アブソリュート・レギオス (ボブ鈴木)
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01.滅び行く世界に転生者は立つ

槍殻都市グレンダンは、王政によって統治される都市国家である。

移動都市という地理的条件、武芸者個人の武力を尊重する風潮など様々な要因が絡まってはいるが、王室は磐石の権力を維持し続け、現在に至るまで政権を転覆されたことは一度も無い。

輝き止まぬ王の威光。しかし……だからこその闇もある。

――――ライヒハート家。それはグレンダンの闇として、最も代表的な例の一つとして挙げられる存在であった。

彼らに課せられた役割は『死刑執行』。王家に仇名す反逆者を刈る処刑人一族、それがライヒハートだ。

 

処刑人とは言われるが、実際の刑の執行にライヒハートが関与することは極めて稀であった。

それもその筈だ。そもそも死刑というものがグレンダンにおいて、遠い過去に形骸化している物であるのだから。

閉鎖された社会である移動都市を治めるにあたって、恐怖政治というのは愚の骨頂だ。

都市から一歩出れば死の大地が広がるこの世界に逃げ場所はない。恐怖で縛られれば、逃げ場のない民の心は容易く摩耗し、国は荒み王権は瓦解するだろう。

王を頂点とする事を前提に置くグレンダン政府にとって、恐怖政治に結び付きかねない死刑制度を『抜かずの剣』としておくのは止むに止まれぬ事情であり、過去未来において変わらぬ不文律であるのだ。

故にグレンダンではどんな大きな罪を犯そうとも、刑が死罪に次ぐ都市外永久追放を越える事は『ごく一部』の例外を除いて有り得ない。

 

ならば何故、ライヒハートが必要とされるのか?

理由は一つだ。グレンダンには居るのだ、その例外たる『ごく一部』が。

武芸の本場と知られるグレンダンに在って、なお規格外とされる最強の武芸者。

隔絶した実力のみを持ってしか得られない都市最高の栄誉にして、武芸者の頂点である証明。

それが『天剣授受者』。人に生まれながら人の法には縛りきれぬ、武芸者という分類からも逸脱した正真の異端者たち。

故にライヒハートは天剣授受者を裁く。人の道より外れし天上の剣が、人を切る悪鬼と成り果てた時。

突出した戦力への抑止力。それが処刑者たるライヒハートに定められた存在意義であった。

 

 

 

 

そんなライヒハート家には、跡継ぎとして一人の男子が居た。

彼は特に突出した部分のない、凡庸な少年であった。敢えて言うなら多少屈折した性根の持ち主ではあったが。

ライヒハートは日陰者だ。王家の臣下ではあっても、その責務に名誉が付随することは有り得ない。

常人たる権力者が、常軌を逸した化物である天剣授受者が何時か自分に牙を剥くのではと戦々恐々とする余りに用意した、王室に忠実なる暗殺者。

しかし天剣授受者あらざるライヒハートもまた、常識の範囲内の武芸者一族でしかなく。天剣授受者に匹敵する程の武芸者はこの数百年には一人も現れていない。

せめて主君の矢となり盾となれとの忠義の志ざしも失われて久しく、ただ惰性と権力によって縛られ家は存続させられ続けてきた。

 

元より超常の代名詞たる天剣授受者に勝てることを期待されていたわけでない。王家の懐刀としての武芸者が居る、その建前だけにライヒハートは存在していた。

用を為さぬ鈍ら、錆び朽ち果てた懐刀。そう蔑まれ続けた一族の跡目を生まれた時から強制されてきた少年が己の不運を恨むのは、無理からぬ事であったと言えよう。

――――そんな不幸を嘆く少年が、更に不幸な目にあった時。運命の歯車が、音を立てて動き出すのであった。

 

 

 

 

グレンダン高級住宅街の最も外れに、鬱蒼とした木々で宅邸を隠すように佇むライヒハート邸。

本邸の脇に設けられた練武館は、本邸と同じく装飾性の欠片も感じられない質素な造りの建物であった。

事の発端は、その練武館で起きるのであった。

 

――――ユリウス・ライヒハート。

現ライヒハート家当主の一人息子であり、一子相伝のライヒハートの武芸を学ぶ見習い武芸者である。

ライヒハートに生まれた以上、例え家を継がず市井に出た所で、まともな生活など出来はしない。

父である当主が息子にしてやれるのは、せめて息子に生きる為の糧である武芸を教える事と、欲しくもない当主の座を争う他の兄弟を作らぬ事。

そして、ただ惰性のままに訓練をこなす息子の無気力な態度を黙認することだけであった。

自分の父がそうであった様に、現当主もユリウスへ多くを望みはしなかった。受け継いだ技を形としてグレンダンに残す、それ以上は王家も貴族たちも求めてはいないのだから。

 

そんな諦観の境地に生きる当主を、更に憔悴させる様な出来事が起こった。

武芸の修練中だったユリウスが事故により重症を負い、意識不明の状態に陥ったのだ。

武芸者の扱う剄技は汚染獣すら屠る事を可能とする物だ。人一倍意識が低く、その恐ろしさを欠片も理解していない未熟者が、一歩間違えれば自身すらを傷付けるそれを扱っていたのだ。事故は起こるべくして起こった物と言えよう。

 

幸い、怪我そのものは命に別状をもたらす物ではなかった。

意識を失っていたユリウスも数日で目を覚まし、日頃にも増して通夜か葬式かといったライヒハート家の暗鬱な雰囲気も幾分か和らいだのであった。

最悪の事態にならず胸をなで下ろした当主。しかし安堵する余り、彼は息子の様子が些かおかしい事に気がつかなかった。

普段なら鬱屈とした少年の眼は困惑に揺れていながらも、以前にはない輝きが確かにそこにあった。

―――まるで彼が、以前とは別人になってしまったかの様に。

 

 

 

「どうやら俺は、"鋼殻のレギオス"の世界に来てしまったらしい」

 

目を覚ましたユリウス――――否、"ユリウスとなった"男はそう独り言ちた。

男は平凡な日本人だった。別に高学歴ではないが自宅警備員でもない、普通の高卒若手社会人だ。

色々な不運が重なって死ぬ様な目に遭い、気が付けば見知らぬ場所に居て、見知らぬ男に息子として扱われていた彼は混乱した。

しかし、状況を把握し順応するのもまた早かった。理由は彼にはよく聞き覚えのある単語が幾つか耳に入ってきたからだ。

 

『槍殻都市グレンダン』『武芸者』『汚染獣』……これだけ聞けばもう十分であった。

此処が彼が学生の頃に読んでいたライトノベル、鋼殻のレギオスの世界そのものであるのを理解した。

加えて自分が置かれている状況が『転生憑依』というSS界隈ではある意味有名なそれである事も。

オタクの順応性というのも意外と馬鹿には出来ないのだ、特にこういう場合には。

 

「剄脈は有るし、家も古い武芸者一族。しかも原作開始までの時間もある……行けるぞ!」

 

ユリウスはそこで一つの目標を掲げた。それは夢、あるいは野心と言っても良かったのかもしれない。

遠くはない未来、この世界は滅亡の危機に瀕する。その危機を乗り越えるための戦いに、自分も参加しようと。

彼は凡そ全てを知っていた。アイレインとイグナシスの戦いによって幕を閉じる旧世界の結末、リグザリオとサヤによる世界の創造。

フェイスマンシステムによる狼面衆の暗躍、そしてディクセリオ・マスケインの存在。

 

「未来を知っている俺がナノセルロイドとの戦いに加われるくらい強くなれば、もっと良い未来が必ず掴める。いや、掴んでみせる!」

 

それは童心に戻った青年が抱いた無邪気な願い。彼は鋼殻のレギオスが好きだったのだ。

物語の結末に異議はなくとも、主要人物の多くに死者を出した決戦に心残りがなかったとは言い切れない。

かつて憧れ、夢を与えてくれた彼らを、今度は自分が救う。その機会を得られたのは、一人のファンとして夢心地ともいえる程の幸福を得られたとすら感じる。

 

こうして、ユリウス・ライヒハートとして生きる事になった男は、武芸者としての実力を高めるのを目的に過ごす事になるであった。

当主は豹変した息子の態度に目を白黒させながらも、将来の不安が一つ減ったことを安堵していた。

目を輝かせて剄技の指導をせがむ息子に複雑な想いを抱きながらも、その願いを叶えてやるために己の持つ技術の全てを渡そうと、以後尽力するのである。

 

 

 

 

ユリウスの武芸者としての修行は概ね順調な物だったと言って良いだろう。

何せ以前では夢想することしか出来なかった、超常パワーである剄を自分が使えるのだ。

肉体を酷使するのは多大な精神力を必要としたが、それ以上に充実した日々であった。

 

「でも、この錬金鋼の形はどうにかならないのかなぁ。大鎌とか趣味に走り過ぎだろ……」

 

幼いユリウスの背丈程もある巨大な鎌。これがライヒハート家の扱う流派が専門とする獲物であった。

重量武器としては威力で戦斧に劣り、長柄武器としても間合いで槍に劣る。しかも取り回しづらさが両者を遥かに越えて劣悪という、何故選んだのかと問い詰めたくなる超絶微妙武器である。

父は象徴性を重視する家柄故と言ってはいたが、凋落の一番の原因はこの一目で分かるネタ武器のせいなんじゃないかとユリウスは心底思うのであった。

 

「とは言っても、他の流派を習えないんじゃ仕方ないか。本当ならサイハーデンが良かったんだけど……」

 

そもそもライヒハートが先祖代々の技を現代まで使い続けて来たのには、他流派を学ぶ事その物が極めて困難というやむにやまれぬ事情があったからなのだ。

ライヒハートの名は忌名だ。必要悪とされながら、その責務さえ満足にこなせぬ愚鈍な一族。

それは王族のみならず、グレンダンの武芸者なら都市の歴史の一つとして把握する程度には知られている。

更には、王家の暗部であるライヒハートが他者と深い繋がりを持つ事を良く思わない権力者の存在も問題であった。

 

そんな状況の中、仮に他所の道場の門を叩いたとして、家名を出したところで門前払い。

運良く古い慣習になど拘らないという懐の大きな相手に巡り会えたとしても、どこからともなく圧力が掛かって長くはそこにいられない様にされてしまうのは明白だ。

結局のところ、ユリウスには実家の流派を継ぐ以外に武芸を学ぶ方法は皆無なのであった。

 

因みに余談だが、この時代にもサイハーデン流刀争術は存在している。

存続した年月の長さはグレンダンでも有数だが、掲げる理念がグレンダンの主流から掛け離れ過ぎる余りに、人気では新興流派にも負けるという凄まじく崖っぷちな流派だ。

まさかそのサイハーデンが後に天剣授受者を輩出する事になるとは、今の時代ではユリウス以外は誰一人として予想しないのであった。

 

「歴史は無駄に長いのに消滅寸前の落ち目とか、言葉にするとウチの流派と似てるのに……あっちは超実戦志向でウチの実家はネタ満載とか酷すぎるだろコレ……」

 

非情な現実に肩を落とすユリウス。とは言っても、そこまで気落ちしてもいないのだが。

斬撃武器としての機能には大いに疑問のある大鎌だが、利点が一つも無いという訳ではないのだ。

他の長柄武器と比べても幅広の刃を持つ大鎌は、言ってみれば突出して大きなサイズを持つ錬金鋼だとも取れる。

錬金鋼が大きければ何が違うのかと言えば、それは『待機させられる剄の量が多い』のである。

体術、剣術が戦闘の基盤とはいえ、武芸者とは剄を使う者こそを指す言葉だ。剄技なくしては世紀の剣聖だろうと汚染獣には太刀打ちできない。天剣授受者となる第一条件にも『天剣クラスの錬金鋼でしか耐えられない剄量』とある様に、この世界の戦闘はとにかく剄への比重が大きいのだ。

その点、大鎌型錬金鋼は高度な格闘戦と大出力の化錬剄及び衝剄を両立出来る類稀な武器だと言えよう。

 

「……いや、結局どっちつかずなんだけどね。高度な格闘戦って言ったって、ぶっちゃければ武芸者相手の初見殺しくらいしかメリットなんてないし。化錬剄にしたって近接で活剄回しながらメイン並に使うとなるとあっという間にガス欠するし、サブで使うなら小剣とか手甲で十分って話になるんだよなぁ」

 

理想形が万能という事は、それだけ求められる敷居が高いということだ。ライヒハートの始祖がどんな武芸者だったかは不明だが、この流派を十全に使いこなしていたとすると天剣授受者に匹敵しかねない実力者であったのは間違いないだろう。

これが一子相伝とか無茶振りも良い所である。その時代に十人いるかいないかの資質の在る無しが大前提では、それはもう技術でなく個人の能力と言い換えてもいいだろう。

 

「要は俺の努力次第ってことだよな。一度見たリンテンスも若い見た目だったし、まだ時間はあるか。死ぬ気でやれば何とかなる……なるよな? まあ、とにかく頑張るか……はぁ」

 

一年程前にやってきたという外来の武芸者であるリンテンス・ハーデン。

空席があったとは言え選定試合も無しで、出撃が規定回数に達して即天剣授与、しかもそれが都市外の武芸者だったというのだからとんでもない大事件だったとか。

当然反発もあったのだろうが、長らく天剣最強と讃えられていた『不動の天剣』ことティグリス・ノイエラン・ロンスマイアをも上回るとされ、今やサーヴォレイド卿ことリンテンスこそが天剣最強と言われている。

女王陛下が『決定が不服だというならリンテンスと戦ってみせろ、勝った者にはその場で天剣をくれてやる』なんて言って周囲を黙らせたなんて逸話も有るが、それが恐らく逸話ではなくて実際の遣り取りであったのだろうというのは、関係者と関係者でなくとも事情を知っているユリウスの間では確信めいた共通認識であるのは間違いないだろう。

 

天剣絡みの諸事情は雲の上の話としても、この都市では武芸者としての実力が全てだ。時にしがらみや慣習なんて物が邪魔をする事があっても、それを無視できる力が有るのならそちらこそが優先される。

要は強くなる事こそが、この都市で生きる将来そのものを明るくすると思って間違い無いのだ。ついでに色々と詰んでる実家の状況も併せて改善されれば良いなぁと、遠すぎる先に若干気後れしながらもユリウスは改めて決意するのであった。

 

 

 

 

それからもユリウスはひたすら自分を鍛え続けた。

鍛練の成果は着実に積み上げられ、父を後見人として初陣でも、汚染獣を相手に初めてとしては上々の活躍をすることが出来た。

死と敗北がイコールで繋がる戦場を乗り越えた感慨も有るには有ったが、その戦場が週一から月一の頻度であるという頭のおかしい都市がグレンダンなので、自分が武芸者として一人前になれたという感動もそこそこに、後は戦って帰って鍛えて戦うの繰り返しだ。

武芸者としての可能性に殆ど芽のなかった当主は、鳶が鷹を生んだと息子の成長に男泣きするほど感激していたが、ユリウス本人にしてみれば死ぬか生きるかの日々に必死なのであった。現代日本人であったユリウスにとって、日常レベルで汚染獣の襲撃に備えているグレンダンの常駐戦場な暮らしは自分の常識を破壊される余りに気が変になりそうではあったが、そんなことに気を取られていては死ぬだけなのである。

 

ただ……それなりに順調であった過程で一度も躓かなかったかと言えばそうでもなく。

それなりに厄介な石に足を取られそうになったことも一度や二度ではなかったのだ。

 

「―――は? いやいやいや、ちょっと待とうか! 君たちが出てくるのは早すぎるっていうか、普通に考えて俺が関係する理由がないっていうか!?」

 

「理由ならば在ろう。我らを知るならば、それが創世より続く物とも理解していように。戦う意思なくば我らと同じくイグナシスの糧となるがいい、古き一族の末裔よ」

 

「なんで俺が狼面衆の相手なんかしなきゃいけないんだ!? こういうのって三王家出身の特権じゃなかったのかよ、クソッタレめ!!」

 

イグナシスの塵、狼面衆。イグナシスの望む世界滅亡のために暗躍する集団のことは常に頭にあった。

けれど彼らとユリウスが直接的に関わることは絶対に有り得ないとタカを括って居ただけに、この遭遇は完全に予想外であった。

オーロラ・フィールドという特殊な空間を形成する技術を持つ狼面衆は、オーロラ・フィールドを感知することに長けた三王家の直系でなければ発見どころか知覚も出来ないという前提があるのだ。

……まあ、武芸者の原点たるアイレインの直系が三王家だとは言っても、この世界の武芸者全員がアイレインの劣化コピーの様な物だ。何が原因か分からない上、分かったところで狼面衆を知覚出来るという事実は変わらない。結局ユリウスは泣き寝入りするしかなく、汚染獣に加えて台所の害虫の如く沸きでてくる狼面衆の処理に忙殺されるのであった。

 

 

 

 

 

ユリウスが武芸者として実戦を経験してから数年が経ち、年齢は二十に届こうとしていた。

何百、何千もの汚染獣を倒し、言葉にするのも億劫な程の狼面衆を斬ってきた。初めの頃はその存在に辟易していた狼面衆との戦いも、多様な戦場の経験として確実にユリウスの血肉へと変わっていた。

それに、狼面衆の存在はユリウスにとって初志を忘れないための重要なファクターともなっていた。汚染獣との戦いに必死になる余り未来で起こる危機から目を逸らしてしまいそうになる度、狼面衆はユリウスにその事実を思い出させてきた。

自分は凡百の武芸者ではなく、未来を知る特別な存在なのだという自負が、ユリウスの弛まぬ努力の原動力になっていたのだ。

 

 

――――その認識がただの思い上がりだと理解させられたのは、たった一度の出来事だった。

ユリウスに後を託し、隠居した父に変わってユリウスがライヒハート家の当主となって間も無く。それまでの功績を評価されたユリウスは、汚染獣討伐戦の際の中枢部隊に加わるよう王宮より直接要請されることになったのだ。

近年までのライヒハート家に対する評価を思えば、これは有り得ない程の名誉であった。ユリウスの武芸者としての努力が、ついに周囲へ認められたのだ。

実家付けられた不名誉なレッテルに自身の実力が上回ったことの証明を得て、ユリウスは感動に打ち震えた。

 

 

しかし実際に戦場に出たユリウスは、そんな証明が如何に無意味な物かを思い知らされた。

汚染獣との戦いに問題はなかった。何時にも増しての大物量に多くの武芸者が苦戦する中、ユリウスは見る者が目を見張るほどの奮戦をした。

味方が押されジリジリと戦線を押し下げられていく焦燥感にユリウスが駆られた時、戦場は一面の光に支配された。

……天剣授受者。女王の剣として隔絶した能力を持つ彼らは、通常の遭遇戦で出撃することは基本的に無い。

天剣が現れるのは幾ら武芸者の数を揃えた所で意味のない老性体が出現した時と、一般武芸者の処理能力を越えた大群に襲われた時のみ。

これは後者に該当する、女王の命令により天剣授受者が中途参加する稀な機会であった。

 

戦場を、そして都市をも震わせる剄の波動。

一度放たれた剄技は雷の如き轟音を響かせ、目の眩む様な光の渦が汚染獣を飲み込み、その残骸すら残さず蒸発させる。

その様は圧倒的と言うにも生温い。本来汚染獣は生態系の絶対的強者であり、人類は汚染獣に喰われる側の被食者だ。極論を言えば武芸者とはその命題に報いるための一矢でしかない。

 

――ならば、個人で汚染獣を駆逐し尽くす天剣授受者とは一体何なのか。

 

――ならば、天剣授受者にすら死者を出す未来の戦いとは一体何なのか。

 

――ならば、そんな戦いに加わろうとしていた自分は一体何者なのか。

 

この世界に存在する最大戦力。その一角を実際目にしてユリウスは察した。

あれは人の理解を越えた物であり、理解していると思っていた自分が如何に浅はかであったかを。

人智の及ばぬ天賦の才を持ち得ながら、一種狂気的にまで強さと戦いを求める極度に先鋭化された性質。あれと並んで戦場に立つことを望んだ自分は一体どれだけ無知で愚かであったのか。

あれを見てしまえば、ユリウスがこの日まで繰り返して来た努力など時間を浪費するだけの反復作業でしかなく、身につけた技術は児戯にも劣る。

冗談ではなかった。遠くない未来、あんな化け物が平然と殺される状況に自分が置かれれば、塵を吹き飛ばすより容易く命は失われるだろう。これまでのユリウスは死を何処か遠い物として考えていた、何年もの時間が過ぎ幾度となく命の遣り取りを経験していながら、未だ『此処はライトノベルの中の世界だ』という認識が無意識に残っていた。

皮肉な事であった。鍛練によって肉体を痛めつけ、自分の命すらを賭して戦ってきた男が、その原動力として想い続けてきた夢を目の当たりにして現実を思い知らされたのだ。

男は自分が夢の世界に生きていると思い込んでいたことにすら気付かず、ここが現実だということにも気付いていなかった。己が一人踊り続ける道化であったことにユリウスは愕然とし、未来へ絶望した。

これ以上どれだけ自分を痛めつけようと、どれだけ経験を積もうと、ユリウスがあの超常の戦場に並び立てることは決してない。

ユリウスとして生きてきた男の全てを投げ打った上で武芸に偏執したとしても、天剣を得るに足る実力へ届くことなど有り得ない。あれはそういう次元にある強さではない。

 

 

武芸者としての未来に絶望したユリウスは、ただの元日本人でしかなかった。この生と死が隣り合わせに在る狂った世界でたった一人孤立した、哀れな被害者。

ユリウスの中で、何かが音を立てて崩れた。

 

 




作者は前作を放置して新規投稿を上げるクズ(挨拶)
もしハードSFの世界観にゆとり世代の豆腐メンタルが放り込こまれたら、勝手にラノベ脳発症して、勝手に鬱って、勝手に暴走し出すよねって話です。


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02.狂人ユリウス

 

 

天剣授受者の強さを目の当たりにし、ユリウスは変わった。

やっている事に変化はない。ただ只管に自分を鍛え抜き、汚染獣が来れば一武芸者として出撃するだけだ。

 

違うのは、以前ならば在った余裕が一匙分も残されていないことだ。

何かに追われる様に強さを求め、朝から晩まで練武館へと篭もり、鍛練の最中に意識を失ったのは一度や二度ではない。意識を失った翌朝、目覚めた練武館でそのまま鍛練を再開する様は間違いなく尋常の沙汰ではなかっただろう。

 

汚染獣が来れば必ず戦闘に参加した。グレンダンでは余程の規模でない限り汚染獣戦は任意参加だ。それだけ武芸者の層が厚いのだが、同時にコンディションを保つための準備期間を設けられるという事でもあった。

しかしユリウスは全ての汚染獣戦で出撃し続けた。過度に遭遇の割合が偏った時期であっても、終戦まで数日を要する長期戦であっても、戦場がある限り毎日戦い続けた。

 

それは傍から見れば十人が十人異常だと捉える姿であった。まるで狂気に駆られる様に戦いを求める男の姿は、健常な精神を持つ者に言い知れない嫌悪感を与えた。

誰が呼んだか『狂人ユリウス』。常人としての在り方を捨てた彼を侮蔑する呼び名であり、常人としての在り方を捨ててまで武芸者たらんとする異常者への畏怖を込めた称号であった。

天剣足り得る実力を持たぬにも関わらず、その在り方を模倣しようともがき狂う狂人。彼を支配するのが狂気と紙一重でありながら逆のベクトルの感情である恐怖だということは余人には知りえぬ事実であり、同時にそれを察する者にとっては意に介す程の意味はない物であった。

 

 

 

 

死が現実の物だと知ったユリウスは恐怖した。この世界で誰よりも死を遠い物として扱っていた男の精神は摩耗し、その安寧を根刮ぎ奪ってしまっていた。

鍛えても、鍛えても、もう少しも強くはなれない。今の自分が才能の限界に達してしまっていると理解するのは早かった。

誰よりも強くなる事に偏執した故の絶対的な確信に失望はない。在るのは天剣を目にした時から変わらぬ絶望だけだ。

汚染獣戦の合い間に続ける鍛練は肉体を衰えさせない以上の意味はなく、以前ならば使命感によって僅かばかりの高揚感を得られた狼面衆との戦いには何も感じなくなった。

 

未来への焦燥感によって募る苛立ちを晴らすべく、ユリウスは躍起になって狼面衆の気配を追い求めた。

世界で唯一アイレインとリグザリオの意思を汲む活動を続けているグレンダンは、狼面衆にとって成果の有無に関わらず攻め続けなければならない場所である為、工作紛いの妨害行為を行う狼面衆をそれなり以上の頻度で発見するのは難しいことではなかった。

また、狼面衆に対応できる人間の少なさもあった。後の時代ではクラリーベル・ロンスマイアとミンス・ユートノールの二人しかグレンダンで狼面衆を感知できないとあったように、今の時点で能動的に狼面衆の活動を妨害しているのはユリウス唯一人であったのだ。

 

恐らくそれは意味のない行為であった。仮にユリウスが狼面衆の暗躍を無視したところで、彼らの思い通りには決してならない筈なのだから。

女王アルシェイラはオーロラ・フィールドへの知覚能力を抑制することで意図的に狼面衆を避けているのだろうが、少なくとも天剣キュアンティスの座に在るデルボネが、みすみす有象無象の好きにさせているとは考え難い。

想像の域を出ないが、狼面衆の行動が何かしらの形として現れた時になって初めて人員を送り、対処療法的な手段で狼面衆の脅威を排除しているのだろう。それならばオーロラ・フィールドに対応出来ない者でも狼面衆と対峙する事が可能だ。

事実としてデルボネ・キュアンティス・ミューラはそれによって都市への被害をゼロに出来るだけの超越的な能力を持つ念威操者であり、彼女の立場によって派遣できる武芸者には他の天剣授受者すら含まれているのだ。

ユリウスのしている事は所詮、身の程も弁えない部外者が出しゃばっているに過ぎない。だが意味は無くとも構いはしなかった。

 

狂った都市。何処の誰が言い出したかは知らないが、グレンダンを知る他の都市の人間はグレンダンをそう呼んだ。

本来なら可能な限り避けるべき汚染獣に自分から挑んで行くグレンダンの在り方を端的に表したのだろう。

しかし、今のユリウスはその言葉を否定せざるを得ない。狂っているのはグレンダンではない、この世界だ。

グレンダンで暮らす者は、他所の都市の住人とは逆に『世界一安全な都市』と自分たちの都市を言うが、これは自虐でも揶揄でもない、歴然とした事実なのだ。

普通の都市は何時来るかも分からない汚染獣の驚異に怯え、満足な戦力も抱えず不毛の大地を移動し続けている。それと比べて、如何なる汚染獣と相対したとしても必ず最後は天剣授受者が勝利するグレンダンのなんと安全なことか。

 

結局、ユリウスがしているのは迂遠な延命行為に過ぎない。

グレンダンを天剣授受者の知覚の及ばない場所から害しようとする不届きな輩を狩り尽くすことで、この世界一安全な都市を少しでも危険から遠ざけようとしていたのだ。

それが意識的にせよ無意識にせよ、ユリウスはグレンダンという都市に庇護されることを望んでいた。

嘗て運命を変えると決意した男が、今やその在り方を狂人とまで言われる男が。より高みにある強者に縋りつき、こうべを垂れ命乞いをしているのだ。

それはユリウスにとって筆舌に尽くせないほど惨めな行為だった。世界の中心だと信じて疑わなかった自分が、遥か高みから見下ろされる凡愚でしかなかったという証明。

嘗ての自分の決意は野心というにも醜悪な独り善がりでしかなく、誰に期待されずとも自分の進む先にこそ運命があると信じていた前提が崩れ去った。

狂人の名の如く、いっそのこと本当に狂ってしまえたらどれだけ楽であったか。この夢の世界は、まさしくユリウスにとって地獄であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな獄中の様な人生の中で、ユリウスにとって転機となる出来事はあった。

月の見えない暗い夜だった。雲が満月を覆い隠し、世界の守護者の目のない時だと揶揄するように、奴らは行動を起こしていた。

もう阻止した回数を数えるのも億劫になった狼面衆の暗躍。あの手この手と方法を変えながら、稚拙なやり口だけは何時まで経っても変わらない。

その日は狼面衆が直接手を下すのではなく、フェイスマンシステムで操った一般人に仮面を付けさせ、ある武芸者の食事に毒を混ぜようとする物であった。

 

「呆れ果てて物も言えんな。天剣授受者を毒で殺せるなどと、どんなお目出度い頭でなら考え付くのやら」

 

狼面を砕かれ倒れた一般人を見やり、ユリウスは暗闇の中で独り言ちた。

ユリウスが居るのはミッドノット家に連なる一部門の訓練施設の一つ。この晩は門下生への指導を理由に、天剣授受者カルヴァーン・ゲオルディウス・ミッドノットが此処で一泊するという情報はユリウスも掴んでいた。

奴らがカルヴァーン個人を標的としていた確証は無いが、王宮かインフラ施設を狙う事が多い狼面衆が武芸者の宿泊施設を狙うとすれば十中八九が天剣絡みだ。

尤も、あの莫大な剄力によって毒など瞬時に自浄出来る天剣授受者に毒を使って暗殺しようとしたのかは、本気で疑問に思う話ではあったが。

 

「う、ん――――あ……貴方、は?」

「ちぃ……!」

 

意識を失っていた一般人の女が不意に目を覚ましたことに、ユリウスは小さく舌打ちした。

ささやかな善行を積んでいると言えば聞こえは良いが、人から見ればユリウスがしているのは不法侵入の上に罪もない一般人に錬金鋼を向けているという蛮行でしかない。

女に顔を見られぬ様にと、外套に深く潜らせて隠す。しかし女はそれを気にする余裕もなく困惑に暮れた様子でいた。

 

「私、叔父様のお食事に毒を……でも、どうして……そんなこと何故、私が」

 

覚束無い記憶を必死で探る女の顔は、暗い部屋の中ではユリウスには見えない。

狼面衆に操られた人間がその時の記憶を残しているのは希だ。さっさと逃げてしまおうと考えつつも、これが意外な状況である事にユリウスは足を止めていた。

女がそのか細い体を両腕で抱き竦めると、その足元に小瓶が音を立てて転がり落ちた。

混入が未遂で終わった毒の入った小瓶を拾ったユリウスは、それを外套のポケットの奥深くに仕舞い込んだ。

 

「今日の事は忘れてしまえ、毒なんて何処にもなかった。君は少し、悪い夢を見ていただけだ」

「……夢?」

 

何の意味もない薄っぺらな慰めに、ユリウスは我ながら上手い事を言った物だと自嘲した。

そう、こんなのは夢だ。かつて自分が夢見た世界で、敵を相手にしての活躍。今はまだ覚めなくても、胡蝶の夢の如く何時かは目が覚めるのだと。

例えばこの命が失われた時。自分はあの懐かしい布団の上で何の事もなく目覚めるのではないかと、今も思う時がある。

ユリウスが今夜の出来事を夢だと信じさせたい相手はこの見知らぬ女ではなく、自分自身に他ならなかった。

その時だった、まるで運命の悪戯の様に……月が、雲に隠した顔を覗かせたのは。

 

「…………っ!」

 

月明かりによって顕になった女の姿に、ユリウスは息を呑んだ。

透き通る白い肌、薄闇にあってなお輝く蒼玉の瞳。そして何より、前世で見た月とそっくりな色の白金の髪に目を奪われた。

端正というにも言葉が足りない。そんな美貌に、ユリウスは此処が何処かも忘れて放心していた。

見詰める男、俯く女。そんな二人の間に流れた静寂は、突如として響く雷鳴の如き轟音によって引き裂かれる事となった。

 

「無事か、アリシアっ――――ッッ、貴様ァ!!」 

「……叔父様!?」

 

蹴破られた扉は文字通り吹き飛び、ユリウスは自分目掛けて迫るそれを咄嗟に大鎌で払い除けた。

現れた人物を見間違える筈などなかった。厳格なる武芸者の規範とも言える面持ち、物理的な圧力すら放つ剄力。

グレンダン最強の一柱たる武芸者の頂点、カルヴァーン・ゲオルディウス・ミッドノットを見紛う者が、グレンダンの武芸者の中に居る筈がない。

脊髄反射のままに大窓の側へと跳んだユリウスは、女を庇う為に前へ出たカルヴァーンの恐ろしいまでの怒気に身を震わせた。

 

「天剣が威光すらを恐れぬ愚か者がッ! アリシア、伏せていろ!!」

「えっ……いけません叔父様、その方はっ――――!」

 

寸前に聞こえた女の静止を掻き消して、剄の波動が大気を呻らせ空間を支配する。

ユリウスにはまるでスローモションの様にカルヴァーンの動きが見えた。生命の危機がもたらす思考時間の延長が、奇跡の反応速度をもたらしたのだ。

全てが遅くなった世界でユリウスが感じたのは、カルヴァーンの持つ剣がその象徴たる天剣でなかった事への安堵か。それとも、認識してなお避ける事の許されない絶技への恐怖か。

何れにせよ、その感情を処理するより先にユリウスが衝撃の激流に巻き込まれ、窓ガラス諸共野外へと弾き飛ばされたという事実が残るのみであった。

 

 

 

 

 

件の事件より数日。ユリウスは負傷した身体の治療のため通院を余儀無くされていた。

思えばもっと真剣に考えるべきであった。天剣授受者の実力など今更論じるまでもない狼面衆が、何故あんな粗末な暗殺計画など立てたのかと。

要は行動を起こす度に襲撃を掛けてくる邪魔者を、より絶対的な強者とぶつけて消してしまおうというのが狼面衆の狙いだったのだ。

まんまと囮の計画に踊らされたユリウスは、その褒賞に天剣授受者の剄技を受けて生き延びるという人生最大の快挙を成し遂げた訳である。

自分の阿呆さと無様さに首を吊りたくなるくらい惨憺たる結果だ。これで身元が割れていたら、本当に首を切られる事になるのであろうが。

ここ暫く汚染獣戦の無い今に現れた重症患者に医者は不審な目を向けていたが、カルテを見るなり訳知り顔になっていたのでそこは問題無かった筈だ。

ライヒハートは言うに及ばず、ユリウス個人の悪名も医療関係者に知れ渡るまでになっているのであった。

 

 

未だ気怠い体を押して自宅に戻ったユリウスは、門前に見慣れない人影が在る事に気が付いた。

憎らしいくらいに燦々と照りつける陽射しを日傘で遮り、純白のワンピース姿から醸し出さる清楚さは、目の前の暗鬱とした屋敷を誰の家なのか忘れさせる様な雰囲気を纏っていた。

振り向き様にサファイアの瞳がキラリと輝いて、ユリウスの姿を見た女はニコリと笑みを浮かべた。

 

「こんにちは、良いお天気ですね」

「………どうも」

 

朗らかな挨拶に余りにもぞんざいな返事をして、ユリウスはさっさと家に入ろうと門を開けようとするのであった。

すると門に手を掛けたユリウスの腕を、女の白く細い腕がそっと掴んだ。

掴むと言うよりは触れると言った方が正しい行動であったが、それだけの事で門に巨岩の如き重さが加えられた様な錯覚を受ける。

多分に苛ただしさを滲ませた視線で女を睨めば、向こうはそれを微笑ましげに見つめ返すだけであった。

 

「御当主を訪ねて参りました、お取り次ぎ願えますでしょうか? 夢の中で救われた女が会いに来た……と伝えて頂ければお分かりになると思います」

「御足労頂き恐縮だが、当家に脳神経へ干渉する剄技を開発した者は居ない。人違いだろう」

 

芝居の掛かった女の物言いに、分かっていながら要点を外した返答を返してやる。

何が可笑しいのやらクスクスと笑う女は、手に提げた鞄から何やら手紙が入れられているらしき封筒を取り出した。

白い封筒、ちらりと施された封蝋を見れば複雑な紋様が刻まれている。それにユリウスは渋面を浮かべるしかなかった。

 

「私の叔父、カルヴァーン・ゲオルディウス・ミッドノットより、ライヒハート家御当主ユリウス・ライヒハート様へのお手紙を預かって参りました」

「……話は中で聞こう」

 

封蝋に押された印は武芸者ならば一度は目にするであろう代物であった。カルヴァーンが天剣授受者に叙任して以来、何かと公の場に出る事の多くなったミッドノット家の家紋だ。

家紋付きの手紙は使者として十分な証拠で、事実ミッドノットの関係者である事はユリウスがその目で確認している。

天剣授受者の名はこの都市では絶対であり、おまけに身に覚えもあると来たのだから門前払いなど出来る筈もなく。

あわよくば知らぬ存ぜぬでゴリ押しする気でいたユリウスは、腹を括る以外の選択肢が残されていない事に肩を落とすしかないのであった。

 

 

 

 

女を連れてやって来たのはライヒハート邸の客間だ。

最後に手入れをしたのが何時か分からない埃っぽい部屋は、申し訳程度の調度品すらも完全に色褪せている。

以前に住人以外の人間を通した事が有るかどうか、恐らく前当主が現役だった頃に遡っても有ったかどうか怪しい程の無意味極まる空間である。

 

「申し遅れました、アリシア・ミッドノットと申します。どうぞ、よしなに……」

「ユリウス・ライヒハートだ。父から家督を譲られた以上、形式上は自分が当主を務めている事になる」

「ふふ、存じておりますわ。ご高名はかねがね」

 

形ばかりの挨拶でしかないのに、この時点で皮肉を言われている気になるのは自分に負い目が在るからだろうかとユリウスは思うのであった。

尤もアリシアの様子から他意は感じられず、また言葉の内容によって不快になる様な事はまるで無かった。

当の彼女は快適さとは縁遠い客間の惨状に眉一つ顰めず、上流階級特有の品のある微笑みを静かに浮かべるだけである。

何と言うか、不思議な女性だ。彼女から発せられる雰囲気のせいか、普段は墓地の如く陰鬱なライヒハート邸が妙に華やかに見える。

 

「まずは私個人からのお礼を言わせて下さい。あの時ユリウス様に助けて頂けなければ、きっと取り返しの付かない事になっていました。ありがとうございます、どれだけ感謝しても足りないくらいです」

「さて、何の事やら。失礼ながら、ミッドノット家との交流は先祖を遡っても一度として無くてね」

「あらあら……ところでユリウス様、大鎌の錬金鋼をお使いになる武芸者の方が今のグレンダンに何人いるかはご存知ですか?」

「……流石はゲオルディウス卿の姪御殿であらせられる。武芸への見識をもお持ちとは、恐れ入る」

「くすくす、お褒め頂き恐縮です」

 

楽しげに笑うアリシアを見て、ユリウスはキリキリと痛む胃を自覚せずにはいられなかった。

あの晩、やはり最大の失態であったのが錬金鋼を抜いた事であるのは間違いないだろう。

あんな酔狂な錬金鋼を扱う武芸者など現在ではユリウス一人。それどころか歴史を探してもライヒハートの人間しかいないのである。

あの程度の薄闇でカルヴァーンの目を欺ける訳も無いのだが、翌日になっても屋敷が憲兵に取り囲まれていなかったので何か理由を付けて見逃してくれたのではと、儚い希望を抱いて今日まで過ごして来たのだが……

 

「叔父様からのお手紙です。ご覧になって下さい」

「ああ、拝見しよう……」

 

カルヴァーン本人からの手紙だと言うなら逮捕状や出頭命令ではないのだろうが、果たし状の類でないことを祈るばかりである。

家紋付きの封を破ることに恐れ多さを感じながらも、開けて見れば意外にも便箋一枚の簡素な中身だった。

黒いインクで綴られた内容は、書き手の性格を表した様なガチガチで古風な文体であるため、解読に必要以上の労力を必要としたが概ね理解は出来た。

『先日、貴公が屋敷へ侵入した件で―――』などと心臓に悪い出だしの文を要約すれば……

 

「つまりゲオルディウス卿には先の一件を不問にして頂ける、という事で間違い無いのか?」

「はい、相違ありません。事実確認を怠っての攻撃に謝意を伝える様にと、叔父様から仰せつかっております」

 

要するに「姪に不届きな真似をした輩を始末した礼に、お前がした不法侵入は咎めない。だからお前も塵芥の様に吹き飛ばされた事は忘れろ」という事である。

寛大にも寛大が過ぎる処遇だ。望んでいたとはいえ、何か裏があるのではと疑ってしまう程に。

疑惑の眼差しをアリシアへ向ければ、彼女は分かっていると言わんばかりに小さく頷いた。

 

「叔父様も、事件直後は大層憤慨されておりまして……"兵を動員してねぐらごと焼き払ってくれるわ"と息巻いて飛び出して行かれたのですが、何でも詰所に着く前に念威端子でユリウス様の任務について知らされたとかで。その後、私の証言と併せて誤解があったと知り、ユリウス様へ文を送る事にされた次第です」

「……任務、だと? ゲオルディウス卿にその事を伝えたのが誰かは聞いているのか」

「いえ、それは私が知るべき事ではないと教えて頂けませんでした。ですが、叔父様のお怒りを鎮められる程の御方だと仮定すると、余程高い地位に在る御人になるかと……」

 

美味すぎる話に裏があるのは当然と分かっていても、今日ばかりは背筋が寒くなるのを抑えられはしないだろう。

念威操者、カルヴァーンが二の句を言わず従う人物。この二つのワードだけである人物を連想するのは容易いことだ。

天剣授受者キュアンティス。この都市最高にして文字通りグレンダンの全て知る念威操者が、たかる羽虫を駆除するしか脳のない、取るに足らない凡愚の為に態々口を出したという事だ。

これは警告だ。仮にデルボネにどんな真意があろうとも、それだけは絶対だと言える。

一つ、何を知り、何をしようと勝手だが、お前の行動は全てデルボネ・キュアンティス・ミューラの監視下ある事を忘れるな。二つ、都市の益となる行いに免じて今回は手を貸すが、これに懲りたならば確実を期したやりかたを心掛けよ。

恐ろしい事実であった。ユリウスはデルボネを知っている、それは鋼殻のレギオスの読者という正しく神の視点によって得られた知識であったが、ユリウスがデルボネを知る以上に、デルボネはユリウスの事を完璧に把握していたのだ。

天剣授受者の異常性を理解したつもりになっていたが、まだ認識が甘かったと再確認せざるを得ない。衝動の赴くままに十年近く続けたユリウスの活動に、たった一度の事で完全に釘を刺されてしまったのだから。

念威という特異能力が生み出した、深淵なる叡智の化物。全くもって愚かしいにも程がある、神の視点を経験しただけの凡夫が、何を思って彼女らと並び立てると信じていたのやら。

 

「大丈夫ですか? お顔の色が優れませんが……」

「……お気遣い痛み入るが、心配は無用だ。今日は忙しい中ご足労頂き感謝する、ゲオルディウス卿には後日改めて返事を送らせて頂くとお伝え願いたい」

 

その秀麗な容姿に憂いげな表情を見せ、アリシアはユリウスを気遣った。

男としてはそれだけで舞い上がってしまいそうではあるが、生憎ユリウスの頭の中はそれ以外の事で一杯一杯の状態であった。

額に浮かんでいた冷や汗をハンカチで拭おうとしたアリシアを手で制し、彼女と対面していたくなかったユリウスは堪らず席を立った。

無様な顔色を見られたくないが為に窓際へと歩き目を外にやったが、背後のアリシアが何時まで経っても帰る気配を見せない事に、ユリウスはちらりと視線を向ける。

 

「まだ、何か要件があったか」

「不躾ながら……どうか、お聞かせ願えますか? 私はあの時、どうしてあの様なおぞましい事をしようとしてしまったのでしょうか。あの仮面を付けた集団は一体……あの仮面とは、何の意味を持っていたのでしょうか」

 

真実を知りたいと、アリシアはユリウスへと縋った。

彼女がユリウスへの使者として現れたのは、結局の所これが目的だったのだろう。

尊敬すべき偉大な叔父へと向けた暴挙が、自分自身の意思ではなかったという確約を得たい……そんな辺りかと考える。

事実を事実として教えるのは簡単だ。そう思って口を開いたユリウスは、出かけた言葉が喉に閊えた事にもう一度口を閉じた。

 

「それについて、君の叔父上は何か仰っていたか?」

「叔父様は、ただ私は悪く無いという事しか……他は何も知らなくても良いと、教えて下さりませんでした」

「なら、それが答えだ。俺から君に言える事は何も無い」

 

既にデルボネから釘を刺された後だと、情報の秘匿を理由に全ての責任を放り捨て、アリシアを突き放した。

別にカルヴァーンを恐れた訳ではない、デルボネを恐れた訳でもない。抱える物の重さから逃げたかった、それだけだ。

天剣授受者に名前を憶えられ、見られているという事実。目の前の美女が自分に感謝を抱き、心を明かそうしている事実。

それらに全て蓋をして、ユリウスは目を逸らして無視を決め込んだ。期待など、されたくない。どうせ何時か失望の眼差しを向けられるくらいなら、初めから興味など持たれたくないのだから。

 

「帰りなさい。不必要にこの家に留まるのは君の為にも、君の叔父上の為にもならない。今後、此処には二度と近寄らないことだ」

「……分かり、ました」

 

傷ついた様に目を伏せる彼女への罪悪感は、固く無表情の中へと押し込んだ。

これでいい。この都市の住人として目覚めてから父以外の人間と関係を持たず、当主となってからは意識して人を遠ざけてきた。

これは渡世術であり、生きるための術だった。夢の中の登場人物に対して要らぬ感情を持つ事は、本当の意味でユリウスを戻れない所まで引きずり込んでしまうことだと分かっているのだから。

それが何を持って正しいのか、何に対して正しさを示すのか、そんな事も理解できないまま。

ユリウスは霞んだ過去の記憶の中にしかない、自分の在るべき本当の居場所に想いを馳せ、全てから目を逸らすことを決め込むのであった。

 

 

 

 

 




歳食った分だけ環境に順応しつつも、着実に色々こじらせているユリウス君。よく知りもしない相手の行動発言に一々理由を考える不毛な行為を繰り返していると、こんな高二病のお化けみたいなのが生まれる……かもしれないという悪い見本です。

カルヴァーンは原作でかなり好きなキャラだったりします、出番ないけど。
他にはサヴァリスとかハイアとかアイレインとかエルミとか……見事に噛ませと人格破綻者ばっかりですね。
多分、普通に生きてたら人生イージーモードなのに、何故かガチ縛りして悲惨な事になってるみたいな矛盾が好きなのかもしれません。


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03.グレンダンに咲く白薔薇

お久しぶりです。
艦これの夏イベ対策にどっぷりハマり、夏イベの過酷さから逃げて溜め込んだ資材を大型建造で全部無駄にして目を覚ました大馬鹿物は自分です。
こんな阿呆の書くSSですが、良ければどうぞご覧になって下さい……


アリシア・ミッドノットがライヒハート邸を訪れてから一週間ほどが過ぎた。

色々と複雑な出来事であったが、終わってみれば何の事もない。変わり映えの無い日常の繰り返しが戻って来るだけだ。

向上心の伴わない鍛練は苦痛であっても、止める恐怖に代えられる物ではなく。例によって現れた狼面衆は何時もの様に追い返し、斬っても手応えの無い外敵が消えれば遣る瀬無さしか残らない。

 

だが、これで良いのだ。生きるとは、こういう事だ。

生活の糧を得るための奉公というのは誰もが遣り甲斐を感じられる物ではない。けれど食べる為、暮らす為に、人は繰り返しの日常への倦怠感を飲み込み、社会への貢献を行う。

人には分相応という物が在り、身の丈に合った仕事しか出来ない様になっている。それに満足して従事出来るかはその人次第であって、結局ユリウスの身の丈に合った仕事というのは、たまたま他に適任がいなかったこの害虫駆除ということだ。

 

それを不幸とは思わない。ただ、こんな筈ではなかったと、それだけを思っていた。

自分が本来居たのは戦いとは無縁な、退屈であっても暖かなあの世界だ。本来は縁もゆかりも無いこの世界の為に命を懸ける理由が無かったのだと、少し前にやっと気付いたのだ。

最初の頃は理由が在ると信じていた。例え無くとも、自分が特別になることで理由が出来ると疑っていなかった。

馬鹿な勘違いだ。正真正銘の異邦人である自分が、一時の欲に流されて事の本質すらも理解せずに浮かれていたに過ぎないのに。

この世界に居場所はない。あの遠い過去の世界に帰りたい、ユリウスの望みはそれだけだった。

 

 

 

 

 

 

長らく一人暮らしが続いているユリウスは、その日も昼を適当な外食で済ませて来た。

家主一人が使うには無駄に広い屋敷は、仮にも貴族の宅邸と思えば随分小さく優雅さの欠片もない貧しい外観だが、別にユリウスが金に困った事は一度も無い。

そもそも貴族の暮らしに金が掛かるのは使用人を抱える事や体裁を保つ上で必要な調度品の収集が理由であったり、社交界へ臨むための衣服や装飾品を揃える事で発生する出費が莫大な物になるからだ。

その点、保たねばならない体裁など持ち合わせず、社交界など向こうの方からお断りされるレベルのライヒハート家は金策に頭を悩ませずにいられる気楽な立場であったと言える。もっとも、それが良いか悪いかは全く別の話となるのだが。

ともあれ、お陰でユリウスは設備だけは一通り揃ったキッチンを無意味に汚す事もなく。長らく人の手の入っていない開かずの間の封印を今日も解く事無く食事にありつけているのであった。

 

「こんにちは、お元気でしたか?」

 

そうやって自宅へと徒歩での帰宅をすれば、門には何時か見た在り得ない人物が佇んでいた。

長い白金の髪、穏やかな笑みを浮かべる愛らしい顔立、触れたら壊れてしまいそうな華奢な体躯は男の庇護欲を無意識に誘う。

この深窓の令嬢という言葉を体現したかの様な容姿の人物が脇に立つだけで、荒れ果てた敷地内が豪奢な庭園の如く輝いて見えるのだから美人というのは恐ろしい。

……などと、驚きで思考が明後日の方に向かったユリウスは我に返って目の前の人物へ怪訝な視線を送った。

 

「当家に何か御用かな、アリシア嬢。叔父上への手紙に対する催促であれば、先日送ったため入れ違いになってしまったが」

「くすくす、意地悪な方……叔父様の御用でなければ、お会いにしに来てはいけませんか?」

「少なくとも、君のご家族はそう仰ると思うがね」

 

ついこの前あれだけ横柄な応接をされたというのに、再び現れたアリシアが向けてくる表情に含んだ物は何一つ感じられなかった。

人の悪意とはほとほと無縁に見えるこの女性が、ユリウス渾身の近寄るなオーラを爽やかに受け流しているのだから女という生き物は分からない。

或いは、目の前の人物ほど世の女性が不可解という訳でもない可能性も十分に有るのだが。

 

「以前お邪魔した際に、忘れ物をしてしまったのに気が付いたのです。申し訳ありませんが、少しお時間を頂けないでしょうか」

「手荷物の類を置いていった様には見えなかったが……」

「小瓶です、小さな首から下げるチェーンの付いた。ユリウス様がお持ちになっていると思うのですが」

 

可愛らしく上目遣いでこちらを伺うアリシアに、名女優の貫禄とでも言うべきものを感じずにはいられない。

この妙な女は、何故こうも白々しくも演劇染みた物言いを違和感も感じさせずにやってのけるのだろうかと。

貴族が芝居好きとは聞いた事もあるが……多分それはイギリスか何処かの話だ。いや、箱入り故の浮世離れがユリウスにそう思わせているだけなのかもしれなかったが。

 

「……大切な物なんです。厚かましいお願いだとは分かっていますが―――」

「分かった、分かった。直ぐに用意しよう、客間でお待ち頂けるか」

 

ユリウスの渋る気配に、アリシアの本心からの懇願が少しだけ見え隠れした。

となれば、結局はユリウスが折れるしかない。男の立場とは弱い物だ、こういう情緒が絡んだ場合では。

二度と来るなと言っただろう……なんて言葉は飲み込んだ。それを言ってしまえば、自分は今度こそ言い訳のしようもない極悪人だ。

早速気疲れを感じて溜息を付けば、それを見るアリシアが嬉しそうにはにかんでいて、微妙な気分になる。

美人は得だ、本当に。少なくとも、彼女の笑顔が見れた分だけ損をしてないと思ってしまうのに、酷く敗北感を覚えた。

 

 

 

 

 

 

例の小瓶はすぐに見つかった。

あの夜着込んでいた外套のポケットに仕舞っていた物だが、当の外套は足が付かない様にと処分してしまった後だ。

夜間の人目に付きたくない時にと買った物だが、日中で着れば一目で分かる不審者が出来上がる黒尽くめのデザインはどう見てもやらかしていたので、良い機会だと迷いなく捨てていたのは余談である。

銀細工で花の装飾があしらわれた小瓶を、ユリウスは客間の椅子に座るアリシアへと手渡した。

 

「中の毒はこちらで破棄させて貰った。勝手ですまないが、ご了承願いたい」

「いえ、ありがとうございます。元々、中身は入っていない物でしたから」

 

受け取った小瓶を愛おしそうに眺めながら、アリシアはそれを首に掛けた。

危険物を放置する事に躊躇いを覚えて持ち帰ったが故に、こうして面倒が後を引いているなと、ユリウスはやや恨めしげにアリシアを見た。

それに何を感じたかは分からないが、アリシアは花の様な笑みでユリウスを見つめ返した。

 

「母の形見なんです。他の物はみんな大切に仕舞ってあるのですが、これだけは肌身離さずに持ち歩いているんですよ」

「母君は、既にお亡くなりに?」

「ええ……私が幼い頃、流行りの病で。叔父様がよくして下さらなければ、私も今はもっと大変な暮らしをしていたと思います」

 

そうか……と小さく相槌をうって目を逸らす。

ユリウスを見た時のカルヴァーンの激昂具合からも分かったが、彼女は余程身内から大切にされているのだろう。

この美しい容姿に朗らかな性格を思えば、そうしたくなる理由も理解できる話だ。

 

「そんなに大事な物であれば、前回の訪問で言ってくれるべきであったな。遠慮をさせたのなら申し訳ないとは思うが」

「ユリウス様ともう一度お会いしたかったから、わざと置いていった……なんて言ったら、怒られますか?」

「……当たり前だ。私はまだ、君の叔父上に殺されたくはないのだからね」

 

まるで逢瀬を期待しているた様な物言いは、別にユリウスの自意識過剰とうい訳でもないだろう。

アリシアのサファイアの瞳が悪戯っぽく輝く様子に、彼女がカルヴァーンの姪でさえなければ浮ついた感情を抱くこともあったのだろうかと考えた。

あの厳つい強面の叔父上殿が、彼女をさぞ溺愛しているのだろうと容易に想像出来るあたり、そういった不埒な感情を持つこと自体が自殺行為にしか思えないのだが。

さぞ出会ってきた男達を泣かせているのだろうなと予測したユリウスの考えも、あながち外れてはいないだろう。

 

「君もライヒハートの姓が意味する所は聞き及んでいるだろう。またこんな所に来ていると分かれば、叔父上もお怒りになる」

「そんな事はありませんよ。叔父様は、逆にユリウス様の事を褒めていらしたくらいなんですから」

 

当たり前の様に言うアリシアの言葉に、ユリウスは嘘くさいにも程があると溜息を吐いた 。

朽ちた懐刀、ライヒハート。それが忌名であるのは、ユリウスが一介の武芸者として活躍している今でも変わらない。

既に時代は求めていないのだ、王家の暗殺者を。現女王の絶対的な実力は天剣授受者をも完全に押さえ込む程の物であり、名誉職の親衛隊は言うに及ばず、代々国王の身辺警護を宰ってきたリヴィン家すらも今では形式ばかりの仕事に従事している。

元より天剣授受者を抑えるのは、同じく天剣授受者だ。それが何時の時代であっても変わらないのは、歴史が証明している。ライヒハートは言うに及ばず、ただの武芸者が天剣授受者への抑止力になるなどと、そんな夢物語を信じている者はこの都市に誰一人として存在していない。

用も無ければ意味もない。ライヒハートに残っているのは遠い過去から積み重ねてきた、拭いきれない不名誉だけだ。

 

「世辞はいい、蔑まれるのは当然だ。末席とはいえ用も為さずに特権階級の恩恵を受けているのだからな。我が家に仕事があるとすれば、それは罵声を受けるくらいの物だろう」

「ご謙遜が過ぎますわ。ユリウス様は戦場で素晴らしい武功を挙げられている方だとお聞きしています。叔父様も自分の技を受けて無事でいられる武芸者を見たのは久しぶりだと感心していました」

 

……無事もクソも、全力で被害を抑えたにも関わらず最近まで療養中だった身だ。

天剣授受者から、並の武芸者であれば一撃で無力化される剄技を放たれていた事に心底ゾッとする。カルヴァーンもあの時は一応は生かして拘束する気でいたのかと思っていたが、何の事はない。守るべき対象がすぐ近くにいたから出力を絞っただけであって、そうでなければ一室を塵に変える程度の事はやっていたのだろう。

思っていた以上に命の危険に晒されていた事が分かり、ユリウスはじっとりと背中に嫌な汗が張り付くのを否応なく自覚した。

 

「本当に珍しいんですよ? 叔父様が武芸者の方を褒めるのは。以前に戦場で見掛けた事もあったそうで、在野に腐らせておくには惜しい人材だと。自分の門下から彼ほどの使い手を輩出できていないのは実に遺憾である、と」

「それは……身に余る光栄だ。恐れ多くて、身が竦んでしまいそうなくらいに」

 

アリシアの言葉に沸き上る嬉しさを隠し切れなかった。天剣授受者という枠組みの中に置いて、カルヴァーンは奇特な人物なのだ。

あの特殊な集団に見られる共通点は幾つかあるが、特に顕著なのは武芸者という存在にある種の見切りを付けている事だ。彼らは自分たちの能力が多勢から隔絶し、それが努力や経験で埋まる差でないのを本能的に理解している。

数ある武門の当主たちは、天剣授受者こそが武芸を極めた先に在る到達点だと称し、何時かそこに至る事こそが至上だと門下を激励するが、それは的外れと言える。天剣授受者とは生まれた時から天剣授受者であり、ただの武芸者であった事は一度もない。嘗ては一流派の門弟だったという事実が誤認を生み、それが建前として今の時代にも残っているに過ぎないのだ。

 

だから天剣授受者は後進の育成に興味が無い。

自分と同等の存在は生まれて来る物であって、育てる物でないのを知っているからだ。

そんな中にあって不特定多数の武芸者に門を開き、弟子の育成に情熱を向けるカルヴァーンの在り方は、武芸者としては絵に描いた様な模範であり、同時に天剣授受者としては突然変異の変わり者だと言える。

しかし、だからこそカルヴァーンの賞賛には皮肉が込められていないとも取れる。彼は一般的な武芸者の持つ評価基準を無意味と切り捨てず、適正な評価を下す上で必要な物として残してあるのだ。

……とまあ、ここまで言うとカルヴァーンが聖人君子みたいに聞こえるが、別にそんなことは断じてない。ご同僚よりはマシというだけであって、実際は他の天剣が意に介さない慣習やしがらみを気にする上に、実力は天上人という最高に厄介な頑固者が出来上がるだけだったりする。

 

いや、ユリウスも実力だけはそこそこ周囲に認められているのだ。となれば似た様な認識でいるであろうカルヴァーンの賞賛も、別にアリシアのリップサービスという訳でもない筈だ。

狂人云々の悪評にどんな感想を持っているかは、流石に恐ろしくて聞けないが。

 

「……無駄な身の上話が過ぎたな。生憎、客人を招く機会が無いので茶菓の類は置いていなくてね。余り気を悪くしないで欲しい」

「紅茶は、あまり飲まれないのですか?」

 

言外に「さっさと帰れ」と言ったつもりであったが、それに気付いてか気付かずか、アリシアは話題の矛先をユリウスへと定め直すのであった。

嗜好品としての茶など、ユリウスはもう何年も飲んでいない。調理場に行けば父の買い置きが幾つか残っている可能性も有るが、全てミイラの様に干上がっているのは想像に難くない。

いっそのこと、それを出してやるもの手かと考える。が、それによって彼女の花の様な笑みが凍り付くのを想像するのも怖いし、何より彼女の叔父上に無礼打ちにされるのは絶対に避けねばならない懸案であった。

 

「いけませんわ。日々の生活に潤いを持たせなければ、人の心は荒んでしまいます。お食事は、何時もお一人で?」

「必要分は問題なく摂取している。それに、カフェイン類は余り好ましくないな」

「ご自分に厳しいのですね、ユリウス様は。武芸へ真摯に身を捧げる……とても、素敵だと思います」

 

今日は褒められ過ぎて気味が悪い日だと、ユリウスは呆然とした気分になる。

というか、これではどちらが客で持て成す側なのか本気で分からなくなる。一々男を勘違いさせようとしているとしか思えないアリシアの発言に頭を抱えたくなる衝動をグッと堪えて、ユリウスは努めて気丈であろうとした。

前世から続く"彼女いない歴"が既に笑えない域に届いている彼は、女性の思わせぶりな態度への耐性を獲得する事に成功しているのだ。これでもう、勘違いから始まる黒歴史の増産など起こらない……と、コミュ障の悲しい自己弁護で胸中の平穏を保つ。

 

……この目の前の人物は危険だ。決して懐にはいれまいと思っていても、気付けば心を許してしまいそうな危うさを秘めている。

彼女が悪い人間に見えるほど、まだ目は腐っていない。けれど、カルヴァーンの姪であるという彼女の立場、ライヒハートの当主である自分の境遇を思えば、親密になる事で予想できるリスクを許容するなど出来ようもない。

 

「そろそろ、お暇させて頂きます。長居をしてしまって申し訳ありません」

「今度こそ忘れ物など無い様にな。次が有れば、こちらとしても居留守を使うのも考えなければならん」

「ふふ……本当に、ユリウス様は私に意地悪ばかり仰るんですから」

 

こちらの警戒心を察して帰り支度を始めた、というのも気のせいでは無いのだろう。

これではまるで、狐に喰われると怯える兎の様だ―――当然、狐が彼女で兎が自分だ。

何を考えているのやらとアリシアの顔を見た所で、彼女の浮かべる微笑みが全てお見通しだと言わんばかりの余裕の表情に見えて来るのだから始末が悪い。

 

「それでは、また。今度は今日のお礼もお持ち致しますね」

「……礼など不要だ。そもそも、こちらがゲオルディウス卿の御厚意に預かった身なのだからな」

「叔父様とユリウス様の間ではそうでしょうけど、私とユリウス様とでは違いますわ」

 

どんな押し付けがましい理由だ。そんな突っ込みを入れるより先に、彼女は席を立っていた。

まあ、帰ってくれるのでれば文句は無い。そう思って言いたい事を飲み下し、彼女を見送ることにした。

最後まで笑顔のままでいながらも、何処か名残惜しげに去っていくアリシアを見るユリウス。これが最後になって欲しいと思いつつも、また彼女が家の門の前に立っているのが絶対に避けらだろうと確信めいた予感に、彼は深い溜息を吐くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後も、アリシアは何度もライヒハート邸に現れた。

約束の礼だと上等な茶菓を持って来たのを始めに、知り合いから珍しい茶葉を貰っただの自分で焼き菓子を作っただのと、何かしら理由をでっち上げて門の前で待ち構えているのだ。

毎度毎度食べ物を持ってくる辺り、何と言うか確信犯的だ。男をモノにするには胃袋を支配しろとは何かで読んだ憶えが有るが、武芸者はその傾向が殊更当て嵌ると言える。

要点を言ってしまうと、ユリウスの食事は侘しいのだ。武芸者は大量のエネルギーを消費するため基本大食らいだが、男の一人暮らしで使用人も居ないとなると、当然自炊なんて選択肢はなくなる。そこから更に身体を維持する為の物を選ぶとなると、食事も限られた種類になりがちだ。

 

そんな食糧事情の真っ只中に持ってこられる芳ばしい香りを放つ甘味の数々は、甘い物から離れて久しい男にとっては麻薬の様な物にすらなり得るのであった。

手中の珠である愛娘に悪い虫が付いている事に、彼女の親族や叔父君がどんな気分でいるのか戦々恐々としない日はなく。

しかし何ら苦情の来ない実情に気味の悪さを感じながらも、客人に施される美味を味わう度に、まあ良いかと思ってしまうのであった。

それどころか、客が来るのに茶も出せないのは格好が付かな過ぎると、彼女相手にしか使う筈もないティーセットを客人用という名目で一式購入する有り様だ。

 

……そんな経緯があって、ユリウスが初めて他人へと振舞った茶の味は、それは酷い物だった。

紅茶を淹れた経験など前世でもある訳がなく、もっぱらインスタントコーヒーを愛飲していた男が自分の茶を飲んで抱いた感想は、『これ、雑巾汁だ』である。

まあ、当然の結果だったと言えよう。素人かどうかが問題ではなく、料理と同じで事前知識の収集を怠った者が良い結果を得られる様な物ではないのだから。

 

 

 

想像を越えた不味さに顔を顰めるユリウスは、バツが悪くなってアリシアを見たが、彼女の反応は紅茶の味以上に想像外の物だった。

淹れた本人が窓の外へと上下逆さまにしてやりたくなるカップを、酷く大切そうに両手で包みこみ、本当に嬉しそうな表情を浮かべていた。

あんまりと言えばあんまりな光景に、ユリウスは思わずアリシアへと問いかけた。

 

「まさか、この味が気に入ったのか? 自分で言うのも何だが、私はここまで酷い飲み物は生まれて初めて飲んだよ」

「いえ、そんな事はありませんよ。とても……とても、暖かい味です」

「気を使わず不味いと言ってくれ。悪かった、不精者が気紛れで茶など出すべきではなかったな……」

 

尚もユリウスの紅茶に口を付けようとするアリシアへ流石に申し訳なくなり、ユリウスは彼女の持つカップへと手を伸ばした。

するとアリシアはついと身体を逸らし、ユリウスの手からカップの逃れさせるのであった。

その行動にユリウスが怪訝な顔をしてみれば、やはりアリシアは笑っていた。今までユリウスが見た中で一番幸せそうで、一番アリシアの本心からの物だと思える笑顔で。

 

「ユリウス様が初めて私の為に淹れてくれた紅茶なんですから、美味しくない筈なんてありません……だから、最後まで大事に飲ませて頂きますね」

「……好きにしろ。ただし、客間で吐き出すのだけは勘弁してくれ」

 

くすくすと笑うアリシアを傍目に見ながら、ユリウスは頭を抱えた。

茶の不味さにでも、飽きもせずに自分の中へと入り込もうとしてくるアリシアにでもない。そんな彼女の存在が、日に日に心の中で大きくなっている自分の情けなさに気が遠くなりそうだった。

こんな筈ではなかった。アリシアを過度に拒絶しなかったのは、カルヴァーンの怒りを買うのを恐れたからであり、人を傷つけてはならないという論理感での一線を守ろうとした結果でしかなかった筈だ。

 

 

 

 

始めの頃は、彼女は打算的に自分に近づいているのだとユリウスは確信していた。

人は知りたくなる物だ。狼面衆の事件に巻き込まれ、その一端を感じ取れたところで証拠は何一つ残らない。グレンダンで最高位の武芸者であるカルヴァーンにしても、狼面衆に関しては意図的に女王が情報を規制している事だろう。

だからアリシアはユリウスから知り得ようとしたのだ。それをユリウスが知っていると、アリシアは分かっていたから。だからユリウスは彼女の好意を作為的な物だと断定していた。

 

そう考えている事に罪悪感を覚える様になったのは何時からだったか、もうユリウスにも分からない。

いつの間にか彼女の笑みが尊いと思える様になり、何時の間にか彼女が門の前に居ないかと常に気にする様になっていた。

何か理由を付けてアリシアの好意的な態度を悪し様に捉えようとしていた筈が、逆に何か理由を付けて彼女の好意が本物であると信じたくなっていた。

……在り得ない、在って良い筈がない感情だ。彼女は夢の国の中に生きる、架空の存在の筈だから。男は現実に生きていた、生きていると思おうとしていた。だから架空の世界に生きる彼女を想うのは、それを否定し、自分が自分でなくなってしまうと考えた。考えていた筈だ。

 

結局、男はアリシアへの感情を否定出来ずにいた。

もう彼は、ユリウス・ライヒハートだったのだから。嘗て野心を抱き、世界が自分を中心に回っていると信じていた尊大な愚物は、もう何処にも居なくなってしまった。

残ったのは、よりちっぽけな。一人の女性への愛しさに自分自身が怯える、どうしようもなく矮小な武芸者が居るだけだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グレンダンでの戦いは過酷だ。

他所の都市で暮らした経験のないユリウスは比べる尺度を持ち合わせてはいないが、これが異常だということは確かだと言える。

……汚染獣戦を何度ユリウスが生き延びようとも、毎回必ず死者は出る。それは未成年の武芸者見習いだった事もあれば、初老の熟練武芸者だった事もある。何度も大会で見掛けた名門流派の師範代が、ユリウスの目の前で汚染獣に食い千切られたなんて事もあった。

 

そんな戦いの中で、ユリウスは遂に浅くはない怪我を負う事となった。汚染物質の蔓延する都市外での戦いでは防護スーツの破損がそのまま生命の危機に繋がる為、生き残る事と無傷で生還する事は殆ど同義である。

ユリウスが汚染物質に身を焼かれたのは、これが初めてだった。今までの無謀な戦歴を思えば奇跡的とも言える結果ではあったが、汚染物質に焼けただれて行く己の身体にとうとう自分の番が来たのかと思えば、その恐怖は言葉に出来ない程の物であった。

 

「……病院を抜け出したと聞いたので、きっと軽い怪我だと安心していたのに。ご自愛下さい、ユリウス様」

「一身上の都合だ。少なくとも、自分では賢明な判断だったと思っているがね」

 

身元が割れている医療機関ではただでさえ人の視線が気になると言うのに、こんな目立つ見舞い客が来たらどうなっていたかは想像したくない。

更に言えば、ユリウスが怪我で療養しようが狼面衆は休暇をくれはしない。奴らときたら実力ではどうにもならない天剣たちは敢えて無視して、まだマシなユリウスの方を目の敵にしている節が在る。

ユリウスが入院などしていれば、狼面衆は喜んで襲撃の頻度を増やすだろう。その度に病院から脱走していてはユリウスとしても予想出来る面倒事が数え切れない程になるので、初めから自宅で待機していた方が幾分やり易い。

 

「……分かりました。ユリウス様が病院では不都合と仰るのでしたら、具合が良くなるまで私が毎日お世話をしに来させて頂きます」

「は……? いや待て、それは幾らなんでも不味いだろう」

「私は問題ありませんよ。週に数回が毎日に変わっても、今更ですから……ああ、叔父様なら平気ですよ。ユリウス様の所に行くと言っても、何時も何も言わずお見送りして下さりますし」

 

料理は得意なので任せて下さいと胸を張るアリシアに、今度こそ年貢の収め時が来たのだと思ってしまった。

思えば、彼女は周到だった。何時の間にか理由が無くとも訪れるのが当たり前になっていて、その頻度も徐々に違和感を感じさせずに増えていった。

カルヴァーンの了承が得られているのであれば、親族は彼に逆らいはしないだろう。外堀も確実に埋めていたという事だ。

そして今度はユリウスの身を案じて毎日食事を作りに来ると言う。それだけは駄目だった。

理解して受け入れてきた孤独感は、彼女が家に来てから徐々に癒されている。もう、ユリウスにはアリシアを拒むことは出来ないだろう。だから、これは彼女を突き放す最後の機会だ。

 

「アリシア、もう君はここに来るな。叔父上が許そうとも、それは在ってはならない事だ」

「……お家の事情は、重々承知しています。けれど誤解していますわ、ユリウス様が思うほど、多くの人は貴方の事を悪くなど思ってはいないのですから」

 

そうではないと、ユリウスは言葉が喉に閊えて黙ってしまった。

そもそも、アリシアを巻き込んだのは自分なのだ。彼女がユリウスへと恩を感じたあの一件は、狼面衆がユリウスを謀殺するために仕組んだ罠だったのだから。

アリシアがユリウスに感謝を抱くのも、好意を向けるのも、全てユリウスの身から出た錆であり誤解が生んだ物だ。

 

「狼面衆だ、奴らの名は」

「ユリウス、様?」

「奴らは仮面を使い、人を操れる。その起源を辿れば、歴史は定かでないが恐らくグレンダン三王家よりも以前の――――」

 

アリシアの顔を見ようとはせず、ユリウスは一人で語り出した。

一度言葉に出してしまえば、自分でも信じられないくらい濁流の様に言いたい事が溢れてきた。

これで良い。これで少なくとも、彼女がここに来る理由は無くなる。彼女がユリウスにそうだと思わせてきた理由は、これで無くなるのだ。

 

そして……アリシアはそっと、ユリウスの手を両手で包み込んだ。

 

「もう、良いのです。ユリウス様」

「……だが、君は知りたかった筈だ。今はどうあれ、初めは知ろうとしていた筈だ」

「そうですね。でも……もう、良いんです。知りたく、なくなってしまいました」

 

自分の手を握るそのか細い手を、握り返したい衝動をぐっと堪えた。

アリシアの顔を見れば、彼女への愛しさと罪悪感が胸の中でせめぎ合い、どうにかなってしまいそうだった。

きっとアリシアは、そんなユリウスの葛藤など全て分かっているのだろう。アリシアは、初めてこの家に来た時からずっとそうだった。ユリウスがどんなに言葉で偽ろうとも、その内面を見通してきた。

 

「私は君が好意を向けてくれるに値する様な人間ではない。愚劣で、矮小な男だ」

「そうですね。ユリウス様は、意地悪な方です。私がこんなにも貴方をお慕いしていると伝えようとしているのに、すぐにそっぽを向いて無視しようとするんですから」

「……私は、周囲が言うほど優れた武芸者ではない。この怪我を負った時だって、怖くて泣きそうだった。何でこんな事をしているのかと自分に問いかけたくらいだ」

「そうですね。ユリウス様は、臆病な方です。叔父様に怯えて、私にも怯えて……だから、貴方に受け入れられ始めていると分かった時、すごく嬉しかった」

 

アリシアの手は冷たかった。ひんやりとした心地よさが、熱に浮かされた心を落ち着かせてくれる様な気がした。

ここは、確かに夢の世界だ。フィクションの中にしかある筈のない、自分の頭の中にしか無いはずの世界だった。

けれど今この瞬間にユリウスが感じている暖かさは、現実に確かに存在しているのだ。

 

「そんな貴方だったから、愛しいと思った。傍に居て、癒して差し上げたいと思ったんです。これは、いけない事でしょうか?」

「……分からないよ、俺には」

 

でも、守りたいと思った。

戦う理由もないままに命を懸けてきた。でも、本当はその理由が欲しかったのだから。

自分がこの世界の人間になってもいいのだと、誰かに許されたかった。けれど臆病な自分は、それに自分から手を伸ばす事にずっと怯えていた。

 

「分からない。でも、俺は君が好きだよ、アリシア。ずっと傷つけて、これからも辛い想いをさせると思う。それでも」

「ええ、愛していますユリウス様。一緒に、苦労をしましょうね」

「……そうだね。まず、君の叔父上に殺される事を覚悟しようかな」

 

目の端に光る物を浮かべて胸へと飛び込んできたアリシアを、しっかりと受け止めた。

もう、逃げなくてもいいのだ。もう彼は、ユリウス・ライヒハートなのだから。

この瞬間に初めて。異世界に迷い込んだ日本人の男は、確かにこの世界の現実に生きる人間となったのだった。

 

 

 




げ、原作を……原作要素をくれえぇぇぇぇ……! オリキャラ出突っ張りとか、普通にそっとじされてそうで実に不安です。
アリシアは駄目男好きです。彼女と言うよりオリ主が凄まじくチョロいのですが、コミュ障の童貞野郎なんてこんなもんです。
最大の幸せは、オリ主自身は自分が攻略された側だと気づいてない事だと思ってます、多分。







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04.見続けた夢の果てに、生まれた花

ユリウスとアリシアがお互いの心を明かしてから少しして、二人は正式に籍を入れる事になった。

結婚の承諾を得るため、アリシアの後見人であるカルヴァーンの元へと向かった時のユリウス心境は、それはもう筆舌に尽くし難い物だっただろう。

何せ「娘さんを僕に下さい」などと言った物なら、次の瞬間に返答代わりの拳で不埒者を吹き飛ばし、そのままエアフィルターをブチ抜いて都市外追放を物理的にやってしまいそうな御人が相手だ。

鬼気迫る様相で「一応、遺書も用意しておくか?」とユリウスが聞き、アリシアが朗らかな笑顔で「要りませんよ」と答えたやり取りも、あながち冗談とも取れないのかもしれなかった。

ミッドノットの屋敷に通されたユリウスが、カルヴァーンの書斎で執務机の椅子に座る彼の前に立たされた時、蛇に睨まれた蛙とはこの事かと実感するほど緊張するのであった。

 

「ご拝謁を賜り光栄に存じます、ゲオルディウス卿。お忙しい中、不肖の我が身の願いを聞き時間を割いて頂いた事、深く感謝致します」

「うむ。面を上げたまえ」

 

深々と腰を折り、目の前の絶対的強者に頭を下げるユリウスの背は既に冷や汗が流れ落ちていた。

武芸者としての正装である道着の上に、公の場でも使用する外套をガッチリと着込んだカルヴァーンから発せられるプレッシャーは尋常ではない。

もう今すぐにでも土下座で謝罪して、何も無かったので帰らせて下さいと言いたくなる恐ろしさだ。

そんな顔面蒼白な心境のユリウスの横で、アリシアが堪えかねた様に笑い声を上げた。

 

「客人の前ではしたないぞ、アリシア」

「くすくす……ごめんなさい、叔父様。だってユリウス様が叔父様を相手に、陛下を前にしたみたいに畏まってしまっているんですから、可笑しくって」

 

アリシアとカルヴァーンの姿は、叔父と姪というより仲の良い父娘の様だとユリウスは感じた。

厳格で私生活に不器用な父親と、美しく誰からも愛される娘。尤もアリシアにとってはそうであろうとも、ユリウスにとっては女王だろうが天剣授受者だろうか遥か雲の上の人物である事に変わりはないのだ。

恐れ多くも自分とカルヴァーンを、さも自然体で同じように扱うアリシアに、ユリウスはヒヤヒヤするしかないのであった。

 

「それで叔父様。私たち、結婚する事になったんですよ」

「――――それは、本当なのかね? ユリウス殿」

 

ニコニコと嬉しそうなアリシアが特大の爆弾を放り投げた事で、ユリウスは今度こそ完全に血の気が引いてしまった。

ミシリ、と部屋の何処かが軋んだ音を立てたが、老朽化のせいでは決してないだろう。何故ならユリウスが受けている圧力は実際に気のせいではないのだから。

縺れそうになる舌を必死に動かし、ユリウスはせめて男としての体裁だけは保とうと奮起するのであった。

 

「はっ! 恐れ多くも、卿の姪御様とは結婚を前提にお付き合いをさせて頂いております。今日は遅ばせながらも、そのご報告とお許しを頂きたく、お目通りを願った次第であります」

「そうまで仰々しくならずともよい。貴公と姪の関係は以前より聞き及んでいる」

「……卿のご家名に泥を塗ったにも関わらず、身の程を弁えぬ願いとは承知しております。しかし、どうか――――」

「貴公の功績は過去の不名誉を拭って余りある物だと私は思っている。これから妻を娶ろうとする男が、不必要に己を卑下するのは感心せん」

「き、恐縮です……」

 

早速目上の人物からお叱りを受けたユリウスは小さくなるしかない。けれどライヒハートの悪名は天剣授受者の寛大さを以て水に流す、というカルヴァーンお墨付きにホッと胸を撫で下ろした。

彼は古臭くお堅い人物だが、公正さという物に対しても地位相応のそれを兼ね備えているのだろう。ライヒハート家が形骸化させた物とは、その役目だけではない。本来果たすべき責務は誰にも求められず、暗部であるが故への悪感情を時と共に風化しきってしまっている。

結局のところ今のライヒハート家を偏見無しで見てみれば、数百年以上も鳴かず飛ばずだったド底辺武芸者一門という事でしかないのだろう。少なくとも、カルヴァーンにとっては。

 

カルヴァーンはユリウスから視線を外し、アリシアを見た。それに対しアリシアは、微笑みでその視線を受け止めていた。まるで、次にカルヴァーンが何を言うのか全て見通していると言わんばかりの様子で。

 

「それが、お前の望みか? アリシア」

「はい、叔父様。この人が良いんです。この人でなければ、駄目なんです」

「そうか……」

 

傍から聞く者には要領を得ない会話に違いなかったが、この二人の間にそれ以上の物は必要ないのだろう。

姪を見る叔父の瞳は、ほんの少しの憂いと困惑を孕んでいた。しかし、それが自分の身分による物ではないのだと、ユリウスは漠然と感じていた。

静かに目を閉じたカルヴァーンは一つ溜息を吐くと、意を決した様にもう一度アリシアを見た。

 

「幸せになりなさい、アリシア。彼と共に、な」

「ええ、きっと。ありがとうございます、叔父様」

 

心からの幸せそうな笑みを浮かべたアリシアは、そのままユリウスの腕を取った。

カルヴァーンからあっという間に得てしまった承諾は、彼女の信頼が成し得た結果だったのか。何れにせよ、アリシアが自分へそんな一途な想いを向けてくれるのが堪らなく嬉しかった。

これから彼女を守っていくのだと。彼女の想いへ応え、彼女が自分の想いに応えてくれるのだと思えば、それは何よりもの幸福だった。

 

「君は良い武芸者だ、ユリウス殿。ライヒハートが過去の名を完全に払拭出来るかは、君の腕と―――後を継ぐ、君達の子の成長に依るだろう。期待している」

「はい。ご期待に応えるべく、全身全霊を賭す所存であります」

 

愛娘を送り出す彼の言葉は、何処か寂しさを感じさせながらも、その夫への情が確かに存在していた。

その事実に、ユリウスの胸は熱くなる。アリシアと、彼女を愛し育てた偉大な叔父への感謝を抱き。二人への信頼に報いるため、己の全てを懸けるのだと決意を新たにするのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからの二人の生活は、質素でありながらもつつがなく、幸せに満ちた物だった。

ライヒハートの草臥れた屋敷で繰り返される、何が有る訳でもない平凡な日常。カルヴァーンは二人を気遣って使用人を手配してくれるとも言ったが、アリシアの希望で家事は全て彼女が請け負う事になっていた。

 

「せっかくの夫婦水入らずなんですから、ね?」

 

そう言ってはにかむ彼女を見れば、ユリウスとしても反対などする筈もなかった。アリシア一人に任せるには広い屋敷の管理を拙いながらにも手伝い、武芸一辺倒で来たが為に掃除もロクに出来ず、妙ちきりんな失敗などしてしまってアリシアから笑われたが、それも大切な時間だった。

何も無い日常。それがこんなにも尊い物だったのだと、ユリウスはアリシアから教えられたのだ。

 

以前ならば汚染獣遭遇の警報が聞こえた時点で我先にと戦場まで飛び出して行ったが、今では自分の限界を見極めて最低限の出撃に留めている。訓練にしても、気絶するまでやっていた頃からすれば在り得ないくらい穏やかな程度の物だけをこなしていた。

噂では「狂人もすっかり腑抜けた」だの「ミッドノットの女に狂人が骨抜きにされた」だのと言われているらしいが、殆どがアリシアを知る武芸者たちからのやっかみだったとか。

相変わらず人との関わりは希薄なままだが、多少なりともミッドノット家と繋がった事で自分への噂話が聞こえてくるのは、煩わしいやら恥ずかしいやらだ。

けれど、もうユリウスは以前の様な無謀をする気には到底なれなかった。アリシアを悲しませる事もそうだし、今の幸せを守ることが何より大切だと思っていたからだ。

それともう一つ。ユリウスが戦いから遠ざかったのには、大きな理由があったのだ。

 

「―――お父様、武芸を教えてください」

「ああ、良いとも。リリウム」

 

ユリウスの腰よりも低い身長の幼い女の子。

彼女はユリウスにとって世界で一番、それこそアリシアと同じくらい大切な存在だ。この子の為ならば、もう自分の武芸者としての道はここで終わっても構わないとまで思っている。

何より大事な、自分の娘。指導をせがみ、自分の服の裾を引っ張る娘の手を取り、ユリウスはその小さな手を引いて練武館への道を歩いて行くのであった。

 

 

 

 

 

リリウム・ライヒハート。それがユリウスとアリシアとの間に生まれた少女の名前だった。

見た目は、本当にアリシアそっくりだった。月明かりの様に淡く輝く金髪に、光に反射してキラリと揺れるサファイアの瞳。アリシアの子供の頃がこうだったと言われれば、そのまま納得出来そうな程よく似ている。

だがリリウムには経脈があり、そこだけはアリシアと違っている。愛らしい容姿に加え、自分の血が確かに継がれている事が目に取れる様子が、ユリウスには一層愛おしかった。

 

「リリウムは、武芸が好きか?」

「……ほんとは、あまり。練習は嫌いでないですけど、お母様が寂しがりますから」

 

年齢にしてまだ四歳だが、そうは思えないほど利発な態度はアリシアの教育の賜物だった。

ユリウスは娘が可愛くて仕方ないのだが、そこは男親の悲しい性なのか。どうにも娘は父よりも母が好きな様だった。

貴族の子女が受けるべき教育など、ユリウスがからっきしなのは言うまでもなく。教養に勉強に芸術にと、すっかりアリシアに娘を独占されてしまったユリウスが、最後の砦として持ち出したのが武芸なのであった。

これだけは自分でも教えられると、必死でリリウムの興味を惹こうと四苦八苦した末、アリシアからの苦笑混じりな「お父様に教えて頂きなさい」という口添えもあって、何とか娘との時間を手に入れたのである。

 

「でも、お母様を守れるくらい上手くなりたいです。大きくなったら、私もお父様みたく強くなれますか?」

「ああ、勿論だ。リリウムなら私よりもずっと強くなって、すぐに立派な武芸者だと皆から褒められるさ」

「ほんとですか? 大叔父様と同じくらい、強くなれるでしょうか」

「ふふ、どうかな。それは今度会った時、大叔父様に聞いてみると良いだろう」

 

大姪を誰よりも溺愛する、この都市最高の武芸者の顔が目に浮かぶ。生まれたばかりのリリウムを連れ、カルヴァーンへ名付け親になってくれと頼みに行った時は、それはもう凄い状況だった。

アリシアから赤ん坊を抱かされ、傷付けぬ様にと恐る恐る扱う天剣授受者の表情は、彼を良く知るアリシアですら目を丸くする程だらしなく緩んでしまっていたのだ。

その後、出産祝いだと天蓋付きの馬鹿でかい乳児用ベッドを何を思ったか自分で担いで屋敷までやって来たのを始めに、リリウムが大きくなってくれば山ほどの人形や菓子を抱えて頻繁に訪れるのであった。

そんな「ゲオルディウス卿ご乱心」と言われるまでになっていたカルヴァーンだったが、余りにも頻繁かつ唐突に外出が繰り返され、とうとう王宮からの使いが来るのも忘れて大姪と戯れていたという大失態を犯してしまう。

結果、カルヴァーンは女王の側近であるエアリフォス卿ことカナリス、三王家が一つロンスマイア家の当主にして天剣の元締めでもあるノイエラン卿ことティグリス、そして絶対至上の女王陛下に死ぬほど怒られたのだとか。

 

おかげで三日に一度は姪夫婦の家に訪れていたカルヴァーンも、今では月に数回自宅にやってくる大姪を今か今かと待ち侘びる程の自粛を強いられてしまっている。

もっともその理由の一つには、一連のあらましを聞いたアリシアに「自重なさって下さい、叔父様」と、背筋が凍る様な冷たい笑みと声音で言われた事も関係しているのだろうが。

家族水入らずを邪魔され続けた妻の怒りは、それこそ怒髪天を衝く勢いなのであった。正直、ユリウスが見たアリシアの中であれを越える恐ろしさは一度も無かったのは確実である。

 

 

無骨な訓練用の大鎌を一心に振るうリリウムの姿を、練武館の壁にもたれ掛かりながらユリウスは見ていた。

娘が日々健やかに成長している姿は、本当に尊い物だ。かつて自分が父から武芸を学んでいた時、父も似た様な感情を抱いていたのかと考えると、胸が暖かくなってくる。

そんな感慨に浸っていたユリウスがふと近づく気配に気付けば、そこにはリリウムに気付かれない様にと静かにやって来たアリシアが立っていた。

 

「楽しそうですね、ユリウス様。あの子は真面目にやっていますか?」

「ああ、あの物覚えの良さは君に似たな。親の贔屓目かもしれないが、あの子の物事を捉える事への繊細さは得難いセンスだ。きっと良い武芸者になる」

「ふふ、気が早過ぎますわ。リリウムの歳では本格的な訓練もまだ先でしょうに」

「それでも、期待してしまうのが親心さ。私の父も、多分そうだった」

 

似合っていないであろう自分の親としての物言いに、アリシアはやはりクスクスと笑っていた。

しかし、それも心地良かった。ユリウスは変わった、余裕の無かった昔とは違い、今でなら将来の事も考えられる。

漠然としかでないが、一人前の武芸者となった娘とそれを支える自分。その隣に妻が居てくれれば、未来で起きるどんな困難も乗り越えられる気がした。

 

「でも少しだけ、嫉妬してしまいますね」

「リリウムの事か? 君には悪いと思うが、こうでもしないと君にべったりだからな。相手にされない父親の哀れさに免じて、多めに見てくれると助かる」

「いえ……ユリウス様にではなくて、リリウムにです。私はユリウス様に好かれようとあんなに苦労したのに、あの子は生まれた時からユリウス様に大事にされていて、羨ましくなってしまいます」

 

悪戯っぽく瞳を輝かせるアリシアに、気不味気に頬を掻いて誤魔化すしかなかった。今になって思えば、あの頃の自分はどうかしていたのだ。

自分は架空の世界にいる、現実が別に在るのだと忘れてはいけない。そう思い込もうと必死になる余りに、自分自身が悪い夢に囚われて居るのに全く気が付いていなかった。

人並みの幸せなど、誰の足元にも落ちている。それを拾い上げるにはほんの少しの勇気が必要かもしれなかったが、それ自体が誰かに責められる物でも、自らに禁じる様な物でもないのだ。

頑なに傷つくのを恐れていたユリウスを、アリシアが自分が傷つくのも構わず受け入れようとしてくれなければ、自分はそんな事にも気づかずに何処かで果てていたのだろうとユリウスは思う。

ユリウスは思わず、アリシアの肩を引き抱き寄せた。感謝の念が胸から溢れ、そうせずにはいられなかった。

 

「君が産んでくれたあの子が大事なのは当然だ。この世で一番大切な……俺と君の、宝物だ」

「……嬉しいです、ユリウス様。貴方と一緒になれたのが私で、本当に幸せです」

 

ユリウスは変わった。けれど、アリシアは何一つ変わっていなかった。

あの時、全てを拒んでいた自分を受け入れてくれた、強く優しい彼女のままだ。リリウムが生まれ、愛情を向ける相手が二人に増えようとも、アリシアは一途にユリウスの想いに応え続けてくれている。

きっと、これからも彼女は変わらないのだろう。なら、自分は変わり続けよう。一人の男として、父親として、彼女が愛するに相応しい人間を目指し続けよう。

多分それこそが、ユリウスという人間の生き様として、それ以上を望めない程の物だろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が降っていた。

空には暗雲が立ち込め、時刻が日中を指しているのに関わらず黄昏時の様な薄暗さが辺りを包んでいる。

グレンダンの共同墓地では、もう今年何度目になるかという葬儀が執り行われていた。

―――グレンダンを襲った、未曾有の食糧危機。

"原作"を知るユリウスにとって、それは何れ来ると分かっていた厄災であり、同時に来るべき時がやって来たのだと知らせる狼煙であった筈だ。

それを待ち望んでいた過去の自分との決別であり、未来を行く自分を今一度見定め直す。これはそんな儀式になる筈だった。

けれど、ユリウスには何も感じられなかった。そうする意味は、もう何処にも失くなってしまった。

 

妻の名が―――アリシアの名が刻まれた墓石は物言わず、ただユリウスに空虚な現実を突きつけてくるだけだった。

 

 

別れの時は唐突で、余りにもあっけなかった。

食糧危機によって困窮した市民の生活は、都市に広く病を伝染させた。多くの者が苦しみ、多くの命を奪った病は、容易くアリシアの身を蝕んだ。、

回復の見立てはあった、死ぬだなんて誰も考えていなかった。だが、結局アリシアは帰らぬ人になってしまった。彼女の母親と同じ様な最期が、まるで運命の様にアリシアを奪っていった。

石に掘られた彼女の名前を、ユリウスはそっとなぞった。雨に濡れ冷たく、何物をも受け入れぬ石肌は無機質な触感しか与えない。

この下にアリシアが眠っているだなんて、とても信じられなかった。

 

「ユリウス……」

 

掛けられた声に、意思もなく機械的にユリウスは振り返った。

今はアリシアとの別れを邪魔されたくはなかった。この現実を受け入れる為に、今だけは思い出の中アリシアを見詰めていたかった。

けれどユリウスには、その声の持ち主だけは無視する事が出来なかった。

 

「……本日はご参列、誠に感謝致します。カルヴァーン様にお見送り頂け、妻も安らかに眠れる事でしょう」

「もういいユリウス、客は残らず帰った。今の私は天剣授受者ではなく、お前の妻の叔父だ」

 

天剣授受者の象徴である白の装飾を一切廃し、黒の喪服に身を包んだカルヴァーン。

何時にも増して硬い表情からは、何かしらの感情を察する事は出来なかった。しかし微かに揺れる瞳に、ユリウスを心配する色が確かにあった。

その気遣いにユリウスは何と返せばいいのか分からなかった。もう決して短いとは言えない付き合いになるカルヴァーンへの距離感は、未だに掴みきれていない。

天剣授受者だから、アリシアの叔父だから。そうやって何処か余所余所しさを残しながらも、目を掛け続けてくれたのは彼の懐の大きさ故か。

或いは姪と大姪のついで程度と、割り切られた関係だったのかもしれないが。

 

「リリウムは、まだ眠っているのか?」

「はい。ですが、もう意識もはっきりする頃でしょう。以前の剄脈拡張の時と症状は同じですし、医師も間違い無いと判断しました」

「これで三度目か……あの子は素晴らしい武芸者になる。何れは、陛下の剣として我が隣に立つ事も夢ではあるまい」

 

だから父親であるお前が不抜けていてはどうする。そんなカルヴァーンの言葉に、ユリウスは返事をする事が出来なかった。

リリウムは紛う事なき天才であった。まだ剄技も使わせられない幼少の頃から、その才覚の片鱗を垣間見る事は出来た。

一度目の剄脈拡張で飛躍的に剄量を伸ばし、二度目になれば既にユリウスを圧倒するまでの剄量に届いていた。

一度教えた技を瞬く間に自分の物とし、時にはユリウスでさえ目を奪われる様な斬撃を放つ。早熟な娘の成長に寂しさを感じはしたが、親としても師としても、リリウムの才能はユリウスにとって無上の誇りであった。

何時か来る未来での決戦に置いて、リリウムは替えの効かない戦力としてグレンダンに貢献するだろうと。娘の大舞台に気の早い期待もしていた。

それが幸運なのか不運なのか、もう今では分からない。守る者を亡くしたユリウスと、最愛の母を失ったリリウム。未来を知る凡夫と、有り余る才能を向ける先を未だ知らぬ娘。自分たちにとって何が正解で、何が幸せなのか。武力しか持ち得ぬライヒハートの系譜を導いてくれる存在を失った意味は、余りにも大きかった。

 

「……カルヴァーン様、私をお恨みですか?」

 

何か意識をして出た言葉ではない。胸の内に巣食った言葉に出来ない感情が、堰を切って流れた意味の無い物でしかなかった。

罪悪感、悔恨、損失感……大き過ぎる物を失い、思考をも鈍らせる虚脱感に苛まれる今であってこそ、天上人に働ける無礼であった。

カルヴァーンはじっとユリウスを見つめ、その口を真一文字の結んだままであった。

 

「私は妻を守れなかった。貴方が誰より愛した姪を、貴方が大切にするリリウムの母親を見殺しにした」

「……ユリウス、自分を責めるな。あれが逝ってしまったのは天命だ。避けられ得ぬ、運命だったのだ」

「私は、そんな言葉が聞きたいのではない……! お前などにアリシアをやらねば良かったと、こんな父親だけを残されてリリウムが憐れだと! 今すぐ此処で切り殺してやりたいと、何故本心を仰ってはくれないのですかッ!!」

 

一度吐き出した感情は止めることが出来ず、激流の様にユリウスの胸から喉を流れ出て行った。

この世界に来てから初めて、今までに一度も無かった思える程の激情。八つ当たりだと分かっていても、この慟哭を止める事が出来なかった。

ユリウスはカルヴァーンに責められたかった。言葉の暴力によって傷付けられ、触れる事すら叶わぬ圧倒的な武力で痛めつけてくれれば、まだ終わっていないと思える気がしていた。

アリシアの死が、過ぎてしまった覆しようがない物だと。カルヴァーンがアリシアを思い出にしてしまい、残された自分を哀れめば、それが全て認められてしまうとユリウスは思ってしまった。

 

取り繕い様の無い非礼を浴びせかけられた天剣授受者は、ユリウスが期待したような罵声を上げる事はなかった。

ただその深い瞳に悲しみを湛え、何かを振り払う様に首を振っただけであった。

 

「ユリウス、死者に囚われるな。あれの妄執に、お前は引き摺り込まれ様としている」

「なに、を……言っておられるのですか……?」

 

カルヴァーンの言った意味が、理解出来なかった。理解出来ようとも、それを脳が拒んでいた。

アリシアを何より大切にしていたカルヴァーンが、アリシアを蔑む様な物言いをするなどと。これが自分の前で言われた事でなければ到底信じる事など出来なかった筈だ。

体中の血液がカッと熱を持ち、ユリウスはカルヴァーンを睨み付けていた。しかし、カルヴァーンはその様子に眉一つ動かさずにいた。

 

「仰る意図を、掴みかねます。それは妻を、アシリアを侮辱しているということなのですか……!?」

「……今のお前に、これを言うのが酷だとは分かっている。だが、あれは普通の娘ではなかった。私が姪を引き取り自分の直ぐ傍に置いたのは、その愛らしさと純粋さに惹かれたからだったのは確かだ。しかし一方で、あれは酷く危うい在り方をしていた。その行く末を見守り、道を踏み外さぬ為に見張り続けようと……いや、それも今となっては言い訳にしかならんのか」

 

一人独白する様に空を見上げたカルヴァーンの姿が、今は酷く小さく見えた。

女王の剣、汚染獣を狩り尽くす者。目の前に居るのはそんな絶対者ではなく、過去に後悔の念を抱く一人の男でしかなかった。

その姿にユリウスは困惑し、舌が縺れて何も言えなくなってしまっていた。

 

「あれは何者にも等しく笑顔を向けながら、何かに執着する事は一度としてなかった。誰に好意を向けられようと応えはせず、あれが誰かに興味を持つ事もなかった。時には叔父である私ですら、その美しい容姿に情欲を抱く男どもと同程度の認識しかされていないのではと、埒もない不安に駆られた事もある。あれの瞳は暖かくありながら、その暖かさを向けるべき相手を持たない、酷く空虚で無機質な物だった。だが、そんな時に現れたのが……お前だった」

「……私が貴方の屋敷へ侵入したのは、あくまで過失でしかありませんでした」

「アリシアがお前に何を見たかは本人しか知り得ぬ事であり、理解も出来ない事なのだろう。初めて他者への愛情を抱いた姪は、お前を手に入れようと必死だった様に見えた。その執着は何時か覚えた危うさを孕んだ物であり……だが、あれが人並みの幸せを掴めるならばと、私はお前を生贄にした。何時かアリシアの執念がお前を縛り上げ、武芸者として有望であったお前の未来を閉ざすのではないかと予感していながら、それを見過ごした。事実、リリウムが生まれてからのお前は完全に牙を抜かれ、過去の闇から抜け出しつつある家の事を放棄しようとしていた筈だ」

「それが、許されない事であると? 私は貴方が目を掛ける程の男ではなかった、ならばこそと妻と娘の幸せを願った事が、悪であったと言うのですか」

 

元よりユリウスは自身の名誉や家の繁栄を望んで戦っていた訳ではない。分不相応な願いを捨ててからは、ただ生きる為にと。その隣でアリシアが笑っていてくれれば良いと、人として当たり前の物の為に生きて行こうとしていた。

それを否定するカルヴァーンに対する怒りは、寸前の所で押し留められている。もし彼が本気でユリウスを心配し、その先を案じてくれていると分からなければ、返り討ちを覚悟で錬金鋼を抜いていたかもしれない。

 

「全ては、過ぎた事だ。だがお前にはリリウムが居る。父親として、武芸の師として、お前は娘と共に未来を歩まねばならん。アリシアを忘れろとは言わん、しかし囚われるな。過去に生きようとする武芸者に待つのは死だけだ、ユリウス。あの子の才能は人としての道を外れさせる危険を孕んでいる、それを止める楔に成り得る者はもうお前しか居ないのだ」

 

力無く言葉を切ったカルヴァーンから、ユリウスは目を逸した。

今は、時間が欲しかった。散々に掻き乱れ、熱を持った頭はまともな思考をすることを放棄している。

自分の未来、娘の未来、それが優先されるべき物であると分かっていても、カルヴァーンの言葉を受け入れる冷静さは今のユリウスには無かった。

過去に生きる、それが何故悪いのか。もう取り戻せないアリシアとの思い出を胸に、自分はこれから一生過ごして行くのだろう。

その寂しさ悲しみに、枯れたと思っていた涙が浮かんできて、ユリウスはカルヴァーンに背を向けて歩き出した。

カルヴァーンはもう何も言わなかった。流れる涙は拭わない、これが最後だと、己の胸に刻み込もう。

もうユリウスの涙を拭ってくれる者はいないのだから。たった一つ残った娘の涙を拭う者は、もうユリウスしかいないのだから。

 

 

 

 

 

 

葬儀から戻って門を潜ったライヒハート邸は静かだった。

アリシアが暮らす様になってからは何時も暖かだったこの家は、ユリウス一人の時に戻ってしまったかの様に暗鬱とした雰囲気に包まれていた。

手入れされた筈の庭は、嘗て荒れ果てていた時よりも鬱蒼としている様にさえ感じる。

そんな様子を尻目に、ユリウスは自室でまず始めに服を着替えた。黒一色も喪服から、何時も着ている武芸者の道着へと。

腰の剣帯に錬金鋼を差して、目指すのは娘が休んでいる私室だ。

 

「お父様。お母様の、葬儀は……?」

「終わったよ。静かな、寝顔だった……きっと天国で私達を見守ってくれているだろう」

 

もう散々泣き疲れた後だという様に目を腫らしたリリウムを抱きしめた。

小さな身体だった。もうユリウスでは敵わないかもしれない程の才能を持ちながら、リリウムは今を生きるのに懸命な子供でしかなかった。

これからは彼女の未来での不安を払うのがユリウスの仕事であり、その才能を正しく導くのが役目だった。

ここに来て、ユリウスは一つの決意を固めていた。今一度、逃げるのを止めるのだと。人並みの幸せに甘んじ、果たすべき役目も果たせずいた今までとは決別しなければならない。来るべき時への為に自分自身にやれる事があるならば、それを実行しなければならないのだから。

 

「リリウム、私は門の前で待つ。直ぐに着替えて、錬金鋼を持って来なさい」

「お父、様?」

「お前に、全てを教える時が来た。我々武芸者が本当は何と戦っているのか、何の為に生まれたのか。私とアリシアの間にお前を授かった事も、其処に意味が在る」

 

意図して最低限の干渉に留めていた狼面衆との休戦期間も、今日で終わりだ。

もう奴らの思い通りになど何一つさせはしない。イグナシスの塵である奴らを食い潰し、リリウムの成長の糧としてやる。アリシアの生まれ育った都市に蔓延る害虫どもを根絶やしにするまで、もう止まる気はない。

ライヒハートが、裁く。本来定められた意味に用はない、リリウムの才覚は世界の敵の首を刎ねるに足る物だとユリウスは確信している。

悲しみは時間が癒してくれる、寂しさは戦いが薄れさせてくれる。親のエゴを押し付ける罪悪感に胸は痛むが、リリウムが生きる未来の為にそれは必要だった。

 

「行くぞ、リリウム。アリシアが愛したこの世界を、私たちが守るんだ」

 

こうして大鎌を携えた父娘は二人、夜の闇に包まれたグレンダンの空を駆け抜ける。

今夜を、この世界に於ける新たな伝説の幕開けにしよう。リグザリオの計画にも、原作者の筋書きにも載らぬ、誰に望まれる訳でもない物語。

創生に関わる者たちの思惑など、最早知った事ではない。女王が天剣を以って大厄を迎え討つのであれば、自分たちはその影より忍び寄って真の敵を狩り取るだけだ。

アイレインたち異民は、天剣授受者がナノセルロイドを討ち漏らした時の保険とでも思っておけば良い。本来彼らの因縁は、旧世界が滅びたと同時に殆どが清算された様な物なのだから。

あるいは避け様の無いナノセルロイドとの戦いも、成長したリリウムが天剣と肩を並べる事で遥かに容易な物となり、本当に旧世界の異民たちを蚊帳の外に置く事になるやもしれないのだが。

アントーク家の老人などは論外だ。敵の全容を見据えられず、策を弄して調律者を気取る愚か者に、何が成せるという物か。

 

「我々で、イグナシスの遺物を叩く。ディクセリオ・マスケインも、強欲都市の廃貴族も、その生まれた意味も成せぬうちに消し去ってやる」

 

故に今は雌伏の時だ。時が来れば、幾重もの運命は一つの場所へと集約して行くのだから。

運命の地、学園都市ツェルニ。或いは自分たちが生まれるのがもっと早ければ、ディクセリオの動向をシュナイバルに掌握されるより先にツェルニで全てを終わらせられていたのかもしれない。しかしそれも過ぎた事だ。

アイレインとリグザリオ、そしてニルフィリアを出し抜く用意がユリウスには有る。イグナシスの悪足掻きから始まる茶番劇の顛末を知る転生者の知識が、それを可能とするのだ。

己の頭の中にしか無い、有り得た筈の結末。そんな不確かな物を信じ、在るべき筋書きをなぞらせる事に腐心する事に意味など無い。ならばこそ、全てに幕を引くのはこの手であるべきだ。

 

「物語の筋書きを定める脚本家は、私だけで良い。真の敵を討つ英雄はリリウム、お前だけで良い」

「お供致します。お父様の望む運命の先に、お母様の願った未来が在ると信じて」

 

まずはグレンダンに潜み、来る筈もない機を窺う狼面衆どもを端から潰して行く。

煩わしいだけの羽虫だとしても、あれはあれでイグナシス勢力の先遣隊としての最低限の役割を担っているのだ。

奴等を追い続けた先には、必ずあの男がいる。憐れむべき道化にして全ての災厄の集約点、イグナシスの写し身にして討たれるべき最後の敵、ディクセリオが。

己の生まれた意味を知らず、自らに内包された因子が惹かれるままにイグナシスの塵と戦い続けるディクセリオは、電子精霊の都市間ネットワークである『縁』システムの一部の制御権を得た事で、各地で暗躍する狼面衆の討伐のため世界を転々としている。

都市と都市とを自由に行き来するディクセリオと直接接触出来る可能性は限りなくゼロに近い。だが行動指針を理解した上で間接的に遭逢を狙えば、その確立は飛躍的に上昇する。

運命の時が来るより先に、彼らとは何かと因縁深いグレンダンでディクセリオと遭遇出来れば御の字。仮に出来なくとも、出現を予想出来ている数度の機会に賭けるだけだ。

廃貴族ヴェルゼンハイムが完全な姿となって顕現するより先に、依り代であるディクセリオを消滅させる。それが唯一無二、最善の一手だ。

 

「獄炎の餓狼と、その担い手であるマスケイン家の末男。憶えておけ、お前の討つべき敵を奴らはそう呼ぶ」

「……私が、討つべき物」

 

転生者の持つ神の視点を、そのまま娘に教える理由は無い。

リリウムもまた、このレギオス世界に生れ落ちた登場人物の一人であればそれで良い。盤上の駒を動かし、他の打ち手すらを駒に落とし込む存在は、ユリウス・ライヒハート以外に必要無い。称えられるべき英雄に、舞台の主演に雑念は無用だ。

 

――――踊れ、リリウム。この世界で誰よりも貴く、尊く。この父が、舞台の最も輝かしい場所へとお前導いてやろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからの狼面衆との戦いは、ユリウスの想い描く通りの物へと変わった。

戦場に佇む、一輪の可憐な花。それを迎え撃つは数だけが取り柄の有象無象。

白百合の少女から放たれる白刃の煌めきは塵どもを容易く斬り飛ばし、受けた狼面衆はそれが斬撃であったと認識する事も出来ないままに消し去られて行く。

それは振り下ろされる死神の鎌だった。元より並みの武芸者集団に劣る戦力しか抱えず、特異な能力と狡っからい悪知恵を頼りに戦術的勝利を捨て、広義での目的達成を指針にしていたのが狼面衆ではあった。しかし長い歴史の中でここまで一方的に蹂躙されるのは、恐らく数える程しかないであろう。

狼面衆が如何ほどの物量を以ってしてもリリウムには指一つ触れられず、実体を伴わない狼面衆を斬った所で返り血の一滴が飛ぶ事も有り得ない。故に、断罪の鎌を以って戦場を舞うリリウムの可憐さを穢す物は何一つ存在しない。

その光景は凄惨でありながら鋭利な美しさを醸し出していた。己の用意した舞台を舞う娘の姿を、ユリウスはただ静かに見守った。凡俗の身で天才の娘と肩を並べようとした所で、その宝石の如き輝きを燻らせるだけだと分かっているのだから。

 

「よもや此処までとは……! 古き血に眠る化け物を呼び起こしたか、狂人めッ!」

「大仰な口上を捲くし立てた所で、こうも脆弱では虚しさしか残らないでしょうに。余りに脆い、これでは木偶にも劣りましょう。己が身が木偶に在らず、知性ある者としての誇りがあるならば、せめて散り際だけは潔く在ろうと思えませんか?」

 

子供であるが故の純粋な疑問に狼面衆は何も返しはしなかった。

自負や矜持やなど、元より奴等に有りはしない。たった今連中の胸中を占めているのは、死を伴わない筈の斬撃に感じる恐怖から如何様にすれば逃れられるか、そんな所だろう。

相手を化け物と罵りながら、自らが弱者で在るが故の慈悲を期待せずにはいられない。何と無様か、何と身に憶えのある在り方か。

天剣授受者を初めて目にした時の自分の姿が狼面衆と重なり、堰を切った苛立ちを向ける先を求めてユリウスは己の錬金鋼を振るった。

既に総崩れしていた狼面衆たちは、ユリウスの一撃によって残らず消え去って行った。

 

「リリウム、奴らの問答に一々付き合うな。所詮は畜生だ、連中にまとも思考能力など残されてはいない。慈悲深さは美徳だが、温情の意味を履き違えるなよ」

「……申し訳ありません、お父様」

 

男親の粗野な物言いだが、元より一を聞いて十を知る聡い娘は、小さく頭を下げて理解を示した。

……それにしてもと、大鎌を握る己の腕を見た。今しがた放った狼面衆への斬撃は、自分自身で目を覆いたくなる様な無様な一撃だった。

鍛錬は死に急いでいた頃ほどではないにしても増やしている。武芸者の肉体的な衰えは年齢的にまだ先であるし、実際にまだ感じてはいない。しかし、ユリウスの腕は以前より確実に落ちていた。

 

同じ流派を使う本物の天才、リリウムの強さを目にした事で己の技が相対的に劣って見えるのだと自分を慰める事は出来る、だとしてもだ。ユリウスが感じている自身の実力の低下は、とても無視出来る程度の物ではなかった。

身体の一部とさえ思っていた大鎌から感じる違和感、イメージ通りに走らなくなった斬線、より精密さを求められる剄技は明らかに精細さを欠き、体術など思考よりもコンマ数秒も遅れる時がある。

何より致命的だったのは、ここまでの異常を自覚していながら何が原因か皆目検討も付いていない事だ。技術的な問題であれば流派の第一人者である自分が気付かない理由は無く、何よりリリウムが見逃す筈がない。病の兆しもなく、健康状態は至って平常そのものだ。

たとえユリウスがどれだけ衰えようとも、何れ来る未来に必要なのはリリウム一人。露払い役の一人が減った所でユリウスの計画に支障はない、それだけが救いであった。

 

「イグナシスと我々の間に和解の可能性は存在しない。それはアイレイン・ガーフィートとの戦いの時から変わらぬ不文律だ。惑うなリリウム、己が切っ先を向ける意味を見失うな。お前がお前のままで在る限り、ライヒハートの技は確実にお前の望む物を斬り続けるだろう。お前が斬ったその先に、我々の望む平穏が有る」

「……血塗られた道の先に在る平穏に、安息は残されていますか? 健やかなる世界の為に世界を仇敵の怨嗟で満たす事に、矛盾は存在しないのでしょうか」

「矛盾など、この世界はその成り立ちから既に孕んでしまっているさ。我々は変えるのではなく、ゼロに戻すのだ。創生から続く怨恨の根源を絶ち、イグナシスの意を汲む傀儡どもの最後の一つまでを叩く。それによって、この世界はようやく本当の意味で始まる事が出来るんだ」

 

必要なのはリリウム一人。だからこそ、ユリウスは焦りを感じている。

この娘は正しく導かれねばならない。このどんな宝石にも勝る輝きを、他の何者かに穢される事は有ってはならないのだ。

今も世界の裏側で策謀を巡らせる魑魅魍魎どもは、世界の運命に干渉する者を決して見逃しはしない。唯一にして最大の手駒であるアントークの大老に限界が見えているシュナイバル。悲願成就の為、既にアイレインとサヤをも欺く用意に入っているエルミ・リグザリオ。元よりこの世界に縁を持たず、私怨を晴らすべく憎悪に身を焦がすニルフィリア。

或いはナノセルロイドではなく、彼女たちこそがイグナシスの首を取る上で最も恐るべき障害なのかもしれない。

 

ディクセリオの首を切り落とすのはリリウムの役目だ。それに不足が有るとは微塵も疑っていない。

ユリウスの仕事はシュナイバルたち他陣営の頭を抑える事だが、今現在なお進行中である自身の衰えは、何れ計画に支障をもたらすアキレス腱に成り兼ねない。

目的の最中に果てる事に恐怖はない。志し半ばにして泡沫の夢と消え行くのが、何よりも恐ろしい。

夢を、夢のまま終わらせる訳にはいかない。己が此処に在る意味を、アリシアと過ごした日々を、リリウムが生まれた奇跡を。夢現のままに、無価値の中に埋もれさせはしない。

 

「一個人が、世界の生まれた意味を定めるなどと。それは人の傲慢です、お父様……」

 

一人の少女が呟いた言葉は、それを向けた相手に届く事が無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会場は熱気に沸いていた。

武芸の盛んなグレンダンに置いて最も格式高く、由緒有る天剣授受者選定戦が遂に終わりを迎えたのだ。

選定とは言った所で、この機会に優勝者が天剣を授与される事は極めて稀だ。この大会では予め結果の見えていた、それこそ試合など不要とも思える実力者が勝者であった時のみ天剣授受者が生まれる。丁度、今回の時の様に。

 

「よく見ておけ、リリウム。あれがお前を越え得る可能性を持つ、この世界で唯一にして最大の異端者だ」

「サイハーデン流刀争術の、レイフォン・アルセイフ様……」

「そうだ。尤も、彼は既に天剣授受者のレイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフではあるがね」

 

サイハーデンではなく天剣授受者、この違いが持つ意味は大きかった。少なくとも、ユリウスにとっては。

"原作"に置いての主人公の姿を、せめてこの目に焼き付けておこうとリリウムを伴って会場に訪れたが、やはり無駄ではなかったと実感している。

振るわれる剣技の数々は斬撃武器を扱う者として嫉妬を通り越して感動すら覚え、行使される剄技は如何なる理屈の上でならああまでの威力を発揮するのか想像も出来ない。

あれで本来の形である錬金鋼を手放しての実力だというのだから、その異常さには震えを感じる程だ。それでいて彼の異常さの本質の有り所は能力ではなく、その在り方に存在しているのだ。

 

「"虚無の子"。狼面衆は彼をそう呼んでいた。とは言っても、あの木偶の坊どもは自分達が用意した虚無の子の所在どころか、生存しているか否かも把握していないのだがな」

「虚無、ですか?」

「あらゆる運命に囚われる事無く、全ての事象に運命の輪の外側から決着を付けられる存在……らしい。意味する所は分からん。何らかの因子を埋め込まれているとも言っていたが、どうせ奴らの事だ。アイレインに纏わる何かが相場だろう」

 

レイフォン・アルセイフが一体"何"であったのか、などと考えた所で一人意味の無い水掛け論になるだけだ。何せ原作でも結局明かされず仕舞いだったんだからな……と、ユリウスは内心で苦笑を漏らした。

しかし同時に、リリウムの能力はレイフォンに劣る物ではないとも確信を得た。少なくとも、あの少年の錬金鋼がが刀でなく剣、加えて天剣でないという条件の上でなら、勝利するのは七割方リリウムと見た。

親の贔屓目と言えなくもないが、ユリウスとて腐っても武芸者だ。その辺りの目利きに私情の分を加算したりはしない。

それだけ娘の実力は常軌を逸しているのだ。だからこそ、今ユリウスが目指している目標には現実性がある。

 

「どれだけの強さを得ようとも、運命に縛られた者が関われる"縁"とは驚くほど小さな範囲の中だけに留まる。大叔父上やサーヴォレイド卿ですら届かない場所に届き得る者、それがレイフォン・アルセイフだ。憶えておけ、リリウム。何れお前の運命が彼の存在と交わった時、彼がそこに在るのはお前が理解するよりも遥かに大きな意味を持つ事実になる」

 

実際にレイフォンを目にして、漠然とだが分かった事もある。あれだけの実力を持ち得ながら、原作でのレイフォンは最終決戦の開始に至るまで、どの勢力も彼を取り込もうとせずその動向は静観され続けていた。彼を戦力として使おうと思えばどの勢力もその為の材料は揃っていた。彼と深い縁を持つニーナを擁し、ジルドレイドを失っていたシュナイバル。リーリンの反対が有ったとはいえ、十二本揃えてこその天剣に空席のあった女王アルシェイラ。リグザリオとニルフィリアはそもそもサヤの生み出した世界の住人を端から信用していなかった節も在るが、それでもレイフォンが唯の劣化アイレインでないのは感覚的に察知していた事であろう。

 

志向性を持たない力の塊。要は戦闘能力のみが突出して向うべき先が定まっていない者を、戦力として内輪に抱える事を避けたのだ。

結局の所、レイフォンは最後まで各陣営が何故戦っているかの情報を得られず仕舞いだったのだ。気の遠くなる下準備の果てに迎えた滅亡か存続かの戦いで、情報が無いが故に意識が同じステージに立てていない者を今更重用する意味を誰もが見出せなかったのだろう。

現にユリウスも、レイフォンの存在に惹かれる事はなかった。未来を知るユリウスにしてみれば、レイフォンは決戦直前になってもどの勢力の息も掛かっていないフリーの武芸者としては、文句無しで最強の存在だ。

この世界に来て浮かれていた頃のユリウスであれば、あの手この手でレイフォンを懐柔しようとしたかもしれないが、それも遅過ぎる話だ。

この手にはリリウムというエースと、原作知識と言う名の鬼札がある。故にどうしてもレイフォンでなければならない理由は何処にも無い、それこそ他の陣営と全く同様に。

 

「行くぞ、リリウム。興行の合間に出来る街の静寂は奴らの好物だ。今も鼠どもが飽きもせずにコソコソ動き回っている事だろうさ」

「ええ、察知しました。グレンダン中央……これは王宮ではありませんね。恐らくユートノール本邸かその離れが狙いだと思われます」

「はっ、よくもまあ見当違いの所にノコノコと。だが、王族を狙われているとなると悠長にもしていられん。キュアンティス卿のお手を煩わせる前に終わらせるぞ」

「畏まりました」

 

小狡い狼面衆の考えなど深読みするまでもない。天剣絡みの行事で女王と天剣授受者が出払っている内に、前党首を亡くして弱っているユートノール家に踏み入ろうというのだろう。

狙いはミンス・ユートノールの殺害か、洗脳か。彼の人となりを考慮すれば後者の可能性が高いだろう。連中もユートノールの権威が形骸化しているのは知っているだろうに、涙ぐましい事だ。

とはいえ、分かっていて好きにさせてやる理由もない。どの道ユリウスが見逃せば、それを把握したデルボネが適当な戦力を見繕い、ユリウスの真意を疑われるだけだ。

女王の影武者であるエアリフォス卿から略式的に天剣を授与されるレイフォンの姿から背を向け、ユリウスは己の望む戦場を目指して歩き出した。

時は止まる事無く流れ続け、然るべき時は着実に近付いている。原作、主人公、そんな物も所詮は流れ行く時の中に埋没してしまう程度の意味しか持ち合わせてはいなかった。

故にユリウスは歩みを止めない。望むべき結末は、求める未来は、すぐ手に届く所に在るのだから。

 

 

 

 

 

会場を後にする父親の背を追うリリウムは、少しだけ今来た道を振り返った。

遠くに見えるのは、つい先程生まれた最も新しい天剣授受者。リリウムと同じ年齢でありながら、リリウムが知る中で自分が唯一勝てるか分からない大叔父と同じ位に辿り着いた者。

 

「……なんて、窮屈そうに息をする人」

 

――――斬れない。リリウムがレイフォンを見て抱いた感覚は、生まれて初めての物だった。

武芸を始めて数年が経った頃から、リリウムは武芸者であろうと汚染獣であろうと、如何様にすれば対象を斬る事が出来るか一目見れば理解する様になっていた。

師である父にせよ、未だ届かぬ大叔父にせよ。実現出来るかはともかく、仮にお互いが死合ったとして己の実力で成し得る勝利へのビジョンは既に固まっている。

だが、レイフォンにはそれが見えない。彼の強さは大叔父の様な老成された物ではなく、父ほどの狂気に身を蝕まれてもいない。それどころか自分で自分の最得手を手放すという、武芸を修める者にとって到底理解出来ない矛盾を抱えた行動をしている。

父が彼を特別視するのは、こういう意味なのか。或いは虚無の子とは、そんな理解の範疇外に在る者なのか。

 

「あの人を斬れる様になれば私にも見えるのでしょうか、お父様の見ている世界が。リリウムには分かりません、お母様……貴女が何を知り、何を見ていたのか教えてくれていれば、私もお父様もこんなに苦しまなくても良かったでしょうに」

 

亡き母との在りし日々に思いを馳せる。しかしそれに意味は何一つ無かった。

父に言われるまでもなく、リリウムには斬る事しか出来ない。母がリリウムに与えてくれた物は、父がくれた物よりもずっと多い。

教養や道徳、子に与えられるべき教育は、殆ど母にしてもらったと言っても良い。けれどリリウムは武芸者で、しかも余人が立ち入る事の出来ない境地に生まれた時から立っている存在だった。

故に、斬るしかない。母は人として当たり前の倫理観を娘に与えた癖に、この才能を振るうべき先を終ぞ示してはくれなかった。

何が正しくて何が間違っているのか、そんなのは当たり前の道徳観に照らし合わせれば考えるまでもなく分かる事だ。

けれど、リリウムには斬れてしまう。それが破滅への旅路だと分かっていても、父が言うのであればリリウムには斬るしかなく、それが出来てしまうのだ。或いは斬れてしまう事こそが不幸であり、この身が無才の凡庸な少女であれば、自分も父も有り触れた幸福に一喜一憂するだけのささやかな人生に満足していたのかもしれない。

 

「空の上に居るお母様は、今の私達に満足してくれていますか? リリウムは全てを斬り伏せます。お母様が、お父様を止めてくれなかったから」

 

虚空に向けた囁きは、寂寥に濡れた恨み言であった。

自分が誰より愛した母。娘を深く愛し、その父を娘よりもずっと愛していた愛に生きた母。彼女の愛は一人の男を狂わせ、このままでは何れ世界までを狂わせてしまう。

斬る事しか出来ないリリウムにはそれを止める術が無い。しかし母ならばそれを止められた。超越的な武芸の才などなくともそれを容易く可能とする、それがアリシア・ライヒハートだったのだから。

リリウムは母から優れた容姿と聡明さを授かったが、その人間性だけは受け継ぐ事が出来なかった。リリウムの感受性は、父と同様に大半の人間から逸脱した物ではない。

それが幸運だったのか不運だったのかは亡き母にしか判らないだろう。或いは、もう一人の自分が生まれなかったからこそ、アリシアはリリウムを愛する事が出来たのかもしれないが。

 

「お恨み致します、お母様。貴女はご自分が没した後に何が起こるか、全て知り得ていたでしょうに。お母様が、お父様を鬼にしました。満足ですか? 貴女が大好きなお父様は、貴女が愛したそのままで今を生きています。貴女が魅入って、恋い焦がれた、最も愚かな生き方で」

 

思い出の中にしか存在しない母は、何も答えをくれはしない。

この感傷も、後悔も、何時かは斬って捨てなければいけない雑念なのか。

リリウムの憂いを晴らす者は誰も居なかった。母も、そして父も、あの葬儀の日以来リリウムの元へと戻っては来なくなってしまったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦いは続く。狼面衆を倒し、汚染獣を倒し、ライヒハートの父娘の名はグレンダンに鳴り響いていた。

特に一戦を経る毎に鋭さを増すリリウムの実力は、既に一般の武芸者からは畏怖を込めた賞賛を送られる程であった。

曰く、ライヒハート創始者の再来。その容姿を呼び称える名も幾つか囁かれているが、中には飛び切り不敬な"ライヒハートの原義を体現する者"―――つまり天剣授受者をも打倒し得る武芸者、などという喩えもあった。

 

しかし、ユリウスの内心は穏やかではなかった。

リリウムが強くなる度、戦場で多大な戦果を上げる度、その問題は浮き彫りになって行く。

汚染獣を薙ぎ払う強さ、味方をも震撼させる圧倒的な強さ。そんな物は、リリウムの本当の実力のほんの一端でしかないのだ。武芸者として戦闘に求められる全てを天より与えられしリリウムにも、たった一つだけ足りないが有る。

そう、武器だ。莫大な剄力と、それから繰り出される神域の御業に耐え得る錬金鋼を、リリウムは持ち得ていない。

グレンダンでは十二振りしかない至高の錬金鋼。曰くアイレインの肉体の一部から生み出された最強の錬金鋼。それと同等の物を得る事が出来るのは、この世界を生み出したサヤと同じ能力を持つ存在に認められた者だけ。

 

ユリウスは焦っていた。ただ静かに、それを娘に勘付かせる事もなく、静かに狂っていた。

既にリリウムの才能は、既存の錬金鋼の限界を越えて尚伸び続けている。しかし、それも時期に頭打ちが来るのは目に見えている。事実、最近のリリウムは己への追従を果たせない大鎌への不満を見せずにいながら、先の見えた己の限界を悟っている様にも感じられる。

現状に甘んじる訳にはいかない。リリウムが成長するのと反比例する様に、ユリウスの刃は輝きを失い続けている。何れ自分は使い物にならなくなるだろう。その焦りが、ユリウスの胸中に黒い炎を燃え上がらせていた。

 

「……天剣だ。天剣が、必要だ」

 

今から放浪バスに乗って、ツェルニで眠るニルフィリアに助力を懇願する? 一瞬でも頭を過った事に唾棄する程の馬鹿げた考えだ。敵対する事の分かりきった相手に生命線を握られる上に、必ず倒さねばならない狂犬と並べて犬扱いされるのが目に見えている。そもそも、それを実現するセレニウム・エネルギーの当てなど何処にも無い。

しかし天剣の空席は残らず埋まったばかりだ。何れノイエランとキュアンティスに埋められない空席が出る事に確信染みた予測は出来ているが、それでは遅すぎる。

時は刻々と過ぎ、状況には一刻の猶予もない。今こうしている間にも黄金に勝る価値の時間は無意味に浪費され、それが決戦の時まで続くなど絶対に有ってはならない事だ。

 

――――考えろ、手は有る筈だ。最善でなくとも次善が、最良が。転生者の持つ知識ならば代案を建てられる筈だ。

 

「空席が無いからリリウムは天剣を得られない……そうだ。無いのなら、作れば良い。空席を、この手で」

 

胸の穴に何かがストンと落ちた瞬間、ユリウスの胸中がドス黒い粘性の物で満たされた。

そう、リリウムの強さは未だ進化を止めない。あの娘は強くなる、もっともっと……自分とアリシアの夢が、希望が、運命の前に膝を付く有象無象どもに負ける筈が無い。

そう、今の天剣授受者など決戦に置いては所詮前座だ。より強き者が天剣を持つ、それは真理でありユリウスは己にこそ正当性があると確信している。

 

天剣を手放すべきは、老い先短いロンスマイアの老人か?

それともリリウムが好きで堪らない愚鈍な大叔父上殿なら、寧ろ本望とでも思って下さるのではないか?

狼面衆如きに身内を操られたルイメイ、まんまと操られて造反に加担したカナリスなどは、ここで退場させてやるのが温情ではないのか?

 

いいや、いやいや。居た筈だ。

あの十二人の中に最も天剣に相応しくない者が。未来を築く為に現在を邁進する自分たち親子とは比べることも出来ない程、救い様も無い愚か者が。

標的が決まれば、後は手段を用意するだけだ。リリウムの手を汚させる気などさらさら無い、こういった汚れ仕事こそがユリウスが本当にやるべき仕事だ。

そうして、その手段は自分たちからやって来た。思えば奴らは何時だってそうだった。ユリウスが望むべき時に現れ、望むべき糧となり、望むべき結果を齎して来た。

 

薄暗い明かりで照らされた自室で佇むユリウスの背後に、仮面を付けた人影が立っていた。

狼面衆。今となっては、狼面衆はユリウスにとって隠居して以来音沙汰も無い前当主よりも長い付き合いになる。

不憫で健気な、可哀想な奴らなのだ、狼面衆は。ここに至ってしまえば、寧ろ愛着すら沸いてきてしまう程に。

 

「知りたいか? 俺が何故お前たち、月の敵対者の全てを知っているのか。欲しくはないか? 俺の技が、未来を紡ぐライヒハートの処刑鎌が」

「この出会いを我々は祝福しよう。原初の都市の歪みより産まれし者、ユリウスよ。この契約の先に、我等の願いし安息の在る事を共に祈ろうではないか」

 

差し出されのは獣の面。彼らが付けているのと寸分違わず、まるでコピー機に掛けたかの様に全く同じ面。

これが凡人が天剣授受者を殺す唯一無二の方法。毒も殺剄による不意打ちも意味を成さない化け物どもを出し抜く、世界に容認された絶対的な抜け道。

それをユリウスは迷う事無く掴み取り、己の顔へと貼り付けた。

 

「さあ力を貸せ、狼面衆ッ! 世の理に背きし天剣を、ライヒハートが裁く。俺が、このユリウスが、我が一族の宿願を果たす時が遂にやって来たのだ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

亜空間増設機によって発生させたオーロラ・フィールドは、武芸者の感覚を全て遮る。

それは完璧な物だ。一部の者がオーロラ・フィールドその物を感知出来ようとも、その中で何をしているかまでは把握出来はしない。

この技術が天剣授受者キュアンティスすらを欺く。未だ幼いロンスマイアとユートノールの後継者など、この計画を察知する事すら出来ていないだろう。この感覚を持つ者の死角をユリウスは知り尽くしている。狼面衆と対峙して日の浅いクラリーベルやミンス、そしてリリウムの気付かぬ内に事を成すなど造作も無い事だ。

 

そして、居た。グレンダン商業区の一画、まるで運命だとばかり人気の無い裏路地に。

ボサボサに跳ねた茶髪、何処かぼんやりとしながらも歳相応の輝きを放つ青い瞳。まだユリウスの胸ほどまでしかない身長の少年、天剣授受者レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフが。

いいや、その名は相応しくない。尊きヴォルフシュテインの名は、これよりリリウムの物になるのだから。その名を傭兵団上がりの粗野な野良犬風情にくれてやる気も、名を汚して都市を去る紛い物に預けたままにする気も無い。

買い物帰りか、食材の入った麻袋抱えたレイフォンは金髪の少女と連れ添って歩いていた。

 

あれが、リーリン・マーフェス。いと貴きユートノールの正統にして、世界の守護者たるアイレインの今世に顕現せし姿。

しかしあの少女とて所詮、未だ運命を知らぬ童女だ。その右目に世界を変える程の因子を内包していようとも、背後で息を潜める間者の一人にも気付けない。

彼女にはまだ踊って貰わねばならない。物語を彩る悲劇のヒロインとして、真の救世主たるアイレイン降臨の贄として。故に、ユリウスが首を撥ねるのはただ一人。

 

「お前だ、レイフォン……! お前は天剣に相応しくない。お前は、主人公に相応しくなどないッ……! この物語の主人公はリリウムだ。俺とアリシアのリリウムが世界を救い、未来を掴み取るッ――――!!」

 

そうだ、奴は主人公などでは断じてない。

正義を持たず、挟持を持たず。天剣の威光を血によって穢し、懺悔に費やされるべき時を学園都市の微温湯で腐っていただけだ。運命に関われるだけの実力を持ちながら、踏み込むべきを踏み込まず。再び天剣を得る機会が何度も有りながら、半端者のハイアとクラリーベルに至高の錬金鋼を握らせる事を由とした。

虚無の子として女王ですら関われない領域に立ち入る権利を与えられながら、やった事といえば数多の英雄たちが築きし最後の決戦に内輪の事情を持ち込み、子供の様にみっともなく喚いて持て余した武を振り回しただけだ。

 

今になって思う、今だからこそ言える。"原作"の、あの物語の主人公は、レイフォンではなかった。

物語の主人公はアイレインであり、ディクセリオだった。原作本編というのは彼らの生きた軌跡の終着点以上の意味は持たず、真の意味での主人公は不在であったのだ。

だからこそ、リリウムが相応しい。この物語の行く末を知る転生者が手塩に掛け、正しくそう在れと産まれて今日までの日々を見守り、磨き上げて来たのだ。

故に、リリウムが主人公だ。リリウム以上に相応しい者など、存在する筈がないッ――――!!

 

「消えろ、誰にも望まれない世界の異物め。物語に二人の主人公は要らない。リリウムが、俺のリリウムだけがッ……! この世界の主人公になれるんだ――――!!」

 

己の半身たる大鎌を振り上げる。失敗は微塵も疑っていない。

衰えていた筈の感覚は冴え渡り、身体には活力と剄が漲っていた。それこそ、もっと早く狼面衆と接触しておけば良かったと思える程に。

迸る剄の波動と煮え滾る様な殺意は、全てオーロラ・フィールドが遮断している。剄の防御が無ければ如何な天剣授受者とて一般人と変わらない。

故にこれは必殺の一撃であった。ライヒハートの原義、ここに果たされし。新たな伝説の幕開けを予感し、ユリウスは熱病に侵されたかの様に激しく荒れ狂う高揚感に溺れ喘ぎながら、大鎌を振るった。

 

 

 

 

 

 

そしてユリウスは見た。

地上の遥か上空で視界を360度回転させながら、首を失った己の身体を。

 

「は?」

 

間抜けな声が出た。もしかしたら、声が出せたと錯覚しただけなのかもしれない。

そこに有ったのは、無残に首を落とされたレイフォン・アルセイフの姿ではなかった。代わりに有ったのは欲に溺れ、狂気に侵され、一人踊り狂っていた道化の首から下が崩れ落ちるだけの特に面白くもない光景だ。

ユリウスは身体を失い宙を舞い、そして遂にその姿を目に捉えた。どれだけ視界が定まらくなくとも、その姿を見逃す事など在り得ない。その姿を目にした瞬間、ユリウスは己の身に起きた事を十全に理解する事が出来た。

 

 

振り抜かれた大鎌は白刃を煌めかせ、その輝きは月よりも妖しく蠱惑的だ。

その白金の髪も白磁の様な肌も血には染まらず、宝石の様に輝く瞳は何の感情にも揺れ動いてはいない。

あれだ。あれが、ユリウスの理想の体現者だ。有象無象を寄せ付けず、世界最強の戦力にも匹敵し、凌駕する。

その胸中に決して揺るがぬ信念を持ち、討つべき存在が例え何者であろうとも己の果たすべき使命を見失わない。

気高く、孤高で在れ。そう願ったそのままの姿で、それはそこに存在していた。

 

「そうだ、リリウムッ! それでこそ、それでこそお前は――――!」

 

宙を舞った首が再び重力に捕らわれる前に、ユリウスの意識は闇へと消えた。

最も若き天剣授受者も、その幼馴染である少女も、名も知らぬ男の死に気付く事は無く。その最期は誰にも気付かれもせず、看取られる事もなかった。

ただ一人、この世で最も愚かな男の狂気によって肉親を失った少女を例外として。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……馬鹿な、人」

 






あとがき

前話で感想を下さった方、次に期待をしてくれていた方、長らく間が開いて本当に申し訳ありません。
いえ、自分が遅筆な以外にも理由は在るのです。ブラ鎮ミスってまるゆが轟沈したり、その怨念でハードディスクが物理的に死んだり。まるゆの呪いですね。
PCで飯食ってけそうな友達が居なかったら、このSSは恐らく冗談抜きで三話でエタってました。ありがとうジョニー(あだ名)危うく精神的に死ぬところだった……

そんな珍事もありましたが、今回で何とか序章部分終了です。
切り場所が無くて普段の二話分とか自分的にはどえらい四話になってしまいましたが、自己満足の為にさらっとオリキャラ紹介をさせて頂きます。



リリウム・ライヒハート... 転生者とご都合オリキャラの間に生まれたとんでもハイブリッドヒューマン。厨二病が趣味嗜好ではなく生き様レベルに刻まれた、あの親にしてこの子ありな電波系美少女オリ主。

ユリウス君(故)...厄介な地雷要素を抱えたがっかりオリ主。結婚して病気が完治したと思いきや、相手が美人だったツケか病気が再発。原作と主人公を派手にディスりまくって踏み台転生者の面目躍如とばかりに大暴れした結果、実の娘に首から上を吹っ飛ばされる。

アリシア・ライヒハート...旧姓ミッドノット。カルヴァーンの姪という、書いてる本人がどうかと思う強引過ぎる立場のオリキャラ。正直に言うと「叔父様」って呼び方をやりたかっただけなのが始まりなのは余談です。出来る女と思いきや、その実態は踏み台転生者を更にドン底に突き落とす、地雷を越えた核地雷。何やら感想で悲惨な目に合うフラグを危ぶまれてましたが、最高に面倒な男を残してあっさり消えました。



それと一つ、お知らせが。今まで当SSで主人公ポジションにいたユリウス君ですが、なんと……実は主人公ではなかったのです!
石を投げられそうで戦々恐々としてますが、元々ここまでの話はプロローグにちょっと気合を入れて、前日談みたいな仕上がりにしたらオリ主に感情移入して貰えるかなぁみたいなノリで書き出した物だったりします。
なので最初は三話くらいでサクッとユリウス君は首を吹っ飛ばされる予定だったのですが、作者の力量不足故に普段の五話分相当に話が膨れ上がり、気が付けば踏み台転生者扱いするつもりだったユリウスが我が物顔で主人公ヅラしている始末に……

なので次回からはSSの本当の主人公、斬殺系オリ主のリリウムが話がようやく始まります。
微コミュ症な駄目社会人をイメージしたユリウスのキャラが意外なくらいに好評を頂いて若干迷いもしたのですが、申し訳ないと思いつつ当初の予定通り悪堕ちさせて頂きました。
というか、ユリウスを生かしたら代わりにアリシアが代打で悪堕ちポジションになっちゃうからね! レギオスSSで悪の女幹部をオリキャラでとか完全に罰ゲームというか、自分的にはドMの所業な気がします。

何はともあれ、ここまでお付き合い有難うございました。クソみたいな更新速度のSSですが、少しでも楽しんで頂けているのであれば幸いです。


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05.道なき道を

グレンダン王宮内に在る通路の一角を、一人の少女とそれを伴う女性が歩いていた。

女性はカナリス・エアリフォス・リヴィン。天剣エアリフォスを授与された武芸者であるのと同時に、平時は女王の影武者を務め、グレンダン王室を警護する暗部とも繋がりのある存在だ。

少女はリリウム・ライヒハート。グレンダンに古くから続き、誰にも讃えられる事なく存続している貴族家の子女。

 

カナリスの後を歩くリリウムの両腕は後ろに回され、その両手首には手錠が填められている。

その様子は、余人が見れば一目で分かる罪を犯した者とそれを捕えた者の姿だ。尤も、それが女王の懐刀たる天剣授受者の仕事として相応しくないのは誰もが知る所であり、少女が何者か知らぬ者にとっては武芸者に取り押さえられねばならない凶悪犯とは到底かけ離れた人物にしか見えないのであった。

 

「リリウムっ! こ、これは一体、どうしてお前が……!?」

「騒々しいですよ、カルヴァーン。陛下の御座す王宮で声を荒らげるなど、誰に許されると言うのですか」

「カナリス、私の大姪に一体何の理由があってそのような無体を働いたッ! 事と次第によっては、貴様であろうと無事で済むと思うなよ――――!」

 

少女を連れたカナリスを遠巻きに眺める人々が避ける様に出来た道から、カルヴァーンが平時の彼には似つかわしくない早足で現れた。

カルヴァーンは混乱していた。ゲオルディウスも歴とした騎士階級には違いないが、天剣授受者の特異性と武芸者としての性質から、王命以外でカルヴァーンが王宮を訪れるのは稀だ。宮廷の集まりに参加する貴族にも天剣授受者との繋がりを欲する者は少なくないが、だからといって招待状など送れば物知らずと嘲りを受けるのは貴族の間では常識だ。

よって天剣授受者と宮廷人には一定以上の距離感が有り、王宮に立ち寄る機会は女王への謁見か、訓練に王宮内の施設を使う天剣授受者への用が殆どとなる。

 

そんなカルヴァーンがまるで虫の知らせ様に偶然王宮に立ち寄って見れば、何やら一刻ほど前に天剣授受者が緊急の勅命を受けたという囁き声を聞いたのがつい先ほど。

動いた天剣がカナリスだと分かり何やらキナ臭さを覚えて訝しんでいれば、現れた彼女の後ろには自分が愛して止まない大姪が両腕を拘束された姿で連れられていたのだ。

その光景を目の当たりにしたカルヴァーンの心境は困惑と言うにも生温い。まず自分の目を疑い、次に己が正気であるかを疑った。

元より柔軟さには縁遠い頭をしているのは自覚の在る所だ。この激し易い性格でなければ、目の前の現実を理解出来ずに知恵熱で卒倒していたのではとカルヴァーンは思う程であった。

 

「私は陛下より直接の命を受け、リリウム・ライヒハートを連れて王宮へ戻ったのです。陛下のご意思に背く気がないのであれば、邪魔立てはしないで頂きたい物です」

「馬鹿な、何故陛下がリリウムを私に何の断りもなく王宮へ呼ぶのだ……!? それ以前に、その手錠は何だ!? こんな衆目の眼前で、どうして私の大姪が連行紛いの真似をされねばならん!!」 

 

その両目をギラギラと怒りで燃え上がらせるカルヴァーンの威圧感を、涼しい様子でカナリスは受け流していた。

しかし、その内面は表の態度ほど穏やかな訳ではない。何せ目の前では、この都市で十一人しかいない自分と同等の武芸者が今にも得物を抜こうと肩を怒らせているのだ。

大義名分こそカナリスにあれど、言葉を間違えればカルヴァーンはカナリスが臨戦態勢へ移る刹那の間を見逃さず剄技を行使して来るだろう。

両者の間でぶつかり合う尋常の沙汰ではない空気に、周囲が恐怖で血の気を引かせ始めた時、それまで俯いていた少女が初めて顔を上げた。

はたと、カルヴァーンとリリウムの目が合う。その一瞬に、カルヴァーンは全身を支配する激情が凍り付く様な感覚に身を固くした。

カルヴァーンに出来た不可解な隙を察知したカナリスは、素早く口を開く。

 

「彼女には殺人容疑が掛かっています。被害者はライヒハート家当主、ユリウス・ライヒハート。貴方も良く知る人物の筈です」

「……殺人、だと? いや、今……今、何と言った!? 殺人容疑、一体誰の――――」

「ユリウス・ライヒハート、です。彼女には父殺しの嫌疑が有り、また並外れた武芸者であるのは調べが付いています。例え謁見が陛下のご意思であろうと、身体の拘束は最低条件であると私が判断したまでです」

「ユ、ユリウスが……死んだ!? 冗談ではない、その様な世迷い言が理由としてまかり通る物かッ!! リリウム、何故黙っている? 何があった、お前がこんな事になっている時にユリウスは何処で何をしている!?」

 

姪婿が何者かに殺害された、そんな荒唐無稽な法螺話を信じる気はカルヴァーンにさらさら無い。

ユリウスという男は、生まれ持った才こそ凡俗な物しか持ち得ない武芸者だ。しかしその反面、己を鍛え痛めつけるという極めて限定された一点に置いては、異常とも取れる資質を見せていた。一度は狂人とまで呼ばれ、それによって得た実力は天剣に遠く及ばずとも凡百の中に埋もれる物では決してない。

そのユリウスが汚染獣との戦いで果てたでもなく、何者かに遅れを取るなど考えられない事だ。それこそ、下手人が天剣授受者に匹敵する者でもない限り。

 

在り得ない、そんな事が起こり得るなど微塵の可能性すら有ってたまる物か。

そんなカルヴァーンの言葉なき懇願に応える事無く、リリウムはその宝石の様な瞳に何の揺らめきも見せず、ただカルヴァーンを静かに見るだけだ。

 

「私が斬ったのです、大叔父様。父は、もう居ません」

「誰だ……一体何処の誰がお前を唆し、そんな事を言わせている! 答えぬか、リリウムッ!! その様な輩、二度と巫山戯た真似が出来ぬよう私が叩き切ってくれるわ――――!!」

「それが最善だったのです。私たち家族の間違いを正す、私にとって最後の機会でした。参りましょう、カナリス様。私は貴女に全てを委ねます」

「良いでしょう。彼女の処遇は追って私から知らせます、それまで決して怒りに任せた迂闊な行動などは取らない様に、カルヴァーン」

 

カルヴァーンの縋った可能性を全て切り捨てて、リリウムはその小さな肩を翻して背を向けた。

遠ざかる大姪の姿を、ただ呆然と見送る事しかカルヴァーンには出来なかった。

 

 

 

 

 

 

次第に小さくなるリリウムの背、カルヴァーンはそれに何者も受け入れぬ鉄の在り方を幻視した。

何よりも、それ以上にカルヴァーンを動揺させたのはリリウムの青い二つの眼だった。

何の感情も窺わせず、周囲で何が起ころうとも揺らめきを見せる事のない無感動な瞳。

――――あれは、アリシアの眼だ。唯一の理解者である母を失い、まだユリウスと出会っていなかった頃のアリシアの。

 

「また、私は間違ったのか? 何故だ、ユリウス……お前は正しく在ろうとした筈だ。夫として父として、家族の幸せを願うと。それは武芸者である己の存在意義に勝る物だとお前は言った筈だ。だからこそ私は、お前を信じてやりたいと思った。それが、このような……」

 

姪婿は愚直な男だった。武芸者であれば武芸者でなければと足掻き、父となれば父でなければと武芸者であることを二の次に置いていた。

後ろ向きで卑屈な性格には苛立つ事もあったが、不器用なりに前に進もうとする姿勢は彼の妻の叔父として、目を掛けてやろうと思えるくらいには好ましかった。

彼の隣で幼い頃の輝きを取り戻したアリシアを見て、これならば任せられると思っていた。生まれた娘の愛らしさと家族三人の仲睦ましさを見て、きっと幸せになるだろうと安堵していた。

……いいや、それは言い訳でしかない。カルヴァーンにはこうなる事に懸念が、本当はもうずっと昔から脳裏にこびり着いて離れた試しが無かったのだから。

 

アリシアは異端者だった。生まれながらにして人とは違う価値観を持ち、独自の目線で世の中を見聞きしていた。

それは武芸者という枠組みに在って異端であるカルヴァーンには一目で察しがつく物であり、同時に全く異質な存在として危機感を抱くに足る物であった。

亡き姉の娘であるが故の情、異端でありながら善性で在ろうとする姪の健気さ。例えその笑顔が偽りの仮面で在ろうとも、せめて人並みの幸せを得る時まで見守り続けようとカルヴァーンは決意していた。しかし、そうやって守れた物が一つでも有ったのか今では疑問を抱かずにはいられない。

 

ユリウスがアリシアを受け入れたのではない、アリシアがユリウスを選んだのだ。

世界の全てを無価値と断じていた、あのアリシアが。見失うのを恐れるように追い縋り、掴んだ。

カルヴァーンはそれをアリシアが変わったのだと思いたかった。人としての道筋の外側を歩く姪がたった一つの出会いで正道に戻れたなどと楽観視は出来なかったが、より良き方向に変わっていくのだろうと願っていた。

……結局、それはカルヴァーンの勝手な願望でしかなかった。アリシアは最期の時まで異端のままで、ユリウスはそれを受け入れるには余りに普通の男でしかなかったのだから。

 

「……だがなアリシア、リリウムは違う。あれはお前とは違ったのだ。瓜二つで在りながらお前に無かった武芸の才を持ち得ていようとも、それだけの娘だった筈だ。何故、狂わせようとする? 或いはユリウスでは足りなかったからなのか、お前が見たかった物を見る為には」

 

カルヴァーンは頭を振って、己の逸れた思考を振り払った。こんな物は唯の憶測でしかない。

白状してしまえば、カルヴァーンはアリシアにある種の恐れと罪悪感を抱いていたのだ。

優れた素養を持っていた姪は、世に出ていれば一角の人物になっていたのだろう。ミッドノットの名が有れば、起業するにせよ嫁いだ先で政界に足を踏み入れるにせよ、それに足る実力を持ち得ていれば成功を掴むのは不可能ではない。

仮にカルヴァーンがアリシアを手元に置かねば、彼女はそうやって己の居場所を作っていたに違いない。アリシアにはそれを成すだけの知性と教養があった。

 

カルヴァーンは自分が、姪がその能力の振るう機会を奪ってしまったのではないかと危惧していた。

生きる事に必死になれば、アリシアの中に在った何らかの衝動は薄れていたのではないか。屋敷で宝石の様に大切に扱ったが為に半ば世捨て人の様な生き方を選ばせ、結果としてユリウスとリリウムを巻き込んでしまったのではないかと。

 

「――――いいや。まだ、最後の機会が残っている。贖罪に成りはせずとも間違いを重ねる事を避けるだけならば、出来る。アリシアの父代わりも務め切れなかった不肖の我が身では、見守る事しか出来ないかもしれないが……」

 

身を翻し、意を決したカルヴァーンは今来た道を引き返す。

時に煩わしく感じる天剣授受者としての地位も、今こそは使い所だ。リリウムの謁見の理由が何であれ、女王の決定を覆すのが自分では不可能なのをカルヴァーンは良く知っている。

まずは凡その事情を把握しているであろうデルボネを味方に付けねばならない。最古参の天剣授受者として権力でも智謀でもカルヴァーンを大きく上回る人物であるが、彼女の人柄に加え姪が年端もいかぬ少女であるという点を踏まえれば勝算は有る。

その上でアルシェイラといえど無視出来ない人物の筆頭であるティグリスの説得をデルボネに託せれば、決して悪い結果にはならない筈だ。

アリシアの時には果たせなかった保護者としての責務。その為にカルヴァーンは己の持つ全てを使い切る覚悟すら決めるのであった。

 

 

――――だが、カルヴァーンは気が付かなかった。

アリシアの異常性を知っていた彼は、彼女の思惑が何かしらの理由によって今回の悲劇を招いたのだと察していた。

リリウムがユリウスを手に掛けたのが事実であれ、それはアリシアの遺志が二人の間に在った何かしらを狂わせたのだと、漠然とではあるが理解していた。

 

同時に、カルヴァーンは知る由も無かったのだ。

優秀な凡人でしかなかった姪婿もまた、この世界に受け入れられぬ異物であった真実を。

アリシアの異常性は所詮、引き金でしかなかったという事を。狂わせたのがアリシアであったとしても、自ら望んで狂ったのは他でもないユリウスであった事を。

そして、そのユリウスを異物足らしめていた要因はゼロへと還る事なく、不完全ながらもリリウムへと確かに受け渡されているのを、世界の理に踏み入る権利を持たないカルヴァーンが知る事は決して出来ないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リリウムがカナリスに連れられて到着したのは、王宮内でも比較的奥に配置された一室であった。

金糸で文様の刺繍された紅い絨毯や、精緻な細工の施された肘掛け椅子を始め、豪奢な調度品の数々に彩られながらも決して品を損なわない優雅な内装。

仮にこの部屋をユリウスが見ることが叶っていたならば、在り得た未来でデルク・サイハーデンとリーリン・マーフェスの招かれた一室なのだと確信していた事であろう。

 

扉を潜ったリリウムの目に最初に入ったのは、肘掛け椅子に足を組んで座る女性の姿だった。

その女性を表現するなら、一つの芸術品としか言い様が無い。ウェーブの掛かった黒い長髪と鮮やかな碧眼はグレンダン三王家を象徴する外見的特徴であり、優美な容貌と併さり高貴の極みとも感じられる風格を醸し出している。

そして何より女性から発せられる圧倒的な存在感が、リリウムの意識を釘付けにしていた。どんな高価な調度品も横に彼女が居るだけで色褪せ、全てが呑まれてしまっている。

その深い碧の瞳に自分が捉えられると同時に、リリウムは己の感覚が最大限の警戒を訴えるのを自覚する。リリウムの並外れた才覚は、目の前に在る人物が己を容易く踏み潰せる、途方もなく巨大な存在である事を余す事なく理解させていた。

 

しかし、それを一瞬でも表に出す不敬は間違っても働けない。この人物こそがグレンダンの民として最も敬い、武芸者として崇めるべき存在なのだから。

そんなリリウムを見た女性は面白い物を見つけた様に眼尻に笑みを浮かべ、カナリスは凍る様な冷たい視線を向けた。

リリウムの超越的な才も、この場に置いては決して無二の物でないとの証明であった。

 

「陛下。ご命令に従い、リリウム・ライヒハートをお連れ致しました」

「そ、ご苦労様。それで、それは何?」

 

如何にもと言った様子で硬い態度を取るカナリスに、アルシェイラは心底呆れたと言わんばかりの声音で労りの言葉を掛けた。

天剣授受者エアリフォスの主君である、女王アルシェイラ。彼女の指さした先には、リリウムに嵌められた手錠が在った。

 

「僭越ながら、必要な措置と判断し拘束致しました。陛下の御身に万一があっては―――」

「要らないって先に言っておいたのは、もしかして忘れたのかしら。まさかとは思うけど、随分と時間が掛かったのはそんな小芝居を私に見せたいが為、なんて言わないわよね?」

 

特に不機嫌な、という様子ではない。ただ目に付いた不備を指摘しただけの確認作業、それだけの事で部屋の温度が数度は下がった錯覚を受ける。

アルシェイラが発する圧力の種類が変わった事にカナリスはビクリと肩を震わせたが、気丈にも主君の顔から目を離す事はしなかった。

それを見たリリウムは都市最高の武芸者を改めて尊敬し直すのであった。自分であればまず、何よりも先に膝を付いて謝意を示していただろう。

 

「時間が惜しいから私は君に頼んだのだけど? わざわざ君の流儀に合わせて勅命なんて形にしたのは、これが重要な案件だって言わなくても理解してくれると思ったから。ねえカナリス、私の剣。私は君たちに天剣に足る強さ以上の物まで求めようと思わないけど、他のお馬鹿達と違って君にはこういう機微も察して貰えると思っていた私の信頼は……ひょっとして見当違いだったのかしら?」

「へ、陛下……わ、わた、私は――――!」

 

話している最中で徐々に苛立って来たのか、アルシェイラの表情にははっきりと険が刻まれていた。

王座に君臨すべき者として生まれつき、その才覚を存分に発揮するアルシェイラは些事に拘らない。故に彼女は煩わしさに苛立ちを覚えようとも、本当の意味で怒りを露わにするのは滅多な事では在り得ない。

そんな主君が明確な怒りを自分に向ける様は、天剣として女王の最も身近に在るカナリスを恐怖させるには十分過ぎる物であった。

 

 

 

―――アルシェイラの視界の端にふと、何やら淡い金色が舞った。

見れば本題としていた筈がそっちのけになっていた少女が膝を付き、アルシェイラへ跪いていた。

その行為は沸点へと確実に近づきつつ在ったアルシェイラの怒りを押しとどめる。流石の彼女も年端もいかぬ少女に後ろ手錠を掛け、自らの前に跪かせて無関心で居られるほど人として終わっていなかった。

 

「ライヒハート家当主ユリウスの子、リリウムと申します。僭越ながら、どうか発言のお許しを頂きたく……」

「面を上げなさい」

 

椅子に座ったままの己と向けられた顔をまじまじと見る。

綺麗な娘だ。顔の造形も然ることながら、蒼玉石の様な瞳は意図せずとも人を惹きつける蠱惑的な輝きを放っている。

少女時代のアルシェイラと比べればその鮮烈とも言える華やかさに見劣りするかもしれないが、アルシェイラには無い魅力がリリウムにはあった。

例えるなら月。"グレンダン王家と何かと縁深い"それと、である。酔狂と自覚しながらも、アルシェイラはこの出会いに運命的な物を感じたいと思い始めていた。

 

「カナリスから聞いたかしら? 私は女王のアルシェイラ、つまりこの都市で一番偉い人ね。まあそれは良いとして、私に言いたい事って何かな」

「陛下の元へのご参上が遅れたのは私の大叔父、カルヴァーンが事情を知らぬ故にカナリス様を引き止めていた為に御座います。どうか、ご寛容の程をお願い申し上げます」

「おやおや。そうなの、カナリス? 待たされてイライラしたのは確かだけど、あの頑固者に邪魔されたってのなら許してあげようかしら」

 

言外に「天剣がこんな子供に庇われて恥ずかしくないのか」と意地悪く笑みを向けてやるが、カナリスは深々と礼をして沈黙を選ぶだけであった。

流石に主の怒りを蒸し返す程、カナリスも意固地にはなれなかったらしい。まあこれも側近の癖に主人の思惑を察せなかった罰である、せいぜい肩身の狭い思いをして貰うとしよう。

そんな事よりも、とアルシェイラは改めてリリウムを見る。今はカナリスの事などより、この少女の方が余程アルシェイラの興味を惹き付けている。

 

 

まず外見。先ほども思ったように、非常に整っている。

ライヒハートが色々と面倒なしがらみの多い家なのは女王として当然把握している事実だが、その辺りの事情を無視できるなら側に置いても良いとさえ思える。ぶっちゃけアルシェイラの好みだ。同姓愛者という訳ではないが、気に入った物は観賞するだけでなく手で触れて愛でたくなる性分なのであった。

採点するなら100点満点中90点をあげても良いだろう。この少女性は中々背徳的な情欲を煽られるが、惜しむらくもう少しだけ膨らみが欲しい所だ。

 

次は内面。歳不相応の落ち着きと教養高さを感じさせるのは良い。だが、それが何処か歪な印象を与えるのに引っかかりを覚える。

それに目の前の人物をこの都市の女王と知ってその部下を庇うのは頂けない。弱い者いじめを見兼ねて庇い立てたくなった、なんて子供らしい情動が理由なら良いが、この娘がそれが意味する所を理解してやったというのはアルシェイラの目から見て確定的であった。

要はこの娘は女王がどんな存在であるか正しく理解していながら、地位その物を重要視していない。

典型的な実力偏向型武芸者の思考だ、それもかなり行き過ぎた。アルシェイラの知る限り初対面でここまで不遜な態度を向けて来る武芸者は十二人しか居ない。

お転婆な所は歳相応と笑っても良いが、それで済ますにはリリウムという少女は完成され過ぎている。一体どんな境遇で育てばここまで歪で頑なに子供が成長するのかと俄然興味が沸く有り様だ。

 

 

そして最後に最も重要な、武芸者としての実力。

アルシェイラはふむ、と少し考える様な仕草で間を置き、パチンと指を鳴らした。

するとカシャンと儚い音を立てて、リリウムの両手首に嵌められていた手錠が崩れ落ちた。

 

「今の、見えたかしら?」

「……ご無礼を致しました。お許しを」

「いいのいいの。分かる様にやったんだしね」

 

まるで魔法の様な現象に違いなかったが女王本人にしてみれば何の事はない、剄技のちょっとした応用だ。

基本的にこの手の小技はアルシェイラにとって必要が無い故の不得手ではあるが、有り余る剄量というリソースを余人が見れば暴挙としか言えない程に無駄遣いすれば、真似事程度の体裁は整えられる。

刹那の瞬間、大叔父を凌駕しつつある自分の剄量が到底及ばない凄まじい圧力を見せ付けられたリリウムは、身体が己の意思を無視して臨戦態勢に切り替わるのを抑え切れなかった。

合格だとアルシェイラは口角を釣り上げた。並の武芸者ならただ指を弾いただけとしか思わなかっただろう、相応に優秀な者でも剄の残滓を辿ってそれが剄技だったと当たりを付けるまでが精々だ。

しかしリリウムは技の行使を目で捉えていた。それだけで相手の実力が即座に行動せねば対処にも当たれない物だと察し、状況と立場が許せば迎撃の態勢に移っていただろう。

間違いなく、奴らの同類だ。アルシェイラを最も苛立たせ、アルシェイラが最も必要とし、アルシェイラの最も愛しているロクデナシ(天剣授受者)共の。

 

これだから運命という物は分からない。リリウムという少女が現れたという事実はライヒハート家にとって余りに遅く、グレンダン王家には唐突過ぎた。

三王家とライヒハートの因縁は本来、多くに知られている物ほど浅くはない。時代が時代ならば、彼女の才能は王政を揺るがす劇薬になり得ていただろう。ライヒハートに鬼才が現れたのがアルシェイラの代であった事は、三王家にとってまさしく僥倖と言う他なかった。

 

「カナリス、私はこの子に話が在るわ。席を外しなさい」

「……私が側に居ては不都合がお有りでしょうか」

「ご先祖様の尻拭いになるかもしれないからね。知ってるでしょ? この子、ライヒハートよ」

 

そう言われてしまえばカナリスがこれ以上食い下がる事は不敬に当たってしまう。

実の所、ライヒハートの歴史には謎が多い。世に伝わる風評がさも当然の様に受け入れられているが、一方でそれが真実であったという確固たる証拠が殆ど残されていないのを知る人間は驚く程に少ないのだ。

在るのは断片的な記録のみ。まるで意図して虫に食わせた様な過去の秘匿は歴史を検証する者にとって、主君の秘密を暴く事なかれという迂遠な警告に他ならなかった。

恐らくこの時代に三王家が持つライヒハートの秘密を握るのは女王アルシェイラとロンスマイア家当主ティグリス、そして今は亡きユートノール家前当主、ヘルダー・ユートノールのみだったのだろう。

王家の隠すその真実がライヒハート側にどの様な形で受け継がれ、どの程度の精度を保っているのかは、カナリスには想像する事しか出来ないのだが。

 

「承知致しました。それでは謁見が終了するまでの間、私は周囲の警戒に当たります」

「要らないわ、私を付け回そうなんて骨の有る諜報員は君くらいしか居ないのだしね。一応デルボネに見張らせてあるから、カナリスは通常の業務に戻りなさい」

「……では、先にカルヴァーンにある程度の話を付けておきます。あの男の事です、デルボネ様が陛下の御用向きに伺っているとなれば、ティグリス様の下へ直訴しに向かい兼ねません」

「ああ、そう言えば放ったらかしなんだっけ……まあ良いわ、悪い様にはしないとでも言っておきなさい。この話はティグ爺も取り合わないから、文句は謁見が終わってから直接言いに来いと伝えておいて」

 

盗聴対策にデルボネを動員した。要は天剣授受者にも聞かせたくない話をこれからするという意味だ。

天剣授受者は女王に忠誠を誓っている。厳密に言うなら天剣授受者は諸々の個人的な事情から、他の王家亜流なりに肩入れしてアルシェイラの不興を買う事に欠片ほどの意味も存在しないのだ。

カナリスは三王家亜流からなるリヴァネスの武門出身である故それなりに微妙な立ち位置だが、それでもティグリスとデルボネという例外の枠組みから外されるとなれば大事であった。

 

「カナリス様、ありがとうございました。どうか大叔父の事をお願い致します」

「頼まれましょう。くれぐれも、陛下に失礼のない様に」

 

形容できない歪な違和感。カナリスはリリウム・ライヒハートという少女を測りかねていた。

そもそも女王の命に背くのを愚と理解しながら拘束したのも、この未知の感覚を無視する事に本能的な危機感を覚えての事だった。

武芸者としての実力に当りを付けられないのは良い。この少女は間違いなく自分と同じ領域に立つ者だ。年齢を考慮に入れれば驚愕と言う他無いが、レイフォンという前例が居る今では"そういう時代"だったのだとある種の納得の方が先に来る。

 

問題はこの短い観察の中でも察せられる、異常なまでの人間性の希薄さだ。

有無を言わさず連行したカナリスへ何の不満も見せず、向けるのは天剣授受者への敬意のみ。

それも強さや名高さへの尊敬なら分かるが、彼女のそれは公人としての目上の人物に対する礼節だ。そこに私人としての感情は存在していない。

自身への理不尽を単なる状況の変化として容認し、それを押し付けた相手が女王であれ天剣授受者であれ恐怖も畏れもなく、唯そうなのだと理解するのみ。

この少女は余りにも容易く己を殺し、故に自身に関わる事象への関心が薄い。まるで空気に話し掛けている様だとすら感じる。

ひた隠された感情は何を想い抱くのか、無表情の下に秘められた情動が何を求めるのか。この得体の知れない少女が天剣授受者に匹敵し、カナリスに刃を届かせ得るに足る武芸者という事実は、捨て置くには重大過ぎる懸案であった。

 

……とはいえ、既にリリウムの裁定は女王の手に委ねられている。

カナリスがリリウムにどんな懸念を抱こうともアルシェイラが直接関わると決めた時点で、それは些事であり杞憂だ。

結果は全てが王者の望むままになるだろう。ならばカナリスに出来るのは最終的な落とし所に少しでも波風が立たない様に用意をしておく事だけだ。

不本意な仕事は何時もの事だが、今回は殊更気が進まない。何せ天剣授受者が天剣授受者を相手に錬金鋼を抜くか否かの交渉に臨むなど、王命一つでどうとでもなるアルシェイラの代ではこれっきりの可能性すらある珍事だ。

天剣絡みとなれば実害を伴う問題も今まで散々見て来たが、それでも今回はとびっきりの貧乏くじであった。相手が天剣の中では比較的良心的だったカルヴァーンというのも一層カナリスの気分を暗くさせる。

これがサヴァリスのアホ辺りであればこの機会にどちらが上か教えてやるべく叩きのめしている所だが、カルヴァーンにそんな事をすれば致命的な確執を残すだけだろう。そもそも若輩のサヴァリスほど易い相手ではなく、間違いなく死闘になる。

最得手である力尽くが最低の悪手となった現状に悲壮な覚悟を抱きながらも、カナリスは己が使命を果たすべく部屋を後にするのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、まずは座りなさいな。前置きが長くなってしまったけど、君には色々と聞かなければならない」

「何なりと、陛下」

 

アルシェイラに促されたリリウムは一礼をしてから、肘掛のソファに腰を降ろした。

大きなソファは子供の体躯には不釣合いで、クッションの柔らかさで身体が沈む様子は思わず頬が緩みそうになるほど愛らしいが、アルシェイラは努めて平常を装った。

残念ながら、そんな和やかな空気で有耶無耶にしていい話ではないのだから。

 

「じゃあリリウム。君はなぜ自分がここに呼ばれたかは理解しているかしら」

「はい。私の父であるユリウスが天剣授受者、レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ様の暗殺を企てた為です」

「そう。そして君は、レイフォンを殺そうとしたユリウスの首を自分自身の手で撥ねた。その事実に相違は無いわね?」

「相違ありません。私が斬ったのです、陛下」

 

父親を手に掛けた事実を口にするリリウムが無機質な表情を崩す事は無かった。

しかし、その雰囲気に剣呑な物が混じるのをアルシェイラは見逃さなかった。何の事はない、如何に完成されたこの少女も、結局は年端もいかない娘だったというだけの事だ。

だが、そこに在るのは後悔や嘆きではなかった。在るのは苛烈なまでの使命感、そして道半ばにして全てを投げ打った父親への怒りだ。

人は自分が何者なのかを知る為に一生を掛けるとも言うが、この少女は既に自分が何をするべく生まれ育ち、何の役割に就くべきかを確固としている。

リリウムは人としての終着点に居た。残した負債を清算する事だけに余生を費やす老人の様な境地に、在るべき過程を無視して辿り着いてしまっている。

憐れむべきは、リリウムがそこに至れてしまうだけの才能が有った事だ。この少女は折れる事も、曲がる事もしなかった。完璧な器として届く事無く途中で壊れてしまえば、この子が父親を斬る事は絶対に無かったのだ。

 

「ユリウスは何故、謀反など起こしたのかしら。君たち親子の動向はそれなり以上に重要な意味があったからデルボネには定期的に報告をさせていたけど、行動指針は都市の安全を守る事に一貫していた筈よね?」

「……陛下は、狼面衆についてはご存知なのですね」

「王家に生まれたら必ず付いてくる責任の一つだからね。尤も、私やティグ爺は意図的にあれを"見えない"様にしている訳だけど」

「賢明な御判断だと思います。かの存在は人にとって毒性になり得る物です。容易く焼き払える塵だとしても、焼けば生まれる灰を吸い続ければ何時か身体に毒は回ります。毒は人の運命を、最も自分たちの都合のいい領域へと引き摺り込みます」

 

興味深い考察だと、率直にアルシェイラは思った。

始祖の末裔たる三王家とイグナシスの塵である狼面衆の関係は、誕生の経緯から歩んだ歴史、根源的な存在意義まで全てが敵対しているといって過言でない。

だがその三王家の頂点に立つアルシェイラでさえ、狼面衆との戦いに置いては第一人者ではないのだ。

今のグレンダンで最も長く、多くの狼面衆を斬っていたのはユリウス・ライヒハートだったのだ。そして次点が、その後を継ぐリリウムであるのに疑いは無い。

 

「つまり彼は、連中に唆されたという事? にわかには信じ難いわね。人の弱さに付け込むのが奴らの十八番だとしても、ユリウス・ライヒハートが十年以上も前から狼面衆と戦っていたのは事実でしょう。今さら付け入られる隙が有ったとは思えないけど」

「父は弱い人ではありませんでした。けれど、自分の持つ強さを自分では肯定できない人間だったのです。狼面衆とは父にとって敵であり、同時に選択肢でもありました」

 

そう、ユリウスには狼面衆に関わる上で三つの選択肢があった。

一つはオーロラ・フィールドを感知する自身の能力に無視を決め込み全てを無かったとする事、二つ目は都市を脅かす敵でありながら自分しか見つける事の出来ない狼面衆と戦う事だ。

 

ユリウスが選んだのは、この二つ目だ。当時のユリウスには自身が特別な存在である証明への欲求があった。

知られざる世界の真の敵と対峙し、自分の運命が世界の中心にあると実感したい。そんな浅はかな欲望がユリウスに身の丈に合った平穏を選ばせる事をよしとはしなかったのだ。

客観的に見ればユリウスの実力は天剣授受者に遠く及ばないまでも、本来なら三王家だけに許された察知能力を持つ点を踏まえて、世界の運命に関わる上で十分な物を持ち得ていただろう。

 

問題はユリウスの人間性だ。言ってしまえば、彼の気質は武芸者向きでは無かったのだ。

努力に伴う苦痛への耐性はあったが、それは苦痛から逃げた先にもっと大きな苦労があるのを知っていただけであり、結局はルーチンワークに浸かりきった現代人の性質が訓練の効率化に一役買っていたに過ぎない。

挫折を知る以前のユリウスは訓練に夢中になっていたが、それは強くなる自分とその達成感に満たされていただけなのだ。

そんなユリウスが誰に知られる訳でもない孤独な戦いなど、長く続けられる道理は無い。仮に彼が挫折を知らないまま狼面衆との戦いに明け暮れていたとしても、何れは摩耗し道半ばで心を折られていただろう。

ユリウスの抱えた最初の矛盾は、娘を伴い再び狼面衆と対峙した時になっても矛盾したままだった。

――――そして矛盾は矛盾を呼び、ユリウスに三つ目の選択肢を選ばせてしまった。

 

「狼面衆側に付く事は常に頭に在ったって事? それこそ分からないわね。ユリウスは自分の行動がデルボネに監視されていたのは知っていた筈。あの隠密性は確かに脅威だけど、プラスで頼りない人手を借りられるとして、そんな物で得た一時の栄光に意味が無いのは理解していたでしょうに」

「父にしても本来ならばこの選択は最も下策としていた物でしょう。父は狼面衆以上に自分自身の力を何より信用していませんでした。狼面衆の特異な能力に自分の実力が加わろうと、何かを成せるなどとは露ほども考えてはいなかった筈です。逆に言えば、だからこそ父はかの者達と敵対し狙われたとしても"その背後に居る存在"に縋る事はしませんでした。臆病なまでの自身への不信は、同時にかの存在たちへの何より頑強な鎧でもあったのです」

 

ピクリと、僅かにアルシェイラの眉が釣り上がる。今のリリウムの言葉の中に決して聞き逃せない一点があったのだ。

しかしまだ話を中断させはしない。女王として帝王学からなる深い教養を持つアルシェイラは臣民の心がどれだけ難解な物かを理解している。

自分で自分を弱いと思っている武芸者の考えなど尚更だ。自分には一生掛かっても理解する事が出来ない物だと割り切ってすらいる。だからこそ此度の一件は自分の憶測で済まさず、当事者である少女を招いたのだから。

 

「父は栄光に縋ったのです。母を亡くした父に頼れる物とは、自分が自分であると証明出来るのは、それだけしかありませんでした。自分一人なら思い出を胸に諦観を生きたでしょう。ですが、父は私という剣を手に入れてしまった。己の血を分け与えた娘が世界の救世主足りえる。その為だけに父は天剣を欲し、ヴォルフシュテインの座からレイフォン様を退けようとしたのです」

「だとしたら、私も甘く見積もられたと言う他無いわね。いくら君が天剣を持つに不足が無かろうとも、張本人が雲隠れした程度で謀反人の娘にやすやす天剣を与える気にはなれない。リヴァネスの爺さま方を黙らせるだけでも安くはないし、他の天剣も全員が無関心ではいない。確実に内憂の種になっていたわね。もしレイフォンが本当に死んでいた場合、君を抱える事はリスクが実益を遥かに上回っているわ」

「いいえ、父には勝算がありました。私自身が謀反に一切関わらず、陛下への叛意が無ければ。私の力を十全に発揮させる為に陛下は天剣を貸し与えると、父は半ば確信して行動に踏み切った筈です」

 

チリ、と。アルシェイラの脳髄に随分と懐かしい感覚が蘇った。

まだ自分が物心付くより前は何時も感じていた感覚、自分が倒す為に生まれた敵の手下共をまだ目で捉えていた頃に在った感覚。前王やティグリスから王家の存在する本当の意味を教えられた時に胸中で疼いていた、この感覚。

これは最も濃い血を持つ武芸者の本能だ。アイレインの因子を最も濃く受け継ぐアルシェイラの身体が、リリウムという少女に惹き寄せられている。

リリウムの持つ運命が、アルシェイラの運命と交わろうとしていた。

 

「父は言いました。近い未来、月より大いなる災厄が降り注ぐと。汚染獣や狼面衆などではなく、我々武芸者が本当に打倒せねばならない敵とはそれであるとも。そして大厄の到来を狼煙として創世に纏わる者達と、王家の祀る武芸者の原点たる存在の顕現が成されると――――ッ……!?」

 

 

 

 

 

 

「一度、黙りなさい」

 

 

 

 

 

 

自身に襲いかかる凄まじいまでの殺気に、リリウムは指一つ動かす事も出来なくなっていた。

自分の身体に何が起こったのかを理解するのに数瞬を要する程の圧力。その発生源がアルシェイラと分かっても、直視する事を意思を無視して身体が拒んでいる。身体中から熱が奪われ、血液が凍り付いたかのように冷たい。

リリウムは己の迂闊さを悟った。自分にとっては全ての前提にある知識であるが為に、厳重に秘匿されるべき物であっても、女王の逆鱗に触れるほどの物とは認識していなかった。

もはやリリウムは平伏する事すら叶わず、生殺与奪の全てを女王に委ねられていた。

これが女王。これが、アルシェイラ・アルモニスという存在だったのだ。

 

「お前は知り過ぎている。それは狼面衆から聞き齧った程度の情報ではないわね? ライヒハートの創始者が子孫に残した物だとしても、余りに具体性があり過ぎる。答えなさい、お前は何を知っている。お前の父親はどうやってそれを知り、どこまでの事を知っている? 狼面衆側に付いてまで本当にやろうとした事は、一体何?」

 

ユリウス・ライヒハートが握っていた情報は、紛れも無く王家のアキレス腱に相当する物だった。

これ程の秘密を知りながらイグナシスの尖兵に加わったのが、まさか娘に天剣を与えてやりたかったからなんて生易しい理由で済む筈がない。

そして、アルシェイラが懸念していた最悪の状況が現実性を帯び始めていた。

 

ユリウスが狙ったのがレイフォンであれば、それはそれで構わなかった。

天剣授受者など狙われているくらいが丁度良い。替えの効く戦力とは訳が違うが、だからこそ暗殺などで死ぬならその程度でしかなかったという事だ。

だが狼面衆に与したユリウスが本当に狙ったのが、レイフォンでなかった場合。天剣授受者など物のついででしかなく、ユリウスの本来の目的が、その時レイフォンの隣に居た幼馴染の少女だったのならば。

それはアルシェイラにとって最も忌むべき、最も恐るべき策謀を企てられていた事になる。

 

リリウムの身体は感情を無視して小さく震え、縺れる舌を懸命に動かそうとした。

喉を通って出る声はか細く小さくなろうとも、己の使命を放棄する事だけは許されなかった。

 

「……分かり、ません。分からないのです、陛下。父の秘密主義は娘である私にも全てを教えはせず、前提となるこの知識だけを私に渡しました。父は抽象的な表現を多様し、私たちの敵を俗称的に例え、本来の名を口にする事は滅多にありませんでした。ただ――――」

 

アルシェイラは無言で続きを促した。

小さな少女に向ける、物理にさえ干渉する剄の圧力は決して緩める事はしない。

自身の認識が甘過ぎたのだとアルシェイラはようやく理解した。汚染獣の事など他人事だとばかりにアルシェイラの座る王座を欲しがる俗物共などより、天剣を得ただけでは足りぬと何時かアルシェイラに磨いた牙を向ける事を望む狂犬などより、この少女の父は遥かに油断して良い相手ではなかったのだ。

愚かだったと言う他無いだろう。誰より強く、誰より世界の真実に近い場所に居るという自負に胡座をかき、喉元に刃を突き付けられているのをまるで理解していなかった。

予感はあった、予測もしていた。しかしここまで想定した最悪の、さらに先に進まれていたのは完全に予想を外れていた。

 

己の膨大な剄を活剄に、らしくもなく意識して十全に廻らせる。

視覚と聴覚へ集中力を最大限に高め、リリウムの僅かな仕草から心拍数、微かな声の揺れまでを観測する。

力技も良い所だが、これにアルシェイラの女王としての見識と天性の勘が加われば、武芸者の虚言を見抜くのにも一切の不足はない。

そしてリリウムは、それを口にした。

 

「我々の戦いは、所詮アイレイン・ガーフィートとイグナシスの戦いの延長線でしかないと。イグナシスがアイレインに倒されるべき存在でしかないのなら、大厄を迎え討つグレンダンもまたアイレインの代行者に過ぎないと」

 

それは分かっていた事だ。

創世は戦いの過程の一つでしかなく、決着は未来へ持ち越された。

グレンダンの役目は何時かアイレインとイグナシスの永き戦いに終わりが訪れた時の為、この世界を作り人に生きる為の術を与えたサヤを守り続ける事だ。

アイレインが勝てば、現世に武芸者の祖たるサヤの守護者が降臨し、イグナシス勢力の残党を狩る掃討戦に移れる。

 

もしアイレインが敗れイグナシスが現世に降り立ったとしても、まだグレンダンにはサヤが居る。

その時の為にグレンダンは強き武芸者を集めた。よりアイレインの因子を濃く持つ者同士で子孫を残し、理想とされる存在に少しずつでも近づけ、気の遠くなる程の時間と労力の果てに第二のアイレインを完成させようと決戦の時に備えた。

天剣授受者も結局はその目的の過程で副次的に揃う物でしかない。グレンダン史上最強の武芸者であるアルシェイラでさえ、最も重要な要素を欠く為に完成まで届いていないのだ。

だが、後一手で届く所までは来た。ヘルダー・ユートノールの愚かさが最後の一手を目前にして遠ざけたが、それでもグレンダンはイグナシスと戦える所まで届いている。確実を期すか五分の賭けに出るか、その程度の差異にまで距離を縮めているのだ。

 

「ですが月に封じられた物全てを倒しただけでは、最早この戦いは終わらないと父は考えていました。イグナシスの死そのものは然程重要な意味は持たず……いえ。或いは既にイグナシスはアイレインに打倒されていると、父は確信していた様にも思えます」

「イグナシスが、死んでいる? 月は未だ健在だし、汚染物質は依然として月より降り注いでいるわ。月での戦いに終止符が打たれたのなら、どちらかが目に見える形で変わる筈。そもそもアイレインの勝利を確信していたのなら尚更ユリウスが狼面衆に肩入れした理由が分からなくなるわ」

「……私にはこれ以上を推測する事しか出来ません。イグナシス本人が消え去ったとしても、イグナシスの遺物は厄災として世界に残るのだと思われます。アイレインの現世への降臨は、同時に月に繋ぎ止められた物の一斉開放を意味します。アイレインは機を待たざるを得ない、父はそこに隙を見たのでしょう」

 

ユリウスはあくまで狼面衆を利用する気でいたのか、それとも思考を侵されイグナシスの走狗と成り果てていたのか。

リリウムにそれを知る術は無い。ユリウスの計画をリリウムが察知した時には全てが遅過ぎた。

あの場で斬らねば、狼面衆の亜空間増設技術を得た父を捕捉する事は二度と叶わなくなっていただろう。

狙われるのが自分であれば良かった。だが父の狂気に、自分たち家族の過ちに、他人を巻き込むなど。あの仲睦まじく肩を寄せ合う少年と少女が命を付け狙われる事になるなど、絶対に許される筈がない。だからリリウムは斬った、あの場で斬らねばならなかった。

そうでなければ、斬れる訳が無かった。

 

「マスケイン家の末男、そして獄炎の餓狼。私が討つべきと定めた敵を、父はそう呼びました」

「マスケインの男、つまりこの世界の住人という事? 獄炎の餓狼はイグナシス側の兵器か……いえ、電子精霊なり廃貴族だと思ったほうが妥当なのかしら。何にせよ、そんな物は聞いた事もないわね」

「確かなのは、その両者を打倒しない限り本当の意味でイグナシスの脅威を根絶出来ないという事です。恐らくその存在が意味する本当の理由は狼面衆も知らない事なのでしょう。イグナシスの敗北が濃厚である現状、マスケインは我々が勝利を確信したその時、背後を突くべく行動を開始すると考えて凡そ間違いは無い筈です」

「……ユリウスは、マスケインがグレンダンやアイレインの喉元に喰らい付く程の存在だと認識していたって訳ね」

「無礼を承知で申し上げれば、大厄との戦いで疲弊した所を突かれれば陛下とて即座には対応出来ないと判断したのでしょう。陛下や始祖をも窮地に陥れる大敵を、娘である私が討ち倒す。父の当初の目的は其処に在った筈です」

 

全てが憶測、想像の域を出ない。

しかしユリウスが遺した物は余りも大き過ぎた。それはリリウムの身には余る物だった、人生の行く先を定めれてしまう程に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、君はこれからどうしたい?」

「……私の処遇のお話でしょうか。如何様にも陛下の御意思に従う所存であります、なんなりと」

「勿論、君をこのまま釈放する訳にはいかないんだけどね。私が聞きたいのは、父親を斬った上でまだ戦う意思は有るのかって事」

 

全てを終わった事として裏側の世界から身を引くのならそれでも構わない。

父親の目的の為に刃を振るってきた少女だ。父の死と共に戦う意思も失ったと言うのなら、今後の面倒は自分が見るのも吝かではない。

リリウム個人は、言ってしまえば王家の都合に巻き込まれたに過ぎない。ユリウス・ライヒハートが王家に弓引く大逆人であった事に疑いはないが、少女はその手で以って王家への忠誠を示したのだ。

世界の命運と天秤に掛けられる物ではないとしても、リリウムが父親を失った責任はアルシェイラにある。それを口封じの為に年端もいかぬ彼女をどうこうしようなどと、許される事ではなかった。

 

知り得る情報の度合いからすれば軟禁生活は已む無しだが、底辺貴族である実家の財産を切り崩すなり武骨者のカルヴァーンに任せるなりするよりは、余程優雅な暮らしをさせてやれるだろう。

何より、この美しい少女を手元に置けるとなれば私財を投じても出費の内には入らない。問題はやはりカルヴァーンだが、王家の問題という大義名分がある以上、この手の諍いの時に緩衝材となるティグリスもアルシェイラ側に付くしかない。

元より何事も無かったとリリウムを親戚筋に返す事など不可能だ。カルヴァーンとの衝突はユリウスが行動を起こした時点で避け様もない。まあ、必要な労力だと割り切るのが落とし所だろう。

 

 

だが、この少女にまだイグナシスと戦うつもりが有るのならば。

正直な所、アルシェイラとしては望むのはそちらの方だ。天剣級の武芸者だというのも在るが、何より対狼面衆用の戦力が今のグレンダンには致命的に存在していない。

 

ユリウスを今の今まで好きに泳がせていたのも、結局はそれが理由になる。連中が原因の被害も馬鹿に出来た物ではないのだ。金が掛かるのもそうだし、人的被害など容易く取り戻せる物ではない。

色々と怪しい点は在ったが、やはりユリウスは稀有な人材だったのだ。その即応性はデルボネをも凌駕していたのだから、こと狼面衆相手に限っては世界屈指とさえ言えただろう。ユリウスが所帯を持ち活動を休止させた時など被害の数が目に見えて増えた物だ。

別に契約が在った訳でも報酬を支払っていた訳でもないのだが、当時の事に関しては一言文句を言いたくもなる。

捨て置いても特に大きな問題は無い実力、そして狼面衆に近い得体の知れない男に関わるのを避けるのを理由に不干渉を通して来たが、こんな事になるのならもう少し慎重に扱うべき事柄だったと思うのも已むを得ないだろう。

 

今ある狼面衆に即応できる戦力と言えば、クラリーベルとミンスの二人だ。

だがアルシェイラからするとクラリーベルは今ひとつ期待出来ずにいる。継承したアイレインの因子は合格ラインだとしても、気質が自分の求めている物とは微妙に異なっていた。

言ってしまえばヌルいのだ。やや過剰な向上心や戦闘狂の傾向は結構だが、それが趣味嗜好で留まっている内は貴人の傲慢に過ぎないだろう。アルシェイラが欲しいのは、そういう物が渇望や生き方その物なっている様なクソッタレ共だ。

ミンスはそもそも評価に値しないが、女王の目線から見ればクラリーベルも五十歩百歩だ。頼んでもいないのに手当たり次第に狼面衆を食い散らかしていたユリウスと同程度の戦果を今の二人には望めはしない。

 

「君を私の監視下に置くのは決定事項。もう覆らないわ。向こう側へ二度と関わらないと誓うならば、今後の生活に一切不安は与えないと約束しましょう。けれど、君たち親子が退く事で狼面衆に対応する人間が居なくなるのもまた事実。君にその気が有るのなら、王家として可能な限りの支援をするわ」

「……ありがとうございます、陛下。罪人の娘には過分なまでのご配慮、感謝の念に堪えません。ですが、その前に一つお聞きしたい事がございます」

 

リリウムの瞳には、覚悟の火が灯ったままだった。

アルシェイラは頷いで続きを促す。嫌な感覚だった。最高に厄介な面倒事の前触れだ、これは。

 

「父の遺体がどうなったか知りたいのです。陛下のご指示で内密に運び出して頂けたのでしょうか」

「……明日までにカルヴァーンを呼ぶわ。父親に会いたい気持ちは分かるけど、今はそれで我慢して貰えないかしら」

「違います、陛下。運びだされた父の身体は、まだ残っていますか? 私が落とした首は見つかったのでしょうか。それが知りたいのです」

「何ですって? ――――デルボネ!」

 

リリウムの言わんとする事を理解したアルシェイラが虚空へ鋭く声を放つ。

すると部屋に淡い輝きを放つ光の蝶が舞った。リリウムに何の気配も察知させずに現れたのは、天剣授受者デルボネ・キュアンティス・ミューラの使役する念威端子だった。

 

『ええ、把握致しました。安置所に運び込まれた所までは確かに確認したのですが』

「この娘の言う通り、失くなっている?」

『……煙の様に消えたとはこの事ですね。まるで初めから存在していなかったかの様です』 

 

穏やかな老女の声にも、普段には無い緊迫とした雰囲気が隠し切れていなかった。

狙われた対象が対象だけに、後処理は迅速に行われた。しかし、その男は既に死んでいる。そう思っていたその隙を、これでもかと言う程に突かれたのだ。

こうもあからさまな行動にも関わらず一切の痕跡を残さないなど、狼面衆でしか有り得ない。しかもデルボネの索敵網を掻い潜ったとなると、ユリウスの回収は余程入念な下準備の上に計画されていたと考えるべきだ。

 

「やはり……予感は在ったのです。身に纏う狂気に比して、余りに容易く手応えが無さ過ぎました。自身の生き死にすら興味を失ったのかとも思いましたが、そもそも自分の命に保険を掛けていたとすれば」

 

それは正史において、絶対に有り得ざる可能性の一つだった。

本来選ばれた者だけが手にする真実を、踏むべき過程も踏まずに十全に理解し。世界の命運を決すべく各勢力が巡らせる策謀の顛末を、答えだけ抜き取った様に全て知る男。

浅はかにも、その資質を救世の為にと足掻くのなら救いは在った。その半ばで男の愚かさ故に生まれる筈の無かった損害を世界が被ろうとも、不確定な未来とはそういう物だった筈だ。その男は今、世界にとって最大最悪の敵となった。

冒涜だ。男が抱いた最初の野心にも、歩んだ道での後悔にも、後悔の先に見つけた希望にも、その全てに唾を吐きかける最も下劣な行為だった。

 

「父は、ユリウス・ライヒハートは生きています。私は斬らねばなりません。父と、父を追った先に待つマスケインの存在を。私はまだライヒハートの業を捨てる訳にはいきません」

 

転生者、ユリウス・ライヒハート。

この世界に置ける最もたる異端である男は正真正銘、倒されるべき敵となってしまった。

 

 

 

 




まだ生きてます、作者もユリウスも。
どう見てもエタってる状態からおめおめと戻って参りましたが、ここまでお付き合い頂けた方には本当に感謝しか御座いません。

ブランクが有ったりなんだったりで、今回はもう厨二部分もガッツンガッツンぶち込んで書きたい様に書くしかないと開き直って次回への繋ぎとしたのですが、クドい暗い無駄に冗長と自分の悪癖の集大成みたいになってしまっています……
読み手の耐性に賭ける、というのは本当に申し訳ないし無念ですが、これだけドン底まで落としたので徐々に日常とかで明るくしていけたらとは思ってます……思ってるだけじゃ駄目なんだよなあ(汗

今回からはトゥルールート的な流れだと自分では思ってます。
ユリウスが主人公だったら最後の方で微妙に触られる程度の設定が、分岐直後から胸焼けするくらい出てくるみたいな。

※タグ追加しました。不慣れで警告として機能してるか正直かなり不安なので、不足がありましたらご指摘頂ければ幸いです。


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閉幕.ライヒハート

グレンダン市街地郊外、その最も外縁部に近い住宅地。

この地区はかつて約百年ぶりに都市計画法が見直された際に、市街化区域の区分を外された場所だ。

アルシェイラが王である現代では稀である物の、それ以前は引き下げられた最終防衛線と重なる事が度々あったこの場所は、市民の生活圏としては不適格であるとして他区域からの移住を禁止されたのだ。

この場所に残されているのは住人が去り草臥れ切った家屋に、当時は僻地ながらも商店街として機能していた廃屋の群ればかりであった。

 

そんな廃墟の街を夜、一人の老人が歩く。

頭頂部は禿げ上がり、残った腰まで伸ばした髪と同等の長さの顎髭の真っ白さは、刻まれた深い皺と併せて老人が一目で察せられる以上の高齢である事を窺わせる。

しかし、それらが老人を見窄らしく見せているかと言えばそうではない。老人らしからぬ長身は腰の曲がる事なく伸ばされた背筋による物であり、見る者が見ればゆったりとした着流しの上からでも未だ肉体が屈強さを失っていないのを見て取る事が出来る。

威風堂々とした佇まいは貴人特有の気品に溢れ、重ねられた年輪によって厳かとも言える雰囲気を醸し出していた。

普段の好々爺然とした表情がなりを潜めた今のティグリス・ノイエラン・ロンスマイアをグレンダン国民以外が見たのならば誰もが思う事だろう、この人物こそが都市を治める王ではないのかと。

 

「……此処か」

 

風化し崩れかけた街道を踏みしめながらティグリスが訪れたのは、廃墟群に隣接することなくポツンと立つ一軒家であった。

この建物が他の建築物と違うのは明かりが灯されているのが外から分かる様子と、家屋にも多少なりとも人の手が入っている事が伺える所である。

この地区には、こうした不自然な建物が幾つか見受けられる。それは何かしらの理由によって未だ此処に住む人間が居るという事だ。

建造物の崩落の危険から行政府は地区への侵入を止める様にと注意を呼び掛けているが、そうでなくとも汚染獣の脅威に曝された場所に好んで行きたがる人間などまず居ない。

 

――――要は隠し物をするにはうってつけの場所という事だ、王政府にとって。

王家の落胤として生まれた子、政争に敗れた大貴族、歴史を紐解く中で多くを知り過ぎてしまった学者、都市機関部の修繕に関わる内に見てはいけない物に気付いてしまった技術主任。

そんな者たちがこの場所から一歩も出ることなく一生を過ごすならば、最後の情けとして命は保証される。誰に望まれる事もない終焉の地が、この街だった。

 

 

ティグリスが静かに扉をノックすると、中から家主である人物の足音が近付いて来る。

ベルが無いからと軒先で声を上げる様な無粋な真似はしない。ティグリスが今日この場所へと足を運んだのは極秘の一件であり、それを知るのは女王とデルボネのみである。

『不動の天剣』たるティグリスの能力を以ってすれば尾行の可能性など万に一つも無いが、この都市にはそんな理屈の抜け穴を付くのを何より好む鼠が潜んでいる。

王家の敵などと言った所で何が出来るかというドブネズミでしかないが、穴蔵ごと叩いた所で蜥蜴の尻尾ほどの痛手にもならない生き汚さ故に歴代の王を泣き寝入りさせて来た難物でもある。

 

狼面衆。ティグリスがよく知る連中は、にわか剣術を引っ提げ意気揚々の孫娘に追い立てられる程度の実力でしかない。

だが狼面衆の数少ない取り柄である実益に繋がる事の少ない諜報能力は、面倒この上ない事に部分的にはデルボネに匹敵しかねない領域に在るのだ。

しかも連中はデルボネがグレンダンへ辿り着く遥か昔から都市に根付き、彼女がグレンダン中央の諜報対策へ関わる以前から付くべき穴を熟知し、その手法を確立している。

業腹極まりないが、機密を守るという事において狼面衆に取れる対策は殆ど無い。それこそ三王家当主とその側近中の側近だけが腹の中に留めておく程度が一番の方法になってしまうのだ。

この一件にしても恐らくはティグリスが動いた時点で、それを嗅ぎ付けた連中はどこからともなく様子を伺っている事だろう。

 

しかし、だからこそティグリスは秘密裏に、同時に堂々と単身この場へと赴いたのだ。

狼面衆にはこの都市で最も怖い物が幾つかある。一つは自身らを感知する事すら叶わぬ癖に、誤って触れよう物なら羽虫を払う如く己を薙ぎ払う天剣授受者。

次に狼面衆の気配を察知するや否や、我先にと大鎌を抱えて首を刈り取りに現れるライヒハートの一族。グレンダンの歴史上でも有数の狼面衆殺しであった今代は倒れたが、その娘にしてライヒハート史上最大の鬼才が健在である以上、その脅威に差したる低下は望めていないだろう。

 

そして奴らが何より恐れているのがグレンダン三王家、とりわけティグリス・ロンスマイアその人である。

天剣に相応しい実力とオーロラ・フィールドへの知覚能力を両立した数少ない人物であり、早くから感知能力を封じる事に努めた現女王より遥かに狼面衆への対処に当たった人物である。

不死の能力を得ながら死の恐怖を克服出来ない狼面衆は、刃を突き立てられた時に最も死を感じさせる者こそを恐怖する。

若かりし頃は暗躍する狼面衆へ、策を以って頭から叩いていた時期も在るのがティグリスだ。時間の概念が無い故に当時を忘れていない狼面衆に対しては、この一件にティグリスが関わっていると分からせる事が何よりもの抑止力となる。

 

 

扉を開け中から現れたのは一人の男だった。

男はティグリスの姿を確認するや否や。その白髪交じりの頭を深々と、そのまま平伏するかという程にティグリスへと下げた。

 

「お待ちしておりました、ティグリス様。この様な場所までご足労頂きまして、何とお詫び申せばよろしいか……」

「よい、お前を呼び立てるよりは何かと都合が良かったまでだ。中へ上げて貰おうか、外はどうもドブネズミどもの足音が煩わしくて敵わん」

「……成る程、仰る通りかと。どうぞ、こちらへ」

 

家主は遠目に見える廃屋群をちらりと一瞥すると、頷いてティグリスを屋内へと案内した。

――――その時ゆらりと、廃墟群の闇で影が蠢いた。家主が視線を外すのと同時に、ティグリスの気配察知の呼吸の合間を潜る様に、影は誰に気付かれる事も無く闇から闇へと居場所を移す。

しかしティグリスも家主も、それを五感ではない別の感覚で確かに捉えていた。今この場に在るのは一人の例外も無く、そんな世界で生きる人間のみであったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ティグリスが招かれた一室は質素極まる部屋であった。

テーブルと椅子が在り、それ以外は生活の上で利用する最低限の道具がちらほら見受けられる程度だ。

部屋がキッチンと隣接しているのはそもそも客間など存在する間取りの家では無い為であり、ここにティグリス程の人物を通すのは中々の勇気が要る事であるのは確かであった。

 

「粗末な物ですが、宜しければ」

「茶か、頂こう」

 

キッチンから出てきた家主が淹れた茶をティグリスは玩味する様に口に含んだ。

カップもポットも、このあばら屋と同じく質としては最低限以下の物。それしか手に入らぬ生活だと言うよりは、男の無頓着さこそがこういった物を選ばせているのだろう。

しかし茶葉だけはそれなりに上等な物であるのが分かった、男にとって拘りなのだろう。それが、まるで自身を皮肉る様に価値の低い物に埋もれながら朽ちて行く男の、最後の人間らしさを垣間見させられた様な気にさせられる。

 

「こうしてお前が淹れた茶を飲むのは、お前が尻の青い小僧だった時以来か。テオドール」

「まだ、憶えておいでに御座いましたか」

「忘れて貰えると思ってか。儂に泥水を飲ませた不届き者など後にも先にもお前しか居らんのだからな。それをさも当然の様に飲む、茶の味も知らん阿呆も一人だけ居たが」

「……ええ、懐かしい。私の前では茶など一度も飲んだ事のない父が慌てて一式揃えたのですよ、あの時は。私も初めて自分で淹れた茶の不味さに一口飲んで残りは窓の外にひっくり返してやりましたが、父はあれを飲んでいましたか」

「普段から優雅に暮らしていますと言わんばかりにな。よくもまあ舐め腐りおってとその場で打ち首にしてやろうかと獲物を抜きかけたが、あれが奴なりの精一杯の見栄だと分かって此方が虚しくなったわ」

 

呆れ果てながらも何処か昔を懐かしむ様に目を細めるティグリス。

それに釣られる様に男も苦笑した。その自嘲めいた笑みに、ティグリスは僅かなりとも感じる憤りを自覚せざるを得なかった。

それは自分の価値を貶める事に慣れ切った男の顔であった。この一族を古くから知るティグリスにとって、彼の諦観は逃げ以外の何物でも無いと思えた。

 

「つくづく貴様らライヒハートは粗忽者の家系よ。誇るだけの武を持ちながら、誰も彼もが後一歩に及ばん」

「仰る通りです。しかし我が一族にとって、それは定めとも言えるかと。遠き祖先が国王陛下より賜り今に至るまで受け継がれ続けて来た責務は、凡俗の身にとって余りにも重荷です。己の行く末を見つめる目さえ曇らせ、誰もが暗愚に成り果ててしまう程に」

 

テオドール・ライヒハート。それが、この男の名前であった。

つい先日、王家への叛逆人として認められたユリウス・ライヒハートの実父。そしてリリウム・ライヒハートにとっては今や残された親族の中で最も近い血縁となってしまった祖父だ。

息子に家督を譲って以後、テオドールはユリウスにすら自分の近況を知らせる事なく暮らしてきた。この荒廃した土地で、まるでユリウスから身を隠す様にしながら。

 

「恨み言が在るのならば聞こうか。今さら、お前に不敬だどうのと言う気は無い。お前には儂を恨む理由もあれば権利もあろう」

「……恨むと言うのであれば、それを王家の方々に向けるのは筋違いと言う物でしょう。負の感情を向けるには、私たちにとって王家は遠すぎる存在でした。我々はただ己の出自に翻弄され、囁かれる醜聞に焦燥感のみを育まれ。それを払拭すること叶わず責務のみを次代に受け渡して来たのですから」

 

テオドールは自分の口にした通り、ティグリスに怒りも憎しみも向ける事は無かった。

あるのはただ諦観のみ。これこそが、ライヒハートに生まれた者の成れの果てであった。ユリウスが味わった物が挫折と絶望であれば、テオドールが最後に抱いた物は諦観と虚無感。

何の事は無かった。特異な視点と感性を持つと自負していた転生者も、所詮は受け継いだ立場と資質という、破滅を約束された血に呑まれたに過ぎなかったのだから。

ライヒハートとは、ただ繰り返す一族であったのだ。

 

「父と祖父は、私とは比べ物にならぬ優れた武芸者でした。祖父は苛烈だった。己の武が天剣に至る物でなくとも、ライヒハートの処刑鎌は王家の敵を狩るに不足なき物であると。自分は用を為さぬ鈍らではない、世に蔑まれてきた一族とは違うと、彼の者達を屠り続け……最期は祖父を恐れた彼の者達に、毒による暗殺を受けました」

 

テオドールの代からして先々代のライヒハート家当主。衰え切ったと思われていた血から生まれた、当事者達にとってすら青天の霹靂の実力者であった。

その才能も天剣に届く物ではなかった。しかし長い時を蔑まれ続け、それに慣れ切ってしまっていた家の空気は先々代にとってさぞ窮屈だった事に想像は難くない。

出来る筈がない、認められる筈がない。そう思う事に理由すら必要としなくなっていたライヒハート家の中で先々代が感じた焦燥は如何ほどの物だっただろうか。何かを為さねば、確かに存在する己の武が無価値の中に呑まれてしまうのだと。

 

先々代にとって、まさに狼面衆はこの上ないまでにうってつけの相手だっただろう。それに縋るしかない程に。

己の実力を以ってすれば容易く薙ぎ払える故に、特異な察知能力を持ちながら数の脅威に対抗する手段を持たぬ故に手を出せずにいた以前の当主たちとの明確な違いを証明出来る。

光差さぬ暗闇の中に降って湧いた光明に、飢えた獣の如く牙を突き立て喰らい付く。それが先々代の生涯だった。

しかし狼面衆との戦いに傾倒したが為に、その武勇が決して人に知られる事の無い物として幕を閉じたのは最大の皮肉だったか。

 

「父は祖父よりも周到な野心家でした。祖父によって示唆された再興の可能性に魅せられ、彼の者たちとの戦いを祖父より引き継いだのです。父は祖父の行いによって、ただ戦うだけでは己の望む栄光に手が届かないと理解していました。祖父の才が三代に渡って続けば――――いえ、もし仮に我が息子があれ程の才を持って生まれると予見する術があったならば。破滅を約束されていると分かっていて尚、あの仮面を手に取る事はしなかったでしょう」

 

「だからか? お前が、息子に伝えるべき事を伝えなかったは。お前は狼面衆に取り込まれた父親に刃を向けられ、あの男を手に掛ける事でしか儂はそれを止められなんだ。それは、我ら王家が課した責務を放棄させる程に重かったか」

 

ティグリスの脳裏には、嘗て自分が心臓を撃ち抜いた男の最期が思い浮かぶ。

それはティグリスが今の今まで己の胸中のみに直隠し続けた事実であった。この事を知るのは当事者のテオドールだけであり、デルボネでさえ全ての経緯を知っている訳ではない。

目を掛けていた男に裏切られ、自分自身の手で始末を付けるしかなかった苦い過去。その感傷に浸るのを、王家としての役割を果たし続ける自分の最後の我侭にしようと、現女王にも凡そを語る事はしなかった。

 

それらが巡り巡って、現状を招いてしまった。

二代続いて傑物を輩出したライハートへ期待を持った事、あれ程の武芸者が狼面衆に取り込まれたのを見てとうとう自身の感知能力を封じると決めた事、再び衰退の一途を辿ると予想されたライヒハートをテオドールに任せきりにした事。その全てが尽く裏目に出た結果だ。

どれか一つでも歯車が欠けていれば、ユリウス・ライヒハートというグレンダンにとって未曾有の敵が現れる事など決して無かっただろう。

 

「ティグリス様に目を掛けられる栄誉を得た時こそが父にとって、まさに人生の絶頂だったでしょう。絵空事に過ぎなかった己の夢が現実となると。少なくとも、父はティグリス様からの信頼を疑った事は一度として無かった」

 

自分の持つカップへと視線を落としながら、静かに語る。テオドールはティグリスの質問から逃げ、過去の己と向き合うのを恐れていた。

古くから続いた一族の中にあっても最も異端であった先代、そして次代に挟まれた男の、見るも無残な弱り切った姿であった。

 

「……ああ、そうだろうとも。一世代前に生まれていたのなら、まず間違いなく右腕として側に仕えさせていた。それ程までに信頼していたし、期待もしていた。ライヒハートの始祖が当時の王と共に定めた在り方へ、ようやく戻る事が出来るのだと儂は思っていた。近くライヒハートの者が我が子らにとっての導き手となる時代が来るのだと、あの男がそうさせるのだと信じていた」

 

長くライヒハートを見続けたティグリスにとって、その男との出会いには少なくはない驚きが同時にあった。ライヒハート家の当主の座に在る者が必ず漂わせる、卑屈さや後ろめたさといった物をまるで感じさせなかったからだ。

時折感じさせる強い野心など、寧ろティグリスの期待を高める要因にさえなっていた。

 

ライヒハート家に生まれた者は当主の任に就く時、始祖から受け継いだ重大な秘密を先代当主より聞かされる事となる。

その秘密こそがライヒハート家にとっての呪いであり、不治の病であった。始祖が定めた一族の役割を知る時こそが、彼らにとって未来を諦める瞬間だったのだ。

自分の代でこそライヒハートを終わらせる。当主となるまでにそう考えた者は数えきれぬ所か、殆ど全てがそうだった筈だ。

しかし出来なかった、出来る筈が無かったのだ。この都市で最も必要とされる武芸の才を与えなかった初代ライヒハートの血は、凡俗の身では余りに過酷な宿命だけを子孫へと課してきた。

ライヒハート家が本当にしなければならなかったのは初代ライヒハートの技を残す事でも、王家の暗殺者として返り咲く事でもなく。血を存続させる事そのものだったのだから。

 

本来、ライヒハート家は三王家と共に手を取り合い歩むべき存在だった。時代によっては下賤な家柄の如く罵られたライヒハートも、その発祥は貴き血から始まっていた。

だからこそ三王家はライヒハートの血族から芽が出る時を待つと固く決意した。それが何時なのかは誰にも分からず、或いは世界が命運を決する瞬間に間に合わない物なのかもしれなかった。だが、その時は何時か必ず訪れるのだとアイレインの直系たる三王家の当主達には強く信じられていたのだ。

何故ならば、ライヒハートの一族ならば必ず発現してきたその資質こそが。どれだけ時を経て、どれだけ血が薄まろうとも決して消えないオーロラ・フィールドへの知覚能力こそが。

ライヒハートが三王家と同じく世界の理に踏み入る権利を持つ一族である、確固たる証拠であったのだから。

 

 

――――すなわち、初代ライヒハートとは三王家の者だったのだ。

 

「狼面衆を討つ傍ら、己を当主とした一武門を立ち上げる。それが父の当初の計画でした。流派を興した所でライヒハートに教えを請う武芸者などグレンダンには居ません。しかし、それが父個人にとなれば例外が在りました」

 

「同じく狼面衆と対峙する事を宿命付けられた三王家、か。真に選ばれし存在を知るが故に、才無く王家に生まれた者こそ奴が眩しく見えただろう。儂も乗り気だった。もし実現出来ていたのならば、奴にヘルダーを預ける程度の事はしていただろう」

 

「ですが父の計画は破綻した。最初の門下生となり、次期当主として門弟の顔とならなければならない私が、余りに無才だったからです。王家の方々が集うグレンダンで最も貴き流派の創設者となる父の夢は、最初の一歩で頓挫したのです」

 

王家の子弟の個人的な指導者となるだけでは駄目だった。ライヒハートにとっての栄光とは世間からの評価を獲得し、過去の不名誉を払拭する事でしか得られない物だったのだから。

 

どれだけ王族を強く鍛え上げたとしても、自身の後継者が脆弱では全てが無意味であった。流派が強いのは尊い血を囲っているのだから当たり前、王家に貸し与えられた子弟を並べ虚勢を張る恥さらし。そう思われるのが関の山であったし、何より流派の立ち上げすら覚束なくなる始末だ。

後継者を息子以外の門弟になど最も論外だ。王家とは王家として生きる事こそが責務であり、武芸の流派を継ぐということは王家である事を放棄するに他ならない。それをよりにもよって王家の慈悲で武門を成り立たせた者が頼むなど厚顔無恥などという言葉では到底足りない愚かさであり、これ以上無いまでに救い様が無い。

 

「父が私に施した苛烈な指導も、私にとって悪い事ばかりでは無かったのでしょう。非才なりにも武芸を糧に今日まで生き長らえましたし、息子へ不足無く初代の技を受け継がせる事も叶いました。ですが……あの日、今日こそ父の訓練で命を落とすのではと怯える私へ一切の視線を向けず、何時もの訓練を始める事もなく無言で窓の外を見続けていた父が、どれ程の失意を抱いていたのか私には分かりません」

 

テオドールの父親が何を目的に狼面衆へ与したのかは今や推測でしか分からない。仮面の力で操り人形にした王族を後継者に仕立て上げる気でいたのか、いっそ己を縛っていた物全てを壊してしまおうとしたのか。その結果がどうなるかなど、本人が一番理解していただろう。

信頼という隙を付かれる形になったティグリスが事実を把握したのは、何もかもが手遅れになってからだった。

人類の切り札であるアイレインの力の一部がイグナシスの塵へと渡り、力の隠し場所とされて来た一族を滅ぼそうと処刑鎌を振り上げていた。

男にとって最大の誤算は、己の反逆が余りに早く露呈した事だろう。男は都市最高の念威操者がどれ程の物かを正しく理解していなかった。

それが命運を分けたのだ。男を絶望の淵へと叩きこんだ、己の血を分け与えた息子の命運を。

 

 

 

 

テオドールの父親は許されざる罪を犯し、裁かれた。

そしてまた、テオドールも罪を犯していた。ティグリスが今日ここへ訪れたのはそれを問う為であった。

 

「お前の息子が、狼面衆へ堕ちたぞ」

 

己の感情を押し殺す様に独白を続けていたテオドールの目が、初めて驚愕に見開いた。

世俗から身を隠し続けていたテオドールには、家督を譲って以後の息子の動向は一切伝わっていなかった。しかし彼には息子と同じ能力が備わっていた。各地で頻発するオーロラフィールドの気配に、自分の息子が戦っているのだと漠然と察知する事は出来ていただろう。

 

「つい最近天剣になったばかりの小僧を狙い、連中側の技術を用いた暗殺を企てた事で事実が発覚した。企みを阻止したライヒハートの者―――お前の孫にあたる娘が証言をしたが、動機や推測される目的には不明瞭な点が多い」

「おお……何という……何という、事だ……」

 

両手で目を覆い、全ての力を失ったかの様にテオドールは項垂れた。

その落胆は信じられない事実を知らされた故か、それとも恐れていた懸念が現実になった事への後悔なのか。ティグリスはそれを見定めるべく、失意の底へと落ちた男を見る眼を細めた。

 

「何時からだ。お前が、息子に造反の兆しを予見したのは。デルボネと陛下も怪しんではいても、いざ行動を起こすまで狼面衆に付く要素が有ったとは思わなんだらしい。お前はライヒハートの役割を息子に伝えなかった、お前だけがユリウス・ライヒハートに対し危機感を抱いていた。違うか?」

 

ユリウス・ライヒハートによる現ヴォルフシュテイン暗殺未遂。この事をティグリスが知った時、まず真っ先に疑ったのがテオドールだ。

関与を疑ったのではない、この男はそんな気概は元より持ち合わせず、謀反に意義を見出す様な性質も有りはしない。

だが、謎の多い現ライヒハート家当主について最も多くを知る者が誰かとなれば、この男をおいて他にはいなかった。

 

「息子は、ユリウスは天才だった。それは常人の理解の及ばない物であると、非才の我が身もそれだけは理解していました」

 

「……ふむ、要領を得んな。確かに今代は優秀な武芸者であったとは聞く。一時は天剣選抜の有力候補とも囁かれたが、それも一過性の物に過ぎん。何時の時代も常に一人は居る、一般武芸者という括りの中での有望株でしかなかった筈だ」

 

「武力という点で言えば、そうでした。ですがユリウスは違った。あれの異質さ、異常さは、かの存在と対峙した時にだけ垣間見える物でした。それは我々ライヒハートが、ともすれば王家の方々が一度として持ち得ない物だったのかもしれません」

 

過去に見た光景。テオドールにとっては遠い、遥か遠く手が届かなくなってしまった過去に思いを馳せた。

思えば、あれが運命の日だった。望むが望むまいがテオドールを押し流し、打ちのめして来た運命が、初めて選択を迫った。狼面衆と対峙する息子の背を見詰めていたあの瞬間。そこにはテオドールが一度として持たなかった選ぶ権利が確かに存在していたのだ。

 

「狼面衆との不意の遭遇であったであろう、あの日。ユリウスにとっては奴らとの初めての対峙であった事は間違いありません。私が逃げ続けて来た敵の、あの領域にユリウスが捕らわれたと気付いた時、私は無我夢中で走りました。怖かった、身体が震えました。私も祖父の様に殺されるのか、それとも父の様に人の尊厳を奪われて死ぬのかと。ですが、それも息子を失う恐怖に勝る物ではありませんでした。既に肉親を失った事のある私は、それがどれだけ恐ろしい物かを知っていたからです」

 

テオドールは息子の盾となって死ぬ覚悟を決めて、その場所へと辿り着いた。だが、そこに在ったのは数の脅威に晒され、無残に傷付く息子の姿ではなかった。

それが当然の事であるかの様に有象無象を斬り裂く、一人の少年武芸者が居るだけだけだったのだ。

その光景はまるで舞台の一場面の様で、大鎌を振るう少年は物語の主人公の様で。そのさまが、テオドールには到底現実の物であると信じられなかった。

 

「困惑すらなかった。まるで予定調和の様に驚いてみせた後は、そうするのが当然だと息子は狼面衆へと斬りかかって行った。あの戦いの中、息子には怒りも憎しみも闘争心もなく、迷惑な隣人に接する様な気安さだけがありました。ユリウスにとって初めて見たはずの狼面衆は未知の敵などではなく、少し遠い知人程度の存在でしかなかったのです」

 

「在り得ん……テオドール、お前は今、在り得ない事を言っているぞ……!」

 

「そうです、在り得ません。どう在っても事実に繋がる過程が存在しないのです」

 

テオドールの言わんとする事を理解したティグリスが、その意味の重大さにワナワナと肩を震わせ慄く。

突然あの異様な集団に囲まれた子供が何の躊躇も無く獲物を抜けるだろうか。天剣授受者に通じる様な高い戦意を持つ武芸者であれば出来るだろう、それ程の資質を生まれ持っていたという前提さえあれば。

だがユリウスという子供は平凡だった、その苛烈な思想故に道を踏み外した先代と先々代とは違った筈だ。少なくとも、それが育まれる理由となる物を可能な限りテオドールは渡そうとはしなかった。

 

「ユリウスは、私が語るまでもなく知っていたのです。狼面衆がグレンダンに仇なす存在である事、奴らと対峙する事そのものに選ばれし者としての栄誉が付随する事、それが本来は王家にのみ許された物である事を」

 

それは絶対に、どんな間違いが起ころうとも在り得ざる事であった。

ライヒハートであればこそ狼面衆に何も感じない事など有りはしない。王家の血はイグナシスに連なる存在に対し、それが敵であり己を脅かす者であると指し示す。だが、それだけだ。それ以上の事など在る筈が無いのだ。

これらの情報は歴代三王家当主による徹底的な秘匿が常になされている。中枢の施政に携わる機会も多いカナリスすら一切の情報を与えられない様に、女王の懐刀である天剣授受者であってもこれを知るに不適格とされる程だ。デルボネだけが例外中の例外であり、三王家の正統後継者にさえ当主がこれらの知識を与えるには最大限に時を見極めた上でとなる。

故に情報を漏洩など、世界が引っ繰り返りでもしない限り起こる筈がない。

 

「ユリウス・ライヒハートは王家と狼面衆の関係を知っていても、己の出自が何処に由来するかは知らなかったのだな? となれば情報の出処は王家ではなく、唯一の可能性があったヘルダーの線も消えるか。そもそも始めから狼面衆と繋がっていた。或いは億に一つの可能性として、創世に纏わる者との会遇を成し遂げていたとでも言うのか。いや、そんな馬鹿げた夢物語はどうでもいい。問題は其奴が何を、何処まで知っているかだ」

 

「……分かりません。ティグリス様、私は知らないのです。知ることを恐れたのです」

 

力なく首を振ったテオドールが、遂に観念した。

それは男の罪の告白あり、運命の時が間近に迫る事を予期する三王家の前に突如として現れた最大の謎を、誰も解き明かすことが出来ないという事が決まった瞬間でもあった。

 

「私は恐ろしかった。ユリウスが祖父の様に、栄華への道に取り憑かれるのが。己の血を呪い、父と同様に人の道を外れるのが。そして何より……あの才能が一族の定めに押し潰されるのが、何より恐ろしかった。若き頃、夢見た理想の姿が己の息子として現れたというのに、どうしてそれに自分で泥を塗らねばならないのかと。ユリウスに狼面衆へ通じていた可能性が在ろうと、今一度見る事の叶った夢から覚める事を恐れ、見て見ぬふりをしたのです。私が与えられた責務を放り捨てたのは、全て我が身可愛さの為でありました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廃墟群の崩れかけた建物の屋根の上。瓦礫の影と一体化する様に黒い人影が揺らめいた。

黒い外套、獣の仮面。それはこのグレンダンにとっての、世界にとっての敵である証明であった。

 

「……成程。そうか、そういう事だったか。親父殿」

 

黒い外套の男が、抑揚の無い声で独り言ちた。怒りを、悔恨を、そんな見当違いな感情を抱く己の愚かさを、全て噛み締めた呟きが宙へと溶ける。

その背後で、男と全く同様の影が一人、また一人と増え続け、次第に無数の群を為していた。

後から現れた人影の内の一つが先頭に立つ男へと歩み寄り、声を潜め囁いた。

 

「どうする? 情報的な価値が無くなった以上、不動の天剣もあの男へ今まで程の注意は払うまい。ここで消しておくべきだと考えるが」

 

その言葉に先頭の男は何の反応も示さなかった。小さなあばら屋を、ただ見詰め続けるだけだ。

しかし背後の影達が身動ぎ一つしないまま男へ視線を集め、無言で返答を催促する事に、苛立ちを滲ませながら振り返った。

 

「放っておけ。老いぼれ一人、殺す価値も無いだろう」

「分派といえど保有するアイレインの因子は本物だ。それが有象無象の贋作とは訳が違うのは、お前が一番良く知って――――」

 

その言葉の続きが語られる事はなかった。ゴシャリと何かが握りつぶされる様な音が周囲へ響き、一つの人影が跳ねる様に一瞬大きく震えた。身に纏う外套の中身が空気に溶けるかの様に消失し、重力に引かれ落ちる外套は地に付く前に風に攫われ何処かへと流されていった。

そこには、丁度人影の被る仮面の位置で右手を握り締める男がドス黒い狂気で眼を濁らせ、周囲の者達を睨め付ける姿があった。

 

「同じ事を二度言わせるな。親切なお前らが倫理的なストッパーを外すなんて余計な事をしてくれたお陰で、今の俺は抑えが効かないんだ。まさか忘れていたりはしないな?」

 

まるで幽鬼の如く身体を揺らし人影達へと男が一歩進むと、それと同時に人影たちが後ろへ下がる。

全く同じ装いをしながら明確に立場が違う一人の男。数で遥かに勝るそれ以外の集団は、確かにその男を恐れていた。

ある者は出来ないと知りつつ逃げる為の体勢で足を震わせ、ある者は救いが在る訳でもないのに何かに縋る様に腕を彷徨わせる。

その醜態に男は鼻を鳴らした。目の前の集まりを嘲ったのではない。生き汚くも、この連中に命を繋がれて何とか生き延びている自分の無様さを皮肉るしかなかったのだ。

 

「もう一度だけ言っておくぞ木偶人形ども。俺はお前らお得意の不毛で意味もなく、延々と繰り返される健気な工作活動などに協力する気はない。文句は聞かんとも前に言ったな? 虚無の子どころか"右眼"の所在まで教えてやったというのに、やれ天剣になって手が出せないだの、三王家が怖いだのと」

 

この集団、狼面衆の遂行能力の低さは問題であった。しかしその以上に酷いのは彼らの習性とでも呼ぶべき気概の無さだ。

慎重を期すと言えば聞こえは良いが、実際は諦めの良さが他の追随を許さないだけだ。もはや逃げ腰及び腰の権化とも言えるのではなかろうかと男は思っていた。

 

マザー・Ⅰ(レヴァンテイン)が地上に降りれば、まず最初にやるのはフェイスマンシステムの管理者権限を掌握し、役に立たんお前らを纏めてゴミ箱(ゼロ領域)に捨てる事だ。俺は悠長にもグダグダとやっているお前らとセットで自意識を潰されるなんぞ御免だ。俺は俺で好きにやらせて貰う。まあ、お前らが親切心から協力を申し出てくれるというなら、共同で事に当たるのも吝かではないがね?」

 

おどけた様に言う男の手に何時の間にか握られていた物に、狼面衆は息を呑んだ。鈍く光を反射する白刃の煌めきに、背筋を這いずる冷たい死の感覚を思い出す。

巨大なる処刑鎌。自分たちを幾度と無く斬り裂き、首を刎ねた殺戮の象徴。それを見た瞬間、狼面衆たちに男へ逆らう意志など全て失われてしまった。あれを突き付けられて平然としていられるのならば、そもそも狼面衆は狼面衆足りえていないだろう。

男が投げ遣りに顎でしゃくれば、煙が風に攫われる様に全ての狼面衆は消え、ひとり残らず逃げ出すばかりであった。

 

 

 

 

 

 

 

もう一度、眼下に在る見窄らしい家へと視線をやった男は、自分の被る仮面へと手をやった。

その仮面の下から現れた素顔は、ついこの前この男が首を刎ねられた瞬間と何一つ変わらない物だった。

ユリウス・ライヒハートは、生きている。道化の如く踊り狂い、実の娘に父殺しの咎を背負わせ、狼面衆になど窮地を救われて、それでもまだ生にしがみついていた。

 

「せいぜい生きるが良いさ、親父殿。これが俺に出来る最後の親孝行だ。その後悔も罪の意識も、全て貴方の物だ。俺が俺のやりたい様にやるのと同じ様に、貴方もそうやって好きな様に後悔し続ければ良い」

 

この世界に来てからの自分の父親に、ユリウスが何の感慨も抱いていないと言えば嘘になる。

例え本心では他人としか思えなくとも親子として接し、武芸の師として確かな愛情を向けてくれた相手に情を持たないなど、どだい無理な話であったのだ。

自分が持つ、本来三王家だけに許されたオーロラ・フィールドへの知覚能力が一体何処から降って湧いた物かとも思っていたが、蓋を開ければ何と言うこともない。三王家だけにしか許されないのだから、持っている自分もその血が一端でも流れていたと言う単純な話だ。

 

それを父親が自分に教えてくれていたのなら、自分の運命は何かが変わったのだろうか。

天剣授受者を見た時の絶望は、まるで獄中に居る様に感じたあの頃は、アリシアを失って開いた穴に狂気で栓をするしかなかった自分の弱さは。血に選ばれし者であったという自負が得られていれば、何か一つでも変われていたのだろうか。

……考えても意味のない"もしも"だ。例えもう一度このグレンダンで生きた時間をやり直せるとしても、ユリウス・ライヒハートは世界の敵となる事を選ぶだろう。

 

今日この日までの運命がアリシアと出会う奇跡を起こし、アリシアと共に生きた時間が今の自分を作ったのだ。

それを否定するなど、無かった事にするなど。ユリウスがユリウスである限り、何が在ろうと起こり得ない。例えどれだけ狂気に堕ちようと、それだけは揺るがない。

 

「……君は今の俺を見てどう思うんだろうね、アリシア。リリウムや叔父上は、君が俺を狂わせたのだとまるで疑っていない。おかしな話だ。君はあんなにも俺を戦いから遠ざけ、弱くしていたというのに」

 

ユリウスは自分の腕を見た。ついこの間まで感じていた自身の実力の低下は、綺麗さっぱりと消えている。現在のユリウスは狼面衆の特異な能力が無かろうと、生涯で最高の実力を発揮出来ると確信している。

 

結局の所ユリウスという武芸者は一人の人間と見たとしても、何処までも凡俗な才能しか持ち得ていなかったのだ。

期待を掛けられれば掛けられるだけ、己に課された重責を感じれば感じるだけ、ユリウスという武芸者は弱くなっていた。イグナシス勢力を滅ぼす事でしか自分を保てなくなった頃には、最早それは自覚するしか無いほどになっていた。リリウムを英雄にせねば、他勢力の頭を出し抜かねば、原作知識という拠り所を失おうと未来を変えねばと。狼面衆に与し全ての責任を投げ捨てる事で本来の実力を取り戻すに至り、それらが武芸者としてのユリウスに止めを刺していたのにようやく気付いたのだ。

ユリウスという男は武芸者になどなるべきではなかった。こんな戦わねば生きられない世界で生きられる程、強い心の持ち主ではなかった。

 

それをアリシアだけが知っていた。ユリウスが気付かずともアリシアは気付き、ユリウスを戦いから遠ざけていた。

既にそれが真実であったか知る術は無いが、ユリウスにはそうとしか思えなかったのだ。

 

「まあ、良いさ。もう後戻りなんて出来ないんだ。君が俺に何を望んでくれたのかは分からない。きっと俺なんかが考えた所で、君の求める所からは離れていくだけなんだろう。出来る事を出来るだけ、やりたい事をやれるだけ。多分、それが一番正解に近いんだろう」

 

空を見上げ、周囲を見やれば、在りもしない彼女の影を探している自分が居た。

だが、もういいだろう。そうやって彼女が肯定してくれていた嘗ての自分に縋った所で、何か意味がある事など無いのだから。

そんな虚しい行為の繰り返しで時を過ごさなくとも、ユリウスには身を焦がすほど為すべきと思う事があるのだから。

 

「さあ、運命の歯車を廻そうか。父には分かるぞ、リリウム……今更止まるなんて、お前にだって無理だろう。俺の嘗て憧れた世界で、お前は華やかに舞うのだろう。今に分かるさ、お前の進む先に全ての運命があると。お前の殺し損ねた男がそうさせるのだとな」

 

獣の仮面を被り直した男の瞳は、変わらず狂気に濡れたままだった。

現代人、転生者、狼面衆。どれが本当の自分なのか、何が本当の意志なのか。最早、男自身にも分かっていない。

確かなのは、この男が人の世に戻り、娘と共に歩む事は二度とないという事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――グレンダン王宮、とある一室にて。

 

「うんうん、良いじゃない! そう、コレよコレ。こういうのがやりたかったのよ!」

「いえ、あの……陛下?」

 

何やら歓声を上げるこの都市の最高権力者。

先程から女王付きの侍女に捕まり、女王の前で着せ替え人形にされている少女、リリウムは困惑するばかりであった。

初めはドレスやら何やらといった豪奢な服ばかり着せられていたが、アルシェイラが方向性が違うだのと訳の分からない事を言い出して今に至るのだ。

 

「何故、侍女の制服なのでしょうか。機能性に難のある装飾といい、明らかに一般的とは言い難いデザインですし……」

「だって、側に控えさせるなら可愛い服着せたいじゃない? という冗談は置いておくとして、侍女って立場にしとけば色々融通が効くからね。まあデザインは私の趣味だけど」

 

メイド服と言いつつスカート丈が短かったり、腕や胸元が大きく露出していたり、首のチョーカーや制服の裾にやけにレースが多かったりと、そんな感じである。

……何というか、やり過ぎてメイド服じゃなくてウェイトレス服になるギリギリ一歩手前で踏みとどまっている様な、何とも言えない趣味の産物であった。

しかも着ているリリウムが年端も行かぬ少女であるのだから、どうも成金貴族の如何わしい趣味にしか見えない。こんな事を国王がやっていると知れた物なら割ととんでもない事であった。

着替えの手伝いをしていた侍女が、ついジットリと胡散気な視線を主君に送ってしまうのも無理からぬ事であったと言えよう。

 

「さて、可愛い可愛い私のメイドさん? 頑張るとしましょうか。君も私も、これから色々やらなきゃいけないんだからね」

「はい、陛下。お仕えさせて頂きます。拾って頂いた恩義、必ずや御返しすると誓います」

「じゃあ、これからの相談もあるしカルヴァーンを呼ぼうか? ついでにその格好見せたら面白いわよ、きっと」

「面白い、ですか? ……確かに綺麗な服ですし、陛下が私に良くして下さっていると大叔父様もすぐに納得なさるかもしれませんね」

「ふふっ、でしょう? いやあ、あの頑固者がどんな顔するか。楽しみねえ、本当に」

 

子供であるリリウムは理解出来ていないが、側に控えていた侍女は間違いなくカルヴァーンがブチ切れると予感していた。

まあ当たらずとも遠からずな結果にはなるのだが、話が無駄に拗れるのだけは間違い無いのであった。

 

 

 

 

 




お久しぶりです。
まさかこの話をお蔵出し出来る日が来ようとは思いませんでした……
書いてる内に話が横道へ逸れては修正し、したらしたで「これ恐ろしくツマんないんじゃないか……」とドツボに嵌っている内に一年以上経っていましたが、何とか形になりました。というかもう形になると思ってませんでした。

その間にSAOでキリトとアスナとコペルとディアベルとキバオウでギルドを作るSSの序盤部分が吹っ飛んで幻の作と化したり、ISで何番煎じか分からない一夏ホモ化オリ主SSが設定を煮詰めすぎて書く前に飽きたりとか珍事もありました。
他のSS書くのからこっちに逃げてきたのが正解かもしれません。

今回でユリウスの話は完全に終わりで、次が書き上がれば今度こそリリウム編です。
というか素直にそっち書いとけば恐らくこうも苦労はしなかった筈……


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