 

 

結衣さんが目を細めた。

 

 

「ほう……これと同様の死に方か?」

 

「いいや……だが、火災による死亡だ。車に乗車中、突然の発火。原因は不明……乗用車の製造元では設計不良疑惑のリコールが起きる大事となった」

 

 

その話は僕も知っていた。

連日、テレビで放送されていたからだ。

 

 

「つまり、事故として片付けられたと」

 

「そうなるな……だが、間違いなく、今回の件と同一犯だろう」

 

「だろうな」

 

 

結衣さんが立ち上がり、首を捻り、肩を鳴らした。

 

 

「その発火事故……いや、事件の映像は残っているか?」

 

「ドライブレコーダーに映像があった……しかし、火元は全く見えなかったぞ」

 

「『異能』による発火か?」

 

 

そうだ。

『異能』ならば一般人には見えず、カメラにも残らない。

この事件の『異能』が『火を創り出す能力』なら、辻褄が合う──

 

僕がそうかんがえていると、結衣さんが考え込むような表情をした。

 

 

「……いいや、それなら……啓二、ドライブレコーダーの映像を見せろ」

 

「手元に持ってる訳ないだろ、署に戻らないと」

 

「なら、後で見せろ。それと、コイツらの交友関係を洗い出せ」

 

「……はいはい」

 

 

結衣さんは人使いが荒い。

それは僕もよく分かっている。

 

探偵業で扱き使われているからだ。

だけど、彼女はそれ以上に自分でも動く……だから僕は文句を言わない。

 

啓二さんも、きっと同じだろう。

疲れたような表情をしながら、頷いていた。

 

啓二さん、多分事件発生から直ぐに呼び出されて……深夜からずっと調査してたんだろうなぁって。

 

そして、結衣さんが僕の方へ顔を向けた。

 

 

「和希は……いや、今はいい。特に出来る事はない」

 

「えっ」

 

 

結局、僕は何の役にも立っていなかった。

ただ死体を見に来ただけの──

 

 

「和希くん、勘違いしなくていいよ」

 

 

そう、声を掛けてくれたのは啓二さんだ。

 

 

「勘違い、ですか?」

 

「そうさ、これは結衣なりの思いやりで──

 

 

ばしんっ!

と乾いた音がした。

 

結衣さんが啓二さんの足を蹴った音だ。

 

 

「うっ、痛っ」

 

「そんな事は言ってない。勝手に深読みをするな、バカが」

 

 

結衣さんは啓二さんを罵倒しつつ、僕に近づいて来た。

 

 

「お前の出番はまだだ。大詰めの時こそ、お前には働いてもらう」

 

 

そう言って、僕の肩を叩いた。

 

 

「お前はよくやってる。安心しろ」

 

「あ、ありがとうございま──

 

「肉体労働は全部、お前に任せるつもりだ」

 

「結衣さん……」

 

 

上がった株がまた、暴落した。

 

 

少しして、鑑識の人達が戻って来た。

啓二さんの……というか、所属している警視庁七課の権限で退けていたのだろう。

 

僕は他の人に見られない内に現場を後にして、結衣さんは啓二さんへと着いて行った。

 

鼻に焦げついた肉の臭いと、血の臭いが残っていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

教室で、僕は欠伸を一つした。

今日は早朝から起きていたから、少し……いや、かなり眠い。

 

 

「おう。眠そうだなぁ、和希」

 

 

友人である沢渡 雄吾が声を掛けて来た。

……中学生の頃から、この腐れ縁は続いている。

 

高校に上がっても同クラスだし、何だかんだ言って……まぁ、稚影を除けば一番仲の良い友人だ。

 

 

「あぁ、まぁ……今日は、ちょっとな」

 

「だろうな?分かるぜ?」

 

 

分かる?

僕の事情を知らない筈の沢渡に、眉を顰める。

 

 

「何てったって、今日は『あの日』だろ?」

 

「どの日だよ」

 

 

さっぱり分からなくて首を傾げる。

何か行事でもあったか?

しかし、脳裏のカレンダーは白紙だ。

普通の平日の筈……。

 

 

「バレンタインデーだろうが」

 

 

……あぁ、そっか。

 

 

「……どうでもいい」

 

「あ?お前は余裕があって良いよなぁ……俺はなぁ、俺は……クソッ」

 

 

そう言えばバレンタインデーだったか。

いやしかし、本当に興味が1ミリも無かった。

 

 

「毎年、二個は確定してるもんなぁ……お前は」

 

「……まぁ、そうだけど」

 

 

僕は毎年、二人からチョコレートを貰っている。

その内訳は──

 

 

「妬ましい……あんな可愛い妹と、幼馴染がいるなんてよぉ……」

 

 

そう、希美と稚影の二人からだ。

毎年バレンタインデーには義理チョコをくれるし、ホワイトデーは代わりに家事を全部請け負っている。

 

 

「別に……義理だし、どうでも良いだろ?」

 

 

そういうイベント日だ。

別に、何も特別な日じゃない。

 

 

「お前、マジで……マジ……いつか、刺されて死ぬぞ」

 

 

沢渡の表情は、恐ろしい物を見るような目だった。

何だよ。

 

コイツまた変な勘違いをしてるのか?

僕と希美は血が繋がってなかろうが兄妹だし、稚影は……多分、そういう感情を僕に抱いてない。

 

 

くだらない話をしていると、離れた席が騒がしくなっている事に気付いた。

 

 

「……何だろう?」

 

「ちょっと行こうぜ」

 

 

沢渡に腕を引っ張られ、連れて行かれる。

いや、マジで今眠いから勘弁して欲しいのだが。

 

そこでは──

 

 

「あ、和希」

 

「……何してるんだ?稚影」

 

 

稚影が小さなチョコのバラエティパックを開けていた。

そして、薄く笑った。

 

 

「いやぁ、チョコ配ろうかなって」

 

「何でだよ」

 

 

そこにクラスの男子どもが群がっていた。

女子からチョコレートが欲しくて堪らないバカと、貰えるなら貰っておこうという余裕のある奴……その二種類だ。

 

 

「円滑なコミュニケーションのためにね……はい、沢渡くん」

 

 

そう言って稚影が、沢渡にチョコレートを渡した。

 

 

「う、お、ぉお、おっ」

 

「……そんなに嬉しいか?」

 

 

変な声を上げる沢渡に目を細めつつ、稚影に視線を移した。

そして、机の上にあるチョコレートを手に取ろうとして──

 

ぺしっ、と。

 

稚影に叩き落とされた。

 

 

「ダメ、和希にはあげないから」

 

「……え?何で?」

 

「何ででも。いつまでも貰えると思わない方がいいよ……今年はあげないから。もう高校生だし」

 

「え?」

 

 

思わず、変な声を出すと稚影が鼻を鳴らした。

 

 

 

「そうやって貰えて当たり前って態度、良くないよ」

 

「あ……それは……ごめん」

 

 

稚影は目を合わせてくれなかった。

怒ってる……のだろうか?

何故だろうか?

 

何かしたか……いや、何もしなかったからか?

 

 

「その、稚影──

 

 

分からなくて、訊こうとして──

 

 

チャイムが鳴った。

教師が教室のドアを開けて入って来て……僕は慌てて、自席に戻った。

 

何でだ?

何か、彼女の気に触るような事をしただろうか?

 

いや……彼女は「高校生だから」なんて言っていた。

勘違い、されたくないからだろうか……いやでも、義理チョコは配っていたのに。

 

 

「……和希、お前、楠木さんに何かしたのか?」

 

 

そう沢渡が訊いてくるけど、何かをした覚えはない。

あったら、もう謝っている。

 

僕は頭を抱えながら、授業を受ける羽目になった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

俺と結衣は、警察署の一室でスクリーンに映された動画を見ていた。

今朝、死体が発見された柏木 隼人の友人……その事故死した時のドライブレコーダーの映像だ。

 

 

「……ここか」

 

 

突然、ボンネットが発火し、車体が炎上する。

男の慌てた声から数秒後、レコーダーの映像が真っ黒になった。

 

 

「啓二、他車両からの別視点はあるか?」

 

「あぁ、前方車両のものと、後方車両のものだ」

 

 

映像が切り替わり、被害者の車両の前後が見える。

 

 

やはり、突然の発火。

 

前兆はない──

 

 

「……啓二、そこ、ゆっくりに出来るか?」

 

「あ、あぁ?」

 

 

ドライブレコーダーの映像を二分の一倍速にして流す。

しかしやはり、突然、発火したようにしか見えない。

 

 

「……やはり、か」

 

 

しかし、結衣は何かに気付いたように頷いていた。

 

 

「結衣、何か分かったのか?」

 

「貸せ」

 

 

手元にあったプロジェクターと繋いでいるノートPCを渡す。

結衣がシークバーを操作して、止めた。

 

 

「ここだ」

 

「……ん?」

 

 

映像が一瞬……本当に、一瞬だけ、白く染まっていた。

俺は首を傾げる。

 

 

「……何だこれ」

 

「白飛びだ」

 

 

結衣が再生ボタンを押すと、直後に車両のボンネットが発火した。

つまり、この……白飛び?が原因という事か?

 

 

「白飛び……って何だ?」

 

「光の感度を実際の光量がオーバーすると発生する現象だ」

 

 

結衣がスマートフォンを取り出して、上へ向けた。

そして、直後、その画面を俺に見せて来た。

 

録画モードで撮っていたようだ。

 

 

「見ろ。私は今、天井の蛍光灯を撮った」

 

「そう……だな?」

 

 

意図が読めない。

 

そんな俺を放っておいて、映像はループする。

何度もカメラが蛍光灯へ移動する。

 

 

「啓二、暗い場所から明るい場所に急に出れば……お前はどうなる?」

 

「それは……目が眩む、とかか?」

 

「デジタルカメラも同じだ。光の感度を自動で制御している物が多い……急激に明るい物を見れば、感度の調整が済むまでの間、白く染まる」

 

 

確かに……スマートフォンに映っている映像では、蛍光灯を中心に真っ白になっていた。

 

 

「これが白飛びだ。それが、この映像でも発生していた」

 

「……なるほど?それが、つまり……何が言いたい?」

 

 

俺はズレた眼鏡を指で直し、結衣に視線を向けた。

 

 

「急激な光の発生……そして、それはカメラに映っている。『異能』その物ではなく、『異能』によって操られた光だ」

 

「光?」

 

「そうだ。犯人の能力は『発火現象』なんかではない」

 

 

結衣が獰猛に笑った。

 

 

「啓二、少し無茶を頼めるか?」

 

 

それはもう、本当に楽しそうに笑っていた。

 

普段から彼女の無茶な願いを受けている自覚があるが……そんな彼女がいう『無茶』。

一体全体どんな事を頼まれるのかと……俺は頬をヒクつかせた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

放課後になった。

僕は部活動に参加していない……帰宅部だ。

 

だから、帰ろうと下駄箱を開けて──

 

そして……直後、背中を叩かれた。

 

 

「何で先に帰ろうとしてるの?」

 

「……稚影」

 

 

驚いて、身をすくめた。

今朝、人の死体を見たばかりで……少し、臆病になっていたのかも知れない。

 

僕は息を深く吐いて、口を開いた。

 

 

「いや、稚影が……その……」

 

「まぁ、いいけどね。一緒に帰ろっか」

 

 

……てっきり、怒っていると思ったから……先に帰ろうとしていたなんて、そんな情けない事を言いそうになった。

 

帰りは二人っきりだ。

希美はまだ、中学三年生……場所も時間も異なるからだ。

「あと一年早く産まれるか、稚影ちゃんが同い年なら良かったのに!」と愚痴っていた。

 

 

校門を出て、帰路を歩く。

いつも通り、仄かに笑顔を浮かべる稚影に首を傾げる。

 

怒っていないなら……何で、チョコレートをくれなかったのだろうか。

そう思うと胸の奥がモヤモヤする。

 

別に、チョコレートが欲しい訳じゃない。

だけど……それでも、稚影が僕にチョコレートをくれなかった理由は知りたかった。

 

 

「和希?」

 

 

ふと、声が聞こえた。

隣の稚影からだ。

 

……二人で並んでいるのに、無言な事を不審に思ったのだろう。

普段は適当に世間話とか、してるし。

 

 

「……なぁ、稚影」

 

「なに?」

 

 

耐えられなくなって、僕は情けない質問を……口にする。

 

 

「……何で、チョコレートくれなかったんだ?」

 

 

そう訊いて……稚影から視線を逸らした。

怖かった、恥ずかしかったからだ。

 

しかし……。

 

 

「ふふっ」

 

 

笑うようの声が聞こえて、視線を戻した。

稚影は手を口元に抑えていた。

 

 

「……何で笑うんだよ?」

 

「いや?そんなにチョコが欲しいんだ、って」

 

 

そう言われると……何だか、揶揄われてる気がして苛つく。

しかし、渡すのも渡さないのも、彼女の自由だ。

僕が勝手に勘違いして貰えると思って……勝手に落胆してるだけに過ぎない。

 

そう考えると、今の僕はかなり情けない事を言ったんじゃないか?

 

 

また、稚影が笑った。

 

 

「チョコ、欲しいんだ?」

 

「まぁ……」

 

「どうでも良いんじゃないの?」

 

 

その言葉に、僕は口を噤んだ。

聞き覚え……いや、言い覚えがあった。

 

 

「……聞いてたのか?僕と、沢渡の会話」

 

「まぁね」

 

 

大きな声で話していなかった。

寧ろ、こそこそと話していた筈だ。

 

それなのに聞こえていたらしい。

そして、その内容は……。

 

 

「ごめん、稚影」

 

 

毎年、彼女達が楽しそうにチョコレートを料理しているのは見ていた筈だ。

それなのに、どうでも良いなんて……言い過ぎだ。

 

沢渡に見栄を張るために、言って良い言葉じゃなかった。

 

 

「……ふーん?」

 

 

稚影は鼻を鳴らして……そして、頬を緩めた。

 

 

「いいよ、許してあげる。まぁ、本心じゃないって知ってたし」

 

「……ありがとう、稚影」

 

 

稚影が数歩、僕より進んで振り返った。

その顔に浮かべている笑顔を見て……僕は、動悸がした。

 

そして、カバンを開けて何かを取り出そうとした。

 

 

「じゃ、ちゃんと反省できた和希には、チョコを贈呈します。ありがたく受け取ってね」

 

「あ、あぁ……ありがとう」

 

 

稚影がカバンから取り出したチョコレートを、僕に手渡した。

だけど、それは先程配っていたチョコレートとは違った。

 

 

「……これ」

 

「何?毎年手作りだよね?何か変かな?」

 

 

それはチョコレートが挟まったマカロンだった。

それが数個入ったビニール袋は、リボンでラッピングされていた。

 

 

「……いや、変じゃないよ。綺麗だ」

 

「だよね。可愛く出来たと思うもん」

 

 

稚影が笑顔を浮かべて、僕の隣に戻って来た。

でも、あれ?

 

教室で配っていたチョコレートは義理だと言っていた。

それなら、こうやって態々、手作りで作ってるのは……。

 

いや、違う。

勘違いするな……自惚れるな。

 

 

「それにしても、和希もチョコ欲しがるなんてね」

 

 

思考を中断し、稚影に視線を戻す。

 

 

「……稚影からのは欲しいんだよ」

 

「へ?」

 

 

思わず漏れた言葉に、稚影が首を傾げた。

僕は顔を熱くなっていく感覚があった。

 

慌てて、首を振る。

 

 

「ほら、稚影は、その……家族、みたいなものだし。貰えないとちょっと、寂しいなって」

 

「あー、まぁ確かに?私も希美ちゃんから貰えなかったらショック受けちゃうからね」

 

 

何とか誤魔化せたけど、誤魔化せてしまうのが悲しかった。

だって、それは稚影が……全く、僕の事を男だと意識してないって事じゃないか。

 

ため息を吐いた僕を見て、また稚影が笑った。

 

 

「さ、早く帰ろっか。希美ちゃんも待ってると思うよ?」

 

 

スカートを翻して、稚影が笑う。

彼女は……高校生になって、容姿が凄く、大人びた。

 

可愛らしさの中に、女性らしさ、というのか……そういうのが垣間見えた。

意識しないようにしないと、どうにかなってしまいそうだった。

 

体格も……僕のような男とは全然違う。

華奢な姿に、僕は──

 

 

首を振った。

僕のその考えは、今の関係を壊してしまうものだ。

考えては、ダメだ。

 

僕は前を歩く稚影に追いつく為に、少し、早足になった。

 

二人で笑いながら、帰路を歩く。

僕の……いや、僕達の家に、帰るために。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

『居場所を教えてくれて、ありがとう』

 

 

暗闇の中、スマートフォンの画面だけが光っていた。

私は指を走らせる。

 

 

『ううん、大丈夫だよ』

 

『次の人も、どうすれば良いか教えて欲しい』

 

『勿論だよ。だけど、少し待ってね』

 

『ありがとう』

 

 

一定時間で消えるタイプのメッセージアプリを使って、私はやり取りをする。

頬を緩めて、スマートフォンを机に置いた。

 

鏡に写る私の姿を見る。

紫色の髪は以前より少し伸びた。

希美に伸ばした方が可愛いからと言われたからだ。

 

化粧は……まだ、下手だけれど、少しずつ練習をしている。

高校の制服、そのボタンを外す。

 

するりと、床へブレザーが落ちる。

リボンを緩めて、椅子にかけて……カッターシャツを脱ぎ捨てる。

 

下着姿になって、ベッドに寝転がる。

 

天井を見る。

光の灯っていない電灯を見る。

 

静寂が支配する暗闇の中で、スマートフォンのバイブ音が鳴った。

 

手に取って、上に掲げる。

 

希美からのメッセージだ。

私は頬を緩めて、いつも通りの『稚影』を演じる。

 

演じる?

 

そうだ。

私の本性はドス黒く、邪悪なものだ。

だから、ああやって笑っている私は……いや、そんなの……違う。

 

どちらが本当の私なのか、そんな事は重要じゃない。

 

何をするか、何を為せるか、それだけだ。

 

深く、息を吐く。

肺に入っている空気を全て吐き出そうとした。

 

息苦しくなって、咳き込む。

タオルケットで身を包み、蹲る。

 

 

「……和希」

 

 

今日の彼を思い出した。

 

きっと、死体は見た筈だ。

それでも、彼は気丈に振る舞っていた。

私の事を気に掛けるほどの余裕はあった。

 

それは──

拙い。

 

恐怖に対する耐性が出来ている。

それは喜ぶべき事ではない。

 

彼の『異能』を強める事への障害になる。

『剣』は心を外面に剥き出しに固形化したもので、『異能』は心の発露だ。

それらの力を強めるためには……強靭な『心』が必要だ。

 

だから、傷付けなければ。

断ち切って、断ち切って、断ち切って……より、太くしなければならない。

 

断ち切り辛くなるという事は……それだけ、強いハサミが必要になるという事だ。

 

恐怖を、絶望を、苦痛を……より、強く。

強く……今よりも、強く。

 

 

「……和希、和希……」

 

 

私は身を捩り、布団に顔を埋める。

 

 

「ごめん、なんて……」

 

 

今日、少し意地悪をした。

そしたら彼は、申し訳なさそうに謝って来た。

 

ごめん、と。

 

 

「違う、私は……私の方こそ」

 

 

何が『許してあげる』だ。

どの面を下げて言ってるんだ。

 

私が、私は、私は私は、私は、そんな、事を言える立場か?

違う、違う、違う!

 

私は彼を騙して、傷付けている。

そんな私が……何を許すというのか。

 

 

「ごめん、ごめん、なさい……和希」

 

 

頭がおかしくなりそうだ。

いや、違う。

 

もう、とっくに頭はおかしくなっている。

私は支離滅裂の狂った殺人犯だ。

 

そんな人間が、何を。

 

 

「…………和希」

 

 

彼は……私の事が好きだ。

今でも、好きで居てくれている。

 

それを嬉しいと思ってしまっている自分がいる。

受け取れない和希の恋心を愛でてる屑がいる。

 

私は……犯罪者で、嘘吐きで、元男で、何もかもが彼とは釣り合わない。

 

なのに……何故、どうして?

 

私は、一体、何なんだ?

 

 

ベッドから転がり落ちて、手元に『剣』を呼び寄せる。

 

 

「はっ、はぁっ、はぁ……」

 

 

息を荒げながら、能力を行使する。

 

脈打つ。

 

体の中の臓物が、『剣』の紫色の脈が脈打つ。

 

目を閉じて、集中する。

 

自身の身体を弄って、神経伝達物質を分泌させる。

ストレスを緩和し、落ち着かせるための物質を。

 

だけど──

 

 

「足りない……足りない……足りない」

 

 

行使する。

 

脈打つ。

 

行使する。

 

脈打つ。

 

行使する。

脈打つ。

 

行使する。

行使する行使する行使する。

 

そして──

 

 

「げほっ、ごほっ!」

 

 

思考に靄がかかり、私は『剣』を地面に落とした。

砕けて、ボヤけて、『剣』が消滅した。

 

私の中に、戻ったのだろう。

無くなった訳ではない。

一時的に体の外で維持出来なくなっただけだ。

 

 

「はぁ、はぁ……」

 

 

私は、依存している。

自分の『異能』に……そして、暖かな日常にも。

 

 

フラフラと立ち上がり、冷蔵庫を開ける。

コップに水を入れて、飲み干す。

 

熱っていた身体が冷えていく。

 

それと同時に、思考も冷えていく。

 

 

「……ふ、ふふ」

 

 

もう、問題ない。

 

大丈夫だ。

私は……もう、大丈夫だ。

 

未来のために、進んでいける。

どんな選択肢でも、必要ならば選んでいける。

 

 

スマートフォンを手に取り、チャットアプリを起動する。

指を走らせて、頬を緩める。

 

 

「……今度の出し物は、ちょっと危ないかもしれないから……」

 

 

スマートフォンを置いて、鏡を見る。

汗で濡れた肢体が写る。

 

顔は笑っていた。

 

 

「和希には頑張って貰わないとね」

 

 

笑えていた。

 

私は足を後ろに下げて、キッチンの前に立った。

そこには……希美と作ったマカロンがあった。

焼け焦げて、見た目が悪くなってしまった自分達で食べる用のマカロンだ。

 

 

あぁ、そういえば。

 

 

……バレンタインのマカロンには、少し、特殊な意味がある。

 

 

マカロンは少し、高級なお菓子だ。

だから、特別な日にしか食べないようなお菓子。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこから、紐付いて──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『貴方は特別な存在』と──

 

そんな意味が込められていた。

 




次回は来週!


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7話:暗闇を彷徨う

遅刻して、ごめんなさい。


私は、幸せだった。

 

 

「お姉ちゃん!」

 

 

可愛くて聡明な妹と──

 

 

「穂花」

 

 

優しい母と──

 

 

「穂花……」

 

 

優しい父──

 

 

「お姉ちゃん」

「穂花」

「穂花」

 

 

家族がいた、5年前までは。

 

 

 

目が覚めた時、全てを失った。

全てだ。

 

住む家も、家族も、思い出も、全部。

何もかもを失った。

 

今でも思い出す。

朦朧とする意識の中で聞こえるサイレンの音を。

 

炎の熱を。

 

妹の、悲鳴を。

 

 

 

放火だった。

一夜にして、寝ている間に……炎が全て奪った。

 

犯人は誰も教えてくれなかった。

未成年だったからと、そう聞かされた。

 

 

何だそれ。

 

何だそれ。

 

何なんだ。

 

 

私は顔を大きく火傷した。

右半分は溶けて、ケロイド状になった。

見た人間全てが避けるようになった。

 

私は、もう……誰からも愛されなくなった。

 

 

なのに、私の家族を殺した奴らは、今もどこかで生きている。

 

 

許せない。

 

許せる訳がない。

 

 

なのに、どれだけ頑張っても、私は犯人を見つけられなかった。

報復しないようにと、警察も情報を隠していた。

 

 

意味が分からない。

頭を掻きむしった。

火傷で弱った頭皮から髪が抜け落ちる。

母譲りの綺麗な髪が、父に褒められた髪が、妹が好きでいてくれた髪が。

 

一人、怨嗟の声を垂れ流しながら、私は生きていた。

忘れようと思っても、火傷の痕が忘れさせてはくれなかった。

 

痛みが、痒みが、熱が──

私に憎悪を思い出させてくれた。

 

 

気付けば、幻覚が見えるようになっていた。

 

視界に『剣』が映っていた。

 

私はそれを手にした。

 

 

妄想は現実を侵食していく。

私は現実を書き換えられるようになった。

 

なんとも自分に都合の良い妄想だと思った。

私は、妄想を抱えながら社会復帰を果たした。

 

顔の火傷が痛む度に、恨みや怒りを増幅させながら私は生きていた。

 

 

『許せないなら、殺せば良いよ』

 

 

そのメッセージが目に入った時、私は驚いた。

 

顔を人に見せたくない私の趣味は……動画配信だった。

内向的だった妹が好きだった、ゲームをプレイしながら声を充てるような趣味だ。

そんな仕事にはできない、趣味の動画……その視聴者からのプライベートメッセージだった。

 

配信で、ふと溢してしまった「許せない人がいる」という言葉に対する回答だ。

 

 

『冗談でも人を殺すなんて言ったらダメだよ』

 

 

私は薄笑いしながら、そう返して──

 

 

『冗談じゃないよ』

 

 

と返事が来た。

 

時々、こういった視聴者がいる。

私が女性だから、何でも同意するような……そんな視聴者だ。

 

 

「どうせ顔を見たら、気持ち悪がる癖に」

 

 

そう小さく呟いていると、通知音が鳴った。

 

 

『貴方の家族と妹を殺した犯人、教えてあげようか?』

 

 

目を、疑った。

すぐに指を走らせる。

 

 

『何の話かな?』

 

『私は全部知ってるよ、上坂 穂花』

 

 

息も忘れて、端末を食い入るように見る。

何を言ってる?

冗談の筈だ。

 

何で、知ってる?

 

 

『変な事を言わないで』

 

『あなたも剣が見えるんでしょ?』

 

 

手が、震える。

 

また、通知音が鳴った。

 

 

『私も見えるの』

 

 

また、通知音が──

 

 

『私達、良い友達になれると思わない?』

 

 

それはきっと、悪魔の囁きだった。

私の封じ込めていた悪意が、怒りが、恨みが溢れ出した。

 

きっと、きっかけは何でも良かったのだ。

私はずっと、この怒りを解放できる時を探していた。

この出来事がなかったとしても、私はいつか壊れていた。

 

それが少し、早まっただけなのだろう。

 

 

 

私は……笑っていた。

煮えたぎる心を、痛みに震える火傷した皮膚を押さえ込むように。

 

 

 

 

それから私達は、メッセージが一定時間経つと消える高セキュリティのチャットアプリを使って会話していた。

何でも、裏バイトとか非合法な話をするのに打ってつけなんだとか。

 

私の知らない世界だったけど、私の話し相手は詳しかった。

 

そして、自身を『Aすけ』と名乗っていた。

えーすけ……えいすけ?

きっと本名ではないのだろう。

 

だとしても、彼……いや、きっと彼女は……私の唯一の理解者だった。

 

『Aすけ』は私の力の使い方を教えてくれた。

『剣』と『異能』について……そして、私の『異能』を使った殺害方法を。

 

彼女は何でも知っていた。

バレにくい殺し方も、『異能』の使い方も、警察も『能力者』の存在を認識している事を。

 

そして、私の家族を焼き殺した犯人の居場所も。

殺した理由すらも。

 

……主犯の男は、私の妹の事が好きだったらしい。

だけど、振り向かれず、こっ酷く振られたらしい。

 

妹は真面目な女の子だった。

その男は不良……いや、屑だった。

釣り合わなかった、当然だ。

 

その屑は……3人集まって、私の妹に報復したと言うのだ。

逆恨みで、私の家族は死んだのだ。

 

 

何だそれ。

何だそれ、何だそれ。

 

意味が分からなかった。

 

 

だけど、私の怒りは殺意に成った。

私の中に残っていた小さな倫理観は消え去った。

 

 

まず、一人目。

私は朝の出勤ルーチンを狙って、焼き殺した。

死んだ妹と同じ苦痛を味わって欲しかったからだ。

奴の行動パターンは『Aすけ』から教わっていた。

車内から逃げる間もなく、焼け死んだらしい。

ざまぁみろ。

 

次に、二人目。

夜中に尾行して、公衆トイレに入った所を見て後ろから突き刺した。

逃げようとする男の足を『異能』で焼き、動けなくなった所で散々苦しめてから、『剣』で滅多刺しにした。

凄く、気持ちよかった。

 

 

そして、三人目。

そいつがリーダーだった。

『Aすけ』から送られてきた住所を元に、少し離れた場所で私は待機していた。

彼が家を出たタイミングで『Aすけ』が教えてくれるらしい。

 

『Aすけ』の『異能』は遠距離で『目』を作る能力と聞かされていた。

実際、目玉に羽根が生えただけの気持ち悪い虫が飛んでいる所を見た事があるし、真実なのだろう。

 

何日も張り込んだ。

バレると厄介だから、離れたホテルを取って待っていた。

 

彼は共犯者どもの死から、自身が狙われている事を自覚しているらしい。

中々、家から出てこない。

 

しかし、人間は世間と繋がらなければ生きていけない。

 

 

いずれ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜、奴が家を出たと『Aすけ』から連絡があった。

私は泊まっていたビジネスホテルから出て、急ぐ。

 

端末には奴の現在地が定期的に送られてくる。

 

この時のために土地勘を養ってきた。

辺り一体を歩き回り、準備してきた。

 

人通りの少ない場所も……よく、知っていた。

 

彼が行ったのはコンビニだった。

公共料金の支払いか……どうしても、出なければならなかったのだろう。

 

奴は黒っぽいフードを被っていた。

顔を見せないようにしているつもりだろうか。

 

私は待ち伏せする事にした。

 

 

 

そして──

 

 

 

『剣』を召喚し、奴の帰路で待っていた。

 

やがて、黒いフード姿の男が通り過ぎた。

私は背後から追いかける。

 

別に、警戒されてもいい。

その時は……逃げる背中を私の『異能』で焼けばいい。

そして、動けなくなった所を殺せばいい。

 

 

薄暗い夜空の下、街灯だけが照らし……足音のみが響く。

 

人の姿はない。

確実に()れる。

 

私は、『剣』を持ち上げて──

 

瞬間、フード姿の男が振り返った。

 

 

そいつは、私の妹を殺した──

 

 

「……違う」

 

 

若い。

 

若かった。

 

妹が死んだのは5年前だ。

当時、妹は16歳。

犯人は少なくとも20代を越えている。

 

しかし、そこに居たのは……少年。

10代中盤の少年だ。

 

 

その少年は緊張した様子で私を見ている。

そして何故か……片目を閉じている。

 

無関係?

違う、その服装は私が殺したい奴と同じ服装だ。

 

どこで入れ替わった?

……コンビニの中で?

 

そもそも、何故?

 

 

「……誰?」

 

 

疑問を口にしながら、『剣』で地面を叩く。

甲高い音がした。

 

一瞬、目の前の少年の視線が剣先に移った。

 

……見えてる。

 

間違いない、コイツも『能力者』だ。

『Aすけ』が言っていた……私や『Aすけ』以外にも、この街には『能力者』が複数いると。

 

それが……コイツ。

 

私の殺そうとした相手の服を着て、私の前に立っている。

守ろうとしてるのか……あの男を。

 

 

つまり──

 

 

「私の邪魔をするつもり?」

 

 

『剣』を横にズラす。

アスファルトの地面と接触し、擦れるような音が鳴り響く。

 

 

「邪魔するなら……」

 

 

人を殺したのは、まだ二度しかない。

だけど、その二度の経験が『殺し』に対するハードルを著しく下げていた。

 

初めは、私の妹を殺した相手さえ殺せれば良かった。

 

 

だけど、今なら──

 

邪魔をする相手なら、私の敵なら──

 

 

「殺すわ、貴方も」

 

 

『剣』を持ち上げて、『異能』を発動する。

『剣』が脈打ち、震えて……宙に半透明の結晶が浮かび上がった。

 

それは半円形の形をしていて、街灯の光を受けて光を乱反射させる。

 

 

「焼き殺して──

 

 

直後、少年の手元に携帯電話が握られている事に気付いた。

 

……何?

 

誰かと、連絡でも取ろうとして──

 

 

瞬間、周りの街灯から光が失われた。

 

 

「……え?」

 

 

私は思わず、声を漏らす。

辺りは暗闇に包まれた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「奴の能力は『光』だ」

 

 

結衣さんがそう言った。

 

 

「一度目の殺害現場は日中だった。犯行がバレやすくなるリスクを背負ってまで、日中だったのは何故か?二度目の殺害現場で態々、灯りのある公衆便所を選んだのは何故か?」

 

 

幾つかの映像を切り取った写真、そしてA4のレポート用紙にまとめられた情報が机に並べられた。

 

 

「『光』が必要だったからだ。それはつまり、自身で『光』を出力できない証拠だ」

 

 

結衣さんが一枚の紙を指差した。

 

 

「つまり、犯人の能力は『光』を『操る』能力。生み出す能力ではないし、火を司る能力でもない」

 

「それじゃあ、死体が焼けてたのは……」

 

「光を収束させ……増幅させて、焼いた。収斂火災という言葉を知っているか?」

 

 

結衣さんがペットボトルを窓際に置いた。

太陽光が収束し、紙に光が反射する。

 

 

「ガラス、水晶、レンズ、水……そういった物で光を収斂させ、このまま放置し続ければ……発火する事もある」

 

 

結衣さんがペットボトルを手に持って、蓋を開けた。

水を口にする。

 

 

「黒い物など光を吸収しやすいものにすれば、より簡単に発火し……火災に発展する。この国でも、年間二桁は発生している。それほど身近な現象だ」

 

「そう、なんですか……?」

 

「理科の実験で、レンズで光を収束させて紙を焼いた事ぐらいあるだろう」

 

 

なるほど、理解して頷くと結衣さんが笑った。

 

 

「犯人の目星は付いている。能力の種も割れた……捕えるぞ」

 

「え、でも……どうやってですか?」

 

 

走っている車を発火できるような『異能』だ。

そんな能力を持っている相手を生身で捕らえるなんて──

 

 

「私が何の策もなしに話すと思うか?いいか──

 

 

 

 

 

 

 

 

その数日後、僕は次の標的となっている男と、コンビニで服を交換した。

 

 

容疑者の名前は『上坂(うえさか) 穂花(ほのか)』。

23歳、女性……現在の職業はコールセンターでのオペレーター。

5年前の放火事件で顔に大きな傷を負っているのが……特徴だという。

 

その放火事件を起こしたのが、当時未成年だった……今は無精髭を生やした目の前の男だ。

 

 

「た、頼む、あのイカれた女を何とかしてくれよ……」

 

 

そう、縋るように僕に言ってきた。

 

未成年が起こした事件として、実名報道もされず……こうして、のうのうと生きている。

 

こんな奴……助ける価値はあるのか?

分からない。

 

だけど……人殺しはダメだ。

これ以上、殺させたくなかった。

 

出会った事もない相手だけど……ある日、いきなり家族が失われたとしたら……僕もきっと、犯人を殺そうとする、かも、知れない。

それはつまり、僕だって……そうなってしまう可能性があるって事だ。

 

だけど、止めない理由にはならない。

 

結衣さんの言葉を思い出す。

 

 

『最初は狙った相手を殺していくだろう……だが、一度でも『殺し』をしたら……いつでも、『殺す』という選択肢がソイツに付いて回る。何か不快なことがあった時に、『殺せば』良いと考えてしまう』

 

 

僕は息を深く吐いて、男の前から立ち去った。

 

容疑者はきっと……異常な人間ではない。

きっと、僕と同じような普通の人間だったんだ。

 

それが……突如、大切なものを壊されて……『そう』なってしまったんだ。

 

止めなければならない。

……彼女のため、と言うつもりはない。

 

これ以上、誰かを殺させたくない……そう思ってしまった僕を納得させるためだ。

 

誰かを殺そうとしている人がいて……僕にそれを止められる術があるのなら、僕は止めたい。

それだけだ。

 

 

結衣さんと一緒に探偵業をしていて、困っている人達を沢山見てきた。

そして、何人も助けてきた。

 

安堵した顔、感謝の言葉、そういったものが……僕の心を育ててきた。

 

単純だけど、見て見ぬフリが出来ないだけの……僕の、信念。

 

 

 

 

 

 

それに従って……今に至る。

 

 

目前には、上坂 穂花……穂花さんが居た。

手には『剣』。

 

僕に気付いて、穂花さんが『異能』を行使した。

『剣』が脈打って、頭上にレンズが出来た。

 

……キラキラと輝いている。

光を吸収しているように見えた。

 

ドーム状に成形されたレンズで光を収束し、増幅させて発射する能力。

それが彼女の『異能』の正体だ。

 

やっぱり、結衣さんの推測は正しかった。

 

僕は、携帯電話で結衣さんにメッセージを飛ばした。

合図だ。

 

 

瞬間、辺りの街灯が消えた。

 

 

「……え?」

 

 

穂花さんが声を上げた。

 

 

これは結衣さんが啓二さんと連携し……警視庁七課の権力を活用して、辺り一体の電源を遮断するように管理会社へ連絡を取った結果だ。

 

ただ、停電させていられるのも5分が限界らしい。

 

それに結衣さんは変電所に居て、啓二さんも離れた場所で待機している。

ここは僕一人で対処しなければならない。

 

啓二さんが居ない理由は……何でも、未成年を自身の監督下で殺し合いさせているのが拙いからだとか。

直接的な関わりはなく、通報があったから現場に急行した……という体を取らなければならない。

 

だから、近所の交番に居るらしい。

立場のある大人は大変だ。

 

 

……目の前の出来事に集中する。

 

僕は暗闇に目を慣らすために閉じていた片目を開ける。

 

ギリギリだけど、見える。

慣らした甲斐があった。

 

そして、今日は曇りだった。

星も月も見えない……そんな日を敢えて選んだんだ。

だから、本当に光は殆ど存在しない。

 

穂花さんの能力は、光が一定量なければ使えない。

 

 

僕は『剣』を出して、穂花さんに踏み込んだ。

 

 

切先を……横にズラす。

峰打ちで良い。

 

昏倒させられれば……殺さなくても良い。

 

僕は『剣』を横に持って、彼女に振り上げて──

 

 

「ひっ」

 

 

悲鳴を上げながらも、彼女は自身の『剣』を持ち上げて──

 

 

 

 

『剣』同士が衝突し、鈍い音がした。

 

 

 

 

 

瞬間、脳に火花が散った。

 

 

「うぐっ!?」

 

「あっ!?」

 

 

恐怖、怒り、困惑、焦り。

 

そういった感覚が手を通して、脳に伝わる。

ビリビリと、刺激が走る。

 

自然に……ではなく、強烈に、感情が引き出されている感覚。

 

それは痛みを伴って、脳へ送り込まれてくる。

原因は『剣』同士が接触した事だろう。

 

 

「あ、が……痛っ……!」

 

「な、によ、これ!?」

 

 

……結衣さんが言っていた。

 

『剣』は『能力者』の心の発露だと。

身体の外に心を具現化した武器だと。

 

それらが衝突したせいで……きっと、恐らく、穂花さんの心が『剣』を通して、逆流してるんだ。

 

彼女の感じている、恐怖が。

怒りが、焦りが。

 

僕には感じられた。

 

 

「うあっ!?」

 

「きゃあっ!?」

 

 

弾かれて、僕と穂花さんが地面に転がる。

剣を持ってない方の手で頭を触る。

 

痛い。

他人の感情が逆流したせいで、僕の脳のキャパシティを、オーバーした、の、だろうか。

 

頭を振る。

 

彼女の持っている負の感情が、僕の脳を焼き焦がしたんだ。

 

地面に手を付いて、立ちあがろうとする。

『剣』を握る手が震える。

 

彼女の感じている『怒り』が理解できてしまった。

 

そして……僕に対する『恐怖』も。

突如、同じ能力を持った相手が目の前に現れたんだ……それは、怖い、だろうな。

 

 

「……上坂、穂花さん!」

 

 

暗闇で、僕は彼女に声を掛けた。

 

 

「僕は、殺そうとなんか、してない……!貴方を止めたいだけなんだ!」

 

「なん、なのよっ!」

 

 

穂花さんが声を荒げた。

 

 

「意味分かんない!意味分かんない!意味分かんない!何で邪魔をするの!?何で殺させてくれないの!?何で、何で……!」

 

 

僕より先に彼女が先に立ち上がった。

 

暗闇でよく見えなかった顔が、目に映る。

 

右半分は焼けて、溶けて、表情がなかった。

だけど、もう半分は──

 

 

「何で、敵意がないのよ……アンタ……!?」

 

 

泣いてる。

 

怖がってるようでもないし、怯えるようでもない……ましてや、悲しい訳でもないだろう。

 

……僕の感情が逆流したんだ。

それで……何故、泣いてるんだ?

 

だけど、今が好機だと分かった。

彼女を説得するには今しかない。

 

 

「まだ、まだ止まれる!もう、これ以上、人を殺したらダメだ!おかしくなってしまう!」

 

「私は殺さなきゃならないの!」

 

 

彼女が『剣』を振り上げて、地面を叩いた。

 

 

「アイツらが生きてるだけで、私は前に進めない!家族のためなんかじゃない!私が生きるために、アイツらは邪魔なのよ!」

 

 

彼女が懐に手を伸ばして……携帯電話を手に取った。

 

 

「だから──

 

 

拙い!

 

 

「邪魔するなら死ね!」

 

 

携帯電話のフラッシュが焚かれた。

 

空中に浮かんでいたレンズが光って──

 

 

瞬間、全てがスローに見えた。

死の間際で、凄く集中している証拠だ。

 

 

どうする?

あの攻撃は光の速さで着弾して、物を焼く。

それは車体の表面を焼いて、発火させるほどの熱量だ。

 

だけど、その能力を行使するのは彼女の意思だ。

彼女が発射しようとした瞬間に、狙った場所から避けられれば良い。

 

攻撃は直線上。

前方から、僕に向けてだ。

 

避けなきゃならない。

 

 

右か、左か。

 

 

『二択』だ。

 

 

僕は──

 

 

僕は──

 

 

 

僕の握っている『剣』が脈打った。

 

 

「くっ!」

 

 

咄嗟に右へ、半身避けた。

 

光は僕のすぐ左を通り過ぎて、背後にあった石壁を焼き焦がした。

着ていた黒いフードが焼け焦げて、穴が空いた。

 

 

「……何が?」

 

 

僕は今……何をしたんだ?

何の『異能』を行使したんだ?

 

分からないけど……避けられた。

 

焦げた上着を脱ぎ捨てて、僕は彼女に向かって接近する。

 

 

「あ、いやっ!近寄らないでよ!」

 

 

彼女は後退りしながら、携帯電話を触った。

また、フラッシュが焚かれた。

 

 

僕の持っている『剣』が脈打つ。

 

僕は滑るようにしゃがみ込んで……頭上を光が通り抜けた。

 

 

「なんでっ、当たらないのよ!」

 

 

肉薄する。

 

フラッシュを焚いて、能力を行使できる程の距離が残っていないのを悟ったようで、彼女が『剣』を薙いだ。

 

僕は『剣』を持ち上げて、接触させた。

 

 

「きゃあっ!?」

 

「ぐ、ぅっ!」

 

 

また、脳に感情が走る。

だけど、さっきのように隙は晒さない。

 

分かっていれば……苦痛が来るのだと分かっていれば、耐えられる!

 

僕は『剣』で押して、穂花さんの持つ『剣』を弾いた。

 

単純な腕力は僕の方が上だった。

 

そして、彼女は脳に逆流した感情に驚いたようで握力が緩んでいた。

 

『剣』は弾かれて、地面を滑った。

 

手から離れれば、『異能』を行使し続けられない。

 

頭上にある水晶のようなレンズに、ノイズが走る。

そして、まるで元から無かったかのように消滅した。

 

僕はそのまま、穂村さんに掴み掛かって……地面へと押し倒した。

 

顔が、近付く。

 

 

「や、やだっ!やめてよっ!」

 

 

子供のように泣きじゃくりながら暴れようとする。

 

 

「僕は貴方に、危害を加えるつもりは……!」

 

 

諭すように、勤めて優しい声を出そうとする。

彼女の膝が、僕の背中にぶつかった。

 

息が詰まる。

 

 

「……なん、なによ。何なのよ、アンタ!誰よ!?」

 

「僕はただ……これ以上、殺して欲しくないだけなんです……!」

 

 

そう、顔を合わせて言う。

半分溶けた表情が、困惑に歪む。

 

 

「……何で、何を、何が……」

 

 

人を殺すのはダメだ。

 

それは僕の根元にずっとある価値観。

ごく普通の価値観で……僕を形成する一つ。

 

僕は母親を二度も亡くした。

本当の母親と、二番目の母親。

 

どちらが死んだ時も、僕は悲しかった。

苦しかった。

 

人が死んだら……誰かが悲しむ。

そう、幼心に刻まれた。

 

寿命でもない不当な理由で誰かが死ぬのは……悲劇だ。

だから、悲劇を生み出す殺人はダメだ。

 

ダメなんだ。

 

人を殺して平気になってしまったら、悲劇を積み上げるようになってしまう。

幾つも悲劇を重ねて……それを省みず、生きるのは……ダメだ。

 

 

「お願い、だから……」

 

 

縋るように、言葉が漏れる。

 

直後、電灯に光が灯った。

5分、経ってしまったのだろう。

それでも、彼女はもう『剣』を握ってはいない。

『異能』は行使できない筈だ。

 

……光に照らされて、彼女の顔がよく見える。

困ったような表情をしていた。

 

 

「……何で、私に……!私を……私から、目を逸らさないの?」

 

「何でって……?」

 

「私、顔……怖くないの?気持ち悪くないの?」

 

 

彼女の言葉に、僕は悟った。

 

5年前から続く、彼女の苦しみや……疎外感。

それは『剣』が衝突した時に読み取れた。

 

彼女もきっと、僕の感情を読み取ったのだろう。

 

だから……こうして、僕の話を聞いていてくれるんだ。

 

 

「怖くない……気持ち悪くなんかない……」

 

「…………」

 

 

僕の言葉を嘘だと、そう否定はしなかった。

『剣』によって逆流した感情から、僕の言葉が本当なのだと、納得してくれるようだ。

 

 

「悲しいとは思えても……それを理由に嫌悪する事はないよ……」

 

 

驚いたような目で僕を見上げていた。

 

 

「何で、もっと早く……」

 

「……穂花さん」

 

「何でよ、何で……私、は……!」

 

 

カチャリ、と何か、音が聞こえた。

 

それは彼女の手元から聞こえた音だ。

 

 

 

その手には『剣』が握られていた。

 

 

何で……!?

さっき、『剣』は弾いて……違う!

 

新しく作り出したんだ。

吹き飛ばされた『剣』を心の中に戻して、また作り出したんだ。

 

拙い。

僕の経験の浅さが招いてしまったミスだ。

 

 

「私はそれでも、止まる事なんか出来ないのよ!」

 

「穂花さん……!」

 

「気安く名前で呼ばないでよ!私の事、何も知らない癖に!」

 

 

頭上に、レンズが浮かび上がっていた。

 

焼かれる!

もう街灯は点灯してしまっている。

 

先程のフラッシュから生み出される一瞬の攻撃とは違う……幾らでも、攻撃する事ができる。

 

回避、出来るわけがない!

 

これを止めるには……今すぐ、彼女を殺さなければ……ならない。

 

『剣』を握る手が震えた。

 

無理だ。

間に合わない。

 

躊躇してしまった。

 

レンズが光り輝く。

 

 

「私はアイツらを絶対に殺さなきゃならないの!アンタがどんな善人だろうと、私が殺し

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぷぎゅっ」

 

 

変な、声が聞こえた。

僕は、視線を下げた。

 

 

「……あ」

 

 

穂花さんは、膨らんで……顔、が。

膨らんでいる……?

 

まるで、風船のように、先程までの表情は読み取れない程に。

 

 

そして──

 

 

「穂花さっ──

 

 

爆ぜた。

 

顔が崩れて、脳漿をぶちまけた。

目が地面を転がった。

 

歯が、舌が、頭蓋骨すらも……柔らかく、溶けながら、砕けた。

 

 

「……あ」

 

 

突如、目の前で……人が、爆ぜた。

 

血と臓物をぶち撒けて、物言わぬ骸になった。

骸……いや、そう呼ぶ事すらも躊躇うほど、無惨な姿になった。

 

トマトのようだと、少し思った。

潰れたトマトのような色が……僕の足元に、広がって──

 

 

「う、ぅぷっ」

 

 

強烈な酸っぱさが喉を焼いた。

吐き気だ。

 

だけど、それを無理矢理飲み込んで……僕は数歩、後ろに下がった。

 

 

さっきまで話していた相手が……死んだ?

 

 

「……ぐ、何で……」

 

 

違う。

 

僕には分かっている。

 

この死に方には見覚えがあった。

親父を殺した『異能』だ。

 

『剣』を強く握って、周りを見渡す。

 

 

「……く、そっ」

 

 

目を凝らして、警戒する。

何処かに居るはずだと、そう思って……探す。

 

 

「何で……何で殺したんだ……!」

 

 

穂花さんは……確かに、許されないような事をしていた。

人を殺すのは、どんな理由があってもダメだ。

 

だけど、だからこそ……殺されて良い訳がない!

 

 

「くそっ……出て来い!卑怯、者……!」

 

 

声を出して、周りを威嚇する。

靴に血が付いている。

 

顔も出さずに、何人も、何人も殺している連続殺人鬼。

 

何故か、僕に干渉してくる殺人鬼。

 

許せない。

野放しにはできない。

 

いつか、僕の周りの大切な人を……希美や、稚影を傷付けるかも知れない。

 

だから……。

 

 

「くそっ……!何で……!」

 

 

僕は奴を捕まえなければならないのに。

 

 

「足が……」

 

 

震える。

力が入らない。

 

膝を突いて、尻餅をつく。

 

さっき、僕の『剣』は脈打っていた。

何かは分からないけど『異能』を使っていた証拠だ。

 

『異能』を使えば疲労が溜まる……らしい。

 

だから疲労で、足腰が立たなくなっているのか?

 

 

それとも──

 

 

「く、ぅ……何で……そんなに簡単に、人を殺せるんだよ……!」

 

 

怖いから、なのか?

 

歯を食いしばって、必死に涙を堪える僕の耳に……遠くから、パトカーのサイレン音が聞こえた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「もう、危ないなぁ……」

 

 

私は閉じていた目を開いて、足を組み替えた。

手元にある『剣』は脈打ち続けている。

 

上坂 穂花と和希の争いは、『目』と『羽』を生やした肉虫で監視していた。

 

 

だけど──

 

 

「ちょっと想定外かな」

 

 

和希は甘い。

 

原作ではもっと、人を殺す覚悟というか……無辜の人を守るためなら殺人を厭わない心持ちがあった筈だ。

 

なのに……『それ』がない。

 

 

和希に父親を殺させなかったのが原因か。

それとも、希美の存在が彼に人殺しを躊躇させるのか。

 

何故か……優しく……いや、甘く育ってしまった。

 

 

「困るなぁ……」

 

 

私の所為、だろうか?

彼に苦痛や難題を与えてるつもりになっているだけで、本当は……私も甘いのだろうか?

 

私は……兄の、影介の代わりにはなれないのだろうか。

 

 

「ううん、大丈夫」

 

 

首を振る。

 

可能性の話はここまでにしよう。

選ばなかった選択肢の話は必要ない。

 

必要なのは、これからだ。

 

 

「……和希が『童貞』なのが良くないのかな?」

 

 

勿論、言葉通りの意味ではない。

殺人の未経験者、という意味でだ。

 

 

「どうにか、経験させてあげたいけど」

 

 

殺人の経験者と、未経験者では咄嗟の判断で差が出る。

人を殺すという選択肢は、それだけ重い。

 

覚悟が必要だ。

自らで殺すという覚悟。

 

 

「……和希が、殺してしまいたいと思えるような相手が……要るのかな?」

 

 

そんな人間は……つまり、和希の大切なものを踏み躙った相手ぐらいでなければ……。

 

 

「…………」

 

 

胸元の……服のリボンを弄る。

 

何かを得るには、何かを犠牲にしなければならない。

和希が……このまま成長していけば、『能力』の出力は上がるかも知れない。

 

だけど……いつか……選択を誤ってしまうかもしれない。

 

その所為で和希が死ぬのは──

 

 

「……嫌だな」

 

 

私は『剣』を消して、髪をかき上げた。

 

今、考えても結論を出すのは難しい。

 

私は机に置いてある携帯を取る。

そのまま、ゴミ箱に投げ捨てた。

 

細心の注意を払ってるつもりだけど……万が一にでもバレたら、これまでの苦労が水の泡だ。

 

 

「処分しないとね」

 

 

明日の夜、また廃工場で焼けば良いだろう。

 

そう考えつつ、ゴミ箱に落ちた拍子に画面が点いた携帯電話が見えた。

 

上坂 穂花とのやり取りは……一定時間ごとに消える暗号化チャットツールで行っていた。

だから、履歴は残っていない。

 

データ上には……だけど、私の脳裏には残っている。

 

 

「まぁ……そこそこ、楽しかったかな」

 

 

彼女の信頼を得るために会話したり、それなりに親しくしたつもりだ。

だから、多少なりとも思い入れはある。

 

 

……最後の一人、残っちゃったのは……私が代わりに殺しておこうかな?

 

 

「ごめんね」

 

 

一つ、謝った。

 

最後、和希を殺すつもりがなければ……『異能』を使って殺すつもりはなかった。

今回の件は和希に実践経験を積ませたくて行った計画だった。

 

だけど、仕方ないか。

 

 

「選択を間違えた、自業自得かな」

 

 

そう、結論付けた。

 

私は彼女が『選択を間違えた』と断定したけれど……それは、きっと──

 

 

ううん。

 

私は大丈夫だ。

 

 

私の選択は……きっと。

 

 

和希と希美のために……なっている、筈だから。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「帰れ」

 

「う、え……?」

 

 

結衣さんと面を合わせた瞬間、そう言われた。

 

穂花さんが亡くなった現場は……今はもう、ブルーシートで覆われている。

啓二さんが来て、僕を遠ざけて……他の警官が来て、結衣さんが来た。

 

公的には、僕は第一発見者とされている。

状況を説明するにしても、突然爆発して死んだのだとしか言えないけれど。

 

啓二さんを除く警官から疑われてる……なんて、事はない。

未成年の子供がこんな、人を爆死させられる訳がないからだ。

 

じゃあ、どうしてこんな死に方をしたのか……なんて、普通の警官には分からないのだろうけど。

 

こういう時は啓二さんが、七課の権力で圧力をかけて有耶無耶にするのだろうか?

 

 

それはともかく……。

 

 

「帰れ……ですか?」

 

 

腕を組んで、現場を眺めている結衣さんに訊いた。

 

僕を一瞥する視線は……鋭い。

 

 

「今、お前がここに居ても出来ることはない」

 

「だけど──

 

「いいから、帰れ」

 

 

そう言い切って、また視線をブルーシートに戻した。

 

結衣さんは来て早々、穂花さんの持っていた携帯電話に対して『異能』を行使した。

だけど、あまり有益な情報は得られなかったらしい。

 

 

「結衣さん……」

 

 

僕が縋るように呼ぶと……結衣さんに睨まれた。

 

そして、僕に近づいて来て……小突いた。

 

 

「良いか、一度しか言わないからよく聞け」

 

「え、あ、はい……」

 

 

神妙な顔で……いや、嫌そうな顔で結衣さんが口を開いた。

 

 

「和希、お前はよくやってる。今回の件も、普段からも」

 

 

だから、その中身は意外だった。

 

 

「あまり、無理をするな。自分を卑下するな……今は帰って休め。もう限界だろう?」

 

「そんな事は──

 

「何だ?私の目が節穴だと言いたいのか?」

 

「あ、いえ、それは──

 

 

僕が慌てて弁明しようとすると……結衣さんの頬が緩んだ。

 

いつものような獰猛な笑みじゃない。

まるで安心させるような笑みだった。

 

 

「……結衣さん?」

 

 

思わず、僕が名前を呼んで……結衣さんは自分の口元を手で隠した。

笑顔を見られるのを嫌がっているように見えた。

 

 

「……私や啓二はまだ、やるべき事がある。自力で帰れるか?」

 

「え、あ……はい、大丈夫、です」

 

 

膝に手を当てる。

 

さっきまで本当に立てなかったし、歩けなかったけど……今はもう大丈夫だ。

時間が経って、疲労からも回復した。

 

 

 

 

 

結衣さんと別れて、啓二さんにも帰ることを伝えて……結局、誰にも引き止められる事なく、帰路を歩く。

 

 

街灯だけが照らす、僕の住む街。

 

ここには、僕を知っているけど、僕は知らない殺人鬼が居て……。

 

僕に執着している。

不安が胸で渦巻く。

 

 

目の前で死んでしまった……救えなかった、助けられなかった女性の顔を思い出す。

 

怯えていた。

怖がっていた。

 

なのに……。

 

 

「僕は……」

 

 

あの時、父親が死んだ時から、『剣』を手にして……強くなった筈なのに。

 

それでも、助けられない。

 

未だに……あの連続殺人鬼の影すら踏めていない。

この街の何処かで、今も──

 

 

「…………」

 

 

肉体も、精神も限界だ。

 

今すぐ横になって眠りたい欲に駆られている。

 

現実は恐ろしい出来事や、辛い事が多過ぎるから……せめて、眠りたい。

 

歩いて、歩いて……稚影の家の前を通った。

 

 

「……稚影」

 

 

希美と稚影。

妹と幼馴染。

 

二人は……僕の日常だ。

 

『異能』とか『剣』とか、そんな物騒な事とは無関係で……僕が唯一、安らげる場所。

逃げ込んでしまいたくなる。

 

歯を、食い縛る。

 

強く、挫けそうになる心を奮い立たせて、僕は歩く。

 

疲労や、恐怖、悲しみには負けたくない。

 

負けたら……きっと、僕は……彼女達を守れない。

 

 

「僕が……守るんだ……」

 

 

『異能』を使う殺人鬼に、警察は無力だ。

それはもう僕にだって分かっている。

 

だから、僕が守らなきゃならない。

いざという時に助けてくれる人は居ないから。

 

 

「僕が……頑張らないと……」

 

 

 

 

 

 

 

そして、足を進め続けて……ようやく、家に着いた。

 

ズボンのポケットから、鍵を取り出す。

小さなマスコットが揺れる。

 

稚影が昔……出先で買って来たお土産だ。

それを揺らしながら、僕はドアに鍵を差し込んで捻った。

 

ドアを開けて……家に入って、後ろ手で閉める。

 

疲労のあまり、深く息を吐いて……玄関先で倒れ込む。

 

……誰かの足音が聞こえる。

 

 

「え……あっ、お兄ちゃん?」

 

 

心配するような希美の声が聞こえた。

僕は立ちあがろうとして、よろめいた。

 

そして……希美に抱き止められた。

 

僕の身体は希美よりも大きいから……僕が倒れないようにするには、結構、つらい筈なのに。

 

 

「希美……」

 

「お兄ちゃん……」

 

 

それでも……希美は不安そうな顔をしながらも、笑っていた。

そして、口を開いた。

 

 

「……お兄ちゃん……私、知ってるから」

 

 

その言葉に、僕は口元を歪めた。

彼女の言葉の節々に、心配するような気持ちが乗っていたからだ。

 

 

「本当は危ない事なんかして欲しくないけど……」

 

「希美……」

 

「でも、お兄ちゃんは……やらなくちゃって思ってるんだよね?」

 

 

僕は……頷いた。

 

 

「なら……うん、仕方ないかな」

 

 

諦めるように、そう呟いた。

 

 

「でもね、ちゃんと、帰る場所はあるから……何があっても、無事に帰って来てね、お兄ちゃん」

 

「……分かってるよ」

 

「絶対、絶対だから」

 

 

希美が僕を抱きしめた。

 

お互いに歳を取って、こうやって抱きしめられるのは……随分と久し振りだと思った。

 

少し、鼻水を啜るような音が聞こえた。

 

希美は……僕が何をしているか詳しくは知らない筈なのに……それでも、心配で泣いてるんだ。

 

 

「……大丈夫だよ、希美」

 

「うん……」

 

 

強く、強く抱きしめられた。

 

僕が彼女に居なくなって欲しくなってないと思うと同様に、彼女達もきっと……僕に居なくなって欲しくないのだろう。

 

たった二人の兄妹だから……分かる。

 

きっと、希美だけじゃなくて、稚影も……。

 

 

「おかえり、お兄ちゃん……」

 

「うん、ただいま……」

 

 

辛い事も。

怖い事も。

 

沢山あるけれど……今はただ、二人、抱きしめ合っていた。

 

 

僕はきっと、幸せ者だ。

 

周りの人は、みんな、優しくて……。

 

だから、報いるんだ。

 

僕に『剣』が与えられたのはきっと……その力で、みんなを守るためにあるんだと……僕は、そう思った。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

私は今回の加害者……兼、連続猟奇殺人事件の被害者である上坂 穂花の携帯電話を手に取る。

血で汚れていて、思わず眉を顰めた。

 

 

「結衣」

 

 

啓二が私に声を掛けて来たのを見て、端末をビニール袋に戻した。

 

 

「勝手に証拠品に触るなと──

 

「妙だと思わないか?啓二」

 

「『異能』関連の事件は妙な事しかないな」

 

 

私は手を顎に当てる。

 

『異能』によって携帯電話の記憶を見た。

 

中身は見えなかったが、上坂 穂花は犯行直前まで熱心に携帯電話を弄っていた。

 

 

「……上坂 穂花が、昔の加害者達の居場所を知っていた理由は……協力者か?」

 

 

携帯電話は解析班に回されるだろうが、どうせ大した情報は集められないだろうと思っていた。

 

 

「……それに」

 

 

……どうして、こうもタイミング良く上坂 穂花と和希が争う現場に、『肉』の能力者が介入出来たのか?

 

協力者……そいつも『肉』の能力者か?

 

 

「……それなら」

 

 

頭の中にある断片的な情報を組み換えて、可能性が高いものを並べていく。

 

和希……父親……殺人鬼。

 

何故か、見逃された和希。

見せつけるように殺された父親。

発現した和希の『異能』。

 

 

「……和希を『異能』に目覚めさせる為だった」

 

 

なら、今回のは?

 

殺人鬼によって導かれた上坂 穂花。

そして、和希を殺そうとした直前に──

 

 

「……守っているのか?」

 

 

元々、殺人鬼側に穂花を殺す予定はなかったのではないか?

それなら何故……和希を殺そうとした瞬間に?

 

 

「……育てているつもりか」

 

 

自身でお膳立てした状況を作り出し、和希を戦わせ……彼の『異能』を育てている、という事か。

 

和希の『異能』は私には分からない。

何を起こしているのが、原理も結果も……。

 

だが……その力が実は、強力な能力ならば?

 

 

「……何が目的だ?」

 

 

顎を覆っていた手は、口元まで来ていた。

 

 

──おい、結衣!」

 

 

突如、言葉が聞こえて、そちらを見る。

啓二が呆れたような顔をしていた。

 

 

「何だ」

 

「何だ、じゃないだろ……呼んでいるのに返事もせずに」

 

「それだけ集中していたという事だ」

 

 

私は啓二に視線を戻して……その後、ドロドロに溶けた死体を一瞥した。

 

奴の『異能』の詳細は分からない。

だが、どうやら有効射程は広いらしいな。

 

触れてもいないのに……こんな殺し方が出来るなんて。

 

 

和希が『異能』に目覚めたのは、殺人鬼の所為だ。

そして、その『異能』を育てているのも──

 

 

いや、待て。

 

 

「……殺人鬼は何故、和希が『異能』に目覚める事を知っていた?」

 

 

記憶を遡る。

和希の証言の中に……私の『剣』を見る前に、何か言っていた筈だ。

 

……そうだ。

あの殺人鬼は和希に『『剣』を見せろ』と言っていた。

 

 

「……まさか、未来が──

 

 

 

 

未来が、視える?

 

 

 

 

「フッ、まさかな」

 

 

私は上着に両手を突っ込んで、啓二の後ろを歩く。

 

『未来視』がありえないと言っている訳ではない。

 

ただ『異能』は一人に一つだ。

殺人鬼は『肉』を操る異能を持っている。

 

だから、有り得ない。

 

 

それに……『未来視』は──

 

 

私は思考を振り払った。

無駄な事を考えている暇はないと、そう思った。



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8話:ざわめく心、錯綜する想い

上坂 穂花が死亡してから数ヶ月が経った。

 

それまでの間に私が何をしていたかと言えば……彼女が殺そうとしいた三人目……名前は……何だっけ?

まぁ、取り敢えず残ってたソイツを殺しておいた。

 

穂花の事は嫌いではなかった。

ただ、最後に少し和希を殺そうとした事が……ちょっと困るから殺して止めただけだ。

 

彼女の代わりに殺しておいてあげよう、と思うぐらいには……。

 

 

まぁ、もうこの話はどうでも良いかな。

 

 

私と和希は高校二年生になった。

そう、二年生だ。

 

つまり……ゲームの本編が開始する年度まで来てしまったのだ。

実際の開始タイミングは夏休みが終わってから……転校生のヒロインが現れてからだけど、私も感慨深い。

 

しかし、和希は……少し、成長不足に見える。

このままでは本編のハードな物語に付いていけるのかと思える程に。

 

あぁ、だってそもそも、ゲーム開始時点で和希は実の父親を殺し、覚悟が決まっていた状態で始まっている筈なのだ。

 

しかし、彼の父親を殺したのは私だ。

和希に人殺しの経験はない。

 

これはミスだ。

明確で、重大な私の失態。

 

 

この致命的な歯車のズレが、いつか……より、多くの何かを失わせるとしたら──

 

私は──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……目を開く。

 

朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。

布団を蹴って、立ち上がる。

 

 

パステルカラーのパジャマを脱ぎ捨てて、鏡の前に立つ。

……目の下に、隈。

 

右手に『剣』を作り出して、身体を弄る。

 

血管を弄り、強制的に血色を良くして……再度、鏡を見る。

 

うん、大丈夫だ。

 

 

『剣』を消滅させて、洗面所へ向かう。

 

水で顔を洗い、化粧水を手に取る。

……随分と、女性としての生き方に慣れてしまったな、と思う。

元々は男だった……筈、なのに。

 

そう考えながらも、手は止めない。

 

 

「うん、良い感じ」

 

 

スキンケアを終えて、鼻歌混じりにインナーを脱ぐ。

下着を身に付けて、カッターシャツに袖を通す。

 

春先用の薄手のタイツを履く。

スカートを履いて、最後に髪を整えれば──

 

 

いつもの、『楠木 稚影』の出来上がりだ。

 

 

朝食のパンを食べて、昨日のうちに用意しておいた学校の鞄を手に取る。

 

ローファーを履いて、外に出る。

 

 

日光が目に入り、少し眉を顰める。

 

 

さぁ、いつも通りの日常を謳歌しよう。

鼻歌を歌いながら、私は歩き出す。

 

 

いつもの集合場所に到着して、ベンチに座る。

手元のスマートフォンを弄りながら、待ち人を待つ。

 

 

「おはよー!」

 

 

少しして、少女の声が聞こえた。

 

……頬が緩んでいく感覚があった。

気持ちが高揚し、悩みなんてなくなりそうだ。

 

 

「おはよう!希美ちゃん!」

 

 

そう声を出しながら、希美と手を合わせる。

ハイタッチ、と呼ぶには少し優しいものだ。

 

目を輝かせながら、私に挨拶をする可愛らしい少女。

 

それは、私が守る事が出来た人だ。

私が……彼女の、義父を、殺し、て──

 

息を軽く吐いて、思考を切り替える。

そんな思考は『彼女の友人』である私には相応しくない。

 

今の私は『彼女の友人』、楠木 稚影だ。

そんな事を考える必要はない。

 

私は希美の後ろから小走りで寄ってくる少年の姿を見た。

……きっと、希美は私の姿を見て走ってしまったのだろう。

 

 

「和希も、おはよう」

 

「ん、あぁ……おはよう、稚影」

 

 

呼吸を荒くしながらも、にへら、と彼は笑った。

その笑顔に少し胸が締め付けられた。

 

私の──

 

いや、違う。

そんな事は考えなくていい。

 

三人で会話しながら、足を進める。

高校へ向けて、歩き出す。

 

……まぁ、正確には最寄りの駅に向かって、だけど。

 

 

「そうそう、稚影ちゃん。この辺で、不審者が出たんだって」

 

「不審者?」

 

 

希美の言葉に首を傾げる。

 

 

「何だか、若い女の子の後ろを追ってくるコート姿の男性がいるって……掲示板に書かれてたよ」

 

「へぇ、そうなんだ。怖いね」

 

 

内心、安心する。

きっと私の事ではないからだ。

 

……私は深夜に黒いレインコートで身を隠しながら、廃工場へ向かう事があるからだ。

 

その姿は見られないように『異能』も使って細心の注意を払ってるつもりだけど……まぁ、違うなら良いかな。

 

 

……ふと、和希の方を見る。

少し、心配そうな顔。

 

 

「どうしたの?和希」

 

「いや……何でも……?」

 

 

……本当に、彼は誤魔化すのが下手だ。

それも彼の良い所なのだろうけど。

 

そんな様子の彼を一瞥し、希美が口を開いた。

 

 

「お兄ちゃんは稚影ちゃんの事が心配なんだよ。私は一人で出掛ける事もないし」

 

「私が?」

 

 

和希を再度、見る。

 

……あ、そっか。

いざという時は『剣』でブチ殺せば良いと思ってたけど、和希にとって私は……守るべき、か弱き少女に見えるのだ。

 

 

「……ふぅん?」

 

 

それは何だか愉快に見えた。

心地よく感じた。

 

 

「な、なんだよ?心配したら悪いのかよ」

 

 

和希がそう言って、ぶっきらぼうな態度を取る。

照れてるんだ。

 

 

「ううん、別に?嬉しいなぁって」

 

 

これは本当だ。

心配は好意から来ている。

好意は私を肯定してくれている。

 

だから、好意を受けるのは……心配されるのも、好きだ。

 

 

「……そ、そうか?」

 

 

そんな私が揶揄ってるのかと思ってるようで、和希は顔を逸らしたままだ。

 

私は意図的に数歩、横にズレて和希に視線を合わせる。

 

 

「頼りにしてるよ、和希」

 

 

そう言って、彼の表情が照れから少し思い詰めるような表情に変わって、慌てて苦笑したのを見て……私は満足して頷いた。

 

和希と一緒にいると、本当に飽きない。

 

 

「稚影ちゃん、何の話?」

 

「んー?和希がね、私が外に出る時はエスコートしてくれるんだって」

 

 

そう言うと、和希が私の方へ視線を戻した。

 

 

「え?」

 

「え、じゃないよ?だって、心配してくれるんでしょ?」

 

「あー、うん、そうだな……うん、いいよ。ちゃんと、同行するよ」

 

 

悩むような仕草は一瞬だった。

本当は少し面倒だと思ってるんだろうけど、それでも心配が勝つのだろう。

 

……私は、穂花が死亡した後、和希が口にした言葉を覚えている。

私を……というか、連続猟奇殺人犯である『能力者』を警戒しているように見えた。

 

それもそっか。

だって、和希の周りで事件を起こしてるし……自分の周りに危害が及ぶかもしれない、って考えてるんだろうなぁ。

 

 

「ふふ……」

 

 

頬が緩む。

心は締め付けられるように痛いけど。

 

そんな私の様子を見て、希美が口を尖らせた。

 

 

「いいなー稚影ちゃん」

 

「何だよ、希美。別に……希美が外に出る時、いつも付いて行ってるだろ」

 

「そういう意味じゃないんだよね……もう」

 

 

希美がそう言いながら、私の腕を両手で挟んだ。

 

溌剌と笑う彼女に釣られて、私も笑顔を浮かべた。

 

 

どろり、と体の中で溶ける、暗い気持ちを隠すように……私は笑顔の仮面を取り繕っていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

僕が教室の椅子に座ると、前の席に男が座った。

 

 

「実際さ、和希……どっちが本命なんだ?」

 

 

僕の友人、沢渡だ。

言葉の真意が読み取れなくて、首を傾げる。

 

 

「……何の話だよ?」

 

「そりゃあ、希美ちゃんと楠木さんの、だ」

 

 

そこまで言われれば意味が分かる。

分かるからこそ……眉を顰めた。

 

 

「希美は妹だろ」

 

「あー、それは……ま、そうだな」

 

 

一瞬、『でも、血は繋がってないだろ』と思ったのだろう。

それでも、口に出さなかったのは……まぁ、それが僕にとって好ましくない言葉だと気付いたからだろう。

 

希美は妹だ。

血が繋がっていなくても、僕は兄だ。

それを疑われたり、否定されるのは許せない。

 

そして、そういった人の機敏に対して沢渡は聡い。

 

だから、早々に話を切り上げたのだろう。

コミュニケーション能力の高さは、彼の長所の一つだ。

 

 

「じゃあ、楠木さんか?」

 

「稚影は──

 

 

そんなんじゃない。

 

そう否定しようとした。

心の奥底では、彼女に対する恋心がある事は自覚している。

少し前から自覚していた。

 

そして、自覚してからは加速度的に大きくなっていく事を認識していた。

 

だけど。

それでも。

 

 

「そんなんじゃないよ。家族だから」

 

 

そうだ。

家族だ。

 

稚影は家族だ。

僕と、希美と、稚影は家族なんだ。

 

誰も血は繋がっていなくとも、僕達は家族だ。

 

その形を変えるのは……恐ろしい。

だから、僕から告白する事はないだろう。

 

 

「……なんつーか、お前、面倒な事になってるな」

 

 

察せられたのか、そうじゃないのか。

分からないけど、沢渡は苦笑した。

 

 

楠木 稚影。

 

彼女は年々、少しずつ女性らしくなっていく。

僕が歳を重ねて男らしくなっていくのとは反対に。

 

身体も丸みを帯びて……僕とはまるで違う生き物だ。

異性である事、それを嫌でも意識させられる。

 

だけど、この気持ちには蓋をする。

 

 

何も変わる必要はない。

今のままでも、僕達は充分に幸せなのだから。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

放課後、私は下駄箱で和希を待つ。

 

ふと、同級生の少女に話しかけられる。

 

 

「楠木さん、また待ち合わせなの?」

 

「うん、そうだよ」

 

「へー、頑張ってね」

 

 

同級生の少女が手を振って、私から離れていく。

学内に和希以外の友人もいる。

 

そして、彼女達は私と和希の仲を友人以上、恋人未満だと思ってる。

人の恋話に聡い歳頃だ。

 

誰も彼もが私達の関係に配慮してくれる。

恋の応援、みたいな事も考えてるらしい。

 

 

苦笑いする。

 

 

私と和希が恋人?

 

 

ありえないだろう、それは。

 

だって彼は……ゲームの主人公で、未来に運命のヒロインが居て──

 

私は性自認すらメチャクチャで、何人も人を殺してる連続殺人鬼で──

 

彼は優しくて。

私は自分勝手で。

 

カッコよくて。

浅ましい。

 

清らかで。

ドス黒く。

 

釣り合わない。

 

……だから、ありえない。

 

なのに──

 

私は──

 

 

「ごめーん、お待たせ!」

 

 

希美の声がして思考を振り払う。

……ダメだな。

 

一人でいると、思考がネガティブになってしまう。

 

 

「ううん、私もさっきまで友達と話してたから」

 

 

希美と共に、和希が現れる。

一年では同じクラスだったけど、二年から別クラスになってしまった。

 

 

「さ、帰ろ?」

 

 

三人で、帰路に着く。

 

花も散った桜の木。

ひび割れた石畳の地面。

千切れた雲、傾いた太陽。

 

オレンジ色に染められた、私達の日常の景色。

 

 

緩やかに景色が流れる。

この景色が好きだった。

 

夕焼けの中に居る、和希と希美の姿……それも含めて、私の好きな景色だ。

 

私の……守りたいもの。

 

 

ふと、希美が口を開いた。

 

 

「そう言えばさ、ちゃんと進路届けって出したの?」

 

 

視線は和希の方へ向いていた。

 

 

「ん?あぁ……まぁ、出したよ」

 

「そっか」

 

 

希美と和希の言葉に、私は首を傾げる。

和希の進路について二人は情報を共有してるのだろうけど……私は知らなかったからだ。

 

 

「何て書いたの?和希」

 

「えっと……まぁ、大学に行って……警官になろうかなって」

 

「……警察官に?」

 

 

思わず、足を止めて……和希を見た。

 

 

「ほら、啓二さんにもお世話になってるし……何というか、ちょっと憧れてるというか……」

 

「そう、なんだ……?」

 

 

止めていた足を進める。

顔は……和希から逸らす。

指を口元へ近付ける。

 

違う。

私の知っている、ゲームの和希とは違う。

 

だって彼は……そんな夢を持ってなかった筈だ。

それなのに、何で?

 

そもそも、和希が神永 啓二と面識があるのも……ゲームでは無かった話だ。

私が彼の父親を殺した所為、なのか?

 

……私が、間違えた、のだろうか?

違う。

 

どうしよう。

 

そんなの……だって……それじゃあ、私のしていた事は?

 

ゲーム通りに進める為にやってた事は?

 

もしかして、無意味に──

 

 

「稚影?」

 

 

和希に肩を叩かれた。

 

 

「……和希?」

 

「どうかした、のか?」

 

 

その表情は心配している顔だ。

……無理矢理、頬を吊り上げて笑う。

 

ダメだ。

私の思考を彼らに知られてはならない。

 

 

「ううん、ちょっとびっくりしただけ」

 

「そ、そっか……ごめんな、黙ってて」

 

 

和希は意図的に黙っていた訳ではないだろう。

ただ、言う機会がなかっただけ。

 

だから──

 

 

「……お詫びにプリン買ってくれたら許してあげる」

 

 

私は戯けて、そんな事を言った。

 

 

「あ、お兄ちゃん!私もプリン食べたい!」

 

「……はいはい、買ってくるよ。帰りにコンビニ寄るけど良いか?」

 

 

和希の言葉に、希美と共に頷いた。

そして、希美は笑いながら私の顔を一瞥した。

 

一瞬、その瞳に私を心配する感情が見えた。

 

……違う。

私はそんな顔をして欲しい訳じゃない。

 

二人には笑って欲しくて──

 

私は無理矢理、笑う。

 

締め付けられる胸を無視して、気を抜けば砕けてしまいそうな笑顔を浮かべて、私は彼等と共に歩く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し歩いて、駅に着いて……電車に乗って、家からの最寄駅に着く。

 

夕焼けを見ながら、私達は帰路を歩く。

 

そして、コンビニに到着した。

 

 

「希美と稚影は用事、あるか?」

 

 

そう和希が訊くから首を振った。

 

 

「ううん、ないよ?希美ちゃんは?」

 

「私もないかな。稚影ちゃんと、外で待ってるよ」

 

「あー……そっか。じゃあ、手早く済ませてくるよ」

 

 

和希がコンビニに入って、私と希美は駐車場の車止めに座り込む。

 

……そして、私は希美へ視線を向け、口を開いた。

 

 

「……何か、話があるの?」

 

「え?あ、えっと……バレた?」

 

 

希美が頭を掻きながら、笑った。

 

わざわざコンビニに入らず、私と二人っきりになろうとした事には意味があると……そう思ったからだ。

 

 

「……稚影ちゃんの進路、教えてくれない?」

 

「良いけど、別に和希がいても良かったんじゃない?」

 

「ん?んー……そうじゃなくてね、こう、学校に出す進路とは違って……今後、どうしたいか?とか?」

 

 

要領を得ない質問に、私は首を傾げた。

そして、そんな様子の私を見て希美は言葉を選びながら、質問を続けた。

 

 

「お、お兄ちゃんとね……将来的に、どうなりたいか……とか?」

 

 

その質問に、思わず目を細めた。

 

 

「別に?今まで通りで良いんじゃないかな?」

 

「そ、そうかな?そうだよね、うん、そうだよね」

 

 

慌てて取り繕っている。

私は小さく、息を吐いた。

 

つまるところ、希美は私が……和希と、『そういう』関係になるのか気になっているのだろう。

 

将来的に私が誰かと恋仲になり、結婚するに至った場合……私はもう和希の家に来れなくなるだろうと。

そう危惧しているのだ。

 

この状況を続けるには、私と和希が──

 

 

そう、希美は薄らとそれを望んでいるのだ。

 

 

「希美ちゃん」

 

「え?うん、何かな?」

 

 

私は頬を緩める。

 

 

「きっと、私は希美ちゃんの願いには応えられないと思う」

 

「……そっか、でも仕方ないよね」

 

「だけど、何があっても私達は友達……ううん、家族だから」

 

 

不安そうな顔をする希美の頭を撫でる。

優しく、愛おしく、撫でる。

 

 

「だから、大丈夫だよ」

 

「……うん、でも……私、やっぱり──

 

 

ふと、視線を感じた。

道路の先、コンビニの駐車場の外、敷地の外。

 

私は立ち上がって、そちらを見る。

 

……コートを着た男性。

帽子を深く被っていて、顔は見えない。

 

希美の言っていた不審者の情報が脳裏を過ぎる。

 

 

「稚影ちゃん?」

 

 

希美は状況を理解してないようで、立ち上がりつつも不安げな声を漏らした。

 

そして、私の視線の先にいる男性を見て……私の方を見た。

 

 

「べ、別に……変な人って決まってる訳じゃないから……そんなに身構えたら失礼だよ」

 

 

そう口にした。

 

確かに……希美からすれば、そうだろう。

不審者がいると聞いて、まさか自分の前に現れるだろうとは思わない。

他人事なのだ。

 

だけど、私は警戒していた。

……この男、何処か、足取りがおかしい。

 

不自然だと思った。

 

……いや、足が不自由なだけかも知れないと、その認識は片隅にあって……それでも警戒はやめない。

 

一歩、一歩と近づいて来る。

私は希美の手を引いて……コンビニの入り口から少し離れる。

 

……コートを着た男性の進行方向は、コンビニの入り口に向かって、だ。

 

ただの客……そう判断して胸を撫で下ろそうとした瞬間──

 

突然、コートを着た男性が駐車場の真ん中で膝から崩れた。

 

 

一瞬、私は思考が停止して──

 

 

「え?あっ……大丈夫ですか!?」

 

 

瞬間、希美が心配して前に出てしまった。

 

それは目の前で誰かが困っている時に、助けようとしてまう、彼女の善性。

知っていたのに、驚いて、反応が遅れた。

 

 

「待って!」

 

 

私が声を掛けて──

 

 

「え?」

 

 

男が立ち上がり──

 

コートの下には──

 

刃物?

 

 

「……っ」

 

 

咄嗟に『剣』を出そうとして……止めた。

背後、コンビニに和希がいる。

 

もし、万が一見られたら?

 

この生活は終わる。

三人の日常は終わる。

 

それどころか……和希や、希美に嫌われる?

 

でも、だけど、希美は助けないと。

 

嫌われても良いから、助けないと。

 

だけど──

 

 

「稚影ちゃ──

 

 

まだ状況を理解してない希美の手を、強く引いた。

そして……庇うように前に出て──

 

 

じくり、と痛みが腹に突き刺さった。

 

 

「あっ」

 

 

刃物が……刺さった感触だ。

私は尻餅をついて、男を見上げる。

 

その男の目から、血が流れていた。

 

 

「う、ぁ……」

 

 

知っていた。

この事件を……この人間を。

後ろにいる『能力者』の存在を。

 

知っていたのに……今更、気付いた。

 

 

視界が揺れて……希美の、悲鳴が聞こえて……そして──

 

男は、私の血が付いた刃物を再度振り上げて──

 

 

「稚影!」

 

 

声が聞こえた。

誰の……和希の声だ。

 

和希は『剣』を握っていて……そのまま、男を弾いて──

 

私は意識を失った。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

僕は『剣』を呼び出して、コートを着た男を『殴』った。

 

そうだ、斬ったんじゃない。

 

『剣』を刃を倒して、腹で殴った。

といっても、『剣』は硬く、大きく、長い凶器だ。

殴ったとしても、相当の衝撃があったのだろう。

 

結果的に男は転がって、倒れた。

 

 

すぐ後ろ……白いカッターシャツを血で滲ませる稚影の姿があった。

 

 

「うっ……」

 

 

苦悶の表情を浮かべて、腹を押さえてる稚影の姿。

それを見て……僕は脳裏に、幾つもの見てきてしまった、死体が脳裏に過って……体温が一気に下がっていく事を自覚した。

 

瞬間、下唇を噛んで痛みで無理矢理、混乱を振り払う。

 

怯えた表情で、青ざめた顔で腰を抜かしている希美を見て……僕は声を出した。

 

 

「希美!救急車と警察を呼んでくれ!」

 

 

僕の言葉に気付いて、希美が慌てて携帯電話を取り出した。

彼女も驚いて混乱してしまっていたのだろう。

 

だけど、あの様子ならきっと大丈夫だ。

 

僕は倒れて痙攣している男性を抑え込んで──

 

 

「……血?」

 

 

目や、鼻から血を流している事に気付いた。

常軌を逸した状況……『異能』か?

 

『剣』を手に持ったまま、警戒する。

 

また、あの『肉』の能力者なのか?

くそっ……何で……何で、僕の周りで事件ばかり起こすんだ。

 

それも、稚影を……許せる訳がない。

眉を顰めながら、男性を押さえつける力は弱めない。

 

 

「お兄ちゃん!警察と救急車は呼んだから!」

 

「あ、あぁ!分かった!希美は──

 

「どうしよう!?稚影ちゃんの血、血が止まらないよ!」

 

 

吸った息が、掠れて出ていった。

極度のストレスで視線がボヤける。

 

稚影が……死ぬ?

 

 

僕を呼ぶ、稚影の声が……脳裏で反響した。

恥ずかしそうに笑う笑顔が、僕を揶揄う笑顔が……不安そうな表情も、安堵した顔も。

僕を慰めようと抱きしめてくれた、あの時の……暖かさも。

 

全部、全部。

 

 

失われる?

 

 

もう、二度と……笑ってくれない?

 

 

嫌だ。

ダメだ。

 

そんなの、有り得ない。

 

ドクン、ドクンと脈打つ。

 

心臓が早鐘のように鳴り響いて……サイレンの音が聞こえた。

救急車のサイレンだ。

 

あまりにも到着が早い。

だけど、今は理由なんてどうでも良かった。

 

ただ、稚影が助かってくれれば……それで良いと……。

 

視線を下げる。

 

脈打っていたのは、僕の心臓だけではなかった。

『剣』も脈打っていた。

 

僕の『異能』が行使されたのか……何なのか。

だけど『異能』の正体を探る気持ちは、今はない。

 

稚影を助けられるなら何にでも縋りたい気持ちだった。

 

 

「頼む……」

 

 

『剣』が脈打つ。

 

 

僕が何のために、この力に目覚めたのか……?

 

 

強く、脈打つ。

 

 

大切な人を助けるためだ。

 

 

「だから、頼む……!」

 

 

脈打つ、脈打つ、脈打つ。

 

 

救急車から隊員が降りてきて──

 

 

そして──

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

僕は呆けた表情のまま、病院の椅子に座っていた。

 

警察官から取り調べを受けて……少しして、僕は解放された。

現行犯がいるのだから、僕は被害者の友人として判断されたのだ。

 

拘束されたコートの男性は意識不明で……警視庁七課の人が連れていった。

 

 

……やっぱり、『異能』関係だったのだろうか?

結衣さんと啓二さんが現場検証をしているらしいのだけど、僕は……今はまだ、病院から出られずにいた。

 

稚影は緊急手術が行われて……命に別状は無かったらしい。

奇跡的に、刃物は重要な内臓を傷付けなかったらしく、見た目に反して軽傷……何だとか。

 

応急処置が早い段階で終わったのも、重症化しなかった要因らしい。

 

……救急車が早く到着したのは偶然だったらしい。

近所の中学校で救急車の公開訓練を行なっていたらしく……本当に、偶々、奇跡的に……オペレーターの方が知っていたようで、その救急隊員の人達を呼んでくれたらしい。

 

 

……奇跡。

 

 

僕は両手を開いて、汗ばむ手のひらを見る。

 

……僕の『異能』、なのだろうか?

そもそも、何で僕は自分の『異能』の正体を知らないのだろうか。

 

……分からない。

だけど今は、この力に感謝する事しか出来ない。

 

 

希美は……今、カウンセリングルームにいる。

目の前で親友が刺された事で、彼女はショックを受けているらしい。

 

……何でも、稚影は希美を庇って刺されたそうだ。

 

 

両手を組んで……僕は目を瞑る。

 

 

心の中にある稚影の笑顔。

僕は……無意識のうちに涙を溢していた。

 

嗚咽を漏らさなかったのは僕が成長したからなのか……それとも、こんな状況に慣れてしまったからなのだろうか。

 

 

目を開いて、時計を見る。

 

ここに座って、もう数時間経っているようだった。

 

目を向けると……病室のネームプレートが見えた。

 

『楠木 稚影』

 

僕は視線を逸らして……そこから離れようとして……ドアが、開いた。

 

 

「稚影……?」

 

 

目を向けると……違う、看護師の人が出て来た所だった。

僕が名前を呼んだのに気付いたようで、視線をこちらへ向けて来た。

 

 

「家族の方ですか?」

 

「あ、いえ……友人です」

 

 

世間一般では僕達の事を、家族とは呼ばない。

ただの友人と呼ぶ。

 

僕達が互いにどう思っていようと……世の中は僕達を家族だとは言えない。

 

 

「稚影さん、目を覚ましましたよ」

 

「ほ、本当ですか?」

 

「えぇ、ですから……会って、話してあげて下さい。でも、絶対安静ですからね」

 

「……ありがとうございます」

 

 

看護師さんに誘導されて、僕はドアに手を掛けて……息を、深く吐いた。

 

そして、ドアを開ける。

 

 

「稚影……」

 

 

薄緑色の病衣を着た稚影が、ベッドで座っていた。

窓の外を見ていたけれど、僕の呼び掛けに気付いて振り返った。

 

 

「あ、和希」

 

 

何でもないように、何もなかったかのように……稚影が声を出した。

ショックも受けてないようだし、痛むようには見えない。

 

少し安堵して、病室に入る。

 

 

「椅子、そこにあるから持って来て座ると良いよ」

 

 

稚影が指差した先にはパイプ椅子があった。

それを手に取って、ベッドの側へ置く。

 

刺されたばかりなのに……僕を思い遣る気持ちに、思わず苦笑した。

 

 

「……傷、痛むか?」

 

 

そう言いながら、椅子に座る。

 

 

「ううん?そんなに……あ、いや、動こうとするとちょっと痛いかもね」

 

「そっか……」

 

 

稚影が仄かに笑った。

視線が吸い込まれていく。

 

無意識のうちに、僕は──

 

 

「和希?」

 

 

涙を流していた。

安堵で、涙が止まらなくなっていた。

 

 

「良かった……本当に、良かった……」

 

「ど、どうしたの?」

 

 

稚影が驚いたような表情をして、僕の顔に触った。

彼女の手に、僕の涙が付いた。

 

 

「ごめん、すぐ泣き止むから……」

 

「……いいよ、泣いても」

 

 

稚影の手は、僕の頭に乗っていた。

 

 

「稚影……」

 

「そうやって、人の痛みに泣けるのも……和希の良い所だと、私は思うから」

 

 

……涙が溢れた。

それを拭った。

 

 

「なんで……そんな……刺されたのに……僕の事を、気に掛けられるんだよ……」

 

「ん?だって……希美ちゃんも助けられたし、まぁ良かったかなって──

 

「良く、ない……」

 

 

結果的に稚影は助かった。

希美も助かった。

 

だけど、良くないのは確かだ。

 

 

「僕は、稚影が傷付いたら悲しいよ」

 

「……そっか」

 

 

だったら、どうすれば良かったのか、何て答えもない。

だから、彼女に傷付いて欲しくなかった……という僕の言葉は、僕の我儘だ。

 

 

「ごめん、稚影……変な事、言った」

 

「いいよ、それだけ私のこと、心配してくれてるって分かったから」

 

 

稚影がまた、笑った。

 

 

「和希は、私が傷付くと悲しい?」

 

「あぁ、当たり前だろ」

 

「ふぅん、そっか……そう、なんだ……」

 

 

稚影は悲しそうな顔をしながらも、嬉しそうな顔をしていた。

何を考えているかは分からないけれど、僕の気持ちを理解してくれているのだとしたら……嬉しかった。

 

 

「……それで、傷は──

 

「二週間もあれば退院できるんだって。凄いよね」

 

 

想像よりも短い入院期間に、僕は胸を撫で下ろした。

それだけ、軽傷だったって事が分かるからだ。

 

 

「あぁ、それは良かったな──

 

「でも、傷跡、残るかも知れないんだって」

 

 

 

 

 

 

 

 

「え?」

 

 

息を、呑んだ。

呼吸が掠れた。

 

 

「ぅ、あ、それって……」

 

 

稚影が病衣を捲った。

彼女の素肌に……白いガーゼが貼られていた。

 

 

「ここ、ザックリと……傷が入っちゃったから。小さくはなるらしいけど、一生残るって」

 

 

一生?

 

……僕は手で、自分の口元を塞いだ。

そうしなければまた、弱音を吐いてしまいそうだったからだ。

 

 

「酷いよね。嫁入り前の女の子に傷付けるなんてさ」

 

 

稚影……何で、何でそんなに、平気そうに言うんだ。

 

 

「これじゃあ、嫁の貰い手も──

 

「その時は……僕が──

 

 

思わず、溢した言葉に……稚影が驚いたような表情で僕を見た。

 

……何を言ってるんだ、僕は。

 

 

「……和希?」

 

 

目を瞬かせて、稚影が僕の顔を覗き込む。

きっと僕の今の表情は、羞恥心と罪悪感と自己嫌悪でメチャクチャだ。

 

傷心の女の子に付け入ろうなんて、最悪だ。

 

 

「ご、ごめん……忘れてくれないか?」

 

 

そう言って、椅子から立ちあがろうとして──

 

 

「やだ」

 

 

稚影の手が、僕の手を掴んでいた。

そして、上目遣いで僕を見上げていた。

 

 

「稚影……?」

 

「座って」

 

「あ、あぁ、うん」

 

 

パイプ椅子に座って……二人の間に気まずい空気が流れた。

息を飲んで……先程の言葉の意味を問われたらどうしようかと、先程までの自分を責めたい気持ちになった。

 

思わず視線を下げそうになって──

 

 

「和希」

 

 

名前を呼ばれて……視線を上げた。

稚影と目が合った。

 

窓の外はもう夜だった。

病室の電灯は小さく、薄暗い。

 

月光が、彼女を照らしていた。

 

 

「ねぇ、さっきの……私がもし、結婚できなかったら……どうしてくれるって?」

 

 

その表情は笑ってるような、泣いてるような、悲しいような、嬉しいような、照れてるような……不思議な表情をしていた。

 

ただ、頬は緩やかに笑っていた。

 

僕は──

 

僕は……。

 

僕は。

 

 

意を決して、口を開いた。

 

 

「……その時は、僕が……その……結婚、したいって……」

 

「……ふぅん」

 

 

稚影が……笑った。

口元に手を当てて……視線を逸らした。

 

 

「それってさ……私が結婚できなかった時、限定?」

 

 

そして、そんな事を訊いてきた。

僕は……首を縦に──

 

横に振った。

 

 

「……僕は、その……」

 

「うん」

 

「稚影が……えっと……」

 

「……うん」

 

「好き、だから……」

 

「……そっか」

 

 

僕の情けない告白に、稚影が何度か頷いた。

そして……口元を覆っていた手を除いた。

 

その表情は……恥じらい、だろうか。

頬を緩めて、眉尻は下げて、顔は赤くなっていた。

 

 

「和希は私の事が好きなんだ?」

 

「……あ、あぁ……そうだよ」

 

「知ってたけどね」

 

「え?」

 

 

思わず、また顔を見る。

稚影は笑っていた。

 

小馬鹿にするように嘲るように……?

違う。

 

心底、嬉しそうに笑っていた。

 

 

「バレバレだもんね、和希」

 

「そ、そっか……そうかよ」

 

「うん、知ってたよ。だって──

 

 

揶揄うような仕草で、笑って……そして。

 

 

「私も和希のこと……まぁ、嫌いじゃないし」

 

 

そんな事を言った。

僕は嬉しくなって……直後、眉を顰めた。

 

 

「そこは……『好き』って言ってくれるもんじゃないのか?」

 

「えー?どうしようかなぁ」

 

 

稚影が笑って、僕も笑った。

ロマンチックさも何もない告白だったけど……それでも、互いに受け入れた。

 

今までの家族の形とは違う……少し変わった形で、また家族になれるのかもしれない。

 

稚影がまた、笑った。

 

 

「というか、結婚って……ちょっと気が早いよね、和希は」

 

「う、そ、そうだな……」

 

 

稚影の言葉に、僕は罰の悪い顔をする。

……僕達はまだ未成年だ。

 

だから、結婚なんて、そんなの気が早い。

当たり前だ。

 

僕が慌ててる様子を見て、稚影が笑った。

 

 

「だから、恋人、からだね?」

 

「そ、そうだな……恋人、恋人か……」

 

 

実感が湧かず、稚影の顔を見た。

……そう、恋人、か。

 

そう考えると、いつも以上に彼女の事が愛おしく思えて来た。

 

 

「希美ちゃんにも言っておいてね」

 

「……え?僕が?」

 

「そうだよ。お兄ちゃんに恋人が出来ました〜ってね、自慢すれば良いよ」

 

「……何で?」

 

「そりゃあ、希美ちゃんに安心させるためだよ。刺されたけど……悪い事ばかりじゃないよ、って言ってあげて」

 

 

そこで、稚影の言いたい事が少し分かった。

……彼女は希美に罪悪感を抱かせたくないのだ。

 

……敵わないな。

 

僕は希美の兄だけど、稚影は彼女の姉のようだ。

 

……ふと、ドアの開いた音が聞こえて……看護師の人が部屋の前に立っていた。

 

もう少し、まだ……少しだけでも、ここに居たい。

だけど、もう夜だ。

 

面会時間もとっくに終わっている。

看護師さんが、見逃してくれてたんだろう。

 

僕は椅子を片付けて、稚影に手を振った。

 

 

「それじゃあ、また」

 

「うん、また、お見舞い来てね?」

 

「勿論」

 

 

笑顔で手を振り返す稚影から離れて、僕は看護師に頭を下げた。

そして、病室を後にして……希美を連れて帰ろうと、カウンセリングルームに向かった。

 

ほんの少し、自分本位な幸せな話を……彼女に聞かせてやろうと、そう思って。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

深夜、病室。

 

私はベッドで横たわり、天井を見上げていた。

 

 

「……和希」

 

 

脳裏に和希の照れ臭そうにしてる顔が思い浮かんだ。

誰かを救おうと必死になっている和希の姿が思い浮かんだ。

私にだけ向ける、異性を見る目を……愛おしそうに見る目を思い浮かべた。

 

 

「…………」

 

 

和希の事は嫌いじゃない。

だけど、異性として好きかと訊かれれれば……少し、分からなくなる。

 

好きではない、とも言えない。

好きだ、とも言えない。

 

分からない。

 

私は今、どっちなのだろう?

男なのか、女なのか。

 

分からない。

 

何も分からない。

 

だけど、ただ一つ分かることは……。

 

 

もし、恋人という関係が出来るとしたなら、和希が良い。

いや、和希以外は嫌だ。

 

と、いう事。

 

 

「……和希」

 

 

真っ白な布団を抱く。

腹の傷が少し痛む。

 

今の和希は……もう、ゲームに出てくる『和希という名前のキャラクター』からは剥離してしまっている。

 

それでも……私は。

 

今の和希の方が好ましかった。

 

 

「……どうしたら良いんだろう」

 

 

だけど、今の和希のままで……物語に打ち勝てるのだろうか?

これから、辛い事が沢山起こる。

 

その時、彼は打ち勝てるのだろうか?

 

……分からない。

 

 

「……兄さん」

 

 

死んでしまった兄を想う。

彼が居ない世界で、和希の『異能』は強く輝けるのだろうか。

 

……分からない。

 

 

「……だけど」

 

 

一つだけ、分かった事があった。

 

 

『僕は、稚影が傷付いたら悲しいよ』

 

 

そう言っていた。

 

和希は私が傷付くと……悲しいのだと。

 

知っていたつもりになっていた。

和希は優しいから、私が傷付くと辛い思いをするだろうと……分かっているつもりだった。

 

だけど、それを実際に面と向かって突き付けられると──

 

 

「…………」

 

 

一つの、『名案』が浮かんでしまう。

絶対に成功する『名案』。

彼を強く出来る『名案』。

 

だから、告白に頷いた。

だから、私は彼と恋人になった。

 

だから──

 

だけど。

 

 

だけど、それは……絶対に、やりたくない。

 

 

私の合理的な部分が囁く。

私の感情的な部分が否定した。

 

相反する私が、私の中で渦巻く。

 

 

目を、閉じる。

 

 

もう考えたくない。

 

私を刺した人間の事も。

その裏にいる『能力者』の事も。

私自身の罪の事も。

これから現れるヒロインの事も。

 

全部。

 

 

「和希……希美……」

 

 

暗闇の中で、名前を呼ぶ。

 

私の事を無条件で信頼してくれて、愛してくれる人。

その二人に……私は、報いなければならない。

 

 

何故なら──

 

 

あの日、私が抱いた、仄暗い覚悟が……全ての始まり、なのだから。

 

自分の行った行動に対して……逃げてはならない。

 

 

人並みの幸せに甘んじてはならない。

そんな物を受け取る資格は、私にない。

 

 

報いなければならない。

 

……でなければ、今までの全てが無駄になるから。

 

血と、肉と、命。

散らして行った人を形成するモノたち。

 

零れ落ちた臓物が、悪意が、魂が、人の形を作り出す。

私に憎悪を向けながら、地獄へと導こうと手を伸ばす。

 

それらが、私の背中を後押しする。

 

大丈夫。

 

私は逃げない。

 

逃げられない。

 

逃げたりなんか、しない。

 

 

聞こえてくる怨嗟の幻聴を聞きながら……浅い眠りの中に堕ちた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「結衣、何か分かったか?」

 

 

俺が声をかけると、結衣は……その手に『何か』を持ちながら立ち上がった。

俺には見えないけれど、きっと……『剣』だろう。

 

男の着ていたコートを投げ捨てて、結衣が苦笑した。

 

 

「さぁ?『異能』が原因なのは分かるが……肝心の『異能』をぶつけられた場面は見えない」

 

 

その言葉に腕を組んで、ため息を吐く。

そして、俺は口を開いた。

 

 

「加害者は昏倒状態……何故、意識不明なのか現代医療では不明。目を覚ましていない方がおかしいとも言えるぐらいだ」

 

「そうか」

 

 

結衣が凶器を手に取り、眺める。

 

 

「結衣……『思考操作』や『マインドコントロール』、『催眠術』の類か?」

 

「さぁな」

 

 

結衣は凶器を元の場所に戻して、俺の方へ視線を向けた。

 

 

「情報が足りん。被害者……いや?加害者か?ややこしいな……そいつの情報を寄越せ」

 

「あぁ、そうだな……分かったよ」

 

「カルテも寄越せ。特殊な傷や、異常はないか?」

 

 

俺は悩みながら、ファイルにまとめられた紙を流し見る。

 

 

「身体中の毛細血管に裂傷……内出血している箇所が多数ある」

 

「……ふむ、『異能』と無関係ではないな」

 

 

俺の持っていたファイルを奪い取り、結衣が読む。

その横暴な態度にため息を吐いて、一歩引く。

 

 

「俺はちょっと和希くんの所に行ってくるよ」

 

「そうか」

 

「後で迎えに来るからな」

 

「そうか」

 

 

こうやって集中している結衣は梃子でも動かない。

呆れながらも、その様子に頼もしさを感じつつ……俺は現場を後にした。

 

私用車に乗り込み、エンジンをかける。

ドリンクホルダーに載せていたペットボトルを開けて……水に、口を付けた。

 

……あれ?

 

もっと飲んでいた気がするが……こんなに残っていただろうか?

 

まぁ、良いか。

 

ほんの少し、頭に引っかかった事を無視して、俺はアクセルを踏んだ。




次回は来週の日曜日!


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9話:破滅への分かれ道

僕と稚影は恋人となった。

 

としても、何も変わる事はない。

今までと同じ生活を続けている。

 

希美に「恋人になった」と言えば、「お兄ちゃん、幻覚でも見てるの?」と心配され──

沢渡に問われて渋々話せば「やっとか」と呆れられ──

 

 

それでも。

 

特別、何かが変わる事はない。

 

 

稚影の入院先へ、希美と通いながら二週間経った。

当初の予定通り、稚影は退院して……本当に、いつもの日常が戻ってきた。

 

稚影の恋人という役割に、僕は浮かれていたけれど……特別、彼女から僕への反応が変わる事はなかった。

 

いや、ほんの少し……彼女も意識してくれているのだと信じたい。

 

 

だけど……このまま。

 

 

ずっと、何も変わらなければ良いと、そう思っていた。

 

 

僕達が見ている幸せは、薄氷の上に成り立っているようだ。

その幸せを壊そうとする人と、戦わなければならない。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

探偵事務所で、結衣さんがホワイトボードにペンを入れる。

僕が稚影の見舞いだったり、何やらをしている間に結衣さんは、稚影を刺した犯人……そして、その背後にいる『能力者』を探っていたらしい。

 

恋人だとか何とかで、浮かれていたのが本当に恥ずかしく思えた。

反省しなければならない。

 

 

「……では、おさらいだ。君の友人を刺した犯人について」

 

 

ホワイトボードに写真を貼る。

……稚影を刺した男の写真だ。

 

 

「名前は『古坂 信彦』、43歳。会社員。まぁ日本社会において一般的な中年男性だな」

 

 

ペンの尻で、男性の写真を叩いた。

 

 

「犯行後、拘束され……意識不明で緊急搬送。脳や心臓にダメージがないが昏睡。一週間ほど、意識は戻らなかった」

 

 

一週間ほど……つまり、今は。

 

 

「先週、意識は戻ったが……犯行前後の記憶はない」

 

「……やっぱり、『異能』で操られていたんですか?」

 

「そうだろう。入院時は体内の毛細血管が異常なほど傷付いていて、鼻や口、涙腺から血を流していた」

 

 

僕は自分の口元に手を当てる。

……確かに、取り押さえた時に、目や鼻から血を流していた。

 

『異能』で操った際に出来る傷、なのだろうか?

それは何故……?

 

 

「流血が具体的にどのような作用によって引き起こされたかは分からないが……『概念』的な能力ではなく『物理』的な能力によって操られていた事が判別できる」

 

「『概念』?『物理』……?」

 

「……そうか、話してなかったな」

 

 

そういえば、しっかり『異能』に関する説明を受けた事はないな……と頷いた。

 

 

「『異能』は大きく二つに分かれる。物理現象を司る能力と、概念を操る能力だ」

 

 

結衣さんがホワイトボードに、

・概念系統

・物理系統

と書き出した。

 

 

「例えば、私は……『物の記憶』という、物理的に存在しない現象を読み取る力。これは『概念』を操り、可視化する能力だ」

 

 

結衣さんが、『概念系統』の隣に『サイコメトラー』と書いた。

 

 

「逆に言えば、発火させる『異能』や、空気中の温度を下げる『異能』、光を収斂するレンズを生み出す『異能』……これらは『物理』現象を操る能力だ」

 

 

ペンで、『物理系統』の隣に『パイロキネシスト』と書いた。

 

 

「二つは根本的に異なる。『概念系統』の能力は、現実の物質に対して干渉する力はない」

 

「……えっと、そう、なんですか」

 

 

なんとなく……といった顔で頷く。

完全に理解は出来ていないが、二種類存在する事が分かった。

 

 

「そして、今回、被害者は『物理』的な負荷により負傷していた……これにより記憶や心といった『概念』を操る能力ではなく、『物理系統』である事が分かる」

 

「……その、『物理系統』であれば何か変わるんですか?」

 

 

正直、人を操る能力としては結果は同じではないのだろうか?

 

 

「全く異なる。心を操る『概念系統』なら直接的な洗脳だが……操れる『何か』を媒体に、被害者を間接的に操っているならば?」

 

 

そこまで言われて気付いた。

 

 

「……追い詰めた際に、その『何か』で反撃してくる可能性があるって事ですか?」

 

「そうだ。例えば……まぁ、『肉』を操る『能力者』が、被害者の『肉体』を操っていた場合。私が追い詰めれば、その『肉』を操る能力で反撃してくるだろう?」

 

 

思わず、眉を顰めた。

『肉』を操る『能力者』、それは……何故か、僕に執着している連続殺人犯の事だからだ。

 

 

「だから、この差は大きい。覚えておけ」

 

 

ホワイトボードをスポンジで拭き取りながら、結衣さんが振り返った。

 

 

「あぁ、そう言えば……そうだな、お前の能力も、私と同じく『概念系統』だ」

 

「……そうなんですか?」

 

「状況証拠しかないが、物理的な現象を引き起こしてる訳ではないだろう?」

 

 

僕は腕を組んで、頭を捻る。

 

『剣』が脈打ってる事から、『異能』が働いていた事は分かっていた。

だけど、その結果は不可思議だ。

 

サイコロの出目が良いとか。

攻撃を避けれたとか。

救急車が運良く近くに──

 

……やっぱり、『運』が良くなる能力なのだろうか?

 

 

「ついでだ。『異能』の出力の話もしよう」

 

「え、あ、はい」

 

 

結衣さんが真っ白になったホワイトボードに、またペンを入れ始めた。

 

結衣さんは自分の考えを人に話す事が好きだ。

興が乗った、という奴なのだろう。

 

思考を現実に引き戻し、講義を受けるような姿勢を取る。

 

 

「『異能』は『能力者』の精神的落差が出力に直結する」

 

「落差ですか?」

 

「そうだ。『正の感情』と『負の感情』の落差によってエネルギーが生じる」

 

 

結衣さんがホワイトボードに

 

『ポジティブ』

落差=エネルギー

『ネガティブ』

 

と書き記した。

 

 

「最初から頭がおかしい奴は強くない。元々は正常だった人間が狂えば狂うほどに強くなる……だからこそ、厄介だ」

 

「…………」

 

 

僕は思わず、口を閉じた。

 

僕の目の前で死んでしまった『能力者』……上坂穂花さん。

彼女も元は普通の女性だったのに……辛い出来事で、精神に負荷が掛かかり『能力者』になってしまった。

 

僕は何となく……悲しい事だと思った。

 

 

「その落差によって生まれたエネルギーは、『異能』の力に直結する。有効射程が伸びて、精密性が上がり、より大きな現象を引き起こせる」

 

 

……苦しんだ人間ほど、強くなる。

理不尽な話だ。

 

 

「今回の事件、周囲に不審な影はなかったな?」

 

「……はい」

 

「つまり、『能力者』は少なくとも周囲100メートル以上は離れて、『異能』を行使していると思って良いだろう。それだけの射程……人を一人自在に操れる精密性……『能力者』はかなり拗らせてるだろうな」

 

 

結衣さんが眉を顰めた。

 

僕はその横顔を見て、ふと思った。

 

 

「……結衣さんって、『異能』について詳しいですよね?」

 

「まぁ、そうだな。人よりはな」

 

 

結衣さんがホワイトボードに書かれた文字を消した。

 

 

「それって、何故なんですか?」

 

「…………」

 

 

無言で消す。

そして……僕の方を一瞥した。

 

 

「事件に話を戻すぞ」

 

「え、あ……はい」

 

 

どうやら、この質問は彼女にとって地雷だったらしい。

それ以上、深掘りする事は諦めて話を訊く。

 

結衣さんは机の上に置かれた大きな封筒を手に取った。

 

 

「他の加害者についての話だ」

 

「……他の、ですか?」

 

「あぁ。記憶の損失を訴えながら、留置所で鼻血を流していた他事件の容疑者が数名いる」

 

「それって……」

 

「同一犯だろう。『異能』犯罪とは判別されず、今回の件で明るみになった件だ」

 

 

結衣さんが封筒から出したのは履歴書のような個人情報の載ったA4用紙だ。

それをホワイトボードにマグネットで貼り付けた。

 

 

『吉原 大吾 53歳/会社員……不法侵入』

『山原 博 48歳/教員……暴行』

『大河原 和久 32歳/会社員……強姦未遂』

 

 

「彼等に面識はなく、共通点もない。成人済みの男性ってぐらいだな。お前の友人を刺した通り魔程ではないが、意識の混濁も見られたそうだ」

 

「…………」

 

「つまり要約すると、『能力者』は無差別に成人男性を操り、事件を起こさせている……という事だ」

 

 

椅子に座って、頭を捻る。

 

 

「何でそんな事を……」

 

「さぁな。だが、そこが恐らく犯人の『精神的弱点(トラウマ)』だろう」

 

 

結衣さんが笑いながら、眉を顰めた。

 

 

「先程も言った通り、『能力者』は正常な人間が拗らせた奴ばかりだ。こうやって殺人未遂を他人に起こさせるような奴に、まともな思考パターンを求めない方がいい」

 

 

ホワイトボードに貼られた紙を、結衣さんがまとめる。

 

 

「そして、恐らく。犯人の目標は末端の被害者ではない。中間の操っている加害者……その成人男性達に犯罪を犯させ、社会的地位を貶める事が目的だろう」

 

 

結衣さんがペンを入れた。

 

 

「……何かしら成人男性への憎悪を拗らせている……とすれば、性犯罪の被害者か、被害者の親族か?」

 

 

結衣さんが言い淀む。

 

 

「……結衣さん?」

 

「証拠が足りず、『異能』も『容疑者』も絞れていない。だから、犯人探しはお手上げだな」

 

 

そして、ため息を吐いた。

 

 

「次の犯行を待つしかないだろう」

 

「え……」

 

 

僕は思わず、息を呑んだ。

 

だって……次の犯行を待つという事は、つまり……次の犠牲者が出るのを待つって事じゃないか。

 

僕の様子に気付いたのか、結衣さんが鼻で笑った。

 

 

「フン、私が黙って待つだけの犬に見えるか?」

 

「あ、いえ……」

 

 

心の内を読まれたようで、思わず否定した。

しかし、結衣さんは挑発的な笑みを崩さない。

 

 

「啓二と共に、不審者情報が出た場所を虱潰しにする。だから、大事にはならないようにするさ」

 

 

僕は頷いて、口を開いた。

 

 

「……僕も──

 

「いや、要らん」

 

 

……まぁ、そう言われる気がした。

結衣さんが何だかんだ、僕をあまり酷使しない。

何かしら、彼女の中で過労ラインという物があるのだろう。

 

……啓二さんは酷使してるけど。

 

 

「今日、情報を共有したのは現状の整理だ。何かが起これば駆り出されると……そう思っておけ」

 

「は、はい」

 

 

僕は頷いた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

和希が帰った後、事務所で一人……『剣』を手元に生み出した。

 

そして、来客者用の灰皿を手に取り、『異能』を行使する。

 

目を瞑れば、先程までの景色が遡り──

 

 

「……チッ」

 

 

私は舌打ちをした。

 

それは見えた景色が『ボヤけて』いたからだ。

 

昔は6時間前ぐらいまでなら鮮明に過去の記憶が見えた。

しかし、5時間、3時間と縮んで行き──

今では……1時間が限度だ。

 

つまり、『弱体化』しているのだ。

物の記憶を読む『異能』が。

 

 

「……私は」

 

 

目を瞑ったまま、『剣』の柄を額に当てる。

 

『異能』の出力は精神の落差と紐づいている。

 

その落差が縮まればどうなる?

 

具体的に言えば……精神的苦痛(トラウマ)を克服すればどうなる?

恨みや妬み、怒りが薄まればどうなる?

 

答えは簡単だ。

『異能』の出力が低下する。

 

 

「私は絆されてなど、いない」

 

 

怒りを思い出す。

 

兄が殺された日を、思い出す。

 

雨の降り注ぐ中で、傘も差さず……ただ茫然と眺めていた自分を思い出す。

私は誓ったはずだ。

 

必ず犯人を見つけて、この手で『殺す』と。

 

なのに、今……もし、犯人を見つければどうする気だ?

 

私は……啓二に咎められるのが怖い。

和希に失望されるのが怖い。

 

きっと、犯人を警察に引き渡すだろう。

それが正しい事だと分かっているからだ。

 

そうだ。

私は、正しくなった。

倫理的には正しくなった、それは疑いようがない。

 

だが、弱くなった。

狂うほどの怒りの炎は小さくなってしまった。

 

 

「…………」

 

 

あの日、曇天の空の下、雨に打ちひしがれる私に傘を差した男がいた。

私を案じていた男がいた。

慰めてくれた男がいた。

立ち直るまで……私を、愛して──

 

 

「……バカが」

 

 

『剣』を消滅させて、立ち上がる。

コートを手に取り、羽織る。

 

啓二に対する苛立ちが募る。

 

あの時、私を……抱いた癖に、立ち直った私から離れたあの男。

心配して、私を子供として扱い、自身を大人として立ち振る舞おうとしている、あの男。

 

本当に憎らしい、あの男。

 

異性としての恋慕など、ほんの少しのカケラしかない。

 

そう思っていた。

 

なのに、未だに燻り続けている……コレは何だ?

 

私は何なんだ?

 

目的を忘れて、怒りを忘れて、兄の面影を忘れて、何がしたいんだ?

 

 

「私は……忘れてなどいない」

 

 

力を込めて、自身の身体を抱く。

 

私の『異能』はきっと、これからも弱くなる。

いずれ、『能力者』を探す力もなくなる。

 

そうなれば啓二は……私を──

 

嫌だ。

私はまだ戦える。

 

そうだ。

私はまだ、お前の隣にいる。

 

違う。

そんな浅はかな理由で戦っていない。

 

 

私は……。

 

 

荒い息を整えて、鏡を見る。

 

仏頂面で凝り固まってしまった額。

光のない瞳。

 

赤黒く艶めく、唇。

 

 

……今更、平凡な幸せなんか望んでいない。

そう、自分に言い聞かせた。

 

 

「……もし、和希に知られたら幻滅してしまうな」

 

 

一人の、少年。

初めは良い手駒になると思っていた。

戦うことに向いていない『異能』を持つ私にとって、代わりに戦ってくれる『剣』になってくれると思っていた。

 

なのに……私は、自身で思うよりも、非情にはなれなかった。

 

自身を慕ってくれる少年……いや、今は青年か。

彼を自身の中で身内として認識してしまったのだ。

 

人並み以上の善性と、苦しみの中に居ても善性を失わない強さを持つ彼に、兄の面影を見てしまったのだ。

 

だから──

 

 

息を、深く吐いた。

 

携帯電話を手に取り、啓二へと電話を掛ける。

 

 

「……あぁ、啓二。私だ」

 

 

事務所のドアを開けて、外に出る。

 

 

「今から向かう。最寄駅で集合で良いか?」

 

 

私は戦わなければならない。

探偵として。

 

和希が慕ってくれている、大人として。

啓二が頼れる、相棒として。

 

私が信じたい、強い私として。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「希美ちゃん、お風呂上がったよー」

 

 

稚影が声を張り上げて──

 

 

「うん!じゃあ次、私、入るね」

 

 

希美がそれに応えた。

 

僕はリビングでソファに座って、テレビを見ていた。

流れているバラエティ番組は、希美が流し始めたものだ。

 

当の本人はリビングから出て行ったのに、僕が見てると思ってか付けっ放しだ。

……ニュースに切り替えても良いけれど、希美が戻ってきたらチャンネルを戻されそうだな。

 

別に、特別ニュースが見たいわけでもないし……今、ここでテレビを見ているのも惰性からだ。

だらしなくソファに座り、無気力に、体と心を休めているのだ。

 

部屋を出て行った希美に代わって、足音が聞こえた。

 

 

視界に、髪の毛が映った。

 

 

「……何してるんだ?稚影」

 

「どんな顔で見てるのかなって」

 

 

ソファに座っている僕を見下ろすように、稚影が覗き込んで来た。

 

テレビで流れているのは……デートスポット特集だ。

まぁ、あまり気にしていなかったけれど、確かに……今はもう、無関係って訳でもないのだろう。

 

稚影が恋人になって、一つ、日常に生まれた差異がある。

時折、彼女が望月家に泊まりに来るようになったのだ。

 

といっても、僕とどうとか……恋人だから、というよりも、希美の部屋で寝泊まりしてる。

二人でパジャマパーティみたいな事をしている。

 

曰く、女子会。

 

それは結局、僕と彼女の関係が変わった事によって出来た差異なのか、疑いたくなる。

 

しかし、確実に頻度は増えていた。

 

以前は家に泊まりに来ても月に一回だったのが、今は週に二回程に増えている。

簡単に換算しても八倍ほどになっている。

 

だからきっと、恋人という立場が何の因果か影響しているのだろう。

 

 

……テレビでは夜の植物園を照らす、イルミネーションが映されていた。

視線を、稚影に戻す。

 

 

「稚影は、こういう所に行きたい?」

 

「まぁ……どうだろうね?人混み、あんまり好きじゃないし」

 

「僕もそうだよ」

 

 

ふふ、と稚影が笑った。

 

 

「こうして、ゆったりと一緒にいるだけで私は幸せかなぁ」

 

 

安い幸せ……とは思わない。

 

掛け替えのない日常の大切さは、僕もよく知っていた。

 

 

「でもね、和希」

 

 

いつの間にかソファの後ろから回ってきて、稚影が隣に座っていた。

 

シャンプーの香りと……何か、甘い匂いが混じって鼻を通り抜けた。

 

 

「恋人らしい事もしたいかな」

 

 

思わず、喉を鳴らした。

 

 

「こ、恋人らしい事って?」

 

「えっと、それは──

 

 

稚影が手を伸ばしてきて、僕の手の甲を覆うように握った。

 

 

「手を繋ぐとか?」

 

「あ……まぁ、それぐらいなら……いつでも」

 

 

手をひっくり返して、握り返す。

僕と違って細く、華奢な指が絡む。

滑らかな肌触りに、僕は顔が熱くなっていく自覚があった。

 

そして、そんな僕を見て稚影が頬を緩めた。

 

 

「後は、キスとか?」

 

 

心臓が跳ねた。

 

 

「……そ、それは」

 

 

彼女と恋人という関係になっても、キス、なんて事は一度もした事がない。

まだ僕は踏み込めずにいた。

 

だって、そこに踏み込めば……幼馴染の友人という立場から、決定的に変わってしまう気がしたからだ。

 

稚影に視線を戻す。

柔らかそうな唇だ。

 

風呂上がりで艶やかな彼女の肌と、石鹸の香りは……僕にとって猛毒のようだった。

 

正常な思考を奪う、猛毒だ。

 

 

「……なんてね、冗談」

 

 

固まってる僕を見て、稚影は愉快そうに笑いながら僕から離れた。

 

 

「そ、そっか……冗談……?」

 

「今はね」

 

 

そう言って笑う。

僕は思考する。

 

……それはつまり、今じゃなければキスしても良いと……そういう意味なのだろうか。

だけど、恋人なのだから……それは、確かにそうなのだろう。

 

照れている僕の方が、おかしいのだろうか。

 

 

……まだ、僕たちは恋人らしい恋人とは言えない。

互いにどの距離感が適切なのか分からなくて、探っている状態だからだ。

 

だけど、時間は沢山ある。

これからも稚影はここに居て、僕もそばに居続ける。

 

僕も稚影も、希美も。

 

いつか別れる日が来ようとも、それは当分先の話だと思っていた。

 

今日がダメなら、明日でもいい。

明日がダメでも、明後日なら。

 

焦る必要はない。

 

彼女との心地よい関係を探すために、僕達は少しずつ歩み寄っていく。

それでいい。

 

優しく笑う稚影を見て、僕はそう思った。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

助手席に座っている私は、運転している啓二に視線を向けた。

顔は正面を向けたまま、目だけを動かして。

 

 

「……どうかしたのか?結衣」

 

 

それでも気付かれてしまったのだから、私は小さく息を吐いた。

 

 

「何でもない」

 

「……それは何かあったような奴の言い方だぞ?」

 

「何でもないと言っているだろ」

 

 

苛立つが、啓二は運転中だ。

足を出す事が出来ない。

 

ポツポツと、雨が降っている。

傘をさすか、ささないか、迷うほどの小雨だ。

 

夜なのもあって、人通りは平時より少ない。

 

静かな車内で、ワイパーが擦れる音が響いた。

 

 

「…………」

 

 

私は黙っていた。

何も考えたくなくて、窓ガラスを伝う雨粒を見ていた。

 

しかし、そんな静寂を気まずく思ったのか、啓二が口を開いた。

 

 

「なぁ、結衣」

 

「何だ?」

 

「あー、いや……」

 

 

取り付く島もない。

私がそんな態度を取ろうとも、啓二は再び口を開いた。

 

 

「和希くんの話なんだが」

 

「…………」

 

「最近、彼女が出来たらしいぞ」

 

 

ジロリ、と視線を向けた。

啓二は気まずそうに笑っていた。

 

 

「そんな事を私に話して何が言いたい?」

 

「あぁ、いやぁ……世間話程度の話だよ」

 

「……フン」

 

 

鼻を鳴らす。

啓二が頬を掻いた。

 

 

「和希くんの友人の……ほら、結衣もあった事のある女の子がいるだろう?彼女らしい」

 

「……私と?」

 

 

脳内の記憶を遡る。

 

……あぁ、あの時、私が『剣』を向けた少女か。

『剣』も見えていなかった『能力者』でもない普通の少女だ。

 

あんな事件があって翌日に、和希の家に泊まっていたのだから……まぁ、元から随分と仲が良かったのだろう。

納得した。

 

……そういえば、先日、今回の事件関連で友人が刺されたと和希が言っていたが……同一人物だったな。

 

 

「それで恋愛相談みたいな事をされたんだが……」

 

「お前がか?」

 

 

思わず、顔を啓二に向けた。

恋愛相談……コイツに?

 

私は顔を顰め、口を開いた。

 

 

「傷心の未成年に手を出すような男が、恋愛相談なんて出来るんだな」

 

「う、ぐ……そ、それはな……」

 

 

……兄が死んだ時。

自暴自棄になっていた私を慰めるために、啓二は私を慰めた。

……それに私はのめり込み、一時は男女の関係になる程に。

 

それなのに、今は。

 

別に、告白した訳でも、されたわけでもなく。

付き合っているという認識があった訳でもなく。

だからこそ、破局した訳でもない。

 

ただ、そういった一線を越えてしまって、今は越えなくなった。

それだけだ。

 

私は戦うための武器を……『剣』を見つけて、誰かに頼らなくても生きていけるようになった。

 

私が求めなければ、啓二も求めはしない。

 

……私は身勝手にも、それが無性に腹が立った。

そして、私は意固地になっていた。

 

今の関係を問い正せる強さが、私にはない。

万が一にでも拒否されれば……私は、私を保てなくなる気がした。

 

 

「わ、悪かったよ……すまない」

 

「…………」

 

 

『悪かった』?

別に、悪くはないだろう。

私にとって嫌な思い出ではない。

 

何故なら私は……今も──

それなのに、コイツは──

 

無言のまま、滴る雨を眺めている。

小さな水滴が、疎に降り注ぐ。

 

私の内心と同様に。

悲しめるほど降ってはいないが、それでも雨粒は確かに降っている。

そんな気分だ。

 

 

すると、背筋に何かが垂れた。

 

 

「……っ!?」

 

 

冷んやりとした感覚に、敵からの攻撃かと上を見れば……車の屋根に小さな穴が空いていて、雨漏りをしていた。

 

 

「……結衣、どうかしたのか?」

 

「雨漏りだ」

 

 

丁度、信号が赤になり車が止まったので、私は上を指差す。

啓二がそれを見て、ショックを受けたような顔をした。

 

 

「げっ……まだローン残ってるのにな」

 

「何で穴が空いてるんだ?」

 

「さぁな……高層マンションからの落下物か?いつの間に空いたんだ?」

 

 

視線を穴に向ける。

小さい……小雨だからか、水滴が漏れる程度の被害で済んでいる。

 

私は座席の隙間にあったコンビニのビニール袋を手に取り、穴を押さえる。

そのままティッシュと共に穴へ突っ込んで、応急処置をする。

 

 

「……チッ、帰りは後部座席に乗るか」

 

 

私は苛立ちながら腕を組み、足も組む。

普段から私は助手席に座っていた……ここは、私の特等席なのだ。

だから、そこから離れる事に苛立つ。

 

 

「いや……悪いな、結衣」

 

「別に、構わない」

 

 

そうして車を走らせている内に、目的地へ到着した。

都営の公園だ。

 

小雨が降っているのもあり、夜なのもあって人影はない。

 

なのに……一時間前、ここで傘も差さずに徘徊している男性を見たと通報を受けた。

呆然とした様子だったらしく、それを聞いて私達は急行したのだ。

 

車を駐車場に停めて、啓二が降りた。

私が助手席から降りるのと同時に……啓二は後部座席にのっていたビニール傘を手渡してきた。

 

……二本、積んでいたらしい。

こういう所はまめだ。

機微に疎い癖に。

 

私は傘を左手に取って、開いた。

しかし、右手はフリーにしておく。

 

いつ誰が来ても……『剣』で対処出来るように、利き腕は空けておくつもりだった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

目の前で、こくり、こくりと希美が船を漕いでいた。

ソファに座って、テレビを見ながら……もう、眠そうだ。

 

そんな様子に稚影が気付いたようで、希美の肩を抱いた。

 

 

「希美ちゃん、ほらここで寝ると風邪引くから……部屋に戻ろっか」

 

「ん、え?……あ、ごめん、うん。分かった」

 

 

返事すら微睡みながら、希美は稚影に手を引かれていた。

 

ふと、稚影が僕へ振り返った。

 

 

「おやすみ、和希」

 

「あぁ、おやすみ……希美は大丈夫?僕が部屋まで連れて行こうか?」

 

 

そう提案するも、稚影は首を振った。

 

 

「ううん、大丈夫だよね。希美ちゃん」

 

「……え?うん、大丈夫?」

 

 

……稚影が苦笑し、僕も苦笑した。

そのまま手を引いて、稚影が希美を部屋まで連れて行くようだ。

 

 

 

……僕も、そろそろ寝るか。

 

 

 

テレビを消して、机の上を片付ける。

窓やドアの鍵が閉まっている事を確認して……リビングの電気を消した。

 

廊下を歩いて自室に向かっていると……ガチャリ、と希美の部屋のドアが開いた。

 

顔を出して来たのは、稚影だ。

 

 

「……あ、和希」

 

「僕も寝ようかなって」

 

「そっか……」

 

 

ふと、希美の事が気になった。

 

 

「希美は?」

 

「ちゃんとベッドの上。もう寝ちゃって、寝息まで出ちゃってるよ」

 

 

稚影が部屋の中を一瞥した。

ベッドの上の希美を見たようだが……流石に、女子の部屋を覗き込むような真似はしない。

 

そのまま、横を通り過ぎて自室で寝ようかと思った瞬間、ドアを開けて稚影が廊下に出て来た。

 

 

「……どうかしたか?」

 

「…………」

 

 

無言のまま、稚影が僕の側に近寄った。

 

そして……両手を広げて、僕を抱きしめた。

 

 

「……ぇ、あ、稚影?」

 

「ごめん、ちょっとの間……こうさせて……?」

 

 

僕の肩に顔を埋めながら、稚影が密着してくる。

 

暖かく……柔らかい。

 

こんなにも華奢だったのかと、思いながら……僕の両手は宙を彷徨っていた。

 

抱きしめ返せば良いのか、どうすれば良いのか分からなくて。

 

 

「稚影、その、何か……大丈夫か?」

 

 

何か辛い事があったのか。

それとも、悲しい事があったのか。

 

分からなくて、そう訊いた。

 

 

「……うん、今は……大丈夫」

 

 

……僕は、その両手を稚影の背中に回した。

暗い廊下で、二人で密着する。

 

ほんの少し、荒くなった吐息が、耳に響いた。

 

どれほどそうしていたのか分からないけれど、長くもなく、短くもない間……抱きしめあって、稚影から離れた。

 

 

至近距離で見る稚影の顔は、寂しそうな表情を浮かべていた。

 

 

「稚影──

 

「和希、私ね」

 

 

ぽつり、と言葉を漏らした。

僕は言いたかった言葉を喉に戻して、黙って傾聴する。

 

 

「私、和希の事が好きかは……分からなかった。少し、前までは」

 

 

思わず、少し、胸が痛んだ。

 

 

「だけど、今は……多分、きっと……好きだと思った、だから」

 

 

彼女の顔は紅潮していた。

 

 

「一つだけ、訊きたい事があるの」

 

 

だけど、とても寂しそうな顔をしていた。

 

 

「もし私が……悪い事をしたら、嫌いになる?」

 

 

その質問の意図は分からなかった。

だけど、答えは反射的に出ていた。

 

 

「嫌いには、ならない」

 

「……そう?どれだけ悪い事をしても?」

 

「……そもそも、何で悪い事をする前提なんだ?」

 

 

僕はそう、訊き返す。

稚影は少し、バツの悪そうな顔をしていた。

 

 

「だって、私……ううん。もし、もしもの話、だから」

 

「もしも、か……」

 

「そう、もしも……だから──

 

 

稚影が何に悩んでいるか分からない。

だけど、それでも。

 

 

「答えは変わらない。嫌いになんか、ならない。いや、なれないよ」

 

 

何度も、何度でも同じ言葉を返せる。

 

稚影が何に怯えているのか……何を知りたいのか分からない。

 

それでも……僕が稚影を嫌いになる?

そんなの、少しも想像出来なかった。

 

 

「そっ、か」

 

 

稚影は少し俯いて……。

 

 

「稚影?」

 

 

顔を上げて、僕に手を伸ばした。

 

 

そして──

 

 

柔らかいものが、僕の口に触れた。

 

それが彼女の唇だという事に気付いたのは、一瞬の後で。

 

ほんの少しの瞬間、触れただけなのに……僕は何度も感触を反芻していた。

 

 

「あ……」

 

「ありがとう、和希」

 

 

離れて、稚影が優しく僕に笑いかけた。

 

 

「私はもう、迷わないから……」

 

 

そう話す、彼女の表情は……笑っているのに。

 

 

「二度と、迷わないから……」

 

 

どこか、寂しそうに見えた。

 

 

この時、何か、『選択』を誤ってしまったのではないかと──

 

 

 

僕は──

 

 

 

生涯、後悔する事になるとは、まだ知らなかった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

雨が降る公園。

 

視認性の悪さに苛立ちつつ、私は啓二の隣を歩いていた。

油断はしないように……気を張り詰める。

 

犯人の『異能』に見当が付いていない。

 

分かっているのは二つだけ。

一つ、物理現象を操る能力者である。

二つ、人の身体を遠隔で操る精密性がある。

 

こんな状態で身を晒して犯人を追うなど、正気の沙汰ではない。

 

……以前までの私なら、もう少し被害者が出て、現場を調査し、犯人の『異能』を理解してから追っていた。

 

しかし……。

 

 

「……私も随分、影響されてしまったか」

 

 

小声で呟いた独り言は、雨音に掻き消された。

 

私は人に好かれていない自信がある。

仏頂面で、いつも何かに怒っていて……他人を顧みない。

 

そして、それを改めるつもりもない。

 

それなのに……和希は私を慕ってくれている。

頼りにしてくれている。

 

 

「…………」

 

 

燃えるような怒りと、ドス黒い憎しみだけが私を構築していた。

 

筈だった。

 

正義など……正しさなんて、優しさなんて、そんなもの……まだ、残っていたなんて。

 

思ってもなかった。

 

だが、気付かされた。

 

一度、気付いてしまえば……もう、見て見ぬフリなど出来ない。

私は自我が強く、己を否定する事は出来ずにいた。

 

 

「通報があったのは、この辺りか」

 

 

ふと、啓二が呟いた。

 

切り整えられた茂み、煉瓦で組まれた道路、芝生。

 

私は辺りを見て……視線を落とす。

右手に『剣』を召喚して、『異能』を行使する。

 

脳へ直接、イメージが走る。

情報量に軽い頭痛を感じながら、遡り──

 

 

「……こっちだ」

 

 

確かに、ふらふらと傘も差さず彷徨っている男の姿を見た。

能力を行使しながら、その痕跡を追う。

 

私の能力は『尾行』において、非常に有用だ。

過去の残像を見て、目標を追いかけていく。

 

それは、どれだけ痕跡を消そうが無駄だ。

足跡を消そうとも、過去の出来事を消す事は出来ない。

 

少し歩いて……茂みの中に入る。

芝生も植えられていない、剥き出しの地面に……男がうつ伏せで倒れていた。

 

 

「これは……」

 

 

私はその男に近付いて、身体をひっくり返す。

 

目と、鼻から流血していた。

 

首元を抑える。

……息はしているが、体温は低下している。

 

死んではいないが……何故、こんな場所で倒れているんだ?

 

ともかく、放置しているのは拙い。

 

 

「啓二。一旦、救急車を──

 

 

私は啓二に指示を出そうとして──

 

押し倒された。

 

 

「づ、あっ」

 

 

地面に倒れた衝撃で、息を吐いて……押し倒してきた相手を見る。

 

啓二だ。

 

啓二が私を突き飛ばし、私にのし掛かっていた。

 

 

目と、鼻から……血が、垂れていた。

 

 

「啓、二……!?」

 

 

黙ったまま、身動きが取れなかった私に手を伸ばし……首に、手がかかった。

 

 

「……っ!?」

 

 

振り解こうとしたが、遅かった。

倒れた私に体重をかけながら……啓二が私の首を締め始めた。

 

 

「ぐ、ぅ……!?」

 

 

強く。

 

 

「あ……が……!」

 

 

強く。

 

 

「……ぅ……あ……」

 

 

目元で光が弾ける。

実際に光が弾けている訳ではない。

 

酸欠で、意識が朦朧としている証拠だ。

 

まずい、まずい、まずい。

 

私は咄嗟に右手の『剣』を──

 

 

あぁ、クソ……!

 

 

啓二の腹を、膝で蹴った。

微動だにしない。

 

啓二は私より一回り体格が大きく、しかも男性だ。

警官だからと身体を鍛えていて、力で振り解けない。

 

 

「く、そ……」

 

 

『剣』の柄で殴ろうとも、動かない。

突き刺せば……しかし、だが、それは出来ない。

相手は啓二だ。

 

『剣』が地面に転がる。

 

私は両手で啓二の手を掴み、引き剥がそうとする。

 

 

「ゃ、め……ろ……」

 

 

顔が近い。

 

表情はない。

無表情で、私の首を締めている。

 

やめてくれ、やめてくれ。

 

 

私は、嫌だ。

 

 

仇を取れずに死ぬ事よりも。

何よりも。

 

お前にだけは、殺されたくない。

 

 

涙が流れて、雨と共に頬を伝う。

着てきた服は雨で溶け出た泥に塗れて、見るに耐えない姿になっているだろう。

 

苦しく、辛く、悲しく、痛く。

 

首を、締められる。

 

 

「……ぐ、ぁ、あ」

 

 

視界の隅が黒く染まる。

私の手が、私の物ではないかのように力が入らなくなっていく。

 

 

「……ぎ……ぃ」

 

 

私は……それほど、悪い人間だったのだろうか。

こんな、死に方をするほど……。

 

違う。

人は死に方を選べない。

どんな人間だろうと。

 

善人だろうと、悪人だろうと選べない。

 

そうでなければ……あの日、橋の下で殺されていた兄が、悪人だったという事になってしまう。

 

分かっていた。

『異能』で無惨に殺されている被害者を何人も見た。

 

だから、分かっていた。

 

 

「ぁ……」

 

 

それでも、コイツにだけは殺されたくなかった。

 

碌な死に方が出来ない覚悟はしていた。

だけど……好きな男に首を締められて死ぬなんて、そんなの。

 

あまりにも、酷い。

 

 

「…………」

 

 

声も出ない。

力も湧かない。

 

それでも、啓二は私の首を絞める手を緩めなかった。

 

雨音も、苦痛も、どこか……遠い出来事のように感じていた。

 

 

雨は、嫌いだ。

 

兄が死んだ、あの日を思い出すから。

 

私は……嫌いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

見下ろす。

 

臓物で作られたカラスが、目を下に向ける。

 

私は、見下ろす。

 

首を締められる女性の姿と。

 

首を絞める男性の姿を。

 

カラスを通して、私は見ていた。

 

 

私の身体は、望月家の……希美の部屋にある。

希美を寝かせた後、ドアに鍵を閉めて……壁にもたれかかり、『剣』を呼び出した。

 

私は眠れない夜、日課となっている街の探索を行っている。

 

臓物で作ったカラスを窓から飛ばして、視界を共有していた。

 

 

そして……私は、彼らの姿を見つけた。

車から降りて、何やら探索をしている阿笠結衣と神永啓二の姿を。

 

彼等はどうやら、私を刺した男……を、操っていた『能力者』を探しているようだった。

 

 

そして……今に至る。

 

 

らしくない、と思った。

阿笠結衣は、それこそ犯人の『異能』が分からなければ行動しないような、慎重派の筈だ。

なのに……今、深追いをしていまい、罠に嵌められて……死にかけている。

 

……こんなの、原作には存在しない。

彼女はまだ、ここで死ぬべきキャラクターではない。

 

 

しかし、それでも。

 

 

……最早、原作なんて、どうでもいいと思えるほどに剥離している。

だから、固執する必要はもう……ないのかも知れない。

 

そして。

 

ここで阿笠結衣が死ねば……和希は間違いなく、精神に傷を負う。

そして、強くなれる。

 

きっと、恩師の死は彼を……物語に必要な強さまで引き上げてくれる。

 

……それだけ、強く、なれるなら。

私が……これ以上、何かをする意味はない。

 

もう、こんな……隠れて、和希を傷付けなくていい。

 

私は、解放される。

 

……だから。

 

 

 

 

殺す、べきだと。

 

見殺しにするべきだと、私の心で……誰かが囁く。

 

 

 

和希。

 

……和希。

 

例え、これから本当のヒロインが現れるとしても……期間限定の、恋人だとしても。

 

私は……彼をもう、傷付けたくなかった。

 

それは愛からか……分からない。

キスをしてみれば分かると思ったが……それでも分からなかった。

 

ただ、私は和希を大切に思っている。

それだけは事実だ。

 

 

目下で、阿笠結衣の身体が跳ねた。

 

 

……見殺しにするべきだ。

そうすれば、私は……『あれ』をしなくて済む。

頭の中に練られていた『名案』を実行せずに済む。

 

これからも、素知らぬ顔で……彼らの側に居られる。

 

 

……だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

胸を張って、生きていけるのだろうか。

彼を生涯、騙して生きていくのだろうか。

 

違う。

 

今更だ。

 

私はもう、取り返しが付かない場所にいる。

 

今更、善人面をするな。

罪悪感を感じようとするな。

 

 

逃げるな。

 

逃げるな……。

 

逃げるな……!

 

 

雨が、降り注ぐ。

臓物で出来たカラスの皮膚から、腐敗した血が垂れる。

 

生気を感じさせない目玉が、ギョロリ、と足元を見た。

 

 

一つ、私は『選択』する。

 

 

取り返しの付かない『選択』を。

 

 

私は──



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10話:目を開けたまま見る夢

最近、病院によく来ている気がする。

そして、それは気の所為じゃない。

 

二週間前は稚影。

 

今日は──

 

 

「……結衣さん」

 

 

ベッドで横たわる、結衣さんの姿があった。

いつも厳しそうな表情を浮かべる顔は、穏やかに……安らかな眠りを、享受していた。

 

片腕に点滴、そして何かの機器が繋がれている。

 

死んではいない。

 

生きている。

 

だけど、目を覚まさない。

 

 

「……これ、置いて行きますから。早く起きて……下さいね」

 

 

買ってきた果物を机に置いて……僕はまた、結衣さんを見下ろした。

いつも、僕を叱咤する声は聞こえず……見た事もないほど、弱々しい表情を浮かべている。

 

 

だから──

 

 

「……あ、れ?」

 

 

思わず、涙が溢れた。

 

不安で、怖くて。

 

もう目が覚めないかも、なんて。

 

そんな事はない筈だと信じていても。

 

ほんの少しの心の翳りが渦巻いて。

 

 

「……ぅく」

 

 

手で拭っても、涙は止まらない。

 

拭って、溢れて、拭って、溢れて。

 

どうして、こんな事になってしまったのかと……僕は、泣いていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

今日の早朝。

 

病院から、結衣さんと啓二さんが搬送された事を伝えられた。

 

僕は慌てて病院へ向かって……二人の症状を医者から訊いた。

 

啓二さんは……体内から出血していて、目や鼻から血を流して倒れていたらしい。

結衣さんは……首の骨を捻挫して、酸欠の症状。

 

共に低体温症で、一時は命の危機もあったらしい。

 

……昨日の深夜、都内の公園で横たわっていると通報されて、搬送されたらしい。

 

 

そしてまだ、二人とも意識を取り戻してはいない。

 

 

……間違いなく、『異能』による事件だ。

昨日、結衣さんに説明された『操られていた人』の症状が啓二さんに出ている。

結衣さんは操られた啓二さんに、首を絞められた……の、だろうか。

 

それはなんて……酷い。

卑劣だ。

 

悲しみと共に、怒りで心の中が煮立っていた。

 

そして、何よりも……そんな事する奴がまだ、この街で野放しになっている事が許せなかった。

 

……だけど。

 

僕一人では……犯人は捕まえられない。

警察が見つけられないのに、僕に見つけられる訳がない。

……啓二さんが居なければ、事件現場に入る事すら出来ないのだから。

 

 

感情を向ける先すら見つけられない。

結局、誰かに頼らなければ……何も成し遂げる事ができない。

 

 

僕は、無力だ。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

病院から帰って来て、自宅の前に立っている。

 

希美はもう、学校に行っただろう。

一年は今日から林間学校という学校の行事で、一泊二日、同級生達と山籠りみたいなレジャーをさせられる。

 

今朝、着替えの入った大きな鞄を持った希美に、結衣さんや啓二さんが入院した事は告げなかった。

 

余計な心配をさせたくなかったからだ。

 

僕は自宅に泊まりに来ていた稚影と、朝の支度をしている希美を置いて病院へ向かったんだ。

探偵事務所のアルバイトで、早朝から用事があると嘘を吐いた。

 

……だから、僕のいない間に希美は林間学校へ向かい、稚影も学校に行っている。

 

 

筈なんだ。

 

 

「…………あれ?」

 

 

鍵を差し込んでから、違和感に気付いた。

……開いてる。

 

最後に家を出るのは……時間的に稚影か?

林間学校は早朝から、学校前のバス停の集合だった筈だ。

 

通常の学校がある稚影が一番遅い。

そして、既に一限の授業時刻は1時間も過ぎている。

 

……だから、誰もいない筈で。

 

 

稚影は望月家の合鍵を渡しているから、鍵を閉められない訳でもない筈だ。

 

それなら、何故?

 

……締め忘れ、だろうか。

 

 

それとも──

 

 

「…………」

 

 

呼吸を顰めて、右手に『剣』を呼び出す。

ドアノブに手をかけて、ゆっくりと開ける。

 

何も変わった様子のない玄関に、少し安堵して……そのまま奥へ入っていく。

 

リビングのドアを開いて──

 

 

「あ……おかえり、和希」

 

 

……ソファに座って、テレビを見ている稚影が居た。

 

深く息を吐いて、右手に握っていた『剣』を消した。

 

 

「稚影、もう登校時間はとっくに過ぎてる筈だと思うけど……」

 

「ん?和希と一緒だよ」

 

「僕と?」

 

 

稚影がソファの背もたれに、体重を乗せた。

 

 

「うん、今日はちょっと休もうかなって」

 

「……何で?」

 

「希美ちゃんに頼まれちゃったからね」

 

 

伸びをしながら、稚影がソファから立ち上がった。

僕の側に擦り寄って来て……彼女の顔が僕の肩にぶつかりかけた。

 

 

「えっと……何を?」

 

「慰めてあげてねって……希美ちゃん、心配してたよ?」

 

 

その言葉に、少し怯んだ。

希美には、何も言っていなかった筈なのに……それでも、僕の表情か、態度から何か良くない事が起きたのだと察したのだろう。

 

稚影が少し、真剣な表情をして僕を見た。

 

 

「ねぇ、何があったの?」

 

「それは……」

 

「教えて?」

 

 

有無を言わせぬ態度に後退りして──

 

 

「実は、昨日さ──

 

 

僕は、結衣さんと啓二さんの話をした。

二人が意識不明で病院に搬送された事、そしてそれを心配している事を。

 

稚影は眉尻を下げながら、頷いた。

 

 

「……そっか」

 

「あぁ……でも、生きてて……良かったよ。本当に」

 

 

そう、締め括る。

 

そうだ。

結衣さんも啓二さんも生きている。

だから、まだ最悪の事態ではなかった。

それだけは僕の中で救いになったんだ。

 

 

「まだ意識は戻ってないんだよね?」

 

「あぁ、うん……そうだよ」

 

「……そっか」

 

 

直後、稚影が立ち上がった。

 

昔は僕と身長は変わらなかった筈なのに、高校生になった頃ぐらいから……僕と彼女の間には15センチ程の身長差が出来ていた。

 

 

「ねぇ、和希──

 

 

だから、稚影は僕の顔を見る時、少し上目遣いになる。

 

 

「デート、しよっか?」

 

 

そう、提案された。

 

 

「デ、デート?」

 

「そ。だからさ、そんな辛気臭い顔をやめて……ね?」

 

 

稚影が僕の頬に手を伸ばし……触れた。

柔らかくて、少し冷たくて。

思わず、少し身を引いてしまった。

 

 

「が、学校サボってデートなんて……」

 

「別に良いじゃん?悪い事しようよ」

 

 

ほんの少しの抵抗も振り払われて──

 

 

「それに……和希には今、必要だからね」

 

 

そう言われると……僕は黙るしかない。

正直に言うと、僕は今、落ち込んでいる。

メンタルがぐちゃぐちゃだ。

 

恩人も尊敬する人も昏睡していて、犯罪者は野放しで、僕は無力で……。

 

そんな僕を慰めてくれようとしているのだから、僕が否定するのは違うと思ったんだ。

 

だから──

 

 

「……何処に行く?」

 

 

と、訊き返す。

 

僕の返答に稚影が嬉しそうに笑って、僕は少し照れて視線を逸らした。

 

 

「どこでも良いけど……水族館が良いかな?」

 

「水族館?」

 

「ほら、最近出来たでしょ?」

 

 

あぁ、そう言えば……ここから二駅離れた所に水族館が出来たんだっけ?

広告だったかがポストに投函されていたのを、机に置いていたら……稚影が読んでいるのを見たな。

 

そっか、行きたかったのか。

 

 

「じゃあ、そこで……ちょっと、着替えてくる」

 

「うん、待ってるから」

 

 

小さく微笑んだ稚影を見て、胸の中で絡み合った不安の糸が……少し、解れた気がした。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

大きなガラスを隔てて、大きな魚が視界を横切った。

縦にも横にも、あまりにも巨大な水槽に僕は息を呑んだ。

 

 

「来てよかったね」

 

 

薄暗い展示室で稚影が笑った。

彼女は背を水槽に向けて、僕の顔を見ていた。

 

彼女の背後でエイが通り過ぎた。

 

 

「……確かに、凄いな」

 

 

大きな影が、生命が目前を泳ぐ。

……こうして見てると、僕の悩みなんか小さい物のような気がしてくる。

 

 

「ね?人も少なくて空いてるし」

 

 

平日の昼間だからか、人影はない。

広い展示室の中にいるは僕と、稚影だけだ。

 

電飾が彼女の髪を照らしていた。

両手を組んで、後ろに回して……僕の側に擦り寄ってきた。

 

僕のパーソナルスペースに踏み込んでくる。

だけど、それでも……少しも、不快じゃなかった。

 

吐息の音すら聞こえてしまうような距離感で……心臓が早鐘のように鳴り響く。

稚影に聞こえてしまうんじゃないかと杞憂して、余計に高鳴る。

 

 

「……さ、次行こうよ。イルカもペンギンも見たいから」

 

「あ、うん」

 

 

言葉を掛けられて、そっと視線を稚影に向ける。

楽しそうに笑っている。

彼女が楽しければ、僕も嬉しくなる。

 

頬が、緩む。

 

 

「そう言えばここ、カワウソの握手会とかあるらしいよ?」

 

「……全部回るには時間が足りなくないか?」

 

「え?それじゃあ少し、急がないと」

 

 

稚影が手を伸ばして、僕の手を握った。

思わず、僕は少し硬直して──

 

 

「…………和希?」

 

 

稚影はそんな僕を見た。

ほんの少しの縋るような視線に気付いて──

 

僕は手を握り返した。

 

そうだ。

僕と稚影は恋人なのだから、何も恥ずかしくない。

当然なんだ。

 

稚影は目を細めて、嬉しそうに笑った。

 

 

「……さ、行こっか」

 

 

稚影に手を引かれて、僕は足を進める。

 

彼女が先導して、僕の歩む先を指し示す。

それに僕はついて行く。

 

 

それは、なされるがまま……。

 

 

煌びやかな電飾に彩られた水槽が作り出す、綺麗な景色を通り過ぎて、進んでいく。

 

今日の出来事を、僕は忘れないだろう。

 

積み重なっていく綺麗な景色も。

稚影の笑顔も。

僕の胸にある恋心も。

 

だけど、少しずつ、僕と稚影は出口へと近付いている。

 

この景色は、永遠に続く訳じゃない。

 

駆け足で、だけど時々足を止めて。

 

少しずつ、出口へと近づいていく。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「楽しかったね」

 

「……そうだな」

 

 

空は茜色に染まっていた。

 

水族館でのデートを終えた僕達は、夕焼けの中、帰路を歩いていた。

 

 

「……ちょっとさ、寄り道してもいい?」

 

 

稚影がそう言って……僕の返事を聞かず、帰路からズレた。

 

そして、僕の方へ振り返った。

 

 

「そんなに遠くないなら」

 

「うん、本当に『ちょっと』だから」

 

 

彼女の歩く方向についていく。

坂道を登って……普段の、学校からの帰り道に合流した。

 

何処に行こうとしているのか、不思議に思いながらついて行く。

 

 

夕焼けが照らす坂道を登って、稚影はそこで立ち止まった。

 

……高台だ。

 

学校の帰り道の途中にある、ベンチぐらいしか置いていない高台。

 

 

思わず、稚影に声を掛ける。

 

 

「来たかったのって……ここか?」

 

「そうだよ」

 

 

稚影が石で組まれた柵に手を置いた。

夕焼けが、彼女を背後から照らした。

 

綺麗だった。

景色も、彼女も。

 

まるで、映画のワンシーンを切り取ったかのような──

 

 

「和希、私ね……」

 

 

稚影が、口を開いた。

 

 

「この景色が好き」

 

「……ここが?」

 

 

僕は稚影と並ぶ。

毎日通っている道だ。

 

見慣れた景色だ。

 

 

「和希がいて、希美ちゃんもいる……ここの景色が好き」

 

 

その言葉に……僕も頷いた。

 

そんな僕を見て、稚影は満足そうに笑った。

 

 

「何気ない、何もない毎日かも知れないけど……私は大好き」

 

 

彼女は目を閉じて、想いに耽っているようだった。

 

ゆっくりと石の柵を撫でながら、彼女が移動する。

 

 

「二人が笑ってれば、私は幸せ……」

 

 

表情は、夕焼けの逆光で見えなかった。

 

 

「だからさ、和希に笑って欲しいから……」

 

 

そして、ゆっくりと僕へ近づいて……抱きしめられた。

 

 

「稚影……」

 

「辛かったら、悲しかったら……今は、泣いてもいいんだよ」

 

 

その言葉に戸惑う。

 

 

「私達を心配させないように、和希が強く振る舞ってるのは分かってるから」

 

「そんな事は……」

 

「あるよ」

 

 

彼女の吐息が頬に掛かった。

 

 

「泣いても良いし、愚痴だって聞いてあげる」

 

「稚影……」

 

「だから、最後には笑っていて欲しい」

 

 

抱きしめる力が強くなる。

 

それと同時に、僕の涙腺は緩んだ。

 

 

「あ……」

 

 

涙が溢れて、稚影の服に……。

 

 

「いいよ、気にしないから」

 

 

そういって、優しく頬を撫でられた。

 

 

「……ごめん、稚影」

 

 

誰かが傷付けられる悲しみ。

日常が壊されるかも知れない不安。

大切な人を失う恐怖。

 

僕の中に溜まっていた負の感情がボロボロと溢れる。

 

 

「僕は……」

 

 

こんな姿、見せるつもりはなかったのに──

 

 

「大丈夫、大丈夫だから」

 

 

稚影に抱きしめられて、僕も彼女を抱きしめ返す。

 

僕は彼女が好きだ。

その優しさも、思慮深さも、強さも、全て。

 

そして、僕に向けてくれている好意も。

 

 

「和希は……私にとっての、特別、だから」

 

 

知っているつもりだった。

彼女の魅力について……知っているつもりだったんだ。

 

好きなんだ。

 

だけど、もっと好きになれる。

これまでも、これからも。

 

今、この瞬間も。

 

 

「稚影……僕も、稚影の事が──

 

 

これ以上、抱きしめると壊れてしまいそうな気がして……手を緩める。

 

少し、離れると……彼女の整った顔に視線が釘付けになる。

 

夕焼けに照らされて、いつもより魅力的に見えた。

 

唇は艶やかに輝いていて──

 

 

唇を、重ねた。

 

 

一度目は彼女からだった。

二度目は、僕から。

 

彼女は嫌がる素振りをせずに、そのまま重ね続けた。

 

 

心臓が高鳴る。

 

 

だけど、キスしてからどうしたら良いかなんか分からなくて、少しの間、そのままそうして唇を重ねたままで……凄く、長い時間そうやっていたような気がした。

 

慌てて、彼女から離れて……やっと、現実に戻ってくる。

 

 

稚影は、少し呆けたような顔で……自身の唇を指で撫でていた。

 

 

「……その、稚影?」

 

 

不安になって問い掛けると、ハッとしたように稚影は僕に視線を移した。

 

 

「あ、えっと……ちょっとビックリしたというか……えっと、うん。恋人だもんね、うん」

 

 

ずっとリードされっぱなしだった僕だったけど、少し意趣返し出来たような気がして頬が緩む。

 

そんな僕の表情を見て、彼女は眉を顰めた。

 

 

「さ、帰ろ、帰ろ」

 

 

照れ隠しなのは分かったから、僕は小走りで彼女の横につく。

すると、彼女は少し頬を緩めた。

 

夕焼けの帰り道……いつもの帰り道だ。

 

今までの日常から少し離れつつあるけど、それでも僕と彼女の守りたいものは変わらない。

 

 

そう、思っていた。

 

 

 

だけど──

 

 

 

僕の守りたいものは稚影と希美で。

稚影の守りたいものは僕と希美で。

 

互いに自分を含んでいない。

 

少し、違っていたんだ。

ほんの少しの……それでも、大き過ぎる違い。

 

そんな事に、僕はまだ気付いていなかった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

二人で家に帰って、食事をして。

 

 

「……今日も泊まっていくのか?」

 

「えー?和希、帰って欲しいの?」

 

「いや、そういう訳じゃなくて……確認するつもりで……ごめん」

 

 

僕が謝ると稚影が愉快そうに笑った。

 

 

「冗談だよ、怒ってないから」

 

 

互いに風呂に入って、そうして……就寝する時間になった。

 

 

稚影は希美の部屋に入って行く。

……希美の部屋に、稚影が泊まる時用の布団がある。

 

それで寝るつもりなんだろう。

 

当然だが、僕とは別々だ。

僕も彼女も……恋人とは言え、男と女だ。

だから、一緒には寝れない。

 

 

「おやすみ、稚影」

 

「……うん」

 

 

何故か、少し間が空いた返事をして……稚影は部屋に入って行った。

 

僕も自分の部屋に入って……電気を消した。

 

常夜灯……小さな豆電球が暗い部屋を少しだけ照らしている。

 

ベッドに入って……そのまま、目を閉じる。

 

 

……眠れない。

不安や恐怖……それは稚影の前で全部、涙と一緒に流したつもりだった。

 

だけど、一人になれば……戻ってくる。

 

今日は幸せだった。

 

幸せだったからこそ、怖い。

 

この日常が何処かに消えてしまわないかと、怖くなる。

 

大丈夫だ。

怯えても仕方がないと。

 

そう自分に言い聞かせながら……。

 

 

脳裏に稚影の顔が過って……。

 

 

少し、安心する。

 

 

薄暗い部屋で、時間だけが過ぎて行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガチャリ。

 

 

 

 

 

 

と、ドアの空いた音がした。

 

 

……稚影?

 

 

「……和希、まだ起きてる?」

 

「ん……?あ、えっと……うん、起きてるよ」

 

「……眠れないの?」

 

「まぁ……うん、そうかも」

 

 

僕は布団を捲って、ゆっくりを上体を起こす。

 

薄暗い部屋、常夜灯だけが部屋を照らしている。

視界はあまり良くない。

 

それでも……稚影の姿が見えた。

 

 

「……どうか、した?」

 

「…………」

 

 

稚影は黙ったまま……僕へと近付いてくる。

 

そして……。

 

 

自分の着ている寝巻きの、シャツのボタンに指をかけた。

 

 

「……稚、影?」

 

 

そのまま、ボタンを外して──

 

 

「何を……?」

 

 

はだけ、させた。

 

 

「和希……」

 

 

そのまま、僕の側へ擦り寄ってくる。

僕の脳はキャパシティをオーバーしていて、理解出来なくなっている。

 

視線を少し下げれば……稚影の柔らかそうな肌が、目に映って──

 

 

「和希、する……?」

 

 

する?

 

何を……何て、惚ける事は出来ない。

 

理解した。

理解してしまった。

 

 

「稚影……でも──

 

「それとも私とは、イヤ?」

 

 

違う。

 

そんな事はない。

稚影の事は好きだ。

 

人として──

家族として──

友人として──

恋人として──

男と女としても。

 

だけど、だからこそ……大切にしたい。

 

 

「……稚影」

 

 

揺れる、視線。

心も。

 

するりと、彼女の着ていた寝巻きがベッドの上に落ちた。

下に何も着ていなかったようで、素肌が顕になる。

 

 

「……あ」

 

 

息を呑んで、僕は……少し、怖気付いていた。

未知への不安が半分、嬉しさが半分。

 

そのまま稚影は僕を押し倒して、馬乗りになった。

 

 

「私……少し、自信はないんだけど」

 

 

顔を近付けくる。

吐息が僕にかかる。

 

綺麗だ。

彼女は……とても──

 

 

「……綺麗だ」

 

「そっか……ありがとう」

 

 

耳にうるさいほど、鼓動の音が聞こえる。

はち切れそうな、僕の心臓。

 

熱くなった僕の体に……彼女の手が触れる。

少し、冷たかった。

 

 

「……っ」

 

 

ゾクリとして、僕は声を我慢した。

不快じゃない。

寧ろ、どちらかというと……。

 

その様子に稚影は顔を緩めて……手を伸ばしてくる。

そして、僕の着ている寝巻きを脱がそうと──

 

 

 

 

着信音が鳴り響いた。

 

 

 

 

机の上にある、僕の携帯電話だ。

 

僕も、稚影も……そちらに視線を移した。

 

 

誰からの電話、だろうか?

こんな時間に電話してくる知り合いなんて居ない筈だ。

 

気になってしまう。

 

 

だけど、今は──

 

でも──

 

 

「電話、出ていいよ。和希」

 

 

そう、頭上から声が聞こえて……稚影が僕から離れた。

 

 

「稚影……」

 

「気になるんでしょ?」

 

 

ベッドの上に座りながら、稚影がそう言った。

……僕は立ち上がって、携帯電話を手に取る。

 

着信元は……病院?

 

慌てて、通話ボタンを押した。

 

 

「もしもしっ、望月 和希ですけど──

 

 

電話をかけて来たのは病院の看護師さんだった。

……結衣さんが、意識不明の状態から回復したらしい。

 

そして、僕に「来て欲しい」と言っていると──

 

 

「…………」

 

 

稚影を一瞥する。

 

……彼女がここに来るのに……凄く、勇気が必要だっただろう。

それは僕への好意から来るものだ。

僕もそれに応えるつもりだった。

 

だけど、今は──

 

 

「……分かり、ました。向かいます」

 

 

結衣さんが呼んでいるのは『異能』事件関係だろう。

人の命が掛かっている。

 

それに──

 

 

「……和希?」

 

 

彼女の腹部を見る。

……刺された時の傷は、二度と消えない。

 

 

稚影は……僕が守らないと。

 

 

電話を切って、稚影に向き直る。

 

……あぁ、本当に。

何てタイミングが悪いんだ。

 

 

「……ごめん、稚影」

 

 

僕は頭を下げる。

 

 

「本当にごめん」

 

 

恋人として最悪な対応だ。

分かってる。

 

本当に情けない。

 

だけど……稚影は大切だし、僕だって……その……それでも。

 

 

「……やらなきゃならない事があるんでしょ?」

 

 

稚影の声が聞こえた。

電話の内容は聞こえていたようだった。

 

 

「だったら……行かないとね」

 

 

視線を上げると……凄く寂しそうで、悲しそうな表情をしていた。

 

……寂しそう?悲しそう?

 

違う。

寂しくて、悲しいんだ。

 

なのに彼女は、それを飲み込んで僕の背中を後押してしてくれたんだ。

 

 

「ごめん、埋め合わせは絶対にするから」

 

「……うん、今度は和希から誘ってね?」

 

「うっ……」

 

 

誘う、誘うって。

それは、えっと。

 

つまり、そういう事の続きを……。

 

手を口に当てる。

 

どうすれば良いのか……いや、稚影がそもそも誘って来たのだから、いつでも良いのだろうか。

 

あ、いや、でも、明日から希美が帰ってくるし──

 

 

「わ、分かったよ」

 

 

喉の奥から、言葉を絞り出した。

 

そんな僕の困っている姿を見て、稚影は笑いながらベッドの上の寝巻きを手に取った。

 

袖に腕を通して……肌を隠して行く。

 

視線を、逸らす。

今更だろうけど、急激に恥ずかしくなってきたからだ。

 

くすくすと僕を笑う声が聞こえた後、そのまま稚影が口を開いた。

 

 

「……うん、じゃあ……行ってらっしゃい?」

 

「あ、えっと……行ってくるよ」

 

 

僕は外出できる服に着替えるため、寝巻きを脱ごうとして──

 

稚影の視線に、手が止まった。

 

 

「…………その、稚影?」

 

 

呼びかけると、稚影は少し眉を顰めた。

 

 

「私は見せたのに」

 

 

……そう、言われると辛い。

稚影を見てると……まずっ、さっきの光景が脳裏に……。

 

困っていると、稚影が軽く息を吐いて……立ち上がった。

そして、僕の部屋のドアに手を掛けた。

 

 

「……仕方ないから、許してあげる。希美ちゃんの部屋で寝てるから……行って来なよ」

 

「……ごめん」

 

「もう、さっきから謝ってばかり」

 

「あ、えっと……ありがとう?」

 

「……うん、よろしい」

 

 

そうして、稚影が後ろ手を振って、部屋から出て行った。

 

何だか、今になって凄く……惜しい気持ちになってきた。

だけど、僕には……やらなきゃならない事があるのだから、仕方ないと自分に言い聞かせていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

「結衣さん!」

 

 

病室のドアを開けると──

 

 

ベッドで上半身を立たせて、手元のタブレットを弄っている結衣さんの姿があった。

 

 

「……あぁ、和希か。思ったより早く来たな」

 

 

僕は……心配して損をした気持ちになりつつ、パイプ椅子を手に取った。

稚影もここに入院していたから……椅子の位置とかもよく知っている。

 

椅子をベッドの側に置いて、結衣さんの近くに座る。

 

だというのに、結衣さんの視線は手元のタブレットから離れなかった。

 

 

「……えっと、何があったんですか?」

 

 

僕が質問すると、いつも通り険しい表情で僕に視線を移した。

 

 

「啓二が『能力者』に操られ、私の首を絞めた」

 

 

その返答は、想定通りだった。

……あまり、想定通りであって欲しくなかったけど。

 

 

「それじゃあ……えっと、その──

 

「その『能力者』の能力について、目処が立った」

 

「……え?」

 

 

思わぬ返答に、僕は困惑した。

 

 

「え、ど、どういう事ですか?」

 

「操られている途中の人間……まぁ、つまり啓二に向けて私の『異能』をぶつけていた」

 

「…………」

 

「私の異能は生物には効かない……物質限定だ。逆に言えば、生きている人間の中に存在する『異物』を探知する事もできる」

 

 

首を絞められて死にかけたって言うのに、あまりにもあんまりで僕は思わず呆れてしまった。

死にかけながらも犯人を探そうとしている姿勢に……やっぱり、結衣さんは結衣さんなんだと思った。

 

 

「私の『異能』に引っかかったのは……『液体』だ」

 

「液体……?」

 

 

首を傾げる。

 

 

「『異能』で生み出した物ではない……実在する『液体』だ。それを『能力者』は操っている」

 

「でも、どうやって人を操ってるんですか?操れるのが、その『液体』?なのだとしたら……」

 

「人体に於いて、取り込んだ水分が体から完全に抜け切るのに……どれ程の時間が必要か知っているか?」

 

 

結衣さんが、自身の持っているタブレットを指で突いた。

 

 

「答えは一ヶ月程。奴はその『液体』を対象に取り込ませる事で、人間の肉体に浸透させて操っている……取り込ませる事で一ヶ月間は、いつでも操れるという事だ」

 

「…………」

 

 

思わず、黙る。

どんな『液体』が対象かは分からないが、何かを飲むのが怖くなる話だ。

 

 

「啓二の車の屋根に、液体ぐらいしか入れないような穴が開けられていた。犯人は『異能』で液体を操り、その穴から車内に侵入し……車内のペットボトルの中へ液体を注入した」

 

 

結衣さんが指を立てる。

 

 

「それが二週間程前の出来事だ。ペットボトルは……啓二がバカみたいに杜撰だったから署内にある奴の席のゴミ袋に溜まっていた」

 

 

……思わず眉を顰める。

啓二さん……何をしてるんだろう。

 

 

「私は啓二以外にも警察の伝手がある。警察も自分の身内が狙われたとあって、犯人の捜索には乗り気になってくれたよ」

 

 

目を瞬かせる。

病院から電話があってから、到着するまで二時間弱しかなかった筈なのに……もう、そんな事までしてるのか。

 

やっぱり、結衣さんの行動力は凄い……というか異常だ。

さっきまで意識不明で寝てた筈なのに……。

 

 

「わざわざ最新の機器まで引っ張り出して来てくれたからな……ものの1時間で解析してくれたよ」

 

「え、もう解析が終わってるんですか?」

 

 

思わず、目を瞬いた。

そんな僕を結衣さんは気にも留めなかった。

 

 

「さて、ペットボトルに付着している液体から何が検出されたと思う?」

 

「……何ですか?」

 

「DNA情報だ」

 

「DNA……?」

 

 

……と、いう事は。

 

 

「犯人の、体液が……操れる『液体』の正体、ですか?」

 

「そうだ。正確には……体液が混じった液体、と言った所か」

 

 

結衣さんが眉を顰める。

 

 

「樽一杯の『ワイン』に『汚水』を一滴流し込めば『汚水』になるように……唾液を一滴でも流し込めば、その液体全体が操れるようになるのだろう。範囲はわからないが……数滴取り込ませるだけで、人間一人を操れるのは脅威だ」

 

 

被害者の体内で出血していたのは……『異能』によって無理矢理動かされた身体が内出血を起こしていたから、だろうか。

 

……あれ?

DNA情報があるという事は──

 

 

「液体から採取したDNA情報とマッチングするものが、警察のデータベースに存在していた」

 

「前科犯、って事ですか?」

 

「いいや、違う。被害者だ」

 

 

結衣さんがタブレットを僕に見せた。

そこには……顔写真と、幾つかの個人情報が載っていた。

 

 

「名前は『笹川 祐子』。被害当時は14歳……現在は19歳」

 

 

事件の詳細に目を向けて……息を呑んだ。

 

 

「被害内容は実父からの性被害……コイツは最低のクズだな。しかし、実父の逮捕は彼女にとって人生の転機にはならなかった」

 

 

嫌悪感で目を、細める。

 

 

「父が逮捕された事によって、家庭内の経済状況は悪化。彼女の母親は新興宗教にハマり、多額の借金を背負い……自殺した」

 

 

口の中が乾く。

なんて酷い話だと……胸が、苦しくなる。

 

僕の表情を見て、結衣さんが眉を顰めた。

 

 

「和希、他人の痛みに悲しめるのは……お前の、長所だ。だが……過ぎ去った事に同情し、これから先に生まれるであろう被害者を増やす事は許されない」

 

「……分かって、ますよ」

 

 

服の裾を掴んで、頷く。

 

 

「……話を戻そう」

 

 

タブレットを操作して、別の画面を映す。

 

 

「以後、笹川 裕子は一人暮らしだ。彼女は経済的事情から年齢を詐称し、違法な売春行為を行い……結果、妊娠する事となる」

 

「…………」

 

「この妊娠させた奴が厄介でな。責任を取ろうとしなかった……結果、彼女は借金を背負いながら人工中絶によって堕胎する事になる」

 

「……もう、いいじゃないですか……彼女の身の上話じゃなくて……事件の事を話しましょうよ」

 

 

結衣さんが視線を上げて、僕を見た。

 

 

「犯人の人となりを知らなければ、咄嗟の状況で致命的な失態を犯す事になるぞ。彼女の動機や、憎しみ、怒りについて……お前は知る必要がある」

 

 

ぐちゃぐちゃになった心……いや、胸を押さえて、僕は……かろうじて、頷いた。

 

 

「……まぁ、良い。笹川 裕子は『男』という性別を憎んでいる。それも、社会的地位がある程度ある、成人男性が対象だな」

 

「…………」

 

 

仕方ない、とは思わない。

 

結衣さんを傷付け、啓二さんを傷付け、希美を怯えさせて、稚影に……二度と、癒えない傷を付けた。

 

許せない。

だけど……それでも。

 

 

「……捕まえましょう」

 

 

法の裁きを受けるべきだ。

彼女の人生は悲惨な事の連続だったかも知れない……だから、これ以上、罪を犯させたくない。

 

 

「あぁ。幸い、犯人は私達がどこまで情報を掴んでいるかも知らない。証拠を作らない『異能』犯罪者相手に警察は使えないが……作戦さえ立てれば、和希でも──

 

 

タブレットに、通知が鳴った。

メールの着信だと、タブレットには表示されていた。

 

結衣さんは指をスライドさせて──

 

 

「和希、今すぐテレビを付けろ」

 

「……えっ」

 

「早く」

 

 

僕は机に置いてあったリモコンを手に取り、病室のテレビを付けた。

そこには速報……ニュースの放送画面が映っていた。

 

 

『連続猟奇殺人再び?○○区にて変死体』

 

 

「……う、あ」

 

 

何の放送か、分かってしまった。

あの『肉』を操る『能力者』がまた、人を殺したんだ。

 

そして──

 

 

『事件現場は被害者の自宅です。被害に遭われた10代の少女は──

 

 

「笹川 裕子だ」

 

「え?」

 

 

結衣さんの言葉に驚いて、視線を向けると……険しい顔をしていた。

 

 

「……殺されたのは笹川 裕子だ。報道規制はされているが、七課から連絡が来ていた」

 

「そん、な……」

 

 

僕は、呆然とする。

息を深く吐いて、呼吸を……荒くする。

 

 

「……和希。お前の恋人……楠木 稚影、だったか。彼女は何処にいる?」

 

「……え?」

 

 

急激な話題の転換について行けず、僕は口を手で覆った。

 

 

「何処にって……僕の家に──

 

「電話を掛けろ。スピーカーで、私にも聴こえるように」

 

「何を、言ってるんですか?」

 

 

意味が分からない。

この瞬間に電話を掛けろなんて、まるで──

 

 

「訳は後で話す……安否の確認だと思え」

 

「安否……分かり、ました」

 

 

違う。

結衣さんは安否を確認したくて僕に掛けさせている訳じゃない。

 

だけど……強く言われたら、否定が出来なくて……手元の携帯電話から、稚影に電話を掛ける。

勿論、結衣さんが言った通り、スピーカーモードでだ。

 

着信音が鳴って──

 

 

『もしもし、和希?どうしたの?』

 

「あ、あぁ、稚影。ちょっと話がしたくて」

 

 

彼女の声がスピーカーから聞こえる。

ほら、大丈夫だ。

 

何もおかしい所はない。

稚影は、いつも通りの稚影だ。

 

 

「いや、結衣さんが──

 

 

ちら、と結衣さんを一瞥する。

彼女は首を振った。

 

……掛けて欲しいと言った事は、稚影に伝えたくない……って事か。

 

 

「ちゃんと目覚めてて、元気だったって報告を」

 

『へぇ、良かったね……もう帰ってくるの?」

 

「えーっと……それは、うん。出来るだけ、早く帰るよ」

 

『うん、分かった。じゃあ、気を付けて──

 

 

 

 

救急車のサイレン音が聞こえた。

僕の携帯電話からだ。

 

 

「……稚影?外に居るのか?」

 

 

口の中が乾く。

……こんな事件が起こった日に、外にいるなんて……危ないと思ったからだ。

 

 

『えーっと、その、ちょっとコンビニに行こうと思って──

 

「そんなの……僕に頼めば良いじゃないか……!」

 

 

思わず、声色が強張ってしまった。

 

 

『……和希?』

 

「ご、ごめん……でも、心配だから……」

 

『…………』

 

 

救急車のサイレン音が遠く、離れていく。

 

 

『……私の方こそ、ごめんね。和希。心配かけちゃった』

 

「いや……」

 

 

気まずくなって、目を細める。

稚影は優しげに、謝ってきたのに。

 

 

『うん、急いで……気を付けて帰るから。和希も気を付けてね?』

 

「あ、あぁ……分かったよ」

 

 

電話がプツリと切れて、通話の終了音が病室に鳴り響く。

 

僕は結衣さんに視線を向けて……彼女がタブレットに目を向けて眉を顰めているのが気になった。

 

彼女が電話を掛けろって言ったのに……何で、そんな態度なんだ。

少し腹が立って声を掛けようとした瞬間──

 

 

「……和希」

 

 

結衣さんの方から、声をかけてきた。

そして、タブレットを僕に向けて来た。

 

地図に赤い点が映っている。

右上に時間も映っている。

 

時間は……今さっき、通話中の、時間。

数分前を指し示していた。

 

 

「これ……何ですか?」

 

「都内の救急車の出動状況だ」

 

 

僕は……それを見て……気付いた。

気付いてしまった。

 

 

「……和希。お前の恋人は……わざわざ、コンビニに行くのに電車に乗って、二駅離れた場所に行くのか?」

 

 

僕の家からコンビニまで……徒歩、10分ほど。

だけど、その間には救急車の出動状況は存在しない。

 

あるのは……二駅離れた、隣町でだけだ。

 

 

その隣町は──

 

 

先程、笹川 裕子が殺された……彼女の住居がある街だった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

夜風に身を冷やしながら、私は夜道を歩いていた。

 

笹川 裕子……彼女は原作に登場する強力な『能力者』だった。

それこそ、選択肢を間違えれば主人公……和希も死んでしまうような、強敵だ。

 

自身の体液を含む液体を操る能力……その操作能力は強力だ。

遠距離で大の大人を操れるような『異能』だ。

 

それが……近距離ならばどうなる?

 

『異能』の出力は基本的に、自身と距離が近ければ近いほどに性能が増す。

力も、精度も、速度も。

 

 

彼女に、穂花に使った時のような遠距離攻撃では……不安が残る。

私自身が出向く必要があった。

 

 

「……ふぅ」

 

 

息を深く吐く。

 

目的は達成した。

丁度、和希が家を離れている内に殺す事が出来た。

 

もし、万が一……和希が笹川 裕子と戦えば、どうなるかは分からなかった。

もしも……もし、和希が……殺されるような事があれば。

 

そう思うと居ても立っても居られなかった。

 

そもそも笹川 裕子は原作での中盤以降に現れるキャラクターだ。

今の和希では……荷が重い。

 

しかし何故、今の段階で笹川 裕子が事件を起こしたのか。

……私が干渉した何かが、笹川 裕子に影響を与えてしまったのか?

 

……バタフライ・エフェクトという言葉がある。

蝶の羽ばたきは、僅かな力だとしても……より、大きな想像もできない事象を引き起こす。

私は笹川 裕子に干渉した覚えはないが、私が殺した人間の誰かが彼女に影響を与える存在だったのだとしたら……。

 

 

「…………」

 

 

……阿笠 結衣、神永 啓二。

 

私は彼等を助けた。

……いや、助けてしまった。

 

 

頸椎を損傷し、気を失っていた阿笠 結衣を……私の『異能』で修復した。

あのまま放っておけば、死ぬ所だったからだ。

 

別に見殺しにすれば良かったのに……だけど、もし見殺しにしてしまえば……きっと、もう、和希に対して笑顔を見せられなくなる。

 

そんな気がした。

 

 

……もう、何をどうすれば良いかは分からない。

 

 

阿笠 結衣の身体を治した際に、私は彼女の身体に『ヒント』を与えてしまった。

気付くか、気付かないか……それは分からない。

 

だけど、私が異能を使う上で必ず発生してしまう『ヒント』。

 

 

「……ぐっ」

 

 

頭痛がする。

右手に『剣』を生み出して、血管を弄りながら……歩く。

 

目眩、吐き気、悪寒。

 

それらは私に付き纏う。

 

過剰なストレスと、肉体の酷使。

『異能』による肉体操作……そして、それによって発生する『副産物』。

それらが私の肉体を蝕む。

 

 

「……和希」

 

 

寝室での和希の顔を思い出す。

 

こんな汚れた……傷を負った身体でも、彼は……綺麗だと、言ってくれた。

内面は腐りきった臓物と血で作られた屑だと言うのに。

 

知られたくない。

私の悪行を、内面を。

 

失いたくない。

平穏な日々を、友人を、恋人を。

 

 

「……だ、けど」

 

 

もし、知られてしまっても。

 

和希はきっと、私を許してしまう。

彼は言っていた。

 

私がどれだけ悪い事をしていたとしても、嫌いにはならないと。

 

 

「ダメ……」

 

 

違う。

裏切られたと、許せないと、和希は憎悪しなければならないのに。

 

もし、このまま私の罪が暴かれて、逮捕されたとしたら──

 

和希はきっと、これから来る困難を前に様々な物を失う。

 

 

「……和希」

 

 

だから、だから。

和希には私を──

 

 

滝のように流れる汗を拭って、灯りの前に立つ。

望月家だ。

 

和希と希美の家で……私の居たい、居場所。

守りたい、もの。

 

ポケットに入れている合鍵を手に取って、差し込む。

 

鍵を開けて、中に入る。

 

 

……良かった。

和希はまだ帰って来ていない。

 

 

「げほっ、ごほっ」

 

 

安心から咳き込む。

手で口元を拭うと──

 

 

ドス黒く、腐臭のする血が……手に付着していた。

 




次回、『真実は痛みを伴う』
3/19(日) 23:00更新予定。


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11話:真実は痛みを伴う

今回ちょっと長めです。


救急車の位置を示す赤いポイント。

それは……隣駅を指し示している。

 

震える喉で、言葉を……紡ぐ。

 

 

「稚影が……どうして、そこに?」

 

 

タブレットで見せられた内容から……まるで、稚影が『肉』の『能力者』と関係があるかに連想して、僕は怯える。

 

違う筈だ。

だけど、何故?

 

どうして、あんな場所に?

どうして、僕に嘘を?

 

分からない。

怖い。

 

分からないから、怖い。

 

 

「私が楠木 稚影に関心を持った理由は……これだ」

 

 

結衣さんはベッドの側にある机から、二枚のカルテを取り出した。

 

それを手に持ったまま、僕へ話しかける。

 

 

「正直に言うと、昨日、啓二に首を絞められた時……死を意識していた」

 

「……結衣さん」

 

「だが、生きている。確実に首の骨を折られた筈が……何故か『軽傷』程度に落ち着いている」

 

 

僕が疑問に思っていると、結衣さんが息を深く吐いた。

 

 

「私は何らかの理由があって『能力者』に治癒された。そして、それは恐らく『肉』の能力者によって、だな」

 

「……それは──

 

「これを見ろ」

 

 

僕の言葉を遮って、結衣さんがカルテを一枚、僕に突き出した。

 

 

「これは私が入院した直後の血液検査、その結果だ」

 

 

中に書いてある文字は……結衣さんの名前は分かるけど、成分なんて見ても分からない。

 

 

「特筆すべきはここだ」

 

 

結衣さんが成分表の……『カダベリン』と『プトレシン』を指差した。

 

 

「これは生物を構成する物質が微生物に分解される過程で発生する成分だ。それが血中から常人の5倍の濃度で検出された」

 

 

僕は眉を顰める。

 

 

「これは所謂、『腐臭』の原因だ。腐った臭い……覚えがあるだろう?」

 

「……『肉』の『能力者』が作ってる、ゼリー状の死体?」

 

「そうだ」

 

 

僕は脳裏に死体を思い出して、少し気分が悪くなった。

 

 

「私は常々、あのゼリー死体が何故、こうも短時間で腐敗しているのか不思議に思っていた。だが、違う……あれは、ゼリー状に変化した所為で腐敗が急速に進行した訳ではなかった」

 

「……『異能』による『副産物』という事ですか?」

 

「そうだ。血肉の操作とは、粘土のように弄る『異能』ではなかった。肉体を分解し、再構成する能力……その分解過程で腐臭の原因となる様々な成分を発生させている」

 

 

結衣さんは僕に視線を向けた。

 

 

「つまり、奴は『異能』によって肉体操作をした場合、肉体を一度分解し……腐らせてしまう副次効果を持っている」

 

「……結衣さんは、大丈夫なんですか?」

 

 

その『肉』の『異能』によって治癒されたのだとしたら、結衣さんも腐って──

 

 

「問題ない……微量だったからな。人の身体は思っている以上に頑丈だ、心配するな」

 

 

ホッと胸を撫で下ろす。

そして、結衣さんがもう片方のカルテを僕に渡した。

 

 

「しかし、『異能』の痕跡は残る。肉体を操作すれば……血に残り、先程のように検査で異常な数値が弾き出される」

 

 

そこには……腐敗の原因となる成分が、結衣さんよりも多く含まれていた。

目に見えて分かる……これは、『異能』によって肉体操作をした痕跡だ。

 

そのカルテの作成日は、二週間前。

 

 

「先日、刺されて入院しただろう?その時に採血した血液を検査した結果だ」

 

「あ……」

 

 

患者の名前は──

 

 

「七課から病院へ連絡し、本人には連絡していないが……名前に覚えがあるだろう?」

 

 

 

『楠木 稚影』だった。

 

 

 

「……嘘だ」

 

 

口の中が乾く。

瞬きをするのも忘れて、目が乾く。

心が……乾く。

 

 

そんな僕を意図的に無視して、結衣さんは言葉を繋ぐ。

 

 

「先程の救急車のサイレン音から逆引きされる位置情報、血液検査で検出された不可解な数値。それは即ち、彼女自身が──

 

「そ、そんな訳、ないじゃないですか……!」

 

 

乱暴に立ち上がれば、僕の座っていた椅子が倒れて……大きな音を立てた。

だけど、そんな事を気にしている余裕はない。

 

 

「だって、稚影は僕の親友で、家族で、恋人で……!」

 

「……そうだな」

 

「ずっと昔から一緒だったんですよ……?連続殺人事件が起きる前から、ずっと!」

 

 

服の裾を強く、掴む。

息が荒くなる。

 

 

「だからっ──

 

「あの『肉』の『異能』による連続殺人事件……その最初の事件が発生する数ヶ月前に、彼女は目前で実兄を亡くしている」

 

 

結衣さんの言葉は僕の記憶を引き上げて、パズルのピースのように組み上げようとしていく。

 

やめろ、やめてくれ。

 

 

「交通事故による実兄の事故死、それが『異能』に目覚めたきっかけだろう」

 

「……違う」

 

 

そんな訳がない。

例えば『異能』に目覚めたとしても、無差別な殺人なんて……する訳がない。

 

 

「十年近く、お前の側に居ながらも隠れて人を──

 

「そんなの、出鱈目だ!」

 

 

 

僕は両手を頬に当てて、後退りする。

 

脳裏に彼女の笑顔と声が蘇る。

 

『ご飯、用意できたよ。和希』

違う。

 

『和希、一緒に買い物に行こ?』

違う。

 

『和希は、私にとっての特別だから』

違う。

 

『和希?』

『和希ったら……』

『和希はどうする?』

『和希』

違う、違う、違う違う違う!

 

 

「稚影は……そんな事をする人じゃない!」

 

「…………」

 

 

呼吸が乱れる。

極度のストレスで息切れを起こしている。

 

そんな僕を……結衣さんは憐れむような目で見る。

 

 

「和希……」

 

「なん、なんですか……?どうして、そんな事を……言うんですか?嘘だ……こんなの」

 

 

だけど、僕は気付き始めていた。

 

時間が経つにつれて、理解をし始めた。

理解したくなんか、ないのに。

 

 

「ありえない……だって……」

 

 

犯人は僕に執着していて、父を殺して。

殺す理由は分からなくても、僕の側でばかり起きていた因果関係に気付いてしまう。

 

 

「だって、稚影は……」

 

 

目から涙が溢れる。

 

 

「稚影は……」

 

 

目を閉じて、堪えて……脳裏に、彼女の言葉が蘇る。

 

『もし私が……悪い事をしたら、嫌いになる?』

 

あぁ、だから。

そんな事を訊いたのだろうか。

 

 

結衣さんが、口を開く。

 

 

「和希、楠木 稚影が……この連続異能殺人事件の犯人だ」

 

「…………」

 

「お前も、理解はしているだろう?」

 

 

分かってる。

だけど、分からない。

 

理解はしている。

だけど、納得できる筈がない。

 

ずっと……ずっと一緒に居たんだ。

 

変わらない笑顔と、優しさと……安らぎを、僕達と分かち合って来た。

彼女は……本当の父親なんかよりも、家族だ。

 

拳を握る。

 

この力も……僕が強くなろうとしたのも……家族を、彼女を守るためだ。

なのに、それなのに……。

 

 

「……和希」

 

 

結衣さんが僕の名前を呼んだ。

顔を上げて、睨み付けようとして……心配するような視線が見えた。

 

思わず……涙が溢れた。

 

苦しくて、悲しくて、情けなくて。

涙が流れた。

 

 

「和希、彼女の血液中に特異な成分が含まれていると言ったな?」

 

「……は、い」

 

「……それは、毒性があるものも含まれている」

 

 

目を、見開く。

そうだ、結衣さんはさっき言っていたじゃないか……『微量だったから、問題ない』と。

 

逆に言えば──

 

 

「恒常的な『異能』の行使により、血液は腐敗し……内臓が機能不全を起こす」

 

「え……?」

 

「脳にも影響を及ぼし、思考能力の低下……ストレス耐性の低下……様々な悪影響を引き起こす」

 

「……ぁ」

 

 

息を、呑んだ。

 

 

「楠木 稚影の内臓はボロボロだ……このままだと彼女は──

 

 

 

脳裏に、今日、別れる前に最後に見た……稚影の顔が、思い浮かんだ。

 

 

 

 

「死ぬぞ」

 

 

 

 

 

静かな病室で、時計の針が動く音だけが響く。

カチリ、カチリと針が動く。

 

これからも止まらず動き続ける。

そう、思っていた。

 

だけど──

 

 

「稚影が……死ぬ?」

 

「そうだ」

 

 

膝に力が入らない。

身体が震える。

 

僕の、日常。

 

それは希美がいて、稚影がいて……三人で、笑って……それで。

 

 

「……結衣、さん、僕……どう、したら?」

 

「………」

 

 

涙は止まらない。

何をすれば良いか分からない、

 

稚影は、僕を苦しめていた人殺しの『異能』犯罪者で──

 

その『異能』の代償に身体がボロボロになっていて死にそうなんて──

 

最悪な話が、二つ。

 

僕の心に二つの影を落として、混ざり、澱む。

 

 

「和希、お前はどうしたい?楠木 稚影を」

 

「……僕、が?」

 

「そうだ、お前がだ」

 

「……僕は──

 

 

笑顔と。

血と。

安らぎと。

臓物と。

 

今まで見てきた稚影と、今まで見てしまった腐敗した肉の死体。

 

彼女を恨む気持ちは……ない。

たとえ、騙されていたとしても……僕は。

 

僕は──

 

 

「僕は、彼女を……助け、たい……」

 

 

そうだ。

僕の願いはただ、それだけだ。

 

彼女が犯罪者だからとか、嘘を吐いているとか、全部、全部……そんなの、取っ払ってしまえば……。

 

残るのは、純粋な願いだ。

大切な人を助けたいという、願い。

 

 

「……そうか。それでこそ、私の助手だ」

 

 

ふと、結衣さんが笑った。

 

 

「和希、彼女を説得するぞ」

 

「説得……?」

 

 

今までずっと僕を騙して来たのに、今更、説得なんて……。

 

 

「勝算がない訳ではない。楠木 稚影は私を助けた。殺しているのも前科があるような奴ばかり……」

 

「…………」

 

「無論、許される話ではない。だが、歪んではいるが、善性がない訳ではないだろう」

 

「……でも」

 

「お前はどう思う?楠木 稚影は血も涙もない残虐な犯罪者だと思うか?」

 

 

……違う。

 

 

「和希、今まで見て来た『能力者』はどうだった?純粋な悪人だったか?」

 

 

違う。

 

 

「誰もが心に傷を負い、病んでしまった人間だ。道を踏み外してしまった普通の人間だった筈だ」

 

 

そうだ。

 

そうなんだ。

 

 

「和希、お前は信じろ。彼女の凶行を止めて……命も救え。それは、お前にしか出来ない事だ」

 

 

僕は、拳を握りしめた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

数日後。

 

そう、数日後だ。

病院から帰ってきた僕は、何食わぬ顔で稚影と再会した。

 

問い詰めたりしない。

疑う素振りも見せない。

 

ただ、僕は……彼女と、いつも通りの日々を送る事にした。

 

それは結衣さんがまだ入院しているからだ。

僕一人では……万が一の事があればと、結衣さんの退院までは悟られないように過ごす必要があった 。

 

啓二さんは……目は覚めたけど、結構な重傷だったようでリハビリ中だ。

それが終わるのは数ヶ月後……待てる気がしない。

 

結衣さんの退院まで二週間程、僕は稚影に悟られないように生活する必要があった。

 

……稚影の秘密を知った翌日、希美も林間学校から帰って来た。

 

 

だから、本当にいつも通りの日常。

 

 

朝起きて、朝食を食べて。

待ち合わせしている稚影と合流して。

一緒に学校へ登校して。

授業を受けて。

また、一緒に帰って。

みんなで同じ机を囲んで。

夕食を食べて。

 

そんな、毎日だ。

 

僕が失いたくない、大切な日常。

 

 

……だけど、これは偽りの上に成り立っている物だった。

 

 

稚影。

 

楠木 稚影。

 

 

結衣さんが退院すれば……彼女の秘密を暴けば。

どんな結末になろうとも、きっと日常には帰って来れない。

 

彼女は人を殺し過ぎた。

法の裁きに例外はない。

 

だから……きっと、お別れだ。

長い間か、それとも一生の別れか。

 

 

希美と話して、笑う稚影を見た。

 

 

たとえ、騙されていたとしても……彼女が人殺しだったとしても……僕は彼女を愛おしいと思っていた。

 

 

だからこそ、胸が苦しくなった。

 

 

稚影は僕を苦しめる色々な事件を起こしていた……それなら。

彼女は本当に、僕の事が好きだったのだろうか。

 

 

息が荒くなりそうで……それでも、悟られないために無理矢理呑み込んだ。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

僕と稚影は、夕焼けに照らされた街で歩いている。

 

僕がビニール袋を二つ持って、稚影が一つ買い物袋をもっている。

 

僕と稚影、二人で買い出しに出掛けに来ていた。

その帰りだ。

 

 

「和希、重かったら言ってね?持ってあげるから」

 

「いいよ、全然重くないから」

 

 

……嘘だ。

醤油と酢の入ったビニール袋はかなり重かった。

 

だから、彼女に渡すつもりはなかった。

……彼女もこの袋が重い事は知っている。

 

だけど──

 

 

「……ありがとう、和希」

 

 

僕の気持ちを考慮して、納得して引き下がってくれた。

こういう時に僕が譲らないって、彼女はよく知ってるからだ。

 

……今でも、分からない。

 

彼女が何故、あんな事をしているのか。

実は全部、結衣さんが間違っていて……嘘なんじゃないかと……。

いいや、違う。

 

これは現実逃避なのだろう。

 

怖くて、僕はただ逃げているだけだ。

 

考える時間は沢山あって……それでも、今まで過ごして来た時間に比べれば遥かに短くて。

 

 

「……ねぇ、和希」

 

 

稚影の声が、耳に響く。

聞き慣れた声だ。

 

 

「何か、隠し事してる?」

 

 

彼女の目が僕を射抜く。

息を少し呑んで……僕は首を振った。

 

 

「いいや……してないよ」

 

「……そっか」

 

 

二人で夕焼けの道を歩く。

 

僕は彼女を疑っているとは言えない。

それは彼女に対する裏切りに等しい隠し事だ。

 

だけど、それ以上に……稚影は。

 

稚影は──

 

 

「稚影こそ、隠し事……してないか?」

 

 

声が漏れた。

言ってしまったという後悔が胸に渦巻く。

 

それでも、もう今更取り返す事なんか出来ない。

 

 

「あるよ、隠し事」

 

「……え?」

 

「沢山、あるかな」

 

 

ガサリ、と音が鳴った。

 

分かってる。

彼女の持つ布製の買い物袋では、こんな音は鳴らない。

ビニール袋が僕の動揺に震えた音だ。

 

 

「それ、は……?」

 

 

夕焼けを挟んで、僕と彼女は向き合って──

 

 

「女の子には、言えない秘密が沢山あるんだよ」

 

 

柔らかく、楽しそうに彼女は笑った。

弾む心臓の音は緩やかに落ち着いていく。

 

胸を撫で下ろした。

 

 

「……あ、あぁ。そっか?」

 

「む……?何その反応、バカにしてる?」

 

「してないよ……はは」

 

「失礼しちゃうな、希美ちゃんに告げ口するからね」

 

 

安心した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

え……?

 

 

安心、した?

 

 

彼女の嘘を暴けなくて、安心した、のか?

 

これから、彼女の秘密を……暴こうとしているのに?

 

この緩やかな茜色の日常が崩れなくて、安心した……?

 

 

そうか。

 

……安心したんだ。

 

 

僕の心の奥底では、彼女の秘密を暴きたくないと思っているんだ。

このまま、何もかも知らないフリをして生きていけたら良いと、そう願ってるんだ。

 

だけど……それは許されない。

 

僕には、彼女の罪も、受けるべき罰も何も分からない。

 

……彼女は、その身を蝕んでいる。

自らの『異能』で、身も心も腐らせている。

 

このまま放置すれば、いずれ──

 

 

 

死に、至る。

 

 

 

今、両手に持っている荷物を放り出して、彼女と手を繋げれば……どれだけ良いだろう。

 

目前を歩く彼女の髪が、夕焼けに照らされていた。

それはまるで、血のように……赤く、鮮やかに。

 

僕に最悪な結末を、予感させた。

 

それでも。

 

僕は──

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

少しずつ、日々は過ぎ去っていく。

私と、和希と、希美の日常が。

 

ゆっくりと、ゆっくりと。

 

その間私は、穏やかに何もせず……ただ、普通の楠木 稚影として生きていた。

 

もうすぐ、夏休みが始まる。

……即ち、本編の開始直前になってしまう。

 

それまでに私は……。

 

 

…………どうなる?

 

 

異変が起きたのは一ヶ月前ぐらいか、自宅のトイレで血を吐き出した。

そこからは腐臭がした。

 

……私の能力、それは血肉を作り、操る『異能』。

その本質を、私は理解していなかった。

 

私の『異能』は血肉の分解と再構築だった。

分解……即ち、『腐敗』。

 

脳の萎縮した血管を広げたり、傷跡を隠したり、変装に使ったり……そういった事で『異能』を自分の身体に使用していた。

結果、私の体は……もう、腐ってしまっているのだろう。

 

血と、肉、臓物が……腐る。

私の内面は精神的にも肉体的も腐っていた。

 

腐った肉を元に戻す術はない。

 

 

私は、長くは生きられない。

 

 

その事に関して、悲観する想いはなかった。

 

 

数多くの命を踏み躙り、自分の目的のために進んできた。

他人の命も、自分の命も……価値は等しい。

それなら、私の命も使い潰せば良いだけだ。

 

 

ただ──

 

 

「和希と希美だけは……」

 

 

守りたい。

 

私が死んでも、死んだ後も……幸せに生きて欲しい。

 

だから──

 

 

数多くの人を助ける未来が待っている、特別な貴方に。

 

 

 

私の全てを、捧げたい。

 

 

 

先日、和希は……私を疑うような発言をしていた。

 

元から気付いていたが、言葉にされて自覚できた。

和希は私を疑っている。

 

……いや、もう、確信しているのだろう。

 

だけど、理性ではなく感情が邪魔をしているのか。

……和希は、優しいから。

 

 

だけど、それでも……時間の問題だろう。

 

私の、最後の演劇。

 

幕はまだ上がらない。

だけど、開演の時間は……少しずつ、近づいてきている。

 

 

それまでは……この、優しい日常という微睡みの中に溺れていたかった。

 

もう少し、まだ少し。

 

許される限り、この優しさの中で。

未来から目を逸らして。

 

それでも。

 

私は──

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はただ、この日常をずっと続けていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

私はただ、貴方に幸せになって欲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

夜、望月家。

 

窓の外を見れば雲が少しあるけれど、月明かりが照らしている。

 

夕食後、僕と稚影は二人……食器洗いをしていた。

希美は……シャワーを浴びている。

 

 

「なぁ、稚影……」

 

「なぁに?」

 

 

食器が水を弾く音が聞こえる。

心臓が……脈打つ。

 

 

「……少し、外で話さないか?」

 

 

声に出した。

出してしまった。

 

 

「……え?どうして?」

 

「ちょっと……二人っきりで話したいんだよ」

 

 

そう、声を振り絞る。

どうか、どうか断って欲しいと……誘いながら、僕はそう思っていた。

 

 

「…………」

 

 

稚影は無言で食器を洗っている。

希美のお気に入りのコップを、水切りに置いた。

 

 

「……いいよ、和希」

 

 

何気ないように、彼女が笑った。

僕は胸が締め付けられる気持ちになりながら……食器を片付ける。

 

 

「希美ちゃんにはコンビニ行ってくるって言っておくから」

 

「あ、あぁ」

 

 

きっと、平常心は保ってはいない。

揺れ動く心は、僕の笑顔をぎこちなくさせる。

 

 

リビングから稚影が出て行って、浴室の方から声が聞こえた。

 

 

緩む、揺らぎ、揺れ動く。

汗が溢れた。

 

いいや、頬を伝う、小さな涙だ。

 

 

「さ、行こっか」

 

 

稚影が僕の、手を引いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜道を二人、歩く。

夏前というのもあって寒くはない。

 

 

「んー……涼しくて気持ちいいね」

 

 

夜風が身を通り過ぎる。

 

 

「ウチの中よりも涼しいな」

 

「まだクーラー付けてないもんね」

 

「夜だし、付けなくても良いだろ……別に」

 

「む、ケチなんだから」

 

 

二人、歩く。

 

歩幅を合わせて、ゆっくりと歩く。

 

いつもと違って……僕は彼女より、一歩先を歩いている。

 

 

「和希さぁ、どこ行くつもり?」

 

「……公園だよ、この時間なら人も居ないし」

 

「えー?人が居ない所で何するつもり?もしかして──

 

「べ、別に変な事はしないぞ」

 

「ふぅん、残念」

 

「……あんまり、揶揄わないでくれよ」

 

「どうしよっかなぁ」

 

 

稚影が両手を後ろ手に組んだ。

 

 

「和希がさ」

 

「……うん?」

 

「もう少し、頼りになるようになったら考えてあげる」

 

「はぁ、やめるとは言わないんだな」

 

「だって楽しいからね」

 

 

笑いながら、足を進める。

少しずつ、目的地を近付いていく。

 

 

「……このまま──

 

 

辿り着けなければ良いのに。

そう、思った。

 

 

「え?どうしたの、和希?」

 

 

思わず溢れた言葉に、僕は首を振る。

 

 

「ううん、何でもないよ」

 

「……変なの。最近、ちょっと上の空だよね?」

 

「……そうかな」

 

「どう見てもね」

 

 

公園の門を潜り……人気のない広場で、足を止める。

 

 

「……和希?」

 

 

月光が僕達を照らしている。

 

僕は口を開こうとして──

 

 

「…………」

 

 

声が、掠れる。

 

恐れているんだ、僕は。

だけど、今は……恐れるな。

怯えるな……。

 

この日常を全て壊してしまうとしても、稚影を……僕は、助けたいんだ。

 

まだ間に合う。

 

『異能』の副作用に身体が蝕まれていようとも、どれだけ罪を重ねていても……間に合う筈だ。

彼女には、これからも生きて欲しいから──

 

 

「稚影」

 

「……なに?どうしたの?」

 

「稚影は……」

 

 

戸惑うような稚影の表情に、胸の奥で締め付けられるような痛みが生まれた。

 

 

このまま。

 

 

このまま──

 

 

何も、知らないフリをして生きていけたら……どれだけ、幸せだろうか。

 

 

 

だけど、それでも……僕は──

 

 

 

歯を、食いしばって……言葉を連ねる。

 

 

 

 

「稚影は人を殺した事が、ある、か?」

 

 

 

 

言った、言ってしまった。

かいた汗が夜風で冷える。

 

稚影はまだ、困惑した表情のままだ。

 

 

「え?何?殺しって……そんな事、する訳ないでしょ?何言ってるの?」

 

 

……そうだよ、何言ってるんだよ、僕は。

もっと、足を踏み込んで彼女に訊くんだ。

 

 

「この街で発生してる、連続猟奇殺人事件って知ってる、よな?」

 

「……うん?知ってるけど……?」

 

 

しらを切るのが上手いのか、それとも本当は違うのか。

どうか、後者であって欲しかった。

 

 

「あの事件の犯人は……稚影、なんだろ?」

 

 

夜風が、僕と稚影の間を通り過ぎた。

ほんの少しの時間、稚影は黙った。

 

辺りが暗くなる。

雲が月を隠していた。

 

 

「何言ってるの?和希?」

 

 

それは戸惑いの言葉。

 

 

「……僕はもう、知ってるんだ」

 

「何を?分かんないよ、和希」

 

 

それは否定の言葉。

 

 

「例えば稚影が何をしてたとしても、僕が味方になるから……だから──

 

「待って、待ってよ!和希!」

 

 

僕の言葉を遮るように、彼女の手が僕の肩に触れた。

 

 

「稚影……」

 

「和希が何言ってるか分からない……だけど、そんな事言わないでよ……」

 

 

彼女は泣いていた。

悲しそうに、怖がるように。

 

 

「そもそも和希は、私がそんな事するように見えてたの……?」

 

「そ、それは……」

 

「酷いよ、和希」

 

 

……そうだ。

稚影がそんな事する訳がないんだ。

やっぱり、杞憂だったんだ。

 

……でも、だけど、あの証拠の数々は──

 

 

「和希」

 

 

上目遣いで、稚影が僕を見る。

思考は中断されて、意識が乱されて──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「三文芝居はそこまでにしろ、楠木 稚影」

 

 

ざくり、と足音が背後で聞こえた。

僕は視線を、そちらに向ける。

 

 

「……結衣、さん」

 

 

既にこの公園で待ち伏せしていた結衣さんだ。

数日前に退院して、今日……彼女の説得を実行するように僕へ指示していた。

 

僕の役目は稚影を、この公園まで連れてくる事。

そして、説得する事だった。

 

 

「……和希?」

 

 

稚影が、僕と結衣さんを交互に見る。

 

 

「どういうこと?」

 

 

何も分からなさそうに怯えた表情を浮かべている。

そして……僕が話す前に、結衣さんが口を開いた。

 

 

「……楠木 稚影。お前にも『これ』が見える筈だ」

 

 

その右手には『剣』が握られていた。

ドクドクと、緑色の『剣』が脈打っている。

 

 

「結衣さん……!」

 

「和希、お前は下がっていろ」

 

 

僕と、稚影と結衣さん。

三人は三角形を作るように位置どりをしていた。

 

 

「か、和希?何の話?これ……和希が?」

 

 

怯えた様子で稚影が僕に声をかける。

胸の奥が疼く……乾いた口では、何も言葉を紡げない。

 

 

「楠木 稚影……別に、私はお前を殺すつもりはない。素直に罪を認めるなら、暴力も振るわない。だから──

 

「な、何を言ってるの……」

 

 

結衣さんが目を細め、眉を顰めた。

 

 

「まだ……しらを切るつもりなら、私にも考えがある」

 

 

結衣さんが、『剣』を──

 

 

構えた。

 

 

「ま、待ってください!結衣さん、まだ、話し合いを……!」

 

 

思わず、身を乗り出そうとして──

 

 

「邪魔だけはするな。そう言った筈だ」

 

 

叱責されて、足を止めた。

 

この作戦を実行する時……結衣さんは言っていた。

『泣いて、喚いて、何もしなくてもいい。だが、邪魔だけはするな』と。

 

 

僕はそれに頷いた。

頷いてしまった。

 

 

「か、和希……?」

 

 

稚影の目が僕を見た。

 

助けたい。

だけど、だけどだけど……!

 

結衣さんの言っている言葉は……正しかった。

 

僕は足が竦んで、動けなくなっていた。

 

 

「……お前の『剣』を出せ、楠木 稚影」

 

「『剣』って……何言ってるの?和希、分かんないよ、助けてよ!」

 

 

助け、助、う、うぐ。

 

 

「稚影……頼む、自首して欲しいんだ……」

 

「和希……」

 

「僕は、君にも、傷付いて欲しくない……」

 

「何で……?ひ、酷いよ……」

 

 

涙を流す稚影を見て……思わず、僕は右手に『剣』を出してしまった。

 

結衣さんがそれを見て、表情を歪めた。

 

 

「和希……!」

 

「だ、い丈夫ですよ……僕は、何も……何もしません、から……!」

 

 

歯を食いしばって、身を震わせながらも堪える。

 

そんな僕の様子を呆然とした表情で、稚影は見ていた。

 

 

「和希……」

 

 

そして、結衣さんが一歩、稚影に近付いた。

 

 

「最終通告だ。何か私に言う事はあるか?」

 

「……何で、こんな事を……するの?」

 

「……そうか。腹を割って話し合うつもりはないようだな」

 

 

結衣さんが『剣』を振り上げた。

 

 

「それなら──

 

 

……まさ、か。

 

 

「物理的に、腹を割ってやる」

 

 

薙ぎ払った。

 

 

「稚影っ──

 

 

僕の彼女を呼ぶ声が、無音だった公園に響いて──

 

 

 

ぐちゅり。

 

 

 

 

と、肉が断ち切れた音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは──

 

 

 

 

 

 

 

 

『肉』で作られた、防御壁だ。

 

 

 

稚影と結衣さんの間に、赤黒い壁が出来ていた。

 

 

「……っ!」

 

 

結衣さんの持つ『剣』が、血肉に阻まれて──

 

 

瞬間、後ろに飛び退いた。

 

 

風に乗って、腐臭が嗅覚を刺激した。

 

 

「あ……」

 

 

血肉で出来た壁は黒く変色し、ボロボロと崩れて消滅した。

視界を遮っていた肉壁が消えれば……そこには──

 

 

「稚、影……」

 

 

右手に『剣』を持つ、稚影の姿があった。

 

その顔は……無表情。

全てが抜け落ちた、何を考えてるか全く分からない表情。

 

その表情のまま……『剣』を握る手が、揺れ動いた。

 

 

直後、悪寒。

 

 

背筋を何か冷たいものに撫でられたかのような、幻触。

 

稚影の背後から赤い臓物で作られた、腸のような触手が凄まじい速度で伸びて来た。

 

 

それは結衣さんの方へ向かい──

 

 

「……っ、結衣さん!」

 

「分かっている!」

 

 

結衣さんが『剣』を薙いで、触手を叩き落とした。

断ち切られた臓物の触手は血を撒き散らしながら弾けた。

 

その血は結衣さんの服や頬に付いて、腐臭を撒き散らす。

 

 

「チッ!」

 

 

異臭に結衣さんは顔を顰めた。

 

 

……稚影に、視線を戻す。

僕と結衣さんを見ている。

 

瞳孔を開いて、それでも口は微かな笑みを浮かべて……僕達を観察している。

 

……誰、だ?

アレは誰だ?

 

稚影、なのか?

 

本当に?

 

あんな……顔を、するのか?

 

僕と希美の前で笑っていた稚影とは、あまりにも違いすぎる。

恐怖と違和感による不安で、足に力が入らない。

 

 

「……随分と手が早いな、楠木 稚影」

 

 

背後から、声が聞こえた。

結衣さんの声だ。

 

 

「貴女が先に手を出してきたんでしょ?」

 

 

稚影の声に抑揚はない。

本当に気怠そうに、そう答えた。

 

少しも動揺はしていないように、僕には見えた。

 

 

「それか。それもそうだな。謝ろうか?」

 

 

結衣さんは……口で呼吸している。

腐臭で鼻がやられているのか、血が鼻に詰まってしまったのか。

 

顔を半分以上、返り血で埋めている結衣さんは……服の袖で顔を拭った。

 

 

その様子を見て、稚影が目を細めた。

 

 

「あーあ。あの時、助けない方が良かったかな?」

 

 

僕の手に持つ『剣』が、脈打った。

 

咄嗟に、無意識に結衣さんの前に立った。

その瞬間、血肉で出来た燕が、稚影の影から飛びだした。

 

かなり速い。

右、左、上……三方向から迫ってくる。

 

迷っている暇はない。

剣を横に薙いで、左右の燕を叩き落として……勢いのまま、振り上げる。

 

視界に捉えていなかった燕を、運良く叩き落とせた。

 

 

「ふぅん、今のを防げるんだ」

 

 

無表情のまま、稚影がそう言った。

 

 

「……稚影……?」

 

 

僕は困惑しながら、声を掛ける。

 

本当に稚影なのかと、不安になって……僕は……。

実は別人で今、起きている事に彼女は関係していないのだと、現実逃避をしたくて。

 

だけど、そんな僕を嘲笑うかのように、稚影は『いつも通り』の笑みを浮かべた。

 

 

「うん、どうしたの?和希?」

 

「……ほん、とに……稚影が?」

 

「やだなぁ……見れば分かるのにね」

 

 

稚影が……あの、連続猟奇殺人事件を実行した……『肉』の『能力者』だ。

分かってはいた。

ただ、直接見ると……否定したくなる。

 

だけど……背後には、結衣さんがいる。

 

今、僕はこの現実から逃げる事は出来ない。

 

 

「稚影、身体の調子が悪いんじゃ、ないか……?その『異能』は身体に悪いんだ……だから……だから、一緒に病院に行こう」

 

「えー?この間、入院したばかりなのに?面倒だなぁ」

 

 

何でもないように、稚影が笑う。

彼女の『剣』先が地面に触れる。

 

ガリガリと火花を散らして──

 

 

 

僕の『剣』が脈打った。

 

 

 

刹那、稚影が『剣』を地面に走らせた。

その軌道を血がなぞり、孤を描く。

そして、それは刃へと形を変え……『剣』を振るった衝撃で弾き出された。

 

血の斬撃が宙を引き裂き、飛来する。

 

 

不意打ちだ。

 

 

だけど、僕は既に『剣』を構えていて──

 

 

『剣』が脈打つ。

 

 

「くっ!」

 

 

違う!

これは防いだらダメだ!

肉のように『剣』で防げる物じゃない!

 

刃の形を作っているけど、斬撃ではない。

アレは血……液体だ。

目的は僕の身体を傷付ける攻撃ではなく、血に触れさせる事だ。

 

構えていた『剣』で地面を叩いて、無理矢理、側面に転がる。

 

 

「うぐっ」

 

 

咄嗟の回避だったから、受け身も取れない。

生身の体で地面に身を叩きつければ、痛むのは当然だ。

 

血の刃は宙で交差し弾け飛んだ。

転がった僕の足元にまで、血が付着している。

 

 

「へぇ、よく避けたね?」

 

 

稚影が薄く笑いながら、僕に視線を追従させる。

 

 

血……何故、血を……かけようとしたんだ?

……肉体操作の、足掛けだ。

 

少しでも生身に付着すれば、あの時のように……今度は僕が爆ぜて死ぬ?

 

いや、それ以前に──

 

 

「結衣さん!」

 

 

結衣さんは顔に大量に血が付着していた。

心配になって振り返ると……蹲っている。

 

 

「……ぅ、ぐ……」

 

 

小さく、苦しそうに呻き声を漏らしている。

 

ダメだ、間違いなく……あの血に触れれば、稚影の『異能』に肉体を操作される。

 

結衣さんから目を逸らして、正面にいる稚影へと視線を戻す。

 

 

「稚影……今すぐ、やめてくれ……!」

 

「……どうしようかなぁ?」

 

 

稚影が『剣』を持ち上げた。

右手で柄を持ち、左手で『剣』の刃を撫でる。

 

そして、一際強く脈打ち……背後で物音がした。

 

 

「ぐ、うあ、あぁ……!」

 

 

結衣さんの苦しむ声が聞こえる。

 

 

「やめてあーげないってね」

 

 

可愛らしく、冗談でも言うかのように口にした。

また、胸の奥が締め付けられるような痛みが走った。

 

 

「稚影……!」

 

「ほら、和希?どうすれば良いか分かるでしょ?」

 

 

どうすれば良いか……稚影は、『異能』の行使を止めない。

このままでは結衣さんは……死ぬ、のだろうか。

 

それなら、無理矢理に止めるしかない。

意識を失わせるか──

 

 

「さぁ、和希。殺し合いをしよっか」

 

 

殺すか。

 

 

稚影を……殺す?

 

 

手が、震える。

『剣』が音を鳴らした。

 

 

「うーん、少しイメチェンしようかな?」

 

 

稚影が『剣』を水平に構える。

そして『異能』が行使されて、『剣』が肉に覆われる。

 

『剣』を核にして、臓物で作られた『大剣』へと姿を変える。

柄には大きな人の目玉が並び、無造作に視線をバラつかせた。

 

 

「ふふ、良い出来。悪役が持つに相応しい『剣』って感じじゃない?」

 

 

キー、キー、と甲高い音が聞こえる。

肉で作った『大剣』に小さな口が付いていた。

そこから漏れる奇声だ。

 

生理的悪寒が走る見た目。

だが、見た目だけじゃない。

 

元々、稚影の『異能』は作り出した血肉で触れさせたら、相手の肉体を操作できる……つまり、触れれば即死の異能だ。

 

『異能』に重さが存在しない関係上、『剣』よりも面積が大きい『大剣』の方が強力だ。

 

あれは……見た目だけの、遊びじゃない。

合理的に僕を殺すために作った『大剣』だ。

 

 

「ほら……和希、『剣』を構えなよ」

 

 

構えろ……と、そう言われる前から、僕は『剣』は構えている。

 

しかし、稚影が言っているのは物理的な話ではないのだろう。

精神的な話だ。

 

戦う意志を……いや、殺し合う意識を見せろと、そう言っているんだ。

 

 

「……拍子抜けだなぁ。後ろの女が死んでも良いのかな?薄情だね」

 

「……っ」

 

「おっと……ふふ、少し良い顔になった」

 

 

稚影が『大剣』を構えて──

 

 

薙ぎ払った。

 

 

空を引き裂き、僕の持つ『剣』の2倍はある『大剣』が迫る。

 

僕は『剣』をぶつけて、勢いを相殺する。

『剣』は肉に阻まれて、核になっている彼女の『剣』と接触しない。

 

『剣』と『剣』が触れ合った時に発生する、意識の混濁は発生しない。

 

だけど、だからこそ……稚影が、どんな感情で『剣』を握っているのか……分からない。

 

『剣』で押し込まれる。

 

 

「ぐっ」

 

 

筋力だけなら、稚影より僕の方が優れている筈だ。

足りてないのは……稚影を傷付けるという、覚悟だ。

 

 

「ほら、和希。殺す気で来ないと死んじゃうよ?」

 

「稚影、なんで……」

 

 

何故、どうして。

こんな事をするのか。

 

殺し合わなければならないのか。

まだ何も、話し合っていないのに。

 

 

「…………ふーん?」

 

 

稚影が何かに納得したように、僕の剣を弾いた。

弾かれてしまった。

 

 

「……あっ」

 

 

無防備だ。

僕は今、特大の隙を晒している。

 

拙い。

 

 

思わず、息を呑む……しかし、追撃はなかった。

稚影は後ろに飛び退いて、こちらを観察している。

 

安堵と共に、疲労で息を吐き出す。

 

 

「……っ、はぁ、はぁ」

 

 

体勢を、立て直す。

極度のストレス下で身体を動かした結果、普段の数十倍は疲れやすくなっている……のだろう。

 

 

「拍子抜けかなぁ」

 

「稚影、頼む……もう、やめてくれ」

 

「どうしよっかな?」

 

 

稚影が困ったような顔をして、手を顎に当てた。

 

あの顔は……よく知っている。

晩御飯の献立に迷っている時と、同じ顔だ。

 

涙が溢れそうになる。

だけど、今は泣けない。

泣いたら、視界が歪み……彼女の攻撃を受け止められなくなる。

 

目に痒みが……。

 

 

「……あれ?」

 

 

稚影が目を瞬かせた。

 

目が、痒い。

鼻の奥が痛い。

 

それはきっと、稚影にも起こっている現象だ。

 

 

「楠木、稚影……」

 

 

背後で結衣さんが立ち上がり、か細い声を振り絞った。

稚影は眉を顰めた。

 

 

「死に損ない、なのに……何したの?」

 

「お前が、肉の能力を使うのは知っていた……」

 

 

稚影の『剣』を覆っている肉が軋む。

『剣』に並ぶ口から聞こえる悲鳴が響く。

目から大量の血の涙を流す。

 

そして泡立ち、形を保てなくなり……溶けた。

 

 

「……なるほど。催涙剤かな?」

 

 

稚影が少しも不安を見せず、そう言った。

 

 

「そうだ……市販の物だが、中々どうして効くものだな」

 

 

公園の芝生に水を散布するためのスプリンクラーが回転している。

 

結衣さんが苦しそうに眉を顰めながら、笑った。

 

 

「濃度はかなり薄めているが……剥き出しの内臓には効くだろう?」

 

 

結衣さんは万が一、説得に失敗した時のために準備をしていた。

それが、公園内のスプリンクラーに細工し、催涙剤を混ぜる事だった。

 

『肉』の異能に皮膚はない。

剥き出しの臓物に、催涙剤はかなりの刺激になる。

 

 

稚影が眉を顰めた。

 

 

「……ふーん?何も考えずに来た訳じゃないんだ」

 

「当然、だ……」

 

「やっぱり助けるんじゃなかったなぁ」

 

 

稚影が頬を緩めて、笑った。

そして、その言葉に結衣さんが眉を顰めた。

 

 

「……そもそも、お前の目的は何だ?」

 

「目的?」

 

 

稚影が目を瞬かせる。

 

 

「そうだ。何故、人を殺す……和希を傷付けようとする……私を、何故助けた?」

 

「一度に沢山訊かないでよ、もう……だけど、そうだなぁ──

 

 

稚影が僕を一瞥した。

何を考えているかは分からないけど、僕を見て仄かに笑った。

 

 

「何でだろうね?」

 

 

そのまま稚影が数歩、後ろに下がった。

 

 

「……もう一つ、お前の持っている知識についてだ」

 

「知識?」

 

 

稚影が眉を顰める。

僕は……『剣』を握りながら、何も出来ずにいた。

 

そんな僕を、結衣さんは一瞥した。

 

 

「お前、和希が『異能』に目覚める事を知っていたな?」

 

「……偶々だよ?」

 

「いいや、そんな訳がない……恐らく、お前の目的は──

 

 

その瞬間、稚影の『剣』が脈打ち、光った。

 

 

「ぐ、あっ!?」

 

「結衣さん!?」

 

 

結衣さんが血を吐いて、地面に転がった。

泡状になった血液が口から溢れている。

 

 

「調子に乗りすぎだよ。主導権を握ってるのは、私……貴女じゃない」

 

 

稚影に視線を戻せば……見下すような顔で結衣さんを見ていた。

 

底冷えのする目で薄く、稚影が笑った。

 

 

「催涙剤を使ったのは賢かったね。確かに細かな制御は難しくなったし……さっきみたいな攻撃は出来なくなっちゃった。でも──

 

 

息を、深く吐いた。

 

 

「大気に触れなければ問題ないし?既に貴女の肉体は私の支配下にあるから……殺すのだって、容易く──

 

 

また、稚影の『剣』が脈打って──

 

僕は稚影に『剣』を向ける。

 

守らなきゃ、守らないと……結衣さんを、僕が。

戦うんだ、僕が。

 

稚影を、僕が……!

僕が……!

 

 

「……和希、そんなので私と戦えるつもり?」

 

 

『剣』先が震える。

 

情けない。

何なんだ、僕は。

覚悟はしてきた筈だろ?

それなのに、今更怯えて……こうして、結衣さんを危険に晒している。

 

 

「ぁ…………」

 

 

背後で呻く声が聞こえなくなった。

結衣、さん……?

 

振り返る。

目を閉じて……倒れている。

 

微動だに……しない。

 

 

「結衣さん!」

 

 

近寄ってしゃがみ込み、結衣さんの首元に触れる。

……呼吸は、している。

 

だけど、気は失っているようだ。

体の中がどんな状況かは分からない。

 

それでも、稚影の『異能』によるダメージが原因なのは明らかだ。

 

 

「ほら、和希……はやく私を止めないと」

 

 

そう朗らかに声をかけられる。

結衣さんから手を離して……稚影を見る。

 

睨みつけようとして……。

稚影の顔を見て……。

怒りよりも、悲しさを感じてしまった。

 

闘争心よりも、悲哀が勝ってしまう。

 

震える膝で立ち上がる。

震える腕で『剣』を握る。

滲む視界で僕は稚影を見る。

 

 

「稚影……」

 

「うん?」

 

「僕は……君を、傷付けたくない……」

 

「そっか」

 

 

稚影が『剣』を構えて、口を開いた。

 

 

「それなら、死んでもらおうかな?」

 

 

膝から崩れそうだ。

今すぐ泣き言を口にして蹲りたい。

 

 

「……僕が、君を止める……これ以上、もう、悪い事をしなくて済むように……」

 

 

だけど、僕は逃げられない。

逃げたくても、今は逃げられない。

 

僕が止めるんだ。

後ろで傷付いている結衣さんの為にも。

目の前にいる稚影の為にも。

 

僕は彼女を助けると誓ったんだ。

だから、助けなければならない。

 

覚悟をして、足を一歩、前に進める。

震えは治らない。

それでも、地面を踏み締める。

 

『剣』を握る力を強める。

 

苦しくても、悲しくても……それでも、今、僕がすべき事は──

 

 

「……うん、和希は優しいね」

 

 

稚影がそう言った。

言葉は嬉しそうなのに、表情も声色も……凄く、悲しそうだった。

 

 

……稚影は、何故、こんな事をしているのだろうか。

今、何を考えているのだろう。

分からない、知りたい。

 

もう、怖くはない。

 

悲しくても、怖くはない。

 

 

「稚影……!」

 

「でもガッカリしたよ、和希」

 

 

悔しそうに、悲しそうな言葉を投げながら……ほんの少し、彼女の頬は緩んでいた。

穏やかに、笑って──

 

僕の持つ『剣』が脈打った。

 

咄嗟に、結衣さんの前に立って……庇う。

 

稚影は『剣』を構えたまま……その場で何もしていなかった。

いや、何かをしようとしていたけど……僕の所為で出来なくなった、のだろうか?

 

 

「ここは少し引かせて貰おうかな?」

 

「逃げ──

 

「逃げる?見逃してあげてるんだよ。今すぐ……その女を殺しても良いんだから」

 

 

……今は結衣さんが人質に取られている状況、という事だ。

催涙剤で稚影の『異能』を抑制しても、結衣さんに付着した血は取り除けない。

 

 

「すぐに病院に連れて行けば、後遺症も残らないよ」

 

「稚影……」

 

「だから、私を追おうとしないでね」

 

 

稚影が数歩、後ろに下がった。

思わず……手を、伸ばしそうになる、

 

 

「稚影……行かないでくれ……」

 

「ううん、大丈夫。すぐにまた会えるから」

 

 

笑いながら、稚影が僕に背を向けた。

 

 

「またね、和希」

 

 

そして、離れて行く。

僕と結衣さんから……離れて行く。

 

追いかけようとして……足元の結衣さんを見る。

今すぐ病院に連れて行けば、後遺症も残らない。

 

そう言った。

 

僕は懐から携帯電話を取り出して……救急にコールする。

 

 

数度のコールの後……僕は現在地を話して、結衣さんを抱き抱える。

思っていたよりも軽い体重に戸惑いつつ、僕は──

 

 

「和、希……」

 

「結衣さん!」

 

 

結衣さんが苦しそうに咳込みながらも、目を覚ました。

顔にかかっていた血が消滅し、顔が顕になった。

 

……稚影が『異能』による干渉をやめたのだろうか?

『異能』の範囲外まで逃げられたのか、それとも……意図的に解除したのか。

 

分からないけど、そんな些細な事はどうでも良かった。

 

 

「結衣さん、救急車をもう呼びましたから、直ぐに──

 

「楠木、稚影は……?」

 

「……逃げられました。でも、今はそんな事より──

 

「追え……和希」

 

 

結衣さんが目を細く開きながら、焦点の定まっていない視点で僕に言った。

 

 

「でも、結衣さんが……」

 

「捨ておけ……救急車はもう、呼んだんだろう?」

 

「だけど──

 

「私を、足手纏いに、するな……」

 

 

結衣さんが、眉を顰めた。

僕の腕の中で血を吐きながら、それでも気丈に振る舞っている。

 

 

「行け」

 

「……結衣さん」

 

「お前の、やるべき事を……最優先にしろ……」

 

 

そう言い切って……限界だったのか、白目を剥いて力を失った。

 

 

「…………」

 

 

僕は……稚影の去って行った方向を見る。

そして、結衣さんを見る。

 

 

「……すみません」

 

 

謝って……結衣さんを芝生の上まで運び、寝かせる。

 

 

「……それと、ありがとうございます」

 

 

迷った時、いつも彼女が一押ししてくれた。

道が分からなくなった時、教えてくれた。

……本当に、尊敬している。

 

だから、ここに置き去りにする事に、酷く胸を痛める。

目を閉じて、涙を溢して……それでも、結衣さんが望んでいる事だからと……僕は立ち上がった。

 

救急隊員に場所の説明はしている。

僕がここに居ても……何の役にも立たない事は分かっている。

 

だけど。

 

だから。

 

それでも。

 

僕は結衣さんに背を向けて……走り出す。

 

 

公園を出て、見渡す。

稚影の姿はもうない。

 

どこに逃げたのかも、全く分からない。

だけど、足は止められない。

 

『剣』が脈打つ。

 

僕の『異能』が運を良くするというのなら、僕の行く道を決めてくれ。

どこに逃げたのか分からなくても、導いてくれ。

 

迷いなく、僕は走り出した。

 

 

「はっ、はっ……」

 

 

息を切らしながら、走る。

 

 

いつもの街並み。

 

月は雲に隠れて、暗闇だとしても。

 

街灯に照らされる、いつもの街並みだ。

 

ここは僕と稚影、希美の三人で、よく買い物に来ていた商店街だ。

 

ここの本屋で、稚影は希美に料理本を買わされていたな。

 

小さかった頃、希美の誕生日に、稚影がラメの入ったカラーペンを買っていた文房具店もある。

 

 

「はぁっ、はっ……」

 

 

ここの肉屋のコロッケが、稚影は好きだった。

いつも通ると三つ買っていた。

僕と稚影と、希美の分だ。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 

苦しい。

 

息も、心も。

 

だけど、足は止めない。

 

 

「……く、ぅっ」

 

 

ここの呉服店で、希美は裁縫道具を買っていた。

お世辞にも裕福とは言えない僕達は、服のボタンが外れれば自力で直していた。

 

稚影は……あまり、得意ではなかったから、僕や希美が直してあげていた。

 

直すと、嬉しそうに「ありがとう」と言ってくれた。

それだけで僕は、報われていた。

 

 

「……ぅ……うぅ」

 

 

涙が溢れて、息を吐き出して……足取りが重くなる。

 

 

それでも足は止められない。

 

 

優しい記憶と、突き付けられた現実。

真実という名前の痛みが心を傷つける。

 

今まで見てきた事、触れ合った思い出、恋、愛。

 

全て、儚く……ひび割れる。

 

それでも壊れはしない。

 

たとえ、稚影が僕達をどう思っていたとしても……僕はまだ、稚影の事が好きだ。

 

家族として、親友として、恋人として。

 

好きだ。

 

だからこそ、止まれない。

 

 

他の誰かではなくて、僕が……僕が彼女を助けなければならない。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 

汗を掻きながら、僕は歩み続ける。

 

 

何分か、何時間か……『剣』に従うまま走り続けても……稚影に追い付く事はない。

 

彼女はきっと『異能』を使って移動している。

催涙剤の影響がなくなった今、僕の『異能』では彼女に追いつけないのかも知れない。

 

だけど、走って、走って……。

 

そして──

 

 

 

 

 

 

僕の、僕達の……望月家に、帰ってきた。

 

 

「……え?」

 

 

何で、ここに?

 

僕はただ『剣』に導かれて、辿り着いただけで──

 

 

怖気。

 

恐怖が、胸を締め付ける。

 

 

『剣』を握ったまま、玄関のドアを開く。

鍵は掛かっていなかった。

 

いつも通りの玄関。

リビングに明かりが灯っている。

 

 

「希美……!」

 

 

ドアを開けて……中を、見る。

 

点いたままのテレビ。

倒れた椅子。

 

開いたままの、窓。

 

 

「……あ、あぁ……?」

 

 

希美は?

どこに居るんだ?

 

家にいる筈、なのに。

 

何で椅子が倒れたまま何だ?

 

テレビもつけっぱなしで……。

 

 

僕は携帯電話を取り出して、希美にかける。

 

 

まさか、稚影が……?

いや、そんな筈はない。

 

稚影は希美と親友だ。

傷付ける事はない。

 

……そう、信じたかった。

だけど、今は……違う、のか?

 

汗が流れる。

呼吸が乱れる。

 

早く。

 

早く出てくれ。

 

そして無事だと、そう言ってくれ。

 

 

 

 

 

数回のコールの後、通話が開始した。

 

 

 

 

「希美……!今、どこに──

 

「もしもし、和希?」

 

 

 

その声は、希美ではなく……稚影だった。

何故、どうして……脳裏に最悪な予測が過ぎる。

 

 

「稚、影……」

 

「うん、そうだよ?」

 

 

何でもないように答える声に、僕は初めて……怒りを抱いた。

 

 

「希美は、何処にいるんだ……!?」

 

「ふふ、安心しなよ」

 

 

笑い声が聞こえる。

携帯電話を握る力が、強まる。

 

 

「安心なんか、出来るか……!」

 

「ひどいなぁ、信用とかないの?」

 

 

……のらり、くらりと話す稚影に苛立つ。

 

 

「希美はっ──

 

「ここの近くに廃工場があるよね?」

 

 

言葉を遮られる。

 

廃工場……?

 

あぁ、子供の頃に一度だけ外から見たことがある。

立ち入り禁止になったまま、十年以上放置されている廃工場だ。

 

 

「そこに来たら、返してあげる」

 

「……稚影……お前……」

 

「お前?そんな言い方しちゃうんだ?」

 

 

思わず溢れた言葉に、稚影はまるでショックだと言わんばかりの声色で答えた。

僕は……眉を顰める。

 

 

「希美を、希美は……関係ないだろ!?傷つけないでくれ……頼む……から」

 

「うーん、どうしようかな?まぁ、早く来なよ。私の気が変わらない内にね」

 

「稚影……!」

 

 

プツリと通話が切れた。

 

僕は……携帯電話の画面を見る。

 

僕と希美と稚影、三人で撮った写真が……ホーム画面に映っていた。

 

どうして、こんな……こんな事になってしまったのだろうか。

堪えていた涙が溢れ出す。

 

 

「ぅ、くっ、うぅ……」

 

 

嗚咽を漏らして、蹲る。

 

こんな事をしている場合じゃないのに。

 

僕は……辛くて、悲しくて、蹲っていた。

 

外では暗闇が広がっている。

月は雲に隠れて顔を出さない。

月光は……僕の行くべき道を、照らしてはくれなかった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

廃工場……大きな倉庫の側にある廃墟の二階。

待合室。

私は自分の爪にマニキュアを塗る。

 

机に置いた携帯電話……それは希美の携帯電話だ。

その持ち主は何処にいるか……それは……背後。

 

希美が壁にもたれ掛かり、気を失っていた。

通販で買った金属製の手錠を使って、腕を鉄パイプと繋ぎ拘束している。

 

『能力者』ではない彼女なら、逃れる事は出来ないだろう。

 

今は私の『異能』によって眠っているけれど──

 

 

「ん、く……」

 

 

……おっと、お目覚めのようだ。

 

希美が細目で……辺りを見渡す。

といっても、ひび割れたコンクリート壁と、くたびれた机しかないような部屋だけど。

 

 

「稚、影ちゃん……?」

 

「おはよう、希美ちゃん。良い夢は見れた?」

 

 

努めて笑顔を繕いながら、笑いかける。

 

巻き込むつもりはなかった。

 

だけど、彼女は『鍵』だ。

この私の演劇の……『鍵』。

 

 

「ここ……は?」

 

「家の近くに廃墟があったでしょ?そこだよ」

 

「……そ、っか」

 

 

戸惑うような表情で、希美が私を見る。

 

既に……家から連れ去る前に、私が連続猟奇殺人事件の犯人だと告げている。

抵抗すれば殺すとも……口にした。

 

なのに──

 

怯えるような目をしていない。

 

 

「……稚影ちゃん」

 

「何?座り心地が悪いかな?でも我慢を──

 

「大、丈夫……?」

 

 

寧ろ、心配するような言葉を掛けてきた。

思わず、マニキュアを塗る手を……止めた。

 

 

「何を言ってるのかな?」

 

「だって……凄く……辛そう……」

 

 

呆れる。

彼女は現状が分かっていないらしい。

 

 

「希美ちゃん、忘れちゃったのかな?私は貴女の父親を殺した人間で、今まで沢山の人を──

 

「それでも……私は、心配……だから」

 

 

希美の視線が、私の視線と交わる。

……ダメだ。

 

そんな目で見られたら……私は……私の決心が、揺らいでしまう。

 

 

「バカだなぁ、希美ちゃんは」

 

 

そう言って、顔を近づける。

 

もっと露悪的に、彼女が怯えるように、悪役に相応しい振る舞いを。

心の中で叫びながらも、笑みは崩さない。

 

手を伸ばせば触れられる距離まで来て……それでも、希美は視線を逸さなかった。

 

 

「私……バカでも良いよ」

 

「え?」

 

「稚影ちゃんが、どれだけ……悪い人でも、それでも私は……心配だから」

 

 

私は──

 

 

「…………」

 

 

絶句した。

言葉が出なかった。

 

ただの一般人である彼女が、こんな……こんなに強気に振る舞えるなんて、思ってもなかった。

 

 

「稚影ちゃん、戻って来てよ……」

 

 

緩みそうになる口を食いしばって、眉を顰める。

 

 

「私、私……ちゃんと、頑張るから……何、しても良いから……お願い、稚影ちゃん」

 

 

何の事情も知らないのに、それでも希美は……裏切られても、私を心配していた。

 

私の今から行おうとしている事は……希美や、和希の為にはならないんじゃないか。

 

そう、思ってしまった。

 

 

「…………」

 

 

これが正しかったのだろうか。

私は間違ってしまったのだろうか。

 

……いいや、間違っているのだとしたら、今、初めてじゃない。

 

ずっと昔から、間違っていたのだろう。

 

 

「……まいったなぁ」

 

 

今更、気付くなんて。

だけどもう、手遅れだ。

 

もう戻れない。

 

血と臓物が並べられた真っ赤なカーペットを、私は歩くしかない。

 

腐った血と、臓物で出来た、出来損ないの人形として……舞台に立つしかない。

 

それだけが、私が報いる事が出来る唯一の方法だ。

 

だから──

 

 

「希美ちゃん」

 

 

右手に『剣』を生み出す。

希美はその『剣』を見る事は出来ない。

 

不可解な表情をして、私を見ていて──

 

 

「ごめんね」

 

 

ザクリ、と肉が……骨が、断ち切れる音が、聞こえた。

 

 

私はもう迷わない。

 

 

最後の舞台、その幕が……上がろうとしていた。

 

主演は和希。

悪役は……私だ。

 

希美の出番は……どこにもない。

 




次回、3/26(日)予定。
最終回、『腐血の救世主』


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最終話:腐血の救世主

僕と彼女が出会ったのは10年近く前……小学生の頃だった。

あの頃、僕は……母がまだ生きていたけれど、父は家に帰ってくる頻度が減っていた。

幼いながらにも、自分の家庭状況が良くない事は悟っていた。

幼い妹の手を引きながら、僕は『不幸』だと感じていた。

 

 

楠木 稚影、彼女を見つけたのは偶然だった。

 

いつの間にかクラスに居た。

顔も覚えてなかったけれど、確かに……そういえば、同級生だった。

 

話した事もなく、関わった事もない。

僕からすれば、その他大勢の人の一人だった。

 

だけど、その目を初めて観た時……僕は怯えた。

彼女の目は薄暗い、暗闇のような深さを秘めていた。

 

僕は、自分のことを『不幸』だと思っていた。

だけど、もっと『不幸』な人がいるなんて思ってもいなかったんだ。

そんな思い込み。

今考えれば、なんて自惚れていたんだと恥ずかしくなるほど幼稚な考え。

 

そんな、自分の中にある『不幸』であるという自己同一性が揺れる。

 

……最初は、そんな目をして欲しくなかったからだ。

僕の『不幸』を貶めないで欲しいと。

彼女よりも僕の方が『不幸』なのだと思いたかった。

 

だから、彼女の手を引いた。

幸せにしてやろうと、そう思った。

自惚れた。

 

だけど、触れても、関わっても、話しても……彼女は『不幸』なままだった。

 

それが変わったのは、いつだったか。

誰も気付いていなかったけれど、目が変わったのを僕は感じていた。

 

彼女の兄が助けてくれたのだと、僕は知った。

 

 

僕は恥じた。

自身の浅はかさを疎んだ。

自身の『不幸』を誇ろうとする自分が嫌になった。

 

 

僕は……僕も、誰かを助けられたら良いと思った。

せめて、身近な人間の『不幸』を取り除きたかった。

 

 

……彼女は僕の事を『優しい』と言ってくれた。

違う、違うんだ。

 

僕はただ……君を助けられるような人になりたかった。

出会った事もない、君のお兄さんのようになりたかったんだ。

 

 

 

……そんな、彼女の兄が死んだ。

 

今度こそ、僕は稚影を守ると決めた。

彼女の兄の代わりに、僕は……手の届く範囲から大切なものを取りこぼさないように、僕は──

 

 

 

 

そして。

 

 

 

 

 

今。

 

 

 

「…………」

 

 

大きな廃倉庫の中。

老朽化してパネルの割れた天井から、夜空が見えている。

月の光が、僕の足元を照らしている。

 

金属を叩く足音が聞こえた。

 

僕はそちらへ視線を向けた。

 

 

「……稚影」

 

 

ゆっくりと、階段から降りてくる稚影の姿があった。

 

先程と格好は一緒……だけど、服の袖には真っ赤な血が付いていた。

 

誰の、血だろうか。

言葉に出来ない不安に、心臓が跳ねた。

 

 

「こんばんは、和希。月が綺麗だね」

 

 

そう口にしながら、笑みを崩さず……僕と同じコンクリートで舗装された地面に立った。

 

稚影と向き合う。

月の光が僕達を照らしている。

 

彼女は普段通りの仕草で、普段通りの笑みで……だけど、場所も格好も普段通りなんかじゃない。

 

僕は眉を顰めて、口を開いた。

 

 

「希美は……どこに、居るんだ?」

 

「そんなに焦らなくても良いじゃん。少し、お話しようよ」

 

 

稚影の発した言葉、それは提案だった。

だけど、有無を言わなさない強要でもある。

彼女の機嫌を損ねれば、希美は傷付けられるかも知れない。

 

今、僕は彼女の精神状態が分からない。

ずっと友人……いいや、家族だと思っていた彼女が、何故、こんな事をしているのか分からない。

何を考えてるのかも……分からない。

 

壊れてしまいそうな僕の心を、辛うじて繋ぎ止めているのは……妹を助けなければならないという信念だ。

 

 

「私ね、和希」

 

 

毎朝、学校に向かいながら話す雑談のように、稚影は口を開いた。

 

 

「今までずっとね、羨ましかった」

 

「……羨ましい?」

 

 

思わず、訊き直した。

 

 

「うん。希美ちゃんとね、和希の事が羨ましかった」

 

「…………」

 

 

会話しながらも、彼女の隙を探る。

 

『剣』は握っていない。

僕も、稚影も。

 

僕は稚影を刺激しない為に。

稚影は……いや、何故だろうか?

争う意志はないのだろうか。

 

 

「私、兄さんが死んで……とても悲しかったんだ」

 

「……稚影」

 

 

やっぱり、彼女が『異能』に目覚めたのは……あの事故がキッカケなのだろう。

 

 

「だけどね、希美ちゃんや和希が優しくしてくれて、私──

 

 

あの時から……彼女は──

 

 

「嫉妬しちゃった」

 

 

おかしく、なってしまったのか。

 

 

「私の兄さんは居なくなったのに、どうして二人は欠けずに楽しく生きてるんだろう」

 

「それは……そんなの……」

 

「似たもの兄妹だったのにね。おかしいよね?二人に優しくされる度に……どうして、兄さんが死ななければならなかったのか、私は狂いそうだったよ」

 

「稚影……僕は、僕達は、そんなつもりで……」

 

「知ってるよ。和希も希美も凄く優しいから」

 

 

まるで欠けた月のように、稚影が頬を吊り上げた。

 

 

「だからね、これは私の問題。私が悪い。私がおかしいの」

 

 

自虐する彼女に、僕は……拳を握った。

気付かなかった自分を恥じて、そして決意をする。

 

 

「稚影、今なら間に合う」

 

「間に合う?」

 

「あぁ、そうだ。僕と希美と稚影の……三人で家に帰ろう」

 

 

僕は提案する。

潤む視界を耐えて、怯える心を奮い立たせる。

 

稚影は……僕にとっての家族だ。

希美だって、きっと分かってくれる。

 

 

「気付かなかったのは……ごめん、謝るから……頼む。僕は君を傷付けたくない」

 

「……へぇ、そっか。それは──

 

 

稚影が──

 

 

「残念だなぁ……」

 

 

呆れたような、悲しむような目で僕を見た。

笑みは崩れて、蔑むような表情をしている。

 

……僕は、息を呑んだ。

 

 

「稚影、嘘じゃない……!僕はっ──

 

「希美ちゃんも和希も、バカだよね」

 

 

言葉を、遮られた。

 

 

「自分達がどんな状況なのか分かってないよ。私がどれだけ悪い人間なのか分かってない」

 

「稚影……」

 

「そうやって私の善性に縋って、本当は善人なんじゃないかと期待してる」

 

 

稚影が指で、上を指した。

視線を……そちらに向ける。

 

ビニール製のゴミ袋が、錆び付いたクレーンに引っかかっている。

それは……赤く、濁っていた。

 

 

「ずっと、騙してきたんだよ?今更……何を期待してるんだろうね。そんなのだから──

 

 

稚影が右手に『剣』を出した。

僕は、それを眺めている事しか出来なかった。

 

赤く、黒く濁っているゴミ袋。

あれは……何だ?

どうして、赤いんだ?

 

 

「こうやって、バカみたいな死に方をするんだよ」

 

 

稚影が『剣』を振り上げた。

触手が彼女の影から飛び出して……僕は慌てて飛び退こうとして──

 

触手の伸びる先が、僕ではなく頭上のゴミ袋なのだと気付いた。

 

そして、触手は……ゴミ袋を引き裂いた。

 

僕と彼女が挟む場所に、中身が零れ落ちる。

 

 

「っ、あ……」

 

 

溢れ出る腐臭。

そして、血の臭い。

 

誰かの死体だと、気付いた。

ドロドロに崩れた血肉に、幾つか、人の破片が落ちている。

 

思わず、手で口を覆った。

 

視線は……そのゴミ袋に入っている死体から離れない。

 

 

「ねぇ……これ、誰だと思う?」

 

 

稚影が『剣』を消して、無造作に死体に近寄る。

そして、手や服が汚れるのも気にせず……まだ人の形を保っている何かを、持ち上げた。

 

それは、人の手だ。

 

……切断面から血が、ぽたり、ぽたりと溢れている。

 

 

「う、ぁ……」

 

 

地面に落ちた衝撃か、それとも切断される前からか……その肌は擦り傷まみれになっている。

 

誰の手か。

 

 

「あ、あぁ……」

 

 

僕は……ここに来る前から、最悪の想定をしていた。

だけど、そんな事はない筈だと心の奥底で信じていた。

 

稚影が、そんな事をする筈がないと。

 

 

「な、なんで……そんな……ぁ」

 

 

だけど、その手を見た時、分かってしまった。

もう原型を留めていない程に傷まみれになっていても。

 

 

「希美……」

 

 

そのマニキュアに、覚えがあった。

 

 

「そう、正解。大当たりだよ」

 

 

希美の誕生日に、稚影がプレゼントしたマニキュアだからだ。

大切に使っていて、僕に自慢してきたのを……覚えてる。

 

 

「希美ちゃんもバカだよね。殺される直前まで、ずーっと私の事……信用してたんだよ?おかしくて笑っちゃった」

 

 

そう言って、稚影は……まるでゴミを捨てるかにように、希美だったものから手を離した。

小さな音を立てて、コンクリートの地面に捨てられてしまった……希美の手。

 

 

それを、見て……僕は──

 

……僕の心は──

 

軋む心は──

 

 

「う、あ……な、んで……」

 

 

希美を守るという意志で、何とか持ち堪えていた、心が──

 

音を立てて、崩れ落ちる。

 

 

「なんで……」

 

 

膝が震えて、僕は蹲る。

もう、立てない。

 

立ち上がれない。

立ち上がりたくない。

 

 

「なんで……こんな事をしたんだ、稚影……」

 

 

家族だと思っていた。

いいや、今も……家族だと思っている。

 

悔しくて、悲しくて目を瞑れば……楽しそうに笑う希美の顔……それを微笑ましそうに見ている稚影の顔。

 

僕の記憶。

 

守りたいもの。

 

 

「和希に苦しんで欲しいから……かな?」

 

 

それが、血で汚れていく。

もう、顔も見えない。

二人の笑顔が……赤く、濁っていく。

 

稚影が……足元の、希美の手を蹴った。

転がって、僕の側に来る。

 

まるで、ゴミのように扱う……その仕草に──

 

 

「あ、ぁ……」

 

 

僕は呆然とした。

希美と稚影は親友だと、姉妹のようだと思っていた。

そう、信じていた。

 

それなのに、嘘だった。

偽りだった。

 

 

「……僕と、稚影は……僕は、想っていたのに……」

 

 

僕は稚影が好きだった。

それは、掛け値なしに本当だ。

 

 

「へー、嬉しいなぁ」

 

 

興味もないように、稚影が嘲笑った。

 

本当に、好きだった。

好きだったのに。

 

 

「希美だって、稚影のことを親友だって、家族だって……なのに!」

 

 

僕は顔を上げる。

稚影は僕を見下して、笑っていた。

 

僕が睨むと……少し、表情が歪んだ気がした。

それはきっと、僕の願望で……彼女は、本当は何でもないように思っているのだろう。

 

僕も、希美も。

 

彼女にとっては、大切な存在ではなかったんだ。

 

 

「ねぇ、和希」

 

 

気楽そうに、声を掛けられる。

 

 

「……稚影」

 

 

稚影は場違いな程、朗らかに笑っている。

 

 

「今、どんな気持ち?」

 

 

どんな、気持ちか……だって?

そんなの、分かりきってるじゃないか。

 

好きだった女の子に裏切られて、大切な家族をゴミみたいに投げ捨てられて。

 

僕は、僕の気持ちは。

 

 

「大切なものを自らの力不足で失う気持ち……信じていた人に裏切られる気持ち。私に、教えてくれないかな」

 

 

彼女にとって希美の死はどうでも良い事なのだ。

殺したのも僕を苦しめたいから……それだけ。

 

そうだ。

いつもそうだった。

 

僕は『肉』の『能力者』に苦しめられてばかりだった。

ずっと、そうだった。

 

彼女の目的は僕を苦しめる事だった。

 

稚影は……僕の事も、希美の事も……好きなんかじゃなかった。

全ては、この時のために……僕を苦しめるためだけに。

ずっと……騙してきたんだ。

 

 

……僕に残っていた彼女を信じる気持ち。

助けたいという願い。

 

全てが、血で汚れて、壊れていく。

 

壊したのは……彼女自身だ。

 

心を占めるのは怒り。

憎しみ。

 

引き裂かれた僕の心。

その隙間に、負の感情が入り込む。

 

 

「稚影……お前だけは、僕が……」

 

 

右手に『剣』が現れる。

僕の鼓動に応じて、『剣』に走る血管のような脈が……強く、脈打つ。

 

この力は大切な物を守るために手に入れた力だ。

だけど、もう僕には……大切な物なんてない。

 

全て、壊されてしまった。

守りたかった妹も。

愛していた少女も。

 

すべて、彼女が踏み躙った。

 

……稚影が手を宙に翳す。

その手には『剣』が握られていた。

 

 

「そうこなくちゃ……」

 

 

心底、嬉しそうに笑いながら……『剣』を構えた。

 

大切な妹の死体を挟んで、大切だった想い人と向き合う。

凶器と殺意を向け合って……視線を交える。

 

 

裏切られても良い。

傷付けられても良い。

弄ばれたって、嘘を吐かれたって……許せた。

 

だけど……希美を殺した事だけは、許せなかった。

 

稚影が目を細めて、笑った。

 

 

「さぁ、どこからでも掛かってきなよ」

 

 

これから行われるのは──

 

 

「僕が……殺して、やる……」

 

 

殺し合いだ。

 

もう、これ以上……僕の記憶を汚されたくなかった。

大切だった少女は、もう何処にもいない。

 

それならせめて……これ以上、誰かに『不幸』を振りまく前に、僕が止める。

 

愛おしい思い出を血で汚したのは彼女だ。

だから、僕は彼女を……殺す。

 

涙が溢れた。

だけど、もうこれ以上は溢れない。

 

守りたかった。

助けたかった。

だけど、今は。

 

もう……。

 

僕には。

 

 

 

 

 

どうして、こんな事になってしまったのだろうか。

 

その疑問には誰も答えてくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

私は手に持った『剣』を振りかぶる。

『異能』を行使して、『剣』身に血を纏わせる。

 

 

「……さぁ、頑張って避けてね」

 

 

そのまま、薙ぎ払う。

 

『剣』に付着していた血が撒き散らされる。

操られた血が宙を舞って、小さな三つの刃を作り出す。

 

それらを『異能』で弾き飛ばし、和希へと飛ばす。

 

私の得意とする『血の斬撃』だ。

目的は切断じゃなくて、付着した血による身体操作だけどね。

 

素肌で接触すれば、体の自由を奪える。

必ず殺す技……文字通り、必殺技だ。

 

 

和希はそれを──

 

 

『剣』を薙ぎ払い、二つ叩き落とした。

血は一定量で固まっていないとコントロールが難しくなる。

ああやって破壊されれば、制御を失う。

 

和希はそれを知ってか……いや、知らないだろうな。

きっと、偶々だ。

 

 

さて、飛ばした血の攻撃は三つだった。

 

残り一つをどうやって避けるのか?

傍観していると──

 

『剣』を盾にして、突っ切ってきた。

 

 

「へぇ……?」

 

 

思わず驚いて、声が漏れた。

 

 

和希の『剣』はそれほど大きくない。

細く、長い『剣』なのに……的確に、血の斬撃を防いだ。

 

しかも、そのまま接近まで──

 

 

和希の『剣』が脈打っている。

和希の『異能』……なるほど、かなり強まっているようだ。

 

私は『剣』を肉付けして『大剣』へと形を変える。

 

和希に私の心を覗かれるのは拙い。

だから、『剣』同士の接触は避けなければならない。

 

『剣』は『能力者』の心の発露だ。

体の外に出て外界へと干渉するようになった『心』そのものだ。

 

だから、触れ合えば互いの感情が逆流する。

 

……もしも、この心を曝け出してしまば、私の願いは叶わなくなるだろう。

 

だから、私は『剣』を肉で補強した。

これは私の心を守る肉壁だ。

 

 

それを……薙ぎ払う。

私の身長よりも巨大な『大剣』が、空を裂いた。

 

和希は……数歩引いて、それを回避した。

 

 

「あれ?よく避けたね」

 

 

……やっぱり、『異能』の出力が上がっている。

私に裏切られた事か……それとも、希美の死体を見たからか……どちらが原因だろうか。

 

まぁ、どちらでもいい。

重要なのは結果で、過程に意味などない。

 

 

和希が私を見る。

私も和希を見た。

 

 

……今まで、私に向けた事のないような目。

いいや、それどころか誰にも向けた事のないような視線。

 

 

思惑通りだ。

想定通りだ。

 

なのに、何故?

 

どうして、こんなにも……苦しいのだろう。

 

 

じくり、じくりと胸が痛む。

 

 

だけど、涙は出ない。

涙腺はとっくに壊れている。

 

 

「次、行くよ?」

 

 

私は自分の心を誤魔化すように、『大剣』を振り上げ、地面を叩いた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

稚影が、地面を叩いた。

 

砕けた石片に血肉が付着して……生き物を形作る。

 

さっきの血の攻撃とは違う……質量を伴う攻撃をする気だ。

 

石を取り込みながら、血肉は……四つの足が生えた獣になった。

頭が生えて、二つの耳が立つ。

 

……血と臓物で出来た犬だ。

 

 

「可愛いでしょ?」

 

 

犬が首を上げて、僕を見た。

充血した目は人の目のようで、剥き出しになった歯は……肋骨のような物で出来ていた。

 

 

……可愛い訳なんか、あるものか。

 

 

そう心の中で吐き捨てて、『剣』を構える。

 

血と臓物で出来た犬が、僕に向かって走り出した。

かなり速い。

 

人間なんかとは比べ物にならない速度だ。

 

だけど──

 

 

『剣』が脈打つ。

 

 

そのまま、『剣』を振るう。

 

偶然、振るった先に犬が入り込み──

 

 

「このっ!」

 

 

頭を叩き潰された犬が、そのまま弾き飛ばされた。

 

 

「あーあ、酷いことするなぁ、もう」

 

 

頭が砕けた犬は、再度立ち上がり……また、僕へ駆け寄ってくる。

 

分かってる。

あれは『異能』で作られて、操られている血肉の集合体だ。

 

頭を砕いた所で意味はない。

 

 

また、『剣』が脈打つ。

僕の『異能』が何なのかは分からない。

 

だけど、今はこの力を信じるしかない。

 

 

顔のあった部分から骨を剥き出しにして、犬が迫り来る。

 

僕は腰を深く落として。

 

『剣』を振り上げる。

 

 

今度は偶然、接近してくる犬の身体に命中して……真っ二つになった。

運良く、返り血も浴びていない。

 

 

「……はぁ、くっ、そ」

 

 

しかし、息が切れる。

 

さっきの戦いでも身体を動かしていた。

この工場までも急いで走ってきた。

 

休む暇なく、今、戦っている。

 

僕の身体は正直限界だ。

 

この身一つと、『剣』が一本。

僕はそれだけで戦っている。

 

しかし、稚影は身体も殆ど動かさずに『異能』で攻撃してくる。

 

長期戦になれば、先に音を上げるは僕だろう。

 

 

「凄いね、和希。今のも対処できるんだ」

 

 

それはきっと、稚影も分かっている。

 

決着は早急につけなければならない。

……そうしなければ、負ける。

 

だけど、この戦いの決着とは……つまり──

 

 

 

 

僕が、稚影を殺す、という事だ。

 

 

 

 

膝が、震える。

 

 

「く、うっ……!」

 

 

怯えるな、竦むな、逃げるな。

僕はもう決意した筈なのに、それでも。

 

それでも、彼女を殺したくないと思ってしまう自分がいる。

 

息を深く吐いて、落ち着かせる。

 

彼女は僕達を裏切った!

希美を殺したんだぞ!

それなのに、何を躊躇う必要があるんだ!

 

心の中で叫ぶ。

怒りを再実感して、憎しみを形にしようとする。

 

なのに、どうして。

 

 

「うん?どうしたの?攻めて来ないと、勝てないよ?」

 

 

どうして。

 

 

「分かってるよ……そんな事!」

 

 

どうして。

 

 

「言動と行動がバラバラだね。まだ躊躇ってるんだ」

 

 

どうして。

 

 

「……く、そっ!くそ!くそっ!」

 

 

どうして、こんなにも……。

 

 

彼女に死んで欲しくないと、考えてしまうのだろう。

 

 

『剣』を強く握りしめて、意図的に彼女を睨みつけて、歯を食いしばって……。

 

そうやって、戦おうと己を鼓舞しなければ、彼女に向き合えない。

そんな自分の弱さを、今……自覚してしまった。

 

そして、その姿は……稚影に見透かされているのだろう。

 

呆れたように、ため息を吐いた。

 

 

「和希って……本当にバカだね」

 

 

稚影が『大剣』を構えて、僕に一歩、近付いた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

和希の『異能』。

その性質上、彼の心が……願いが重要になる。

 

彼自身は運が良くなる『異能』だと、勘違いをしている。

 

確かに、その一面はある。

だけど、その本質は……。

 

 

不確定な『可能性』の中から、自分の望んだ『結果』を引き寄せる能力。

 

 

似てるようで、少し違う。

 

助けたいと思った相手を助けて、殺したいと思った相手を殺せる……その『可能性』さえあれば。

 

相手の攻撃を避けれる『可能性』があれば、回避出来る。

相手に攻撃を当てられる『可能性』があれば、必中だ。

 

それが、彼の『異能』の本質。

私の知る限り、最強の『異能』だ。

 

そして、その望む『結果』を引き寄せる力の強さ、それが彼の『異能』の出力に大きく紐付いている。

 

小さな『可能性』を引き寄せるには、それ相応の強い『心』の力が必要になる。

 

だから、私は彼を育てる必要があった。

 

強くて、邪悪な……途方もない敵達に打ち勝つには、強い『心』が必要だから。

 

 

そして、その『異能』。

望んだ『結果』を引き寄せるという事は……私を助けたいと思ってしまえば、助けてしまう『可能性』を引き寄せてしまう。

 

それでは、ダメだ。

和希の心を成長させられない。

 

私の望む未来のために……和希には──

 

 

「和希って……本当に優しい(バカだ)ね」

 

 

ここまでしても、私を心の底から憎めないなんて。

 

私は『大剣』を床に突き刺す。

地面に血が走り……散らばっていた死体に繋がる。

 

 

「……や、やめろ!稚影!」

 

 

和希も私が何をしようとしているのか、気付いたようで怒鳴り声を出した。

 

死体の血肉を集めて、人の形を作り出す。

 

と言っても、皮膚も存在しないグロテスクな肉人形だけどね。

 

死体を弄ぶ凶行に、和希が私を睨んだ。

 

 

「稚影、お前……!」

 

 

分かる、分かるよ、和希。

和希は優しいから、こういう事が許せないんだよね。

 

だから、私はやるね。

和希が私を許せなくなるように、私も努力するよ。

 

 

「さぁ、行って。和希を殺して?希美ちゃん」

 

 

死体が組み上がり、人の形になったソレが……和希には向かって襲い掛かった。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

「う、あぁ、ああぁ!」

 

 

叫びながら、『剣』を構える。

目の前に迫る、皮膚を引き剥がして臓物を剥き出しにした人形に『剣』を向ける。

 

希美。

 

希美、希美、希美。

 

希美が、希美だったモノが……稚影に弄ばれて、バケモノになって僕へ襲い掛かる。

 

その肉人形は手から骨を剥き出しにして、僕へ突き立てようとする。

逃げ出したい感情が溢れる、もう何もかもが嫌になる。

 

 

それでも『剣』が、脈打つ。

 

 

その骨を『剣』で受け止める。

 

 

「う、あぁ、くそ、くそ!何で、何でこんなっ──

 

 

骨を弾き、死体を蹴飛ばした。

さっきの犬型よりも動きが遅い。

なのに、僕は苦戦している。

 

 

「何で、こんな事が出来るんだよ!稚影!」

 

 

強く、強く、心の底から怒りを込めて稚影を睨んだ。

 

 

「ほらほら、和希。こっちを見てる場合じゃないよ?」

 

 

命を嘲笑い、友情を嘲笑い、僕を嘲笑う。

 

稚影は……もう、僕の知っている稚影じゃない。

 

分かっている。

分かっていたのに、今更……。

 

彼女に情を湧かせていた自分が嫌になる。

バカみたいじゃないか、僕は。

 

 

「さぁ、希美ちゃん。和希も同じ姿にしてあげてね?」

 

 

稚影の言葉と共に、希美……いいや、肉人形が襲いかかってくる。

 

気分は最悪だ。

吐き気がする。

 

だけど、ここで……。

 

 

ここで、僕は……。

 

 

死ねない。

 

 

「こ、のぉっ!」

 

 

『剣』を振りかぶり──

 

 

『もう、お兄ちゃんったら……女の子のこと、全然分かってないんだから』

『プリン買ってきてよ、お兄ちゃん!』

『お誕生日、おめでとう!これ、稚影ちゃんと一緒に選んだんだよ?』

『稚影ちゃんと恋人に……?それってホント?』

『私、稚影ちゃんを慰める……ううん、違う。立ち直れるキッカケになりたいの』

 

 

希美だったモノを、切り裂いた。

骨が砕けて、臓物が引き裂かれて、血が吹き出す。

 

 

思わず、目を瞑ってしまいそうになるけど……それでも、目を逸らさず──

 

 

「希美……ごめん……」

 

 

その、死体が崩れていくのを……見ていた。

 

 

ごめん、希美。

ごめんな。

 

ごめん。

本当に……ごめん。

 

でも、僕は……やらなきゃならない事があるんだ。

 

だから、ごめん。

 

 

「……あーあ、壊しちゃった」

 

 

吐き気を堪えて、震える両手で『剣』を握り直して──

 

 

「稚影……!」

 

 

殺すべき『外道』を睨みつけた。

 

 

「ふふ、少しは良い顔をするようになったね」

 

「黙れ……」

 

「それでこそ、殺し甲斐があるってもんだよ。ホントにね」

 

「黙ってくれ……!」

 

「さぁ、私と──

 

「もう、喋らないでくれ!」

 

 

これ以上、好きだった少女の姿を汚さないでくれ。

思い出を穢さないでくれ。

 

もう、その言葉を耳に入れたくもない。

黙らせてやる。

 

 

「……いいね」

 

 

僕の様子に、稚影は笑って……『大剣』を向けた。

その『大剣』をコーティングしていた血肉が溶けて、崩れ落ちる。

 

彼女の『剣』が剥き出しになる。

 

 

「ここから先は、小手先だけの技は要らない。本気で……殺し合おっか」

 

 

その意図は掴めない。

だけど、彼女の意図が掴めないのは今に始まった事じゃない。

 

彼女の裏切りを知った時から、ずっと分からなかった。

 

だから、今更だ。

 

 

「…………」

 

 

僕が無言で『剣』を構える。

 

稚影が油断しているのは分かった。

『異能』を使わないと言うのなら、それは好都合だった。

 

彼女を……殺すんだ。

僕の手で、決着をつけるんだ。

 

 

「さぁ、行くよ」

 

 

稚影が『剣』を構えて、僕に向かって……走り出した。

僕はそれを迎え撃つ。

 

僕の持つ『剣』が脈打つ。

脈打つ、脈打つ、脈打つ。

何度も、脈打つ。

 

迷っていた心を振り払い、僕は『剣』を……迫る彼女に叩きつけようとして──

 

 

 

 

 

 

 

『和希』

 

 

 

 

 

 

 

躊躇ってしまった。

 

 

 

 

だから、彼女自身ではなく……『剣』に衝突させた。

 

鍔迫り合いが起きる。

 

『剣』と『剣』が接触した。

 

 

 

「稚影……!」

 

 

 

稚影の『剣』から、感情が逆流する。

 

 

僕は、その流れ出てくる憎悪を受け止めようと、身構えて──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感じたのは、悲しみだった。

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

心を突き刺すような悲しみ。

嘆き、後悔。

罪悪感。

 

心を締め付けような好意。

愛おしさ、心配する感情。

好きだという心。

 

二つの感情。

 

それらが、僕の持つ『剣』を通して……流れ込んでくる。

 

 

 

キリキリと、音を立てて『剣』で鍔迫り合う。

 

 

 

言葉で嘘を吐く事は出来ても、心では嘘を吐けない。

だからこの、溢れ出ている感情は……本物だ。

 

彼女の胸の内には途方もない悲しみと、後悔があった。

そして、僕に対する好意も。

 

 

「……稚影っ──

 

 

視線を『剣』から稚影に向けると……彼女が、笑った。

 

その顔は……先程まで見ていた笑みじゃない。

いつも、いつでも僕が見ていた……彼女の笑顔だ。

 

それが、儚く、穏やかに、浮かび上がって──

 

 

「あ」

 

 

手元で押し合っていた『剣』を支える感触がなくなった。

彼女の持つ『剣』が消滅していた。

 

だから、僕の持つ『剣』は……そのまま──

 

 

 

 

 

 

稚影の身体を、貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

痛い。

苦しい。

 

身体が、熱い。

 

これが『剣』に貫かれる痛み、か。

 

……すぐ、死ねると思ったんだけどな。

 

和希が咄嗟に気付いちゃったみたいで……『剣』筋を逸らしてしまったから。

 

胸じゃなくて、腹に突き刺さったんだ。

 

 

「げほ、ごほっ……」

 

 

『剣』が抜けて、私は力なく……膝から、崩れ落ちた。

 

腐臭のする血を吐き出す。

臭い、臭い臭い臭い臭い。

汚い。

 

視界がボヤける。

苦痛で、意識が朦朧とする。

 

 

「ち、稚影……?」

 

 

訳が分からないと言った顔で、和希が私に……近付く。

 

 

「……ぁ、私の、負け、だね」

 

 

溢れた言葉に、和希が……涙を流した。

 

 

「な、なんで……なんで、こんなっ……」

 

 

私を殺そうと願っていた筈なのに……それでも、死に頻している私を見て悲しんでいる。

 

憎い筈なのに、それでも……。

 

 

「え、へ……へ………」

 

 

和希は、優しかった。

優しすぎた。

 

それが私は不安だった。

このままでは、将来……誰か、和希の大切な人を犠牲にしてしまうほど、優しかった。

 

それは弱さだ。

この世界では……力が必要だ。

 

和希には、力が必要だった。

そして、その力は……大切な誰かの死によって生まれる。

 

だから、私は……。

 

 

「……上手く、いっちゃった」

 

 

私は、和希に殺される必要があった。

その為に、沢山準備をしてきた。

 

 

「な、何をして、何がしたいんだよ!こんなっ──

 

「希美、ちゃん、は……生きてる、よ」

 

「……え?」

 

 

血を吐きながらも、言葉を紡ぐ。

伝えなければならない事が、沢山ある。

 

 

「ここから、少し……離れた、場所で、監禁、してるから……助けて、あげて」

 

「でも、だったら、アレは……!?」

 

 

和希は、私が希美だと偽装した死体に目を向けた。

 

アレの手は……私自身の手だ。

希美と同じマニキュアをして、切断した手。

『異能』を使って身体から手を生やして……切断した手は、異能で形状を整えた。

それ以外の部分は、笹川 裕子、つまり先日殺した『能力者』の体の一部を拝借して……保存していた。

 

ゼリー状に肥大化した死体は、欠損が激しくて、体の一部を持ち出されていても警察には気付けない。

 

切断した一部を冷凍保存しておき、今……ここで使った。

 

だから、あの死体は……希美の死体ではない。

 

 

「あ……」

 

 

和希は……目を見開いた。

理解はしていなくても、死体の中に顔が存在しない事に気付いたのだろう。

 

希美である事を指し示しているのは状況と……手、ぐらいだと。

その手も擦り傷まみれで、誰の手か分からない状態だ。

 

 

「私が、希美ちゃんを殺す訳、ない、じゃん……」

 

 

血が、流れる。

 

痛い、苦しい。

でもこれは、私への罰だ。

 

今まで殺してきた人も、きっと同じぐらい……ううん、それ以上に痛くて苦しかった筈だから。

 

 

「う、あぁ……稚影……稚影、稚影……!」

 

 

何度も名前を呟きながら、和希が私の肩に、手を触れた。

暖かった。

 

 

「……っ、そうだ、病院!救急車を……!」

 

「もう、無理だよ……」

 

 

人を沢山、殺してきたから分かる。

この傷では……助からない。

 

 

「そ、れなら……『異能』で、傷を……傷を塞いでくれ……!」

 

「……ううん、いい。もう、いいの」

 

 

十分だ。

満足している。

 

この演劇の最後は、正義が勝ち、悪が滅びて……死ぬ。

だから、その結末を弄るつもりはない。

 

 

「良くない!全然、良くない!だって、まだ、まだ僕は……!」

 

 

和希は涙を流しながら、私の、肩を掴む。

壊れ物を扱うように、優しく……だけど、力強く。

 

 

「…………ごめんね、和希」

 

「なん、で……謝るんだよ……!?」

 

 

今まで、騙してきて。

苦しめて。

裏切って。

 

勝手に、全部分かったつもりになって……人生をメチャクチャにしてしまった。

 

 

「ごめんな、さい……許される、事じゃない、けど……私、ずっと……謝り、たく、て……」

 

 

血が流れる。

私の命が流れ落ちる。

 

溢れていく。

 

 

「稚影……?」

 

 

……腐臭がした。

私の、腐った血の臭いだ。

心も臓物も、血も……私は腐っている。

 

私は、和希と希美を助けたかった。

 

だけど、私は力不足で……出来るのは、和希を成長させる事だけ。

 

人を傷付けるだけの、醜悪な存在。

 

それが私だ。

 

 

「稚影……!」

 

 

和希が私を、抱きしめた。

顔がすぐ側にあって……和希の熱が、私の身体に伝わる。

 

今、さっきまで彼が抱いていた、私に対する疑念や、憎しみの心は……霧散していた。

感じられるのは……私に対する親愛と、後悔だ。

 

 

「和、希……どうし、て……?」

 

 

こんなに酷いことをしたのに。

酷いことをした理由すら、話していないのに。

 

 

「僕は、僕は……!君に、生きていて、欲しいんだ……!頼む、だから、死なないでくれ……」

 

 

和希の持つ『剣』が脈打つ。

 

……だけど、無意味だ。

私が救われる可能性は、あまりにも小さ過ぎる。

 

救われたくないと願っている人間を、救うのは……難しいから。

 

和希の腕に力が籠る。

彼の服に、肌に……私から溢れた血が付着する。

 

 

「和希……汚れ、ちゃう、よ……」

 

 

私の汚い血が和希に──

 

 

「そんなの、どうだっていい!汚くなんかない……汚くなんか……!」

 

 

和希は泣いている。

 

私が望んだ結末だ。

上手く行ったと笑うべきだ。

 

なのに──

 

 

「……和、希」

 

 

枯れた筈の涙腺に、痛みが走る。

何かが、溢れる。

 

涙、か。

 

この結末を思い付いた時、和希に愛して貰えば……それだけ、反動で彼が傷付くだろうと、そう考えた。

 

それは確かに上手くいっている。

 

……だけど、いつの間にか……私の、和希に対する好意は本物になっていた。

笑える話だ。

 

男の記憶を持った異常者が、物語の主人公に恋をするなんて。

 

本当に……愚か。

 

 

「…………ごめん、ね」

 

 

だからこそ、私の心にあるのは……和希に対する後ろめたい気持ち。

 

 

「許すよ、許すから……傷を、治してくれ……!どこにも、行かないでくれ……!」

 

 

血が抜けて、身体が冷えていく。

相対的に、和希の身体の温かさを感じる。

 

 

「夏休みの予定だって……これからの予定だって、沢山……残ってるだろ……?やりたい事も、やらなきゃならない事も……だからっ──

 

 

強く、強く、感じる。

命の……温かさを。

 

 

「勝手に……どこかに、行かないでくれよ……頼む、から……」

 

 

言葉に嬉しいと思っても、どこか、客観的に見えてしまう自分がいた。

 

あぁ、なるほど。

これが死ぬって事なんだ。

 

薄れゆく視界に、和希の泣き顔が見える。

 

 

「稚影……が、死んだら……僕は、僕は……!」

 

 

私が抉った心の傷。

それは和希を強くする、私の最後の……爪痕。

 

……だけど、私の想定は甘かった。

私は……自分が思う以上に、和希に愛されていた。

 

このままでは……和希は、立ち直れない、かもしれない。

 

不安が胸に過ぎって──

 

 

「和、希──

 

 

最後の力を、振り絞る。

掠れる声で、言葉を紡ぐ。

 

 

「希美、ちゃんを、お願い……ね……」

 

 

彼の心に……願いを……残す。

死なないで欲しいと、決して崩れないで欲しいという願い。

 

和希は誰かの為なら、戦える。

それなら……希美の、為なら。

 

きっと彼はまた、立ち上がってくれる。

私の好きな、彼ならば。

 

 

「あぁ、あぁ!分かってるよ……!稚影……だからっ……!」

 

 

もう、私が助からないのを悟ったのだろう。

それなら、せめて……不安にならないようにと、頷いたんだ。

 

……本当に、彼は優しい。

だからこそ、私は……。

 

 

「……最、後に……」

 

 

私は力の籠らない手で、和希を引き寄せて──

 

 

 

唇を、重ねた。

 

 

血塗れの唇が触れ合う。

腐臭のする、最悪のキス。

 

だけど、和希は……少しも嫌がる素振りを見せなかった。

 

唇を、離す。

 

唾液の混じった血が、私たちの唇の間で……糸を引いた。

 

 

「ぁ……あ……」

 

 

呆然とした様子で、和希が……私を見ていた。

……酷いな、少しぐらい、喜んでくれたっていいのに。

 

 

「……ありがと、和希」

 

 

もう、口は開かない。

力が抜けていく。

 

崩れ落ちる私を……和希が抱き抱えている。

 

 

「嘘……だろ?い、嫌だ……嫌だ、稚影……!」

 

 

目は開けたまま、少しずつ、暗く、暗く。

遠く、遠くに。

 

離れていく。

 

 

「なんで……!?まだ話したい事が沢山あるのに……!」

 

 

和希が何か、話している。

 

だけど、もう……聞き取れない。

 

きっと、恨み節なんかじゃない。

私を引き戻そうとする声。

 

 

「この、何とかしてくれよ……!何のための『異能』なんだよ……!助けてくれよ、稚影を……く、そっ、このっ──

 

 

……私は、これで良かったのだろうか?

 

私の選択は正しかったのだろうか?

……分からない。

 

 

「だっ……ダメだ!稚影、行くな……行かないでくれ!」

 

 

……目を閉じる。

 

希美にも、悪い事したな……。

まだ、ちゃんと謝れなかったのは……今、後悔してるけど。

もう、どうしようもないから。

 

 

「目を、開けてくれ……!ま、まだ、一緒に居てくれよ……!」

 

 

……呼吸を止める。

 

 

これから、二人には困難が訪れるだろう。

沢山の困難が、和希を傷付けようとする。

 

だけど、きっと大丈夫だ。

今の和希なら、きっと……もう、誰にも負ける事はない。

 

私はそう、信じている。

……もっと早くに信じていれば、こんな結果にならずに済んだのかな。

 

だけどそれは、和希と……私自身を信じられなかった、私の弱さが原因だ……なのだろう。

和希が悪い訳じゃない。

 

 

「稚影……僕は……まだ、まだ……だって……これから……僕は、何を……!」

 

 

……意識は、暗闇の中に。

 

 

ふと、兄さんの顔が、脳裏に浮かんだ。

 

 

私、上手く出来たかな?

 

 

そう訊くと……とても、悲しそうな顔をされた。

嫌われたのだろうか?

それも、仕方ない事だと思った、

兄さんから貰った命で、私は沢山、悪いことをしてしまったから。

 

だけど、兄さんは私に手を伸ばしてくれた。

その手に、血塗れの手を伸ばす。

 

繋いだ手が、二度と離れないように強く握る。

悲しそうな顔をした兄さんに導かれるまま、私は歩き出す。

 

 

ゆっくりと、一歩ずつ、歩き出す。

 

 

ゆっくりと。

 

 

それでも、確実に。

 

 

暗闇の中へ、歩いていく。

 

 

 

 

……二度と目覚めない眠りの底に。

 

 

 

 

 

 

落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

夏が来て、秋が来て。

冬が来て、また春が来て。

 

巡り巡って、二年弱が経った。

 

 

僕はリビングにある仏壇の前に座る。

仰々しくない、小さな仏壇。

 

中央には写真立てがある。

 

楠木 稚影。

僕の好きだった人の、写真だ。

 

 

僕が撮った、希美と稚影が写った写真。

彼女が笑顔でカメラに目を向けている……そんな写真から、彼女の姿だけを切り取った遺影だ。

 

 

慣れた手つきで線香を取り出して、マッチで火を付ける。

供えて、座って……手を合わせ、目を閉じる。

 

 

今でも、仏壇の前に立つと……昨日の事のように思い出せる。

 

 

僕の手の中で、彼女が息絶えた後……僕は、隣の朽ちた事務所で、希美を見つけた。

仕切りに「稚影ちゃんは!?」と聞く彼女を……亡骸と引き合わせた。

 

希美が泣き崩れて。

僕もようやく、彼女が死んでしまったのだと自覚して……足元から、崩れた。

 

泣いて、喚いて、自己嫌悪して。

希美と二人で抱き合いながら、泣いて。

 

かなり遅れて、七課の人達が来て……僕達は家に帰された。

 

力なく、今にも壊れてしまいそうな希美を、何とかベッドに寝かして。

喉が枯れていた僕は冷蔵庫を開け……稚影の名前が蓋に書いてあるプリンを見つけて……また泣いた。

 

全てに苦しくなって、全てを投げ出したくなった。

 

それでも『希美を頼む』と言われてしまった。

託された。

 

だから、僕は……無理矢理立ち上がって、前を向いて歩くことにした。

……いや、歩こうとした、か。

 

今でも、ずっと後ろを振り返って生きているから。

 

 

「……稚影」

 

 

線香の匂いが、鼻に染みる。

 

息を深く吐いて、すっかり緩くなってしまった涙腺で涙を堪える。

 

 

彼女を殺したのは僕だ。

だけど、罪には問われなかった。

 

正当防衛だと、七課に処理されてしまった。

それどころか、事件自体が『異能』絡みであるからと公にされなかった。

 

あの時、少しは裁かれていたら……なんて、思う事もある。

 

 

彼女の死後、親族は誰も名乗りを上げなかった。

だから、僕が喪主として小さな葬式を上げた。

 

遺骨は僕達で預かって……今でも、この仏壇で供養している。

 

 

合わせていた手を離して、目を開ける。

僕の心とは裏腹に、窓の外は清く澄み渡っていた。

 

 

「…………」

 

 

プリンを、墓の前に置く。

彼女の好物だったからだ。

 

自然と、涙が溢れた。

 

泣きたくないのに……稚影には、泣き顔を見せたくないのに。

勝手に、溢れてしまった。

 

 

「……ダメだな、僕は」

 

 

自己嫌悪しながら、立ち上がる。

 

 

あれから、沢山の出来事があった。

沢山の人と出会って、沢山の争いがあった。

何度も、打ちのめされそうになった。

 

だけど、稚影を最後に、僕の手の中から溢れてしまった人は、一人もいない。

みんな、生きている。

 

それはきっと、稚影が残していった傷が……僕を強くしてくれたからだ。

 

 

そして昨日、僕の高校生活は終わりを告げた。

来月からは大学生だ。

将来的には警察学校に入学して、警察官になるのが夢だけれど……。

 

まぁ。

 

それだけ、月日は経ったけれど……僕はまだ、彼女を忘れるつもりはなかった。

 

目を閉じれば、今でも……ほんの少しも薄れる様子はなく、彼女の顔が思い出せる。

 

 

目を、開く。

 

 

「……ごめんな」

 

 

何に謝っているのか、僕にも分からない。

彼女を殺してしまった事か、気付けなかった事か、それとも……。

 

 

電話が鳴った。

手元の携帯電話だ。

……見覚えのある名前に頬を緩めて、通話開始のボタンを押す。

 

 

「……はい、もしもし」

 

「和希、今少し話して良いか?」

 

 

結衣さんだ。

 

あの頃はいつも気を張り詰めていた結衣さんは……穏やかに……いや、少し覇気がなくなったと言うべきか。

 

結衣さんの『異能』の出力はどんどん低下していって、今では……数分ほどしか過去を見れなくなっていた。

 

 

「え?はい、良いですよ。何かありました?」

 

 

新しい『異能』事件だろうか。

そう思って、気を張り詰める。

 

だけど──

 

 

「……違う。別件だ」

 

 

事件ではないらしい。

胸を撫で下ろす。

 

 

「では、何の──

 

「楠木、稚影の……話になるんだが」

 

 

思わぬ名前に驚いて……仏壇を一瞥した。

写真の中にいる稚影は笑っている。

 

 

「……何ですか?」

 

「あぁ、いや……そうだな。彼女の遺品の話になるんだが──

 

 

連続猟奇殺人事件を起こした彼女の遺品は、秘密裏に七課に回収されていた。

彼女の日記も、アルバムも、自室に飾っていた女児向けの腕時計も……。

 

それらの保存期間が過ぎて、廃棄されるとの事だ。

 

 

「え?それは、ちょっと……」

 

「安心しろ。私が預かっている。事務所まで来てくれれば良い」

 

 

僕は深く息を吐いた。

 

 

「ありがとうございます」

 

「……いや、これぐらいでしか私は贖罪出来ないからな」

 

「……贖罪ですか?」

 

 

結衣さんが、稚影に……そんな感情を抱いているとは知らなかった。

だって……結衣さんからすれば、稚影はただの連続猟奇殺人犯だ。

 

僕の疑念を晴らすように、結衣さんの言葉が続く。

 

 

「あの頃、私は焦っていた。連続殺人犯を止めるために、彼女自身の身を十分考慮せず作戦を決行した」

 

「……仕方ないですよ」

 

「そんな事はない。私の失態だ」

 

 

僕は黙る。

結衣さんは慰めて欲しくて、こんな話をしている訳ではない。

 

 

「それに、焦っていた身勝手な理由が、もう一つある」

 

「……もう一つ?」

 

「彼女は何故か、和希が『異能』に目覚める事を知っていた。まるで『未来予知』をするような──

 

 

それは……僕も、未だに不思議に思っている事だった。

 

 

「『未来予知』の『能力者』を私は知っている。関係者ならばと、焦ってしまった」

 

「……そんな『異能』を持っている人がいるんですね」

 

 

結衣さんの後悔と共に、悲しむような声が聞こえる。

 

 

「私の『兄』だ」

 

「……それって──

 

「あぁ、もう亡くなっている」

 

 

結衣さんが探偵をしている理由、兄を殺した犯人を見つける……その殺された兄、か、

 

 

「……何か関係が?」

 

「さぁな。もう訊く手段もない。だが……もし、関係していたらと焦ってしまった。私の身勝手だ」

 

 

少しの間、沈黙が続いた。

……僕は目を閉じて──

 

 

「もう一つ、謝らなくてはならない事がある」

 

「……何ですか?」

 

「彼女の目的を推察出来ていたのに、話さなかった事だ」

 

 

……僕は、息を呑んだ。

 

 

「彼女はお前を強くしようとしていた」

 

「……えぇ、今は僕も分かっています」

 

 

稚影の目的は、僕に負荷を掛けて『能力者』として育てる事だったのだろう。

そうでなければ、彼女があんな事をする訳がない。

 

 

「だが、この推測が万が一にも間違っていれば、お前は彼女に敵意を向けられなくなり……油断して、殺されてしまう危険性があった。だから話せなかった」

 

「…………」

 

「しかし、それならば……彼女の真意を探ってから、事を起こすべきだった」

 

 

結衣さんが自嘲した。

 

 

「恨んでくれて構わない」

 

「恨む訳ないじゃないですか」

 

「……そうか。すまないな」

 

 

結衣さんがため息を吐いた。

その謝罪は僕に向けてだったけれど……きっと、希美や稚影へ向けての物でもあるのだろう。

 

 

「それと……彼女の遺品の話に戻るのだが──

 

「何ですか?」

 

「携帯電話に、メールの下書きがあった」

 

「メールですか?」

 

 

首を、傾げる。

そんなの、ただの消し忘れだろう。

気にするような事でもない。

 

 

「作成日は……彼女が亡くなった日。宛先は……和希、お前だ」

 

「僕……」

 

 

彼女の亡くなった日……だとしたら。

 

 

「彼女が希美を連れ去ってから、お前と再会するまでの間に書かれた下書きだ」

 

「…………」

 

 

思わず、黙った。

僕を脅すためのメールだったのだろうか、気になってしまう。

 

 

「……悪いな。事件の後処理中に見つかったらしくてな……私も、今知ったのだが……」

 

「……な、んで謝るんですか?」

 

「この『送り損ねた』メールは、お前が読むべきだ」

 

 

一体何が……書いてあるんだろう。

僕は少し恐ろしくなって……遺影を一瞥する。

 

……ほんの少しでも、彼女の生きていた時の名残りが欲しい。

そう思えた。

 

 

「和希、転送して良いか?」

 

「……勿論。良いですよ」

 

 

少しして、携帯電話に通知音が響いた。

結衣さんが下書き転送してくれたのだろう。

 

 

「では和希……遺品の受け渡しについては──

 

「この後、行って良いですか?」

 

「あぁ、構わないとも……待ってるぞ。多少、遅れても気にしないからな」

 

 

そう言われて、電話が切れた。

 

多少遅れても……か。

耳から携帯電話を離して……メールボックスを開く。

 

 

結衣さんから転送された、稚影のメール下書き。

それを開く。

 

 

─────────────

Fwd:和希へ

─────────────

 

 

僕の名前だけ書かれた、シンプルなタイトルだった。

 

 

─────────────

最初に、色々と迷惑をかけてごめんなさい。

謝っても許される事ではないと思うけれど

それでも、ごめんね。

─────────────

 

 

最初の数行に現れたのは、彼女の謝罪の意思だった。

 

……何となく、この下書きが何だったのか、分かった気がした。

これは『遺書』だ。

 

それも……埋もれてしまって、読まれなくたってもいいと言う……遺書。

 

 

────────────

私の事が憎ければ、ここから先は読まないでくれると嬉しいな。

どうか、お願いだから。

────────────

 

 

僕は少しも躊躇わず、次を読み進める。

空白行が幾つもならんで、ようやく文字が見えた。

 

……僕が、稚影を憎いと思うか、か。

稚影はきっと、僕に憎まれる事も覚悟して、あんな事をしてしまったのだろう。

 

 

───────────

どうして憎くないか、もう私は聞けないけれど。

読んでくれてるのは少し、嬉しいかな。

───────────

 

 

……稚影は、それでも僕に嫌われたくなかったんだな。

せめて、生きている内に……ちゃんと話せていれば良かったのに。

 

 

───────────

初めて会った時、優しく声をかけてくれて嬉しかったよ。

私と友達で居てくれようとして、凄く嬉しかった。

───────────

 

 

……あの時、殺し合う前に「羨ましかった」なんて言っていたけれど、やっぱりアレは嘘だったんだ。

僕に殺意を抱かせるために、彼女は僕と……自分に嘘を吐いたんだ。

 

 

───────────

だから、気に病まないで欲しいな。

貴方を強くするために、傷付けるために行動してきたのに、こんな事を言うのはおかしいけど。

───────────

 

 

……稚影は、僕の『異能』を強くするために、僕を傷付けた。

それは……分かっていた。

 

だけど、その考察が正しかったと知って……胸を撫で下ろした。

僕は安心したんだ。

 

稚影が……僕の事を大切だと思っていてくれた事に、安心した。

 

 

───────────

和希からすれば、こんなメール

見たくもないかも知れないけど。

ごめんね。

───────────

 

 

「……そんな事ないよ」

 

 

メールからは彼女の後悔が滲み出ていた。

だけど、僕の中にいる彼女の記憶に、新しいページが刻まれているような気がして嬉しかったんだ。

 

亡くなってしまって、もう新しい思い出なんて作られないと思っていたから。

 

 

───────────

あまり時間がないから、長く書けないけれど。

話したい事も、知って欲しい事も沢山あるけれど。

だから、一つだけ、どうしても伝えたい事だけを書くね。

───────────

 

 

僕は、心臓が締め付けられるような痛みを感じた。

 

だって、この遺書を読んで……久しぶりに稚影と会話できているかのような気持ちになれたから。

それが終わるのが……凄く、惜しく感じてしまうんだ。

 

 

───────────

私は和希の事が好きだよ。

嘘をいっぱい吐いちゃったけれど、これは本当。

 

和希にとっては迷惑な気持ちだろうけど、どうしても伝えたくて。

───────────

 

 

「……遅いよ」

 

 

そういえば、彼女から「好き」と言われた事は無かった。

行動で示されても、それでも「好き」とは言ってくれなかった。

 

……あぁ、せめて生前、聞けていたら……こんな。

 

こんな。

 

 

「うっ、く、ぅっ」

 

 

悲しまずに、済んだのに。

素直に喜べたのに。

 

涙が携帯電話の液晶に溢れて、僕は拭き取った。

 

 

───────────

でも、私と和希は釣り合わない。

和希には私なんかより、ずっとお似合いな人が見つかるよ。

 

大丈夫、私が保証するから。

───────────

 

 

……僕は、息を呑んだ。

 

 

───────────

その時は、私の事なんか忘れて、幸せになってくれると嬉しいな。

 

私の所為で和希が不幸になっちゃったら、すっごく辛いから。

───────────

 

 

「……散々、人の事を『バカ』って言っておいて、稚影の方こそ『バカ』じゃないか」

 

 

涙を、拭う。

稚影は……僕が、稚影に抱いている気持ちを小さく見積り過ぎている。

僕は、稚影が死んで、もう『不幸』を感じている。

これ以上はないぐらいの『不幸』を。

 

だけど、それ以上に稚影と共に過ごした記憶は、僕の中で『幸福』として遺っている。

僕の心の根幹で、支えてくれている。

 

それを稚影は分かっていなかったんだ。

 

 

───────────

最後に。

希美ちゃんをよろしくね。

泣かせたら、私、怒るからね。

───────────

 

 

メールのサイドバーを見て……これが、一番下なのだと気付いて。

僕は……膝を折って、床に座った。

 

 

「……はぁ、もう。全く……」

 

 

泣かせたのは稚影じゃないか。

そう思い、少し眉を顰めて……僕は苦笑した。

 

 

稚影。

 

楠木 稚影。

 

 

もう、ここには居ないけれど……僕の心の、一番大切な所にずっと居続けている。

 

 

僕の持つ『異能』で、沢山の人を救えた。

それだけ、多くの人から感謝された。

救世主(ヒーロー)だと、喜ばれた。

 

だけど、僕に助ける力を授けたのは稚影だ。

……稚影のお陰で、助ける事が出来たんだ。

 

鼻腔の奥では、あの時からずっと……腐臭のする血の臭いを感じている。

目の前で稚影が死んでしまった時に負った心の傷から生まれる、幻臭だ。

 

ずっと、ずっと忘れられない。

 

彼女の血の臭いと思えば……悲しくは思えても、嫌いだとは思えなかった。

 

 

自分の手を、握る。

 

 

……壁にかけられた時計を見る。

結構、時間が経ってしまったな。

 

 

そう思いながら、立ち上がる。

 

そして仏壇にある稚影の笑顔を見た。

 

 

彼女のいない世界で、誰かを助けるために。

僕は今も、戦い続けている。

 

救世主(ヒーロー)なんて、自分には過ぎた扱いだと思うけど。

 

だって、僕は救えるから救ってるに過ぎない。

何も犠牲にしてない。

 

だから、本当の救世主(ヒーロー)は──

 

 

全てを犠牲にして、僕に力を授けてくれた彼女の事なのだと、僕は信じている。

 

 

腐った血の、救世主。

 

 

僕は生涯、忘れない。

あの時の血の臭いも、血の味も、抱きしめた感触も。

 

負った心の傷を、忘れない。

 

 

 

この傷が、この『力』が……彼女の生きていた証なのだから。

 

 

 

僕は、彼女を忘れない。

 

 

ずっと、これからも。

 

 

「……そろそろ、結衣さんの所に行かないとな」

 

 

頼れる人と、親しい友人達と、愛おしい妹。

だけど、一つだけ足りない。

 

それでも、僕は歩き続けなければならない。

それがきっと、彼女が望んでいる……僕の姿だから。

 

僕は振り返り、彼女の遺影を見た。

 

 

 

「行ってくるよ、稚影」

 

 

亡くなった彼女の想いを、引き継げるのは僕しかいない。

僕が彼女の想いに、応えなければならない。

それが生きている人間の責務だと、僕は思う。

 

だから、歩き出そう。

止まってなんていられない。

 

 

 

靴を履いて、玄関から出れば──

 

 

「……いい天気だなぁ」

 

 

雲一つない青空が広がっていた。

 

太陽が、僕の行くべき道を照らしてくれている。

 

照り付ける光が、僕の背後に影を作っていた。

 

決して切り離す事の出来ない影が、僕の背中を押してくれているような気がして──

 

僕は、前へと歩き出した。

 

 

 

 




ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

後書きとして活動報告を投稿しています。
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↓活動報告
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特別編
?托シ話:蟷サ縺ョ荳ュ縺ァ


エイプリルフール回の特別回です。


長い夢を見ていた。

とても長い、悪夢を。

 

微睡みの中から急激に覚醒し……僕は、慌てて布団を押し退けた。

 

 

「……あ」

 

 

焦燥感、不安、後悔。

 

そういった物が胸で渦巻く。

だけど、その理由は思い出せない。

 

僕が何を後悔して、何に苦しんでいたのだろう。

 

目が覚めれば、夢の中で苦しんでいた記憶は忘れてしまっていた。

 

汗を白いシャツで拭って、立ち上がる。

カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

……少し目を細めた。

 

目が覚めた筈なのに、何処か浮遊感がある。

現実を現実だと見定められない、仄かな非現実感。

 

自室のドアを開けて、階段を下る。

 

リビングを通り抜けて、キッチンにまで来る。

コップを取り出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを出す。

 

コップに注ぎ……口に含む。

 

 

「……っ、はぁ」

 

 

息を深く吐く。

 

感じていた不快感は随分と落ち着いた。

 

ただ、身体に張り付いた汗は纏わり付いたままだ。

シャワーでも浴びようかと思い、洗面所へ向かう。

 

汗まみれのシャツを脱ぎながら廊下を歩く。

 

そのまま、ドアを開けて──

 

 

「あっ……」

 

「え?」

 

 

先客が居た。

 

薄紫色の髪が揺れた。

下着を指にかけて、一糸纏わぬ姿のまま……僕を見た。

 

少し、互いに驚愕で固まって……先に正気に戻ったのは彼女の方だった。

 

 

「か、和希……」

 

 

名前を呼ばれて、ようやく僕も我に返った。

 

 

「あ、わっ、ごごめん!」

 

 

慌てて、洗面所から出て、弾む心臓を押さえ込む。

 

酷く、恥ずかしそうに……それでも怒る素振りはなかった彼女……稚影を思い出す。

とても綺麗な『傷一つない』肌が、脳裏に──

 

 

「だ、ダメだ……よくない、こんなの……」

 

 

廊下で蹲って、反省する。

稚影が出てきたら謝らないと。

 

そう自分を責めながら待っていると……少しして、私服姿の稚影が出てきた。

 

 

「和希……」

 

「ぇ、っと、ごめん……稚影」

 

 

慌てて立ち上がって頭を下げると──

 

 

「……ふふっ」

 

 

小さな笑い声が聞こえた。

恐る恐る顔を上げると……稚影は愉快そうに笑っていた。

 

 

「もう、別に怒ってないって」

 

「でも……」

 

「不慮の事故でしょ?許してあげる」

 

 

そう言いながら、稚影は僕の身体を両手で抱いた。

髪からシャンプーの香りがして、心臓が高鳴る。

 

 

「それに、恋人なんだから」

 

「稚影……」

 

「大丈夫、気にしてない……って訳じゃないけど、不快には思ってないから」

 

 

僕は彼女を抱きしめ返した。

柔らかく、華奢な彼女は……強く、抱きしめれば壊れてしまいそうで、少し怖くなる。

 

少しして、僕を抱きしめる力が弱まった。

 

 

「……あっ」

 

 

何故か、手放したくなくて……名残惜しくて。

怖くて、不安で。

 

そんな僕を見て、稚影が首を傾げた。

 

 

「……和希?どうしたの?」

 

 

そんな彼女を不安にさせたくなくて、僕は小さく首を振った。

 

 

「え、っと……何でもないよ、稚影」

 

「うん、ならいいよ」

 

 

稚影が仄かに笑う。

 

 

「和希、大学の講義もあるし……はやく、シャワー浴びなよ。湯船もさっき入ったばかりだし、温かいよ」

 

「……分かったよ、ありがとう」

 

 

大学……そうだ、大学だ。

 

僕と稚影は同じ大学に通っている。

遅れないように、準備しないと。

 

稚影が僕の横を通った。

彼女からは良い匂いが──

 

 

あれ?

 

 

何か、少し……鼻を刺激するような……いや、違う。

これは?

何の臭いだろうか?

 

 

 

 

「和希?」

 

 

稚影が目を瞬いて、僕を見つめていた。

艶やかな唇が、言葉を紡いだ。

 

 

「どうかしたの?」

 

「あ、いや、何でもないよ」

 

 

僕は否定する。

鼻に感じていた異臭は、もう無くなっていた。

 

疲れているのだろうか?

幻臭……って奴かな?

 

僕は笑って誤魔化した。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

二人で大学の講義を受けて、今日は午前中だけだからと帰路につく。

 

 

「希美ちゃんは午後も高校あるし……ちょっと、デートしない?」

 

「あぁ……いいよ?」

 

 

稚影の言葉に頷くと、彼女は少し顔を顰めた。

 

 

「もう、もっと『やったー!』って喜んでくれていいのに」

 

「え?……や、やったー?」

 

 

稚影とデートするのは初めてじゃない。

何度も何度もデートしてる。

だから、態度がおざなりになってしまっていたようだ。

 

 

「心がこもってないんだから。和希は嬉しくないの?私とデートできること」

 

「いや、それは嬉しいよ。凄く嬉しい」

 

「えー?ほんと?」

 

 

稚影が揶揄うように笑っている。

こんな冗談が言えるのも、僕達が互いに想い合っているのだと強く信じているからだ。

 

 

「本当だよ。稚影と一緒にいれて僕は──

 

 

僕は。

 

嬉しい。

 

凄く、嬉しい。

 

 

 

なのに。

 

 

 

「……和希?」

 

「え?」

 

 

涙が溢れた。

悲しいなんて思ってない筈なのに、嬉しい筈なのに。

流れる。

 

 

「ど、どうしたの?さっきのは冗談だからね、そんな傷付くなんて──

 

「違うよ、違う……こ、これは──

 

 

涙を、拭う。

 

 

「凄く、嬉しいんだ。嬉し過ぎて泣いちゃったんだ」

 

「……う、うん?なら良いか、良いかな?」

 

 

稚影に心配されて、僕は自分が情けなく感じた。

努めて、笑顔を浮かべながら僕は稚影と手を結ぶ。

 

 

「それで、何処に行くんだ?」

 

「うーん、どこでも良いんだけど……あ、そうだ。水族館行こうよ!」

 

「水族館?……あ、あそこか」

 

 

脳裏に過ぎるのは、数年前に出来た水族館だ。

一度だけ、彼女とデートした事がある場所だ。

 

 

「ね?何だか新しくリニューアルしたらしいし、初めてデートした場所にまた行くのも……良くない?」

 

「うん、良いと思うよ」

 

「それじゃあ早く行こ?希美ちゃんが下校するまでには帰らないと……だし、時間は有限だよ?」

 

 

稚影に手を引かれる。

 

その感覚に身を任せて、僕も歩く。

彼女の望む道に、のめり込んでいく。

 

そんな僕は……何故か、焦燥感に駆られている。

不安を感じている。

 

だけど、彼女の笑みを見て……それは、どうでもいい事かと振り払った。

 

彼女と一緒にいられる事に比べたら、他はどれも些細な事だと思えたんだ。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

暗がりの水族館の中で、二人、僕達は手を結んで歩く。

 

 

「わ、和希、見て見て……可愛い」

 

 

小さな水槽に、稚影が呼ぶ。

肩の触れ合う距離で、一つの水槽を見る。

 

昔は密着するとドキドキしたけれど、今は……いや、今もドキドキはする。

だけど、もう慌てたり……無様を晒すような事は無くなった。

 

純粋に、一緒にいると心地良いと思えるようになった。

 

 

「うん。これ……クラゲ?」

 

「可愛いよね」

 

「あ、えーっと……」

 

 

そこには桃色と水色の小さなクラゲが浮かんでいた。

可愛いかといえば……可愛いのか?

よく分からない。

 

だけど──

 

 

「うん、可愛いね」

 

「でしょ?」

 

 

否定するような無粋な真似はしない。

 

目を輝かせながら稚影が水族館を突き進む。

僕は手を引かれながら、進んでいく。

 

稚影は展示されている生き物に視線を向けている。

だけど僕は……彼女の事を、一番見ているかも知れない。

 

 

大きな魚影が、僕を横切った。

 

ふと、視線をそちらに向ける。

 

……違う、ただの壁だ。

じゃあ、今の影は何だったんだ?

 

 

「ほら。和希、行くよ?今回こそカワウソとの握手会するんだから……!」

 

「え、あ、ごめん。急ごっか」

 

 

違和感を振り払って、彼女に付き添って歩く。

 

……だけど、ふと、稚影が足を止めた。

そして振り返った彼女の顔には、不安があった。

 

 

「和希……もう、体調でも悪いの?」

 

「え?どうして?」

 

「だって今日……少し、上の空だし」

 

 

自覚はなかったけれど……確かに、そうかも知れない。

理由も分からない不安や違和感を感じているのだから。

 

 

「ごめん。だけど、もう大丈夫だよ」

 

 

……彼女と共にいる時ぐらいは忘れよう。

 

 

「……なら、良いけど」

 

 

稚影と居られる時間を大切にしよう。

だって、彼女は……。

 

彼女は、何だろう。

 

ずっと一緒にいると決めたのだろう?

別れる事なんてない。

だから、気にする事はない筈だ。

この日常を享受するべきなんだ。

 

なのに、なのに。

 

何故、僕は……この日常を、不安に思っているんだ?

 

振り払う。

振り払う。

振り払う。

 

 

「さ、行こっか」

 

 

手を引かれるまま、僕は進む。

 

彼女が楽しそうにしているなら、僕はそれでいい。

何も考えなくていい。

 

何かを訴えかける心を閉じ込めて、今はただ幸せな微睡みを感じて……僕は『幸せ』に沈み込んでいく。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

少し、早めに水族館から出てきて街を歩く。

 

 

「稚影……もう少し、水族館に居ても良かったんじゃないか?」

 

 

僕がそう言うと、稚影は仄かに笑った。

 

 

「それも良いんだけどね、他にも……行きたい場所とかない?」

 

「いや、僕にはないけど……」

 

「私は行きたい場所あるの、良いかな?」

 

「あ、そういう事か。良いよ、付き合うよ」

 

 

そう言うと、稚影が照れ臭そうに笑った。

僕は少し、首を傾げた。

 

 

「稚影、どこに行きたいんだ?」

 

「それは……えっと、秘密?」

 

「何だよ、それ」

 

 

思わず笑うと、稚影も笑った。

稚影が僕の手を握り直した。

 

指を絡めて、握る。

所謂、恋人繋ぎって奴だ。

 

 

「……和希、あの時の、続き……したくない?」

 

「あの時?」

 

 

どの時だろうか。

そう、脳裏の記憶を探る。

 

 

「もう、和希……本気で言ってる?」

 

「え、いや、だって──

 

 

ふと、ベッドで馬乗りになられていた時の事を思い出した。

 

 

「……わ、分からないけど?」

 

 

外れていたら最低だと思って、自信もないから誤魔化した。

 

 

「嘘。今絶対に思い出した」

 

「え、いや、そんな訳じゃ──

 

 

……あれ?

そう言えば、あの時、どうして中断されたんだっけ?

確か、電話が──

 

 

「それで?和希……ど、どうかな?」

 

 

微かに頬を赤らめて、そう言った。

……手が、微かに震えている。

 

僕は、その手を……強く握り返した。

 

 

「……分かった。続き、しようか」

 

「…………えへへ」

 

 

稚影が握っていない方の手で頭を掻いた。

 

 

「というか、ごめんな。稚影……僕から、その、誘うべきだったんじゃないか?」

 

「……え?うん……?いや、そういうのは、どっちからでも良いと思うよ。それに、和希には『そういう』デリカシーとか期待してないし」

 

「うっ」

 

 

急にボディブローを食らった気分になって、よろめきそうになる。

 

デリカシー……か、デリカシー。

う、無いか……デリカシー無いんだ?

僕って……。

 

ちょっとショックを受けている僕を見て、稚影が慌てて口を開いた。

 

 

「べ、別に責めてる訳じゃないからね?そういう所も私は好きだし」

 

「……デリカシーが無い所が?」

 

「そうじゃなくて……ええと、ちょっと奥手な所とか?」

 

 

お、奥手か……。

聞こえは良いけど、つまり積極性がないって事だろう。

 

またショックを受けている僕に、今度は呆れたような表情を浮かべた。

 

 

「……もう、和希。私は和希の事が好きだからね」

 

「え、あぁ……僕も稚影が好きだよ」

 

「うん、知ってる。だから、和希にも分かるでしょ?

 

 

何を……とは言わない。

きっと、稚影は互いに『欠点を知っている』からこそ、そこも含めて好きなのだと言いたいのだろう。

 

 

「……そうだな。ありがとう、稚影」

 

「手が掛かる彼氏なんだから」

 

 

稚影が肩を寄せて、少し僕に体重を預けた。

歩きながらだから、不安定になるけれど……責めはしない。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

稚影と一緒に歩いて……そして、小さなお城みたいなデザインがした、小さなホテルの前に着いた。

桃色のカラーリングをした、ネオンが輝く小さなホテル。

 

 

「……来ちゃったね」

 

「……うん」

 

 

少し、躊躇った後。

 

 

「和希……は、入ろっか?」

 

「え?あぁ……うん、そうだな」

 

 

少し、怖気ずきながら向かおうとする稚影の……手を引く。

せめて、こういう時ぐらいはエスコート出来ないと。

 

部屋の書いてある受付機から鍵を取り出して……エレベーターに乗る。

 

チカチカとボタンが光り、ゆっくりと上がっていく。

 

心臓が高鳴る。

 

高鳴る。

 

鼓動が、すぐ側にいる彼女に聞こえてしまわないかと思えるほどに。

 

手を、強く握られた。

 

視線を稚影へ向ける。

 

彼女も頬を赤らめて、口を噤んで……俯いていた。

 

……稚影も、緊張しているんだ。

そう思うとやっぱり、僕がエスコートしなければという気持ちに駆られる。

 

 

エレベーターのドアが開いて……廊下を歩き、部屋の鍵を開ける。

 

 

「……わっ」

 

 

稚影が驚いた声を上げた。

 

壁にも天井にも菱形の鏡があった。

興味深そうに部屋を散策する稚影に、僕は苦笑しつつ……荷物を棚に置く。

 

そして、視線をずらして……ベッドを見る。

二人で寝れるように……というか、する事ができるように、大きなベッドだ。

枕元には……避妊具も置いてある。

 

……その景色を見た瞬間、実感が湧いた。

湧いてしまった。

 

ふと、稚影を見ると……稚影も、僕を見ていた。

 

身体が熱くなる。

 

僕は──

 

 

「さ、先にシャワー浴びてくるよ!」

 

 

逃げた。

 

 

「う、うん。次、入るから」

 

 

稚影の言葉に頷いて、洗面所に入る。

……良かった。

 

洗面所の方は、それほど意識させられるような物はないみたいだ。

 

服を脱ぎ捨てて、バスルームに入って──

 

 

……ビニール製のマットが壁に立てかけられていた。

気にしないようにしろ、気にしないようにするんだ。

 

シャワーを出して、頭から被る。

 

身体を冷やす。

落ち着かせる。

 

大丈夫、大丈夫だ。

ちょっとビックリしているけど、嫌じゃない。

嬉しいんだ。

 

これが『幸せ』なんだ。

だから、そんなに怯えなくて良いんだ。

 

僕は──

 

これが──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

違う。

 

 

「……っ、はぁ」

 

 

シャワーを浴びながら、頭を下げて……深く息を吐いた。

 

何が違うんだ?

これが『幸せ』なんだろう?

 

鏡を見る。

僕の顔だ。

僕の顔……。

 

腹を撫でる。

 

……何か、忘れている。

 

思い出せ。

思い出すんだ。

 

何を忘れているんだ?

僕は……何を?

 

何に怯えているんだ?

何に焦っているんだ?

何を後悔しているんだ?

 

鏡を見る。

鏡の中にいる僕を見る。

 

……稚影。

稚影、稚影、稚影、稚影稚影稚影稚影。

 

そうだ、稚影。

 

稚影は?

 

稚影は、すぐドアの外にいるだろう?

 

何も恐れる事なんてないじゃないか。

 

そうだよ、稚影はここに居る。

 

それで良いじゃないか。

 

何も悩む必要は──

 

 

「……違う」

 

 

何が違うんだ?

 

何も違わないだろう?

 

ここが僕の『幸せ』なんだ。

 

何も、考えるな。

 

そうだよ。

 

この『幸せ』を享受するんだ。

 

微睡みの中に溺れて、何も考えず──

 

 

「違う」

 

 

稚影はここに居る。

 

だけど、稚影は──

 

彼女は──

 

 

「……僕が、殺したんだ」

 

 

そうだ。

 

稚影を殺したのは僕だ。

 

僕が稚影を殺したんだ。

 

稚影は僕に殺されたんだ。

 

だからもう、ここには居ないんだ。

 

なのに──

 

 

「…………っ!」

 

 

違和感の正体に気付き、僕は手を鏡の前に翳した。

 

『剣』が生まれる。

その『剣』が鏡に『映って』いる。

 

違う。

 

『剣』は鏡に映る筈がないんだ。

だから、これは──

 

この世界は──

 

 

「現実じゃ、ない……」

 

 

僕は膝から崩れ落ちた。

 

先程まで一緒にいた稚影の事を思い出して……口を開いて、咳き込んだ。

 

 

「く、そ……くっそぉ…………」

 

 

苛立ちを吐き溢しながら、僕は蹲る。

記憶が蘇っていく。

 

僕は先日、『異能』事件を追っていた。

 

強制連続昏倒事件。

何の前兆もなく、ただ、人が目覚める事がなくなる事件だ。

命に別状はなく、脳波に異常はない。

 

……だけど、まるで夢を見ているようだと、結衣さんは言っていた。

 

恐らく、『異能』の正体は『人に夢を見せ続ける能力』だ。

僕は今……夢の中にいる。

 

目覚めたくないと思えてしまう、幸せ過ぎる夢に閉じ込められている。

 

 

「何だよ……クソッ……最悪だ……」

 

 

手に入れられなかった『幸せ』を押し付けられている。

だから、被害者達は起きられないんだ。

 

実際、僕だって……この夢から目覚めたくない。

 

稚影。

 

楠木 稚影。

 

僕が殺した。

僕が殺してしまった、愛おしい恋人の名前だ。

 

そんな彼女が生きているんだ。

もう二度と話す事も、触れ合う事も出来なくなった彼女がここに居る。

 

だけど、それは『異能』が見せている夢だ。

この『夢』を見せている『能力者』に稚影を再現できる気がしない。

だから、あの稚影は……僕の記憶が作り出した『虚像』に過ぎない。

 

 

シャワーを止めて、浴室から出る。

タオルで水滴を拭いて……はは、拭く必要なんてあるのかな?

だって、これは夢なんだろう?

 

服を着て……洗面所から出る。

 

 

「あっ、和希……」

 

 

ベッドの上で座っている稚影を見つけて……僕は、もう耐えられなかった。

 

涙を流しながら……稚影を抱きしめた。

 

 

「ごめん……」

 

「……和希?」

 

「ごめんよ、稚影……あの時、助けられなくて……僕が、殺して……ごめん……本当に、ごめん……」

 

 

これが本当の稚影ではない事は分かっている。

だけど、謝らずにはいられなかった。

 

嗚咽を漏らして、愛した女性の虚像を抱きしめて、謝り続ける。

 

 

「ごめん、ごめん、稚影……ごめんな……」

 

「……和希」

 

 

そんな僕を見て、稚影は……僕を──

 

 

抱きしめた。

 

 

「……稚影」

 

「気付いちゃったんだね」

 

 

この稚影は僕の記憶が作り出した稚影だ。

だから……僕の記憶から、言いそうな言葉や行動を再生してるだけに過ぎない。

 

なのに、振り払えない。

 

 

「……大丈夫だよ。恨んでないから」

 

「ち、違う。違う……」

 

 

涙が溢れる。

 

本物の稚影じゃないんだ。

稚影はもう居ないんだ。

 

だから、振り払わなきゃならない。

 

僕は顔を上げて、口を開いた。

 

 

「僕が悪いんだ……僕が……僕の力不足で……君の信頼を買えなかった……頼りなかったから!」

 

「……そうだね」

 

「僕がもっと強かったら……頼りになっていれば、君から信頼されていれば……死なずに済んだんだ!僕が──

 

「大丈夫だよ」

 

 

稚影が僕を強く、強く抱きしめた。

違う、違う、違う違う違う違う。

 

この稚影は、稚影じゃない!

 

 

「私、和希のこと、嫌いにはならないから」

 

「……稚影」

 

 

彼女はただ、僕の記憶の中にいる存在だ。

だけど、それでも……僕を励ましてくれた。

 

 

「ね、和希。希美ちゃんを守ってくれるんだよね?」

 

「……当然、だよ」

 

「だったら──

 

 

稚影が悲しそうに、それでも励ますように笑った。

 

 

「眠ってたらダメだよ。目覚めないと」

 

 

稚影が僕の胸を、拳で叩いた。

優しく、突き放すように。

 

 

「……そう、だな」

 

「そうだよ」

 

「そうだよな……!」

 

「うん!」

 

 

僕は彼女から手を離して、立ち上がる。

 

 

「……ありがとう、稚影」

 

 

稚影から少し、離れる。

 

 

「僕を好きになってくれて、ありがとう」

 

 

稚影が無言で笑った。

僕が愛した人だ。

 

たとえ、本物ではなかったとしても……『嘘』だったとしても、それでも。

 

 

「……僕は、君の事を忘れないから」

 

 

好きだという気持ちに変わりはない。

 

『剣』を自分に向ける。

この夢から目覚める方法は……『異能』による干渉だ。

『異能』は『異能』と干渉する事で、乱れて不安定になる。

 

今、この『異能』は僕の心に作用している。

それなら、ここにある夢の中の僕に……『剣』という『異能』の元を差し込めば……不安定になり、崩れる筈だ。

 

大丈夫、この『剣』が教えてくれている、

僕が為すべき最適解を。

この優し過ぎる夢から目覚める方法を。

 

……稚影に、視線を移した。

 

 

「和希、頑張ってね」

 

「うん、頑張るよ」

 

「挫けないでね」

 

「うん、挫けないよ」

 

 

虚像の稚影が、優しく笑った。

 

 

「……安心した」

 

「うん、君が安心できるように……これからも僕は──

 

 

『剣』を体に突き刺す。

 

 

「前に、進んでいくから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢から、目覚めた。

 

 

 

 

 

 

 




嘘を吐いていいのは、午前中までらしいですよ。


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