青春ラブコメ憂鬱譚 (FAN男)
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一話 始まって、嘆く

夢を見ている。
今見ているこれもきっと夢なのだろう。


「よし、来たな。早速だが、君、部活に入ってみるつもりはないかね?」

 

 放課後、現国の担当教師である平塚静から呼び出された俺は、職員室へ向かった。そして顔を合わせて一言目がこれだった。

 

「部活、ですか」

「なんだ、不満かね?」

 

 不思議そうにこちらを見てくる。不満というより、突然のことだったのもあり疑問の方が多かった。

 しかし不満がないかと言われればそうでは無い。部活動なんぞ厄介事でしかないのは目に見えている。

 

「失礼ながら、その通りです」

「ふむ、そうか。しかしだ、田島。君にとってもこの話はプラスになる筈だ。部活に入れば内申にも書ける。悪い話ではないだろう?」

「そうは言われましても........」

 

 さて、部活と来たか。

 どう考えても録なものじゃないだろう。面倒極まりない。どう考えても断る方が良いに決まっている。しかし、断るにも口実が中々見つからない。ガキの言い訳じみた口実じゃこの女教師を納得させることは難しいだろう。伊達に現国の教師をやっているわけではないのだ。

 この状況をどう切り抜けるかを思案している俺に、平塚先生はこう続けた。

 

「実は最近私が顧問のとある部活を設立してね。君にはそこに所属してもらいたいんだ」

「あまり気乗りはしませんね。入るつもりはないですけど、一応聞きます。なんという部活なのでしょう?」

「奉仕部という名だ。どうだ、イケてるだろう?」

 

 奉仕部、全くもって聞いたことがない。新しく設立したらしいのだから当たり前と言えばそうではあるが。とはいえ、一般的な部活動の名称をざっと頭の中に羅列しても該当する部活はない。

 名前から察するにボランティアに近いことをするのだろうか。あるいはいかがわしい意味での奉仕。しかし、後者は生徒指導担当でもある平塚先生がそんな部活を設立するとも思えない。となると前者なのだろうが、いまいち気は乗らない。ボランティアなんぞ柄でもないというのもある。

 それと名前に関しては対してイケてない。こればっかりは俺の感性によるものだから断言は出来ないが、やはりイケてない。

 なんにせよ、入部したいとは全く思えない部活動だった。

 

「........まぁ、ノーコメントで。しかし奉仕部だかなんだかは知りませんが、残念ですがぼくは部活に所属するつもりはありませんよ。放課後の時間が部活で取られる、というのもあまり好ましくはありません」

 

 ドヤ顔をしたままの平塚先生に少々冷ややかな視線を浴びせつつ、俺はその申し出を拒否した。

 

「なぜだ?別に放課後遊ぶような友人を、君は作っていなかったと思うんだがね」

 

 まるで俺の孤独性を周知の事実かのように告げられる。事実は事実だが生徒にそれを言うのか。

 

「いや、仮にも教職だろうに───失礼、それは事実ではありますが、それとこれは関係性もないです。それに先生にはぼくに強制する理由もないでしょう?」

「では、あると言ったら君はどうするかね」

「その理由次第........ですかね」

 

 とは言ったものの、心当たりがない訳では無い。むしろすぐに思いつくほどには大いにあると言えよう。

 どうしたものか、途端に断る口実も、理由も見つからなくなってしまった。

 俺の様子を見てしたり顔をする平塚先生はニヤリと笑いながら足を組みなおした。

 

「心当たりがあるという顔だな?まぁそれで間違っていないよ。君は私に借りがある、それを返して貰う時というだけだ。生徒と教師という立場で貸し借りを言うのもあれなのだがね」

「ああ.....いや....まぁ、それを出されてしまうとぼくとしてはもうなにも。分かりました、その奉仕部とやらぼくでよければ入りますよ」

「よろしい。まあ、このままごねるようであれば、私のピストルのように強いパンチが出るとこだったがね」

「ああ、はい。そうですか......」

 

 思わず口からため息が漏れてしまうのは許して欲しい。その話を出されると俺は強く出れない。

とはいえ、その貸し借りが今回の入部でチャラになるならば入るというのもやぶさかではない。

 どうせここでグダグダと逃げる口実を探しても、平塚先生は大人しく逃げさせてはくれなさそうだ。

 ノコノコと職員室まで来たのが悪かったか。そんな諦めが伝わったのか平塚先生は満足そうに頷いた。

 

「君のその光のない目からより一層光がなくなってしまったな。では部室に案内するから着いてきたまえ」

 

そう告げた後、席から立ちあがった彼女は職員室の外へと向かっていた。すぐにその後を追いかける。

 実に厄介なことになった。これもある意味で自業自得か。過去の俺を恨むべきか、それとも世界を八つ当たりとして恨んでおくべきか。いや、どちらでもないか。全く、実に度し難い。

 再度口から出てしまったため息は、平塚先生と自分の足音だけが響く廊下では、やけに大きく聞こえて、行き場を見失ってどこかへと消えていった。

 

 

 平塚先生を追いかけることはや数分。渡り廊下を抜けて特別棟へと向かう。ちらりと窓から見える中庭を覗けば、放課後ではあるが未だにチラホラと生徒が見受けられる。

 中庭は我が校において、生徒達の憩いの場だ。俺のような人間には到底縁のない場所ではあるが、彼ら青春を生きる者たちにとっては必須のスポットだろう。蒸し暑い夏だろうと、凍えるような冬であろうとそこに集まっているのだから、恐らく彼らにとってのセーフゾーンなのかもしれない。

 HPとかMPとか回復しているのかもしれないな。もしかしたら俺の精神的なダメージも回復する可能性だってある。すればいいな。

 そんなどうでも良いことを考えていれば、平塚先生が顔だけこちらに振り返る。

 

「着いたぞ」

 

 そう言った平塚先生の前にあるのは何の変哲もない空き教室。つまりここが部室ということだろう。プレートまでないとなると、奉仕部とやらは本当につい最近設立したばかりらしい。

 何も言わず部室であろう教室を観察してる俺に、平塚先生もまた無言のまま教室の扉を開けた。ノックはしてないようだが、部員はいないのだろうか。

 教室の中は空き教室らしく教室の隅には机と椅子が乱雑に積み上げられており、他には何も無い普通の教室。しかしながら、一番最初に目につくのはそこではなかった。

 その何の変哲もない教室の中、それはあまりにも場違いな存在。窓辺の近くで1人読書に耽ける少女。黒髪ロングの見目麗しい少女で、その儚さは場違いな筈なのに、何故かこの教室とマッチしているように感じてしまう。まるで一つの絵画、芸術作品のような光景に思わず嫌気がさす。場違いなのは、俺の方だったかもしれない。

 どうやら彼女は奉仕部とやらの部員のようだ。となると先程のノックの件は平塚先生が単に非常識なだけらしい。

 しかしこの少女、見覚えのある顔だ。どこで見たのだったか。思い出そうと四苦八苦している俺の疑問を他所に少女が口を開けた。

 

「平塚先生。入る時はノックをお願いします」

「すまんすまん。次からは気をつけるよ」

 

 少女は、自身の注意を笑って流す平塚先生に呆れた様子を見せたあと、その視線をちらりとこちらへと向けた。

 

「それで、そちらの覇気のない男は?まさかとは思いますが.........」

「そのまさかだ。彼は田島 実、前に言った新入部員だよ」

 

 どうやら事前に説明があったらしく、彼女は納得したような、しかし嫌そうな顔をして頷く。

 見るからに歓迎はされていないのがよく分かる。事前に聞かされていたとはいえ、男と二人っきりになる可能性があるのは女として嫌だ、ということだろうか。気持ちは分かる。とはいえ、紹介されたのならば名乗らねばなるまい。

 

「ただいま紹介に預かった、2年E組田島 実だ。どうぞよろしく」

 

 仰々しく礼をしながら自己紹介をしてみると、目の前の少女は先程よりも更に嫌そうな顔をしながら平塚先生の方を見る。

 

「.........本気で、この男が?」

「生憎と、私の権限で強制入部に出来そうなのがこの男しかいなくてね。何、彼は問題児ではあるが信頼も信用もできる。少なくとも君が思ってるような事はしない男だ」

「.........あまり信用できませんね、特にその光のない死んだ目が。まるで知性のない犯罪者のように思えます」

 

 こちらの目を見れば、体を抱きしめて身動ぎする。どんなことを思われているか、想像に難くない。しかしながら、俺はこの少女に欲情することなど万が一も有り得ない。主に……いや、女性に対して身体的特徴を揶揄すると殺されるので口には出すのはやめておこう。

 

「だ、そうだ。何かいいたいことはあるかね?」

「……随分信頼がないものですね、ぼくの目は」

「日頃の行いが悪いということだろう。ともあれ、これは決定事項だ雪ノ下。君がなんて言おうが彼はこれから奉仕部員だ」

「.........はぁ、平塚先生がそう仰るのであればこれ以上反対したところで無意味でしょう。分かりました」

 

 雪ノ下と呼ばれた少女は渋々と嫌々に、全くもって納得する気は無いが心底嫌そうにして了承した。

 雪ノ下と聞いてようやく既視感の正体が判明した。この総武高校の二年生の中でも一際目立ち、注目されている少女。首席で入学した彼女が、入学式でスピーチを行っていたのはさすがの俺でも覚えている。

 さらに言えば眉目秀麗と呼ぶべき彼女の事は嫌でも耳に入ってくるのだ。そんな女の話は一年生の頃から二年生の現在に至るまでずっとされていて、あまり噂に興味のない俺ですら聞いたことあるほどだ。

 そんな清楚やら品行方正、質実剛健であり慈愛に満ちたマザーテレサの生まれ変わりと呼ばれていた彼女だが……どうにも聞いていた話とは違う。少なくとも初対面の相手を性犯罪者扱いするような性格ではなかった筈だ。確か優しさの権化だとか、思いやりの極みだとか、そんな話だったか。まあ所詮噂は噂、ということだろう。随分尾ひれやら余計なものが着いているものだ。

 雪ノ下の返答に平塚先生は満足したかのように大き頷く。

 

「そうか。実はこの時期私も暇ではなくてね、後のことは2人で頼んだよ」

 

 そう言い残し平塚先生は白衣を翻し去っていく。

 さして時間は経ってないがそれでも妙な疲労感が身体を支配する。平塚先生との会話は精神的な疲労を感じやすいらしい。

 

「悪いが座っても?」

「どうぞ」

 

 了承を貰えば、近くにあった椅子を適当に掴み取り腰掛ける。

 相変わらず学校でしか使われていないこの手の椅子は座り心地が最悪だ。硬く低く、座っていても疲れが取れるとは到底思えない。こんな椅子で小中合わせて10年は過ごしているのだから、慣れというものは怖い。

 さて、何はともあれ色々と部活について聞く必要があるな。一息つき余裕が出来たのでようやく雪ノ下の方を見据える。

 

「それで、色々聞かせてもらうとしようか。部長殿」

「あら、もう上下関係を理解しているのね。その理解能力の高さには感服するわ。いいでしょう、何が聞きたいのかしら」

 

 先程から思ってはいたが随分と失礼な女だな。こちらとしてもやられっぱなしというのも性にあわないが……ここで目くじらを立てるのは、勘だが不味い気がする。

 今はあくまでも冷静に彼女と接する必要があるだろう。扱いがまるで猛獣と接する時のようだ。感覚的にはネコ科かな。

 

「........まぁそういうことでいい。それで、だ。現状、俺は部活動の名前については平塚先生から聞かされているから知っている。しかし奉仕部、とやらが何を目的に活動するのかは聞かされていない。単なる人助けという訳じゃないのだろう?」

「なぜそう思うのかしら」

「それなら別のネーミングでもいい。お悩み相談部とか他にも色々とあるだろう。しかしわざわざ『奉仕』という単語を選ぶんだからな。それ相応の意味が込められてるとみた」

「それで?」

「そうだな……ただその場を解決するのではなく、その人間の人生の為に救いの手を差し伸べる、正しく文字通りの奉仕の精神。転じて奉仕部。その辺か?」

「……驚いた、意外と頭は回るようね」

 

 本当に驚いたようで、目を丸くした後に微笑んだ。その笑みがあまりにも人の神経を逆撫でするようなものなのだから、ある意味で魔性だな。天性の煽りの才能と言ってもいい。

 

「平塚先生曰く、優れた人間は人を救う義務があるそうよ。自己変革を促し、人の悩みを解決する。要するに私たちはあくまでその悩みの解決にきっかけを与えるのであり、解決するのはその依頼人自身ということ。わかったかしら?」

「なるほど、やはりボランティア───だから奉仕部か。分かりやすくて結構だ」

 

 思わず毒づいてしまう。あまりに俺という人間とはかけ離れた思想だ。俺たちのやり方次第で、依頼人は悩みを解決できるか否か決まる。つまり依頼人の人生の責任を持つ必要があるということになる。俺には他人の今後の人生の責任なんぞ持てん。

 少なくとも堂々と宣言できるこの女と違って、俺は真人間ではない。他者の為に行動するというのは、ひねくれ者の俺にとって雲を掴むより難しい話だった。

だから平塚先生曰くの言葉も、俺には相応しくない。

 

「……しかし、優れた人間か。お前はともかく、俺自身は何か優れているところがあるという自負がある訳じゃ無い。周りからも到底そうは思われていないだろう」

 

 生まれた時から才能と運には恵まれなかった。生まれが悪いとかではなかったが、そういう天命だったのだろうと諦めている。望むのもを得られず、失ってばかりの人生だった。だからこそ俺が誰かより優れているなんて、到底思えないのだ。

 そんな俺の思考とは裏腹に、雪ノ下はこちらを軽蔑するように見てくる。

 

「ふうん、その自覚はあるのね、珍しい。あなたみたいな男は自分が優れているという、小さなプライドがあるものだと思ったのだけれど」

「生憎とプライドなんぞドブ川に落としてしまってな。今や見た目にそぐわない己の矮小さを受け止めるだけの日々だよ」

「見た目以上に暗いのね。軽蔑するわ」

「大いに結構。これが俺という人間だ。勝手にするがいい、変わることも──いや、待てよ。まさかそれが目的か?」

 

 確か『自己変革を促し、悩みを解決する』だったか。確かにその可能性は大いにある。もしそうならば俺は平塚先生に、この部活を通してなにかしら変わることを期待されているのだろうか。

 だが俺にそれを求めるのは酷な話だ。なにしろ、俺のようなひねくれものが変わるにはまだ時間が必要なのだ。

 

「なにか気づいたことでも?」

「いや........少し穿って考えすぎたか。彼女がそこまで考えているとは到底思えん。その場のノリで行動するような人間だろうからな」

「それは否定しないわ」

 

 そう言って少し微笑む雪ノ下。今日初めて笑った気がするな。しかし普段の冷たい表情を考えれば、これは嘲笑と呼んだ方がふさわしいかもしれない。とはいえ、年頃の少女らしい柔らかな笑みは、相手が相手なら勘違いさせてもおかしくはないな。ギャップ萌え、というやつか。

 そんなことを呑気に考えていると、雪ノ下から鋭い視線が飛んできた。

 

「そんなにジロジロ見ないで貰えるかしら。あなたの目でそう長い間見られると、とても不快だわ」

「これから約二年同じ部活でやっていくんだ、これにも慣れてくれ。さもなければ困るのはお前だぞ」

「......到底無理な話ね。きっと私は生涯あなたのその死んだ目を不快に思い続けると思うわ」

「やめろ、面と向かって言うな。死にたくなる」

 

 自覚はしているのだ、自覚は。この女と喋ると、ひたすらにこちらの精神が削られていくのは何故なのだろうか。RPGのように毒沼の中をひたすらに進軍しているわけでもないのだから。

 これ以上この件について喋ってると二度とこの部活に来ようと思えなくなってくる。話を変えるとしよう。

 

「あー......そう、お前は部長なんだろ?」

「あまりそういう意識はしてなかったのだけれど、役職をつけるのであればそうなるわ」

「となると、やはり俺が副部長か?」

「入った順番でならそうなるわね。でも、それを認めるにはあなたは少し風格が足りてないのではないかしら」

「否定はしない。俺なんぞ、見たまんまのどこにでもいる平凡な男だ」

「その目つきはあまり平凡とは言い難いわね」

「黙れ、一々人のコンプレックスを刺激するなと、親から教わらなかったのか?」

「……教わった事などないわ。私は優れているから」

「……そうかよ」

 

 妙な間があったが、話は平行線だな。話にならない。こいつとまともに会話するには余程の器の持ち主じゃないと難しそうだ。

 

「まあいい。話を戻そうか。部として存続するとなるといずれ部員も入ってくるだろう?ならやはり俺は副部長としておくと部活動としても示しがつく。なに、入った順ならば誰も文句は言わない」

「妙に副部長に拘るわね......」

「なんとなくだ」

 

 というのは建前だ。

 今後なにか面倒な事がある時に、部長が誰か決めておけば責任逃れが出来るからな。対等な関係より上下関係がしっかりある方が楽な時がある。この女は見た目通り責任感は強そうだからな。そういう責任逃れができる余地を残しつつ、副部長という肩書きを振りかざすのも悪くはないだろう。肩書きを持つことによって増える多少のデメリットは必要経費と考えるしないが。

 

「まあ、別になんでもいいわ。そもそも、私の一存で決められる訳でもないし、あなたよりも私が全て上なのは間違いないのだから」

「そうか、最後の言葉は聞かなかったことにしてやる。そういう訳でこれから約2年間よろしくお願いしようか?雪ノ下部長殿」

 

 そう言って立ち上がり、握手を求める。しかし冷酷無慈悲な鉄の女、雪ノ下雪乃は、ピシャリと俺の友好の印を跳ね除けこう続ける。

 

「ええ。本当は全く宜しくなんてしたくはないのだけれどね。でもね田島くん。私は部長として、あなたを歓迎する責務があるもの。だからあなたを歓迎するわ」

「……歓迎の気持ちがあるなら、少しはその冷笑に温かみでも持たせてくれ」

「お生憎様、これが精一杯なの。ごめんなさいね?」

「……そうかい」

 

 そう言って立ち上がって見上げながらも、間違いなく俺を見下す雪ノ下は、本日2度目の微笑みを見せる。しかしその目は全く笑っておらず、嘲りすら感じるほどには冷ややかなものである。

 彼女の堂々とした姿に、俺はそんな短い返答しか出来ず、跳ね除けられた手をさすることしか出来ないのが情けない。

 これからこの女と部活動をしなければならないと考えると、酷く憂鬱でしかなかった。

 

 

 

 

 

 




時系列的には比企谷奉仕部入部前で、時期は四月半ばから下旬頃を想定しています。


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二話 本当の始まり

コーヒーは良い
この黒が心を落ち着けてくれる


 あれから奉仕部として、この一週間ほど放課後を過ごすことになったが、驚く程に部活動としてやることはなかった。

 何しろろくに依頼というものが来ないのだ。

 しかしそれも当然のことだろう。『奉仕部』等という怪しい部活に、誰が好き好んで自分の悩み事や困り事を相談しに来るのだろうか。余程の好き者か阿呆じゃない限りは相談しようとすら思わないだろう。

 そもそも、この部活、公式のものかどうかも疑わしい。部活動とはそんな簡単に設立できるものなのだろうか。平塚先生の独断でやっている部活の可能性も高いだろうな。

 とはいえ仮にも部と銘打っている以上、放課後は部室で過ごさなければならない。しかし前述の通り暇なので、読書ぐらいしかやることもない。全くもって無駄な日々を過ごしていると言っていい。なのだが、部員になった以上は行かねばならない。

 渋々ながらも俺は教室を出て特別棟を目指した。

 教室棟の外れ、特別棟にある元空き教室である我が奉仕部は相も変わらずそこまで行くのに少し時間がかかる。およそ人の喧騒というものが聞こえなくなり、己の足音だけが廊下に響き始めたところで、部室の扉が目に入ってくる。

 立地としては中々どうして静かで悪くはないのだが、静かさを求めるならば街の雰囲気の良い喫茶店でも行けばいい。

 部室にそれを求めること自体が見当違いというものだろう。

 部室の戸を開けると、相変わらず乱雑に積み上げられた机や椅子が目に映る。

 せっかく部活動として始まったのだから、内装ぐらい多少はらしくしようということで導入した折りたたみの長机ではこの部室の主雪ノ下雪乃が、相変わらずの無愛想で読書に勤しんでいた。

 

「こんにちは」

「ああ……こんにちは」

 

 彼女の挨拶に対して、本当はもっと適当に返してやりたいのだが、以前『ああ……』だけで済ませたら手酷く罵詈雑言を飛ばされた。

 やれ『ヒトの形をしているだけで文化レベルは猿以下』だの『挨拶という高度な文化は類人猿未満のあなたには不可能だったかしら』だの『知的なコミュニケーションをこれから一緒に学んでいきましょうね』だのよくもまあそこまでの罵倒のバリエーションが出てくる。確か最終的にはプランクトンまで格下げされたはずだ。

 ただ罵られるだけなら全くもって問題ないのだが、哀れみを持たれ始めたあたりからさすがの俺も折れた。普通に辛かった。

 嘆息したあと鞄を置いて、一度席から離れる。

 

「お前も飲むか?」

「いいえ、いらないわ」

「そうか」

 

 一応雪ノ下に確認したあと、インスタントコーヒーの蓋を開ける。

 以前部室に来た時にコーヒー缶をたかだか三本程度飲み干したぐらいで雪ノ下に文句を言われた時があった。その時にそんなに飲みたいのなら、缶コーヒーはゴミになるから自分で作れ、と妙に憤慨しながら言われたのでそれ以来自分でこうして作っている。

 とはいえ雪ノ下の言う事にも一理あった。確かにその手があったか、と俺自身もそう思ったものだ。なのでとりあえずポットとインスタントコーヒー、それとマグカップは自分で持ってきた。雪ノ下が何やら頭に手を当てて唸っていたが、気にすることではないだろう。

 今回持ってきたインスタントコーヒーは深煎りかつフリーズドライ製法のものだ。

 コーヒーというのは時間が経つ事に不味くなる。本来のコクや旨み、苦味だけではなく、あとから出てくる酸味すらも全て劣化していくのだ。それもあって基本的にコーヒーは挽きたてかつ入れたてが一番美味い。しかしながら誰しもがいつでもそんな状態のコーヒーを飲むだけの余裕と設備があるわけじゃない。

 そんな悩みを解決しようと偉大なる先人たちが多くの試行錯誤を重ねて生みだしたのが、このフリーズドライ製法というもの。一瞬で凍らせたコーヒー液を砕き乾燥させたもので、味や香りが出来うる限り再現されている。なので少し値段が張るのだが、不味いコーヒーを飲むよりはマシだ。もちろん出来たてのコーヒー程は美味くない。とはいえ缶コーヒーを馬鹿みたいに毎日買って飲むよりは余程健全と言えよう。

 

「……本当に好きなのね」

「中毒だからな」

 

 雪ノ下が呆れるようにこちらを見てくるが無視だ無視。いずれは本格的なドリッパーやサーバー等を持ってこようと考えている。その時の雪ノ下の反応が楽しみだ。

 

「ああ、そうだ雪ノ下。お前、平塚先生からあの話を聞いているか?」

 

 コーヒーを飲み、ようやく一息ついたところで雪ノ下に話をもちかける。

 雪ノ下は文庫本から顔を上げ、不思議そうにこちらを見る。

 

「聞いているって、何を?」

「いや、俺自身もよく分かってはいないが……なんでも入部希望者がいるそうだ」

「いいえ、聞いた事ないわね。なんて言われたの?」

「今朝のことだ」

 

 

 今朝いつも通り登校した俺に、偶然廊下で顔を合わせた平塚先生が話しかけてきたのだ。

 

『やあ、おはよう。相変わらず早いな』

『早起きが趣味みたいなところがありますから』

『うむ、それは良い事だ。そういえば近々入部希望者を連れていくからよろしく頼んだ』

『は?』

 

 その後平塚先生は言うだけ言って、白衣を翻し去っていた。

 

 

「相変わらず勝手ね……」

「それには同意しよう」

 

 雪ノ下はそう言うと文庫本に再び目を落とす。俺もコーヒーに口をつける。俺と雪ノ下の関係性はこの程度のもので、奉仕部に入部したあの時から毛ほども進展していない。会話も罵詈雑言が飛び交う時以外は、二言三言程度で終わる。それで言うと今回はまだ長く続いた方だ。

 副部長、部長。普通であれば多少は仲良くなるものなのだろうが、俺と雪ノ下にかかればこんなものだ。とはいえ男女の関係性の現実という点で見ればこれほど的確に表しているものは無い。とかく男子高校生というものは夢見がちだが、やはり理想は理想なのだ。小説のような出会いなどは起こりえない。

 いや、そう断じてしまうのは早計か。事実は小説よりも奇なりとも言う。何より自分自身がよく知っている。

 

「どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

「……そう」

 

 思わず込み上げた気持ち悪さを消すために、コーヒーに口をつける。少し冷めてしまって温いコーヒーはすこぶるにマズイが、今の自分にはこれぐらいがちょうど良かった。

 窓からは夕陽が差し込み、心地の良い風が吹き込みカーテンを揺らす。あと一時間もすれば部活も終了だろう。

 コーヒーの味に顔を顰めながら一気に飲み干すと同時に、からりと部室の戸が開いた。

 そちらを向けば、平塚先生とまるで死んだ魚のような目をした、一言で言うなれば腐った目をした男が立っていた。彼は何を見ているのかは分からないが、主に視線を雪ノ下の方に向け固まっている。ボーッとまるで何かに見とれるように彼は立っていた。

 

「平塚先生。入る時はノックを、とお願いしたはずですが」

「ノックをしても君は返事をした試しがないじゃないか」

「それは先生がぼくたちが返事をする前に入って来るからでしょう」

 

 思わず俺も不満を漏らす。この平塚静という女性はなんというかガサツだ。ノックをすると同時に扉を開けるのでノックの意味を成していない。そのせいで不満を貯める雪ノ下が俺に八つ当たりをしてくるのだ。『あなたの時もそうだったわ』だとかなんとか。鬱陶しいからやめて欲しい。どちらも。

 

「それで、そのぬぼーっとした人は?」

 

 雪ノ下の罵倒の応酬を思い出して辟易としていると、彼女の冷たいその瞳が平塚先生が連れてきた男子生徒へと向く。その瞳を避けるように男子生徒はすこしばかり傷ついた、そんな表情をしながら斜め上の方を見ていた。

 

「田島から聞いていないか?」

「一応は聞いていますが、あまり詳しくは知りません」

「彼は比企谷。入部希望者だ」

 

 平塚先生に促されるように、比企谷と呼ばれた男は会釈をし、自己紹介を始めた。

 

「二年F組比企谷八幡です。えーっと、おい。入部ってなんだよ」

 

 彼は驚いたような釈然としないような。そんな顔でそう言うのだった。彼も、俺と同じ境遇な気がしてきたな。哀れだが諦めろ、平塚先生が入部希望と言ったらもうそれは決定事項なのだ。

 俺は比企谷八幡に憐憫の念を送りながら、彼の為にせめてコーヒー位は入れてやろうと思うのだった。

 




私はコーヒーのブラックが飲めないにわかです。


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三話 人と話す時は目を見て話せ

読心術なんで仰々しい名前だが、実際そこまで便利なものじゃない。
ちょっとした癖、些細な目のゆらぎ。
それをみて他人の心理を予想する。
合ってないことの方が多いんだ。
エスパーじゃあるまいし、他人の気持ちなんて分からないものさ。


 その後いくつか雪ノ下比企谷、平塚先生との間で会話がなされた後平塚先生は俺と雪ノ下に任せると言って去っていった。半ば雪ノ下が折れるという形ではあったが。事実本人も未だに少しばかり不服そうに眉をひそめていた。

 

「とりあえず座るといい」

「あ、はい」

 

 比企谷が席に着く。今の席順は比企谷を机を挟んだ向いに雪ノ下と少し距離を離して俺がいるという形になる。

 

「コーヒーは飲めるか?」

「あんま苦いのは好きじゃない」

「そうか、砂糖はお好みでどうぞ」

 

 彼の前に紙コップに入ったコーヒーを置く。生憎と来客用のカップはまだ用意してない。用意しても洗うのが面倒だからやる気もないが。

 比企谷は幾つかの砂糖を……結構入れるな。あれじゃ風味が台無しだ。

 その後、コーヒーに口をつけるが、キョロキョロとあちらこちらを見て、なにか口を開こうとして諦める。落ち着きがなく、忙しない。時折独り言をボソボソと呟いては少し気持ちの悪い笑みを浮かべる。

 対照的に雪ノ下は比企谷に興味がないのか文庫本から目を離さず、ペラペラと頁をめくる音だけが部室には響く。ただ時折、チラリと目線だけを比企谷の方に向けている。声をかけることはないようだが。この女に社交性を期待するだけ無駄か。

 

「雪ノ下、さっきの様子を見るからにどうやらコイツは平塚先生からあまり話を聞いていないらしいぞ」

「……そうみたいね」

「そうだよ、そもそもここは何部なんだよ」

 

 俺たちが会話を始めると、比企谷もそう辟易とした表情ながらも乗ってくる。どうやら本当に何一つ説明を受けていないようだ。平塚先生も少しは考えて欲しいものだが、期待するだけ無駄だろう。

 とはいえ、このままだと雪ノ下が比企谷に対して何らかの失礼な言葉を投げかけるのが容易に想像できる。雪ノ下は男嫌いの毛があるようだからな。ここは一肌脱いでやろう。

 

「ふむ……そうだな、ここは一つお前の人となりを把握する為にもちょっとした催しをしよう」

「催し?」

 

 雪ノ下が不思議そうにこちらを見る。面倒そうならすぐにでもやめさせると言わんばかりの目だった。

 

「まあ見てろ、お前に迷惑はかけない」

「なら勝手にして頂戴」

 

 そう言って再び文庫本に目を落とす。

 しかし先程から雪ノ下は比企谷の事を妙に気にしているそぶりを見せている。それは興味から来るものなのだろうか。しかし、少し違うか。

 現状それを推し量るには俺はまだ雪ノ下のことも比企谷のことも知らない。もしかして俺の知らないところで、この二人が知り合っていたとしても何らおかしい事は無いのだ。

 そう結論づけて、俺は比企谷へと向き直る。

 

「さて、比企谷八幡くんで良かったかな」

「え?ああ……そうだけど……てかなんだよこれ」

「何って……面接だが?」

「なんでだよ」

「まあ良いじゃあないか。別になんでも」

「良くねぇよ」

「はあ……一から十まで伝えなければならないのか?面倒くさい男め」

「え、俺が悪いの?」

「なんでもいいから早く始めなさい」

 

 興味がないような振りをしながら先を促す辺りやはり興味があるな。度し難い女め。

 

「俺は今からいくつか、君に質問をする。それを正直に答えるだけでいい」

「はあ……」

 

 人となりを把握するのが一番楽な方法は適当に質問をすることだ。そうなると面接形式が好ましい。面接という状況は、事前に告知をしなければその人間の癖や性格、普段からしている態度などが大なり小なりでるものだ。それを見てやろう。

 

「まずは自己紹介をしようか。俺の名前は田島実。この『奉仕部』の副部長をやっている。見たまんまどこにでもいる凡庸な男だ。そして隣の無愛想な女は部長の雪ノ下雪乃。見ての通り無愛想かつ協調性、社交性、あとは他人に対する思いやりに欠ける等、多くの人間的欠陥を持つやたらと見た目だけは良い女だが……」

「どうやら私に喧嘩を売りたいだけのようね。いいわ、買ってあげる」

 

 おっとさっきまで心地の良い風が吹き込んでいた筈だがやけに寒気がするな。自業自得か。さっさと謝罪しよう。比企谷が目に見えて恐怖している事だからな。

 

「待て、俺の負けだ。悪かった、謝ろう。だからそのまま大人しく文庫本を読んでいてくれ」

「謝り方がまだ上から目線ね」

「すみません」

「……続けなさい」

 

 雪ノ下はそれだけ言って文庫本をめくった。俺もようやく強ばった背筋を元に戻す。殺されるかと思った。雪ノ下を言葉で殴るのはやはり加減が必要だ。もう少しその辺を見極めてからコイツの心を折ることにしよう。そうしよう。俺も命が惜しい。

 

「こうやって実践して見せたが、あまり部長には逆らわないようにな。さて、気を取り直して続けよう」

「まだやるのか……」

 

 さっきの様子を見て尻込みしてしまったらしい。しかしここでやめては俺が醜態を晒しただけだからな。挽回するという訳じゃないが、少なくともこの男がどんな男なのかくらいは見る必要がある。具体的に言えば、雪ノ下の罵詈雑言の矛先を向けられる男かどうか、だ。

 座り心地の悪い椅子に改めて座り直し、俺は比企谷に目線を合わせる。ズレた。目線を合わせる。逸らされた。コイツ、人と目を合わせられないタイプか。

 ため息を着いたあと、俺は面接もどきを再開する。

 

「そうだな……趣味は?」

「読書」

「休日は何をして過ごしているんだ?」

「色々だな、読書したり、アニメ見たり」

「なるほど、普段から遊ぶような友達はいないと」

「なんでそうなるんだよ……だいたいな、俺は群れない主義なんだ。親しい友人を作ると人間的強度が下がる」

「単純にコミュニケーション能力が低いだけではなくて?」

「お前なぁ……」

 

 雪ノ下だけには言われたくないだろう。少なくともニヒルを気取った笑い方をするが、質問に受け答えがしっかりできている比企谷の方がマシだ。

 

「それで、比企谷はどうして奉仕部に入ろうと思ったんだ?」

「どうもこうも、平塚先生に無理やり入れられたんだ。なんなら今すぐにでも退部したいぐらいだ」

「それは諦めろ」

 

 比企谷の入部原因は予想通りものだった。ならばどうしてこんな胡散臭い部活動に、部活内容どころか部活名まで知らないまま来ることになったという疑問が残る。俺の時は少なからず名前は教えてくれたのだから。

 とはいえ予想はできる。

 

「で、何をやらかしたんだ?」

「なんでやらかした前提なんですかね」

「望んで入部希望した訳じゃないんだろう?ならそれしかない」

「そ、それ以外にもあるかもしれないだろ」

「ほう……例えば?」

「……い、いやそういやまだこの部活が何をするのか聞いてないぞ!」

「流したな、まあいいだろう」

 

 これはあくまで面接もどき、この男の人となりを理解する為だけのもの。馬鹿正直に答えなくたっていいのである。そしてこの男が何かをやって、平塚先生の怒りを買ったことは理解出来た。入部する時の状況が俺とは少し違うようだ。

 しかし平塚先生を怒らせること自体は容易だからなあ。年齢だとか未婚辺りを弄ればすぐだ。目に見えた地雷に引っかかるほど俺は愚かではないが、この目の前の男は愚かだった、というわけだろう。

 

「何をする部活か……そうだな。質問に質問で申し訳ないが、逆にお前は何をする部活だと思う?」

「そうだな……」

 

 そう言って少し考える素振りを見せる比企谷だったが、少し鼻の下が伸びた。彼も健全な男子高校生だ。名前のニュアンスからそれを考えつくのは仕方のない話ではある。俺は見逃そう。

 

「何を考えているの?気持ち悪い。こっちを見ないでもらえるかしら」

「ご、誤解だ!」

 

 しかし雪ノ下が見逃すかな。俺とは違ってその辺理解がないからな。ああやって軽蔑の視線が飛んでくる。

 

「……もしかしてあなたもそう考えていたの?」

「……いや?」

「なんの間かしら、疑わしいわね」

 

 もれなくもう一本俺にも飛んでくる。アタリが出たらしい。運が良いな。女はこういう時に勘が良くて困る。俺は話を逸らすために、口を開く。

 

「……ともかくだ。奉仕部の活動は一言で言えば──」

「ストップ。田島くん、交代よ。その答えは私が言うわ」

「あん?そうだな」

 

 比企谷の人となりはだいぶ理解した。平塚先生の言っていた孤独体質というのもこの様子じゃ事実なのだろう。

 現状の評価は少し笑い方が気持ちの悪い、一般男子高校生と言ったところだろうか。もう少し人となりを引き出したいところではあったが、部長の要請ならば仕方がない。

 

「まあ……構わんよ。大体は把握したからな」

「そう、なら聞くのだけれど」

 

 了承すると雪ノ下は文庫本をパタリと閉じ、机の上に置いて比企谷に向き合った。

 

「比企谷くん。女子と話すのは何年ぶり?」

 

 なんの脈絡もなく随分と失礼な質問が彼女の口から飛び出した。ついでに俺の気遣いは吹き飛んだ。

 予想はしていた。この女が比企谷という人間を見下さないわけがないと。俺が言えたことでは無いが、比企谷の方も大概ひねくれ者のようだからな、きっと売り言葉に買い言葉だ。これから始まるのは見るに堪えない屁理屈罵倒大会に違いない。

 そう思って比企谷の方を見れば、何か嫌な過去でも思い出したのか顔が死んでいる。腐った目がより酷いことになっているな。

 

「持つ者が持たざる者に慈悲の心持ってこれを与える。人はそれをボランティアと呼ぶの。途上国にはODAを、ホームレスには炊き出しを、モテない男子には女子との会話を。困っている人に救いの手を差し伸べる。それがこの部の活動よ」

 

 なんだか随分と立派な言葉で飾り立て、遠回しに比企谷をモテない男子扱いしながら、雪ノ下はゆっくりと立ち上がる。自然とその視線は比企谷を見下すものへと変わった。

 

「ようこそ、奉仕部へ。歓迎するわ」

 

 俺の時と同じように、いやそれ以上に歓迎の意思がないと言わんばかりの目で、我らが部長氷の女雪ノ下雪乃は憐れな一般男子である比企谷を見つめるのだった。

 




以降の流れは原作通りかつ主人公の入る余地がないのでカットです。次回は由比ヶ浜の依頼か、その前になんか挟もうかなぐらいの予定です。
面接のに単語を打つだけで心が死んでいく。そんな心境。


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四話 日頃の行いが悪い

俺は生まれつき運が悪い。
悪運もない。
だからこそ、あんな事態になったんだろう。


「やあ、田島」

「こんにちは、平塚先生」

 

 昼休み、とある理由で部室に向かおうとする俺の前に平塚先生が現れた。別に嫌がっているわけじゃない。

 平塚先生はどうやら一服してきたようでほのかに煙草の香りが漂っている。喫煙者だというのに白衣はヤニで黄ばんでいないので吸う時は脱ぐようにしてるのか、あるいはしっかりと洗濯をしているのか。家庭的なイメージがないから恐らく前者だろう。

 

「それで、ぼくに何か用ですか?」

「なんだ、用がなきゃ声をかけちゃいかんのかね?」

「そういう訳ではありませんが……」

「ならいいじゃないか、少し話そう」

 

 時折平塚先生は面倒くさい女の片鱗をだす。面倒くさいことこの上ないが、この際にそれを顔に出すだけではなく、これだから結婚できないんだ、なんて考えた暁には──

 

「なにか失礼なことを考えていないかね?」

「気の所為でしょう」

 

 このようにエスパーが如く察してくる。未婚者にこうした弄りは禁物ということだな。

 

「そうか、気のせいじゃないと思うんだがなぁ……まあいい、話をしたいというのはもちろんあるが、なにより奉仕部のことを聞きたくてな」

「奉仕部の?とはいえ、あれからそう進展はありませんよ。変わらず依頼人も来ていませんから」

 

 比企谷がやってきた日から少し経ったが、相変わらずこの部活は暇だった。面倒だが広報活動をするべきなのかもしれない、と思うほどには暇だっだ。とはいえ依頼人を手引きするのは平塚先生の役割だろうから、あまり意味はないのかもしれない。

 

「そうだろうな、比企谷と雪ノ下の様子はどうだ?」

「ああ……アイツらもさほど変わりはありません。勝負事を取り付けた時のように、変わらず屁理屈と罵倒が行き交う愉快な部活ですね」

 

 実は、あの後雪ノ下と比企谷の間に、平塚先生によってとある勝負事が取り付けられた。内容は依頼をより多く達成した方の勝ち。勝者には敗者へなんでも命令する権利が与えられるというものだ。

 

「そうか……君には監督役としての仕事を期待しているよ」

「監督役ですか」

 

 そう、勝負をするのは比企谷と雪ノ下のふたりで、当の俺の役割はと言うと、彼らの勝負の際の監視役だ。なにか話がそれたり、拗れたりした際に仕事をすればいいらしい。

 

「それとそろそろ依頼人を連れていくとしよう。楽しみにしておきたまえ」

「はあ……そうですか」

 

 暇なのは嫌だが、依頼人が来ると言われると、それはそれで嫌だな。もはや放課後ただコーヒーを飲みながら読書をする謎の部活と化していたのだから、仕方ないとは思うが。

 

「よし、時間を取らせたな。急いでいるようだし、行ってもいいぞ」

「失礼します」

 

 ぺこりと軽く頭を下げ、足早に部室へと向かう。昼休みは長いようで短い。普段使う教室棟から、特別棟へはそれなりに時間がかかるのだ。

 渡り廊下を超え、特別棟に着く。そのまま奥の方まで進めば奉仕部の部室が見えた。

 扉に手をかけて、開けようとした。さて、ここで俺はすっかり失念していたのだが、よく良く考えれば奉仕部の部室はしっかりと俺が鍵を閉めている。つまるところ昼休みは鍵を持ってこないと部室に入れないのだ。

 とはいえ手をかけてしまったので、一縷の望みをかけて扉をスライドさせる。しかし扉は途中で引っかかることもなく、カラカラとキャスターの滑る音が鳴りながら開いた。つまるところこの部室には誰かがいるということであり、それはすぐに分かることでもあった。

 

「……入るならノックをしなさい」

「……いや、まさかいるとは思ってなかった、悪いな」

 

 この冷たい声の主は雪ノ下だった。弁当を机に置いている様子から察するに、彼女は普段からここで昼食を取っているらしい。なんということだ。思わず顔を手で覆ってしまう。

 

「なにか部室に用でも?」

「あー……まあ、あった」

「どういうこと?」

「つまるところ今なくなった。悪かった、邪魔をしたな」

「……よく分からないけれど、ならさっさと帰りなさい」

「ああ……うん、そうだな。また放課後」

「……ええ、また」

 

 そう言って、俺は部室の戸を閉めた。それと同時に大きなため息を着く。まいったな。計画が頓挫した。

 何を隠そう俺は、この特別棟にあり生徒の喧騒とは程遠い部室でコーヒーを飲みながら有意義に昼食をとろうと思ったのだ。しかし雪ノ下がいることによってその計画は破綻した。つまり、ここまで態々足を運び、平塚先生の相手をしたのが徒労に終わったということだ。

 まさか雪ノ下も同じ考えだったとは。コーヒーを飲むという点は違うだろうが。

 

「はあ……仕方がない。教室で食うか」

 

 俺は帰りがけに自販機で、缶コーヒーを買い、どうにも落ちた気分をあげることが出来ずとぼとぼと教室に帰るのであった。

 

 そして翌日、今日も放課後になり部室に向かう。もはや奉仕部の道のりも慣れたもので、行きがけに缶コーヒーのゴミを捨てていくこともお手の物だ。それはどうでもいいか。

 部室の戸を開け、いつも通り雪ノ下に挨拶をしようとしたが、部室の中にはまだ誰もいなかった。部室が空いているということは一度誰か来たのは間違いないのだか、何か用事でもあったのだろうか。なんにせよ──

 

「珍しいこともあるもんだ」

 

 思わずそう呟いてしまうくらいには珍しい事だった。雪ノ下はHRが終わるのが早いのかなんなのか、大体一番先に部室にいてそこの長机の先端に座り、ムスッとした顔で文庫本を読んでいる。俺が奉仕部に入ってからさほど期間は経っていないが、それでも見慣れた光景だったものだから些か落ち着かない。

 この奉仕部というのは雪ノ下あってのものなのだろうと、なんとなくそう思った。俺だけがいても妙に浮いているというか、なんとも言い表せない感覚だった。

 俺はいつもの定位置に置かれている椅子にカバンを横に置き、持ってきたペットボトルの飲料水をポットの中に入れる。そろそろポットは洗った方がいいな。水垢が目立つのは嫌だからな。

 ポットで湯を沸かしている間に、積み重ねられている机をひとつ拝借し適当なところに置く。そしてカバンから書類の入ったケースを取り出し机の上に置いた。

 雪ノ下と比企谷の勝負を取り決めた際に勝敗は独断と偏見で平塚先生が決めると言っていたが、いくら独断と偏見で決めると言っても、どんな依頼をやったのかくらいは平塚先生も把握した方が良いと考え、俺はとあるものを用意した。

 それがこれ、奉仕部活動記録書。

 簡単に言えば依頼内容の要旨だ。やってくる依頼人は昨日の平塚先生の発言から考えても、おそらく彼女の手引きによって連れてこられるのだろう。だからある程度は平塚先生も依頼内容を把握してるハズだ。しかし彼女の見ていない所で突然依頼内容が変わる可能性もある。そのためにこれを用意した。

 まあ理由はもうひとつあるのだが、それは別にいいだろう。

 使い方としては、基本的には俺が依頼人の話を聞きそれを可能な限り客観的に記入をする。

 あるいは依頼人自身に書いてもらうこともあるかもしれない。男の俺では話せないようなもの、情事とかあるいは恋愛の話だとか色々あるだろうが、そういった内容の依頼が来た時には本人に記入して貰う必要があるだろう。

 書かれたものは別個ファイリングしていく予定だ。それ用のファイルも用意している。

 ともあれ、今後そのようなことがあるかもしれないと思い立ったので、吉日とばかりに徹夜して用意したのだ。

 

「とはいえ……くぁ……」

 

 小さくはないあくびが出る。流石に眠いな。コーヒーのカフェインで誤魔化していた眠気が今急に襲ってきた。

 流石に思いつきが過ぎたような気もする。どうせ依頼人なんぞそうすぐ来る訳でもなければ、大勢の依頼人がバカバカ来る訳でもなし。

 一時の思いつきというのは怖い。何故かそれがベストアイデアに見えるし、それを行う事こそが未来の自分をより良くすると錯覚してしまうのだ。大体はそれが徒労に終わるが。今回のこれもそれに当てはまる気がする。

 どっと日頃の疲れが湧いてきた。疲労と眠気と、窓から吹き込む風、太陽の暖かな日差し、それにお湯がポコポコと沸騰する音がよりいっそう眠気を誘った。

 暇つぶしようにいくつか文庫本を持ってきたし、なんならもう既に手にしているが、もういっその事寝てしまおうか。そうしよう。どうせ読書は好きではないのだから。仮に寝た時に本が手から落ちたとて大したことじゃない。雪ノ下に少しばかり、いやかなり小言を言われるくらいだろうが、もう慣れたものだ。

 そう決めたならば、俺は睡魔に従って瞼を閉じる。次第に体全体がポカポカと暖まっていく。やがてふわふわと意識が揺れ始め、徐々に徐々に俺の意識は闇に飲まれていった。

 

◇*◇

 

 コンコン、と奉仕部の戸が小さくノックされる。しかし返事はなく、来訪者は再び、しかし今度は先程よりも強くノックをした。変わらず返事はない。カラカラと奉仕部の戸が開けは、恐る恐ると言った様子で一人の少女が入ってきた。

 それは茶髪で少し派手目な少女だった。

 

「し、失礼しまーす!」

 

 まるで誰かにここにいることを知られることを嫌がるかのように、少女は滑り込むようにして奉仕部へと入ってくる。しばらく目をつぶり返事を待つが、しばらくしても返ってこない。そして彼女は意を決して目を開く。

 

「あれ誰もいな……うぇっ!?」

 

 そんな彼女の眼前に広がるのは、腕を枕のようにして机にもたれ掛かる男子生徒だった。言わずもがな奉仕部副部長たる田島 実その人なのだが、もちろん少女はそんなことは知る由もない。

 さて、目の絵の光景を説明すると、男の手から零れ床に落ちているのは文庫本で、半開きのそれはどうやら先程まで読んでいたように思える。まるでさっきまで読書をしていたが突然気を失った、そんな状況だ。それに男は妙に血色が悪く、言ってしまえば死体のようだった。

 とはいえそれはあくまで状況だけを見れば、だが。こうなったのは田島が本を机に置く気力がなく横着してそのまま寝た結果だし、よく見ればしっかりと彼は寝息を立て、体を小さく上下させているのが分かるだろう。血色が悪いのは弁護のしようがないが、これは単純に寝不足から来る体調不良によるものだ。彼のことをよく知り、そうでなくても少し考えれば分かることだ。

 しかしまあ……この少女、名を由比ヶ浜結衣というのだが、彼女は、あまり頭が良くない。注意力も散漫だ。そんな少女がこの状況を見てどう思うだろうか。

 

「し、死んでるううう!?」

 

 そりゃあもちろん、勘違いしてしまうこと請け合いだろう。

 

 




比企谷は原作通り平塚先生と会話、それが少し長くなって、雪ノ下はクラスでやることがあって、そんな理由で二人とも部活に来るのが遅れています。
その結果がこれです。


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五話 神は死んだ

眠ると夢を見る。
だからあまり眠りたくない。


 寒い冬の日。俺はいつものように待ち合わせ場所に来ていた。中学を卒業し、今は少しだけ長めの春休みだ。

 四月から高校生になる俺は、久方ぶりに来る亡くなった婆さんの家に行くことになった。それをあの子に話したら「私も行く」なんて言うもんだから仕方なく、こんな寒い日にいつもの公園で待つ事になった。この公園は駅前近くにあるみんなの憩いの場。近くには大学があるから、今日もチラホラと街を行き交う人々が見受けられる。

 先程自販機で買ったホットの缶コーヒーを手で転がしながら彼女を待つ。今日が最後の寒波らしく、明日から春らしい暖かな陽気がやってくるって話だが、本当かどうか疑わしいな。確か今日は確か雪が降るそうだ。

 

「ごめんね〜お待たせ」

 

 タッタッタッと、トレードマークのツインテールを揺らし彼女はやってきた。

 

「いいや、今来たところだ……と返したいけど。さすがに寒いからな。さっさと行こう」

「ほんと、ごめんね」

「いいよ、気にしないでくれ。実際そんなに時間は経ってないから」

 

 かなり申し訳なさそうに、しかしかなり急いできたようで、荒い呼吸で白い息を吐く。深呼吸をすると肺に入る空気に思わず「冷たーい」と彼女は笑う。

 そして俺達は、足を踏み出し─────場面が変わった。横断歩道のど真ん中で尻もちを着いて、やけに周囲の人々が騒がしい。生暖かい感触が手に伝わった。片目が少し痛む。そして、その痛みで気づいた。

 ────なるほどこれは夢か。

 

 

 全く我ながら最悪の夢見心地だな。

 俺が大きくため息を着きながらのそりと起き上がると同時の事だった。

 

「はぁ!?ビッチって何よ!」

 

 キンキンとした高さの知らない女の声が耳に入ってくる。

 

「だいたい、あたしはまだ処───」

「それ以上言うな。はしたない」

 

 あまりの下品さに思わず反応してしまった。何がどうなってこんな会話になったのだろうか。疑問はつきないが、それは置いておき声の主の女子生徒に目を向ける。セミボブの茶髪を上にお団子で纏めた少し派手目な現代風の所謂ギャルと言った容姿をしている少女。察するに奉仕部の依頼人なのだろう。まさか本当に依頼人が来るとは、居眠りをしたのは失敗だったか。

 そんな依頼人(仮)は顔を真っ赤にして俺の言葉に反論してくる。

 

「今のは勢いで言いそうになっただけで、そんなこと言うつもりないし!ってかホントに生きてる!?」

「……ああ?勝手に死んだことにしないでもらおうか」

 

 何を見て死体扱いされるのか。また疑問が増える。

 

「お前の寝方が悪いんだよ。俺だって一瞬マジで死体かと思ったぞ」

「そうそう、本当に死んじゃってるのかと思った!」

「こうやって勘違いした由比ヶ浜が騒いだせいで雪ノ下もお冠だぞ」

 

 まさか寝ていただけなのに死体か何かだと思われていたとは。そんなに寝方が悪いのか。今度寝ているところにカメラでも仕掛けてみるか。

 しかしやけに雪ノ下から視線を感じるわけだ。納得した。現実逃避がしたい。さりとて自業自得、さてどう言い訳をしたものか。

 

「そう……ようやく起きたのね?」

「待て、話を聞け。これにはやむにやまれぬ深い訳がある」

「いいでしょう、聞いてあげるわ」

 

 返答次第で殺す、と視線で伝えられたような気がするな。

 

「まあ、真相はただの寝不足から来る睡魔なのだが」

「最初から理由が終わってんじゃねぇか」

「遺言はそれだけ?」

「待て、ここからだ。実の所、俺は奉仕部が正式な部活動かどうか疑っている節がある」

 

 そう、以前奉仕部は平塚先生の独断で部と銘打っているだけで正式な部活ではないのでは、という疑問。それをこの前平塚先生が新しい依頼人を連れてくる、と言った夜に再び思い出したのだ。

 正式な部活ならもっと大々的に宣伝すればいいのにしていない、仮にしていたとしても依頼人が来ない。もちろん大量に来るとは思ってはいないが、奉仕部の部長は学校中から注目を集めている雪ノ下雪乃である。冷やかし、面白半分で人が幾人かきてもおかしくはないはずだ。

 もしくはそれを考慮して平塚先生を一度通し、彼女の方で依頼人の選別を行っている可能性も無くはないが、ああ見えて生徒指導を担当しているので意外と多忙なのである。

 基本生徒たちの悩みや相談を平塚先生が聞いてから連れてきているそうだ。

 他にも奉仕部設立の人数や、そもそもの設立理由等様々な謎がある。

 そういった所を考えても『奉仕部』という部活は普通の部活ではない。

 以上のことを掻い摘んで説明すると、雪ノ下は顎に手を当てて考え込む。依頼人の女子生徒は間抜けな顔をして俺の説明を聞いていた。

 

「……それで、それがあなたの寝不足と何が関係があるのかしら?」

「実態が不明の部活だ。そこをつつかれて面倒なことになった時用に、活動実績くらいはデータとして残しておくべきだと思ってな──んぐぁっ……」

 

 と言って席を立つ。変な体勢で寝てたらしく、身体の筋肉が固まってとり、バキバキと音が鳴る。思わず変な唸り声を上げてしまった。

 その後寝る前に置いたケースから1枚書類を取り出す。

 

「……それがこれ、奉仕部活動記録書だ」

「うわ、お前これ態々作ったのか」

「夜に思い立ってな、丁度あまり眠れなかったもんだから勢いで作った」

「その結果、寝不足になったという訳ね」

「そういうことだ。ようし、説明するべきことはしたな、もう弁明することがないぞ!あとは煮るなり焼くなり舌を切って地獄の釜に放り込むなり好きにするがいい!」

「潔すぎる……」

 

 雪ノ下は再び考えているのか目を閉じている。言った通り俺は雪ノ下からいつも以上の強火な罵倒が飛んできて、焼けただれてここで死ぬ程度には覚悟が出来ている。さあいつでも来い。

 

「……はぁ。あなたが見た目と違って意外と頭が愉快な人なのはここ一週間で理解しているわ。なので謝ったら許してあげる」

「……なんだと」

 

 思わず比企谷と顔を見合せてしまった。まさか雪ノ下にも一欠片の慈悲が存在するというのか?俺たちは今世紀の大発見をしているとでも言うのか。

 

「でも次はないわ。だから謝りなさい」

「悪かった」

「誠意がないわね」

「すみません」 

「……ええ、許してあげる。私、優しいもの」

 

 そんなことはなかった。単純にマウントを取りたいだけのようだ。俺を見下す様に笑いかける、あの笑みに慈悲などない。ああ、期待だけさせてくる神よ。肥溜めの中で溺れて死んでくれ。

 ふぅと再度ため息を吐いた雪ノ下は冷たい微笑からいつもの仏頂面に切り替わり、改めて由比ヶ浜に向きあった。

 

「それで、由比ヶ浜さん。あなたはどういう要件で来たのかしら」

 

 少々蚊帳の外にいた由比ヶ浜はいきなり話を振られて方が跳ね上がった。その後少しの沈黙のあと由比ヶ浜口を開く。

 

「平塚先生からここはお願いを叶えてくれるって聞いたの」

「そうなのか?」

 

 比企谷が初耳だぞ、と言わんばかりに聞き返してくる。あいつにとってここは本を読んでダラダラするだけの部活だと思っていたらしい。気持ちは非常にわかる。俺とて依頼人がここにいるという事実に驚いているのだから。

 

「少し違うかしら。あくまで奉仕部は手助けをするだけ。願いが叶うかはあなた次第」

「どう違うの?」

 

 怪訝そうな顔で由比ヶ浜が問う。ついでに比企谷もそんな顔をしていた。どうやら以前の説明だけじゃ伝わらなかったらしい。無理もない、雪ノ下の説明だけじゃ普通は理解できないだろう。あの後直ぐに雪ノ下と比企谷の言い争いが始まったわけだし、頭の中に説明が入ってないというのも、無理はないだろう。

 

「飢えた人に魚を与えるか、魚の獲り方を教えるかの違いよ。ボランティアとは本来そうした方法論を与えるもので結果のみを与えるものではないわ。自立を促す、というのが一番近いのかしら」

 

 また小難しい言葉を並べる。比企谷なら理解出来るだろうが、由比ヶ浜は理解できているのだろうか。

 

「小難しいことを言っているが、要するに奉仕部は依頼人が持ち込む、悩みや相談の手助けをする部活ということだ」

「な、なんかすごいねっ!」

 

 ほえーっと口を栗のような形にして感心したような表情をしている。なんだか言動からして頭の悪さが滲み出しているせいか、招来悪い男に騙されるのではないか、と他人事ながら心配になってしまう。

 

「必ずしもあなたのお願いが叶うわけではないのだけれど、出来る限りの手助けはするわ」

 

 そう告げる雪ノ下はいつもよりかは柔らかな笑みを浮かべていた。これがちょっとした事で絶対零度に変わるのだから女というものは恐ろしい。

 彼女の言葉に本題を思い出したのか、由比ヶ浜はあっと声をあげる。

 

「あのあの、あのね、クッキーを……」

 

 由比ヶ浜はそう言って比企谷をちらっと見る。一瞬男がいるから話せないのかとも思ったが、一回も俺の方を見ないので違うらしい。とかく乙女心とは複雑なものだ。それを察してやるのも男の仕事なのだろう。

 

「比企谷」

 

 俺はそう言って扉をクイッと親指で指し示す。連れション文化圏内ではないが、今回は特別だ。

 

「……ちょっと『スポルトップ』買ってくるわ」

 

 比企谷も察したようでそう言って立ち上がる。チョイスがなぜスポーツ飲料なのかは分からない。普通に茶とかじゃダメだったのか。比企谷的にはさり気なさを演出しているようだが、やはりそこが引っかかる。何故スポルトップなのか。

 妙にスポルトップに引っかかっていると雪ノ下が扉に手をかけた俺たちに声をかけてきた。

 

「私は『野菜生活100いちごヨーグルトミックス』でいいわ」

 

 さりげなく人をパシリ扱いするあたり、さすがに面の皮が厚いな。しかしなんでどいつもこいつも飲料のチョイスが特殊なんだ。せめて缶コーヒーにして欲しい。それなら俺も納得するから。

 

 




スポルトップってなんだろうか、とここを読む度に思うのです。

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六話 お砂糖、バター、素敵なものと桃缶

料理に必要なのは根気と正確さ。
大雑把なあの子は苦手だった。
俺も、そうだった。


 特別棟は三階建てであり、自販機は一階にある。比企谷曰くゆっくりダラダラ歩いてれば雪ノ下達の話も終わるだろうとの事だ。

 

「田島、お前ちょっと顔色悪くないか」

「寝不足だからな。よくある事だ。それはそうと顔色に関してはお前にだけは言われたくないんだが」

「おいおい、俺はこう見えても一度も健康診断に引っかかったことない超健康優良児だぞ。妹にも『お兄ちゃんいつもゴロゴロしてばっかで動かないし、疲れたことなさそうだねっ』て言われるぐらいだからな」

「そら馬鹿にされてるんだよ……とはいえやはり問題なのはその目の方か」

「俺も目つきに関してはお前に言われたかねぇよ」

 

 といった感じで比企谷とたわいもない雑談をしながら一階に向かう。

 自販機までやってくると比企谷は財布を取りだし、百円玉を投入する。どうやら宣言通りのスポルトップと野菜生活を買うらしい。

 眺めてると比企谷が俺の方に手を出してきた。

 

「ん」

「あん?」

「お前何飲むんだ」

「……缶コーヒー」

「おう」

 

 比企谷に百円玉を手渡すと缶コーヒーと一緒に男のカフェオレを買っていた。どうやら由比ヶ浜のものらしいが、その百円玉は俺のものだろうに。まあ仕方がない。

 

「ほい」

 

 釣りと一緒に缶コーヒーを手渡してくる。やけに手馴れている。先程妹がいると言っていたし、普段からやっているのだろう。

 

「悪いな」

「そんじゃ、そろそろ戻ろうぜ」

「ああ……いや、お前は先に戻っていてくれ」

「なんで?」

「家庭科室の使用許可を取ってくる」

「いやだからなんで?」

 

 比企谷は訳が分からんと言った顔を向けてくる。

 

「さっき、あの女子生徒、なんて言ったか」

「由比ヶ浜」

「そう、その由比ヶ浜がクッキーって言いかけていただろう?」

「……作んのか?」

「可能性はある。とりあえず雪ノ下に伝えといてくれ」

「了解」

 

 了承すると比企谷は部室の方へと向かっていく。俺もさっさと鶴見先生から使用許可と鍵を貰ってこよう。一度奉仕部に戻ってからまた職員室に行くなんぞ、二度手間だ。面倒なことは効率的に行こうじゃないか。

 

 

 家庭科室ではバタークッキーの甘ったるい香りが漂っている。そして、目の前には黒焦げた台無しのクッキー……なのだろうか。見た目だけなら木炭のような、しっかりクッキーだと意識して見ればクッキーのような。いや、やはり発癌性物質マシマシの謎の物体と称してやろう。これをクッキーと呼ぶにはクッキーに失礼だ。もちろん由比ヶ浜作である。

 これを目の前にしては、さしもの雪ノ下ですら怖気付くらしくクッキーを摘んで不安そうにそれを見る。無理もないだろう。臭いからしておかしいからな。

 

「……死なないかしら?」

「俺が聞きてぇよ……」

「いいからさっさと食うぞ。爆発物は素早い処理を求められる。味が気になるなら鼻でもつまんで食うといい」

 

 口に入れれば広がる苦味、恐らく砂糖が溶けきってないのだろう、ジャリッとした感覚が最悪だ。生地はサクッとはするがそれは焦げているからであり、クッキーとしてのサクサク感は全くもってない。ひたすらにシンプルに不味い。

 

「……雪ノ下、悪いが紅茶を貰えるか」

「……わかったわ」

 

 ケトルからお湯を注ぎ、雪ノ下が紙コップに紅茶を淹れる。

 

「どうぞ」

「すまん」

 

 渡された紅茶を一気に飲み干す。口直しにはなったが、未だに苦味が舌の上に残っているような気がする。とはいえようやく落ち着いたわけで、意図せず溜息を吐いてしまう。それと同じように他の三人からもため息が漏れ出た。

 各々疲れた表情を見せてはいたが、気を取り直して由比ヶ浜と雪ノ下はクッキー作りに取り掛かる。ひと悶着ありながらも雪ノ下が正しいクッキーの作り方、それも完全にレシピ通りのものを実際に作って見せたが、由比ヶ浜にはあまり伝わっていいないようで、見るからにクッキー作りは難航しているようだ。

 

「なんか違う……」

「……どう教えれば伝わるのかしら?」

 

 雪ノ下が作ったものと、由比ヶ浜が作ったものを見比べてあまりの差に由比ヶ浜は項垂れ、あの雪ノ下ですら机に伏して軽く匙を投げている。

 それを見ながら由比ヶ浜が作ったクッキーを口に放り込む。少なくとも先の物体よりかは余程マシだろう。一日でここまで上達しなら上出来だと思うが、二人は違うらしい。真面目な事だ。

 先程淹れたコーヒーを飲みながら紙にペンを走らせていると、由比ヶ浜がぽつり、と声を漏らした。

 

「なんで上手くいかないのかなぁ……言われた通りにやってるのに」

 

 心底不思議そうな顔をして、彼女もまたクッキーに手を伸ばす。

 

「うーん、やっぱり雪ノ下さんのと違う」

 

 雪ノ下の教え方が悪い、という訳ではない。とはいえ雪ノ下という少女は優秀だ。優秀故に由比ヶ浜が何故教えた通りにできないのか理解ができないのだろう。

 いつもの態度から察するに雪ノ下はなんでも出来たのだろう。だとするならば俺が今行っている行為も無駄じゃない、と思いたい。

 今度は雪ノ下が作ったクッキーを口に放り込む。うーむ、美味い。

 

「あのさぁ、さっきから思ってたんだけど、なんでお前ら美味いクッキー作ろうとしてんの?」

「どうした急に」

 

 比企谷が得意げな顔で、由比ヶ浜のクッキーを口の中に放り込む。ムカつくまでのドヤ顔だった。

 

「十分後、ここへ来てください。俺が"本当"の手作りクッキーってやつを食べさせてやりますよ」

 

 

 十分後、家庭科室に戻ってきた俺たちは比企谷の『本当の手作りクッキー』とやらの前で怪訝な顔をしていた。いや、由比ヶ浜は嘲笑を超えて爆笑していた。

 

「ぷはっ、大口叩いたわりに大したことないとかマジウケるっ!食べるまでもないわっ!」

「ま、まぁそう言わず食べてみてくださいよ」

 

 比企谷は由比ヶ浜のその態度に口角がひくついているが、それでも余裕の笑みを崩さないあたり余程この作戦に自信があるらしい。

 

「そこまで言うなら……」

 

 由比ヶ浜は恐る恐るクッキーを口にする。それに続く様に雪ノ下と俺も一摘み。

 一瞬の沈黙の後、由比ヶ浜の目がクワッと開く。

 

「別に特別何かあるわけじゃないし、はっきり言ってそんなにおいしくない!」

 

 とは言うものの、比企谷が持ち出したクッキーは恐らく由比ヶ浜がさっき作ったものだろう。自分で自分の作ったものを貶させるあたり、比企谷の性格の悪さが伺えるな。

 当の比企谷は由比ヶ浜の反応に悲しげに目を伏せる。役者かな。

 

「そっか、美味しくないか……頑張ったんだけどな。わり、捨てるわ」

「──あ……ごめん。そ、それに、別に捨てるもんじゃないでしょ……言うほど不味くはないし」

 

 由比ヶ浜が気まずそうに視線を床へと落とす。

 

「そっか……まあ、由比ヶ浜がさっき作ったクッキーなんだけどな」

「……は?」

 

 そんな由比ヶ浜にしれっと、さらっと自然に残酷な真実を告げる。せっかくの由比ヶ浜の気遣いが無駄になった。哀れ由比ヶ浜。

 

「それで比企谷。お前は結局何が言いたいんだ」

 

 彼がなんの為にこの茶番を行ったのか。同じ男の俺ならば凡そ想像はできるがあえて問う。

 

「こんな言葉がある……『愛があれば、ラブ・イズ・オーケー!!』」

 

 比企谷は気色の悪い笑顔でサムズアップした。随分懐かしいネタだな。

 

「お前らはハードルを上げすぎてんだよ。ハードル競走の主目的は──」

「要するに、手段と目的を取り違えてたってことだろう?」

「お前な……」

「ハンッ、これからは言いたいことは端的に話すんだな」

 

 そう言うと比企谷は恨みがましい目つきでこちらを睨んできたが無視する。

 

「……まぁあれだ。男ってのは単純なんだ。それこそ残念なくらいにな。ちょっとした事で勘違いするし、手作りってだけで喜ぶの。だから、」

 

 比企谷はそこで言葉を区切って、由比ヶ浜を見つめる。

 

「別に特別何かあるわけじゃなくて時々ジャリってするような、はっきり言ってそんなにおいしくないクッキーでいいんだよ」

「〜っ!うっさい!」

 

 由比ヶ浜は手当り次第手近にあるものを比企谷に投げ付ける。散らかしやがって。

 

「ヒッキー、マジで腹立つ!もう帰る!」

「まぁ、なんだ……。お前が頑張ったって姿勢が伝わりゃ男心は揺れんじゃねぇの」

 

 比企谷なりのフォローが入る。ちょいと不器用だな。窓から差し込む夕陽は二人を照らし、青春の様相を醸し出す。

 

「……ヒッキーも揺れんの?」

「あ?あーもう超揺れるね。むしろ優しくされただけで好きになるレベル。っつーか、ヒッキーって呼ぶな」

「ふ、ふぅん」

 

 あ?一体なんだこの反応は。夕陽によって由比ヶ浜の顔は赤く染まっていて、まるで恋する乙女かのようだ。というか実際そうなのだろう。世界は広い。きっと比企谷に恋をする女がいる、とそういうこともあるのだろう。ならばそれを察してやるのが男というものだが───。

 

「由比ヶ浜さん、依頼の方はどうするの?」

「あれはもういいや!今度は自分のやり方でやってみる。ありがとね、雪ノ下さん」

 

 そう言って由比ヶ浜は家庭科室を出て行こうとするがそうはいかない。

 

「待て、由比ヶ浜」

「うぇ?どうしたの?」

 

 今どんな顔をしているか知らないが、俺は相当悪い顔をしているだろう。ふははは、リア充爆発しろ。床に散乱したペーパーやら何やらを指さす。

 

「これ、片付けろ」

「お前、今の流れでそれ言う?空気読めなさすぎだろ」

「さすがの私も驚きね……」

 

 二人の呆れた声は無視し、由比ヶ浜の方に目を向ける。由比ヶ浜は固まっている。

 

「おい、早くしろ」

「……もう!信じらんない!」

 

 由比ヶ浜はデカい足音を立てながら歩いてくる。ぷんすこぷんと聞こえるかのように頬を膨らませながら散乱した道具を片付け始めた。

 ついでに俺達も使った道具やら食品なんかを片付け初め、しばらくして片付けが終わる。ひと心地つきため息を着く由比ヶ浜に声をかける。

 

「そら、受け取れ」

「なにこれ」

「由比ヶ浜がクッキー作りの際にしたミスをとりあえず箇条書きで書き出して、その対応策を書いてみた」

 

 ルーズリーフに手書きで書いたものだが、あまり理解力のない由比ヶ浜でも理解できるように、俺の持てる力を総動員し、出来うる限り見やすく分かりやすく書いたつもりだ。名付けて『保育園卒でもわかるクッキー作り』これでダメだったら流石にお手上げだが、果たしてどうなるか。神のみぞ知るといったところだな。

 

「うは〜、これ全部?てか書いてあること多くない?」

「多いからクッキーが納得できん仕上がりになったんだろう。とりあえず次に作る時はここに書いてあることを意識して作るといい」

「あ、ありがと」

「部活動の一環だ、礼なんぞいらん」

 

 彼女はルーズリーフを受け取った後今度こそ帰るべく鞄を背負った。

 

「それじゃ、改めて……今日はありがと!」

 

 由比ヶ浜はそう言うと今度こそ帰るべく扉に手をかける。

 

「また明日ね。ばいばい」

 

 そして手を振って由比ヶ浜は帰っていった。雪ノ下は最後まで努力しなかったことに不満を漏らしていたが、それを珍しく比企谷が上手く丸め込んでいた。

 そうして奉仕部初の依頼は、無事、とは言い難いがそれでも円満に解決出来た。何かと忙しなく、騒がしい一日ではあったが、ここでようやく終わりを告げたのだった。

 後日、由比ヶ浜がお礼のクッキーと共に、何故か新しく奉仕部の部員となるのだが、それは蛇足なので語るのはやめておこう。




文化祭の展開に今から悩んでいる、そんな状況であります。


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七話 騒々しく、鬱陶しく、そして眩しい

言うなれば物語とは魂を削って作るもの。
ならば俺とは全くもって無縁のものだろう。


 由比ヶ浜が部員になってからしばらく経った日、部室へ向かうと道中に比企谷がいた。

 

「比企谷か」

「うす」

 

 いつも通りの陰気な挨拶を交わし、俺たちは部室へと向かう。

 

「なあ……奉仕部って一体何する部活なんだ」

「……気持ちはわかるぞ」

 

 結局のところ大々的に宣伝はしていないので、奉仕部という部活は各々で読書やら携帯を弄るなどして、放課後を無駄に潰す。暇つぶし部と言ってもいい活動内容だ。

 由比ヶ浜が来てからというもの、奉仕部は再び依頼人が来ない虚無の部活動となっている。

 

「まあ、とはいえそろそろ平塚先生が誰かしら連れてくるんじゃないか」

「それはそれでめんどくせぇな」

「文句を言うな」

 

 俺は働きたくないんだ、などと宣う比企谷を置いておいて、俺は少し歩を早めて部室へと向かう。しかしどうしたことか、部室の前に雪ノ下と由比ヶ浜がなにかに怯えるように立ち尽くしていた。何をしているのかと思ったら、扉をちょっと開けて中の様子を覗いているようだ。

 

「何してんの?」

「ひゃうっ!」

 

 二人は肩を跳ね上げて本当に驚いたようなリアクションをする。まるで不審人物に唐突に話しかけられたかのような、それなら納得だ。いつも猫背かつポケットに手を突っ込み、腐った魚のような目で辺りを歩く姿は正しく不審者そのもの。驚くものやむなしと言ったところだろう。

 

「扉の前で何をしているのかは知らんが……奉仕部、今日はないのか?なら帰ってもいいだろうか」

「ダメに決まっているでしょ。それに奉仕部がないわけじゃないの。ただ……」

 

 雪ノ下が言いよどみ、扉の方に目を向ける。扉の向こうには奉仕部の部室があるのみだった。

 

「じゃあ何してんの?」

「……部室に不審人物がいるの」

「不審人物?」

 

 なんの事かは分からないが、中の様子を覗いた方が良さそうだ。誰に言われるまでもなく、俺は彼女達の前に立つといつも通り乱雑に扉を開けた。

 扉を開ければ吹き抜けるのは強い潮風だった。そしてその風によって巻き上がったプリントが辺り一面に散乱する。正しく紙吹雪といったその光景の中、佇む一人の男がいた。

 

「クククッ、まさかこんなところで出会うとは驚いたな。───待ちわびたぞ。比企谷八って何奴!?」

「こっちのセリフだ、度し難いほどの阿呆め。格好をつけるより先に、この散乱したプリント類を拾え」

「クックック、我に命令できるのは相棒たる───」

「どうでもいいからさっさと拾え」

「我は──」

「拾え」

「わ、我は──」

「拾え」

「……拾います」

「可哀想な材木座……」

 

 果たしてそこにいたのは、全く持って、本当に、心の底から知らない男だった。もうすぐ夏も近いというのに分厚いコートに指貫グローブを着た大柄な男は、項垂れながらプリント類を拾い始める。よくよく見れば、それはWord等のソフトで作られた原稿のようだった。

 

「……比企谷くん、あなたの名前を呼んでいたようだけれど」

 

 雪ノ下が扉からひょっこり顔出し比企谷と男子生徒を見比べ、その鋭い自然に男は萎縮してしまい、再び原稿用紙を拾い集める。

 

「……何の用だ、材木座」

「むっ、我が魂に刻まれし名を口にしたか……しばし待て」

 

 原稿用紙を集め終え、それを集め終えた後コートを力強く靡かせ、キメ顔をしながら比企谷の方に向き合った。というか比企谷の方しか顔を向けることがない。

 

「我こそは!剣豪将軍・材木座義輝なりっ!」

 

 足利義輝の事を言っているのだろうか。頭が痛くなってきた。やっぱり帰っていいだろうか。

 

 

 厨二病を患う材木座義輝という男子生徒の依頼は、小説の原稿を読んで欲しい、というものだった。

 昨今投稿サイト等も色々と発達しているわけで、そういったツールを使えば良いと思ったがどうやら心のないコメントが来るのが怖いそうだ。

 なので各々原稿を受け取り読むことになったのだが───。

 

「頭痛がするな……こいつは」

 

 ジャンルは学園異能バトル物、いわゆるライトノベルという文学ジャンルにになる。それをコーヒーを飲みながら、添削をしつつ赤ペンをつけ、見やすいように付箋をつける。全てを読み終え、添削しきった頃には朝になっていた。まあそれはいつもの事だからいいのだが、この付箋の量はやりすぎたか。やってる間に段々と楽しくなってきて、思わず熱が入ってしまった。

 コーヒーを飲み終え、一息つく。時計を見れば朝の五時半。いい時間だ。

 

「弁当でも作るか」

 

 寝室を出て、誰もいないリビングに行く。ただでさえ誰もいないこの空間は、早朝の閑静さと相まって物寂しさを感じる。

 昔は一人でいることに苦痛なんて感じなかった。一人暮らしを提案される前からずっと、俺が失望されたあの日からずっと。だが今は違う、一人は寂しいということを知った。だからその点奉仕部という部活はこの寂しさを紛らわせるにはちょうど良かった。

 もしかしたら平塚先生にはそれを見抜かれていたのかもしれない。だとしたら本当に頭が上がらない。賑やかしに朝のニュースをつければ、アナウンサーが深刻そうな顔で芸能人の不祥事を喋っていた。

 それを聴きながら、俺は溶いた卵を卵焼き用のフライパンに流して、卵焼きを作る。しかし昨日卵が安売りされていたのは本当に良かった。後輩のお陰で卵が四パック変えたのもデカい。これで暫くは飯に困らないな。

 いつもは面倒だから適当におにぎりで済ませるのだが、今日は徹夜したこともあって時間もある。凝った弁当でも作るとしよう。

 そうして朝食も済まし、身支度を終えたらだいたい七時半前には家を出る。総武高から俺の住んでいるこの家は、比較的学校から近く朝は余裕を持たせても急ぐ必要がない。

 使い古した自転車を漕ぎ、欠伸を噛み締めながら進んでいると声がかかった。

 

「あれ、田島さーん!」

「あん?」

 

 ブレーキーをかけ自転車をとめ、声の方を向けば見慣れた亜麻色の髪目に入る。中学校からの後輩である一色いろはがそこに立っていた。彼女はいつも通り人受けの良さそうな笑顔を浮かべ、俺の隣に立つ。どうやら一緒に登校する気らしい。時間に余裕もあるので、俺も自転車から降りて歩くことにした。

 

「おはようございます」

「おはよう。昨日は悪かったな、助かった」

「気にしないでください、日頃お世話になってるお礼ですから」

「ほう?そうか。なら今度別のセールの日が……」

「や、それは面倒なんで嫌です」

「そうかい……」

 

 一色いろはという少女は、あざとく計算高い小悪魔のような性格をした少女だが、その本性は彼女の普段の立ち振る舞いによって巧妙に隠されている。

 本人も自覚している通り男ウケは良い。そんな一見可愛らしい雰囲気を纏っている彼女だが、身内にはこんな風に素のあけすけとした態度を取ってくる。

 俺が相変わらずなその性格に呆れていると、彼女はふと俺の顔を眺めた後尋ねてくる。

 

「……田島さん顔色悪くないですか?」

「ん、そりゃ徹夜したからな」

「はぁ……ちゃんと寝ないといつか倒れちゃいますよ?」

「その時はその時だ。最悪死ぬかもだが、どうでもいいことだ」

 

 冗談交じりにそう言うと一色の表情が陰る。ブラックジョークもブラックすぎると笑えない。つまるところ、少し冗談が過ぎた。

 

「……あまり心配させないで下さいね」

「わかっている。冗談だ。その時は助けてくれ」

「はい、約束してますから。でもほんと気をつけてくださいね」

「ああ」

 

 俺も大概だが、こいつも大概律儀な奴だ。中学の頃に交わした約束なんて、忘れていても良いだろうに。まあ、俺が言えた義理ではないが。真面目で、意外と義理堅くて、優しくて。だからきっと今でもこうして、俺は彼女との関係だけは切れなかったのだろう。

 

「話は変わるが、学校生活はどうだ?」

「いえ、特に何も」

「ほう、なら噂のハヤマ先輩とやらとは上手くいっているのか?」

「いやー、それが全然。あの人ガード超硬いんですよねー」

「相当人気者らしいからな」

 

 ハヤマ先輩、正確には葉山隼人。直接の面識はないが噂話は良く耳にする。女子生徒の有名人が雪ノ下ならば、男子生徒の有名人はこの男だろう。一色は葉山を追っかける為にサッカー部のマネージャーになったらしい。

 

「わたしそんなに魅力ありませんかね……」

「あ?お前そのあたり自覚してる癖に何を今更……」

「あまりに手応えがないので、ちょっと自信無くなってきました」

 

 そう言うと彼女はさっきとは違い、あからさまに私落ち込んでますよと言わんばかりに肩をガックリさせる。

 葉山の事はよく知らないが、彼女がガードが固いと言っているという事から察するに、葉山とやらはこいつのこの性格を見抜いてるのかもしれない。だとしたら相当のやり手だ。本気で落とすのだとしたら一色でも相当厳しいだろう。

 とはいえここで励ましたり慰めたりしたら調子に乗るのは明白だ。

 

「ハッ、その程度で無くなる自信なら捨ててしまえ」

「めちゃくちゃ辛辣……励ましの言葉ぐらいくれてもいいじゃないですか」

「そんな期待も捨ててしまえ。だが応援はしてやろう。適度に、それなりに、適当に頑張るといい」

「……他人事ですねー」

 

 ムスッと頬をふくらませ、軽く俺に肘打ちをした後一色は目線を前へと向けた。

 そうこうしている内に学校へと着く。俺は駐輪場に自転車を置いてくる必要があるので一色とはここまでだ。

 

「それじゃ、またな」

「はい、それではまた」

 

 小さく手を振った後一色は校舎へと向かっていった。しかし、どうして彼女が俺を慕ってくれているのか未だに分からない。田島 実の七不思議のうちの一つに認定しよう……我ながら疲れているな。授業は寝て過ごそう。そうしよう。

 

 

 部室に来ると、珍しく雪ノ下が船を漕いでいた。材木座の原稿をおそらく俺と同じように夜通し読んだのだろう。起こすのも悪いので、できるだけ音を立てないようにしながら俺はいつも通りの場所に座る。ゆっくり眠れるというのは幸福な事だ。出来うる限り寝かせてやろう。と、思ったのだが部室の扉が開く。入ってきたのは、いつもより気だるそうな雰囲気を纏う比企谷のようだった。

 

「うす」

「静かにな」

「……あ、やべ」

 

 俺の言葉に比企谷は頷き、座るのだが、その際に少しだけ椅子が動いたのか床と擦れる音が鳴る。

 

「………驚いた、あなたたちの顔を見ると一発で目が覚めるのね」

「そりゃいい、俺も天井に鏡でも設置して自分の眠気覚ましに使うとするか」

「ええ、そうするといいわ」

 

 雪ノ下は小さく欠伸をすると、体を解すように体を動かし、軽く伸びをする。

 

「やっはろー」

 

 聞いた事のない新種の挨拶をしながら由比ヶ浜もやってくる。材木座の原稿を読んだ割には思ったより元気だった。顔色も悪くないし、いつも通りの溌剌さだ。

 

「妙に元気だな」

「あ、えっと、あはは〜」

 

 その様子に思わず質問をすると、由比ヶ浜は露骨に目を逸らした。

 

「あいつ、たぶん原稿読んでないぞ」

「納得だ」

 

 俺たちの様子に由比ヶ浜は唸り、鞄から原稿を取り出す。折り目もない綺麗な状態で本当に読んでないことが分かる。そして恨みがましそうにこちらに目を向けた。

 

「てか田島くんだっていつも通りじゃん」

「普段から寝不足だからな。四徹くらいならば余裕だとも」

「ちゃんと寝ようよ!」

「……それもそうだな、ようしなら今から寝よう」

「あら、なんなら永遠に寝ていてもいいのよ。安心してちょうだい、決して起こさないから」

 

 急に辛辣な言葉が飛んでくる。しかしさっきまで寝てやがった女が何を言っても説得力がないな。俺もこの前寝てた?忘れてくれ。

 

「頼もう」

 

 件の依頼者である材木座が期待した面持ちで入ってくる。

 そうして材木座に対して原稿の総評が始まったのだが、比企谷がこの依頼を受けた時の言葉『雪ノ下の方が容赦ないよ?』という台詞を、彼はその身で理解することとなったのだ。

 

「つまらなかった。読むのが苦痛ですらあったわ。想像を絶するつまらなさ」

「げふぅっ!」

「文法がめちゃくちゃ、『てにおは』の使い方くらい小学校で習わなかった?」

「ぬぐぅっ!」

「ルビの誤用が多すぎるわ。『幻紅刃閃(ブラッディナイトメアスラッシャー)』のナイトメアはどこから来たの?」

「げふっ!」

「そもそも完結してない物語を人に読ませないでくれるかしら。文才の前に常識を身につけた方がいいわ」

「ぴゃあっ!」

 

 雪ノ下の怒涛の口撃。材木座は四肢を投げ出し床に転がり、ビクビクと白目を向いて泡を拭きながら気持ち悪く痙攣する。オーバーリアクションなのか本気でこうなっているのか。後者ならそれはそれで気色が悪い。

 比企谷がストップをかけて、由比ヶ浜、比企谷と続くのだが───

 

「む、難しい言葉を沢山知っているね」

「ひでぶっ!」

「で、あれなんのパクリ?」

「ぶふっ!?ぶ、ぶひ……ぶひひ」

 

 比企谷の言葉を最後に完全に材木座がノックアウトされた。夢も希望も完全に打ち砕かれており、もはや材木座は動かない。これは俺の感想は追い打ちになってしまいそうだ。比企谷もそれを察したようで一応といった感じで尋ねてくる。

 

「それで、次は田島、お前の番なんだが……」

「……止めておくか?」

「……いや、言ってくれ。我には意見が必要だ」

「ほう……そうか、ならば遠慮しないがいいんだな?」

「我は剣豪将軍なり。故に例えどのような鋭き言霊であっても決して屈したりせぬ!」

 

 天性のマゾヒストなのかと一瞬思ったが、材木座の目は真剣そのもの。なるほど、そこまでの覚悟を見せられたならば、俺としても答えないわけにはいくまい。

 

「まず、この目も当てられない駄作ぶりには苦痛を通り越して吐き気がした」

「ぎゃあ!?」

「それがどの程度かと言えば、恐らく誰の目にも止まらない、なんなら消費すらされない出来であり、世に出すことすら馬鹿らしい程度には駄作だった」

「うぬごぉ!」

「続けて言うなら、メインキャラ以外のサブキャラクターに個性がないな。もう少し考えておけ」

「ヒィんッ!」

「それと世界観、あえてテンプレから外そうとしたせいでところどころ矛盾している、もう少し何とかならなかったのか?」

「い、いや我なりに考察をだな……」

「そしてお前これ読み返したか?主人公の性格がブレすぎだ」

「うぐっ、わ、我としてもそのつもりではあるのだがやはり、こう、あれがあれしてあれなのだ……具体的に言えば羞恥心がだな……」

 

 モゴモゴと口を動かし、発言することを材木座は拒否するが言いたいことはわかる。誰だって自分が作り出したものを自分で見返すのは恥ずかしいものだ。それが己の妄想を具現化したものなら尚更なのだ。

 

「いいから読み返せ、自分と向き合え。お前なりに推敲しろ」

「んぐうぅお……」

 

 材木座は奇妙な呻き声を上げながらも、あまりオーバーなリアクションは取らなかった。精神的にやられすぎてもはやリアクションをとることすらままならないのだろう。もうやめてくれと目で言っているような気がする。これ以上やると本格的に心が折れそうだな。

 

「……ちなみにあと百通りぐらいは指摘点があるんだが」

「そんなにあるんだ!?」

「どれから聞きたい?俺としては──」

「いやその辺にしておけって、材木座今の言葉で絶望超えて可笑しくなってるから」

「ムハハ、ムハハハハ」

「さすがに可哀想になってきたわね」 

 

 遠い目をして笑っている。一体誰がやったのだろうか。

 

「仕方がない。後はこれに書いてあるから読むと良い」

「……かたじけない」

 

 材木座は俺が夜通し書いた指摘や改善点が書かれた原稿用紙を受け取り、しばらくそれをペラペラと捲り目を通す。その後、材木座は真っ直ぐに俺たちを見据えた。

 

「……また、読んでくれるか」

「お前……」

「ドMなの?」

「酷いい草だな」

 

 由比ヶ浜や雪ノ下の視線は完全に変態は死すべきといったものである。彼女達の気持ちも分からないでもないが……。しかし俺という人間は彼の気持ちを理解できないほど、共感性に欠けてはいないのだ。

 

「お前あんだけ言われまだやるのかよ」

「無論だ。確かに酷評されはした。死んじゃおっかなーとも思った。しかし、しかしだ。それでも嬉しかったのだ。自分が書いたものを誰かに読んでもらえて、感想を言って貰えるというのは、嬉しいものなのだと」

 

 そう言って材木座は笑う。

 きっと、彼も立派な作家の端くれなのだ。どれだけ酷評されようとも、自分が書いたものが自分の作りだしたものが誰かの手に渡って、それが悪評であれ好評であれ、結果として誰かの心を動かす。それが彼には堪らなく嬉しいのだろう。

 俺にはないもの。俺がかつて失った熱量を、彼は持っている。それが少しだけ眩しく見えた。

 

「ああ、読むよ」

 

 比企谷も笑ってそう答えた。

 

「また、新作が書けたら持ってくる」

 

 そして材木座は部室を後にする、その足取りは堂々としており、初めて部室に来た時に見せたオドオドとした彼はもうどこにもいない。正しく剣豪将軍と名乗るに相応しい態度だった。と思ったのだが、ドア越しに何やら奇声が聞こえた。

 ああいうのがなければ、終始微妙な顔をして、まるで理解が出来ないと言わんばかりに首を傾げている女性陣にも、多少なりとも歩み寄って貰えるのではないかと思うのだが。だがああいう心の病は治るまで時間がかかるから無理だろうな。本人もノリノリだし。

 活動記録書にペンを走らせながら、コーヒーを飲む。コーヒーはもう温くなっていて、しかし何故だが不味さを感じることはなかった。

 

 

「田島殿、いや、師よ!我に御指導願えるだろうか!」

 

 後日、恐らく俺の添削した原稿を読んだであろう材木座が再び奉仕部の元に突撃、汗と唾を撒き散らしながら俺の前に跪いた。

 

「は?」

「師の綴ったもの、我は目を通し感銘受けたのだ、田島師匠ならば、我を間違いなく高みに導いてくれるのだろうと!」

「いや、待て……」

「良いじゃない、導いてあげれば」

「そうだな、ここいられるのもめんどくさいし」

 

 オーバーリアクションをしながら俺に詰め寄る材木座に対して、雪ノ下と比企谷は他人事だからやけに冷めた反応をしてくる。むしろ面白がってないか。由比ヶ浜はもはや興味ないと言わんばかりに携帯を弄っている。

 

「さぁ、師よ!共に参ろうぞ!そして声優さんと結婚させて!」

「それが本音か。いいからまずは話をだな」

「では了承も得られたことだし、我は帰ろう。新しい原稿を作り終えたその時が、我が再び舞い戻る時なり!それまで!さらば!」

「いや、誰も了承を、おい、話を聞け!」

 

 『ブロウクンファントム!』と材木座は叫んで、部室を後にする。

 呆然とする俺をよそに、他の部員たちは何事もなかったように各々好きなことをしている。

 依頼は無事終わり、万事解決の筈。なのにどうして心は晴れないのだろうか。ああ、全くもって人生は憂鬱だ。本当に。勘弁してくれ。




ファイナルフュージョン


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八話 爽やかな風が吹く憂鬱

学校という環境は特殊だ。
その特殊な環境は、そこで生きる者にとっては、世界そのものに他ならないのだ。
難儀なものだよ。


 ペラリ、と紙のめくる音が不規則に部室に響く。それは雪ノ下が読書をしているということである。

 材木座の依頼の日から、それなりに経った。あの後も戸塚彩加のテニスの技術向上の依頼を受けたが、それっきりで奉仕部は再び閑古鳥が鳴いていた。

 そんなものだから各々が暇つぶしの方法を見つけるしかない。例えば雪ノ下や比企谷であれば読書、由比ヶ浜であれば携帯弄り。では俺はというと、特になかった。何分コーヒー以外に趣味がない、という訳でもないのだが部活動の際にもできるような趣味はない。彼らのように読書をするという手もあるのだが、俺という人間はどうにも読書が苦手だった。

 なので家での暇つぶしの手段と言えば、主にスマホでネットサーフィンでもするか、寝るか、コーヒーを飲むかぐらいしかない。

 プライベートですらこの有様なのだから、部活動ではお察しである。

 何かしらやることを毎日見つけなければならないので、本当に暇な日もあるのだが、今日は幸いやることがあった。

 

「田島くんなにそれ」 

 

 隣に座っている由比ヶ浜がこちらに話を降ってくる。

 基本的に我が奉仕部メンバーの座る位置は決まっている。長机を中心に、左から比企谷、俺、由比ヶ浜、雪ノ下となっている。比企谷と雪ノ下がそれぞれ端に座っているので、俺と由比ヶ浜の位置は近くなる。なので自然と彼女と話す事が多い。そもそも奉仕部部員で一番喋るのが彼女なのだ。だから、雪ノ下においても比企谷においても、俺と同様に由比ヶ浜と話すことが一番多いのではなかろうか。何せ由比ヶ浜は以外は自分から喋ることが滅多にないからな。

 一度ペンを動かす手を止め、由比ヶ浜の方を向く。

 

「職場見学の提出物だ、そろそろ提出しろと急かされてな」

「あ〜、どこにするの?」

「そうだな……無難な所だと近場の市立図書館あたりとかだな。本を読むのは好きじゃないが、レポートを書くのが楽そうだ」

「理由が消極的すぎる……」

 

 我が校は進学校だから、意外と見学をしっかりと考えている生徒は少なくない。それぞれの将来を見据えてその為に進路を決めている生徒が多いものだから、俺のような適当な生徒は意外と少数だったりする。

 返答を聞いた由比ヶ浜が呆れ顔のまま携帯弄りに戻る。彼女はスマホが出回っている今、少々時代遅れのガラケーを使っており、どピンクにデコレーションされたソレは少し目に悪い。ジャラジャラとストラップなんかも着いてるし、使用感に難がありそうなものだが、そこの所どうなのだろうか。疑問だ。

 そしてなにか思いついたかのように顔を上げた。

 

「そうだ、ゆきのんはどこに行くか決めた?」

「そうね……私はシンクタンクか、研究開発職かしら」

「へ〜」

 

 なるほど〜と言わんばかりに返事をするが、その顔は全くもって理解してない間抜けな顔だった。

 

「シンクタンクは説明すると長くなるが、簡潔に言えば政治だとかそれ以外にも色々と分野があるんだが、そういったものの政策立案やら提言なんかを行う研究機関の事だ」

「そ、そうなんだ……そ、それでヒッキーは?」

「自宅」

 

 俺の説明を聞いても理解できなかったのか、由比ヶ浜は話を逸らすために話を振る。振られた比企谷がそうあっけらかんと言うと、奉仕部には微妙な雰囲気が流れる。自宅って、コイツまだ本気で言っているのか。言っているんだろう、やはりアホだ。

 

「あなたまだ諦めてないの?」

「まだワンチャンあるかなって」

「ないだろ…」

 

 コイツそのせいで平塚先生にこの前呼び出されて、部活に来るのが遅れて来たの忘れたのだろうか。正直比企谷のこういうところは材木座とどっこいどっこいだと思う。類は友を呼ぶとはいうが、比企谷と材木座が仲が良いのはこの辺にシンパシーを感じるからかもしれないな。

 

「いやほんとないから。それで結局どこ行くの?」

「んー、グループになったやつが行きたいとこに行くんじゃねえか」

「なんなん、その人任せ感」

「そりゃあお前……万年余り物のコイツがグループの中で発言権がある訳ないだろう。それくらい察してやるのが良い女というものだ」

「あ、ああ〜。や、なんかごめん」

「ガチで謝るなよ……」

 

 大きくため息を着いて比企谷は再び本に目を落とす。よく見ればソレは一昔前の少女マンガのようだった。こいつも結構多趣味だな。

 そうこうしている内に陽は落ちてきて斜陽が窓から差し込んでいる。そろそろ部活も終わりの時間だ。コーヒーをグイッと飲み干すのと、雪ノ下が本をパタリと閉じるのはほぼ同時だった。

 いつ頃からだったかは忘れたが、雪ノ下がそうやって本を閉じるのが部活動の終わりの合図となっていた。比企谷や由比ヶ浜が帰りの準備を始めるのに合わせて、俺もマグカップをインスタントコーヒーが置かれている机に置く。

 その時だった。部室の扉がコンコン、とノックされる。

 如何せん部活動は終わりのつもりだったので、肩透かしを食らった気持ちだ。

 

「どうぞ」

 

 いつも通りノックに対して雪ノ下が返事をすると、部室に入ってきたのはこれまた随分と爽やかな男だった。

 顔に見覚えはある。というか恐らく名前も知っている。ともすれば、こんな胡散臭い部活の部室にいるには場違いと言わざるをえない男だろう。まあそれは前評判だけならば雪ノ下もそうであるのだが。更に言えば由比ヶ浜もだ。むしろ相応しいと言えるのは俺と比企谷ぐらいなものだろう。我ながら嫌な自己評価である。

 

「こんな時間に悪い。ちょっとお願いがあってさ」

 

 エナメルのバッグを床に置くと、男は自然な所作で「ここいいかな?」と断りを入れ、長机を挟んで俺と由比ヶ浜の前に座る。

 

「いやー、なかなか部活から抜けさせてもらえなくて。試験前は部活休みになっちゃうから、どうしても今日のうちにメニューをこなして起きたかったぽい。ごめんな」

 

 爽やかな笑みでそう告げる彼に嫌味なところはない。

 

「能書きはいいわ」

 

 しかし我らが部長雪ノ下というと、何故だか妙に苛立っていた。こうも感情を抑えきれていない態度をとるのは珍しい。雪ノ下雪乃と言えばクールビューティー……とはいうが、最近だと由比ヶ浜の押しにたじろいでいる様子を見せているのでそうとも言いきれないか。

 ともあれいつもよりも棘のある態度には、比企谷も些か疑問に思うところがあるようで雪ノ下の方を見ていた。

 

「何か用があるからここに来たのでしょう?葉山隼人君」

 

 そう冷たく呼ばれた男、葉山隼人はしかしその笑顔を崩すことがなかった。雪ノ下のこの態度に顔色を変えないとは、なかなかやり手、いやもしかしたら慣れてるのかもしれない。確か戸塚の依頼の時に、俺の苦手なタイプの女を引き連れていた覚えもある。

 そうして葉山隼人の依頼の話が始まった。携帯電話を取り出し画面を見せてくる彼曰く、近頃二年F組のクラスの中で『チェーンメール』なるものが出回っているらしい。

 携帯の画面を見ればチェーンメールの内容を見ることが出来た。

 

『戸部は稲毛のカラーギャングの仲間でゲーセンで西高狩りをしていた』

『大和は三股をかけている最低の屑野郎』

『大岡は練習試合で相手のエースを潰すためにラフプレーしていた』

 

 長々と書いてある文章を要約すると、上記の三つが主に言いたい内容だった。俺たちが微妙な顔をしてその文面を見ていると、同じように葉山も微苦笑をうかべる。

 

「これが出回ってから、なんかクラスの雰囲気が悪くてさ。それに友達のことを悪く書かれてれば腹も立つし」

 

 微苦笑を浮かべるものの、その声色はチェーンメールにうんざりとしたもので、先程携帯を弄りながら顔を顰めていた由比ヶ浜に通ずるものがある。

 捨て垢によるメールだ。相手が誰だか分からない以上、それを止める方法も安易なものではない。彼らが鬱屈とした気持ちを溜めてしまうのも無理はないだろう。

 

「止めたいんだよね。こういうのってやっぱりあんまり気持ちがいいもんじゃないからさ。あ、でも犯人探しがしたいんじゃないんだ。丸く収める方法が知りたい。頼めるかな」

 

 葉山は気持ちの良い笑顔をこちらに向ける。

 良い奴、と簡単に葉山の人間性を評するならばそうなのだろう。爽やかで、明るく、きっとみんなに好かれている。俺とは正反対の人間だ。羨ましい限りだよ。

 だが、完璧な人間なんてこの世にはいない。何故ならば人はみなまだ完璧ではないからだ。だからこそ発展し、進化し続け、その歩みを止めることがない。だとすれば、この男にだって何らかの欠点、あるいは影がある。それがなんだろうと別になんだっていいのだが。

 込み上げてきたものを隠すようにマグカップに口を着け、そして先程コーヒーを飲み干した事を思い出す。仕方がないから鞄の中からペットボトルを取りだし中の少ない水を呷る。夏に近いこの季節ではすっかり温くなっていた。

 

「つまり、事態の収拾を図ればいいのね?」

「うん、まぁそういうことだね」

「では、犯人を捜すしかないわね」

「うん、よろし、え!?あれ、なんでそうなるの?」

 

 依頼人たる葉山の意向を完全に無視され、一瞬驚いた顔を見せたが、直ぐにそれを微笑みで取り繕って見せ、その意図を問う。

 

「チェーンメール、あれは人の尊厳を踏みにじる最低の行為よ。それが善意であれ悪意であれ、結果的には悪意を広げ、拡大し続ける。止めるならその大元を断つしかないの。ソースは私」

「お前の実体験かよ…」

 

 雪ノ下によるクソほどどうでもいい実体験の話が始まった。チェーンメール、俺が中学の時にも確か一時期流れたらしいが、俺も俺であまり交友関係が広くなかったものだからさほど詳しくはない。

 

「とにかく、最低なことをする人間は確実に滅ぼすべきだわ。目には目を、歯には歯を、敵意には敵意をもって返すのが私の流儀」

「お前の流儀なんざどうでもいいが、犯人を捜すにしろ、葉山の意向通りに丸く収めるにしろ、ことの原因を理解しないと始まらないだろ」

「わかっているわ、だからそれも込みでこれから色々と聞くのよ。それで葉山君、私は犯人を捜すわ。そして一言言うだけでぱったりと止むと思う。その後どうするかはあなたに任せるわ。それで構わないかしら」

「……ああ、いいよ」

 

 葉山は観念したように、さりとて納得は出来ていない顔で頷いた。とはいえ大元を潰すならそれが一番早いだろう。何しろ相手は匿名だ、身元さえバレてしまえば余程の阿呆じゃない限りは大人しく言うことを聞くだろう。

 

「メールが送られ始めたのはいつからかしら?」

「先週末からだよ。な、結衣」

 

 葉山が聞くと、由比ヶ浜も頷く。

 

「先週末から突然始まったわけね。由比ヶ浜さん、葉山君、先週末クラスで何かあったの?」

「特に、なかったと思うな」

「うん……いつも通り、だったね」

 

 由比ヶ浜と葉山隼人お互いに顔を見合わせる。

 先週末、か。彼らとは別のクラスではあるが俺も考えてみる事にした。今回のチェーンメールの内容は、匿名の人間が三人のクラスメイトを対象にして行ったメールだ。三人、という所が鍵な気がするな。

 ふと、机の上にある書類が目に入った。そういえば、確か職場見学のグループも三人だったか……ああ、そういう事か。

 

「見当が付いた、職場見学のグループ分けか」

「……うわ、それだ。グループ分けのせいだ」

「「え?そんなことでか?」」

 

 どうやら葉山と比企谷には理解できなかったらしい。雪ノ下の方を見れば、彼女も同様のようだ。

 

「こういったグループ分けはその後の人間関係にそれなりに影響が出るからな」

「そのせいで、ナイーブになる人も、いるんだよ……」

「俺はそれで昔関係が壊れたグループを見た事がある。故に合点がいった」

 

 陰鬱そうな由比ヶ浜を見て、俺も昔を思い出した。確か一年の遠足の時期だった筈だ。グループの規定人数から一人溢れたやつが、結果そのグループとの仲が酷く険悪になりそいつに対してイジメが始まった。あまり過激ではなかったが、それでもいじめはいじめ、やがてソイツは学校に来なくなった。

 由比ヶ浜があのような表情になるのもわかる。こと学校という狭い共同社会における人間関係というのは、複雑怪奇なのだ。

 思い出すだけで憂鬱になってきた。もう俺には関係のない話だ。忘れよう。

 そう思考を切りかえた俺と同じくして、雪ノ下が咳払いをし一度話を仕切り直すのだった。




長くなりそうだったので一旦ここで切ります。


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九話 人の関係とは目に見えるようで思ったより見えない

人間関係は複雑怪奇、その中にいる人間は常に気を遣わなきゃ行けない。
俺のような蚊帳の外の人間には関係のない話ではあるのだが。


「葉山君、書かれているのはあなたの友達、と言ったわね。あなたのグループは?」

「あ、ああ……。そういえばまだ決めてなかったな。とりあえずはその3人の誰かと行くことになると思うけど」

「あ……犯人、わかっちゃったかも……」

 

 由比ヶ浜のゲンナリとした声と同じように、俺も些か憂鬱な気分になる。同じように、察しが着いたからだ。

 職場見学のグループは、全クラス共通して三人からなるものだ。しかし葉山の友人は三人おり、そして葉山はその中の誰かと行くと言う。つまるところ誰かがグループの中から外れてしまうということになる。それはきっと、外れた人間からしたら耐え難い苦痛だろう。なにしろ選ばれなかったということになるのだから。

 今回のチェーンメールの動機は間違いなくこれだ。誰か一人蹴落とす為にこのメールを拡散したのだろう。

 俺の推察と同じように由比ヶ浜も説明すると、雪ノ下は顎に手を当てて、こう告げた。

 

「……では、その三人の中に犯人がいるとみてまず間違いないわね」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!俺はあいつらの中に犯人がいるなんて思いたくない。それに三人をそれぞれ悪く言うメールなんだぜ?あいつらは違うんじゃないのか」

「全く、随分とおめでたいやつだな?そんなもの、スケープゴート以外に有り得んだろう」

「スケープゴート?ヤギ?」

「責任を他人に押し付けることをそう言うのよ、由比ヶ浜さん」

 

 とはいえ、本当にそうだと決まったわけではないが。全員が犯人の可能性もあるのだから。限りなく低い可能性ではあるが。

 

「ハッ、俺ならあえて誰か一人だけ悪く言わないでそいつに罪を被せるけどな」

「ヒッキー、すこぶる最低だ……」

 

 比企谷の小狡い考えは、平塚先生に小悪党と評されるのも納得のものだった。

 

「まあ、お前がその立場になることはないから安心だな」

「おい、事実だけど言葉にするなよ」

「とりあえず、その人たちのことを教えてくれるかしら」

 

 そうして雪ノ下が各々の人となりを把握するために、葉山による人物評を聞くことに。

 戸部ならば『ノリの良いムードメーカー』

 大和ならば『寡黙で慎重な性格』

 大岡ならば『上下関係にも気を配って礼儀正しい気のいい性格』

 そしてもれなくいい奴、と葉山は最後に付け足す。

 そしてこの人物評を雪ノ下は上から

『騒ぐだけしか脳のないお調子者』

『反応が鈍い上に優柔不断』

『人の顔色を伺う風見鶏』

 と評した。さすが雪ノ下。人を悪く言う事だけなら世界一だ。悪口検定で一級を取れることだろう。

 ともあれ三人の人物評の好意的な見方と、悪意的な見方はできた。ただこれだけ見ても誰が犯人かは分からない。雪ノ下も同様のようだ。但し、全員犯人に思える、という前提があるが。

 

「……一つだけ付け足したい。戸部の人物評だ」

「え?」

「どういう事かしら、あなた別のクラスよね」

「別に、友人じゃないんだが、ちょっとした知り合いというか……まあ聞け」

 

 椅子に深く背中を預け、天井を見上げながらそう言う。天井を見ているとアイツの間抜け面が脳裏に浮かんできてすこぶる嫌な気分になる。まあとはいえ、目の前の男共々後輩が多少なりとも世話になっているようだし、少しばかりの礼だ。

 

「……いいでしょう。葉山君の話じゃあまり参考にならないと思っていたことだし、言ってみなさい」

「戸部翔。アレは一言で言えば馬鹿だ。それも天性のな。ノリと勢いだけで生きてるもんで、多分脳の使用量は常人よりも少ないだろうな。それくらいには馬鹿だ」

「もっと酷いじゃん……」

 

 戸部翔、一年の時何故か絡んできた良くわからないやつ。発言の節々から頭の悪さが分かるし、喧しいし鬱陶しいしで正直苦手なタイプの人間だった。ただ、あの妙な明るさが憂鬱だった俺にとってはいい薬だった。

 

「軽薄で無神経で、デリカシーの欠片もない男だったが……まぁ、悪人じゃない。無意識に人を悪く言うことはあれど、人を意図的に悪く言う男じゃないよ」

「……そう、なら外して良さそうね」

 

 雪ノ下はすこし驚いたような顔した後、静かにそう言った。なにやら感じる視線がむず痒い。

 

「ありがとう」

「……礼なんぞ要らん。それに、後輩が世話になっているらしいからな」

「後輩?誰のことだい?」

「教えたら酷い目に会いそうだから教えん。それよか他の二人の方はどうする。絞れたのはいいがまだ二人いる」

「そうね……由比ヶ浜さんと比企谷くんに聞いてもあれでしょうし、二人には彼らのことを調べてもらってもいいかしら?」

「……ん、うん」

 

 由比ヶ浜はすこし戸惑いの表情を浮かべながら、こくんと小さく頷く。クラスでも特別仲の良いグループに探りを入れるわけだ、気は進まないだろう。

 雪ノ下もそれを理解しているようで目を伏せる。

 

「……ごめんなさい、あまり気持ちのいいものではなかったわね。忘れてもらっていいわ」

「俺がやるよ。別にクラスでどう思われても気にならんし」

 

 ぼっちゆえの無敵感と言うべき精神で比企谷が手を挙げると、雪ノ下はクスッと微笑んだ。

 

「……あまり期待せずに待ってるわ」

「任せろ、人の粗探しは俺の百八の特技の一つだ」

「ちょ、ちょっと!あたしもやるよ!」

 

 そうしてもちろん比企谷がやるならば、と由比ヶ浜も反応する。やはり恋する乙女か。

 どうやら方向性は固まったようだし、俺は比企谷達の方をむく。

 

「ああ、そうだ。二人とも、調べるなら葉山がいない時にするといい」

「なんで?」

「俺がいないと何かあるのか?」

「実際に見れば分かるさ」

 

 

 思うに、今回の発端は葉山の人間関係が原因で起きたものだ。葉山は彼らのことを友達だと言う。それは真実だろう。この男だけそう思っているなんてことが有り得るわけがない。比企谷じゃないんだ、俺ですら多少好印象を覚える程度には人当たりのよさそうな男、そんな男が友人と称するならばそれは間違いなく友人と呼べる関係性なのだろう。

 だがその男の取り巻き、彼が友人と称する人物と、もう一人の友人と称される人物はどうだろうか。

 正直、今回のチェーンメールを丸く収めるならば葉山をハブいてしまえばいい。葉山に固執することがステータスになりうるのだろうが、わざわざこんなチェーンメールなんて回りくどいことをする必要は無い。

 つまり彼らは葉山に固執する理由があるのだ。それはなんだろうか。考えなくてもわかる事だ。上記の疑問の答え、彼らは葉山の友人であって彼ら自身は恐らく友人同士じゃないのだろう。あくまで友達の友達。悪く言ってしまえば、ただのクラスメイトでしかない。

 まあこれはあくまで推論であり推察であり、ただの予想だ。そんなものでも、早期解決を望むならこれを教えるべきだった。しかし、俺は平塚先生曰く監督役なのだそうだ。

 以前平塚先生ととある話をしたのだ。

 

「勝負の件、覚えているかね」

「そうですね……"僕は"覚えていますよ」

「私が忘れていたのは忘れろ。それで私は君に監督役を命じた訳だが……どうだ?」

「どうだと聞かれましても……なんとも、比企谷も雪ノ下もアレ、ですからね」

「そうだなぁ……」

 

 平塚先生は愉快そうにくつくつと笑う。

 

「彼女達をどうこうしろ、とは言わないよ。きっと難しいだろうし、私もそれは望んでいないからな。ただ、君は彼女達と違って色々と察しがいい。きっと先んじて気づくことの方が多いだろう」

「買い被りすぎですよ」

「かもしれないな。でも私はそう思うんだ。だがそれだけではきっと駄目なんだ」

 

 平塚先生は煙草に火を付ける。毎度思うのだが、未成年の前で喫煙をするのは如何なものなのだろうか。お陰で時折制服に煙草の匂いがほんのりと香るときがある。

 

「何より勝負の意味がないからな。きみの一人勝ちになってしまう」

「ですから、買い被りすぎですよ」

「いいや、君は優秀だよ。君が思っているよりもずっとね。ともあれ、以前命じた事以外も含めて、しっかりと監督役の務めを果たすように。以上!」

 

 彼女は俺の頭をポン、と叩き去っていった。相変わらず男の俺よりも格好いい人だと、そう思った。

 

 あれから俺も色々と考えてみた。監督役としての務め。平塚先生が俺に何を望んでいるのか、未だによく分からない。

 今の俺は額面通り受け取るしかない。

 彼らの勝負を邪魔しないように、そして依頼が上手くいくように。彼らのサポートに徹する。今できるのはそれくらいだ。

 なので今回の依頼に関しては、ああして遠回しにアドバイスというかヒントとして伝えてみることにした。恐らく俺が伝えることがなくても比企谷なら気づいた事だろう。アイツも、由比ヶ浜とは別のベクトルで人をよく見ている。ひねくれ者だからか、より穿った視点でものを見る。故に気づけるはずだ。

 だから、これはあくまでちょっとしたサポート、寄り道をしない為の入れ知恵。

 それがどう結果に繋がるから分からないが、結果として上手く行けばいい。そう願う。

 

 

 翌日の放課後、部室では比企谷と由比ヶ浜による報告が始まった。俺の予想通り、彼ら三人はあくまで葉山の友人であり、彼らの関係性は友人の友人、グループに属している知人でしかなかった。葉山も由比ヶ浜も気づいてはいなかったが、蚊帳の外である比企谷だからこそ気づけた問題だと言えよう。もちろん俺も気づいた。人間関係は俺の得意分野だからな。

 そんな俺に気づいたのか比企谷は文句を言ってくる。

 

「というか、お前気づいてたなら先に言えよ」

「俺にも色々と事情というやつがあるんだ。それで?お前の発見はあくまで動機の補強にしかならないが、一体どうする?」

「そうね、三人、いえ二人のうちのどちらかを消さない限り事態は収束しないわ」

「いや、犯人を消す必要はない。消すのは別ものだ」

 

 その言葉に雪ノ下はこてん、と不思議そうに首を傾げる。

 どうやら比企谷は気づいているらしい。どうやって?という疑問と、どうして?という疑問。事態の収束をするだけならば前者だけでいい。しかし今回は後者の動機という部分に、依頼人である葉山が望む円満な解決方法が潜んでいる。

 

「葉山、お前が望むなら解決することは出来るぞ。可能な限りお前の望みに近く……そして、あいつらが仲良くなれるかもしれない方法だ」

 

 ごくり、と誰かが唾を飲む音がする。それと同時に由比ヶ浜の「う、うわぁ」と引いた声も。しかし比企谷はその素敵な笑顔を止めることはなく、葉山に問う。

 

「知りたいか?」

 

 そんな提案に葉山が頷かない理由はなかった。

 

 

 葉山の依頼は比企谷の提案によって解決した。それは葉山以外の三人でグループを組むというもの。おおよそ予想通りの提案だ。まあこんなもの誰でも出来る予想だが。ともあれ、結果としては比企谷の提案によって葉山は納得、三人の関係性も解消されたということで正しく完璧な依頼達成と言えよう。

 さて、その後の奉仕部はと言うと。なんでも学校外で比企谷の妹と川崎という総武高の女子生徒の弟から依頼があったらしいのだが、間の悪いことに依頼を受けた翌日体調不良でそもそも学校を休んでいた。日頃の不摂生が祟ったと言うべきだろう。定期的に体調が悪化するのだが、学校に行けなくなるレベルなのは久々だったので少し反省している。

 なので雪ノ下から渡された活動記録書に書かれた内容と、彼らの話でしかその依頼については知らない。依頼の方は、自身の進学費に不安があった川崎とやらに比企谷がスカラシップ制度を勧めて解決したらしい。

 そうして奉仕部は再び依頼人が誰も来ない暇な期間が続き、件の職場見学の日。

 比企谷のクラスは結局殆どのクラスメイトが葉山と同じとこに行くことになったらしい。相当の人気だ。

 対する俺はというと、クラスの余り物枠として突っ込まれたので発言権がなかった。正直比企谷の事を馬鹿には出来ない。なので楽したいが為の図書館ではなく、知らん雑誌を出している編集社に行くことになった。

 まぁ正直そこでの内容は話すことはない。俺自身本は嫌いというのもあって、さほど興味が湧く事もなく、グループ間でも余り物らしく俺は眠気に耐えなければならないのもあり基本は喋ることもなかった。なので職場見学については特筆するべきことなくその日を終えた。

 これから夏休みまで特にイベント事もないだろうから、俺たち奉仕部も恐らく変わらない日常を過ごすことだろう。奉仕部の日々がもはや日常と呼べるくらいに馴染んできたのは、歓迎するべきなのだろうか、それとも嫌がるべきなのだろうか。なんにせよ、慣れるのはいいことだ。何事も肝要なのは慣れなのだから。

 そうして奉仕部の扉を開け、俺たちはいつもの日常を過ごした。

 由比ヶ浜結衣が何故か部活動に来なくなったことを除けば。




川なんとかさんの依頼は飛ばします。
仮にいても文句言っているだけなので。
次回一悶着描いてからデート回です。


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十話 変わりつつあるもの

 由比ヶ浜のいない部室は静かだった。雪ノ下がいつものように文庫本ではなく珍しく雑誌を捲る音がするのみで、部室は環境音以外、耳に入る音はない。

 ポットに入れた湯が沸いたので、インスタントコーヒーの粉末をカップに入れ、そこに湯を注ぐ。マドラーでコーヒーを混ぜながら席に着いても、俺たちの間に会話はない。

 こうした沈黙が流れ続けるのは随分と久々だった。由比ヶ浜が来なくなったのは精々一週間程度だが、それがやけに違和感を覚える程度には俺も雪ノ下も比企谷ですら奉仕部の騒がしさに慣れ切っていたようだ。

 由比ヶ浜が来るのかと、雪ノ下は先程までチラチラと部室の扉を見ていたし、比企谷も現在進行形でボケーッと扉を見つめていた。

 

「由比ヶ浜さんなら今日は来ないわよ。今メールが来たわ」

 

 携帯を見ながら雪ノ下はそう呟く、その声色には少しばかりの落胆の念が篭っているように聞こえる。

 

「そ、そっか……べ、別に由比ヶ浜のことなんて気にしてないんだからね!」

「気色悪いな。なんだ?ツンデレ、というやつか?お前にそんな需要があるとでも?」

「いや、そこまで言わなくてもいいだろ……それにちょっとくらい需要あるかもしれないだろ」

「微生物にすら需要はなさそうだがなあ……」

 

 俺たちのやり取りを他所に雪ノ下はひっそりとため息を吐く。

 

「由比ヶ浜さん、もう来ないつもりかしら」

「どうだろうな。本人には聞いたのか?」

「聞くまでもないわ。私が聞いたらあの子は行くってきっと答えるもの。たとえ来たくなくても……たぶん、来るわ」

「確かに……由比ヶ浜はそういう女だったな」

 

 由比ヶ浜結衣とはそういう女だ。無理して他人に合わせようとする性格、それは優しさというよりかは他人からの失望を恐れるもの。だからこそ人の顔色を窺う。奉仕部に入ったことによりその性質も改善されつつはあるが、三つ子の魂百までとも言う、まあそう簡単には消えない性質だろう。

 そして何より、きっと彼女は雪ノ下が悲しむ顔を見たがらない筈だ。だからこそ、無理してでも奉仕部にやってくる。

 雪ノ下は奉仕部の中で由比ヶ浜と一番関わりがあるだけあってかその性質をよく理解している。

 寧ろそれを理解できていないのは俺から見て左にいるこの男かもしれない、なんて思い比企谷の方を見る。図らずもそれは雪ノ下も同じだった。

 

「な、なんでしょうか」

「あなた、由比ヶ浜さんと何かあったの?」

「いや、何も」

 

 即答だった。

 

「何もなかったら、由比ヶ浜さんは来なくなったりしないと思うけれど。喧嘩でもしたの?」

「いや、してない、と思うが」

 

 いつもだったら屁理屈の一つや二つは出るであろう比企谷が珍しく言葉に詰まる。どうやら本当に何かあったらしい。

 比企谷のこの様子にも驚きだが、雪ノ下がわざわざこうして質問するのも驚きだった。雪ノ下はあまり個人の事情に深入りしないタイプかと思ったが、親しい人間が関係しているとなるとそうでもないのだろう。それを見なかったのは単に彼女に親しい人間がいなかったからだ。

 しかし喧嘩か、比企谷の反応を見るとどうも違うような気もする。喧嘩なら比企谷が多少なりとも悪感情を持っているものだが、そういったものは見受けられない。

 

「そうやって言葉に詰まるということは、何かあるのは間違いないようだが。確かに喧嘩というわけじゃないようだな」

「……そうだな、別に喧嘩してるとかじゃない。どっちかっつーと……」

「ふむ……そうだな、諍い……いや、すれ違いあたりか?」

「それだ。それが一番しっくりくる」

 

 すれ違いか。由比ヶ浜と比企谷の間で何をどうすれ違ったのか。判断材料が少ない。なにぶん俺たちはお互いのプライベートまで探りを入れることはない。俺はちょっとした予想なら立てることはあるが、あくまでその程度で実際に質問するなんてことはない。それはきっと雪ノ下も同じだろう。

 

「そう、なら仕方ないわね」

 

 雪ノ下は諦めたかのように小さく溜息をつき、それ以上比企谷に対して何か問うことはなく、再び静寂が部室を包む。

 しかし、由比ヶ浜の比企谷への態度を見るに何かしらの因縁というか、繋がりはありそうなものだが。彼女のような少女が比企谷のような男をただ同じクラスメイト、と言うだけでここまで気にかけるとは到底思えない。

 比企谷はいつだったか、由比ヶ浜の事を優しいと言っていた。それは確かに真実だ。しかしその優しさにだって強弱はあり、向ける対象がある。実際、雪ノ下や比企谷に対して由比ヶ浜は壁がほぼないが、俺に対してはある。未だに苗字呼びだからな。とはいえあのネーミングセンスであだ名をつけられたいとは思わないが。

 もしかしたらその認識の違いが、何か比企谷と由比ヶ浜の間ですれ違う要素になったのだとすれば───。

 俺がさらに深い思考の沼に沈もうとするタイミングで雪ノ下が口を開く。

 

「今日はもう、終わりにしましょうか」

 

 その声色は弱々しく、諦観を帯びたものだった。

 

「……いいのか?依頼人、来るかもしれないぞ」

「……田島くん、平塚先生からは何か聞いているかしら」

「あ?そこでなぜ俺が出るのかは知らんが……特に何も、ない、筈だ……恐らく」

 

 正直平塚先生との会話はあまり真面目に聞いていな事の方が多い。いや勿論彼女が時折重要な事を言っているのは分かるのだが、それ以外がアニメやら漫画やらゲームやらのネタでよく分からないのだ。なので、少しばかり記憶に自信がない。

 

「……あなた、自信や気力、プライドがないだけじゃなくて、記憶力までないの?ないない尽くしもここまでくると病気よ。一度信頼出来る病院に掛かることをオススメするわ」

「水を得た魚のように隙を見せたら罵倒し始めるのはやめろ。先程までのしおらしい雰囲気はどこにいったんだ?全く……仕方がないだろう、話の内八割はネタが古いのか知らんが、理解できん話ばかりだ」

「あー、ちょっとわかるわ。だから先生結婚できないんだよって───」

「ほう?誰がなんだって?」

 

 乱雑に扉が開けられる。それと同時に比企谷のヒュっと小さく息を飲む音が聞こえた。

 

「先生、ノックを……」

「いや何、私も顧問だからね、由比ヶ浜の様子を見ることも兼ねて来てみたのだが、随分面白い話をしているじゃないか比企谷。それで、誰が、結婚できない、だって?」

「ひ、ひや、平塚先生とは一言も言っていないし、大体それで先生が自分だと思ったならそれは先生自身自覚してることで、い、いや、ぼ、暴力反対!」

「チェエエエストオオオオ!」

 

 自分から墓穴を掘りに行く辺り阿呆だ。比企谷の汚い呻き声を聴きながら啜るコーヒーは格別だった。他人の不幸は蜜の味。全く、格言だな。

 

 

「君たちは月曜日までにもう一人、やる気と意志を持った者を確保して人員補充したまえ」

 

 そして当初の予定通り今日の部活はここまで、と俺たちは平塚先生によって部室から追い出された。人員補充、ね。平塚先生もなかなかどうして無茶を言ってくる。この三人の交友関係など高々知れているだろうに。

 鞄を背負い直していると、雪ノ下が去ろうとする平塚先生に声をかける。

 

「平塚先生。一つ確認しますが『人員補充』をすればいいんですよね?」

「その通りだよ、雪ノ下」

 

 そう、ただ一言だけ返答し平塚先生は去っていく。そんな彼女の背中を一瞥して、俺は二人のほうへと顔を向ける。

 

「しかし人員補充と言ってもどうする?生憎と俺には心当たりなんかないぞ」

「あなたに期待なんかしてないわよ。でも、入ってくれそうな人に心当たりならあるわ」

「誰?戸塚?戸塚か。戸塚だよな?」

「あいつはテニス部だろうが」

 

 戸塚であれば頼めば入ってくれるかもしれないが、望みは薄いだろう。何せ彼はテニス部の発展に尽力している。最近だと彼の頑張りに感化されてテニス部全体が積極的に練習などを行うようになったらしい。そんな彼をこちらに引き抜くのはさすがに忍びない。

 

「もっと簡単な方法があるでしょう?」

「簡単って……どんな?」

「わからない?由比ヶ浜さんのことよ」

「……なるほどな」

 

 確かにそれなら簡単だ。

 由比ヶ浜を説得することが出来るのであれば、の話だが。とはいえそれも難しい話ではないのかもしれない。隣でアホ面を見せている比企谷次第にはなるだろうが。

 

「は?や、だってやめるんでそ?」

 

 雪ノ下は肩にかかった髪を払い、比企谷を見る。その瞳には確かな決意が込もっている。先程までの弱々しい彼女は、もうそこにはいなかった。

 

「だったらなに?もう一度入り直せばいいでしょう。平塚先生は人員の補充さえ出来ればいいと言っていわけだし」

「まぁ、そうかもしれんけど……」

「それに……つい最近気づいたのだけれど、私はこの二ヶ月間をそれなりに気に入っているのよ」

 

 俺と比企谷が思わず顔を見合わせ、その後同時に雪ノ下を見る。まさか雪ノ下からこんな言葉が飛び出すとは思わなかった。

 雪ノ下も変わりつつある、ということだろうか。そんな俺たちの視線に気づいたのか顔赤らめて、咳払いをする。

 

「とにかく、由比ヶ浜さんが戻ってくる方法を考えておくから。だから、比企谷くんは変な顔をしないでちょうだい」

「いや別に変な顔はしてねぇよ」

「してたわよ」

「してねぇよ」

「なぁ?」「ねぇ?」

「……俺に振るな」

 

 思わずため息をつく。とはいえ、雪ノ下が珍しい様子を見せてくれたのだ。俺の方でも方法を考えてやるとするか。

 

 

 と、意気込んでから数日。もはや週末になったのだが、未だにいい案は浮かばなかった。何しろ比企谷と由比ヶ浜のすれ違いの原因が分からない。あと一歩、というところまでは来ているとは思うのだが、そこから先が分からなかった。比企谷に聞いてみたはいいものの『別に大したことじゃねぇよ』なんて言って煙に巻いてくる。

 もちろん深く追求できるにはできる。平塚先生から人員の補充を命じられている以上俺にはその権利もあるだろう。だが、なんというべきか。軽々しく踏み込むものじゃないような気がした。第六感なんて馬鹿馬鹿しい。直感なんて信じるべきではない。が、世の中には虫の知らせという言葉もある。何より、踏み込んだとて俺が二人の問題を解消できるかどうかの自信がなかった。

 なので原因が分からない以上は手詰まりだった。ここで物語の主人公であれば素晴らしい閃きを見せて問題の収拾をつけるのだろうが、俺にはそんなの不可能だ。できることと言えば、どうしようもない苛立ちを習慣となっているのピアノにぶつけるぐらいだった。

 

「……とはいえ、感情が乱れては良い音楽は奏でられない。だろ?」

 

 そうぽつりと、つぶやく。

 つまるところ、止め時である。雪ノ下には申し訳ないが、ここら辺で俺は匙を投げるとしよう。椅子から立ち上がり、ピアノ以外は何もない部屋を出た。

 コーヒーでも入れようとリビングに戻ると、スマホのバイブレーションする音が聞こえる。

 画面を見れば見知った電話番号だった。

 

「田島ですが」

『一色です。田島さん今大丈夫ですか?大丈夫ですよね!どうせ田島さん暇ですし』

 

 相手は一色だった。電話越しでも変わらない甘ったるい声が耳に入る。

 

「……一言目から随分なご挨拶だな後輩」

『やだな〜怒らないでくださいよ〜』

「それで?要件はなんだ?世間話なら切るぞ」

『あれ、なんかホントにイライラしてます?』

「そう思うならそうなんじゃないか」

『あ、分かりました言いますから切らないでください!』

 

 通話終了ボタンに指をかけようとしたら一色が焦ったように引き止めてきた。察しのいいやつだ。

 

『それで田島さん、明日なんですがお暇ですか?』

「明日?まあ、暇だな」

『それなら、デートに行きましょう!』

 

 甘ったるい声で、一色は俺にそう告げたのだった。




次回こそデート回


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十一話 苦くて、憂鬱で、ほんのり甘い

たとえその笑みが、他の誰かに向けられることがあるのだとしても
きっとそれを、尊いものだと思うのだ


 

 一色からの連絡の後、俺は特に何もすることなく予定通り珈琲を淹れていた。今日は普通のドリッパーを使ったものではなく水出しコーヒーでコーヒーを抽出しようと思う。

 水出しコーヒーは熱を加えない分、苦味や雑味が抑えられ、一滴一滴時間をかけて抽出するので味わい深く濃いコーヒーが出来上がる。

 フィルターにコーヒー粉を入れ、少量の水で湿らせた後、サーバーにセット。その後水を適量入れて、タンクの中の水が落ち切るのを待つ。

 ポタ、ポタ、と上から抽出されたコーヒーが落ちてくるのをゆっくりと待つ時間は焦れったさを感じるが、俺はこの時間が嫌いじゃない。ゆったりとそして静かにクラッシックでも流しながら優雅な時を過ごす。実に有意義な時間だろう。

 さすがにレコードなんぞは持っていないので、スマートフォンを使ってのものになるが。

 ストリーミングサイトを使って、往年の名曲クラシックでも流そうと思っていると、スマホが着信音を響かせながら震え始めた。

 どうやらまた電話が来たらしい。一色かと思って、画面を見ずに通話ボタンを押して耳に当てる。

 

「もしもし」

『もしもし、雪ノ下です』

 

 聞こえてきた声はここ最近でよく聞くようになった声だった。透明感のある涼やかな声の主は、雪ノ下雪乃その人だった。

 以前、部活の際に比企谷が遅れてきた時があったのだが、その時にわざわざ由比ヶ浜が探しに行ったことがあった。その際に比企谷の名前を出して、返ってきた反応は「比企谷?誰それ?」というものばかりで探すのに苦労したとか。

 なので由比ヶ浜の提案でそれぞれのメアドを交換することになったのだが、俺がメアドを持ってないもんだから電話番号を教える事になった。その流れで雪ノ下にも教えたのだが、その時に教えたっきりでこちらからも向こうからもかける事はなかった。仮にかけるとしても、俺が必要に駆られてというシチュエーションでしか有り得ないだろうと考えていた

 なので、こうして雪ノ下の方から着信が来るというのは些か、いや、かなり驚きだ。正直言って二度と使うことの無い番号だと思っていたからだ。

 

『田島くん?』

 

 そんなふうに少し面食らっていたせいで、雪ノ下から疑問の声が飛んできた。

 

「悪い。少し、意外だったものだからな」

『私からの電話が?』

「ああ。正直、かけることも、お前からかかってくる事も考えてなかった」

『言葉を失うほど?もしかして女の子と通話をするのは初めてなのかしら。なら喜びなさい。これであなたも一つ上の階段を上ることが出来たわ。勿論、ホモ・サピエンスには程遠いけれど』

 

 俺は類人猿以下だと?相変わらず罵倒となると口の回る女だ。俺の驚きと感慨深さを返して欲しい。

 

「なんだ?俺を罵倒するためにわざわざ電話をかけてきたのか?お前も暇だな」

『違うわ。あなたと一緒にしないでもらえる?』

「だったら要件を言え」

 

 雪ノ下からこれ以上罵倒される事を避ける為に、彼女の要件を聞く。すると雪ノ下一瞬悩むように息を吸ったような、そんな音が聞こえた。

 

『……その、明日のことなのだけれど。暇かしら?』

「明日?用事があるんだが……どうした、何かあるのか?」

 

 雪ノ下がわざわざ俺に電話を直接かけてくるくらいだ、余程の事と見た。まず奉仕部関連であることは間違いない。その中で考えられることは、外部でなにか活動があるのか、あるいは、由比ヶ浜の件か。後者であるならば、確かに彼女が俺に連絡してくるより強い動機になるだろう。

 

『この前、由比ヶ浜さんがどうすれば戻ってくるか考えてみるということは言ったわよね』

「そうだな。それで進捗はどうだ?俺の方は何も思いついていないが」

『一つだけ分かったことがあるわ。由比ヶ浜さんのアドレスに0618って入っていたの。多分、彼女の誕生日よ』

「なるほどな、つまり明日誕生日パーティーでもやるのか?」

 

 雪ノ下が開く誕生日パーティー。どんなものになるのか想像がつかないな。料理だけはクオリティが高そうだが。

 

『それは月曜日。明日は彼女の誕生日プレゼントを選ぶわ』

「ふむ……」

 

 プレゼントか……確かに妥当な案ではある。現状由比ヶ浜が戻ってくるように説得する機会もないのだから。それに、比企谷と由比ヶ浜、直接顔を合わせて話し合う機会を作るという点でも、理にかなっていると言えよう。

 

『本当はあなたにも着いてきて欲しかったのだけれど、用事があるのよね?』

「まあな。しかしなぜ俺を?大して役には立てんぞ」

『それでもいないよりはマシでしょう』

「そうか?」

『そうよ。でも、用事があるならいいわ。一応小町さんも呼んでいる事だし』

「小町さん……?ああ、比企谷の妹か」

 

 俺は詳しく知らないが、川崎弟の依頼の際に比企谷の妹も同席していたそうだ。名前は比企谷小町。雪ノ下や由比ヶ浜が言うには、本当に比企谷の妹かどうか疑わしい程の溌剌さと可愛らしさを備えた中学生との事。

 話が違わなければ確かに適任ではあるだろう。俺や比企谷、雪ノ下よりかは最近の流行にも詳しそうだ。

 

「なるほど、確かに兄よりも適任だな」

『ええ、そうでしょう?あなたよりもね』

 

 クスクスと雪ノ下が俺を嘲笑する。

 

「……とにかく、プレゼントだな?俺の方でも見繕っておく」

『お願いするわ。私、彼女に伝えなければならないことがあるから』

「そうか。話は以上か?なら──」

『待って』

「あ?」

 

 通話終了のボタンを押そうとすると、赤いアイコンに指が触れる直前で雪ノ下から止められた。

 

「……なんだ」

 

 再びスピーカーからは雪ノ下の息遣いだけが聞こえる。これだけ言うと変態のようだが、ノイズ混じりのそれはあまり心地の良いものではない。それにこの静寂は、まるで問い詰められているような息苦しさを感じる。

 

「……おい。用件がないなら切るぞ」

『あなたは……あなたは由比ヶ浜さんに伝えることはないの?』

「俺が?」

 

 なぜ俺なのだろうか。今回の一件の原因は比企谷だ、俺はなんら関係の無い話だろう。まあ同じ部員という括りで見れば彼女の言い分も分からなくはないが。

 しかしながら質問の意図はわからない。

 

『……ないならいいのよ。それじゃ』

 

 そう言って雪ノ下は電話を切った。

 電話だと相手の顔色が見えないから、何が言いたいのか分からなくて少し怖い。

 抽出したコーヒーをカップに入れて、それを飲みながら先程の雪ノ下の質問を考えるが、やはり俺には分からなかった。

 

 

 来る日曜日。

 今日は梅雨の晴れ間と言うべき晴天の最中、俺は一色に指定された駅前の待ち合わせ場所に立っていた。

 季節も夏に入ったばかりであり、うだるような暑さだった。根っからのインドア派の俺としては立っていることすら辛い。どこか座れるところでもあればいいが、休日の駅前は家族連れのやカップル、休日すらも仕事の人間等で賑わっており、座れるようなところに俺の居場所はない。

 仮に空いているところあったとしても、そこには先にカップルやら何やらが座っており、一人分すら開けられないスペースで、しかもその上彼らの間座ることになる可能性があるなんて考えると、さすがにゴメンだ。

 だからこうして突っ立って待っている訳だが、流石に辛い。

 それにしてもあの女いつ来るんだ。かれこれ待ち合わせ時間から三十分は過ぎている。一色は普段から待ち合わせをするとなるとだいたい遅れてくる訳だが、今回は特段遅い。一体何をしているんだ、全く。

 目立つ女だし、何か面倒な輩に絡まれてなければいいが。さすがに電話ぐらいかけてみようと思い、スマホを取りだしたタイミングで声がかかる。

 

「すみませ〜ん!お待たせしました〜!」

「……遅いぞ」

 

 ベージュのオーバーオールに、白のブラウスとスポーツサンダルといった夏らしい涼し気な格好をして、一色いろはは待ち合わせ場所にやってきた。少し息が乱れているのを見るに、それなりに急いで来たことが伺える。

 俺の返答に納得がいかなかったのか、一色はジトッとした視線を飛ばしてきた。

 

「……こういう時は、『今来たとこ』と返すべきって、前もわたし言いましたよね?」

「こんなクソ暑い日に待たせる方が悪い」

「しょうがないじゃないですか〜。人身事故で電車止まっちゃったんですよ」

 

 遅れてきた理由は人身事故か。スマホで軽く調べると、確かに電車が遅延しているようだ。嘘ではないらしい。まあ、別に疑っている訳ではないが、念の為である。あくまで念の為。

 

「なら電話ぐらい入れろ。そうと分かっていたなら適当な店で涼んでたというのに、全く……そら行くぞ」

「あ、ちょっと待って下さいよ〜」

 

 何か言いたげな顔をしていた一色だが、俺は話を切って歩き出す。何しろ暑いのだ。いい加減、クーラーが多少なりとも聞いた屋内に入りたいという気持ちを優先してしまうのも仕方のないことだろう。

 まあ、それと少し心配して損をした気分、というのもなくはないが。

 

「もしかしてずっと外で待ってたんですか?」

 

 隣に並んだ一色が顔を覗き込むように聞いてくるが、思わず視線を逸らしてしまう。

 

「……悪いか?」

「いえ。馬鹿なのかな?とは思いましたけど」

 

 呆れたように一色はクスリと笑う。 

 

「お前が遅れてこなければ待つ必要もなかったんだがな」

「いや、だからそれは電車がですね……」

「わかっている、それでも恨み言の一つくらいは言わせろ。それで?今日は何をするんだ?」

 

 実の所今日の目的地はららぽーとというのは聞いているが、そこで何をするのかは聞いていなかった。なので向かう道中でついでに一色に質問をしてみる。一応デートという話でもあるので、本来なら俺がプランを考えるのがいいのだろうが、面倒、かつコイツから誘ってきたのだからやりたい事くらいはあるだろう。

 

「そうですね……なんか、服とか見たいです」

「服か……まあ構わんよ」

「あとはぶっちゃけノープランです。田島さんは何かやりたい事とかありますか?」

「ない…と言いたいが、実はある」

「え」

 

 ぽかんと口を開けた間抜け面で一色はこちらを見る。そんなに俺にやりたい事があるのが珍しいのか。珍しいのだろう。何しろ俺もそう思う。

 

「色々と見て回りたい。お前の要件が終わってからでいいが」

「それは勿論いいですけど……」

 

 ボソリと一色は「ちょっと驚いた」と胸に手を当てている。そこまでか?そんなに心拍数確かめるような行為をする程に俺が目的を持って動くのが意外なのか。

 まあでも、一色ならばそうなのかもしれない。俺を誰よりも知るこの子ならば。

 

「とにかく、さっさと行くぞ」

「ちょっと、待ってくださいよー!」

 

 俺は少しだけ歩みを早めた。一色に対する申し訳ない気持ちを悟られないように。

 

 

 休日のショッピングモールはやはりと言うべきか人が多い。学生や家族連れ以外にも老若男女問わず様々な人間が集まっている。

 近隣でも最大のショッピングモールと言うだけあって、広いのでその分やってくる人間も多い、というわけだ。

 その分店員達もやる気に溢れているわけで、そんな中アパレル系なんかの店に入ってしまうとどうなるかと言えば───

 

「お客様、本日は何をお探しでしょうか?」

「ああ……いや、ぼくは連れを待っていまして……」

「そうですか、何か御座いましたらお声がけ下さい」

 

 こうなるのである。俺は普段こうした大型のショッピングモールなんて全く利用しない人間であり、服なんかは専ら古着や適当にネット通販で買っているので慣れていない。とはいえそればかりだと駄目だと一色に言われて、時折こうした店に来るのだが未だに慣れそうにないな。

 服屋やアパレル系の店員は、こうして話しかけて売るノルマがあるとかどうとかと以前に聞いたが、そのノルマを達成する為に彼らも必死なのだろう。俺としては迷惑なことこの上ないが。他人に無遠慮に、自身のパーソナルスペースにはいられるというのは中々どうして筆舌に尽くし難い。

 一人だったら近づいてくる気配を察して立ち去るのだが、今回は一色がいるのでそうもいかなかった。

 

「田島さん、これとかよくないですかー?」

 

 そんな店員に辟易していると、一色が夏服のTシャツを持ってきた。白地で胸元にワンポイントのあるものだ。

 

「あ?ああ……良いんじゃないか」

 

 どうでも。

 

「プリーツスカートと合わせると似合いそうだ」

「ですよね!」

 

 なんて言うと拗ねること請け合いなので、適当に答えておく。

 楽しそうに再び物色し始める一色を他所に、由比ヶ浜に渡すプレゼントを考えては見るが、服はないな。重いというか最早気持ちが悪い。

 

「さっきのは買わんのか?」

「はい、お金ないので」

「そうか」

 

 女というのはどうして買う気のないものをわざわざ見に来るのか、いわゆるウィンドウショッピングと言うやつだろうが、どうにも時間の無駄なような気がしてならないな。

 俺はめぼしいものは特に見つからなかったので、一色を放って一度店を出る。外で待っていればアイツが出たとしてもわかるだろうと思い、出てすぐ目の前にあるベンチに座った。

 しかし、ここまで一色の冷やかしに付き合いつつ俺も色々とめぼしい物を探してはみたが、今のところこれだと思うものは見つかっていない。

 由比ヶ浜が好きそうなものとはなんだろうか。イメージとしては、頭が悪そうな物が好きそうではあるが。

 丁度、一色の方もあらかた見たのか店を出たようだし、折角だから聞いてしまおう。

 結局、財布と相談した上でお眼鏡に叶うものはなかったらしく変わらず手ぶらの一色に声をかける。

 

「来たか」

「あっ……もう、田島さん先に出ていたんですね。声くらいかけてくださいよ」

「悪かった。それより、少し質問していいだろうか」

「はい?まあ、いいですけど」

 

 俺の唐突な提案に怪訝な顔しながら一色は頷いたあと、俺の隣に座る。

 

「……お前、俺からプレゼントを貰うとしたら何がいい?」

「はえっ!?…………はっ!?もしかしてわたしを落とすつもりですか?そういうのはいくら田島さんでもちょっと早いと思います、ごめんなさい」

「……随分と久々に聞いたな、その口上」

 

 一瞬硬直した一色は、直ぐに動き出し俺の質問に答えることなくワタワタと腕を前に突き出して早口で何か言ったと思ったら、ペコリと頭を下げた。

 一色いろはの口癖なのだろう。時折こうして何か勘違いをしたと思ったら早口で俺の事をフッてくる。告白もしていないのにだ。勿論、するつもりは毛頭ない。

 最近はあまり聞くこともなかったもんで、思わずそう呟いてしまったが、そうそうに誤解を解く必要がある。

 

「何を勘違いしている、お前に渡すわけがないだろう。知り合いの女に渡す必要があるんだが、その参考にお前からの意見が聞きたかっただけだ」

 

 俺の言葉に一色はむくれる。

 

「は?それはそれでなんかムカつくんですけど。でも納得です。だからさっきからレディースのコーナーを結構真剣に見てるんですね」

 

 一色が気になるくらいには真剣に見ていたらしい。頭を悩ませている目下の原因なので仕方がないのだが。

 

「何を渡したものかと、悩んでいてな」

「渡す相手が誰なのかとかよくわからないですけど、ゴディバとかじゃダメなんですか?」

 

 と俺の話を聞いた一色から提案される。

 

「俺も一度は考えたとも。だが、無難過ぎてもアレだ。今回の目的は関係性の進展にあるからな」

 

 俺だけ無難な選択だとかえって気を遣われていると感じるかもしれない。由比ヶ浜はそういうところは気にする女だろう。

 

「だから一応消耗品ではない物を渡した方が効果があると考えている」

「関係性の進展ですか?誰と?」

「……俺の所属している部活動で色々とな」

「は?田島さん部活入ってるんですか!?」

 

 俺の言葉に一色が今日一の大きな声を上げる。彼女も思ったより大きな声が出たのか恥ずかしそうに今度はボリュームをかなり抑えて耳元で囁くように声を出した。極端だな。

 

「……聞いてませんけど……!」

「言ってなかったか?」

「ないです……!」

「そりゃ悪かった」

 

 確かに言った覚えがない。恐らく言う機会がなかったのだろう。その必要もないというのもあるが。そもそもこうして休日遊びに行くのに部活動に入っているかどうかはさほど重要ではない。

 一色がこうして不機嫌になる理由が俺には思い当たらなかった。

 

「はあ……だから放課後の予定聞いてもいつも空いてないって言ってきたのか……」

 

 と、顎に手を当ててブツブツと呟き出す。

 

「なんだ?」

「なんでもないです!」

 

 一色は勢いよく立ち上がった後、つかつかと歩き出したと思ったら不機嫌そうな顔で振り向く。

 

「何しているんですか、探すんでしょう?プレゼント」

 

 そうしてその顔を帰ることなくこちらへとそう告げてきた。

 その様子にフッと吹き出してしまう。

 本当に、変わらないやつだ。

 ベンチから立ち上がり一色の隣に並ぶ。

 

「悪いな」

「そう思うなら何か奢ってください」

「お前だって遅刻しただろう?」

「釣り合いが取れません」

「……なんだったか、新しいクレープ屋がオープンしたらしいぞ」

「……それなら許してあげましょう」

 

 そう言って彼女はひまわりのように笑うのだ。




大変後れてしまって申し訳ない。
どうにも展開を考える上で没にしすぎて軽くモチベが下がっていたものですから。
あとTRPGのシナリオ作りの方が捗ってしまったのもある。
あとブルアカが楽しすぎたのもある。
いやほんと申し訳ない。


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十二話 山の天気と女の機嫌は何処か似ている

女というのは怒ると手がつけられないとはよく言ったものだ


「それで、プレゼント何を選ぶんですか?」

 

 ショッピングモール内を歩きながら一色が俺にそう質問する。

 

「そうだな……いやこれが全くもって検討がつかん」

 

 再三言っている通り、部活動以外では由比ヶ浜と関わりのない俺は、彼女の趣味、嗜好、何を貰えば喜ぶのかとか、その辺の事を把握出来ていない。

 これが目の前の亜麻色の髪を揺らす少女であれば話は別だが、こと由比ヶ浜となると検討がつかない。故に、現状俺は何を買うべきなのか取っ掛りすら掴めていない状態であった。

 あまりにも不確定な情報で動いているとは俺自身感じている。感覚としては砂漠で一粒の砂金を探し歩き回っているようなそんな感覚だ。まあ砂漠ほど広大ではないのが救いではあるか。

 さすがに闇雲に探すのは嫌なのか一色が不満げな顔をして口を開く。

 

「せめて何が好きかくらいは分からないんです?」

「さっぱり分からん」

 

 お手上げだ、とばかりに肩をすくめれば、彼女はげんなりとした顔になる。

 

「そんなにですか……まぁでも、だいたい最近の女の子だったらこういうとこで買い物すると思いますよ」

 

 そう言いながら一色がショッピングモール内に付けられている案内板を指さした。

 それはモール内一階の奥の方に位置する場所で、見れば馴染みはなく、短い人生で聞いたことがないような店の名前が並んでいた。

 

「ふむ……まあ、向かってみるか」

「はい、行きましょう」

 

 そうして俺たちは一階へと向かうために歩みを進める。その道中、比企谷と何処か似た少女を見かけたが……さすがに気の所為だろう。比企谷と似ているなんて言うのは、見知らぬ少女に対して失礼だ。

 いやしかし、思い返しても似ていたような気がするな、何故そう感じたのだろうか。あまりジロジロ見る訳にも行かないので、一瞬だけ目をやっただけではあるが、それでも見て取れるくらいには溌剌な小柄な女の子だった筈だが。容姿に関してはさすが詳しくは見れなかった。確か黒髪のショートだったような気もするが、それだけで似ていると言われるのは心外だろう。

 もしかして、噂の比企谷の妹の可能性は……いや、ないか。

 そうこう悩んでいる間に目的地に着いたようで、当たりを見渡せばピンクだの蛍光色だのと言った目に悪そうなショップが並んでいる。この広いショッピングモールでもとりわけ若い女が好きな店を集めましたという印象を受ける区画だった。

 

「なるほど、確かに女が好きそうな店だ」

「偏見しかない意見ですね……まあ、あながち間違ってはいないとは思いますけど」

 

 早速適当な雑貨店に入って並んでいるものを物色する。花柄のナプキン、花柄のスリッパ。花柄のカーテン───花柄ばかりだな。見ればそういう専門店のようで、棚にはいくつもの花柄やら、花をモチーフにした商品などが並んでいた。

 

「田島さんここお花ばっかりですよ」

「……ないな、ナシだ次行くぞ」

「即断即決ですねぇ……」

 

 由比ヶ浜に花のイメージはないし、少し洒落すぎだろう。由比ヶ浜のアホっぽいイメージには似合わない。なんというか、花の柔らかなイメージではなくもっとアホアホしいピンクとかが似合いそうだ。

 今入っている店を出て、また別の店に入る。暫く眺めたが、ここもダメだな。

 

「どうですか?」

「あまりピンと来ないな」

 

では次。

 

「じゃあこっちはどうですか?」

「違うな」

 

次。

 

「……一応聞きますけどどうですか……?」

「いやこれは流石に……」

 

次。

 

「こ、これとか……」

「普通すぎるな」

 

次、ナシ。

他ナシ。

ナシ、ナシ、ナシ─────

 

 

「なーんも、決まりませんね」

「なーんも、決まらん」

「まあ田島さんが拘るせいですが」

「……悪いとは思っている」

 

 二人してベンチで項垂れる。いや主に項垂れているのは俺だけなのだが。

 あれから暫く探してみたが由比ヶ浜の好きそうなものは見つからなかった。いや、あるにはあったのだが、俺自身の琴線に引っかからなかったと言うべきだろう。手に取るもの全てがどうにもありきたりで面白みがないと感じてしまう。

 一色の言う通り俺自身の拘りのようなものが多分に含まれているが、ここまで本気になって探しているのだから、俺としてもしっくりくるものが良い。

 洒落ていなくてもいい、彼女の趣味に合うもの。それは……ふむ。そもそも俺は彼女の趣味を知らないんだったな。確か料理にハマっていると言っていたが、フライパンだとかの調理器具を渡しても既に家にあったら困るだろう。エプロンやミトンなんかの身につけるタイプは他のメンバーが思いついていそうで被ってしまう恐れがある。

 腕を組み、頭に酸素を回すように深呼吸しながら考え込んでいると一色が口を開く。

 

「それにしてもアレですね。こんなにアテもなく動くの、ちょっと田島さんらしくないです」

「……そうか?」

「田島さんなら、しっかりその女の子の事を知ってから買いに来そうですけど」

「その時間がなかったからな」

 

 一色は不思議そうにこてんと首を傾げる。

 時間がなかった。比企谷を説き伏せる時間も、由比ヶ浜にアプローチをかける時間も。そもそも思えば本当に急な話だ。由比ヶ浜と比企谷の件も、平塚先生の提案も、雪ノ下の話もだ。

 以前の俺ならば乗らなかった提案だろう。時間がない、人脈もない、頭を捻れば拒否する理由は幾らでもあったはずだ。確かに一色の言う通りらしくないと言えばらしくない。しかし人は変わるもの。俺も少しだけではあるがこの数ヶ月間で表には出ない変化をしたのかもしれない。

 

「そんなに急だったんですか?というかそもそも何でそんな事態になったんです?」

 

 先程は色々あるで流したが、一色の事をこれだけ付き合わせてる以上情報収集も兼ねて一色にも事情を話してやるべきだろう。

 俺は一色に部活動内でのいざこざ、それによって命じられた平塚先生の話と、雪ノ下の提案を説明する。それを聞けば一色は呆れたような表情をした。

 

「大変ですねー」

「全くだ。それで、そいつが戻るにせよ戻らないにせよ話し合いの機会は作りたいらしい」

「だから、誕生日にかこつけてって事ですか」

 

 納得したようにほむほむと一色は一人で頷く。

 

「じゃあ、渡す人って誰なんですか?」

「お前が知っているかは知らんが、由比ヶ浜結衣という女だ」

「え!?由比ヶ浜先輩ですか!?」

 

 名前を出すと一色は驚いた表情で俺を見る。どうやら彼女は由比ヶ浜を知っているようだ。そう言えば、彼女が狙っているのは葉山隼人だったか。それならば彼のグループである由比ヶ浜を知っているのも納得だ。

 

「そうか、知り合いか」

「いやそんな期待の眼差しで見られるほど知っている訳じゃないですけど……」

「参考程度でいい、聞かせてくれ」

「うーん」

 

 といって一色はむむむと唸り、頭の左右、こめかみの部分に人差し指でぐりぐりと指で押し始めた。なんだその仕草は一休さんの真似事か?いや一休さんは頭頂部近くを押していたか。こういった仕草が素で出てくるあたり、普段のあざとい仕草のうち一割くらいは以外と無意識にやってたりしそうだな。

 

「あっ」

 

 ボケーッと一色を見ていると彼女はなにか思いついたようで、顔上げピンと人差し指を立てた。

 

「そういえば由比ヶ浜先輩、ワンちゃん飼ってるって言ってました」

「ほう、犬か」

 

 なかなかどうして有用な情報が出たな。それを聞いて思い出したが、由比ヶ浜の携帯に着いているジャラジャラとしたストラップ、あれにも犬のストラップがいくつか着いていた。

 犬か、犬は盲点だった。ありきたりなものすぎて、女子高生の好きな物トップランキング10のうち8位くらいのもの程度に考えてはいたが、飼っているならばそのランキング上位に位置する可能性がある。

 

「お前にしてはいい着眼点だな。褒めてやろう」

「なんでそんな上から目線なんですか……」

 

 一色が呆れたようにため息を着くのを見て、俺は立ち上がる。

 

「目標変更だ」

「どこ行きますか?ペットショップとかよさげだと思いますけど」

「いや、アテがある。そら行くぞ」

「はーい」

 

 一色は「よっ」と呟きながらぴょんっとベンチから立ち上がり、俺の隣に並ぶ。

 

「それでアテって?」

「まあ、着いてくるといい」

 

 そうして俺は記憶を頼りに歩き始めたのだった。

 

 

 目当てのモノを買い用を済ませ店を出れば、時間は凡そ二時半過ぎだ。思ったより長い時間を使ってしまった。

 

「どうする?これで俺の用は終わりだが」

「私も特にはないですね、帰りますか?」

「俺はどっちでもいいが……うん?」

 

 視界に何か見知った顔の女が映った。

 

「どうかしましたか?」

「いや……」

 

 その女の方へと目を向ける。反対側のショップ、そこから出てきた女はやはり見知った顔に似ていた。

 それは雪ノ下雪乃に似ていた。いやしかし髪が短いな。雪ノ下はロングヘアーだったが、対してあの女は肩の上くらいに切りそろえられたショートボブだ。その黒髪はこの距離でもわかるほどに艶やかなものであり、彼女の持つ清楚な雰囲気を醸し出す一因だろう。そこは似通っているが、浮かべている笑みは随分と柔らかなもので、俺の知っている鉄面皮女とは似ても似つかないものだった。

 それによく見れば年齢も俺より上だろう。推定年齢20代前半、受ける雰囲気から察するに大学生あたりだろうか。

 女性は店先でガヤガヤと騒いでいる複数の男女、こちらも恐らく大学生、と合流すればその場の雰囲気を一気に掌握したかのように全員の視線が彼女へと向いた。まるで女優か何かが来たかのようだ。そして皆が彼女の合流を心待ちにしていかのように一斉に話しかけ始めた。あれは凄いな、雪ノ下とは似ても似つかないぞ。

 それに───今、目が合ったか?

 

「あだッ!?」

 

 雪ノ下のそっくりさんを観察しているといきなり脇腹を抓られた。

 

「お前……」

「へー田島さんってああいう女の人が好みだったんですね知りませんでした」

「何を勘違いしているんだアホめ」

 

 一色がジトーっとした目でこちらを見つめる。

 

「勘違いも何もずっと見てたじゃないですか」

「……知り合いに似ていたんだよ」

「知り合い?」

 

 一色の問いに、抓られた脇腹を擦りながら返す。

 

「ちょっとした知り合いだ。それに、ああいう女は俺の趣味じゃない」

 

 雪ノ下のそっくりさんというだけでも守備範囲外だと言うのに、目が合った時に軽く悪寒が走った。アレはダメだ。恐らく悪女か何か、良くて女狐だろう。俺の勘がそう告げている。

 再度女がいた方へ目を向ければ、グループごともう移動したようでそこには誰もいなかった。

 

「……まあ、とにかく。そういうのじゃない、いいな?」

「は〜?いい訳ないじゃいですか〜。そもそも知り合いって誰ですか?」

「知り合いは知り合いだ」

 

 今のこいつに雪ノ下のことを告げれば面倒な事になると俺の勘がそう告げている。今日は良く勘が働く日だな。だが勘が働くという事は女絡みの面倒な事が起きるということだ。つまり従うに限る。

 

「いや、それで誤魔化されるわけないじゃないでしょ。いいから教えて下さい」

「断る。そら帰るぞ……ぐおっ」

 

 歩き出そうと、足を前に出したが服の襟を掴まれたようで襟が首を締めた。踏み出した足を元に戻して、掴まれた腕を外そうとする。いやコイツ力強くないか!?物凄い力で掴んでいるようで中々一色の手は離れない。この細腕のどこにこんな力があるんだ。

 

「お前……!服が伸びるからやめろ……!」

「じゃあ教えて下さい♪」

 

 一色は涼しい顔をしながら、頬の横で人差し指を立てる。きゃるるんッと音が鳴っていそうだ。俺を従わせる為にやるあざとい仕草だが、今回はそうはいかない。

 

「なんでそんな強情なんだいいから諦めろ!」

「い〜や〜で〜す〜!」

 

 不味い、明らかに周囲の目を集めている。とにかく、急いで一色を何とかしなければ。

 

「いいから離せ」

「教えて下されば離しますよ」

「それは嫌だ」

「じゃあ嫌です♪」

 

 より一層掴む力が強まった気がする。

 

「クソ、離せって、なんでこんなに力が強いんだ!」

「伊達にサッカー部マネージャーじゃありませんから、あと田島さんが単純に力ないです」

「このゴリラめ」

「は?」

 

 そういって再び攻防が始まる。それは結局俺の方が先に体力が尽きて雪ノ下のことを白状するまで続いた。

 その後財布が少し軽くなったのは言うまでもなく、俺は女一人にすら力負けするという事実に身体を鍛える為にジムに通い始めたのはここだけの話だ。




田島くんは結構貧弱です。
女の子に力負けするぐらいには貧弱です。
次回は遊戯部との対決、その後由比ヶ浜のお誕生日パーティーです。


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十三話 会話をするなら主語を言え

 月曜日、退屈な授業を四限目まで受けて今は昼休みだった。

 天気は昨日と同じく快晴だが梅雨ということもあり空気は少しジメッとしている。天気予報によれば明日雨が降るとの事なのでその前兆かもしれない。

 四限目の教科書やノートを机の中に仕舞い、俺はいつも通りコーヒーを買うために教室を出る。

 道中特に何かある訳でもなく、特別棟の購買近くにある自販機までやってこれた。安堵しているのは時折平塚先生とエンカウントする時があるからだ。

 あの人、奉仕部に関連する何かしらの連絡を混じえて話をしてくるのだが、中々どうして話が長い。話がすぐに脱線したと思えば、時々重要そうな事をポロリと言うのでこっちも困っている。

 今日は夏入りも近いということもあって気温も徐々に上がっており、そんな中エアコンも着いていない廊下で平塚先生の長話を聞くのは、些か、いやかなり堪える。長話がなければ結婚出来るのではないかと思う。ここに本人がいなくて本当に良かった。いたら殴られるのは確実であろう。

 そんなことを考えながら、黄色いコーヒー缶の隣にあるブラックの缶コーヒーのボタンを押す、そのタイミングだった。

 

「あ……」

 

 女の声がした。

 そちらに顔を向ければ、そこに立っていたのは最近の悩みの種である由比ヶ浜結衣その人だった。彼女は気まずそうな顔をして、作り笑いを浮かべている。

 由比ヶ浜とはおよそ一週間ぶりの邂逅だ。その程度の短い期間しか経っていない筈なのに、由比ヶ浜のその姿はやけに久しぶりに見えた。

 そんな彼女の姿に気を取られつつ、自販機のボタンを押す。

 ガコンと音を立てて取り出し口に落ちた缶コーヒーを軽く屈んで取り出し口から取りだした。しかしそれは黄色い缶コーヒーで、間違えて買ってしまったらしい。小さくため息を吐いて、俺は顔を上げた。

 

「……」

 

 何を言うべきか迷っているのだろう。由比ヶ浜は変わらず作り笑いを浮かべながら「えっと」だとか一単語だけ口にしてすぐに黙りこくる。そんな態度に埒が明かないと思った俺は、口を開く。

 

「一週間ぶりだな、調子はどうだ?」

 

 由比ヶ浜は一瞬驚いた顔をして、少しだけ雰囲気が和らいだあと「えへへ……」と再び先程よりは自然な風に笑う。

 

「う、うん。久しぶり。元気だよ、えっと、その……部活、行けてなくてごめんね」

 

 由比ヶ浜は申し訳なさそうに表情を暗くする。それと比例して、言葉尻もどんどんすぼんでいった。相当気に病んでいるのがその態度だけで察せられた。

 

「気にすることじゃない、誰にだって気が乗らない時くらいはあるさ」

「でも……ごめん」

 

 俺の気休め程度の言葉では由比ヶ浜の表情の影を照らすことは出来ない。まあ分かっていたことだ。俺はまた、ため息を吐く。ことの原因は俺ではないし、未だに俺と由比ヶ浜は互いに壁がある。彼女からしたら、気遣っているとしか思われないだろう。

 由比ヶ浜は俺の隣に来て、自販機からレモンティーと、カフェオレのボタンを押す。恐らくグループ内の友人からパシられたのだろう。確か、優美子とか呼ばれていた中心格の女がいたはずだから、恐らくソイツから頼まれたに違いない。

 取り出し口から二本のペットボトルを取り出し、由比ヶ浜は立ち上がり、こちらをちらりと見る。

 

「えと……じゃあね」

「由比ヶ浜」

 

 そのまま踵を返してその場を去ろうとした由比ヶ浜の背中に俺は思わず声をかけてしまった。しまった、何を言うかなんて何も考えてないぞ。

 

「あ、え、とととっ……セ、セーフ。な、何?」

 

 由比ヶ浜は予想だにしない声がけにペットボトルを手から落としかけ、何とか掴んだ後俺の方へと向き直った。

 

「ああ、いや……部活、今日は来るのか?雪ノ下に呼ばれてるんだろう?」

「……うん、呼ばれてるよ、ゆきのんから」

 

 由比ヶ浜はやけに暗い顔をしながらそう答える。

 

「そうか。なら……また、部活でな」

「うん……」

 

 そう返事をしたあと由比ヶ浜は、今度こそ、踵を返して去っていった。結局、俺には彼女が何故ああも表情が曇っているのかついぞ分かることはなかった。

 

 

 

 昼休みの後、これまた退屈な授業を二時間聞いて、ようやく放課後になった。

 体をほぐすために軽く腕を上げて体を伸ばせば、バキバキと嫌な音が鳴る。これだから学校の椅子は嫌いだ。

 相変わらず眠いと訴える脳を、コーヒーを飲んで無理やり覚醒させつつ、俺は立ち上がる。これからある意味で一大イベントをやらなければならないのだ。気合いを入れなければならない。

 後ろの席を移動すれば、クラスメイトがカラオケ行くだのなんだのという話が聞こえてきて、それをBGMにして俺は教室の戸に手をかけた。窓が空いているおかげで風通しが良く、比較的涼しい教室から廊下に出れば、ジメジメした空気が肺に入り憂鬱な気分になる。

 俺はこの梅雨特有の妙な匂いのする湿度の高い空気が嫌いだ。これに加えて雨が降っているとより最悪だ、その日は出掛けたくない。低気圧のせいか頭痛がすることすらある。それもあって俺は雨と雪の日が嫌いだった。

 何時もよりも足早に歩き部室を目指す。特別棟に入り、やがてして部室の前に着けば見知った顔が二つ。比企谷と今日の主役である由比ヶ浜だった。

 二人は顔を下げて黙りこくっている。

 

「何をしている?」

「うおっ!?」

「わっ、た、田島くんか。びっくりした〜」

 

 相当驚いたようで彼らは二人してワチャワチャしながら後退り、その後俺とわかったのか安堵の息を吐く。

 

「人の顔を見て驚くな、失礼だろう。それよりも邪魔だ。入らないならどけ」

「お、おう……」

 

 主役がいる訳ではあるが、それはそれ、これはこれ。邪魔なのは事実なのだから。どうせ映画でポップコーンを食べようとして、お互いの手が触れ合った時のように互いに目を見つめあってしまって、気まずくて視線を逸らし沈黙していたのだろう?チッ、リア充め。爆発しろ。それか滝に打たれて煩悩を一切合切消し去ってくるがいい。

 いかんな、少し蒸し暑いからからイライラしてきた。さっさと部室に入ってしまおう。

 部室の戸を開けると、窓から吹き込む爽やかな風が頬を撫でる。そうして雪ノ下と目が合って、彼女はすぐに露骨にガッカリした顔になった。

 

「……こんにちは」

「そう、ガッカリした顔をするな。お待ちかねの人物は俺の後ろだ」

 

 俺が部室の中に入ると、続けて比企谷と由比ヶ浜も入ってくる。

 

「うす」

「や、やほー。ゆきのん……」

 

 由比ヶ浜はわざとらしく明るい声で答えると、雪ノ下はさも興味なさげに本へと目を下げる。

 

「……そんなところで立ってないで、早く座りなさい。部活始まっているのよ」

 

 雪ノ下はいつも通りを装ってそう告げているが、明らかに頬が紅潮している。下を向いて隠しているつもりのようだが、誰がどう見ても明らかだった。由比ヶ浜が部室に顔を出したことがそれほどまでに嬉しかったらしい。まあ、由比ヶ浜の方は、雪ノ下が部室にいるという事で部室に入るのを躊躇っていたがな。

 さもありなん。

 

「う、うん」

 

 雪ノ下に促されるように、由比ヶ浜は彼女の定位置である、俺の左どなりの席に座る。俺や、比企谷も同様に定位置へと腰掛けた。

 とりあえずコーヒーでも入れるかと、俺が席を立ち上がると、皆の視線が集中した。それに呆れたような溜息で返すと、カバンから取りだしたミネラルウォーターをポットの中に入れて、湯を沸かす。

 奉仕部を妙な沈黙が支配する。いつもはダラダラと携帯を弄くりまわすであろうその拳を、膝の上で握って軽く俯いている由比ヶ浜も、緊張しているのか、あるいは由比ヶ浜を意識しまいとして逆に意識をしているのか微動だにしない雪ノ下も、そしていつもよりも皆の動向を、興味なさげに頬杖をつきながら、しかし注意深く探るように視線を動かす比企谷も。いつもと違う彼らのその態度がこの沈黙を作っている。

 誰も彼もが、口を開かず、だが皆が誰が喋ってもいいようにその一挙一動を見逃すまいと耳を澄ませる。

 どいつもこいつも、肩の力が入りすぎだ。そもそも、そこまで緊張することでもないだろう。確かに由比ヶ浜と部活動では久々に顔を合わせるわけだし、比企谷だってこうした状況を作った一因だと多少は自覚している訳だから、気まずくなってしまうのも分からなくはないが……。

 時計が秒針を刻む、それすらも嫌な音として認識してしまいそうなこの沈黙は、俺を憂鬱にさせた。だから口を開く。再び、皆の視線が俺へと集まった。

 

「雪ノ下、呼んだのはお前だろう。そろそろ本題に入れ」

 

 俺がそう促せば、雪ノ下はピクリと、肩を小さく動かしたあと、パタンと本を閉じた。それを見て、俺は再び席に着く。

 

「え、ええ……由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下は今までにないくらいに深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 その後由比ヶ浜に向き直って、何かを口にしようと、体をそちらへ向け口を開くが、言葉出てこなかった。それに合わせて、由比ヶ浜も体を雪ノ下へと向けるが、視線は未だに下を向いていた。

 こりゃあ拉致があかなそうだな。何かしら、手助けでもした方がいいと思い、口を開こうとするが、俺よりも先に由比ヶ浜が口を開こうとしたのを見てやめた。

 

「あ、あーっと……ゆきのんと、ヒッキーのことで、話があるんだよね」

「ええ、私たちの今後の事で、あなたに話を」

 

 雪ノ下が言葉を続けようとすると由比ヶ浜がそれを遮るように言葉を発した。

 

「や、やー、あたしのことなら全然気にしなくていいのに。や、そりゃ驚いたし、びっくりしたって言うか……でもそんなに気を遣ってもらわなくても大丈夫だよ?お祝いとか、祝福とか、そんな感じだし……」

「よ、よくわかったわね……そのお祝いをきちんとしたかったの。それに、あなたには、感謝しているから」

「や、やだなー……感謝されるようなこと、あたししてないよ……何も、してない」

「自覚がないのはあなたらしいわね」

 

 そうして由比ヶ浜と雪ノ下の絶妙に噛み合っていない会話が始まった。お互いに主語がないせいで、勝手に脳内補完で話が進んでいる。雪ノ下が伝えたい想いと、由比ヶ浜が受け取った意図が食い違っているような感覚だ。ちぐはぐと言えばいいだろうか。

 雪ノ下は感謝を伝えようとしているのに、由比ヶ浜はそれを受け取りたくないような反応をする。雪ノ下が言葉足らずなのか?とにかく由比ヶ浜が何らかの勘違いを加速させているのは間違いない。

 その証拠と言うべきか、雪ノ下の言葉に由比ヶ浜は昼休みに見せたあの影がある顔をしていた。いや、むしろあの時より酷いか。よく見れば細めた目は潤んでいる。

 しかし一体由比ヶ浜は何を勘違いしているのか、少し考えてみるとしよう。

 まず由比ヶ浜は『ゆきのんとヒッキーのことで話が』といった。しかしそこには俺がいない。対して雪ノ下のいう私たちの今後とは、奉仕部の事だ。由比ヶ浜の言っていることが奉仕部の事ならば、自惚れているようではあるが、俺が入っていないのは些か可笑しい。つまり、この時点で食い違いが発生している可能性が高い。

 となれば由比ヶ浜にとって雪ノ下と比企谷の事で聞きたくない話とは何か。そこに俺が入らない理由は何か。更に由比ヶ浜の比企谷に対する想いは何か。そう、今までの由比ヶ浜の態度を見ればそれは明らかであり、導き出される答えは一つだ。

 それに辿り着いた時俺は思わず天を仰いだ。

 雪ノ下……お前、由比ヶ浜を今日部室に来るように言った時、一体どんな台詞を吐いたんだ?全く。

 そうして思考を切るように俺が深いため息を吐くのと、由比ヶ浜が思い切るように口を開いたのはほぼ同時だった。

 

「あ、あの」

 

そのタイミングでダンダン!と強いノックの音がした。その音だけで随分とノックの主は焦っていることが伺える。よく聞けば、荒い呼吸音とふしゅるるる〜とまるで獣の嘶きが如き音も聞こえる。おいおい、ここはいつから動物園になったんだ。

 雪ノ下がそっと本を膝の上に置いて、扉に向けて声をかける。

 

「どうぞ」

 

 その声と同時に黒い影がヌッと伸びてきた。

 

「うおーん!ハチえもーん!」

 

 間がいいのか悪いのか。いや、やはり究極的に間の悪い人物は、誰が予想したか俺を何故か師と仰ぐクソッタレな暑苦しく騒がしい迷惑男。材木座義輝。その人だった。

 

 




お ま た せ
いやごめんなさい、ほんと許してください。
予想以上に伸びてしまってノリと勢いだけで展開を考えて良いのだろうか、とモンモン悩んでいたんです本当です
嘘です、遊戯王とブルアカしてました
あと、前回言った遊戯部との対決は次回になります。

それはそれとして
多くのお気に入りと、評価誠にありがとうございます。
これからもこんな感じでゆっくりと更新していきますので、お暇であれば読んでくださると幸いです。


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十四話 遊戯と眼鏡と憂鬱な放課後

 ところ変わって遊戯部の部室。特別棟の四階に位置する準備室にあたるその部屋を部室として活動する遊戯部は、雪ノ下曰くまだ新しく出来たばかりだそうだ。確かにその証拠として扉にはコーピー用紙に遊戯部と書かれたものが貼ってあるのみで、逆に言えば、それ以外にこの準備室として用意されている部屋を遊戯部たらしめるものは何一つなかった。

 そもそもなぜこの部室にいるのか?知るか、俺が聞きたい。

 

「はあ……」

 

 ため息をついて、原因となった男を見る。右腕を何故か抑えてのたうち回るその男は、名を材木座義輝と言う。今回この男が持ち込んだ依頼のせいで、彼女を奉仕部に戻す為に、ひいては由比ヶ浜の誕生日を祝う為に色々と動いていたはずの我々奉仕部が、今やこんな所にいるわけだ。訳が分からん。

 ちなみに材木座の依頼は、自分の夢を語った時にそれを否定された事が発端だそう。ちなみに夢はゲームのシナリオライター。前の夢であるラノベ作家はやめたそうだ。理由は収入が安定しないから。馬鹿か、もう二度と俺の前で夢を語るな。

 そんな彼曰く、掲示板でそんな彼の夢とも呼べぬ妄言の数々を否定した奴がいたそうな。正直言われて当然だとは思うが、そこは大間抜け材木座。彼はネット掲示板にて否定した奴のある事ないこと書いて煽ったのだとか。

 この時点で俺は依頼を断る気マンマンだった。なんなら今でもそうだ。由比ヶ浜の誕生日会は明日にして帰ろう。到底無理な話だが。

 ともあれ、その結果そいつが同じ高校だったと判明。いつの間にか格ゲーで勝敗を決める運びとなったそうだ。

 しかしその相手に勝つ自信のない最低野郎、またの名を材木座。彼はそれに勝つ為に手伝い、もとい勝負をなかったことにするか、または確実に勝てる為の手伝いを奉仕部にして欲しい、というのが彼の依頼の内容だ。事の発端から依頼内容まで最低づくしなのが実に材木座らしい。

 勿論最初は俺も比企谷も断った。自業自得の阿呆に救いの手を伸ばす程優しい部活ではないのだと。しかし材木座は我々を煽ったのだ。『憐れな人間一人救えないで、何が奉仕部か。片腹痛い』と。もちろんそんな挑発に乗るほど俺は馬鹿じゃない。死ぬほどムカついたが。だが馬鹿はいる。

 そう我らが奉仕部部長雪ノ下だ。天性の負けず嫌いを発揮した彼女はその挑発に乗り、まんまとこの遊戯部の部室まで来てしまったわけである。

 どうにも馬鹿らしく気は乗らないが、しかし部長が依頼を引き受けると言ってしまった手前やるしかない。とはいえ全くもって気は乗らない。本当に。

 

「師よ……」

「……急に近寄るな気持ち悪い。半径2m以内から離れろアホめ」

 

 突然、耳元から材木座の吐息混じりのねっとりとした声が吹きかかる。あまりに気持ち悪いせいで心からの罵声を浴びせてしまったが、材木座ならば問題ないだろう。この世には二種類の人間がいる。殴って良い人間とそうではない人間。すなわち材木座は前者である。

 

「いきなり罵倒は酷くない?……それはそれとして、田島師匠よ」

「なんだ」

 

 眼鏡の奥で、真剣な目をしてこちらを見つめる材木座。思わず大事な話でもあるのかと身構える。

 

「……ぶっちゃけ、我はハチえもんより師の方が頼りになると思っているので、そこのところ宜しく頼む」

「……ああ、そう」

 

 身構えた俺が馬鹿だった。

 こんな阿呆のことは放っておいて、他の部員は何をしている中と思って、あちらの方を見れば、何やら由比ヶ浜が比企谷に彼女はいるのかと問うていた。

 やはり由比ヶ浜の件について、俺の予想は当たっているのかもしれない。その証明と言うべきか、由比ヶ浜は比企谷にいないと言われてうれしそうに頬を緩ませていた。

 どんな些細な事でも、すれ違いの原因に成りうる───か。かつて言われた事を思い出す。それを解決する為には言葉を尽くす事だ。故にその為の機会を雪ノ下が用意した。だと言うのに、全く。

 俺はため息をついて、さっきからやたらに距離感が近い材木座の腹を恨みを込めてどついておく。

 どうせ比企谷の近くに女がいるせいで、彼に絡みにいけないのだろう。だからといって俺の方に来るのは勘弁して欲しい。もう初夏だというのに、未だに厚手のコートに指ぬきグローブをしているせいで、肌がヌメっとしているのが触らなくてもわかるのだ。見た目だけではなく触覚ですら気持ち悪さを出さないでもらいたい。

 こんなのに慕われた俺は前世で大罪でも犯したのだろうか。考えてみると、思った以上に犯してそうで嫌になる。自分で言うのもなんだが、あまり碌な人生を送ってはいない。

 どうやら話が着いたのか由比ヶ浜が戸をコンコンと軽くノックする。数秒もしないうちに向こうから「はいー」と気だるげな声が返ってくる。それは男の声だったように聞こえる。

 

「おい、いい加減気色の悪い呻き声を上げるのをやめろ。さっさと行くぞ」

「我の鳩尾を殴ったのは師では……?ケプコンケプコン。では参ろうか」

「一番最後尾に位置するとこで偉ぶるな」

 

 後ろで『わ、我は師の背中を』どうたらこうたらと喚く材木座を無視して、俺も中に入る由比ヶ浜達に続く。

 中に入って一番に感じたのは、その空間の狭さだった。

 壁のように積み上げられたボードゲームの箱やパッケージ、本棚に入った本、恐らくルールブックの類いだろう。それらが、所狭しと並び積み上げられ、しかし人がしっかりと通れるように通り道は最低限作っていた。わかりやすい例えをするのであれば、個人経営の模型屋のような様相といったものだろうか。そんなところに五人で入ろうというのだから、より一層狭く感じるのは言うまでもない。

 とはいえ個人的には嫌いな空間ではなかった。見ればしっかりとジャンルごとに整理されており、一見乱雑に見えるそれらは、しかし確かに意図を持って並べられている。

 そんな中由比ヶ浜が近くにあった箱を取って、一言呟く。

 

「なんかゲームっぽくない……」

 

 どうやら現代っ子である由比ヶ浜は、いわゆるボードゲームというジャンルには明るくないようだ。とはいえそれもそうだろう。今はもっぱらテレビゲームが主流だ。親の趣味などでなければ、ボードゲームをやる機会はそう多くはない。それこそ遊んだ事があるものなんて、人生ゲームくらいではなかろうか。

 しかしながら、それを加味しても由比ヶ浜が頭にはてなを浮かべるのも分かるのだ。なにせ古今東西のゲームでも集めているのかと思ってしまうほどに、様々なゲームがこの部室の中にはあった。

 適当に手に取って見れば英語表記のパッケージも多くある。となるとここの部員は英語が読めるのか、あるいはルール自体はネットとかに翻訳されたものが転がっており、それを見ながらプレイをするのだろうか。

 なんにせよ伊達に遊戯部を名乗っている訳ではないようだ。

 

「田島くんは?」

 

 彼らの所有するゲームの数々に感心していると、由比ヶ浜が声をかけてきた。

 

「あん?ああ、悪い、聞いていなかった。何だ?」

「あ、ごめん……えっとね……」

 

 話を聞いていなかったので聞き返すと、由比ヶ浜は一瞬申し訳なさそうにした後、言葉を紡ごうとする。しかし中々続きを言わない。『えっと』だの『あの』だのと、モジモジして口を開こうとするのだが、直ぐにその口を噤む。やがて痺れを切らしたのか比企谷が口を開く。

 

「……ゲームだよ、お前やんの?」

「あぁ……まあ、やらん事はないな。暇つぶしには丁度いい」

 

 俺は暇つぶしに本を読むのは苦手だ。だがその代わりにゲームをやるのは嫌いではない。特にレトロゲームは良い。単純で、かつ奥深い。そしてそれらを内包しながらも、操作難易度の低さから頭を使わずにプレイできる点が、やはり昔から俺と非常に相性が良かった。後は爺さんの趣味がゲームだったからという理由もあるのだが、これはどうでもいいだろう。

 とはいえ昨今のテレビゲームをしない訳ではない。あの大人数でやるテトリスは結構楽しくてやり込んでいる。やらないタイプのゲームはあまり操作難易度が高いゲームだ。格闘ゲームとかFPSは特にダメだ。目も頭も手も疲れるからな。

 しかし、先程からこれだけ好き勝手にくっちゃべっているというのに、未だに部員の姿が見つからない。元は準備室なのだからそう広くはないはずだが。

 

「まあ俺の事はどうでもいいだろう。そんなことよりさっきから部員の姿が見当たらんが……」

「確かにそうね……声はしたはずだけれど」

 

 先程言った通り部室は広いものじゃない。しかし積み上げられた箱や無造作に置かれた本棚によって部室の中はさながら迷路のような状態だった。故に部員の姿が簡単に見つからないのも当然ではあるだろう。とはいえこういった空間は、その使用者が使い易いように作るもの。幾ら乱雑に積み上げられているとはいえ、そこには過ごしやすくするための意図があるはずだ。

 

「とするならば……」

 

 迷路の中を進むかのように、キョロキョロと辺りを見渡しながら俺は歩き始める。

 

「わかんのか?」

「こういうのは多少快適に過ごせるように作るものだからな。長く時間を過ごしているが故に積み上げられた高さが最も高い場所。あとはそうだな、パッケージが日本語で書かれているものが多いなんてのもあるだろう。故に……恐らく、この辺りか」

 

 衝立のようになっている本棚や箱を回り込んで見れば、男子生徒がそこには二人いた。後ろから比企谷もやってくる。

 

「……邪魔するぞ。少し話があるんだが。時間はあるか」

 

 俺がそう声をかけると、遊戯部の部員と思われる二人は、顔を見合せて頷く。そしてジロジロと俺と比企谷のことを見てきた。

 

「おい、初対面だろう。そうジロジロ見るな」

「す、すいません……」

 

 眼鏡の……どっちも眼鏡だな。とにかく、男子生徒の一人が謝ってくる。チラリと彼らのことを見れば上履きが黄色である事に気づく。となればこいつらは一学年下の後輩のようだ。一色と同学年か。

 となればいきなり一学年上の生徒がゾロゾロやってきたと考えれば、ああも訝しげにこちらをジロジロ見るのも可笑しくはないか。

 

「お前ら後輩か……いきなり悪かったな。俺は二年のたじ」

「む、貴様ら一年坊主か!」

 

 非礼を詫びようと口を開けば、俺の言葉で一年生だと分かったのだろう。突如材木座が偉そうな態度で前に出てくる。コイツ、さっきまで最後尾でビビり散らかしていたやつとは思えんぞ。というか、俺と比企谷の間に立つな。態度だけではなく体もデカいのだから少しは考えて欲しい。

 すると比企谷まで態度を大きくして、まるで心理的優位を保つかの如く、偉そうに振る舞い始めた。

 

「おい、お前ら。材木座さんに舐めたクチきいたみたいじゃねぇか。───いいぞ、もっと言ってやれ」

 

 比企谷の意図を理解して俺も乗っかることにした。

 

「そうだとも。もう二度と人前に出ることができないほどボロクソに言ってやるといい」

「あ、あれー?二人共!?」

 

 材木座がこちらに縋るような目で見てくるが、可愛らしさの欠けらもないやつが目を潤ませたところで、何一つ心に訴えかけるものはない。何故ならば材木座だからだ。

 

「……何を遊んでいるの。早く話をつけなさい」

 

 雪ノ下から冷徹な視線が飛んでくる。もう少し材木座で遊んでいたかったが、仕方があるまい。そろそろ真面目にやるとしよう。

 二人揃って面倒くさそうにため息を着けば、俺と比企谷は改めて遊戯部員へと向き直った。

 

 

 

 結局、材木座の依頼通り、彼でも勝てる可能性があるゲームにする必要があった俺たちは、ゲームの変更を提案した。

 ごねられるかと思ったが、この提案は意外とすんなり通る事になった。その代償に材木座の土下座が彼らに捧げられることとなった。材木座は嫌がっていたが、寧ろ当然の事だ。それに別に減るものでもなしどんどん捧げてもらおう。

 しかし遊戯部の見た目は眼鏡だが、思ったよりも頑固ではないようだ。同じ眼鏡仲間である材木座も恐らく見習ったろうがいいだろう。ちなみに、遊戯部員の二人は、『相模』と『秦野』と言うらしい。

 さて、その結果決まったゲームはというと───

 

「ダブル大富豪、ね」

 

 ポツリと雪ノ下がつぶやく。どうやら彼女は聞いた事がないようで、いまいちピンと来てないようだ。それは俺も同様であった。

 別に大富豪というゲームを知らないわけじゃない。俺に関しては中学生の頃やったことがある。しかしこの『ダブル大富豪』とやらはペアでやる彼らオリジナルの大富豪だとか。

 ルールは大富豪とほぼ変わらない。遊戯部と奉仕部とで決まったローカルルール自体も有り触れたものだ。しかしもちろん名前をダブル、と着けているだけあって明確な違いがある。それはペアでやるということ。そしてペア一周ごとに交代で手札を出すというもので、その際に相談事は一切禁止という縛りがある。

 つまり、相手の狙いだけではなく、ペアの事も考えながらカードを出さなければならないので、意外な戦略性がそこにはあるものとなっていた。

 

「でもペアってことは一人余っちゃうけど……」

 

 由比ヶ浜がおずおずとそう聞いてくる。

 そう、俺たちは五人組なのでペアを組むとなると一人余るのだ。奇数のクラスでそれをやるとどこか一組が三人組になると言うやつだ。まあ今回は俺が抜ければいいだろう。

 

「俺が余りでいいだろ。もとより気が乗らん」

「そう、なら由比ヶ浜さん、悪いけどお願いできるかしら」

 

 雪ノ下が直ぐに由比ヶ浜へと手を差し出した。これは恐らく、比企谷か材木座どちらかと組むのが嫌だったからだと推察できる。由比ヶ浜も同じだったようで、差し出された手を直ぐに取っていた。

 

「話は纏まりましたか?」

「それじゃあそろそろ始めますか、勝負は──」

 

 遊戯部員のメガネの……どっちもメガネだな、確かこっちは……そう、秦野が口を開き『ダブル大富豪』の開始宣言をしようとする。

 

「待てえい!」

 

 しかし材木座がダンっと、強く床を踏み込み声を上げそれを遮った。少し床が揺れた気がする。

 

「なぜ我が八幡と組むのだ!」

「……なんだ文句でもあるのか?」

「あるに決まっておろうが!」

 

 鼻息荒く、いかにも納得がいっていないといわんばかりに腕を組む材木座。その隣で比企谷も同意するように頷いていた。

 

「とはいえな。お前達がペアなのは今決まっただろ」

「それ決定事項なのかよ。さすがに意義を申し立てる」

「うむ、我も納得がいかない」

「俺と比企谷が組むと依頼が本末転倒だ。遺憾ながらコイツを勝たせなければならないのだろう?」

 

 俺の後ろに立つ材木座を親指で指す。

 

「ならば我と師が組めばよかろう」

「ああ?」

「さっきも言ったとおり、八幡より田島師匠の方が信頼出来るゆえ、我は師と組みたい」

 

 材木座はコソッと俺の耳元で喋るのだが、それにしては声がデカい。故に耳が痛い。したがって比企谷にもその内緒話のような普通の会話が聞こえてしまう。

 

「おい、聞こえてるんだが?」

「フッ……愚問よ。八幡、我は!貴様のことを信頼していない!」

「前に言ってた盟友だとか、主従関係とかはどうしたよ……」

 

 呆れたようにため息をつく比企谷。理由は二つ、一つは監督役としてあくまでサポートに務めるという建前。そしてもう一つはと言うと、こっちが本音になる。

 

「正直、材木座と俺が組んで上手くいくビジョンが見えない」

「それは俺もなんだけど……」

 

 鼻息荒く、こちらを見つめる材木座を俺と比企谷は互いに直視しないように横目で見る。扱いが猛獣とか珍獣とかだな。

 

「俺より付き合いが長いのはお前だろう?」

「俺よか慕われてるのはお前じゃねぇか」

 

 俺と比企谷は一歩も引かない。どちらも材木座とプレイするのが嫌なのだろう。

 

「二人とも!我のことで争わないで!」

「黙れ、元はと言えばお前なんぞのせいでこんなことをする羽目になっているのを忘れたか?」

「そうだぞ、本当なら今頃由比ヶ浜の……」

 

 比企谷がそこまで言いかけてしまった、と言いたいような顔をする。別に隠すような事でもないが、本人がいるところで名前を出してしまうと、思わず止めてしまう気持ち分からないでもない。やけに気まずく思ってしまうからな。

 

「え、あたし?」

 

 由比ヶ浜はキョトンとした顔で可愛らしく首をこてんとかしげる。こいつ、さっきまで部室で何があったのか忘れているのか?

 すると雪ノ下が苛立ちを隠さない様子で口を開く。

 

「いいから早く決めなさい」

 

 俺と比企谷は互いに顔を見合わせる。その後無言で右手の拳を握り混む。

 そして互いに口を開いた。

 

「「最初はグー!」」

「「じゃんけん!」」

「「ポン!」」

 

 比企谷が出した手はパー。そして俺はチョキ。つまるところ俺の勝ちである。

 

「畜生!」

「ハッ、ザコめ」

「我泣いていい?」

 

 項垂れる比企谷と、なんで項垂れているのかは分からないが同じく項垂れ材木座を尻目に、俺は口を開く。

 

「よし。あまり時間が無いからな、さっさと始めるといい」

 

 ちらりと雪ノ下が部室に設置されている時計を見た。

 

「そうね、始めましょうか」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜のペアが決まったことで、自ずと残りの二人、材木座と比企谷がペアを組む事になる。先程までは項垂れていた材木座は、諦めたのか、一周まわって逆に火がついたのか、スっと比企谷の背中に経つ。

 

「八幡、我に、ついて来れるか…!」

 

 材木座は眼鏡をクイッと手の指で押し上げる。遊戯部の部室に入り込む陽射しがメガネのレンズに反射し、彼の目はよく見えない。しかし、ここ一番のドヤ顔をしていることは間違いないだろう。ニヤけた口元がその証拠だ。

 全く、長くなりそうだ。

 




お待たせして申し訳ない
そして気づけば1万文字超えとかになっており、このままだと二万文字とか目じゃない気がしてきたので諦めて分割します。
次回こそは誕生日終わらせたいなぁ……


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十五話 再び彼の知らないところで事態は変わる

笑顔の素敵な少女に恋をした
面影なんてないはずなのに、知らない女に君を重ねてしまう


 

 ボケーッと観戦しているのも暇、かつ手持ち無沙汰だったので、途中で部室を抜けて缶コーヒーを買いに行くことにした。いくら遊戯部とて、雪ノ下や比企谷がいるのであれば負けは……数戦は負けるかもしれないが。とにかく呆気なく敗北してしまうという事はないだろう。とはいえ、一戦目の流れを見るに遊戯部側が何かを企んでいるのは明白ではあったが。

 少しの心配はあったが、問題はないと判断した俺は気づかれないようにそっと遊戯部の部室を出た。エアコンがガンガンに効いていた室内と比べて、廊下はとにかく蒸し暑い。むわぁっとした熱気が肌から伝わってそれだけで、肌には汗が滲む。

 そんな暑さの中俺は、缶コーヒーを買うために廊下を歩き始めた。その道のりの途中でトイレを済ませる。ついでに図書館から借りていた参考書があったことを思い出し教室に寄った後、図書室へと向かって、参考書を返した。

 とにかく俺の思いつく限りの遠回りを行う。正直いくら依頼とて、あんなカードゲームに付き合うほど俺は暇じゃない。どうせ余り、かつ暇なのだ。時間は有効的に使わせてもらおう。

 自販機まで辿り着き、俺は目的の缶コーヒーを買う。

 よく冷えたスチールでできた缶コーヒーは、しばらくすると表面に水滴がつき始める。それを手の中で弄り、手のひらを濡らしてなんとかそこだけでも冷やそうとした。

 そんな微々たる冷たさのみで遊戯部の部室へと向かうのだが、空気に漂う湿気が、ただでさえ低いやる気をより低くさせ、それに伴って俺の足取りすらも気だるいものになっていく。

 再び遊戯部の部室に戻ってくれば、比企谷が上半身裸でズボンに手をかけていた。

 は?なんだ、面白すぎるだろう。どういう状況だ。比企谷を辱めようの会か?だとしたら抜け出してサボって、これを見逃しかけたのは俺のミスだ。

 

「なんだ。随分面白いことになっているじゃないか」

 

 くつくつと喉奥で笑うように揶揄えば、俺はコーヒー缶のプルタブをと開ける。金属のカコッ潰れる音が鳴った。全員の視線が俺に集まるのを感じながら、それを無視し冷たい中身を呷って、喉を潤した。

 どうやら既に数戦やったあとのようで、テーブルの上には幾つかのカードが散らばっている。遊戯部はそうでもないが、雪ノ下や由比ヶ浜は何やら疲弊しており、比企谷に関しては上半身裸だ。そして材木座は……コートを脱いでいる。ふむつまり?

 

「大富豪はやめて、脱衣麻雀か何かでもやったのか?」

「ちげーよ、というかお前どこ行ってたんだよ」

「缶コーヒーを買いにな」

 

 飲んでる缶コーヒーを彼らに見せれば、由比ヶ浜が「長くない……?」と呟く。意図したものだから弁明はしない。

 しかし、雪ノ下から罵倒の一つでも飛んでくるかと思ったが、しかし何も言われることはなかった。気になって雪ノ下の方に視線を向ければ、彼女はじっと顔を動かさず、微動だにしなかった。喧嘩でもしたのだろうか。だとしたら面倒くさいこと極まりないのだが。

 俺は思わず出そうになった欠伸を噛み締めながら思案する。察するに大貧民になったペアは罰ゲームでもあるのだろう。その内容は脱衣。今どき宴会芸でも野球拳くらいでしかやらないだろうに。

 

「くそ……」

 

 俺や他の皆に見られている中、比企谷は悪態をつきながらズボンを脱ぐ。比企谷の残りの服はパンツのみのようで、その状態でもゲームが継続しているということは、ゲームはまだ終わっていないらしい。

 しかし……男の脱衣ほど見ててつまらんものはないな。いや、ここで雪ノ下や由比ヶ浜が脱ぎ出したらしたらで困るのだが。材木座あたりが脱ぐならば、多少は馬鹿にしがいもあるのだがなぁ。

 そんな中、由比ヶ浜が申し訳なさそうにしゅんとした顔で比企谷の方を見つめる。

 

「……どうした、比企谷の体に興味が?」

「は、はぁっ!?ぜ、全然興味とかないし!というか田島君もほんとデリカシーない!」

 

 俺としては場を和ませるジョークのつもりだったが、顔を真っ赤にして怒鳴られた。残当ではある。反省しよう。

 肩を竦めて雪ノ下へちらりと視線をやれば、変わらず顔を微動だにしない。ああいや違うのか。こいつ、単に比企谷の裸を見たくないだけだな。少し耳が赤いぞ、初な女め。

 由比ヶ浜の言葉に比企谷が肩を落とした。パン一で凹んでいると、より敗者感が増して憐れだな。

 

「そうやって大声で興味ないって言われるとさすがに凹むわ……」

「あ……えっと、ごめん。それと、ありがと」

「別に……礼を言われる筋合いはねぇよ。俺は俺がやりたいようにやってるだけだ」

「うむ、どうでもいいがその格好で言うと開き直った変態にしか見えぬな」

 

 材木座が半笑いで笑う。お前が言うかと言った感じではあるので俺としては苦笑いがせいぜいだ。しかしなんの事情も知らない遊戯部の二人はお気に召したようでクスクスと同じように嘲笑った。

 

「それはそれとして、随分負け越しているようだな」

「見りゃわかるだろ」

 

 一瞬、ここで交代し参加するかどうか迷う。正直に言えばこの手のゲームは得意分野だ。参加すれば勝てるだろう。しかし、どうにも俺は以前の平塚先生から受けた言葉を思い出してしまう。

『監督役の務めを果たすように』

 先は建前として使ったが、俺は未だにこの言葉の意図がわかっていなかった。

 ここで俺が参加して、勝つという行為は、奉仕部の理念に沿うのだろうか、その行為は平塚先生の狙いに沿うのだろうか。

 その場のノリでそれっぽいことを言う人とは言え、あの言葉には何か意味がある、確証はないがそんな確信があった。けれど考えども考えども、その意図については分からない。

 故に、やはり今は。

 

「そうか、なら精々頑張って───」

「た、田島くんっ」

 

 俺の他力本願な言葉を遮るように、由比ヶ浜が声を発した。それは弱々しいものではあったが、さりとて俺の言葉を止めるには十分なものであった。

 

「……どうした?」

 

 自分の表情など分からないが、怪訝な顔をしていることは間違いないだろう。

 

「あ、ご、ごめんね。怒っちゃったかもしれないんだけど……」

「いや、そうじゃない。少し驚いただけだよ。それでなんだ?」

「あ、あのね。ヒッキーと、変わってあげることってできるかな?」

 

 それは彼女の性格を考えれば、さして意外な申し出ではなかった。何より今の彼女の心情的にもだろう。

 何故ならば、恐らく、いや間違いなく由比ヶ浜は比企谷に恋をしている。もしかすると今はまだ恋とは明確に断じてしまうことは出来ないが、少なくともその気はあるはずだ。でなければあんな反応はしまいよ。

 

「まあ、俺個人としては別に構わんのだが……」

 

 他でもない部員の頼みではあるのだし、ここで断る理由はない。いかに監督役を任されてるとはいえ、この申し出を受けることはレギュレーション違反ではないはずだ。まあ、別にそこまで律儀に守る必要も無いのだが。

 俺が言葉を濁したのは、別のことが原因だ。

 由比ヶ浜の申し出に、比企谷が眉をしかめ、あからさまに拒否反応を示していたのを俺は見逃さなかった。

 

「由比ヶ浜、そういう気遣いはいいって───」

 

 いつもの様な曖昧な壁の作り方ではなく、比企谷の言葉に込められたそれは明確な拒絶であった。恐らく、これが不和の原因なのだろう。

 

「っ……ううん、違うよ、そんなんじゃないよ。えっと、あたしヒッキーのことが心配で、それで……ヒッキーにこれ以上嫌な目にあって欲しくなくて……」

「だから、俺は俺のやりたいようにやってるだけって……」

 

 自分の言いたいことを、伝えたいことを伝えるために必死に頭を回しながら、言葉を選ぶ由比ヶ浜に比企谷は冷淡に拒絶の言葉で返す。

 由比ヶ浜の優しさを受け止められない比企谷が、彼女のことをこうやって拒絶したから話は拗れたのだろう。しかし今拗れても困る。その為の今日なのだ、その為の準備だったのだ。

 ならばやることは一つだろう。

 

「積もる話は後でいくらでも時間はあるだろう、比企谷。俺は問題ないから変われ」

「……そういう同情は要らんぞ」

「俺が、お前を、わざわざ同情してやるほど情があるように思えるのか?」

 

 俺が臆面もなく言うと、比企谷は「や、思わないけどよ……」とボソッとつぶやく。思わないのか。我ながら冷淡さには雪ノ下の次くらいに定評があると自負はしているが……面と向かって言われると悲しくなってきた、あまり深く考えるのはやめておこう。

 

「まあ、なにはともあれ、だ。由比ヶ浜、交代の件、俺は構わないぞ」

 

 どうやら部長殿は声をあげないと微動だにしない故に異論はないようだからな。沈黙は肯定、というやつだ。

 由比ヶ浜の顔が少しだけ喜色を帯びた。

 

「田島くん……ありがと」

「俺はまだ納得してねぇぞ」

 

 あからさまに不満そうな表情だな。普段は目が合わない癖にこういう時はバッチリと合うあたり、こいつの性格が伺えるよ。

 

「なんだ、お前も面倒くさいやつだな。まあ、そりゃあお前とて言いたいことはあるだろう。しかしそれは後にしろ。お前のその想いを、もどかしさを伝える機会はしっかりある。何せそのための今日だろう?」

「……わかった、わかったよ」

 

 比企谷は両手を上げる。

 このまま粘られた雪ノ下大先生に頼るしかなかったが、その必要はなかったようだ。実際に頼れたかどうかは別だが。当の本人は一切こっち向かないからな。不動明王だよアレは。

 

「しかし、そのポーズだとアレだな。まるでお縄に着いた犯罪者のようだな」

「はっ倒すぞお前」

「ハハハハ」

 

 椅子から立ち上がった比企谷の代わりに俺がテーブルに着く。

 恐らく学校の備品であろうパイプ椅子に腰をかければ、遊戯部の二人が伺うようにこちらを見ているのが目に入る。どうもさっきの問答で声をかけるタイミングを完全に見失ったらしい。そういえば俺は俺で彼らに参加の許可を聞いていなかった。

 

「悪いな。今度は俺が参加させてもらうが、問題はないか?」

「は、はい。大丈夫です」

「けど、ルールの方は大丈夫でしょうか?」

「まあ、問題はない。一応初戦は見ていたからな」

 

 二人はそれを聞いて、カードを配り始めようとカードのシャッフルを始めた。遊戯部と言うだけあってシャッフルの手際は良いな。カード遊びに慣れている感じだ。こりゃあ雪ノ下と比企谷がいても負け続きだったのも納得だな。

 

「比企谷くん」

「あ?ってかいい加減こっち向いてくれませんかね」

 

 相変わらず雪ノ下は微動だにせずに声だけ発するのだが、なんというか銅像から声だけ出てるみたいな形になっているのが、妙に恐ろしい。ほんとに動かないな、呼吸をする時の胸の上下くらいでしか雪ノ下の体は揺れない。揺れる胸もないくせに。

 

「服、着てもらえるかしら」

「は?」

 

 ポカン、と一瞬の静寂と共に間抜けな空気が流れた。

 

「比企谷くんはゲームから抜けるのだから、罰ゲーム適用下には入らないもの。なら服を着るのは問題ない筈よね?」

「あっ、えっとはい」

「そう。なら比企谷くん、さっさと服を着なさい」

 

 本当に強引で初心だな……この女。

 

 

 

 ゲーム内容に関してはさして語るものはない。何せ、結局のところ俺が参加しても勝負は五分がいい所。その上最後の決め手は由比ヶ浜の持っていたスペードの3だったのだから。

 材木座が余計な事しなければ完勝だったのだがなぁ。革命したのになぜイレブンバックをするのか。そのお陰で積み立てていた勝利への布石が崩れた。そこからは目も当てられない凡ミスに続く凡ミスだ。その上で遊戯部や俺でも見落としたスペードの3での決着。

 本当に俺が参加した意味は薄かったな。比企谷の名誉を守れたという点のみで言うのであれば、確かにあったと言えるのだろうが。

 

「面白みに欠ける塩試合だったな……」

 

 試合内容を思い返した後、それを忘れる為に温くなった缶コーヒーを飲み干す。その味は冷たかった時と比べて、より不味いものとなっていた。

 

「あの、すいませんでした」

「なんか、笑ったりして」

 

 相模と秦野、二人は申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。ここで頭を下げられるのは、心根が悪い奴ではない証拠だ。

 

「剣豪さんのゲーム、楽しみにしてますね」

「まあ、版権は会社に帰属するから剣豪さんだけのゲームってわけじゃないですけど」

 

 頭を下げられたからか調子が良さそうに高笑いしていた材木座の動きが止まる。おい、まさかとは言わないが、こいつその程度のことも知らないでシナリオライターになるだのなんだの言っていたのか?

 その後も遊戯部からシナリオライターについて語られる。

 

「じゃ、じゃあやめようかな……うんやめるわ……ふむ、やはり我はラノベ作家に向いているということかもしれぬ。ふははは、我天啓得たり!そうと決まれば次の新作のプロットに取り掛からねばならぬな。ではな、者共!さらばだ!」

 

 呆れてものも言えないとはこの事か。無駄骨、茶番、無駄働き。やはり、材木座義輝は自由人だ。良くも悪くも夢見がち、まあその行動力においては目を見張るものはあるのだが。

 

「なんか変な人っすね……」

「だろ?アレと関わるとろくな目にわねぇんだ」

 

 とかくその性根が腐っているのか、ねじ曲がっているのか、あるいはただ変わっているだけなのかは知らないが、とことん俺とはウマが合わないな。そもそもあいつとウマが合う奴自体が稀だ。比企谷くらいだろう、そんな男は。

 そんな奴に慕われている俺はきっと前世は相当な悪党だったに違いない。それこそ室町時代に何らかの大罪を犯した罪人かな。

 

「──そこで関係のなさそうな顔をしている田島くんだって変人だもの」

「……お前は俺を馬鹿にしないと気が済まないのか?」

 

 人間、痛みに慣れるとそれを感じなくなると言うが俺も順調にそうなっているらしい。全く、眠気も感じなくなればいいのだが。そんなふうに考えて、そろそろ無視出来なくなってきた眠気に耐える為に、欠伸を噛み殺す。

 向こうも由比ヶ浜が雪ノ下に抱きついているし、何らかの話が終わったのだろう。その途中で俺に罵倒が飛んできたのは訳が分からないが。

 

「とりあえず、部室戻るか」

 

 比企谷が歩き始めたのを皮切りに、俺たちは夕陽の沈む中部室へと戻り始めたのだった。

 

 

 部室に戻れば、窓から差し込むのは茜色、窓から外を見れば東側は薄い藍色が広がっている。もうすぐ夜だ。随分と時間を食ってしまったようだ。まあ五戦もゲームをやっていればそれも当然ではあるだろう。

 

「けど、どうしようかしら……。せっかくケーキを焼いて来たのに」

「ケーキ?なんでケーキ?」

「なんでって……ああそう言えば、由比ヶ浜さんには話していなかったわね。今日は由比ヶ浜さんの誕生日をお祝いしたくて呼んだのよ」

「へ?」

 

 こちらとしても『へ?』だった。いや、やはりかという納得もあるのだが。

 俺と比企谷はことの成り行きを見守るために、いつもの定位置座る。

 

「やっぱ雪ノ下、由比ヶ浜になんも伝えてなかったんか……」

「そりゃあどこぞの芸人宜しくああも見事にすれ違うことだろうよ……」

 

 向こうの二人には伝わらない声量でボソボソと喋った後、ふたりで顔を見合わせて呆れた顔になる。

 向こうで由比ヶ浜が雪ノ下に飛びつくのを見て、ため息混じりに深呼吸をした。やっと、重い憑き物が落ちたようなそんな感覚だった。

 

「ええ、まあ私だけがプレゼントを用意しているわけではないのだけれど……」

 

 雪ノ下がこちらをちらりと見た。

 

「え……っていうと」

 

 由比ヶ浜は雪ノ下の視線を追って俺たちの方へと顔を向ける。いや、俺たち、とは少し語弊がある。由比ヶ浜はあえて比企谷に対しては視線を逸らした。

 まあ、ここは俺が先陣を切るべきだろう。

 

「ん、ああ……そうだったな。そういえばそうだった」

 

 それはそれとしてちょっと忘れていた。もちろん由比ヶ浜の誕生日だったことは覚えていたのだが、どうも今日の出来事が濃すぎて俺自身プレゼントを買ったことを完全に失念していたのだ。おのれ材木座許すまじ。いや、こればっかりは俺が悪いか。

 

「そら、大したものじゃないがな」

 

 俺は鞄の中から、わざわざ店でラッピングしてもらった、リボンの着いたピンクの包みを渡す。

 

「た、田島くんも……?わぁ……嬉しいな」

 

 由比ヶ浜は本当に嬉しそうな顔をして俺が渡したものと、恐らく雪ノ下が渡したであろうピンクのエプロンをギュッと抱き締めた。

 

「これ、開けていい?」

「ああ、構わないぞ。まあ、お前の好みと合っているかはわからんが……」

 

 由比ヶ浜が包装を丁寧に開ける。丁寧に開けてくれるのは助かる。ラッピング代が予想以上に高いもんだから、ここで乱雑に開けられていたら内心泣いただろう。

 

「あ、サブレだ……!」

 

 中から取り出されたのは、所謂原色のレッドカラーのダックスフンドを模したスリッパだ。ぱあっと顔が明るくなった由比ヶ浜の様子を見るに、どうやら俺の勘はど真ん中で的中したらしい。

 彼女の言うサブレというのは分からないが。恐らく飼っている犬の名前だろう。

 

「え、でも田島くん。よくあたしがダックス飼ってるって知ってたね?」

「いや、たまたまだったんだが……お前が犬を飼っていると言うのを後輩から聞いてな、それでそれっぽいのを買ってみた」

「後輩?誰?」

「一色いろは」

「いろはちゃんと知り合いなんだ!?」

 

 この時期にああいうモコモコしたスリッパは些か時期外れだと買ってから気づいたが、由比ヶ浜は結構お気に召したようで鼻の部分を押していた。

 

「まあ、お気に召したようで何よりだ」

「うん!これ、あたしの飼ってるダックス、あサブレって言うんだけどね?すっごい似てるんだ……嬉しい、ありがとう」

 

 混じり気のない笑顔を向けて、目を逸らしてしまう。

 俺は、この笑顔が苦手だった。あの子を思い出すから。ああ……もしかしたら雪ノ下のあの言葉は、これを言っていたのだろうか。だとしたら大概、あの女も人の事をよく見ているよ。

 

「……とにかく喜んでくれたならそれでいい。俺としても選んだ甲斐というものがあるからな。それに、喜ぶにはまだ早いよ」

「あ……」

 

 由比ヶ浜と比企谷の目が合う、だが直ぐ逸らしてしまった。

 しかし意を決したような顔をした比企谷が、学校鞄の中に手を突っ込んだあと、すぐに小さな包みを取りだして、無造作に由比ヶ浜へと差し出す。

 

「いや、別に誕生日だからこれを用意したって訳じゃねぇんだ。たまたま良い機会だったってだけでよ……」

「え?」

「少し、考えたんだけどよ。なんつーか、これでチャラってことにしないか。俺がお前んちの犬助けたのも、それでお前が気を遣っていたのも、全部なし」

 

 比企谷が語る内容は、俺には些か理解のできないものだった。こういう時、コーヒーでも淹れることが出来たら、この部室に流れる妙な雰囲気に気圧されることも無かったのだが。

 

「だいたい、お前に気を遣われるいわれがねぇんだよ。怪我したのだって、相手の入ってた保険会社からちゃんと金貰ってるし、弁護士だの運転手だのがあやまりにきたらしいし。だからそもそも発生する余地がねぇんだ。その同情も気遣いも」

 

 これが比企谷の勘違い。すれ違いの原因。由比ヶ浜の気持ちを正しく理解できていないが故の主張だった。

 他人から向けられる好意というのは、得てして本人には分からないものだ。それが、比企谷のような男であれば尚更だろう。過去の話を自分からする時は、基本他者から悪感情を向けられている話しかないのだから。だから、自分の知っている感情に当てはめる。好意を同情に、心配を気遣いに。だから、比企谷はそれを疎ましく思った。

 故にこそ恐らく職場見学の際に比企谷は伝えたのではないだろうか。同じように、由比ヶ浜へと。

 

「それに、別に由比ヶ浜だから助けたわけじゃねえんだ……だから、これで差し引きゼロでチャラ。お前はもう俺を気にかけなくていい。だからこれで終わりだろ」

 

 比企谷は言い終わるとふーっと大きく息を吐く。それは胸につかえていたものが取れたかのようなそんな仕草だった。

 それを聞いて、俺は少し悲しくなった。ここまで短い間積み重ねてきたものを、簡単に終わりにしてしまうのは悲しいことだと、そう感じたからである。

 

「なんか、難しくてよくわかんなくなっちゃった……あたし、そんなつもりはなくて……。もっと簡単なことだと思ったんだけどな……」

 

 無理に明るい声を出して、なんとか平静を保とうとするが、震えた声と頼りげのないその声は一層食う気を重いものにさせる。

 これ以上は、話が拗れてしまうかもしれない。一度、場を改めさせてまた───

 しかしそんなに重苦しい空気を一つの声が切り裂いた。

 

「別に、難しいことではないでしょう」

 

 雪ノ下は夕日を背にし、窓際に経つ。窓から吹き込む潮風は、ふんわりと彼女の艶やかな黒髪を揺らす。まもなく夕日が沈み、当たりを闇が包むだろう。それだと言うのに、そこに立つ彼女の姿はやけに明るく見えた。

 

「比企谷くんには由比ヶ浜さんを助けた覚えはないし、由比ヶ浜さんと比企谷くんに同情した覚えはない。……始まりからずっと間違っていたのよ」

 

 確かに、雪ノ下の言う通りだった。

 

「だから、比企谷くんの言う通り『終わりにする』という選択肢は正しいと思う」

 

 始まりから違うのであれば、結果も間違っている。とするならば、きっと、やり直せるのだ。たとえ明日死ぬのだとしても、やり直す権利というものは皆に平等に分け与えられたものなのだから。

 

「そうだな、間違えたのならば、また始めればいい。確かに、簡単な事だ」

「ええ、そもそも比企谷くんも由比ヶ浜さんも悪くないのだし」

「は?」

「あなた達は、助けた助けられたの違いはあっても等しく被害者なのでしょう?なら、全ての原因は加害者に求められるべきじゃない。だったら……」

 

 雪ノ下はそこで一度言葉を区切る。

 なんだろうか、この違和感は。俺は、何を感じているのだろうか。

 

「ちゃんと始めることだってできるわ。……あなたたちは」

 

 雪ノ下のその異常なほどに穏やかで、しかしどこかもの寂しげな笑顔に俺はやはり違和感を覚えた。

 雪ノ下の言っていることは間違いじゃない。だが、だとするならば、何故その瞳には諦めと、罪悪感のようなものが映っているのだろうか。

 

「私は平塚先生に人員補充完了の報告をしてこないといけないから」

 

 唐突に思い出したかのように言うと、雪ノ下はまるで何もなかったかのように踵を返した。普段よりも早い足取りで、何かを隠すように雪ノ下は決して振り返ることなく扉に手をかける。

 

「雪ノ下」

 

 だから俺は思わず声をかけてしまった。そんなつもりなど毛頭なかったというのに。何故かその雪ノ下のもの寂しげな背中を見ていられなかった。

 

「……何かしら」

「ああいや……俺も同行しよう」

「いいえ、大丈夫よ。ただ報告するだけだから」

 

 雪ノ下はこちらをチラリと見た後、素っ気なく告げた。なぜだかその言葉に拒絶の意志を感じた。

 

「そう、か。ならいい」

「そう」

 

 雪ノ下は俺のその言葉を聞くと、今度こそ部室を出ていった。

 部室の中は妙な空気が漂う。

 由比ヶ浜と比企谷が隣でなにか会話を始めた。だが、俺はその会話に混ざることは出来なかった。

 

「ん?どこに行くんだ?」

「便所」

「お、おお……やっぱお前空気読めないよな」

「あえて読んでいないんだ、察しろ阿呆め」

 

 席から立ち上がり、一応鞄を持って外を出る。戻ってくるのが遅れて鞄だけ部室にある状態で締め出されるのもゴメンだからな。

 

「俺がいるとできない話もあるだろう?だからだよ」

「お、おう……」

「それでは、後は二人でごゆっくり……」

 

 俺はそう言って部室を出るために扉に手をかける。

 

「田島くん!」

「うん?」

「プレゼント、本当にありがとね」

 

 俺は、その言葉には言葉ではなく手を挙げて返答し、部室の扉を開けて外に出た。少し、格好をつけすぎたかと反省しながら。

 

 

 さっきの雪ノ下の姿がやけに焼き付いていて離れない。だって、この話は終わったはずだ。はずなのだ。だというのに、俺の勘はまだ終わってないと言っていた。決して、雪ノ下のあの姿を忘れてはいけないのだと、忠告してくる。お前の知らない何かが、まだあるのだと、俺は正しく認識している。

 だってあの言い分は、まるで雪ノ下はやり直すことが出来ないとでも言いたげでは無いか。まるで、自身が加害者であると言いたげではないか。

 だとすならば、とするのであれば。ああ、それは。なんて、憂鬱なのだろうか。

 

 




進路指導アンケート
総武高等学校 2 年 E 組
田島 実(たじま みのる)
出席番号 21 男
Q.あなたの信条を教えてください
約束は絶対に守る
Q.卒業アルバム、将来の夢なんて書いた?
極々ありふれたもの
Q.将来のために今努力していることは?
生きること
・先生からのコメント
事情を知っている身としては、普通の内容なのに妙に心配になってしまいます。
それと夢の内容を聞いているので、ありふれたものとか書かれても困ります。
次からはしっかりと内容も書いてください。
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十六話 どこを向いて歩けばいい?

 およそ、夏というのは人から嫌われている季節なのではないかと思う。暑いし、夏休みのせいか街中にいる人の数が多いし、なにより暑い。暑くて干からびてしまいそうだ。

 故にエアコンのある屋内こそ最高なのだ。それは今まさに俺がいるこの自宅のことであった。ビバ、屋内。このまま夏休みは自宅に引きこもっていよう。……いや、喫茶店巡りくらいはしたいのでどうせ外出することにはなるのだが。

 夏休みが始まってからおよそ一週間。特にやることもない俺は、いつものように日課のピアノだけ終わらせて、テレビの前に座っていた。

 

「よし」

 

 暇になったらコーヒーを淹れよう。

 今日はいつもと趣向を変えて、エスプレッソを淹れようと思っている。

 エスプレッソは、普段のドリップ式の重力によってコーヒーを抽出するものと違い、高い圧力をコーヒー豆にかけることによって、一気にそれを行う。短い抽出時間と、少量の湯によって行われる抽出は深いコクと旨みだけをコーヒー豆から引き出すのだ。故に普段のドリップしたコーヒーとはまた違った味わい深さがあるのだ。

 まずはエスプレッソメーカーを用意する。これは所謂直火式のエスプレッソメーカーで、マキネッタと呼ぶ。

 まずはボイラーに水を入れたら、いつものようにコーヒー豆を挽いていく。エスプレッソには豆をかなり細かく挽いた極細挽きが適している。

 挽き終えたコーヒー粉をバスケットの中に入れる。バスケットに入れる際は、あまり強く押し付けないで軽く鳴らす程度に留めておくのがポイントだ。

 そうしたらボイラーをセット、バスケットをボイラーに差し込む。そうして組み立てマキネッタをコンロの上に載せ、コンロを弱火にして、そのまま加熱を始める。

 後は待つだけだ。

 ここにミルクフォーマーがあると、更にカフェラテすら作れてしまうのだ。まあ持ってないのだが。それを加味しなくても、マキネッタさえあれば、簡単にエスプレッソ、それに連なる飲料を作れてしまう。技術進歩様々だな、全く。

 手持ち無沙汰になった俺は、スマホでなんとなしに天気予報を見れば、ここ一週間は晴れの日が続くそうだ。

 雨に降られるのも困るが、晴れが続くというのも些か憂鬱だ。かんかん照は好きじゃないのだ。雲間から陽射しが差し込む分には良いが、ずっと照らされては気も滅入る。

 といっても今の俺には全く関係ないのだがな!幾ら一色に誘われたとて俺は家を出ないぞう!別に誘われてはないのだが。

 総武高のサッカー部の事情は戸部から聞かされるどうでも良い話でしか詳しくは知らないが、どうも夏休みは練習に試合となかなかハードなスケジュールらしい。我が高校は別方サッカー部が強い訳では無いそうだが、夏休みともなると流石に忙しいのだろう。

 一色がマネージャーだとしても付き添いだのなんだのと色々あるのだそうだ。メジャーな運動部のマネージャーはきっと大変なのだろうさ。奉仕部の俺には全くもって関係のない話だが。

 そういう我らが奉仕部は夏休みは特に何もない。元から大した活動もない部活動だ。当然と言えるだろう。そもそも奉仕部は何部カテゴリーなんだ。文化部でいいのか?

 そろそろコーヒーも抽出し終えただろうし、コンロの火を止めて、ふと思い出す。

 

「いや、そういえば平塚先生が何か言っていたな」

 

 あれはそう、夏休み前、平塚先生にいつものように声をかけられた時のことだ。

 

 

「田島じゃないか。ちょっといいか?」

「……ええ、大丈夫ですよ」

 

 夏休み前の最後の提出物を提出し、いつも通り奉仕部に向かおうとしたところで、恐らくHRが終わったであろう平塚先生と出くわした。どうやらなにか用があるとの事なので、俺は了承していつものように立ち話を始める。

 

「それで、ぼくになにか用ですか?」

「うむ。ちょっと伝えたいことがあってな。夏休みの部活動についてだ」

「奉仕部の夏休みの活動ですか」

 

 正直に言うとやりたくはない。夏休みまでもが奉仕部の活動に支配されるというのはゴメンである。まあやるというのであれば、参加はするのだが。極力、可能な限り。

 

「ちなみにどんな活動をするのでしょうか」

「小学校の頃、君も夏休みに林間学校をやっただろう?それのボランティアだよ」

 

 それを聞いて眉をしかめてしまう。平塚先生はそんな俺の様子に愉快そうに眉を上げると、愉快そうに、そして呆れたように笑う。

 

「そんな露骨に嫌そうな顔をするな。せめて隠す努力くらいはしたまえ」

「すみませんでした。以後気をつけます」

「心のこもってない謝罪だな、全く。これはいつものように決定事項だ。異論反論は認めないぞ」

 

 そう言って得意げに腕を組めば、彼女は再びニヤリと笑った。

 

「日程などは追って連絡をしよう。ああ、丁度いい君ともメールを交換しておこう」

「自分はメールやっていませんよ」

「なら今始めたまえ」

 

 そう言って俺は強引の平塚先生とメールアドレスを交換した。もちろん部活には遅れた。しかし何故だか雪ノ下から罵倒が飛んでこなかったのは、幸いだったといったところだろう。

 

 

 ああ、確かこんな話だったな。そうだった。しかしメールか。一応何かしら来てる可能性も捨てきれないので、確認してみるとしよう。

 エスプレッソメーカーから抽出したコーヒーをカップに入れつつ、手元にあるスマホのロックを解除する。フリーメールのアプリをタップして開けば、確かに数件メールが来ているようだ。

 いくつかのどうでも良いメールの中に、平塚先生のメールも送られてきている事に気づく。

 

差出人:平塚静

題名「林間学校のボランティア活動における日程のご連絡」

 

 という題名でメールが届いていた。

 内容を読めば、ボランティア活動は一週間後のようだ。今思い出しておいて良かった。これで当日にメールを見ていたなんて事態になってしまったら、俺がどんな目に合うのか想像がつかないな。いや、そもそも想像なんぞしたくもない。

 カップに注いだエスプレッソを啜りながら、寝室に戻る。少しはしたないが、誰も見ていないし問題はないだろう。いい味だ、悪くない。

 階段を登って、寝室のドアを開ける。

 我ながら物の少ないというか、生活感のない部屋だ。寝る時以外はあまり使わないのが原因なのだが。

 本棚の上の倒れた写真立てをそのままに、隣にある卓上カレンダー、そこの今日から一週間後の日に印をつける。

 カレンダーに印をつけるのは久々だな。中学生の時はよくつけていたが。そもそも二年生になって奉仕部に入ってからやることなすこと久々なことばかりだ。

 誰かのために頭を捻るのも、誰かを祝うのも。

 そう考えると、一色には悪いことをしている。今年も昨年もあいつの誕生日を祝ってやるのを忘れていた。

 どうにも最近忘れっぽくなっている。元々あまり記憶力はいい方では無かったのだが、最近は余計にだ。

 これから、変えていければいいのだが。まあ、奉仕部にいればきっとなにか変わるはずだ。

 変わらなくてはいけないのだ。そうだとも。いい加減、後ろばっかり見ていてはいけない。いい加減、前を向かなくてはならない。

 

「ああ、しかし───」

 

 ベットの上にゴロリと寝転がる。

 

「前って一体どこなのだろうか」

 

 そうして目を閉じた。

 

 

 一週間後、平塚先生から聞いていたボランティアの朝になった。

 必要なものをカバンに詰めて、そして外出用のコーヒーメーカーをケースに入れて一息ついた。後は時間が来るまで待てばいい。水を注いだコップを飲み干して、適当に洗った後ラックの上に置いておく。

 確か二日だか三日だかの予定のはずだから、今詰めたので問題ないはずだ。

 

「ふぅ……肩が痛い」

 

 ジムに通い始めたはいいが、体を長いこと動かしてなかったせいでどうも筋肉痛が酷い。それと金の問題も酷い。いい加減バイトをしないとな。この夏休みは稼ぐとしよう。

 その為には、とりあえずボランティアを無事に終わらせるとしよう。

 

「んぁ……眠い」

 

 盛大なあくびをしながら、ソファーに沈む。本音を言うと行きたくない。そもそもこの暑さの中外に出るのは阿呆か間抜けか、平塚先生かだ。つまり平塚先生ならやるということだ。ああしかし、眠いな。

 うつらうつらしているところで家のインターホンが鳴った。

 

「あ?」

 

 パチッと目が覚めて、ソファーから立ち上がる。ここの家はドアホンはあるが、カメラがないもんで、仕方なく玄関まで歩いていく。

 

「宅配は頼んでいなかったはずだが」

 

 なにかあったかと記憶を探りながら、玄関のドアを開けた。

 

「あ?」

 

 そこに立っていたのは、サングラスをかけ、頭にカーキー色のキャップを被った女性。一瞬誰か分からなかった。女はふかした煙草を口元から離し、フーっと煙を吐いて、愉しげに口を開く。

 

「やぁ田島」

「……あぁ……?」

 

 女は平塚先生だった。

 俺は、空いた口が塞がらなかった。



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十七話 思っているよりも世間は狭い

 車の排気音と、エアコンの稼働音。そして平塚先生の鼻歌。これらを聴きながら、俺は平塚先生の運転する車に揺られていた。

 目的地は駅の方らしい。集合場所がそこなのだとか。最終的な目的地は千葉村だそうだ。千葉村とは、千葉市の保養施設が故に群馬県にあるのに千葉村という名前になっている、アウトドア施設である。

 

「しかし平塚先生、ぼくの家をよくご存知でしたね」

「前に行ったことがあるからな。忘れたのか?」

「……そうでしたね」

 

 以前に一度だけ、俺がまだ一年生の頃。平塚先生はとある事情で俺の家まで来たことがある。俺と平塚先生の長いようでまだ短い付き合いはそれからだ。余程俺は手のかかる生徒だったのだろう、それからずっとこうして目をかけてくれている。

 途中で赤信号に引っかかり、車は一度停止する。こうして車に乗るのは随分と久しぶりだな、なんて考えていると、平塚先生が顔はそのまま視線だけ向けて声をかけてくる。

 

「田島」

「はい?」

「奉仕部はどうだ?楽しいか?」

 

 その問いかけに対し、俺という人間は、はいかいいえという単純な答えは持ち合わせていなかった。俺は、あの空間を楽しめているのだろうか。それとも楽しめていないのか。そもそも、楽しむ権利なんてあるのだろうか。

 だが、それでも確かに感じることはある。満ち足りているなんて愚かなことは言うつもりはないが、それでも俺は確かに孤独を忘れることが出来ている。

 ならば、まあ───

 

「……悪くはないですよ」

「そうか」

 

 平塚先生は満足そうに頷くと、また黙って運転を再開した。

 

「そういえば、なんでぼくを迎えに?」

「いやぁ……君がサボるかと思ってな」

「信用がないですね……」

「日頃の行い、というやつだよ」

 

 耳が痛い。

 

「まあ実際は、君の家が単に通り道だったから拾っただけなんだが」

「それなら初めからそうだと言ってください」

 

 

 そうしないうちに、車は駅に着く。バスのロータリー近くに平塚先生はワンボックスカーを止めた。

 

「このまま中にいても構わないぞ?エンジンは切るが」

「ぼくを殺す気ですか?出ますから少々待ってください」

 

 車内の空気を吸って、覚悟を決める。車のドアをスライドして開ければ、ムワッとした熱気を肌で感じて、脱力しそうになるが、何とか堪えて脚を踏み出した。

 

「ああ、クソ」

 

 悪態をつきながら、俺は車から降りる。空から注ぐ陽射しは燦々として、目を開けているのも億劫になるほどだ。雲一つない快晴の空は青々と澄み渡り、空から注ぐ熱線が、肌をチリチリと焦がすような感覚がする。まだ外に出てそんな経っていないのに、じっとりと汗ばんでくる。眼鏡に汗がつかないように、ポケットからハンカチを取りだし汗を拭いながら、被っている帽子を深く被り直す。

 俺以外に誰かいないのかと周囲を見渡してみるが、チラホラと人はいれども見知った顔はいない。どうやら俺が一番最初に来たようだ。平塚先生が連れてきてくれたのだから当然ではあるが。

 本来だったらここまでの道のりを歩いていかねばならないと考えると、平塚先生には感謝しかない。徒歩だとこの暑さにやられて、何処かでぶっ倒れていたとしてもおかしくはないのだから。

 

「他の部員が来るまで、適当に何処かで涼んでるといい」

「では、お言葉に甘えて」

 

 駅近くのコンビニまで俺はフラリと歩いていき、中に入る。中は空調によってガンガンに冷やされており、少し肌寒いかもしれない温度だが、今の俺にとってはちょうど良いくらいだった。

 

「らっしゃーせ」

 

 店員のやる気のない声と、コンビニ特有のチープなBGMを背に俺は、とりあえずミネラルウォーターとカロリーメイトを手に取ってカゴに放り込む。他の部員の為に、何かしら摘めるものを買っておくか……?いや、しかしどうせ由比ヶ浜あたりが既に買うだろう。やめておくか。

 とりあえず俺の糖分補給用のキャラメルと、塩分チャージをカゴに放り込んで、レジまで向かおうとする。

 

「いやー、千葉村楽しみだねっ、ゆきのん」

「そうかしら。私はあまり気が乗らないわね……」

「えっそうなの?……あっ!」

 

 入口の方から見知った声がしたのでそちらに振り向けば、そこには由比ヶ浜と雪ノ下がいた。

 ピンクのサンバイザーをつけ、裾の短いTシャツ短パンと露出度高めの夏らしい格好をした由比ヶ浜に対し、ジーパンに露出控えめなTシャツと涼し気な装いをした雪ノ下。随分と対称的な格好をした二人だ。

 

「みのるんやっはろー!」

「おはよう……やはり慣れないな、その呼び方は」

 

 六月の誕生日会以来、由比ヶ浜は俺をあだ名で呼ぶようになった。少しだけ俺と、彼女の距離感が縮まったのだろう。喜ばしく、少しだけ面倒なことだった。

 あだ名に関しては未だに遺憾極まりないのだが、由比ヶ浜から提示された候補が『みのるん』『たじたじ』『たじまっち』だったがために仕方なくこの呼び方になった。改めて列挙すると酷い候補だな。

 

「雪ノ下もおはよう」

「ええ、おはよう」

 

 逆に雪ノ下とは得に何もない。俺と雪ノ下の関係性において進展性というものは何もなかった。とはいえこれくらいの方が楽でいい。

 

「みのるん何買うの?」

「水とカロリーメイトと、後は糖分と塩分補給用の奴だ」

「あー、キャラメルだ。じゃあ、あたし何買おっかな。ゆきのんお菓子何食べる?」

「由比ヶ浜さん。私たちが今から向かう場所は林間学校であって、別に遠足じゃないのよ?」

 

 仲睦まじくて結構なことだ。ベタベタと距離が近くて、見ているだけでも暑苦しいことこの上ないが。しかし雪ノ下もそんな由比ヶ浜を剥がさないのを見ると、順調に絆されてきている……いやもうとっくに絆されているのか。

 

「何を気持ちの悪い目でジロジロ見ているの?早く会計を済ませてきなさい。そこで突っ立っているのが、他のお客さんの邪魔になるということが分からないのかしら」

「別に俺たち以外誰もいないだろ……とはいえ、お前の言うことも一理ある」

 

 レジまで行って、会計を済ました後、俺は適当に雑誌のコーナーで暇を潰す。普段から読書はあまりしないが、雑誌なんてのは人生で数えられる数しか読んだことがない。

 料理雑誌とかならば多少興味が引かれるので、手に取ってペラペラと捲る。最近は色んなお手軽レシピが作られており、一人暮らしの身としては大変ありがたい。基本的にはネットで検索をして調べるのだが、たまには雑誌を読むのも悪くはないな。中々有用そうなレシピが多いし今度買ってみるとしよう。

 

「ありあとしたー」

 

 再び店員のやる気のない挨拶が聞こえる。どうやら由比ヶ浜達も会計を終えたらしい。

 

「あれ、みのるんまだいたんだ」

「外は暑いからな……」

「超わかる」

 

 俺は手に取っていた雑誌を棚に戻す。

 由比ヶ浜は随分パンパンになったビニール袋を持っている。そんなに何を買ったんだ?袋から透けた中身は凡そ菓子の類しか入ってなかったような気もするが。

 

「なんだ、ジロジロこっちを見て」

 

 間抜け面をしながらこちらを見る由比ヶ浜に苦言を呈する。

 

「あ、ごめんね。なんか、制服じゃないみのるん新鮮だったから。ね、ゆきのん」

「そうね……あなた、学校でしか姿を見ないから。もしかしたら学校に潜む地縛霊か何かかと思っていたわ」

「そんなにか」

 

 言われてみれば確かに彼女たちとは学校以外で顔を合わせたことはない。唯一校外で活動したという、川崎何某の依頼も俺は体調不良で関わりがなかったな。

 となればそう思われるのも、仕方、なくはないだろう。地縛霊は言い過ぎだ。そもそも別のクラスだし、俺はコイツらと部員仲間と言うだけで友達ではないのだから当たり前のことのような気もしてきた。

 

「ちょっと帽子深く被りすぎじゃない?」

「暑いんだよ、外が」

「全部それじゃん。でもラフな格好も似合ってていいね!」

 

 ニコニコとした笑顔で由比ヶ浜は俺の服装を褒めてくる。今日の俺の服は、黒のキャップに白のTシャツ、7分丈のカーゴパンツと夏に合わせて買ったものを、適当に組み合わせて着ている。こうして褒められるのはそれほど悪い気はしないが……。

 

「お前、そういうのは比企谷に言ってやった方が良いぞ。その方が好感度稼げそうだからな」

「な、なんでヒッキー!?今関係なくない!?」

「なんだ、隠せていると思っているのか?まあそれならそれでいいんだが……」

「な、なんのことかな〜あはは〜」

 

 パタパタと顔を仰ぎながら明後日の方を向き、ヘラヘラと笑う由比ヶ浜であった。

 誤魔化したいなら誤魔化せばいいさ。別に隠すことではないとは思うが、乙女心は複雑なのだろう。

 

「二人とも、そこで駄弁ってないでそろそろ行きましょうか」

「あ、そうだね。行こっか」

「ああ」

 

 そろそろ店員の目が厳しくなって来たのを察知したのか、単に話の切れ目だと思ったのかは分からないが、雪ノ下はそう言って出口に向かった。それを由比ヶ浜はガサガサとビニール袋を揺らしながら追いかける。

 その背中を、俺も外の暑さを想像して辟易としながら追いかけるのだった。

 

 

 バスロータリーまで戻ると、比企谷が平塚先生に詰められていた。アイツはいつも先生にどつかれているな。

 どうやら比企谷たちも来たようだが、一人見知らぬ少女が由比ヶ浜に溌剌とした表情で元気に挨拶していた。

 

「由比ヶ浜さんっ!やっはろー!」

「小町ちゃん、やっはろー!」

 

 もしや、巷ではその挨拶が流行っているのか?正直馬鹿に見えるからやめた方がいいと思うのだが。

 

「雪乃さんもっ!やっはろー!」

「やっ………こんにちは、小町さん」

 

 雪ノ下、今つられかけて言いそうになっていたな。やはり最近ガードが緩くなってきているだろ、あの女。

 俺は溜息をつきながら、一旦見知らぬ少女のことは置いて、先程コンビニで買った物の中から、ミネラルウォーターだけ取り出す。キャップを開けて、俺はかわいた喉を潤した。

 

「戸塚さんやっはろー!」

「うん、やっはろー」

 

 どうやら戸塚も今回の部活動に参加するらしい。戸塚彩加、以前奉仕部にテニス部の実力向上を手伝って欲しいと依頼してきた、総武高の男子生徒である。

 もう一度言うが男子生徒である。童顔、低身長、細い身体と、ハスキーボイスといった中性的な見た目をしているせいで、勘違いしやすいが彼はれっきとした男なのである。しかし比企谷は現実が見れていないので、戸塚に対して態度が気持ち悪い。そりゃもうオタサーの姫のような扱いをしている。

 

「戸塚も呼ばれてたのか」

「うん、人手が足りないからって。でも、ぼくが行っていいのかな?」

「いいに決まってるだろ!」

 

 あんな感じだ。

 ボケーッと戸塚と比企谷のやり取りを眺めていると、さっきまで戸塚の方にいた少女が俺の方へと近づいてきた。

 

「こんにちは!」

「……こんにちは。君が比企谷の妹さんか?」

「はい、比企谷小町です!兄が何時もお世話になっております」

「いや別に世話なんぞしちゃいないが……まあいい、俺は田島実。比企谷とは部員仲間といった関係性だ。どうぞよろしく、小町さん」

「よろしくお願いしますっ」

 

 小町さんはぺこりと頭を下げると、変わらずはつらつとした笑顔を見せた。

 

「ふむ……」

「えっと……小町の顔になにか付いていますか?」

 

 こてんと首を傾げこちらを不思議そうに見る小町さん。どうにもこの顔、というか溌剌そうな雰囲気、短い黒髪のショートには見覚えがあるのだが……帽子をかぶっているせいがイマイチピンと来なかった。

 

「いや、そういう訳じゃないんだが……以前どこかで会った事があるか?」

「いえ?今日が初対面ですけど……」

「そうか、ならいい。急に変な事を言って悪かったな」

「いえいえー。新手のナンパかな?って一瞬思いましたけどっ」

 

 この娘、本当に比企谷の妹か?いや確かに顔のパーツや、くせっ毛なところは似てはいるが、主に性格の部分が何一つ似ていない。親の教育が良かったのか、それとも兄の存在が反面教師となったのか。恐らく後者だろう。

 なんて思ってると、比企谷がオラつきながらやってくる。

 

「は?てめぇコラ、なに小町にナンパしてんだよ」

「どう見てもしていないだろ、話を聞いていたか?ああいや、聞いていなかったのだろう?何しろ戸塚に夢中で他は何も見えてなかったんだからな!」

「は?戸塚に見とれるのが何が悪いんだコラ」

「そう開き直られると困るのは戸塚だぞ」

「えっ、ぼく!?」

 

 面倒くさくなったので戸塚にキラーパスを投げておく。戸塚なら上手く舵を取ってくれるだろう。

 ため息を吐いて、帽子を被り直していると、小町さんが、今度は微笑ましそうな顔で比企谷を見ていた。

 

「田島さん、兄と仲良くしてくれてるんですね」

「そう見えるか?」

「ですです」

「……そうか」

 

 比企谷を長年見てきた妹だからこそ何かしら感じるものもあるのだろう。

 

「さて、では行くか」

 

 平塚先生に言われて、俺たちはワンボックスカーに乗り込む。中は七人乗りで、前から二、二、三といった座席数となっている。

 比企谷は助手席に座れと、平塚先生から直々のお達しを受けていた。憐れ、きっと目的地に着くまで平塚先生のアニメやら漫画やらゲームなどのサブカルトークを受け続けるに違いない。俺に気色の悪い詰め方をしてきた報いだとも、シスコンめ。

 

「ゆきのん、お菓子食べようお菓子」

「それは向こうに着いてから食べるものではなかったの?」

 

 由比ヶ浜と雪ノ下は一緒に座る気満々のようなので、自ずと俺は戸塚と小町さんと一緒に座ることとなった。……どうやら、報いを受けるのは俺もらしい。

 

「兄との関係とか色々と聞かせてもらいますからねー」

「なんか田島くんと喋るの久しぶりかも……」

 

 各々が車内で好き勝手に喋りながら、平塚先生は車は出した。ゆっくり眠れるかと思っていたが、この様子では無理そうだ。

 

「あ?……小町さん六月上旬の日曜日にららぽーとにいたか?」

「あ、はい。いましたけど」

「そう、か……」

 

 世間は意外と狭い。



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十八話 少女と憂鬱な予感

誰もが集団で上手くやれるわけじゃない
俺もそうだった。
だからこそ、憧れたのだろう。


 千葉村に向かい始めてはや一時間が経過した。最初はガヤガヤと騒がしかった車内も、ある程度時間もたてば多少なりとも興奮は収まるようで、今は各々その席に座っているメンバーで喋っている、そんな状態だった。

 聞こえる会話は様々だが、平塚先生と比企谷は夏休みでも働く社会人の悲しみについて話していたり、雪ノ下と由比ヶ浜はいつものようにたわいもない話をしてた。

 では、戸塚と小町さんの間に座ることになった俺はというと。

 

「へー、田島さん一人暮らしなんですね」

「今は亡くなった母方の祖母の家に住んでいる。なんでも売っぱらう寸前だったらしくてな。少し愛着もあったものだから、親に頼んで住まわしてもらっているんだ」

「そうなんだ……」

 

 戸塚と小町さんの間に挟まれて、この一時間殆ど俺に対しての質問に答えるばかりだった。正直言って辛い。あまり自分のことを話すのも慣れていないと言うのもあるが、何より彼女のテンションを見ていると一色を思い出す。似てる訳じゃないが、とにかく思い出すので勘弁して欲しい。

 とにかく話を切ろう。

 

「まあ、俺の事はもういいだろう。それより、小町さんの事を俺はなんも知らん。少し聞かせてくれ」

「は、はいっ。どーぞ!」

 

 少し緊張した面持ちになる小町さんに戸塚は苦笑いを浮かべた。俺も同じく苦笑しながらとりあえず無難な質問をする。

 

「そこまで緊張しなくてもいいからな。とりあえず君は、中学……何年生なんだ?」

「小町は三年ですよ」

「総武高に行こうとしてるんでしょ?八幡から話聞いてるよ」

「ほう、そうなのか」

「はいっ!……でも偏差値的には全然届いてないんですけど」

「そうなんだ」

 

 俺たちの通う総武高校は、一応進学校という扱いになっている。ここ千葉県の中でも、私立を除けばそれなりの学力と、内申点の良さが必要なのだ。

 俺は彼女の学力を聞いてはいないが、喋っている限り、地頭が良いタイプではなさそうだ。ただ飲み込みの速さなどを見る限り、決して頭が悪いという訳ではないだろう。

 

「まぁ、受験まで期間はまだあるんだ。適度にやっていくといいさ」

「はいっ!あっ、田島さんメール交換しませんか?小町勉強で聞きたいこともありますし」

「俺に?対して力になれるかは分からんが……いいぞ」

 

 小町さんとメールを交換する。交換する相手が今のとこ平塚先生含め女しかいないな。交友関係が広がっているように見えて実はそうではないような気がしてきた。

 しかしさっきからひたすらに眠い。昨日の夜もあまり眠れなかったから仕方がないのだが。今日はいつにも増して眠い。話している時も度々睡魔に襲われて仕方がなかった。

 俺を挟んで色々と話す二人の前で、堪えきれない欠伸を思わず盛大にしてしまう。ただ喋るだけで、しかもトイレの関係上コーヒーも飲めないとなると、かなり眠い。

 

「やっぱりさっきから田島くん眠そうだね」

「ん、ああ、いや……」

「あっ、ごめんなさい。小町、全然気づきませんでした」

 

 明らかに申し訳なさそうな顔になるとこちらが困ってしまう。気にすることではない、なんて言っても気にするだろう。これが奉仕部メンバーであれば話は別だったろうに。

 すると前の席に座って、由比ヶ浜と何やらくっちゃべっていた雪ノ下がこちらに振り向く。

 

「気にする必要はないわ、小町さん。その男はいつもそうだもの。ね?睡眠不足くん」

「あ?誰のことを、なんのことを言っている?まさか俺の事か?まさか雪ノ下ともあろう女が、人の名前を間違えるとはな。実に嘆かわしい」

「あら、皮肉の一つも分からないほどに低脳だったのね。微生物の方が余程ユーモアがあるんじゃないかしら」

 

 少々苛立ちながら雪ノ下の方を見れば、クスリと小悪魔のように笑う雪ノ下がいた。こいつまさか今ので助け舟を出したつもりか?どんな助け舟だ、それ。そもそも氷で出来た舟は舟というのか?ただの浮かぶ氷のオブジェクトだろ。

 雪ノ下の強烈なパンチに小町さんも戸塚も少々口が引き攣っているが、せっかく雪ノ下が出してくれた助け舟だ。乗ってやるとしよう。

 

「馬鹿め、あえて無視しているんだ。それに、ユーモアさでいったらお前ほどユーモアさの欠片もない女は見たことがないな!」

「へぇ……言ってくれるわね」

 

 そうして俺は、雪ノ下に買い言葉に売り言葉。といった形でいつもは途中で切りあげる罵倒合戦に乗ってやった。しかしそれは三十分も続き、そろそろ俺が根負けしそうなタイミングで何故か突然罵倒の対象が比企谷になった。哀れな奴だ。後で何かジュースくらいは奢ってやろう。

 

 

 結局寝た。眠気に耐えられなかったのである。しかし睡眠時間が少なかったからか、それなりに良質な睡眠だったのは幸いだった。あるいは人数が多かったから単に浅い眠りというだけだったかもしれない。

 他のメンバーが降りるのに続いて車を降りれば、視界に広がるは一面の緑。自然豊かな木々達が俺を出迎える。

 長い時間座って寝ていたのもあって、体を伸ばせば、体中からバキバキと音が鳴った。

 高原の涼やかな風が、夏の熱気を警戒していた俺の心をほぐす。現代のコンクリートジャングルでは味わえない心地良さだった。別荘を作るならこういう山の高地が良いな。そんな金も気力もないが。

 蒸れた帽子を一度外して、潰れた髪を直していると平塚先生がタバコの煙を吐く。

 

「ここからは徒歩でいくことになる。各自荷物を下ろしておきたまえ」

 

 平塚先生の指示に従って、俺たちはそれぞれワンボックスカーから荷物を下ろしていると、もう一台白いワンボックスカーがやってきた。

 一般客だろうか。こういう林間学校の時は貸切でやっているイメージがあったので、少々意外に思えた。

 車から降りてきたのは、俺と同い年程度の男女四人組だった。四人で来るには随分と若い連中だが、保護者などはいるのだろうか。などと思っていると、その中の一人がこちらを見て声をあげる。

 

「あれ、実くんじゃね?」

「はあ?お前戸部か?」

「やっぱ実くんじゃん!っべー、マジ驚いたわ〜」

 

 声の主は戸部だった。よく見れば、比企谷の方には葉山がいる。どうやら葉山のグループもここに来たようだ。となれば、残りの女子二人は以前に見た気の強い女と眼鏡腐女子だろう。あともう二人、男がいたはずだが、今回は来ていないのだろうか。

 

「実くんもただでキャンプしに来た感じー?分かるわータダとかマジ最高だわー」

「……何を言っている。お前も林間学校のボランティアで来たんじゃないのか?」

「え?マジ?俺そんなこと聞いてねーべ。ちょい待ち、隼人くーん?聞いてた話と違うんだけどー?」

 

 戸部が俺の傍から離れ向こうにいる葉山に話を聞きに行ったのを見て、俺もすかさずその場から離れた。待て、なんて言われたが誰が待つか。

 思わずため息が漏れ出る。奉仕部だけでもうるさいというのに、戸部までいるとは。

 後で平塚先生に話を聞いたところ、なんでも人手が足りないから彼らを呼んだと言う。元々校長に頼まれた件だったらしい。そういうのは学年主任の辛いところだろう。とはいえ俺たちを巻き込めんでるのが、学年主任の権限の使い所だろう。

 そんな話を聞いている時に、平塚先生はなにか思いついたかのように柔和に微笑んだ。

 

「丁度いい、君たちは別のコミュニティと上手くやる術を身に付けた方が良い」

 

 その視線の向く先は、どちらかというと俺に対してというよりかは、主に雪ノ下や比企谷に対してのようだった。

 平塚先生は続けて無視するのでもなく、敵対するのでもなく、ビジネスライクにやり過ごせ、などと彼らに言いつける。まああたりまえの事だ。嘘をつくのではなく、妥協点を探し波風立てることなくやれというもの。今後社会を生きていく上で必須のスキルだ。むしろ俺の得意分野と言えよう。

 しかし隣で平塚先生にそう言われても、了承する訳でもなく、反対する訳でもなく、何か思うことがあるかのように黙りこくる二人にはいささか難題のようだが。

 全く。どうなる事やら、だな。

 

 

 本館まで行き、荷物を置いた後、俺たちは「集いの広場」とかいう開けた場所へと向かわされた。

 そこには約百人はいるであろう小学生達が立っていた。背丈を見るにおそらく小学五、六年生程度。それぞれ発育に差があり、皆が思い思いの装いをしているのもあって中々混沌としている。制服姿でないとこうも統一感が出ないものなのだと改めて思わされるくらいだ。

 そして何より喧しい。やいのやいの、きゃいきゃいきゃいきゃい、がやがやがやがや。ガキは元気が一番とは言うが、限度がある。それこそこう声変わり前の男子、女子関係なく喋り散らかされると、もう、何とも、まあ。いや、今の気持ちを語るのはやめておこう。

 とはいえ流石にバッチリ目が覚めた。この感じなら今日一日は問題なさそうだ。

 やがてしてお馴染みの、皆さんが静かになるまで〜というセリフを先生が言ったあと、お説教が始まる。正直時間の無駄だと思う。その後、今後の予定が説明された。

 今日はオリエンテーリングをするそうだ。一応フィニュシュまでの時間を競うためにコンパスと時計を使って全力疾走する、かなりアクティブかつ真っ当な野外スポーツの一種ではあるが、そこまで本格的ではないだろう。まあよく言えば森林浴しながら散歩的な意味合いの方が強そうだ。きっと子供にはいい経験になる。

 

「では最後に、皆さんのお手伝いをしてくれる、お兄さんお姉さんを紹介します。まずは挨拶をしましょう。よろしくお願いします」

「よろしくおねがいします!」

 

 バラバラに挨拶をする小学生達。正直百人近い子供が同時に声を発すると喧しいことこの上ないな。当時は微塵も違和感などなかったのだから、俺も大人になったということなのだろう。

 小学生たちの好奇に満ちた視線が俺たちへと注がれる。とりあえず、目深く被ったキャップを少し上にあげて、顔ぐらいは見えるようにしておくか。

 そうしていると、別に打ち合わせをした訳ではないのに葉山がスっと前に出た。

 

「これから三日間、みんなのお手伝いをします。何かあったらいつでもぼくたちに言ってください。この林間学校で素敵な思い出をたくさん作ってくださいね。よろしくお願いします」

 

 拍手喝采である。一部の女の子からは黄色い歓声すら上がっていた。

 手馴れてるな。内容も打ち合わせをした訳ではないのに、難しい言葉を一切使わずにそれらしい喋りだった。もしかしたら、普段からこうして人前で喋るのかもしれない。面がいい奴は、内面もいいってことだろう。阿呆か、そんなわけない。

 

「では、オリエンテーリング、スタート!」

 

 そうしてオリエンテーリングが始まった。

 小学生は四人から五人のグループで班を決め、それぞれ山の中を歩き地図上に決められチェックたポイントにあるクイズを回答する。そしてゴールまで辿り着いたタイムと、道中のクイズの正解数で競うというレクリエーションのようなものだった。

 こういったものはやった覚えはないが、きっとうまくやれてるグループは楽しいだろうな。逆に言えばそこで何かを思い出して苦い顔をしている比企谷のようなやつは楽しめないということだが。

 俺たちがやることはゴール地点での昼食の準備、つまるところ雑用である。そこまで行くのは徒歩だそうだ。平塚先生の鬼め。

 ここが涼やかな風の吹く高原ではなかったら俺は道中野垂れ死にしていることだろう。

 歩きつつ、いくつかの小学生の集団とすれ違う。時には一度すれ違ったらことのある顔ぶれとも再びすれ違ったりもする。

 

「お、比企谷またさっきのガキ共だぞ」

「は?お前一々覚えてんのかよ。ロリコンか?」

「目が腐っているのか?いや実際に腐っているか……顔は俺も見分けがつかんが、服装が特徴的な子がいるだろう?」

「マジか……全然わからん。アイドルの顔見分けるのより難しくないか?」

「俺はそっちの方が無理だ」

 

 俺たちは別れる必要はないので、それぞれ会話をしながら進んでいると、女子五人のグループと出くわした。

 このグループは知らないな。

 とりわけ元気で活発な雰囲気を出す少女たちは、その雰囲気の通り元気そうに話しかけてくる。そして気づけばマンツーマンで会話をしていた。

 俺と比企谷と雪ノ下以外で。当然の結果である。

 更に気づけば一緒にチェックポイントを探す流れとなっている。最近の小学生のコミュニケーション能力はすごいな。今日は感心させられることばかりだよ。

 しかしそんな巧みなコミュニケーションをする少女たちだったが、一つだけ、いや一人だけ違和感があった。

 五人のうち一人、班から離れている少女がいる。腰まで伸びたストレートの黒髪、大人びた表情でフェミニンな服装をした少女は、どこか垢抜けた印象を覚えた。そのビジュアルは、世間から充分見た目が良いと言われることは想像にかたくない程には、美少女と言って差し支えない。

 そんな彼女は何故か集団から少し離れた位置でとぼとぼと、デジカメを首から提げて具体的にどこを見るわけでもなく、しかし景色を楽しんでいる様子もなく、所在なさげに木々や小石を見つめるだけだった。

 とはいえ離れているといっても距離にして一メートルもない幅で、傍から見たら孤立なんて印象は受けはしないだろう。

 しかしそうした印象を受けるのは間違いなく、他のメンバーの行動せいだ。その孤立少女を、それ以外の四人は時折振り返って見ればクスクスと嘲笑するのだ。そら、今もしただろう。

 その行為がたった一メートルもない距離感に明確に一線を引いていた。目に見えない壁が、彼女たちの間に線を引き、その関係性に溝を入れる。よくある事と片付けてもいいが、見せられている側としてはあまり良い気分ではない。

 

「……」

 

 どうやら気づいたのは俺だけではないようで、雪ノ下も眉根を寄せて険しい顔をした後、ため息を吐いた。比企谷は言わずもがな。似たような経験をしたことがあるであろうこいつらならば、目ざとく気づくのも当然の事だった。まあそもそも喋っていないから、周囲を見る暇があるというのもそうなのだが。

 とはいえ俺たちに何か出来る訳でもなし、無視するのが安牌だ。

 しかし、そう思わない阿呆もいるようだ。

 

「チェックポイント見つかった?」

 

 葉山隼人が少女に声をかける。

 

「……いいえ」

「そっか、じゃあみんなで探そう。名前は?」

「鶴見、留美」

「俺は葉山隼人、よろしくね。あっちの方とか隠れてそうじゃない?」

 

 そう言って葉山は鶴見の背中を押して少女たちの一団の方へと誘導していく。

 さりげなく名前を聞き出した上に、チェックポイント探しにまで誘う手腕は流石としか言いようがないが、やり方が良くないな。

 

「あまりいいやり方とは言えないわね」

 

 ポツリと、雪ノ下が誰に言うともなく呟いた。

 鶴見は葉山に促されるまま、少女のグループの中心まで連れてこられた彼女だったが、その様子はあまり楽しげとは言えない。むしろ浮いていると言えよう。

 当たり前のことだ。元から馴染めていなかった存在がグループに入ったところで、異物は異物。受け入れて貰えるわけが無い。

 それを口に出さず、態度に出さずとも自ずと人というものは出てしまうのだ。嫌悪、拒絶、忌避感。それらが目線、アクセント、ちょっとした動き等の、細やかな動作に反映され、間接的にその空間へと侵食し、確かに意志という形で伝播する。

 空気で語る、というやつだ。感情は目に見えない、なんて言うがとんでもない。人というのは感情を可視化できずとも、目で見て、感じ取ることが出来る生き物なのだ。

 それは別にその場にいる奴だけの話じゃない。俺たちだってその空間を作り上げる要因だ。

 やがてして鶴見はその集団から再び追いやられ、離れた位置にいた。

 

「……やっぱりね」

 

 雪ノ下は分かっていたのだろう、あの様子を見てため息を吐く。

 

「小学生でもあるんだな、ああいうの」

「そりゃあるだろうさ。むしろ、感情が理性を上回る可能性がある分、小学生の方が余程タチが悪い。何しろどうでも良い些細な事でいじめが始まることすらあるからな」

「……結局、小学生も高校生も同じ人間ということよ」

 

 地図上ではこの当たりがチェックポイントらしい。程なくして、木陰に刺さる汚らしい看板を見つけた。雨風に晒されてボロボロになった看板に、白いコーピー用紙が画鋲で貼り付けられていた。

 

「ありがとうございます!」

 

 あとはクイズを解くだけなので、俺たちは元気な挨拶をする少女達と分かれる。まだまだ元気いっぱいな彼女達はチェックポイントを探すようで、かしましく喋りながら去っていった。

 俺達も一足先に、ゴールへとつかなければならない。いい加減仕事をするとしよう。

 集団より遅れてスタートした鶴見が、見えなくなったのを見て俺も歩を進めた。

 願わくば、あの子が火種で面倒事だけは起きないように祈るとしよう。神なんざ死んでしまったと思っているが、それでも面倒事はゴメンだ。特に、こうした外部の人間では解決に時間のかかって憂鬱になるようなものは、な。



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十九話 目を逸らした先の客

自分すら救えていないのに、他人など救えるものか


 曰く、あくまで比企谷八幡曰くだが、キャンプにはカレーらしい。確かに外におけるカレーほど作りやすい料理もないだろう。更に、野菜に肉、米など基本的な栄養を取れる食材を使う。何より一度に多量に作れるのが良い。それ故にこうした大人数の調理には向いているのかもしれない。

 俺はキャンプなんぞしたことがないので、本当にキャンプ飯がカレーがいいのかどうかは知らないが。だがこうした所で飲むコーヒーは格別だろう。夜が楽しみになってきた。

 何を隠そう……隠すほどのことでもないが、今日の晩飯はカレーだ。

 小学生達が共同で火を起こし、食材を下拵えし、飯盒を囲み、鍋で野菜とルーを煮込んでカレーを作る。

 言ってしまえばそれだけの事であり、大したことではないのだが、これまた普段料理を毎日しないであろう小学生達にとっては貴重な経験だ。ここから毎日食事を用意してくれる母親に感謝するやつもいれば、しない奴もいる。あるいは普段からやっている事だと手際良く終わらせるガキもいるかもしれない。

 百人余りいるんだ。それぞれの事情くらいあるだろうが、大抵の生徒にとってはきっと良い経験になるだろう。

 こうしてボランティアとして参加している身としては、楽しんでいても、いなくても、問題がなければそれでいい。目に見えなければ、それでいいのだ。

 炊ぎの煙が周囲から上がる中、俺たちのような中高生になってしまえば、普段から料理をする奴もいるのもあって、こちらはそれなりに手際良く終わる。あとは鍋でカレーを煮込むだけだ。

 ボケーッと、火とぐつぐつ煮える鍋を眺める。カレーのスパイスの香りは香ばしく、好物というわけではないのだが、それでも鼻腔をくすぐるこの良い匂いは、空きっ腹には些か毒だ。要するに腹が減った。

 ちなみに鍋を見ているのは俺と平塚先生だけである。

 他のメンバーは、小学生達の手伝いも兼ねて見回りをするらしい。

 もちろん俺は断固拒否をした。小町さんから誘われたが、少しだけ申し訳なく思いつつも、やんわりと断った。戸部から死ぬほど肩を掴まれたので、鳩尾を殴ったあと拒否をした。誰があんな見えている地雷原に突っ込むものかよ。

 

「はぁ……」

「さっきからやけにため息をするじゃないか。なんだね、私といるのがそんなに嫌かね?ふむ、もしやこう言って欲しかったのか……?二人きり、だね……」

 

 ため息を吐く理由の内三割はこの、隣でキャッとか恥ずかしっとか、歳を考えずはしゃいでいる女教師のせいである。

 もうすぐ三十になるのだから、そろそろ年相応の落ち着き、というやつを見せて欲しいものだ。

 

「はぁあ……」

「さっきよりも大きくなっているじゃないか……何か心配事でもあるのかね?」

「ええ、まあ……」

 

 ちらりと、ガヤガヤと騒がしい方へと視線を向ける。そこには葉山が中心となって小学生を集めていた。

 そこには、鶴見留美とかいう小学生もいる。集められた小学生の中心で、中心人物たる葉山に話しかけられている。

 しかし彼女は葉山と一言二言話した後、どこかへと走り去っていった。

 居た堪れなくなってその場から離れたのだろう。孤立している人間が、周囲に同年代の男女を侍らせる人気者の人間から声をかけられたらどうするか?そりゃあ逃げるだろう。目立ちたくない、注目されたくない、あるいは勘違いされたくない。その時の気持ちは様々だが、大凡として関わりたくないが一番に違いない。

 だから逃げる。彼らが来ないような場所まで。

 

「彼女か……」

 

 平塚先生も煙草の煙を吐き出し、腕を組みながら俺と同じように鶴見を見ていた。その顔はサングラスによって少し隠れていて汲み取るのに苦労する。しかし呆れたようなため息混じりの様子からは、似たような気持ちだと察することが出来た。

 

「……別に彼女のことを心配するほどお人好しではありません。もちろんあの光景に思わない所がない訳ではありませんが。しかしそれよりも、もしかしたら面倒事が起きるかもしれない。その可能性の方がぼくは心配だ」

「面倒事か……具体的には?」

「生徒間の諍いなら、それを止めるのは学校側の仕事でしょう。俺…ああいやぼくたちの関わる仕事じゃない。いや、寧ろ、生徒が起こす問題は、そのほとんどがぼくたちの仕事には関係のない話です」

「そうだな、私も極力そういうのは勘弁して欲しいものだ」

 

 平塚先生も俺も、面倒事を嫌うという点では同じである。その言葉の重みは、立場を鑑みたら彼女の方が圧倒的だが。

 

「だが、もし仮に、彼女の事を救いたいと思う阿呆がいるのであれば話は別になってしまいます。なにしろ、わざわざ自分から首を突っ込みにいくんですから。そこにはその行為の責任が伴う。中途半端にでも関わったなら、少しでも事態を好転させるという責任が」

「なら……君は、彼女の事を救いたいとは思わないのかね?」

「生憎と、人一人の人生の岐路を決める可能性がある行為の責任を受け持てるほど、俺は人が出来ていないんですよ」

「……一人称、また戻っているぞ?」

 

 俺の話を聞いて、その上で微笑ましいものを見るかのように、平塚先生は俺を見る。その柔らかな笑みから逃げるように、俺は再び鍋へと視線を向ける。

 

「……すみません」

 

 そんな、弱々しい謝罪だけが、口から漏れ出るのだった。

 

 

 飯盒の米はふっくらと、鍋の中のカレーが良い感じに煮え始めた頃、見回りに行っていたメンバーが戻ってきた。

 俺は平塚先生に命じられて、人数分の器の用意と、盛り付けをする。見回りをサボった罰だそうだ。

 全く、なんで俺が。ぶつくさ文句を言いながら器にカレーを装っていると、小町さんがこちらにやってきた。

 

「小町も手伝いますよ!」

「ああ、悪いな。ありがとう」

「いえいえー」

 

 お礼を述べつつ、人数分のカレーを装って配膳した俺たちはそれぞれ好きな席に着く。

 

「さぁ、切って洗って煮込んで鍋を見て、盛り付けまでしてやった、この俺に感謝しながら各自食事を取るがいい」

「なんでそんな偉そうなんだし!」

「ウェーイ!実くんサンキュー!」

「あはは……まあ実際田島くん凄い手際良かったから、ありがとう」

 

 ブーイング八割感謝二割の声援が飛び交う。

 それに手を振ってとびきりの笑顔で返すと、さらにブーイングが上がった。

 俺はそのままコーヒーを入れようとしたが、それを待っている間に飯が冷めるからやめろと言われたので仕方なく席に戻った。

 

「さて、それではいただくとしようか」

 

 平塚先生が合図をすると、各々軽く手を合わせて「いただきます」と言う。

 カチャカチャと食器にスプーンがぶつかる音が鳴りだし、各々がカレーに舌鼓を打つ。カレーの味自体は大したものじゃない。

 しかしこの自然に囲まれた環境で食べるというロケーションと、こうして大人数で囲んで食事をとるという状況が、カレーの味を数段上げているように感じた。

 ああ、コーヒーが飲みたい。そう思いながら、俺はその欲求を誤魔化すようにしきりにスプーンを動かすのだった。

 

 

 食後、小町さんが入れてくれた紅茶を啜りながら一息つく。

 腹一杯食べたというわけではないが、少食の俺からすれば十分な量である。

 もう小学生は本館へと戻っており、そろそろ就寝時間だろう。高原の夜は冷えるが、つい先程まで聞こえていた喧騒がなくなると、その冷えた空気はより涼やかなものになる。肌寒さ、と言うよりは物寂しさによる心の冷えだ。

 虫の音、風によって揺れる葉の音がいやでも耳に入ってくる。

 コトリと紙コップを置いた葉山がつぶやく。

 

「今頃、修学旅行の夜っぽい会話、しているのかな」

 

 その声色は何処か懐古に満ちたものだった。俺は寝る時間になったら寝ていた人間なので、そういった会話とは無縁だ。班から浮いていた訳でもないし、ハブられていた訳ではない。昔の俺は単純に夜更かしになれていなかっただけである。眠かったら寝る。それが出来ていた頃はきっと幸福だった。

 今でもこうしてこの時間になると眠くなって、欠伸をする程度には、健康的な人間なんだろう、俺は。

 

「大丈夫、かな……」

「ふむ、何か心配事かね?」

 

 心配そうにつぶやく由比ヶ浜に反応したのは、煙草をくゆらせる平塚先生だった。心配事の中身については鶴見留美のことだろうし、それも彼女はわかっているはずだが、それをわざわざ問うて来るのは俺たちの意志を確認したいのか。

 しかし毎度思うが、一応風下にいるとはいえ、学生の前で煙草を吸うのはどうなのか。似合っているから別にいいんだが。

 

「ちょっと、孤立しちゃってる子がいて……」

「ねー、可哀想だよねー」

 

 三浦が相槌のつもりでそう言うが、その言葉のチョイスは良くない。

 別に俺はいいのだが、そういうのに目敏く、いや耳敏く反応する男がいる。そう比企谷八幡である。

 

「いや、それは違うぞ葉山。お前は問題の本質を理解していない。孤立すること、一人でいること自体は別にいいんだ。問題なのは、悪意によって孤立させられている事だ」

「はぁ?なんか違うわけ?」

 

 三浦がそう聞き返す。

 俺のように、望んで一人でいる人間。雪ノ下のように、過去疎まれた経験から孤立せざるを得なかった人間。その両者は似て非なるものだ。

 この世の中には望む望まないに限らず、その環境や性質、価値観によって孤立する人間もいる。それを一緒くたにすることは許さないと、比企谷は暗に言いたいのだろう。

 今回の鶴見の孤立に関しては後者であるのは確実だ。その原因は間違いなく環境にある。

 

「改善するべきは彼女の環境、ということを言いたいわけか」

「そういうことだ」

「それで、君たちはどうしたい?」

「それは……」

 

 平塚先生に問われて、皆が一様に黙りこくる。別にどうかしたい訳ではない。少なくとも俺は。本気で心配している人間もいるのだろうが。おおよそにしてそんな者ですら、この状態をこの短期間で好転させる自信があるか?否である。故にを噤むし、視線を下に逸らす。

 この言葉に即答できる愚者はいない。

 だから、代弁くらいはしてやるさ。

 

「別に、どうも。ぼくは特に何かしたいとも思いませんよ」

 

 俺がそう主張すると、全員の目線がこちらへと一斉に向いた。咎める目、信じられないものを見る目、呆れた目。それらを意に介することなく、俺は紅茶を呑気に啜る。……しかし、コーヒーが飲みたい。

 そんな俺に、葉山は強い視線を向ける。

 

「……君は、彼女を見て何も思わないのか?」

「あれを良しとするほど俺も腐っちゃいない。だが、状況を好転させるだけの確証がないのに動けるほど、人が出来てもいない。お前も、そうだろう?」

「俺は……」

 

 葉山は一瞬、口を閉ざす。しかしそれは俺の言葉に図星をつかれたからとかではなく、ただ、何を言うべきか迷っているような一瞬の沈黙の後、その視線を一瞬雪ノ下の方へと向けた。

 

「……できれば、可能な範囲で何とかしてあげたいと思う」

「……そうかい」

 

 優しい言葉だった。

 出来ない可能性も含めて、それでも希望を持って優しさを振りまく愚か者の言葉だ。

 ここでそれを臆せず言えるのはこいつの人格が優れているからか、あるいはまた別の要因か。どちらにせよ、俺の目には羨ましく映る。

 

「あなたでは無理よ。そうだったでしょう?」

 

 俺の返答で終わりかと思われたこの会話に、再び切り込んだのは雪ノ下の言葉だった。

 葉山は苦しげな顔を一瞬覗かせる。

 

「そう、だったかもな。……でも、今は違う」

「どうかしらね」

 

 意外な関係性を見た。いやその予兆は、彼が持ち込んだチェーンメールの依頼の時からあったか。あの時雪ノ下はどこか刺々しい雰囲気があったのを思い出す。

 つまり、この二人は昔から関係があって、何らかの確執があると見ていいのかもしれない。

 

「やれやれ……雪ノ下、君は?」

 

 問われると、雪ノ下は顎に手をやった。嫌な予感がする。

 

「……一つ確認します」

「何かね?」

「これは奉仕部の合宿も兼ねていると平塚先生は仰いましたが、彼女の案件についても活動内容に含まれますか」

「……ふむ。そうだな。まあ、原理原則から言えば、その範疇に入れてもよかろう」

「そうですか……」

 

 答えたきり雪ノ下は目を閉じる。

 そよぐ風は静かに、枝葉すらも揺れぬほどに弱まっていく。誰も彼もが、まるで森すらも彼女の言葉を決して聞き漏らさないと言わんばかりに、耳を立てていた。

 俺を除いて。

 

「私は……、彼女が助けを求めるなら、あらゆる手段を持って解決に努めます」

「本気か?」

 

 雪ノ下の確かな宣言に、俺は意義を申し立てる。

 それに対して彼女はキッと鋭い視線を向けてきた。まるで文句でもあるのかと、目だけで問いただすかのように。

 

「……ええ、本気よ。それともあなたは違うのかしら」

「さっきもそこの葉山くんに言っただろう?俺の意見は変わらない」

 

 俺と雪ノ下は互いに目をそらすことなく、真っ直ぐと見据える。いやむしろ睨めつけていると言っていい。ただでさえ重苦しかった空気が、より重たく、冷たくなっていっそう俺にのしかかる。

 

「お前、今回のはいつもの学生の悩みだとかとは違うものだとわかっているのか?よりセンシティブかつ、繊細な問題だ。外部の俺たちでは解決出来るとは思わない」

「それを解決に努めると言っているのよ」

「確証もないのにか?」

「それでも、手を差し伸べるのが、私達奉仕部の役目でしょう?」

 

 きっと、雪ノ下には俺が臆病者のように映っていることだろう。いや、事実そうなのだ。俺は結局のところ、恐れている。

 だが、この選択は一人の少女の人生を変えるかもしれない。それは良い方向にも悪い方向にもだ。

 

「そりゃ、立派な事だ」

 

 そんな選択を、この場で決められるほど、人一人の人生を背負えるほど、俺は立派でも優秀でもない。ただの、何も出来ない凡人なのだから。

 

「……あなたのそういう初めから諦めているところ、嫌いだわ」

「……なんだ、珍しく気が合うじゃないか。俺も俺が嫌いだよ、雪ノ下。お前と同じように、な」

「……」

 

 紅茶を飲み干して、紙コップを机の上に置く。フーっと息を吐いて少し下がった眼鏡を上げる。これ以上やっても平行線だ。それに熱くなりすぎた。俺がこいつを説き伏せるなんてことが、出来るはずがないんだ、落ち着こう。

 頭まで昇った熱を出すように、再度ゆっくりとふーっと口から息を吐き出す。そうして、雪ノ下の方へと改めて顔を向けた。

 

「……悪かったな、これが奉仕部の活動ということならば異論はない」

「……そう」

 

 そこで会話は途切れる。重苦しい空気は変わりなく、緊張にも似た固い面持ちで、それぞれが口を噤む。

 そんな俺に対して、平塚先生は呆れたよう見ていた。

 

「全く君は……他に雪ノ下の結論に反対の者はいるかね」

 

 平塚先生はゆっくりと顔を巡らせて、各々の反応を確認する。しかし誰も反対の声をあげるものはいなかった。

 

「よろしい。では、どうしたらいいか、君たちで考えてみたまえ。私は寝る」

 

 そう言って平塚先生は欠伸を噛み殺しながら去っていった。……この空気で議論しろと?いや原因の一旦は俺だが……本気か?本気なのだろう、平塚先生だし。

 勿論議論が進む訳もなく、結局俺たちは議論の内容を翌日まで持ち越すことだけが決定し、この場は解散したのだった。

 

 

 深夜、皆が寝静まった夜に俺は一人バンガローを抜け出す。

 

「さて」

 

 どうせ寝れんのだ。せめて夜くらいは好きに動こう。確か明日は午前中は自由行動日だと平塚先生から聞いている。多少寝なくてもなんとかなるだろう。

 川辺りの方までやってくる。本館近くに小さな小川があるのを見つけた。ここはもうひとつの場所と違って、川原に石が少なく、砂が多い。座るのであればこちらの方が良さそうだ思い、来た時から目星をつけていた。

 川のせせらぎは心地よく、涼やかな高原の気温は、注ぐ月明かりによって素晴らしい情景を作り上げる。このようなところで飲むコーヒーは、さぞかし格別な味だろう。

 持ち出したコーヒーセットを取り出して、必要な機材を並べていく。

 そんなところで、ガサリと何かを踏みしめる音がする。

 

「?」

 

 不審に思って振り返れば、そこにいたのは招かれざる客。驚いた顔をした鶴見留美が、そこに立っていた。




次回、鶴見留美とのタイマン


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二十話 或る夜の話

人は変われると君は笑って言った。
人が変わるのは簡単な事だと、君は笑って言った。
だから、私の事なんて忘れてねと、君は笑っていった。


 月明かりが小川に反射して、水面が夜空の星のように煌めく。穏やかな川のせせらぎ、時折聞こえる虫の声が、耳に心地よい。

 林間学校一日目の夜、誰もが寝静まったこの時間。

 静謐が支配するこの小川のほとりで今、俺は鶴見留美と邂逅を果たした。

 こんなところに人がいるとは思わなかったのだろう、彼女は驚いた顔した後踵を返そうとする。

 

「まあ、待て。別に取って食おうというわけじゃない」

 

 俺はその背中に声をかけた。別にこれで足を停めなくても、止めてもいい。少なくとも、俺にとってはどちらでも良かった。

 それでも声を掛けたのは、奉仕部としての責任か、あるいは単なる気まぐれか。それともまた別の理由なのか。声を掛けたのは俺のはずだと言うのに、その理由すら分からなかった。

 ただ今わかるのは、この縁を逃してはいけない。そんな予感だけだ。

 俺の声に鶴見は足を止める。そうして少しの怯えと、困惑を込めた顔をしながらこちらへと振り向いた。

 

「何?」

 

 俺にその感情を気取られないように、素っ気ない素振りをしながら、鶴見は要件を問う。

 

「一期一会。こんな言葉を知っているか?」

「……知ってる。一生で一度の出会いって意味でしょ」

「その通り。元々は茶道の心得の用語になる。どんな茶会であれ、一生に一度のものだと心得て、誠意を尽くすべきという考えさ」

 

 鶴見は俺の言葉に対し、不思議そうな顔をしながら、しかし興味を持ったのか少しだけ距離を近づける。

 掴みは上々、後は釣り上げるだけだ。

 

「それが、何?」

「つまり俺たちのこの出会いも、一生に一度のものかもしれないということだ。故に、……だから鶴見留美」

「……」

「少し、話でもしようじゃないか」

 

 一瞬の逡巡。

 俺は喋ることなく彼女の言葉を待つ。数秒も経たないうちに彼女は俺の目を見て、口を開いた。

 

「知らない人とは喋っちゃいけないって言われてるから」

「うん?比企谷達とは喋ったのだろう?」

「……八幡の知り合いなの?」

「ああ……そうか、今は帽子を被ってないんだったな」

 

 暑いのと、あまり目立ちたくないのもあって、林間学校中は基本的にキャップを被っていたのだ。それもかなり目深く。

 そりゃあ俺の顔を見てもピンと来ないのも仕方がないだろう。

 

「なら自己紹介だ。俺は田島実、比企谷と同じように、ここに君たちの手伝いとしてやってきた、まあ……ただのしがない高校生だよ」

 

 そうして俺はニヤリと笑うのだ。

 

 

 予め焙煎されたコーヒー豆を、コーヒーミルの中に入れて、ハンドルを回してゴリゴリと挽く。

 焙煎はハイローストで、挽き方は中細挽きだ。中細挽きとは一般的な挽き方で、苦味と酸味がどちらも普通程度に味わえる挽き方となっている。

 その隣ではバーナーの上にケトルを置いて、温度計を付け湯を沸かしておく。

 

「何やってるの?」

「コーヒーを淹れるんだ。その為に今は豆を挽いて……要するに細かく砕いている」

「ふーん……」

 

 鶴見留美は結局戻っても眠れなさそうだから、眠くなるまではここにいると、言って今は俺の隣で体育座りをしている。

 もう一つ、ベンチがあれば良かったのだが……さすがにこうなるのは想定していなかった故に彼女には我慢して欲しい。勿論譲るなんて思考は毛頭なかった。

 

「普段コーヒーは飲むのか?」

「お父さんが飲んでるのは見た事ある。でも、粉にお湯かけるだけのやつだった」

「なるほどな」

 

 挽き終えたら、ドリップホルダーにペーパードリッパーをセットし、チタンマグの上に載せる。

 ミルの中のコーヒー粉はまだ出さず、お湯が湧くのを少しの間待つ。

 

「それで、鶴見、お前はどうしてここに?小学生の就寝時間はとっくにすぎているぞ」

「……早めに寝たせいで、目が覚めたの」

「そうして目が冴えて眠れなかったからここに来た、というわけか」

 

 ニヤリと笑ってそう言うと、鶴見はバツが悪そうに目を逸らした。

 

「別に責めてるわけじゃない。俺とてこうして、皆が寝る中抜け出して、コーヒーを淹れているわけだからな!」

 

 からからと笑う俺を、鶴見はじっと見つめる。そう見てもコーヒーはすぐに出来上がらないぞ。

 ケトルに突っ込んだ温度計はまだ目標の数値ではない。普通のやかんにいれて沸騰を待つだけの時のように、ポーっと音が鳴るならば、判別もつきやすいのだが、そうもいかない。そこが面白くはあるのだが。

 

「……(みのる)はさ」

「……なんだ?いきなり呼び捨てか?礼儀のなってないヤツめ。俺の事を呼ぶ時は親しみを込めてさんをつけて呼ぶがいい」

「めんどくさ……」

 

 面倒臭くて結構。ガキのうちに敬称を使う事ぐらいは覚えておいて損はない。

 鶴見は一度地面を見たあと、かったるそうに重いため息を吐き、その後ゆっくりと顔を上げる。

 

「実……さん、はさ」

「なんだ」

「どうして一人でいるの?」

 

 その質問の意図はなんだろうか。俺が一人でいる事、それは今現在一人でいる事か。それとも、俺のスタンスについて言及しているのか。

 それについて問おうかとも思ったが、鶴見がなにか言葉を続けようと口を動かすので、俺はそれを待つ。

 

「こういうのって、友達とする事じゃないの?」

「ああ……そういうことか」

 

 鶴見はそう聞いてから、バーナーの火を見つめる。

 確かに俺がやっているようなことは、小学生からすれば大人数でやるのかもしれない。俺はそうではなかったが、友人の家族と一緒にキャンプをするという家庭もあるそうだ。

 

「それは偏見というものだ……偏見は分かるか?」

「えっと……」

「言い換えると、お前のその考えはちょっとした思い込みだということだよ。世の中にはソロキャンパーという、一人でキャンプを楽しむ人種もいるそうだ」

「そうなんだ」

 

 鶴見は納得したような、していないような顔で、また所在なく視線をうろちょろとさせた。

 さて、今の問いかけを含めて考えると、最初の質問の意図が見えてくる。

 

「つまり、俺が何を思って一人でいるのかを聞きたいわけだな」

「そう……かも?なんか、良く話しかけてきた男の人と、それと八幡達とも違う気がして」

「その質問には、そうだな……」

 

 葉山とも、比企谷達とも違うか。

 確かに俺は望んで一人でいる人間だ。だが、決して常に一人ではない。俺には一色がいるからな。あいつは友達と言うのにはなんというか、関係性がかなり特殊なのだが。

 だから俺ではこの子に寄り添えない。そもそも俺はこの子のように孤立させられたわけではない。自分の事で精一杯で周りに目を向けている余裕がなかったから、俺は小学生の時に一人になったのだ。

 鶴見はもしかしたら寄り添って欲しいのかもしれない。誰かに理解して欲しいのかもしれない。彼女自身の想いを。

 鶴見の求める答えは俺では出せない。ならばありのままを伝えるしかない。

 

「俺は望んで一人でいる人間だ。お前が話した比企谷や雪ノ下とはまた違ったタイプの人間になる」

「そう、なんだ……」

「だからお前の望んでいることはきっとできないだろう」

 

 比企谷達と彼女がどんな会話をしたのかは俺は詳しく聞けていない。雪ノ下にあんな噛みつき方をしてしまったからな。少し、ほんの少しだけだが気まずかった。

 だからこれは俺なりに、彼女を知る為の機会。彼女を理解する為の時間。そして、俺のできることを見つけるチャンス。

 ならば俺は誠意を持って彼女に尽くすだけだ。

 

「さて、少し待ってもらえるだろうか」

「……?うん」

 

 ケトルの中のお湯がいい感じ温まったのが分かったので、俺はバーナーの火を止める。

 その後ペーパーをドリッパーにセットして、バーナーの上に乗せお湯を注ぐ。

 

「……コーヒー入れないの?」

「これはドリッパー、これからコーヒーをセットする容器を温めるんだ。途中で冷めてしまうと味がかなり落ちるからな」

「へー……」

 

 温めたら、先程挽いたコーヒー豆を入れていく。入れ終えたらドリッパーを揺すって、表面を真っ直ぐ平坦にしておくのだ。

 そうしたら、スマホで時間を測りつつ、ゆっくりと真ん中から円を描くようにお湯を注いでいく。お湯を注ぐ際は、三回に分けてやるといい。一回目には蒸らしという工程も含まれている。蒸らしは全体が均一に濡れるようにすると良いぞ。

 

「お湯は時間、重さ、温度。そのどれかが欠けただけコーヒーは不味くなる。コーヒーというのは繊細な飲み物なんだ」

「…へー」

 

 今度は随分と興味なさげな返事が戻ってくる。

 コイツ、と思いつつ俺はお湯を注ぎ切る。後はコーヒーがポッドに落ちるのを待つだけだ。

 

「もう終わり?」

「ああ」

「意外とあっさりなんだね」

「ここから少し時間がかかるんだ」

 

 ふーん、と彼女は気の抜けた返事をして、ドリッパーから落ちるコーヒーを眺めている。

 

「これはドリップ式と言って、豆からコーヒーをお湯の重さと重力によって抽出する方法だ。だからこうしてコーヒーが落ちていく」

「……難しいね、コーヒー」

「そこがいいんだろ」

 

 理解できないような顔するが、直ぐに鶴見はコーヒーを眺めるのに戻った。

 しばらくしてコーヒーが落ち切る、前に俺はドリッパーを外す。ドリッパーの中からペーパーと、コーヒ豆を持ってきたゴミ袋の中へと入れておく。

 本当は全部ここで洗いたいが、それは無理そうなので明日の自由時間に洗ってしまおう。

 

「俺がマグカップを二つ持って来る男で良かったな」

 

 以前外で飲む機会があった時に、マグカップが一つしかないのに台無しになったことがある。それ以来、俺は外でコーヒーを飲むことになった時にはこうして二つ持っていくのだ。

 中学生の時だったかな。少し、懐かしく思って、また一つ、憂鬱になる。

 俺はポットの中に入った、コーヒーをマグに注ぐ。少し少ないが、それでも二人分程度の量だった。それに鶴見は小学生なのだし、そもそも飲めるかも分からない。これくらいで良いだろう。

 

「そら、目が冴えるぞ。飲むがいい」

 

 俺は鶴見にコーヒーの入ったマグを差し出す。

 

「私、眠くなる為にここにいるんだけど」

「……まあ、良いじゃないか」

 

 彼女は俺が差し出したカップを受け取り、その後ジッと中身を眺める。

 そんなに覗いたところで、コーヒーはきっと何も映さないだろう。コーヒーの黒は何者も映さない黒なのだから。

 

「コーヒー、あんまり好きじゃないんだよね。前飲んだ時苦かったし」

「インスタントか?それとも缶コーヒーか?」

「缶コーヒー」

「なら世界が変わるぞ。飲んでみるがいい。男も女も、最終的には度胸だよ」

 

 度胸を決めたから、俺もこうして鶴見を呼び止めたのだと思う。たとえ無力でも、俺なりにできることがあるのではないかと、探す為に。多分、そうだ。

 鶴見は意を決したように、コーヒーに口をつける。

 その後、顔を顰めるが、しかしそれは一瞬刹那のことであり、その後はほうと息をついた。

 

「苦い」

「だろうな」

「でも……嫌いじゃない、かも。なんか、飲みやすい?のかな。缶コーヒーの時とは違う感じがする」

「ほ、ほう……なるほど。ブラックでも行けるとは、なるほど。お前……さては見所があるな?」

「なにそれ、意味わかんないし」

 

 その後も彼女はチビチビと小さく口元にコーヒーに運び、ゆっくりと飲む。しかし先程のような抵抗感は見られない。それを見て、俺も同じようにコーヒーを啜った。

 うん、美味い。我ながらコーヒーを淹れるのはいい腕をしていると、少しだけ自負したい。

 

「……さて、こうしてコーヒーを飲んだことで、一つ世界が広がったな」

「どういうこと?」

「コーヒーは美味いという情報を、知ることが出来たということだ。それを知ることが出来ただけで、お前の世界は少し広がった」

「……よく分かんないんだけど」

「なら考えろ」

 

 たとえ今分からなくても、それがいつか分かる時がくる。あるいは、役に立つ時が。

 そして知識を得るということは、自身の中の世界を広げることに他ならない。そして自分の中の世界が広がるということは、見える世界も広がるという事だ。

 学校というのは、そこで生きるものにとっては家以外の唯一の世界と言っていい。それは六年も続く小学校ならば、余計にだ。

 学校という共同社会は、そこに生きるもの達にとって独自のルールを敷きそれを強要させる。そして、その社会が、そこが全てなのだと錯覚させる。

 少し外に目を向ければ、そこにはまた別の社会が広がり、世界が広がる。小学生にとって、本当の世界は広いはずなのだ。

 そして、そんな窮屈で、支配的で、理不尽な世界を作り上げるのは彼女たち小学生であり、そして同時に教師や親の存在もその一因を担うのだ。

 それは固定観念として彼らを縛り付け、思考を停止させる。

 それを崩すのは新しい知識であり、新しい視点なのだ。

 俺は再度コーヒーに口をつけた後、彼女の方を向かずにそっと口を開いた。 

 

「……俺はな。鶴見留美、君の今の状況を比企谷達から聞いている」

 

 それは鶴見が孤立しているという状況のみ。彼女がなぜ孤立したのか、どうしてそれに甘んじているのか。それを俺は知らない。

 

「……うん」

「だが俺には、君の現状をどうにかするだけの力はない」

「……」

「その上で聞くが、君は、今の君自身の状況をどうしたいんだ?」

 

 鶴見は俺の問いに、コーヒーを飲むのをやめる。そして両手でマグカップを持ち、その中身を見つめた。その手は、少し震えていた。

 

「わかんない……でも、何やっても変わんないでしょ?もう、どうしようもないし」

「何故、そう思う?」

「私、見捨てちゃったから。仲良くできないってわかったの。それで、また仲良くなっても、もしかしたら、またこうなるのかもって思ったら怖くなったんだ。なら、このままでもいいのかなって」

「本当に?」

「……無視されて、一番下なんだって思うのは、惨めで、嫌だけど」

 

 鶴見は嗚咽を堪えるかのように、声を震わせる。俺はそれを見て、込み上げてきたものを誤魔化すようにまたコーヒーを啜った。

 惨め、か。きっと彼女は知っている人間に無視されて、不特定多数に笑われる。そんな状況が、酷く惨めに感じるのだろう。今までいた場所から落ちて、そこにはもう手が届かないとわかってしまったから。

 最底辺にいるという気分はいいものではないだ筈だ。その実感がなければ問題ないが、今の彼女はそれを否が応でも感じてしまう。

 彼女がいる環境が故に。彼女が生きている世界が狭いが故に。

 ならばやはり俺には解決することは無理だろう。それは彼女の世界を変えることに他ならないからだ。

 そしてやはり雪ノ下達にも出来ないだろう。解決することは、だが。もしかしたら俺が思いつかない方法で状況を好転させることがあるかもしれない。解決に関してはあいつらに任せればいい。

 今、俺は俺に出来ることをやる。

 

「いじめというのは、基本的には人間だから起こるというわけじゃない。自然界においても、いじめというの当然のように起きる」

 

 鶴見は何も言わずに、またコーヒーに口をつける。

 

「人間の場合でも、自然に生きる生き物の場合でも、変わらずいじめというのは起きるんだ。だから、いじめというのはなくならない。起きないようにすることぐらいはできる可能性はあるだろうが」

 

 圧倒的な権力で支配する。常に人を監視し、なにかいじめの前兆を見つけたのならそれを罰する。あるいは極限までストレスを減らす。

 まあ色々あるだろうが、殆どは不可能なことだ。少なくとも現在の倫理観やら価値観ではほぼ不可能だといっていい。

 

「しかし君の場合は既にいじめは起きている。たとえ軽いハブだとしても、な」

「……私も、前にしてた。別に直接って訳じゃないけど」

「……ああ、聞いているよ」

 

 由比ヶ浜が、何も進まなかった議論の最中に、鶴見のいるクラスで誰かが仲間外れにされて、無視されることがよくあったそうだと言っていた。そして鶴見自身も、それをされた人間から距離を置いていたそうだ。

 だからこそ彼女はきっと、諦めている。自分自身は報いを受けているのだと。

 しかしそれでもなお惨めだと感じるのは、一重にかつて彼女も仲良くしていた子がいたからだろう。

 そんな状態で一気に、下まで落とされた。

 

「だからこそ、鶴見。君が満足するような解決方法を俺は知らない。君の取り巻く状況を、俺では変えられない。変えることはできない」

 

 今度こそ、鶴見は諦めたように下を向く。

 

「やっぱり、このまま我慢するしかないのかな」

 

 発したその声は、込み上げるものを抑えるように、しかして抑えきれていない。そこには悔しさと、悲しさと、多くのものに満ちていた。

 

「そうしていればなにかがあるかもしれないな」

「でも中学に上がっても変わらないって……雪乃さんが言ってた」

 

 アイツ何を教えているんだ全く。リアリストなのも大概にした方がいい。

 とはいえ事実だろう。中学生に上がってもその状況が良くなるかは分からない。もしかしたら良い出会いをするかもしれないし、しないかもしれない。

 

「君は、そうやって我慢し続けることはできるか?もしかしたら友達が作れるかもしれないという可能性を信じて」

「だって、するしかないじゃん。私にはどうしようもないし」

 

 鶴見は、ギュッと小さな手でマグカップを握り込む。そして口を固く結んだ。

 

「そうか。だが一人は辛いぞ。俺がそうだったからな」

「……望んで一人になったんじゃないの?」

「ああ、それよりも……もっと辛いことがあると知っているから。だから、それを知っていてもなお俺は一人になっている」

 

 一人の虚しさよりも、誰かを失う方が俺はよっぽど怖い。だから、俺は一人でいたいのだ。

 だというのに一色いろはは俺につきまとう。その上変な約束までしてしまった。いつか、彼女ともケジメをつけなければならない。

 だがそれを考えるのは後回しだ。今は目の前の、孤独な少女をどうするかだ。

 

「特に君みたいな、なまじ誰かと仲良くしていた時期があった子は余計に辛いだろうな」

「なら、どうすればいいの?我慢するのも辛くて、でも周りも変えられないなんて、無理でしょ、そんなの……」

 

 彼女の本心の叫びの言葉は、やがて弱々しいものに変わっていった。

 結局、彼女は自分の取り巻く世界から抜け出したいのだ。それが孤立するにせよ、また別の誰かがいじめられることになるにせよ。少なくとも惨めな今は脱したい。

 それに、俺が何ができるだろうか。

 俺は真っ直ぐではない。正しくはない。優しくもない。ひねくれて、いるが、あそこまで自分に正直ではない。

 多分、できることは多くないだろう。こうして未だに自分を他人を比べてる以上。

 だから変わる必要がある。俺も、そして鶴見留美も。

 

「……ならば自分を変えることならば、できるはずだ。たとえそれが周囲の人間からどう思われてもな」

「変わるって、どうやって?」

「それは考えるしかないだろうよ。自分はどう変わりたいのか、どうなりたいのか。それを知るための一歩が、これだ」

 

 俺は手に持ったマグカップを彼女に見せる。彼女はそれを見て、自分の持ったマグカップへと視線を変えた。

 

「コーヒー……」

「コーヒーが美味いと今知ることが出来た。それを知ったことでもしかしたら将来コーヒー好きの友達が出来るかもしれない」

「……なんていうか、夢見すぎでしょ」

「そうだろうな。だが、何かを知るということは、自分の可能性を広げるということだ」

 

 自分の可能性を広げるということは、世界を広げること。そして、世界が広がれば取れる選択肢も増える。変わるための足掛かりになる。いつかを変える為の、布石になる。

 彼女は変わらず視線はマグカップに向けたまま、しかしより伏し目がちにして、呟いた。

 

「……それに変わったって、周りはきっと私を馬鹿にするよ」

「そういう時は笑ってやれ。お前たちが知らないような素晴らしいことを、私は知っているのだとな!」

「それ、我慢することと何が違うの?」

「人が自身を惨めに感じるのは、自分が他人よりも下だと感じるからだ。もっと自分を高めろ、自分が何者であるかを知るんだ。そうすれば───」

「そうすれば?」

「何かが変わるかも、しれない」

 

 彼女は俺の答えにガクッと、肩を提げて、期待外れと言わんばかりに口を尖らせる。

 

「やっぱり夢見すぎ」

「ハッ、将来のことなんて誰にも分からない。所詮はたらればだ。だったら、希望を持って挑んだ方が精神的に楽だろう?」

 

 今がどれだけ幸せでも、幸せなんて容易く壊れるように、どれだけ今が不幸でも未来では幸せになれるかもしれない。そんなこと、俺たち人間では分からないのだ。

 だからこそ、今をより良くするために、未来をより良くするために、俺たち人間は生きていく必要があるのだろう。

 そんなこと知らなかった訳ではないのだが。前を向くということが、どれだけ難しいことかということを俺は散々味わっていた。

 人は過去に囚われて生きている。それはきっと逃れられることではない。

 鶴見もきっと、こうして仲間外れにされて、無視されて、笑われたという経験は彼女の心に深い傷をつける。たとえ癒えたとしても、それはどこかで疼くのだ。

 だからまた振り返る。振り返って、悲しくなって憂鬱になる。

 だから、前を向くのは難しい。

 でも彼女にとってそれは今だ。今起きている事なのだ。ならば歩いて行った先で、過去という鎖に繋がれないようにしなければならない。 

 

「……でもやっぱり変わるなんてどうすればいいか分かんない……」

「まあ、そうだろうな。難しい問題だ。俺も頭を悩ませている」

 

 そういうと彼女はハッと顔を上げる。驚きに満ちた目だった。

 変わるというのはなんだ?過去の自分を捨てるのか?それとも、周りに合わせて流されるのを変化というのか。

 そんなこと分からない。分からないからこそ俺は今もこうして、憂鬱なのだから。

 

「実さんも、変わりたいの?」

「変われたらいいと思っている。人に迷惑をかけるのはゴメンだ」

「そっか……」

 

 俺の言葉に、何かを考えるかのように彼女はもう少なくなったコーヒーへと口をつける。

 

「……惨めなのは嫌だ。私が一番下だって思うから。でも、それでもしょうがないかなって思った。また友達に裏切られるのが一番怖かったから」

「……」

「だけど、本当はまたやり直したいし、みんなと仲良くしたい……実さんと話してて何となくそう思った。前にみたいに、なんでもない話して、それで……コーヒーは美味しいって、話したいと思った」 

 

 そう言って、彼女は初めて俺の目を見た。

 何かを期待するかのような目で俺を見る。俺は一瞬目を逸らしそうになった。だってここまで焚き付けといて、未だに自信がないのだ。

 

「私、変われるかな」

「……さてな。だが、一ついい事を教えてやろう。君の前でこうして座る男は、奉仕部だとかいう、珍妙な部活に入っている男でな。その部活の内容はな。依頼をしてくれた人の悩みの解決を手伝うことだ」

「悩みの、解決」

「君は、どうしたい?鶴見留美」

 

 鶴見は何を考えるでもなく、残りの少ないコーヒーを飲み干した。

 そうして、俺の目を改めて見つめて、口を開く。

 

「依頼する。私が変わるのを手伝って」

「……良いだろう。その依頼、奉仕部全体と言うよりかは、俺個人としてだが……確かに承った。だが少し長い付き合いになるが、構わないか?」

「別にいいよ。また、コーヒー飲みたいし」

 

 月明かりが、まるで答えを出した彼女を祝福するように、俺たちを照らす中、彼女は俺にそう宣言をする。

 そうして控えめながら、年相応に笑うのだ。

 

 

 これが俺なりの答え。

 俺が彼女を救うのではなく、彼女が彼女を救うのを、俺が手伝うのだ。

 彼女の人生を俺が決めるのではない。彼女自身が選びとるために。

 

 

 その後、十二時回る前に彼女は戻っていた。明日の自由行動時間に、俺の連絡先を教えると約束して。

 結局随分長い間喋ってしまった。意外と最近の小学生というのは話題に尽きないというか、なんというか。眠い顔をしながら、言葉をひねり出そうとするので流石に帰らせた。

 一瞬送ろうかとも思ったが、俺といる姿を先生に見られたら何を言われるか分からんから、一人で帰らせた。ここは本館からさほど離れた場所ではないし、問題ないだろう。

 

「ふぅ……」

 

 喋り疲れと、色々頭を回して考えすぎた疲れと、その他多くの疲れが、ひとつの疲労感となって俺にどっとのしかかる。

 大きく息を吐いて、少しだけ深くベンチに座った。

 時計を見れば、時刻は十二時をすぎていて、自由行動の日は今日になっていた。俺も頃合を見て戻らなければな。

 しかし、今は。

 

「もう少しだけ、空を眺めるのも、悪くはないさ」

 

 コーヒーに口をつければ、まだほんのりと暖かさが残っていた。

 

「美味い」

 

 そうして俺は星々が燦燦と輝き続ける夜空を見上げるのだった。




次回、その結果のお話


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二十一話 その結果、彼と少女は少しだけ前へと進み出す 前編

 目が覚める。不思議と今日は、夢を見なかった。良い事だ。

 時刻はおよそ六時半。睡眠時間は五時間と言ったところか。我ながらよく寝たものだと思いつつ、体を起こす。

 眼鏡はどこに置いたんだったか。

 霞む視界を頼りに何とか眼鏡ケースを発見し、手を伸ばしたが、しかしその手は空を切った。

 もう少し右だったようだ。ケースを掴み取り、蓋を開けて眼鏡をかける。指紋が着いていて汚いのがわかったので、一度外して布巾で拭いてから再度掛け直した。

 首をゴキゴキと鳴らし、手を組んで背筋を伸ばした後、俺はムクリと布団から抜け出す。どうやらまだ他のメンバーは寝ているらしい。

 俺が寝ていたバンガローには男組が放り込まれている。なので各々のスペースは狭いのだが、俺は一番端で寝ていたので、布団ぐらいは畳むことが出来た。

 隣では戸塚がすやすやと気持ちの良さそうに寝ていた。

 布団をゆっくりと畳んで隅に寄せた後、俺は寝間着から普段着へと着替える。

 

「ううん……」

 

 ゴソゴソとできるう限り音を立てないように着替えていたが、どうやら戸塚が起きてしまったようだ。

 

「んん……たじまくん……おはよ……」

 

 寝ぼけ眼を擦りながら戸塚は体を起こす。

 少しサイズがあっていない服のせいか、少しだけズレており、襟から覗く白く色素の薄い肩がやけに艶かしく感じてしまう。

 なんだろうな。この男の筈なのに醸し出される妙な色気は。

 比企谷のように気持ち悪い反応をするのは有り得ないが……本当に同性かどうか疑いたくなる。骨格やらなんやらで男だということは理解しているのだが。これがいわゆる男の娘、というやつか。

 帽子を被り、昨日使ったままのコーヒーセットを持った後、俺は戸塚へと近づいた。

 

「……起こしてしまったか。おはよう」

「…いま……何時?」

「六時だ。朝食まではまだ時間がある。もう少し寝てるといい」

「……そうする」

 

 戸塚は再び、もぞもぞと動きながら布団の上に横たわった。

 戸塚が再び寝息を立てて、寝始めたのを確認した俺は、バンガローを出た。

 まずはコーヒーセットを洗うとこからだな。昨日洗わなかったから何か面倒な汚れとか残っていなければいいのだが。

 

 

 コーヒーセットを洗った後、俺は良い時間になったのでビジターハウスへと向かう。

 俺たちは小学生より後に朝食を取る事になっている為か、ビジーターハウスの中には小学生はいなかった。

 

「おはよう。どうやら永眠はできなかったようね」

「おはよう。生憎と、人並みの睡眠しか取れなかったとも。残念だったな?」

「ええ……残念ね」

 

 開幕朝一番、雪ノ下がいつも通りの罵倒を見せてきて、思わずため息が出そうになるのを抑えながら俺も挨拶をする。

 見れば雪ノ下は由比ヶ浜と小町さんと来ていたようで、一緒のテーブルに座っていた。その二人はまだ眠たそうな顔をして、うつらうつらとしているが。

 

「みのるんおはよー」

「おはようございますー」

「おはよう」

 

 朝はあの珍妙な挨拶じゃないんだな。

 まあいいか。とりあえず雪ノ下に対して、改めて謝っておかないとな。

 

「雪ノ下」

「何かしら」

 

 俺の言葉に雪ノ下は反応する。昨日のことに気まずさがある反面、雪ノ下は意外と気にしていなさそうだった。

 

「一応、改めて謝罪をしておこう。昨日は悪かったな」

「……昨日も謝罪は受けたわ」

「故に一応と言った。謝意と言うのは中々伝わらないからな。特にお前みたいな跳ねっ返りの女は、尚更だ」

「謝りたいのか喧嘩を売りたいのかはっきりしてもらえるかしら……」

 

 彼女は呆れたように額に手を当てる。その後、顔を上げる。

 

「私は、昨日言ったことを訂正する気はないわ」

「それで構わんよ。それにこの謝罪は、ある意味で昨日の反論の撤回の意も込めてだ」

「そう……ならいいわ」

 

 雪ノ下は視線を手に持っていた文庫本へと落とした。

 こいつ外でも本を読んでいるのか。

 呆れていると、由比ヶ浜と小町さんから視線が注がれているのに気がついた。

 

「……なんだ」

「あ、いやー、なんかまた昨日みたいに喧嘩始めちゃうのかと思って……ちょっとハラハラしてた」

「ですよねー……昨日の田島さんなんか怖かったですし」

「悪かったな。俺も少し思うところがあったんだよ」

 

 昨日の夜の一件、鶴見との邂逅を経て俺は一つ、俺がこれから奉仕部として、どう在るべきかを定めることが出来た。

 俺は優れた人間じゃない。人の人生の今後を決める選択。その責任を負うなんてことはできやしない。

 そんな才能も、実力も自信もなくて、それを認めてしまっているが故に凡人の俺ができることは、依頼人が変わる手伝いをすることだけだった。

 雪ノ下のように人を救うなんて宣言はできない。そこまで真っ直ぐにはなれないから、俺はこのスタンスで行くと決めた。

 直接依頼人の悩みを解決するのは雪ノ下達に任せればいい。適材適所というやつだ。監督役のスタンスにも沿っているはず……だ。

 

 

今後の予定を聞いた俺達は、それぞれの仕事に取り掛かる。なんでも、今日は聞いていた通り一日自由行動、その夜に肝試しとキャンプファイヤーをするそうな。

 そういう訳で男組はそのキャンプファイヤーの準備をした後、各々自由行動の時間となった。一度俺は葉山と一緒にバンガローまで戻ってきたが、何でも葉山や戸部達は何処かに行くとの事なので、俺もバンガローを出てプラプラと散歩している。

 鶴見と接触するにはこのタイミングだろうが、さて彼女は何処にいるのか。

 とりあえず歩いていればなんとかなるだろう。

 変わらずプラプラと森林の中を歩く。並び立つ木々の隙間を吹き抜ける風は爽やかで、鬱蒼と茂る木々から漏れ出る光は神秘さすら感じさせる。

 別にいわく付きの森でもない、普通の森なのだろうが、こうやって木漏れ日があると何故か神聖さを覚えるのは、森林が身近ではない現代人が故の感覚なのだろうか。

 しかし高原とは言え、昼かつ肉体労働後だとさすがに熱いな。帽子を脱いで、パタパタと仰ぎつつとりあえず涼し気な場所に行こうと思い立ち、歩を進める。

 途中でちょろちょろと流れる水の流れ、つまるところ支流を発見した。この先は、おそらく昨日の目星をつけていた小川とは別の、恐らく上流に位置する小川だろう。

 それを辿って歩いていけば、並び立つ木々はやがて少なくなっていき開放的な空間が広がっていた。注ぐ太陽の光が眩しい。

 予想通り、目をつけていた場所とは別の小川のようだ。昨日の小川の幅が一メートルもない位だとしたら、今回は二メートル程の幅で倍はある。

 ボケーッと立ち尽くしていると、声がかかった。

 

「あれっ?実くんじゃね?なになになに、実くんも結局こっち来た感じ?川遊びしに来た感じ?」

「その割には水着じゃないみたいだけど……」

 

 戸部と葉山だった。上半身裸で下は水着姿を見るに、こいつらここに水遊びしに来たようだ。

 

「俺はいい。濡れるのは好きじゃない」

「そうか?まあ混ざりたくなったら何時でも言ってくれ」

「そーそー、俺ら実くんならいつでもウェルカムだから」

「……気が向いたらな」

 

 良く見ると、戸塚や小町さんや平塚先生。それに少し離れたところに雪ノ下や由比ヶ浜もいるようだ。比企谷と俺以外は皆ここにいたようだ。

 日差しを遮るために帽子を被る。水に濡れるのは嫌いだが、外聞気にしないのであれば、今すぐ川に飛び込みたい気分だった。

 

「うん?ああ、ここにいたのか」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜がいる所木陰近くまで来れば、なぜ彼女達がここに集まっているか理由がわかった。

 少女は俺に気がつくと、顔を上げる。

 

「……実さん」

 

 木陰には彼女達の他に、比企谷と鶴見が座り込んでいた。恐らく、俺が来るまで何かしら喋っていたんだろう。比企谷の下、何か地面に数式のようなものが書いてある。

 何の話をしていたんだ。

 

「あれ、みのるんも来たんだ」

「ああ。そこの鶴見に用があってな。探していたんだ」

「留美ちゃんに?」

 

 由比ヶ浜は少し驚いたような顔をして、俺と鶴見を交互に見た。

 比企谷や雪ノ下も、言葉を発することはないが興味があるようで俺の動向に注目している。

 

「持ってきたか?」

「うん。これ」

 

 そう言って鶴見が差し出してくるのは、「林間学校のしおり」と書かれた書類と、鉛筆だ。

 

「わざわざしおりを選んだのか」

「しおりなら無くさないし、すぐに読めるから」

「なるほど、実に合理的だ」

 

 俺はしおりを受け取って、その中のページを開く。ペラペラと薄い紙を捲れば、メモ書きの欄があったので、そこに小さく俺の連絡先を書く。携帯電話の番号と、家の電話番号だ。分かりやすく、『携帯』『家』と番号の隣に書いておく。

 鉛筆なんぞ使うのは久々だが、思ったより違和感がないのは6年の義務教育の長さの賜物なのかもしれないな。

 数秒もしないで書き終わると、俺は鶴見へとしおりを返す。

 

「よし……そら、失くすなよ」

「だからしおりにしたって言ったでしょ……」

 

 彼女は嘆息しつつ、しおりを受け取る。そして立ち上がったあと土に触れていた部分をポンポンと手で払った。

 

「どこ行くの?」

「わかんない。とりあえず迷わない程度に適当に歩こうかなって。それに私も実さん探してただけだし。それじゃあね、八幡。実さん」

 

 そう言って彼女は木々の隙間へと消えていった。去る寸前、パシャリとカメラの音が鳴ったのは気のせいだと思って見逃してやろう。

 それにしても比企谷は呼び捨てなんだな。

 

「……実さん、ね。あなた、彼女と何かあったの?」

「あん?そうだな……別に大したことじゃないんだが」

「うーんでも、確かに留美ちゃん昨日と違って、少し雰囲気柔らかくなってたよね。それにみのるんともすごい親しげだったし……」

「何を思っているのかは知らんが、間違いなく誤解だ」

 

 あからさまな疑いの目を向けられる。なんなら雪ノ下からは軽蔑の視線まで飛んでくる。

 こいつ何を勘違いしているんだ?俺は幼児体型に興味などは無いし、ロリータ・コンプレックスでもない。見当違いも甚だしいぞ。

 いや、こう思ってしまう時点でその毛があるのか……?俺自身が恐ろしくなってきた。やめておこう、どうあれ考えてしまうと実現してしまうのが人の世だ。

 

「というか、お前何を書いたんだ、あれ」

「俺の連絡先だな」

「連絡先?」

「……仕方がない。どうせお前たちにも話をしなければならないし、少し話すとしようか」

 

 そうして俺は昨日何があったかを話す。小川でのたわいもない話。俺が恐れていたこと、鶴見の本音。そして俺の選択、鶴見の選択を。

 

「故に俺は依頼を受けた。勝手に受けたのは悪かったと思っているが……まあ副部長権限ということで許せ」

「お前副部長だったのか……」

「あたしも知らなかった……」

 

 由比ヶ浜はともかく比企谷は自己紹介の時に言っただろう。忘れたのか?忘れたのだろう。主張する機会が殆どなかったのだから仕方がない。

 愕然とこちらを見る二人を無視して、俺は雪ノ下へと目を向ける。

 

「まぁ……これが俺なりの答えだ。奉仕部の理念に則って、俺が解決するではなくあくまで本人が自己の改革に務めるのを手伝う。そうしたやり方で、俺はやっていくよ」

 

 雪ノ下はジッと俺の目を見る。俺も、彼女から目を逸らすことはない。

 

「そう……それがあなたの答えなのね」

 

 そう言って彼女は目を伏せた。

 その仕草にはどんな感情が秘められているのか、今はまだ俺には分からないことなのだろう。

 ただこの前の由比ヶ浜の一件から、俺は雪ノ下に少し思う所がある。

 俺は雪ノ下の事を知らないし、知りたいとも思わない。だが、それでもいつか知る必要になる時がくる。俺が奉仕部に所属している以上、いずれ比企谷達とも、そして雪ノ下とも向き合う必要が来る時が。

 それまでは、せいぜい理解することに努めるとしよう。

 

「だがよ、結局留美の環境は変わらないだろ。変わるっていうのは、それなりに時間がかかるはずだ」

 

 比企谷の問いには俺は頷くしかなかった。

 俺の行為は、鶴見の今後の選択肢を増やすことであり、彼女の悩み、と言うより彼女が悩んでいる原因となっている環境の解消自体は成していないのだ。

 

「そう、そこが一番の問題だ。雪ノ下が解決に努めると宣言した以上、俺達は鶴見の現状を変化させる必要がある」

「何か案があるのかしら」

「ない」

「ないんだ!?」

 

 その驚きに溢れた問いにも俺は頷くしかなかった。そこはほら、雪ノ下達に期待すると昨日と今日も言っているから。

 正直俺ではいい案は浮かばないだろう。取れる選択肢はあるにはあるが……周りに迷惑をかけるものばかりだ。やるべきじゃない。

 各々思案するが、まともな案は出てこない。

 

「……一応、案がないわけじゃないが……」

 

 しかしそこで比企谷が傍にあった枝を弄りながら、地面を向いたままポツリとつぶやく。

 

「なあ田島」

「なんだ」

「留美は、惨めなのは嫌だって言ってたんだよな」

「ああ」

「そうか」

 

 俺の返答に比企谷はまた黙りこくった後、立ち上がって背を伸ばす。そうしていつものように、腐った目を細めながら、猫背のまま口を開いた。

 

「考えがある」

 

 

 比企谷の考えはかなり最低なものだった。

 肝試し中、鶴見達の班がまず孤立したタイミングで、高校生達が彼女たちにこれから暴力を振るうという体で脅し、二人だけ見逃す人物を自分たちで選ばせその結果疑心暗鬼にしてしまおうという作戦だ。

 それでも他に案がないから採用する他なかった。

 というのは他の奴の意見で、俺はそこまで悪くはないと考えた。少し危ない橋を渡ることにはなりそうだが。

 変わると俺に言って見せた鶴見が、この事態を前にしてどう行動するのか。期待半分、恐ろしさ半分といったところだな。

 失敗したら謝罪だけじゃ済まなさそうだ。

 

「うぅ〜……」

「何を蹲っているんだお前」

 

 そうして待機している俺の隣では変な呻き声を上げて蹲る由比ヶ浜がいた。

 今は順番が最後になるように細工した、鶴見達の班の順番が来るまでは脅かし役に徹するという形だ。そして一番最初の脅かしポイントに配置されたのが由比ヶ浜と俺だった。

 

「な、なんか……時間たって冷静になったら恥ずかしくなってきた……!」

「まあ……ただのコスプレ姿だからなぁ。それ」

 

 由比ヶ浜に関してはだいぶ、というか小悪魔のコスプレした変態にしか見えないので、正直怖くはない。

 仕方がない一肌脱いでやろう。

 

「よし、由比ヶ浜。お前は今から俺の言う通りに動け」

「へ?」

「ガキ共をとびきり怖がらせてやるとしよう」

 

 

 小学生達が肝試しをスタートする時間となったのを確認し、俺は今いる位置から由比ヶ浜がいるであろう位置の近くまで歩き始める

 肝試しの夜、その会場となる森は静かだった。

 深い森の中で、頼りになる灯りは地面を照らす月明かりのみで、しかもその月光すら鬱蒼と茂る木々に遮られて些か頼りない。

 そんな中影が四つ。

 やってきたのは少年たち四人の班。快活そうな男の子が四人。スポーティーな格好をしている所から、恐らくスポーツをやっているに違いない。

 小学生達に気取られないように、ガサリと草木を揺らしつつ、俺の声が十分に聞こえる距離まで近づく。

 

「ヒッ」

「今、なにか動かなかった?」

「バカ、そんなわけねーじゃん」

「だよね……」

 

 小学生達は恐怖を紛らわすかのように、口々に強がりを口にした。

 高原の夜は、夏らしくない涼しさを伴っている。冷え込んだ空気は肌を撫で、別に何か起こっているわけでもないのに、何かがいるのではないかと、得体の知れない存在を勝手に想像して怖気付いてしまう。

 そうして彼らは一つの人影を発見した。

 それは露出の高い黒い衣に身を包んだ女のように見えた。

 女は何をするのでもなく、ただその場で静かに肩を揺らして蹲っていた。

 ここで俺はスマホで元から起動していた、動画サイトの女の泣く声を再生した。

 唐突に聞こえた女の泣く声に、少年たちは意図せず、ビクッとその背中が跳ねる。

 しかし、快活そうな少年たちの中でも一際活発そうな雰囲気を感じる少年が女に声を掛けた。

 

「あ、あの大丈夫ですか……?」

 

 女は答えない。女がシクシクと小さく嗚咽を漏らすを漏らすその声が聞こえるのみだった。

 痺れを切らしたのか、声を掛けた少年が少し距離を詰めた、俺はそのタイミングで動画の再生を止める。これが合図だ。

 ガバッと振り返った由比ヶ浜は、俯いたまま小学生の方へジリ、ジリ、と一歩ずつ躙り寄る。そうして肩を掴んだ。

 俺はそれを見て息を吸う。

 

「……んだよ」

「え?」

「……ないんだよおおおおお!ないんだああああああ!お前たちか……お前たちかああああ!?」

 

 と俺が叫ぶ。彼らから見れば、女から男の低い声が出ているという状況で、かつ友人が襲われているように見えるだろう。

 

「「「ひ、ヒイイイイイイ!」」」

 

 少年達は女に肩を掴まれた少年を一人置いて、絶叫しながら走り出す。

 

「あっ!ちょっ!え……待っ、待ってくれよ!」

 

 残された少年も残されたと気づくと女の手を振り払って同様に進路を守りながら走り出すのであった。

 

「……フッ、ハハハハハ。見たか!由比ヶ浜!あのガキ共の驚く顔を!傑作だなぁ!」

「………」

「どうした?何を黙っている?」

 

 女、もとい由比ヶ浜は押し黙ったままこっちまでずんずんと近づいてくる。

 そして唐突に肩を掴んで揺らしてきた。酔うからやめろ。

 

「……超怖かったんだけど……!」

「なんで演じているお前が怖がっているんだ全く……」

「うぅ……ていうか、ないって何がないの?」

「知らん。適当だ。暗い森を進む度胸がないとかじゃないのか?」

 

 人は未知を恐れる生き物だ。一寸先の闇、何故か鳴り止まない音。得体が知れなければしれないほど恐ろしい。

 今回はその習性を利用した。女から男の声が出るという意味不明な状況、何を言っているのか分からないが凄い剣幕で叫んでくる女。そして暗闇というシチュエーションがより、恐怖を演出する。

 大人を驚かすにはこれでは足りないかもしれないが、小学生くらいであればこれぐらいでも驚いてくれるだろう。

 

「いやあ……しかし良い演技だったな。そのままあとも頼むぞ」

「嫌」

「何故」

「あたしも怖いから!」

「だから演じているお前が怖がってどうする……」

 

 結局由比ヶ浜主導で驚かす事になったが、結局良い驚かし方は出ず『ガオー!食べちゃうぞー!』とかやり始めた時は天を仰いだ。

 絶対に俺の案が良いと思うんだがなぁ……。

 

 

 鶴見の班が俺たちの持ち場へやって来て、由比ヶ浜の適当な脅かしが終わったのを確認すれば、俺と由比ヶ浜は移動を開始した。

 

「上手くいくかな……」

 

 由比ヶ浜は不安そうな面持ちで胸の前で手をキュッと握った。

 

「さてな…」

 

 葉山達がいるであろう場所近くまで向かうと、雪ノ下と比企谷が既にそこにはいた。

 

「おう、首尾はどうだ」

「そろそろ葉山たちと接触する頃合だ。俺は見に行くけどお前たちはどうする?」

「当然行くわ」

「あたしも、行く」

「右に同じく、だ」

 

 それを聞けば比企谷は頷いて歩き始めた。俺達もその後に続く。道中に会話はない。もちろん存在を悟られないようにという意味もあるが、そこにはある種の緊張があった。それはこれからやる事が、あまり褒められたことではないからかもしれない。

 指定位置で、既に葉山達と鶴見達の班が接触していた。

 

「あ!お兄さんたちだ。超普通の格好してるー!」

 

 硬く口を結んだままの鶴見以外は、口々に葉山たちを笑いものにする。それもそうだろう。葉山、戸部と……跳ねっ返りの女。確か三浦とかいう筈だ。とにかくその三人は私服でそこに立っていた。

 小学生達は見知った顔がいた事で、一層砕けた様子で葉山たちに近づいた。

 しかしその手を戸部が振り払う。

 

「あ?何タメグチ聞いてんだよ?」

「ちょっと、あんたらチョーシのってじゃないの?別にあーしら、あんたたちの友達じゃないんだけど?」

 

 一瞬、小学生達の動きがピタリと止まった。そこからは目も当てられない光景が始まる。戸部と三浦が脅し、葉山が静かに視線だけを投げかける。楽しかった時間は終わりなのだと、彼女たちはいま後悔していることだろう。

 そして葉山は口を開く。

 

「こうしよう。半分は見逃してやるあとの半分はここに残れ。誰が残るか、自分たちで決めていいぞ」

 

 そして冷たい声で、残酷な現実を彼女たちに突きつけた。

 小学生達は誰も彼もが言葉を発さない。言葉を発して、何か不味いことを言ってしまえばここで終わってしまうのだとそんな予感があったからかもしれない。無言で互いの顔を見合わせて、目配せだけで、様子を伺っていた。

 

「鶴見、あんた残りなさいよ……」

「……そう、そうだよ」

「……」

 

 最初に生贄に捧げされたのは、やはりと言うべきか鶴見だった。鶴見は無言のまま、目を伏せて、何も言わなかった。こうなることは彼女自身わかっていたことだろう。故に俺たちもここまでは想定内。

 隣では、比企谷と雪ノ下が緊張故に息を吐いていた。

 

「ここからが、あなたの狙いなのね」

「ああ、鶴見留美を取り巻く人間関係をぶっ壊す」

 

 隣では由比ヶ浜や比企谷が会話を始めるが、俺はそれを聞くことも返答することもなく、目の前の光景から目を離すことが出来なかった。

 お前はどうするんだ、鶴見。変わると俺に宣言して見せた、お前なら、どうする。

 思わず拳を握り込んでいた。それに気づいて、たった昨日喋っただけなのに、これだけ彼女に期待をしてしまっている自分に少しだけ呆れた。

 しばらくして、鶴見が押し出されるわけでもなく、一人前へと出た。それを見て葉山は一瞬苦々しい表情をしたが、すぐに冷たい仮面を被って、口を開くその瞬間だった。

 今まで俯いていた、鶴見がバッと顔を上げる。その表情は決意に満ちていた。

 

「あの!」

 

 鶴見が、手を挙げた。葉山がなんだと問おうと、皆の視線が鶴見に集まる。

 その瞬間、鶴見の胸元から閃光が迸った。

 恐らくカメラのフィルムがシャシャっと動く音がする。

 咄嗟に目を細めて軽減したが、それでも暗闇に慣れた目では強烈な光だった。

 

「走れる?こっち。急いで」

 

 眩い光によって視界が明滅する中、鶴見が他の少女たちの手を取って走り出していくのが見えた。その時に鶴見と目が合ったような、そんな気がした。

 

「今のは、カメラのフラッシュか?」

 

 未だに目が慣れていたいのか、目を細めながら呆然とつぶやく葉山。

 三浦や戸部も同様だ。彼らがそうなるのも無理はない。強烈な光を突然浴びせられたのだ。さながらそれは閃光弾と同様だろう。

 

「そうか……」

 

 ほうと息を吐いて、地べたに座り込む。緊張が解けて、ようやくまともに呼吸ができた。

 鶴見は、彼女たちを助ける選択を取ったようだ。

 全く、やってくれる。それに鶴見は俺たちに気づいていたようだ。その意図まで理解したかは分からないが。よく思い返せば、舌をベッと出していた気がする。

 これが彼女の決意なのだろう。

 ならば俺は彼女の決断に、敬意を示そう。彼女から受けた依頼を達成するという行動をもってして。

 




原作と少しだけ展開が変わりました。
ルミルミの決断が少しだけ早まるという小さな変化ですが。
次回、林間学校終了

追記:タイトルに前編つけるの忘れてました、マジで申し訳ない


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二十二話 その結果、彼と少女は少しだけ前へと進み出す 後編

ああ、なんて羨ましい


 燃え盛る巨大な炎を囲んで、小学生達が互いに歌を歌っていた。歌の内容は知らん。

 俺は小学生から中学生にかけて、キャンプファイヤーのようなイベント事はやった記憶がない。

 何しろ林間学校だの自然教室だのは全て雨だったからな!それどころか中学の時は、課外授業は修学旅行含めて何かしらかつどこかしらで雨が降った。教師の内一人に物凄い雨男がいたのが原因だったのは、三送会でその先生がスピーチした途端に雨が降った事で初めて知った事だ。まあ知らなかったのは俺だけで、他の生徒からしたら結構有名だったそうだが。

 だから、俺にとっては人生で初めて見るちゃんとしたキャンプファイヤーだった。俺も当時体験出来ていたらきっと楽しかっただろう。もう二度と、できない事だが。

 歌い終われば、次はようやくフォークダンスの時間だ。男女ペアを組んでやる奴だな。そう、比企谷や材木座のような男は忌み嫌う、アレだ。

 手を取り合って踊り出す小学生達。しかしその中に鶴見達の班はいなかった。

 辺りを見渡してみれば、彼女たちは端の方にいた。

 端の方で、相変わらず鶴見とその他と言った感じで別れていた。しかし不思議な事に彼女たちは、何やら言葉を交わしていた。何を話しているのかはこちらでは分からないが……。読唇術が使えれば話は違っただろうが、そんな魔法みたいなことは流石に無理だ。

 しばらく会話をした後、彼女たちは、再び鶴見とその他という形で別れて鶴見の元を去っていった。

 

「……アレで、何か変わったんかね」

 

 隣でポツリと比企谷が呟く。

 

「さてな」

「……俺は、自分が変わったって、周りは変わんねぇと思ってる」

「……そうか」

 

 比企谷の言葉はきっと誰に言った訳でもないのだろう。いつもの独り言と言えば、それまでだ。ただ、その妙に真剣味の帯びた声色を独り言として流すには、少し比企谷の本音が存在しているように聞こえた。

 故に素っ気ない返事でも、続きを促す意図も込めて返答をする。比企谷ならば察してくれるだろう。

 

「……でもよ、留美は自分から選んだんだろ?変わるって」

「どうだろうな?傍から見たら誘導していると言われるかもしれんぞ。コーヒーの素晴らしさで彼女を釣ったと言われたら、俺は何も反論ができんからな!」

「ただのお前の主観じゃねぇか……まあそれでも、他人や周囲に流されず、自分で択を選びとるってのはなかなか難しいもんだ」

 

 一人で生きることを選択した比企谷だからだろうか。その言葉には確かな説得力がある。

 

「体験談か?」

「別に何かあったとかそんなんじゃねぇけどさ……ただ思うんだよ。その上で、前に進むことを選んだなら、きっとそいつは本物なんだろって……」

 

 俺に対してというよりも、自分に対して言っているようなそんな台詞を比企谷は吐く。

 本物、か。また、難しい言葉を使うな。抽象的過ぎて何が言いたいのやら。

 以前、比企谷がこの部活に来ることになった作文とやらを読ませてもらったが、確か始まりの文は『青春とは嘘であり、悪である』だったかな。

 それを加味して考えるのであれば、比企谷は嘘を嫌うという事でいいのだろうか。よく分からないな。

 比企谷の言葉に頭を悩ませていると、彼はよっこらせと言いながら立ち上がった。

 

「……やることないから平塚先生探してくるわ」

「平塚先生ならあそこだぞ」

「思ったより近いな……サンキュー」

 

 俺が平塚先生の方へと目線をやると、比企谷は誠意のない感謝をした後、相変わらずの猫背のまま歩いていった。

 あれでは間違いなく将来、腰やら曲がった背で悩むことになるだろう。目は腐り落ち、腰は曲がり、頭部は特徴的なくせっ毛以外抜け落ちる。あゝ無情。比企谷の将来に幸あれ。

 等と勝手に比企谷の将来を哀れんで手を合わせていると、小学生達はフォークダンスをやめて解散していた。

 すると、鶴見が当たりを伺うようにキョロキョロとしながらこちらへと走ってきた。

 

「……実さん」

「どうした、もう解散だろう。さっさと戻った方がいいぞ」

「少しだけならバレないよ」

 

 鶴見は俺の陰に隠れるようにして立つ。先生にバレないようにという意図があるのだろうが、逆に目立つと思うんだがその位置。

 そして少し声を落として喋り始めた。

 

「なんか、『何で助けたのよ』って言われた」

「ほう、なんて返したんだ?」

「別に、助けたいと思ったから助けただけって」

「キザだな」

 

 鶴見は俺の言葉の意味がわからなかったのか、少し首を傾げた後、言葉を続ける。

 

「後、なんかお礼も言われた。これは別の子だけど」

「……そうか」

「……お礼なんかしてもらっても、困るのにね」

 

 鶴見はそう言って、少し照れ臭そうに、自身の長い髪をクルクルといじる。どうやら満更でもないらしい。

 恐らく、さっきの遠目でしか観察できなかった彼女達の会話の内容は、彼女が今話したそれのようだ。

 

「……だって、実さんが仕組んだことなんでしょ?」

「やはり気づいていたか。と言っても考えたのは比企谷だがな」

「別に誰が考えても一緒でしょ。共犯者ってやつ。それに正直余計なお世話。私たちの誰かが先生に告げ口したら、実さんたちもヤバかったんじゃないの?」

「ぐうの音も出ないな」

 

 確かにその通り、彼女たちの一人でも小学校側の教師に今回の件を報告されていたらかなり危なかった。

 しかし今、我々に何もないということは彼女たちは一人も、先生に伝えることはなかったのだろう。

 

「……まあ、誰も言う気ないみたいだし、いいんだけどさ」

「運が良かったとしか言いようがないな。その点は感謝だ」

「やっぱ、実さんって結構バカだよね…………ね あのさ……これで何か、変わるのかな」

 

 鶴見は上目遣いで、少しだけ不安そうな表情で瞳を揺らしながらそう問いかけてくる。

 さて、俺はどう答えるべきか。簡単に慰めの言葉をかけるならば用意だ。しかし彼女は敏い。きっとバレるに違いない。しかしここで現実を告げるというのも、味気ない。

 ああ、そうだ。その前に確認することが一つ。そろそろ広場に小学生も少なくなっできたし、手短に行こう。

 

「あのガキ共のうち一人でもいいんだが……こう、視線を下に向けていたり、申し訳なさそうな顔をしている奴はいたか」

「え?……いた、と思う」

 

 それはつまり、助けられた事によって彼女達の仲に罪悪感を覚えた人間がいるということだ。

 彼女たちは、もう小学生六年生とは言え、まだガキだ。きっといずれ、良心の呵責に耐えきれない奴が出る。それはいずれ鶴見を無視し、仲間外れにしている時、しかして無視できない大きな心の声となって邪魔してくることだろう。本当にこんな事をしていていいのか?彼女は自分たちを助けてくれたのではないか?とな。

 これが高校生なら、利用するという考えも浮かぶかもしれないが……小学生とはある意味で単純だ。その単純さが、悪に転じる事もある。ならば、善にだって転じないわけがない。助けられた事に恩を感じる事だってあるだろう。

 ならば変わることだってあるはずだ。けれども直ぐに仲間外れが元に戻るなんて訳じゃない。孤立していた影響は出るだろうし、いじめられていたという事実は消えない。

 だがそれでも、ゆっくりと確実に。変化の兆しは出るはずだ。

 

「ならば、変わるさ。間違いなくな」

 

 俺の言葉に、鶴見はぱぁっと顔を明るくし、そしてそれを恥ずかしく思ったのか、スンと真顔になったあと、しかし抑えきれなかったのか小さく微笑んだ。

 

「そう……私、そろそろ戻らないとだから」

「ああ、また連絡しろ」

「うん」

「ああ、それと母親とはちゃんと話せよ。コミュニケーションは大事にな」

「うん。それじゃまた連絡するね」

 

 鶴見はそう言って踵を返し走っていく。そうして結構な速さでもう殆ど見えない小学生たちの列へと戻って行った。

 俺はそれを眺めていると後ろから声がかかる。

 

「……あなたは凄いわね」

 

 雪ノ下だった。しかも俺に賞賛の言葉を投げかけてきた。……この女、まさか偽物か?

 

「なんだ?冗談か?」

「失礼ね、これでも結構本気で褒めているのよ」

 

 雪ノ下はクスリと笑う。

 それはいつもの様に、嘲るようなものではなく、ふんわりとした柔らかなまるで、たんぽぽのような笑みだった。

 しかしそれは一瞬で、すぐに何時もの冷たい氷のような顔に変わってしまったが。

 

「あなたの行動によって鶴見さんは変わったわ。比企谷くんの作戦が完成する前に、彼女を虐めていた人を助けた」

「仮にそうだとしても、選択したのは鶴見だろう?」

「けどその選択肢を増やしたのはあなたじゃない。比企谷くんのお膳立てがあったのも事実なのだろうけれど……それでも、誇っていいと思うわ」

 

 先程とは打って変わって、今度は頬を赤らめながら少し目を伏せてこちらを賞賛する雪ノ下。

 俺はその言葉に対してむず痒さと、普段見れない雪ノ下のレアな姿に非常に困惑しながらも、矢継ぎ早になんとか言葉を紡ごうとする。

 

「ほ、ほう……なるほど。これが最近流行りのツンデレというやつか。なるほど。いや参考になった、故にもうそういうのはいいぞ雪ノ下。今度は是非比企谷辺りにやってやるといい!きっと喜ぶぞ」

 

 雪ノ下がピシッと固まる。紅潮していた頬は段々と冷たさを帯び始め、ここら一体も何故か肌寒さを感じてくる。凍てつく視線はまるで俺を穿って貫くよう。

 俺は不味いことを口走ったことを察した。

 

「………………キャンプファイヤーの中に放り込まれたいようね。ちょうど消化する必要があるものね?自らそれに志願するなんていい心掛けね。いいでしょう。その心意気を買ってあげる。少し待って貰えるかしら、今から人を呼んでくるから」

「待て、冗談だ。そんな本気の目をして人に声を掛けようとするな。だから待て、俺が悪かった……!」

 

 雪ノ下が何やら花火を持って近づいてきた由比ヶ浜達に声を掛けに行こうとつかつかと歩いていくのを見て、咄嗟に止める。非常に情けない話だし、そもそもの原因は俺の言葉だが、流石にそんな本気の目で歩かれては困る。俺もこんな所で死ぬ訳にはいかんのだ。何しろまだ何も約束を果たしていない!

 と言ったところで、雪ノ下は振り向く。実にしてやったりと言わんばかりの嘲笑を向けてくる。

 

「私も冗談よ。少しは意趣返しができたかしら」

「……ああ、腹一杯だとも」

 

 頬を伝わる嫌な汗を拭ってから、俺は何とか皮肉で返そうとするが、無駄に焦ったせいか、そんな遊びもない言葉で返すので精一杯だった。

 

「花火、やるみたいよ。あなたも参加したら?」

「うん?」

 

 俺はそれに少し迷う。正直寝たい。眠いし、何より疲れた。先程の肝試しで神経をすり減らし過ぎたのだ。

 だがまぁ、一夏の思い出という点では、参加する価値はある。きっと、もう経験することはないのだから。

 

「まあ、折角だ。これも思い出というものだろう」

「あら、以外ね。てっきり断るかと思った」

「折角だと言っただろう?そこまで空気の読めない男ではないぞ。俺は」

 

 そう言うと、雪ノ下は少し目を伏せて口を開く。

 

「知っているわ。あなたが思ったよりも周りを見ていることも、気遣っていることも。平塚先生から監督役を命じられるのも納得ね」

「……やけに俺のとこを褒めるじゃないか。明日は雨でも降るのか?」

「ええ……そうね。雪でも降るんじゃないかしら」

 

 雪ノ下はそう言って、一瞬空を見上げた。

 

「だから、私は───」

「ゆきのーん!みのるーん!一緒に花火しよ!」

 

 由比ヶ浜が花火セットをもってこちらに声をかけてくる。少し向こうを見れば、比企谷も暇そうにヘビ花火を見ていた。

 しかしなにか雪ノ下が言いかけていたような気もしたが……気のせいだろうか。

 

「……行きましょうか」

「そうだな」

 

 雪ノ下の表情は、由比ヶ浜に対する微笑ましさしかない。やんちゃをする娘を見る母親のような表情だ。

 先程、一瞬雪ノ下から強烈な感情が見て取れたのだが……いや、気の所為だろう……気の所為、ということにしておこう。

 俺はそう頷いて、既に花火をいくつかつけて、火薬臭くしかも一層騒がしくなっている由比ヶ浜達の方へと、向かうのだった。

 あいつ、右手左手に四本ずつ花火持って、しかも振り回すだなんて怪我したりしないだろうな……。帰る前に火傷で病院へ、なんて流石にごめんだぞ。

 

 

 次の日、無事林間学校も終わり、朝食の後、帰路に着いた俺達は、我等が総武高校前まで帰ってきていた。

 帰りの車は恐らく一番最初に寝落ちしたと思う。何しろほとんど会話した記憶がない。

 しかし寝覚めはあまりいいものじゃなかった。隣に小町さんがいたのが特にな……。

 彼女には申し訳ないが、今回の林間学校でかなり苦手意識を覚えてしまった。周りをよく見て、気を配れて、一色を思い出す笑みを浮かべる。

 それは、まるで妹みたいで。憂鬱になる。

 とにかく、隣の二人を起こした後、車から出れば時刻はおよそ昼頃。

 陽射しは燦々と大地へと注ぎ、アスファルトがそれを照り返す。気候は高音多湿と言ったところだ。まさに都会の夏。これぞ現代のコンクリートジャングルと言ったところだ。最悪だ。返してくれ。

 数時間前までは感じていた高原の清涼な空気がもはや懐かしさすら覚える。肺に入る空気は排気ガスやらなんやらで汚染されていると言うが、俺は今まさにそれを身をもって実感していた。

 ああ、神よ。もし生きているのであれば、俺を自然に返してくれ。返してくれないならば再度掃き溜めの中に沈んで行くがいい。アイルビーバック。いいや二度と戻ってくるな。

 ワンボックスカーからそれぞれ荷物を下ろし、帰りの支度を済ませる。

 

「みんなご苦労だったな。家に帰るまでが合宿だ。気をつけて帰るように。では解散」

 

 何故かドヤ顔で解散を告げる平塚先生。もしかしたら前もって考えていたのかもしれない。

 

「小町買い物して帰ろうぜ」

「あいあいさー」

 

 それぞれ帰路につこうとする。比企谷兄妹と雪ノ下、由比ヶ浜と戸塚というペアで帰るそうだ。俺は学校から家が近いのでこのまま徒歩である。

 しかし一人で帰るとなると少し荷物が多いな。正直帰りも平塚先生が家まで送ってくれるかと思ったが、何でも学校でやることがあるらしい。そう上手い話はないもんだ。

 休み休み家まで歩く必要がありそうだな。早めに帰ってしまおう。

 

「俺は先に帰るぞ」

「うん。ばいばい」

「ええ、さようなら」

「ではな。奉仕部関連で何かあったら連絡してくれ」

 

 皆と挨拶を交わし、一足先に帰ろうとしたそのタイミングだ。俺たちの前に黒いハイヤーが静かにスーッと止まった。

 やけに高級な車だな。この場には些か、いやかなり不釣り合いだ。こんな車なかなかお目にかかれるものじゃない。

 運転席には初老の男性が座っていた。後部座席はスモークガラスとなっていて、中はよく見えない。

 車のボンネットは磨き抜かれており、新品と見間違うほどに傷一つない。さらに先端にはボンネットマスコットが着いている。模しているのは女神像か何かだろうか。

 見れば見るほど場違いな車だ。総武高の前に止まったということは、ここの学生の関係者か?ウチにそこまで金持ちの生徒がいたとは聞いていないが───いや、いたな。

 俺が雪ノ下を見るのと、運転席から降りた初老の男が後部座席を開けるのはほぼ同時だった。

 

「はーい、雪乃ちゃん」

 

 中から出てきたのは、その顔に見覚えがあるような女。薄ら寒さすら感じる微笑みを湛えた雪ノ下にそっくりな女だった。

 真っ白なサマードレスに身を包んだ身なりの良い女は、他の人間は歯牙にもかけず雪ノ下へと笑いかけた。

 

「姉さん……」

 

 どうやら雪ノ下の姉らしい。

 ならまあ、問題ないか。暑いし俺は帰るとしよう。

 

「平塚先生、お疲れ様です。ぼくはお先に失礼します」

「……ああ、ではな」

 

 ワンボックスカーに背中を預け、タバコを口に咥えながら紫煙をくゆらせる平塚先生はいつものような快活さはなかった。その目は雪ノ下姉の方へ向けられている。

 まあ確かに雪ノ下の姉は見るからに厄介そうな雰囲気を感じるし、平塚先生が警戒するのも納得だろう。ともあれあの女から興味を持たれる前に退散させて貰うとしよう。

 むう……しかし前にどこかで会ったような。なんだかデジャブだなこの感覚は。

 とにかく雪ノ下姉が由比ヶ浜に絡み始めたのを見て俺はそそくさとその場から去る。

 空を見上げれば、注ぐ日差しは未だ眩しく、喧しい蝉の声は止まることを知らない。うだるような熱気が肌を焼く。まだまだ夏は始まったばかりだ。

 キャップを深く被り、タオルを首からかければ、俺はその場から逃げるように歩を早めるのだった。

 




というわけで、林間学校編終了です。
次回、家庭訪問

皆様アンケートをお答え下さり誠にありがとうございます。
どうやら気になるという方が多いようなので、明日アンケートを締め切った後、次回後書きにて主人公の容姿を挿絵込みで詳しく説明しようと思います。


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二十三話 家族の愛

「……」

 

 おそらく俺は今、人生で最大とまでは言わないが、それでもトップレベルに危険な状況に巻き込まれている。何か一つでも間違えれば俺の人生が終わってしまうのではないかと、嫌な予感をひしひしと感じてしまうのだ。

 俺の目の前では一人の女性がソファーで向かい合うように座っている。

 ショートボブで短めに切り揃えた艶やかな黒髪を持ち、切れ長の目とキリッとした眉は真面目で少しキツめの印象を覚える。顔だけ見れば、正しく教育ママといった雰囲気だった。

 服装は白のカットソーとジーパンで身を包み、上には薄手のカーディガンを羽織っている。おそらく部屋がエアコンで冷やされているからだろう。

 というか俺ですら少し肌寒いな。温度を上げて貰えないだろうか。と、言いたいが下手なことを言えば何をされるのかわかったもんじゃないので口を噤んでおく。

 目の前の美人は俺の目を見て返答を待っている。

 クソ、何がどうしてこうなった?いや原因はもちろん自分にあるのは間違いないのだが。

 我関せずと隣でオレンジジュースを飲んでいるコイツが憎い。全く、こうなったのも二割程はお前のせいなのだからな。

 

 

 奉仕部におけるゴタゴタも終わり、林間学校のボランティアも終わった事でようやく夏休みらしい日々が始まった。

 世間では炎天下の活動は熱中症の危険性がある等と警告が出されるほどに、本日の気温は高いらしい。

 暫くは雨も降らないそうだから、澄み渡る青空が望めることだろう。こんな青空の下、外で活動するとなったら恐らく俺は死ぬ。しかし幸い今日は外出の予定はなかった。バイトは明日からだし、夏の暑さに呪詛を吐くこともない。

 ジムに行く日でもなく、一色からの連絡もない。グダグダしていても誰からも文句は言われない。理想的な暇な日だった。

 そんな日に、現代の最高の発明品のクーラーによって冷えた部屋で飲むアイスコーヒーは格別な味だ。

 ことりとアイスコーヒーの入ったマグカップを机の上に置いて、テレビのチャンネルを変える。お昼のニュースは程々に情報バラエティ番組が始まった。

 そろそろ昼食でも作るかと思い立ち、ソファーに沈めていた体を起こす。

 夏バテと言う訳では無いが、元から少食気味な俺は昼食を取ると言っても大したものは作らない。

 適当に食パンを焼いて、その間に目玉焼きとベーコンを焼いて乗っけて食う。ついでにサラダを用意してそれも食う。

 正直朝食の延長線である。

 料理が面倒くさくてこういうので済ませてしまうが、これだと食費が半端ないので、そろそろそうめん生活が始まるだろう。

 食べ終えて食器などを洗い、後片付けを済ませれば、食後のコーヒーを入れる。

 今回は特に拘りもなく普通のドリップ式のコーヒーだ。

 しかしいつものホットと違ってアイスコーヒーで入れる。違いは単純、コーヒーを落とすポッドの中に氷を入れるのみ。

 それだけで普段と変わらない手順で美味しいアイスコーヒーが作れる。

 先人達の知恵というものは偉大だよ。

 チビチビと、コーヒーを啜って、カップをテーブルに置いたあと。俺は再びソファーへと沈んでいく。

 

「……」

 

 どうにも、今日の俺は何かをしないと下らないことを考えてしまうようだ。いやそれは林間学校が終わってからずっとか。その時にはしゃぎ過ぎたのか、なんなのか。

 あれ以来、幼い頃のことをよく思い出す。習慣となっているピアノを弾く事すら億劫になる。

 妹は今何をしているのだろうか。なんてどうでもいいはずの感傷が出てくる程だ。

 大きな溜め息を吐く。

 どうせ会うこともない家族のことを考えるくらいならば、天井のシミを数えていた方がよっぽど有意義だ。

 家族で思い出したが、そういえば雪ノ下の姉が黒塗りの高級車に乗ってやってきていたな。

 完璧すぎるが故に、不自然に映るあの笑顔が俺にはどうも厄ネタにしか思えなかった。故にあの場は逃げたのだが、残った方が良かったのだろうか。しかし残ったところで何が出来るのか。雪ノ下に手も足も出ない俺が残ったところで、その上を行きそうな姉に対しては何も出来ないだろう。何かするわけでもないのだが。

 まあどんな会話をして、どんな事があったかは由比ヶ浜に聞けばいい。

 比企谷や雪ノ下だと自分はこう思うから話す必要がない、なんて物言いで出来事を正しく語らないことがまあ多々ある。

 故に話を聞くなら由比ヶ浜だ。少し頭が弱いところがあるので抽象的な語りをするが、それでも上記の二人よりかはよっぽどマシである。

 本当、奉仕部は由比ヶ浜がいないと成り立たないのではないかと思えるな。俺含めて雪ノ下も比企谷も問題児だ。平塚先生のお眼鏡に叶って奉仕部に放り込まれているのだから、それはある意味で証明されている。

 これからも苦労することだろう。それに、雪ノ下は何か問題を抱えているようだし。それがあの姉と繋がらなければいいのだが、さて。

 ふわぁっと小さな欠伸が出る。結局今日も睡眠時間が足りないので、こうやって何もしてないと眠くなってくる。学校にいるのであれば、見るものやることやるべき事が沢山あるので問題ないのだが、休日はダメだな。

 起きなければならないが、瞼が重く感じる。

 うつらうつらと体が柔らかな革張りのソファに沈んでいく。大事に丁寧に扱っているこのソファーは柔らかで、昼寝するには丁度いい。

 眠りたくはない、しかしこの睡魔に抗うのも馬鹿らしい。意識が段々と沈んでいく。頭が、まわらない。もうすぐいしきがおちる。

 ブーッ!ブーッ!と何かが鳴った。

 手の中で振動するそれによって俺は覚醒する。

 危なかった、と安堵しながら画面を見れば、知らない番号からの電話だった。

 滅多に電話なんぞかかってこないし、非通知以外の電話は全て出るようにしているので、迷うことなく通話のアイコンをタップする。

 

「田島ですが」

『もしもし、実さん?私。鶴見留美だよ』

 

 電話越しに聞こえる声は鶴見留美のものだった。どうやら、約束通り連絡してきたらしい。

 

「鶴見か。随分早かったな、何か用か?」

『うん。その……ちょっと待ってて』

「あん?」

 

 鶴見は俺の返答を待つことなく、電話を保留にしたようで、電話口からはチープな電子音で作られたエルガーの『愛のあいさつ』が聞こえてくる。

 なんなんだ、一体。彼女が待っててという前に一瞬別の誰かの声が聞こえた気がしたが。

 嫌な予感がするな。ボケーッと待っていると、保留音が止まり、ザーッと環境音らしき雑音が耳に聞こえる。

 

『留美と変わりました。田島実さんのお電話で宜しいでしょうか』

 

 突然耳に入ってきたのは知らない女の声だった。

 俺は驚いて、反射的には?と声に出しそうになったがなんとか抑える。くぐもった気持ちの悪い声が出た。

 声質的に歳上なのは間違いない。それに鶴見を名前呼びしていた時点で、彼女の家族か親族なのもほぼ確定だ。

 硬い雰囲気を受ける機械的な声。コールセンターの受付嬢のような雰囲気だ。

 耳元からスマホを外し、マイクに入らないように深呼吸をする。声に動揺が乗らないように息を吸って吐く。その後、俺は改めてスマホを耳元に持ってきた。

 

「はい。ぼくの電話で問題ありません。失礼を承知でお聞きするのですが、もしかして貴女様は留美さんのお母様でしょうか」

『ええ。そうです』

「そうですか……ええと、その。どう言ったご要件で……?」

 

 恐る恐る、要件を問う。まあほぼ予想はできているのだが。

 

『留美から、林間学校の件や学校での話をお聞きしました』

「ああ……なるほど」

『本日はなにかご予定などはありますか?』

 

 さて、どうしたものか。

 用事がある、予定があると言って断るのは簡単だ。それに対して相手も追求などしないだろう。しかしそれはあくまで現状の先延ばしでしかなく、いずれ向き合わなければならない問題である。

 それに俺は鶴見留美の依頼を受けているのだから、この問題はどちらにせよ何れぶつかるものだとは思っていた。

 それがこんなに早くになるとは思っていなかったが。やはり親とコミュニケーションを取れ、だなんて言ったのが悪かったのだろうか。

 しかし、鶴見から少し話を聞いた奉仕部の面々いわくだが、林間学校の際に鶴見は母親から友達との写真を撮ってきなさいと言われ、デジカメを渡されていたそうだ。

 つまり鶴見は母親に対して自分の現状を話していないということになる。もちろん、それは当然のことであるのだが。親に自分が虐められていて友達がいないなんて正直に言える子供がどれだけいるだろうか。

 だが変わることを選択した鶴見ならば問題ないだろうと思い、母親とコミュニケーションを取れ、と伝えたわけである。

 

「特に予定はありません」

 

 まあいいだろう。

 何れ向き合わなければならない問題なのだ。だったら今の内に解決するに限る。俺としてもいつ余裕がなくなるかなんて分からない。

 林間学校ではその片鱗はなかった、あるいは俺が見逃しただけかもしれない。しかし由比ヶ浜の誕生日。あの日の雪ノ下の言葉には、その表情には、何かあると思わせるには十分だった。

 あれが発端で、それとも別のことが発端で。問題児ばかりの奉仕部は何が起きてもおかしくないのだ。後顧の憂いはここで断っておくのが吉と見た。

 

『そうですか。では、よろしければですが、お話をしたいと思いまして』

「構いませんよ」

『ありがとうございます。ですが、電話ではなんですので……そうですね、ここは私の自宅で、というのはどうでしょうか?留美も、会いたがっていますから』

 

 とはいえやはり、断っておくべきだったかもしれないと、少しだけ後悔した。

 

 

 鶴見家は俺の今住んでいる家からはかなり離れた所にあった。近くの駅まで自転車で行って、そこから電車で二駅分。そして更にバスに乗って近場の住宅街までやってくる。

 ギラギラと眩い日差しを浴びながら、俺は鶴見家まで辿り着き、そうして今鶴見母と向き合っていた。

 歓迎されているのか、されていないのか。鶴見は少し嬉しそうな様子だったが、今は隣で済ました顔をしながらオレンジジュースを飲んでいる。呑気なヤツめ。

 正直、美人とこうして向き合い続けるのは疲れるのだ。

 鶴見留美は美少女の部類に入るのだから、その母親である鶴見母が美人なのは当然のことだと言えよう。

 鶴見はクールな佇まいを持つ女の子だが、母親の方は、なんというかキツい雰囲気があった。ナイフのように研ぎ澄まされた鋭さ、凛としたその佇まい。しかし大人が故の余裕を感じるその雰囲気。

 クソ、最近まともな年上の女性と喋った経験が平塚先生しかないせいでこういう時どうすればいいか困る。そもそも俺は話をしに来たはずなのに、なんで黙っているんだ。

 

「お母さん、実さん困ってるよ」

「そうね……ごめんなさい。来てくれてありがとう、田島さん。留美の母です」

「どうも。改めまして田島実です」

 

 互いにペコリと頭を下げる。

 今更な自己紹介ではあるが、家に入ってから鶴見とだけしか喋ってないので、実際に言葉を交わすのは初めてである。

 しかしなんというか、鶴見母の硬い雰囲気が霧散したな。電話口で聞いた声と見た目の雰囲気とのギャップが凄い。

 鶴見の前だからだろうか、今は結構柔らかい雰囲気を感じた。

 

「まずは、林間学校で留美がお世話になったようで、ありがとうございます」

「とんでもない。ぼくは大したことはしていませんよ」

 

 実際林間学校の件は、比企谷の案がなければ解決に持ち込むことは難しかった。

 俺は大したことはしていないだろう。雪ノ下は誇っていいと言っていたが……まあ無理な話だ。俺が俺を誇ることなんてのはきっと永遠に来ない話だよ。

 鶴見母はそんな複雑な内心を見透かしたのかどうなのか、知ったことじゃないがふわりと微笑んだ。

 

「そうですか。しかし、やり方はあまり褒められたものではないと思います。何か間違えれば、留美もあなた方も危なかったかもしれない」

 

 しかしそのすぐ後に、キリッと引き締まった表情になる。

 

「……ええ、自覚しています」

 

 そこもしっかりと鶴見から聞いているらしい。

 母親としてはあまりに正論だ。俺としては返す言葉もない。作戦の立案は比企谷とはいえ、それにゴーサインを出したのは、実は俺である。

 林間学校の肝試し。あの時に比企谷の作戦に対し雪ノ下も葉山も良い顔はしなかった。雪ノ下に関しては拒否したくらいだ。リスクが高すぎる、とな。

 だが俺はやるべきだと思って承諾した。もちろんそこで取りだしたるは副部長権限……ではないが、俺が積極的だったのを見て他の面々も渋々承諾したと言った形である。

 故にこそ、俺は俺たちがやった作戦のリスクをしっかりと理解している。あれは、小学生たちの罪悪感と混乱によってそこまで頭が回らないことに賭けた、綱渡りの作戦だったのだから。

 そして何より、失敗すれば鶴見の今後がより酷いことになってい可能性だってある。鶴見母が言いたいのはこっちだろう。

 

「娘さんを危ない目に合わせたこと、謝罪させてください。本当に申し訳ない」

 

 だから頭を下げる。

 本当ならば比企谷にだって頭を下げさせたいが、鶴見からの依頼を受けたのは俺で、その作戦を了承したのも俺だ。なら代表のようなものだ。

 とはいえ頭を下げたところで許されるとは限らないが。

 頭を下げ続ける俺に、彼女は「頭を上げてください」と言って、俺は言われた通りに頭をあげると、彼女はクスリと笑っていた。

 

「……別に責めている訳では無いのです。留美があなたたちのお陰で前より元気になったのも事実ですから。でも」

「でも?」

「親として、文句の一つは言わせて欲しいな、と」

「……なるほど」

 

 俺も思わず笑ってしまう。

 いや確かに、その通りだ。それは彼女達が待っている最大の権利だろう。それは行使するべき権利だし、今こうして行使されるのは道理である。

 この程度で済ましてくれるのだから、彼女が良き人なのは明白だった。

 鶴見母は微笑んだまま、鶴見の頭を撫でる。鶴見はくすぐったそうに目を細めたあと、ハッと我に返った。

 

「実さんの前だからやめて」

 

 そう言いながら手を払う鶴見に対して、鶴見母は再びクスリと笑うと、口を開いた。

 

「正直、留美に何かあるのでは?と思っていたのです。最近はずっと元気がなかったので」

「そうなの?」

「ええ。多分留美が思っている以上に元気なかったのよ」

「そうなんだ……」

 

 自分の状況を親に伝えられない気持ちは如何程のものか。きっと後ろめたさでいっぱいだったはずだ。

 だからこそ親の前でも、意気消沈しているような、ぎこちない態度が目立ったのだと思う。

 

「だから林間学校で留美がカメラで何を撮ったのか、何も撮っていないのであれば、問い詰めようかと思っていたのですけど。まさか留美から話してもらえるなんて思っていませんでしたから」

「実さんが、お母さんと話せって言ってたから……」

「まあ、言ったな」

「ええ、だから文句はありますけど、感謝もしているんです」

 

 鶴見母はニッコリと笑いかけた。

 視線を逸らしながら、少し下にズレた眼鏡の位置を直して、ふーっと息を吐く。

 緊張の糸解けたというのもあるが、思ったよりも寛容なその態度に、少しばかり拍子抜けだったというのもある。

 

「留美、悪いけれど、台所からお菓子持ってきてくれるかしら」

「?いいけど」

 

 鶴見が立ち上がり、とてとてと奥のキッチンまで歩いていく。ついでにコップを持っていったので、飲み干してしまったジュースも補充してくるようだ。

 キッチンまで行った鶴見を目で追っていると、鶴見母から声がかかる。

 

「……田島さん」

「はい?」

「その、一つだけお聞きしたいのですけど」

 

 随分と真面目な顔をだった。

 ここからが本題のような気がするな。せいぜい気を引き締めるとしよう。とはいえ鶴見が戻ってくるまでだからそう時間はかからないだろうが。

 

「どうぞ」

 

 俺が促すと、彼女は意を決したように顔を上げる。

 

「……留美に対して、何かこう、劣情を抱いたりはしていませんよね?」

「いや……え、あ?いやいやいや……そんなに信用ありませんか?」

「いえ、そういう訳じゃないのだけれど……」

 

 なんだか申し訳なさそうな顔をして目を伏せる。

 奉仕部の女子二人といい鶴見母といい、人をロリコンにしないと気が済まないのか?俺はそんなに小児性愛者のような顔をしているのか?いやいやいや、それはないだろう。

 自分に自信がないからいまいち確証が持てないのが、俺のダメなところだ。全く嫌になる。

 

「まぁ、そうじゃないなら良いのです」

 

 ほうと、安心したように息を吐いて鶴見母は目尻を下げた。

 

「実さんどうしたの?変な顔して」

「……なんでも」

 

 戻ってきた鶴見が怪訝な顔でそう聞いてきたので、俺もため息混じりに返事を返したのだった。

 

 

 結局あの後、俺は帰ろうとしたのだが、鶴見母の押しに負けて鶴見家で夕食までご馳走になってしまった。

 父親は来ないのかと疑問に思ったが、どうやら仕事でいつも帰りが遅いらしい。一家の大黒柱は大変、ということだろう。

 ちなみに夕食はミートスパゲティ。かなり美味かった。コーヒーが飲みたいが、さすがに何も持ってきてはいない。

 鶴見母は、台所の方でカチャカチャと音を立てながら、使い終わった食器を洗っている。手伝おうと思ったのだが、客人だからという理由で断られてしまった。

 時刻はおよそ、十九時を回る頃だ。やることもないし、そろそろお暇させてもらいたいが、さて。

 

「実さんそろそろ帰る?」

「ん?ああ……そうだな。そうしよう」

「ふうん。じゃあね」

「じゃあねってお前……」

 

 素っ気ない返事に思わず呆れてしまう。

 全く……自分で言うのもなんだが客人なんだぞ、一応俺は。

 ため息を吐いて、鶴見母の方を見る。ボソリと、「良い母親だな」なんて言葉が口から出てしまった。

 

「……そうかな」

 

 そんな俺の言葉に、鶴見は自信なさげに答える。

 まあ、自分の母親が他所様の母親と比べて、良いか悪いかなんて鶴見くらいの年齢じゃ分からないものだろう。俺もそうだったからよく分かる。

 

「そうだろうよ。お前のことをしっかり大切に思っているのは、さっきの短い問答でも理解出来たからな」

 

 大切に思いすぎてロリコン扱いされる程だからな!

 

「まあ、これからも仲良くするといい」

 

 椅子から立ち上がって、鶴見母の方へ行く。

 彼女はまだ食器を洗っている最中で、忙しなく手を動かしていた。やはり手伝った方が良かった気がするな。世話になったのだし。

 仮に今度来て、ご馳走になった場合は手伝うとしよう。

 

「すみません」

「田島さん。どうかしましたか?」

「いえ、そろそろ帰ろうかと思いまして」

 

 鶴見母は手を止めて、水道の水を止めたあと、こちらへと振り返った。

 

「もうお帰りになられるんですか?」

「ええ、まあ良い時間ですから」

「そうですか。今日はわざわざ来てくださってありがとうございます。これからも、留美と仲良くしてあげて下さい」

 

 ニッコリと笑う彼女にぺこりと会釈を返し、俺は踵を返す。

 居間を出て、玄関まで行くと鶴見が立っていた。どうやら見送ってくれるらしい。すました顔で、じゃあね、なんて言っていたのはなんだったのか。今更寂しくなったのかな?せせら笑ってやろうかとも思ったが、大人気ないからかい方だな。やめておこう。

 何はともあれ優しいことだ。

 

「実さん」

「うん?」

「また電話するね」

「……ああ、またな」

「うん、また」

 

 鶴見に手を上げて、俺は玄関の扉を開けた。

 

 

 夏は太陽が沈むのは遅いが、さすがにこの時間帯になると、夜の帳はもう下りていた。頬を撫でる風邪は涼しく、夜の寂しさを感じさせる。

 鶴見の母に呼び出された時はどうなるかと思ったが、思っていたよりも向こうが俺に対して、寛大な心で受け入れてくれていた。黙って向かい合っている時は、人生最大の危機かとも思ったが、意外と何とかなるものだな。

 正直もっと糾弾されるものかと思っていた。鶴見が何か話したのか、それとも彼女の母親が寛容だったのか。多分どちらもそうなのだろう。

 だからこそあんな呟きが漏れたのだが。母親、か。俺の母親は今何しているのだろうか。もう一年以上会っていない。まあネットで調べれば何らかの公演をしているだろうし、簡単なことではあるのだろうが。さすがにそこまでやる気はない。面倒だし、そもそも興味がない。どうせ元気にやっていることだろうし、何かあれば向こうから連絡してくるだろう。

 

「くあ……」

 

 欠伸が出る。いい加減コーヒーも飲みたいし、早めに帰ろう。

 俺は何度も出てくる欠伸を噛み殺しながら、帰路に着くのであった。




田島実
おおよそ175cm程度の身長で痩せ型。
くせっ毛の黒髪、どんよりとした暗く深い闇のような死んだ黒目が特徴の少年。
細身で寝不足気味な為常に顔色が悪く、目の下には酷い隈があるせいで、病人のようにも見える。

by 友人作

【挿絵表示】


友人の絵が思った以上にイメージ通りなので、あまり詳しい説明はしなくていいかなと思う所存。
次回は、多分一色回。


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二十四話 後輩

あなたとの約束を忘れたことなんてないから


 ボケーッと、昼食のそうめんをすすりながら、お昼のニュース番組を眺める。

 名前も知らん女のお天気ニュースキャスターによれば、今日は一日晴れらしい。即ちいつも通りである。今日もまた洗濯物を干すには良い日ということだ。

 夏休みは折り返しをすぎ、もう残り一週間あるかないかといったところ。数日後には、毎年恒例のどっかの河川敷で花火大会がある夏祭りがやるそうな。中学生の時は少し遠出して行ったな、なんて思い出しかけ、直ぐに記憶に蓋をした。

 ちゅるりと最後のそうめんを啜った。

 使った食器を洗って片付け、洗濯物を物干し竿に掛けて、ベランダに並べればとりあえず今日のやることは終わりだ。

 さて、コーヒーを、淹れよう。

 思い立ち、席から嫌だ嫌だと駄々を捏ねる重い腰をあげて立ち上がった俺は、婆さんが用意したコーヒー関連や専門の器具が収められている棚からとある道具を取り出す。

 その名もエアロプレス。

 コンパクトかつ、太く大きめの注射器のような外見をしているそれは、空気圧を使って抽出するというもの。ちなみに似たような器具としてフレンチプレスなるものもあるが今回は割愛しよう。

 往々にして、コーヒー抽出用の器具は最近に作られたものになればなるほど、短時間で抽出できるのが売りになっている。コーヒーを淹れるのはそれなりに手間がかかるのだから、単純化効率化を目指すのは当然のことと言えよう。

 もちろん、このエアロプレスも例に漏れず、実に短時間でコーヒーを抽出することが出来る。

 エアロプレスの抽出の特徴としては、コーヒー粉とお湯を上から自身の力をかけてコーヒーを抽出するという点にあり、そしてそれはカップの上で行う。なので、その力に耐えうるだけの強度がある厚くて丈夫なマグカップを選ぶと良い。

 今回はインヴァート方式でセットするとしよう。これは初心者向きの液漏れが防げるセット方法だ。俺自身、ある程度力が必要なエアロプレスの扱いはまだ慣れていないのもあって、今回は簡単なやり方にする。

 プランジャーの上にチャンバーをセット。そして予め挽いておいた中挽きのコーヒー豆をチャンバーの中に入れる。そして、30秒ほど時間を掛けてお湯をチャンバーに注ぐ。

 注ぎ終えたら付属のパドルを使って、静かに数秒ほどお湯を混ぜて撹拌する。撹拌すると、表面に泡の層ができるからわかりやすいぞ。

 あとはフィルターをセットしておいたキャップをはめて、一分ほど待った後、ひっくり返したカップの上に乗せる。

 あとは、上から押すだけだ。しかしこれが中々どうして力がいる。感覚としては、心臓マッサージの押し込む部分を絶妙な力加減でずっと押し込み続ける。そんな感覚だ。

 あまり力を入れすぎるとカップが倒れるし、最悪エアロプレスが壊れる。

 なので一定の力加減と速度で押し込む必要があるのだ。

 ちなみにほとんどの抽出方法でそうなのだが、最後まで抽出しきるとエグ味が出るから程々でやめておこう。

 

「ふぅ……」

 

 やはり結構力を込めなければ行けない抽出方法なので、額から汗が垂れる。それを手の甲でグイッと拭ったあと、エアロプレスを桶の中に入れておく。後で掃除しよう。

 むう、ジムに通っているはずだがやはり筋肉はあまり増えていないような気がするな。まあ一ヶ月程度しか通っていないのだから、仕方があるまい。 

 一心地ついて、席に座る。

 早速淹れたコーヒーに口をつけた。エアロプレスはドリップ式よりも強い圧力で抽出するために、コーヒー豆固有の成分がしっかりと出ている。

 つまり。

 

「美味い」

 

 ふーっと、息を吐く。至福の時間だった。適当に昨日借りてきた映画でも見ようかと思って、席を立った、ふと窓の外を見た。先程まで快晴だったのに、今は曇りがかって少し暗かった。

 嫌な予感がして窓から外を眺めれば、黒い暗雲が空を覆っていた。

 その瞬間だ。

 

「おい、冗談だろ……?」

 

 ザーッ!とまるでバケツをひっくり返したかのような土砂降り。

 何が今日一日晴れ絶好のお出かけ日和だ、天気雨なんてレベルではないぞ。美人お天気キャスターだかなんだか知らんが、適当な仕事をしよってからに、クビにしろ!干したばかりだぞ、アホか。

 内心恨み言を吐き続けながら、俺は急いで、洗濯物を取り込む。

 ひーこら言いながら必死の想いで、洗濯物をとりこんだ。焦りと、急いで取り込んだせいで息が切れた。荒い呼吸をしながら、俺はなんとか立ち上がった。

 クソが。とりあえずいくつかの服は乾燥機に放り込んで、あとは部屋干しか。部屋干し、部屋が臭くなるから嫌なんだが、まあ仕方がない。

 盛大にため息を吐きつつ、片付けをしていると、ピンポーンとインターホンが鳴った。

 誰だ?

 以前に頼んだ品はもう届いたはずだ。となれば別の宅配だろうか。しかし何か注文した記憶はないが。

 何はともあれ、ちょうど洗濯物もカゴに放り込みきったので、一度手を止めて、玄関へと向かう。

 玄関の扉を開ければ、そこに立っていたのは、全身ビショ濡れの一色いろはだった。

 彼女は全身ずぶ濡れになったまま俯いて玄関の前で立ち尽くす一色に、何やらただならぬ気配を感じた俺は咄嗟に声をかけた。

 

「一色……?どうした?何があった?」

「田島さん……」

 

 彼女は顔を上げる。その瞳は潤んでいて、悲壮感が漂っていた。後輩よ、何に嘆いているのだろうか。

 

「……驚かせようとして田島さんちに来たら、急に雨降ってきてびしょびしょになっちゃったんですよ〜」

「あぁ……?」

 

 あまりに間抜けなその理由に、強ばった体は一瞬で緩んで、思わず間抜けな声が出てしまった。

 そんな理由で立ち尽くすんだったらあんな深刻そうな雰囲気で立つなバカが。紛らわしいのも大概にしろ、全く。

 

「はぁ……度し難いほどの阿呆め。仕方がない、中に入れ」

「はーい!」

 

 ルンルン気分で家へと入ってくる一色を見て、我ながら甘すぎやしないかと、少し反省した。

 

 

『田島さん、替えの服ってどこにありましたっけー!?』

「ああ?」

 

 洗ったエアロプレスをまた使って珈琲を淹れていると、今は風呂場にいるはずの一色からくぐもった声で、すこし聞こえにくかったが呼ばれた。

 替えの服だとかそんなもの俺は全く知らんが。まさか勝手に家に置いていったのか?まさかあの誰だかよく分からんキャリーケースか。

 俺は客間の押し入れに置いてあったアレを思い出す。あのライトグリーンのキャリーケース。パッと見女のものに見えたので、てっきり婆さんのものかと思って、大事に、という訳ではないが捨てずに取っておいたのだ。確かに婆さんの趣味にしちゃ若いとは思っていたが、一色のだったとは。

 舌打ちをした後、腰を上げて一階の客間へと向かう。

 リビングのすぐ隣にあるこの部屋だが、客間とは名ばかりで実際はただの和室だ。リビングの隣にあって歳で病気になった爺さんがここで寝ていたらしい。

 そうそう使うこともないし、広いもんだから一応客間として用意している。

 押し入れの戸を開けると、かび臭い匂いが鼻をの奥を刺す。ここも使ってないからな。そろそろ掃除をしなければならないか。

 なんてことを思いながら、下の段の奥の方に置いてあったライトグリーンのキャリーケースを取り出して、持ち上げてみれば確かに何かが入っている重みが腕に伝わってくる。服が入っていると知っていれば、確かに服が入っていると分かる重さだった。

 バックを持ち上げて、風呂場へと向かう。風呂場の前までやってきて扉をノックした。

 

「おい、この緑のキャリーケースでいいのか」

『あ、それです。ありがとうございます』

「洗面所に置いておく。お前はさっさと風呂場の中に入っておけ」

『はーい。あ、覗かないでくださいね?』

「阿呆か」

 

 呆れつつ、中から扉の開閉する音が聞こえた数秒後に洗面所の扉を開ける。洗面所から風呂場は直接繋がっているので、床が少し濡れていた。一色が先程までいたのだろう。

 風呂場からはザーッとシャワーから水の流れる音が聞こえる。曇りガラスからは一色の影らしきものが映っていて──直ぐに目を逸らした。

 

「置いておくぞ」

 

 そう言ってとりあえず床にキャリーケースを置いて、俺は洗面所を出た。遅れて一色からお礼が飛んでくる。俺はそれに返すことなくリビングに戻ってから、溜まった何かを吐き出すように盛大にため息を吐いた。

 

 

 一色が風呂から出てくると、時刻はおよそ十五時ほどになっていた。雨は止む気配がなく、正しくゲリラ豪雨といった空模様だった。

 

「そうだ、田島さん」

「あん?」

 

 一色は先程淹れたコーヒーを飲みながら、思い出したかのように俺を呼ぶ。

 

「私、実はまだお昼食べてないんですよねー」

 

 そう言ってチラチラとこちらを見てくる。つまり飯を食わせろということだ。

 

「あぁ?全く……そうめんでいいか?」

「え〜。まあいいですけど」

「文句を言うんじゃない」

 

 ぶーたれる一色を他所に、俺は台所へと向かい揖保乃糸を取り出す。仕送りとして、実家から大量に送られてきたのだが、俺一人じゃ消費しきれなさそうな量だったので、実は一色がこうして昼飯を食べていくことは非常に助かるのであった。

 湯が沸いたらそうめんを鍋に放り込んで、麺を茹でていく。時間を図るためにタイマーだけセットして、俺はコップに麦茶を注いで喉を潤した。

 リビングに戻れば、一色が暇そうに借りてきた映画のパッケージを眺めている。

 

「田島さん、なんか面白いのないんですか?」

「カンフーナチスとかはどうだ?」

「いや絶対B級映画でしょ!」

「C級かもしれん……」

 

 正式名称『アフリカン・カンフー・ナチス』。あまりにもタイトルがパワーワード過ぎて勢いで借りてしまったが、しかし俺一人で観るのには些か躊躇いがあるので一色がいるのは丁度良いかもしれない。

 誘ってみるか。

 

「観るか?」

「観ーまーせーん……そもそも面白いんですか?これ」

「知らん」

 

 しかし一色は興味がないようで、パッケージをポイッと置いた。嘆かわしい。巷では快作だとか、意外と面白いだとかと言われているようで少し期待していたのだが……やはり一人で観るしかないようだ。

 そろそろそうめんが茹で上がった頃なので、ザルに盛って麺つゆを用意しておく。

 

「そら」

「ありがとうございます!あ、薬味あります?」

「ネギとわさびなら」

「じゃあそれで」

「……少し待て」 

 

 ここは飯屋か?

 内心愚痴りながら俺は薬味を用意する。ネギを切って、さすがに本わさびなんかはないのでチューブの練りわさびを用意した後、それを小皿に載せて一色の前へと置く。

 

「ありはとうふぉざいまふ」

「食べるか喋るかどっちかにしろ、行儀が悪い」

「……すみません」

 

 既にそうめんに口をつけていた一色は、口をモゴモゴとさせながら礼を言うので、叱りつけておく。

 こういう行儀だのマナーだのは日頃の積み重ねだからな。どこかしらで行儀の悪さが出る、なんて良く言っていたのは婆さんだったはずだ。

 爺さんがその辺あまりにもズボラだったため、婆さんは随分と厳しい人だった。その為か、うちの母親は気品のある女だった。

 一色はどうかと言えば、普段の行儀の良さはかなりのものだ。他人から自分がどう見えているのか、ということを気にしている一色は、育ちの良さなのだろう。些細な仕草から行儀の良さが読み取れる。

 しかし本来の性格なのかは分からないが、こうして俺の前や気の知れた相手だと時折はしたないというか、行儀の悪い所も見えたりする。つまるところ普段から多少なりとも意識している、ということだ。そこはこいつの長所だろう。意識すれば、猫を被ることもおちゃのこさいさいという訳だ。

 そんな一色いろはは、基本的に俺に用がある時は連絡してくる。しかし、今回は連絡がなかった。珍しいことがあるものだ、と思いながら一色を眺めていると、彼女は眉を顰めた。

 

「そ、そんなに見られていると食べ辛いんですけど」

「ん?ああ……いや、お前が連絡しないで俺を訪ねてくるのは些か珍しいと思ってな」

「一応したんですけどねー。田島さんどうせメール見てないんでしょう?」

「メールゥ?」

 

 そう言ってスマホのメールボックスを見れば、確かに一色からメールが届いて───かなり届いてるな。平塚先生はいいとして、由比ヶ浜や小町さんや戸塚からも届いているが、一色が一番多い。平塚先生よりも多いのか。

 いつから届いているのか遡ってみれば、だいたい林間学校くらいからだった。そこから定期的にメールが送られている。内容は、大体は俺の予定を聞いているものが多い。しかし最後の方は俺の安否確認まであった。我ながら心配をかけすぎだ。

 

「おおこんなに……いや悪い。メールなんぞ見る習慣がなくてな」

「折角交換したんだからってメールで連絡しましたけど、これからはまた電話で連絡しますー」

 

 頬をふくらませてムスッとした顔であからさまに拗ねてしまった一色。

 

「悪かったな」

「むぅ……あっそうだ、じゃあ代わりに今日泊めてください」

「なんと?」

 

 一色の顔を見る限り冗談ではなさそうだ。つまり本気で泊まりたいという訳だが……まあ客用の布団はある。定期的に洗ってもいる使えるか。

 

「駄目……ですか?」

 

 一色は目を潤ませ、不安そうに手を胸元に持ってきて、やや上目遣いになってこちらを見つめる。こいつが媚びる時によくやるパターンだ。

 それに負けた訳じゃないが、特に断る理由もないので、今回は許可してやろう。

 

「別にいいぞ。断る理由もない」

「……ほんと、表情変わりませんねー」

「流石にもう見慣れた。あざといだけだ」

「あざとくありませんー!」

 

 そういったあと、最後のそうめんを口へと運び、咀嚼し嚥下した後一色は一息つく。その後手を合わせて「ご馳走様」と言ったあと皿を持って台所へと向かった。

 

「そこに置いておけ」

「今日はお世話になる訳ですし、私が洗いますよ」

「そうか?悪いな」

 

 しばらくカチャカチャと皿を洗う音が聞こえる。一色もこの家に来るは初めてじゃないので、こうして当然のように家事もこなせる訳だが、それはそれとして一応俺の家なのだが、ここは。

 なんとも言えない気分になりながら、飲みかけのコーヒーに口をつける。今回はホットコーヒーなので少し冷めていたが、まあまだ飲めるレベルだ。

 手持ち無沙汰なので、一色の背中を眺める。我が家の台所に誰かがこうやって立っているというのは新鮮だった。そもそも一色ですら家に来るのは久々だ。だいたい一年ぶりくらいだろうか。

 謎の気持ちに支配されながら、再びコーヒーに口をつけた。程よい苦味と、その直後に感じる酸味が舌の上に残る。

 そうやってコーヒーに舌鼓をうっていると、一色が戻ってきた。

 

「あ、そうそう、私が今日田島さんの家に来た理由ですけど」

「驚かせに来たとか言ってなかったか?」

「それもあります。でももう一つあります。ていうかそっちが本題です」

「ほう。それで、なんだ?」

 

 彼女は俺の真正面に位置取る形で、椅子に腰をかけた。

 

「いや実際二週間前から何をしていたのかなって思いまして」

「なるほどな。良いだろう、聞かせてやる」

「妙に上から目線ですね……」

 

 そうして俺は一色に、林間学校の手伝いで忙しかったこと、バイトやらジムやらの話を、誇張なしに話した。

 

「へえ……そうだったんですね。そういえば部活に入ってるんでしたっけ」

「ああ」

「なんでしたっけ、ご奉仕部?」

「ごは要らん」

 

 それが付くと途端にいかがわしい感じになるのは、げに日本語の妙だろう。

 

「……部活?」

 

 一色が首を傾げる。今更俺が部活に入ってるからといって不思議がることはないだろう。あるいは何か引っかかることでもあるのだろうか。

 

「あ!そうです、前のデートの時に知り合いがどうのこうの言ってませんでしたか!?」

「あん?……ああ、アレか」

 

 面倒なことを思い出したな。

 恐らく、以前ららぽーとに一緒に行った時見た雪ノ下姉の事を言っているだろう。

 以前の俺は雪ノ下姉のことを知らなかったのだから、彼女のことを雪ノ下に似ていると称した。しかしそれを直接伝えず知り合いに似ているとぼかしたせいで、あの時は中々どうして痛い目を見たのだが、仕方がない。今回は素直に話してやろう。

 

「結局アレ誰のことだったんですか?」

「雪ノ下雪乃」

「はぁ!?」

「うおっ!?」

 

 突然一色が机から身を乗り出してくる。

 

「雪ノ下ってあの!?」

 

 そういえばあの女、学校ではそれなりに有名人なのだったか。最近あまりに身近になりすぎたもんだから忘れていた。というか、俺がボカした理由もそれだったか?いや、単に勘に従っただけのような記憶もある。

 とはいえそれなら一色の驚きも納得だった。と思いながら一色を見ていると、何かブツブツと呟いていた。

 

「……田島さんは、雪ノ下先輩みたいな人がタイプなんですか?」

「あ?バカを言えよ……」

 

 机に肘を置いて、頬杖をついた。

 何やら真剣な顔をするコイツに対して、俺はなんと声を掛けるべきか。雪ノ下に対してそんな気持ちを抱くつもりは微塵もない。無論、他の女にも。何を不安がって……そうだな、そうだった。コイツは、知っているのだ。

 

「俺は……もう、誰かを愛する気なんて、ないよ」

 

 一色は、目を見開いた後、一瞬顔を歪めて、すぐに何処か諦めたような表情になる。

 

「……知ってますよ」

 

 なんて言って、俺に微笑むのだ。

 これだけ理解をしてくれている彼女に、俺は何をしてやれるのだろうか。

 そもそも何故、彼女は俺と一緒にいてくれるのだろうか。ただただそれが申し訳なくて、酷く苦しい。

 早く、前に進まなければならないのに。

 右目が痛い。

 ああ、クソ────憂鬱だ。

 

 

◇*◇

 

 

 隣から寝息が聞こえる。

 多分、田島さんがようやく寝たからだと思う。それに気づいた私は布団から体を起こした。

 彼の部屋で一緒に寝られるように頼み込んだところ、了承(無理やり)を貰った私は、彼が寝入るまで待っていた。理由は、寝顔を見るため。別にやましい気持ちがあるとかじゃない。ほんとだよ?

 前に、田島さんは夜眠れないって言っていた。理由も説明してくれた。でも実際どんな風に魘されているのかは、私は知らなかった。だから、一応確認しておきたい。

 昼は私のせいで昔を思い出させてしまったから。きっと、今日は良い夢を見れないだろう。

 

「あ……」

 

 倒れた写真立てが目に入る。

 こういうのをそのままにしておくのは、A型だからか変なところで結構細かい彼らしくないなって思った。そもそも私が田島さんらしさを語るのは、少しおこがましいかもしれないけれど。

 写真立てを起こして───見たことを後悔した。

 田島さんがこの写真立てを倒れたままにしていたのは、きっと思い出したくないから。以前、もう昔のことは忘れたいのだと、そう私に言っていた。だから本当は忘れたいんだと思う。でも、忘れられないからこうして置いているんだ。

 忘れたかったのなら捨ててしまえばいいのに。でも捨てられない。私もそうだから。

 パタリと写真立てを倒して、寝ている田島さんの方へと近づく。

 不規則に寝息をたてる彼の顔は、青ざめていて、時折なにかに魘されるように、しかし悲しそうにその表情を歪める。

 あなたはどんな夢を見ているんですか。それはきっと、悲しくて、辛くて、見たくもないものでしょうか。

 以前のあなたを私は忘れることが出来ない。死人のような顔をしていたあなたを。

 でも最近は少しだけ、和らいだような気もする。奉仕部とかいうのに入ってからかな。それを成したのが私じゃないのは、少しだけ悲しいけど、田島さんの苦しみが少しでと減ったならそれは嬉しいこと。

 だから、私に出来ることはせめてその夢が良いものになるように、祈ることだけだ。

 田島さんの布団の中に入って、その体を抱き締める。彼の背中は思っていたよりも広かった。以前よりも痩せ細ったその体は、強く抱き締めたら壊れてしまうんじゃないかと思っていたけど。それでも男の人なんだなって、思える硬さを感じられた。

 そして、その身体は小さく震えている。

 

「だから、安心してください。良い夢を見れるように、私が祈りますから────()()

 

 

◇*◇

 

「んが……」

 

 目が覚めた。

 隣には誰もおらず、ベッドの下に敷いてあった布団は既に畳んで隅に寄せてある。

 やけに、寝覚めのいい朝だった。なにか夢を見たような気もするのだが、覚えていない。そもそも途中で見るのをやめたのか、あるいは覚えることが億劫になるくらいに悪い夢だったのか。ただそれにしては良い気分だった。まるで何か暖かいものに、包まれていたかのような。

 というか一色がいない。俺よりも先に起きたのだろうか。珍しいことあるものだ、なんて思いながら時計を見れば時刻はもう九時────九時?

 我ながら寝すぎである。いや俺からすれば良い事なのだが。

 首を傾げながら、リビングまで戻っても一色はいなかった。

 テーブルの上には皿の上にラップがけされたサンドイッチが乗っていて、隣にはメモ用紙が一つ。

 

『朝食、私が愛情込めて作りましたから、味わって食べてくださいね!by一色いろは』

 

 といった内容のメモだった。

 せめて一言ぐらい声をかけてから帰れば良いだろうに。なんて、内心文句を言いながら、サンドイッチに口をつける。

 ふわっとしたパンに挟まれた、口当たりの良い卵、酸味と甘さがちょうど良い味わいは、まろやかで食べやすい。

 つまり、美味い。アイツまた料理の腕をあげたな。

 コーヒーでも淹れるか。

 そう思えば、俺はこのサンドイッチに合うコーヒーをどう淹れるか、胸を躍らせるのであった。




次回から文化祭編入ります


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二十五話 秋風と吹き抜ける憂鬱

 長いようで……いやそんなことも無く普通に短かった夏休みは終わり、暦上は秋になった。

 とはいえ暦が変わったからと言って気温はすぐに変わることはないが、それでもジメッとした空気はカラッとした乾いた空気へと変わろうとしている。それに伴って蒸し暑さは也を潜めて、涼しい風が窓から吹いては心地よく頬を撫でた。そんな九月の初め。

 世間では台風が近づいていることで話題になっているが、新学期が始まった学生達は近づいている文化祭に少しだけソワソワしている。

  さてもさても、俺はと言えば、奉仕部が終わった放課後、ある女に呼び出された。

 自転車を押して、正門まで行けばそこに居たのは由比ヶ浜結衣である。

 

「待たせたか?」

「ううん、全然」

 

 手をヒラヒラと小さく降ってにへらと笑う彼女に対してやや目線を外しながら俺は話をするように促す。

 

「なにか要件があるんだろう?凡そ察してはいるが……時間も時間だ、歩きながら話そう」

「そだね。いこっか」

 

 由比ヶ浜の歩くペースに合わせて自転車を押す。しかし由比ヶ浜とこうして二人きりで下校することになるとはな。中々どうして気まずい。何故かと言えば、俺は由比ヶ浜が苦手だ。より端的に言い表せば由比ヶ浜の笑顔が苦手だ。

 それは由比ヶ浜と比企谷の仲を取り持った今でもそうだ。肝試しの時は、肝試しに集中することで忘れられていたが、特に考えることがないとそれをいやでも認識してしまって彼女の顔が見れなくなる。

 俺はできる限り彼女の顔を直視しないようにしながら歩く。

 

「……それで、話なんだけどね」

「大体は察しているよ。比企谷と、雪ノ下だろう?」

 

 そう、夏休みが明け新学期となった我らが奉仕部を待ち受けていたのは比企谷と雪ノ下のちょっとした違和感だった。

 不和と言うには会話はするし、挨拶もする。別にコミュニケーション上特に問題はない。

 しかし、間違いなく何かある。薄くて見えないが壁、あるいは膜と言っていい。よく見なければ分からないそんな何かが二人の間にはあった。

 部員間での会話をする際に、肌で感じる違和感。それが何か明確に言葉にすることは出来ない。由比ヶ浜と比企谷のすれ違いの時のような明確なものではなくて、なんというか言いたいことがあるのに言えていない。そんなもどかしさが二人の間にはあった。

 いつもだったら二人の間にある何か、ここまでで積み重なった信頼と言ってもいいそれが、今はどこかに少し歪みが生じているような感覚だ。

 それがとにかく二人の会話で目につく。耳につく。

 絶妙に肌を撫でる違和感があるのだ。例を挙げると会話にキレがない。罵倒合戦になりうるところで会話が途切れる。それと単純に由比ヶ浜の振る話題に対する反応が悪い。

 そんなもんだから、俺としても居心地が悪かった。

 隣で歩く由比ヶ浜は少し視線を下にして、暗い表情をしていた。

 

「うん……やっぱりみのるんなら気づいてたよね」

「余程鈍くない限りは誰でも気づくと思うがな」

 

 とはいえ、奉仕部にいて彼らの様子を傍から見れるのは俺と由比ヶ浜だけである。由比ヶ浜は人をよく見ているし、俺に関しては言わずもがなだ。

 仮にそんな鈍いのがいるとしても、それこそ戸部ぐらいだろ。

 

「正直俺は、林間学校以降二人どころかお前たちとも顔を合わせちゃいないんだが……何か知っているか?」

「うーん……」

 

 由比ヶ浜は考え込むようにして、頭をひねるっているのか物理的に頭が斜めるがふと思いついたようにハッと、顔あげる。

 

「あ……でも……」

 

 しかしすぐに口を噤んだ。

 

「どうした?何か言いづらい事だったか」

「えっと…………うーん」

 

 由比ヶ浜はしばらく逡巡する。どうやら結構悩むことらしく、彼女は足を止めた。むむむ、と何やら可愛いらしい唸り声を上げていたが、ほうと息を着くと口を開いた。

 

「でも、多分みのるんももう他人事じゃないよね」

「なんのことだ」

「あたしとヒッキーのことなんだけどね───」

 

 由比ヶ浜が話してくれたのは、彼女と比企谷の仲が宜しくなくなった原因でもある、一年前の入学式の出来事だった。

 早朝、彼女が飼っている犬のサブレを散歩していたところ、不注意で彼女がリードを手放してしまいサブレが逃走。そのまま未だ赤信号になっているにもかかわらず横断歩道をサブレが渡ってしまい、あわや車に轢かれると言ったところで偶然通りかかった比企谷がサブレを庇ったらしい。

 変わりに比企谷が怪我をして、一、二ヶ月入院することになったそうな。

 なるほど、犬だの助けただの言っていたのはこれか。俺は三ヶ月前の不和の詳細をようやく知ることが出来たのである。とはいえ、これを今更知ってなんだという話ではあるが。

 由比ヶ浜曰く、俺ももう関係ない訳じゃないとのこと。確かに実際にその場にいたわけではないが、関係が全くないと言えばそうじゃないだろう。何せそれが発端の事に巻き込まれたわけだしな。

 しかし、別にそれを話すのは今じゃなくていい。それに雪ノ下だって────。

 いや……もしや、そうなのか?

 今は、話を聞いた方が良さそうだ。

 

「それで、俺にそれを話した理由があるのだろう?」

「うん。ヒッキーを轢いた車なんだけど」

 

 そして、由比ヶ浜は再び足を止めた。多分もうすぐバス停が近いからだろう。彼女はバスで登下校しているそうだから。

 

「あのさ……みのるん、林間学校の時さ。ゆきのんのお姉さんが乗ってた車覚えてる?」

「あん?ああ……あの」

「うん。あの、黒い……ベン、ベン……ベンチ?」

「は?……もしやベンツのことを言っているのか」

「そうそれ!ベンツ!」

 

 もしや黒くて高級な車は全部ベンツだと思っているのか?ハイヤーにもベンツはあるだろうが……。しかし俺も詳しい車種は知らんが、間違いなくベンツではない。ベンツの特徴的なレリーフが着いていなかったと記憶している。数十秒見ただけだから細部までは見ちゃいないが。

 ふんす!と得意げな顔をしている由比ヶ浜には申し訳ないが訂正はしておこう。

 幼い子供に間違いを訂正するように、あくまで優しい笑みを崩さずに俺はフッと笑いながら口を開く。

 

「由比ヶ浜。残念だが、あの車はベンツではないぞ」

「そうなの!?え、じゃあなに?」

「いや、知らーん。どうでもいいからさっさと続きを話せ」

「えっ?あっ、うんうん。そだね。それでね……」

 

 何を話していたのか忘れたようで、再び頭を悩ます彼女に呆れつつ俺はこれは長くなりそうだから、どこか座って会話出来る場所でもあればいいがと当たりを見回す。バス停で長話をするのは流石に迷惑だ。確かこの辺りには、ちょっとした公園があったような覚えもあるが。

 ああ、あった。

 

「由比ヶ浜」

「……え、あうん。どしたの?」

「どうせ長くなるんだろう?なら、近くに公園があるから、そこで話した方が良い」

「あー……そうだね、そうしよっか」

 

 というわけで、俺と由比ヶ浜は一度落ち着いた場所に行く為に、バス停から外れて、公園まで歩くこととなった。

 

 

 部活終わりに女と二人きりで公園に。文面だけ見ればロマンティックな逢い引きだが、相手が俺じゃそうはならない。

 辺りは暗く夜闇が街を包む。立ち並ぶ街頭と、頼りない月明かりだけが、ベンチで座る俺たちを照らしていた。

 

「それで?雪ノ下姉の車がなんだって?」

「うん。それなんだけどさ、多分。あの車ヒッキーを轢いた奴なんだよね」

「似てる車ぐらいあるだろう」

「聞いたんだ、陽乃さんから……」

 

 聞いた、とは何の事だろうか。流石にあなたを轢いたのは私です。とはならないだろう。

 というか陽乃さんは誰だ?名前的に雪ノ下の関係者だろうが、ふむ。

 

「あ、陽乃さんはゆきのんのお姉さんだよ」

「そうか。それで、その陽乃さんとやらがなんと?」

 

 そして由比ヶ浜はいくつか話してくれた。

 二人で花火大会に出かけたその日、俺としてはこちらの方が気になったのだが、詳しく話してはくれなかったので、割愛する。とにかく、二人で出掛けたその日、花火を見ようと場所を探していた時に雪ノ下姉と出会ったらしい。

 その後、花火を見終わった帰ることになった際に、駐車場まで着いて行った二人に車で送ろうかと彼女から提案されたそうだ。そしてなんでも比企谷が敏感にその雪ノ下家の車に反応していたらしい。由比ヶ浜もそれを不思議に思っていたら、雪ノ下陽乃が『そんなに見つめても傷なんて着いてないわよ』と発言したのだとか。それと『雪乃ちゃんから聞いていなかったの?』とも。

 つまり、雪ノ下家の車は比企谷を轢いた車で、それを雪ノ下は彼らに伝えていなかったということだそうだ。

 やはり、か。だからこその、あの時の雪ノ下の発言だったのだろう。正しく、雪ノ下は加害者側の人間であったと。となると、奴が比企谷にそのことを打ち明けなかったから話が拗れたのだろうか。いや、しかしそんなものを気にするほど比企谷はみみっちい男ではないと思うのだが、それ以外にも何かあるのだろうか。

 

「ふむ、話を聞いただけでは、不仲の原因はイマイチ分からんな」

「うん……だけどヒッキー、凄い難しい顔してたから何かあるのかなって」

「お前がそう思うなら事実そうなのだろうな……」

 

 少なからず恋する乙女というのは、恋する対象のことを見ているものだ。よく観察しているからこそその対象の長所短所が分かる。まあ恋は盲目と言うから目につかないことも多々あるのだろうが、由比ヶ浜に限っては、それは有り得ないだろう。

 となると比企谷と雪ノ下の不破の原因はそこにあるのは確かだが、それがわかった所で結局のところ本人たちが何を抱えているのかを話さなければ自体の解決にはならない。つまり、現状解決は無理だろう。

 

「まあ、それを知ったところで何も出来やしないがな」

「二人とも多分何も話してくれないもんね……」

「なんだ、分かってるのか。なら俺に話す理由もないような気もするが……どうせ、時間が解決するだろうよ」

「あはは……まあそうなんだけどさ。さっきも言ったけど、みのるんももう他人事じゃないと思ったから」

 

 そうやって、少し恥ずかしそうに人差し指で頬をかいて、笑う由比ヶ浜。

 他人事じゃない、か。

 そう言われるのは悪い気分じゃない。少なくとも奉仕部の一員として認めてもらっている証拠だろう。だが、今の俺にとってはそんなものは必要ない。

 いずれなくなる縁だ。なら最初からない方がいい。

 

「……なんにせよ、俺に出来そうなことはないな。話は以上か?それなら……ああ、そうだな。時間も時間だ、家まで送っていくか?」

「いやいや、みのるん自転車だし流石にいいよ、あたしはバスだし。とにかくっ!あたしも気にしておくからさ、みのるんも二人のことよろしくね」

「善処しよう。夜道には気をつけろよ」

 

 ばいばいと、手を振って去っていく由比ヶ浜を見届けて俺も公園の外に自転車を出す。最近の公園は自転車が入らないように、入口に柵が設けられていることが多いがここの公園にはそれがなく、簡単に自転車を中に入れることが出来る。恐らく小さい公園だからだろう。

 自転車の上に跨って、ペダルを踏み込む。そうすれば自転車はそのタイヤを回して走り始めた。

 

「……やはり違うんだな」

 

 そう呟いた声は、夜の闇へと消えていく。

 君だったら、きっと俺には告げずに一人で悩んだのだろう。そして勝手に解決する。

 だから俺は君に憧れたのだ。高嶺の花だと思って手を伸ばした。本来なら伸ばした手は届きそうで、一生届かない。高嶺の花なんて、所詮はそんなものだ。

 しかし俺が手を伸ばしたのは太陽だった。なぜだか手を伸ばしたらすぐ触れられる距離にあって。だけれども、太陽に手を伸ばし、その手を掴んだら焼かれるのは当然のことだ。それでも元より既に目も心も焼かれていたのだから、いっその事手などくれてやると思ったのだ。

 だと言うのに、背中に火傷跡だけ残して、君はいなくなってしまった。

 それがたまらなく寂しくて、悲しくて。

 だから、由比ヶ浜の笑顔に君が重なった。

 だけどそこには君はいないらしい。それが分かったのだから、大丈夫だ。明日からは由比ヶ浜の笑顔も見れる。

 再びペダルを踏み込んで自転車を漕ぐ。夜の街を風が吹き抜ける。空に星はなく、照らす光は街灯と窓から漏れる家の灯りのみ。

 そんな住宅街を自転車で走る。

 早いとこ家に帰って、飯を食って風呂に入ってさっさと寝よう。今日も疲れたし、何より眠い。

 本当は眠りたくはない。君の夢を見るから。だが、それでも眠らないといけないのが人間という生き物だ。

 

「ままならないなぁ」

 

 また、ペダルを強く踏み込んだ。

 

 

 数日後、二年E組にて。

 教卓の前に立つ俺の手には先端が赤く塗られたくじが握られていた。唖然とした表情のまま黒板へと目を移せば。そこには、『二年E組 文化祭実行委員 田島実』とチョークで書かれた白い文字で、デカデカと表記されていた。

 

「これからよろしくお願いします。田島くん」

 

 隣では、眠たそうな目をして眼鏡をかけたおさげの名前すら知らん女が俺にそう告げる。

 俺はそれに、気のない返事を返せば、盛大にため息をついた。

 自分の運のなさを呪いながら。

 




というわけで文化祭実行委員になった田島くんです
次回は文化祭実行委員編


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二十六話 祭りの前の喧騒

 文化祭実行委員が決まった日の放課後。

 こうなってしまったのだから仕方がないが、俺という人間はほとほと運が悪いのだと思った。

 自分のクラスを出て、黒髪のおさげで丸眼鏡で、何故か常に眠たげな目をした女。名を松山千佳子とか言うクラスメイトと、俺は共に廊下を歩いていた。目指すは委員会のミーティングが行われる会議室だ。

 別々で向かえばいいとは思うのだが、松山は俺に一緒に行くべきだと提案してきた。理由は『田島くんとは喋ったことがないので、これからの事を考えると多少は仲良くなりましょう』だとか。一理あるので俺も異論なしと、その提案に乗ることにしたからだ。

 なので、こうして共に向かっているのだが、話すことがない。ものすごく気まずい。何せ俺は基本的にクラスメイトと話すことはほぼない。話かけられたら返答はするが、会話なんてのはその必要最低限のもので、基本的には喋らない。休み時間も眠くて机に突っ伏していることの方が多い。

 いわゆる二人組を組まされるタイプの授業は、余り物の奴と組めるくらいにはクラスでも除け者扱いはされていない。しかし、浮いていると言われるとそうだと答えざるを得ない程度には、俺はクラスで孤立していた。

 ということもあって、俺はこの松山のことも知らない。基本的にクラスメイトの顔なんざ覚えていない俺は、そもそも松山がクラスメイトであることすら知らなかった。名前すら知らなかったからな、顔も存在も知っているわけがない。そも興味がないのだから当然だろう。

 覚える気もなければ、意識する気もない。そんな人間が人の名前と顔を一致させることが出来るか?否である。

 その旨を伝えたら、松山は何故かすこぶるショックを受けた顔をした。それからというもの、松山は妙に俺との距離感が近かった。

 それもあり、未だに距離感が掴めずひたすらに気まずかった。

 とはいえ俺から声をかけることもないので、ひたすらに無言で廊下を歩く。ちなみに松山は俺と付かず離れずと言った距離感である。

 会議室までの道のりはそこまで遠くなく、同じように会議室に向かうのであろうガヤガヤと騒ぐ生徒達の喧騒をバックに歩けば、数分もしない内に会議室に着いた。

 

「田島くん。着きましたよ、席はどこに座りましょうか」

「……席まで一緒なのか」

「勿論。仲良くなる為ですから」

「そうかい……まあ、どこでもいい。好きに選んでくれ」

「なら、後ろの方にしましょう」

 

 そう言って、俺は松山と一緒にコの字型に並べられた席の、コの字の上の横棒と縦棒がクロスする辺りに座った。

 ホワイトボードの前にはまた一列に長机が二つほど並べられているが、アソコは委員長やら先生やらが座る席だろう。

 松山と隣り合わせて座り、一息つけば、彼女がこちらへと顔を向ける。

 

「田島くんは、こうしたイベント事で実行委員になった経験はありますか?」

「中学生の時にならな。体育祭実行委員だった」

「へぇ、意外」

「別に……ただの、気の迷いだよ」

「そうですか」

 

 俺は吐き捨てるようにそう言って頬杖を着く。

 体育祭実行委員として、委員長となった彼女の指揮の元、一色と共に働くのはそれなりに楽しかった。しかし、あれも今となってはどうでも良い事だ。どうせ……いずれ忘れなければならないのだから。

 

「……?どうかしましたか?」

「あん?別にどうもしてないが」

「……そうですか」

 

 未だ納得してないと言わんばかりに、無表情ながらも眉根を寄せて怪訝な顔をしている松山を無視し、思い出した過去に蓋をして、それらを忘れるためにふぅと息を吐いたあと当たりを見回した。

 会議室の生徒たちは開始時間よりも早いからか、未だチラホラといるだけで、空席も多くあるようで、開始時間が近づけば自然と埋まってくるだろう。学生は大体十分前行動が基本だが、それを律儀に守るほど彼等は真面目ではないのである。ちなみに今は二十分前くらい。少々早く来てしまった感があった。

 特にやることもなく、チラホラと増えてくる生徒を眺めていると入口から見知った顔が一つ。どんよりとした陰気臭い顔、腐った目、斜に構えたような猫背。そう、奉仕部の悩みの種その一、比企谷八幡である。

 彼は座る席がないか当たりを見回した後、俺と目が合って少し固まった。そんな彼に、俺は空いている隣の席をニヤニヤしながらトントンと叩けば、渋々といった様子で隣に座りに来る。

 

「……まさかお前が実行委員とはな、比企谷。些か驚いたぞ」

「こっちの台詞だわ。なんでまたお前が」

「俺はくじ引きでな。ハズレを引いた」

「そりゃ運がなかったな。ちなみに俺は寝てたら平塚先生に勝手に決められてた」

「お前のは自業自得だな」

「うるせぇ」

 

 苦々しい顔をする比企谷をカラカラと笑っていると、松山が驚いた顔でこちらを見ていた。

 

「なんだ、そんな目を丸くして」

「いえ……田島くんにも、お友達がいるのだなと」

「いや、別に───」

「友達じゃねーよ。ただの部員でしかない」

 

 食い気味に否定してくる比企谷に肩を竦めて、俺もそれに同意する。事実、俺たちは別に友達と言うほど仲が良くもない。あくまで部員以上でも以下でもないのだ。とはいえそこまで食い気味に否定されると少し思うところはあるが。

 そんな俺たちに松山は少し興味深そうに眠たげな目を更に細める。

 

「部活ですか……少し興味深いですね。あ、ちなみに私は松山千佳子です。どうぞお見知り置きを」

「あ、はい……比企谷はちまんでしゅ」

 

 何故か途端に緊張して自己紹介を噛む比企谷をクスクスと彼女は笑いながら言葉を続ける。

 

「それで、どんな部活に入っているのですか?」

「奉仕部という部活だ」

「……聞いたことありませんね」

「そりゃそうだろう」

 

 恥ずかしそうに目を腐らせていた比企谷に変わって彼女の質問に答えれば、一瞬考え込むように顎に手を当てたあと彼女は不思議そうに聞き返してきた。

 隣では比企谷が「やっぱ非公式の部活なんじゃねぇの」とつぶやく。実際そうだと思えるくらいには、この部活動は無名なのだ。だというのに依頼が時折やってくるのだから不思議な話だ。平塚先生の人脈恐るべしというべきか、思春期学生達の悩みの多さこそ恐るべしというべきか。

 隣の比企谷が、こちらへ体を寄せてボソボソと喋りかけてくる。

 

「……つーか、このちっさい女誰だよ」

「……クラスメイトだ」

「……随分と親しげですねぇ。田島くん?なに、彼女?」

「……黙れ、違う。離れろ。色々とあるんだよ」

「へいへい、そーですか」

 

 ちっさい女とは松山のことである。俺は彼女の名誉のために敢えて言及しなかったが、彼女は身長がかなり小さい。140以上で150は間違いなくないだろうといった背丈で、見た目はどう見ても高校生というよりかは、中学生、あるいはもっと下と言った様な容姿をしていた。比企谷がちっさいとわざわざ言っても問題ない程には個性として成り立っている見た目なのだ。

 そんな低身長な松山を見て、面倒くさそうにしながら体を離す。

 ボソボソと喋る俺たちを見て、除け者にされたからかなんなのか、少し不満そうな顔をしたあと、彼女は口を開いた。

 

「……ちなみに、他の部員はいらっしゃるので?」

「ん?ああ……」

 

 とりあえず部長の名前でも出しておくかと、雪ノ下の名前を口にしようとしたタイミングで、それまでの騒々しさが一転。シーンと水を打ったような静寂が会議室を支配する。

 何事かと思って皆の視線を辿れば、その先にいたのは奉仕部の悩みの種その二、雪ノ下雪乃であった。

 俺は雪ノ下を見た後、松山の方を見る。

 

「アレだ」

「……不思議な人脈をお持ちですね」

 

 松山は何に呆気に取られていたのか、しばらく呆けていたが俺が声をかけると、ハッとした表情の後不思議そうに呟いた。

 俺とてこうして、雪ノ下雪乃に対する生徒達の反応を見る確かに妙な縁だと思う。これも全ては平塚先生が原因なのだから当然ではあるが。

 しかし、それにしても相変わらず注目を浴びる女だ。

 普段奉仕部で見ている姿を知っている身からすれば、世間の評価の方が不思議に思える。それはクールで氷のような冷たい完璧女あるいは慈愛に満ちたマザーテレサの生まれ変わり。しかしその実はちょっとした事でメンタルが弱る、性悪で毒舌で人との距離感が分からない思っているよりも普通の女。その実態を知っていると、世間の印象なんざ当てにならないと笑い飛ばしたくなる。

 

「そうか?アレで意外と普通の女だぞ。その本性は性悪の毒舌女だ。別に知り合いだとしても、そこまで不思議じゃないさ」

「そうなのですか?……噂とはやはり当てにならないものですね」

「全くその通りだ」

 

 二人でケラケラと笑いあっていると、いつの間にか席に着いた雪ノ下と目が合った。絶対零度の視線が飛んできたが……なんだ話でも聞かれていたのか?しかしそんな話が聞けるような距離でもないと思うが。もし聞こえたのだとしたらとんだ地獄耳だ。恐れ入る。

 そんなふうに雪ノ下から視線をずらせば、隣で比企谷がやけに深刻そうな顔をしてジっと雪ノ下の方を見ていた。

 

「どうしました比企谷くん。そんなに雪ノ下さんの方を見て」

「ん……いや」

 

 松山もそれに気づいたのか、彼に対し声を掛ける。比企谷はそんな声に、曖昧に返事をしたあと、口を開いた。

 

「確かにお前らの言う通り、他人の下す評価なんて当てにならないもんだと思ってな」

「そうですね。第一印象でその人のことを理解した気になっているのは愚か者のすることでしょう」

 

 松山の言葉に、比企谷はまた曖昧な返事をして、最後にボソッと『だよな』と何故か自嘲するような笑みを見せた。

 俺は何故だかそれが妙に気になりながらも、扉が開いてやってきた体育教師の厚木と、何故かいる平塚先生へと気を取られて次第にその興味もなくなっていった。

 目が合うとウインクしてきたぞあの人。しかも様になっているし。

 呆れていると、その後に続いて入ってきたのは、肩までのミディアムヘアーを両側で結び、三つ編みにして下げ、前髪をヘアピンで止めたつるりと覗くおでこが特徴的な、ほんわかとした女子生徒だった。この女子生徒は見覚えがある。確か、名を城廻めぐり。この総武高等学校の生徒会長である三年生の女子生徒、のはずだ。

 そんな彼女の元に集まる形で、一部の生徒が前へとやってくる。そうして彼女から書類を受け取れば、各生徒へと配り始めた。時計を見れば、会議の開始時刻に時計の針が重なっていた。

 それぞれの生徒に資料が行き渡ったのを確認すれば、女子生徒は立ち上がった。

 

「それでは、文化祭実行委員を始めまーす!」

 

 そんな生徒会長の開始宣言共に号令がかかり、文化祭実行委員会が始まるのであった。

 

 

 委員会はつつがなく執り行われ、無事終了した。

 途中、雪ノ下が先生や生徒会長から委員長を期待されていたが、実際に雪ノ下が委員長になることはなく、最終的には相模南とかいう比企谷と同じクラスの女が委員長になることが決まった。

 それ以外も各々役職が決まって、俺と松山、そして比企谷までもが記録雑務へと送られたのである。俺と比企谷は言うまでもなくやる気がなく、楽な仕事をしたいからだったが、松山はというと俺がそちらに行くなら、という理由で記録雑務を希望していた。相変わらず訳の分からん女だ。

 さて、そんな時から1週間が経って、今は文化祭までおよそ一月といったところ。

 各クラスでは文化祭の準備の為居残り準備が解禁された。それは俺のクラスも変わりなく、何やら忙しなく内装などや飾り付けなどの準備、それ以外にも衣装の発注などをしている。

 我が2年E組はメイド喫茶をやるそうな。実に文化祭の学生らしい頭の悪いアイディアでよろしい。

 委員会の時間まではやることのない俺たちは、手持ち無沙汰というのもあって雑談していたが、そんな最中、衣装の発注を見てきた松山は隣で文化祭実行委員で良かったと安堵の息を吐いていた。

 

「私は見ての通り地味なので、惨めな思いをしなくて済みそうです」

「……」

 

 ホッと息を吐く彼女のことを眺める。別に顔立ちは悪くない。特徴的な丸眼鏡だっていいアクセントだ。それにその身長が、まぁなんというか。一部の人間に需要がありそうではある。見向きもされないなんてことは絶対になさそうだがな。

 しかし本人に言うのは、墓穴を掘る所の騒ぎではないのでやめておこう。

 

「……何か言いたげなお顔をしていますね。別に言っても構いませんが?怒りませんし」

「やめておこう。それよりも、俺は少し部活に顔を出してきたいのだが……構わないか?」

「ええ、どうぞ。私は少しお手伝いすることがあるそうなので。委員会には遅れないように」

「分かっている」

 

 手をヒラヒラと振ってくる松山に手を軽く挙げることで返答し、俺は教室を出た。

 廊下に出てそのまま部室へと向かおうとすると後ろから声がかかる。

 

「あ、みのるん」

 

 振り返ればそこに居たのは横に並ぶ由比ヶ浜と比企谷。そういえば、コイツらは隣のクラスのF組だったな。普段はこちらのクラスのHRが爆速で終わることもあり、放課後になってもかち合うことが少なかったので忘れていた。

 

「おう。お前たちも部室に向かう途中か?」

「うん」

「そうか。奇遇だな」

「じゃあ一緒に行こっ。ヒッキーも良いよね?」

「別にいいぞ」

 

 由比ヶ浜の言葉に比企谷は頷く。特段断る理由もないので、俺も二人と一緒に部室に向かうことにした。

 二人のように横並びになる訳ではなく、比企谷の左ななめの少し後ろに着く形になる。由比ヶ浜のように並ぶのは、些か気が引けたから。

 本館や新館は、文化祭の準備期間ということもあって賑やかだ。出し物をする部活、あるいは有志たちが各々の出し物のために練習をしている。

 かき鳴らされるギターの音。どこからか聞こえる弦楽器の音色。あるいは高らかに歌い上げる知らん奴の声。

 文化祭準備期間特有のこれを一年生の頃の俺には馴染みがなかったので些か鬱陶しかったが、一回経験してしまえば耐性が着くもので、意外と気にならなかった。

 そんな本館や新館を抜ければ、ひっそりとした静寂に包まれた特別棟へと繋がる廊下が伸びていた。特別棟は基本的に文化祭で出し物をしない部活動の部室しかないようで、先程の喧騒とは一転して静かなものだった。

 特別棟は日陰になることが多い故に、自分たち以外いないのではないか、そんな錯覚を覚えてしまう。

 まあ勿論そんなことはないのだが。

 少しだけ光が漏れ出る締まりきってない部室の扉に比企谷が手をかければ、からりと乾いた音を立てて部室の扉が開かれるのであった。

 




『田島実』
【誕生日】
三月十二日
【特技】
特になし
【趣味】
コーヒーを飲むこと
【休日の過ごし方】
コーヒーを飲む。喫茶店巡り。
───────────────
松山さんは完全オリキャラになります。
今後も話の展開上オリキャラが当然のように出てくることがありますので、あしからず。
次回 アイツが登場


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二十七話 知ったことではない

「やっはろー」

 

 由比ヶ浜の挨拶に雪ノ下はゆっくりと顔上げたあと、眩しそうに目を細めながら、少し躊躇いがちに口を開く。

 

「……こんにちは」

「こんにちは」

「おう」

 

 いつものように挨拶をして、定例の位置に座った。

 俺はカバンを置いた後、ポッドで湯でも沸かそうかと思ったが、後に委員会があると気づいて、片付けも面倒だからと素直に席に着いた。

 

「お前も文実なんだな」

 

 比企谷がそう雪ノ下に言う。確かに改めて考えると些か意外ではあった。雪ノ下はあまり積極的に前に出るような女とは思えなかったが。あるいは俺たちのようにたまたま、それともクラスで他者推薦されたとかも有り得そうだが、雪ノ下の部活動以外での普段を知らないのだから、推量するのはやめておこう。

 比企谷の言葉に、由比ヶ浜はキョトンとた顔をした。どうやら比企谷から聞いていなかったらしい。

 

「え?そうなの?」

「ええ……」

 

 雪ノ下は持っていた文庫本から目を逸らさない。

 

「へぇ、意外だね」

「確かにこういうのをやるようなイメージはないな。雪ノ下、お前自身が立候補したのか?」

「ええ」

「なんだ、そんなにやりたかったのか?」

「……かもしれないわね」

 

 雪ノ下は俺の問いに、視線をこちらへ向けたかと思えば直ぐに文庫本へと戻し、その意図をはぐらかすような曖昧な答え方をした。

 

「……私としては、あなたたちが実行委員にいた方が意外だったけれど」

「あーだよねー。……たち?え?みのるんもなの?」

「うん?なんだ、知らなかったのか」

「知らなかったんだけど!?あたしだけ仲間外れってこと!?あたしも立候補すればよかった……」

 

 由比ヶ浜があからさまに私ショックですと全身で表現しながら落ち込んだのを見て、俺の名誉の為にも訂正をしておく。いやどうにも俺はこの前の一件から、由比ヶ浜に事実を勘違いさせたままなのが嫌なようだ。面倒くさくなると確信したからかもしれない。

 

「別に示し合わせた訳じゃないぞ。俺はたまたまだ、たまたま。くじで当たりを引いてな。もれなく比企谷が着いてきた」

「別にお前に着いて行ったわけじゃねーよ……。俺は半ば強制なんだぞ……まぁあのミュージカルに出るくらいならあっちで雑用やってた方がマシだから、結果オーライだけどな」

 

 ミュージカルとはなんぞや。後で由比ヶ浜に話でも聞くとするか。

 

「あなたらしい理由ね」

「お前はらしくないけどな」

 

 随分と棘のある言葉だった。

 奉仕部の雰囲気が少しだけ険悪なものになっているのは、とかく比企谷のこうした態度のせいだった。そして普段であれば何かしら反論するであろう雪ノ下が、比企谷の言葉に何も反応せずに文庫本から視線を動かすことがない。らしくない。全くもってらしくない。こんな言葉を使うほど俺は二人を全て理解しているわけではないが、それでも、らしくないと思ってしまう。

 俺は小さく嘆息して、チラリと時計に目を向ける。時計の針は淡々と時を進めていて、委員会までの時間はまだ先だ。ならば、このまま沈黙していたところで何か変わるわけでもない。とりあえず話を変えるとしよう。

 

「それで、少し聞きたいのだが。部活動はこれからどうする?この中で三人も委員なんだろう?活動に参加するのは少々難しいと思うが」

「あー……ていうかあたしも多分、これからクラスの手伝いとかで忙しくなりそうなんだよね……」

「ああ、俺も文実で参加は難しいな」

 

 雪ノ下は目を閉じて何かを考え込むと、初めてしっかりとこちらに顔を向けた。

 

「……なら、とりあえず文化祭が終わるまでは部活は中止しようと思うの」

「そうか……了解だ。平塚先生には俺の方から伝えておこう」

「お願いするわ」

 

 雪ノ下の言葉に俺たちは頷く。片方にかかりきりで片方がおざなりになるのも良くないだろう。ならば雪ノ下の判断は妥当というものだ。

 

「なら、今日はこれで終わりか」

 

 比企谷は文庫本を机に置いて、椅子から立ち上がった。俺もそれを見て、カバンを手に持つ。

 コンコン、部室の戸がノックされる。戸の向こうからは数人の女の実にかしましそうな声が聞こえた。

 

「どうぞ」

 

 

 雪ノ下がいつものように入室を促す。部室の戸が開かれた。

 

「失礼しまーす」

 

 入ってきたのは見知らぬ女子生徒だった。いや、一人だけなら見覚えがある。確か、実行委員長に立候補した女ではなかったか。名前は、相模南だったはずだ。

 彼女の後ろにはまだ二人ほど女がいて、彼女たちも相模と同様に軽薄そうな笑みを湛えていた。

 これまた、この場には似つかわしくない女たちだ。葉山のグループとは違ったタイプの、比企谷風に言えばリア充といったやつだ。しかしまぁ、どうにもその薄っぺらい笑みのせいで本当にリアルが充実しているのかどうかは疑いたくなるが。

 

「って、雪ノ下さんと結衣ちゃんじゃん」

「さがみん?どしたの?」

 

 由比ヶ浜が不思議そうに彼女へと問いかけるが、相模はそれに答えることなく部室を見渡した。

 

「へぇ〜、奉仕部って雪ノ下さんたちの部活なんだぁ」

 

 気持ちの悪い視線だ。値踏みをするような、明らかに人を見下したその視線。それは由比ヶ浜と比企谷の方に向いていて。

 

「……何か、用件でも?」

 

 自分でも驚くくらいに低い声が出た。

 

「っ……。その、ごめん、なさい。相談事があって、来たんですけど……」

 

 相模はかなりたじろいだあと、先程の見下すような視線を霧散させ、少し緊張したような佇まいで胸の前に手をやった。

 

「相談事?依頼ということか……」

 

 俺はそう言って雪ノ下へ目配せをする。今日はもう部活動は終わりだという話だったが。それを理解したのか雪ノ下は顎に手をやって少し悩むそぶりを見せる。

 

「……それでどんな相談事なのかしら」

 

 しかし相模の話を聞くことを選択したようで、彼女たちへ続きを話すように促した。

 

「うち、実行委員長をやることになったけどさ─────」

 

 

 相模の話はこうだ。

 実行委員長をやることになったが、自信が無いから助けて欲しい。それにみんなに迷惑かけるのも嫌だし、何よりクラス一員としてそちらの方も協力したい。

 しかしそれを両立してやるのが不安だから手伝って欲しいという旨の内容だった。

 巫山戯た話だ。そもそもこの女は自身のステップアップ、もとい自身を変えるためのスキルアップの為に立候補しているのだ。だというのに、いざ立候補して実際になってみたら不安になってしまってだからその手伝いをして欲しい。

 要するにこれを受けたら俺たちはコイツが覚悟もなくやった事の尻拭い、ケツ持ちをしなければならない。

 奉仕部の理念としても、個人的な感想としても、やるべきではない依頼だ。

 そもそも奉仕部の仕事と文実の仕事を両立するのが面倒くさい。他の面子の負担にもなる。

 さっさと断って追い出してしまうのが、最適解だろう。

 

「悪いが、俺達もそんな───」

 

 そうやって断ろうとした時だった。今まで黙していた彼女が俺の言葉を遮るように口を開いた。

 

「田島くん待って。相模さん……話を要約すると、あなたの補佐をすればいいということになるのかしら」

「うん、そうそう」

 

 まぁ言葉を遮られる形にはなったが、どうせ俺が言っても雪ノ下が言っても結果は変わらない。同じように断るわけなのだから良いだろう。故にあとは雪ノ下に任せてその先を言うのをやめる。

 大いに期待に満ち満ちた顔をしている相模には悪いがな。雪ノ下の表情もこうして冷めきっている訳だし───。

 

「そう……。なら、構わないわ。私自身、実行委員なわけだし、その範囲から外れない程度には手伝える」

 

 俺は思わず雪ノ下の方へと振り返る。

 本気で受ける気なのか?そんな気持ちを言外に込めて、雪ノ下を見るが彼女は意に介さず、ただ雪ノ下の言葉にはしゃぐ相模達の方を見ていた。

 

「じゃ、よろしくねー」

 

 相模は軽いノリで、取り巻きの女たちと部室から出ていった。

 部室の雰囲気は、また重苦しいものへと戻った。それは由比ヶ浜から発せられているものもあるのかもしれない。

 彼女からは怒りと、困惑が見て取れる。そんな由比ヶ浜はなにか決心したような顔をして雪ノ下の前へと立った。

 

「……部活、中止するんじゃなかったの?」

 

 その声色はいつものような暖かみはない。そのことに気づいた雪ノ下は肩を震わせる。一瞬だけ顔を上げて由比ヶ浜を見ようとしたが、その目は直ぐに逸らされた。まるで親に怒られた子供がバツが悪くてその目を見れないような、そんな反応だった。

 

「……私個人でやることだから。あなたたちが気にすることでは無いでしょう」

「でも、いつもなら─」

「いつも通りよ」

 

 どの口が言うのか。

 

「個人でやる?雪ノ下、お前がか?」

「……文句でもあるのかしら」

「ああ、あるとも。大いにあるとも。お前、偉そうに俺たちに語っていた奉仕部の理念を忘れたのか?自立を促すだったか、これからやるお前の行動がそれに沿ったものなのだと?」

 

 雪ノ下は俺の言葉に声を詰まらせる。何かを言おうとして、その口を開くがやがて閉口した。

 しばらくの沈黙、その後雪ノ下は絞り出すように声を出した。

 

「……言ったでしょう。あなた達は気にすることではないと。個人で請負うのだから、勝負のことも関係ないわ。あなたは……監督役として、この依頼のことを気にする必要もないから。だから……」

 

 言うだけ言って、彼女は目を逸らした。俺からの返答は要らないということだ。

 

「ああ、そうかい。分かったよ。なら、勝手にやるがいいさ」

 

 胸をかき乱すような苛立ちを隠すことなく言葉に乗せて、俺は席を立った。

 

「み、みのるん」

 

 由比ヶ浜が心配するような声で俺の背中に声をかける。俺は振り返らずに、その声に返した。

 

「悪いな。やはり俺では無理そうだ。あの件は、そこで間抜け面を晒している男にでも頼んでくれ」

 

 まぁ、ソイツがそもそもの原因なのだろうが。知ったことではない。何より、俺が介入する理由は彼女によって潰されたのだから。本当に、知ったことではない。好きにやってくれ。

 部室の戸をピシャリと閉める。

 廊下を歩いて、鬱陶しい日差しを避けるように日陰の部分を歩きながら、盛大にため息をついた。

 この気持ちの悪い苛立ちはなんだ。これは失望か?それとも期待外れだったということで呆れているのか?怒りなのか?

 全くもってなんなのか分からない。検討もつかない。しかしとにかくイライラする。

 意識していない舌打ちが漏れた。

 一旦落ち着いた方がいい。

 そう思って廊下の角を曲がろうとしたところで、あわや人とぶつかりそうになった。

 

「わっ」

「とっ」

 

 ぶつかりそうになった人物を見れば、酷く驚いた顔をしていた松山だった。

 

「松山?」

「おや、田島くん。もう───何かイライラしてますか?」

「あ?……まあしているが、お前は気にしなくていい。それより随分と早いな、委員会までは時間があるだろう?」

 

 四時から開始とされている委員会まではまだ数十分の時間がある。なにか手伝うことがあるならば、もう少しギリギリまでやっていても問題はないはずだ。

 そんな俺の問いに、松山はふむと息を吐き、メガネをクイッと上げて自身のお下げを弄りながら口を開いた。

 

「ああいえ、少し早く終わったので。噂の奉仕部とやらを見てみようかと思ったのですが……何やら間が悪そうですね」

「暫くは奉仕部の活動はないからな。運がなかったな」

「残念です」

 

 そういう彼女は残念に思っているのかどうなのか、分からないいつも通りの眠たげな顔をしている。

 

「まあ、部活がないなら、さっさと委員会に向かいましょうか。もしかしたらお仕事がもうあるかもしれませんから」

「……そうだな」

 

 彼女の提案に俺は小さく顎を引いて、先に歩き出した松山の後へと続く。

 奉仕部の依頼は雪ノ下が勝手にやるのだから気にする必要はないだろう。何かあったとしても由比ヶ浜が何とかするはずだ。だから、気にすることなど何一つとして存在しないのだ。

 元より俺があの部活にいるのは、ただ平塚先生との貸し借りがあるから、その一点のみなのだ。これで部活が瓦解することになったとしても、俺にはどうでも良い話だ。その、はずなのだ。

 俺はちらりと、後ろを振り返る。まだ日は落ちてなく、外は明るく窓からは眩い日差しが差し込む。だというのに、奥へと伸びる廊下の向こうはやけに暗く見えた。

 それから、雪ノ下雪乃が実行委員会副委員長に就任するということが伝えられたのは、相模が奉仕部にやってきてから数日経った後だった。



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二十八話 見えるモノ、見て見ぬふりをする者

 雪ノ下が副委員長に就任したと相模から発表された。文実の反応としては概ね好評だった。元々、彼女の姉が前の文化祭で委員長として歴史的な文化祭をやったそうだ。故に、彼女の妹である雪ノ下も大いに期待されていたのだ。その時は委員長になることはにべもなく断っていたが。

 しかしそんな中、彼女が副委員長として就任するとなったので殆どの人間は諸手を挙げて歓迎した。多分、歓迎してないのは俺くらいのものだろう。比企谷がどう思っているのかは知らないが。

 

「それでは、定例ミーティングを開始します」

 

 相模の号令で定例ミーティングが始まった。まず定例ミーティングの最初は各部署の報告から始まる。だが、雪ノ下が舵を取りはじめたことによって、これも彼女の手腕が存分に発揮される場となった、

 以前までは報告に対し、相模が当たり障りのないコメントを行って次々に報告するだけの場だったのだ。

 だが今はそうではない。報告から問題点を浮き彫りにし、その進捗の具合を指摘、あるいは現状での必要な事柄を伝え、次に繋がる指示を出す。

 それは正しく剛腕を振るうと言わんばかりの才覚を発揮する雪ノ下に対し、皆口々に雪ノ下を賞賛した。

 それはもちろん隣にいる松山も同様である。

 

「噂以上の才女っぷり。凄いお人ですね」

「……そうだな」

「……?何か拗ねていますか?」

「拗ねてなんかいない」

 

 そんな光景を俺は頬杖を着いて眺めているだけだ。記録雑務のリーダーは名前も知らない三年生であり、報告の義務があるのは彼である。俺ではない。

 特に何もないと報告した三年生を、変わらず臆せず申し付ける雪ノ下に対し、皆が気圧されるのを俺は変わらず眺めていた。

 

「いやぁ……雪ノ下さん凄いね。さすがははるさんの妹だ」

「いえ……そんなことは」

 

 生徒会長が雪ノ下を賞賛し、雪ノ下はその言葉に恐縮する。

 しかしそれは雪ノ下本人への賞賛になってなどいないだろう。そのかつて何かを成し遂げた人間の関係者であるというものの見方は、その人間への賞賛にはなり得ないのだ。

 

 『彼女の息子ならば、この程度のことは出来るに違いない!』『さすがは彼の息子だ。優秀だな』『かれらの息子なのに、この程度のことも出来ないのか』

 

 ならば雪ノ下がこの選択を取ったのは、姉へのコンプレックスからだろうか。ああ確かにそういえば、彼女が初めて委員会に顔出した時、雪ノ下陽乃の妹として大層期待されていたはずだ。その時は突っぱねていたが、もしかしたらアレが火付けになったのかもしれない。あるいは、実行委員になった時から。

 そこまで考えて、俺は思考を止めた。やめだやめ。どうせ俺は関係ないのだ。考えるだけ時間の無駄というやつだろう。

 俺は相模の終了の号令が聞こえたに気づいて、頬杖を着くのをやめた。視線の先では、相模達取り巻き含む三人が何処か肩身が狭そうにいそいそと会議室から出ていくのが見えた。

 溜め息が漏れる。

 

「田島くんやっぱり何か拗ねていませんか」

「……黙れ。しつこいぞ」

 

 こちらを変わらず眠たげな目でじっと見つめる松山のことを鬱陶しく思いつつ、俺も会議室を後にした。

 

 

 そんなミーティングの翌日。

 放課後になった2-Eは変わらず文化祭準備に勤しんでいた。何を作るかのメニュー決め、衣装の採寸合わせなどを行っている。

 詳しくは聞いていないがよくあるメイド服ではなく、大正浪漫風のメイド服で行くそうな。何故そういった路線になったかは、これまた詳しくは知らないが松山曰く立案者がハマっているそうだ。何にハマっているんのだろうか。

 予算的な問題は他を切詰めることでやっていくそうだが、何とかなるのだろうか。その辺は立案者たちの方で上手くやって欲しいものだ。

 なんて思いながら、しかしやることもないので教室の隅でボケーッと作業の様子を眺めながら缶コーヒーを飲んでいると、松山が何やら焦った様子でやってくる。

 

「田島くん助けて下さい」

「は?突然なんだ一体」

 

 そのまま俺の後ろに隠れる松山。

 その光景に着いていけずに、若干フリーズしていると両手をワキワキとさせながらクラスメイトの女子……名前は知らん。いや、確か佐藤とかだったような気がする。

 佐藤は最初は目を怪しく光らせながら、両手をしきりに動かしさながら変質者の如き様子でこちらへとにじりよってきていたが、松山が隠れた相手が俺だと気づくとビクッとしてその佇まいが変わる。

 

「ぐへへ……って、田島くんっ……!?」

「なんだ、一体何をやっている?」

「いやぁ〜……その、あはは……」

 

 佐藤は途端目を逸らし、冷や汗をかいた。

 何だこの反応は。

 

「そりゃあ田島くん。そんな無愛想なお顔でジーッと見られたら誰だって怖いですよ」

「ああ……なるほど」

 

 俺はお世辞にも人相は良いとは言えない。それでも比企谷よりはマシだと思っているが。そりゃあそんな男が傍から見たら不機嫌そうな顔で見つめてくるのだから、こういう反応になっても仕方がないか。

 とはいえどうしようもないのだがな。とりあえず話を松山に聞こう。

 

「そもそも何故に松山は俺の後ろに隠れるんだ」

「見てくださいあの獣のような目を。まるで私を食い物でもしてやろうかと画策している目です。捕食者の目つきに他なりません。私は食べられる運命にあるのですよ。ああ、可哀想な私」

 

 松山は、よよよ……と手を口元に隠すように持ってきて、その丸眼鏡を光らせながら、堂々と嘘泣きをする。

 

「いやいやいや、違うからね!?松ちゃんもメイド服を着てもらおうというね……!」

「嫌です。お断りします」

「そこをなんとか!」

 

 俺を挟んで繰り広げられる謎の攻防戦。はっきりいって迷惑だからやめて欲しい。

 

「別に良いじゃないか。着れば」

「スカートの丈が短いので嫌です」

「……そうかい」

 

 いや別に着ようが着まいが、俺としては糞ほどどうでも良い。だが、とにかく俺を挟んでやるのをやめて欲しい。松山をどかそうにも完全に手が届かない位置にいるのと、缶コーヒーが零れる可能性があるので出来なかった。

 いい加減嫌気が差して文句の一つでも言ってやろうかと思っていたら、突然佐藤が笑いだした。

 

「ふーん……。つまりスカートの丈が長ければ良いんだね?」

「え、いや別にそういう訳では───」

「もちろん用意していますとも!カモンっ!」

「ヒャッ……!?」

 

 佐藤が指をパチリと鳴らすと、突然俺の後ろから二人の女子生徒がニュっと現れた。

 それにはさすがの俺も松山も肩をビクッと揺らして驚いてしまった。いやお前たちどこにいたんだ。は?スタンバっていた?何時からだよ。

 俺はあくまで肩を揺らすだけだったが、松山はいつものような眠たげではなく少し涙目になっていて、可愛らしい悲鳴すらあげていた。

 そのまま、二人の女子生徒が松山の脇の下に腕を入れてそのままひょいとあげて見せた。松山がかなり小柄だから出来る芸当だろう。

 

「えっ、ちょっと、離してくださいっ」

 

 手足をばたつかせ、必死に抵抗するが抵抗虚しく松山はドナドナされていく。

 

「た、田島くんっ!」

 

 彼女は最後の希望と言いたげな顔で、俺の方へと振り返った。

 俺はその顔に、恐らく俺ができる最大の笑顔を浮かべながらサムズアップで返すことにした。

 希望は潰え、残るは絶望のみと言った様子で項垂れながら、更衣室の方へと連れていかれた。

 頑張れよ、松山。強く、生きるといい。

 松山の尊い犠牲に胸を打たれていると、松山と一緒に行ったと思われた佐藤が俺の方へと近づいてきた。

 

「あっ、そうそう。田島くんさ」

「どうした?」

「コーヒー淹れるのが趣味って松っちゃんから聞いたんだけど。それ本当?」

「ん、ああ。そうだな。それがどうかしたか?」

 

 おそらく以前、松山とした会話の際に、話題として出た趣味の話しを、彼女は他のクラスメイトにも話したのかもしれない。

 別に隠すようなことでもないので、俺は頷いてそれを肯定した。

 

「いやー、そっかそっか。頼みたいことがあるんだけど、今日はもう委員会の時間近いんでしょう?」

「一応、あと数十分はあるが」

「ふむふむ。まぁでも松ちゃん借りてるしなぁ……とりあえず詳しい話は明日するからさ、よろしくねー」

「は?おい待て佐藤」

 

 それまで笑顔だった佐藤の顔が一転、急にこちらをじっとりと見つめる視線へと変化する。そうして、ぽつりと一言。

 

「……いや、私加藤」

 

 それには思わず、加藤から視線を横に逸らした。

 さすがの俺も、一度真面目にクラスメイトの名前を覚えたほうがよいなと、本気で反省した。

 

 

「────良いですか田島くん人が助けを求めているのに無視するだけではなくあまつさえ親指を立ててあんなに良いお顔で見送るのはさすがの私としてもどうかと思います────」

 

 くどくどくど。

 文化祭準備をしていた俺たち、それは主に松山だが、しかし俺もクラスの面々の手伝いをしていた。主に提示された予算と必要な衣装や飾り付けなどを比較しての大体の見積もりや、あとは松山が来たメイド服の意見である。二つ目は俺である必要はない。

 

「───そもそも田島くんは見た目からして少し怖いのですからああいうところで人情がある人物であると周囲に分からせなければならないのにどうしてそう言った血も涙もない行為ができるのでしょうか見送られる私の気持ちを考えましたかとっても悲しかったのですよ───」

 

 くどくどくど。

 俺としては驚いたのは、クラスで思っていたよりも俺の存在が受け入れられていたということだ。

 

「───それに私の格好を見ていつものように死んだ目をしながら『いいんじゃないか』なんて心底どうでも良さそうに答えたのもむかっ腹がたちますあれどう考えても答えたセリフの後にどうでもがつきますよね────」

 

 暇だったから手伝いを申せば、すんなりとあれをやれ、だのこれをやれだの、扱き使われた。遠慮も配慮もあったものじゃない。ごくごく当たり前のように、クラスの一員として扱われていた。

 それに少しばかり困惑をしながら俺は───

 

「聞いているのですか、田島くん」

 

 そんなところで松山が俺の目の前で立ち止まり、頬を膨らませながら、眠たげな目をより細くさせ、かなり不機嫌な顔で睨むように見てくる。

 敢えて無視する為に俺は思考を巡らせてい訳だが、こうして前に立たれては無視することも難しい。

 

「聞いているわけがないだろう、アホめ。お前個人の愚痴なんざ死ぬほどどうでもいい」

「……お口が悪いですね。反省してないようで何よりですっ」

「待て、わかった。俺が悪かった。愚痴でも何でも聞いてやる」

 

 頭の上から何やら煙でも出てるのではないかとそう思ってしまうくらいにはお怒りな様子の松山。それに面倒くさいと思いつつ、こうなった以上はしばらくサンドバッグ状態で殴られているのが良いのだと知っている俺は再び口を閉じる。

 そんな感じで会議室までの廊下を歩いていると、何やら会議室の前が騒がしい。

 

「なんでしょうか……」

 

 それまでは俺に対する愚痴を変わらずマシンガンのように口にし続けていた松山だったが、さすがに気になったようでその喧騒に意識が向いていた。

 会議室の扉の前では人だかりが出来ており、皆が一様に中の様子を伺っている。さすがに最後列からだと中の様子は見えそうにない。身長が低い松山なら尚更のようで、しかし彼女は知り合いがいるのかその辺の女子生徒に話しかけていた。 

 

「すみません。これは一体どうしたのですか?」

「あ、松ちゃん」

 

 松ちゃんというのは松山の愛称だ。松山は見た目が小さく、かつあんな感じで敬語という特徴的な喋り方をするので、クラスではマスコット的な扱いをされて可愛がられているのを、俺は文実で一緒になってから初めて知った。

 見た目が良いというのは得だな、なんて思ったものだ。しかしどうもそれはクラスメイト以外でもそのようで、松山はその女子生徒と特に問題もなさそうに会話をしている。

 しばらく説明を聞いて納得したのか彼女はペコリと女子生徒に頭を下げた後こちらへとよってくる。

 

「それで、なんだって?」

「なんでも、雪ノ下さんのお姉さんが来ているそうです。しかし雪ノ下さんと少し険悪な雰囲気を出しているようで、皆さん入りずらくてあんな感じで遠巻きに見ているのだとか」

「納得だ」

 

 俺はもう慣れたものだが、雪ノ下が醸し出す氷のように凍てつくあの雰囲気は中々どうして近寄り難いものがある。姉を意識しているかもしれない今の雪ノ下ならば尚更だろう。近づいたらきっと凍りついてしまう。雪の女王のカイのように、心まで凍てついてしまうのはゴメンだ。

 俺にゲルダはいないのだから。

 

「どうしますか?会議室に入るだけなら難しくはなさそうですか」

「落ち着くまでは待っていよう。どうせ、仕事をする雰囲気でもないだろうからな」

「……そうですね」

 

 入った頃でロクでもない目に遭うのは目に見えている。今はここで様子でも見ているのが楽だ。

 そう思った俺たちは、人だかりから少し離れた場所て待っていた。

 しばらくすると相模実行委員長がいつもの取り巻きと共にバタバタと忙しなく会議室に入っていったのが見える。

 そろそろ人だかりも崩れるだろうと思い、俺と松山も視線だけ合わせて互いに頷き、相模達の少しあとに続いて会議室に入った。

 中に入ると案の定と言うべきか、険悪そうに眉を寄せ不機嫌そうな顔をしている雪ノ下。それに対し自然すぎて逆に不自然に見える微笑みを湛えた女。雪ノ下陽乃だ。

 入ってきた俺たちに一瞬視線が集まるが、一瞬目があった雪ノ下と知り合いである比企谷以外はやや頬を染めていた相模へと視線が戻る。

 比企谷と雪ノ下に鼻を鳴らした後、俺は相模と雪ノ下姉の方へと視線を移す。

 そちらでは、雪ノ下姉が相模へと有志団体として文化祭に出るための参加許可を貰おうとしていた。

 

「……いいですよ。有志団体足りないし、OGの方が出たりすれば、その、地域とのつながり?とかアピールできるし」

 

 雪ノ下が以前のミーティングで有志団体についてコメントする時に、言っていたことをそのまま理由として使いながら、相模がさも自身が考えたかのように告げる。

 

「きゃーありがとー」

 

 雪ノ下姉はわざとらしく喜びながら、相模南に抱きついた。

 その様子を眺めて、松山が小さな声で呟いた。

 

「もう少し遅れて入室するべきでしたか……」

「入ったものは仕方がない。さっさと席に着くぞ」

 

 チラホラと生徒たちがいい加減に痺れを切らして席に着いているのを見て、俺達も普段座っている席へと着席をする。

 向こうでは雪ノ下が何やら相模に詰め寄っていたが、相模に何か言われて言葉を詰まらせたのか顔を歪めていた。

 

「雪ノ下さん、お姉さんと何かあるのでしょうか」

「知らん」

 

 ザワつく喧騒を背後に俺はやるべき仕事をやり始める。記録雑務の仕事は多くない。基本的には文化祭当日の仕事が多いからだ。ただ、それでも雑務系の仕事が回ってくるので基本的には委員会中はそれをやるのが主な仕事だ。

 とはいえ、それも対して多くは無いし、自分がやるべきことを終えたら帰れるので、俺は黙々と仕事をやっていた。無駄な残業、断固反対。

 ふわぁと欠伸をした後、俺は一度書類から目を離す。

 委員長である相模は未だに何やら楽しそうにお喋りを続けている。ではその助力を頼まれた雪ノ下はと言うとパソコンから目を離さず、一心にそのキーを叩き続けていた。

 

「みなさんちょっといいですかー」

 

そんな折、ふと相模がなにか思いつたかのようにニヤリと企むような表情をして、前へと出てきたのを見て、俺はため息を盛大に吐いた。

 

 

 相模が提案したアイデアは、文化祭を楽しむ為にはクラスの方も大事。だからこそクラスの方に顔を出す為に仕事のペースを落としましょう!という巫山戯たものだった。

 その提案を相模は綺麗な言葉で己の言論を飾り立て、どこかの誰かが言っていた取ってつけたような理由と、雪ノ下陽乃という協力者を得て、彼女は雪ノ下雪乃を黙らせた。故に、そんな巫山戯た話が通ってしまったのだ。

 雪ノ下が不測の事態の為にバッファを取る為に少し前倒しにしていた予定がそれによって崩れた。

 その結果、変化は徐々にだが現れ始めた。

 まず遅刻や欠席が少しだけ増えた。

 一度それがまかり通ってしまうと、ならちょっとくらい休んでもいいかな、などという甘えが出る。その甘えが積み重なれば積み重なるほどスケジュールに影響が出るのだ。

 そしてスケジュール通りに進めようとする為に、仕事が増える。正しくは相模がその場のノリで行った有志団体の増加、それに伴って宣伝広報の協力場所の増加、予算関連の再算出などの仕事が出てきて、余計な負担が増えたことによって、仕事量の偏りが出てきている。

 俺たちがいる記録雑務のような当日の仕事が主な担当はそれでも問題ないが、他の有志、宣伝、会計辺りの人手不足感が顕著だった。

 そしてそれをカバーするために生徒会役員と雪ノ下が介入する。それで多少はマシだったのだが、回数を追うごとに、遅刻していた生徒が欠席になり始めた。仕舞いには無断でサボるやつも増えてきた。しかしそれも当然のことだ。休むことにペナルティが存在せず、自分以外もサボっている人間がいるのだから罪悪感を感じることなくサボれる。俺や比企谷のように強制的に文実になった奴らもいるのだろうし、良心の呵責という枷が無くなってしまえば、当然そこにあるのはサボりたいという欲求だけだ。故にサボるし欠席する。

 そのせいでより仕事量が減らない!これは一体どういうことだ?なぜ俺は記録雑務だと言うのにそれ以外の仕事もしている。机の上にさりげなく仕事を積んでいく奴がいるので、明らかにサボりたいだけの奴を見たら、それを突き返すのがいい加減に面倒くさくなってきた。すこぶるに迷惑そうな顔をされるのだが、迷惑なのはこちらなのだから本当にやめて欲しい。それでも大変そうな後輩や先輩の仕事が回ってくるのだから、これ以上増やされてたまるかという意地で突き返しているのだ。

 そも何故俺が議事録なんざ作成している?ああいや、そうか。これの理由は責任者の仕事だったのに大凡が休んでいて、最終的にメンツで一番仕事をしている俺に回されたからだ。担当の三年生がいないから議事録、誰が書くんだ?とか言った俺が悪いんだが……いやどっちにしろ雪ノ下に議事録が出されていないのを指摘されて書く羽目になるのは目に見えているので、早めに気づけたから良しとするしかない。

 ため息を着きながら今週の議事録を書き終える。右隣では比企谷が死んだ目をして、時折「フヒッ」と気持ち悪く笑いながらPCとにらめっこ。左隣では松山が疲れた顔をしながら、これまたPCと睨めっこをしている。

 

「お茶」

「えっ……」

「は?おい待て」

 

 そんな中唐突に松山の目の前に湯呑が置かれる。ネクタイの色的におそらく先輩だろうが、思わず敬語を使うのを忘れるくらいに腹が立ったので、立ち上がってその腕を掴む。

 

「チッ……」

「ご自分で、淹れて貰えますか?」

「……ご、ごめん」

 

 盛大に舌打ちをしてきたが、それをしたいのはこちらなので睨み返す。すると相手は萎縮しながら謝罪して、そそくさと去っていった。

 頭をバリバリと掻きむしりながら、再び着席する。盛大に溜め息が漏れ出た。

 疲れる。会議室全体に余裕がない。雰囲気が悪いし、どいつもこいつも疲れと減らない仕事のによる余裕がないせいで苛立ちが隠せていない。そのせいで今のようなやつも出始めている。あれじゃ翌週あたりにはいなくなっていそうだ。真面目な奴ほど損するというが、確かに今の状況であれば頷ける。俺とて何度休んでやろうと思ったことか。

 

「あの……ありがとうございます」

 

 しかし、今俺に対して申し訳なさそうに感謝してくる女が律儀に毎回参加するので、俺も仕方がなく参加するしかなかった。

 

「ああ、別に気にすることはない」

 

 本当に気にする事はないのだ。こんなことに気を回しているくらいならば仕事をしてくれ。

 とはいえ、そろそろ休憩した方がいい、か。

 

「おい、松山お前も一旦休め」

「……そう、ですね」

 

 松山が一度手を止めて、凝り固まった筋肉を解す為に背を伸ばした。

 会議室は普段よりも静かだ。前述の通り人が少ないから。しかしそれでも委員会が回っているのは、雪ノ下と生徒会役員たちの尽力、それと時折現れては溜まっている一部の仕事を片付けていく雪ノ下陽乃のお陰だろう。雪ノ下の姉なのだから同様に優秀なのだと思っていたが、あれは優秀だとか言う言葉では片付けられない能力の高さだった。

 一度お茶を注いで行くために、サーバーの方まで近づいて、比企谷も休憩に入っていたのを見て、俺は二つの湯のみに茶を注いだ。

 

「そら」

 

 二人の前に湯呑みを置いて、俺はカバンから缶コーヒーを取り出した。

 プルタブを開けて、その中身へ口をつける。

 

「サンキュ……」

「助かります」

 

 三人で喉を潤しながら一息入れる。

 

「仕事、減らねぇなぁ……」

 

 うんざりしたように比企谷が呟いた。

 

「そうですね……」

 

 同じように疲れた表情をしながら、松山も丸眼鏡を外して窓から外を眺めている。遠くの方を見ているのだろう。

 

「仕方がない、見てわかる通り人手が少ないのだからな。そのせいで仕事をしても仕事をしても仕事がある」

 

 再びコーヒーに口をつける。疲れているからなのか、普段は不味い缶コーヒーでも美味しく感じてしまう。

 

「いやでもお前俺たちよりも三倍くらい仕事するスピード早くない?なに、赤い彗星なの?」

「は?」

「いや、なんでもないっす……」

 

 恥ずかしそうに目を腐らせて茶をずずーっと啜る比企谷。赤い彗星ってなんだ。燃え尽きてないか、それ。

 

「まぁでも実際田島くんのお仕事量はかなり多いとは思いますよ」

「そうか?」

「ええ」

 

 言われてみれば、確かに積み上がっている仕事の量は比企谷や松山と比べると多かった。しかし、別に他より多いことに文句などないし言われなければ気づかなかった。そもそも俺よりも多く仕事をこなしている人間がいるのだから。文句など言っている場合でもない。

 

「俺なんぞより遥かに雪ノ下や生徒会役員たちの方が多いから、あまり気にしていなかったな」

「まぁ、な」

 

 比企谷と俺は雪ノ下の方へと目を向ける。多分、あいつはほとんど休憩を取っていない。人が十回休憩を取ったとするならば、あいつはそのうち一回だけで休憩時間も数分程度だろう。

 仕事の鬼と言っていい。恐れ入るね、全く。

 そうやって休憩していると、生徒会長と目が合った。彼女も休憩していたようで、ニコリと笑いかけてこちらまでやってくる。

 

「城廻会長。お疲れ様です」

「お疲れ様です」

「お疲れ様っす」

「うん。はい、お疲れ様」

 

 会長はにっこりと微笑んでいるか、普段のような柔らかなものではなく、その顔は疲れが隠しきれていないものだった。

 

「さすがに人手が足りなくて皆さんも大変そうですね」

「……うん。来てない人達、みんな忙しいみたいだから仕方ないんだけどね」

 

 松山の言葉に会長は首肯する。閑散とした会議室は、タダでさえ広いというのに普段よりも広く感じてしまう。会長はそれを少し悲しそうに眺めたが、直ぐに明るい顔になった。

 

「で、でも明日には増えるだろうし!」

 

 元気づけるその言葉に、俺たちは苦笑いで返す。きっと、明日も減るだろう。

 コーヒーを再び啜った。

 俺たちの様子に会長も申し訳なさそうな顔をしたあと、お茶を啜っている。しかし休んでもいられないので、会長は執行員席の方へと戻って行った。

 そんな中扉がノックされて、「失礼します」と一言言った後入ってきたのは葉山隼人だった。

 雪ノ下との会話を聞くにどうやら有志団体の申し込みでやってきたらしい。

 俺はそれを気にしているよりも仕事をした方がよっぽどいいので再び書類を書いていく。こっちは、広報、こっちは有志か。書類だけでも仕事の多さが如実に現れている。

 書いた書類はファイルに纏めて、纏めたあとはPCにデータとして残しておく。残したデータは纏めて雪ノ下のPCへと送る手順になっている。

 しかしやはりと言うべきか雪ノ下の仕事量が多い。おそらく文実の仕事のほとんど雪ノ下だ。あいつだけ仕事量の多さ可笑しいのだ。いつ倒れても不思議じゃない。

 いつの間にか比企谷とお喋りをしている葉山も、いやなんで喋っているのか分からないが、彼もそれに気づいたのか雪ノ下の方を見ていた。

 

「でも、見る限りほとんど雪ノ下さんがやってるように見えるけどな」

 

 それにしばし沈黙していた雪ノ下だが、葉山の視線に耐えかねたのか口を開いた。

 

「……ええ、その方が効率がいいし」

「でも、そろそろ破綻する。そうなる前に、ちゃんと人を頼った方がいいよ」

 

 葉山の言うことは最もだ。幾ら雪ノ下が優秀だと言っても、どこかでヒビが入っているはずだ。遠目から見たら問題がなくても、近くで見れば小さな綻びがある。それがいつしか瓦解する時、この委員会の終わりになる。

 どこかで手を入れなければ───。いや俺には関係のない話だった。

 その後葉山が手助けを申し出と、生徒会長のお願いもあって割り振りを考え直しその申し出を受けると雪ノ下が宣言した。

 それに葉山はと生徒会長は満足そうに微笑むのだった。

 

「雪ノ下さん、少しは休めると良いのですが。一見して分かりにくいですが私たち以上に疲労がお顔に出ています」

「よく見てるな……しかし、どうだろうか。あの様子だと、仕事を持ち帰って家でも仕事をしていそうだ」

 

 雪ノ下が一番遅くまで残って仕事をしているのを俺は知っている。そんな女なのだ、仮に割り振りを見直したところで、自分自身の負担を減らす割り振りなんてするわけがない。

 ギリギリまで追い込むつもりだ。いや、それどころか限界を超えるだろう。そうしてどこかで倒れる。

 ため息を吐いて、どうしたものかと頭を悩ませて、面倒くさくなって考えるのをやめた。

 俺は再び無心でキーボードを叩き付ける仕事に戻るのだった。




『松山 千佳子』
【誕生日】
12月17日
【特技】
人間観察、一輪車
【趣味】
面白いもの探し
【休日の過ごし方】
読書、漫画を読むこと、映画鑑賞、ふらりと宛もなく出かけること
──────────────────
次回、重い腰をあげる


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二十九話 ようやく彼は重い腰をあげる

君は何処にいるんだろうか


「また、人が減っていますね」

 

 会議室に入って、開口一番に松山がそういう。彼女の言う通り委員会に来ている人数があからさまに減っている。半数なんてものじゃない、見受けられるのは俺たちの他雪ノ下と執行部、その他数人のみしかいない。

 思わずうんざりとした顔になってしまったが、来ているメンバーがそれでもなお意欲的に仕事をしているのを見て踵を返して帰る訳にも行かず席に着いた。

 比企谷も既にいて、相変わらず目を腐らせながら仕事をしている。段々と社畜精神が極まっているな。いいぞ、そのまま社会的に更生してしまえ。

 比企谷に任せっきりというのも気が引けるし、そもそも人数が少ないので俺の仕事も多く、俺も同じように机の上に積み上げられているファイルに手をつける。

 積み上げられたファイルはそれなりに増えたが、許容範囲内ではあった。

 葉山が定期的に参加するようになった実行委員は、この少人数でも割り振りが改めて行われたこともあって表面的には問題はなかった。こと葉山においてはそこら辺の実行委員よりも働いているだろう。クラスのこともあるそうで、確か演劇の主役をやるからその演技練習などもあるだろうし、さらに有志としてバンドをやるらしい。それだと言うのにこちらの方も手伝ってくれるのだから、そのバイタリティは計り知れない。

 そんな順調に進んでいる文化祭実行委員ではあるが、いずれ問題が見えてくることだろう。まず間違いなく破綻する。雪ノ下か葉山、そのどちらかが欠けた時点で不味いのだ。そしてその雪ノ下も疲労困憊でいつ体調を崩すか分からない。

 なぜ俺がこんなに雪ノ下の体調が悪いと思うのかと言えば、俺自身体調が崩れるサインというのをよく知っているからだ。常に体調不良と睡眠不足と戦い続けている俺にとっては、限界がきた時の体調の変わりようというやつを知っている。

 如何に氷の女雪ノ下とて、やり過ぎればその氷の体も熱くなって溶け始める。そうなれば体調が崩れることは明らかなのだ。

 一日だけ、そう丸一日だけ休める日があれば彼女が積み重ねた疲労も解消できるはずだ。そして一日だけ彼女を休ませる方法。それはある。一日だけならば出来なくはない。

 しかし俺にそれをするだけの理由もなければ、権利もない。

 そもそも、一人でやれるのではなかったのか。だから俺たちの助力を拒んだのではなかったのか。

 一人でやれると俺たちに嘯き、関係がないから気にするなとふざけたことを宣って、その結果がこれだ。相模と雪ノ下姉に掻き回されて、実行委員は上手くいかず、そうして今はあいつも疲労困憊。全く。全くもって苛立ちが隠せない。

 あいつならば、彼女ならばもっと────彼女?

 

 待て。俺は今、誰を想像した?

 今想像したのは、今考えたのは。それはかつてのひまわりのように笑う君の姿で。

 

 ピタリと手が止まった。

 俺は天を仰いでしまって、そんな俺を松山は不思議そうに見ていた。 

 

「……?どうかしましたか?」

「……目が疲れた」

「なら、遠くの景色を見ると疲れ目には効果的ですよ」

「ああ……そうしよう」

 

 眼鏡を外して、俺はボケーッと窓の外を眺める。窓の外は未だに明るく、陽が沈む気配はないが、しばらくすれば向こうに茜色の空が覗くだろう。しかし生憎と、向こうの空には分厚い雲がかかっていた。きっと夜は雨だろう。

 この苛立ちの原因を全て理解した。その分厚い雲で覆われていた正体は、俺の未練と後悔から形作られた醜い願望の投影でしかなかった。

 

 

  その翌日、今日も放課後は文化祭準備をいそいそと皆それぞれのやるべき事をやっている。

 俺も一部それを手伝いながら委員会までの時間を潰していた。

 文化祭と言えば加藤から告げられたのは当日俺も扱き使うから宜しくという宣言であった。具体的に言えば、なんでもちょっとお高めのコーヒーをだしてそれを淹れる担当が俺なのだそうだ。記録雑務の仕事もあると断ろうと思ったのだが、文実の仕事の時は加藤が交代してやるらしい。

 元々加藤だけで回すしかないと諦めていたが、そこで俺がコーヒーを淹れることができると松山から聞いたそうで、これ幸いと俺の名前をシフトにねじ込んだそうだ。

 まあ、交代制ならばということで引き受けた。それに、加藤とはそれなりに珈琲の話で盛り上がれたのでその勢いでつい承諾してしまったというのもある。

 文実まではまだ時間がある。

 とにかく、今は加藤にでも指示を仰いでなにか仕事を探そうか。そう思った頃で、クラスの男子から声がかかる。

 

「田島。ちょっといいか?」

「うん?どうした」

「教室の外で平塚先生が呼んでるぞ。なんか用があるんだとさ」

「……わかった。わざわざ悪いな」

「気にすんな〜」

 

 そう言って男子生徒はヒラヒラと手を振って仕事に戻っていった。

 しかし、こういうのを見ると本当にクラスで受け入れられていると実感する。前まではもう少し、距離感があったのだが。

 松山が言うには『皆さん別に、田島くんのことが嫌いだとかわざと避けているだとかではありませんよ。単純にずっと無愛想でムスッとしたお顔でいるか、寝てるかで、殆どの人が話しかけるタイミングを見失っていただけなのですから』らしい。

 なのでクラスメイトはこれ幸いと俺に対して話しかけてきたりもした。とはいえ俺が眠いのは変わらないので、大体はこの居残りの時だけだが。

 それを俺自身は喜ぶべきか否かと悩みながら、平塚先生の元へ行った。

 彼女は窓際の柱に背中を預けて腕を組んで待っていた。俺がやってきたことに気づくと手を挙げる。

 

「やぁ、田島」

「こんにちは、平塚先生」

 

 もはや何度目かも分からない恒例の挨拶をした後、俺は平塚先生に要件を問う。

 

「なにかぼくに用ですか?」

「うむ。実行委員会の話なんだがね。それを話すにはここでは場所が悪い。場所を変えようか」

 

 そういった後、平塚先生はカツカツとヒールを鳴らしながら歩いていく。おそらく場所は生徒指導室だろう。文面だけ並べると、俺がなにかやらかしたかのように思えてくるな。

 しばらく廊下を歩いて、生徒指導室までやってくる。ガラス出てきた高そうな机を挟んで、黒い革張りのソファーに座って俺と平塚先生は向かい合う。

 

「それで、実行委員会の話と仰っておりましたが、そういうのはぼくより雪ノ下の方がいいのでは?」

「そうだな。しかしこれは奉仕部の話でもあるんだよ。君にだって関係のある話さ」

 

 奉仕部の話か。

 だがそれに関しても俺は今のところ関係性はないように思えるが。

 

「田島、君は今の実行委員会の状況についてどこまで把握している?」

「そうですね。相模実行委員長による宣言による実行委員の参加数減少。それに伴う参加者の負担増加。これは特に執行委員、その中でも雪ノ下の負担が激しい。そのせいで今や外部の人間に頼ることによって委員会を回している現状、といったところでしょうか」

「そうか」

 

 平塚先生は煙草に火をつけて、口にくわえた後、その先端から紫煙をくゆらせた。

 そしてゆっくりと、溜息のように煙を吐いた。

 

「そんな現状に、流石に放置しておけないと教師陣でも問題になっているよ」

「そうですか」

 

 それはそうだろう。幾ら生徒の自主性を重んじる校風があるからとはいえ、ここまで欠席者の増加という目に見える問題が出てきては教師陣とて黙ってはいられないのだろう。

 

「しかし、実際のところ文化祭実行委員会は上手くいっている。いや上手くいっているように見せている」

 

 それは正直今でも参加している委員や生徒会役員、そして雪ノ下の尽力の賜物だろう。それに雪ノ下姉や葉山の助力もある。だからこそかなり危ない綱渡りではあるが、ギリギリのところで保っているのだ。

 表面だけ見るならば、実行委員会は上手くいっており、問題も今のところ起きていない。ただただ、欠席者が増え続けているという問題があるだけだ。

 

「しかし、このままでは間違いなく破綻します。先生方は何かしらの対処はしないのですか?」

「あと数日様子を見て、それでも欠席者が尚変わらないのであれば我々から注意とペナルティの付与をしなければならなくなるだろうね」

「なるほど」

「しかし、一度欠席者の増加による注意という前例が入ると、次回以降の文化祭の開催にも色々と縛りを入れなければならない」

 

 平塚先生はまた悩ましそうにタバコの煙を吸ってから、重く煙を吐いた。

 

「我が校は進学校を謳ってはいるが、そのうえで自由な校風を特徴とする高校でもある」

「そういえば、パンフレットにそんなことが書いてありましたね」

 

 事実、総武校はかなり自由だ。校則もさほど厳しくない。そのせいで戸部や由比ヶ浜といったような、かなり派手な格好をして登校しても指導されたりはしないのである。平塚先生が時折スカートの丈の短さを注意していたりはするがその程度だ。

 

「そんな校風を特徴としながら、何かしらの縛りを増やすことになるというのも、実はあまり宜しくはないんだ」

「……仮に増やすとしたら文実はクラスの準備の参加を禁止するといったものですかね」

「そういう規則が増える可能性は否定できないだろうな」

 

 確かに、その規則が増えるだけで文実に参加しようと思う人間はより減るだろう。その結果集まる生徒が、無理やりやらされることになったやる気のない人物ばかりになると、文実自体の立行きも不安になる。

 こうしたイベント事で何かしら問題が起きると、次の世代次の世代とより規則が増えていって、自由な校風を謳っていたのに、その実態がこれかよという文句も出ることが想像できる。

 だから、教師陣も介入に日和っているということを平塚先生は言いたいらしい。

 

「まあ、言いたいことは分かりました。それでもぼくにそれを話す理由が見えません」

「ああ、そうだな。ここからが本題だ」

 

 平塚先生はステンの灰皿にタバコを押し付け、その火を消す。タバコの先端からは煙が燻っていたが、いずれ消えることだろう。

 

「田島」

「はい」

「奉仕部はいまどうかね」

「どう、とは……?」

 

 何を言っているのだろうか。

 奉仕部の一体何が本題なのだ。奉仕部の、何を聞きたいのだろうか。俺は確かに定期的に平塚先生に奉仕部の様子は報告しているはずだ。雪ノ下と比企谷が上手くいっていない事すら、この前奉仕部が一時的に休みになっていることを報告する際に伝えた。他に何を、聞きたいというのだ。

 

「簡単な話さ。君たちは今、正しい道を歩けているのかね」

「それは……」

 

 正しい道。正道。それを歩けている、というには俺たちは今バラバラすぎる。比企谷にしろ雪ノ下にしろ、由比ヶ浜にしろ。そして俺も。

 道を逸れている。何が正解か間違いか、そんなこと俺には分からないが、それでも正しい道ではないと思う。逸れている。あるいは迷っている。

 思考の沼にハマっていく。目の前が見えなくなりそうだ。

 

「……前に言っただろう?君には奉仕部の監督役としての働きを期待しているとね」

 

ハッとして顔を上げた。目の前では平塚先生が目を細めて、暖かな微笑みで俺を見てくれている。俺はそれに小さく笑ってから口を開く。

 

「奉仕部の、とは言っていないと思いますよ」

「おや、そうだったかね?」

 

 平塚先生はそうやっておとぼけた後に立ち上がった。

 

「タイムリミットは近いぞ。君は君の務めを果たしたまえ。さあ、もう行っていいぞ。委員会の時間も近い」

 

 頭が上がらないな。この人には。

 

「ありがとうございます」

「気にする事はない。約束したからね」

 

 負い目を感じながらソファーから立ち上がって生徒指導室を出ていこうとする。しかし、すぐに振り返った。

 

「……ああ、そうだ先生」

「なんだね」

「一つ、名前を貸して貰えますか」

「名前?何に使うんだ」

「実は一つだけ案がありまして───」

 

 俺から話を聞いた平塚先生は少しだけ苦い顔をした後、『焚き付けた手前仕方がない』と言って笑った。

 そして俺は改めて、生徒指導室を後にするのであった。

 

 

 さて、やるべきことは見つかった。するべき理由も与えてもらった。だったら後は実行に移すだけだろう。

 雪ノ下と対面するのは少し怖い。俺の愚かさと再び対面することになるからだ。

 俺は由比ヶ浜だけでは飽き足らず、雪ノ下にも彼女の面影を探していた。前に進むと言って、変わると言って、忘れると約束したというのにだ。だからこそ彼女であればそんなことはしないという怒りが込み上げてきて、今までのフラストレーションも込で癇癪を起こしてしまった。

 我ながら未練タラタラの上に身勝手で笑ってしまう。しかし俺はそれをこれからも探し続けるのだろう。きっと、いや間違いなく彼女を探し続ける。空いた胸の穴を埋めるために。

 だから変わらなければならない。全てを忘れて進む為に。

 だが今はそれを気にしている場合ではない。務めを果たせと言われたのだから、その務めを果たさなければならない。だから今はこの憂鬱を置いておこう。

 一心不乱に手を動かす。まずは目の前の仕事を片付けるのだ。

 しかし、理由もあってやるべきことも見えているのだが、それはそれとして。

 

「ああ、嫌だ嫌だ。やりたくない」

 

 そう思わず口に出てしまうぐらいには気が乗らない。やるべきだと思っている。やらなくてはと思っている。しかし腰が重い。

 好きにやれと言った手前今更何をどうして雪ノ下の前に立たなければならないのだ。それに俺の案も一日限りのその場しのぎのやり口だ。葉山に頭も下げなければならないし、やりたくなんぞない。

 腰も重ければ荷も重い。

 もちろんやるとも。ああやって大口叩いて平塚先生に焚き付けてもらって、名前まで貸してもらったのだからやるとも。

 心を無にして、雪ノ下以外の皆が帰るまで仕事を続けていた。

 

「田島くん」

 

 松山に声をかけられてハッとする。気づけば、日が沈みかけて斜陽が差し込み始めていた。会議室は多くの人はとっくのとうに帰っていて、残っているのは生徒会役員が数人と、雪ノ下。それと松山に俺だけだった。比企谷?とっくの前に帰ったんじゃないか。

 疲れからか眠たげな目を、いつも以上に眠たげにして、欠伸を噛み締めながら、片付けを終えた松山が立っていた。

 

「もう下校時間ですよ。その辺で切り上げて帰りましょう」

「いや……悪いがまだやることがあるんだ。先に帰っていてくれ」

「やること?お手伝いしましょうか?」

「ああ、もちろんしてもらうとも。だがそれは今日じゃなくていい」

「……何か企んでいますね?」

 

 俺はそれに肩を竦めることで答える。未だに腰は重いが、なんとか上げられるくらいにはなってきた。

 

「……後で聞かせてもらいますからね。私は面白いことが好きなのです」

 

 松山はそう言って会議室を去っていった。俺も荷物を纏めあげて、一旦会議室を後にした。

 しばらくした後、自販機で缶コーヒーを二つ買ってきて、会議室の前まで戻ってきた。当然の事だが、下校時間をすぎた校舎に人はほとんどおらず、先程まであった騒がしさは何処かへと行ってしまった。

 あるのは物悲しさだけだ。

 深く息を吸って、そしてゆっくりと息を吐く。灰の中の空気を全て外に吐き終えれば、覚悟を決めて会議室のドアを開けた。

 カラカラというスライド音に反応して、顔上げた雪ノ下が入ってきた人物を見るために視線をこちらにやる。そして目を見開いた。

 

「精が出るな、雪ノ下」

「あなた、さっき帰ったんじゃなかったの?」

 

 怪訝な顔をする雪ノ下に俺はニヤリと笑った。

 

「話をしに来た」



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三十話 黄昏時にて

 シーンと静まり返った会議室には、当然雪ノ下と俺以外に人はいない。沈みかける黄昏時の空模様は藍色と茜色が混ざって、その斜陽が窓から差し込んでいる。

 もう時期夜になる。この昼と夜の境界線の時間が終わる時、完全下校時刻となるのだ。その前に雪ノ下とカタをつけなければならない。

 

「話をしに来た」

 

 雪ノ下はニヤリと笑う俺を見て、フッと溜息を吐くと再び動かす手を再開した。

 

「冷やかしなら帰ってちょうだい」

 

 そう冷たく言い放つ彼女の声色は拒絶を孕んでいる。その物言いには俺とは話すことはないと言外ににおわせた。

 俺はそんな様子にハッと小さく鼻で笑って、ホワイトボードの前に設置されている執行部の席に座って、ノートパソコンと向き合う彼女の隣へと近づいた。

 そして、その隣に腰かける。図った訳では無いがここは実行委員委員長の席だった。

 些か不相応な席だと自嘲しながら俺は口を開く。

 

「まあただ喋るのもお前の迷惑になる。どれ、少し仕事を寄越してみろ。手慰み程度にはなるだろう」

「……あなたに渡す仕事なんてないわ」

「それならそれで俺は構わんぞ。真面目に仕事に勤しむやつの隣で、お喋りに興じるというのも悪くはないさ。寧ろさぞかし気分がいいことだろう。あくまでこれは、お前への配慮のために提案してやっているに過ぎないからな」

 

 隣でカラカラと笑ってやれば、一度手を止めてこちらを睨む。しかし、すぐに諦めたように息を吐くと彼女は隣に積まれているファイルを一つ掴んで、俺の前に置いた。

 

「ならそれをやって貰えるかしら。暇島くん」

「良いだろう」

 

 そう言って彼女は俺に渡してたのは、文化祭当日に扱うであろう機材の借用書だった。学校の機材だけでは間に合わせられないものを外部の業者に発注して使用するので、故障などさせる訳には行かないとの事だ。

 既にできている借用書の不備がないかの確認と、それ以外未だに作成されていない、有志団体などから申請された機材の借用書の作成。それが俺の仕事だった。

 意外と面倒なのを押し付けてきたなこの女は。まぁこの程度ならば構わないのだが。

 申請書と借用書とを交互ににらめっこしながら俺は手を動かす。ペンを動かす音と、雪ノ下のタイピング音。しばらくは耳に入る音はそれだけで、黙々と作業をやっていたが、やがて慣れてきたので俺は口を開いた。

 

「それで本題だが」

「喋ってる暇があるなら手を動かしなさい」

「ハッ、この程度のマルチタスクなら余裕だ。いいから話を聞け。今後の実行委員の話だ」

 

 雪ノ下は沈黙を保つ。それが話の続きを促すものだと思ったので、俺は手を止めることなく言葉を続けた。

 

「平塚先生から色々と話を聞いた。なんでも文実の現状があと数日も続けば先生方から指導が入るらしい」

「そう……当然ね」

 

 雪ノ下は諦めたように呟いた。

 

「ああ、だから俺は今お前に提案をしに来た」

「……提案?」

 

 手を止め雪ノ下は一瞬視線だけこちらに向ける。すぐに再びキーボードを叩くのを開始したが、今のは話に興味を持ったサインという解釈で良いだろう。

 

「明日、丸一日学校を休め。雪ノ下」

 

 雪ノ下の手が止まる。それを見て、俺もペンを動かす手を止めた。そうして俺たちは互いに視線を交わした。彼女は酷く怪訝な顔をしていた。

 

「どういうこと?何を言いたいのか分からないわ」

「言葉の通りだよ。明日学校を欠席しろ。どうせ遅かれ早かれ体調を崩すと傍から見てもわかるんだ。仮病だとしてもバレんやしない」

「……要領を得ないわね。もっと詳しく話しなさい」

「仕方がない」

 

 俺はやれやれとかぶりを振った。

 さてとりあえず曖昧な物言いで雪ノ下に話を聞くだけの姿勢を取らせるのには成功した。下手に直球勝負で行くと耳を塞ぐ可能性もあるからな。思わせぶりな態度で行って正解だった。

 

「さっきも言ったが、お前は近々体調を崩すぞ。それ故に休めと言っているんだ」

「あなたが、私の体調のことを把握しているわけがないじゃない」

「いいや分かるさ」

 

 そう言って俺は雪ノ下をつま先から頭まで眺め見る。雪ノ下その視線を感じて、怯えるように距離を取った。

 

「何、急に。気色が悪いわ。盛るなら私以外の誰かにやってもらえるかしら」

「黙れ。お前なんぞに欲情するものか。……ふむ、それにしても隈が酷いな。化粧で上手く隠しているようだが、よく見れば黒ずんでいる。それに髪の手入れも怠っているだろう?毛先が纏まっていないぞ」

「……」

「そういえば、指にささくれができるのは血行が悪くなっているという証拠だ。ストレスによってもできるそうだな。ああそれと、髪で上手に隠したようだが、時折ニキビが見えているぞ?これもその位置はストレスだな」

「……」

「更に──」

「もういいから、やめて。本当に、やめてちょうだい」

 

 雪ノ下は羞恥心と怒りと恐怖が混ぜこぜになったような顔で俺を見ていた。いい気味だよ、全く。普段こちらをサンドバックのように殴ってくる仕返しだ。まあ、弱っているところを殴っているような感じもするので、そこまで胸の空くような想いという訳ではないが。

 

「ふむ、まだ指摘できる点は多くあるのだが……」

「気持ちが悪い。ストーカーなのかしら?四六時中私のことを観察していると?」

「お前のことを見ているくらいならば、蟻の行進を観察していた方がよっぽど有意義だよ」

「だったら、なんで」

「さっき見ただろう。お前のことを」

 

 雪ノ下は不思議そうな顔をして、はたと呟いた。

 

「まさか、あの一瞬で?」

「……人を知る、というのは人をよく見る必要がある。実際に見て、聞いて、本来であれば閉じこもった心に触れることがベストだ。それが俺なりのコミュニケーションの仕方なのだが、お前が相手ならば仕方があるまい。しかし幸いなのは今回はお前の体調の具合を見るだけ、そこまでやる必要が無かった。だったらあの程度の時間だけでも大凡は把握出来る」

 

 途端に言葉を発さなくなる雪ノ下。しかしその顔はどうしてか腑に落ちたかのように、納得がいった表情をしていた。

 

「そう。そういうこと。それでもあなたには関係ないと、以前にもそう言ったでしょう?」

 

 変わらず拒絶をする雪ノ下に呆れつつ、俺は言葉を続ける。

 

「あるさ。俺は監督役だからな」

「だから、それは」

「ああ、勝負の監督役としてなら関係がないと、言われたな。しかし今俺がここにいるのは奉仕部全体の監督役としてだ」

「……詭弁じゃない。そんなこと、平塚先生は一言も言っていなかったわ」

「俺もついこの間初めて知ったからな……平塚先生の口から」

 

 俺はとぼけたように肩を竦めた。

 そんな俺を見て呆れたようにため息を吐くと彼女はパタリとノートPCを閉じる。

 

「……借用書は?」

「概ね問題はない。記入漏れも幾つかあったが、それもついさっき記入し終えた」

「そう。なら今日はもう終わりにしましょう」

 

 雪ノ下がファイルやら何やらを鞄にしまい込んだ後、再び彼女は俺の事を見据えてくる。

 

「それで話の続きなのだけれど。明日休んで、私の代わりは誰がするの?」

「俺がする」

 

 迷うことなく即答した。雪ノ下雪乃の代理を俺がやる。これは俺の考えている案の大前提となる部分だ。変わることはない。

 そんな俺の態度に、いやおそらくはその内容であろうが、雪ノ下は目を丸くして少し困惑した様子だった。

 

「あなたが?」

「ああ。俺がお前に代わって副会長代理として参加する。その上で、一日だけ委員を全員参加させ、委員会全体の進捗を相模の宣言前の状態とほぼ同じにする。それが俺の狙いだ」

 

 そのための策と案もある。幸い、現在の委員会に参加しているメンバーの中にその策を実行可能な者もいる。その二人には貸しを作ることにはなるかもしれないが、それは些細な事だ。

 そして全ての実行委員を参加させ、現状の仕事を割り振り、ノルマを指定。指定したノルマを達成することによって、委員会を正常に戻す。

 これが俺の監督役としての務めだ。

 

「でもそれをしたところで、その次の日にはまた元に戻るわ。だとするならばそれをする意味がないと思うのだけれど」

「いいや意味ならばある。少なくとも教師陣の介入が少し遅れるだろう?そうなれば猶予期間が少しだけだが伸びる。それはお前にとっても意味があると思うが?」

 

 雪ノ下は俺の言葉に首肯する訳でもなく押し黙り、ただこちらを見つめるのみだった。俺はズレた眼鏡を上にあげ、沈黙をかき消すように言葉を紡いだ。

 

「……まぁ、なんにせよ、このままであれば教師陣に介入されてしまうというのは先程言ったが……それは俺としてはあまり好ましくない」

 

 このまま教師陣が介入すれば、教師の監視の目と共に、強制的にやらされるという状況になる。それの何処に自己の改革の余地があるのだろうか。変わるという意思を芽生えさせる余裕があるのだろうか。

 否である。そんなものが介在する余地はない故に、奉仕部の理念が崩壊し、それに伴って建前が崩壊するのだ。

 だがまぁ、実の所それはあまり関係はない。奉仕部の理念が崩壊することに関しては特に思うことは無い。関係ない、と雪ノ下からも言われているからな。

 俺が好ましくないのは、先生が介入すること。それによって生徒主導ではなく先生主導で委員会が進められるということの方だ。

 こうなってしまえば、もはや奉仕部の依頼など関係ないだろう。そこに雪ノ下も相模にも主導権は与えられないのだから。それは即ち、依頼達成は失敗に終わったことを意味する。それが、俺は好ましくない。

 

「例え、お前が個人で受けるのだとしても、奉仕部として受けるのだから、せめて依頼は完遂しろ。それがお前の責任であり務めだ。だが……それは今のお前では無理だ。焦って、ただ躍起になって、どうするべきかも見失っているお前には」

 

 だから、休め。俺は口に出さず、目でそれを伝えた。

 どうせ伝わってなどいないだろう。そもそも俺の意図すら伝わっているかすら怪しい。そのあたり、とかくこの女は察しが悪い。というか、自分の中の価値観が揺るぎなさすぎて、そこに他者の価値観が介在する余地がよっぽどの事がない限りはほぼない。

 比企谷もそうだ。だからこの二人はよくお互いの価値観で言い争いになるし、その点の譲歩をしようとしない。

 全くもって面倒くさい奴らである。俺も人のことは言えないが。

 とはいえ勘違いされても嫌なので、仕方がないと口にして言ってやろうと思った矢先に、雪ノ下が口を開いた。。

 

「……あなたの提案を、受けるわ」

 

 諦めたような声色だ。

 俺はため息を吐いた。まあ……別に意図なんざ伝わっていなくてもいいのだ。大事なのは俺が監督役として介入できることなのだから。

 ジーッと学校のスピーカーから、最終下校時刻のチャイムがなる予兆であるノイズを漏らす。そして完全下校時刻のチャイムが雑音混じりに鳴り始めた。

 

「そうか、助かるよ。なら、その大量の仕事郡を渡して貰えるだろうか」

 

 雪ノ下は何も言わずカバンを俺を押し付けるようにして、渡してくる。

 手提げカバンに入ったPCとファイル達はそれだけでも十分な重量を持っていて、ずっしりとした重さを腕に訴えてくる。いつもこれだけの荷物を持って登下校していたのか。それだけでも酷だろうに。

 俺は内心呆れながら、窓の外を見る。もう日は落ちきっていて、夜の帳が下りていた。

 俺は立ち上がって、雪ノ下の方を向く。

 

「そら、ボケっとしてないでさっさと帰るぞ」

「ええ。そうね……」

 

 雪ノ下は静かに立ち上がった。消灯をして、俺たちは共に会議室を出た。鍵を閉めたあと、雪ノ下は先に帰らせて職員室に鍵を返しにいった。平塚先生はさすがにもう帰ってしまったようで、残っていた先生に挨拶をして、俺は昇降口までやってくる。

 上靴を脱いで、運動靴に履き替えて俺は校舎を出る。ふわりと涼やかな風が吹いてきて、俺は夏が終わったことを感じながら駐輪場まで歩いていく。

 ベルトに着けたキーチェーンから自転車の鍵を取り外して自転車に差し、回す。ガチャっと言う音を鳴らして自転車の鍵が外れたので、俺は校門まで自転車を押して行った。

 校門に着いて、自転車に股がってそのまま帰ろうと思い、横を見ると雪ノ下の端正な横顔があった。

 

「うおっ……!お前、帰っていなかったのか」

「その……」

「……まぁ、よく分からんが、駅までで良いならば、送っていこう」

 

 相変わらずしおらしい雪ノ下を置いて帰るのはさすがの俺も気が引けた。

 自転車から降りて、俺はそのまま自転車を押す。歩き始めれば、自然と雪ノ下は俺の左隣に並んで歩く形となった。

 欠伸を噛み殺しながら夜の街道を歩く。立ち並ぶ街灯が歩道の先まで照らしていた。

 街灯の下まで歩いたところで、雪ノ下がふと立ち止まった。

 

「どうした?物でも落としたか?」

「……ねぇ、田島くん」

「あ?なんだ」

「……」

 

 聞いたっきり雪ノ下は口を噤む。

 その急に話を振ってきたと思ったら押し黙るのやめて貰えないだろうか。たまに比企谷と、何を思ったのか格好つけて材木座もやってくるのだが正直鬱陶しい。

 なにか文句でも言ってやろうかと思ったら、その横に固く結ばれた口が開いた。

 

「どうして?どうして、私を助けてくれるの」

「待て、助けるも何も──」

「私、あなたを怒らせたわ」

 

 雪ノ下は視線下にやって懺悔するように呟く。まるで子供が親に叱られることを怯えるかのように。罰の悪い表情をしていた。

 俺はそんな雪ノ下の態度に、毒気が抜かれて、多分相当間抜けな顔をしていることだろう。それと何故か安心した。

 以前、比企谷が雪ノ下のことを完璧超人と呼んでいた。俺にはついぞその意味は分からなかったが、やはりその評価は間違いだろう。雪ノ下は完璧でも超人でもない。どこにでもいる普通の女子高生、というわけだ。

 彼女も全てを照らすような太陽には、なり得ないのだ。

 深く息を吐く。

 

「勘違いしないで欲しいのだが、俺は別にお前を助けるつもりは微塵もない。それに、俺があの場で感情を抑えられなかったのは俺自身に原因がある。お前の気にすることではない」

 

 雪ノ下にかつて恋した少女を重ねてしまった。だからこそ理想と現実のギャップに、俺はおもわずカッとなってしまいああも激情を抑えることができなかった。ただそれだけの事だ。謝罪をする気はないし、別に気にしてもらいたいわけじゃない。いつか、その詫びを入れることになるかもしれないがそれは今ではない。奉仕部の現状を考えればおあいこというものだ。

 だから懺悔のつもりで、雪ノ下を助ける訳ではない。そもそも助けるだとかは俺の役目ではないし、もとよりそんなつもりで介入している訳でもない。

 

「俺はあくまで、俺のやり方を貫くだけだ。お前を助けるのはお前自身で好きにやってくれ」

「……そう。そうだったわね」

 

 雪ノ下は再び黙った後、前を向いて駅の方向へと歩き始めた。話は終わり、ということらしい。

 前を歩く彼女の顔は見えない。しかしその足取りは確かなものだった。

 互いに会話はなく、自転車の車輪がカラカラと回る音と、雪ノ下の履くローファーがアスファルトの地面を叩く音のみが聞こえる。この心地よい夜の静寂と共にしばらく歩けば、最寄り駅に到着する。

 雪ノ下は一度立ち止まって、「ここまででいいわ」と口にしてから、こちらへ振り返った。

 

「後で、仕事の要点を纏めたもの、メールで送るから」

「……早く寝ろよ」

「ええ。さようなら」

「ああ、ではな」

 

 雪ノ下は駅の改札へと消えていった。

 俺はそれを見送ったあと、自転車のサドルに跨った。ペダルを強く踏んで、夜の街へと漕ぎ出す。

 見上げた夜空では、まばらに輝く星と共に、煌々と月が光っていた。月は太陽の光を反射するから光るのだと、どこかで誰かが言っていたのをふと思い出した。

 小さな欠伸が出た。

 明日は正念場だ。家に帰ったら、色々と書類やらなんやらを精査しながら明日の委員会について考えなければならない。俺は自転車を立ち漕ぎして、少々急ぎながら、帰路に着くのだった。




次回 作戦開始


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三十一話 下準備は丁寧に

 雪ノ下を何とか説得した翌日。

 俺はフラリとした足取りで、ぼーっとする頭をどうにか動かして二年E組の教室までやってきた。

 自分の席は一番左の窓際で、その列の一番後ろの席になる。日中は日差しが当たって嫌になる、そんな席だ。

 俺は鞄を置いて、早速一眠りしようかと思った矢先だった。ソソソッと誰かが席に近づいてきたのが視界に入る。

 

「おはようございます」

「……おぉ、おはよう」

 

 松山だった。恐らく昨日の件で色々と聞きに来たのだろう。

 彼女は俺に挨拶するやいなや早速と言わんばかりに口を開いたが、すぐに怪訝そうな顔になった。

 

「なんだか、眠そうなお顔をしていますね」

「色々あって徹夜だ。ここのところ寝付きが悪かったもんで、いつも以上に寝不足だよ」

 

 思ったよりも仕事の精査や、そもそもの量、分配、ノルマの設定に時間がかかったせいで、結局俺は人に早く寝ろよと忠告しておきながら、自分は寝ないという愚行を犯してしまった。とはいえ、いつも通りといえばいつも通りではあるのだが。

 

「そうなのですか……お話を聞かせてもらおうかと思っていたのですが」

「悪いが今は寝かせろ。それに話が長くなりそうなんだ。昼休みにまとめて話す」

 

 松山は少しだけ逡巡した。

 

「……分かりました。ですが授業はしっかりと聞いてくださいね」

「……多分な」

「多分ではなく、絶対ですよ」

「善処しよう」

 

 俺の言葉を聞くと松山は相変わらずの眠たげな目のまま、何やら呆れたようにため息をついて自分の席に戻っていった。あいつは俺の母親か何かか?だとしたらあんな小さい母親はごめんだな。

 机の上に突っ伏して、そのまま目を閉じる。窓から吹き付ける秋風が頬をくすぐって心地よい。普段はやかましいばかりの教室の喧騒も、今は何故だが耳障りの良いBGMとして聞くことが出来た。午前の授業は特に移動教室もないはずだ。別に授業中寝ていたとしても問題はない。

 盛大に口を開けて欠伸をした後、俺はそのまま全身を襲う心地の良い微睡みに身を任せた。

 

 

「結局授業中、寝ていましたね?善処するのではなかったのですか田島くん」

「人間、睡魔というものには勝てないのさ」

 

 魔とは人を誑かすもの。人を誑かし、堕落の道に誘い込む。強き心を持つ者ならば抗えるのだろうが、生憎とこの俺はそこまで強くはない。心地の良い堕落と怠惰が待っているというのだ。是非とも身を任せて誑かされるべきだ。

 それに、放課後はそれなりに気張らなければならない。

 

「ならば英気を養うのも必要だろう?」

「だとするならは、昨日しっかりと睡眠を取っていれば、問題のないお話ですよね」

「……むぅ、ぐうの音も出ない」

 

 お手上げだと言わんばかりに肩を竦めて、そこで会話を打ち切る。

 今は昼休み、昼食も程々に取った俺は松山と共に生徒会室までの道のりを歩いていた。こういう時少食なのが役に立つ。松山は見た目通り食も細いらしく、お互いに10分程で食べ終わった。

 しばらく歩けばすぐに生徒会室は見えてくる。

 扉の前に立ち止まれば、中からは二人の男女の会話が聞こえてきた。

 コンコン、とノックをすると中からは聞き覚えのある声が「どうぞ〜」と入室を促す。

 

「失礼します」

 

 カラリと引き戸を横に引いて、生徒会室の中に入れば、そこに居たのは、長机に座って楽しげに会話する葉山隼人と生徒会長城廻めぐりだった。

 彼らは俺たちが入ってきたのに気づくと、振り返った。

 

「やあ、やっと来たか」

「二人とも、こんにちは」

 

 二人に俺達も「こんにちは」と挨拶を返す。隣では松山が随分不思議そうな顔をしていた。

 

「てっきり、城廻会長だけに用があるのかと思っていましたが」

「それ含めて今から話してやる」

「そうですか」

 

 会長が座るように促してきたので、俺たちは彼らの対面に座る。さっきまで葉山は会長の対面にいたはずだが、今はサラッと隣に座っているあたりさすがだった。

 会長が俺たちの前に湯呑みを置いてくれた。それに対して会釈で返すと、会長は微笑んで松山の対面に座り直した。それを確認すると、葉山が口を開く。

 

「それで、話って?正直、ヒキタニくんでもなく田島から声をかけられると思わなかったから、少し意外だな」

「お前のような顔の広い人材が必要だからな……話というのは他でもない、文実についてだ」

 

 文実、という言葉を聞くと、先程までは和やかな雰囲気を保っていた二人は少しだけ真剣な表情になる。それは隣にいた松山も同様だった。

 こほんと少しわざとらしく咳をして、俺は少しだけ真面目な顔と声色を作った。

 

「今朝、雪ノ下から熱が出たという連絡がきました。まず間違いなく過労でしょう」

 

 途端皆の顔が曇った。

 三人にとっては危惧していたことが起きたと思った事だろう。もちろん、その通りだ。雪ノ下に負担をかけていたからこそ、過労で雪ノ下が熱をだすような結果に繋がった。それを知った二人が負い目を感じることによって、今後の交渉で優位に立つつもりだったのだが……。

 実は今朝雪ノ下から本当に連絡が来た。

 曰く『本当に熱が出たわ』とか。

 雪ノ下め、本当に出すやつがあるか。なんの為に俺が事前に忠告をして休ませたと思っているのか。そうならないためのはずだろうに。俺と交代できるからと、一時的に荷が降りて気が抜けたか?本人は『嘘をつく必要がなくなったわね、』なんて少々喜んでいたが。

 全く、戸塚の依頼の時に分かっていたことだが、体力のなさはアイツの弱点の一つだな。ちなみに他にも負けず嫌いなどがある。

 ともあれ、なってしまったものは仕方がない。

 もとよりそういう設定で行くつもりだったのだ、嘘から出た真と思うことにしよう。

 内心大いに呆れながらも、俺は普段通りの顔のまま言葉を続ける。

 

「雪ノ下が言うには明日には復帰出来る体調だという話でした。そこで折衷案として俺が今日だけ、雪ノ下の代理を務めることにしました」

「田島くんが?」

「はい」

「でも、相模さんから許可は得ているのか?」

「その事だが、そもそも許可なんざ得る必要がない」

「どういうことですか?」

 

 随分と怪訝な顔を向けられた。とはいえこれにおいては俺に説明義務がある。ここで理解を得られなければ、そもそもの前提が崩れるのだから。さがみ野以来の件も含めて、俺の考えを説明しよう。

 

「雪ノ下が副委員長になった経緯は、相模南が奉仕部に助力の依頼をしたことが発端です」

「奉仕部って?」

「ぼくや雪ノ下らが所属する、有り体に言ってしまえば生徒たちのお願い叶えることを手伝う部活です」

「そうなんだ……」

 

 生徒会長ですら知らない部活ってなんだよ。

 

「故に、雪ノ下が倒れたのでその代理が必要になったのですが、部長がダメなら副部長のぼくがやるという形になりまして。これなら自然だろう?葉山」

 

 そう言って葉山の方を見た。

 

「ああ。それなら納得だ。でも、悪いんだけど雪ノ下さんの代わりを君ができるとは思えないな」

「おお……言ってくれるな。まあ事実なのだが」

 

 葉山は至極当然のことを口にする。どんな関係なのかは分からないが、この男は以前から雪ノ下と知り合いのようだし彼女のこともよく知っているのだろう。故にこそ俺の実力を疑う発言だった。俺はそれを否定しない。

 

「確かにお前の言う通りだ。しかしそもそも雪ノ下の完全代わりをする必要はない。それに今の俺では十全に力を発揮することは難しいからな。あれだけの負担を一気に受け持てばキツイどころの話じゃない」

「だったらどうするのですか?」

「負担を受け持つことは出来ないが、分散させることは出来る。つまり、今参加していない委員を全員参加させる」

 

 雪ノ下には何故か聞かれなかったので説明しなかったが、さすがにあれだけの負担を受け持つのは骨が折れる。いやむしろ粉々に砕け散る、身も心も粉砕骨折だ。暫く歩けなくなることは請け合いだろうな。

 故に全員参加という形にすることによってかかる負担を分散する。

 

「なるほど……ですが、どうやって参加をさせますか?」

「うん。それは気になるな。私が連絡してもみんな忙しそうで来てくれなかったから」

「その為に二人をお呼びしました。ぼくが思うに、城廻会長はそのお人柄によって随分と三年生に慕われているようですから。ぼくが提示する内容と併せて実際に声を掛ければ彼らも来てくれるでしょう」

 

 城廻めぐりは、その人柄か、それとも生徒会長だからか、あるいはその整った容姿からか随分と三年生に慕われているらしい。文実中も三年生組は雪ノ下よりも彼女に頼っている場面が見受けられた。それは間違いなく彼女が三年生から一定の信頼を置かれている証拠だろう。

 葉山を呼んだのはこいつの顔の広さや人脈は二年生の中でも群を抜いている。名前が独り歩きしている雪ノ下と違って、実際に人と関わってその実力を発揮してきたのが大きいのだろう。今回の文実でもよく分かったが、他人を心配して行動に移せるだけの実行力がある。それはこいつの美徳だ。林間学校のように裏目に出ることもあるのだが、今回はそれは強い追い風になるだろう。

 ちなみに、葉山の武勇伝みたいなのは戸部から聞かされるのだ。何らかの下心ありでもよくやると感心したものだ。

 

「つまり、俺が呼ばれたのもそういうことなのか」

「そうだな」

「?なら私は関係ないと思うのですが?」

「お前は俺と一年の呼び出しだ」

 

 初めての文化祭で、かつ少しばかり感じている罪悪感を蘇らせるのならば、男女の先輩が教室までやってくる。このシチュエーションほど効果的なものはないだろう。よっぽどの不良じゃない限りは押せるはずだ。

 

「把握しました。確かに問題はなさそうです」

「それじゃあ、さっき言ってた提示するって内容のやつ聞かせて貰えるかな?」

「はい。とはいっても、ある文言を追加するだけです」

 

 その内容は、『文実の現状を鑑みて、先生方から参加の要請が出ている。これを無視すればペナルティが出るので、一度だけでもいいので参加するべし』である。

 これのポイントは、教師陣の名前を出していること、ペナルティの存在、そして一度だけというところだ。

 どれもが、今まで休んでいた生徒たちを強制的に参加させるために必要なファクターとなる。教師陣からの要請という点は、この参加をお願いではなく確かな要請であるという実感を。ペナルティの存在で教師陣がそれなりにこの現状を重く見ているのだと実感させ、事実上の最終通告であると理解させる。かつサボることに対する抑止力として。そして一度だけでもいいので参加するという文言を追加することで、一度だけなら参加しても良いかと思わせる。以上を持ってして、言葉と態度だけで生徒たちを参加させる。

 葉山と城廻めぐり先輩の力を借りれば、可能なはずだ。

 以上の内容を三人に説明する。

 

「なるほど。なら実際に休む生徒がいたら、どんなペナルティを出すんだ?」

「反省文を提出させる。もちろん、平塚先生から許可を得ているよ」

 

 ペナルティの件で名前を借りる許可を貰った際、ついでだからと色々と許可を貰った。雪ノ下の代理を行うことも、そしてこの反省文の発行もだ。

 実際に参加しない奴がいて、ペナルティがなかったと吹聴されるのも事だからな。

 

「以上を持ってして、雪ノ下の代理を務め、そして文実を相模南実行委員長の宣言前に限りなく近い状態に戻す。これがぼくの目的です」

 

 俺が説明を終えると、皆は何かを考えるように黙った。そした数秒もしないうちに葉山が口を開く。

 

「一応聞いておくが、仕事内容の把握はしているのか?」

「もちろん。そのために徹夜したんだからな。仕事の分配や、各担当部署における仕事のノルマも設定している」

 

 隣で松山が「あ〜」と声を出しながら納得がいったような顔をした。恐らく徹夜に対しての納得だろう。

 俺の説明を聞いて、葉山は暫く考えていたが、こちらへと視線を向けて頷いた。

 

「……うん、分かった。協力するよ」

「助かる」

「私も手伝うね。雪ノ下さんが熱出しちゃったのは、私の責任もあるだろうし」

 

 狙い通り、会長は負い目を感じてくれたようだ。人を動かすためには色々な要素がある。そのうちの一つが罪の意識だ。少しだけでも悪い事をしたと罪悪感を覚えることがあればそこに漬け込む事が出来る。ちなみにこれは洗脳の常套手段である。

 

「そうですか。ありがとうございます。それで声をかけるタイミングなのですが、放課後にお願いします」

「うん。わかったよ」

「それと葉山」

「うん?なんだい」

「相模には最後に声をかけろ。出来れば皆が揃いかけるタイミングが良い。遅刻にならないギリギリに来るようにな。お前ならできるだろう?」

 

 俺の発言に皆が固まる。言いたいことが理解出来たからだろう。

 これは俺の個人的な恨みが混ざった行為でもあるが、相模に対しての慈悲でもある。いい加減、自分を知ってもらう時だ。馬鹿は死んでも治らない。しかしその心を完膚なきまでに叩きのめして折ってやれば、少しばかり学ぶことだろう。

 会議室に入ってきたのが、自分が最後だと知った時どんな顔をするか見ものというやつだ。

 そんな俺の様子に、会長は少しばかり引いたように苦笑いを浮かべていた。

 

「……君、性格悪いってよく言われない?」

「いいえ?知り合いにもっと悪辣な女がいるので、初めて言われましたよ」

 

 雪ノ下とか雪ノ下とか雪ノ下とかな。

 微妙な空気が流れる生徒会室は、カチカチと時計が無慈悲に時を刻む音がだけが響く。気まずい雰囲気が流れたが、松山が俺の脇腹をどついた後立ち上がる。予想だにしない攻撃に、口からくぐもった変な声と共に空気が漏れ出た。

 

「お二人ともお昼は済ませましたか?」

「うん。俺は済ませたよ」

「あっ、私はまだ途中だった」

「そうですか。それでは私たちはこれで。さあ、行きますよ田島くん」

「……おう」

 

 痛む脇腹を抑えながら、俺もパイプ椅子から立ち上がった。なんだかここ半月程度で随分と容赦がなくなった気がする。これを信頼の表れと捉えるか、呆れられているのか。十中八九前者だが、ポジティブに捉えていこうと思う。何事もポジティブシンキングだと、彼女も言っていたことだからな。

 フゥと溜息を吐いて、俺たちは生徒会室を後にした。

 

 

 会議室には所狭しと生徒達が並んで座っている。

 執行部の席には平塚先生も来てもらっている。今回の要請が教師のものであると認知させる為だ。彼女は常にいなくて良いからちょくちょく顔を出してくれとお願いしているので、しばらくしたらいなくなるだろう。

 それと、隣には何故かニコニコしながらこちらを見つめてくる雪ノ下陽乃もいた。出来れば彼女はいないで欲しかったが、仕方がない。彼女の能力は有用だ。いるならいるで存分に使わせてもらおう。

 残りの生徒で来ていないのは、文化祭実行委員長である相模南と、その取り巻きの二人だけだ。生徒名簿に一人一人名前を書いてもらって、既に確認済みだ。幸い今回は皆が参加してくれた。

 相模は葉山に頼んで遅れて呼んで貰っているからな、彼女たちは今頃焦って来ることだろう。

 そうほくそ笑んでいれば、そら。

 

「ごめんなさ〜い!遅れ……まし、た」

 

 急いできたようで、少しだけ荒い呼吸でしかし脳天気な声色で入ってきた彼女たちに全生徒の視線が集中する。すると次第にその声も萎んでいった。

 そして相模はそそくさと自身の席に座ろうとするが、その隣に俺が座っていることに気づいて一瞬目を丸くする。「誰?」とぽつりと声が漏れている。

 しかし変わらず皆の視線が集中していることもあって、特に質問してくることなく席に座った。

 俺はそれを合図に彼女に許可を取ることなく、開始の宣言をするために口を開いた。

 

「それでは、文化祭実行委員会臨時ミーティングを始めます」

 

 さあ、始めるとしよう。




原作の雪ノ下さん家訪問の裏の話にあたります。

次回 田島くん頑張る


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三十二話 責務

君に恥じぬ生き方が、出来ているのだろうか


 時間は少し戻って、文実のミーティング前。

 少し手間取ったが一年生の呼び出しは概ね成功した。俺と松山が理論整然とペナルティの件を説明すれば彼らは二つ返事で了承した。元より初めての文化祭であまり悪目立ちするようなことをしたくなかったのだろう。

 二年生と三年生の呼び出しは未だに時間がかかりそうではあるが、ちょいちょい送られてくるショートメッセージを見るに問題は無さそうだ。

 俺が一人頷いていると、会議室に入ってきた比企谷が近づいてきた。

 

「……雪ノ下が熱出したらしい。聞いてっか?」

「ああ。平塚先生からな」

 

 嘘ではない。

 比企谷は神妙な面持ちになっていた。俺は比企谷や由比ヶ浜に代理の件は話していなかったから、仕方がないことではある。しかしこればっかりは話す必要がないと判断した。

 俺が動くのは奉仕部の監督役であり、そして副部長という肩書きを持っているからに過ぎない。故に奉仕部としては一人でやりたい。雪ノ下がそうしたように、代理としてやるならばそうしなければならないのだから。それに比企谷はわからんが、由比ヶ浜なら手伝いを申し出ることだろう。だから伝えなかった。

 何より、比企谷と由比ヶ浜には雪ノ下のメンタルケアをやってもらわねばなるまい。こっちの事を気にして、中途半端になって欲しくはない。俺には俺の、比企谷には比企谷の由比ヶ浜には由比ヶ浜のできることがある。それに専念してもらいたいのだ。

 

「一応、雪ノ下ん家行くって話になってるんだが……俺は行こうと思う。お前はどうする?」

「ふむ」

 

 スマホ取り出しメールアプリを起動すれば、確かに由比ヶ浜からそんな内容のメールが来ていた。今の今まで忙しかったから気にしていなかった。

 

「生憎と俺は今回の文実でやるべきことがあるからな……お前たちだけで行くといい」

「そう、か……分かった」

 

 一瞬だけ目を丸くした比企谷だったが、すぐにいつもの無愛想な面に戻った。

 

「ああ、出席の件ならば問題ないぞ。お前の名前なら名簿に書いてあるから、存分にサボるといい」

「は?なんのことかわからんが……それに名簿なんかあったか?」

「今回ばかりの特別措置だ」

「ほーん……だから人が多いのか」

 

 周囲へと視線を巡らせた後、納得したような顔をした。その後じっと俺を見つめてくる。

 そう見つめるな。勘違いされるだろ。主に比企谷のクラスの海老名、だったか?あの眼鏡の腐女子に。以前戸部と喋っていたら、急に現れて、何故か興奮し始めて鼻血を吹き出したからな。アイツは妖怪の類だ。絶対に関わるべきじゃない。だからそうやって視線を飛ばしてくるのはやめて欲しい。本当に。

 

「なんだ?いや、それより妖怪に見つかる可能性もある、そうやって俺を見つめるのをやめろ。気持ちが悪いだろう」

「いや別に見つめてねぇよ。というか妖怪って何?」

「妖怪眼鏡腐女子だ」

「ああ、海老名さんのことね……」

 

 何故か途端に辟易とした表情になる比企谷。こいつも苦労しているのだろうか。そういえば、F組の出し物は演劇だったか。確か、立案者でリーダーは海老名姫菜とかいう───そういうことか。大変だな、こいつのクラスも。文実に参加することになったことを話していた時にも、そういえば嫌そうな顔でミュージカルがどうのこうのと言っていたのを思い出した。ちょいとばかし比企谷に同情した。

 

「……それでどうした。まだ俺に何か用でも?」

「ん……いや別に用って程の用でもないんだが……ちょっと聞きたいことがあってな。なあ田島」

「あん?」

 

 俺の名前を呼んだ比企谷は妙に真剣な顔をしていた。

 

「雪ノ下でも、嘘をつくと思うか?間違いを、犯すと思うか」

 

 比企谷からこんな質問が飛んでくるとは思わなかった。こいつは他人の考えを自分の中に入れることはない人間だと思っていたから。だから少しだけ驚いた。

 恐らく、これは以前雪ノ下を評価していた時の完璧超人とやらの延長線にある質問だろう。つまり比企谷にとっての雪ノ下雪乃という人物は嘘をつかず、間違いを犯さない女ということになる。比企谷はずっとそのギャップに苦しんでいた、あるいは憤っていた。

 それはなぜか。由比ヶ浜から聞いた比企谷の事故の件、それを雪ノ下が話さなかったから?それを比企谷は嘘をつかない雪ノ下が隠し事をしていたという風に考えたのだろうか。

 それならば比企谷の一連の態度にも説明が着く。あのやけに刺々しい態度も、雪ノ下に対するあるいはそのギャップに対するものならば納得がいくのだ。

 ならば、比企谷は────いや、やめておこう。これ以上邪推するのは無粋だ。そもそも、比企谷には同情も憐憫も哀れみも必要ない。きっとな。

 だったら俺が言うべきことは。

 

「──知らん。自分で考えろ。俺の評価なんぞお前には必要ないだろう」

 

 俺の言葉はこの男には不要だ。

 

「俺は俺のやるべきことを見つけた。比企谷。お前もそれをさっさと見つけてこい」

「……分かった」

 

 比企谷は小さく頷いたあと会議室を出ていった。俺はそれを見届けて、首をコキッと鳴らす。

 松山がとてとてと近づいてきた。

 

「田島くん、書類の準備完了しました」

「良し。生徒が揃い次第始めるぞ」

「はい」

 

 松山が再度執行部の方に戻って生徒会役員たちと会話しているのを見て、俺も執行部の席へと向かった。

 

 

 そうして今に至る。

 会議室中の視線が俺に集まっていた。『お前は誰だ?』と問われる、そんな予感のする視線だ。あるいは俺がここに座っているのを問われるかもしれない。なんにせよ、説明義務が俺にはあるだろう。それは隣にいる相模においては最悪の説明になるが、まあ自業自得というものだろうさ。

 

「本日熱を出して欠席している、雪ノ下雪乃に変わってこのぼく、田島実が代理で副委員長をやらせていただきます。どうぞ、よろしく」

 

 ざわざわと喧騒がより強くなって上がった。いくつもの視線が俺に注いだ。それを煩わしく思いながら、俺は一切表情を変えることなく言葉を紡いでいく。

 

「皆さんの疑問も当然でしょう。ですからぼくにはある程度の説明義務があると思いまして。本日の流れを説明することも含め、この臨時ミーティングを開きました」

「それで、なんで君が雪乃ちゃんの代わりになるかなー?」

 

 と突然雪ノ下陽乃から声が上がった。発言は許可していないが、この女が勝手に喋るのは今までも多々あった。特に問題はない。

 隣で平塚先生がため息を吐くのが見えた。

 

「そうですね。まずはそれから説明しましょうか。実の所副委員長の雪ノ下雪乃がこの文化祭実行委員会の副委員長になったのは、彼女やぼくが所属する部活動『奉仕部』へ依頼があったのです」

 

 それまでは怪訝な目で見ているだけだった隣の相模南が、途端バッと焦ったような顔でこちらを見た。

 俺はそれを無視して言葉を続ける。

 

「確か……そう『文化祭実行委員長をやることになったけど、不安だから助けて欲しい』でしたか。そうですよね、相模実行委員長?」

 

 水を向けられた相模の肩がびくりと震えた。

 会議室は水を打ったように静まり返る。そしてそれはすぐにざわめきに変わった。

 ざわざわと相模を疑うような声がどこからが上がる。その度に相模は顔を歪めて、じっと下を向いていた。

 ああ、面倒くさいさっさと説明を終えてしまおう。

 

「なので部長である雪ノ下雪乃が代表として相模さんの"お手伝い"をさせて貰っていたのですが……日頃の無理が祟ったのか体調不良とのことですから。なので副部長であるぼくに水が向けられたという訳です」

「ふ〜ん」

 

 雪ノ下陽乃は納得したのかしてないのか判別のつかない返事をした。そして頬杖を着きながらまるで面白いものか否か見定めるように、俺を見ていた。

 だからこの女はこの場にいて欲しくはなかったのだが、仕方があるまいよ。なるようになるだろう。多分。

 

「ともあれ、これはもう決定事項なので説明も程々にしておきましょう」

 

 俺がそう言って、話を区切る。そして生徒会長へと視線を移した。彼女は頷いて「みんなお願いできるかな」と生徒会長役員達へとプリントの束を渡す。

 

「今から配るのは本日皆さんにやって頂く仕事のノルマです。それとそれぞれの担当部署における仕事内容と進め方や要点を箇条書きで記載しておきましたので、参考程度にどうぞ」

 

 役員達が各部署にそれぞれプリントを配っていく。俺が徹夜することになった原因の殆どがこれのせいである。仕事の再分配、それにおける仕事の説明。それを各部署にやらねばならなくなり、かつ相模に回す仕事の選別やら俺のやるべき仕事やらなんやらでてんてこ舞いだった。

 なんなら登校ギリギリまでやっていたので、正直学校を遅刻しようか迷ったほどである。しかしそれをせずとも完成させることが出来たのは、間違いなく雪ノ下の仕事の要点をまとめたメールのおかげだった。

 プリントを配り終えた役員達が座ったのを見て、俺は口を開いた。

 

「そのプリントに目を通し終えた部署から仕事を始めてください。今まで休んでいた方もいると存じますので、それぞれ協力しながら仕事を進めていただけると幸いです。ノルマが終われば帰ってもらって構わないので、今までの遅れを取り戻す為にも頑張りましょう」

 

 暗にお前たちが休んでいたせいで遅れているのだと、遠回しに、それでも確かに理解出来るように言葉にする。その言葉はじわりと彼らの罪悪感を刺激することだろう。

 その証拠に会議室は再び沈黙に支配された。緊張感が辺りを支配する。

 そうだ。今の今まで休んでいたのだ。それこそ馬車馬のように働いてもらおうか。

 

「それでは、実行委員長。開始の宣言を」

「……は、はい。えっと……それでは皆さん、本日も、よろしくお願いします」

 

 相模の頼りない開始宣言によって、俺の一日限りの文実が始まった。

 

 

 会議室は活気に満ち溢れていた。各々が仕事の為に手を動かし、時には意見を交換し合う。

 

「ここの収支合ってないんじゃないの?」

「今確認中!」

「ごめん!これ、ちょっと誰かわかる人いない?」

「会計か……それなら、松山。頼めるか?」

「はい。今行きます」

 

 俺の呼び掛けに松山が頷いて、会計で声を上げた三年生の先輩の元へと向かう。

 やはりと言うべきか、かなりの期間休んでいたせいで仕事の理解度が足りていない人間がいる。

 それを想定しないわけがないので、サポートの為、事前に文実が始まる前に頭を下げていたのだ。これまで休まず真面目に参加していたメンバーに。

 正直難しいかと思っていたのだが、彼らは俺のお願いに快く承諾してくれた。なんというか、俺たちは俺たちで不思議な信頼のようなものがあったようで。

 皆笑って『ここまで来たならとことんやる』と言ってくれた。

 彼らは今までおよそ全ての仕事に触れてきたので仕事の要点などを十分に理解している。更に今回も参加してくれた葉山を中心に、それぞれの部署で仕事に専念するのではなく、全体のサポートに回ってもらっている。

 今のように基本的には担当部署の仕事をしながら、どこかで声が上がれば、すぐさま駆けつけるそんな役目だ。

 それを快諾した上で実際にやってくれているのだから、頭が上がらない。飲み物でも奢って労った方がいいだろうな。

 

「あの、確認できたけど……」

 

 隣の相模がファイルを手渡してくる。受け取ってそれの中身を見る。

 

「問題ない。引き続き他のも確認を頼む」

「う、うん」

 

 相模は小さく顎を引いて、また別のファイルへと目を通し始めた。

 彼女はいくつか書類の確認作業と、判子を押すだけの作業を任せている。

 開始宣言の後、彼女の仕事に対する理解度合いを確かめたのだがほとんど理解出来ていなかったので、適当にできそうなものを渡しておいた。これならさすがに出来るだろう。実際出来ているようだから問題はない。

 

「代理、これ終わりましたので確認お願いします」

 

 報告にやってきたのは一年生だった。ああ、呼び出した時に一番俺に怯えてた男子生徒だな。覚えている。松山にしこたま文句を言われたからな。やれ『顔が怖い』だの『目つきが悪い』だの『口が悪い』だの『寝ろ』だの『顔色が悪い』だの。後半からはただの心配である。

 

「拝見します……問題はないようですね。ありがとうございます。ノルマ達成まではもう少しですね。引き続きお願いできますか?」

「……はい!」

 

 彼に対し労いの言葉をかけると、少しだけホッとしたように息を吐くと嬉しそうな様子を見せながら自身の席へと戻って行った。 

 文実の進捗は順調だった。元々残ったメンバーだけでも回せてはいたのだ。明確に間に合わない遅れなどはなかった。遅れがあったとしても、それは雪ノ下が以前言ったようなバッファを取ることの出来ない遅れだ。

 だから全員参加させ、その仕事を分配し負担を分散。それだけで進捗は目に見えて上がる。ノルマを設定したのも、彼らに対し終わりのない仕事ではなくここまでやれば問題ないとゴールを見せることで作業効率をあげる役目を果たせるからだ。ノルマ自体も困難なものではない。寧ろしっかりとやれば直ぐに終わるようなものが多い。

 予想通り、今日一日で進捗は元に戻せそうだ。

 一度キーボードを叩く手を止めて、乾いた喉を潤そうと手元に置いた湯呑みに手を伸ばしたが、それは空を切った。

 何故かそこに湯呑みはなかった。

 訳が分からず困惑していると、目の前にやってきた雪ノ下姉がコトリとお茶が入った湯呑みを置いた。

 

「はいこれ」

「あ、ああ……どうも」

 

 困惑が続きながら、俺は湯呑みに入ったお茶を啜る。安物のパックで作られたお茶は味が薄いというのに、目の前に雪ノ下姉が立っているという事実でより薄く感じられた。

 しばらく溜まった書類の確認をしながら冷たいお茶で喉を潤し終えれば、俺は再び作業を開始しようと湯呑みを置くとまだ彼女がいて普通に吃驚した。

 

「……えぇと、何かご用でも?」

「うん、そうね。もちろんあるわ。お姉さんちょっと君に聞きたいことがあるんだけど」

「はぁ、何か?」

 

 よく分からず、ただただ怪訝な目を向ければ、彼女はニッコリと笑う。

 

「ねぇ、これもしかして雪乃ちゃんのためにやってるの?」

「はい?違いますけど。見当違いの所感はやめていただきたいですね」

「じゃあ、誰のため?」

 

 雪ノ下姉は誰もが見蕩れるような笑みを浮かべながらも、どこか真剣味を帯びた声色で問うてきた。

 誰のためかと言われても、正直困った。別に誰のためでもないのだ。俺の行動は、監督役としての責務を果たすためであり、特定の誰かのために動いている訳ではない。

 だが、彼女の様子を見るにそういう答えを求められているのではなさそうなのだ。

 チラリと様子を伺う為に入ってきたであろう平塚先生へと視線を移した。

 そう、強いて言うのであれば──

 

「──愛しの平塚先生のため、ですかね」

 

 俺の言葉を聞けば、彼女は目を丸くしたあとプッと可愛らしく吹き出した。突然笑い出した彼女に対し、隣の相模や生徒会長が驚いていた。

 

「あっははは!そっか、そっか!静ちゃんのためか!」

 

 雪ノ下姉は、ひとしきり笑う。そんな様子に入ってきたばかりの平塚先生が何事だと近づいてきた。

 

「お、おい陽乃?何を私のことで笑っているんだ?」

「ふふふっ……あっ静ちゃん。ううん、なんでもないよ。あははっ」

「生徒の前でその呼び方はやめろ。それにその割には随分とご機嫌だが……」

 

 平塚先生は困ったような顔をして、俺へと視線を向けてきた。俺はそれに肩を竦めて返す。

 

「本当に何でもないよ。静ちゃん、良い生徒を持ったね」

「うん?そうか?」

「うんそうだよ。えっと、君名前なんだっけ」

「……田島実。見たまんまの、どこにでもいるような男ですよ」

 

 雪ノ下姉は愉快なもの見る目で俺を見てきた。

 

「君のような子がどこにでもいるならお姉さん退屈しなさそうだなぁ……君のこと気に入っちゃった。ちゃんと、覚えておくね?」

「出来れば忘れてくださると嬉しいですね」

「いやいや、それは無理だから。……あー気分いいからお仕事手伝っちゃお。隼人〜なんか仕事ない〜?」

 

 雪ノ下姉は愉快そうに笑いながら、葉山の方へと向かっていった。何故か葉山がこちらを申し訳そうに見ていたが、俺からすれば彼の方が大変そうに見えたので、気にするなと首を振った。

 しかしこうなるのが予想出来ていたから、あまり目立つ行動はしたくなかったのだが。

 小さく溜息を吐く。

 

「なあ田島。君、陽乃になんて言ったんだ?」

「特に何も言ってませんけど」

「言ってなければあんな楽しそうにする子ではないよ、陽乃は」

「いや本当に何も言ってませんから」

 

 さすがに本人に面と向かって言えるほど、俺は羞恥心を感じないわけではない。適当に誤魔化して俺は手を動かすのを再開した。

 それから顔を出す度になんと言ったのか確認しようとしてくる平塚先生に対し辟易としたが、それでも文実はつつがなく進行していった。途中で仕事を手伝い始めた雪ノ下姉のお陰かより効率が上がった。

 そして。

 

「代理。ノルマ全て終わりました」

 

 ノルマ達成の報告が上がるようになった。

 それもすぐに一部署だけではなく、全ての部署でのノルマ達成の報告が上がる。俺はそれに全て目を通す。どれも問題はなさそうだ。

 

「全て確認しました。ノルマの達成、ありがとうございます。これで本日は終わりですので、お帰り頂いても結構です。お疲れ様でした」

 

 俺の労いの言葉を皮切りに、多くの人が会議室を後にし始めた。

 時間にして、通常の委員会の終了時刻よりほんの少しだけ早い程度。日が沈み初めて茜色の日差しが窓から差し込み始めた頃だった。

 俺はそれを見て一度手を止めて、隣の相模の方を見る。

 

「おう、お前も帰ってもいいぞ。今回は終了宣言も要らん」

「……うん、分かった」

「お疲れ様」

「……」

 

 彼女は俺に返事をすることなく鞄を肩に提げて、いつもの取り巻きメンバーと共にそそくさと帰って行った。

 彼女はこの文実中、常に非難の目に晒されていた。『雪ノ下さんが倒れたのはこの女のせいに違いない』だとか『今こうして仕事が大変なのも相模のせいだ』だとかまるでそんなことを言いたげな視線に。実際に言葉にはされていないが、きっと彼女はそう思ったことだろう。

 もちろん、どの口が言うんだと我々は言いたくなるようかセリフではあるが、人というのは基本的自責思考ではなく他責思考だ。体の良い不満のぶつけ先がいれば、このように簡単に自身の行いを棚に上げて平気で人に責任をなすりつける。

 故に仕事中彼女は最低限の会話以外で言葉を発することはなかった。それは帰る時も同様に。

 とはいえそれも自業自得だ。かけた迷惑が回り回って帰ってきているのだから。当然の帰結なのだ。

 ああでも、君ならば彼女のことすらも救えたのだろうか。

 久しく忘れていた憂鬱がぶり返し、俺はそれを忘れるように手元にあったお茶を飲み干した。

 

 

 もはや会議室に人気はなく、残っているのは後始末をしている生徒会役員達と俺や松山だけであった。よく見れば生徒会役員もチラホラと帰り支度を始めている。ちなみに城廻生徒会長をいの一番に帰していた。過保護な役員たちだ。

 サポートをしてくれた精鋭たちには直接労いを言って、今度飲み物でも奢ると約束したのだが、松山から『うちのクラスの喫茶店。田島くんが淹れるコーヒー、一杯無料で良いのでは?』と言われた。なのでそれでいいかと言ったら普通にOKが出た。

 それでいいんだなと、なんだか拍子抜けだった。その後、彼らも残ろうとしたが、さすがに頑張ってくれたのもあって先に帰らせた。雪ノ下が復帰したらまた頑張ってもらうのだから、ゆっくり休んで英気を養って欲しい。

 残っている仕事を片付けながら、雪ノ下への引き継ぎを纏めていると松山が近づいてきた。

 

「お疲れ様です」

「……おお、お疲れ様」

「はい。田島くんはまだお仕事を?」

 

 松山は俺の手元をチラリと見る。

 

「ああ」

「お手伝いしますよ」

「いや、さすがに帰るといい。お前も疲れただろう」

「別に帰っても暇ですので。だから、ね?」

「そうか?悪いな」

 

 松山は隣の席に腰掛けて、適当なファイルを取った。いつの間にか、会議室には俺たち二人しかいなかった。

 

「……仕事今日だけで随分となくなりましたね」

 

 彼女は手を動かしながら俺の隣に置かれているファイル群を見て言った。

 

「そうだな。これで、次回からは多少楽ができる」

「そうですね。本当に良かった」

 

 松山はそう呟くように言う。その後は黙々と手を動かし始めた。俺もそれを見て、さっさと残りを終わらせる。

 そして十分もかからないうちに、残りの仕事や引き継ぎのまとめが終わった。

 隣では松山が喉を鳴らしてこくこくと、ペットボトルに入った水を飲んでいる。俺に見られていることに気がつくと、ボトルから口を離した。

 

「……終わりましたか?」

「ああ。手伝い悪いな、助かったよ」

「良いのですよ。それじゃ、帰りましょうか」

 

 松山が立ち上がった。それを見て、俺もPCや書類を纏めて、机の上に置いておく。これで次雪ノ下が来ても問題はないだろう。

 ふと、視線を感じて目をやると立ち上がった松山が、俺の事を見ていた。その丸い眼鏡の奥は、夕陽が反射して紅く染っており、いつもの眠たげな眼は見ることは出来ない。

 

「……やっぱり面白いですね。私の目に狂いはありませんでした」

「は?なんだ、急に」

「ふふっ。いいえ、お気になさらずっ。ではお先に」

 

 彼女はふわりと花が咲くように微笑んだ。そうして少し小走り気味で会議室を出ていった。それを見届けて、俺も立ち上がった。

 会議室の鍵を閉めて、職員室に残った先生に挨拶したあと鍵を返す。

 暗くなって影がかかり始めた廊下を歩きながら、俺はふと立ち止まった。

 スマホ震えた。

 画面を見れば雪ノ下からメールが来ていた。

 

『明日から復帰します』

 

 内容はそんな一言だけ。相変わらず事務的なメールだ。俺はどこか可笑しくて笑ってしまいながら、彼女のメールに返信する。

 

『了解。こちらは問題なく終了した。明日からはまたよろしく』

 

 メールが送信されたのを確認すれば、俺はまたスマホをポケットに入れて、再び歩き始める。

 後悔はある。もっと上手くやれた気もする。それでも、俺は確かにやるべきことを終えた。

 

「あ〜疲れた」

 

 そう呟いて、仕事の終わりを実感しながら俺は帰路に着いた。




松山ちゃんはこいつおもれ〜wって気分だけで田島に付き合っています

次回 その結果


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三十三話 つつがなく彼らの祭りの幕は上がろうとしている

  雪ノ下が復帰してからの文実はますます活気に溢れていた。それも俺が代理になった時よりも更に溢れていると言っていい。

 要因として何より雪ノ下が実行委員を全員参加の宣言を出したのが大きいだろう。彼女の宣言によって殆どの委員が毎回参加するようになったのだ。

 しかしそれだけでは彼らのやる気は上がらない。寧ろいい顔をしない人間の方が多いかもしれない。なにしろ今の今まで休んでいたメンバーも多いのだ。俺の一日だけ参加しろという甘い言葉に誘われて参加したであろうメンバーからすれば、全員強制参加というのはあまり歓迎すべきものではないだろう。

 そうした面を変えたたのが隣で積み上がる仕事にいつも通り、いやいつもよりも目を腐らせて仕事に励んでいる比企谷だった。彼が起こしたある行動が非常に大きな要因となっていると俺は見ている。

 彼はスローガン決めの際に『人 〜よく見たら片方楽している文化祭〜』と巫山戯たスローガンを発表して周囲を大いに凍らせた。それも彼のサボりたいという欲求込みでそのスローガンを発表したせいで、文実メンバーから『アイツがサボりたいだけ』『ああはなりたくない』と言った蔑みと、見下しの目を向けられるようになったのだ。

 比企谷が意図したのか意図していないのかは知らないが、少なからず周囲に伝播した悪意は悪意として返される。これによって比企谷は文実における嫌われ者になることが決定した。頑張らないやつはああなるというレッテル貼りと一緒に。

 故に、皮肉なことだが文実メンバーは仕事に励むようになったのだ。以前のような、一日だけなのだから仕事を早く終わらせれば、すぐに帰って明日からはまた休める。といった後ろ向きの理由ではない。彼の行いで、頑張れば格好いい、頑張らないやつは比企谷だといった風に彼らの中で意識付けができてしまったのだ。

 だからこそ彼らは仕事に励む。比企谷にならないように。

 とはいえ比企谷の自業自得の結果だから、庇ったりも誤解を解いたりもしないのだが。正直スローガンを発表した時はさしもの俺も苦笑いしができなかった。

 ああ……そういえば雪ノ下姉妹は笑いのツボが同じようで二人してツボに入ってしばらく笑っていた。特に雪ノ下姉からはより気に入られていたね。その調子で俺のことなんか眼中からなくなるくらいに気に入られて欲しい。

 多分、無理だろうが。

 ともあれ、そんなこんなで文実は抱えていた問題を解決し、今や文化祭開催に向けて皆同じ方向を見て進んでいる。そんな様子を見て、教師陣も安心したようで介入することをやめる方針に変えたそうだ。平塚先生から事後報告という形で伝わってきた。正直それが一番安心した。

 俺の努力が無駄にならなかったのだから。

 

「あ、あの代理……これ手伝って貰えますか?」

「俺はもう代理ではないからその呼び方はやめてくれ……全く、仕方がない。どれ、見せてみろ」

「ここなんですけど……」

 

 俺はと言えば、何故だが一年生に頼られることが増えた。未だに代理呼びだし。

 仕事が増えるから出来ればやめて欲しい。しかし文実において一度代理として全体の監修を務めたが故に、もはや今後の文実がどんな風に進むかわかっている。それと仕事の概要も理解があるので質問や仕事の手伝いなどで頼れるのだろうか。

 幾つか仕事を手伝ってやると一年はぺこりと頭を下げて自身の席へと戻って行った。

 そのままボケーッとしていたかったが、雪ノ下から鋭い視線が飛んで来たので俺も仕事に戻った。

 しばらくすれば、俺が任された仕事は終わる。時間もいい時間となり、自然と解散の雰囲気になっていた。

 周りに合わせて、俺も鞄を持って席を立ち上がる。すると未だに仕事中の松山が顔を上げた。

 

「田島くん。お帰りですか?」

「ああ」

「そうですか。私はもう少し仕事があるので、お先にどうぞ。お疲れ様です」

「ほう。大変だな」

「ちなみに、お手伝いしてくれてもいいのですよ?副委員長代理さん」

「生憎と代理業は店仕舞いだ。おととい来い」

 

 そのまま会議室を出ていく。

 雪ノ下の鋭い視線が飛んできたが、俺はそれに口角を上げて手をヒラヒラと振ってやると、彼女はぷいっと顔を背けてPCとにらめっこを始めた。

 以前に見えていた疲労の兆候はなし。とはいえ副委員長が故の疲れはあるが、それでも許容範囲だ。一晩良く眠ればなくなる程度のものだろう。

 これで元通りだ。後は、バッファを取りつつ文化祭の開催まで難なく漕ぎ着けるだろう。

 ……相模の事を除けば。あの女の行いは最悪だった。それによってもたらされた結果も終わっている。だから今の、腫れ物を扱うような扱いも当然だ。

 誰も口にはしないが、それでもそういう空気がある。今の相模は実行委員長というお飾りのシンボルだけであり、実際に指揮を執っているのは雪ノ下だ。そんな相模を蔑む雰囲気は消えなかった。いや比企谷のスローガン決めの時のせいでそれはより強くなっただろう。

 笑わず、必要なこと以外喋らず。終わればそそくさと会議室を出ていく。それは負い目が故か、単にそんな目に晒されたくない故か。

 なんにせよ、自業自得の結果なのだ。我々には救いようがないものというやつだ。元より彼女の望み通り、雪ノ下は相模のケツ持ちをずっと行っているのだから依頼の完遂は問題なくできるはず。だから何一つ問題はない。

 それこそ相模が、文化祭本番でその役目を放棄したりしなければだが……と思ったが、すぐに頭を振って思考を止める。

 湧き出てきた嫌な想像を捨てるように、深く息を吐いた。

 

 

 遂に文化祭が明日まで迫ってきた総武高。今日は朝から丸一日かけての前日準備となっている。

 我が2-Eも、教卓や黒板の下にある雛壇などをどかして、内装のセッティングに移っていた。

 調理などを行うバックヤードはロッカーがある壁の方に作ってパーテーションなどで仕切る。

 机を寄せてテーブルクロスをかけて少しばかり高級感を演出。飾り付け等の内装は全体的に安っぽい。

 何でも衣装だけで予算がカツカツだったらしい。その為コーヒーと一緒に出すものも軽食のみで、そのメニューもサンドイッチしかない。寂しいメニューだが学生の文化祭なんてそんなものだろうと思う。

 更にドリッパーは加藤が自宅から持ってきたものだ。随分本格的なものなので驚いたのだが、何でも加藤の自宅が喫茶店なのだそうだ。それで加藤も自ずとコーヒー好きになったらしい。

 今度コーヒーを飲みに行くと言ったら『是非来てよ!』と笑顔で言われた。少し金勘定込みの怪しい笑みではあったが。とはいえ楽しみなのは間違いなかった。

 クラスの男子達と一緒にえっちらほっちらと机などを運んでくると、松山が近づいてきた。

 

「田島くん。そろそろ文実の方に向かいましょうか」

「ああ。わかった」

 

 そう、もちろん文実は今日もある。というより今日が一番忙しい。オープニングセレモニーのリハや、公式ホームページの更新。それ以外にもそれぞれのシフトの確認などがある。

 俺達もそろそろ向かった方がいいようだ。如何せん松山がその辺の時間感覚が優秀で、ほとんど任せ切りになっている。彼女が声をかけてきたら俺も教室を出るというのが恒例だ。クラスメイトも同様のようで、何人かが仕事の代わりを申し出てくれたので、あとは彼らに頼んで俺は松山と一緒に教室を出た。

 廊下に出れば、どこのクラスも活気づいており教室のドアは開けっ放しでかつ人の出入りが多い。

 

「賑やかですね」

 

 俺はそれに「そうだな」と短く返事を返せば、賑やかな廊下を歩いていく。

 数分歩いていると見知った亜麻色の髪の少女が歩いていた。それまではつまらなさそうに歩いていた少女はこちらに気づくと、顔をぱあっと明るくして歩いていくる。

 一色いろはだった。彼女に気づいた俺は松山に断りを入れると足を止めた。

 

「こんにちは〜」

「一色か」

 

 一色はいつものように甘ったるい猫なで声で挨拶をしてきた。

 しかし隣の松山に気がつくと途端に怪訝な顔になる。そして俺の耳元まで顔を近づけてコソッと喋った。甘ったるい声と吐息が耳に触れてこそばゆい。

 

「……この人誰ですか。もしかして田島さんの彼女さんですか」

「……違う。文実の相方だ」

 

 一色は納得したような顔をして、何かを思い出すかのようにしながら口の前に人差し指を持ってくる仕草をした。

 

「あぁ……。そういえば田島さん、くじ引きかなんかで文実になったんでしたっけ。前に言っていましたね」

「田島くんとは同じ文実で2年E組の松山千佳子です。よろしくお願いします」

「あっ、自己紹介遅れてごめんなさい。一年生の一色いろはです」

 

 物腰丁寧で品の良いお辞儀をする松山。それに対し、わたわたと焦った感じを演出した後、きゃるんっと言った感じで笑い、その後ぺこりと可愛らしくお辞儀をする一色。いかにも対象的な二人だった。

 

「一色さんは田島くんとはどんなご関係で?」

「田島さんとは同じ中学で、私が一年生の頃からお世話になってるんですよ」

「となると結構長い付き合いのようですね。しかし意外と田島くんは顔が広い……後輩までいるとは」

「雪ノ下先輩と知り合いだって聞いた時私も驚きましたね。どうやって知り合ったんだって感じです。見た目超根暗なのに」

「そうですね」

 

 そして何やら俺の話で盛り上がり始めた。

 俺の話をするのは結構なのだが、俺をそっちのけで話し出すのはやめて欲しい。せめて見えないところでやって貰えないだろうか。

 しばらくワイワイガヤガヤと、ほぼ二人だけで話していると内容はクラスの出し物の話になった。

 

「へ〜。千佳ちゃん先輩のクラスはメイド喫茶をやるんですか」

「はい。いろはさんは?」

「アイス屋さんです」

 

 たった数秒の間に名前呼びになっている。一色もコミュ強なのだが、松山も負けず劣らずにコミュ力が高い。ココ最近の付き合いで松山もコミュニケーション能力に富んでいる女だとわかった。

 そんな二人が喋れば、打ち解けるのも早いということなのだろう。

 しばらくメイド喫茶のことで盛り上がった一色だったが、ふと何かを考えたかと思えば途端にこちらへと視線を向けてきた。

 

「……ちなみに、田島さんも女装とかしたり?」

「するわけないだろう」

「え〜別にいいじゃないですか。しましょうよ」

「しない。仮にするとしても、そんなものを見てどうする。なんの需要があるんだ」

「私にあるから良いんです。悲しくなったらそれ見て笑います」

「嫌な使い方だな……」

 

 人に元気を与えるのが俺の尊厳を破壊された姿の写真というのはあまりにも非人道的すぎる。俺の基本的人権を主張したい。

 

「そんなことよりもだ。お前、何をしているんだ。アイス屋だかなんだか知らんが準備はまだ終わっていないはずだろう」

「アイス屋舐めないでください。やることなさすぎるんですよ。もう内装もだいたい終わりましたし」

「凝った内装とかにすればいいじゃないか」

「アイスに予算掛けすぎて、内装にお金かけられなかったんですよね」

「どこも似たようなものだな……」

 

 一番見て欲しいところに金をかけすぎて他に金がかけられなくなるというのは、社会でもよくあるミスだ。社会の縮図たる学校でもそれが起きるのは当然のことなのかもしれない。

 

「すみませんいろはさん。私たちそろそろ文実に向かわなくては」

「あっ、ごめんなさい。でも最後にメアドだけ交換しませんか?」

「構いませんよ」

 

 この二人仲良くなりすぎなのではと思った。

 

「それと田島さん。文化祭当日は一緒に回りましょうねっ!」

 

 メアドを交換しながら、一色はこちらに顔を向けてウインクをした。

 

「まあ、構わんが。文実の仕事の合間になるぞ」

「それで良いですよ。私、友達とも回る約束してますから」

「そうか。ならいい」

「はい。それではお二人とも文実頑張ってくださいね〜」

 

 一色はたたたっと何処かへと駆けて行った。きっとあのまま、それこそ本当に飽きるまでサボるのだろう。仕事もできる上に、サボるのも上手いからな。あの後輩は。

 体育祭の実行委員になった時なんかは上手にサボるもんで、扱いに困った記憶がある。

 松山は一色が去っていった方向をしばらく眺めた後、こちらへと向き直った。

 

「可愛らしい方ですね。でも少し計算高い面もある。面白い方です」

「……変なやつだよ」

「田島くんには言われたくないと思いますが」

「あ?」

 

 松山は何か言うわけでもなく、クスリと笑ってそのまま歩いていった。

 仕方がなくその小さな背中を追いかけた。がやがやと賑やかな廊下を歩いて、俺は祭りがもうすぐそこにまで迫っていることを感じとっていた。しかし記録雑務の本番は当日だということを思い出せば、待ち構える仕事に小さくため息を吐いて、会議室へと向かう足を少しだけ早めた。




いろはすは原作と違って、多少は友人がいます

次回 フェスティバる


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三十四話 甘酸っぱく、憂鬱で、どこか心地よい

まるで夢でも見ているようだ


 暗闇があたりを包む。オープニングセレモニーを待つこの体育館は、隙間なく張り巡らされた暗幕によって光一つ通さない。この暗闇の中では、自身の視力なんて役に立たないだろう。それ故に人は光を求める。

 そして、俺はその光を与える行為を担当する役割が与えられていた。

 記録雑務は当日において多くの仕事が割り振られる。俺であれば照明、比企谷であればタイムキープ、松山であればPAだ。

 準備期間の忙しさがおかしいのであって、本来であれば今日が一番の山場なのだ。しかしどうも俺はあんな代理として出しゃばり方をしたせいか感覚が麻痺しているようで、この程度じゃ緊張なんざまるでなかった。

 手首に巻かれている腕時計を見れば、時間は九時五十分。そろそろ開演三分前の内線が飛んでくるはずだ。

 すると耳に嵌めたインカムがザザっとノイズを走らせた。

 

『───開演三分前、三分前』

 

 聞こえてきたのは比企谷の声だ。しっかりと役割を果たしているらしい。

 

『───雪ノ下です。各員に通達。オンタイムで進行します。問題があれば即時発報を』

 

 雪ノ下の落ち着いた声が聞こえると、ブツっとインカムは切れる。

 それを合図に俺はインカムのスイッチを押した。

 

『───照明、特に問題なし』

 

 そして続けざまに他の部署からも連絡が入る。楽屋裏のキャストが押しているだとか連絡があったが、特に間に合わないなどはなさそうだ。それぞれの報告は指揮を執る雪ノ下の元へと伝達されていく。

 

『───了解。ではキュー出しまで各自待機』

 

 俺はインカムに集中するのを止めると、照明の面々へと視線を巡らせた。彼らは皆インカムに集中している。秒針が静かに時を刻んでいた。生徒たちのざわめきは、開始の時刻に近づく度に静かさを増していく。

 今か今かと、誰もが固唾を飲んでいた。

 

『───十秒前』

 

 カウントダウンが開始された。

 

『九』

『八』

『七』

『六』

『五秒前』

 

 それまでの気だるげな男の声が、冷たい雰囲気の声色の女の声に変わった。

 

『四』

『三』

 

 そしてカウントダウンの声が消える。

 誰もがステージを見つめている。

 そして、心の中で最後の一秒を数えた。

 コントロールパネルの照明のスイッチを押した。瞬間、ステージに溢れんばかりの光が照らされる。

 

「お前ら、文化してるかー!?」

「うおおおおおお!」

 

 予定通り舞台に現れた会長の声に生徒たちはその怒号で体育館を揺らした。

 

「千葉の名物、踊りと───!?」

「祭りいいいいい!」

 

 こんな声がけ台本にあったか……?

 

「同じ阿呆なら、踊らにゃ────!?」

「シンガッソ─────!」

 

 会長のスローガンにちなんだ、予定にない謎のコールアンドレスポンスで会場を一気に湧かす。ちなみにスローガンは「千葉の名物、踊りと祭り!同じ阿呆なら踊らにゃsing a song!!」である。

 爆音の音楽と共に、ダンス同好会とチアリーディング部達を見ながら俺はホッと息を吐く。ともあれ照明はなんら問題なくステージを照らすことが出来ている。あとはこのオープニングアクトが終われば、相模が全体の挨拶をするので落ち着いた照明に変えるだけだ。

 

『───こちら、PA。間もなく曲あけまーす』

 

 PAから連絡が入る。そして相模がスタンバイするとキュー出しをされたので、曲が開けたタイミングで俺も色の着いた照明を落とすように指示を出した。カラー照明はコントロールパネルではなく直接機材を操作する必要があるのだ。

 それと同時にダンスチームが舞台袖へと掃けて、生徒会長が呼び込んだ。

 

「では、続いて文化祭実行委員長よりご挨拶です」

 

 ステージ中央へと歩いてきた相模の顔は、誰が見ても固かった。全校生徒の視線が集中すれば、相模のその足はピタリと止まってしまう。マイクを持った手は震え、目はあちらこちらへと泳いでいた。

 しかし何とか言葉を発するために口を開いて、声を発した瞬間。きーんと耳を劈くようなハウリング。インカムからは音響の報告が入るが、特に機材には問題ナシとの事だ。

 ドっと、生徒たちが爆笑した。もちろん悪意なんてものはない。しかし相模にとってはどう聞こえるか。

 不味いな。大丈夫か、あれ。

 相模は涙目になりながら、ハウリングが収まった今でも話出さない。見かねた会長がマイクを握った。

 

「……では、気を取り直して、実行委員長、どうぞ!」

 

 その声で焦ったようにカンペを取り出した相模だったが、狂った指先によってそれはステージへと落ちる。その様子がまた観客の笑いを誘った。

 真っ赤を通り越して真っ青になった顔で相模はカンペを拾った。一部の生徒たちから無責任な「がんばれー」といった言葉が飛んでくるが、そんなものは今の彼女にとっては励ましにならなかった。

 そうしてようやく行われた挨拶は、カンペがあるというのにたどたどしく、ゆっくりゆっくり棒読みで読み上げられていたがどう考えても時間を押している。

 

『───比企谷くん。巻くように指示を出して』

 

 ノイズ混じりの雪ノ下の声が聞こえた。役職名ではなく名前で呼ぶのは如何なものだろうか。

 

『───さっきから出してる。見えてないみたいだけど』

『───そう。……私の人選ミスかしら』

『───それは俺の存在感のなさを揶揄しているのか』

『───あら、そんなこと言ってないわ。それよりさっきからどこにいるの?客席?』

『───めっちゃ揶揄してんじゃねぇか。ていうか───』

 

 突然インカム越しでいつもの漫才が始まった。

 こいつらインカムだから全体に入っているということが分かっているのか?バカなのか?馬鹿なんだろう。ため息をついてインカムのスイッチを押した。

 

「おい阿呆ども。黙れ。聞こえているぞ」

 

 俺がそう言えば、インカムがブツっと音を立てて切れる。そして数秒を置いてイヤホンにノイズが入った。

 

『───…………以降のスケジュールを繰り上げます。各自そのつもりで』

 

 たっぷりの間を開けて、それっきり通信が途絶える。別に俺が漫才をした訳でもなければ、恥をかいたわけではないのに、何故だか指摘した俺すらも恥ずかしくなってきた。眼鏡を外して、服の裾でレンズを拭いてからステージへと目をやった。

 オープニングセレモニーはようやく相模の挨拶が終わって、次に移る。

 グダグダな文化祭の幕開けに、俺は小さくため息を吐いた。

 

 

「「お帰りなさいませー!」」

 

 大正浪漫風のメイド服を来たうちのクラスの女子生徒たちが、入ってくる生徒たちをとびっきりの笑顔で迎え入れる。

 オープニングセレモニーが終われば、文化祭は本番に入る。我が2年E組も同様であり、一風変わったメイド喫茶を謳っているが故に客入りはそれなりのものだった。一日目は一般公開はされておらず、生徒のみの文化祭となっている。

 それでも生徒たちによって席は満席。メニューとにらめっこしている客からのオーダーで、メイド服をきたクラスの女子生徒たちは忙しなく働いていた。

 それは余った男子生徒たちで構成されているバックヤードも同様であった。

 

「田島くん。特製コーヒーオーダー入りました!」

「了解」

 

 ポッドに入っているコーヒーをカップに注いでメイド服を来たクラスメイトに手渡す。彼女はすぐに客席の方へと向かっていった。

 事前に加藤と一緒に抽出しておいてよかった。じゃないと間に合わない予感がしたのたが、案の定である。

 では俺が何をやっているかと言うと、これまたひたすらにコーヒーを抽出していた。

 加藤が持ってきたドリッパーは二セットある。わざわざスタンドまで持ってきている辺り本格的である。

 基本的にドリッパーは1〜4杯ほど抽出することが出来る。大きなドリッパーなら4〜6杯分と言った形だ。ちなみに、中には28杯分を一度に用意できるといった化け物みたいなやつもある。ドリッパーではなく、パーコレーターではあるが。

 今回持ってきてくれたのは大きめのドリッパーであり、二セット稼働させればだいたい10杯分は確実に抽出できる。なので注文の多さに反して提供量が少なすぎる!といったことはない。

 そもそもこの特製コーヒー、正式名称を『コーヒー好きによる丹精込めた特製コーヒー』というのだが……名前もう少しどうにかならなかったのか?ウケを狙いにしては露骨すぎるだろう。これ、一杯650円である。コーヒーにだ。それも素人のだぞ。

 ちなみにただのインスタントコーヒーは200円。サンドイッチは1番高いのでも350円だ。ほぼ倍である。誰が頼むんだこんなぼったくりコーヒー……と思ったが、意外と注文が来る。文化祭の熱に当てられたのだろう。あるいは物珍しさからかもしれない。どちらにせよそれなりの頻度で頼まれた。

 なので俺は常にドリッパーを動かしていた。

 今回使われているのは某有名コーヒーチェーン店スター○ックスの深煎りコーヒー粉『カフェベロナ』だ。それの中挽きのやつ。

 癖になる力強いコクと酸味が抑えられたその味わいは、既に挽いてあるコーヒー粉とはいえ、バランスのとれた深さを舌で感じ取ることが出来るだろう。

 あのチェーン店のコーヒーなら飲みなれている学生も多いだろうし、俺と加藤二人で選んだのだが正解だったようだ。ちなみに一袋お値段1440円。結構お手軽なお値段。

 俺も少しだけ飲ませて貰ったが美味かった。最近のコーヒーは馬鹿にならないからなぁ。コンビニコーヒーなんてそこら辺の店より上等なものもあるし。それがお手軽な値段で飲めるようになったのだから、便利な時代になったと婆さんが言っていたのを思い出した。

 忙しなく動くクラスメイトを時折眺めながら、温度計とにらめっこをしていると加藤がやってきた。

 

「やほやっほ。売れ行きはどうよ?」

「上々だ。見ての通り盛況だよ」

「そりゃよかった」

 

 加藤はウンウンと頷くと、腕に巻かれた時計を見る。

 

「いい時間だから変わろっか」

「わかった……そうだ、十四時からは文実の仕事があるんだが」

「うーん……じゃあ三時間ぐらい私がぶっ続けで入るかー」

「悪いな」

「いいよいいよ。なんか後輩ちゃんと回るんでしょ?松ちゃん言ってたし、遊んできなよ」

「前から思ってはいたがあの女口軽いな……了解だ」

 

 少し人の事情ペラペラと喋りすぎな気もするが、彼女の性格上聞かれたら答えるという応対をしていても不思議ではない気がする。結構素直なやつではあるからな。

 加藤にあとは任せて、俺はバックヤードを出た。教室には生徒たちで一杯になっていて、わいわいがやがやと喧しくてしょうがない。とはいえこれが文化祭というものなのだろうとも思うのだ。文化祭もこれで二回目だが、この熱にだって特段感じ入るものはない。

 出来れば、彼女にも見せてやりたかった。きっと彼女はこういう人々が熱に浮かされて笑顔になるようなイベントは好きだったろうから。

 それが叶わぬ願いだと知ってもなお、そう思ってしまうのは、俺がほとほと間抜けな男だという証明なのだ。

 ああ、こんな時にも憂鬱な俺は、きっと罰当たりでどうしようもない男に違いない。そんな俺が当然のように生きていることが、ただただ恥ずかしかった。

 

 

 一色のスマホに連絡を入れれば、十秒後には返信が帰ってきた。早いな。

 とりあえず待ち合わせの場所である昇降口の方まで行く。外の模擬店へと行き交う生徒達でごったがえしていた。あたりを見渡せば一色は既にそこにいた。だから早いな。

 俺が来たのに気づくと一色は頬をふくらませる。

 

「田島さんおそーい」

「お前が早すぎるだけだろ」

 

 一色はヘラっと笑ったあと「はいこれ」と言ってアイスキャンディーを渡してきた。

 受け取って包装紙から取りだし、早速アイスキャンディーを食べる。サクッとした食感と優しいミルクの味が美味い。何故だが懐かしくなる味わいだが、パッケージの方にも昔なつかしいアイスキャンディーと書いてあるので狙って作り出されている味なのだろう。

 

「どこで買ってきたんだ?」

「外の模擬店で売ってたので、いまさっき買ってきたんですよ」

「そうか。悪いな……それでいくらだ?」

「150円になりま〜す」

「コンビニで買えるやつより高いのが良い商売してるよ……そら」

「毎度ありです」

 

 一色さ渡された小銭を財布にしまう。水色で二つ折りの可愛らしい財布だった。

 そんな仕草をしている彼女の袖口から、ふと手首の当たりがちらりと見える。彼女が以前から大事にしていたレザーベルトの腕時計が、そこには着いていなかった。

 

「……お前、いつもの時計はどうしたんだ?」

「ああ。アレ、壊れちゃったんですよね……お気に入りだったんですけど」

「そうか……」

 

 彼女が酷く残念そうな顔をして手首の辺りをさするのを見て、以前誰かからプレゼントしてもらったと言って、大層喜んでいたのを思い出した。相手を聞いたんだが、蠱惑的な笑みで『秘密です』と言われてそれ以上追及するのをやめたのだったか。

 ……腕時計、それも皮ベルトのものはおおよそいくらするのだろうか。後で調べておこう。

 

「……はいっ!湿っぽい雰囲気はこれくらいにして、どこか行きません?田島さん」

「どこに行く?」

「田島さんのクラスとか?」

「この時間だと一番混んでそうな気もするな……」

「でも私、まだお昼食べてないんですよね」

「俺もだ」

 

 ふむと二人で思案する。しかしすぐに考えるのも面倒くさくなった。空腹のせいで考えが上手くまとまらない。いくら少食とはいえ腹は減る、こと今日はいつもよりも腹が減っていた。適当に歩いてそれらしいものでも見つけるとしよう。

 

「適当に外の模擬店にでも行くか」

「ですね。あ、そういえばホットドッグ売ってましたよ」

「良いな。それにするか」

「それじゃレッツゴーです!」

 

 

 ホットドックだとか、ハンバーガーだとかのジャンクフードの利点は、単体で結構腹一杯になるというところだろう。そして何より片手で食えるのがいい。歩き食いというシチュエーションには適している。

 とはいえ校内での歩き食いは基本禁止されている。一部の部屋が休憩所として提供されているので、そこで大人しく飯を食べた。

 食い終わって、休憩室から出れば時間はおよそ十三時。交代した時間から一時間が経っていた。

 あと一時間もすれば、俺は参加して申請書類と違う出し物がないか確認するというなの見回りをすることになる。確か他の文実メンバーと一緒に回ることになっているはずだ。一般公開の日に向けて万全を期して行くという意思の表れだろう。

 

「それで、次どこ行きます?」

「そうだな……」

 

 顎に手をやって考える。食い物系は正直もういい。甘いものとかは正直アイスキャンディーだけで腹一杯だった。

 となるとアトラクション系だが、どこがいいのだろうか。適当に生徒の話に聞き耳でも立てて評判の良さそうな場所でも……。

 

「では、お化け屋敷などはどうでしょうか」

「おづっ……!?」

 

 ニュっと、突然俺と一色の間に松山が生えてきた。比喩ではなく本当に。俺は辛うじて変な声を出すだけで済んだが、一色に至っては驚きすぎて声を失っている。

 先程まで仕事をしていたのか、メイド服を身にまとった松山は、二つに結んだお下げを揺らしながら俺たちの様子を相変わらずの眠たげな目で見ていた。

 

「心臓が止まるかと思いました……」

「お化け屋敷なんぞよりよっぽど驚いた気がするぞ……仕事終わりか?」

「ええ。ちょうど終わってなにか暇潰しでもしようかと思った所でお二人を見つけたので」

 

 だからイタズラしましたと言わんばかりに、その口角を彼女は釣り上げた。愉快そうで何よりだよ。

 

「それでなんでお化け屋敷なんだ」

「何でも三年生のお化け屋敷がかなり評判が良いと耳にしまして。ですが一人で行くのは少々不安でして」

「じゃあ千佳ちゃん先輩一緒に行きます?」

「ええ是非」

 

 一色の申し出にこくりと頷き、松山は彼女の隣に立つ。

 しかし、一色が一緒に行くと申し出るとは思わなかったな。それだけ松山に心を許したのだろうか。

 まあ、俺としては特に同行について異論はなかった。

 

「ならば、さっさと行くぞ」

「はーい」

「松山が なかまに なった!」

 

 道中でラムネ瓶を買いつつも、俺たちは三年生の教室まで歩き始める。その後ろで目の前を歩いて会話する二人の背中を眺めていた。しかし並ばれるとよりどっちが先輩で後輩かパッと見じゃわからんな。

 などと思いつつ俺はラムネのシールを剥がす。蓋として飲み口を塞ぐビー玉を付属の部品で落とせばボンッと重い音が鳴って、その後炭酸の泡が少し吹き出してきた。それをハンカチで拭えば、飲み口に口をつけた。

 シュワシュワと口の中で炭酸が弾ける。爽やかな味わいの炭酸水を喉に流し込めば、さっきまで喉奥にあった気持ち悪いものもなくなっていく気がした。

 炭酸飲料特有の喉が焼けるような感覚がする。

 それをどこか心地よいと思う自分が確かにいる。

 

「まあ、たまにはこういうのも悪くはないさ」

 

 誰に聞かせる訳でもない呟きは、すぐに祭りの喧騒の中に消えていった。




次回 筆が乗ればデート続き、なければ文化祭二日目


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三十五話 好奇の芽生え

 文化祭二日目。

 昨日と違って一般公開日となり、学校関係者ではない一般の客もやってくる。総武校の文化祭という点で、とかく地域との繋がりを重視している文実にとっては今日からが本番とも言えるかもしれない。

 外部からやってくる一般客や、受験予定の受験生などが学校の雰囲気を見るために訪れる。有志による出し物も今日行われるのだったか。

 総武校生徒たちも外部向けに多少はキリッとして、という訳もなく、むしろ青春の名のもとに人生で数回しかない文化祭を謳歌してやろうという連中しかいない。先程見かけた、ウェイウェイ言っていた戸部なんかその最たる例である。

 とはいえ、そうではない人間もいる。比企谷のように青春の二文字に似つかわしくない男たちもいるのだ。そして今俺の目の前で仁王立ちをする大男も、その例に漏れない。

 

「もははは!ここにいたか!師よ!」

 

 たまたま、そうたまたま一人になって待ち人を待っているタイミングでエンカウントしてしまった。暑苦しくてやかましいあいつ、材木座義輝である。

 

「材木座か……何か用か」

「用も何も、分かっておるだろう?」

 

 フッと笑い、眼鏡を人差し指でクイッと上げれば、彼は再び呵呵と芝居がかったふうに笑う。その姿に頭痛がする中俺は再度質問をした。

 

「だから、何の用だ。具体的に端的に言え」

「我、暇。構って」

「端的に言ったのは褒めてやろう。だが俺にも用事があるんでな。断る」

 

 そもそも用事がなくても誰が好き好んで材木座の相手をしたいと思うのか。よほど暇で暇で死にそうでかつ興が乗っている時ではない限り、御免こうむりたい。

 

「何故に断るか。師も我と同じくこの煩わしい愚か者共の祭りが終わるその時まで、孤独に耐え忍ぶ同士とお見受けしていたが?」

「お前が俺のことをどんな風に思っているのかが良くわかったよ」

 

 普段通りに尊大不遜な態度をとる材木座にため息を吐いた。

 しかしこいつの言うこと通りならば材木座はこの文化祭の間一人でいたのだろう。少しだけ哀れに思ったが、よくよく考えなくてもこいつの態度が原因だ。身から出た錆である。

 いい加減その暑苦しいコートと痛々しい指ぬきグローブを脱げばいいものを。いやしかし根本的な性格がダメ寄りだから、難しいか?

 

「なんにせよ、用事があるのは本当だ。そろそろ来ると思うが……」

 

 あたりを見渡してみるが、如何せん人が多い。生徒に家族でもいるのか、楽しげに親子連れで来ている家族。他校の制服を着た、恐らく中学生であろう少年少女達。

 群衆の中に目的の人物は見当たらない。背が低いからな。母親と来ると言っていたし、目印はそっちにするべきか。

 

「誰を探しておるのだ?」

「知り合いだ。小学生の少女なんだが……。印象は雪ノ下を小さくしたような感じの容姿をしている」

「ほむん……我も探してみよう」

「そうか。頼んだ」

 

 二人してキョロキョロとあたりを見渡すが変わらず見つからない。

 材木座のような風貌をした男がしきりに周囲を見渡すせいで、なんだか衆目の目線がこちらを怪しむようなものになってきた。

 一旦連絡を取った方が良さそうだなと思いスマホを取り出した。

 

「あ、みのるんいた!」

 

 少し遠くから声がかかった。

 声は由比ヶ浜もので、そちらへと向けばクラスTシャツであろうオレンジ色の半袖の服を着ていた彼女は、とびきりの笑顔を浮かべていた。

 

「って、なんか中二もいるし……」

 

 材木座の姿を認識した瞬間その顔はすこぶるに嫌そうな顔になった。

 

「ハヒッ……いやその……スッー」

 

 対する材木座は目を泳がせ、口数は少なくなる。相変わらず女相手だと途端に弱気になるなこいつ。

 

「……それで、俺を探していたようだがどうかしたか?」

「えっとね……」

 

 そう言って由比ヶ浜は背後へと目を向けた。

 

「実さん」

「うん?留美か」

 

 そこに居たのは留美だった。由比ヶ浜の後ろから出てきた彼女は、ようやく安心したようでホッと息を吐いた。

 

「いやー、たまたま留美ちゃんと会ってさ。みのるんのこと探してるっていうから、あたしも手伝う事にしたんだよね」

「そうか、手間をかけたな」

「ううん。留美ちゃんと喋りながら探してたから。それにみのるんの話色々と聞けたし」

「うん。色々と話した」

 

 何を話したのだろうか。いや、とはいえ彼女とは特段大したことはしてない。休みの日によく通う喫茶店に連れていったくらいだろうか。あとは彼女から近況を聞くくらいだったが。

 しかし、母親の姿が見当たらないな。

 

「一人で来たのか……春美さんはどうした?一緒に来ると聞いていたが」

「うん。お母さん用事があるから急に来れなくなっちゃってさ」

「そりゃあ、大変だったな。ここまで遠かっただろうに」

「まあね。でも、これもいい経験ってやつじゃない?」

「確かにそうだな」

 

 俺はその言葉に、肩を揺らしながら肯定した。

 そんな俺たちの様子に、材木座は些か衝撃を受けたかのような顔をしていた。

 

「……実さん。そこの変な人、変な顔して見てるけど」

「特に気にする必要はないぞ」

「我は変な人にあらず!材木座義輝、剣豪将軍である!」

「……きも」

「うわぁ……」

 

 留美に対しコートを自身の手ではためかせ、材木座はキメ顔をした。そんな彼の見ていられない言動に、留美は冷めた目で見つめていた。由比ヶ浜は最初からずっとそんな目だ。さながらチベットスナギツネである。

 

「師よ……どうやら我らは袂を分かってしまったようだな……しかし我は孤独と共に生きる、孤高なる剣豪将軍なれば。師の歩む道を共にゆくことは出来ない」

「は?」

 

 俺の疑問の声は他所に、材木座は「さらば!」とコートを翻し、雑踏の中へと消えていった。

 相変わらず騒がしいやつだ。結局、何がしたかったんだ。

 留美は材木座が去っていた方向を見ながら呆れたようにため息吐いた。

 

「……やっぱり変な人じゃん」

「中二だからねー。ていうか二人とも超仲良いね?」

「そうか?」

「別にそんなことないけど」

「えー?そうかな。でも名前呼びだし……」

 

 名前呼びになったのは、留美の母親。春美さんが苗字呼びで反応する変な遊びをし始めたからだ。

 

『鶴見』

『はい?』

『いえ、お母さんの方ではなくて』

 

『ちょっといいか鶴見』

『なに?』

『どうかしましたか田島さん』

『いや、その……娘さんの方で……』

 

『つる……』

『……』

『……留美』

『どんまい』

 

 この前留美を迎えに行った際に、こんな反応をされてかなり面倒くさかったので、それからは名前呼びにしたのだ。最後の方なんざ名前を呼ぶ気配を察知してニコニコしながら構えてやがった。お淑やかな見た目に反して、存外イタズラ好きでお茶目な性格の女性らしい。全くもって油断ならない。

 それを考えれば確かに仲が良いとも言えるのかもしれないな。そもそも良く考えれば、仲良くもない小学生とだったらこうしてよく分からない関係性を続けられんか。

 

「まぁ、そうかもしれないな」

「でしょ?」

「そうだな。それで、留美。どこか行きたいところはあるか?」

「実さんのクラスがいい。コーヒー淹れてくれるんでしょ?」

「そうだな。少々値は張るが」

 

 その値段700円。小学生の財布事情では難しいだろう。

 父親から強請って貰ってきているという話ではあったが、相手は留美なのだし別に奢ってやるのもやぶさかではなかった。

 後で野口を握らせておこう。

 

「みのるんのクラスかぁ。メイド喫茶だっけ?隣のクラスなのに、まだあたし行けてないんだよね」

「別に大したものでもないがな。しかしな。今はまだ混んでいるだろうし、何より留美。お前は俺の淹れるコーヒーが目当てだろう?」

「うん」

「なら俺がクラスの仕事に戻る時に来ればいい。由比ヶ浜も一緒に来れば一人にすることもない」

「あたしに留美ちゃんの面倒みさせる前提の話じゃない?それ。や、別に嫌じゃないし全然いいけど」

 

 何故ならば、由比ヶ浜は暇そうだから。というのを言っては留美の面倒を見てもらえなさそうなので、心の中に留めておく。

 由比ヶ浜は暫く考えるように腕を組めば、あっと声を上げる。

 

「そうだ。二人ともうちのクラスのミュージカル見に来れば?」

「ミュージカル?どんなの?」

「えっとね。星の王子さまってやつ」

「……実さん知ってる?」

「有名なフランスの児童文学だ」

「ふーん」

 

 砂漠に不時着した宇宙飛行士の『ぼく』と、そこへやってきた別の星の『王子』との交流の話、そしてその王子が地球へ帰るまでの星巡りの話だ。

 俺も昔読んだことがある程度でその内容は詳しく覚えていない。

 これが比企谷や雪ノ下であれば、自身の知識を見せびらかすよう話せるのだろうが、如何せん俺は読書が苦手であるのが故に、そこまで見識は深くなかった。こればっかりは得手不得手の問題なので勘弁して欲しい。

 そんな中留美は少しだけ興味を持ったのか、由比ヶ浜からそのミュージカルとやらの話を聞いていた。数分後、だいたい聴き終えたのか、彼女は俺へと目を向けてきた。

 

「ねぇ、実さん。私ちょっと観てみたい」

「構わないぞ。どうせ時間になるまで暇だからな」

「あ、そういえばみのるん文実の仕事はいいの?」

「今日はエンディングセレモニーまで仕事はない。特に問題はないな」

 

 シフトを見たところ、今日はエンディングセレモニーまで特にやることはなかった。故に暇だった。だからこうして鶴見と一緒に回ることを承諾したのである。

 そうでなければちょくちょく抜ける可能性があるというのに、彼女の面倒を見ることを引き受けなどしなかった。

 由比ヶ浜は俺の返答に「そっか」とこくん可愛らしく頷いた。

 

「じゃあさ、やっぱあたし達のクラス見てってよ!ちょうど開演時間も近いからさ」

「うん。ちょっと興味出てきた。実さんいこ?」

「いいぞ」

 

 留美が手を出してきたので、その手を握る。握り返してくる小さな手は頼りないものだったが、俺の手をしっかり握って離すことはない。信頼がないな。

 由比ヶ浜はそんな様子を見て、目を丸くする。

 

「え、なんか思ってる以上に仲良い?」

「人混みに入ると、すぐにはぐれそうになるもんで、自然とこうするようになっただけだ。他意はない」

「実さん。目離すとすぐどっかいっちゃうから」

「しかも原因みのるんなんだ……」

 

 仕方がないだろう。今まで小学生くらいの背丈の人間と外に出かける機会なんてなかったのだ。そのせいで考え事をしているとすぐに見失うのだ。全ては留美の背が小さいのが悪い。早く大きくなれ。

 

「私のせいにしないでよ。どう考えても実さんがフラフラするのが悪いでしょ」

「特に何も言ってないだろう」

「言ってなくても、私の頭見ながら不満そうにしてた。目線で語るってやつ」

「……していない」

「してるじゃん……」

 

 鶴見は若干こちらを馬鹿にするように半目で見つめる。横からは呆れるような視線が由比ヶ浜から飛んできた。

 暫く注がれる視線に耐えつつ、俺は由比ヶ浜の所属クラスである2年F組まで向かうのだった。

 

 

「面白かった」

 

 観終わってからすぐに留美がそう口にした。随分とミュージカル……歌ったり踊ったりしてないからほぼ演劇だったが、それを彼女は熱心に観ていたのだから、言っている通りに面白かったのだろうと思う。

 実際戸塚や葉山の演技は中々のものだった。ラストの戸塚が演じる『王子様』が、蛇の毒によって音もなく倒れたシーンは、戸塚の儚げで消え入りそうな雰囲気を醸し出す圧巻の演技によって思わず息を呑んだ程だ。演技指導の賜物か、戸塚の天性の才か。どちらにせよ侮れない演技だった。

 内容に関しても、俺は星の王子さまのストーリーなんてほとんど記憶になかったが、それでも『ああ、こんなのもあったな』と思い返せるくらいには沿っていたと思う。

 しかし、何故だろうか。妖怪眼鏡腐女子が脚本を担当しているという先入観のせいか、セリフの一つ一つがBLに聞こえてならなかった。

 おのれ妖怪め、ここでも俺の邪魔をするか。

 しかし隣で満足そうに笑みを浮かべる留美を見れば、単に俺が汚れているだけなのかもしれないと思い、少し反省をした。いやでもやはり妖怪のせいでは?

 満足気な留美の反応に由比ヶ浜は安心したようで、ホッと胸を撫で下ろしていた。

 

「そっかあ。良かった。あたしが誘ったのに面白くないって言われたらどうしようかって思ってたから……」

「他にもなんかこういうのやってるとこってあるの?」

「うーん。あたしは詳しくは知らないけど……みのるんはどう?知ってる?」

「いや、確か演劇だのミュージカルだのを申請していたのはお前のクラスだけだな」

「そっか」

 

 留美は残念そうに呟いた。

 

「随分と気に入ったみたいだな」

「うん。なんか、良かった」

「ふむ。なら今度はちゃんとしたミュージカルでも見に行くか?」

「これ、ちゃんとしてないの?」

「ちゃんとしてないとは言わないが、歌も踊りもないからなぁ。どちらかと言えば演劇だろうよ」

 

 俺も詳しくは知らないが、演劇はセリフや動きなどの芝居がメインであり、ミュージカルは芝居+歌と踊りといったそれらの要素を全てひっくるめてのミュージカルらしい。その点で言えば、やはりこれは演劇だった。

 

「ふーん……空いてる日、ある?」

「文化祭が終わったら連絡する」

「わかった」

 

 時計を見れば、シフトの時間が近づいていた。ミュージカルで結構時間を使ってしまったらしい。隣のクラスなので余裕自体はあるが、行くなら早めの方が良いだろう。

 

「そろそろ時間だな。由比ヶ浜はどうする?結局来るのか?」

「うん。行くよ。あっ、でもちょっと待ってね」

 

 由比ヶ浜は再び教室へと入っていった。

 隣では暫く携帯を眺めていた留美が顔を上げた。

 

「なんか、あと三十分くらいでお母さん来るって」

「そうか。なら後で挨拶しないとだな」

 

 さすがに小学生の女の子を一人で帰らせるのは危険極まりないので、最悪平塚先生の元に預けて俺が帰りは送っていこうかと思っていた。しかし、その心配は無用なようだ。

 しばらくすれば、由比ヶ浜が女子を二人連れて戻ってきた。

 

「二人ともお待たせー」

「おっ、田島くん。はろはろ〜さっきは見に来てくれてありがとね〜。……ちなみに、誰目当てだったのかな?やっばりとべっち?とべ×たじですか!?とべ×たじなんですね!?」

「黙れ、やめろ。健全な女子小学生の前で興奮するな妖怪め」

「姫菜擬態しろし……てか、そっちの子キャンプの子じゃん」

 

 連れは妖怪眼鏡腐女子と金髪縦ロールだった。名前は、確か海老名と三浦。

 

「みのるん。優美子と姫菜も一緒にいい?」

「いや、良いも悪いも俺に拒否権はないだろうに。それに今回は……」

「あ……」

 

 留美の方を見る。

 留美は林間学校の一件で、葉山を始めたとした戸部や、そして三浦に脅されている。勿論あの一件は俺たちの企みだということは彼女も知っているとこではあるが、苦手意識があっても可笑しくはない。

 

「結衣ー。別にあーし達一緒じゃなくてもいいっしょ。気とか遣わせたくないし」

「あー……そうだね……」

 

 どうしようかと目線を泳がせる由比ヶ浜を見た後、留美は俺の方にちらりと視線をを向ける。そして俺の目を少しだけじっと見つめた後、その目は由比ヶ浜たちの方へと向けられた。

 

「別にいいよ」

「そうか?無理はしなくていいぞ」

「別に無理なんかしてないし。よろしくお姉さんたち。私、鶴見留美」

 

 俺の予想より、遥かに留美は強い女だった。彼女の様子を何も言わずに見ていた三浦は面白そうに口の端を釣り上げた。

 

「ふーん……あーし三浦優美子だし」

「海老名姫菜だよ。よろよろ〜」

「うん。よろしく。ちなみにコーヒー奢ってくれたりする?」

「は?超生意気なんですけど」

 

 この様子なら仲良く出来そうだな。

 俺と由比ヶ浜はその様子を見て、安心したように頷くのだった。

 ちなみにコーヒーは概ね好評だった。値段以外は。やはり700円は強気な価格すぎる。それなのに頼まれているのは祭りの熱気に浮かされているのかなんなのか。なんにせよ提供側も消費者側も金銭感覚がバグっているとしか言いようがない。

 俺はドリップをしてコーヒーを抽出しながら首を傾げるのであった。




次回は文化祭終盤

この辺りでルミルミは演劇とかミュージカルとかに少し興味を持ちます。
追記※よくよく考えたらオリキャラタグは追加した方がいいなと思ったので追加しました。


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三十六話 自業自得のツケの支払い

 あれから留美は母親と合流し、そのまま別のクラスの出し物を見に行っていた。トロッコがどうのこうのと言っていた。

 一緒にいた由比ヶ浜は三浦たちと有志で出るバンドの最終調整をするといって去っていった。葉山たちと一曲披露するそうだ。有志団体の発表はエンディングセレモニー前だから、確かにそろそろ行かねば遅れてしまうだろう。

 彼女たちや、ようやくやってきた文実のずっと参加していたメンバーにコーヒーを提供した後も俺は黙々と抽出していた。

 次の豆をドリップしようと思ったが、ふと袋が空となったことに気がついた。つまり我がクラスは無事、コーヒー豆が尽きたということだ。それを報告すれば、すぐに特製コーヒーの提供を完売御礼ということで止めさせてもらった。

 今は残りのサンドイッチとインスタントコーヒーを売るために尽力しているようで、外では幾人かの生徒が呼び込みをしているそうだ。それも数少ないので、時期に全部売れるだろう。つまるところ俺の仕事はもうないということだ。

 そのためやることもなく、暇だった。

 誰かに声を掛けようかと思って、口を開いたがやめた。わざわざ仕事を貰って忙しい身になる必要もあるまい。クラスメイトには悪いが、サボらせてもらおう。

 バックヤードから出て、そのまま廊下へと出る。そこでは松山筆頭に女子生徒が、最後と言わんばかりに呼び込みをしていた。

 そのまま立ち去ろうとするが、彼女と目が合った。相変わらず何を考えているのか分からない眠たげな目だった。

 俺が文実の腕章をコツコツと指でつつくと、彼女はこくりと頷いて、呼び込みを再開した。

 俺の意図はこれで伝わっただろう。

 そういえば、俺が文実の仕事に行った後は松山と一色とで一緒に回っていたという話だったな。そのまま仲良くなってくれたならば良いが。

 エンディングセレモニーの打ち合わせまではそれなりに時間がある。特にやることもないので、俺は一人で校舎をぶらついていた。一人で歩く文化祭は特に思うところはなかった。あと少しすれば、この長かった文化祭も終わるのだろう。

 殆どのクラスは最後の呼び込みを行っているか、あるいは全てやり終えたのか暇そうにしている生徒しかいなかった。

 

「どうしよう遅れちゃう!」

「まだ空いてるかなー!?」

 

 そう思っていたが、一部生徒が廊下を走って、何やら急いだ様子で体育館の方へと向かっていった。

 

「なんだ?」

 

 この時間は有志によるオーケストラの演奏だったか。例年、総武校は集客の見込めるバンドや演奏系の有志団体のステージをこの時間に組み込んでいる。その後そのままエンディングセレモニーへと流れ込む。なんでも生徒の移動を効率よくするためらしい。

 確か有志ステージの代表者名が乗せられたプリントがあったはずだ。俺はそれを見ている。オーケストラのリーダーの名前は……そう、雪ノ下陽乃だ。

 そこまで思い出してなるほどと内心頷いた。確かに彼女による演奏ならばここまで話題になるのも納得というものだ。

 見に行ってもいいが、俺としてはそこまで興味がない。が暇つぶし程度にはなるだろう。彼女が指揮を執るのだから、一定のクオリティは補償されているのだろうし。

 俺はこの文化祭準備期間で、雪ノ下姉妹の評価を個人的に上げていた。姉と妹、タイプも性質も違うが、どちらも優秀なのは間違いない。だからこそ、一定のクオリティが見込めると断定しているのである。

 なんにせよ、どうせやることもないのだ。残りの時間を有志の発表でも見て潰すのも良いだろう。

 思い立ったが吉日。ということで足を体育館の方へと向けたのだが、その際に視界の端にとある人物を捉えた。

 相模南だ。

 彼女は人目を気にしているのか、できるだけ目立たないように人混みに紛れつつどこかへと去っていった。方角は、恐らく特別棟の方か。

 エンディングセレモニーまでは時間があるのだし、今どこかへ行こうととかく問題はないだろう。有志の発表が終わるまでに戻ればそれでいいのだと思う。いや、セレモニーの打ち合わせをすると雪ノ下が言っていたような。俺の気にすることではないか。

 ただ少しだけ気になったのは、彼女が一人でいたということだ。仮に何処かへと行くのだとしても、いつもの取り巻きの女子二人が連れ立っていないというのはいささか違和感を覚えた。

 とはいえ、オープニングセレモニーであんな姿を見せてしまったのだから、エンディングセレモニーが近づく今、少しナイーブな気持ちになっているのかもしれない。

 人に弱みを見せることを嫌がるのが人の常だ。いくらグループの連中とはいえ、どうせ深い仲でもない連中だ。エンディングセレモニーに出ることを日和るような、弱々しい姿を見せるのは嫌だった。そんなところかもしれない。

 なら気に止めることでもないだろう。

 俺は相模のことを忘れ、ゆったりのったりとした足取りをしながら、体育館の方へと向かっていくのだった。

 

 

 重い体育館の扉に手をかける。ゆっくりとその扉を推し開けば、視界に入るのは人の群れ。肌で感じるのは人が作り出す熱気。そして耳に入るは、ジャン!という音。そして扉越しでも聞こえていた演奏がピタリと止まった。

 そうして沸き起こるは鳴り止まぬ歓声と拍手。これちょうど今演奏終わったな。

 少しノロノロと歩きすぎたか……と後悔もつかの間、続けて知らない3年のバンドが始まった。

 歌われるのは青臭い歌。愛だ恋だと腑抜けたような言葉て語り続けて、しまいには君を愛してるなんて、浮ついた歌詞。

 思い出がどうの、別れがどうの。キラキラとした、目も当てられないような、それでいて聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなラブソングだった。

 青春だと思った。歯の浮くような気分だった。憂鬱で、死にたくなった。

 

「ふぅぅぅぅぅ……」

 

 込み上げてきたものを抑えるように、深く息を吐く。

 気づけば、そのバンドはもう演奏を終えていて、次は知らない女のバンドだった。これまた知らん曲だった。またラブソングだった。

 これ以上ここにいたら死ねると思ったので、体育館を出る。

 清涼な空気を吸い込んで、淀みきった肺の空気を全て出し切るまで息を吐く。それを数度繰り返した。

 

「さて。どうするか」

 

 エンディングセレモニーが始まるまでもう体育館は行きたくない。とんだ地雷原である。

 ピンポンパンポーンと、聞き慣れない音と共に、天井に着いているスピーカーからノイズ混じりの声がする。

 

『二年F組の相模南さん。副実行委員長がお探しです。至急、ステージ裏まで来て下さい』

 

 それ相模南の呼び出しの校内アナウンスであった。

 校舎に人はほぼまばらにいるだけだったが、それでも残っていた人間たちがザワついていた。それも無理はない。この校内アナウンスは、相模と連絡がつかないことの証明であった。即ち逃げ出したということだ。

 

「さて。どうするか」

 

 先程言った言葉を改めて口にした。

 憂鬱に支配されかけていた頭を切替える。俺は先程相模を発見した。それは確か特別棟の方へ一人で向かっていく姿だったはずだ。

 まずはこの情報を雪ノ下にメールで共有するべきだな。

 

『アナウンスを聞いた。実は半時前に特別棟方面へと向かう相模南を発見した。ので、俺も探そうと思う。本人を発見次第連絡をする。』

 

 内容はこんなところでいいだろう。送信ボタンを押して、無事送信されたことを確認すれば、続けて一つだけ下書きのメールを書いて保存してから、スマホをしまう。

 さて、ひとつ考えてみよう。

 相模が向かったのは何処なのか。まず闇雲に探すという選択肢は論外だ。それはもう既に他のメンバーがやっているはず。ならばどうするか。ヤマを張るのが一番である。

 誰にも見られたくない彼女が向かったのは何処だ?

 まず、トイレ。女子の個室トイレなら長時間使われていても、誰も不思議に思わない。そもそも体育館に人が集まっているなので、今であれば使われること自体少ないだろう。

 そして空き教室。この学校は広いからこそ空き教室が幾つかある。隠れるならば絶好の場所であろう。

 あとは、屋上か。

 確か特別棟の屋上は鍵が壊れていて、容易に侵入することが出来るのだ。砂っぽいし、汚いし、日照りが酷くて俺はあまり使わなかったが。しかし教師にはその事実が出回っていないことを考えると、ここも良い隠れ場所になるだろう。

 他にも侵入できるところは幾つかあるが、どれも専用の鍵が必要で難しい。

 となれば現状で俺が探せるのは上記の三つとなるのだが、まずトイレは無理だ。俺は男だから。ここに隠れているとしたら他の人間に任せるしかない。

 では空き教室はというと、ここも鍵が必要な筈だ。もし鍵を借りていたのならば、教師が誰かしら把握しているはずなのだから、校内アナウンスなど流れるわけがないので除外。

 つまり初めに行くべきは、特別棟の屋上だ。ここにいなかったのであれば空き教室を回る。トイレは雪ノ下にでも連絡するしかない。

 俺は行動の指針を決めて思考を止めた。仮に特別棟から移動していた場合も他の人間に任せるしかないだろう。

 人のいない校舎は俺の足音だけが響いていた。焦りなのか、次第に歩くペースが早くなる。

 エンディングセレモニーに不在なんてさせるわけにはいかない。そんなことがまかり通ってしまえば、全てが無駄になる。

 俺がなんのために柄でもない代理になってまで雪ノ下の代わりをやったのか。それはただ一つ。奉仕部の依頼を全うさせるためだ。彼女がサボタージュを決めるだけで、それが破綻する。

 そんなこと、させるものか。

 特別棟の屋上へと俺は急いで向かった。

 

 

 屋上へと続く階段は、文化祭の荷物置きになっているようで、駆け上がるのは難しい。しかし不自然に人が通ったような隙間が出来ている。

 それを辿っていく。

 そして踊り場に出た。扉には壊れた南京錠が引っかかっていた。ドアノブに手をかけて、力を込める。錆が浮いて立て付けの悪くなった扉は少しだけ重かった。しかしぎぃと大きな音をさせて開いたその扉は、その先の景色を見せた。

 フェンスに囲まれた屋上に吹き抜ける秋風は、まだ少しだけ暖かさを残していた。広がる晴天の下、探し人たる相模はフェンスに寄りかかっている。しかし誰かが入ってきたことに気がつくと振り向いた。俺はスマホを仕舞った。

 そしてその顔が酷く歪んだ。

 

「なんで……あんたが……ああ、そう。やっぱりそういうことなんだ」

 

 怒りと落胆と嫌悪。全て俺に向けられた感情だ。察するに、コイツはどうやら誰かに見つけて貰いたかったようだ。それは俺ではなく、別の誰か。まぁそれが誰でもいいし、どうでもいい。

 俺の役目はこいつを連れ戻すことだ。

 

「ご期待に添えなくて大変申し訳ない。しかし相模南実行委員長。エンディングセレモニーが始まる。さっさと戻れ」

 

 簡潔に要件を伝える。

 しかし、相模の表情は不快そうに歪んでいた。

 

「は?なんで戻らないと行けないわけ?別にうちじゃなくてもいいじゃん。雪ノ下さんか、それともあんたがやる?」

 

 そういう彼女の顔は、どこか忌々しげなもので。しかしそれを隠すように嘲笑うように口角を上げた。

 

「いいから戻ってくれ。お前を探すアナウンスも出ている。エンディングセレモニーももうすぐ始まるんだ」

「むしろもう始まってるんじゃないの?」

 

 舌打ちをしてしまう。どうやら委員長らしくそこは把握しているらしい。

 

「なんだ。わかっているのか。ならさっさと戻ってくれ。面倒だし、時間がない」

「戻るわけないじゃん。少なくとも、うちはあんたの頼みだけは聞かない」

 

 それは文化祭に戻ることへの拒絶ではない。俺に対する拒絶であった。

 

「違う。これは俺の頼みではない。文実としての要請だ」

「へ〜。それでもうちは戻らない」

 

 なぜだか彼女は強い意志を持って俺にそう答えた。俺は、彼女はもっと弱々しい姿でいるのかと思ったが。どうにも違う。

 覚えた違和感を気にしながら平行線でしかない会話を続ける。

 

「何故戻らない?」

「あんたに言う必要ないよね。じゃないとこっちの事情また勝手に話すでしょ?」

 

 それは、雪ノ下がなぜ副委員長になったか訳を分実メンバー全員に話した時のことを言っているのだろうか。

 

「うちさ、あんたがなんかしゃしゃり出てから、文実でずっと孤立してたんだよね。しかも裏で陰口まで言われてるし」

 

 カラカラと乾いた笑いをした後に、相模南はこちらを見据えた。その目は憎悪に燃えていた。

 

「そんな事になったからさ、調子狂ってオープニングセレモニーの挨拶も上手くいかなかったし。でもこれって、あんたのせいじゃない?」

「何を、言っている……?」

「うちがここでエンディングセレモニーに参加しなければ、文化祭は台無しになるのかなって。でもそれってうちを追い詰めたあんたのせいってことにならない?」

 

 とんだ責任転嫁だ。笑えない。

 だと言うのに、俺は言葉が出なかった。

 彼女の言葉がよく理解できない。

 俺の責任?相模が孤立したのも、相模がエンディングセレモニーで失敗したのも全て?

 違う。違うはずだ。

 恐らく、セレモニーの挨拶が終わったあと彼女は今まで感じていた以上に責任を感じたのだ。しかしその責任を負うのが嫌で。擦り付ける先を探した結果俺へと向いて。俺が悪いと、俺が全ての原因で、自分がこうなったのも田島実のせいであると思い込んだのでは?つまり開き直ったのではないだろうか。

 折れた心が、一周回って立ち上がった。それも俺に対する憎悪で。

 どうやら、俺は。彼女のことを追い詰めすぎたらしい。そんな自身の犯した失態を、俺は今ようやく理解した。

 これは身から出た錆だ。これは自業自得だ。

 なら全くもって、笑えなくて、憂鬱でしかない。




比企谷か田島、どっちかの精神攻撃だけなら原作と同じでしたが、二人が同時に相模に対して強火で殴ったせいで相模は開き直りました。

シヴィライゼーションでガンジーの攻撃性マイナスにしたら核戦争仕掛け始めまくるみたいなもんです。
メンタルボロボロにしまくったら一周回って攻撃的になってしまった。そんな感じ。

次回 顛末


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三十七話 いつだって田島実は憂鬱である

 ああ、死にたい。

 湧き上がる憂鬱な衝動を抑えて、なんとか思考を巡らせる。反応が鈍い頭を動かして、言葉を探さなくてはならない。しかし、どんな言葉であれば彼女へと届くのだろうか。

 彼女の言っていることは無茶苦茶だ。全くもって巫山戯ている。だからこそ、意志が強い。間違っていることを真実だと思い込み、それを他者へ強要する人間は得てして嫌われる。何故かと言えば、人の話を聞かないから。アドバイスを批判だと思い、提案を自身の考えの否定だと思い込む。

 だからこそ、尽くしたところで言葉が届かない。想いが伝わらない。

 故に今一度彼女の心を解きほぐして、俺の言葉を受け入れてもらえる土台を作る必要がある。しかもこの短時間で。

 無理だ。そんなことできやしない。

 だって、相模がこうなってしまったそもそもの原因は俺だ。ならそんな俺では彼女の心に触れられないのだ。

 およそ詰んでいた。

 相模はこれ以上語らないならさっさと去れと言わんばかりの目で俺を見下しながら、無言でフェンスへと寄りかかる。

 澱んで軋む心を奮わせて、相模に意思を問う。

 

「……本当に、戻る気はないのか?」

「別にないわけじゃないけど〜……まぁ、あんたの頼みじゃ嫌かな〜」

 

 俺が相模を無理矢理連れていくという選択をしない事が分かっているが故に、相模の顔は嘲るような表情だった。

 己の不甲斐なさに歯噛みをする。

 言葉を尽くしても、探してもそれら全てが無駄に終わると確信してしまう。だから言葉が出ない、考えが進まない。その徒労感で再び憂鬱になる。

 それでも尚諦められないのは、なぜなのだろうか。

 

「それにもうエンディングセレモニー始まったんじゃない?」

 

 腕時計を見る。

 確かに、予定ならばもうセレモニーが始まっていてもおかしくはない時間だ。だと言うのに俺は未だに相模を連れ戻せずにいた。

 この状況において俺はただひたすらに無力だった。

 しかし、相模を見つけた時に雪ノ下へと下書きメールに『特別棟屋上』と付け足して、メールは送ったはずだ。だというのに未だに人が来ないのはどういうことだろうか。

 焦りと、後悔で胸の中が支配されて頭が上手く回らない。見落としているものがあるということのみ分かる。

 どろりと、一つ胸の中で何かが澱んだ。

 君ならどうする。こんな時、君ならもっと上手くできたのだろうか。いいやきっとできたのだろう。

 それでも昔の俺ならもっと上手くやれた。だけどやっぱりそれは、俺の隣に君がいてくれたからで。俺はするべきことが見えていただけだったのだ。そうやって隣で君が示していてくれたから。

 なにも変わってなどいない。昔から俺は、結局一人じゃ何も出来ない。何かをなすだけの才能がないから。

 ───やっばり諦めてしまおうか。どうせもう間に合わないのだから。

 時計の針は、無慈悲に淡々と過ぎ去っていく時を刻んでいく。

 セレモニー開始の時間はとっくのとうに過ぎていた。途方もない無力感が俺を苛む。視線が自然と下へと落ちていく。

 突如、ぎいっと突然扉が大きな音を立てた。

 その音に自然と、俺と相模は視線をそちらへと向けた。

 そこに居たのは比企谷八幡であった。

 相変わらず腐った目をした彼は、少々驚いた様子で俺の方へと目を向ける。

 

「田島……お前、いたのか」

「雪ノ下から聞いていないのか?メールを送ったはずだが」

「メール?……てことは俺が探し始めた後に送られたのかもな。それはともかく、時間がないんだ」

 

 比企谷は相模の方へと顔を向けた。

 

「エンディングセレモニーが始まるから戻れ」

 

 簡潔な要求だった。しかし、今の相模が素直に頷くとは思えない。

 

「ふぅん……雪ノ下さんがね……」

 

 相模は何やら意味ありげに笑みを浮かべた。ギシッと音を立てながらフェンスへと背中を預けて寄りかかる。

 

「じゃあ、うちが戻らなければ雪ノ下さん達の努力は台無しになるわけだ」

「は?」

 

 比企谷は訳が分からないといったように眉をひそめた。

 

「じゃあやっぱりうちは戻らない」

「……それは通らないだろ。実行委員長になったお前の責任放棄でしかない」

「別にうちの代わりなら雪ノ下さんでもできるでしょ?それともそんなにうちが必要なの?」

「お前の持ってる集計結果の発表とか色々あんだよ。だから早くしてくれ」

 

 相模の言い分に苛立ちが募ったのか、比企谷は少し語気が強くなっていた。同時にその顔には焦りが感じられる。ただただ浪費されていくだけの時間に、焦燥感を覚えてしまうのだろう。

 

「だったらこの紙だけ持っていけばいいじゃん」

 

 どうでも良さそうに相模が恐らく集計結果であろう紙を地べたに放り投げる。

 

「まあでも、結局うちが戻らないと意味ないみたいだけど」

 

 彼女は俺の方を見て笑った。

 その視線に目を逸らすことしかできなかった。

 

「なんか、あったのか?」

 

 困惑したように比企谷は俺へと再び目を向けた。

 俺はなにか言葉を出そうとしては、所在なさげに視線を泳がして、また閉口してしまった。

 口の中が乾いている。胃から何かが込み上げてきそうだ。コーヒーが飲みたい。

 ただひたすらに憂鬱だった。それに怖い。なぜだか怖い。

 だが一体、俺は何を恐れている?

 それは、多分。

 ─失望だ。

 

「言ってあげたら?うちがこうしてるのも、全部自分のせいですってさ」

「どういうことだ?」

 

 ゆっくり、そして深く息を吐いてから口を開く。

 

「なんでも、今の相模の状況は全て、俺が原因なんだと。陰口を言われるのも、文実で孤立しているのも。全部、俺のせいなんだとさ」

 

 変わらず当惑したようにこちらを見る比企谷に対し、投げやりにそしてぶっきらぼうに伝えた。

 そうでなければ言葉にできそうになかったから。

 それを聞いた彼は、何故だか苛立った様子を隠すことなく相模へと目を向けた。

 

「……それはただの責任の擦り付けじゃねぇか」

 

 その通りである。相模の言うことは、彼女にとって都合のいい責任転嫁でしかない。

 だが、そうなった要因の一つに確かに俺の行動があって。それを否定することが出来なかった俺は、同様に相模の言葉を否定することが出来なかった。

 

「はぁ?それが何?だって事実じゃん」

「事実無根だ。そもそもそれとこれとは関係ない。お前がセレモニーに出ないことの説明になってないだろ」

「なるよ。だってさ、うちが戻らなければ、その責任は全部ここまで追い込んだそいつのせいになるってわけでしょ?」

「ならねぇよ。田島がそうせざるを得なかったのは相模お前のせいだ。お前が文実での責任や、やるべきことを全部雪ノ下におっ被せて、そのうえで文実全体が立ち行かなくなる状況まで追い込んだ。なら全部お前の自業自得なんだよ」

「っ、うるさいな!」

 

 さっきまで余裕そうに、フェンス越しに向こうを見ていた相模だったが、比企谷の言葉には不快そうに顔を歪ませて振り向いた。

 それからは互いに無言だった。その数秒間、比企谷と相模は睨み合い続けていて、どちらも引く気がないのだと、語らずとも目線だけで意思を伝えていた。

 そんな折だった。

 再びギィっと、大きな音を立てて背後の扉が開く。

 

「やあ。ここにいたんだね、探したよ」

 

 そこに立っていたのは、相模の取り巻き女子二人を連れて、オレンジのクラスTシャツを着て、少し汗を流しながらも普段通り爽やかな笑みを浮かべる葉山隼人だった。

 

「っ……葉山くん……。それに、二人とも……」

 

 先程までは不快そうな顔をしていた相模だったが、葉山が来た途端一瞬顔をほころばせ、そしてしおらしい顔に変わる。さすがに葉山にはあの態度は見せたくないのだろう。文実の時に相模はやたらに葉山のことを気にしていた素振りを見せていたはずだった。一色や三浦だけではなく、ほかの女も落としているのか。

 そんな相模の様子を比企谷は冷めた目で見ていた。

 

「連絡取れなくて心配したよ。田島くんからの連絡もあって、なんとか見つけられた。さぁ、早く戻ろう。みんな待ってるよ」

 

 葉山はこちらへ笑顔を向けてくる。俺はそれに対し、目を逸らした。今の俺をその顔で見るのは、やめてくれ。惨めになりそうだ。

 葉山がわざわざ来たと言うのに、相模の態度は相変わらず頑なだった。

 

「でも……今更うちが戻っても……」

「そんなことないよ。ほら一緒に行こ?」

 

 やり取りを見守っている葉山だったが、その視線が一瞬腕時計へと向いた。葉山も俺たちと同様に焦っているらしい。

 

「そうだよ。相模さんのために、みんなも頑張ってるからさ」

 

 彼らは何とか言葉を尽くして、相模の説得に当たる。

 

「だけどうち、どんな顔して戻ればいいのかわかんないよ……」

 

 取り巻きの二人に囲まれていた相模原突然しゃくりあげて、その瞳を潤ませた。そして彼女は俺へと一瞬目を向けた。

 まるで、お前のせいであると再び伝えてくるように。

 

「それに……うち、そいつに酷いこと言われて……」

 

 より強くしゃくり上げて、悲劇のヒロインかのごとその場にくずれおちる相模。

 相模が弱々しく指をさせば、その先にいるのは俺で。

 困惑するように俺を見る葉山。そしてその近くにいた取り巻きたちの目が、責めるような目になって俺へと注ぐ。

 

「ねぇ……どういうこと?さがみん泣いてるじゃん?」

「そうだよ。何やったんだよ」

「いや、俺は……」

「みんな、待ってくれ。そんなことをしている場合じゃないだろ?何があったかは分からないけどさ。早く戻ろう、相模さん」

 

 二人の女子に険のある視線をとばされて、思わずたじろいでしまう。

 しかし葉山が直ぐに俺の前に立って二人を宥めてくれた。その後すぐに相模へと水を向ける。

 不味い。俺のせいで事態がややこしい方へ進んでいる。何か、言わなければならないが、何を言うんだ?何を言えばいい。だって、俺が悪いのは事実なのだから。

 しかし葉山の説得も虚しく相模はその場でポロポロと涙を流すだけで、その足は一向に動く気配がなかった。

 

「みんなに迷惑ばっかかけて、うち……最低だ……」

 

 相模が自己嫌悪の言葉を吐いた。自己嫌悪したいのはこっちだと言うのに、この女はどんな立場でその言葉を吐くのだろうか。

 ああ、憂鬱だ。

 そんな刹那、比企谷がこれまでの鬱憤を込めたかのように深く長いため息を吐いた。

 

「本当に最低だな」

 

 時が止まった。

 相模はまるで理解ができないと言ったふうに比企谷を見る。そこにあった嘲りや、優位性を保った余裕のある素振りはなくなった。まるで、それまで心地の良い夢を見ていたものが、ふと現実に戻されてその差異に困惑するような、そんな顔だった。

 そして比企谷を見ていたのは俺も同様だった。

 視線の先に立っていたのは、先程までただ刻一刻と過ぎ去る時間に焦っていた男の顔ではなかった。何か成すべきことを見つけたように、その表情は嘲笑に溢れていた。何をする気なんだ、お前は。

 

「相模。結局お前は楽してちやほやされたいだけなんだ。かまって欲しくてそういうことやってんだろ?だから、田島に責任を擦り付けようとした。『悪いのは全部あいつだよ。気にしなくていいんだよ』ってそんな甘い言葉をかけてもらいたいんだろ?んで、みんなで田島を責めて、詫びでも入れてもらえれば、お前は被害者側になれる」

「何、言って……」

 

 相模の声が震える。それを遮るように比企谷は言葉を続けた。

 

「そうればもっと労わって貰えるもんな。責任からも逃れられて、被害者にもなれて。そんな立場でみんなから慰められるのは最高に気持ちいいだろうな。でも、お前がそんな最低な奴だって、たぶんみんな気づいてるぞ。なんせ、お前のことなんざまるで理解してない俺がわかるくらいだ」

「うるいさな……!あんたと一緒にしないでよ……!」

「同じだよ。最底辺の世界の住人だ」

 

 相模の瞳はもう潤んでいない。

 ついさっき、比企谷や俺に向けていた憎悪が再び彼女の心を支配した。その目は鋭く、比企谷を射抜く。

 

「よく考えてみろよ。お前をいちばん最初に見つけたのは誰だ?田島だろ。お前をそんな状況に陥れたって奴が、お前のことを一番探していたわけだ。わざわざ連絡までいれてな」

 

 比企谷はそのまま冷たい声色で、しかし嘲笑を隠さずに言葉を続けた。

 

「つまりさ、……田島が気づくまで、誰も真剣にお前を探してなかったってことだろ」

 

 相模の顔色が変わった。それまでの憎悪や怒りがなりを潜め、出てきたのは絶望や驚愕。それらの感情の発露が混ざり合い、彼女の顔を歪ませている。

 比企谷の言っていることは事実ではない。俺が探し始めたのはアナウンスがなった瞬間、つまり皆が相模がいなくなったことを認識した瞬間である。だから比企谷の虚言だ。

 しかし、仮に、誰かに認められて、比企谷曰くのチヤホヤされたいという願望がある相模に対しては、その虚言は事実になりうる。相模のみに効く猛毒としてじんわりと浸透して、彼女の認識を歪ませてしまった。

 誰も、相模南を求めていないのだと。

 

「わかってるんじゃないのか、自分がその程度の」

「比企谷、少し黙れよ」

 

 比企谷が最後のトドメを口にしようとしたが、その続きはひゅっと短い息が漏れ出るだけで、そこで言葉が途切れた。それは葉山が比企谷の胸ぐらを掴んで、そのまま壁まで押付けたからだ。

 突然の事で反応が送れたが、一触即発の空気が流れてしまっている。葉山のことだから暴力沙汰にはならないだろうが、一応ここで制止の言葉はかけなければ。

 俺は少し焦りながら、葉山の肩に手を置く。

 

「待て葉山。落ち着け」

「そうだよ!そんな人ほっといて行こ?ね?」

 

 肩で息をしていた葉山は、大きく息を吐くと 

比企谷の胸ぐらを振り払うように離す。そして比企谷に背を向け、冷静を装いながら「早く戻ろう」と相模達に促した。

 相模は取り巻き二人に囲まれ、護送されるようにその場を去る。去り際、比企谷に対してだけ心のない罵詈雑言を吐き捨てながら。

 三人がいなくなって、最後に残った葉山が悲しそうに、そして悔しそうな表情をしながら扉を閉める。

 

「……どうして、そんなやり方しかできないんだ」

 

 去り際に、独り言のようにそれだけを呟いて。

 屋上に取り残されたのは俺と比企谷の二人だけだった。比企谷は脱力したようにずるずると壁に背を預けながら座り込む。

 彼は俺がいることを忘れているのか、ぼんやりと空を眺めていた。

 結局、俺はこいつに助けられたのだろう。

 それによって俺は相模を追い詰めた加害者にならなかったのだと思う。ただその代わりに、加害者となったのは比企谷になるのだろう。

 ならせめて、俺くらいは声をかけてやらねばなるまい。小さくため息を吐いてから、声を出す。しかし出した声は、やけに小さかった。

 

「……貸し、一つにしておいてくれ」

 

 比企谷は俺の言葉に顔を上げて、その後普段のように腐った目を向けてきた。

 

「……別に、お前のためにやったわけじゃない」

「そうだな。だが、本当に助かったんだ……我ながら情けない限りではあるが、俺だけでは相模を連れ戻せそうにはなかった」

「俺でも無理だったろ。あとから来た葉山がいたからだ」

「それでも最終的にはお前の……まあ言葉のお陰で相模は戻った。それに、少なくとも、相模がああして頑なだったのは俺のせいでもある」

 

 俺のせいで、相模は精神的に追い詰められてしまった。彼女の苦し紛れの責任転嫁は確かに俺を頷かせるものだったから。

 俺は、俺を素直に褒めることはできないし、認めることも出来そうにない。本当ならもっと上手くやれるはずだったんだ。

 

「アイツの言葉気にしすぎだろ」

「事実だろう?なら受け止めるしかないさ」

「事実じゃない部分まで受け止めてどうすんだよ……」

 

 比企谷は呆れたようにため息をついた。

 

「ともあれ、貸しに関しては心の片隅にでも留めておいてくれ。今回は助かったよ。ありがとう。奉仕部監督役として、礼でも言っておこう」

 

 比企谷は思うところがあるようにジッと俺の目を見ている。

 そしてしばらくして視線を逸らした比企谷は、ゆっくりと立ち上がった。そしてこちらを見ずに背を向けた。

 

「……そろそろ行くぞ」

「そうだな」

 

 確かに、急がなければエンディングセレモニーには間に合わなさそうだ。 

 俺と比企谷は、互いに何か言うわけでもなく無言で屋上を後にした。

 

 

 エンディングセレモニーは雪ノ下や由比ヶ浜の尽力もあって無事に終わった。

 ただ、相模の挨拶だけは無事とは言い難い結果だったが。とちる噛むは当たり前、ハウリングもするし、内容は時折飛んでいた。

 相模の挨拶がそんな散々な結果だったので、そこまで追い込んだ比企谷は取り巻きから散々な物言いだった。

 

「あいつがなんか言わなかったら平気だったのにね」

「あれで調子くるったよねー」

 

 どうやら比企谷のやったことはもう止めようが無い所まで広がったようで、彼を知っている人間はひそひそと陰口を言い合う。酷い話だ。

 

「あ、だべ?ヒキタニくんマジでひでぇから!夏休みのときもそんなんあってー」

 

 戸部……こいつには後で飯を奢らせるからいいか。ともあれ、しばらくの間比企谷が学校での立場が悪くなってしまうのは想像に難くなかった。これの一端を担っているのは俺のなのだろう。全くもって嫌になる。

 今は文実も解散して皆思い思い喋りながらそれぞれの教室へと帰っている。

 俺もそろそろ帰るかと踵を返した。

 

「お疲れ様」

「ん……?ああ。お疲れ」

 

 声の方へと振り向く。

 背中に声をかけてきたのは雪ノ下だった。

 さっきまで雪ノ下姉や比企谷と喋っていたはずだったが。わざわざこっちに来たのだろうか。

 

「何か用か?今は大したこともしていない俺の事よりも、相模を連れ戻した功労者である比企谷のことを存分に労ってやった方がいいと思うが。今回のMVPはあいつだぞ」

「はぁ……聞いていた以上ね」

 

 何故かため息を吐かれた。

 

「あ?何がだ」

「……なんでもないわ。比企谷くんなら、ほら」

 

 雪ノ下が視線を向けた先を見ると、平塚先生と喋っている比企谷がいた。何やら頬に手を添えられている。多分叱られているのだろう。

 やはり良い人だ。比企谷のことをよく理解している。だから叱ってくれる。普通だったら、叱ることもせずただ呆れられて、そのうえで諦められるだけだろうに。

 

「……なるほど、説教中か。まあ、それなら終わるまでの暇つぶし位はできるだろうよ」

「いつにも増してマイナス思考ね。比企谷くんからある程度は聞いていたけれど……相模さんから何を言われたの?」

 

 訝しむような視線だった。

 

「何を、と言われてもな。比企谷からはどの程度聞いているんだ?」

「……相模さんの現状が、全て私の代理として介入したあなたのせいだと責められていたことぐらいかしら」

「その認識で間違っていない。ならお前もわかるだろうが、全部事実だろう?」

 

 雪ノ下は俺の言葉には特に何も言わずに、視線を下の方にやった。

 しばらく黙っていた雪ノ下だったが、その後俺の目を見て口を開いた。

 

「……私、一応あなたにお礼を言いに来たのよ」

「礼……?俺にか?何故?」

 

 頭が疑問でいっぱいになった。俺が雪ノ下にしてやれたことなんざ、何もないと思うが。

 

「あなたが代理で入ってくれたから、それ以降の文実は随分と楽ができたわ。予定通りバッファも取れた」

「それはお前や、その他のメンバーの尽力あってのことだろう?大したことはしちゃいないさ」

「そんな事ないわ。あなたはちゃんと私の代わりを務めてくれた。感謝しているのよ」

「だが、その結果相模を追い詰めすぎた。それは、あまりにも大きなミスだろう」

 

 相模のメンタルが悪化しているのを見て見ぬふりを続けた。そんな状態で俺は再び相模のメンタルに攻撃をしたのだ。その後のメンタルケアもやらずに。見誤った、と言えば聞こえは良いが雪ノ下の代理を務めたのだから、それも考慮してやるべきだったのだ。

 例えば、葉山にアフターケアを頼めば少なからず相模は俺に対してあそこまでの嫌悪感を向けなかったかもしれない。

 あくまでたらればの話だが。

 

「だから、礼なんて良い。比企谷が相模を悪く言わざるを得なかったのは俺に責任がある。本来であれば、ああなっているのは俺だったはずだ」

 

 むしろ俺が比企谷に礼を言うべきだ。雪ノ下が俺に礼を言う義理なんてない。

 

「人からの感謝くらい素直に受け取りなさい。特に、私からの感謝なのよ。喜んで受け取るべきだわ。それに、随分と稀だと思うのだけれど」

「やけに上から目線の上、自覚済みかよ……」

 

 意地悪くくすくすと笑う雪ノ下にため息が漏れる。

 

「まあ……お前にそこまで言われれば、断るのもアレか……。なら、後で缶コーヒーでも奢ってくれ」

「それくらいでいいのかしら」

「いいよ。それで。そもそもお前のためにやった訳でもなし、なら仕事の報酬としては充分だ」

「そう。なら、改めてお疲れ様」

「ああ、お疲れ……お前もさっさと比企谷と仲直りしろよ」

「……ちゃんとするわよ。そもそも仲違いでもないわ」

「そうかい。ならいいんだ」

 

 比企谷も平塚先生との説教も終わって早々に帰ったようだし、俺も雪ノ下と別れて自分の教室に戻るとしよう。

 踵を返し、のったりゆったりと教室への廊下を辿る。

 校舎はほとんどの人が自分の教室に戻っていて、廊下には誰もいない。

 長かった文化祭の終わりをようやく実感した。

 祭りの終わり、宴のあと。

 後悔は多々あれど、雪ノ下の感謝から察するに少なからず俺にもできたことはあったのだろう。それでも残った禍根は数しれず。

 そんなもの今更気づいたところで後の祭りだ。もうどうしようもないものを嘆いたところで、それがどうにかなる訳でもない。俺の後悔も、そしてあの日の出来事も。

 ならばきっと今日も夢を見る。

 過ぎ去ったものが、決して忘れるなと俺を指す。悪夢となって俺を苛む。

 それを忘れなければならない。忘れて前に進まなければならない。

 だから俺はいつだって憂鬱なのだ。

 

─────────────────

 

夢を見た。

腕の中で君が横たわる姿を。

夢を見た。

君が、息も絶え絶えになりながら、血を流して笑う姿を。

悪い夢を見た。

君と、君のことを忘れる約束をしたことを。

出来の悪い夢を見た。

君が死んだ、あの寒い冬の終わり、過ぎ去ってもなお忘れることの出来ない過去を。

 

 その夢全てが俺を苛む。

 お前は忘れると約束したのに、何をのうのうと思い出を積上げているのだと。ぼんやりとした輪郭だけど、君だとわかる影から、指を向けて、非難されている。

 分かっている。分かっているから。全部、忘れるから。

 だから、あと二年、いや一年だけ、待っていてくれ。少しだけ時間がかかりそうなんだ。

 平塚先生に借りを返しきれてないし、何より奉仕部は俺の目的のための足がかりになる気がする。

 でもちゃんと、このどうしようもない悪夢を、終わらせるから。

 待っていてくれ。

 約束は絶対に守るから。

 




遅れましてこんばんは
相模は開き直りはしましたが、葉山が来て油断したところに比企谷に差されて動揺してしまった感じです。
心の壁のATフィールドが脆くなってしまったわけですね。

長かった文化祭編も終わり、ではなくもうちっとだけ続くんじゃ。
次回 後日談



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三十八話 紅茶香るは憂鬱のかほり

後悔を、ずっと抱えている
それは今も尚、忘れること叶わない


 やってしまった。

 ただそれだけが頭の中でグルグルと回り続けていた。

 ここ数日間はずっと、そんな後悔がずっとあった。

 こと文化祭は色々と思うところがある終わり方になってしまった。それもこれも、俺のせいなのだろう。

 あの後俺はそんな不甲斐なさを己の中から払拭することが出来なくて、結局その日は部室に顔を出さなかった。

 一応向かおうかと思ったのだが、あんなに足が重く感じたのも久々で、結局そのまま帰宅してしまった。先生や雪ノ下からは特にお咎めのメールは来ていない。

 

「ふぅ……」

 

 小さく息を吐く。

 こんな感覚にはもう慣れたと思っていた。俺なんかは所詮その程度の人間なのだとずっと思い続けていた。だというのに、こうして俺は自分自身の間抜けさ具合に自己嫌悪をしてしまっている。

 ……後から考えてみれば、俺は文化祭において選択肢を間違えたのだと思う。

 だがそれでも、俺なりの最善を尽くしたつもりだ。一番影響があったであろう代理においても、俺が介入した理由は奉仕部の依頼を完遂させるためのものであり、そこに何ら間違いはない。

 だから代理になったのは、おそらく何も問題ない。

 仮になにか問題があって間違えたというのであれば、それ以降なのだ。

 それは相模の精神状態を見て見ぬふりをしていたこと。俺はずっと気づいていたし、その上で気にしないようにしていた。

 だから責められるのは当然。俺の自業自得なのだ。

 それでもなお後悔が絶えないのは、俺自身が女々しいからなのだろう。

 比企谷にやるべき事をやれと偉そうに言っておいて、俺はやるべきことが出来ていなかった。

 それがより一層自己嫌悪が加速する。

 なにか考えることがあれば別だが、文化祭を終えた今の俺に、そんなものはなかった。

 そうやってただただ自己嫌悪をしていたら休日は終わった。

 本当に無意義な休日だ、全く。

 

 

 文化祭も終わったから、学校の雰囲気は落ち着くかと思いきやそんなことはない。

 総武高の秋はイベントが目白押し。文化祭が終われば体育祭が待っている。そして二年生の我々においてはその後には修学旅行がある。

 その為か、未だ全体的に浮ついた空気があった。まあ無理もない。今を生きる学生にとってはこの時期ほど楽しいものもないのだろう。

 俺のクラスである二年E組もまた、当然のように体育祭の話で持ち切りだった。

 クラスで運動が得意な体育会系の生徒は、今か今かと楽しそうにしているのだった。

 とはいえ俺のような、インドアかつ文化部の人間からしたら縁のない話だ。程々に、かつ適当に体育祭は望められたら良い。テントの下で涼やかにいられるのがベストだが、まぁ難しいだろう。

 文化部に続いて、体育祭の実行委員までやる気はないぞ、俺は。

 

「んじゃ、連絡終わり。さようなら」

 

 そんなことを考えていれば、もう帰りのSHRは終わっていた。相変わらず、爆速だな。

 これから奉仕部に行かねばならない。

 俺は小さくため息を吐いた。

 

「そんなふうにため息ばかり吐いていたら、幸せが逃げてしまいますよ」

「余計なお世話だ」

 

 声をかけてきたのは松山だった。

 相も変わらず眠たげな目でこちらを見つめれば、何が面白いのか楽しげに目を細めた。

 

「部活、行かないのですか?ほら、奉仕部とかいう」

「あぁ……いや、行くさ。行くとも」

「何やら気乗りしないご様子ですが」

「……気の所為だろう」

「ふむ……。なら、良いのですが」

「じゃあな」

「はい。さようなら」

 

 席を立てば、椅子が床と擦れる音がした。

 寝ぼけたような半目をジーッと此方へと向けていた松山が、興味を失ったのかフラリと自分の席へ戻るのを確認すれば、俺は開きっぱなしの出入口から教室を出る。

 廊下に出れば、まだ生徒の数は少ない。しかし、俺がボケーッとしていたせいもあって、普段よりかは人の姿が多く見受けられた。

 俺のクラスの担任はHRが早く終わることで有名だ。

 生徒達の接し方も基本事なかれ主義かつ、放任主義。教育や指導においても省エネ主義者で、必要最低限しか関わりを持たない淡白な教師である。

 とはいえ、問題も起こさないし、なにか目に見える問題が起きた時の鎮静しに来る速度も早い。有能なナマケモノといったところだろうか。

 そんなわけだから、大体の生徒からも先生からも、好かれてもいないし、嫌われてもいない。そんな人だ。

 なのでHRも必要最低限の連絡事項だけ喋って終わる非常に淡白なものになっている。

 俺のような男からすれば、ありがたいのだが。

 しばらく廊下を歩けば、より生徒の姿も見えてくるようになる。彼らは大体は昇降口の方へと向かうので、俺が今向かっている特別棟方面とは真逆の方向であった。

 のんびりと歩いて特別棟までやってきた。

 こちらは未だに人の姿は見えない。この時間帯にこっちに来るやつはよほど部活へのやる気が溢れているような生徒だろう。

 基本的に文化部の部室はこちらの方にあるのだが、大抵は部室にいかない幽霊部員のようなやつが多い。と、平塚先生から聞いたことがある。

 なんでも、総武校は基本的に部活動の設立が簡単に出来る。同好会レベルの部活でも、ある程度の活動実績さえ期間中に立てることが出来たら、承認を得られるのだとか。

 だから、遊戯部のような一年生が二人だけの部活でも存在が許されるらしい。

 奉仕部だとかいう得体の知れない部活が半年も存在を許されているのも、それが理由だそうだ。なんだかんだ実績をうちたて、林間学校、文化祭と校外も関わってくる活動も上手くやっている。そう考えればこの部活に対してもそれなりに納得はいった。

 文化部が上手くやれたかどうかと言えば首を傾げるしかないが……いや、それはあくまで俺個人だけか。雪ノ下も比企谷も最終的にはやるべき事をやったのだから、その責は全て俺に……。

 

「はぁ……」

 

 思わずため息を吐いてしまったのと、部室に着いたのはほぼ同時だった。

 重たい戸に手をかけて横に引いた。

 カラリと乾いた音を立てて、スライドしていった戸の先は見慣れた光景がある。

 どこにでもあるような辺鄙な空き教室。

 陽の光が射し込む窓辺近くには、奉仕部の部長である雪ノ下雪乃が相変わらずの鉄面皮で、つまらなさそうに文庫本を読んでいた。

 見慣れた光景。なのだが、文化祭でかかりっきりになっていた俺からすると、少し久々で、懐かしさすら感じる光景だった。

 

「そこで突っ立っていないで、さっさと入ってきてくれる?」

「……悪い」

 

 呆けていると雪ノ下から不機嫌そうな声と視線が飛んでくる。

 

「……まぁいいわ。こんにちは。田島くん」

「こんにちは」

 

 雪ノ下は鼻を鳴らすと文庫本へと目を落とした。

 そんな様子を眺めつつ、俺は定位置に鞄を置いた。

 よくもまあ飽きもせず毎日文庫本を読めるものだと感心する。時折若者らしくファッション雑誌やらを読んでいる日もあるが、月に一度あるかないかで、ない方が比重が高い。そんな頻度だ。

 読書が苦手な俺からすれば無理やりにでも読もうとしないと無理だろう。ふと、中学時代図書委員として否が応でも本を読まざるを得ない時期を思い出して、憂鬱になった。

 じゃあなぜ図書委員をやっていたのかと言えば、くじ運がなかったとしか言いようがない。つくづく、俺はその辺恵まれない男なのだと思う。

 いつものようにコーヒーを入れるためにケトルで湯でも沸かそうと思い、窓際にポツンと二つ横並びで置いてある机へと近づいて、気づいた。

 いつの間に用意したのか、ティーポットとティーバッグが置いてある。それ以外にも、ティータイムの為の品がいくつか。

 どうやら雪ノ下がケトルで湯を沸かしていたらしい。

 ポコポコと中で小さな音が鳴っている。

 

「紅茶、か。お前が持ってきたのか?」

「……ええ。コーヒーばかりじゃ体に悪いもの」

「紅茶でも大して変わらないだろう」

「そうかしら?少なくとも四六時中そればっかり飲んでるよりはマシだと思うわ。それに、あなたすぐトイレに行くじゃない」

「それは生理現象というものだろう?」

「だから控えなさいと言っているのよ」

 

 呆れたようにそう言った雪ノ下は立ち上がり、ケトルのボタンを押す。

 俺が買った安物のケトルは、ボタンを押すことで湯を沸かせる。沸いたらボタンが元に戻るので、あとは湯を注ぐだけだ。

 しかし、どうやら沸騰する前に雪ノ下はケトルを止めた。つまるところ紅茶はそれぐらいの温度がベストということだろうか。

 

「本当なら、ちゃんとした茶葉を使って淹れたいのだけれど……面倒だから」

「その気持ちは分かるとも」

 

 俺も、それが面倒だから部室ではインスタントで済ませているわけだからな。その辺は雪ノ下も同じらしい。

 雪ノ下はケトルを手に取って、ティーポットに湯を注ぐ。

 湯を注げば、ティーバッグの中にある茶葉から色が出始め、次第にお湯を紅く染めていく。

 

「……よく休めたかしら」

「は?」

「休日、二日はあったでしょう?文化祭最終日、随分と酷い顔をしていたから」

「ああ……。まぁぼちぼちだ。なんだ、わざわざ心配してくれたのか?」

「それが部長の務めというものではなくて?」

「さぁな」

 

 雪ノ下はポットに蓋をして蒸らした後、ティーバッグを取り除く。

 その後、紙コップを手に取って、注ぎ始めた。

 注ぎ終われば俺の目の前にコトリと置く。

 

「紅茶は飲めるかしら?」

「淹れてから言われてもな……。とはいえ、飲めないわけではない」

 

 単にコーヒー派閥なだけだ。

 目の前に置かれた紙コップからはゆらゆらと湯気が立っている。

 手に取って、紅茶に口を付ける。沸騰前のお湯だから、熱さで思わず口を離してしまうような温度ではなく、かなり飲みやすかった。

 味に関しては、まぁよくある紅茶のそれだ。可もなく不可もなくだな。

 しばらくの間、俺と雪ノ下の間から会話が消える。聞こえるのは雪ノ下がページをめくる音と、俺が紙コップを動かす時の小さな音だけ。

 それでもそんなに小さな音が耳に残るくらいには、ゆったりとした時間が流れていた。

 時計の針が、カチ、カチと静かに時が流れている事を告げる。

 比企谷と由比ヶ浜、少し遅いな。

 普段通りなら二人ともそろそろ来る頃なのだが、なんて戸の方をチラリと見ていると雪ノ下から声がかかる。

 

「……ねぇ田島くん。一ついいかしら」

「どうした」

「この前はあなた、部室に来なかったから言えなかったのだけれど……コーヒー700円はさすがに高くないかしら?」

「来ていたのかお前……」

 

 意外だった。

 雪ノ下がコーヒー飲むのかとか。俺のクラスに対して興味があったのかとか。様々な疑問が出てくる。

 俺の視線に対して、不満に思ったのか少しムッとしたような表情を雪ノ下は浮かべる。

 

「悪いかしら」

「いや別に悪いとかではないが……コーヒー飲めるのかと思っただけだよ」

「馬鹿にしているのかしら?」

「していない。……まぁ、価格に関しては俺も強気だとは思ったよ」

 

 実際売れなかったら値段を途中で下げようと加藤と話していたくらいだ。

 500円か、あるいは350円か。どちらにせよ、そんな予定を建てるくらいには売れないと読んでいた俺たちだったが、存外売れたどころか完売したもんだからそれはもう驚いた。

 

「とはいえ実際売れたのだから、文化祭様々だな」

「祭りの熱というやつかしら……」

「かもしれんな……。いや……きっと、そうなのだろう」

 

 俺も、多分それに浮かされていた一人だったから。

 何故か全部上手くいっていると思っていた。そう思いたかっただけかもしれない。

 だから失敗した。

 

「……ねぇ田島くん」

「あん?……なんだ?」

 

 先程のコーヒーの値段とほぼ同じトーンで声を掛けられたので、ぶっきらぼうに返事をしつつ雪ノ下の方へと目を向ければ、やけに真剣な顔をして、彼女は俺を見ていた。

 その様子に思わずたたずまいを正す。

 それと、部室の戸が開かれたのは同時だった。

 

「やっはろー!」

「……うす」

 

 相変わらずの明朗快活といった様子で挨拶をする由比ヶ浜と、対照的にダルそうな猫背で適当な挨拶をする比企谷。

 二人は少しばかり遅れての参加だった。

 

「……二人とも、こんにちは。今、紅茶を入れるわね」

「あっ、お構いなく〜」

 

 部員ならお構いもクソもないような気がするがな。

 紅茶を啜りながら、俺はスマホのメールを眺める。戸部からメールが送られてきている。多分、時期的にあれの誘いだろうな。

 後で返しておこう。

 俺の右隣が定位置の比企谷は、椅子の隣に鞄を置いて椅子に座る。カバンから文庫本を取り出して、その後俺の方へ軽く顔を向けてきた。

 

「今日は来たんだな」

「あ?……先週の部活のことか。参加しなくて悪かったな。さすがに連日働き詰めのせいで疲労困憊でね。寄り道せずに帰らせてもらった」

「部活のこと寄り道扱い……」

「アンデッドにも休息は必要だものね」

「当たり前のように罵倒を挟むな」

 

 比企谷と同じように定位置に座った由比ヶ浜は相変わらずな雪ノ下の様子に苦笑いを浮かべた。

 俺の答えに比企谷は納得したのかしていないのか、視線を文庫本へと向けてから口を開く。

 

「……休めたんならいいんだ。お前、随分と酷い顔してたからよ」

「……お前にも心配されるということは、我ながら相当酷い顔だったんだろうな」

「他人事だな……」

「てか、にもってことは……」

 

 由比ヶ浜は紅茶を入れた紙コップを二つ持った雪ノ下へと視線を移した。

 

「な、なにかしら」

「ゆきのんもやっぱり心配してたんじゃーん」

「別に、私は……そ、それにしても。二人とも遅かったわね」

 

 露骨に話を逸らしたな。

 そんな雪ノ下を微笑ましそうに見ながら由比ヶ浜は口を開いた。

 

「いやー、ヒッキーと話してたらちょっと遅れちゃってさ」

「話?」

「うん。なんかクラスの雰囲気思ったより普通だねーって。ねっヒッキー」

 

 話を振られた比企谷は気だるそうに頬杖をつきながら、文庫本から目を離した。

 

「そうだな……『ヒキタニ』の話題、思ったよりもしてないみたいでな。まぁそもそも誰だよヒキタニって話ではあるんだが」

「お前のことだろヒキタニ。戸部からそんなメールが送られてきたぞ。何とかタニくんとな」

「おのれ戸部……」

「そもそもその、ヒキタニという話題は少なくともJ組までは広まっていないわよ。聞いたことないもの」

 

 実のところE組でも聞いていない。

 俺が当時懸念したほど、比企谷の悪評は広まっていないのだろうか。

 だとすれば、少しだけ荷が降りたような気分にはなるのだが。とはいえ、戸部の様子を見る限りF組内ではまだ噂されていそうだが。

 

「そうなんだ。じゃあすぐに噂されなくなるのかな」

 

 由比ヶ浜は安心したようにホッと胸を撫で下ろした。

 そりゃあ彼女からすれば想い人の悪い噂が広まるのは内心穏やかではないだろう。

 

「噂なんてそんなもんだろ。大体一ヶ月もすれば別の話題になる。高校生の流行り廃りなんて早いからな。目を離せばあっという間だ」

「確かに一理ある。少し前まではタピオカだ、なんだとブームで専門店も乱立していたが、気がつけばどこにも見なくなったな」

「そうそう。別にあれただの炭水化物だろ?見た目もカエルの卵みたいだし。マジで若者の流行り廃りとかわかんねぇわ。マジやべーわ」

「あなたも若者の内の一人ではなくて……?」

 

 どこ視点でものを言っているのか分からない比企谷に対して呆れた目で見る雪ノ下と由比ヶ浜。

 とはいえ比企谷の気持ちも分からなくはない。むしろよく分かる。世間の流行に疎いわけではないが、知っているだけで着いていける訳では無い。ブームだとか流行だとか、アンテナを貼るにも限度がある。

 そもそも情報源は一色と戸部なのだが。流行の最先端を走る奴らが知人で良かったと、今改めて実感している。

 

「でもヒッキー、小町ちゃんとタピオカミルクティー飲んでる写真送ってきたじゃん」

「そりゃ小町が飲みたいって言ったからな」

「美味いのか?」

「カロリーの塊みたいな味した」

「体に悪そうだな」

 

 そんなものより俺はシンプルなコーヒーで良い。

 紅茶を飲みながら、あの苦さが恋しくなってそう思った。

 やはり俺は筋金入りのコーヒー派である。

 

 

 あれから少し経って秋も半ば。

 窓から吹き込む風は少しばかり寒さを伴って、夏が遠ざかっていくのを感じる時期になった。

 紅茶とコーヒーが香る部室の中ら奉仕部の面々は古いパソコンの画面に向き合っていた。

 

『奉仕部各位

新たな奉仕部の活動内容として、メールでの悩み事相談を開始します。

題して、『千葉県横断お悩み相談メール』

各自奮励し、悩み事解決に努めるようお願いします。

奉仕部顧問 平塚静』

 

 ごくごく簡単なテキスト。

 俺はこれを見て、何となく、面倒事の到来をひしひしと感じるのであった。




おまたせしました。
活動報告の方にも描きましたが、色々と迷走しかけたのでプロット見直しから入ってました。
これからは趣味だと割り切って好きに書きます。
まぁ元々好きに書いてたので、より一層の、という形ですかね。

というわけで次回からは6.5巻の内容です。


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三十九話 唐突に、告げられる

 文化祭が終わった奉仕部は、いつものようにくっちゃっべってコーヒー飲むだけの無意義な活動をしている。最早お茶会部だなウチは。

 とまぁそのはずだったのだが……今日からは平塚先生が発足した『千葉県横断歩道お悩み相談メール』とやらのおかげでそれなりには部活動としての体裁を保っていた。

 新しいものには夢中になるのが人の性だ。例に漏れず、奉仕部も送られてくる幾つかのメールに返信を返している。

 今のところは恐らく妖怪眼鏡腐女子であろう主からのメールと、雪ノ下姉らしきメールだけではあるが。

 ……幾つかと言ったが訂正しよう。二通のメールにだけ返信している。

 しかも内容が内容だ。正直巫山戯ている内容だった。この企画、別に知り合い間だけにしか広まっていないお遊び企画とかなんて話ではないだろうな。大丈夫か?

 しかし発足されたのが今日なわけで、そう考えると送られてくるメールの量も少ないか。だからこうして知り合いの間にしか広まっていないのだろう。茶化したかのような内容が送られてくるのも、まぁ納得ではあった。

 これを広めるためにはまた実績作りからコツコツと、というわけか。

 

「くぁ……」

 

 それはそれとしてバカほど眠い。眠過ぎて正直メールなんさどうでも良かった。

 とはいえ平塚先生が発足した企画だ。仕事だというならばやらねばなるまい。

 勝手に降りてこようとする瞼を無理やり上げて、何とか眠らないように堪える。いつも通りだ、問題はない。

 淹れたコーヒーをズズズと啜りつつ、PCと向き合う彼女らの話を聞く。

 漫才じみた会話をしている彼女らの話を聞く限り、何でも三浦からメールが来たらしい。

 

【PN:yumiko☆さんからの相談】

『なんか、相模がウザい』

 

 相模がウザいのは通常運転だろ。

 内心思わず毒づいてしまう。とはいえどの口が、か。

 比企谷がちらりとこちらに視線を送って来たのを確認したので、目線で特に問題ないことを伝える。

 どうやらこのストレートな相談メールには続きがあるようだ。

 

『落ち込んでるっつーか、暗くて雰囲気悪いんだけど。ウザい。』

 

「……つまり、元気がないから心配、ということかしら」

「さすがに言葉が足らなすぎないか?」

「あはは……でも、なんか優美子っぽいなぁ」

 

 由比ヶ浜は柔らかく微笑んだ。

 俺は三浦優美子という女のことを詳しくは知らないが、文化祭二日目。鶴見に対して言葉はキツいながらも気遣いの言葉を口にしていたような気がする。

 比企谷は彼女のことを女王様だと評していたが、王は王でも、周囲に目を向けることの出来る良き女王なのかもしれないな。

 とはいえ、彼女がこちらへとメールを送るくらいには相模原クラスで雰囲気を悪くしているのだろうか。

 

「実態どうなんだ相模の様子は?」

「んー、そうだね……なんていうか」

 

 由比ヶ浜が困ったような顔をしたあと言葉を濁す。

 

「まぁウザいと言われればウザイな。とにかく暗いんだよ。元々うるさいヤツだったからな、なんというかギャップのせいでクラス全体がぎこちなくなっている。」

「それは相当に鬱陶しいわね……」

 

 雪ノ下と同じように、俺も辟易とした表情を浮かべた。そりゃあウザイだろうよ。

 クラスのうち一人、それがクラスでもそれなりに認識されメンバーだと思われているやつが暗いと全体にまでその暗さ、あるいはマイナス的な負の感情が伝播する。

 由比ヶ浜や比企谷の表情を見ても、それはのっぴきならないものなのだろう。

 

「解決策はあるのかしら」

「どうだろうな……何せ、そうなってるのは相模の悪評が広まっているせいだしな」

 

 変わらず面倒くさそうな顔をして、比企谷はため息を吐いた。

 悪評、か。

 それは文化祭にて相模がエンディングセレモニーをあわや放棄仕掛けたことだろうか。

 

「さがみん、文実で色々あったじゃん?その噂が結構広まっちゃってるらしくで……」

「最初はヒキタニとかいう知らんやつのせいになっていたんだけどな。でもそれもすぐに相模の自業自得っていう風に変わってきた」

「それが原因で相模さんは肩身が狭くなっている、そんな感じかしら」

「まぁそんなとこだ」

「比企谷の噂の方はどうなんだ?何でも相模らが広めていると聞いていたが」

「前に言った通り、そこまでだな。寧ろ広めようとしてた相模自信が悪評が流れてからは、めっきりだな」

「ロビー活動もやり辛くなってきたというわけか……」

 

 自業自得と切り捨てられれば楽なのだろうがな。

 あの一件を切り捨てられていない俺はこの話を聞いているだけで、感じる必要のない責任を感じている。

 ため息を吐いてからカップを手に取る。

 

「……なんにせよ相談として来ているのだろう?どう解決する?」

「つっても時間が解決しそうな問題ではあるんじゃねぇか?噂は噂だし」

「どうだろうな……お前の与太話な噂と違って、相模のものは彼女自身の実話だ。一度落ちた信頼はなかなか取り戻せないぞ」

 

 そう言ってからコーヒーを啜った。

 涼しくなってきたせいで、冷めるのは早くもうコーヒーは温くなっていた。素直に不味い。インスタントというのもあるが、とにかくコーヒーは淹れたてが肝心なのだ。冷めたらなんでアレ不味い。

 しかし、ここのところコーヒーを楽しめていないな。精神状態がよろしくないということだろう。いい加減、振り切らねばなるまい。

 ちろりとこちらを見た雪ノ下は咳払いをすると話を進める。

 

「とにかく、相模さんたちの同行、F組の内情をもうちょっと知ってから適切な対処をとりましょうか」

「まぁ、相談が来たってことは依頼みたいなもんか……」

「そうだね……」

 

 そう言ってから何故か全員こちらへと目を向けてくる。

 

「……あ?なんだよ」

「……なんでもないわ。まずは相模さんたちの様子を見て、解決の糸口を探りましょう」

 

 とはいえ今日はもう放課後。最終下校時刻も近い。相模達ももう帰っていることだろう。

 

「ならば今日はもう解散か?やるにしても明日からやるか」

「……いい言葉だな。明日からやるって」

「典型的なダメ人間のセリフね……」

「ダメなのは俺じゃなくて社会の方だ」

 

 キリッとした表情を浮かべる比企谷に俺たちは呆れた表情で返す。

 コイツは本当変わらんな。

 そういえば比企谷が奉仕部に入ってきた時、平塚先生から依頼されていた記憶がある。確か比企谷の変革が依頼内容だったな……。

 解決の目処は未だたたず、だな。 

 

 

「失礼しまーす」

 

 今日も優雅なティータイムを送っていた我らが奉仕部には尋ね人が来ていた。やはり茶会部に名前を変えた方が良い。

 ノックの主に雪ノ下は「どうぞ」と返せば戸が開かれた。その向こうにいたのは、ほんわかとした雰囲気を纏った三年生、城廻めぐり。総武高校の生徒会長様だ。

 

「えっと、奉仕部ってここでいいのかな?前に体育祭のことで相談メールしたんだけど、直接話した方が早いかと思って……、来ちゃった」

 

 メールと言われ、俺たちはPCの画面を見る。

 

【PN:めぐ☆めぐさんからの相談】

『体育祭を盛り上げるアイデアを募集しています。それと、今年で最後なので絶対に勝ちたいです!』

 

 先程までこれについて話していた、主に俺以外が、メールだが、どうやら送り主は会長だったようだ。体育祭もこれで最後という文面からも、3年生であることは確実だし、ほぼ確定だろう。

 雪ノ下が来客用の紅茶を入れたのを確認したので、俺はその隣のファイルから要旨を取り出す。コイツを手に取るのも久々だな。

 相模の依頼の時は色々あって忘れていたが、今回からはしっかり書いていこう。会長に書かせても良いが、何となくこの人は喋りながら書くという器用なことは出来ないだろう。偏見だろうか。

 ともあれ彼女に文章にしてから喋らせるよりかは、喋ったことを聞いて俺が書く方が良いだろう。

 うんうんと頷いていると、会長が目の前まで来ていた。

 

「えっと……聞いてる?」

「うおっ……すみません、何かぼくに言いましたか?」

「えっと、メールの内容で協力して欲しいんだけど……ダメ、かな?」

「ああ、はい。依頼ということですし、特に問題はありませんよ」

 

 言うと城廻会長はホッと胸を撫で下ろした。

 何やら心配させたようだが。

 

「良かったぁ。田島くんに嫌われてるのかと思ったよ」

「あー、城廻先輩。あんま気にしないでください。コイツがなんか考え事してる時に人の話聞いていないのはいつものことなんで」

「悪かったな。要領が悪いんだよ」

「要領がというより、単に視野が狭いだけではなくて?」

「みのるんたまぁにアレな時あるからね……」

 

 散々な言われようだった。

 誤魔化すように軽く咳払いをしてから、会長へと目を向ける。苦笑いしないで貰えますか?

 

「……それより、会長。依頼の詳細を聞かせて貰えますでしょうか」

「うん。そうそう、みんなに相談したいのはね、体育祭の男子と女子の目玉競技のアイデア出しなんだよ」

 

 めぐり先輩がぴしっと指を立てて説明し始めた。

 何でも内の学園の目玉競技は地味なのだそうだ。実際俺たち誰一人として去年の目玉競技のコスプレレースとやらを覚えていない。

 俺に関しては、体育祭のせいでメンタルが不調だったので当日はサボっていたので知らないのは当然なのだが、由比ヶ浜ですら覚えていないのは余程地味だったのだろう。

 

「毎年地味なんだよね。だから今年は派手なのやりたくてさ」

「な、なるほど……」

「お話は分かりました。いつまでにアイデアを出せば……」

 

 雪ノ下か提案すれば会長はぱあっと顔を明るくして雪ノ下の手を取った。

 

「それなんだけど、体育祭運営委員会の会議があるからそこで考えるのはダメかな?」

「は?はぁ、それはかまいませんけど、あの、なぜ、手を……、はな、離していただけないでしょうか……」

 

 突然手を取られた自体に雪ノ下はたじろぐ。

 しかしながらそんな雪ノ下に対して、手を離すことも無くむしろもう一歩前に詰めてくる会長に対して雪ノ下は一歩下がった。

 

「実はね、体育祭運営委員会の委員長がまだ決まってなくて……。だから、雪ノ下さん、どうかなぁ?」

 

 これを計算でやってないと考えるとげに恐ろしき天然かな。一色は彼女を真似した方が良いだろう。

 しかし、委員長、か。中学時代をほんのり思い出す。

 確か、彼女も体育祭を盛り上げたいと言って委員長に立候補していた。ついでに俺は副委員長にさせられた。

 今となっては、もうどうでも良い記憶だ。

 雪ノ下と由比ヶ浜に断られた会長は、今度は俺の方へと水を向けてきた。

 

「田島くんはどうかな!?代理の時に手際良かったの私覚えてるし!」

「生憎と、あの時の田島は死んだので」

「そっかー、死んじゃったかぁ……」

 

 がっくりと肩を落として項垂れる彼女は諦めたように小さく息を吐いた。

 

「けど、委員長が決まらないのも困っちゃうんだよ。……こうなったら、頑張って心当たりを探すしかないね」

 

 心当たり、葉山は……ダメか。運動部のエースが委員会活動に専念しなければならないのは問題だろう。

 他にパッと思いついた生徒だと、松山がいるが、彼女は多分リーダーには不向きだろう。他だと一色は一年だから除外他には特に思いつかないな。

 我ながら交友関係が狭い。全部自業自得なのだが。

 雪ノ下は顎に手をやってしばらく顔を下げていたが、ふっと顔を上げると口を開いた。

 

「それは誰がやってもいいんでしょうか?」

 

 雪ノ下の問いかけは主語がないために、会長は目をぱちくりとさせたが、すぐにその意図を理解したようで答えた。

 

「え?いやぁ、誰でもって言うのはちょっと困るけど。ちゃんとしてる人で、安心して任せられる人がいいかなーって」

 

 なるほど。だから比企谷に声はかからなかったと。比企谷は根は真面目だが、真人間ではない。どちらかと言えばダメ人間よりではある。仕事はしっかりとする男ではあるのだが……ちゃんとしているかと言えば……まぁ、肯定することは難しい。

 しかし、雪ノ下は別の意図を持って質問したようで先程の質問に補足してさらに質問した。

 

「いえ、そういった人格性の問題ではなく、資格や所属組織についての制限があるか否かということです」

「ああ、そういうことかぁ。それなら問題ないよ。実は立候補を募ってたんだ。ただ、だーれも立候補がいなくて……」

 

 文実の時と言い、今回といい。総武高はアレだな。イベント事に対する積極性に欠けると言わざるを得ない。その一端を担っているのが俺だ。何故ならば面倒だから。

 俺たちがそんな募集知らないと言えば、会長は悲しそうにしながらもLINEやるよ!とやる気を見せている。

 そんな彼女に雪ノ下は若干呆れた様子で口を開いた。

 

「城廻先輩。一人、適任がいますので推薦します」

「え?だれだれ?どんな人?」

「二年F組、文化祭実行委員長、相模南さんです」

「ええっ!?」

 

 驚きの声を上げたのは由比ヶ浜だった。会長も同様に驚いていたし、俺も驚いていた。突拍子もない提案をするじゃないか。以前の三浦の相談と絡める気か?

 そして更に雪ノ下は何故か俺の方を見て告げた。

 

「そして田島くん。副委員長はあなたがしなさい」

「ふむ、副委員長か……。あ……?」

 

 雪ノ下に伝えられた言葉を上手く頭の中で処理できなくて、俺はしばらく彼女の言葉を反芻する。

 

「……はぁ!?」

 

 本気で言っているのか、この女……?

 しかし、見つめる雪ノ下の目は本気で、そこに嘘や冗談の類は一切こもっていない。

 俺はそんな彼女の態度に呆然とするしかなかった。




次回から本格的に6.5巻の内容です。


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四十話 こうして、田島実は再び腰を上げる

こんな時、君ならどうする?


「詳しく……詳しく話を聞かせてくれ。説明が欲しい」

 

 開いた口が塞がらないはこのことだろう。混乱する頭を抑えながら、何とか雪ノ下から話を聞こうとする。

 俺が、相模と?体育祭運営委員会を?

 冗談だろう、と切り捨てたいが、雪ノ下の目は本気だ。

 

「うん……私もちょっと理由聞きたいかも」

 

 会長の言葉に雪ノ下はこくりと頷き、説明を始めた。

 

「あなたも、相模さんも失敗したわ。仮にそれが何かを失うようなものであったとしても、人には機会を与えるべきだと思うの。トラウマの克服と同じね。何よりそれが人を育てる上で必要な事だと思います」

 

 雪ノ下は、最後の部分は会長へと向けて喋る。

 

「そうだね、うん。それは私も思う」

 

 雪ノ下の意見に、会長はゆっくりと大きく頷いた。そして顔を上げ、雪ノ下を真正面から見据えた。

 

「でも、ちゃんとした仕事だから中途半端なことされると困っちゃうんだ」

 

 強い言葉だが、それは真理でもある。彼女は以前の文化祭における相模の行動を暗に言っているのだろう。あんな風になるのであれば、させることはできない。視線だけで雪ノ下に物申す。

 普段の態度で忘れがちだが、彼女も三年生であり生徒会長。雪ノ下相手にこうも毅然とした態度を取れるのは流石と言わざるを得ない。

 しかし、俺が聞きたい答えは相模じゃない。

 

「いや、違う。そっちではない。いやもちろんそっちもあるが、俺が聞きたいのはそっちではない。俺を入れる理由はなんだ?副委員長に俺を推薦する理由だ」

「えーと、私的には田島くんが委員長の方が安心かなー、なんて……」

 

 会長が冗談めかしながら言うが、その目は本気である。

 その冗談を冷ややかに流しつつ、雪ノ下は再び俺の方へと顔を向ける。

 

「さっきも言ったでしょう?」

「何がだ」

「あなたも失敗した、と。聞こえていなかったかしら」

「いや、それは聞こえていた。だったら尚更、俺を選ぶべきではない。止めておけ」

 

 俺は雪ノ下の目を見る。

 視線と視線がぶつかった。ジッと雪ノ下の氷のように冷たく、しかしどこか暖かみのある彼女の瞳を俺は見据えた。

 雪ノ下は俺から目を逸らすことなく言葉を続ける。

 

「あなたには機会が必要よ。もう一度チャンスを与えるべきなの。それに、失敗したままでいいのかしら」

「良いよ。別に。機会なんぞ必要ない。俺は所詮その程度の──」

「私は」

 

 雪ノ下は俺の言葉を遮るようにして声を発した。

 なんなんだ。突然。

 雪ノ下の声には強い意志が込められているのを感じた。訳が分からない。比企谷からも何故か視線が飛んできている。

 困惑していると、雪ノ下は一瞬下げた視線を上げて俺を見た。

 

「……私はあなたなら出来ると思うわ、田島くん」

「その信頼が重いな……」

「で、でも隼人くんも褒めてたよ。みのるん一日だけだったけどすっごい手際良かったって。なんかとべっちが妙にうるさかったけど」

「アイツが、か。まぁ俺が不安なのはそこではないのだが……」

 

 雪ノ下の視線がむず痒い。

 こいつこんな目で俺を見てくるやつだったか。もっとこう、冷たくて見られるだけで凍え死にそうな目だったと思うのだが。

 クソ、やり辛い。なんなんだ、本当に。

 期待、信頼。それらに何一つ応えられなかったから今の俺がいるというのに。

 とはいえコイツらは知らない話か。まぁいい。

 

「そこまで言われたら俺とて拒めん。……俺が、やればいいのだろう?」

「ええ」

 

 俺がチラリと雪ノ下に目線を向ければ彼女は満足気に頷いた。

 

「……わかった。構わん、やってやる。だがお前たちにも手伝ってもらうぞ」

「初めからそのつもりよ。それで、由比ヶ浜さん。お願い出来るかしら」

「うん!任せてよ。ゆきのんが頑張りすぎないようにあたし頑張るから」

「ありがとう。ならあなたも頑張りすぎないようにしなくてはならないわね。……比企谷くんも、お願いしていい?」

「……まぁ、仕事だしな」

「……助かるわ」

 

 俺以外は結構乗り気のようだ。

 それを傍から見ていた会長は「雪ノ下さん達が手伝ってくれるなら大丈夫かな……」と呟いたあと、安堵したかのように嘆息した。

 

「よしっ!じゃあ決まりだねっ!」

 

 その後手を叩くと彼女は宣言する。

 

「田島くんは副委員長よろしくね!委員長が決まらないとこっちも決められなかったからちょうど良かったよ」

「善処します。それで、相模の方はどうしますか?」

「そうだなぁ……とりあえず田島くんと相模さんって関係今どんな感じ?」

 

 会長は少し遠慮がちに聞いてくる。

 どうやら俺と相模の件は知っているようだ。随分と気を遣わせているようで申し訳ないと思ってしまう。

 

「あまり……。いやかなり悪いですね」

「なら、とりあえず私と雪ノ下さんで話に行こっか?」

「そうですね。明日にでも行きましょう」

「あ、あたしも行く!」

 

 どうやら雪ノ下だけでは心配だったようで、由比ヶ浜も立候補した。確かに、雪ノ下はこういう交渉と向いているとは思えないので妥当な判断だろう。

 

「じゃあ、また明日。よろしくね!」

 

 会長は部室を出ようとしたが、「あっ」と何かを思い出したのか小さくつぶやくとターンをしてこちらへと振り向いた。スカートがフワリと靡き、比企谷の視線がそちらへと釘付けになる。いやらしいヤツめ。

 

「ちなみにみんな何組?うちの学校ってクラス内で半分ずつ分けるじゃない?一応確認しておきたいな。私は赤組なんだけど」

 

 どうでも良いことを気にするな。

 まぁ別に個人情報でもなんでもないし、伝えても問題は無いだろう。

 そう思った矢先に比企谷が答えた。

 

「赤」

 

 比企谷は言い終えてチラリと由比ヶ浜を見た。

 

「赤」

 

 由比ヶ浜は雪ノ下を見た。

 

「赤」

 

 待て。

 雪ノ下から視線が飛んできた。頬がひくつく感覚がする。

 俺が答えないのを見ると皆の視線が集まる。皆さっさと言えと言わんばかりに見てくるので、仕方なく答える。

 

「……白」

 

 そう答えて会長を見た。

 物凄くショックを受けた顔をしていた。

 

「田島くんだけ敵なんだね……やっぱり副委員長の件やめにする……?」

「相手になった瞬間冷たくなるのやめて下さいませんか……素直に傷つくのですが」

「ううう……折角みんなで優勝目指すぞー!おー!ってするつもりだったのに……」

 

 それを聞いて雪ノ下と比企谷がホッと安堵の息を漏らしたのを俺は見逃さなかった。感謝しろ。

 

「あっ、じゃあこうしよう。みんなで体育祭盛り上げるぞー!おー!」

 

 しかしその安堵は一瞬で打ち砕かれたようだ。

 よよよっと泣いていた彼女はどこへ行ったのか。打って変わっていきなりぶち上がったテンションに我々は誰一人として着いていけていない。

 由比ヶ浜ですら無理なのだから、俺達には不可能である。何より安堵の息を吐いていた雪ノ下や比企谷が露骨に動揺している。

 

「盛り上げるぞー!おー!」

 

 先程と同じテンションで会長は再び拳を握ってて掲げた。

 これやるまで続くやつか……?無敵か?この女。

 

「「「お、おー」」」

 

 俺と由比ヶ浜。それに比企谷までもが、何とか彼女に合わせようと手を挙げるが羞恥心が勝って、挙手する際に手がぴーんと伸ばせられない生徒みたいになってしまった。

 それでも会長は満足したようで部室から去っていった。

 嵐のように去っていった彼女にため息が漏れ出る。

 ……というか、雪ノ下もやれよ。

 

 

 翌日の放課後、俺は比企谷と部室で留守番していた。雪ノ下達三人が相模を説得しに行っている間、俺たちは待機というわけだ。何しろ俺と比企谷は相模にべらぼうに嫌われている、はずだ。

 静寂が支配する部室は、比企谷が繰るページの音と時計が時を刻む音だけだ。

 俺はコーヒーを啜りながら、ネットでニュースを見ていた。政治家のアレコレだとか、芸能人の不倫だとか、世間は相変わらず不祥事がお好きなようだ。

 比企谷はというと、黄色と黒のMAXコーヒーとやらを取り出して、読書の合間合間に飲んでいる。よく飲めるな、あんな甘ったるいコーヒー。

 

「何?田島くんそんなジロジロ見て。お留守番はちゃんとできているかしら?」

「なんだその気持ち悪い口調は」

「雪ノ下の真似」

「バカほど似ていないが面白さは評価してやる。二度とやるな」

「評価してないだろそれ」

「その通りだ。雪ノ下の前では決してやるんじゃないぞ」

「やるわけねぇだろ。あいつの目の前でやってみろ、罵詈雑言の嵐でブリザードが吹くぞ」

 

 想像しただけで比企谷は恐ろしくなったのか、ブルりと身震いした。

 雪ノ下がブチ切れればたちまち大地が割れ、空は赤く染まり、氷が吹き荒ぶ地獄になるであろう。

 アホか。

 

「アイツら上手くいってんのかね」

「どうだろうな。俺と比企谷は論外だが、雪ノ下も相模には嫌われていそうだからな」

「雪ノ下自身はそういうの歯牙にもかけないだろからな……どうなる事やら」

「上手くいくことを願うだけだ」

 

 比企谷が「そーだな」と呟いて文庫本に目を落とした時、扉の向こうから声が漏れて届いた。

 そして扉がガラッと雑に開かれた。

 

「はぁ〜、疲れた〜」

「……全くね」

 

 彼女達の様子を見る限り、相模との交渉は随分と難航したようだ。しかしながらわずかながらの達成感があるところを見るに、一応は上手くいったらしい。

 

「お疲れさん」

 

 比企谷が声をかけると二人は短い溜息と共にこくんと頷くだけだった。本当におつかれのようだ。

 すると後ろから会長が朗らかな雰囲気を保ちながらやってくる。

 

「ありがとう。比企谷くんに田島くんもお疲れさま〜」

「いえ、ぼく達は待っていただけなので。それで首尾の方は?」

 

 すると会長は少しだけ苦笑いした。

 

「相模さんに結構渋られちゃったんだけど、何とか引き受けては貰えたよ」

「一応だけどねー……」

「一応?」

 

 オウム返しのように比企谷が聞くと、雪ノ下がこめかみを抑えたあと、ふっと短く息を吐いたあと、視線を窓の方へとやった。

 

「ええ。私たち、というよりは葉山くんが頼んだ結果といったほうが正しい感じだけれど」

「なるほど、さては見兼ねた葉山あたりが仲裁に入ったな?」

「うん……そんな感じ」

 

 浮かれる相模の姿が目に浮かぶな。

 

「まぁ、でも引き受けてもらえたんだし」

「ぼくが副委員長になったということは伝えたのですか?」

「えっと……それは」

「あなたのことを話すと絶対に引き受けて貰えなさそうだから伏せたわ」

「……そうかい」

 

 その判断が、吉と出るか凶と出るか。神のみぞ知るといったところだな。まあ悪い方に転がるのは目に見えているが。

 面倒くさいことになるのはほぼ確定している未来に対して俺はため息が出そうになる。

 

「それじゃ、早速だけど、……行こっか」

「どこへですか?」

「これから運営委員会の会議があるの」

 

 先に言っておいて欲しいな。そういうのは。

 

 

 運営委員会の会議室は体育祭の会議室は文化祭の時と同じ部屋だった。対して時間は経っていないが懐かしさを覚える。一時期はここに通いつめていたからな。実質ここが部室のようなものだった。

 以前のようなごちゃっとした雰囲気はすっかりなくて、綺麗に並べられた机と椅子だけがそこにはあった。

 

「ご苦労さま〜」

 

 会長が声をかける。

 声をかけられたメンバーは生徒会役員達だ。彼らも見慣れた面子であり、俺や雪ノ下を見ればぺこりと頭を下げてくる。ざっと見た限りは運営委員会は彼らを中心に構成されているようだ。

 声をかけられた役員たちは、一礼した後脇に下がって道を開ける。ヤクザか?

 他にいるメンバーと言えばジャージ姿の生徒がチラホラと。

 

「なんでジャージ着てるんだ?」

「運動部だからだろう?」

「なんでいるの?」

「知らん」

 

 俺と同様に比企谷も疑問に思ったようで、二人でヒソヒソと喋っていると会長がそっと耳打ちする。

 

「当日のお手伝いのために各運動部から人を出してもらってるんだ。流石に手が回らないところもあるから」

 

 なるほど、と俺と比企谷は頷いた。

 どうも文化祭の時とは違って、生徒会役員以外は全て有志のメンバーで構成されているらしい。俺たち含む生徒会役員メンバーが首脳部。他運動部の有志たちが現場班というわけだ。

 ボケーッと現場班を見ていると見知った顔が一人。

 亜麻色の髪が目立つ女子生徒。我らが後輩の一色いろはだ。

 目が合うと彼女は目を丸くした後こちらへとやってこようとしたが、俺が雪ノ下や会長らと一緒に居ると認識すると、ササッと元いる場所に戻った。彼女らのことは苦手なのだろうか。

 そしてスマホを取り出してなにか打ったかと思えば、俺のスマホにLINEでメッセージが送られてきた。

 

『なんでいるんですか!?』

『部活』

『意味わからないんですけどー!』

 

 俺だってわからん。

 アイツへの説明は後でいいだろう。ジーッと視線が飛んでくるのを無視しつつ、会長が会議室の奥へと向かったのを見て俺も最後尾で着いていく。その先には平塚先生がいた。

 そのパンツスーツを履いた長い脚を組みながら、ペラペラと退屈そうに紙を捲る。

 彼女は俺たちに気がつけば振り返る。

 

「お、うまく人員確保できたようだな」

 

 会長の後ろにいる俺たちを見て彼女は満足気に頷いた。つまり、今回会長が依頼に来たそもそもの原因は、いつも通り平塚先生の手引きによってということなのだろう。

 

「はい、先生の言うとおりにしてよかったです」

 

 想像通りである。

 変わらず奉仕部は平塚先生のお陰によって活動できているというわけだ。まあ、持ってくる案件が案件なので素直に感謝はできないのだが。

 とかく平塚先生とも喋ることはないので、彼女と喋る他の奉仕部メンバーと会長の会話を聞き流しつつ、扉を見る。相模が来るまではしばらく時間があるようだし、仕方がない。

 説明義務を果たすとしよう。

 LINEに『会議室の外』とだけメッセージを送って俺は会議室を出た。

 数秒もしない内にカラリと戸が開かれて一色が出てきた。

 出てくるや否や彼女は不満そうな顔をしながら近づいてくる。

 その後ズズいっと顔を近づけてきた。

 

「説明!」

「奉仕部の依頼だよ。城廻会長がいたことから察しているだろうが、依頼人は彼女だ。なんでも体育祭を盛り上げて欲しいという依頼でな目玉競技を考えたいそうだ」

「目玉競技?それ必要なんですか?」

「ああ。なんでも毎年総武校の体育祭は地味なんだそうだ。そのせいでどうも印象に残りづらい。彼女も生徒会長、何より最後の体育祭」

「だからみんなの印象に残る体育祭をしたいってことですか」

「そういうことだ」

 

 彼女は納得したようなしていないような。未だに不満そうな顔をしながらため息を吐いた。

 

「まぁ、先輩がここにいるわけは分かりました」

「ほう、しかしまだ何か言いたげだな後輩」

 

 彼女はグッと小さく声を漏らす。

 毎度ながら学ばんなぁコイツも。

 

「……正直、田島さんが体育祭運営委員会をするとは思いませんでした」

 

 伏し目がちに彼女は聞いてくる。

 

「俺とて乗り気ではない。しかし……部活動だからな。やるとも」

「……そーですか。それで田島さんは城廻先輩たちと一緒にやるんですか?」

「ああ。しかも副委員長」

「な、え?ほんとですか?本気でOK出したんですか?」

「雪ノ下がやれと言うのだから、仕方がないだろう」

「ふぅん……雪ノ下先輩が……」

 

 訳ありげな顔をして彼女は顎に手をやる。

 その後モゴモコと口を動かすが、何を言っているのかは声が小さすぎて分からない。読唇術なんざ持っていないからな。それに一色は昔から感情を読み取るのが難しくて、こうした時にどんな想いなのかが分からない。

 

「まぁいいです。詳しい話は本人から聞けばいっか。……そろそろ会議も始まる時間ですし、会議室に戻りましょうか」

「構わん。そういえば聞き忘れていたが、お前はサッカー部からの手伝いか?」

 

 聞くと彼女は凄い微妙そうな顔をする。

 

「あー、はい。マネージャーから一番年下の私が選ばれたんですよねー。絶対押し付けられましたよこれ」

「当たりを引いたな。後でアイスでも買ってやろう」

「あ、言いましたね?約束守って下さいね?」

「当たり前だ。俺だぞ」

 

 言えば彼女はニコリと笑って「そうですね」と言ったあと一足先に会議室に向かっていった。

 淀み出たものを吐き出すように、フーっと息を吐いてから俺もその後を追って会議室へと入っていった。

 

 

 会議室に入って、雪ノ下らと合流した。どこに行っていたのだと文句を言われたので、知り合いと喋ってたと言えば『架空のお友達と喋るくらいに精神的に追い詰められていたのかしら。ごめんなさい、気づくことが出来なくて。やっぱり副委員長、やめる?』と言われた。

 仮にそうだとしても精神的に追い詰められている人間にかける言葉ではない。

 しばらくして、相模が会議室に入ってきた。キョロキョロと会議室を見回している彼女に会長が声をかける。

 

「あ、相模さんこっちこっち」

「あ、はい……え」

 

 相模は会長に声をかけられると安堵したような表情になるが、俺の姿を見るとぴしり、とその体が固まった。

 

「なんで……」

 

 困惑混じりに小さく漏れ出た声が耳に入る。

 さて、まずは、ここからだろう。

 会長に再び声をかけられて、困惑しながらこちらへと向かってくる彼女を見て俺はまずこの壁を越えなければならないのだろうと、盛大にため息を吐いた。

 




次回 波乱の幕開け


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四十一話 会議は踊る、されど少しだけ進む

新年明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
本当は書きだめやら何やらをしたいのですが、如何せんやるべき事とやりたい事が多すぎますね。
今年はもう少し、目標を立てながら生きたいものです。




 あれから会議はつつがなく進行した、と言うことができればどれだけ良かったことだろうか。

 此度の会議は出だしからして不安要素が多い。

 一つ目の問題は相模だ。彼女は副委員長が俺であるとわかった途端、席を立って出ていこうとする素振りを見せた。

 その場は何とか会長が諌めたが、会議が終わればどうなる事やら。

 彼女も以前のように衆目を浴びた場で騒ぎ立てはしないらしい。

 まぁ、俺が発言しようとすればすぐさま睨みを効かせてくるのだが。とはいえその程度だけならば……騒がないだけマシと思うことにしよう。

 問題点は以上である。こうして挙げてみたが、実際のところ彼女の存在が会議そのものの進行を妨げているわけではない。

 相模は不満げながらも、一応は平静を装っているのだ。少なくとも、委員長業自体は疎かにするつもりはないようだ。

 続いて会議そのものの進行、これも酷い有様だ。

 何が酷いかと言えば全くもって目玉競技が決まらないことだ。

 生徒たちが幾度幾度とアイデアを出せど配慮配慮と却下され、それ以外にも各所から反対意見が湧き出てくる。

 俺も試しに適当なのを幾つか上げてみたが採用されたのはなんの面白みもない競技ばかり。これでは目玉競技と呼ぶにはふさわしくない。それどころか、会長の望む皆の記憶に残る体育祭なんて夢のまた夢だろう。

 昨今多様性だなんだと生き辛い世の中ではあるが、よもや自由な校風を謳う総武高ですらこのザマとは。嘆かわしい。

 そんなものだから会議室は気まずい沈黙が支配していた。

 それこそ集まったばかりの頃は、なんだかんだとやる気はないものの、自分たちで目玉競技を決められるという事でそれなりの盛り上がりはあったのだ。

 しかしそれも過去の話だ。こうも出す案出す案全てを片っ端から却下されると熱も冷める。端的に言えば萎えてくるのである。

 「いい加減早く決めろよ」といったような雰囲気すら出てくるものだから手に負えない。

 

「え、えぇと……他になにか意見のある人は……?」

 

 相模もこれはまずいと思ったようで、何かないかと視線を巡らせるが、あるのは無関心と徐々に芽生えてきている不満だけ。それと、小さな囁きが聞こえた。

 どうにも相模はその視線に怯んでしまって、何とかしてくれと言いたい目で会長へと縋る。

 しかしさすがの会長と言えどこの状況を打開することは難しいらしい。何度か声掛けをしてみたものの、生徒たちの反応は芳しくなかった。

 小さく息を吐いて、窓から外を眺める。

 この会議が始まってから約一時間も過ぎたころだろうか。秋も深まって短くなった陽は、既に西へと沈み始めており、窓からはやや赤らんだ光が差し込んできていた。

 こんな日は、ぼうっと外を眺めながらコーヒーでも飲みたい気分だな。

 とっくのとうに過ぎてはいるのだが、十月一日はコーヒーの日でもある。何かとかこつけて記念日を作りたがるのが日本人の悪い癖だとは思うが、これに関してはなかなかどうして悪くない。

 世界が秋にはコーヒーを飲むべきだと言っているのだ。進んで飲むべきなのである。

 さて、現実逃避も程々にして各所からの反応を見れば、相も変わらず悪いらしい。

 それを前に相模は一段と顔を俯かせた。

 膝の上で握られた拳は固く、彼女がどんな想いで今そこにいるのか。俺には分からない。

 どうあれ、このままでは埒が明かないのは確かだった。

 

「会長」

「え、あ、何かな田島くん」

「どうも今日中には決まりそうにないですし、今日は解散でも良いかと思いますが。どうでしょう?」

 

 言ってからすぐに後悔した。聞くべきは会長ではなく相模の方だろうに。

 会長は一瞬考えるように顎をさすった。

 

「うーん……そうだね。相模さん、そういうことなんだけど、それで大丈夫そう?」

「あ、はい。良いと思います」

「じゃあ、締めてもらえる?」

 

 相模は頷いて、委員会の面々へと顔を向けた。その顔は引き攣っていて上手く笑えていない。

 

「え、えーと。……今日は、目玉競技の方が決まりそうにないので、また次回ということで、解散にします。お疲れ様でした……」

 

 ゆっくりと噛まないように挨拶をした相模に続くように、会長が口を開く。

 

「次回もここの会議室でやるので、みんなよろしくお願いしま〜す!お疲れ様でしたー!」

 

 その言葉を皮切りに委員会の面々は席を立ち上がり始めた。

 それと同時に平塚先生も立ち上がる。

 

「よし。私も戻らせてもらおうか。悪いがまだ仕事があってね……。言っておくが嘘じゃないぞ」

「や、その表情を見て嘘だと思う奴いないっすよ……」

 

 辟易とした表情を浮かべる平塚先生に、同じように辟易とした比企谷が答える。二人揃って顔から働きたくないオーラを出すのはやめて欲しい。

 

「まぁでも私若いから、仕事を振られてしまうのさ。私若いから!」

「ちょっ、なんで肩組んでくるんですか」

 

 冗談めかして……おそらく冗談ではないのかもしれないが、彼女は笑いながら比企谷にダル絡みを始めた。

 面倒くさくなったのか、雪ノ下が冷たい目で平塚先生を見ながら口を開く。

 

「仕事があるのでは……?」

「ああ。そうだったそうだった……。では、次回以降も任せたぞ」 

 

 白衣を翻しながら、会議室を出ていく生徒たちと一緒に去っていった。

 まばらに出ていくために片付けをする生徒たちが、パイプ椅子が動かす度にカチャカチャと嫌な音が鳴る。

 その音に眉をしかめつつ、彼らが教室を出ようとする所を眺めていると、一色と目が合った。

 口をパクパクさせ、何かを伝えようとしているようだが、全くわからん。仕方なしにスマホを見てみると、同じ考えだったのかメッセージが丁度届いた。

 

『一緒に帰りませんか?』

 

 俺はチラリと奉仕部の面々へと視線を動かす。その後素早く指を動かす。

 

『少し遅れる』

 

 一拍置いてからまたメッセージが送られてきた。

 

『待ってますね』

 

 何処でだ。そんな疑問をメッセージとして打とうとしたが、一色は既に会議室を後にしていた。恐らくLINEは今見ていないだろう。

 全く。探すのが面倒だな。

 

「聞いて、ないんだけど」

 

 スマホを仕舞うのと、相模がこちらを責めるように声を発するのは同時だった。先程までは強張った表情の相模だったが、一転視線は鋭く睨みつけている。

 視線は雪ノ下へ。しかしその声の対象はきっと俺たちに対してもなのだろう。

 

「うち、コイツがいるなんて聞いてない……!」

 

 相模の反応は予想通りのものであった。

 俺は、まず、まぁ間違いなく相模に嫌われている。それは俺とてそうだが、俺の場合彼女に対する感情はどちらかと言えば忌避に近い。対する彼女は嫌悪であり憎悪のような感情を向けているのだと推測する。

 その対象とこれから一緒に仕事をする必要があり、しかもそいつがいることを伝えられていなかったとなれば、彼女の反応も当然と言えよう。

 こればっかりは、伝えなかった雪ノ下たちの落ち度と言えよう。伝えたら伝えたでそもそも相模が引き受けるかどうかも怪しかったのだから、仕方のないことだが。

 

「……それについてはごめんなさい」

 

 雪ノ下は一瞬伏し目がちになったが、すぐに顔を上げて相模から目を離さない。

 彼女なりに相模の怒りを受け止めるつもりなのだろうか。

 

「それってうちを騙したってわけ?」

「そういう訳ではないわ。ただ……私は、あなたにこそ引き受けてもらいたかったの。だから田島くんのことは一度伏せたわ」

「……それって結局うちを騙してることに変わんなくない?」

 

 相模と雪ノ下の口論を周囲は固唾を飲んで見守っている。いや口出しが出来ないというのが正しいだろうか。なぜなら今回ばかりは相模が正しいから。

 

「……そうね。そうかもしれないわ。それでも、私は相模さんに一度ここに来てから判断してもらいたかったの。あなたがもう一度、こういった場で立つのか否かを判断してもらうために」

 

 常、雪ノ下雪乃という女は正論の鬼だが、今回ばかりは私情が込み入っているのか、その言葉に普段のようなキレはない。

 

「なら、うちがここで全部投げ出してもいいんだ?」

「相模さん……それは」

 

 会長が困ったように声を出した。彼女としては一度引き受けた以上全うして欲しいのだろう。『中途半端なことをされると困る』と、以前雪ノ下が候補として相模を挙げた際に言葉にした。

 それは今も変わらないらしい。

 ただ、仮に相模が辞めるなら今しかないのも間違いない。

 会長が困ったように視線を右往左往させる。

 

「でも、本当にやりたくないと言うならここで降りてもらっても構わないわ。今回はあくまで私のお願いをこんな形で引き受けてもらっているのだから」

 

 しかし重たい空気を打ち砕くように、雪ノ下が声を発した。

 その言葉の内容はなんというか。意外だった。

 雪ノ下が正直に自分の気持ちを伝えて、相手の意志を尊重している。

 真っ直ぐと雪ノ下は相模を見据えていた。

 そして、その視線は俺にも飛んでくる。

 

「それと、田島くんもいつでも降りてもらっていいわ」

 

 その視線が、やけに優しくて。むず痒くて。

 由比ヶ浜が何か口を開こうとしたのを確認していたのに、それを遮るように俺は声を出す。

 

「それって───」

「いや……一度引き受けた以上その選択肢はない。それに、俺と相模が降りたら代役はお前になるのだろう?」

 

 視線だけ由比ヶ浜に移せば、少し困ったような表情をして彼女はこくりと頷いて俺に譲ってくれた。助かる。

 

「そう、ね……。提案した以上私がやるのが筋というものでしょうし、そうなるわ。……何か問題でも?」

「あるにはある」

「また文化祭の時のようになると思っているのかしら。だとしたら、遺憾だわ」

「それもある」

 

 俺としては、雪ノ下の提案を、その思惑を理解しないで蹴るというのは些かしのびなかった。

 

「別にあの時みたいに無理はしないわ。だって、そのためにあなたたちがいるのでしょう?」

 

 雪ノ下は小さく微笑んで、奉仕部の面々をゆっくりと見渡した。

 それに由比ヶ浜は嬉しそうにぱあっとその瞳を輝かせた。

 

「うんっ、もちろん!だよねヒッキー?」

「お、おお……やれるだけ、な。あんまし働きたくはねぇし……」

「なら、問題はないようね。比企谷くんはどうやら社畜精神が魂までこびりついているようだし」

「台所の水垢みたいな言い方しないで貰えませんかね……」

「あら……違ったかしら?」

「違うからね?昔比企谷菌とか言われてたけど本当に菌糸類じゃないからね?」

 

 その後死んだ目で「ああ、働きたくない」とぼやく比企谷。相変わらずの彼を見てクスリと小さく笑う見る雪ノ下と、仕方がないと言わんばかりに笑う由比ヶ浜。彼らのいつも通りの反応に、少しだけ安心した。

 そして再び雪ノ下は俺を見た。

 

「だから、ね?心配しなくてもいいのよ」

「心配なんぞしていない。単にお前が以前のように倒れられては迷惑だ、という話をしているんだ」

「へぇ、そんなこと言われた覚えはないけれど?」

「それはお前の記憶力不足だろうよ」

 

 俺は雪ノ下の目線から逃れるように相模へと目を向けた。

 

「まぁ見ての通りだ。お前が嫌なら降りてもらっても構わない。幸い文化祭の時のノウハウがあるからな。こちらも何とかしてみせよう」

 

 相模はギュッと服の裾を握って、下を向いている。

 

「……ないし」

「うん?」

 

 ボソッと、小さくつぶやく相模。

 

「別に……!辞めるなんてうち一言も言ってないし……!」

 

 しん、としばらくの間この会議室が静まった。その瞬間ポカン、と間抜けな音が聞こえたような気がした。彼女の言葉に誰もが驚きを隠せないのでいるのだ。かく言う俺もその一人だ。

 こんな言葉が帰ってくるなどと、誰が思うのだろうか。

 どう考えても先程辞めるかのような発言をしていたはずだが。

 各々の驚きによって出来上がった静寂を崩すように、雪ノ下が少し訝しげに相模を見た。

 

「本当に良いの?」

「別にうちはなんも言ってないし……。確かにコイツいることを黙ってたことはムカつくし、許す気はないけど……もう引き受けちゃったから。それに……うちだって……」

 

 相模はごにょごにょと口を動かして言葉を濁した。

 

「とにかく、うち、やるから」

「そう……。ありがとう」

「お礼なんてしなくていいから……それに、うちはアンタのことも許してないし」

 

 相模は鋭い目で俺を睨んだ。

 雪ノ下のあれこれは一旦置いておくが、俺のことはおいておくつもりは無いらしい。

 

「それは、お前が……」

「いや、それならそれでいい」

 

 比企谷の言葉を遮るように口をだす。

 ちらりと見れば、彼はじっとりとした目で俺を見ていた。そんなに見つめるなよ。照れるだろうに。

 しかし俺を含め今日はどいつもこいつも言葉を遮ってばかりだな。

 

「恨むのも、憎むのも嫌うのも好きにしてくれて構わない。それでお前が務めを果たすのならば、な」

「……あっそ」

 

 ふいっと、俺から視線を逸らし相模は雪ノ下へと目を向けた。

 

「それで、うちがやるのはいいけどこれからどうするの?種目すら決まってないわけだけど」

「そうね……」

 

 雪ノ下は顎に手をやって黙考し始めた。

 相模が実行委員長を引き受けたとて、確かに俺たちの前にはもう一つ課題が残っている。

 体育祭の目玉競技である。これを決めることが出来ない限り会議は、ウィーン会議よろしく無様に踊り続けるだけだろう。

 

「とりあえず、今日はもう遅いし、また次回にしない?」

 

 会長が微笑みながらそう提案する。比企谷が以前「城廻先輩はな、背中からマイナスイオンが飛んでるんだよ。あれは癒しの使い手だな。FFなら白魔道士だ」と言っていた。全体的に何を言いたいのかは分からないが、それでも癒しという一点のみには頷ける。

 文化祭準備の時も辛そうにしているメンバーに直接声をかけて労っていたのは彼女だけだった。

 そうした気遣いができる面がこうした評価に繋がり、彼女を生徒会長たらしめているのだろう。

 

「そうですね……一応最後にお前たちにも確認するがなにか案はあるか?」

 

 顔を巡らせて各々の反応を探る。しかしながらその反応は芳しくない。

 

「まぁ……ないことはない」

 

 仕方がないと諦めた時に、重々しく口を開いたのは比企谷八幡だった。

 




大変遅れて申し訳ない。
前書きでも述べたように、ある意味ではありがたい限りで、些か多忙な毎日を送ることになっているものですから執筆の時間が取れない。取れても他のことをやってしまう。
そんな日々です。
こうして投稿したのもあまりに待たせるのも宜しくないと思ったので。
ある意味でお詫び投稿というやつでしょう。
次回もまた投稿まで期間が空くかもしれませんが、気長にお待ちいただければ幸いです。


次回 多分ちょっとしたラブコメ。


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四十二話 後輩とただの帰り道

いつだって大事なところは踏み込めない


 比企谷の出した案は至極簡単なものだった。自分達で案が出せないのなら他人を頼れば良いというもの。彼曰く「適材適所だ。出来ないことを他人に投げて何が悪い。他力本願万歳だ」とのことだ。

 相変わらずの彼らしい論理ではあるが一理ある。あのまま次回に持ち込んだところで待っているのは今日のような有様になるのは目に見えているからな。

 となれば煮詰まった頭で考えるより、そういったアイデア出しが得意な人材に声をかけた方が良いというわけだ。

 そうして候補に挙がったのが、妖怪腐女子もとい海老名姫菜、それと自称作家の厨二病材木座義輝だった。

 納得の人選ではある。方や二次創作とはいえ文化祭のだし物として満員御礼を叩き出した演劇の脚本を書いた女。方や自称作家。

 後者は些かながら安心感に欠けるものの、まぁ……そこは比企谷に任せればいいだろう。前者は言わずもがな。その手綱は由比ヶ浜任せになるが安心感は段違いだ。

 次回の会議に彼らが考えた案を発表するらしい。

 一先ずは先の段取りが決まったということで一安心である。相模も何故かやる気ではあるようだからな。

 そうして、俺は今誰もいない階段を一人で降りていた。

 雪ノ下たちには連れを待たせているからと言って一足先に帰らせてもらったのだ。

 その際雪ノ下は信じられないものを見るような目で見てきたが、由比ヶ浜が一色だと察してくれて助け舟を出してくれた。全く、彼女は本当に周囲を見ている。頭が上がらない。

 踊り場の窓から差し込む茜色は黒が混ざり、やがて藍色を伴って夜の帳を落とす事だろう。こうなると、さすがに冷え込んでくる。

 最終下校時刻が近づいて、消灯が始まったこの校舎では、人の暖かさなど皆無でやけに空気が冷たい。それは孤独ゆえか、単に冬が近づいているからか。後者だとするなら個人的には納得だった。

 そうして昇降口へと降りる階段の一番下の段に一色は腰を下ろしていた。

 

「わざわざこんなところで待たなくてもいいだろうに」

 

 彼女は俺の声に反応してバッとこちらへと振り向く。そして俺が階段から降り切るのを待ってから、ムッとした表情を浮かべながらこちらへと近づいてきた。

 

「……むう、田島さん遅ーい」

「悪かった。少し会議が長引いたものでな」

 

 そう言って昇降口へと向かい、下駄箱から上靴をしまって外靴を取り出す。

 一年生と二年生の下駄箱の場所は違うので、一度傍から足早に離れた一色はどうやら先回りしたようで、既に扉の前に立っていた。

 

「……そういえば、なんか相模先輩と折り合い悪そうでしたもんね」

「知っているのか?」

「それは相模先輩についてです?」

 

 俺が頷けば、彼女は顎に手を当てて目線を上にやって考えるように小さく唸った。

 

「うーん。別に性格まで知っているわけじゃないですけどね。全然仲良くないですし。ただ葉山先輩とたまに喋ってるのを見たというか、私が喋っている時に割り込んできたというか」

「なるほど」

 

 その光景が容易に想像できて嫌になるな。

 

「性格悪そうだなーって思いましたね。だから陰気な田島さんとは相性が悪そうだな、と」

「その見立てはあながち間違っていない。事実衝突したからな」

「そうなんですね。で、上手くいったんです?」

「なんとかな……しかし今後も障害は多いだろう」

「でしょうね。今日も会議超〜退屈でしたし」

「重ね重ね悪かったな」

 

 昇降口を出れば、長袖を着ていても風が冷たい。やはり、冬が近づいていることを実感せざるを得なかった。

 二人並んで駐輪場まで歩いていく道中、ふと一色の下半身に目をやった。いつも通り、裾を随分と折っている校則ギリギリというかまず間違いなく破っているであろう短いミニスカート。

 そこから伸びる生足は特に何も履いていないようだ。タイツとか履いた方がいいのではないだろうか。聞いてみるか。

 

「……お前、あんなところで待っていて寒くなかったのか?」

「そりゃあ寒くないと言ったら嘘になりますけど……ってどこを見てるんですか」

「足」

「……変態」

「何故そうなる」

 

 こっちとしては風邪をひかないか心配してやっているだけだというのに。誠に心外である。だからそのジトッとした目で、まるでこちらが犯罪者かのように見つめるのは止めろ。

 呆れつつ自転車に鍵を差し込み、スタンドを足で上げる。

 そのまま押して帰ろうとすれば一色がさも当然のように後ろの荷台に腰を下ろした。

 コイツ……。

 

「あれ、乗って帰らないんですか?」

「法律違反だぞ」

「細かい事気にしてますね〜」

「全く……せめて校舎の外にしろ」

「はーい」

 

 脳天気な態度にため息を吐いてしまう。誰かに見られれば困るのは一色だろうに。相変わらずよくわからない女だ。葉山に見られてもいいのだろうかね……。

 一色が荷台から離れたのを確認すれば、自転車を押してそのまま校門へと向かう。

 

「ああ、そうだ。忘れていた」

 

 歩きながらふと思い出して俺はカゴの中に入れたカバンに手を突っ込み、その中からものを取り出す。缶のホットココアだ。

 そしてそれを一色へと差し出した。

 

「待たせた詫びだ」

「あ……ありがとうございます……」

 

 少々温くはなっていたが、それでもカイロの代わりにはなるだろう。まぁ、その露出した生脚を温めることはできないだろうが。あまりジロジロ見ているとまた変態扱いされかねないので、視線を逸らしつつ、帰路へと向かう。

 受け取った一色は寒いのかそれをしばらく何度も形を確かめるように両手で握りこんでいた。

 

「ココアなんですね……」

「あん?ブラックコーヒーが良かったか?」

「や、別にそんなこと一言も言ってないです」

「確かお前甘いのが好きだっただろう?苦いのよりはマシかと思ったが……気に食わないチョイスだったら悪かったな」

「別にそういうわけじゃないですよ……それに、仰る通り甘いの好きですから」

「そうか」

 

 校門を出て、しばらくすれば再び一色が荷台へと腰を下ろした。遠慮もクソもないな。普段通りである意味安心できる。

 

「全く……」

「細かいこと言いっこなしです」

 

 俺が了承しない限りこのままでいるつもりなのだろう。ため息を吐いて、サドルに股がった。

 

「それで、駅前で良いか」

「はい♪レッツゴー!」

「今回だけの特例だ。またとない機会だと思って、楽しむがいいさ。しっかり掴まれよ」

「はーい」

 

 すると一色は俺の背中に密着するようにして腹部に手を回した。

 一瞬、ペダルにかけた脚が止まった。

 この女、一体全体何をしているのだろうか。

 密着した一色の吐息がうなじにかかって、少しくすぐったくて身を捩ってしまう。それを見た彼女はクスリと小さく笑う。

 後ろにいては分からないようなそんな些細な仕草が嫌でもわかってしまうほどの距離。

 ……からかうにも限度がある。背中にはこんな易々と男に当てるべきでない、決して小さくない柔らかな膨らみがふにゃりと当たっている。

 ……非常に宜しくない。

 震えそうになる声を抑えて、至って平然としているように見せかけながら俺は声を出した。

 

「おい」

「なんですか?」

「……からかうのもいい加減にしろ」

「え〜田島さんってば初〜」

「いいから……」

 

 言うと一色は「はーい」と意外とすんなりと体を離した。後ろはよく見えないが、腰の辺りを掴んでいることから察するに普通の姿勢になったのだろう。

 はじめからそうして欲しいものだ。

 そしてようやくペダルを踏み込んだ。

 一色が乗っている分、普段より深く踏み込まなければならかった。

 どうやらそうこうしていた内に、空はすっかりと墨を落としたように暗くなっていた。広がる空に幾つか星は見えるものの、輝く満点の星空がとはならないのが都市部の悩みというやつだろう。

 それこそ山間部に住まいがある父方の実家はそれは見事な星空が見えたものだった。

 街灯によって遠くで輝くはずの星々は、俺のどうしようもなく落ちてしまった視力では捉えることすら叶わなかった。

 手を伸ばせば、届きそうになるのにそれでも掴めないのが星の良さだ。

 それでももし、仮にそんなものに手を伸ばして掴むのであれば。その目にはもうその唯一にして無二の輝き、それしか捉えることが出来なくなる。そしてその手は焼け爛れて使い物にならなくなることは請け合いというものなのだろうさ。

 

 

 自転車を漕いでいる間、俺たち二人の間には会話らしい会話がなかった。

 遠くの車の走る音と、自転車のタイヤがアスファルトの道路を走る静かな摩擦音だけが耳に入ってくる。

 心地の良い静寂だった。

 ただ、何も喋らないというのも少しだけ耐え難い。何しろ、一色が背中にいるというのはやはりどうしても俺にとっては、ああ、そうだな。否が応でも違和感がある。そもそもとして、俺が二人乗りをしているという状況の時点で違和感でしかないのだ。

 だから普段では気にも止めないようなことを、何となく思い出して、ふと聞いてみたくなった。

 

「そういえば、お前」

「はい、なんですか?」

「松山とはどんな話をしたんだ」

「……?あ、もしかして文化祭の時の?」

「そうだ」

 

 確か彼女と松山は文化祭を共に見ていたはずだ。その時のことが、少しだけ気になった。

 短く返答すれば、一色は少しだけ黙りこくり、そして妙な間を開けて再び喋り出した。

 

「……そうですね、まぁそんな気にするようなこともない、普通の事ですかね。普段何をご趣味に?とか。めちゃくちゃ聞かれましたよ私のプライベートのこと」

「ほう。興味を持たれているんだな」

「そりゃもう私の予想を遥かに超えちゃってる感じです」

「へぇ……」

「後は───」

 

 それ以降も色々と喋ったことを話してくれる一色にいくつか返事をしながら、意識を運転に向けた。

 俺がこの話を気にした理由は単純で、松山が一言、「彼女のことをしっかり見てあげるように」と忠告してきたからだ。どうもからかっているようには見えなかった。

 だから少しだけ考えてはみたものの、結局その言葉の意味することは分からなかった。一色との付き合いは長いからこそしっかりと彼女のことは見ているはずだ。理解は、未だ及ばぬところはあるが。そこを言っているのであれば少しだけ難しい要求に思えた。

 故に、聞いてはみたが結論としてはよく分からん、だな。

 そうして話している内にもう駅前が見えてきた。俺は一度ブレーキをかけて自転車を止める。優しく止めたはずだから問題ない筈だが、一色はまた少しだけ背中に密着した。直ぐに離れたから今回は問題ないが。

 

「ここからは歩け。お巡りに何か言われても面倒だからな」

「えー」

「文句を言うな」

「しょうがないですね……」

 

 渋る彼女に言い聞かせて、ここからは自転車を押しながら移動する。

 互いに隣合って歩くが、特に会話はない。なにぶん駅までは歩いてもそう時間はかからないからだ。話しても中途半端なところで話題が止まるくらいならば、話さない方がいい。

 隣では一色が小さくため息を吐いていた。

 次第に駅前はすぐ目の前まで迫り、帰宅しているであろうサラリーマンや学生などが目に付くようになる。

 一色を送るのもここまでで良いだろう。

 

「そら、着いたぞ」

「……みたいですねー」

「何を拗ねているんだ全く。さっさと帰れ。親御さんに心配をかけるな」

「ママはほら、田島さんと一緒だって知ったら特に何も言わないので。だから全然問題ないですね」

「それは俺からしたら大問題だ」

 

 中学生の時からそうだが、一色の母親はどうも俺のことになると色々と緩いというか甘くなるきらいがある。それこそ俺の家に泊まる時なんかは二つ返事で許可を出したのだ。

 俺以外の男と出かける時はそれなりに厳しいという話だったが。

 俺とて男である。そう無条件に信頼されても困る。もしかしたら手を出してしまう可能性も……限りなくゼロに近いとは思うが、ない訳ではないだろう。

 そんなことになったら大問題だ。本当に、娘共々その辺しっかりして欲しいものである。まぁ、あの時は俺も簡単に許可を出したわけだし、そんなに強く言えるわけではないのだが。

 それにその辺はもう慣れた。それでもこの感情を抱いた理由は一色が背中に密着してきたからである。

 言ってしまえば……後輩という認識以外の認識を久々に持ってしまった、と言うやつだ

 

「田島さん?聞いてますか?」

「聞いている。どうでもいいからさっさと帰れ」

「どうでもいいとかちょっと酷くないですかー?てか、ほんとに聞いてました?」

 

 実際のところ聞いていなかった。どうやら一色には簡単にバレてしまったようだ。どうも、松山と言い留美といい、最近は考えていることがよくバレるな。

 話を聞いてなかったこと自体は大変申し訳なく思いはするのだが、経験上長引かすと面倒なので話題の転換を試みてみる。

 

「こんなところで喋ってたら風邪をひくぞ」

「露骨に話逸らしてもダメですからね」

 

 失敗である。

 

「わかったわかった。俺が悪かった。それでなんだって?手短に頼む」

「や、準備というか委員会の方は上手くいくんですか?って。少しだけ、気になって」

 

 それを聞いて、聞いていなかったことを後悔したし、それと同時に聞いたことも後悔した。

 上手くいくか否か。確かに今日の会議の様子を見ていれば、そう不安に思うのは無理もない。俺とて正直疑わしいところはある。

 見える範囲ですら問題は山積みなのだ。相模の件、依頼の件、何より俺自身。

 だがそれがなんだというのか。一度やると言ったからにはやるのだ。それが、俺と人間のはずだろ。文化祭の時のように諦めかけて、挙句の果てに失敗するなんてあってはいけない。もう二度とやってはいけない。

 そんな俺では、君に顔向けができない。

 だから。

 

「……上手くやってみせるさ。何より奉仕部として上手くいってもらわないと困るからな」

「そう、ですか……」

 

 じわりと掌が汗ばんでくる。それを誤魔化すように少しだけ強く自転車のハンドルを握った。

 

「……話は以上か?なら、さっさと帰れ」

「あの、先輩!あ、じゃなくて田島さんちょっと待ってください」

「なんだ」

 

 もう話すことはないと思って、俺は踵を返そうとしたが一色に呼び止められて足を止める。

 振り返れば、少し困ったように眉を下げて、彼女は俺へとその目を向ける。普段のような小悪魔じみた彼女はそこにはいなかった。

 

「……必要だったらいつでも頼ってくれていいですからね」

「そりゃあもちろん副委員長として頼らせてもらうこともあるだろう。お前の負担にならない範囲で使わせてもらうさ」

「そうじゃなくて。迷惑とかそういうのでもなくて。……無理そうだったらちゃんと頼ってくださいって話です。文化祭の時からずっと元気ないっぽくて、ちょっと心配です」

 

 いつもいつも心配ばかりかけていて。碌でもない男だな俺は。

 いの一番に憂鬱になったが、何とか振り払って思考を巡らせる。

 どうやら文化祭の時から俺の状態は彼女には筒抜けのようだ。とはいえその辺はある意味で当然かもしれない。結局、俺のことをよく知ってるのはコイツだけで、普段の俺と文化祭以降の俺を比べれば一目瞭然なのかもしれない。

 留美曰く結構わかりやすいらしいからな。

 とにかく、彼女には問題ないと伝えなければ。

 

「……心配かけて悪かった。ただ俺は問題ないよ。それに俺はいつでもお前のことを頼りにしている。だから、今回も、きっと頼らせてもらうさ」

 

 中学の時のように。きっと彼女には頼ることになる。それが今回かは分からないが。一人でなにかを成すには俺は力不足なのだと、いい加減に思い知ってはいるのだ。

 それでも一人でやろうとしてしまうのは昔から治らない俺の悪癖だろう。だからもちろん頼る、その方がきっと楽だろうし。他力本願という比企谷の考えには自分なりに共感しているのだから。

 

「……なら、いいですけど……。その、引き止めてすみません。それじゃまた学校で」

「ああ。気をつけて帰れよ。またな」

 

 一色あまり納得いっていないような顔をしながらも引き下がってくれた。その後少し遠慮がちにヒラヒラと胸の前で手を振って彼女は駅前に往来する雑踏の中へと消えていった。

 それを見届けて、俺も改めて踵を返す。

 ふと空を見上げた。

 少しだけ目を細めて探してみる。

 けれどもやっぱり、星は見えなかった。




もっと上手くラブコメを書きたいと思う今日この頃。

次回 また会議


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四十三話 緊張と、油断と、溢れ出る血

 それから数日が経って、いよいよ次の会議の日となった。

 比企谷や由比ヶ浜が言うには、海老名も材木座もしっかりと案を考えてきているそうだ。ただ、二人とも彼らどんな案を考えたのかはまだ聞いていないらしいが。

 それを聞くと途端に不安になるのは、なんというか助っ人二人の日頃の行いのせいなのか、単純に俺が信じきれていないせいか。どちらもだろう。

 そんな不安を抱えながら、午前午後と授業を受けて今は放課後。

 帰りのHRも終わり、眠気眼を擦りながらゆっくり体を起こす。寝たいと訴える脳のシグナルを無視して、体を伸ばすことで霞がかかっていた頭をクリアにした。その後手早く会議室に向かおうと席を立った。

 

「少し良いですか田島くん」

「うおっ……ああ、お前か……手短にな」

 

 そんな俺の背中に突然声がかかった。

 相手は同じクラスメイトの松山千佳子だ。

 本当にこの女、ほとんど気配を感じないのに気がつけば近くにいるから驚いて仕方がない。文化祭の時もやられたなそういえば。

 振り返れば彼女はいつ見ても変わらない眠たげな目をこちらへと向けながら、三つ編みに結んだ二つのお下げを揺らしてちょこちょことより近くまで歩いてくる。

 やけに愉しげなのは俺の見間違いではないだろう。

 

「いろはさんから聞きましたよ。何やら面白いことをやっているようですね」

「……体育祭のことか?」

「ええ。私は生粋のインドア派なので今回は関わるつもりはありませんが……。いえ、やはり面白いことが起こるかもしれないと考えると一枚噛むべきでしょうか……?」

 

 俺には何が面白いのかは皆目見当もつかないが、何故か了承を出すと面倒くさそうな気がした。とはいえ彼女の手助けが得られるのは、割と魅力的ではあるのだが。

 

「いい、いい……。迷惑もかけられんし、そのまま傍観者でいてくれ」

「ほう、迷惑だと仰いますか……。ですが、仕方がありません良いでしょう。今回はいろはさんがいる訳ですし、話は彼女からお伺いすれば良いですからね。のでここは大人しく身を引きます」

 

 なぜ少し不満げなのかはさておき、ひとまずは諦めて貰えたようで何よりだった。

 

「それで、今から会議に行くのでしょうか?」

「ああ。お前は帰るのか?」

「そうですか、頑張ってください。私は……そうですね、帰っても暇ですし少し彼らでも揶揄うとしましょうか」

「彼ら?」

「おや、気になりますか?」

 

 にんまりと笑う彼女に対して、何となく面倒な雰囲気を察した。

 見た目は小さく幼いのに、時折こうして蠱惑的な笑みを浮かべるのがこの女の恐ろしいところだ。きっと彼らとやらも犠牲になっているに違いない。

 

「……いや、聞くのはやめておこう」

「ふふふ、そうですか」

 

 さすがに嘘だが、ここで聞くのもなんとなく怖いので、聞かずに会議室に向かうことを選択する。

 

「俺はもう行くぞ」

「ええ、また明日」

「じゃあな」

 

 去り際、遊戯部がどうだこうだと聞こえた気がするが気のせいだと思うことにしよう。秦野と相模……そういえば、俺の知っている相模は二人いるんだな。姉弟だったりするのだろうか。まぁそれはいいとして、二人の無事を願って、俺は足早に教室を去るのだった。

 

 

 松山に捕まったことで少しばかり遅れて会議室にやってきた俺は、部屋の中に僅かながらも確かに漂う異様な雰囲気に一瞬眉を顰める。

 気のせいでは無いその感覚に何事だ一体、と困惑していれば俺が入ってきたことに気づいた会長が小さく手招きをした。

 

「田島くんこんにちは」

「ええ、こんにちは」

 

 会長に会釈とともに挨拶を帰し、改めて周囲を見渡せば執行部のメンバーはもう準備を行っていたようだ。会議室前方にあるプロジェクターの準備やセッティングなどを行っているようで、彼らは忙しなく動いていた。

 

「すみません、少し遅れてしまったようですね。ぼくが手伝うことはありますか?」

「あっ、じゃあ私と一緒にプロジェクターがちゃんと作動するかチェックしてもらえる?」

「了解です」

 

 会長と共にプロジェクターまで動くと奉仕部の面々もいて、彼らと軽く挨拶をしたあと準備を開始する。

 準備をしながらもやはり疑問だった。この会議室の雰囲気。剣呑なわけではなく、それこそ文化祭の時のような感じではなかった。

 なんだっていうんだ、一体。

 なので、手近にいた比企谷にその疑問をぶつけてみることにした。

 

「比企谷、どうも会議室が妙な雰囲気だがどうかしたのか?」

「……ん?ああ、アレのせいだろ」

 

 そう言って比企谷が目線を移した先には席のど真ん中、ではなく。端の方で腕を組んでどっしりと座っている材木座の姿と、反対にはぐふぐふと気持ちの悪い笑い方をする海老名の姿が。

 しかし、頻繁にチラチラと材木座が海老名のことを見ているのが気になる。

 どうも海老名のことを気にしているようだが、何かあったのか……ああ、そうだったな。

 それを見ていて俺もようやっと思い出した。

 

「……そういえば、由比ヶ浜からどちらがより良い案を出すか否かの対決形式になったとかLINEで聞いたが、それが原因か?」

 

 一瞬比企谷の目がキョドったがその後至って平成な顔をして比企谷は続ける。

 

「お、おう。あの後由比ヶ浜と一緒に頼みに行ったんだが、自然とそんな流れにな。海老名さんの方はそうでもないんだが、材木座がなぁ……」

「対抗心を抱いてしまったと……分が悪いだろうに」

「な。あれで海老名さんハイスペだからな」

 

 俺はそこまで彼女のことは知らないが、F組の文化祭はほぼ彼女が取り仕切ったそうだしその辺の能力は高いのだろう。それゆえのハイスペック呼びといったところか。

 正直比企谷も材木座にはあまり期待していないのだろう。その目は憐れなものを見るかのようにどんよりとしていた。

 準備の方はもう佳境であり、雪ノ下が最後にレーザーポインターのオンオフをチェックし終えると、離れた場所で座って見ていた生徒会長に声をかける。

 

「城廻先輩。こちらの準備は終わりました」

「ありがとう」

 

 会長はにっこりと笑ったあと、隣の相模へと視線を向ける。

 

「じゃあ始めよっか?いける?相模さん?」

「だ、大丈夫です!いけ、ます……はい」

「田島くんもサポートお願いね」

「ええ」

 

 少し声は震えているものの、少なくとも以前にみせたやる気は未だ衰えていない模様。ただ、これからの進行は俺がサポートするものの、ほとんど相模一人の手によって行われると考えれば、彼女が感じているプレッシャーは如何程のものか。

 文化祭の雪ノ下のように彼女の役割を奪うことなくしかしやれることはやらなければならない。

 

「それじゃあ、ひなちゃんと……ええと……」

「材木座」

「……材木座くん、二人とも、よ、よろしく」

「まかせてっ!」

「うおほん」

 

 相模が二人のことを呼ぼうとして材木座の名前は知らなかったようなので教えたら睨まれた。そんな彼女に肩を竦めて、両名の様子を伺う。方や興奮気味、方や緊張気味で二人は既に立ち上がりスクリーン横へと移動していた。互いに向かい合えば不敵な笑みを浮かべる。

 この様子から見るに問題はなさそうだが、材木座のあれは単純に強がっているだけだろう。

 本人がいれば「も、もははは、これは武者震いなり」なんて言うに違いない。……なぜこんなにエミュレートができているのだろうか。普通に嫌なんだが。

 ともあれプレゼンが始まる。先手は材木座からだった。

 少々意外ではある。緊張しているようだしハナは海老名に譲るものかと思っていたが。

 

「るふん」

 

 材木座はスクリーンの前に立ち、奇妙な咳払いを一つした。

 首を小さく下げてお辞儀、未満のよく分からない礼をすれば彼はパソコンを操作する。手早く操作すればスクリーンに恐らくソフトで作ったレジュメを映し出す。タイトルは「体育祭競技提案」。至ってまともなものだった。

 奇抜な感じで来るかとも思ったが、そうでもないらしい。フォントが筆文字のような形式である以外は至極シンプルなものであった。

 良いと思う。こういった場ではシンプルな方が見やすいものだ。

 感心しながら材木座が注ぎ口を開くのを待つ。ただ、時折小さくヒューヒューとか細い息遣いのみが聞こえる。

 ロボットのようにカクカクと動きながら時折スクリーンに映し出されたレジュメへと目をやっていた。

 会議室は静かだった。皆聞く姿勢はばっちりで、あとは材木座の発表を待つのみなのだが、いまだ聞こえるのはか細い虫の羽音のような音だけ。……まぁ、わかっていたとも。

 多分、極度の緊張で声が出ていない。察することは容易だがこういった場に彼はあまり慣れていないのだろう。普段からやたら目立つ癖に人前には出たがらない男だ。

 手助けはしてやった方がいいだろうな。

 

「タイムだタイム。材木座、全く声が出てないぞ」

「ほ、ほひ……?」

 

 一度中断させればすかさず材木座に声をかける。彼は何を言っているか分からないようで間抜けな声を出しながらその場で彫像のようにフリーズしていた。

 

「え、まさか話してたの!?」

「あの羽音みたいなやつか……?」

 

 由比ヶ浜から驚きの声が出し、比企谷は困惑しながら心当たりのあるものを口に出す。気づかないのも無理はない。俺もたまたま気づいたわけだからな。

 

「極度の緊張のせいで全く声が出てなかったみたいね」

 

 雪ノ下は冷静に分析していた。

 ともあれ仕方が無いが、助け舟を出してやる必要があるな。

 だが、誰に手伝わせてやるべきか……。雪ノ下は論外だし由比ヶ浜もあいつの好感度は低いだろうからな。俺も副委員長という立場的に難しい─本音としてはやりたくないというのがあるのだが。となれば。

 

「比企谷、手伝ってやれ」

「俺かよ……。まぁ、そうか。俺がやるべきか……」

「頼んだぞ」

 

 比企谷は短くため息を吐くと席を立ち上がる。

 

「材木座、手伝ってやるから、もっぺんやるぞ」

 

 錆び付いたロボットがごとく、ゆっくりカクツキながら材木座の首が動き、比企谷を視界に取られる。途端先程まで石化の呪文にでもかかっていたかのように強張っていた表情は柔らかなものへと変わった。

 

「……ふ、ふむん。であるか」

 

 安心したようで普段の調子を取り戻してきた。

 どうやら問題はないようで「んじゃ、始めるか」と比企谷と材木座は俺たちに向かって一礼をして、比企谷がパソコンを操作する。材木座じゃないんだな。

 

「えー、提案する内容はこちら。千葉市民対抗騎馬戦、です。え、なにこれ」

 

 タイトルだけでは分からなかったようで比企谷は材木座へと振り向いた。材木座は比企谷に向かって、大袈裟にポーズを取って先程とは打って変わって、そりゃもう大きく発声した。

 

「千葉市民対抗騎馬戦。略してええええええ!チバセンッ!」

 

 これが最初からできてればいいのになぁ……。それも比企谷に向かってではなく、俺たちオーディエンスに向かって。

 そしてそこから始まったのは漫才じみた発表だった。

 

「で、これなんなんだよ」

「はぽん。その昔、千葉では里見氏と北条氏の争いがあってだな。その歴史性を考慮した素晴らしい競技だ」

「当時はこの辺、海だったと思うけどな。で、ルールは」

 

 比企谷に向かってだけ話す材木座。比企谷の訂正は確かにそうかもしれないが、実際に千葉では両家の争いが行われていたのは確かだ。一般的には三船山合戦と呼ばれる戦いだったはずだ。詳しくは覚えてないが。

 

「あ、いや待て八幡!ほらちょっとなんか恥ずかしいから!そのスライドまだちゃんと出来てないから!途中段階であれ───」

「いいからさっさと進めろ、比企谷」

「ほい」

「待ってえええ!」

 

 羞恥なのかくねくねしながら比企谷を止めようとする材木座を見て、俺は比企谷にゴーサインを出す。

 スクリーンが切り替わった。

 

「ほげえええええええ!」

 

 酷くやかましい材木座の絶叫、そしてスクリーンに映し出されたのは恐らくコラージュ画像らしきものだった。普通のよくある騎馬戦の写真に、鎧武者が乗っているものだ。確かに彼の言う通り中途半端なものであり、所謂雑コラと呼んでも差支えのないクオリティ。

 材木座が見せるのを嫌がったのも納得だ。そんな彼を他所に比企谷は話を進める。

 

「えー、ルールは普通の騎馬戦とほとんど同じですが、鎧を着てコスプレをした大将騎を複数決め、その大将騎を倒した数で勝敗が決します。これにより、通常の騎馬戦よりも戦略性が増し、見た目のインパクトを演出することが可能です。……なんだ、ルールの方は案外まともじゃねぇか」

 

 比企谷は酷く驚いたようにして材木座の方を見る。確かに彼の言う通りルールはかなりまとも、いやそれどころ普通に採用して良いレベルの出来だった。

 とはいえ材木座本人は「そ、そうかあ?」と戸惑いを隠せないようだが。

 

「シンプルでわかりやすいね。イメージもしやすいし」

 

 うんうんと会長が頷く。そしてぱちぱちと手を叩けば、会議室全体に小さくだが広がっていった。それでもどうやら不安なようで俺の方へと材木座は顔を向けた。

 

「し……田島殿的には、ど、どう……?」

 

 一瞬師匠と呼ぼうとしたようだが、俺がこいつと顔を合わせる度に、せめて人前では止めろと釘を刺し続けていた成果か呼び方を変えている。

 しかしなぜにこうも不安げなのか。

 

「なぜ俺に……?まぁ、かなり良かったな。目玉競技に必要なインパクトのある見た目、かつ会長の言う通り誰もが説明を聞けば何となく理解しやすいシンプルさ。充分合格点は満たしているだろう」

「ほ、ほほーう……」

 

 ようやく安堵したのか、ため息を吐いた材木座。そんな彼に比企谷は言葉をかけて軽く背中を叩き、元いた席に戻った。

 安堵したらしく胸を撫で下ろしている材木座は、予想以上に評価されている現状に満足したのか口元を緩ませた。

 

「デュ、デュフ」

 

 パッと拍手がやんだ。

 その気持ち悪い笑みがなければ完璧だったのだがなぁ……。

 

 

 材木座のプレゼンが終わり、海老名のターンが回ってきた。

 彼女は材木座と違って慣れているのか特に緊張した様子もなく慣れた様子で前に立った。

 

「えっと、私が考えたのはこれです」

 

 彼女はパソコンを操作して、スライドを進める。パッと表示されたスクリーンには『棒倒し』と短く表記されていた。

 これまた存外に普通だ。正直不安だらけの材木座と違ってまだ安心感のある海老名だが、唯一どんな案を出すかだけは不安だったが……これなら問題はなさそうだ。

 缶コーヒーを手に取って、音を立てないように中のコーヒーを飲みながら俺は安心しきって彼女のプレゼンを聞いていた。

 

「今回のポイントはズバリ大将の存在です。さっきのプレゼントちょっとかぶっちゃいましたけど、こちらは戦略性よりカリスマ性を重視しています」

 

 テーマはカリスマ性か。どういう事なのだろうか。

 

「生徒人気の高い、サッカー部部長の葉山隼人くん。彼をこの棒倒しで大将と位置づけることで全体からの注目を集めます」

 

 うん?些か雲行きが怪しくなってきたな……?

 海老名はスライドを操作するとスクリーンにやたら爽やかな笑顔を浮かべている葉山隼人の画像が映し出された。

 俺は困惑気味だったが、知り合いの女子を除けば大部分の女子陣はキャピキャピし始めた。

 とはいえ彼女の選択自体は間違っていない。人気のある葉山を大将にすることで女子陣のみならず彼の知り合いなどからの注目度を上げて目玉競技としてのインパクトを増す。海老名の狙いは概ね正解だろう。

 しかし……相手は大妖怪だったのを失念していた。油断した俺が間違いだ。もう少し気を引き締めた方がいい。主に、精神的に。

 

「隼人くんは白組なので、赤組の大将を誰が立てないといけないんですが、えっと……誰か、赤組で良さそうな人いないですか?」

 

 どうもそこら辺は割とライブ感でやるようで、海老名は委員長である相模に目を向けた。

 

「さぁ、どうかなぁ……」

 

 相模は首を捻って考えるのを見て、海老名は俺へと目を向けた。怪しくその瞳を光らせながら。

 

「じゃあじゃあ、田島くんは?もしかして赤組だったり!?」

「ちがーう。俺は白だ。仮に俺を大将に添えるのだとしても葉山を退けるのは無理だろ」

「うーん、そっか……」

 

 俺の言葉に彼女はすっかり興味を失くして……はないようで、何やらブツブツと呟いている。「ならとべっちを───とべたじアリ───」これ以上聞くのはやめた方が良さそうだ。

 すると相模の隣に座る会長が、あ、と声を上げた。

 

「雪ノ下さんたち、赤組だし、誰か候補思いついたりするかな?」

「えっ!?ヒキタニくん、赤組なの!?」

 

 おっ、大物が釣れたな。是非とも比企谷には頑張って欲しいものだ。

 海老名はそりゃもう強烈な食い付きで比企谷の方に詰め寄る。

 

「じゃあもうヒキタニくんで決まりじゃん!敵対する大将同士のカップリングが紅白でめでたいから今日はもうお赤飯だよ!キマシタワー!」

 

 やはり妖怪は妖怪であった。やけに手馴れた様子かつ普通の案だったから騙されかけたが、気を引き締めて正解だったな。

 ただ、葉山の対になるのが比企谷なのは流石に無理がある。名前もロクに覚えて貰えてない男だぞ。現に未だに興奮して軽く鼻血すら出ている海老名に対して、会議室は若干、いやかなり困惑気味で海老名に詰められている比企谷を見ていた。

 相模なんて露骨に嫌そうな顔をしている。

 

「と、とりあえず、エビナはエビナは驚きと戸惑いと喜びを隠そうともせずそのまま淡々と説明を続けます。えっと、し、白組の隼人くんが、あ、あか、赤くなったヒキタニくんの棒倒しをぶはっ」

 

 海老名は背中から倒れて動かなくなった。鼻からは赤い液体が漏れ出ていた。

 

「うわ……」

 

 光景があまりにヤバすぎて誰もが絶句していたが、まず間違いなく危険な状態なので、察した会長が生徒会役員に向かって頷く。すると役員たちがしゅたっと動き、海老名の手を引っ張る。そして彼女はズルズルと廊下へと引きずられながら消えていった。

 

「ちなみに俺は運営委員会もあるんで無理っすね」

 

 勿論、比企谷が大将になるという海老名にとって恐らく最大の希望は、彼の一言によって、呆気なく潰えるのであった。

 




次回 プレゼンの結果


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四十四話 てんで上手くいかない

焦るように鼓動が早くなる
ただただ、再びの失敗を、恐れていた。君に、顔向けできなくなるから。


 比企谷がバッサリと彼が大将になるという方向を断ったので、直ぐに海老名の案を採用、というわけにもいかなくなった。

 なんにせよ案は出揃ったわけなのだから、一度どちらにするか決を取った方がいいだろう。

 そうと決まれば一度相模に話を振る。

 

「さて、二つ案が揃った訳だが……どうする相模?」

 

 話しかけたことにより一瞬睨まれるが、それも介さずに問えば彼女は渋々ながらも考えて、その後恐る恐る口を開いた。

 

「……とりあえず一旦多数決、とか」

「ならばそうしよう」

 

 本当は全校生徒に向けてアンケートを取るなどした方が良いのだろうが、結構な時間が掛かりそうだ。今回は委員会内で決めてしまうという選択は大いにアリか。

 俺は彼女の案に頷き、相模は会長の方へと向く。会長も頷いていて問題ないようだ。決心した相模は決を取るため委員会の面々の方へ向き直る。

 

「そ、それじゃあ、騎馬戦がいい人〜」

 

 パラパラと手が上がる。若干男の方が多いか。

 

「……じゃあ、棒倒しがいいと思う人〜」

 

 再びパラパラと。相模も言いながらこちらに手を挙げようとしたがやめた。自重したらしい。

 こちらは明らかに女の方が多い。

 ざっと数えた限り、僅かに棒倒しの方が多いだけで手を挙げた人間はほぼほぼ同数だった。

 結果自体は棒倒しになるだろうが、どうするか。

 

「ほぼ同数、だね……」

「ふむ……となれば棒倒しか」

「……なら男女で分ければいいんじゃないですか?」

 

 相模の提案に会長はその手があったかと言わんばかりに手をポンッと叩いた。

 なるほど。確かに妥当な判断だ。間違ってはいない。多数と少数、どちらも切り捨てない相模の提案は良いものだ。

 相模は平塚先生に目を向ける。彼女はゆっくりと問題なさげに頷いていた。

 そういえば、パン食い競走なんかのメジャーなやつはダメで、この二つは良いんだな。なんて思ったりもしたが打草驚蛇だな。わざわざ聞くことでもない。

 

「みんなは、どうですか……?」

 

 相模は恐る恐る委員会の面々に問う。

 彼女の判断は理にかなっている。とかく問題はない、というのが奉仕部を含めた首脳部の反応だったが、それ以外の生徒からの反応はイマイチ芳しくない。

 ざわり。

 恐らく囁き声だ。発生源はよく分からなかったが、嫌な感覚だった。それはきっと相模に向けられたものであり、決してプラスのものではないと思われる。どうもそういうのに敏感なのか俺を除く奉仕部の面々はあまり善い顔をしていなかった。その表情は耳元で鳴る虫の羽音に顔を顰めるか如きだった。

 

「じゃ、じゃあ反対意見もないみたいだから女の方は騎馬戦で決定で。あとは、割り振り……を決めましょう」

 

 しかし当の本人は不安げながらも、とりあえず反対の声が挙がってないのを見て少し満足気にしながら次へと進めようとする。ちらりとこちらへと目を向けたので頷けば、彼女はしまったという顔をしたあとすぐに顔を背けた。

 ……気づいていないのであれば、問題はないか。

 

「プログラム一覧を配ります。各自希望するものを前に書きに来るようお願いします」

 

 相模が指示を出せば、生徒会の役員たちがプリントを配布し始める。

 暫くは生徒たちがホワイトボードに書き込むまで待つ必要がある。

 会長が言うには俺たち首脳部に関しては、当日運営本部として動くとの事だから特にやることはない。

 

「……となると、俺たちは統括部の割り振りでもするか?」

「そうね。城廻先輩、早速ですがやりますか?」

「うん、そうだね。そうしよっか」

 

 会長が頷けば、相模に目配せをする。

 相模はさっきまで目を向けていた方から、会長の方へと向き直り、小さく頷いた。

 彼女が見立ていた方は、どうも彼女の取り巻き二人がいた方らしい。以前の彼女であればいち早く彼女たちと喋りに行っていたのだろうが、関係が上手くいっていないのか、今はだだそちらの方を未練がましくちらりと見るだけだった。

 途中材木座がどうすれば良いか悩んでいたが、比企谷の言葉でこの場に残ることを決めたらしい。まぁ、彼も一応立案者ではあるのだから妥当ではある。邪魔にならなければそれでいいさ。

 さて、早速首脳部側の打ち合わせが始まる。

 必要な役職の確認、担当決め。

 問題があるとすれば、やはりその他の役職だろう。救護や放送、また当日までの制作物作製や会場設営あたりだ。

 とはいえこれに関しては、うちの学校には保健委員や放送委員がいるので多少は何とかなるはずだ。問題なのは、制作物の作成や会場設営辺りだろう。仕事の内訳が多いので、現場班の方にもいくつか回す事になる。

 会長と俺が例年の内容を参照にしつつ、説明すると相模がメモを取りながら頷いて次の話題に移ろうとした。

 

「じゃあ、他に必要なものは……」

「目玉競技は全校規模なわけだし、現場総動員することになるわね。これについては、男女それぞれ全員が動員ということでいいかしら」

「あ、うんそうだね」

 

 総動員か。実際の仕事の総量を聞いてモチベがさほど高くないであろう現場班がどんな反応をするのか気になるところだ。否定的な反応がなければ良いが、それは難しいかもしれない。

 

「すいませーん。目玉競技については全員参加でお願いします。担当はそれ以外のものを選んで書いてくださーい」

 

 相模の言葉に、予想通りと言うべきか現場班がざわついた。口々に漏れ出る言葉はマイナスな反応が多い。

 その中でも否定的な動きをしたのが、二人。相模の取り巻きである確か、遥とゆっこだとか言う女子生徒だった。二人はコソコソと何かをしゃべり、頷き合う。

 そして、二人同時に一歩でた。

 

「あのさ、南ちゃん。うちら、それ反対だから」

 

 シーンと静まり返る。しかし静寂は一瞬で、ザワザワとすぐに騒がしくなった。肯定的なもの、動揺するもの、怯えるもの。多種多様な反応が波紋のごとく広がっていく。

 

「え……」

 

 相模が声を詰まらせた。

 彼女たちが何を言っているのか理解できないのだろう。実際、少なくない人間がそうだったはずだ。

 

「強制で全員参加っていうのは、あたし達、ちょっと協力できないかも」

「えっと、でも、みんなで決めた事だし……、ね、ねぇ」

「でも、みんな部活があるし……。ほかの競技にするとかじゃないと……」

「準備に時間がかかったり、負担が大きいのは困るんだけど」

 

 委員会の大半は運動部からのボランティア的に抜擢されている、言わば助っ人的立ち位置だ。我々首脳部とは些か立場が違う。

 会長もそれを分かっているのか、苦い顔をうかべる。これはきっとこちらのお願いは通らないだろう。

 しかしだ。それはそれとして、その言い分は筋が通らない。

 

「いや待て。それはワガママというものだろう」

「……どこが?」

「部活があるだとか、時間がかかる、負担があるという部分だ。それは俺達首脳部とて、同様だ。俺達には首脳部としての当日の仕事、そしてこれからの準備期間にも当然仕事がある。それらはきっと、お前たち現場班と何一つ変わらないはずだ。多少の差異はあるかもしれないが、それはせいぜいどちらのどんぐりか大きいか否か、というものでしかない」

 

 俺の言い分に意気揚々と何か言葉を返そうとしていた二人は思わず言葉を詰まらせた。少なくとも、俺の言葉は正論のはずだ。だが、正論が人を動かすかと言えば否ではあるが。

 とはいえ、ここで彼女達を引き止めることに意味はあるかもしれないし、ないかもしれない。とにかく今はもう少しだけ言葉を交わす必要があるだろう。幸い、ほかの首脳部の面々は少し様子を見てくれるようだ。

 相模と会長に関しては、少しぽかんと口を開けていたが。……相模に関しては今もか。

 ともあれ、ゆっこと遥のうち……どっちだ?とにかく片割れが喉からつっかかった言葉を何とか取り出すかのように。絞り出した声を出す。

 

「でも、部活だってあるし……」

「それについては分かっている。こちらとしても最大限負担は減らすつもりだ」

 

 もちろん、こちらだってケアをしないわけじゃない。負担を減らす為に働きかけることはいくらだってできる。例えば外部からボランティアの募集だって取れる選択肢のうちの一つだ。

 しかし負担だなんだ。部活だ、大会だと言えどだ。

 

「とはいえお前たちとて、顧問あたりから暇と余裕があると見込まれ、頼まれその上で了承しこっちに来たわけだろう?それとも、大会はそんなに近いのか?」

「……まぁ、そうだけど」

「なら一度顧問に確認をとって、改めて別の人員を派遣してもらうという手もある。あるいはもっと、別の───」

「田島くん」

 

 とにかく言葉を続けなければと思う俺に、会長からストップが入った。見れば、雪ノ下も同じように頷いている。

 

「その辺にしてあげて。二人とも困ってるから」

「ですが……」

「これ以上やっても平行線には変わりねえってことだよ。そもそもおねがいの範疇を超えてるだろ、それ」

「……そうだな」

 

 比企谷の言葉に、大人しく引き下がる。確かに俺たち首脳部はあくまで彼女らにお願いをしている立場なのだから、これ以上、いやもう既に超えているが強く言いすぎるのも問題、というわけだ。分かってはいたが……参ったな、どうも。

 一応強く言ったのだから彼女たち二人からなにか反応があるという訳でもなく、二人は視線を逸らしながら首を縦に振ることはなかった。

 これはきっと、不満の爆発だ。多分だが、相模に対するちょっとしたフラストレーションもあったかもしれない。ともかくとして、首脳部と現場班の目に見える負担や作業量の違いが、彼女達への配慮不足として不満を溜めた。故の、抗議。

 

「そこまでにしておこう」

 

 凛としたよく通る声。よく見れば、担当の振り分けが始まった時に退室していた平塚先生が扉を開けていた。恐らくは、廊下で進捗具合でも聞いていたのだろう。相変わらず、抜け目のない人だ。

 

「今日はもう遅い。一旦解散してまた話し合おう」

 

 平塚先生の言葉は、正しく鶴の一声といわんばかりのもので、少なくとも俺たちは動きを止めた。

 遥とゆっこは顔を見合せたあと、カバンを引っ掴んで忙しない様子で会議室から出ていく。それに続くように、現場班の面々も会議室を後にしていく。一色も一瞬こちらへと目を向けたが、俺が首を横に振ると少し心配した様子ながらも、周囲と変わりなくその場を去っていった。

 後に残ったのは、首脳部、生徒会役員と、奉仕部の俺たち。そして委員長の相模だけだった。

 

「城廻、ちょっといいか」

「はい……」

 

 平塚先生に呼ばれて会長も外へと出る。

 残された俺たちに重苦しい沈黙がのしかかった。

 立ち尽くしていた相模が、手近な椅子に倒れ込むようにして座る。

 ただでさえ、ずっと自信なさげだった彼女の姿が、より一層小さく見えた。

 斜陽が差し込み、その眩しさに思わず俺は目を逸らすしかなかった。




タルコフ市から何とか帰還しました。
多分また戻ります。


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四十五話 やはり会議は進まず

 陰鬱な重い空気が会議室を支配する。

 ただ、重苦しいまでの沈黙。陸側の空からやってくる暗がりが、まるでこれから先見通せない闇がやってくるかのようで、嫌な感覚があった。

 平塚先生が会長を呼び出して廊下に出てから、とかく我々に進展と呼べるものはなかった。

 各々が閉口し、時折居心地の悪そうに重苦しくため息を吐く。

 唯一違うのは、瞑目し背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま凛然と座る雪ノ下のみだった。

 俺はと言うと、結局のところある意味では予想通り上手くいかなかった会議をどうするべきか思案しては、特に何も浮かばず。グルグルと回り続ける頭の中を掻き乱しては湧き続ける憂鬱を、どうにかして吐き出すために、これまたここにいる面々と同じく重苦しいため息を吐くだけだった。

 そも、上手くやるという考えが悪かったのだろうか。それとも、相模を担ぎあげて委員長に推薦したから?

 まぁ、きっとそれはある。だが、それを指摘するのは酷だ。

 俺たちの今回の目的として、会長の指定する目標を達成した上での体育祭の成功。それに加えて、元々来ていたメールによる依頼。相模がもたらす負の空気を払拭し2-Fの雰囲気を良くする。それが雪ノ下、ひいては奉仕部の第二の目的だ。

 つまり、相模にそれを指摘し、相模をここから排除する。そうすれば恐らく、あるいは、もしかして、現状は好転するのかもしれない。

 だが、それでは依頼の達成はできても当初の目的は達成できない。何より、奉仕部の理念は未達成に終わってしまう。自己改革、それを旨として常に行動するのであれば相模のことも考慮に入れねばならない。

 相模本人はと言えば、上手くいっていたと思いきや全くもってそんなことは無かったと言う事実。どうすれば良いのか分からない現状。

 それらに打ちのめされて、ただ両手で握った黒い画面に映る自分を見つめるだけだった。

 

「めぐり先輩たち。遅い、ね……」

 

 誰に向けたでもないであろう言葉を由比ヶ浜はぽつりと呟く。

 彼女が口を開いたことで会議室の空気は幾分かは軽くなった。それでも、気休め程度だが。

 

「そうね……」

 

 すっと瞼を開いた雪ノ下に対し、立ち上がった生徒会役員の一人が立ち上がった。

 

「様子見てきましょうか?」

「まだお話が終わっていないのでしょうし、今行ってもあまり変わらないと思う思います」

 

 雪ノ下のその冷静な声色に彼も頷いて、席に着く。停滞した現状をどうにかしたいがために行動しようとしたのだろ。要するに待っているのも、いい加減辛いという訳である。

 結局、二人が戻ってきたのはそれからおよそ二十分ほど経ってからだった。

 

「すまない。待たせた」

 

 普段のようにおちゃらけた雰囲気は一切なく、ひたすらに真剣な顔をした平塚先生は一番近い端の席に腰掛けた。

 

「いいえ。それで、結論の方は?」

 

 促せば先生はゆっくりと頷いてから、皆の視線が彼女に集まったのを確認して話し出す。

 

「城廻とも話したんだが次回の運営委員会は中止にしようと思う」

「少し時間を空けてお互いクールダウンして様子を見ようってことにしたんだけど……」

 

 妥当な判断だとは思う。事実ある程度のクールダウン期間は必要だ。それが、クレバーな相手なら。

 今回は少し違う。怒りと言うより、不満だ。それも相模に対する悪感情が由来のもの。

 それが到底たった数週間の期間でなくなるとは思えない。

 

「でも、一日二日で何とかなるかなぁ……」

「まぁ、無理だろうな……」

 

 由比ヶ浜の呟きに、比企谷はため息混じりに肯定した。

 

「それでも、今のまま会議をするよりはマシだ」

 

 苦々しげに言った平塚先生の言葉にも頷くものはある。

 どちらにせよ、メリットデメリットはある。それが今回はこちらの方が良い、と先生と会長が判断したのであれば俺から言うことはない。

 嗚呼、だが。やはり続けるべきだと思う俺がいた。

 

「一応君にも聞くが、田島。それで構わないかね?」

 

 閉じた目を開ければ俺へと視線が注いでいて、彼女は同意を求めているらしい。どうやら既に相模には聞いていて俺へと回ってきたということらしい。委員長が良しとするならば俺からいうことは特にはないのだが。

 

「……ぼくは構いませんよ。妥当な判断かと」

「そうか」

 

 平塚先生が頷くと、こちらに視線を向けていた雪ノ下がふいっと視線を外した。そして会長に顔を向ける。

 

「……では、中止の連絡を」

「うん。じゃあ、生徒会の方からしておくよ」

 

 会長が役員へと目を向けると、彼らはその意を汲み取り素早く動き始めた。

 淀みのないその様子を見るに、連絡の手段はしっかりと持っているようだ。当然ではあるのだが、ここまでテキパキと動くと驚きがある。何よりもう既に作業は終えているのだから、毎度ながら忍びみたいな連中だと思った。

 それを見届けて平塚先生は口を開く。

 

「では、今回のところは我々も解散しよう」

 

 その言葉をきっかけにそれぞれ帰り支度を始める。ずっと居心地が悪そうにしながら残っていた材木座もようやくほうっと息を吐いて、普段の動きからは考えもつかないような俊敏さで帰り支度を終える。

 

「ではな、八幡。そして師よ!」

 

 とシュバッと帰っていった。ずっと帰るタイミングを待っていたのだろう。まぁ、アイツに関しては付き合わせていたのだから今回ばかりは特に文句はない。

 俺達も帰り支度を、と言いたいところだが恐らく今後のことに関して平塚先生から話があるのではないかと予想できるので一旦そのまま待機しておく。

 その予想は間違っていなかったようで、何も考えず帰ろうとした比企谷に平塚先生は声をかけた。

 

「比企谷。君たちは少し残りたまえ」

「え、いや今日はちょっとアレなので……」

 

 見苦しい言い訳をしながらキョロキョロと俺たちの様子を伺う彼だったが、何も考えていない由比ヶ浜はともかく、もとより残るつもりであった俺と恐らく同じであろう雪ノ下を見て、観念して席に着いた。

 そして彼女は相模にも声をかける。

 

「それと、相模。君も」

 

 ギュッとスマホを握って顔を伏せたまま微動だにしていなかった彼女は、先生の声にようやく顔を上げて「はい」と小さく返答した。

 俺と比企谷、雪ノ下に由比ヶ浜、相模に当然のように残っていた会長と見渡して、平塚先生は改めて話を切り出した。

 

「単刀直入に聞こう。これからどうする?」

 

 平塚先生の問いに周囲は首を傾げた。

 憂鬱に浸りかけていた頭を切り替えて、俺は平塚先生に質問を投げかける。

 

「……それは今後の運営についてでしょうか。あるいはそれに付随して、奉仕部のスタンスに着いても聞いているのでしょうか」

「まあ、それであながち間違いではない。なら、田島。君なら私が聞きたいこともわかるな?」

「……まぁ、概ね」

 

 運営方針のことであるならば、別に後でもいい。俺たち奉仕部に着いてならば、まだ部活の時間に集めればいい。それでもなおここで相模と会長を集めて何かを問うのであれば。

 それはきっと。

 

「であれば、君が聞きたまえ」

「……はぁ」

 

 嫌な役を押し付けてくる。いや、これも俺に必要なことなのだろうか。分からんが、やれと言われた以上はやるとしよう。

 

「相模、一旦過去のいざこざは置いておいて俺のする質問に答えてくれ」

「………………わかった」

 

 彼女は不承不承、しかして会議が始まった時よりかは抵抗が無さそうに頷いた。

 

「まず、今回の会議においての問題を相模。お前自身が把握しているかどうか聞きたい。なんでもいい、とりあえず浮かんだものを答えてみてくれ」

 

 そういえば、相模はピクリと眉を動かしてからしばらく下を向く。耳に着いているピアスなのかイアリングなのかは分からないがアクセサリーを弄りながら、数秒の後、口を開いた。

 

「……げ、現場の人達との、協力が上手くできない。それの原因はみんな大会があって忙しいから」

「間違いではないな」

「うん。今回は現場班の人達があんまり余裕がなさそうで、時間と労力の確保が難しいんだよね……」

「……」

 

 相模はそれに対し、小さく頷けば、続くようにして口を開く。

 

「じゃ、じゃあ運動部のスケジュールが問題ならそれを確認して上手く割り振ればいいんじゃ……?」

 

 相模からそれなりに真っ当な判断が出てきたことに驚いたのか比企谷が「おぉ……」と小さく感嘆の声を漏らした。幸いこちらの反応を伺ってドギマギしている相模には聞こえていなかったようだが。

 

「そのアプローチも必要だろうな。彼女達の言葉通り受け取るならば、スケジュールの調整、あるいは顧問方と再度の話し合いの元派遣する人員の変更がベターだろう」

「でも、それじゃみんな納得しないかも」

 

 由比ヶ浜が俺の言葉に付け足した。

 

「なぜ、そう思う?」

 

 もちろん俺は答えがわかっているがあえて問う。それは改めて問題の確認とともに、相模の反応を見るためでもあった。

 

「多分、二人とも協力することが嫌なんじゃなくて私たちと極力するのが嫌なんだと思う。だから……」

「感情が理由で反発してる奴らを動かすなら、それ相応に上手くやらないとダメだってことだろ。少なくとも感情論を相手にしてる以上、理詰めの正攻法だけじゃ間違いなく動かねぇぞ」

 

 由比ヶ浜の論を手助けするように比企谷が口を出した。由比ヶ浜は彼の言葉に静かに首肯する。

 彼女らの言う通り、こと今回に関しては理詰めの正論だけでは動かない。かつて、文化祭の相模がそうであったように嫌だから。嫌いだから、気に入らないから。それだけの理由で人はありとあらゆる理由で動こうとしなくなる。

 それがどれだけ正しくても彼女たちは感情でそれを否定する。

 そして、それは実際に当の本人も分かっているようで。

 

「やっぱり……うちのせい、かな……」

 

 そう、ポツリと漏らした。

 誰も、何も言えなかった。それは事実だからだ。相模がここに立っていることが彼女らとの軋轢の理由になっている。

 恐らくだが、彼女らと相模は上手くいっていない。それによって彼女らは気に食わないのだ。相模が、文化祭で大失態を犯した彼女がここに立っていることが。

 何せ、恐らくかなり寛容な方であろう城廻めぐり生徒会長が、彼女が委員長になることを一瞬拒んだように、その二人も拒否してしまうのだろう。

 

「うちさ、多分やめた方がいいよね」

 

 彼女は雪ノ下にそう告げる。

 

「……別にそうは言ってないわ」

「全部言わなくたって分かるから。うちは、やめた方がいい」

 

 彼女は自分に言い聞かせるようにそう言った。まるでそれがこちらの本意であるかのように。そうすれば全てが解決すると言わんばかりに。

 痛々しいその姿に、やはり誰も言葉を投げかけることは出来ず。

 

「……平塚先生」

「なんだね」

「やめるかどうか、しばらく考えてもいいですか」

「構わないよ。どれくらい時間が欲しい?」

「……一週間あれば」

「わかった」

 

平塚先生は頷いて、俺たちの方を見渡す。

 

「君たちもそれでも構わないかね?」

 

 誰も口は開かず、頷くのみ。俺もそうだった。何か言うべきことだとか、かける言葉だとか、そんなものは浮かばなかった。

 

「よし。ならば今後の方針はその時改めて決めるとしよう。皆、今日はもう帰っていいぞ」

 

 平塚先生がそういえば、相模は鞄を掴んだ後、ぺこりと礼をすれば会議室を後にした。

 残された俺達も、各々帰りの支度を始める。どうやら会長と先生はもう少しだけ今後について話すらしい。

 席を立ち上がり、ふと窓の外を見る。陸側から迫っていた夜闇はとっくに空を覆い尽くしていて、追いやられた茜色が遠くで薄ぼんやりと見えた。

 

「みのるん?帰らないの?」

「……いや、帰る」

 

 奉仕部の面々が会議室を出ようとしていて、未だに会議室でボケっと突っ立っている俺に気がついたのか、由比ヶ浜が代表して声をかけてきた。

 もちろん帰るつもりなのでそう答えつつ、俺は平塚先生と会長へ小さく会釈をすれば会議室を後にする。

 会議室を出て廊下を渡り、昇降口と続く階段を降りていく途中由比ヶ浜が呟いた。

 

「さがみん、やめちゃうのかな」

「……どうだろうな。あの様子だと自分が原因で会議が上手くいってないのは自覚してるみたいだが」

 

 比企谷の分析に雪ノ下が頷いた後、口を開く。

 

「……でも、ここでやめてしまうと彼女の為にならないわ」

「何より俺たちが受けている依頼が達成できない」

 

 一度受けたのだから依頼は達成するべきだ。会長からの依頼と、メールでの依頼。それらを達成するためにはどちらも上手くやらなければならない。

 

「なんにせよ、一週間後の相模の答えしだいだろ」

 

 面倒くさそうに比企谷はそう吐き捨てた。どうやら彼としては相模がやめるものだと思っているらしい。

 その気持ちは分かる。以前の彼女であれば恐らくここで投げ出すだろう。何かしらの理由をつけて、こちらが納得しなくてもきっと、辞める。

 だが、どうだろうか。俺が見るに今の彼女は以前と違うように思えた。反省とは違うが、身の振り方を考えているというか、なんというべきか。

 ともあれ少しでも以前の彼女よりも何か考えや心構えが変わっているのであれば。前向きな返答も得られるかもしれない。

 少なくとも、俺はそう願うだけだ。

 俺自身がもう一度チャンスを掴み取るためにも。

 




原作と憂鬱譚において相模のやる気だとか想いだとかは結構違います。

次回 箸休め回


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