FATE/IN THE DARK FOREST (shellfish)
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epilogue2 老人の日記

 満月を映し出した大河。

 身体は失っても、魂はそこに。

 夢は破れ。

 希望は砕け散っても。

 私は、ただ貴方と共にありましょう。

 二人は世界に嫌われて。

 あらゆる悪意をさ迷い歩く。

 そして、いつの日か、同じ虹の辺へ。

 そこで、共に笑いあいましょう。

 遠い記憶の貴方。

 私の愛しい貴方。

 

 epilogue2 老人の日記

 

 3月10日

 

 時計の針だけでは正確な時間が分からなくなって、何年の月日が流れたのだろうか。

 おそらく今は午後の七時のはずだ。開け放たれた窓から香る、庭の草木の匂いがそれを教えてくれる。

 視界が彩度と明度を極端に失ってから、午前と午後の判別が難しくなることが多くなった。

 しかし、それも今日で終わりだろう。

 おそらく、私は明日死ぬ。

 長年連れ添ってきた妻もこの時期に死んだ。

 彼女の妹と同じ名前の花が咲く時期、その直前に彼女は息を引き取った。眠るような、本当に穏やかな最期だった。

 先に逝った人と同じ季節に死ぬのは真に想い合っていた証拠。そんな馬鹿な話を聞いたことがある。

 その話を聞いたとき、妻は鼻で笑った。

 しかし、私はその話を聞いておいて良かったと思う。なぜなら、その話のおかげで、ほんの少しだけうきうきする気分で死出の旅路につけるのだ。それ以上の幸福など、そうはあるまい。

 

 今、私は本当に安らかだ。

 魔術師、いや、魔術使いになってから多くのものを得て同じ量の何かを失ったが、魂の不滅を知ったことと、自分の死期を正確に計ることができたことは、己が獲得した数少ない特権だと思う。おかげで、静かな気持ちで死と向かい合うことが出来た。

 思えば長い人生だった。

 魔術などという、たった一つの命をチップにしてわずかばかりの自己満足を得る、そんな世界に身を置いてこれだけの時間を生きることが出来たのは僥倖以外の何物でもないだろう。事実、数多くの知人が若くしてこの世を去った。死徒との戦いで、実験の失敗で、協会による制裁で。数え上げればキリがあるまい。

 そう考えてみると、私の人生は少々長すぎたのかもしれない。

 死徒になったわけでもないし、他者の魂を啜るような外道もしなかったが、それでも普通の人間よりもかなり長い時間を生きた。風の噂によると、高校時代の友人の曾孫が新たに住職として寺を継いだらしい。

 私は妻との間に子を成すことが出来た。そして、子供達はたくさんの孫の顔を私に見せてくれた。

 可笑しかったのは、その全てが何らかの形で人助けに関わる道を選んだことだ。医師になった子供、警官になった子供、難民救援ボランティアの設立に尽力した子供もいた。そんなところは衛宮の姓の為せる業かと思ってしまう。

 しかし、私の子供達は、一人として魔術師の道を選ばなかった。だから、妻が受け継いだ刻印は、妻の妹の子供達に受け継がれている。

 

 色々なことがあった。

 辛いことも、死にそうな目にあったこともたくさんあった。

 しかし、幸せだった。そう断言できる。

 一生を賭けて愛するに足る女性を娶り、自分と妻に忠誠を誓ってくれた最高の友人を得て、暖かい、本当に暖かい人生を送ることが出来た。もし叶うなら、もう一度同じ人生を送りたい、そう思う。

 だから、胸を張って言える。

 私は、私を救ってくれた数多くの人達に恥じない一生を送ったと。

 

 今日、これが最後ということで、今まで書き溜めた日記に目を通してみた。

 驚くのは、最近になってあの二週間に関する記述が富みに増えていることだ。

 聖杯戦争。

 本当の意味で妻と出会う切欠となり、たくさんのものを失った戦い。

 既に私の中で記録と成り果てた、遠い遠い過去の話。

 あの二週間が無ければ私の人生は全く違ったものになっていただろう。

 間違いなく私の人生の中で最も灼熱とした時間だった。

 生と死の狭間でありながら、どこかに愛すべき日常の空気を纏った日々。

 思い返せば、自分の精神の青さに歯噛みし、自分の覚悟の甘さに辟易とし、自分の理想の熱さに羨望してしまう。

 もっと他にやりようがあったのではないか。

 自分以外の誰かなら、遥かに上手く戦いを収めることができたのではないか。

 あまりの悔しさに枕を噛んだ事など一度や二度ではない。

 しかし、今はあれでよかったのだと思えている。

 もちろん、全てが最善の結果を得たわけではない。考えようによっては最悪を極めた結末を選んでしまったのかもしれない。

 だが、私にとってあれが精一杯だった。少なくとも、あの当時において取りうる最善の行動をしたはずだ。それなのに自分を責めるのは、自分を含めて、あの儀式に関わった全ての人たちを侮辱しているのではないか、最近はそう思うようになってきたのだ。

 

 そして、彼女のことを考えることが多くなった。

 今際の際に妻以外の女性のことを考えるのはあまりに不謹慎かもしれない。

 それでも、今、私の頭を支配するのは彼女のことだ。

 小さかった彼女。

 いつも笑っていた彼女。

 今も、死に続けている彼女。

 私はついに彼女が帰ってくるまで待つことが出来なかった。その事だけが、本当に悔やまれる。

 もし彼女が帰ってきても、彼女は一人ぼっちだ。それが哀れで仕方ない。

 

 ああ、ついに自分の持つペンの先が見えなくなってきた。鷹の目と言われた視力も老いさらばえたものだ。

 きっと誰かがこの日記を見つけたとしても、この字を解読することなど不可能だろう。何せ、書いた本人ですら何と書いてあるか分からないのだから。

 だから、最後に私の願いを書き綴ろうと思う。

 これは、誰に当てたものでもない。書いた当人ですら読めないのだ。

 いうなれば、これは神に対して当てた嘆願書だ。

 

 切に願う。

 どうか彼女に与えてやって欲しい。

 

 あの細い肩では。

 あの小さな背中では。

 絶対に背負いきれないほど。

 大きな、大きな幸せを。

 

 彼女が背負ってきた苦しみを。

 覆い尽くすして、包むこむほどに、広大な安らぎを。

 

 どうか、どうか。

 



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prologue  開戦。

 prologue  開戦。

 

 時は深夜。

 場所は地下。

 一連の戦いに始点を求めるとするならば、それはこの時、この場所に他ならない。

 古びた洋館。人はおろか動物すら近寄らない、いや、近寄らせない魔境。

 地上ですらそうなのだ。その地下には微細な生命の気配すら無い。あるのは、静寂と、ただただ清廉な空気。

 魔術は秘するもの。

 その大原則に従うならば、これほど相応しい状況は他に無いだろう。

 閉ざされた空間に少女の声が響く。

 虚ろな声。

 自己の奥底を覗き込むかのようなその声は、彼女が魔術師である何よりの証明だろう。

 彼女が紡ぐのは、唯の文節ではない。

 その一言一言が言霊。一言一句にすら濃密な魔力の込められたそれは、呪文と呼ばれる。

 

「――告げる。

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 

 彼女はきっと絶対だった。

 今の彼女は完璧だ。

 為し得ぬことなど、ある筈も無い。

 だから、二つの声が重なったのは、きっと気のせい。

 もしくは、気のいい糞ったれな神様のせい。

 

「誓いを此処に。

 我は常世総ての善と成る者、

 我は常世総ての悪を敷く者。

 汝三大の言霊を纏う七天、

 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!」

「姉さん、まだ一時――!」

 

 だから、これは違う世界。

 存在の意味すらない、そんな世界の出来事。

 

 

 無人の学び舎。その一番空に近い場所。

 硯をひっくり返したみたいに重たい夜空。

 星々ですら、自らの存在を悟られぬように息を潜めているようだ。

 何に悟られてはいけないのか。

 決まっている、この地に息づく不安な何かだ。

 

「……まいったな。これ、わたしの手には負えない」

 

 少女が、コンクリートに刻まれた呪刻を睨み付けながら呟く。

 彼女は魔術師だ。故に、今ここにある危難が色と形を持って理解できてしまう。

 息づくように慟哭する赤紫の刻印。

 屋上の壁に刻まれたその毒々しい色は、自らの危険度を他者に知らせる警戒色だ。

 

 ――近づくな。近づけば喰らうぞ。喰ろうてしまうぞ。

 

 身体の溶解。精神及び魂の吸収。この上ないくらいの、死。

 これが発動すれば、この学校は消滅する。たとえ学び舎が無傷で存在したとしても、それを使う人間がいなくなれば、それは学校というコミュニティの消滅といって差し支えないだろう。

 

「アーチャー。キャスター。貴方達ってそういうモノ?」

 

 その声には隠し切れない侮蔑の響きがあった。

 しかし、それは彼女達の従者に向けられたものではない。

 この戦争の本質を理解しきれていなかった、己の浅薄な覚悟に向けられたものだ。

 

「そうね。私達の動力源は魔力。なら、それを補給するためには、第一要素を喰らうよりは第二、第三のほうが効率がいい。

 幸い私達は優れた霊脈を支配するマスターに巡り合えたからそこらへんの心配は無いけど、はずれくじを引いたサーヴァントにとって、これはなかなか優れた戦略ね」

 

 少女の従者ではない、しかし彼女の頼るべき戦友は、自らに関わりの無い命に対して酷く不感症だった。

 

「それ、癇に触るわ。二度と口にしないでキャスター」

 

 キャスターと呼ばれた貝紫の人影は、厚いフードの下で微笑んだ。あまりに人を知りすぎた彼女にとって、少女の苛烈なまでの率直さはむしろ好ましかったのだろう。

 同じように、アーチャーと呼ばれた赤い外套の人影も微笑んだ。その笑みには、キャスターの笑みには含まれない、どこか異質で、どこか切ない感情が存在した。

 

「同感だ。私も真似をするつもりはない」

「そうね、桜のもとにいる限り、そんな手間のかかることする必要が無いもの」

 

 二体のサーヴァントは、二人のマスターに向けてそう言った。

 若干の優越感と隠し切れない誇りに満ちたそれらの声は、マスターへの信頼とそれ以上の絆を表すのに十分だった。

 少女は、いや、少女達はお互いを見合って頷いた。自らの引いたカードが、最優ではなくとも最良ではあったことを確信するかのように。

 

「姉さん、とりあえず――」

 

 艶やかな黒髪をストレートに伸ばした少女は、もう一人の、髪をツーテールに纏めた少女に対して呟いた。

 なるほど、二人は姉妹なのだろう。カラスの羽のように深い髪の色も、生粋の日本人ではありえない瞳の色も同じだ。

 

「そうね、とりあえずこの見苦しい魔力を消し飛ばしましょう。嫌がらせにすぎないけどね。

 ああ、でも、嫌がらせってどうしてこんなにうきうきするのかしら」

 

 口の端をいっそ獰猛に持ち上げた少女は、自らの魔術刻印に魔力を通す。

 それは肉体に刻まれた魔術書。

 彼女達の、遠坂という魔道の探求に血道を捧げる一族の、悲願の結晶。

 そして、この姉妹を当主と眷属に隔てる大きな壁。

 

「Abzug Bedienung Mittelstnda」

 

 コンクリートの地面に触れた左手からは、十人並みの魔術師では考えられないほどの魔力が放たれている。

 やがて、呪刻は色を無くした。それは呪刻が一時の眠りについたことの証であり、再び目覚めんとする兆しでもある。

 

 『さ、じゃあ次を探しましょう』

 

 姉と呼ばれた少女がそう言おうとした時、彼女達の頭上から声が響いた。

 

「なんだよ。消しちまうのか、もったいねえ」

 

 その声を、なんと例えればいいだろうか。

 猛獣の唸り声だろうか。

 違う。

 では、気さくな友人の声か。

 とんでもない。

 この国の人間なら万人が知る童謡がある。暗い森の中で、少女が熊と出会う。熊はいかにも親しげに少女に話しかける。長年の友人のように。

 しかし、その口は少女の頭蓋を一噛みで砕くことの出来る凶器であり、その爪は少女の皮膚を剥ぎ、肉を骨からこそげとるのに最適だ。

 圧倒的な強者から、その間合いに入った獲物に投げかけられる無邪気な声。優越と嗜虐に満ちた声。

 彼の声は、そんな音色だった。

 

 

 給水塔の上に立つ、青身の人影。

 陽炎のように匂いたつ、濃厚な魔力。

 人の形をしたそれは、しかし人ではありえない。

 

「これ、貴方の仕業?」

 

 私の問いに、人影は嗤った。

 

「いいや。小細工を弄するのは魔術師の役割だ。オレ達はただ命じられたまま戦うのみ。だろう?」

 

 視線そのもので殺すかのように、彼は私達のサーヴァントを睨んだ。

 なるほど、こいつにはアーチャー、キャスターが見えている。

 つまり、

 

「はじめまして、あなた、何のクラスかは知らないけど、サーヴァントね」

「そうとも。で、それが判るお嬢ちゃんは、オレの敵ってコトでいいのかな?」

 

 刺すような殺気。

 全身の毛穴が開くような錯覚。

 ジワリと滲んだ冷や汗。

 しかし、ここは脅えるところじゃあない。

 にやり、と不敵な笑みを一つ。

 私に喧嘩を売るなんて、ナイス度胸。

 たっぷり後悔させてあげる。

 

「へえ、そっちのマスターはどちらも美人さんだねえ。こりゃあ殺すのが惜しいわ」

「そう?じゃあ今からでも私達のサーヴァントにならない?まだ席は空いてるわよ」

 

 くくっと、心底愉快そうに男は笑う。

 

「ああ、こりゃあホントにいい女だ。

 まあ、嬉しい誘いではあるんだが遠慮しとく。

 糞みてえな奴だが、一応はマスターなんでな、そう簡単に裏切るわけにゃあいかねえし、何より――」

 

 いつの間にか彼の手には短めの槍が握られていた。

 歩兵の持つ長大な、しかし貧弱なそれではない。

 長さは約2メートル程か。

 集団戦ではなく、個対個に適応した形状。

 これほどわかりやすいクラスも他にはありえない。

 ランサー。

 三騎士の一角。

 間違いなく、強敵。

 

「そこの奴らと戦えなくなっちまう」

 

 ふ、っとランサーの姿が掻き消えた。

 

 ――不味い!

 

 考えるよりも早く、横っ飛びに身をかわす。

 直後に聞こえた破壊音。引き裂かれた金属の断末魔。

 まるで障子に張られた和紙のように儚く切り裂かれたフェンス。そこは、さっきまで私が立っていた場所だ。

 全身のバネを使って跳ね起きる。

 ランサーは、既に油断無く槍を構えていた。

 

「いきなりマスター狙い?結構姑息ね、あんた」

「なに、ただの挨拶だ。気にするほどのことじゃあるまい?」

「多対一。卑怯とは言わせません」

 

 桜の声とともに、二騎のサーヴァントが構える。

 三騎士であるランサーの対魔力。切り札を使うなら別段、私や桜の魔術では傷一つ付ける事は適うまい。

 だから、これは実質二対一。

 ゆらりと構えたアーチャー、キャスター。

 彼らの殺気を受けて、槍の英霊はなお哂った。

 

「心地いいな。さあ、始めようか」

 

 槍を下段に構えたランサーには一分の隙もありはしない。

 そんな難敵を見ながら、キャスターは涼しげに微笑んだ。

 

「そうね、でもここは相応しくないわ」

 

 彼女が呪文を呟くと、この身を大地に縛り付けていた重力が消失した。

 気付けば、私たちは屋上を眼下に、空を舞っていた。

 頼るべき地面を失った言葉では表せない喪失感と、それ以上の高揚感。

 神代の魔術師は伊達ではない、そう実感した。

 

「逃げるか、卑怯者!」

 

 獅子の咆哮のような声が聞こえる。魔術を嗜み、これ以上ないくらい心強い従者を引き連れた私ですら心が折れそうになる、そんな声。

 しかし、紫の魔術師と赤の弓兵の表情には露一つほどの綻びもない。

 

「悔しければ追ってきなさい。戦いを望んだのはあなた。それくらいの労力は惜しむものではなくてよ」

「言ったな、魔術師風情が」

 

 キャスターの挑発に、憎憎しげに答えたランサー。しかしその瞳は先に待つ闘争への期待に濡れていた。

 

「さて、桜。あそこなら私たちが少々暴れても問題はないわね?」

 

 キャスターが己の主に話しかける。その細い指が指し示していたのは学校のグラウンド。

 なるほど、広大に開けたフィールドは遠距離攻撃主体の二人にはもってこいだ。

 

「はい、あそこならかまいません」

 

 妹もその意図は察しているのだろう。一拍の躊躇もなく頷く。

 

「決まりね、口を閉じていなさい、舌を噛むわよ」

 

 その瞬間、視界が暗転した。

 身体に感じる強烈な横向きの重力。自分の空間座標を見失ってしまう。

 足が地面に付いたことで、やっと自分が直立していることに気付く。

 そこは見慣れたグラウンドだった。いつもと違うのは二点。人っ子一人の気配もないこと。頭の芯が痺れるほど濃密な魔力が渦巻いていること。

 

「――」

 

 キャスターの詠唱は私ですら聞き取ることが出来なかった。

 高速神言。

 神代の失われた技法にして、今代では彼女にのみ許されたスキル。

 しかし、その効果は明白だ。

 私と桜の周囲に出来た薄い膜。常人が見れば巨大なシャボン玉にしか見えないだろうそれには、信じられない程の魔力が込められている。

 

「『盾』の概念。古代の城壁並には堅牢よ。あなたたちはそこで待ってなさい」

 

 余裕すら感じられる口調で魔術師はそう言った。

 

「そうだな、下手に隠れたりするよりは安全だろう。君達はそこで従者の勝利を眺めていればいい」

 

 如何なる手妻か、虚空から二振りの短剣を生み出した弓兵が笑う。

 なるほど、私如きの出る幕はないということか。

 

「ええ、ここであいつを倒します。アーチャー、あなたの実力を見せて頂戴」

「キャスター、気を付けて」

 

 異なる台詞は、私達姉妹の差異を端的に示しているといっていいだろう。

 しかし、それでも意図することは同じはずだ。

 勝って。

 死なないで。

 私たちに聖杯を。

 幾種類もの自己中心的な想いが渦巻く。

 そこには敵を思いやる心情など微塵もない。

 きっと、この想いこそがこの戦いを『戦争』足らしめる何よりの原因だ。古今東西を問わず、この想いこそがどんな悪意よりも多くの命を奪ってきた。

 でも、それでいい。

 この想いの強さこそが、私達魔術師の誇りだ。

 さあ、殺して、アーチャー、キャスター。

 勝って戦果を分かち合いましょう。勝利の美酒を乾かしましょう。

 でも、罪と、罰は分けてあげない。

 罪は、罰は私だけに許された特権だから。

 

 

 真紅の槍と、陰陽の剣がぶつかり合う。

 その剣戟音は、音であって音でなかった。

 音と呼べるほど単発のものではない。

 音というよりは音楽。それほどまでに間断無く、また美しい。

 しかし、その呼称にもまた違和感がある。音楽と呼ぶほど優雅ではなく、またひ弱でもない。

 例えるならば、滝壷のほとりだろうか。

 轟々と響く大質量の水音は、いつの間にか耳に同化し、耳はいつしかその音を当然のものとして享受し始める。

 それほどまでに自然。どこまでも勇壮。

 周囲を満たす金属音は、どこかそんな雰囲気があった。

 少女達は、自分の置かれた危難を忘れてその音に聞き入っていた。

 

「楽しいなあ、おい!」

 

 槍兵の歓喜の声に、しかし弓兵は答えない。

 戦場においては本来ありえない軽口を叩きながら、彼の槍は敵にとっての悪夢を具現化し続けている。

 戦いにおいて、射程距離やリーチといったものは限りなく重要な要因である。たった数センチの差が勝負に明暗をつける、それも珍しいことではない。

 ならば、槍兵と弓兵のリーチの差は絶望的といって差し支えない。

 弓兵が持つのは刃渡り50センチほどの短刀が二振り。

 対して、かの槍兵が持つのは、短めとはいえ、それでも2メートルには届かんとする長大な凶器。

 1メートルと50センチ。

 人一人の身長にも満たないであろうその距離はしかし、余程の実力差が無い限り勝負の趨勢を定める絶対的なアドバンテージとなる。

 そして、両者に実力差が無いなら。あるいは、槍を持つものが格上ならば。圧倒的な不利を背負った者はどうすればいいのか。

 決まっている。足りないものは補うしかない。刃が届かないなら、その分前進するしかないのだ。

 特攻。自らの命を危険に晒して、それでも相手の懐に飛び込む。愚行には違いない。だが、それ以外の選択肢はありえない。さもなくば、尻尾を巻いて逃げ出すかだろう。

 しかし、槍兵の突きの冴えはそんな愚行すらも許さない。

 本来、突きは最小限の動きで点を破壊するもの。故に速く、故に見切り辛い。

 彼の突きもそれと同様なのだろうか。

 違う。

 最小限の動き。それは違いない。どんな槍の名人よりも予備動作の少ないその動きは、単純な速さだけでなく、動きの先読みを妨げる上手さを兼ね備えている。

 だが、彼の突きは点の破壊を目的としたものではない。

 点が重なり線。線が並び面。

 一瞬にして全身を蜂の巣に変えるべく放たれた、さ乱る突き。そこに、飛び込むだけの隙など、ありはしない。

 それでも、かの弓兵は英雄。

 豪雨よりもなお無慈悲に襲い来る穂先、それが意味する絶望を、双剣をもって捌いてゆく。そう、彼の持つ双剣は決して貫けぬ盾と同義であった。

 

「はっ、面白えじゃねえか!」

 

 全てを貫く矛を携えた騎士が叫ぶ。

 その瞬間、槍兵が敵の懐に飛び込んだ。

 もし、その戦いを観る者がいれば、彼の不可解な行動に息を呑んだであろう。 

 在り得ざるべき愚行である。

 自らが持つ最大のアドバンテージである制空圏を捨て、得物の数、手数の差で勝る敵の懐へ。望んで死地に飛び込むが如きそれを愚行と言わず、なんと言う。

 

「くぬう!」

 

 しかし、漏れた苦悶の声は、弓兵のそれであった。

 この戦いが始まってからただの一度も声を上げなかった彼が、ついに堪えきれずに声を発したのだ。

 さもありなん、槍兵の攻撃は今までのそれが霧雨と思えるほど苛烈なものに変化していた。

 

「そらそらそらそらそらそらそらあああ!」

 

 穂先と石突を併用した、全てを轢き潰す車輪のような連戟。その在り様は、槍術というよりは棒術や棍法のそれに近い。

 濡れたように妖しく輝く穂先による突き、それをかわしたと思えば、頭上から鉄槌のような石突が降ってくる。いくら刃が付いていないとはいえ、頭部に当たれば頭蓋は砕け、脳漿を撒き散らすことになるのは間違いあるまい。

 上、下、左、上、突き、上、右、左、突き、突き、下。

 頭を、喉を、背骨を、心臓を、横隔膜を、肺臓を、脾臓を、腎臓を、肝臓を、股間を。上腕部を。肘を。二の腕を。手の甲を。大腿部を。膝を。向う脛を。

 ありとあらゆる部位をほぼ同時に狙い打つ、途切れることの無い連戟。

 ことここに至ってようやく弓兵も理解した。

 槍兵は、自分と同じ舞台に立つつもりなのだと。

 リーチの差という自らの利を捨てて、手数で勝るという敵の持つ利に正面から挑むつもりなのだと。そして、完膚なきまでに叩き伏せるつもりなのだと。

 なるほど、この男は勇者だ。

 きっと名のある英雄なのだろう、自分が如き薄汚れた奴隷とは格が違う。

 いつの間にか、片頬に皮肉気な笑みが張り付いていた。そのことを自覚して、弓兵はより皮肉に嗤った。

 

「ああ、まさに君の言うとおりだ。とても、楽しい」

「だろ?」

 

 周囲を金属音で飽和させながら、彼らは会話を交わす。

 刃に篭められた殺意には微塵の衰えも無い。その一閃一閃が相手の命を絶つ必殺の意思に満ち溢れている。

 しかし、その声は気の置けない友人に話しかけるそれと同一だ。

 戦うものにしかわかるまい。

 鍛え上げられた自己。この場所に立つまでに味わった苦痛と費やした時間。それがわかるのは他ならぬ自分だけだ。

 しかし、それ以外にもわかるものがある。それは、己と戦う相手だ。

 相手が、如何程の時間を、苦痛をこの場所に立つまでに注ぎ込んできたのか。自分と立ち合うために、どれほどの苦難を乗り越えてくれたのか。

 涙が出そうになる。

 凄いぞ。

 お前は強い。

 お前は強い。

 お前は強い。

 だが、多分俺の方が強い。

 さあ、心行くまで比べ合おうじゃないか。

 互いに流した血の量と、これまで捨ててきた物の量を。

 

「だから、とても残念だ」

「あ?なんか言ったか?」

「いや、何でもない」

 

 一瞬、怪訝な表情を浮かべた槍兵は、それでも獰猛な牙をぎらつかせながら穂先を繰り出す。

 まるで巨人が振るう玄翁のように重い一撃は、今までの弓兵の堅牢さを嘲笑うように、彼の両手から短剣を弾き飛ばした。

 きっと弓兵の握力も限界を迎えていたのだろう。両手と全身の力をもって繰り出される槍の一撃を防ぐのに、片手の力しか生かせない短剣では不利がありすぎる。

 

「もらった!」

 

 歓喜が槍兵の脊髄を駆け巡る。目の前に立つのは、武器を失い、盾を失った哀れな獲物。仕損じるはずがない。

 だから、一瞬だけ彼は気付くのが遅れた。

 怯えと驚愕に満ちた表情を浮かべるはずの獲物の顔に、なお皮肉気な笑みが張り付いていたことに。

 

「ああ、そうだな、もらったよ」

 

 勝利を確信し、明らかに止めを刺しにきたやや大振りな一撃。

 弓兵はその攻撃を、どこからか取り出した新たな双剣でいなすと、己の戦友に後の処理を任せた。

 

「ええ、そうね、もらったわ、ランサー」

 

 大きくバランスを崩した槍兵の前で、濁流のような魔力が閃いた。

 

「く…っ、そがああああああぁぁぁぁ!」

 

 槍兵の咆哮は、それを上回る轟音に掻き消されていった。

 

 

 静謐なグラウンドに出来た、塹壕のように巨大な溝。

 魔術師から放たれた魔術によって生み出されたそこには、一切の命の存在は許されていなかった。虫であろうと、微生物であろうと、そしてサーヴァントであろうと。

 おそらく、凛の持つ切り札の宝石、その半数を用いたとしてもこれだけの破壊を生み出すのは困難を極めるであろう。

 周囲を痛いほどの静寂が満たしている。硬質な衝突音に慣れた聴覚には、むしろ優しくない類の静穏である。

 

「卑怯と罵るかね?」

 

 前を見据えながら弓兵は語りかける。その両手には依然、黒と白の短剣が油断無く握られている。

 

「いや、全然。これは戦争、汚い手ってのはあっても、卑怯な手ってのは無いからな」

 

 飄々としたその声は、弓兵と魔術師の背後から発せられた。

 

「仕留めたと思ったのだけれど」

 

 残念そうな魔術師の呟き。

 

「ああ、今のはほんとにやばかった」

 

 それに返すのは、槍兵の、苦笑と自信に満ちた声。

 彼が魔術師の放った大魔術をかわしたのは、安っぽいトリックなどではない。

 純粋な、スピード。

 彼はそれだけをもって必殺のタイミングで放たれた一撃を避けたのだ。魔術師の一撃によって掻き消されているが、それが無ければ、槍兵の強烈無比な踏み込みによって作られた、クレーターの如く抉れた地面が存在したはずだ。

 弓兵、魔術師にしてみれば、それは悪夢に他ならない。あれ程までに丹念に作った隙を、槍兵は力ずくで粉砕してみせたのだ。これなら理解不能な特殊能力のほうがよっぽどましである。

 彼のクラスが最速の英霊に与えられるものであるにしても、これは更に規格外。自分達が相手にしているのは、紛れも無い怪物。

 出来ることなら勘違いであって欲しい、しかし間違いではあり得ないその認識が、弓兵と魔術師の背を冷たい汗で濡らした。

 二体が振り返る。

 予想に違わず、そこには五体満足なまま嗤う槍兵の姿があった。

 実は、この立ち位置は弓兵と魔術師にとって非常に不味い。

 弓兵は、常に自らのマスターに背を預けるような位置で戦ってきた。

 そして、今、槍兵はその背後に立ったわけだ。

 ということは、自然、凛、桜の二人と、彼らに従う二体のサーヴァントを結ぶ線分の間に、槍兵が存在することになる。

 もし、彼がその気になれば、いや、そうでなくても彼のマスターがこの場にいて冷静な判断を下すならば、凛と桜は間違いなく殺される。魔術師の作り出した『盾』がいかに鉄壁であろうと、あれだけ強力な英霊の持つ宝具に抗えるはずも無い。

 

「そんな顔しなさんな、心配しなくても嬢ちゃん達には手はださねえよ」

 

 二体の懸念を察したかのように槍兵が言う。

 

「こんなに楽しいんだ、どうしてこれを止められるか。

 さあ、続きだ。お前らだって、まだまだ隠し玉があるんだろう?」

 

 ならば、見せてみろ、と。

 俺は正面からそれを打ち砕く、と。

 どこまでも意思の強い、うっとりするような視線がそう叫んでいた。

 弓兵はその視線を受け止めて苦笑を漏らす。

 ああ、なんと自分と在りようの違う存在か。

 この槍兵が奉ずるのは、騎士道などという虚飾ばったものでなければ、自分のように壊れた理想でもない。

 ただ、快楽のために。そして、己の誇りのために。

 その単純な生き様が、眩しくて、同じくらい疎ましかった。

 

 

 中断されていた、金属の協奏曲が再び奏でられる。

 そして、今回はそれに爆発音のおまけ付きだ。

 踊る三体の人影。

 私達のサーヴァントは、二体でありながら、しかしランサー一体を圧倒することができない。

 怒りに満ちた感情が湧き上がる。

 間違えた。

 こういう状況において、アーチャーとキャスターの共闘は著しく相性が悪い。

 三騎士は、総じて高い魔力耐性を持つ。

 しかし、アーチャーのそれは、お世辞にも強力とは呼べない。もともと有していた対魔力でもアミュレット程度、聖骸布の加護があってもせいぜいがCランクか。

 その程度の対魔力では、キャスターの大魔術は防げない。つまり、アーチャーが前衛を勤める以上、キャスターが全力で、広範囲をカバーするような魔術を使うのは不可能ということだ。

 故に、小規模の、光弾のような魔術を連発することしかできない。

 もし、二人がもう少し意思の疎通を図ることが出来るならば、タイミングを見計らっての大魔術、というのも可能なのだろうが、彼らが共闘するのはこれが初めて。そこまでの要求は過酷だ。

 ならば、アーチャーとキャスターが共に遠距離からの攻撃に切り替えてはどうか。それなら、理想的な組み合わせだろう。この二人の集中砲火に晒されれば、如何に強力なサーヴァントとはいえたまったものではないはずだ。

 だが、今その戦術は使えない。

 なぜなら、私達がいるから。

 先ほどは私達にその矛先を向けなかったランサーだが、状況がどう変化するかわからない。極端な話、彼のマスターが令呪の一つでも使えば、彼の攻撃対象は容易く私達に変化するだろう。そのときに二体のサーヴァントが遠くから指を咥えて見てました、ではただの喜劇だ。

 だから、少なくともランサーを押えつける前衛の存在は不可欠だ。そして、今この場でそれを成し得るのはアーチャーしかいない。

 アーチャーの剣術では、ランサーの攻撃を防ぐことは出来ても倒すことは出来ない。キャスターの局所的な魔術では、高速で動くランサーを捉えきれない。

 手詰まり。

 遭遇戦だから仕方ないといってしまえばそれまでだ。

 でも、何か出来ることはないのか。

 このまま亀のように隠れているしかないのか。

 

 

「……二十七。それだけ弾き飛ばしてもまだ有るとはな」

 

 激闘の狭間に生じたわずかな空隙。

 激流に遊ばれる笹船のように儚い時間。

 その中で、槍兵はそう言った。

 彼の口調は憎憎しげだが、その表情は強敵の技量を讃える賞賛に満ちている。

 そもそも、彼は戦いそのものを待ち望んで召喚に応じた。

 多少の、いや、有り得べからざるほどの紆余曲折と屈辱を味わいはしたものの、それでも彼の願いの一端は叶いつつあるのだ。ならば、願いを叶えてくれた相手を、どうして心底憎むことが出来ようか。

 まるで湯水の如く刀剣を生み出し、躊躇も無くそれを打ち捨てる弓兵。

 弓兵のクラスに収まりながら、双剣を操り己と互角に打ち合う弓兵。

 正体不明。しかし、この上なく強敵。

 槍兵がこの男の名を知りたがったのは、戦いに生きる者として当然の欲望といえるだろう。

 

「貴様、名は何という」

 

 弓兵の上空に漂う魔術師の姿を無視して語りかける槍兵。

 その声に、弓兵は冷笑に満ちた声で、こう返した。

 

「問われて答える愚か者がいるのか?そもそも、人の名を問うのであれば、まず己から名乗るのが礼儀というものだろう。

 ああ、しかし君は名乗る必要は無かったな。大体の想像はつく。

 君ほどの槍手は世界に三人といまい。加えて、獣の如き敏捷さと言えば恐らく一人」

「――ほう。よく言ったアーチャー」

 

 みしり、と槍兵の身体が盛り上がる。

 しなやかな豹が如き体躯が、勇壮な雄獅子が如きそれに。

 飄々とした掴みどころの無い表情が、血が滴るような狂相に。

 

「――ならば食らうか、我が必殺の一撃を」

「止めはしない。いずれ越えねばならぬ敵だ」

 

 周囲に満ちたマナを、紅い魔槍が貪り尽くす。

 空間と時が捻じ曲がる。

 誰しもが呼吸を止めた。

 空気が沈殿する。

 永遠ともいえる一瞬。

 テーブルから落ちて、そのふちがコンクリートの床に触れているガラスのコップのように、まさに砕けんとする、圧倒的な緊張感。

 それを打ち砕いたのは。

 

「やめろっ!」

 

 いっそ間抜けとすらいえる、第三者の声だった。

 

 

 昼間なら、若い喧騒が支配する廊下。

 しかし、今、そこを支配するのは静寂と暗黒。

 窓ガラスを通って降り注ぐのは、いかにも頼りない月明かりと、さっきまでは息を潜めていた星明り。床には、儚い長方形の光のステージが規則正しく並んでいる。

 その隙間に、そいつは倒れていた。

 胸のおかしくなる血の香り、というのは無かった。ひょっとしたら嗅覚が麻痺しているのかもしれない。

 だから、そいつの死は酷く虚ろだった。

 まるで薄いガラス越しに見る他所の国の風景みたいで、全く現実感を伴わない。

 おそらくは、心臓を一突き。そのわりには飛散した血液の量は少ない。

 

「……あいつを追って、アーチャー、キャスター。

 こっちは顔を見られたのよ、あいつのマスターくらい把握しておかないと割に合わない」

 

 アーチャーとキャスターはすんなりとその言葉に従った。

 

「……姉さん、この人を弔いましょう」

 

 いつの間にか私の横にいた桜。その瞳は酷く酷薄に見えた。

 彼女は既にこの男の死を許容している。私にはその冷静さが羨ましい。

 

「……ええ、そうね。せめて看取るくらいはしてあげましょう。

 ……まったく、偽善もここに極まれり、ね」

 

 制服が血に汚れると面倒だから、膝を曲げてしゃがみこむ。

 スカートを手で押さえて、膝を抱えるようにして彼の顔を覗きこむ。

 月明かりにすら見放されて、闇に沈んだ男の顔が視界に入る。

 はっきりとそれを捕らえたとき、一瞬、何も考えられなくなった。

 

「……やめてよね。なんだって、アンタが」

 

 じっとりと滲んだ汗は、彼が最後の最後まで足掻いた証拠だろう。額には一際大きな水滴が幾粒か浮かんでいる。まるで、誰かが彼の死を悼んで流した涙みたいだ。

 その表情は、今まさにこの世から消え去ろうとしていることが信じられないくらい穏やかだった。

 苦痛など感じていないのだろうか?いや、それは有り得ない。仮に苦痛を感じていなかったとしても、この表情からは死の気配など感じ取ることは出来ない。これはまるで……。

 

「いやあああああ!せんぱいいいいい!」

 

 桜が、血溜まりの中に飛び込む。

 ぱしゃり、という水音が、ただでさえ薄かった現実感をさらに希薄にしていく。

 

「なんで?なんでせんぱいがここにいるんですか?ねえ、なんでですか!?」

 

 ……キャスターを行かせるんじゃなかったな。

 桜の絶叫を聞きながら、心のどこかで冷静に考える。

 お気に入りのコートに手を突っ込む。

 指先に感じたのは硬質な物質の存在。そして、それの中に渦巻く常識外れの魔力の渦。

 さて、どうしようかな。

 そう考えて、それから苦笑した。

 この宝石を手に取った時点で、私の考えは決まっている。ならば、これ以上の逡巡は事態を悪化させるだけだ。

 

「桜、どきなさい」

 

 半狂乱に取り乱していた妹が、顔をくしゃくしゃにして振り返る。

 ああ、私の自慢の妹をこんなに泣かしてくれちゃって。

 これで生き返らなかったら、恨むわよこのトウヘンボク。

 

「ねえさん、ねえさん、せんぱいが、せんぱいがぁ……」

 

 ああもう、私は本当に甘い。

 だって、桜がこんなに泣いているのが、こんなにも我慢ならないのだ。

 それに、ほんのちょっとだけ。

 こいつが死ぬのも、気に入らない。

 

「時計塔の試験の前哨戦、そう思えばちょっとはもったいなくない、かな?」

 

 嘘だ。

 とっても、もったいない。

 この貸しは、とってもとっても高くつくわよ、衛宮君――!



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episode1 日常風景

 火事があった。

 たくさんの人が死んだ。

 それだけのこと。

 一年間に一回は、世界のどこかで起きて、

 十年後には世界のどこかで、そんなこともあったね、といわれる。

 そんな出来事。

 ただ、私は死ななかった。

 ただ、それだけのこと。

 

 夢をみた。

 不思議な夢だった気がする。

 それ以上のことは覚えていない。

 この思考自体も、一時間後には失われているだろう。

 夢の記憶とはそういうもの。

 いつもはそれがありがたい。

 なぜなら、私が見る夢の大部分は悪夢に分類されるからだ。

 原因はわかっている。

 それは常にこの身を蝕む罪悪感。

 

 あの子は本当に死ぬべきだったのか。

 あの子を助けることができたのは、私だけだったのに。

 ならば、死ぬべきだったのは私なのではないか。

 

 自分は生きる価値のある人間なのか。

 あの子を助けることができなかった、私なのに。

 ならば、私に生きる価値などないのではないか。

 

 この考えを聞けばほとんどの人はそれを否定するだろう。

 もしかしたら、その自分勝手な考えに怒りを覚える人もいるかもしれない。

 姉代わりだったあの人は間違いなく激怒する。

 激怒して、暴れて、説教をして、

 最後には優しく抱きしめてくれるだろう。

 私にはそれが許せない。

 もちろん、優しい姉代わりの人がではない。

 そんな甘えに満ちた妄想を心地よく思ってしまう自分が、である。

 

 耳を閉ざせ。

 決意が鈍る。

 目を開くな。

 惑わされるぞ。

 

 この身は罪の具現。

 この生は贖罪。

 穢れに満ちた人生ならば、

 せめて誰かの人生の露払いに。

 それだけが私の願い。

 

 

 episode1 日常風景

 

 

 夢を見ている。

 これは夢だ。それ以外では在り得ない。

 だって、何も聞こえない。

 建物が崩れていく音も、燃え盛る炎の音も、断末魔の悲鳴も。

 きっと、あの時の夢。

 死んでゆく街を、あても無く歩いて、やがて正義の味方と出会う。

 俺の人生が彼と出会ったことで始まったとするならば、これは多分前世の記憶。

 空気は肺を焼き、光は目を焼いた。

 動かない体。主人を失った四肢。

 だからだろうか、感覚が酷くあやふやだ。

 まるで、自分が自分じゃないような感覚。

 夢だから仕方ない、そう言ってしまえばそれまでなのだが。

 体が動かないのに、風景だけが動いていく。

 自分の後ろから、自分を見ている、そんな感覚。

 無音声の映画のように流れていく風景の中で、一度だけ、名前を呼ばれた。

 そんな、気がした。

 多分、気のせい。

 

 夢を見ている。

 これは夢だ。それ以外では在り得ない。

 だって、世界が漂白されている。

 白いシーツ、白い壁紙。窓の外は白い青空、話しかけてくる白い看護婦。

 無彩色の世界の中、ただ一つ色を持った存在が語りかけてくる。

 よれよれのダークグリーンのコート。

 しわくちゃのスーツ。

 ぼさぼさの黒髪。

 ところどころ剃り残しのある無精髭面。

 誰よりも知っている、見知らぬ男が問いかける。

 

「やぁ、士郎君、思ってたより元気そうだね、よかった」

 

 ああ、それは、ぼくの、なまえ。

 

「あらためて、はじめまして、士郎君」

 

 しろう?シロウ。士郎。

 ああ、そういえばそうだ。

 思い出した。

 全部、何もかも、自分の名前すら忘れてしまったのだ。

 なにせひどい火事だった。

 幼子は命の代わりに己を忘れた。

 失われた記憶。戻らぬ家族。

 その事実を思い出した。

 でも、大丈夫。

 彼が名前を呼んでくれるなら。

 そして、幼子は救われる。

 切嗣の言葉に救われる。

 

「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」

 

 夢を見ている。

 これは夢だ。それ以外では在り得ない。

 だって、目の前に切嗣がいる。

 彼は、なんだか疲れたような顔で、月を見上げている。

 彼の視線の先には満月。

 本当はどうだったのか、わからない。

 

「僕は正義の味方になりたかったんだ」

 

 知ってるよ、爺さん。

 

「でも、だめだった。正義の味方は期間限定で、大人になると、名乗るのが難しい」 

 

 そんなことはない。

 あなたは、いつだって、俺の理想だった。

 だから。

 あなたの理想は、俺が。

 

「ああ、安心した」

 

 彼は、静かに、眠るように息をひきとった。

 縁側から見上げる月。

 それは、涙で滲んで。

 酷く歪な真円だった。

ぼんやりとした思考が深い眠りから浮かびあがる。

 遠くから聞こえるカブのエンジン音。

 近くから聞こえる小鳥の囀り。

 ああ、もう朝が来たんだな。

 胡乱な意識の中で、ぼんやりと思考する。

 睡眠と覚醒の狭間の一瞬。至福のとき。

 土蔵の小さな窓から差し込む優しい曙光。

 例年に比べ暖かいとはいえ、それでもやはり身を縮こませるような空気。

 首筋に纏わりつく冷気に顔を顰め、毛布を顔までたくしあげる。

 もう少し寝てしまおうか。別に部活をやっているわけではないし、時間にはまだ余裕があるはずだ。

 ただ、何か忘れている気がする……。

 

 ………。 

 

 ……。

 

 …。

 

 あ。

 

 その瞬間、背骨にツララを突っ込まれたような悪寒がヒュプノスの優しい手を振り払った。

 

 今日は桜が来る日だ。

 

 脳は睡眠を、体は休息を求めているようだが、これ以上寝ていると桜に起こされることになるだろう。それだけは避けなければ、冗談抜きで命にかかわる。主に精神的な意味で。

 

「あの時はひどかった……」

 

 急いで毛布を片付けながら、そうひとりごちた。

 

 あれは去年の春先のことだったか。

 自らの不注意で片腕に怪我をしたあの日。

 炊事、洗濯、虎の世話。

 短くはないだろう、しばらくの間の片腕生活を思って途方に暮れていたとき。

 

「私がお手伝いに行きますよ」

 

 そういってくれた桜には後光が差して見えた。

 彼女が新人歓迎合宿の昼食に作ってくれたシチューは絶品であり、彼女が掃除当番の翌日の道場には塵ひとつなく、他のどの部員よりも細かいことに気がついた。

 性格は暖かく、学業の成績も上々。

 そして何より彼女は美しい。ミスパーフェクトといわれる学園一の才女。遠坂凛と並んでもおさおさ見劣りはしないほどだ。

 しかも、それはいまだ発展途上にあり、来年にはミスパーフェクトの『非公認、穂群原学園彼女にしたいランキング』三年連続一位の快挙を阻むのではないか、と噂されている。

 桜に世話をされる幸運を男子部員の誰もが羨んだ。かくいう俺も、その時は怪我をしたことに感謝さえしたものだった。

 

 桜が家にやってくるまでは。

 

 細かい事は思い出したくない。

 簡潔に結果だけを書き記そう。

 彼女が初めて家にやってきた、その日のうちに、俺の女性に対する嗜好の詰まったパンドラの箱は暴かれ、本、DVD、その他もろもろの災厄、全てがぶちまけられた。神話との違いは唯一つ、箱の中には一片の希望も残っていなかったことだけだろう。

 ちゃぶ台の上に堆く積まれたコレクション。

 桜は、奉行所で裁きを待つ罪人よろしく正座の姿勢で固まる俺の前で、じっくりと、1ページ1ページそれらを吟味して、最後に一言。

 

「先輩って、かわいい趣味をお持ちなんですね」

 

 不潔と罵られるなら耐えられた。

 気にしません、と気を使ってくれるならどれだけ有難かったか。

 

かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。

 

 頭の中で、悪魔が踊る。男としての矜持、覚悟、先輩としての誇り、威厳。それらをなんとなくなぎ倒しながら。

 ああ、神様。おれは確かに罪深い人間です。しかし、ここまでの報いを受けなければいけないほどの罪を犯してしまったのですか。

 目の前で、あくまが哂う。

 くすくす笑ってごーごー。

 そんな幻聴を耳にしながら、俺は見えない鎖が首に巻きついていることを自覚した。

 

「失礼します、先輩」

 

 まだ薄暗い朝の光とともに、優しい響きの声が土蔵の中に飛び込んできた。

 

「おはよう、桜」

「なんだ、もう起きてたんですね。もう少しゆっくり寝ていていいんですよ。時間にはちゃんと私が起こしてあげますから」

 

 最上級の笑顔を浮かべながら、桜が言った。何も知らない人が見れば天使の微笑みにしか見えないだろう。

 起きたばかりの太陽に照らされる、彼女の黒髪。俺を映し出す、青玉の瞳。

 

「じゃあ一つ聞くけど、あと一時間俺が起きるのが遅かったら桜は何をするつもりだったのかな」

 

 俺に許された最大限の抵抗である小さな皮肉に対して、うーん、と腕を組みながら、少し目線を遠くにむけて桜は考える。

 

「聞きたいですか」

 

 にやり、と。

 先ほどの天使の微笑みに、余人でもはっきりとわかる『堕』の文字を加えて桜が哂う。

 ああ、親父、俺の行動は間違いじゃなかったよ。

 

「いや、いいです」

 

 自分の死に方を好き好んで聞きたがる奴はいないからな。

 

 

「おっはよー、しろー、お姉ちゃんが朝ごはんを食べにきてあげたよー。今日のおかずはなっにかっしらー♪」

 

 玄関からいろんな意味でありえない叫びが聞こえる。

 朝早く、教壇に立ついい歳をした聖職者、しかも女性が、年下の男性、しかも教え子に対してこんな台詞を叩きつける家庭がここ以外日本のどこに存在するのだろう。もし存在するなら俺は心底同情する。

 

「うるさいぞ、藤ねえ。何時だと思ってんだ。曲がりなりにも教師だろ、模範になれとはいわないけど、反面教師になるのはどうかと思うぞ。あと、別に女性が料理を作れなければいけないとは思わないけど、年下の、しかも男が毎朝料理を作ってるのに何か思うところはないのか」

 

 一息でそう言いきると、うがー、と吼える虎を無視して食卓へ向かう。

 台所ではくすくすと、本当の天使の微笑みを浮かべた桜が、料理に最後の仕上げを加えている。

 

 ――なんだ、俺は今、幸せなんじゃあないか。

 

 胸と一緒に、手の甲がちくりと痛んだ気がした。

 

 

「最近物騒だからねー、士郎も桜ちゃんも気をつけてね」

 

 時間ぎりぎりまで桜と俺の合作に舌鼓を打っていた藤ねえは、そんな台詞を玄関から投げつけた。

 生活態度は無茶苦茶なところのある藤ねえだが、そんなところはしっかり教師である。だからこそ多くの生徒に慕われるのだろう。ただうるさくて面白いだけの教師に人望が集まるほど現代っこは甘くない。

 

「確かに最近は何かおかしい気がするな。通り魔にガス漏れ。マスコミが騒ぎすぎって訳でもないみたいだし」

 

 テレビを見ながらそう呟くと、

 

「そうですね。部活も早く終わるように言われてます。喜んでる子もいますけど、試合が近いのに練習ができないのは、私は残念です」

 

 朝錬の準備をしながら桜が答える。

 自分はすでに関係者ではないが、一生懸命な元後輩をみると思わず頬が緩む。

 そんな俺を見ながら、パン、と手を顔の前で合わせて桜が一言。

 

「そうだ、先輩が現役復帰すればいいんですよ。

 そうすれば先輩と美綴先輩、私とあの子で地区大会くらいは圧勝できますから、夜遅くまで練習する必要はなくなります。

 どうですか、ここは可愛い後輩達の安全を守ると思って」

 

 ずい、と顔を近づけてくる桜。

 さも名案、というふうに輝く視線が痛い。

 

「やめてくれ、何を言われても、もう弓をとるつもりはないよ。その話は昨日もしたばっかりだろ」

 

 手をぶんぶんと振りながらそう答える。

 桜と美綴はいまだに俺を弓道部に戻したいらしい。その気持ちは嬉しいのだが、度が過ぎると正直荷が重いと思うことがある。

 

 

 こんなことがあった。

 ある朝、今日と同じように桜と俺がじゃれあっていたのだが、お互い熱くなり過ぎたのか、知らぬ間に朝錬が終わる時間になってしまっていた。しかも、大会直前のその時期、運悪く練習は全員強制参加だった。

 将来の部長候補である桜の無断欠席に怒り心頭の現部長、美綴綾子は全部員の前で桜を叱責した。

 

「今日は何で休んだんだ、電話の一本もいれずに!今が大会前の大事な時期だってわかってるだろ!」

 

 俺も原因の一部である。火に油を注ぐ羽目になることは覚悟しつつも、それらを全てかぶるつもりで桜と一緒に謝りに来たのだが、美綴は俺の存在に気がつかないほど怒っていた。

 

「黙っててもわからないだろ!それとも人に言えないような理由なのか!」

 

 美綴も熱くなっているのか、いくらなんでも言いすぎだ。

 確かに無断欠席は褒められた事ではないが、ここまで言うほどのものでもないだろう。

 このままでは二人の関係が悪化する、そう考えた俺は口を開きかけたが、その時。

 

「衛宮先輩に、弓道部に戻ってくれるように説得してました」

 

と、消え入りそうな声で桜が言った。

そして、それを聞いた美綴が一言。

 

「そうか、なら仕方がないな」

 

 その一言であっさり事態はカタがつき、部員は桜も含めて、唖然とする俺がいないかのように練習を再開した。

 『なら仕方がない』事件として一部の人間の間で有名になったそれは、美綴と桜の俺に対する執着を象徴する出来事として語り継がれているようだ。

 

 なおも俺を説得しようとする桜。口を開きかけたが、それが固まる。その顔は今の今まで微笑みを浮かべていたことが嘘のように真っ青だ。

 

「先輩、それ……」

 

 桜の視線を追うと、自らの手の甲にたどり着いた。

 そこには、複雑な意匠の痣が浮かび上がっていた。

 

 

 それから桜は何も話さなかった。黙々と準備をして、いってきます、も言わないで朝錬へ向かった。

 

「何だったんだ……?」

 

 そう呟きながら学校へ向かう。

 アスファルトで舗装された、通いなれた通学路。

 やはり朝の空気はまだまだ冷たい。行きかう人の吐く息も自分と同様に白い。

 この空気は嫌いじゃない。

 そう思う。

 夏の身を焦がすようなそれも嫌いではないが、冬の肌を引き締める空気には及ばない。

 友人は夏は暑いから嫌いだという。冬は寒いから嫌いだという。それが俺には理解できない。

 これが暑いのか。

 あの赤い空の下は、もっと――。

 これが寒いのか。

 あの黒い雨は、もっと――。

 だらだらと続く下り坂を一人単調に歩くと、くだらない思考が頭を支配した。

 こんなことではいけない。

 今の境遇に不満を抱くことなど、あってはならない。

 それはあの日、俺が救えなかった人々に対する重大な侮辱だ。

 それと同時に、現状に甘んじることも許されない。

 それはあの日、俺が見捨てた人々に対する裏切りだ。

 自分はあの日、正義の味方に救われた。

 ならば自分も、みんなを救う正義の味方に。

 それだけが、俺の願い。

 

 校門をくぐると眩暈がした。

 学校の敷地を境にして、内と外で空気の質が違う気がする。

 

「疲れてるのかな……?」

 

 昨日はバイトと鍛錬で体を酷使してしまったし、今朝は桜が来るのでいつもより早かった。

 ならば、それこそ仕方ない。

 気を取り直して歩く俺の前に一人の女性の姿があった。

 

「おはよう、代羽(しろう)。今日は朝錬サボりか」

 

 眩い朝日に照らし出されたのは、濡れた黒絹のようにしなやかな、しかし光の具合によっては赤紫がかっても見える神秘的な美しい長髪。

 数少ない俺の友人である間桐慎二、その妹は、振り返って微笑みを浮かべながらこう言った。

 

「今日もサボり、です。

 おはようございます、衛宮先輩。今日も能天気そうでなによりです」



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episode2 風景変換

 私は、今、生まれた。

 黒く、温かな液体の中を漂っている。

 浮上しているのか、沈下しているのかは解らない。

 そもそも、この空間では上下左右すら無意味だ。

 あるのは黒、黒、黒。

 光が射さないから黒いのか、液体自体が黒いのかは不分明だが、少なくとも不快ではない。それどころか、心は安らかだ。気分はいい。

 とても暖かで、とても綺麗だ。

 まるで母親の羊水に浸かっているような、そんな心地。

 もし天国という場所が存在するならば、それは此処のことをいうのだろう。

 私は長い間、此処でまどろんでいた。

 私は発生した時、此処にいた。そして、今も此処にいる。

 つまり、私という個体が認識し得る全ての時間がこの空間に刻まれているのだ。

 果たして、それが一般に長いと呼べる時間なのか、瞬きほど一瞬なのかは解らない。

 とにかく、私の主観においては永劫と呼べる時を、独り此処で過ごした。

 そのうち気付いたことがある。

 此処にいるのは私だけではない。

 息遣いは感じられないし、当然その姿は確認できないが、たくさんの仲間がいる。

 最初は私だけだった。それは間違いない。

 いつの時点で此処が共有されたのかは主であったはずの私も知らないが、特に不都合はなかった。

 伝わってくる気配。

 荒々しいモノ。落ち着いたモノ。

 頭のよさそうなモノ。キグルイとしか思えないモノ。

 暖かいモノ。冷たいモノ。

 色々なモノが私を取り巻いていた。

 それでも、私はやはり安らかだった。

 なぜなら、この世界は広い。

 その住人が少々増えたところで何の不都合があるだろう。

 むしろ、賑やかなのは歓迎だ。

 本当に安らかで、心地よい所だが、静かすぎるのには辟易していた。

 これで何か光でも見えればいうことはない。

 そんなことを考えていると、一瞬、ほんの一瞬だけ、何かがこの空間を照らしだした。

 本当に?

 私は狂喜した。

 やはり此処は天国だ。

 きっと神が私の願いを叶えてくれたのだ。

 ならば、もっと願おう。

 私は、この光がもっと見たい。

 

episode2 風景変換

 

 彼女と初めて会ったのは3年前のことだ。

 慎二の家に招かれた際、妹として紹介された。

 彼に妹がいるという話は聞いていなかったので、非常に驚いたものだ。

 長い間、ヨーロッパに留学をしていて、この度帰国したらしい。

 

「ほら、ちゃんと挨拶しろよ。僕に恥を掻かせるな」

 

 いつもどおりの友人の様子に苦笑しつつ、初めて彼女と言葉を交わした。

 

「はじめまして、間桐(まとう) 代羽(しろう)です。

 

 衛宮先輩ですね、お話はかねがね兄から伺っております。お会いできて光栄ですわ」

 

 にっこりと笑った彼女は、完全無欠のお嬢様、といった風情だった。事実、慎二の家は資産家であり、その表現には聊かの誤りもない。

 彼女は俺や慎二よりも一才年下らしいのだが、その容姿には、既に完成された女性の美が存在していた。当時、俺の周りにいた女性といえば、クラスの女子か、飢えた虎くらいだったので、大変どぎまぎしたことを憶えている。

 だから、誰も俺のミスを責めることなんてできないと思うんだ。

 

「ああ、これからもよろしく。ええっと、しろお(・・・)ちゃん」

 

 その瞬間、広大な屋敷の空気が一瞬にして凍りついたのを、俺は一生忘れることができないと思う。

 俺の前には、小動物のようにがたがた震える慎二と、先ほどの表情と寸分たがわぬ完璧な笑顔のまま佇む夜叉がいた。

 

「あら、今のは聞き間違いかしら?

 それとも、先ほど私が自分の名前を言い間違えたのかな?ねえ、お兄様」

「いや、悪いのは衛宮だ、お前は何も間違えていない」

 

 脂汗を流しながら、それでも辛うじてそう答える慎二を見て、俺は彼女と出会って僅か五分で超特大の地雷を踏んでしまったらしいことを悟った。

 

「ええ、その通りですお兄様。私は何も間違えていません。

 私の名前は、しろう(・・・)しろお(・・・)などという、まるで男のような名前では在りません」

 

 なるほど、確かにシロオという発音だと、俺の名前と同じになってしまう。

 

「名前には名付け親の意思が込められるものです。

 私の名前には『時代を羽ばたく』という崇高な意味がある。

 それを、出会って僅か五分でないがしろにして下さるとは思いませんでしたわ、衛宮先輩」

 

 その後で、最高の笑顔を浮かべた彼女が煎れてくれた塩味のコーヒーと、この世の終わりのような紅色をした唐獅子クッキーの味も、俺は一生忘れることができないと思う。

 

 

「慎二、最近調子はどうなんだ」

 

 代羽と一緒にしばらく歩いたが会話が見つからなかったので、共通の知人である友人の話題を振ってみた。もっとも慎二は俺にとっては友人、彼女のとっては兄なのだが。

 

「兄の調子は兄に聞けばよいでしょう。それとも兄に聞けない理由でもあるのですか。ならば嫌々お話いたしますが」

 

 彼女はいつもこの調子だ。とりあえず会話の中に一刺のとげを入れるのが彼女のこだわりらしい。

 顔立ちは整っていて、個人的な感想を言わせてもらえるならあの遠坂凛に勝るとも劣らないものだと思うのだが、浮いた話はおろか、同じ弓道部の桜以外、友人の一人も見たことがない。  

 肩を竦めて歩く。

 もったいないと思う。これでもっと社交的な性格をしていれば回りがほおっておかないだろうに。

 

「よけいなお世話です、衛宮先輩。自分の価値観ですべての人間が計れるお思いですか。増長するのもたいがいにしなさい」

 

 唖然として立ち止まると、少し先を歩いていた彼女が振り返って微笑んだ。

 白皙の肌。俺よりも一回り小さい華奢な体。すんなりとした体のライン。眉の少し上でまっすぐに整えられた髪形。まるで精巧な人形のようだ、と思う。

 その勘違いを正すのが、強く自我を主張する瞳。長い睫毛に飾られたそれは、大きく、黒曜石のように黒い。女性にしては太めの眉と相俟って、彼女の意思の強さを表しているかのよう。

 

「人がいいのはあなたの長所でしょう。

 しかし、考えが読まれやすいのはあなたの欠点です。

 自覚しなさい、そうすれば欠点は欠点でなくなりますから」

 

 そう言って彼女は、燕のように軽やかに自分の教室に向かった。

 そう、彼女は性格が悪いのではない。少し表現の仕方が独特なだけ。

 彼女の言い方を借りるならば、それは欠点ではないのだろう。

 俺は苦笑しながら生徒会室に向かった。今日は何件の修理の依頼がきているのだろうか。

 

 

 冬の太陽は社長の如し。

 そのこころは、ゆっくり起きて、早く帰る。どこかでそんなくだらない冗談を聞いたな、と思う。

 太陽は既に、西の空にその残滓を微かに残すだけになっていた。空の色は赤から紫に、そして黒に近づきつつある。いくら慎二に道場の掃除を頼まれたとはいえ、さすがにこんな時間に帰っては藤ねえが怒るに違いない。

 

「早く帰ろう」

 

 誰に言うでもなくそう呟くと、少し足取りを速めた。

 今日は色々あった。中でも驚いたのは一成と遠坂の舌戦だろう。桜から猫かぶりの話は聞いていたが、その状態であれなら、その本性はいかばかりか。

 弓道場の門を閉め、校舎伝いに校門を目指す。

 事件の影響だろう、どこにも人の姿は見えなかった。子供ならばある種の怪談を思い出して足を竦ませてしまうかもしれない、そんな雰囲気だ。

 俺は魔術の世界に片足を突っ込んでいるが、幽霊がいると思ったことはない。

 存在することは知っている。だが、その存在を信じることはできない。

 もし幽霊がいるならば、俺は真っ先に呪い殺される。

 あのとき、俺は彼らを見捨てたのだ。

 言い訳なら無限にできる。

 子供だったから。自分が生きるためだから。怪我をしていたから。

 だが、そんな言い訳で死者が納得するはずがない。

 

『せめてこの子だけでも』

 

 崩れ落ちた瓦礫に下半身を押しつぶされ、血を吐きながら我が子の命を案じた母親。

 俺は、自分が生きるために母親も、その子供も見殺しにした。

 しばらく歩いた後で、背後から建物の崩れ落ちる鈍い音が聞こえたのを覚えている。きっと、あの子は無念の叫びもあげることができないまま、天に召されたのだろう。

 彼らが俺を赦すはずが無い。

 しかし、俺はのうのうと生きている。

 ならば、この世に幽霊などいない、ということになるではないか。

 いや、もしかしたら俺は幽霊がいることを望んでいるのかもしれない。

 もし、あの時の人達が化けて出たなら、俺は額を地面に擦り付けて許しを請うことができる。

 謝罪とは、贖罪とは、罪を許す存在があって初めて成り立つ行為である。殺人が古今東西をとって最も重い罪である理由の一部もそこにあるのではないか。なにしろ、罪を許す存在が既にこの世に無いのだから、その罪は永久に許されることは無い。それに比べれば呪い殺されることすら一つの救いだ。

 だから俺は永久に許されない。

 作り物の神ならば俺を許してくれるだろう。

 しかし、それは他ならぬ俺が許さない。

 軽い気持ちで懺悔をすれば、あなたの罪は許される。そんなファーストフードみたいな神様がこの世にいてたまるものか。

 

 ――危ない。

 

 またこの思考だ。

 この思考は俺を殺す。

 誰かが隣にいるときならまだしも、今は投影したナイフで手首を切っても止めてくれる人間は誰もいない。

 俺の命はこんなところでドブに捨てていいほど軽いものじゃあない。あれだけたくさんの人を死なせて、切嗣に救われた命なのだから。

 金属を擦り合わせるような音が聞こえたのはそんなときだった。

 

「……何だ?」

 

 振り返って音源を捜す。

 意識を耳に集中する。そうすると、金属音の他に何かが爆発する音が混じっていることに気がつく。

 どうやら、音はグラウンドの方から響いてくるようだ。

 心のどこかで激しく鳴らされる警鐘を無視して、俺は音源に向かった。

 

「……なんだ、あれは」

 

 その時俺が見たのは三人の人間。いや、正確にいうならば人の形をした何か。

 一人は赤い外套を纏って両手に短めの剣を持っている。白と黒のそれらは二振りで一つの武器なのだろう、全く同じ形状をしていた。

 一人は血に濡れた様に赤い槍を持つ、青い皮鎧を身につけた男。その動きは三人の中でも際立って速く、明らかに人のそれの範疇を超えていた。

 一人は紫のローブを纏った人間。他の二人よりは一回り小さい体格で、もしかしたら女性なのかもしれない。宙を舞うそれの手からは、絶え間なく光弾が撃ちだされている。

 どうやら赤い外套の男と紫のローブの女性が、青い皮鎧の男と戦っているようだ。金属音は赤い男の双剣と青い男の槍が奏でる音で、爆発音は紫の人型が放つ光弾によって生みだされていた。

 しばらくの間、白痴のようにその光景を見ていた。

 おそらくは人ならぬ人型が演ずる武の宴。こと、武道に僅かな期間であっても身を置いた人間にとって、それは無視できるものではなかった。

 そのうちに気がついたことがある。

 まず一つは、2対1の不利にも関わらず、青い男は赤い男と紫の人型に対してほぼ互角の戦いができているということ。

 そしてもう一つは、先の理由にもなるのだが、赤い男と紫の人型との間に全くといっていいほど意思の疎通が図られていないことだ。

 おそらくは共闘するのが初めてはなのだろう、お互いの呼吸が絶望的にあっていない。これでは数の有利を活かしきれるはずもない。

 しばらくの間、膠着状態が続いた後、二つの陣営の間で一言か二言、言葉が交わされた。残念だが読唇の心得は無いので、果たしてどんな会話があったのか知ることはできない。

 しかし、停戦の合意がなされたのではないことだけはわかった。青の男の槍に今まで以上の禍々しい魔力がこめられたからだ。

 死ぬ。確実に死ぬ。いまからあの二人が何をしても結果は変わらない。

 赤い男か、紫の人型か。そんなことは些細な問題だ。死ぬ。俺の前で、人の、かたちを、したもの、が、しぬ。しぬ。死。

 

「やめろっ!」

 

 

「馬鹿か、おれは!」

 

 校舎内を走りながら、様々な思考が一瞬で脳内に展開される。

 あの三体に勝てるのか、俺が。

 無理、絶対に無理。

 逃げ切ることさえ難しいだろう。

 これじゃ遠回しな自殺だ。何が切嗣に救われた命だ。結局俺はこんなところで死ぬのか。

 今日の晩飯は何にしようか。挽肉が残ってたからハンバーグとサラダかな。

 俺が死んだら桜は悲しむな、出来れば死にたくない。

 考えを読まれるな、か。敵に自分の居場所を知らせた、なんて言ったら彼女はどんな言葉で俺を罵るだろう。

 駄目だ、俺は今混乱している。こんなことでは生き残れるものも生き残れない。

 息があがる。

 足がもつれる。

 体内に残された貴重な酸素を脳細胞へ。

 まず、自分に出来ることを考えろ。

 格闘技。切嗣に習った。街の不良くらいならよっぽどのことがないと負けないレベル。

 駄目だ、話にならない。

 魔術。強化と解析、手慰み程度の投影。強化はともかく、他は戦力になるレベルじゃない。なら、武器になる何かを探して、それに強化を施して、それから。

 

「ずいぶん遠くまで逃げてきたじゃねえか」

 

 耳元から薄ら寒くなる台詞が聞こえた。

 きっとこれは死神の囁きだ。

 慣性に逆らって、体を強引に敵の方へ向ける。

 それと同時に胸を冷たい穂先が貫いた。

 

 

 冷たいリノリウムの床に寝転がる。

 

「はっ、ぐぅぅ……」

 

 笑えるほど無様な呻き声。

 一瞬遅れてそれが自分の唇から漏れ出したものだと気がつく。

 駄目だ、立てない。

 四肢の先から力が抜けていく。

 音が遠くなる。

 視界が狭まっていく。

 なるほど、これが死か。

 槍で心臓を一突きされた割には、驚くほど痛みは少ない。せいぜい慎二に思いっきりぶん殴られた程度だ。もしかしたらあの青い男が何かしたのかもしれない。

 出来れば、まだ死にたくない。

 せめて一人、自分を救ってくれた切嗣に報いるためにも、誰か一人を助けたかった。これでは切嗣の死が、あの尊い死に様が無駄になる。それは例えようも無い恐怖だった。

 

「でも………間違って…ない…」

 

 残された僅かな力で呟く。自分に言い聞かせるように、或いはこの場にいない誰かに伝えるように。

 事実、もしあの時人型の死を見過ごしていれば、自分は助かったかもしれない。

 しかし、その後、果たして俺は切嗣に報いる人生を送ることができただろうか。

 己を蔑み、外道として生きるか。

 自らの力の無さを嘆き、命を絶つか。

 いずれにしても今の自分が死ぬことに変わりは無い。

 ならば、あの人型を救えただけでも僥倖とするべきなのだろう。

 そんなとりとめも無いことを考えていると、遠くから足音が近づいてくるのが聞こえた。 どうやらお迎えが来たらしい。

足音は耳のすぐ傍で止まった。

 これで終わりか。

 そう考える俺の頬に触れたのは、冷たい死神の鎌ではなく、暖かい指先だった。

 死神が呟く。

 その声は、死を司る神のものとは思えないくらい穏やかで、何より弱々しかった。

 

「人は普通、長所によって成功し、欠点によって破滅する。

 でも、あなたは長所によっても欠点によっても死を義務付けられていた。

 それが……哀れといえば哀れ」

 

 どこかで聞いたことがある震える声が、朦朧とした意識の中に響く。

 額に、暖かいような冷たいような、不思議な液体の感覚が残る。

 身体の緊張が解れていく。

 これから死に行く身としては、きっと考えられないほどの贅沢だ。

 

「安心しなさい、衛宮士郎。あなたの呪いは私が引き継ぎます」

 

 その声を聞いた直後、俺の意識は闇に溶けた。

 だからその後に聞こえた声は全て夢。

 泣き叫ぶ桜の声も、それを叱咤する遠坂の声も。



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episode3 帰宅途中

 その子供を初めて見たのは、時計塔の近くの路地裏だった。

 本来なら、私はそんなところを通ることはないが、何か面白いものでも見つからないか、と思って気紛れを起こしてみたのだ。

 派手な格好で男を誘う女の群れを無視し、下卑た笑いを浮かべて近寄ってくる男達を叩きのめし、私は失望した。私の勘も外れることがあるらしい。

 次の角を曲がったらまっすぐ帰ろう。そう思って歩いた。

 そうして、私は彼を見つけた。

 彼は何かを食べていた。唇に紅を引き、本当に幸せそうに。

 傍らには軟骨を齧り、髄を啜った骨が堆く積まれていた。

 真っ赤に染まった両手と、死体のように青白い肌とのコントラストが毒々しい。

 死徒の類かとも思ったが、どうやら辛うじて人間のようだ。

 私は興味を持って、彼に話しかけた。

 

「あなたは、何故そんなものを食べているのですか」

 

 彼は嬉しそうに目を細めて、こう言った。

 

 オオキクナリタイカラ。

 

 なるほど、確かにたくさん食べないと人は大きくなれない。当たり前の理屈だ。私は納得した。

 

「邪魔してごめんなさい。どうぞごゆっくり」

 

 子供は嬉しそうに微笑むと、手に持った人間の頭部に噛りついた。

 変わった子供がいるものだ。

 私は自分の勘が外れなかったことに微かな満足を覚えつつ、少し遅めの帰路に着いた。

 

episode3 帰宅途中

 

 ぶん、と。

 意識のスイッチが入った。

 夢を見ていたようだ。

 果たして、どんな夢だっただろうか。

 ほら、すぐに思い出せるはずなのだ。喉の先まで出てきている。ええっと、なんだっけ…。

 ずいぶん遠くまで逃げてきたじゃねえか人は普通長所によって成功し欠点によって破滅するでもあなたは長所によっても欠点によっても死を義務付けられていたそれが哀れといえば哀れ姉さんこの人を弔いましょうええそうねせめて看取るくらいはしてあげましょうまったく偽善もここに極まれりねやめてよねなんだってアンタがいやあああああせんぱいいいいいなんでなんでせんぱいがここにいるんですかねえなんでですか桜どきなさいねえさんねえさんせんぱいがせんぱいが時計塔の試験の前哨戦そう思えばちょっとはもったいなくないかな帰るわよ桜ありがとうございます姉さん――。

 

 あ、そうだ。

 ぴかん、と。

 頭の中で、漫画みたいに明かりが灯ったその瞬間。

 死ぬほどの吐き気と、猛烈な咳気が俺を襲った。

 

「がはっ、ごっ、げほ、ごほ、ごほっ!」

 

 まずい

 

「げほっ、げほ、げほ、げほ、げえっ!」

 

 こきゅうが できない

 

「うええぇっ、がは、がっ、が、が、ぎ…」

 

 さ んそ が

 

「………ひゅうぅぅぅ、がはっ!ごほっ、ごほっ!」

 

 駄目だ。

 やっとの思いで吸った気体が逃げていく。

 

「がっ!がはっ、ごほごほごほっ、ごほっ!」

 

 何を吐き出そうとしているのか、身体が尋常ではないほどの拒絶反応を示している。

 

「ごほ…ひゅうぅぅ、…ごほ…かはっ…」

 

 それでも、何とか落ち着いてくれた。

 

「ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ」

 

 喘ぐように、貪欲に酸素を取り入れる。

 普通に呼吸が出来ることにこの上ない快楽を感じる。

 健康は失って初めて大事だと気付く。

 使い古されて、既に誰にも感銘を与えることのなくなった当たり前の言葉を噛み締める。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」

 

 どんな嵐よりも荒れ狂っていた呼吸が、なんとか正常に近づいていく。

 メーターを振り切っていた心拍数も、ようやくローギアへのシフトを認めてくれたようだ。

 身体の緊張が解れていく。

 知らぬ間に胎児みたいに丸まっていた身体を伸ばし、大の字に仰向けになる。

 人工的な明りの存在しない空間、無機質な天井、皮膚を切り裂く冷たい空気、背中に伝わる濡れた感触、咽返るような鉄の香り…。

 徐々に、意識を失うまでの出来事がフラッシュバックされていく。

 掃除。

 戦闘。

 制止。

 逃亡。

 急襲。

 紅い槍。

 冷たい感触。

 暖かい感触。

 

 死。

 

 ああ、そうだ。

 俺は、殺されたんだ。

 胸を貫かれて、殺された。

 そう考えると、妙に乾いた笑いが込み上げてきたが、それは頬に嫌な歪みを作っただけでその役割を終えた。

 殺されて、目が覚めたときに最初に考えたのが、さっき何の夢を見たか、か。

 

「くだらない」

 

 吐き捨てるように呟く。

 よっ、と。

 勢いをつけて起き上がり。

 そのまま、吐いた。

 

「おええぇぇっ!」

 

 吐瀉物が廊下を汚していくが、そんなこと気にしている余裕はない。

 神の前に頭を垂れる罪人の様に蹲って、胃液を吐き続ける。

 

「げえ、げぇえ!」

 

 胃酸が喉を焦がしていく。

 痛みというよりは熱さ。

 その熱が、何よりも自分の生を実感させてくれた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 

 ……どれくらい時間がたったのか、ようやく胃の痙攣も収まった。

 口の中に残った反吐を、唾と一緒に吐き出す。

 

「ちくしょう、夢じゃ…」

 

 ないのか。

 槍。

 紅く、濡れたように妖しく輝く穂先。

 脳に錐を打ち込まれたような、冷たい声。

 怖かった。

 そうだ。

 何よりもあの声が怖かった。

 なぜなら、あの声には何もなかったからだ。

 憤怒とともに人を殺すなら、わかる。

 嫌悪とともに人を殺すなら、まだ理解できる。

 歓喜とともに人を殺すなら、それでもそれは人の業だ。

 だが、あの声には何もなかった。

 憤怒も嫌悪も歓喜もなく。

 躊躇いも慈悲も躊躇もなく。

 己に課せられた義務を遂行する、その意志だけがあった。

 だから、あれは人じゃない。

 あれは、きっと化け物だ。

 冷え切った身体を無理やり起こす。

 ひどい立眩み。そりゃそうだ、なんてったって体に流れてるガソリンの量が絶対的に不足している。廃車寸前のボロ車、しかもガス欠寸前、そりゃあ言うことも聞いてくれないだろう。

 それでも何とか立ち上がる。

 背中が冷たい。制服に染み込んだ血液のせいだろう。なるほど、血潮が熱いのは体の中で流れているときだけか。

 あらためて周囲を見渡すと、思わず苦笑してしまうほど酷い惨状だった。流れ出た血は大きな水溜りを作り出し、鉄の錆びた匂いと反吐の饐えた臭気が相俟って、これは宛ら地獄絵図だ。

 

「間違いなく警察呼ばれるな…」

 

 警察が呼ばれたら、きっと部活は中止になるな。

 なら、桜が悲しむか。

 

「くそ、何やってんだ」

 

 掃除用具の入ったロッカーを漁りながら、俺は自身に毒づいた。

 

 

 暗いの住宅街を、まるで幽鬼のように歩く。

 人の気配がする度に、車のエンジン音が近づいてくる度に、鼠みたいに身を隠す。

 幸い、ここ最近続いた異常な事件のせいか、人通りは少ない。もし普通の神経をした人間が今の俺の姿を見たら、即座に110番をダイヤルすることは間違いないから、不幸中の幸いといえるかもしれない。

 足取りは重い。

 血液の抜けた体は、減少したはずの質量と反比例するかのように鈍重だ。

 引きずるように足を前に出し、真実後ろ足を引きずりながら体を前に運ぶ。

 

「はぁ、はぁ、っ…そったれ…少しは鍛えてたのにな」

 

 何も、役に立たなかった。

 筋力も、体力も、魔術も。

 あの青い男の前では、あらゆるものが無価値だった。

 火を噛むように歯軋りをする。

 もし、あの場に桜がいたら。藤ねえがいたら。代羽がいたら。

 俺は、彼女達を守れたか?

 否。

 絶対に、守れなかった。

 俺に出来るのは、順番を変えることくらいだろう。

 桜達を生贄にして、自分の死を僅かばかり先延ばしにするか。

 自分が生贄になって、彼女達に僅かばかりの生を謙譲するか。

 いや、そんな選択権すら与えられないかもしれない。

 そこまで考えて、再び嘔吐した。

 

「ぐえ」

 

 まるで酔っ払いのように、電柱に寄りかかりながら吐く。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、っ」

 

 くそ、とにかく今は家に帰ることだ。

 あの野郎に一発お返しするにしても、傷を癒してくれた誰かを探すにしても、今の状態ではままならない。

 とにかく家に帰って休まないと、話にならない。

 寒さと、疲れと、それ以上の何かに震える膝を叱咤して、無限みたいに続く細い路地をひたすら歩いた。

 どれくらい歩いたのだろうか。

 霞む視界が捕らえたのは、大仰な門構え。

 明りの点いていない侘しい玄関が、この上なく恋しい。

 手をポケットに突っ込み、感覚を失った指先で鍵を探す。

 開錠し、倒れるように扉を開ける。

 

「は―――ぁ」

 

 漏れたのは安堵の溜息。

 そのまま床に腰を下ろし、ゆっくりと先ほどの記憶をなぞる。

 

「あれは、何だったんだ…」

 

 明らかに人ではなかった。

 もっと怖いものたち。

 直感的に悟る。この町の異常は、あれが引き起こしている、と。

 ガス漏れ、通り魔、そして失踪事件。

 それに、自分は関わってしまった。

 どうする?

 しばらく学校を休んでどこかに隠れるか?まさか半永久的にこの異常が続くわけでもないだろうし、そこまであの化け物も追ってこないだろう。安全を求めるなら間違いなくそうすべきだ。

 だが、それでいいのか。

 桜はどうなる?

 藤ねえはどうなる?

 一成は?慎二は?代羽は?美綴は?。

 とにかく。

 そんなの、決まってる。

 

「俺は――」

 

 その時。

 からん、からん、と。

 招かれざる客の訪問を告げる、乾いた音が鳴り響いた。

 

 (あとがき)

 次回から本編と違う展開になるかと思います。そういったものに嫌悪感を抱かれる方は注意してください。



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episode4 宣戦布告

 

 赤は血の色、炎の色、私の髪の色。

 だから私は赤が嫌い。

 白は煙の色、骨の色、私の肌の色。

 だから私は白が嫌い。

 黒は雨の色、死体の色、私の瞳の色。

 だから私は黒が嫌い。

 青は水の色、空の色、私を救ってくれた人の色。

 だから私は青が大嫌い。

 

 

 episode4 宣戦布告 

 

 

 今日は本当に色々なことがあった。いままでの人生の中でも一、二を争う慌しさだ。

 朝早く起きて学校に行った。代羽と、嫌味とも皮肉とも取れる、つまらない会話をした。

 同じく、慎二にも嫌味を言われた気がする。そして、弓道場を掃除して、帰路に着いた。

 ここまではいい。少し事が多いが、それでも日常の範囲内だ。

 問題はこれからだ。

 校庭で人外の戦闘を目撃した俺は、とんでもないヘマをやらかして、その片割れに殺された。

 間違いなく殺された。

 胸を馬鹿でかい槍で一突きにされてそれで生きてるなら、俺も人外の仲間入りだ。

 しかし、俺は生きている。そして、俺は化け物の類ではない、と思う。なら、どうして俺は生きているのだろう。

 首を捻りながら、まるで言うことを聞かない体で這うように家に帰ると、そこには件の槍男が待ち構えていた。

 

「何の因果で同じ日に同じ人間を二度殺さなけりゃならねえんだ」

 

 槍男はそう嘆息したが、こちらにだって一日に同じ男に二度殺される因果があるとは思えない。

 槍男の攻撃をなんとか凌ぎながら、武器のあるであろう、土蔵まで逃げ込んだ。

 だが、体は既に満身創痍、武器など扱えるはずもない。結局は死ぬまでの時間を僅かに延ばしただけだったのだろうか。

 

「結構がんばったぜ、お前。もしかしたらお前が7人目だったのかもな」

 

 こちらには一つも理解できない台詞を吐くと、男は俺の胸に槍を突きつけた。

 

「じゃあな。恨んでくれてかまわねえよ」

 

 駄目だ、今度こそ死ぬ。

 大体、さっき生き残ったこと自体、奇跡のようなものなのだ。そして、奇跡はめったに起こらないからこそ奇跡といわれる。

 ならば俺は死ぬのだろう。あの槍に貫かれて。

 諦めが俺の心を侵していく。それはある意味、安息だった。なぜなら、もうあの悪夢に魘されずにすむ。

 せめて最後は穏やかに。

 そう願い始める俺の心の中で、諦観の侵食に反抗する勢力が鎌首をもたげた。 

 本当にそれでいいのか。

 お前は多くの人を見殺しにして、切嗣の理想を継いだのではなかったのか。そして、おそらくは今日も誰かに助けられたのではないか。その命、ここで諦めるのか。

 迫りくる穂先。それに対して俺は、 

 

「ふざけるなっ!」

 

 全身全霊をこめて叫んでやった。

 おそらくは迫り来る濁流の前に、たった一つだけ土嚢を投げ込むが如き行為。

 何の意味もない。そんな言葉などで槍を防ぐことなど出来るはずもない。

 しかし、それは。

 

「なにっ、本当に7人目だとっ!?」

 

 光の奔流が目を焼く。

 やがて、ぼやける視界に映った少女はこう言った。

 

「―――問おう。貴方が、私のマスターか」

 

 無骨な土蔵、舞台としては、それがかえって相応しかった。

 例えば、絢爛な舞踏会などは、彼女に相応しくない、そう思える。

 どんなに華美なドレスも、どんなに輝かしい宝石も、どんなに繊細なシャンデリアも、彼女の前では色褪せてしまうだろう。

 彼女は、完成している。

 ならば、外的環境は、寒々しいくらいで丁度いい。

 それほどに彼女の姿は雄雄しく、何より美しかった。

 その姿が鮮烈すぎて、それからのことはあまり覚えていない。

 今まで、見習いとはいえ魔術の修行を積んだ身で情けないと言われればその通りだが、ほとんど一般人と変わらない生活をしてきた俺にとって、脳の許容量が限界を超えてもそれは仕方のないことではないか、と思う。

 それでも、自分でセイバーと名乗った少女がランサーといわれた男を、傷つきながらもなんとか撃退したこと。

 その直後、彼女が玄関に向かって走ったこと。

 その彼女が向けるおそらくは剣の先に、尻餅をついた遠坂姉妹がいたことは覚えている。

 

 

「さて、説明してもらいましょうか」

 

 遠坂凛が最高の笑みを浮かべながらそう宣言する。

 一般の日本の家屋の基準からすれば決して狭くはない居間が、今は心持狭く感じる。

 それもそうだろう。現在この部屋には6人の人間がいる。

 まずは家主である俺、衛宮士郎。そして隣には、どうやら俺が召還したらしい、自らをセイバーと呼んだ少女。

 机を挟んで目の前には4人の人間が座っている。そのうちの二人は学園一の才媛姉妹といわれる遠坂姉妹。残りの二人が校庭で見かけた赤と紫の人型。俺以外の5人は、例え人数がこの半分であったとしてもこの部屋を狭く感じさせるのに十分であろう、巨大な存在感を放っていた。

 

「色々あってね、私、気が立ってるの。嘘とかついたら、承知しないわよ、衛宮君」

 

 そう、正にそれは宣言。こちらの拒否などはなっから眼中にない。もし、こちらが拒否するなら、即座に相応の報復措置をとる、とその目が叫んでいる。

 

「ちょ、ちょっと待て、遠坂。俺が知ってることを残らず話すことに依存はない。ただ、その前に教えてくれ。お前も桜も魔術師なのか?」

「はあっ、何、あなた全然気付いてなかったの?」

 

 呆れたような視線を俺に向けた後、遠坂は桜に声をかけた。

 

「どういうこと、桜。彼は魔術師なんじゃないの?これじゃ、まるで只のど素人じゃない」

 

 ど素人。

 そりゃあ半人前だってことは自覚してるけど、おそらくは一流の魔術師であろう、遠坂に面と向かって言われると、ほんの僅かな自尊心が傷つく。

 

「姉さん、間違いなく先輩は魔術師です。

 それも、遠坂にも伝わっていない特殊な修練を今に伝える稀有な家系です」

 

 桜はそう答えた。

 これではっきりした。桜も魔術師だ。軽く眩暈を覚えたが、何故かほっとした。

 しかし、おそらくは姉ともども一流の魔術師であろう、桜が驚くような鍛錬などした覚えがないのだが。

 

「ちょっと待ってくれ、桜。特殊な修練ってなんだ。俺はそんな特別な鍛錬をしたことは無いぞ?」

 

 その言葉に対して桜が噛み付いた。普段の暖かい桜の雰囲気からは考えられない、冷たい声で言う。

 

「今更嘘をつかないでください、先輩。

 私は知っています。毎晩毎晩、先輩が土蔵にこもって一から魔術回路を構築していたのを。

 普通の魔術師があんな、無駄で危険なことを敢えてするはずがありません。まして、先輩は『あの』衛宮の後継者。

 あれは衛宮に伝わる秘伝の修練なのでしょう?」

 

 後から思えば、強い口調は彼女が俺に対して自分を偽っていたことに対する罪の意識の表れだったのだろうが、その時俺が考えていたのは全く別のことだった。

 

「えっ?魔術回路って一から構築しなくてもいいのか?」 

 

 冷たい空気が部屋を支配する。

 俺とセイバー以外の四人は異なる表情を浮かべていた。遠坂姉妹はあっけにとられたような表情を、赤い外套は苦虫を噛み潰したような表情を、紫のローブは笑いを噛み殺した表情を。

 ため息とともに、遠坂が呟く。

 

「はあ、なんか嘘はついてないみたいね。

 よくわかったわ、衛宮君。訂正させてもらう。

 あなたは何も知らなかった。

 そしてあなたは只のど素人じゃないわ。とんでもなく頭の悪いど素人よ」

 

 どうやら俺のあずかり知らぬところで、俺の評価は下がったらしい。

 なんでさ?

 

 

 今、俺たちは教会に続くなだらかな坂を上っている。

 俺の横には黄色い雨合羽を着たセイバーが、やや後ろには凛と、少し憔悴した様子の桜が歩いている。

 

 

 あの後は本当に酷かった。何が酷かったか、それすらもわからないくらい酷かった。

 まず、桜が泣き出した。

 大声で泣き喚く、というならまだましだった。

 彼女は糸の切れた人形みたいに動きを止めて、ただただ静かに涙を流し始めたのだ。

 

「ごめんなさい、先輩、私、先輩を、だましてた、それに、先輩が、毎日、毎日、死にそうに、なってたのを、かんちがいして、みすごしてた」

 

 消え入るように静かで、この世のものとは思えないほど虚ろな声。

 とめどなく流れる彼女の涙は、岩間から染み出す湧き水を思い起こさせた。

 

「ゆるして、ください、ゆるしてください、せんぱい、わたしを、ゆるして」

「大丈夫だ、俺が桜を許さないなんて、そんなことがあるものか。

 第一、無茶な鍛錬をしていたのは俺が悪いんだし、俺も魔術師だってことを桜に隠してた。お互い様じゃないか」

 

 そう言ってなだめたが、桜は一向に泣き止まない。それどころか、まるで俺の言葉が聞こえていないように謝罪の言葉を繰り返す。

 

「許して、許して、すてないで、ごめんなさいすてないで、すてないで」

 

 桜が、すがるように繰り返す。流石に、少し尋常じゃない気がする。

 

「桜!桜、しっかりしなさい!」

 

 遠坂が桜の肩を揺すりながら呼びかけるが、おそらく桜の耳には一切届いていない。

 

「……こりゃ駄目ね」

 

 遠坂はそう呟くと、桜の耳元で何か呪文を唱えた。すると、さっきまでの様子が嘘のように桜はおとなしくなった。ぼんやりとした視線は相変わらずだが、その瞳からは狂気を感じさせる何かは抜け落ちている。

 

「おい、遠坂、桜に何をしたんだ」

「別にたいしたことじゃないわ。ちょっと強力な鎮静剤を打ったのと同じ。今は虚脱してるけど、じきに意識もはっきりするはずよ」

 

 ふぅ、と一息ついて、凛が言った。

 

「この子、昔、親に捨てられかけたことがあってね。家族を失うことを極度に恐れてるの。 あなたを監視してたこと謝るつもりは無いけど、この子を許してあげてくれないかしら?」

 

 なるほど、それが先ほどの狂態の原因か。

 

「ふむ、見事な手並みだな、魔術師よ。私の生きた時代でも、これほど見事な術を施すものは多くはなかった」

 

 いままで黙って会話を聞いていたセイバーが口を開いた。

 

「しかし、そろそろ本題に入ってもいい頃合いなのではないかな?まさか、我がマスターと口喧嘩をするためにこの場を設けたのではあるまい」

 

 確かにその通りだ。遠坂は、話があるから家に上げろ、と言った。俺と違って、一流の魔術師の遠坂がそう言ったのだ。何か理由があるはずだ。

 

「あなたの言うとおりね、セイバー。まどろっこしいのは嫌いだからさくっと本題にはいるわよ。

 衛宮君、私たちと同盟を組む気はない?」

 

 

 いつ終えるとも知れない長大な上り坂を上りきったところに、その教会は建っていた。

 神の家、そう称するのに相応しい威厳と荘厳さを兼ね備えている。

 もともと外国からの移民の多い冬木の街だ、外人墓地等も含めて、こういった施設は他の都市に比べると立派なものが多い。

 

「一応言っとくけど、ここの神父は一筋縄じゃいかないわよ」

 

 凛は扉の前でそう言った。

 

「嫌がらせを受けるのが嫌ならここで待っていてもかまわない。私だって用がなければ会いたい人間じゃないもの」

「俺がここに来たのは聖杯戦争について詳しいことを聞くためだ。俺が外で待っていてもここまで来た意味がないだろ。

 それよりも、凛。お前、ここの神父と知り合いなのか」

 

 凛は何かとんでもなく辛いものでも食べたかのような、微妙な表情でこう言った。

 

「知り合いなんてもんじゃない。

 私の兄弟子であり、師であり、後見人。

 ここまで腐れ縁が続くと、何か呪われた運命でもあるんじゃないかって、心配になるわ」

 

 桜、あなたはここで待っていなさい、そう言ってから凛は盛大にため息をつくと、重厚な扉に手をかけた。

 

 

「同盟?なんで遠坂がおれと同盟しなくちゃならないんだ」

 

 俺は、突然の遠坂の申し出に、軽く混乱しながらそう答えた。

 

「ふーん、そう。衛宮君はそんなに私と戦いたいんだ。よーーくわかりました、ならこの話は聞かなかったことにして頂戴」

 

 一息でそう言いきった遠坂は、腰を浮かせて桜の腕をつかんだ。

 

「ほら、帰るわよ、桜。何ぼけっとしてんの」

 

 いや、それは半分お前のせいだろ。

 

「ちょっと待ってくれ、俺の言い方が悪かった。

 俺は見ての通り素人だ。いくらセイバーがいるといっても、きっと俺は遠坂たちの足を引っ張る。なのに、なんで同盟を組むなんて申し出をしてくれるんだ?」

 

 俺の言葉に満足したのか、遠坂は口元に笑みを浮かべながら、浮かしかけた腰を再び落ち着けた。

 

「確かに衛宮君の存在はマイナス要因になり得るわ。

 でも、それを補って余りあるくらい、今の私たちにとってセイバーの存在は大きいの」

 

 彼女の話はこうだ。

 セイバーというクラスは基本的な能力が高く、忠実で信用が置ける。

 事実、過去に行われた聖杯戦争においてもセイバーのクラスに選ばれた英霊は高い戦果を残しているという。

 また、現在遠坂のサーヴァントであるアーチャーはセイバーの一撃で負傷しており、桜のサーヴァントである魔力以外の基本能力の低いキャスターと合わせても戦力的には心もとないらしい。

 

「それに、アーチャーもキャスターも、基本的には長距離からの狙撃、支援が得意だから、接近戦が得意な戦力が欲しかったのよ」

 

 しかも、アーチャーの対魔力は低く、彼が前衛を務めたのではキャスターが大魔術を使うことができないという。アーチャーを巻き込む恐れがあるからだ。かといって、キャスターが前線に立つのは不可能に近い。

 なるほど、だから二対一でもランサーを圧倒することが出来なかったのか。

 

「どうかしら、衛宮君。

 私達の同盟にはお互いメリットが大きい。私達は貴方の経験不足を補うことが出来るし、あなた達は私達の戦力不足を補うことが出来る。

 もちろん対価は支払うわ。未熟なあなたに対する聖杯戦争の知識の提供と、魔術の指導。悪くない条件だと思うけど」

 

 にんまりとした、チェシャ猫のような笑いを浮かべながら遠坂は言った。

 間違いない、こいつはコレクターだ。

 自分の欲しいものがあれば手に入れられずにはいられない、そんな性格に違いない。

 

「でも、それでいいのか?」

 

 俺は思わず聞き返す。

 

「何がよ」

「いや、遠坂の話の通りに事が運んだら、ほぼ半数のサーヴァントが同盟を組むことになるだろ。ルール的にそれは問題なんじゃないのか。

 それにセイバー達は聖杯を求めて召還に応じたんだろ、聖杯を手に入れることができるのがたった一人だけなら、同盟なんてそもそも不可能だ」

 

 くすくすと笑いながら遠坂が答える。

 

「素人の魔術師さんにしては的を射た質問ね。

 まず一つ目の質問については、そんな心配をする必要はないわ。

 なんでこの儀式に戦争の文字が与えられてるかわかる?それは、どんな手段を用いても、最終的に生き残っていた者の勝ちだから。目的のためにはどんな手段も正当化される。その手段のなかには当然、同盟も裏切りも含まれるわ。

 二つ目の質問について、あなたは根本的なところで勘違いしてる。私が申し出た同盟は恒久的なものじゃない。最初から時限付のそれよ」

「時限?」

 

 鸚鵡返しに言葉を返す俺に、いままで見たことがないくらい真剣な顔で遠坂は答えた。

 

「私達の学校に外道な結界を張った馬鹿がいるわ。私はこの地のセカンドオーナーとしてそいつを許さない。

 私に手を貸しなさい、衛宮君」

 

 

 教会から出ると、俺も、隣の凛も、同時に深呼吸をした。

 あまりに清廉で、この上なく浄化された、しかし腐敗臭の漂うあの空間、その空気が肺に残っていることが耐えられない、そんな気持ち。おそらくは凛も同じだろう。

 

「でも、本当によかったの、士郎」

 

 凛が伏目がちに尋ねる。

 

「何がだ?」

「同盟を申し込んだ私が言うのもおかしな話かもしれないけど、きっとあなたはこの戦いを生き残れないわ。私も、いざとなればあなたを捨て石くらいにはすると思う。もし戦いから降りたいなら今のうちよ」

 

 ああ、凛の言うことはおそらく正しい。それでも、俺は。

 

「正義の味方になるって決めたから」

 

 凛が怪訝な顔で尋ねる。

 

「……正義の味方って何よ?」

 

 俺は凛の声とは別の方向に体を向け、何もしゃべらなかった。

 答えの返ってくる問いではないと考えたのか、凛は別のことを口にする。

 

「そういえば、最後に綺礼、妙なこと言ってたわね。

『お前は里親に引き取られて幸せだったか』なんて。あいつが人の幸せに興味を持つなんて、初めて見たわ」

 

 そうだ。あいつは最後にそう言った。

 馬鹿げた質問だ。

 あの人に引き取られて、俺は幸せだった。

 あの人の理想を継げて、俺は幸せだ。

 この気持ちに嘘偽りなどあるはずがない。

 

「そんなことはどうでもいいよ。とりあえず、これからもよろしくな、凛」

 

 あらためて手を差し出す。

 

「こちらこそよろしく。でも、あまりべったり私に頼るようだと、背中から蹴っ飛ばすわよ」

 

 俺の手を確かな力で握り返してくるそれは、驚くほど小さく、そして柔らかかった。

 

「しかし、名前で呼ぶのはなんか照れるな」

 

 凛は少し赤くなってそっぽを向いた。

 

「遠坂じゃあ桜と紛らわしいから名前で、って言ったのは士郎でしょ。私だって名前で呼んでるんだからおあいこ。そっちが照れると私まで気まずくなるんだから、やめてよね」

 

 ああ、こいつはきっといい奴だ。その時俺は確信した。

 

「ねえ、お話は終わり?」 

 

 無邪気な、それでいてとんでもなく邪悪な、声が聞こえた。

 夜は、まだ終わってくれないらしい。

 

 

 異形が踊る。

 耳に聞こえぬ轟音。

 誰も気づかぬ大破壊。

 まるで、神話の一幕が、突然、現れたかのようだ。

 踊る影は四つ。

 

 赤い外套の射手。

 紫のローブの魔術師。

 青と銀の剣士。

 鉛色の巨人。

 

 そのいずれもが、人智の及ばぬ力を持っている。

 しかし、その中でも圧倒的な存在感を放っているのは鉛色の巨人だ。

 赤い外套の射手の放つ超音速の矢を無視し、

 紫のローブの魔術師の放つ神代の大魔術を歯牙にもかけず、

 青と銀の剣士を大剣で圧倒している。

 3対1の数的不利など、ものともしていない。

 このまま戦局が推移すれば、巨人の勝利は疑いあるまい。

 

「どうなされる、魔術師殿」

 

 闇夜に浮かぶ白い髑髏が、隣に立つ人影に尋ねる。

 彼のマスターは高台から戦場を見下ろして、何もしゃべらない。

 

「魔術師殿の許可がいただけるなら、そうさな、あの場にいるマスターの二人までを必ず討ち取ってみせよう」

 

 そこには、何の誇張も、少しの気負いも無かった。

 彼我の戦力、状況、それらを冷静に分析し必ず結果を残す、暗殺者の冷たい声色だけがあった。

 

「……私は何の命令も下してはいません。出すぎたまねは止めなさい」

 

 暗殺者の声よりも、さらに冷たい声が響く。

 

「勝手に敵が潰しあってくれているのです。ここで我らが巻き込まれる必要性など、どこにもない」

 

 それは正論。戦術面からいえば、敵と敵を争わせておいて漁夫の利を掠め取るのは、常道であり、覇道だ。

 だから、暗殺者が不満を覚えたのは主君の命令そのものに対してではない。

 主君の意図がどこか別のところにあるのではないか、そう感じた自分自身にこそ彼は不満を覚えた。

 そして、彼らが話している間に、戦局は決定的なものとなった。

 三人の前衛を務めていた青と銀の騎士が、狂戦士の剛剣の前に倒れたのだ。

 人であれば即死。如何にサーヴァントとはいえ、もはや戦う力は残されてはいまい。

 残りの二騎の猛攻を浴びながら悠然とした足取りで、狂戦士が青と銀の騎士に止めをささんと歩を進める。

 これで終劇か、と暗殺者は考えた。

 残りの二騎では、あの狂戦士に抗う術もないだろう。

 狂戦士は青と銀の騎士に止めをさした後、残りの二騎とそれらのマスターを葬り去る。

 ならば、私がなすべきは、あの怪物のマスター、銀色の髪をした少女の殺害。

 如何に圧倒的な戦いだったとはいえ、勝利の後には必ず気が緩むもの。

 そこを狙えば勝利は難くない。

 そこまで考えて、暗殺者は己の主君を見下ろした。

 当然、彼の考えた通りの指令が下るものと期待したのだ。

 然り、彼のマスターの口から指令が放たれる。

 しかし、それは暗殺者の期待したものとは微妙に、そして決定的に異なっていた。

 

「アサシン、あの化け物のマスターを殺しなさい」

 

 暗殺者が答える。

 

「承知。あの化け物が虐殺を終えた後、必ずや討ち取ってみせよう」

 

 暗殺者の主君が、さらに言う。

 

「私は、あの化け物のマスターを殺しなさい、と言ったのです。時期に制限など設けたつもりはありません。ならば、直ちに実行するのが当然でしょう」

 

 暗殺者は、誰にも悟られぬように驚愕した。

 おそらく、いや、間違いなく狂戦士は敵を皆殺しにする。妖艶に微笑む、あの銀髪の少女がそれを止めるとは思えない。ならば、その後で少女を葬れば、4騎の敵を一時で倒すことが叶うのだ。

 それを待たず少女を殺す理由。

 つまり彼のマスターは、この場で狂戦士に敵する何者かを救えと、そう言ったのだ。

 

「しかし」

「これは嘆願ではありません!命令です!聞けぬ、というのであれば令呪を使うまで!」

 

 なかば叫ぶような声が響いたその瞬間、在りうべからざる事態が起きた。

 青と銀の騎士を助けるために、おそらくは彼の騎士のマスターであろう少年が飛び出したのだ。

 

 振り下ろされる豪剣。 

 突き飛ばされる騎士。

 切り裂かれる少年の体。

 

 助かるまい、暗殺者は自らの記憶に照らし合わせてそう結論付けた。

 辛うじて両断は免れたようだが、背骨を含む腹部のほとんどが吹き飛んでいる。

 あれで生きていられるのは、我々のような化け物か、人であることを放棄した死徒くらいのものであろう。

 彼は自らの主君を見た。

 小さな肩が震えている。もしかしたら泣いているのかもしれない。

 彼は再び戦場に目を向けた。

 そこに、鉛色の巨人と、銀色の髪の少女の姿は無かった。

 何故、確実に掴むことができた勝利を見逃したのかはわからない。相応の理由が在ったのだろう。

 それよりも彼を驚愕させたのは、死んだはずの少年だった。

 驚くべきことに、かの少年は生きていた。傷口が、時を遡るように修復していく。

 彼は考える。

 これではまるで――のようではないか。

 その時、彼の隣から、喉から搾り出したかのような、地の底から響くような声が聞こえた。

 

「……一晩に二度も殺される馬鹿が……どこにいるというのです」

 

 彼のマスターは怒っていた。どうやら、肩の震えも怒りによる硬直から生まれたものだったらしい。

 

「帰還します、アサシン。もはや、これ以上ここに留まる意味はありません」

 

 人影が踵を返す。彼もそれに従おうとした、その瞬間。

 背後から、声がした。

 

「何だ、もう帰っちまうのか。まだ夜は長いぜ」

 

 青い皮鎧、真紅の槍。

 誰が見ても、そのクラスを違えることはあるまい。

 ランサーのサーヴァントが其処に居た。

 人影は振り返って、こう言った。

 

「私は、いまだかつて無いくらい機嫌が悪い。今すぐ消えなさい、私の視界から」

 

 槍兵は皮肉げに頬を歪ませる。

 

「そうしたいのは山々なんだがな、人使いの荒い糞マスターが、お前らとも戦って来い、とさ。まあ諦めてくれ」

 

 そう言いながらも、彼は新たな強敵と矛を交えられることに、心底幸福を感じているようだ。なぜなら、闘争そのものこそが、彼が召還に応じた理由だから。

 

「お前ら……とも?」

「ああ、今日は大収穫だ。得体の知れない弓兵に、魔術師。あとは、殺しても死なない、奇妙なガキに召喚された剣士ともやりあったぜ」

 

 指折り数える槍兵。

 人影はその言葉に目を細めた。

 狂気な静寂に満ちた笑み。

 

「まずは謝罪を。先の言葉は撤回します。あなたはここに残りなさい」

 

 林と呼ぶには小さな藪。そこを殺意が満たしてゆく。

 

「次に宣告を。あなたはここで狗のように果てなさい」

 

 感情が欠けた様な声で、人影が言い放つ。

 

「さがりなさいアサシンでばんですプレディクタ」

 

 そう言って、人影は呪文を紡ぐ。

 

「Ego sum alpha et omega, primus et novissimus, principium et finis」

 

 青の槍兵の前で、蒼い髪が踊った。



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episode5 異常遭遇

 

 瞼を通して、微かな光が感じられる。

 どうやら、朝が来たらしい。

 それにしては、奇妙なことがある。

 どうして私は、こんなに柔らかいところで寝ているのか。

 私が眠るのは、いつも湿ったコンクリートの上なのに。

 そもそも、朝日で目を覚ます、という状況がおかしい。

 だって、私の部屋には日が差すことはありえないから。

 ゆっくりと瞼を開く。

 視界に映るのは、倒れた木々、抉れた地面。

 そうだ、私は彼を呼び出して……

 

「あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ、あ゛っ……」

 

 浅い呼吸と、喉の奥から漏れる苦悶の響き。

 腹部を抑えて蹲る。

 駄目だ。

 

 おなかが、すいた。

 

 全身の神経が空腹を訴えている。

 胃酸が、胃そのものを溶かしていく。

 本能が感じたのは存在自体に対する危機。

 手当たり次第に、口の中に放り込む。

 土を。草を。

 石を。虫を。

 噛み砕き、飲み下す。

 口の中に広がる得体の知れない酸味と、石を噛み砕く不快感。

 足りない。

 まるで足りない。

 ぜんぜん満たされない。

 量の問題ではない。

 味の問題ではない。

 質の問題ではない。

 栄養の問題ですらない。

 存在の問題。

 私が食べたいのは、これじゃない。

 

「主よ」

 

 声がした。

 食欲が涌く。

 唾液が、口の端からぼたぼたと零れだす。

 

「馳走はここに」

 

 彼の指の先。

 縄で縛られた、肉の塊。

 待ちに待ったメインディッシュ。

 前菜は物足りなかったから。

 私は、一も二もなくむしゃぶりついた。

 柔らかな皮膚に喰らいつく。

 鋭い犬歯が、容易くそれを突き破る。

 あふれ出す肉汁。

 夢中で飲み下す。

 上顎と下顎の力を目一杯使って。

 筋張った肉を、食いちぎる。

 現れたのは、湯気が立つような黄色い脂肪の粒。

 白く美しい筋肉。

 色とりどりの、目に鮮やかな血管。

 その全てが、あまりに神々しくて。

 涎を垂れ流しながら咀嚼する。

 余分な感情は涌いてこない。

 今は、この原始の欲望を満たしたい。

 だから、時折聞こえる音も無視する。

 なんだろう。

 何か、聞こえている気がする。

 でも、今の私の言語野には響かない。

 そんなところ、とっくに機能は失われている。

 それに、この肉は元気がいい。

 噛み付くたびに、食いちぎるたびにぴくぴく跳ね回る。

 それが楽しくて。

 それが疎ましくて。

 我を忘れて咀嚼する。

 むしゃむしゃ。

 ぐちゃぐちゃ。

 そのうち、肉は静かになった。

 さあ、落ち着いて食事をしよう。

 たくさん食べて、精をつけないと。

 

episode5 異常遭遇

 

 瞼を通して、微かな光が感じられる。

 眩しさに耐えかねて、腕で光を遮ろうとする。

 そこで、奇妙なことに気がついた。

 腕が動かない。

 なんで。

 その疑問のせいで、たゆたっていた意識が覚醒した。

 体をゆっくり起こして、周りを見渡す。

 間違いない、ここは俺の家だ。

 まだ意識に霞がかかったような感じだが、少し安心した。

 

「うえ」

 

 口の中に鉄の味が濃く残っている。寝ている間に何かあったのだろうか。

 とりあえず洗面所に行って、口を濯ごう。

 そう思って、立ち上がろうとすると、左手が動かないことに気がついた。

 はてな、と思って左を見ると、そこには俺の手を硬く握ったまま眠る桜の姿があった。

 

「うわっ」

 

 情けない声が口から漏れ出す。

 思考が混乱する。

 おーけー、まずは状況を整理しよう。

 今は朝、正確な時間はわからないが、ひょっとすると昼に近い時間かもしれない。

 つまり、今の時間に寝ている人間は、そこで夜を明かした可能性が非常に高いということだ。

 そして、桜は女、俺は男、二人とも年頃だ。

 この状況から導き出される最も自然な結論は……。

 

 

「いや、その理屈はおかしい」

 

 なんだかそれは、とってもまずい気がする。

 それに、不自然な点が多すぎる。

 まず、桜には毛布が掛けられている。

 これは、意図せずここで眠ってしまった桜のために、第三者が掛けたものだろう。

 それに、桜はちゃんと服を着ているようだ。

 まさか情事の後に、パジャマでもなく普段着を着て、その姿のまま眠るということもないだろう。

 おそらく、桜は何らかの理由で倒れた俺を看病していてくれたのではないか。もしそうなら、口の中の濃厚な血の味にも納得がいく。

 とりあえず、桜を起こして事情を聞くべきだろう。

 

「さく――」

「桜、いい加減に起きなさい」

 

 俺の声に、聞きなれたような、初めて聞くような、不思議な声が重なる。

 

「なんだ、士郎の方が先に起きちゃったんだ」

「遠坂、なんで俺の家に」

 

 驚く俺の前で、遠坂の顔色が変わっていく。それはもう、リトマス紙の色が変わるみたいにはっきりと。

 

「ふぅん、『遠坂』ねえ。どうやら衛宮君は昨日のことを忘れちゃったみたいね♪」

 

 寒気がするくらいにこやかな笑顔。

 彼女の背後に赤い炎が見えるのは錯覚か。

 えまーじぇんしー。

 あらーと、あらーと。

 このままでは、間違いなく不吉なことが起きる。

 どのくらい不吉かというと、フライング気味の走馬灯が頭の中で大回転しているくらい。

 遠坂はどうやら、昨日のことを忘れたことに怒っているようだ。

 ならば死ぬ気で思い出せ。今思い出さないと、一分後には、考えるという、人間として当たり前の行動すら出来なくなっている可能性が高い。

 昨日は、学校に行って、修理をして、掃除をして――。

 

「あっ」

 

 呆れた、という遠坂、もとい、凛の表情。

 

「やっと思い出したみたいね。じゃあ、私が何に対して怒っているかもわかるわね」

 

 先ほどの殺ス笑顔は消えたものの、あからさまに不機嫌な顔をしながら凛が言う。

 

「昨日のあなたの行動を私は認めない。自己犠牲も度が過ぎれば醜悪よ」

 

 自己犠牲?俺は昨日そんなことをしたかな……、あっ。

 

「凛っ、あの化物は……ぐっ」

 

 急に体を起こそうとすると、腹部に激痛が走った。

 そうだ、昨日俺はセイバーを助けようとしてどてっ腹を吹き飛ばされたんだ。思い出すと同時に、猛烈な吐き気が襲ってきた。

 

「うぐっ」

 

 手で口を押さえ、便所まで走り抜ける。

 

「ぐええっ!」

 

 便器を抱えるようにして、嘔吐を繰り返す。

 鮮血の色をした吐瀉物というのはなかなか刺激的な光景だ。

 ごほごほ、と咳き込む俺の背中を、優しい手が摩ってくれた。

 

「ほら、水。うがいしなさい」

 

 少し心配そうな凛の顔。

 ほら、やっぱりこいつはいい奴だ。

 

 

 その後、俺達は居間に集まって色々なことを話し合った。

 昨日のこと、これからのこと。

 当面の基本方針としては、積極的にこちらから攻めるのではなく、あくまで攻めてくる敵を迎撃する『待ち』の戦略が選択された。無闇に戦場を拡大させたら、一番の懸案である学校の結界が発動したときに対処しきれなくなる可能性があったからだ。

 ともあれ、こちらはほぼ半数の戦力を抱えている。昨日のバーサーカーくらい規格外な化物なら話は別だが、普通(?)のサーヴァントなら問題なく対処できるだろう。

 あまり細々としたことまで話し合っていても意味はないし、いざというときの一歩が遅れる。ということで、今日の作戦会議は一時間ほどで終了した。

 

「先輩、今日の晩ご飯はどうしますか?」

 

 今、この家にいる人間で俺のことを先輩と呼ぶのは一人だけ。

 サーヴァント・キャスターのマスター、遠坂桜だ。

 

「うーん、昨日はこんなことになるなんて考えてもいなかったからなぁ。流石に六人分の食材はないし、後で買い出しに行くよ」

 

 なんたって、元々この家には俺しか住んでいなかったのだ。いくら飢えた虎と、育ち盛りな後輩が兵糧攻めにやってくるとはいえ、基本的な食料は一人分しか備蓄していない。

 まあ、最近は後者の消費量が目覚しく増えてきたので二人前は常備されてるのだが。

 

「先輩?なにか失礼なこと考えてませんか?」

 

 あ、くろいだてんし。

 うふふ、と哂う桜。右手には魔術で強化された包丁が装備済み。背中に黒い影が漂って見えるのは目の錯覚と信じたい。

 

「そんなことないぞ、桜。桜は育ち盛りだ、なんてちっとも考えてない」

「姉さん、セイバーさん、ちょっと居間の畳の下を――」

「すみません桜さん勘弁してください」

 

 ああ、わかってるさ。

 俺は一生桜には勝てないんだ。なんたって男として一番弱い部分の首根っこを押さえられてるんだから。

 ちなみに、畳の下には俺のパライソが広がってる。一昨日隠し場所を変えたばかりなのに、もう把握してるんですね、桜さん。

 

「あれくらいの量、普通です、まわりの子なんてもっと…」

 

 赤くなりながら、そんなことをぶつぶつと言う桜は本当に可愛い。よかった、どうやら今まで通りやっていけるみたいだ。

 

 

「本当にすみませんでした、先輩」

 

 今日の桜の第一声がそれだった。

 畳の上に座して、深々と頭を下げたその姿勢はいわゆる土下座だが、弓道部の桜がそれをすると、厳かにこそ感じられるが卑屈な雰囲気は微塵もない。

 

「昨日の醜態、そして今までの欺瞞、いまさら許されることではありません。

 でも、もし、もしよろしければ、贖罪の機会を頂けないでしょうか」

 

 今日の桜に涙はない。動揺もない。ただ、静かに自己を見つめている。

 そもそも、桜は俺に謝らなければならないようなことは何一つしていない。

 修行は俺が勝手にやっていたことだし、方法が間違っていたのも俺の責任だ。昨日の桜には驚かされたが、特に迷惑がかかったわけでもない。

 だが、桜にそれを言っても納得してもらえないことはなんとなくわかっている。理屈ではないのだ。許されることは救いだが、時には罰せられることのほうが救われることもある。俺は、そのことを痛いくらい知っているのだ。

 

「わかった。でも、条件がある」

 

 桜は軽く身を強張らせた。

 

「これから、俺に魔術の指導をしてくれないか。今までの修行には限界を感じてたんだ。腕のいい先生がいてくれると助かるんだけど」

 

 そこまで言うと、まるで厚い雲から太陽が顔を出したかのような輝いた表情で、桜が笑った。 

 返事は聞くまでもないようだ。

 

 

「頭が間抜けですか、あなたは」

 

 買出しに行く、そう告げたときのセイバーの第一声がこれ。

 

「昨日、教会で何を聞いてきたのです。今、あなたは殺し殺される戦場にいるのですよ。それを呑気に買出しなど、敵に殺してくれと言っているようなものです」

 

 烈火のごとく怒る彼女はセイバー。

 自分の名を告げないことを許して欲しい、申し訳なさそうにそう言ったときの彼女と同一人物とは思えない。

 

「だって、今この家には食料がないんだから、買ってくるしかないだろう」

「む……確かに糧食の補給は戦場における最重要課題ですが……」

 

 彼女は顎に手をあてたまま固まってしまった。『糧食の補給』とか言うあたり、軍の指揮官か何かが彼女の正体なのかもしれない。

 

「無駄よ、セイバー。そこらへんのとこ、多分この男は化け物だから」

 

 いつの間にいたのか、後ろから凛の声が聞こえた。

 

「化け物って何だよ」

「化け物は化け物よ。あなた、一度自分の決めたことには異常に拘るから。買い物なんて、サーヴァントにでも任せればいいのに」

「たった一晩しか顔を合わせてないお前に言われたくないぞ」

「一晩も顔を合わせてれば十分よ。それくらい、あなたは歪なの。ちょっとは自覚しなさい」

 

 むっ。

 なんか引っかかるな、その言い方。

 

「だいたい、サーヴァントに買い物なんてできるのか」

「彼らは聖杯からその時代の基本的な知識は授けられてるの。そんなこと、出来ないわけないでしょ」

「でも、料理を作るのは俺だぞ。なら買い物にも俺が行くべきだろ」

「メモでも渡せばいいでしょ、そんなもの」

 

 ああ言えば、こう言う。

 こう言えば、ああ言う。

 話が前に進まない。

 昨日の顛末からか、今日の凛は少し機嫌が悪いようだ。

 

「わかりました、では私が同行します」

 

 不毛な二人の会話にうんざりしたかのように、腰に手を当て、眉根を寄せながら剣の英霊はそう言った。

 

「いいのか、セイバー。お前は」

 

 『魔力の節約のために眠らなけりゃいけないんじゃ』、そう視線に意思を篭めて問いかける。

 彼女もそれを察したのだろう、同じく意思の篭もった視線で返してくれた。

 

「確かに糧食の補給は大事。かといってマスター一人に行かせるなど、愚行極まりない。シロウが行くと聞かないなら、私が同行するしかないでしょう」

 

 

 外は、季節が冬とは思えないほど穏やかな気候だった。

 こうしてみると、コートを羽織った俺の服装よりも、冬にしては薄着にすぎるように見えるセイバーの服装のほうが相応しいように思える。

 セイバーは俺の少し前を歩いている。おそらくは、如何なる危難からもマスターを守ろうという彼女なりの覚悟だろう。

 サーヴァント。過去、或いは未来に生きた英雄達。

 そんな、絵本か寝物語の中にしかいないと思っていた存在が俺の前を歩いている、しかもアスファルトの上を、というのは奇妙な感覚だった。

 

「セイバー」

 

 特に用があったわけではないが、何となく声をかけてみる。

 

「なんでしょう、シロウ」

 

 彼女は、少し歩く速度を抑えてこちらと並ぶような位置に下がってから、そう答えた。

 

「お前が生きてた時代って、どんな感じだったんだ」

 

 酷くあやふやな質問だ。そもそも、何を問いたいのか、主題がはっきりしていない。

 おそらく、セイバーもその問いに大した意思が込められていないことは気がついていただろう、しかし、彼女は律儀にこう答えてくれた。

 

「おそらく、どんな時代でも、そこに生きる人々にとってみればその時代こそが絶対。

 他と比較することなど、出来ないでしょう。伝聞、あるいは伝承で比較することはできても、実感することは不可能だ」

 

 それはそうだろう。

 例え、古代の生活をどんなに深く研究しても、実際に経験することが出来ないのであれば、それは本人の空想、悪く言えば妄想に等しい。極端にいえば、御伽噺に出てくる架空の国となんら変わることがないはずだ。

 

「私は、自分が生きた時代と今の時代を実感として比べることの出来る稀有な例です。

 だからこそいえるのですが、この時代、この国には余裕がある。それは物質的な面でも、精神的な面でも。それは素晴らしい事なのではないか、と思います」

 

 彼女は少し遠くを見つめるような目をしながら、そう答えた。

 セイバーが生きた時代。

 彼女の正体を知らない俺には、想像も出来ない世界だ。

 

「それに比べると、私が生きた時代には余裕というものが無かった。人は誰しもが自分が生き残ることに精一杯だった。

 農民は今日の食料を手に入れることに命を賭け、騎士は明日、戦場で倒れないように技を磨き、貴族は明後日の酒杯に毒を盛られないために策を練った」

 

 静かな、遠い昔を振り返る声は、誰に対する手向けなのか。

 

「幸福など、人それぞれ。しかし、私の時代に生きた人々がその生きる時代を選択することができたなら、おそらくほとんどの者がこの時代を選択したでしょう」

 

 しばらくの間、俺もセイバーも無言で歩いた。

 さっきの質問は少し無神経だったのかもしれない。

 単なる興味以外に、この時代に生きる者としての優越感のようなものがなかったか。

 それは、自分の時代を精一杯生きた彼女に対する侮辱以外の何物でもないだろう。

 セイバーは奇跡を、聖杯を求めて俺なんかの呼びかけに応じてくれた。

 だが、果たして俺に彼女を従える資格など、あるのだろうか。

 

「なあ、セイバー。何か食べたいものとかあるか」

 

 気まずい雰囲気に耐えかねて、セイバーに尋ねてみる。

 

「食事ですか。先ほども申しましたとおり、我々には栄養の摂取という意味での食事は必要ありません。ですから、シロウのお好きなものを用意していただければ、それで十分です」

 

 うーん、料理する側としては、そういう答えが一番困るんだよな。

 

「じゃあ、絶対食べたくないものってあるか」

 

 そう聞くとセイバーは、まるでこの世の終わりみたいな顔をしてこう言った。

 

「……雑なものだけはどうかご勘弁を」

 

 雑って。

 一体何があったんだ、セイバー。

 そうこうしているうちに、俺達は十字路に差し掛かった。

 ここを左に曲がれば、冬木の皆さんの胃袋を支える、マウント商店街にたどり着く。

 しかし、俺はそこで奇妙なものを見つけてしまった。

 ソレは、まっすぐに俺達のほうに向かってきた。

 いや、まっすぐに、という表現はおかしい。

 確かに俺達に近づいてきてはいるのだが、泥酔しているように足元が覚束ない様子だ。

 それだけなら別段珍しいものではないのだが、問題はソレが着ている服だ。

 顔は逆光になっていてよく見えないが、着ているものの判別くらいはできる。かなり汚れているが、あれはウチの学園の女生徒用の制服だ。

 いくら自由な校風の穂群原学園の生徒とはいえ、昼間から泥酔するような奴はいないと思う。まして、あれはおそらく女の子だ。

 

「シロウ」

 

 セイバーが少し緊張したような面持ちで前に出る。何か良くないものでも感じ取ったのかもしれない。

 俺達は立ち止まる。

 しかし、ソレは近づいてくる。

 よたよたと、二歩、三歩、俺達の方に歩いてきて、

 大きくバランスを崩して、

 どさり、と。

 うつ伏せに、倒れた。

 その瞬間、俺は駆け出していた。

 

「シロウ、待ちなさい!」

 

 後ろからセイバーの声が聞こえる。

 セイバーの心配もわかる。きっと、他のマスターの罠じゃないか、と疑っているのだろう。

 だが、俺の体は止まらない。

 倒れた女の子を抱き起こす。

 

「おい、しっかりしろ!」

 

 そこにあったのは、自分の知ってる女の子の顔だった。

 

「代羽!」



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episode6 状況確認

 帰してください。

 僕を、家に帰してください。

 

 幼い、しかし聞き覚えのある声。

 夢、だろうか。

 ふわふわとした感触が、どこかくすぐったい。

 

 帰ればいいではないか。

 君の村は依然あそこにある。

 帰るのは君の自由だよ。

 

 目の前に立つ長身の男は、嘲るような調子でそう言った。

 その男に、彼は縋りつく。

 男の服を掴んだ両手は、誰のものともわからぬ血に濡れていた。

 

 違います、そこではありません。

 帰してください。

 僕を、僕の家に帰してください。

 

 忌むべき者を見る視線ではない。

 出来のいい作品を見る視線で彼を眺め、男はこう言った。

 

 わかっている。

 次が最後だ。

 もう一人、もう一人で君はあそこに帰れるよ。

 

 彼は、喜んだ。

 心底、喜んだ。

 だから、忘れていたのだ。

 彼がその手を朱に染める、その前にも同じことを言われたことを。

 

 帰れる。

 あそこに、帰れる。

 嬉しいな、嬉しいな。

 

 私には、その少年が。

 羨ましくて、仕方なかった。

 

episode6 状況確認

 

「どうだ、凛」

 

 後ろ手に襖を閉めた凛に向かって俺は尋ねた

 

「桜が看病してるけど、すぐに命に関わるような症状じゃない。その点は安心してもらっていいわ。それに、救急車も呼ぶ必要はないし、呼んでも意味はない」

 

 この場合、彼女の言う救急車という単語が意味するのは病院であり、いわゆる常識的な医療技術のことだというのはわかった。つまり、代羽の症状は医学では治癒できないということだ。

 

「凛、それは」

「ええ、あの子、魔力を吸い取られてる。今は安定してるけど、いつ死んでもおかしくないような状態だった」

 

 この場所、この時期、魔力という要素、ならば。

 

「聖杯戦争がらみか」

「おそらくね。ついでに言うと、あの子嬲られてから魔力を奪われてる。性的な暴行を受けた痕跡は無かったけど、制服がずたずたよ」

 

 性的暴行は受けていない、その言葉に少なからず俺は安心した。

 あの時の代羽は、それを思わせるに十分すぎる状態だったからだ。

 虚ろな視線。

 元々白皙の肌の持ち主ではあったがそれにしても白すぎる、蝋人形のような顔色。

 傷つき泥にまみれた制服。

 一体何があったのか。

 

「なんで代羽が襲われなくちゃならないんだ。もしかして、彼女もマスターなのか?」

 

 怒りに声を荒げる俺の前で、首を横に振ってから凛が答えた。

 

「彼女はマスターじゃないわ。令呪が無かったし、そもそも彼女は魔術師じゃない。魔力回路自体が存在しないんだから。もともとあった魔力だって人並みか、すこし少ないくらいだもの。

 多分、下衆なマスターがサーヴァントの栄養にでもしたんでしょう」

 

 サーヴァントの栄養?どういうことだろう。

 

「魔力がサーヴァントの栄養分だというのは知っているでしょ。自分のサーヴァントを強化するために、一般人を襲って魔力を奪うマスターは珍しい存在じゃないわ。

 でも、そんなことをするのは三流よ」

 

 サーヴァントにとって魔力は燃料なのだから、それを集めること自体は間違いではない。

 しかし、人間からそれを集めるなら、多くの場合、対象となった人間は魔力を吸い尽くされて死に至る。そうでなくても、衰弱し、昏倒くらいはするだろう。何よりもそれが問題なのだ。

 人道に悖る、といった話ではない。そもそも、魔術師といわれる人種は人の道などとっくに踏み外している。

 問題なのは、己の存在を他者に知らせてしまう、ということだ。

 情報網の発達した現代社会において、人の死という情報は、他のどんな情報よりも速いスピードで社会を満たす。まして、死に方が異常なものであれば、そのスピードは驚異的なものとなる。

 そして、その情報は、他の多くの情報を敵に教えてしまう。

 死亡時間からは活動時間帯を。死亡場所からは根拠地のおおよその範囲を。周りの状況や死因からは能力を。それらを糊塗しようとすれば逆に不自然さを生み出し、さらなる情報を残すこともあるだろう。

 仮にそれらが意図的に残した情報であったとしても、その意図に気づかれた場合、やはり多くの情報を敵に渡すことになる可能性が高い。『雄弁は銀、沈黙は金』という言葉があるように、何か隠したいことがあるときは人知れず事を成すのが至上であり、騒ぎを起こすのは下策である。

 故に、三流。凛はそういったのだ。

 

「でも、代羽がそれ以外の理由で襲われたっていう可能性はないのか」

 

 俺が疑問を呈すると、訝しそうな表情で凛が答えた。

 

「普通、この時期に愉快犯的に一般人を襲う馬鹿はいない。まぁ、前回はそんな馬鹿もいたみたいだけど、御他聞に漏れず早々に敗退してるし。

 もし、今回もそんなのがいたら、それは三流以下。どんなに強力なサーヴァントであっても、警戒する必要すらないわね」

 

 確かに、いよいよ聖杯戦争が始まったというこの時期に、不用意に、何のメリットもないのに一般人である代羽を襲う馬鹿はいないだろう。

 まして、代羽は確かに魔力を奪われているようだ。ならば、やはりサーヴァントの食事代わりに襲われた、と考えるのが妥当なのだろう。

 

「本当に、代羽はマスターじゃないんだな」

 

 繰り返す俺の問いに、凛は少し不快そうに答えた。

 

「くどい。

 そりゃ、彼女の家とは古い付き合いだからね、色々と調べたわよ。それに、彼女とはちょっとした因縁があってね、かなり強引な手段も使って調査したわ。

 それでも、結果は白。魔力殺しみたいな反則アイテムも無し。彼女は魔術師足り得ない、それが結論よ」

「……代羽はいつ目覚めるか、わかるか」

「そうね、宝石で魔力の補給は済ませたし、夜までには目を覚ますと思うけど……」

 

 よし、なら代羽が目を覚ましたときに体力のつくものでも食べさせてあげよう。

 そのためにも、買出しのやり直しだな。

 なんだかセイバーの顔も険しくなってきたし、急いで行ってこよう。

 

 

 代羽が目を覚ましたのは、空が宵闇に染まった、その時間だった。

 時計の短針と長身がきっかり直線を作るその時間、ぼーん、ぼーん、という間の抜けた時報と共に彼女は目を覚ました。

 

「ここは…」

 

 微妙に焦点のあわない視線を中空に漂わせて、弱弱しい声で彼女は呟いた。

 

「よかった、目が覚めたのね、代羽」

「お母さん、ここは…」

 

 桜を母親と勘違いしているようだ。もしかしたらまだ意識がはっきりしていないのかもしれない。

 

「安心して、ここは衛宮先輩のお宅よ」

 

 枕元に座る桜に視線をやってから、代羽は縋るような目線で俺を見た。

 

「よかった、いきてた……」

 

 そう言って、俺の頬に手を伸ばすと、彼女は再び意識を手放した。



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episode7 後輩招待

 私が私であることを自覚してから、一体どれくらいの時間が経過したのだろう。

 あの時、初めて光を見てからどれだけの光を見たのだろう。

 今や、光は私の目を焼きつくさんばかりに煌々と輝いていた。

 それは一つの映像だった。

 暗い、それでもこの空間よりは遥かに明るい部屋。

 この映像はそこで撮られているようだ。

 被写体は、いつも決まって蟲だった。

 どろどろとして、自らのカタチを保つことすらできないもの。

 うねうねとうごめき、常に何かの中に入ろうとしているもの。

 なかには男性器としか見えない奇怪な形状をした蟲もいた。

 私は理解した。

 此処が天国なら、この映像は地獄で撮られたものだ。

 映像は激しくぶれ、にたにたと嫌な笑を浮かべる老人を映したところで、ぶつんと切れた。

 

episode7 後輩招待

 

「驚いた。人間一つくらい得意なことはあるものなのですね」

 

 褒めることと貶すことを同時にこなすという器用な真似が、彼女の得意技。

 

 食卓を囲んでいるのは五人。

 この家の家主である俺。ただし、最近この呼称には疑問の余地がある。

 俺が呼び出したサーヴァント、セイバー。霊体化のできない彼女は仕方なく食卓についている。そう、あくまで仕方なく、のはずだ。料理を眺める輝く視線は、きっと気のせい。

 学校一の美人姉妹、遠坂凛と、遠坂桜。何故か凛はガッツポーズ。

 ある意味学校一の有名人、間桐代羽。入学当初、告白した男子の数、数知れず。そして、彼女は微笑みとともに同じ数の失恋を作りあげたのだ。今彼女に声をかけるような骨のある男子はいないだろう。

 アーチャーとキャスターは霊体化して、姿は見えない。おそらくは二人とも周囲の警戒をしてくれているはずだ。

 

「これは勝ち…ぐっ、これは負けたか」

「……[こくこく]」

「うーん、先輩、今日の出汁巻、何かいつもと違うんですけど」

「衛宮先輩、主夫って知ってます?一昔前ならきっとヒモと同じ扱いでしたよね。良かったですねぇ、生きやすい時代になって」

 

 凛、いちいち食事に勝ち負けを持ち込まない。お前はどこかの鉄鍋料理人か。

 セイバー、どうやら喜んでくれてるのは嬉しいけど、もっと落ち着いて食べなさい。

 桜、それは秘伝のレシピ、追いすがる競争者に易々と教えてやるわけにはいかんのだよ。

 代羽、もうあなたには何も言いません。ていうか世の主夫の皆さんに謝れ。

 

 一部の会話を除いて、夕食は和やかに終わった。

 殺し合いの途中だが、いや、そういった極限状態の中だからこそこういった時間を設けるのは至極重要である。人間、四六時中気を張っていられるわけではないし、無理をすればいざというときに何もできなくなる。

 食後のお茶をみんなで楽しんでいるとき、一番重要なことを凛が切り出した。

 

「間桐さん、あなた、何であんなところで倒れてたの?」

 

 既に代羽には、街中で倒れた彼女を俺が助けたことは伝えている。

 手に持っていた湯飲を、ことり、とテーブルに置いて、彼女は答えた。

 

「申し訳ありません、それが全く憶えていないのです。昨日、少し遅くに学校から出たことまでは憶えているのですが、それから先は…」

 

 その返答は十分に予想されたものだった。

 

 

 代羽が一度目覚めてから再び意識を失った後、短い時間の話し合いの場が設けられた。

 議題は、代羽の記憶を除くか否か。

 俺は反対した。彼女が魔術師でもなければ、マスターでもないことははっきりしてるわけだし、仮に魔術師に襲われたのだとしたら記憶操作は必ず行われているはずだからだ。

 だが、俺以外は積極性に差こそあれ全員が賛成した。桜でさえ控えめながら賛同の意を表した。

 確かに、ほんの少しでも敵の情報が入れば、それは計り知れないアドバンテージになる。それは判るのだが、どうも他人の部屋を勝手に家捜しするようで気が進まない。

 凛あたりに言わせれば、そこらへんがへっぽこのへっぽこたる所以だとかなんとか。 

 ただ、魔術師なら記憶操作は必ずするはず、と言ったとき、凛と桜はなんだか地雷をふんでしまった、そんな顔をしていた。おい、君達、何か隠し事でもあるんじゃないのか。

 ともあれ、このメンバーの中では間違いなく一番凄腕の魔術師であるキャスターが代羽の記憶を除いてみたが、結果は芳しくなかったようだ。

 

「駄目ね、この子、昨日の記憶が消されてる。おそらくその時間に襲われたんだと思うけど、その部分がほとんどすっぽり抜け落ちてるわ」

「ほとんど、ということは残ってる記憶もあるのね」

 

 にやり、と笑ったキャスターが答える。

 

「断片的な映像だけ。闇に浮かぶ白い髑髏が見えたわ。多分、そいつがこの子を襲ったサーヴァントだと思う」

「髑髏の仮面を付けたサーヴァント……過去の記録からすればおそらくアサシンね。やっぱり今回もハサン=サッバーハが召還されたんだ」

「なんだ、もう真名がわかったのか」

 

 真名がわかるということはほぼイコールで敵の弱点がわかるということだ。ならば、これはとんでもないアドバンテージを得たことになる。

 

「いえ、この情報だけじゃ相手の詳しい伝説なんてわからないわ」

 

 凛によると、ハサン=サッバーハという存在はそれ自体の伝承が極めて少なく、また同じ名を冠する存在が複数いるため、どの伝承がどのハサン=サッバーハのものなのかがはっきりしていないという。

 

「つまり、わかったのは前回と同じくアサシンのクラスにはハサン=サッバーハが呼ばれた、このことだけか」

 

 ふう、と一息ついて言う。

 だが、正面からの戦い、という条件を除けば、一番警戒すべきなのは間違いなくアサシンだ。生前培った恐るべき暗殺の技術は防ごうと思っても限界がある。その外見的な特徴だけでも掴むことができたのなら、やはり一歩前進と言っていいはずだ。

 そんな俺の意見に対して、凛は苦言を呈する。

 

「でも、これでその髑髏がアサシンと決まったわけでもないわ。

 ありえないこととは思うけど、ハサン=サッバーハの振りをした別のサーヴァントって可能性もないわけじゃないから。

 とりあえずアサシンはハサン=サッバーハの可能性が高い、くらいに考えておきましょう」

 

 なるほど、確かにその可能性はある。

 これは戦争。

 戦争で一番大事なのは武器でもなければ兵力でもない。

 一番重要なのは情報である。

 もしも俺達が、アサシンはハサン=サッバーハである、と妄信して、全く別の存在がアサシンであった場合、最悪それだけで全滅の憂き目を見ることもあるのだ。

 情報の中には敵が漏らした情報と、漏れた情報がある。その取捨選択は非常に難しい。

 そういう意味で、今の凛の判断は信じすぎず疑いすぎず、ちょうど良い按排なのだろう。

 その時、いままで積極的な発言をしなかったセイバーが言った。

 

「私も凛の考えに賛成です。少なくとも、一度も相見えていない相手を事前の情報だけで判断するのは危険でしょう。現時点では可能性の段階に止めておくのが賢明だと思います」

 

 どうやら結論は出たようだ。

 

「この子の記憶はどうするの?」

 

 キャスターが尋ねる。

 

「残りの記憶も封印しておいて。こっちの世界の記憶なんて持っててもいいことなんかこれっぽっちもないし」

 

 凛が言う。

 どうやら、俺達の中でリーダーは決まったようだ。もともと持っている知識の量、戦闘に対する覚悟、とっさの判断力、どれをとっても相応しいのは凛だろう。俺と桜はそれをサポートする形になりそうだ。

 もっとも、俺の場合はサポートというよりも足手纏いになる可能性のほうが高いわけで、非常に肩身が狭い。

 このままではいけない。

 凛がリーダーになることにはこれっぽっちも異論はないが、それに甘えるようでは俺の理想には届かない。

 望まざる状況とはいえ、これは自分を成長させる機会であるのは間違いない。

 せっかく一流の家庭教師が二人もついてくれているのだ、十年前の悲劇を繰り返させないためにも修練に励まないと。

 

 

「そういえば、この服は遠坂先輩が貸してくださったのですか?」

 

 赤いハイネックに黒のミニスカート。

 日本人形みたいな代羽のイメージにはそぐわないが、それでも十分に着こなしているのは素材が素晴らしいからだろう。

 

「ええ、あなたの制服は泥だらけだったからクリーニングに出しておいたわ。下着も私用の新品。何か気に入らなかったかしら?」

「いえ、ここまでしていただいて不満なんてあるわけないじゃないですか。ただ、ちょっと胸のサイズが大きくて…」

 

 あらーと。

 これは俺が立ち入っていい会話ではない。

 これは俺を殺す会話だ。

 だって切嗣が言ってたもの、『女性の下着のサイズの話には関わらないように。きっと後悔することになるからね』ってね。

 食器を片付けるふりをして腰を浮かしかける。

 と、そのとき、俺の右肩を掴む確かな力。

 振り向くとそこにはくろいだてんし。

 くっ、桜、裏切ったか。

 

「うふふ、先輩、どこに行くんですか?先輩はこの家の主なんだから、もっと泰然自若としていていいんですよ?」

 

 食器を片して台所へ消えていく桜。

 相変わらず下着のサイズの話を続ける凛と代羽。心なしか凛は嬉しそうだ。

 セイバーは食後のお茶請けに夢中。ミカンの食べすぎで指が黄色くなっている。

 俺は溶けたアイスクリームみたいにテーブルの上にへばっていた。もう駄目です、このピンク色の空気を何とかしてください。

 ふん、だらしがないな、衛宮士郎、そんな嘲りの言葉が遠くから聞こえた気がした。

 

 

「今日はありがとうございました、遠坂先輩、桜、セイバーさん」

 

 気のせいか、俺の名前が呼ばれなかった気がする。

 代羽のことだ、おそらく気のせいでもなければうっかり忘れていたわけでもないだろう。絶対に意図的である。

 

「今日のところはこれでお暇させていただきます」

 

 そう言って立ち上がろうとする彼女。

 

「代羽、もう遅いし、送っていくよ」

 

 腰を浮かしかけた俺を制するように彼女は言った。

 

「結構です。あなたに守られねばならないほど私は弱くない。

 そんな暇があるなら己を高めることに使いなさい」

 

 ぴしっと言って立ち上がった彼女は、しかし立ちくらみでも起こしたかのように大きくバランスを崩した。

 

「代羽!」

 

 悲鳴のような声をあげて駆け寄る桜。

 凛の話によれば、死ぬ一歩手前まで魔力が吸い取られていたのだ。今までそれを感じさせないような立ち振る舞いをしていたことこそ、驚異的な精神力の賜物なのだろう。

 

「代羽、今日は泊まっていったらどうだ。客間なら余ってるし、内側から鍵もかけられるから」

「けっこうです……きょうはかえります……」

 

 気丈な台詞だが、目の焦点が合っていない。

 駄目だ、この状態で帰らせるのは危険すぎる。

 そう判断した俺は、凛に目配せをしてからこう言った。

 

「駄目だ、今日は泊まっていけ。家には俺が連絡しとくから」

「……」

 

 黙ってしまった代羽を桜に任せて、俺は電話をかけるために廊下に出た。

 

 

 ぷるるるるるる、ぷるるるるるる。

 聞きなれた呼び出し音。

 最近はめっきり押すことの少なくなった慎二の家への電話番号。

 いつからだろう、慎二が変わってしまったのは。

 それとも、慎二は以前のままで、本当は俺のほうが変わってしまったのか。

 ほんの少しの寂寥感。

 

『はい、間桐です』

 

 ぼんやりとしていた意識が呼び起こされる。

 

「えっと、夜分遅くすみません、私は慎二君の友人で衛宮というものですけど」

『なんだ、衛宮か。どうしたんだ、こんな時間に』

 

 どうやら電話の相手は慎二本人だったらしい。

 

「こんばんは、慎二。実は代羽のことなんだけど」

『衛宮、あのバカがどこにいるか知ってるのか?』

 

 いきなり自分の妹をバカ呼ばわりもないものだと思うけど、いつもの慎二を知っている俺からすれば、こんなことは驚くに値しない。

 

「ああ、実は代羽、桜と一緒に料理合宿だとか言って昨日からウチに泊まってるんだ。昨日は電話をし忘れてたらしい。珍しく気落ちしてたよ、兄さんに怒られるって」

『ふうん、料理合宿、ねえ』

 

 いぶかしむような慎二の声。

 

「おう。ちなみに藤村先生も一緒だから、疚しいことなんて何もないぞ」

 

 ごめん、藤ねえ。名前を使わせてもらった。

 

『そう、ならいいよ。やっぱり兄としては嫁入り前のかわいい妹を傷物にされるわけにはいかないからね』

 

 冗談めかしたような、どこか本気のような発言。

 

「それは当然だな。じゃあ、あまり長電話しても悪いから、そろそろ切るぞ」

『そうだね、わざわざ連絡してくれたことには感謝するよ。ああ、そういえば衛宮――』

 

 

『――代羽はそのまま人質にするのかい?』

 

 

 ぞくり、とするような声。

 まるで、薄い和紙に包んだ真剣で喉元を撫でられたかのような感触。

 

「――慎二、お前何を」

『やだなぁ、何本気で焦ってんのさ。ジョークだよ、ジョーク。ちなみに代羽、着替えを持っていってるの?なければ届けるけど』

 

 さっきの声とはうってかわって軽い調子の、いつもの声。

 なんだか今日の慎二はおかしい。妙にハイだ。

 

「そうしてもらえると助かる」

『ふうん、料理合宿だってのに、着替えも持たないで参加したんだ、代羽は』

 

 くすくす、と声を殺した笑いが電話の向こうで響く。

 

「あ、ああ、思ってよりそそっかしいんだな、代羽は」

『そうだね、実はそそっかしいんだ。きっと今も切り刻まれた制服しか持ってないと思うから、明日は学校を休むように言っといてよ。じゃあね、おやすみ』

 

 その言葉を最後に電話は切れた。

 俺はしばらくの間、馬鹿みたいに受話器を持ったままだった。



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episode8 早朝訓練

 時化た、村だった。

 山肌に立てられた、まるで廃屋のような家。

 そこで彼は産声を上げた。

 周りにあるのは同じような家々。

 時代からも人からも忘れ去られたような寒村。

 彼は、そこで生まれたのだ。

 

 生きていくのが、それだけで難しかった。

 岩山は、夏は空気を焼き、冬は吐息を凍らせた。

 風は身を切り裂き、疫病を運んだ。

 食うや食わずの毎日。

 ひもじさを覚えなかった夜などない。

 薄汚れた毛布に包まり、ただ朝だけを待ち続けた。

 

 片手の指で数え切れなかった兄弟は、皆死んだ。

 飢えで。

 寒さで。

 病で。

 事故で。

 だから、彼は悟った。

 人は死ぬのだと。

 あっけなく、なんの拘りも持たぬまま。

 

 御伽噺が好きだった。

 世界を救う英雄の冒険譚が。

 龍を倒す勇者の活躍が。

 王を救う忠義の物語が。

 胸を焦がすような切ない悲恋劇が。

 その全てが、彼を酔わせた。

 母が語ってくれた。

 父が教えてくれた。

 吟遊詩人が詠ってくれた。

 その瞬間だけ、彼は幸福だった。

 

 だから、彼は不幸だった。

 幸福があることを知ってしまったから。

 何も知らなければ、彼は人として生きていられたのだ。

 歴史から、世界から忘れられた存在として。

 しかし、彼は目指した。

 自らも、何者かになりたいと。

 誰かの心を沸き立たせる存在になりたいと。

 ここは、己のいるべき場所ではないと。

 違う世界が、あるはずだと。

 

 だから、彼は不幸になったのだ。

 

 

episode8 早朝訓練

 

 

 道場を目指して、板張りの廊下を素足で歩く。

 足の裏から伝わる痺れるような冷たさが、ダイレクトに脳に響く。

 冬の早朝、その冷気は暖かな気な木材ですら凍りつかせるようだ。

 結局、昨日の慎二のことは誰にも言わなかった。

 凛の話によれば、間桐は枯れた魔術師の家系で、もう魔術的な才能を持った子供が生まれることはないという。その例に漏れず、慎二も代羽も魔術的な才能には恵まれていないらしい。

 ならば、余計なことを言っても混乱させるだけだろう。俺はそう考えたのだ。ただ、後々慎二から事情を聞く必要はあると思う。

 ガラガラと、道場の扉を開ける。

 一瞬、濃い汗の香りが鼻を衝く。

 

「おはよう」

 

 俺が声をかけたのは、一人正座し、黙想をしていたセイバーだ。

 昨日、セイバーの寝所について軽い一悶着があったのだが、結局は落ち着くべきところに落ち着いた。まぁ、ようするに俺の平穏は守られたわけだ。

 

「おはようございます、シロウ。早いのですね」

 

 まだあたりは払暁の時間帯。一般には目を覚まさなければいけないような時間ではない。

 

「いつもの癖でどうしても目が覚めちゃうんだ。セイバーは何をしてたんだ?」

「精神統一を。この空気と空間は非常に好ましい」

 

 確かに、冬の引き締まった空気と道場の張り詰めた雰囲気は、精神鍛錬にはもってこいだ。

 彼女は再び目を瞑った。

 さて、どうしようか。

 いつもなら一通りの柔軟運動と筋トレで済ませてしまうのだが、精霊に準ずるとまで言われる存在が目の前にいるのに、それはあまりにもったいない。

 

「セイバー」

 

 壁に立て掛けてあった竹刀を二本掴み、片方を彼女に投げ渡す。

 セイバーは、目を開けることすらなく、事も無げにそれを空中で掴み取った。

 

「いつもなら一人で訓練するんだけど、もしよければ付き合ってくれないか」

 

 俺が隣でガチャガチャしてたら、精神統一なんてできるはずもないし。

 彼女はゆっくりと立ち上がる。

 その表情には、どこか不吉な笑みが刻まれていた。

 

「いいでしょう、シロウの実力を知るいい機会だ。あなたもサーヴァントというものの実力を知っておく必要がありますから」

 

 口調に隠しようのない不機嫌さが滲むのは、バーサーカー戦の無茶からか、それとも昨日の寝所決定の顛末からか。

 まあ、修行が厳しくなるのは望むところなので、別にかまわないんだけどね。

 

 

 突然だが、私、遠坂凛は朝が弱い…らしい。

 自分としては全く自覚はないのだが、長い付き合いの妹には、『恋人ができても、絶対その顔は見せちゃ駄目ですよ』などと失礼なことを言われたことがある。

 まあ、その、なんだ。

 つまり、どうやら私は、朝方は人よりほんの少しだけ機嫌が悪くなるみたいなのだ。

 でも、いいじゃないか、そんなこと。

 きっとそれは欠点に違いないが、ならば寝起きは人に会わなければいいだけのこと、別に嘆くようなことじゃあない。

 だからこそ、朝は優雅に。

 素早く起きて、牛乳を一杯。

 それで万事解決だ。

 心地よいまどろみの中で、そんなことをつらつらと思う。

 平穏な朝。

 

 どたーん

 

 ん?

 何か聞こえたかな。

 薄いカーテンを通して、陽光が目に入る。

 むー、このカーテンは気に入らないわね、私の家のを持ってこようかな。

 

 ばたーん

 

 なんか、神経に障る音が聞こえる気がする。

 まぁ、いいか。

 不快な音には耳を塞ごう。

 臭い物には蓋、うん、素晴らしきかな先人の知恵。

 ちゅんちゅんと、小鳥の鳴く声。

 その声は可憐で、心が和む。

 ぎにゃあああと、士郎の泣き叫ぶ声。

 その声は凄惨で、神経がささくれだつ。

 

 どたーん、ばたーん。

 

 たちなさい、しろう、まだあなたはさーヴぁんとのおそろしさがわかっていない!

 ぎぶ、ぎぶ、せいばー!

 

 ばしーん。

 

 ええい、もんどうむよう、これもあいのむち、いずれあなたもかんしゃするひがきます!

 まてまて、そのひがくるまえにきょうしんじまうだろ!

 ことばはぶすい、そこになおれ!

 どこのうしおとこだ、それは。てかしぬ、しんじまうから、せいばー!

 

 ――ああもう、あいつら、一体なにやってんだか。

 とりあえず、後で士郎はとっちめよう。私の朝の心地よい目覚めを奪った罪は万死に値する。セイバーは……可愛いからよし。

 そして私は再び目を瞑った。

 ああ、二度寝は気持ちいいなあ。

 

 

「あ゛~、まずったわ……」

 

 二度寝なんて、何年ぶりだ。

 のそのそと、妹曰く『酔っ払いのティラノサウルス』みたいな足取りで台所に向かう。

 牛乳……。

 とりあえず、万事はそれからだ。

 別に他の飲み物でも構わないが、朝一番の牛乳は私のスイッチみたいなものなのだ。だから、冷たい牛乳があるならばそれに越したことは無い。

 やっと勝手の分かり始めた馬鹿みたいに広い屋敷。それを所有しながら、今の今まで管理者たる私に上納金の一つもよこさなかったあの馬鹿に、軽く殺意を覚える。

 

「なんとかして、これ、わたしのものにならないかしら…」

 

 そうすれば、即座に売っぱらって、現金に換えて、宝石を買い込んで……、ああ、バラ色の人生が。

 

「そっか…さくらとあいつをひっつければいいのか…あいつのものはさくらのもの、で、さくらのものはわたしのものだし、うふふ、たのしくなってきたぞ」

 

 この場合、私のものになるのはあくまで金銭的な価値を持つものだけであって、断じてそれ以外のものは含まれない。

 

「…って、なにかんがえてんだ、あさっぱらから」

 

 がらがらと、台所の扉を開ける。

 食欲をそそるいい香り。

 そういえば今日の当番は桜だった。

 あやふやな頭で考えながら、コップ片手に冷蔵庫を漁る。

 

「うふふ、ぎゅうにゅうぎゅうにゅう……」

 

 掌サイズの可愛らしいコップになみなみと牛乳を注ぐ。牛乳パックを傾け最後の一滴まで注ぎ込む。ちょうど最後の一杯。どうやら私は神様に愛されている。

 

「これもひごろのおこないがいいからよねぇ……」

 

 さあ、腰に手を当てて、ぐいっと一気に飲――。

 

「お姉ちゃん、そんなの許さないから――!」

 

 天地を揺るがす虎の雄叫び。

 女性の声なのに雄叫びとは、これ如何に。

 だが、今の私にとって、そんなことはどうでもいい。

 問題は、ガシャン、という音と共に砕け散った可哀想なコップと。

 台所にぶちまけられた、白い液体だ。

 

「あ――」

 

 思考がフリーズする。

 

「桜ちゃんに遠坂さん、間桐さんに、セイバーちゃん!

 いずれ劣らぬ美少女揃いを泊めるなんて、一体何考えてんだ、このエロ士郎――!」

「ちょっと待て、話を聞け、藤ねえ!だから、セイバーは切嗣の知り合いで、桜と凛は家の改装が……」

 

 あー、牛乳がなくなっちゃったなぁ……。確か、買い置きは無かったし……。

 

「だいたい、何でそんなにぼろぼろなのよ、士郎!?」

「あー、これはセイバーとの訓練で……」

 

 神様のくそったれめ……。

 

「なにー!?はっ、さては巷を騒がす連続辻斬り事件の下手人はセイバーちゃんと見た!神妙にお縄につけ、虎竹刀の錆にしてくれるー!」

「微妙に鋭いけど、根本的に間違えてるぞ、藤ねえ!」

「シロウ、下がって。あの女性は錯乱している、危険です」

「違います、セイバーさん、あれが藤村先生のデフォルトです」

「桜ちゃんにまで何か凄く失礼なこと言われた気がするぞ、ちくしょー!」

 

 ああ、こいつら――。

 どたばた騒ぎまくる居間の住人。

 私は無言で歩いていって、静かに扉を開けた。

 そして、一言。

 

「おまえら、すこしだまれ。」

 

 後にセイバーは語る。『マーリンが本気で怒ったときと同じ空気がした』と。

 後に遠坂桜は語る。『あの人が敵でなくて本当によかった』と。

 後に衛宮士郎は語る。『角と翼と尻尾が見えた』と。

 そして、後に藤村大河は語る。『草食動物の気持ちが分かった』と。

 多くは語るまい。

 ただ、その後、藤村大河が、あたかもどこぞの漫画の女子寮の如くなった弟分の実家について語ることはなくなった。曰く、『遠坂さんがいるから大丈夫』とのこと。

 

 とりあえず、静かになった居間を尻目に見ながら、私は洗面所に向かった。

 ああ、なんていうか、最低な朝だ。

 

 

「いてて、いてて」

 

 歩くたびに、俺の意思を無視して、口から情けない声が漏れ出す。

 セイバーの鍛錬は実戦を想定した、いや、実戦しか想定していない極めて歪なもので、俺の身体にたいへん深い爪あとを残した。というか、あれは訓練じゃなくてイジメだろ。

 

「大丈夫ですか、先輩?」

 

 ああ、桜、君は優しい。心底楽しそうに俺を見つめるその視線さえなければ最高だ。

 

「情けないわね、男の子でしょ」

 

 そう言いながらも歩調を緩めてくれるのは凛。

 ようやく解ってきた。

 本人達に言えば全力で否定するだろうけど、二人とも、本質的なところでお人よしなのは一緒だ。

 ただ、口では優しいことを言って、実は人をからかうのが大好きなのが桜。

 口や態度は辛辣なところがあるけど、行動自体は思いやりがあるのが凛だ。

 姉妹のはずなのに、どうしてこうも性格が違うのか、時間があれば研究をしてみるのもいいかもしれない。

 まあ、命がけの作業になるのは間違いないけど。

 

 

 当面の俺達の課題。

 それは言うまでもなく、学校に張られた結界を取り除く、あるいは無効化することだ。

 

「残念だけど、私にも解呪はできないわ」

 

 神代の魔術師であるキャスターにそう言わしめるくらいなのだから、俺や凛に解呪できるような代物ではないのだろう。

 

「あれは魔術というよりも、宝具に近いわね。

 他者を溶解、吸収する結界型の宝具、そう考えた方が納得できる」

「とりあえず、今の俺達にできることは何なんだ?」

「方法は二つ考えられる」

 

 ピッと、右手の人差し指を突き出した凛が話す。

 

「一つはマスターを探し出して結界を解呪させる。

 もう一つは、結界を張ったサーヴァントを見つけて倒す。

 根本的な解決法はこの二つしかないわ」

 

 つまり、自力で結界を無力化するのは無理、ということか。

 

「いざとなれば校舎の破壊とか、かなり過激なことも考えなければいけないけど、今はサーヴァント、ライダーとそのマスターを探すのが先決ね」

「ライダー?あれはライダーの仕業なのか?」

「はぁ?そんなこともわからないの?」

 

 呆れたような凛の表情。

 

「先輩、こういうことです」

 

 桜は丁寧に説明してくれた。

 キャスターに解呪できないような結界なのだ、人間の魔術師の成した業である可能性は限りなく低い。

 ならば、やはりサーヴァントが犯人ということになるが、今回の聖杯戦争ではサーヴァントは基本の七クラスしか召還されていないらしい。

 学校の結界がサーヴァントの仕業だと仮定するなら、必ずその七騎の中に犯人がいることになる。

 この中で、セイバー、アーチャー、キャスターは除かれる。これは大前提だ。

 バーサーカーは違う。理性を無くした狂

 ランサーも違う。あの夜、俺がランサーに襲われる前に、凛と桜は短い時間ながらランサーと会話する機会があったらしい。そこから得た感触では、結界を張って大量虐殺を行うような人格には思えなかったとのこと。また、彼の真名、クーフーリンの伝説にもそういった類の記述は見受けられない。

 アサシンは違う、とは断言できないが、そもそも闇夜に紛れた暗殺が本分のアサシンにそういった目立つ宝具、あるいは魔術の技能があるとは考えられない。

 ならば、消去法で残るのはライダー、ということになる。

 これは、そもそもがあの性悪神父の、今回召還されたのが基本クラスのみという情報に基づくものなので、そこから間違っていれば全てがご破算という砂上の楼閣のような仮説なのだが、あの男は嘘だけはつかない、と凛も桜も声を揃えた。

 

「ということは、やっぱりライダーが犯人なのか」

「ええ、これはかなり蓋然性の高い仮説だと思う。

 だから、当面の間は結界に嫌がらせををしながらライダーとそのマスターの出方を伺う。 いよいよっていう時期になったら、その時は学校の封鎖でも考えるわ」

 

 

 なんだ、これは。

 校門をくぐった瞬間、粘ついた空気が俺の肺を満たした。

 甘ったるく、液体化したような大気。うっすらと紅く色づいて見えるのは気のせいではないだろう。

 

「まずいわね、予想よりも完成が早いかもしれない……」

 

 後ろから凛の声が聞こえるが、俺の意識はそれどころではなかった。

 最初のイメージが内臓。消化液を分泌し、細かく蠕動運動を繰り返す。

 次に浮かんだイメージは食虫植物。甘い香りを撒き散らし、誘われた虫を消化、吸収する。

 なるほど、遠坂が俺ごときの力を借りたくなる理由もよくわかる。

 これは外道の仕業だ。

 目的のために手段を選ばないのが魔術師。とはいえ、それは自身の行動が引き起こすであろう結果に対して想像力を麻痺させるという意味ではない。これを発動させれば、おそらく何百人単位で人が死ぬ。それは隠蔽工作が可能とか不可能とか、そういう域ではない。

 ならば、犯人は協会の粛清を恐れていないのか。それとも。

 

「先輩、大丈夫ですか?」

 

 桜が心配そうに覗きこんでくる。

 どうやら相当酷い顔をしていたようだ。

 

「ああ、ちょっと嫌な想像をしちゃっただけだ。大丈夫、ありがとう」

 

 崩れそうになる膝を叱咤して胸を張る。

 もしかしたら外道の魔術師が、せせら笑いながら監視しているかもしれないのだ。そんな奴に弱みなど見せてやるものか。

 

「ふぅん、少しだけ見直したわ。虚勢でも、それがはれる奴とはることもできない奴じゃあ命の価値からして違ってくるからね」

 

 この世のあらゆる悪意をはじき返すような笑みを浮べた凛が言う。

 きっとこいつは、どんなに深く魔道を極めても何度絶望を味わっても、魔術師でもなくもちろん一般人でもなく、あくまで[遠坂凛]として生きていくのだろう。

 そんな埒もないことを考えると、ほんの少しだけ肺の中がすっきりした。

 

 

 既に太陽は中天を通り、少しずつではあるがその姿を地平線に隠す準備を始めていた。

 時間は昼休み、場所は屋上。

 本来であれば一時的にとはいえ授業から開放された生徒の活気に包まれるはずの空間が、まるで無人の廃校のように静まり返っている。確かに、冬も本番といえるこの時期、屋上が人で溢れかえるということは少ないが、それでも風がなく太陽が顔を出しているなら変わり者が何人か昼食をとっているものなのだ。

 間違いなく結界の影響だ。授業中も机に突っ伏して動かない奴がいつもの倍以上いた。

 本来それを注意すべき教師も、その気力すらないような、そんな虚ろな表情で淡々と授業を進めていた。

 日常が非日常に摺り返られていく。その終着駅は間違いなくあの赤い世界だ。

 そんなことは許さない。絶対に俺が阻止してみせる。

 

『喜べ、少年――』

 

 頭に涌いた悪魔の囁きに蓋をしながら結界の呪刻を探す。もちろん、それを見つけたところで半端魔術使いの俺にできることなどないのだが、どうしても自分の目で見たかったのだ。

 確か、凛はここら辺だって言ってたな…。

 

「何か探しものかい?」

 

 背後からの声に振り返る。

 そこにあった顔は、寸分違わず記憶にあるその声の持ち主の顔と一致した。

 

「慎二…」

 

 相変わらずシニカルな笑みを浮べた慎二は、給水塔の下の壁を指差した。その場所は凛に聞いた場所とぴったり一致していた。

 

「ほら、結界の呪刻ならそこにあるよ」

 

 慎二の指の先には、まるで心臓のように慌しく拍動する巨大な呪刻があった。さっきまで気付かなかったのが不思議くらい、禍々しい魔力を放っている。

 凛が消去したと聞いていたが、既に復活している。

 しかし、今問題なのはそんなことではない。

 

「慎二、何でお前が結界のことを…」

 

 凛や桜から聞いた話では、間桐の家に魔術師はいないということだった。しかし、魔術師でないなら、当然この結界に気付くはずがない。ならば――。

 

「当然、僕が魔術師だからだよ。

 しかし、衛宮も魔術師だったんだ。僕に気付かせないなんて、中々やるじゃん」

 

 まるで昨日の電話が続いているかのように、妙にハイテンションな慎二が話す。

 

「この結界について詳しいことを知りたければ放課後にでもウチに来いよ。おもしろい話を聞かせてやるからさ」

 

 そう言って慎二は背を向けた。

 

「慎二、この結界はお前が張ったのか」

 

 慎二は振り返らなかった。



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episode9 夜間対話

 次にその子供を見たのは査問会の席だった。

 査問の対象となっていたのはあの時の子供だった。

 なるほど、あの子は私の輩だったわけだ。

 少し意外だったが、おおむね納得した。

 査問の理由は魔術の隠匿無視。査問の理由としては最もありふれたものと言っていい。

 あれだけ派手に人を殺して、しかもそれを食べていたのだ。ばれないほうがおかしい。

 きっとあの子は有罪になり、どういう過程を辿るのかは知れないが、最終的には抹殺されるだろう。

 私は子供の顔を見た。きっと笑っていると思ったからだ。

 でも、違った。子供は泣いていた。年相応の子供のように。

 その異様に惹かれて、私はその子を引き取った。

 飼ってみよう、と思ったのだ。

 

episode9 夜間対話

 

 嗅覚というものは、視覚や聴覚と同じように、あるいはそれ以上に忘れかけていた記憶を思い出させる。街中でふ、と嗅いだ香りが、失われて戻らない過去を思い出させることなどしばしばだ。

 慎二の家の空気を肺に入れた瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、初めて見た、輝くような代羽の笑顔と、それ以上に輝く笑顔で差し出されたしょっぱいコーヒーだ。

 顔を顰めながらも無理矢理それを飲み下す俺を、腹を抱えて笑っていた慎二も印象深い。

 ともあれ、あの頃の間桐の屋敷はもっと清々しかった覚えがある。少なくとも陰湿な雰囲気を感じさせるようなことはなかった。

 それが今はどうだろう。

 逢魔ヶ時というのもあるのだろう。しかし、纏わりつくようなこの空気は学校のそれを思い起こさせる。おそらく、その性質こそ多少の差異はあるものの、人を飲み込み排除するというベクトルそのものに違いはない。

 窓の外は夕闇に染まり、広い部屋を照らすのは頼りない燭台の灯りのみ。

 そんな異界の空気を従えるかのように慎二は楽しげだった。目は爛々と光り、動作も芝居がかったように大仰だ。その姿は夏休みを目前に控えて舞い上がった小学生を連想させた。

 

「とりあえず、ようこそマキリへ。歓迎するよ、衛宮」

 

 どっしりとした重厚なソファに腰掛けた慎二が、両手を広げてそう言った。

 ソファの後ろには奇妙な眼帯をつけた長髪の女性が控えている。

 

「ああ、こいつのことは気にしなくていいよ。

 こいつはライダー、僕のサーヴァントだ。なかなか凶暴な奴だけど、僕の命令がなけりゃ人を襲うことはない」

 

 ライダー。凛の推測が正しければ、あの結界を張った張本人。

 そうなのか、慎二。お前があの結界を張るように命じたのか。

 

「前置きはいい。さっさと本題に入ろう」

 

 そう言った俺を、少し機嫌を損ねたような顔で一瞥してから、慎二は言った。

 

「フン、相変わらずせっかちだな衛宮。ハヤすぎる男はもてないぜ。まぁしかし」

 

 ふう、と大きく息を吐き出す慎二。

 

「お前の言うことにも一理ある。今は戦争中だからね、無駄な会話を楽しんでいる暇はないか。

 じゃあ衛宮の言うとおり単刀直入に話そう。衛宮士郎、お前は此度の第五次聖杯戦争において、僕、マキリ慎二と手を組むつもりはないかい?」

 

 頭が痛くなってきた。

 なんだ、この状況は。密かに憧れていた学校一の美人と、家族のように付き合ってきた可愛い後輩と、最近めっきり疎遠になったものの貴重な数少ない友人が古ぼけた杯をめぐって殺しあうだと?全く、出来の良すぎる三流メロドラマだ。

 

「幾つか質問がしたい」

「当然だね。どうぞ、答えられる限りは誠実に答えさせてもらおう」

 

 ああ、くそ。

 俺は何をやってるんだ。

 こんなところで友人を相手に腹の探り合いか。

 なるほど、俺も含めて魔術師というのがろくでもない人種だっていうのが納得できる。

 

「慎二、お前は魔術師なのか。それに代羽は――」

「質問は一つずつで頼むよ。まあいい。まず、一つ目の質問の答えはイエス。僕は魔術師だ。そもそも、そうでなけりゃマスターなんかになれっこないだろう」

 

 上から物を見る、相変わらずの表情で慎二が言う。

 

「二つ目の質問に関してはノー。魔術は一子相伝。せっかくの神秘の結晶をわざわざ薄めて伝える愚かな家系なんて絶対に存在しないよ。衛宮はそんなことも知らないんだ」

 

 くすくす、と笑う慎二。

 なるほど、確かにその通りだ。

 神秘の密度は、それを知る人間の数に反比例するといわれる。ならば、できる限りその濃度を高めようとするのは当然だ。

 しかし、この世には例外というものが必ず存在する。そして、それは俺の身近にあるのではないか。

 遠坂。

 魔術の名門。

 五大元素を操る姉と架空元素を従える妹。

 おそらくは、奇跡のような確率で生まれた一対の至宝。

 慎二はさっき絶対という言葉を使った。おそらくそこには虚偽はなかった。

 ならば、凛はともかく、桜が魔術師だということを知らないのか? 

 

「あの結界、お前、あれについて何か知っている、そう言ってたけど、何を知っているんだ」

「誰があの結界を張ったか、だ。でも、答えは教えてやらない。僕と同盟を結ぶなら話は別だけどね」

 

 結界を張った犯人。

 凛達の推測が正しければ、それはライダー以外にあり得ない。

 

「……慎二、お前の目的は何だ。何故こんないかれたイベントに参加する」

 

 その言葉に慎二ははっきりとした声で答えた。

 

「僕は偶然マスターになってしまった。

 出来ることなら棄権したいところだけど、果たしてそれだけで他のマスターが見逃してくれるかわからない。サーヴァントを捨てたところを他のマスターに襲われる、なんてことになったら目も当てられない」

 

 淡々と語る慎二。その答えは、まるで予め準備しておいた回答のようで、ひどく薄っぺらな印象を受けた。

 

「聖杯なんて得体の知れないもの、僕は欲しくない。だが、こんなくだらないイベントのせいで日常を変えるのも気に食わない。

 衛宮、お前もそうだろう?ならば、僕達は協力できるはずだ」

「つまり、自衛以外に力は使わない。そういうことか?」

「ああ、流石は衛宮だね。その通り、僕のほうから争うつもりはない。まあ、降りかかる火の粉くらいは掃わせてもらうつもりだけどね。

 さあ、衛宮。僕と一緒にこの戦争を生き残ろうじゃないか」

 

 俺はその誘いを――

 

 

「断ったのね」

 

 窓ガラスを挟んだ二つの世界は、文明の利器によって照らし出された光の世界と、非合理な恐怖が支配する闇の世界に分け隔たれていた。

 外は漆黒。木枯らしが吹き荒び、遠くから聞こえる自動車のエンジン音と相まって不可思議な郷愁を感じさせる。

 いつからこの部屋が作戦司令室になったのかは知らないが、昨晩と同じように俺達は居間に集まった。

 目の前には凛と桜とキャスター。隣にはセイバー。柱に身体を預け、どこかしら遠くを見つめるアーチャー。

 既に見慣れたといっていいメンバーだ。

 

「ああ、少なくともみんなの意見を聞くまで勝手なことはできないから」

「賢明ね。もし勝手に慎二と同盟を結んでたら、私はあなたを切り捨ててた」

 

 真剣な顔で凛が言う。

 

「まず聞かせて頂戴。あなたは今日の慎二をどう思ったの」

 

 理屈を抜きにした直感。凛はそれを求めている。

 

「……率直にいうと慎二は舞い上がってた。新しい玩具を買ってもらった子供みたいだったよ。だから、望まない戦いに巻き込まれたっていうのは嘘だと思う」

 俺は嘘は言っていない。だが、これは友人を売ってしまったことになるのではないか。

「……慎二が結界を張った可能性は?」

 

 決定的な問い。しかし、偽るわけにはいかない。

 

「……かなり高いと思う」

 

 静寂。

 視線を横に向けると、そこにいたのは痛ましい顔をした桜。

 無理もない。彼女は凛と違って慎二との面識が深い。弓道部にいるときの慎二は、女性にはとことん優しかった。

 

「……そう。悪かったわね。辛い役回りをさせたわ」

 

 そう言った凛の顔には、苦渋と決意が等量で綯い交ぜになった表情が浮かんでいた。

 

「これで当面の方針は決定ね。明日、学校が終わったら慎二を抹殺する。異論はある?」

「ちょっと待ってくれ。まだ可能性の段階だろう?何の証拠も無いのに、抹殺するなんて無茶だ」

 

 あまりにも極端な凛の意見に驚く。

 

「ええ、そうね。まだ可能性の段階で、何の証拠も無いし、無茶かもしれない。

 でも、私はあいつを殺すわ。例え間違いでも構わない。そのときは全責任を私が背負う」

「殺人の責任なんて、どうやったって背負えるもんか」

「背負える背負えないの問題じゃない。背負うって言ってるの。

 下手をうてば何百という人が死ぬ。おそらく、その中には藤村先生や、柳洞君も含まれるわ。それでも、あなたはいつ掴めるかわからない証拠を探して、彼を野放しにするというの?」

 

 その言葉に、俺の口は蓋をされてしまった。

 正論。これは正論だ。無作為に人を殺し、神秘の暴露すらしかねない外道結界。

 例え未遂とはいえ、それを張った罪は重い。

 それでも、法に照らされるならその罪は極刑には至るまい。なにせ、まだ人を殺してはいないのだ。第一、法は証拠も無いのに人を罰することなど絶対に認めていない。

 しかし、慎二は自らを魔術師と名乗ったうえでこのゲームに参加した。ならば、それは自らが魔術師としての掟に裁かれても文句は言えないということだ。

 そして、魔術師である凛が下した判断は、おそらく正しい。

 

「……最後に、あいつと話したい。それでも駄目なら……」

「シロウ、あなたの優しさは貴重だが、今回は凛が正しい。そのような結界を張った時点でその男は一線を踏み越えている。ならば、それの説得は不可能なだけでなく、自らを危険に曝す愚行だ」

 

 どこまでも冷静なセイバーの声。その静けさが、俺の心を荒立たせる。

 

「わかってる。でも、このままじゃ納得できない」

「っ、あんたねぇ!」

「先輩!姉さん!やめて下さい!」

「やめておけ、凛。この男に何を言っても無駄だ」

 

 腕を組み、視線を彼方へやったまま、アーチャーが言う。

 

「こいつは制御の効かない機関車のような存在だ。自分の欲望のままに加速を続け、いずれは他者を巻き込んで破滅する。

 凛、君がこの戦いに勝ち残りたいならこんな愚か者とは早々に手を切るべきだ」

 

 淡々と語られた俺の評価。

 しかし、それは――。

 

「我がマスターを侮辱するか、アーチャー」

 

 剣呑なセイバーの言葉。

 

「事実を言ったまでだ。君もそろそろ身の振り方を考える時期なのではないのかね?義理か人情かは知らんが、沈み行く泥舟と運命を共にしても望むものは手に入らんぞ」

「よく言った。二度とその口、訊けなくしてやろう」

「やめてくれ、セイバー」

 

 既に武装を完了し、一足にアーチャーに飛び掛ろうとしていたセイバーを制止する。

 

「シロウ」

「ごめん、セイバー。でも、多分アーチャーの言ってることは正しい」

「そんな」

 

 悲しそうな表情のセイバー。

 すまない、君はそんなに気高いのに、俺は、自分に、胸を張ることすらできない。

 

「少し頭を冷やしてくる。ありがとう、アーチャー」

 

 

 家主のいなくなった居間。

 唐突に嵐が訪れ、瞬きもせぬうちに過ぎ去ったかのようなその部屋は、一種の気だるい雰囲気に支配されていた。

 

「アーチャー、彼は私の同盟者よ。それを貶めるような発言は厳に慎みなさい」

 

 私の言葉に彼は皮肉な笑みを以って答えた。

 

「道を間違えようとしている主に苦言を呈するのも忠臣の条件と思っていたのだがね。なるほど、君が欲しているのが主人に追従することしか知らない家畜ならそう言ってくれたまえ。本意ではないが従おう」

 

 いつもと変わらない、人を小馬鹿にしたような言い回し。

 しかし、そこには確かに理がある。

 挑発するような言葉の中に、若輩を導く先達の心がある。

 しかし、さっきの士郎への言葉には、隠し切れない苛立ちがあったように思う。

 おそらく、いや、確実にアーチャーは士郎を憎んでいる。

 

「しかし、奴も存外意気地がない。一言も反論せず逃げ出すとはな」

 

 こいつ――

 

「アーチャー、貴様!」

 

 私より早く激発したのは士郎の忠実な剣。

 鎧を纏い、不可視の剣を抜き放った彼女。

 駄目だ、今度こそ止められない。

 しかし、セイバーは、見てはいけないものを見てしまった、そんな中途半端な表情浮べたまま固まってしまっていた。

 彼女の視線の先にあったもの。

 それは、何かを懐かしむような、いぶかしむような、そんな中途半端な表情を浮べて士郎が出て行った扉を見つめるアーチャーだった。

 

 

 縁側に座って空を見上げる。

 記憶に蘇るあの時の満月。

 あの日のように、月があればいいと思った。

 しかし、視界にあるのは分厚い雨雲。

 しとしとと、細かい霧雨が降っている。

 そういえば、あの日は、真冬なのに不思議と寒くなかった。

 今はその理由が分かる。

 隣に、切嗣がいたからだ。

 彼がいる、彼が笑ってくれる。

 それだけで安心することができた。

 それだけで、暖かかった。

 でも、もう切嗣はいない。

 俺を暖めてくれた暖炉の火は、熱を失い灰となった。

 だから、縁側は、こんなにも寒い。

 俺を導いてくれた灯台の灯火は、闇に飲まれ、今は見えない。

 だから、月は姿を隠した。

 ああ、そう考えてみると、今日の夜は、今の俺に相応しい。

 なあ、切嗣、教えてくれ。

 俺は、ほんの少しでも、あなたに近づいているのかな。

 

「いい夜ですね」

 

 背後から、声がする。

 冷たく突き放すような、優しく容認するような、そんな声。

 

「代羽、目が覚めたのか」

 

 昨日、彼女がなかば意識を失うかのように床に就いてから、ほぼ一日ぶりに聞く声。

 それは、常の代羽からは考えることができないほど優しいものだった。

 

「身体のほうは大丈夫か」

「ええ、だいぶ楽になりました。逆に、あまりに寝すぎて頭がボーっとします」

 

 苦笑しながら彼女は俺の隣に座った。

 

「ああ、本当にいい夜です」

「雨が降っているし、月も出ていない。そんなにいい夜かな」

 

 隣に座った代羽を見る。

 薄手のシャツと、ミニスカート。

 凛から借りたそれらは、外気に直接さらされる縁側ではいかにも寒々しい。

 

「ええ、私はそう思います。

 星の見えない夜空も、優しく濡れた空気も、とても趣がある。

 それに、今日はこんなにも暖かいわ」

 

 そうだろうか。

 今日は、とても寒い。

 体も、心も、震えてしまうくらいだ。

 一人では、とても耐えられない。

 でも。

 隣に代羽が座ってから。

 心の震えは、止まった気がする。

 

「衛宮先輩、何を考えているのですか」

 

 代羽の瞳が、まるで挑みかかるように俺を見つめる。

 ああ、綺麗な目だな。

 何となく、そんなことを思った。

 

「んー、今度提出する進路希望調査に何を書くか、かな」

 

 本音と冗談を織り交ぜた答えを返す。

 

「先輩は、何かなりたいものがあるのですか?」

 

 意外な反応。

 常の彼女なら、『まだはっきりとした将来像も描けていないのですか、この甲斐性なし』

くらいは言い放ちそうなものだが、今日は違った。

 どうやら、優しい夜は、人をも優しくするらしい。

 

「笑わないって約束するか?」

「無責任な約束はしない主義です」

 

 にこやかに微笑みながらも、やはり代羽は代羽だ。

 俺は苦笑して、笑われる覚悟を決めてからこう言った。

 

「正義の味方にね、俺はなりたいんだ」 

 

 さあ、きっと彼女は盛大に笑うぞ。それとも哀れむような、蔑むような視線を向けてくれるのか。

 しかし、彼女は、相変わらず優しい、でも少し寂しそうな微笑を浮べてこう言った。

 

「何でですか?」

 

 たった数文字の、単純な問い。

 しかし、それゆえに俺は逃げることができなかった。

 おそらく、優しい夜が、それを許さなかったんだと思う。

 

「親父とね、約束したんだ」

「親父はね、笑いながら死んだんだ。『ああ、安心した』。そう言って死んでいったよ」

「親父は言ってた。『大人になると正義の味方を名乗るのが難しい』、って」

「あのとき、親父が何を言いたかったのか分からなかった」

「でも、今はよくわかる。本当、嫌になるくらい」

「子供の時は、正義の味方になることなんて難しいことじゃなかった」

「クラスで苛められてる奴を助ければ、公園を独り占めするガキ大将を見知らぬ女の子と一緒にやっつければ、それだけで正義の味方になれた」

「でも、今は駄目だ」

「正義の味方の敵にも、そいつなりの正義が在ることを知ってしまった」

「本当に悪い奴なんて、どこにもいないことを知ってしまった」

「昔読んだ小説の一説が思い出せる。『この世に絶対善と絶対悪があれば、人はなんと単純に生きられるだろう』、こんな言葉だった」

「それでも、俺は正義の味方になりたいんだ」

「泣いてる人がいなくなるのは、みんなが笑っているのは、きっと素晴らしいことだから」

「それに、親父と約束したんだ」

「俺は親父の実の子供じゃない。でも、俺は親父に命を救われた。親父は、俺の理想だった」

「最後に、最後の瞬間に、俺が親父の理想を継ぐって言ったら、親父は言ったよ。『ああ、安心した』って」

「だから、俺は正義の味方にならなきゃいけないんだ」

 

 静寂が空間を満たす。

 いつの間にか、霧雨も止んだらしい。

 いつ以来だろうか、他人にここまで自分の心情を吐露するのは。

 俺は羞恥した。

 もちろん、話した内容についてではない。

 自分の心に圧し掛かった重石を、他人に預けようとしてしまった、自分の弱さを恥じたのだ。

 それでも、代羽はこう言った。

 

「あなたはどうして正義の味方になりたいのですか?」

 

 そんな彼女の言葉に俺は軽い困惑を覚えた。

 

「さっき話した内容がその答えだよ」

「ええ、そんなことは承知しています。

 しかし、さっきの話は『正義の味方を目指したきっかけ』であって、今あなたが正義の味方を目指す動機ではないでしょう」

「同じことだ。きっかけがそのまま目指す動機になっただけだ」

「では質問を変えましょう。

 単純に人助けがしたいなら、何も正義の味方などである必要はありません。医師でも、警察官でも、消防士でも、立派に人助けができる。

 なのに、何故正義の味方でないといけないのですか」

「――」

「こう言い換えることができるかもしれない。

 あなたは人を助けるために正義の味方になりたいのですか?

 それとも、正義の味方になるために人を助けたいのですか?」

 

 何も、言えなかった。

 その質問は、俺を殺す。

 駄目だ、これ以上言うな。

 頼むから、許してくれ。

 

「人を助けるために正義の味方になりたいのなら、その意志はどこまでも尊い。

 しかし、正義の味方になりたいがために人を助けるというのならば、その行為はどこまでも醜悪です」

「……自己満足だからいけないってことか?」

「それは違います。自己満足でも、誰かが救われるなら、その行為自体の価値は変わりようがない。さらに言うなら、自己満足以外の満足など、そもそもこの世に存在し得ないでしょう」

「じゃあ、一体何がいけないんだ」

「単純な話です。

 正義の味方になるために弱者を助けるというのは、詰まるところ、弱者の存在を希求することにほかなりません。それは同時に、他者の平穏を乱す何かの到来を待ちわびることであり、結局は他者の不幸を待ち望むことと同義です」

 

 俺は――。

 

「先ほどのあなたの話には、その中心に[正義の味方]という概念がありました。目指す動機はその概念へ到達するための舗装路のようにしか聞こえなかった。

 果たして、あなたは何を目指しているのですか」

 

『喜べ、少年、君の願いは――』

 

 

「―――輩」

 

 遠くで、何かが聞こえる。

 

「―――先輩」

 

 ああ、もう少し放っておいてくれないか。

 

「しっかり―――」

 

 この空間は心地良い。

 

「仕方な―――」

 

 こんなに穏やかなのは、久しぶりなんだ。

 

 

 ぱあぁん。

 

 

 気持ちの覚めるような破裂音。

 それと同時に頬に微かな痛み。

 目の前にいるのは、憮然とした表情の代羽。

 ああ、なんだ、帰って来てしまったんだ。

 

「はっきりしましたか、衛宮先輩」

 

 優しく微笑む代羽。

 その表情は、いつものそれだ。

 

「あ、ああ。すまない、ぼおっとしてた」

 

 誤魔化しにもなっていない、そんな言い訳。

 

「いえ、謝るのは私のほうです。調子に乗りすぎました。申し訳ありません」

 

 そう言って彼女は頭を下げた。

 それなりに付き合いは長い方だが、こんなに殊勝な代羽は初めてだ。

 俺は少し調子に乗って、彼女に質問してみる。

 

「そういう代羽の夢は何なんだ?」

 

 彼女は呆気にとられたような表情をしたあと、少し俯きながらこう言った。

 

「笑わないって約束してくれますか?」

「無責任な約束はしたくないんだ」

 

 そう言うと、彼女は赤く頬を染めて不機嫌な顔をしたが、それでもこう答えてくれた。

 

「私の夢は、愛しい人と、手を繋いで歩くことです。

 皆に祝福され、高らかになる鐘の音の下、指輪を交換する。互いを慈しみ、支えあい、子を成し、育て、そして緩やかに、共に老いていく。それが私の夢」

 

 意外だった。

 彼女の夢は、もっと想像を絶するようなものではないかと思っていたのだ。

 なんだ、代羽も女の子なんだな、そんなことを思った。

 だから、俺はこんなことを言ってしまった。

 

「ああ、きっと代羽なら、叶えることができるよ」

 

 そういうと、彼女は烟るような笑みを浮べてこう言った。

 

「ええ、お世辞でもありがとうございます。ほんとうに、うれしい」

 

 ――だから。

 ――その笑みを見てしまったから。

 ――俺は一生後悔することになってしまった。

 ――だって、彼女は知っていたんだ。

 ――自分の夢は、絶対に叶うはずがないことを。

 

「そろそろ部屋に戻ったほうがいい。なんだかんだ言っても病み上がりなんだから、無理をするとぶり返すぞ」

 

 俺がそう言うと、代羽はすくっと立ち上がった。

 

「ええ、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきませんものね。今宵はこれでお暇することにしましょう」

 

 解けきる寸前の氷のような薄い笑みを残して、代羽はそう言った。

 

「ちょっと待て、だから今のお前は――」

「一人で出歩くのは危険だ、そう言いたいのでしょう?」

 

 くるり、と体を一回転させて、楽しそうに彼女は笑う。

 

「なら、あなたが家まで送ってくださいな。これが私にできる最大限の譲歩で、あなたにできる最大限の譲歩です。そうでしょう?」

 

 

 雨によって洗われた、清廉な空気。

 閑静な夜にそれが加わって、大気はたいそう肌に優しい。

 僅かに湿ったアスファルトからは、不思議な郷愁を感じさせる独特の匂いを感じる。

 頼りない街灯の光と、雲間から時折のぞく月明かり。

 まだそれほど遅い時間ではないが、人の気配は途絶えている。

 無人の町は、どこか幻想的だった。

 俺の前を歩いている少女はセイバー。後輩を家まで送っていくくらい俺一人で十分、そう説得したが、彼女は頑としてそれを受け入れなかった。

 俺の隣を歩いている少女は代羽。彼女の服装は、相変わらずの真っ赤なハイネックと黒いミニスカート。凛から借りたそれらの上に、ぶかぶかのダークグリーンのコートを羽織っている。彼女にとって丈が長すぎるそれの裾は、ピンで止めているにもかかわらず地面とすれすれのところまで伸びている。

 

「悪いな、そんなものしかなくて」

 

 親父の遺品――というのも大袈裟な言い方だが――であるそれは長い間箪笥の奥に眠っていたので、防虫剤の匂いが完璧に染み付いてしまっている。その匂いに生前切嗣が好んでいた煙草の香りが混ざって、よくわからない不可思議な匂いを放つ物体と化してしまっているのだ。

 

「外套の本来の役割は冬の寒さを遮断すること。それ以上は望みません」

 

 何事にも簡素さを最重要視する彼女らしい意見だ。

 考えてみれば、代羽がアクセサリの類を身につけているところなんて見たこともないし、それ以外の小物、例えばハンカチや靴下、なんかもほとんど同じものしか持っていないらしい。

 以前、桜がそのことを注意したことがあった。桜自身、普段はアクセサリなんかはあまり好まないようだが、それでも代羽の無頓着ぶりには考えるところがあったのだろう。

 女の子なんだからおしゃれに気を使うのは義務である、そう主張する桜に、代羽はこともなげにこう答えたという。

 

「装飾品を付けたところで私の本質に変化があるわけではない。ならばそんなもの、選ぶのにかける時間が惜しい。ハンカチも同じこと。

 靴下は特に一種類がいい。全て同じものなら、片方なくしたときに替えがきくから」

 

 それを聞いた桜は流石に絶句したというが、俺は爆笑してしまった。

 なんというか、あまりに代羽に相応しい、そう思えたのだ。

 

「しかし、この外套、あなたのものにしてはサイズが大きすぎますね。一体誰のものなのですか?」

 

 代羽の質問に意識を引き戻される。

 ちらり、と彼女のほうを見ると、袖が長すぎるのか、手の先まですっぽりとコートで隠れてしまっている。まるで背伸びしたがる子供が父親の服を着たときみたいで、少し微笑ましい。

 

「ああ、それは親父が着ていたものなんだ。サイズが合わないから箪笥の奥に眠ってたんだけどな。やっぱり代羽には大きすぎるだろ、俺のと交換しよう」

「結構です。だいたい、その話は既に結論が出ているはずだ。もしあなたが父親の品を貸したくないというなら話は別ですが、そうでなければ私は満足です」

 

 彼女は相変わらず視線を前に固定させたまま、嬉しそうに笑った。

 そう、彼女は尖った台詞を吐くときは必ず優しく微笑むのだ。だから本来であれば毒に満ちた言葉も、僅かなりとも中和され、優しく耳に響く。

 彼女は続ける。

 

「そういえば、お父様というと、先ほど先輩が話してくれた……」

「あ、ああ、そうだ。よく憶えてたな」

 

 頭の中で先ほどの会話が再生される。

 考えてみれば、俺はとんでもなく恥ずかしいことをしゃべっていたのではないか。もちろん、俺が目指しているものが間違っているとは思わないし、それが恥ずかしいものだなんて微塵も思わない。しかし、そういったことは本来胸の奥に秘めておくものであって、あのように痛みと共に吐き出すものではないはずだ。

 羞恥に頬が熱くなる。しかし、代羽はそんな俺に気付かぬ素振りでこう言った。

 

「……先輩、先輩はその方に引き取られて幸せでしたか」

 

 ――その、質問は。

 

「代、羽、お前、何を……」

 

 黒い神父。それとの問答が思い出される。

 

「すみません、妙なことを聞きました。忘れてください」

 

 いつの間にか俺達は彼女の家の前まで来ていた。

 

「ありがとうございました、先輩、セイバーさん。

 本当は少し心細かったので、とても嬉しかった。このお返しは近いうちに必ず」

「そんなのいらないよ、じゃあまた明日、学校で」

「ええ、おやすみなさい」

 

 そう言って彼女は門の中に姿を消した。

 彼女の背中が屋敷の中に消えていくのを見届けてから、俺はセイバーに声をかけた。

 

「帰ろうか」

「ええ、そうしましょう」

 

 闇夜の中でなお輝く微笑みを浮かべた彼女が応じる。

 その時、屋敷の明かりがひとつ灯った。

 今までの明かりと合わせて二つ。

 ああ、慎二と代羽はこんなに大きい屋敷でたった二人なんだな。

 そう思うと、自分がいかに恵まれすぎているのかがよく分かる。

 何かを振り払うかのように踵を返す。

 

「行こう」

 

 夜のしじまには、いかなる音も響かなかった。



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episode10 不可思議

 

 その服はなんだ、と兄が言った。

 胸に十字のデザインの入った、真っ赤なハイネック。黒いミニスカート。

 明らかに私の服ではない。

 これは、遠坂先輩にお借りしたものです。

 そういうと、兄の顔が忌々しそうに歪んだ。

 そして、その表情が歪んだ笑いにかわり、兄はこう言った。

 後で僕の部屋に来い。もちろん、その服を着たままでだ。

 彼は私を犯すのだろう。

 それはいつものこと。

 別段、苦しくはない。

 でも、遠坂先輩に借りた服が汚されるのはつらい。

 明日、謝らないと。

 

episode10 不可思議

 土蔵の床、コンクリートの冷たい地面に腰を下ろし、胡坐を組む。

 手のひらを上に向け、指を絡ませる。

 結跏趺坐。

 精神統一のための行。

 息を吸う。吐く。

 意識をそれに集中する。

 だんだんと雑念が消えていく。

 世界が、俺に向かって閉じていく、そんな感覚。

 イメージはコヨリ。

 紙をねじり、先を固く、細くしていく。

 どこまでも、どこまでも……。

 ――さぁ、今日も始めようか。

 

「まだそんな無駄なことをしているのか」

 

 呆れたような声が、俺を世界に連れ戻す。

 

「――アーチャーか、こんな時間にどうしたんだ」

 

 俺は声の主に問いかけた。

 

「凛から聞いたはずだな、今まで貴様が行ってきた修行は無意味。貴様の努力は、苦痛は、何の実も成さなかったと」

 

 俺の問いかけには答えず、心底苛ついたような顔でそう言うアーチャー。

 

「なのに、何故続ける。貴様は被虐性愛症か」

 

 俺は一瞬ぽかんとしてしまったが、アーチャーの真剣な顔に吹きだした。

 

「……何がおかしい」

 

 気分を害した彼の声。

 それでも俺は笑ってしまった。

 

「あんた、意外と優しいんだな」

「はっ?」

 

 今度ぽかんとしたのはアーチャー。

 

「だって、わざわざ忠告しに来てくれたんだろう?」

 

 そう、冷たい奴は、いつだって無関心だ。

 ある偉人はこう言った。

 愛の対義語は憎しみではない、無関心であると。

 俺は全面的にその意見に賛成だ。憎しみから生まれるものもある。しかし、無関心からは何も生まれない。それに比べれば、棘のあるアーチャーの言葉もはるかに生産的だ。

 

「……貴様が何を言いたいのかはしらん、しかし覚えておくがいい。

 我らはたった一つの景品を求めて殺しあう仇同士だ。いらぬ情は身を滅ぼすぞ」

 

 なんとなくわかった。きっとこいつはいい奴だ。突き放すような、拾い上げるような感じが、どことなく凛に似ている。なるほど、確かにサーヴァントとマスターは似たもの同士になるようだ。

 依然、苦虫を噛み潰したような表情のアーチャー。

 

「ふん、貴様がくだらんことを吐かすから、本来の目的を忘れるところだった」

「本来の目的?」

 

 鸚鵡返しに問い返す。

 

「貴様が私達のボトルネックになっているのは自覚しているか?」

 

 ……そんなこと、言われるまでもない。

 サーヴァントは言うに及ばず、マスターの中でも俺の実力はダントツに低い。少なくとも、凛や桜には遠く及ばないだろう。

 

「貴様が己の未熟ゆえに死ぬのは勝手だが、一緒にセイバーまで消えられては我らの戦力の低下は避けられん」

 

 聖杯戦争における定石の戦術。サーヴァントでなく、マスターを狙う。

 その戦術を選択された場合、狙われるのはまず間違いなく俺であり、生き残る確率は限りなく低いだろう。

 

「さらに言うなら、万が一貴様が生きたまま敵の虜囚にでもなれば、凛にまで害が及ぶ可能性すらある。あれは、口でいうより甘い人間だ」

 

 自分が役立たずで、みんなの弱点になっている。

 それらは一応自覚していることではあるが、歯に衣着せぬ言い方で指摘されると、流石にカチンとくる。

 

「何が言いたいんだ?」

 

 俺がそう言うと、アーチャーは皮肉げに唇を歪ませた。

 

「なに、どうということはない。貴様を鍛えてやろうというのだ。今の貴様は只の塵芥だが、上手くいけば猫の手くらいにはなろう」

 

 アーチャーの言葉は、俺の想像の範疇から外れたものだった。

 

「……最後は敵同士だ、そう言ったのはあんただったと思うけど」

 

 その言葉に、やはりアーチャーは冷笑を浮かべた。

 

「はっ、今から鍛えたところで貴様が私や凛の敵と成りうるとでも考えているのか?だとしたら思い上がりも甚だしいな」

 

 ……悔しいけど、何の反論も思い浮かばない。

 

「そもそも、そんな先の話をする余裕が貴様にあると思っているのか?

 挑む逃げるは貴様の自由だが、私の課す修練はそれなりに厳しいぞ。少なくとも、今まで貴様が己に課した修行が児戯と思えるほどにはな」

 

 試すような視線で俺を射抜くアーチャー。

 挑むか逃げるか。

 前に進むか、後ろに退くか。

 そんなの、答えは決まってる。だって、俺の目標は定まっているんだから。

 

「強くなれるなら、そんなの大歓迎だ。是非頼む、アーチャー」

 

 そう言って、俺は右手を差し出した。

 アーチャーは、無言で俺の手を握った。

 背筋の凍るような視線。

 そして、言った。

 

「のた打ち回れ、衛宮 士郎」

 

 その瞬間、天と地が逆転した。

 何かが、アーチャーの掌から流れ込んでくる。

 それは、とても、とても、乾いていた。

 体が内側から裏返っていくような錯覚。

 皮膚が、肉が、骨が、内臓が、くるり、と反転する。

 それは、錯覚と分かっているのに、妙にリアルな感触で俺を襲った。

 頭の中を、意味不明なノイズが埋め尽す。

 

 あ、あ、あ――――……。

 

 駄目だ、俺が消える、押し潰される、縮小していく。

 

 ― 体は剣で ―

 

 流れ込んでくる、知らない誰かの人生。

 

 ― 契約しよう ―

 

 俺じゃない誰かの記録、それが俺の記憶を蹂躪する。

 

 ― シロウ、あなたを ―

 

 それは、とても寂しい記録。

 

 前方は遥かな荒野。

 隣には誰もいない。

 着いて来るのは己の影のみ。

 只ひたすらに、荒地に水を撒く。

 昨日までの自分を否定しないために。

 明日の誰かが笑っているように。

 でも、結局、理想の種子は芽吹くことはなかった。

 当然、彼は朽ち果てた。

 そこに、笑顔は、なかった。

 最後に、傍らには、剣があった。

 剣だけが、あった。

 そして、そいつ自身も剣だった。

 とても、強かった。

 固く、鋭く、しかししなやかで、折れず、曲がらない。

 だから、誰にも分からなかった。

 自分にすら理解されなかった。

 本当は、その芯鉄は、硝子のように繊細だということを。

 

 彼は救った。

 救って救って救って。

 

 彼は助けた。

 助けて助けて助けて。

 

 彼は裏切られた。

 裏切られて裏切られて裏切られて。

 

 彼は傷ついた。

 傷ついて傷ついて傷ついて。

 

 それでも。

 それでもそれでもそれでも。

 

 それでも。

 

 生命の存在を許さぬ荒野。

 風が吹き荒び、一滴の潤いもこの世界には存在し得ない。

 しかし、その男は傲然と顔をあげ、胸を張って、一人歩く。

 付き従える、剣の群れ。

 その背中は言っていた。

 

 ついて、来れるか。

 

 ああ、俺にできるのか。

 俺は、彼になることができるのか――。

 

 

「アーチャー、あんた何をしたの」

 

 名は体を表す、とはよくいう諺だが、彼女の声は、その名に正に相応しかった。

 凛とした声が、夜のしじまを破る。

 いや、それは正確ではない。

 静寂などとうに破られている。

 その元凶は、彼女の従者が背後にした土蔵の扉の奥。

 そこから耐え間ない苦悶の声が聞こえる。

 

「どうということはない。愚か者に軽い喝を与えただけだ」

 

 周囲に響く叫び声は、彼の言葉を否定している。

 

「アーチャー、あなた――」

「アーチャー、貴様、シロウに何をした!」

 

 今も土蔵で苦しむ少年の従者が、風の鞘を纏った聖剣を携え現れた。

 

「ああ、セイバー、何をそんなに慌てているのだ?我らは所詮現世の客人に過ぎん。ならば。この世にそれほど急くことなどないだろうに」

 

 あくまで余裕を保った彼の声。それは剣の逆鱗を逆撫でした。

 

「やはり裏切ったか、アーチャー!そのよく動く舌、切り取って野犬に食わせてやろう!」 

 

 本日三回目の激発。

 三度目の正直という諺が正しければ、今度こそ破局は避けられぬ。

 剣士は、槍兵も恥じ入るような激烈な速度で弓兵の間合いに飛び込み、横薙ぎに剣を振るう。

 狙いは首筋。

 きっと、弓兵は己の死すら認識しえぬまま、退場を余儀なくされる。

 だがしかし、今回適用されたのは、二度あることは三度あるという、正反対の意味を持つ諺だった。

 理知的な彼女を激発させたのが弓兵の言葉なら、それを止めたのもまた、彼の言葉だった。

 

「奴が、自分で望んだのだ」

 

 剣が、まさに赤い弓兵の首を断たんとしたとき、絶体絶命のはずの彼は、それでも落ち着いた声で話した。

 剣は弓兵の首の薄皮を一枚破ったところで止まっていた。

 

「…なんだと」

 

 そう問う剣士に、弓兵は再び言った。

 

「奴が自分自身で望んだのだ。君はそれを否定するのかね?」

「世迷言を…」

「そう思うなら、その剣を振り抜くがいい。君にとって今の私を屠ることなど造作もあるまい?」

 

 怒りに満ちた顔、それでも彼女が動かないのは、目の前の男の言に虚がないことを理解してしまっているからだ。

 

「振りぬかないのか?ならばその剣は収めたまえ。そして、あの小僧の下へ行ってやれ。君と奴には不思議な縁がある。もしかすると、奴が生き残る可能性も少しは上がるかも知れん」

 

 彼女は悔しそうに剣を引くと、駆け足で自らの主の下へ向かった。

 

「……どうした、何か言いたそうだな、凛」

 

 弓兵は己の主人に問いかけた。

 剣士は立ち去り、どうやら峠を越したのか土蔵から聞こえるうめき声も収まった。

 静穏が、再び夜を支配する。

 残されたのは二人。

 赤の魔術師と、同じく赤の弓兵。

 

「……別に。あなたのしたことは間違いじゃないと思う。あいつには最低限の実力はつけてもらわないと、こっちまで累が及びかねない」

 

 肯定の言葉。

 しかし、彼女の表情はその言葉に反していた。

 

「ただ、ちょっと意外だったわ。あなた、士郎を嫌ってると思ってたから」

 

 主の言葉に、従者は憮然とした表情を浮かべる。

 

「ふん、どうせ君も似たようなことを考えていたのだろう?こんな瑣末ごとにマスターの手を煩わせることも無い、そう思っただけだ。

 それに、あの小僧がどれほどの力を身につけようと、君にとって物の数ではあるまい。

 その気になればいつでも殺せる」

 

 その言葉に、彼女は苦笑で返した。

 

「ええ、その通り。確かに手間は省けたし、余分な宝石も使わずに済んだわ。でも、これからは事前にひとこと相談しなさい」

 

 そう言って、彼女は割り当てられた自分の寝室に向かった。

 一人残された弓兵は、表情を消して、月のない夜空を見上げた。

 

「そう、いつでも殺せる。さっきも殺せた。……殺せたのだ」

 

 その時、少しだけ風が吹いた。

 雲が千切れとび、一瞬だけ月が顔を出す。

 弓兵は、射抜くようにそれを見つめ、やがてその姿を虚空に消した。



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episode11 閑話自転

『子供の頃私は』とても幸せだったらしい。

『私はよく人から』多くのものを奪う。

『私の暮らし』は地下で過ごすことが多い。

『私の失敗』はあの時死ななかったこと。

『家の人は私を』必要としてくれる。

『死』という言葉は私に無関係だ。

『私の出来ないこと』を彼がしてくれる。

『私が心引かれるのは』私の存在しない世界である。

『私が思い出すのは』赤い空と黒い泥。

『私を不安にさせるのは』眠る前の静寂と眠った後の喧騒。

『自殺』は不可能だ。

『私が好きなのは』勧善懲悪の物語だ。

『罪』には相応の罰が必要である。

『大部分の時間』を無為に過ごしてしまった。

『私が忘れられないのは』空虚な掌の感触だ。

 

episode11 閑話自転

 

 まず不思議に思ったのは、自分が何か柔らかいものの上で寝ていること。

 昨日は確か土蔵で修行をしていたはずだ。

 だが、修行を始めた記憶はあるが終了した記憶がない。つまり、何らかの原因で失敗したのだろう。そして、死にかけて意識を失った。そんなこと、日常茶飯事だった。

 しかし、そう考えると妙なのだ。

 背中に感じる地面の感触が、不思議なほどに柔らかい。

 どうやら、俺は布団の上に寝ているようだ。

 これはどうしたことだろう。

 ひょっとすると、桜が俺を運んでくれたのか。

 そんなことを考えながら目を開けると、そこには朝日に煌く金砂の髪があった。

 

「起きましたか、シロウ」

 

 見上げる俺。

 覗き込む彼女。

 太陽の光に照らされた彼女の瞳は、世界中のどんな宝石なんかよりも美しく見えた。

 混乱した俺は、とりあえずお決まりの挨拶で返す。

 

「……おはよう、セイバー」

 

 俺がそう言うと、彼女は優しく微笑んでくれた。

 

「おはようございます」

 

 ああ、今日もいい一日でありますように。

 

 

「驚いた、もう動けるんだ」

 

 聞きようによってはひどく酷薄にも聞こえる姉の言葉。

 しかし、姉や私も、スイッチを作った次の日は満足に動けなかった。

 それを考えれば、少し前まで素人同然だったのに、スイッチを作った昨日の今日でけろりとしている先輩はすごいと思う。

 食卓を彩る数々の料理。

 先輩と私の合作のそれらは、小鉢に盛られた浅漬けにいたるまでが珠玉の自信作だ。

 衛宮家の居間を支配する巨大な机。

 そこに座るのは、昨日よりもさらに多い7人。

 

「へえ、アーチャーさんはセイバーちゃんのお兄さんで、キャスターさんはお姉さんなんだ」

 

 もぐもぐ。

 

「ええ、旅券の予約ミスがありまして妹だけが先にお邪魔することになってしまいました。ご迷惑をおかけしてすみません」

 

 かちゃかちゃ。

 

「結局、あなた達と切嗣さんってどういう関係だったの?」

 

 こりこり。

 

「我々は戦災孤児です。親と家を失い、路頭に迷っていたとき、切嗣氏に拾われました。今我々が生きているのは偏に彼のおかげなのです」

「桜、おかわりをお願いします」

「あ、はい」

 

 ぺたぺた。

 

「はい、セイバーさん」

「ありがとう。感謝を」

「ふうん、切嗣さんって世界中を回ってそんなことばかりしてたんだ。何か正義の味方みたいだね」

「少なくとも我々にとっての彼はそうでした」

「桜、ごめん、お茶をくれないか」

「あ、はい!」

 

 とぽとぽ。

 

「どうぞ、先輩」

「ありがとう」

「それにしても変わった名前よね、アーチャーさんにセイバーちゃん、キャスターさんか。なんか意味でもあるの?」

「そういう風習のある地域で生まれたのです。古い記憶なので定かではありませんが、確か魔よけの意味が込められているとか何とか」

「ごちそうさま」

「あれ、凛、もういいのか?」

「私、もともと朝は食べないほうだから。十分に満足よ。ちょっと部屋で準備することがあるから、失礼だけどお先に」

「そっか。ではお粗末様でした」

 

 すーっ、すーっ、ぱたん。

 

「ひょっとしてアーチャーさんって弓が上手いの?」

「はっ?」

「だって、セイバーちゃん、とっても剣道が強いのよう。士郎、私が鍛えてるから結構な腕前のはずなのに、せいばーちゃんにかかったらずたずたなんだもん。

 だったらアーチャーさんも弓が上手いのかなって」

「まあ、こんな名前ですから、弓に興味を引かれた時期もありました。でも、私の弓は戦いのための弓なので、あなたの言う弓とよべるかどうか」

「ねえねえ、アーチャーさん、今日暇?」

「はぁ、まあ、特に予定は入っていませんが」

「なら、放課後にウチの学校に来ない?外国の人から見れば結構珍しいものだと思うし、できれば弓道とは違う弓を部の皆に見せてあげたいの」

「いや、それは」

「いいじゃない、減るもんじゃなし。それに、あなた達はこの家に間借りしてるんだから、少しくらいは家主のお願いを聞いてくれてもいいと思うなあ」

「藤ねえ、家主は俺」

「ごちそうさまでした、シロウ、桜。昨日もそうでしたが、あなた達の料理は非常に好ましい」

「ええ、そうね。食事がここまでの娯楽だと思ったのは初めてよ」

「ありがとう、セイバー、キャスター。そこまで言ってくれると料理人冥利につきるよ。

 あ、そうだ、ちょっと珍しいお茶請けがあるんだけど、食べるか?」

「是非!」

「私は遠慮しておくわ。いくら美味しいものでも、さすがにお腹いっぱい」

「そっか、ちょっと待ってくれ、セイバー。ちゃっちゃと片付けちゃうから。藤ねえ、もう片付けちゃうぞ」

「先輩、私も手伝います」

「ああ、ありがとう、桜」

 

 かちゃかちゃ。

 

「……約束はできませんが、考えておきましょう」

「やったー、これで今日は楽ができるぞぅ!溜まりに溜まった書類仕事め、今日こそ成敗してくれるから覚悟はいいか?俺はできてる!」

「……藤ねえ、まさか部外者に指導をまかせるつもりか?」

 

 ふきふき。

 

「はい、これがサーダアンダギー、沖縄ってところのお菓子なんだ」

「ほうほう、これは変わったかたちですね」

 

 ぱくぱく。

 

「どうだ、美味しいか、セイバー」

 

 こくこく。

 

「それはよかった。どうだ、桜も」

「えっ!い、いえ、私は遠慮しておきます」

「?、そっか、じゃあ俺がもらうよ」

「ぅー、ど、どうぞ」

「じゃあ、四時に学校の弓道場で待ってるからね!」

「いや、行くと決めたわけではないのだが……」

「おいしそうね、せっかくだから、私もいただくわ」

「ああ、どうぞ、キャスター」

「……くすん」

「うん、なかなか美味い。お茶ともよく合う」

「ほんと、この時代の食べ物はどれも美味しいわね」

 

 ずずーっ。

 

「ああ、堪能しました、シロウ」

「ご馳走様、坊や」

「お粗末様。さあ、俺達も準備しようか、桜。ところで藤ねえ、時間は大丈夫か?」

「えっ?あっ、もうこんな時間?」

「いい加減、遅刻はやめてくれ。もう立派な社会人なんだから」

「そんなことしませんよーだ、私のドライビングテクニックなら、ドアトゥドアで、十分もあれば十分よ!……そういえば、士郎、私のご飯は?」

「はっ?いつまでも話し込んでたからもう片付けちゃったぞ」

「えっ、だって私まだ食べてないよ?」

「片付けるぞ、って言ったぞ、ちゃんと。それに今から食べてたらほんとに遅刻するぞ」

 

 ふるふる。

 

「うえーーーん、私のご飯がーーーーー!」

 

 

「……ねえ、士郎。あなた、何者?」

 

 朝食の時の雰囲気とはうってかわって、真剣な、というよりも物々しい雰囲気を纏った姉の言葉。

 

「確かにスイッチができてる。それはいいわ。でも、この魔術回路の数は何?」

「え?俺の魔術回路なんて、精々一本か二本だけだろ?」

 

 のんびりとした先輩の声。

 

「そうね、昨日まではそうだったわ。でも、今ちゃんと調べてみたら合計27本も魔術回路が存在してる。正常に起動してるのは数本みたいだけどね」

「27?」

 

 27本の魔術回路。

 その数自体は特に異常というものではない。自慢するわけではないが、私も姉もそれ以上の数の魔術回路を備えている。

 しかし、それは魔術師の、200年以上もその時間を魔道に捧げた一族の後継者だからいえることで、何の歴史も持たない家系の人間がそれだけの数の魔術回路を持つのはめったにあることではない。

 

「ひょっとして、あなた魔術師の血筋なんじゃないの?」

 

 先輩の過去を少しでも知っている人間なら、なかなか訊きにくい質問をずばずばしていく。きっと、これは信頼の表れなんだろう。

 

「いや、衛宮の字をもらうまでの記憶がないからそこらへんは全くわからない。ごめん」

「謝る必要はないわ。でも、本当に何も憶えていないの?もし、苗字だけでも覚えてたらかなりの手掛りになるんだけど」

 

 もし、先輩が魔術師の家系の生まれで、その家系の特性が分かれば、今後の修行をしていくうえで大きな指針になる。今までの歪な修行の遅れを取り戻すためにも、最短のルートを見つけておきたい。

 

「いや、本当、何もかも忘れたんだ。多分、これから思い出すこともないと思うよ」

 

 そうだ、先輩はあの火事で何もかも失ったのだ。

 家も、家族も、姓も、そして名前すらも。

 

「だから、今覚えているのは、本当に断片的な映像だけなんだ。建物が燃えてるところとか、人が焼け焦げていくところとか、髪の毛が燃えてる子供とか、爺さんの笑顔とか……」

「先輩、もうやめて下さいっ!」

「……!ごめんなさい、士郎、もういいわ」

 

 遠い目をして、崩れ落ちそうなほど儚い笑顔を浮べる先輩が、たまらなく痛々しくて、思わず声を荒げてしまった。

 やはり、先輩は前回の聖杯戦争が起こした惨劇を乗り越えることができないでいる。

 そして、その惨劇を引き起こした参加者のうちの一人は、私の父だった男だ。

 ひょっとしたら、私にはこの家にいる資格なんてないのかも知れない。

 

「……とりあえず、魔術回路の数は増えた。魔力の精製量もかなり上がったわ。すくなくとも戦力的にはかなり向上してる。これは望ましいことね」

 

 場を取り繕うかのように結論を述べる姉。

 私にはその強さがない。

 

「あとは、あんたの性質にあった魔術を見つけて、それを伸ばしていくだけ。簡単な検査なら今でもできるから、ちゃっちゃとやっちゃいましょう!」

 

 

「うーん、とりあえず五大元素でもなければ虚数属性でもないか…、ということはかなり偏った魔術属性の可能性が高いわね。

 となると、今ここにある計測具じゃあちょっと荷が重いわ」

 

 首を捻りながら額に手を当てる凛。

 

「先輩、先輩って何か酷く興味を引かれる対象とかってないですか?街中で見かけて思わず足が止まってしまうものとか、知らず知らず目がいってしまうものとか」

 

 思わず足が止まるもの……特売とかセールとかの文字には弱いけど、そんな魔術属性は流石に無いよなあ。あっても嫌だし。

 

「そうだなぁ、これといって思いつくものは無いぞ」

 

 ていうか、普通の人間にそこまで興味のあることなんて、ないと思う。

 

「まっ、今のところはこんなもんでしょう。後は学校から帰ってきてからでも十分間に合うわ」

 

 そう、今日は学校に行かねばならない。

 そして、俺は友人を一人失う事になるかも知れないのだ。

 

 

 学校は無事に終わった。

 疲れた顔の生徒や、どこか無気力な教師達、普段なら起こるはずもないような小競り合いなど、幾つか日常とは言いがたい光景も見られたが、それでも平穏無事といって良いだろう。

 だから、俺には理解できない。

 なんで、俺達が進んで非日常を作り出さなけりゃいけないんだ?

 

「皆、紹介するわよ、こちらがアーチャーさん、セイバーさん。二人ともすっごく強いんだから!」

 

 ああ、弓道場に響く相も変わらず元気な藤ねえの声が、今は少しだけ恨めしい。

 

 

「セイバー達を学校に連れて行く?何でだ?」

 

 突然の凛の提案に、当然ながら俺は驚いた。

 霊体化して連れて行くというなら俺も驚かない。むしろそれは当然だ。

 しかし、今回凛が提案したのは実体化したアーチャーとセイバーを学校に連れて行くというものだった。

 

「慎二が結界を張ったかどうかは置いておくにしても、あいつがマスターなのは間違いない。なら、不用意に警戒されちまうんじゃないのか?」

 

 俺がそう言うと、凛は真剣な顔でこう言った。

 

「その質問の答えは保留。

 逆に聞くわ。ねえ、士郎。今の私達にとって考えられうる最悪は何?」

 

 突然の質問。

 考えられうる最悪。それは。

 

「もちろん、結界が発動しちまうことだ」

 

 あの紅い結界。人を喰らい、その魂を啜る外道の囲い。

 

「ええ、それはそうね。でも、それだけならまだ対処のしようがある。今の段階で結界が発動したとしてもおそらく人死はでない。もちろん、すぐに術者を倒せれば、の話だけど」

「じゃあ、凛の考える最悪の事態ってなんだ?」

 

 やはり真剣な顔のまま、凛は話す。

 

「結界が完成してから発動すること。

 こうなってしまうと術者を倒すとかそういう話ではなくなってしまう。結界の発動と同時に、中に存在する人間のほとんどが溶解、吸収される。そうなってしまえば手の打ちようがない」

 

 それは、あの地獄の再現。

 

「学校っていう限られた空間で、何百という一般人が同時に失踪、あるいは死亡となれば、如何なる手段を用いても事実の隠蔽は不可能でしょうね。前回みたいに火事っていうことでごまかそうとしても今回は無理。仮に爆弾テロか何かに見せかけても、死体の一部も残らないんだもの、絶対にとんでもない騒ぎになる。そうなれば当然こんな極東の小さな島国のイベントは中止、私と桜は管理者として相応の責任を取らされることになる」

「相応の責任?」

「管理者としての権限剥奪、財産没収、魔術協会からの永久追放くらいで済めば御の字でしょうね。

 おそらく、査問会にかけられて、死ぬまで幽閉させられるか外道な魔術の実験体にさせられるか、それくらいは覚悟しておかないと」

 

 そこまでのことなのか。

 いや、そこまでのことなのだ。

 あくまで親父から聞いた話だが、魔術協会というところの閉鎖体質は偏執的といってもいいほどらしい。さらに、オカルトはその性質上隠匿されることによってその力を維持できるのだから、その漏洩には考えられないほどの厳しい罰が待っているのだろう。

 

「あなたにとっても大切な友人、あるいは家族を失う事になる。どうかしら、これ以上の最悪はある?」

 

 確かに、それより悪い事態は考えにくい。いや、間違いなく最悪の事態だ。

 

「だから、あの結界が完成するまで慎二が家に隠れると、厄介この上ないの。魔術師の工房に攻め込むのは危険だし」

「でも、それとセイバー達を学校に連れて行くのと何の関係があるんだ?」

 

 普通なら、二体のサーヴァントが同盟を組んでることを知ったら、警戒して戦いを避けるようになる。そうすれば結局は本拠地で守りを固める慎二と戦う羽目になるのではないか。

 

「実はあなたには言わなかったけど、昨日あいつ私にも同盟を提案してきたの」

 

 はっ?

 それは初耳だ。

 

「『この学校にはキャスターがとんでもない結界を張っている。僕と一緒に魔女を倒そう』とか言ってた。あいつ、キャスターが桜のサーヴァントって知らないのね。口は災いのもとって、ああいうことをいうんだって実感したわ」

 

 凛はにやりと哂った。

 ああ、慎二。なんて運の無いやつ。

 

「とりあえず前向きに考えておくって言ったら、あいつ無茶苦茶嬉しそうな顔してたわ。どうやら、あいつまだ私に気があるみたいね」

 

 この上なく人の悪い笑みを浮べた凛。

 哀れ慎二、どうやらお前はこいつに惚れたときから避けられない運命を背負ってしまっていたようだ。

 

「で、もしあいつが私と士郎が同盟を結んで自分がハブられたことを知ったら、どう思うかしら?」

 

 どう思うか、か。

 慎二は妙にプライドの高いところがある。それに、一度思い込んでしまうと他の事に考えが行かない。

 あいつは、凛の思わせぶりな台詞に、同盟の締結は既定事項と考えてしまっているだろう。ひょっとしたら凛も自分のことを好いていてくれている、それくらいは考えているかもしれない。

 それが裏切られたら……。

 

「きっと、いや、ほぼ間違いなく激発するだろうな」

 

 これは間違いないだろう。仮に結界があいつの仕業じゃなかったとしても、これだけは間違いない。

 

「それが私の狙い。

 怒り狂ったあいつなら釣り上げるのはさして難しくないわ。適当な隙をこっちが見せてあげれば一も二もなく食いついてくる。

 万が一とち狂って結界を発動させたとしても、今の段階なら手の打ちようは幾らでもあるしね」

 

 ぼんやりと今朝のことを考えていた俺の意識を現実に引き戻したのは、男子のざわめきと、女子の黄色い歓声だ。

 

「なに、あの子、めちゃめちゃレベル高ぇ、クラスの女子なんかとは同じ人類とは思えねえ」

「セイバーちゃんだっけ?遠坂さんと並んでるとどこのアイドルグループだよ、って感じだな」

「ねえ、あのアーチャーっていう人、めちゃめちゃかっこよくない?」

「ちょっと困った感じなのがすごく可愛いね」

 

 これらはセイバーとアーチャーの外見を評する声。

 さもありなん、ごく少数を除けば、サーヴァントはいずれもがとんでもなく美形揃いだ。

 この場にはいないが、キャスターも俺が見てきたどんな女性よりも完成した色香を持っている。爪の垢を煎じて虎に飲ませてやりたいくらいだ。

 なおも鳴り止まぬ人の声。

 しかし、ここは本来は静寂をもって尊ばれる神聖な道場。

 いたずらに騒ぎ立てるのはいただけない。

 

「こら、なに騒いでるんだ!」

 

 これは現部長、美綴 綾子の声。

 根っからの武道の人である彼女にとって、この場に流れるたるんだ空気は到底我慢のできるものではなかったらしい。

 

「藤村先生もです、先生なら道場がどういう場所かわかっているはずでしょう!」

 

 彼女は、間違えていると思えば、それが教師相手であっても一歩も引かない。

 

「ごめんね、美綴さん、まさかここまでの騒ぎになるとは思ってなかったの。セイバーちゃん達、日本が初めてらしいから、日本文化に触れさせてあげようと思ったんだ」

 

 素直に謝る藤ねえ。

 自分が悪いと思えば、それを糾弾しているのが例え自分の生徒であっても素直に謝ることができるのは間違いなく彼女の美点の一つだろう。

 

「……そういうことでしたか、すみません、事情もわきまえず出すぎたことを言いました」

 

 深々と頭を下げる美綴。

 いつの間にか周囲の騒ぎも収まっていた。

 そんな中、アーチャーが一歩前に出てこう言った。

 

「すまない、我々も少し気を使うべきだった。静かにしておくから練習を見学させてもらえないだろうか」

 

 その言葉に美綴は、ぱっと頭を上げた。

 

「とんでもない、あんた達はちっとも悪くないよ。勝手に騒いだのはウチの馬鹿な部員どもだしね。ゆっくり見学していって頂戴」

 

 花の咲くような笑顔でそう言った彼女は、何故だかとても眩しかった。

 そして練習が始まった。

 弓道において、倒すべき敵は自分自身である。

 さっきの騒ぎに加わっていた部員達も、今は真剣な面持ちで自分と向かい合っている。

 この空間のどこにも、うわっついた雰囲気は残っていない。

 少し前までは自分もこの空気を形作る一員だった。それを自ら辞したことに後悔はないが、ほんの少しだけ寂寥感を憶えるのは否定できない。

 

「どうだい、久しぶりに弓を引きたくなってきたんじゃないか?」

 

 笑顔と共に、控えめな声で俺に話しかけてきたのは美綴。

 

「何度同じ事を言わせるんだ。俺は二度と弓を引かない、そう決めてるの」

 

 実は、一度くらい弓を引いてみよう、そういう気持ちが無いわけじゃない。

 でも、ここまでくるとこっちも意地だ。くだらないこととは分かってるけど、負けてやるわけにはいかないじゃないか。

 

「シロウ、あなたは弓が得意なのですか?」

 

 俺の隣に座っていたセイバーが尋ねる。

 

「ああ、セイバーさんは知らないんだ。凄いんだよ、こいつの弓は。まるで最初から的に当たるのが決まってたみたいに皆中するんだ。こいつが辞めてからだいぶ経つけど、代羽以外にこいつと張り合える技の持ち主はいないね」

 

 まるで自分の事のように自慢げに話す美綴。

 それを聞いたセイバーがさらに尋ねる。

 

「ほう、代羽も弓が達者なのですか」

 

 やはり笑顔で美綴は答える。

 

「ああ、こいつと代羽は桁違いだね。私や慎二、あとは桜くらいか、一応そこらの大会じゃ敵無しだと思ってるけど、それでもこいつと代羽には歯が立たない」

 

 美綴の表現は、俺については買いかぶり過ぎだ。実のところ、俺でも代羽には歯が立たない。確かに、俺も代羽もほとんど的を外したことは無い。しかし、そういう次元とは違うところで代羽には適わない。初めて彼女の射を見たとき俺はそう悟ってしまった。

 俺があっさりと弓を捨てた理由はそこにもある。だって、自分より才能のある奴がいるんだし、別に自分がいる必要はないだろう、そう思ったのだ。

 

「ああ、そういえばアーチャーさん、だっけ?あんたも弓が上手いのかい?もしよければ、どれほどのもんか見せてくれない?」

 

 藤ねえから話を聞いているのだろう、興味津々、といった感じで美綴が尋ねる。

 当の藤ねえはここにはいない。あの馬鹿、本当にふけやがった。

 

「まあ人よりは長ずるものを持っているとは思っているが、私の弓は邪道だ。とてもこういった場所で披露できるものではない」

 

 澄ました顔で答えるアーチャー。

 こんな台詞、こいつ以外が言ったら鼻で笑ってやるのだが、弓の英霊たるアーチャーが言うと一言も返すことができない。

 しかし、そんなことは全く知らない美綴は何の臆面もなく言い放つ。

 

「へえ、できる人は言うことが違うねえ。

 でも、その割には小さいことを気にするんだね。弓道に邪道なんかないよ。だいたい、今の弓道が形になったのだって昭和に入ってからなんだから、そこら辺は気にすることなんかないって。

 それに、いつもと違ったものを見るのもいい稽古になるからさ」

 

 ふむ、そう言って考え込むアーチャー。

 確かに美綴の言うとおりかもしれない。弓道が武道として成立し、正式に認知され始めたのは明治になったからだというし、今でもその射形には流行り廃りが激しい。

 ならば、自分達が行う射と違う射があることを知るのも一つの稽古にはなるのだろう。

 

「仕方ない、一度だけだ」

 

 そう言って腰を上げたアーチャー。

 ゆっくりと射場に入っていく。

 いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、射場で練習していた部員達は静かに弓を納めた。

 

「ああ、誰か弓を貸してくれないか?」

 

 アーチャーが部員に話しかけるが、すぐには手が上がらなかった。

 

「私の弓でよければ」

 

 その言葉と共に一歩前に出たのは、珍しく練習に出ていた代羽だった。

 彼女は、朝錬はもちろんのこと、放課後の練習にもほとんど顔を出すことがないらしい。

 いわゆる幽霊部員だ。

 しかし、その弓は他の誰よりも洗練されている。自然、部の中では浮いた存在になってしまっているようだ。練習はしないのに、技術は飛びぬけている。美綴や桜みたいなごく少数の例外を除いて、嫉妬しないほうがおかしい。

 アーチャーは差し出された弓を取った。

 

「ありがとう」

 

 そう言ったアーチャーの目に、一瞬だけ剣呑な色が湛えられた。

 

 

 あいつが射場に入っただけで、周囲の空気が変わった。

 ぴん、と張り詰めた。そんな言葉では到底表せないような空気。

 例えるなら、真剣の上に素足で乗ったような、身じろぎすら許されないような迫力。

 事実、部員の何人かは呼吸すら忘れてその姿に見入っている。

 静かに、静かに弓を構えるアーチャー。

 

 足踏み。

 胴造り。

 弓構え。

 打起し。

 引分け。

 会。

 離れ。

 残心。

 

 的など、見るまでも無い。

 あの射で当たらないなら、それは的がおかしいか、それとも世界がおかしい。

 ひりつくような空気の後に残されたのは完全な感動。

 自分達の目指す理想がここにあったのだ。求めて止まない完成形を見せ付けられたのだ。

 

「すごい……」

 

 そう呟いて固まってしまった美綴。

 あの野郎、どこが邪道だ。

 あれが邪道なら、世界中に存在する弓道全てが邪に堕するだろう。

 

「すまない、とんだお目汚しだ」

 

 照れたような笑みを浮べたアーチャー。

 にこやかな、その笑顔を見たときに、部員達の感情が爆発した。

 圧倒的な感動と、それに付随した虚脱に支配されていた感情が、行き着く先を見つけたのだ。

 ここに凄い男がいる。

 割れんばかりの歓声。

 そこには男も女も無い。

 ただただ、熱せられた感情だけがあった。

 

「凄いわね」

 

 ぼんやりと呟いたのは、俺の隣に座っていた凛。

 戦闘中ならば、アーチャーの弓技など見飽きるほど見ているであろう彼女も、射場での弓を見るのは初めてなのだろう。自らの従者の美技に酔いしれている。

 

「ああ、全くだ。こんな凄い射は初めて見た」

 

 かく言う俺も、あいつの射に完全に飲まれてしまっている。俺もそれなりの射手だとは思っているが、完全にレベルが違う。おそらくは俺より確実に上手い代羽のそれよりも、さらに遥か高みにいる。

 あたりを見回すと、我先にとアーチャーに指導を希望する部員達とは少し離れたところで、冷ややかにその様子を見つめる代羽がいた。

 彼女の口が呟くように動いた。そして、彼女は貸していた自分の弓を受け取ることもなく、袴姿のまま道場を立ち去った。

 代羽の声は、俺には聞こえなかった。

 ただ、凍えるような視線でアーチャーを眺めていたのが、記憶に焼きついた。

 

◇ 

 

「士郎、どうしたの?」

 

 弓道場の出口に目をやっていた士郎に声をかける。

 少し驚いたような表情で、士郎は視線を戻す。

 

「何でもないよ、凛――」

「おい、これは何の騒ぎだ?」

 

 熱気に満ちていた弓道場に、場違いな声が響く。

 声の主に名は間桐慎二。

 弓道部の副主将である。

 慎二は人垣の中心にいるアーチャーを胡散臭そうな目で見ると、こう言った。

 

「なんだ、あんたは?部外者が勝手に入っていいと思ってるのか?一体誰の許可を得てここにいるんだい?」

 

 周囲の狂熱が冷めていく。

 今、この空間においては自分こそが異物である、それを悟ったのか、彼は加速度的に不機嫌になっていった。

 

「悪いけど出て行ってくれないかな?生憎ここは部外者立ち入り禁止なんだよ」

 

 頬を微妙に震わせながら、慎二はそう言った。

 

「アーチャーさんは部外者じゃないぞ、衛宮の知り合いだ」

 

 アーチャーを庇うように言う綾子。

 

「はっ、衛宮の知り合い?衛宮はそもそも部外者なんだぜ?部外者の知り合いなんて、どこまでいっても部外者じゃないか……アーチャー?」

 

 今頃気付いたのか、この間抜けは。

 

「ええ、彼の名前はアーチャー。衛宮君の知り合いで、私の大切な友人よ」

「遠坂…なんで」

 

 呆気にとられたような表情の慎二。

 

「そして、この子が私の知り合いで、衛宮君の大切な友人のセイバー。仲良くしてあげてね」

 

 射竦めるようなセイバーの視線にたじろぐ慎二。

 一歩、二歩と後退りしながら、頬をひくつかせてこう言った。

 

「ああ、なるほど、そういうことか」

 

 私はその言葉に笑顔で応じる。

 

「ええ、そういうこと。名前を聞くまでこの二人のことに気付かない間抜けなんて、お呼びじゃないわ」

 

 あえてにこやかに、上品に、彼の自尊心を逆撫でするように。

 私の言葉は効果的だったようだ。彼の顔が赤くなたり青くなったり、まるで信号みたいだ。

 

「それにしても、選んだのが衛宮かよ。はっ、遠坂の趣味はずいぶん悪いんだな」

 

 彼に許された精一杯の抵抗。自尊心を守るためには、求めた対象を貶めるしかないのだろう。酸っぱい林檎というやつだ。

 

「そうかもしれないわね。でも、私としても最低限譲れないライン、ていうのはあるの。

 残念ね、間桐君。あなたはそのラインにも引っかからなかったわ」

 

 隣にいる士郎の手を取りながら私がそう言うと、怒りと屈辱に肩を震わした慎二は、踵を返しながらこう言った。

 

「後悔するなよ」

 

 内心、私はため息をついた。

 ねえ、慎二。別にあんたに多くを求めようとは思わないけど、捨て台詞くらい、もう少し独創性があっても良いんじゃない?

 

 

 日の傾きかけた放課後、道場を静かな空気が流れる。

 それは、アーチャーが神技を見せた後のような緊張に満ちたものではない。どちらかというならば、突然目の前で大事故が起きたときの目撃者とか、お笑い芸人が滑ったときの観客の雰囲気とか、そういったものに近い。

 隣には、俺の手を掴んだまま不敵な笑みを浮べた凛がいた。ああ、きっとこいつは自分が何をしたかちっともわかっちゃいない。

 

「どうしたの、士郎。鳩が豆鉄砲くらったような顔して」

 

 凛は不思議な顔で俺を見た。

 俺は空いているほうの手で顔を覆う。

 これから起きる事態を考えると頭が痛い。

 後ろを見ると、そこには唖然とした顔の部員達。

 その中でいち早く我を取り戻した女傑が、菩薩のような笑みを浮べた。

 美綴、先鋒はお前か。

 

「へぇえ、なるほどなるほど。お前ら、そういう仲だったんだ」

 

 心底嬉しそうなその声に、凛は不思議そうに問い返す。

 

「そういう仲?何のこと?」

 

 駄目だ、こいつまだ気付いてない。

 

「正直、衛宮を選ぶとは意外だったけど、慎二なんかよりはよっぽど芯が通ってるしね。うん、中々お似合いじゃないか、こりゃあ例の賭けは私の負けかな」

 

 美綴を見ていた凛の視線が、美綴から俺、俺から繋がれた二人の手、二人の手から中空へと移動して、そこで固定された。

 静かだった空気が、より静寂を帯びる。ただし、永久凍土の下にマグマが蓄積していくように、漲るパワーの存在を俺の第六感が感知した。

 さあ、カウントダウンを始めよう。用意はいいか?

 3,2,1――

 

「なんでよぉぉぉぉぉ!!」

 

 耳を劈く大音量。

 これがこの可憐な唇から放たれたものとは思えない。

 

「何で?何で私が士郎とそういう関係だと思われてるわけ?」

 

 慌てふためく凛。

 それを何か可愛いものでも見るかのように眺める美綴。

 

「さっきの会話聞いてたら誰だってそう思うさ。つまり、慎二を振って衛宮とくっついたんだろ?」

「違う!どこをどう聞いたらそういう会話に聞こえるのよ?」

 

 見てるこっちが恥ずかしくなるくらいに、顔を真っ赤にした凛が叫ぶ。どうやら分厚い猫の皮も、冬の空気に冬眠中らしい。

 

「ふうん、じゃあ衛宮と遠坂はそういう関係じゃないんだな?」

「当たり前でしょ!何で私が士郎なんかとくっつかなきゃいけないのよ!」

 

 ああ、哀れ凛、今の君では絶対に美綴には勝てない。

 

「へええ、じゃあその固く握られた手は何かな?」

「っ!」

「それに『士郎』か、知らない間にずいぶんと親密に呼ぶようになったんだねえ」

 

 にやにやと哂う美綴。

 真っ赤になって俯いて、プルプル震える凛。その手は相変わらず俺の手を握り締めたままだ。

 

「まあまあ、照れなさんな、もてない女のやっかみだよ。とりあえずおめでとう、お似合いだよ、あんた達」

 

 男前な台詞で上手に締めた美綴。

 それでも、凛の絶叫が道場にこだまする。

 

「ちっがあああああああうっ!!!!!!!!」

 

 

「酷い目にあった……」

「うう……今まで作り上げてきた私のイメージが……」

 

 とぼとぼと、帰り道を歩く。

 あの後はひどかった。

 男子からは本気の殺意を込めた視線と罵声を浴びせかけられるし、女子からは好奇と不可思議の綯交ぜになったような質問をぶつけられるし。

 隣では相変わらず完熟トマトみたいな顔色の凛と、生暖かい微笑を浮べた美綴が口論なのかじゃれ合いなのかよくわからない会話を繰り広げている。

 セイバーは腰に手をあてて、ため息一つ。

 アーチャーは眉を『ハ』の字型にして、冷笑を浮べる。

 このままここにいたら取り返しのつかない事態に陥る、そう考えた俺は、人垣を掻き分け、凛の腕を掴んで、ほうほうの体で道場から逃げ出したのだ。

 

「不甲斐ないな、衛宮士郎。あの程度の危地でうろたえてどうするか。

 凛も凛だ。あれくらいの事態で平常心を失ってはこの戦争、到底勝ち抜くことなどできないぞ」

 

 実体化したままのアーチャーが言う。

 

「面目ない……」

「ごめんなさい……」

 

 本来なら一言か二言くらい言い返してやるのだが、精神的な疲れからか、憎まれ口の一つも浮かばない。今日は疲れた。早く帰って夕食の支度でストレスを発散しよう。

 



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episode12 弱者蹂躙

『子供の頃私は』この質問には回答が用意できない。

『私はよく人から』化物と指をさされる。

『私の暮らし』には娯楽が欠如している。

『私の失敗』が彼女を壊した。

『家の人は私を』ある程度認めているようだ。

『死』にたくない。

『私の出来ないこと』がこの世には多すぎる。

『私が心引かれるのは』彼女の笑顔である。

『私が思い出すのは』初めて見た眩い光。

『私を不安にさせるのは』彼女の笑い声。

『自殺』願望。

『私が好きなのは』敵を許すことだ。

『罪』はあくまで認識の問題でしかない。

『大部分の時間』私は眠っている。

『私が忘れられないのは』みんなの味である。

 

 episode12 弱者蹂躙

 

 夕食は平穏に終わった。

 代羽は家に帰り、藤ねえは残業で遅くなるとのことだったので、今日は六人で食卓を囲んだ。相変わらずセイバーは美味しそうに全てのおかずを平らげ、アーチャーは皮肉交じりに料理の欠点を指摘し、キャスターは静かに箸を進めた。

 食事が終わり、食器の片づけが済むと、いつも通りの作戦会議が始まった。

 居間に漂う芳しい緑茶の香り、その中で凛がにこやかに口を開く。

 

「桜、準備はどう?」

「万端です、姉さん」

 

 にっこり笑った遠坂姉妹。全く事情を知らない他人が見れば、今度の休日の予定のための準備でも済ませたのか、そう思ってしまうような柔らかい笑顔だ。

 

「準備って何だ?」

 

 そういえば、今日は桜は学校を休んでいた。おそらく、その『準備』に関係するものなのだろう。

 

「はい、今後の戦いを有利に進めるための準備です」

 

 少し勿体付けたような喋り方。きっと何かとんでもないモノを準備をしてきたのだろう。

 

「一体何をしたんだ、桜」

「ええ、実は――」

「ちょっと待て、桜」

 

 突然会話に割り込んできたのはアーチャー。

 

「この男との同盟はあくまで期限付きのものだ。今後の戦いに関わる情報をわざわざ晒してやることもあるまい」

 

 むぅ。

 こいつ、とりあえず噛み付いてくるな。

 でも、まあ、それはもっともかもしれない。

 凛、桜との同盟はあくまで結界を張るサーヴァントを倒すまでの期限付きのもの。おそらくはそのサーヴァントとマスターが判明した今、同盟は終わりに近づいていると見るべきなのだろうか。

 

「アーチャー、あんたの言ってることは道理だけど、少なくとも現時点において彼は私達の同盟者よ。それに、今回桜に頼んでおいた準備は対慎二、ライダー用のもの。士郎に教えないわけにはいかないでしょ」

 

 アーチャーは納得しがたいような、それともこうなることを見越していたような、そんな表情で庭の方に視線をやった。

 それを合図にしたかのように、桜が話し始める。

 

「こほん、今回私とキャスターが準備したのは『門』です」

「門?門って何だ?」

 

 にこりと、まるで良く出来た手品の種明かしをするマジシャンのような表情の桜が話す。

 

「空間転移のための門です、先輩」

「空間転移!?それって魔法じゃないか!」

 

 魔法。

 全ての魔術師が求め、それでも選ばれた極々少数にしか許されない奇跡。

 現在、五つの魔法が存在するという話だが、その内容を知るものは少ない。

 当然、俺もその全てを知っているわけではない。しかし、純粋な空間転移が魔法の域にある業だというのは親父から聞いたことがある。

 

「へぇ、結構物知りなのね、坊や」

 

 淵の深い笑いを浮べたキャスター。

 親しみが込められているような、ただ単に馬鹿にされているかのような呼ばれかたにも、もう慣れた。

 

「純粋なそれは確かに魔法の域にあるとされるわね。

 でも、今回私達はわざわざ『門』を作った。そして、私に出来るのはその『門』と『門』を繋ぐだけ。

 確かに大魔術ではあるけど、とても魔法と呼べるものではないわ」

 

 ふむ、そんなものなのだろうか。

 純粋な空間転移とそうでない空間転移の違いがどこにあるのかはよく分からないが、とりあえずとんでもない仕掛けをしてきたんだということは分かった。

 

「一応この街の霊脈と呼べるところを中心に約20箇所。キャスターの作成した陣地、『神殿』である遠坂の敷地からなら、一瞬でそこまで移動することができます」

「何でそんなことを?」

 

 俺がそんな疑問を抱くのも当然だろう。

 逃走経路の確保だろうか。それとも奇襲のための布石か。いずれにせよ、何らかの意図があるはずだ。

 

「決まってるでしょ、これは魚を釣り上げるための仕掛け」

 

 不敵な笑みを浮かべた凛。

 

「ちなみに餌は私とあなた。覚悟は出来てる?私は済んだわ」

 

 

 静かな夜だ。

 冬木市で一番の賑わいを見せる歓楽街。コートの裾を風に遊ばせながら歩く。

 本当に静かだ。遠い昔に観た、時の止まった街を歩く、そんな映画のワンシーンを思い出す。

 普段なら仕事帰りのサラリーマンや、騒ぎたい盛りの学生で賑わうはずのこの通りも、不自然なほどの静寂を帯びている。聖杯戦争のことなんて露も知らない一般人も、ただならぬ雰囲気だけは本能で察知しているのだろうか。

 すれ違う頭の悪そうな少年達のグループが好色な視線をぶつけてくるが、一睨み効かせてやるとすごすごと道をあけた。

 衛宮邸を発ってから感じる何者かの視線はその気配をどんどん強めている。かなり高等な術式で編まれた使い魔によると思われるそれは、私に大漁の予感を抱かせるに十分だった。

 

「当然気付いていることと思うが、ずっと監視されているぞ」

 

 今は実体を持たない私の従者が背後から警鐘を鳴らす。

 

「当たり前でしょ。願ったりかなったり、渡りに船、鴨が葱しょってやってきた、ええと、ほかに何て言ったかしら」

 

 つまり、魚は餌に食いついたのだ。

 しかし、つくづく慎二は運が無い。

 私と士郎は二手に分かれて街を探索している。

 もし、彼が狙ったのが士郎の方ならば、少なくとも問答無用に殺されるということは無かったはずだ。何だかんだ言ってもあいつは甘ちゃんだ。説得くらいはしようとするだろうし、それは慎二の最後のチャンスにもなっただろう。

 しかし、慎二は私を狙った。

 私は士郎ほど穏やかじゃあない。

 士郎がなんと言っても、私は慎二を殺す。

 そこまで考えたとき、後ろから微かに笑い声が漏れた。

 

「ああ、やはり君には戦場がよく似合う。目前に迫った戦いを前に高揚する君ほど美しい『赤』を、寡聞にして私は知らない」

 

 聞きようによっては中々失礼な感想だが、私は好意的に解釈することにした。

 

「それは違うわ、アーチャー。私達の目の前にあるのは戦いじゃない。あるのは勝利、それだけ」

 

 策は練った。技は磨いた。力は満ちた。供は見つけた。

 さあ、どこに敗北の要素がある。

 来るなら来なさい、マキリ慎二。私があなたに最後の敗北を与えてあげるから。

 足の望むままに歩いていたら、いつの間にか冬木大橋の袂の海浜公園まで来てしまっていた。『門』からは少し離れている。一番近くにあるものでも、数分の距離はあるだろう。

 身を切るように冷たい海風が、火照った頬に心地よい。微かに感じる海の香りは遠い昔に遊んだ誰かを思い起こさせる。

 思わず苦笑してしまう。私はこんなに感傷的な人間だっただろうか。それとも、何時死んでもおかしくない、そんな戦場の空気が過去を美しく思わせるのか。

 なんとはなしに空を見上げた。月は出ていなかった。新月だったか、それとも雲が隠しているのか。

 その時、私の背後にあった木の影から、聞きなれた、しかし気に入らない声が聞こえた。

 

「やあ、遠坂、こんな時間に女の子が一人で出歩くなんて無用心だと思わないか。もしよければ家まで送っていこう」

 

 片頬を歪ませる独特の笑み。

 それを整った顔に貼り付けた少年が、木陰から姿を現した。

 

「遠慮しておくわ。どうせ送っていくのはあなたの家まででしょう?」

 

 その言葉にマキリ慎二は声を上げて笑った。

 

「ははっ、もし遠坂が望むならそうしてやってもいいぜ。何せ僕は寛大だからね、学校での非礼も許してあげるよ。どうせ衛宮に弱みでも握られてるんだろう?結界を張ったのだってあいつに決まってる。

 もう一度言うぞ、遠坂。もし君が学校の結界に心を痛めてるなら、僕と一緒に戦おう」

 

 右手を前に出しながらゆっくりと近づいてくる慎二。

 その笑顔には一点の曇りも無い。

 だから私は腹が立った。

 理由なんて無い。

 何となく、目の前の馬鹿を殴りたくなった。そして、私は実行力のあるほうだ。

 体の芯まで冷える、そんな夜空の下、高らかな音が響き渡る。

 響いた音はゴツッ、という、かなり固い物体同士が高速でぶつかったときに奏でる音。

 盛大に吹っ飛んだ慎二が、左頬に手を当てながらこっちを見る。唖然とした視線。何が起こったのかわからない、そんな感じ。倒れたままの姿勢といい、まるで突然夫に暴力を振るわれた女性みたいだ。

 人を思いっきり殴るのは久しぶり。思ったより気持ちいい。

 

「あら、御免なさい、間桐君。別にあなたが悪いわけじゃないわ。ただ、突然何かを殴りたくなっただけなの。

 でも、あなたは許してくれるわよね、だってあなたは寛大なんだもの」

 

 痛む右拳を軽く摩りながら、おそらくは最高の笑顔を浮べた私が言う。

 

「もしよろしければ右頬も殴らせてくれない?だって昔の偉い人も言ったでしょう?汝、右の頬をぶん殴られたら左の頬を差し出せって」

 

 空白だった彼の表情に色が生まれる。

 それは、怒りに震える、まるで泣き出す寸前の幼児みたいな表情。

 口元に血を滲ませた慎二が立ち上がる。

 

「ああ、そうかい、遠坂、これがお前の返事か。わかった、ならば僕も遠慮なんかしてやらない。半殺しにした後で、裸にひん剥いて僕の前にひれ伏させてやる!」

 

 彼は唾を吐きながら喚き散らす。この上なく滑稽だ。

 

「ああ、それがあなたの[地]なのね、間桐君。いいじゃない、普段の賺したあなたより遥かに素敵よ」

 

 意味の無い会話で慎二を挑発しながら、レイラインを通じて遠く離れた桜と連絡を取る。

 

『桜、聞こえる?』

『はい、姉さん』

 

 目の前の馬鹿が何かほざいているが、今の私の耳には入らない。

 

『馬鹿が釣れたわ。場所は深山町側の海浜公園。何分で来れる?』

『五分以内には』

『三分で来なさい。じゃないとあなたの活躍の場が無くなるわよ』

 

 そこまで伝えて私はラインを切った。

 これが、桜とキャスターにわざわざ門を作らせた理由だ。

 慎二を釣り上げること事態は難しくない。こちらがあからさまな隙を作ってやれば一も二も無く食いついてくる、それは分かっていた。更に言うなら、状況が一対一に限定されるならばどんなに不利な状況でも私には勝つ自信がある。

 しかし、もしも奴が他のマスターと手を組んでいたら?

 あの程度の器しかない凡百な男にまさか従う魔術師がいるとは思えないが、逆に慎二を傀儡にして漁夫の利を得ようとするマスターの存在は十分に注意する必要がある。まだ見ぬランサーとアサシンのマスター、それらの動向が掴めない以上、警戒するに越したことはない。

 だが、それに警戒してこちらも徒党を組むとなれば、今度は逆に猜疑心の強い慎二のこと、こちらの思惑通り餌に食いついてはくれなくなるだろう。

 こちらが隙を見せつつ、万が一、多対一の状況を作られたとしても互角以上の戦況を作り出す。そのためにはキャスターの大魔術が必要だった。士郎なんかは呆れながら『やりすぎだ』と呟いたが、小細工はこれくらい徹底するくらいでちょうどいいと思う。

 とはいうものの、どうやらそれらの作業は徒労に終わったらしい。

 アサシンのように隠密性の高いサーヴァントなら話は別になるが、今、この場に置いて慎二が引き連れるサーヴァント以外に強い魔力の気配は無い。つまり、状況は一対一。ならば私が遅れを取る道理は無い。

 

「しかし、僕の誘いを蹴って、手を結んだのが、まさか『あの』衛宮とはね。つくづく遠坂も見る目が無いね。あんなのただの社会不適合者じゃないか。学校であいつがなんて呼ばれてるか知ってるか?便利屋だぜ、便利屋。ははっ、まさにあいつにぴったりだ」

 

 気がついたら、慎二はまだ何か叫んでいた。

 目を見開いて歯を剥き出しにしたその表情は、怒り狂って檻を揺らす動物園の猿を思い起こさせる。

 

「だいたい最初から僕はあいつのことが気に入らなかったんだ。人から頼まれればどんな厄介ごとでもへらへら笑いながら引き受けて、なんの報酬も受け取らない。かと思えば自分はこの世の全ての不幸を背負ってます、みたいな訳知り顔をしちゃってさ。ふん、あの偽善者面には反吐が出るね」

 

 へえ、珍しく慎二にしては正論を吐くじゃないか。

 

「断言するよ、あいつは人間としてどこか壊れてる。同情するぜ、遠坂。あいつは絶対にお前の足を引っ張る。まあ、この場で僕に敗れるお前が心配することじゃないけどね」

 

 なるほどなるほど。

 

「最後の部分は置いておいて、中々わかってるじゃない、間桐君。

 その通りね、確かに士郎はどこか壊れてる。きっと私の足を引っ張ることもあるでしょうね」

「はっ?」

 

 唖然とした慎二の顔。

 

「ねえ、間桐君。あなたに質問するわ。

 あなたは傷ついた自分のサーヴァントを守るために、敵の前に胸を晒すことができる?」

「ははっ、なんでそんな馬鹿なことしなけりゃならないのさ。サーヴァントなんてただの道具、もしくは兵器だろ?だいたいマスターが死んだらサーヴァントだって現界できなくなるんだぜ、そんなの無意味じゃないか」

「理想に近づくために、毎日毎日、死ぬほどの苦痛に耐えながら魔力回路を一から生成することができる?」

「それこそ無意味だ。スイッチさえ作れば魔術回路なんて簡単に起動できるものなんだろう?どこの馬鹿がそんな無駄な真似をするのさ?」

「顔も見たことも無い他人のために、自分の命を危険に晒すことが出来る?」

「なに、ソイツ?どこの正義の味方様だよ。偽善を通り越して醜悪だぜ、それって」

 

 なんだ、思ったより気が合う。

 その通り、私もそう思う。

 彼の行為は無駄で、馬鹿で、醜悪だ。

 だから、慎二の言ってることは正しい。

 百点満点だ。

 非の打ち所が無いくらい正しい。

 そのはずなのに。

 何で、私はこんなに怒っているのだろう。

 思わず満面の笑みを浮べてしまうほどだ。

 彼のことを笑われると、限りなく腹立たしい。

 よし、今、決めた。

 あいつを笑っていいのは私だけだ。

 私だけが彼を笑ってやるんだ。

 だから、目の前で士郎を笑うこの男を。

 私は許さない。

 

「あなたには何一つできないのね」

「できないんじゃない、やろうとも思わないだけだ」

「士郎にはできるのよ」

「それはあいつが異常だからだろ」

「そうね、あいつは異常よ。でも、正常なあなたには何ができるの?」

「っ、……」

「そう、あなたは何もできないのね。なら、やっぱり士郎のほうが強いわ。

 がっかりね、間桐君。あんたのような半端者に彼を笑う資格なんて無いみたい」

 

 あまりの怒りに赤くなり、青ざめ、ついには蒼白な顔色になった慎二が呟くように言った。

 

「……どいつもこいつも衛宮、衛宮。あんな屑のどこがいいんだ。ルックスも運動神経も頭脳も人望も僕の方が優れてる。魔術の知識だってそうだ。それに僕は名門マキリの後継者だぞ、あんな下種に劣る要素なんて何一つ無いはずだ!ライダー!」

 

 己のマスターの声に反応した美しい紫のサーヴァントが姿を表す。

 

「やれ、ライダー!遠坂もあの女と同じ目に遭わせてやれ!」

 

 私の方に向かって疾走してくる紫色の騎乗兵。それを私の従者が阻む。

 ライダーの持った杭のような短剣と、アーチャーの持った干将・莫耶が火花を散らす。

 しかし、私の意識は先ほどの慎二の言葉に集中していた。

 あの女?誰のことだ?

 そんな私の表情を見て、得意気に慎二が笑った。

 

「ふん、誰のことか知りたいかい?実はここに来る前にちょっとした知り合いとばったり出くわしてね、あんまり鬱陶しいことを言うもんだから少しだけお灸を据えてやったんだ。やっぱり女の子はお淑やかなのが一番だしね」

 

 ちょっとした知り合い。

 慎二は女友達が多い。それだけでは誰のことか特定できない。

 

「は、あの女、この僕に向かってなんていったと思う?言うに事欠いて『衛宮を見習え』、だぜ。あまりにも無礼が過ぎる、そう思わないか、遠坂。だから生意気な口を二度と利けなくしてやったんだ」

 

 士郎と慎二の共通の知り合いで女の子、さらに慎二よりも士郎を高く評価しているとなると、私が知っているのは一人だけだ。しかも、どうやらそいつは私の友人でもあるらしい。

 軽い頭痛が、した。

 

「……慎二、あなた綾子に何をしたの」

 

 目の前の男は吐き気がするほど嫌らしい薄ら笑いを浮べた。

 

「犯して殺した」

 

 ……こいつ、今何て言った。

 おかして、ころした。

 綾子を、私の友人を、犯して、殺した。

 そう、言ったのか。

 

「ああ、そんな怖い顔で睨まないでくれ。ちょっとしたジョークじゃないか。

 だいたい僕はあの女に欲情するほど趣味は悪くない。ほんの少しだけ、ウチのサーヴァントに生気を分けてもらっただけだよ」

 

 ……今、決めた。

 もし、万に一つの可能性でこいつが学校の結界を張った犯人じゃなかったとしても、こいつは私が殺す。少なくとも、死んだほうがマシと思えるくらいの目にはあわせてやる。

 

「ただ、その後何しても起きてくれなかったからさぁ、僕の友人に介抱をお願いしたんだよ。そいつ、気の強い女の子を従順に調教するのが大好きな奴でね、今頃美綴の奴、どんな目にあってるんだろうなあ」

 

 くすくすという笑い声が聞こえる。

 私は桜とのラインを繋いだ。

 

『桜、聞こえる?』

 

 頭の中で、妹の声が響く。

 

『何ですか、姉さん。あと少しで着きますが』

『簡潔に言うわ、綾子が攫われた』

『……!』

『どうやら命に別状は無いみたいだけど、今も危険な状況にある。

 遠坂の当主として命じます。あなたは彼女の救出に向かいなさい』

 

 かすかな沈黙。

 

『……姉さんは甘すぎます。これは聖杯戦争ですよ、犠牲が出るのは当然じゃないですか』

 

 あまりにも正論な妹の意見。

 

『わかってる。これは心の贅肉、いえ、心の税金ね。でも、やらなければきっと後悔する。だから、お願い、桜』

『……敵は、マキリ慎二一人ですか?』

『ええ、ほかに魔力の気配は感じない』

『本当ですね?』

『私が桜に嘘を吐いたことなんてないでしょう?』

『まず一回目ですね、姉さん。

 ……わかりました。遠坂の系譜に名を連ねるものとして、当主の命令を受け入れます。だから、姉さん、死なないで』

 

 その言葉を聞いて、私はラインを絶った。

 この街は遠坂の管理地だ。この街で私達姉妹の目の届かないところなんて存在しない。まして妹に付き従うのはキャスター。人探しなどお手の物だろう。

 打つべき手は打った。もし、これで最悪の結果が訪れたとしても、私はそれを受け入れることができる。

 だから、これはただの自己満足。自分に対しての言い訳を用意しただけ。

 やれるだけのことはやった、自分に責任は無い、そう言うためだけに、私は自分の身を危険に晒している。こんな姿、とても父さんには見せられない。

 でも、まあ、どうでもいいか。

 そもそも私が慎二に負けるなんてありえない話だ。

 桜が来ようが来まいが、結果は変わらない。

 ならば、くだらないことをグジグジ考えるのは止めだ。

 さあ、目の前の害虫を叩き潰すとしよう。

 威を正し、正面の仇敵に相対する。

 

「始めましょうか、間桐君。おそらくはあなたにとって最初で最後の本物の殺し合いよ。十分に渇を癒していきなさい」

 

 私がそう言うと、慎二はポカンとした表情を浮べて、その後笑い出した。

 

「ははっ、なに言ってるんだよ、遠坂。これは聖杯戦争だろ?サーヴァント同士の殺し合いだ。何で僕が戦わなくちゃいけないんだ?」

「そうね、これは聖杯戦争。サーヴァントと魔術師同士の殺し合いね」

 

 慎二は笑顔のまま固まった。

 

「サーヴァント同士が互角なら、あとは魔術師同士の戦闘で勝負が決まるわ。そして、あなたは私に喧嘩を売った。高く買ってあげるわよ、間桐君」

 

 私は柔らかく微笑んでやったつもりだが、どうやら彼にはそう映らなかったみたいだ。まるで鬼か悪魔と出会ったみたいに顔を引き攣らせている。

 

 そして、彼は自らの従者に救いを求めた。

 

「ライダー!何してるんだ!そんな奴さっさと片付けて僕を援護しろ!」

 

 無様極まる叫び。

 私は赤と紫がぶつかる戦場のほうを見た。

 騎乗兵が振るう杭と鎖が組み合わさったような奇妙な短剣を、アーチャーが二本の短剣で凌ぎ続けている。

 一見すれば騎乗兵が押しているように見えるが戦況は互角、いや、おそらくはアーチャーの方が有利だ。守りに入った彼の強さは私が一番よく知っている。彼は先日、ランサーの瀑布のような突きを捌ききるどころか、捌きながら前進すらしてのけたのだ。

 アーチャーは冷ややかな笑みを浮べながらライダーの攻撃を捌いている。さもありなん、彼は勝つ必要などないのだ。戦いを長引かせて、主が勝利するのを待てばいいのだから。騎乗兵もそのことに気付いているのだろう、しかし彼女にはどうすることもできない。

 

「残念ね、ライダーはあなたに手を貸せないみたい。従者が頑張っているのよ、マスターの端くれとして根性みせたら?」

 

 慎二は何かに助けを求めるように視線をあちこちに彷徨わせた後、泣き出す寸前みたいな表情をしてポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。

 それは、何の神秘も内包していないただの鉄の塊。そんなもので魔術師に勝負を挑むというのか、この男は。

 

「ひゃああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 狂人みたいな叫び声をあげて突っ込んでくる。

 私は彼に対して右手の人差し指を向けると、一呼吸も開けずにガンドを放った。

 ドン、という、まるで自動車と人がぶつかったみたいな音をたてて彼は吹き飛ぶ。どうやら呪いは彼の左大腿部に直撃したようだ。おそらく今日、明日は歩くこともできないだろう。

 彼はなんとか体を起こした。

 流石に立ち上がることはできないのか、尻餅をついたような姿勢でこちらを見る慎二。

 私がゆっくり近づくと、彼は手近に合った小石を投げながらあとずさった。

 

「くるな、くるなああぁぁぁぁ!」

 

 出鱈目に投げられた小石の一つが私のこめかみを直撃する。痺れるような痛覚に思わず顔を顰めたが、この際痛みは無視することに決めた。

 私は殊更ゆっくりと歩を進め、優しい声色で彼に語りかけた。

 

「あなたに最後のチャンスをあげるわ。正直に答えなさい、そうすれば命だけは助けてあげる」

 

 唇が震えて上手く発音できないのか、言葉と呼べない言葉を発した彼は、ブンブンと首を縦に振った。

 

「学校の結界を張ったのはあなたね、間桐君」

 

 慎二はごくり、と唾を飲んで、固まってしまった。おそらく彼の頭の中では、打算の洪水が一縷の望みを探して荒れ狂っているのだろう。

 仕方ない、ここは一つ道しるべを立ててやることにする。

 

「ちなみに言うとね、私の妹、遠坂桜も魔術師でマスターなの。そして彼女が従えるサーヴァントはキャスター。さて、間桐君。あなたはあの結界を誰が張ったって言ってたかしら」

 

 その言葉で、彼の顔は大きく驚愕に歪んだ。

 

「な!あの魔女のマスターは、あの男じゃあないのか?」

 

 ……何を言ってるのかよくわからないが、少なくとも自分が致命的なミスを犯してしまっていたことに、今更ながら気付いたらしい。

 僅かな時間、彼は逡巡していたようだが、やがて意を決したように口を開いた。

 

「……そうだ、あの結界はライダーが張ったんだ。

 勘違いするなよ、僕は悪くない。むしろ、僕は止めたんだぜ。でも、あいつが『私達が勝ち残るためにはこの結界が必要だ』ってしつこいからさあ」

 

 媚び諂うようなに笑いながら彼は言った。今まで見てきた彼の笑いの中でも、最も醜悪で、最も哀れだ。

 

「……あれは魔術なの、それとも宝具なの?」

「あれはライダーの宝具で、他者封印・鮮血神殿っていうんだ。その効果は結界の中の一般人の溶解、その精神、魂の吸収だ。

 なあ、遠坂、ここまで正直に言ったんだ。反省もたっぷりしてる。マスター権も放棄する。もう二度と君の前に姿は現さない。だから、君は僕を許してくれるよな?」

 

 彼が言ったことは、とっさに考えたにしては筋が通り過ぎている。だから、彼が外道なマスターなのは間違いあるまい。

 縋るような視線、しかし私はゆっくりと彼に人差し指を向けた。

 

「な、な、な、」 

 

『なんで、命は取らないって言ったじゃないか』、おそらくはそう言いたいのだろう。

 

「ごめんなさいね、間桐君。私のモットーは『やるからには徹底的に』、『汝、左の頬を打たれる前に、打つべし打つべし』なの。だから、あなたを許すつもりはないし、下手なチャンスを与えるつもりも無いわ」

 

 投げる小石も無くなったのだろう、慎二の両手は何かを探すように滑稽に動き続けている。

 

「恨むなとは言わない。むしろ恨みなさい、あなたにはその資格があるから」

 

 慎二は、涙と、鼻水と、涎を垂らしながら何かを呟いた。

 おそらくは命乞いの類だろう。聞こえなかったことにする。

 

「私にとって、これが最初の殺人なの。だからきっとあなたのことは忘れないと思う。さよなら、慎二」

 

 指先に神経を集中させる。

 命を絶つ、それも同族、さらには見知った人間の命を。

 外面には出していないつもりだが、内心は酷く動揺していた。

 それでも、これは義務だ。聖杯戦争の参加者として、この地を管理する遠坂の当主として。だから、最初から私に選択肢なんてありはしない。

 大きく息を吸い込んで、吐き出して、また吸い込む。

 さあ、笑いながら彼を殺そう。私は今日、童貞を捨てるのだ。

 そして、容易く目の前の男の命を奪えるほどに高めた魔力を放とうとした時、まさにその時、アーチャーが叫んだ。

 

「避けろ、凛!」

 

 考えるよりも早く、私の体は反応していた。

 体を投げ出すようにして横に飛ぶ。

 飛び込み前転の要領で、きれいに着地。

 振り返ると、私の立っていたその場所に、三本の短刀が突き立っていた。射線の延長線を見ると、巨木の上に白い髑髏の仮面が浮いていた。

 見覚えがある、あれは――。

 

「アサシン」

 

 私は呟いた。

 その瞬間、夜空を滑空するかのように舞い降りた白い髑髏が、私の足元に倒れた慎二を掻っ攫っていった。

 アーチャーと剣を交えていたライダーも、後方に下がり距離を取る。

 何かが、いる。

 この闇の向こうに、何かおぞましいものがいる。

 そう確信する私の前に現れたのは、二体の従者を引き連れた老人だった。記憶にあるマキリの支配者の名前が浮かび上がる。

 なるほど、戦いは今から始まるらしい。

 



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episode13 総力戦前

「――告げる。

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。

 誓いを此処に。

 我は常世総ての善と成る者、

 我は常世総ての悪を敷く者。

 汝三大の言霊を纏う七天、

 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 

 短くない時間の詠唱。

 乱舞する第六要素。

 それが収まったとき、そこには二つの影があった。

 暗く、粘ついた闇の中、なお一層暗い影。

 僅かでも明りがあるなら、その正体に気付くだろう。

 一つは、矮躯の老人。杖をつき、海老の如く曲がった背中。

 枯れかけて腐り始めた老木、その表現が相応しい。

 一つは、長身の女性。奇妙な眼帯でその美貌を隠し、まるで棒切れのように突っ立っている。

 血塗られた巫女、いや、穢された女神。

 彼らを結ぶのは一欠けらの石。遠い異国の名も無き島、そこで発掘された太古の神殿のものだ。

 だが、それ以上に彼らを結ぶ縁というものは確かに存在した。

 マスターとサーヴァントは似たもの同士が選ばれる。

 その原則に従うならば、この二人ほど似通った組み合わせも珍しい。

 かたや、理想を忘れ、理想を実現するための手段としての不死そのものが目的となった怪老。

 かたや、大切なものを守るための手段に溺れ、それをもって大切なものを飲み下してしまった怪物。

 手段が目的に堕した生き方。そして、化け物として討たれる運命。

 だから、彼らには確かに共通項は存在したのだ。

 しかし、物事の側面は常に二次元ではない。

 三次元ならばその面の数だけ、四次元ならばそれこそ無数に。

 読み解く人間の分だけ、解釈というものは存在する。

 もしかしたら、違った選択肢もあり得たのだろうか。

 例えば、堕ちた女神は、自分と同じく被害者のまま加害者として罰せられる少女の従者として召喚されることもありえたかもしれない。

 万が一、朽ちた翁は、自分と同じく永遠の存在を求める暗殺者を召喚することがあったかもしれない。

 だが、この世界、この運命においてはそれはなされなかった。

 仮定には、なんの意味も無い。

 過程など、読み上げる価値は無い。

 この世界においては、ただ、その結果のみが真実だった。

 そして、翁は満足げに頷いた。

 彼は、自分が呼び出した従者に背を向け、真っ黒な部屋を後にする。

 彼が向かうのは、地の底。

 穢れたこの家の中で、なお穢れきった蟲の巣穴。

 今夜そこで、もう一人の英雄が呼び出されるはずなのだ。

 さあ、果たしてあの男はどんな怪物を呼び出すのであろうか。

 できれば三騎士、いや、別に何でも構わないか。

 あれは完成品だ。

 ならば、サーヴァントの質は問うまい。

 しかし、あれだけ穢れた存在が呼び出すものには興味がある。

 さぞ熟成された魔が現界することだろう。

 そこまで考えて、翁は不快な声で嗤った。

 

 episode13 総力戦前

 

 波が、コンクリートの消波ブロックにぶつかる音が間断無く聞こえる。

 ここからでは何も見えないが、手摺から身を乗り出して黒くうねる海を覗けば、護岸と波との死闘と、その残滓である白い飛沫が見えるのだろう。

 冬木の夜景は美しい。故に、狭い海を挟んでそれが一望できるこの海浜公園は夜のデートコースとして人気が高い。

 しかし、今は私達以外、誰もいない。

 

「ふむ、こんな夜更けに何用かな、遠坂の娘よ」

 

 月は出ていない。

 僅かな星の光と、人工的な街灯の灯りに照らされたコンクリートの上で、私と老人は対峙する。

 萎びた、鉛色の皮膚。

 落ち窪んだ、奈落のような眼窩。

 消え入りそうでいて、何故か耳に残る声。

 頭部は禿げ上がり、腰は大きく曲がっている。

 老人。それも、明日にも三途川の渡しの世話になって不思議でないように思える類の老人だ。しかし、その眼光は梟のように鋭い。

 間違いない、あれは私の同胞だ。

 

「ただの散歩よ。あなたこそこんな時間にどうしたのかしら、マキリ臓硯」

 

 老人の眉が微かに動く。カマをかけてみたのだが、どうやら当たりのようだ。

 

「かっか、いや、儂も有名のなったものよな。まさか儂如きの顔を遠坂の当主が知っているとは思わなんだ。身に余る光栄とはこの事よ」

 

 痙攣するように笑いながら、なおその視線は油断なく私達を捕らえていた。

 奴の背後には二体のサーヴァント。

 紫の髪をした黒い女。

 笑い顔の仮面をつけた、黒い襤褸を纏った怪人。

 それに対して、私はアーチャーひとり。

 個々の力を均一と仮定するならば、その戦力差は笑えるほど絶望的なものだろう。

 認めざるを得ないか、私は油断していた。

『アサシンのように隠密性の高いサーヴァントなら話は別』、その思考に赤面してしまう。

 正直を言うならば、慎二と手を組む可能性のあるマスターはランサーのマスター以外あり得ない、そう踏んでいた。

 なぜなら、一昨日、代羽がアサシンに襲われているからだ。

 まさか、いくら慎二でも自分の妹を襲うようなマスターと手を組むことは無いだろう、そう考えた。

 しかし、事実は更にその斜め上を行っていたようだ。

 もし慎二がライダーのマスターだと仮定するならば、臓硯はアサシンのマスターということになる。そして、代羽を襲ったのがアサシン。つまり、あいつらは自分の肉親をすらサーヴァントの糧としか見ていなかったということだ。

 なるほど、肉親にしてそれなら、赤の他人など塵芥と変わるところは無いのだろう。何の躊躇も無くあのような外道結界を仕掛けるわけだ。

 こいつらは、完全に踏み外している。

 そんな私の思考を他所に、やっと嗤いを収めた臓硯が言い放つ。

 

「さて、儂も散歩のつもりだったのだがなぁ、運悪く毒の棘を持つ雌猫を見つけてしまった。

 さてさて、どうしたものか。

 このまま放置すればいつ刺されるやしれぬ、しかし殺すのも忍びない。

 もし、猫めが自ら棘を捨てるならば、いらぬ殺生は避けられるのだがなぁ」

 

 薄ら笑いを浮かべながら老怪が話す。

 これは脅しだ。 

 令呪を破棄して負けを認めろ。

 そうすれば今宵は見逃してやる。

 奴はそう言っているのだ。

 私に向かって。

 この遠坂凛に向かって。

 生殺与奪の権利は自分にある、と言っているのだ。

 なるほど、そうか。

 いい度胸だ。

 いい度胸じゃあないか。

 伊達に五百年生きていないらしい。

 す、と頭から血が引いていく。

 慎二の馬鹿を見たときから、少し頭に血が上っていたようだ。

 良かった。

 これで冷静になれる。

 そうだ、私は冷静だ。

 だから、逃亡とか、離脱とかは考えない。

 冷静に、執拗に、そして優雅に。

 あの化物を殺してやる。

 

 

 遠坂凛の口の端がゆっくりと持ち上がっていく。

 三日月の形になった、美しい唇。

 微笑。

 そう、その表情に名を与えるなら、その名詞が一番近い。

 しかし、足りない。

 その表情が表す最も重要な情報が、その名詞では表せていない。

 ならば、何が抜け落ちているのか。

 彼女が浮かべているのは微笑みに違いはないのだ。

 ただ、それは恋人と語らう時の輝くようなものではなく、

 両親の愛情に包まれた時の安らいだものでもない。

 例えるなら、猫科の肉食獣。

 しかし、雄ライオンのように勇壮なそれではない。

 もっとしなやかで、何より優美。

 豹。あるいはチーター。

 彼らが、獲物の首筋に牙を突き立て、溢れ出るその血で喉の渇きを潤した時。

 或いは、哀れな贄の肉で、胃の腑を締めつける飢えを満そうとした時。

 その時に、表情を作ることが出来たとしたら、おそらく今の彼女のような笑みを浮かべるのだろう。

 美しく、完璧で、残虐な笑み。

 それほどに、今の彼女は危険な存在だった。

 

 

「アーチャー!」

 

 背後に生じた仄かな熱。

 数日前まで知らなかった、今は何より信頼できる熱。

 

「あの化物は私が仕留める。あなたはサーヴァントの足止めをして」

 

 私の従者は軽く肩を竦めた。

 

「いくら足止めとはいえ、私一人で二体のサーヴァントを相手にするのはいかにも無謀ではないかね。私はあの狂戦士ではないのだよ、凛」

「できないの?」

 

 私は知っている。彼は今もなお、あの皮肉げな笑みを湛えていることを。

 

「私は一言でもそんなことを言ったかね、凛。

 無理、無謀、無茶、おおいに結構。それでこそ君だ。

 なに、おそらくは地に足を付けた騎乗兵、姿を晒した暗殺者。物の数ではない。聊か急に過ぎるきらいもあるが、これはこれでいい機会だ。君の従者の最強を証明しようじゃないか」

 

 

「――――――、Anfang」

 

 凛の魔術回路が回転数を上げていく。

 ローからハイに、そしてハイトップに。

 一流と称してなお賞賛しきれないそれが、まだ発展途上でしかないことを私は知っている。彼女の翼は強く、なお疲れを知らない。目的地は遥かに、視線は更にその先を見据えている。

 ならば、その翼をこのような瑣末事で汚すわけにはいくまい。

 と、その時。

 暗殺者の投げた短刀が、凛を襲う。

 瞬きをするほどの時に三閃。

 眉間、喉、心臓。そのいずれもが必殺。

 しかし、そのいずれもが彼女に毛程の傷も付けることができないことを私は確信している。なぜならこの身は弓兵。例え空を舞う燕であろうと、例え狙撃手の放つ弾丸だろうと、悉く叩き落としてみせよう。

 

 キ、キキン――。

 

 硬質な金属音が周囲の静寂を破る。

 目を閉じ、己に埋没する凛の前に転がった三対の短刀と矢。

 再び訪れた、時が止まったような静寂。

 私は短刀を拾って情報を読み取った。

 理念、骨子、歳月。

 短刀、ダークと呼ばれるそれから読み取った情報、虚ろな気配。

 奴に該当するクラスはアサシン以外ありえない。

 そして、短刀の持ち主にこう言った。

 

「ふむ、暗殺者よ。我がマスターを害するに、使う道具がこの薄汚れた短刀か。いささか出し惜しみが過ぎるのではないかね。吝嗇も過ぎれば非難の対象となろう」

 

 仮面の下の気配が微妙に変化した。

 暗殺者とは、すなわち一種の職人だ。

 自らを鍛え一つの道具となし、徹底的かつ綿密に対象を調べ上げ、天が与えたが如き最高の一瞬を選択して目的を達する。

 ならば、自らの一部といっても過言ではない仕事道具を貶されて、不快に思わないはずがない。

 私の挑発に乗ったのか、それとも排除すべき障害として認識したのか、いずれにせよ、暗殺者は私を標的としたようだ。

 あとは彼女にパーティーの招待状を送らねばなるまい。

 

 

 弾幕と弾幕が衝突する。

 少女が放つのは魔力の弾丸。

 フィンの一撃と呼ばれるものに昇華されたそれは、呪いでありながら物理的な破壊力を持つ。

 老人が放つのは蟲の弾丸。

 硬い外骨格を持つ甲虫を魔力によって強化し、更に加速して放ったそれは、さながらライフル弾のような貫通力を有する。

 互いの攻撃がぶつかり、威力を殺しあうが故に致命傷には至らないが、両者とも細かい傷を負っている。

 果たして、どちらを賞し、どちらを貶めるべきなのであろうか。

 若輩の身でありながら、齢五百を超える大魔術師と張り合う少女を褒めるべきか。

 それとも、普通の人間なら既に片手の指では足りぬほど大往生を迎えているであろう歳でありながら、眩いばかりの若き才能に立ちはだかる老人だったものを讃えるべきか。

 いずれにせよ、並みの魔術師なら既に十度は冥界の門をくぐっているであろう壮絶な戦いは、それでも開演のベルの余韻すら残した段階にすぎなかった。

 

 

 甘かった。

 私は思わず舌打ちをした。

 遠坂の魔術特性は転換。

 お世辞にも戦闘に向いた特性とは言えない。

 しかし、本来はそれでかまわないのだ。

 およそ魔術師と呼べるものにとって、究極的な目標は根源への到達。そのためには戦闘技術などは必要ない。むしろ探求に必要な特性こそが王道であり、戦闘に特化した特性は外道だ。

 だが、今、私が参加している大儀式は殺し合い。

 王道と外道が反転する。

 それでも勝てると思った。

 いくら相手が、私の十倍以上の時を魔道に捧げた先達でも、所詮は一度も聖杯戦争に参加しなかったアナグマだ。家が廃れ、血が枯れたから、穴から燻りだされたにすぎない。

 そう思っていた。

 見込みが甘かったと言わざるをえない。

 奴は正面から私のガンド打ちとやりあっている。まさかこれほどの力を持っていたとは。

 もし、最初から虎の子の宝石を使っていれば、難なく勝てたはずだ。そうでなくても戦局ははるかに優位に運べていたに違いない。

 一瞬。

 一瞬でいい。

 奴に隙ができれば、ポケットから宝石を取り出すことができるのに。

 一瞬。

 今の私には、それがとても遠い。

 

 

 ゆらり、と目の前の白い髑髏が動いた。

 決して遅い動きではないが、単純な速度だけならかの槍兵と比べるのもおこがましいものだ。

 しかし、その動きに目が追いつかない。

 いつの間にか視界から姿が消え、死角から短剣が飛んでくる。

 理由は極めて単純だ。

 奴の動きには起点がない。

 例えば、パンチを打つとき。

 人はただ単純に腕を伸ばすのではなく、必ず溜めを作る。

 足をねじり、膝を撓め、腰を回し、肩を入れ、そして腕を伸ばす。

 初心者の動作は、テレフォンと呼ばれるほどわかりやすく、上級者であればあるほど、その溜めがわかりにくい。

 奴はその溜めを、人間として可能な限り消している。

 故に先読みができない。

 奴が動き出した後に、やっと動いたという事実がわかる。

 まるで薄だ。

 風に揺られる薄。

 風がいつ吹き、いつ薄が揺れるのか。

 それを読むことのできる騎士を、私は憶えている。

 だが、私には。

 それを先読みするような才は私には無い。

 だから、いつも通りだ。

 いつも、私は自分の非才さに呆れていた。

 呆れながら、戦ってきた。

 呆れながら、いつも通り。

 いつも通り、愚直に。

 愚直に、前へ。

 前へ。

 

 

 目の前で二つの戦いが繰り広げられている。

 きっと、自分はそのいずれかに参加するべきなのだろう。

 いずれの戦闘に参加したとしても、自分なら勝利をもたらすことができるはずだ。それだけの実力は兼ね備えているはずだし、覚悟もある。

 しかし、私にはそれが許されていない。

 何故なら、令呪をもってこう命令されたからだ。

 

[私が指令を下すまで、自衛以外、独断で動くことを禁じる]

 

 ぎしり、と歯が鳴る。

 まるで木偶だ。

 私は何のためにここにいるのか。

 少なくとも、特等席で戦いを見物するためでは無かったはずだ。

 そこまで考えたとき、案山子のように突っ立っていた私の足元に一本の矢が突き刺さった。

 

「せっかくの夜だ。なのに、君ほどの女性が壁の花というのは申し訳ない。どうかな、私と一曲」

 

 始めのうちこそ暗殺者の奇妙な動きに翻弄されていた弓兵だが、今はほぼ互角、いや、明らかに暗殺者を圧倒し始めていた。だからこそ私を挑発することができたのだろう。

 もともと、暗殺者は正面きっての戦闘に向いていない。闇に住み、標的をより深い闇へ引きずり込むのが暗殺者の常道。おそらくは百戦錬磨の弓兵、彼を相手に僅かな時間だけでも優位に立っていたのが、むしろ賞賛を受けるべきだろう。

 

「なるほど、今代の遠坂は主従ともに死にたがりとみえる」

 

 枯れた声が聞こえる。

 この声は嫌いだ。

 でも。

 

「いいじゃろう、ライダー、戦闘を許可する。その愚か者を血祭りにあげよ」

 

 この言葉を待ち望んでいた。

 なるほど、それが主の意思か。

 あの老人が言うのだ、間違いあるまい。

 この身を縛っていた不可視の鎖は放たれた。

 さあ、愚かな弓兵よ。

 あなたのおかげで私は戦える。

 だから、私は優しい。

 優しくあなたの血を吸って。

 優しく殺してあげましょう。

 

 

 暗殺者の奇妙な動きは、始めのうちこそ戸惑ったものの、ある程度慣れてくれば心眼をもって反応できないほどのものではなかった。

 そうなれば後はこちらのものだ。攻撃も距離をとってからのダークの投擲一辺倒であり、防ぐのは難しいものではなかった。何か、英霊のシンボルとなる宝具を持っているのは確実だが、それを使う気配は無い。

 距離を詰めての接近戦では、私は奴を圧倒した。手にした武器も、剣の技量も、確実に私の方が上だった。

 故に、アサシンについては問題ない。

 しかし、それ以外は。

 二つの戦場が生まれていた。

 一つは、凛と醜悪な老魔術師との戦場。

 もう一つが、私と暗殺者との戦場。

 それはいい。それ自体に奇妙なところはない。

 奇妙なのは、敵方に、戦闘に参加していない戦力がいる点だ。

 紫の美しい髪をしたサーヴァント、ライダー。

 もし、彼女が凛の戦場に参加すれば、間違いなく凛は殺される。

 奴は全身から迸るような殺気を溢れさせている。

 何故戦闘に参加しないのか疑問ではあるが、少しでも状況が変化すればすぐにでも参戦することは間違いない。

 下手に奴のことを警戒し、集中を乱しながら戦うよりは、いっそ二対一の方がマシ、私はそう判断した。

 だから、私は紫のサーヴァントに招待状を送りつけたのだ。

 

「せっかくの夜だ。なのに、君ほどの女性が壁の花、というのは申し訳ない。どうかな、私と一曲」

 

 私の送った招待状に答えたのはかの女性ではなかった。

 

「いいじゃろう、ライダー、戦闘を許可する。その愚か者を血祭りにあげよ」

 

 まるで戒めの鎖が引きちぎられたかのように、騎乗兵が疾走する。

 全サーヴァント中最も進軍速度に優れるという前評判に恥じぬスピード。

 なるほど、これが彼女の本当の姿か。

 それに向かって私は弓を引き絞る。

 一瞬の間に五射。

 適度に的をばらした、散弾銃のような射撃。

 しかし、彼女はそれをいとも容易くかわすと、私の背後に回りこんだ。

 

「ちいっ!」

 

 反射的に干将・莫耶を振り上げる。

 

 ギイィン

 

 杭と鎖を組み合わせたような武器と、干将・莫耶がぶつかり合い、鮮やかな火花が瞬間的に闇を打ち消す。

 

「ふぅっ!」

 

 干将をそのまま防御に使い、莫耶を横なぎに振るう。

 手ごたえが無い、かわされた。

 まずい、間合いをとらねば。

 バックステップ。

 しかし、それも読まれていた。

 綺麗に間合いを詰められ、

 彼女はくるりと背中を向けた。

 その瞬間、腹部を吹き飛ばされたかのような衝撃。

 後ろ蹴り。

 防御が間に合わなかった。

 体が宙に浮く。

 十メートルは吹き飛ばされた。

 

「がはっ!」

 

 呼吸が上手くできない。

 ダメージは大きい。

 試合なら、ここで一本負けだ。

 だが、これは試合ではない。

 殺し合いだ。

 

 ――蹲るな。

 

 立ち上がる、

 

 ――弱みを見せるな。

 

 両手に干将・莫耶を、

 

 ――倣岸に、不遜に。

 

 暗殺者と騎乗兵を睨みつけ、

 

 ――笑っていろ。

 

 

 目の前に悪夢がいた。

 水晶の瞳。しかし、その複眼は何も映さない。

 金剛石の体。ぬらぬらと光ったそれは、死蝋化した死体を思わせる。

 百足のような足。見ているだけで、怖気が走る。

 振り下ろされる一対の鎌と、襲い来る毒針。

 蟷螂と蠍を組み合わせて巨大化させ、悪意で彫り上げたかのようなフォルム。

 食物連鎖に組み込まれた生き物ではありえない。人より大きな昆虫など、通常存在するはずが無い。

 間違いなく、幻想種。

 マキリ臓硯。

 蟲使い、マキリの当主。

 最初に感じたのは嫌悪。

 次に感じたのが殺意で、その次が驚愕。

 しかし、今は畏敬すら覚える。

 人の身でこれほどの幻想種を従える魔術師が、この世にどれほどいるだろうか。

 人形師の使役する人形や、サーヴァントのような規格外に代表されるごく一部の例外を除いて、使い魔は総じて主人よりも力が弱い。そうでなくては絶対的な支配権を確立させることが不可能だからだ。

 しかし、目の前の蟲は、明らかに臓硯本人よりも高密度な魔力を備えている。

 そんな化け物相手に、私は相も変わらずガンド打ちで対抗する。

 攻撃は当たっている。

 しかし、効いていない。せいぜい、少し動きを鈍らせることができる程度。

 当たり前だ。

 いくら物理的な攻撃力を兼ね備えている呪いとはいえ、衝撃そのものは大口径の拳銃と変わらない。

 この程度の呪いでは幻想種に通用するはずもなく、この程度の威力では硬い外骨格を貫くことはかなわない。

 だが、一瞬でも弾幕を薄めれば、鎌が私の体を両断するか、毒針が私の眉間を貫くだろう。

 ジリ貧だ。

 アーチャーは複数のサーヴァントと戦っている。援護は期待できまい。

 これは私の判断ミス。

 マキリ臓硯の実力を読み違えた私の責任だ。

 歯を軋らせる。

 横から襲い来る鎌。

 頭を下げて、それをかわし。

 振り下ろされる毒針。

 横っ飛びに、それをかわす。

 息が上がる。

 本来、この程度の動きで息が上がるほど柔な鍛え方はしていないが、ガンドの多用と強烈なプレッシャーが秒単位で体力を削っていく。

 滝のように汗が流れる。

 体中に溜まった乳酸が、休息を求めて抗議の悲鳴をあげている。

 

「お爺様、そいつは殺さないで下さい!その女は僕のものだ!」

 

 手摺を支えに突っ立ったどこかの馬鹿が、素っ頓狂な声で叫ぶ。

 マキリのお坊ちゃまは、相も変わらず私の体に御執心らしい。

 こんな状況で性欲が優先されるなら、それはそれで凄いことなのかもしれない。

 頭のどこかで冷静に考えながら、私は早すぎる死を覚悟した。

 

「どうかな、ここいらで負けを認めては。令呪を放棄し、戦争が終わるまでこの街から離れることを約するならば、命まではとらぬ」

 

 使い魔には攻撃を命じたまま、マキリ臓硯はそう言った。

 その言葉に私は微かな違和感を憶えた。

 マキリ臓硯は、いや、普通の魔術師は自らに敵対したものに対して容赦をしない。かくいう私も『やるからには徹底的に』がモットーだ。

 

「お優しいことね、マキリ臓硯。でも、お生憎さま。私は勝てる戦で尻尾を丸める趣味はないの」

 

 無理矢理つくった笑みを浮べて私はそう言った。

 損な性分だと思う。

 でも、そんな自分が嫌いではない。

 

「ふむ、残念じゃの。目の眩まんばかりに輝く才能。それを摘み取らねばならんとはのう」

 

 その言葉を聞いた直後、私は地面と望まぬ抱擁を強制された。

 短くはない時間の激闘。それによって抉られたコンクリート。鎌をかわして飛びのいたその地点に、不運にも小さな小さなクレーターがあったのだ。

 

 終わった。

 戦いも、人生も。

 ごめんなさい、お父様。

 あなたの娘は親不孝でした。

 遠坂の秘宝を浪費し、聖杯を手に入れることも叶わず、まだ二十歳にも届かぬ若さであなたのもとにむかいます。

 どうか、怒らないで。

 そちらに着いたら、昔のように、暖かい背中で休ませて。

 

 

 流石にきついな。

 嵐のように襲い来る杭のような短剣と、ダークと呼ばれる短剣を、干将・莫耶で弾きながら私は心の中で舌打ちをした。

 正面からは全てをなぎ倒す爆風のような攻撃。

 それに対応しようとすると、側面、或いは後方から短剣が飛んでくる。

 まずい、この二体の相性はすこぶるいい。

 このままでは殺される。

 駄目だ。

 殺されてやるわけにはいかない。

 せっかくのチャンスなのだ。

 無限ともいえる時の中でやっと見えた光明なのだ。

 死ぬのはかまわないが、それが潰えるのは許せない。

 仕方ない、少しだけ手の内を見せるとしよう。

 

「――工程完了。全投影、待機」 

 

 虚空に現れた多数の剣。

 その全てが、名剣・妖刀の類だ。宝具には遠く及ばないものの、サーヴァントを傷つける程度の神秘は内包している。

 驚いた暗殺者と騎乗兵が距離を取ろうとする。

 逃がすものか。

 私は、きっと冷酷な笑みを浮かべた。

 

「停止解凍、全投影連続層写」

 

 いっせいに剣の弾丸が放たれる。

 その数、約二十。

 しかし、この程度では奴らを倒すことはできないだろう。

 そんなことはわかっている。

 

 ドドドドンッ

 

 剣の着弾音が響く。

 その後に訪れる一瞬の静寂。

 そして。

 コンクリートに突き立った剣の群れの中で、やはり暗殺者と騎乗兵は傷一つ無く立っていた。

 

「驚きました。今のがあなたの宝具なのですか」

 

 静かな、聴くものを魅了するかのような声。黒い装束に身を包み、荒れ狂うが如き攻撃を加えてきたモノと同一とは思えない。

 私は自分でもわかるほど皮肉な笑みを浮べてこう答えた。

 

「残念だが、今のはただの手品。宝具と呼べるような上等なものではない。どちらかというと、今からお見せするものの方が、私の宝具に近いな」

 

 騎乗兵と暗殺者は身構える。

 私は内心ほくそえむ。

 好都合だ。

 なぜなら、次の手品の種は、哀れな観客の足元に既に仕掛けられているのだから。

 

「壊れた幻想」

 

 その言葉と同時に、奴らの周囲に突き立った剣達が爆発する。

 宝具による爆発に比べれば規模は小さいものの、それでもその威力はサーヴァントにとっても無視できるようなものではない。

 これで形勢逆転だ。

 私はそう思った。

 そう思ってしまった。

 だから、一瞬の隙が生じたのだ。

 その瞬間、私の大腿部に深々と短剣が突き刺さっていた。

 

「ぐぅっ」

 

 思わず膝を突く。

 そして次の瞬間私が見たのは紫の美しい髪がこちらに向かって疾走してくる光景だった。

 そうだった。

 私にとって、譲れぬ願いがあるように。

 彼らにも、譲れぬ願いがあるはずなのだ。

 その執念を、見誤った。

 体中を血に染めながら、騎乗兵が迫ってくる。

 地に膝を突いたまま、干将・莫耶を投影する。

 騎乗兵の手から放たれた巨大な杭。

 それを、干将で弾く。

 背後から放たれた短剣。

 それを、莫耶で弾く。

 そして、私は無防備になった。

 片膝を突いた姿勢では、飛びのくこともできない。

 騎乗兵はそんな哀れな獲物の足をきれいに払った。

 あまりにきれいな足払いだったのでなんの苦痛もない。

 ただ仰向けに転がった私の視界には天に歯向かうが如く振り上げられた騎乗兵の踵が映っていた。

 ああ、あれが振り下ろされれば、私の頭は石榴のように砕け散るのだろうな。

 そう思った。

 



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episode14 総力戦中

 今までの動きが嘘のように、ゆっくりとした動きで蟲が近づいてくる。

 もはや、哀れな獲物は逃げることが叶わないことを知っているのだ。

 私は来るべき衝撃に備えて拳を握った。

 人生の最後に見えるという、走馬灯は見えなかった。

 ただ、最近知り合った半人前の魔術師の顔が浮かんだのが酷く不快だった。

 迫り来る、避けようのない死。

 ゆっくりと振り上げられた鎌を、まるで他人事のように眺める。

 そして―――。

 声が聴こえた。 

 

「Es flustert――Mein Nagel reist Hauser ab!」

 

 声の主によって放たれた影の刃は、コンクリートを削り飛ばしながら蟲の横っ腹に炸裂した。

 

「姉さん!」

 

 顔など、確かめるまでもない。

 そこにいるのは、自慢の妹だ。

 

 episode14 総力戦中

 

 蟲は桜の放った魔術によって吹き飛ばされ、いまだに動けずにいる。

 少し悔しいが、桜の魔術は私のそれより強力だ。

 魔力回路の数はほぼ互角。 

 精密さにかけては、私の方が一枚も二枚も上手。

 だが、瞬間的な魔力の放出量と最大貯蔵量については、桜に軍配が上がるだろう。

 私の魔術を精密なスナイパーライフルに例えるなら、桜のそれは強力なバズーカ砲だ。

 私のガンドでは毛ほどの傷も付けられなかった蟲だが、桜の魔術ならば昏倒させることくらいはできたらしい。

 もちろん、このまま放っておけば遠からず蟲は復活する。そして、いくら桜の魔術とはいえ、あの蟲に止めを刺すのは難しいだろう。

 だが、十分だ。

 例え十秒に満たない時間でも、私にとっては十分。それは桜もわかっている。

 なぜなら、私があの蟲を倒すためにする行為は、ポケットに手を突っ込む、ただそれだけなのだから。

 

 まず、蟲は素早く立ち上がった。

 

 驚異的な回復力だ。正面から桜の魔術をくらってこの程度のダメージとは、正直信じがたい。

 

 次に、蟲はこちらに走ってきた。

 

 百足のように生え揃った多数の足が規則正しく動くさまは、生理的な嫌悪を呼び起こした。

 

 そして、蟲は鎌を振り上げた。

 

 その複眼からは何の感情も読み取れないが、おそらくは勝利を確信しているのだろう。

 

 最後に、蟲は鎌を振り降ろす――ことができなかった。

 

 

「くうぅっ!」

 

 裁きの鉄槌のように振り下ろされる踵。

 身を捩って、それをかわす。

 ちっ、と数本の髪を引きちぎる音が聞こえ、

 どごぉっ、とコンクリートを破壊する轟音が鼓膜を叩いた。

 ごろごろと地面を転がる。

 わずかばかりの距離をとってから、バネに弾かれたように立ち上がる。

 大腿部の短剣は、地面を転がったときにより深く突き刺さっていた。

 この戦闘において、機動力は失われたと見ていいだろう。

 

「しぶといですね」

 

 騎乗兵が呟く。

 その体は傷だらけで、まるで赤いペンキでも被ったかのように真っ赤だ。常人ならば、痛みによるショックか、出血性のショックによって命を失っていてもおかしくない。

 彼女の傍らに立つ暗殺者も同じような状態だ。

 それに対して、私のダメージは左足に深々と突き刺さった短剣。おそらくは、それに塗られていたであろう、暗殺者の毒による意識の混濁。騎乗兵の蹴りによって受けた、内臓の損傷。

 ダメージ自体はそう変わらない。

 ならば、手の内を見せた分、私のほうが不利になっている。

 状況は最悪。

 しかし、この身は不敗の弓兵。

 そして、この身は彼女の従者。

 いままで、幾度となく望まぬ戦いを強いられてきた。

 これまで、何度となく救えぬ殺戮を繰り返してきた。

 そんな私が、久しぶりにこの身が沸き立つような戦いを味わえているのだ。

 眠るには、いささか早すぎるな。

 

「虚空から武器を生み出す。そして、それを弾丸のように、或いは爆弾のように扱うことができる。それがあなたの能力ですか」

「そのとおり、実は私は弓兵ではなく奇術師なのだよ」

 

 核心を抉るような騎乗兵の問いに対して、私はおどけた対応をしてみせる。

 騎乗兵の表情が少しいぶかしむようなものに変わったが、到底誤魔化すことなどできていないだろう。

 

「まあいいでしょう。あなたが弓兵でも奇術師でも、それは些細なこと。接近戦に持ち込まれた弓兵、種のわれた手品を演じる奇術師、共に哀れなものです」

 

 冷酷な笑みを浮べて、彼女が近づいてくる。

 

「あなたの足は、既に用をなさない。せいぜい芋虫のように地を這うことができる程度でしょう」

 

 干将・莫耶を投影、その片割れを投擲する。

 あたらない。

 

「そして、あなたの魔力は尽きようとしている」

 

 視界がぼやける。

 本格的に毒が回ってきた。

 考えてみれば、毒と暗殺者は切っても切れないほど密接に結びついている。

 ならば、暗殺者の頂点たるハサン=サッバーハの所有する毒に何らかの概念が付与されていたとしてもおかしくはない。いや、むしろそれが当然か。

 如何に概念の付与されているとはいえ、まさかサーヴァントが毒くらいで死ぬはずも無いが体の自由くらいは奪えるらしい。

 

「諦めなさい。そうすれば、優しく殺してあげます」

 

 誘うような声で紡がれた提案は、酷く蟲惑的だった。ひょっとしたら、何か暗示のようなものが含まれていたのかもしれない。

 

「ああ、それは魅力的だ。君のような女性に殺されるなら本望だよ」

 

 私の目の前に立った騎乗兵に対してそう言ってやった。

 

「賢い選択です。さあ、力を抜いて、私に身を任せて」

 

 彼女は私を抱きしめると、首筋に顔を埋めてきた。

 ちくり、とした感触が襲ってきた。

 それと同時に力が抜けていく。

 なるほど、彼女は吸血種だったのか。

 

「あなたの血は美味しい」

 

 うっとりとした声が聴こえる。

 

「ああ、それはよかった」

 

 そう言いながら、私は今まで味わったことの無い快楽に身を委ねていた。

 気持ちいい。血を吸われることがここまでの快楽をもたらすとは思わなかった。

 ともすれば意識まで手放してしまいそうになる快楽の中で、私は彼女に呟いた。

 

「最後に、伝えておきたいことがある」

 

 彼女は私の血液を嚥下しながら、こう答えた。

 

「あなたにはもはや歯向かう力は残されていません。それを承知の上ならば、聞いてあげましょう」

 

 私は口を彼女の耳の近くに寄せて、蚊が鳴くような声で、こう囁いた。

 

「人の恋路の邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」

「がはっ」

 

 私の胸の中で体を強張らせた騎乗兵。

 その背中には、深々と干将が刺さっていた。

 

「窮鼠は猫を噛むものだ。憶えておくといい」

 

 崩れ落ちる騎乗兵。

 普通の人間ならば間違いなく致命傷。

 しかし、彼女は生きている。

 ならば止めを。

 そこまで考えて、気づいた。

 もはや、私にその力は残されていない。

 

「度し難いな」

 

 迫り来る暗殺者の短剣。

 その切っ先を見つめながら、そう呟いた。

 

 

 私が手にしていたのは黒曜石。

 どんなに品質の良いものでも、せいぜい三日分の魔力も込められればいいほうだ。

 つまりは、屑石。

 宝石と呼ぶのもおこがましい。

 だが、十分。

 この程度の虫けらを屠るのに、貴重な宝石を使うわけにはいかないでしょう。

 さあ、マキリ臓硯。

 あなたの魔術は十分過ぎるほどに堪能させていただいたわ。

 だから、今度は私の番。

 遠坂の秘奥、宝石魔術の粋。

 存分に味わいなさいな。

 

「Fixierung,EileSalve――! 」

 

 放たれたのは、一握りの黒い石。

 それ自体には、何の威力も無い。 

 子鼠一匹殺すことはできない。いや、傷つけるのも難しいだろう。

 だが、その黒い石から放たれた魔力は、巨大な蟲の体を破壊し尽くした。

 

「驚いた、まだ生きているなんて」

 

 私の放った黒曜石は、約二十。

 一年分の魔力を込めた取っておきの宝石の魔力量と比べても、さして見劣りするものではなかったはずだ。

 小さな家なら、吹き飛ばせるだけの魔力。

 それを正面から受け止めて、なお蟲は生きていた。

 水晶の瞳は破れ、金剛石の体は砕け、鎌も、毒針も跡形も無かったが、それはまだ立っていたのだ。

 

「なるほど、やるべきときには徹底的に、か。私のモットーを忘れていたわ」

 

 そう呟いて、外套の内側から取り出したのは小さな宝石。

 一年分の魔力を込めた、切り札の一つ。

 

「あなたの生命力に敬意を表します。これは私の切り札。もしあなたが話せるなら、冥土の土産話にでもしなさい」

 

 蟲は、その時初めて声を上げた。

 耳を塞ぎたくなるような甲高い声。

 蟲はこちらに向かって走ってきた。

 百足のように生えていた足も、今は半分も無い。それに比例するようにスピードも半減している。

 私は、蟲と臓硯が同一の射線上に重なるように微妙に立ち位置をずらした。

 そして、唱えた。

 

「Sechs Ein Flus、ein Halt」

 

 迸る冷気。

 放たれた巨大な氷柱。

 比喩ではなく、家一棟を吹き飛ばして余りある威力。

 蟲は、それを正面から受け止め、

 粉々に砕け散った。

 あれほどの嫌悪をもたらした金剛石の外骨格が、水晶の瞳が、きらきらと宙を舞う。

 街灯の淡い光に照らされたそれは、幻想的なまでに美しかった。

 そして、名も知らぬ蟲は、この世から消滅した。

 塵も残さず、まるで最初から存在しなかったかのように。

 なおも威力を失わない冷気と氷柱。

 それは蟲の後ろに立っているマキリ臓硯に襲い掛かり、彼も、彼の使い魔と同じ運命を辿る。

 筈だった。

 



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episode15 総力戦後

 キンッ

 

 硬質な音に思わず顔を顰める。

 なんだ、不粋な奴がいるものだな。

 せっかく人が気持ちよく寝ようとしているのに。

 あの刃が私に心地よい眠りを与えてくれたはずなのに。

 一言文句を言ってやろう、そう考えて目を開いた。

 そこにあったのは、彼女の横顔。

 どこまでも穏やかな聖緑の瞳。

 金砂のような髪。

 彼女を象徴する青い衣。

 ああ、君は私を褒めてくれるだろうか。

 俺は、地獄に落ちても、やっぱり君を忘れなかったんだ。

 

 episode15 総力戦後

 

 

「大丈夫ですか、アーチャー」

 

 鈴を転がしたような、澄み渡った声。

 私は、この声を覚えている。

 忘れることなどできるものか。彼女と私は、短くはなかった人生の中で、最も灼熱とした時間を過ごしたのだから。

 ならば、この問いに対する答えは既に定まっている。

 

「問題ない。君が来なくてもかたはついていた。なに、君は横で休んでいればいい。ああ、手柄を横取りしたいというならば話は別だがね」

 

 かすれた声で紡ぐ、他愛も無い憎まれ口。

 彼女はそれに対して苦笑で答えた後、こう言った。

 

「それだけ減らず口が叩けるなら大丈夫でしょう。戦況を簡潔に説明してください」

「敵は三体。うち二体はここにいるライダーとアサシン。既にライダーは無力化している。もう一体はマキリの当主、マキリ臓硯。

 凛ならば問題ないとは思う、しかし、奴はどこか得体が知れない。ここはいい、すぐに凛の援護にむかってくれ」

「落ち着いてください、アーチャー。士郎と桜、それにキャスターが凛の援護に向かっています。人の魔術師如き、あの三人の敵ではないでしょう」

 

 軽い恐慌を起こしかけていた私の背中は、落ち着き払った彼女の声に蹴飛ばされた。

 ああ、いつまでたっても、悠久ともいえる時を費やしても、私は君には届かない。

 それは屈辱に満ちた認識であり、歓喜に溢れた再認だった。

 

「ならば――」

 

 言葉を繋ごうとしたそのとき、暗い木々に遮られた彼方から、地を振るわせるような轟音が響き渡った。

 まさにその瞬間。

 我々の意識がほんの一瞬だけ逸れた。

 その刹那。

 大量の短剣が私目掛けて投げつけられた。

 その数およそ十五。

 一息の間に投擲されたことを考えれば驚異的とすらいえる数だ。

 この身には、反撃する力はおろか、防御する力も、かわす力も残っていない。

 だからこそ、暗殺者は私を狙ったのだ。

 

「危ない!」

 

 セイバーは私の体を抱えて、傍らの草むらに飛び込んだ。

 その隙に、暗殺者は意識の無い騎乗兵を抱え上げ、轟音のした方向へ駆け出した。

 

「待て!」

 

 

 空に浮かんだ白い髑髏の仮面。

 さっき見たのは、哂う髑髏。

 今見ているのは、啼く髑髏。

 啼いているはずの髑髏が哂う。

 

 ――くふ。くふふふ。

 

 ああ、嫌な笑い声だ。

 凛は思った。

 

 

 私が放った宝石。

 そこから生まれた、空気すら固形化させるような冷気と、膨大な質量を備えた氷柱。

 それらは、散々私を苦しめた巨大な蟲を完膚なきまでに葬り去り、さらにはその主であったマキリ臓硯をも仕留めるはずだった。

 しかし、マキリ臓硯は生きている。

 なぜなら、私の魔術は、得体の知れない啼き顔の髑髏によって打ち消されたからだ。

 蒼い襤褸を纏った長身。

 髪の毛の色も蒼。

 そして、周囲を圧するほどの魔力と、エーテルで編まれた肉体。

 クラスは不明。

 しかし、あれはサーヴァントだ。

 

「くふ。くふふ」

 

 まるで頭の内側にへばりつくかのような、粘着質な笑い声。

 だが、今の私に、そんなことを気にする余裕は無かった。

 

「ありえないわ……」

 

 サーヴァントには抗魔力を備えているものが少なくない。

 それはクラスによって与えられたものであるときあれば、サーヴァント個人の資質によることもある。

 だから、生半可な魔術ではサーヴァントにダメージを負わせるのは難しい。

 それは知っている。そんなことは当たり前だ。

 だが、私が放ったのは、生半可な魔術ではない。

 少なく見積もってもBクラス。

 使い方によってはAクラスにも相当するような魔術なのだ。

 故に、あの胡散臭いサーヴァントの抗魔力は、私の魔術に及ばなかった。

 そこまではいい。

 しかし。

 何故、あのサーヴァントは生きているのだ。

 半身、しかもサーヴァントにとっても急所の一つである、心臓を含む胴体の大部分を吹き飛ばされて、なおあのサーヴァントは哂っているのだ。

 悪夢だ。

 私はそう思った。

 

「おうおう、よくこの老いぼれを守ってくれたの、礼を言うぞ、プレディクタ」

 

 プレディクタ。

 訳すれば、預言者、あるいは予言者か。

 聞き慣れないクラスだ。

 間違いなくイレギュラー。

 いや、クラスがどうこうという次元ではなく、奴はその存在自体がイレギュラーなのだ。

 なぜなら、数が合わない。

 セイバー。マスター、衛宮士郎。

 ランサー。マスター不明。しかし、既に遭遇済み。

 アーチャー。マスターは私。

 ライダー。マスター、マキリ慎二(?)

 キャスター。マスター、遠坂桜。

 アサシン。マスター、マキリ臓硯(?)

 バーサーカー。マスター、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 これで七騎。

 ならば、あの髑髏は?

 八騎めが召還されたのか?

 いや、それはない。

 サーヴァントは七騎。

 これはルールだ。

 プレイヤーは、ルールを破ることはできる。不正を働くこともできよう。

 しかし、ルールそのものを作り変えることは絶対できない。

 ならば、あの髑髏は、何者だ?

 

 

 一陣の風が吹いた。

 辺りは戦場さながらである。

 抉れたコンクリート。捻じ曲がって、拉げた街灯。引きちぎられた柵。街路樹はなぎ倒され、ベンチは吹き飛び、海浜公園という名詞に相応しくない荒地が出来上がっている。

 それでも、今ここに集まった面子が本気で戦えば、この程度では済まされないことは容易に想像がつく。

 桜の魔術によって刻まれた深いコンクリートの亀裂。

 それを挟んで、二つの陣営が並び立つ。

 セイバー、アーチャー、キャスターの三騎を従えた遠坂凛を中心とする陣営。

 ライダー、アサシンの二騎と、蒼い髑髏を従えたマキリ臓硯の陣営。

 たった七騎のサーヴァントが戦うだけの儀式。

 しかし、それには戦争の名が冠されている。

 ならば、今まさにこの場で起きようとしているのは、まさに戦争そのものなのだろうか。

 

「まあ、今日はこんなところかの」

 

 

 老人の声。

 遠い昔、どこかで聞いたことがある。

 イメージは錆びた鉄。

 自らの腐敗と、周囲への腐食。

 

「ずいぶんと虫のいい話ね、臓硯。あなたが納得するのは勝手だけど、こちらがそれに付き合う義務はないわ」

 

 姉の声。

 いつも、傍で聞いている。

 イメージは冬の朝焼け。

 鮮烈なまでの冷たさと、内に秘めた熱。

 

「ふむ、黙って帰すつもりはないか。まぁ当然じゃな」

 

 なおも笑みを浮べたマキリ臓硯。

 一時とはいえ、私の祖父となった怪人。

 もしも。

 もしも私が遠坂に返されなければ、私はどうなっていたのだろう。

 背筋を羽虫に似た戦慄が走り抜ける。

 そもそも、何故彼は私を手放したのか。

 

「追いたいなら追ってくるがええ。さあ、いくぞ慎二」

 

 そう言って彼は踵を返した。ライダーを抱えたアサシンもそれに続く。

 

「待ってください、お爺様!このまま奴らを見逃すのですか」

 

 一人喚きたてるマキリ慎二。

 弓道部という限られたコミュニティでは精彩を放っていた彼だが、今、この場では他のどの存在より卑小で哀れだ。

 

「残りたいなら一人で残れ。今、圧倒的に有利なのは奴ら。それが判らず、猪突と勇猛の差異も判らんのならここで果てよ」

「っ……!」

 

 彼は血が出るほど唇を噛み締め、片足を引きずりながら老人の後を追った。

 闇に溶けるマキリの魔術師達。

 そして、戦場に残ったのは私達を除けばただ一人。

 半身を吹き飛ばされても生き残った、蒼い髑髏。

 今、姉の魔術で吹き飛ばされた胴体は既に再生し、赤黒い呪刻の描かれた褐色の皮膚が姿を見せている。

 

「なるほど、あなたを殿にして他の全員の退路を確保する。正しい選択ね」

 

 姉が言う。

 確かに、あの場で戦う力が残っていたのはおそらく正体不明のこのサーヴァントだけだろう。だから、姉の言はもっともだ。

 しかし。

 私は言い知れぬ不安を感じていた。

 

「くふ、私が足止めか。なるほどなるほど」

 

 男にしては高い声。女にしては低い声。

 中性的とはいえない。あえて言うなら、人ならぬものの声。

 

「くふふ、戦いに前口上は不要だな。さあ、始めよう」

 

 

 セイバーが切りつける。

 キャスターが唱える。

 それでも、髑髏は其処に在った。

 

 セイバーの剣が両断した右腕は。

 キャスターの呪文で爆ぜた左足は。

 なおも、髑髏と共に在った。

 

 俺の目は、ただその戦いを映していた。

 思考が追いつかない。

 髑髏は、何もしていない。

 最小限の回避行動を繰り返しているだけだ。

 それに対して、セイバー達の攻撃は苛烈極まる。

 バーサーカーと相対したときよりも、その精度は上がっていると言っていい。

 事実、攻撃は命中している。

 しかし、髑髏は笑っていた。

 神経を逆なでするような、一定のリズムで。

 右腕を斬られても。左足を吹き飛ばされても。

 五体満足なまま、そこで笑っていた。

 低く、聞き取りずらい音階で、絶えることなく。

 

「復元呪詛……?いや、それでもここまで出鱈目な回復力は……」

 

 戦慄を帯びた凛の呟き。

 それもそのはずだ。

 斬られ、肉が爆ぜても。

 奴は血の一滴も流していない。

 斬られた右腕は、剣が通り抜けたその直後に接着が完了している。

 破裂した左足が時を遡るように修復した瞬間は吐き気さえ催した。

 奴には刃が届かないのではない。魔術が効かないのではない。

 ただ、その回復力が尋常ではないのだ。それを追い越すことができないのだ。

 

「これじゃあ埒が明かない」

 

 苛ついたようなキャスターの声。

 

「でかいのを用意します。時間を稼いで」

「承知」

 

 前衛を務めるセイバーが答える。その声にも心なしか焦りの色が含まれている。

 激烈な刃。

 髑髏はそれをかわしきれない。

 袈裟に斬られ、胴を薙がれ、首を両断される。

 それでも、髑髏は笑いを収めない。

 

「………、」

 

 キャスターによって紡がれる高速神言。

 神代のそれは、俺如きに聞き取れるようなものではなかった。

 その時、俺の耳にもう一つ、奇妙な旋律が飛び込んできた。

 音源はすぐに分かった。

 髑髏が、詠っている。

 そうか、これは笑い声じゃない。

 引き攣るような一定のリズム。

 笑い声に聞こえるそれは、異様なほど長い一つの呪文だ。

 不味い、奴はずっと詠唱していたのか。

 

「気をつけろ、セイバー!奴の呪文が完成するぞ!」

「させない!」

 

 もともと桁違いに高かったキャスターの魔力が爆発する。

 

「避けなさい、セイバー。これをくらったら、あなたでも無事にはすまない!」

 

 シャラン、と鳴った錫杖。

 放熱板のように広がったローブ。

 天を見上げると、夜空を祭壇に描かれた巨大な魔方陣。

 パリパリと、空気が帯電していく。

 未熟な俺にもわかる。

 これは、神の怒りだ。

 

「忌々しいわ。在るべきところに還りなさい、不死の化物!」

 

「『轟雷』」

 

 錫杖が振り下ろされる。

 それと同時に、耳を劈く轟音。

 瞼に焼け付く閃光。

 切り裂かれる大気、轟く大地。

 これが、人だったモノの成せる業なのか。

 神代の魔術などという安い表現では、到底この奇跡を言い表すことはできない。

 空間ごと漂白するような一撃。

 その後に残ったのは静寂。

 髑髏が立っていた場所を中心に、半径20メートルほどのクレーターができている。

 その中心にある黒焦げの塊。あの夜、嫌というほど見た物体。熱で縮こまり、幾つかのパーツに飛散したそれは、最も大きいものでも手毬くらいのサイズしかない。

 

「……流石です、キャスター。これほどの魔術は見たことがない。確かに、これをくらえばいくら私でも無事には済まないでしょう」

 

 呆けたようなセイバーの呟き。

 

「ふん、キャスターが最弱のクラスだ、などと定義した愚か者に見せてやりたい光景だな」

 

 これはアーチャーの言葉。その言葉にいつもの軽さはない。

 俺と凛、桜は言葉を失っていた。

 これが魔術師か。

 人は、磨き上げられたその刃は、ここまでの存在になることができるのか。

 戦慄と、感動。

 目の前には、一つの到達点がある。

 その圧倒的な幸福を、何と名付ければいいのだろうか。

 

「さあ、奴らを追うわよ。まだ遠くには行ってないはず」

 

 キャスターの言葉で俺達は現実に帰った。

 そうだ、まだ結界は解呪されていない。問題は解決していないのだ。

 早く慎二かライダーを確保して、結界を解かせなければ。

 

「「「「おや、もう私の相手はしてくれないのかな」」」」

 

 もぞもぞと、一斉に黒い塊が動く。

 手毬ほどのサイズのそれ、野球のボールほどのサイズのそれ、小さいものはビー玉くらいのおおきさほどでしかない。

 しかし、それらは生きていた。

 それぞれ、その中心には、赤い亀裂があった。

 ああ、なるほど、あれは口だ。

 手も足も、胴体すら失った燃えカスが、口だけ持って喋っている。

 は、はは、何だ、あれは。

 卵巣を取り出すためにパックリと割られた海栗。そんな外見だが、禍々しさは例えようもない。

 

「「「「――ああ、どうやら主達は無事逃げおおせたようだ。残念だが、今日はここまでだな。私の魔術をお見せするのも又の機会だ」」」」

 

 凛も桜も、セイバーもキャスターも、あっけにとられている。

 そんな中、ただ一人、ぼろぼろのアーチャーが叫んだ。

 

「逃がすか!」

 

 その手には螺旋くれた不可思議な剣と、漆黒の弓。

 満身創痍でガス欠寸前のアーチャーは、まるで長年の怨敵を前にしたかのような凄まじい形相で、髑髏の残骸に向けて矢を構えた。 

 



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interval1 IN THE DARK ROOM 1

interval1 IN THE DARK ROOM 1

 

 暗い部屋。

 単純に光度が足りないのではない。

 例えるなら、空気が人の存在を拒否してしまっているような、そんな部屋。

 その中央の座するは、矮小な老人。歳は既に百をいくつ越えているであろうか。

 しかし、深く刻まれた皺の奥の濁った瞳の色には、枯れた、という言葉を拒絶する妄執が宿っていた。

 

「失礼します、お爺様」

 

 静かに襖が開く。

 

「本日は、申し上げたき儀ありまして、まかりこしました」

 

 畳に額を擦りつけながら、壮年の男が言う。仮に、相手が真実祖父ならば、その指が震えているのは何故か。

 体格でいえば、男と老人のそれは、倍ほどの差がある。にもかかわらず、男は老人に対して怯えを隠すことが出来ないでいる。

 老人にあるのは、目上としての威厳でも、尊属としての優越でもない。

 ただただ、恐怖であった。

 

「お主の言わんとしていることはわかっておる。何故遠坂の娘を無傷で返してやるのか、その事についてであろう」

 

 壮年の男が安心したように息をもらす。

 

「ご明察、恐れ入ります。

 確かに、かの子供、器としては桜よりも優れておりましょう。

 しかし、胎盤としての性能は未知数。それに対して、桜は名門の娘」

 

 ゆえに、より良い跡継ぎを残すためには桜を胎盤とすべきではないか、と男は言った。

 カカ、と乾いた笑いを漏らしながら、老怪が答える。

 

「いや、お主の言うこと、いちいち尤もよな」

 

 その言葉に言外の嘲りを感じ取ったのは、男の神経が過敏なせいではあるまい。

 

「確かに、桜は名門、遠坂の娘。しかも、どうやらその属性は虚数。貴重といえばその価値は量り知れぬ」

 

 虚数属性。魔術師の中でもその属性を持つものは極めて少なく、希少度でいえば、五大元素に勝るとも劣らない。

 老人は続ける。

 

「跡継ぎに悩む魔術の家系など、掃いて捨てるほどある。それらにとって、あの胎盤は喉から手が出るほど欲しい素材であろうな。

 であるに、なぜ時臣は、マキリ如きに桜を譲ったのだ?」

 

 男が、声の震えを押さえながら答える。その質問は十分に予想されたものだったからだ。

 

「遠坂とマキリは古くからの盟友であります。また、魔術師に跡継ぎは一人で十分、不用品を廃棄した、その程度の認識なのでしょう」

 

 沈黙。

 さして広くない空間を、静寂が満たしていく。

 男にはそれが耐えられない。

 神経に鑢をかけられるがごとき一瞬。

 喉が渇く。

 額に嫌な汗が浮かぶ。

 謝ってしまえ、きっと自分が間違えたのだ。

 男がそう思った瞬間。

 

「例えマキリが断絶したとしても、聖杯戦争は続く。あれは既にシステムとして確立されておる」

 

 男には無限とも思われた、その一瞬を打ち破ったのは、やはり彼の前に鎮座する老人だった。

 

「盟友とは名ばかりの血で血を洗う仇敵同士、遠坂にとってマキリなど何の利用価値も無いのだ。少なくとも、敵として存在するうちはな」

 

 老人は続ける。

 

「此度、桜もかの子供も手に入れることが叶わなんだら、マキリは更なる弱体化を余儀なくされたであろう。あれほどの逸材をマキリに提供する家があるとは思えん。もし、遠坂がマキリを警戒するのであれば、今のまま放置するのが最上なのだ」

 

 それはそうだろう。 

 没落がはっきりとした方向を定めるようになってから、弟子の一人すら門戸を叩いたことはなかったのだ。いわんや、貴重な取引材料ともなる、才能ある子供をマキリに提供するような家があろうはずも無い。

 

「更に言えば、不要であることと無価値であることは同義ではない。

 あれほどの鬼才、跡継ぎに悩む名家に競わせれば、一体如何程の値がつくのであろうなぁ」

 

 男は恐怖によってではなく、反駁が不可能なことによって沈黙を強制された。

 

「そうさな、例えばこんな条件ならどうかな。

 我が子を譲る。

 その代わり、マキリという家そのものを譲れ」

 

 男が初めて顔を上げた。その表情には、ありありと驚愕が浮かんでいる。

 

「それは、時臣が桜によってマキリののっとりを図ったということですか。有り得ませぬ。桜には如何なる術もかかっていなかった。それは、他ならぬお爺様が確認なされたではありませんか」

 

 男が早口で捲し立てるのを、侮蔑の視線で見守っていた老人が話す。

 

「確かに、儂が知る如何なる魔術もかかっていなかった。しかし、この世には儂の知らぬ魔術のほうが多いでな」

 

 魔術とは秘するもの。

 いかに親交の深い家系同士であっても、その奥義は必ず隠される。

 さらに言えば、遠坂とマキリは仇敵同士。

 どうして、秘伝の魔術がないと言い切れよう。

 そして、その魔術が、桜を通してマキリを屈服させるような類のものだったら。

 例えば、マキリの種を骨抜きにして、桜の言いなりにさせるような性魔術。

 例えば、マキリの次代を遠坂の言いなりにさせるような、刷り込みの暗示。

 それらが遠坂にあるならば。

 そして、あの時臣ならば。

 やる。

 必ずやる。

 なにせ、自らの娘を取引材料としか考えないような男だ。

 右手で握手を交わして、左手で毒を盛る。

 それくらいは涼しい顔でやってのける男なのだ。

 老人は、そう考えていた。

 

「もしあれが手に入らなければ、多少の危険は冒してでも桜を胎盤としていたであろう。ゆえに、今の状況は、かの子供を拾ってきたお主の功績でもある」

「……わかりました。お爺様の深慮遠謀、私如きに測れるものではありませぬ」

 

 しかし、と男が続ける。

 

「無傷で返す必要があるのでしょうか。桜は、順調に育てば、マキリの障害となるは必定。将来の禍根は小さいうちに断っておくべきでは」

 

 老人の目に、僅かだが驚嘆の色が浮かんだ。

 男がここまで老人に食い下がったのは初めてのことだ。なぜなら、男にとって老人は恐怖そのものなのだから。

 男が老人に歯向かう。それは信徒が神に歯向かうことに等しい。

 老人は、これで魔術の才があれば、と誰にも気づかれずため息を放つ。

 

「桜と、近い将来の遠坂の当主は姉妹。今、進んで遠坂の敵意を買うのは上策ではあるまい。むしろ、桜を無傷で帰すことで、貸しを作るべきであろう。

 さらにいえば、仮に将来、桜が強大な力を持ったとしても、それが遠坂にとって有利に働くとは限らぬ。第三次のエーデルフェルトの例は、我らが倣うべき故事であろうな」

 

 エーデルフェルト。

 天秤の二つ名を持つ魔道の名門。

 その当主には、必ず姉妹が選ばれる。

 しかし、彼女達は姉妹ゆえに聖杯戦争に敗れた。

 属性の近しいものは往々にして反発しあう。

 蛇は蛙を喰らうのではない。

 蛇は蛇をこそ喰らうのだ。

 もし、妹と姉が反発しないなら、反目するように仕向ければよい。

 どんなに良好な関係であっても、傷の一つや二つは必ずある。ならばそれを広げるだけでよい。 

 僅かな沈黙の後に、男が再び顔を下げてこう言った。

 

「わかりました、この件に関して私が申し上げることはございません。どうか、お爺様の御意志のままに事を進められますよう」

 

 男が顔を上げる。

 

「その件とは別にご報告申し上げます。かの子供がもうすぐ目を覚まします。ご足労ですが、修練場まで来られますように」

 

 その言葉を最後に、男は老人の前から退出した。

 老人は考える。

 かの子供を胎盤とするには、あまりに未知数。

 しかし、それを補って余りある利点を備えている。

 何せ、既に完成しているのだ。

 微弱ながら、聖杯に潜むものとのパスも繋がっている。

 仮に、桜を最高の状態に改造することが叶ったとしても、ああはいくまい。

 名は何にしようか。

 あの泥を被ったのだ、記憶などは残っていようはずも無い。

 かの子供は、今まさにこの世に生を受けようとしているのだ。

 そういえばあの子供、魘されて何か呟いていたな。

 あやつにとって、失われた記憶など、前世の記憶に等しかろう。なにせ、奴は一度、劫火の中で死を経験しているのだから。

 ならば、それに基づく名ならば強力な言霊を孕むであろう。

 この身が脆弱な蛹から羽化し、永遠の命を得るための依代。

 聖杯となることを定められた子供。

 相応しいのは如何なる呪名か。



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episode16 悪夢と背中

 くそ、くそ、くそっ!

 なんだ、あのサーヴァントは!

 てんで弱いじゃないか!

 本来、僕の使役するサーヴァントなら遠坂達のサーヴァント三匹如き簡単にぶち殺して然るべきなのに!

 やっぱり借り物のサーヴァントだからだ!僕が呼び出したサーヴァントならあんな無様なことになんてならなかったはずだ!

 屈辱だ!遠坂はおろか、あのカスの衛宮にまで馬鹿にされた!

 あの愚図め!主人が愚図なら、サーヴァントは下種しか呼べないのか!

 苛苛する!苛苛する!苛苛する!苛苛する!苛苛する!苛苛する!苛苛する!

 そういえば、あの愚図はどこに行った!僕の裁きを恐れて逃げ出したか!

 そもそも、なんで僕がこんなところに隠れなきゃいけないんだ!まるで浮浪者か何かじゃないか!

 くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!

 どうすればいい!どうすればこの屈辱を晴らし、僕の正当な評価を取り戻すことができる!?

 ………………………。

 …………………。

 ……………。

 そうだ、まだあの結界があるじゃないか。ライダーはとことん使えない下種だったが、あの結界は悪くない。

 あれを使えばお人よしの馬鹿はもちろん、上手くいけば遠坂姉妹も釣り上げることができるはずだ。いうなれば、穂村原の全ての生徒、教師が僕の庇護のもとに置かれているのと一緒なのだからな。

 素晴らしいアイデアだ。凡人ならこうはいかない。やっぱり僕は天才だ。

 なにが「遠坂を誘い出す材料にする」だ。なにが「あくまで示威。発動はさせない」だ。道具は、武器は使ってこそ意味も意義も生まれるんだ。初めから撃つつもりのない拳銃なんて、モデルガンと変わらないじゃないか。

 そうだ。何かおかしいと思ってたんだ。あいつの意見を聞いたのが間違いだったんだ。

 あの愚図の顔を立てたのがそもそもの過ちだった。一応はサーヴァントを借り受けた形になってたから言う事を聞いてやってたが、ここまで使えない奴だとは思えなかった。いや、使えないだけならまだ可愛いものだ。あれは足枷だ。僕の足を引っ張る、性質の悪い雌豚だ。よし、決めた。あいつは衛宮の前で犯してやる。あいつは隠してるつもりかもしれないが、衛宮に惚れてるのはわかってるんだあの屑が射をしてたとき妙に熱い視線を送ってたからなちょっといじればすぐにはつじょうするあばずれのくせしてぼくにめいれいするなんてどれだけみのほどしらずかおもいしらせてからおかしておかしておかしておかしてなぐってなぐってなぐってなぐってなかせてなかせてなかせてなかせてこうかいさせてやるやるやるそうすればあのばかでもだれがえらくてだれにしたがうべきかわかるだろうはははははははははははハハハハハハハハハハ―――――――。

 よし、そうと決めたらあの下種サーヴァントの傷を治さなけりゃならない。主人と一緒で役に立たない雌だが、僕にだって慈悲の心はあるんだ。いい女とヤルことができる、そう言えばすっ飛んでくる発情猿を何人も知っている。生贄は多いほうがいい。すぐに電話しよう。三十人もいれば十分だろう。衛宮、遠坂、今は優越感に浸っていろ。明後日だ。明後日になればお前達は僕の足元に跪いているんだからな。

 

 episode16 悪夢と背中  

 

 黒い、黒い檻の中に居た。

 おそらくそれは檻で在りながら、手に触れる事すら叶わない。

 おそらくそれは黒で有りながら、目に感じる事すら在り得ない。

 檻で在って檻で無い物。

 檻という単語以外でそれを表すならば、無、辛うじてそう表現する事が出来るか否か。

 体が揺れて居る。

 振れる様に左右にでは無く、

 揺する様に上下に。

 それは荒れた野を行く荷馬車の様に。

 まるで幼子をあやす母の背中の様に。

 揺れる視界の中で、憂える世界が燃えて居る。

 赤い人、紅い人。

 黒い者、黒い物。

 俺に向かって伸ばされる手、手、手。

 それらは救いを求める様で在り、しかし仲間を求める様でも在った。

 

 いつもの夢だ。

 忘れるなと。

 罪を忘れるなと。

 生者は忘れても死者は憶えていると。

 俺が俺に向かって突き付ける断罪の穂先。

 解っている。

 そんな事、百も承知だ。

 俺は罪人で。

 この世界は俺に不向きだ。

 世界はもっと優しく無くて良い。

 乾いた風が良い。

 あの風ならばきっとこの生温い悪夢も吹き飛ばしてくれる。

 あの世界なら俺はやっと生きて行ける。

 だからこの世界は俺の世界じゃない。

 俺に相応しい世界じゃ無い。

 

 誰かが走っていた。

 我武者羅な足音。

 荒い吐息。

 懸命に懸命に懸命に。

 あれは凛だ。

 でもこの世界は俺に相応しく無い世界だから。

 彼処で走っている凛も俺の知らない凛だ。

 いや、そもそもあれは凛なのか。

 必死で逃げる凛では無い彼女。

 振り返り絶望し。

 前を向きなお走る。

 ああ何て滑稽な永久機関。

 そんな事をしても逃げ切れる訳が無いのに。

 それでも彼女は奔って居た。

 奔って奔って。

 何から逃げて居るのか。

 何を守ろうとして居るのか。

 その姿は嘲笑出来る位珍妙で。

 涙が出そうな位尊くて。

 そんな事をしても無駄だよ。

 だってお前が守ろうとして居る物はとびっきり無価値だ。

 路傍の石の方が幾倍も高尚だ。

 無駄だから。

 無駄なんだってば。

 なのに。

 あなたは何で。

 止めてくれ。

 涙で視界が濁る。

 檻の隙間から千切れんばかりに手を伸ばす。

 それでも。

 それでも人影の背中は遥か遠くに。

 どんどん僕から遠ざかって行く。

 あれが守ろうとして居るのは。

 お願いだから。

 十分だから。

 もう僕は大丈夫だから。

 逃げて。

 お■■■■ん。

 

 あ。

 蟲が。

 

 捉った。

 蟲が虫が。

 

 断末魔の声。

 蟲が虫が蟲が。

 

 彼女が覆われて。

 蟲が虫が蟲が虫が。

 

 全身を震わせる絶叫。

 蟲が虫が蟲が虫が蟲が。

 

 彼女を咀嚼する小さな口。

 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が。

 

 彼女を食べているのは黒い塊。

 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が。

 

 彼女の髪が紅い血で染まっていく。

 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が。

 

 体があっという間に小さく成って逝く。

 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が。

 

 食い千切られて噛み砕かれて飲み下されて。

 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が。

 

 細やかにされて微小に還されて刹那に戻されて。

 蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が虫が蟲が。

 

 ――蟲が彼女を食べて居る。

 

 晩餐は、やっと、終わった。

 どこにも、生命は、居なくなった。

 よろよろと、人影が居たところまで、歩み寄る。

 なんだ、最初から檻なんて、無かったんだ。

 そうか、あれは、俺の怯懦だったんだ。

 俺は、死ぬのが、怖かった。

 ばしゃっと、水気のある音が、足元で響く。

 食い残しの上で、人だったものの上で、蹲る。

 赤い水溜りに手を突っ込んで、何かを、掬い取ろうとする。

 赤い、赤い髪の毛が、するりと指の間から滑り落ちる。

 

 何も掬えない。

 誰も、救えない。

 命を、掴め、ない。

 ああ、また、置いて、いかれて、しまった。

 

 もう、なみだも、ながれない。

 

 無限の喪失感が襲って来る。

 これでまた一つ罪を犯した。

 最後に残ったのは人影の目玉。

 赤い絨毯の上、真ん丸な眼球がぱしゃりと転がって。

 錆色の瞳が優しく俺を眺めていた。

 

 粘ついて、冷え切った汗が不快だ。

 全身を覆う重たい冷たさ。早々に着替えないとほぼ間違いなく風邪を引くことになるだろう。

 沈み込むほど柔らかい大きなベッドの上、鈍重な動きで体を起こす。

 薄く靄がかった頭を押さえる。頬を擦って眠気を追い出す。

 ぬるり、と液体の感触。

 それは汗か、それとも涙か。

 最初に感じたのは安堵。夢でよかった、心の底からそう思った。

 それでも、寝覚めは最悪だ。

 枕が変わったくらいで悪夢に魘されるほど可愛げのある神経をしているつもりはないのだが、今日のは飛び切り最悪を極めた夢だった。

 追い詰められていく焦燥感と、底なし沼に沈み込んでいくかのような無力感。誰かが、何かが自分のために消えていく、そんな喪失感。それらの一つだけでも死にたくなるのに、今日の夢は全部が揃っていた。劇薬のカクテルを飲み込んだって、こんなにダウンな気分は味わえないだろう。

 それでも、果たしてそれがどんな夢だったのかがはっきりとしない。

 漬物石みたいな頭に残っているのは、揺れる体、遠ざかる背中、赤い髪。

 視線を周囲に漂わせる。なにか面白い物でもないだろうか。この悪夢の残滓を振り払ってくれるものならなんでも大歓迎だ。

 重厚なドア。深い絨毯。歴史を感じさせる、使い込まれた机と椅子。

 カーテンの隙間から窓の外を覗く。まだ日は昇っていない。

 枕元にあった目覚まし時計を手に取る。蛍光塗料で淡く光った長針と短針は、周囲がまだ眠りの世界に身を委ねている時間であることを教えてくれた。

 それでも、再び体を横にする勇気は無い。もし、もう一度同じ夢を見たら、俺はきっと発狂する。

 だからといってドアを開けて部屋の外に出るのも憚られる。初めて来た他人の、しかも女性で魔術師の、家で真夜中にごそごそ動き回る度胸は、俺には備わっていない。

 結局のところ、俺に出来ることは何も無かった。

 天井を見上げる。

 それは衛宮の家よりも遥かに高い場所にあった。

 頭の中で、あの悪夢の再生ボタンを押す。押したくはない。それでも押してしまう。

 背中。

 襲い掛かる圧倒的な危難から俺を守るために、どんどん小さくなっていく背中。

 あの大きな背中は誰のものなのだろう。

 凛?

 いや、違う。

 もっと古い。

 藤ねえ?

 それも、違う。

 もっともっと古い。

 切嗣?

 近い。

 だが、それでもない。

 もっと、もっと、もっと。

 ああ、そうだ。あれは……。

 

「先輩、そろそろ起きてください」

 

 優しい声が俺を起こす。

 耳の奥に綿が詰まっているみたいで、ぼわぼわと、不思議な反響音が残る。

 

「あー……、桜……?」

 

 情けないほど枯れた声。

 それが自分のものであると気付くまでに数瞬の時を必要とした。

 

「うーん、いい感じに寝ぼけてますね。今なら襲っても憶えてないかな?」

「わかった、起きる、今すぐ起きさせていただきます」

 

 ちぇっ、と可愛く口を尖らせる我が後輩。

 柔らかな曙光に照らされた横顔は、聖母のそれを思い起こさせる。

 

「朝食の準備が出来ています。早く降りて来てください。それとも私が口移しで……」

「さー、いえっさ。了解しました、軍曹殿。今すぐ行きます」

 

 くすくすと、口元に手を当てながら控えめに微笑う桜。その微笑みは、彼女と同じ名を持つ花の花弁の色のように、淡く、儚い。

 

「あ、と、そうだ、桜、ちょっとお願いがあるんだけど」

 

 ドアノブを掴んで、今まさに部屋から出ようとしていた桜が、顔だけをこちらに向ける。

 

「はい?なんでしょうか、先輩」

「ちょっと寝汗をかいちゃって、このままじゃあ風邪を引いちまう。なにか着替えとかないかな」

 

 腕を広げて『ほら、こんなに』というポーズをとる。

 昨日の夜貸してもらったパジャマは、外から見てもはっきり分かるほど汗で濡れて重くなっていた。客たる身分で家主に注文するのは心苦しいが、この時期に風邪を引いてみんなに迷惑をかけるわけにはいかない。

 

「あ、大変。わかりました、すぐにお持ちします」

 

 急激に引かれたドアが、そのぞんざいな扱いに抗議の声を上げる。

 ぱたぱたと、廊下に響くスリッパの音。

 まだ眠気の残る頭でぼんやりと考える。

 結局、あれからまた眠ってしまったらしい。

 夢の内容はほとんど忘れてしまった。忘れてしまったということは、憶えておく必要がない、頭がそう判断したのだろう。

 だから、もう気にしないことにした。

 あの背中なんて、俺は知らない。

 



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episode17 昨日の顛末

『○月○日 素材を手に入れる』

 

 episode17 昨日の顛末

 

「ごちそうさまでした」

 

 空になった皿とカップを前に、手を合わせる。

 

「はい、お粗末さまでした」

 

 桜も同じく手を合わせる。

 今日の朝食は、フレンチトーストと、かりかりベーコンのサラダ、挽きたての香り高いコーヒーというお手本みたいな洋風のものだった。

 衛宮邸の朝は白いご飯と味噌汁から始まることが多いのだが、遠坂低の朝はその外見に違わず洋食から始まるものらしい。

 いつもは畳の上に直接座りながら箸を進めるので、外国の映画か何かでしか見たことがないような大きなテーブルに座って食事するのには些か緊張した。

 しかし、どうやらそれは俺だけだったようだ。

 家主である遠坂姉妹は言うに及ばず、俺達のサーヴァントであるセイバー、キャスター、アーチャーも、まるでこういった豪華なセットが当然であるかのように、物凄く絵になっている。本当に映画のワンシーンみたいだ。

 

「朝食はとらない主義なの」

 

 そう言った凛はぼんやりとコーヒーの香りを味わっている。その横に、まるでそれが当然であるかのように控えるアーチャー。二人のことを初めて見る人間なら、深窓の令嬢とその執事、そう考えても不思議ではあるまい。事実、凛はお嬢様であり、アーチャーは召使だ。もっとも、凛の場合『深窓の』なんて修飾語は間違ってもつかないし、アーチャーも、召使であってもその仕事は給仕なんて平穏なものではない。

 

「なによ、なんか文句でもあるの」

 

 じとりとした三白眼で俺を睨む凛。

 もしも学校にこんな顔をした凛が現れたら、男女を問わず卒倒する生徒が続出することだろう。

 凛が朝に弱いことは俺の家での経験から知っているが、それにしても今日の凛は辛そうだ。目の下に出来た大きな隈も、普段の彼女にはありえない物ではないか。

 

「えっと、大丈夫か、凛」

 

 俺の問いに、全身を包帯と絆創膏で着飾った彼女は、机に突っ伏した。

 

「大丈夫じゃない。今日は駄目」

 

 あはは、と乾いた笑いを漏らす桜。

 ふう、っと溜息を漏らすアーチャー。

 どうやら、彼女は本当に駄目らしい。

 

 

「逃がすか!」

 

 夜気を切り裂くような裂帛の叫び。

 満身創痍のアーチャーが手にした剣は、いままで彼が手にした多数の武器とは比較にならないほど巨大な魔力と深い神秘を備えていた。

 彼がまさにその剣を射放たんとしたとき、彼の主である凛が叫んだ。

 

「だめアーチャー!」

 

 その言葉に、辛うじて赤い弓兵は手を止めた。

 

「あなた、消滅する気!?少し頭を冷やしなさい!」

 

 確かに、今のアーチャーは俺なんかにも分かるくらい激しく消耗している。もしも、彼が今からあの剣を放つなら、それは命を賭けたものにならざるを得ないだろう。

 心底悔しそうな顔をした彼は、ゆっくりと弓を納める。

 

「「「くふ、ありがたいありがたい、どうやら見逃していただけるようだ」」」

 

 挑発するような不快な声が、色々な場所から同時に聞こえる。

 

「「「今日はこれで終劇。

  だが、忘れるな。今宵、今晩、このことは、月が消えても忘れるな。

  我が名はヨハネ。

  我は予言者にして預言者。貴様らに絶対の死を予言し、預言し、そして実現させる者ぞ」」」

 

 あっさりと、まるで舞台役者のように自分の名を口にした黒い塊達は、突然吹いた強い風を合図にしてその場から姿を消した。

 そして、周囲には何の気配もない。

 狂った魔術師の気配も、圧倒的なサーヴァントの気配も、小動物の気配すらも。

 だから、本当に戦いは終わったのだろう。あくまで『今日は』という条件付だが。

 

「大丈夫か、凛」

 

 俺の声に、凛はゆっくりと振り向く。

 

「これが大丈夫に見えるなら、とっとと眼科に行ってきなさい」

 

 アーチャーを霊体に戻し、深く溜息をついた彼女。

 凛は本当にぼろぼろだ。

 全身は泥と埃と血に塗れ、お気に入りと言っていた真紅の外套は見るも無残なボロ布に成り果てている。すらりと伸びたしなやかで長い足にも、無数の擦り傷や切り傷が刻まれている。

 それでも、彼女は胸を張って立っていた。誰かの手を求めるでもなく、膝に手をついて身体を休めるでもなく、腰に手を当てて前のみを見据えていた。

 

「姉さん!」

 

 凛に駆け寄る桜。

 

「桜、ありがとう、命拾いしたわ」

 

 姉さん、姉さん、姉さん、と、涙声でしゃくりあげながら何度も繰り返す桜。

 『家族を失うことを極度に恐れてる』、一昨日の凛の台詞が頭に浮かぶ。

 凛はそんな桜を抱き締め、頭を撫でてやっていた。

 

「大丈夫、私はどこにも行かないわ」

 

 慈愛に満ちた声。

 身体は傷つき、服はぼろぼろで、声だってしゃがれていたが。

 今の凛は、今までで一番綺麗だった。

 

「ああ、でもそろそろ駄目みたい」

 

 苦い笑いを浮べながら凛が言う。

 

「きっと私は意識を失うわ。でも、落ち着いてね、桜。私は大丈夫。ただの魔力切れだから」

 

 幼子をあやすように、優しい声で語りかける。

 

「遠坂の家まで運んで頂戴。あそこなら、アーチャーも私もすぐに回復できる。運ぶのは、そうね、セイバーか士郎にでもお願いして」

 

 瞼が重くなってきたのか、とろんとした表情の凛。ちらりと俺のほうを見てから、再び視線を桜に戻す。

 

「それじゃお願いね」

 

 そう言って彼女は体を桜に委ねた。どうやら本当に意識を失ったらしい。

 桜は壊れものを扱うようなたどたどしい手つきで凛を横たえた。

 胸部の上下運動からわかる規則正しい呼吸は、彼女の体の機能が正常なものであることを教えてくれる。

 

「俺が運ぶよ」

 

 一歩前に出たセイバーの肩を制してそう言った。

 声は自分でも不思議に思うくらい固い。

 セイバーは困ったみたいな表情を浮べた。

 

「シロウ、凛について、あなたが責任を感じるようなことなど何一つない。

 彼女は自分の意思で戦いに赴き、自分の力で生き抜いた。それに対してあなたが自分を責めるのは、凛だけでなくあなた自身をも侮辱している」

 

 分かっている。

 そんなことは分かっている。

 でも、自分が許せないんだ。

 俺がもっと強ければ。

 俺が慎二の凶行に気付いていれば。

 彼女が傷つき倒れることなんて無かったはずだ。

 

「それでも、俺が運ぶ。頼む、セイバー」 

 

 彼女は無言で道をあけた。

 凛の傍らで屈みこんだ桜は、縋るような赤い目をしていた。

 

「先輩、姉さんをお願いします」

 

 弱弱しいその声。

 頭では凛の状態が致命的なものではないことを理解しているのに、感情の方がそれについて行かない、そんな感じの声だ。

 

「分かってる、任せてくれ、桜」

 

 セイバーに手伝ってもらって、彼女を背負う。

 意識の無い人間を背負うのは非常に難しいという話を聞いたことがある。背負われるほうの重心が安定しないからだ。

 しかし、それでも彼女は軽かった。全身の血を流し尽くしてしまったのではないか、そう思ってしまうほどに。

 手に液体の感触が伝わる。おそらくは彼女の汗か血液だろう。

 自分の無力さに歯噛みする。

 遠坂邸までの短くない道のりは、顔を顰めるくらいに苦かった。

 

 

「それにしても、ヨハネ、ねえ。えらくあっさりと真名を教えるものね。おそらくはくだらないミスリードなんでしょうけど…。

 でも、本当にあれがヨハネなら、納得できる点もあるのよね」

「どういうことだ、凛?」

「士郎、ヨハネっていったら何を思い浮かべる?」

「そりゃあ、黙示録のヨハネ、かなぁ」

 

 ヨハネの黙示録。

 最近はとっぷり聞かなくなったけど、一昔前にはテレビ番組で特集を組まれることすらあった終末思想。世紀末の訪れと共に恐怖の大王が舞い降りる、マスコミがそんな馬鹿げた書物を呷って視聴率を稼いでいた期間が、確かにあったのだ。

 その中で預言の信憑性を高めるために引き合いに出されたのが、壊滅的な原子力発電所の事故を予言していたといわれるヨハネの黙示録である。

 実際は救済の預言の性格が強いのだが、そのショッキングな内容から破滅の預言書として紹介されることが多い。

 

「そうね。

 でも、ヨハネっていうのはキリスト教圏ではかなりメジャーな名前だから、個人を特定するのは難しい。

 あいつ、自分のことを預言者って言ったから、まず真っ先に思い浮かぶのは『黙示録のヨハネ』だけど、もしも、あれが『十二使徒のヨハネ』ならあの不死性にも説明がつくの。まぁ、この二人は同一人物っていう解釈あるんだけどね。

 あくまで神話学の話でしかないし、異説の方が有力なんだけど、使途ヨハネはキリスト再臨のときまで決して朽ちぬ身体を与えられたっていうふうに読み取れるくだりが聖書にあるわ。この世が滅びるときにイスラエルを導く天使になったとも言われてる。だから、もしあいつが本物の『ヨハネ』なら、あの馬鹿げた再生力にも一応の説明はつくってわけ。

 でも、それってほとんど神霊なのよねぇ…。そんなもの、どうやって…」

 

 凛はそう呟いて黙り込んでしまった。

 

「なあ、それはいいんだけど、凛。それとあいつと何の関係があるんだ?」

「あなたこそ何言ってるのよ。敵の情報を探る、戦いの基本でしょう?」

 

 ……?

 どうも会話が噛み合わない。

 やはり、昨日の戦いで凛は疲れているのだろうか。

 改めて凛を眺める。

 マキリ臓硯の使役する使い魔との戦いで負ったのだろうか、全身のいたるところに大なり小なり傷がある。

 中でも一番痛々しいのが右頬についた大きな裂傷だ。おそらくは蟲の鎌によってつけられた傷だろう。彼女は傷の上に不思議な軟膏のようなものを塗っている。

 俺の視線に気付いたのだろうか、首を傾げて尋ねた。

 

「……何よ」

「いや……傷、残っちまうかもな」

 

 沈んだ口調の俺の言葉に、凛は破顔した。

 

「馬鹿ね、あなた、そんなことであんなに暗い顔をしてたの?」

 

 息も絶え絶えに笑って、それから彼女は不敵な笑みを浮かべた。

 

「確かに痕くらいは残るかもね。でも、それで影響を受けるのは私以外の人間よ。私には何一つ影響を与えない。だからこんなもの、気にするだけ無駄よ」

 

 出来立ての陽光を浴びながらそう言い切った彼女。

 

「……ああ、そうだな。何があっても、凛は凛だ。何もお前を変えられないさ」

 

 鷹揚に頷く彼女は、よく見知った俺から見ても、輝くように美しかった。

 コーヒーカップをカチャリ、とソーサーに戻した凛が、今日一番真剣な視線を桜に向けた。

 

「桜、綾子は」

 

 その言葉にびくり、と体を振るわせる桜。

 そういえば、凛は昨日結局目覚めなかったから事の顛末を知らないままだ。

 

「……命に別状はありませんし、暴行を受ける前に保護しました。でも……やっぱり意識はまだ……」

 

 美綴を救うことが出来たのは偏に幸運の賜物といっていいだろう。

 魔力に秀で、探索の魔術の使い手だったキャスター。

 近代から現代に至るまで、この街の管理を担い続けていた遠坂という家。

 そして、セイバーの持つ未来予知にも似た直感。

 このいずれが欠けても、彼女を救い出すことは叶わなかった。

 

 

 冬木の霊脈を利用してキャスターが街中に放っていた数多の使い魔達が、不審な動きをする幾つかの集団を掴んだ。

 しかし、短時間でそれらの中から美綴をさらった犯人を特定するのは流石の彼女にも困難を極めた。もちろん、ゆっくりと時間をかければそれは容易なことではあるのだろう。

 だが、今や時間は金剛石の粒より貴重だ。美綴を救う意味でも、凛を助ける意味でも。

 全てはセイバーに委ねられた。

 無茶な話だ。何の判断材料も渡されず、ただ直感のみで当たりくじを引けといわれても、そんなこと出来るはずもない。まして、賭かっているのは一人の女性の人生、そう言っても過言ではないのだから普通は躊躇する。

 それでも、彼女は眉一つ動かさずに地図の一点を指差した。

 そして、彼女の直感は完璧に的中した。

 

 裏路地に面した、崩れかけの廃ビル。

 潮風の影響下、錆びて朽ちかけた螺旋階段を五段飛ばしで駆け上がる。

 キャスターによって強化された筋力が、人間離れした曲芸を可能にする。

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 それでも、翼を持たないこの身がもどかしい。

 背後から響く足音は三つ。

 俺のすぐ後ろで響くのがセイバーの足音。

 少し下から聞こえてくるのが桜とキャスターの足音だろう。

 

「シロウ、ここは私に任せてください」

 

 俺の身を案じる彼女の言葉を無視する。

 はぁ、と小さな溜息が聞こえたのは、その忠告が無駄なものと悟ったからか。

 目的地は最上階。

 地上20メートルの高さまで一気に駆け上る。

 途中、階段の踊り場でたむろしていた少年達がいた。

 顔は憶えていない。だって、すれ違いざまに叩きのめしたから。

 もしもここが目的の場所じゃなかったら、額を地面に擦り付けて謝ろう、頭の隅でそんなことを考えながらひたすらに足を動かす。

 無限に続くかのように思えた階段がついに途切れた。そのことが、自分が目的の階まで来たことを教えてくれる。

 どうせ中から施錠されているだろう、錆の浮いた、それでも重厚な非常口のドアを蹴破る。

 がん、という盛大な衝突音。

 一瞬遅れて響く、どたん、という間の抜けた音は、倒されたドアの不平の声か。

 中は思ったより広々していた。

 細かいパーテションは工事によって取り除かれているのだろうか、ワンフロアの隅々まで見渡すことが出来る。。

 漂う紫煙には、煙草以外の匂いが含まれていた

 光源は小さかった。おそらくキャンプ用のランタンか何かだろう。

 その小さな光に照らされて、二十人前後の若い男女の集団が見て取れた。彼らは訝しそうにこちらを見ている。

 数瞬の空白があって、それから彼らは一斉に笑い始めた。

 こちらの人数が少ないこと、どう見ても警察には見えないことで安堵したのかもしれない。

 人垣の中心に美綴はいた。

 意識は無いようだ。薄明かりでも分かるほど青白い顔を、がっくりと前方に傾けている。

 椅子に座らされ、後ろ手に縛り付けられていたが、着衣にはそれほど乱れがない。どうやら間に合ったようだ。

 

「なに、お前ら?」

 

 彼らなりの威嚇なのだろうか、一人の男が妙に粘ついた声を喉から絞り出しながら誰何する。

 その声と同時に幾人かの男が立ち上がる。中にはかなり体格に恵まれた者もいた。

 

「ああ、お前が慎二の言ってた『便利屋』クンか。なに?見物に来たの?いいぜ、ゆっくりしてけよ、そこらの無修正モノよりかは刺激的なやつを見せてやる」

 

 一斉に下卑た笑い声が巻き起こる。中には明らかに少女の声もあった。それが俺には信じられない。

 

「帰りたきゃ帰ってもいいぜ。ただし後ろの子は置いていけよ」

 

 後ろの子。おそらくはセイバーのことか。なるほど、魔力を感じ取ることの出来ない者にとって、獅子は子猫に映るらしい。

 交渉の余地は無いだろう。いや、こんな奴らと話している時間なんて無い。そんなの無駄な労力だ。

 ゆっくりと彼らに近づく。

 無言のそれを敵対行動とみなしたのか、誰かがビールのビンを放ってきた。

 がつん、と鈍い音をたてて、それが俺の頭に命中する。

 視界が赤く染まる。

 ちょうど良い。

 どうせ、この部屋は赤く染まるのだから。

 そして、気がついたとき、立っているものは誰もいなかった。

 男は悉くが地に伏せり、女は怯えたように身を寄せ合って震えていた。

 俺が手にした得物は短い鉄パイプ。それが二本。

 双剣のように握られたそれらは、ぬるりとした赤い血で彩られていた。

 

「シロウ、少しやりすぎでは」

「ふん、女を性欲処理のモノとしか見れないような下種どもには当然の報いよ」

 

 溜息と共にキャスターが言う。

 

「お嬢ちゃんが戦ってるのはすぐそこでしょ。ならば『門』を使うよりも直接向かった方が早いわ。先に行きなさい、私はこいつらに然るべき処置をした後ですぐに向かうから」

「頼んだ、キャスター」

 

 俺とセイバー、桜は扉に向けて奔った。

 

 

「そう……なら、あなたは胸を張りなさい。あなたは確かに綾子を助けたのだから」

 

 その声に含まれていたのは、虚飾の励ましではない。己の分身の功績を讃える、称賛の響きだけがあった。

 

「でも……」

「少なくとも、慎二の馬鹿が綾子に手を出すのを防げた人間はいない。

 ならば、傷跡を最小限に抑えること、それがあなたに課せられた役割で、あなたは完璧にそれを全うした。あなたが自分を誇ることができないのならば、それは命令を下した私の責任ということになってしまうわ」

 

 いつもより幾分硬い口調の凛。

 それは、きっと遠坂という魔術の名門を統べるものとしての声なのだろう。

 最初は目に薄っすらと涙を浮べていた桜も、辛うじて笑顔と呼べる表情を作った。

「……わかりました。すみません、姉さん」

 

 満足げな顔をした凛が、僅かに苦笑する。

 

「謝る必要はないわ。……でも、あなたと士郎はどこか似てるわね。不必要に責任を背負い込むところとか、自分より他人を大切にしすぎるところとか。なるほど、あなた達はお似合いかもね」

「ねっ姉さん!」

 

 にしし、と例のチェシャ猫笑いを浮かべた凛と、真っ赤になって何かを否定する桜。

 そっか、いくら桜だって俺とお似合いなんて言われたら嫌がるに決まってるよな。

 

「そういえば、キャスター。『然るべき処置』とか言ってたけど、あの後どうしたんだ?」

 

 悠々と食後の紅茶を楽しんでたキャスターは、視線を彼方にやったままこう応えた。

 

「別に。たいしたことはしてないわよ。最低限の記憶操作と悪夢の刷り込み。『だいたいは』こんなものね」

 

 ふうっ、と虚ろ気な溜息を吐き出す彼女の瞳は、何かを思い出して楽しげに揺れていた。

 

「『だいたいは』以外のところを詳しく聞きたいな」

 

 彼女は今日初めて視線を俺に向け、『魔女』という形容に相応しい、あまりに相応しすぎる表情を浮かべた。

 

「魔女の軟膏って知ってる?」

「魔女の軟膏ってあれだろ?よく漫画とかで魔女が大釜で煮てるどろどろの」

 

 俺の稚拙なイメージに、彼女は苦笑する。

 

「そうね、概ね坊やのイメージで合ってるわ」

「士郎、あとでちょっと顔貸しなさい」

「先輩、あなた本当に魔術師ですよね?」

 

 俺の魔術の指導を引き受けてくれた美人姉妹が、揃いも揃って奥ゆかしい笑みで俺を射抜いた。

 ゴッド、俺、何か悪いことしましたか。

 

「普通の軟膏が何種類もあるみたいに、魔女の軟膏の効能も一つではないわ。

 媚薬になるものもあれば、人を操り人形に変えるものも、超人的な力を授けるものもある」

 

 気を取り直して、そんな感じでキャスターが続ける。

 

「じゃあ、今回キャスターはどんな軟膏を使ったんだ」

 

 にやり、と、男性ならば誰もが底冷えする、それは絶対零度の笑顔。

 

「ドクニンジンを主体にした、一番性質の悪いのを大奮発しておいたわ。本当は蛙にでも変えてやろうと思ったのだけど、あんな奴らを蛙に変えても可愛くないし、第一そんなあっさりした魔術じゃあ面白くない」

「ああ、なるほど。確かに下種な連中には丁度いい特効薬ね。慎二用に私も貰おうかしら」

 

 妙なところで不可思議な連帯感が生まれつつあるが、俺にはなんのことやらさっぱりだ。

 

「ドクニンジン?一体どんな効果があるんだ?」

 

 控えめに桜が教えてくれた。

 

「男性を不能に変える秘薬です、先輩」

 

 不能。

 この場合の不能っていうのは当然そのことだろう。

 しかも、その薬を処方したのは神代の大魔術師。その効能は折り紙付、きっと一生消え去ることはあるまい。

 つまり、あの場にいた連中は、今後死ぬまで男性として役に立たないというわけだ。

 

「それはまた……」

「やりすぎ、とでも言うつもりかしら?」

 

 そんなことはない。

 きっと、いや、確実に奴らは初犯ではあるまい。

 今回は未遂に終わったが、奴らの手馴れた手口から言って、犠牲になった女性は少なくないはずだ。

 ならば、この程度の罰では生温過ぎるのではないか、そんな気すらする。

 

「いや、当然の報いだと思う。むしろ足りないくらいだ」

 

 俺の言葉にキャスターは頷く。

 

「そうね、だからあいつらには飛びっきりの悪夢をプレゼントしておいたわ。自分の大切な女性が、自分達がしてきたことと同じ目に遭う、そんな悪夢。きっとやつらの内の何人かは罪悪感で自殺するでしょうね」

 

 こともなげな彼女の言葉に驚く。

 

「それはいくら何でも……」

 

 やり過ぎではないだろうか。

 

「じゃあ、ちょうどいい罰って何かしら?どうすれば奴らに汚された女性達に報いることができるの?教えて頂戴、坊や」

 

 それは――。

 

「はいはい、この話題はこれで終わりよ。下衆な罪があって、過酷な罰があって、そして何も残らない。これはそれだけのお話。これ以上時間を割く価値なんてないわ。私達には決めないといけないことが山ほどあるんだから」

 

 ぱんぱんと手を鳴らした凛が言う。

 確かに、今の俺達にはもっと重要なことがある。

 

「そのことなんだが、凛。これからは凛達の家を本拠地にするってことでいいのか?」

 

 凛は真剣な面持ちで頷く。

 

「あなたの家の結界は優れてるけど、気配遮断のスキルをもったアサシンが正式に敵に回った以上、その意味を成さないと考えた方がいい。

 ならば、火力と守備力、そして回復力に優れた遠坂の家を本拠地に据えるのが賢明だと私は思う」

 

 凛の意見はもっともだ。

 遠坂の家には侵入者を生かして返さない無数のトラップが仕掛けられているという。そして、過去幾度にもわたる聖杯戦争を耐え凌いだその防御力は衛宮の家のそれとは比べ物にならない。更に言えば、ここは既にキャスターの作成した陣地、『神殿』になりつつある。遠からず衛宮の家の警報装置よりも優れたものが完成するはずだ。

 唯一の欠点は目立ちすぎることだが、それは遠坂という家系が持つ宿命のようなもので、防ぐ術はない。ならば開き直ってここを本拠地にするのが正道だろう。

 

「ああ、俺も凛と同じ意見だ。それに、あの『門』はまだ使えるんだろう?攻めるにせよ守るにせよ、あれは役に立つと思う」

 

 無拍子で彼我の距離をゼロにする。

 こと戦略をたてる上で、これほど魅力的な条件はあるまい。

 相手の位置を正確に把握することさえできれば、これ以上ないくらいに鮮やかな奇襲が成功するだろう。なにせ、相手からしたら何もない空間から突然敵が攻撃してくるのだ。防ぎようなどあるはずもない。

 それに、万が一のとき、例えばバーサーカーが攻めてきたときにもあの『門』は使える。戦局が不利になれば逃げればいいのだ。いくらあの怪物でも、空間転移に喰らいついてくることはできないはずだ。もちろん、一回使ってしまえば種は割れて、二度と使えないくらいに破壊されてしまうだろうが、それでも一度は逃げ切れる、その意味は大きい。

 

「じゃあ、今日からは士郎に私達の家に移ってもらう。藤村先生には適当にごまかしておいて」

 

 そうだ、藤ねえがいた。

 きっと、俺が遠坂の家に泊まるって言ったら、

 

『ばっかもーん、貴様、どこのエロゲの主人公か!桜ちゃんだけでは飽き足らず、遠坂さんにまでその毒牙をのばそうなんて、このわたしがゆるさん!

 ていうか今すぐ私専用ルートを用意しろ!』

 

 くらいは叫びながら大暴れするだろう。

 まあ、それはそれで構わないのだが、不必要なカロリー消費は避けたいところだ。

 

「ああ、わかった。何とかしてみるよ。とりあえず一度家に帰らせてもらうぞ、制服とか鞄とかも取りに行かないといけないし」

「では、私も一緒に」

 

 セイバーと俺が同時に腰を浮かす。

 凛と桜は笑顔でそれを見送る。

 これで今朝の作戦会議は終了。

 



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episode18 彼女の訓練

『……結局のところ、この戦争を勝ち抜くための重要な要素の一つとして、マスターたる魔術師の性能というものを無視することはできない。

 マキリ、遠坂、アインツベルンは言うに及ばず、外来の魔術師ですら強力な英霊に縁のある品を用意してくる。つまり、よほど飛び抜けて強力な英霊を用意するか、逆に、敵がとんでもなく貧弱な英霊を召喚するかでもしないかぎり、英霊の質のみを持ってこの戦いを楽に勝ち抜くことは叶わないということだ。

 そういう意味では、今回のアインツベルンのとった戦略は概ねの方向性として正しかったと言える。事実、あと一歩で聖杯を手にするところであった。サーヴァントをサーヴァントで押さえ、その隙に相手のマスターを電撃的に殲滅する。これがもっとも確実でもっとも効率的な戦略であると私は確信するに至ったわけだ。

 しかし、私が考えるようなことは他の者も考えているはずだ。魔術の性質そのものが絶望的に戦闘に不向きなアインツベルンを除けば、宝石魔術を操る遠坂、時計塔の派遣する屈強な魔術師等、一筋縄ではいかない相手ばかりだ。手酷い裏切りにあったアインツベルンが今回も外来の魔術師を用意するとは考えにくいが、それでも事態がどう転ぶかは、なお予断を許さない。

 つまり、通常に強力な程度のマスターでは、魔術師の性能をもって、この戦いを勝ち抜くことは困難と言わざるを得ない。それは素材の質自体がどれほど高くても同じことだ。

 十の神秘を一の結晶にして残すのが魔術師。

 ならば、一の結晶から刹那の粋を取り出すことは出来ないものか。それを身に宿した完成品ならば、烏合の魔術師程度、物の数ではあるまい。

 思索は出来ている。それは、この国に根を下ろす、退魔と呼ばれるある一族の秘儀を模したものだ。

 当然、常人に耐えられるものではない。しかし、あれは最高の素材である。肉体的にも、精神的にも。万が一精神が壊れても構わない。むしろ、その方が望ましいとすら言える。

 実験は明日から始めよう。この胸の高鳴りが、これより私が得る無限の生の予兆であることを願って止まない』

 

 episode18 彼女の訓練

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 

 冷たい道場の床の上、素足で竹刀を振るう。

 己のイメージはかの弓兵。倒すべき相手はかの槍兵。

 繰り出される光線のような突きを捌く。避ける。いなす。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 

 おそらくはオリジナルの半分以下のスピードの槍兵。

 しかし、それでも今の俺には反応できる限界を超えている。

 徐々に追い詰められ、後退していく。

 そして――。

 

「そこまでですね、シロウ」

 

 朝の張り詰めた空気の中、落ち着いた、澄んだ声色が響き渡る。

 

「はぁっ、はぁっ、セイ、バー、か、はぁっ」

 

 呼吸がなかなか整わない。

 情けない、超えるべき目標はまだまだ先なのに。

 

「はぁっ、はぁっ、はあぁぁ、すぅぅ、ふぅ、」

 

 息を一気に吐き出し、ゆっくりと吸う。

 無理矢理に呼吸を落ち着け、彼女と向かい合う。

 道場の入り口に立ち、朝日を背負った彼女は、どこか神話に登場する戦女神を思わせた。

 

「どうだったかな、セイバー」

「独闘の相手はランサーですか」

 

 やはりセイバーには分かっていたようだ。

 

「ああ、一応その通り。すごいな、どうして分かったんだ?」

 

 彼女は真剣な瞳で俺を射抜きながらこう答えた。

 

「シロウの剣の動きを見れば、相手の武器として長柄を想定しているのは容易にわかります。そして、おそらくは尋常でないほどの突きの速度、中でもあなたが想定する敵といえば考えられるのはかの槍兵くらいのものでしょう」

「なるほど。で、セイバーから見てどうだった?」

 

 彼女は無言で道場に入り、竹刀を手にした。

 

「学校までまだ時間はあるのでしょう?私が感想を述べるのは剣をあわせてからでも遅くはない、そう思いませんか?」

 

 不敵な笑みを浮べたセイバー。

 いいだろう、この前の俺とは一味違うところを見せてやる。

 いまだ夜の冷気を孕んだ道場の空気。

 対峙するは剣の英霊。

 普段は、まるで菩薩のように柔らかな彼女の笑顔。しかし、それを鑿で削れば、現れるのは数知れぬ敵を屠った羅刹の貌だ。

 一縷の隙も見逃さぬ、獅子の瞳。

 否応無く緊張に硬くなる身体。

 

「シロウ、これは訓練ですが、しかし同時に実戦です。気を抜けば叩き伏せます。お忘れなく」

 

 正眼に構えた彼女の持つ竹刀。

 その切っ先から放たれる殺気が、喉元をひりつかせる。

 周囲の空気は凍てつき、まだ微動だにしていないというのに、汗がこめかみを伝う。

 恐怖が身体を動かそうとする。

 人は死を恐れる以上に、死に至るまでの緊張を恐れるのだ。

 前に出よう、楽になろう、そう主張する身体を精神力で押えつける。

 まだだ。まだ俺は追い詰められていない。

 

「……いきます」

 

 静かな侵略宣言。

 瞬間、視界に映る彼女が大きくなった。

 分かっている、ただの錯覚だ。

 彼女の正中線が全くぶれず、頭部がほとんど上下しないまま前に出てきたから、一瞬彼女が巨大化したように見えただけ。

 しかし、それは、俺が彼女の間合いに入ってしまったことを意味していた。

 最小限の動きで、最短距離を、最高の速度をもって襲い来る刃。

 それを防ぐことが出来たのは、ただ単に勘が上手く働いてくれただけのこと。

 真正面から襲ってきた、頭部を狙った打ち下ろしの一撃を、切り上げるようにして弾き返す。

 ばきぃ、と、まるで金属同士がかち合った様な凄まじい衝突音。

 痺れる両手を叱咤しつつ、追撃を避けるためにバックステップで飛び退く。

 間合いは、一足一刀のそれから、遠間に。

 セイバーは、既に油断無く正眼の構えに戻っていた。

 その表情はいつもの冷静なそれ。

 だが、その瞳の奥に、髪の毛一本分ほどの驚愕の色が湛えられていた。

 

「……次、行きます」

 

 比喩ではなく、彼女の姿が掻き消えた。

 探すな。視線を彷徨わせたら、その瞬間に命を失うぞ。

 勘で判断するな。

 知識で判断しろ。

 それ以上に、経験で判断しろ。

 経験?

 そんなもの、俺にあったか?

 無いなら、補え。

 自分に無いなら、誰かの経験を引っ張って来い。

 誰か?誰のものだ?

 決まっている、俺の内に宿った、偉大なる誰かのものだ。

 

 ――下!

 

 飛び退く時間は無い。

 スウェーして上体を反らす。

 直前まで俺の顎があった場所を、すごい勢いで通過していく切っ先。

 地に伏せるような構えのセイバーが放った必殺の一撃が、弧を描くように宙を舞う。

 

 ――まずい!

 

「はああぁ!」

 

 身体を、まるで射離す直前の弓のように撓めていた彼女が、そのエネルギーを前方に向けて解放する。

 体当たり。

 肩口が狙っているのは、俺の鳩尾。

 鳩尾への打撃。

 横隔膜の機能停止。

 呼吸の困難。

 結論。

 あれが当たれば、少なくとも一分は動けなくなる。

 一分の隙。

 確実な死。

 駄目だ。

 よけろ。

 よけろ。

 よけろ――無理。

 なら、防げ。

 腹に力を入れて防げ。

 両手を交差させて防げ。

 膝を間に入れて防げ。

 とにかく、死にたくなければ防御しろ!

 稲妻のような思考速度。

 不純物の無い生存本能。

 次の瞬間。

 どん、と。

 自動車と衝突したかと錯覚するような、凄まじい衝撃。

 交差させた両手を貫いたそれは、僅かだが鳩尾に響いてきた。

 呼吸が停止する。

 体が吹き飛ぶ。

 だが、彼女はどこまでも無慈悲。

 既に追撃の体勢を整えている。

 次に放たれる一撃こそ、真の必殺。

 かわしようがない。

 防ぎようもない。

 ならば、どうする。

 どうする。

 決まっている、ならば攻めるのみ。

 ここだ。

 ここが、俺の精一杯の虚勢を張るときだ。

 宙に浮いた体を重力に任せる。

 自然、体は地に倒れる。

 覚悟していたので、衝撃で意識が飛ぶ、ということはない。

 寝そべるような姿勢。

 そこから、剣を横薙ぎに振るう。

 狙いは彼女の足首。

 地面と剣が描く平行線。

 当たれ。

 当たれ。

 当たれ。

 あ。

 駄目だ。

 『当たれ』では当たらない。

 それはただの希望的観測に過ぎない。

 『当たれ』では当たらない。

 『当たる』。

 その意志で放った一撃でなければ、彼女には触れ得ない。

 

「甘い!」

 

 剣先は、宙に跳ねた彼女の足が、その直前まであった場所を通過しただけ。

 振り下ろされる、彼女の剣。

 避けられるはずがない。

 ならば、受けよう。

 そこまで考えて、はたと気付いた。

 ああ、今、俺は一本しか剣を持っていない。

 駄目じゃないか、どこで忘れてきたんだろう。

 俺の剣は、もう一本――。  

 

 ――。

 

「気がつきましたか、シロウ」

 

 ぼやける視界に映し出されたのは心配そうに顔を顰めた彼女。

 ああ、やっぱりセイバーには敵わなかったんだ。 

 苦痛に顔を歪めながら、ゆっくりと体を起こす。

 

「あちゃ、また負けたか。今回は結構いいところまでいけると思ったんだけど」

 

 彼女は顔を顰めたまま、しかし心配とは違う感情を込めてこう言った。

 

「シロウ、以前私が言ったことをもう忘れたのですか。サーヴァントは人に有らざる者。人たるあなたが敵しようなど片腹痛い」

 

 言葉とは裏腹に、慈愛に満ちた彼女の声。

 なんとなく一言くらい言い返してやりたい気もするが、彼女の言の正しさを実証された後ではぐうの音も出ない。

 

「ちょっとは強くなった気がしてたんだけど、やっぱり一日や二日でそんなに変わるはずがないよな」

 

 がっくりと肩を落とした俺を見ながら、セイバーは言った。

 

「気付いていないのですか?あなたは一昨日とは比べ物にならないほど強くなっている」

「はっ?」

 

 慰めの言葉かとも思ったが、彼女の瞳はどこまでも真剣だ。それに、下手に実力を勘違いさせるような危険な嘘を彼女がつくはずがない。

 

「少し悔しいが、アーチャーの特訓は確かにあなたの糧になったようだ。彼には感謝しなければいけませんね」

 

 アーチャーとの特訓?なんだ、それは。

 

「アーチャーがどうしたんだ?俺はアーチャーに稽古をつけてもらった記憶なんてないんだけど」

「憶えていないのですか?」

 

 びっくりしたような顔をしたセイバーは、少し考え込んでから静かにこう言った。

 

「……まあいいでしょう。大事なのは結果ですから」

「なあ、セイバー。実際のところ、今の俺の力はどれくらいなんだ?」

「防御に限れば、一般人というカテゴリに含まれる中では最も堅牢と呼べるレベルに達していると言っていいでしょう。

 その動き、そして咄嗟の判断力、一昨日のあなたと同一人物とは思えない。悪い夢を見ているような気すらします」

 

 一昨日。

 ああ、今思い出した。

 俺が止めてくれ、って言ってるのに、血に餓えた獅子は許してくれなかったんだ。

 うふふ。

 自分でも、最高の笑みを浮かべていることが分かる。

 しかも、言うに事欠いて悪い夢か。

 言ってくれるのう、セイバー。

 

「あーっと、守備に徹したその動き、戦術面ではアーチャーに酷似している。よっぽど彼の訓練があなたに合っていたと思っていたのですが……」

 

 視線を明後日の方向に向け、ばつの悪そうな表情をした彼女が続ける。

 

「キャスターによる身体強化を受け、戦術を防衛に限定し、あくまで限られた時間稼ぎを目的として戦うならば、サーヴァント相手でも辛うじて生き残ることができるかもしれない、今のあなたはそれくらいのレベルです」

「……それって、要するに『ずるして逃げ回ればなんとか生き残れるかも』ってくらいだろ?喜んでいいのか落ち込んだ方がいいのか」

「何を言っているのです、以前のあなたならば間違いなく出会い頭に殺される、そんな相手をして生き残る可能性が生まれたのですよ。間違いなく喜んでいいことです」

 

 そう言われると、それはそうかも、と思えてしまうあたり俺は現金な性格をしているのだろう。

 

「ただ、サーヴァントはサーヴァントでしか打倒し得ない。これは絶対の真理。間違えても一人でサーヴァントと立ち会うことなどないように」

 

 ……まぁ、なんにせよやはり今の俺ではサーヴァントと互角に戦おうなど夢のまた夢ということか。

 



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episode19 神父との問答

 落としものを探しています。

 どなたか、見つけられた方は、連絡してください。

 とても大切なものなのです。

 何よりも大切なものなのです。

 全てを失った私に、唯一残ったものなのです。

 どうか、どうか、私と一緒に探してください。

 え?

 何を落としたのか、ですか。

 そんなことは、とっくの昔に。

 忘れてしまいました。

 

 episode19 神父との問答

 

 

 道場での朝錬を終えた俺は、通学路で、桜と彼女に従う霊体化したキャスターと合流した。セイバーは今頃遠坂邸で、凛の護衛兼お守りをしているはずだ。 

 

「今日はどうするんだ」

 

 目的語を省略した曖昧な問い。

 そんなもの、はっきりしすぎている。

 結界。

 人知れず成長を続ける、人喰らいで大喰らいの厄介者。

 それを追い払うには、方法は限定されている。

 サーヴァントを倒すか、それとも……。

 

「今日は情報収集と戦力の回復です」

 

 制服に身を包み、なお悠然と歩く桜が答える。

 

「キャスターに頼んで町中に探索用の使い魔を放ってますが、間桐慎二らしき気配は掴めていません。十中八九、本拠地である間桐邸に立て篭もっているはずです」

 

 そう話す桜の表情からはどういった感情も読み取れない。ただ、慎二に対する呼称からは先輩の文字が消えた。おそらくそれは桜の中で、あいつが倒すべき敵として認識された証左なのだろう。

 

「魔術師の工房に攻め入るとなれば、間違いなく総力戦。でも、姉さんもアーチャーも戦える状態ではありません。急いて仕損じるよりは、落ち着いて確実な勝利を、それが姉さんの方針です」

 

 通学路で交わす会話ではないな、そう考えて少しだけ苦笑する。

 昨日の戦力がマキリの全てだとするならば、俺達と同数の戦力を保有していることになる。そして、こちらはアーチャーが、あちらはライダーが戦える状態ではなかったはずだ。

 ならば戦力はほぼ互角、いや、地の利のある分マキリが有利ということになってしまう。

 それに、他のマスターの動きも気になる。

 暴力の象徴のようなサーヴァントを引き連れた純白の少女。

 いまだ姿を見せないランサーのマスター。

 そのことも勘案するならば、戦力の無闇な投入は愚策に他ならないだろう。

 

「私とキャスターは結界の呪刻の消去を行うつもりです。嫌がらせに過ぎませんが、それでも万が一の時のことを考えると捨て置けることではありませんから。

 先輩はどうしますか?」

「俺が役に立つとは思えないけど、手伝わせてくれると嬉しい。

 でも、桜。思ったんだけど、学校の封鎖とかって出来ないのかな?インフルエンザの流行とか、いくらでも理由は付けられると思うんだけど」

「……もちろん、私も姉さんも、真っ先にそのことを考えました。

 しかし、そういう目立った行動に関する権限は、悉くが監督者たる言峰神父に属しているのです。脅威そのものが顕現化していない今、彼に助力を求めるのはルールに反しますので……中々それは難しいでしょう」

 

 脅威の顕現化がなされていないだって?

 あの結界は、既に十分な殺傷能力を有する段階に入っているはずだ。ただ、発動の瞬間に中の人間が全滅する、その段階に至っていないだけ。

 なんて悠長な。

 

「先輩の仰りたいことはわかっているつもりです。

 本来であれば、既に監督者の権限が発動されるべき段階に達しているのは間違いありません。聖杯戦争という、この大儀式そのものの危機が迫っているのですから。

 でも、言峰神父に一般的な判断や良識というものを求めても、徒労に終わるでしょう。彼は魔術師である私や姉から見ても、更にどこか踏み外しています」

 

 どこか悲しげな桜の声。

 あの夜、あいつと初めて顔を合わせたあの夜を思い出す。

 

 

「さらばだ、衛宮士郎。

 最後の忠告になるが、帰り道には気をつけたまえ。

 これより君の世界は一変する。

 君は殺し、殺される側の人間になった。その身は既にマスターなのだからな」

 

 言いたいことを、言いたいだけ言いきった黒い神父。

 その吐息の混じった空気、それ自体が俺の存在を否定する。

 憎いから逃げるのではない。

 嫌いだから逃げるのではない。

 ただ単に、居た堪れなくなっただけ。

 それは、要するに、この男の言葉が正しすぎるからだ。

 

『――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う』

 

 何を言ってるんだ?

 

『正義の味方には倒すべき悪が必要だ』

 

 そんなこと、当たり前じゃないか。

 

『なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい』

 

 ああ、知っている。

 俺は、衛宮士郎は、この男以上に、ひたすらに――。

 

「待て、少年」

 

 何かを振り切るように扉に向かいかけた身体を、奴の一言が押し留める。

 

「……何だ。まだ説教したりないのか?」

「そう邪険にすることもないだろう。

 神父などという役職についているものの、私は唯の凡夫に過ぎない。己の価値観に合わぬ言など、笑って聞き流すがよいだろうに」

 

 それができないから、腹の底まで気分が悪いってんだ。

 

「……用件があるなら手短に頼む」

「了承した。

 君に一つだけ聞きたいことがあるのだ。

 散々君達の質問には答えてやった。それくらいは罰があたらんと思うのだが」

 

 ……意外だった。

 この男でも、他人に答えを求めることがあるのだろうか。

 

「……俺に答えられることなら」

「君にしか答えられないことなのだよ。

 衛宮士郎、あっと、君の義父の名は何と言ったかな?ああ、ちなみに、これは私の聞きたいことではないぞ」

「……衛宮切嗣、だ」

「――そう、衛宮切嗣だ。思い出した」

 

 目を閉じ、恍惚とした表情を浮かべる、敬虔なる神の使徒。

 何か、大事なものが汚された、そんな気が、した。

 

「あんた、切嗣を知っているのか?」

「君は自分の存在が如何に特異か知らないと見える。

 あの火事で生き残った人間が何人いたか知っているのか?

 私は第四回聖杯戦争が終結した時点で次回の監督役たる責を負っていたからな、片手の指で数えられるほどの災害孤児の事後処理、ある程度は把握しているつもりだ。

 しかし、その詳細まで把握しているわけでは無い。私が知りたいのは、まさにその一点なのだよ」

 

 なんだ。

 このおとこは、なにがいいたい。

 

「……回りくどいのは好きじゃない。それほど頭もいいほうじゃない。聞きたいことがあるなら、手早く言ってくれ。ついでに言うと、気も長い方じゃないんだ」

「そうだな。手短に、そういう条件がついていたのを失念していた。

 では問おう、衛宮士郎。

 君は、衛宮切嗣に引き取られて幸福だったかね?」

 

 ……気が、抜けた。

 はは、この男、何言ってんだか。

 そうか、そんな質問なら大歓迎だ。

 一滴の濁りも無く、言い切ることが出来るさ。

 

「――ああ、間違いなく、幸せだった」

「――そうか」

 

 神父は、瞑目したまま、今度こそ動かなくなった。

 問答は終わったのだろう、俺がここにいる理由は既に失われた。

 踵を返し、先に扉のところで待つ凛のところへ。

 

「悪い、待たせた」

「別にそんなに待ってないわ。さ、行きましょう」

 

 扉に手をかける。

 まさにその時、空虚な神の部屋に、少し大きめの声がした。

 

「衛宮士郎」

 

 誰の声かは分かりきっている。

 俺は振り向かない。きっと、あいつだってそれを望んでなんかいない。

 

「これが正真、最後の忠告になろう。

 不幸とは己の業の深さが呼び寄せるものだが、幸福とはただ神の御業に過ぎぬ。それが降りかかったことについて、君が恥じ入ることなど何一つ無い。

 むしろ誇るがいい、君は神に愛されている」

 

 問い詰めても、例え拷問にかけられても、あの男の己の真意を告げることはないだろう。

 俺はゆっくりと扉に力を込めた。

 背中には、誰の視線も感じなかった。

 きっと、あいつはまだ目を瞑ったままだ。

 

 

 学校を、紅い直方体が覆っていた。

 校門をくぐる生徒が、まるで嬉々として断頭台に登る殉教者に見える。

 これでも、あの男は動かないのか。

 これが、危機ではないと、言うつもりか。

 

「おかしい……昨日はもっと……」

 

 隣の桜の呟きが、まるで壊れたラジオの音声のように聞こえる。

 妙なノイズ。

 これは、この結界のせいなのだろうか。

 

「先輩、大丈夫ですか?」

 

 一昨日と全く同じ台詞を桜に言わせてしまった。

 情けない。

 これでは立場が反対じゃあないか。

 

「ああ、問題ない。一昨日と違って、元気も気合も魔力も十分だ」

 

 少しおどけて言うと、彼女は穏やかに笑ってくれた。

 

「ええ、虚勢でもそれだけ言えるなら大丈夫ですね。

 ふふ、これは姉さんの台詞だったかしら」

 

 口に手を当てながら控えめに笑う桜。

 なんとなく分かった。

 きっと、彼女は無理をしていたのだと思う。

 無邪気で、小悪魔みたいで、それでいて世話焼きな彼女。

 それよりも、控えめに、全てを包み込むように笑う彼女の方が、より彼女の本質に近い。

 漠然と、そんな気がした。

 

 

 時間は10時40分。

 二限目の授業が終わり、本来ならお決まりのチャイムが聞こえる時間だ。

 きーんこーんかーんこーん、と、聞きようによっては間抜け極まるようなその音階は、しかし、この場所を支配する性質の悪い拍動音に掻き消されていた。

 どくん、どくん、と、まるで聴診器を無理矢理押し付けられたかのように耳の奥で不快な音が響く。

 

「これが結界の本体です」

 

 隣に居るはずの桜の声が遠い。

 空気は、まるでチョコレートを溶かしたみたいに真っ赤で、舌を痺れさせるくらいに甘ったるい。

 固体化したみたいな酸素のせいで、呼吸が上手く出来ない。

 

「よりにもよって、こんなところに仕掛けられてたのか」

 

 本来ならば、呟くような俺の独り言ですら朗々と響く静謐な空間。

 弓道場に、結界の本体は仕掛けられていた。

 

「慎二の奴、一体何を考えているんだ……」

 

 自分の知人ですら、サーヴァントの食料としか見ることができないのか。そこまで捻じ曲がってしまったのか。

「……正直、今の段階でここまで魔力を溜め込んでいるとは思わなかったわ。まずいわね」

「キャスター、これの解呪は……」

「出来るわけないでしょ。

 あの小物の言うことが正しければ、これは魔術じゃなくて宝具。宝具みたいに具現化した神秘、魔術如きじゃあ歯が立たないわ」

 

 唇に人差し指を当てながら、悔しそうにキャスターが言う。

 

「とりあえず、魔力の集中を阻害させる結界くらいは張っておくけど……。気休め、でしょうね。いずれ呪刻のほうが、それを食い破るわ」

 

 キャスターが呟く、現代ではあり得ない言語。

 巨大な呪刻の周りを、透明な薄い膜が覆う。

 少しだけ、空気が軽くなった。

 

「さあ、本体に出来るのはこれが限界。あとは派生した呪刻を叩き潰すだけね。さっさと探しましょう」

「ああ、それなら俺に任せてくれ。っていうか、俺に出来ることはそれくらいしかないしな」

 

 意識を集中する。

 右の掌を、ゆっくりと地面に付ける。

 いくらなんでも、敷地全体の構造把握をするのは無茶だ。とりあえず、本体の仕掛けられたこの弓道場の探索から始めよう。

 

「――同調、開始」

 

 頭に、この建物の設計図を描く。

『なんて無駄な才能だ』、切嗣にはそう嘆かれた。きっと、その言葉は正しい。

 でも、今、この力が誰かの役に立っている。

 それが、とても誇らしい。

 

「――よし」

 

 設計図は描けた。

 あとは、空間を歪ませている異常を探すだけ――。

 

「あれ?」

 

 何も、見つからない。

 というよりも、設計図そのものが上手く読み取れない。

 

「はは、おかしいな……」

 

 もう一度。

 そう考えて、呪文を唱えようとしたとき。

 ふらり、と身体が崩れた。

 

「先輩!」

 

 ふらついた体を、桜に抱き止められる。

 ひんやりとした掌が、どこか心地いい。

 

「大丈夫ですか、先輩……って凄い熱じゃないですか!」

 

 そう、なのだろうか。

 全く自覚はない。

 体だって驚くくらい軽いし、気分も爽快だ。

 

「大丈夫だから。今度こそ上手くいく。ちょっと待っててくれ」

「駄目、先輩!」

「――Ατλασ――」

 

 その言葉を聞いたとき、俺の口はその機能の大半を失った。

 

「全く……あなた、魔術の危険性を本当に理解しているの?理解せずにそれなら頭の足りない愚か者だし、理解してそれなら救いようのない愚か者だわ」

「……!」

 

 呪文はおろか、言葉を発することすらできない。まるで咽頭部の機能が根こそぎ奪われてしまったみたいだ。

 呼吸が、出来ない。

 苦しい。

 酸素が、足りない。

 

「キャスター、止めて!」

「……ふう、桜の頼みじゃあ仕方無いわね」

 

 ふ、っと。

 俺を縛っていた強い力が、消えた。

 

「かっ、かはっごほっごほっごほっ!」

 

 呼吸をすると同時に咳き込む。

 そんな俺を、キャスターは冷たい視線で射抜いた。

 

「あなた、魔術をなめてるの?それとも自殺願望でもあるのかしら?まあ、どちらにしても、死にたいなら違う死に方を選びなさい。そんな死に方をされたんじゃあ、魔術に身を捧げたものとして、あまりに不快よ」

 

 耳道をそのまま貫く、氷柱のように、冷たく尖った声。

 でも、俺は屈するわけにはいかない。

 

「ごほ、大丈夫だ。おれはやれる」

 

 そんな俺を見下ろしながら、やはり霜の降りたように冷たくキャスターは語りかけてくる。

 

「言葉にしないと分からないようなら、言ってあげる。はっきり言って今のあなたは邪魔よ」

「……先輩、私もキャスターの言うとおりだと思います。今の先輩に魔術を行使させるのは危険すぎます」

 

 確かに、魔術の行使は常に死と隣り合わせであり、それを回避するためには何よりも集中力が重要だ。一流の魔術師であってもそうなのだから、まだまだ『見習い』と名乗るにも憚られるようなレベルの俺が風邪引きの状態で魔術を行使するなど、愚行を通り越して自殺行為と言ってもいいのかもしれない。

 そんなことは分かっている。

 分かっているけど、でも。

 

「坊や、今あなたがしなければならないことは体を休めることよ。体調を崩したマスターなんかじゃあセイバーだって本領を発揮できるはずもないし、あなただって戦えないでしょう?今日はお嬢ちゃんと一緒に仲良く寝てなさい」

 

 さっきとはうってかわって穏やかで優しい声。なによりも、その柔和な視線が頑なになりかけた俺の心を溶かしていく。

 

「……わかった、ありがとうキャスター。お言葉に甘えさせてもらうよ」

「ええ、そうなさい。結界の呪刻を探すのには、あなたの空間異常の把握能力は正直欲しいんだけどね」

 

 残念そうに目を細めながらキャスターが言う。お世辞ではないだろうその言葉が、俺には何より嬉しかった。

 

「じゃあ俺は遠坂の家に帰るから。あまり無理はしないでくれよ。あと、危なくなったらいつでも呼んでくれ」

「先輩、もしかして一人で帰るつもりですか?」

「……ああ、そのつもりだけど」

「駄目です!先輩、あなたは今がどういう時期か――」

「分かってるつもりだ。

 今一番重要なのは、俺の安全なんかより、この結界の完成を少しでも遅らせる事だ。そのためには桜とキャスターに余計な手間をかけさせるわけにはいかない」

 

 俺の言葉に、桜は悲しげに俯いた。

 

「……先輩。あなたは、自分の命よりも、この結界の完成を阻止するほうが大事だ、そう言うつもりですか?」

「つもりじゃあない。そう言ってるんだ。だって、この結界が完成したら、何百人っていう人が死ぬんだ。そんなの、俺一人の命なんかとは比べ物にならないじゃあないか」

「……なるほど、自分の命を他人のものと同一に見るなら、その意見は極めて正しいわね。

 でも、普通の人間はそうは考えない。

 ねえ、坊や。あなた、自分の言ってることがどれだけ捻じ曲がってるか、自覚してる?」

「ああ、それくらい、分かってる」

 

 キャスターは、諦めるように、少しだけ微笑んだ。

 

「そう。なら、私も言うことはないわ。桜、ここは私達が折れましょう。きっと、この男に何を言っても無駄よ」

「キャスター……」

「ありがとう、助かる」

 

 そのまま踵を返そうとした俺に、どこから取り出したのか、キャスターは小さな鞄を投げてよこした。

 

「キャスター、これは……」

「私が坊や用に作成した道具。材料が揃わなかったから大した物は作れなかったけど、何かの足しにはなるでしょう。持って行きなさい」

 

 何かの魔術だろうか、その取っ手を掴んだ瞬間に、中に入っている物と、その使い方が頭に流れ込んでくる。

 

「ああ、ありがとう、キャスター。恩に着るよ」

「一応忠告しておくけど、それらを十全に使ってもサーヴァントには歯が立たないわ。それらは、ただ生き残るために使うこと。いいわね?」

「ああ、わかってる。じゃあ、また後で」

 

 

 歩きなれた帰り道。

 しかし、平日の、こうも陽の高い時間にここを歩くのは初めてだ。時間は昼前、太陽は中天に達してすらいない。

 見慣れたいつもの町並みも、心なしか今日は違った表情を見せているように思える。頬を撫でる風の感触すら新鮮だ。ちょっとぶらぶら歩いてみようか、そんな悪戯心がむくむくと生まれてきた。

 でもまあ、今日はやめておこう。後が怖い。風邪引きの身で遊びまわってたことがばれたら、間違いなく桜は怒る。そして、真剣に怒った桜は誰よりも怖いのだ。

 結局、真っ直ぐに遠坂邸までの道を歩いていく。

 思考を支配するのは今までのことと、これからのこと。

 戦いはどれも激烈だった。死にかけたことなど一度や二度ではない。昨日も凛が危険な目に遭った。

 怖いと思う。自分が死ぬのがではない。誰かが死ぬのが怖い。自分の掌から零れ落ちるのが怖い。

 強さが欲しい。みんなを守れる強さが。自身を誇れるだけの強さが。

 

「衛宮先輩」

 

 突然、後ろから声をかけられた。

 冷たく響くその声は、火照った耳朶に心地よく響いた。

 

「代羽。どうしたんだ、こんな時間にこんなところで」

 

 今日は平日、時間は昼前。

 学校とは全く関係のない街中で、顔を見知った学生同士が顔をあわせる可能性なんてどれくらいのものなのだろうか。

 

「その台詞、そっくりそのままお返しします。私は早退、遅刻の常習者ですから、ここにいても何ら不思議はない」

 

 全く自慢できるようなことではないはずなのだが、代羽は妙に誇らしげに自分を語った。

 

「衛宮先輩、優等生のはずのあなたがここにいるのはどういった理由からなのですか?」

「ちょっと風邪気味でね、今日は家でゆっくりすることに決めたんだ」

 

 俺がそう言うと、代羽は嬉しそうに手を合わせた。

 

「ちょうどよかった。実は以前先輩の家にお世話になったときにうっかり忘れていったものがあるのです。もしよろしければ今から取りに言ってもかまいませんか?」

 

 ああ、家でゆっくりするって言ったら普通は自分の家のことを言ってるものだと思うよなあ。まさか凛の家でゆっくりするつもりだとは思わないだろう。

 どうしようか。代羽の提案を断って真っ直ぐ凛の家に向かうか、それとも自分の家に向かうか。

 少しの間迷ったが、俺も取りに帰りたいものがあるので一度自宅に帰ることにした。

 

「ああ、いいぞ。今から来るか?」

「ええ、是非」

 

 



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episode20 彼女の看病

 やはり、この映像は地獄から配信されている。

 私が確信したのは、映像に音声が付加された時だった。

 泣きわめく少女の声。

 昔はこんな声ではなかった。

 そして、今やそれは人の声ですらない。

 獣の叫び声だ。

 最初は意味のある単語で許しを乞うていたが、

 今、その喉から発せられるのは意味をなさない絶叫だけ。

 あああ、とか、ギイイ、とか、

 まるでその苦痛を吐き出そうとするかのように叫び狂っている。

 それはまだいい。

 痛がってくれるほうが、苦しんでくれる方が、救われる。

 しかし、そのうち少女は哂うのだ。

 喉が裂け、それでも叫び、ようやく血を吐き出したときに、

 少女は声にならぬ声で哂うのだ。

 その声を聞いたとき、私は初めて神を呪った。

 自分に腕がついていないことを呪った。

 耳が塞げない。

 私は己の存在が自覚できる全ての時間を、少女の狂笑とともにあらねばならない。

 それは耐えがたい苦痛だった。

 なぜなら、それは私が望んだモノだったからだ。

 私がいたずらに娯楽を欲しがったから、少女は苦しんでいる。

 その事実に気付いたとき、この空間は天国から地獄へと堕落した。

 長い、永い贖罪の時が始まった。

 

 episode20 彼女の看病

 

「ただいまー」

 

 誰もいない空間に向かって帰宅の挨拶をする。特に意味はないが、体に染み付いた習慣というものは中々抜けないものなのだ。

 

「お邪魔します」

 

 後ろから聞こえのは、代羽の声。いつもの彼女の声よりかは幾分柔らかいそれは、無機質な玄関に優しく響いた。

 靴を脱いで下駄箱に入れる。

 とりあえず居間で落ち着いてそれからお茶でもいれようか、そう考えながら廊下を歩く。

 歩きなれたはずの廊下が、今日は不思議と長く感じる。

 あれ、おかしいな。

 そう考えた瞬間、膝から力が抜けてよろめいてしまった。

 

「先輩、大丈夫ですか」

 

 あいも変わらず冷静な代羽の声が、どこか遠くのほうから聞こえる。

 ふわふわしたような、それでいて重く縛り付けられたようなこの感覚は久しぶりだ。どうやら本格的に風邪をひいてしまったらしい。

 

「大丈夫大丈夫、ちょっとふらついただけだから」

 

 自分の声すらどこか遠くに感じながら、家に帰って気が抜けたのかな、などと取りとめもないことを考える。鼻風邪程度ならともかく、足がふらつくような風邪を引くなんて何年ぶりだろう。

 壁にもたれかかって少し休んでいたら、壁とは反対側の手をぐいっと引かれた。

 

「よいしょっと」

 

 あれだけ重かった体がふいに軽くなる。代羽が肩を貸してくれたようだ。

 

「いいよ、重たいだろ」

 

 鼻腔をくすぐるいい香り。香水などのような人工的な香りではありえないそれは、どこかに蟲惑的な雰囲気があった。

 

「心配は無用。これでもそれなりに鍛えていますから」

 

 そう言った彼女の背中は、女性ということを勘案しても小さく、そして細かった。

 

 

 とん、とん、とん、というリズミカルな音が聞こえる。

 これは味噌だろうか、郷愁を誘う香り。

 ――代羽、料理ができたんだ。

 布団に体を横たえながら、ぼんやりと濁った頭で考える。

 何時以来だろうか、こんなふうに他人に看病されるのは。

 切嗣はとても優しかったけど、こんなふうに料理を作ってくれることはなかった。俺が風邪で倒れたときは、たいそう心配そうな瞳で俺を一晩中見守ってくれていた。

 ひょっとしたらこんなふうに看病されるのは初めてのことなのかもしれない。

 ただ、この感情はひどく懐かしい気がした。

 

「失礼します」

 

 襖の開く音と静かな声。

 彼女と一緒に部屋に入ってきたのは食欲をそそるいい匂いだった。

 

「体を起こせますか?」

 

 枕元に座った代羽が尋ねる。

 

「ああ、大丈夫。よいしょっと」

 

 声を出しながらでないと持ち上がらない身体が恨めしい。

 代羽はそんな俺の背中を支えながら、湯気の立つ小さな土鍋を載せたお盆を差し出した。

 

「手早く作れるものということで味噌仕立ての牡蠣雑炊を作ってみました。お口に合えばいいのですけど」

 

 消化にいい雑炊。浅葱を散らして仕上げたそれは目にも鮮やかだ。

 

「口のほうを合わせるよ。ありがとう」

 

 お盆に乗せられたレンゲを使って、雑炊を掬う。

 もうもうと湯気が立つそれに息を吹きかけて冷まし、ぱくりと一口。

 ……美味い。

 味噌仕立ての雑炊は下手をすると味が濃すぎたり、しつこくなりすぎて食べれたものではなくなることがあるが、これは絶妙のバランスで限界を見極めている。細かく刻んだ野菜と、ふっくらと煮られた牡蠣の相性も最高だ。

 ひょっとしたら、代羽は俺よりも料理が上手いのだろうか。ほんの少しだけ、驚いた。

 身体が求めるままに箸を進めていたら、いつの間にか土鍋は空になっていた。

 

「ごちそうさま、凄く美味しかった」

 

 まだ料理の感想すら言ってなかったことに気付く。だから、自然と漏れた感想は何よりも正直だ。

 

「ええ、あれだけ美味しそうに食べていただけると私も作った甲斐があるというものです」

 

 心底嬉しそうな笑みを浮べた代羽。

 こんなに嬉しそうな彼女を見るのは初めてかもしれない。

 普段の彼女は人を寄せ付けない冷たい雰囲気を身に纏っているし、その笑みにもどこか影がある。言葉にするのが難しいが、ここではないどこかに自分を置いている、そんな感じがしてしまうのだ。

 だから、初めて見る彼女の笑顔に見惚れてしまった。

 

「どうかしましたか、ぼうっとして」

 

 気がつくと、吐息が感じられるほど間近に彼女の顔があった。

 驚いて、動けない。

 心臓が、跳ね上がる。

 自分でわかるほど、真っ赤になっていく顔。

 

「あれ、また熱が上がりましたか。どれどれ」

 

 さっきよりも近くから聞こえる声。

 こつん、と額に何かが当たった。

 そこに感じるひんやりとした彼女の体温。

 片手で前髪をかきあげて、目線を真っ直ぐにした彼女。

 黒い瞳。黒真珠みたいにまんまる。ブラックホールみたいにまっくろ。

 こんな瞳に見つめられたら、神様だって恋に落ちるはず。

 

「あ……う……」

 

 間の抜けた自分の声。

 ぱくぱくと、陸に上げられた金魚みたいに口を動かす。

 酸素が欲しいんじゃない、欲しいのは心の平衡。

 一番の特効薬は、あなたとの距離。

 どのくらいそうしていただろう、額に感じる温度が俺の体温と等しく感じられるようになったとき、やがて彼女は怪訝そうな表情で俺から離れた。

 不思議そうに眉をひそめた代羽が、やがて納得したように苦笑した。

 

「……ああ、そういえばあなたには恥ずかしがる理由があるのでしたね」

 

 よくわからないことを呟いて、彼女は今までと同じ、寂しそうな微笑を浮べた。

 

「汗をかいたでしょう、着替えて眠ればいい。栄養と睡眠、それが何よりの薬です」

 

 そう言ってから、代羽は着替えと蒸らした温タオルを持ってきてくれた。

 

「手伝いましょう。さあ、服を脱いで」

 

 それがさも当然というふうに、何気ない口調。

 

「い、いい。じぶんでする」

 

 機械みたいに固い体と、その何倍も硬い声。針で一突きしたら、粉々に砕け散ってしまいそうだ。

 

「恥ずかしがる必要はないでしょう。あなたは病人で看護を受ける権利がある。

 ……それに、私は、男性の裸など、兄のそれで見飽きていますから」

 

 ほんの少しだけ翳った声。理由は、わからない。

 

「それとも、私のような女に看護を任せるのが嫌なのですか。ならばはっきりそう言ってください」

 

 真剣な瞳で俺を見る。真一文字に結んだ唇がひどく愛らしい。

 

「い、いや、そういうわけじゃ……」

「ならば話は早い。そういえば以前のお礼もまだでしたね。さあ、とっとと服を脱ぎなさい」

 

 にんまりと、最高の笑み。

 ああ、神様。

 何故代羽と桜が親友なのかがわかりました。

 朱に交われば、赤くなる。

 朱が染めあって、真っ赤になる。

 そんな埒もない言葉が、不思議なくらいすとんと俺の胸に収まった。

 

「意外と筋肉質なのですね」

 

「まだ生えていないのですか」

 

「へえ、兄さんより大きい……」

 

 汗のふき取りは完了。清潔な下着に着替えも完了。

 さっぱりとした体と、いまだふわふわとした思考。それでも納得のいかない感情。

 一通りの精神的陵辱を受けた俺は、代羽の言葉を聞き流していた。

 もうお嫁にいけない。

 そんな大昔の台詞が思い起こされる。

 俺で遊ぶのに飽きたのか、やがて彼女は鞄の中から五角形の薬包紙を取り出した。

 

「我が家秘伝の風邪薬です。これを飲んで一眠りすれば、嘘みたいに体調が回復します」

 

 誇らしげに薄い胸をそらせた彼女は、押し付けるようにその包みを俺に手渡した。

 おそるおそる包みを開けると、そこには金魚鉢にへばりついた苔を乾燥させたような、グロテスクな緑色の粉末があった。

 鼻を突く刺激臭。

 生臭いような、ケミカルちっくな。

 臭いの奥に、大鎌を携えた死神の映像が浮かんだ気がした。

 

「代羽、これ……」

「製造方法は秘密です。もっとも、模造品を防ぐためではなく、治験者の精神衛生のためですけども」

 

 真剣な表情の代羽。普通そこは笑うところなんじゃないのデスカ?

 

「飲む飲まないはあなたの自由。今のあなたに病床に伏せる暇があるならば、ゆったりと身体を治すのも一つの選択肢でしょう」

 

 ぐりぐりと包みを俺の額に押し付けながら彼女が言う。

 

「さあ、どうしますか、衛宮先輩」

 

 そうだ、俺にはぐずぐず眠りこけている暇なんてない。俺にはしなければならないことが山ほどあるのだ。この程度の試練、乗り越えられなくて何が正義の味方か。俺を止めたければこの三倍は持って来い――!

 

 駄目でした。

 すみません、生意気言いました。

 心の中で緑色の悪魔に土下座をしながら思う。

 舌が痺れる。

 手が震える。

 ああ、意識が、意識が……。

 これが、この世で最後の思考。

 

「驚いた。本当に飲むなんて」

 

 目を見開いて、手を口に当てた彼女が言う。

 

「ですが、安心してください、衛宮先輩。効き目は本物ですから」

 

 当たり前だ。

 これで効き目がなかったら、いくらお前が女だからってこの衛宮士郎容赦せん。

 

「でも、本当は飲んで欲しくなかったんですけどね。まあ体調を崩したまま戦うよりはましでしょうから」

 

 苦笑と共に、代羽の声が、どんどん沈んでいく。

 おかしい。何で彼女が悲しんでいるのか。

 嘲笑ってくれ、いつもみたいに。

 君が悲しいと、俺まで悲しくなるじゃないか。

 

「あなたは、きっと前にしか進めない人だから」

 

 代羽、君は何を。

 

「無駄です、先輩。目覚めれば、あなたは今のことを何一つ覚えてはいない」

 

 嫌だ。

 

「わがままを言わないで」

 

 嫌だ。

 

「眠りなさい」

 

 いや。

 

「おやすみ」

 

 お■■ちゃん。

 



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episode21 嘘吐きな彼女

 おいで。

 おいで。

 こっちにおいで。

 友達がいっぱい。

 暖かい毛布をあげよう。

 おいしいお菓子もあるよ。

 不思議な魔法も見せてあげよう。

 こっちは天国だよ。

 

 君の村はどうだい?

 昨日のご飯はどうだった?

 お腹いっぱい食べれたかな?

 そうじゃないならこっちにおいで。

 こっちは天国だよ。

 

 怖いお父さんはいない。

 うるさいお母さんもいない。

 いばりんぼなお兄さんもいない。

 みんなみんな優しいよ。

 だからこっちにおいで。

 こっちは天国だよ。

 

 そうだ、こっちだ。

 ああ、いい子だ。

 神よ、神よ、山の神よ。

 この幼子の輝く瞳に。

 あなたの加護が、ありますように。

 

episode21 嘘吐きな彼女

 

 腹部に不思議な重量を感じる。呼吸が阻害される、微かな不快感。

 何かが聞こえる。規則的に聞こえるそれが、自分以外の誰かの寝息だと気付くまでに多少の時間を必要とした。

 障子の薄い壁を突破して部屋に侵入した陽光は、まだまだ明るい。きっとそれほど遅い時間ではないだろう。

 しかし、年頃の男女が同じ部屋で眠るのは、やはり憚られる。

 少し悪いと思ったが、俺のお腹を枕にして眠りこける人影に声をかけた。

 

「起きてくれ、代羽。朝だぞ」

 

 あと五分、そんな可愛いらしい声が聞こえたことは、墓場まで持っていく俺だけの秘密だ。

 

 

 また少し汗を掻いていたので、下着を替えた。本当なら布団も干したいところだが、今干してしまってもいつ取り込めるのか分からないので、渋々そのまま押入れにしまう。

 代羽はその間、ぼぅ、と焦点の合わない瞳で明後日の方向を見つめていた。ひょっとしたら寝起きが弱いのかもしれない。

 

「大丈夫か、代羽」

 

 先ほどまで立つこともままならなかった病人の言う台詞ではないが、少なくとも今は代羽のほうが調子が悪そうだ。

 

「だいじょうぶです……ほんとうはねおきはいいほうなのですが、さいきんはよふかしすることがおおくて……」

 

 かくかくと頭を前後に、そして左右に揺らしながら、辛うじて彼女は返事を返した。

 なんと言うか、凛の寝起きを冬眠から覚めた熊とでも表現するならば、彼女のそれは発条の切れかけたからくり人形みたいだ。今にも切れそうな動力で、やっとのことで動いている、そんな感じ。

 それに対して、俺の体調はすこぶるいい。まるで風邪を引く前のそれに戻ったような、いや、それ以上に体が軽い。

 

「凄いな、本当にあの薬は効くんだ」

 

 死神を従えた緑色の悪魔だったモノが、今は聖緑の瞳の天使に思える。

 

「あたりまえです。まきりのいがくやくがくはせかいいちぃ……」

 

 そう言って代羽は机に突っ伏した。

 ……なんだかよくわからないが、まあよしとしよう。

 時計で正確な時間を確かめる。

 午後二時。

 どうやら、二時間ほど眠っていたらしい。

 今から荷物を纏めて一時間。

 凛の家に着く頃には四時か。

 なら、部活を休んで帰ってくる桜と合流するのにちょうどいい頃合だろう。

 さあ、とびっきり苦いコーヒーをいれよう。香りだけでこの寝ぼすけが目を覚ますくらい、悪魔みたいに黒く、地獄みたいに熱いコーヒーを。

 

 

「醜態を晒しました……」

 

 俺の隣を俯き加減で歩く代羽。時折ぎりぎりと低い音が響くのは、彼女が歯を軋らせているからか。

 

「先輩、約束してください、今日のことは誰にも話さないと」

 

 今まで見たこともないくらい真剣な光を瞳に灯して、悲壮な顔で彼女が言う。

 きっと必死なのだろう、しかしその表情は、常の大人びたそれとは違って年齢相応の幼いものに見える。

 俺にはそれが愉快で、ついつい軽く返してしまう。

 

「さて、どうしようかな。ああ、今日代羽が俺にしたことを桜に黙ってくれるなら、考えないでもないぞ」

「くっ……なんと卑劣な……」

 

 本気で悔しそうな代羽。やっぱりお前、桜に話すつもりだったな。

 

「私はあなたを看病してあげたではないですか。そのことと私の醜態を黙っておくこと、これで取引は成立するはずだ」

「この前、夜道を送っていってあげたことは?」

「そ、それは、別に私が望んだことでは……」

「看病だって、してくれって頼んだ憶えはないぞ」

 

 悔しそうに黙ってしまった代羽。本当は、彼女に看病されたのはとても嬉しかったので以前のことなどどうでもいいのだが、彼女との掛け合いが楽しくて、ついつい調子に乗ってしまう。

 

「……わかりました。憶えておきなさい、衛宮士郎。この借りはきっと返して差し上げますから」

「ああ、覚悟しておくよ」

 

 きっと高くつくだろう。倍返し、いや、三倍返しくらいは覚悟しておいたほうがいいのかもしれない。それでも俺は、それが楽しみだった。

 

「そうですか、桜の家に」

「ああ、改修工事も終わったらしくてさ、この前のお礼にぜひどうぞって」

「なるほど、ついにあなたも男になる時が来たのですね!相手は桜ですか、それとも遠坂先輩?」

「君はもっと女性らしくなりなさい」

 

 時間は午後の三時。だいたい予定通りの時間に、代羽と二人で商店街を歩く。

 テレビなんかでは、大型のショッピングセンターに押されて寂れた商店街の話などをよく耳にするが、その例はここには当てはまらない。多種多様な店と、それに比例するほど魅力のある店の主人によって、かなりの活況を呈している。

 俺の家から一番近い食料調達ポイントであるここには、昔馴染みの顔が多い。だから、代羽と一緒に歩いていると様々な人から声をかけられる。

 

「お、士郎君、その子はカノジョかい?」

 

 これは八百屋のおじさん。

 少し慌てながら否定する。

 

「違います、この子は俺の後輩で……」

「婚約者の間桐代羽です」

 

 はっ?

 唖然として隣を見ると、満面の笑みの我が後輩。

 視線は八百屋の親父さんに向けられていたが、何故か彼女の冷たい視線を感じた。

 

『カクゴハデキテルカ?シテオクッテイッタヨナ?』

 

 ぴしり、と。

 何かがひび割れる音が、聞こえた気がした。

 

「は、はは、そうなんだ、士郎君もすみにおけないなあ。こいつ、これで結構やんちゃなとこがあるから、シロウちゃんも大変だろう?」

 

 硬い硬い親父さんの声。

 それに答える彼女は、やはり天使の微笑み。

 

「ええ、もう、彼ったらいつも強引で…。さっきも一緒の布団で寝てたんですけど、汗やらナニやらで布団がぐしゃぐしゃになってしまいました」

 

 アノ、シロウサン?

 

 タシカニオナジフトンデネテタケド、アナタハフトンノウエデネテマシタヨネ?

 

 タシカニアセデフトンハシメッチャッタケド、ソレハボクノネアセデスヨネ?

 

「そそそ、そうなのかい?い、いやあ、さいきんのわかものはすすんでるなあぁ、ははは」

 

 オジサンノカワイタワライゴエ。

 

 アハハハ、オレノココロニヒビクノモ、オナジヨウナワライゴエ。

 

「ええ、そうなんです。ところで、おじさん、そこの山芋もらえないかしら」

「や、やまいもですか!?」

「ええ、彼にはたっぷり精をつけてもらわないと、今日の夜も大変ですもの。

 ねえ、あなた?」

 

 シロウノウデガ、ボクノウデニカラミツク。

 

 ミチユクヒトビトノツメタイシセンモ、ボクノカラダニカラミツク。

 

 キョウクン。

 

 オンナノコハ、テイチョウニアツカウベシ。

 

 オコラセルコト、マカリナラン。

 

 キリツグ、アナタハタダシカッタ。マル。

 

 

「ああ、かわいそうな衛宮先輩、これでしばらくあの商店街には近寄れませんねえ」

 

 心底心配そうな代羽。

 ……とりあえず、嘘が上手いのも才能の一つだと思う。

 お前のせいだろ、そう突っ込む気力も俺には残されていない。

 どうやら俺は公園のベンチに座っているようだが、どこをどう通ってここに辿り着いたのか全く記憶にない。っていうか、ここはどこだ?

 

「ねえ、お姉ちゃん、お兄ちゃんっていつもこんな感じなの?なんか川に落っこちたナマケモノみたい」

 

 なんだ、その感想は。普段より生き生きしてるとでも言いたいのか。

 

「私の知る限り、この人はいつもこんな感じですね。生きてるのか死んでるのか、良く分かりません」

 

 代羽、君はどれだけ失礼なんだ。

 

 ん?

 

 今、変な声が聞こえなかったか?

 

「なんか可哀相だね、お兄ちゃん」

「ええ、可哀相な人ですよ、この人は」

 

 哀れむように突き刺さる二組の視線。

 黒い瞳と、赤い瞳。

 小柄な少女と、それより更に小さな子供。

 そこには、あの夜出遭った、鉛の巨人のマスターがいた。



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episode22 少女と少女

「あなたは、祈らないのですか」

「対象が、見つかりません」

「そんなもの、なんでもいい。石ころでも、花でも、土産物屋で買ったキーホルダーでも、それこそ神様でもかまわない。それを見つけるだけで、人は救われます」

「彼は、何にも救われなかった。だから、祈りません」

「そうですか。でも、きっとあなたも祈ることがあるでしょう。自分のためだけではない。あるいは、名前も知らない誰かのために。そうなれば、きっと幸せでしょうね」

「はい。そう思います。きっと、奇跡みたいに、幸せ」

 

episode22 少女と少女

 

 小さな公園。

 まだ明るい日差しの下、母親に見守られながら無邪気に遊ぶ子供達。さんざめくような歓声が耳に心地いい。

 この上ないくらいに、平和な日常風景。

 しかし、俺の心臓は所有者の意志を無視しながら早鐘を刻んでいた。

 どくん、どくん、と。

 己の心臓が刻むリズム、それが耳に響く。

 脇の下を嫌な汗が濡らす。

 目の前に立つ、銀髪の少女。

 あの夜、絶対の死の気配を背負いながら、妖艶に微笑んだ美しい妖精。

 名前は確か……。

 

「イリヤ……」

 

 俺の言葉に、彼女は少し不機嫌そうに応じる。

 

「勝手に人の名前を略すなんて、少し失礼じゃない?……別にいいけどね」

 

 頬を膨らませ唇を尖らせたその表情からは、あの夜の無慈悲な笑顔など、想像もできない。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 バーサーカー・ヘラクレスを従える、最強のマスター。

 出会ったら、殺しあうのが戦争の大原則。

 ならば、ここで戦うしかないのか。

 しかし、彼女は本当に嬉しそうに笑った。

 

「安心して、お兄ちゃん。今日はバーサーカーはいないから」

「えっ?」

「だって、私たちに相応しいのは夜でしょう?こんなに明るいのに殺しあうなんて、つまらないじゃない」

 

 言われてみれば、今この場には、あの大気すら歪ませるような殺気の磁場がない。あの感覚、例えバーサーカーが霊体化していたとしても、見逃せるようなものではないはずだ。

 つまり、今彼女を守る存在は本当にいないということか。

 彼女は一人で街を歩いていたのか。

 殺し、殺される、この非常識の世界の中を。

 そう考えると、安堵感と共に、なぜだか妙な怒りが沸々と涌いてくる。

 

「駄目じゃないか、イリヤ!」

 

 突然の怒声に驚いたのだろう、彼女はびくりと肩を震わせた。

 

「えっ、わたし何か悪いこと、した?」

「当たり前だ!イリヤみたいに小さな子がこの時期に一人で出歩くなんて、何考えてんだ!そんなの、襲ってくれって言ってるようなもんじゃないか!」

 

 脅えたような表情から、ぽかんとした感情の抜け落ちた表情に。この子はころころと表情が変わる。まるで万華鏡みたいだ。

 

「お兄ちゃん、もしかして、わたしのこと心配してくれてるの?」

「当たり前だ。別に戦おうとか言ってるわけじゃないけど、それでもバーサーカーは連れて歩いた方がいい。そうじゃないと――」 

 

 まだ言葉を繋げようとしていた俺の口は、一足早い春の到来を思わせる、暖かな笑顔に遮られた。

 くすくすと、嬉しそうにイリヤが笑う。

 

「うん、合格。本当のことを言うとね、お兄ちゃん、わたし、あなたがどんな人なのか見に来たの。わたしが想像していたよりも、あなたは面白いわ。

 ねぇ、お兄ちゃん、お名前教えて?」

 

「……衛宮、士郎、だ」

「エミ、ヤシロ?」

「違う。それじゃあ、笑み、社だ。衛宮が名字、えっとファミリーネームっていうんだっけ?で、士郎が名前、こっちはファーストネームかな?」

「ふうん、じゃあシロウだね。うん、中々いい名前ね。少し孤高な感じがするけど、お兄ちゃんにぴったりだね」

 

 何故だろう。

 心臓が、どきり、と、不協和音を奏でた。

 士郎、と。

 イリヤに、その名前を呼ばれたとき。

 何故だが、自分がここにいてはいけない人間のような、そんな感じがした。

 足元の地面が崩れ落ちるような。

 階段を踏み外したような。

 墜落する夢を見たときのような。

 世界に、拒絶されたような。

 あるべきものが存在しない、そんな虚無感。

 ああ、違う、違う、違う、俺は、俺は――。

 

「先輩、この子は誰なのですか?先ほどから妙に物騒な単語が飛び交っていましたが」

 

 隣から聞こえた、冷静な後輩の声。それが俺を現実に引き戻す。

 

「そうね、シロウ、この女は誰なの?」

 

 これはイリヤの声。

 ざっきの俺に対する評価は妙に息が合っていたが、当然と言えば当然、この二人はお互いを知らないはずだ。

 じゃあ、俺が二人を紹介するべきなのだろう。

 そこまで考えると、頭の奥のよく分からない不快感は自然と消えていった。

 

「あ、ああ、イリヤ、こっちは俺の後輩で間桐代羽っていうんだ。一応言っておくが、マスターじゃないぞ」

 

 後半は囁くように言う。

 

「代羽、こいつはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン、イリヤだ。まぁ、一応年の離れた友人、かな?」

 

 二人の紹介を終える。しかし、そこにはさっきまでの和やかな雰囲気は無かった。

 無言でお互いを見つめる二人。その視線は心なしか険しいものになっている。

 空気が帯電するかのように、刺々しいものに変化していく。

 いい加減俺がその重たい沈黙に耐えられなくなって口を開こうとしたとき、イリヤが言った。 

 

「握手しましょう、代羽。だって、私達は初対面なのだから、その必要があるわ」

 

 代羽はにこやかに応じる。

 

「ええ、そうですね、イリヤ。私もそう思ってたところです」

 

 口ではそう言いながら、二人とも視線は剣呑だ。男同士なら、握手からそのまま握力勝負になだれ込む、そんな雰囲気。

 

「お、おいおい」

 

 そんな俺の心配をよそに、がっちりと握られた二人の小さな手。

 それはしばらく続いたが、やがて、より小さな手をした少女が呟くように言った。

 

「……驚いた、本当に違うのね、お姉ちゃんは」

 

 その言葉と共に、イリヤはその手を離した。

 違う?何が違うというのだろうか。

 

「よかった、もしもあなたが穢れた蟲なら、今すぐにでもバーサーカーを呼ばなくちゃいけなかったから。そしたらお兄ちゃんに嘘を吐くことになっちゃうし」

 

 ぎりぎりのイリヤの言葉に、代羽は首を傾げつつ応じる。

 

「はて……まあ、いいでしょう。とりあえずお気に召したようで幸いです」

 

 自分より明らかに年下のイリヤにもいつも通りの固い口調で話しかける代羽。ひょっとしたら、いつか彼女に子供が出来ても、やはり今みたいな口調で接するのだろうか。

 そうこうしてるうちに、二人の間からよそよそしさの分厚い壁は取っ払われていた。

 そこには気さくに話しかけるイリヤと、硬い口調で楽しそうに応える代羽がいた。

 

「シロウって、お兄ちゃんと同じ名前なんだね」

「ええ、いつも言われます」

「それって普通男の子につける名前なの?それとも女の子につける名前なの?」

「一般的には男性に用いられることが多い名前ですね、不本意ながら」

「ふーん、それじゃあお兄ちゃんと区別がつかないから困るね。じゃあお姉ちゃんのことは何て呼ぼうかな」

「好きに呼んでいただいて構いません。名前如きで怒る私ではない」

「じゃあシロ!シロって呼んでいい?」

「……犬みたいな名前ですね」

「……嫌?」

「構いません。名前など、所詮記号に過ぎない。個人の識別が可能なら、それ以上の機能は望むべくも無い」

 

 ……そういえば昔、代羽の名前を呼び間違えただけで、酷い目に合わされたことがあったなあ。

 そんなことを考えながら、冷たい冬の空気を味わう。

 白い吐息が大気に溶けていく。

 ぼんやりと思う。

 この白さは一体どこに行くのだろうか。

 溶けて無くなってしまうのか、それともどこかに隠れているだけなのか。

 無くなったとすれば、そこに意味はあったのか。憶えている人がいれば、そこには意味があったのだろうか。

 

「先輩、それでは私はそろそろ……」

 

 気がつけば二人の視線は俺に集まっていた。

 

「あ、ああ、わかった」

「イリヤは先輩に用があるのでしょう?では私は帰ります。ちなみに、送迎は結構ですからそのつもりで」

 

 確かに、いくら冬とはいえまだまだ陽は高い。こんな時間ならわざわざ送っていく必要はあるまい。

 

「それでは、イリヤ、また近いうちに」

「うん、ばいばい、シロ」

「あ、代羽!一つだけいいか?」

「はい?」

「実は、桜が代羽も家に呼びたがってたんだ。もし予定が空いてるなら、今日とかどうかな?」

「はぁ、そうですか」

 

 代羽は視線を遠くにやって考え込む。

 実は、これは真っ赤な嘘だ。

 きっと遠坂の家はこれから戦場になる。だから、本来なら一般人である彼女がいるべき場所ではない。

 しかし、マキリ邸にいるのは彼女を肉親とは思わないような外道ばかり。そこにいるよりは、まだ遠坂の家の方が安全だろう。

 かといって、無理矢理彼女を連れて行くわけにはいかない。彼女がどうしても嫌だと言ってしまえばそれまでだ。

「……分かりました。せっかくのお誘い、無碍に断っては失礼ですね。とりあえず家に帰って荷物を纏めてから伺うと、桜にそう伝えてください」

 

 俺は、ほっと、安堵の吐息をつく。最悪、これで俺達がマキリ邸に攻め込むときでも彼女が傷つくことはなくなった訳だ。

 

「ああ、確かに伝えておくよ。じゃあ、また後で。

 ……っとそういえば代羽、俺の家に忘れてたものって、見つかったのか?」

 

 公園の入り口で、彼女はくるりと振り返る。

 少し声を張り上げて、彼女が答える。

 

「さあ、そんなこともありましたか。すみません、憶えていません」

 

 母親みたいな笑顔を残して、彼女の姿は曲がり角に消えた。

 

「イリヤ、さっきの『違う』って何だ?」

 

 イリヤは代羽が消えた曲がり角に視線を固定させたまま、こう言った。

 

「彼女、マキリなのに本当に魔術師じゃあないんだな、そう思って驚いただけ。

 だって、まともな魔術回路の一本も無いんだもの。あれじゃあ魔術は使えないわ。噂では聞いてたけど、本当に没落しちゃったんだね、マキリは」

 

 なるほど、握手する振りをして代羽の魔術回路の探査をしてたのか。

 

「だから言ったろ、あいつはマスターじゃないって。魔術回路も無ければ令呪も無いんだから」

 

 そう言うと、イリヤは妖艶に笑った。

 

「あら、魔術回路も令呪も無いマスターだっていないわけじゃないわ。例えば、野良サーヴァントを拾った一般人がマスターになることだってありえないことじゃないから」

「じゃあ、魔力はどうするんだ。代羽みたいに魔力が少ない人間がマスターになったら、すぐに魔力を吸い取られて死んじまうぞ」

「本気で言ってるの、お兄ちゃん?」

 

 呆れた顔のイリヤ。

 

「足りないものは他所から持ってくるのが魔術師。そうでなくても、普通はそうするわ。だから、そういった契約をしたサーヴァントはほとんど例外なく魂喰いになる」

 

 魂喰い。

 赤い結界。

 慎二。

 そうだ。それを防ぐために俺達は走り回っているんじゃないか。

 

「まあ、どうでもいいんだけど。穢れた蟲が何を使役したところで、私のバーサーカーには勝てないから」

 

 この話はこれで終わり、そう言いたげな表情で彼女は言った。

 

「そういえば、イリヤ。何か俺に用か?俺を探してたみたいだけど」

「えっ?用が無ければ会いに来ちゃいけないの?」

 

 悲しそうな瞳。

 

「いや、そんなことはない。戦い以外なら、俺だってイリヤと一緒にいると楽しい」

「ほんとに!?」

「ああ、ほんとだ」

「よかった!」

 

 まるで機嫌の良い猫のようにじゃれ付いてくるイリヤ。その姿からはあの夜の凄惨な雰囲気は微塵も感じられない。

 駄目だ。やっぱりこの子には聖杯戦争なんか似合わない。

 

「なあ、イリヤ――」

「ねえ、お兄ちゃん。あれ、何?」

 

 イリヤは不思議そうに首を傾げた。

 彼女が指差す先にあったのは小さな屋台。そこから食欲を刺激する甘い香りが漂ってくる。

 

「ああ、あれは……、よし、ちょっと待ってろ」

 

 小走りで馴染みの屋台へと向かう。

 ポケットに手をつっこんで財布の存在を確認。確か今月はまだ余裕があったはずだ。

 

「いらっしゃい……おや、珍しいね、こんな時間に学生さんか」

「こんにちは、えっと、粒アンのタイヤキ二つお願いします」

「あいよ、ちょっと待っとくれ、焼き立てを用意するからね」

 

 気のいい親父さんとの会話を楽しみながら、タイヤキが焼きあがるのを待つ。

 

「はいよ、粒アンのタイヤキ二つ、ついでにこれはサービスだ」

 

 もうもうと湯気の立つ袋の中には、注文した品の他に中身のよくわからないタイヤキが二つ入っていた。

 

「ウチの新製品。今度来た時、感想を聞かしておくれ」

「わかりました、ありがとうございます」

「まいど」

 

 過剰気味とも思えるサービスに恐縮し頭を下げてから、店の傍らにあった自動販売機に小銭を投入する。

 今日も比較的暖かいが、それでも息は白くなるくらいの気温。まだまだ暖かい飲み物が美味しい季節である。

 外国人のイリヤには紅茶なんかがいいかとも思ったが、ここは日本、『郷に入りては郷に従え』、イリヤにも従ってもらうとしよう。和菓子には日本茶が一番だ。

 片手にはタイヤキの入った紙袋を抱え、もう片方の手には暖かい緑茶のペットボトルを二本掴んでイリヤのところまで走って帰る。

 彼女は少し不機嫌そうな顔をして待っていた。しまった、置いていったのは不味かったか。

 

「お兄ちゃん、レディを一人で置いていくなんて最低よ」

「ごめんごめん、こういうことには慣れてないからさ、これで許してくれないか?」

「なに、それ?」

 

 甘い匂いから何かのお菓子であることはわかるのだろう、隠し切れない興味を浮べてイリヤが尋ねる。

 

「ああ、それはタイヤキ。中には餡が入ってるんだ」

「アン?ああ、アズキビーンズで作ったクリームね」

 

 んー、多分間違ってないんだろうけど、そういうふうに表現すると何か違う食べ物に聞こえてしまうから不思議だ。

 

「ああ、ここのタイヤキは結構美味いんだ。えっと……、そこのベンチで食おうか」

 

 

「なにこれ!甘いよ、それにさくさくして美味しいよ!」

 

 彼女の手には、小さな歯型の残ったタイヤキ。

 大事そうに両手で持っている。

 

「そうだろ。焼きたてだしな」

 

 これが家に持って帰った後とかだとこうはいかない。紙袋の中で湿ってしまうからだ。

 焼きたてのクリスピーな皮の部分と、ふんわりと焼き上げられた生地、比喩ではなく尻尾まで詰められた上品な甘さの餡、その全てがタイヤキというオーケストラのハーモニーを構成している。

 というのは言いすぎだろう。なんだかんだ言っても一つ百円の庶民の味、小難しい理屈は抜きにして美味ければそれでいい。

 

「ああ、イリヤが気に入ってくれてよかった」

 

 何となく空を見上げる。

 太陽が出ているとはいえ、冬の青空はどこか儚い。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん?なんだ?」

 

 隣を見ると、イリヤも空を見上げていた。

 

「お話して欲しいな」

「何を?」

「お兄ちゃんのこと。何でもいいわ、だって私はお兄ちゃんのこと、何も知らないんだもの」

 

 俺のこと。

 そんなこと、俺だって何一つ知らない。

 

「きっと退屈だぞ」

「知らないことは何だって面白いわ。だから、外の世界はこんなにも面白い」

 

 そんなものだろうか。

 彼女は相も変わらず空を見上げていた。

 だから、俺も空を見上げた。

 ひょっとしたら、あの人の笑顔が映るのではないか、そう思ったのだ。

 

 

「俺はね、一度死んだんだ」

 

 彼は空を見上げながらそう言った。

 その視線の先にあったのは、一面の青空の中に浮かんだ、たった一つのはぐれ雲。ひょっとしたら別の何かを見ているのかもしれない。

 

「それって前の晩のこと?」

「いや、違う。もっとずっと前に、俺は命を失った。きっと、生まれ変わったんだと思う」

「ふうん」

 

 興味が無いふりを装っているのがばれてしまうのではないか、そう恐怖してしまうくらいみえみえの声。

 

「何もかも失って、家族も名字も名前さえも失って、でも俺は生き残った。そして、親父に拾われたんだ」

 

 親父。

 キリツグ。

 私にとっても父だった人。

 あなたが奪った、私の宝石。

 

「ほんとに駄目な人でさ、まだ小学生の俺を残してふらっと世界中を放浪するし、家事は全く出来ないし、きっと親としては落第点だったんだろうなぁ」

 

 彼の表情は鉄のように固い。そこには何の感情も浮かんでいなかった。

 しかし、きっと彼は懐かしんでいる。自分の思い出を美しいものだと感じている。私には、それがとても忌々しかった。

 そして、なにより忌々しかったのが。

 私からキリツグを奪ったこの男が。

 ちっとも、幸せそうに見えなかったことだ。

 

 

「あ、バーサーカーが起きちゃった」

 

 突然、目が覚めたような表情で、雪の少女はそう言った。

 

「ごめんね、お兄ちゃん。私帰るわ」

「ああ、またな」

 

 彼女はパタパタと可愛らしく駆けて、公園の入り口のところで振り返って、こう言った。

 

「今度は私の城で会いましょう。招待するから」

「ああ、きっと遊びに行くよ」

 

 音符みたいな空気を残して、彼女は姿を消した。

 

「さてと、そろそろ行きますか」

 

 すっかり冷めてしまったペットボトルのお茶を飲み干し、屑篭に入れる。

 寒さで固まってしまった身体に喝をいれ、腰を上げる。

 そういえば、城の場所を聞いていなかったな、そんなことを考えながらゆっくりと歩き始める。

 空は相変わらずの晴天。

 日差しの眩しさに顔を顰めながらも、太陽を見上げる。

 その輝きは、夢で見たあの剣にどこか似ていた。

 



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interval2 IN THE DARK ROOM 2

 interval2 IN THE DARK ROOM 2

 

 静かな、そして圧迫感を感じるほどに狭い部屋。

 寒い。

 彼と別れてまだそれほど時間はたっていないはずだ。

 ならば、外はまだ太陽の照りつける時間帯なのだろう。

 しかし、この部屋は凍えるように寒い。

 外からの熱は、周囲の石造りの壁に吸収されてしまうのだろうか。

 悴んだ掌に息をかけて解す。

 じんわりと、指先に血の巡る感覚が、何故だか嬉しい。

 小さな椅子に腰掛けると、目の前にある格子状に編まれた衝立と、そこに開いた小さな穴が目についた。

 静寂。

 ぎしり、と、自分が椅子に腰掛けた音以外、何の音もしない。

 神の家、その表現に相応しい空気だ。

 荘厳で、誇大で、独り善がりで、そして何よりも不快。

 ため息を放つ。

 きっと、こんなものの中に絶対者を見出すことができる人間ならば、その人生は華に満ちたものになるのだろう。

 信じれる者は、幸せだ。

 そんなことを考えながらしばらく待っていると、やがて衝立の向こうから、がちゃり、と扉の開く音が聞こえた。

 かつ、かつ、と、誰かが近づいてくる。

 そして、ぎしり、と重量感のある音が聞こえた。誰かが私の向かいに座ったのだろう。

 

「さて、当然私はあなたのことなど、何一つ知らない」

 

 重々しい声。

 先ほどまでの静寂と相俟って、それは必要以上に心を侵してくる。

 

「だが、ここにあなたが来たのは神のお導きだろう。罪があると自覚するならば、告白すればいい。神はきっとあなたを許されるだろうから」

 

 思わず漏れそうになった笑いを堪える。

 この男も神父なのだ、この男に真剣に懺悔をする人間がいるのだと思うと、暗い笑いを堪えきれない。

 それでも、くすくすと漏れ出した声を聞いたのだろうか、衝立の向こうから少し不機嫌な声がした。

 

「……ここは神のみに許された『ゆるしの秘蹟』を行う尊ばれるべき空間である。真面目に告解を行うつもりがないならば、早々に帰りたまえ」

 

 再び聞こえたぎしり、という音。きっと彼が立ち上がったのだ。

 このまま彼を帰らせるのも面白いが、それではここに来た目的を果たせない。

 私の喉が、枯れたような音を搾り出す。

 

「神父様、私の罪を聞いてくださいますか?」

 

 ぴたりと、遠ざかりつつあった気配が止まった。

 再び、静寂。

 ひんやりとした石造りの部屋の空気が、更に重たい何かを孕んでいく。

 

「……神は寛大である。例え君が天に唾吐くような愚か者であったとしても、神は君を見捨てない。

 しかし、よもや私を最初に頼ってくるのが君とは思わなかった。正直、意外だ」

 

 がちゃり、と衝立が取り払われる。

 告解の最中に衝立を外すなど、本来許されることではあるまい。

 しかし、これから行われるのは告解などではありえない以上、その行為に批判されるべき事情は存在しない。

 薄暗い室内。

 そこに現れた人影。

 均整の取れた長身。

 巌のように、がっしりとした肩。

 身に纏うのが法衣でなければ、彼を神父と認識する人間などいまい。

 人を見下ろすその視線。

 精神の深奥を抉るような説教。

 立ち聳えるその姿は、どんな神よりも、人の神に相応しい。

 

「私も再び貴方を頼る日が来るとは思いませんでした。しかし、それが思ったよりも不快ではありません」

 

 私の言葉に、彼は苦笑で返した。

 彼が笑っているのを見るなんて、いつ以来だろうか。

 そう考えて、はたと気付く。

 そういえば、彼はいつも笑っていた。

 私を見るたびに、神の奇跡を目撃した信徒のように、感動の笑みを浮かべていた。

 ならば、それだけ長い間、彼と会っていなかっただけのことか。

 

「ああ、君とこうして話すのはいつ以来だろうか。

 ……そうだ、君がロンドンに発つ前だ。君は、毎日ここに来て、声が枯れるまで泣き続けた」

 

 遠い目の彼。そこには微塵の嘲りの色も感じられない。

 

「はい。本当に懐かしい。あの頃の私にとって、世界はあまりにも辛かった。だから、ここは私の救いでした」

 

 辛かった。

 そう、ただ辛いと言えば、本当に辛かったのだ。

 周囲のもたらす全ての苦痛が己にとって救いであると。

 そう、感じるほどには。

 

「正直に言うと、君はあのままシスターか何かにでもなるものだと思っていたのだ。それほどまでに、あのときの君は神に餓えていた」

 

 そう、なのか。

 いや、そうなのだろう。

 私は、確かに餓えていた。

 しかし、それは神にではない。

 いや、一面では神に餓えていたのかもしれないが、そうではない。

 

「私は、いまだかつて神になど餓えたことはありません。存在しないもの、それに対する飢えなど、錯覚以外の何物でもないしょう」

 

 彼は苦笑する。

 

「神の家でそのような暴言を、何の気負いもなく吐くことができるのは君くらいのものだろうな。

 しかし、それはそれで興味深い。あの頃の君は、家では蟲の齎す肉体的な苦痛で涙を流した。ここでは私の切開による精神的な苦痛で涙を流した。

 あの頃の君は一体何に餓えていたのだね?」

 

 何に餓えていたのか。

 餓えなのか。

 そうではない。どちらかといえば、そう、乾いていたのだと思う。

 飢えというよりは、乾きといったほうがより漸近だろう。

 この感覚は、私と同じ思いをした人間でなくては分かるまい。

 目の前で、愛した人間を、見捨てた、痛み。

 己を恐れ、自分が離分していく感覚。

 ただ、存在していることが許せない。

 世界が、あの子には優しくなかった世界が、私にだけ優しい。

 そこに私は悪意を見出した。

 故に、世界は私に優しくなかった。

 そう、私は、ただ罰に乾いていた

「罪には相応の罰が必要です。

 私は、貴方のもたらす傷の切開が心地よかった。

 貴方の前でなら、私は唯の罪人として頭を垂れることが出来た。それが、本当に救いだったのです。

 何故なら、何より辛いのは、忘れることだから。

 貴方が私の傷口を抉るうちは、私はその痛みを忘れずに済む。だから、そう、私は貴方に乾いていたのでしょう」

 

 忘れれば、楽だろう。

 逃げれば、軽くなるだろう。

 しかし、罪は、消えてくれない。

 いつかは思い出し、いつかは追い付かれる。

 それが、なにより恐ろしかった。

 だから、私は罪を愛そうとした。ゆえに、罰を求めたのだ。

 

「それは光栄だ。君ほどの女性にそこまで評価されるなら、私も嬉しい

 そうそう、君には言っていなかったと思うが、私には、実の娘がいてね。

 こういった感情を抱くのは僭越にすぎると我ながら呆れるのだが、私は君を娘のように思っていた。そんな君がここまで芳醇に育ってくれるとは、私は神の存在を信じざるを得ない」

 

 慈愛に満ちた声。

 その声は、相変わらず私を安心させてくれる。

 なぜなら、私以上に壊れた人間の声だからだ。

 一度だけ、聞いたことがある。

 彼は、幸福を幸福と感じることが出来ない。

 美よりも醜に心を引かれ、喜劇よりも悲劇に笑う。

 彼の在り様は、ある意味では私のそれに非常に近い。

 それは、私に安心感を与えてくれる。

 そう言う意味では、私はこの男に依存しているのだろう。

 

「そうですか。私も、あなたの中に父親を見出したことがあります」

 

 父親。

 一度は失い、幸運にして再び得た存在。

 そして、今はどこにもいない、存在。

 

「なるほど、君が私の中に見出したのは父性の具現か。ということは、あれは君にとって近親相姦を意味していたわけだな。エディプスコンプレックスか、ふん、くだらない」

 

 そうだ。

 いつだったか、私はこの男に抱かれたことがある。

 私がロンドンに渡る前だったから、おそらく私はまだ両手で数えることの出来る年齢だったはずだ。しかし、その時において私の身体は既に男を受け入れることの出来る、成熟した女のそれになり果てていたのだ。

 私は全てを打ち明けて、その上でこの男に抱かれた。

 彼は私を拒絶しなかった。嫌悪もしなかった。

 彼は、ただ優しかった。

 だから、私は襲われたのではない。

 私がこの男の前で股を開いた、それだけのこと。

 

「後悔しているのですか、私を抱いたことを」

 

 既に確定している返答を期待しながら、質問する。

 

「私は神の僕だ。迷える者が救いを欲するならば、あらゆる手段をもってそれに応えよう。そのことについて、私は微塵の後悔も抱かない」

「その行為を、神が禁じていたとしてでも、ですか」

 

 彼は目を閉じ、幸せそうに哂った。

 きっと、彼の心には確固たる神が鎮座ましましているのだろう。

 

「神の愛は無限だ。

 そして、神が望むのは、ただ哀れな咎人の救済のみ。故に、私がしたことは神の御意志に叶っている。今も私はそう確信しているよ」

 

 その時、私は初めて目の前の男に脅威を感じた。

 この男は後悔しない。

 そして、この男は何も求めない。

 この男に、私は、勝てない――。

 

「さて、昔話はこれくらいにしようか。機会があるならば神の血でも用意しながら語り明かしたいところだが、時期が時期である。このような会合は短いものの方が尊ばれるな」

 

 その表情に快楽の余韻は無い。

 厳然と微笑む、審判者としての彼がそこにいた。

 

「教会を頼るということは、聖杯戦争における棄権を意味する。私には君がそこまで追い詰められているとは思えない。本当にいいのかね?」

「私が頼りたいのは教会の末端としてのあなたではありません。言峰綺礼という個人に頼りたいのです」

「詭弁だ。神の僕としての私は、私という個を作るうえで必要不可欠な要素として固定化されている。それを排除して私個人に頼ろうなど、虫が良すぎると思うが」

 

 問答の最中も、彼は笑みを絶やさない。

 その視線は、とても柔らか。

 まるで愛しい宝物を愛撫するかのように、慈愛に満ちている。

 

「貴方は教会の末端ではなく、ただ神の徒である、昔そう言っていたのを覚えています。ならば、ここに迷える子羊がいる以上、それに手を差し伸べるのは貴方の義務だ。そこに教会という組織の概念など、刺し挟む余地は無いでしょう」

「君は二重の意味で錯誤している。

 まず、私がただ神の僕であることは事実だが、しかし私がここにいるのは神を崇め奉る機関の一員としてである。君を助けるのは吝かではないが、それは私がここにいる意味そのものを否定する行為だ。意味が失われるということは、存在が失われると言うことと同義。存在しないものが君を助けることなど出来はしない。

 そして、君は自分を迷える子羊だと称したが、私の見たところ、今回の参加者のうち、君ほど自我を確固としているものはいない。あの凛ですら、その点においては君の後塵を拝さねばなるまい。その君が救いを求めたところで、私が動くことは出来ないな」

 

 まるで豪雨のように叩きつけられる言葉の銃弾。

 昔を思い起こさせるそれらに、奇妙なほどの快楽を感じる。

 変わらぬものがあった。

 それを確認できただけで、ここに来た価値があるというものだろう。

 

「……そうですね。情理をもって貴方を説き伏すなど、真なる神でもなければ不可能なことでした。

 では、これならいかがでしょうか。

 私はあなたに娯楽を提供しましょう。代わりに、あなたは私の言うとおりに動いてください」

「なるほど、等価交換、というわけか。

 そうなると、問題は娯楽の質だな。私はこれでも神に仕える身。低俗な享楽に身を委ねるなど、偉大なる父が許しはすまい。

 さて、君は私に何を求め、何を与えるつもりなのだ?」

 

 私は懐から小さな包みを取り出し、興味深そうに私を眺める彼に、それを放り投げた。

 彼は視線を露ほども動かさずにそれを掴み取ると、無言で中のものを取り出す。

 

「これは……!」

 

 私は内心でほくそ笑んだ。

 彼の鉄面皮を驚愕で歪めるなど、一体何者に叶おうか。例え私が突然ナイフで首を掻き切っても、彼は眉一つ動かさないだろうから。

 

「確かに驚きである。師から一度だけ見せてもらった覚えがあるが、これは間違いなく遠坂の秘宝。何故君がこれを持っているのかね?」

 

 おそらく、手品の種を明かす幼児や、犯人を弾劾する探偵などなら、今の私の暗い喜びを理解してくれるだろうか。

 これは、誰も幸せにしない。

 おそらく、全てを不幸にする。

 それを分かって、私は彼に助力を求めるのだ。

 

「あなたが、ランサーに衛宮士郎を襲わせた現場に落ちていました。おそらく、遠坂姉妹はこれに込められた魔力をもって彼を蘇生させたのでしょう」

「……ほう、私がランサーのマスターと。何故、君はそのことを知っているのだ?」

 

 彼の声に僅かな殺気が篭もる。

 それが、とても愉快。

 

「協会から派遣された魔術師の死体を見つけました。その死体には、左腕が無かった。令呪ごと、持ち去られたのでしょう。彼女の名前はバゼット・フラガ・マクレミッツ。封印指定の執行者。単体でもサーヴァントクラスの戦闘力を持つ化け物。そんな彼女が気を許す存在を、不幸にして私は知っていた、それだけのことです」

 

 彼は漏れ出していた殺気を恥じるように掻き消す、遠い過去を思い出すように視線を彼方にやった。

 

「……そういえば、彼女のことを君に話したことがあったか」

「ええ、寝物語で」

 

 たった一度だけの交わり。

 そこでかわされた、睦言といえぬ睦言。

 幼い私を抱きながら、同じベッドの中で違う女のことを語る。

 その姿があまりにも滑稽で、その名は強く記憶に焼きついた。

 だから、はっきりと覚えていたのだ。

 

「しかし、解せん。なぜ、彼女がバゼットだとわかった。身分証明は偽造されていたはずだ。まさか、子供のように持ち物に名前を書いていたわけでもあるまい?」

「私の知己に、時計塔の支配階級の人間がいます。その方から、今回派遣される魔術師の名前を聞いてましたから」

 

 時計塔の支配階級。

 ロード。

 彼女の名前は何と言ったか。

 そんなことも、あやふやだ。

 私を救ってくれた彼女。

 彼を救ってくれた彼女。

 彼女は優しかった。

 厳しく、激しく、時に恐ろしかったが。

 まるで本当の姉のように、ただ、優しかった。

 

「もともと彼女がランサーのマスターだと分かったのは、単なる消去法。少なくとも私の知る限り、マスターの知れないサーヴァントは彼だけでした」

「そして、バゼットから令呪を奪えるような人間は私だけ、そういうことか」

「ええ。半ばは鎌を掛けただけですが、あなたは嘘を吐けない人ですから」

「ふん、妙なところで信頼されているものだな」

 

 彼は私の頭に手を置いて、ぐりぐりと撫で回した。まるで、父親が成長した娘を褒め称えるかのように。

 きっと私は飼い猫のように目を細めていたと思う。

 

「で、君は私をどうするのかな?

 ランサーが衛宮士郎を襲ったと知ったときの君の表情、奴の視界を通じて写ったそれは、今思い出しても震えが襲ってくるほど美しかったが」

 

 離れていく大きな手が、なんだかとっても名残惜しい。

 

「あなたに利用価値があるうちは殺しません。せいぜい励みなさい、私に殺されないように」

「なるほど、私に拒否権などそもそも無かったというわけか。

 いいだろう、で、君は私に何を求めるのだ?それをまだ聞いていなかったと思うのだが」

 

 口では私を恐れながらも、彼は私に恐怖など感じていない。

 いや、そもそも彼に何かを強制させることができる人間など存在しないだろう。

 彼には大切なものはない。自分も含めて、悉くが無価値だ。

 ならば、脅迫など、彼にはその用をなさない。 

 それに、おそらく彼にはまだ隠し玉が存在する。

 彼が早々にランサーを動かした、その一点だけでその事実は確定的だ。もしもランサーが彼の鬼札ならば、最終局面までひたすら隠し通すだろうから。

 だから、これは単に彼の食指が動いた、それだけのことなのだろう。

 

「……私が望むのは、遠坂陣営の弱体化。

 そのためには手段は問いません。私はこれから彼女達の虎口に飛び込む。当然、いくらかの情報も手にするでしょう。それらは逐一あなたに報告します。それらをもって、もっとも貴方好みに課題を達成してくれればいい」

「……なるほど、了解した。

 実を言うと、この気だるい展開には聊か辟易としていたところだ。

 脅されて仕方なくならば、神もきっと許されるだろう。あくまで私が動くのは仕方なく、なのだから」

 

 隠し切れない喜悦に頬を歪めながら、敬虔な神の使徒は静かに宣言した。

 これからは、私も参加者となるのだ、と。

 分かっている。

 きっと、彼は私にもその研ぎ澄まされた牙を向けるだろう。

 だが、どうでもいいのだ。

 彼に殺されるなら、きっと私は天国に行ける。

 いや、そもそも私が殺されるということ自体、容易に想定し難いのだが。

 

「話は終わりです。お騒がせしました」

 

 私は静かに椅子から立ち上がる。

 私が立ち上がっても、相変わらず彼の視線は私の遥か上から突き刺さる。

 

「待て。幾つか確認しておきたい」

 

 立ち去ろうと、懺悔室の扉のノブを掴んだ私に、彼が後ろから声を掛ける。

 

「君は衛宮士郎を愛している。その感情が男女のそれなのか、それともそれ以外のものなのかは私の知ったところではないが、その事実に間違いはあるまい。

 遠坂姉妹は、過程はどうあれ結果としてランサーに殺されかけた彼を助けた。いわば、彼にとっての恩人だ。

 君は、彼女達を本当に殺せるのか?」

 

 遠坂凛。

 遠坂桜。

 彼女達を殺せば、きっと彼は私を憎むだろう。私を軽蔑するだろう。

 でも、私は。

 

「構いません。私にはそれだけの目的がある。立ちはだかる者には容赦しない。例えそれが肉親であったとしても、私は噛み殺してみせましょう」

「ほう、君がそれほど強く望むこと、実に興味深い。よければ話してくれないか?」

「話しません。

 願いは、意志は、それが響きを持った瞬間にただの言葉に堕する。意志は、ただ心に秘める物。違いますか?」

 

 沈黙は肯定だろう。

 私は静かにドアノブを回す。

 開けた空間。

 眩しいほどの陽光に照らされたそこには、十字架にかけられた神の偶像が奉ってあった。

 

「ならば、祈るといい。例え君が神を信じていなくても、神は君を守り給うだろう」

 

 薄ら笑いを浮かべた彼の声が、神の御前にて反響する。

 祈れだと?

 私に、祈れというのか。

 この薄汚れた偶像に、祈れというのか。

 ふざけるな。

 こいつが、私に何をしてくれたというのだ。

 こいつが、彼に何をしてくれたというのだ。

 おぞましい。

 万の蟲に身体を弄られるよりも、遥かに不快だ。

 こいつに祈るくらいなら、私は舌を噛んで死んでやる。

 激した感情、それを表す声高な足音。

 己の未熟の表れであるそれを忌々しく聞きながら、私はこの空間からの脱出口に向かう。

 しかし、私は足を止めた。

 一つだけ、気になったのだ。

 

「どうした、まだ何か用かね?それとも、本当に神に祈るつもりになったか?」

「……最後に一つだけ。

 貴方は先ほど言いましたね。私を娘のように思っている、と」

「ああ、確かにそう言った。それがどうかしたか?」

 

 振り返ると、彼は祭壇の前で跪いていた。まるで、己の罪を悔いるかのように。

 

「貴方は実の娘がいるとも言った。

 その子は、今、どこで何をしているのですか?」

「知らん。路傍で野垂れ死んだか、それとも娼婦に身を窶したか。案外、修道女にでもなっていたら、それはそれで愉快だな」

 

 彼の声に悔いは無い。

 ならば、彼は誰のために祈っているのだろうか。

 もう、いない誰かのためか。

 いま、苦しんでいる誰かのためか。

 それとも、これから生まれてくる不幸な定めを背負った誰かのためか。

 

「逆に問おうか。君は私の中に父親を見出したと言ったな。

 君の父親はどうしている?ご壮健かな?」

 

 きっと、私の頬は、この上なく醜く歪んだはずだ。

 

「一人は、あの大火事の中で焼け死にました」

「一人は、ということは他にもいるわけか。ならばその方はどうされた?」

「食べました」

 

 そうか、と。

 彼の言葉には感情は無かった。

 それが、自分の罪を責めたてる様で。

 何故だか、酷く安心した。

 彼は、その声のまま私を問い責める。

 

「美味だったかね?」

「ええ、とっても」

 

 そうか、と。

 今度こそ、彼は納得したようだ。

 もう、ここに来ることもあるまい。

 ならば、彼をこの光景で見るのも最後か。

 だから、私はそれを強く心に焼き付けた。

 彼は、相変わらず神の前に頭を垂れていた。

 結局、彼は振り返ってくれなかった。

 残酷だな、私は最後にそう思った。

 

 



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episode23 魔女達の宴

 針の筵という表現がある。

 一時も心休まらない辛い心境を表す言葉だ。

 しかし、今の俺にはそんな言葉は生温い。

 例えるならば、鉄の処女にでもかけられている気持ち。

 だって、三人の魔術師から殺気をこめた視線で睨まれているのだ。

 なんでさ? 

 

 episode23 魔女達の宴  

 

 

「一体どこに行ってたんですか、先輩♪」

  

 遠坂邸の門をくぐって、一番最初にかけられた言葉がこれだ。

 玄関にて仁王立ちする桜。

 声こそにこやかに響いたが、がっちり組まれた腕と、『へ』の字に曲げられた唇、硬質な瞳の輝きは、見紛うことなくこう言っている。

 『私、怒ってます』、と。

 

「いや、その、実は家に帰ってたんだ。着替えとか持ってこなきゃいけなかったし」

「そんなの、アーチャーさんにでも任せればいいでしょ!」

 

 その一言で、この家の中にヒエラルキーのどの辺にアーチャがいるのかがよくわかる。哀れ、とは言うまい。

 

「大体、先輩は今体調が……って、あれ?ずいぶん顔色がよくなってますね。どれどれ」

 

 桜は片手を俺の額に当てて、もう片方の手を自分の額に当てた。

 ひんやりとした感触が、代羽の額を思い出させる。なんとなく気恥ずかしい。

 

「ふむ、ずいぶん熱が下がってますね。何かお薬でも飲みましたか?」

 

 さも不思議、というふうに首をかしげる彼女。少しコミカルな仕草がひどく愛らしい。

 

「ああ、実は……」

 

 『代羽に薬をもらったんだ』、そう言おうとして、緊急ブレーキ。

 桜はとんでもなく勘がいい。ここで代羽の話をしたら、きっと一から十まで話さなければならなくなる。と、いうことは、代羽から受けた精神的陵辱のことまで話さなければならなくなる可能性が濃厚だ。

 それはまずい。なんだかきっと、とんでもなくまずい気がする。

 

「……実は、家にとってもよく効く風邪薬があってね、それを飲んだんだ」

 

 嘘は言っていない。あの薬は、代羽が俺の家に持ってきてた物なんだから、『家にあった』、そう言っても語弊はないはずだ。

 こういう時に上手に嘘を吐くコツは、真実を嘘の中に混ぜ込むことだ。それによって罪悪感が減るし、なにより下手なボロが出にくくなる。

 藤ねえなんかからは『嘘を言っても、自分からばらしちゃう』とか言われる俺だが、それなりの処世術は身に着けている。

 あまり嘘はつきたくないが、これは仕方が無い。ただでさえ桜には強烈な弱みを握られているのだ。これ以上立場を弱くすれば、冗談抜きで頭が上がらなくなってしまう。

 

「むー、そうですか。なんか騙されてる気がしますけど。とりあえず、こんなことは今回だけにして下さいね。姉さんも、セイバーさんも心配してたんですから」

「ああ、ごめんな、桜。みんなにも謝っとくよ」

 

 ぱたぱたと、遠ざかる桜の背中を見ながら、ほんの少しだけ罪悪感。

 すると、桜が笑顔を浮かべて振り返った。

 

「おかえりなさい、先輩」

 

 『おかえりなさい』。

 『いらっしゃい』、じゃなくて『おかえりなさい』。

 なら、返す言葉も決まっている。

 精一杯の感謝を込めよう。

 

「ああ、ただいま、桜」

 

 

 とりあえず、自分に割り当てられた部屋に荷物を置いてから、映画のセットみたいな家具の揃った例の居間に向かった。

 そこにあったのは、薫り高く淹れられた紅茶の香りと、黄金色に輝く西日に照らされた色とりどりの頭髪、そして、射抜くように俺を睨みつける二組の視線。

 

「あら、衛宮君、ずいぶんと遅いお帰りね。桜には午前中に学校を出た、そう聞いてたんだけど」

 

 既に治療が終わっているのか、頬の湿布以外はいつも通りの格好に戻った凛が、百点満点の笑顔で言う。

 

「リン、そういうことは言うものではありません。きっと賢明なる我がマスターのこと、これからの戦いに備えた深慮遠謀あってのことに違いありませんから」

 

 黄金色の斜陽の光の中、なお一層輝く金砂の髪を持った剣の英霊が、これまた百点満点の笑顔を浮かべて言う。

 うふふ、あはは、と笑みを浮かべる二人だが、こめかみの辺りがひくついてるのと、背後に猛獣が如きオーラを背負っているのはご愛嬌だろうか。

 ちなみに凛が背負った猛獣は豹で、セイバーのそれは鬣も雄雄しい獅子だ。

 

「う、あ」

 

 思考よりも先に身体が反応した。

 まずい。くわれる。

 逃亡ではなく転進。

 退却ではなく戦略的撤退。

 逃げよう、全ては時が解決してくれる――!

 くるりと身体を翻し、一目散に玄関へ!

 

「うふふ、どこに行くんですか、先輩」

 

 しかし、まわりこまれた!

 だいまおうからはにげられない!

 

「うふふ、どこに行く気かしら、衛宮君?」

「くす、シロウ、敵前逃亡は死罪だ、それくらいは知っているでしょう?」

 

 背後からは寒気のする声が響く。

 まさしく前門の虎、後門の狼――!

 逃げ場は無い、ならば――!

 

「すみませんでした、もうしません」

 

 フローリングの床に額を擦り付けて許しを請う。

 これぞ敗北のベストオブベスト、土下座!

 もっとも、その上には『土下寝』というものがあるが、わかってくれる人以外には火に油を注ぐ羽目になるので素人にはお勧めできない。

 俺の命の手綱を握った二人の女傑は、ソファーに鎮座して、俺を見下ろしながら、心底嬉しそうにこう言った。

 

「私から一本とるまでエンドレス組み手」

「強化連続成功百回」

 

 つまりワタクシメに死ねとおっしゃいますか。

 どうやら、らぶりーさーヴぁんとさまとあかいあくまさまは、にこやかに死刑を言い渡されたようです。

 

「あの、姉さんもセイバーさんも、それくらいにしてあげたら……先輩も反省してますし……」

 

 桜が、あの桜が冷や汗を流しながら仲裁してくれている。

 どうやら、俺が現在置かれている状況は非常に不味いものらしい。

 津波のように危機感が押し寄せてくる。

 ああ、俺の聖杯戦争はここで終わりか……。親父、今からそっちに行くよ……代羽に限らず、やっぱり女の子は怒らすととても危険だった……。

 

「はぁ、今回限りよ、士郎」

「なっ、リン、この程度で許すのですか?夕食までは散々甚振る、そう言っていたあなたはどこに!」

 

 凛、お前そんな不吉なことを言ってたのか。

 

「仕方ないでしょ、セイバー。私達にはするべきことが山ほどあるんだから、ここで士郎をからかって遊んでる暇はないわ」

 

 私、一応は死も覚悟したんですけど、遊びですか、さいですか。

 

「士郎、でもこういうことは本当に今回限りにしてよ。

 予定外の行動を取るなら、せめて電話の一本でも入れること。念話ができないのはあなただけなんだから、私達から安全の確認のしようがないの。心配させないで」

「う、ごめん、本当に悪かった。もうしない、約束するよ」

 

 真剣な、それでいて困ったような表情で諭されると、下手な怒声よりも堪える。

 

「うん、じゃあこの話はこれでお終い。さ、それじゃ始めよっか」

 

 軽く身体を伸ばしながら、凛が言う。

 

「始める?何を?」

「決まってるでしょ、あなたの魔術の修行。学校から帰ってきたら始める、そう言ってなかった?」

 

 あ。

 そういえば、そんなことを言ってたような言ってなかったような……。

 

「衛宮君?」

「も、もちろん覚えてたよ!いやぁ、楽しみだなぁ!」

 

 冷や汗を掻きながら、強引に会話を打ち切る。

 ため息を吐いた凛の背中を追って、彼女の部屋に。

 しっかりとした魔術の講義を受けるのはこれが初めて。

 見放されないように、なんとか頑張らないと。

 

 

「はあ……」

 

 これで何回目だろうか、桜の可憐な口からため息が漏れるのは。

 視線は彼女の姉の部屋の方向に。

 指は絶えずテーブルを叩いている。

 

「そんなにあの二人のことが気になるの?」

「な、何言ってるのかしら、キャスターさん!」

 

 弾かれたように顔をこちらに向ける桜。あまりにも微笑ましくて、つい苛めたくなってしまう。

 

「そんなに気になるなら、一緒に指導したらいいのに」

 

 思わず漏れたクスクスという私の笑い声に、桜は顔を真っ赤にした。

 

「そんなんじゃあ……ないから……」

 

 消え入りそうな彼女の声。

 私が無くしてしまった、きっと大切なもの。

 

「だって、私、もう汚れてるから……きっと先輩に相応しくない……」

 

 俯いて、一押しで崩れてしまいそうな程儚い笑みを浮かべる彼女。

 

「そうね、きっと相応しくないわ。

 あなたが処女じゃないから、それを汚れていると考える。

 あの坊やがそんなにつまらない男なら、そんな男、桜に相応しくない。

 ねえ、桜。あなたが惚れたのは、そんなにつまらない男なの?」

「それとこれとは…話が違うわ……」

「いいえ、違わない。

 要はあなたの意識の問題よ。

 あなたが自分を汚れてるって思うのは勝手だけど、この場合、きっとそれを判断するのはあなたじゃなくてあの坊や。そして、彼はそんなこと思わないと思うけど」

「……」

 

 桜は黙ってしまった。

 きっと私が言ったことくらい、彼女だってわかっている。

 それでも、人の理性というものは数学や魔術ほど割り切れるものではない。

 きっとお節介に違いないだろう、それでも口を開きかけた私の耳に、とんでもない轟音が飛び込んできた。

 

「ふざけんな、このへっぽこが――!」

 

 ――。

 えっと、この声はあのお嬢ちゃんの声よね。

 あの子、こんなキャラだったかしら?

 そんな私の疑問を他所に、ズンズン、と明らかに不機嫌な足音が近づいてくる。

 バン、と力任せに開けられたドア。

 そこにいたのは、今まさに縄張り争いの真っ最中だ文句あるかこんにゃろめ、てな顔をした桜の姉。

 

「ど、どうかしましたか、リン」

 

 ふーっ、ふーっ、と、盛りのついた猫みたいに息を荒げて彼女はこう言った。

 

「ごめん、セイバー、私、あいつの指導、降りるわ」

「な、なぜ、でしょうか?」

 

 音に聞こえた剣の英霊も、心なしか腰が引けている。

 

「なぜ、ですって?」

 

 あ、きれた。

 

「あいつ!自分が使えるのは強化の魔術だけだとか言っといて!その初歩の初歩!、私なら四歳の時に出来たガラスの強化も出来ないのよ!そんなの!要するに何にも出来ないってことと一緒じゃない!あいつにまともな魔術覚えさせるくらいなら!年明け三年生偏差値30台の奴に東大合格させる方がなんぼか可能性があるわよ!ていうか!セイバー!あなた、私の召喚に応じないであんなへっぽこ大王に呼ばれるなんて!一体全体どんな了見よ!返答しだいでは即殴ッ血KILLわよ!」

 

 セイバーの服の襟を握り締めながら、前後に激しく揺さぶるお嬢ちゃん。声が心なしか涙声になっているのは気のせいだろうか。

 

「はあ、仕方ないわね、桜」

「え、は、はい!」

 

 自らの姉の、あまりの狂態に茫然自失していた桜は、私の呼びかけに意識を取り戻した。

 

「あのお嬢ちゃんが匙を投げたんだもの、私たちが教えるのは仕方の無いことよね、あの坊やのためにも」

 

 軽くウインクしてやると、桜は弾かれたように立ち上がった。

 

「は、はい!」

 

 聖杯戦争という、血塗られた儀式の最中とは思えないほど日常に塗れた一幕。本来なら忌むべきそれを、私は甘受している。それが、思ったほど嫌ではない。

 さて、お嬢ちゃんが匙を投げるほどのだめっぷり。一体どれほどなのかしら。魔術回路が無いとかなら手に負えないけど、そうじゃなければかえって燃える。ちぐはぐなパーツから一つの作品を完成させる、それは困難であればあるほど面白い。

 見せてもらいましょうか、坊やのへっぽこっぷりを。

 

 

 わかっている、今私はとっても不機嫌だ。

 だって、アーチャーが淹れてくれた極上の紅茶がそれほど美味しくないんだもの。

 

「凛、いい加減機嫌を直したまえ。あの男が使い物にならないことくらい、再三私が忠告していたことだろうが」

 

 すっかり冷えてしまった紅茶を新しいものに淹れなおしながら、私の忠実な給仕が話しかけてくる。

 

「わかってるわよ、そんなこと。今私が怒ってるのは全く別のこと」

 

 テーブルに肘を突いて、顎を手首に乗せる。

 

「なるほど、差し詰め、奴の無能っぷりを予想しながらもあまりの酷さに我慢の限界を超えてしまった自分の短気さに嫌気が差した、そんなところかな?」

 

 背中から響く余裕たっぷりの声が、ただでさえささくれ立った私の神経を逆撫でする。

 文句の一つでも言ってやろう、そう言って振り返った私の目に映ったのは、満面の笑みを浮かべたアーチャー。こいつ、何がそんなに嬉しいのか。私の毒気はすっかり抜かれてしまった。

 

「……なにわらってんのよ」

「おっと、これは失礼した。決して先ほどの君の狂態を思い出して笑っているわけではないぞ」

 

 ……我慢我慢。

 こんな言葉にいちいち目くじら立ててたら、こいつと付き合っていくなんて不可能に近い。無視を決め込むのが何よりだ。

 

「率直な自己批判は即ち成長に繋がる。

 失敗を糧にする、ありきたりな言葉ではあるが、それを実行するのは困難を極める。私のマスターが、それが可能な人間だとわかって素直に嬉しいのだよ」

 

 ……はぁ、こいつと付き合うとホント疲れるわ。散々落としてから持ち上げるなっての。どんな顔で答えたらいいかわからないじゃない。

 

「アーチャ……」

「ふざけてんの、このへっぽこが――!」

 

 ――。

 ……とりあえずカップを落っことさなかったことだけでも、今の私は賞賛に値するはずだ。

 

「……ねえ、アーチャー。私の勘違いかもしれないけど、今のってキャスターの声よね」

「……ああ、凛。私もひょっとしたら勘違いかもしれないが、今の声はおそらく神代の大魔術師のものに聞こえような気がしたな」

 

 そんな私達の葛藤を他所に、ズンズン、と明らかに不機嫌な足音が近づいてくる。

 バン、と力任せに開けられたドア。

 そこにいたのは、今まさに縄張り争いの真っ最中だ文句あるかこの駄犬が、てな顔をした桜とキャスター。

 

「ど、どうかしましたか、サクラ、キャスター」

 

 神代の大魔術師は、肩をわなわなと震わせてこう言った。

 

「ごめんなさい、セイバー、私、あの坊やの指導、降りさせてもらうわ」

「ええ、私も。これ以上、先輩には、ついていけない」

「な、なぜ、でしょうか?」

 

 音に聞こえた剣の英霊も、心なしか腰が引けている。

 

「なぜ、ですって?」

 

 あ、きれた。

 っていうか、このやりとり、どっかで見たわね。

 

「これを見なさい、セイバー!あの坊や!これを投影だって言ったのよ!投影よ、投影!しかも!あの子の家の土蔵には!何年間も実在し続けてる投影品がごろごろしてるって言うし!しかも!これが強化の片手間だっていうし!そんな投影、聞いたことも無い!ああ、衝動的にあの子をホルマリン漬けにしなかっただけでも!今の私は賞賛に値するわ!」

 

 彼女の手から無造作に零れ落ちたのは一本のナイフ。

 からりと床に転がったそれは、顕在化してから既に数分は経過しているだろうに、今だ何の綻びも見せないまま存在し続けている。

 通常の投影ならばもって数十秒、下手をすれば顕在化した瞬間に、世界の修正力に負けて霧散するはずなのに。

 要するに、これは異常だ。投影が異常なのか、それとも彼の魔術そのものが異常なのかは定かでないが、あまりに異質すぎる。

 投影であって投影でない魔術。

 戦慄に似た寒気が私の背骨を走りぬけた。

 

「あの、なんていうか、その、ごめんなさい……」

 

 さも申し訳なさそうに現れたへっぽこ、いや、へっぽこ大王。私の目を見ると、何かにぶん殴られたみたいに後ろに倒れた。

 

「と……おさ……か……」

 

 ぱくぱくと、金魚みたいに口を動かす士郎。その様はいたって滑稽だが、今の私にはそれを笑う余裕は無い。

 

「ああ、御免なさい、衛宮君。今、本気で貴方に殺意を覚えたわ」

 

 うふふ、この馬鹿、どうしてやろうかしら。

 投影であって投影で無い魔術。

 世界の侵食を受けない模造品、いや、世界すら騙しとおす模造品。

 それは、とりもなおさず真作だ。

 真作を、無限に生み出すことが出来る、ならばそれは魔法の域にあるのではないか。

 いいじゃないか、へっぽこの分際で、なーんとなくこの私を凌駕するか。

 この怒り、どうしてくれよう。これはこの世に存在する全ての魔術師の怒りだ。

 脳髄はホルマリン漬けに。

 脊髄は引きずり出して、投影専用の魔杖に。

 神経と一体化した魔術回路、これも研究の余地がある。

 肉は魔術の触媒だろうか。

 なんだ、この男、思ったより利用価値が高いじゃあないか。

 くすくすくすくす……。

 

「ね、姉さん、限りなく邪悪な笑みが……」

 

 桜の声が聞こえた気がしたが、多分気のせいだ。

 

「……脳はホルマリン……脊髄は杖に……」

 

 キャスターがぶつぶつ何か言ってる。

 どうやら大体同じことを考えているらしい。駄目よ、キャスター、こいつは私のものなんだから。

 

「冗談はそれくらいにしておけ、凛。そこの男、下手すればストレスで死ぬぞ」

 

 背後から呆れたような声が聞こえた。

 

「それとも、まさか本気か?

 別に構わないが、結界の解呪もままならぬのに、そこの騎士と戦うのは聊か私も気が重い」

 

 ちらりと横を見ると、さすがに不機嫌そうにこちらを見るセイバーがいた。

 そういえば、この子の存在を忘れていたわね。

 ちぇっ、と心の中で舌打ち一つ。

 

「ふん、冗談よ、冗談。

 でも、これで分かったわ、士郎。あなたの魔術の本質は投影よ。少なくとも、強化や変化なんかよりはそちらの方が近い場所にあるわ。今からは投影の修行を中心に行いなさい」

 

 実は結構残念に思いながらも、話を建設的な方向に持っていく。

 私は見た事が無いから知らないのだが、桜によると、彼は弓が達者らしい。

 弓矢は、古来より破魔の呪具としての性格が強い。もちろん、サーヴァント相手にそれが通用するとは思えないが、対マスターに限定するならかなり有効な武具になる。

 そして、矢を投影で用意することが出来れば、弾切れの心配が無い。もちろん、魔力切れの心配が出てくるが、全ての魔術回路が覚醒して以来、彼の魔力精製量は中々のもの、そう簡単にガス欠は起こさないだろう。

 

「あ、ああ、わかった、ありがとう、凛」

 

 蒼白な顔色で、それでも立ち上がった士郎。

 ふん、情けないわね、あれくらいのプレッシャーで参るなんて、やっぱりまだまだへっぽこだ。

 

「さ、とりあえずあなたの魔術の特性はわかったわ。あとは属性ね。計測用の魔具もこの家なら事欠かないし、今から始めましょう」

 

 士郎を伴って地下へ降りる。

 彼の隣には、少し剣呑な空気を漂わせる剣の英霊。

 失礼な、私が彼を襲うとでも思っているんだろうか。

 ああ、でも、さっきのアイデア、惜しいなあ。

 

 



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episode24 彼女の傷口

 俺の魔術性質の測定には思いのほか長い時間を要した。

 ああでもない、こうでもない、凛と桜、そしてキャスターが喧々諤々の議論を戦わせた後、最終的に判明した性質が『剣』。

 凛は『は?そんな性質あったの?』となかば本気で驚き、桜は『うーん、なんとなく先輩らしいです』と微妙に失礼な感想を述べ、キャスターは表情を消して黙り込んだ。

 本来、『根源に至る』という魔術師の悲願からすればベクトルのずれた性質、しかし、こと戦いにおいてはこれほど向いた性質も他にはあるまい。

 

「んー、士郎が魔術師としての道を目指すなら、お世辞にも褒められたもんじゃないけど、今、この時期に状況を限定するならこれは素晴らしい性質ね」

 

 微妙に判別に困る表情をした凛が言う。

 確かに、普通はそうなのだろう。凛の五大元素や桜の虚数属性は言うに及ばず、例えば水や火といった単一の属性なんかよりも研究には向いていない属性だろう。

 でも、俺は自分の魔術の性質を聞いて、飛び上がりそうなほど嬉しかった。

 なぜなら、俺が目指すのは魔術師ではなく正義の味方。

 求めるのは真理ではなくみんなの笑ってる顔。

 それを目指すためには、どうしても戦う力がいる。少なくとも、自分と、自分に近しい人達を守れるくらいの力は必要だ。

 だから、この性質はうってつけ。

 顔も忘れてしまった本当の両親に、少しだけ感謝した。

 

 episode24 彼女の傷口

 

 ぴんぽーん、と来客を告げるチャイムが鳴る。

 

「はーい、ちょっと待ってくださーい」

 

 まだ、少し目の赤い桜が床から立ち上がり、ぱたぱたと玄関までかけて行く。

 時間は既に午後の7時。ビジネスライクな冬の太陽は既にその仕事を終えている。

 こんな時間の来客、しかも時期が時期だ、本来ならばそれなりの不信感を覚えて然るべきなのだろう。第一、明確な目的を持たない客など、この家に張られた人払いの結界が排除する。

 しかし、俺達の間には特に緊張感のようなものは無かった。なぜなら、時間外れの訪問者の正体を、既に全員が知っているからだ。

 彼女の来訪は、事後承諾ではあったものの、既に了承を取り付けてある。凛などは少し渋ったが、マキリという家系の異常性を考えればやむを得ない処理だと考えたのだろう、最後には快く認めてくれた。

 ぱたぱたと、廊下から足音が近づいてくる。

 行きは一つだったものが、帰りは二つに。少しだけ楽しげな声も聞こえてくる。

 がちゃ、と扉が開く。

 そこにいたには、二人の美しい少女。

 桜と、代羽が、笑っていた。

 

「お邪魔します、遠坂先輩」

 

 台所で鍋を振るう凛が、にこやかに応じる。

 

「いらっしゃい、代羽」

 

 

 魔術の属性の検査が終わった後、俺は代羽を招いたことを凛達に告げた。

 

「また勝手なことを……」

 

 ソファに腰掛けた凛は、そう唸ってから両手で顔を覆ったが、

 

「いいじゃないですか、姉さん」

 

 と、桜は少し嬉しそうだった。彼女と代羽は大変仲がいい。ちょっとしたお泊り会、そんな感覚もあるのかもしれない。

 間桐代羽。

 俺や凛の後輩で、桜の親友。

 彼女の置かれた立場は非常に微妙なものだ。

 魔道の家系に生まれながら、魔術回路を持たない。

 本来庇護されるべき立場でありながら、家族にはサーヴァントの食料として襲われる。

 そして、家族の敵である俺達に、その身を保護される。

 どうにも、あやふやで、何かがずれている、そんな錯覚を覚える。

 

「しかし、代羽も可哀相だよな

 なんとなく呟いた俺の言葉に、不機嫌そうに凛が応じる。

 

「それ、絶対本人の前では言わないこと。普通の人間なら、侮辱されたって感じるわよ」

「分かってるよ。

 でも、もしあいつが生まれたのが間桐なんて家じゃなかったら、こんな厄介事に巻き込まれなかったのに、そう思ったんだ」

「あれ、士郎、言ってなかった?代羽は間桐の実子じゃないわよ」

 

 えっ?

 そんな話、聞いたこと無いぞ。

 

「……初耳だ。そんな話、どこで聞いたんだ?」

 

 我ながら固い声。何故だか知らないが、両手を硬く握り締めている。

 身体が、震える。まるで何かを拒絶しているみたいだ。

 

 何で?

 

 耳――――せ。

 

 何で?

 

 ――を、閉ざせ。

 何で?

 耳を、閉ざ――。

 

 何で?

 

 聞けば、呪わ――ぞ。

 

 何で?

 

 悪夢―、魘されるぞ。

 

 何で?

 

 知らなくてもいい。

 

 お前だけは、知ってはならない。

 

 お前は、それでも。

 

「誰にも聞いてないわ。幾つかの資料による推測ね。

 それに、そう考えないと辻褄が合わないの。1+1は2でしょ?1-1はゼロ。Xから1を引いて1を残すためには、Xは2以上の数でないといけない。でも、Xは最初は間違いなくゼロだった。だから、途中で増えたとしか思えないのよ」

 

 ……?

 よく、分からない。

 凛の話が難しいのか、ぐるぐると黒いものが渦巻く俺の脳味噌がスカスカなのかは知らないが、少なくとも俺は凛の意図するところが分からない。

 だから、ここが徳俵だ。

 残っても、きっと苦しいことだけ。

 下がれば、楽になれる。

 なのに、なんで俺は。

 

「……凛、もう少し詳しく説明してくれるとありがたい。最近、訳のわからないことばかりで、すこし混乱してる」

「わからない?つまりね――」

 

 そこまで言ってから、凛の視線が俺から逸れた。

 彼女が見たのは、俺の隣に座っていた自分の妹。

 桜を見た後で、凛は、後悔に顔を歪めた。

 

「……ごめんなさい、衛宮君。さっきの話は忘れて。少なくとも、これからの私達の戦いに影響を与えるようなものじゃないと思うから」

 

 その異常に、俺も桜を見る。

 彼女は、震えていた。

 まるでおこりを患ったみたいに、がたがたと。

 顔色は真っ青で、その見開いた瞳は僅かながら涙に濡れていた。

 

「さくら――」

「ごめん、士郎、今は何も聞かないで。

 桜、御免なさい。許して、なんて言えないけど本当に――」

「大丈夫です、姉さん、私は大丈夫」

 

 震える体を叱咤するように、少し強い声を出した桜は、無理矢理作った笑顔で微笑んだ。

 しかし、やはり身体を襲う震えは収まっていなかったし、その顔色は死人のそれに近い。

 

「そろそろ、話すべきなんだと思っていました。先輩が魔術の世界に足を踏み入れた以上、黙っていてもいずれはばれることですから、きっといい機会なのでしょう」

「止めなさい、桜!あなたには、まだ早い!」

「いいえ、姉さん。今しかないのです。今が、いいんです!」

 

 その言葉が表すのは、激情。

 そして、しばしの沈黙。

 誰も、何も話さない。

 ただ、キャスターだけが、母親みたいに優しい表情で自らの主を見つめていた。

 やがて、桜は口を開いた。

 まるで、飲み下した毒の棘を吐き出すかのように、重々しく口を開いた。

 その表情は、僅かな笑みと、それを凌駕する悲しみで彩られていた。

 

「先輩、私はね、もう、処女じゃないんです」

 

 

 殺したくなる。

 自分を、殺したくなる。

 うっかり、では済まされない。

 そんな言葉で、許されることではない。

 妹の、私の妹の、おそらくは一番脆い箇所。

 脆くて、そして、間違いなく一番痛い場所。

 そこを、ハンマーでぶん殴っておいて、うっかりでした、なんかで済むものか。

 呪いだと?

 遺伝だと?

 そんな言葉、ただの甘えだ。

 人は、原因ではなく、ただ結果にのみ責任を負うべき生き物だ。自由意志を持つという建前がある以上、それは間違いない。

 なら、私に背負えるのか?

 愛しい人間の前で、一番見せたくない傷を、暴いてしまった。

 この上なく、妹を傷つけた。

 その罪を、背負えるのか?

 許されるか?

 許されない。

 許して欲しい。

 許されてはならない。

 許されるべきでは、ない。

 後悔。

 私には、珍しい感情だと思う。

 いつもなら、起きたことは仕方ないと、無理矢理にでも思考を切り替える。

 後悔から、反省に。

 でも、今は不可能だ。

 こんなこと、反省のしようが無い。

 ああ、この一事をもって、地獄の門番は、私のために特等席を用意したことだろう。

 

「さくら、なにを……」

 

 呆然とした、士郎の声。

 それは悲痛というよりは、むしろ間抜けな響きをもって部屋に響いた。

 きっと、こいつはまだ事態が飲み込めていないのだと思う。

 飲み込んだら、きっとこの男は激怒するから。

 誰よりも、彼自身に対して。

 

「私は、昔、親に捨てられました。いらない子だということで、養子に出されたんです」

 

 いつしか、桜の震えは収まっていた。顔色は相変わらず土気色と言っていいほど真っ青だが、その視線には僅かな力が感じられる。

 

「今では、詳しいことは覚えていません。きっと、遠坂に帰される時に記憶を全て奪われたんだと思います。覚えているのは、私をもののように扱う冷たい視線と、帰っていい、と言われたときの安堵だけ。

 でも、きっとそれは幸せなことなんだと思います。きっと、あの家でのことを覚えていたら、私は私で無くなる」

 

 私は、ぎり、と、唇を噛んだ。

 微かな痛みと共に、口の中を鉄の味が満たす。

 

「でもね、先輩、私は魔術師だから、自分の身体のことは、誰よりの自分がよく分かるの。だから、分かるんです。私の身体は、既に男性を受け入れた事がある、と」

 

 拳を、握り締める。

 必要以上に力を込めたからだろう、ばきり、と爪が割れた。

 

「ときどき、夢を見るんです。どろどろとした、うねうねとした、なんだかよくわからないモノに犯される夢。きっと、あの家で私が体験したこと、なんでしょうね」

 

 それが、まるで自分の罪であるかのように。

 桜は、厳かに、頭を垂れた。

 

「……桜、お前がその家に貰われたのは、いつだ」

 

 士郎が、やっとの声を、搾り出す。

 

「……五歳の時です」

 

 桜が、やっとの声で、そう応える。

 

「……桜、お前が遠坂に帰ってきたのは、いつだ」

 

 士郎が、自分で傷を、作り出す。

 

「……六歳の時です」

 

 桜が、自分の傷口を、抉り出す。

 

 私は、何も、言えない。

 言う、資格が、無いから。

 だから、ただ、願う。

 この男が、桜の、救いになるように。

 お願い、士郎。

 桜を、助けて。

 私達を、助けて。

 

 天使が踊るみたいな沈黙。

 時計の針の音だけが、意地悪に響く。

 やがて、彼は桜を抱きしめた、

 優しい外見からは想像もつかないほど、逞しい両手と、分厚い胸板で。

 彼は、無言。

 何も、話さない。

 言葉は無力だ、まるでそう理解しているかのように。

 多分、それは正しい。

 言葉なんて、本当に、無力。

 だって、神が最初に作ったのが、言葉だから。

 役立たずな神様が作ったんだもの、役に立つはずが無い。

 人を救うのは、きっと、そんなものじゃない。

 

「先輩……?」

 

 桜は呟く。まるで、父親に甘える幼子みたいに。

 だから、きっとそれは桜にとって初めての経験なのだろう。

 桜は、父に抱きしめられたことなんて、ないはずだから。

 

「何も、言わなくていい」

 

 その声は、本当に。

 父親みたいに、優しかった。

 

「ねえ、先輩。ひとつ、お願いがあります」

「……いいぞ、オッケーだ」

「……ふふ、私、まだ、どんなお願いするか、言ってませんよ?」

「ああ、知ってる。でも、オッケーだ」

 

 ああ、わかった。

 こいつは、魔法使いだ。

 誰にも出来ない奇跡を叶えるのが、魔法使いの定義。

 なら、こいつは今、魔法を唱えた。

 だって、桜が笑ったもの。

 他の誰が、どんなに長い時間をかけても、どんなにお金をかけても、きっと出来ないこと。

 それを、あっさり実現したんだもの。

 だから、こいつはきっと魔法使いだ。

 他の誰が否定しても、私は彼を認めよう。

 そう、誓った。

 

「私は、きっと立ち直れます。でも、今は駄目。ほんの少しだけ、泣きたい。先輩、シャツを汚してしまうかも知れません、いいですか?」

 

 士郎は何も答えない。

 だって、あいつは桜に白紙委任状をきっているから。

 そんなこと、とっくに既定事項だ。

 ただ、桜を抱きしめる右手に、僅かに力を込めた。

 桜は、心地よさそうに頬を緩めて。

 気持ちよさそうに、泣き始めた。

 

「――っひ、ぐっ、うええ、うえええええぇぇぇぇ……」

 

 しっかりと桜を抱きしめる士郎と。

 士郎の胸に縋って泣く桜。

 その姿は、まるで一枚の聖画のように、私の心に消えない軌跡を残した。

 

 

 およそ十分ほど泣き続けただろうか、桜はやがて眠りに落ちた。

 俺は桜を抱き上げると、ソファに寝かしつけた。

 

「ありがとう、士郎」

 

 凛は自分の手をじっと見つめながら、そう言った。

 その手には、微かに血が滲んでいる。よほど強い力で握り締めたのだろう。

 

「……俺は、何もしてないよ」

「……知ってる。でも、ありがとう」

「そうね、お嬢ちゃん、あなたは坊やに感謝する必要があるわ。もし、桜が笑わなかったら、私がお嬢ちゃんを殺していたもの」

 

 キャスターはそう言って笑った。

 その声には一点の曇りも無かったが、それゆえに彼女が一点の曇りもなく本気なのだということが分かる。

 

「ええ、そうね。殺されても仕方ないことを私はしたわ。でも、私を殺さないで、キャスター。貴方が私を殺したら、きっとあの子が苦しむから」

 

 きっと、凛も本気だ。

 自分は殺されても仕方ないほどの罪を犯した、そう考えているに違いない。

 でも、それは。

 

「凛、あの少女は、君が罪悪感に苦しむ様など、望んではいないはずだ」

 

 部屋の片隅、今では彼の指定の立ち位置になったそこで、相も変わらず視線を明後日にやりながら、彼女の忠実なサーヴァントはそう言った。

 

「……わかってる」

「わかっているなら、速やかに実行しろ。それが魔術師たる君ではなかったか」

 

 喉元まで出掛かった怒声を、俺は飲み込んだ。

 この二人の間に、俺が口を挟む余地など無い、そんな簡単なことに気がついたからだ。

 厳しい口調は信頼の表れ。

 睨み付ける視線は、感謝の代わり。

 

「……ありがとう、アーチャー。あなた、いっぺん地獄に落ちなさい」

「ふん、君と一緒でなければ大歓迎だ」

 

 刺し殺すような凛の視線を涼やかに受け止めたアーチャーは、視線を明後日の方向に戻してから皮肉な笑みを浮かべた。

 凛は大きく溜息を吐いてから、俺の方に向き直った。

 

「さて、まだ聞きたいことはある?多分、一番くそったれな部分は終わったから、後は爽やかな話しかないけどね」

 

 当然だ。

 これで遠慮したら、俺は桜に合わす顔が無くなってしまう。

 

「……桜が貰われた家って言うのは」

「気付いてるでしょう?間桐、いえ、マキリという家系よ」

 

 マキリ。

 思い出すのは、あの夜。

 枯れた声で笑う翁と、粘りつくような不快な声で嗤う髑髏。

 白い髑髏のサーヴァントと、紫の長髪のサーヴァント。

 あいつらが。

 あいつらが、桜を泣かせたか。

 

「前も話したと思うけど、あそこは堕ちた家系でね、もう魔術の才のある子供は生まれない。そういう家は、どうすると思う?」

「……足りないものは、別の場所から補うのが魔術師、か」

「そういうこと。そして、あの家に養子をやったのは、古くから盟友関係にある家で、その名は遠坂。それだけのことよ」

 

 それだけのこと。

 それだけのことのために、桜は苦しんでるのか。

 

「父が何で桜を養子に出したのかはわからない。ただ、不用品を処分しただけなのかもしれないし、それ以外の意図があったのかもしれない。結果としては、桜は養子に出され、しばらくしてから帰された。それだけよ」

「魔術師が養子を取る理由って……」

「大きく分けて二つ。正統な後継者にする場合と、後継者を生むための子種、もしくは胎盤として必要な場合。政略結婚を原色ばりばりにどぎつくした奴って言えばわかりやすいかな。

 でも、よっぽどのことが無い限り養子を正統な後継者に挿げることはないわ。だって、魔術刻印が継げないんだから。

 だから、多分桜も胎盤として利用するつもりで貰われたんだと思う」

 

 胎盤、だと。

 人格なんて無視して、ただ子供を生むための道具として育てるってことか。

 なんて、ことを――。

 

「ストップ。

 だいたいあんたの考えてることはわかるけど、こんなのまだマシな方よ。普通は長子以外は魔術の知識のない一般人として育てられることが多いんだけど、実際、魔術師に後継者は二人は要らないわけだし、極端な家系だと二人目からは魔術の実験動物として育てるケースもあるんだから」

 

 怒りで、気が遠くなる。

 ただ、この怒りが誰に向けられたものなのかが、わからない。

 こんなことを事も無げに説明する凛に向けられたものか?

 違う。

 では、そんな外道を当たり前のように行う顔も知らない魔術師達に、か?

 それも違う。顔も知らない奴らを真剣に憎めるほど、俺は器用じゃない。

 だから、これは自分に対して向けられた怒りだ。

 自分の無知。そんな世界があることを知らず、日々を安穏と過ごしていた自分に対する怒りなのだと思う。

 

「……とにかく、桜は胎盤としてマキリに引き取られた。そこまではわかったよ。でも、じゃあ何で桜はこの家に帰ることが出来たんだ?結局あの爺のお眼鏡に適わなかったってことか?」

「……ありえないことじゃないけど、その可能性は低いわ。あの子、才能だけなら私以上よ。私も天才だけど、あの子は鬼才ね。だって、魔術刻印を継承していないのに、ほとんど私と同じだけの性能を誇ってるんだもの。異常よ、それって。

 少なくとも、堕ちたマキリ如きが食わず嫌いしていいような素材じゃない。

 だから、私はこう思ってるの。そもそも不要だったんじゃなくて、後から不要になったんじゃないか、って」

「状況が変化した、そういうことか」

 

 もともと、喉から手が出るほど欲しかったものを、あっさりと捨て去る。よっぽど趣向が合わない等の特殊な状況を除けば、その理由は限られてくる。

 例えば、マキリという家が魔道を捨て去った場合などはこれに当たるだろう。もしそうなれば、後継者を生み出す胎盤など無用の長物だし、その魔術的才能はかえって煩わしいものになるかもしれない。ならば、それをもとあった場所に帰すという選択肢もあり得る。

 しかし、現にマキリは魔道を受け継いでいる。ならば考えられる理由は、唯一つ――。

 

「多分、もっと性能のいい胎盤が見つかった、それが理由でしょうね」

 

 まるで俺の思考を読んだみたいに、凛が言った。

 性能のいい胎盤。

 そんな女性がマキリにいるのか?

 

「最初は、代羽がそれだと思ったわ」

 

 がつん、と。

 後頭部を、堅い何かで殴られたみたいに、眩暈が、した。

 年端もいかない幼子を、犯すような家系。

 魔術師である桜が、今も魘されるような悪夢。

 代羽が、それを味わったというのか。

 今も、味わっていると、いうのか。

 代羽が、俺の■■さん、が――。

 

「士郎、士郎、しっかりして!」

「シロウ、気をしっかり持って下さい!」

 

 気付いたら、目の前に、凛とセイバーがいて。

 なんだか、酷く安心した。

 

「……ああ、俺は大丈夫、話を切れさせて悪かった。続けてくれ、凛」

「……止めるって言っても聞かないでしょうね、あなたは。

 とりあえず、最初に疑ったのは代羽がマキリの後継者なんじゃないかってこと。

 彼女、少なくとも桜が養子に出された時点ではマキリにはいなかった。父さんの日記にも彼女の記述は無いし、契約時に受け取った家系図なんかにも彼女の名前は無い。これは確実だと思うの。でも、今彼女は確かに間桐の姓を受け継いでる。疑うのが当然でしょ?」

「それが、さっき言ってた『途中で増えた』っていうことか」

「そういうこと。マキリの胎盤は、最低一人は存在しないといけない。でも、桜は遠坂に帰されたし、もともとその適正のある子供はいないはず。せいぜい慎二くらいね、いたのは。

 だから、桜が帰された時点で後継者か胎盤か、少なくとも一人はいないと説明がつかないのよ」

「じゃあ、じゃあ、代羽は――」

 

 駄目だ。

 眩暈が、襲ってくる。

 眩暈が。『では問おう、衛宮士郎。』

 眩暈が。『君は、衛宮切嗣に引き取られて』

 眩暈が。『幸福だったかね?』

 眩暈が。『――そうか』

 眩暈が。『衛宮士郎、これが正真、』

 眩暈が。『最後の忠告になろう』

 眩暈が。『不幸とは己の業の深さ』

 眩暈が。『が呼び寄せるものだが、幸福』

 眩暈が。『とはただ神の御業に過ぎぬ。』

 眩暈が。『それが降りかか』

 眩暈が。『ったことについて、君』

 眩暈が。『が恥じ入ることなど何一』

 眩暈が。『つ無い。』

 眩暈が。『むしろ誇るがいい』

 眩暈が。『君は神に愛されている』

 眩暈が。『君は神に愛されている』

 眩暈が。『君は神に愛されている』

 眩暈が。『君は神に愛されているが、』

 眩暈が。『君は神に愛されているが、しかし、』

 

『神が愛し忘れた者も、確かに存在するのだよ』

 

「違うわ、彼女は胎盤でも後継者でもない」

 

 縋るように、凛を見る。

 今、彼女が自分の言葉を翻して、実は代羽が、なんて言い始めたら。

 俺は、俺でいる自信が、ない。

 

「前に言ったでしょ?『彼女とはちょっとした因縁がある』って。これがその因縁。桜と入れ替わりに養子としてもらわれた子供。嫌疑は十分よ、そんなもの。

 だから、調べたわ。それこそ、身体の隅から隅まで徹底的に。でも、彼女は魔術師でもないし、マスターでもない。おそらく、虐待なんかも受けてないと思う」

 

 妙に自信に満ちた、凛の笑み。

 

「……どうして、そんなことが、断言できる……?」

 

 ああ、わかってるんだ。

 俺には、わかってしまった。

 きっと、彼女は。

 あの神父の言ってることは――。

 

「前に、代羽があなたの家に担ぎ込まれた時のこと、覚えてる?」

 

 ふらふらと、幽鬼のような足取りで、近づいてくる代羽。

 

 

「あの時、『性的な暴行を受けた痕跡は無かった』って言ったでしょ」

 

 助けて、助けて、助けて、■■■――。

 

「彼女、まだ処女なの」

 

 助けて、■■■――。

 



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episode25 Scissorman

「落ち着いた?」

 

 中国製の可愛らしい茶器。そこから香るジャスミンの香り。

 情けない話だが、どうやら俺は少しの間意識を失っていたらしい。

 頭がガンガンする。

 何か、物凄く大事なことを考えていたはずなのだ。

 それに手が掛かりかけたはずなのだ。

 それが、まるで虹のように、手が届かない。

 

 蜃気楼を追いかける旅人というのは、きっとこんな気持ちなのだろうか。

「ああ、大丈夫……、桜は?」

 俺の隣のソファで眠っていたはずの桜がいない。

 

「あの子、今シャワーを使ってる」

「……そうか」

 

 桜があんな辛い記憶を抱えていたなんて、全く知らなかった。

 考えてみれば、俺は桜にどれだけ救われたのだろう。

 バイトが終わって家に帰ったとき、灯りのついた玄関で出迎えてくれた。

 無機質な電子音じゃなくて、優しい声で起してくれた。

 あの、無闇に広かった家が、ほんの少しだけ狭くなった。

 そして、とても暖かくなった。

 なのに。

 なのに、俺は桜に何かをしてあげたことがあるんだろうか。

 俺は。

 

「士郎。難しいと思うけど、あの子に気を使おうとしないで。きっと、それは何よりも辛いと思うから。出来るだけ今までどおりに接してあげて」

 

 凛は、その端整な顔に隠しきれない後悔の色を浮かべながらそう呟いた。

 わかっている。

 それが、桜にとって最も望ましいことだというのはわかっている。

 しかし、人間はそれほど単純ではない。

 痛い場所に触られれば涙を流すし、壊れそうな場所には上手に触れられない。

 だから、きっと、俺は、桜を……。

 

「……ん?」

 

 どたどたと、なんか凄い音が聞こえた。

 その音は明らかに近づいてきている。

 これもドップラー効果というのだろうか、音が少しずつ不吉なものに聞こえてくる。

 ……何か、嫌な予感がする。

 

「せんぱいいいい―――っ!」

 

 バン、と。

 本来、有り得ないほどの勢いで、扉が開く。

 きっと、あの扉に挟まれたら、漫画みたいにぺらぺらになってしまうのではないか、そんな勢い。

 声の主は、桜。

 ゆったりとした部屋着に着替え、長い髪の毛はポニーテールの要領で一つに括られている。

 風呂上りだからだろうか、少し朱の差した頬が妙に色っぽい。

 普段と違うその姿に、心ならずもドキリとしてしまう。

 でも。

 

「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ」

 

 扉を開けたまま固まった彼女。

 両手を広げて、まるで通せんぼするみたいな姿勢。

 きっと全力疾走してきたのだろう。

 風呂場と居間とは、およそ二十メートル。余程の勢いで走らなければ息の切れるような距離ではない。

 だから、桜は余程の勢いで走ってきたのだと思う。

 

「ど、どうしたの、桜?」

 

 流石の凛も、少し及び腰だ。

 それもそのはず、桜の赤く泣き腫らした目には、俺なんかでもそれとわかる欲望の光が灯っている。

 

「せ、せんぱい、さ、さっきの、ムードは、まだ、きげん、ぎれじゃ、ありませんよね?」

 

 ぜえぜえと喘ぎながら、息も絶え絶えにそう言った桜。

 さっきの約束。

 

『ねえ、先輩。ひとつ、お願いがあります』

『……いいぞ、オッケーだ』

『……ふふ、私、まだ、どんなお願いするか、言ってませんよ?』

『ああ、知ってる。でも、オッケーだ』

 

 短い会話と、そこに込めた愛情。

 ああ、我ながらよくやったと思うよ。

 だから桜、その何かを期待したぎらついた瞳、止めてくんない?

 

「ねえ、先輩。もうひとつ、お願いがあります」

「……駄目。断る」

「……あの、私、まだ、どんなお願いするか、言ってませんよ?」

「ああ、知ってる。でも、アウト」

 

 がっくりと、桜は地に伏せた。

 まるで、KOパンチを喰らったボクサーみたいに、そりゃあもうがっくりと。

 

「うふ、うふふ、私の馬鹿……あんな美味しいシチュエーションで、何であんなにつまらない約束を……」

 

 ぶつぶつと呟く桜。

 恋人とか、結婚とか、奴隷とか、サーヴァントとか、いやんな台詞が聞こえてきたのは気のせいったら気のせいだ。

 これは、桜なりの努力に違いない。

 俺との間に不自然な継ぎ目を作らないために、わざわざ無理をしているのだ。

 そうに決まっている、俺にはわかるぞ、桜。

 俺にはわかってるから。

 くすくす笑いながら影を広げるのは止めなさい。

 

「大丈夫よ、桜、チャンスはまだまだあるわ」

 

 崩れ落ちた桜に優しく語り掛けるキャスター。

 

「男なんて単純だもの、いくらでも落としようはある。この私が付いてるのよ、アルゴー船に乗ったつもりでまかせなさい」

「キャスター……」

 

 きらきらとした瞳で見つめあい、手を硬く握りかわした主従。

 美しい光景だと思う。

 ただ、俺が当事者でなければ。

 そんな、馬鹿げた、でも優しい会話をしていたら、ぴんぽーんとチャイムが鳴ったのだ。

 

「はーい、ちょっと待ってくださーい」

 

 桜はすっくと立ち上がった。

 来客は誰か、予想はついている。

 きっと、代羽だ。

 そう考えてから。

 やっぱり、少しだけ、頭が痛くなった。

 

 episode25 Scissorman

 

 今日の夕食は凛が作った。

 彼女が負傷したのは昨日の今日だったので、いかに当番制とはいえ交代を申し出たのだが、『これ以上負けてられるか』という気合の篭もった一言で俺の思いやりは封殺された。

 凛が作ったのは中華料理。

 本格中華料理店も顔負けの超強力な火力で作られたそれは、びっくりするほど美味しかった。そして、食卓を彩る多彩な料理が全て食べごろの温度で出されたのには、脅威すら覚えた。

 

「ああ、満足です……」

 

 蕩けるような忘我の表情を浮かべたセイバー。

 

「むぅ……この味、オレを凌駕するか……」

 

 俺の料理にはいちいち批評を忘れないアーチャーも、どうやらぐうの音も出ないらしい。

 

「うーん、これはポイント高いわね……。桜を鍛えないと……」

 

 ぶつぶつとよく分からないことを呟くキャスター。なにかよくない予感がした。

 代羽はただ無言。

 でも、時々思い出したように溜息をしたり、驚きに目を見開くのは、きっと降参のサインだと思う。

 うんうんと頷く凛は勝者の表情だ。

 とりあえず、俺の表情は敗者のそれだったと思う。

 

 

 風呂から上がり、楽しそうな声に誘われて居間に戻ると、そこにはパラダイスが広がっていた。

 テーブルは取り払われ、かなり広いスペースが確保されている。

 そこに引かれたタオルケットと、その上に並べられたお菓子とグラスと酒瓶。

 それらを囲むのは色取り取りの美しい花々。

 凛、桜、代羽、セイバー、キャスター。

 

「あ、士郎、もうお風呂はいいの?」

 

 普段はツーテールに纏めた髪を下ろし、猫柄プリントのパジャマを着た凛。

 

「先輩は早いですよ、カラスの行水です」

 

 酒精に頬を赤らめ、緩んだ顔の桜。

 

「へえ、そんなことまではやいのですか、あなたは」

 

 腰まで届く長髪を結い上げ、灰色の地味なスウェットの上下を着た代羽。

 

「ほうほう、これがブリテンのエールですか、中々味わい深い……」

 

 代羽とは逆に、普段は結い上げた髪を下ろしたセイバー。いつもの凛々しさはどこへやら、妙に幼く見える。

 

「んー、もう少し強いのはないのかしら?こんなジュースじゃ酔えないわ」

 

 普段はぶ厚いローブに隠した大人の色香漂う素顔を衆目に晒し、ネグリジェを纏った完全武装のキャスター。

 所狭しと並べられた酒。

 見たことのあるラベルもあれば、初めて見るものもある。

 コンビニで売っているような缶ビールから、如何にも高級酒ですと言わんばかりに凝った造りの酒瓶まで、より取り見取りだ。

 パジャマパーティーまではわかるが、なんで酒盛りを始めてんだ、君達は。

 

「衛宮先輩、一杯いかがですか?」

 

 しなだれかかるように酒を勧めてきたのは代羽。

 ほんのり赤くなった頬が、結い上げられた項とあいまって、とんでもなく色っぽい。

 

「へえ、代羽、それカミュのナポレオン?結構いいの持ってきたわね」

 

 凛の言葉ににやりと笑った代羽。

 

「お爺様の秘蔵の一品です。せいぜい盛大に飲んでやりましょう」

「そりゃあいいわ。寄越しなさい、鯨みたいに飲んでやる」

 

 まるで敵を見るような目つきで酒瓶を傾けた凛は、コップになみなみと注がれたブランデーを一気に乾かした。

 

「流石、遠坂先輩、最高の飲みっぷりです」

「当たり前でしょ、怪奇バグ爺さんがなんぼのもんだってのよ!」

「ええ、全くです!お爺様のコレクション、全て空にしてやりましょう!」

「乗った、代羽!」

 

 ……駄目だ。完璧に出来上がってる。

 いくら快楽主義者を自称する凛でも、この時期にここまで飲むのはどうかと思うぞ。今は戦争中、なんて言っても聞かないだろうなあ。

 アルコールに弱い俺は、そんなことを考えながらワインをジュースで割ったものをちびちびと飲んでいる。こんなの、今の凛に見つかったらなんて言われるかわかったもんじゃない。

 そういえば、凛の従者は何をしているのだろうか。

 ちらりと周りを見る。

 アーチャーは喧騒の輪から一歩引いたところで静かにグラスを傾けていた。その姿は嫉妬すら覚えないくらい様になっているが、その表情が妙に緩んでいるのは男の性だろう。

 だって、ここにいるのは揃いも揃って絶世の美女。しかも、酒にやられて隙だらけの姿を見せているのだ。

 ああ、サーヴァントだって男だもんな、そんなことを考えていると、奴と目が合った。

 奴は、その鷹のように鋭い瞳に、圧倒的な意志を込めて語りかけてくる。

 

『衛宮士郎、これが我らのアヴァロンだ』

『オーケー、把握した』

 

 びっ、と親指を立てる。

 あいつはそれを見て少し笑った後。

 グラスを握ったその手で、ほんの少しだけ親指を立てた。

 ああ、この想いは、間違いなんかじゃない。

 

「……あんた達、何目と目で通じ合ってんのよ、気持ち悪い」

「先輩、同性愛なんて非生産的な真似、私が許しません!」

「あら、私は祝福しますよ、先輩」

「むう、シロウ、私よりもアーチャーを選ぶというのですか、あなたは」

「ふふ、私達の時代なら男同士なんて珍しいものじゃなかったわ。いいじゃない、醜くて」

 

 ……女が三人寄れば姦しいとはよく言う言葉だが、五人集まると収拾のつけようが無い。

 ぎゃあぎゃあと喚く美しい花達。

 俺とアーチャーは、それに食べられる哀れな虫。

 合掌。

 

                          

 宴もたけなわ。

 乱立する空の酒瓶、食い散らかされたお菓子。

 既に桜は眠りの国の住人となっている。これは単純にお酒に弱いのではなく、度数の高い酒を飲みすぎたせいだ。

 そろそろお開きだろうか、そんな時、今までほとんど口を開かなかったアーチャーが、代羽に話しかけた。

 

「そういえば、以前の礼を言っていなかったな」

「以前とは?」 

 

 桜と同じくらいは飲んだはずなのに全く顔色を変えないアーチャーと、俺に似てあまり酒が強くないのか、ほとんど飲んでいないはずなのに顔が真っ赤な代羽。

 

「私が君達の学校を訪れた際、君の弓を借りただろう。その礼を言ってなかったはずだ。ありがとう」

 

 ああ、と機嫌のいい猫みたいな表情で頷いた代羽。

 

「礼を言われるほどのことではありません。あれは本当に素晴らしかった。あんなに純粋な射を、私は見たことがない。本来、私の方こそ礼を言わなければならないところです」

「そうか、それは光栄だ。なるほど、君は私を認めてくれるわけだ」

 

 皮肉げな笑みを浮かべたアーチャー。

 

「しかし、そうすると少し妙ではあるな。少々気になっていることがあるのだが、答えてくれるかね?」

「どうぞ、私に答えられることでしたら何でも」

 

 空気が、色を変えた。

 何だろう。

 にこやかに会話する二人が、奇妙なほど歪んで見える。

 

「私には少し変わった特技があってね。人よりも視力がいいせいか、読唇術の心得がある」

「……それが、どうかしましたか?」

 

 二人の間に奇妙な緊張感が生まれていく。

 もやもやとして、それでいて触れたら弾けるガラスの繊維のような空気。

 俺も凛も、セイバーやキャスターですらその雰囲気に飲まれていくようだ。

 

「あの時、君はこう言ったな。『なんて醜い』と」

 

 あの時。

 歓声に沸きかえる道場。

 賞賛の渦。

 その端から、アーチャーを眺める代羽。

 その口は、微かに動き。

 その視線は、限りなく冷たかった。

 

『なんて、醜い』

 

 彼女は、そう言っていたのか。

 

「……そんなこと、言ったかしら」

「ああ、間違いなく。しかし、今君は私の射が純粋であると褒めてくれた。どうも納得がいかないのだ。説明がもらえるとありがたい」

 

 罪を暴くようなアーチャーの言葉。

 その言葉に。

 しかし代羽は、破顔した。

 本当に愉快そうに、お腹を抱えながら笑った。

 

「ええ、ええ、確かに私はそう言いました。聞こえないように言ったつもりだったのに。認めましょう、私は嘘吐きです。あなたの射を素晴らしいとは思いません。でも、ああ、あなたは本当に意地が悪いわ」

 

 息も絶え絶えに笑う彼女。

 あはは、と笑い。

 うふふ、と微笑み。

 いひひ、と嗤う。

 その様は。

 手を叩き、髪を振り乱しながら哂う、その姿は。

 

「……何がそんなにおかしい?」

「ああ、わかりませんか?」

 

 目の端に浮かんだ涙を、ギリシャ彫刻のように美しい指で拭い取ると、なおも笑みを浮かべながらだは言った。

 

「私の言が気に入らないなら、最初からそう言えばいい。それを、わざわざ言質をとった上で、さも鬼の首でも取ったかのように言うあなたが可笑しかったのです。

 アーチャーさん、あなたは意外とかわいらしいのですね」

「……光栄だよ、心からな」

 

 剣呑な雰囲気に、しかし代羽は笑みを絶やさない。

 

「でも、私が嘘を吐いたのは『本当に素晴らしかった』と言った部分だけです。あなたの射が純粋だと思ったのは事実ですよ」

 

 その言葉とは裏腹に、彼女の顔色から侮蔑の色は消えない。むしろ、その臭気を強めているとさえ言える。

 

「あなたの射は確かに純粋。しかし、純粋であることなど、この世界においては何の価値も無い。純粋であればあるほど、汚れ、傷つき、磨耗していく。この世の真理は混和。故にあなたの射など、私は認めない」

 

 アーチャーの眉が、ピクリ、と動いた。

 その時、一瞬だけ。

 背筋が凍るほどの殺気が溢れたのを。

 俺は見逃さなかった。

 

「……貴様」

「世界は純粋を嫌います。増大し続けるエントロピーは、いずれ逆転するにしても、その時はあまりに遠い。少なくとも、この世界やあなたや私には遠すぎる。老いた赤子が子宮に帰り、そこで死を迎えるとき、私は初めてあなたの弓を評価しましょう」

 

 その言葉にアーチャーは眉根を寄せて、冷笑を浮かべた。

 

「たかが射如きに、貴様の言はいちいち誇大なのだ。聞いていて疲れる」

「ええ、私もそう思います。きっと飲みなれないお酒のせい。子供の戯言、笑って忘れてくださいな」

 

 す、と代羽は立ち上げり、一度だけ頭を下げると、笑顔のまま部屋から出て行った。

 俺も含めて、みんな呆然として彼女を見送った。

 ただ一人、それを憎憎しげに見送ったアーチャーが呟いた。

 

「……ふん、私も大人気なかったか。

 しかし、凛。あの女に気を許すな。あれは、おそらく蛇蝎の類だ」

 

 凛は何も答えない。

 残されたのは静寂。

 すやすやと眠る、桜の寝息だけが響いた。

 

 

 代羽の部屋は俺に割り当てられた部屋の斜め向かいになる。

 普段では考えられない彼女の様子。

 流石に少し心配になったので、一応様子を確かめようと、彼女の部屋の前に立つ。

 扉をノックしようとした俺の手は、しかしその寸前で動きを止めた。

 歌が、聞こえたからだ。

 調子は少しずれている。

 日本で言えば童謡のような、イギリスで言えばマザーグースのような、懐かしいメロディ。まるで胸の奥に刺さった棘を優しく溶かすかのようなそれは、聞くだけで涙が溢れそうだ。

 ほんの少しだけ安定しないメロディは、それが機械から奏でられたものでないことを教えてくれる。しかし、今まで聞いたどんな歌声よりも、美しかった。

 

――A kind father plays with a little John. Clip,clip,he dumps his name,name.

 

  A grandfather plays with a little John.Snip,snip,he loses his flail,flail.

 

  Little John plays with kind father. Munch,munch, gets tall,tall.

 

  Little John plays with grandfather. Chomp,chomp,lets play doll,doll――

 

 ……全く意味はわからない。英語だというのが辛うじてわかる程度。

 繰り返し刻まれる同じフレーズ。

 

  A kind father plays with a little John. Clip,clip,he dumps his name,name.

 

  A grandfather plays with a little John.Snip,snip,he loses his flail,flail.

 

 繰り返し、繰り返し。

 

  Little John plays with kind father. Munch,munch, gets tall,tall.

 

  Little John plays with grandfather. Chomp,chomp,lets play doll,doll――

 

 でも、俺は立ち尽くした。

 扉を叩くことは、出来なかった。

 それが、許されない罪を犯しているみたいで。

 居た堪れなくなって、自分の部屋に帰った。

 

 

 夜。

 梟の鳴かない、しかし、梟の鳴き声が相応しい深夜。

 古びれた洋館の二階、その片隅のドアがぎしりと鳴いた。

 

「……?誰ですか?」

 

 誰何の声は柔らかい。

 さもありなん、この家は元々からして要塞、今は神殿だ。外敵の侵入など許すはずが無い。

 故に、今扉を開けたのは自分の家族でしかあり得ない。ならば、何故神経を昂ぶらせる必要があるだろうか。

 

「桜、私よ」

 

 答える声には、どこか緊張の色があった。

 

「キャスター、どうしたの?」

「本当は話すかどうか迷ったのだけれど……」

 

 再び、扉はぎしりと鳴いて、二つの人影を飲み込んだ。

 その後、屋敷には完全な静寂が訪れた。

 







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episode26 鮮血校舎・前

 四方をコンクリートに囲まれた、小さな部屋。

 狭くて、暗くて、何より寒い。

 気休めのように取り付けられた、小さな窓。

 そこからは、月さえ見ることはできない。

 それでも、私の瞳はこの部屋の仔細を見渡している。

 以前は、こんなに夜目が効いただろうか。

 暗い、星明りのみに照らされる部屋。

 そこにあるのは、乱雑に詰め込まれた使用用途の知れない器具。

 元々は白かったのだろうか、汗と埃で黄ばんだマット。

 大きな籠に詰め込まれた、様々な大きさの球体。

 部屋の片隅に堆く詰まれた、生贄の、群れ。

 照明設備は整っているようだが、それは使ってはならない。

 身を潜めるものにとって、灯りこそが大敵だ。

 そうして、私達はここで二日目の夜を迎えている。

 でも、戯れに灯りを点けたくなる。

 知識では知っているが、自分が使ったことがないからだ。

 便利な道具だ。

 火を熾すこともなく、暗がりを追い払うことが出来るなんて。

 闇は、非合理で理不尽だ。

 人を無理矢理に呼びよせ、唐突に違う世界へと案内する。

 私は、闇が嫌いだった。

 きっと、二人の姉もそうだったんだと思う。

 だから、私達は肩を寄せ合って、寒い闇に耐えていたのだ。

 

『ねぇ、メデューサ、私が脅えているわ。何か歌を歌いなさい』

『ああ、メデューサ、あなたの歌声がうるさくて小鳥が逃げてしまったじゃないの』

『ほんと、駄目な妹』

『ほんと、愚かな妹』

『ねえ、私。私達は、本当に苦労するわね』

『そうね、私。私達がいないと、この子は寒さで死んでしまうわ』

 

 そう言って震える二人の姉の背中を。

 あやして眠った夜が、幾度あったのだろうか。

 優しい悪夢だ。

 こうしているだけで、幸せになれる。

 ああ、上姉さま、下姉さま。

 ご馳走様でした。

 あなた達は、とても優しくて。

 本当に、美味しかった。

 二人の甘美な味に想いを馳せながら、目の前の獲物を貪る。

 ごくり、ごくり、と。

 熱い液体が、喉を潤す。

 熱くて、甘い。

 甘くて、官能的。

 どろりとした舌触り。

 焼け付くようだと、意味の無い感想を抱く。

 それでも、私は満たされない。

 微かに鼻をつく臭気。

 饐えた埃の匂いと、染み付いた汗の匂い。

 それがどうにも許せなくて。

 鉄の匂いで、塗りつぶす。

 

 ――止めてくれ。

 ――まだ、間に合う。

 ――もう、これ以上は死んでしまう。

 ――殺さないで。

 ――お願いだから。

 ――許して。許して。許して。

 

 声が、聞こえる。

 哀れを誘う、無様な声で。

 私には、それが可笑しくって。

 それを止めるために、喉を鳴らす。

 からからと、まるで蛇のように。

 

「や……めて、ください……」

 

 泣き笑いの表情で、目の前の獲物が笑った。

 目からは、涙を。

 鼻からは、鼻水を。

 口からは、涎を。

 体中から、脂汗を。

 尿道からは、小便を

 肛門からは、大便を。

 あらゆる穴から、あらゆる汚物を。

 撒き散らしながらの命乞い。

 ああ、なんて滑稽。

 なんて、愉快。

 命が、目の前で消えていく。

 儚くて、涙が出そうだ。

 大丈夫。

 あなたの命は。

 あなたの命は。

 私の中で、生きるから。

 さあ、共にありましょう。

 

 ――止めてくれ。

 ――まだ、間に合う。

 ――もう、これ以上は死んでしまう。

 ――殺さないで。

 ――お願いだから。

 ――許して。許して。許して。

 

 また、聞こえる。

 不快な、命乞い。

 もう、いいって。

 もう、わかったから。

 

 やがて、それの命は消え去った。

 ああ、ごちそうさま。

 本当に、おいしかったです。

 首筋から、ゆっくりと牙を抜く。

 それを拘束していた両腕から、力を抜く。

 とさり、と。

 まるで紙で出来た人形みたいに、軽い音で。

 それは地面に倒れ伏した。

 土埃が舞い上がる。

 埃っぽくて、また喉が乾く。

 さあ、次はだれにしよう。

 私のめをみて動けなくなったえ物たち。

 がたがた震えル、かわいいこうさギ。

 かわいい、かわいい、獲ものたち。

 あんなにタクサんいたのに、いまはかタてのゆびでかぞえラレるクラい。

 

「はは、いいぞ、ライダー!凄い食欲だ!らしくなってきたじゃあないか、おい!このペースなら、あと二十人、全員喰えそうじゃん!」

 

 しょうねんの、声、がスる。

 あア、これは、誰ノこえだ?

 食べ物じゃなくて、タベモノジャナクテ。

 

 ――あなたは、かれにシタガイナサイ――

 

 ああ、イツダッタカ、遠いサイキンにキイた、最後のメイレい。

 

 ――ワタしはあなたを謀りマシた。私HAアナたを騙しマシタ――

 

 おもいだせない、ダレカノコエ――。

 

 ――しかし、私は貴方に謝罪しません。恨みなさい、貴方にはその資格がある――

 

 あやまらないで、あやまらないで。

 だって、わたしはこんなにしあわせ。

 

 ――止めてくれ。

 ――まだ、間に合う。

 ――もう、これ以上は死んでしまう。

 ――殺さないで。

 ――お願いだから。

 ――許して。許して。許して。

 

 こんなにおいしくて、こんなにあたたかい。

 だから、わたしはしあわせ。

 

「ほら、もっと喰えよ、化け物。明日はアイツを殺さなきゃならないんだからさ」

 

 そう。

 もっともっとたべないと。

 たべてたべてたべて。

 もっともっとおおきくなって。

 それで、どうするんだろう。

 わたしは、なにがほしかったんだろう。

 だれとだれに、あいたかったんだろう。

 そこまでかんがえたとき。

 わたしのなかからきこえていた、ちいさなちいさないのちごいは。

 ついに、きこえなくなった。

 ちょっとだけ、さみしくて。

 わたしは、ぱかり、とわらった。

 

 episode26 鮮血校舎・前

 

 夢を見ている。

 最近、そう考えることが多くなった。

 覚醒夢、明晰夢とでも言うのだろうか。

 自分か夢の世界にいる、そのことを自覚できることが多くなったのだ。

 理由は分からない。

 緊張の連続による精神の疲労が理由かもしれないし、最近できた魔術のスイッチが理由かもしれない。

 理由はわからないが、最近そういう夢を見ることが多くなった。

 

 二つの人影が歩いていた。

 時間は午前だろうか、それとも午後だろうか。

 煌煌と照らし出されたのは、森の中を行く二つの影。

 ひどく明るい。

 あくまで森の中にしては、という条件付きではあるが。

 きっと、昼間なのだろう。それとも、満月の夜だろうか。

 たおやかな光が光沢のある木の葉に反射して、蛍のように周囲を照らす。

 

 二人は、ただ無言で歩いていた。

 片方は、長身の青年。

 顔は分からない。

 身長の割りに、肩幅は狭い。

 ひょろりとして、どこか薄を思い起こさせる。

 少したどたどしい手つきで、少女の肩を抱き寄せている。

 片方は、小柄な少女。

 顔は分からない。

 降り注ぐ光にその真っ赤な長髪を弄らせながら、隣の青年に身を寄せている。

 不安定な足場、しかし少女は夢見るように目を瞑り、青年に自らを委ねている。

 二人は、ただ無言。

 しかし、その手は確かに握られて。

 本当に、幸せそうだった。

 

 わかっている。

 これは、夢だ。

 今までに起こったことではない。

 今、起こっていることでもない。

 おそらく、これから起こることですらないだろう。

 

 ただ、思った。

 本当に、こんなことが起こりうるなら。

 この世界も、捨てたものじゃあない、と。

 

 少し体が冷えていたので、シャワーを借りることにした。

 遠坂の家に泊まるのもこれで二日目。まだまだ慣れないことが多いが、それでもなんとなく勝手は掴めてきた。

 敷地そのものは俺の家よりも狭いようだが、母屋の部屋の数だけを比べるならばこちらの方が遥かに多い。その中で絶対に立ち入ってはいけない部屋は三つ。

 凛の部屋。

 桜の部屋。

 そして二人の工房である地下室だ。

 昨日、酒の席で聞いてみた。

 もし、無断でそれらに入ったらどうなるか。

 凛曰く、『どんな死に方が死体、いや、したい?』とのこと。

 桜曰く、『責任取ってくださいね、先輩』とのこと。

 だから、その三つの部屋の場所は間違いなく把握している。

 逆に言えば、それら以外はある程度自由に使っても大丈夫、そういうことらしい。

 当然、セイバーやキャスターの部屋に入るなんてことは許可されても出来ないが、とりあえずそういった部屋に足を踏み入れることは無いだろう。

 ぱたぱたと、フローリングの廊下を、スリッパを履いて歩く。

 突き当たりにある小さな窓、そこから見える外の世界はまだまだ暗い。

 階段を降りて、洗面所に向かう。

 ぎい、と、木製のドアを開ける。

 かなり広い脱衣所に、大き目の姿見。最新式の洗濯機を使っているのはもっぱら桜だと思う。

 昨日もそうだったが、どうもこの空間の空気は慣れない。ここにいるだけで、酷くいけないことをしている、そんな錯覚を覚えてしまうのだ。

 朝っぱらから何を考えてるんだか、そう苦笑してから服を脱ぐ。冬の、肌を責めるような空気が心地いい。

 シャワーの温度はかなり高めに設定した。痺れるような湯音。思わず声を上げそうになったが、これはこれで気持ちいいのだ。

 肌が赤くなるような湯音に慣れたら、こんどはツマミをお湯から水に切り替える。

 シャワーのノズルから出てくるのは身を切るような冷水。呼吸のリズムが変わっていしまうほど冷たい。

 それを数度繰り返すと、アルコールの残滓であやふやだった思考がはっきりした。サーヴァントならこんな無様はないだろうし、凛や桜も魔術師、二日酔いなんてことはないだろう。

 ぎゅっと、硬く蛇口を閉める。

 ぽたぽたと、髪の毛から水滴が滴る。

 昨日の桜の言葉が思い出される。

 今日が、リミット。

 阻止限界点だ、と。

 

 

「結界の成長速度が早まった?」

 

 真剣な瞳で、桜はこくりと頷いた。

 時は深夜。

 集まったのは、マスターとサーヴァント三組。

 代羽は既に深い眠りの中にいる。

 凛と桜に、先ほどまでの乱痴気騒ぎの残り香は無い。如何なる魔術か、体内のアルコールは既に一掃されてしまっているらしい。

 

「昨日までの成長速度とは段違いです。今日は私とキャスターで呪刻の消却処理をしましたが、それでも結界の成長の方が早い。このままいけば、おそらく明後日には完成するものと思われます」

「何でだ?今までと何が違うんだ?」

「……ライダーが負った傷……が原因ではないでしょうか」

「?どういうこと、セイバー」

「あくまで推測にしか過ぎませんが……あの結界は獲物を捕食するための、攻撃型の結界宝具。そして、宝具の効力は持ち主の身体的な、或いは精神的な状態に大きく影響を受けます」

 

 宝具とは、いわば英霊の切り札。その英霊そのものといっても過言ではない。故に、その存在は英霊自身の身体的、あるいは精神的な状態を如実に反映する。

 

「ライダーは大きな傷を負っていた。我々のように魔力の補給の可能なマスターがいるなら別段、彼女にはそういった存在はいない」

 

 ライダーのマスター。おそらくは慎二。あいつは自分を魔術師だと名乗ったが、凛によれば魔術回路は存在せず、魔力量も人並みのようだ。ならば、あいつがライダーを自力で回復させることは不可能に近い。

 

「……手負いの獣が、牙を剥いてる、そういうことね」

「はい。おそらく彼女はなによりも魔力に餓えている。非常に危険な状態だと思います」

「でも、おかしくないか?あいつはアーチャーにやられてボロボロだったぞ。結界の強化に回すだけの魔力なんてそもそも無いような気がするけど」

「それは――」

「彼女は吸血種だ」

 

 凛の後ろに控えていたアーチャーが口を開いた。

 

「彼女は当座の魔力を補給するだけならば、なんの労力も必要ない。夜道を行く獲物を狩る、それだけで魔力の補給は可能なのだ」

「つまり、それで結界用の魔力を補充して、あとで一気に馬鹿食いしよう、っていう腹づもりなわけね」

 

 凛が忌々しそうに人指指を噛む。

 

「必要最低限の魔力さえ確保できるならば、今のライダーにとってあの結界を完成させるのは如何にも容易いでしょうね。食欲とか性欲とか、自己保存に根差した欲求は他の何よりも魔術との結び付きが強い。

 彼女が元来どういった存在なのかは知らないけど、今はあの結界が顕すとおり、血に餓えた野獣より危険だと思うわ」

「しかも、その手綱を握るのが、よりにもよってあの馬鹿か……」

 

 キャスターの意見に、凛は苦々しく口を歪めた。

 慎二が変貌してしまったことについては、もはや疑いようが無い。現に、あいつは美綴を襲ってライダーの食事としている。

 おそらく、慎二は躊躇わない。道を踏み外したまま、その身が崖から転げ落ちるまで突き進むはずだ。

 

「姉さん、言峰神父は……」

「駄目。あいつ、薄ら笑いを浮かべながらこう言っていたわ。『凛、それは教会を頼るということかな』ってね。よくもまあ、あれで監督役を名乗れるものね」

 

 凛達の話によれば、あの似非神父はこの聖杯戦争の監督役を任されているらしい。

 監督役の権限は非常に大きい。神秘の漏洩という、教会にとっても協会にとってもありがたくない事態が起ころうとしたとき、その犯人に懸賞金をかけて他の参加者を嗾けたりもする。

 そもそも、本来であれば人の目を避けるはずの魔術戦を、昼夜を問わず街中で行うというのだ。ゲームマスターがいなければ早々に破綻するのは目に見えている。それを阻止するための監督役なのだ。

 その原則に照らすならば、今回学校に設置された結界型宝具は、忌むべき神秘の漏洩に直結する鬼子である。どういった形にせよ、神父が動くのは当然に思える。

 以前、凛は言っていた。あの結界が発動すれば、自分や桜は抹殺される、と。それは当然監督役にも当てはまることなのではないか。むしろ、事態の推移を知りながら何の手も打たず、座して状況を楽しんでいた、となれば余計に罪は重い気がする。

 

「凛、あいつだってきっと責任を問われる立場なんだから、きちんと話を通せば――」

「無理。絶対、無理。あいつにとって最大の娯楽は人が悩み苦しむ様を観察することよ。そのためなら、自分の身を危険に晒すくらい、何とも思ってないはずだから」

 

 それはなんとも……。

 とりあえず、奴に対する愚痴は飲み込もう。

 今、重要なのは何をするか、だ。

 

「桜、キャスター。慎二とライダーの気配は掴めないのね」

 

 桜は、少し申し訳なさそうに俯く。

 

「……はい。マキリ邸の周囲には百を超える使い魔を放っていますが、依然マキリ慎二が出入りした形跡はありません。街中に放った使い魔からも目立った報告は無しです」

「やっぱり屋敷に篭もってるのか……。そもそも、あいつ魔術師じゃないから追跡が難しいのね。

 もう、魔術回路の一本くらい持ってから生まれて来いっての」

 

 本人が聞けば激怒して笑い出すかもしれない台詞を事も無げに呟くと、凛は黙り込んでしまった。

 

「とりあえず、明日どうするか、それが問題だな」

 

 当たり前すぎる言葉は、口から出た瞬間に重苦しい空気となって場を満たした。

 結界を警戒するならば、学校に戦力を集中すべきだ。

 キャスターによれば、あのタイプの結界は術者が内部にいないと発動できないものらしい。魔力を喰らうための結界なのだ、それを喰らうものがいなければそれ自体に意味が生まれない。

 ならば、結界が発動したときには、ライダーと、おそらく慎二は学校にいることになる。それを叩くならば、最初から学校にいなければ出遅れる。

 慎二が屋敷に篭もっていると仮定するならば、こちらから攻め込むのも一つの選択肢だ。マキリにもかなり纏まった戦力があり、地の利はあちらにあることになるが、それでも贅沢を言っていられるような状況ではないだろう。

 

「……マキリに攻め込むっていう選択肢は出来れば遠慮したいわね。私もアーチャーもまだ万全とはいえない。そんな状態で魔術師の工房に攻め込むのは自殺行為。むしろこれは誘いなんじゃないか、そんな気すらするし」

「でも、あっちだってライダーは負傷している。条件は一緒なんじゃないのか」

 

 凛は呆れたような視線を寄越した。

 

「ライダーは既に外道に堕ちている可能性が高いわ。一体何人の命を喰らっているのか想像もつかないけど、最悪、結界の力を借りなくても既に傷は完治しているかも知れない。そうすると、かなり戦力差は縮まる。その程度の戦力差なら、地の利でひっくり返されかねない」

「じゃあ、明日はどうするつもりだ」

 

 凛は苦しそうに呟く。

 

「……私とアーチャーはこの場所から動くことはできない。まず傷を癒すことが第一課題だから。それに、他のマスターの動向も気になる。特に、バーサーカー。あの化け物が攻めてきたとき、各人がばらばらに動いてたんじゃあ間違いなく殺されるわ」

「でも、今はそんなことを言っている場合じゃあないだろう」

「いいえ、こういう状況だからこそ、足元から固めておかないと痛い目を見るの。

 ……でも、確かにそんなこと、言ってられる状況でもないわね」

 

 両肘をテーブルに付き、組んだ両の手で口元を隠しながら、彼女が発するのは決意に満ちた声。

 

「決めたわ。

 明日の午後、一番陽の高い時間にマキリ邸を襲撃します。キャスター、認知阻害の結界、準備よろしく」

「ええ、わかったわ。らしくなってきたじゃない、お嬢ちゃん」

「アーチャー、まさか、まだ動けない、そんな情けないこと言わないわよね?」

「そうだな、そろそろ体が鈍って動けなくなってしまうところだった。リハビリ代わりにはちょうどいい運動だ」

「と、いうことよ。

 各自、今日はゆっくり休んで明日に備えること。特に士郎、二日酔いで参加できない、そんな無様、認めないからそのつもりで」

「学校の結界はどうするんだ」

「完成前なら問題ないわ。大体、あれは内部に術者がいることが必須。校舎に出入りする人間と、マキリ邸周辺の監視は十分すぎるほどしているから、慎二が私達に気付かれずに校舎にはいるのは不可能よ。校内には『門』も設置している。万が一の場合にも、対処は可能なはず」

 

 まるで人形に生気が吹き込まれたかのように炯々と輝く彼女の瞳。

 そうだ、凛に待ちの戦略なんて似合わない。

 敵が要塞に篭もるなら、要塞ごと破壊する。

 罠があるなら食い破る。

 待ち伏せなど、意に介しない。

 それでこそ、遠坂凛だ。

 きっと俺の口元に浮かんだのは、苦笑の類ではなくて、感嘆の笑みだったと思う。

 

 

 電話が、鳴った。

 

 代羽は既に学校に向かった。

 『行ってきます』という元気な声が、妙に寒々しかったのを覚えている。

 俺達は、今日起こるであろう戦いに備えて学校に病欠の旨を伝えた。

 そうして、朝食を終え、俺は居間で寛ぎ、凛と桜は今日の準備のために工房に篭もっているとき。

 電話が、神経に触るけたたましい音で、鳴ったのだ。

 仕方ないので、俺が出ることにする。

 人は、何か不吉なことが起きるとき、その前兆を感じることがあるという。いわゆる虫の知らせ、というやつだ。しかし、そのときの俺にはそういった便利なものは働かなかった。後から思えば赤面してしまうほどのんびりと、受話器を手にしたのだ。

 

「はい、衛、いや、遠坂ですけど」

 

 無言。

 微かな息遣いが響くが、電話の向こうからは如何なる言語も聞こえない。

 さすがに、手に汗が浮かんできた。

 

「……もしもし……、まさか、慎二か?」

 

 くっく、というくぐもった笑いが聞こえてきて。

 俺の疑問は、確信に変わった。

 

「慎二、今どこにいる」

『それを聞いてどうするんだい、『正義の味方』クン?』

 

 その声には隠し切れない狂気が存在した。

 腹の中を黒くてグルグルしたものが渦巻いている。

 吐きそうだ。

 いや、吐いて楽になるならむしろ大歓迎。

 

「まだ遅くない。結界を解呪しろ。凛達は必ず俺が説得する」

『はははっ、さっすが偽善者、言うことが違う。百点満点プラス特別ボーナスだ!ご褒美に出血大サービス、クイズに正解したら豪華商品をやるよ。

 さて、この声は誰の声でしょう、か?』

 

 『か?』の部分を強調した妙なイントネーション。クイズ番組の司会者か何かの真似なのだろうか。

 しばらく受話器からは何も聞こえてこなかった。

 不吉な沈黙。

 不安な静寂。

 やがて、それを打ち破る微かな呻き声が聞こえた。

 

『…………』

 

 駄目だ、聞こえない。

 どこかで聞いたことのある声の気がするのだが。

 

『さて、今のは誰の声か分かったかな?今正解したら結界の解呪を考えてやるよ!』

 

 全く真剣みの無いうわっついた声。

 嘘だと分かっている、しかし、一縷の望みを託して本気で悔しくなるのは俺の未熟ゆえか。

 しばしの沈黙。

 その間も、ちっちっちっち、と、時計替わりの慎二の声が聞こえる。

 

『あー、残念。時間切れ。これで結界を撤去するわけにはいかなくなっちゃったね。お前のせいだぜ、衛宮。

 残念賞だ、答えを教えてやる』

 

 ごつん、と。

 何か、硬いものが硬いものにぶつかる音が聞こえた。

 それと同時に、微かな悲鳴。

 この声は。

 

『……やめて下さい、兄さん。私は何をされても構いませんから、その服は汚さないで。

 遠坂先輩が、借してくださったのです』

 

 その直後聞こえた、びりびりという布地を引き裂く高い音と。

 ああ、という、絶望の声。

 

『ひひっ、今度はその空っぽの脳みそでも聞き取れたかな?さて、もう一度問題だ。さて、この声は誰の声でしょう、か?』

 

 奴がそう言っている間も、彼女の、代羽の悲鳴が聞こえる。

 しかし、悲鳴はやがて、堪えるような喘ぎ声に変わっていった。

 その声がどういった行為を表すのか、性に疎い俺でもはっきりとわかる。

 

「……止めろ、慎二」

『はあ?何命令してんの、お前。今、どっちが優位にあるか分かってないみたいだね』

「俺は止めろ、と言ったんだぞ、慎二」

 

 胸の奥、内臓のさらに深奥に、真赤な色をした感情が堆積していく。

 しばらくしてから、この不吉な熱さが何者なのか気付いた。

 怒り。

 純粋な、殺意。

 それは、慎二に対するものであると同時に、何の疑いも無く代羽を学校に送り出した自分自身に対するものだ。

 考えてみれば、自分にここまでの怒りを覚えるのは初めてかもしれない。

 

『止めたけりゃ止めてみせろよ、正義の味方。僕は今学校にいる』

「学校だな」

 

 いつの間にか、代羽の声は聞こえなくなっていた。

 

『ただし、来るなら一人で来いよ。もし、お前以外に誰かいたら、僕も余計なことまで考えなけりゃあいけないからね。出来れば酷いことはしたくない。僕は平和主義者なんだ』

 

 どの口でほざきやがるか。

 

「二十分で行く。首を洗って待ってろ」

『ああ、いいね、ぞくぞくするよ』

 

 ぶつり、と、電話は切れた。

 視界が赤く染まる。

 まるで、美綴を助けたあの夜みたいだ。

 違うのは、あの時視界を赤く染めたのは眼球に付着した血液のせいだったが、今視界を赤く染めているのは脳髄で暴れまわる原初の感情だということ。

 玄関まで走り抜ける。

 途中、昨日キャスターに貰った鞄を引っ掴む。

 戦略なんて、はなから無い。

 戦術なんて、くそ喰らえだ。

 今はただ、慎二を、殺したい。

 



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episode27 鮮血校舎・中

「士郎、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 

 居間の扉を開ける。

 窓ガラスを透過した陽光が、きらきらと室内を照らす。

 私の好きな、この屋敷の表情。

 そこに、思い描いた男の顔は無かった。

 どこに行ったのだろうか。

 今日、マキリを襲撃するという話は間違いなく伝えてある。学校に行ったなんてことはありえない。

 トイレ、だろうか。

 それとも朝風呂。

 もしかしたら、私達の部屋で、いけないこと。

 頭の片隅でなる警報を意図的に無視しながら、楽観的な思考に縋る。

 

「士郎?」

 

 とんとん、とトイレのドアをノックして尋ねる。

 人の気配は無い。

 当然、返事は、無い。

 

「おーい、馬鹿しろうー、どこにいったー?」

 

 少し大きめの声で、呼びかける。

 地下を除けば、この家のどこにいても十分に聞こえるだけの音量であるはずだ。

 しかし、無言。

 やっぱり、返事は、無い。

 心臓が、どくん、と不規則なリズムを刻む。

 喉が、渇いた。

 

「姉さん!」

 

 その時、血相を変えた桜が私の視界に飛び込んできた。

 

「キャスターが先輩に渡した鞄が見当たりません!それに、先輩の靴も!」

 

 どくん、どくん。

 音が、遠い。

 光が、暗い。

 思考が、加速する。

 今、あいつが向かう場所。

 しかも、キャスターの魔具を持って。

 そんなの、一箇所しかないじゃないか。

 何故だ。

 何を、見落とした。

 どこで、見落とした。

 

「桜、使い魔からの報告は」

「ありません。依然、マキリ邸には変化無し、です。学校の周囲にも、マキリ慎二らしき気配はありません」

 

 しかし、士郎がいない。

 なら、向かった先は、どこだ?

 何故、私達に一言も言わずに姿を消した?

 

「――ちっ。

 お嬢ちゃん、最悪の報告。

 結界が、発動してる」

 

 そんな、馬鹿な。

 慎二は、屋敷から出ていない。

 校門をくぐった形跡も無い。

 なのに、何故慎二が校内にいるのだ?

 何を、見落とした。

 きっと、致命的な何かを、見落としていたはずだ。

 考えろ。

 あの結界を発動させるためには、その中に術者がいることが必須条件。

 つまり、今ライダーと慎二は、あの校舎の中にいる。

 これは、絶対条件。

 しかし、使い魔は、慎二とライダーが校舎に入るのを確認していない。

 もちろん、マキリ邸から何者かが出入りしたことも有り得ない。

 これも、間違いない。

 つまり。

 つまりつまりつまり。

 

 慎二と、ライダーは、最初からあの校舎の中に潜んでいた。

 それが、結論だ。

 

「キャスター、今すぐに『門』を発動!場所は校舎内!急いで!」

 

 しまった。

 魔術師は、苦境に陥れば、己の工房に篭もるもの。

 その思い込みが、強すぎた。

 確かに、工房は魔術師にとっての要塞である。

 一般に、力ずくで城を攻め落とすには、防御側の三倍の兵力が必要とされる。

 故に、地の利は計り知れない。

 だから、それ以外の箇所の監視を怠った。

 もちろん、全くしなかったわけではない。

 校舎の探索は、かなり初期の段階で終わらせている。

 それでも、内部の探索よりも、出入り口付近の監視に重きを置いてしまったのは否めない。

 当然だろう、だって、慎二は工房に引き篭もっているはずだったのだから。

 だが。

 考えてみれば、あの校舎ほど彼らが身を隠すのに適した場所は他に無いのではないだろうか。

 いまだ完成に至っていなかったとはいえ、視認できるほど濃密な魔力の渦巻く異界。しかも、その魔力はライダー自身の魔力である。ならば、彼女の存在をカモフラージュするのにこれほど都合の良い目晦ましはあるまい。

 そして、言うに及ばず慎二は魔力を持たない。

 ゆえに、あの結界の中で二人を探そうと思えば、当然肉視に頼らざるを得なくなる。いくらキャスターの操る使い魔が膨大とはいえ、探索に放ったのはその一部、校舎を探索させたのはさらに一握りだ。遮蔽物の多い校舎内ならば、見落としがあっても仕方ない。

 だが、まだ間に合う。

 結界は完成していないはずだ。

 まだ――。

 

「だめ、お嬢ちゃん!『門』が発動できない!」

「――セイバー、アーチャー、先行して!」

 

 頭よりも先に、体が現実に沿った指示を出す。

 

「承知!」

「まかせておけ」

 

 二人の声を遠くで聞きながら、重い後悔を味わう。

 くそ。

 悪いときには、悪いことが重なるものだ。

 あまりの怒りに、眩暈がした。

 

「しまった、あの宝具は結界だった……。こんな簡単なことを見落とすなんて」

「どういうこと、キャスター?」

「桜、結界の定義は?」

「結界の定義……あっ」

 

 結界。

 聖域を守る境界線。

 それは、内と外を分ける、世界の継ぎ目。

 ならば、そこを境に、空間は捻じ曲がる。

 それが防御型の結界でも、攻撃型の結界でも、同じこと。

 魔法の域に至らない、不完全な空間転移、その程度で、宝具の作った世界の継ぎ目は越えられない――!

 

「キャスター、桜、私達も!」

「はい!」

「うっかりなんて、私のキャラじゃないわ。もう、誰の悪癖が感染したのかしら」

 

 ぶちぶちと不平を垂れるキャスター。

 それは、私も同じ意見。

 この遺伝を残したご先祖様を、殴りたくなる。

 もし、私が時間旅行の魔法を極めたら、必ず実行に移そう。

 そんなことを考えながら、私は玄関に向けて走った。

 

 episode27 鮮血校舎・中 

 

 その光景を、どのように表現すればいいのだろうか。

 赤い霧に囲われた校舎。

 その表現では、その光景を表すのには幾許かの不足があるだろう。

 どちらかと言うならば、巨大な紅い寒天で固められた、忌まわしいものの神殿。その表現の方がしっくりくる。

 つまり、なんだ。

 結界が、発動してたんだ。

 

「……あの、バカ野郎……!」

 

 最後の望みは、断たれた。

 分かっていたことだ。

 分かっていたことだが、それでも俺は期待していたんだと思う。

 そんなこと、何の意味も無い。

 こっちが一方的に懸想して、一方的に振られただけのこと。

 この件について、慎二には一切責任は無い。

 だって、あいつは最初から最後まで、外道だった。

 そのことについては、首尾一貫していた。

 だから、これは誰のせいでもない。

 ただ、あいつが自分の死刑執行書にサインした、それだけのことだと思う。

 いや、俺はどこかで喜んでいないか。

 心のどこかで、喝采をあげていないか。

 

 よくやった、慎二。

 いいぞ、慎二。

 これで、俺は。

 これで俺は、何の気兼ねも無く。

 純粋に、お前を。

 お前を■せる。

 

 だって、もし、あいつが結界を解呪して。

 代羽と美綴に、土下座でもして謝ったら。

 俺には、無くなってしまう。

 何がだ?

 俺が、あいつを■す、資格が、だ。

 さて、資格というのは不正確か。

 なぜなら、そんなものなくても、俺はあいつを■すからだ。

 だから、なくなるのは機会。

 それがなくなるのが、怖い。

 俺の口元を歪に変形させた、こわい笑み。

 それを指摘する奴が隣にいないこと、それが少し嬉しかった。

 

 一歩、学校の敷地に入ると、酷い眩暈が襲ってきた。

 ああ、これはまずい。

 本能的に、魔術回路に火を入れる。

 がちり、と下りる撃鉄。

 雷管に、衝撃が走り抜ける。

 撃ちだされるのは、決意と殺意。

 必ず殺す、必殺の意志。

 キャスターから貰った鞄をひっくり返す。

 がらがらと溢れる、神代の魔女の鬼子達。

 色取り取りの、試験管。

 小さな、獣の牙のような物。

 そして、二振りの、短刀。

 

『いいこと?この世の全ては等価交換。その理からは、何者も逃れることは出来ない。私も一緒。材料が揃ってるならちゃんとした物を揃えられるけど、これらは間に合わせで作った出来損ない。故に、その対価は使用者から搾り取る。覚悟して使いなさい。最悪、一生寝たきりの生活を送ることだって有り得るんだから』

 

 頭にダイレクトに響く、彼女の忠告。

 俺はそれを有難く拝聴してから。

 一番どぎつい薬を、手にした。

 試験管の中で揺れる、虹色に輝く液体。

 蓋を外して、一気に呷る。

 口に含んだ瞬間、鼻腔に抜ける異臭で、吐きそうになる。

 両手で鼻と口を抑えて、なんとか踏み止まる。

 そして、嫌がる身体を押えつけて、強制的に嚥下終了。

 これで準備は完了した。

 凛達に何も言わずに家を出たのは流石に不味かった気がするが、今はそんなこと考えている場合じゃない。

 まるで、目の前に紅い布を突きつけられた闘牛だ。

 ただ、突っ込むだけ。

 なら、華麗な闘牛士が慎二で。

 そのサーベルが、ライダーか。

 いいじゃないか。

 闘牛士と闘牛の戦績が如何程傾いているかは知らないが。

 闘牛士を惨殺した闘牛だって、確かに存在するのだ。

 ならば、俺は牛でいい。

 勝率が1パーセントでもあれば、十分だ。

 だいたい、あんな声を聞かされて頭に来ない奴はいない。

 例え獣だって、自分の肉親が目の前で甚振られたら、捨て身の反撃に出るだろう。

 代羽が、犯された。

 慎二に、犯された。

 俺の■が、汚された。

 慎二如きに、汚された。

 汚されたのだ。

 怒り。

 憤怒。

 原初の、罪。

 いいぞ。

 俺に、うってつけだ。

 それが大罪というなら。

 喜んで、地獄に落ちよう。

 あいつを許して。

 へらへらと安穏に過ごすくらいなら。

 灼熱の溶鉱炉の方が、きっと心地よい。

 きっと、あいつは教室にいる。

 待ってろ、慎二。

 すぐに、行く。

 そして、あっという間に、お前を。

 

 

 校舎の三階。

 斜陽に照らされたみたいに、紅い廊下。

 その中心。

 倒れ伏した顔も見えない生徒。

 それを、まるでブリキの王座みたいにして。

 慎二が、座っていた。

 

「ああ、二十分で来るって言ったのに、二十一分もかかるもんだからさ、退屈で結界を発動させちゃった。お前のせいだぜ、衛宮。お前が来るのがもっと早けりゃ、こんなことにはならなかったんだ」

「ああ、そうだな。すまない」

 

 信じられないほど、落ち着いた声。

 きっと、決意というものはこういう所に反映されるのだろう。

 

「……気に入らないな。何余裕ぶってんだよ。ほら、もっと慌てて懇願したらどうだい?『慎二、結界を止めろ』とか『今なら間に合う』とかさ。ひょっとしたら気が変わって、反省するかもしれないぜ?」

「ああ、そうかもしれないな」

 

 器用だなと、我ながら不思議に思う。

 視界を変色させるほどの怒り。

 殺意で塗りつぶされた思考。

 それでも、人間のような会話が出来るのだ。

 これも慣れと言ってよいものなのだろうか。

 

「僕は、お前が気に入らない」

「そうか、悪かった」

 

 いつだっただろうか、慎二と知り合ったのは。

『お前、馬鹿だろ。あんなの黙ってればいいのにさ』

 

「親無しの、魔術師の家系でもないくせに、サーヴァントを召喚しやがった」

「ああ、その通りだ」

 

 覚えている。中学二年生の文化祭のときだ。

『いいように使われてるって分かってる?』

 

「僕は、名門マキリの後継者だ。お前なんかとは違う、選ばれた人間だ」

「凄いな、知らなかったよ」

 

 いらない苦労を背負った俺を罵倒して。

『アタマの足りない三年も、さっきまで礼を言ってた一年もさ』 

 

「その僕が、この二日間、どこで寝泊りしてたか知っているか、衛宮。体育倉庫だ。まるで学校に忍び込んだ浮浪者か何かみたいに、あの埃臭い部屋で、膝を抱えて隠れていたんだ。くそ、お爺様の言いつけじゃなけりゃ、誰があんな所に」

「ひょっとして俺のせいかな」

 

 一人で夜通し作業を続ける俺を、つまらなそうに眺めて。

『とっくに帰って忘れてるって言うのにさ』

 

「物音がするたびに、跳ね起きるんだ。遠坂に見つかったんじゃないか、あの女が、あの笑顔で背後に立っているんじゃないかって。白状するとね、昨日、十年振りくらいに寝小便をしちまった。はは、自分の小便まみれのズボンを洗うのは、凄く情けなかったよ」

「可哀相にな、慎二」

 

 でも、最後にこう言ってくれたんだ。

『ふうん。お前馬鹿だけどさ、いい仕事するじゃん』

 

「だから、僕はお前を殺す。絶対だ。絶対に殺すぞ、衛宮」

「ああ、知ってる。知ってるよ、慎二。だから」

 

 殴ってやる。

 その言葉は、殴られてもいい、という意思表示だ。

 何をしてもいい。

 その言葉は、こちらも何でもするよ、という意思表示だ。

 慎二、お前は、俺を殺す、と言ったな。

 なら、俺はお前を殺していいという事になる。

 殺す、殺す、殺す。

 はは、まるで小学生の口喧嘩だ。

 自分の吐いた台詞がどんな意味を持つのか知らない、無知な存在だけが口にする言葉だ。

 いつ読んだ漫画だっただろう。

 ギャングの漫画だ。

 昔の、ギャングが主人公の、漫画だ。

 その敵役が、自分の弟分を諌めた言葉だ。

 

『ブッ殺す、と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!』

 

 ああ、その通りだと思う。

 それが一番美しい。

 大言壮語もいいだろう。

 しかし、行動がそれに伴わないのは、如何にも見苦しい。

 だから、行動と思考が一致するのは美しい。

 だから、殺す、と口にするのは美しくない。

 でも、それは一面正しいが、一面では間違えている。

 なぜなら、人は言葉でコミュニケーションを取る生き物だからだ。

 獣は牙を剥く。

 それは戦闘開始の合図であると同時に、戦闘を未然に防ぐための最後の希望だ。

 

『引いてくれ。お前が引かなければ、俺達は殺し合いをしなければならない。そんなの、嫌だ。俺はお前と戦いたくない。だから、こんなにも怖い顔で、唸り声をあげるんだ。お願いだ、引いてくれ』

 

 人は、牙を剥く代わりに、言葉を吐く。

 殺す、きれた、やってやる、許さない。

 それらの言葉は、最後通牒だ。

 もちろん、そうでない場合もある。

 しかし、その言葉で相手が引いてくれたら。

 すみませんでした、ごめんなさい、もうしません。

 そう言って、尻尾を巻いて逃げ出してくれたら。

 そう期待する思考が、どこかに存在しないか。

 それは、優れたコミュニケーションだ。

 争いを未然に防ぐための、最高の手段だ。

 だから、俺は口にしないぞ、慎二。

 さっきから、心を埋め尽くす、たった一つの単語を、絶対に口にしないぞ。

 顔だって、優しいはずだ。

 だって、怖い顔をして、お前に逃げられたら困るから。

 無言。

 本当の意志は、絶対に表に出さない。

 顔だって、にこやかに。

 笑って、優しく。

 お前を、殺してやるんだ。

 

 慎二は、にっこりと笑った俺を、まるで化け物か何かを見るようにして一歩下がり、そしてこう言った。

「……でも、お前を殺すのはいいけどさ、ただやりあうのもつまらないだろ? 僕は魔術師じゃないから不公平だし、ただのケンカじゃ僕が勝つのは判りきってる。だからここは公平を期して、お前にはこいつの相手をしてもらう事にしたんだ」

 

 じわりと。

 空間を侵食するように現れた、紫色の影。

 一度見たことのある人影だ。

 しかし、一度も見たことのない人影だ。

 斜陽に照らし出された、マキリの家。

 鷹揚に、ソファに踏ん反り返った慎二の後ろ。

 そこに、彼女はいたはずだ。

 だらん、と下げられた両の手。

 生気のかけらも無い表情。

 しかし、まるで宝石のように美しい紫の髪。

 血塗れの巫女。

 そんな印象だった。

 だが、今は。

 だらん、と下げられた両の手。

 それは、変わらない。

 だが、その表情は、獲物を前にした喜悦に歪み。

 その髪は、濁った血の色に犯され。

 全身を、乾かぬ鮮血で飾っている。

 血塗れの巫女というよりも、勇者の返り血に笑う魔王。

 そんな、幼稚なイメージが浮かんだ。

 あの夜、アーチャーにやられた傷はある程度は癒えているものと見える。

 ならば、この俺にどの程度の勝率があるのか。

 

『サーヴァントは人に有らざる者。人たるあなたが敵しようなど片腹痛い』

 

 セイバーの忠言が、耳に痛い。

 

『一応忠告しておくけど、それらを十全に使ってもサーヴァントには歯が立たないわ。それらは、ただ生き残るために使うこと。いいわね?』

 

 ごめん、キャスター。

 俺は、あなたの作ってれた魔具の使い方を、多分間違える。

 でも、今なんだ。

 今、意地を張らないと、きっと、俺は駄目になる。

 ここが、最後の一線だ。

 ここで引いたら、後は下がり続けるだけになってしまう。

 二本の短刀を、ゆるりと構える。

 日本刀というよりは、むしろ鉈やマチェトに近い形状。

 先端に重心のある、ものを断ち切るに優れた形状。

 もちろん、込められた魔力も並ではない。

 それでも、目の前の相手の前では、ロケット花火よりも頼りない。

 

「は、ははは、何だ、衛宮、お前本気でサーヴァントを相手にするつもりかい?いいじゃん、せいぜい足掻いてみろよ。最後は屑みたいに殺してやるからさ!」

 

 耳に障る慎二の笑い声。

 それで、思い出した。

 一番大事なことを、忘れていた。

 

「慎二、最後に聞きたい」

「へえ、最後のお願いなら聞いてあげないといけないね。助けてください、以外なら聞いてやるぜ」

 

 ……ひどい勘違いだ。

 俺が叶えて貰う最後の願いなんじゃなくて。

 お前が叶える事が出来る、最後の願いなのに。

 

「代羽は、どこだ」

 

 代羽は。

 俺の■さんは。

 お前が、汚した、俺の、■さん、は。

 

「はは、なんだ、そんなことか。いいぜ、教えてやる」

 

 慎二は、ごそごそと、制服のポケットに手を突っ込み、そこから小さな機械を取り出した。

 

「最近のオーディオプレイヤーって便利だね。録音再生機能まで付いてる。買うときはこんな機能いらないって思ったけど、思わぬところで役立つもんだね、これって」

 

 奴が、その小さなボタンを押す。

 スピーカーは付いていないのだろう、しかし、イヤホンから微かな音声が漏れる。

 

『……やめて下さい、兄さん。私は何をされても構いませんから、その服は汚さないで。

 遠坂先輩が、借してくださったのです』

 

 その声は、あの電話の。

 

「わかった?お前は釣り上げられたの。代羽はここにはいないよ。僕だって、本当はここに連れて来たかったさ。ずたずたにしたお前の前で、あいつを犯してやったら、どんな声で啼くか、楽しみだったしね」

「……そうか」

 

 何故だか、ほっとした。

 

「これを録音したのは、お前んちでやった『料理合宿』から帰ってきた日だよ。あいつ、いつもはマグロみたいに何にも反応しないのに、この日は珍しく嫌がったんだ。その理由が、遠坂の服を汚されたからだってさ。健気だね、全く」

 

 あの日。

 あの日か。

 雨に洗われた、夜の坂道。

 セイバーと代羽と一緒に、歩いたんだ。

 あいつは、笑って、ありがとうございます、と言ったんだ。

 きっと、自分が家に帰れば、どんな目に合うか、知っていたはずなのに。

 それでも、代羽は、笑ってたんだ。

 

「あいつ、無表情で気味が悪いけど、あそこの具合だけは最高だからさ。残念だね、衛宮。お前も僕に従っていれば、一回ぐらいやらせてやったのに。そうそう、知ってるか、衛宮。あいつ、実は化け物なんだぜ。あいつ、何回やっても――」

「――黙れ」

 

 声が、硬い。

 駄目じゃないか。

 隠さないと。

 怒りは隠して。

 敵意は隠して。

 殺意は隠して。

 あくまでも、友好的に。

 

 あいつを、殺さないと、いけないのに。

「――衛宮、僕が喋っているんだぞ。お前、自分の立場が――」

「慎二、俺が黙れと言ったんだ。お前は屠殺場の豚みたいに黙ってりゃいいんだ」

 

 未熟だと思う。

 あの弓兵が見れば、鼻で笑うくらい、未熟だ。

 でも、構わない。

 これ以上、あいつの薄汚い口で、代羽が汚されるくらいなら。

 俺は、未熟だろうが、構わない。

 

「……分かった。要するに、早いとこ死にたいんだ、衛宮は。いいよ、そんなに死にたけりゃ殺してやる」

 

 ああ、もう。

 殺すとか、死ぬとか、五月蝿い。

 早くしろ。

 こんなに、俺はうずうずしてるんだ。

 戦いたくて、うずうずしてるんだ。

 お前の、喉笛を、掻き切りたくて、うずうずしてるんだ。

 

「やれ、ライダー!その馬鹿を、叩き殺せ!」

 

 疾走してくる、濁った静脈血色の、魔王。

 迎え撃つのは、きっと旅の宿から出たばかりの新米冒険者だ。

 それでもいい。

 俺は、敵に向かって、右の短刀を、振り下ろした。



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episode28 鮮血校舎・後

「では、手筈通りに」

 

 冷たく響いた主の声。

 この世界に召喚されて以来、おそらく一番数多く聞いた、彼女の声。

 平静で、冷静で、閑静。

 しかし、それは未だに私の平穏を打ち壊して止まない。

 

「承知。魔術師殿は戦場に。私はこの屋敷にて情報収集。それで間違いないな」

「はい。私と彼は、校舎に向かいます。きっと学校は戦場になる。故に、情報収集は可能な限り手早く終え、こちらに急行すること。いいですね」

 

 私は頷く。

 

「破壊工作は慎んで下さい。今の段階で、貴方と私の関係を勘繰られるのは避けねばなりません」

 

 再び、私は頷く。

 

「さて、おそらく今日は暑くなるでしょう。ふふ、水浴びの一つでもしたいところですね」

 

 そう言って、彼女は私に背中を向けた。

 季節は冬。

 冷たい水は、水浴びに相応しくない。

 ならば、生暖かい液体くらいが調度いい按配だろう。

 彼女は、さぞ盛大に水を浴びるのだろうと思う。

 しかし、それは赤黒く濁った、鉄臭い水だ。

 そうだ。

 彼女は、いつだってそうだった。

 私が召喚された時も。

 心臓を穿たれた、かの少年の前に跪いた時も。

 あの槍兵と戦った時も。

 いつだって、己と、己以外の者の血に塗れていた。

 私には、それが。

 その姿が。

 例えようも無く。

 

「アサシン」

 

 忘我の表情は、仮面が隠してくれたはずだ。

 ほんの少しだけ早鐘を打つ心臓をどやしつけ、努めて平静を装った声を出す。

 

「……なんだろうか、主よ」

「……貴方は、私に不信を抱かないのですか」

 

 その声は、常の主の声ではなかった。

 どこか、虚ろ。

 どこか、後ろ向き。

 己の罪を恥じ入るような、何かを悔いるような、声。

 

「説明を求めたい」

 

 ほんの少しだけ躊躇して、彼女は消え入りそうな、か細い声で、こう答えた。

 

「……貴方は英霊だ。この上なく、気高い存在だ。本来、私などが使役していい存在ではない。それを、華々しい戦場には赴かせず、命じたのは、こそ泥のような家捜しだけ。不信を抱いても、当然でしょう」

 

 俯き加減の、彼女。

 おそらくは求めているであろう、私の返答。

 しかし、私は何も答えない。

 

「……それに、私はライダーを切り捨てた。いや、切り捨てた方がまだマシ。私は、彼女の存在そのものを汚そうとしている。全て、私の欲望のために。その事実に、貴方はどういった感想を抱くのでしょうか」

 

 神に縋りつくような、おぼろげな声。

 ああ、きっと彼女は恐れているのだろう。

 唯只管に、己の道を歩くことを、恐れているのだ。

 誰一人前を歩かない、未開の荒野。

 そこを、唯一人、歩く。

 恐れを抱かぬ人間など、それこそ恐ろしい。

 彼女は、頼りたいのだと思う。

 誰かに、正しい、と。

 お前のしていることは、間違えていない、と。

 そう、言って欲しいのだ。

 そして、私は頼られた。

 ならば、嘘偽り無く、自身の見解を述べようと思う。

 

「――醜悪だ」

 

 びくり、と彼女の背中が震えた。

 俯き加減だった頭が、より深い角度を作る。

 まるで、誰かに詫びるように。

 

「しかし、首尾は一貫している。その点には、一種の美々しさを覚えるな」

「……ありがとう、ございます」

 

 弱弱しい、声。

 

「私を斥候として使役することは、及第点だろう。要塞のように罠だらけのこの家、ここを捜索するのに、気配遮断のスキルは、この上なく相応しい」

 

 戦いとは、戦場で剣を打ち交わすことだけではない。むしろ、そこに至る過程においてこそ、真の勝敗は決まる。

 故に、彼女の視野の広さは好ましい。強力なサーヴァントをもって敵を粉砕することだけが戦闘だと思い込んでいる猪よりは、遥かに。

 

「ライダーを堕落させたこともそうだな。我々はあくまで戦闘のための道具に過ぎない。より役立つ用途があるのならば、迷わずにそちらで使うべきだ」

 

 ライダー。

 私が、この世界で初めて出会ったサーヴァント。

 彼女の真名など、知らない。

 しかし、今、彼女が変質しつつあることは、理解出来る。

 おそらく、彼女は戻りつつあるのだ。

 なにか、より彼女の本質に近いモノに。

 しかし、その一事をもって、ライダーが彼女を非難する資格はない。

 我々は、目的を持って召喚に応じた。

 その中に、三つの令呪という概念も確かに存在するのだ。

 自らの意に沿わぬ行いを強制される、そんなことは既定事項だ。

 そんな覚悟も無しに召喚に応じたのだとしたら、それこそ非難されるべき無知だろう。

 

「……ならば、貴方は何をもって私を醜悪と蔑みますか」

 

 何かに震える声。

 怒りか、それとも悲しみか。

 戸惑いか、それとも決意か。

 

「……私が醜悪と感じるのは、貴方の弱さについて、だ。

 さっき、貴方は私にどんな返答を期待した?貴方は間違えていない、と。そう言えば、満足だったか?ふん、くだらぬ。己の従者に媚びる主など、この上なく醜悪だ。貴様がその程度の存在ならば――」

 

 その心臓、ぐびりと、喰ろうてやろうか――。

 

「……そうでしたね。貴方は、いつだって己の欲望に忠実でした。いつだって、『貴方の家』に帰るために、その手を朱に染めてきた」

 

 何かを嘲るような、声。

 彼女は、何を言っているのだろうか。

 霞がかった、遠い記憶。

 

「……しかし、おそらく、貴方の言は、正しいのでしょう」

 

 いつの間にか、彼女の背筋は、ピンと伸びていた。

 

「では、後ほど」

 

 そう言って、彼女はドアを閉めた。

 ややあって、玄関から『行ってきます』という、決意に満ちた声が聞こえた。

 彼女は、淡々と己に課せられた義務を遂行するのだろう。

 ならば、私は己に課せられた義務を遂行するだけだ。

 やがて、人とサーヴァントの気配の絶えた家の中で。

 私は、一人静かに、哂った。

 

 episode28 鮮血校舎・後 

 

 いきなり、吹っ飛ばされた。

 何を喰らったのか、全く分からない。

 身体に穴は開いていないみたいだから、あの短剣で突かれたんじゃないと思う。

 だから多分、前蹴りを喰らったか、拳をまともに喰らったか。

 ただ、一撃。

 それで、俺の身体は廊下の端まで吹っ飛んだ。

 途中、何かが背中に当たった気がするが、そんなことは意識の埒外にある。

 断線した意識と身体。

 それを繋ぎ直すのに、精一杯だ。

 

「はは、すごいぞ、衛宮!まるでボウリングの玉じゃないか!あと少しでストライクだったのにな!」

 

 慎二の哄笑。

 なるほど。

 俺がボウリングの玉で。

 倒れ伏した生徒が、ピンか。

 確かに、そっくりだったかもしれない。

 

「さあ、来いよ、衛宮。あれだけの大口を叩いたんだ、まさかこれで終わりじゃないよな?」

 

 身体の各部に、異常は無い。

 強化した学生服が救ってくれたのか。

 それとも、本質的に俺の身体は頑丈なのか。

 まあ、どうでもいいか。

 とりあえず、まだ戦えるらしい。

 ならば、十分だ。

 ゆっくりと立ち上がる。

 ライダーは、相変わらず慎二の前に佇みながら、好戦的な笑みを浮かべている。

 どうやら、一思いに殺すつもりは無いと見える。

 好都合だ。

 今、脳天をあの巨大な杭で貫かれてたら、それで勝負は決まっていた。

 ある意味、慎二の嗜虐性が俺を救ったと言えるのかもしれない。

 

「よし、そうだ。まだまだ楽しませてくれよ、衛宮!」

 

 両の肘を、それぞれの逆の手で握る、妙に気障ったらしい立ち方。

 気に食わない。

 その立ち方が気に食わないんじゃない。

 今は、慎二の為す事全てが癪に障る。

 例えば、今あいつが道端で震えている子犬を拾ったとしても、俺は唾を吐きたくなるだろう。

 思考回路を切り替える。

 今の一撃は有難かった。

 身体と意識が断線したせいだろうか、妙に頭がクリアだ。

 さっきまで怒りで真っ赤だった視界が、心持ち色を緩やかにした。

 今、景色が赤いのは、きっと結界だけのせいだろう。

 むしろ、不思議と青みがかって見える。

 そう言う意味では、さっきの一撃は俺を救ったと言える。

 あのまま、怒りに身を任せたまま突っ込んでいたら、俺は間違いなく殺されていた。

 ほんの少しだけ、冷静になれた。

 為すべきこと。

 俺が、今為すべきこと。

 それは、この結界を解呪することだ。

 その為には、何をすべきか。

 選択肢は少ない。

 

 1、ライダーを倒す。

 

 不可能。

 さっきの一撃で分かる。

 一撃喰らえば十分だ。

 あれは、俺の手に負える相手じゃあない。

 

 2、結界そのものを破壊する。

 

 これも、無理。

 キャスターをして不可能と言わしめたのだ。俺如きに何が出来るか。

 

 3、マスターを、殺す。

 

 そうすれば、サーヴァントは一時的に制御を失うはず。

 確実に解呪が成るとは断言できないが、かなり高い確率で、結界は消え失せるはず。

 ならば。

 

 4、マスターを説得、或いは強制して結界を解かせる。

 

 却下。

 

 ならば、俺の採りうる選択肢。

 

 3、マスターを、殺す。

 3、マスターを、殺す。

 3、マスターを、殺す。

 

 あれ、おかしいぞ。

 火は、消えたはずなのに。

 赤く染まった視界。それを染色していたはずの、燃え盛る炎。

 それは、さっきの一撃で、鎮火したはずなのに。

 何かが、ちろちろと燃えている。

 とろとろと、鉄を溶かすような炎だ。

 青く、鮮やかな、炎。

 見た目には涼やかな、しかし、赤い炎よりも、遥かに高熱な。

 触れるもの全てを溶かすような、火。

 それが、燃えている。

 視界の奥、水晶体の裏側。

 脳と視神経を繋ぐ、ちょうどその箇所で。

 ちろちろと、舐めるように、燃えている。

 これは、怒りの炎じゃあない。

 目的を遂行する意志。

 それを種にして燃え盛る、より醜い炎だ。

 ああ、そうか。

 要するに、何も変わっちゃあいない。

 むしろ、堅固になっただけか。

 怒りに任せた殺人よりも、目的の為に犯す殺人の方が、一般的に罪は重い。

 ならば、俺の罪はより重くなっただけだ。

 それだけ。

 それだけの、こと。

 さぁ、行こうか。

 方向性は、定まった。

 視界は良好。

 今は、余計なことを考えるな。

 考えなしに突っ込むんじゃあないぞ。

 それは、足りない脳味噌を振り絞って考えなけりゃあいけない。

 でも、その後のことは考えるな。

 今は、あいつを如何にして殺すか。

 それだけを、考えろ。

 

 じゃらり、という鎖が擦れる音と、『点』が飛んできたのは、ほぼ同一の拍子だった。

 まったくもって、点としか言いようのないもの。

 よく分からないが、この上なく危険な物。

 本能的に、身をかわす。

 髪の毛ほどの一瞬の間があって、かつん、という乾いた音が響く。

 寸前まで俺の左肩のあった場所。

 そのすぐ後ろの壁に、巨大な杭がめり込んでいた。

 硬質なコンクリートの壁。

 そこに、ライダーの釘剣が、深々と突き刺さっていたのだ。

 ごぼり、という不気味な音と共に、引き抜かれる杭。

 あっという間に所有者の手に戻った。

 

「あれ……はずれた?」

 

 甚振るような声。

 どこか知性を置き去りにしたような、無邪気な声。

 まるで、無垢な子供。

 笑顔のまま虫の足を引き千切る、それくらい無垢な子供。

 彼らだけに許された、輝くような笑顔だ。

 理解した。

 あれは、俺を楽に殺すつもりは無い。

 甚振って甚振って。

 手足を一本ずつ捥ぎ取って。

 芋虫みたいになった俺の首を、やはり哂いながら捻じ切るのだろう。

 それは真実の双子みたいな確信だった。

 だから、俺は安堵した。

 少なくとも、一瞬で殺されることは無い。

 以前の彼女には、そんな雰囲気は無かった。

 人間というよりは人形。

 生き物というよりは機械。

 最短距離を、最小限の労力を持って走破するランナー。

 そんな冷徹なイメージが、確かにあった。

 あのときの彼女なら、一切の躊躇いを見せずにこの首を削ぎ落としていただろう。

 しかし、今の彼女は生々しく、それ以上に毒々しい。

 冷血な蛇の目と、獲物を甚振る鯱の口を併せ持っている。

 余裕、なのだろう。

 そもそも、人間相手におたつくサーヴァントっていうのもお笑い草だ。

 だが、余裕とは隙の別称だ。

 ならば、付け入る隙があるということだ。

 そこに、活路を見出せ。

 

 周囲の状況を覚える。

 意識して覚えるのではない。

 脳が、勝手に認識していく。

 あそこに、柱――。

 あそこに、消火器――。

 あそこに、扉――。

 倒れ伏した生徒の位置。

 己の立ち位置と、敵との距離。

 火のついたガソリンのような思考速度。

 泡立つように煮え滾る全身の筋肉。

 握った拳が、そのまま拉げてしまいそうなほど、熱い。

 いいぞ。

 俺は、こんなにも強かったか。

 もちろん、これは錯覚だ。

 キャスターの薬によって得られた、偽りの強さだ。

 しかし、構わない。

 ドーピングを罰する規律は、今この場において存在しない。

 殺せば、勝ちだ。

 殺せば、勝ちなのだ。

 だから、いくぞ。

 いつものやりかただ。

 いつも、朱に染まった戦場を、渡り歩いてきた、あのやりかたで。

 

 再び、杭が飛んできた。

 さっきよりも、疾い。

 影すら出来ないような、そんな速度。

 反射的に剣を振り上げるが、間に合わない。

 ひゅ、っという擦過音。

 焼け付くような、右耳の熱さ。

 ぽたぽたと、何かが垂れる音が、不思議なほど大きく聞こえる。

 

「はは、衛宮、どうしたんだ、その耳は?鼠にでも齧られたか!」

 

 なるほど、俺の右耳は未来の猫型ロボットみたいになってるのか。

 サンキュー、慎二。

 丁寧なご解説、どうもありがとうございます。

 あとでお前も同じ目にあわせてやるから、覚悟してろ。

 俺の耳を削り取った杭を無視して、ライダーの懐に飛び込む。

 

「はっ――」

 

 爪先に力を集中する。

 小指の骨が軋みをあげるほどの踏み込み。

 一息でこの間合いをゼロに出来るのではないか、そんな錯覚。

 でも、かの槍兵でもなければそんな芸当は不可能だろう。

 当然、俺に出来ることではない。

 だから、走った。

 景色が、凄い勢いで流れていく。

 普段の自分では到底適わない速度。

 しかし、視界は不思議なほどクリアで、倒れ伏している人影の詳細までも見て取ることが出来る。

 あの髪型は、氷室だろうか。

 あの制服の着こなしは、おそらく後藤。

 あの栗色の髪の毛は藤ねえ。

 ここは俺達の学校。

 見知った顔ばかりが目に付くのは仕方ないが、それが納得できるわけではない。

 そうだ。

 早いとこ結界を解呪しないと、彼らは二度と目を覚まさない。

 それは、衛宮士郎にとって受け入れられる限界を超えている。

 歯を軋らせる。

 よし。

 これで、目的がまた一つ。

 いいぞ。

 青い炎が、少しずつその火勢を強めていく。

 ぶちぶちと、筋肉が沸騰していく。

 これなら、勝てる。

 これなら、勝ち得る。

 要するに、これは我慢比べだ。

 目の前に、蛇のような、ぱかりと裂けた笑み。

 いくぞ。

 0.1秒だけ、驚いてろ。

 

「っしゃああぁぁぁ!」

 

 開いた喉を迸る、気合の声。

 それと共に放った、必殺の一撃。

 右から放つ、袈裟切り。

 鉄すら両断するような、必殺の一撃。

 しかし、目の前の化け物は、薄ら笑いを浮かべたまま、難なく受け流す。

 構わない。

 手数の多さが、双剣の身上だ。

 今度は左手で、首を狙った横薙ぎの一閃。

 奴はスウェーでかわす。

 構わない。

 右、刺突。

 左、逆袈裟。

 右、切り上げ。

 左、逆風。

 当たらない。

 防がれる。

 悉く。

 

「うん、がんばったね。じゃあ、もういっかいがんばって」

 

 意味不明な呟き。

 瞬間、右顎にとんでもない衝撃。

 

 ―――――――。

 

 ――――――。

 

 ―――――。

 

 ――――。

 

 ―――。

 

 ――。

 

 ―。

 

 あ。

 ここは、どこだ。

 俺は、何を――。

 とりあえず、起き上がらないと駄目だ。

 

「顔が変形してるじゃないか、ひゃはは、お前誰だよ?」

 

 不快な声。

 ああ、慎二。

 思い出した。

 お前の声のおかげで、はっきりした。

 今、俺は戦闘中だったんだ。

 そして、ライダーにぶん殴られた。

 少しの間、意識を失っていたらしい。

 舌で下顎の骨を押すと、動く。

 なるほど、顎の骨が砕けたか。

 視界に映る慎二の顔は、不思議と小さい。

 ああ、どうやらまた吹き飛ばされたらしい。

 ということは、また――。

 精神ではない。

 思考ではない。

 反応し得たのは、身体の意志。

 咄嗟に廊下を転がる。

 かつん、と。

 やはり、俺が倒れていたその場所に、散々見覚えのある杭が突き立っていた。

 

「すごいね、きみ」

 

 賞賛の言葉はしかし、攻撃の手を緩める慈悲を含まない。

 杭を投げ、それを手元に戻す。

 その動作が抜け落ちたような、連射。

 かん、かん、かん、かん、と。

 廊下と壁が、蜂の巣みたいになっていく。

 這うように、無様にそれをかわす。

 

「いいぞ、衛宮!もっと僕を楽しませてくれ!」

 

 何か聞こえた気がするが、そんなの意識の埒外だ。

 何とか、立ち上がる。

 目前に迫ってきた杭を、ダッキングでかわす。

 いい加減、馬鹿でも慣れてきた。

 予備動作さえ見逃さなければ、もうあれには当たらない。

 再び、疾走。

 間合いを、ゼロに。

 突然、後頭部に衝撃。

 新手か。

 そう考えながら、前のめりにバランスを崩す。

 

「ゆだんたいてきだね」

 

 哂う怪物、その手にはやはり杭。

 ああ、なるほど。

 あの杭を手元に戻すとき。

 その動作の中で、俺の後頭部を狙ったのか。

 近づいてくる地面。

 しかし、足を出して踏ん張る。

 じくじくと、頭が痛い。

 ぬるりとした首筋の感触は、垂れ落ちる血液のものだろう。

 ぐらんぐらんと、視界が歪む。

 まるで大時化の海にいるようだ。

 それでも、もう倒れない。

 俺の身のうちに宿る、偉大な誰かの経験に誓って。

 俺の身のうちに宿る、偉大な誰かの遺物に誓って。

 走れ、走れ、走れ。



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episode29 外道転落

 体が、重たい。

 まるで体重が倍になったみたいだ。

 私は太らない体質だと思ってたけど、一気にツケが回ってきたのだろうか。

 だって、仕方ないじゃないか。

 士郎のご飯は美味しいし、桜ちゃんのご飯も美味しい。

 なにより、あの家は暖かくて、どんなものでも一層美味しくしてしまう魔法の空間なのだ。

 でも、それにしてもおかしい。

 景色が、真っ赤だ。

 多分今は朝のはずだから、夕焼けに照らされてるってわけでもないと思う。

 それに、なんだか気分が悪い。

 まるでインフルエンザか何かに罹ったみたいだ。

 つまり、いきなり体重が増えた上に、性質の悪い風邪をひいてしまったのか。

 なるほど、なら、立ち上がれないのも納得だ。

 

 誰かが、走っていた。

 視界のほとんどは廊下に占拠されてるから、当然顔なんて見えない。

 それでも、時々映る運動靴が、記憶の琴線を刺激する。

 ああ、どこかで見たスニーカーだ。

 毎日、見てるスニーカーだ。

 全身の力を総動員して、顔を起こす。

 ああ、やっぱり士郎だ。

 士郎が、いた。

 

『藤ねえ、俺、しばらく遠坂の家に泊まるから』

 

 なんで?

 

『ごめん、理由は言えない。きっと、いつか話せると思う』

 

 私にも言えないような、理由なの?

 

『ああ。でも、多分藤ねえを泣かせるようなことは、しないから』

 

 うん、じゃあ仕方ないね。

 

 いつの間にか、男の子から、男性になっていた弟分の表情。

 覚悟に彩られた、硬い声。

 ほんの少しだけ寂しかったけど、でも、同じくらい嬉しかったんだ。

 なのに。

 なんで、あなたはそんな顔をしてるの?

 泣きそうなくらい必死で。

 呆れるくらい、ひたすらで。

 でも、それ以上に、禍々しい。

 血塗れで、青痣だらけで、粘土細工みたいにぼこぼこで。

 でも、まるで、人殺しみたいな、笑いを浮かべて。

 士郎。

 駄目だよ。

 あなたが何をしようとしているのか分からないけど。

 絶対に、駄目。

 あなたがそんな顔したら、お姉ちゃん、悲しくなる。

 きっと、泣いてしまう。

 士郎。

 あなたは嘘吐きじゃあないでしょう。

 だから、止めて。

 お願いだから、止めて。

 

 episode29 外道転落 

 

 走った。

 吹き飛ばされた。

 走った。

 吹き飛ばされた。

 走った。

 吹き飛ばされた。

 走った。

 吹き飛ばされた。 

 走った。

 吹き飛ばされた。

 殴られて、蹴られて、投げ飛ばされて。

 何度も何度も、壁に叩きつけられた。

 一体、幾度意識を失ったのか。

 時間の経過が分からない。

 一時間か。

 それとも、気付いていないだけで一昼夜は戦い続けているのか。

 そろそろ休みたくなってきた。

 布団に寝転がって、『ああ、今日も一日疲れたな』、そう言ってみたい。

 それは、何と甘い妄想か。

 

「衛宮、五分たったぜ。すごいな、サーヴァント相手に五分も戦えるなんて、予想外だ。インスタントラーメンよりは粘ったぜ、お前」

 

 五分。

 何が五分だと言うのだ、慎二。

 まさか、俺が戦い始めてから、五分しかたっていないとでも言うのか。

 これだけの疲労。

 これだけの苦痛。

 それでも、まだ五分か。

 それとも、もう五分か。

 くそ、やはり歯が立たない。

 セイバーの言ったとおりだ。

 人は、絶対にサーヴァントに勝てっこない。

 

「でも、そろそろ飽きてきちゃったな。ライダー、そいつの手足を折っちゃえよ。後で殺すけど、そいつは遠坂達を釣り上げる餌だからさ、今は殺しちゃ駄目だぜ」

 

 慎二の表情は、いかにも退屈です、と言わんばかりだ。

 ライダーも頑丈すぎる獲物に聊か辟易としているらしい。

 好都合。

 次が、勝負だ。

 いつも通り飛んできた杭。

 これがゲームの始まりだ。

 これをかわしてライダーのもとまで辿り着けば、ご褒美が貰える。

 約五秒間、こちらの好きに攻めさせてもらえる。

 逆に言えば、五秒後には確実に攻撃を喰らう。

 いかにも嗜虐性に満ちた甚振り方。

 らしいといえば、この上なく、らしい。

 だが、今の俺にはこの上なく好都合だ。

 杭を避け、ライダーに向けて走る。

 流石に、スピードは落ちてきた。

 血も流しすぎたし、疲労も溜まっている。

 だが、これが最後になるだろう。

 最後に、してみせる。

 再び飛んできた杭。

 ざくり、と、右の太腿に突き立つ。

 気にするか、こんなもの。

 痛みで折れるほど、柔な心は持ち合わせちゃあいない。

 今重要なのは、痛みじゃないからだ。

 生き死にですらない。

 目的を達すること。

 その意志だけが、この身体を動かす原動機だ。

 言うことの聞かない足を、叱り付ける。

 折れそうになる膝を叱咤する。

 まだだ。

 まだ、頑張ってくれ。

 やっとのことで、ライダーの間合いに。

 

 『またおなじこと?』

 

 うんざりした彼女の表情。

 構わず、切りつける。

 

 一秒。

 

 それでも、当たらない。

 

 二秒。

 

 まるで、子供の喧嘩みたいだ。

 

 三秒。

 

 ただ、手を振り回すだけ。

 

 四秒。

 

 でも、ここだ。

 彼女が、攻撃の回避と、反撃の準備、その両方に気を取られる、この瞬間。

 さぁ、ここが勝負。

 おそらく、これが彼女が許す、最後の攻撃。

 右の短刀を、左肩から振り下ろすように振るう。

 やや中途半端な一撃。

 当然、彼女には掠り傷ひとつつけることは叶わない。

 それでいい。

 この一撃は、彼女を倒すことを目的にしたものじゃあないから。

 目標は、この短刀の先。

 すっぽ抜けたように飛んでいく短刀、それが突き刺さったもの。

 赤くて、細長い、筒状の物体。

 学校の廊下なら、必ず二、三は設置されている。

 消火器。

 これが、俺の狙い。

 

 これで、五秒。

 

 直後、ぼん、という、どこか間の抜けた音をたてて、消火器が破裂した。

 轟音と共に、白い薬剤があたりを満たす。

 それを、俺は予想していた。

 予想して、期待していた。

 さて、目の前の化け物はどうか。

 予想していたはずが無い。

 ならば、一瞬でいい、意識が逸れるはずだ。

 頼む。

 逸れろ。

 逸れてくれ。

 一瞬、奴の顔に、不審の色が浮かんで。

 そして、その視線が、逸れた。

 死ぬ思いで作り上げた、0,1秒の隙。

 見逃すか、馬鹿。

 過負荷ともいえる魔力を、四肢に込める。

 燃やせ。

 体力か、魔力か。

 憤怒か、歓喜か。

 私憤か、義憤か。

 そんなものは、どうだっていい。

 俺の中にある、あらゆるものを、燃やし尽くせ。

 何だっていいのだ。

 切嗣との思い出でも、藤ねえに怒られたことでも、魔術の修行で死掛けたことだっていい。

 今、この瞬間は、あらゆる思い出が等価だ。

 等価に、尊い。

 全てが、愛おしい。

 しかし、何かが欠けている。

 何だろう。

 何かが違う。

 何かが、ずれている。

 

『――だなぁ、――は』

 

 唐突に浮かんだイメージ。

 赤い髪。

 輝くような笑顔。

 でも、その顔は煤みたいに真っ黒だ。

 貴方は、誰だ。

 俺に、何の用だ。

 懐かしい、声。

 思い出す、熱さ。

 身を焦がす炎よりも熱い、掌。

 俺のことだけを守ってくれた、優しい掌。

 あ。

 体が、燃え上がる。

 赤い炎だか、青い炎だか、分からないが。

 何かが、燃えている。

 いいぞ。

 いくぞ。

 燃料は満タンだ。

 それを、一気に注ぎ込む。

 跳べ。

 反復横跳びみたいに、足の裏の内側面で、床を蹴る。

 一息で、壁まで跳躍。

 今度はそれを蹴って、ライダーの背後に戻る。

 まるで、サッカーのキーパーみたいに三角跳び。

 目の前には、呆けた顔の慎二。

 消化剤の白い霧の中、ボケたみたいに突っ立っている。

 こいつ、戦場にいるっていうのに、戦う準備すら出来ていなかったのか。

 幸せなやつだ。

 苦痛を感じる暇すら、与えてやるつもりは無い。

 死ね、慎二。

 俺は、手に残った一本の短刀を突き出す。

 ぞぶり、と。

 肉を貫く感覚が、この上なく心地良かった。

 



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episode30 絶望

 ずん、と、衝撃がお腹を貫く。

 剣道の試合で、何度か味わった感覚に似ている。

 似ているが、しかし、非なるもの。

 まず、その実在感。

 衝撃だけでなく、刃そのものが皮膚の下にめり込むというのは中々珍しい感覚だ。

 次に、冷たさ。

 痛点と冷点がその対応を間違えているのか、不思議なくらい痛みは無く、不思議なくらい冷たい。

 最後に、恐怖。

 これは、この感覚は、そのまま死に直結するもの。そう体が知っている。体中から噴出す脂汗は、何よりの証拠だと思う。

 でも、後悔なんて、無い。

 あのまま寝てたら、もっと痛かった。

 士郎が間桐君を殺す瞬間を見るなんて、もっと辛かった。

 

 もしかしたら、間桐君が悪いのかな、と思う。

 士郎がこんなに怒ってるんだもん、きっとそうだよね。

 でも、殺しちゃ駄目。

 殺したら、笑えなくなる。

 そんな人、お爺様の知り合いに、何人もいたから。

 それとも、もう笑うことしか出来なくなるか。

 笑いながら人を殺すことしか、出来なくなるか。

 私は許さないぞ、士郎。

 あなたがそんな人間になるなんて、絶対に許さない。

 きっとこれは望んだ結末。

 私が全身全霊で望んだ、結末。

 だから士郎。

 そんなに悲しそうな顔をしないで。

 あなたが悪いんじゃないから。

 あなたが責任を背負わなければいけないのは、間桐君を殺そうとしたこと。

 そのことは、一生をかけて償ってください。

 でも、私を傷つけたことは、あなたのせいじゃない。

 私があなたの前に飛び出した。

 誰もそんなこと、予測できないよね。

 あなたの狙う的の前に、ふらふらと自分の意志で飛び出した、お姉ちゃんが馬鹿なだけだから。

 お願い、あなたは笑っていてください。

 多分、しばらくは無理だと思うけど。

 それでも、殺しさえしなければ、いつかは笑えるよ。

 大丈夫、私は絶対に死なないから。

 士郎の剣なんかで、絶対に死んでやらないから。

 だって、私が死んだら、きっと士郎は立ち直れない。

 それくらい、自惚れじゃなくて確信してる。

 なんたって、私はあなたのお姉ちゃんなんだぞ。

 お姉ちゃんは絶対に死なないのです。

 お姉ちゃんは強いから。

 安心して、士郎。

 少し、眠るだけ。

 起きたら、全力で殴ってあげる。

 殴って、暴れて、喚いて。

 最後に、ぎゅうって抱きしめてあげるから。

 楽しみに待っててね、しろう―――。

 

 episode30 絶望

 

 あ。

 

「うん、間に合った」

 

 あ、あ。

 

「士郎、駄目だぞ、そんな危ないもの振り回しちゃ」

 

 あ、あ、あ。

 

「本当、怖い顔してたけど……」

 

 あ、あ、あ、あ。

 

「よかった、いつものしろうにもどった……」

 

 なんで。

 なんで、あなたが。

 なんで、わたしは。

 なんで、あなたが、ここにいるのですか。

 なんで、わたしは、あなたをきずつけているのですか。

 なんで、あなたは、そんなにちをながしているのですか。

 なんで、わたしは、あなたを――。

 

 殺してしまったのですか。

 

「藤ねえ―――――――――!」

 

 笑顔を浮かべたまま、ふわりと倒れる彼女。

 神様よりも早く動いて、なんとか抱き止める。

 ほとんど、反射に近い。

 

「何で!」

 

 慎二が、悪いんだ。 

 

「何で!」

 

 みんなを苦しめてるから。

 

「何で!」

 

 代羽を、犯したから。

 

「何で!」

 

 何で。 

 

「何で!」 

 

 あなたが、あんな奴を、庇うんだ。

 あいつは死んで当然のことをしたんだ。

 殺さなきゃいけないんだ。

 罪には罰を。

 行いには報いを。

 因果には、応報を。

 俺は、正義の味方だから。

 悪い奴は、やっつけないと。

 皆を苦しめる奴は、排除しないと。

 なのに。

 何で、あなたが――。

 

「ゆるしてあげて、しろう」

 

 蚊が鳴くような、小さな囁き。

 

「まとうくんを、ゆるしてあげて」

 

 なにを、いまさら――。

 

「ふふ、しろうはがんこだねぇ……」

 

 だって、あいつは、あいつは。

 

「じゃあ、せめてじぶんを、ゆるしてあげて。そんなに、じぶんを、いじめ、ないで……」

 

 嫌だ。

 俺は、絶対に許せない。

 正義の味方なのに。

 切嗣から、理想を受け継いだのに。

 こんなの、嘘だ。

 こんなこと、認められない。

 こんなのは、正義の味方じゃあ、ない。

 

「くそ、血が出てる、痛い、痛いぞ、ちくしょう!」

 

 慎二が、叫んでる。

 

「病院だ、こんなに血が出てる、役立たずの藤村め、教師としては欠陥品なんだから、せめて生徒の盾くらいにはなれってんだ!」

 

 藤ねえの身体を貫通した刃が、ほんのちょっぴり慎二を傷つけたらしい。

 

「こいつ、僕を殺そうとしやがった!くそ、ライダー!こいつを殺せ、今すぐだ!」

「慎二」

 

 自分でも、不思議に思うほど、心は穏やかだった。

 嵐の中心は晴天、それに近いのかもしれない。

 

「頼む、藤ねえを助けてくれ」

 

 藤ねえをそっと横たえる。

 剣は抜かない。

 抜けば、一気に出血量が増えて、ショック状態に陥ると聞いたことがあるからだ。

 

「頼む、慎二、藤ねえを助けてくれ」

「はぁ?何で僕がそんな役立たずを助けなけりゃいけないんだよ!だいたい、お前は今から死ぬんだから、そんな心配はしなくていいんだ!」

 

 俺は、深く深く、頭を下げる。

 

「この通りだ、慎二。俺は殺されても構わない。ライダーの養分にでもしてくれ。だから、慎二、藤ねえを、皆を、助けてやってくれ」

 

 ややあって。

 へえ、と。

 優越に満ちた声が、聞こえた。

 数分前なら、吐き気が収まらなかっただろう、嫌な声。

 しかし、今の俺にそんなことを考える余裕は無い。

 

「……しおらしくなったじゃあないか、衛宮。でも、人にものを頼むときって、そんな態度じゃあ不味いんじゃないの?」

 

 一瞬の迷いも無く、廊下に膝を突く。

 手をついて、額も擦り付ける。

 土下座。

 

「お願いします。藤ねえを助けてください。皆を助けてください。お願いします。お願いします。お願いします」

 

 ははは、と、嗜虐に満ちた笑い声が、静寂な廊下に響く。

 

「いいぞ、そうだ、その姿が見たかったんだ!最初からそうしてれば、こんなことにはならなかったのにな!お前が悪いんだぜ、衛宮!」

 

 狂笑は止まらない。

 それでも、いい。

 何十分の一か、何百分の一か。

 どんなに僅かな可能性でもいい。

 慎二が、ほんのちょっぴりの気紛れを起こして、彼女達を助けてくれれば。

 それは、今から俺が素手でライダーを倒すよりも、遥かに高い可能性だろう。

 そのためなら、このカボチャみたいな頭くらい、いくらでも下げてやる。

 

「お願いします」

「うんうん、やっぱり人間、分相応に生きないとね」

「お願いします」

「今のお前は悪くないぜ、衛宮、ああ、いい気分だ」

「お願いします」

「うーん、どうしようかなぁ」

 

 ぐいっと、後頭部の髪を掴まれた。

 顔を引き起こされて、そこにあったのは、醜く歪んだ慎二の顔。

 人はここまで醜く笑うことが出来るのか、その生きた標本だ。

 

「でも、だぁぁめ。ちょっと遅かったね、衛宮。心配するなよ、一人で逝かせるなんて、残酷な真似はしないからさ。ちゃんと藤村も殺してやるよ。赤信号、皆で渡れば怖くない、って言うじゃん。だから、怖いことなんて何一つないぜ?」

 

 舌を卑猥に動かす慎二。

 嘲るような調子で、続ける。

 

「遠坂達もだ。ちゃんとあの世に送ってやるよ。まぁ、たっぷり楽しんだ後になるから、いつになるかはわからないけどね」

 

 駄目か。

 やっぱり、無駄だったか。

 仕方ないか、慎二。

 お前は、きっと俺が無手だと思っているだろう。

 ある意味では、それは正しい。

 しかし、それは根本的に間違えている。

 俺は、無手になるということは絶対に無い。

 いつだって、この手に武器を握ることが可能だ。

 今、そのにやつく口元を、もっと大きくしてやることだって出来るんだ。

 でも、それはしたくない。

 藤ねえが、泣くからだ。

 きっと、お前を殺せば、藤ねえは泣く。

 それは、とても嫌な事だ。

 だから、我慢した。

 

 ちろり。

 

 だから、お前に頭を下げた。

 

 ちろり。

 

 でも、お前は、止まってくれなかった。

 

 ちろり、ちろり。

 

 だから、火をつけたのは、お前だ、慎二。

 一旦は、完全に鎮火した、業火。

 その、燻る火種に、再び着火したのは、お前だぞ、慎二。

 ちろり、ちろり、と。

 舐めるように、炎が、広がっていく。

 もう、収まらない。

 誰も、止められない。

 藤ねえは、泣くだろうし、悲しむだろう。

 でも、死ぬよりはマシだ。

 目の前で、大事な人を失うなんて、一度あれば十分だ。

 だから、慎二。

 俺は。

 

「さあ、ライダー、もう飽きちゃったからさ、こいつ殺してよ」

「投影、開――」

「やだ」

 

 ――。

 たった二文字の、絶対的な拒絶。

 あまりにも幼い返答は、周囲の張り詰めた空気を弛緩させた。

 

「はぁ?もう一度言うぞ、ライダー。こいつを、殺せ!」

「やだ。ころさないんじゃなくて、ころせないから、やだ」

 

 ……どういう意味だ。

 慎二は、ライダーのマスターなんじゃないのか。

 

「お前、僕の命令には従う、そう言ったじゃないか!」

「でも、そのめいれいは、さいしょにうけためいれいとむじゅんするから。だから、したがえないの」

「はぁ?そんなこと、聞いてないぞ!お前が僕に絶対服従するって言うから、『偽臣の書』を作らせなかったんだ!約束が、違う!」

「そんなの、しらない。でも、わたしはさいしょにめいれいされたから。『えみやしろうをころすな』って」

 

 命令された?

 誰に、だ?

 

「そんなの知ったことか!だいたい、新しい命令は古い命令より優先されるんだ!殺せったら殺せ!」

 

 癇癪を起こした幼児みたいに喚く慎二。

 それを、おそらくは冷ややかに見つめるライダー。

 

「うん。ふつうなら、そうだよね。でも、このめいれいは、れいじゅをつかっためいれいだから。だから、やぶることはできないの」

 

 令呪を使った?

 たった三つのコマンドスペル。

 空間転移などの、奇跡すらも可能にする切り札。

 戦術ではなく、戦略面においてすら影響を及ぼす、兵器。

 それを使って、俺を殺すなと、そう命じたのか。

 一体、誰が。

 

「――そんなこと、知るか!よし、分かった。お前がやらないなら、僕がやる!」

 

 慎二は、ポケットから、折りたたみ式のナイフを取り出した。

 しゃこん、と刃が飛び出る。

 

「そうだ、どうせ殺すなら直接殺したほうが気持ちいい!どうせ爺の指示だろう!あいつが自分から令呪を使うなんて、そんな自由認められてるはずが無い!なら、爺に感謝しないとね!」

 

 慎二は、ナイフを振りかざす。

 かわすことは出来ない。

 かわせば、藤ねえに当たる。

 

「死んじゃえよ、衛宮!」

 

 俺は藤ねえの上に覆いかぶさって、強く、目を閉じた。

 

「ああ、そういえば、そのめいれいにはつづきがあってね」

 

 呆けたような、ライダーの声。

 その直後聞こえた、かつん、という、妙に硬質な響き。

 例えるなら、皿を猛スピードの銃弾が貫通したら、こんな音が鳴るのではないか、そんな音。

 構えた衝撃は、いつまでたっても訪れない。

 不審に思って、慎二を見上げる。

 刹那、ぱしゃり、と暖かい液体が降りかかってきた。

 妙に粘ついて、鉄臭い。

 あれ、慎二。

 お前、何してんだ?

 お前の顔、いつからそんなに平坦になっちゃったんだ。

 まっ平らで、でも、真っ赤。

 まるで、CTスキャンか何かで撮った、人体の断面図みたいじゃないか。

 いや、それよりももっとリアルだ。

 だって、物凄く、派手だ。

 黄色い脂肪の粒。

 極彩色の血管。

 白い、骨。

 乳白色の、脳味噌。

 そして、未だ拍動を続ける心臓と共に溢れ出す、赤い血液。

 そんなに見せて、恥ずかしくないのか、慎二。

 脳味噌なんか、今にも零れ落ちそうじゃあないか。

 慎二、慎二。

 お前。

 

「『えみやしろうをころすな、そして、かれをころそうとするものを、ぜったいてきにはいじょしろ』だってさ」

 

 ぺろり、と。

 哂いながら、爪に張り付いた慎二の肉片を舐め取るライダー。

 ぐらり、と。

 崩れ落ちる、間桐慎二だったもの。

 そして、天井には。

 唖然とした、慎二の顔が張り付いていて。

 ぎょろり、と動いた目玉が。

 悲しそうに、俺を映した。

 



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episode31 Don Quixote

 びちゃり、と。

 粘着質な音が、辺りを満たす。 

 落ちてきたのがスライムの類なら、B級のホラーだ。

 でも、落ちてきたのは、俺の友人だった男のデスマスクで。

 これが、くそったれな現実だってことを、再認識させてくれる。

 白い薬剤に塗れた廊下。

 其処に咲いた、真っ赤で大きな花が一輪。

 それは、人の命を喰らって咲く、醜悪な花だ。

 甘い蜜の香りではなく、鉄臭い血の香りで。

 虫ではなく、死神を狂喜させる。

 あれを育てたのは、ライダーだ。

 慎二を殺したのは、ライダーだ。

 でも、俺はあいつを殺そうとした。

 殺意を持って、排除しようとした。

 そして、嘘か本当かは知らないが、彼女がその手を汚したのは、どうやら俺を守るためらしい。

 ならば、慎二を殺したのは、ほとんど俺だ。

 誰が否定しても、これは事実だと思う。

 じゃあ、俺はどうしたらいいんだろう。

 慎二に詫びるか?

 許してくれと。

 俺もいずれ地獄に堕ちるから、気が済むまで殴れと。

 いやいや、流石の俺も、そこまで恥知らずじゃあない。

 詫びるくらいなら、殺さない。

 そもそも、俺はかけらも悪いと思ってない。

 あいつは殺されて当然のことをした。

 だから、だから――。

 ああ、もう。

 そんなことは、どうでもいい。

 後悔も、歓喜も、後で、全て、後でいい。

 今、重要なことは、唯一つだ。

 慎二は、死んだ。

 しかし、ライダーは健在で。

 やはり、結界は解呪されない。

 なんだ、そんなことか。

 万策尽きた、そういうことだな。

 簡単な、ことじゃあないか。

 

 episode31 Don Quixote

 

 

「うん、うるさいやつもいなくなったし、はじめよっか」

 

 にっこりと笑ったライダー。

 その表情からは、微塵の敵意も読み取れない。

 彼女は何を言っているのだろうか。

 ぐるぐるになった脳味噌は、満足のいく回答なんて、導き出してくれるはずが無い。

 でも。

 ぐらぐらと、茹る何かが在る。

 どくり、と一際大きな鼓動が、響く。

 頭ではない。

 精神ですらない。

 身体。

 細胞に刻まれた、被捕食者の記憶が、雄弁に己の置かれた状況を解説する。

 背筋に、ドライアイス染みた冷気が走り抜ける。

 

 何を呆けているのだ。

 逃げろ。

 間違いなく、食われるぞ。

 

「ぬわっ!」

 

 悲鳴が、漏れた。

 大穴の開いた足で、無理矢理飛び退く。

 空の消火器に刺さっていた短刀を、震える指先で引っこ抜く。

 涙が浮かぶ。

 がちがちと、歯が鳴る。

 膝が、震える。

 ライダーは、先ほどの表情のまま、動かない。

 思わず笑えるほど震える刃先、その向こうで、華が咲いたみたいに、笑っている。

 怖い、笑みだ。

 肉食獣が、獲物を捕らえる間際、その瞬間に浮かべる笑みだ。

 まるで、蛇に睨まれた蛙。

 いや、そんな程度の力の差ではありえない。

 突然涌いたイメージは、何故か、白魚の踊り食い。

 まだ、ぴちぴちと跳ねる、透き通った白魚を、噛み砕かずに、飲み込む。

 生きたままの白魚を、胃の腑に収める。

 

 『ああ、胃の中で飛び跳ねている』

 

 その感触を、味わうのだ。

 ゆっくりと、己の中で消えていく命を、慈しむのだ。

 その、喜び。

 自分が絶対的な超越者である、確信。

 彼女は、それを、楽しんでいる。

 そして、俺が、白魚だ。

 ぴちぴちと、胃酸の海で、飛び跳ねる。

 逃げ道は無い。

 ただ、死にたくなくて、飛び跳ねる。

 飛び跳ねながら、溶けていく。

 皮と肉は溶け、やがて、骨になる。

 なるほど、彼女は、俺を慈しんでいるのだろう。

 きっと、堪らなく愛おしいのだ。

 

「ころさなければ、いいんだよ」

 

 感極まったような、声。

 

「ころさなければ、いいんだよ」

 

 舌なめずりするように、言葉を紡ぐ。

 

「だいじょうぶだからね、きっと、すごくたのしいから」

 

 にんまりとした笑みが、鋭角な、ぱかりとした笑みに。

 裂けるような、その口。

 蛇だ。

 蛇が、哂った。

 

「にんげんってね、けっこうしねないんだよ。じょうずにすれば、てあしをぜんぶもぎとっても、しねないの」

 

 夢を見るように、掌を合わせる。

 

「かんせつをごきりとはずしてね、かわにざっくりつめをたててね、きんにくをぶちぶちひきちぎってね、けっかんがすこしずつのびていってね、ぷち、ってちぎれてね、おいしいちがあふれだすの」

 

 口の端に、泡立つ涎が。

 

「だいじょうぶだよ、いっぱいいっぱいためしたからね。さいしょはどんどんしんじゃったけど、いまはぜったいにしねないからね」

 

 髪の毛が、ざわざわと、蠢く。

 

「つめもはごうね。はもむしろうね。みみとはなはそいで、めだまはくりぬいて、したはひきぬこうね。きっと、きっと、たのしいからね」

 

 ゆるり、と彼女が歩を進めた。

 薬剤で濡れた廊下、そこに、ぬちゃり、と、非現実的な音が響く。

 彼女は、純粋だ。

 子供のように、純粋だ。

 だから、嘘は吐かない。

 俺は、生きたまま、解体される。

 俺は、剣を構えたまま、固まった。

 そう、ただ固まっただけ。

 形が構えの態なだけで、戦う意志など、欠片も残っちゃあいない。

 恐怖で、動けないだけ。

 これなら、這いずって逃げる輩のほうがまだ上等だ。

 

「あああああ……」

 

 情けない悲鳴が口から漏れる。

 きーんという、耳鳴りが聞こえる。

 これが収まったとき、俺は正気を失うだろう。

 そんな直感。

 

 ――助けてくれ。

 

 声にならない悲鳴。

 

 ――誰か、俺を助けてくれ。

 

 誰かの手を期待して、視線を彷徨わせる。

 

 ――まだ、死にたくない。

 

 廊下に張り付いた、未だ中空を見つめる慎二の濁った瞳。

 

 ――俺は、まだあの人に、言わなければならないことが、ある。

 

 藤ねえの、死人みたいな、顔色。

 

 ――ありがとう、と、言わなければ、いけないんだ。

 

 だから。

 

 だから、俺は、逃げ出した。

 

 

 彼は、逃げ出した。

 脇目も振らず、逃げ出した。

 涙を流し、鼻水と涎を垂らし、情けない声をあげ、ひょっとしたら小便も漏らしながら、逃げ出した。

 彼は、逃げ出したのだ。

 何者が、彼を侮蔑し得るか。

 彼の目の前にいるのは、紛れも無い死神。

 彼の魂の紐を切るために現れた、無慈悲な死の使者。

 堅固な意志をもってそれに立ち向かう。

 聞こえはいいが、それは迂遠な自殺であり、それを行いうるのは狂人のみだ。

 彼は、そこまで狂っていなかった。

 それが、彼にとって幸福なのか、不幸なのか、彼自身にも、分かるまい。

 ただ、彼は、逃げ出したのだ。

 硬く握り締められたその手に、短刀を収めたまま。

 がくがくと震える足で。

 逃げたのだ。

 

 前に。

 

 ただ、前に。

 敵に、向かって。

 己の命を刈り取る、神の農夫に向かって。

 まるで、戦士の鬨の声のような悲鳴を上げながら。

 泣き喚きながら両手を振り回す、駄々っ子のように。

 目の前の脅威に向かって、逃げ出した。

 まるで、風車に戦いを挑む、ドン・キホーテのように。

 ある人がそれを見れば、抱腹絶倒の笑いに身を捩っただろう。

 ある人がそれを見れば、その不屈の精神に輝きを見つけるだろう。

 ある人がそれを見れば、その悲壮な声に涙を誘われただろう。

 つまるところ、その行為は無価値なのだ。

 故に、多面体的な解釈が存在しうる、それだけのこと。

 ただ、その行為は美しかった。

 少なくとも、その行為を見つめる、唯一人の男にとっては。

 無謀で、無茶で、無鉄砲で、どこまでも無価値なその逃避が。

 ただただ、美しかったのだ。

 



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episode32 FAKE PILAYS WITH SNAKE. ;THE FIRST

 くそっ。

 どうしてこうなった?

 なんで、あの化け物との距離が縮まっている?

 自分の思考経路が、全く追えない。

 逃げないと、いけないんだ。

 俺は、逃げないといけないんだ。

 なのに、足が、俺の意志を裏切った。

 足だけじゃない。

 髪の毛が。

 額が。

 脳味噌が。

 鼓膜が。

 千切れかけた、耳が。

 目が。

 鼻が。

 唇が。

 喉仏が。

 鎖骨が。

 肺が。

 心臓が。

 横隔膜が。

 臍が。

 太腿が。

 膝が。

 脹脛が。

 爪先が。

 その全てが、俺の意志を裏切った。

 許さない、と。

 お前が逃げるのは構わないが、敵に背を向けるのは許さない、と。

 自分の命を愛でるのは構わないが、名も知らぬ誰かの命よりも愛おしむのは許さない、と。

 内なる声。

 自分ではない、誰かの声。

 自分という個以上に大きな、何かの声。

 いつから俺の中に宿ったのか。

 一体、いつから。

  

 結局のところ、怖かっただけなのだ。

 何よりも、怖かった。

 死ぬのは、怖い。

 死を許されない苦痛の泥濘でのた打ち回るのは、もっと怖い。

 だが、藤ねえが、そして皆が死んで、俺だけ生き残るのは、それよりも遥かに恐怖だった。

 

 俺だけが生きて。

 また、俺だけが生き残って。

 廃墟の中で、一人、生を謳歌して。

 

 

 大事なものを、見捨てて。

 

 

 許されるか。

 許されるか。

 そんなの、許されるか、馬鹿野郎。

 

 何かが、ある。

 あの時、全てを燃やし尽くしたと思った。

 あの一瞬。

 あの一瞬の跳躍に、全てを注ぎ込んだ。

 だから、今の俺は空だ。

 空っぽだ。

 そう思っていた。

 なのに、何かがある。

 濡れ濡れとした、何かだ。

 皮を剥いた枇杷のように、芳しく瑞々しい何かだ。

 砥ぎ水に濡れた刃のように、妖しく輝く何かだ。

 名前は、分からない。

 名付けようもない。

 だが、それは在る。

 そして、それが在るうちは、負けない。 

 負けて、やらない。

 行くぞ、ライダー。

 お前、さっき言ったな。

 俺を殺せないって。

 甚振ることは出来ても、殺すことは出来ないって。

 なら、俺は止まらないぞ。

 俺を止めたければ、一発目の弾丸を、頭か心臓にぶちこめ。

 それができないなら――。

 この俺を止められるなんて、ゆめ、思うな――!

 

 episode32 FAKE PILAYS WITH SNAKE. ;THE FIRST

 

「うおおおおおおおおおおお!」

 

 迸る咆哮。

 勝利の確信。

 狙いは、首筋。

 そこを断てば、いくら蛇でも、死なざるを得ない。

 ぶん、と。

 横薙ぎの一閃。

 吸い込まれるように、刃が奔る。

 敵は、相変わらず裂けた笑みを浮かべたまま。

 勝ったか。

 歓喜。

 勝った。

 俺の、勝ちだ!

 

 なんてな。

 知ってるさ。

 こいつは、こんなちんけな刃物じゃあ、倒せない。

 

 がちん、と硬質な音がして。

 体が、短刀を握った右手を支点に、宙を舞った。

 びき、と嫌な音が、手首から響く。

 高速で流れていく風景と、重力による制御を失った身体が、咄嗟の思考を奪う。

 背中に衝撃。

 どうやら、地面に叩きつけられたらしい。

 跳ね起きるように立ち上がる。

 ゆらつく視界。

 其処に映ったライダー。

 彼女は、一歩も動いていなかった。

 彼女は、さも嬉しそうに、俺の短刀を咥えて、其処にゆらりと立っていた。

 全霊の一撃。

 それを、顎の力だけで、受け止めたというのか。

 刹那、ばきばきと、凄い音がした。

 アルミ缶を握り潰した時に聞こえる破砕音を、何倍も忌々しくした音だ。

 それが、明らかに彼女の口から、聞こえた。

 もぐもぐと動く、彼女の唇。

 からからと毀れる、金属片。

 キャスターの魔力によって強化された、強固な金属。

 彼女は、それを煎餅か何かみたいに噛み砕いたのだ。

 ライダーは、やはり、ぱかりとした笑みを浮かべる。

 口の端からは、砕かれ、捻じ曲げられた金属片が、零れ落ちた。

 

「これで、ぶきはなくなったね。じゃあ、つぎはわたしのばんだから。たっぷりひめいをあげてね。かわいいかわいいひめいをきかせてね」

 

 残像じみた一撃。

 中段蹴り。

 咄嗟に肘を折り曲げてガードする。

 ぐしゃ、と肉のひしゃげる音。

 衝撃が腹を突き抜ける。

 おかしいな。

 蹴られたのは左側なのに、右側、肝臓が締め付けるられる様に痛い。

 しかも、ガードの上からだぞ。

 思わず笑みが浮かんでしまう。

 なんだ、これは。

 かは、と熱い呼気を吐き出す。

 体が『く』の字に折れ曲がる。

 効いた。

 効いた。

 たった一発だ。

 しかも、完全に読み通り、受けも完璧。

 これ以上無いくらいダメージを減らして、この威力か。

 凝縮された思考。

 一秒が、まるで永遠。

 静止した、苦痛に満ちた時間。

 それを割り裂いて、何かがすっ飛んで来る。

 背中の産毛が総毛立つ。

 

「ぬわっ!」

 

 海老のように丸まった背中を、無理矢理弓反らす。

 鼻先を掠める、肉の形をした弾丸。

 膝。

 あれを食らえば、鼻骨骨折くらいじゃ済まない。

 死。

 それすら、許容の範囲内だ。

 しかし、今か。

 おそらくは必殺の一撃。

 ならば、それをかわした今が、チャンスか。

 そこまで考えたとき、がつん、と後頭部に凄まじい衝撃。

 一瞬だけ意識を弾き飛ばされた。

 暗転した視界。

 無明の世界で理解する。

 多分、あれは、蹴り足の変化だ。

 俺がかわした膝は、中空でその方向を変え、たわめられた足を、まるで白鳥の翼のように羽ばたかせたのだ。

 そして、その足が、執念深い蛇のように、俺の後頭部に噛み付いた。

 飛燕の変化。

 現代において発達した格闘技、その中でも特上の足技。

 達人のそれは、突如足が消えたような錯覚に陥るというが、今のはまさにそれだ。

 これが、英霊。

 如何なる修練をも経ずして、あらゆる人種を凌駕する。

 それが、英霊の最低限必要なラインなのかも知れない。

 戦闘中とは思えないほど落ち着いた思考。

 自分でも、少し不思議だ。

 色を取り戻した視界の中で、そんなことを考える。

 近づいてくる、廊下。

 ああ、なるほど、俺は前に倒れていくのか。

 きっと、楽だろう。

 今、楽々と大の字に寝転がることが出来たら、これからの人生のあらゆる楽しみを引き換えにしても惜しくない。

 そんな傾いた考えさえ浮かんでしまう。

 しかし、現実はそんな妄想すら許してはくれない。

 まただ。

 また、何かが俺に向かってすっ飛んでくるのだ。

 黒いもの。

 黒くて、先が僅かに尖っている。

 ああ、あれは靴だな。

 彼女が履いている、靴だな。

 つまり、あれは彼女の爪先か。

 あれで、俺の顔面をぶち抜こうという訳だな。

 サッカーボールキック。

 お前、本当に俺を殺さないつもりか。

 さっきから、明らかに殺気を込めた攻撃が続いているじゃないか。

 この、嘘吐きめ。

 心の中で、毒づく。

 毒づきながら、顔面の前で、両手をクロスさせる。

 爪先を受け止めるのではない。

 そんなことそしたら、良くて骨折、最悪両手が千切れ飛ぶ。

 だから、その僅かに上。

 ちょうど、足の甲と向う脛の継ぎ目。

 そこが当たるように、両手でガード。

 それでも、その衝撃は止められない。

 身体が、宙に浮く。

 白まった脳味噌。

 シナプスが、断線している。

 背中が、何かにぶつかった。

 そして、顔面が何かに打ち付けられた。

 熱を持って腫上がった頭部に、ひんやりとした廊下の温度が心地いい。

 おそらく、俺はピンボールみたいに天井に蹴り上げられて、潰れた蛙みたいに、廊下に張り付いたのだ。

 多分、俺の攻撃から、十秒もたっちゃあいない。

 なのに、この有様か。

 

「どうしたの。はやくたたかわないと、みんなしんじゃうよ」

 

 嗜虐に満ちた声。 

 しかし、その内容は真実だ。

 俺が慎二を対面してから果たしてどれだけの時間が経過したのかは知らないが、そろそろ限界だろう。

 特に、藤ねえ。

 俺が刺した傷口からはどくどくと血が流れ、生命力はちゅうちゅうと吸われている。

 あと、何分持ち堪えてくれるか。

 それとも、あと何秒の世界なのか。

 くそ。

 どうしたらいい。

 どうしたら、この化け物に勝てる?

 いや、そもそも勝てるのか?

 俺に?

 そんなの、最初の一撃で、結論は出ているじゃあないか。

 結論。

 俺には、衛宮士郎には、この化け物を倒す力は、備わっていない。

 ちくしょう。

 歯を軋らせる。

 悔しい。

 こんな理不尽な暴力に抗えない自分が、悔しい。

 この様で、恥ずかしげもなく『正義の味方を目指す』、などと言えたものだ。

 厚顔無恥にも程が在る。

 ならば。

 正義の味方ならば、どうするのだ。

 彼ならば。

 

『――いいか。おまえは戦う者ではなく、生み出す者にすぎん』

 

 誰の、声だ。

 

『――忘れるな。イメージするものは常に最強の自分だ。外敵など要らぬ。おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない』

 

 誰の、声だ。

 

『――現実では敵わない相手ならば、想像の中で勝て。自身が勝てないのなら、勝てるモノを幻想しろ』

 

 誰の、声だ。

 

『――所詮。おまえに出来る事など、それぐらいしかないのだから』

 

 そうだ。

 知っていた。

 俺は、知っていた。

 俺に出来るのは、これだけだ。

 極めて限られた、この技術。

 これだけが、胸を張れる、唯一。

 ならば、これで勝負しなくてどうするか。

 

 いくぞ。

 イメージは、守るもの。

 皆の命を、守るもの。

 なら、相応しいのはかの短剣。

 二振りで一組。

 作られたのは、古代中国、呉の国。

 戦乱。

 荒れ果てた大地。

 生まれた意味を、考えることすら許されずに死んでいく人々。

 王の命令。

 優れた剣。

 戦さを終わらせるため、己にしか出来ぬ、天命。

 交じり合わぬ、神鉄。

 それを溶かすための材料、自らの妻。

 最愛の人が飛び込んだ、灼熱の炉。

 最愛の人だったものを孕んだ、一握りの純鉄。

 其の鉄を打つ、鍛冶師の心中、いかばかりか。

 

 かーん、かーん、かーん。

 

 飛び散る火の粉。

 妻の、命。

 流す涙は、紅色。

 赤く滾る剣の赤子、それを握るのは、からの手。

 じゅうじゅうと、肉を焦がす匂い。

 それでも、妻の苦痛に届かない。

 それが悔しくて、ただ、悔しくて、鉄を打つ。

 己の身体の代わりに、鉄を打つ。

 

 かーん、かーん、かーん。

 

 己の命を捨てて、たった二振りの剣を完成させようとした妻の愚行。

 

『この身は鍛冶師の妻なれば、剣のために身を捧げるのは当然でございましょう』

 

 その言葉を期待し、珠玉の神剣を打つ、その栄光に身を震わせた夫の鬼畜。

 

『よく言った。ならば、其の方を、最高の剣にしてやろう』

 

 ありがとう、あなたのおかげだ。あなたのおかげで、けんはできる。

 ゆるしておくれ、ごめんなさい。わたしから、はなれていかないで。

 

 かーん、かーん、かーん。

 

 乾いた音をたてて、鬼が、鉄を打つ。

 血の涙を流し、鉄を打つ。

 三日三晩、鉄を打つ。

 糞小便を垂れ流しながら、鉄を打つ。

 

 かーん、かーん、かーん。

 

 生れ落ちた、二振りの短剣。

 鍛冶師はそれに、自らと、妻の名前を与えた。

 分かたれて、戻れない、自分達。

 それが認められなくて、その名前をつけたのだ。

 戦乱を終わらせるために。

 みんなが、涙を流さない、世界を創るために。

 夫婦剣。

 干将・莫耶。

 この二本は、決して、分かたれない。

 奪うためではない、守るための剣。

 だから、他のどんな輝かしい聖剣よりも、ただただ彼に相応しい――!

 

「があああああああああ!」

 

 身体中を、苦痛が這い回る。

 脳の奥が、苦痛で点滅を繰り返す。

 これは、許されざる罪を犯した、その証拠だ。

 あれは、奇跡。

 始まりの夜に見た、彼の短剣。

 あの技は、奇跡だ。

 到底、俺などに辿り着ける代物ではない。

 そんなこと、分かってる。

 ああ、分かってるさ。

 でも、意地を張るなら、今しかないだろう?

 虚勢を張って、大言壮語を吐いて、己すらも偽るなら。

 それは、今しか、ないだろう。

 そうじゃあないか、なぁ、衛宮士郎――?

 



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episode33 FAKE PILAYS WITH SNAKE. ;THE SECOND

「は、ぐうぅぅ、ギ――」

 

 焼けた火箸で脳味噌を掻き回される様な、痛み。

 いや、痛みではない。

 既にその領分を超えている。

 感じることが出来るのは、不快感と、恐怖。

 己の存在が、全く別のものに摩り替えられるような、危機感。

 

『魔術師っていうのはね、自滅さえ覚悟なら限界なんて簡単に超えられる。魔術回路を焼き切らせて、神経をズタズタにして、それでも魔力を回転させていけば奇蹟に手は届くわ』

 

 誰の声だ、これは。

 凛、か?

 そうだ、凛だ。

 でも、俺は凛にこんなことを言われたのだろうか。

 俺が魔術師としての凛を知ったのは、つい最近のこと。

 なら、この言葉を聴いたのも、つい最近のことか。

 覚えていないな。

 散々頭をぶん殴られたからかな。

 パンチドランカーってやつだ。

 ふわふわして、記憶がどこか頼りない。

 それとも、これを聞いたのは、俺以外の誰かか。

 きっと、そうなのだ。

 なるほど、ならば、きっとそいつは、生き残ったのだ。

 限界を超えて、それで、奇跡を手にしたのだ。

 奇跡。

 奇跡を手にして。

 果たして、その男は。

 幸せに、なれたのか?

 

 episode33 FAKE PILAYS WITH SNAKE. ;THE SECOND 

 

 起きる。

 起きる。

 とりあえず、全てはそれからだ。

 戦うにしても、逃げるにしても。

 攻めるにせよ、守るにせよ。

 まずは、立ち上がれ。

 

『もう二度と倒れない』

 

 そう誓ったのは、何分前のことかしらん。

 前言撤回、朝令暮改。

 あまりに無様。

 しかし、二度と立ち上がらない、それよりはマシだ。

 守るべき人達を見捨てて、安穏とした別の世界に旅立つ。

 そんな身勝手、許されるか。

 右手に、 干将。

 左手に、 莫耶。

 絶世の名剣、それを罰当たりにも、杖代わりにして立ち上がる。

 それとも、俺如きが作った贋作、それくらいの扱いが相当か。

 

「……へえ、きみも、そのけんを、つくるんだぁ……」

 

 ぞくり、とした。

 彼我の距離、約5メートル。

 佇むライダー。

 さっきまでの、笑いが無い。

 無表情。

 その無表情が、堪らなく怖い。

 

「……そのけん、きらいだな。だって、とてもいたいんだもの」

 

 そういえば、あの夜、ライダーはアーチャーと戦っていた。

 ひょっとしたら、アーチャーはこの剣で彼女に痛撃を加えたのか。

 

「ああ、いらいらするよう。どうしようかなぁ……」

 

 髪をばりばりと掻き毟る彼女。

 ばりばり、ばりばり。

 髪の毛を、ばりばり、ばりばり。

 いつしか、額から紅い血が流れ始めても。

 彼女は、無表情のまま、頭を掻き毟り続けた。

 やがて、ぴたりと動きを止めて。

 そして、呟いた。

 

 ――ころそうか

 

 喉もとまで出掛かった悲鳴を、無理矢理に飲み下す。

 男が一度戦うと決めたのだ。

 漏らしていいのは、歓喜の声と、勝鬨くらいのものだろう。

 腰を落とす。

 考えるな。

 己が何かを為せると思うな。

 お前は、戦うものではない。

 生み出すものだ。

 ならば、己が生み出したものに全てを賭けろ。

 どうせ、たいしたチップは残っちゃいない。

 有り金全部、ここでレイズだ。

 

「そうだね、きめた、ころそう」

 

 無表情の彼女が、そう宣言する。

 それと同時に、ばちばちと、火花のようなものが、彼女を包んだ。

 なんだ、これは。

 とんでもない魔力の渦。

 じゅうじゅうと、肉の焦げる嫌な匂い。

 それでも、彼女は少し煩わしそうにしただけで。

 その無表情を、崩さない。

 

「ああ、もう、うっとうしいなあ」

 

 きっと、これが令呪の束縛だ。

 何者かが彼女に課した制約。

 

『衛宮士郎を、殺すな』

 

 それを、自ら破ろうとしている彼女。

 それに対して、令呪が責め苛んでいるのだ。

 だが。

 彼女は、苦痛すら意に介さない。

 痛覚を、忘れてしまったのだろうか。

 それとも、この程度の束縛では、今の彼女を縛ることは出来ないのか。

 もしくは、既に彼女が、令呪によって縛られる対象では無くなってしまったのか。

 

「うん、ざんねんだけどね、そのけんはだいきらいだから、きみもきらいだよ」

 

 蛇のように、ぺろり、と舌なめずり。

 

「だからね」

 

 僅かに、体を撓める。

 

「しんじゃえ」

 

 ごぼり、と。

 リノリウムの床が、彼女の踏み込みによって削られる。

 音が、遅れてきた。

 おそらくは、錯覚。

 しかし、先に衝撃があった。

 少なくとも、俺の実感としてはそうだ。

 顔面の前で交差させた双剣。

 あろうことか、その刃に、ライダーは直接拳を打ち込んできたのだ。

 いくら贋作とはいえ、これは宝具。

 よしんば英霊とはいえ、生身の拳をその刃に打ち込めば、拳は裂け、石榴の実のように弾けるだろう。

 その、淡い期待。

 それは、視覚と聴覚によって裏切られた。

 耳に響いたのは、廊下を満たす、硬質な金属音。肉が裂け、骨とぶつかった、そんな音ではありえない。

 瞳に映ったのは、彼女の白く美しい肌、それを犯す、黒い鱗。魚類か、爬虫類のみが持ち得る、硬化した皮膚。贋作の宝具如きでは、貫けない。

 思わず、たたらを踏む。

 そして、追撃。

 まるで、足枷を放たれた獣。

 連打。

 悲鳴のような叫び声。

 

「あひゃらあ!」

 

 拳が。

 蹴りが。

 肘が。

 膝が。

 あらゆる攻撃が、あらゆる角度から。

 永久機関のように、叩き込まれる。

 かわす。

 いなす。

 ふせぐ。

 うける。

 あらゆる防御を駆使して、守る。

 スウェー。

 ダッキング。

 パリング。

 当然、それらの隙間に、剣を振るう。

 なんとか、手傷を負わせることは出来るのだ。

 赤い糸屑くらいの、掠り傷ならば。

 しかし、その下に、硬質な何かがある。

 皮膚は裂けても、その下にある鱗を切り裂くことが出来ない。

 こんなはずは、ない。

 この剣ならば、貫けるはずだ。

 本当の、この剣ならば、間違いなく、貫ける。

 ならば、この剣は。

 所詮は。

 拳。

 まっすぐ。

 狙いは、俺の顎。

 剣で受ける。

 パリンと。

 砕け散った。

 砕けたのは、 干将か、それとも莫耶か。

 どちらでも、同じこと。

 なぜなら、片方が砕け散ったその瞬間、もう片方の剣も、後を追うように姿を消したから。

 無手。

 圧倒的な隙。

 

「あらぁぁ!」

 

 返しの拳。

 防げない。

 左胸に、突き刺さる。

 

「が、はぁっ…」

 

 めき、と。

 肋骨の拉げる、不快な音。

 吹き飛ばされる。

 今までなら、彼女は優しく俺を待っていたけれども。

 きっと、今は追撃の体制にあるはずだ。

 ならば、今しかない。

 この刹那。

 ここで、新たな剣を打て。

 でないと、死ぬぞ。

 

 さっきの剣は駄目だった。

 あれは、ライダーに砕かれたように見えて、実はそうではない。

 俺の中での矛盾が大きくなりすぎて、消え失せた、それだけのことだ。

 なら、何が甘かった?

 骨子の想定か?

 技術の模倣か?

 年月の再現か?

 どれでもない。

 どれでもないが、そのどれもだ。

 全てが甘い。

 あいつの剣と比べて、似通っているのはその外観のみ。

 それ以外は、比較するのもおこがましいほどの、劣化品だ。

 ならば、目指すのはあの剣。

 真紅の槍を受け切った、あの双剣。

 あれを、目指せ。

 

 

 ――だめだ。

 

 声だ。

 

 ――ふかのうだ。

 

 また、声だ。

 

 ――そんなもの、おまえにはすぎたものだ。

 

 これは、知っている。

 

 ――やめろ。

 

 この声は、聞いたことがあるぞ。

 

 ――とめろ。

 

 いつも、聞いている。

 

 ――ゆるされない。

 

 これは、俺の声だ。

 

 ――みのほどをわきまえろ。 

 

 俺の中に住んでいる、俺の声だ。

 

 ――そんなもの、えみやしろうにはすぎたものだ。

 

 俺よりも俺を知っている、俺の声だ。

 

 ――おまえにできることは、がんさくのがんさくの、そのまたがんさくをつくることくらいだ。 

 

 こいつは、知っている。

 

 ――おまえが、あのひとのまねをするだと。 

 

 不可能だと、知っている。

 

 ――ぞうちょうするにも、ほどがある。 

 

 俺が、なれないと、知っている。

 

 ――この、フェイクが。 

 

 俺は、あいつに届かないと、知っている。

 

 ――きせきでもおきないかぎり、おまえは、あのひとには、なれない。

 

 

 パリン。

 

 パリン。

 

 パリン。

 

 パリン。

 

 何度、砕け散った?

 三回目までは覚えているんだ。

 そこから先は、覚えていない。

 覚えていることといったら、最初はここまで歪じゃなかったことくらいかな。

 最初は、剣の形をしていたから。

 それが、だんだん曲がってきて。

 刃先が、丸まってきて。

 くねくね、ぐにゃぐにゃ。

 もう、今は誰もこれを剣と呼ばないだろう。

 それを、投影し続けている。

 それで、斬りかかっている。

 いや、殴りかかる、そう言ったほうが正しい。

 だって、すでに刃は付いていない。

 そんなこと、今の俺には出来なくなっている。

 

 やられ放題だった。

 やられ放題だった。 

 やられ放題だった。

 やられ放題だった。 

 やられ放題だった。 

 やられ放題だった。

 

 殴られ放題だった。

 蹴られ放題だった。

 サンドバックだった。

 いや、そのほうがまだましだ。

 俺がサンドバックなら、諦められる。

 でも、俺には反撃するための手足があるのに。

 まるで、蓑虫みたいに、何も出来ないのだ。

 そんなの、サンドバックに失礼じゃあないか。

 

 まだ、生きている。

 辛うじて、生きている。

 ただ、生きている。

 生きている、だけ。

 

 さっきまで生きていられたのは、ライダーに不可思議な命令を下した誰かのおかげ。

 彼女の動きがやっと見えるのは、キャスターにもらった薬のおかげ。

 今、致命傷を避けているのは、この身に宿った誰かの経験のおかげ。

 身体が頑丈なのは、この身に埋めこまれた何かのおかげ。

 

 そのどこにも、俺がいない。

 俺が、いないんだ。

 

 悔しい。

 歯が軋む

 まだ、俺は負けていない。

 戦う意志なら、腐るほど残っている。

 誰かが言っていた。

 勝利は、神が与えるものだと。

 しかし、敗北は自らが与えるものだと。

 真の敗北は、誰かが認めるものではない。

 ただ、己の心が折れたとき、自分が自分に与えるものだと。

 ならば、俺は負けていない。

 小学生が帰り道に戯れに蹴って遊ぶ石ころ。

 それくらいに、何の反撃も出来なくても。

 それでも、俺の心は折れていない。

 戦う意志なら満タンだ。

 なのに、武器が無い。

 物質的な意味じゃあないぞ。

 相手を倒すための何か、そう言う意味での武器だ。

 それが、無い。

 例えば、今、俺が、完璧にあの双剣を投影できたとしても。

 例えば、今、俺が、この化け物の目を抉り出すことができたとしても。

 それでも、この結界は解呪されないだろう。

 この闘いにおける敗北は、俺の死なんかではない。

 藤ねえ。

 霞んだ視界に映る、大事な人。

 血を吐き出し、白目を剥いて、痙攣している。

 ああ、死んでしまう。

 また、守れない。

 また、守られた。

 嫌だ。

 そんなの耐えられない。

 誰か。

 誰か、助けてくれ。

 誰か――。

 

 ――そうだ。

 

 何で忘れてたんだ。

 

『危ないことがあれば、令呪を使って私を呼ぶように』

 

 セイバー。

 彼女なら。

 彼女なら、何とかしてくれるか。

 出し惜しみなんて、出来ない。

 なら、今。

 彼女を、呼び出して――!

「……こ、い……セ、イ――げふっ」

 

 喉を、掴まれた。

 そのまま、吊り上げられる。

 足が地面から離れる。

 息が、出来ない――。

 

「サーヴァントは、よばせない」

 

 無表情の、ライダー。

 

「だれも、たすからない」

 

 爪が、皮膚を食い破る。

 

「おまえは、ここで、しね」

 

 彼女の手は、俺の気管を握り潰す。

 それで、終幕。

 どんなに丈夫な体でも、呼吸が出来なくなればお終いだ。

 ぎちゅり、と。

 肉は爆ぜて。

 血が溢れ出して。

 そして、俺は、死ぬ。

 はずだった。

 

 どごん、と、耳元で大砲をぶっ放したみたいな音が聞こえた。

 吹き飛んでいくのは、ライダー。

 彼女と一緒に、わずかばかりの俺の首肉も千切れ飛んだが、ほとんど気にならない。

 支えを失った俺の体は、廊下に倒れ伏す。

 もう、立ち上がる力すら残っていないらしい。

 かつかつ、と、硬質な音が聞こえた。

 靴の音。

 妙に、寒々しい、音。

 近づいてくる。

 誰だろう。

 思考が、鈍磨だ。 

 たいしたことが考えられない。

 痛みと疲労の区別のつかない身体。

 それに、精神も引きずられているのだろう。

 

「愚か者が。主命を忘れるとは、その罪、万死に値するぞ」

 

 あれ?

 この声、誰の声だ

 最近、聞いた声だ。

 でも、セイバーの声じゃあない。

 だって、これは男の声だ。

 そして、アーチャーの声でもない。

 似ているけど、何か、違う。

 

「サーヴァントが、二体、いや、三体接近している。さっさとこの結界を解け。こんなもの、サーヴァントには何の役にもたつまい」

「…………!」

 

 何か、よく分からない言葉が聞こえて。

 景色が、赤くなくなった。

 体が、ほんの少しだけ、軽くなる。

 顔を、起こす。

 きっと、俺と皆を助けてくれた人物。

 その顔が、どうしても見たかった。

 少しずつ上を映し出す視界。

 そこに映ったのは。

 長身。

 襤褸のような外套。

 猫背気味の姿勢。

 蒼い、逆立った髪。

 そして、泣き顔の、仮面。

 ああ、思い出した。

 こいつ、あの晩の。

 確か、名前が。

 ヨハネ。

 

 



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episode34 戦士交代

 この目は、彼女に貰ったもの。

 最初に写したのは、貴女を嬲る、醜い蟲。

 この耳は、彼女に貰ったもの。

 最初に聞いたのは、劈くような貴女の悲鳴。

 この口は、彼女に貰ったもの。

 ならば、最初の誓いは、貴女のために。

 この命は、彼女に貰ったもの。

 だから、貴女をこう呼んでもいいですか。

 お母さん。

 

 episode34 戦士交代

 

 こつこつと、乾いた音が、廊下に響く。

 ゆっくりとした歩調。

 ちょっとそこのコンビニまで。

 そんな、歩き方。

 

「ライダー、貴様は先に屋上で待っていろ。そこで、奴らを迎え撃つ」

 

 一切の静寂を破ることなく、彼女の禍々しい気配は消えた。

 こいつは、何者だ。

 あの化け物の手綱を、完璧に握っている。

 そして、俺は完全にスクラップ。

 霞む視界。

 呼吸が、荒い。

 一定のリズムを刻めない。

 はぁはぁと、まるで変質者みたい。

 

「さて」

 

 足音は、俺のすぐ傍で止まった。

 うつ伏せの姿勢のまま、顔だけ起こす。

 たったそれだけのために、残された全身の力を総動員しなければならない。

 そこには、俺の顔を覗き込む、啼き顔の仮面。

 醜く歪められた、人間の表情。

 叫び。

 その名前の名画に、少し近いかもしれない。

 

「君が、彼女の言っていた正義の味方か」

 

 何の感情も篭もっていない声。

 いや、そうではないか。

 あるのは、興味。

 好奇心。

 

「お……ま、え……」

 

 震える声。

 しかし、何故だろう。

 何故か、安心する。

 こいつの声を聞くと、心が休まる。

 何故だ。

 そのことが、そのことが。

 一番、恐ろしい。

 

「しゃべるな。君は、今、死に掛けたのだ。無理をすれば、本当に死ぬぞ」

 

 そっと、肩に手を置かれた。

 ひどく、優しく。

 愚かな弟を諌める、兄のように。

 

「……な、……にも、の……」

 

 ふう、と、まるで諦めたかのような溜息。

 

「仕方ないか、それが君の呪いなのだから。全く、名前というものは、かくも方向性に沿っていくものなのか」

 

 何だ。

 こいつ、何を言ってやがる。

 

「まあいい。君はそこで休んでいたまえ。今日の君の仕事は終わったのだ、そうだろう?」

 

 俺の仕事。

 皆を、助ける、それが俺の仕事。

 なら、俺は出来なかった。

 何も、出来なかった。

 

「認めることが出来ないか。ならば、それはそれでいいだろう。ただ、君の勇姿は美しかった。賞賛に値する。そうだ、少し手を見せてくれないか?」

 

 突拍子も無い要求。

 しかし、何故だか従ってしまう。

 そもそも、そんな力は残っていないはずなのに。

 どうして。

 

「ふむ。私はこれでも予言者。手相くらいは見ることが出来る。君の相は中々いい。きっと、君は幸せになれる」

 

 手相?

 こいつ、間抜けか?

 そんな俺の考えなどどこ吹く風、手相占いの歴史などを語り始めた。

 

「手相学が生まれたのは紀元前2000年、古代インドのアーリア人によってだと言われているな。そもそも、人は天体や天候、果ては生年月日や動物の骨、石ころの形にまで己の運命を見出そうとした。ならば、己に刻まれたその兆し、それに着目したのは当然の流れだろう」

 

 戦場に響く、朗々たる講釈。

 妙に弛緩した空気が流れる。

 

「そして、それらが中国やエジプト、ギリシャ等に伝わり、今の形になったわけだ。近年日本で行われる手相見というのは易学、つまり中国からの影響が強いと思われがちではあるが、明治以降の手相学はその実ヨーロッパからの影響が強い。生命線や運命線などという呼び名もその影響だし、中にはソロモンの環などという相も存在することからもそれは明白だ」

 

 理解したかな、と、問いかけてくる髑髏。

 俺は、とっさの反応を返すことが出来なかった。

 

「ああ、よかった、理解して頂けたようだ。やはり、如何に優れた相とはいえ、その由来を知るのと知らぬのではありがたみが違うだろうからな。さて、私が言うのだ、君は間違いなく幸せになれるし、もう他の誰に占って貰う必要も無い」

 

 ぞくり。

 

「ならば」

 

 今までの、喋り方、そのままで。

 

「その手は」

 

 何の気負いもなく、こう、言った。 

 

「もう必要あるまい?」

 

 ――ぢょぎん。

 

 何で切られたのか、分からない。

 感じたのは、寒気。

 痛みなどは、もう感じることは出来ない。

 それでも、叫び声が漏れる。

 

「ああああああああああああああ!」

 

 どこにこんな体力が残っていたのか。

 肺腑を搾り出して、叫び声を上げる。

 手が、

 俺の、手が、 

 ちぎれて、しまった――。

 

「古来より戦場で最も厄介なことは、傷病兵の処理だ。回復は事実上不可能に近く、看病には人手を取られる。かといって、それを無慈悲に見捨てれば、指揮官の求心力の低下は免れない。この二律背反の命題が多くの名将を苦しめてきたが、さて、遠坂の当主はどういった解答を導き出すのだろうな?」

 

 手が、手が。

 血が、溢れてくる――。

 

「我らは今、戦力的に君達よりも数が少ない。そうだな、魔術師あたりが君の回復のために戦線を離脱してくれると言うことはないのだが」

 

 こいつ、この野郎――。

 

「安心しろ。きっと、彼女達は君を見捨てない。しかし、見捨てられたときは、そうだな、私が彼女に怒られるか」

 

 ああ、意識が、遠くなる――。

 

「美しい彼女のことだ。怒りに満ちた顔も美しかろう。しかし、聊か残念なのは、私にはそれを見ることができないことだな」

 

 ――。 

 

 

 夢。

 また、夢。

 今朝も見たんだ。

 そして、今も見ている。

 

 こども。

 ふたりの、こども。

 ひとりは、おれにそっくりだ。

 あかいかみ。

 さびいろのひとみ。

 まるで、かがみをみているみたい。

 もうひとりは、かおがみえない。

 くろいかお。

 すすけたみたいに、まっくろ。

 でも、わらっている。

 かわいいこえで、たえることなく。

 ほんとうに、しあわせそうに。

 ああ、なんとなく、わかった。

 ふたりは、きょうだいなんだ。

 きっと、ふたご。

 だって、そっくりだ。

 あのかおは、きっとそっくりだ。

 ひとりのかおはわからないけど。

 それでも、ふたりはそっくりだ。

 でも、おかしいな。

 なんで、おれにそんなことがわかるんだろう。

 

 

 右手が、むず痒くて、目を覚ました。

 おかしい。

 俺の、右手は、あいつに、ヨハネに――。

「気がついた、坊や?」

 優しい、母親を思い起こさせる声。

 首を、必死に横に向ける。

 

「……キャ……スター……」

「喋らないで。今のあなた、生きてるのが不思議なくらいぼろぼろなのよ」

 

 そう、なのか。

 きっと、そうなのだろう。

 こんなに必死な彼女は、初めて見る。

 

「……おれは……い……いから……ふじねえ……を……」

「応急処置は済ませたわ。でも、勘違いしないで。今、一番危ないのは間違いなくあなたよ。何十箇所内臓が破裂して、何十本骨が折れてるか、聞きたい?多分、無事な方から数えたほうが早いわよ」

 

 ああ、それは派手だ。

 だいたい、骨ってそんなに折れるものなのかな。

 

「治ったら覚悟しておきなさい。あなた、私の忠告を何一つ聞かなかったでしょう。本当、桜がいなければ今にも縊り殺したいところだわ」

 

 そうか、そういえば、何か忠告されてた気がするな。

 なんか、遠い昔のことみたいだ。

 

「……う……ん、……ご……めん……なさい……」

「―――はあ、もういいわよ、全く」

 

 溜息と、諦めの声。

 それと同時に、もう一つ、声が、した。

 

「謝罪の言葉、私も頂いてよろしいでしょうか、シロウ」

 

 凛々しい声。

 でも、今の俺の耳には、ちょっとだけ優しさが足りない。

 

「……セ……イバー……」

「何故、こんなにボロボロになるまで私を呼ばなかったのですか。貴方ではサーヴァントに勝てない、それこそ時計の針が時を刻む回数ほどには繰り返し諭したはずだ」

 

 相変わらず、厳しい彼女の声。

 きっと、怒ってる。

 悪いこと、したな。

 

「……うん……、ごめ……ん……な……さい……」

 

 きっと、自惚れていたんだと思う。

 怒りで我を失った、そんなの、詭弁だ。

 きっと、俺は勝てると思ってたんだ。

 力をつけたと、セイバーに褒められたから。

 凛に、己が異端であると教えられたから。

 自分の魔術をキャスターに必要とされたから。

 天狗になって、舞い上がってたんだ。

 だが、現実はどうだ。

 せっかくキャスターに貰った剣は砕け。

 神経の焼き切れるような苦痛を味わって生み出した模造品は否定され。

 手も足も出ず、ズタ袋のように甚振られ。

 結局、誰も守れなかった。

 

「いい様だな、衛宮士郎」

 

 落ち着いて、どこか悲痛な声。

 何故だろう、ひどく安心する。

 

「……アー……チャー……」

「凛と桜はご立腹だ。貴様、ひょっとしたら彼女達に殺されるぞ」

 

 そうか。

 彼女達には、何も言わずに家を飛び出してしまったんだった。

 さぞ、心配をかけてしまっただろう。

 

「……う……ん、……ご……め……ん、アー……チャー」

「……私に謝るな。私は、貴様が死のうが消え失せようが、どうでもいいのだからな」

 

 そうだ、どうでもいいんだろう。

 だって、俺には何も出来なかった。

 俺は、こいつみたいに、頑張れなかった。

 

「……なあ……、アー……チャー、お……れには……、できな……かったよ……」

 

 はは、なんだ、この声は。

 蚊が鳴くよりも、遥かに弱弱しくて。

 誰かの哀れを誘うくらい、弱弱しくて。

 俺は、そんなに、弱かったか。

 弱い、人間だったか。

 

「なにも……なにも、できなかった……」

 

 力を失った拳に、目一杯の力を込めて、床に叩きつける。

 ほんの一センチ、ほんの一センチだけ持ち上がったそれは、僅かな音もたてずに、廊下に舞い降りた。

 それを、眺めるように見た後で、彼は、言った。

 

「何を勘違いしているのだ。貴様は無力な人間に過ぎん。目の前の女も守れぬ、弱い人間だ」

 

 何も、言えない。

 同意も、抗議すらもできない。

 口を開けば、あらゆる言霊が言い訳に堕する。

 だから、歯を噛む。軋らせる。

 もう一度、拳を打ち付ける。

 今度は、二センチ、持ち上がって。

 とす、と優しい音が、鳴った。

 もちろん、血は出ないし、痛みも無い。

 それが、何より悔しい。

 

「貴様は、よくやった」

 

 いつの間にか背を向けていたアーチャーが、そんなことを言った。

「……ば……かにす……るの……か、アー……チャー……」

「貴様は死ななかった。それだけでも、貴様は英雄だ」

 

 俺が死ななかっただと。

 そんなことが、何の慰めになる。

 俺は何も出来なかった。

 みんな、苦しんでいた。

 藤ねえは死にかけた。

 慎二は、もうこの世にいない。

 これで、俺が英雄だというのか。

 

「貴様が何を考えているのかは大体想像がつく。それでも、だ。貴様は生き残ったのだ。胸を張れ。貴様にはその資格がある」

 

「……へたな……なぐ……さめは……、やめて……くれ。よ……けいに、つ……らい……」

「ああ、なるほど、それは愉快だ」

 

 笑いと共に、かつかつと、奴のブーツの音が遠ざかる。

 無言のまま、こつこつと、彼女の軍靴の音が遠ざかる。

 奴は、続ける。

 

「貴様が死ねば、悲しむものがいるだろう。ならば、貴様は生き残ったことでそれらの人間を救ったのだ。それとも、そこに横たわる女性は、命を捨ててまで貴様を守ろうとしたその女は、貴様にとってその程度の価値しかないのか」

 

 セイバーは言った。

 

「アーチャーの言うとおりです。あなたはよくやった。後は任せて欲しい。……ここから先は、私の戦場です」

 

 その言葉を聴いたとき。

 堰を切ったように、涙が溢れだした。

 それを隠すために、握りつぶすように、くっ付いた右手で顔を覆う。

 でも、そんなことで涙は止まってくれない。

「――っひっ……ぐっ……ふぅう……」

 

 熱い液体が、掌を濡らす。

 羞恥は覚えない。

 ひたすら、己の、無力さが情けない。

 視界は涙で歪み、失われた。

 触覚は体中を覆う熱と痛みで、失われた。

 しかし、最後に残った聴覚が、彼の言葉を認識させる。

 

「その狂った脳髄で、覚えておけるならば覚えておくがいい、衛宮士郎。

 苦しみとは、痛みとは。

 吐き出すものでもなければ、忘れるものでもない。

 ただただ、噛み締めるためにあるものと知れ。

 それを忘れなければ、貴様はまだ強くなれる」

  

 嗚咽は、やっとの思いで飲み込んだ。

 

 きっと何より無様な声で、それでも彼らに呼びかける。

 

「――た゛……の゛む゛……」

 

 彼らは歩みを止めなかった。

 一言の返事もしなかった。

 ただ、涙で滲んだその背中はこう言っていた。

 まかせろ、と。

 

 

 セイバーは怒っていた。

 これ以上無い、それくらい怒っていた。

 マスター。

 此度の聖杯戦争で彼女に割り当てられた、脆弱で、未熟で、お人よしのマスター。

 魔術を知らず、戦いを知らず、まっすぐで、しかし誰よりも捻じ曲がった彼女の主。

 最初は絶望した。

 今回は、完全に自分の力のみで戦わねばならぬ、そう覚悟した。

 次に、呆れた。

 自分を普通の女性と同列に扱い、自分を助けるために確定的な死の前に飛び込む無謀さ。

 そして、危惧した。

 無謀ではなく、確かな価値観のもとに彼は従者の死よりも己の死を選んだ、そう確信したとき、その在り様に恐怖すら覚えた。

 それでも。

 それでも、彼は暖かかった。

 認めよう。

 私は彼に惹かれている。

 愛情ではあるまい。

 しかし、確かな好意を抱いている。

 餌付けされたか。

 そう思わないこともない。

 だが、彼の料理は温かく、彼の纏う空気は限りなく優しかった。

 だから、私は彼を憎からず思っている。

 彼女は、そう考えていた。

 そんな彼が、泣いていた。

 僅かにしか嗚咽の声は漏れなかったが、それでも泣いていた。

 己の無力さに絶望し、なおそれに抗い、だから、泣いていた。

 ならば、彼を泣かしたのはどこのどいつだ。

 千に引きちぎり、万に切り刻み、地獄の最下層にぶちまけてやる。

 セイは、そう思っていた。

 しかし、彼女はそれ以上に猛っていた。

 冷静な彼女の理性、それを沸き立たせるほどの怒り。

 だが、それを遥かに凌駕する高揚感が彼女を包んでいた。

 なぜなら、彼女は任されたのだ。

 主が、 脆弱で未熟でお人よしの主が、比喩ではなく死ぬ思いで作り上げた戦場を、彼女は任されたのだ。

 彼は、言った。

 弱弱しく、今にも途切れそうな声で。

 嗚咽に震える、無様な声で。

 

 たのむ、と。

 

 彼女の主は、己も連れて行けと、言わなかった。

 あの男が、だ。

 己の死を価値観の天秤に乗せない、乗せることすら知らない、そんな男が、己を連れて行けと言わなかった。己が戦場にいる必要はないと、言外にそう言った。

 それは、彼が彼女を信頼していたからだ。

 己の剣の勝利を微塵も疑っていない。故に、己が戦場にいなくても問題は無い。自分は傷ついた身体を休めていよう、そう考えて、彼は戦場を彼女に委ねたのだ。

 全幅の信頼と、揺ぎ無い覚悟。

 剣にとって、それ以上の賛辞があるだろうか。

 何かが、自分の中で逸っている。

 それが、己の内で猛り狂っている。

 何がだ。

 獣が、だ。

 己の中にいる、凶暴な獣だ。

 それが、走り回っている。暴れ回っている。

 私は知っているぞ。

 この獣の名前を、知っている。

 これの名前は、誇りだ。

 魂、と言い換えてもいいかもしれない。

 私の中にある、何よりも熱いもの。

 騎士として、王として生きることを選んだ私の、無くてはならないパーツ。

 それに、真っ赤な溶鋼が注ぎ込まれる。

 その熱が嬉しくて、獣が狂喜しているのだ。

 そして、その狂喜が私に伝染する。

 熱い。

 身を内側から焦がされているかのように、ひたすら熱い。

 その熱さに、狂いそうになる。

 いいぞ、狂ってしまえ。

 そもそも英雄など、狂人の蔑称なのだ。

 狂うくらいで調度いい。

 狂った主くらいで調度いい。

 ならば、私達は似合いの主従。

 その主に任された戦場。

 これは、私だけの戦いだ。

 彼女の端正な顔に浮かんだ凄烈な微笑み。その内に秘められた喜悦。

 それを知る弓兵が、微かに笑った。

 

 

「アーチャー、あなたは手を出すな」

 

 かつ、かつ、と。

 彼らは一歩ずつ階段を昇る。

 数人、倒れ伏した生徒が彼らの視界を掠めたが、彼らの意識を盗むことは叶わなかった。

 

「分かっている。私もそこまで無粋ではない」

 

 彼らが本気を出せば、一息のうちに敵の待つ屋上まで辿り着くことが可能だ。

 しかし、彼らは唯人のように、殊更ゆっくりと歩を進めた。

 既に結界は解除されている。

 おそらく、結界に回す魔力を、何か別の宝具に集中させるためだろう。

 穢れた騎乗兵は、準備を万端に整えて迎撃の体制にある。

 ならば、そこは死地。

 しかし、彼らの表情には微塵の怯えもない。

 

「だが、露払いくらいは構うまい?おそらく、鬱陶しい蠅くらいはいるだろうからな」

 

 彼らは階段を昇りきり、鋼鉄の扉の前で歩みを止めた。

 

「アーチャー、あなたに感謝を」

 

 弓兵は相も変わらず皮肉げに片頬を歪ませる。

 

「なに、かまわんさ。君がライダーを許せないように、私も」

 

 バン、と、鋼鉄の扉が吹き飛ぶ。

 開けた視界。

 青く、那由他に広がる空、その下。

 そして、彼らにとってはあまりに脆いコンクリートの舞台、その上。

 そこにあったのは二つの人影。

 鮮血で紅を引いた、濁った静脈血色の髪をした女怪と。

 啼き顔の仮面をつけた、長身の髑髏。

 

「あの仮面の男が、どうにも気に入らないのだ」

 



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episode35 saber.archer,rider.predictor

「傷は、癒えたか?」

「……」

「既に、言葉も紡げぬほど狂ったか。それとも、その沈黙は肯定か」

「……あなた、おいしそう」

「……もはや、哀れとは言うまい。

 私が貴様を殺すのは純粋なる私怨だ。恨みたくば恨め。罵倒したければ気の済むまですればいい」

「……たべて、いい?」

「この戦場は主の作った戦場。故に、この剣は主の剣と思え。今から貴様を叩き潰すこの剣だ」

「……いいのね?」

「好きにしろ。思う存分喰らうがいい。ただし――」

「……いただきま――す」

「貴様が喰らうのは、騎士王たる我が怒り、彼の従者たる我が誇り。さぞかし胃に靠れよう、心して喰らえ――!」

 

「くふ、久方ぶりだな」

「二日前にあったばかりだ」

「神は一週間で世界を創りたもうた。ならば二日、悠久と言って差し支えあるまい」

「ふん、『戦いに前口上は不要』、誰の言葉だったかな」

「ああ、これはすまない。柄にも無く高揚しているようだ。なにせ、既に君の死に様が見えてしまっているのだからいけない」

「ほう、人の死に様を視るだけで興奮する予言者か。不幸だな。そんなもの、人ごみを歩くだけで天に召されよう」

「くふふ、心配なく。私に興味があるのは、君の死に様だけだ。あとのものは高尚すぎて、私の趣味に合わない」

「予言は勝手にすればいい。実現はさせん」

「……貴様は彼女にとって有害だ。この場で殺す」

「そうだな、害虫駆除は早ければ早いほどいい。なんだ、気が合うじゃあないか」

「まったくだ、私と貴様は気が合う」

「ふざけるな、虫唾が走る」

「くふ、本当に気が合うな、我々は」

 

 episode35 saber.archer,rider.predictor

 

 星。

 恒星、惑星、衛星、彗星、流れ星。

 夜空を彩る数々の星の呼び名。中にはただの塵が人の記憶に軌跡を残すものもある。

 押し並べて、星とは夜空に輝くもの。

 それらを、人々はただ見上げるのみ。

 ならば。

 今、地上に咲く星を、誰が見上げるのか。

 青く澄んだ白色矮星と、赤黒く濁った赤色巨星。

 ぶつかり合うそれらは、いっそ不快なほど澄んだ蒼天のもと、他の何よりも輝いていた。

 交錯し、衝突し、弾かれ、なお交錯する。

 まるで、お互いが生み出す重力に惹かれ合うかのように。

 地上より見上げるものは、誰もいない。

 ただ、星々が、天空よりその光景を見上げていた。

 

「はあぁぁ!」

 

 無機物ですら圧するような気合。

 振り下ろされるのは、剣という範疇に含まれる万物の中で最も高位、人々の想念の具現、『かくあれかし』、その理想の結晶。故に、切れぬものはこの世にあらじ。

 ただ、悲しきかな、それはただ、剣。物理法則には逆らえぬ。なぞれば切れる、触れれば貫く。ならば、なぞらねば切れず、触れねば貫けぬ。

 一撃必殺。

 その一撃が、彼女には思いのほか、遠い。

 しかし、そのことをもって彼女を非難するのは愚昧に過ぎよう。

 彼女は疾い。

 彼女は聡い。

 彼女は上手く、何より強い。

 剣の英霊、その二つ名に恥じぬほどには。

 ただ、相手が悪かった。

 身体中を朱に染め、血を滴らせる堕ちた女神。

 彼女は聡くなかった。

 彼女は上手くなかった。

 しかし、何者よりも疾く。

 ひたすらに、強かったのだ。

 

 これほどか。

 私は脅威を覚えた。

 敵の頑強さに対してではない。

 この存在に対して、生を勝ち取った我がマスターに対してだ。

 これが。

 これが、彼女の本当の姿か。

 強い。

 疾い。

 まるで、あの狂戦士に届くのではないか、それほどの戦闘能力。

 低く地に伏せる、とぐろを巻いた蛇の如き姿勢。

 身に纏うのは黒い装束。

 病的に白い肌。

 赤黒く、心臓のように拍動する長髪。

 溢れ出す様な魔力、それはこの学校で青春を謳歌していた若者達の生命だ。

 奇妙な眼帯の下、おそらくは瞳があるであろうそこからは、絶え間なく紅い涙が流れている。

 おそらく、泣いているのだろう。

 何が悲しいのか、分からない。

 ただ、頬を流れる真紅の雫が、こう言っている気がした。

 『殺してくれ』、と。

 しかし、彼女は微笑んだ。

 ぱかり、と鋭角に口を開けて、どこか爬虫類じみた、冷血な笑みで。

 

「あなた……よわいね」

 

 その言葉に偽りは無い。

 認めよう、今この場において、彼女は私よりも強い。

 化け物じみたスピードに、あの貧弱な釘剣で私の聖剣を押し戻す怪力。

 いや、そもそもあのような無銘の短剣を私の剣が両断できないなど、本来あり得ないことだ。

 考えられるのは、唯一つ。

 彼女の存在それ自体が、強化された。

 英霊の装備はその服飾に至るまでが自身の格に影響される。故に、あの短剣も存在自体が強化されたのだろう。

 英霊の格は召喚された地における知名度に影響されると言うが、それが突然変化するなどあり得ない。

 おそらく、彼女は本当の姿に戻りつつあるのだ。

 だから、あの涙は仮初の彼女の哀願なのだろう。

 殺してくれ。

 私を、殺してくれ。

 私が、私であるうちに、私を殺してくれ。

 そう泣き叫ぶ声が、聞こえた気がした。

 

 

「vae」

 

 奴がそう呟くと、昼間でもそうと分かるほど光輝く物体が姿を現した。

 その数、約十。

 ふわふわと、風に弄ばれる綿毛のように、所在無く宙を舞っている。

 ずいぶんと短い詠唱だ。あの夜、やたらと長い時間をかけて詠唱していた魔術とは別物か。

 

「ふん、『禍いなるかな』、か。貴様が呼び出すのは何色の馬だ、それともラッパ吹きの天使でも呼び出すつもりか」

「ほう、なかなか博識。だが、いずれにしても違いはあるまい?私は貴様を殺す。それとも、貴様は私を殺す。過程に差こそあれ、結論は変わらないのだ。ならば、そこに論じる価値など生まれようがないだろう」

 

 ゆらり、と。

 朽ちた巨木が己の質量に耐え切れず、めしめしと、倒れる瞬間のように。

 蒼い髑髏が、動いた。

 相変わらず猫背気味の姿勢。ゆえに私が見下ろす形になっているが、きちんと背を正せば、私と同じくらいの背丈なのかもしれない。

 その動きは鈍重。

 青の槍兵となど比べるべくもない。

 白い髑髏の暗殺者と比べても、際立って遅い。

 常人よりも多少速いか、その程度。

 奴が一歩を踏み出し、それを降ろし終えるまでに。

 私は五本の矢を放った。

 眉間、人中、喉、心臓、肝臓。

 皆中。

 何の音もなく、まるで吸い込まれるように矢が当たる。

 しかし、奴は歩を止めない。

 

「くふ、痛いな、痛いな、痛くて死にそうだ」

 

 矢を放つ。

 矢が当たる。

 矢を放つ。

 矢が当たる。

 矢を放つ。

 矢が当たる。

 矢を放つ。

 矢が当たる。

 矢は全て当たる。

 悉く、外れ矢など、存在しない。

 しかし、奴は歩を止めない。

 まるで、ヤマアラシか何かのような外見になった奴は、それでもなお悠然と歩いてくる。

 

「ああ、痛い、痛い、痛い。君は酷い奴だ。ああ、憎いな、憎いな」

 

 分かっていたことだ。

 キャスターの、神の怒りそのものといっていいような大魔術を喰らって、この男はなお嗤っていたのだ。私の放つ、何の変哲もない矢如きで倒せる相手ではないことくらいは分かっていた。

 

「ああ、決めたぞ。君は殺そう、今決めた。

 君は僕が殺すぞ。俺が殺すぞ。我が殺すぞ。私が殺すぞ。儂が殺すぞ。我輩が殺すぞ。愚生が殺すぞ。

 殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。

 我々が、貴様を、殺すぞ」

 色々な声が聞こえた。

 

 色々な口調が、響いた。

 それらの全てが、例えようもなく。

 ただ、おぞましかった。



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episode36 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE FIRST

「はっ―――はっ―――はっ」

 

 乱れて整わない呼吸。

 重装騎兵を背負って戦場を駆ける軍馬よりも、なお吐息が荒い。

 生温い何かが、頬を伝い落ちていく。

 そのこそばゆい感触に、頬を拭いたくなる欲望に駆られる。

 しかし、それは紛れも無い隙だ。この敵は、それを見逃さない。

 

「はっ―――はっ―――はっ」

 

 ぽたり、ぽたり、と、赤い液体が髪を伝って流れ落ちる。

 血液が眼球に滑り落ちないのは、とんでもない僥倖だろう。

 一瞬でも視界が奪われれば、私は殺される。

 あの杭のような短剣で脳天を串刺しにされるか、それともあの怪力で首を捻じ切られるか、それは定かではないが、終着点に変更は効かないだろう。

 

「はっ―――はっ―――はっ」

 

 千人の敵と切り結んでも、これほど消耗することはあるまい。

 事実、私は数え切れないほどの大軍を相手にしても、敗北の帰路を飾ったことは無い。

 常勝にして、不敗。

 それが、我が軍旗の負った宿命であり、自負であった。

 しかし、この敵は。

 千人よりも。

 強い。

 

episode36 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE FIRST

 

「あは、もう、おわり?」

 

 相変わらず、ぱかり、と、口を鋭角に裂いた女、いや、女だったもの。

 紅く濡れた、まるで恐竜か何かのような鋭い爪。

 人のそれではありえない。

 黒光りし、先端は釣り針のように湾曲している。

 皮膚を切り裂き、肉をこそげ取るのに、最適化した形状。

 その爪にこびりついたのは、滴る血液と、私の肉片だ。

 彼女は、その肉片を、ゆっくりと口に運び、ちろり、と真っ赤な舌で舐め取った。

 

「やっぱり、おいしいね」

 

 歓喜にその身を震わせながら、彼女はそう呟く。

 奴は、自然立ち。

 如何なる力みも無い。

 ただ、棒のように突っ立っただけの姿勢。

 隙だらけ。

 

「はぁっ!」

 

 気合の声と共に、飛び込む。

 共に、斬撃。

 大上段からの、必殺の一撃。

 しかし、当たらない。

 一歩踏み込んで、返しの切り上げ。

 やはり、当たらない。

 不可視の剣。

 間合いはわからないはずだ。

 だが、それが剣であるということは既に看破されているのだろうか、剣線上から僅かに身をそらす絶妙な見切り。

 ふわりと身をかわしたライダーは、ぱかりと笑った。

 

「かわったけんだけど、あたらないねぇ」

 

 にやついた声。

 そして、衝撃。

 がつん、と殴られた。

 鼻頭を、殴られた。

 視界が、黒く染色される。

 その上に散りばめられた、無数の星。

 私の頭の中だけで輝く、星。

 それでも、後ろに跳躍して体制を立て直す。

 意図せずに、涙が溢れる。鼻を痛撃された人間の反射のようなものだろう。

 口中に鉄の味。きっと、溢れた鼻血が逆流したのだ。

 これは、鼻骨がイったのかもしれない。

 そんな、瞬時の思考。

 そして、再び彩度を取り戻した視界。

 そこに映った、ライダーの視線。

 上からの視線。

 小さきものを睨目下ろす、強者の視線。 

 捕食者から見た獲物。

 そのような視線を向けられるのは初めてだ。

 畏怖の視線なら、飽きるほどに向けられた。

 畏敬の視線なら、浴びるほどに向けられた。

 軽蔑の視線なら、撫でるほどに向けられた。

 恐怖の視線なら、愛でるほどに向けられた。

 

 だからこそ。

 

 親愛の視線を私にくれた、彼を。

 慈愛の視線を私にくれた、彼を。

 彼を、傷つけた、この女を。

 私は、絶対に。

 

 

 神話に語られる数多くの英雄譚。

 それを彩る、数多くの偉業。

 悪龍を殺した勇者。

 暴虐な巨人を誡める賢者。

 醜怪な老魔術師を懲らしめる若人。

 それらに共通すること。

 

 人は、怪物を打倒し得る。

 

 如何に相手が強大で、如何に老獪であろうとも。

 最後に勝利を飾るのは、人以外有り得ない。

 それが、神話の公約数。

 それに従うならば、この闘いの結末は決まっている。

 眉目麗しい剣士が、堕ちた女神を打倒する。

 剣は己の矜持を全うし、怪物は己の愚行を悔いるのみ。

 それが、唯一許された結論だろう。

 ならば。

 ならば、目の前の光景はどういうことだ。

 剣を杖に、膝を折る少女。

 息は乱れ、血化粧がその秀麗な容姿に凄烈な美を加えている。

 金砂の髪から滴る紅玉。彼女を構成する、命そのもの。

 彼女を象徴する白銀の鎧には、見るも無惨な傷が無数に刻まれている。それらは全てが彼女の目の前で踊る、騎乗兵によって作られたものだ。爪に削られ、拳に押し潰され、蹴りで拉げられ、牙によって穿たれた。

 有り得ることではない。

 確かに、彼女の魔力によって編まれたその鎧、伝説に名高い彼女の宝具に比べれば如何にも見劣りはしよう。それでも、幾つもの戦場を乗り越え、幾十の死地を凌ぎ、幾百の刃を弾き返し、幾千の敵の無念を飲み込んだ鎧である。それが、所詮は無手の敵に破壊されて良い筈が無い。

 要するに、相手が異常なのだ。

 あの狂戦士を暴虐の化身とでも表現するならば、この女怪は嗜虐の現身。敵を甚振り、嬲り殺すために生を受けたもの。

 正しく、蛇。

 毒の牙と、愉悦に歪む唇を持った、辛うじて人の形をした、蛇だ。

 蛇の毒には、二種類ある。

 己の身を守るための、護身としての毒。この種の毒を持つ蛇は、総じて派手な体色を持つ。己が如何に危険で、それを襲うことが如何に無益かを教えるためだ。

 もう一つは、敵を速やかに殺す、狩の道具としての毒。この種の蛇は、目立たぬ体色を持ち、己の存在を敵に悟られぬように進化した。

 ならば、彼女の牙に宿った毒は。

 そのいずれでもあるまい。

 彼女の体色は、如何にも派手だ。

 男を蟲惑する、扇情的な衣装。

 美の女神を嫉妬させる、美しい長髪。

 しかし、彼女のそれは、争いを避けるための警戒色ではない。例え昔がそうだったとしても、今はその真逆である。

 それは、哀れな贄を呼び寄せるための餌。

 ふらふらと漂う闇夜の虫を呼び寄せる、誘蛾灯。

 彼女は、それを待つ。

 蛇でありながら、蜘蛛の巣を張り、舌なめずりをしながら獲物を待つ。

 その牙を、獲物の血で湿らせながら、次の獲物を待つのだ。

 ならば、その牙に宿るべき毒は、現実の蛇が持つ、如何なる毒も相応しくない。

 ならば、こんな毒はどうか。

 一度噛まれれば、獲物は二度と動けない。

 許しを請うことも、侮蔑の叫びを投げつけることも、断末魔の悲鳴を上げることもできない。

 痛覚はそのままに、ただ、動けない。

 しかし、生きている。

 生きているから、苦しい。

 なぜなら、彼女はそれを齧るから。

 爪先から、かりかりと。

 頭の先まで、かりかりと。

 血は、出ない。

 だから、失神することも出来ない。

 獲物は、喰われていく己を、冷たい視線で認識することのみ許される。

 石のように固まった自分の身体。それを、爪先から咀嚼されていく。

 今はどこか。

 太腿まで、喰われたか。

 それとも、やっと胸まで喰ってくれたか。

 ついに、首まで喰ってくれたか。

 もっと喰ってくれ。

 早く、この苦痛から、私を解放してくれ。

 明瞭な意識のもと、狂うことすら許されず、ただ己の命の灯が消え去るのを、只管に希う。

 そんな、毒。

 そんな毒なら、この上なく彼女に相応しい。

 今は、無い。

 今の彼女の牙には、そんな毒は備わっていない。

 しかし、それは今だけだ。

 時を置かずして、彼女の牙にはその毒が備わるだろう。

 彼女の牙。

 彼女の、魔眼。

 眼帯の下に隠された、恐らくは鮫のように冷たい、小さな瞳。

 それに映った可憐な少女は、今だ衰えぬ不屈の闘志を、その聖緑の瞳に滾らせていた。

 

 

 鼓動が、煩い。

 耳鳴りが、する。

 きーん、と。

 何か、薄いセロファンを振るわせたような、耳障りな音。

 視界が歪む。

 殴られ過ぎたせいか、それとも血を流し過ぎたか。

 ここまでとは、思わなかった。

 対峙した瞬間から、敵の力量くらいはある程度測れるものだ。

 それにしても、ここまでとは。

 疾い。

 ひたすらに、疾い。

 剣が、触れ得ない。

 それは、私に攻撃の手段が無いことを意味する。

 それは、私に勝機が無いことを意味する。

 

「あなた、つまらない。あのこのほうが、たのしかった」

 

 あの子。

 貴様が散々甚振った、我がマスター。

 ほざくな。

 貴様が、その穢れた口で、彼のことを語るな。

 

「あああぁぁぁ!」

 

 魔力を上乗せした、突撃。

 狙いは、薄ら笑いを浮かべたその面。

 必殺の拍子。

 しかし、剣が彼女の額に触れる瞬間。

 正にその瞬間に、彼女の姿は掻き消える。

 空しく宙を切り裂く聖剣。

 そして、刹那に叩き込まれる幾十の打撃。

 拳か。

 それとも、脚か。

 それすらわからない、衝撃の奔流。

 私はそれに遊ばれる、笹船のようなものかもしれない。

 危機感。

 このままでは、殴り殺される。その確定した事実に対する危機感。

 とりあえず、目標も定めずに、剣を振るう。

 錯乱した女子供が、闇雲に棒切れを振り回すのと変わらない。

 それでも敵は退く。

 理由は分からない。

 私の直感が敵の攻撃を凌いでくれているのかもしれないし、奴が遊んでいるだけなのかもしれない。どちらかといえば、有力なのは後者だろう。

 理解した。

 いや、とっくに理解していたのだ。

 この敵は、強い。

 とてつもなく、強い。

 少なくとも、今の私が出し惜しみを許されるような、そんな程度の難敵ではない。

 しかし、聖剣を解放したとして、この敵にそれが当たるとは思えない。

 真名の解放、その瞬間に、この敵は私の背後を取ることが出来る。

 駄目だ。

 あれは、使えない。

 ならば、どうする?

 私に、何ができる?

 どうすれば、主の無念を晴らすことができる?

 考えろ。

 考えろ。

 ……。

 

 ……一手。

 

 ……二手。

 

 ……三手。

 

 ……まだ、足りないか。

 幾分、賭けの要素が強い。

 失敗すれば、後は無い。

 ならば、例えばキャスターが到着するまで戦線を膠着させるのも一つの策ではある。

 しかし、それが叶うか?

 いや、彼からこの戦場を預けられて、なお他人の力をあてにするというのか、私は。

 そこまで誇りを失ったか。

 

「ねえ、もう、あきらめたら?」

 

 ライダーは、溜息と共に言い放つ。

 なるほど、敵にすら愛想を尽かされるほどに今の私は不甲斐無いか。

 それはそうだろう。

 最優の英霊を誇りながら、未だ打ち倒した敵は無し。

 主君を危険に晒し、未だ怨敵に一太刀も浴びせられず。

 こんな愚物、生きる価値も無い。

 死ね。

 死んでしまえ。

 死ぬ気で、奴を殺せ。

 今のお前に許された選択肢は、それだけだ。

 なるほど。

 これは、目の前の敵に感謝しなければならないか。

 聊か日和っていたらしい。

 自らを危険に晒さずに、勝利を掴めると、心のどこかで慢心していたか。

 ふざけるな。

 そんなはずがないだろう。

 そんな弱敵に、シロウが負けるはずがないだろう。

 なら、死ぬ気で奴を倒せ。

 首を断たれても、宙を飛んで、奴の喉笛に喰らいつけ。

 四の五の言わずに、勝て。

 お前が自らの存在を立証したいなら、とにかく、勝て。

 



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episode37 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE SECOND

 深呼吸。

 大きく吸って、大きく吐く。

 肺腑を満たす新鮮な空気が心地よい。

 胸が大きく膨らんで、また萎んでいく。

 身体の各部に痛みが戻ってきた。

 熱い。

 痛みと疲労の区別がつかないほどには、全身が熱い。

 なんだ、ここまで私は平常心を無くしていたか。

 そう考えて、苦笑する。

 手には、風の鞘を纏った聖剣。

 傷ついて見る影も無いが、それでも私を守ってくれた鎧。

 魔力は未だ健在。不安は無い。

 不安なのは、己の怯懦のみ。

 行くぞ。

 恐れるな。

 闘え。

 

episode37 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE SECOND

 

「認めよう、貴様は強い」

 

 今の私が口にするには、幾分滑稽な台詞だろう。

 それは、強者から弱者に対して向けられるべき台詞だ。

 強者が、己を苦しめる弱者に向かって、その健闘を讃える台詞。

 断じて、地に膝をついた私が吐いていい台詞などでは無いはずだ。

 しかし、構うまい。

 私は強い、他の誰よりも。

 それは、自負であると共に覚悟だ。

 その覚悟が無ければ、英霊となど、闘えない。

 他者より弱いとなど、誰が認めてやるものか。

 一点、この一点においては他者の後塵を拝するわけにはいかないのだ。

 

「この一撃、これをかわせば貴様の勝ちだ」

 

 ゆらりと立ち上がる。

 目の前には、やはり裂ける様な笑みを浮かべたライダー。

 その表情にあるのは、勝利の確信と快楽の予感のみ。

 おそらく、理性など一片たりとも残されていないだろう。

 それが、勝機といえば勝機か。

 それでも、奴は強い。

 その身のこなし、単純な速度で言えば、あの夜、始まりの夜に矛を交えた槍兵、あの夜の彼をすら凌駕するだろう。

 要するに、私が今相手にしているのは、獣とか化け物とかの類だ。

 躊躇するな。

 迷うな。

 一瞬の迷い、それが私を殺すぞ。

 

 

 ちりちりと、熱を帯びた風が、狂える騎乗兵の肌を焦がす。

 この戦闘において、彼女は初めて身構えた。

 先ほどの台詞と、今、彼女が目にする規格外の魔力の渦。

 これから剣士の放つ一撃、決して油断していいものではない、流石の彼女もそう悟ったのだろう。

 

「しゃあああああああああぁぁぁぁ!」

 

 剣士の口から迸る気合の声。

 それと共に、なお膨れ上がる、濃厚な魔力。

 彼女はそれを、唯一点、己の脚部に叩き込む。

 本来許された許容量は、容易く凌駕している。

 魔力の噴射によるブースト、しかしこれはやり過ぎだ。

 過負荷。

 明らかな過負荷。

 魔力に炙られた細胞が、ぶちぶちと悲鳴を上げる。

 鎧の下に着込んだ戦衣装が、噴出した血によって紅く染められていく。

 それでも、彼女は魔力の充填を止めない。

 まだだ。

 まだ足りない。

 まだ、この敵を倒すためには、燃料が不足している。

 血に濡れて、紅く輝く視線が、そう叫んでいた。

 それでも、やがて風は収まった。

 無風。

 凪。

 だが、それはこれからの晴天を約束するものではない。

 むしろ、これから到来する嵐をこそ予感させる類のものだった。

 

「――いくぞ」

 

 小さな小さな呟き声。

 おそらく、それを発した者以外の鼓膜を震わすことは無かっただろう。

 つまり、それは唯の決意表明だ。

 そして、彼女の身体は、見事なほどに掻き消えた。

 コンクリートが爆ぜる。

 風が、悲鳴を上げる。

 それほどの速度。

 それほどの一撃。

 しかし、どれほど速かろうが、それはただの突進。

 相手がかの蛇でなかろうと、それをかわすのはさして難しいことではない。

 然り、蛇は悠々と身をかわす。

 剣士が舞い起こす微風、それを心地よいと言わんばかりに。

 彼女は勝ちを確信した。

 その退化した理性の中で、確信した。

 己の遥か前方、そこでたたらを踏む剣士の背中を見て、勝ちを確信したのだ。

 剣士の後ろ足からは血が吹き出ている。

 明らかに、先ほどの突撃が彼女の器量を超えていた証拠だ。

 つまり、この獲物が如何に足掻こうと、あれ以上の攻撃は不可能。

 ならば、己が敗れる道理は無い。

 あの程度の一撃ならば、私には届かない。

 ぎりぎり、届かない。

 そこまで考えて、彼女は、ぱかり、と口を開けて笑った。

 

 

 ああ、あんなにむぼうびな、せなかが。

 せなかが、わたしをよんでる。

 ころしてって。

 ちをすってって。

 わたしを、さそっている。

 ああ、いいこだ。

 いいこ、いいこ。

 いいこには、ごほうびをあげないと。

 なにがいいかしらん。

 いしにかえて、さくさくたべて、あげようか。

 くさりでしばって、ひきちぎって、あげようか。

 おっきなじどうしゃで、おしつぶして、あげようか。

 ううむ、まよったぞ。

 どうしよう、どうしよう。

 そうだ、このこはゆっくり、ころしてあげよう。

 そうしよう、そうしよう。

 くびすじから、ちをすうなんて、こわいことはしない。

 ゆっくり、つめで、なぞって。

 したたるちを、なめとってあげよう。

 ちろり、ちろり、と。

 ああ、きっと、このこはよろこぶぞ。

 ころしてくれ、と、なきごえをあげるぞ。

 うふふ、うふふ。

 ああ、わたしはやさしいな、やさしいな。

 

 

 かわされた。

 今の私に許された、最大出力の突進。

 ライダーは、それを難なくかわした。

 常なら剣先に吐息が触れるほどに見切りながらかわすのに、彼女は大きく間合いを開けてかわした。

 そして、背後に迫る、血塗られた彼女の気配。

 よし。

 これでいい。

 まさか、こんな単純な攻撃で彼女を斃せるなんて、思っちゃいない。

 これで一手。

 これは、ただの布石。

 問題は、私の足だ。

 もう一度。

 もう一度でいい。

 さっきと同じだけの機動力を見せてくれ。

 今だ。

 今でないと駄目なのだ。

 今、あなたが動いてくれないと、私はマスターに顔向けできなくなる。

 それは、死ぬよりも辛いことだ。

 だから、頼む。

 もう一度だけ、動いてくれ。

 

 

 万軍を蹴散らすような、剣士の突進。

 自らを砲弾と化したかのような一撃は、所詮、蛇の嘲りを買っただけであった。

 彼女は、一応警戒していたのだ。

 自分と同じ存在の少女。

 それが、最後に残しておいたとっておき。

 それは、油断してよいものではない、と。

 しかし、蓋を開けてみればどうだろう。

 確かに、その勢いは激烈。その威力は強力無比。

 だが、それはただの突進。

 そんなものが、最優と呼ばれたサーヴァントの切り札か。

 そう考えて、堕ちた女神は嗤った。

 故に、剣士の背中に襲い掛かる彼女の頭にあるのは、戦闘のことではない。

 既に彼女の退化した知性を支配するのは食事のこと。

 如何に美味しくこの獲物を頂くか。

 如何に惨たらしくこの獲物を犯すか。

 そのことしか、彼女の思考には残らなかった。

 それが、本来の、いや、『仮初』の彼女であればそんなことはなかっただろう。

 常に冷静に戦況を判断し、敵が息絶えるまで、毛の先ほどの油断もしなかったはずだ。

 この世を支配する、等価交換の理。

 おそらく、彼女もそれには抗えなかったのだ。

 彼女は強き力を手に入れた。

 彼女は疾き足を手に入れた。

 それと引き換えに、彼女は、人としての知性を、理性を失った。

 だから、彼女は気付かなかった。

 獲物、本来であれば脅えて許しを請うはずの獲物の背中。

 そこから陽炎の如く立ち上がる、消えざる戦意を。

 そして、剣士は振り返る。

 その手には、やはり不可視の聖剣。

 それを振り向く方向のまま、横薙ぎに振りぬく。

 だが、彼我の距離、約二十メートル。

 間違えても、剣の届く間合いではない。

 ならば、剣士は狂ったか。

 その恐怖に負け、ついに理性を手放したか。

 否。

 彼女の瞳に恐怖はない。

 彼女の吐息に、諦めの色など、誰が見出すことが叶おうか。

 その視線は堅牢。

 その意志は、ひたすらに勇壮。

 ただ、前に。

 そうして彼女は言葉を打ち出す。

 その言霊は、間違いなく万軍を圧する、鬨の声。

 そう、彼女はどこまでも王であり、それ以上に騎士であった。

 

「風王鉄槌!」

 

 その刹那、不可視の剣に、光が宿る。

 それは、この聖剣から鞘が取り払われた証であり、その鞘が敵に牙を剥いた証左でもある。

 風王鉄槌。

 風王結界の、最も攻撃的な使用方法。

 圧縮した大気の塊を、そのまま敵に叩きつける。

 固体と見紛う程の質量を持った空気の塊を、尋常ではないほどの速度でもって叩きつける。

 それは正しく破城槌。

 堅牢なる古代の城壁を、一撃にて廃墟に変える、風神の怒り。

 これが、彼女の次の一手。

 油断し切った騎乗兵、その目の前に衝き付けられた死神の鎌。

 それが彼女の命を刈り取る。

 その戦いを見下ろす神々は、きっとそう思ったに違いない。

 

 

 なにかがくるよう。

 わたしがむかう、そのさきから。

 こわい、こわい、なにかがくるよう。

 あれは、いけないもの。

 あれは、いたいもの。

 なんとなく、わかったよ。

 あれがこのこの、とっておきなんだ。

 じゃあ、あれにさわっちゃいけない。

 あれにさわったら、きっとひどいめにあう。

 だから、かわさないと。

 だいじょうぶ。

 わたしなら、かわせるよ。

 だって、こんなにも、からだが、かるい。

 あのこにのらなくても、そらがとべそう。

 そらが、あんなにもちかい。 

 つばさが、はえてるみたい。

 だから、わたしはかわせる。

 かわして、このこをがっかりさせよう。

 がっかりさせて、なぐさめてあげよう。

 このこは、なくかな、わらうかな。

 どっちでもいいな。

 だって、どっちでも、きっとすごくおいしいから。

 

 

 薄ら笑いを浮かべる怪物。

 ぱかり、と耳まで裂けたかのような笑み。

 こいつはきっとこう思っているに違いない。

 これをかわせば、私の勝ちだ、と。

 いいぞ、そのとおりだ。

 これをかわせば、貴様の勝ち。

 そう思え。

 せいぜい、驕れ。

 そうすれば、私の勝ちだ。

 既に、脚部への魔力の再充填は完了している。

 筋肉は断裂寸前、僅かに動かすだけで気絶しそうな痛みが走るが。

 それでも、その痛みが肉体の実在感を高めてくれる。

 状況は最高だ。

 これで敗北するなら、納得できる。

 いや、それは違うか。

 納得できる敗北など、この世に存在しない。

 存在するとすれば、それは諦めたときだ。

 ああ、こいつには勝てない。

 ああ、わたしには出来ない。

 そう考えて、歩みを止めたとき。

 きっと、人は笑って敗北を受け入れることが出来るのだろう。

 ならば、私は笑えない。

 納得など、出来るはずもない。

 ひたすら、足掻くだろう。

 そういう意味では、この策が失敗しようと成功しようと、私には関係ない。

 勝ち負けの上では、この上なく重要だ。

 これに成功すれば、私は勝つだろう。

 そして、失敗しれば、おそらく私は敗れるだろう。

 しかし、私自身には何一つ影響を与えない。

 するべきことは決まっている。

 倒すのだ。

 奴を、倒すのだ。

 敬愛すべき我がマスターを泣かせて。

 今も笑っているこの怪物を。

 騎士の誓いにかけて、倒すのだ。

 あの夜に交わされた契約に誓って、倒すのだ。

 後ろ指を指されようと。

 餓鬼道に堕とされようと。

 この誓いは、変わらない。

 そうだ。

 私は、こいつを、叩き潰す。

 

 

 タイミングは、完璧だった。

 襲い来る蛇神に対して放たれた風の鉄槌。

 同一の空間座標を、引かれ合うように走り抜けるベクトル。

 回避不能。

 そうとしか思えないほど、絶対のタイミングで放たれたカウンター。

 騎士王が丹念に作り上げたその死機を、しかし、蛇神は薄ら笑いを浮かべながら脱した。

 がりがりと、コンクリートの地面に爪を立てて急ブレーキ。

 そして、風の鉄槌が彼女を捕らえようとした、まさにその時。

 コンクリートの地面を爆ぜさせながら、彼女は横っ飛びに身をかわした。

 寸前まで彼女がいた場所を貫く風王鉄槌。

 しかし、それは彼女の髪の毛一本を奪い去ることも出来なかった。

 蛇神の体を掠めながら、風は虚しく通り過ぎる。

 彼女の美しく、そして穢れた長髪が舞い上がる。

 ただ、それだけ。

 これにて、この剣劇は終幕。

 あとは、怪物が聖なる乙女を甚振るだけの、無惨劇。

 そうなるはずであった。

 だが、この必殺の一撃すら、彼女の布石。

 剣劇の幕、まだ下ろすことなど許可した覚えはない。

 それを雄弁に語るのは、彼女の聖緑の瞳。

 泥に汚れ、血に塗れても、なお輝きを失わない彼女の象徴。

 彼女は待っていた。

 このときを待って、ひたすらに力を溜めていた。

 さあ、今こそそれを解放するときだろう。

 彼女を前に進めるのは、彼女の意志。

 彼女の背中を守るのは、風の加護。

 そして、彼女の背中を後押しする、風の友軍。

 風王鉄槌が作り出した大気の歪み。

 そこに流れ込む、大量の空気。

 その流れに、彼女は飛び込んだ。

 先の突進を激流に例えるならば、風を纏った此度のそれは、正しく閃光。

 瞬間的であれ、その速度は槍兵の全力をすら凌駕した。

 ゆえに、蛇は恐怖した。

 初めて彼女の表情が恐怖に歪む。

 その視線の先には彼女の右手。

 そこに握られた不可視の聖剣。

 存在し得ないそれを、彼女は幻視した。

 

 

 あれあれ。

 おかしいぞ。

 いつからだ。

 いつから、おかしくなった。

 あっとうてきに、わたしがゆういだったはずだ。

 わたしは、かろやかな、はやぶさで。

 あれは、どんじゅうな、いのししだ。

 あれは、わたしにふれえない。

 だから、わたしのかち。

 すこしずつにくをついばんで。

 ゆっくり、ころしてやるつもりだったのだ。

 なのに、なぜわたしがおびえないといけない。

 このくちからほとばしる、ぶざまなひめいは、だれのものだ。

 りふじんだ。

 おかしい。

 こんなの、なっとくできない。

 でも、あれのぶきは、あいもかわらず、みえないけんだ。

 あれなら、かわせる。

 ぎりぎり、かわせる。

 あれのみぎてににぎる、みえないぶきをかわせば、こんどこそわたしのかちだ。

 でも、かわせなければ、わたしのまけだ。

 きっと、あのいちげきは、わたしのたんけんを、りょうだんする。

 だから、うけることはできない。

 かわせ。

 しぬきでかわせ。

 じゃないと、ほんとうにしぬ。

 えものに、くいころされる。

 しねば、ごみだ。

 わたしがほふってきた、いしくれとおなじだ。

 ゆっくりとくさっていく、ただのにくのかたまりだ。

 それは、ゆるさない。

 わたしのなかでいきつづける、だれかのためにもゆるさない。

 だから、かわすぞ。

 じっとみろ。

 あれのうごきを。

 そして、あれがみぎてににぎった、みえないけんを。

 みろ、みろ、みろ。

 きた。

 よこなぎのいっせん。

 ねらいは、わたしのくびすじ。

 よし。

 そこなら、かわせる。

 どうたいをねらわれたら、たしょうのてきずは、かくごしなきゃいけなかったけど。

 そこなら、むきずでかわせる。

 でも、かみのけは、きられてしまうか。

 あのひとたちとおなじ、きれいな、かみだから、もったいないけど。

 あのひとたちにほめられた、かずすくない、わたしのいちぶだから、くやしいけど。

 それでも、わたしはいきのこる。

 ごめんなさい、わたしのかみのけたち。

 あなたたちのかたきは、きっとわたしがとるから。

 だから、あんしんして、ねむりなさい。

 わたしが、あれを、ころすから。

 わたしは、からだをしずめる。

 ふかく、ふかく。

 あれのみぎてが、わたしのうえを、とおりすぎる。

 かんき。

 かんきが、せぼねをはしりぬける。

 ああ、わたしのかちだ。

 

◇ 

 

 景色が、凄い勢いで流れていく。

 明らかに許容量を超えたスピード。

 急激な加速による重圧で、意識が吹き飛びそうになる。

 

「お お お お おお おおお おおおおお!」

 

 口から漏れるのは、気合の声ではない。

 どちらかといえば、悲鳴に近いかもしれない。

 それは、感覚を手放さないための、細い細い命綱。

 それでも、意識が漂白されていく。

 白く、白く。

 それを繋ぎ止める、赤黒い痛覚。

 ずくん、ずくんと、そこに心臓が出来たかのように痛む両足が、今はこの上なく愛おしい。

 ありがとう。

 あなたは、最高の働きを見せてくれた。

 もう、休んでいい。

 あとは、私が引き受ける。

 この右腕と、左腕。

 そして、この意志が。

 あいつを生かしておかない。

 右腕を振りかぶる。

 狙いは、ライダーの首筋。

 そこを目掛けて横薙ぎに振るう。

 ここが、最後の賭けだ。

 もし、彼女が短剣で受け止めようとしたならば。

 それは、私の敗北だ。

 もし、彼女が身を沈めてかわすなら。

 それは、私の勝ちだ。

 視界に広がる、風で吹き上げられた、忌まわしい髪。

 さあ、かわせ。

 かわせ、かわせ、かわせ。

 そして、彼女は。

 その身を。

 深く。

 

 沈めた。

 

 歓喜。

 背骨を、歓喜が満たす。

 私の、勝ちだ。

 私は、しっかりと掴んだ。

 から..の右手で、彼女の美しい髪の毛の一房を。

 未だ止まらぬ身体。

 その勢いのままに、敵を引き摺る。

 目の前には、コンクリートの壁。

 給水タンク、その下。

 そこに。

 私は。

 彼女を。

 思いっきり、叩きつけた。

 ごしゃ。

 



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episode38 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE THIRD

 勝敗は、決した。

 彼女の、勝ちだ。

 

episode38 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE THIRD

 

 激烈な勢いでの突進。

 これが一手。

 それをかわし、隙を突いて飛び込んできた敵に合わせる風の鉄槌。

 これで二手。

 寸前でそれをかわした敵になおも襲い掛かる、風を纏った神速の一撃。

 それで、三手。

 通常なら、そこで終わり。

 それは、蛇神に痛烈な痛手を強いたであろう。

 しかし、それで終わり。

 それだけでは、蛇は死なぬ。

 蛇は再生の象徴。

 しぶとく、生き汚いが、蛇の信条。

 故に、彼女は四手目を用意した。

 特別なことではない。

 極めて単純だ。

 彼女がしたことといえば、その聖剣を、持ち替えただけ。

 右手から、左手に。

 そして、左手に握った剣を、敵の視線から隠れるように巧みに持ち替えた。

 難しいことではない。

 ただ、左手を背中に回しただけ。

 それだけのこと。

 それだけのことで、一度その姿を現した聖剣は、再びその姿を隠したのだ。

 今度は、安っぽいトリックによって。

 しかし、蛇神は、騎士王の右手に剣を幻視した。

 それも致し方あるまい。

 なぜなら、一度聖剣が姿を現したとき、彼女には風王鉄槌という圧倒的な危機が迫っていた。

 ゆえに、その視界には聖剣が映っていたが彼女の脳がそれを認識し得なかったのだ。

 そして、騎乗兵が風王鉄槌をかわしたときには、既に剣は左手に持ち替えられていた。

 つまり、騎士王の右手には何も握られていない。

 から..、だったのだ。

 それに騎乗兵は気付かない。

 いや、騎士王が気付かせなかった。

 そして、風を纏った神速の突進。

 横薙ぎに振るわれる、からの右手。

 己の中で作り出した剣の幻想に脅えた騎乗兵は、それをかわさざるを得なかった。

 首筋を狙って振るわれた偽りの剣を、彼女は身を沈めてかわそうとする。

 もしも、本当に騎士王の右手に聖剣が握られていたならば、その一撃は騎乗兵の髪を刈り取るだけで、空しく宙を舞ったであっただろう。

 しかし、彼女の右手には何も握られていない。

 故に可能なのだ。

 新たに何かを握ることが。

 最初から、騎士王の狙いは騎乗兵の首などではない。

 最終的な目的がそれでも、今は違う。

 

 彼女の狙いは、騎乗兵の髪の毛。

 美しく、そしてしなやかで、おそらく簡単には千切れない。

 それを、掴み取ること。

 それが、彼女の目的。

 

 普通、激烈なスピードの中で常人の髪を掴めば、即座に千切れ飛ぶか、それとも頭皮ごと引き千切るか、そのいずれかだろう。

 しかし、この騎乗兵に限ればそれは有り得ない。

 なぜなら、その髪は、魔眼と並んで彼女の象徴といえるものなのだから。

 髪の毛を蛇に変えた、呪われた女神。

 それこそが彼女の伝説。

 ならば、その髪が容易く千切れるはずは無い。

 だが、剣士がそれを知り得たはずもないのだ。

 彼女が知っていたのは、そして信頼していたのは、全く別のもの。

 彼女が知っていたもの、それは己の能力であり、彼女が信頼したのもまた、己の能力のみ。

 騎士王のみに許されたスキル、未来予知じみた直感によってもたらされた感覚。

 それを信じて、敵を縛る手綱を掴み取ること。

 それだけが、騎士王の狙いであり、それは完全に成功した。

 そして、彼女は勢いにまかせて、騎乗兵を思いっきりコンクリートの壁に叩きつけた。

 

 凄い音だった。

 

 ごしゃ、とか、ぐちゃ、とか。

 肉が、潰れる音。

 骨が、拉げる音。

 そして、コンクリートが粉微塵になった音。

 濛々と、細かく砕かれたコンクリートが、煙のように舞い上がる。

 砕けたコンクリート、その破片に塗れた灰被りの蛇。

 力を失って崩れ落ちかけるそれを、髪を掴んだ片手で引き摺り起しながら、騎士王は初めて嗤った。

 戦局、ここにいたって、初めて立場は逆転した。

 今や、捕食者は小さき少女であり、哀れな贄こそが蛇だった。

 騎士王は、歓喜と共に呟いた。

「捕まえたぞ」、と。

 騎乗兵は、絶望と共に聞いた。

「捕まえたぞ」、と。

 

 

「捕まえたぞ」

 私は呟いた。

 

「捕まえたぞ」

 かのじょはつぶやいた。

 

 

 彼女は、無言でその爪を振りかざした。

 

 わたしは、がむしゃらにつめをふりかざした。

 

 

 彼女の爪が、頭部を掠める。

 

 わたしのつめが、かのじょのひたいをかすめる。

 

 

 力は無い。きっと、意識が朦朧としているのだろう。

 

 ちからがでない。あたまがふらふらだ。

 

 

 私は、無言で、彼女の髪の毛を手繰り寄せる。

 

 かのじょは、よろこびながら、わたしのかみのけをひっぱる。

 

 

 左手に握った聖剣を振るう。

 

 かのじょのけんが、わたしにきばをむく。

 

 

 狙いは、彼女の右足。

 

 ねらいは、きっとわたしのみぎあし。

 

 

 彼女がかわそうともがく。

 

 わたしはかわそうとあがいた。

 

 

 右手で彼女を御する。

 

 かのじょのみぎてが、わたしをしばりつける。

 

 

 ざくっと。

 

 ざくっと。

 

 

 彼女の右足が、宙を舞う。

 

 わたしのみぎあしが、なくなる。

 

 

 彼女が鳴く。

 

 わたしはなきごえを、あげた。

 

 

「ひいいいいいぃぃぃぃぃ!」

 

 騎乗兵の泣き声が響く。

 彼女の足は、膝から下が綺麗に失われていた。

 ばしゃばしゃと、濁った血が舞い散る。

 まるで壊れた噴水のようだ。

 それでも、騎士王はその右手を離さない。

 崩れ落ちる騎乗兵を、無理矢理引き起こす。

 

「ああ、その悲鳴を聞きたかった」

 

 今は、かけらの喜悦も、その表情に浮かばない。

 彼女は、ただ無表情。

 無表情のまま剣を構え。

 無表情のまま、それを振り下ろす。

 頭部を両断すべく放たれた剣線は、とっさに身を捩った騎乗兵の左肩から先を切り飛ばした。

 

「あああああぁぁぁぁ!いたいいいいいいぃぃぃぃぃ!」

「……足掻くな」

 

 どさり、と騎乗兵は地に伏せた。

 騎士王の右手は、既に騎乗兵の髪を放している。

 なぜなら、既にその必要が無くなったから。

 彼女の前にいるのは、既に人の形をしていない哀れな贄。

 片腕を根元から失い。

 足の長さは不揃いになった。

 髪を振り乱しながら、己の血溜りの中で悶え狂うその姿。

 それは、断末魔にのたうつ大蛇を思い起こさせる。

 

「ひいいぃ、ひいいぃぃぃぃっ!」

 

 息も絶え絶えに、騎乗兵は這いずり逃げる。

 そこに英霊の誇りなど、微塵もありはしない。

 

「……見苦しいといえばこの上ないが、その在り様には敬意を表する」

 

 かつかつと。

 手負いの騎乗兵を追い詰める、乾いた足音。

 騎乗兵は振り返る。

 己を断罪する死神を目に焼き付けん、そう言わんばかりに。

 

「いいいいいぃぃぃひひひひひひひっ!いたい、いたいよおぉ!ひひ、いたいひひひ!」

 

 嗤う。

 死に物狂いで、嗤う。

 衝かれたように、憑かれたように、嗤い狂う。

 

「いひ、いひひひ、ひひひ、ひどいよぉぉぉ!てが、あしが、なくなっちゃったよぉぉぉ!」

 

 しかし、騎士王は無言。

 無言で、足を進める。

 その胸中にあるのは、哀れみ。

 許すつもりのない敗者に哀れみを向ける、それが如何に非道なことか知っていながら、彼女は目の前の仇敵を哀れまずにいられない。

 

 おそらく、違う。

 この敵は、こんな存在では無かったはずだ。

 もっと誇り高く、もっと神々しい存在だったはずだ。

 ならば、誰が。

 誰が、彼女を堕としたのだ。

 一体、誰が。

 

 先ほどとは趣の異なる怒りによって、彼女の胸中は飽和していた。

 だから、彼女は剣を構えた。

 風の鞘を脱ぎ払い、その姿を見せた、名高い神剣を。

 最早、一時たりとも彼女を生かしておいてはいけない。

 それが、彼女なりの慈悲だった。

 

「きらいだ、あなたなんか、だいっきらいだぁぁぁ!」

 

 失われた手足を、振り乱す。

 残された右手で、近くに落ちていた小石を放り投げる。

 その様は、奇しくも彼女の仮初のマスターであった少年の狂態に酷似していた。

 それでも、騎士王の歩は止まらない。

 ゆっくりと、ゆっくりと、歩み寄る。

 不可避の死。

 それに抗うように、蛇は狂う。

 狂い、踊る。

 血が、血が、舞い散る。

 血が。

 

「だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、だからぁぁぁ!」

 

 血が。

 舞い散る血が。

 舞い散る濁った血が。

 舞い散る濁った血が、魔方陣を、形作った。

 

「しんじゃえぇぇぇぇ!」

 

 何かが、その中から突進してきた。

 騎士王の直感、それが全身に危機感を響かせるほどの何かだ。

 彼女は、先ほどまで持っていた身の程知らずな感情を振り捨てて、横っ飛びに飛び退く。

 千切れかけた脚部の筋肉、それでこれだけの反応を示せたのは奇跡と言うほか在るまい。

 それでも、逃げ遅れた彼女の一部、軍靴の踵が、じゅ、と嫌な音をたてて蒸発した。

 地に倒れ伏した彼女は、火で炙られたように痛む右足の踵に顔を顰めながら、身体を起こす。

 そして、見た。

 天に羽ばたく、その姿。

 漆黒の威容。

 その優美な翼は、まるで天に君臨する猛禽のよう。

 赤い目と、尖った牙は、本来のその種の持つ器官では有り得ない。

 いや、そもそも、宙で嘶く汗馬など、存在し得ないではないか。

 だが、神話の中でなら、それは存在する。

 天馬。

 ペガソス。

 呪われた女神、メデューサの血液から生まれた、幻獣。

 しかし、伝説のそれは、処女雪のような純白の姿ではなかったか。

 ならば、あれは。

 なるほど。

 穢れが、伝染したのか。

 それに、しがみつく様に跨る騎乗兵。

 片手は根元から失われ、片足は膝から下を失った。

 それでも、彼女は騎乗兵なのだ。

 その手に黄金の手綱を握り締め。

 失われた片手の代わりに、口で手綱を噛み締め。

 狂い嘶く天馬を、御している。

 

「――見事」

 

 騎士王の口を衝いた一言は、純粋なる感嘆の言葉。

 彼女は、初めてこの敵を尊敬した。

 あそこまで狂い、手の施しようが無いほど堕ちても、彼女は騎乗兵だった。

 その事実に、騎士王は鐙を外す想いだったのだ。

「その天馬が貴様の宝具か。…いや、微妙に違うな。しかし、本質としては変わるまい」

 騎士王は、ゆっくりとその聖剣を肩に担いだ。

「敵に敬意を表するとは、些か偽善的ではあるが…、たまにはいいだろう」

 天馬が、漆黒の天馬が、蒼天を大きく旋回する。きっと、その全力をもって彼女を叩き潰すつもりなのだろう。

「我が名はアルトリア。ブリテンの王にして、騎士王の二つ名を頂く者。名も知れぬ騎乗兵よ、冥府でこの名を思い出せ」

 襲い来る天馬。

 まるで、主神の放った一本の矢。

 その眩しさに目を細めつつ、彼女は端麗なくちびるを開く。

 その聖剣の、真名を解放するために。

 戦いを、終わらせるために。

 

騎英の(ベルレ)―――」

約束された(エクス)―――」

 

 二つの声が、重なる。

 二つの極光が、重なる。

 それは神話の再現でありながら、如何なる神話をも凌駕する激突。

 神々をすら駆逐する、力と力の衝突。

 誰にもその戦いを知る資格は、無い。

 天より覗き見る、傲慢な神々にも、だ。

 あるとすれば。

 辛うじて、それでもあるとするならば。

 

手綱(フォーン)!」

勝利の剣(カリバー)!」

 

 そう、己の命をかけて、この戦いに生きると決めた、地を這う矮小な者にこそ、その資格はあるのかもしれなかった。



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episode39 静かな廊下の柱の影から

 壁に背を預けたまま、ぼんやりと、天井を見上げた。

 直接廊下に座っているからだろうか、いつもよりもそれが遠くに感じる。

 それを、ぼんやりと、見つめる。

 

 薄汚れたタイル。1対2の長方形。それに描かれた、意味不明の模様。まるでアメーバの群れみたいだ。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 

 あれは、全て同じ模様なのだろうか。一つ、特徴的な模様を見つけて、他のタイルと照らし合わせてみよう。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。 

 

 ……どうやら、同じものらしい。つまり、あれは何かの芸術的な意味があるのではないということだ。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 

 なら、始めから白一色の素直なものにすれば良いのに。そうすれば、純粋で、綺麗だ。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 

 でも、白一色だったら、汚れたら一発で分かる。そうしたら、いちいち掃除しなけりゃいけない。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 

 そんなの、手間だもんな。ならいっそ、最初から汚れてる方がマシだ。なるほど、よく出来てる。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 

 純粋なものは、排除される。純粋なものは、傷つき汚れる。誰が言ったんだ、そんな当たり前のこと。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 

 ああ、そうか。彼女だ。きっと、誰よりも、純粋な彼女だ。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと、見つめる。

 

 なら、彼女は、今まで。

 一体、どれくらい。

 傷ついて、きたのだろう。

 

 そんなことを考えながら、薄汚れた天井を、ぼんやりと、見つめていた。

 

episode39 静かな廊下の柱の影から

 

 どのくらいそうしていたんだろうか。

 天使が針の上でダンスを踊る、その一曲分くらいは呆けていたのかもしれない。

 穏やかな時間だった。

 さっきまでの喧騒が嘘みたいだ。

 時折、ずしん、と音が響く。

 きっと、屋上では凄惨な戦いが繰り広げられているのだろう。

 まるで、遠い世界の出来事みたいだ。

 いやいや、俺は何を言ってるんだ。

 セイバーが、アーチャーが戦っているんだぞ。

 なら、俺も行かないと。

 多分、何の役にも立てないけれど。

 それでも、行かないと。

 なのに、この腰は。

 どうして、こんなに。

 こんなにも、重いのか。

 

「坊や、私は行くわ。あなたはどうするの?」

 

 声が、聞こえる。

 痴呆みたいに上を向けたままの顔を、少しだけ下に傾ける。

 分厚いローブ。

 端整な唇。

 キャスター。

 ああ、こんにちは。

 ご機嫌麗しゅう、大魔術師さん。

 

「このままここで桜達を待つ?それとも、私と一緒に来る?」

 

 あなたと一緒に?

 そんなことをして、何になる?

 だって俺、何の役にも立たないぜ?

 見てくれよ、こんなにぼろぼろだ。

 手足の骨だって砕けてるし、頭だってがんがんする。

 重病人だ。

 それを戦場に連れて行こうってのかい?

 あんた、酷い奴だな。

 軍隊だって、怪我人や病人は徴兵しないんだぜ。

 だから、見逃してよ、ほんと。

 

「……そう、ここに残るのね。ちょっとだけ賢くなったじゃない」

 

 そう、ぼくは賢くなりまちた。

 だから、褒めて褒めて。

 笑って頭をなでてちょーだいな。

 だからさ。

 お願い、だからさ。

 

 そんなに、嫌そうな顔、しないでよ。

 

「賢くなったけど、魅力的じゃなくなったわね。さっきまでの貴方の方が女にもてたわ、きっと」

 

 勝手なこと、言わないで。

 無茶をしたら怒ってさ。

 賢くなったら怒ってさ。

 一体俺はどうすりゃいいのよ。

 これでも一応頑張ったんだぜ?

 そりゃあ、何の成果も残せなかったけどさ。

 誰も、救えなかったけどさ。

 それでも、一応は頑張ったんだ。

 頑張っただけだけどさ。

 それでも、頑張ったつもりなんだ。

 やっぱり、そんなの、なんの意味もないのかな?

 

「念のために言っとくわ。貴方の傷、もう完治してるのよ」

 

 そう言って、彼女は駆けて行った。

 ことさらゆっくり。

 まるで、誰かが追いかけてくるのを期待するみたいに。

 悪いね、俺は期待に添えないぜ。

 だって、こんなにも足が痛い。

 だって、こんなにも腕が苦しい。

 だって、こんなにも頭が重くて。

 

 なにより、むねが、からっぽだ。

 

 もう、何も残っちゃいない。

 もう、何も残っちゃいない。

 もう、何も残っちゃいない。

 

 なのに。

 どうして、こんなに、苦しい?

 苦しい。

 苦しいんだ。

 空っぽなのに。

 空っぽの、はずなのに。

 

 空っぽなら、軽いだろう?

 空っぽなら、爽快だろう?

 

 なのに、重たいんだ。

 ちっとも、爽快じゃない。

 そして、苦しいんだ。

 何がこんなに苦しいのか、分からない。

 でも、でも、でも。

 苦しくて、堪らない。

 ほら、身体だって、こんなに震えてる。

 校舎ごと震えているんじゃないか、そう錯覚するくらいに、震えている。

 抱きしめてくれないか。

 誰でもいい。

 誰でも。

 でも、そうだ、あの人がいいな。

 優しくて、暖かくて、朗らかで。

 誰だったかな。

 最近、よく夢で見るんだ。

 顔だって、思い出せる。

 赤い髪。

 錆び色の瞳

 よく笑う、その唇。

 その唇で、歌を歌って欲しい。

 童謡がいい。

 最近、聞いたんだ。

 何だったかな。

 懐かしいリズム。

 Clip,clip~♪

 ……だったかな。

 何だったかな。

 よく、思い出せないなあ。

 

「いい様ね、衛宮君」

 

 ふっと顔を上げる。

 ぼんやりと滲む視界、そこに凛がいた。

 頬の辺りにむず痒さを感じる。

 ひょっとしたら、眠りながら泣いていたのかもしれない。

 

「凛、キャスターは……?」

「もう戦場に向かったわ。あなたを置いて、ね」

「しまった、俺も行かないと――」

 

 とっさに腰を上げようとする。

 刹那、とんでもない激痛が全身を駆け巡った。

 

「ギ、ギ、ギ――」

 

 声にならない苦悶の声。

 脂汗が噴出す。

 

「グ、ハァー、ハァー、ハァー……」

 

 なかなか収まらない苦痛。

 指一本、動かせない。

 

「そうそう、キャスターからの伝言。『あなたの傷はまだ完治していない。特に、私の魔術薬の後遺症が致命的。絶対安静、指一本動かさないこと』、だってさ」

 

 痛みでぐるぐるの頭の中に響く、凛の声。

 傷が完治してない?

 じゃあ、あの会話は、夢、だったのだろうか。

 そんなことを考えていたら、キシシ、という、凛のチェシャ猫笑いが聞こえてきた。

 

「たっぷり痛かった?とりあえず、今ので今回の無茶は勘弁してあげる。反省しなさい、この子、さっきまで泣き出す寸前だったんだから」

 

 ギシギシ鳴る首の関節を、無理矢理上に向ける。

 そこには、如何にも不機嫌な桜がいた。

 

「……桜」

「私、怒ってます」

「ごめん」

「許しません」

「……悪かった。本当に、御免なさい」

「……嘘吐き。もう心配させないって言ったのに」

 

 彼女の大きな瞳から、なお大きな涙の雫が零れ落ちる。

 無限の罪悪感が襲って来る。

 なるほど、俺の命は俺だけのものじゃないってことか。

 

『貴様が死ねば、悲しむものがいるだろう。ならば、貴様は生き残ったことでそれらの人間を救ったのだ。』

 

 これは、アーチャーの台詞だったかな。

 なるほど、先達の意見はそれなりに耳を傾ける必要があるということか。

 

「で、どうするの、衛宮君。あなた、私と一緒に来る?それともここで待ってる?」

 

 凛の問い。

 どこかで聞いた。

 そんなの、答えは決まってる。

 俺は――。

 

「ギ、イアァ!」

 

 答えようと瞬間、やはり弾けるような激痛が俺を襲った。

 

「姉さん!先輩がどういう状態か、キャスターに聞いたでしょう?なのに、なのに……!」

 

 桜の声が、聞こえる。

 でも、凛の声は聞こえない。

 感じるのは、視線だけ。

 刺すように冷たい、凛の、視線だけ。

 

「……そう、ここに残るのね。ちょっとだけ賢くなったじゃない」

 

 その台詞は。

 その台詞は。

 

「賢くなったけど、魅力的じゃなくなったわね。さっきまでの貴方の方が女にもてたわ、きっと」

「姉さん、ひどい……」

 

 その言葉を残して、凛は俺に背中を向けた。

 桜は、そっと俺の背中を摩ってくれた。

 そして、俺は。

 俺は、凛を、黙って、見送った。

 

 

 苛々する。

 誰が、誰に対して苛々しているのか。

 そんなの、はっきりしている。

 私だ。

 両方、私だ。

 私が、私に対して苛々しているのだ。

 心も体もぼろぼろになるまで戦って、やっとのことで生き残った士郎。

 彼に対して暴言を吐いてしまった、自分に対して苛々しているのだ。

 しょうがなかった。

 全く、押さえが利かなかった。

 ただ、我慢ならなかった。

 へたり込んでいる彼が。

 疲れた表情を浮かべている彼が。

 歩みを止めてしまった、彼が。

 どうしても、我慢できなかったのだ。

 士郎じゃあ、ない。

 こんなの、衛宮士郎じゃあない。

 そう、思ってしまった。

 これで、わかった。

 私は、駄目だ。

 私は、士郎と一緒にいてはいけない。

 私は、土壇場で、彼の背中を後押ししてしまう。

 士郎が何よりブレーキを欲している、その瞬間に、私は彼の背中を後押ししてしまうだろう。

 唯でさえ、彼のブレーキは効きが悪い。

 なら、それを後押しするような人間は、彼に乗っちゃあいけない。

 桜が、相応しいだろう。

 あの子は、臆病で、この上なく傷つきやすい。

 だから、彼女のブレーキは、私の知る誰のものよりも強烈だ。

 彼女なら、士郎を止められるだろう。

 底なしの崖に向かって突撃する彼の背中を、それこそ死に物狂いで引き止めるだろう。

 だから、彼の隣には、誰よりも桜が相応しい。

 祝福しよう。

 彼らは、お似合いだ。

 彼らは、お互いの足りないところを補い合える。

 本当の意味で、伴侶として相応しい。

 だから、私は諦めよう。

 ほんの少し、辛いけど。

 ほんの少し、苦いけど。

 でも、諦めよう。

 悪いことばかりじゃあない。

 きっと、彼らをちくちく苛めるのは楽しいだろう。

 きっと、彼らと一緒に歩くのは楽しいだろう。

 でも、それ以上に、辛いだろう。

 駆ける足。

 弾む鼓動。

 滲む汗。

 僅かに乱れる呼吸。

 そして。

 そして、そして。

 ほんの少しだけ、流れた、涙。

 それを力ずくで拭って、私は階段を駆け上がる。

 終着点が見えた。

 屋上への入り口。

 長方形の青空。

 そこに、私は飛び込む。

 その瞬間。

 私は、聞いた。

 かつんと、割れた仮面が、コンクリートの地面を叩く音を。

 そして、見た。

 仮面の下に隠されていた、預言者の顔を。

 

 それは。

 その顔は。

 啼き顔の仮面、その下にあったのは。

 見るも無残な焼け爛れた顔でもなく。

 この世のものとも思えぬ醜男でもない。

 

 端正な顔立ち。

 鷹のように鋭い目つき。

 すっきりと通った鼻筋。

 形の整った唇。

 そこには紛れもない美が存在した。

 

 しかし。

 

 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。

 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。

 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。

 睨目上げるその視線は肌に纏わりつくようで酷く不快だ。

 そして、何より不快なのは、その顔が私の知っている奴によく似ていたからだ。

 私は思わず呟いた。



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episode40 まぶしいほど青い空の真下で

 びーん、と、薄いセロファンを震わせたような音が響く。

 耳鳴り、だろうか。

 しかし、どうもそうではないようだ。

 何かが実際に震えている。

 細かい、何かだ。

 薄い、何かだ。

 それが、震えている。

 時折小さくなり、また、大きくなる。

 私はその間隔に一つの法則性を見出した。

 小さな、光。

 ふわふわと、まるで蛍か何かのように輝く、光。

 奴のごく短い詠唱、それによって現れた、光。

 それが近づくと、大きくなる。

 それが遠ざかると、小さくなる。

 つまり、この音はあの光体が発しているわけか。

 明らかな害意を持って襲い掛かる、忌まわしい何か。

 それを避けながらも栓の無い思考をしている自分が、どこか滑稽だった。

 体に意識を通していく。

 本来であれば、戦闘中にするべき作業ではないだろう。

 少なくとも、戦闘が開始される前には終わらせておくべき作業である。

 そう、これは作業だ。

 己の体が、どれほどの性能を発揮し得るか、それを確認するための作業。

 自分の体を道具として再認識するための儀式と言い換えることも出来るだろう。

 ゆっくりと、体に意識を通していく。

 まずは、先日の戦闘におけるダメージの確認。

 

 腹部。内臓。挫傷。

 ライダーの後ろ蹴りで与えられたダメージ。

 問題無い。

 完治している。

 

 脚部。刺傷。毒。

 アサシンのダークによって与えられたダメージ。

 やや、引き攣るか。

 やはり、毒に蝕まれた傷は治りが遅いと見える。

 

 魔力の量は?

 満タンとは言えまい。

 消滅の一歩手前まで酷使してしまったのだ。

 一日やそこらの休息では、荷が勝ち過ぎる。

 

 なるほど、万端には程遠い、それが作業の帰結であるか。

 凛にはああ言ったものの、やはりもう一日の休息が欲しかったというのが本音だ。

 そこまで考えて苦笑する。

 女々しい。

 そう、考えたからだ。

 結局、戦いなど己の思い通りにはならぬものである。

 その帰趨もそうなら、その始点もそう。

 試合ではないのだ。

 時と場所を指定され、始まりの号砲を鳴らす審判がいる。

 そんな恵まれた状況の実戦がどこに存在するか。

 自分の望んだ状況と時間で、万全のコンディションの状態で戦える。

 そんな幸運は、少なくとも私には備わっていない。

 ならば、与えられた状況と、足りぬ武器で、十全の結果を残すしかない。

 なんだ、いつものことではないか。

 生前も、死後も、私にはそんな戦いしか許されていなかった。

 そして、不敗。

 それが私の矜持だ。

 だから、負けるわけにはいかない。

 目の前に立つ髑髏。

 この程度の相手に、仮にも英霊の端くれである私が負けるわけにはいかない。

 なにせ、衛宮士郎は、あの怪物――堕ちた騎乗兵を相手に生き残った。

 生を、勝ち取った。

 ここで私が敗れれば、嘲笑の的となるのは必定。

 それでも、所詮は道化染みた人生である。

 笑われることなど、慣れたものだ。

 しかし、奴にだけは笑われる訳にはいかない。

 何故かは分からない。

 何故かは分からないが、その想いだけが、かえしのついた釣り針を飲み込んだみたいに、私の心奥に鎮座していた。

 

episode40 まぶしいほど青い空の真下で 

 

 硝煙と硫黄の香りが、濃厚に匂い立つような戦場であった。

 ちりちりと、項を焼くような、空気。

 きーん、と遠くで耳鳴りのような高い音が響く。

 きっと口を開ければ、舌に唐獅子の刺激を味わうことが出来るだろう。

 そんな、戦場。

 コンクリートは抉れ、金属製のフェンスは既に見る影も無い。

 濛々と立ち込める、砂煙、のようなもの。

 それは微細に還されたコンクリートの破片か、霧散した二人の魔力の断末魔か。

 ところどころに突き立つ短剣。

 黒と白のそれらは危険を示す標識か何かに見える。

 場違いである。

 少なくとも、この場所、この時が、その舞台として相応しいとは思えない。

 真昼間、校舎の屋上、青空の下、そこで人外の殺し合いが行われるなど、唯の喜劇だ。

 夜、ならば相応しかったのだろうか。

 夜は死んだ月の光が支配する、死者どもの世界だ。

 死者が唄い、死者が踊ろうと、それを咎める閻羅王は眠りについている。

 だが、今、空を支配しているのは地球から最も近くに輝く恒星であり、その下を歩く資格があるのは生者だけである。

 ならば、この二人は生者なのか。

 いや、そうではあるまい。

 一人は、過去に死に、未来に死に、そして現在に仮初の生を受けた者。

 一人は、厳密な意味でいえば、神よりその生を祝福すらされていない者。

 赤い外套を纏った、鷹の目をした男。

 燃え盛る炎のような髪の色は燃え尽きて灰色となり、肌は人の闇に染められ、瞳は己の無力を映し出す鏡と成り果てた、男。

 その手には、黒と白の双剣。常の彼の武装ではあるが、その背にささくれ立ったような棘が突起が無数に生えかけているのは、隠し切れない彼の苛立ちを表したものだろうか。

 襤褸のような外套を纏った、泣き顔の仮面。

 本来持ちえた運命を、叩き壊され、捻じ曲げられ、しかし、己が自身に与えられた義務を淡々と実行する、男。

 彼が唱えるのは、己と同じ名を持つ、古代の書物の一節。本来、呪文などではありえないそれは、他のどんな文節よりも彼に深い自己陶酔を与える。

 そんな、二人。

 そんな、たった二人の化け物が戦った傷跡。

 一片の火薬も使用されていない。

 しかし、その光景を見れば、誰しもが火薬の匂いに眉を顰めるであろう。

 幻臭。

 本来あり得ない感覚を、脳が作り出す。

 それすら、止むを得まい。

 それほどの、破壊。

 それほどの、戦い。

 二人が生み出したのは、比喩などではなく、唯、戦場であった。

 

「Et pax ab eo, qui est, et qui erat, et qui venturus est, et a septem spiritibus,Et pax ab eo, qui est, et qui erat, et qui venturus est, et a septem spiritibus」

 

 初めは、唯の光体だった。

 実在感も薄く、その動きも単調そのもの。

 しかし、髑髏の詠唱が長くなるにつれ、光体は何かを形作っていく。

 もやもやとした輪郭が少しずつ収斂され、その動きは何かの意思を持ったかのように。

 何かが、見える。

 弓兵の際立った視覚は、光体の中に、はっきりとしない何かが在ることを映し出していた。

 昼間でも、なお光り輝く不吉な何か。その中に、何かが、見えるのだ。

 顔だ。

 人の、顔。

 それも、女。

 女の顔。

 髪が、長い。

 にこやかに、笑っている。

 苦悶の叫びを、あげている。

 しかし、それは人ではありえない。

 吊り上った口の端、そこから覗く牙は、まるで獅子のよう。

 目は、まるで彫刻刀で掘り込んだ切れ込みのようで、とろりと鈍重な印象を与える。

 能の面、万媚と呼ばれるそれに般若の面を足して更にどろどろした感情を加えれば、あれに近しいものに成るのかもしれない。

 弓兵は理解した。

 つまり、あの光は、繭なのだ。

 脆弱で、ひ弱な蛹を保護するための、美しい繭。

 それが、あの光だ。

 ならば、いすれあの繭は取り払われる。

 いずれ、中からあの女の顔を持った何かが生まれるのだろう。

 それは、きっと呪わしい何かだ。

 遊んでいるのか。

 あの髑髏は、英霊である自分を甚振って遊んでいるのか。

 そう自問した弓兵は、心中で頭を振った。

 そうではあるまい。

 奴から伝わる気配は、正に必死。

 一片の手加減すらしていないだろう。

 事実、あれらはまだ私に敵し得ない。

 つまり、これが奴の全力だ。

 少なくとも、今の段階においては。

 弓兵が己の思考に埋没している間にも、乱舞する光体は彼を襲い続ける。

 明らかな害意に満ちたそれは、まるで生命を持ったかのように彼を襲う。

 右から、左から。

 前から、後ろから。

 上から、下から。

 可変性に飛んだその動きは敵を翻弄し、遠からず食い殺す。

 通常ならば、だ。

 しかし、弓兵は英雄。

 虚実入り混じった光体の動きから致命的なものを見抜き、それをかわす。

 かわし、いなし、受け止め、そして叩き切る。

 背後からの攻撃も同じく。

 そもそも、背後から狙われただけでその対応に苦慮するというのであれば、彼はここにいない。

 弓兵は、生前に戦場を生きた。

 比喩ではなく、戦場を生き抜いた。

 銃弾飛び交い、背後の味方が十分後には敵に裏返っている煉獄を生き抜いた。

 そして、英霊などというわけの分からぬものに成り果てた。

 ならば、そこに死角は無い。

 鷹の目に、死角など無い。

 たかが十やそこらの敵など、脅威と数えるにも値しない。

 陰陽の双剣。生前も、そして死後も彼の従者であり続けるその双剣を縦横に振るい、気色悪い女の顔をした光体を切り裂き続ける。

 響く断末魔。

 甲高いそれは、やはり女の悲鳴に似ている。

 弓兵は、嫌というほど聞きなれたその悲鳴を、まるで久しく聞いたもののように眉を顰めながら、只管にその両手を振るい続けた。

 只管にその両手を振るいながら、追う。

 逃げ続ける髑髏を、追う。追い続ける。

 髑髏は逃げる。

 己の不死を忘れたかのように、逃げる。逃げ続ける。

 屋上はそれ程広くない。

 直線に逃げていては、あっという間に追い詰められる。

 故に、髑髏の描く軌道は円。

 そして、それを追う弓兵の軌道も円。

 唯、単純に追いかける。

 蒼い髑髏の動きは、決して速くない。むしろ、鈍重といっていい。

 足で勝る弓兵がそれに追いつけないのは、偏に髑髏が生み出し続ける奇怪な光体のおかげだ。

 ふわふわと、弓兵の周囲を漂う。

 そして、思い出したかのように攻撃してくる。これではその足も時折は止まらざるを得ない。

 しかし、弓兵も、ただ追うだけではない。

 その手に持った短刀を、投擲する。

 あの暗殺者には及びもつかないが、それでも恐るべき速さと正確さで、敵を襲う。

 軌道は弧。

 上空へと舞い上がり、急激な弧を描いて、敵を急襲する。

 その様は、まるで天空より得物を襲う猛禽のよう。

 予言者はそれをかわす。

 時折軽い手傷を負うが、その程度は彼にとって何の痛痒も感じるものではない。

 短刀は地に突き立ち、獲物を仕留めるには至らない。

 逃げる髑髏と、追う男。

 その光景は、凄惨な戦場に似合わず、どこか馬鹿馬鹿しかった。

 

 

「……君は弓兵だと聞いていたのだが、私の記憶違いだろうか」

 

 のんびりとした予言者の声。

 しかし、その声には隠し切れない驚愕と、それを上回る苛立ちの響きがある。

 それも当然だろう。

 髑髏は、魔術を使う。

 弓兵は弓を使う。

 ならば、生まれるのは飛び道具を主体とした遠距離戦。

 少なくとも、髑髏はそう予想をたてていたのだ。

 確かに、最初はその通りだった。

 弓兵は、黒塗りの弓をもって髑髏を貫き、彼の生み出した光体を貫く。

 そして髑髏は薄ら笑いを浮かべ、光体を生み出し続ける。

 決め手に欠ける。

 髑髏の魔術は弓兵を傷つけるに至らず。

 弓兵の射撃は予言者を絶命させることは出来ない。

 千日手とも思える戦局。

 それを望んだのは、髑髏だった。

 彼は、少なくともこの戦で弓兵を仕留めるつもりは無い。

 邪魔さえされなければいい。

 後でいいのだ。

 完成さえされれば、後はこちらの思うがまま。

 それまでは雌伏の時だろう。

 そう、考えていた。

 しかし、いつしか弓兵は自身に満ちた顔つきで、自らの呼称のもととなった武具を消した。

 その代わりに彼が手にしたのは、明らかに接近戦にしか役立たない二振りの短剣。

 黒と白。

 陰と陽。

 夫と婦。

 鏡に映したかのように形状の同一な、双剣。

 それを、握り締めていた。

 それをもって、光体を切り払い始めた。

 その意図するところは唯一つだろう。

 弓兵は、接近戦をこそ望んでいる。

 ならば、そこには何らかの意図が有る筈だ。

 髑髏はそう考えて、僅かに身構えた。

 

「……くく、召喚されて、まさか二度もこの台詞を吐くことになるとは思わなかったな。

 いいか、世間知らずの預言者よ。『英雄とは剣術、魔術に長けた者を指す。アーチャーだからといって弓しか使えないと思うのは勝手だが』、それを普遍のものと思わないことだな。まあ、君がそう思い込んでくれる分には、私は一向に構わないのだがね」

 

 仮面の下の表情は、やはり動かない。

 疑問を嘲笑によって報われた預言者は、しかし一片の不機嫌もその言の葉に乗せなかった。煮え滾る内心が如何であったとしても、だ。

 

「……なるほど、生粋の英霊は言うことが違う。私のような無芸非才の身には、正に羨望の対象だよ、君は」

 

 謡うような響き。

 その声に、弓兵は、僅かに、ほんの僅かに己の耳を疑った。

 目の前に立つ、蒼い怪人。

 今の今まで、嘲弄に塗れた言葉しか吐き出さなかったそれの口から、初めて真実の一端を感じることが出来たからだ。

 

「貴様――」

「さあ、始めようか。如何にも前振りが長すぎたのだ。喜劇は始まりと終わりが肝要というが、中弛みのするものもまた名作とは言えまい。終わりが既に定まっているとしても、だ。

 septem stellarum, quas vidisti in dextera mea, et septem candelabra aurea

 Septem stellae, angeli sunt septem Ecclesiarum, et candelabra septem, septem Ecclesiae sunt 」

 

 その呪文を合図にして、再び現れた光体。

 その中には、やはり女の顔。

 先ほどよりも、さらに輪郭がはっきりとしている。

 けたけたと嗤っている。

 きちきちと、歯を鳴らしている。

 早く出しておくれ。

 ここから、出しておくれ、と。

 彼女達は、懇願の表情のままが弓兵を襲う。まるで、死に魂か何かのように。

 瞬間、先ほど弓兵の頭を過ぎった塵のように役に立たない思考は、闘争という濃密な思考に押し出されるようにして、その役目を終えた。

 

「そうだな、終わりなら、既に定まっている。もう、完成しているのだから」

「何?」

 

 怪訝な、髑髏の声。

 その声と重なるように、もう一つの声が響く。

 淡々と、軽い響きで。

 

「壊れた幻想」

 

 

 地が轟いた。

 地震。

 少なくとも、蒼い髑髏はそう感じた。

 だが、彼の仇敵はそう感じなかったのだろうか。

 悠然と、彼目掛けて飛び込んでくる。

 それは今までとは比べ物にならない速度。

 まるで、隼。

 脅威を感じたのは、髑髏。

 飛び退いてかわそうとする、髑髏。

 光体に迎撃を命じようとする、髑髏。

 

 しかし、そのいずれもが叶わなかった。

 

 なぜなら、彼の足元には頼るべき地面が無かったからだ。

 故に、飛び退けない。

 故に、迎撃を命じる余裕が無い。

 一瞬。

 固体のように凝縮された時間の中、弓兵の作り出した一瞬の空白。

 それは、髑髏にとって、如何にも致命的であった。

 当然、弓兵はそれを見逃さない。

 見逃すはずが無い。

 彼の手には、常の双剣は無かった。

 代わりに取り出したのは、槍、のようなもの。

 

 奇妙な武器であった。

 いや、そもそも武器と呼べるのものなのかどうかが怪しい。

 それを、何と表現すればよいだろうか。

 長柄の先に、大きく湾曲した刀身が付いている。しかし、あまりに極端な反りによって刃先は大きく内側に隠れ、刺突という機能は完全に失われているといっていい。

 そして、何より奇妙だったのは、その刃が湾曲した内側にしか付いていない点だろう。刃が外側に付いているならば相手を撫で切る際に有効であるのだが、この武器ではそういった使用方法は期待できまい。

 鎌。

 槍の穂先、その代わり農夫の使う鎌を取り付けた。

 外見からは、そのようにしか判断できない、そんな武器だった。

 或いは、ある種の拷問道具の中にこういった形状のものがあったかもしれない。

 扱い辛い。

 武器の扱いに慣れた者ならば、おそらく誰もがそう思うだろう。

 長柄の得物の最大の利点はそのリーチだが、逆に言えばその懐の深さは弱点にも成り得る。長柄の武器は、一般的にその先端部にしか殺傷力が備わっていないため、一度間合いを侵されると圧倒的な不利に陥るからだ。

 鋼鉄の柄による薙ぎ払いこそが長柄の真価、そういう意見もあるだろうが、薙ぎ払いはその予備動作の大きさと打ち終わりの隙の大きさから、間合いさえ掴めてしまえばそれ程脅威のある攻撃方法ではない。少なくとも、攻撃方法がそれしかないと分かっていれば防御するのも回避するのも容易である。

 故に、刺突という機能が必要になってくるのだ。最小限の動きで点を破壊するというその機能は、他のどんな攻撃方法よりも機能的で致命的だ。その上、打ち終わりの隙も少なく、他の攻撃への連携も繋げやすい。これは間合いを侵そうとする敵にとって、この上なく厄介な攻撃方法である。また、単純に攻撃方法の選択肢を多くするという意味で相手にかかるプレッシャーもあるだろう。

 だが、この武器は。

 刺突という機能は、先も言ったとおり失われている。斬るという意味でも、その機能性はお世辞にも高いとは言えない。強いて言うならば、その湾曲した先端部で、引っかくように相手を搔き切る、それくらいだろうか。それとも、棍棒か鉄パイプのように殴りつける。それくらいの用途しかないように思われる。

 なんにしても、扱い辛い。

 それは、異形の武器であった。

 

 それを携えて、弓兵は予言者の懐に飛び込む。

 髑髏は、それに対応することが出来ない。

 

 弓兵は、その武器を横薙ぎに振るう。

 髑髏は、それをかわすことさえ出来ない。

 

 弓兵の放った一閃は、予言者の喉笛を掻き切る。

 髑髏の、半ば断ち切られた首から、間欠泉のような血液が舞い散る。

 

 その武器の名は、ハルペー。

 

 かの女怪、メデューサの首を断ち切った、首狩の鎌剣。

 

 不死者、かの武具をもってつけられた傷、治癒させること、能わじ。



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episode41 遊ぼう、まずはそれから

 悪い冗談みたいな光景だった。

 男が立っている。

 まるで、長い歴史、風雨に晒された石像のように、厳然と、立っている。

 しかし、その石像には、首が無い。

 その男には、首が無いのだ。

 そして、首が無い男の後ろで、何かが揺れている。

 何か。

 球に近い。

 それが、揺れている。

 それが転げ落ちないのは、辛うじて繋がった皮、一枚のおかげ。

 ぶらぶらと、揺れている。

 それは、風に遊ばれる巨大な果実、そのように見えないこともない。

 ぶらぶら、ぶらぶら。

 

 揺れているのは、人間の頭部。

 

 私が放った斬撃によって半ば断たれたそれは、まるで大きく後方を覗くかのように仰け反り、その極彩色の切断面を露にしている。もし、今、奴に意識があるならば、上下逆さまになった自分の背後の風景を見るという、中々に得難い体験をしているはずだ。

 皮一枚をもって胴体と繋がったその様は、前後が逆であることを除けば、古来の切腹の作法である『抱き首』の状態に近いといえるだろう。

 胴体側の切断面より舞い散る血飛沫。それは、瞬時に大気と交わり、胸の悪くなるような血臭を周囲に撒き散らす。その臭気も、雲ひとつ無い晴天のもとでは、どこか良く出来た芝居めいた非現実感を醸し出すにすぎないのだが。

 どれくらいの間があったのだろうか。少なくとも、間欠泉のようなその墳血の勢いが、ゆったりと染み出す湧き水のそれになる位の時間はたったはずだ。

 やがて、石像のように確固と直立していた奴の体は、ゆっくりと崩れ落ちた。

 前後に倒れたのではない。

 跪くように、下に。

 力無く、だらりと下げられた両の手はそのままに、まずは膝がコンクリートとぶつかる。ごん、という乾いた音が響き、そして、奴はゆっくりとうつ伏せに、前方に向かって地面に伏した。

 自然、奴の仮面が見えた。

 ぼう、と上空を見上げる、生首。

 泣き顔の、恨めしそうな、顔。

 それは、当然のことではあるが、奴の生前と何ら変わることはない。

 ただ、無機質で、道化染みている。

 勢いを失った墳血が、じわじわとコンクリートを紅く染めていく。それはやがて私のブーツを濡らしたが、私はそれをじっ、と見つめただけだった。

 別に、敗者に黙祷を捧げていたわけではない。

 ただ、驚いていたのだ。 

 

 呆気なかった。

 

 意外を覚えるほどに、呆気なかった。

 拍子抜けと言ってもいい。

 あの夜、キャスターの大魔術をまともに喰らって、なお嗤っていた化け物と同一とは、とても思えない。

 或いは傀儡かとも思ったが、どうもそうではない。この魔力の色と質は、確かにあの夜感じたそれらと同一である。

 確かに、奴の首を断ち切った武具、ハルペーの持つ効力は奴にとって天敵であるだろう。また、そういった武具を相手によって使い分けられることが、私が持つ一番大きなアドバンテージであることも間違いない。

 屈折延命。

 自然治癒以外の如何なる再生能力も無に帰すこの鎌剣の効力は、不死を武器とする死徒のような類には効果覿面である。もちろん、私はそれを承知の上でこの扱い辛い武具を用意したわけではあるが、こうもあっさりと勝負がつくとは思っていなかった。

 

「――驚いたな」

 

 我知らず口を割って出た呟き。

 それは、何よりも端的に私の心情を表していたのだろう。

 しかし、いつまでも呆けてはいられない。

 ライダー。

 あの夜とは、比較にならぬほどの重圧感。

 如何にセイバーでも、苦戦は必至だろう。

 手を出すな、とは言われたが、まさか彼女が殺されるのを、指を銜えて見ていられるほど私も正直者ではない。

 これは戦争。

 いかなる手段もその目的のもとに正当化される。

 ならば、例え彼女に蔑まれることになろうと、私はライダーを討とう。卑怯者と謗られようと、背後よりライダーを射抜こう。

 そこまで考えて、私は足を上げた。

 いや、上げようとした。

 だが、足は上がらなかった。

 何かが、足首を、掴んでいた。

 がっちりと。

 生者を海底へと引きずり込む、亡者の手のように。

 ぞくり、と、冷たい何かが脊髄を駆け上る。

 驚愕と、一握りの得心を持って、地面に目を向ける。

 そこには。

 

「ぐぶ、私も、驚いだよ」

 

 首を断たれたまま、ごぼごぼと血泡を吐き出し嗤う、泣き顔の髑髏が、居た。

 

episode41 遊ぼう、まずはそれから

 

 髑髏の背中が、沸き上がる。

 ごぽごぽと、沸騰する熱湯のように。

 襤褸のような外套、その下で何かが湧き上がっている。

 

「その武器は何だ?いま一つ、傷の治りが悪い。差し詰め、対不死者用に特化した武具といったところかな?」

 

 相も変わらず、彼の首は断たれたまま。

 うつ伏せに寝転がった身体で、首だけが仰向けに弓兵を見つめる。

 呼吸器官など存在しない、首だけの髑髏が、和やかに語りかける。

 ぼこぼこと変質を続ける髑髏の背中。

 徹底的に現実感を欠いたその光景が、弓兵から咄嗟の判断力を奪った。

 髑髏の握力など、たいしたことは無い。少なくとも、英霊の末席である弓兵が振り払えないほどのものではない。

 しかし、彼は動こうとしなかった。

 いや、動けなかった、と言ったほうが正しい。

 今、彼の思考を支配しているのは、たった一つの疑問である。

 

『何故』

 

 この一つの、しかし根源的な問いが、彼から行動を奪った。

 何故。

 何故、髑髏は生きているのだ。

 確実に、奴の急所を破壊した。

 しかも、その得物はハルペー。

 例え、伝説に名高いかの女怪でも、死ぬ。

 死なざるを得ない。

 なのに、何故。

 

「しかし、中々小細工をしてくれるものだな。床丸ごとを落とすことで私の足止めをするとは。階下の人間などどうなってもいい、そういうことかな?」

 

 それは、この異形の髑髏の言うとおりである。

 円を描くように逃げ続けた髑髏。

 それを追う弓兵は、彼に向かって短刀を投擲し続けた。

 そして、地面に突き立つ短刀。

 それらの描く地上絵も、当然、円を描く。

 弓兵は、地に突き立ったそれらを、頃合を見て爆破した。

 全く同一のタイミングで爆発する剣の形をした爆弾は、二人の戦闘によって劣化した地面を破壊する。

 例えば、缶詰の蓋のように、綺麗に抜け落ちるならよし。

 或いは、粉微塵になって崩れ落ちるなら、それもまたよし。

 いずれにしても、致命的な隙を作ることが出来る。

 弓兵はそう考えていた。

 現実には、屋上の地面となっていたコンクリートは、爆発によって作られた断面を境に僅か数十センチ陥没したに過ぎなかった。それでも、弓兵はその隙を見逃さなかったわけではあるが。

 つまり、おそらくは階下で失神している生徒達に被害は出なかった訳だ。崩れ落ちたコンクリートの破片で傷ついた者くらいはいたかもしれないが。

 だが、それはあくまで結果論である。万が一、コンクリートの床が丸ごと崩落し、階下の生徒が下敷きになる可能性は存在した。

 弓兵は、あえてそれを無視した。

 確かに、彼はその解析能力と空間把握によって、こうなることを見越した場所を戦場にすべく、敵を巧みに誘導した。

 しかし、それだけだ。

 もし、万が一の事態が起きたら。

 万が一、階下の人間が、死ぬことがあれば。

 

 運が無かったのだろうさ。

 

 そう割り切るだけの非情さを、彼は兼ね備えていた

 時と場合によっては、目的のために自らのマスターすら切り捨てる強さ。

 荒れ果てた荒野を、ただ一人突き進むことの出来る、覚悟。

 それは、紛れも無く彼の強さであり、彼の歩んできた道程の苛烈さを物語る。

 その彼が、例え一瞬とはいえ、戦場において思考を奪われた。

 一瞬。

 だが、致命的、そう呼べる隙。

 その瞬間に、髑髏は、変貌を遂げていた。

 辛うじて人と呼べるものから。

 明らかに、人とは異なるものに。

 結論から言えば、彼は誤った。

 弓兵は、武器の選択を誤ったのだ。

 この人ならぬ人型を倒すために彼が手にすべき得物は、屈折延命を持つハルペーなどではなかったのだ。

 彼が手にすべきだった得物は、かの大英雄の、斧剣。

 そして、それの繰り出す絶技。

 斬っても斬っても、無限に増え続けるヒュドラ、その頭の全てを同時に射抜いたとされる大英雄の射を模した、剣の技。

 射殺す百頭。

 増え続けるものを、殺しきる。

 その剣が、そして技こそが、相応しかった。

 

 つまり、単純なことだ。

 一匹の巨象を倒すよりも。

 同じ質量の蟻の群れを、殺し尽くすほうが、遥かに難しい。

 それだけのこと、だった。

 

 

 ばしゃあ、と、液体の零れる音。

 同時に、びびび、と、繊維の裂ける音。

 ぶちぶちと、肉の千切れる音。

 同時に、きちきち、と、何かの軋る音。 

 神経に触る音の、大合奏だ。

 その指揮者、目の前の髑髏は、嗤っていた。

 くふくふと、さも楽しげに。

 

「接近戦を挑んだのは、他ならぬ君だ。

 ――よもや、卑怯とは言うまいね」

 

 奴の背中から、何かが、生えていた。

 宙そのものを掴み取ろうとするかのように、ばらばらに蠢く何か。

 先端は、尖っている。表面には性質の悪い悪膿のような突起が付着しており、フジツボのへばり付いた鯨の頭部を思い起こさせる。黒光りのするそれらは、金属質の光沢と、訳のわからぬ粘液に濡れ、如何にも不快なイメージを叩き込む。

 先端以外の部分には、それ自体が凶器じみた、凶悪に太い繊維が生え揃っている。

 そして、それらが幾つかの節に分かれ、ぎちぎちと、蠢いている。

 脚。

 それも、蜘蛛。

 タランチュラ。

 それの持つ脚部を凶悪にすれば、こういったフォルムになるのだろうか。

 しかし、このサイズは。

 かの槍兵が持つ、真紅の槍。

 それよりも、長い。

 その節を伸ばせば、一本が三メートルには届くだろうか。

 長大な、脚。

 それが、髑髏の背中から、生えていた。

 その光景、例えアラクノフォビアで無かろうが、常人であれば卒倒することは間違いあるまい。

 そんな、姿。

 スキュラ。

 伝説上の、幻獣。

 下半身を、醜い六頭の猛犬に変えられた、悲劇の美女。

 何故か、そんなイメージが、浮かんだ。

 断たれたままの奴の首。

 それが、嗤う。

 嗤い続ける。

 

「君は英雄だ。八対二。常識的な数字で安心したかね?」

 

 どうやら今日は、厄日らしい。

 私は大きく溜息を吐いた。

 



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episode42 君の名を呼ぶ

 金属と金属のぶつかる音。

 火花が舞い散り、硬質な擦過音が神経に鑢をかける。

 それらに、時折液体をぶちまける音が混じる。

 周囲をそれらの音で飽和させながら、二人は戦う。

 いや、二人、という表現が果たして正しいかどうか。

 少なくとも、片方は人の姿をしていない。

 背中より化け蜘蛛の脚を生やし。

 あっさりと、まるで模型か何かのように、一度は泣き別れになった頭部を嵌め込んだその姿。

 それを、人と呼ぶには、一抹の抵抗がある。

 あれを人となど、呼べるものか。

 人ならば、自らの誇りにかけて、そう思うに違いない。

 あれは、人では無い。

 人では、無い。

 

 戦局は、先ほどと正反対になった。

 髑髏は前進する。

 弓兵は後退する。 

 弓兵が、飛び退く。

 髑髏が、間合いを詰める。

 接近戦を嫌がっているのは、明らかに弓兵。

 彼のクラスの持つ特性からすればそれは当然のことと言えるのだが、先ほどまで執拗に接近戦を挑んでいた彼の戦い方を考えれば、些か弱腰との謗りを免れまい。

 ならば、賞賛を受けるべきは彼を後退させた預言者か。

 しかし、それもまた抵抗がある。

 けたけたと嗤いながら、人外の武器を持って英雄を追い詰めるその姿。明らかに、英雄に討たれるべき、醜怪な化け物。例えその実がいかんであっても、人は視覚にこそ真実を求める生き物。ならば、彼を手放しで賞賛するのは不可能だ。

 いずれにせよ、追う預言者と、退く弓兵。

 その構図に間違いは無い。

 何故、そのような構図が出来上がったか。

 それは、機先を制したのが預言者であったからだ。

 タイミングの上でもそうであるし、精神的にもそうだ。

 本来の弓兵ならば、いくら如何に相手の手数が多かろうが、その程度のことで後退することなどあり得ない。彼は機関銃の一斉掃射の如き槍兵の攻撃と互角に打ち合ったのだから。

 だが、預言者の身体の奇怪性が、弓兵の攻撃から積極性を奪った。

 この八本の脚だけならば、何の問題も無い。現に、襲い来るそれらを、捌き、いなし、そして斬り飛ばしている。つまり、押す退くという駆け引きを除けば、依然優位にあるのは弓兵なのだ。

 然るに、弓兵が敵の懐に飛び込めないのは、再生し続ける蜘蛛の脚と、それ以上に預言者の隠し玉を恐れるからだ。

 まだ、何か隠しているのではないか。

 まさか、これだけではないだろう。

 その、思考。

 彼の長年に亘る闘争の歴史、それが告げる警告。

 それらは、まさに正しい。

 その事は、遠からず実証される。

 

episode42 君の名を呼ぶ

 

「……貴様、本当に、人か?」

 

 またしても、唇を裂いて出た、呟くような疑問。

 このような状況においては、それは無意味どころか罪悪ですらあるだろう。

 しかし、目の前の髑髏は、やはり嗤いながらそれに答える。

 

「くふ、私は人だよ。少なくとも、貴様よりは人に近い。

 なぜなら、私はまだ人を殺したことが無い。なるほど、そう言う意味では、君は英雄だ。一人殺せば殺人者、百人殺せば英雄か、名言だな、これは」

 

 嘲る口調。

 しかし、奴の攻撃の苛烈さは一向に衰えない。

 脚。

 先端を凶器と化した、現実にはあり得ない蜘蛛の脚。

 それが、絶え間なく私を襲い続ける。

 上から、振り下ろすように。

 横から、降りぬくように。

 下から、掬い上げるように。

 絶え間なく、ほぼ同一のタイミングで。

 ぎちぎちと、不快な音をたてながら。

 それと、打ち合う。

 下がりながら、打ち合う。

 がりがりと、剣戟の音を立てながら。

 干将・莫耶。

 両手に握った双剣で、それらと打ち合う。

 金属質な先端部は、流石に硬い。

 故に、狙いは節。

 そこなら、比較的簡単に切断することが出来るからだ。

 それだけ。

 それだけのこと。

 斬り飛ばせば、生え変わる。

 無限めいた再生力。

 たったそれだけのことだ。

 たいしたことは無い。

 これならば、あの夜の槍兵のほうが、遥かに脅威である。

 しかし、私の足は、前に出ることを知らない。

 下がり続ける。

 このまま奴と打ち合えば取り返しのつかないことになる、まるでそう言うかのように。

 その時、妙に間の抜けた声が、聞こえた。

 本当に、間の抜けた。

 

「おやあ?」

 

 それは、目の前の髑髏から。

 

「おやおやぁぁぁ?」

 

 今まで聞いたことのないくらい、神経に触る声で。

 

「おやおやおやぁぁぁぁぁぁ?」

 

 奴は、笑い始めた。

 

「くはッ!」

 

 笑いながら、前に出てくる。

 

「あはははははははは!」

 

 奴の腹部が、盛り上がった。

 

「ふっはははははははははは!」

 

 そこから、何かが飛び出てきた。

 

「ヒヒヒヒひひひひひひひひひひひ!」

 

 私の眉間を狙ったそれを、辛うじてかわす。

 

「やめてやめてやめて!」

 

 それは、鎌だった。

 

「しぬしぬしぬしぬしぬしぬ!」

 

 ぬらぬらと、まるで死蝋化した死体のように濡れた、金剛石の、鎌。

 

「なるほどなるほどなるほどなるほど!」

 

 そのとき、上から何かが降ってきた。

 

「そうかそうかそうかそうかそうかそうかそうか!」

 

 それは、針。

 

「かわいそうにかわいそうにかわいそうにかわいそうにかわいそうに、かわいそうになあ!」

 

 鎌と同じく、てらてらと光った、腐った金剛石の、蠍の持つ、毒針。

 

 横っ飛びに、かわす。

 がしゃ、と、コンクリートに何かが刺さる音。

 体から、明らかに己の質量を超える虫の器官を生やした醜悪な預言者は、それに喰らいついてくる。

 

「――何が、そんなにおかしい」

 

 私の手には、 干将・莫耶 。

 しかし、それは短刀と呼べるようなサイズではない。

 まるで、ささくれ立った私の心情を吐露するかのように、凶悪なフォルム。

 かの大英雄の岩剣、それに届かんとする刃渡り。

 背には、猛禽類の持つ、初列風切羽根のような、棘。

 なるほど、これは名剣である。

 使い手の欲しい形状を、ここまで如実に読み取ってくれる。

 オーバーエッジ。

 

「ふんっ!」

 

 干将を、横薙ぎ。

 莫耶を、上段から振り下ろす。

 それらを、同時に。

 必殺のタイミング。

 然り、髑髏は反応すら出来ない。

 胴は真っ二つに切り裂かれ。

 肩から腰骨まで、一文字に裂けた。

 金剛石の鎌は折れ。

 同じく、金剛石の毒針は千切れ。

 鋼鉄の蜘蛛の脚、その半ばを断たれても。

 やはり、髑髏は、笑っていた。

 

「Equus albus,Equus rufus,Equus niger , Equus pallidus!」

 

 千切れた上半身、それが過たず、下半身と癒着する。

 

「Epheso, Smyrnae, Pergamo, Thyatirae, Sardis,Philadelphiaeフ, Laodiciae!」

 

 奴は、大きく後ろに飛び退いた。

 

 現れた光体は、三桁に届かんとする、大群。

 それらは、やはり、きちきちと歯を鳴らし、私を慈しむように包囲した。

 同時に、奴の体から、ぶちぶちと、無数の突起が飛び出た。

 それは、脚であり、角であり、鋏であり、鍵爪であり、触脚であり、毒針であり、鎌であり、牙であった。

 ありとあらゆる虫の、最も攻撃的なパーツ、それが奴の体から生え揃っていた。

 悪夢。

 悪夢が、嗤っていた。

 

「八対二ではなかったのか」

「くふ、預言者とは嘘吐きの別称である、そうは思わないかね?」

「ふん、違いない」

 

 間合いは、一足一刀よりやや広いか。

 固有結界の詠唱には、時が足りない。

 周囲には、鼠の子一匹這い出る隙間も無い。

 そして、全方位を同時に攻撃する武器は、無い。

 ローアイアスでも、背後、上空からの攻撃をかわすのには厳しいか。

 なるほど、これは『詰み』に嵌った、そういうことか。

 己の置かれた状況に、苦笑が漏れた。

 それでも、最後まで為すべきことは為さなければなるまい。

 

「――工程完了。全投影、待機」 

「君は、初めから全力で来るべきだった。そうすれば、私如き一溜りも無かっただろう」

 

 ――確かに。

 私は、全力のつもりだった。

 全力で弓を絞り、剣を振るった。

 しかし。

 しかし、固有結界の展開を含めた、本当の全力にはほど遠かった。

 勝てる。

 戦力を温存したまま、勝てると。

 この敵は、所詮そこまでではないと。

 そう、思い込んでいた。

 少なくとも、ハルペーが奴に通じなかった時点で、早々に戦術を切り替えるべきだったのだ。

 慢心。

 そう、言ってもいいだろうか。

 

「……貴様、さっきまで手を抜いていたか」

「いやあ、どうも君と打ち合っていると興が乗ってきてね。少し、無茶をしてみた。しかし、何とかなるものだね、意外と」

 

 仮面の下の奴の顔が、おそらくは喜悦に歪んだ。

 確かに、私は追い詰められている。

 しかし、この程度の窮状、生前に幾つも切り抜けた。

 鷹の目、そして心眼。

 ならば、此度も切り抜けてみせる。

 

「停止解凍、全投影連続層写――!」

「させるか――」

 

 その二つの声。

 それに、もう一つの声が、重なった。

 

「――Ατλασ」

 

 時が、止まる。

 原子が、その運動を止める。

 声も出ない。

 ただ、光のみが、己の置かれた状況を認識させる。

 周囲は、静寂に満ちていた。

 静寂の中で、静止していたのだ。

 異形の預言者も。

 奴の生み出した、女の顔をした、何かも。

 そして、私も。

 あらゆるものが、静止していた。

 

「貴方も英霊の端くれでしょう。その程度、自分で何とかしてみなさい」

 

 そんな、キャスターの声。

 無茶を言ってくれる。

 神代の大魔術師、その魔術を、この脆弱な身をもって打ち破れと。

 しかも、それが味方と呼べる女性の言なのだから、始末が悪い。

 ここで私が尻尾を巻けば、彼女から永遠に嘲笑されるは必定。

 ならば、あの愚か者ではないにせよ、虚勢を張らねばなるまい。

 精一杯の、虚勢を。

 

「――なるほど、君はいい女だ」

「やっと気付いた?」

 

 ぱりん、と、音を立てて砕け散った何か。

 それを無視して、私は疾走する。

 目標は、かの髑髏。

 私の手には、干将・莫耶――。

 

「駄目!」

 

 彼女の声が、響く。

 

「投影するなら、あの化け物の斧剣にしなさい!」

 

 ――。

 事の仔細を考えている余裕は、無い。

 今は、彼女の言葉こそが絶対だ。

 

「I am the bone of my sword.」

 

 虚空から、絶大な重量感。

 ずっしりとした、節くれ立った感触。

 それを、握り締める。

 なるほど、これが正解だ。

 なんの根拠も無く、確信した。

 

「ちいいいぃぃぃぃっ!」

 

 私とほぼ同時に、奴も戒めから解き放たれていた。

 当然だ。

 奴と私は同一の魔術によって固定化され、それを私が打ち破ったのだから。

 しかし、私のほうが、疾い。

 私のほうが、最初の一歩が、早い。

 だから、貴様には、かわし得ない。

 

「それがどうした!私には、これが――!」

 

 襲い来る、忌まわしい光球の群れ。

 しかし。

 

「――Αερο」

 

 光球は、その数を上回る、魔女の光弾によって、打ち消された。

 

「ねえ、坊や。これ、ひょっとして、魔術のつもり?」

「おんなぁぁぁぁぁぁ!」

「脆すぎるわ。もう少し、勉強なさい」

 

 奴は飛び退く。

 私は、その分前進する。

 戦局は、再び逆転した。

 そして、三度逆転させるつもりは、毛頭無い。

 ここで、決める。

 必殺の意思。

 それを込めた、大上段からの一撃。

 

「ちいいいいぃぃぃぃぃ!」

 

 奴は、体から生やした無数の脚を、牙を、角を、鋏を。

 全て、防御に回した。

 折りたたまれた、黒い塊。

 硬い外骨格。

 攻めれば、全てを貫く矛。

 守れば、全てを弾く盾。

 まるで、黒い、壁。

 しかし、この剣は、それらの概念全てを叩き伏せる、神の仔の怒り。

 小汚い虫程度に、防げるものではない。

 構わず、振り下ろす。

 割り箸を折るように、軽い感触。

 ばきばきと、小枝を折るような、小気味のいい音。

 そして、紙の如く切り裂かれる、外骨格。

 不潔な粘液が、飛び散る。

 それは、コンクリートの地面に付着すると、じゅ、と奇妙な音を立てた。

 剣は、全ての盾を両断した。

 ぶすぶすと、辺りを焦げ臭い幻臭で圧しながら、振り切られた一撃。

 そして、奴は――。

 

 無傷で、そこに立っていた。

 全ての虫の器官を切り離し、奴はそこに立っていた。

 なるほど、あれは囮。

 堆く積まれた外骨格を囮にして、奴は逃げ出していたか。

 蜥蜴の尻尾きり。

 ほんの少しだけ、感心した。

 そして、奴は無傷。、

 今までと、同じ。

 しかし、今までとは様子が違う。

 そこに、一片の余裕も無い。

 ただ、必死に、己の不死を忘れたかのように、荒く呼吸を繰り返す。

 あたかも、寸でのところで断頭台から生還した、死刑囚のように。

 ぜえぜえと、見苦しく。

 まるで、生き物みたいに。

 

「……私如きに、英雄二人掛りか」

「まさか、卑怯なんて言わないわよねえ。二対一。常識的な数字でしょう?」

「――ふん、身に余る光栄だよ」

 

 肩を激しく動かしながら、奴は喘ぐように、言った。

 己から生え出した、忌まわしい虫によって切り裂かれた襤褸の外套。

 その隙間から覗く、褐色の皮膚。

 そして。

 

 辛うじてかわした、私の剣線。

 それが両断した、奴の仮面。

 かつん、と乾いた音が、今更のように響いた。

 

 そこに在ったのは。

 泣き顔の仮面、その下に在ったのは。

 見るも無残な焼け爛れた顔でもなく、この世のものとも思えぬ醜男でもない。

 端正な顔立ち。

 鷹のように鋭い目つき。

 すっきりと通った鼻筋。

 形の整った唇。

 

 しかし。

 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。

 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。

 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。

 睨目上げるその視線は肌に纏わりつくようで酷く不快だ。

 そして、何より不快なのは、その顔が私の知っている奴によく似ていたからだ。

 

 この上なく知っている、その顔。

 

「アーチャー……」

 

 凛の呟き声が、聞こえた。

 

 



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interval3 IN THE DARK ROOM 3

interval3 IN THE DARK ROOM 3

 

 

 闇が、身体の輪郭を暈している。

 この部屋に入るときは、いつもそうだ。自分が、果たして自分という個を維持しているのかどうかが怪しい。まるで、私の中にある濁ったモノが外界と融合して、私の外殻を塗り潰しているのではないか、そんな妄想すら抱いてしまう。

 周囲を見渡すが、壁らしきものは見当たらない。

 暗い空間に、ぽつん、と一人。

 くらい、へやだ。

 その他には、いかなる形容詞も相応しくないと思える。

 寒くもないし、熱くもないし、快適でも、不快でも、ない。

 それでも、辛うじて探すならば、『広い』という形容は出来るかもしれない。

 そう、きっと、広い部屋。

 ひょっとしたら無限に広がるほど広いのかもしれないし、もしかしたら手を伸ばせば壁に触れられる程狭い部屋なのかもしれない。

 しかし、それはたいした差異を持たないだろう。無限とは、人の認識を超越するものの総称である。底の無い沼など存在しないが、人を飲み込むほど深い沼ならば、それは間違いなく底無し沼と呼ばれるのだ。

 故に、はっきりとした広さが分からないならば、それが分かるまでは無限に広いのと同義。そして、私自身にこの部屋を調べるつもりがない以上、そのことは永遠に変わらない。

 だから、この部屋は、きっと広いのだろう。

 ふ、と後ろを見る。

 そこには、小さな木製の椅子があった。

 暗闇に照らされたこの部屋で、唯一視認できる、唯の椅子。

 何の外飾も無い、座り心地の悪そうな、木製の椅子。元はさぞ豪奢なものだったのだろう、しかし、今は時の流れの残酷さの生き証人としての価値以外は、如何なるそれも残っていないようだ。

 クッションなどという、高尚なものは備え付けられていない。背もたれだって、半分以上朽ちている。四つ在る足のうち、二つの長さが不揃いで、座るたびにがたがたと、不要なストレスを与えてくれる。

 足と地面の間に雑誌でも噛ませれば、幾分マシになるのだろうか。ただ、それは適わぬ願いだということは、この私が誰よりも知っている。

 結局、立ちんぼが嫌になったら渋々座る、それ以上の建設的な機能は持っていない。むしろ、直接地べたに座った方がひょっとしたら楽なのかもしれない。

 それでも、私は偶にあの椅子に座るのだが。

 そして、今、そこには私以外の何かが座っていた。

 それは、黒いもやもやしたもの。

 どう見ても人に見えない、異形の影が、そこには在った。

 

「主よ」

 

 もやもやから、声が、した。

 それの、おそらくは口にあたる部分が、風に遊ばれるように開閉する。

 彼が話している、のだろうか。

 一度、軽く目を擦る。

 それでも、声のした方向は、やはり暗色。粘つくような黒が、声の主を、覆い隠している。

 彼は椅子に座っている。

 私は彼を見下ろしている。

 きっと、彼から見るならば、私も黒いもやもやに見えるのだと思う。この空間では、あらゆる存在自体が曖昧であやふやで、きっと無遠慮だ。

 そもそも、本当に声の主はいるのだろうか。幾度も、本当に嫌になるくらい幾度も聞いた声だというのに、私はいつも己の正気を疑うことから始めなければならない。それは、一種の儀式じみた空虚さをしか、私に与えてくれない。

 

「お久しぶり、そう言ったほうが良いのでしょうか」

「そうだな、貴方と会うのは二日ぶりか。ならば、その挨拶が相応しかろう」

 

 きっと、彼も同じ気持ちのはずだ。

 人の五感は、そのほとんどが視覚から得られる情報に頼っている。ならば、それを完全に封じられた状態で外界を認識するなど、よほど訓練された他の感覚を持たない限り、霞を喰らう様な儚さを伴わざるを得ないのだろう。

 しかし、それは興味深い命題だと思う。

 さて、彼は私の実在を信じているのだろうか。

 私は彼を見たことが無い。

 ならば、彼も私を見たことは無いはずだ。

 彼と私は、交わらない。

 それでも、私と彼はマキリに必要とされた。

 きっと、それは幸福と呼べる領域に存在する出来事なのだと思う。少なくとも、幸福を知らぬことよりは、より幸福に近い。

 だが、私と彼は、全く異なる存在として、マキリに必要とされた。

 私は、後継者を孕むための胎盤として。

 彼は…どうなのだろうか。

 ともかく、その方向性は違えど、本質は一緒である。

 だから、彼が私を主と呼ぶのは、ただ単に、私がこの部屋の先住者であったからに過ぎない。それが一体どれほどの価値を持つことなのかは彼にしか分からないだろう。一度戯れに聞いてみたが、笑ってはぐらかされてしまった。

 

「ライダーは、そろそろ完成する」

 

 思考の海の底に沈んでいた私は、彼の穏やかな声によって浮上を余儀無くされた。

 糸屑ほどの羞恥を覚えつつ、胡乱な答えを返す。

 

「完成しますか」

「ああ、完成する。今だ至らぬが、方向性は定まった。彼女の理性はそれに抗うことなど適うまい。完成に至るまでに一体幾人の命を捧げなければならないのか想像もつかないが、それでも彼女は完成するだろう。あの凡人も、それなりの役目を果たしたらしい」

 

 凡人と呼ばれた男。

 私の兄。

 彼の死は、その詳細に亘るまで、私の知覚に記憶されている。

 無惨な、最期だった。

 彼は、それなりの罪を犯したのだろう。しかし、あれほど無惨な死を強制されるほど、罪深かったとは思えない。

 きっと、私が殺したのだ。

 それは、真実よりも、事実に近い。

 

「――結局のところ、駒は使いようだということでしょう。あらゆる局面で、飛車角が歩よりも優れるわけではない、そういうことです」

「なるほど、偶像を汚すのには、何人よりも凡人こそが相応しい、そういうことか」

 

 彼が、にんまりと笑った気配が伝わってきた。

 何だかんだ言って付き合いの長い私達だ。一度も彼の顔など見たことも無いが、それでも私は間違えていないと思う。

 

「しかし、これほどまでに事が上手く運ぶとは思わなかった。あの盆暗に貴重な戦力を貸し与える、如何にも愚考としか思えなかったが、今となっては己の蒙昧を恥じ入るのみだな。あとは怪物同士、せいぜい派手に喰らいあってもらおうではないか」

 

 興奮しているのだろうか、いつもより饒舌な彼。

 私は冷ややかにそれを見つめる。

 

「あれさえいなくなれば、あとは未熟な小娘に率いられた有象無象の群れ。君にとって物の数ではあるまい?くふ、これも神の思し召しか」

「黙りなさい」

 

 硬い声。

 己でもそれと分かるくらい、嫌悪に溢れた、声。

 

「その単語を私の前で使うことは許可しません。私は、まだそれほどに病み疲れてはいない。それに、此度の最大の敵は、間違いなくそれの僕である言峰神父なのだから」

 

 そうだ。

 そんなこと、事が始まる前から分かりきっていた。

 

 彼は、強い。

 

 あらゆる意味で。

 その肉体が。

 その技術が。

 その覚悟が。

 その精神が。

 その思考が。

 

 そして、その存在そのものが。

 

 だから、私は勝てない。

 私では、絶対に彼に勝てない。

 それは、先日の邂逅にて確定した。

 ならば、どうするか。

 簡単なことだ。

 私以外のものに、彼を倒させればいい。

 

「ほう、ならば、主の狙いは」

「ええ。早い時点において言峰神父の戦力を引き摺り出すこと。そして、その弱体化。遠坂陣営の弱体化など、二の次、三の次です。彼らを食い合わせることが叶えば、言うことはありませんが、流石にそれは高望みでしょう」

 

 くつくつと嗤いながら、彼はゆっくりと立ち上がった。

 彼を包む靄が、僅かにぶれる。

 その意図は何となく分かった。

 彼は、休みたいのだろう。

 

 一通りの報告を終えると、彼は言った。

 

「些か疲れた。今日は休ませてもらう」

「貴方ほどの人が、消耗させられましたか」

「ああ、なるほど英雄、伊達ではなかったよ」

 

 彼は苦笑した。

 その表情には、厚い靄をもってしても隠しきれない疲労が強く滲んでいた。

 

「勝てませんか」

「勝ち得る。しかし、今だ満ちぬ。酒精の注がれぬ酒盃など、如何に贅を尽くそうが唯の置物と変わるところが無い。中身があってこそ、興も、その本質も生まれよう」

 

 その言葉に、虚栄や恐れは無かった。

 確信。

 己の存在に対する確信が、あった。

 

「ならば、安心してください。次に貴方が目覚めるときには、なみなみとした神酒を用意しておきます故」

「ああ、期待しているよ」

 

 彼はそう言って虚空に姿を消した。

 空間が、再び静寂を帯びる。

 針の落ちた音ですら反響するような、無限の闇。

 そして、目の前には古びた椅子。

 私は、きょろきょろと雑誌を探した。

 いつも通り、それはどこにも見当たらなかった。

 



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episode43 Those long thoughts after the end.

『――つまり、名前と言うものが持つ魔術的な意味というものはかくも大きなものなのだ。

 名前には、通常名付け親たる者の、何らかの意志が込められることが多い。健やかに育って欲しい、こうあるべきだ、そういった想いは徹底的なまでに言霊を帯び、それらは呪いとして機能する。

 卑近なる例を見れば、我が一族の隠し名も多聞に漏れず魔術的な意味を持っている。唯の言葉遊びに過ぎぬように見えるそれとて、決して軽視できるものではない。

 故に、素材につける名には、それなりの呪術的な意味合いが必要になるであろう。あれは胎盤というよりは道具であり、より細分化すれば容器の類だ。ならば、そぐわぬ名によって迷うことがあってはならない。

 候補はいくつかあるが、中でも最も道化じみたものがいい。あれが己の名を誇るようにするべきだ。愉快で、滑稽で、無様な名前。それがあれには相応しかろう』

 

episode43 Those long thoughts after the end.

  

 暗い空間に、一人で座っていた。

 ここはどこなのだろうか。

 全身を、酷い倦怠感が覆っている。

 立ち上がることも、周囲を見渡すことも億劫だ。

 ただ、自分の実在が薄れていく、そんな感覚だけがあった。

 拡散していく。

 粒子が、散々になっていく。

 ああ、俺がいなくなる。

 そんな妄想が、現実感を伴って押し寄せる。

 だから、歯を強く合わせた。

 そうしないと、何かがずれてしまいそうだったから。

 強く、歯を合わせる。

 歯を、噛む。

 軋らせる。

 そうすると、ぎちり、と肉の中で音がした。

 歯茎の、肉だ。

 その中で、音がした。

 そして、むず痒い。

 瘡蓋が固まって傷口が治癒しかけた時の痒さ、そう言えば分かりやすいだろうか。

 掻痒感に駆られて、口中に指を突っ込む。

 かりかりと、引っ掻く。

 何が痒いのか分からないが、それでも、引っ掻いた。

 まるで硬い外骨格の上から患部を掻き毟るような切なさ。

 それでも、諦めずに引っ掻き続ける。

 

 もどかしくって、かりかり。

 まどろっこしくって、かりかり。

 

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 

 原因は、そのうちに分かった。

 歯が、抜けかけていたのだ。

 犬歯。

 左側上部の犬歯だ。

 それを指で突くと、ぐらぐらと安定しない。

 そして、むずむずと、痒い。

 その感覚が、どこか心地いい。

 楽しくなってくる。

 ぐらぐら。

 むずむず。

 犬歯を指で前後に動かす。

 だんだんとその刺激に慣れてきて。

 もっと大きな刺激が欲しくなって。

 もっと、ぐらぐら動かす。

 歯茎の内の肉と、ざりざりとした犬歯の表面が、擦れ合う。

 その痒さが、この上なく心地いい。

 だから、もっともっとと動かすのだ。

 馬鹿みたいに、只管に。

 すると、ぎちり、何かが千切れる音がして。

 ずるり、と歯が抜けた。

 長さは、約三センチ程か。

 それを、握り締める。

 喪失感。

 そして、口中を満たす、濃厚な鉄の味。

 いまだむず痒い血の源泉を、舌で愛撫する。

 ぽっかりと開いた傷口。

 そこを、ちろりと舐め取る。

 その中に、何か異物感。

 尖った何かが、ある。

 何だろう。

 再び指を突っ込む。

 爪で引っかくように探ると、そこには抜け落ちた犬歯の残骸があった。

 こんなもの、残していても仕方ない。

 血溜りのような口中で、それを摘む。

 そして、一気に引き抜く。

 ずるり、と、また歯が抜けた。

 その感覚が、心地いい。

 やはり約三センチ。

 なんだ、また生えてきたんだ。

 不思議と、納得できた。

 また、舌でそこを舐める。

 やはり、そこには異物感。

 嬉しくなって、また、指を突っ込む。

 突っ込んで、引っかく。

 引っかいて、摘む。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 また、舌でそこを舐める。

 やはり、そこには異物感。

 嬉しくなって、また、指を突っ込む。

 突っ込んで、引っかく。

 引っかいて、摘む。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 指を突っ込む。

 突っ込んで、引っかく。

 引っかいて、摘む。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 指を突っ込む。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 指を突っ込む。

 ずるり。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 ずるり。

 ずるり。

 いつしか、抜け落ちた歯は、片手では掴めないほどの量になっていた。

 小山のようになったそれ。

 まるで、小人の骨のようなそれ。

 それを、強く握った。

 

 

 暗闇が恐ろしくて、目が覚めた。

 黒い、夢だった。

 黒くて、痒い、夢だった。

 息が荒い。

 額や頬を何かが伝っていく。冬場の冷気に冷やされたそれらは、細やかな蟲が皮膚を這い回るような掻痒感を味あわせてくれる。

 我知らず、息が荒い。貪るようにガス交換を行う。

 心臓が、全力疾走を終えた後みたいに、早鐘を打ち続ける。

 徹底的に口中に水分が不足しているのか、口蓋に舌が張り付く。

 べりべりと、それを無理矢理剥がすと、形容し難い不快な味が味蕾を犯した。

 反射的に唾を吐き出したくなる。

 それを踏みとどまったのは、ここが一体どこなのか分からなかったから。

 そもそも、口の中に、吐き出せるような水分なんて、残っていなかったから。

 寝起きとはいえ、自分の思考の鈍磨さに呆れる。

 とりあえず、舌で犬歯の存在を確認する。

 ざり、と舌の表面を削る、鋭い感触。

 犬歯は、そこにあった。

 安堵の溜息。

 ゆっくりと、瞼を開ける。

 何も、見えない。

 そこで、ようやく気付いた。

 暗闇に追い立てられるように夢の世界から這い出てみれば、この部屋だって暗いじゃないか。

 ひっ、と、情けない悲鳴。

 ごくり、と、存在しない水分を飲み込む。それが、安寧を得るための儀式みたいに。

 がちがちと、歯が鳴る。

 筋肉が、収縮していく。

 寒い。

 この空間は、寒すぎる。

 温もりはいらない。

 そんな贅沢は、言わないから。

 とりあえず、灯りが欲しい。

 

 暗闇は、いけない。この世界は、俺が安心できる世界じゃない。だって、どこに何があるか分からない。分からないなら、何でもあるってことだ。あらゆる可能性が等価ってことだ。蓋を開けるまで、猫は生きているか死んでいるか分からない。蓋を開けるまで、そこに何があるかは不鮮明だ。そこに何がいても可笑しくは無い。ほら、そこにだって何かがいるぞ。乾いた瞳で俺を見ているぞ。瞼の下、眼球との間に瞬膜を持つ生き物だ。水平に開閉する、カーテンみたいな膜だ。それを動かしながら、俺を見ているぞ。ちろちろと、舌で空気を嗅ぎながら、俺を覗いているぞ。しゅうしゅうと、とぐろを巻きながら、今にも飛び掛ろうとしているぞ。

 

 駄目だ。駄目だ。

 不安だ。

 暗闇は、不安だ。

 灯りが欲しい。

 灯りが欲しい。

 視線は、暗闇に。

 泣きそうに、ただ、じっと。

 手だけを、彷徨わせる。

 枕横に置いてある電気スタンド、それを点けようとして、手を彷徨わせる。

 ここにあったはずだ。

 無い。

 それとも、あそこだったか。

 無い。

 あ、ここにあったはず。

 無い。

 

 無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」

 

 無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。

 

 無い。

 どこにも無い。

 見つからない。

 灯りが、見つからない。

 暗闇が、膨張し続ける。

 

「――っ、ひぃっ」

 

 暗闇が、俺の中に入ってくる。

 眼球の隙間から。耳の穴から。鼻の穴から。食い縛った、歯の隙間から。

 ああ、死ぬ。

 狂う。

 汗が、止まらない。

 息が。

 汗が。

 拍動が。

 灯りが。

 何で。

 ここは。

 俺は。

 蛇が。

 ぱかり。

 と裂けた。

 笑みが。

 

 こ

 ろ

 そ

 う

 か

 。

 

 やめて。

 ああ。

 僕、は。

 

「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 ばん。

 扉が。

 何かが、入ってきた。

 

「士郎!」

 

 やめて、やめて、やめて。

 

「士郎、何があったの!」

 

 許して、許して、許して。

 

「士郎、しっかりして、士郎!」

 

 御免なさい、御免なさい、御免なさい。

 

「大丈夫だから、ここには貴方を傷つけるモノはいないから!」

 

 勘弁してください、勘弁してください、勘弁してください。

 

「大丈夫だから、ここは大丈夫だから!」

 

 殺さないで、殺さないで、殺さないで。

 

「私が、守るから!」

 

 何かが。

 何かが、覆い被さってきた。

 生暖かい、何か。

 生暖かくて、柔らかい。

 化け物。

 化け物が、俺を殺しに来た。

 

「いいいいぃぃぃぃぃっ!」

 

 思いっきり、押し退ける。

 それは、容易く吹っ飛んだ。

 がしゃん、と、何かがぶつかる音。

 意外なほど、軽い。

 それでも油断なんて、出来ない。

 この、白一色に満たされた空間は、きっとこいつの領分だ。

 蜘蛛の、巣だ。

 蛇の、巣だ。

 逃げないと。

 逃げないと。

 這ってでも、逃げ出さないと。

 

「ひぃっ、ひぃっ、ひぃっ、」

 

 足が、震える。

 手が、震える。

 それでも、前に。

 這いずりながら、前に。

 視界が、滲む。

 涙が。

 涙が。

 涙が。

 背中に、感触。

 捕まった。

 

「ひいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ!」

 

 反射的に。

 腕を。

 振り回して。

 ごつん、て。

 何かが、ぶつかって。

 それでも、

 この手は、

 はなして、くれなくて。

 

 拘束される。

 動けない。

 喰われる。

 噛み千切られる。

 

 いや。

 嫌だ。

 死にたくない。

 助けて。

 

「はひぃっ、はひぃっ、はひぃっ、はひぃっ!」

 

 涙が。

 涎が。

 鼻水が。

 

 動けない。

 動けない。

 動けない。

 

 手を、振り回す。

 足を、ばたつかせる。

 暴れまわる。

 全身を、跳ね回らせる。

 

 引っかく。

 噛み付く。

 殴る。

 蹴る。

 

 それでも。

 それでも、離してくれなくて。

 俺は。

 俺は、俺は、俺は。

 

「……落ち着いた?」

 

 ――。

 声。

 が。

 顔を。

 上げると、

 そこには、

 聖母がいた。

 清んだ、蒼玉の瞳。

 柔らかそうな、髪の毛。

 柔和な、唇。

 力が、抜けていく。

 虚脱感。

 安心感。

 涙が。

 やっぱり、涙が。

 ああ、何だ。

 ここは、安全だ。

 世界で一番、安全だ。

 よかった。

 

「……眠りなさい。まだ、疲れてるのよ」

 

 うん。

 ありがとう。

 ほんとうに、ありがとう。

 

 俺は、今度こそ泥のように、眠った。

 夢は、見なかった。

 

 

 痺れるような疲労に全身を撓ませながら、俺は目覚めた。

 瞼の奥が、すっきりしない。

 水晶体の裏に、何かが焼き付いているようだ。

 目を開ける。

 飛び込んできたのは、光。既に太陽が昇っているのかとも思ったが、淡いオレンジ色の光は、太陽のそれに比べて遥かに目に優しい。

 どうやら、灯りをつけっ放しにして眠っていたようだ。ひょっとしたら、不思議なくらい頭が重いのはそのせいだろうか。

 カーテンを開ける。

 外は、まだ暗かった。

 時間はいつ頃なのだろうか。

 じっと、外の暗闇を見つめる。

 

 どくり。

 心臓が、一度だけ、悲鳴を上げた。

 

 それが居た堪れなくて、俺はカーテンを閉めた。

 深呼吸。

 のそり、と体を起こす。

 その瞬間、神経そのものに針を突き刺したような痛みが全身を襲った。

 

「つうぅっ!」

 

 信じられないような筋肉痛。

 思わず声が漏れる。

 たとえ鉄人マラソンを完走したってこんな痛みはあり得ない。

 何だろう。

 俺は、何をしていた。

 いや、そもそも、ここはどこだ。

 何で俺はこんなところで寝ている。

 周囲を見渡す。

 洋風の調度。

 歴史を感じさせる家具。

 高い天井。

 

「そっか、ここ、遠坂の家だ……」

 

 少しずつ意識がはっきりしてくる。

 そうだ、今日は学校で。

 赤い世界。

 赤い視界。

 赤い、殺意。

 慎二。

 ライダー。

 藤ねえ。

 干将・莫耶。

 砕かれて。

 嬲られて。

 手も足も、出なくて。

 誰も、守れなくて。

 俺、は。

 

「――はっ、なんて」

 

 ――格好悪い。

 

 

 扉の向こうには、甘い香りが広がっていた。

 脳の奥を痺れさせるような、濃厚な香り。

 花畑のような、しかし炭を焦がしたようなその香りがアルコールのそれであると気付くまでには幾許かの時を必要とした。

 

「起きたんだ」

 

 目の前でソファにしな垂れかかる女性。

 猫みたいだ、と、埒もない感想を抱く。

 どうやら俺は疲れているらしい。そう自覚して、少しだけ笑う。

 

「ああ、お蔭様で、な」

「それ、皮肉?」

 

 彼女の手には、複雑な意匠を施したカットグラス。淡い人工の光が琥珀色の液体に飲み込まれ、彼女の手の中で複雑に揺れる。

 単純に、美しいと思った。

 

「酒、好きなのか」

 

 無粋な質問に、彼女は眉を顰めた。

 からり、と、乾いた、心地いい音が響く。

 

「何よ、人をアル中みたいに」

「違うのか?」

 

 ほんの少しだけ不機嫌そうに眉を顰めた彼女は、やや間を置いてから、自嘲気味に頬を歪めた。 

 

「これは唯の寝酒だけど……。似たようなもんね。欲しくなったら我慢ができないんだもの、何だって」

「俺も一杯もらえるかな」

 

 俺の、本当に何気ない一言に、彼女は心底驚いた顔を浮かべた。

 

「やめときなさい。美味しいものじゃないわ、これ。それに、あなた頭を打ってるでしょう」

「ああ、それでも、飲みたい」

 

 そう、と呆れながら呟いて、凛はサイドテーブルに置かれた洋酒のボトルに手を伸ばした。

 グラスは一つだけ。今、彼女の手に収まったそれだけで全てだ。

 凛は、それに琥珀色の液体と透明色の歪な固体を放り込み、人差し指でからからと掻き混ぜる。

 怪訝な俺の視線に気付いたのか、彼女は苦笑した。

 

「癖なのよ。気持ち悪かったら、飲まなくてもいいわ」

 

 彼女は、グラスからゆっくりと人差し指を引き抜くと、艶やかに濡れたそれを、丁寧に舐め取った。

 

「どうぞ。ちなみに、水割りなんて軟派な真似は認めないから、そのつもりで」

 

 ことり、と置かれたグラス。

 揺れる、琥珀色の液体。

 手に取って鼻に寄せると、濃厚なアルコールの匂いに、それだけで酔いそうになる。

 

「ウイスキーはね、色を味わって、香りを味わって、舌で味わって、熱を味わうんだって。たった一口で四度も楽しめるんだもの、お得よね」

 

 少し躊躇している俺の様子が可笑しかったのか、彼女はさも愉快そうに俺を眺めている。

 おそるおそる口をつける。

 少し粘性のある液体を口に含むと、鼻に抜けるアルコールの香りで咽そうになった。

 それでも、無理矢理に嚥下する。

 喉を、そして食道を焼くアルコールの刺激が、からからに乾いた体には優しくなかった。

 少しだけ、咽た。

 

「ふふ、だから言ったじゃない、美味しいものじゃないって」

 

 全くだ。

 こんなに、美味しくない。

 なのに。

 なあ、凛。

 お前、なんでこんなものを飲んでるんだ。

 飲まないと、寝れない夜が、お前にもあるのか。

 お前は、そんなにも――。

 

「……強いのになあ」

 

 彼女は、引っ手繰るように俺の手からグラスを奪った。

 

「でしょ?こんなに強い酒、今の貴方には優しくないわ。今夜は止めときなさい。いずれ、嫌っていうほど付き合ってもらうから」

 

 彼女は鼻に皺を寄せ、噛み付くような笑みを浮かべた。それは獰猛な肉食獣みたいな笑みで、でも、しなやかな猫が笑ったみたいだった。

 彼女は、俺から奪ったグラスを傾ける。

 彼女の、折れそうなくらいに細くて、陶磁器みたいに滑らかな白い喉が、ぐびり、と動く。その光景は、堪らなく扇情的だった。

 ここは気の利いたバーじゃないから、優しいジャズなんて流れてない。聞こえるのは、からりと崩れる氷の音と、かちかち忙しない秒針の溜息くらい。

 どれくらいの時間がたったのだろうか。

 俺の、乾いた喉が、霞んだ声を絞り出す。

 

「俺は、一体――」

「桜の話だと、あの後、私と話したすぐ後に気絶したって」

 

 霞がかった記憶が、ほんの少しずつ晴れていく。

 そうだ。

 遠ざかっていく凛の背中。

 動かない身体、そして鈍間な意思。

 桜の声。

 そして。

 

「なあ、凛。学校はどうなった。教えてくれ」

「人死には出なかった。たったの一人もね」

 

 たった一人も?

 でも、それじゃあ。

 

「慎二は――」

「それは、唯の失踪として処理されるわ。魔術師の死はいつもそう。私達は、死をすら隠さなければいけない」

 

 片頬を自嘲気味に歪めると、凛はグラスに残ったウイスキーを一気に口に含んだ。栗鼠みたいに頬を膨らまし、ごくり、とそれを飲み下して、酒精に塗れた熱い吐息を吐き出す。

「あいつ、魔術師に憧れてたみたいだから。最後は魔術師として処理された、彼の望みは叶ったのよ。ハッピーエンドよね、これって」

 凛は、自分ですら欠片も騙せないような嘘を吐いた。

 それが、俺には、堪らなく。

 痛くて、ただ、痛かった。

 

『僕は、お前が気に入らない』

 

 慎二は、そう言った。

 

『親無しの、魔術師の家系でもないくせに、サーヴァントを召喚しやがった』

 

 今にも泣き出しそうな、そんな張り詰めた声で。

 

『僕は、名門マキリの後継者だ。お前なんかとは違う、選ばれた人間だ』

 

 それだけが、あいつの支えだったんだろうか。

 

 人は、鈍感な生き物だから。

 相手の痛みなんて、分からない。

 せいぜい、分かった気になれるくらい。

 それだけでも、かなり高いハードルだ。

 慎二は、苦しんでいたのだろうか。

 きっと、俺があいつに殺意を覚えたのと同じ理由で。

 

 大事なものを、汚されたから。

 

 魔術師であることを宿命付けられた唯人からすれば、偶然、魔術師としての素養をもって生まれた唯人など、偶像を犯す侵略者にしか見えないのではないか。

 あいつは、きっと俺を憎んでいた。

 俺は、間違いなくあいつを憎んでいた。

 そして、俺は生き残ってあいつは死んだ。

 それだけ、なんだろう。

 それ以上は、侮辱だ。

 それ以上の思考は、侮辱だ。

 いいとか悪いとか。

 すべきだったとか、すべきでなかったとか。

 達成感とか、後悔とか。

 それらは、悉くが侮辱だ。

 何に対する侮辱なのかは良く分からないが。

 それでも、考えてしまう。

 あいつは、満足だったんだろうか。

 たとえ僅かでも、魔術師として生きて。

 そして、魔術師として死んで。

 満足、だったんだろうか。

 

『よけいなお世話です、衛宮先輩。自分の価値観ですべての人間が計れるとお思いですか。増長するのもたいがいにしなさい』

 

 どこかで聞いた、そんな台詞が、聞こえた気がした。

 

 

「俺が、殺したんだ」

 

 士郎は、目の下に大きな隈を作った彼は、夢を見るように呟いた。

 

「俺が、慎二を殺したんだ」

 

 私の目の前には、ガラスのテーブル、そして、ソファに腰掛けた士郎。

 彼は、項垂れたりしなかった。

 ただ、轟然と前を見て、事実だけを口にしていた。

 

「そう。私もよ。私も、慎二を殺したわ」

 

 彼は頭を振った。

 揺れる艶やかな赤毛が、まるで燃え盛る炎みたいだと思った。

 

「違う、俺が、殺したんだ」

 

 まるで駄々っ子だ。

 目の前にある愉快な玩具、それの所有権を主張する駄々っ子、今の彼はそんな感じ。

 だから、こんなにも簡単な勘違いをしている。

 

「士郎、それこそ違うわ。人の死は、その責任は一人が背負えば全てが終わるものじゃあない。一人が一人を殺してもね、百人が一人を殺してもね、結局、個々人が負わなければならない責任の量は変わらないのよ。嬉しいことは二倍に、苦しいことは半分こ、なんて甘ったれたこと、許されないの」

 

 私も士郎も慎二を殺そうとした。

 そして、結果的に慎二は死んだ。

 誰が殺したのか、私は知らない。士郎も、語らないだろう。

 だから、慎二を殺したのは、私であり士郎。

 共犯、そういうことになるのだろうか。

 

「でもね、士郎。私は彼を殺した責任は負うつもりだけど、罪悪感はこれっぽっちも抱いてない。私は彼を殺したけど、彼も私を殺そうとした。要するに戦争なのよ、これは。そして、私が勝って彼は負けた。死人に口無し。あいつがどんな恨み言を吐こうと、私の耳には届かないわ」 

 

 やや、間があって。

 彼は、その手を、白くなるくらいに強く握り締めて。

 そして、言った。

 

「……凛は、強いな」

 

 彼が、やっとの思いで紡ぎだした、一欠けらの糖分も含まない、一欠けらの言霊。

 ブラックのコーヒーよりも、苦くて、酸っぱい。

 賛辞であり、侮蔑の言葉。

 

「……そうね。それが、魔術師の強さよ、きっと。あなたも、魔術の世界に身を置くつもりなら――」

 

 強くなりなさい、と。

 

 何故、私は言えなかったのか。

 

「まだ、頭が重い。詳しい話は明日教えてくれ」

「そうね、私もそのつもりだった」

 

 士郎はゆっくりと立ち上がった。

 思ったよりも、大きかった。

 ほんの少し、身長が伸びたのだろうか。

 

「そういえば、どうしたんだ、その傷」

 

 思い出したかのように、彼が呟く。

 そういえば、今の私は傷だらけだった。

 さっき鏡で見たら、青痣だらけの酷い顔だった。

 そんなことも忘れて舞い上がっていたのだろうか。

 我ながら馬鹿馬鹿しくて、笑えた。

 

「野良犬を抱き上げようとしたら暴れられてね。性に合わないことをすると駄目ね、ホント」

 

 ふうん、と、彼は意外そうに声を出した。

 

「そうか、気をつけろよ」

 

 彼はゆっくりと後ろを向いて、ドアの方に歩いていった。

 私は、じっと、その背中を見つめる。

 彼はドアノブに手を掛けると、思い出したように振り向いて、そしてこう言った。

 

「でも、ずいぶん暴れたんだな、その犬」 

 

 その惚けた表情が可笑しくて、私は笑いを堪えるのに苦労した。

 

「そうね、酷く脅えてたの。でも、可愛かったわよ」

 

 ふうん、と彼は呟いて。

 やがて、廊下にその姿を消した。

 

「――本当に、可愛かったんだから」

 

 私の呟きは、誰も聞かなかったと思う。

 静かな夜に、そう願った。

 



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interval4 Mr and Miss

 interval4 Mr and Miss

 

 私は、椅子の上で目を覚ました。

 かっちかっちと、古臭い置時計の秒針の音が聞こえる。 

 いつも、私の安眠を妨げる、音だ。

 それを奏でる無神経な古時計が、私は好きではない。

 

 ――こんなもの、早く捨ててしまえばいいのに。

 

 夢現の心地の中、そんなことを考える。

 如何に古く、如何に価値があろうと、私自身がその価値を認めていないのだ。

 好事家など、いくらでもいる。彼らに譲り渡したほうが、時計のためであり、世の為であり、何より私自身のためだ。

 それでも捨てないのは、父のためである。正確に言うならば、父との思い出のためか。

 父は、遠い異国で生まれたらしい。そして、この古時計は父の生家から持ちだした数少ない思い出の品、とのこと。これを見上げるときの、彼の優しい瞳、常の彼からは在り得ないそれを、今でも悠々と思い出すことが出来る。

 かっちかっちと、針が進む。

 早く起きろと、私を急かす。

 早く生きろと、私を急かす。

 そして、早く死ねと、私を急かすのだ。

 私は、苦笑した。

 そんなに急かさなくても、人は死ぬ。

 どんなに頑張っても、人は死ぬ。

 あっさりと。

 何億の財産を築こうが、何百年生きようが、どれほど深く魔道を極めようが、人は死ぬ。

 それは変わらない。

 人は、死ぬのだ。

 そんなことに気付くまでに、これほど長い時間を費やしてしまったことが、我ながら信じ難い。

 それでも、気付かずに死ぬるよりは、遥かにましであろうか。

 そんな、起きぬけの思考。

 もやもやとした、不快な思考。

 それを振り払いながら、ゆっくりと目を開ける。

 薄暗い部屋だった。

 窓の外はまだ暗いが、それは太陽の進軍を予感させる類の暗さである。

 おそらく、朝なのだろう。

 首が痛い。

 不自然な姿勢のまま寝てしまったからだろうか。

 じくじくと痛むそこに、手を当てる。

 汗に濡れた髪が、冷たい。

 体を僅かに身動ぎさせると、背もたれに張り付いた衣服が、べりべりと剥がれた。

 胡乱な意識。

 しかし、不思議と、身を切り裂くような空腹は感じない。

 なるほど、どうやらこの目覚めは一度目ではないようだ。

 辺りには、濃厚な鉄の香り。

 方向性を定めて考えてみれば、口中にも痺れるような生肉の残滓がある。

 それを舐め取りながら、自分に呆れた。

 つまり、食事を終えた後に二度寝をしてしまったという訳か。

 しかも、わざわざ椅子の上で。

 そういったことは初めてではないにせよ、自己嫌悪は避けられない。

 はあぁぁ、と溜息を吐いてから。

 もしやと慌てて、口の辺りを拭う。

 制服のブラウス、その白い袖には、紅く着色された涎が、べったりと染み付いた。

 再び溜息を吐く。

 唯一の救いは、こんな無様を誰にも見られていないことだろうか。

 

「主よ」

 

 そんな私の、唯一にしてささやかな望みは、爽やかな朝の目覚めには優しくない、白い仮面の髑髏によって破られた。

 しばらく、見つめあう。

 彼は、中腰。

 私は、椅子に座って固まったまま。

 それでも、彼の視線のほうが遥かに高い。

 その視線。

 そして、無言。

 その空気が。

 なんていうか、もう。

 

「……見ましたか」

 

 硬い硬い、私の声。

 それでも、彼の纏った空気は変わらない。

 やがて、申し訳ないように声を滑り出させる。

 

「……すまない、しばらく前から私はここにいた。それだけは伝えておこう」

 

 なるほど、婉曲な言い方だが、要するに見たわけだな。

 涎を垂れ流す無様な寝顔を、こいつは眺めていたわけだな。

 顔に血が集まっていくのが分かる。

 心臓が、ばくばく鳴っている。

 とりあえず、為すべきことは一つ。

 大きく腕を振りかぶって。

 高らかな音が、暗い屋敷に響いた。

 

「……主殿は、武術家であらせられるか」

 

 不躾な質問には、不躾な対応を。

 無言で、着替える。

 汗が、凄い。

 下着が、水浴びをしたみたいにぐちゃぐちゃだ。

 衣服だけでなく、椅子に備え付けられたクッションまでもが重く湿り気を含んでいる。

 まるで悪夢に魘されたかのようである。

 そこまで考えて、私の頬は、自嘲気味に歪んだ。

 悪夢、か。

 懐かしい響きだ。

 幼い頃の私の、唯一にして無二の友。

 それが私の眠りを邪魔しないようになってから、一体幾年の月日が流れたのだろうか。

 切欠は容易に思い出すことが出来る。

 彼と再会してからだ。

 つまり、約三年の月日が流れた計算になるか。なんにしても、現金なことだ。

 悪夢は、そしてそれを齎す夢魔は、かつて私の友だった。もっとも、あちらがどのように捉えていたのかは知りようが無いのだが。

 少なくとも、彼らは私の枕をその住処に定めてはいたようだ。

 枕。

 それが濡れなかった夜など、無かった。

 汗で、涙で、そして吐瀉物で。

 目覚めれば、常に私の枕は濡れていた。

 故に、子供の頃の私に与えられたピローケースとシーツは、黒く分厚いゴミ袋だった。毎朝、反吐に塗れた汚物を洗濯する手間を考えると、当然の選択と言えるかも知れない。

 そして、目覚めれば、口の端に乾いた胃液を張り付かしたまま、私は教会に走ったのだ。涙を流しながら、それでも悪夢の内容を彼に聞いてもらうために、必死で走ったのだ。

 己の罪を懺悔するために。 

 彼は、優しくそれを聞いてくれた。

 涙で声を詰まらせ、しゃくりあげながら話す私を急かしたことなど一度たりとも無い。

 優しく、静かに私の話を聴き、そして容赦なく私を弾劾した。

 笑顔のまま、私がいかに罪深く、どれだけ地獄に堕ちるに相応しいかを訥々と語った。

 地獄で亡者が如何様に遇されるかを高らかに語り、その魂の苦痛の程を幼子にも分かる優れた比喩を用いて説き聞かせた。

 そして、彼の説法を聞いた後で。

 ようやく、私は恥知らずにも安心するのだ。

 

 なんだ。

 私が毎日家で受けている教育に比べれば。

 地獄とは、なんとも優しい世界なのだな。

 と。

 

「主殿」

 

 気付けば、彼の顔が目の前にあった。

 私の身長を考えれば、それでも彼は中腰だ。

 

「一体どうされた。昨日の戦の疲れが出たか」

 

 おどろおどろしい仮面を付けたまま、軽く首を傾げたそのしぐさが、ひどくユーモラスで。

 私は、笑いを堪えるのに苦労した。

 それでも彼には私の感情が伝わったのだろうか、幾分不機嫌な声が、した。

 

「……私は貴方を勝ち上がらせるために、無能非才の身ながら微力を尽くしている。それが不満であるというのならば、それは私の不徳の致すところ。しかし、それでも相応の働きには、相応の敬意が払われるべき、そうではないか、我が主よ」

 

 こんなの、笑うなと言う方が無茶な話だ。

 私は、笑った。

 久しぶりに、腹の底から。

 彼がおかしかったのか、それとも自分がおかしかったのかは不分明であるが、それでもおかしかった。

 本当に、はち切れそうなくらい、笑った。

 最初のうちは不機嫌そうに私を睨みつけていた彼だが、そのうち諦めたのか、溜息と共に床に腰を下ろした。

 そうすると、流石に視線は私のほうが高くなる。だからどうということもないが、彼のつるりとした頭を撫でたくなる衝動と、私は戦わなくてはならなくなった。

 

「……満足であるか」

 

 やはり不機嫌そうな、しかし達観したかのような声。彼の生前の経歴、そして英霊としての現在を考えるならば、小娘に腹を抱えて笑われた経験など、初めてであろう。

 しかし、乙女の寝顔を無粋にも盗み見をしたのだ。これくらいは我慢してもらおうではないか。

 後から後から涌いてくる笑いの衝動。

 それを必死の思いで押し殺し、私は言った。

 

「……相応の働きには相応の敬意が払われるべき。その言、至極もっとも。ならば、相応の罪には相応の罰があるべき、そうは思いませんか?」

 

 くすくすと笑いながら、そう言った私を。

 彼は、さも不満だ、そういうふうに、見つめていた。

 

「なるほど、主殿の寝姿を許可無く覗いた罪の報い、というわけか。しかし、先ほどの振り打ち、常人であれば歯の二、三本は砕けているぞ。やや罰が勝ちすぎる、そうではないか?」

「そうですね、ですから私は優しい、そう思いませんか?」

 

 質問に質問で返す、優しい会話。

 そして、私の言葉に。

 彼は、苦笑した。

 

「なるほど、全くだ」

 

 彼が笑ったところは、初めて見た。

 なるほど。

 

「貴方も、笑うのですね」

 

 彼は、答えなかった。

 

「で、探索の収穫はいかがでしたか」

 

 これが、もっとも大事なところだ。

 彼は、結局戦場に現れなかった。

 私が下した指示は『情報収集は可能な限り手早く終え、戦場に急行すること』。

 少なくとも、そのうちの一つは達成されていない。

 ならば、もう一つの戦果はどうであるか。

 例え私でなくとも、気になるところであるはずだ。

 

「……先ほど大口を叩いておいて汗顔の至りではあるが、それほど目立ったものは見つけられなかった。怪しい箇所は幾つも存在したが、それらには悉く魔術的な施錠が為されていた。すまないが、気配遮断のスキルのみで誤魔化せるような、そんな代物ではなかったのだ」

 

 予想はしていたことだが、それが実現することを望んでいたわけではない。

 だが、このことをもって彼を糾弾することはできまい。

 もし、彼以外の何者かに為させれば遥かに上手い結果を残すことが出来た、そういう事情があれば別段、彼以外の何者にも為せなかったであろうことについて、彼を糾弾することは出来ない。

 彼に責任は無い。少なくとも、私のそれよりは遥かに少ない。

 

「仕方ありませんね。万事が上手く運ぶはずも無い。これは私のミスです。貴方が恥じ入ることなど、何一つ無い」

 

 その言葉に、彼の長身は不思議なほど縮んで見えた。

 

「重ねて、すまぬ。魔術的な価値のある、しかもめぼしい物といえば、あったのはせいぜいこれくらいのものか」

 

 そう言って、彼は懐から小さな包みを取り出した。

 彼の手にはすっぽりと収まる、しかし私の掌には少し大きすぎる程のサイズ。

 どこかで、しかもつい最近、その大きさの包みを、私も持ったことがある、そんな気がした。

 

 どくり、と心臓が鳴った。

 

 引っ手繰るように、その包みを受け取る。

 震える手で、中身を弄る。

 それは。

 その中に入っていたのは。

 

「……確認します。アサシン、貴方がこれを見つけたのは、昨日、遠坂の家で、ということで間違いありませんね」

「それ以外、どこがある。私が探索したのは遠坂邸のみだ。そこ以外にこれが存在し得るのか?まさか、同じ世界に同じものが二つも存在するはずがあるまい?」

 

 頬に、奇妙な力が入っていた。

 指を、そこにもっていく。

 そこには、割れるような、深い笑みが、刻まれていた。

 なるほど、私は笑っていたか。

 笑うしか、ないか。

 

 ヨハネからの報告。

 

 そして、アサシンが齎した、この遺物。

 

 線は、一つに繋がった。

 

 なんとも、滑稽で、無様で、乾いた嗤いしか齎さない結論ではあるが。

 

 つまり、原因と結果が入れ替わった、そういうことか。

 

 初めから、全てが、ずれていたか。

 

 これが、真実か。

 

「……これが、物の縁、というものでしょうかねぇ……」

 

 呟くような、私の言葉。

 それに、彼が反応する。

 

「……何か、言ったか」

「いいえ、何も」

 

 私は、それを握り締めた。

 血が出るのも構わずに、強く、強く。

 

「アサシン、貴方は最高の働きを見せてくれた。これは、戦略上重要なだけでなく、直接的に私を救う、そういう類の物です」

 

 どろりとした、私の濁った血液に濡れた遠坂の秘石は、なおも赤い輝きを放ち続けていた。

 



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episode44 事後処理的な話。

 次の瞬間、とんでもない魔力の奔流が、その場にいた全員の意識を強奪した。

 それは、もちろん私も、アーチャーも、キャスターも。

 アーチャーと同じ顔をした、正体不明のサーヴァントであるプレディクタも。

 天から射殺す、漆黒の極光。

 地より迎え撃つ、純白の聖光。

 そのいずれもが、明らかな規格外。

 しかし、それでも、その優劣は明らかだ。

 

「ちっ、不味いな」

 

 声。

 焼け付いた喉で、辛うじて声帯を震わせた、そんな人外の、声。

 アーチャーと同じ顔をした、呪われた男の、声。

 そして、二つの光が衝突し。

 白が、黒を塗り潰す。

 そう見えた瞬間に、枯れた薄が風で擦れあったような、そんな薄ら寒い声が聞こえた。

 

「消えて戻れ、ライダー!」

 

 そんな、声。

 同時に、巨大な魔力の発動。

 これは、覚えがある。

 覚えがあるだけでなく、何度か私も使った。

 これは。

 

「令呪の発動……」

 

 視線を、音源に。

 給水塔の、すぐ下。

 始まりの夜、青い槍兵が立っていた、その場所。

 そこに、太陽の下にはこの上なく似つかわしく無い、妖怪がいた。

 落ち窪んだ眼孔は、陽光すらも飲み込み。

 萎びた鉛色の皮膚は、屍食鬼の腐りかけたそれよりも不吉で。

 禿頭が表すのは賢者の知性ではなく、歴史による魂の磨耗。

 

「カカッ、これはこれは、遠坂のもの、一族郎党皆集いて、なにごとかのう?」

「……マキリ、臓硯」

 

 奴が、いた。

 

episode44 事後処理的な話。

 

 ふうわりと、まるで体重の無い者のように、奴は屋上に舞い降りる。

 その様は、幽。

 しかし、着地した際、奴の脚部から、ぐちゃり、と何かの潰れる音がした。

 何が潰れたか、想像もしたくなかった。

 

「ふむ、しかし、桜がおらんか。いずこにいったかな?これでも、一時とはいえあれの親となった身、挨拶くらいはしておこうと思ったのじゃが」

 

 ……一瞬、怒りで思考が漂白された。

 それが奴の狙いだということは百も承知だが、それを全く避けることはできなかった。奴の薄ら笑いを浮かべる口元を、耳から耳まで引き裂いてやりたかった。

 

「どの、くちで、そんなことがほざけるの、マキリ臓硯」

 

 貴様のおかげで、あの子がどれほど苦しんでいるか。

 貴様の所業が、あの子の人生をどれほど狂わしたか。

 

「おや、それは恨み言か?ふん、間違うなよ、遠坂の。別に、我らはアレを拐かしたわけでも、強奪したわけでもない。そちらが手放したのだ。そちらが、自由にせよと、そう言ってきたのだ。ならば、それを如何に扱おうが、少なくとも貴様らに非難する資格は無かろうて」

 

 ……何も、言えない。

 非の打ち所の無い、正論。

 確かに、桜を養子に出したのは父であり、その契約に、例えば『桜を人として扱うこと』などといった条項は設けられなかったのだろう。いや、例え設けられたとしても、その結果が変わったとは思えないが。

 

「むしろ、感謝して欲しいくらいじゃな。たとい一年という短期であったとはいえ、我らはアレに最高の魔術的な訓練を施した。その作品を、一切の対価を要求せずに返したのだ、それに恨み辛みをぶつけては、些か忘恩との謗りを受けることも止むを得まいよ」

 

 ……訓練?

 訓練といったか?

 貴様、アレを、訓練と、いうのか?

 髪の毛の色、瞳の色、そういった遺伝的要素をすら塗り替える程の、肉体改造。

 本来ならば、一生変化することの無い魔術属性、しかも、彼女に与えられた、虚数という奇跡。その宝石が、後天的に『水』というマキリの属性に擦り変えられようとしていた。

 それが、どれほどの苦痛を齎したか。どれほどの屈辱を齎したか。それらを洗い流すために、彼女がどれほどの努力と苦痛を必要としたか。

 それよりなにより、桜の瞳だ。

 あの日。

 桜が、遠坂に返された、あの日。

 付き添いも無く。

 着の身着のままで遠坂の玄関に立ち尽くしていた、桜の、瞳。

 濁っていたのではない。

 もちろん、澄み切っていたはずがない。

 あれは、穴だった。

 何も映さず、全ての光を飲み込む、穴だった。

 そして、体は、真実、穴だらけだった。

 もちろん、外傷があったわけではない。しかし、魔術的に見れば、体のあちこちに不自然で歪な穴が開いていた。それこそ、後一歩で桜の命を奪いかねないほどに。

 今なら分かる。

 あれは、蟲の巣穴だ。

 おそらく、蟲を体内に強制的に植え付け、桜自体が不要となった際に、それらを一気に引き抜いたのだ。被寄生者の肉体的な苦痛は全く無視して。

 マキリの魔術の一端を悟られないためならば当然の措置だろう。しかし、だからといって、それが納得できる所業になるわけではない。少なくとも、その穴を埋めるための処置を施すことは可能だったはずだ。

 だが、それは為されなかった。

 桜自身の魔術的な才、例えば強靭な魔術回路や豊富な魔力、そういったものが無ければ、もしくは蟲がもう少し深く根付いていたなら、彼女は間違いなくあの世に旅立っていた。

 桜はそういう状態で遠坂に返されたのだ。高度な心霊医術の素養を持った言峰綺礼の治療が無ければ、桜は今も肉体的な苦痛に苛まれていたことだろう。

 そして。

 あの子が、何を言ったと思う。

 驚き、しかし喜び勇んで玄関を開けた私に、なんていったと思う。

 

 ごめんなさい、と。

 

 できるだけ、いたくしないでください、と。

 

 震えもしない、一切の抑揚を失った声で、そう言ったのだ。

 姉である私に。

 一年前までは、共に笑いあい、励ましあい、たまに喧嘩した、その私に。

『ごめんなさい』と言ったのだ。

『できるだけ、いたくしないでください』と言ったのだ。

 その時、私は誓った。

 この子を、絶対に幸せにする、と。

 そして、この子の幸せを奪った外道どもに、裁きの鉄槌を下す、と。

 マキリ臓硯、知っているか。

 彼女は、桜は、今でも生の食材をほとんど食べることが出来ないのだ。

 生魚や生肉など、致命傷だ。

 サラダに入っていたサーモンの刺身の切れ端ですら、彼女は嘔吐する。

 今ですら、そうなのだ。

 貴様らの罪が、地獄の業火にどれほど相応しいか、わかるか、マキリ臓硯。

 私は、教えてやるぞ。

 ガンドで、少しずつ、その身を削り取って。

 楽になど、死なせてやるものか。

 小さきものに、少しずつ、その身を齧られていく痛みを。

 貴様の、腐りきった脳髄に、叩き込んでやる。

 だから、あの晩。

 貴様を初めて目にしたとき、私がどれほどの歓喜に包まれたか、分かるか、マキリ臓硯。

 この頬に、なぜあれほど深い笑みが刻まれたか、分かるか、マキリ臓硯。

 魔術師としての貴様は、尊敬に値するかもしれない。あれほどの幻想種、主よりも強力な使い魔を手懐ける術式。それは、私ですら想像も出来ない。

 しかし、人としての貴様は、こうして視界に収めるのも、許し難い。

 

「……そうですね、今代の遠坂の当主として、マキリの当主たる貴方に礼を言わねばなりませんね。どうも、ありがとうございます」

 

 私は、自分の平坦な声を、興味の薄いラジオ放送みたいにぼんやりと聴きながら、ゆっくりと奴に右手の人差し指を向けた。

 桜がいなくてよかったと、心からそう思った。

 

「カカカ、よいよい、人として当然のことをしたまでよ。愛し合う姉妹、離れ離れにするには、この爺、流石に心が痛んだわ!」

 

 ぷちり、と。

 

 それほど弾力的とはいえない、私の理性、その何か大切なパーツが、千切れ飛んだ。

 

「ああああああああああっ!」

 

 一番驚いたのは、多分私だった。

 この、優雅でもない、華麗でもない、いや、そもそも人の声とは思えない叫び声が、自分の喉から迸っていることに、私は何よりも驚いた。

 狂っていた。

 狂いながら、ガンドを連射していた。

 まるで、マシンガン、いや、ガトリングガンよりも、猛っていた。

 それを、後頭部から見下ろすように眺める冷静な自分が、苦笑の瞳で見守っていた。

 

「貴様が、貴様がいうなああああっ!」

 

 ガンドが、乱れ飛ぶ。

 黒い、ソフトボールよりも少し大きいくらいの球体。

 それが、マキリ臓硯の喉笛を狙って、悶え狂う。

 しかし、届かない。

 奴が、まるで結界のように張り巡らしたのは、蟲の群。

 翅刃蟲。

 それが、ガンドとぶつかり合って、相殺していく。

 汚らしい液体が、飛び散る。

 砕けた外骨格が、宙を舞う。

 それが、楽しかった。

 もっと砕けろと、思った。

 魔術回路が、黒々とうねっていた。

 回転数が、天井知らずに上がる気がした。

 魔法にだって届くんじゃあないか、そんな馬鹿な妄想が、現実味を帯びて圧し掛かってきた。

 それが、酷く快楽だった。

 

「ぬうッ」

 

 奴の右手が、千切れ飛んだ。

 奴の左肩が、大きく陥没した。

 当たり前だ、貴様が使役する蟲如きで、私の怒りが止められるものか。

 死ね、マキリ臓硯。

 死ね。

 死ね。

 死――

 

「落ち着け、凛!」

 

 頬を叩かれて、正気に戻った。

 叩いてくれたのは、赤い外套を羽織った騎士だった。

 

「アー…チャー?」

「落ち着いて奴を見ろ、凛」

 

 そこには、四肢の大半を失い、しかしぐずぐずと蠢く、醜い肉塊が、いた。

 

「……蟲?」

「ああ、あれは蟲の集合体だ。単純な打撃や呪い程度では、あれを滅しつくすことは叶うまい。そもそも、この場に本体がいるかどうか怪しいものだ」

 

 突然、疲労が襲ってきた。

 ぐらり、と視界が歪んだ。

 いくらなんでも、無茶をした。ガンドそれ自体の消費量は大したことはないが、それにしても連射しすぎた。貧血に近い。

 

「カカカ、もうお仕舞か?今代の遠坂の当主、体力に難あり、かの。これでは、前回で儂が殺した時臣のほうが、幾分か優れた魔術師じゃったかのう」

 

 奴は、痙攣するように笑った。

 

「……くだらない嘘。臓硯。貴方はお父様を殺してなんか、いないんでしょう?」

「……ほう、何故、分かる?」

 

 思わず、苦笑が漏れた。

 この怪物、長生きし過ぎて脳の回路が焼き切れてしまったのだろうか。

 

「単純な話よ。貴方、お父様より弱いもの。貴方程度にお父様が殺されるはずはないし、貴方程度に殺されるなら、それは私のお父様じゃあ無かったってことね」

 

 私がそう言い切ると、五体不満足の臓硯は、まるで火がついたかの様に笑った。狂笑、その単語が、この上なく似合っていた。

 

「カカカカカ、言いよる言いよる、中々の胆力、ということは、桜のことがよほど腹に据え兼ねておったか、哀れ、哀れよな、その程度のことに囚われるとは、宝石翁も後継者に恵まれぬわ!」

 

 意識が赤く染まりかけた瞬間、肩に大きな手が置かれた。

 

 ――冷静になれ。

 

 言葉を伴わずにそう語りかけてくる忠実な従者が、この上なく頼もしかった。

 

「臓硯、貴方――」

 

 私が語りかけようとした瞬間。

 まさにその瞬間、得体の知れない不快な匂いが、私の鼻腔を刺激した。

 原因は、すぐに分かった。

 マキリ臓硯、その傍らに控えるヨハネ。

 彼の腕の中に、黒焦げの芋虫、みたいなモノが、いた。

 

「カカ、ライダーよ、ずいぶん手酷くやられたものよなあ」

「けひ、けひ、けひ」

 

 あれが、ライダー、か?

 あの夜見た神々しさなど、一欠けらも見当たらない。

 片腕は根元からばっさりと断たれている。

 足は、片方を膝下から失っている。

 この二つは恐らく刃傷。セイバーの剣によって負った傷だろう。

 そして、全身を覆う、重度の火傷。

 四肢の末端は、完全に炭化している。あの美しかった髪の毛のほとんどが焦げて抜け落ちてしまっているのは、おそらく同じ女性として思わず目を背けたくなった。

 それでも、それは、生きていた。

 そのことが、ちっとも救いであるとは、思えなかった。

 

「ああ、これは酷い。痛かったじゃろうなあ、ライダー」

「けひ、けひ、けひ」

 

 呼吸も、既に満足ではないのか。

 恐らく、肺をはじめとした呼吸器にまで火傷が及んでいるのだろう。サーヴァントは酸素を必要とするわけではないが、しかしその様は痛々しいを通り越して憐憫を覚える。

 臓硯は、辛うじて残った自身の左手に、先の尖った鋭利な杖を持ち、ライダーの傷口をその先端で抉った。

 ライダーは、脊髄反射のように、びくり、と跳ねたが、苦痛の声はあげなかった。あげることすら、出来ないのかもしれない。

 

「なら、恨まんといかんなあ。お前にここまで手酷い手傷を与えた連中を。そして、お前の子孫の悉くを殺し尽くして、それを功績と誇る、あの似非英雄を」

「けひ、けひ、けひ」

 

 それは、まるで呪文のように。

 それ以上に、呪いのように。

 

「恨めよ、ライダー。恨めば恨むほど、強くなれる。お前にはまだまだ働いてもらわないと困るのでなあ」

「けひ、けひ、けひ」

 

 薄ら笑いを浮かべながら、そう吹き込む、臓硯。

 呪われた台詞を、さも嬉しそうに。

 そして、その隣で、耳まで裂けた様な、深い笑みを浮かべるヨハネ。

 胸糞が、悪い。

 笑うな。

 お前は、笑うな。

 私の肩に手を置いてくれた、この信頼に値する戦友と同じ顔で、笑うんじゃあない。

 その顔で、その嫌らしい笑みを、浮かべるな。

 

「どうでもいいが、貴様らがここから生きて帰れると思っているのか?」

 

 アーチャーの呟きは、マスターである私の鼓膜にすら針のような鋭さを持って響いた。

 彼の手には、あの夜、狂戦士が携えていた破壊の斧剣。

 どういった経緯で今、それが彼の手にあるのかは定かではないが、相応の理由があるのだと思う。

 そして、錫杖を構えたキャスター。常は冷静に微笑を湛えた彼女の表情にも、心なしか険しい何かが存在している。彼女と桜の間にどれほどの絆が構築されているのかは定かではないが、今の彼女がこの上なく不機嫌なのは、何となくわかった。

 

「ああ、さっきまでだったら中々に難しかったがね」

 

 ヨハネが、そう言った。

 突然、めきめきと音をたてて、奴の胸が大きく膨らんだ。

 直径は50センチ位か。

 まるで、破裂する寸前の風船、みたいに。

 

「今なら、問題無い。そうだろう、遠坂の」

 

 視線が、私に。

 拙い。

 狙いは、私か。

 

「ごばあっ!」

 

 吐き出されたのは、黒い霧。

 それが、私の方に、飛んで来る。

 あれは、虫。

 甲虫。

 黒光りしている。

 本で見たことがある。

 スカラベだ。

 しかし、それは古代エジプトにおいて太陽神と同一視された聖甲虫ではない。

 それと同じ姿をしながら、呪われたもの。

 屍肉を喰らうスカベンジャーであり、生肉を喰らうプレデター。

 それの、群だ。

 しまった。

 迎撃体制に無い。

 

「凛!」

 

 アーチャー。

 私の前に。

 駄目。

 あなたでも、全ては打ち落とせない。

 きっと、サーヴァントには、ただの羽虫。

 でも、きっと、人間には、致命的。

 私は、ここで。

 

「――Μαρδοξ!」

 

 喰われる。

 そう思った瞬間、私と虫の群の間に、何かが生まれた。

 濃密な魔力によって編まれた、何か。

 べしゃべしゃ、と、汚らしい音をあげて、その透明な何かに、虫がへばりついていく。

 これは、キャスターの魔術。

 盾の概念。

 

「助かったわ、キャスター」

「ええ、でも」

 

 言いたいことは、分かっている。

 逃したか。

 この隙を見逃すほど、敵は愚かではないだろう。

 豪雨のように叩きつけられる虫の群。

 そして、同じ数のそれが、『盾』と衝突して拉げていく。

 不潔な粘液が飛び散る。

 そして、それが終わったとき。

 屋上には、私達以外、誰もいなかった。

 

「逃したか……」

 

 忌々げなアーチャーの声。

 そして。

 声が、聞こえた。

 カカカ、という、怪老の笑い声と共に。

 意外なほど若々しい、しかし、聞くものの不快感を掻きたてざるを得ない、そんな声。

 

「今日は、ありがとう」

 

 風に揺れるそれは、どこで発生したものなのかがわからない。

 既に戦機は逸している。

 追い詰めることは、叶うまい。

 

「君たちのおかげで、ライダーは完成するよ。礼を言っておく。ああ、それと」

 

 声が、狂悦に、歪む。

 

「くふ、決着は、また後日だな、世界の奴隷よ」

 

 その言葉に、アーチャーの表情が一変した。

 まるで、凪。

 なにも、浮かんでいない、空白の感情。

 私には、それが怒り狂った彼の表情であることが、何となく分かった。

 

「くふふ、今度は一対一を希望するよ、正義の味方の残骸」

 

 その言葉が、最後。

 本当の静寂。

 しかし、彼の表情は変わらない。

 

「アーチャー……」

「凛」

 

 彼はその表情のまま、呟いた。

 

「何も聞かないで欲しい。だが、約束する。アレは私が、殺す。必ずだ。必ず殺す」

 

 彼の呟き。

 今まで私の聞いた中で、一番恐ろしい台詞。

 しかし、その声を無視したかのように、キャスターが呟いた。

 

「……ねえ、この中で、あの老人の存在に気付けた人、いる?」

 

 僅かな戦慄を含んだ、その呟き。

 

「私は、気付けなかった。あの瞬間、彼が令呪を発動するまで、わたしはアレの存在に気付けなかったわ」

 

 確かに、そうだ。私も、そしておそらくはアーチャーも、マキリ臓硯の存在に気付いていなかった。

 何故。

 

「それに、あの男、おそらくは吸血鬼か屍食鬼の類でしょう?なんで日光の下を堂々と歩けるの?」

 

 私は、神代の大魔術師の質問に、満足のいく回答を用意することが出来なかった。

 その時、びょう、と。

 生暖かい、不吉な風が、吹いた。

 

 

「だいたいこんなもんね、士郎が気絶した後の顛末は」

 

 凛は静かに口を閉ざした。

 外はまだ薄暗く、朝といっても時間はまだ早い。今家を出れば、部活の早朝練習に参加する生徒とも顔を合わせることなく校舎にたどり着くことが出来るだろう。

 しかし、それは今日に限っていうならば、いくら時間が遅くても同じこと。少なくとも、今日登校する穂群原学園の生徒はいないはずだからだ。

 穂群原学園を襲った集団昏睡事件。昨日学校にいた生徒及び教師、その全てが何らかの被害にあっている。ほとんどが、貧血に似た症状で、早々に退院が可能らしい。

 しかし、中にはかなり重症の者もいて、場合によっては今後一生重いハンデを負って暮らしていかなくてはならないかも知れない、とのこと。

 ガス漏れ。テロ。集団ヒステリー。

 テレビをつければ、どんなチャンネルだってそんな単語が飛び交っている。いずれ、一番もっともらしい結論が後付されて、この事件は解決したことになっていくのだろう。当然、たった一人の行方不明者は忘れられたまま。

 

「藤ねえは…」

「大丈夫。一時はかなり危険な状態にあったらしいけど、持ち直したって。一、二週間もすれば退院できるそうよ」

 

 その言葉に、目頭が熱くなった。

 我知らず、上を向いて瞑目する。

 心の中で、何か偉大な存在に感謝の言葉を捧げる。

 そして、この人にも感謝を。

 

「本当に、本当にありがとう、キャスター」

 

「……感謝なら桜にしなさい。私は貴方達を見捨てても敵を倒すべきだと主張したわ。恨まれる筋こそ在れ、感謝されるなんて筋違いもいいとこなんだから」

 

 神代の大魔術師は、頬を赤くしながらそっぽを向いてしまった。どうやら、感謝されるのに慣れていないのかもしれない。

 

「それでも、だ。俺が生き延びたのも、藤ねえが助かったのも、貴方の、それにみんなのおかげだ。本当に感謝してる。それと、ごめんなさい。とんでもなく迷惑をかけた」

 

 そうだ。

 俺は、何も出来なかった。

 俺が、そして藤ねえ達が生き残ったのは、ここにいるみんなのおかげなんだ。

 そう考えると、自分の不甲斐なさに腹が立つ。

 結局、俺がしたことといえば、頭に血を昇らせて猪突し、みんなに迷惑をかけただけ。少なくとも、あの電話があった時点で冷静に対応することが出来ていたら、もっと違った結果があったはずだ。

 もしかしたら――。

 

「……何考えてるか知らないけど、それくらいにしておきなさい。後悔なんて、何の役にも立たないわ。失敗したと思うなら、反省してこれからの糧にすること。とりあえず、今あなたのするべきことはそれね」

「……ああ、分かった。努力は、するよ」

 

 凛は俺をじろりとした目線で射抜くと、諦めた様にため息を吐いた。

 俺は、ゆっくりとみんなの顔を見渡す。

 そこには、いつも通りのメンバー。

 凛。

 桜。

 アーチャー。

 キャスター。

 そして――。

 

「あれ、セイバーは?」

 

 そうだ。

 さっきから、何かが欠けているような違和感があった。

 食事を終えた後でその不在にやっと気付くとは失礼な話であるが、食事中の彼女はその健啖ぶりを発揮して目の前に料理の制圧にその全てを投入するため、会話をする余裕がほとんど無い。

 故に、彼女が会話に参加するのは食事も終盤、彼女の前に並べられた皿がその白さを露にし始めたときである。それを言い訳にするつもりなど微塵も無いが、とにかく、彼女の姿が無いことに気付けなかった。

 

「なあ、遠坂、セイバーはどうしたんだ?」

 

 後から考えれば、あまりにも呑気なその声。

 

「セイバーは……」

「そこからは私が話そうか」

 

 自分で淹れた極上の紅茶、それの入ったカップを音も無くソーサに戻して、凛の従者である赤い騎士がゆっくりと口を開いた。

 

「彼女は宝具を使った。それがどういうことか分かっているはずだな、衛宮士郎」

 

 その目は、鷹の目では無く、どこまでも人の目。込められたのは、殺意でもなく、嗜虐でもなく、唯、非難ともう一つの感情。

 それが、怖かった。

 鷹よりも、もしかしたら蛇よりも。

 そんなこと、分かりきっている。

 人が、一番、怖いんだ。

 人さえいなくなれば、怖いものなんて、何一つありはしない。

 当たり前のことじゃあないか。

 人が、何よりも、恐ろしい。

 

「どうした、何故答えない。

 貴様の未熟によって、彼女には正常な魔力の補給は為されていない。その彼女が全力で宝具を解放したのだ。それが、どういうことか、分かっているのかと。そう聞いているのだ、衛宮士郎」

 

 声は、あくまでも穏やか。怒号の色など、微塵も感じない。

 しかし、それ以外の音がする。

 みしり、と。

 アーチャーの纏った皮鎧、その軋む音だ。

 本来、頑強を誇るはずの英霊の威装、それを、何かが軋ませているのだ。

 怒りだ。

 怒りによって膨れ上がった彼の筋肉が、本来それを守るべき守護者に悲鳴を上げさせているのだ。

 自らの敵とその従者。

 その不甲斐なさに、彼は怒っていた。

 そうだ。

 彼女は、俺の不完全な召喚のせいで霊体化もできず、満足な魔力の補給すらされない状態だった。それを補うために、本来は必要ない眠りすら強いられていた。

 その彼女が、宝具を使った。

 宝具の使用には、当然莫大な魔力が必要となる。

 蛇口の閉められた湯船。そこの栓を抜けばどうなるか。

 水は、無くなる。

 どんどん、減っていく。

 そして、空になる。

 彼女は、空になる。

 

「そんな……」

「貴様の猪突、そして貴様の驕り、何よりも貴様の歪みきった理想……!その為に、彼女は必要の無い苦痛を強いられている……!その責任を、貴様はどう感じているのか、そう聞いているのだ、衛宮士郎……!」

 

 その声は、まるで自分の恋人を傷つけられた戦士のように。

 その声は、まるで己の子供を奪われた、父親のように。

 その声は、まるで自らの傷口を抉り出す、茨の冠を頂いた罪人のように。

 それ程に、彼は怒っていた。

 自らの言葉に、怒りを蓄えていく。

 自らが吐き出した火が、己を炙る業火を、更に燃え上がらせる。

 要するに、彼は何よりも、自分に対して怒っていた。

 その理由は、分からない。おそらく、己の戦友を徒に疲弊させた、その程度の怒りではあるまい。

 一体、こいつとセイバーの間に何があったのか。

 俺が、彼の怒りの前に身を竦ませていた時、穏やかな、しかし弱弱しい声が聞こえた。

 

「貴方の怒りは筋違いだ、そうでしょう、アーチャー」

 

 大きく開いたドアの前に立つ彼女の姿。

 本来は美々しく、何よりも雄々しいその姿は、端整な顔に浮いた隠しきれない疲労の影によって著しく汚されていた。人工の灯りに照らされた金砂の髪は、太陽の下にいるときよりも、細く、病的な印象を与える。

 聖緑の瞳、その下には大きな隈ができており、その吐息も心なしか荒い。

 

「セイバー……」

 

 それは、俺の罪。

 彼女が苦しんでいるのは、俺の罪。

 そうだ、全ては、俺の――。

 

「それも違う、シロウ」

 

 片手を壁に寄せて体を支えながら、それでも芯の強い声で彼女はそう言った。

 

「私は己の意志で戦った。己の命と、誇りを賭けて戦った。その果実は貴方に帰する。それは当然だ。しかし、痛みは、苦しみは私だけのものだ。いくら貴方がマスターであるとはいえ、それらまで収奪しようというのは、如何にも暴虐に過ぎるのではありませんか?」

 

 力無く笑った彼女。彼女はその疲れ、やつれた表情のまま。

 

「でも――」

「私は貴方の剣になると誓った。剣は、美しく飾られる装飾にあらず。戦場にて振るわれ、使われ、使い古され、最後は折れ砕けるが本望。そこを誤解なさらぬように」

 

 その美しい笑顔のまま、そんなことを言いやがった。

 

「虚勢でも、それだけ吐けるなら大丈夫ね」

 

 俺の隣から声がした。

 

「ええ、リン。貴方のそういうところは、非常に好ましい。シロウにも見習っていただきたい程だ」

 

 水滴で曇った窓ガラス、そこから感じられる曙光。

 それに照らし出された、二人の笑み。

 美しく、不敵で、誇り高く、侵し難い。

 その笑顔が。

 その、美が。

 己の矮小さを映し出すようで。

 俺は、知らずに目を逸らしていた。

 

「じゃあ、今日、行くわ。覚悟は出来てる?」

「愚問です。覚悟というなら、食事中でも、睡眠中でも、異性を抱いている時でも」

「そうこなくちゃね。じゃあ、予定通りに」

「ちょっと待ってくれ、予定って一体……」

「決まってるでしょ、昨日こなせなかった予定は、出来るだけ早いうちにこなさないと、どんどん腰が重くなってしまうわ」

 昨日こなせなかった予定?

 それってまさか……。

 

「鈍いわね。今からマキリに攻め込む、そう言ってるのよ」

 

 ――。

 一瞬、頭が真っ白になった。

 今から、マキリに、攻め込む?

 それは――。

 

「ちょっと待ってくれ、いくらなんでも、無茶だ」

「へえ、衛宮君にはしちゃ慎重な意見ね。一応、理由を聞いとくわ。なんで無茶なの?」

 

 凛はにやり、と不吉に笑って、正面から俺を見据えた。

 ぎっ、と椅子を引いて、セイバーが凛の隣に座る。

 俺は、二人の色の異なる瞳を等分に見据えた。

 

「昨日の戦いで、セイバーはこの上なく疲弊してる。アーチャーだって、二日続けて戦うのはきついはずだ。それに、学校の結界はもう存在しない。それほど急く必要があるのか?」

「だ、そうよ。どうなの、アーチャー?」

 

 真剣な凛の視線、それを真っ向から受け止めたアーチャーは事も無げに言った。

 

「問題ない。少なくとも、そこの未熟者に心配されるほど堕ちてはいないさ」

「そう。セイバー、貴方はどう?戦える?」

 

 セイバーは、少しの間、己の体と対話するかのように目を閉じ、やがてこう言った。

 

「……ライダーの宝具、あれとの衝突がもう少し長引けば消耗は致命的なものになっていたでしょうが、幸か不幸か、あれを完全に滅する前に逃げられた。故に、今の私は、即座に消滅云々という段階ではない。しかし、風王結界を含めて宝具の解放は難しいでしょう」

 

 じゃあ、と俺が口を開きかけたが、彼女は俺に発言権を認めてくれなかった。

 

「しかし、直感や魔力放出といったスキルは失われていないし、対魔力を備えたこの体は盾として相応しい。戦力としては十分かと思います」

「だってさ、士郎」

 

 俺は、絶句した。

 彼女は、俺なんか及びもつかないくらい、強い。

 それこそ、俺が一生血を吐くような鍛錬を続けても、彼女の足元にすら辿り着けるかどうか、そういうレベルだろう。

 しかし、それとこれとは話が違う。

 彼女は、自分のことを、盾だ、と言った。

 そんなの――間違えてる。

 

「士郎、あんたの言いたいことは分かってるつもりだけど、この作戦にセイバーの存在は欠かせないわ。魔術師の要塞である工房に攻め込むんだもの、一番気をつけなければならないのは魔術的なトラップ。それを未然に回避するためにも、発動してしまったそれを防ぐためにも、彼女とキャスターの存在は必要不可欠よ」

 

 彼女は、正論を持って俺を説得しようとしてくれた。

 正論。

 それは、どうしてこうも神経を逆撫でするのだろうか。

 そんなこと、分かってる。

 分かってることを、一々繰り返すな。

 そんな、感情。

 

「今回の作戦には、桜が参加できない。多分、猛烈なトラウマをフラッシュバックするのがオチだからね。人数が足りないのよ、分かるでしょう?」

 

 桜は、申し訳なさそうに俯いた。

 

「……すみません、先輩。今日は私、お留守番です」

 

 力の無い笑みでやっと笑った桜は、やはり力なく肩を落とした。

 

「それに、士郎、さっき『そんなに急ぐ必要があるのか』って言ったけど、事態は昨日より切迫してる、それは間違いないわよ」

 

 冗談とは思えない、凛の真剣な瞳。

 じとり、と、脇の下を、冷たい汗が濡らした。

 

「……どういうこと、だ?」

「ライダーは生きていた。それはさっき話したでしょう?一昨日、あの結界の成長が突然早まった、その理由をライダー自身の生存本能だと仮定すれば、かつて無いくらい魔力に餓えている今の彼女は、この上なく危険よ。メルトダウン寸前の原発みたいなもんかしらね、きっと。何しでかすか分かったもんじゃないわ」

「それだけではありません。彼女は吸血によって単純に魔力の回復が可能ですが、おそらく、私はそこまで急激に魔力を回復させることは出来ない。彼女が完全に回復すれば、今の私では到底敵し得ないでしょう。それに――」

「それに?」

「これはあくまで推測の域を出ませんが――。彼女の異様なパワーとスピード、その理由を考えてみたのです。あれは、おそらく『怪力』のスキルによるものと思われます」

 

 怪力?

 

「『怪力』は、一時的に自らのパワー値をワンランクアップさせる、魔獣や魔物だけが持ちうるスキルです。しかし、元々の彼女にそういった雰囲気は極めて薄かった。それが、昨日の彼女にはかなり色濃く滲んでいた。おそらく、彼女は、何か、忌まわしいものに変貌を遂げようとしています。早いうちに仕留めるのが、彼女のためであり、何より我々のためでしょう」

 

 沈黙が、流れた。

 静寂ではない。

 心臓の、不吉な拍動が、あったからだ。

 

「あらためて材料を並べると、絶望的で呆れるわね。時間も戦況も、基本的にはマキリの味方ってわけ、か。で、士郎。あんたの意見は?」

 

 俺の、意見?

 俺は、どうしたい?

 決まってる。

 やるべきことは、決まってる。

 倒さなきゃ、いけない。

 皆を苦しめてるものは、苦しめようとしているものは、倒さなきゃいけない。

 なのに、この喉は。

 何故、応、と、言ってくれないのか。

 

「重症だな、これは」

 

 その時、アーチャーが、そんなことを言った。

 

「凛、間桐邸に攻め込むのは何時の予定だ?」

「え……と、キャスター、認識阻害の結界は?」

「出来れば二時くらいまでは待って欲しいっていうのが本音ね」

「だ、そうよ、アーチャー。それがどうしたの?」

「なに、大したことはないさ」

 

 奴が、俺を、その鷹の目で、射抜いた。

 

「そこの臆病者に、軽い喝を入れてやろうと、そう思っただけだ。セイバー、君も来るか?私とその男を二人にさせるのは不安なのだろう?なら、君も来るといい」

 



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episode45 局地的で意味の無い戦い

 たんちょうな歩調でたんちょうな色彩のまちを歩く。

 あしどりは重い。

 まるで体重が倍かそれいじょうになったみたいだ。

 みみに聞こえるのもたんちょうな音だけ。

 ちかくで何かがはぜる音。

 とおくで何かがはぜる音。

 それらに時々いおんが混ざる。

 それはすくいを求めるひとの声。

 あるいは人だったものの声。

 それらをむししてぼくは歩く。

 だってぼくは子供だから。

 手だってこんなに小さいから。

 重たいにもつも背負っているから。

 あなた達をたすけてあげられない。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 

episode45 局地的で意味の無い戦い

 

 切嗣が建てた、道場だった。

 広さは……正確には分からない。三十畳ほど、だろうか。ひょっとしたらもっと広い気もする。少なくとも、これだけの規模の道場を所有している個人というのは、かなり珍しい部類に入るのは間違いないだろう。いや、そもそも、どれほど規模が小さくとも道場というものを所有している個人というのは、珍しい存在だ。

 よく磨かれた、艶やかな床。それでも、微かに残った汗の残滓が、ほんの少しだけ鼻につく。

 傍らには、竹刀が数本立て掛けられている。柄をくるんだ鹿の皮が、程よく使い込まれている。握れば、この上なくはっきりと馴染むのだろう。

 広い、道場。

 だからといって、例えば空手や剣道の指導に使われているわけではない。

 あくまで個人の趣味で建てられた、極めて生産性の薄い空間だ。もっぱら使うのは俺一人、たまに藤ねえに剣道の稽古をつけてもらう以外、他の人間がここを使うことは少ない。

 それでも、例えば、学校のような公共のスペースでもこれだけ立派なものはそうそう見かけるものではない。それは、自慢というよりは、こんな酔狂なものを自宅に作った切嗣に対する呆れからくる気持ちが強い。

 木の板で出来た、静謐な空間。

 しかし、曙光、そう呼ぶにはやや勢力が強くなりすぎたか、とにかく太陽の光だ、それに照らし出されたその風景に、どこか違和感を覚える。何と表現したらいいか迷うが、そう、曇っている、辛うじてそのように表現出来るかも知れない。たった二、三日手入れを怠っただけなのに、どこかに寂れた雰囲気があるのだ。人の住まない家屋はその劣化が激しいというが、なるほど、と感心した。

 その、ほぼ中央部に、俺とアーチャーは立っている。

 何をする訳でもない。

 ただ、立っていた。

 風景に変化は無く、会話も無い。

 そうすると、自然と感覚が鋭くなってくる。

 視界が、鮮明に。

 聴覚が、明敏に。

 触覚が、ひりつくほどに。

 そして、それらが捉える人の気配は、三。

 俺。

 アーチャー。

 そして、入り口で佇む、セイバーだ。

 誰もが、無言。

 しかし、やがて、その中の一人が、ゆっくりと口を開いた。

 

「来い」

 

 その言葉からは、あらゆる要素が省かれていた。

 主語が省かれていた。目的語が省かれていた。修飾語が省かれていた。

 文法だけでなかった。

 感情が省かれていた。タイミングが省かれていた。儀礼が省かれていた。

 そして、意志だけが、あった。

 来い、と。

 かかって来い、と。

 今から、俺とお前は戦うのだ、と。

 無手のまま、自然体で立つ目の前の男は、そう言ったのだ。

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 目の前の男は狂ったのかと、そう思った。

 考えてみれば、分かることだ。

 今は、午前の十時くらいか。陽は徐々に天頂へと昇り、時計の針はその動きに同調するかのように歩を進めているはずだ。

 作戦の開始時刻は、午後二時。それほど余裕がある訳ではない。

 そして、やらねばならないことは山ほどある。こちらから攻め込むのだ、入念な打ち合わせは必ず必要になるだろうし、道具の調達等、物質的な意味での準備にだって時間はかかる。体力や魔力だって回復させなきゃいけない。

 

『そこの臆病者に、軽い喝を入れてやろうと、そう思っただけだ』

 

 その言葉を聞いたとき、俺はアーチャーに説教でもされるのかと思った。なんで衛宮邸に移動するのかよくわからなかったが、この場所に辿り着いても、俺は確かにそう思っていたのだ。

 しかし、これは違う。

 今から交わされるのは、会話などでは断じてない。

 会話が交わされるのだとしても、それは音を用いた会話ではない。

 痛み。或いは、もっと原始的なもの。

 それを介した会話が行われようとしているのだろう。

 

「来い」

 

 アーチャーが、焦れたように、再び同じ言葉を口にした。

 だが、俺は動けない。

 ただ、『来い』と言われても、果たして何をしたらいいのか、分からない。

 本当に、ただ近づけばいいだけなのか?

 それとも、殴りかかればいいのか?

 まさか、真剣で斬りかかって来い、そういう意味ではあるまい。

 そう考え出すと、体が動かなくなった。

 口を開こう、そう思った。

 分からないことは聞けばいい、と。

 その時、目の前の男が笑った。

 

「鈍いな」

 

 低い、声。

 明らかな蔑みが、ワイシャツに飛び散った墨汁のように滲んでいた。

 

「敵の前でも、そうなのか?愚図め、何故わからん……!」

 

 微笑いながら、怒っていた。

 彼の怒りが、彼自身の怒りを炙っていた。

 炙られた怒りが、なお一層、彼の怒りを燃え立たせるようであった。

 そうして燃え上がった火炎が、彼の内で渦巻いているみたいだった。

 先ほど開けなかった口を、再び開こうとした。彼の意図を、問いただそうとしたのだ。

 その瞬間、頬を叩かれていた。

 彼我の距離は、それ程近かったわけではない。少なくとも、手の届くような距離ではなかったはずだ。

 一瞬で間合いを詰められていた。

 そして、掌底で頬を殴られていた。

 容赦無い一撃だった。

 それだけで、体が泳いで、地に伏せた。

 歯を食い縛っていなかったせいで、頬の内側が犬歯とぶつかって、ざっくりと裂けた。

 蹲るように床についた手、その横に、ぼたぼたと、赤い血溜りができていた。

 

「これでもまだわからんか?なら、次はその指をへし折ってやろうか?それとも、藤村と言ったか、あの女の手首でも切り取ってくれば、貴様は本気になるのか?」

 

 どくり、と。心臓が大きく脈打った。

 血が、全身を駆け巡る。

 どくどくと、何かが体を煮た立たせる。

 アドレナリン、ドーパミン、よくわからない脳内物質。

 それが、痛みを忘れさせ、体を立ち上がらせる。

 奴は、無表情で、突っ立っていた。

 自然体。

 塵ほどの余分な力も含まれない、理想的な立ち方。

 それを、睨みつける。

 

「ほう、先ほどとはまるで別人だな。やはり、近しい者の危機こそが、貴様をもっとも奮い立たせるか」

「てめえ、なんのつもりだ」

 

 痩せ蛙のような殺気を込めて、奴を睨む。

 しかし、奴の表情は、いっそ涼やかに変わっていった。

 

「それで、どうするのだ?立ち上がるだけであれば、起き上がり小法師と同じだろうが。貴様は、何をするために起上がったのだ?」

 

 拳を、強く握り締める。

 足を、やや内股に。

 腰を落として、腕を上げる。

 握り拳で、頭部を挟むように。

 右足をやや引き、左足を前に出す。

 

「ふん、形だけは中々」

「っしゃああ!」

 

 左の拳を、まっすぐ奴の顔面に。

 奴は、事も無げにそれをかわす。

 次は、返しの右ストレート。

 左のジャブで溜めを作った、体重の乗った一撃。

 しかし、それも奴に届かない。

 

「ふむ……」

 

 アーチャーはそう呟いた。

 その呟きを聞いた直後、俺の視界は激しく乱れた。

 そして、背中に衝撃。

 

「ごはぁ!」

 

 熱い呼気が漏れる。

 漏れるだけ。

 吐き出した分の空気を、肺に吸い込むことが出来ない。

 横隔膜が、己の作業を放棄している。

 投げ飛ばされた。

 痛みと苦しみに身を捩る。

 ちかちかと意味の無い点滅を繰り返す視界の中に、見下ろすように俺を眺めるアーチャーがいた。

 無表情。

 奴は、無表情。

 無表情のまま、俺の鳩尾を、思いっきり踏み抜いた。

 

「げぼっ!」

 

 衝撃が、背骨をすら貫く。

 肺腑に残っていた、極僅かな酸素、その1ccまでも、残らずに吐き出す羽目になった。

 そして、反吐が出た。

 朝食に食べた、コーヒーと、トーストと、ソーセージと、胃液の臭いがした。

 こんなにも、胃の中に物が詰まっていたのかと驚いた。

 そして、反吐で溺れるか、そう思った。

 

「げ…ひゅ…ひゅ…ひゅ…」

 

 激しく咳き込むなんて、許されない。

 鼠みたいに、細くて早い呼吸のみ、許される。

 地獄の苦しみ。

 涙が、我知らずに溢れてきた。

 

「セイバー」

 

 声が、聞こえた。

 直後、からり、と何かが転がってきた。

 細長い、と思った。

 それが何なのか、しばらく分からなかった。

 

「休め。次は、それを持ってかかって来い」

 

 柄をくるんだ鹿の皮、程よく使い込まれた竹刀の柄から染みこんだ汗の匂いが漂ってきた。

 

 十分後。

 再び、俺とアーチャーは道場の中央で向かい合っていた。

 俺の手には、使い込まれた竹刀。

 奴の手には、何も無い。

 俺の構えは、正眼。

 切っ先の延長線上には、奴の目。

 剣をそのまま突き出せば、奴の目をこの剣先が抉る。

 そういう構えだ。

 だが、奴は構えすらしない。

 ただ、さっきと同じように、自然立ち。

 もしかしたら、その立ち姿自体が構えなのかも知れないが、少なくとも特別な姿勢を取る事はしていない。

 視線は、あくまで穏やかに。

 しかし、俺の後ろにある何か、俺そのものよりも重要な何かを見つめるかのように。

 

「来い」

 

 奴がそう言った瞬間、俺は飛び掛ろうとした。

 いや、それは正しくない。

 俺が問答無用で飛び掛ろうとした、まさにその瞬簡に、まるでその拍子が分かっていたかのように、奴が言ったのだ。

『来い』と、事も無げに。

 その言葉で、俺の出足は阻まれてしまった。

 読まれている、そう思った。

 喉が、スポンジで水分を拭き取ったみたいに、からからだった。

 体中から、ぬるぬるした嫌な汗が噴き出した。

 飲まれている、そう思った。

 動けない。

 動けば、読まれる。

 読まれれば、かわされる。

 かわされれば、またさっきの地獄を味わう羽目になる。

 それは、紛れも無く――。

 

「来い」

 

 アーチャーが、再び言った。

 これが、最後通告だと。

 その瞳が、そう言っていた。

 

「せいやあああ!」

 

 声が、出た。

 声だけが、出た。

 悲鳴みたいな声だった。

 藤ねえに教えてもらった。

 怖いから、声を出すのだ、と。

 目の前の相手が恐ろしくて堪らないから、それを倒すために声を振り絞るのだと。

 恐怖で萎縮した身体、それを前に進ませるものが、声だと。

 しかし、出るのは声だけだった。

 足は、一歩も前に出てくれなかった。

 

「来ないのか」

 

 奴の体が、軽く前方に傾いた。

 それだけで、俺の身体は容易く後方に飛んでいた。

 まるで、空気の壁に弾き返されたみたいに。

 間合いが、広がる。

 奴は、無表情のまま、広がった間合いを、広がった分だけ詰めた。

 

「貴様の敵はどこにいる。貴様の目はどこについている」

 

 やはり、怒っていた。

 何に怒っているのかは不明だが、しかし奴は怒っていた。

 逃げよう、そう思った。

 この手に握った、如何にも頼りない棒切れを放り出して、一目散に逃げようと。

 逃げなければ、殺される、と。

 

「逃げるなよ」

「――」

「逃げれば、殺す」

 

 その言葉で、たった一つの希望は断たれた。

 つまり、こういうことだ。

 呆れるくらい、分かりやすい答え。

 つまり。

 

「貴様がこの道場から無事に出たければ、俺を倒すしかない、そういうことだ」

 

 なんと、シンプルな。

 しかし、なんと無茶な。

 人間が、サーヴァントを倒すなんて、不可能だ。

 昨日、それを嫌というほどに味あわされた。

 何をしても通用しなかったのだ。

 だが、相手の全てが、俺には通用したのだ。

 大人と子供、その程度の力の差ではない。

 植物と動物、それくらい離れていると思った。

 そして、事実はそれ以上だったはずだ。

 だから、俺は目の前の男に勝てない。

 勝ち得るはずが無い。

 

「いい加減わかっただろう、己の置かれた状況が」

 

 分かった。

 ああ、分かってるさ。

 これだけお膳立てされれば、流石に分かる。

 あんたを倒さなければ、俺は酷い目に合う、そういうことだろう。

 そうだ。

 倒すしかない。

 選択肢は、初めから無かった。

 話し合いとか、逃亡とかは、初めから許されてなかった。

 なら、単純な話だ。

 前に出るしかない。

 前に出て、この竹刀を振るうしかない。

 よし。

 そう考えたら、身体が軽くなった。

 肩の力が抜けた。

 そして、驚いた。

 肩が、あまりに力みすぎたせいで、痺れるくらいに重くなっていた。

 これじゃあ前に出ることなんてできるものか。

 そう考えて、少し苦笑した。

 

「……大したものだ」

 

 アーチャーが、吐き捨てるように呟いた。

 前に出る、そう決めたら、再び選択肢が増えた。

 如何に攻めるか、そう言う意味での選択肢は無限だ。

 唐竹に振り下ろすか、逆胴を薙ぐか。

 相手が攻めてこない以上、引き技や抜き技は使えない。

 一番得意なのは、小手面だ。

 藤ねえにも、何度か褒められた。

 しかし、今は駄目だ。

 そんなもの、こいつには通じない。

 ならば、全霊の一撃を。

 振りかぶって、振り下ろす。

 それが一番相応しい、そう思えた。

 だから、踏み込んだ。

 前に出ようと、そう思った瞬間に身体が反応していた。

 反応して、飛び込んでいた。

 飛び込みながら、剣を振り上げていた。

 振り上げながら、振り下ろしていた。

 しかし、切っ先は空しく宙を切るだけだった。

 奴は、やはり一歩後ろに、身をかわしていた。

 

「……ふむ」

 

 その呟きを無視して、切り返すように股間を狙った。

 奴は、それを半歩身体をずらして、かわす。

 それでも俺は止まらない。

 藤ねえに教えてもらった剣道の基本、それを全て忘れてしまった。

 無茶苦茶に攻めた。

 技術というよりは、本能だった。

 それが、奴には蚊ほどの傷も付けることが叶わなかった。

 そして、いつの間にか、天井を見上げていた。

 仰向けに、倒れていた。

 冷たい木の床が、火照った身体に、ひんやりとして心地よかった。

 何をされたのか、全く分からなかった。

 ただ、さっきに比べれば、ずいぶんと楽なものだと、何となく思った。

 

「しばらくそのまま休め。それと、前歯が折れているはずだ。元あった場所に差し込んでおけ。一分もすれば接着する」

 

 口の中を、舌で舐めまわした。

 ねっとりと、濃厚な鉄の味を舌先に感じることが出来た。

 そして、ころりとした小石みたいなものが、転がっていた。

 

「次はそれを持ってかかって来い」

 

 ごつり、と音がした

 そこには、白と黒の短剣が、無造作に転がっていた。

 

 

 震えた。

 恐怖にではない。

 歓喜だ。

 この背を貫いて、なお身体を震わせる感情は、紛れも無く歓喜だ。

 これほどか、と思った。

 あの日、自分が作った紛い物とは、比べるべくも無かった。

 そんなの、これに失礼だと思った。

 比較すること、それ自体が天に唾吐く行為だと思った。

 天井知らずだ。

 これほどの贋作がこの世にあることが信じられなかった。

 これに比べれば、俺の投影した干将・莫耶は、まるで風船だ。

 形が膨らんだだけで、中身をちっとも伴っちゃあいない。

 不躾に背伸びした子供、それくらいにみっともなかった。

 

「来い」

 

 その、双剣。

 自らの作り出した奇跡。

 それを手にした俺を見て、やはり奴はそう言った。

 一切の感情を排した、その瞳で俺を見た。

 だが、俺は動けなかった。

 先ほどとは違う感情だ。

 恐怖。

 恐怖で、俺は動けなかった。

 

「来い」

 

 奴は、さっきまでと同じく、再びその言葉を口にした。

 しかし、俺の身体は動けない。

 今にも、震えだしそうだった。

 歯がみっともなくガチガチと鳴りそうなのを、押し留めるだけで精一杯だった。

 

「くうぅっ」

 

 怖かった。

 何よりも、この剣が怖かった。

 何でも切れる、そう思った。

 この剣なら、あの化け物も倒せたのではないか。

 そう勘違いしそうな自分が怖かった。

 この剣に酔いそうになる自分が怖かった。

 血を、それ自体を目的にして戦いそうになる自分が、何よりも怖かった。

 

「ふざけるな」

 

 奴が、言った。

 その声に、やはり何の感情も込めないまま。

 

「今まで、貴様の攻撃が一度として、俺に届いたか」

 

 静かな声。

 しかし、この広い空間を圧してあまりある、戦士の声。

 そういえば、セイバーはどうしたのだろう。

 俺の後ろにいてくれているのだろうか。

 それとも、あまりに不甲斐ない俺を見て、呆れて帰ってしまったか。

 それとも――。

 

「目の前の敵以外に意識を裂くとは、余裕だな」

 

 太腿を、蹴られた。

 太腿を、太い蛇が走り抜けた。

 痛みで身体を構成した、黒く、太い、蛇だった。

 それが、牙を立てながら、俺の太腿を犯していった。

 

「ぎ、あああ!」

 

 膝が、何の抵抗も出来ないまま、かくん、と崩れ落ちた。

 苦笑いすら、漏れなかった。

 いっそ、見事なほどだった。

 見事なまでに、股関節から下の感覚が、無くなっていた。

 麻酔注射よりも強烈で、それよりも即効性。

 ただ一発の、蹴り。

 それで、この足が、断たれた。

 

「来い」

 

 蹲った俺を、蔑視することも無く、初めて三度、奴はそう言った。

 動きたくなければ、それでもいい。

 二度と、動けなくしてやる。

 そう、言外に言っていた。

 

「が……あ、あ、あ!」

 

 いくら声を上げても、片足には力が入らなかった。

 だから、もう片方の足だけで、無理矢理に立ち上がった。

 痛いのが嫌だからじゃあない。

 殺されるのが怖いからじゃあない。

 目の前の男に、見限られるのが、怖かった。

 それだけは、嫌だと。

 この男には馬鹿にされたくないと。

 ただ、認めて欲しい、と。

 そう、思った。

 

「よし」

 

 初めて、褒めてくれた。

 歓喜。

 涙が出そうだった。

 

「来い」

 

 もう、待たせたくなかった

 一秒だって、この男を待たせたくなかった。

 まるで、恋人との待ち合わせ場所に走る中学生だ。

 それが、失恋に繋がると、脅えている。

 見放されると、恐怖している。

 だから、振り回した。

 この剣、この名剣には、如何にも不相応な剣技。

 木の枝を剣に見立てて振り回す、チャンバラごっこに興じる子供と、何ら変わるところが無い。

 感性のまま、振り回した。

 胴薙ぎ。

 奴は、下がる。

 その空間を詰めつつ、突き。

 奴は、半歩身をかわす。

 回りこみつつ、切り上げ。

 奴は、一歩後ろに引く。

 身体を沈めて、足を狙う。

 それも、かわされる。

 どんなに攻めても、かわされた。

 いなされることも、弾かれることも無い。

 ただ、かわされ続けた。

 

 

 致命傷だ。

 なるほど、弓兵の目は伊達ではない。

 私は、彼に深く感謝の念を抱いた。

 これでは、駄目だ。

 この状態のシロウを戦場に連れて行けば、間違いなく死ぬ。

 理屈ではない。

 経験だ。

 嗅覚、そう言ったほうが正しいかもしれない。

 戦場に生きたもの、それだけが持ち得る、嗅覚。

 死神。

 その嗜好を嗅ぎ分けることの出来る、嗅覚。

 それからすると、今の彼は大好物だ。

 死神が、舌舐めずりをしている。

 その大鎌を、今か今かと砥いでいる。

 それ程に、今のシロウは致命的だった。

 その剣技は、美しかった。

 流れるようで、無駄が無い。

 一つの動作が、そのまま次の攻撃のための布石として機能している。

 双剣の一番の利点、変幻自在の、流れるような連撃。

 その極意の入り口、彼はそこに立っているのかもしれない、それ程の攻撃だった。

 あくまで一般人に限れば、今の彼を打倒し得る者は、ほとんど存在しないだろう。

 しかし、一番重要なものが、欠けていた。

 今の彼では、猫の子一匹殺すことはできない。

 おそらく、無意識だろう。

 しかし、怖くない。

 彼の攻撃は、怖くない。

 その意志は、勇猛。

 剣筋は、致命的。

 しかし、怖くない。

 理由は明白だ。

 浅い。

 それでも、一歩。いや、半歩か。

 浅い。

 攻撃が、届いていない。

 白打のときも。

 竹刀のときも。

 そして、あの双剣を手にした今も。

 悉く、半歩、浅い。

 だから、届かない。

 どうしても、アーチャーの回避に追いつかない。

 そもそも、アーチャーは本気でかわしていない。

 本気でかわせば、シロウの攻撃がアーチャーに当たる筈が無い。

 だから、アーチャはシロウのレベル以下に己の動きを抑えている。

 だからこそ、哀れなのだ。

 一般人程度に抑えた彼の動き、しかし、シロウはそれを捕らえることが出来ていない。

 半歩、浅い。

 原因は、分かっている。

 腰が引けてしまっているのだ。

 端的に言えば、いつでも逃げられる状態に己を置いている、そう言っていい。

 だから、極微量の地点で、重心が崩れている。

 前に進もうとする身体を、無理矢理後方に繋ぎ止めているのだ。バランスが崩れないほうがどうかしている。

 故に、踏み出しが上手くない。

 故に、半歩浅い。

 故に、攻撃が、届かない。

 理由は、はっきりしている。

 そんなもの、彼の瞳を見れば、馬鹿でも分かる。

 泣き出しそうな、瞳。

 敵を睨みながら、しかし誰かの救いを求めるような、瞳。

 恐怖。

 今の彼は、恐怖に囚われていた。

 それが、一番不味い。

 戦場では、その感情が、一番死神に好まれる。

 命を捨てることの出来ないものは、結果的に命を捨てる羽目になる。

 勇猛と猪突は同義ではないように、慎重と臆病も同義ではない。

 しかし、その意味を同じと誤謬した者は、間違いなく死ぬ。

 戦場とは、そういう場所であり、今の彼は、臆病に支配されていた。

 だから、私は弓兵に、感謝した。

 

 

「もういい」

 

 奴は、そう言った。

 瞳に、深い感情を湛えさせながら。

 俺には、その感情の種類が分からなかった。

 失望、だと思った。

 失望させてしまったと。

 

「まだだ、まだ――」

「もういい、そう言った」

 

 奴は、くるりと後ろを向いた。

 そして、事も無げに歩き出した。

 もう、俺のことなんか、忘れてしまったみたいに。

 出口のところに、セイバーがいた。

 

「分かったか」

「ええ、貴方に感謝を」

 

 アーチャーとセイバーは、そんな、短い会話をかわした。

 何がなにやら、分からなかった。

 ただ、見限られたと。

 そう思って、涙が溢れた。

 悔しかった。

 情けなった。

 格好悪いと、そう思った。

 

「責任として、忠告しておく。今の貴様は、恐怖に捕らわれている」

 

 背中を向けたまま、奴はそう言った。

 

「違う!たまたまだ!」

 

 情けない声が、毀れた。

 嗚咽に、震えていた。

 自分さえ騙せていない、声だった。

 それを、俺が笑っていた。

 全身を震わせて。

 恐怖と、安堵と、それ以外のどろどろした感情で、身を震わせながら、俺が俺を笑っていた。

 

「何度やってもかわらんさ。貴様は、一度恐怖に屈したのだろう?そういう男は、もう二度と使い物にならん。そういうものだ」

 

 奴は、出口の所で振り返った。

 嗤っていると思った。

 嘲笑っていると。

 この、情けない男を、嗤っている、そう思った。 

 だが、違った。

 確かに、彼は笑っていた。

 でも、そこに込められた感情は、嘲りなんかではなかった。

 優しい、瞳。

 慈しむような、瞳。

 

「恐怖とは、執着だ」

 

 その声は、父親みたいに。

 ただ、優しく、この耳に響いた。

 

「執着とは、即ち生そのもの」

 

 その声は、兄みたいに。

 ただ、染み入るように、胸に収まった。

 

 そして、最後に彼は言ったのだ。

 優しさと、慈しみと、ほんの一握りの、羨望を込めて。

 

「喜べ、衛宮士郎。お前は人として生きることが出来るよ」

 

 その声が。

 この耳道を貫いたその声が、あまりにも哀れで。

 これなら、嘲笑ってくれればよかったのに。

 そんなことを、思った。



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episode46 彼の罪、彼女の罪

『……以上の観点から、その症例は非常に興味深い。しかし、その症例そのものは、古来より広く認知されてきた。地域差、死生観、或いは宗教的なタブー等によってその呼びかたや受け止められかたは様々だったが、一様に言えることは、その症状そのものが大して珍しいものでは無いということだろう。

 我々魔術師がその症例に対して、一面的なアプローチしか試みてこなかった点は、まさに恥ずべき汚点であると言えるのかもしれない。つまり、魔術的な要素が絡んでいるか、否かである。それがあれば、実験体として迎え、無ければ抹殺、或いは放置する。その応対は如何にも短絡的であった。科学の進歩を魔術が追いかける、それは認容し難い現実ではあるが、精神的な、いわば魔術にもっとも縁の深い分野でさえ同様であるというのは、怠慢との謗りをかわすことは出来まい。

 その点、この国の退魔の一族は、慧眼であったと言えるだろう。一つの器に異なる酒を満たす、そのことの困難を知りながら、弛まぬ努力と夥しい犠牲の末、一つの到達点を見つけたその技量は、方向性の異なる生き方を定められた私の心をすら、強く揺さぶらずにはおかない。

 条件は、揃っている。幸い、我が系譜の魔術の習得には、その症例の発症条件の一部を満たす要素がある。ならば、使う必要のある薬物等は限られてくるはずだ。そして、アレの持つ特異性。アレの起源を調べたとき、この老骨にも衝撃が走った。あのように特異な起源、他に見たことがない。あれならば、器として申し分は無い。

 問題は、条件を満たす個体の選別である。そればかりは手探りで進めていく必要があるだろう。だが、私は悲観をしている訳ではない。むしろ、高揚している。これほどの高揚感がこの身を包むのは、果たして幾世紀ぶりであろうか。

 努力が必要になる。困難も待ち受けていよう。だが、私は乗り越えてみせる。そして、あの子もそれに良く応じてくれるはずだ。なぜなら、私と彼には共通の目的がある。ならば、如何なる苦痛にも耐えてくれるだろう。それこそ、あの出来損ないならば発狂するほどの苦しみにでも』

 

episode46 彼の罪、彼女の罪

 

 トボトボと歩くのは、嫌だった。

 手痛く負けたとき。

 赤面ものの失敗をしたとき。

 そんなときこそ、胸を張って。

 そんなときだけは、胸を張って。

 だから、まっすぐ前を見て、歩いた。

 歩いている、つもりだった。

 それでも、いつしか背中が丸まるのは、我慢できなかった。

 背を丸めて、下を向いて歩いていた。

 傷が痛いわけでは、なかった。

 痛いのは、他のものだった。

 

『ごめん、一人にしてくれないか』

 

 セイバーには、そう言った。

 彼女は、無言でそれに応じてくれた。

 昨日までの俺の無茶を考えれば、それがどれほどの慈悲に満ちたものなのか、考えるまでも無い。

 思わずこみ上げそうになる嗚咽に、無理矢理蓋をした。

 ぎしり、と歯を噛み、その痛みで蓋をした。

 それでも、背は丸まってきた。

 何かに脅えるように。

 何かから、身を隠すように。

 きっと、寒さのせいだ。

 頬を切る北風が、冷たすぎるのだ。

 だから、首を竦めて、背を丸めている。

 それだけの、話だ。

 そう、自分に言い聞かせて、歩いた。

 歩いた。

 しばらく、歩いて、そして、気付いた。

 いつしか、隣に人の気配があった。

 無視して、歩いた。

 それでも、隣に人の気配があった。

 ちらり、と横を見た。

 そこには、背を丸めた俺よりも、更に小さな人影が、あった。

 

 代羽が、いた。

 

 彼女は、何も話さなかった。

 気付いていない、そんなことはないだろう。

 気付いているはずだ。

 それでも、彼女は無言だった。

 お互い何も話さずに、挨拶すら、そして視線をすら交わさずに、歩いた。

 歩いて、しばらく歩いて、人のいないバス停を見つけたので、なんとなくそこで立ち止まった。

 彼女が、そのまま通り過ぎてくれればいいと思った。

 でも、俺を追い越していく人影は、無かった。

 無言。

 時折通り過ぎる、車のエンジン音と、タイヤと地面との擦過音だけが、響いた。

 いつしか、新都行きのバスが到着していた。

 乗れよ、と言わんばかりに開いた自動ドア。

 仕方ないから、乗り込んだ。

 後ろでもう一人、誰かが乗った気配が、あった。

 振り返って確かめようとは思わなかった。

 車内では、吊革を持ったまま突っ立った。

 席は、空いていた。

 でも、今は座りたくなかった。

 座ったら、二度と立ち上がれない、そんな気がした。

 適当な駅で、降りた。

 別に目的があって乗ったバスじゃあないから、どこでもよかった。

 小銭を料金箱に入れてステップを降りると、後ろから「両替はどうやってするのですか?」という、女性の声が聞こえた。

 それも気にせず、歩いた。

 小走りで駆けてくる軽い足音が、俺のすぐ後ろで止まった。

 足音が、一つから、一つと一つに増えたけど、それでも歩いた。

 大通りに差し掛かったとき、時代に取り残された電話ボックスを、見つけた。

 俺は彼女を無視して、そこに入った。

 彼女の姿が消えるならよし。

 俺を待っているのなら、それもよし。

 そう思って、後ろを見た。

 そこには、明後日の方角を見たまま俺を待つ代羽が、いた。

 その姿を確認してから、俺は馴染みの深い電話番号をプッシュする。

 呼び出し音が、二、三回。

 

『はい、遠坂です』

 

 一瞬、凛か桜か分からなかった。

 多分、凛だ。

 

「……ごめん、飯、外で食べるから」

 

 それだけを、伝えた。

 少しだけ、彼女は何も話さなかった。

 

「ごめんな、我侭言って」

『……別に、今に始まったことじゃないでしょ、あんたが自分勝手なのは』

 

 呆れた、声。

 アーチャーから事情は聞いているのかもしれない。

 

『予定を変えるつもりはないわよ。二時までに帰ってこなければ、私達だけで攻め込むから』

「ああ、分かってる」

『じゃあね、切るわよ』

「ああ。……ありがとう、凛」

 

 その言葉を伝えきる前に、電話はぷっつりと切れてしまった。

 ほんの少しの落胆を覚えながら、電話ボックスのドアを開けた。

 そこには、やはり、代羽がいた。

 明後日に向けられたままの視線は、彼女には珍しく、少し不機嫌だ。

 俺は、黙ったまま歩く。

 彼女は、黙ったまま俺の後をついてくる。

 最初に見つけた店で、食べようと思った。

 彼女が一緒に入ってくるなら、奢ってもいいかもしれない。

 入ってこなければ――。

 少し侘しいけど、一人で食べよう。

 

 最初に見つけたのが、世界で一番有名な、ファストフードの店だった。

 自動ドアが開くと、軽く胸焼けするような、濃厚な肉の香りが漂ってきた。

 日本全国、いや、全世界のどこの店でもこの匂いがするのかと思うと、少しだけうんざりした。

 後ろを見ると、誰もいない。

 

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 

 店員が、最高の笑顔を作りながら、そう尋ねてくる。

 この笑顔の指導のために、いくらの人件費がさかれているのだろうか。

 そう考えると、この世にただのものなど無いと、思い知る。

 

「えっと……」

 

 考えるのも億劫なので、最初に目に付いたセットメニューを二つ注文する。

 

「お飲み物は何にしましょうか?」

 

 飲み物。

 きっと、外で食べることになるだろう。

 暖かいものがいい。

 

「じゃあ、ポタージュで」

「コーンポタージュお二つでよろしいですか?」

「はい、それでお願いします」

「先に会計の方、よろしいでしょうか?」

 

 なるほど、どこかの笑い話にあったけど、この店で食い逃げするのは不可能だ。

 どうでもいい、不能な思考に苦笑する。

 ポケットから、財布を取り出す。

 少し懐が寂しかったことを思い出してひやりとしたが、なんとか足りた。

 時間は、まだ昼前。

 もう少しすれば事情は違うのだろうが、今は閑散としている店内。

 観葉植物が、王様みたいにスペースを取っていた。

 そして、王様みたいに、除け者にされていた。

 大して時を置かずに、やはり笑顔の店員が注文した品を持ってくる。

 おざなりに礼を言って、店から出た。

 

「ありがとうございましたー!」 

 

 その声に対応する余裕はさすがにないし、向こうもそれを望んでいるとは思えない。

 それに、俺の前には、代羽が、いる。

 少し拗ねたような、そんな表情で、仁王立ちしている。

 腰に手を当てて、男前な格好で。

 俺は、手に持ったビニール袋を軽く掲げる。

 

「……食うか?」

 

 彼女は、厳しい表情のまま、首を縦に振る。

 

「……食べます」

 

 交わした言葉は、それだけ。

 また、俺は歩いた。

 彼女も、歩いた。

 一人一人でしばらく歩いて。

 公園の前で、立ち止まった。

 冬木中央公園。

 俺が、一度死んだ場所だった。

 

「ここで、食うか?」

「……どこでも、いいです」

 

 代羽は嫌々そう言った。

 ……本当に、珍しい。

 不機嫌そうな代羽が、珍しかった。

 いつの間にか、背中が、少しだけ、伸びていた。

 昼時だというのに、その公園に人影は少なかった。

 いつものことだ。

 ここは、あの火災の、中心だった場所だ。

 あの夜、一番多くの人が、焼け死んだ場所だ。

 十年前の災害。

 冬木に住み続けている人間ならば、あの火事を忘れた者など、それこそ片手で数えるくらいしかいないだろう。

 それでも、その恐れを日常に抱き続けるには、十年という歳月は長すぎる。街の整備は進み、昔とは違った形で調和の取れた都市が形成されている。そこに、恐れや不安といった感情など、見出すことは叶わない。

 だが、ほんの一瞬。

 日常に紛れた、微かな瞬間。

 真新しいコンクリートから漏れ出した、微量の空気。

 そういったものに、人は過去を思い出してしまう。

 炎。

 悲鳴。

 そして、その中に消えていった、大切な人達。

 それは、きっと救いだ。

 その、心を切り裂くような痛みこそが、救いだ。

 忘れることに比べれば、身を切り裂く苦痛の何と甘露なことか。

 それでも、苦痛は苦痛だ。

 人は、穢れを遠ざけようとする。

 日常からは、出来るだけ切り離そうとする。

 しかし、どこかに苦痛の象徴が必要になる。

 この公園は、きっと、そういう類のものだ。

 ふ、としたある日。

 残された人は、決意と共に、日常から離れる。

 そして、ここを、歩く。

 痛みと共に、歩く。

 ここに、あの人の家があった。

 彼は、ここで蹲ったまま、見つかった。

 熱かったのだろう、寒かったのだろう、苦しかったのだろう。

 私は、覚えているから。

 貴方達のことを、忘れていないから。

 そう、確認するための、場所。

 ここは、きっとそういう場所だった。

 

「どうやって食べればいいのですか、これ」

 

 俺達は、ベンチに座って昼食をとっていた。

 ハンバーガーと、フライドポテト、それにコーンスープ。

 手軽といえば、この上ない食事。

 しかし、俺の隣に座った少女は、フレンチのフルコースを食べるときよりも悪戦苦闘していた。

 彼女の小さな手には、すこし大きすぎる物体。青と白の包装紙にくるまれたそれを前にして、代羽は心底困った表情を浮かべている。

 

「ハンバーガー、知らないのか?」

「知識としては知っています。しかし、食べたことはありません」

 

 憮然とした彼女。

 

「だいたい分かるだろ、こんなもの。こうやって包み紙を外して、そのまま齧りつくんだよ」

 

 百聞は一見に如かず。

 ビニール袋から全く同一の物体を取り出して、包み紙を外して齧りつく。

 味は期待通りのもので、それ以上でもそれ以下でもない。

 雑といえば雑、完成されているといえば、この上なく完成されている。

 一応、美味いと言っていいのだと思う。ただ、食べ終わってしまうと、胸焼けと共に不思議な後悔が襲ってくる、そんな類の味だ。

 

「……だいたいなら、分かっていました。ええ、分かっていましたとも。それでも、これが初めてなのです。慎重さがあって然るべき、そうは思いませんか?」

 

 彼女はごにょごにょと何かを呟いて、その小さな口でぱくりとかじりついた。

 しばらく、無言でハンバーガーを食べる。

 時折、ポテトを摘む。

 喉が渇いたら、スープを啜る。

 他愛ない、どうということもない、日常。

 聞きたいことは、山ほどある。

 話したいことも、山ほどある。

 それでも、この空気で聞くのはあまりにも残酷な気がして、何もしゃべることができなかった。

 

「――うぇ」

 

 微かな声がして、俺は首を横に向けた。

 そこには、顔を顰めて、紙コップを睨む代羽がいた。

 

「――これ、なんですか?」

「コーンポタージュだよ、飲んだこと無かったか?」

「……こういうものをコーンポタージュと呼ぶのならば、私は初めて飲みました」

「不味いか?」

 

 彼女は紙コップを傍らに避けて、苦笑しながらこう言った。

 

「不味いわけではありませんが……、こう、どろりとした飲み物は、あまり好きではないのです。ちゃんとスープ皿に入れて出してくれれば、また違うのかもしれませんけど」

「そっか、俺は結構好きなんだけどな。じゃあ、何か別の飲み物買ってくるよ。お茶でいいか?」

「梅昆布茶以外でお願いします」

 

 薄っぺらい財布、そこに残された頼りないゼロの数を思い出しながら、俺はベンチを立った。

 

 

 うららかな日差しが木々の緑に反射する。

 私の記憶にある冬とは全く違う、まるで常春の国のような空気。

 閑散とした公園、その中のベンチで主は昼食を食べている。

 

「アサシン、あなたもいかがですか」

 

 のんびりとした、気の置けない友人と話すときのようなのんびりとした口調で私に話しかける主殿。この人は、私が生前、そして今も暗殺者であることを忘れているのだろうか。

 

「不要。第五要素で編まれたこの体、生者の取るような栄養など必要とせぬ」

 

 主殿は挽肉の塊をパンで挟んだ料理を一口。

 

「そうですか。衛宮士郎のサーヴァントは美味しそうに食べていましたよ」

 

 ごそごそと、袋の中から取り出したのは細切りにしたジャガイモの素揚げ。

 それをぱくりと一口。

 

「あのような稀有な例を基準にされては困る。あくまで我々は戦闘のための道具であり、助言者。そう考えてもらわねば立ち行かぬ」

「そうですか、こんなに美味しいのに」

 

 主は残念そうに最後の一口を食べ終えると、ごみを屑篭に投げ込んだ。

 セイバーのマスターである少年は、少し前に姿を消した。

 遠からず戻ってくるだろう、だのに私に話しかけるとは、剛胆なのか、無神経なのか。

 辺りは、とても静かだった。

 少しだけ、風が吹いていた。

 柔かい、とても冬とは思えぬ風にその絹髪をなぶらせて、彼女はぼんやりとした視線を彼方に彷徨わせる。何か失ったものを懐かしむようなその視線は、とても暖かでありながら、同時に背筋を薄ら寒くさせるに十分だった。

 

「ここは私達が死んだ場所なのです」

 

 彼女は目を閉じた。

 

「私はここで死んで、全てを失い、幸いにして再び生を得ました。だから、為すべきことを為さないといけない」

「主殿の望みとは?」

 

 彼女は何も答えない。

 己の時間を止めてしまったかのように動かない彼女。

 もしかしたら眠ってしまったのだろうか。

 私がそう考え始めたとき、彼女の口が動いた。

 

「私が殺してしまった人を、幸せにしたいのです」

 

 苦痛に満ちた独白。

 まるで飲み下した針を吐き出そうとするかのようなその声は、後悔と怨嗟で彩られていた。

 

「つまり、死者の蘇生を願うということか?」

「いいえ、死者は既に蘇りました。しかし、それは生者ではなかった。それが、とても嫌なのです」

 

 眉根を寄せながら、なおも目を閉じたままの彼女は、大きく溜息をついた。

 

「アサシン、あなたの望みは何なのですか」

 

 そういえば私は彼女に自分の願いを話していなかった。

 なんだ、我々はそんな基本的なことも知らぬまま共に戦ってきたのか。そう考えると、久しぶりに苦笑が漏れかけた。

 

「私の望みは名前。私は名前が欲しい。永劫とも言える歴史の中で燦然と輝く、己だけの名前が欲しい」

 

 名前。

 もちろん、英霊たる私には名前がある。

 ハサン=サッバーハ。

 中世において恐怖の代名詞ともなり、現在、私が被っているクラスの語源ともなった組織、暗殺教団の主、[山の翁]。

 しかし、その名を継ぐものは一人ではない。歴代の山の翁は、悉くその名を名乗ってきた。故に、ハサンを名乗るものは私一人ではない。

 私にはそれが許せない。

 人々がハサンの名を口にするとき、それが指すのが果たして私のことなのか、それとも数多の、集合体としてのハサンのことなのかが分からない。

 ならば、私という存在は一体何者なのだ?

 名前を持ち、しかしその名前が表すのは自分の事ではなく。

 顔を持ち、しかしその顔は既に個人を識別することのできるものではなくなっている。

 それでも、私は英霊などという訳の分からぬものに祀り上げられてしまった。

 どこの誰かも分からぬ英霊。

 自分の名前すら忘れた英霊。

 そんなもの、嘲笑の対象でしかないではないか。

 ならば、私は永遠に道化を演じねばならぬのか。

 嫌だ。

 蔑まれるのはかまわない。

 恨まれるのは望むところ。

 しかし、笑われるのは、同情されるのだけは許せない。

 だから、私は[私]という個を確固とさせる何かが欲しい。

 名前。

 私は、名前が、欲しい。

 

「そう、あなたも名前を奪われてしまったのね」

 

 朦朧とした、心ここにあらずといった感のある声で、主は答えた。

 

「私も一緒。私も名前を奪われた。

 マスターとサーヴァントは似たもの同士が選ばれるというけど、なるほど、私と、あなたは、似ているわ……」

 

 そう言った彼女は、やがて寝息をたて始めた。

 すぅ、すぅ、と、まるで赤子が眠るような安らかな呼吸。

 この世の如何なる悪意も知らぬ、そんな無垢な寝顔。

 私は彼女にそっと外套をかけた。

 薄汚れた襤褸だが、ないよりはマシだ。それに、いくら暖かとはいえ眠りに委ねた体に冬の風は毒。ならば風除けの加護の付されたこの外套は、北風からの攻撃を退ける城壁として相応しかろう。

 そこまで考えて、私はふと思った。

 こんなふうに人と接するのは何時以来だ?

 彼女の体を案ずるのは当然だ。マスターの体調は私が勝ち残る可能性に直接的に関わってくるのだから。

 ならば、すぐに彼女を起こし、もっと暖かな場所まで連れて行けばよい。

 いや、そもそもこんな開けた場所で眠神に体を任すなど、戦争中とは思えぬ愚行。それに、時を置かず敵サーヴァントのマスターが帰ってくる。

 一刻も早く、やめさせるべきだ。

 それなのに、私は彼女の眠りを妨げるのが、たまらなく嫌だった。

 安らかな寝顔を、もっと見ていたかった。

 あれ、なんだろう、この感情は?

 私はしばらくの間考えて、それが特に重要なものではないと判断した。

 ただ、彼女を起こすことだけはしなかった。

 久しぶりに感じる風の冷たさを味わいながら、彼女の寝顔を守っていた。

 

 

 小脇に緑茶のペットボトルを抱えてベンチに戻ると、代羽は寝息をたてていた。

 すぅ、すぅ、と、本当に心地良さそうに。

 ベンチの傍らの屑篭には、おそらく彼女の分と思われる、ハンバーガーの包み紙やら何やらが捨てられていた。

 人を買出しに行かせておいて、自分はさっさと食事を終え、あまつさえ午睡を取る。おそらくは失礼な話なのだろうが、不思議と不快感は感じなかった。

 それよりも、彼女の寝顔を見て、懐かしい、と思ったのが意外だった。

 

「代羽、こんなところで寝てると、風邪ひくぞ」

 

 囁くようにそう言ってから、気付いた。

 細い彼女の肩、それを守るように掛けられた、漆黒の外套。

 所々擦り切れ、色落ちしているものの、作り自体は頑丈そのものだ。

 何より、どこかで同じものを見たことがなかったか。

 つい、最近だ。

 それに、この外套からは、一種の神秘に近い雰囲気を感じる。もちろん、セイバーの鎧やアーチャーの短剣等には及ぶべくもないが。

 これは――。

 

「う、ん――」

 

 そんなことを考えていたら、彼女は少し魘されて、寝返りを打とうとした。

 ベッドや布団ならばともかく、ここはただのベンチ。上手に寝返りが打てるはずがない。

 自然、彼女の体は背もたれからずり落ちていき、そしてそこには――。

 

「まずい……!」

 

 俺の食べかけのハンバーガーが、あった。

 このままでは、彼女の髪の毛がケチャップ塗れになってしまう。そんなの後で何言われるか分かったもんじゃないし、それよりなにより、彼女の綺麗な髪の毛がそんなもので汚れるのは、許せなかった。

 だから、咄嗟に手を伸ばした。命題は、彼女の眠りの邪魔をしないこと、そして彼女をケチャップ塗れにしないこと。

 両の掌に、微かな重み。そして、なお途切れることのない、優しい寝息。恐る恐るベンチの上を見てみると、俺のハンバーガーが彼女の髪の毛に襲い掛かった形跡は見当たらない。

 俺は、深く深く安堵の溜息を吐いた。

 しかし、これからが問題だ。

 俺の掌の上で眠る彼女を、どうしようか。

 このまま、下手したら何時間も同じ姿勢でいるわけにもいかないし、俺にだって用事がある。

 仕方ない、とりあえず彼女の下で舌舐めずりをしているハンバーガーをどうにかしよう。

 片手を彼女の頭から離して、髪の毛が落ちることがないように注意しつつ、ハンバーガーを脇に避ける。ハンバーガーが地面に転げ落ちそうになったが、一応は上手に成功したと思う。

 再び安堵の溜息を吐いた俺は、片手でポケットからハンカチを取り出してベンチに広げ、その上に彼女の頭を寝かしつけた。

 

「何してんだろ、俺…」

 

 夢の世界の住人となった代羽、その隣で俺は空を見上げた。

 そこには、太陽が、あった。

 燦燦と輝く、冬場にしては力強い陽光。

 少し眩しくて、思わず手を翳してしまう。

 太陽というと、日本の子供は赤い絵の具を使って表すことが多いが、世界的に見ると黄色い絵の具を使うほうが一般的らしい。

 普通に考えれば、黄色の方が正解な気がするが、赤い太陽というのも中々情熱的だ。

 でも、世界のどこを探しても、黒い絵の具で太陽を描く子供はいないだろう。いるとしたら、よっぽどの捻くれ者か、太陽というものを誤解しているか、それとも俺と同じものを見てしまったか、だ。

 

 そうだ。

 

 あれは、黒い太陽だった。

 もしくは、孔。

 夜空という空間にぽっかり開いた、孔。

 何かを飲み込むための孔なのか、それとも吐き出すための孔なのか。

 多分、吐き出すための孔だ。

 だって、俺は知っている。

 何かがあの中から溢れてきたのを。

 黒くて、うねうねしてて、冷たそうなもの。

 それの一筋が、俺のほうに向かってきて。

 誰かが、俺を、突き飛ばして。

 そして――。

 

「……おはよう、ございまふ……」

 

 彼女は目を擦りながら体を起こした。

 髪の毛が、風に遊ばれて乱れている。言ってしまえば、ぼさぼさだった。

 口元には、白い涎の跡。

 なんというか、これぞ寝起き、そう言わんばかりのその様子が、いっそ天晴れだった。

 しばらく、無言。

 じっと、見つめ合う。

 その間も、彼女の視線の焦点は、あっちにふらふら、こっちにふらふら。

 やがて、決心がついたかのように、荘厳に口を開く。

 まあ、何を言うかはだいたい想像がつくのだが。

 

「……ごかいしないでください、ほんとうはねおきはいいほうなのですが、さいきんは――」

「夜更かしすることが多くて、だろ。前も聞いたよ。はい、すっかり冷えちまったけど、お茶。これ飲んで、顔でも洗って来い」

 

 彼女は虚ろな目つきのままペットボトルのキャップを開けると、こくり、と一口だけ緑茶を飲んだ。

 そして、枕代わりにしていた俺のハンカチをひっ掴むと、ふらふらした足取りで水飲み場に向かった。

 なんと言うか、あいつには慎みとか、そういう感情が破滅的に欠落してる気がする。付き合いの薄い人間は、表面的な冷たい態度とその美貌に騙されて気付くことはないだろうが、彼女の本質は女性というよりは、むしろ男性よりだ。ひょっとしたら、身体の手入れはボディソープだけで済ましてます、みたいな体育会的なことを言い始めるかもしれない。

 その点、実は女性らしいのが藤ねえだったりする。普段は『虎』なので気付かないが、正月の振袖姿なんかを見てると、そう思う。

 

 藤ねえ。

 

『じゃあ、せめてじぶんを、ゆるしてあげて。そんなに、じぶんを、いじめ、ないで……』

 

 あの時。

 自分の身を省みずに、俺を守ってくれた、藤ねえ。

 俺がもっと強ければ、あの人をあんな目に合わせることなんて、無かった。

 俺が、もっと強ければ。

 

『恐怖とは、執着だ』

 

 うるさい。

 

『執着とは、即ち生そのもの』

 

 うるさい。

 

『喜べ、衛宮士郎。お前は人として生きることが出来るよ』

 

 うるさい。

 

 俺は、そんなこと望んでいるんじゃない。

 俺の、俺の望みは、唯一つ――。

 

「お待たせしました」

 

 そこには、一部の隙も無い、いつもの代羽がいた。

 長い、カラスの羽のように艶やかな黒髪には綺麗に櫛が入れられ、涎の跡はすっかり無くなっている。

 そして、しずしずと俺の隣に腰を下ろす。

 何気ないその仕草も、先ほどの彼女を見ている俺にとっては笑いを掻きたてる厄介者でしかない。

 彼女は、そんな俺を疎ましげに見つめると、ゆっくりと口を開いてこう言った。

 

 背筋に、冷たい衝撃が突き刺さった。

 

「……このことは、他言無用。もし、万が一にもその約定を破れば……わかって、いますよ、ね?」

 

 にんまりとした笑みに、熱など感じられない。

 それは、絶対零度。

 キャスターの笑みよりも、なお冷たい。

 人を殺せる微笑がこの世にあるならば、それはこれを進化させたものに他あるまい。

 俺は、馬鹿みたいに首を縦に振った。

 抗弁など、出来ない。

 そんな勇気、身を滅ぼすだけだ。

 そんな俺を見て、彼女は満足気に頷いた。

 きらり、と怪しく輝く彼女の双眸。

 

「よろしい。ふふっ、私も無用な殺生をすることが無くなって、幸いです」

 

 俺には、その言葉が欠片も冗談とは思えなかった。

 

 

 代羽と二人で、話した。

 色んなことを、話した。

 色んなくだらないことを、話した。

 それは、二学期の期末考査の点数のことであり、最近のスポーツの話題であり、彼女のご近所さんの飼い犬が産んだ可愛らしい子犬のことであり、テレビのお笑い番組のことであり、調理道具に対する拘りだった。

 彼女は、笑った。

 彼女は怒った。

 彼女は拗ねて、悲しんで、疑って。

 そして、やはり笑った。

 俺も、楽しかった。

 思わず笑みが漏れそうなくらい、楽しかった。

 それでも、俺は笑えなかった。

 彼女が笑うたびに、どこかに痛ましさが涌いてきたから。

 

 慎二。

 

『……やめて下さい、兄さん。私は何をされても構いませんから、その服は汚さないで。

 遠坂先輩が、借してくださったのです』

 

 あいつが、お前に何をしたんだ。

 

『あいつ、無表情で気味が悪いけど、あそこの具合だけは最高だからさ』

 

 お前は、それをどんな想いで耐えてきたんだ。

 

『そうそう、知ってるか、衛宮。あいつ、実は化け物なんだぜ。あいつ、何回やっても――』

 

 家族に、化け物といわれて、そして、犯されて。

 

 俺は、それに気付いてやれなかった。

 一言。

 一言言ってくれれば、俺は慎二を生かしておかなかった筈だ。

 即座に飛んでいって、あいつの首をへし折ってやれたはずだ。

 一言。

 一言、何で、俺に助けを求めてくれなかったんだ。

 何で。

 

「衛宮先輩」

 

 代羽の視線が、俺の横っ面に突き刺さる。

 でも、俺は彼女の顔を見ることが、出来なかった。

 それは、きっと俺の弱さだ。

 彼女は、何も言わなかった。

 もしかしたら、俺の内心なんて、とっくにお見通しなのかも知れない。

 その上で、俺を恨んでいるのかもしれない。

 なんで、助けてくれなかったのか、と。

 どうして、助けてくれなかったのか、と。

 そう思われても、仕方ない。

 それが、俺の罪だ。

 

「なぁ、代羽」

「ねぇ、衛宮先輩」

 

 不意に声が交差した。

 何となく、気まずい空気が流れる。

 

「お先にどうぞ」

「いや、大した話じゃないから、代羽から頼むよ」

 

 彼女は苦笑して、それでもおずおずと、口を開いた。

 

「では、遠慮なく。衛宮先輩、あの夜、私が言ったこと、覚えてますか?」

 



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episode47 彼の罰、彼女の罰

 自分だけでも生き残りたい。

 彼を捨てても生き残りたい。

 そう思ったわけではない。

 ただ、どうでもよくなっただけ。

 

 死ぬ。

 確実に死ぬ。

 今死ななくても、十分後には死ぬ。

 十分後に死ななくても、次の朝日を拝むことは叶うまい。

 そう思った。

 だから、せめて楽になりたいと。

 そう思ったのだ。

 

 この手を離せば彼は死ぬ。

 呼吸するたびに空気が肺を焦がす。

 そんな異界で、幼子が生き延びる術などない。

 

 でも。

 

 この手を繋いだままでも彼は死ぬ。

 足を進めるたびに熱風が肌を焼く。

 そんな地獄で、幼子達が生き残る術などない。

 

 だから。

 

 私はこう思った。

 人は一人で生まれてくる。

 ならば、

 死ぬときも一人が相応しい。

 そう、思ったのだ。

 

 そして、彼はいなくなった。

 今となってはわからない。

 手が離れたのか、手を離したのか。

 それは私の選択。

 だが。

 その選択は、罪ではない。

 

 本当の罪は。

 私だけが、生き残ったこと。

 

 

「ほら、ちゃんと挨拶しろよ。僕に恥を掻かせるな」

 

 兄の言葉は、ほとんど聞き取ることが出来なかった。

 

 目の前に立つ少年。

 くせのある赤毛。意志の強そうな瞳。

 誰が否定しても、私は確信した。

 ああ、彼が生きていたのだ。

 

 彼の存在は私の原罪。

 私の罪は彼から生まれ、

 私の中に沈殿し、

 そして、どこにもいかない。

 

 だから、私は恐怖した。

 彼に、許されることに恐怖した。

 この罪が無くなれば、私は私でなくなる。

 私が、殺される。

 

 故に、私は微笑んだ。

 恐怖を隠すために、微笑んだ。

 怯えを隠すために、微笑んだ。

 涙を、隠すために、微笑んだ。

 

「はじめまして、間桐 代羽です」

 

 この出会いは、奇跡などではない。

 

 本当の奇跡は。

 私の声が、歓喜に震えなかったこと。

 

episode47 彼の罰、彼女の罰

 

「では、遠慮なく。衛宮先輩、あの夜、私が言ったこと、覚えてますか?」

 

 突然、だ。

 あまりに突然の、台詞。

 あの夜?

 一体いつのことだろう。

 

「セイバーさんと先輩に、家まで送っていただいた、あの夜のことです」

 

『これを録音したのは、お前んちでやった『料理合宿』から帰ってきた日だよ。あいつ、いつもはマグロみたいに何にも反応しないのに、この日は珍しく嫌がったんだ。その理由が、遠坂の服を汚されたからだってさ。健気だね、全く』

 

 ああ、あの夜のことか。

 優しい驟雨の降る、暖かい夜のことか。

 俺とセイバーと代羽と、三人で人気の無い夜道を歩いた夜のことか。

 お前が、慎二に、犯された、あの、夜の、ことか。

 

「あの夜、先輩のお宅の縁側で、私が言ったこと、覚えてますか?」

 

 お前が何を言ったか?

 そんなこと、忘れるほど耄碌しちゃあいないつもりだ。

 

「『あなたはどうして正義の味方になりたいのですか?』、確か、こう言ったよな?」

「良く出来ました、大正解です」

 

 彼女はアシカを褒めるみたいに、にっこりと笑った。

 

「貴方はまだ、正義の味方などという、お化けみたいなものを目指しているのですか?」

「……その言い方、少し気に障るけど、そのとおりだ」

「では、貴方の目指す正義の味方とは、一体、どんなものなのでしょうか」

 

 正義の味方。

 それは、少なくとも俺にとっては一般名詞ではない。

 固有名詞。

 ただ一人の人物を差すものだ。

 親父。

 衛宮切嗣。

 彼の目指したもの。

 彼の目指した理想。

 争いのない世界。

 あらゆる悪のない世界。

 誰も、涙を流すことのない、世界。

 

「……泣いている人を助けるのが、正義の味方だと思う。誰もが幸せであってほしいと、そう願って、そう願い続けて――」

 

 それが、彼の姿ではなかったか。

 義父の、そして、彼の――。

 

「愚答です。それでは、質問の趣旨に答えていない。その定義では、この世の大半の人間が正義の味方ということになってしまう。結局のところ、人は、人の幸せを願う者ですよ、衛宮士郎」

 

 その視線は、その微笑みは、俺の深奥を射抜くように。

 

「じゃあ、代羽、お前はどう思うんだ」

「正義の味方の定義、ですか?」

「ああ、それでもいい。お前の考えを聞かせて欲しい」

 

 そうですねえ、と彼女は顎に手を当てた。

 退けない。

 何かのために、退けない。

 ここで退くわけには、いかない。

 しかし、己の思考を整理するように、彼女は目を閉じた。

 そして、目を閉じたまま、言った。

 

「――他者に対する重度のペシミストで度を過ぎた努力主義者。かつ、己に対する致命的なヒロイックナルシズムと誇大妄想的な強迫性障害を併発した精神病患者」

 

 そんなところでしょうか、と。

 目を閉じ、口元に笑いを含みながら、そんなことを、言った。

 口元は笑っていたが、言葉は笑っていなかった。

 その言葉に、熱は無かった。

 熱は無かったが、火傷しそうだった。

 冷たすぎて熱い、ドライアイスみたいな言葉だった。

 そして、彼女は言った。

 鬱屈した思念を吐き出すように、話し続けた。

 

「『正義の味方』という言葉には、必ず『救う』という概念が対になる。しかし、金策に困った個人を救う正義の味方など、あまりに卑小。まぁ、世間では一番ありがたがられるかもしれませんがね。ならば、救う対象は大きければ大きいほど相応しい。その最たる例が、人類とか世界とかでしょうか」

 

「観念的に言えば、人はその内面に一つの世界を有しているといっていい。『人一人の命は地球よりも重い』、そう言ってテロリストに屈服した国がどこかにありましたが、それはある意味においては極めて正しい見解だ」

 

「しかし、少なくとも、質量という観点で見たとき、人一人という存在は、世界という基準をもってすればあまりに小さい。小さ過ぎる。砂浜という概念は砂という粒子によって構成されているが、砂浜という単語の持つイメージの中に、厳密な意味での砂の一粒は含まれていない」

 

「近視眼的に考えれば、砂粒が影響を与えることができるのはその周囲の砂粒だけであり、それ以外に影響を及ぼすには彼らの手は短すぎる。そして、彼我を囲む環境はあまりに苛酷だ。風も、雨も、波も、全てが砂粒にとって、人智を超越している。しかし、それはある種、救いであるかもしれない。彼はその周りの砂粒だけは確かに救うことができるのだから」

 

「俯瞰して考えれば、九を助けるために一を切り捨てるとか、矛盾を承知の上で十を丸ごと助けるとか、一体そのどちらが正しい解答なのかとか、そういった煩悶それ自体が意味を持たない思考だということが良く分かる。砂の一粒がその身をダイヤモンドに変えたところで、あるいはその周囲の砂粒を砂金に変えたところで、それは砂浜にとって何の意味も持たない。十粒の砂金も、九粒の砂金も、砂浜にとっては同義だ」

 

「どちらでも構わない。どちらに視点を置くかは個人の責任だ。しかし、砂粒に視点を置けば、砂浜を救うことは明らかにその器量を超えた絶事であり、砂浜に視点を置けば、あらゆる砂粒が矮小すぎて、その全てを救うのは不可能だ。砂浜と砂粒の両の視点を抱くというのは、人の身に許された領域を超えているでしょうね」

 

「結局のところ、世界という物差しに対して人の身は矮小すぎるのです。いや、世界が重過ぎると言ったほうが正確でしょう。それが、この議論の帰結。卵が先か鶏が先か、その議論に意味が無いのと同じ。どういう過程を経ようと、結論は変わらない」

 

「しかし、彼らは違う。彼らは、己が何かを為せると考えている。己という砂粒が砂浜に影響を与えうると。もしくは、己という砂浜が卑小な砂粒の全てを認識することが叶うと。そう、考えている。そして、その限界を知らない。弁えようとしない。まるで、それが一つの美徳みたいに。さらに、彼らは常に脅えている。自分のせいで誰かが助からなかったんじゃあないか、と。自分の掌から何かが毀れてしまったのではないか、と。それは己に対する過信であると共に、他者に対する侮蔑だ。人は自分の人生に責任さえ持てれば、それで十分。他人のそれの責任まで負おうとするのは、弱者に対する蔑視に他なりません」

 

「良し悪しは置いておけば、世界は完成されている。それはシステムと言い換えることができるでしょう。衛宮士郎、システムというものの定義はね、『運用する個人の性質が変わろうとも、事物の結末が変わらない』、そういうことです。つまり、一個人が如何に奮戦しようとも、世界は明日も回り続けます」

 

「その中で、たった一人の個人が何かを為せると勘違いするのは、己に対する過大評価というだけでなく、己以外の他人悉くに対する挑発だ。特に、あくせくしながら日々の糧を得るために奔走している名も無き人々、もっとも正義の味方が救うべき対象をこそ、彼らはもっとも痛烈に蔑視している。ある種の選民思想に共通する類の臭気を感じざるを得ない」

 

「更に言うならば、この世に本当の意味の悪など、極一握りしか存在し得ない。純粋なそれが存在し得るのは、神話や御伽噺の世界だけです。この世に溢れるのは、他者と異なる正義の辞書のみ。その厚さの違い、或いはそこに書かれた言語の違いこそが、人の涙を生むのです」

 

「世界は正義に満ち溢れていますよ、衛宮士郎。貴方は、正義の味方として、その世界で何を為したいのですか?何を為そうというのですか?どの正義に対して味方をするつもりですか?それとも、己の辞書の厚さを自慢したいですか?己の辞書の正しさを広めたいですか?それならば、私は――」

 

 貴方を軽蔑します、と。

 

 彼女はそう言って、その口を休めた。

 少し、風が吹いた。

 冬場には珍しく、暖かい、頬が緩むような風だった。

 彼女は、傍らに置いていたペットボトルを取ると、それを一口飲んで、ほう、と溜息を吐いた。

 憎々しい、そうは思わなかったが、ほんの少し、疎ましかった。

 

「お前の言いたいことは分かるけど、代羽、じゃあ、苦しんでいる人がいても、仕方ないと諦めるのか?泣いている人がいても、当然だと見捨てるのか?それがあるべき姿だと悟った振りをして、偉そうに踏ん反り返るのが正しいって言うのか?それは違う。それは、絶対に違う。そんなの、認められない」

 

 彼女は、さも嬉しそうに頷いた。

 

「ええ、私もそう思います。いつだって、時代を変革するのは弁舌家ではなく革命家、賢明なる求道者ではなく愚昧なる行動者です。だから、貴方の言っていることは極めて正しい。私が言っているのは、そういうことではないのですよ、衛宮士郎」

 

 知らぬ間に、彼女は俺をフルネームで呼んでいた。

 

「分を弁えろと、極論すればそういうことです。己に何が出来るか、そして何が出来ないか、行動する前にとことん考えろ、そういうことです。貴方は砂粒ですが、きっと優しい砂粒です。周りに助けを求める砂粒があれば、それを助けることは十分に可能なはずだ。しかし、己を砂浜であると勘違いして全ての砂粒を助けようとすれば、そこには認識の齟齬が生じる。それを理想とか、正義とか、訳のわからないイメージで誤魔化すな、そういうことです」

 

「貴方の主義主張の出自は問いません。それを借り物だとか、偽善だとか、言いたい人間がいるならば言わせておけばいい。偽善者、その言葉を使って他者を否定する人間は、己が真なる善人だと信じて疑わない恥知らずです。自己満足、その言葉を使って他者を否定する人間は、真に自己を満足させたことの無い咎人です。そんな者の言に惑わされる必要など、一切無い」

 

「他者を頼りなさい、衛宮士郎。己の手が短いことを自覚するべきです。貴方の手の届かないところで苦しむ砂粒は、手の届くところにいる砂粒が助ければいい。そして、己を鍛えなさい。その手を長くするように、修練を積みなさい。羽撃くこともできない雛鳥が大空を目指しても、地上で舌なめずりする蛇を喜ばせるだけですよ」

 

「……つまり、こういうことか?『自分に出来る範囲のことだけをしろ』と」

「ええ、そういうことです。己の限界を知らないのは無知ですが、それを知ろうともしないのは、もはや罪悪の域にある。貴方は、罪人ではないでしょう?」

 

 彼女は、我が意を得たり、というふうに、にっこりと微笑んだ。

 俺は、痛みと共に彼女から視線を外した。

 分かっている。

 彼女が言っていることがある種の正しさを持っていることくらい、分かっている。

 それでも、彼女が正しいことを言っていないことくらい分かっている。

 切嗣は、そんなものを目指したんじゃあない。

 そんな、世界のどこにでも転がっている一般論を求めたんじゃあない。

 もっと、本質的で、普遍的で、決定的なものを目指していたはずなんだ。

 例えば、この世から全ての悪を根絶する、そんな夢物語みたいなことを。

 それがどうなったのか、俺は知らない。

 きっと失敗したんだろう。だから、あの晩、あんなにも、寂しそうだったんだ。

 

『爺さんの夢は俺が、ちゃんと形にしてやっから』

 

 もし成功していたら、幼い俺の、何の抵当もついていない無責任な言葉、それを聞いてあんなにも嬉しそうにするはずが、ない。

 それでも、俺は助けられたんだ。

 切嗣に、助けられた。

 それがどんなに嬉しかったか。

 あの地獄の中で、見上げた視界に彼の顔が映りこんだとき、どれほどの安堵がこの身を包んだか。

 あの感情の前では、千の言葉だって役に立たない。

 救われる事は、何よりも救いなんだ。

 それは、俺が誰よりも知っている。

 そして、救うことだって、きっと救いなんだ。

 だから、あのときの切嗣は、あんなにも嬉しそうだった。

 ただ、嬉しそうだった。

 だから、俺は思ったんだ。

 俺も、彼みたいになれば、きっと救われるんじゃないか。

 誰かを救えば、きっと、あんな笑顔を浮かべることが、出来るんじゃないか――。

 

「それは、違いますよ」

 

 どきり、とした。

 聞いたことの無い、声だった。

 針で鼓膜を貫かれたか、そう思わせる声だった。

 彼女の表情を伺うこと、それをすら不可能にさせる、そんな声だった。

 そこには温度なんて無い。

 冷たいとか熱いとか、そういう概念が無かった。

 

「あれは、人を救うことのできた者の浮かべる笑みではありませんよ」

 

 あったのは、怒り。

 純粋な怒りだけが、あった。

 つまり、彼女は怒っていた。

 決意を込めて、俺は彼女の顔を、見た。

 初めて見た彼女の怒った顔は、しかし、息を呑むくらいに、美しかった。

 

「あれは、罪人の笑みです」

「代羽、何を――」

 

 そして、彼女は、嗤って、いた。

 瞳を、圧倒的な怒りの色で焼き付かせながら、口元だけが、にんまり、と。

 

「茨の冠を頂き、磔の十字架を背負い、ゴルゴタの丘を登る罪人が、己の犯した罪のほんの一部、それが冤罪であったことを証明できたときに浮かべる、恥知らずな笑みですよ」

「はは、代羽、お前、何を言ってるんだ?」

「聞こえませんでしたか?私はこう言ったのです」

 

 衛宮切嗣は、恥知らずの、罪人だ、と。

 

 代羽の姿が、消えた。

 音が、消えた。

 視界が、消えた。

 俺が、消えた。

 黒くなって、赤くなって、また黒くなって。

 体だけがあった。

 筋肉だけが、あった。

 それが、嫌に熱かった。

 熱くて、妙に汗ばんでいた。

 手が、痛い。

 何かを、握り締めていた。

 それでも、考えることはただ一つ。

 代羽は、間違えている。

 重大な勘違いをしている。

 おやじは、衛宮切嗣は、罪人なんかじゃあない。

 だって、俺を助けてくれたんだ。

 俺を助けてくれたってことは、一番偉いってことだ。少なくとも、俺の世界の中では、一番偉いんだ。一番偉いってことは、罪人なんかじゃあないってことだ。そんなこと、お前にだってわかるだろう?

 それとも、そんな簡単なことも分からないのか?

 だから、そんなに苦しそうな顔をしているのか?

 その手は誰の手だ、代羽。

 お前の襟を取って、首を絞めるように捩じ上げている、その手だ。

 ああ、ひょっとしたら、慎二か。

 また性懲りも無く、慎二がお前を虐めているのか。

 全く、しょうがない奴だな、慎二は。

 あとでちゃんと懲らしめてやるから、安心しろよ、代羽。

 だから、そんなに口を動かさなくてもいいぞ、代羽。

 まるで陸に揚げられた魚じゃあないか。

 そんなに口をパクパクさせても、酸素は喉を通らないぞ。

 だって、この手がお前の喉を、こんなにも強い力で締め上げてるんだから。

 この手?

 あれ?

 この手が代羽を?

 そういえば、なんで彼女は俺の目の前で苦しんでるんだ?

 これじゃあ、まるで俺が彼女の首を絞めているみたいじゃあないか。

 これじゃあ、まるで俺が慎二みたいじゃあないか。

 代羽、代羽。

 お前を苦しめているのは、誰なんだ?

 

『ぜ……ば……い……』

 

 蚊の泣くような声が聞こえて。

 俺が戻って。

 視界が戻って。

 音が戻って。

 代羽が戻って。

 そして、俺の手が、彼女の首を、万力みたいな力で、締め上げていた。

 

「うわっ」

 

 思わず、手を離した。

 

「うわっ」

 

 彼女が、すとんと、ベンチの上に落っこちた。

 

「うわっ」

 

 ごほごほと、咳き込む彼女。

 

「うわっ」

 

 俺の手に、生々しい彼女の体温が残っていた。

 

「うわっ」

 

 ぺたん、と、尻に軽い衝撃があった。どうやら、どこかに尻餅をついたらしい。

 

「うわっ」

 

 手が、手が。

 

 慎二。

 なんで、お前がここにいるんだ。

 なんで、お前の手がここにあるんだ。

 なんなんだ、これは。

 なんで、こんなところに。

 だめだ。

 この手は、許せない。

 だって、代羽を傷つけた。

 俺の、■さんを、傷つけた。

 こんなもの、ここにあっちゃあいけない。

 この世にあっちゃあいけない。

 切り離さないと。

 切り離さないと。

 刃物が必要だ。

 刃物が必要だ。

 鋸がいい。

 できるだけ歪な傷口を作らないと、こいつはまた引っ付いてしまう。

 そうだ、あの時、切り取られていたんだ。

 あのままで、よかったんだ。

 なんで引っ付けたんだ、俺の馬鹿。

 いらない。

 こんなもの、いらない。

 刃物が欲しい。

 欲しいなら、引っ張って来い。

 俺の中から。

 

「投影、開――」

「だ、ばりなざ、い、ごぼっ」

 

 陽光が、遮られた。

 何かが、俺の前に立っていた。

 そして、俺はその何かに、抱きしめられていた。

 何だろう。

 

「ごぼ、ず、びばぜんでじだ……ごぼ、ごぼ」

 

 暖かくて、心地よかった。

 

「ごほ、あなだの、いちばん、いたいとごろに、ごほ、どそくで、あがりこみました」

 

 なんだか、懐かしかった。

 

「げほ、ゆる、げほ、ゆるしてください、また、あなたをみすてるところでした」

 

 なんで、あなたがあやまっているんだ。

 

「私も、なのです、えみやしろう」

 

 あやまらないといけないのは、おれじゃあないか。

 

「私も、笑ったことがあるのです」

「ご……めん」

「私も、己が見捨てた者の前で、恥知らずにも、笑ったことがあるのです」

「ごめん、なさい」

「死んだと思っていた、その者が生きていたことを知ったとき、恥知らずにも笑ったのです」

「これじゃあ、しんじといっしょだ。あなたを、きずつけた」

「己の罪が許されたと、そう思ったのです。ほんの一瞬だけ、神に感謝してしまったのです」

「ごめん、ゆるしてください……」

「許します。貴方の罪は、全て私が許します。誰が許さなくても、絶対に私だけは許します。ですから――」

 

 ――どうか、しばらくのあいだ、このままで。

 

 彼女は、立ち上がって、スカートの裾を直していた。

 俺はその後姿をじっと見つめた。 

 何も、話せない。

 俺は、彼女を傷つけた。

 彼女がそれを許しても、俺が許せない。

 こんなの、慎二と一緒だ。

 違いがあるとすれば、そこに理性があったかどうか。

 いや、もしかしたら、慎二だって最初はこうだったんじゃあないか。

 何か、大事なものを汚されて、侮辱されて、自分を見失って。

 彼女を、汚してしまったのでは、ないだろうか。

 ならば、俺は、慎二と同類だ。

 あれほど憎み、あれほど蔑んだ慎二と、同類だ。

 俺は、最低、だ。

 

「許せませんか、衛宮先輩」

 

 彼女は振り返らずに、そんなことを、言った。

 ぱんぱんと、スカートのお尻のところを両手で叩きながら、それでも振り返らずに。

 

「自分が、許せませんか、衛宮先輩」

「……ああ、許せない」

「私もです。私も貴方が許せない」

 

 冷たい声だった。

 心のどこかに残っていた甘い期待を、端から端まで両断する、そんな声だった。

 

「絶対に許しませんよ、覚悟しておいてください」

「……ああ、なんでも、言ってくれ」

 

 彼女は、振り返った。

 きっと振り返ってくれないと思ったから、少し嬉しかった。

 

「全く、女性を食事に誘っておいて、食べさせたのがあんな貧疎なハンバーガー一つですか。恥を知りなさい、衛宮士郎。私は、絶対に許せない」

「……はっ?」

 

 彼女は、ベンチに腰かけたまま項垂れ、しかし唖然とした、そんな俺を見下ろしながら、くすくすと、本当に楽しそうに微笑った。

 

「償いはして頂きます。せいぜいアルバイトに励みなさい。私の胃袋は、貴方の想像するよりもずっと大きい。そうですね、とりあえずフルールのベリーベリーベリーとラフレシアアンブレラの予約は忘れないように」

「……飯は、お前が勝手についてきただけだろう?勝手についてきて、勝手に食って、それで、文句言うか、普通」

 

 彼女は、今度こそ、にっこりと、笑った。

 この公園にだけ、一足先に春が来た、そんな笑みだった。

 

「それでも、貴方は私を誘いました。ならば、後の責任は全てが男性に帰する。そうは思いませんか?」

 

 ……はっ。

 こりゃあ、勝てない。

 きっと、凛にだって、桜にだって、藤ねえにだって、俺は一生勝てないけど。

 きっと、こいつには、輪を掛けて、勝利の女神はえこひいきをかましてくれるだろう。

 それもいいさ。

 えこひいき万歳。

 ホームタウンデシジョン、大いに結構。

 だって、この件については、アウェイ側に、全くやる気が無い。

 両手を挙げて、全面降伏している。白旗だって、千切れそうなくらい振り回してやる。

 審判も、勝利の女神だって、勝負の結果を変えるのは不可能だ。最初っからこっちが負けを望んでいるんだから。

 それでいいさ。

 それが、多分正解だ。

 

「ああ、ほんと、そうだな。ごめん、許してくれ」

「ふふ、分かっていただけたようで幸いです」

 

 彼女は黒い外套を丁寧に畳んで、脇に抱えた。

 その様子を眺めながら、決意のための深呼吸を一回。

 ……よし。

 正しいかどうかは分からないけど、言うべきことは言わないと。

 

「それと、今まで、ごめん。俺は、気付いて、やれなかった」

 

 慎二が、お前にしてきたことを。

 一つも、気付いてやれなかった。

 気付かずに、へらへらしてた。

 もう少し愛想良くすればいいのにとか、あまりに自分勝手なことを言っていた。

 だから。

 

「許して欲しい。本当に、ごめ――」

「……貴方は、何を言っているのですか?」

 

 彼女は、怪訝そうに、俺を見た。

 顰められた眉、しかし、その容姿には、些かの曇りも無い。

 

「慎二が、お前にしてきたことだ。俺は、あいつとお前の一番傍にいたのに、何も気付けなかった。そんなの、共犯と一緒だ」

「……確かに、躁鬱の気の激しい人でしたから、殴られたり蹴られたりは日常茶飯事でしたが……そんなこと、私だって黙っていない。相応の復讐は欠かしませんでしたから、別に貴方に謝れられる筋のものではありませんが……」

 

 えッ?

 

 でも、あいつは確かに……

 

「それに、殴られた蹴られた程度、子供の兄妹喧嘩と一緒でしょう?誰かが責任を感じなければならないほど、重いことではないと思いますが、違いますか?」

 

 じゃあ、あの声はなんだ?

 慎二が持っていた小さな機械から聞こえた、お前の声はなんだったんだ?

 

「じゃあ、あの晩遠坂に借りた服は……」

「クリーニングに出している最中です。まさか、家の洗濯機で洗って、はいどうぞ、という訳にもいかないでしょう?」

 

 そんな、馬鹿な……。

 じゃあ、慎二は何を言っていたんだ?

 慎二が嘘を吐いていたのか?

 それとも、代羽が嘘を吐いているのか?

 何のために?

 

「……それとも、まさか私がそれ以上に下劣なことを兄に強要されていた、そんなことは言いませんよね?」

 

 びくり、と。

 我知らず、肩が震えた。

 なんて正直者だ。

 吐き気が、する。

 

「……本当ですか?……全く、貴方という人は……」

 

 彼女はゆっくりと頭を振った。

 

「きっと、ここは怒るべきところなのでしょうが、貴方に免じて許してあげます。一応言っておきますが、私は今だかつて男性と閨を共にしたことは一度もない。下種な言い方が許されるならば、処女、そういうことです。もし、私の純潔を疑うなら――」

 

 彼女の小さな顔が、妖艶に微笑んだ。

 そして、その表情のまま、ゆっくりと近づいてきて。

 耳元で、囁くように、こう言った。

 

「あなたが、ためしてみますか?」

 

 こそばゆい吐息と共に、そんな言葉が耳道に注ぎ込まれた。

 頭が、真っ白になった。

 何も、考えられなくなった。

 血液が、沸騰しているみたいに、顔に集まっていくのが、わかった。

 

「かわいいひと」

 

 ちろり、と、耳道の入り口が何かに舐められた。

 彼女は微笑みながら、俺を眺めたまま一歩後ろに下がった。

 その表情で、俺はからかわれているのだと、悟った。

 

「代羽、お前――!」

「ふふ、失礼はお互い様。これでおあいこ、そういうことにしておきましょう?」

 

 そして、代羽は、公園の出口のほうにくるりと向き直って、背中を俺に向けたまま、こう言った。

 

「フルールの件、忘れないで下さい。これでも、結構楽しみにしているのですから」

「……ああ、分かったよ」

「約束、しましたよ」

 

 遠ざかっていく彼女の背中。

 その時、俺は気付けなかった。

 慎二を評する彼女の言葉、そこに過去形の動詞が使われていたことに。

 そして、これが、間桐代羽という女性の姿を見る、最後の機会であったということに。



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interval5 IN THE BACK ALLEY

interval5 IN THE BACK ALLEY

 

 少女が、歩いていた。

 大通りである。

 それにしては、人通りが多いとはいえない。

 地方都市の冬木市であるが、人口自体は数十万を数える。

 その中心部、決して人そのものが少ないわけではない。

 少ないのは、外出する人間の数だけ。

 異様な雰囲気に支配され、神隠しとしか思えないような失踪事件の多発している街。

 思い起こされるのは、十年前の悪夢。

 

 慮外の事件の数多。

 ホテルの倒壊。

 幼子の失踪。

 夜を切り裂く、化け物の威容。

 そして、あの火事。

 冬木が死んだ、夜。

 

 どれほど楽観的な人間でも、一抹の不安を抱くのは仕方あるまい。

 ならば、周囲に人影が少ないのも当然か。

 しかし、それでも大通りである。

 仕事に追われる類の人間は、言い知れぬ不安や根拠の無い噂程度で家に篭もれるほど幸せな人種ではない。

 彼らは、歩く。

 己の、そして家族の生活の糧を得るために、歩かざるを得ない。

 結局、たいした用事を持たない者、外部から冬木に訪れる酔狂な者がいなくなり、どうしてもここを歩かねばならない人間だけが残った。

 そして、人通りが疎らになったのだ。

 自然、ぴりぴりとした空気が、街全体を支配している。

 時間は昼過ぎ。

 太陽の息吹が、夜に冷えた空気を暖め、ようやく吐息の白さが薄れてきた、そんな時間である。

 彼女は、嗤っていた。

 美しい、その表現を許された、数少ない本当に美しい、少女である。

 髪は、長い。

 少し眉が太めであることが目を引くが、それ以上に目鼻立ちは整っている。

 上背はそれほどでもない。むしろ、同年代の少年少女の中では、かなり低い部類に属するはずだ。

 その少女が、嗤っていた。

 人塵の中、一人、嗤っていた。

 微笑んでいたのではない。

 声を上げて、嗤っていた。

 周囲には、誰もいない。

 人そのものがいないのではない。

 人は、いる。

 なにせ、大通りである。

 そこから人影が全く途絶える、そんなことは深夜でも中々あることではない。

 いないのは、あくまで彼女の周囲のみ。

 声を上げて一人狂笑する少女の周り。

 そこにのみ、人影が、全く無い。

 当然である。

 元々が美しいその少女。

 しかし、目を見開き、辺りを憚らずに声を上げて嗤い転げる様は、余人の理解を超えていた。

 もとがなまじ美しいだけに、その崩壊した様子は致命的なまでに凶。

 近寄れない。

 近寄り難い。

 周囲の人間は、一様に眉を潜めながら、彼女の立った場所、そこの外周を通り過ぎる。

 腫れ物を避けるように。

 忌まわしいものから目を逸らすように。

 そして、通り過ぎた後で。声量を抑えてこう囁きあうのだ。

 あの女、おかしいんじゃないか、と。

 

 

「見つけました!」

 

 我が主は、そう叫んだ。

 人通りの途絶えた、薄暗い路地。

 そこを見つけてから私に声をかけたのは、彼女に許された最後の自制心だろうか。

 彼女は嗤いながら歩き、いつしか嗤いながら走り出した。

 息を切らし、舌を出すように喘ぎ、それでも嗤い続けたのだ。

 そして、今は、生ごみの腐臭の残滓の濃い、薄暗い路地にいる。

 暗殺者である私には、ある意味なじみの深い場所である。

 

「やっと、やっと見つけました!」

 

 膝に手をつき、その乱れた呼吸を整えようとする彼女。

 しかし、その表情は、狂おしいまでに輝いている。

 目は炯炯と輝き、口元にはうっとりするような笑みが浮かんでいる。

 その一つ一つは、英霊である私の目をすら奪わんばかりに、美しい。

 しかし、その全てを目に入れると、暗殺者である私すら目を背けたくなるほどに、醜い。

 その彼女が、私に話しかけてくる。

 

「なるほど、確かに貴方の言うとおりです!」

 

 突然、視線を向けられた。

 そこにあったのは、歓喜。

 信徒が天啓を授かった、その瞬間でも、ここまで輝かしい瞳を浮かべ得るのだろうか。

 前髪は、汗で額に張り付いている。

 鼻腔は大きく膨らみ、青紫色の唇と相俟って、彼女が酸欠寸前であることを私に教えてくれる。

 それでも、彼女は嗤っていた。

 その視線が、あまりに重過ぎて。

 私は、思わず後ずさった。

 

「……何が、言うとおりなのだ?」

「私は醜かった!」

 

 彼女はそう言い切った。

 その声を歓喜で震わせ、しかし、それ以外の何かも振り撒きながら、そう言い切ったのだ。

 

「なるほど、貴方の言ったとおりだ!従者に救いを求める主、そんなもの、醜悪以外の何物でもない!」

 

 それは、昨日の朝、私が言った言葉か。

 『己の従者に媚びる主など、この上なく醜悪だ』、確かに、私はそう言った。

 あの時、彼女は震えていた。

 その小さな肩を己の罪を恐れるかのように、細かく震わしていた。

 しかし、今はどうだろう。

 いつの間にか、彼女は体を起こしていた。

 呼吸のペースは、通常のそれに戻っている。

 背筋はぴん、と伸び、轟然と胸を反らしている。

 そして、なによりその瞳。

 そこには、罪の意識など、一片も無い。

 ただ、決意と、歓喜と、そして、やはりそれら以外の感情が、そこには在った。

 

「……では、貴方はいったい何を見つけたというのだ?」

 

 彼女の呼気は、極めて冷静。

 太陽の差さぬ、うらびれた路地裏。

 その冷たい空気の中でも、彼女の吐息が白くなることは無い。

 なんと言うことは無い。

 彼女の吐息に、熱が無い、それだけのことだ。

 

「――敵を」

 

 にこやかな表情、それ自体はそのままに、彼女はそう言い切った。

 そこに、狂熱は、無い。

 圧倒的なまでに、冷たく。

 そして、その声に隠し切れない一つの感情を孕ませながら。

 

「やっと、見つけました。私の倒すべき、敵を」

 

 その感情。

 先ほどまでは、辛うじてその姿を隠し得ていた、感情。

 しかし、先ほどまでの彼女が振り撒いていた、歓喜、決意、狂気、それらを遥かに凌駕する、感情。

 

 憤怒。

 

 それが、その冷たい声の中に、含まれていた。

 いや、その表現は正しくない。

 その声の冷たさそのものが、彼女の怒りだ。

 触れれば火傷する、液体窒素のように。

 彼女の怒りに触れるものは、地獄の苦しみを味わうことになるのだろうか。

 

「殺しましょう、アサシン」

 

 その単語は、私にとって、あまりに耳に優しい。

 生前も、そして死後も、私の存在理由である、その単語。

 彼女の口からそれを聞いたのは、これが幾度目だろうか。

 

「殺しましょう、アサシン」

 

 彼女は、己の感情の機微を噛み締めるかのように、繰り返してそう言った。

 その瞳には、ほんの僅かな驚きが含まれていた。

 ひょっとしたら、そんな単語を吐きだした自分が、どこかで信じられないのかも知れない。

 

「遠坂凛を殺しましょう。遠坂桜を殺しましょう。藤村大河を殺しましょう。イリヤスフィール=フォン=アインツベルンを殺しましょう。言峰綺礼を殺しましょう。セイバーを殺しましょう。アーチャーを殺しましょう。キャスターを殺しましょう。ランサーを殺しましょう。バーサーカーを殺しましょう。金色の男を殺しましょう。立ちはだかる者、罪深き者、その悉く、その全てを、躊躇無く殺しましょう」

 

 その言葉を聞いて。

 思わず、仮面の下に苦笑が漏れた。

 この人は、なんと可愛いらしいことを言うのだろうか。

 なんと、微笑ましい人なのだろうか。

 そんな、簡単なこと。

 そんな、簡単な真理。

 

 坊主に会えば、坊主を殺し。

 親に会えば、親を殺し。

 仏に会えば、仏を殺す。

 

 それが、この世の真理ではないか。

 彼女は、そんなことも、知らなかったのか。

 そんなことも知らずに、苦しんでいたのか。

 

「私は、最早恐れません。そして、とても幸せ。目的の定まることが、ここまでの幸福を齎すとは、夢にも思いませんでした。『人の歩みを止めるのは絶望ではなく諦観、その背を押すのは希望ではなく意志』、その言葉の意味が、今はとてもよく分かる」

 

 にこりと、まるで天使のように微笑った彼女は、獰猛な肉食獣のように牙を剥いた。

 年端も行かぬ少女には、あまりに似つかわしくないその表情。

 いや、それは違うか。

 聖画に描かれる天使の翼は、実は猛禽類のそれと同一である。

 ならば、天使の笑みと猛獣の笑みは、同じ空間に存在しうる、ということだ。

 彼女は、その両方なのだと思う。

 どちらが本当の彼女、などという感想は笑止なものだが、その歪な捻れが彼女の本質なのは間違いあるまい。

 そして、私は思うのだ。

 痛々しさと、一抹の憐憫。

 それを噛み締めながら、私は思うのだ。

 美しいものを汚していく、破滅的な快楽とともに、私は思うのだ。

 ああ、愛おしい、と。

 

「恐れぬか」

「恐れません」

「脅えぬか」

「脅えてなるものですか」

「殺すか」

「笑いながら」

「地獄に、堕ちるか」

「それが、私の望みです」

 

 私は、彼女の前に跪いた。

 おそらく、これが二度目だ。

 しかし、これは必要な儀式だ。

 我々が本当の意味で主従となる、そのために必要な儀式。

 私は彼女を見据える。

 彼女は、私を見据える。

 凛と立つ彼女。

 その眼前に跪く、私。

 その視線の高さは、同一。

 まるで、それが初めてのことのように、私と彼女は見つめあった。

 腐臭の香る路地裏が、永遠の契約の聖地となる。

 そう、この時は、永遠だ。

 たとい、世界が我々を忘れたとしても。

 私が、覚えている。

 そして、しばしの沈黙。

 やがて、彼女はその手を差し出す。

 白く、いかなる不純物も含まれぬ、手。

 痣も、黒子も、そして契約の文様も描かれぬ、純白の肌。

 私は、そっとその手を取った。

 おそらくは、壊れ物を扱うような、辿々しい手付きで。

 それでも、或いは、だからこそ、彼女は微笑いながら、それに応じてくれた。

 

「ですが、地獄に堕ちても貴方は私と共にありなさい。私から離れるなんて、絶対に許さない」

 

 私は、陶磁器も恥らう程滑らかなその手の甲に、そっと口付ける。

 仮面を介して、その感触が、私が自らの手で削げ落とした唇に伝わる。

 その感触の、なんと甘美なことか。

 

「ここに再び誓う。この身は、主殿の生ある限り、その影と共に。そして――」

 

 私は、最後に、こう言った。

 哀れみと、それ以上の喜びを込めて。

 

「ようこそ、修羅道へ」



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episode48 深奥にて

「確かに、渡したぞ」

「ああ、確かに受け取った。君と、君の主に礼を言おう」

 

 目の前の神父は、恭しく頭を下げた。

 直接この男を見るのは初めてだが、彼の身に付けた法衣には、失われた記憶を刺激する何かがあった。

 そうだ、私は殺した。

 私の神の御名のもと、彼と同じ宗派に属する僧侶を、戦士を、王族を、それこそ数え切れないほどに。

 

「どうかな、英雄を労うというにはささやかだが、酒宴の席を設けてある。君の信奉する神の血ではないが、中々に芳醇な酒だ。それほど急ぎという訳でもあるまい?」

「……私の神と、貴様の神は、些か仲がよろしくないらしい。折角だが、遠慮しておこう。それに――」

「それに?」

「……主が心配だ」

 

 私がそう言うと、神父は微笑った。

 何か、喜ばしいものを見るかのように。

 

「ふむ、君は知らなかったのか?アレは、君よりも強い。精神的は意味ではない。物質的に、単純な火力として、君を凌いでいる」

「……百も、承知だ」

「ならば、何故君は帰るのだ?彼女の身を滅ぼすほどの危難があれば、君では役に立たない。彼女が凌げる程度の危難であれば、君がいる必要はない。ほら、君が急ぐ必要性など、どこにも無いのだよ」

 

 その言葉に、言外の嘲りは、無かった。

 ただ、単純な興味として、目の前の神父は私の真意を知りたいらしかった。

 

「……知らん。しかし、主を守るのが、サーヴァントの務めである。私は、私の存在意義を全うするために、急ぎ帰らねばならぬ、それだけの話だ」

 

 私は振り返り、扉の方へ向けて歩き出した。

 背中から、嗤い声が、聞こえた。

 隠し切れない愉悦と、深奥を抉るような静謐さに満ちた、矛盾した嗤い声だった。

 

「なるほど、君は気付けていないわけか。英雄とはいえ、己のことには疎いものだな。何故君が彼女のもとへ急ぐか、教えてやろうか?単純な話だ、君は彼女に――」

「今、遠坂邸には、遠坂桜しかいない。接触を図るなら、今が好機だ」

 

 しばらく、如何なる音も、響かなかった。

 ステンドグラスを通じて降り注ぐ陽光が、奇跡みたいにきらきらと輝いていた。

 

「……了承した。貴重な情報だ。君は、或いは前回のアサシンよりも、優れているかも知れんな」

 

 思わず、振り返った。

 そこには、深い微笑を湛えて、まるで歳月を経た巨木のように、堂々と直立する、黒い神父が、いた。

 

「貴様――」

「あれも、今思えば中々滑稽な道化だったよ。たかが、己の名前を欲しがるために、聖杯という奇跡を必要とするとはな。いや、人間味に溢れていた、そう言うべきか」

「貴様、前回のアサシンのマスター……」

「まさか、君もそうなのかね?名前が欲しいか?ならば、私はそれを与える事が可能だ。君が、その宗派替えを承知するならば、私は君を祝福することが出来る。洗礼名とはいえ、それは君だけに与えられた、神を讃える御名だ。どうかな、前回の我が従者に与えられなかった救済、君は受け取ってくれるだろうか?」

 

 思わず、殺気が漏れ出した。

 こんなこと、初めてだ。

 私が暗殺者として碌を食むようになってから、初めて感じた、抑えがたい怒り。

 それをもたらしたのが、憎むべきハサン=サッバーハという存在全体に対する侮辱であったとは、想像だにしなかった。

 そして、それを与えたのが、かつて己の神の敵であった偶像を祭る神、その僕であったことも。

 

「覚えておけ。貴様は、私が殺す」

「くく、暗殺者の頂点たる君に命を狙われるとは、恐怖を通り越して、光栄だな、これは」

 

 私は、今度こそ出口に向かった。

 しかし、さっき、奴は何を言いかけたのだろうか。

 私が、我が主に対して、何を――。

 いや、やめておこう。

 この思考は、必要ない。

 ならば、今は一刻も早く、主のもとに戻るべきだ。

 そう考えた私の耳に、二つの音が、聞こえた。

 一つは、奴の不快な笑い声。

 そして、おそらくは奴の手にした二つの赤い宝石、それが擦れあう、チャラリ、という硬い金属音。

 そのいずれもが、他者を不幸にさせるであろう、芳醇な予感によって彩られていた。

 

episode48 深奥にて

 

 かつん、かつん。

 

 乾いた音が、響く。

 その音は、私達の足元から生まれる。

 

 かつん、かつん。

 

 乾いた、音だ。

 階段の鉄板と、硬い靴底が奏でる、乾いた音。

 それが、無限ともいえる闇に、吸い込まれていく。

 吸い込まれて、拡散して、やがて消えていく。

 ここは、そういう空間。

 あらゆる光が、吸い込まれ、拡散して、そして消えていく。

 

 かつん、かつん。

 

 あらゆるものが、消えていく。

 常識、救済、慈悲。

 人を人足らしめる、温かい何か。

 人が救いと思うような、心地よい何か。

 それが、悉く、消えていく。

 闇が深くなる度に。

 闇が、私の心に、侵食してくる。

 光が、遠くなる。

 ここは、きっとそういう場所だ。

 安っぽい例えが許されるなら、ここは、そう、地獄だ。

 その言葉が、何より相応しい。

 立ち上る、腐臭。

 それは、この身を腐らせるような大気の流れを作り、下から上へ、何かから逃れるように上昇していく。

 その微細な粒子は、一体何から作られた物なのだろう。

 一体、何の身体を構成していた物なのだろう。

 一瞬、蛍を幻視した。

 まるで、失われた遠い誰かの魂、そんなふうに、儚く揺れる、蛍の光。

 それが、星空に向かって立ち上っていく様を、ふ、と幻視した。

 何故、こんな胸焼けのする、吐き気と怖気を同時に引き起こすような空気に、そんな光景を思い浮かべたのか。

 しばらく考えて、納得した。

 これは、きっと魂だ。

 この腐臭は、この下に閉じ込められていた者の、魂なのだろう。

 それが、歓喜しているのだ、そう思った。

 地獄から、本物の地獄よりなお苦しい地獄から、開放されたことに。

 唄が、聞こえた気がした。

 歓喜の、唄だ。

 そして、感謝の唄だった。

 

 ――ありがとう、ありがとう。

 ――私達を、解き放ってくれて。

 ――私達は、これから天に昇ります。

 ――もう二度と、地上になんて、降りてくるものか。

 ――それでも、お願いします。

 ――貴方にだけ、お願いします。

 ――倒してください、ここにいる、悪い魔術師を。

 ――もう二度と、私達のような魂が作られないように。

 ――お願いします、お願いします。

 

 そんな唄が、聞こえた気がした。

 そして、自分も悪い魔術師の一人なのだということを自覚して。

 私は、ほんの少しだけ、嘔吐いた。 

 

 

 地獄という言葉を思い出す。

 螺旋階段はせいぜい数階分。

 地の獄というにはあまりに太陽に近い距離。

 しかし、そこは紛れもなく地獄だった。

 広い、あまりに広い暗闇。その広さが自分と闇との境をあやふやにする。

 漂う臭気は胸を焼き、吐き気と怖気を同時に引き摺り出す。

 時折聴こえる湿った音。何かが這いずり、そして何かを食らう音。

 結論。

 ここは人の立ち入る場所ではない。

 ここに住むのは、人以外の何かだ。

 

「何よ、これ……」

 

 俺の後ろにいる凛が呻く。

 俺は魔術的な素養に疎いが、それでもこの空間の異常さはわかる。いや、この空間の異常さがわからない人間がいるとしたら、そいつは間違いなくどこかが壊れていると断言できる。

 でも、何だろう。

 俺は、何も感じない。

 異常さは、分かる。

 理解ができる。

 しかし、感情が、伴わない。

 何も、感じない。 

 

「これが、こんなモノがマキリの修練場なの……?」

 

 凛の声が、どこか遠くに感じる。

 俺と彼女の距離は僅か数十センチ。

 ならば、その間に挟まれた闇が、空間を捻じ曲げているのだろう。

 

「凛、これが、魔術師の工房、なのか……?」

「……ええ、その通り。でもこれは魔術師の工房じゃない。マキリの工房よ」

 

 肯定と否定が相混ざった返答。きっと、この空間は凛が有する魔術師としての最後の一線、それを容易く踏み越えてしまったものなのだろう。

 目が慣れてくると、この空間の全体が辛うじて把握できた。

 広い。おそらくは地上の屋敷がすっぽり入るのではないか。

 俺達は歩を進める。

 ぴちゃり、と湿った音が響く。

 

「シロウ、凛、あれを」

 

 最前列を守りながら歩いていたセイバーが、壁の一点を指し示した。

 其処にあったのは、壁にあいた穴。

 地面に対して水平にあいた穴は、カプセルホテルの安ベッドを思い起こさせた。

 そこにあったのは白い何か。

 俺は知っている。あれが何か知っている。あの赤い異界の中で、腐るほど見たものだ。

 なるほど、あれはベッドではなくて墓穴だったのか。

 

「あれは餌だな、いや、正確に言うならその食残しか。今日日の蟲は好き嫌いが激しいらしい」

 

 アーチャーの軽口も、この空間では重苦しく響き渡る。きっとこの部屋の重力のせいだろう。

 あらためて周囲を見渡す。

 地獄だ。

 何にとっての地獄なのか、分からない。

 ひょっとしたら、この場に閉じ込められた蟲達にとってこそ、本当の地獄だったのかもしれない。

 それでも、ここは地獄だ。

 なのに、なんの感情も涌かなかった。

 ここに閉じ込められて、ここでその生涯を終えた人達に対しても。

 ここに閉じ込められて、ただ、闇を這いずることしか出来なかった蟲達に対しても。

 ここを修練場として、その身を蟲に陵辱され続けた、マキリの魔術師達に対しても。

 哀れみも、蔑みも、怒りも。

 何の感情も、涌かなかった。

 ただ、思った。

 安心した。

 代羽が、ここにいなくて、よかった。

 そう、深く深く、思った。

 

 

 焼き払う価値もない。

 小一時間かけて入念な探索をした結論がそれ。

 敵は、既にこの場にいない。

 マキリ臓硯も、彼に付き従うサーヴァントも。

 在ったのは、いずれかのサーヴァントの召喚に使ったであろう、機能を失った魔法陣のみ。

 そして、この空間それ自体には、興味すら涌かない。

 只管に嫌悪の対象である。あの子が、桜が例え一時でも、この空間の慰み者であったと思うと、意識の白むような怒りを覚える。

 更に言うならば、この空間は常識の範疇からは外れすぎていて、魔術的には雑すぎる。

 何か、敵のアドバンテージになるようなものでもあるなら話は別だが、今この空間にあるのは濃く汚れた空気と、さらに穢れた蟲が数えるほどだ。

 そう、蟲が数えるほどしかいない。

 考えてみればこれは異常だった。

 あの戦闘からわかるように、マキリの魔術は蟲を使役してそれを成す。ならば、その修練場は本来蟲をもって覆いつくされていなければならない。

 しかし、現にここには数えるほどの蟲しかおらず、さらに言えば、その数少ない蟲が共食いをしているようだ。

 放棄されたコロニー。見捨てられた家畜小屋。

 そんなもの、焼き払うだけ無駄な労力。

 

「凛、あれを見ろ」

 

 アーチャーの言葉。

 彼の指の先には壁。しかし、よく目を凝らせば不自然な継ぎ目がある。

 壁に手をあてて解析。あのへっぽこには及ばないが、それでも私は遠坂の魔術師、平均以上の解析能力は兼ね備えている。

 

 ――なるほど、隠し部屋。

 

 私でもアーチャーの指摘がなければ見逃していたに違いない。

 そもそも、この部屋自体が他者から秘されるように作っているのだ。さらに隠し部屋を作る必要性がどこにあるのか。

 開錠の呪を紡ぐ必要はなかった。はじめからそんなもの存在しないのか、それとも部屋の主が、施錠もできないような事態に追い込まれているのか。

 僅かな窪みに手をかけて、用心しながらそれを引く。

 そこにあったのは静謐な空間。

 畳六畳分ほどの、さして広くないスペースに、洋風の机と埋め込み式の本棚。

 書斎、という言葉が真っ先に浮かんだ。

 正常で、日常の空間。しかし、蟲倉という異常な空間の中のそれは、裏返した歪な異常さを醸し出す。

 罠の存在に注意しながら、室内を探索する。

 

「凛、何か見つかったか」

 

 小さな声が後ろから聴こえる。まるで、内緒で父親の部屋を探検する子供みたいだ。

 声は小さく。呼吸も浅く。見つかるな。見つかれば怖いお仕置きが待っている。

 

「ええ、きっと大物」

 

 本棚に並んだ古めかしい書物。

 聞き覚えのあるものもあればそうでないものもあるが、私の知っているものだけでも相当な価値のあるものが並んでいる。おそらく、この本棚をまるごと売り払えばこの家と土地を倍の規模に増築することができるのではないか。

 しかし、私が手に取ったのは、今まで目にすることもできなかった貴重な古文書ではなく、背表紙もついていない、比較的新しいただのノートだった。

 ぱらり、と表紙をめくる。

 

『○年○月○日 鶴野が子供を拾ってくる。少なくとも、肉体的な素質は申し分ない。計画の変更を決定。』

 

 ……この日付には覚えがある。たしか前回の聖杯戦争の終結日ではなかったか。

 ぱらり、とページをめくる。

 

 

『○年○月○日 素材が目を覚ます。命名も完了。経過は順調。』

 

 素材?後継者や胎盤という表現ではない。一体何のことだろう。

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 桜を遠坂に返却する。素材をマキリの胎盤とするための調整を開始。淫蟲は使用できないため、他の蟲にて代用。経過は順調。』

 

 確かに、この日は覚えている。間違いなく、桜が玄関に立っていたあの日だ。紙の痛み具合や字の擦れ具合等から考えても、この日記が虚偽のものであるという可能性は著しく低いか。

 気になるのは、素材が胎盤となる、という記述だ。つまり、『素材』とやらは、初めのうちは胎盤として機能するような存在ではなかったということか?

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 分裂を確認。現在約三十程。選別が難しい。経過はおおむね順調。』

 

 この部分は、全く意味不明。解明を要する。

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 調整完了。これより淫蟲を用いた調教を開始する。経過は順調。』

 

 調整とは、前述の『素材をマキリの胎盤とするための調整』のことだろうか。淫蟲が、父の研究日誌に見られるものと同一の存在であると仮定すれば、『素材』は女性であるという可能性が高い。いずれにせよ、おぞましい。

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 クロルプロマジンやメタンフェミン等よりも、古来の方法によってダチュラを精製した薬物の方が、効果が高いことを確認。如何にも手探りな状態。それでも、素材の素質ゆえか、実験そのものは順調に推移。』

 

 クロルプロマジン?何のことだろう。メタンフェミンは、確か覚せい剤のことだったはずだ。ダチュラ、朝鮮朝顔も精製すれば媚薬や麻酔薬になる、我々には馴染みの深い植物。それほど珍しいものではないが、それを何に使っていたのか。

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 順調に分裂。千を超えた症例は、おそらく初めてではないだろうか。泡沫的なものが多いものの、それでも素材は己を失っていない。驚異的な精神力。経過は順調。』

 

 まただ。また、分裂という表現。分裂というからには、何かを分けたのだろう。一体何を。思い浮かぶのは、プラナリアや蛸の足の分裂だが、まさかそのようなものではあるまい。

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 分裂が停止。いや、停止というよりも、分裂を凌ぐ勢いで統合が始まっている。詳細は不明。今は静観が必要か。』

 

 殴り書きに近い字。『経過は順調』の文字で末尾が括られていない、稀有なケース。よっぽどの想定外の事態だったと思われる。

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 尋常ではない勢いで、統合が始まった。理由が、全く分からない。この日の器に問いただすと、『喰われる。恐ろしい』とのみ言い残して、反応が無くなった。おそらく、明日には存在しないものと思われる。』

 

 この日の器?日によって器が変わる、そういうことか?そもそも、『器』とは何だ?この表現からすると、一個の人格を備えているようだが、前後の記述との整合性に著しく欠ける。詳細は不明。

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 異常の原因となった器を発見。命名完了。時系列に従って、あくまで臨時的に1388号と呼ぶことにする。恐るべき才能。計画の修正に迫られる。』

 

 珍しく、字が震えている。歓喜か、それとも恐怖だろうか。それにしても『器』という言葉が指し示す意味がわからない。素材がイコールで胎盤だとすれば、器とは何者か。全くの第三者か、それとも。

 ぱらり、とページをめくる。

 

『○年○月○日 器に本体を移す。これで奴は逆らえぬ。そもそも、器には極めて積極性が少ない。従順、それとも無気力。しかし、その才は脅威の一言。蟲の統率、支配、使役。全てにおいて、歴代の当主を上回る予兆。これを後継者とすることを決定。経過は極めて順調。』

 

 まただ。また、『器』という表現だ。そして、この頃になると、胎盤に関する記述がめっきり減ってきた。つまり、著者の興味が胎盤から器に移っていったことがわかる。そして、『後継者』という表現。その字からは、隠しきれない恐悦を感じることができる。

 間違いなく、マキリ臓硯は、このとき、喜んだのだ。

 ぱらり、とページをめくる。

 

 そして、これからは、全く同じ表現が続く。ページをどれだけめくっても、全く同じ文字の洪水だ。

 

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』

『○年○月○日 経過は順調。』 『○年○月○日 経過は順調。』 

 

 几帳面に毎日付けられた日誌に並ぶ『○年○月○日 経過は順調。』の文字。私にはそれが怪物の成長記録にしか思えなかった。

 意図せず震える手を叱咤して、ページをめくる。

 数年分は相も変わらずの文字が洪水のように溢れかえっていたが、最初の日付から四年ほどたったある日、久しぶりに異なった記述が現れた。

 

『○年○月○日 経過は順調。素材への胎盤としての調整及び器への術の承継は終了。これより戦闘技術の修行のため二人を時計塔へ留学させることを決定』 

 

 時計塔へ?そして、胎盤と器、初めて『二人』という表現が現れた。つまり、マキリにはまだ見ぬ魔術師が二人も存在するということか?

 代羽がそのいずれかかとも考えられるが、淫蟲を用いた調教が行われているならば、処女である彼女は胎盤足り得ない。また、魔術回路の存在しない彼女は、後継者に選ばれることは、間違えてもないだろう。ならば、これは一体。

 

『○年○月○日 凶報。二人が、時計塔の管理執行部に捕縛された旨。詳細は不明。計画の中断を迫られるか。桜を返したことが、今更ながらに悔やまれる。』

 

 時計塔の管理執行部に捕縛?それは、つまり神秘の漏洩ということか?ならば、今までの記述と現在の状況が符合する。もう、その二人はこの世に存在しないということだ。

 

『○年○月○日 吉報。捨てる神あれば拾う神あり。望外の幸運。これにより、二人は時計塔中枢へのパスポートを手に入れたも同然。なにせあの□□□□□□家に向かい入れられたのだ。計画は大きく前進』

 

 『家』の前が、意味不明の文字。暗号か?そうして隠さなければならないほどの家?しかし、それは――。

 

「凛」

 

 ぽん、と肩に手を置かれた。

 思わず、体が硬直する。

 

「読み進めるのは、家でも構うまい。この場に敵は存在しなかった。必要なものだけ奪って、早々に立ち去るべきだ」

 

 聞きなれたアーチャーの声に、恐怖の汗が滝のように流れる。それほどまでに、驚いた。

 

「……ええ、そうね。さっさと引き上げましょう」

 

 万が一、時限式の爆弾等がセットしていた場合等を考えると、この場所に留まることは百害あって一理なしだ。自らの工房を吹き飛ばす馬鹿はいないと思うが、それでも追い詰められた鼠は何をするかわからない。

 

「キャスター、トラップの敷設、終わった?」

「ええ、もし誰かがここに帰ってきたら、悪霊と竜牙兵の群が襲い掛かるわ。そして、その情報は逐一私に伝わる。急ごしらえの物なら、これで十分でしょう」

 

 私はその返答に満足の頷きで返すと、空洞の中央部に佇んでいた士郎に声をかけた。

 

「士郎、もうここには用は無いわ。さあ、帰りましょう」

 

 彼は、振り向いた。

 その表情は、闇と臭気に隠れて分からない。

 ただ、妙に震えた声が、した。

 

「なあ、凛。代羽は、ここにいなかったんだよな?こんなところに入ったことなんて、無いはずだよな?代羽は、幸せに生きてきたはずだよな?なあ、凛。そうだよな?」

 

 嗚咽の混じらない、しかし、嗚咽に塗れた声よりも、なお悲痛なその声。

 私は、その声に何も答える事が、出来なかった。

 

 

「――そうかな?」

 

「うん、言われてみれば、そうかも」

 

「ちょっと、退屈しちゃったよね」

 

「そういえば、お兄ちゃんとの約束もあったし」

 

「手紙なんて、失礼だもん。直接迎えにいかないと」

 

「ついでに、遠坂の羽虫も、叩き潰そっか」

 

「マキリを殺すか、遠坂を殺すか、迷ったけど」

 

「そうだね、まずは遠坂を、殺そう」

 

「そして、お兄ちゃんを、私だけのサーヴァントにするの」

 

「一緒に行こっか」

 

「だって、貴方を連れて行かないと、お兄ちゃんに怒られちゃう」

 

「そうでしょう、ねえ、バーサーカー?」

 

 ■■■■■■■■■■■■■■■―――――!



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episode49 人造両儀1 考察

 ひんやりとした、無機質な廊下。

 私は、彼らと共にそこを歩く。

 薄暗い。時折、忘れた頃に姿を見せる燭台の灯りが、ゆらゆらと影を作る程度の光量。

 霧の都を照らし出す無慈悲な太陽も、鼠の籠もる洞穴までは照らし出さない。

 だから、ここはこんなにもひんやりで、薄暗い。

 肌が、軽くちじこまる。

 吐息に微塵の白さを感じて、流石に苦笑した。

 それでも、歩く。

 果ての知れない、廊下。

 そこを飾る、様々な遺物。

 石像があり、標本があり、杯があり、そして剣があった。

 ここは、博物館。

 決して人の目に触れえぬ物ばかりを集めた、博物館としての意味を持た無い博物館。

 ここに入る資格を持ったものは、協会でも一握り、その最奥部まで立ち入ることを許されたのは更に極少数。

 私は、そこを、彼らと共に歩いている。

 特に、会話と呼べる会話は無い。それでも、その空気に緊張と呼べるものが無いのは、我々がそれなりの信頼関係を築いている証だろうか。

 彼らはその幾つかに僅かばかりの興味を向けるものの、ほとんどは無視した。本来ならば一生目にすることすら叶わない至上の遺物を目にしても、だ。

 

「徹底していますね」

 

 応えるように、後ろから微かな笑い声が聞こえた。

 単一のそれに、私の聴覚は異なる二つの笑い声を感じた。

 きっと、その表情は、鉛みたいに堅牢だ。

 堅牢なまま、笑っている。

 そう考えると、嬉しくなった。

 

「それが、貴方の望みでしょう?」

 

 違いない、そう心の中で答えてから、私は歩く速度を心持ち速めた。

 だんだんと、鼻をつく臭気が漂ってきた。

 もちろん、気のせいだ。

 厚さ三センチの特殊ガラスは、固体はもちろん、液体、気体だって通すはずが無い。

 だから、その中に何があろうと、臭いなど漏れるはずが無いのだ。

 だのに、私の嗅覚は、紛れも無く不快を訴えている。

 恐ろしいわけではない。

 あの円筒状の透明な折の中に、例え何が閉じ込められていようと、私は恐れない。

 そもそも、あれらは私よりも弱い。

 生物として、何故己よりも力の劣る個体に恐れを抱かなくてはならないか。

 例え、あれらの全てが息を吹き返しその身を縛る牢獄を破壊しえたとしても、私の前に三分と立つことは叶うまい。

 それほどまでに、力の差は在る。

 だから、私が抱いているのは、不快感のみ。

 もし、彼らの懇願がなければ、私は二度とこんな場所に来ることはなかっただろう。

 そんなことを考えながら、歩く。

 こつこつ。

 こつこつ。

 二つの足音が、長大な廊下に反響する。

 やがて、目の前に大きな扉が現れた。

 

「ここですか」

 

 期待に濡れた、声。

 その声に背中を押されるように、私は錠前を開錠する。

 観音開きのドアを開くと、やはり耐え難いほどの臭気が溢れ出した。

 黴の臭い。

 埃の臭い。

 それは、この空間が誰からも見向きもされない、無為の空間だということを示している。

 その中に、彼らは嬉々として飛び込んだ。

 そして、食い入るように見つめた。

 ホルマリンに漬けられた、異形の者共の、残骸を。

 まるで、己の中に、獲り入れるかのように。

 目を見開き、鼻を膨らませ、忘我の涎を滴らせながら。

 時をおかず、彼女は倒れた。

 鼻と耳から、細く血を流しながら。

 しかし、その表情は恍惚としていて、まるで神と出会ったかのようだった。

 

episode49 人造両儀1 考察

 

 こっち、こっち、こっち。

 時計の音が、鳴っていた。

 

 こっち、こっち、こっち。 

 部屋にいるのは、俺一人だ。

 

 こっち、こっち、こっち。

 凛とキャスターは、工房に篭もって、例のノートの解読に忙しい。

 

 こっち、こっち、こっち。

 桜は、いなかった。帰ってきたとき、この家は無人で、魔術的な施錠がされた状態だった。どこにいったのかは、わからない。

 

 こっち、こっち、こっち。

 セイバーは、仮眠を取っている。少しでも魔力の消費を抑えるため、止むを得ない措置らしい。

 

 こっち、こっち、こっち。

 アーチャーは、厨房でその腕を振るっている。散々、俺を馬鹿にしてくれたのだ。中途半端なものなら、認めるわけにはいかない。

 

 こっち、こっち、こっち。

 一人、部屋にいる。

 

 こっち、こっち、こっち。

 何をするわけでもない。時代遅れのブラウン管、その真っ黒の画面を、じっと見ている。

 

 こっち、こっち、こっち。

 身体を包み込むように柔らかなソファ。

 

 こっち、こっち、こっち。

 ゆっくりと、目を閉じる。

 

 こっち、こっち、こっち。

 今日は、疲れた。

 

 こっち、こっち、こっち。

 少しだけ、休みたい。

 

 こっち、こっち、こっち。

 そんなことを考えながら、目を閉じている。

 

 こっち、こっち、こっち。

 目を閉じて、つらつらと、考える。

 

 こっち、こっち、こっち。

 自分の不甲斐なさについて、脳細胞を酷使させる。

 

 弱くなった。

 そう、思う。

 俺は、弱くなったと。

 何度震えた?

 何度泣いた?

 何度慰められた?

 そう、ならば、きっと俺は弱くなったんだ。

 でも、おそらくは、只の自惚れ。

 それを、認めたくないだけ。

 なぜなら、俺はもともと強かったわけではない。

 きっと、根本的に弱かった。

 存在そのものが、弱かった。

 己よりも他者を愛するその思考、それは自我を認める勇気が無いだけのこと。

 自画像を描けない、似顔絵画家のようなものか。

 他者を如何に正確に写し取ろうと、己の本質は見えていない。

 他者は、如何様にも誤魔化せる。

 それでも、自分だけは、どうやら誤魔化せなかった。

 そして、俺は俺に絶望した。

 それは、弱さだ。

 それは、弱さに他ならない。

 ならば、その弱さが露呈した、それだけの話だ。

 さて、誰に露呈したのだろうか。

 決まっている、俺自身だ。

 俺自身が、やっとのことで俺の実態に追いついたのだ。

 追いついて、そして絶望している。

 こんなものか。

 これが、衛宮士郎か。

 そうだ、お前はこの程度なのだ。

 誰も、救えない。

 誰も、認めてくれない。

 誰も、必要としてくれない。

 それでも、お前は歩けるのか。

 あの、荒野を。

 赤く、血に染まったように赤く、鮮血をすら乾き飛ばしてしまう、あの遥かな道程を。

 一人、誰一人声も掛けてくれない、無人の喧騒の中を、俺は一人で、歩けるのか。

 正義の味方としてではない。

 ただ、ひととして。

 無為に苦しみを背負う、唯、人として。

 出来ない。

 俺には、出来ない。

 意志があれば、出来るかもしれない。

 目的は、それを可能にしてくれるか。

 それでも、意志も目的も、さらに理想も砕けたなら。

 俺に、あの旅路は、長すぎる。

 息苦しすぎて、重たすぎて、空気が薄い。

 まるで海底だ。

 冷たい水の中を、身体を押し留める重たい水圧の中を、手探りで歩く、それに近い。

 酸素はどんどん減っていき、光なんてもともと無い。雪のように積もっていく生物の死骸が、辛うじて見える程度。

 肺しか呼吸器の無いこの身には、その世界は辛すぎる。

 そして、あまりにも静寂だ。

 俺は、もっと騒がしくていいのに。

 もっと、人の声が聞きたいのに。

 なんで、こんな道を歩いているんだ。

 笑っているじゃあないか。

 周囲の、異形の魚達が、蟹達が、海蛇達が、腹を抱えて笑っている。

 存在しない指をこちらに向けて、体中の鱗を震わせながら、笑っている。

 

『お前は、ここにいるべきではない。』

 

 リュウグウノツカイが、そう言った。

 

『ここに来る資格など、最初から無かった。』

 

 メガマウスザメが、そう言った。

 

『何故、ここに来た?』

 

 ヨミノアシロが、そう言った。

 

『ここに来るべき人間を差し置いて。』

 

 シンカイクサウオが、そう言った。

 

『それとも、己にこそこの世界は相応しいと勘違いしたか?』

 

 オニボウズギスが、そう言った。

 

『自惚れ、舞い上がり、己はどこでも生きていけると、そう勘違いしたか?』

 

 フクロウナギが、そう言った。

 

『ならば、それは正解だ。』

 

 テンガンムネエソが、そう言った。

 

『貴様は、あらゆる環境に適応が可能だ。』

 

 カイロウドウケツが、そう言った。

 

『さあ、そこでしばらく身体を休めるがいい。』

 

 ドウケツエビが、そう言った。

 

『いずれ、その肺は失われ、新たな呼吸器が備わるだろう。』

 

 スケイリーフットが、そう言った。

 

『手足は萎びて、この砂底を這い回るに相応しい、みすぼらしい腹ビレが生え揃うだろう。』

 

 カイコウオオソコエビが、そう言った。

 

『それまで、待っていろ。』

 

 トゲヒラタエビが、そう言った。

 

『それが、お前の望みだろう?』

 

 フクレツノナシオハラエビが、そう言った。

 

『人を救うために、人以外のものになりたいのではないのか?』

 

 ダイオウイカが、そう言った。

 

『人の身では人を救えないから、人以外の人になりたいのではなかったか?』

 

 ニュウドウカジカが、そう言った。

 

『それだけが、貴様の望みなのではなかったか?』

 

 ホンフサアンコウが、そう言った。

 

『ほら、お前も笑いたいんだろう?』

 

 タウマティクチスが、そう言った。

 

『あの男のように、心の底から、笑いたいのだろう?』

 

 デメニギスが、そう言った。

 

『そうではないか、エミヤシロウ。』

 

 デメエソが、そう言った。

 

『それとも、見えないふりをしているのか、○ミヤシろウ。』

 

 ボウエンギョが、そう言った。

 

『お前は、気付いているはずだ、エ○○やシロ。』

 

 ワニトカゲギスが、そう言った。

 

『あれは、あの透明すぎる笑みは、既に人のそれではないと。』

 

  カブトウオが、そう言った。

 

『あれは、人をやめてしまったものの笑みだ、と。』

 

  シーラカンスが、そう言った。

 

『自分には、一生あの笑みを浮かべることなど、出来ない、と。』

 

 エゾイバラガニが、そう言った。

 

『いやいや、その実、そうではない。』

 

 ヒドロクラゲが、そう言った。

 

『お前にだって可能だ。』

 

 シロウリガイが、そう言った。

 

『簡単な話だ、お前も人を止めてしまえばいいのさ。』

 

 サツマハオリムシが、そう言った。

 

『人を辞めれば、お前にも笑う資格が出来る。』

 

 ウリクラゲが、そう言った。

 

『あの笑みを浮かべる資格が、貴様にも出来る。』

 

 ムラサキカムリクラゲが、そう言った。

 

『それは、何と幸せか。』

 

 コウモリダコが、そう言った。

 

『さあさあ、覚悟を決めろ、○やシ○。』

 

 センジュナマコが、そう言った。

 

『何より、誰より、お前が望んだことだろう?』

 

 オウムガイが、そう言った。

 

『人を助けたいと、そう望んだのだろう?』

 

 ミツクリザメが、そう言った。

 

『そんなこと、なんの苦もないぞ。』

 

 オニキンメが、そう言った。

 

『あの女も、言っていたではないか、全てを救うのは、人の身に許された奇跡ではない、と。』

 

 ザラピクニンが、そう言った。

 

『ならば、話は早い。』

 

 見たことも無い魚達が、ぐるぐる回っていた。

 

『人など、止めてしまえ。』

 

 ぐるぐる。

 

『人を辞めて、人を救え。』

 

 やめろ、目が回る。

 

『それが、貴様に許された、唯一の道。』

 

 溶けて、バターになっちまう。

 

『さあ、私は待っているぞ。』

 

 どろどろ。

 

『ここで、深海よりもなお深い、この深奥で、貴様を待っている。』

 

 魚が、生き物が、海が、どろどろになって。

 

『君が、奇跡を望む、その瞬間を待ち望んでいる。』

 

 どろどろが、びちゃびちゃ、一つになって。

 

『私は優しいぞ、○○○。』

 

 うねうねと、黒々としたものになって。

 

『必ず貴方の声に答えよう。』

 

 それが、朗々と言うのだ。

 

『さあ、人を救え、○○○。』

 

 なんなんだ、お前は。

 

『歩くが如く救え。』

 

 体が、沈んでいく。

 

『喰らうが如く救え。』

 

 深海よりも、更に深いところへ。

 

『呼吸をするが如く、救え。』

 

 固体すらもすり抜けて、更に深い、その深奥へ。

 

『救って救って救い続けろ。』

 

 俺の意識をすらすり抜けて、更に大きなものの胎内へ。

 

『そうすれば、貴様は永遠に人を救うことが出来る。』

 

 そこは、何と、心地いい。

 

『死後も、救い続けることが出来る。』

 

 お前は、何者だ。

 

『それは、何と有意義な存在ではないか?』

 

 俺であって、俺で無いもの。

 

『泡沫として生まれた貴様にとって、それは無上の救いだろう?』

 

 何者でもあって、何者でもないもの。

 

『そうではないか、この世の誰よりも、意味なき生を生きる者よ』

 

 ああ、お前は、蔵識か。

 

 

「先輩」

 

 肩を揺すられて、目が覚めた。

 頭の奥に、つんとするような気怠さが残っている。

 

「……代、羽?」

「……桜です、先輩」

 

 不機嫌に拗ねた声が、聞こえた。

 ソファに沈み込んだ体が、重たい。まるで、海岸に打ち上げられたクジラみたいだ。

 脂肪が、重い。筋肉が重い。内蔵が、重い。

 己の重さで、死にそうになる。

 ああ、わかった。

 この世界は、重過ぎる。

 生きていくには、重過ぎる。

 誰か、引き上げて欲しい。

 この手を掴んで、この重さを、分かち合って欲しい。

 肩を、貸して欲しいんだ。

 この身体は、重過ぎる。

 この存在が、重過ぎる。

 救いを求めるように、手を差し出した。

 誰も、それを握ってくれる人間は、いなかった。

 それでも、感じたのは、深い海から浮上したことによる、深い深い安堵だった。

 

 

「あ゛ー。つかれたー」

 

 凛が工房から出てきたのは、午後九時を回った頃合だった。

 よほど集中していたのだろう、目の下には大きな隈が出来ている。

 彼女の後ろに立つキャスターの表情にも、心なしか深い疲れが刻まれているように見える。

 

「さくらー、何か食べるものちょーだーい……」

 

 凛は、そう言ってテーブルに突っ伏した。

 マキリ邸から帰って、約四半日、ノンストップで脳細胞を働かせ続ければ、そりゃあ糖分だって尽きてくるだろう。

 人間、ある程度は気合で何とかなる生き物だが、気合以外のものでないと補えない部分は確かにあるのだ。貧乏性の凛のこと、その空隙を魔力で補うなんてしないだろうし。

 

「はい、アーチャーさんが、夜食にって」

 

 桜が差し出したのは、乾燥防止のラップで覆われたサンドイッチ。バスケットに入れられたそれらは、色とりどりで、目にも鮮やかだ。

 

「あー、ありがとー、アーチャー……って、あいつ、どこいったのー?」

 

 いい感じに蕩けている凛。間延びした声が、何故だか妙に相応しい。

 

「アーチャーさんなら、今、お茶を淹れてくれてます」

「ああ、さすが、アーチャーね、アーチャーの名前は伊達じゃないわ。あいつ、給仕として名を成して、英霊になったんじゃないでしょうね?」

 

 優雅に、しかし手早くサンドイッチをぱくつく凛。そして、その後ろから控えめに伸ばされた手は、キャスターのものだ。

 

「んー、おいし。あー、私も、これくらい気の効く従者がいればねえ…」

「そんなもの、お得意の魔術で生み出せばよかろうが」

 

 がちゃり、とドアが開いた。

 そこにいたのは、室内だというのに赤い外套を纏った騎士。

 そして、彼と共に、芳しい紅茶の香りが部屋に入ってきた。

 

「竜牙兵の給仕ってのも雅に欠けるし、ホムンクルスは鋳造に時間がかかるしねぇ。ねえ、あなた、私のサーヴァントにならない?今より上質の待遇を約束するわよ?」

「私が貴様のサーヴァントになるなど、それこそ天地がひっくり返ってもありえんよ。茶くらいならいつでも淹れてやる、それで我慢しろ」

 

 ことり、とソーサーがテーブルに置かれた。まるで、其処にあるのが当然、そう言わんばかりに大きい顔をしているティーセットに、よくわからない嫉妬を感じてしまう。

 

「ちょっと、キャスター、マスターの前で人のサーヴァントをスカウトするの、やめてくれる?あんたが言うと、マジで洒落になんないから」

「あら、なら裏でこそこそ動かれるほうがお好きなの?」

「それはもっと止めて……」

 

 ……何故かよくわからんが、この二人、妙に仲良くなってないか?まぁ、二人とも魔術師だし、あれだけ長い間同じ部屋で共同作業してれば少しは仲良くなるものなのかもしれないが。

 しばらく、そういうたわいの無い会話が続いた。

 剃刀の刃の上に軽く指を走らせるような緊張感から、あえて視線を逸らしたような会話だった。

 それでも、籠の中の夜食を綺麗に平らげ琥珀色の紅茶で喉を潤していた二人に、セイバーが意を決したかのように問いかけた。

 

「……ところで、何かわかりましたか、リン、キャスター」

 

 凛はその言葉に、一瞬だけ眼光を強めると、静かにカップをソーサーに戻した。

 

「重要なところは完璧に暗号化されてたから、一昼夜やそこらで解読するのは不可能ね。ひょっとしたら乱数表か何かが必要になってくるかもしれない。でも、研究の趣旨とか、大まかな概要くらいは掴めたわ

 一同に、緊張が走った。

 

「マキリ臓硯が目指したのは、聖杯戦争を独力で戦い得る強力なマスターの製造。おそらくはそれよ」

 

 凛は真正面から俺を見ながら、数枚のプリントをテーブルに広げた。

 一枚には、こんなことが書いてあった。

 

《『子供の頃私は』この質問には回答が用意できない。

 『私はよく人から』化物と指をさされる。

 『私の暮らし』には娯楽が欠如している。

 『私の失敗』が彼女を壊した。

 『家の人は私を』ある程度認めているようだ。

 『死』にたくない。

 『私の出来ないこと』がこの世には多すぎる。

 『私が心引かれるのは』彼女の笑顔である。

 『私が思い出すのは』初めて見た眩い光。

 『私を不安にさせるのは』彼女の笑い声。

 『自殺』願望。

 『私が好きなのは』敵を許すことだ。

 『罪』はあくまで認識の問題でしかない。

 『大部分の時間』私は眠っている。

 『私が忘れられないのは』みんなの味である。》

 

 そして、もう一枚には、こんなことが書いてあった。

 

《『子供の頃私は』とても幸せだったらしい。

 『私はよく人から』多くのものを奪う。

 『私の暮らし』は地下で過ごすことが多い。

 『私の失敗』はあの時死ななかったこと。

 『家の人は私を』必要としてくれる。

 『死』という言葉は私に無関係だ。

 『私の出来ないこと』を彼がしてくれる。

 『私が心引かれるのは』私の存在しない世界である。

 『私が思い出すのは』赤い空と黒い泥。

 『私を不安にさせるのは』眠る前の静寂と眠った後の喧騒。

 『自殺』は不可能だ。

 『私が好きなのは』勧善懲悪の物語だ。

 『罪』には相応の罰が必要である。

 『大部分の時間』を無為に過ごしてしまった。

 『私が忘れられないのは』空虚な掌の感触だ。》

 

 その他の紙にも、似たようなものがある。或いは、よくわからない文字で書かれた研究レポートのようなもの、大きな木を描いたスケッチ。多種多様で、何の統一性も無いように思える。

 

「何だ、これ?」

「文章完成テストに、バウムテスト、その他もろもろ。これだけ傍証があれば、白も黒になるわよね」

 

 ……?

 一体、どういう意味だ

 

「士郎、解離性同一性障害って聞いたことがある?」

 

 解離性同一性障害?

 そんな単語聞いた覚え…ある、か?

 確かあれは、テレビのドキュメンタリーで……。

 

「解離性同一性障害って、確か二重人格のことじゃあないのか?」

 

 俺の言葉に、凛は緊張した面持ちで頷いた。

 

「その解釈は近い、でもおそらく間違い。私も専門分野じゃないからあまり詳しくはわからないんだけど、そもそも人格っていうのはそれほど確固としたものじゃないの。だから、それを単一でしか持ってないほうが稀よ。結局、人格は人と人とのコミュニケーションを円滑に行うためのプログラムみたいなものだからね、同一の個人が上司と部下によってその対応が違うなんて、普通でしょう?人格を表す英単語personalityの語源が、仮面を表すラテン語personaであることは、中々の慧眼だと思わない?

 それはそうだろう。

 あらゆる人間に対して全く同じ応対をする人間なんているはずもないし、時と場合によって性格が豹変したように見える奴なんて、特筆すべき存在でもなんでもない。第一、目の前の凛の猫かぶりだって、見方を変えれば似たようなものだろう。

 

「……何よ。何か言いたそうね」

「いや、何でもない。続けてくれ」

 

 じろり、と俺を睨んだ凛は、こほん、と一拍置いてから話し始めた。

 

「解離性同一性障害、Dissociative Identity Disorderっていうのはね、明確に自我の異なる複数の人格の存在だけじゃなくて、その交代による患者の肉体支配、人格交代による記憶の欠乏、それに伴う社会への不適応なんかが症例として挙げられる。特異なケースだと、患者の外観にまで相当の変貌が表れることもあるらしいわ。臓硯の研究日誌には、その症状に関する考察がかなりの分量を占めてた。相当興味があったみたいね。この病気が日本で有名になったのはダニエル・キイスの著作なんかが切欠だと思うけど、もとを辿れば、それほど珍しいものじゃあない。『狐憑き』とか『悪魔憑き』なんかは実は別人格が引き起こしてたって話もあるし、ある意味私達魔術師に縁の深い症例ではあるわけね」

「……それはわかったけど、凛、なんで臓硯はそんな病気を研究してたんだ?」

 

 声が、不思議なくらいに擦れていた。

 何かを、否定したいみたいだった。

 喉が、渇いた。

 時計の秒針が、煩い。

 お前ら、少し黙れ。

 

「……断片的な情報からの推測になるけど、臓硯は解離性同一性障害のもたらす、人格ごとに現れる能力の偏りに興味を持っていたみたいね。例えば、ダニエル・キイスの著作のモデルになったビリー・ミリガンには23人の人格があったらしいけど、人格それぞれのIQには大きな差異がみられたし、中には空手の達人で驚異的な筋力を誇る人格、なんてのもいたらしいわね。つまり、ケースによっては、分裂した人格は、分裂前、或いは統合後の基本人格よりも極地的に優れた才能を発揮することがある、そこに注目したんでしょ」

「でも、それは……」

「ええ、もちろん詐病の可能性は捨てきれないし、フィクションの占める割合も大きいとは思うけど、全てを笑い飛ばすのも不可能よ。実際、この国の退魔の一族の中には、人格をソフトウェア化して万能の天才を作ることに血道を捧げた一族ってのもいるみたいだから」

「つまり、臓硯は……」

「分裂した人格の中から魔術的な才に優れた人格をピックアップして、それを後継者、或いは聖杯戦争におけるマスターにしようとした、そんなところじゃないかしら。マキリの魔術の継承はほとんど拷問みたいなものらしいから、幼少時の性的虐待っていう解離性同一性障害の発病条件の一つは満たしてる。所々で出てきたダチュラ、クロルプロマジン、メタンフェミンなんかの薬物も、悉く精神に強い作用をもたらすものばかりだし、人工的な多重人格を作り出そうとしてたのは間違いないと思うわ」

 

 凛の隣に座っていた桜が、少しだけ俯いた。

 凛が、桜の手を、そっと握った。

 

「交代人格はね、大本を辿れば、絶望的なまでに強い肉体的な苦痛や精神的外傷が引き金になって生み出されるの。『虐待を受けているのは自分じゃあない、自分以外の誰かだ』、その思いが、苦痛を引き受ける『器』としての他人を生み出すのね。そして、最終的に基本人格のコントロールを失って独り歩きし始めたもの、それが分裂人格のもとになる。症例によっては百を超える人格が確認されることもあるみたいね」

 

 それは、聞いたことがある。

 それを聞いて、思ったんだ。

 それは、つまり自殺なんじゃあないか。

 精神が、この先のあらゆる楽しみを放棄しても、目の前にある苦痛を排したい、そう考えたからこその別人格の創出。

 それは、遠まわしな自殺なんじゃあないか、そう、思ったんだ。

 

「でも、このケースはその例からは外れてるでしょうね。精神の防衛機能としての解離じゃなくて、人格を創出するための手段として解離を使ってたんだから。想像に過ぎないけど、精神を生きたまま喰いちぎられていく、そんな感じなのかしらね。知ってる?人格が分裂する原因の一つに『どんなに苦痛な仕打ちを受けても、家族や周囲の成人への愛着を断ち切ることができないという構造』が挙げられるらしいから。つまりね、信じ難いけどこの子、きっとマキリ臓硯を愛してたのよ」

 

 ……絶句した。

 何も、話せなかった。

 何と、救いの無い。

 憎むことも、無かったということか。

 どうやっても受け止められないほどの苦痛を与えられて、それでも、憎まなかったのか。

 

「……そんなの、無茶苦茶だ。成功するはずが無い。それに、いくら能力が高くても、そんな不安定な人間が魔術師としてやっていけるのか?魔術の発動中に人格交代なんかしたら、冗談抜きで死にかねない」

「……ええ、私もその点は疑問だった。でも、日記を読み進めると、精神が破壊されても肉体さえ無事ならそれでいい、そう読み取れるのよ。失敗して元々、そういうつもりだったのかもしれないわ」

 

 失敗して元々?

 そんな、実験用のマウスを扱うみたいに、いや、それよりも酷い、粘土か何かをこねくり回すみたいにして、人の精神を破壊していったというのか。

 怒りで、気が遠くなりかけた。

 

「……で、成功したのか?」

「……ええ、成功した、んでしょうね。ごく最近の分の日記が見当たらなかったからわからないけど、そう思わせる記述はそこかしこに見られたし……」

 

 そうか。

 ほっとした。

 よかった。

 ああ、それはよかった。

 失敗しなくて、よかった。

 成功して、よかった。

 なら、認められたってことだろう。

 彼女は、きっと認められたんだ。

 何に?

 何か、よくわからない、くそったれなものだ。

 それに、認められた。

 よかった。

 認められて、よかった。

 そうだろう?

 そうじゃないと、かなしすぎる。

 かなしすぎるじゃあないか。

 

「……!」

 

 何かを、話している。

 

「……?……!」

 

 何かを、聞いている。

 それでも、俺は、何も話していないし、何も聞いていない。

 器用だ。

 何も考えていないのに、何で他人と会話が出来るのだろう。

 慎二のときも、そう思った。

 俺は、なんて器用なんだろう。

 声だ。

 声が、聞こえる。

 心を錬鉄するような、鉄槌のように硬い声だ。

 どこかで聞いた、台詞だ。

 

『では問おう衛宮士郎君は衛宮切嗣に引き取られて幸福だったかね―――そうか衛宮士郎これが正真最後の忠告になろう不幸とは己の業の深さが呼び寄せるものだが幸福とはただ神の御業に過ぎぬそれが降りかかったことについて君が恥じ入ることなど何一つ無いむしろ誇るがいい君は神に愛されている君は神に愛されている君は神に愛されている君は神に愛されているが君は神に愛されているがしかし神が愛し忘れた者も確かに存在するのだよ』

 

 神が愛し忘れた者。

 神が愛し忘れた者。

 神が愛し忘れた者。

 

 貴方は、違いますよね。

 貴方は、違いますよね。

 貴方は、幸せに生きてきた、そうですよね。

 何故、答えてくれないのですか、■さん――。

 

「……だから、マキリにもう一人、臓硯以外の魔術師がいる、それは間違いないわ。きっと、そいつもマスターに選ばれたんでしょうね」

 ああ、そうだ。

 きっと、マキリにはもう一人魔術師が――。

 

 えっ?

 

「……凛、何を言ってるんだ?」

「……?

 だから、マキリには臓硯以外に魔術師が最低一人はいる、そう言ってんのよ。何かおかしいこと言った?」

 

 いや、それはおかしいもなにも。

 何を、今更(・・・・・・)

 そんなこと、わかりきっていたじゃないか。

 

「……凛、お前、何を――」

 

「静かに!」

 

 びくり、と肩が震えた。

 それほどまでに、鋭い声だった。

 その場にいた全員、声を発した人物以外の全員が、彼女を注視した。

 彼女は、キャスターは、自らの意識を集中させるかのように虚空を睨んでいた。

 

「……何か……来る」

 

 心臓が、早鐘を打つ。

 呼吸が、速くなる。

 手に汗が、滲む。

 体が、意識よりも早く準備を終えていた。

 何の?

 決まっている。

 戦闘の、準備だ。

 

「……速い。あと……三分?これは……」

 

 キャスターの手が、小刻みに震え始めた。

 それは、恐怖による緊張が齎す物だったのだろう。

 彼女の端整な顔が、青褪めていた。

 

「間違いない……。バーサーカー……」

 



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episode50 冬の公園

 あの夜を、思い出した。

 教会からの帰り道、坂の上に聳えていた巨大な黒い影。

 そして、影を従えていた、純白の少女。

 圧倒的だった。

 圧倒的だった。

 圧倒的だった。

 噛み潰される、そう思った。

 餓えたライオンの口の中に頭を突っ込んでいる、それと同じだ。

 こっちの選択肢は尽きている。

 あとは、あちらさんが、ほんの僅かの気紛れを起こしてくれるのを期待するだけ。

 それ以外、助かるすべは無い、そう確信してしまった。

 目の前に聳える、鉛色の巨兵。

 吐き出す吐息に石油臭さを感じてしまうくらい、人外の気配を放っていた。セイバーやアーチャー、キャスターとも更に一線を画す、人を辞めてしまったモノの醸し出す気配だった。

 

「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」

 

 可憐なその声にすら、死の気配は濃厚だった。

 その声の持ち主が、俺の存在を気に喰わないと、僅かにでもそう思ったならば、俺の首は即座に胴体と分かれて飛ぶ、そう確信した。

 

「へえ、三体もいるんだね。手間が省けて嬉しいわ。死に物狂いで頑張りなさい。そしたら、少しは覚えておいてあげるから」

 

 彼女は、ゆっくりと俺達の方を指差した。

 その指は、まず俺を射抜いているみたいな気がした。

 

「じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」

 

 死が、襲い掛かってきた。

 

 そんな夜を、思い出した。

 

「迎え撃ちますか、リン」

 

 既に武装を完了させたセイバーが言う。

 その瞳は勇壮、しかし、やはり振り払い難い疲れの影が見える。魔力の枯渇は、余程深刻なのだろう。

 

「冗談。貴方が万全の状態の時だって歯が立たなかったのよ。何の戦術も組み立てずに勝てる相手じゃないわ」

「でも、ここはキャスターの『神殿』なんだろ?なら――」

「どんなに優れた領地でも、まさかサーヴァント一人分の働きをするなんて、本気で思ってるわけ、士郎?ううん、一人分じゃ前と同じ。最低二人分の働きはしてもらえないと、引き分けにだって持ち込めない」

 

 そうだ。

 サーヴァントなんて具現化した神秘、現代の魔術じゃあ抑えられる器量を超えている。しかも、ランクB以下の攻撃の無効化なんて反則、多少の小細工じゃあ噛み破られる。

 

「じゃあ、どうするんだ?」

「決まってるでしょ、逃げるのよ!」

 

episode50 冬の公園

 

 しばらくの間、何も見えなかった。

 目も眩むような空間を通り抜けて、突然夜の闇の中に放り出されたのだ。虹彩の処理が追いつかないのはむしろ当然だろう。

 白と黒が綯い交ぜになったような視界の中で、それでも辛うじてベンチを見つけた。空間転移なんていう出鱈目を経験して、流石に疲れた。少し休みたい。

 ふらふらと、歩く。

 二回ほど、転んだ。

 剥き出しのコンクリートで、掌を擦りむいた。じくじくと痛むが、視界が元に戻るまでは何も出来ない。

 それでも、何とかベンチに腰掛ける。

 ちかちかと細かい点滅を繰り返す視界の中で、記憶の琴線に触れる風景を見つけた。

 あの木、あの自販機、そして、確かあそこに鯛焼き屋の屋台があったはず。

 

 なるほど、ここは――。

「ここは……あの公園、か」

 

 一昨日、代羽と一緒にイリヤと話した、その小さな公園だ。

 思わず、皮肉な笑みが漏れる。

 あのとき歓談した少女に、今は命を狙われている。中々ウィットの効いたジョークだ。まぁ、ウィットなんて何のことか、ちいとも分からないのだが、それほど間違えた使い方はしていないと思いたい。

 背もたれに腕を預けて、天を見上げる。自然、口が半開きになった。

 星は、見えなかった。

 その代わり、大きな月が、あった。

 十三夜月というのだろうか、それにしては少し欠け過ぎている気もする。上弦の月との中間位かも知れない。いずれにせよ、もう少ししたら満月なのだろう。

 目を閉じる。

 暗闇に目を慣らしたいなら、しっかる目を開けておいたほうがいいのかも知れない。

 それでも、目を閉じたかった。

 そして、目を閉じたまま呟いた。

 

「投影、開始」

 

 軽い頭痛の後で、両手にずっしりとした感触を覚えた。

 握っただけで分かる。この干将・莫耶は、昨日死ぬ思いで作り上げたそれよりも遥かに出来がいい。おそらく、道場でアーチャーの投影品を実際に振るったからだろう。

 それでも、こんなものがあの狂戦士に役立つとは思えない。

 あれは、技がどうとか経験がどうとかじゃあなかった。

 生き物としてのランクが、桁二つくらいで違っていた。

 例えば……いや、止めておこう。馬鹿馬鹿しすぎて、比較の対象すら思い浮かばないのがオチだ。それに、いくら例えとはいえ自分を卑下しすぎるのはよくない。

 だから、出会ったら負け、なのだと思う。

 出会わないこと、それが最善の方法で、唯一無二の道。

 そんなこと、知ってる。

 髪の毛の先から、足の爪の先のそのまた先まで、理解してる。

 そう、知ってるんだ。

 なら、何故逃げない?

 ここは、遠坂の家からそれほど離れていない。

 おそらく、もっとも近い『門』に飛ばされてしまったようだ。

 なら、逃げないと。

 それに、このベンチは道路から丸見えだ。街灯にだって照らされてる。

 なら、隠れないと。

 でも、腰が重い。

 気力が、根こそぎ奪われてしまったみたいだ。

 立つ気力が、無い。

 寒い。

 着の身着のままで外に出てきてしまったのだ。冬の寒気は、部屋着にはあまりに冷たい。

 手が、悴む。

 凍傷になることはないと思うが、それでも一応握って開いてを繰り返す。

 それでも冷たくなってきたから、体を前かがみにして、手に息を吹きかける。

 じんわりと、熱が広がっていく。

 暖かい。

 頬が、緩んだ。

 

「そんな格好じゃあ、風邪引くよ、お兄ちゃん」

 

 優しい、声がした。

 想像した声では無かった。

 無邪気な殺意に満ちた、あの冷血な声では無かった。

 優しい、まるで家族に向けられるような、そんな優しい声だった。

 

「イリヤ」

 

 冬の少女が、鉛の従者を引き連れて、朗らかに笑っていた。

 

「他の人達はどうしたの?一緒に殺してあげようと思ったんだけど、もしかしてそこらへんに隠れてるのかしら?」

 

 イリヤは、心底楽しそうに辺りを見回した。

 その様子があまりに微笑ましかったので、純粋な笑いが漏れた。

 

「あー、シロウ、今笑ったでしょ」

「ごめんごめん、でも、探したって猫の子一匹いないぞ、きっと。俺達はばらばらに飛ばされたから」

 

 そう、ここにいるのは俺一人だ。

 

『一人でいても全員でいても敵わないなら、ばらばらに転送する。そのほうが、個々人が生き残る可能性が高い』

 

 そう言ったのは、リンだったか、キャスターだったか。

 今となっては、その選択肢が正しかったのかどうか分からない。少なくとも、ここに全員が転送されるケースを考えれば、僥倖と言っていいのだろうか。

 

「ふーん。ま、私はどっちでもいいんだけどね。一匹一匹狩っていくのはめんどくさいけど、楽しみが増えたわ。ほら、狩りって貴族の嗜みでしょう?」

「じゃあ、最初の獲物が俺ってわけだな?」

 

 ゆっくりと、立ち上がる。

 さっきまでの腰の重さが、嘘みたいだ。

 長い間寒気に晒されていたとは思えないほど、筋肉が柔らかい。視界も、暗視ゴーグルをつけているんじゃないかってくらいクリアだ。

 きっと、生物の本能が、理解してしまっているのだろう。

 これが、最後だと。

 筋肉を使うのも、虹彩を使うのも、心臓を拍動させるのさえも。

 これが最後だから、せいぜい楽しもうとしているのだ。

 最後の最後まで、味わい尽くそうとしているのだ。

 そんな馬鹿馬鹿しいことさえ理解しながら、俺は立ち上がった。

 

「どうしたの?お兄ちゃん、そんなもの握って、何がしたいの?」

 

 そんなもの。

 これでも一応、俺の用意できる最高の武器なんですけど。

 

「決まってるだろ、無抵抗のまま殺されるわけにはいかない」

 

 似たようなもんでしょうけどね。

 

「そんなに震えてるのに?」

「寒いからだよ」

 

 がちがちと、歯が鳴る。

 武器を握った手が、力の入れ過ぎで白くなっているのが、わかる。

 それでも、汗が噴き出している。

 寒さなんかでは、ない。

 

「嘘。寒いから震えてるんじゃないわ」

「なら、きっと武者震いだ」

 

 がくがくと、膝が笑っている。

 つま先が、痛い。

 今にも逃げ出そうとしている体を引き止めるのに、精一杯だ。

 武者震いなんかじゃあ、ない。

 

「嘘。貴方は、怖いから震えているのよ」

「違う。そんなことはない」

 

 違う。

 そんなことは、無い。

 認められない。

 

『恐怖とは、執着だ』

 

 認めたら、俺が俺で無くなる。

 

『執着とは、即ち生そのもの』

 

 そうだ、乗り越えろ。

 

『喜べ、衛宮士郎。お前は人として生きることが出来るよ』

 

 絶好の機会じゃあないか。 

 恐怖を、自分のものにしろ。

 勇気を、奮い起こせ。

 戦え、戦え。

 結果を恐れるな。

 恐れるから、前に出れないんだ。

 死ね。

 死んだと思え。

 死んだと思えば、怖くない。

 死人は、怖がらない。

 死人に、なれ。 

 そうすれば、戦える。

 戦える。

 恐怖に、打ち克てる。

 そうしないと、負ける。

 夢が、理想が、逃げていく。

 あの背中が、遠ざかる。

 おいていかれる。

 いやだいやだいやだ。

 だから、死ね。

 死んでしまえ。

 ここで、死ね。

 嫌だ、生きたい。

 死にたくない。

 死んでなるものか。

 ほら、謝れ。

 この子は、お前に対して怒っている。

 何に怒っているか分からないけど、絶対に怒っている。

 なら、必死で謝れ。

 地面に額を擦り付けろ。

 靴の裏だって舐めてやれ。

 今までのお前の人生、全てを謝れ。

 息をしたこと、糞をしたこと、笑ったこと。

 その全てが罪業でしたと、謝ってしまえ。

 そして、油断させろ。

 優越感に浸らせて、あの細い喉笛を掻き切れ。

 お前は、いつだってその手に刃物を握ることが出来る。

 なら、油断させろ。

 真っ裸になるのもいいかもしれない。

 そうすれば、あの類の輩は、嗤うだろう。

 裸踊りでもしてやればいい。

 油断させろ。

 油断させて、殺せ。

 あわよくば、逃げ出せるかもしれない。

 あやまれあやまれあやまれ。

 いや、駄目だ。

 そんなことをしたら、親父に顔向けできない。

 親父に、見捨てられる。

 あの笑顔が、失望に塗り潰される。

 そんなの嫌だ。

 なら、戦え。

 勇壮に散れ。

 死ね。

 嫌だ。

 痛いのは、嫌。

 死にたくない。

 死ね。

 死にたくない。

 殺せ。殺したくない。

 逃げろ。逃げたくない。

 死ね。死にたくない。

 散れ。散りたくない。

 謝れ。謝りたくない。

 戦え。戦いたくない。

 しろ。したくない。

 何も、したくない。

 

「……泣いてるの、お兄ちゃん?」

 

 小さな手が、頬をそっと撫でてくれた。

 

「イ……リヤ?」

 

 彼女は、少し寂しそうに微笑んだ。

 

「ごめんね、最初からお兄ちゃんを殺すつもりは無かったの。脅かしすぎちゃったね」

 

 もう片方の手が、首の後ろに回されて。

 彼女は、まるで父親に抱きつくみたいに、俺に体を委ねた。

 

「この前みたいに、お話しましょう?ほら、あのベンチだって空いてるし。今度は、私が飲み物を買ってくるから」

「……お嬢様に、そんなこと、出来るのか?」

「あ、酷い!シロウが馬鹿にした!見てなさい、たっぷり後悔させてやるんだからー!」

 

 そう言って、彼女は自販機の頼りない灯りに向かって走っていった。

 それに付き従う、鉛色の巨人。彼は、終始俺をその視界に収めることは無かった。

 また、見逃された。

 そして、俺は恐怖に負けた。

 今度こそ、言い訳は出来ない。

 だって、俺が認めてしまったんだから。

 

「ああ、ここまでかなぁ……」

 

 力無く、ベンチにへたり込む。

 

「シロー、お茶でいいー?」

「……ああ、頼むよ」

 

 喉が、緊張でからからだったから、有難かった。

 それでも、もう駄目かも、そう思った。

 両手で顔を覆う。

 涙は、流れていなかった。

 

 

「シロウ!お茶でいいんだよね!」

 

 白い息を、音符みたいに弾ませながら、イリヤが駆け戻ってきた。

 少し、汗ばんでいる。

 この街の冬は、それほど寒くならない。少なくとも、この子の故郷なんかに比べれば冬と呼ぶのもおこがましい程だろう。

 ポケットからハンカチを取り出そうとして、そこで気付いた。

 部屋着なのだ、ハンカチなんて気の効いたもの、持っているはずがない。

 

「はい、シロウの分!」

 

 誇らしげに胸を反らせながら、輝く瞳と共に差し出されたスチール缶には、堂々とした文字で、大きくこう書かれていた。

 

『お汁粉』

 

 ……。

 喉が渇いてるときのお汁粉って、絶望の味がしますよねえ。

 

「どうしたの、お兄ちゃん?何か間違えた、私?」

「いや、間違えてない。寒いときのこいつは最高だ」

 

 イリヤの分のプルトップを開けてやる。

 それから、自分の分のプルトップを開けて、一口飲んだ。

 

「……日本のお茶って、甘いのもあるのね。お爺様からは、悪魔と同じくらいに苦いお茶しかないって聞いてたけど」

「そうだな、甘い日本茶って聞いたことない」

「でも、美味しいわ。身体の奥から温まる、そんなほっとする甘さだね」

 

 ベンチに二人並んで座って、お汁粉を啜る。

 そんな光景に、どこか羨望を覚える。

 そして、思う。

 イリヤの言うとおりだと。

 甘い。

 蕩けそうだ。

 頑なに守ってきた、色んなもの。

 俺を俺たらしめていた、かけがえのないもの。

 それが、蕩けそうなくらい、甘かった。

 ああ、ほんと、そうだ。

 ほっとする。

 何のことはない。

 受け入れれば良かったんだ。

 甘さを、受け入れてしまえば、良かった。

 そうすれば、楽だったんだ。

 そんなことに気付けなかったなんて、我ながら馬鹿馬鹿しい。

 あまくて、いいじゃないか。

 あまくったって。

 

 

「キリツグのこと、話して」

 

 私がそう言うと、彼は少し驚いたみたいだった。

 それでも、その表情は変わらない。

 まるで鉛の仮面でも被ったみたいに、陰気だった。

 陰気で、堅牢。

 いつだって、変わらない。

 そんな、顔だった。

 

「イリヤ、切嗣のこと、知ってるのか?」

「知ってるも何も、私が日本に来たのは、彼を殺すためよ」

 

 そっか、と彼は呟いて、一人勝手に何かを納得してた。

 彼の知ってるキリツグにも、人から恨みを買うような、そんな側面が存在したのだろうか。

 

「……前も話したかな。切嗣は、親父は、もうこの世の人じゃあない。だから、イリヤが切嗣を殺すことは、出来ないよ」

 

 崩れ落ちそうな程か弱い笑みを浮かべる彼。その笑みの中に、一握りの優越を感じてしまったのは、私の嫉妬心が暴れ回ったせいだろうか。

 

「そんなこと、知ってる。でも、話して。お兄ちゃんが独り占めするなんて、ずるい」

 

 彼は私の頭をそっと撫でて。

 そうだな、と呟いて。

 ポツリ、ポツリと、宝物を引き出しから取り出すみたいに、大事そうに話し始めた。

 

「俺はね、切嗣に救われたんだ」

 

 それは、前も聞いた。

 

「火事が、あったんだ」

 

 それは知識として知っている。

 

「俺は、全てを失ったよ。家も、家族も、名前も」

 

 もう、それも聞いたよ。

 

「そんな俺を、を救ってくれたんだ。本当の正義の味方みたいだったな」

 

 彼は、月を見上げていた。

 この前、雲を見上げていたのと同じように。

 その瞳に、輝きを映さないまま。

 

「でも、今考えてみると不思議だな。なんで切嗣は俺の名前を知ってたんだろ?」

「……お兄ちゃんが話したんじゃないの?」

 

 リズムを作るための相槌。

 くだらない、そう思う。

 

「んー、もうだいぶ忘れちゃったからなあ。でも、切嗣から話しかけてきたんだよ。『やぁ、士郎君、思ったより元気そうだね、よかった』って。それを聞いて思ったんだ。ああ、俺の名前だ、ってね」

 

 どうでもいい。

 そんなこと、羨ましくなんか、ない。

 

「きっと、寝言か何かで話してたのよ。それ以外、考えられないじゃない」

「自分の名前をか?でも、それくらいかなぁ。もしくは、戸籍か何かから辿ったか、それとも名前のわかる何かを持ってたか」

 

 彼は、心底不思議そうに首を捻った。

 陰気な表情のまま首を傾げたその様子が、とても可笑しかった。

 そして、彼は話した。

 身振り手振りも加えて、本当に嬉しそうに。

 私も、笑った。

 ほとんど、私の記憶にあるキリツグと一緒だった。

 母様と私を愛してくれたキリツグが、そこにいた。

 だから、楽しかった。

 なのに、なんで。

 なんで、目の前で楽しそうに話す、この男は。

 何で、一度も。

 

「そっか、キリツグは優しかったんだね」

「ああ、優しかったよ」

「キリツグと一緒にいて、楽しかった?」

「ああ、楽しかった」

 

 その表情に、イラついた。 

 その、確実に一番大事なものが抜け落ちたまま、それでも楽しそうな表情が、限りなく醜かった。

 

「なら、お兄ちゃんは幸せだったの?」

「ははっ、なんか最近その質問が多いな」

 

 彼は口元を歪めた。目は相変わらず月を見つめ、しかしその錆色の瞳は何も映していない。

 

「幸せだった。切嗣に拾われて良かった、心の底からそう思うよ。だって、今もこんなに幸せなんだから」

 

 幸せ?

 今の彼が?

 私にはとてもそうは思えない。

 彼はいつもしかめっ面だった。それは何かを耐えていたからではないのか。

 彼の拳はいつも固く握り締められていた。それは何かを我慢していたからではないのか。

 

 殺そうと思っていたのだ。

 

 聖杯戦争に勝つのは私の存在する理由だが、キリツグとシロウを殺すのは私の存在する意味、そう信じて極東の島国にやって来た。

 私を捨ててまで選んだシロウを殺したらキリツグはどんな表情をするだろう。怒り狂うか、泣き叫ぶか、許しを請うか。それが楽しみで、今の今まで苦しい修練に耐えてきたのだ。

 でも、キリツグは既にこの世の人ではなくなっていた。

 ならば、あの世から彼を悔しがらせてやろう。せいぜい残酷に、執拗に彼の置き土産を壊してあげよう。そう考えていたのだ。

 しかし、彼の置き土産は既に手の施しようが無いくらい壊れていた。少なくとも私にはそう思える。

 自らの従者を助けるためにバーサーカーの剛剣の前に立ち、自分を殺そうとした敵と和やかに話し、他人のためだけにこの凄惨な大儀式に参加する。これを壊れているといわず、なんというか。

 だから、私は彼を殺すのを諦めた。だって、すでにこの上なく壊れているものなんだから、壊しようがない。ガラクタをいくら叩き潰したところで、ガラクタ以外の何物にもなり得ないのだから。

 

「そっか、お兄ちゃんは幸せなんだね」

「ああ、ほんと、自分には不相応だと思えるくらいに」

 

 何故だろう。何故彼を見ているとこうも苛々してしまうのか。

 

「幸せなら、なんで笑わないの?」

「えっ?」

「幸せなんでしょう?楽しいんでしょう?なら、なんで笑わないの?私、今までお兄ちゃんの笑った顔、見たことないよ」

 

 彼は一瞬だけ泣きそうな顔をして、それでも表情を崩さずにこう言った。

 

「幸せだからって楽しいわけじゃないだろ。今はそれほど楽しくはないし、あまり笑うこともないけど、それでも俺は幸せだよ。これは間違いない」

 

 ああ、なんだ、そうか。

 彼は、勘違いをしているのだ。

 彼は楽しまない。

 彼は笑わない。

 普通、人はそれを不幸と呼ぶのだろう。

 しかし、彼はそれを幸福だという。

 彼は根本から間違えている。自分の感情を理解していない。

 だから、彼は幸福を求めない。いや、求める術を知らない。

 故に、彼は幸福になり得ない。

 単純な話だ。地図も持たず、目的地も知らず、ただ闇雲に歩いていつかその場所に辿り着ける、そんなむしのいい話はないだろう。

 彼が求めるのは不幸だけ。痛みだけ。苦しみだけ。

 それを求めて、それを集めて、それを固めて。

 彼は何になるのか。何になりたいのか。

 

「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの夢って何?」

 

 彼は、私が初めて見る、輝くような笑みを浮べてこう言った。

 

「俺はね、正義の味方になりたいんだ」

 

 駄目だ。

 彼は、やっぱり。

 お父様。

 あなたが捨てた子供は。

 あなたが拾った子供は。

 二人とも。二人とも。

 これ以上ないくらい、壊れています。

 お父様。

 これがあなたの望んだものですか。

 これがあなたの理想の具現ですか。

 ならば、私はあなたを軽蔑します。

 もういいわ。あなたのことなんて、もういい。

 今、決めました。

 私がシロウを救います。

 あなたの遺した悪夢から、彼を解き放ってみせる。

 あなたの理想なんて、彼の中にこれっぽっちも残してあげない。

 これが私の復讐。

 あなたの理想を継ぐ者は、この世にはいなくなる。

 あなたの生きた意味なんて、この世には必要ない。

 悔しがりなさい、歯噛みしなさい、エミヤキリツグ。

 

 私があなたを殺します。 

 

 

 イリヤが、突然立ち上がった。

 

「ねえ、お兄ちゃん。今から私のお城に行きましょう?ほら、前に約束したじゃない」

 

 ああ、そういえばそんなことも言ったかな。

 せいぜい二、三日前のことなのに、もう遠い過去のことみたいだ。

 

「駄目だよ、イリヤ。みんなが心配するから、今日は行けない」

 

 そう言うと、イリヤは、嗤った。

 彼女が、今日初めて見せた、無邪気で、同じくらい残酷な、子供だけが浮かべることの出来る、笑みだった。

 

「そう?じゃあ、先にみんなを殺しましょう。そうすれば、シロウは何の心配もなくお城で遊べるものねぇ」

 

 その台詞で、やっと理解した。

 なるほど、最初から選択権なんて、無かったんだ。

 そんな簡単な事を、思い出した。

 

「手」

 

 顔を上げると、そっぽを向きながら、俺のほうに手を差し出すイリヤが、いた。

 

「手、握って」

「駄目だ、さっきそこで転んでさ、どろどろなんだ。イリヤの手を汚しちまう」

 

 俺がそう言うと、彼女はスカートのポケットから、純白のハンカチを取り出した。

 

「お、おい、イリヤ」

 

 いかにも高級そうなそれを、血だらけの俺の手に無造作に巻きつけると、彼女は再びこう言った。

 

「手、握って」

 

 俺は苦笑しながら立ち上がる。

 そして、無言のまま、彼女の手をとった。

 意外なほど暖かかったその手は、俺の手の存在を確かめるみたいに、ぎゅっと握り返してきた。

 少し痛かったけど、それ以上に嬉しかった。

 

「でも、何でシロウだけこんな近くに飛ばされてたの?」

 

 公園の入り口に向かって歩く。

 

「ああ、術式から転移先を読まれたくないってことで、ランダムで飛ばしたみたいだな」

 

 できるだけ、ゆっくりと。彼女の小さな歩幅に合わせるように。

 

「ふーん、でも、空間転移なんて大魔術使ったら、転移先でも強力な魔力の波動が起きるから一発で分かっちゃうのに、無駄なこと考えるんだね、遠坂って」

 

 ……遠坂の呪いって、ほんとに凄いなあ。

 誰が考えたんだろ、ほんと。

 

 

 彼らは、暗い公園の中を、歩いていた。

 手は、しっかりと握られている。

 一人は、兄妹みたいだと思った。

 一人は、姉弟みたいだと思った。

 多分、両方が真実だった。

 公園の入り口には、お辞儀をしながら二人を待つ、白い衣服の従者。

 少年と少女は手を繋ぎ、鋼の戦士は、その二人を守るかのように彼らの後ろにつき従った。

 幸せそうな、後姿。

 彼らの後姿のみを見るならば、それは仲のよい親子にも見えただろうか。



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interval6 IN THE ABOLISHED FACTORY 1

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 まあ、結論としてはさ、結局のところ人間、ていうか動物全部?にとって一番重要なのは、危険察知能力と危機回避能力な訳ですよ。

 こう殴られたらこうかわす、こう攻められたらこう避ける、そんなこと言ってるうちは、護身なんて下の下。危ない奴に近付きそうになったら巨大な門の幻が現れる、最低それくらいにならないと偉いお爺ちゃんも認めてくれないぞ?

 だから、俺には危険察知能力は欠けてたんだろうねえ。生物としての認めがたい欠陥ってやつ?だって、その話を聞いたとき、小躍りしちまったんだもん。

 噂には聞いてたけどさ、まさか俺が誘われるとは夢にも思ってなかったの。イカれた兄貴が自分の妹マワさせて悦に入ってる、そんな与太話、誰だって半信半疑だろ?

 でも、その話はどうやら真実、そしてついにお鉢が俺のところに回ってきたらしい。しかも、その妹ってのが、絶世の美人、具合は最高ってんだから、チェリーのワタクシとしては、お話聞いただけでもおっ勃っちまうわけよ。

 その上、その話を持ってきたのが、自分もパーティーに参加したことがある我が心の友だったんだから、嫌が応にも期待は高まるわけだ、これが。

 会場が街外れの廃工場、発射時刻が深夜だって聞いたときも、別段不思議には思わなかったね。元々は何かの製材所だったらしいけど、取り壊しの工事をするたびに、体中を穴だらけにした変な男女の二人組みの幽霊が出るってんで野晒しになってる場所。噂じゃあ、呪いで死人が出てるとか何とか。

 でもそういう噂ってのは、えてして人払いのための絶好の理由になるわけだよね。だから、有名な心霊スポットってのは俺らみたいにいけない人達の溜り場にもってこい、馬鹿なカップルカムカムエビバデ、ってことになってるの。あんたも肝試しするときとか気をつけたほうがいいぜ?可愛い彼女の前で素っ裸にひん剥かれたくないだろ?あ、あんたはひん剥く側か。

 話を元に戻そうか、閑話休題っていうのかな?

 俺は喜び勇んで会場に行ったね。親友は先に行ってたみたいだけど、心配だったのは、どうか僕が着く前に女を壊さないで下さい、それくらいのもんだ。

 あんなに胸がときめいたのは、小学校の修学旅行の前日の夜以来かな。千円を超える栄養ドリンクを飲んだのだって、初めてだ。いやー、凄いね、あれ。何にも触ってないのに勝手にギンギン。あれなら二十四時間戦えますわ、いやホント。

 でもさ、実際会場に行ってみると、何かおかしいんだよ。

 え?何がおかしいかって?うーん、中々言葉には表しにくいなあ。

 強いて言うなら、雰囲気?あ、間違えるなよ、別に幽霊が云々、って話じゃないからな。自慢するわけじゃないけど、心霊体験ゼロ、霊感もゼロ、年に一回初詣に行けば、まだ神様との交流が深い年になるってくらいの信心者の俺だ。幽霊なんて、ニュートリノの存在くらい信じちゃあいない。

 …ああ、もう、糞ったれ!

 あ、悪い。別にあんたのことじゃねえ。さっきから、ケツが痒いんだよ。

 まあ、なんだ、だからさ、おかしかったのは、もっと別のものなんだよ。

 空気、いや違うな、そう、風だ。

 お、今の格好良かった?真似すんなよ、著作権料頂くぜ?なにせ、この国のそこらへんの団体は、ハイエナよりもがめついって噂だからな。いつあんたのところに請求書が届けられるか分かったもんじゃあない。油断はしないに限るってもんだ。

 …分かったよ。悪かった、話を先に進めるよ。そんなにがっつくなよな、焦る男はみっともないって言うぜ?童貞の俺が言うのもなんだけどさ。

 ま、つまりおかしかったのは雰囲気なんかじゃなくて、風とか空気とか、もっと具体的なもんだったんだ。あの時はわからなかったけど、今なら分かる。

 静か過ぎたんだ。

 だいたい、お日様に顔向けできるような健全な集まりじゃなかったからさ、ドンチャン騒ぎ、ってのも変な話だ。

 でも、噂じゃあこのパーティーに参加する人数は、両手両足の指の数を超えるらしい、そんな話を聞いてたからさ。まさか一人の女がそれだけの相手を出来るわけねえから、きっとどっかから攫ってきた女もお仲間にしてあげるんだろ、その程度にしか考えてなかった。

 だから、おかしかったんだ。

 予定の時間は過ぎてる。ひょっとしたら女は虫の息で、おこぼれに与れる程度になるかもしれない、そんな絶望的なことを考えながら工場に入ったらさ、何の音もしねえんだ。女の悲鳴も、馬鹿な男が囃し立てる声も、下卑た笑い声も。

 しーん、とさ、耳が痛いくらいに静かだったんだ。

 人間ってやつはさ、自分の想定してたことと違うことが起きると、どうも落ち着かなくなるんだね。

 声も出なかったよ。

 おーい、誰かいませんかぁ、そんな恥ずかしいことも口に出せなくなるくらい、俺は焦ってた。心臓なんてバクバク、クソ寒いのに、汗だって滲みやがる。

 嫌な予感が、じわじわ広がってきた。透明な水に醤油を垂らしたみたいな感じかな。だんだんとモヤモヤが広がってきて、少しずつ何かが黒くなっていく、そんな感じ。

 流石に帰ろう、そう思ったとき、妙にくぐもった声が聞こえたんだ。

 女の声だった。

 お。やってるじゃん。

 今までの焦りが嘘みたいに、体が軽くなった。そうすると不思議なもんでな、血が下半身に集中するんだ。要するに、戦闘準備完了、どっからでもかかって来い、そんな状態だね。

 喜び勇んで奥のほうに歩いたよ。

 そしたらさ、段々声が大きくなってくるの。しかも、獣みたいな喘ぎ声。ああ、きっと好きものな女なんだな、単純にそう考えて、嬉しくなったよ。だって、流石に初めては泣き叫ぶ女を犯したくはないだろう?変な趣味に目覚めちゃったら、俺の今後の人生が心配だ。

 せいぜい楽しませてやろう、そう思ったね。そりゃあテクなんてあったもんじゃないけど、若さと回復力ならピカいち、絶対にひいひい言わせてやる、硬い決意と共に奥の部屋を覗いたらさ。

 

 なんか、ころがってんの。…ああ、ホント痒いなあ。

 

 最初見たときは、芋虫?そう思ったかな。

 でも、それにしちゃあ大きい。デッサンが狂った?そう思わせるくらいに大きかった。例えれば、今の俺やあんたくらい。つまり、人間と同じくらいに大きかったんだ。

 それがさ、うんうん唸ってるわけよ。へえ、芋虫も人間くらい大きくなれば声を出せるんだ。そんな馬鹿なことを考えながら、俺は必死に女を探した。

 そう、必死だったね。

 だって、女がいなきゃおかしいだろ?人間みたいな芋虫、いや、自分を誤魔化すのはやめようか、芋虫みたいに手足を失った人間が、三桁を超える数、呻きながら這いずってんだ。もし、これで女がいなけりゃ、状況は最悪だ。間違いなく、この祭りの見世物は、俺達誘われた側ってことになるからな。

 声がしたのは、その時だ。

 後ろから、冷たい、でもどこか安心する、妙に懐かしい声が聞こえたんだ。

 

「あら、まだいたのですね」

 

 女が、いたよ。

 綺麗な女だったなあ。

 ぱっと見て、わかったよ。こいつが、今回の獲物だって。

 だって、我が心の友に、事前に写メを見せてもらってたからな。

 確か、前回のパーティーのときのだって言ってたっけ。

 それが、いい女だったんだよ。だから今回来る気になったってのもあるぜ。

 でも、実際に見ると、もっといい女だった。

 親友の写メなんかよりも、遥かにいい女だった。写メで期待して実物でがっかり、そんな女、山ほどいるけどさ、その逆は中々珍しいぜ、きっと。

 まあ、それも仕方ないと言えば仕方ないんだけどな。

 だって、あの写メの表情ときたら、まるで人形みたいでな。確かにきれかったけど、まるで人形みたいだった。精液やら唾液やらでどろどろに汚れた顔で、薄ぼんやりとカメラを見てるんだ。手はピースサインなんか作らされちゃってさ。どんだけ出したんだよお前、そう言って笑い転げたのが懐かしいね、全く。

 それに比べれば、笑ってるあの女が、どれだけ綺麗だったか。可愛い、とかじゃねえんだ。綺麗なんだよ。美しいんだ。

 一瞬、何もかも忘れてむしゃぶりつきたくなる位に、いい女だった。

 でも、それが出来なかったんだ。

 だって、おかしいじゃねえか。

 本当なら、今回の獲物も、この女のはずだ。

 それが、何でここにいる?

 しかも、服だって着てるし、連中に遊んでもらった様子も見当たらない。

 それどころか、脅えた様子も、憤った様子も見せずに、ただただ笑ってるんだ。

 底冷えのするような、切れるような笑みでな。

 俺は理解したね。

 こいつは、ヤバイ。こいつが親玉だ。そう思ったよ。

 写メなんかじゃあわからなかったけど、こいつは本当にヤバイ奴だ。俺はそう確信した。

 さっきも言ったけどさ、生き物にとって一番重要なのは、危険察知能力と危機回避能力だ。これは間違いないと思う。

 そのうち、危機回避能力には自信があるんだ、俺。まあ、人間相手限定だけどな。

 親にも先生にも友達にも先輩にも褒められたぜ、『お前は嘘が上手い』ってな。

 嘘泣き、作り笑い、相手に合わせて憤慨して見せること、どれも俺の得意技だ。ダチにゃあ笑われたけどさ、言葉さえ通じるなら神様だって騙して通してみせる、俺は本気でそう思ってるんだ。

 結局、いきなり問答無用で殴りかかってくる人間ってのはほとんどいないからな、穏便かどうかは置いといて、普通はまず話し合いだ。とりあえず、そこで他人に罪を擦り付ける。それから、俺も被害者だと同情を買う。とどめに、相手の境遇に共感してみせる。一回だけヤクザの事務所に連れてかれた事もあるけど、最後は『困ったことがあればいつでも来い、面倒見てやる』とまで言わせたんだ。

 だから、その時だって、俺の舌はフル回転だ。間違いなく、今までで一番調子が良かった。

 曰く、今夜ここで、口に出すのも忌まわしいような趣旨の集まりがあると聞いた。

 曰く、親友が人の道を踏み外しかかっているのを諌めに来た。

 曰く、か弱い女性が犠牲になっているのを助けたかった。

 曰く、携帯電話の電波が入らなくて、警察に通報は出来なかった。

 曰く、だから僕一人で助けようとした。

 あ、お前笑ったな?確かにこうして並べると歯が浮きそうになるくらいくだらねえ理由ばっかりだがよ、臨場感ってもんが一番重要なんだよ、実際は。

 まあ、携帯云々は嘘なんだが、本気で確かめる奴なんてほとんどいないし、万が一確認されたってすっ呆けりゃあいい。そこらへんの誤魔化しは得意中の得意だからな。

 こう見えて、ほら、俺って見た目が真面目だろ?そこらへんは計算してんのよ。やっぱり、見た目から悪な奴って損してるぜ。就職活動とかと一緒なんだろうな、多分。人間、見た目が一番だ。

 だからさ、女は最初のうちは訝しそうに俺を見てたんだけど、そのうち表情が真剣になってきてな、しまいにゃあ、涙だって流し始めたんだ。『ああ、貴方は何と立派な人なのでしょうか』、そこまで言わせたんだ。

 勝った、俺は思ったね。

 そこで這いずってた芋虫達に、唾の一つでも浴びせたくなったよ。後ろに握った手で秘かにガッツポーズだって決めた。

 間違いなく、人生で最高の瞬間だったぜ。

 幸せってのには二種類あるらしくてさ。一つが、何かを得た幸せ、つまりゼロからプラスへの幸せだな。もう一つが、何かを回避できたときの幸せ。これはマイナスからゼロへの幸せだ。

 さっきまでの状況は、間違いなく致命的だったからな。そこからの生還、マイナス一億万からのゼロだ。今夜の趣旨とは違うところで射精しかけたぜ、マジな話。

 さてどうするか、俺はそう思った。女は涙を流し続けてるし、足元にゃあ人間止めちまった芋虫がごろごろ転がってる。ま、さっさと退散して今夜のことは忘れるのが一番だわな。

 それじゃあまた会いましょう、そんな台詞を吐く訳にもいかないからさ、俺は無言で後ろを向いたんだ。決して急いじゃいけない。何せ、俺は女と親友を助けに来た正義の味方だからな、あくまで堂々と立ち去らないと怪しまれる。

 その時、女は笑ってたよ、

 さっきまでの笑いじゃあない。本当に優しい、母親みたいな笑みだ。

 それで、なんて言ったと思う?

 涙まで流して褒め称えた相手に、何て言ったと思う?

 

「でも、ついでですから」

 

 やっぱり笑いながら、そう言いやがったんだ。

 ちくり、と何かに刺されたことは覚えてる。そんで、今はこの様、そういう訳だよ。

 結局のところ、俺達は化け物に捕まっちまったんだろうな。

 アレは、間違いなく化けもんだ。

 あいつは、間違いなく俺の話を信じてた。そこらへんの機微には敏感だからな、これは間違いない。

 だから、あいつは、本気で自分が立派だと思った奴を、本当に『ついで』に捕まえたんだ。何のためかは知らねえが、な。きっと、俺の変わりに生まれたての赤ん坊がいたとしても、あいつは同じ事を言ってたよ。

 これで、俺の話は終わりだ。次はあんたの番だぜ?せいぜい楽しい話を聞かせてくれよ。

 あ、っと、その前に一つ頼まれてくれるかい?

 実はさっきから、ケツが痒くて痒くてさあ、どうしようもないんだよ。初対面のあんたに頼むのも悪いとは思うんだけど、ちょっとだけ掻いてくれないか。痒くて痒くて気が狂いそうなんだ。

 え?

 馬鹿、自分で掻けないから頼んでんだろ。それくらい察しろ、ぼけ。手足が無いのに、どうやってケツを掻いたらいいんだよ?

 ……ああ、そうか。あんたも、もう外されちゃってんだな。こりゃあ悪い事言った、許してくれ。

 じゃあ、仕方ないか。どうせ後少しだ、我慢するよ。

 あ?気付いてないのか?さっきから、芋虫の数が減ってきてるだろ?

 一匹一匹、奥の部屋に引きずり込まれてんのさ。そうだ、あの、獣みたいな喘ぎ声のする部屋さ。しゅうしゅう、蛇みたいな鳴き声のする、あの部屋だよ。ついさっき、俺の心の友も、泣き叫びながら引きずり込まれていったぜ。そして、誰も出てこない。つまり、あそこが俺達の人生の終着点、そういうわけだな。

 まあいいじゃねえか。どうせこんな手足じゃあ、生き延びたところでロクな人生が待ってるわけでもなし。ここで化け物の胃に靠れてやる、ってのも一興、そうは思わねえか?

 ……へえへえ、さいですか。まあ、価値観なんて人それぞれだからねえ。

 とりあえず。俺は痒くて堪らねえからさ、さっさとお呼びがかかるのを待ってるんだ。

 だから、それまでの退屈しのぎだ。

 お前が、一体どういう経緯でこのパーティーに参加する羽目になったのか、教えてくれよ。こっちは一から十まで話したんだ。お前も話すのが、平等ってもんじゃねえか?

 

 

 素敵な夜だった。

 暖かくて、何より静か。

 耳を澄ましても、虫の鳴き声も聞こえない。車のエンジン音すら聞こえない程深い静寂は、街中の喧騒に慣れたこの耳には、あまりに過ぎた贅沢な気がしてならない。

 そして、美しい。

 光の柱が、天より降り注いでいる。

 無論、そう見えるだけだ。

 所々穴が開いて、今まで崩れ落ちなかったことが不思議なほどに痛んだ天井。そして、その穴を通って地に届く月光。それが部屋に充満した埃に反射して、きらきらと輝いて見えるのだ。

 月の光は、優しい。

 おそらく、それは死んだ光だからだろうか。

 陽光は、岩石だらけの天体と衝突して、拉げて死ぬのだ。だから、この光には覇気がない。

 ゆっくりと、眠るように目を閉じる。

 この光は、いつまで私を受け入れてくれるのだろうか。出来るだけ長く続けばいいのに。

 日の光は、どうやら私が御気に召さないらしい。

 遠からず、私は陽光の下を歩くことが出来なくなるだろう。

 それが苦しいとは思わないが、少しもったいないと思った。

 それでも、もともと日の光と縁深い生活を送ってきたわけでもない。だから、それと距離を置くこと自体、何の痛痒も感じない。

 ただ、今まで一度も海水浴に行ったことがなかった。

 一度、行きたかったと思う。

 気の置けない友人と一緒に、燦燦たる太陽のもとではしゃぎまわることができれば、それは何と幸福にまみれた光景であるだろう。

 そんな、在り得ない情景を、夢想する。

 夢想するだけなら、自由だ。

 良かった。

 私にも、それくらいの自由は、あるらしい。

 

「……た、たすけて……」

 

 彼は、そういった機会に恵まれたことがあるのだろうか。

 友人と遊び、笑い、さんざめくような毎日を過ごしたことがあったのだろうか。

 そうなら、幸せだ。

 そうでないなら、なんと痛ましい。

 彼は、いつもあの表情だった。

 何かに憑かれたような、必死の表情。私には、それがこの上なく痛ましかった。

 だが、今は分かる。

 彼が、果たして何に憑かれていたのか、はっきりと分かる。

 ならば、話は簡単だ。

 祓い落とせばいい。

 穢れは、ゆらゆらと祓い落とせばいいのだ。

 彼の美しい瞳を歪める、あの禍々しい光。その悉くを、私は祓ってみせよう。

 

「……あんたの言うとおりにした!何もかも、あんたの言うとおりにしたじゃないか!」

 

 目的さえ定まったならば、手段は無限だ。

 そして、最も確実性の高い手段が、私の目の前に転がっている。

 簡単なことだ。

 因が変われば、自ずと果も変化せざるを得ない。

 それが最も簡単で、確実な手段だ。

 そして、それを叶える奇跡は、目の前にある。

 それを手にすること自体、さしたる労力を伴うものではないだろう。事態がこのまま推移してくれるならば、如何にも容易い。

 問題は、その過程に彼が如何様に関わってくるか、である。

 目的と手段がすり替わるような愚かがあってはならない。そのことは強く自戒せねばなるまい。

 しかし、目的のためならば、多少の犠牲はつきものだ。

 恐れることがあってはならない。

 世界は、変貌する。

 蝶が舞うことによって嵐が起きるように、この世界は待ったく別の方向性を持つに至るだろう。

 ならば、この世界における彼の苦痛など、如何程の価値があろうか。

 彼は、救われる。

 大事の前の小事である。

 躊躇は、するな。

 

「……オンナがいるんだよう。たのむよ、ころさないでくれ……。人なら、またあつめるから……」

 

 それにしても、お行儀が良くなったものだ、と思う。

 体育倉庫のミイラを片すのには、少なからず辟易とさせられた。

 今回も同じ、いや、倍加した食事の量と比例するだけの労働が必要と思うと憂鬱だったが、杞憂に終わったようだ。

 今の彼女は、食事の包み紙も残さずに食べてくれている。これであれば、例えば食料に自らを埋める穴を掘らせる等の手間も省けた。

 無駄な労力は省くに如かず、だ。

 さて、となれば少し時間が出来てしまったか。

 外はいい天気だ。

 月が無ければなお良かったのかもしれないが、それでもいい天気である。

 

「少し、歩きましょうか、アサシン」

 

 私が差し出した手を、彼は無言で握った。

 

「行かないでくれ!た、たすけ、たすけて!おねがいだか……!」

 

 ごつり、と音がした。

 黒々とした鱗が、月の光に照らされて、てらてらと、濡れたように輝いていた。

 それは、歪に捻じ曲がった己の食料にぐるりと巻きついて、ニヤニヤと笑っていた。

 

「ああ、御粗末さまでした、ライダー。味も量も物足りなかったかもしれませんが、今はこれで我慢しておいてください」

 

 それにしても、と思う。

 何故、彼女は私を喰らわないのだろうか。

 既に、令呪は、無い。

 

『私が指令を下すまで、自衛以外、独断で動くことを禁じる』

『衛宮士郎を殺すな。そして、彼を殺そうとする者を、絶対的に排除しろ』

『消えて戻れ、ライダー』

 

 故に、今の彼女を縛る鎖は、存在しない。

 最初の命令の影響が残っているのかもしれないが、それにしても今の彼女を縛り付けるだけの効力があるとは到底思えない。

 そして、彼我の力の差は明らかだ。彼女がほんの少し身を捩っただけで、小虫が如きこの身など、すり潰されてしまうだろう。

 真実など、分からない。

 しかし、想像はできる。

 彼女は、私を恨んでいる。

 早々に楽にさせるのが許し難いほど、恨んでいる。

 だから、今は喰らわないのだ。

 せいぜい調子をつけさせ、勝ち残らせ、美味しく太ったところを、ぱくりと平らげるつもりなのだろう。

 望むところだ。

 彼女には、その資格がある。

 だが、私には目的がある。

 容易く喰われてやるわけには、いかない。

 最高なのは、化け物どもが喰い合って、共倒れになってくれることなのだろうが、それは流石に高望みというもの。最後は、私自身の手で決着をつけなければならないだろう。

 そんなことを考えていると、しゅうしゅうと、安らかな寝息が聞こえてきた。

 黒い、うねうねした物体が、己の巨大さを誇示するかのように、眠っていた。腹を満たせば眠くなる、あらゆる生物に共通する欲求は、この怪物にも当てはまるのだろうか。

 私は、無限に広がる闇に向かって言伝た。

 

「お父様、少し外に出ます。三十分程で戻りますので」

 

 返答は、無かった。

 暗やみの中に立ち尽くす、人の影だけが、あった。

 私は、苦笑した。

 全く、返答の無いことなど、とっくに理解していたはずなのに。

 

「さあ、行きましょう、アサシン」

「御意」

 

 私達は、手を繋いだまま、歩いた。

 ごとり、と、何かが転がる音が、背後で響いた。彼女が寝返りでもうったのだろうか。

 外は、満月かと勘違いするほど、明るかった。

 空を見上げる。

 そこには、分不相応に輝く月。

 十三夜月というのだろうか、それにしては少し欠け過ぎている気もする。上弦の月との中間位かも知れない。いずれにせよ、もう少ししたら満月なのだろう。

 それを見上げながら、私は思わず呟いた。

 

「良い、夢を」

「……何か言ったか、主よ」

「いえ、何でもありません」

 

 それは、誰に向けた、祈りだったのか。

 堕ちた女神を憐れんだのか、彼の不孝を嘆いたのか。それとも――。

 まあ、いいだろう。

 気紛れは、楽しい。

 だからこそ、この散歩も、きっと楽しいものになるだろう。

 

「アサシン」

「……何だ」

 

 彼が、その手に少し力を込めたようだ。

 少し、痛い。

 しかし、その痛みが心地いい。

 

「何でもありません」

 

 彼の歩調が、少し乱れた。

 呆れた、のかもしれない。

 とても楽しい、そう思った。

 いつまでも、続けばいいのに。

 そう、可能性がゼロのことを、強く願った。

 



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interval7 Humpty Dumpty had a great fall.

interval7 Humpty Dumpty had a great fall.

 

 少女の後姿を見送った後、神父は秘かに溜息を吐いた。

 失望したわけではない。疲れたわけでもない。

 ならば、何ゆえ。

 そう問われても、彼は答える事が出来ただろうか。

 行き詰っているわけではない。今だ一騎の脱落もないこの状況、前回に比べればやや遅々とした進行具合ではあるものの、このように押し留められたエネルギーは得てして急激な加速をもって全てを飲み込んでいくものだ。あたかも、霏々たる豪雨に育てられた大河が街を飲み込んでいくように。

 焦ってはいけない。

 焦って流れを曲げようとすれば、その流れに飲み込まれるのがオチである。

 だから、彼は悠々としたものだ。

 その表情には、相も変わらず底の深い微笑が湛えられている。

 悠々と構えながら、悠々と次のカードを切っていく。

 当面、彼の手駒は一騎。局面が推移すれば奥の手も動かすだろうが、今のところその必要も見当たらない。

 そもそも、彼はこの大儀式のゲームマスターである。彼の意向一つで、特定の陣営に有利に取り計らうことなど、造作もない。

 しかし、彼はそれをしない。

 彼がするのは、こうなってくれればいい、こうなるにこしたことはない、そういった、酷く主体性の薄い働きかけのみ。

 だが、それでいいのだ。

 この大儀式に、己が如き小さき身の付け入る余地はない、彼はそう確信している。

 自分がするべきことは、見極めること。そして、流れを加速させること。彼は、そう確信している。

 彼が為すのは、そのための一手。強固なダムに蟻の一穴を穿とうとするようなもの。その行為によって彼は何ら恩恵を蒙らないし、特定の誰かを利することもない。

 強いて言うならば、強き者をこそ利することになるか。何故なら、激流は弱き者のみを洗い流し、真なる強者を浮かび上がらせるからだ。

 そうして、真に聖杯に相応しい者を見極める。それが彼に課せられた役割であり、今の彼の望みである。

 しかし、誰も相応しい者が現れなかったならば――。

 

「茶番は終わったか」

 

 扉の前で立ち尽くす彼の背後から、いかにも退屈に倦んだ声が、聞こえた。

 不思議な声だった。

 内容は平凡、特段意匠を凝らした文法を使っているわけでもない。

 それでも、心に残る。

 いつの間にか、その声が頭の中で繰り返されている。

 忘れ難い。

 そして、理屈抜きで首肯してしまう。

 そんな、声だった。

 

「旧約聖書において、カインは、神の愛を一身に受けたアベルを嫉妬して、その身に許されざる罪を刻んだ。故に、神は彼をお許しにならなかった。では、カインがアベルを殺したのが、真に神を慮ってのことであったとしたならば、果たして神は彼を罰しただろうか?」

 

 金髪紅眼のその男は、神の偶像の前に置かれた机の上に、無作法に腰掛けた。その手には、赤々と輝く、少し小振りな林檎が握られていた。

 彼は、心底楽しそうに笑った。

 

「さて、どうであろうな。その神とやらが下した罰、その定義によるのではないか?何せ、狂信者どもの想像力の翼は、疲れるということを知らない。頬を叩かれても、両の目を潰されても、神が下したものならば、奴らはそれをこそ救いだと曰うだろうからな」

 

 くつくつと、笑い声。

 諧謔に塗れたその言葉の中に、神父は一握りの憎悪を見出した。

 彼の正体、そしてその神話を知るものならば、彼が如何程に神と呼ばれる存在を疎んでいるか、明らかであろう。

 その彼が、神の僕たる自分に形式とはいえ従っているという事実。その皮肉な巡り合わせに、神父は苦笑した。

 

「貴様の言うことは、悉く正しい。神の行為は、必ず正しい意味を持つ。如何に醜悪な行為であろうと、神が行うならばそれは輝かしい救済に変貌する。故に、私は思うのだ。神は最初から、カインをお許しになるつもりなど、無かったと」

 

 神父は、まるで込み上げる涙を堪えるかのように、上を向いた。

 まかり間違っても彼の瞳から涙が零れるなど在り得ることではないが、その背中には一抹の悲しさが、存在した。

 

「神が真に絶対であるならば、その創造物たるカインが兄弟であるアベルに対して醜い嫉妬を覚えるなど、在りうべき事ではない。つまり、カインは最初からそう神に望まれて生まれたのだ。しかし、そこには深刻な矛盾が存在する。神がカインをそうあるように御造りになられたとするならば、神はカインを罰するためにお生みになったことになる。そんな、命を弄ぶようなことを、果たして神は楽しまれるのか」

「神が無能なだけだ。それ以外の解答があるならば、教えてもらいたいものだな」

 

 無慈悲とも思える男の言葉に、しかし神父は初めて破顔した。

 そして、そのまま振り返らず、こう言った。

 

「貴様の言うとおりだ、ギルガメッシュ。神は無能であり、世界は矛盾に満ち溢れている。しかし、だからこそ、神は絶対であり、世界はこの上ない調和を謳歌している。私は、そう確信しているよ」

「くだらん」

 

 男は、軽く頭を振った。

 男は、神父を認めている。あくまで、一種の道化として、ではあるが。そうでなくては、彼ほど気高い存在が、如何に形式とはいえ人の下風に立つものか。

 彼は、その繊細な白い手で、真っ赤な林檎を弄びながら嘯いた。

 

「矛盾をあるがまま受け入れられぬから、くだらぬ理屈を捏ね繰り回す破目に陥るのだ。言峰、貴様はまだ目が覚めぬか。曇りを振り払って見るがいい。世界はこの上なく滑稽で自由で、そして輝かしい。それこそ、神などという概念など立ち入る隙など無いがごとく、な」

 

 第四次聖杯戦争。

 そこで、彼は神父の蒙を啓いた。

 彼は、己が当然と思うままに振る舞い、それを指し示しただけだ。

 しかし、そのことが神父にとって、どれほどの救いだったか、彼は果たして知り得るのだろうか。

 美よりも醜を嗜好する思考。

 他者の幸福よりも、不孝をこそ志向する思考。

 その呪われた思考は、罪だと思った。

 罪ならば、償えるはずだ。許し給う存在が、この世ならぬどこかにいるはずだ。

 そう、思った。

 しかし、如何に信仰に帰依しようと、罪が許されることは無かった。

 絶望した。

 罪人は、永遠に罪人でしかないのかと。

 問うた。

 神に、父に、妻に、師に、酒に、あらゆる存在に。

 その回答、あらゆるものの答えは千差万別でありながら、しかし結論は一つであった。

 曰く、言峰綺礼は、罪人である、と。

 あらゆる理屈が、その理窟を抜きにして、そう弾劾していた。

 故に、彼は絶望したのだ。

 そして、彼らは出会った。

 それを、救済と呼べるか否か。

 少なくとも、その神父にとってはこの上ない救済であった。

 思えば、その瞬間にこそ、彼は真たる意味で神に帰依したのかも知れない。

 己を悪として生みながら、しかしその救いを確約していた神に、彼は心打たれたのだ。

 悪であれ、と。

 悪であってよい、と。

 彼は、悪としての存在を確約された上で、その生を祝福されたのだ。ならば、その存在は神の御心に適わぬものである筈がない。例え、その生の終着点としての罰があろうと、存在を認められた喜びは他の何とも代え難かった。

 未だに、疑問に思うことは数多く、煩悶することは限りない。

 それでも、彼は救われた。彼の背後で林檎を弄ぶ男と、その敵たる神に。

 

「カインコンプレックスを持つ妹が、今の父たる愛しき人を守るために人を殺めるとき、果たして彼女は愛を言い訳とするか、それとも憎を言い訳とするか、興味は無いか、ギルガメッシュ」

 

 神父の背後で、男が林檎を齧る、硬い音が響いた。

 それをどこか遠くで聞きながら、神父は続ける。

 

「神話では、憎を理由とした殺人を、神は許さなかった。しかし、愛を理由としたとしても、おそらく神は許しえなかっただろう。何故なら、神は真に絶対である、そう定義されるからだ。もとから許されざる存在として創造したカインを、神は決して許さない」

 

 神父は、ようやく振り返った。

 彼の視界には、尊大に足を組みながら、神の偶像の前に鎮座する男が、いた。

 

「私は貴様に感謝しているのだ。おかげで、こうも甘美な苦悩を味わうことができる」

「やや興醒めだな」

 

 男は、芯だけになって痩せ細った林檎を、まるでそこが屑篭であるかのように、神の家の床に放り投げた。

 神父は、さして気分を害したふうではない。この空間では、それが日常であるのかもしれなかった。

 

「配役には威厳が欠け、主題は陳腐だ。我の興味を引くには、些か重厚さに難あり、だ」

 

 男は勢いをつけて机から飛び降りると、振り向いた神父の横を通り過ぎて扉へと向かった。

 

「どこへ行く」

「決まっている。この退屈なボレロを、少しは興のあるものに変えに行くのだ。同じ楽器の独奏が続いては、名曲も駄曲に堕ちようというもの。とりあえずは、この興行にいらぬ腐臭を加える、紛い物の器を処分する」

 

「許さんぞ、ギルガメッシュ」

 

 その声は、隠し切れない怒りによって彩られていた。

 男は、その表情には露程も表さなかったが、内心で耳を疑った。

 神父は、明らかに怒っていた。

 彼が、ここまで感情を表に出すのは、間々あることではない。

 そういえば、あの濁った器とこの男は知り合いであったか。

 ならば――。

 

「器に情でも移ったか、言峰」

 

 嘲りの込められた、死刑執行宣言。

 しかし、神父の顔色には微塵の恐れも無い。

 

「冬木の聖杯戦争、その賞品としての聖杯は、いわゆる神の血を受けた遺物ではない。しかし、それが聖杯を呼ばれる以上、そこには相応の価値が生じる。そして、貴様が紛い物と呼んだ聖杯、あれほど聖杯としての価値が高いものは、この世に存在し得ない」

「……どういうことだ」

「あれは、神の卵だ」

 

 神父は、それだけを言うと、男を無視して奥の小部屋に歩き出した。もう会話は終わった、その背中がそう言っていた。

 

「なるほど、貴様がアレに執心していることはよくわかった。しかし、真贋を見極めるのは我の目が行う。我の目に適わなかったならば、その時は――」

 

 かつかつ、と硬い靴底が床を叩く。

 神父は、無言。

 そして、その無言は肯定だ。

 男は、やはりくつくつと、低い声で、嗤った。

 

 

 神父は、己の個室の扉を後ろでに閉めると、深く深く溜息を吐いた。

 部屋の片隅に置かれたアンティーク調のキャビネットから、出来るだけ度数の高いブランデーを選んで、我が子のように抱きながらソファに身を沈める。

 寒々とした石造りの室内、そこに置かれた、場違いのように豪奢なソファ。それは深々と柔らかく、彼の堂々たる体躯と精神を包んだ。

 そして、彼は己の内側に、深く深く埋没していった。

 

 ――何故、私は溜息を吐くのか。

 ――疲れているわけではない。

 ――確かに穂群原学園の事後処理は困難を極めたが、実際に困難に直面したのは私ではない。 

 ――だから、私は疲れているわけではない。

 ――ならば、何故。

 

 懊悩と呼べるほどのことではない。

 自己分析、只の暇潰しだ。

 そのまま、彼は、少し眠った。

 そして、目が覚めたとき、嗤い始めた。

 彼には珍しく、声を上げながら。

 

 何のことは無かった。

 つまり、これは慶びの溜息だったのだ。

 失望を顕すものでもなければ疲労を撒き散らすものでもない。

 ただ、己の興奮を抑えるための安全弁。

 今にも悦びで悶え狂いそうになる己の体躯を静めるための、冷却水。

 彼は、そのことに気付いたのだ。

 いや、そもそも、彼はそのことを誰よりも知っていた。

 己が罪深いことを、誰よりも知っていた。

 そして、父なる神は、救いのない罪人をこそもっとも強く愛されているのだと、そのことを誰よりも深く確信していた。

 神は、今の私を見て、何と仰せになるのだろうか。

 絶望に嘆くか、歓喜に身を震わせるか、その罪深さに激怒するか。

 いずれにせよ、神をここに招くならば、もう少し調度には気を使うべきかも知れない。

 そんなことを考えながら、神父は少し身を起こした。

 テーブルに置かれた、栓の開いたブランデーのボトル。

 彼は、まるで場末の酒場で若者がするかのように、それを直接呷った。

 数回、砂漠の旅人が水を飲むかのように大きく嚥下して、酒精に塗れた満足の吐息を吐き出す。

 口の端を法衣の袖で拭い、そこにできた小さな染みを眺める。

 その濁った色に対して、清廉な笑みを浮かべつつ、彼は心の最奥にて十字を切った。

 神は、彼の心の中で、鷹揚に頷いた。

 



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episode51 ローレライの城

 ひとをころしてしまいました。

 

 少女は蚊の鳴くような声で、そう告げた。

 

 たくさんたくさんころしてしまいました。

 

 彼女がそう言うから、私はこう答えた。

 

「それがどうしたというのです。そも、あれは人ではない」

 

 人だったものでしょう、と。

 窓の外の木々が微風に揺れる。雲の間から漏れる僅かな陽光を反射したそれらは、海面のようにきらきら光っている。

 

 でも、ひとのかたちをしたものです。それがくるしんでいました。わたしはひとをころしたのです。

 

 彼女の表情はひどく虚ろだ。瞳は鏡のよう。像を結んではいるが、きっと何も認識していない。

 

「後悔しているのですか」

 

 ここに来たことを。私の庇護のもとに置かれたことを。

 少しだけ開け放った窓から、暖かい風と一緒に一匹の蝶が舞い込んできた。この蝶の名前はなんだったか。

 

 こうかいができないのです。そして、そのことがいちばんつらい。

 

 後悔。

 馬鹿らしい感情だ。

 何故なら、後悔という単語が意味するのは、常に過去だからだ。

 あの時ああすれば良かった。あれは私のせいだ。そんな考えは現在から過去への責任転嫁か、過剰な自己憐憫、或いは自己への過大評価に過ぎない。

 結局、人間は自分の能力以上のことは出来ないのだから、例え過去に戻ってやり直すことが出来たとしても、同じような結果の大量生産にしかならないだろう。ならば後悔という単語には何の意味もないことになる。

 

「それは素晴らしいことではないですか」

 

 反省ならばいい。反省は、現在の自分に対する戒めとなり、成長の糧となるからだ。来し方になんの意味がある。大事なのは積み上げられた自己であり、これから歩む道なのだ。

 

 あなたは、ごじぶんのせかいをしはいしているのですね。

 

 少女の表情は変わらない。この部屋に入った時から。いや、私が彼女と初めて出会ったときから。

 鉛の仮面でも被ったかのように、陰気で堅牢だ。

 それは、私のお気に入りの表情だ。

 

「当たり前です。私に限らず、人は必ず自分の世界を持っている。それを持たないなら、それは人ではなく獣でしょう」

 

 いや、獣ですら己の世界は備えているのか。

 

「今、この部屋にいるのは私と貴方ではなく、私が認識する貴方と、私が認識する私です。これは私の世界。貴方にとっては、貴方が認識する私と、貴方が認識する貴方がいるだけ。これは貴方の世界。ほら、本当の貴方も私も存在しない」

 

 故に、この世に存在するのは、巨大な、化物みたいな存在としての唯一の世界ではなくて、無数に存在する、それこそ塵芥のような矮小な世界だけなのだ。そして、それらの小さな世界が互いに大きさを比べあっている。

 

「世界の中では、自己が唯一の支配者であり奴隷、観察者にして実験動物です。なぜなら、それらを認識することができるのは自己のみだから」

 

 例え、他者に生殺与奪の権利を握られた奴隷であっても、自己の世界に対する認識を他者に委ねることはできない。奴隷が自己を哀れもうが蔑もうが、結局のところそれらの感情は己の内から来たものであり、他者が認識できるものではない。他者がそれらを認識できない以上、それを支配することなどできるはずもないではないか。

 そういう意味では、人は自分の世界を支配しているのではない。支配せざるを得ないのだ。

 

「貴方も間違いなく、ご自分の世界を支配しています」

 

 その言葉に彼女は。

 

 いいえ、わたしはじぶんのせかいなどもってはいません。わたしにあるのは、わたしたちのせかいだけ。

 

 窓が、がたがたと揺れた。少し風が強くなってきたようだ。雲も出てきた。一雨来るのかもしれない。

 

「それは承知しています。それでも、あなたは、今この場にいる貴方は<貴方達>ではない以上、自分の世界があるはずだ」

 

 その言葉に彼女は。

 

 むかしはそうでした。いまはそうではありません。

 

 自嘲に片頬を歪めながら、そう答えた。

 陽が翳りだした。厚い雲が空を覆う。今にも泣き出しそうだ。

 窓を通して空を見上げながら、私は思う。まるで、目の前の女性のようではないか、と。

 

 わたしは、わたしたちのなかでいちばんおおきかった、ゆえに、わたしたちのせかいは、わたしだった。でも、いま、いちばんおおきいのはわたしではない。かれなのです。わたしのせかいはかれのせかい。わたしにゆいいつのせかいはありません。だから

 

 後悔することが出来ないのか。己が己でないから。世界が過去を憶えていないから。

 

 めのまえに、たくさんのしたいがころがっていました。でも、それはわたしがころしたものではないのです。はたして、わたしはだれにしゃざいすればよいのでしょうか。

 

 ぽつぽつと、雨粒が窓硝子を叩き始める。

 それに、と少女は続ける。

 

 わたしのせかいは、わたしにやさしくないのです。

 

 きっと今日は嵐だ、私はそう思った。

 

episode51 ローレライの城

 

 ほんの僅かの寒気と、瞼を焼く曙光によって、目が覚めた。

 信じられないほど柔らかく、それでいて決して寝苦しくないベッド。我が家の煎餅布団とは、それを構成する原子の種類からして根本的に異なっているのではないか、そう思わざるを得ない。

 そして、羽毛のように軽く、しかし寝袋よりも遥かに暖かい、掛け布団。

 このセットだけで、一体どれだけの数のゼロがつくのか、などと小市民的なことを考えてしまう。

 ぐるり、と身を捩る。

 天井は、衛宮邸の倍近く高かった。

 壁は清潔な白によって彩られ、その端々に、上品な装飾が施されている。

 いわゆる、嫌味な成金的貴族趣味ではない。

 こうあるのが当然、そういわんばかりの佇まい。偉そうなことを言わせてもらえば、俺は華美な装飾はあまり好きではないのだが、それでもこういった落ち着いた豪奢さにはある種の羨望を覚える。

 ベッドから身を起こし、軽く伸びをしていると、重厚な樫のドアが、がちゃりと開いた。

 

「おはようございます、エミヤ様」

 

 まるで俺が起きるタイミングを測っていたかのように現れた、メイドさん。白と濃紺に彩られた服装から、セラさんだということが分かる。

 

「えっと、おはようございます、セラさん

。イリヤは……」

「お嬢様は既に食堂でお待ちです」

 まずい、客たる身で主人を待たせるとは。

 急がないと――。

 

「お待ちください、エミヤ様」

「?どうしたんだ、セラさん」

「その格好で赴かれるおつもりでしょうか」

「あ」

 

 そういえば、忘れてた。

 昨日、俺は遠慮したのに、これもまた馬鹿みたいに肌触りのいいシルクのパジャマに着替えさせられたんだった。いつもはTシャツとかジャージとかで寝ることが多いから、とんと気付かなかった。

 流石に、この格好のままイリヤの前に出るのは恥ずかしい。

 

「お着替えは、こちらに。それと、一度洗面所に行かれることをお勧めいたします」

「ありがとう――って、なんでさ?」

 

 彼女は、視線を俺の顔から少し外して、片頬に微妙な歪みを作りながら、こう言った。

 

「その粗末なモノをいきり立たせたままで、お嬢様の前に参上されるおつもりということならば、お嬢様に、そしてアインツベルンに仕える者として、相応の対処をしなければなりませんが、よろしいか?」

 

 丁寧な言葉遣いは、後半は詰問口調に変わっていた。

 しかし、粗末なモノ?

 彼女の視線の先は、俺の股間で、そこにあったのは、いわゆる朝起ちをした――。

 

「うわああぁ、ご、ごめんなさい!」

 

 思わず姿勢は中腰に、そして両手は股間を守るように。

 そんな俺を、まるで養豚場の豚でも見るかのように冷たい視線で射抜いた後、彼女は勝ち誇ったかのような顔でこう言った。

 

「お気づきになられたようで幸いです。それと、お顔を洗われたほうがよろしいでしょう」

 

 彼女は部屋に入ってきたときと同じく、深くお辞儀した後で、音も無く扉を閉めて、客間を後にした。

 それにしても、顔?

 不思議に思って、ベッドサイドの置き鏡を覗く。

 そこに映った男の眼球は、まるで一晩中泣き喚いたかのように、赤く赤く腫上がっていた。

 

 

「おはよう、シロウ。よく眠れ……なかったみたいね」

 

 イリヤの声が、落ち込んでしまった。

 そんな小さなことに、重い罪悪感を味わってしまう。

 

「寝苦しかった?やっぱり、和風のベッドを用意するべきだったかしら」

「いや、畳は別にベッドって訳じゃあないから。よく眠れたよ、ありがとう」

 

 俺の部屋が四つは楽に入るんじゃあないか、それくらいに広々としたダイニング。そして、そこに置かれた十人掛けの、大きなテーブル。遠坂の家のそれも大きかったが、この城は何もかもが桁違いに大きく、更には豪華だ。

 イリヤは、その中央に配置された椅子に座っている。

 上座や下座なんてはっきり言ってよく分からないし、テーブルマナーなんて『テ』の字も知らない。それでも、とりあえずイリヤの正面の椅子に腰掛けた。そこなら正面からイリヤと話すことが出来るし、少なくとも失礼には当たらないだろう、そう考えたからだ。

 

「凄いな、イリヤ」

 

 思わず口を割って出た言葉は、しかし俺の本心からはかけ離れたものだった。

 

「何が?」

「いや、この城にあるものは、何だって凄いよ。圧倒されちまう」

 

 そう、確かに凄い。

 朝日を反射してきらきらと複雑に輝くシャンデリアも、部屋の各所に配置された燭台も、それが当然のように部屋と馴染んだ暖炉も、その全てが美しく、気品に溢れている。

 確かに、凄いのだ。

 しかし、その光景に針の一刺し程の痛ましさを覚えてしまう。

 彼女は、ここで一人、食事をとっていたのだろうか。

 二人のメイドは、おそらく彼女のことをこの上なく敬い、そして重んじているのだろう。

 しかし、それ故に彼女達が対等にイリヤと接することは在り得ない。

 ならば、彼女はこの広い空間は、なんと寂しいものだったのだろうか。

 

「そう?ここは別宅だから、質素なものよ。みすぼらしいとは思わないけど、それほど褒めるべきものは見当たらないわね」

 

 彼女は事も無げに呟いた。

 

「それに、お兄ちゃんが褒めてるのは、アインツベルンという家の力であって、私の力ではないわ。そこらへんを整理して理解できるようにならないと、近い将来、きっと痛い目を見るわよ」

 

 また、お説教を喰らってしまった。

 何か最近、多いなあ。

 そんな、優しい、しかし意味の薄い会話をしていたら、いい香りのする料理が運ばれてきた。

 少し大きめの皿に盛り付けられていたのは、サラダとソーセージ、スクランブルドエッグその他もろもろ。

 思ったより普通だ。

 

「がっかりさせたかしら?でも、あまり形式ばったものにしても、美味しくないでしょう?」

 

 どうやら、気を使わせてしまったらしい。

 確かに、あまり食べ方の分からないような料理が出てきても、困る。銀の器に収まった半熟卵など、果たしてどう食べたものか、昨日の代羽くらい途方に暮れてしまうだろう。

 

「さ、食べましょう。今日はシロウと遊ぶんだから、たっぷり食べて元気をつけないとね!」

 

 彼女はそう言って、さも嬉しそうにフォークを手に取った。

 俺も、それに習う。

 彼女は、一体俺をどうするつもりなのか。

 その、根源的な問いに、厚く蓋を閉めたまま。

 

 

 カポーン、と、不思議な効果音が響きそうなほど広い、浴場。

 ホテルの大浴場なんかでも、これほどの立派なものはそうはあるまい。

 何故、俺はこんなところにいるのだろう。

 

 料理は、とても美味しかった。

 特に、ドイツ料理に定番のレバーソーセージは絶品だ。今朝のあれを食べるまでは、妙に臭味の強いソーセージというイメージしかなかったが、今日のそれは、今までの悪印象を拭って余りあるほどの衝撃を与えてくれた。

 そんな、この城の調度に比べればやや質素な、しかしこの上なく贅沢な朝食を終えたとき、イリヤが言ったのだ。

 

 『シロウ、汗臭い』、と。

 

 これでも年頃の男の子。

 可愛い女の子に臭いと言われれば、ほんの少しの自尊心が傷つく。

 仕方ないじゃあないか。

 昨日は、色々あったんだから。

 昼間は、アーチャーにぼこぼこにされて、その後すぐにマキリ邸に攻め込んだ。

 その後食事を取って、さあ風呂にでも、そう思った瞬間にバーサーカーの来襲。

 冷や汗も脂汗もたっぷりとかいた後に風呂に入ることも出来なかったんだ。そりゃあ汗の臭いの一つだってするだろうさ。

 そんな自己弁護を繰り返しながらうじうじしていたら、イリヤが言ったのだ。

 『お風呂、沸いてるよ』と。

 

「しかし、まさか風呂まで豪華とは……。外国の人ってあまり浴場に拘らないイメージがあったけど」

 

 確か、ヨーロッパあたりは日本と違って水が硬く、風呂などにつかるとすぐに肌荒れを起してしまうから、風呂はもっぱら体調を崩したときの治療がわりとして用いられる、と聞いたことがある。

 そもそも、あちらは大気が乾燥しているため、あまり風呂に入る必要がないらしいし。

 ならば、あちらにあったものをそのまま持ってきたというこの城に、何故これほど豪華な浴場があるのだろうか。ひょっとしたら、貴族と一般庶民との価値観の差なのかもしれないが。

 一通り体を流し、ゆったりと湯船に浸かる。

 ふいーっと、深く息をつく。

 全身の毛穴から、疲れが染み出していくかのようだ。

 やはり、風呂はいい。日本人の幸せを感じる。

 ゆっくりと天井を見上げると、ドーム型になったその中央に、大きな天窓が見えた。

 夜になれば、星を見上げながら湯に浸かる、そんな贅沢も可能なのだろうか。

 両手でお湯を掬って、ぱしゃりと顔にかけた。

 ぽたぽたと、鼻先から水滴が滴る。

 それの起こす波紋を見つめながら、思う。

 遠坂達、きっと心配しているだろうな。

 彼女達に迷惑をかけるのは、これで一体何度目だろうか。

 悪いことをしたな、と思う。

 それでも、仕方ないじゃあないか、そうも思うのだ。

 考えてみれば、やはり分不相応だったのだろう。

 何年も修行しても、親父の背中にさえ追いつけなかった。

 人類の理想の体現たる英霊達ですら、己の叶えられなかった望みが、ある。

 ならば、俺の願いは、所詮――。

 

「はいるよ」

 

 栓の無い思考を中断するかのように、声がした。

 抑揚の無い、平坦な声。

 しかし、聞き間違えるものか。

 さっきのは、間違いなく女性の――!

 がらがらと、浴室の扉が開く。

 そして、そこには。

 

 全裸の。

 

 リズ、

 

 さん、

 

 が。

 

「ちょ、ちょっとー!」

 

 首が千切れそうな勢いで横を向いた。

 しかし、見てしまった。

 分厚い湯気のヴェール、その奥に、はっきりと。

 これでも健全な青少年、仕方ないじゃあないか。

 あれは、奇跡だ。

 たわわに実った、スイカが二つ、くっついてた。

 

「す、すぐにでますから、ちょっとだけ、そとでまっていてください!」

 

 あれは、凶器だ。

 ある意味、あのバーサーカーが振るう斧剣以上の、殺人兵器。

 もう一度目にしてしまったら、俺の理性は粉々に砕け散るだろう。

 

「だめ。イリヤの命令。とのがたの背中をながす。にほんのでんとう」

 

 誰だ、そんな間違えた日本文化を教えた命知らずは!

 

「違うから!そんなの、伝統でも何でもないから!」

 

 俺がそう叫ぶと、背後で軽く首をかしげた気配があった。

 

「あれ、違った?」

「そう!完膚なきまでに違う!完全武装に勘違い!頼むから、早く出てってくれ」

 

 そうしないと、色々と不味い。

 具体的に言うと、俺の理性のワイヤーが、悲しげな声を上げて軋んでいる位にはぎりぎりなのだ。

 

「でも、せなかを流さないと、かえれない。イリヤの命令は、絶対だから」

 

 ぺたぺたと、近付いてくる足音。

 不味い。

 このままだと、背中を流す以上にとんでもない事態になる気がする。

 

「わかった!わかったから、そのまま動かないでくれ!すぐにあがるから!」

「うん。すなおでよろしい」

 

 ばくばくとうるさい心臓を押えつけて、湯船からあがる。

 極力後ろを見ないようにして、一番手近にあった風呂椅子に腰掛ける。

 しかし、よく考えてみれば、不思議だ。

 外国の浴場に、風呂椅子なんて備え付けているものなのだろうか。

 そんなことを考えていたら、背中に柔らかいタオルの感触が当たった。

 

「痛かったら言って。初めてだから、加減が難しい」

 

 そう言いながら、彼女は俺の背中をごしごしと洗ってくれる。

 他人に背中を流されるなんて初めてのことだから、少し緊張してしまう。しかも、相手は女性、更にはとんでもない兵器を胸に装備している。

 アレは、そう、兵器だ。

 武器でもなく、凶器でもない。

 間違いなく、兵器。

 そう呼ぶに相応しい威容を兼ね備えていた。

 きっと、あの桜よりも――。

 

「ねえ、シロウ。ひとつ聞いてもいい?」

 

「な、なんだ?」

「シロウは、イリヤのこと、好き?」

 

 とくり、と、心臓が鳴った。

 背中に感じる、優しいタオルの感触。それを通じて、何か暖かいものが流れ込んできた。

 しばらく、無言。

 ぴちょん、と、天井から垂れた水滴が、床にぶつかる音が、響く。

 その間も、彼女は俺の背中を洗ってくれていた。

 

「……リズさんは、イリヤのこと、好きなんですか?」

「うん。大好き。きっと、セラもそう」

 

 一拍の間もない即答。

 そして、無機質な声に込められた、限りないほどの愛情。

 俺は、先ほど食堂で感じた、意味も無い哀れみを、恥じた。

 イリヤは、愛されている。

 こんなにも、愛されている。

 ならば、たった一人の食卓であろうと、侘しいはずが無い。

 よかった。

 

「……まだ付き合いが浅いから、あんまりはっきりしたことはいえないけど、でも、きっと好きなんだと思う。もちろん、セラさんやリズさんなんかには及びもつかないんだろうけどさ」

 

 彼女は、何も話さなかった。

 無言のまま、俺の背中を擦り続ける。

 ただ、その手つきが心なしか丁寧なものに変わっていた。

 そして、やはり、暖かかった。

 

「うん。じゃあ、シロウがイリヤを守ってあげてね」

「――リズさん、何を――」

 

 思わず振り返りそうになる首を、必死の理性で押し留める。

 そして、彼女は今までよりも一際強い力を込めて、大きく俺の背中を擦った。

 少しだけ、痛かった。

 

「うん、終了。綺麗になったね」

 

 やっと終わりか。

 なんと貴重な拷問時間だったことだろう。

 ほんの少しの残念さを覚えたが、それ以上にほっとする。

 しかし、他人に背中を流される、それは思ったよりも気持ちよかった。

 そして、思う。

 昔、同じことが無かったか。

 そうだ、切嗣だ。

 親父と一緒に風呂に入ったとき、背中の流しっこをしたものだ。

 なんで忘れていたんだろう。

 それに、もっと昔にも――。

 そんなことを考えていたら、がしり、と肩を掴まれた。

 

 はっ?

 

「ここまではイリヤの命令。ここからはわたしのさーびす」

 

 ぐるり、と風呂椅子ごと回転させられる。

 

「せっかくだから、隅から隅までぴかぴかに」

 

 今まで、リズさんは俺の後ろにいた。

 そして、俺が180度急回転。

 前は後ろに、後ろは前に。

 ならば、当然、俺の前には、彼女がいるわけで。

 

「……」

 

 彼我の距離は直近。

 そこに、湯気みたいな邪魔者の立ち入る隙間は無い。

 つまり、ダイレクト。

 やっぱり、目の前には、スイカが二つ。

 たゆんたゆん、揺れていた。

 

「ういやつ、ういやつ。もっとちこうよれ。うぶなねんねじゃあるまいし」

 

 そんな、よく分からない日本語を聞きながら、俺の意識は深い闇の中に落ちていった。

 

 

 ……肌を刺すような冷たい風が、火照った頬に心地いい。

 優しい何かが、聞こえる。

 それは、風に遊ばれる木の葉のざわめきであり、小鳥の遊ぶ声であり。小さな少女の子守唄だった。

 きらきらと、瞼に光が当たる。

 日差しは、きっと弱い。それが、素早く点滅を繰り返すように瞬いている。

 背中に、心地いいリズムを感じる。

 優しい子守唄に合わせたそのリズムは、心に生じたささくれを、優しく癒してくれるかのよう

 その全てが、合唱していた。

 起きろ、起きろ。

 今は、眠るにはもったいない。

 今は、起きていなけりゃもったいない、と。

 それでも、眠たい。

 腕を、庇の代わりにするべく、動かす。

 すると、さらりとした、絹糸のような何かに、触れた。

 その感触がこそばゆくて、それ以上に心地よくて。

 俺は、浅い眠りの底から、起きだす破目になってしまった。

 目を、薄ぼんやりと開けると、少女が、いた。

 雪のように白く、雪のように柔らかく、雪のように暖かい、少女だった。

 彼女は、目を閉じ、その可憐な唇で、優しい唄を、唄っていた。

 

 Ich weiss nicht was soll es bedeuten,

 Das ich so traurig bin.

 Ein Maerchen aus alten Zeiten,

 Das kommt mir nicht aus dem Sinn.

 Die Luft ist kuehl und es dunkelt

 Und ruhig fliesst der Rhein,

 Der Gippel des Berges funkelt,

 Im Abendsonnenschein.

 

 美しい、歌声。

 この曲は、確か『ローレライ』、だったか。

 

『なじかは知らねど 心わびて、

 昔の伝説は そぞろ身にしむ。

 寥しく暮れゆく ラインの流

 入日に山々 あかく映ゆる。

 

 美し少女の 巖頭に立ちて、

 黄金の櫛とり 髪のみだれを、

 梳きつつ口吟む 歌の声の、

 神怪き魔力に 魂もまよう。

 

 漕ぎゆく舟びと 歌に憧れ、

 岩根も見やらず 仰げばやがて、

 浪間に沈むる ひとも舟も、

 神怪き魔歌 謡うローレライ。』

 

 ああ、なるほど。

 こんなに美しい少女が、こんなに美しい唄を歌っているんだ。

 そりゃあ、船乗りだって、酔っちまうだろう。

 そして、そのまま海底に誘われるんだ。

 でも、そこは荒ぶる海じゃあない。

 きっと、母なる海、その一番落ち着いたところだ。

 おそらく、幸せ、だったんだろう。

 だから、耳を塞ぐことも、しなかった。

 彼らは、幸せに死んだんだ。

 

「起きた、シロウ?」

 

 彼女は、歳とは不相応に、大人びた笑みを浮かべた。

 それは、母親や姉が浮かべる、慈愛に満ちた笑みだった。

 俺が、初めて見る、笑みだった。

 

「俺、一体……」

 

 視界に広がるのは、彼女の美しい紅の瞳と白い肌、絹のような銀髪、そして、風に揺れる緑の木の葉。ちらちらと、雪のように舞い散る木漏れ日が、暖かい。

 

「湯あたりをおこしたんですって。シロウってばうっかり屋さんなんだね」

 

 湯あたり。

 そうか、俺は湯にあたったのか。

 何か、もっととんでもないモノにあたった気がしたけど、イリヤが言うならきっと気のせいだ。

 彼女の細い指が、俺の癖のある赤毛を梳いていく。

 その感触に、思わず目を閉じてしまう。

 少しくずぐったくて身を捩ると、耳に衣擦れの感触があった。それに、地面を直接枕にしているには、如何にも柔らかい。

 ああ、イリヤが膝枕してくれているのか。

 そう気付くと、少し気恥ずかしくなってしまった。

 

「ごめん、迷惑かけた。すぐ起きるから」

 

 そう言って体を起こそうとすると、意外なほど強い力で肩を押えつけられた。

 

「駄目。シロウが倒れてからまだそんなに時間経ってないんだから。ここはこの城で一番風通しがいいわ。もうしばらく、ゆっくりしていなさい」

 

 ああ、それがいいか。

 どうせ、それほど急ぎの用があるわけでもない。

 なら、ここでのんびりするのは最高だ。

 

「イリヤ、さっきの唄、もう一度唄ってくれないか」

 

 不躾なアンコール。

 歌手が怒って帰っちまっても仕方ない。

 それでも、彼女は、微笑ってくれた。

 

「ええ、お客様。貴方のお気に召すまで、何度でも」

 

 そう言って、彼女は、再び目を閉じた。

 やがて流れ出す、不朽のメロディ。それを唄うのは、きっと本物のローレライだ。

 ここに、永遠の安息がある。

 俺は、安心して、目を閉じた。

 

 



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episode52 中庭と姉と弟と

 私がこの空間を地獄として認識してから、既に月は十ほど満ち欠けを繰り返した。

 それがどれほどの時の長さなのかは分からないし、

 少女は暗い部屋にいることが多かったから、それが正確な数字なのかも分からないが、

 どうやら私は少女と共にあった。

 いままでは断片的な音声としてしか認識できなかった少女は、

 今や私と同一の存在と呼べるものになっていた。

 私が少女に近づいたのか、それとも少女が私寄りの存在となったのかは不明だ。

 ただ、私は少女と折り重なっている、その実感だけはあった。

 相変わらず周囲を満たすのは黒い黒い水。

 黒蜜のような、コールタールのような、ヘドロのような。

 その中で、私は少女になっていた。

 少女の意識が流れ込んでくる。

 混沌とした、暗い感情に満ちたそれは、まさに呪いと呼ぶに相応しかった。

 それを受け止めて、私は驚いた。

 彼女は、きっと世界の全てを呪っていると思っていた。

 その資格が、彼女にはある。

 それくらいの自由、認められてもいいはずだ。

 しかし、彼女が呪っていたのは世界などという、得体の知れないものではない。

 たった一人の人物だった。

 それは、毎日、気が狂わんばかりの苦痛と快楽を与える老人でもなければ、

 この地獄を娯楽として待ち望んでいた私でもない。

 彼女が憎んでいたのは自分自身。

 この呪いは、この世の全てを覆い尽くすような自己嫌悪。

 その事実に気付いたとき、私は思った。

 

 この命に代えても、この少女を守ろう、と。

 世界を敵に回しても、彼女を幸せにしよう、と。

 人の理を無視しても、彼女と共にあろう、と。

 

 これは、誰に向けたものでもない、自分に向けたものですらない誓い。

 だからこそ、それは神聖で不可侵だ。

 ああ、名前も知らない少女、おそらくは私と同じ存在のあなた。

 私があなたを守護しましょう。

 私はあなたの盾となりましょう。

 そう、誓った。

 次に、思った。

 守るからには強くならなければ。

 盾となるからには、大きくならなければ。

 だから、私は手を伸ばした。

 存在するはずのない手を伸ばした。

 そして、掴んだ。

 それは、この空間にあって、私でなかった異邦者達。

 荒々しいモノ。落ち着いたモノ。

 頭のよさそうなモノ。キグルイとしか思えないモノ。

 暖かいモノ。冷たいモノ。

 私はそれらに手を伸ばし、

 かりかりと、食べ始めた。

 

episode52 中庭と姉と弟と

 

 彼女は、少し疲れたみたいだった。

 調子に乗って、アンコールを連発しすぎたか。ひょっとしたら、彼女の知ってる童謡の全てを歌ってもらったのかもしれない。

 

「ありがとう、イリヤ。もう満足だ」

「うん、そうだね。私も少し疲れちゃった」

 

 そういって、彼女はにっこりと笑った。

 だいぶ身体の調子も戻ってきたので、少し名残惜しいけど、体を起こす。

 今度は、彼女も止めなかった。

 

「ここ、どこなんだ?」

 

 立ち上がって見渡せば、色取り取りの花の群。そして、整地された石畳と、周囲に聳える石壁。足元には緑色の芝生が広がっている。

 

「ここは、お城の中庭なの。あまり見栄えのするものじゃあないから、普段は誰にも見せないんだけど、シロウは特別だから」

 

 控えめなイリヤの表現とは裏腹に、一般庶民の俺からすれば、感嘆の溜息が出そうなくらい、見事な庭園だ。

 それに、さっきのイリヤの言葉には、どこかに隠しきれない誇りがあった。きっと、実はイリヤもここが大好きなのだ。

 

「アインツベルンの城は冬城だからね、ここは年中寒いの。今日みたいに暖かいのは、本当珍しいわ」

 

 確かに、暖かい。

 木陰に入れば調度いいくらいに涼しいが、日向に出て軽い運動をすれば少し汗ばんでしまうのではないか、それくらいの気候である。

 俺は、一旦上げた腰を、イリヤの隣に落ち着けた。

 幹の太い大樹に、二人で寄り掛かるように、座る。

 別に何をしているわけでもないし、何を与えられたわけでもないが、ただここにいるだけで、限りない幸福を味わえてしまう。

 ここは、そんな楽園だった。

 本当に、幸せだった。

 はじめて、幸せだった。

 幸福すぎて、涙が溢れそうだった。

 

「ねえ、お兄ちゃん、今度はお兄ちゃんが歌って」

 

 俺の肩に頭を預けたイリヤが、そんな無茶な注文をした。

 

「イリヤの歌った後に歌う勇気は流石にないよ。自慢じゃないけど、音痴だぞ、俺」

「ふふ、知ってるわ、そんなこと。だって、お父様もそうだったもの。でも、凄く暖かかったの。きっと、シロウの声もそう。だから、聞きたいわ」

 

 そこまで言われたら、断ることなんて出来ない。

 遠い昔、親父に歌ってもらった童謡、それを必死に思い出す。

 歌ってる途中に歌詞がわからなくなる、そんな無様は避けたい。

 しばらく逡巡して、やっと歌えそうな歌を、見つけた。

 唇を一度舐めて、少し硬い声で、歌う。

 

 

 シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ

 屋根まで飛んで こはれて消えた

 

 シャボン玉消えた 飛ばずに消えた

 生まれてすぐに こはれて消えた

 

 風々吹くな シャボン玉飛ばそ

 

 

「悲しい歌だね」

 

 しばらくの静寂の後、イリヤが言った。

 確かに、悲しい歌だ。

 失ったもの、かえらないもの、それを惜しむ、歌だ。

 それでも、きっと、それを乗り越えるための、歌なのだろう。

 

「もっと歌って。なんだか懐かしいの」

 

 彼女は、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 夕焼小焼の、赤とんぼ

 負われて見たのは、いつの日か

 

 山の畑の、桑の実を

 小籠に摘んだは、まぼろしか

 

 十五で姐やは、嫁に行き

 お里のたよりも、絶えはてた

 

 夕焼小焼の、赤とんぼ

 とまっているよ、竿の先

 

 

「その歌、聴いたことがある」

 

 イリヤは、目を瞑ったまま、そう言った。

 しばらく、自己の内側に埋没するように首を傾げ、そして、少し弾むような口調で、笑った。

 

「ああ、そうだ、思い出したわ。キリツグが歌ってくれたのよ。お母様と、私と、三人で歩いてたときに、歌ってくれたの。安心して、シロウ。貴方のほうが、歌が上手いわ」

 

 彼女は息も絶え絶えに笑いながら、やっとの調子でそう言った。

 その顔は、本当に幸せそうだった。

 俺は少し楽しくなってきて、最近聞いた歌を歌うことにした。

 正直、なんだかよく分からない歌だったけど、人の真似をするのはそれなりに上手いから、問題なく歌えるだろう。

 確か、こんな歌詞だったはずだ。

 

 

 A kind father plays with a little John.

 

 Clip,clip,he dumps his name,name.

 

 A grandfather plays with a little John.

 

 Snip, snip,he loses his flail,flail.

 

 

 えっと、その先は何だっけ。

 確か――。

 

「ねえ、シロウ、その歌、日本の童謡?」

 

 隣でイリヤは小首を傾げていた。

 

「いや、違うよ。これは童謡なんかじゃなくて――」

 

 何だ?

 童謡じゃあなくて、何なんだ?

 どこで、聞いた?

 最近聞いたはずなんだ。

 でも、どこで――。

 

「『小さな小さなリトルジョン。

  優しいパパと、遊んでもらえてご満悦。

  ちょきちょきちょき。

  可愛いお名前、どこかに忘れて、ご満悦。

  小さな小さなリトルジョン。

  お爺ちゃんと、遊んでもらえてご満悦。

  ちょきちょきちょき。

  楽しい玩具、はさみでちょんぎって、ご満悦。』

 あまりよくわからないけど、この国の言葉で意訳すると、こんな感じかな?」

 

 

 イリヤが、その細い首を傾げたまま、そんなことを言った。

 何故だろう。

 どこか、この歌詞は禍々しい。

 どこが。

 

「それにしても、幼稚な歌詞だね。言い回しもそうだし、韻の踏み方もなってない。きっと英語を母国語にしてない人が作った詩ね、間違いないわ」

 

 彼女はくすくすと笑った。

 そうだ、確かにそういう違和感はある。

 なんと言うか、童謡調の歌なのに、不自然に文法に拘っていたり、逆に妙なところで砕けていたり。俺はあまり英語が得意ではないが、それでも違和感を感じる。

 

「それでも、歌詞は興味深いわね。ねえ、シロウ、はさみって心理学で言うと何を象徴してるか、知ってる?」

 

 心理学?

 昨日もそんな話をした。

 確か、解離性同一性障害がどうとか。

 正直、少し難し過ぎてちんぷんかんぷんだった話だ。

 

「いや、わからない」

「去勢、よ」

 

 口元に深い笑みを湛えながら、彼女はそう言った。

 その瞳は、どこかぎらぎらとしていて、不吉な何かを感じさせるに十分だった。

 風が、吹いた。

 あたりが、ほんの少しだけ、寒くなったみたいだった。

 

「それに、flail、フレイルっていうのは色々な形状がある武器だけど、共通するのは長い柄の先に、鎖で何かをくっつけていることね。中には、スパイクのついた鉄球をつけてる、なんて分かりやすいものもあるし」

 

 分かりやすい?

 なにが、だ?

 

「剣をはじめとした武器っていうのは、その多くが男性器を象徴してるわ。多分、この歌詞のflailもそう。棒の先に球体が付いてたら、誰だってそれを連想するわよね」

 

「つまりね」

 

「この歌詞は」

 

「『パパ達の言うこと聞かないと、おちんちんをちょん切っちゃうぞ』」

 

「そういう歌なのよ」

 

 どくり。

 

 何だ。

 

 どくり。

 

 何だ。

 

 どくり。 どくり。

 

 何かを、掴みそうになった。

 

 何だ。

 

 汗が、出てきた。

 

 どくり。 どくり。 どくり。

 

 じわりと、滲む。

 

 この歌詞だ。

 

 どくり。

 

 この先は、何だった。

 

 思い出せ。

 

 どくり。

 

 きっと、なにかが、ある。

 

 それに、どこだ。

 

 どこで聞いたんだ。

 

 どくり。 どくり。 どくり。 どくり。 どくり。 どくり。 どくり。

 

 この歌は、どこで。

 

 最近だ。

 

 どくり。どくり。どくり。どくり。どくり。どくり。どくり。

 

 最近、聞いたはずなんだ。

 

 どこで。

 

 どくり。

 

 そして、この先の、歌詞は。

 

 どくり。

 

「少し、しらけちゃったね」

 

 太腿に、重い感触があって、どきりとした。

 襟首を引っ掴まれて、現実に引き戻された、そんな感じだった。

 それでも、俺の太腿を枕代わりにする少女を見ると、安心した。

 ここに、俺の幸せがある――。

 そう、感じた。

 

「ねえ、キリツグのこと、話して」

 

 無邪気な瞳。

 彼女は、その瞳で、俺を見上げていた。

 細められたそこには、やはり優しい紅。

 まるで、最高級のルビーだと思う。

 この紅をそのまま封じ込めることが叶うならば、世界中の好事家が、己を破滅させかねないほどの大枚を叩いても、きっと彼らは後悔しないだろう。

 

「昨日、あらかた話しちまったよ。そうだな、次はイリヤの番じゃあないか?歌だって唄ったろ?」

「あら?シロウは、あんなに下手な歌で、私のと同じ評価を下すの?」

 

 棘を抜いたバラみたいな台詞を口に出して、彼女は微笑った。

 俺は、俺がしてもらったみたいに、彼女の髪を梳いた。

 一切の引っかかりも無く、冗談みたいに、するり、と、梳くことができた。

 本物の絹だってこうはいかない。

 魔法みたいな、手触りだった。

 

「歌うっていう行為そのものに価値があるんだよ。だから、次はイリヤの番だ」

 

 俺がそう言うと、イリヤは拗ねたみたいに口を尖らせた。

 眉根を寄せたその表情は、歳相応で可愛らしい。

 

「わかったわ。こんなに幼気な少女を脅迫するのね。やっぱり、貴方はキリツグの息子だわ」

 

 彼女のは、その視線を、俺の顔から少し逸らした。

 

「ねえ、シロウ。この木、何の木か、わかる?」

 

 この木?

 俺も、上を見る。

 俺達を日差しから守るように枝を伸ばした、木。

 大木とはいえない。精々が、校庭に生えた桜なんかと同じくらいの大きさだ。

 何だろう、この木は。

 

「ええ、と……。ごめん、よくわからない。クルミ……に似てる気もするけど、違うし……」

 

 太腿の上で何かが揺れていたので下を見ると、彼女が口に手を当てて、笑っていた。

 我慢しても我慢しても、笑みが溢れてくる、そんな感じだった。

 

「あはは、お兄ちゃんも一緒だね。私も間違えたんだ。でも、これはクルミ。サワグルミっていう、クルミの仲間なの」

「へえ、知らなかった」

 

 言われてみれば、あの葉の生え揃い方なんかはクルミと一緒に見える。

 

「キリツグったらひどいんだよ。一緒に散歩しながらどっちが多くクルミの冬芽を見つけられるか勝負したときに、私は普通のクルミしか知らないのに、キリツグはサワグルミもノグルミもカウントしてたの。そんなの、勝てるわけ無いじゃない」

 

 イリヤはぷりぷりと怒りながら、そう言った。

 

「お母様も一緒だったのに、教えてくれなかったの。キリツグとお母様は共犯だったのよ。信じられないわ、全く」

 

 そうか。

 イリヤは、お母さんと、切嗣と、三人で野山を歩いたことがあったのか。

 なんと、幸せそうな情景だろうか。

 それは、まるで――。

 

「でも、今は二人ともいない。お母様もキリツグも、この国で命を落とした。そして、キリツグはアインツベルンを裏切った。だから、私には、お兄ちゃんしかいないの」

 

 雪のように純白の、まるで人のものではないかのように美しい手が、俺の頬をそっと撫でた。その感触の、何と滑らかなこと。

 そして、彼女は微笑んでいた。

 何の障壁も無い、純粋な笑み。この世のあらゆる庇護欲を一身に受けてもなおあまりあるような、そんな笑み。

 しかし。

 

「イリヤ。教えて欲しい。親父は、何をしたんだ」

「……何って?」

「あの火事があったのが、十年前。そして、魔術師である親父がふらりとこの町に来たのも、俺を拾ってくれたのも、同じ時期だ。一体、親父は何をするためにこの街に?」

 

 イリヤの瞳から、色が消えた。

 いや、その表現は正確ではない。

 色ではなく、熱。

 人として最低限必要な熱。

 それが、その瞳から消え失せていた。

 

「……人はね、疑問を口にするとき、大抵は自分の中でそれなりの答を用意しているものなの。それが正解かどうかは置いておいて、ね。そうでないと、疑問すら思いつかないわ。ねえ、シロウ。貴方はどう考えているの?全て偶然、それじゃあ駄目?」

「……親父は、俺を救ってくれた。だから、親父のしたことを受け止める義務が、俺にはあるんじゃないかと思う。だから、誤魔化したくない」

「……じゃあ、シロウはどう思ってるのかしら?」

 

 口の中が、乾いていた。

 舌で、唇を湿らせた。

 それでも、その言葉を口に出すのは、難しかった。

 何故なら、とっくに理解していたからだ。

 俺は、知っていた。

 だから、あの神父に、あれほど反発したんだ。

 

「……親父は、聖杯戦争の参加者だった」

 

 それだけを、やっとの思いで口にした。

 

「……正解よ」

 

 それだけを、イリヤは、言い切った。

 何かが終わった。

 そして、何かが息を吹き返した。

 そう、思った。

 

「アインツベルンはね、『始まりの御三家』でありながら、他の二家に比べて、魔術が絶望的に戦闘向きじゃあなかった。だから、反則技まで使って勝ち残ろうとしたけど、その度に失敗したの。そして、熟考の末、どうしたと思う?」

「聖杯戦争は、サーヴァント、そしてマスター同士の殺し合い、か」

「そういうこと。強力な戦闘専門の外来のマスターを招いた。これは、千年以上続く魔術の家系ではまずありえないことよ。とんでもない屈辱。周りの他家からは嘲笑だってあったでしょうね。おそらく、血涙を飲む想いで決断を下したんだと思うわ」

「それが親父……」

「少し古株の魔術師に『エミヤ』って聞いて御覧なさい。皆、総毛だって脅えるわ。それほど、キリツグは戦闘面に特化した魔術師だった。『魔術師殺し』、そんな異名を受け取るほどに、ね」

「なんで親父はその招きに応じたんだ?」

「詳しいことはわからないわ。ただ、利益の合致があったこと、それは間違いないと思うの。アインツベルンは聖杯戦争に勝ち残ることを求め、キリツグは聖杯そのものを求めた。そして、キリツグとお母様は聖杯戦争に身を投じ、二人とも戻らなかった。これが結末。どう?別段面白い話じゃあなかったでしょう?」

「……親父は、勝ち残ったのか?」

「ええ。本当、鬼神の如き強さだったって聞いてるわ。サーヴァントとの確執も無視して、ひたすら効率的に敵マスターとサーヴァントを排除していったって。だからこそ、彼に恨みを持つアインツベルンも、最後まで報復の手を伸ばすことは出来なかった。最初から敵わないってわかってるんだもの。無駄なことはしないのが魔術師、そうでしょう?」

「じゃあ、聖杯を手にしたのか?親父の願いは叶ったのか?」

「いいえ。そこらへんは、あの神父から聞いてるんじゃないの?第四次聖杯戦争に、勝者はいなかった。最後まで勝ち残ったキリツグは、最後の令呪を使って、自分のサーヴァントに聖杯の破壊を命じた。それで、本当に終わり。それだけの話よ」

「……何で、親父は最後の最後に、聖杯を壊したんだろう?」

「大体の想像はつくし、きっとそれは真実なんだろうけど、教えてあげない。でも、聖杯は、キリツグの求めていた聖杯じゃあなかった。そういうことなんでしょうね」

 

 涙が、流れていた。

 知らぬ間に、涙が流れていた。

 全て、理解した。

 理解したのだ。

 親父が、聖杯に何を求めていたのか。

 そして、聖杯が、どういうものだったのか。

 あの夜。

 焦げ臭い大気に塗れて、彷徨ったあの夜。

 己の皮膚から立ち上る焦げ臭さに嘔吐した、あの夜。

 天に、ぽっかりと浮かんでいた、黒い太陽。

 赤く焼けた天を背景に、その赤さまでも飲み込んでいた、あの穴。

 そして、そこからあふれ出した、黒よりなお黒い、何か。

 あれが、聖杯だったんだ。

 アレが、聖杯の中身、だったんだ。

 だから、切嗣は、最後に破壊を命じた。

 一体、如何程の葛藤があっただろうか。

 手は、届いていたのだ。

 奇跡に、手は届いていた。

 しかし、その奇跡が切嗣を裏切った。

 あれは、何かを救えるような、器用なものじゃあなかった。

 むしろ、その対極。

 あらゆるものを殺す、きっとそんな存在だ。

 ならば、あの火事は偶然か?

 偶然、あの家事が起きて、そしてあの穴が生まれたのか?

 違う。

 あの火事も、あれが生み出したものだ。

 五百の消し炭を作り出したあの火事は、それでもあの穴に潜むものの、産声ですらなかったのだろう。

 きっと、ただの胎動。

 それで、五百の命が消し飛んだ。

 それだけの、力。

 そこに、切嗣が奇跡を見出さなかったと、何故断言できる?

 万が一。

 いや、もっと低い可能性でも、これが真実の聖杯ならば。

 これが、彼の理想を叶える、その力を持っていたならば。

 いや、力は、ある。

 あとは、方向性を正すだけ。

 なら、可能なのではないか?

 ここで自分の理想が、実現するのではないか?

 そんな葛藤が、あったかもしれない。

 いや、人間ならば、必ずあった。

 断言してもいい。

 しかし、彼はそれを断ち切った。

 その欲望に抗って、最後の決断を下す、そのなんと苦痛に満ちていることか。

 そして、彼は全てを失った。

 妻を失い、娘を失い、理想に裏切られた。

 何もかも失って、何もかも失って。

 そして、俺を見つけてくれた。

 見つけてくれた、のだ。

 彼は、笑ってくれた。

 傷だらけで、どろどろで、今にも死にそうな、小汚い子供を見つけて、笑ってくれた。

 笑ってくれたのだ。

 

 ならば。

 

 俺は、何をするべきだ。

 何かを、するべきだ。

 理想がどうとかじゃあない。

 力が足りないとかじゃあない。

 為すべきことが、ある。

 例え血反吐を吐こうが、全身を切り刻まれようが。

 背徳の罪を犯そうが、後ろ指さされる罪人に身を堕とそうが。

 彼に救われたものとして。

 彼の、息子として。

 今、俺には為すべきことが、ある。

 偽者だとか本物だとかは些細な問題だ。

 恐怖に屈したとか、死が怖いとかなんて、当たり前だろう。

 それでも、親父は目指した。

 確かに挫折したかもしれない。

 ひょっとしたら、あの火事だって親父の責任かもしれない。

 それでも。

 それでも、親父は俺を助けてくれた。

 俺は、親父に助けてもらった。

 ならば。

 決まっている。

 俺も、助けるのだ。

 誰を、じゃあない。

 誰か、だ。

 誰でもなく、それ以上に誰でもある。

 それを、助ける。

 正義の味方なんて、不可能かもしれない。

 一生かけても、あの背中には届かないかもしれない。

 それでも、今、俺に助けられる存在があるはずだ。

 ならば、救うさ。

 その結果、あの赤い世界があってもいい。

 その結果、不幸が待っていてもいい。

 その結果、野垂れ死にでも構わない。

 その結果、世界の奴隷でも、望むところ。

 結果を、恐れるな。

 目的を、恐れるな。

 意味を、恐れるな。

 

 意志だ。

 

 それだけでいい。

 

 刃は、この手に。

 その手綱は、心で。

 戦え。

 戦え。

 戦え。

 お前には、出来る。

 なにせ、オレは、息子だ。

 親父の、息子だ。

 血は繋がらない、しかし、血よりも濃いものを受け継いだ、息子だ。

 ならば、俺は立ち上がらなければならない。

 俺自身のためではない。

 親父のために。

 親父の名誉と、誇りのために。

 戦え。戦え、戦え。

 朽ち果てるまで、戦え。

 崩れ落ちるまで、戦え。

 死に果てるまで、戦え。

 今日のために、今までの苦難があったのだ。

 今日のために、全ての努力が存在したのだ。

 今日のために、運命が収束してくれたのだ。

 戦って、戦って、戦い続けろ。

 そのために、お前は生き残ったのだ。

 そのために、魔術回路が在ったのだ。

 感謝を。

 全てに、感謝を。

 セイバーに、凛に、桜に、アーチャーに、キャスターに、全ての人に。

 そして、イリヤに。

 君のおかげで、視界が晴れた。

 背筋が、伸びた。

 理想が、息を吹き返した。

 これで、俺は戦える。

 これで、俺は衛宮士郎を名乗ることが出来る。

 紛い物でも、胸を張ることが出来る。

 ありがとう。

 ありがとう。

 ありがとう。

 

 

「ごめん、イリヤ。俺、帰らないと」

 

 シロウは、そう言った。

 その瞳からは、絶え間ない涙が、流れていた。

 私は、悟った。

 致命的なミスを、どうやら犯してしまったことに。

 彼の中で、何かが壊れた。

 人を人足らしめる、何か、重要なもの。

 彼の中でようやく芽生えようとしていた、儚い何か。

 それが崩れる音を、はっきりと聞いた。

 

「……帰って、どうするつもり?」

 

 彼は、涙を流したまま、笑った。

 そこに、自分の探していたもの、必死で探していた何かを、見つけたみたいだった。

 

「決まってるだろ。戦うんだ」

 

 ああ。

 お父様。

 貴方は。

 貴方の、呪いは。

 何故、かくも残酷に彼を。

 分かりました。

 不可能なのですね。

 彼の中に貴方を残していては、彼は救われない。

 なら、話は早いわ。

 彼を、殺します。

 一度殺して、それから彼を救う。

 そうすれば。 

 瞳に、強い意志を込める。

 この魔術の発動は、それだけでいい。

 きっと、彼はそれに抗えない。

 彼は、私の虜だ。

 それでいい。

 シロウはシロウのまま愛したかったけど。

 壊れていく彼を見送るよりは、遥かにましだ。

 やがて、彼は崩れ落ちた。

 食事中の幼児が、眠りの世界からの誘惑に負けたときみたいに、ふうわりと。

 私は、彼を抱き止める。

 思ったよりも、軽かった。

 

「セラ、リズ」

 

 後ろで、何かが動く気配があった。

 

「はい、お嬢様」

「彼を私の部屋まで運んで。私は、招かれざるお客様を歓待する準備をしないといけないから」

「承知しました」

 

 リズがシロウを抱えると、私の方を、少し悲しげな瞳で見つめた。

 私は、何も答えない。

 彼女も、何も話さない。

 それだけで、十分だ。

 

「さて、侵入者は一人。なら、遠坂じゃあないわね。マキリか、それとも……?」

 

 久しぶりに、血液が沸騰しそうに、興奮していた。

 いや、苛々していたのかもしれない。

 それをぶつけることの出来る対象、それが近付いてくる。

 ああ、なんて幸せ。

 そして、なんて不幸な、人。

 さあ、来なさい、哀れな贄。

 私が綺麗に平らげてあげる。

 

 



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episode53 集結

 今は何時だったか。

 時計の針を信じるなら、太陽は中空を越え、僅かに傾き始めた頃合だろうか。

 それは、一日の中では太陽の支配する時間であり、いくら日が傾くのが早い季節とはいえ、昼間の勢力が衰えるには早すぎる時間だ。

 しかし、この鬱蒼とした森の中では、昼は夜にその領土を明け渡してしまっているらしい。

 陽の光の届かない、暗い森。こんな自然がこの冬木に、いや、日本という国にあるということが正直信じ難い。

 私達は、言葉を忘れたように黙々と歩く。タクシーを降りてから、既に一時間は経過したはずだ。

 

「気をつけろ。そろそろアインツベルンの勢力下に入ったはずだ」

 

 隠し切れない緊張を孕んだアーチャーの声。

 無理もない。

 アインツベルンの領土には、当然存在するはずなのだ。

 無邪気な、笑いながら人が殺せるくらい無邪気な少女と。

 そして、何の躊躇いもなくその命令を実行することのできる鋼の従者が。

 

「セイバー、士郎は」

「今のところ、ラインに異常はありません」

 

 マスターとサーヴァントは、魔力の供給のためにラインで結ばれている。それは魔力の供給以外にも、無意識の共有や、簡単な意志の疎通すら可能にする。

 不完全とはいえ、士郎とセイバーはラインで繋がっている。そのセイバーが言うのならば、どうやら士郎はまだ無事らしい。

 

「急ぐぞ、凛。あの粗忽者のことだ、いつ自らの寿命を縮める軽挙に走るか分からん」

 

 アーチャーのいうとおりだ。あの馬鹿は望んで自らを危険に晒す悪い癖がある。

 ……無事でいてよ、士郎。

 じゃないと、無事ですましてなんかやらないから。

 

episode53 集結

 

 ……おかしい。

 この森に入ってから感じていた微妙な、しかし決定的な違和感がどんどん強くなる。

 

「妙ね」

「どうしたの?キャスター」

 

 桜が問いかける。

 

「アインツベルンというのは高名な魔道の一族なのでしょう?それが支配する領地、そこに魔術的な監視や罠が一つもないのは解せないわ」

 

 そうだ。

 私が感じていた違和感はそれだ。

 あまりに無警戒すぎるのだ。

 確かに、彼女は最強の従者を従えている。正面からの襲撃ならば、例え敵が複数であっても物の数ではないだろう。

 しかし、例えばアサシンのような搦め手も存在する以上、自らの陣地には最低限の監視や結界があってしかるべきだ。

 それなのに、これまでそういった存在を感知することはできなかった。

 

「アーチャー」

「残念だが、凛、私もそういったものの存在は確認できていない。ただ、何らかの魔術の基点となるような痕跡はいくつかあった。どうやら今は機能していなかったようだがな」

 

 どういうことだろう。

 私はひたすらに足を動かしつつ、自らの思考の内に埋没する。

 

「……それは既に使い捨てられたものなの?」

「さあ、私はそれほど魔術に造詣が深くはないのでね、断言することはできない。キャスター、君の意見を聞きたい。君も気付いていたのだろう?」

 

 珍しく、アーチャーがキャスターに話を振った。

 

「そうね、中には既に機能を失ってたのもあったけど、ほとんどは最近魔力を通した痕跡があったわ。少なくとも機能不全に陥ってる、ということはないはずよ」

 

 ということは、考えられるのは三通りか。

 

 1、発動する必要がない。

 2、発動する意志がない。

 3、発動することができない。

 

 あのお子様の性格からしていかにもありそうなのは1番だが、現状ではそれ以上の推測は不可能だろう。

 少なくとも、今の私達にとって監視がないのは僥倖だ。

 正面からあの狂戦士と戦ってはあまりに勝算が薄い。

 急襲、奪回、即時離脱。

 今回とり得る戦術はそれ以外にない。

 ならば、天が与えたもうたこの好機を見逃す手はない。

 そこまで考えたとき、前衛を務めていたアーチャーの足が止まった。

 

「どうしたの、アーチャー」

 

 いぶかしむ私の声にも彼は振り返らない。

 嫌な予感がする。

 私の勘は、そういった方面に対してはひどく敏感だ。

 そして残念なことに、最近はその機能が役立つことが非常に多い。

 私は疲労を訴える足を叱咤して、彼の横まで走った。私の視界が、彼と同じものを捉える。

 

 ……何だ、これは。

 

 忘れかけていた燦燦たる陽光を浴びながら、私は絶句した。

 森が、ない。

 いや、正確に言うならば森の一部が消え失せている。

 それ自体はなんら驚くべきことではない。どんなに深い森でも、開けた場所の一つや二つはあるものなのだろう。

 しかし、一直線に伸びたそれが、地平線の向こうからその反対まで続いているというのはどういうことだろう。

 その幅は約20メートル。まるで急造の高速道路でも通ったみたいだ。うねるように地面についた模様は、蛇か何かが這いずったあとような印象を受ける。そして、地面には押しつぶされた巨木が転がっている。おそらく、何か巨大で長大な物体が通過した跡なのだろう。

 アーチャーはしゃがみこんで巨木の残骸を手に取った。

 

「……驚いたな、凛、これを見ろ」

 

 アーチャーが持っているのは何の変哲もない木片だ。しかし、そこに残った濃密な魔力をみれば、これがただの木片でないことがわかる。

 

「これは……」

 

 いつの間にか私の背後にいたキャスターも絶句する。

 

「ああ、石化している」

 

 そう言ったアーチャーは木片を強く握り締めた。

 バキ、という乾いた音をたてて粉々になった、木片だったもの。

 

「石化の魔術……?」

 

 ささやくように弱弱しい桜の声。その声には怯えに近いものが含まれている。

 それに対して、キャスターが言う。

 

「いや、おそらく違うわ。石化の魔術は恐ろしく燃費が悪い。それをこんなふうに無差別に撒き散らす馬鹿はいない。これはむしろ現象、生態に近いものだと思う」

 

 つまり、例えばソイツがそこに居るだけで、或いは呼吸をするだけで周囲の物体を石化させるようなナニカ。それがここを通ったということか。

 落ち着いて周囲を見渡せば、道の脇に立った木々も石化しているようだ。

 蛇、石化。

 この二つの要素から、私は一匹の怪物を連想した。

 おそらくは、ギリシャ神話で最も有名で、最も厄介な怪物。

 その目を見た全てを石に変える、呪われた女神。

 

「アーチャー、一応訊くけど、この道の先は」

 

「ああ、私達の目的地と一緒だな」

 私は内心で、信じてもいない神とやらに愚痴を零す。

 ――ああ、神様。何故あなたは余計な真似をするのが好きなのですか。いつか私があなたの元に召されたら、きついビンタをかましてやるから覚悟しておいてくださいね。

 

「急ぎましょう。シロウが心配だ」

 

 いつもは冷静なセイバーの声にも焦りの色が見える。

 彼女が見つめるのは、石化した巨木で舗装された、長大な道の先。

 そこにいるのは、鉛の大英雄と、純白の少女。

 そして、得体の知れないナニカ。

 

 

 軽い頭痛で、目が覚めた。

 イリヤに優しく起こされたときとは雲泥の、吐き気がする目覚めだった。

 

「ここは……」

 

 二日酔いみたいに濁った視界で、周囲を見渡す。

 相も変わらず豪華な調度。

 しかし、俺が泊まった客間よりも、更に一段階グレードが高い気がする。

 そして、天蓋つきのベッドに置かれた、可愛らしいぬいぐるみ。

 ああ、ここは。

 

「おはよう、シロウ。気分はどう?」

 

 優しい、声。

 それでも、先ほどまでの無邪気さが、ない。

 いや、無邪気さはそのままに、子供だけが持ちうる残酷さをブレンドした、そんな声。

 

「イリヤ……」

 

 起き上がろうとする。

 しかし、手首に僅かな痛みを感じて、その行動は断念せざるを得なかった。

 

「なんで……」

「当然でしょう?貴方は戦うことを選んだんだもの。なら、私の敵で、つまりは捕虜。ここにジュネーブ条約は適用する余地はないからね、そのつもりで」

 

 どうやら、椅子に座らされて、後ろ手に縛られているらしい。

 先ほどまでの待遇とは、正に天と地だ。

 

「……俺を、どうするつもりだ」

 

 彼女は、さも楽しげに、人差し指を唇に当てた。

 

「んー、最初はお人形さんにでもするつもりだったんだけどね、今のシロウの器を変えても不愉快なだけだから、それは断念したわ」

 

 人形?器を変える?

 意味の分からない言葉に、この上ない不吉を覚える。

 

「冗談じゃない。俺は、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ」

「貴方の意見なんて、通ると思ってるの?ああ、可愛い人!」

 

 いつの間にか俺のすぐ目の前に立っていたイリヤは、その細い指で俺の頬を撫でた。

 そして、言った。

 

「これが最後通牒よ。貴方の人生を左右する、重要な、問い。心して答えなさい。どういう返答をしても、きっと貴方は後悔することになるから」

 

 そして、彼女の顔が、近付いてきて。

 頬に、柔らかい彼女の手が添えられて。

 唇が、柔らかい何かと、触れ合った。

 何が起きているのか、全く理解できない。

 そして、唇を割って口腔内に侵入してきた、柔らかいイリヤの舌。

 それが、俺の舌を絡めとり、歯茎をなぞり、徹底的に蹂躙した。

 何も、考えられない。

 何も、抵抗できない。

 一体どれほどの時が経ったのだろうか。

 いつのまにか、イリヤの顔が、目の前にあった。

 その、可憐な唇から、悪戯めいて飛び出した、可愛らしい舌。

 そこに、きらきらと光る、唾液の橋が、架かっていた。

 

「一緒に、ここで、一緒に暮らしましょう、シロウ」

「い……りや……」

「貴方は綺麗よ、その歪な生き方も、その愚直な理想も。だから、外の世界ではあなたは排除される。人は純粋なものに憧れ、それ以上に恐怖するわ。なぜなら、世界は純粋を嫌うから。

 でも、ここなら大丈夫。ここなら貴方も生きていける。だって、ここには何も無いから。嫌になるくらい地獄だけど、同じくらい天国。

 一緒に、此処で一緒に、いつまでも静かに暮らしましょう、士郎」

 

 それは、どこまでも甘美な誘惑だった。

 凍てつく時間によって閉ざされた荘厳な城の中で、雪の精のように美しい少女と暮らす。

 そこには何の変化もなく、何の苦しみもない。

 あるのは、ただただ安らかな人生。

 昨日と同じ今日を生き、今日と同じ明日を待つ。

 永遠の冬の中、永遠の春を過ごす。

 ならば、それはやはり天国なのだろう。

 

「大丈夫、心配しないで、シロウ。煩わしいものは、全部捨ててきてあげる。欲しいものは全部揃えてあげる。だから、お願いだから一緒にいて、お兄ちゃん」

 

 そう言って、彼女は俺を抱きしめた。

 まだ女性と形容するにはあまりに儚い胸に包まれる。

 思い出すのは遠い過去。

 記憶から失われたはずの美しい日々。

 望めば、それが手に入る。

 いつの間にか縛めは解かれていた。

 さっきまで後ろ手に縛られていた両手で、彼女を抱きしめる。

 驚くほど細いその腰は、ほんの少し力を込めれば呆気なく砕け散ってしまいそうだ。

 体に感じるのは、意外なほど高い彼女の体温。ひとひらの雪を連想させる彼女には、相応しくないとすら思える。

 だから、分かってしまった。

 きっと、イリヤは本当に俺の身を案じてくれている。

 そして、こんな俺を本当に必要としていてくれる。

 それは、本当に、涙が出そうなくらい、嬉しかった。

 

「なあ、イリヤ」

「なあに、シロウ」

 

 でも。

 いや、だからこそ。

 俺は、彼女を裏切らなくてはいけなかった。

 

「凛が、待ってるんだ」

 

 腕の中の彼女の体が、ほんの微かに強張る。

 

「セイバーも、桜も待ってる。きっと心配してると思うんだ。だから、俺、帰らなくちゃ」

 

 俺の頭を抱きしめている彼女の腕に、僅かな、しかし精一杯の力が込められる。

 

「何で?何で私じゃいけないの?」

 

 俺にはその問いに答える資格なんて、ない。

 

「それに、俺が助けなくちゃいけない誰かもいるはずなんだ。イリヤ、お前の提案は本当に嬉しかったけど、俺は行かなくちゃ」

 

 そこまで言うと、俺の視界一杯に、イリヤの顔が映った。

 お互いの吐息の熱さが感じられる距離。

 赤い、血のように紅い彼女の瞳。

 にこやかに歪められたそこには、何の狂気も感じられなかった。

 でも、俺にはわかるよ、イリヤ。

 君は、死ぬほど怒っている。

 

「ねえ、シロウ。私は今日ほどキリツグに殺意を感じた日はないわ。

 あなたはどこまでも真っ白だから、この上なく他の色に染められやすい。

 そして、今のあなたを染める色は、限りなくグロテスクよ」

 

 穏やかに笑ったイリヤは、そう言って俺から離れた。

 それを追いかけようと腰を浮かすと、両手を縛った荒縄が、俺の意思を阻んだ。

 あれ?さっき確かに。

 

「だーめ、物分りの悪いシロウにはお仕置きが必要だから、その縄は解いてあげない。        

 ちょっとだけ待ってて、シロウ。あなたを縛り付けるもの全部、私が壊してあげるから。

 それから、あなたを真っ白に戻してあげる。そうすれば、あなたは人間に戻れるわ」

 

 彼女はそう言って部屋から出て行った。

 間違いない、イリヤは凛達を殺すつもりだ。

 駄目だ、あの子にそんなことは似合わない。

 絶対にそんなこと、させるもんか。

 

「投影、開始」

 俺はいつものように唱えると、右手に現れた短刀でロープを切り始めた。

 

 

 気に入らなかった。

 キリツグが、気に入らなかった。

 私に優しかったキリツグが好きだった。

 私と遊んでくれたキリツグを愛していた。

 私を捨てたキリツグを憎んだ。

 私を忘れたキリツグを殺したかった。

 でも、今は。

 今は、ひたすらに、気に入らない。

 私じゃなくて、彼を選んだキリツグが。

 そして、彼の心にあんなにも大きな爪痕を残したキリツグが。

 安心して、シロウ。今から、あなたの中のキリツグを殺してあげる。

 そうすれば、きっとあなたは幸せになれる。私が、幸せにしてみせる。

 行きましょう、バーサーカー。

 彼を殺して、彼を生かすために。

 

「だから、あなたは邪魔よ、マキリ臓硯」

 

 望まれざる客人に向かって私は言った。

 

「いつから気付いておった?」

 

 ゆっくりとロビーの柱の影から姿を現す老人。

 いつから?彼は耄碌したのだろうか、私を馬鹿にしているのだろうか、それともその両方か。

 

「ここはアインツベルンの森。いわば私の体内よ。あなたのように穢れた異物、気付かないとでも思ったの?」

「かかっ、言いよるわ小娘が。ならば当然我が従者にも気付いておるのだろうなぁ」

 

 私と、私のバーサーカーを前にして、この落ち着き払った態度が気に入らない。

 

「あなたの従者?私がそんなものに注意を払うとでも思っているの?蟲の従者なんて、蛆かハリガネムシくらいが精々でしょうに」

 

 そう言うと、臓硯は痙攣するように大きく笑った。

 

「なるほどなるほど、ハリガネムシか、言いえて妙よな。その通り、我が従者は長虫の類よ」

 

 カツン、と杖を鳴らす妖怪。

 

「正体などすぐに割れよう、故に真名を教えてやる。我が従者の名前はメデューサ、ギリシャ神話最悪の怪物よ」

 

 彼がそう言い終えるやいなや、頑強を誇る城の外壁が吹き飛んだ。

 そこにいたのは、黒いうねり。

 長大な、連環。

 その光る眼球の存在を予感した私は、咄嗟に眼を伏せた。

 まるで、脅える子犬がそうするかのように。

 



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episode54 流血

 それを、人は何と名付けることが出来るだろうか。

 蛇。

 そう、呼ぶことが出来るだろうか。

 濡れたように光る、黒い鱗。

 長大な胴体。

 それに一番近い存在は、と問えば、十人中十人がそう答えるだろう。

 しかし、それ名を与えるならば、蛇という表現は憚られる。

 まず、単純に大きい。

 今、それが存在する城のロビーは、広い。

 そして、広いだけではない。

 天井が、馬鹿みたいに高い。

 吹き抜けになったその天井は、十メートルに届くだろうか。

 つまり、面積としてではなく、空間として広いのだ。

 そのロビーに、それはみっしりと詰まっていた。

 みっしりと、絡まりあうように、詰まっていた。

 それは蛇でありながら、球体なのだ。

 丸い。

 だが、つるりとした丸さではない。

 絡まって二度と解けなくなった糸屑、それが偶然形作る丸さに似ている。

 絡まった糸屑。

 それは存外、正しい表現かもしれない。

 俯瞰した形だけでなく、仔細に渡って、その形は似ている。

 丸まった糸屑のように、所々から細長い繊維のようなものが飛び出している。

 細い、繊維。

 それでも、巨木の幹よりも太い、その体躯。

 それは、蛇だ。

 その繊維の一本一本が、蛇。

 ぱかりと裂けた口を持ち、しかし瞳のあるべき場所に瞳を持たない、異形の蛇の頭部。

 それが、球体から無数に生え出している。

 無数の巨蛇が絡まりあって二度と解けなくなったような姿。

 そして、その球体の中央。

 そこには赤く輝く、大きな瞳が。

 それを、人は何と名付けることが出来るだろうか。

 絶望。

 辛うじて、そう呼ぶことが出来たかもしれない。

 

episode54 流血

 

 体が、重たい。

 手が、足が、まるで鉛に変えられたみたい。

 重たい。

 動くのが、億劫だ。

 ならば、動かなくても良いのではないか。

 このまま、大地と一体になることが出来れば、それはなんと快楽であろう。

 硬い、石になる。

 永遠にここに屹立する、石像になる。

 雨に晒され、風に晒され、悠久の中で朽ちていく。

 指は砕け、足が崩れ、地に倒れ伏す。

 苔が生え、土中に埋もれ、やがて光も無くなる。

 そして、緩やかに、緩やかに、微細になっていく。

 それは、なんと心地よい悪夢であることか。

「ほう、腐っても聖杯か。瞳を向けられただけでは石化せぬとは」

 ぽたぽたと、鼻先から汗が滴る。

 それは伏した私の視界の中央に、黒々とした染みを作っていく。

 息が、荒い。

 膝が崩れ落ちそうになる。

 己をコントロールできない。

 これは、恐怖だ。

 いと小さきものが、己の規格に収まらないものと対峙した時に感じる、恐怖。

 それを感じたことを、恥じた。

 確かに、私は強くない。

 しかし、私達は最強だ。

 ならば、何故恐怖を感じなければならないか。

 それは、我が従者に対する侮辱ではないのか。

 ああ、そうだ。

 私達は強い。

 私は彼が大嫌いだ。

 それでも、彼は強いんだ。

 絶対に、負けない。

 負けるなんて、許さない。

 メデューサ?

 それがどうした。

 そんな怪物、英雄の贄でしかないではないか。

 いや、化け物と呼ばれる全ての存在が、悉く英雄の添え物でしかない。

 ならば。

 

「叩きのめしなさい、バーサーカー!」

 

 ■■■■■■■■■■―――――――!!!!!

 

 そう、一言命じる。

 それだけで、いい。

 

 

 鋼が、駆けた。

 巨人。

 巨体。

 巨躯。

 巨腕。

 何もかもが、大きい。

 大きく、太い。

 二の腕の回りなど。成人男子の胴囲よりも遥かに太かろう。

 しかし、少しも緩んでいない。

 むしろ、その強固さを表すのに、如何なる形容が相応しいか迷うほどだ。

 硬さを表す言葉など、それこそ無数に存在する。

 それでも、その肉体に相応しいのは『鋼』、これに尽きるだろう。

 唯でさえ硬い鉄を、焼き、鍛え、強くしていく。

 そして生まれた、硬く、粘り、砕けない鉄。

 鋼。

 鋼の、筋肉。

 鋼より、強い、肉体。

 それに身を包んだ勇者が、駆ける。

 軽やかだ。

 鈍重という印象は、どこにも無い。

 大理石の床、それを裸足で破砕しながら、彼は駆ける。

 まるで、水面を駆ける水鳥のように、優雅に、美しく。

 手には、己の巨躯と等しいほどの、岩剣。

 それを枝切れのように軽く携え、彼は奔った。

 目の前には、黒い塊、そしてそこから生え出した異形の蛇。

 それらが、彼を一斉に睨みつけた。

 魔眼など、必要あるまい。

 常人ならば、その異様だけで、恐怖に身を竦ませる。

 しかし、彼は駆けた。

 その殺気を、微風のように弄らせて。

 咆哮。

 彼の喉が、豪砲を迸らせる。

 それが、合図。

 怪物対英雄。

 神話の時代にありえなかった、最も高名な二体の戦い。

 それが、ここに、あった。

 

 

 ずしん、と衝撃が走った。

 城が、揺れた。

 地震?

 ……いや違う。

 そんな自然現象じゃあない。

 そんな生易しいものじゃあない。

 もっと直接的で、なによりも人為的。

 志向性を持った、害意。

 戦い。

 何かが、戦っている。

 下だ。

 恐らく、一階。

 そこで何かが、戦っている。

 片方は、多分バーサーカー。

 もう片方は?

 凛達……ではあるまい。

 これほど近くで戦いがあれば、令呪を通じて何らかの反応があるはずだ。

 それがないならば、バーサーカーと戦っているのは、セイバー達ではありえない。

 ならば?

 いや、考えていても仕方ない。

 今、俺が成すべきなのは、動くこと。

 立ち上がり、走ること。

 既に誡めの縄は取り払われた。

 長時間、椅子に縛り付けられていたからだろうか、関節が硬い。

 だが、そんなことは埒外である。

 それに、嫌な予感がする。

 バーサーカーは、強い。

 最強だ。

 それでも、万が一のことがあれば?

 守らなければ。

 彼女を。

 きっと、親父の娘を。

 俺の、家族を。

 

 

 その戦いに技は無かった。

 その戦いに術は無かった。

 その戦いに策は無かった。

 あったのは、もっと原始的なもの。

 原始的で、根源的で、何よりどろどろしたもの。

 熱い泥濘の中でのた打ち回るような、粘着質な戦い。

 蜘蛛と蜘蛛が絡まりあうような戦い。

 それが、あった。

 巨人。

 それの右手には、その存在に相応しい、斧剣。

 それを小枝のように振り回し、襲い来る蛇を叩き切る。

 技は、無い。

 必要無い。

 コンビネーション、フェイント、カウンター。

 技など、人が人を相手取るために開発した技術。

 どれほど突き詰めようが、小手先の域を出ない。

 例え同時に三方向から防御不可能な攻撃することが叶おうが、その一撃がこの肉体に傷一つ付けられないならば、一顧だにする必要は、無い。

 絶対の攻撃力と絶対の防御力。

 それさえあれば、他は飾りでしかない。

 その巨人は、存在自体をもってそう証明していた。

 彼が腕を動かす度に、蛇の首が舞う。

 舞い散る血飛沫が、大理石の床を血の赤絨毯で染めていく。

 比喩ではなく、濃厚に立ち込める血煙。

 鼻の奥を痺れさせるような血臭。

 その中で聳え立つ鉄巨人。

 彼の背に守られた少女に、もはや脅えの色は見えない。

 それでも、彼の敵は堕ちた女神。

 空を統べる男神に、追い遣られた地母神。

 蛇。

 生命力の象徴であり、再生の象徴。

 その末端、無数の蛇の頭のごく一部を断たれたくらい、何の痛痒も感じない。

 化け物の領分は、その不死性。

 斬られても死なぬ。

 潰されても死なぬ。

 殺されても、死なぬ。

 それでこそ、化け物。

 それでこそ、恐怖の象徴。

 人外と人外の戦い、聖杯戦争。

 その中でも、更に外れた二体の戦い。

 始まりは、むしろ静寂を感じさせるほど穏やかなものだった。

 

 

 やっぱりだ。

 呆れるほど。

 さっきまで脅えていた自分に、呆れてしまう。

 それほどに、強い。

 やっぱり、バーサーカーは強い。

 だって、私のサーヴァントなんだもの。

 私だけのサーヴァントなんだもの。

 弱いはずがない。

 弱いなんて、許さない。

 だから、バーサーカーは強いんだ。

 負けない。

 絶対に、負けない。

 なのに。

 どうして?

 どうして、膝が震えるの?

 どうして、声が出ないの?

 やだ。

 やだよう。

 はやく、その化け物を倒して。

 お願い。

 早く、倒して、リン達を殺しにいきましょう?

 

「肉を切らせて骨を断つ。如何にも陳腐な諺ではあるが、今の状況を表すのにこれほど相応しい言葉もあるまい」

 

 黙れ。

 お前は、喋るな。

 そんなこと、許可した覚えは無い。

 

「そろそろ、じゃな」

 

 何がだ。

 お前如きに何が分かる。

 時の暴虐に敗れ去った、理想の燃え滓が、偉そうな口を叩くんじゃあない。

 お前が使役するサーヴァント如き、私のバーサーカーの敵じゃあない。

 だから、黙れ。

 お願いだから、黙れ。

 

 

 ごつり。

 首が舞う。

 ばしゃり。

 血が弾ける。

 ごつり。

 骨が砕ける。

 ばしゃり。

 血が舞い散る。

 ごつり。

 ばしゃり。

 ごつり。

 ばしゃり。

 戦況は互角だった。

 バーサーカーには傷一つなく、辺りはゴルゴンの血で埋め尽くされている。

 断ち切られた首が、小山のように折り重なっている。

 それだけ見ればバーサーカーに戦機はあるように見える。

 しかし、それでも攻め続けているのはゴルゴン。

 断たれても断たれても、生まれ続ける蛇の頭。

 それが、絶え間なく狂戦士を襲い続ける。

 大顎で、丸呑みにしようと。

 巻き付いて、全身の骨を砕こうと。

 その牙で、八つ裂きにしようと。

 あらゆる角度から、同時に襲い来る。

 それでも、巨人には届かない。

 牙も、顎も、その体も。

 巨人が、その巨腕を振り回すたびに、悉く宙を舞う。

 そして、鮮血が舞い散る。

 びちゃびちゃと、粘着質な音を立てて。

 互角。

 傷つきながら、攻め続ける。

 無傷で、守り続ける。

 互角。

 互角、だった。

 それが崩れたのは、いつだったか。

 それは、ほんの僅かな異変だった。

 



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episode55 終結

 ずしん。

 腹の奥を痺れさせるような、重い音。

 それが、絶え間なく鳴り響く。

 時折、がしゃん、という、やや高い破砕音が聞こえる。

 おそらく、豪奢な調度が砕け散った音だろう。

 それらの雑音を圧して、なお余りある、異様な音が響く。

 轟音。

 破裂音に近いかもしれない。

 それは、声だ。

 咆哮だ。

 

 片方は、それでも人の咆哮。

 声帯を開け放って、闘志と一緒に呼気を吐き出したような、狂戦士の鬨の声。

 息が、白い。

 それに含まれる、凄まじい熱量。

 人に許された体温など、とうの昔に超えてしまっている。

 熱せられた、鋼のような、体温。

 刀に焼入れを行ったときに、湯から溢れかえる蒸気のような、吐息。

 化け物。

 狂気に憑かれ、己が子を炎に投げ入れた、その時の姿。

 その身を焼く赤い炎は、愛しき稚児を焼き殺したそれと同じ色だろうか。

 

 片方は、既に人の声ですらない。

 彼女の、聞く者を魅了する、あの美しい声は、どこにも無い。

 高い、耳を劈くような、不快な鳴き声。

 ガラスを針で擦ったような、神経を鑢る、鳴き声。

 そこに、理性など、一欠けらも見当たらない。

 その巨体を動かすのは、理性ではなく、本能ですらなく、宿命。

 化け物として人を襲い、化け物として人に討たれる、宿命。

 決して報われない、単純作業。

 それを嬉々として行うのが、今の彼女だ。

 化け物。

 彼女が、彼女の愛しい人達を飲み込んだ、その時と同じ姿。

 その目に宿った赤い光は、愛しい人達の赤い体液を飲み下したときのそれと同じ色だろうか。

 

 episode55 終結

 

 城が、悲鳴をあげた。

 その身を震わせて、慟哭していた。

 やめてくれ、と。

 もう、もたない、と。

 地響き。

 ぱらぱらと、小石が舞い落ちる。

 みしみしと、壁が軋む。

 それは、長くこの地に屹立する、この冬城の断末魔だったのかもしれない。

 

 途切れることの無い、ゴルゴンの攻撃。

 無数の大蛇が、大英雄を襲い続ける。

 巨木の幹よりも、なお太い直径。

 肉を食い千切るための獰猛な牙。

 岩よりもなお硬質な、ごつごつとした鱗。

 腐ったように、蕩けた眼球。

 瞳の無い、熱の無い、蛇の群。

 それが、巨人の肉を喰らわんと襲い来る。

 疾い。

 鎌首を擡げた蛇が獲物に飛び掛るときよりも、なお疾い。

 まるで弾丸だ。

 事実、それに触れた物質は、悉く破壊された。

 大理石で作られた柱が、壁が、床が。

 まるで塩で作られたオブジェのように、あっけなく。

 唯一の例外が、彼女と対峙する巨人と、彼の握った岩剣くらいのものか。

 巨人は、一歩も引かずに迎え撃つ。

 己の重量と等しいほどの岩の塊を、小枝のように軽々と振り回して。

 彼の切っ先の届く範囲、それの作り出す円。

 透明な、球体。

 その中にのみ、蛇は存在を許されない。

 その中に侵入を試みる蛇は、体内で火薬が爆発したかのように、爆ぜ散る。

 正面からはもちろん、彼の視界の届かぬ後方から襲い来る蛇も、同じこと。

 そして、その肉片を浴びながら、巨人が少しずつ歩を進めるのだ。

 一歩一歩。じっくりと。

 その様に、彼の曾孫の姑息な印象など、一縷も無い。

 不可視の兜など、必要ない。

 彼は、戦士。

 その輝かしい雄姿を、どうして鼠の如く隠す必要があるだろうか。

 空を翔るサンダルなど、必要ない。

 彼は、勇者。

 蝿のように飛び逃げる必要など、どこにある。

 狂った彼は、それでも同郷最悪の魔物を、正面から凌駕していた。

 力。

 それのみ。

 それのみで、最悪の怪物を凌駕していたのだ。

 それほどまでに、彼は絶対だった。

 彼は、歩く。

 辺りは、惨状だ。

 砕かれ、ひき潰された大理石が、細やかな小石となり、どろりとぶち撒かれた蛇の血と混ざり合って、コールタールのようになっている。

 臭気が、耐え難い。

 肺腑を腐らせるような、濃厚な腐敗臭。そして、反吐のような饐えた臭い。

 空気が毒と交じり合ったような、そんな大気。

 そんな、紅く腐った空間の中でも、なお轟然と敵に胸を晒すのは、狂戦士。

 理性を失いながら、それでも最も深奥の誇りは失わない、その姿。

 その瞳に込められた意志こそが、彼を唯一英雄足らしめる証左だろうか。

 彼は、理解していた。

 致命的なまでに狂いながら、それでも理解していた。

 今、彼を襲い続けているうわばみの群は、彼女の末端器官でしかないことを。

 例えるならば、爪や髪の毛、その先に近いものだ。

 切り取られれば、それなりの苦痛はあるかもしれない。

 それでも、致命傷にはなりえない。

 いくら断とうが、この敵は倒せない。

 彼は、その事実を理解していた。

 だから、彼が虎視眈々と狙っていたのは、彼女の瞳。

 赤く輝く、大きな瞳。

 彼に不可解な重圧を加え続ける、あの不吉な瞳。

 それをこそ、叩き壊すべきだ。

 彼は、そう理解していた。

 そして、それは完全に正しかった。

 神話のとおり、そこを断たれては、さしもの蛇妖も、死なざるを得ない。

 だから、その拍子は、まさに必殺だった。

 一瞬。

 嵐に従えられた黒雲の隙間から、太陽が顔を出すような、一瞬。

 大蛇共の攻撃が、示し合わせたかのように止んだ、その一瞬。

 彼は、駆けた。

 一息で、蛇の塊、その足元まで。

 そして、跳ぼうとした。

 目の前の災厄、その息の根を断たんと。

 その時だ。

 巨人の体が、僅かに揺らいだ。

 彼が、絡まりあった蛇の球体、その中心に飛び掛ろうとした、正にその時。

 彼の体が、宙を泳ぐかのように、僅かに揺らいだのだ。

 彼の主人には、何が起きたのか、全く分からなかった。

 ただ、彼の無敵の従者が、何かに蹴躓いた、もしくは何かに足を取られた、そのようにしか見えなかった。

 それは、ある意味において、極めて正しい。

 ひょっとしたら、狂戦士自身も、己の置かれた状況を理解していなかったかもしれない。

 一瞬の、無音。

 蛇も、狂戦士も、城も、鳴き声をあげなかった、その一瞬。

 朽ちた身を震わせて、怪老が、一人笑った。

 

 

 はぁ、はぁ、はぁ。

 走る。

 音の源、戦場に向かって。

 はぁ、はぁ、はぁ。

 走る。

 長大な廊下、冗談としか思えないような建築の中を。

 はぁ、はぁ、はぁ。

 走る。

 彼女のもとに。

 俺の、妹のもとに。

 

「……っそったれ、階段はどっちだよ!」

 

 城。

 大きいとは知っていたが、それにしても常識外れだ。

 自分がどこにいるのかが、わからない。

 解析をしてみても、はじかれる。

 方向感覚も、はっきりしない。

 何らかの魔術的な加護が付されているのだろうか。

 それでも、聞こえてくる破壊音。

 音が反響して、どこから聞こえるのか曖昧だ。

 何かと何かが、縺れ合う、音。

 さっきから、絶え間なく響く、音。

 それが、変化した。

 どう変化したのか、言葉には表し辛い。

 音の志向性、そう言えばいいだろうか。

 先ほどまでは等分に聞こえた二つの音が、一つに収束され始めたのだ。

 音が、単調になってきた。

 或いは、一方的に。

 何かが何かを嬲るような、そんな音。

 よく分からない。

 確証なんて、無い。

 それでも、胸騒ぎが、する。

 この音は、不吉だ。

 急げ。

 手遅れになる前に。

 

「……あった!」

 

 階段。

 音が、さっきよりっもはっきりと聞こえる。

 なら、この下だ。

 跳ぶ様に駆け下りる。

 

「投影、開始」

 

 手に感じるのは、彼の夫婦剣のずっしりとした質量。

 鼻に感じるのは、風に運ばれてくる、鼻腔を腐らせるような腐臭。

 背に感じるのは、生きたいと希う、哀れな男の生存本能。

 そして、瞳に感じるのは、それらをひっくるめて、前に進むための、意志。

 父から受け継いだ、遺志。

 彼に教えられた、意志。

 この身体を、唯一意味在るものに変えてくれえる、掛け替えの無いもの。

 それを滾らせて、駆ける。

 やがて、光が。

 その中に、少女が。

 さあ、悦べ、衛宮士郎。

 お前の出番だ、衛宮士郎。

 お前がその名を語るに相応しい者か、それを審判する、格好の機会。

 それが証明できたなら、俺は――。

 

 

 少女が、泣いていた。

 瞳を乾かし、唇を恐怖に戦慄かせながら、泣いていた。

 その思考を支配するのは、悲しみではない。

 恐怖でも、怒りでも、絶望でもない。

 たった一つの、疑問。

 

 ―――何故?

 

 何で、あの化け物は、生きている?

 何で、バーサーカーが倒れている?

 何で、貴方が血塗れで倒れている?

 理解できない。

 理不尽だ。

 こんなの、認められない。

 嘘だ。

 バーサーカーは、一番強いんだ。

 絶対に、負けない。

 なのに、何で?

 

 

 いつしか、戦局は一方的なものになっていた。

 別段、何かが変わったわけではない。

 狂戦士は、剣を振るう。

 蛇は、狂ったように彼を襲う。

 その構図には、一切の変化は無い。

 変わったのは、結果。

 その結果だけが変わっていた。

 狂戦士が、剣を振るう。

 その先には、襲い来る大蛇の首。

 その首に、彼の携える斧剣が突き刺さる。

 今までならば、蛇の頭は、まるで飴細工のように弾け跳んでいただろう。

 しかし、今は、その岩のような頭部、その半ばまでしか断つことができない。

 自然、剣を戻すのが遅れる。

 それは、紛れもない隙。

 悪神は、それを見逃さない。

 四方から、まるで悪夢のように、大蛇が襲い掛かる。

 ぎらぎらとした牙を輝かせて、彼に襲い掛かる。

 

 一口めは右肩。

 

 血が、噴き出した。

 今は血の泥濘となった大理石の床、そこを巨人の体液が、初めて濡らした。

 

 二口めが左の脇腹。

 

 どろりとした腸が、毀れだす。

 毒々しい大気に、不快な臓物臭が満ちる。

 

 三口めでメインディッシュのその頭を。

 

 ばきり、と嫌な音がした。

 蛇の口の中で、彼の頭蓋が噛み砕かれる音だ。

 顔を半分失った巨人が、血の沼の中に倒れ伏す。

 その頭からは、乳白色の脳みそが、冗談みたいに零れ落ちた。

 蛇どもは、歓喜に身を震わした。

 殺したのだ。

 己の子孫を殺し尽くして、それを功と誇る、仇敵を。

 歓喜の、声。

 歌。

 しかし、それは即座に中断を余儀なくされた。

 弾け跳んだ。

 蛇の頭が、だ。

 死体に集る蛆のように、彼の死肉を啄ばんでいた醜い蛇どもが、弾け跳んだ。

 まるで肉片の竜巻。

 その中心には、かの大英雄。

 その立ち姿に、一筋の傷も、見出すことは叶わない。

 彼は、死んだ。

 間違いなく、死んだ。

 全身を齧られ、脳味噌まで溢したのだ。

 いかに英霊といえ、脳味噌を失って生きていられる道理がない。

 だから、彼は死んだのだ。

 死ねば、消える。

 消えて、塵となる。

 それが、サーヴァントと呼ばれる者の摂理。

 しかし、彼はその理を覆す者。

 一度や二度の死など、ものの数ですらない。

 瞬時に身体を修復し、迫り来る顎をその巨大な剣で迎え撃つ。

 ぶつん、とまるで大型のトレーラーのタイヤを引き千切るような音をたてて巨大な顎が宙を舞う。

 彼こそは大英雄ヘラクレス。

 無数の怪物を倒し、世界中にその威を知られた剛の者。

 神に祝福され、神に呪われ、それでもその存在を、ただ力をもって証明した、勇者。

 だから、この戦いは彼が勝者に相応しい。

 英雄対怪物の幕引は、人の勝利と相場が決まっている。

 でも。

 それでも、彼の主人たる少女の震えは止まらなかった。

 

 ――なんで。

 ――やだ。

 ――いやだよぅ、バーサーカー。

 ――早くその化け物をやっつけて、凛達を殺しに行かなくちゃいけないのに。

 ――なのに、なんで貴方はそんなにボロボロなの?

 

 不屈の勇者が、吼えた。

 その声は、今までのそれと同じでありながら、しかしどこか違っていた。

 声。

 怒りの、声。

 敵に向けられたものではない。

 己に。

 主に涙を流させた、己の不甲斐なさに向けられた、怒り。

 彼は、怒っていた。

 怒りながら、のた打ち回っていた。

 血の中を。

 どろりとした、粘着質な血の泥濘の中を。

 吼える。

 まるで、声をもってこの血の湖沼を吹き飛ばそうとしているかのように。

 しかし、それは叶わない。

 血が、彼に纏わりつく。

 全身を、彼自身と、それ以外の血に飾らせながら、彼は立つ。

 立ち上がり、剣を振るう。

 だが。

 だが、剣は蛇を両断できない。

 何が変わったわけでもない。

 例えば、蛇の鱗が硬くなったわけでもない。

 例えば、刃が油に塗れて、切れ味を失ったわけでもない。

 彼と、彼の敵は、何も変わってはいない。

 変わったのは、彼らを取り巻く環境。

 戦場が、変わっていた。

 大理石の床。

 その上に、これでもかと撒き散らされた、蛇の血液。

 彼らは、そこで戦っていた。

 粘着質な、血液の上で、戦っていた。

 蛇が襲い来る。

 狂戦士が、剣で迎え撃つ。

 足に力を込め、その膂力で、剣を振り下ろす。

 その瞬間。

 ずるり、と。

 彼の力を、安定しない地面が、奪い去った。

 そして、彼は弾き飛ばされる。

 まるでゴム鞠か何かのように、軽々と。

 大理石の壁に、亀裂が走る。

 それでも、彼は生きていた。

 床に手をつき、立ち上がろうとする。

 立ち上がって、向かい来る蛇の大顎を、迎え撃とうとする。

 だが、またしても。

 ずるり、と。

 彼の手を、地面が拒絶した。

 血の沼に、三度倒れ伏す大英雄。

 その身体に、蛇が巻きつく。

 鉄心に撒きついた、発条のように。

 巨人が、吼えた。

 その怪力で、蛇の身を、逆に引き千切ろうとする。

 しかし、蛇は構わずに、撒きついて締め上げる。

 一匹ではない。

 二匹、三匹が、仲間ごと絞め殺そうと、彼に撒き付いていく。

 巨人の声が、空しく響く。

 一瞬で、彼の巨大な体躯が見えなくなった。

 そして、響く鈍い音。

 ばきばきと、耳を塞ぎたくなるような低い音。

 彼の強靭な骨格、その全てが、仔細に渡るまで粉微塵になった、音。

 声が、だんだんと弱弱しくなっていき、やがて、途絶えた。

 いずれ、血が溢れ出した。

 まるで、乾いた雑巾から、強引に水分を搾り出したかのように、ぽたり、ぽたりと。

 蛇の発条、その直径が、少しずつ細くなる。

 少しずつ、少しずつ。

 その隙間から、形容しがたい紅い塊が、ぶちゅり、と溢れ出す。

 やがて、蛇は拘束を解いた。

 ぐるぐると、巻き付くときとは真逆に、ゆっくりとその身を捩じらす。

 その中には、棒切れが、あった。

 所々、蛇の胴の形に合わせて隆起と沈降を繰り返す、棒切れ。

 それは、人としての死を向かえることを許されなかった、人だったものの成れの果て。

 大英雄、だったもの。

 それが、ゆっくりと、やはり血の泥濘の中に倒れた。

 これで、四度。

 あと何度死を迎えれば、彼は苦痛から解放されるのだろうか。

 



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episode56 マキリ臓硯

 首に撒きつかれ、絞め殺された。

 その巨体に、磨り潰された。

 胴体を、力任せに引き千切られた。

 吐き出した胃液で、溶かされた。

 牙に宿った毒で、狂い死んだ。

 一体、彼は幾度の死を迎えたのだろうか。

 分からない。

 少女に、大切な従者の死の数を数えることの出来る理性の余裕など、残されていなかった。

 

「英雄といえど、二本足で戦うものにとって、この足場は如何にも戦い難かろうなあ。蛇の血は、油が多い。彼奴にしてみれば、氷の上で戦うほうが、まだやり易かろうよ」

 

 ただでさえ滑らかな、大理石の床。

 その上に、満遍なく敷かれた、蛇の血液。

 それが、彼の足場の摩擦係数を、極度に減らしていた。

 彼の、押さえの利かない怪力、それが仇となる。

 立ち上がることが出来ない。

 仮に立ち上がることが出来ても、踏ん張ることが出来ない。

 仮に踏ん張ることが出来ても、攻撃を受け止めることが出来ない。

 滑る。

 何もかもが。

 手に馴染んだ岩剣ですら、彼の意志を裏切るかのように。

 ぬるり、ぬるりと。

 彼のように、白兵戦しか戦闘手段を持たないものにとって、確かにここは死地であった。

 そして、何より致命的だったのが、彼の性質。

 彼が、深い理性を湛えた本来の彼であったならば、この状況を打破する策の一つや二つ、容易に講じることが出来ただろう。

 しかし、彼は狂戦士。

 只管に殺し、只管に敵に向かい、只管に剣を振るうしか許されない、呪われた存在。

 彼に、理性など残っていない。

 故に、彼は動けない。

 そして、彼が完全に狂いきっていたならば、その本能をもってこの場から逃げ出していたかもしれない。

 状況さえ変わるならば、やはり彼は最強だ。

 壁の隙間から見え出す外の世界に戦場を移すことが叶えば、やはり互角以上の戦いは望めるだろう。

 しかし、彼は彼女の従者。

 致命的にまで狂いながら、その背中は常に彼女を守り続ける。

 その、理性とはいえない理性。

 あえて言うならば、英雄として刻まれた、本能。

 人を救うという、宿命。

 そして、彼女との、絆。

 それが、彼を縛った。

 故に、彼は動けない。

 つまり、単純な話だった。

 彼は、勝てない。

 勝敗が決するのが、早いか遅いかの違いだけ。

 あと、命のストックが何個あろうが話は変わらない。

 結論は、出ている。

 そのとき、狂戦士が、己の運命に抗うように、か細く吼えた。

 

episode56 マキリ臓硯

 

「理解できぬか、アインツベルン、何故ヘラクレスが勝てぬかを」

 

 足元から、声がした。

 意識が、違うどこかから戻ってきた。

 

「本来ならいかにメデューサといえ、怪物というカテゴリに含まれる以上、ヘラクレスには勝てぬ。それは間違いない」

 

 気付けなかった。

 足元。

 階段の、下。

 そこから、しわがれた、粘着質な声が、した。

 

「しかし、それはヘラクレスが力において勝るからではない。技において勝るからではない。人が怪物に勝るのは、その知と理性よ」

 

 こつり、こつり、と。

 殊更ゆっくりと、奴が階段を上がってくる。

 その背後に、隠しきれない何かを従えながら。

 きちきちと、軋る何かを従えながら。

 

「人はその知で怪物に立ち向かい、その理性で怪物を打ち滅ぼす。その両輪を欠いたヘラクレスなど、既に英雄と呼べるものではない。ならばそれは只の化け物。化け物同士の戦いならば、より深い年輪を刻んだメデューサに分がある。故にこの勝負、ヘラクレスでは勝てぬのだ」

 

 理解できたかな?

 彼はそう言って、それから痙攣するように、低く笑った。

 

「しかし、既に貴様が学ぶ時間は終わっている。後は、精々後悔するがいい。貴様になど、生きる価値は無いのだから」

 

 彼の背後の影が、盛り上がった。

 膿を搾り出す寸前の痤瘡のように。

 

「さて、如何様に死にたいかな?まずは、人の形を残したいか否か、それから問おうか」

「ふざけるな、下種が!」

 

 魔力。

 何の加工も加えない、純粋な魔力を、そのまま弾丸に変えて叩きつける。

 指向性をもった魔力の渦、それが奴の頭部を弾き飛ばす。

 鼻から上、そこをからにして、しかし奴は笑い続ける。

 それは、悪い冗談みたいな光景だった。

 

「蟲の快楽で狂死するのがお好みか?それとも、女陰から臓物を引きずり出してやろうか?耳から脳髄を啜られるというのはどうかな?」

 

 臓硯の影から溢れ出した蟲が、消し飛んだ頭部に集まった。

 うぞうぞとした細かい蟲が、やがて人の形を作っていく。

 駄目だ。

 私では、こいつに勝てない。

 

「決めたぞ。全てだ。全てを味あわせてやろう。感謝するがいい、人形よ。貴様のように作られた存在には、過ぎた贅沢よ」

 

 口元を愉悦に歪ませながら、しかし奴は笑っていなかった。

 その目に宿ったのは、怒り。

 隠し切れない、憤怒。

 ひっ、と、情けない声が漏れた。

 思わず、後ずさる。

 こいつは、何者だ。

 何者だ。

 知らない。

 こいつは、知らない。

 こいつは、誰だ。

 一体、誰だ。

 私は、逃げた。

 敵に背を向け、恥も外聞も無く、逃げた。

 駄目だ。

 こいつには、勝てない。

 何かが、違う。

 こいつは、何かがずれている。

 

「お嬢様!」

 

 声が。

 セラ。

 

「イリヤを虐めるやつ、許さない」

 

 リズ。

 手には、長大なハルバート。

 私の、大切な人達。

 駄目。

 貴方達でも、勝てない。

 

「Verbrennung、Die Atmosphäre、In Asche!」

 

 セラの魔術。

 大気が、燃える。

 臓硯が、燃えている。

 きいきいと、蟲達の断末魔が、響く。

 それでも、奴は歩を休めない。

 

「この程度か、アインツベルンのホムンクルスよ。いや、所詮は聖杯に成り得なかった出来損ない、過分な期待は酷に過ぎるか」

 

 こつり、こつり、と奴が歩を進める。

 不快な焦げ臭さを纏わりつかせながら。

 

「それ以上イリヤに近付くな」

 

 リズ。

 自慢のハルバートを振りかぶって。

 跳躍。

 そして、轟音。

 壁に、リズと、セラが。

 

「がは!」

 

 犬が鳴くような、悲鳴。

 二人が、血の塊を、吐き出した。

 哄笑する、臓硯。

 奴の後ろに、巨大な蟲が。

 蟷螂と蠍を組み合わせて巨大化させ、悪意で彫り上げたかのような形状。

 幻想種。

 明らかに、臓硯よりも巨大な魔力。

 まさか、使い魔?

 ありえない。

 主人より強力な使い魔など、ありえない。

 これは、なんだ。

 こいつは、なにものだ?

 

「さて、まずは気の狂わんばかりの快楽、であったかな?」

 

 ぼとぼとと、赤黒い蟲が、天井から落ちてきた。

 まるで、男性器のような、卑猥な形状。

 淫蟲。

 忌まわしき、マキリの魔術。

 

「安心するが良い、気付けば、何も分からぬ白いところにいる。経験者が語るのだ、間違いないぞ」

 

 くつくつと、奴は嗤う。

 びちゃびちゃと、蟲が、跳ね回る。

 嫌だ。

 嫌。

 助けて。

 誰か。

 蟲が。

 蟲が。

 蟲が蟲が蟲が。

 

「イリヤ!」

 

 声、が。

 

「イリヤから離れろ、てめえ!」

 

 人影。

 私と、蟲の間に。

 背中。

 大きい、背中。

 切嗣。

 ああ、違う。

 彼じゃあない。

 シロウ。

 私の、弟。

 

 

 化け物と化け物が殺し合う、戦場。

 その間近。

 僅かに頭上で対峙したのは、魔術使いと魔術師。

 一人は、若い。

 その面影には、若者だけが持つ青臭さと、等量の可能性が色濃い。

 錆び色の瞳、少し癖のある赤毛。

 一人は、既に百を超えた老人の風貌。

 落ち窪んだ眼窩は、一体どれほどの絶望を飲み込んできたのだろうか。

 そんな二人が、対峙した。

 もし、魔道に身を捧げた時間がその実力を決定するならば、二人の間には埋め難いほどの力の壁が存在する。

 若者は、逆立ちをしても勝てまい。

 しかし、その瞳に宿った炎の色は、不屈。

 ゆるりと構えた双剣。

 その様は、歴戦の騎士のよう。

 そして、相対するは、理想の残骸。

 文字通り、残骸。

 その瞳には、驚愕。

 いや、もっと粘ついたもの。

 恐怖。

 恐れ。

 唇を戦慄かせ、後ずさる。

 それは、明らかに脅えていた。

 何に脅えていたのか、分からない。

 それでも、明らかに脅えていたのだ。

 

「何故だ……何故、貴様がここにいる!」

 

 そのとき。

 怪老が何かを恐れ、後ずさったとき。

 ホールを埋め尽くす大蛇の群、その中の一匹が、その腐った視界に、若者の姿を収めた。

 蛇は、一瞬考えた。

 あれ、何だろう、と。

 可愛らしく、小首を傾げて、考えた。

 その退化した記憶力を総動員して、思い出そうとした。

 僅かな間。

 そして、蛇は狂喜した。

 思い出した、と狂喜した。

 ああ、獲物だ。

 確かに、獲物だ。 

 あの時仕留めそこなった、可愛らしい獲物が、ここにいる。

 彼女は、彼を愛でたときの快楽を、今だ忘れていなかった。

 殴っても、蹴りつけても、立ち上がった、彼。

 涙を流し、小便を漏らし、絶望に抗いながら、立ち向かってきた、彼。

 ああ、彼がいる。

 それは、恋にも似ていたかもしれない。

 幸い、目の前にいる巨人は、既に脅威ではない。

 彼と遊ぶのもいいだろう。

 新たなる快楽の予兆に胸を躍らせながら、彼女はその紅い瞳で、愛しい人を、見つめた。

 

 

 醜悪な、蟲。

 不快な、蟲。

 卑猥な、蟲。

 這いずる。

 飛び掛る。

 落下する。

 払い除けた。

 踏み潰した。

 叩き切った。

 身体が、軽い。

 ここまで。

 これほどか。

 強くなったと思う。

 キャスターの魔術の効果が、まだ残っているのかもしれない。

 それでも、強い。

 肉体的なものではない。

 精神的なものでもない。

 もっと、根源的なもの。

 存在そのものの強度。

 それが、強くなった気がする。

 理由は、明白だ。

 理解したから。

 自分の存在価値を、理解した。

 存在理由を、理解した。

 自分が何のために生きるべきか。

 何を目指し、何を求め、何に縋っていくべきか。

 それを、理解した。

 道が、見えた。

 一度は消えかかった道だ。

 きっと遠大で、空虚で、荒廃した、道。

 その先に何があっても、構わない。

 何があっても拒否しない。

 幸せがあるならば、それを受け入れる。

 絶望があるならば、それを受け入れる。

 何も無いならば、それを受け入れる。

 その覚悟。

 簡単なことだった。

 借り物の理想。

 正義の味方の偽者。

 それでいい、それでかまわない、それを、受け入れる。

 ならば、あとは簡単だ。

 進めばいい。

 助けるだけだ。

 あれほど重たかったあの誓いが、今は羽根が生えたように軽く感じる。

 無心で、剣を振るう。

 右手で振るう。

 左手で振るう。

 右足で振るう。

 左足で振るう。

 爪先で振るう。

 指先で振るう。

 拳で振るう。

 背骨で振るう。

 筋肉で振るう。

 骨格で振るう。

 脳味噌で振るう。

 精神で振るう。 

 殺意で振るう。

 理想で振るう。

 本能で振るう。

 振るう。

 振るう。

 振るう。

 いつしか、蟲はいなかった。

 切り刻まれた、蟲の残骸が、あった。

 目の前には、何も無かった。

 そして、目の前に、老人が、いた。

 マキリ臓硯。

 堕ちた魔道、マキリの当主。

 かつて桜を苦しめ、今、イリヤを脅えさせる、敵。

 俺の、倒すべき、敵。

 人の寿命を基準とすれば、無限ともいえる時を魔道の探求に捧げた、魔人。

 本来ならば、俺程度の存在、纏わりつく羽虫よりも軽いだろう。

 だからこそ、奇妙だった。

 その、瞳。

 落ち窪んだ眼窩。

 そこに宿った光。

 それは、脅えだった。

 紛れもない、恐怖。

 予想外の事態が起きた、それに対する驚愕もあるだろう。

 そもそも、俺がここにいることなんて、彼の既定事項からは外れているはずだからだ。

 それでも、それだけではない。

 まさか、俺に脅えているのか?

 俺に殺されると、脅えているのか?

 否。

 俺だって、馬鹿じゃない。

 そこまでの自惚れは、いくらなんでもできない。

 こいつは、あの凛と互角以上に渡り合ったのだ。

 大体の話は聞いている。

 奴の背後に控える、巨大な蟲。

 蟷螂のような複眼、しかし、蠍のような毒の尾。

 きらきらと、不吉に光る金剛石の体。

 あれは、あの夜に、凛がやっとの思いで退けた幻想種と同じものだろう。

 ならば、俺にあれが倒せるか?

 わからない。

 やってみないと、わからない。

 しかし、容易ではないだろう。

 それくらいは、わかる。

 いや、正直に言おうか。

 俺では、あれに勝てない。

 不可能だ。

 明らかな力の差。

 例えば、サーヴァントと対峙するほどの絶望的なものではないにせよ、幸運だけでは埋められない、差。

 それが、ある。

 だから、俺ではマキリ臓硯に勝てない。

 少なくとも、普通に戦ったのでは、だ。

 限界を超えれば?

 限界を超えて魔術回路を酷使すれば?

 それこそ、わからない。

 だが、有利なのはあちらさんだ。

 奴が脅える理由など、どこにあるというのだ。

 

「何故だ……何故、貴様がここにいる!」

 

 意味不明な呟き。

 そこには、絶望といってもいい、深い嘆きがあった。

 奴は、大きく口を開いたまま、固まっていた。

 まるで、閉じる事を忘れてしまったかのように。

 喘ぐように開かれた口、その端から、濁った涎が滴り落ちる。

 魂が、丸ごと抜け落ちてしまったかのような、その様子。

 それは、一縷の哀れみを覚えさせるのに、十分だった。

 

「ありえん……何故……どうして……」

 

 焦点を失った瞳。

 俺を指して、そのままわなわなと震える、枯れ枝のような指。

 よたよたと、酔っ払いのように、後ずさる。

 流石に、不審を覚える。

 何が言いたい?

 そう、問いただそうとした、その刹那。

 限りなく凶暴な何かが、ホールの方から、すっ飛んできた。

 一体、何が?

 そんなこと考えている余裕なんて、無い。

 とにかく避けないと、死ぬ。

 いや、死よりも酷い目に、合う。

 後ろに、イリヤ。

 抱えて、思いっきり、跳ぶ。

 後頭部に、凄まじい擦過音。

 寒気のする、空気の流れ。

 そして、凄まじい轟音。

 大理石の壁が、紙細工のように爆ぜた音。

 城が悲鳴をあげているかのよう。

 腕の中のものを、卵のように大切に抱いたまま、地面に倒れ伏す。

 肘が、地面と擦過する。

 嫌な熱。

 顔を顰めつつ、後ろを振り返る。

 そこには、黒く巨大なチューブのようなものが、突き刺さっていた。

 悪い冗談みたいな、光景。

 一体、何がホールにいるのか。

 視線を、横に。

 

「やめろ!見るなぁ!」

 

 怪老の、悲痛な、叫び。

 しかし、遅かった。

 俺の視界に、赤い瞳が。

 赤い、瞳が。

 赤赤赤い赤赤い赤赤赤いいいいい赤い赤い赤赤い赤い、世界が。

 赤い世界が。世界が。赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤世い赤い赤世界が。い赤い赤い赤い

 赤い赤い赤い赤い世界が。赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い

 赤い赤い赤い赤い赤赤い赤い赤い赤い赤世界が。い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い 

 赤赤赤世界が。世界が。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤

 赤赤赤世界が。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤 

 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤世界が。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤 

 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤世界が。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤世界が。赤赤世界が。

 

 

 喚いていた。

 老人が、喚いていた。

 口角泡を飛ばすような様で、見苦しく、それでも必死に。

 その瞳の先には、己の従者。

 黒々とうねる、蛇の塊。

 それを相手に、老人は、喚き散らしていた。

 

「分をわきまえよ!貴様に課した使命は、そこな狂戦士の抹殺!それ以外の行いは、許可した覚えは無い!」

 

 言葉の通じるかどうかも知れない怪物を相手に、マキリ臓硯は、必死に訴えかけていた。

 私の腕の中には、意識を失ったシロウ。

 ぱきぱきと、耳を塞ぎたくなるような音が、彼の四肢から響く。

 

「『私が指令を下すまで、自衛以外、独断で動くことを禁じる』、令呪をもって命じた令を、忘れたか!」

 

 原因ははっきりしている。

 あまりにも有名な、伝説。

 彼女の瞳を見たものは、石くれと成り果てる。

 それこそ、幼児でも知っているような、伝説。

 彼は、その実証者となってしまったのだ。

 助ける術は? 

 無い。

 おそらく、術者が死ぬか、解呪を施さない限り、この石化は止まらない。

 ならば、私が為すべきなのは、目の前の男に、この呪を解かせること。

 彼は、ゴルゴンの主なのだ。

 彼が命じるならば、この石化は止まるはず。

 なのに。

 

「疾く、この術を解け!疾く、疾く、疾く、疾く、疾く!」

 

 誰よりも慌てていたのは、かの老人だった。

 誰よりも慌てふためき、滑稽なほど狼狽していた。

 その様は、いっそ哀れなほどだった。

 哀れなほど、何かを恐れ、何かを愛し、この上なく狼狽していた。

 その狼狽振りは、私に、失われた冷静さを取り戻させるほどだった。

 何故?

 何故、彼がこれほど醜態を晒さねばならないのか。

 この上ない勝利のはずだ。

 バーサーカーは敗れ、私は奴に歯が立たない。

 イレギュラーで参戦したシロウも、彼の従者の前に敗れ去った。

 これ以上の戦果があるだろうか。

 なのに、何故。

 シロウが生きていないと、この老人に、何か不都合でもあるというのか。

 いや、そうではあるまい。

 もっと、単純なところだ。

 もっと単純なことで、彼は恐怖している。

 何に?

 きまっている。

 シロウが、死ぬことに、だ。

 

「おのれ、おのれ、おのれ、怪物め!これが貴様の復讐かぁ!」

 

 彼の背後から、無数の蟲が涌いた。

 見たことも無い、奇妙な蟲の、群。

 それが、一斉に、彼の従者を襲う。

 奇妙な、構図だった。

 おそらく、長い聖杯戦争でも、一度として見られなかった構図ではないだろうか。

 マスターを殺すサーヴァント、そんなものはいくらでもいただろう。

 令呪の力でサーヴァントに自害を命じるマスター、それもいたかもしれない。

 しかし、サーヴァントを、令呪に力を用いずに殺そうとする、マスター。

 そんなもの、この儀式の本質から考えて、生じるはずのない戦いだ。

 そして、絶望的な戦い。

 蟲が、砕けていく。

 文字通り、虫けらを潰すかのように。

 蛇が身を捩るだけで、いとも容易く。 

 それは、一際大きな魔力を貯えた、あの幻想種でも同じこと。

 耳を劈くような奇声をあげて、蛇に切りかかっていったが、その巨大な顎、その中にまるで吸い込まれるようにして消えていった。

 ごくり、と。

 一飲みだ。

 数瞬、蛇の喉元辺りが蠢いていたが、やがてそれも収まった。

 

「嘘だ、おのれ、何故!何故、こんなことに!くそ、おかしい、なんで!どうして!違う、こんなものは、わたしののぞみでは…」

 

 老人の声は、突然、消えた。

 当然だろう。

 蛇の体内に飲み込まれて、それでも喚き続けられるはずが、ない。

 老人を飲み込んだ大蛇は、満足気に、その細い舌で唇を舐め取った。

 ちろり、と。

 そして、その溶け出しそうな白目で、私達を見た。

 大きく口を開けて、さも嬉しそうに。

 これから私達が誘われる空洞を、その口の中に、見せびらかす様に。

 次は、お前達だ。

 そんな、声が、聞こえた。

 私は、シロウを強く抱きしめた。

 せめて、最後は一緒に。

 それが、最後の思考だった。

 



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episode57 エミヤシロウ

 それを、何と呼べばいいのか。

 形だけ見るならば、それは槍、それもランスと呼ばれる、巨大な馬上槍だった。

 長さは、5メートル、重さは10キロにも届くだろうか。

 重く、しなやかな穂先、それが大理石の天井にめり込んでいた。

 

 用途だけを考慮するならば、それは待ち針であった。

 例えその針がどれほど大きかろうが、例え縫い付ける対象が古代ギリシャの蛇神であろうが、その用途が対象を縫い止めるということに使われるというのなら、やはりそれは待ち針なのだろう。 

 

 そして、その射出方法のみを考えるならば、それは間違いなく矢であった。

 剣だろうが馬上槍だろうが。

 相手を射殺すために使われようが相手を縫い止めるために使われようが。

 それが弓から放たれたものならば、弓兵が放ったものならば、それはやはり矢と呼ばれるのだ。

 

 だから、それは、矢だったのだ。

 少女と少年、二人をまさに飲み込まんとしていた、巨大な蛇、そのちょうど両の目を、一矢にて貫き、縫いとめる神技。

 崩れた外壁、そこから覗く、あまりに頼りない陽光。

 それを背にして、弓兵は、皮肉気に頬を歪ませた。

 

episode57 エミヤシロウ

 

 蛇は、激怒した。

 その身を捩るほどに、激怒した。

 獲物は、目の前だったのだ。

 それを、喰らおうと思っていたのだ。

 もちろん、噛み砕こうとは思わない。

 彼女の中で、しゃぶりつくそうと、思っていた。

 消化なんて、してあげない。

 永遠に、永遠に、彼女の中で、慈しもうと、その魂までもしゃぶりつくそうと、そう思っていた。

 傍らに目障りな人形がいるが、こちらは丁寧に噛み潰してやれば問題ない。

 彼は、飴玉だ。

 ころりころりと、口中で舐め転がし、徐々に、本当に少しずつ、悠久の時をかけて溶かしていってあげようと思っていたのに。

 突然、名も知らぬ闖入者が、無礼にもそれを邪魔したのだ。

 彼女は、身を捩った。

 その度に、豪奢な調度が、大理石の建築物が、破砕音の断末魔をあげる。

 許さない。

 許さない。

 許さない。

 その紅い瞳。

 そこに映ったのは、赤い騎士。

 一度は彼女に、瀕死の重傷を負わせた、騎士。

 それでも、そんなことすら、彼女の意識には胡乱過ぎる。

 彼女は、ただ怒っていた。

 怒りすら霞むほどに、怒っていたのだ。

 

 

 襲い来る、無限の大顎。

 その一つ一つが、私を丸呑みにして余りある、大きさ。

 到底、干将・莫耶では対応しきれない。

 そもそも、これらの頭を削ぎ落としたところで、アレに致命傷を与えることは叶うまい。

 これは、彼女の末端。

 精々が、掌や足の甲。もしかしたら、爪とか髪の毛とか、それくらいに痛痒も感じないパーツなのかも知れないのだ。

 だから、如何にして彼女の本体を叩くか。そこが勝負の分かれ目になるだろう。

 

「そうなると、やはりきついか……」

 

 彼女の本体。

 まるで、石のような重圧を投げ掛けて来る、怪物メデューサの大本。

 そこには、当然存在するだろう。

 神話に名高い、『キュベレイ』、最高位の魔眼、『宝石』。

 そもそも、魔眼とは術者の視界に存在する全てのものに問答無用の束縛をかける反則染みた魔術だが、対象者が術者の目を見ればその効果は飛躍的に上昇する。

 今、私は彼女の瞳を視界に入れていない。

 それでも、冗談みたいなプレッシャーが全身を覆っているのだ。これで彼女の瞳を見た日には、ほぼ間違いなく身体の自由を奪われる。

 それは、このとき、この場においては、逃れられない死を意味する。

 だから、本体を狙うことが出来ない。

 かといって、それ以外の箇所を狙ったところで、彼女に致命傷を与えることは不可能だ。それに、そのように無駄な魔力、私には存在し得ない。

 だから、かわす。

 今は、それしか出来ない。

 それも、いつまでも持つまい。

 頼む、凛、早く、あの馬鹿者を助けてやってくれ。

 長くは、持たないぞ。

 

 

 血臭。

 それも、腐って、発酵の進んだ、それ。

 肺が、腐りそうだ。

 いや、とっておきの宝石、それを飲み込んでいなければ、事実、私は窒息して死んでいただろう。

 それほどに、ここは人のいるべき空間ではない。

 そこを、走り抜ける。

 ばしゃりと、血が跳ね散る。

 思わず足を取られそうになるが、構っていられない。

 

「Es ist gros、Es ist klein…!」

 

 重力制御の呪文。

 それで、なんとか体を安定させる。

 後ろから、寸分違わず同じ呪文が。おそらく、桜だろう。

 桜、そしてセイバー、キャスター。

 セイバーは、血の泥濘の上を、滑るように走る。湖の妖精の加護とやらは伊達ではないらしい。

 キャスターは、そもそも地に足をつけていない。同じ魔術師として嫉妬を感じるが、力の差と、現在置かれた状況を考えれば、そんなことは意識の埒外だ。

 

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ!」

 

 走る、走る、走る!

 幸い、階段は崩れ落ちていなかった。

 それでも、ぱらぱらと、小石が肩を叩く。

 崩壊が、始まっている。

 一刻の猶予もない。

 

「凛!」

 

 背後から、声が。

 それと共に、何かがこちらに向かってくる気配。

 しゅうしゅうと、この場を埋め尽くす腐敗した大気、それよりも更に濃厚な腐敗臭を撒き散らして、それが来る。

 だが、構っていられない。

 

「Neun、Acht、Seben、Stil、sciest、Beschiesen、ErscieSsung――!」

 

 振り返ることもなく、宝石を投擲。

 爆発音。

 確かな手応え、しかし、あまりに儚い手応え。

 これでは、倒しえない、そういう直感。

 急げ。

 急げ。

 階段を駆け上がる。

 黒い、影が。

 頭上に、蛇の、顎。

 不味い、反応が、遅れた。

 遅い来る、牙。

 しかし、それは私に届かない。

 何故なら――!

 

「――Ατλασ!」

 

 紡がれる、高速神言。

 

「サンキュ、キャスター!」

「急ぐわよ、長くは持たない!全く、アレの対魔力、セイバー並みよ!」

「そんなこと!」

 

 百も承知だ。

 階段が、終わる。

 そこには、四人の人影が。

 士郎。

 イリヤスフィール。

 おそらくは、彼女の御付きのメイドが、二人。

 

「なにやってんの!さっさと逃げるわよ!」

 

 振り返った彼女は、泣いていた。

 

 ぼろぼろと、歳相応の少女のように。

 

「リン……シロウが、シロウがあぁ……」

 

 彼女の、細い腕に抱きかかえられた、士郎。

 その手は、力なく垂れ下がり。

 その先端は、灰褐色の、石像と化していた。

 

「この、馬鹿……!」

 

 見たのだな、あの化け物の瞳を。

 いや、もしかしたら、瞳を向けられただけでこうなってしまったのかもしれない。

 それほどに、こいつの対魔力は脆い。

 私は、軽く頭を振った。

 そんなこと、今はどうでもいい。

 今は、とにかく逃げることだ。

 

「脱出するわ、イリヤスフィール、急いで!」

「でも、シロウが、シロウがあぁ……」

 

 ぱあん。

 高い音が、非現実に浸食された空間に、響いた。

 手が、ジンジンと痛む。

 きっと、彼女の頬も、同じくらいには痛いはずだ。

 

「ふざけるな、アインツベルン!そこで泣き叫んでいれば、満足か!それで、士郎は救われるとでもいうか!」

 

 彼女は、呆然と、私を見つめた。

 何かが、抜け落ちた、表情。

 そこに、徐々にではあるが、何かが満たされていく。

 怒りか。

 いや、違う。

 怯えか。

 そんなはずがないだろう。

 それは、誇り。

 一千年以上続いた、魔道の大家。

 その後継者としての誇りが、彼女の大きな瞳に、満ちていった。

 

「もしそうなら、士郎を寄越しなさい!貴方はここで死ね!私は、そいつを助ける!」

「リズ!」

 

 彼女は、素早く立ち上がった。

 その瞳に、もはや脅えはなかった。

 貴族としての、戦場で剣を振るうものとしての誇りが、そこにはあった。

 

「シロウを抱えて!離脱します!」

「了解しました」

 

 御付きのメイド、その一人が、軽々と士郎を持ち上げる。

 

「セラ!」

「はい、お嬢様」

「車の準備を!」

「了解しました」

 

 その声に、先ほどまでの弱弱しさは、微塵も見られない。

 強い。

 年端も行かない少女が、これほどまでに強い声を出し得るのか。

 そう、感嘆させるだけの強さと、そしてしなやかさが、そこにはあった。

 

「へえ、らしくなったじゃない、イリヤスフィール!」

「ええ、まるで遠坂みたいに粗野で、野蛮。全く、こんなの、お爺様には見せられない」

 

 彼女は、軽く溜息を吐いた。

 感謝の言葉は、無かった。

 代わりに、強がりも、無かった。 

 それが、この上なく彼女らしくて。

 私は、思わず噴き出した。

 

「はは、いいじゃない、あんた!ちょっと素敵よ!」

「ええ、リン。貴方と同じくらいには、きっと素敵!」

 

 私たちは、喧嘩する直前の猫みたいに、笑いあった。

 

「じゃれてるのもいいけど、さっさと離脱するわよ!」

「お願い、キャスター!」

 

 桜の、声。

 神代の魔術師が、にやりと笑った。

 

「――Αερο!」

 

 壁が、吹き飛ぶ。

 そこには、山の向こうに沈みつつある、西日が。

 軽やかな、大気。

 それを、深海魚みたいに、肺一杯に吸い込む。

 ああ、美味しい。

 空気が美味いとは、まさにこのことを言うのだろう。

 

「Es ist gros、Es ist klein……!」

 

 二度目の、重力制御。

 これは、私自身に掛けたものではない。

 士郎と、彼を抱える、イリヤの従者、二人に掛けたものだ。

 なにせ、今の彼は石となりつつある。

 その身体が砕け散っては、例え解呪が為ったとしても、彼が目覚めることは二度とない。

 そんなこと、耐えられない。

 だから、慎重に。

 

「感謝する、遠坂の魔術師」

 

 機械じみた、無機質な声。

 それでも、確かな信頼に値する、頼もしい声。

 

「そいつを傷つけてみなさい、地の果てまで追っかけて、殺してやるから」

「最大限の努力は払う、任せて」

「急いで、蛇が!」

 

 セイバーの声。

 それだけで、状況確認など終わっている。

 後ろは、振り返らない。

 高さへの恐怖なんて、とうの昔に捨て去った。

 だから、私は、宙へ。

 ふわりと、重力が、無くなる。

 そして、着地。

 そのまま、一目散に駆ける。

 駆ける。

 駆ける。

 そして、息が続かなくなったとき。

 やっと、立ち止まった。

 あたりを見回す。

 セイバー。

 キャスター。

 桜。

 イリヤスフィール。

 リズと呼ばれたメイド、そして、彼女の腕の中で、力無く項垂れた、士郎。

 セラと呼ばれたメイドは、既に姿が見えない。おそらく、車を取りに行ったのだろう。

 

「イリヤ、さっさとバーサーカーを戻しなさい!逃げるわよ!」

「……へえ、今、私を倒そうと、そう思わないの?」

「私達の力だけであの化け物を倒せるなんて、自惚れちゃあいないわよ!」

 

 それは、もはや自惚れというよりも自殺願望の域にある。

 力を失ったセイバー。

 対魔力の強い敵には、著しく相性の悪いキャスター。

 そして、アーチャー。

 この三人では、あの化け物を倒しえない。

 ヘラクレス。

 数多くの魔獣を屠った、化け物殺しの英雄。

 彼の存在は、不可欠だ。

 

「戻りなさい、バーサーカー!」

 

 イリヤスフィールの、全身に刻まれた令呪が、発動する。

 規格外の魔力の渦。

 その中心に、バーサーカーは、立っていた。

 身体には、傷一つない。しかし、何かが欠けている、そんな感じではあったが。

 そんな、あまりに逞しい鋼の従者に、彼女は優しく手を触れた。

 

「九回も死んじゃったんだね…ごめんね、痛かったでしょう……」

 

 まるで、巨木の幹のような太腿に、縋りつく。

 涙は、流さなかった。

 でも、それ以上に、悲しげな声だった。

「全く、アレは悪い冗談だな」

 

 

 背後から、声。

 振り返るまでもない。

 そこには、私の、私だけの、騎士が。

 

「ええ、全く。さ、逃げましょ、アーチャー」

「残念だが、それは出来ない」

 

 彼は、城の方を振り返った。

 そこには、崩壊しつつある居城と、そこから、まるで煙のように溢れ出す、黒々とした物体が、あった。

 いずれ、溢れ出す。

 それは、破滅というよりは生誕であり、その生誕は間違えなく破滅だ。

 

「あれはまだ生まれたてらしい。今、アレを殺さなければ、止め得る者はいなくなる。それは、この儀式の終焉であり、この街の終焉だ」

 

 言葉が、遠い。

 貴方は、一体何を言っているの?

 

「ここで、私が食い止める。君達はさっさと離脱したまえ。はっきり言って、邪魔だ」

 

 彼は、私達に、背中を向けた。

 それは、絶対の拒絶だった。

 駄目だ。

 何を言っても、彼は動かない。

 彼の覚悟は、動かせない。

 何故なら、彼はそういう存在だから。

 何度も夢に見たのだ。

 その愚直な生き方に、どれほど腹が立ったか。

 しかし、美しいと。

 そう、思ってしまった。

 だから、彼を止められない。

 彼を、止めてはならない。

 それは、彼の生を汚す行為。

 そんな権利、私には、いや、誰にも、ない。

 だから。

 だから、私は。

 

「遠坂凛の名において命ずる。アーチャー、石になることを禁じます」

 

 膨大な魔力の渦。

 それが、彼を包み込む。

 令呪は限定的であればあるほど、強い効果がある。ならば、たった一個に限定した命令、おそらく彼を守ってくれるだろう。

 

「……凛、君は正気か!」

 

 彼は振り返らずに、驚愕した。

 なぜなら、これは最後の令呪。獰猛なサーヴァントを御し得る、最後の頚木。

 わかっている。

 彼の言いたいことくらい、痛いほどわかっている。

 所詮、サーヴァントとマスターは、利害の一致を持って結ばれた主従。どれほど強い絆をもってしても、それは仮初のものに過ぎない。

 従順な振りを装って、飼い主の喉笛を噛み切ろうと涎を垂らしている忠犬など、それこそ数え切れないほどだろうに。

 だからこそ、最後の令呪は、一回目、二回目の令呪とは比較にならぬ意味を持つのだ。

 知っている。

 それくらい、知っている。

 それを承知で、思ったのだ。

 貴方に、勝って欲しいと。

 生き残って欲しいと。

 貴方を一人ここに残すことが、どれほど卑怯で、卑劣で、残酷かを知った上で、恥知らずにも願うのだ。

 もう一度、私の元に帰って来て欲しい、と。

 

「ああ、君は本当に愚かなマスターだ。白状しておくとね、凛、私は君が大嫌いだったのだよ」

 

 他愛もない憎まれ口。

 それが、どれほど貴重だろうか。

 

「ええ、知ってたわ。あれで隠しているつもりだったの?」

 

 涙が、溢れそうだ。

 

「ああ、一応はそのつもりだった。いつか、背後からその角の生えた頭を叩いてやろうと、そう思っていたのだ」

 

 でも、泣かない。

 

「じゃあ、許してあげる。どんなに叩いてもいいわ。だから、生きて帰ってきなさい」

 

 泣いたら、彼が悲しむじゃあないか。

 

「ああ、これはきつい命令を。いいか、もう君には令呪は残っていないのだ。無茶は言うものではない」

 

 だから、笑って。

 

「そう?じゃあ、こんな命令も、無茶かしら」

 

 笑って、見送らないと。

 

「どんな命令だね?」

「あいつをぶちのめしなさい、アーチャー」

「く、はは、はははっはははは!」

 

 彼は笑った。

 本当に、愉快そうに。

 嬉しかった。

 私は、笑わすことが、出来たんだ。

 お父様のときは無理だったけど。

 今は、大事な人を、笑わすことが、出来ました。

 救われましたか?

 ほんの少しでも、救われましたか?

 私は、ほんの少しでも、貴方の荷物を抱えることが、出来たでしょうか?

 涙が、視界を歪める。

 呼吸は、止める。

 息など、出来ない。

 息をすれば、嗚咽が漏れる。

 嗚咽は、彼の心を重くする。

 それは、荷物だ。重量だ。

 これ以上、彼に荷物を持たせてたまるか。

 だから、これは、意地。

 あまりにも、醜い、意地――。

 

「訂正しよう、君は最高のマスターだ」

 

 

 後ろで、少女が泣いていた。

 声は聞こえない。きっと、呼吸をすら止めているのだろう。

 私は、知っている。

 彼女が、最後の最後で、己の意地を張り通す強さを持っていると。

 だから、憧れたのだ。

 だから、眩しかった。

 尊くて、侵しがたく、故に偶像だった。

 それでも。

 それでも、君を、裏切った。

 泣いて縋りつく君の手を、振り払った。

 まるで、邪魔者を扱うように。

 だから、これは罰だ。

 この穢れきった身に相応しい、罰。

 だから、遠坂、お前が重荷に感じることなんて、何一つない。

 

「さあ、早く行きたまえ」

「バーサーカー」

 

 声が、した。

 イリヤスフィール。

 私の、妹にして、姉。

 私の聖杯戦争、私の救えなかった、命。

 しかし。

 もしかしたら。

 万が一、この世界なら。

 

「貴方は、彼を手伝いなさい」

 

 従者が、鋼の吐息で、それに答えた。

 

「先ほどの無様は何?たかがメデューサ如きに九度も殺されるなんて、恥と知りなさい」

 

 硬い、声。

 先ほどの凛と同じ、何かに耐える声。

 

「ここが、貴方の意地の張りどころ。貴方が大英雄ならば、耐え切って見せなさい」

 

 そして、彼女は言葉を紡ぐ。

 彼女が何を言うか、あまりにも明白だ。

 彼女の最強の従者、それを真に最強とする、唯一無二の、呪文。

 

「狂いなさい、バーサーカー」

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■―――――――――!!!!!!」

 

 巨人の雄叫びが、森の静寂を、破る。

 冷や汗が流れ出るほどの、死の気配。

 それが味方のものだとは、如何にも信じ難い。

 

「さあ、戦いなさい、バーサーカー。貴方には、それくらいしか価値はないのだから」

 

 その声も、泣いていた。

 知っているのだろう、これから彼が赴くのが、死地であると。

 蛇は、こうしている間にも、どんどん巨大化している。

 あれは、化け物ではない。

 既に、悪神の域に達しつつある。

 聞こえるのは、森の悲鳴。

 マナを吸い尽くされ、枯れ行く神木達の、断末魔。

「私も戦います」

 その声は、私の記憶の深奥に。

 鈴を転がしたような、しかし日本刀の鍔鳴りのような、心地よい、音色。

 

「駄目だ、今の君では、足手纏いにすぎん」

「しかし……!」

「セイバー」

 

 彼女は、押し黙った。

 私の言葉を正しいと認めたのか。

 それとも、これが私の最後の言葉だと、悟ってくれたのか。

 

「あの小僧を、頼む。頼りない奴だが、それなりに骨はある奴だ。鍛え直してやってほしい」

 

 それは、私の唯一の、心残り。

 何故、あの小僧のことが、こうも心残りなのか。

 その言葉は、今の私には遠すぎる。

 ただ、願う。

 セイバー。

 君の、その苛烈な人生の末に、幸おおからんことを。

 

「お嬢様」

 

 車のエンジン音。

 どうやら、お別れのときだ。

 

「アーチャーさん……」

 

 桜の、声。

 悲しげで、しかし戦士を見送る、女の声。

 

「アーチャーさん、私、貴方が大好きです」

 

 ああ。

 なんと、勿体無い。

 この世界の君は、救われた。

 あの小僧に、救われた。

 それだけで、あいつには生きる価値がある。

 少なくとも、この身よりは、遥かに。

 

「ああ、最高の賛辞だよ」

 

 緩やかに、ドアが閉められる。

 最後に、苦しげに呻く、私が、見えた。

 貴様にも、幸あらんことを。

 それが、最後の願いだった。

 車の後部座席で、雪の少女は、何度も彼の方を振り返った。

 ヘラクレスはその残滓を惜しむかのように、その方向を見た。

 私はその様を見て苦笑する。

 

「未練は断てたか、別れは済んだか。私はとうに終わっている」

 

 そう言うと、彼の口の端が微かに持ち上がった。

 多分気のせいだ。

 彼の理性は失われている。私の言葉など理解できるはずもない。

 言ってしまえば、今、彼が私に斬りかかってきたとしても何の不思議も無いのだ。

 しかし、彼の横顔には、信頼に値する、何かがあった。

 ああ、やはり、貴方は大英雄なのだ。

 謝罪しよう、貴方を狂戦士などと蔑んだことを。

 確かに、貴方はその鋼の身体と引き換えに、深く湛えた理性を失った。

 地を割り裂く剛腕と引き換えに、試練を越えて修得した技をも失った。

 それでも貴方は英雄たる資格だけは失わなかった。

 自らの死と引き換えに少女を守る大きな背中。

 それを持つだけで、貴方はやはり大英雄なのだ。

 ならば、この戦、勝ちだ。

 我らの、勝ちだ。

 ならば、何を恐れるか。

 

 ――I am the bone of my sword.

 

 ――Steel is my body,and fire is my blood.

 

 ――I have created over a thousand blades.

 

 ――Unknown to Death.

 

 ――Nor known to Life.

 

 ――Have withstood pain to create many weapons.

 

 ――Yet those hand will never hold anything.

 

 ――So as I prey――

 

 さぁ、行こうか、大英雄。共に誇ろう、此処が我等の死に場所だ。

 



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episode58 マキリ代羽

 吹き飛ばされた城壁。瓦礫と化したシャンデリア。泥とほこりに塗れ、襤褸と呼ぶにも憚られる絨毯だったもの。要するに、ここは既に廃墟だ。

 窓など見上げる必要はない。天井と外壁は崩れ、視界一杯に満天の星が広がっている。

 この城に着いたときは、まだ辛うじて昼だった。しかし、今空を支配しているのは漆黒。

 戦いは終わった。もっとも、それはこの場にいない者達だけについてではあるが。

 私は生き残った。

 呪われた蛇神は死んだ。狂える大英雄も、その役目を終えた。

 これで、帰ることができる。

 敬愛すべき、あのひねくれた、どこまでも真っ直ぐな少女の下に。

 きっとそれは、幸福とよばれる領域に属することなのだろう。

 瞼が重い。じっとしていたら夢の世界からの招待に膝を屈してしまいそうになる。

 そうすれば、きっと彼女は怒るだろう。

『この私に心配させて、のんきに眠りこけていたですって!?』

 真っ赤になりながら、そう叫ぶ彼女を想像して頬が緩む。

 ああ、それも悪くない。

 きっと彼女は筋違いな罪悪感に苛まれていることだろう。ひょっとしたら自分を捨て駒にしたとでも思っているかもしれない。

 ならば、少し意地悪をしてやるのもいい。そのほうが、きっと彼女は素直になれる。

 

 でも、まあ、すぐに帰ろう。

 

 なぜなら、私が我慢できない。あの少女を悲しませるなど、我慢できない。だから、帰ろう。

 崩れかけそうになる膝を叱咤し、霞む視界に喝を入れ、ゆっくりと歩を進める。

 足を進めるごとに膝が笑い、視界が歪む。

 なんだ、これでは家に着くにはいつになるか分からないじゃないか。自分でも分かるくらい疲労に満ちた苦笑が浮かぶ。

 それでも、足さえ動かせばいつかはたどり着けるのだ。比喩ではなく無限に続く苦役に耐え続けてきた私にとって、この程度の苦難は数えるにも値しない。

 歩く。

 思い浮かぶのは勝気な彼女の笑み。

 

『ええ、後悔させてね、アーチャー』

 

 歩く。

 思い浮かぶのは凛とした彼女の横顔。

 

『アーチャー、貴方に感謝を』

 

 歩く。

 思い浮かぶのは花が咲くような彼女の笑顔。

 

『アーチャーさん、私、貴方が大好きです』

 

 歩く。

 思い浮かぶのは必死な顔をした愚か者。

 

『……なあ……、アー……チャー、お……れには……、できな……かったよ……』

 歩く、歩く、歩く。

 

「こんばんは」

 

 声がした。

 凍えるような、冷たい声。

 同時に、冷たい何かが胸を貫いた。

 ああ、この感触はいつかも味わったことがある。

 反転する世界。

 近づいてくる地面。

 心のどこかで冷静に考えながら、同時に、私は、もうあの家には帰ることができないことを悟った。

 

episode58 マキリ代羽

 

 消え行くこの身に後悔は無い。

 ただ、ほんの少しの未練と、自らの運命に対する苦い失望があるだけ。

 無駄なことだとわかっていた。

 例え、無数に存在する世界の、全ての自分を殺し尽くしたところで、私が解放されることは無いだろう。

 だから、これは判りきっていた結果。

 別段、何が変わるわけでもない。

 次に目を覚ましたとき、私はやはり私なのだろう。

 輪廻から外れ、正義の虐殺を繰り返す。

 これは自分が望んだ結果。自分で選んだ理想。

 怨むなら、自分を怨むしかない。

 故に、自分を殺そうとした。

 そして、それすら成し遂げることは叶わなかった。

 期待は失望へとすりかわり、希望は悉く絶望へと反転した。

 もはや、私がこの世界にいる意味は失われた。

 ならば、おとなしく消え去るとしよう。

 願わくば、私が次に目覚めたときに、私が私ではありませんように。

 

「いい夜ですね」

 

 消滅の瞬間に備えて目を閉じた私の耳に、安らかな声が滑り込んできた。

 一刻と持たずこの世界から消える私に話しかけるとは、暇な人間もいたものだ。

 だから、私はこう答えた。

 

「ああ、いい夜だ。無様に消えていくには最高の夜だ」

 

 天に輝くのは小望月。満月に至らぬ半端さが、今の私に相応しい。

 

「ええ、本当その通り。今日の月は明るいわ」

 

 目の前に立つ少女。傍らには右手を朱に染めた暗殺者。

 この世界に召還され、幾度も見かけた少女。

 この世界の私の家にいた少女。

 なのに、私の記憶の琴線には、全く触れることのなかった少女。

 沈み行く太陽の残滓のような髪の色。

 白皙の肌。

 挑みかかるような瞳。

 彼女は言う。

 

「生きていくには長すぎる。死んでいくには早すぎる。儘ならぬ、ならぬが人生。消えていくなら昼よりも夜がいい。朽ちていくなら多くよりも独りが相応しい」

 

 人生という単語を使うにはあまりにも未熟な少女。朽ちた死人の口元に冷笑が生まれかけたが、しかしそれは未遂で終わった。

 かの少女の視線は中空を捕らえていた。視線の先にあったのは闇夜。月の明るさを讃えながら、その瞳はなお輝きを映していなかった。

 

「貴様の年齢で人生を語るとは笑止だな」

 

 冷笑の代わりに嘲りを加えて少女に問いかける。

 

「人生を語るに満ちる年齢などあるものですか。人は人生を語るとき、悉く己の狭量さを曝け出すのです」

 

 少女は微笑んでいた。消え行くこの身を慈しむが如く。

 

「ならば貴様はさぞ大きな器量を持っているらしい。自分だけを己の言の埒外において他者を批判するとは、小人の思惑とは思えぬな」

 

 下らぬ会話だ。野良犬の交尾の方がまだ生産的といえるだろう。

 

「いえ、私の器はとても小さい。だって、こうして消え行くあなたを見てもなんの感慨も涌かない。同情の言葉も、敢闘の労いも、慰めの台詞も浮かびません」

 

 少女の微笑み。虫唾が走る。

 

「同情などしてみろ。殺してやる」

「ああ、かわいそうな、哀れなアーチャー」

 

 にんまりとした笑み。

 しかし、少女の瞳に浮かんだのは嘲笑ではなく明確な敵意。

 こいつ。何者だ。

 少女は屈みこみ、私に顔を近づけてこう囁く。

 

「はっきり言っておきましょう。私はあなたが大嫌い」

「ほう、気が合うな。私は、私の次に貴様が嫌いだ」

「奇遇ですね、私もそう。あなたより憎むべき人間など、自分以外想像できない」

 

 そうだ。

 思えばこの世界は何かおかしかった。

 言葉にはできない違和感。

 桜が遠坂の姓を持っていたことなどではない。

 いや、それを含めて、もっと大きなところで何かが変質している。

 おそらくは平行世界。

 本質は同じ。しかし、根本的に破綻している。

 こいつだ。

 今、確信した。

 こいつが原因で全てがずれたのだ。

 

「あなたは英霊です。ならば成し得た何かがあるはずだ。なのに、何故自分が許せないのですか。認めることができないのですか」

 

 怒りを孕んだ視線。

 それは、上から同情をもって見下ろすでもなく、下から蔑みをもって睨目上げるでもなく。

 射殺すかのように、ただただ正面から挑んでくる。

 しかし、同時に違った感情の存在を感じ取ることができる。

 これは?

 

「私は英霊などではない。ただの掃除夫、世界の便利屋だ」

 

 抑止の守護者といえば聞こえはいいが、私がしてきたことといえば他人の尻拭いだけだ。

 自らのちっぽけな好奇心、もしくは虚栄心を満たすために、望んで破滅の扉を開こうとする愚か者達。運悪くそれに巻き込まれ、被害者でありながら罰せられる弱き者達。

 彼らの命は私にとって等価だ。

 いや、悉く命に価値などありえない。そうでなければ、そう思い込まねば、私は呼吸することさえ出来なくなってしまう。

「貴様に想像できるか?救いを求めることすら忘れてしまった子供達がどういう瞳を私に向けてくるのか。彼らは既に救いなど無いと知っている。しかし、終わりを求めているのでは、全てを受け入れているのではない。同時に人形ですらない。どこまでも人間でありながら、そのこと故に苦しまねばならぬ。私にできることは、全てを無かったことにするだけだ。どうだ、これが英雄の所業か!?」

 怨嗟。

 声を発した本人である私にすら、この声は無限の怨嗟を伴って響いた。

 死ね、消えうせろエミヤシロウ。貴様にこの美しい世界は不似合いだ。

 

「あなたのことなんて私は何一つ分からない。あなたの歩んできた道程の醜さなんて興味も無い。――でも。あなたの自分勝手さは許せない」

 

 耳のすぐそばで発せられた、震える声。

 ああ、わかった。わかってしまった。

 彼女の瞳に荒れ狂う感情。

 これは、嫉妬だ。

 

「あなたは人を助けることを望んだ。事実、あなたは数え切れない人を助けた。なぜなら、抑止の守護者が召還されるのは、人類の滅びの可能性を消し去るためだから。なんて幸運、なんて幸福。なのに、目に見える人達が救えなかっただけで自らを無価値と断じるその傲慢さは何故ですか。私はあなたが許せない」

 

 互いの吐息が交わり、一つのものとなる。

 視線は交錯し、しかし交わらない。

 

「違う。あんなもの、俺の望みじゃあない。俺は全てを助けたかった。みんなの涙を止めたかった」

「ならば、あなたは魔法使いを目指すべきでした。全てを幸福にするなど、人たるものの所業ではない」

 

 わかっていた。そんなこと、とうの昔にわかっていたさ。俺の目指した道は、どうやら間違っていたらしい、そんなこと、知っていた。

 だから、やり直しを求めたんだ。あの子達にしたように、全てを無かったことにしようとしたんだ。それのどこが悪い?

 縊るように睨む。

 初めて視線が交わる。

 鼻先が触れ合う、まるで口づける寸前の恋人のような距離。

 その距離で見た彼女の瞳は、黒曜石のように黒く。

 しかし、確かにどこかで見た気がした。

 いつだったか。

 遠い記憶と、近い記憶を思い返す。

 

「私はあなたを殺します。あなたの望みは叶えさせるわけにはいかない」

 

 その時、脳裏に一つの映像が浮かんだ。

 しかめっ面で、無愛想で。

 ソイツが腹の底から笑っている顔なんて、見たことも無い。

 ソイツの顔を見るときは、いつも無言。静寂とのお友達。

 ああ、なんだ、こいつは――。 

 

「ですが、安心しなさい、違う世界の衛宮士郎。あなたの望みは私が叶えましょう」

 

 その言葉と同時に、少女が手にしていた短剣は容易く私の胸を貫いた。

 既に、痛みなど感じない。

 気分は晴れやかだ。だって、私は勘違いしていたのだから。その理由が、わかったのだから。

 

「は、ははは、はははは」

 

 愉快だ、痛快だ、傑作だ、こんなに楽しい喜劇は初めてだ。

 死んでからこんなに笑うことができるとは、彼奴の言うとおり人生は儘ならぬ。

 

 なるほどなるほど。

 因と果が入れ替わったのだ。

 主体と客体が入れ替わったのだ。

 被害者と加害者が入れ替わったのだ。

 最初と最後が入れ替わったのだ。

 原因はこの女ではなかった。

 原因はこの女ではなかった。

 原因は、違和感の原因は――。

 

 

 細かい光の粒が舞い散る。

 幾千の蛍を思い起こさせるそれらは、私の中に舞い降りて。

 蛍のように、私の中を、食い散らかした。

 世界地図が破られる。

 地球儀が黒く塗りつぶされていく。

 記憶が、判別できない。

 これは私の記憶か?

 それとも、この身に巣食う、抜け殻の記憶か?

 

 風が、冷たい。

 私の中にある、彼の欠片。

 そこから流れ込んでくる彼の人生。

 こんなにも多くの絶望を。

 こんなにも多くの失望を。

 抱えたまま生きていくことのできる人間がいたのか。

 乾いた風。

 ひび割れた大地。

 千切れ飛ぶ淡雲。

 人を寄せ付けぬ、完成された世界。

 大槌と、金床の間で生まれて。

 なんて、かわいい人。

 なんて、かわいそうな人。

 

 わたしには、

 くらく、しめったせかいしかしらないわたしには、

 ひかりとどかぬいしのうらにしかいきられないわたしには、

 かわいたかぜが、

 かわいた

 かわいたかわいた

 かわいたせかいが

 こわくて

 おそろしくて

 のろおしくて

 どこまでもどこまでも

 うらやましくて

 ああ

 わたしは

 かれに

 なりたい

 な

 

「何をしている」

 

 かわいたこえ。

 

「何故立ち上がらぬ」

 

 あなたはだあれ?

 

「あの時の誓いは虚言か」

 

 あのときっていつ?

 

「私の望みを叶えるのでなかったか」

 

 あなたののぞみ?

 

「その程度か、我が主よ」

 

 あなたのおなまえおしえて。

 

「そこで朽ちるか、あなたの望みを抱いたまま」

 

 わたしののぞみ。

 

「あなたが奪った命に背を向けたまま」

 

 わたしがうばったいのち。

 

 わたしがたべたいのち。

 

 ああ、お父様。

 

「ならば、引導は私がくれてやろう」

 

 だめ。

 

 もう、にどと。

 

 あなたの腕を。

 私の血でなんて、汚させない。

 

「不要。私を誰と思っているのですか」

 

 自分の声とは信じられなくらい枯れた声。

 それでも、彼は笑ってくれた。

 

「なるほど、これはとんだ無礼を」

 

 脂汗で濡れた額を、彼が優しく拭ってくれた。

 ああ、今決めた。

 私は彼が大嫌いだ。

 

「礼は言いません」

 

 彼は蹲ったままの私に背を向けて、無言で姿を消した。

 その心遣いがほんの少しだけ。

 ほんの少しだけ、嬉しかった。

 



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interval8 King、Junkie、Canibal

 それは、まだ生きていた。

 あれほど巨大だった威容は、既に、無い。

 むしろ、微細。

 天にも届かんとするような巨躯は、大英雄の岩剣によって削り取られ、名も知れぬ英雄の操る名立たる名剣によって穿たれた。

 それは、死んだのだ。

 ゴルゴンと呼ばれた怪物は、間違いなく死んだ。

 しかし、彼女は生きていた。

 四肢を失い、僅かに身動ぎすることさえ許されない、体。

 だから、そこにあったのは残骸だった。

 鋼の鱗を毟られ、伝説に名高い魔眼を失い、蛇の頭髪をも失った。

 彼女を彼女足らしめる全てを失った残骸。辛うじて、その不死性こそが彼女を証明している、そう言えないこともなかったが。

 だからこそ、彼女は彼女に戻っていた。穢れた全てを祓い落とされたが故に。

 彼女は、瞳の無い眼孔で、空を見上げていた。

 光を映さぬ彼女の瞳が、ほんの僅かな熱を覚える。

 彼女は、それを月の暖かさだと思った。

 頬に伝う柔らかな液体の感触。

 彼女は、それを雨の雫だと思った。

 声帯を失った喉が、堪えきれずに震えた。

 彼女は、それを久方ぶりの寒さのせいだと思った。

 満天の星、それを統べるが如く君臨する、月。

 その下で、彼女は、ただ幸福だった。

 何が。

 そう問われても、彼女は答え得なかったかもしれない。

 それでも、彼女は幸福だった。

 己が己であること。

 己を己として認識できること。

 それが、彼女にはこの上ない救いだった。

 ああ、これで帰ることができる。

 どこに?

 どこかに。

 愛しい人達の待つ、どこか、尊い場所に。

 そう考えて、彼女は溜息を吐いた。

 ほう、と、心底幸せそうに。

 

「生き汚い」

 

 侮蔑の、声。

 彼女の全てを否定する、声。

 

「やはり、蛇如きに不死の神薬は過ぎたものであったか。これほど醜いものを見せつけられる日が来るとは、流石の我も思わなんだわ」

 

 ざくざくと、足音が近付いてくる。

 それは、死神の足音。

 不可避の死。

 しかし、それすらも彼女には幸福だった。

 この男。

 おそらくは、自分を見下ろす、男。

 空気を震わすような、威厳。

 彼女は、薄れ行く意識の中で、理解した。

 理屈などではない。

 直感だ。

 八人目のサーヴァント。

 おそらく、自分が今まで戦った敵の中で、最強。

 たとえ自分が万全であったとしても、歯向かい難い、敵

 

「宴も酣である。貴様が如き小物に許された演目は、とうに終わっている。ならば、疾く消え去るが礼儀であろう」

 

 ああ、と、彼女は微笑んだ。

 既に、笑みを作ることは、できない。

 だから、心の中で、微笑んだのだ。

 これで、終われる、と。

 もう、終わりにしてくれ、と。

 

「ただ、貴様の真の姿、あれは美しかった。貴様が貴様であろうと、醜く足掻くが故に、な」

 

 ばちん、と、男が指を鳴らした。

 聴覚以外の五感、その悉くを失った彼女は、知り得ない。

 彼の手に、異様な、剣とも呼べぬ剣が握られていたことを。

 

「これは王の褒美である。受け取るがよい」

 

 それが、彼女の聞いた最後の音。

 まるで、荒波の中の小船が如く弄ばれる、儚い意識。

 その中で、彼女は願った。

 次こそ。

 次こそは、愛しい人たちに、会いたい、と。

 

interval8 King、Junkie、Canibal  

 

 夢を、見ていた。

 遠い、遠い、最初の夢だった。

 私が私であると、そう思った、最初の夢だった。

 足を、動かしていた。

 果ての知れぬ、道。

 いや、道と呼べるものなど、ない。

 ただ、平面。

 地平線も、水平線も、見えない。

 暗い。

 何も、見えない。

 だから、本当は平面ではないのかもしれない。

 足を動かす。

 左足を前に。

 足を動かす。

 右足を前に。

 歩くのではない。

 ただ、足を動かす。

 前に進んでいるのか。

 それとも、実は後ろに引き摺られているのか。

 全てが、曖昧模糊としていて、不確定だ。

 座標が、欲しかった。

 自分の位置を教えてくれる、何かが欲しかった。

 自分が自分であると、胸を張れる何かが、欲しかった。

 足を、動かす。

 動かし続ける。

 一体、いつから。

 そうだ。

 眠る前からだ。

 眠る前から、足を動かし続けていた。

 そうだ、何かから逃げようとしていたんだ。

 何から? 

 そんなこと、すっかり忘れてしまいました。

 でも、ずっと、足を動かし続けていた。

 体が、軽かった。

 羽根が生えたように、軽かった。

 何か、抱えたものを落としたのか、そう思えるほどに、軽かった。

 右手が、冷たかった。

 さっきまで暖かい何かを握っていたはずなのに。

 暖かくて、柔らかくて、小さいもの。

 私が守るべき、もの。

 それを握っていたはずなのに。

 今は、軽かった。

 それでも、足を動かした。

 何故。

 もう、止まってもいいじゃあないか。

 少し休んでも、いいじゃあないか。

 誰も、怒らない。

 優しいお父さんも、綺麗なお母さんも、怒らない。

 だって、二人とも。

 二人とも。

 なのに、動かす。

 動かし続ける。

 もう一歩。

 あと一歩。

 少し、我慢してみよう。

 あと少しなら、我慢できる。

 それは、永遠に我慢できる、そういうこと。

 だって、私はそういうものだから。

 そういえば、私は誰だろう。

 思い出す。

 掴み取ろうとする。

 それでも、擦り抜けていく。

 掴もうとしたもの、やっと掴めたもの、その悉くが。

 するりするりと、笊の目を抜けるように。

 だから、私は叫んだ。

 自分が、自分であると、叫んだ。

 自分の名を、叫んだ。 

 そうだ。

 私の名前は――。

 

「ようやく目覚めたか」

 

 

「目覚めたか、主よ」

 

 その声が、痛かった。

 聞きなれたその声が、がんがんと、耳道の奥で反響する。

 耳から侵入した蟲が、直接脳を突いたときよりも、痛かった。

 思わず、蹲る。

 耳を、押さえる。

 相も変らぬ空腹が、空っぽの胃の腑を締め付けているが、それでも、耳が痛い。

 痛くて痛くて、死にそうだ。

 いや、死ねるのか。

 これで、ようやく死ねるのか。

 ならば、ならば私は――。

 甘い妄想。

 それに蓋をし、見たくも無い現実を凝視する。

 指を、喉の奥に突っ込む。

 そこを掻き回してやると、空っぽの胃が痙攣してくれた。

 

「ぐええ!」

 

 びしゃびしゃと、まるで酔っ払いの反吐のように、大量の胃液が逆流する。

 バケツをひっくり返したような、黄色い吐瀉物。

 喉が、焼ける。

 当然だろう。 

 純粋な、胃液。

 それも、私の胃液だ。

 肉を、人の肉を溶かすための胃液だ。

 ならば、私の肉だけが溶けない、そんなこともないだろう。

 しかし、こうでもしないと、胃液が胃を溶かし始める。

 胃が穿孔し、腹腔に、強力な酸が、ばら撒かれる。

 それは、耐え難い苦痛だろう。

 死を許されないが故に、死にたくなるほどの苦痛に違いない。

 

「ぐえ、おえええ!」

 

 びしゃびしゃと、胃液が流れ続ける。

 分かっている、これは必要だから分泌されるのだ。

 早く、肉を喰らえと。

 そうしなければ、どんどん腐る、と。

 腐って、微細になり、人の形を保てなくなる、と。

 知っている。

 そんなこと、熟知しているさ。

 でも、今は肉が無い。

 だから、我慢しないと。

 街に。 

 街に帰りさえすれば。

 そこには、肉の、群が。

 

「主よ」

 

 そっと差し出された、手。

 彼の、長い、左手。

 その上には、赤黒い、何か。

 ごつごつしていて、筋張っていて、グロテスク。

 

「干し肉だ。当座は――」

 

 彼の言葉は、耳に入らなかった。

 ひったくるように奪い取り、恥も衒いもなく、かぶりつく。

 がつがつと、犬のように。

 得体も知れぬ肉を、咀嚼する。

 味は、しない。

 せいぜいが、血の味がする程度。

 何の肉か、それすらも分からぬ、肉。

 それを、貪るように喰らう。

 涙が、出た。

 空腹を埋める、その満足の涙ではない。

 情けなくて、涙が出た。

 情けなくて、情けなくて、涙が止まらなかった。

 何故だ。

 何故、私はこうも浅ましいのか。

 己の不遇を呪うわけではない。

 むしろ、私は幸運だった。

 そのことについて、不平は無い。

 でも、何故。

 何故、私は、この人の前で、かくも醜い姿を晒さなければならないのか。

 地に蹲り、吐瀉物と泥に塗れた両手で肉を抱え。

 口角に黄色い涎を垂らし、くちゃくちゃと咀嚼音を響かせながら、肉を喰らう。

 それが、幸せなのだ。

 堪らなく、幸せなのだ。

 だから、情けなった。

 涙が、止まらなかった。

 私に忠誠を誓ってくれた、暗殺者。

 私如きの呼び声に応えてくれた、暗殺者。

 何度も助けられた。

 何度も救われた。

 その彼の前で、何故、このような醜態を晒さなければならないのか。

 不合理だ。

 不条理だ。

 そして、何よりも、醜悪。

 それが、堪らなく、嫌だった。

 

「醜い」

 

 ええ、その通り。

 暗殺者の声ではない、声。

 しかし、どこかで聞いた、声。

 私は、肉を喰らう。

 くちゃくちゃ。

 くちゃくちゃ。

 

「所詮は黒い聖杯、それに優美さを求めるのが間違いか」

 

 ええ、その通り。

 私は、貴方が感じている通りの存在です。

 私は、肉を喰らう。

 くちゃくちゃ。

 くちゃくちゃ。

 

「これが神の卵だと?ふん、コトミネも、流石に冗談の一つも覚えたか。興醒めだな」

 

 いつの間にか、肉がありません。

 もう、食べてしまいましたか。

 掌を、ぺろぺろ。

 指の先を、ぺろぺろ。

 指の股を、ぺろぺろ。

 ご馳走様でした。

 全然足りませんが、我慢しましょう。

 

「誅殺だ。貴様に納められた雑多な魂は、本来の在るべき器に収められるだろう。安心して、疾く、死ね」

 

 蹲ったまま、振り返る。

 そこには、男が、いた。

 金色の、男。

 輝く月の光、それさえ霞ませながら、男が、立っていた。

 

「貴方は……」

「ほう、今日日は犬も喋るか。賑やかなことよな」

 

 犬。

 地に伏せ、食器も使わずに肉を喰らう私には、この上なく正しい形容だろう。

 自嘲に頬が歪む。

 

「以前、一度お会いしましたね」

 

 

 それは、門の前だった。

 無骨は鉄の門、その前に、男が立っていた。

 月の無い夜空、しかし、その頭髪を街灯の光に弄らせながら、男が立っていたのだ。

 こそ泥などではあるまい。

 まして、女に餓えた下種の類でもないだろう。

 ならば、何者。

 そういぶかしみながらも、門を通り過ぎようとする私に、彼は悠々と話しかけてきた。

 

「今のうちに死んでおけ、いずれ、死にたくても死ねなくなるぞ」

 

 どくり、と、心臓がなった。

 きっと、その中に棲む大切な人も、驚いたことだろう。

 私は、振り返った。

 そこには、誰もいなかった。

 あれほどに圧倒的な存在感を放ちながら、いつの間にか男は消え失せていた。

 まるで、蜃気楼か何かだった。

 

 

「『今のうちに死んでおけ』、でしたか」

 

 男は、嗤った。

 赤い瞳に浮かんだのは哀れみではなく嘲笑。

 端正な唇を曲げていたのは、親愛の情ではなく傲岸の念ゆえに。

 それでも彼は美しかった。

 身に纏うのは黄金の覇気。

 いや、それは違うか。

 彼の覇気と同じ色を黄金と呼ぶのだ。

 彼の覇気と同じ色だからこそ、ただの金属に高い価値が与えられたのだ。

 そう確信できるほど、目の前の存在は気高かった。

 

「その通りだ。だから、我は忠告をしてやったというのに、その様か。どうだ?死は、どれほど貴様から遠ざかった?」

 

 その通りだ。

 この、浅ましい、身体。

 既に、死神からさえ愛想を尽かされた、身体。

 あまりに、醜い、身体。

 

「我が主を、侮辱するか」

「ほう、下賤な中毒者風情が、王たる我に意見するか」

「ふん、そんなもの、飽きるほどに殺してきたわ」

「王を僭称する紛い物、それを殺した数を誇るか。いいだろう、真な王にその薄汚れた刃が届くか、試してみるがいい」

「控えなさい、アサシン」

 

 右手が、輝く。

 これで、二回目の令呪。

 暗殺者は、姿を消した。

 すみません、アサシン。

 貴方の誇りを、踏み躙りました。

 この報いは、後ほど。

 それでも。

 それでも、今、貴方を失うわけには、いかないのです。

 

「申し訳ありませんでした」

 

 地にひれ伏す。

 頭は、上げない。

 目の前の地面を見つめながら、言う。

 

「従者の不徳は主たる私めの不徳。この罰は、如何様にでも」

「ほう、殊勝な心がけではないか。ならば、速やかに自害しろ。王たる我の手を煩わせるなど、不忠の極みであろうが」

「ご忠告、痛み入ります」

 

 声が、硬い。

 恐れているのだろうか。

 何を?

 死を?

 まさか。

 違う。

 私が恐れているのは、別のもの。

 

「しかし、この身は既に死を受け入れられぬ不良品。そのうえ、穢れた身には過ぎた望みを持ってしまった」

 

 そう、私が恐れるのは、志半ばにて、心挫けること。

 それは、あまりにも甘美だから。

 全てを放り出し、殻に籠もることが叶うなら、そこには、どれほどの幸せが――。

 

「死ねない。ええ、死ねません。死んでなるものですか」

 

 だから、見捨てない。

 もう、見放さない。

 祈らない。

 祈れば、心が折れる。

 振り返らない。

 敵は、前にいるのだから。

 この両の目は、前にのみ、ついているのだから。

 故に、この手は、彼のために。

 故に、この命は、彼のために。

 

「立ち塞がるのならば、殺します。私の望みを妨げるのであれば、例え神でも食い殺してみせましょう」

「我でも、か」

「貴方でも、です」

 

 彼は、笑った。

 声を上げ、腹を抱え、本当に愉快そうに。

 

「なるほど、神を、そして我を食い殺すか。口先だけとはいえ、その意気や良し。貴様に、聖杯たる価値を認めてやろう。精々、無様に這いずるがよい」

 

 声が、遠ざかる。

 どうやら、見逃してくれたようだ。

 

「だが、憶えておくといい。貴様が歩むは灼熱の地獄。空気が身を焦がし、倒れ伏した地面さえ貴様を焼き尽くすぞ」

 

 彼はそう言って立ち去った。

 少し、強い風が吹いた。

 ざわざわと、木々の木の葉を揺らす、不躾な風だった。

 だから、私の言葉は彼に届かなかったはずだ。

 

「その程度の地獄では、私は止まりません。なぜなら、私が生まれたのは、まさに貴方の言う、その灼熱の中なのですから」

 

 顔を上げる。

 そこには、誰もいなかった。

 それでも、予感があった。

 彼こそが、神父の鬼札。

 ランサーを凌ぐ、最強のカード。

 いずれ、私の前に立ちはだかるだろう。

 そのとき、私はどうするのか。

 果たして、勝てるのか。

 しばらく、そのままの、地に伏せたままの格好で、考えた。 

 そうしたら、ぐう、とお腹がなった。

 

「帰投します、アサシン」

 

 とりあえず、食事をしよう。

 人間、寒いときと空腹なときは、碌なことを考えない。

 まずは、食事を。

 女がいい。

 女の肉がいい。

 ごくり、と、喉が鳴った。

 人間であるために人間を食べ、どんどん、人間から遠ざかる。

 そんな皮肉に、思わず笑みが漏れた。

 



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episode59 早朝

 冷たい、冬の空気で、目が覚めた。

 胡乱な意識で、ゆっくりと身体を起こす。

 霞んだような視界の中、指先を見つめる。

 肌色。

 灰色では、無かった。

 石では、無かった。

 握る。

 動いた。

 開く。

 動いた。

 どうやら、本当に治ったらしい。

 とりあえず、生きている。

 のそり、と、布団から抜け出す。

 立ち上がると、目の前が真っ白になった。

 思わず、膝をつく。

 重度の立ち眩み。

 魔力が、底をついている。

 全く、桜め、やってくれる。

 苦笑が漏れる。

 それでも、立ち上がる。

 厚手のパジャマ、その上から、突き刺すような冷気が感じられる。

 身を縮こませながら、洗面所へ向かう。

 板張りの廊下が、冷たい。

 息が、白い。

 がらがらと、洗面所の扉を引く。

 鏡の前に立つ。

 蛇口を捻る。

 ばしゃばしゃと、水が流れる。

 まず、手を洗う。

 ばしゃばしゃと、揉むように。

 痺れるような水温。

 ばしゃばしゃと、洗う。

 綺麗になった。

 汚れが、落ちた。

 きれいさっぱり。

 掌にも。

 手の甲にも。

 如何なる汚れも、残っていなかった。

 それから、貌を洗う。

 ばしゃばしゃと。

 ばしゃばしゃと。

 

episode59 早朝

 

 台所には、既に人影があった。

 

「おはようございます、エミヤ様」

 

 その声は、聞きなれた声ではなかった。

 桜の声では、なかった。

 

「おはようございます、セラさん」

「朝食は、私が。エミヤ様はゆっくり休んでください。貴方は、まだ動けるような身体ではないのですから」

 

 そう言って、彼女は会話を打ち切った。

 黙々と、料理に打ち込む。

 窓の外は、まだ暗い。

 電灯に照らされた、台所。

 二人で作業をするには、少し狭い。

 俺は彼女に背を向けて、ゆっくりと台所を後にした。

 

 道場の扉に、鍵をかけたことは、無い。

 何故なら、そこに盗まれて困るようなものなんて、無かったから。

 がらがらと、扉を開ける。

 漆黒の空間。

 手探りで電気のスイッチを探す。

 そして、止めた。

 だって、こんなに暗いのだ。

 誰も、いるはずがない。

 この空間には、誰もいない。

 誰もいないなら、ここに来る意味も無い。

 俺はその暗やみに背を向けて、ゆっくりと道場を後にした。

 

 結局、ここに来た。

 始まりの場所。

 何も無い、場所。

 土蔵。

 雑多な空間。

 ガラクタ置き場。

 冷たい、石造りの室内。

 埃の匂い。

 薄ぼんやりとした、格子の外。

 セイバーの残滓。

 消えかけた、召喚陣。

 消えた、令呪。

 失った、絆。

 溜息。

 今、彼女はどうしているのか。

 お腹を空かしていないだろうか。

 凛も、桜も、料理が上手い。

 なら、その心配はないだろう。

 頬が、引きつった。

 それでも。

 ああ。

 彼女が、いない。

 それが。

 それが。

 どうしようもなく。

 

「お兄ちゃん」

 

 声。

 振り返る。

 青みがかった、大気。

 僅かな曙光。

 白金の髪。

 紅い瞳。

 

「イリヤ」

 

 俺の、妹。

 生きていた。

 死んでいなかった。

 救われた。

 彼女がいて、よかった。

 

「セラが呼んでるよ。朝ごはん、出来たって」

「ああ、すぐに行くよ」

 

 そう言って、ゆっくりと外に出る。

 それから、立ち止まる。

 首を捻って、後ろを見る。

 そして、扉の外から、乱雑な室内を見回した。

 予感があった。

 この光景を見るのは、最後になるだろう。

 そんな、予感。

 刻み込むように、見る。

 そして、頭を下げた。

 扉を閉めた。

 頑丈な、南京錠で施錠をした。

 鍵は、どこかに捨ててこよう。

 強化の魔術でもかけておけば、この鍵を断つのは不可能だ。

 これで、ここには誰も入らない。

 それでいいだろう。

 

 

 悪夢から目を覚ましたとき、そこには、皆がいた。

 凛がいた。

 桜がいた。

 イリヤがいた。

 セイバーがいた。

 キャスターがいた。

 セラさんがいた。

 リーゼリットさんがいた。

 そして、アーチャーだけが、いなかった。

 

「凛、アーチャーは……」

「死んだわ」

 

 単純明快で、一切の誤解を許さない返答。

 それは、救いだったのだろうか。

 涙が、溢れた。

 何故。

 己の内に、そう問うた。

 解答は、どこにも見当たらなかった。

 それでも、涙が流れた。

 

「ふう、ぐっ、ふぅぅっ……」

 

 得体の知れない、涙だった。

 気持ちが悪かった。

 それでも。

 それでも、悲しかった。

 別に、仲が良かったわけではない。

 むしろ、険悪だったのかもしれない。

 でも。

 彼がいないという事実が。 

 その事実が、どうしようもなく、悲しかった。

 

「ありがとう、衛宮君、あいつのために泣いてくれて」

 

 差し出された、ハンカチ。

 それを、拒絶した。

 服の袖で、涙を拭う。

 気付けば、凛も泣いていた。

 きっと、俺よりも悲しかったのだろう。

 桜も、泣いていた。

 何故だろう。

 何故、皆が泣いているのか。

 それが、分からなかった。

 それでも。

 それでも、あいつのために涙を流してくれる人間が、三人もいること。

 それを、あいつに教えてやりたかった。

 

 

「俺が気を失ってから、何があったのか、教えて欲しい」

 

 士郎は、赤く目を腫らしたまま、そう言った。

 

「貴方がイリヤを庇って臓硯の前に立った。そこまでは覚えてる?」

 

 彼は、しっかりとした瞳で頷いた。

 そこに、甘えはない。

 既に、事実を受け入れているのだろう。

 

「貴方、メデューサの瞳を見たのよ。そして、石化した。なんとか解呪は出来たけどね」

 

 

「何とかして、キャスター!」

 

 半狂乱の桜。

 走る車、その広い車内。

 そこを、絶望が満たしていく。

 パキパキと、硬質な音が、絶え間なく響く。

 それは、人の体が、人ではなくなっていく、音。

 たんぱく質が、石になっていく。

 大切な人が、じわじわと、石になっていく。

 荒く、細く、不規則な、士郎の呼吸。

 まるで、断末魔。

 いや、このまま事態が推移すれば、彼は間違いなく、死ぬ。

 死んで、石となる。

 そんな、最悪の妄想。

 脳髄に直接鑢を掛けられるような焦燥感。

 そして、絶望感。

 私には、どうしようもない。

 その、確かな直感と、無力感。

 イリヤも、セイバーも俯いている。

 歯向かいようの無い、強大な敵。

 それが、高笑いをしているようだった。

 

「……手段は、無いわけじゃあないわ」

 

 ゆっくりと、キャスターが言った。

 室内に、天使が舞う。

 福音を、救いのラッパを奏でながら。

 

「私の宝具なら、彼の石化を解くことも容易でしょうね」

 

 そうだ。

 あらゆる魔術を無に帰す、破戒の刃。

 何故、それに気付かなかったのだろうか。

 助かる。

 彼は、助かるのだ。

 

「でも、私の宝具は、それほど器用じゃあないの。問答無用で、彼に掛けられた魔術、その全てを破戒してしまうわ。それがどういうことか、分かるでしょう、セイバー」

 

 魔術の破戒。

 それは、つまり――。

 

「私とシロウ、その契約も破戒される、そういうことですか?」

 

 緊張した、セイバーの声。

 室内を、静寂が満たす。

 パキパキと、神経に触る音を除いて。

 

「……ええ、その通りよ。私に判断を下すことは出来ない。貴方が決断しなさい」

「私を愚弄するか、キャスター」

 

 瞳。

 セイバーの、聖緑の瞳。

 それが、確かに怒っていた。

 何に怒っているのか。

 己の誇りを汚した、キャスターの言葉か。

 いや、それは違うだろう。

 キャスターの言葉は、セイバーを気遣っていた。それを分からぬ彼女ではあるまいし、その心遣いに憤りを覚えるような小人でもあるまい。

 彼女が怒っていたのは、自分自身に対して。

 士郎を救うこともできず、本来敵であるキャスターに気遣われる自分。

 その事実に、何よりも彼女は怒っていたのだ。

 

「私は、彼の剣になると誓った身。主を見捨てて生き延びる剣に、如何程の価値があろうか。さぁ、キャスター。彼の呪いを、解いてやって欲しい」

「……わかったわ」

 

 彼女は、懐から歪な短剣を取り出した。

 七色に光る刀身。

 デフォルメされた稲妻のように捻じ曲がった刃。

 それを、士郎の胸に突き立てた。

 一瞬、車内に緊張が走る。

 それでも、彼女は落ち着いて、その真名を解放した。

 

「破戒すべき全ての符」

 

 光が、車内を満たした。

 一瞬、視界が漂白された。

 そして、それが収まったとき。

 安らかな寝息をたてる、士郎が、いた。

 指先は、まだ白い。

 それでも、じわじわと熱が戻りつつある。

 彼は、助かったのだ。

 ほう、と、溜め息が出る。

 桜は、泣いていた。

 嬉し涙を、流していた。

 それは、イリヤも。

 そして、ひょっとしたら、私も。

 

「はぁ、ぐっうぅぅ……!」

 

 苦悶の響き。

 小さな彼女が、身体を折りたたんで、苦しみもがいている。

 

「セイバー!」

 

 当然だ。

 もともと、彼女の魔力は、尽きかけていた。

 そして、剣の英霊に、単独行動のスキルは、無い。

 ならば、彼女は遠からず、消え去る。

 それが、摂理だ。

 

「……これで、いいのです、凛。私は、彼を巻き込んでしまった。彼は、戦うには優しすぎる。私が消えれば、彼も解放されるでしょう。……これで、いいのです」

 

 薄い、笑み。

 漂白されたような、綺麗な微笑み。

 私は、腹が立った。

 彼女の、潔さに、では無い。

 それを利用しようとしている、自分に、である。

 

「本当に、それでいいの、セイバー?」

「……どういうことですか、凛?」

 

 脂汗を額ににじませながら、彼女はそう問うた。

 私は、知っている。

 彼女が頷くことを、知っている。

 知っていて、取引を持ちかけるのだ。

 いや、こうなることを期待していたのかもしれない。

 

「私と、再契約しなさい、セイバー」

 

 剣の英霊。

 戦いが始まる前から、熱望していた、存在。

 それが可憐な少女であると知って、なお欲しくなった。

 絶対に、私なら、彼女を使いこなせる。

 絶対に、負けない。

 あのへっぽこにはもったいない。

 欲しい。

 例え、奪い取っても。

 そういう思考が、無かったか。

 無かったと。

 これは、仕方の無いことだと。

 己が望んだことではない、と。

 そう、断言できない自分が、情けなかった。

 

「貴方には、叶えたい望みがあるのでしょう。ならば、足掻きなさい。それとも、ここで消えるのが貴方の望みかしら。マスターに操をたてて、英霊の座に逃げ帰るの?そんなに綺麗でいたい?貴方の望みは、その程度のものなの?」

 

 手を、握り締める。

 爪を、立てる。

 鋭いそれが、皮膚を破り、肉を抉った感触。

 熱さと、痛み。

 それが、心地いい。

 それくらいの苦痛がないと、気が狂いそうだ。

 それくらいの刺激がないと、こんな恥知らずな台詞、正気では口に出来ない。

 

「……私は、初めて貴方を軽蔑します、凛」

「ええ、それで結構よ、セイバー」

 

 だって、それは極めて正しい評価。

 私は、下衆だ。

 でも、魔術師なんて、そんなもの。

 こいつが、異端すぎるのだ。

 こいつが、綺麗すぎるのだ。

 だから、疎ましい。

 こいつがいなければ、私は諦められた。

 魔術師など、そんなものだと。

 これが、魔術師の宿命だと。

 それでも、こいつは綺麗だったのだ。

 綺麗なまま、魔術師だったのだ。

 いや、こいつは、自分のことを魔術使いだと評したか。

 そんなこと、どうでもいい。

 つまるところ、私は太陽に近付きすぎたのだ。

 美しく、輝かしく、灼熱の太陽に、近付きすぎた。

 このままでは、私は焼け死ぬ。

 焼けて、焦げて、炭化する。

 しかし、その中から何かが生まれるだろう。

 きっと、今よりも、気持ちのいい自分。

 でも、それは、私ではない。

 遠坂凛では、ない。

 だから、いい機会なのだろう。

 彼は、魔術と関わるには、綺麗すぎる。

 私は、彼と関わるには、醜すぎる。

 二人は、交わるべきではない。

 それは、掌を覆う痛みよりも、なお痛い認識だった。

 

「――告げる。汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、我に従え。ならばこの命運、汝が剣に預けよう」

 

 了解すら取らずに、契約を開始する。

 これは、脅迫ですらない。

 服従を強いる、一方的な強制執行。

 それを承知の上で、私は一歩を踏み出した。

 彼女が、それに応えざるを得ない、それを承知で踏み出した。

 呪われろ、遠坂凛。

 貴様は、今、魔術師になったのだ。

 

 

「そっか……」

 

 彼は、左手の甲を、ぼんやりと見つめた。

 そこには、もう、何もないというのに。

 まるで、その熱の残滓を惜しむかのように、ぼんやりと見つめたのだ。

 

「……私は謝らないわ」

 

 言い訳は、しない。

 いや、この一言こそが、何よりも醜い言い訳だろうか。

 謝らない。私は、卑劣だ。如何様にも詰れ、貶せ、貶めろ。貴方には、その権利がある。

 そう言って、相手に断罪の権利を与えること。

 それは、逃避ではないのか。

 士郎は、恨まないし、憎まない。まして、報復など、出来るはずもない。

 それを知りながら、その権利を彼に委ねる行為は、彼に罪悪感を委ねる行為と同一だ。

 らしいじゃないか、遠坂凛。

 まったく、お前は魔術師らしい。

 

「……生きているんだ。これ以上望んだら、罰が当たっちまうよ」

 

 それでも、彼は笑った。

 青白い、死人のような、顔色で。

 唇を、戦慄かせながら、それでも、にっこりと。

 吐き気が、した。

 

「ありがとう、キャスター。また、助けられちまった」

「……どういたしまして。お代はいらないわ、だって、これで最後だものね」

 

 そう。

 これで、彼は戦わずに済む。

 何故なら、彼は剣を失ったのだ。

 もう、戦わなくてもいい。

 いや、彼は、戦うべきではない。

 この点。

 この一点における判断のみは、私は胸を張ることが出来る。

 彼を戦わせてはいけない。

 彼は、それこそ本当に死ぬまで、戦い続けるだろうから。

 それは、戦いの結果として死ぬこととは根本的に意味が異なる。

 彼は、己の死を理解して、計算して、その上で死ぬまで戦うだろう。

 覚悟、などという生易しい言葉では、それを表すことはできない。

 むしろ、中毒。

 いや、呪い。

 そのほうが、より近い表現だ。

 だから――。

 

「最後ってなんだよ。俺は、戦うぞ。セイバーのマスターが凛になったからって、俺自身には何の変化も無いじゃあないか。だって、俺はまだ戦えるんだから」

 

 一同が、息を呑んだ。

 空気が、凍りついた。

 聖杯戦争。

 人を超越した人、サーヴァントの繰り広げる戦い。

 そこに、半人前の魔術師が、己の力のみで飛び込む。

 結果は、明らかだ。

 そんなこともわからないほど、こいつは間抜けか。

 違う。

 こいつは、知っている。

 知っていて、全てを理解して、それでも止まれないのだ。

 

「……お兄ちゃん、貴方には、もうサーヴァントはいないわ。参加権は無いの。私と同じ。もう、貴方は戦わなくていいのよ」

 

 噛み締めるように、イリヤが言った。

 その瞳には、強い後悔が。

 私の知らないところで、何かがあったのかもしれない。

 

「それは違う、イリヤ。参加権が云々じゃあない。このままいけば、きっと聖杯戦争とは何も関係の無い人達が、死ぬ。それを、俺は止めたい。

 

 ああ、こいつは――。

 

「そう、貴方は戦いたいのね」

「ああ、戦いたい」

 

 私はゆっくりと立ち上がった。

 

「戦うな、そう言ったら?」

「それでも、戦うさ」

 

 彼もゆっくりと立ち上がった。

 

「はっきり言って、邪魔よ」

「なら、俺一人で戦うだけだ」

 

「Es befiehlt――Mein Atem schliest a……」

 

 影が、彼を覆っていく。

 まるで、黒蟻の大群みたいに、足元からじわじわと。

 後ろを振り返る。

 そこには。

 

「桜……」

 

 私の妹。

 彼女は、笑っていた。

 にんまりと、本当に愉快そうに。

 

「ああ、先輩、貴方は気付いていないんですね」

「……さ……くら……?」

 

 胡乱な、士郎の声。

 

「もう、貴方も、『聖杯戦争とは何も関係の無い人達』の一人なんですよ?」

 

 士郎の魔力が、吸収されていく。

 影の牢獄。

 桜の魔術。

 今の彼では、どうやっても抜け出ることは叶うまい。

 

「やっと理解しました、少し遅すぎたかもしれませんが。やっぱり先輩は、あの人なんだ……」

 

 悲しげな、桜の声。

 そして、苦悶を上げる、士郎の声。

 それがだんだんと弱弱しくなっていき、ついには途絶えた。

 ぐらり、と崩れ落ちる、彼の体。

 イリヤが、小さな身体で、それを必死に受け止めた。

 

「桜、貴方……」

「姉さんも、同じことを考えていたのでしょう?」

 

 その通りだ。

 私も、士郎をぶちのめしてやろうと思っていた。

 ひょっとしたら、令呪を使って、セイバーにそれをやらせていたかもしれない。

 それほどに、私は怒っていた。

 自分と、彼に、だ。

 それでも、桜。

 貴方の、その笑みは、何?

 それは、私の初めて見る、笑み。

 誰だ。

 こいつは、誰だ。

 

「行きましょう、姉さん。もう、私達はここにいるべきではないわ」

「……ええ、そうね」

 

 歩き出した桜。

 彼女の後を追うように、扉に向かう。

 

「イリヤ」

 

 振り返る。

 そこには、意識を失った士郎を抱える、小さな少女が。

 羨ましい、と。

 それは、気のせいだろう。

 

「言伝といて。『今後、遠坂邸に近付けば、敵対の意思表示と見做す。命までは取らないけど、痛覚をもって生まれたことを後悔させてあげる』ってね」

 

 イリヤは、微笑った。

 

「……本気ね、リン」

 

 私も、微笑った。

 

「ええ、本気も本気。だから、十分に言い含めといてよ。私だって、別にサディストってわけじゃないんだから」

 

 踵を返す。

 ゆっくりと、居間の入り口をくぐる。

 もう、この部屋に入ることはないだろう。

 ああ、こんなにも暖かかったのに。

 残念といえば、それが一番残念なのかもしれない。

 

「リン」

 

 声が、背後から聞こえた。

 私は、もう、振り返らない。

 

「私が、シロウを守るから。貴方達は、せいぜい派手に散りなさい」

 

 ああ。

 それが、一番聞きたかった台詞。

 ありがとう、イリヤ。

 士郎を、お願い。

 喉の奥から、何かが込み上げそうになった。

 私は、それを必死で押さえ込んだ。

 

「……行きましょう、マスター」

 

 目の前には、剣の英霊。

 その瞳は、勇壮。

 ならば、何を恐れるか。

 

「…ええ、セイバー。行きましょう、勝利をもぎ取りに」

 

 

 朝食は、美味しかった。

 冷蔵庫の残り物を使ってこれだけ上手に料理を作れるあたり、セラの家事能力は相当に高いのだろう。

 

「ねぇ、お兄ちゃん、今日はどうするの?」

 

 だらしなくテーブルに両肘を突きながら、イリヤが言った。

 その表情は、どこかぼんやりとしていて、歳相応の少女の顔だった。

 

「どうって言われてもなあ……。戦うって言ったら……」

「全身の関節を外して、土蔵に放り込むわよ」

 

 にっこりと、イリヤは微笑った。その後ろで、ぽきぽきと指の関節を鳴らすリーゼリットさん。無言の圧力が怖いです。

 

「……かといって、学校も休みだし……。イリヤ、お前のほうこそ、何かしないといけないことはないのか?」

「バーサーカーは死んじゃったし、私は聖杯たる役目を奪われた。もう、私の聖杯戦争は終わったわ。今から本家に帰っても邪魔者として処分されるだけでしょうし、何もするべきことなんて、残ってないの」

 

 絶望的とも言える台詞を、何の気負いもなく吐き出した少女。

 しかし、その中に聞き流せないものがあった。

 

「なあ、イリヤ。『聖杯たる役目』って何だ?」

「あれ?お兄ちゃんには言ってなかったっけ?」

 

 はい、これっぽっちも聞いてません。

 

「私はね、聖杯なの」

 

 ……はい?

 

「でも、言峰が、聖杯は教会にあるって……」

「簡単に言えば、それはレプリカね。第五次聖杯戦争において用意された聖杯は、私ことイリヤスフィール=フォン=アインツベルンの心臓よ。それ以外では在り得ない…はずだったんだけどね」

 

 イリヤは、ばつの悪そうにそう言った。

 

「つまり、それ以外の聖杯がある、そういうことか?」

「というよりも、そっちが本物の聖杯になっちゃった、そのほうが正しい表現だと思うわ。だって、三体のサーヴァントが消滅したのに、私は一つの魂も回収することが出来なかった」

 

 サーヴァントの魂?

 一体、どういうことだ?

 

「お兄ちゃん、詳しい説明は省くけど、聖杯の本当の役割は、勝者の願望の成就なんかじゃあないわ。消滅したサーヴァント、その魂を溜め置き、管理すること。それが聖杯の真の役割なの。だから、無機物たる杯なんかよりも、鋳造されたホムンクルスなんかの方が都合がいいんでしょうね、きっと」

「でも、イリヤは切嗣の娘で、俺の――」

「それ以上は言わないで、お兄ちゃん。きっと、幸せすぎて鼻血が出ちゃうから」

 

 彼女は、やはり微笑った。

 それは、照れ隠しなのかもしれなかった。

 

「とにかく、サーヴァントの魂は、今どこに収められてるかわからない。それは、私以外に聖杯が存在することを意味しているわ。つまり、私は御役御免、存在価値を失った、そういうこと。今更、何をする気にもならない、それが正直なところね」

 

 はあ。と、溜息。

 そして、沈黙。

 こっちこっちと、時計の秒針の音だけが聞こえる。

 セラさんも、リズさんも、何も話さない。

 そして、俺は、腹がたった。

 こんなに小さな子の心臓を、訳もわからぬ器に改造した、魔道の一族に。

 そして、そんな妹がいることも知らず、安穏と日常を過ごしていた自分に。

 謝りたい。

 君が俺を殺そうとしたのは当然だ、と、土下座をしたい。

 しかし、そうすれば、イリヤは怒るだろうし、それ以上に悲しむだろう。

 誰だって、どういう理由があろうと、肉親に土下座をされれば悲しくなるはずだ。

 だから、俺は謝らない。

 ならば、俺は何をするべきだろう。

 

「……決めた」

「どうしたの、お兄ちゃん?」

「イリヤ、今日は遊びに行こう」



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episode60 昼、そして夜

 開け放った窓から、一匹の蝶が舞い込んできた。

 あのとき、彼女が不可視の涙を流し、無音の嗚咽を漏らしていたあのときと同じ蝶。

 ひらひらと、ひらひらと、柔らかい日差しの中を蝶が舞う。

 儚いその姿は、なぜか彼の少女を連想させた。

 私は戯れに指先をそっと伸ばしてみた。

 蝶はしばらくの間部屋を散策した後で、ようやく私の指を止まり木として認めてくれた。

 羽を休める不躾な闖入者を眺めながら、少女のことを考える。

 わたしは彼女に生きていくための力を与え、同時に彼には生きていくために必要な枷を与えた。

 彼らは今、何をしているのだろうか。

 やはり、今も明けない夜の中をさ迷い歩いているのだろうか。

 やはり、今もその表情は陰気で堅牢なままなのだろうか。

 蝶はふわり、と私の指から飛び立ち、窓の外の世界へと旅立った。

 私はそれを後押しするように、柔らかな風を起こした。

 私の起こした風に乗って、大空に羽ばたく蝶。

 きっと、私が彼らと再び出会うことはあるまい。

 だから、私と彼らの物語はここで終わり。

 私が影響を与えた少女と少年は、何一つ私に影響を与えないまま消えていく。

 それが、一番綺麗だと。

 無責任に、そう思った。

 

episode60 昼、そして夜

 

「お兄ちゃん、早く来ないと置いてっちゃうよー!」

 

 元気な声が、青空の下に響く。

 真っ直ぐな陽光に照らされた彼女の髪は、きらきらと輝く新雪のよう。触れれば、ふんわりと儚く溶けてしまうのではないか、そんな妄想を抱く。

 白く弾んだ吐息。それだけが、彼女が人であることを証明している、そう思える。

 それほどまでに、可憐で、幻想的。

 奇跡みたいな、光景。

 そんな彼女と、二人で歩く。

 今日の夜から明日の夜にかけて天気が崩れるという話を聞いていたので少し心配だったが、今日は太陽が頑張ってくれているらしい。

 大通りに、人通りは少なかった。

 平日の朝だというのもあるのだろうが、それ以上にこの街を支配しているのは、気だるいような閉塞感。たまに行き交う人の顔にも、得体の知れない疲労が色濃い。

 まるで、海の底を泳ぐ深海魚のようだと思う。ゆらゆらと、退化した視界の中を、匂いと音を頼りに餌を探し這いずる。

 そんな、埒外の景色。無彩色の街並み。

 唯一色を持ったのは、美しい少女。

 くるくると変わる表情。

 くるくると踊る小さな身体。

 思わず抱き締めたくなる。

 その感情を、必死に押さえ込む。

 少なくとも、俺にはその資格は無い。

 俺は、彼女を裏切った。

 彼女の手を、振り払った。

 ならば、俺は、彼女に愛されてはならない。

 だから、それ以上の何かを込めて、語りかける。

 何か、よく分からない、暖かいもの。

 それが、彼女に伝わりますように、と。

 無責任な願いを込めて。

 

 

「あ、この子も可愛い。でも、この子もいいなぁ。ねえ、お兄ちゃん、お兄ちゃんは、どっちがいいと思う?」

 

 広い店内を、所狭しと埋め尽くす、ヌイグルミ達。

 のんびりとした音楽に、心なしか甘い空気。

 俺一人なら、間違えても立ち入ろうとしない、禁断の地。

 ファンシーショップ。

 

「これはセバスチャンに似てるから、もういらないかなぁ。あ、この子いいかも。オットーのお嫁さんにぴったり!」

 

 普段の彼女には珍しく、少しはしゃいだ声。それを聞いているだけで楽しくなってくる。

 良かった、機嫌は直ったみたいだ。

 最初は、映画館に行くつもりだった。

 特に見たい映画があったわけでもないが、彼女と二人で見るならば何でも面白いだろう、そう思ったのだ。

 ちょうど上映していた映画は、「Fate/Zero」。それほど前評判の高い映画だとは聞いていなかったが、そういうものの中にこそ名作も多い。

 しかし、結局それを見ることは無かった。

 原因は、些細な出来事。

 彼女と並んでチケットを買おうとしたとき、売り子さんがこう言ったのだ。

 

『高校生一枚と小学生一枚で三千円です』、と。

 

 俺は、その時の冷たい殺気を生涯忘れることは無いだろう。

 今にも、『殺すわ』、と、物騒なことを言いかねない彼女を、引きずるようにして連れて来たのが、このファンシーショップ。レストランにでも入ろうかと思ったが、お子様メニューでも出された日には、本気で暴れだしかねない。

 

「ねえ、聞いてるの、お兄ちゃん?」

 

 ふと気付けば、目の前には少し不機嫌な彼女の顔。

 頬を膨らませたその表情が、仔栗鼠のようで、ひどく愛らしい。

 

「悪い、聞いてなかった。えっと、何かな?」

「……ま、正直って、基本的には美徳よね」

 

 はあ、と溜息を吐きながら、彼女は二つのぬいぐるみをかかげ上げる。

 

「どっちの子が可愛いかな、そう聞いてるんだけど」

 

 二つのぬいぐるみ。

 どちらも俺にとってはさして違いがあるようには見えないが、どっちでもいいんじゃないか、というふうな解答は、この際禁忌だろう。

 右手には、数珠のように丸っこいたてがみをつけた、惚けたライオンのぬいぐるみ。

 左手には、もこもこと白い、アザラシの子供のぬいぐるみ。

 両方とも、彼女の小さな体を覆い隠さんばかりに大きい。

 実を言えば、どちらもそれほど可愛らしいとは思わないが、それを彼女が抱えていると可愛らしく見えるから不思議だ。

 

「迷ってるのか」

「ええ、だって、どちらもとっても可愛いんだもの」

 

 そう言って眉根を寄せる表情が、微笑ましい。

 この顔を見ることが出来ただけでも、今日彼女を連れてきた価値があるというものだ。

 

「いいよ、両方買おう」

 

 ひょい、と取り上げる。

 

「いいわよ、私が買うから」

「ちょっとは兄貴に格好つけさせてくれ」

 

 まだ何事かを言っている彼女を無視して、レジに向かう。閑散とした店内と比例して、レジは空いていた。

 並ぶことも無く、商品を店員に渡す。

 値段は、目が飛び出るというほどでは無かったものの、それなりに諭吉さんがいなくなるほどではあった。ぬいぐるみ、恐るべし。

 しばらく待って、綺麗にラッピングされたぬいぐるみを受け取る。二つ抱えると、流石に手一杯になる。

 苦心してなんとか抱え上げ、彼女の待つ店先のベンチに。

 自動ドアが開くと、冷たい冬の寒気が肌を刺す。

 外で待っていた彼女の頬は、水蜜桃のように、赤かった。

 少し、不機嫌な表情。

 

「……私がお姉ちゃんなのに……」

「ん?何か言ったか?」

「何でもない!」

 

 弾むように近付いてくる。

 それでも、少しも崩れが無い。

 一つ一つの動作が気品に溢れ、それ以上に可憐だ。

 一瞬、気を奪われてしまった。

 気付けば、彼女の小さな手が差し出されている。

 そして、一言。

 

「私が持つわ」

「じゃあ、一つだけ」

 

 比較的小さな、ライオンのぬいぐるみの包みを、手渡す。

 彼女は、それを紙袋の上からぎゅっと抱きしめる。

 かしゃっと、紙の潰れる音。

 輝くような、微笑み。

 子供にプレゼントを渡す親の喜びとはこのようなものだろうか、と、埒もない想像をする自分に苦笑した。

 

「?どうしたの、お兄ちゃん?」

「いや、何でもないよ。それより、そろそろ飯にしようか」

 

 二人で、歩き出す。

 手は、握らない。

 彼女の小さな手は、必死に大きな包みを抱えているから。

 ああ、一つだけにすればよかったかもしれない。

 二つのぬいぐるみを買ったことを少し後悔し、彼女に抱かれたそれに、少しだけ嫉妬した。

 

 

 公園。

 そこの芝生に、大きめのシートを敷き、弁当を広げる。

 少し寒いかと心配したが、冬には珍しい暖かい風。歩き通しだった体には、かえって優しい程である。

 回りの木々は流石に冬の装いであり、薄茶けた幹が寒々しい。ただ、芝生の青さが目に鮮やかである。

 

「はい、あーん」

 

 差し出される箸と、それに摘まれた卵焼き。これは彼女が作ったものだ。正直、お嬢様が料理を作れるとは意外であったが、こなれた手つきはそれが初めてのことではないことを主張していた。

 少し躊躇したが、結局、馬鹿みたいに口を開ける。

 あんぐりと開かれたそれに、放り込まれた卵焼き。丁寧にタオルで包んでおいたからだろう、まだほの暖かい。

 むぐむぐと咀嚼する。

 少し甘すぎる気もしたが、これくらいのほうがお弁当の卵焼きっぽくていいだろう。

 

「どうかな、美味しくできてる?」

 

 不安そうな顔。

 ああ、将来彼女に恋人ができたら、そいつにも同じ表情で語りかけるのだろうか。

 ほんの少し、妬ましいのかもしれない。

 そんな小さな考えを振り払うように、笑ってやる。

 

「ああ、最高だ。今度、作り方を教えて欲しい」

 

 ぱああ、と、雲間から日が照るような、笑み。

 見ているだけで、幸せになる。

 魔法のようだ、と、魔術師らしからぬ感想を抱く。

 それを噛み締めながら、色取り取りのおかずを摘み取る。

 

「ほい、おかえし」

 

 鶏の唐揚げ。俺の自慢の一品である。

 それを、彼女の口元に突きつける。

 一瞬、きょとんと何かが抜け落ちた彼女の表情。

 

「えっ?私も?」

「当然」

 

 微かな狼狽。

 

「でも、あれって女の子が男の子にするものなんじゃないの?」

「さあ、そうかもしれないし、違うかもしれない」

 

 普段なら、回りが気になるようなシチュエーションが、逆に楽しい。

 

「でも、はずかしいよ」

「自分がやられて嫌なことを、他人にやってはいけません」

 

 これは、真理。

 人が人と上手くやっていくための鉄則でありますな。

 むー、と、少し拗ねたような顔をした後で、渋々と彼女は口を開けた。

 目を閉じたそれは、親鳥に餌をねだる雛鳥みたいで。

 まるで、胸が締め付けられるような保護欲が襲ってきた。

 それに、必死の想いで耐えながら、唐揚げを放り込む。

 やはり、彼女もむぐむぐと、それを咀嚼した。

 

「どうだ、美味いか?」

「……美味しい」

 

 言葉と相反して、納得し難いような表情。

 はて、どこか失敗があったかしらん。

 

「どうした、なんか不味かったか?」

「味は申し分ないわ。セラもびっくりするわよ、きっと」

 

 じゃあ、どうしたんだろうか。

 

「はあ、きっとお兄ちゃんのお嫁さんは苦労するわ」

「なんだよ、それ」

「だって、自分よりも料理の上手い旦那さんって、屈辱よ、きっと」

「そんなもんかね」

 

 最近は、主夫だって珍しい存在じゃあないし、女の人が必ず料理ができないといけないというのも固定観念だ。第一、俺のはただの趣味であって、別に特技といえるほど凝ったものが作れるわけではない。だから、他人に自慢できるようなものではないと思っている。

 それでも、彼女を喜ばすことが出来たならば、それだけで価値があったというもの。

 特に苦労したことも無いが、それでも続けてきて良かったと思った。

 

 

 鮮やかな、宝石の群。

 蒼い、水。その中を、飛ぶように泳ぐ海亀。

 薄暗く、人影もまばらな館内。

 密やかな空気。

 隣に立った彼女も、何も言わない。

 その手は、から。彼女の荷物は、既に宅急便で送ってある。

 視線は、真っ直ぐに。

 ただ、その光景に心を奪われている。

 人は、魔術など使わなくても、人の心を奪うことが出来る。

 冬木市から、電車で三十分ほどの駅、そんな近くにある水族館。

 子供の頃はよく藤ねえと一緒に来たものだが、最近はとんと足を運んでいなかった、場所。

 久しぶりのそこは、やはり輝くような魚たちの住処で。

 何故か、ほっとした。

 

「すごいね……」

 

 ぽつりと、彼女は呟いた。

 その瞳は、驚きというよりも、納得。感動よりも悲しみに彩られていた。

 

「かわいそう、か?」

「ん、ちょっとだけ」

 

 円筒型の水槽、そこをくるくると泳ぐ魚達。

 狭い、世界。そこだけの、世界。

 それが幸福なのかとか、不孝なのかとか、そういうことに想いを馳せるのは、おそらく子供の感傷に過ぎないのだろう。

 普段なら、一笑に付すような、幼稚な思考。

 それを是とするような何かが、ここには存在した、それだけのこと。

 

「私も、彼らと一緒だから」

 

 静かな、呟き。

 ふ、と、隣を見る。

 彼女の瞳は、乾いていた。

 安心した自分に、嫌悪を覚える。

 

「心配しないで、私は幸せだったのよ。それでも、たまに思うの。狭い世界しか知らないで幸福に過ごすのと、例え不孝であっても広い世界を生きること。どっちが本当に近いのかなって」

 

 その問いに答えることに、意味は無い。

 ただ、問うことにこそ意味がある。

 それは、誰よりも彼女が一番良く知っているはずだ。

 だから、答えない。

 彼女も、それ以上問わなかった。

 それだけ。

 それだけの、禅問答。

 ゆっくりと、水槽に目を戻す。

 そのとき、少し弱った魚が、ふらふらと泳いでいるのが目に入った。

 名前も知らない、魚。

 きらきらと、透き通った宝石のような熱帯魚の中では、やや地味な、目立たない魚。

 背びれが、傷ついている。ひょっとしたら、他の魚にやられたのかもしれない。

 

「楽園なんて、どこにもないのにね」

 

 きっと、明日にでもあの魚はこの水槽からいなくなっているだろう。

 そのことに、きっと誰も気付かない。

 気付かずに、通り過ぎるのだ。

 でも、俺は覚えておこうと思った。

 多分、一週間も覚えておければ、自分を褒めてやってもいいだろう。

 その、程度のこと。

 

「ねえ、あっちも見たいな」

「ああ、行こうか」

 

 ゆっくりと、踵を返す。

 何かの声が聞こえた気がした。

 小さな、助けを呼ぶような声だった。

 それでも、俺は歩いた。

 そんなもんだろう。

 

 

「今日は、楽しかったか?」

 

 二つの、影法師。

 

「うーん、楽しかったけど、62点」

 

 足元から、長く長く伸びている。

 

「なんだそりゃ、結構辛口だな」

 

 背中に、斜陽の熱。

 

「レディをエスコートするには、雅やかさに欠けてたわね」

 

 世界が、赤く、黒く、染まっている。

 

「そんなもの、俺に求めないでくれ」

 

 片手に、大きくて軽い包み。

 

「あら。きっと、リンだって欲しがると思うけど」

 

 片手に、彼女の体温。

 

「なんで凛が出てくるんだ?」

 

 小さな、掌。

 

「さあ?どうしてかしらね?」

 

 小さな、歩幅。

 

「きっと、あいつは、もう俺の前には姿を見せないと思う」

 

 それにあわせて、小さく歩く。

 

「そんなこと、ないと思うけど。だって、あの子、堪え性がないから」

 

 吹く風は、流石に冷たい。

 

「どういう意味だよ、それ」

 

 街灯の、灯り。

 

「気付いてなかったの?あの子、お兄ちゃんに惚れてるわ」

 

 影が、歪に捻じ曲がる。

 

「……」

 

 近付けば、段々と小さくなり。

 

「その様子じゃ、気付いてた?」

 

 遠ざかれば、段々と大きくなる。

 

「……自惚れだと、思ってたよ」

 

 曲り角を、曲がる。

 

「一日一緒にいれば、よく分かる。もう、めろめろよ、あの子」

 

 そこには、いつもの町並み。

 

「めろめろって、いつの時代だよ、その言葉」

 

 影絵の世界は、無かった。

 

「サクラもそう。きっと、セイバーも。みんな、お兄ちゃんのことが、大好きなの」

 

 いつもの、世界。いつもの、日常。

 

「ああ、それは有難いな」

 

 それが、なんで、こんなにも。

 

「じゃあ、なんで、そんなに辛そうなの、シロウ」

 

 振り返ったイリヤ。

 その瞳は、夕焼けなんかよりも、紅くて、紅くて。

 夕焼けなんかよりも、遥かに、怒っていた。

 

「辛くなんか、無い」

「嘘。じゃあ、なんで笑わないのよ」

 

 それは、いつかと同じ質問。

 胸の深奥、そこを抉り、掘り穿つ、質問。

 

「ああ、だって、別に笑う必要が無いだろう」

 

 もう、迷わない。

 答えは、得たから。

 

「俺は、正義の味方になるんだ」

 

 視線は、前だけに。

 後ろは、見ない。

 そこに、どんな楽園があっても。

 

「もう、変えられないの?」

「もう、決めたから」

 

 振りほどかれた、手。

 彼女の熱が、まだ残っている。

 名残惜しいとは、思わない。

 きっと、こんなこと、これから何回だって待っている。

 その度に、躊躇していたら、助けられる人だって助けられなくなっちまう。

 躊躇うな。

 弱くなるぞ。

 留まるな。

 忘れてしまうぞ。

 蹲るな。

 凍えてしまうぞ。

 

「そっか、もう、止まれないんだね」

 

 歩く。

 俺は、イリヤを押しのけるように、前に。

 彼女は、俺を押しとどめるように、後ろ向きに。

 ゆっくりと、でも、確かに。

 前に、歩いていく。

 

「ああ、多分、無理だ」

 

 立ち止まった彼女を、追い越した。

 眼前には、誰もいない。

 ただ、地平線みたいなアスファルトが、広がっていた。

 そこを、歩く。

 足が、震えそうだった。

 

「じゃあ、私も一緒に歩くわ」

 

 手に、再び、暖かい熱。

 隣に、小さな彼女の姿。

 

「駄目なんて、言わせない。私だって、キリツグの娘なんだから、その資格がある」

「きっと、不幸になる」

 

 今度は、歩幅は大きく。

 彼女を、置き去りにするかのように。

 

「でも、貴方はそれを望んだ」

 

 小走りで、駆けてくるイリヤ。

 息が、心なしか苦しそうだ。

 

「そう、俺が望んだ。別に、お前が付き合う必要は、無い」

「そう、でも、これは私が望んだの。嫌でも付き合って貰うから」

 

 だって、と。

 彼女は、珍しく、言い澱んだ。

 静かな、沈黙。

 遠くで、季節はずれの風鈴の音が、した。

 

「私は、シロウの、お姉ちゃんなんだから」

 

 きっと、幻聴だろう。

 風鈴なんて、許せない。

 だから、もう、いい。

 この手を、握り締めよう。

 今だけ。

 いずれ、放してしまうから。

 

「ああ、知ってたよ」

 

 小さくて、大きい、この手。

 どこかで、握ったことのある手と、同じ。

 暖かくて、頼りがいがある。

 

「正義の味方にだって、味方が必要でしょう?」

「ああ、そうだな」

 

 縋りつきたくなる、その台詞。

 それでも、きっと、俺は彼女を裏切るだろう。

 いずれ、置き去りにしていく。

 それでも。

 

「嬉しいね、シロウ」

 

 ああ。

 心の底から。

 

「嬉しいよ、イリヤ」

 

 

「おかえりなさいませ、イリヤ様」

 

 門には、白い人影。

 遠くからでも、それとわかるシルエット。

 

「セラさん、こんな寒い中、ずっと待ってたのか?」

「それが、務めなれば」

 

 確固たる返答。

 おお、これぞ使用人の鑑。

 

「夕食は済まされましたか?」

「いや、まだだけど……」

「既に、夕餉の準備は整っております」

 

 時間は、六時前。まだ少し早いかもしれないが、それでも今日は歩きとおしでお腹が減った。なら、こんな時間の夕食もいいだろう。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。いいだろう、イリヤ」

「そうね、もうお腹ぺこぺこだもの」

「では、こちらに」

 

 先導する、セラさんについていく。

 鼻をくすぐる、いい香り。

 否応無く高まっていく、期待感。

 居間の襖を開けると、そこにはテーブル一杯に盛り付けられた、色取り取りの料理の山が。

 

「すごい……」

 

 俺の家庭料理なんて、目じゃあない。やっぱり、本職の人には勝てません。

 

「材料も揃いませんでしたし、調理器具も不慣れでしたのでこの程度ですが……」

 

 これで、この程度ですか。

 

「十分よ、セラ。さあ、食べましょう、シロウ」

「ああ、そうだな」

 

 ゆっくりと腰を下ろす。

 イリヤも、座布団の上に、ちょこんと腰掛けた。

 しかし、セラさんとリズさんは、立ちんぼのまま。

 

「あれ?二人はもう食べたのか?」

 

 彼女達は、無表情のまま、こう答える。

 

「我々は使用人です。主人と食事を共にする訳にはまいりません」

 

 なるほど、そういうものだろうか。

 それでも、ここは衛宮邸、口幅ったいながらも、俺の家だ。

 郷に入れば、郷に従え。

 ここは俺のルールに従っていただきましょう。

 

「いいよ、一緒に食べよう。皆で食べたほうが、美味しい」

 

 きらり、と、リズさんの目が光った気がした。

 

「しかし……」

「セラ、我々は客で、しかも捕虜よ。ここは、主人の命に従いましょう」

「イリヤ様……」

「それに、もう私はアインツベルンの後継者ではありません。厳密に言えば、貴方達が敬う必要なんて、どこにもないのだから」

 

 僅かな自嘲に塗れた主人の言葉を、従者達は、侵し難い誇りを持って否定した。

 

「我らは、もとよりアインツベルンに仕えていたのではありません。イリヤスフィール様、貴方にこそお仕えして参りました。それは、永劫変わることはありません」

「私も、セラも、イリヤのこと、大好き」

 

 そんな、言葉。

 ほんの少しだけ、しんみりとした、空気。ここは、ホストたる俺が舵を握るべきだろう。

 

「さ、みんなで一緒に食べようか」

 

 イリヤは満面の笑みで。

 リズさんは、無表情で、でも、どこか嬉しそうに。

 セラさんは、渋々と、でも、やはりどこか嬉しそうに。

 四人で、囲む食卓。

 そこに、一昨日までの面子は、一人もいない。

 それでも、きっと暖かい、食卓。

 それが在ることが、どれほどの奇跡の上に成り立っているか。

 それが有ることが、どれほど得難く、有難い事なのか。

 俺は、きっと理解していない。

 それでも、嬉しい。

 茶碗に盛り付けられた、湯気の立つ、白いご飯。

 手を合わせて、さあ、食べよう。

 

 そう、思ったとき。

 

 ――どん、どん、どん。

 

 玄関の戸が、激しく打ち鳴らされた。

 

 ――どん、どん、どん。

 

 何かに、まるで追い詰められた獣のように、忙しなく。

 

 ――どん、どん、どん。

 

「……ウ!……ウ!」

 

 何かが、聞こえる。

 聞きなれたような、声。

 でも、結界は作動していない。

 敵では、無いはずだ。

 

「私が見て参りましょう」

 

 ゆっくりと腰を上げたセラさん。

 襖が開けられた一瞬だけ、戸を叩く音が、大きくなった。

 

「何だろう……?」

 

 さっきの声。

 不吉を感じさせるものは、無かった。

 それでも、どこか、気になる。

 この時間なのだ、セールスや新聞の勧誘等ではないだろう。

 いや、そもそも時期が時期だ。結界が作動しなかったとはいえ、どんな危険があるかわかったものではない。

 

「やっぱり、俺も行く」

 

 腰を上げる。

 少し不安げな、イリヤの瞳。

 

「リズさんは、ここでイリヤを頼む」

 

 襖を開ける。

 玄関の方を見ると、閉じられた戸と、そこに立つセラさん。

 何か、話している。

 

「お帰りください、既にエミヤ様もお嬢様も、貴方達とは関係を持たぬ身。ここの逃げ込むなど、筋違いも甚だしい」

『わかっています、それを百も承知で、恥知らずに申し上げるのです。どうか、どうかシロウに取り次いで頂きたい!』

「重ねて申し上げます。どうか、お引取り下さい。ここは、既に貴方達のいるべき場所ではありません」

『お願いです、お願いです、どうか、助けてください!』

 

 声。

 聞き覚えのある、澄んだ声。

 鈴を転がしたような、声。

 まるで、さっき聞いた、風鈴の様だと思った。

 その声の持ち主を、俺は知っている。

 一昨日まで、一緒に飯を食ったのだ。

 昨日まで、生死の境を共に潜り抜けたのだ。

 

「……セイバー、か?」

『シロウ、ああ、シロウ、そこにいるのですか!?』

 

 縋りつくような、声。

 あいつには、相応しくない、切羽詰った声。

 なにがあったんだ。

 セイバーに、そして、凛に。

 

「ちょっと待て、すぐに……」

「いけません、エミヤ様」

 

 立ちはだかる、セラ。

 不思議な、帽子のような衣装は、既に脱ぎ去っている。

 銀色の、イリヤのような、絹髪。

 さらりと流れるそれが、雪のように舞う。

 

「貴方も、イリヤスフィール様も、既に戦う術を失っております。この上、聖杯戦争に関わろうとするのは、自殺行為。貴方が死ぬだけならまだしも、ことはお嬢様の身の安全に及びます故、ここは我を通させて頂きます」

「でも、セイバーは俺を何度も助けてくれた。だから、俺は助けたい」

「どうしてもと言うなら、どうか私を殺してからお通りを」

 

 確固たる瞳。

 俺を押しとどめるかのように、開かれた両の腕。

 俺は――。

 

「控えなさい、セラ」

 

 背後から、声が。

 

「お嬢様――」

「ここは彼の家です。貴方がそこまででしゃばるのは、明らかに越権でしょう」

「しかし、これはお嬢様の身の安全に関わる話なれば……」

「私が望むのです。さあ、彼をお通ししなさい」

 

 一瞬躊躇った彼女は、それでも渋々と道をあけた。

 そこを、飛び込むように走り抜ける。

 

『ああ、シロウ、シロウ……』

「待ってろ、すぐに開ける!」

 

 震える手ももどかしく、古臭い鍵を、開錠する。

 がらがらと、引かれた戸。

 そこには、血に塗れたセイバーと。

 青白い顔で項垂れた、凛、が

「ああ、シロウ、すみません、私は恥知らずです。再び、貴方を戦場に誘おうとしている……」

「そんなこと、どうでもいい!」

 

 自分でも驚くほど、大きな声。 

 目を、丸くした、セイバー。

 そして、そんな声にも、ピクリとも反応しない、凛。

 

「すぐに、居間に運ぶんだ!」

 

 セイバーが担いだ、肩。

 その逆の肩に空いた、冗談みたいに大きな穴。

 そこから、止め処なく血が流れていく。

 ぽたりぽたりと、命そのものが毀れていくかのように。

 

「セラさん、治癒の魔術は使えるか?」

「……嗜む程度には」

「頼む!あれは、只の怪我じゃあない!」

 

 つまり、救急車を呼んでも仕方がない、そう言うことだ。

 

「イリヤ、包帯と消毒液を!場所は分かるか?」

「え、ええ、食器棚の下でしょう?」

「ありったけ頼む!」

 

 それにしても、なんで凛とセイバーだけ。

 桜は?

 キャスターは?

 頭が、ぐるぐるでごちゃごちゃだ。

 とにかく、こいつを助けないと。

 凛。

 細い、細い、呼吸。

 今にも千切れそうな、命の灯火。

 駄目だ、絶対に死なせない!

 

「セイバー、こっちに!」

「ああ、すみません、すみません……!」

 

 まるで涙を流す直前の少女のように、弱りきった彼女。

 それでも、これだけは確かめておかないと。

 

「誰だ?誰が、凛をこんな目に?」

 

 走るように歩きながら、問う。

 ぽたぽたと、板張りの廊下を、凛の血が不吉に彩っていく。

 紅く、紅く。

 まるで、今日の夕焼けのようだと、どうでもいい感想を抱く。

 

「……らです」

 

 小さな、涙を堪えるかのような、呟き声。

 そこに、聞いてはならない人の名を、聞き取ってしまった気がした。

 思わず、足を止める。

 もう一度、問い質す。

 

「……誰が、だ?」

「……さくら、です」

 

 何かの、間違いの返答。

 聞き間違い。

 言い間違い。

 在り得ない、間違い。

 それでも、セイバーは繰り返す。

 逃げ道を、断つかのように。

 己の過ちを、噛み締めるかのように。

 

「桜です!桜が、裏切りました!」

 

 がたがたと、戸が震えた。

 風が、出てきたようだ。

 今日の夜は嵐になる。

 そんな天気予報を、今更に思い出した。 

 



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episode61 最後に、深夜

episode61 最後に、深夜

 

 静か、だった。

 荒れ狂う風の音が、全てを掻き消している。

 だから、何も聞こえない。

 だから、とても静か。

 先ほどまでの喧騒が、嘘みたいだ。

 すう、すう、と、安らかな寝息。

 時折、苦痛に身を捩るような声が漏れるが、それでも峠は越えたのだろうか。

 月明かりは、ない。分厚い雲が空一面に広がって、細やかな星さえも隠し尽くしてしまっている。

 ちらちらと、灯りが揺れる。

 電灯の、一番小さな、灯り。

 橙色の優しい光が、辛うじて室内を照らす。

 それでも、青白い、彼女の頬。心なしか、げっそりとこそげている。

 そりゃあ、あれだけの血を流したのだ。少しは萎まないほうが、どうかしているのかもしれないが。

 

「う…ん……」

 

 身を、捩る。

 大穴の開いた左肩、そこを庇うように。

 室内は、暖かい。

 そこに横たわる、凛。

 上半身は、包帯でぐるぐる巻きで、陳腐な表現ならば、ミイラ男のようだ。

 じわりと滲んだ、真っ赤な血液。まだ、完全に傷口は塞がっていないのだろうか。

 

「……し、ろう?」

 

 夢見るような、口調。

 

「……ああ。お前が、呼んだんだろう?」

 

 既に、セイバーは退出している。なによりも、凛がそれを望んだから。

 静かな、室内。

 

「ごめんなさい、呼びつけておいて。少し、寝てたみたいね」

「……ああ」

「今、何時?」

 

 まずは、状況確認から。

 彼女らしさに、苦笑する。

 

「夜の一時だ」

「そう、じゃあ、四半日は寝てたのね。……ったく、なんて無様」

 

 無茶を言っている。

 半死半生の、惨状。そこから、一日もたたずに目を覚ましたのだ。化け物じみた回復力、そう言っても過言でもないのに、彼女はそれを恥じている。

 いや、その実、恥じているのは別のことだろうか。

 

「……事情は聞いてる?」

「……大雑把には、な」

 

 狼狽し、それでも自己を見失わないセイバー。

 彼女の説明は、時系列に沿っていて、主観を可能な限り切り捨てた、非常に分かりやすりものだった。

 だからこそ、逆に疎ましかったのかもしれない。

 彼女の説明には、一切の疑問の余地が無かった。

 曰く、桜は、凛を背後から不意打ちした。

 彼女の肩を貫いたのは、一振りの槍。

 紅く不吉に濡れる、凶槍。

 ゲイ・ボルク。

 それが、彼女を貫いたのだと。

 あとは、無我夢中だったらしい。

 追撃するランサー、そしてキャスター。

 サーヴァント二騎から、命辛々逃げ延びたと。

 唇を、血が滲むほどに噛み締めながら、彼女はそう言った。

 もはや、事態は、明白だ。

 未だ姿を見せないランサーのマスター。

 そいつと、桜が、手を結んだ。

 そして、桜は裏切った。

 操られているという可能性は、この際排除しなければなるまい。なぜなら、この時代においては最強と呼んでいい魔術師が彼女の従者なのだから。

 だから、そういうことなのだ。

 そういう、ことなのだろう。

 

「……はぁ……全く、なっちゃあいないわね」

 

 ふう、と、凛は大きく溜息を吐いた。

 その視線は、天井に。

 まるで、そこに愛しい何かが映りこんでいるかのように、視線を外さない。

 

「貴方を見捨てておいて、貴方に助けられた。何か、言いたいこと、あるんじゃないの?」

 

 自嘲に歪められた頬。

 掃き捨てるような声が、震えていた。

 

「……俺を見捨てておいて、俺に助けられた。無様だな、遠坂」

「ああ、最高ね、貴方」

 

 くくっと微笑った彼女。

 その振動が傷口にさわったのか、息を詰まらせて、身を硬くした。

 しばらく、荒い吐息が続く。

 はあ、はあ、と。

 その様が、扇情的で。

 そう思考した自分に、限りない嫌悪を覚える。

 

「ねえ、私の左手、ここにある?」

 

 唐突な質問。

 一瞬、真意が分からない。

 

「感覚がね、無いの。左肩は焼け付くみたいに痛いのにね」

 

 露になった、彼女の上半身。

 そこに、左手は、しっかりとある。

 

「安心しろ、ちゃんとついてる」

 

 なのに、何も感じないということは。

 おそらく、いや、間違いなく。

 肩の傷で、神経がやられているのだ。

 そして、その傷は、呪いの槍で穿たれたもの。

 俺のような特異体質か、それともサーヴァントのような神秘でもない限り、完全に治癒することは、あるまい。

 そして、肩と上腕部を繋ぐ骨も、完全に砕かれている。

 もう、彼女の左手が動くことは無い。

 そういうことだ。

 

「……そう」

 

 呆気ない、声。

 のほほんとすら、している。

 

「ねえ、衛宮君、一つお願いしてもいい?」

「……なんだ?」

「出来るだけ、切れ味のいい刃物、用意してくれない?」

 

 明るい、声。

 明るさを、装った、声。

 この上なく、悲哀に満ちた、声。

 

「セイバーに頼んでも、きっとあの子、断るわ。こんなつまらないことに令呪を使うなんて勿体無いし、第一、自分のケツは自分で拭かないとかっこ悪いでしょう?」

「……いっている意味が、分からない」

「相変わらず朴念仁ね、衛宮君」

 

 出来るだけ、体を揺すらずに、微笑った彼女。

 その額には、珠のような脂汗がぽつぽつと浮いている。

 

「もう、この手、いらないでしょう。だから、切り落とす、そう言ってるの」

「……凛」

 

 薄明かりに照らされた、彼女の頬。

 正視に堪えないほど、醜く歪んだ、頬。

 それが、あまりに痛ましい。

 

「役に立たないなら、いらないわ。でも、痛いのは嫌でしょう?だから、できるだけ鋭い刃が、欲しいの。お願い、衛宮君」

「……凛」

 

 彼女は、泣いていた。

 醜く微笑いながら、ぼろぼろと泣いていた。

 悔しいのだろう。

 恐ろしいのだろう。

 それ以上に、悲しいのだろう。

 裏切られたのだ。

 そこに、どんな意図があったのか、知り得ない。

 それでも、少なくとも凛の主観としては、裏切られたのだ。

 もっとも信じていた、自分の半身に。

 もっとも愛していた、自分の肉親に。

 それが、悲しくないなんて、どうかしている。

 彼女は、悲しいのだ。

 悲しくて悲しくて、堪らないのだ。

 

「ねえ、お願い、衛宮君。対価は支払うわ。私の身体を自由にして、構わない。これからも、貴方には絶対服従するから。だから、お願い」

「凛、お前、疲れてるだろう」

 

 ゆっくりと、立ち上がる。

 俺は、ここにいてはいけない。

 そう、思ったからだ。

 ゆっくりと、横たわった彼女に背を向ける。

 

「……意気地なし!」

 

 突き刺すような、声。

 まるで、猫の悲鳴だ。

 

「女が誘ってるのよ!応えるのが、男ってもんでしょう!」

 

 普段の彼女からは、考えられないような、台詞。

 常に余裕をもって優雅たれ。

 その家訓さえも、どこかに置き忘れてしまったのか。

 

「……泣いている女の子を、抱けないよ」

「私は、泣いてなんか、いない!」

 

 涙に声を詰まらせながらの、絶叫。

 いつの間にか、彼女は上半身を起こしていた。右手一本で、如何にも器用に。

 じわり、と、左肩の赤い染みが広がる。まるで、それこそが彼女の心の痛みだと、主張するかのように。

 はあはあと、息が荒い。

 興奮の故か、痛みの故か、それとも涙の故か。

 

「ほら、これならどう!?」

 

 残された右手で、器用に包帯を解く。

 するすると、包帯が布団の上に落ちていく。

 露になった、彼女の皮膚。

 艶やかで、まるで鏡面のように、滑らか。

 染み一つない、素肌。

 そして、豪奢な彼女には控えめとすら思えるほどの、小振りな胸。

 儚い、光。

 そこに照らし出された、女神の裸体。

 その全てが、例えようもなく、美しかった。

 

「おねがいだから……おねがいだから、だいて、しろう……」

 

 そして、彼女は、泣き崩れた。

 もう、耐えられない、そう言うふうに。

 前のめりに、動かない己の肩を、抱き締めるかのように。

 ぽたぽたと、布団に赤い染みが広がっていく。

 

「おもたいのよう、ひだりてが、おもたいの……」

 

 そして、涙が、ぽつぽつと。

 赤い染みの隣に、透明な染みが。

 その数を競い合うように、零れ落ちていく。

 

「これからも、おもいだすでしょう?この、うごかないひだりてが、おもいださせるでしょう?」

 

 ぐしゅぐしゅと、鼻を啜りながら、彼女は泣いた。

 親に見捨てられた女の子みたいに、憚らずに、泣いた。

 それはいいことだと、思った。

 きっと、無理に強がるよりも、いいこと。

 

「こわいの、しろう。あのときのさくらが、たまらなくこわかったの。『もう、姉さんはいらない』、そういわれたのよ、わたし……」

 

 いつしか、肩から流れ落ちる赤い液体は、止まっていた。

 彼女が受け継いだ、遠坂の魔道書、魔術刻印。おそらくは、その働きだろう。

 それでも、彼女の涙は止まらなかった。

 その事実が、心と身体、どちらに負った傷が致命的か、雄弁に語りかけてくるようで。

 痛くて、ただ、痛かった。

 

「もう、いきていたくないよう……」

「凛……」

 

 泣きじゃくる、彼女。

 その頬を流れる、透明な雫。

 氷砂糖を溶かしたみたいに、透明。

 舐め取りたくなる誘惑に、抗えない。

 そっと、頬に口付ける。

 やっぱり、甘かった。

 それが、例えようもなく、悲しくて。

 俺も、一緒に泣いた。

 

「……泣いてるの、士郎?」

「ああ、だって、凛が泣いてるから」

 

 それから、二人で泣いた。

 肩を抱き合って、声を上げて、泣いた。

 わんわんと、まるで子供が喧嘩するみたいに、泣き合った。

 じゃれあうように、泣いた。

 慈しみあうように、泣いた。

 それが、快楽だった。

 二人の境界が、もどかしかった。

 こんなもの、いらないと。

 そう、強く抱き合った。

 何かが、溶けてしまいそうだった。

 何か、硬くてごつごつしたもの。

 ごつごつして、とげとげしくて、人を傷つけて止まないもの。

 それが、柔らかかった。

 柔らかくて、蕩けそうだった。

 溶け落ちて、無くなりそうだった。

 

 

「落ち着いた?」

 

 凛の、声。

 優しく背中を摩る、暖かい、手。

 彼女に、誰よりも助けを求めていた彼女に、労られる。

 その事実に、苦笑した。

 結局、先に泣き止んだのは彼女だった。

 ずるいと思う。

 これから、彼女をからかういいネタができたと思ったのに。

 これじゃあ、からかわれるのは俺の方じゃあないか。

 そして、思い出した。

 

 あの、夜。

 学校での戦い。

 悪夢。

 目覚めた、闇の中。

 点かない電灯。

 恐慌。

 錯乱。

 そして、誰かの、暖かい、手。

 俺を、抱き締めてくれた、手。

 それを、払った。

 その持ち主を、殴った。

 蹴り飛ばした。

 噛み付いた。

 引っ掻いた。

 思いつく限り、暴れ回ったのだ。

 夢、だと思っていた。

 いや、思い込みたかったのかもしれない。

 だって、凛が、傷だらけだったから。

 青痣だらけで、引っ掻き傷も作って。

 それでも、笑ってくれたから。

 だから、あれは夢だと、そう思いたかった。

 多分、そうだ。

 

「これで、二回目だな」

「えっ?」

「凛に抱き締められるのが、だ」

「な、なんのことかしら?」

 

 惚けた、彼女の顔。

 本気なのか、演技なのか。

 問い詰めても、真意を明かすことは無いだろう。

 でも、それで十分だ。

 俺が、知っていればいい。

 俺だけが、彼女がどれだけ優しいか、それを知っていれば、十分だ。

 抱き締め合うように、背中を摩りあう。

 優しいリズムで。

 心臓の鼓動に合わせるように。

 君がくれた優しさが、君に伝わるように。

 

「ねえ、士郎、もう、私、泣いてないわ」

 

 顔を、上げる。

 そこには、目を赤く腫らした、それでも輝くように微笑う、凛がいた。

 涙の、跡。

 鼻水の、跡。

 ぐしゃぐしゃの、顔。

 それでも、一番綺麗な、凛。

 

「そうだな、もう、お前は泣いてないよ」

 

 きっと、俺も同じ。

 赤く腫れた、目。

 これでもかと、涙を流した。

 鼻水だって、流したのだろう。

 ぐしゃぐしゃの、顔。

 

「今までで、今の貴方が一番素敵」

 

 そんな、台詞。

 

「今までで、今の君が、一番綺麗だ、凛」

 

 歯が浮くような、台詞。

 にこやかに。

 見つめ合う。

 僅かな距離。

 それさえも。

 もどかしくて。

 

「凛、お前を、抱きたい」

 

 きょとんとした、表情。

 それに、すこしずつ、色がついていく。

 赤く、赤く。

 まるで、林檎のように赤い、頬。

 そっと、口付ける。

 まるで林檎みたいに、柔らかくて、甘かった。

 

「……悔しい」

 

 顔を顰めて、怒りに肩を震わす彼女。

 その反応が、この上なくらしくて。

 思わず、笑みが零れ落ちる。

 

「勝負は先出しだって決めてたのに……!」

「先に言ったのは凛、お前だろう?」

「あんなのノーカンよ!私は、もっと……」

 

 いらないことを口走りそうな、可愛い唇に、無理矢理な蓋をする。

 腕の中で体を強張らせた彼女だったが、それもやがて解き解れていく。

 そっと、唇を離す。

 舌は絡めない、幼稚なキス。

 それでも、潤んだ彼女の瞳。

 極上のサファイアだって、こんなに輝かない。

 

「俺、自慢じゃないけど初めてだから、優しくできるか自信が無い」

 

 なさけない、台詞。

 

「痛くするかもしれない、それでもいいか?」

 

 互いの息遣いが、こそばゆい。

 緊張で喉が渇く。

 ごくり、と、生暖かい唾を飲み下す。

 その瞬間、目の前の女性の、折れそうなほど細い喉も、ぐびりと動いた。

 なんだ、こいつも緊張してるんだな。

 そう思うと、腕の中の熱の塊が、この上なく愛おしく思えてくる。

 なるほど、食べたいほどに愛おしいというのは、こういう感情か。

 不思議と、納得した。

 

「今止めたら、一生笑いものにしてやるから覚悟しなさい」

 

 震える唇で、そう言った凛。

 勝気な、笑み。

 挑むような、笑み。

 その勇ましい瞳が、その震える肩が、その暖かい身体が。

 悉く、俺の理性を薙ぎ倒していく。

 

「凛……!」

 

 彼女を、柔らかい布団に押し倒した。

 傷口が、出来るだけ痛まないように。

 今の俺の理性に、許される限界で。

 そっと、獣のように。

 

「士郎……!」

 

 情欲に濡れた、その声。

 嵐逆巻く、夜。

 風が、五月蝿く、密やかな、夜。

 そんな、優しい夜に。

 俺たちは、恋人になった。

 

 

「よかったの、桜?」

「分からない。でも、これしか思いつかなかったから」

 

 窓の外を、眺める。

 雨。

 台風の夜よりも、ひどい、雨。

 それが、大切な、いや、大切だった誰かの涙のようで。

 居た堪れなくなって、カーテンを閉めた。

 

「今の私たちなら、勝てる。そうでしょう、キャスター」

 

 そうでないと、意味が無い。

 聖杯。

 初めて、欲しい。

 心の底から、欲しいと思う。

 でないと、救えない。

 誰も、救えない。

 今まで救われてばかりだった私だから。

 一度くらい救ってみたい。

 そう、思うのは、罪だろうか。

 

「桜、もう遅いわ。凛が生きてるにせよ死んだにせよ、明日は忙しくなる。もう、寝ましょう」

 

 それは非常に建設的な意見だ。

 ゆっくりと、振り返る。

 そこには、憂いを湛えた瞳のキャスターが。

 まるで母親みたいだと、そう思った。

「そうね、もう寝ましょうか」

 私が微笑むと、彼女も微笑んだ。

 そして、ゆっくりと部屋を出て行こうとする。

 それを、必死の声で引き止める。

 

「待って、キャスター」

「どうしたの、桜」

 

 ちょうどドアノブに手をかけた、彼女。

 肩越しに振り返ったその瞳には、一抹の驚きと、それよりも更に微量の哀れみが。

 

「……今日は、今日だけは、一緒に寝て。多分、一人では寝れないから……」

 

 俯く。

 哀れを装う。

 一番ひどい裏切りをしておいて、図々しい限りだと、そう思う。

 でも、一人が心細いのは、真実。

 だって、初めてだから。

 こんなに心細いのは、初めて。

 いつだって、あの人が傍にいた。

 悪夢に魘された飛び起きて、泣き喚いたあの日も。

 部屋に飛び込んできた虫に、声も出せずに恐怖したあの日も。

 いつも、姉は傍にいた。

 それが、いない。

 たとえ自分で切り払った絆とはいえ、あまりにも貴重すぎた。

 いずれ、会うだろう。

 そこが現世か、それとも地獄かは、わからない。

 できれば、地獄がいい。

 地獄で会えば、謝ることが出来る。

 現世で会えば、闘わなくてはならない。

 それは、もう、嫌だ。

 もう、あの人の血は、見たくない。

 

「……ええ、いいわよ」

 

 その言葉を聞いて、安心した。

 ゆっくりと、ベッドに潜り込む。

 冷たい、布団。

 まるで、罪人を罰するかのように、冷たく、硬い。

 そこに、自分以外の熱が加わる。

 優しい、熱。

 背中に感じる、暖かい掌。

 

「眠りなさい、今日は、もう大丈夫だから……」

 

 そんな、言葉。

 意識が、まどろむ。

 夢の世界は、果たしてとがびとに優しいだろうか。

 

「……不器用な子……」

 

 何かが聞こえた。

 それでも、落ちていく。

 地獄があればいいと、思った。

 この穢れた身に相応しい痛みが、恋しかった。

 蟲倉。

 その薄汚れた空間が、何故だか恋しかった。

 

 



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episode62 アベルカイン1 姉妹

 安いホテルの一室だった。

 何の変哲もない、ビジネスホテル。

 例えば、何百年の歴史を誇る一流ホテルのスイートルームでもなければ、怨霊に祟られたいわくつきの旅館の一室でもない。

 ごくありふれた壁紙、ごくありふれた調度。

 地方に出張にやってきたビジネスマンが体を休めるのに使う、本当にありふれた狭い空間。

 そこに彼らはいた。

 一切の魔術的な要素を取り払ったがゆえに、神代の魔術師の監視網にも引っかからなかった、空間。それは、戦争が始まる前から準備していたものではない。

 あくまで、臨時的に拵えた、仮屋。

 本来彼らの本拠地であるはずの工房は既に引き払っている。おそらくは既に遠坂の魔術師が家捜しをし終えた後だろう。それは一向にかまわない。彼らの不利になるようなものは、何も残していないはずだ。

 狭い、室内。

 シングルのベッドがある以外、特に目立った家具も無い。

 殺風景で、実用的。

 そんな、部屋。

 その部屋には、二人の男がいた。

 二人とも、かなりの長身だ。

 一人は直接ベッドに腰掛け、もう一人は部屋の片隅で影のように突っ立っている。

 ぎしり、と安ベッドのスプリングが軋む。

 

「暗殺者の英霊たるあなたに質問したい」

 

 指を組み、視線をそこに落としたまま、座った男は問いかける。

 問いかけられた男は無言。いや、彼の異相を見ると、そもそもしゃべることができるのかすら怪しいものだ。暗がりであれば人の本能的な恐怖を否応なく駆り立てるそれも、人工的な明かりに照らされた室内においてはいっそのこと滑稽なのだが。

 無言の返答を是ととったのか、座った男は続ける。

 

「『人生は』。その後に続く、もっとも相応しい形容詞とはなんだろうか」

 

 およそ、この時期、この場所においては考えられぬ問い。

 暗殺者は呆れながら、それでもこう回答する。

 

「その問いには答えることが出来ぬ。ありとあらゆる形容詞が接続可能で、ありとあらゆる形容詞が等しい価値しか持たぬゆえ」

 

 人は、その小さな脳髄以外で、世界を認識することは不可能だ。

 故に、人が考え出したあらゆるものは、その脳髄の限界を超えることは叶わない。悪も、善も、神も、悪魔も、言葉も。

 逆に言えば、その限界以内であれば、人はあらゆる物事を再現することが出来る。悪も、善も、神も、悪魔も、言葉も、全てが人の代名詞だ。

 ならば、人生という言葉を飾る修飾語には、如何なる言葉も相応しく、また、如何なる言葉も相応しくない。人生、それを認識する脳髄、それが考え出した泡沫のような単語。

それをもって人生を語るなど、人が己の生まれた意味を問いかける、その行為に等しかろう。当人には絶対の価値をもっても、それを証明する数式は存在しない。

 故に、人は人生を語るとき、その狭量さを曝け出す。

 

『○○とは、人生のようなものだ』

『人生とは、○○のようなものだ』

 

 そこに如何なる単語が割り当てられても、如何にも陳腐で、失笑の域を出ない。

 彼女は、死に行く弓兵に、そう言ったのだ。

 

「あなたの言うことはもっともだ。私も深く同意する」

 

 ぎしり、と、より深くベッドに体重を預け、男は続ける。

 

「それを承知で、私は思うのだ。

 『人生は美しい。』

 醜悪で、不快で、どうしようもないくらい暗愚でも、人生は美しい。彼女の内側から見た世界しか知らぬ私には、そう思えてならないのだ」

 

 夢を、見るような呟き。

 余人が聞けば、おそらくは一笑に付すであろう、他愛も無い、感傷。

 それでも、男は誇らしげだった。

 彼の存在意義。

 おそらくは、それは終わりを告げようとしている。

 それは、彼にとっての不可避の死を意味している。

 にもかかわらず、彼は楽しげだった。その頬に、深い溝を作り上げるほどに。

 

「少し、話しすぎた。忘れてくれると有難い」

「斯様な戯言を私と交わすために、わざわざ表に出てきたというのか、卿は」

 

 呆れたような、しかし、怒りに満ちた、呟き。

 それを聞いて、男はやはり苦笑した。

 

「あなたの言いたいことは分かっているつもりだ。しかし、これは他ならぬ彼女が望んだことなのだよ」

 

 その言葉に、仮面は黙る。黙らざるを得ない。

 

「所詮、我らは彼女の使い魔でしかない。そして、それが限りなく光栄だ。そうは思わないか?」

 

 視線は、窓の外に。

 青みがかった大気。

 まもなく、夜が明ける。

 例え、雨と風に塗れた、誰もが望まぬ朝であっても、夜は必ず明けるし、朝は必ず来る。

 ならば、いずれ彼女も解放されるのだろうか。

 果たして、何から?

 そこまで考えて、男は己の思考を中断した。

 それらは、彼が決めるべきことではなかったから。

 

「さあ、行こうか。そろそろ、夜が明ける」

 

 髑髏が、静かに頷いた。

 

episode62 アベルカイン1 姉妹  

 

 生暖かい空気が、頬を撫でた。

 たっぷりと湿りを帯びたその風は、少しだけ開いた襖と柱の隙間から流れ込んでくる。

 しとしとと、穏やかな冬の雨。昨日の嵐も、今は息を潜めている。

 ぼんやりとした視界と思考。

 身体中を覆う、えも言われぬ快美な倦怠感。

 重たい布団。それは、この布団で閨を共にした、二人の男女の体液をたっぷりと吸い取ったからだろう。

 ふ、と、隣を見る。

 眠る前に、この世でもっとも愛しい人がいた、場所。

 そこに、熱は、無かった。

 愛しい人の姿は無く、後朝の文も無い。

 安心した。

 もし、そこに穏やかな寝顔を浮かべた彼女がいたら、平静でいられる自信が無い。

 それにしても、少し無茶をさせすぎた。あくまで、彼女は怪我人だというのを忘れていた。

 だって、我慢なんてできるはずが無いじゃあないか。

 憧れ、だったんだ。

 あの、凛とした立ち姿。明朗快活で、誰にも靡かない在り様が、野生の猫みたいだと思っていた。それでも、まるで白鳥みたいに優雅で、繊細で、いい匂いがした。

 それが打ち砕かれるのに、実際は五分もかからなかった。

 あれは、もはや侵略者だった。

 暴君。

 赤い、悪魔。

 とんがった尻尾と、蝙蝠の翼を持つ、悪魔。

 でも、妙に情に厚くて、いざというときに非常になれなくて、そんな自分を嫌悪している、そんな、見習いで駆け出しの、あくま。

 それが、どれほどに眩しかったか。

 何度も助けられた。

 そして、何度かは救った。

 憧れは、淡い恋心に変わっていた。

 その彼女が、腕の中にいた。

 腕の中で、喘ぎながら、何度も俺の名前を呼んでくれた。

 熱っぽく、濡れた声で。

 それを思い出すと、下腹部に熱が集中してしまう。

 愛おしくて、胸が張り裂けそうになる。

 柔らかかった。

 引き締まった彼女の体が、奇跡みたいに柔らかかった。

 どこを触っても、楽器みたいに声を上げてくれた。

 ひょっとしたら、演技だったのだろうか。

 それでも、構わないと思う。

 それでも、愛おしい。

 もう、離したくないと、そう思うほどに。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 のろのろと、下着を履く。

 ああ、後始末が大変だ。

 どろどろのシーツは早々に洗わないといけないし、布団だってさっさと干さないとえらいことになるだろう。

 そういえば、凛の下着がどこにもない。おそらく、洗面所に持っていってしまったのだろう。

 

「そこらへんは、遠坂だよなぁ……」

 

 苦笑する。

 きっと、朝一番に見る彼女は、いつもの彼女だ。

 凛として、冷静で、確固として。

 それでも、きっと、頬は赤いだろう。

 多分、今の俺みたいに。

 それを想像して、頬が緩んだ。

 さあ、シャワーを浴びよう。

 きっと、今日は忙しくなる。

 それは、とっくに決まっていたこと。

 だから、気合を入れないと。

 あいつに笑われたら、生きていけないもんなぁ。

 

 

「そうか、あの後、一旦城に……」

「ええ。アーチャーとバーサーカーが共闘したんだもの、いくらゴルゴンでも勝てるはずは無い。そう思ったけど、あの二人も確かに死んだ。いくらなんでも、綺麗に相打ちって訳はないでしょう?そう思ったの」

 

 朝食。

 今日は、俺が作った。

 しかし、如何にも居心地が悪い。

 今日、俺が起きたのは、八時も回った頃だったらしい。

 だって、仕方ないだろう。

 夜の一時まで付きっ切りで凛の看病、そして、その後は一時間以上も…。

 そんなこんなで体力を使い果たした後で眠れば、少しは寝過ごそうというもの。

 手早くシャワーを浴びて、おそるおそる居間の障子を開けた。

 そこには。

 明らかに不機嫌な、イリヤ。

 ぼんやりと、しかし好奇心に瞳を輝かせるリズ。

 『このケダモノが』、そういわんばかりに白い目を向けるセラ。

 一瞬こちらに目を向けて、深く溜息を吐いたセイバー。

 そして。

 その中で、まるで借りてきた猫みたいに、こじんまりと赤くなった、凛。

 左肩を、三角巾で吊っている。

 そして、その瞳。

 柔らかなその瞳は、ゆっくりと俺の瞳と交差して。

 助けを求めるみたいに、うるうると滲んでいた。

 ああ、もう。

 ずるい、卑怯だ、口惜しい。

 あんなに乱れた夜の、次の朝に、こうまで惚れ直させるなんて、どうかしてる。

 そこまで、俺を狂わせたいか、遠坂凛。

 この、この世で一番愛らしい、こあくまめ。

 もう、俺は白旗を掲げているのに。

 完全降伏、手だって後ろで組んでいるのに。

 なのに、この悪魔は、許してくれないのだ。

 もっと惚れろ、と。

 もっと夢中になれ、と。

 どこまでも、深く要求してくる。しかも、それが無意識だから性質が悪い。

 そして、一番救い難いのは、それを俺自身が望んじまってるってことだろう。

 それが、幸せなのだ。

 理想、その影すらも霞んでしまうほどに。

 彼女と一緒の人生が、輝いて見えた。

 もし、これからも、彼女と一緒に歩けたら。

 俺と彼女の子供を、この手に抱くことが出来たら。

 そう思うと、足が竦んだ。

 唯一、それだけが、恐ろしかった。

 もしかしたら、彼女の手も振り払わなければならない日がくるのだろうか。

 彼女の瞳を、俺の罪で濡らさなければならない日が、来るのだろうか。

 それは、あまりにも、恐怖だった。

 

「結局、あの場に生き残ったサーヴァントはいなかった。綺麗に相打ちになったのか、それとも漁夫の利を得た第三者がいたのかは分からないけどね。あったのは、枯れた森と、吹き飛んだ城だけだったわ」

「そうか、あの城が……」

「ええ。跡形も無く、吹き飛んでた。あれは、きっと何かの宝具だと思う」

 

 その言葉を聞いて、イリヤの顔が僅かに曇った。きっと、色々な思い出の詰まった城だったのだろう。それが跡形もないと聞けば、ショックを受けるのも当然だろう。

 しかし、同じように顔を青褪めたセラさんは、こう言った。

 

「イリヤスフィール様……」

 

 それに答える、イリヤの声。

 

「ええ、天のドレスが、失われた……」

 

 天のドレス?

 何のことだろうか。

 凛は、そのまま続ける。

 

「そして、帰りの道行き。そこで、突然、焼けるような痛みで意識を失った。気がついたらこの家にいたわ。これが、私の覚えている全てよ」

「後は、私が引き継ぎましょう」

 

 ことりと置かれた湯飲み。

 引き締まった瞳。

 もう、二度と見ることは無い、そう思っていた聖緑と金砂。

 何故だか、嬉しくなる。

 

「卑怯にも背後から凛を襲ったのは、ランサー。クー・フーリン、アイルランドの光の皇子、その人でした。おそらく、殺すつもりは無かったのでしょう。彼が本気で殺すつもりならば、リンが生きているはずが無い」

 

 それは、俺もいたく同感。

 あの、真紅の槍。

 それより何より、貫くような冷たい殺気。

 正直、何故俺が生き残ることが出来たのか、不思議で仕方が無い。

 それほどに、絶対の死の気配を纏った存在だったのだ。

 

「それは、サクラの意志かしら、それとも、ランサーのマスターの意志?」

「きっと、ランサーのマスターの意志でしょうね」

 

 イリヤの問いに、凛が答える。

 

「完璧に、あの子は私を殺すつもりだった。あの殺気は本物よ。獲物を甚振るなんて、二流三流のやること。一流は、仕留められるときに確実に仕留めるわ。そして、あの子は私の妹なんだもの。超がつくほどの一流、それが妙な悪戯心を働かせてくれたなんて、甘い憶測でしょうね」

 

 凛の細い手が、震えていた。

 そっと、握ってやる。

 彼女は、振り向かない。

 それでも、ぎゅっと、握り返してくれた。

 それで、十分だ。

 

「じゃあ、なんで?」

 

 当然すぎる疑問を口にする。

 こういった議論の場では、当たり前すぎることも提議する必要があるのだ。でないと、とんでもない方向に筋道が逸れていくことが、ままある。

 

「おそらく、私と桜をとことん争わせて、疲弊させるため、でしょうね」

 

 ぎしり、と彼女の白い歯が、軋んだ。

 

「あの場で私を殺しても、セイバーが逃げのびて士郎と再契約でもすれば、少なくともランサーのマスターには意味が無い。まして、例えばキャスターが強制的に再契約して桜の戦力が飛躍的に増強される、そんな結果になったら目も当てられないわ」

「つまり……」

「ええ。こちらが望もうと望むまいと、桜と私は戦う。戦わざるを得ない。そこで、彼女に協力しているランサーがどう動くか。桜は、今、ランサーを排除することは出来ない。強力な対魔力を誇るセイバーは、キャスターにとって天敵だから。そして、いかにセイバーとはいえ、彼ら二人を相手にするのは、あまりにも厳しい。つまり、ランサーがどう動くかで、戦局ははっきりと決まってしまう。結局のところ、決定権を握っているのは、ランサーのマスターなのよ」

 

 なるほど、わかりやすい。

 例えば、セイバーの戦力を10としよう。

 キャスターの戦力は、相性の悪さも伴って、5か6くらいのものだろう。

 そして、ランサーが、俺の見立てでは8か9。

 キャスター単体では、セイバーには勝ち得ない。

 しかし、キャスターとランサーが共闘すれば、13から15と、セイバーの戦力を大きく上回る。

 ならば、どういう戦局を作るも、ランサーのマスターの胸先一つ、そういうことになる。

 キャスターと共闘してセイバーを屠るも、キャスターを裏切ってセイバーの贄とするも、自由自在、そう言うことだ。

 だが一方で、ランサーだけではセイバーに勝ち難い、それも事実なのだ。

 ならば、ランサーのマスターにとって、最高の結果とは何だろうか。

 セイバーとキャスターが共倒れになる、それが最高なのは間違いあるまい。

 しかし、俺が気付く程度のこと、聡明な桜達ならば百も承知だろう。故に、きっと彼女達は、最前線にランサーを駆り出し、自分達は出来るだけ傷つかないようにするはず。そうすれば、セイバーとランサーが倒れた際に勝者になるのは自分達なのだから。

 それを、ランサーのマスターが望むだろうか。

 否。

 ならば、この二人の間には、埋め難い不信の溝があることになる。

 俺たちが突くべきは、そこだろうか。

 

 ……果たしてそうなのか。

 

 未だ姿を見せないランサーのマスター。

 果たして、そいつの意図は、そこにあるのか?

 本当に、セイバーとキャスター、この二人を仕留めることがそいつの望みなのか?

 ならば、もっと簡単にことを済ませることは可能だったのではないだろうか。

 例えば、森で凛を殺して、その直後に返す刃で、油断した桜とキャスターを仕留める。

 仮に、その後、俺とセイバーが再契約をしても、凛がマスターだったときのセイバーとは比べるべくも無いほどの弱体化をしているはず。

 ならば、十分に勝ちの目はある。不安定な共闘を結ぶことと比べて、どちらが成功率が高い?

 目的が、勝ち残ることに無いとするならば、本当の目的はどこにある?

 戦うこと。

 争わせること。

 それが、目的?

 まさか。

 それに、もう一人。

 アサシン。

 奴のマスターだった、マキリ臓硯は、死んだ。確かに、蛇の腹の中に消えたはずだ。

 しかし、本当にそうか?

 あの怪老が、本当に死んだのか?

 あまりにも、呆気なさ過ぎる。

 万が一、生きていたら?

 この、美味しすぎる状況。これを、如何にして利用するか、舌舐めずりをしていることだろう。

 いや、そもそも奴が本当にアサシンのマスターなのか?

 ライダーのマスターは、奴だった。学校で令呪を使っていたことからも、それは間違いない。

 だが、奴をアサシンのマスターと断ずるには、あまりにも証拠が少なすぎないか?

 ただ、奴とアサシンが、一緒にいただけ。

 ただ、アサシンのマスターに相応しい人物が、他にいないだけ。

 本当か?

 本当に、他にアサシンのマスターたる人物は、いないのか?

 ……分からないことが、多すぎる。

 どれもが不確定で、不安要素だらけだ。

 

「……駄目ね、考えても、分からないことが多すぎるわ」

 

 ふう、と、溜息。

 そして。

 

『ええ、そうでしょうね。それに、貴方はもう考える必要なんて、無いのだから』

 

 声が、した。

 聞きなれた、声。

 この場にいる誰の声よりも、俺の耳に馴染んだ声。

 そして、俺が初めて聞く、限りなく冷たい、彼女の声。

 その声を聞いたとき。

 俺の中の、最後の希望の綱が、空しく引き千切られてしまった。

 理解したのだ。

 彼女は、己の意志で、凛を殺そうとした、と。

 セイバーが、飛び掛るように障子を開けた。

 板張りの廊下。

 縁側。

 その、更に外。

 庭の中央。

 深い水溜りの、そのど真ん中に、彼女は亡っ、と立っていた。

 視線は、限りなく虚ろ。

 濡れたカラスの羽のような艶やかな黒髪から、止め処なく雫が滴り落ちる。

 まるで、幽鬼。

 それでも、身に纏うのは、いつもの彼女の服。

 ロングの、ベージュ色のスカート。

 彼女と同じ名前の、桜色のカーディガン。

 その下に来ているのは、真っ白なシャツ。

 いつもの、彼女。

 ただ、その表情が、違う。

 俯き加減の、顔つき。

 暗い、瞳。

 暗い、歪んだ口元。

 絶望。

 そんな題名の、彫像に、こんなものがあっただろうか。

 

『ごきげんよう、姉さん。傷の加減は如何ですか?』

 

 くすくすと、蜜を含むように微笑う、桜。

 その声に、限りない不吉を感じる。

 その髪に、彼女自慢のリボンは、無い。

 髪が、しな垂れ落ちている。

 話に聞いた、凜からのプレゼント。

 それを外したのは、彼女なりの決別宣言なのだろうか。

 

「『影』を飛ばしてきたの?しばらく見ないうちに、ずいぶん偉くなったのね、貴方」

『ええ、だって、今代の遠坂の当主ですからね、私は』

 

 ぼやけた輪郭。 

 ぼやけた声量。

 蜃気楼のように揺らぐ、彼女の影。

 

「……ふん、一回不意打ちが成功しただけで、ずいぶん大きく出たわね。これまで、貴方の連敗記録がどれだけ続いてたか、ここで披露してあげましょうか?」

『数に拘りますか?ああ、姉さん、失望したわ。どれだけ負けても、最後に勝っていればいい、そう言った貴方は、それなりに素敵だったのに……』

 

 辺りを満たす、凄まじいほどの威圧感。

 これが、魔術師としての、桜。そして、凛。

 イリヤも、セラも、リズも、そして、俺も、飲まれてしまっている。

 唯一、セイバーだけが、痛ましそうに二人を見つめる。

 まるで、己の過去を再確認するかのように。

 

『これが、最後のチャンスです。魔術刻印を私に譲り、魔術回路を捨てなさい。そうすれば、貴方を生かしておいてあげてもいいわ』

「舐めた口、誰に叩いてるのかしら、桜?」

 

 青白く燃え上がるような、凛の魔力。

 柔らかな髪の毛が、逆立つ。

 拳に、骨が浮き出る。

 ちりちりと、産毛が逆立つ。

 牙をむき出しにする、好戦的な笑み。

 まるで、豹。

 怒り狂った、笑み。

 

『そう、最後まで賢くなれないのね。私は、貴方を殺したくなかったのに』

 

 儚い笑みと共に吐き出された、その言葉。

 それだけが、唯一真実の気がした。

 

「そうね、貴方の言葉に唯々諾々と従うのが賢いというならば、私は賢くなんてなれないかもしれないわ」

『馬鹿な、人……』

 

 彼女は、より一層、俯いた。

 姉の視線から、その顔を隠すかのように。

 やがて、彼女は背を向けた。

 静かに、静かに。

 

「ああ、それとね、桜」

 

 今までと打って変わって、軽い調子の凛に声。

 振り返る、桜。

 その視線の先。

 彼女の姉。

 その人が、俺の顎に手を添えて。

 まるで、貪るように、俺の唇を。

 舌が、侵入してくる。

 技術も何も無い、攻撃的な口付け。

 数秒、それを楽しんだ後で、凛は、唖然とする妹に、こう言い切った。

 

「私、士郎の女になったから。そこんとこ宜しく」

 

 にんまりとした、笑み。

 勝ち誇った、雌の顔。

 そして、一言。

 

「負け犬は、お呼びじゃないのよ。さっさと、尻尾を巻いて帰りなさいな」

 

 桜の表情から、感情が消えていく。

 無垢の顔。

 そして、それを微笑が塗り潰していく。

 

『あはっ』

 

 あ。

 微笑った。

 桜が、微笑った。

 

『うふふ、やっぱりだ……』

 

 最後の糸が切れたような、その笑い声。

 限りなく楽しげで、この上なく殺意に満ちている。

 

『やっぱり、貴方は先輩を手に入れちゃうんですね……』

 

 ゆるゆると、彼女の足が、水溜りに沈んでいく。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 まるで、殺意の対象をその目に焼き付けようとするかのように、ゆっくりと、ゆっくりと。

 

『でも、貴方は先輩を不幸にする……。それは確定した事実なんだから……』

 

 謡うようにそう言った彼女。

 一瞬だけ、俺を見た。

 胴の辺りまで沈んだ彼女の瞳。

 優しく、慈愛に満ちている。

 それでも、一瞬。

 その表情は、元の呪われたそれに戻った。

 そして、交錯する、姉妹の視線。

 それだけで射殺すような、そんな視線。

 

『今日の夜、学校の校舎で待っています』

「へえ、大サービスじゃない。どうしたの、お腹でも壊した?」

『これが、最後のチャンス。最高の準備を整えて来てください。せいぜい、悔いの残らないように……』

 

 ちゃぷん、と、間の抜けた音を立てて、桜は、完全に水溜りの中に消えた。

 そこには、微かな波紋が残った以外、彼女がいた証は、無かった。

 まるで亡霊が通ったみたいな、冷ややかな空気が、項を撫でていった。



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episode63 アベルカイン2 大混戦

「罠、なんじゃあないのか」

「ええ、多分そうでしょうね」

「じゃあ……」

「でも、私達に選択権なんて、最初から無いのよ」

「……どういう意味だ」

「全ては、あの『門』のせい。敵に回ると、あれほど厄介だとは思わなかったわ」

「……なるほど、つまり、空間転移を使った不意打ちか」

「そういうこと。いくらセイバーが最高ランクの対魔力の持ち主でも、私達はキャスターの、ほんのお遊びみたいな魔力で蒸発してしまう。『門』から魔術だけを飛ばして攻撃されれば、対応の仕様が無いわ」

「じゃあ、先制攻撃をすればいいんじゃあないのか?」

「それも、ランサーがあっちに味方した時点で効力が薄いわね。電撃的な殲滅は不可能だろうし、一回逃がせば、今度はどんな戦術を組み立ててくるか、分かったもんじゃあない。私だって、キャスターの魔術の全てを把握してるわけじゃあないんだから」

「……行くしかない、そういうことだな」

「行くしかない、そういうことよ」

 

episode63 アベルカイン2 大混戦

 

 いつからか、雨はあがっていた。

 それでも、風は依然と逆巻くように吹き荒れている。

 ごうごうと、唸り狂う嵐の海のように。

 雲が、驚くほど速く流れていく。

 その隙間を縫って、時折月が夜を照らす。

 丸い、月。

 ほとんど満月だ。

 

「いらっしゃい、お嬢ちゃん」

 

 校門。

 人の気配の絶えて久しい、鉄の門扉。

 そこに、貝紫のローブが、立っていた。

 その声に、一切の感情は、無い。

 そして、彼女の後ろに控える人影。

 ほんの少しだけ不本意そうに、愛槍を担いだ蒼い騎士。

 その赤い瞳が、気の無い素振りでこちらを射抜く。

 それでも、その立ち振る舞いに一切の隙は、無い。

 まるで、野生の虎。

 鉛玉を打ち出す、小賢しい人の小道具程度では、到底敵し得ない、実在感。

 その、更に後ろ。

 ゆらゆらと揺らめく、黒い影。

 まるで、水面に漂う、海月。

 ふわふわと、ゆらゆらと、儚く、不吉。

 陰を纏った、女性の影。

 

『ようこそ、姉さん、貴方の死に場所に』

「ホストなんだから、もう少し寒気のする台詞でも考えておきなさいよ」

『貴方には、この程度で十分でしょう?』

「ええ、そうね。きっと、貴方の悲鳴は、もっと優雅よね」

 

 凜は、何の気負いも無く最初の一歩を踏み出した。

 身を包むのは、赤い外套。

 これでもかというくらい、魔術礼装を詰め込んだ、凜の戦装束。

 戦場を駆ける、女武者。

 血煙に舞う、巴御前。

 そんな、陳腐な感想。

 

「ここまでお膳立てしたんだもの、私の相手は貴方が努めてくれるんでしょう?」

『ええ、不本意ながら、喜んで』

 

 二騎のサーヴァントは、十戒のように道を開けた。

 そこを、王様のように通り過ぎていく凜。

 背筋を真っ直ぐに、誇り高く。

 左肩を、だらんと下げたまま。

 一度だけ、振り返った。

 

「あの馬鹿を、いっぺんぶちのめしてから連れて帰ってくるから」

「……待ってるぞ」

「そんなに、不安そうな顔しないでよ。ちょっと行ってくるだけなんだから」

「……ちょっと、だぞ」

 

 凛は、にこりと微笑った。

 そして、駆け出した。

 ゆっくりと、その背中が暗やみに塗れていく。

 それを、阿呆みたいに見送った。

 

「……ったく、なっちゃあいねえな、坊主」

 やがて、彼女の足音も聞こえなくなったとき、蒼い獣がそう言った。

 かつん、と蹴り飛ばした小石が、茂みの中に消えていく。

 

「なんで、あの女を見送った?ありゃあ、お前のオンナじゃあねえのかよ」

「ああ、俺のオンナだ。だから、信頼してる。あいつは、こんなところじゃあ死なない」

 

 がりがりと、頭を掻く。

 青い頭髪。

 それが、荒ぶる海のように、ざわめく。

 彼は、目を閉じる。

 心底、苛立たしげに。

 

「一応言っとくがな、ここは敵地だ。そこんとこ、分かってんのか?」

 

 敵地?

 確かに、ここは桜の指定した戦場だ。

 多少の罠も、あるだろう。それでも、それくらいは覚悟の上だ。それを噛み破るつもりで、彼女は駆けて行ったのだ。

 ならば、どこに不安の要素があるか。

 そう、不安なんて、無い。

 そのはずなのに。

 

「……しまった……、これほどか、キャスター!」

 

 後悔に滲んだ、セイバーの声。

 それに答える、冷ややかなキャスターの笑み。

 

「どうした、セイバー?」

「シロウ、この空間の解析を!」

 

 解析?

 ゆっくりと精神を集中する。

 そして、呪文を紡ぐ。

 

「解析、開始」

 頭の中に描かれていく設計図。

 立体の辺が、線となって。

 絡み合うように、三次元を作り上げていく。

 そして、魔力の流れ。

 まるで、一方通行のような、綺麗な指向性。その中心には、おそらく一人の女性。

 これは……。

 

「まさか……神殿……?」

 

 そう、この感覚は、遠坂の家のそれに等しい。

 空間を満たすマナ、それがキャスターの下僕となり。

 その物理法則すらも、彼女の意のままに、捻じ曲げられる。

 ここでは、彼女こそが、神。

 それ以外は、供物を捧げる信徒に過ぎない。

 ふふ、と、妖艶な笑みが漏れ聞こえる。

 勝利を確信した、笑い声。

 まさか、敵の立場でそれを聞くことになるとは、夢にも思わなかったが。

 

「私が、この戦争が始まってから今まで、ただ惰眠を貪っていたと思って?これでも、魔術師。企て、暗躍してこそ魔術師の本懐、そうでしょう、坊や?」

 

 つまり、ここに罠が仕掛けられているのではない。

 この空間、それ自体こそが罠。

 敵の、胃袋。

 そこに、凜は飛び込んだ、そういうことか!

 

「凜!」

 

 校門に、飛び込む。

 すると、思わず眩暈をおこすほどの圧迫感が。

 まるで、酔っ払いのように揺れる地面。

 思わず、手を突く。

 

「貴方は、そこで蹲っていなさい」

「おのれ、キャスター!」

「おおっとぉ、てめえの相手は俺だなぁ、セイバぁぁぁ!」

 

 獣の、咆哮。

 そして、剣戟音。

 戦いが、始まった。

 なのに、俺は。

 

「凜……」

 頼む、どうか、無事で……。

 

 

 真っ暗い校舎、そこを歩く。

 ブーツの踵が、こつりこつりと、硬質な音を奏でる。

 思ったより、気持ちいい。

 もし、昼間この格好で歩いたら、皆はどう思うだろうか。

 綾子は、目を丸くするだろう。

 蒔寺は、大騒ぎをするだろう。

 葛木は、いつもの声で注意するのだろうか。

 そんな、妄想。

 其れを供に、歩く。

 時折、月が顔を出す。

 泳ぐ雲の合間から、まるで溺れるように。

 その、はっきりとした光が作る、影。

 この状況は、桜に相応しすぎる。

 虚数属性。

 不確定の数理をもって敵を葬る、ある意味何よりも魔術師らしい、魔術。

 そういえば、最近は桜の相手をしたことが無かった。

 今、どれほどの実力を貯えているのか。

 そして、キャスター。

 彼女に師事したのであれば、この短期間で驚くほどに成長しているはず。

 優れた師というものは、それほどに貴重なものだ。

 私も、教えてもらえばよかったか。

 

 渡り廊下を超え、第二校舎へ。

 

 左手が、疼く。

 きっと、この手とも今日でお別れ。

 名残惜しくないはずが、無い。

 魔術刻印も、再移植しなければならないか。

 それでも、よく働いてくれたものだと思う。

 右手で、愛おしく、撫で摩る。

 やはり、何の感触も無い。

 それでも、なお愛おしかった。

 

 階段を、昇る。

 

 桜がいる場所は、分かっている。

 彼女が初めて私を蔑んだ、場所。

 そこに、いるはずだ。

 きっと、あの日、もっとも多くの血が流れた場所。

 あの日の、不祥の弟子。

 今の、私の恋人。

 士郎が、蹲り、涙を流していた、場所。

 

『賢くなったけど、魅力的じゃなくなったわね。さっきまでの貴方の方が女にもてたわ、きっと』

『姉さん、ひどい……』

 

 そんな、会話とも呼べない会話が交わされた、場所。

 きっと、そこに桜が。

 

「いたわね、やっぱり」

 

 士郎がもたれかかっていた、柱。

 そこに蹲るように、桜が、いた。

 指で、廊下をなぞっている。

 まるで、校庭の砂で絵を描く、小学生のように。

 

「あのとき、先輩は泣いてたんですよー」

 

 妙に間延びした声。

 こちらに、視線すら寄越さない。

 

「なのに、なんで姉さんは、先輩を労ってあげなかったんですかー?」

 

 いじいじと、いじけた様に指で廊下をなぞる。

 膝を抱え、小さく丸まったような体勢で。

 背中。

 丸まった、背中。

 地面を這いずる蟻を眺めるかのような、小さく丸まった、背中。

 

「……あいつが、それを望まないから、よ」

「あは」

 

 ゆっくりと、立ち上がる、桜。

 陽炎めいた、魔力の渦。

 見に纏うは、漆黒の外套。

 私のものの、色違い。

 彼女が、ねだったのだ。

 珍しく、それだけは姉さんとお揃いがいい、と。

 それを、纏っている。

 視線は、虚ろ。

 足元の廊下を、ぼんやりと見つめる。

 しかし、感じられるのは、確固とした殺意。

 

「姉さん、私はね、先輩の隣にいられなくてもいいんです。だから、先輩と貴方が口付けたとき、特に嫉妬は感じませんでした」

 

 引き攣るような、笑み。

 回転数を増していく、魔術回路。

 馬鹿みたいに強靭なそれは、私の強度を遥かに凌いでいる。

 

「藤村先生でも、イリヤさんでも、美綴先輩でも、誰でも構わない。誰が先輩の隣にいても、良かった。私は、それを祝福できた」

 

 ゆらり、と、視線があがる。

 今日、初めて交わる視線。

 一切の熱を感じない、死者のそれ。

 これが、私の妹か。

 これほどか。

 

「でも、貴方だけは、駄目。貴方だけは、許さない。例え私が先輩の傍にいられなくなっても、貴方だけは排除します」

 

 じわりと、冷や汗が背筋を濡らす。

 思わず失禁しそうなほどの、威圧感。

 圧倒的。

 圧倒的な、力の差。

 それ、だけだ。

 だからどうした。

 私は、こいつに殺されてやるわけには、いかない。

 だって、私を殺したら、この子は笑えなくなる。

 一生、この視線のまま、過ごさなければいけなくなる。

 それは、本物の死人ではないか。

 生ける屍ではないか。

 違う。

 そんなものを、助けたかったんじゃあない。

 そんなものを、愛したんじゃあない。

 桜に、こんな表情は似合わない。

 彼女は、もっと、そう、まるでお日様のように笑えるんだから。

 誰よりも、私がそのことを知っているんだから。

 

「一応、私の戦略的課題を教えてあげましょうか、桜」

 

 震えそうになる膝を、叱咤する。

 きっと、あの日の士郎は、もっと大きな絶望と戦っていた。

 ならば、ここで膝を折れば、笑われるのは私だ。

 そんなの、遠坂のプライドが許さない

 

「……一応、聞いておきましょう」

「あんたをぶちのめして、ぐしゃぐしゃに泣かせて、『ごめんなさい、姉さん』、そう言わせることよ」

 

 一瞬の、空隙。

 そして、くすくすと笑い声。

 もう、こんなときくらい、腹を抱えて笑いなさいよね。

 笑うところよ、ここ。

 

「ああ、もう、本当に可愛らしい……。じゃあ、私の課題は、『もう殺して、桜』、貴方にそう懇願させること、に決めました」

 

 なるほど、つまり、一息には殺さない、そういうことね。

 なぁんだ、つまらない。

 そんなの、勝ったも同然じゃない。

 ゆっくりと、右手の人差し指を、彼女に向ける。

 

「ま、性質の悪い風邪を引くくらいだから。せいぜい手厚く看病してあげるわ」

「嘘吐き……」

「正解!」

 

 一瞬、歯を食いしばる。

 腹に力を入れる。

 火薬じみた発射音。

 ガンド。

 質量を兼ね備えた、呪い。

 私の自慢。

 放つ。

 連射。

 黒い球体が。

 桜を。

 でも、知っている。

 こいつは。

 この程度では。

 

「ああ、本当に、可愛らしい……」

 

 着弾。

 その、寸前。

 黒い、檻が。

 彼女を、守るように。

 吸い込まれ、消えていく、球体。

 音も無く、影の中に。

 桜の、魔術。

 私のより、強力。

 でも、無詠唱。

 シングル、アクション。

 馬鹿な。

 魔術刻印を持たない彼女。

 絶対に、無理。

 なら。

 なんで。

 

「あは、まだ理解していないんですか、姉さん。ここは、既にキャスターの陣地、神殿です。彼女が神ならば、彼女を従える私も、また神なのですよ」

 

 ああ、そういうことか。

 さっきから感じる、馬鹿みたいな威圧感。

 そして、肩に圧し掛かるような、重圧。

 桜の性能は、いつも以上。

 私のエンジンは、ガス欠寸前。

 

「そんな反則して、嬉しい?」

 

 冷や汗が、頬をなぞって落ちていく。

 

「最高の賞賛です、姉さん」

 

 にんまりとした笑み。

 マナが、彼女に集まっていく。

 私の回りだけ、マナが薄い。

 つまり――。

 

「貴方は、オドだけで戦ってください。私は、貴方の分もマナを使うことが出来る」

 

 ここまで。

 私は、魔力を制限された、手負い。

 彼女は、強力な魔術を、詠唱不要で連発可能。

 ……多少の小細工ならば、噛み破る自信は、あった。

 それでも、ここまで徹底するか、普通。

 

「ああ、その青褪めた表情、素敵です、姉さん……」

 

 ゆっくりと腕を掲げる彼女。

 そして、何の躊躇いも無く、振り下ろす。

 飛び来る、影の刃。

 圧倒的な質感。

 そして、速度。

 横っ飛びに、それをかわす。

 背後で、コンクリートの爆ぜる音が。

 そして、一瞬遅れて爆風。

 ふざけた、威力。

 あの夜、私のガンドでは傷一つ付かなかった蟲を吹き飛ばした、魔術。

 そんなもの、まともに喰らえば、一撃でお陀仏だ。

 

「さあ、昔みたいに遊びましょう、姉さん……」

 

 彼女は、再び腕を振り上げた。

 その動作に、一切の慈悲は無い。

 徹底的。

 どこまでも、執拗。

 そして容赦が無い。

 完璧主義者。

 ああ、完全に、私の妹だ。

 一片の濁りも無く、私の妹だ。

 私は、嬉しくなってしまった。

 

 

 二度目だ。

 これが、二度目だ。

 真剣勝負。

 真に殺すつもりで、斬り合った。

 そこに、一切の手加減は無く。

 そんな相手と、再び刃を交える。

 それが、如何程得難いことか。

 

「そうだろう、セイバー!」

 

 目の前の、強敵。

 おそらく、生涯で会えなかった、つわもの。

 姿形は、可憐な少女。

 しかし、猛獣よりも厄介だ。

 笑える。

 思わず、笑みが浮かぶ。

 それほど。

 それほどに。

 なんと、疾い。

 なんと、重たい。

 なんと、頑丈で。

 なんと、粘り強く。

 なんと、力強く。

 只管に、強い。

 只管に、只管に、強い。

 只管に、只管に、只管に、強い。

 只管に、只管に、只管に、只管に、強い。

 只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、強い。

 只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、強い。

 只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、強い。

 只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、強い。

 只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、只管に、強い。

 強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。

 強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。

 強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。強い。

 強い!強い!強い!強い!強い!強い!強い!強い!強い!強い!強い!強い!強い!

 

「ははははっはははははっはは!」

 

 これだ!。

 これが、欲しかった!

 あの糞ヤロウに課せられた、令呪の頸木。

 それさえなければ、楽に勝てると。

 そう、考えていた自分に、腹が立つ!

 侮辱だ。

 そんな感情、こいつに対する侮辱だ!

 この一瞬。

 この一瞬だけは、あのヤロウに感謝してやってもいい。

 最高だ。

 よくぞ、俺をこの戦場に送り出した。

 これだ。

 これでないといけない。

 目の前の、剣士。

 本気で繰り出す俺の突きを、かわす。いなす。叩き伏せる。

 しかも、無表情。

 いいぞ。

 そうじゃなくちゃあいけない。

 その無表情がいい。

 たまらない。

 この程度でおたついたら興醒めだ。

 もっとだ。

 今は、これが俺の本気だ。

 だが、まだまだ速くなるぞ。

 もっと、もっと。

 お前が強くあればあるほど、だ。

 もっと、もっと、もっと!

 だから、お前は最高だ。

 ほら、その視えない剣。

 もう、その間合いも掴めてきた。

 まだ、何かあるんだろう?

 ひょっとしたら、その剣の間合いが変化したりするのかい?

 いや、違うな。

 そんな小細工じゃあない。

 それこそ、興醒めも甚だしい。

 もっと、とんでもないもの。

 俺の中にいる、何か危険なもの。

 それが、思わず尻尾を巻いちまうような、とんでもないもの。

 それを、隠し持ってやがるんだろう?

 いいって。

 もう、隠さなくて、いい。

 知ってるから。

 お前さんが強いってことを、誰よりも知ってるから。

 恥じるな。

 強さを、恥じるな。

 それは、素晴らしいことだ。

 見せてみろよ、セイバー。

 隠してるものを。

 隠してる、全てを。

 俺に、見せてみろ。

 そうしないと、面白くない。

 今は面白くても、じきに面白くなくなる。

 そんなの、勿体無いだろう?

 こんなに、楽しいんだ。

 どうして、そんなつまらない真似ができるか。

 そんな真似を、してみろ。

 してみやがれ。

 俺は、絶対に許さない。

 貴様を、未来永劫に呪ってやる。

 だから、来いよ、セイバー。

 その剣で、俺を切り伏せに来い。

 それだけで、いい。

 それ以外は、不要だ。

 いいか、教えてやる。

 それ以外は、何もかもが、不要なんだ。

 その目を曇らす焦りも。

 その胸を焦がす愛情も。

 その足を鈍らす友愛も。

 全て。

 全てが、不要だ。

 相手を叩き伏せる欲望。

 それすらも、不純物。

 いいか、それを教えてやる。

 一番大事なのは、もっと違うものだ。

 もっと、奥の奥の奥の奥にあるもの。

 胸の奥の精神の奥の魂の奥の起源の奥の根源の奥のそのまた奥にあるもの。

 言葉には、出来ない。

 ひょっとしたら、教えてやることも出来ないのかもしれない。

 教えてやる、そう言っといて無責任な話だがな。

 多分、そう言うものだ。

 表現が、許されない。

 学ぶことすら、できない。

 感じることも、不可能。

 ただ、その身を任せるもの。

 それが、お前となら、楽しめる。

 さあ、まだまだこれからだ、セイバー。

 楽しいなあ、おい。

 愉快だ。

 身を捩るほどに、楽しい。

 お前のおかげだぞ、セイバー。

 ああ、なんていい女なんだ。

 抱きたい。

 めちゃくちゃにしたい。

 俺の前で股を開かせて、入れてくださいって、懇願させてみたい。

 ほら、俺の男が、こんなにもいきり勃ってる。

 それでも、お前を抱くよりも、お前と斬り合っていたい。

 わかるかい、セイバー。

 男が女を欲するよりも、それよりもお前と斬り合いたいんだ。

 それが、どれ程に得難く、幸福なことか、女のお前にわかるかい、セイバー。

 凄まじい、衝撃。

 槍が、へし曲がるんじゃあないか、そういう一撃。

 いいぞ。

 いいぞ、セイバー

 凄いぞ、セイバー。

 あの男も、強かった。

 あの女も、凄かった。

 強い奴なんて、それこそ星の数ほどいる。

 それでも、その星同士が出会うことの貴重さ。

 それを、俺は知ってるんだ。 

 宝石だ。

 今、俺達は宝石の中で泳いでいる。

 虹の中を、手を繋いで散歩している。

 さあ、もっと続けよう。

 永遠に続けよう。

 誰が笑っても構わないだろう。

 だって、こんなにも楽しいんだ。

 さあ、もっとだ、セイバー。

 もっと、俺を苦しめてくれ。

 そうすれば、どんどん甘くなる。

 甘く、芳醇で、たわわに実る。

 何が。

 勝利の、果実が、だ。

 それを、ぞぶりと喰らってやる。

 喰らうのは、俺だ、セイバー。

 じゃないと、楽しくないからな。

 負け戦も楽しいが、やはり戦いは勝って何ぼだろう?

 だから、勝つのは俺だ、セイバー。

 その輝く瞳を、瑞々しい肢体を、烟るような金髪を、失意の色で染めてやる。

 きっと、その瞬間、俺は射精しているだろう。

 そんな、予感。

 だから、勝つのは、俺だ。

 俺が、勝つ。

 

 

「……な、なにが、のぞみだ……キャスター……」

 

 目の前でうつ伏せに倒れた少年。

 彼が、必死に横隔膜を動かして、それでも質問する

「さくらは、どうして、りんを、うらぎった……?」

 

 その、質問。

 きっと、彼の立場ならば、当然問わざるを得ない、質問。

 どうして。

 どうして、それが、こんなにも。

 こんなにも、私を精神を、苛立たせるのか。

 

「……貴方が、それを問うの……!?」

 

 気がつけば、彼の脇腹を思いっきり蹴り飛ばしていた。

 

「ぐええぇっ!」

 

 蹴る。

 

「がはっ!」

 

 蹴る。

 

「ぎいッ!」

 

 蹴る。

 

「ぐふっ!」

 

 蹴る。

 

「がっ……」

 

 蹴る。

 

「……!」

 

 蹴る。

 蹴る。 

 蹴る。

 ぴくぴくと、痙攣するように身を捩る、目の前の物体。

 いかに非力とはいえ、この身はサーヴァント。それが、なんの手加減も無く、爪先で蹴り飛ばしたのだ。肝臓辺りが破裂したかもしれない。

 

「……安心しなさい、貴方を殺すことだけはしないわ。それは、あの子の意志に反するから」

 

 燃えるような、赤毛。

 それを引っ掴んで、引きずり起こす。

 耳に唇を近付け、囁くように。

 

「でもね、あまり私を苛立たせないでね。死ぬより苦しいことなんて、この世に腐るほどあるんだから」

「あ……う……」

 

 虚ろな視線。

 鼻と口からは、血が垂れている。

 どろりと、濃厚な血液が。

 それでも。

 それでも、この男は、諦めない。

 それを、痛いほど、知っている。

 

「りん……り……ん……いま……いく……ぞ……」

 

 思わず、目を背ける。

 こんなもの、正視に堪えない。

 その、瞬間。

 夜気を引き裂いて、とんでもない重量のものが、飛んでくる!

 

「ちい!」

 

 彼を放して、飛びずさる。

 ちょうど、目の前。

 さっきまで、私の顔があった、その空間。

 そこを、禍々しい凶器が、擦過していった。

 

「なにもの!」

 

 振り返る。

 そこには、三つの人影。

 白い、二人の従者。

 それを従える、銀色の子供。

 月を背負ったその姿。

 神秘で築かれたこの身にすら、あまりに神々しい。

 

「本当は、遠坂の姉妹喧嘩なんかに口を突っ込むつもりはなかったんだけどね」

 

 幼い、声。

 聞き覚えが、ある。

 

「ほら、私、そこに倒れてるお馬鹿さんの、姉だから」

 

 ゆっくりと、近付いてくる。

 

「こういうとき、日本じゃあ、なんていうのかしらね、セラ」

「義により助太刀に参り候、厚かましくもそういう小話がありました」

「そう、それが相応しいかしら」

 

 静かに、静かに、歩いてくる。

 絶対の力の差、それをまるで恐れずに。

 その力は、恐ろしくない。

 その魔力は、恐ろしくない。

 ただ、その意志が。

 この闇に塗れた体には、恐ろしかった。

 

「イリヤスフィール=フォン=アインツベルン、そこに伏す衛宮士郎の、格別の義により助太刀に参り候」



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episode64 アベルカイン3 神の御名に栄光あれかし

 繰り返される、剣戟音。

 弾く。

 いなす。

 切り上げる。

 叩き伏せる。

 巻き込む。

 薙ぎ払う。

 その全てが、空隙。

 意味も無い、舞踊。

 こんなもの、戦いではない。

 戦いであっては、ならない。

 

「はっはぁ!たのしいなあ、セイバー!」

 

 目の前の男。

 血より、なお紅い瞳。

 刻み込まれるような凶相。

 みしみしと、皮鎧の下で、膨れ上がる筋肉。

 狂戦士。

 その異称が施されないのが、不思議とすら思える。

 

「ほうら、まだまだだ!」

 

 突然、穂先が、不可思議な動きを。

 まるで、中空に文字を描くかのように。

 文字。

 クー・フーリン。

 魔術。

 ルーン!

 

 ま

 ず

 い

 !

 

 突然、炎。

 視界が、焼け付く。

 白く、漂白されて。

 視えない。

 白い、闇。

 ぼやぼやと、亡霊が踊る視界。

 だが、奴がいない。

 どこから?

 前?

 横?

 後ろ?

 否。

 上!

 反射的に。

 切り上げ。

 勘。

 経験ですらない。

 賭け。

 衝撃。

 

「ちいいッ!」

 

 舌打ち。

 迎撃。

 成功。

 それでも、お互い、無傷。

 まだ、五分。

 だか、彼は。

 宝具。

 未使用。

 私も。

 だが、彼のは対人。

 私のは、対城。

 距離。

 接近。

 因果の逆転。

 どちらが有利?

 相性。

 最悪。

 発動が同時なら、勝てない。

 良くて、相打ち。

 隙を見て。 

 どこに、隙が?

 こうしてる間も、突きの嵐。

 昨日の嵐より、なお激しい。

 時折、頬に痛みが。

 鎧を、擦過。

 削れる金属。

 強い。

 ここまでか。

 ここまで。

 強い。

 だからって。

 だからって。 

 だからって。

 諦められるか!

 

「そこをどけえ、ランサー!」

 

 episode64 アベルカイン3 神の御名に栄光あれかし

 

「らしくねえな、何をそんなに焦る、セイバー!?」

 

 焦っている?

 当然だ。

 当然、私は焦っている。

 闘わせてはならない。

 彼女たちを、闘わせてはならない。

 肉親が、骨肉を相食む。

 そんなこと。

 そんなの。

 私だけで、十分だ!

 

「だから、押通る!」

「やってみろや、できるもんならな!」

 

 勝てると思っていた。

 楽に、勝てると思っていたのだ。

 あの、夜。

 始まりの、夜。

 あのときの私は、万全では無かった。

 限られた魔力。そして、未熟なマスター。

 その状態でも、宝具の解放までは、槍の騎士を圧倒することが出来た。

 そして、今。

 私の体には、高純度の魔力が溢れている。

 芳醇な魔力が、それこそ零れ落ちそうなほどに。

 これほど豊かな魔力を供給してくれるマスターは、今までもいなかった。

 それほどの、魔力。

 これなら、勝てると。

 勝って、桜と凜を止めにいけばいいと。

 そう、思っていたのだ。

 

「だがなぁ、他所見してると、死んじまうぜぇ!」

 

 ギアが、また上がった。

 底なしか、こいつは!

 さっきから、しばらく防戦一方。

 きっと、彼にも何らかの頸木がかかっていたのだ。

 そうでもないと、あの夜と今の力量の差が説明がつかない。

 それほどまでに、彼は強い。

 彼女を引き止めるのは、無理だと思った。

 圧倒的な、意志。

 それを曲げさせるのは、如何に私でも不可能だろう。

 だから、そこは折れた。

 折れざるを得なかった。

 だが、そこまでだ。

 それ以上は、許さない。

 肉親が殺しあうなんて、許さない。

 それが、どれ程の悲劇を生み出すか、彼女たちは知らないのだ。

 モードレッド。

 私の、息子。

 私が愛することが出来なかった、私の息子。

 カムランの丘。

 夕焼けよりも、なお朱に染まった大地。

 信頼すべき騎士達が、矛先を変えて遅い来る。

 その、恐怖。

 彼らを切り伏せなければならない。

 その、喪失感。

 あんなもの、もういらない。

 私だけで十分だ。

 リンに、サクラに、そしてシロウに。

 あんな思いをさせて、なるものか!

 

「だから、どけえ!」

「やかましい!」

 

 突き。

 それが、急激に変化。

 まるで、飛燕。

 穂先が、消えた。

 気付けば、空が眼前に。

 そして、背に衝撃。

 足を、払われた。

 隙。

 突きが、来る。

 思わず体を硬くする。

 

 ……。

 

 何も、来ない。

 顔を上げる。

 そこには、槍に騎士が。

 彼は、啼いていた。

 涙を見せずに、しかし、獣のような唸り声をあげて、悲しげに。

 

「俺では、不十分か!」

 

 その、声。

 倒れ伏したまま、聴く。

 

「俺では、貴様に見合わぬと、そう言いたいか!」

 

 空には、月が。

 いつしか、分厚い雲も、取り払われている。

 

「俺は、俺はこんなにも楽しいのに、貴様は、何故楽しんでくれぬ!」

 

 その、唸り声。

 苦悶の、声。

 悲恋の、声。

 耳が、絞り上げられるようだ。

 

「またか?また、俺は、こんな中途半端な戦いで朽ちるしかないのか?」

 

 その、声。

 それは、私の遠い記憶を呼び起こさせるに充分だった。

 ランサー。

 しかし、彼では、無い。

 十年前。

 しかし、私の主観では、つい先日、穂先を交えた、槍兵。

 ディルムッド=オディナ。

 第四次聖杯戦争の、槍の騎士。

 轡を並べて、戦った。

 そして、裏切った。

 例えそれが私の手によるものでなくとも、私は彼を裏切ったのだ。

 あの、悲痛な声。

 この世の全てを呪い、犯し、冒涜するような、声。

 あくまで清廉で高潔で潔い彼が発したなど、目の前ですら信じられない、そんな声。

 またか。

 また、私は、間違いを犯すところだったか。

 リン。

 彼女は、強い。

 間違えても、サクラに負けることはあるまい。

 なぜなら、それがサクラを不孝にするからだ。

 勝っても、サクラは間違いなく不幸になる。ならば、リンは負けない。

 如何なる苦痛にも、笑って耐えて見せるだろう。

 そして、彼女は間違えないだろう。

 間違えずに、サクラの袖を引っ掴んで、引きずってくるはずだ。

 なら、大丈夫。

 私は、彼女のサーヴァントだ。

 多少強引に結ばれた絆とはいえ、絆は絆。

 私が信じないで、誰が彼女を信じてやれるだろう。

 そうだ。

 なら、私は悠々と待っていればいい。

 彼女が、少し疲れた声で、凱歌をあげるのを、待っていればいいのだ。

 ならば、少し、幕間劇に興じようではないか。

 たまには、いいだろう。

 純粋に、斬り合う。

 純粋に、力を比べる。

 そんな遊戯、しばらく出来なかった。

 王は、それほどに軽い身分ではないからだ。

 ああ、そう考えると、体が軽くなった。

 うん、全身が動く。

 この鎧は、こんなにも軽かったか。

 この聖剣は、こんなにも手に馴染むものだったか。

 いいじゃあないか。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 そこには、不可視の涙で啼き濡れた、ランサーが。

 

「ランサー、貴方に深い謝罪を」

 

 ちゃきり、と、鍔鳴りの音。

 振り返る、青い獣。

 いぶかしむような、瞳。

 ああ、私はここまで彼の信頼を裏切ってしまっていたか。

 

「ここに誓う。私は、貴方を叩き伏せる。この剣をもって、この誓いをもって!」

 

 ゆらり、と振り向いたランサー。

 その手には、やはり紅く濡れた、長大な槍が。

 

「ああ、それは、愛の告白かな、セイバー?」

「似たようなものです」 

 

 彼の頬に、深い笑みが。

 きっと、私の頬にも、同じ笑みが。

 いいじゃないか。

 久しぶりだ。

 久しぶりの、高揚感。

 目の前の敵、それを叩き潰す、その為に全力を挙げる。

 義、ではない。

 憎、でもない。

 まして、愛でもなければ悲でもない。

 喜。

 その文字をもって、戦いの理由と為す。

 さあ、始めよう、ランサー。

 今から、私たちの戦いが始まるのだ。

 そのとき。

 パリンと。

 頭上で、乾いた音が、した。

 

  

 冷たい。

 そう、思った、

 身を捩るような熱は、既に引いている。

 後に残ったのは、安心感を伴った、不思議な痺れ。

 もう、眠ってしまおう。

 もう、充分じゃあないか。

 そう、体に優しく語りかけてくる、甘い痛み。

 それに、身を委ねそうになる。

 まだ、何もしていないってのに、達成感で満腹だ。

 ああ、眠たい。

 瞼が、重たい。

 この際、冷たいアスファルトが、心地いい。

 この、奪われていく熱が、気持ちいい。

 非現実感。

 ヒュプノスの誘い。

 膝を屈しそうになる。

 膝を屈しても、いいんじゃあないか。

 そう思ったとき。

 何かが、聞こえた。

 金属が擦れあう、擦過音。

 何かが爆発する、炸裂音。

 ああ、あの夜と、同じだ。

 俺が、校舎で殺された、あの夜と、同じだ。

 でも、俺は、今、ここにいる。

 校舎の中には、いない。

 じゃあ、俺は殺されないってことだ。

 安全ってことだ。

 じゃあ、いいんではないか。

 ここで寝てても、いいのではないか。

 殺されるのは、別の人間なのだから。

 校舎にいる、別の人間なのだから。

 校舎にいる人間。

 誰がいる?

 今、あの薄汚れた校舎の中には、誰がいる?

 俺は、知っている。

 その名前を、知っている。

 その体温も、唇の味も、性感帯すらも、知っている。

 凜。

 遠坂凜。

 俺の、恋人。

 俺なんかの、恋人。

 彼女が、校舎にいる。

 なら、殺されるのは、彼女か?

 彼女が、あの美しい胸を一突きにされて、殺されなければならないのか?

 

「……そんなの……」

 

 体を、起こす。

 その瞬間、気が遠くなりそうな痛み。

 いいぞ。

 今の俺に、うってつけだ。

 痛みで、眠気が吹き飛んだ。

 ヒュプノスの使者が、尻尾を巻いて逃げ帰っていった。

 もう、二度と来るな、馬鹿。

 

「……認められる……かよ……」

 

 ゆっくり、歩く。

 急いでは、いけない。

 急げば、破裂した肝臓が、癇癪を起こしやがる。

 そうすれば、一撃で死にかねない。

 死ぬのは、構わない。

 ああ、彼女を守るためなら、死がどれ程のものか。

 それでも、今は、死ねない。

 ゆっくりと、歩く。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 ミミズがのたくるような速度で。

 それでも、これが精一杯だってんだから、笑える。

 いけない、いけない。

 そんな、笑うような力が残っているなら、前に進まないと。

 だって、待ってるだろう。

 誰かが、待っているだろう?

 やがて、校庭に。

 そこには、地に倒れ伏した、三つの泥人形。

 元は白かったのだろう、衣装も泥だらけ。

 元は美しかったのだろう、銀色の髪も、泥だらけ。

 泥だらけの水溜りの中に、倒れている。

 

「遅かったわね、坊や」

 

 ただ一人、貝紫の人影が、傷一つない体で、立っていた。

 優雅な、蜜を含んだような微笑を、口元に湛えて。

 

「退屈だったから遊んであげたけど、口ほどにも無いってこのことよね」

「お……にいちゃ……ん……?」

 

 辛うじて、うつ伏せに転がった、一際小さな人影。

 その、泥に汚れた、手。

 昨日、その手をつないで、歩いたんだ。

 その手が、何度も俺を慰めてくれたんだ。

 優しい、暖かい、柔らかな、掌。

 それが、泥に塗れている。

「ご……めんねぇ……いち、おう、がんばった……ん……だけど……」

 

 知っている。

 人間がサーヴァントに勝ち得ないことくらい、この身体が一番知っているのだ。

 聡い彼女が、それを知らないはずは無い。

 それを知っていて、彼女たちは挑んだ。

 誰のために?

 お前が、それを問うのか、衛宮士郎。

 

「なあ、キャスター」

 

 痛みが、引いていく。

 脳が、クリアに。

 視界が、鮮明に。

 

「なにかしら、坊や」

 

 彼女の艶姿。

 その仔細を見渡すことが出来るほどに。

 まるで、鷹の目。

 全てを見渡す、猛禽の王。

 

「俺と、戦ってくれるかい?」

 

 いつの間にか、両の手に、双剣が。

 黒と、白。

 寸分違わぬ、その形状。

 ただ、色のみが、違う。

 

「へえ、いい男になったじゃない、坊や」

「なら、坊やっての、やめてくれないかな」

「やめさせてみなさいな」

 

 彼女の背後に、無数の光球。

 一撃で、俺を十回は殺せる、魔力の塊。

 いくらサーヴァントでも、規格外の魔力。

 これは――。

 

「気付いた?これはね、この街に暮らす、全ての人間の命の輝きよ」

「……集団昏睡。まさか、キャスター、お前が――」

 

 その表情には、些かの曇りも無い。

 誇り。

 そして、慈愛。

 輝かしい感情の渦。

 

「そう、これは、桜が私に命令したの。全ては、姉に勝たせるためだって」

 

 衝撃……は受けない。

 何を今更。

 桜は、そういう子だ。

 全てを優先して、一つを愛する。

 だから、たまに間違いを犯す。

 だから、俺と、凜がいるんだ。

 俺たちが、彼女をひっぱたいて、連れ帰る。

 それで、万事解決、そうだろう?

 

「そんな彼女が、姉を殺そうとしたのよ……。それが、それがどれほど苦しかったか、貴方にわかる……!?」

 

 優美な表情は、そのままに。

 怒り。

 悲しみ。

 憎悪。

 そう言ったものが、どんどん混ざっていく。

 感情の坩堝。

 そこには。

 人間が、いた。

 

「決めたわ。貴方、一度死になさい。私が蘇らせてあげるわ。だから、いっぺん死んでみなさい。貴方には、その義務があるから」

 

 彼女の背後に、まるで従者のように控えた、魔力の塊。

 彼女が、それに号を鳴らそうとした。

 そのとき。

 パリンと。

 頭上で、乾いた音が、した。 

 

 

 勝負は、とっくの昔についていた。

 もはや、圧倒的な大差だった。

 本来、この二人は、ほぼ互角。

 故に神秘であり、故に至宝。

 それでも、この場においては、圧倒的に、片方が勝っていた。

 まるで、狂戦士と暗殺者が、正面からぶつかり合ったようなもの。

 片方の攻撃は、片方の防壁を突破することが叶わない。

 片方の攻撃は、片方の身体を蹂躙する。

 遠坂桜。

 彼女が張る。結界のような影の檻。

 本来、敵の拘束に使われるそれが、姉の魔術を悉く吸収する。

 質量を備えた呪いだろうが、五大元素だろうが、悪食極まる有様で。

 それでも、彼女の姉は、天才。

 宝石魔術。

 十年以上も熟成させ続けた、彼女の命そのもの。

 それを解放し、その防御壁を突破しようとする。

 しかし、妹は鬼才。

 彼女とて、宝石魔術の名門、遠坂の系譜に名を連ねし者。

 姉には一歩及ばぬものの、秘奥の宝石など、片手に余るほどだ。

 まして、姉はこの戦争において、湯水が如く宝石を使用している。

 今、この場においては、秘められた奥の手の数すら、妹が上。

 圧倒的な、大差。

 埋めることの叶わぬ、力の差。

 それをもって、妹は姉を蹂躙した。

 倒れ伏す、姉。

 その、黒絹のような髪が、血溜まりに浸かって、さながら水草のように揺らめいている。

 片腕は千切れ飛び、切断面から、微量の血液が、ぽたりぽたりと、血の池に新たな水量を加えている。

 呼吸も、浅い。

 まるで小動物のように、浅く、早いそれは、断末魔の到来を色濃く予感させた。

 それを見下ろす、妹。

 その衣装には、些かの汚れも見当たらない。

 彼女の姉の攻撃は、彼女に髪の毛ほどの傷も付けることは叶わなかった。

 それほどまでに、圧倒的な、力の差。

 この場、神殿における、神。

 それに信徒が歯向かうなど、愚劣を通り越して、哀れすら覚えるものだったのだ。

 

「いい様ですね、姉さん……」

 

 堪えきれない愉悦に、歪む頬。

 彼女の真意が何処にあったのかは別段、このとき、この瞬間において、彼女は確かに幸せだった。

 どうやっても、超えることの叶わなかった、壁。

 絶対の、存在。

 それが、目の前で、己の流した血の海で、ぜえぜえと喘いでいる。

 その様を、見下ろす。

 それは、彼女の心の、もっとも醜い部分を満足させるに、充分すぎる光景だった。

 

「あら、もう、答えてもくれないのですか、姉さん」

「……くら……」

 

 朦朧とした瞳。

 それでも、彼女は妹を見上げた。

 不屈の意志と、しかし折れつつある鋼。

 それが、彼女の視線に同居しているようだった。

 

「ああ、嬉しいわ。貴方が話せないと、私は嘘吐きになってしまうから……」

 

 ゆっくりと、歩み寄る。

 かつかつと、硬いブーツの足音。

 それは、死神の足音だ。

 姉は、自らが倒れ伏す場所が、かつて彼女の恋人が倒れていたのと同じ場所だと、果たして気付きえたか否か。

 

「さあ、言葉に出して。『桜、殺して』って。そういえば、全ては終わります。もう、苦痛を味わう必要はないのですよ……」

 

 姉は、辛うじて起き上がった。

 がくがくと震える膝を叱咤して。

 それでも、立ち得たのは、僅かに数秒。

 ただでさえ軽い、彼女の体重。

 血を流して、一層軽くなったそれすらも支えられない、そんなふうに。

 ばしゃり、と、盛大な水音。

 濃厚な血臭に、妹は眉を顰めた。

 

「もう、いいでしょう……。宝石も、無い。魔力も底をついた。もう、貴方は十分に頑張った……。もう、休んでください……!」

 

 苦渋に満ちた、その言葉。

 その言葉に、嘘偽りは無い。

 いや、彼女は一度も嘘など吐いていない。

 彼女は、心底姉を愛していた。

 愛していて、なお裏切らねばならなかった。

 それほどに、彼女は追い詰めれていた。

 真実、それを知るものの苦悩を、誰が知ろうか。

 

「さ……くら……。わ、たしの……うでは……」

 

 朦朧と、うつ伏せに倒れながら、視線だけを彷徨わせる、姉。

 赤い外套が、なお紅く。

 サファイアの瞳すら、ルビーのように。

 そんな、痛ましい風景。

 既に、正気も無いのかもしれない。

 

「……ここに、あります」

 

 ゆっくりと、既に熱を失った姉の一部を拾い上げる。

 だらり、と力なく垂れ下がった指先。

 傷一つない、優雅な指先。

 何度も憧れた。

 羨ましかった。

 しかし、それを奪い取った今は。

 ただただ醜くて、仕方が無い。 

 

「これは、貰っておきますね。それほど欲しいものじゃあないけど、遠坂の当主を名乗るなら、これは欠かせないわ……」

 

 千切れ跳んだ、姉の片腕。

 そこにびっしりと書き込まれた、呪刻。

 それを愛おしげに眺めながら、彼女は言葉を紡ぎ出す。

 

「貴方も、何かの呪文を残すことはできましたか?なら、大切に使ってあげます……」

 

 千切れ飛んで熱を失ったそれ。

 その冷たさを楽しむように、頬ずりをする。

 果たして、彼女は何を楽しんでいるのか。

 遠坂の当主という、魔術師ならば誰もが垂涎する地位を、だろうか。

 それとも、彼女が自ら切り捨てた、戻らない誰かとの絆を、だろうか。

 

「そう……あな……たが、もっ……ている……のね……」

「ええ、私が持っています」

 

 ふるふると震える右手で、姉は身体を起こす。

 歯を食い縛り、必死の形相で。

 そして、前に傾いた。

 それは、慣性と重力の仕業ではない。

 彼女の意志を持って。

 膝を綺麗に折りたたみ、腕を曲げて、額を地面に擦り付ける。

 土下座。

 命乞い。

 あまりにも、無様。

 

「お……ねが……い、さ……くら、もう、やめ……て」

 

 妹は、震えた。

 怒りに、震えた。

 まさか、ここまで醜いものを見せ付けられるとは思っていなかった。

 姉は、光り輝いていないといけなかった。

 常に彼女の前に立ちはだかる目障りな壁だからこそ。彼女がどう足掻いても超えることのできない幻想でなければ為らなかった。

 それが、目の前で土下座をしている。

 命乞いをしている。

 恥知らずにも。

 これは、違う。

 これは、姉ではない。

 こんなもの、生かしておいてはいけない。

 そんな怒りが、彼女の胸中を焼き尽くした。

 

「ふざけないで下さい……!最後は、せめて綺麗に死んでください、それが遠坂の当主の義務でしょう……!」

「こん……なにた……の……んでも、だ……め……?」

「もう、死んでください!こんな貴方を見るのは、苦痛です!」

「ど……う……して……も……?」

「くどい!」

 

「――そう。じゃあ、貴方の負けね」

 

 瞬間、凄まじい光が周囲を圧した。

 光のもとは、妹が握った、姉の腕。

 その先。

 掌の一部。

 そこから、凄まじい光が漏れ出した。

 そして、音。

 重爆撃機の離着陸音のような、爆音。

 その二つ。

 いかなる外傷も及ぼさない、二つの現象。

 それが、一瞬、妹から思考力を奪った。

 それが、姉の切り札。

 姉は、地面に伏せるように、目を閉じていた。

 妹は、怒り狂った瞳を、まざまざと開いていた。

 どちらがより強い影響を蒙るか、言うまでもない。

 

stark(二番)――Gros zwei(強化) !」

 

 だから、彼女はそんな声も聞こえなかったはずだ。

 そして、果たして、気付き得ただろうか。

 彼女が手にした、その姉の一部は、ついさっき千切れ飛んだにしてはあまりに冷たすぎたことに。

 姉が倒れ伏した血の池、その不快は血臭が、不自然な程に強かったことに。

 何より、姉の肩の傷、そこから流れ落ちる血液があまりに少なすぎたことに。

 しかし、妹は、それを思考する暇など、与えられなかった。

 衝撃。

 殴り飛ばされたのだと、彼女は、その明敏な意志をもって悟った。

 そのとき。

 パリンと。

 彼女の背中から、乾いた音が、した。 

 

 

 私は、振りかぶった剣をそのままに、頭上を見上げた。

 

 俺は、構えた槍をそのままに、頭上を見上げた。

 

 私は、振り下ろしかけた錫杖をそのままに、頭上を見上げた。

 

 俺は、投擲しようとした夫婦剣をそのままに、頭上を見上げた。

 

 その場にいた全員が、空を見上げていた。

 

 

 そこには、冗談みたいな光景が、あった。

 三階の窓ガラスから空中に飛び出した、漆黒のコート。

 あの髪の毛は、桜のものだろう。

 それだけなら、いい。

 それだけなら、理解の範疇だ。

 そして、桜を追いかけるように窓から飛び出した、赤い人影。

 きらきらと、砕けたガラスが、彼女の周囲を照らしている。

 凜。

 片腕。

 千切れた、左手を、口に咥えている。

 目が、吊上がっている。

 夜叉の、形相。

 そのまま。

 空中に浮かんだ体勢のまま。

 彼女は、桜を、殴りつけた。

 胸倉を掴んで殴るとか、そういうふうではない。

 空中で体勢を整え、腰の入った中段突き。

 水平方向に吹き飛ぶ、桜。

 それを追撃する、下段回し蹴り。

 当たる。

 吹き飛ぶ。

 それを、追いかける。

 空中で。

 鳩尾に、肘打ち。

 そして、繰り出される絶招の数々!

 まるで、安っぽい格闘ゲームの、空中コンボみたいに――!

 

 

 おかしい。

 

 慣性とか重力とか、色々なものを無視してる!

 

 ――あ。

 

 わかった。

 

 彼女の周りに、きらきらと光る、あれ。

 

 あれ、ガラスでもないし、星なんかでもない。

 

 あれ、宝石だ。

 

 宝石を、重力操作とか、質量操作とか、なんだかよくわからないことをして、空間に半固定化してやがる。

 

 それを足場にして、桜を殴り続けてるんだ。

 

 落下しながら、あんなにも優雅に。

 

 なんて、無茶。

 

「くく」

 

 ああ、失敗したな、桜。

 

「くははははは!」

 

 凜は、本気で怒らせちゃあいけなかった。

 

「はっははははははは!」

 

 あれじゃあ、サーヴァントだって、勝てやしない!

 

「ほどほどにしとけよ、凜!」

 

 彼女は、一切手を休めることも啼く。

 俺のほうに、親指を立てやがった。

 ああ、勝負ありだな、こりゃ。

 

 



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episode65 アベルカイン4 幕間劇

 夜。

 梟の鳴かない、しかし、梟の鳴き声が相応しい深夜。

 古びれた洋館の二階、その片隅のドアがぎしりと鳴いた。

 

「……?誰ですか?」

 

 誰何の声は柔らかい。

 さもありなん、この家は元々からして要塞、今は神殿だ。外敵の侵入など許すはずが無い。

 故に、今扉を開けたのは自分の家族でしかあり得ない。ならば、何故神経を昂ぶらせる必要があるだろうか。

 

「桜、私よ」

 

 答える声には、どこか緊張の色があった。

 

「キャスター、どうしたの?」

「本当は話すかどうか迷ったのだけれど……」

 再び、扉はぎしりと鳴いて、二つの人影を飲み込んだ。

 

 

 幸せな、夜だった。

 姉さんも、先輩も、キャスターも、代羽も、アーチャーさんも、セイバーさんも。

 みんな、みんな、楽しそうだった。

 ああ、こんな毎日があればいいのに。

 そんな、奇跡みたいなことを願ってしまうくらいには、素晴らしい一日だったのだ。

 なのに、何故、目の前の女性の顔は、こうも曇っているのだろうか。

 

「どうしたの、キャスター?」

 

 沈痛、というよりも、己に対する不信に揺れる瞳。

 人差し指の第二関節を噛み締める動作。

 何らかの不安の表れだろうか。

 

「……昨日のアーチャー、どう思った?」

 

 昨日。

 アーチャー。

 マキリとの、戦い。

 

「どうっていわれても、質問の趣旨がわからないわ」

「そうね……。全く、どうかしてる……」

 

 彼女は、テーブル横の水差しから、直接水を呷った。

 ぐびり、と蠢く白い喉が、同性から見てもたまらなく扇情的である。

 

「おそらく、彼の宝具、あの捻れた剣、あれを見てどう思った?」

 

 剣。

 深い神秘を湛えた、あの剣。

 

『逃がすか!』

 

 そう、叫んだ彼の手に、いつの間にか握られていた、剣。

 

「どうって……凄いと思った。あんなに深い神秘、初めて見たから……」

「ええ、最初は私もそう思ったわ」

 

 逸りたつような、声。

 何だ。

 彼女は、何が言いたい?

 

「ねえ、キャスター。私は貴方を信頼してるわ。だから、貴方も正直に話して」

「……今日、坊やの魔術を指導したでしょう。彼の魔術、投影って彼が勘違いしていた魔術、あれを間近にみて、わかったの。アーチャーがあの捻じ曲がった剣を取り出したときに感じた魔力の波動、それと同じだって」

「それってどういう……」

「単純に言うとね、アーチャーも、あの歪な投影の使い手っていうこと」

 

 どくり。

 何かが、背筋を走りぬけた。

 なんだろう。

 こんなに気持ちの良い夜には、相応しくない何か。

 

「ねえ、桜。私は長いこと魔術に関わってきたけど、あんな出鱈目な投影、初めてお目にかかるわ。それが、突然二人も。これ、偶然かしら?」

 

episode65 アベルカイン4 幕間劇

 

 私は、この匂いが嫌いだ。

 白く、洗浄された空間。

 ステンドグラスが、単色の光を、花束のような煌くそれに変えている。

 眼前にそびえる、神を祭った処刑器具。ある意味において、狂信と退廃に満ちたこの宗教に相応しい偶像といえるのかもしれない。

 其処から溢れる、静謐な香り。

 精神を、優しく撫で摩るような、心落ち着く香り。それは、何かの香炉を焚いたものなのかもしれないし、或いはこの空間そのものが生み出す幻臭なのかも知れない。何故か、寺や神社などからも同じ香りがすることを考えると、有力なのは後者だろうか。

 ああ、嫌だ。

 そう思いながら、この香りを胸一杯に吸い込む。

 肺を、これ以上無い、それくらいに膨らませて、嫌な魂と一緒に息を吐き出す。

 それを数回繰り返すと、やっとのことで体がこの空間に入る準備を整えてくれた。

 陸に上がる、魚のようなものだ。

 えらを、肺に置き換える。

 気の遠くなるような、時間と世代。

 一体、どのような覚悟が、それを為さしめたのだろうか。

 そこに、楽園があると、思ったのだろうか。

 それを求めて、困難に挑んだのだろうか。

 私は、違うと、思う。

 彼らは、逃げたのだ。

 逃げ出した。

 苦しい現実から、想像の内にのみ存在する、楽園に。

 しかし、待っていたのは、戦場のみ。

 楽園など、無かった。そこにあったのは、新たな呼吸器を血臭で満たす、戦場のみ。

 だから、人は夢想するのだ。

 海水の中で、漂う自分を。

 母なる海で眠る、自分を。

 皮膚は腐り、肉はこそげ、骨だけになって海底へ沈んでいく、自分を。

 ああ、何と安らかな印象だろうか。

 そこだけが、拠り所だ。

 異形の生物が、その腹鰭をもって歩き回る、その世界が。

 何と優しく、私を誘ってくれるのだろうか。

 

「神の声は、聞こえたか、遠坂桜」

 

 いつ、初めてその問いを頂いたのだろうか。

 しかし、私に語りかけてくれる神は、存在しなかった。

 どれだけ静寂の中で耳を澄ましても、聞こえるのは天使の囀りくらいのもの。

 相変わらず、神の声は、聞こえない。

 でも。

 

「貴方の声は、聞こえました、言峰神父」

 

 こつり、と、硬い靴底が床を叩く音が、した。

 

「私は、神ではない。しかし、君がそう望むのならば、神父とは神たりえる。そこが、我々の最も自戒せねばならない点だ。神の権威と己の実力をはき違え、自己を見失うことがあってはならない。何故なら、人は神には届かない。そうだろう?」

「貴方の信ずる神は、人でありながら神、そして聖霊、そうだったのではないですか?」

「『ヨハネによる福音書』であるな。ふん、父と子と聖霊の御名において、か。時として、人の想像力は神をも凌ぐ、そう思うよ」

 

 こつ、こつ、こつ。

 重量感のある、しかし、少しも鈍重でない、その足音。

 猫科の猛獣、老練な虎などならば、こういった歩き方をするのだろうか。

 

「『神は世を愛された。その愛ゆえに神は一人子を世につかわされた。一人子を信じるものは誰でも滅びることはなく、永遠の命を持つ』。おそらく、新約聖書の中でも最も有名な一説である。遠坂桜よ、君はどう思うね?」

 

 足音が、私のすぐ後ろで止まった。

 彼の、おそらくは小さな鼓動まで聞こえてくるようだ。

 それほどまでに、圧倒的に静寂。

 ちくり、と鼻の頭が痛んだ。

 

「私は、貴方に救われました。そのことは感謝しています。しかし、神に感謝はしていません。感謝するには、神は遠すぎる」

 

 くす、と。

 籠もるような笑い声が、聞こえた。

 

「君は聡明だな。そうでなくては面白くない」

 

 彼は、再び歩き始めた。

 こつ、こつ、こつ。

 きっかりと、三歩。

 ゆっくりと、噛み締めるように。

 音が、反響する。

 それでも、やはりこの空間は静謐だった。百人の合唱団が賛美歌を歌ったとしても、この空間はやはり静謐だろう。信仰心のあるものに、この空間を喧騒で満たすことは不可能、そう思わざるを得ない。

 

「用件は何ですか?監督者たる貴方が、参加者の一人を内密に呼び出すなんて、権限外のことなのでは?」

 

 今、姉達は、マキリの屋敷で戦っているはず。

 なのに、私はのんびりと、神父と問答か。

 吐き気が、した。

 そんな私の気など知らぬふうに、彼はゆっくりと振り返った。その顔に、噛み締めるような愉悦を含ませながら。

 しばらく、無言。

 彼が話さないならば、私も話すべきことは無い。なぜなら、彼には質問に答える義務があるから。

 だから、無言。

 耳が痛くなるような、無言。

 

「なに、今回君をここに招いたのは、純然たる私の娯楽のため。君を罰するためでも、祝福するためでもない。安心したまえ」

 

 無言を破った彼は、高らかにそう謳いあげると、小さな包みを私に寄越した。

 薄い紙を通じて伝わる、硬質な手触り。

 そして、意外なほどの重量感。

 何だろう、最近これと同じものを手にした気がする。

 

「一つ、忠告しておこう、遠坂桜よ」

 

 包みを開けようとしていた私の手を、厳粛な声が静止させた。

 

「それを開ければ、君は大切なもののうち、確実に一つを失うことになる。それを理解したうえで、開けねばならないのなら開けるといい」

 

 ……私は、この男のこういうところが大嫌いだ。

 選択肢を与えておきながら、そこに正解を設けない。

 煩悶とさせながら、しかし、明快な解答を用意している。

 その周到さ、或いは優しさが、私は嫌いだった。

 

「そんな目で見るな、言いたいことは、分かっている。しかし、君は遠からず私に感謝することになる」

「……何故、そう言い切れるのですか?」

「私は、君に覚悟を与えたからだ。君が、何の準備も無くその包みを開けたならば、間違いなく君は後悔していた。そして、私を恨んだだろう。しかし、覚悟があれば、人は如何なる困難も打ち倒すことが可能だ。ああ、君のように、運命に翻弄され続けた人間には、釈迦に説法だったかな?」

 

 そう言って、彼は私に背を向けた。

 また、硬質な足音が、空間を満たす。

 その音が疎ましくて、私は包みの封を破った。

 微かに震える掌に、中身をあける。

 カチャリ、と、硬い金属がぶつかり合う音が、響いた。

 

「さて、今からは如何なる質問も受け付けない。君がその口を開いていいのは、私の質問に答えるときのみだ。それ以外での発言は、悉くがこの会談を打ち切るための合図と理解する。もし、君が私の意見に耳を塞ぎたいというのであれば、早々にその口を開くといい」

 

 これ、は。

 確かに、あの晩、先輩の命を救ってくれた、遠坂の秘宝。

 それが、何故ここに。

 そして、何故、二つも――。

 

「君ほどの魔術師ならば、その二つの秘石の本質が掴めている筈だ。おそらく、それは正しい。その二つは、込められた魔力にこそ若干の差異は認められるものの、物質としては全くの同一だ。宝石の遠坂、その後継者たる君ならば、私の言わんとしていることは理解できるはずだな」

「……ええ」

 

 宝石は、この世に二つとして同じものは無い。

 分子の構成、宿った自然霊の性質、そして蓄積された魔力の色。

 それらの全てが同じ宝石など、ある筈も無い。

 まして、これは遠坂の秘石。同じものが、二つもあってたまるものか。

 

「しかし、それは厳然として、ここにあるのだ。さて、遠坂桜よ。君は、この不可解な現象に如何なる仮説をもって挑むか?」

「…不可能は不可能でしかありません。ここに、同じ宝石が二つある、そのことが間違いである。これが、一つ」

「ふむ、私と君が、全く同じ勘違いを起こしている、そういうことか。なるほど、或いはその可能性こそがもっとも高いのかも知れんな」

 

 鷹揚に頷く背中。

 彼の視線の先には、神の偶像。

 それでも、きっと彼は目を閉じている。

 そう、思った。

 

「それだけか?」

「……あとは、不可能を可能にする奇跡に頼るだけでしょう」

「具体的にはなんだ?」

「時間旅行、或いは平行世界の移動。つまり、魔法、そういうことです」

 

 こんな陳腐な現象を、奇跡を持ってしか説明できない自分に腹が立つ。

 よくもまあ、これで魔術師などと、恥ずかしげもなく言えたものだ。

 

「ほう、私がこの二つの宝石を得たのは、魔法に関わりのあることと、君はそう言う訳だな?」

 

 人を喰ったような問いが、その実、彼にとってこの上ないほどに真剣な問いであるということを、私は知っている。

 

「ええ、そういうことです。それが、もっとも説明をし易いでしょう」

「魔術による複製という可能性は?」

「これほど完全な贋作を作り上げるのであれば、それこそ魔法の域にある。結局は同じことでしょう」

「正解だ、遠坂桜。やはり君は聡明だよ」

 

 彼は、振り返った。

 何年ぶりだろうか、彼の顔をここまで間近で見るのは。

 歳のわりに若々しいその肌は、しかし時の暴虐を確かに刻んでいた。

 悲しいとは思わない。

 それが、当然なのだから。

 

「しかし、やはり純粋な魔法というのもおかしな話だろう。いくら気紛れで知られる彼の宝石翁といえ、ここまで不可解な行動をとることはあるまい。これは魔法に限りなく近い現象の副産物である、そう捉えるのが自然ではないかな?」

 

 魔法に近い現象。

 この街で、今、現在進行形で行われている、大儀式。

 聖杯戦争。

 その副産物。

 つまり――。

 

「英霊の所有物?」

「それも、正解」

 

 ありうることだろうか。

 一体いつからこの宝石が遠坂の手にあったのかはわからない。

 しかし、その前に、或いは遠坂の手から離れた後に。

 この宝石を手にした人物が、英霊となって此度の戦争に召喚された。

 在り得ない――ことではないか。

 特定の英霊を召喚しようとすれば、その英霊に縁の深い遺物が必要となる。

 しかし英霊自身が、召喚者に縁の深い物を所持していた場合、その英霊が呼び出されることもある、そうではなかったか?

 ならば、この宝石は、誰の持ち物だ?

 決まっている、魔道の名門、遠坂の当主たる、姉さんの持ち物だ。

 そして、姉さんが召喚した、正体不明のサーヴァント、アーチャー。

 彼が、この宝石を持っていたとしたら?

 二つの宝石。

 この宝石は、姉から、誰かに渡されたもの。

 その誰かが、英霊と為った。

 誰だ?

 誰が、アーチャーになった?

 一体、誰が?

 

「君はその答を知っているはずだ」

 

 こつ、こつ、こつ。

 一度は遠ざかった威圧感が、近付いてくる。

 ああ。

 来ないで。

 もう、それ以上、私を虐めないで。

 

「余人ならいざ知らず、魔術を極めた者であるキャスターが、奴らの魔術の同一性に気がつかないはずが無い。そして、主人に忠実な彼女のこと、その情報はもう君の耳に入っているのではないかね?」

 

『今日、坊やの魔術を指導したでしょう。彼の魔術、投影って彼が勘違いしていた魔術、あれを間近にみて、わかったの。アーチャーがあの捻じ曲がった剣を取り出したときに感じた魔力の波動、それと同じだって』

 

 止めて。

 

『単純に言うとね、アーチャーも、あの歪な投影の使い手っていうこと』

 

 とめて。

 

『ねえ、桜。私は長いこと魔術に関わってきたけど、あんな出鱈目な投影、初めてお目にかかるわ。それが、突然二人も。これ、偶然かしら?』

 

 違う。

 

 絶対に、違う。

 

 彼は、先輩じゃあない。

 だって、あの目は、先輩の目じゃあないもの。

 先輩は、あんな目をしない。

 あんな、奈落の底を覗いたみたいな目を、絶対にしない。

 あれは、人の目じゃあ、無い。

 もっと違う、おぞましいものの、目、だ。

 

「事実から目を背けるな、遠坂桜!」

 

 声。

 気付けば、目の前に、神、が。

 動けない。

 足が、竦む。

 助けて。

 助けて、先輩。

 助けて、姉さん。

 助けて、助けて、助けて、助けて。

 ぱしん、と。

 軽く、頬を叩かれた。

 

「落ち着きたまえ、遠坂桜。君は罪人ではなかろう?ならば、威風堂々としていればいいのだ。この世に、君を脅かす何者があろうか」

 

 その言葉は、私の深奥に響くかのように。

 空虚だった胸の奥に、暖かい何かが満たされていく。

 ああ、安心した。

 そうだ、私は、昔、この男に助けられたことがある。

 蟲倉から引きずり出され、身体中から蟲を引きずり出され、穴だらけになった私の身体。

 それを、丁寧に塞いでくれたのが彼ではなかったか。

 あの、暖かい手。

 あの、慈しむ言葉。

 ああ、ここは、安心だ。

 安全じゃあないか。

 

「すこし、話をしようか、遠坂桜」

 

 いつの間にか、私はミサで使う長椅子に座らされていた。

 何のクッションも無い、無骨な木の椅子。

 それが、ひどく心地いい。

 

「きみは、天使と悪魔の違いを説明できるかね?」

 

 ……なんと、幼稚な問いか。

 答える気も起きないほどだ。

 

「ふむ、お気に召さなかったか。まあ、いい。私が勝手に話すから、気が向いたら合いの手の一つも入れてくれ」

 

 彼は、後ろに手を組んだまま歩く。

 広い教会、その中を、当て所なく。

 こつ、こつ、こつ、と。

 

「天使とは、言うまでも無く神の御使いであり、人を正しい方向、神の思し召しに適った方向に導く者だ。宗派、教義の解釈によって幾つかの細分化はされるものの、概ね、この大枠に反する考え方は存在しないな」

 

「転じて、悪魔とは神の教えから人を遠ざけようとするもののことを指す。人に危害を加えるもののことではない。むしろ、人を殺し、罰するのは天使の領分にある。かの聖書において人を殺した数は、悪魔は僅か十人、天使は三千万を越すとの解釈もあるのは、非常に興味深い」

 

 謳いあげる、声。

 天井から、きらきらとした光が差し込む。

 人は、神の奇跡を体現するために、無数の美術品を生み出した。

 それでも、神は遠いのだろうか。

 それほど、神は偉いのか。

 

「土着の神々を取り込んだという例外を除けば、悪魔の起源はその多くが天使に求められる。堕ちた天使、というやつだ。もっとも有名なのは、明けの明星と謳われた、大天使長ルシフェルだろうか」

 

 ゆっくりと、声の主を見る。

 彼は、いつの間にか私の隣に座っていた。

 それでも、彼我の距離は三メートル。

 不快と不信と疎遠を覚えさせない、絶妙の距離だ。

 

「しかし、天使も悪魔も、その本質においては同等の存在なのだよ。わかるか、遠坂桜」

 

 突然の質問。

 口を、開く。

 それでも、声がでない。

 渇いた喉に、舌が張り付いてしまっている。

 

「天使は、その威光をもって神を讃える。それは、当然だろう。そして、悪魔は人を堕落させ、神の教えに反することで神を讃えているのだ。如何にも逆説的ながら、そのことに異論を挟むものはいないだろう」

 

「何故なら、神は真に絶対だからだ。神の為す行為は、その過程の如何を問わず、最終的には善なる行為と価値付けられる。そこに議論の余地は無い。疑義の余地も無い。価値観を挟む余地すらない。もし、神の行いが醜悪に見えるとするならば、それを醜悪と断ずる思考こそが醜悪なのだ」

 

「ならば、神の創造物たる天使、そして悪魔。これらが神の御心に適わぬはずがあろうか。キリストの十二使徒、その中でも最も寵愛を受けたといわれるヨハネ。彼が、かの滅びの黙示録に描かれた奈落の悪魔、アバドンと同一視されるのは偶然だろうか?アバドンが悪魔の王たるサタンと同一視されるのは偶然だろうか?サタンがゾロアスター教の悪神、アンリマユと同一視されるのは、果たして偶然だろうか?」

 

 冷ややかな、熱弁。

 まるで、自らの説を論破されることを望んでいる、そんな声。

 

「つまり、天使と悪魔の境は、存在しないのだよ、遠坂桜。そこには、何も無い。境界になど、意味はないのだ」

 

 ああ、それは痛く同感。

 きっと、それは正しい。

 この世は、全てが不確定。

 何もかもが、あやふやだ。

 

「……ならば、貴方は何をもって善と悪を区分しますか?」

「ただ、神の御意志をもって」

「では、何をもって神の意思としますか?」

「ただ、神の教えをもって」

「では、その教えが正しいと、神の意思が正しいと、何故証明できますか?」

「ただ、私の価値観をもって」

 

 ほら、ぼろが出た。

 個人の価値観を差し挟まなければならないような神など、神ではない。

 それは、偶像に過ぎない。

 かすかな失望。

 所詮、この男も凡百の宗教家か。

 

「それは少し違うな、遠坂桜よ」

 

 横から、声。

 その視線は、真っ直ぐに。

 

「確かに私は凡夫に過ぎん。しかし、神は確かに存在する」

「……果たして、どこに」

「私の中に、だ」

「あは」

 

 思わず、苦笑が漏れた。

 なるほど、立派なお言葉だ。

 神は、ただ信心の中に、か。

 百点満点の回答じゃあないか。

 思わず笑ってしまう。

 

「それも、おそらくは違う。本当は、神の存在など、どうでもいいのだ。それでも、神は私の中にいる。なぜなら、私がそう定義したのだから」

 

 自身に満ちた、声。

 何故だか、心を揺さぶられる、声。

 今までで、一番彼の真実に近い、声。

 

「神を探すから、人は苦しまねばならない。そんなもの、どこにも存在しないが故に、な。何故気付かぬか。神など、何処にも存在しないが故に、何処にでも存在することが可能なことに。神は、ここに存在するのだ。そこに存在するのだ。あそこに存在するのだ。どこにでも、存在するのだ」

「……何故、そう断言できますか?」

「私が、そう定義したから、だ」

 

 なるほど。

 初めて、この男の一端に触れた。

 この男は、神を最上位に置きながら、己をその更に上に置いている。

 己を至高としながらも、下位の存在に頭を垂れているのだ。

 その、交錯性。

 それこそが、この男の本質か。

 

「君は、私をそう定義するのか」

「えっ?」

 

 おかしい。

 さっきから、何故私の思考は悉く。

 

「意味など無い。ただ、そう思っただけだ」

 

 ふうと、大きな溜息。

 僅かな、空白の時。

 

「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか、そう問うた画家がいたな」

「ゴーギャン、ですか」

「しかし、この問いは、問うことに意味は無い。ただ、答えることにこそ意味がある」

 

 ゆっくりと、彼の頬は、笑みの形を作っていく。

 

「私は、神より生まれた。私は、神の僕である。私は、いずれ神の御許に召される。ほら、これだけで『私』という存在が定義されたではないか」

 

 まるで、宗教家の模範解答のような彼の台詞。

 それが、私には、例えようも無く。

 不吉に、聞こえた。

 

「さあ、君も定義してみるといい。そうすれば、人生は限りなく栄光に満ちるだろう。己が何者で、何のために生きるのかを定めてみろ。それだけで、人生は祝福に満ちる」

 

 私は、立ち上がった。

 これ以上、ここで彼の説法を聞くのが苦痛だったから。

 もう、ここに来ることはないだろう。

 そう思いながら、教会を後にした。

 きっと、彼は最後まで嗤っていたはずだ。

 

 

 とぼとぼと、帰った。

 コートのポケットには、二つの宝石。

 それを、意味も無く弄ぶ。

 

「ただいま帰りました……」

 

 さあ、叱責されるだろうか。

 多分、そうだろう。

 この大事な時期に、無断で家を空けたのだ。

 それは十分に叱責の対象となる。

 怒られるのは嫌だなと。

 ぼんやりした感想を、思い浮かべる。

 

「おかえり、桜」

「先ぱ……!」

 

 では、無かった。

 玄関に待っていたのは、赤い外套。

 黒い、皮鎧。

 しかし、その上から似合わないエプロンを着た、弓の騎士。

 

「ああ、あの愚か者か。奴なら、ほら、居間で眠りこけている」

 

 それは、知っている。

 そんなこと、知っている。

 それでも。

 

「先輩……」

「起こしたいなら、耳元で怒鳴ってやれ。私が許可する」

「先輩……」

「そんなに急ぎか?なら、私が起こしてこようか?」

「先輩!」

 

 思わず振り返った、彼の顔。

 その、奈落のような、瞳。

 しかし、その中に、確かに、見慣れた輝きが、あった。

 

「さ……くら……?」

「先輩は、どれだけの絶望を、見てきたんですか?」

 

 なんて、幼稚な台詞。

 怖気がする。

 それでも。

 それでも、問わないわけにはいかないじゃあないか。

 

「貴方は、どれだけの荷物を背負い込んでしまったのですか?」

「……君の言っている意味が、わからない」

 

 彼は、私から視線を逸らした。

 もう、それだけで十分だった。

 回答は、いらない。

 涙が、溢れた。

 そのまま、自分の部屋まで駆けた。

 そして、泣いた。

 彼が背負ってきた苦労を想って、泣いた。

 彼が背負うであろう苦労を思って、泣いた。

 泣いて、泣いて、泣いて。

 そして、気付いた。

 彼は、もう手遅れだけど。

 彼は、まだ間に合うんじゃあないか。

 だって、彼はまだ人間で。

 これからも、人間のはずだから。

 なら、どうすればいい。

 どうすれば、英霊なんていう、化け物みたいな存在にさせないで済む?

 考えろ、考えろ、考えろ。

 ……。

 

「なあんだ、簡単じゃない」

 

 アーチャーは、姉さんに呼び出された。

 そして、遠坂の秘石を持っていた。

 誰よりも、姉さんとの縁が、濃い。

 きっと、姉さんが、関わっている。

 どこで、どのように関わったかは、わからないけど。

 それでも、其処を変えれば、運命は変わるはず。

 つまり。

 

「姉さんは、いらないわ……」

 

 私は、間違えていない。

 私は、間違えていない。

 私は、間違えていない。 

 だって、私がそう定義したのだから……。



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episode66 アベルカイン5 終幕、そして

「そうか、決心したのだな」

「はい、決心しました」

「誰もが君を蔑視するだろう。それに耐える覚悟は、あるかね?」

「そんなもの、ありません」

「ならば――」

「それでも、私は為すべきことを為さないといけませんから」

「その結果、救うべき対象にすら嫌悪されても、か?」

「耐えられません。そんなこと、耐えられない……!」

「今なら引き返せる。それを望んだとて、私は君を批判はしない」

「それでも、私が私を許せないでしょうから」

「ならば、前に進むか」

「はい。前に、進みます」

「よかろう。ならば、君を祝福しよう。ランサー」

「……!」

「何を驚くか。監督役がマスターになってはならない、そんな法も無かろう?」

「この、ペテン師が……!」

「非難中傷はもとより覚悟の上だよ。そう、今の君に等しいか」

「……私は、貴方を軽蔑します」

「それでも構わんさ。私は、ちょうど君がそうするように、私に課せられた義務を淡々と遂行するのみだから」

「貴方に、課せられた、義務?」

「聖杯の所有者に相応しい者を選別する。それが、代々の監督役に課せられた真の役割だ」

「ならば、貴方は……」

「私は、聖杯など、必要としない。ある種の興味があるのは事実だがね」

「そんな、こと、誰が信じるのですか」

「誰にも信じてもらおうとは思わんさ。ただ、自分だけが知っていればいい。さあ、遠坂桜。君はこれから、仮初とはいえランサーのマスターだ。これで、戦力は完全に逆転した。君の愛しい姉を、どう葬るも、君の思うがまま、そういうわけだな」

「……あとで、私は貴方も殺します」

「ああ、その激情は芳しい。今の君ならば、聖杯を授けるに相応しいな、全く」

 

episode66 アベルカイン5 終幕、そして

 

 周囲の喧騒に、何となく眉を顰めた。

 体が、熱い。

 熱いというよりも、痺れて、膨らんでいる。

 痛いのか、疲れているのか、それが判別できない。

 それでも、何となく目を開く。

 そこには、心配そうに私を見つめる、キャスターと、先輩が。

 

「お、起きたな、桜」

「せ……ん、ぱい……」

 

 はは、情けない声だ。

 全く、裏切り者には相応しくない、声。

 裏切り者は、もっと甲高い声で、無様に喚き散らしながら死ぬべきなのに。

 どうして、この人たちは、こんなにも暖かいのだろうか。

 

「桜、私、まだ聞いてないんだけど」

 

 首を、横に動かす。

 そこには、頬を血で染めた、姉さん、が。

 

「……き……く……?」

「ほら、私の勝利条件」

 

 ああ。

 そんなことも、言ったかしら。

 

『あんたをぶちのめして、ぐしゃぐしゃに泣かせて、『ごめんなさい、姉さん』、そう言わせることよ』

 

 そんな、こと。

 そんな、気持ちのいい、姉。

 それを殺そうとしたんだ。

 許されることじゃあない。

 そんなこと、知ってた。

 知ってたけど、やっぱり、怖い。

 でも、満足。

 やれる限りはやったもの。

 これで、この人に殺されるなら、満足だ。

 地獄に堕ちても、きっと笑える。

 

「士郎、ちょっと悪いけど、あっち行ってて」

「凜……」

「無茶はしないわ。自分の恋人を信じなさい」

 

 恋人。

 ああ、羨ましい。

 あの時。

 私の影の前でキスをした、二人。

 それを見て、嫉妬しなかったなんて、嘘っぱち。

 どれだけ、醜い嫉妬の炎が気炎を上げたか。

 それも、出来れば知られたくない。

 ああ、そういう意味では、このまま死にたいなぁ。

 

「そういって、お前どんだけ桜をタコ殴りにしたか、わかってんのか?キャスターがいないと、本気で危なかったんだからな、桜」

「わ、わかってるわよ。ちょっと、初めて試した魔術が上手くいったから、調子に乗りすぎただけでしょう。今度は大丈夫だから、さっさと散った散った!」

 

 苦笑しながら離れていく、先輩。

 彼の行く先には、少し泥に塗れた、イリヤさんと、セラさんと、リズさんが。みんな、笑顔で、楽しそう。

 ああ、いいなあ。

 私も、あの中に入りたいなあ。

 

「桜」

 

 厳しい、声。

 知っていた。

 優しい声なんて、期待していない。

 そんなの、期待していたなんて、嘘だ。

 

「ねえさん、あのひかりは、なんだったんですか……?」

 

 そう言うと、姉は、悪戯を成功させた悪童みたいな顔をした。

 

「ああ、あれね。もう何の機能もしない手だったから、今日の昼に切り落としたの。で、その中に、ちょーっとした細工をね」

 

 切り落とした。

 既に、切り落としていた。

 魔術刻印を含む、左手を。

 

「なんて、むちゃ……」

「でも、効果適面だったでしょう?」

 

 それは……そうだったのだろう。

 魔術刻印は、その家の積み上げられた歴史そのものだから。

 もし、姉さんを殺しても、それだけは回収しようとしていた。

 それを、餌に使われたのか。

 なんて無様。

 

「指先にね、ちょっとだけ宝石を埋め込んでおいたの。音と光。フラッシュグレネードの簡易版みたいなやつね」

 

 いや、違うか。

 私は、及ばなかったのだ。

 力で圧倒的に勝りながら、姉の智謀には圧倒的に及ばなかった。

 この人は、こういう人なのだ。

 転んでも、只では起きない。

 受けたダメージですらも、自分の武器に。

 そういう、人なのだ。

 

「じゃあ、あの血は……」

「粉末の血糊に、周囲の水蒸気を固めて、混ぜ合わせたもの。これでも五大元素使いなるぞ、恐れ入ったか」

 

 ああ、全く、恐れ入る。

 そこまで、私は掌の上だったか。

 何もかも、計算されていた。

 最初から、あの状況に持っていくのが、彼女の戦いだったのだ。

 そう考えると、妙な戦略課題の提言も、その伏線か。

 ああ言えば、私が挑発に乗ることを見越して。

 

『ああ、もう、本当に可愛らしい……。じゃあ、私の課題は、『もう殺して、桜』、貴方にそう懇願させること、に決めました』

 

 そう、私が間抜けに言った後の、姉の表情。

 これで勝ちが決まった、そういうふうな、会心の笑み。

 一撃で殺さないなら、容易に自分の考える状況を作り出すことが出来る

 あれは、そういう意味だったのか。

 つまり、慢心したのだ。

 つまり、及ばなかった。

 ああ、それだけか……。

 

「はやく、ころしてください……」

 

 もう、すべてに納得がいった。

 もう、思い残すことは無い。

 先輩を救いたかったけど。

 でも、それも適わないみたい。

 だから、お願いします。

 姉さん、最後に、お願いします。

 

「どうか、どうかせんぱいを、」

「アーチャーみたいにしないで、そう言いたいの?」

 

 ……。

 ああ。

 この人は、気付いてたのか。

 全部、知っていたのか。

 

「どうして……?」

「これでも、あいつのマスターだったからね。色々なものが流れ込んでくるし、あの魔術を見れば、嫌でもね」

「でも、あれがなんで、とうえいだって……?」

「だって、屋上でキャスターが叫んでたでしょう?『投影するなら、あの化け物の斧剣にしなさい!』ってね。あんなに大きな声で叫んだら、階段にいても聞こえるわよ」

「あら、そうだったかしら」

「キャスター……」

 

 私を見下ろす、優しい瞳。

 それが、二つ。

 ああ、私が死ねば、この人が消えてしまう。

 それだけは、嫌だ。

 

「姉さん、私が死んだら、キャスターのこと、お願いします」

「は?何であんたが死ぬのよ?」

 

 惚けた表情の、姉。

 そこに、一切の害意は無いように思えた。

 

「でも、私は裏切り者で……」

「そうね。だから、貴方には、遠坂の当主として、主命を授けます。心して聞きなさい」

 

 放逐だろうか。

 それとも、魔術の実験体。

 他家の胎盤として売られる、それも在るかもしれない。 

 どうでも、いい。

 どうせ、死んだ身である。

 

「これから、士郎を、絶対にアーチャーにさせない、そのために尽力すること。あいつが正義の味方なんていう訳の分からないものを忘れるくらい、ハッピーにさせる、そのために尽力すること。それを誓いなさい」

 

 ……。

 ……はっ?

 

「きっと、辛いわ。だって、貴方、士郎のことが好きでしょう?でも、あいつは私のものだから、それを見続けなくてはいけない。それは、きっと、死ぬよりも辛いわ」

 

 そんなの。

 そんなこと。

 

「……でも、私が取っちゃうかも知れませんよ?」

「ああ、それは無理無理」

「どうして?」

「だって、あいつ私にゾッコンだから」

 

 限りない明るさと、それ以上の自信に満ちた台詞。

 こんなの、この人以外の誰が口にしても相応しくない。

 そう、心の底から、思う。

 

「……あは、あははは……」

 

 笑いが、漏れる。

 なんて、気持ちのいい笑い。

 なんて、気持ちのいい、涙。

 ぼろぼろと、ぼろぼろと。

 

「ごめんなさい、姉さん、ごめ、ごめんなさいぃ……!」

 

 きゅっと、抱き締められる。

 ああ、暖かい。

 こんなにも、暖かい。

 それを、切り捨てようとしていたのか。

 なんて、間抜け。

 無様。

 それでも。

 ああ、それでも。

 こんなにも、暖かい。

 

「ごめんなさい、姉さん、ごめんなさい、姉さん、ごめんなさい、姉さん」

「もういいの。もういいんだから……」

「痛くしてごめんなさい、冷たくしてごめんなさい、酷いこと言って、ごめんなさい……」

「うん、辛かったよね、痛かったよね、桜……」

 

 ごめんなさい、姉さん。

 でも、この言葉だけは言いません。

 私も、そこまで恥知らずじゃないから。

 たった一言の、言葉。

 ありがとう、姉さん。

 

 

 泣きじゃくるサクラを抱えて、その背を摩り続けるリン。

 敬愛すべき、我がマスター。

 ああ、此度の聖杯戦争は、少なくともマスターには恵まれている。

 誰もが、命を投げ出して救っても惜しくないと、そう思わせてくれる人達ばかり。

 これが、何と言う幸運のもとに許されたことなのか、知る術はないものだろうか。

 

「ああ、ありゃあ、本当にいい女だなあ」

「あれは、シロウのものだ。貴様如きが触れてよい御仁ではない」

「知ってるさ、そんなこと。これでも女運は最悪なんだ、昔から」

 

 ひゅうん、と、槍を一振り。

 すると、彼の手には何も握られていなかった。

 

「帰るのですか」

「流石に、今日は白けちまったからな」

「では、決着はまたの機会に」

「ああ、その時は殺し合いだ」

 

 ゆっくりと振り返る彼。

 そして、その背中に、もう一つの声が。

 

「ちょっと、待ちなさいな」

「あん?」

 

 彼の視線の先。

 そこには、貝紫のローブ。

 キャスター。

 

「これでも、一時とはいえ共闘したんだから、お別れをね」

「はっ、てめえがそういう柄かよ」

「あら、これでも元王女、礼儀にはうるさいほうよ」

「だから、いい男が寄ってこねえんだ」

「何か言ったかしら?」

 

 ぎりぎりと、空気が軋むような緊張感。

 それでも、何故か頬が緩んでしまう。

 

「いずれにせよ、次出会ったときは殺し合いだ。変な馴れ合いは、あとに響くだけだぜ」

「それでも、今日は飲み明かす、それが貴方の流儀でしょう、クー・フーリン」

「はっ、違いねえ」

 

 彼は、ゆっくりと歩き去る。

 背中を見せるのは、彼なりの信頼の表れだろうか。

 

「さ、セイバー、私達も」

「ええ、キャスター」

 

 ゆっくりと、敬愛すべきマスター達の下へ。

 その道程の、なんと幸福に満ちたこと。

 

「あら、何かしら?」

 

 キャスターの、声。

 彼女の足元に、光輝く何かが。

 リンかサクラの宝石だろうか。

 

 どくん。

 

 あれ。

 

 どくん、どくん。

 

 なんだ、この感覚。

 

 どくん、どくん、どくん。

 

 私の、よく知っている、感覚。

 

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 

 何度も、味わった感覚。

 

 どくん、どくん、どくん、どくん、どくん。

 

 大切な、誰かが、死ぬときの、感覚。

 

 どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どくん。

 

「下がれ、キャスター!」

 

 その瞬間。

 

 まさに、その瞬間。

 

 地面から突き出た、細長い手が。

 

 表情の消えた彼女の、その右胸を、貫いていた。

 

 

 

 あれ。

 

 おかしいな。

 

 あれ。

 

 なんで、声が出ないんだろう。

 

 あれ。

 

 こんなに、痛いのに。

 

 あれ。

 

 声が、でない。

 

「キャスター!」

 

 あれ。

 

 音が、遠いな。

 

 あれ。

 

 視界が、暗くなっていくよ。

 

「キャスター!」

 

 あれ。

 

 さくらの、こえ。

 

 あれ。

 

 なんで、こたえることが、できないの?

 

 あれ。

 

 ああ。

 

 あれ。

 

 そうか。

 

 あれ。

 

 ここまでか。

 

 

「さ、くら……」

 

 胸の中央から突き出た指先。

 突き入れられた衝撃で身体は前に泳ぎ、引き抜かれた反動で身体は後方に揺らいだ。

 もはや、それに耐えることすら許されない。

 急激に反転する視界に、血飛沫が舞い散る。

 とん、と何かに抱きかかえられた感触。

 しかし、それは錯覚だ。

 私を抱きかかえたのは、なんの慈悲もない荒涼たる大地。

 冷え冷えとした地面に、楽々と横たわる。

 ああ、ここまでなのだ。

 これで、お別れなのだ。

 そう、確信した。

 だから、最後に、この身体を許してあげよう、そう思った。

 身体中の力を抜く。

 抜けていくのではない、意識して脱力する。

 すると、色々なものが消えていった。 

 浅ましく抱いていた復讐心も、世界をゆがめていた猜疑心も。

 色々なものが消えて。色々なものが消えて。

 最後に、人恋しさだけが残った。

 

「キャスター!キャスター!キャスター!キャスター!キャスター!」

 

 狂ったように私を呼ぶ少女。

 桜と、私に呼ばせてくれた、少女。

 

 最初は、偶然だった。

 

 自らを縛る薄汚い鎖を断ち、しかし同時に自らの心臓を一突きしていたと気付いた。

 あの下種なマスターを殺したことに後悔はない。

 ただ、祭りの前に消えていくこの身が情けなかった。

 だから、歩いた。

 止まってしまえば、楽になれるのは知っていた。

 でも、歩いた。

 止まってしまえば、全てが終わってしまうから。

 歩いて、歩いて、歩いて。

 視界に古ぼけた洋館が映ったとき、私の意識は暗転した。

 

 私は暖かい何かに包まれていた。

 暖かい感触。

 暖かい匂い。

 暖かい空気。

 そして、暖かい気配。

 雨に濡れて、血に濡れた私には、その全てが恨めしかった。

 

「気が付きましたか」

 

 横になった世界の中で、声のした方向に首を向ける。

 そこにいたのは一人の少女。

 輝くような黒髪は、溢れんばかりの魔力に満ち。

 その笑顔は、神話の女神にはありえない慈愛に満ちていた。

 私は、ほとんど反射的に暗示の魔術をかける。

 怯えた負け犬が、目をぎらつかせながら吠え掛かる。それと同じこと。

 しかし、その少女は巌のように動じなかった。

 

「無駄です。今のあなたの魔術では、私を縛ることはできません」

 

 静かな自信に満ちた声。

 目を凝らしてみると、そこにあったのは少し信じられないくらいの魔力の塊。

 これがあの男と同時代の魔術師のものなのか。

 彼女を清らかな清流と讃えるならば、あの男は腐った水溜りか。

 それでも。

 私が本調子ならば、それでも彼女は小鳥のようなものだ。

 しかし、衰弱しきった今の私にとって、彼女は空を舞う猛禽の王にも等しい。

 私は覚悟を決めた。

 

「何が目的?私がどういう存在かは気付いているでしょう?何故私を助けたの?」

 

 その言葉に、彼女は笑顔のままこう言った。

 

「助けてください」

 

 助けてください、彼女はそう言ったのだ。

 死にかけて、消えかけて、あまつさえ自らに刃を向けた半死人に、そう言って頭を下げたのだ。

 

「姉が、戦いに赴こうとしています。でも、私にはそれを助ける力がないの。資格がないの。だから、お願い、私を助けて。私に姉さんを、助けさせて」

 

 徐々に顔を歪ませ、いつしか涙に鼻を詰まらせながら、彼女はそう言った。

 ちらり、と彼女の両手を盗み見る。

 そこには、綺麗な白い手があった。

 そこには、なんの痣もなかった。

 そうか、彼女は選ばれなかったのか。

 口だけ達者なあの男が選ばれて彼女が選ばれないとは、この地の聖杯はよっぽど見る目がないのか、それとも性悪なのか。まあ、この身が召還された時点で碌でもないものであることは間違いあるまい。

 

「代わりにあなたは何をくれるの?」

 

 等価交換を持ちかける。

 さて、彼女はなんと言うだろう。

 願いを叶えてあげる、そう言ったら嘲笑おう。なぜなら、彼女は自分の姉の勝利を望んでいる。ならば、私の願いを叶えるつもりなどあるはずもない。

 物で釣るつもりなら、褒めてあげよう。仮にも英霊たる私を、そんなもので動かせると思ってるとしたら、たいした大物だ。ご褒美には冷たい氷の塊を。

 服従を強いるならば、従おう。裏切ることには慣れている。つい今しがたも、やってきた。ご主人様、そういって靴を舐めるくらいはお手の物だ。

 しかし、彼女はこう言った。

 

「……何も、ありません」

 

 俯き加減に、そして、囁くように、何よりも申し訳なさそうに。

 

「何もありません。私があなたにあげられるものなんて、何一つないの。だから、こうして頭を下げてお願いしています」

 

 涙を拭い、恥ずかしそうに言った彼女の頬が、あんまりにも赤かったから。

 少しだけ、彼女と一緒にいてもいいか、そう思った。

 

 

「キャスター、キャスター、キャスター、キャスター、キャスター……」

 

 私を呼ぶ声は、しかし先ほどより小さく、弱弱しくなっていた。

 きっと彼女も気付いている。

 もうすぐ私が消えていくであろう、そのことに。

 

「さ……くら……」

 

 自分の喉から発せられる、熱を失った声。それは死人の囁きに等しい。

 視界に映し出されたのは、相変わらず魔力に満ちた黒髪と、姉との戦いによって煤けた彼女の頬。

 ああ、これでは桜の美貌が台無しだ。もっと綺麗にしておかないと、あの坊やに愛想を尽かされてしまうわよ?

 

「キャスタぁ……おねがいだから、しなないでよぅ、いっしょにいてよぅ」

 

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした桜が、敬愛すべき我がマスターが、縋るように繰り返す。まるで、坊やに自分の罪を曝け出した、あの晩のように。

 ああ、なんだ。

 こんなことで、気付いてしまった。

 そうか、彼女にとって、私も家族だったんだ。

 こんなにも血塗られて、世界中で蔑まれて。

 それでも、そんな私を家族と、認めてくれてたんだ。

 

「そ……、っか……」

 

 私の望みは、叶ってたのか。

 だから、この世界の料理は、あんなにも美味しかったのか。

 本当に大事なものは、失ってからそれと分かる。

 いつか、どこかの誰かが言った、あまりにも苦い真実。

 それでも、私は悔しがるのをやめた。

 だって、私はいつも後悔していた。悔しがっていた。

 だから、それはいつでもできるのだ。

 だから、私は感謝することにした。

 

 ありがとう、桜。

 ありがとう、私を姉のように慕ってくれて。

 ありがとう、私を母のように頼ってくれて。

 ありがとう、私を人のように愛してくれて。

 ありがとう、桜。あなたのおかげで、私はもう一度、人として生きることが出来ました。

 私は、本当に幸せでした。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 私を呼ぶ声は、いつしか謝罪の声に変わっていた。

 謝らないで、桜。

 私はあなたにたくさんのものを貰った。感謝こそすれ、謝られるいわれなんてない。

 もし謝る必要があるとしたら、それは私のほう。

 御免なさい、桜。

 私はこんなにもあなたに救われたのに、何一つ返せない。

 等価交換を守れない。

 だからせめて。

 せめて、私に出来ることを。

 だから、泣き止んで、桜。

 あなたは強い子だから。

 私がいなくても大丈夫。

 絶対に、大丈夫。

 

  

 彼女の、折れそうなくらいに儚い彼女の手から放たれたのは、一振りの短剣。

 まるでデフォルメされた稲妻のような形をした、虹色の刀身。あらゆる魔力を切り裂く、裏切りの魔女の象徴。

 それが、かの槍兵の胸に突き立つ。

 それを一番不思議に思ったのは槍兵自身だった。

 児戯のようになんの技術もない投擲。

 かの弓兵の放つ矢とは比べるのもおこがましいほどの速度の差。

 何故、自分はそれに反応し得なかったのか。

 そもそも、彼には矢避けの加護が備わっている。あらゆる投擲、射撃が彼の前には意味を為さないはずだ。

 しかし、それは厳然と彼の胸に突き立っている。

 槍兵は気付かなかった。

 魔女の動作があまりにも自然で、そこには微塵の殺気も込められていなかったから、彼は反応し得なかったということに。

 その刀身はあらゆる魔術を打ち消し、契約を無に帰す破戒の刃だったから、矢避けの加護も及ばなかったことに。 

 いや、本当のところは誰にも分からない。

 ひょっとしたら、唯の偶然が重なった結果にすぎないかもしれない。

 それでも、魔女の最後の意志は、形となって、槍兵の胸を貫いていた。

 そして、彼女は密やかに、しかし残された最後の力を使って宝具の真名を解放した。

 

「ルール……ブレイ……カー」

 



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episode67 人造両儀2 出現

 ふらふら、とした足取りで。

 ふわふわ、とした視線を彷徨わせ。

 ゆらゆら、と風に遊ばれる。

 ぼさぼさ、の髪を押さえつけ。

 しんしん、と沈む夜に。

 きらきら、と輝く星空のもと。

 くるくる、と回る喜劇を鑑賞する。

 はらから同士が、じゃれあって。

 なあなあで、目出度し目出度し。

 あらあら、なんてつまらない。

 いらいらが、押さえられません。

 さあさあ、私の出番です。

 しらじらしい、予定調和など。

 そろそろ、終わりにいたしましょうか。

 

episode67 人造両儀2 出現

 

 最初からいけ好かない女だった。

 美人なのは認めるさ。確かに良い女だ。

 だが、人を舐めきったようなあの態度は気に食わない。

 女はおしとやかに、とは言わない。むしろ、武芸に通じた女は大好きだ。

 それでも、あの態度は気に食わなかった。

 だから、戦場で油断したあの女を哀れむつもりなんて、さらさらない。

 戦場では間抜けな奴から死んでいく、それは古今東西に通用する数少ない真理だ。

 そもそもあの女が同情されて喜ぶとは思えない。

 だが、騙まし討ちとか不意打ちの類は気に食わない。やられる奴が阿呆。そのことくらいわかっているが、これは完全に好みの問題だ。

 まぁ、仇くらいは討ってやるか。あの臆病者の糞マスターも、それくらいの休暇は認めてくれるだろう。

 槍の柄で肩を叩きつつそんなことを考えていたら、いつの間にか俺の胸に短刀が突き刺さっていた。

 あれ?

 いつの間に間合いに入られたのか。

 感じたのは羞恥と怒り。

 怒りは憤怒へと昇華し、砕くような視線で周囲を睨む。

 そして、女と目が合った。

 縋りつく自分のマスターを、まるで我が子のようにあやしながら、彼女は真剣に俺を見た。

 ああ、こいつか。こいつがやったのか。

 不思議なくらい、すんなり納得できた。怒りは、いつの間にか消えていた。

 彼女の口が動く。

 声を発することは既にできないのだろう、吐息すら空気を震わせることはなかった。

 それでも、彼女の言葉ははっきりと聞き取ることができた。

 

 お願い、と。

 

 この国の、この時代の言葉で、彼女はそう言った。

 何を、そう問うほど俺は間抜けじゃない。

 自分の身を縛る契約が、いつの間にか消え失せていることくらい気付いている。

 きっと、これが短剣の効力なのだろう。

 だから、彼女が何を望んでいるのか、それくらいはわかるつもりだ。

 さて、どうするか。

 いけ好かない奴とはいえ、あんなのでもマスターはマスター、それとの繋がりを絶たれた以上長く現世に留まることは叶うまい。当然、これ以上の楽しみを得ることもできない。ならば、新しい寄り代が必要になる。

 しかし、面倒なのは御免だ。そもそも俺は腹いっぱい戦いたくて召還に応じたんだ。なのに色々あって、結局は使いっぱしりの犬みたいなのが今の俺の状況。いい加減疲れた、そんな気がするのも事実。

 目を瞑る。大して意味はない。

 ふ、と思った。

 あの女、どこかで会ったことがなかったか。

 いったん気になると、他の事が考えられない。

 さて、何時だったか。

 短い記憶か、永い記録か。

 ……、そうか。

 似ているんだ。

 勝気なところが、人を舐めたような態度が、優しい瞳が。

 ああ、あの女に、そっくりだ。

 きっと、今もどこかで半分生きて、半分死んでいるあの女。

 なんて名前だったか。

 思い出せないのか、思い出すことさえ許されないのか。

 さっきまで同じ振り幅で揺れていた天秤の片方に、僅かな錘が加わったことを、俺は悟った。

 

 

「よう、景気はどうだい?」

 良くはなし、されど苦しからずね。

「景気の悪い返事だな」

 まるで今のあなたみたい。

「なるほど、違いない」

 ねえ、私の願いは聞いてくれるのかしら。

「年上の女の言うことに従う、そんなゲッシュを誓った憶えはねえな」

 あら、ひどい男。こんな美人が頼んでいるのよ。

「自分で言うな、萎えるだろ」

 なら、さっきまでは勃ってたのかしら?

「慎み深い女が好きだ」

 慎み深い女なんて、男の道具にすぎないじゃない。

「お前のようにか」

 私のようによ。

「哀れな女だな」

 なら救って頂戴。

「お前にその資格はあるのか」

 私は詩人よ。

「お前は魔女だろう」

 これでも元王女、詩の嗜みくらいはあるわ。

「それでも詩人との間には隔たりがある」

 そんなもの、些細な違い。

「お前が言うならそうなのかもな」

 畢竟意思の問題ね。

「ならば、ゲッシュで俺を縛るか」

 私は服従するのもされるのもあまり好きではないの。

「お優しいことだな」

 色々なものを受け入れたから。

「ならば、何を持って俺を動かす」

 誠意をもって。

「安いな」

 私は動かされた。

「そうか、じゃあ俺も従おうか」

 ありがとう。

「あの嬢ちゃんはかわいいしな」

 手を出したら殺すわよ。

「安心して逝け」

 ええ、あなたは主を裏切らないもの。

「これが二度目の主替えだ」

 そんなこと、些細なこと。

 桜をよろしく、クランの猛犬。

 

 

 彼女を抱き締めていた腕が、不意に交差する。

 抱えていた重量が無くなる。

 視界一杯に広がる光の奔流。

 その一粒一粒が、彼女を構成していた魔力の塊。

 自分の腕から零れていった存在が信じられなくて、悲しくて、ただただ、泣き叫ぶ。

 

「ああああああああああああああああ!」

 

 誰でもいい、この叫びを止めて。この痛みを、消して。

 苦しい、寒い。痙攣する。

 酷い、憂鬱だ。分裂する。

 嫌だ、嫌だ。煩わしい。

 

 市ね詩ね視ね師ね紙ね氏ね士ね志ね誌ね史ね詞ね資ね刺ね。

 

 私なんて、死んでしまえ。

 

「泣き叫ぶのは勝手だがよう、ここは一応戦場だぜ」

 

 ぐいっと、髪の毛を引っ張られる。

 目の前にある物体が認識できない。

 目があって。

 鼻があって。

 口があって。

 ぎらついた、牙があって。

 それでも、これは何だろう。

 

「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 声が止まらない。

 泣き叫べば楽になるなんて嘘っぱちだ。

 声を上げれば上げるほど、重い何かが溜まっていく。

 この重量は、人を殺せる刃だ。

 死に至る病、それは何のことだったか。

 

「ああ、うるせえな」

 

 頬に受けた衝撃で、頭の中に花火が上がる。

 聞こえた音は、パチンではない。

 ごつっ、とか、がんっ、とか、そういう音。

 弾き飛ばされて、地面に横たわる。

 冷え冷えとしたそれは、彼女が横たわった最後のベッド。

 その事実が悲しくて、また涙が溢れてくる。

 

「女を殴るのは趣味じゃない。できればもう殴られてくれるな」

 

 呆れたような、疲れたような声。

 私はその方向を見る。

 そこにあったのは、赤い槍を携えた青い男。

 そういえば、この男は以前キャスターと戦っていた。

 そうか、お前が。

 

「お前が、お前が殺したのかああぁぁ!」

 

 迸る絶叫。

 私の魔力は、周囲を焦がしている。

 しかし、目の前の男は露ほども動じない。

 

「いいね、元気な女は大好きだ」

 

 殺す。殺してやる。

 内に向いていた殺意が、外に向かって奔流する。

 自殺と殺人の違いは何か。

 そんなの、些細な問題だ。

 全てを終わらせようという意志。

 そこには微塵の違いもありはしない。

 

「Es flustert――Mein Nagel reist Hauser ab!」

 

 砂塵を巻き上げる影の刃。

 しかし、それは彼に届かない。

 

「Satz――Mein Blut widersteht Invasionen!」

 

 鉄を穿つ魔力の塊。

 それも、彼には微風と変わらない。

 

「Es befiehlt――Mein Atem schliest a!」

 

 闇でできた牢獄。

 そんなもので、彼を縛ることなど出来るはずもない。

 

「まだまだ!」

 

 喉の奥からせり上がってきた血の塊を飲み下す。

 限界を超えた魔術行使と、メーターを振り切らんとする魔術回路の回転数が、私の体を壊していく。

 それがどうした。

 壊れてしまえ。

 こんなに想い身体、わたしは要らない。

 

「あーっと、繰り返しになるけどよ」

 

 不意に掻き消えた彼。

 その瞬間、脇腹が爆ぜた。

 ふわりと宙を舞う身体。

 ごつんと土と喧嘩する骨。

 ざりざりと地面に鑢掛けられる皮膚。

 きっと、今の私はズタボロだ。

 

「女を殴るのは趣味じゃない。できればもう殴られてくれるな。ついでに言うと、もちろん蹴るのもだ」

 

 そんな声、耳に入らない。

 

「ぐううううううううぅぅ……」

 

 無様な声が漏れる。

 だんご虫みたいに丸まって、反吐を吐く。

 大量の血の混じったそれは、この世の終わりみたいな色をしていた。

 咳き込み、ふらつき、それでも立ち上がる。

 

「分かってるんだろう、あんたが殺したんじゃないことくらい」

 

 そんなこと、百も承知だ。

 

「あんたが全てを背負い込むのは、あいつに対する冒涜だぜ」

 

 分かっている、最後に彼女が何を望んだのかを。

 

「あれはあれで満足してたんだ。あいつを許してやれ」

 

 なぜ、彼女が己の宝具を彼に刺したのかを。

 

「まあ、どうでもいいか。俺を殺りたきゃ殺ればいい」

 

 なぜ、彼が私を嬉しそうに見つめるのかを。

 

「ほら、対魔力なら消してやったぜ。さあ、どうするんだい?」

 

 さあ、これで最後。

 これが、最後の呪文。

 射殺すように睨む。

 死ね。

 死ね、よわいわたし。

 

「告げる!」

 

 

 無人の校庭に、声が響いた。

 悲痛な声だ。

 聞く者の心をひきしぼり、ねじ切るような声だ。

 その声は、前に進む者の声だ。

 それは、安寧と腐臭に満ちた停滞ではなく、苦痛と覚悟に満ちた前進を決意した者の声だ。

 一体如何ほどの苦痛がその声に込められているのか。

 未知の領域に足を踏み入れることに比べれば、その場に立ち止まり耳を塞ぐ、その誘惑のなんと甘美なことか。

 そもそも、己の殻に閉じ籠り、優しい思い出だけを愛でていれば、人はそれだけで幸せなのだ。自分を哀れみ、まどろみの中で一生を過ごすことができれば、人はなんと幸福に死ぬことができるだろう。

 しかし、彼女はそれを拒否した。

 彼女は優しい悪夢を振り払い、苦しい、存在するだけで苦しい現実を受け入れたのだ。

 その選択が正しいのかどうか、余人に結論を下すことはできない。いや、許されない。ただ彼女だけが、自らの生涯の最後の一瞬に、その判断を下すことが許される。

 それでも、彼女は後悔しないだろう。例え、自分が自分の判断を否定する瞬間があったとしてもきっと彼女は後悔しない。

 そして、彼女は呪文を紡いだ。

 己を信ずる、そして彼女を裏切る、呪文を。

 

「告げる!汝の身は我が影に、我が命運は汝の穂先に!聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、私に従え!ならばこの命運、汝が槍に預けよう!」 

 

 にやり、と破顔した槍兵は、少年のような輝く瞳でこう答えた。

 

「ランサーの名に懸け誓いを受ける。お前を我が主として認めよう、桜」

 

 

 自分でも所以の知れない涙が溢れる。

 これが最後の力だったのだろう、意識が遠くなる。

 ごめんなさい、キャスター。

 ごめんなさい。

 私はまだ死ねないの。

 だって、先輩を助けるって、誓ったから。

 だから、いつの日か、あなたと出会ったとき。

 私を裏切り者と罵って。

 でも。

 でも、もし許してくれるなら。

 もう一度、あなたの隣で眠らせてください。

 さようなら、もう一人のお姉さん。

 ありがとう、たった一人のお母さん。

 

 

 痴呆のように、その光景を見ていた。

 消えていくキャスターと、泣き叫ぶ桜。

 あまりにも痛々しいその声は、声でありながら俺の心を千々に引き裂いた。

 だからだろうか、俺は桜の傍にいけなかった。

 凛やセイバーと同じく、ただただその光景を見つめていた。

 

「告げる!汝の身は私の影に、我が命運は汝の穂先に!聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、私に従え!ならばこの命運、汝が槍に預けよう!」 

「ランサーの名に懸け誓いを受ける。お前を我が主として認めよう、桜」

 

 ランサーに殴られ、蹴られ、ぼろぼろになった桜。

 キャスターが死んだ今、ここは神殿たる役目を終えている。

 ならば、あれは明らかな過負荷だ。

 俺が見てもわかるほどの過剰な魔術行使で、その内側もずたずただろう。

 新たな契約を結ぶことで、最後の魔力も使い切ったのか、彼女は糸の切れた人形みたいに意識を失った。

 それを受け止めたのは槍の騎士。

 野生の獣のような瞳は、調伏の不可能と、絆の絶対を思わせる。

 

「と、いう訳だ。今後ともよろしくな、坊主」

 

 噛み付くような笑みを浮かべた光の御子がそう言った。

 これでサーヴァントは残り三人。

 そして、今からそれは二人になるだろう。

 剣の英霊と、槍の英霊。

 この二人の怒りを受けて、暗殺者如きが生き残れるはずもない。

 

「さて、最終戦の前に、寝所に入った藪蚊を退治するとしましょうか」

 

 こきこき、と肩を鳴らしながらランサーが言う。

 無言で剣を構えるセイバー。

 突き刺さるような二人の殺気を受けて、しかし暗殺者はゆるりと立っていた

「やっちゃって、セイバー、ランサー。これで残るサーヴァントは三人ね」

 

 ――え?

 

「凛、お前何を言ってるんだ?残りは二人だろう?」

 

 凛は怪訝そうな表情を浮かべる。

 

「何言ってるのよ、セイバー、ランサー、あとはあの得体の知れないサーヴァント、ヨハネ。これで三人じゃない」

 

 ――は?

 

 ヨハネがサーヴァント?

 

「凛、お前あれがサーヴァントだって言うのか?」

「そうよ、あれだけの魔力を纏い、エーテル塊で編まれた体。サーヴァント以外の何物だって言うの?」

 

 そんな馬鹿な。

 

「凛、お前マスターとしての眼で奴を見たか?」

 

 凛がはっとした表情になる。

 

「士郎、あなた何を言って……」

 

「ふむ、仕留めたのはキャスターか。これで残ったのは三騎士のうちが二騎。いささか厄介なことになったものよな」

 

 枯れた声帯が、不快な音を搾り出す。

 霞むような暗闇から姿を現したのは、かの翁。堕ちた魔道、マキリの頭首にして、サーヴァント・ライダーのマスター、マキリ臓硯。

 己の従者に飲み込まれたはずの奴が、何故ここに?

 

「話がある。貴様らにとっても悪い話ではない、実はこの戦いには……」

 

 マキリ臓硯が完全に言葉を紡ぎだす前に、俺のすぐ傍で空間が爆ぜた。

 まず震えたのは大気。

 そのすぐあとに、大地を震わす激震。

 一瞬遅れて、それがランサーの踏み込みによるものだと気付く。

 

「刺し穿つ」

 

 問答無用。その単語がこれほどまでに相応しい状況もあるまい。

 彼は臓硯の目の前に移動していた。

 俺からの距離は約20メートル。

 瞬きほどの時間でそれだけの距離を移動したことになる。

 縮地。

 そんな架空の技法が頭に浮かぶ。

 低く、まるで地に伏すが如く身を撓めたランサーは、全身のバネをただ一点の穂先に向けて集中する。

 マキリ臓硯は、いまだ己が槍兵の必殺の間合いにいることに気付いていない。

 当たり前だ。

 俺だって目に映っているものが信じがたい。

 これがランサーの本気か。

 なるほど、あの夜、彼が遊んでいたことがよくわかる。

 みしり、と彼が踏み込んだ地面の悲鳴が聞こえる。

 彼を止めうるものは、いない。

 

「死棘の槍!」

 

 穂先は、あっさりと小躯の老人を貫いた。

 何も知らぬ人間が見れば、ただの虐殺にしか見ることはできないだろう。かの老人はまるで狩りの獲物のように高々と持ち上げられてピクリともしない。

 ランサーは軽く槍を一振りした。

 自然、老人の身体は宙を舞い、物理法則に従って地に落ちた。

 形はどうあれ、マスターの一人を倒すという武勲をあげたランサーは、しかし苦虫を噛み潰したような顔でこう叫んだ。

 

「何のつもりだ、小娘!こんな人形で俺を謀るか!」

 

「人形?」

 

 凛が驚きの声を上げる。俺も同じ心境だ。

 あれは確かにマキリ臓硯だった。感じた気配はあの夜と同じものだったからだ。もしランサーの言が正しいとするならば、あの夜の臓硯は一体何だったのか。

 何かが蠢く音が聞こえて、そちらに目を向ける。

 そこには、あるべきはずの物が無かった。

 本来ならば、そこには老人の遺体がなければならないのに、そこにあったのは、マキリ臓硯の死体だったものだ。

 臓硯が着ていた和服を中心にして、白い液体が放射状に広がっている。目を凝らして見ると、それが細かく蠢く蛆の大群であることがわかる。

 

「いい夜ですね」

 

 冷たい声が、冷たい夜に響く。

 月明かりを背負い、ゆっくりと歩いてきたのは俺のよく知った顔。

 身に纏ったのは蒼いローブ。

 前を肌蹴させ、薄い下着だけを纏ったその姿はいかにも扇情的だ。

 傍らに控えるのはかの暗殺者。それだけで二人の関係が知れる。

 サーヴァントとマスター。それ以外には考えられない。

 彼女が魔術師ではないとか、魔術回路が存在しないとか、家が枯れた魔術の家系だとか、そんなことは目の前の光景を否定する材料とは成り得ない。

 絶対の事実として、彼女はこのゲームの参加者だったのだ。

 

「なんであなたが……」

 

 自分の見ているものが信じられない、そんな凛の声。

 

「らしくありませんね、事実を事実として、あるがまま受け入れる。それが魔術師としてのあなただったのではありませんか、遠坂先輩?」

 

 僅かながら笑いを含んだその声は、開けた校庭に高らかと響いた。

 

「よう、久しぶりだな、嬢ちゃん」

 

 獣の唸り声みたいな声が聞こえる。心の弱いものならば、この声だけで膝が折れるのではないか、そんな声。

 しかし、やはり彼女は楽しげに返す。

 

「お久しぶりです、ランサー。生きていたのですね、それは重畳」

「殺そうとした奴が何言ってやがる。さっさとあの化物を呼び出せ」

 

 獰猛な牙を剥き出しにして、戦意を露わにするランサー。

 みしみしと、筋肉の膨れる音がする。

 まるで体が一回り大きくなったみたいだ。

 

「ええ、もちろんそのつもり。流石に二体のサーヴァント相手はいくらアサシンでも厳しいわ」

 

 俺の知っている少女は、ローブの下の肌着を剥ぎ取った。

 俺の後輩の肌が、露わになる。

 乳房の先端と、股間の淡い茂みに思わず視線をやってしまった自分に嫌悪する。

 少女は、代羽は、凍りつくような笑みのまま、こう言った。

 

「良識ある人は逃げなさい。私の守護者は凶暴です」

 

 彼女はそう言ってから、呪文を紡いだ。隣でランサーの緊張が膨れ上がったのが分かった。

 

「Ego sum alpha et omega, primus et novissimus, principium et finis」

 

  

 ばりばりと、何かが裂ける音がする。

 ぶちぶちと、何かが千切れる音がする。

 音の源は、美しく、小柄な少女。

 彼女の名前は、代羽(シロウ)といった。

 

 変化したのは、まず骨格。

 小柄な少女の骨格は、少女の肉の中で、男性の中でもかなり大柄なそれに変化した。

 体の中で、存在を巨大化させたカルシウムの塊は、

 柔らかな皮膚を張り詰めさせ、

 ついには内部からそれを破壊した。

 膨張した頭蓋骨によって頭頂部の皮膚は裂け、

 突き出た骨は、筋肉を引き千切った。

 極限まで伸びきった皮膚は、まるで破裂寸前の風船だ。

 事実、体のあちこちから血が噴出している。

 

 次に変化したのが筋肉。

 まるで棒切れのようだった体の各部に、エーテルで出来た肉が巻きついてゆく。

 例えるなら、針金で作った人形の芯に、青銅の粘土を肉付けしていくかのように。

 上腕部に、溶けた青銅を一塊。

 大腿部に、溶けた青銅を二塊。

 そして、そこには、まるで人間のような彫像が完成していた。

 

 最後に変化したのが髪。

 黒絹のようにしなやかな髪は、はらりはらりと抜け落ちて、

 代わりに強い髪が、そこにはあった。

 天に歯向かうように逆立ったそれは、

 まるで蒼穹のように蒼かった。

 その色は、マキリと呼ばれた一族の髪の色。

 

 そこにいたのは一人の男。

 端正な顔立ち。

 鷹のように鋭い目つき。

 すっきりと通った鼻筋。

 形の整った唇。

 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。

 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。

 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。

 視線は粘つき、見るものに不快を憶えさせる。

 全身を赤黒い呪刻で覆われた、その男。

 彼の名前は、代羽(ヨハネ)といった。

 



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interval9 IN THE ABYSSI

 片手に薄汚れた短刀を持った青年が呟く。

 

「誓いを此処に。

 吾等はアルファにして、オメガ。

 最初にして、最終。

 原因にして、終局。

 汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手」

 

 抑揚のない、陰鬱な声が、決して陽の届かぬ地の獄にて響く。

 今から起きることはある種の奇跡だ。

 人を超越し、時すらも調伏し、輪廻の輪から外れた英霊を召還しようというのだから。

 魔術師であるなら、この先にある苦難を忘れて、その奇跡に酔ったとしても不思議ではない。

 しかし、眩い光を受けた彼の瞳には、光が無かった。

 その目は、光の届かぬ地の底にあって、なお漆黒に染まっていた。

 

interval9 IN THE ABYSSI 

 

 その姿を見て最初に思った。

 美しい、と。

 所々擦り切れ薄汚れた襤褸を纏い、髑髏のような仮面を被った長身の異様。

 おそらくは、後世から賞賛を受けるような偉業をなした英霊ではあるまい。

 むしろ、人から疎まれ怨まれ恐れられることでその身を英霊へと昇華させたのだろう。

 その姿はあまりにも壮烈。

 纏った空気は限りなく無機質。

 まるで、ここにいながらこの場に存在していないかのようなあやふやな気配。

 しかし、この身が地獄に落ちたとしても忘れることができないだろう、圧倒的な存在感。

 あなたが何度生まれ変わっても見紛うことはあるまい、そんな予感。

 何故だろう、その全てが。

 狂おしいほどに。

 

 

「試みに問うが」

 

 髑髏が話す。

 

「貴殿が私を呼び出したのか」

 

 何の感情も篭っていない、石英のような声。

 少女は答える。

 

「いいえ、私があなたを呼び出したのではありません。しかし、私があなたのマスターです」

 

 それは真実。掛け値ない真実だ。 

 しかし、髑髏は続ける。

 

「ならば、私を召還したのは一体誰なのだ」

 

 その疑問は当然のものだろう。

 召還者とマスターが違う、通常そんなことはありえない。

 説明しようと口を開いた彼女の耳に、聞きなれた、隙間風のような声が聞こえた。

 

「よしよし、召還は滞りなく終わったようじゃの。流石は我が後継者」

 

 こつん、こつん、という硬質な音と共に階段を下りてくる老人。

 少女の師であり、親でもある老人。

 老人の後ろには、奇妙な眼帯をつけた、長身の女性が付き従っていた。

 

「ふむ、見たところお主が召還したのはアサシンかの」

 

 彼女は何も答えない。

 沈黙を肯定ととったのか、老人は続ける。

 

「三騎士でないのは些か残念じゃが、なに、お主の力量ならばこの戦争を勝ち抜くことはさして難しいことではあるまい」

 

 普段の老人からは想像もできない、喜びに上ずった声。

 彼女は、その言葉に満面の笑みを浮かべた。

 

「ありがとうございます、お爺様。

 ――そして、今までありがとうございました、お父様」

 

 微かな沈黙、その後に広がる硬質な空気。

 少女の意図するところを正確に読み取ったのだろう、老人の声が低くなる。

 

「それは、どういう意味かの、代羽。この老いぼれにもわかるように言ってくれんか」

 

 階段を降り終わった老人と少女は、広大な地下修練場にて相対する。

 本来ならこの広大な空間を埋め尽くすが如く存在するはずの蟲達も、異様な空気に恐れをなして、どこかに隠れてしまったようだ。

 

「言葉通りの意味です。今まで私を育ててくれた御恩、一生忘れません。信じていただけないかも知れませんが、私は本当にあなたに感謝しています」

 

 ピリピリと、空気が張り詰めていく。

 老人のサーヴァントも、少女のサーヴァントも、既に戦闘体制に入っている。

 しかし、その少女は知っている。

 今からこの場で、戦闘と呼べるものなど起きるはずの無いことを。

 

「これからも、あなたに従うつもりだった。マキリの胎盤となって一生を終えてもいいと思っていた」

 

 その言葉に、嘘偽りは、無い。

 ただ、それ以上に苛烈な意志が、あっただけ。

 

「ですが、私は、この身には過ぎた望みを持ってしまった。それを叶えるためには、あなたの存在が邪魔なのです。私のために死んでください」

 

 その瞬間、硬質な笑い声が修練場を満たした。

 

「かっかっか、そうか、儂が邪魔か。儂を殺すか。いいぞ、やってみるがよい。それが不可能なことは誰よりもお主が知っていると思っていたがな」

 

 その言葉を聞いた瞬間、彼女は令呪をもってアサシンにこう命じた。

 

「マキリ代羽の名をもって命じます。アサシン、可能な限りすばやく我が心臓を抉り出しなさい」

 

 

 まるで電光のような速度で、短刀が私の胸に突き刺さる。

 

「何を……!」

 

 そう呟いたのは、老人であり、同時に私のサーヴァントだった。

 肉を裂き、骨を絶つ刃。

 その傷口から、暗殺者の大きな手が体内に侵入してくる。

 明瞭な意識を保ちながら、心臓を鷲摑みにされるのは流石の私も初めてだ。

 ぶちぶちと、太い血管を引きちぎりながら彼の手が外に出てくる。

 とめどなく血が溢れ出る。

 この冷たい身体のどこに、こんなに大量の血液があったのだろうか。

 まるで壊れたポンプのようだ。

 第三者のような冷たい視線で私は考えた。

 真っ赤な血。

 汚れた、忌むべき血。

 ずるり、と引き抜かれた彼の手には、

 まだびくん、びくんと動く赤黒い肉塊が握られていた。

 その手は、私の血で真っ赤だ。

 ああ、彼の手を汚してしまった。

 私はとても嫌な気分になった。

 

 

「マキリ代羽の名をもって命じます。アサシン、可能な限りすばやく我が心臓を抉り出しなさい」

 

 その声を聞いたとき、その言葉の意味を理解したとき、まず最初に代羽は自害するのだと考えた。自分が死ぬことで、儂を害そうと考えたのだと。

 振り下ろされる刃。

 傷口に突き刺された長い腕。

 噴水のように噴出す血液。

 そして、暗殺者の手の中に納まった代羽の心臓。

 

「馬鹿なことを……!!」

 

 思わずそう叫んだ。

 代羽は、貴重な胎盤なのだ。いや、もし此度の戦争を勝ち抜くことが叶えば、我が依り代となる。つまりは我が未来だ。

 不老不死。

 決して老いぬ、腐らぬ、朽ちぬ体。永遠の命。

 それが、こんなことで。

 なんとしても死なせるわけにはいかぬ。

 自我などどうでもよい。

 あの身体だけでも、なんとしてでも生かし続けてみせる。

 そう考えた瞬間、視界に代羽の顔が映った。

 自らの血で赤く塗れたその目は。

 まるで哀れむかのような視線で、この身を貫いた。

 理解した。

 あ奴に、死ぬつもりなど微塵も無い。

 ならば、その意図は。

 

 

「マキリ代羽の名をもって命じます。アサシン、可能な限りすばやく我が心臓を抉り出しなさい」

 

 蒼く輝く彼女の左腕。

 なるほど、真実彼女は我がマスターだったわけだ。

 しかし、そのマスターの最初の命令が、自己の心臓を抉り出せとはどういうことか。

 そう思考しながらも、身体は私の意思を無視して動いていた。

 普段の自分では到底叶うことのない速度で彼女の柔い肌を切り裂き、肋骨を断ち切り、傷口に手を突っ込む。

 ぐちゃり、としたその感覚は暗殺者である自分には馴染みの感覚だったが、自らの主の体内に腕を突き入れたのは初めてのことだ。

 どくん、どくん、と脈打つ心臓をしっかりと掴み、力任せに引きずり出す。

 ぶちぶちと、大動脈、大静脈が千切れていく。

 まるで、紅玉を溶かしたかのように美しい、真紅の血液が噴出す。

 そして、私は命令を完了した。

 私の左手に収まった、小さな心臓。

 目の前に立つ、私が殺してしまった血濡れのマスター。

 彼女を見て、私は驚愕した。

 傷口が、無い。

 ふさがっている、という程度ではない。まるで時間を遡ったかのように存在しないのだ。

 何かの幻術か、とも思ったが、彼女の暖かい心臓は私の左手でいまだ脈を刻んでいる。

 そして、彼女ははっきりとした口調でこう言った。

 

「ご苦労でした、アサシン。さあ、それを頂戴」

 

 ああ、彼女は生きている。

 私は無言で左手のそれを放り投げた。

 

 

 ぐちゃ、と湿った音をたてて肉塊が私の手に収まった。

 私は顔を顰めた。

 心臓は脳と同じく生命活動の根源だ。

 私の汚れた生、その本質。それが私の手の中にある。

 ああ、きっとこの子は、この世で一番辛い思いをしてきたのだろう。

 そう思うと、無性に泣きたくなった。

 

「待て、代羽、貴様、いったい何を」

 

 その声は、先ほどまでの、高みから見下ろすような声ではない。

 拳銃を眉間に突きつけられた死刑囚のように余裕の無い声だ。

 私はナイフで自らの心臓だったものを切り裂く。

 どろり、と濁った血液が溢れる。

 その中に指を突っ込み、小指ほどの大きさの蟲を引きずり出した。

 

「止めろぉ!貴様、自分が何をしようとしているのか、わかっているのか!」

 

 狂ったように叫ぶ老人。

 静かな声で、私は答える。

 

「ええ、わかっているつもりです。これは脳虫。私の心臓に潜んでいたあなたの本体でしょう」

 

 祖父ががくがくと震える。

 鉛色の皮膚は、もはや形容し難い色に変化している。

 

「何故だ、何故三戸は儂に何も告げなかった」

 

 三戸。私の身体に住み着いた刻印虫の一種。

 私が何らかの叛意を抱いたときに、主である臓硯に密告するという役割を負った蟲。

 何故、三戸の虫が臓硯に何も告げなかったのか。

 その理由はとても簡単だ。なぜなら。

 

「私の体内の蟲たちは、あなたの本体以外の全てが既に私達の支配下にありました。何も知らなかったのはあなただけだったのです」

 

 臓硯の目が驚愕によって大きく開かれた。

 そして、掠れた声で呟いた。

 

「馬鹿な……!。我が魔術が、五百年磨き続けた我が秘奥が、齢二十に満たぬ小娘に及ばぬというのか」

 

 私は哀れみを帯びた声でこう言った。

 

「あなたが劣っているのではありません。彼が――ヨハネが異常なだけです。なぜなら、彼は一人であり群体。孤独でありながら数多きもの。虫のような多数を操ることにかけて、彼の右に出るものなどいない」

「――儂を、殺すのか」

 

 先ほどまでの狂態が嘘のように静かな声。

 視線はまっすぐに私を射抜いている。

 

「はい、殺します」

 

 右手で彼の本体を握り締めながら、私は答えた。

 

「ですが、安心してください、お父様。あなたの理想は私が引き継ぎます」

 

 私は、人差し指と親指で摘んだ父を、口の中に放り込んだ。

 口中で跳ね回るお父様。

 丹念に舌で転がして。

 丹念に舌で愛撫して。

 一気に、噛み砕いた。

 ぐちゃり、と何かが潰れる感触が気持ち悪い。

 舌触りは滑らかだ。

 濃厚な血の味。

 私の知ってる魔力の味。

 

「理想か……、ままならぬものよなぁ」

 

 私がお父様を飲み下すのと同時に。

 お父様の体は、ゆっくりと、後ろに崩れていった。

 

 

 少女は、義父と呼んだ老人の遺体の横に跪いた。

 震える手を、皺だらけの遺体の顔に添える。

 その手は、ついさっきまで老人を掴んでいた右手だ。

 しかし、彼女の表情は変わらない。

 静かに、鏡のように。

 ただ、血に塗られた唇だけが、微かに震えていた。

 

「お、とう、さま……」

 

 長い時間をかけて、やっとそう言うと、彼女は遺体に縋り付いて動かなくなった。

 

 

 涙など、流さない。

 謝罪の言葉は、紡がない。

 泣けば、心が折れる。

 謝れば、理想は罪に堕する。

 それは、殺した人に対する侮辱で。

 救おうとしている人への裏切りだ。

 だから私は泣かないし。

 謝罪の言葉も口にしない。

 でも。

 でも、もし許されるなら。

 私は泣いてみたいと思う。

 涙を流したいと思う。

 流れ出てしまえばいい。

 もし、体中の水分が流れ出てしまえば、

 罪に塗れたこの身も少しは軽くなる。

 そうすれば、本物の地の獄に墜落するときの衝撃も、

 少しは軽くなるのではないか、と思うのだ。

 

 

「あなたは、これからどうするのですか」

 

 顔をあげた少女が、老人の遺体の傍らに立つ紫のサーヴァントに尋ねた。

 

「――そうですね、すくなくとも彼の仇討ちをするつもりはありません。私は彼に召還されて間もない。怒りに心を染めるだけの信頼関係もなかった」

 

 形の良い顎に手をあてながら、紫のサーヴァントは続ける。

 

「かといって、このまま戦いを降りるつもりもありません。私にも叶えたい望みがある」

 

 ならば、と少女は言った。

 すく、と立ち上がったその目に迷いはない。

 

「私と共に戦いなさい」

 

 いつの間にか、彼女の手に美しい蝶が止まっていた。

 ひらり、と舞い上がったその蝶は老人の遺体にとまり、その口の中に姿を消した。

 その瞬間、遺体はその瞼を開き、手を突いて起き上がった。その手には依然として鈍い光を放つ令呪が残っていた。

 驚愕する私に、彼女は言った。

 

「何を驚いているのです。彼の身体はもともと無数の蟲によって構築されていた。私は、いや、彼はそれらを支配しただけです。利用できるものは全て利用します。その行為が唾棄すべきものであっても、私にはそれだけの目的がある。それが罪深いものならば、きっと誰かが私を罰するでしょう」

 

 そう言い放った、血まみれの少女は。

 崇高なまでに光輝いて見えた。

 私は彼女の前に跪く。

 令呪による強制でもなく、この身を縛った契約によるものでもなく。

 ただ、純粋に、目の前の女性に敬服した。

 頭を垂れながら、私は宣言した。

 

「あなたを我がマスターと認めよう。我が主よ、私はあなたの長き腕。あなたの影に付き従い、あなたの意に沿わぬもの、あなたを害するもの、それらを悉く握り潰してみせよう。主殿の生ある限り、この誓いは破られることは無い」

 

 顔をあげると、そこには花が綻んだような微笑を浮かべた主の顔があった。

 

「ええ、知っています。あなたは私の僕。私を裏切るなんて、絶対赦さない。でも、あなたが私に従うなら、あなたが望むものを必ず与えてみせましょう」

 

 契約は成った。

 あとは戦うだけだ。

 



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episode68 人造両儀3 深淵の魔

A kind father plays with a little John.

Clip,clip,he dumps his name,name.

A grandfather plays with a little John.

Snip,snip,he loses his flail,flail.

 

 小さな小さなリトルジョン。

 優しいパパと、遊んでもらえてご満悦。

 ちょきちょきちょき。

 可愛いお名前、どこかに忘れて、ご満悦。

 小さな小さなリトルジョン。

 お爺ちゃんと、遊んでもらえてご満悦。

 ちょきちょきちょき。

 楽しい玩具、はさみでちょんぎって、ご満悦。

 

Little John plays with kind father.

Munch,munch, gets tall,tall.

Little John plays with grandfather.

Chomp,chomp,lets play doll,doll

 

 小さな小さなリトルジョン。

 優しいパパで、遊んでみたら、ご満悦。

 むしゃむしゃむしゃ。

 一杯食べて、大きくなって。

 小さな小さなリトルジョン。

 お爺ちゃんで、遊んでみたら、ご満悦。

 もぐもぐもぐ。

 ねえ、おままごとして遊びましょう、遊びましょう。

 

episode68 人造両儀3 深淵の魔

 

 この際、夜の静けさは残酷であった。

 狂熱に満ちた喧騒の中であれば、人は自らの見たものを笑い飛ばすことなど簡単である。人はその目で見たものを信じるのではない。己が信じたいものだけを見るからだ。

 だが、冷たい大気と痛いほどの静寂の中で研ぎ澄まされた視覚が捕らえた映像を、どうして笑い飛ばすことができようか。

 何故なら、それは圧倒的なまでに真実なのだから。

 結局のところ、誰もが不幸だった。

 己の常識を覆された魔術師も、信じていた後輩に裏切られた愚か者も、その従者達も。

 

「召喚……?憑依……?いや、あれは違う。先祖還りでも起源の覚醒でもない、一体何なのよ」

 

 遠坂凛の混乱ももっともだろう。

 代羽の身体に起きたのは、通常考えられうる如何なる現象にも該当しない。ありきたりの機械や薬物などで、どうしてごく短時間のうちに人間の身体がああも変化を起こし得るだろうか。

 では、通常のうちに魔術という異常を組み入れればああいった現象の説明がつくか。

 可能だ。

 人智を凌駕する魔術ならば、ああいった肉体改造も十分に考えられうる。

 例えば、己に宿る起源を目覚めさせ、それを戦闘に活用する『起源の覚醒』にはああいった肉体変化が生まれることも珍しいことではない。更に言えば、死徒のような人を凌駕する種族には己の中に無数の生命を飼い慣らす者もいる。それを考えれば彼女の変化は許容の範囲内だ。

 しかし、魔術を用いるならば、そこにはその燃料たる魔力がなければ説明がつかない。

 今でこそ濃厚な、視覚で捕らえることが可能なほど濃厚な魔力を撒き散らしているヨハネではあるが、代羽がヨハネに変化する前、彼女が呪文を唱えた瞬間には、毛の先ほどの魔力も身に纏っていなかった。

 遠坂凛は一流の魔術師だ。

 その潜在能力を加味するならば、一流の前に『超』の文字を加えてもそれは過美とは言えまい。その彼女が魔力の発動を見逃すはずがない。

 安っぽい魔力殺しなどではありえない。魔力殺しは己のうちの魔力が外部に漏れ出すのを防ぐもの。それを身に着けながら魔術を行使するのは不可能に近い。

 そもそも、間桐代羽には魔術回路が存在しない。血で血を洗う殺し合いを続けてきた宿敵の跡継ぎだ。凛個人の持つ間桐代羽への好悪の念は別にして、この上なく警戒すべき相手である。例えその家が凋落しきったかつての名門であったとしても、背中を見せていい相手ではない。ゆえに幾度となく彼女の身体を調査した。そのたびに下される結論は、常に白。彼女は魔術師ではありえない。それが真実だ。

 つまり、代羽は如何なる魔術も用いていない。如何なる魔術も用いずに、彼女は別の肉体を用意した。しかも、サーヴァントと見まごうほどの魔力を纏った肉体を、だ。

 馬鹿馬鹿しい。魔術を用いずに、魔力を帯びた肉体を用意する。そんな矛盾が存在しうるはずがない。ならば、あれは一体何なのだ。

 そんな凛の葛藤など露知らず、いっそ呆けたような表情で周囲を見渡す蒼い怪人。全身を赤黒い呪刻が覆い、身に着けているのは襤褸切れと化した腰巻だけ。ほんの一時前までは少女であった彼は、己の敵を指折り数えた。

 

「ランサーに、セイバー、あれは……まあ、どうでもいいか。アサシン、状況はどうなっている」

「キャスターは私が仕留めた。此度の聖杯戦争において脱落したサーヴァントは四体。あと一人仕留めれば、聖杯は姿を現すだろう」

「なるほど。私はともかく、このままでは彼女にかかる負担が大きいな。さっさと片付けるとしようか」 

 

 二人の会話は、主従のそれというよりも戦友のそれに近かった。

 ヨハネは、相変わらずの猫背気味の姿勢。

 下から睨目あげる、不快な視線。

 だらりと下げられた両の手は、墓場を徘徊するグールを思い起こさせる。

 彼は、爛々と光る双眸を己の敵に向けた。

 それは、遠坂凜の、かつてのサーヴァントと酷似した容姿でありながら、その性質を異にしたもの。

 底光りする殺気を孕みつつも、じとじとと湿り気を帯びた、黴臭く、錆び臭い視線。

 サーヴァントの殺気が余人に与えるのが恐怖なら、彼の視線が与えるのは嫌悪、それに尽きる。

 

「さて、御歴々。私を知っている者もいるだろうし、知らぬ者もいるだろう。私はサーヴァント・プレディクタ、真名ヨハネ。マキリ代羽の使役する使い魔だ」

「ふざけないで、あなたはサーヴァントなんかじゃない!私の知らないサーヴァントなんて、いちゃいけないんだから!」

 

 怒りをこめてイリヤが叫ぶ。

 聖杯として作られた彼女にしてみれば、サーヴァントたる資格すら持たないヨハネがサーヴァントとして名乗りをあげることなど、屈辱以外の何物でもないのだろう。

 彼女は全身の魔術回路を起動し、何の加工も加えていない魔力を、弾丸のように放つ。

 一見凛のガンドに近いが、その威力は桁違いだ。

 常人であれば、己の危難を知る前に彼岸へと旅立つだろう。達人であれば、身構えた直後に貫かれるだろう。英雄であるならば、辛うじてさばけるかもしれない。

 それほどまでに激烈な運動エネルギーを持った、魔力の形をした弾丸を、ヨハネはまるで羽虫か何かのように一瞥して、直後に軽く身を捩った。

 形容し難い音を立てて、弾丸が命中する。

 正中線からはわずかに狙いを外した弾丸は、それでも彼の左肩に直撃し、被弾部の肉を盛大に削り取った。左手は千切れ、切断面からは白い肋骨とピンク色の内臓が顔を出している。

 ぼとぼとと、左肩から血液が零れ落ちる。

 致命傷だ。人間にとっても、サーヴァントにとっても。

 それでも彼は、涼しげな顔でイリヤに語りかける。

 

「ふむ、確かに私は英霊ではないし、此度の聖杯戦争で召喚されたわけでもない。ならばいわゆるサーヴァントではないな」

 

 ヨハネの目は見開いたように大きく、瞳は極端に小さい。そんな彼が顎に手を当てながら真剣に考える様は、失われた片腕とあいまってどこか滑稽な雰囲気があった。

 

「しかし、私は彼女に仕える身であり、この命は彼女のためにある。ならば、サーヴァントを名乗ったところで不都合はあるまい?ああ、と、これくらいでいいかな?」

 

 ごく短い時間の、会話とも呼べない会話。

 その間に、ヨハネの傍らに白い小山が出来ていた。それは膨大な量の血液と一緒に零れ落ちた、忌まわしい何かだ。

 明らかにヨハネ自身の質量よりも巨大なその小山は、マキリ臓硯の死体と同じように細かく蠢いていた。夜目の利くものであれば、それらが親指ほどの大きさの芋虫の大群であることに気付くだろう。

 それらは彼の左半身に出来た傷口から生れ落ちたものだ。生まれつつある芋虫が、今ももぞもぞと身を捩り、まるで母の子宮から這い出んとするかのようにその切断面から顔を覗かしている。

 肉と肉の隙間から。

 脂肪と脂肪の隙間から。

 もぞもぞと。

 ぷちぷちと。

 ヨハネは、傍らに控える己のサーヴァントに話しかける。

 

「下がっていろ。君に死なれると後々厄介だ」

「承知。戦闘は貴殿の領分だな」

 

 いまだ確定したわけではないが、二人がマスターとサーヴァントだとするならば、これほど奇妙な会話もあるまい。戦いこそがサーヴァントの本分であり、それをサポートするのがマスターの領分。どうやらこの二人に限れば、それは逆転しているものらしい。

 す、と白い髑髏が闇夜に姿を消した。

 振り返る、狂人。

 

「さて、と。大変お待たせした。そろそろ始めようか。このままでは、せいぜい眠くなってしまう」

 

 どうでもいい、そんな風情の声。

 しかし、その表情には隠しきれない愉悦が滲んでいる。

 

「だが、私自身は酷く無力でね、戦いはもっぱら使い魔に任せることにしている。使い魔たる私が使い魔を使役するというのも妙な話だが、ここは堪えてくれたまえ」

 

 ただでさえ桁外れだったヨハネの魔力が膨れ上がる。それと同時に、彼に敵するサーヴァントたちも身構えた。

 

「魔力とは魂の燃料だ。そして、魂をこの上なく揺さぶるのは覚悟と信頼だ。故に、私自身への覚悟と信頼を示そう。真名の開放といったかな?そうでもしなければ、この魔術は扱えない」

 

 ヨハネの頬が、三日月よりもなお深い皺を作る。

 

「これが私に許された唯一の魔術であり、究極の一。存分に堪能されよ」

 

 セイバーが、ランサーが駆ける。敵が剣を構える、それをわざわざ待つ義理など何処にも無いのだから。

 しかし、ヨハネの詠唱は一歩先んじた。

 たった、一言。

 それ、だけ。

 

「『大腐海』」

 

 その瞬間、二つの音が静かな校庭に鳴り響いた。

 ひとつは肉が爆ぜたような破裂音。

 ひとつは金属同士がぶつかる削過音。

 そこには、異界があった。

 

 

 二対一。

 アサシンが立ち去った今、戦闘の構図は間違いなくそうなっていたはずだ。

 セイバーとランサーの連合対ヨハネ。

 数の有利は私たちにあり、使役しているサーヴァントの格でも私たちが上回っている。いや、そもそも相手はサーヴァントですらないが。

 そのはずだった。

 それが今やどうだろう。

 サーヴァントの格、それはこちらが上回っている。そのことに変化は無い。

 しかし、数では、それが完全に逆転していた。

 二対一ではない。

 二対三ではない。

 二対五ではない。

 二対十ではない。

 

 おそらくは、三桁を超える大群。

 

 蟲の、群れ。

 

 百足がいた。

 蜘蛛がいた。

 蜻蛉がいた。

 蝗がいた。

 蟻がいた。

 蟷螂がいた。

 飛蝗がいた。

 蠍がいた。

 鍬形虫がいた。

 蜂がいた。

 蝶がいた。

 芋虫がいた。

 甲虫がいた。

 蚯蚓がいた。

 

 ありとあらゆる虫がいて、しかしそれは私の知る如何なる虫とも異なっていた。

 

 翼を持つ百足。

 頭が三つある蜘蛛。

 人の頭と腕を持つ蜻蛉。

 身体中から棘を生やした蝗。

 体節を十以上持った蟻。

 蠍の尾を持つ蟷螂。

 人を丸呑みするほど大きな口を備えた飛蝗。

 戦車のような装甲を備えた蠍。

 金属よりなお鋭いあぎとを誇る鍬形虫。

 体中から強酸の体液を撒き散らす蜂。

 目に見えるほど多量の毒粉を巻き上げる蝶。

 赤い複眼を体中に備えた芋虫。

 二本足で立ち上がり腹部に巨大な口を有する甲虫。

 卑猥な男性器を模した蚯蚓。

 

 見たこともない、醜悪な、蟲の、群れ。

 

 これらの生命に共通することは三つ。

 ひとつ、そのいずれもが人より大きい体躯を持つこと。

 ひとつ、そのいずれもが明らかな悪意を持つ害虫であること。

 ひとつ、そのいずれもが、この世界には存在し得ない幻想種であること。

 

 かの蟲軍と私達との距離は約30メートル。

 しかし、緩やかな風に乗って、耐え難いほどの悪臭が感じられる。髪の毛を焼いたような、腐敗した肉のような、強烈な酸のような。

 一旦はヨハネに向けて突撃したセイバーとランサーだが、今は私たちのすぐ目の前まで後退している。

 私たちを守るためだろう。

 つまり、それだけあの蟲の群れは危険だということだ。

 

「どうかな、今回はなかなか上手くいったと思うのだが。上手くいかないと蟲達の機嫌が悪い。呼び出した瞬間に破裂したり、一匹しか生み出せなかったり。しかし、一匹とはいえ、なかなか我が子は強かっただろう、遠坂の魔術師よ」

 

 ヨハネは明らかに私に向けて話しかけていた。

 そういえば、蟲の群の中に、見覚えのある蟲が、一匹。

 蟷螂。

 しかし、その尾は毒を持つ蠍のそれ。

 きらきらと、ぬらぬらと、ヘドロのように輝く体表。

 金剛石の、体。

 あの夜、散々私を苦しめてくれた、蟲。

 それが、大勢の中の一匹に紛れていた。

 

「……なるほど、あの夜マキリ臓硯が従えていた蟲も、あなたの差し金だったのね」

 

 おかしいとは思っていたのだ。

 使い魔とは、総じてその主人よりも弱い。そうでなくては主従の契約を結ぶことが出来ないからだ。もちろん聖杯戦争におけるサーヴァントとマスターのような例外も存在するが、それは極少数である。

 あの蟲とマキリ臓硯を比べると、明らかに蟲の方が高位の魔力を備えていた。

 故に私はマキリ臓硯を畏怖したのだ。

 一体如何なる手段を用いてこのような存在を調伏したのかと。流石は令呪を開発した家系の末裔だ、と。

 なるほど、簡単なことだ。

 

 あれはマキリ臓硯の使い魔ではなかった。

 

 ただ単に貸し出されていただけなのだ。

 

「大事な子供なんでしょう?あんな妖怪バグ爺さんに貸し出すなんて可哀想とは思わないの?」

「ふむ、どうやらまだ誤解が解けていないとみえるな。先ほど、そこな槍兵が解答を口にしたではないか」

 

 『何のつもりだ、小娘!こんな人形で俺を謀るか!』

 ランサーはさっきそう叫んだ。

 人形。

 歴戦の勇者であるクー・フーリンがそう言うのだから、間違いなくあれは人形なのだろう。まるでアイスクリームが溶けるかのように崩れ落ちた死体もそれを裏付けている。

 しかし、あれの気配はあの夜のマキリ臓硯の気配と同じものだった。いや、気配だけではない。その魔力の色でさえ同一だったのだ。

 

 ならば、答えは一つしかない。

 

 あの夜のマキリ臓硯も、人形。

 

 私たちは、人形と戦っていた。

 

「なら、今のマキリの頭首は……」

「マキリ代羽。それが今代のマキリの頭首であり、我が主であり、アサシンのマスターだ」

 

 決定的な、あまりに決定的な答え。隣で士郎の悲痛な気配が感じられる。

 

「マキリ臓硯は……」

「彼女が食った。そして、私が支配した。彼は死んで、その体は人形となった。それだけだ。令呪を備えているうちはそれなりの利用価値もあったのだが、彼の従者も退場したことだし、この際彼にもその役目を終えてもらった。隙の一つも作れれば御の字、そう考えていたのだが、なるほどクランの猛犬は甘くない」

 

 くつくつという、まるで噛み付くような獰猛な笑みを浮かべるヨハネ。口の端は極端なまでに持ち上がっているが、その目はまったく笑っていない。

 

「……なんなんだよ、お前は」

 

 消え入りそうな声で、士郎が呟く。

 その声は、呟き声でありながら、不思議なほどに周囲を圧した。

 

「出て行けよ!代羽の中から出て行け!」

 

 今まで見たことが無いほどに、士郎は怒っていた。

 その目は獲物を射殺す鷹のように。

 その声は幾千の戦場を勝利で飾った、戦士の鬨の声のように。

 その姿は、まるで、かの弓兵のように。

 それに答えるヨハネの声は、むしろ沈痛だった。その声には先ほどの道化じみた響きは全く無い。

 

「気の毒だがな、少年。私は彼女の一部なのだ。私は彼女であり、彼女の守護者であり、彼女の盾だ。私と彼女は不可分にして同一。私は彼女が望むことしかしない。

 だが、君だけは、出来得るならば君だけは彼女を憎んでくれるな。蔑んでくれるな。それでは、あまりにも彼女が哀れだ」

 

 慈しむようなその表情は、しかし一瞬でもとの呪われたそれに入れ替わった。

 

「さて、栓の無い話はこれくらいにしよう。我が子らも待ち侘びているようだ。さあ、戦おう。殺しあおう。夜が明けるまで踊りあかそう。君たちの死体を飾る、きっと素敵な朝にしよう」

 







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episode69 人造両儀4 始まりの夜の戦い

 戦えと命じる。

 自分の中に、戦えと命じるものがある。

 何が。

 そう、問う暇は無い。

 問うていれば、死ぬ。

 俺か、それとも俺以外の誰かか。

 だから、従う。

 それに、従うのみ。

 従う以外の選択肢が存在しない。

 従わなければ、死ぬのだ。

 それが、理解できている。

 だから、剣を振るう。

 それが、苦しく、悔しく、切ない。

 目の前の敵は、どうやら敵ではない。

 それが分かっている。

 あれは、敵ではない。

 もっと暖かくて、優しいものだ。

 あれは、敵などではない。

 もっと居心地がよくて、包み込んでくれるものだ。

 それが分かっている。

 それでも、闘わなければならない。

 それが、鬱陶しい。

 その滾りを、目の前の異形に叩き付ける。

 我武者羅に、見苦しく。

 砕け散る外骨格。

 飛び散る体液と、耳を劈く断末魔。

 蟲が、蟲が、蟲が。

 それは、既に戦いですらない。

 ただの、八つ当たりだ。

 お前らのせいか、と。

 貴様らが彼女を変えたのか、と。

 その、怒り。

 その、矛盾。

 分かっている。

 こいつらが悪いんじゃあない。

 彼女を変えたのは、こいつらじゃあない。

 じゃあ、何が彼女を。

 追い詰め、疲弊させ、狼狽させたのか。

 分からない。

 既にこの世には存在しない、醜悪な老人だろうか。

 それとも、マキリという魔道の家。

 いや、違う。

 俺だ。

 俺だ。

 全て、俺。

 俺が、彼女を追い詰めた。

 俺が、彼女を疲弊させた。

 俺が、彼女を狼狽させた。

 俺が、彼女を泣かした。

 ほら、彼女は泣いている。

 声が、聞こえるもの。

 まるで、逸れた親を探す、幼子のような叫び。

 それが、静寂の校庭に、痛ましく響いているもの。

 泣いている。

 泣きながら、謝っている。

 誰に?

 分からない。

 それが、俺の罪だ。

 分からないことが、俺の罪だ。

 つまり、簡単な話だ。

 つまり。

 俺が、彼女を不幸にした。

 俺さえいなければ、彼女にはもっと輝かしい未来があった。

 その確信。

 胸を締め付け、そのまま捻じ切るような後悔。

 ああ、俺が生まれなければ。

 俺が存在しなければ、貴方は。

 貴方は。

 

episode69 人造両儀4 始まりの夜の戦い

 

「はあああ!」

 

 風の鞘を纏った聖剣を叩きつける。

 砕ける外骨格。飛び散る体液。不快な断末魔の声。

 一体幾匹の魔蟲を屠ったか。

 十匹までは数えた。

 しかし、何匹切ったところで終わりが見えない。

 理由は、単純明快。

 私が蟲を駆逐する以上の速度で、ヨハネが新たな蟲を召喚するからだ。

 まるで前回のキャスターとの戦いのようだ。永久機関じみた、無限との戦い。

 違うのは、私の左手が万全なこと。

 そして。

 

「しゃああ!」

 

 私と轡を並べるのはランサー。

 アイルランドの光の皇子、クー・フーリン。

 彼の豪雨のような突きは、一瞬で蟲を蜂の巣に変える。

 紙のように貫かれる、堅固な外骨格。

 そういえば、前回も同じくランサーと共闘した。彼も、素晴らしい騎士だった。槍兵とは不思議な縁があるのかもしれない。

 我々二騎で、瞬きの間に五匹。

 巨大な蟲の倒れる音を、聞いた。

 それでも。

「おお、中々頑張る。しかし、ほら。もっと急がないと不味いのではないかな?君達の大事なマスター達も、些か追い詰められているようだぞ!」

 ちらり、と後ろを見る。

 そこには、我々の防壁を突破した、一匹の魔蟲。

 それを、必死の形相で取り囲む、シロウ達の姿。

 サクラは、気を失っている。

 リン、イリヤ、セラの魔術で足止め。

 シロウ、リズの攻撃で仕留める。

 俄作りにしては、優れた連携。

 これなら、一匹や二匹ならば問題はないか。

 

「そう、この程度ならば問題無かろうさ。しかし、今この身には、この杯には、既に神酒が満たされた。燃料は無限だ。回転数も無限。さあ、いつまで捌き切れるか?」

 

 ヨハネ。

 奴の、千切れた左肩。

 そこから、屍肉に湧いた蛆のように、際限無く湧き出す芋虫。

 その数が、倍加した。

 ぼろぼろと、消しゴムのカスのように、溢れ出す白い塊。

 まだか。

 まだ、増えるか。

 

「ちい、めんどくせえ!」

 

 ランサーの、声。

 あまりに辟易とした、声。

 彼は、強者との戦いを望んで召喚された。

 ならば、今行われている戦いは、彼にとって児戯に等しい。

 彼が心楽しむはずが、ない。

 

「五秒だ!五秒だけ、戦線を維持できるか、セイバー!?」

「愚問!」

 

 にい、と、彼の頬が吊り上ったのを、視力ではなく心で理解した。

 直後聞こえた、地面の爆ぜる音。

 大きく後方で、着地音。

 そして、空間のマナが吸い込まれる気配。

 宝具。

 その、発動の予兆。

 なるほど、一気に焼き払う算段か。

 ならば、私も出し惜しみは無しだ。

 

「せいやああああ!」

 

 悲鳴のような鬨の声。

 五秒。

 五秒だけは、一匹たりとも逃がすものか!

 

 

 思い出す。

 懐かしいとすら言えるのかも知れない。

 あの、夜だ。

 ようやく全てのサーヴァントが召喚された、あの夜。

 人気の薄い、藪の中。

 高台。

 バーサーカーと、セイバー達との戦いを見下ろしていた。

 アサシンを連れた、少女。

 あまりに魔力の気配が薄いことが気になったが、それでも二人の立ち位置をみれば、こいつらがマスターとサーヴァントなのは明々白々。

 だから、その夜の俺は、ついていた。

 得体の知れない弓兵、そして規格外の魔術をまるで湯水のように繰り出す魔術師。

 殺しても死なない、中々良い瞳をした小僧。

 見た目は小便臭いガキのくせして、まるで大砲をぶっ放したみたいな斬撃をお見舞いしてくれた、剣士。

 そんな、望外の連中との戦いを堪能したのだ。

 良い夜だった。

 久しぶりに良い夜だったのだ。

 だから、その締めくくりに相応しい、いい戦いを期待していたのに。

 全く、胸糞が悪くなる。

 今思い出しても、唾が酸っぱくなる。

 

「何だ、もう帰っちまうのか。まだ夜は長いぜ」

 

 声に、振り返る二人。

 一人は、異形の仮面を被った、異相。

 一人は、やや赤紫がかった髪に、整った顔立ちの女。

 奇妙といえば奇妙な組み合わせ。

 仮面のほうは、間違いなくサーヴァント・アサシン。

 山の翁、暗殺教団の宗主。

 正面きっての戦いには向かない特性とはいえ、到底油断できる相手ではない。

 そして、女。

 少女と、それよりも更に幼い誇称との中間くらいの顔立ち。不思議と、魔力はほとんど感じない。

 しかし、どちらに不吉を覚えたかといえば、それは間違いなく女の方。

 なぜなら、嗤っていたからだ。

 驚くような表情が、魂の抜けたそれに変わる。

 人形の如き空白。

 その場所に、段々と何かが満ちていく。

 のろのろと、尺取虫が這うような速度で。

 それは、歓喜だった。

 餓え。

 乾き。

 何に餓えていたのか、何に乾いていたのか、それは不明瞭だが。

 ゆるゆると、何かが満ちていった。

 恐ろしくは無い。

 俺が脅えているとほざく奴がいたならば、口を引き裂いてやる。

 相手の力量くらい、一見で見抜ける。

 だから、分かった。

 そいつは、さして強くない。

 まぁ、人間にしてはそれなりにやるほうか、精々その程度だ。

 少なくとも、俺が脅威を覚えるほどではない。

 しかし、不吉。

 黒猫とか、鴉とか、凶星を見たときとか。

 そういうときに、理由も無く涌き上がる感情、その類だ。

 そして、そういった感情は、往々にして的を射るもの。

 これでも、あまり幸運には恵まれていない一生だったしな。

 そんな、戦場には似つかわしくない思考。

 それを突き破るように、そいつは微笑いながら言いやがった。

 

「私は、いまだかつて無いくらい機嫌が悪い。今すぐ消えなさい、私の視界から」

 

 ああ、こいつは嘘吐きだ。

 俺は、そう確信した。

 だって、嗤っていやがる。

 頬に、この上なく醜怪な皺を刻み、腐肉を喰らうように牙を剥き。

 目の奥に粘着質な光を湛えながら、じっとこちらを見ている。

 じっと、孔の底を覗き込むが如く。

 じぃっと。

 この、嘘吐きめ。

 その、どこに不機嫌の要素があるか。

 思わず、苦笑が漏れた。

 

「そうしたいのは山々なんだがな、人使いの荒い糞マスターが、お前らとも戦って来い、とさ。まあ諦めてくれ」

 

 まあ、いいさ。

 こいつが、どれほど不吉な存在でも構わない。

 戦えれば、それでいい。

 もちろん、一口に戦うといっても質は問いたいところだ。

 正面きっての殴り合い、それが一番なのは言うまでも無いし、後ろでこそこそやられるような戦いは遠慮したい。

 それでも、贅沢は言える立場じゃあないことくらい、理解している。

 戦えるだけ、ましだ。

 

「お前らとも?」

「ああ、今日は大収穫だ。得体の知れない弓兵に、魔術師。あとは、殺しても死なない、奇妙なガキに召喚された剣士ともやりあったぜ」

 

 一瞬の、静寂。

 風が五月蝿いと、何故だかそう思った。

 ざわざわと、背の高い木々の木の葉が、軋り、うねる。

 そして。

 目の前の女。

 その頬に刻まれた皺。

 それが、更に深くなっていく。

 更に、更に、更に。

 深く、深く、深く。

 口角は、吊り上がっていく。

 三日月のような口元は、更に鋭角に。

 更に、更に、更に。

 鋭く、鋭く、鋭く。

 目尻は垂れ下がり。

 瞼は細く閉じられる。

 更に、更に、更に。

 細く、細く、細く。

 とろりと、鈍重な印象。

 それは、もはや人の造ることのできる笑みではなかった。

 くしゃりと、紙を丸めたような笑み。

 確実に、人外の笑み。

 人を喰らう存在の笑みが、其処にはあったのだ。

 

「まずは謝罪を。先の言葉は撤回します。あなたはここに残りなさい」

 

 林と呼ぶには小さな藪。そこを殺意が満たしてゆく。

 そうだ。

 こいつは、身を震わしていた。

 飢えを満たせる悦びで。

 渇きを癒すことの出来る悦びで。

 敵を屠ることのできる悦びで。

 仇を討つことのできる、悦びで。

 身を震わせながら、卵に向けて射精する鮭のように、悦んでいたのだ。

 

「次に宣告を。あなたはここで狗のように果てなさい」

 

 その、感情の欠けたような、声。

 表情との整合性の無い、声。

 理解した。

 こいつは、化け物だ。

 強弱じゃあない。

 大小でもない。

 正邪とか、正誤とか、正悪でも、無い。

 もっと、別の、根源的なところで、化け物だ。

 なるほど、つまり。

 こいつは、俺と同じ、か。

 俺と同じ存在、それとも、その卵。

 なるほど、不吉なわけだ。

 

「さがりなさいアサシンでばんですプレディクタ」

 

 自らのサーヴァントに後退を命じ、そいつは己の装束を剥ぎ取った。

 露になる、幼い肢体。

 染み一つない、しかし未熟な女の身体。

 それでも、美しいとは思わない。

 まるで死蝋のように、きらきらと輝く。

 それが、例えようも無く、醜かったのだ。

 

「Ego sum alpha et omega, primus et novissimus, principium et finis」

 

 呪文。

 

 全く魔力の発動を感じさせない、呪文。

 それを奇妙と感じ取る暇をすら与えずに、変貌は始まった。

 

 まず、女の身体が、伸びた。

 大きくなった、ではない。

 ぐにょり、と、伸びたのだ。

 まるで、出来の悪い鏡に映し出された鏡像のように、ぐにょり、と。

 長く、そして細く。

 ただでさえ肉付きの悪かった四肢は、見た目そのまま枯れ枝だ。

 骨の周りを、辛うじて肉が巻き付いている、そんな有様。

 弱弱しい月光の元でも、強制的に浮き上がったその青白い毛細血管まで見て取れる。

 それほど、薄く、極限まで張り詰めた皮膚は。

 やがて、おそらくは当然の摂理として、破裂した。

 身体中から、血液が飛び散る。

 搾り機にかけられた、葡萄の果実。

 その搾りかすから、果汁が迸るかのように。

 そして、声。

 

「……………………………い……………た……!」

 

 悲鳴。

 苦痛に、身を捩る。

 いや、捩ることすら許されないのか。

 棒切れのように突っ立ったまま、悲鳴を叫び続ける。

 

「…………………た……………すけ………て……………………しろ…………」

 

 乾いた瞳を見開き、口の端を裂けさせながら、それでも叫び続ける。

 静かに、静かに、叫び狂う。

 いずれ頭頂部の皮膚が裂け、白い頭蓋骨を露出させながら、それでも叫び続けた。

 ぶちぶちと、身体中の筋や腱を破壊させながら、なお叫び続けたのだ。

 やがて、意味のある叫びは、意味の無い絶叫に。

 意味の無い絶叫は、獣の咆哮に。

 そして、獣の咆哮すら収まったとき。

 そこに、一人の男がいた。

 一糸纏わぬ鍛え抜かれた体に、漆黒の呪刻を纏わせ。

 溢れるような魔力を、事実身体から溢れさせ。

 そこには、男が、いたのだ。

 端正な顔立ち。

 鷹のように鋭い目つき。

 すっきりと通った鼻筋。

 形の整った唇。

 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。

 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。

 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。

 視線は粘つき、見るものに不快を憶えさせる。

 それでも、その容姿にははっきりと見覚えがあった。

 忘れるものか。

 何故なら、つい先ほど、そいつと命のやり取りをしたのだから。

 弓兵。

 得体の知れない、しかし、この上ない強敵。

 瓜二つ、なんてもんじゃなかった。

 例え双子の兄弟だってここまで似るものか。

 だから、似ていたのではない。

 同一、だった。

 例えば、こいつの髪の毛が、蒼ではなく灰色だったら。

 例えば、こいつの体に意味不明な刺青が無ければ。

 例えば、こいつの面に、あの皮肉げな笑みが浮かんでいたならば。

 こいつは、まるで。

 

 

「……貴様、何者だ」

 

 ぼう、と、突っ立った男。

 ゆるりと、辺りを見回す。

 呆けた表情は、先ほどまで眉目麗しい少女のものだったとは、到底思えない。

 辛うじて、その瞳に宿った光、粘着質な光だけが、同一だろうか。

 

「一つ、問いたい」

「あん?」

 

 目の前の、男。

 素っ裸で、陰部すらも曝け出した、男。

 無手で戦場に立つ、男。

 それが、やはり呆けた声で、尋ねる。

 

「英雄とは、英霊とは、それでも人だろうか?」

 

 まず思い浮かんだのは、時間稼ぎ。

 次が、アサシンによる不意打ち。

 問答に意識を集中させ、後ろから縊り殺す。

 その、可能性。

 しかし、それは無いだろう。

 あまりに、戦意に乏しい立ち姿。 

 まして、アサシンの姿など、何処にも無い。

 気配遮断も、こちらに対する殺気があっては役に立つものではなかろう。

 ならば、アサシンはこの際除外して構うまい。

 故に、意味が分からない。

 いや、そもそもこの問いに、意味はあるのか?

 

「……さあな。元が人だった奴もいれば、人じゃあなかった奴もいる。それでも、元が人ならば、人と呼んでもいいんじゃないのか?」

「ふむ、なるほど」

 

 正確に言うならば、人たる属性を残している、そういうべきだろうか。

 例え神に昇華しようが、悪魔に堕ちようが、人の殻は度し難いものだ。

 女には欲情するし、上等の食い物を見れば涎が湧くし、酒を飲めば幸せだ。

 それは、人が人たる証なのだろう。

 

「しかし、君には何かが混じっている、そんな風情ではあるな」

 

 粘ついた視線。

 何か、深奥の醜いものに汚染されたような、そんな黒い光。

 見るもの全てを呪い、汚し、犯すような、視線。

 

「答える義理はねえな」

「ああ、それは当然だな」

 

 頬が、持ち上がる。

 なるほど、こいつらは同一だ。

 初めて、そう思った。

 

「しかし、ならば私は絶対だな。人が人である限り、私に勝てる要素は、無いのだ」

「あん?」

「神は、私に、人を罰する絶対的な権利をお与えになった。故に、我は預言者。故に、サーヴァント、プレディクタ。故に、我が名はヨハネ。滅びと、その結果としての救済を司る者ぞ」

「世迷言を……」

 

 その瞬間。

 ぶちり、と。

 何かが、肉を突き破る音。

 そして、何かが飛んできた。

 疾い。

 一直線。

 狙いは。

 眉間か。

 

「ちい!」

 

 顔を逸らす。

 耳に、鋭い擦過音。

 飛び退く。

 目の前の男。

 その胸から突き出た、何か。

 先端は尖っていて、所々節くれ立っている。

 刺々しく、不規則に生え揃った剛毛。

 足。

 それも、蟲の足だ。

 それが、体内から突き出ている。

 なるほど、こいつは。

 

「蟲使いか!」

「正解」

 

 ぶちぶちと、変貌していく。

 身体中から、訳の分からぬ突起が生え揃う。

 それは、脚であり、角であり、鋏であり、鍵爪であり、触脚であり、毒針であり、鎌であり、牙であった。

 ありとあらゆる虫の、最も攻撃的なパーツ、それが奴の体から生え揃っていた。

 蟲使い、そんな生易しいものではない。

 こいつは、蟲だ。

 蟲、そのものだ。

 

「てめえ、人、か?」

「私は、蟲倉だ」

 

 そいつは、事も無げにそう言った。

 

「いや、それは正確ではないか。私は、あくまで彼女の使い魔。蟲倉なのは、彼女だな。彼女は蟲使いの一族、マキリの当主でありながら、その娼婦であり、蟲倉なのだ。あまりに不憫、そうは思わないか?」

 

 辺りの木々を切断しながら、飛んできたもの。

 両脇から。

 鎌。

 或いは、鋏。

 跳躍して、かわす。

 頭上の、枝に。

 見下ろす。

 そこには、巨大な鋏。

 それが、奴の身体から生えている。

 いや、それは正しくない。

 その質量を持って主従を判別するならば、明らかに、鋏からそいつが生えていた。

 それほどまでに巨大な鋏。

 それほど、異常な光景。

 こいつ、何者。

 

「ちい!」

 

 驚いた。

 正直に言おうか、こんな化け物を見るのは、初めてだ。

 噂では、確かに聞いたことがある。

 化け物、特に死徒とかそういう類の輩には、己の体内に命を飼いならす奴もいるらしいことを。

 しかし、自分がそれに似た存在と戦う破目になるとは、思いもよらなかった。

 だから、一瞬とはいえ、驚いた。

 それは認めようか。

 だが、それだけだ。

 遅い。

 動きが鈍重だ。

 もちろん、人のそれに比べればまだ速いと言えるのだろうが、今日やりあった二騎と比べれば、雲泥の差に違いない。

 全く、遅い。

 如何なる攻撃を繰り出そうが、それでも俺にはかすりさえしない。

 この程度か、化け物。

 胸中に湧き上がった感情は、怒り。

 一瞬でもこいつに対して畏怖を覚えた自分と。

 自分に畏怖を覚えさせながら、それでもこの程度の力しか持たない敵に対して。

 

「しッ!」

 

 もはや、こいつに裂く時間が勿体無い。

 さっさと終わらせよう。

 飛び来る何か、おそらくは虫の脚や角、を払い除け、一息で間合いに入る。

 

「刺し穿つ」

 

 奴の、呆けたような面にも、もう飽きた。

 アサシンと戦えなかったのが残念だが、それでもこれ以上こいつを眺めていたくは無い。

 こいつの存在は、今日やりあった、あの弓兵を汚している。

 つまるところ、俺の誇りを汚している。

 だから、もう終わらせる。

 そういうつもりで放った、必殺の一撃。

 

「死棘の槍!」

 

 易々と、心臓を貫く穂先。

 これが、当然。

 あの剣士のときのような無様は、無い。

 これでいい。

 赤い穂先が、更に紅く濡れる。

 滴る血液。

 穿たれた心臓。

 それすらも、忌まわしい。

 どう、と倒れる音。

 ぱきぱきと、枯れ枝の砕ける音が、した。

 それだけ。

 それで、終わりだ。

 全く、辛気臭い戦いだ。

 思わず、愚痴の一つも零しそうになる。

 そして、槍を一振りして血を払い落とし、踵を返そうとしたとき。

 声が、したのだ。

 

「くふ、君は酷いやつだな、いきなり心臓を一突き、か」

 

 死体。

 心臓を穿たれた、血液の沈殿した、死体。

 死体の、はず。

 それが、喋ったのだ。

 流石に、驚いた。

 初めてのことだ。

 因果の逆転。

 不可避の一撃。

 持ち主の俺が見ても、反則染みた特性。

 しかし、今までかわされたことが無いわけじゃあない。

 現に、ついさっきだってかわされたのだ。

 極まれだが、幸運にもこいつを避けきる輩は、いる。

 それは、いい。

 かわされたとか、通用しなかったとかならギリギリ許容の範囲内だ。

 だが、命中し、確かに心臓を、脳味噌を除けば人体で一番の急所を砕かれて、こいつは生きている。

 化け物?

 心臓を喰らわれても、それでも尚生き続ける、不死者の類か?

 違う。

 こいつは、人間だ。

 蟲だの何だの言っているが、それでもこいつは人間だ。

 人間の身でありながら、心臓を破壊されて尚生きる。

 こいつは、一体。

 

「くふふ、私はね、人間だよ、確実に」

 

 ゆっくりと、起き上がる。

 ぞわぞわと、そいつの身体中が蠢いている。

 細かい何かが、ざわついている。

 もぞもぞと、這いずり回っている。

 何が。

 何が。

 蟲、が。

 こいつの身体中を、埋め尽くしている。

 ……違う。

 そうじゃあない。

 蟲が、蠢いているのではない。

 うごめいているのは、身体。

 こいつの身体そのものが、蠢いている。

 つまり、身体が、それによって構成されている。

 こいつの、身体。

 簡単な話だ。

 

「お前、蟲、か」

「正解」

 

 つまり、群体。

 一つの生命では、無い。

 無数の生命によって作られた、一つの形。

 人の形に擬態した、細やかな蟲の群。

 それが、こいつの正体か。

 

「……なるほど、心臓を潰しても死なないわけだ」

 

 心臓の形をした臓器はあっても、それが心臓の働きをしていない、そういうことだろう。

 故に、こいつに急所は、おそらく、無い。

 こいつに、局所破壊的な攻撃は、一切通じない。

 もっと、大雑把に、全体を破壊しうる攻撃。

 そうでないと、こいつには通用しない。

 

「そういうことだ。つまり、君の武器と私の体は、些か相性がよろしくないな」

 

 確かに。

 槍は、なんだかんだ言って、『点』を破壊する武器であり、広範囲を一息に破壊する武器ではない。

 故に、人体のように急所の塊のような的ならば、すこぶる相性はいい。

 逆に、こいつのように、急所が無い、もしくは極めて少ない相手となると。

 破壊力に欠ける、そう言わざるを得ないか。

 

「さあ、続きだ。私はまだまだ元気で、君も同じく活力に満ちている。ならば、為すべきことは一つしかあるまい?」

 

 こいつ――。

 

 ああ。

 わかった。

 お前、安心しただろう。

 俺の限界を、悟ったつもりだろう。

 勝てると。

 俺になら負けないと。

 そう、思っただろう。

 そういうことだな。

 つまり、俺を。

 俺を、見下しやがったな。

 そういう、ことか。

 ああ、なるほど。

 いよいよ楽しくなってきたじゃあないか。

 忌々しいほど。

 歯軋りするほど、楽しくなってきた。

 いいじゃないか。

 好きだぜ、そういうのは。

 驕り昂ぶった輩が、足元を崩されて絶望する様。

 それは、いつだって愉快極まりない。

 ああ。

 やっと、楽しくなってきた。

 胸糞が悪くなるくらい、反吐が喉元までせり上がって来るくらい、いい気分だ。

 これからだ。

 今からだ。

 その、余裕に満ちた暗い顔を。

 絶望でゲドゲドの、辛気臭い面に変えてやる。

 今から――。

 

『何をしている』

 

 頭に、ダイレクトに響く、目の前のこいつよりも、更に一段階嫌悪に溢れた、声。

 クソッタレな神様が、俺に宛がいやがったマスター。

 その、静謐で、底の深い、声。

『私が貴様に命じたのは、サーヴァントとの戦闘のみ。目撃者が出た等の事情があるならば別段、それ以外を許可した覚えは無い』

 ああ、くそ、分かったよ。

 分かってたことだ、お前と俺が種火と爆薬くらいに反りが合わないってことは。

 今は、従ってやる。

 この、令呪が効力を持っている間は、だ。

 だが、それが失われたなら。

 俺は、確実に貴様を。

 

「だから、今日はここまでだ、化け物」

「ふむ。光の皇子も、敵に背中を見せることがあるか。気の毒にな、マスターに恵まれなかったようだ」

 

 くすくすと、含み笑い。

 嘲弄。

 屈辱、だ。

 何故、己より格下の雑魚相手に、哀れまれねばならないか。

 

「覚えておけ、俺が貴様を殺す」

「ああ、それは彼女も喜ぶだろうな」

 

 夢見るような、台詞。

 己の消滅を希うような、そんな台詞。

 唯一、其処にだけ、偽りが無かったような、そんな気がした。

 

 

 そんな夜を、思い出した。

 さて、あれほど忌々しかったマスターは、少しは仕え甲斐のあるいい女に代わった。

 それは、中々に気分がいい。

 ついでに、この、喉に魚の骨が刺さったような掻痒感も、一掃してしまえると、言うことはない。

 そのためには、貴様が邪魔だな。

 殴られたら、殴り返す。

 痛みには、痛みを。

 恩には、恩を。

 義には、義を。

 屈辱には、制裁を。 

 侮辱には、死を。

 そういう生き方をしてきた。

 それは、金輪際変わることは、ない。

 だから、これでお別れだ。

 貴様は、ここで死ね。

 

「突き穿つ」

 

 だが。

 もしも。

 万が一。

 これで貴様が死ななかったなら。

 この一撃に、貴様が耐え切って見せたなら。

 それは。

 どういうことだろうか。

 どういうことだろうか。

 ああ。

 そうか。

 なるほど、つまり。

 

 楽しみが、もっと増えた、と。

 そういうことだな。

 

「死翔の槍!」

 



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episode70 人造両儀5 ヨハネの黙示録

 衛宮士郎は、それを血のようだと思った。

 それほどまでに、赤く、赤く、不吉な色。

 人を殺す、そのための色。

 それは、彼の激情の迸る、色。

 そう、思った。

 

 遠坂凜は、それを彼の瞳のようだと思った。

 それほどまでに、赤く、赤く、気高い色。

 野生の瞳、何者にも屈しない、誇り高き色。

 それは、彼の本性を司る、色。

 そう、思った。

 

 イリヤスフィール=フォン=アインツベルンは、それを斜陽のようだと思った。

 それほどまでに、赤く、赤く、切ない色。

 途切れる熱、途切れる光、途切れる絆。

 それは、彼の生涯を顕す、色。

 そう、思った。

 

 アルトリアは、それを夜空に輝くベテルギウスのようだと思った。

 それほどまでに、赤く、赤く、巨大な色。

 今、彼女たちの頭上高くで輝く、仮初の英雄を形作る星々の一つ、その白眉。

 それは、彼の矜持を誇る、色。

 そう、思った。

 

 全員が、違った感想を抱いた。

 そのいずれもが、おおよそ戦場には相応しくない、場違いな感慨。

 しかし、そのいずれもが、予感したことは唯一つ。

 死。

 彼の殺意の前に晒された、哀れな贄の、死。

 それは予感というよりは直感であり。

 直感というよりは確定した事実であり。

 確定した事実というよりは、既に変更の効かない過去であった。

 それほど。

 それほどまでに、絶対の力の存在。

 その場にいた全員が、おそらくは抱いたであろう、同じ感覚。

 あまりに濃密な死神を覚えさせる赤い光が、天高く舞い上がった青い槍兵の右腕に輝いていた。

 だから、その瞬間の彼は、槍兵ではなかった。

 重ねて言うならば、人、そう呼ばれるものですらなかったのだ。

 その瞬間の彼は、人ではない。

 生き物でもない。

 道具。

 ただ、右手に携えた、強大で、巨大で、巨凶な光を放つための、道具。

 機械。

 それは、槍兵と呼んでいいものではなかろう。

 だから、それは弓だった。

 夜空に輝く、歪んだ真円。

 その輝きを圧して余りある、赤い光。

 それを放つための、弓。

 全身の筋細胞、その一本一本に至るまでが、しなやかな弦。

 全身の骨格、その206個の一つ一つが、強靭な竹材。

 反り返った背骨。

 みしみしと、唸り声をあげる筋肉。

 骨と筋の浮いた、右手の甲。

 指の爪が、今にも割れんばかりに緊張している。

 そして。

 軋む牙と。

 愉悦に歪む頬。

 興奮に、膨らんだ鼻腔。

 その瞳は、獲物を射抜く肉食獣のそれ。

 その様は、まさしく獣。

 人でありながら、獣。

 英雄でありながら、獣。

 しかし、それは獣の形で描かれた、弓、だったのだ。

 人の形をした精緻な弓、そのたわめられた力が、ただ一点に向けて注がれていく。

 それは、右手。

 其処にしっかりと握られた。赤い槍。

 赤い、鏃。

 つまり、彼も宝具なのだ。

 彼も、宝具の一部。

 そうでないと説明がつかないではないか。

 彼以外の何者に、この威容を再現し得るか。

 彼以外の何物が、斯様にその魔槍を使いこなし得るか。

 人馬一体の境地とか言うが、その表現では言葉足らず。

 同一にして、不可分。

 分かたれれば、互いに意味を失う、道具のつがい。

 それが、漆黒を背景に、宙にいた。

 一瞬、全てが静止したような錯覚を覚えるような、静寂。

 きーんと、耳道の奥が痛くなるような、静寂。

 その場にいた誰もが、その不快な痛みに眉を顰めそうになった瞬間。

 その、刹那。

 弓は、自らの意思で、その身に番えられた猛悪な矢を、射放した。 

 それは、光線。

 赤い、赤い、光の束だった。

 血よりも赤く、彼の瞳の色よりもなお赤く、斜陽よりもただ赤く、夜空に輝く赤星よりも更に赤かった。

 単一の光、では無いのだろう。

 幾重にも光条を束ねた、繊細で柔らかな感覚。

 しかし、鋼線を束ねた鋼条は、単一の金属よりも、遥かに強く、切れにくい。

 そんな、光。

 それが、文字通り夜気を切り裂く。

 空間の悲鳴。

 それをすら掻き消すような、裂帛の風切音。

 誰しもが、天を見上げた。

 人も、人の形をした人外も、そもそも人の形を許されないものも。

 一様に、呆けたように天を見上げていた。

 夜天を蹂躙するかのように、駆ける赤光。

 まるで流星のように華々しいそれは。

 まるで流星のように、爆発飛散した。

 赤い破片が舞い散る。

 赤い呪いが舞い散る。

 それは、鏃。

 巨大な一本の矢から生れ落ちた、より細やかな、しかしより凶悪な、鏃。

 それが、蟲の群に、そしてその母胎に向かって降り注ぐ。

 爆発音。

 聞くに堪えない、悲鳴、悲鳴、悲鳴。

 掻き毟るように、のた打ち回るように、吐き戻すように。

 轟音と、舞い上がる土埃。

 濃厚な血の気配。

 やがて、中空より舞い戻った槍の騎士。

 彼の眼前には、既に終わった戦場が広がっていた。

 砕け散った外骨格。

 ぶちまけられた体液。

 それでも死にきれない巨大な蟲が、殺してくれと、もがき続ける。

 かさかさと、本当の虫けらのように。

 それは、先ほどまでの嫌悪を押し殺して、哀れすらを覚えさせる光景だった。

 そして、その中央。

 飛散した我が子らの只中で、母は倒れ伏していた。

 四肢を破裂させ、辛うじて人の形を残した、死。

 崩れ落ちた地面に、顔を埋めるように、うつ伏せに。

 その表情は、窺い知れない。

 しかし、ぴくりとも動かない。

 冷え冷えとした、かつては命だったもの。

 槍兵は、舌打ちをした。

 それは、期待通りに進んでしまった、運命への皮肉。

 

 ――ああ、この程度かよ。

 

 侮蔑。

 あまりにも呆気なかった、敵。

 己を満足させることの叶わなかった、敵。

 そんな弱者に対する、侮蔑の響き。

 少々酷に過ぎるかもしれない。

 真なる強者以外、彼の侮蔑をかわすことは叶わないのだから。

 いつしか、彼の手に戻った、赤い魔槍。

 不可分な、彼の一部。

 それを軽く一振りして、彼は背を向けようとした。

 

「まだだ!」

 

 声。

 彼を満足させるに相応しい、数少ない強敵の一人。

 少女の皮を被った、勇壮な獅子。

 その表情が、緊張に濡れていた。

 その視線の先には、無惨な、死体、死骸、死骸。

 その、中央。

 倒れ伏した、蟲群の、母。

 それが、ぴくり、と動いた。

 

 ――ああ、なるほど。

 ――こうでないといけない。

 ――こうでなくちゃいけない。

 ――ようするに。

 ――ようするに。

 ――もっと、楽しくなってきたと。

 ――そういうことだな。

 

 槍兵の頬に、切れるような微笑が浮かんだ。

 

episode70 人造両儀5 ヨハネの黙示録

 

 悪夢のような、光景だった。

 眼前に広がった、死の具現。

 例えそれが蟲という異生物の死であっても、暴虐さに胸を痛めるような、光景。

 その、中央。

 そこに倒れ伏した、後輩、だったもの。

 あれは、違う。

 あれは、あんな醜い存在ではない。

 あれは、もっと優しくて、柔らかくて、いい匂いのするものだ。

 そんな、確信。

 そして、明かな、死。

 四肢を吹き飛ばされ。

 明らかに、致死量を上回る血液をばら撒いている。

 ああ、死んでしまった。

 ■■さんが、死んでしまった。

 ああ。

 ああ。

 また、見捨ててしまった。

 また、どこかに行ってしまう。

 僕が、一人になる。

 そんなの。

 もう。

 耐え切れ、ない。

 

「まだだ!」

 

 声。

 凜、とした。

 鈴。

 冷たい、心地いい声。

 セイバー。

 その、視線の先。

 死体。

 ■、だったもの。

 

 そうだ。

 あれは。

 この程度の死では。

 死なない。

 死ねない。

 死んで、くれない。

 ぴくり、と、死体が動く。

 がばり、と、死に顔が、その顔を起こす。

 泥と血に塗れたその貌には。

 限りない不快を覚えさせる、深淵のような笑みが。

 ああ、生きていた。

 ああ、死んでいなかった。

 それが。

 その事実が。

 俺には。

 俺にとっては。

 ああ、よかった、と。

 そう、思ってしまったのだ。

 

 

「くふふ、いいなあ、いいよお」

 

 それの千切れた四肢の根元から、黒い紐のようなものが伸びていく。

 しゅるしゅると、まるで桜の操る影のように。

 その先端が、微細な糸のように枝分かれして。

 死した蟲、その亡骸を取り込んでいく。

 自らの子と呼んだ、それらの亡骸を、喰らい尽くしていく。

 

「ああ、君は最高だ。流石の私も、死ぬかと思った」

 

 ごつり、ごつり、と、飲み込んでいく。

 獰猛な爬虫類のように、悪食極まる様で。

 飲み込むたびに、大きくなる。

 小さく、細切れにされた身体が、徐々に元の大きさに戻っていく。

 人にあらざる、人と認めることのおぞましい、生き物。

 そして、その微笑。

 細かい貌の造りは、私の従者だった彼と同一。

 気高く、崇高で、なによりも孤高だった、彼。

 その同じ顔立ちが、どうしてここまで醜く歪むことの出来るのか。

 そういう、笑み。

 粘ついた皺を頬に刻みながら、それは嗤い続けた。

 

「くふ、決めたぞ。決めた。もう、泣き喚いても許してあげないぞ。

 君は僕が殺すぞ。俺が殺すぞ。我が殺すぞ。私が殺すぞ。儂が殺すぞ。我輩が殺すぞ。愚生が殺すぞ。

 殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。

 殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。

 殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。

 殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。

 殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。殺すぞ。

 我々が、貴様を、殺すぞ」

「はっ、ほざいてろ、糞餓鬼が」

 

 ランサー。

 先ほど、妹のサーヴァントとなった、彼。

 その、噛み付くような表情。

 戦士という誇称が、この上なく相応しい。

 目の前の化け物の存在を、むしろ歓迎するかのような、貌。

 その視線の、先。

 やがて、元の姿を取り戻して、立ち上がった、狂人。

 一糸纏わぬその姿。

 逞しい、肉体。

 まるで、鍛え抜かれた鋼。

 静かな、美をすら感じさせる立ち姿。

 しかし、彼の男性は、今にもはち切れんばかりに屹立していた。

 今から性交に及ぶかのような、その有様。

 それは、彼の悦びを表しているのだろうか。

「もう、手加減はなしだ。出し惜しみも止めます。今から、君を殺しますから」

 際限なしの、魔力の渦。

 まるで、無限。

 

「大腐海」

 

 呟き声。

 次の瞬間。

 ぶち撒かれた奴の血の海から、湧き出すように蟲が。

 蟲、蟲、蟲。

 しかし、先ほどとは違う。

 獰猛というよりは、静寂。

 侵略というよりは、防衛。

 まるで、己の母を守るかのように、じっと動かない、蟲の群。

 やがて、姿の見えないヨハネの声が、夜天のもとに、高らかに響いた。

 

「Ego sum alpha et omega, primus et novissimus, principium et finis」

(吾はアルファにして、オメガ。最初にして、最終。原因にして、終局なり)

 

 聞き覚えのある、一節。

 確か、代羽がヨハネに変貌したとき、同じ呪文を唱えていた。

 これは、あまりにも有名な、かの預言書。

 

『ヨハネの黙示録』

 

 その、神を湛える祝詞ではなかったか。

 

「Et quintus angelus tuba cecinit: et vidi stellam de caelo cecidisse in terram et data est illi clavis putei abyssi. Et aperuit puteum abyssi: et ascendit fumus putei, sicut fumus fornacis magnae: et obscuratus est sol, et aer de fumo putei」

(第五の天使ラッパを吹きしに、我、一つの星の天より地に落ちたるを見たり。さて彼は底なき淵の穴の鍵を授けられ、淵の穴を開きしかば、大いなる炉の煙のごとき煙、穴より立ちのぼりて、日も空も穴の煙のために暗まされたり)

 

 しかも、第九章。

 第五天使の、ラッパ吹き。

 滅びの黙示録、その象徴。

 呪文ですらない、呪文。

 しかし、

 さて、この呪文は、あの夜唱えていた、やたらと長い呪文と同一か。

 剣戟音。

 蟲と、サーヴァント達が、戦っている。

 その間も、まるで湧き出るが如く、生み出され続ける、蟲の群。

 

「Et de fumo exierunt lucustae in terram, et data est illis potestas, sicut habent potestatem scorpiones terrae; et praeceptum est illis ne laederent foenum terrae, neque omne viride, neque omnem arborem; nisi tantum homines, qui non habent signum Dei in frontibus suis;」

(また穴の煙より蝗、地上に出でて、地の蠍のごとき力を授けられ、地の草、すべての青もの、及び如何なる樹木をも害することなく、ただ己が額に神の印を有せざる人々をのみ害すべきことを命ぜられたり)

 

 テンカウント、ですらない。

 常識外れの、長大な呪文。

 ありえない。

 通常、魔術における詠唱の長さと、その威力は比例関係にあるといえる。

 なぜなら、詠唱は自己暗示のためのものだからだ。

 長く、大仰な詠唱ほどより深く自己に埋没することができるため、結果として、魔術自体の威力は高まる。

 だが、長すぎる詠唱は術の発動までのタイムラグを大きくするため、危険が大きい。

 それを補うために、魔術師は多くの方法を編み出してきた。

 ごく短い単語の中に膨大な量の意味を含ませるノタリコン。

 言葉ではなく、文字そのものに意味を持たせるルーン。

 あらかじめ魔力を蓄積しておいた媒介を戦闘時に爆発させる、私の宝石魔術などもその例だろうか。

 しかし、この呪文は。

 なるほど。

 奴は、不死。

 そして、あれらの蟲の本来の役割は、侵略にあらず。

 ただ、詠唱者を守護する、守人。

 ならば、あの呪文は。

 

「セイバー、ランサー、急いで!」

 

「Et datum est illis ne occiderent eos: sed ut cruciarent mensibus quinque; et cruciatus eorum, ut cruciatus scorpii cum percutit hominem. Et in diebus illis quaerent homines mortem, et non invenient eam: et desiderabunt mori, et fugiet mors ab ipsis」

(ただし、これを殺すことなく、五ヶ月の間、苦しむる力を授けられ、その苦しみは、さそりの人を刺したる時の苦しみに等し。この時、人々死を求めて、しかもこれに会わず、死を望みて、しかも死は彼らを遠ざかるべし)

 

 なんだ。

 奴は、何をしようとしている。

 奴の、魔術。

 マキリ。

 蟲の、支配、使役。

 蟲。

 ヨハネ。

 黙示録。

 滅び。

 虫。

 使徒ヨハネ。

 それの同一存在、アバッドン。

 太陽神、アポロンの堕ちた姿。

 

「Et similitudines lucustarum similes equis paratis in proelium: et super capita earum tanquam coronae similes auro: et facies earum tanquqm facies hominum. Et habebant capillos sicut capillos mulierum. Et dentes earum, sicut dentes leonum erant: et habebant loricas sicut loricas ferreas, et vox alarum earum sicut vox curruum equorum multorum currentium in bellum: et habebant caudas similes scorpionum, et aculei erant in caudis earum: et potestas earum nocere hominibus mensibus quinque」

(かの蝗の形は戦いに備えたる馬に似て、頭には金に似たる冠のごときものあり。顔は人の顔のごとく、女の髪の毛のごとき毛ありて、歯はししの歯に等しく、鉄の鎧のごとき鎧ありて、つばさの音は多くの馬に引かれて戦場に走る車の音のごとく、なおさそりのごとき尾ありて、その尾に針あり、その力は五ヶ月の間、人を害すべし)

 

 そんなの。

 一つしか、ないではないか。

 奴だって、自分で言っていたのだ。

 これが自分に許された、唯一の魔術であると。

 蟲の召喚。

 それだけが、奴に許された唯一の魔術であるとするならば。

 魔術であるとするならば。 

 今から奴が呼び出すのも、蟲。

 滅びの、蟲。

 神より、人類を罰する絶対権を授かった、蟲。

 それは。

 

「セイバー、宝具を!」

「承知!」

 

「Et habebant super se regem angelum abyssi cui nomen hebraice Abaddon, graece auteml 」

(この蝗を司る王は底なき淵の御使にして、名はヘブレオ語にてアバッドン、ギリシア語にてこう呼ばれる)

 

 高まっていくセイバーの魔力。

 しかし。

 奴の詠唱は、それに一歩先んじた。

 紡がれる、最後の一節。

 そして、姿を現す幻想種。

 ヨハネの周囲の空間に現れた、無数の光体。

 それは、彼の有名な黙示録にて記された、死ぬことの許されない、死より辛い苦痛を齎す蠍の毒を持つ蝗。

 人類を粛清せよ、と神に義務付けられた、絶対的な殺戮者。

 本来、この世に存在しない筈が、膨大な数の信仰によって受肉した幻想種。

 

「Apollyon」

(アポルリオン)

 

 次の瞬間、セイバーの小さな身体が、遥か後方に吹き飛んでいた。



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episode71 人造両儀6 少年覚醒

 それを、怖いと思った。

 恐ろしい、おぞましい、と。

 そんな感情は、初めてだ。

 過去も、現在も。

 例えば、あの狂戦士は、強かった。汚染された騎乗兵も、手強かった。

 それでも、恐怖なんて感じなかった。

 あるのは、戦いへの意志と、自らへの信頼のみ。

 それは、私が騎士だったからだ。

 騎士とは、己の力を持って己の誇りを守り抜くもの。

 誇りを守り、領土を守り、民を守る。

 それが、騎士のあり方だ。

 だから、私は恐れない。

 今までも、そしてこれからも。

 しかし、今だけは、私が恐れている。

 私の直感が、最大限の音量で警報を鳴らし続けている。

 あれは、危険だ、と。

 いや、恐れているのは、私ではない。

 私の、もっと奥にあるもの。

 私の奥にある、より大きな、より巨大で、しかし薄いもの。

 それが、奴に対して最大限の警報を掻き鳴らしている。

 預言者、その在り得ないほど長大な呪文。

 私も生前、一度や二度は耳にしたことのある、預言書。

 その一説を、高らかに謳いあげる、蟲の王。

 その姿に、際限なく高まる魔力に、限りない不吉と恐怖を感じる。

 

「セイバー、宝具を!」

 

 リンの、新しいマスターの、声。

 そして、ラインを通じて注ぎ込まれる、良質で潤沢な魔力の泉。

 素晴らしい、そう思う。この、神秘の衰退の著しい時代で、よくもこれだけの力を身に宿したのだと、純粋に感嘆してしまう。

 火薬は、十分だ。

 ならば、砲身の為すべきことなど、一つしかないだろう。

 打ち出すのだ。

 目の前の敵を焼き払う、灼熱とした魔弾を。

 

「承知!」 

 

 聖剣を、肩に担ぐ。

 体内に荒れ狂う魔力の渦を、ただ、この手に握った聖剣に。

 力が吸い取られていく感触。

 力が吸い取られていく快楽。

 力を思うままに振るう悦楽。

 項を、ちりちりと焦がすような力の結晶を。

 今、まさに放たんと。

 そのときだ。

 見えた。

 見えてしまった。

 もと、マスター。

 彼の、とても悲しそうな、顔が。

 悲痛に歪んだ顔、というのではなかった。

 無表情の中に、一抹の救いを求める、藁のような意志が。

 殺さないでくれ、ではない。

 ただ、彼女、だったものが、死んでいくのが、悲しい。

 そんな、顔。

 その顔が、余りにも哀れだったから。

 一瞬、力が緩んだ。

 そして、何かちくりと刺された感触があって。

 身体の表面が爆発したみたいな衝撃があって。

 私の意識は、遥か彼方に弾き飛ばされた。

 

episode71 人造両儀6 少年覚醒

 

 ふよふよと、浮かんでいた。

 ふらふらと、まるで風に遊ばれるように。

 それは、蟲。

 闇の中で、闇を圧して余りある輝きを湛えた、蟲。

 少し大きな、それでもせいぜい仔猫ほどの大きさの、蟲。

 体中が、ガラスをまぶしたように、きらきらと輝いている。

 淡い月光を反射して、宝石のように輝いている。

 黄金の紗を幾重にも重ねて織り上げたような、繊細にして豪奢な、羽。

 体は、つるりと流麗な金属質の外骨格に包まれている。

 形は、蝗に酷似していた。

 細長い胴体。

 大きく、強靭な後ろ足。

 ただ違うのは、腹部が異様に大きく膨れ、蜂のように括れているところだろうか。

 突けば、今にも張り裂けんばかりに、ぱんぱんに膨れ上がった腹部は。

 その先端に、ぬらぬらと光った、鋭く長い針が。

 王のような衣装を纏った、蝗。

 しかし、その頭部は、人の女のそれだ。

 艶やかな、黒髪が、その表情を隠すように、前方に垂れている。

 その隙間から覗く、流れるような、切れ長の瞳。

 頬には、常に微笑が湛えられ。

 口元からは、獅子のように獰猛な牙が覗いている。

 美しい、それ以上に獰猛な、人の女の顔。

 ししを食む、人の顔。

 それが、蟲の頭部を、飾り立てている。

 人と蟲の、合いの子。

 人が、低劣な蟲との間に禁断の交わりを持てば、こういった呪い子が生まれるのだろうか。

 人の、許されざる罪の、具現。

 輝くような威容であるながら、それを上回る嫌悪感を駆り立てる、その姿。

 人類の罪を斬り断つ、神の剣。

 吐き気を催すほどの異様でありながら、贖罪を懇願させるような、その姿。

 絶対の存在感。

 その、群れ。

 その中央で、初めて轟然と胸を反らす、預言者。

 均整の取れた、筋肉。

 無駄な脂肪など、一斤もない。

 神の設計した人体、その理想形。

 一糸纏わぬ裸体が、いっそのこと神々しい。

 誇り高きその立ち姿は。

 頬を歪ませた微笑みは。

 万物に君臨する、支配者のそれ。

 無数の絶望を従えた、蟲の王と、その僕たち。

 終末の軍勢の、本当の姿が、ここに具現した。

 

 

 がちがちと、歯が鳴った。

 寒いからではない。

 緊張しているのでもない。

 ただ、恐怖だ。

 しかし、体が恐怖しているのではない。

 心が恐怖しているのでもない、

 もっと、深奥にあるもの。

 俺という存在の、より根源に深い部分にある、何か。

 それが、あの蟲に、限りない恐怖を覚えている。

 あれは、なんだ。

 あんなもの、この世にいてはいけない。

 許されない。

 あんなものがこの世にいるなんて、許してはならない。

 なぜなら、あれを見るだけで、人が如何に醜いか、理解できてしまう、

 己が如何に罪深いか、理解できてしまう。

 謝りたい。

 何に。

 分からない。

 何に謝ればいいのか、分からない。

 贖罪の対象が、理解できない。

 今まで口にしてきた食物たちの、断末魔の苦痛に対して、だろうか。

 戯れにその命を奪ってしまった、ちっぽけな虫たちに対して、だろうか。

 己が助かるために見捨てた、あの夜の、人だった物たちに対して、だろうか。

 違う。

 正解でありながら、致命的に間違えている。

 その、一つ一つに対して、ではない。

 その、全て。

 俺が生きてきたということ、それ自体。

 それが、罪。

 俺が生まれたこと。

 この世で、産声をあげたこと、それが、許されざる、罪。

 そう、理解してしまった。

 神は、俺を愛していない。

 神は、俺を罰そうとしている。

 涙が溢れてきた。

 恐怖の涙、ではない。

 悲壮の涙、ではない。

 歓喜の涙。

 忘我の涙。

 感じるのは、快楽。

 母の子宮に還ったような、無上の安心感。

 滂沱の涙が流れ落ちる。 

 やっと、許される。

 罪が苦しみならば。

 罰こそは、救いだ。

 この、罪に塗れた体が、魂が、解放される。

 その喜び。

 それを自覚すると同時に、地震のような身体の震えが、ぴたりと収まった。

 理解したからだ。

 ついに、俺は、救われる、と。

 あの夜から抱いていた重たい鎖から放たれる。

 なんという、奇跡。

 そのためなら、如何なる苦痛も受け入れよう。

 その結果として逃れられない死があろうとも、望むところだ。

 ああ、俺は、解放される。

 それは――。

 

「士郎、気をしっかり持って!」

 

 声。

 ああ、五月蝿いな。

 おれは、こんなにも、殺されたがってるんだ。

 あの針から、至高の毒を、どくどくと注ぎ込まれたいんだ。

 許してくれよ。

 そんなに、怖い顔で、俺を見ないでくれ。

 わかってるんだ。

 俺が罪深いってことくらい、分かってる。

 だから、そんな目で、俺を、見ないで。

 ぼくを、いじめ、ないで――。

 

 ぱあん。

 

 音。

 痺れるような、痛覚。

 あれれ。

 俺は、一体、何を?

 

「一瞬でも気を緩めたら、まるごと持ってかれるわよ!あれは、そういうものなの!」

 

 目の前に、厳しい顔の、凜。

 あれって、なんだ?

 闇。

 月。

 夜空。

 影の校舎。

 運動場。

 その、中央。

 光り輝く、蟲の群れ。

 その、更に中央。

 この空間の、座標基準。

 そこに、黒い、男が。

 ああ、あれは。

 見たことが、ある。

 知っている。

 そうだ。

 俺は、今夜、初めてあの顔を見た。

 しかし、俺は、あの顔を知っていた。

 あれは。

 俺の。

 ■さん、なのだから。

 

「ふむ、初見にて理解したか、流石だな、遠坂」

 

 声も。

 聞いたことが、ある。

 ずいぶん昔に聞いた声だ。

 さんざめくような陽光の下で、ともに笑いあった、声、だ。

 知っている。

 お前が、貴方が何者なのか、俺は知っている。

 知っているのに、何で。

 貴方の、名前が、分からない。

 

「……貴方に、そんな呼ばれ方される覚えは、ないわ」

 

 嫌悪感を露にした、声。

 それに応える声は、むしろ楽しげだった。

 

「いや、あるね。お前には、その資格と義務がある。それが何よりも、貴様の罪なのだ。しかし……そんなこと、この時代においては、瑣末ごとでしかない、か」

「そうだ。ぐちぐちと、そんなことはどうでもいい。お前は、やっと本気を出したんだろう?ならば、やることなんて、一つしかない。そうじゃねえのか、預言者よ」

「ああ、初めて君を愛しいと思うよ、槍兵。そうだな、戦おう。戦おう。戦おう。今は何よりも、誰かを殺したい」

 

 獰猛な笑みと笑み。

 軋らせるような、白い歯が覗く。

 ランサーが、槍を下段に構えた。

 鉄筋を束ねたような筋繊維が、薄い皮鎧の下で、ぐねりと蠢いた。

 プレディクタを囲む蟲達が、一斉に羽ばたいた。

 万軍の蹄音のような羽音が、周囲を圧する。

 戦いが、始まった。

 

 

 ちりちりと、肌を焼く。

 どくどくと、血液が身体中を駆け巡る。

 氾濫する、脳内麻薬。

 エンケファリン。

 β-エンドルフィン。

 ドーパミン。

 もっとも、エーテルで編まれたこの体にそんなものがあるのかは分からねえがな。

 少なくとも、俺の主観では、荒れ狂っている。

 緊張感。

 焦燥感。

 産毛が、空気との擦過で焦げ落ちていく、そんな錯覚。

 濃厚な、死の気配。

 襲い来る、蟲の群れ。

 人の顔と、蟲の体をもった、蟲。

 一体これがなんなのか、俺は知らない。

 知る必要も、全くない。

 重要なのは、こいつ等を操る、あの野郎が強いのか、否か、だ。

 その結論は、もう、出ている。

 蟲。

 疾い。

 その数、約三十匹程だろうか。

 それが、まるで砲弾みたいに、すっ飛んでくる。

 あらゆる方向から、ひっきりなしに。

 それを、迎撃する。

 槍。

 呪いの魔槍。

 その、音速を超える穂先。

 それが、蟲の外骨格と、衝突する。

 吹き飛ぶ、蟲。

 しかし、死なない。

 先程までの雑兵とは、桁が違う。

 疾く、硬く、そして何よりも危険だ。

 奴らの尾から、垂れ下がった針。

 あれは、危険だと、本能が告げている。

 あれだけは、かわさなくてはならない。

 そんな思考を嘲笑うかのように、蟲が、来る。

 上下左右、前後不覚。

 あらゆるタイミング、あらゆるコンビネーション。

 一瞬でも気を抜けば、その瞬間にお陀仏だ。

 それが、いい。

 その絶望感が、堪らない。

 いいぞ。

 もっとだ。

 もっと、来い。

 まだまだ、俺は追い詰められていない。

 俺は、もっと追い詰められたことがあるんだ。

 もっと追い詰められて、追い詰められて、絶望して、恐怖して、小便すら漏らしそうになって。

 それでも、俺は勝ち残った。

 最後に立っていたのは、俺だった。

 俺は、負けない。

 貴様が弱いから、じゃあないぞ。

 誰が相手でも、俺は負けない。

 かわいそうにな。

 相手が俺じゃあなければ、お前の勝ちだった。

 相手が悪かったってえことだ。

 運が悪かったってえことだ。

 ほら、運も実力のうち、なんて言葉もあるだろう?

 なら、お前さんは弱いのさ。

 なのに、なんでそんなに笑ってるんだい?

 何がそんなに、楽しいんだ?

 ああ、そうか。

 お前、相変わらず、俺を見下してやがるのか。

 俺に、貴様を殺す手段がないと、そう思ってるんだな。

 確かに、心臓を貫く不可避の穂先は、通じなかった。

 確かに、万軍を蹴散らす、死の流星群を、お前は耐え凌いだ。

 だから、お前は俺に勝ったと思ってるんだろう。

 教えてやる。

 それは、重大な認識の齟齬だ。

 まだまだ、俺にはあるぞ。

 奥の手、そう呼べるものかどうかは、分からないがな。

 それに、お前は勘違いしている。

 お前だって、不死なんかじゃあない。

 真の不死なんて、この世には存在しない。

 なにせ、神様だって、死ぬんだ。

 この世界そのものだって、いずれは病み衰え、祝福すべき死を迎える。

 ならば、何故貴様が死なないはずがある。

 殺してやるぞ。

 殺してやる。

 俺が。

 貴様を。

 今。

 この場で。

 この穂先をもって。

 この世から、消し飛ばしてやる!

 

 

 凄い、戦いだった。

 異形と異形の、戦い。

 光と光が、舞い踊る。

 白い光と、青い光が、綯い交ぜになる。

 もう、俺の目は、それを残像として認識することしか出来ない。

 おそらく、それは皆も同じこと。

 凜も、イリヤも、セラも、リズも。

 皆、呆けたように、その戦いに見入っている。

 視界に焼きつく、恒星の乱舞。

 耳を劈く、硬質な衝突音。

 肉に響く、蟲の羽の振動。

 その全てが、告げている。

 この戦いは、人の身で立ち入ることの出来るものではなくなっている、と。

 ランサーの槍は、既に槍ではなくなっていた。

 周囲を羽撃く、空想の蟲たち。

 あらゆる方向から飛び掛ってくるそれらを打ち払う穂先は、既に、風。

 暴風、嵐、竜巻。

 その中心にある、獰猛な笑み。

 自身の置かれた苦境を、明らかに愉しんでいる。

 なるほど、俺は勘違いをしていた。

 あの夜、俺を襲ったランサーは、本気ではなかった。

 遊んでいた。

 その後セイバーと戦ったランサーは、万全ではなかった。

 おそらく、何らかの制限が課せられていたのだろう。

 そして、先程、巨大な蟲の群れと戦っていたときのランサー。

 本気で、かつ万全。

 あれが、本来の彼の姿だと、思った。

 それが、重大な勘違いだった。

 あれは、如何に本気であろうと、万全であろうと、彼の本来の姿ではない。

 今のランサーを見れば、それがよく分かる。

 血走った、瞳。

 盛り上がった筋肉で、膨れ上がった体躯。

 彼の愛槍が、心なしか小さく見えるほど。

 伝説に謳われた、狂戦士、クーフーリン。

 慈悲深く勇猛な英雄の、もう一つの側面。

 幼少にして、鍛冶屋の番犬を絞め殺したという、その凶暴性が、露になる。

 引き攣り、持ち上がった口元から覗く、尖った牙。 

 身体中に負った細かい傷から、血が噴出す。

 赤く染まった、その姿。

 そして、更に赤く濡れた彼の舌が、ぺろりと唇を舐めた。

 その、妖しいまでの色気に、同性であっても魅了されそうになる。

 

「はっはあぁ!大言壮語の割には、大したことがないなあ、預言者よ!」

 

 ランサーの雄叫び。

 猛り逸る何かを打ち出すような、その言葉。

 しかし、それは酷に過ぎるというもの。

 ヨハネは、確かに強いのだ。

 曲がりなりにも人の身でありながら、サーヴァントと互角以上に戦っているのだから。

 

「ちぃ、やはり混ざり物は性質が悪い!酒でも何でもそうだな、貴様には趣がない!」

「褒め言葉か、それは!?」

「無論!」

 

 苛立たしげなヨハネの声と、天上のように喜び上ずったランサーの声。

 全く非対称なその声に、かすかな違和感を覚えた。

 確かに、ランサーは強い。

 そして、マスターが、桜になったのだ。

 凜以上に豊富な魔力量と強靭な魔術回路を備える彼女のこと、そのマスターとしての能力も折り紙つきだろう。ランサーの能力だって、いくらか底上げはされているのかもしれない。

 しかし、いくらなんでもおかしくはないか?

 どれほど強かろうと、凜がマスターとなった、あのセイバーを圧倒的に凌ぐ筈がない。

 如何に不意を突かれたとはいえ、一撃で吹き飛ばされたセイバー。

 その、神話の蟲に囲まれて、それでも嬉々として暴れ狂う、ランサー。

 その違いは、なんだ?

 単なる相性の差異などではない、もっと根本的な違い。

 それがあるような……。

 違う。

 俺が今為すべきことは、そんな思考をぐだぐだとすることではない。

 今俺が為すべきこと。

 それは、唯一つだ。

 セイバー。

 奴の使役する蟲に弾き飛ばされて、未だ地面に伏せる、彼女。

 彼女を助ける。

 それが、今、俺の為すべきこと。

 走る。

 倒れ伏した、彼女のもとに。

 泥に塗れた、金砂の髪。

 ピクリとも動かない、小さな身体。

 

「セイバー!」

 

 走る。

 

「させるか!」

 

 後ろから、声。

 そして、俺の耳を擦るように追い越していった、光体。

 アポルリオンと、奴がそう呼んだ、蟲。

 圧倒的な、スピード。

 駄目だ、間に合わない。

 このままでは、死ぬ。

 彼女が、殺される。

 何度も俺を助けてくれた彼女を、一度も守れない。

 そんなの。

 もう、一度だけでたくさんじゃあないか。

 もう、いらない。

 もう、守られるだけなんて、嫌だ。

 守りたい。

 彼女を、救いたい。

 どうすればいい?

 どうすれば、彼女を助けることができる?

 この鈍重な足では、到底間に合わない。

 例え今から干将・莫耶を投影しても、あの蟲を倒すことは叶わないだろう。

 ならば、どうすればいい?

 

 知っている。

 

 俺は、その方法を、知っている。

 簡単なことだ。

 もとからあるものを、彼女に返せばいいのだ。

 俺が、彼女から預かっているものを、返せばいいのだ。

 何を?

 俺は、何を彼女から預かったんだ?

 何で、俺はそんなことを知っている?

 そういえば、そんなことが、最近多すぎる。

 

 聞いたこともない、凜の、言葉。

 

『魔術師っていうのはね、自滅さえ覚悟なら限界なんて簡単に超えられる。魔術回路を焼き切らせて、神経をズタズタにして、それでも魔力を回転させていけば奇蹟に手は届くわ』

 

 聞いたこともない、セイバーの、言葉。

 

『シロウ、あなたを――』

 

 見たことも無い、赤い、荒野。

 身を切り裂く、冷たい、風。

 乾いて罅割れた唇、そこから流れ込んでくる血の味。

 今まで感じたこともないような、寂しさ。

 この世に、自分を覚えてくれている人間が一人たりともいないような、絶望感。

 

 考えてみれば、おかしかった。

 

 何で、俺は干将・莫耶を投影することができた?

 知っていたからだ。

 その構成を、製造方法を、長い年月を尽くして、知り尽くしていた。

 

 何で、俺はライダーと戦って生き残ることができた?

 知っていたからだ。

 身体の動かし方、どこでどう攻撃を受ければ致命的な傷を負わずに済むか、生き残るにはどうすればいいか。

 

 俺は、知っていた。

 

 いつだ。

 いつ、知った?

 そうだ。

 思い出した。

 今まで、忘れていた。

 

『のた打ち回れ、衛宮 士郎』

 

 あの、夜。

 土蔵で、一人で魔術の修行をしていた。

 悲しみと一緒に、修行をしていた。

 だって、無理もないだろう。

 無駄だと、言われたんだ。

 俺のしてきた全てが無駄だと言われた。

 無駄だったと。

 俺の努力は、苦痛は、何の実も成さなかったと。

 悲しくないはずがない。

 もう、何もないと思った。

 十年間、磨き続けてきた宝石が、只のガラス玉だと言われた。

 そして、どうやらそれは真実だったんだから。

 それでも、磨いたさ。

 もう、そうすることしか、俺には残っていなかったから。

 ガラス玉を、磨いたんだ。

 大切に、磨いていたんだ。

 そうしたら、後ろから、声をかけられた。

 そのタイミングでよかったよ、本当。

 あと五分遅れていたら、涙でぐしゃぐしゃの顔を見られることになってたからな。

 声の主は、男だった。

 白髪。

 黒い、肌。

 赤い外套に、低い声。

 歴戦の戦士の身が持つ、研ぎ澄まされた気配。

 鷹のように、鋭い瞳。

 ああ、まるで俺の理想だ。

 絶対に届かない、俺なんかじゃあ百年たっても届かない理想の具現が、しかし悲しげな瞳で、俺を見ていたんだ。

 まるで、己の過ちを見つめるような、痛ましい瞳。

 それが、どこまでも優しく見えた。

 そして、彼に手を握られて。

 流れ込んできた、圧倒的な量の、何か。

 俺の、薄くて短い人生とは比較できないほど、膨大な、何か。

 それが、流れ込んできた。

 

 生命の存在を許さぬ荒野。

 風が吹き荒び、一滴の潤いもこの世界には存在し得ない。

 しかし、その男は傲然と顔をあげ、胸を張って、一人歩く。

 付き従える、剣の群れ。

 その背中は言っていた。

 

 ついて、来れるか。

 

 ああ、俺にできるのか。

 俺は、彼になることができるのか。

 

 その時は、そう思った。

 

 でも、今ならば、胸を張って、こう言える。

 

 ついて行く。

 

 貴方がどれほど遠くにいようが。

 貴方の歩が、どれほど速かろうが。

 

 俺は、ついて行きます。

 そして、いずれは追い越してみせましょう。

 

 それが、貴方の、望みなのでしょうから。

 

「――I am the bone of my sword(我が骨子は捻れ狂う)

 

 空の右手に、ずしりと重い、捻れた剣の感触が、あった。



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episode72 人造両儀7 主従共闘

 右手に、彼の、捻くれた、矢を。

 左手に、彼の、黒塗りの、弓を。

 精神を集中する。

 いや、それは正しくないだろうか。

 これを手にした瞬間、精神のチャンネルが切り替わった。

 ぱちりと。

 自分でも驚くほど、鮮明に。

 人から。

 人の形をした、機械に。

 弓を引き絞り、矢を射るための、機械。

 機械に精神があるだろうか。

 否。

 そんなもの、存在しない。

 存在しうる筈が無い。

 それでも。

 それでも、もし、あるとするならば。

 きっと、それは今の俺のような心持なのだろう。

 研ぎ澄まされた水面のような、イメージ。

 微風すら吹かず、魚達すら息を潜めるような、静寂。

 鏡のように、周囲の風景を映し出す。

 そこに、天上で結露した水滴が、落ち来る。

 ぴちゃん、と。

 それが起こした、僅かな飛沫と、小さな波紋。

 その中に、目標を見つける。

 闇の中に光り輝く、蟲。

 傷ついた彼女に止めを刺すべく、一直線で飛んでいく、蟲。

 安定した軌道。

 これなら、外せというほうが、難しい。

 いや、それは違うか。

 ふらふらと飛ぼうが、一直線に飛ぼうが、鋭角に曲がろうが。

 当たると思って射離せば、必ず当たるのだ。

 故に、弓兵。

 それが、彼の仇名の所以。

 ならば、彼の使った弓と、矢。

 如何に未熟な俺でも、外すはずがない。

 呼吸を、正す。

 背を、張る。

 視線は、唯一点を見つめて。

 

 足踏み。

 八文字、足の間の寸ぞなき、その身その身の、曲尺に合わせて。

 

 胴造り。

 胴はただ、常に立ちたる姿にて、退かず掛からず、反らず屈まず。

 

 弓構え。

 大石を、抱く心を忘るるな、居向きに向けよ肘口をはれ。

 

 打起し。

 風もなく、空に煙の立ちのぼる、心の如く、うちあげよかし。

 

 引分け。

 引き取りは、げに大鳥の羽をのして、雲井をくだる、心得ぞよき。

 

 会。

 持満とは、矢束一ぱい引き詰て、離れぎわ迄、息にさはらじ。

 

 離れ。

 よく引きて、引な抱えよたもたずと、放れを弓に、知せばしすな。

 

 そして。

 

 残心。

 

 残身。

 

 結果は、知っている。

 

 あとは、最後の一節を、奏でるのみ。

 

 いざや、ゆるゆる、はぜてゆけ。

 

「壊れた幻想」

 

episode72 人造両儀7 主従共闘

 

 爆風が、校庭に漂う饐えた空気を吹き飛ばした。

 まるで、そこに小さな太陽でも生まれたかのような、暴風。

 その前に屹然と立つ、少年。

 飛び散る砂利にも、目を閉じようとしない。

 ただ、一点。

 彼が守るべきもの。

 それを視界に収め、小揺るぎとしないのだ。

 一瞬、その場にいた全ての瞳が彼の背中に集中する。

 その中には、人外の化け物がいた。

 その中には、人外の英雄がいた。

 その中には、彼の姉がいた。

 その中には、彼の恋人がいた。

 それらの視線を受けて、それでも彼は、なお慄然と立ち尽くしていたのだ。

 あるものは、その背中に父の幻影を見た。

 あるものは、その背中に騎士の余熱を感じた。

 あるものは、その背中に将来への可能性を感じた。

 そして。

 あるものは。

 その背中、明らかに英雄に近付きつつある、その背中を見て。

 少年の不幸に、涙を流したのだ。

 

「おお……。おおお……。何故、神は、彼女に、かくも重たい試練を課するか……」

 

 悲痛な、喉から搾り出すような、声。

 地に伏せ、拳を大地に打ちつけ、泣きじゃくる。

 まるで、幼児のように。

 辺りを憚らず、絶対の実力を兼ね備えた、敵の眼前で。

 預言者は、泣いた。

 泣いていた。

 それだけではない。

 蟲が、泣いていた。

 彼が作り出した蟲の群体、その全てすらが、涙を流していたのだ。

 切れ長の美しい瞳を涙で濡らし、獅子の牙の生え揃った口を大きく開けて、声を上げて泣いていた。

 美しい、声。

 さながらカストラートが奏でるグレゴリオ聖歌のような、その旋律。

 戦場には、如何にも不似合いなその音階が、凄惨な戦いに一瞬の空隙を作り出していた。

 

「呪うぞ。神よ、私は、深く、貴方を呪う……」

 

 静寂。

 百戦錬磨の槍兵ですら、その異様に飲まれかけていたのだ。

 やがて、預言者はゆるりと立ち上がる。

 その瞳には、一抹の決意と。

 それを上回る狂気が、彩られていた。

 

「ならば、打ち倒そう。我が意に沿わぬ神など、不要。今、この場をもって、それを打ち倒すことを、私は誓おう」

 

 そして、彼は、呪文を紡ぐ。

 なぜなら、それが彼に許された、唯一つの戦い方だから。

 それは、相手が何であっても変わらない。

 人であっても、英雄であっても、神であっても。

 彼は、唯一つの呪文を持って、歯向かうのだろう。

 

「Apollyon」

 

 先程の数を倍する光体が、彼の周囲に乱舞する。

 長大な、呆れるほどに長大な詠唱は、既にない。

 一度唱えてしまえば、既に不要なのか。

 それとも、そんな常識すらも、今の彼には埒外なのか。

 ただ、彼の魔力が真実に無限ならば。

 これは、彼の敵にとって、不可避を死を意味していた。

 

「痛いだろう。苦しむだろう。しかし、死にはしない。五ヶ月の間、死は君から遠ざかるだろうから」

 

 涙に濡れた、その声。

 その視線の先にあるのは、彼の敵ではない。

 むしろ、彼が守るべきもの。

 彼の主が、己の命を擲ってまで守ろうとした、尊いもの。

 預言者の殺意は、彼の主の守るべき対象に、注がれていた。

 

「おい、戦いの途中に、何を呆けてやがる」

「黙れ、犬ころ」

 

 ぷちり、と。

 その二人を見つめていた者達は、何かが細長いものが千切れる音を、聞いた気がした。

 爆ぜる空間。

 瞬きほどの暇もなく、槍兵の愛槍は、預言者の脳天を貫いていた。

 ごつり、と、嫌な幻聴を聞いたものが、いたか否か。

 だが、それでは終わらない。

 槍兵の、肥大化した背筋が、うねる。

 力ずくだ。

 刃の切れ味なんて、あったものではない。

 ただ、まるで割り箸を裂くかのように。

 脳天に突き刺した槍。

 それを、そのまま、強引に振り下ろした。

 ばきばきと、骨の砕ける音。

 まるで竹に鉈を打ち込んだかのように、真っ二つに裂けていく、預言者の身体。

 みりみり、ばきばき、ぐちゃり。

 人体の奏でることのかなう、あらゆる音が響いた。

 そして、槍は、地面に突き立つ。

 頭頂部から、股間まで。

 綺麗に、等分。

 ばしゃり、と、血のぶちまけられた、音。

 それでも、唯一つ。

 苦痛の叫びだけは、響かない。

 預言者は、振り向かない。

 微動すれば泣き別れになる体をそのままに。

 ただ、一点を、見つめている。

 

「死よりも、死より苦しい苦痛よりも、更に苦しい現実というものは、確かに存在するのだ。ならば、例え今君が死んでも、彼女は私を讃えてくれるだろう。それは私にとって無上の喜びなのだよ」

 

 細長い、一流のピアニストのように美しい指が、蟲の楽団を指揮する。

 その先には、二つの人影。

 倒れ伏した、騎士王。

 それを抱きかかえる、少年。

 その二人に、黙示録の騎士団が、襲い掛かる。

 

 

 全身を、酷い倦怠感が覆っている。

 まるで、地の底に引きずりこまれるかのような、重たい痺れ。

 いままで感じたことのない、重大な疲労。

 そして、苦痛。

 全身の痛覚を、引き裂き、塩を塗りこむような、苦痛。

 鞭打ち、杖打ち、暴行、強姦。

 火刑、磔刑、ギロチン、車折。

 駿河問い、水責め、木馬責め、塩責め 笞打、石抱き、海老責、釣責、蓑踊り。

 あらゆる拷問、あらゆる尋問、あらゆる死刑。

 それを、瞬時に体感するような、瞬間。

 叫びたい。

 この苦痛を、喉から解放したい。

 のた打ち回って、爪を地面に立てて、そのまま爪を毟り取りたい。

 爪の無い指先で頭皮を掻き毟り、髪の毛を頭皮ごと引き千切ってやりたい。

 喉を裂き、そこから手を突っ込んで、心臓を引きずり出したくなる。

 そんな、苦痛。

 閉じた瞼の奥、そこが、赤と黒の光で点滅している。

 吐きたい。

 胃の中に何が入っているのかも分からないが、とりあえず吐き戻したい。

 しかし、許されない。

 四肢の先まで満たされた疲労が、意志の命令を拒絶する。

 指一本動かせない。

 不動。

 不動の、地獄。

 叫び声をあげる自由すらない、苦痛の坩堝。

 耐えられない。

 もう、一秒だって耐えられない。

 気を失うことが出来たら、どんなに楽だろうか。

 それが、許されない。

 明瞭な意識の中、痛覚を蹂躙され続ける。

 もう駄目だ。

 私が、私でなくなる。

 砕け散る。 

 微細になる。

 霧散する。

 私が、消えてなくなっていく。

 ああ、すみません、シロウ、リン。

 私は、どうやら、ここまでの……。

 

「セイバー」

 

 声が、聞こえた。

 優しい、声。

 果たして、誰の声だったか知らん。

 耐え難い苦痛の濁流の中で、そう思う。

 遠い、遠い、声。

 ずっとずっと昔に、耳にした、心地よい、声。

 心惹かれた。

 その生き様に、その心根に。

 美しいと。

 この、冷たい体でも、温めてくれるのだろうか、と。

 それでも、彼は彼自身に相応しい伴侶を見つけた。

 美しい、ひとだ。

 気高く、聡明で、猛々しく、何より、つよい。

 力とか心とか、そんな瑣末なことではなく、もっと根本的なところで強い、女性。

 私の、新しいマスター。

 彼女ならば、この声の主に相応しい。

 それでも。

 ああ、それでも。

 叶うでしょうか。

 許されるでしょうか。

 私が、この、澱のように溜まった感情の塊を吐き出すことは、認められるのでしょうか。

 きっと、私は、貴方を。

 いつからか、分かりません。

 マスターの血に塗れ、恥知らずにも貴方の家の門を叩いたとき。

 貴方が、米粒ほどの躊躇も無く、その門戸を開け放ってくれたときでしょうか。

 騎乗兵との戦いで、全ての力を使い果たしたとき。

 役立たずの私を、心底気遣ってくれる瞳を見たときからでしょうか。

 狂戦士の刃に倒れ、不可避の死を覚悟したとき。

 動かない私の体を、貴方の背中が守ってくれたときからでしょうか。

 いや、それとも、その遥か以前。

 私が、この時代に召喚される前。

 貴方が、この世に生を受ける前。 

 もっと、もっと、ふるいところ。

 そう、きっと、そうです。

 そこから。

 私は。

 

「セイバー、これ、返すから。長い間、借りっぱなしで、悪かったな」

 

 囁くような、睦言のような、声。

 この身に、暖かい何かが、注がれていく。

 暖かく、それ以上に懐かしい、何か。

 知っている。

 私はこの熱を、知っている。

 大昔に、失ったものだ。

 遠い遠い、御伽噺の時代に、失ったのだ。

 

『お間違えめさるな。剣は敵を討つ物ですが、鞘は貴方を守る物。その鞘を身につけているかぎり、貴方は血を流す事もなく負傷する事もない。真に大事とすべきは剣ではなく鞘なのです』

 

 魔術師の、手厳しい言葉。

 あの時は、理解できなかったけど。

 それでも今は、彼の言いたかったことが、理解できる。

 私は、勘違いをしていた。

 確かに、敵を倒せば、大切なひとは、死なないで済む。

 しかし、そもそも大切なひとが守り抜けるならば、敵を倒す必要すらないのだ。

 そんな簡単なことが、あの頃の私には分からなかった。

 大切なのは、奪うことではない。

 守ることだというのに。

 私は、なんと愚か、だったのだろうか。

 

「でもな、セイバー。ありがとう。何回も、お前に守られた。何回も、救われた。最高の騎士だよ、お前は」

 

 ――。

 ああ。

 こんなにも、愚かな私なのに。

 それは、私の意志ですらなかったというのに。

 貴方は、私を、騎士と呼んでくれるのか。

 こんなにも、弱い、私なのに。

 貴方は、私を、騎士と。

 ならば。

 ならば。

 ならば!

 目を開けろ!

 立ち上がれ!

 戦え!

 刃砕け、矢尽き果てるまで!

 拳が潰れ、歯が折れ尽くすまで!

 朽ち果てるのは、病床ではない!

 ただ、戦場にて!

 この身は、彼の剣!

 しかし、それ以上に彼の盾なり!

 ならば、疾く、立ち上がれ!

 苦痛など、意に介するな!

 散々、食い散らかさせればいい!

 それでも、その鈍重な体は、動くだろう!

 ならば、戦え!

 彼を、守れ!

 ほら、彼の後ろから、あの蟲が飛んでくる!

 彼を殺そうと、牙を鳴らしながら!

 それを、見過ごすのか!

 疲れているから、見過ごすのか!

 痛いから、見過ごすとでも、言うつもりか!

 

 かちり。

 

 存在の深奥で、何か、大切な何かの撃鉄が、打ち下ろされた。

 

 

 ここまでだな。

 うん、ここまででいい。

 俺が倒すべきなのは、セイバーを殺すために飛んでいった蟲、あの一匹だけだ。

 それ以外は、どうでもいいな。

 俺の責任の範疇外だからだ。

 背後に感じる、幾十もの死の気配。

 警察官、検察官、刑務官、執行人。

 罪に塗れたこの体が、恐ろしいと感じる、全て。

 それが、口の端を涎で濡らし、飛んでくる。

 圧倒的な、死の予感。

 それでも、それすらどうでもいい。

 だって、知っているから。

 あの牙は、あの毒針は、俺には届かない。

 だって、俺には、こいつがいる。

 こいつが、絶対に俺を守ってくれる。

 

「……貴方に、謝罪を、シロウ」

 

 目を閉じたまま、こいつはそう言った。

 口元が、悪戯っぽく歪んでいる。

 ああ、なるほど。

 こいつも、きっと楽しいんだ。

 

「ああ、俺も、お前に謝罪を、セイバー」

 

 ゆっくりと、瞼が持ち上がる。

 俺の腕の中、余りに軽い、その体躯。

 それでも、大きすぎて、俺の存在じゃあ抱えきれない。

 

「はて。私は、貴方に謝罪を受けなければならないことなど、何一つ無いのですが?」

 

 その訝しげな表情に、思わず笑みが漏れる。

 それを見て、少し不機嫌な彼女。

 ああ、まずい、眠り姫の気分を害してしまったのだろうか。

 

「先に謝っておきたかったんだ。だって、女の子に自分を守らせる男なんて、最低だろう?」

 

 一度だけ、ぱちくりと目を瞬かせた彼女は。

 やがて、華の蕾が綻んだように、微笑った。

 

「……民を守ることこそ、騎士の本懐。ならば、どうして謝罪を受ける必要があるでしょうか。それより、シロウ。貴方は、私が貴方を守ることを、許可してくださるのですか?」

 

 その言葉を聞いて。

 一度だけ、ぱちくりと目を瞬かせた俺は。

 きっと、鼻に皺を寄せるように、微笑った。

 

「そうだな、一方的に守られるのは、如何にも居心地が悪い。だから――」

「そうですね、私も男性に楽をさせるのは、些か落ち着かない。ならば――」

 

 立ち上がる。

 飛び跳ねる。

 二人、全く同時に。

 その瞬間。

 背後にいた、哀れな蟲達の先鋒は。

 その全てが、一刀両断に、斬り捨てられていた。

 

「お前の背中は、俺が守るよ!」

「この背中、貴方に預けましょう!」

 

 

 美しい。

 そう、思った。

 無くなった左腕を愛おしむかのように、左肩を撫で摩る。

 光り輝く蟲の群れ、それを切り伏せるセイバー。

 彼女の背後を守り、双剣を振るう士郎。

 その二人が、この上なく美しかった。

 かたや、伝説に名高きブリテンの赤き竜。

 その手には、剣の頂点、神造兵器、人々の願いの具現。

 かたや、へっぽこで、見習い魔術師で、どこまでも素敵な、私の恋人。

 その燃えるような赤い頭髪が、火竜の吐息のよう。

 暗い校庭、その中でぽつりと照らされた小さな舞台。

 二人は、そこで剣舞を演じる、つがいの踊り子に、見えた。

 なんと、似合いの主従。

 思わず、歯軋りが鳴る。

 悔しい。

 ついこないだまで、私はあいつよりも強かったはずなのに。

 今は、全く勝てる気がしない。

 私は、守る側の人間だと思ってたのに。

 いつの間にか、守られている。

 悔しい。

 なんて、強い、二人。

 なんて、楽しそうな、二人。

 悔しい。

 でも、今だけよ。

 きっと、今だけ。

 すぐに追いつくから。

 ううん、追いつくだけじゃない。

 追い抜いて、そのまま周回遅れにしてやる。

 士郎だけじゃない、貴方もよ、セイバー。

 だって、二人とも、私のサーヴァントなんだから。

 使い魔より劣る魔術師なんて、かっこつかないでしょう?

 だから、今だけ。

 所以の知らない涙が流れるのも、今だけ。

 覚悟してなさい。

 きっと、あっという間に、私は……。

 

 ――とん。

 

 あ……れ?

 わた、し、は……。

 

 

「おのれ、何故だ、何故死なぬ!?」

 

 預言者の苛立たしげな、声。

 彼は、知っていた。

 この戦いが、如何にも彼に不向きなことを。

 しかし、それでも望んだのだ。

 戦いたい。

 彼女を、守りたい、と。

 そして、戦った。

 これまでは、概ねこちらの思惑通りにことが運んだ。

 おそらくは一番厄介と思われる神の仔は、苦心の末に排除した。

 クランの猛犬が生き残ったのは聊か想定外であったものの、誤差の範囲内だと思っていた。

 だが、段々と、その誤差が大きくなっていく。

 そのことに、彼は大きな焦りを感じていた。

 

「貴様らは、人ではないのか!?人ならば、何故死なぬ!?それは、そういう存在なのだぞ!」

 

 アポルリオン。

 彼が、そう呼んだ、蟲。

 その実、その蟲の名は、それではない。

 ヘブレオ語にてアバドン、ギリシア語にてアポルリオン、そう呼ばれるのは、あくまでも深奥に君臨する王の名である。

 ならば、その尖兵、人類を粛清せよと使わされた、これらの蟲の名は。

 無い。

 蟲に名は、無い。

 名など無く、故に愛されることも無く、ただ、人々の信仰心のうちにのみ、存在を許された存在。

 余りに薄い、実在感。

 しかし、その機能は明白だ。

 人を、殺す。

 人類を、粛清する。

 それ以外の機能を持たない、単一性能の集団。

 それが、その蟲軍の正体だ。

 人を殺す。

 その性能ならば、如何なる存在にも引けを取らない。

 人類に対する、絶対的な殺戮者。

 それは、かの霊長の殺人者の複写、そう呼んでも差し支えない存在。

 だからこそ、この戦いは、彼に不向きだったのだ。

 

「貴様らは、人ではないのか!?」

 

 その声に、騎士は楽しげに応える。

 

「ほう、貴様は知らぬか。我が異称は、ブリテンの赤き竜。ペンドラゴンの名を持つものぞ!」

「……貴様も、混ざり物……!そうか、そしてお前は彼女と同じ起源……!ならば、既に純粋な人ではないか!」

 

 預言者は、渋々と首肯した。

 なるほど、ここまで不向きな戦いとは思わなかった。

 冷や汗が、彼の背中を濡らした。

 勝てないかもしれない、その不快な預言が、彼の思考に黒い染みを作り出した。

 それでも、彼の為すべきことは、唯一つだ。

 それ以外、彼に出来ることは、無い。

 元々、彼は無だった。

 暗い、暗い、コールタールのような黒い空間を漂う塵、それが彼だったのだ。

 その空間は、一人の少女が、まだ人の細胞を宿していたころの、小さな脳髄。その乳白色の塊の中に広がるものだった。

 最初は、一人だった。

 一人で、ふわふわと、漂っていた。

 その頃の彼は、幸せだった。

 その内、隣人が出来た。

 よく分からない、多数の隣人。

 優しい彼は、それらを受け入れた。

 その頃の彼は、幸せだった。

 そして、彼は不幸になる。

 己の幸福が、少女の不幸であったと知ったために。

 そして、彼は自覚したのだ。

 己が、何者で、何をするために存在するのか。

 もともと、その乳白色の空間の支配者であった彼は、只の使い魔に堕ちた。

 さながら、神に反逆した天使のように。

 隣人を喰らい、人の肉を喰らい、人にあらざるものの肉を喰らい。

 それでも、彼は満ち足りていた。

 それを幸福と呼べるのならば、彼は幸福になった。

 そして、今、彼は幸福だ。

 だから、無だった彼が為すべきことなど、唯一つ。

 彼女を、守る事。

 守る。

 それが、唯一、彼の存在意義。

 だから、彼は唱えるのだ。

 唯一、彼に許された、呪文を。

 

「Veni, et vide!」

「Veni, et vide!」

「Veni, et vide!」

 

 三度繰り返された、呪文。

 現れた光体は、既に三桁を超えている。

 彼の激情を表すかのような、その光。

 万軍の蹄音より、なお巨大な羽音。

 それが、彼の周囲に存在する、忌まわしい敵を屠り去ろうとした、そのときに。

 

 ぱちり、と。

 

 この場においては、いっそ滑稽な音が、響いた。

 同時に、どこからか飛来した剣群が、蟲群を、切り裂いた。

 そして、声が、聞えた。

 まるで、聞く者の耳に染み入るような、美しい声。

 しかし、聞く者が、膝を屈せざるを得ないような、支配者の声。

 王の、声。

 それは、王権を簒奪した、覇王の声ではない。

 それは、王権を引き継いだ、賢王の声ではない。

 それは、王権を造った、始祖のこえではない。

 王という概念を造った者の、声。

 王の中の王。

 この世で、王に対して王権を主張し得る、唯一人の者の声。

 それが、低い夜空に、高らかと響いたのだ。

 

「そのような雑兵相手に何を梃子摺っているか。我をあまり失望させるでない」



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episode73 人造両儀8 一時閉幕

 空気が、変わった。

 別に、緊張感が溢れたとか、恐怖で引き攣ったとか、そういうものではない。

 もっと、単純なことだ。

 中心が、移ったのだ。

 ここから、違う場所へ。

 あそこから、違う場所へ。

 果たして、どこが中心だったのかは、分からない。

 ひょっとしたら、ランサーとヨハネが戦っていた、あの場所かもしれないし。

 今、俺とセイバーが背中合わせで戦っている、この場所かもしれない。

 でも、そんなことは、どうでもいい。

 現に中心なのは、ここでも、あそこでもない。

 それだけは、ハッキリしている。

 今、この場所における中心は、あの男が立っている場所だ。

 あの、男。

 この場にいる全員、その視線を受けて、なお轟然と立つ、男。

 ふらりと、しかし初めからそこにいたかのように校舎の影から姿を現した。

 

 金髪。

 

 でも、セイバーのそれと比べると、やや輝きが強い気がする。

 

 紅い眼。

 

 イリヤのそれに近いかもしれないが、もっとどぎつい何かが宿っている。

 

 そして、何より、口元に張り付いた、他者を蔑視するような、笑み。

 ああ、分かった。

 こいつは、敵だ。

 

episode73 人造両儀8 一時閉幕

 

「そのような雑兵相手に何を梃子摺っているか。我をあまり失望させるでない」

 

 尊大な、詠うような声。

 闇から、輝くような金色が姿を現した。

 黄金の髪。

 紅玉のような瞳。

 身につけたのは簡素なライダージャケット。

 まるで具象化した太陽をそのまま身に纏ったような威光。

 一目でわかる。

 あれは人ではない。

 

「アーチャー!なぜ貴方が現界しているのです!」

 

 驚愕と嫌悪の入り混じったセイバーの叫び。

 男はそれに不敵な笑みを返す。

「久しいな、騎士王よ。十年ぶり、いや、貴様にとってはそれほどではないのか」

 アーチャー?

 しかし、あいつは、もういない。

 赤い弓兵は、狂戦士と共に座に帰った。

 そして、十年ぶりというセイバーの言葉。

 それって、まさか……。

 

「……前回の聖杯戦争の生き残り?」

 

 戦慄を帯びたイリヤの声が聞こえる。

 

「ほう、雑種にしては知恵の回る者もおるようだな。その通り、この身は十年前の聖杯戦争において召還された弓兵にして、人類最古の英雄王よ」

 

 人類最古?

 こいつも英霊なら、何らかの神話、逸話の類の登場人物であることは間違いないだろう。

 確か、世界史の授業で人類最古の叙事詩がどうとか言ってたな……。

 エジプト、じゃない。

 メソポタミア、だっただろうか。

 あれは確か……。

 

「ギルガメッシュ……?」

 

 俺の消え入るような呟きに、男は射殺すような視線をよこした。

 

 なんだ、これは。

 

 睨まれてるだけなのに、呼吸が速くなる。動悸が激しい。汗が止まらない。

 まるで、俺の存在そのものを握り潰すかのような、視線。

 

「くううぅっ」

 

 思わず、跪きそうになる。

 がくがくと笑う膝を殴りつける。

 

 こいつ、桁違いだ。

 

 バーサーカーの殺気も凄かったが、こいつのは違う。

 殺気みたいな不純なものじゃなくて、ただ其処に在る、それだけで負けてしまいそうだ。

 最強。

 それだけで、分かった。

 こいつが、一番強い。

 

「……ふん、少ししゃべりすぎたか。まあよい。騎士王よ、少し待っているがよい。我は十年待ったのだ。王たる貴様が露ほどの時を待てぬ道理はあるまい?」

 

 鷹揚な奴の声に、緊張した声でセイバーが応える。

 

「……何を待てというのです」

「忘れたとは言わさんぞ。既に十分すぎるほど時間は与えたはずだ。今だ答えが決まらぬというのであれば、次に会うときまでに決めておけ。我もそれほど気は長いほうではない」

 

 奴とセイバーの因縁を知らない俺達には、何のことかさっぱりだ。

 しかし、セイバーの顔が嫌そうに歪んだことから考えると、碌なものではあるまい。

 

「……では、あなたは一体何をしに来たというのですか」

「一つには演劇の鑑賞だな。一人の男を巡る姉妹の醜い争い。使い古された主題ではあるが、なかなかどうして楽しめたぞ。いや、あの男の歪んだ趣味も時には悪くない」

 

 口の端を歪めながら男が哂う。

 

「もう一つ、この下らぬ遊戯の賞品を回収しようと思ってな。もともとそれほど欲しいものではないが、この世の全ては我のもの。我以外の者がそれを盗むのは些か気に入らぬ」

 

 この遊戯の賞品?聖杯?

 一瞬、イリヤの顔が恐怖に歪んだ。

 彼女はその視線を、まるでこの場にいない誰かを探すように彷徨わせる。

 

「勘違いするな、白い聖杯よ。此度の聖杯戦争においては、貴様に器としての価値はない。真品が贋作に劣るとはな、恥を知れ」

 

 視線をすら寄越さずに、その男はイリヤを無価値と切り捨てた。

 その、傲慢さ。

 何故だろう。

 相応しい、と。

 この男にだけは、それが許されると。

 そう、思ってしまったのは。

 

 そのとき。

 

 びょう、と。

 物凄い音を立てて、何かが奴の方にすっ飛んで行った。

 闇を切り裂く、白銀。

 斧と槍、あとは矛か。

 幾つかの武器を足して、それを割り戻さない、凶悪な形。 

 鮫や虎の牙にも似た、そのフォルム。

 ハルバード。

 決して人の筋力では扱えない、その重量。

 それが、奴の方にすっ飛んでいたのだ。

 誰が投擲したしたかなど、問う必要も、ない。

 リーゼリット。

 彼女が、おそらくは耐え難いほどの怒りに駆られて、その怪力を解放したのだろう。

 その、まるでサーヴァントにも届くような一撃。

 それを、その男は一瞥もせずに弾き飛ばした。

 何が起きたのか、一瞬分からなかった。

 それでも、一瞬遅れて理解した。

 何か。

 何か、あのハルバードを押しのけるだけの威力と速度を兼ね備えた、何か。

 それが、無垢の空間から、打ち出されたのだ。

 迸るような、威圧感。

 間違いない、宝具だ。

 宝具が、虚空から生み出され、打ち出された。

 

 あっけない、勝負。

 そもそも、人の武器が、英霊の宝具に敵し得るはずがないではないか。

 

 意外なほどに乾いた音を立てて真っ二つになった、リズの怒り。

 しかし、英雄王の鉄槌は、その侵略を終えない。

 一直線に、不遜に過ぎる、主の敵の咽喉下へ。

 死んだ、そう思った。

 剣か、槍か、斧か、それは分からない。

 それでも、あの武器を防ぐことは、出来まい。

 そして、かわすことも不可能。

 ならば、その死は不可避だ。

 思わず目を背けた。

 

 轟音。

 

 金属と金属が衝突する、乾いた音。

 

 目を、開ける。

 そこには、赤い槍と、蒼い獣。

 ランサー。

 彼が、リズを守るように、立ちはだかっていた。

 

「おい、どこの誰だか知らねえが、ここは俺の戦場だ。ちゃちゃ入れるなら、それなりの覚悟は出来ているんだろうな?」

「ほう、今日日は犬も人語を解するか。なるほど、あの男が愉しむ訳よな、滑稽だ」

「てめえ……!」

 

 歯の軋る音が、ここまで聞える。

 それでもランサーが飛び掛っていかないのは、彼が持つ戦士としての直感だろうか。

 それとも、生物の持つ本能としての恐怖心、それに囚われてしまったのだろうか。

 だとしても、彼を非難し得ない。

 それほどに、目の前の金色は、圧倒的だったのだ。

 

「しかし……。騎士王との久方の逢瀬に、ここまで不快な連中が揃うとはな」

 

 奴は、俺とヨハネを、等分に眺めた。

 そして、呟いたのだ。

 

 この、贋作者(フェイカー)どもが、と。

 

「……まあ、よいか。祭りは、そのものよりも前夜祭にこそ華がある。ならば、この不快な舞台も、それなりに愉しむことが出来よう」

 

 ぐにゃり、と奴の背後が歪む。

 水面に小石を投げ込んだかのように、空間が震える。

 幾重にも重なる、波紋。

 その中央、そこから覗く、刃先、刃先、刃先。

 俺には、わかる。

 あれは、宝具の群れ。

 刃の一つ一つが、宝具。

 まるで、軍隊。

 ならば、奴は指揮官か。

 高く掲げた、腕。

 その先端、まるでピアニストのようにしなやかで細長い指が、打ち鳴らされようとした、その瞬間。

 高らかな笑い声が、戦場を満たした。

 

「くふふ、くははははは!貴様が、英雄王か!なるほど、これは久しい!」

 

 笑い声。

 誰も、一言も話さない。

 その静寂の中を、預言者は笑い狂った。

 

「……久しい、と。残念だが、我には貴様の面に見覚えは、ない。贋作者の不快な面、一度見れば忘れようもないのだがな」

「ああ、我らは初見よ。しかし、私は一度ならず君と顔を合わせたことがある」

 

 彼らの視線が、交わった。

 漆黒のような、黒い瞳。

 溶岩のような、紅い瞳。

 彼らは、瞬時に理解した。

 倶に天を戴かざる敵。

 それが、目の前にいるのだ、と。

 

 一人は、神を讃え、己以外のたった一人のために、生きる者。

 一人は、神を貶め、ただただ、己のためだけに生きる者。

 

 一人は、無限を体現し、有象無象を従える者。

 一人は、原典のみを愛し、有象無象を憎悪する者。

 

 そんな二人が、出会った。

 偶然の出会いは、必然の殺し合いに。

 それは、避け得ぬ宿命だったのだろうか。

 

 ぱちん、と、指が鳴った。

 応、と、号令が下された。

 刃神の、進軍。

 蟲群の、襲撃。

 力と力が、ぶつかり合う。

 それは、渦。

 魔力と神秘の織り成す、大渦だった。

 どちらも、一歩も引かぬ。

 無限の物量。

 無限の魔力。

 どちらにも、尽きるという概念が、ない。

 ならば、千日手。

 どちらにも、勝機はない。

 

「くはは、なるほど、それが貴様の穢れか、黒き聖杯よ!いいぞ、なかなかに荘厳ではないか、ゲテモノもそこまでいけば見事よな!食欲がそそられるわ!」

「ふん、そうやって慢心しておれ、英雄王が!王などはな、所詮打ち倒されるためにあるもの、歴史が証明しているではないか!」

「ならば、歴史をこそ正そう!」

「やってみろ、愚物!」

 

 二人の魔力が、沸点を突破しようとした、そのとき。

 

 融点を遥かに下回る、冷静な声が、響いた。

 

「やめておけ、二人とも」

 

 一瞬だけ、二人の動きが止まる。

 その、交錯する視線。

 そこにいたのは、一人の男。

 長身。

 巨木のように、揺るがない体。

 纏うのは、漆黒の法衣。

 口元に湛えられた、笑み。

 瞳の奥には、絶えず苦悩の光が燈っている。

 言峰、綺礼。

 此度の聖杯戦争の、監督にして参加者。

 聖杯に相応しい者を選別する役を担うもの。

 それが、立っていた。

 

「言峰、綺礼、か……」

「コトミネ、誅殺である。口を挟むのであれば、貴様であっても容赦はせぬが、覚悟の上か」

 

 心の弱い者であれば、それだけで死ぬるような、殺気が二つ。

 それを受けながら、神父はなお涼やかに微笑んだ。

 

「街中だ。これ以上貴様らが暴れれば、神秘の漏洩に繋がりかねん。協会から妙な横槍を入れられて儀式が中止になるのは、お互い望むところではあるまい」

「ふん、そのような瑣末ごと、知ったことではない。協会?それが邪魔をしたくば、させておけ。王の進軍を阻むものは、悉く灰燼と帰すのが定めである」

 

 一切の気負いの無いその台詞に、些かの誤りも無い。

 もし、哀れな協会の犬がこの場に現れれば、その言葉は即座に実行に移され、そして完遂していたであろう。

 しかし、神父は苦笑する。

 その言葉を信じていないから、ではない。

 英雄王を留めるに、あまりに無意味な正論を吐いてしまった、己の浅慮さに呆れたのだ。

 

「確かに、貴様の言うとおりだ、ギルガメッシュ。しかし、酒は樽を開けるタイミングがその味を左右する。これは天上の美酒にも勝る酒に化け得る、極上の喜劇だ。その幕を引くにはやや性急に過ぎると思うのだが、如何か」

 

 その言葉に、金色の男は、微笑った。

 なるほど、確かにそうかもしれない、と。

 道化が踊り狂っているのだ。

 ならば、それを見届けるのは、観客たる自分の義務ではないか、そう思った。

 

「……少し、空気が埃臭い。服が汚れるわ」

 

 その言葉を最後に、彼は踵を返した。

 それに、神父も続く。

 まるで、闇に溶けるかのように消えていく、二つの影。

 

「待て、言峰、てめえ!」

 

 唸るような、槍兵の声。

 その声に、神父は愉しげに返す。

 

「ほう、ランサー、まだそんなところを這いずり回っていたか。しかも、またもや主替え。なるほど、犬は飯を用意してくれる飼い主にこそ尻尾を振るというが、そういう意味では君は立派な忠犬だ」

「貴様は、俺が殺す。絶対だ」

「残念だがな、ランサー。この命、犬如きに食わせるほど、安いものでもないのだよ」

 

 遠ざかる声に、誰一人として動かない。

 虚脱した空気が、流れる。

 これで今日の戦いは終った、その場にいた誰もが、そう思ったのだ。

 

「……さて、けちがついたな。今日はこの辺りにしておこうか」

 

 預言者の呟きに、誰も応えない。

 

 恐るべき、敵であった。

 

 人の身でありながら、サーヴァント二体と互角以上に戦う。

 幻想の中でのみ生きる、蟲の群を自在に使役する。

 そして、あの、神が使わした、蟲。

 なおかつ、限りなく不死に近い体。

 それは、間違いなく脅威と呼んで差し支えないものだった。

 

「これ以上は、彼女も疲れることだろう。いずれ、決着はつける。それまで、精々壮健であることを望むよ」

 

 笑いを含んだ、声。

 そして、いつの間にか彼の傍らに控える、暗殺者。

 

 その、長い、腕。

 

 それが、肩に何かを担いでいた。

 

 大きな、荷物。

 

 だらりと、力ない。

 

 それは、人だった。

 

 小さな、細い、人。

 

 それを見て、鉄の少年が、声を限りに絶叫した。

 

「凛!!!!」

 

「おのれ、卑怯な、人質をとるか!」

 

 あらたなマスターを敵の手に渡すという、失態。

 それを歯噛みしながら、剣士も、声を荒げる。

 預言者は、口元を歪めながら、嗤う。

 暗殺者は……、仮面の下のその表情は、窺い知れない。

 しかし、彼の纏った空気には、一抹の悲しさが、確かに存在したのだ。

 

「人質?ああ、これは酷い勘違いだ。我々には、この女を生かして返すつもりなど、毛頭存在しない」

 

 静寂。

 ただ、冷たい闇が、空気を統べる。

 そんな、沈黙。

 

「……下手な脅しはやめろ。ならば、何故すぐに殺さない?」

 

 当然の、疑問。

 悪くすれば人質の身を危険に晒すような、愚問だ。

 だが、剣士は秘かに、その脚部に魔力を充填していた。

 限界を超えれば、騎乗兵の全力おも凌駕する、その突進。

 僅かな隙も見逃さない、そういう視線。

 それを知ってか知らずか、悦に入った預言者の声。

 

「極めて単純明快な理屈だよ。この国の文化は、食材の鮮度をもって尊ぶのだろう?特に、活造りなどは最高だな。全身を切り刻まれて、もう助かる術など無いというのに、ぴくぴくと足掻くその様が食欲を沸き立たせる。願わくば彼女にも、その肉の最後の一片が骨から外されるまで、絶望に満ちた絶叫を聞かせて欲しいものだ」

「貴様、まさか――」

「勘違いするなよ。食べるのは私ではない。マキリ代羽、この女は、彼女の食料だ」

 

 遠くに浮かんだ雲の中で、何かが光った。

 遠雷、だったのかもしれない。

 

「彼女はいつも腹を空かせている。私から戻ったときなどは、特にそうだな。しかし、その空腹は他の何物でも埋めることは叶わない。彼女の空腹を癒すことが出来るのは、ただ、人の肉、それのみだ」

 

 にたにたと、厭らしい笑みを浮かべる預言者。

 その手が、意識の無い少女の肢体を弄る。

 

「やめろ、てめえ!」

「ならば、あの捻くれた剣で我らを射抜くか?いいぞ、やってみるがいい。もしかしたら、彼女を傷つけずに我らだけを害することが可能かも知れんぞ?」

「なんと、卑怯な――」

 

 絶望を含んだのは、剣士の声。

 例え神速のランサーでも、彼らとの距離は遠い。一息に少女を助けるのは、困難だ。

 かといって、その宝具は対軍、もしくは対城。

 少女を傷つけずに敵のみを射殺す、そんなこと、弓兵でもなければ不可能だろう。

 もしくは神代の大魔術師の魔術ならば、如何にか出来たかもしれない。

 それでも、その二つは意味の無い選択肢だ。

 砂時計の針は、戻らない。

 極めて単純な、理屈。

 手詰まり。

 そんな敵の様子を眺めながら、預言者は、沈痛にこう言った。

 

「彼女はな、人ではない。しかし、人の形を保つために、人の肉を喰らわねばならぬ。どうだ、それを哀れんではくれぬか」

 

 人を、喰う。

 人であるために、人を喰らう。

 喰らえば喰らうほど、人から離れることを知りながら、それでも人を喰らわねばならない。

 その、在り様は――。

 

「死徒――」

「その通りだ。彼女はな、すでに人ではない。死徒、そう呼ばれる生物の領域にいる。人の意識を保ち、人並み程度の力しか持たず、だが一片の魔力も無く、ただ不死のみを約束された、この世で一番脆弱な死徒、それが彼女の正体だ」

 

 その言葉を聞いて、少年は走った。

 させるものかと。

 この世で一番大切な者に、この世で一番大事な者を、殺させてたまるか、と。

 それは、大切の人を、一度に二人失う行為だ。

 もう、嫌だった。

 自分の掌から、砂粒のように大切なものがこぼれていくのが、少年には許し難かった。

 

「残念だがな、これが今生の別れになる。精々惜しむがいい、少年」

 

 一瞬遅れて、剣士と槍兵が走った。

 瞬く間に、少年の背中を追い抜く。

 それでも一歩、遅かった。

 少年が伸ばした腕の、遥か先で。

 剣士と槍兵の、僅かに先で。

 二人と、それに抱えられた一人の影は、溶けるように、消え去った。

 少年の慟哭だけが、響いた。

 



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interval10 Dinner Time

 ぼんやりとした、意識。

 一瞬遅れて理解する。

 ああ、夢を見ているのだ、と。

 

 妹が、泣いていた。

 リボンを、手渡した。

 他愛無い、何かを言った。

 

 夢を、見た。

 

 あの日――妹が虚ろな瞳の人形となって帰ってきた、あの日。

 ドアは、誰にもノックされることは、無かった。

 静かだったから、魔道書の解析が捗った。

 一人分の食事を作って、食べて、寝た。

 

 夢を、見た。

 

 どこかの学校に行って、くだらない仕事を済ませた。

 放課後のグラウンド、制服を着た少年が、高すぎるバーを、飛越えようとしていた。

 何度も、何度も。

 滑稽で、でも尊くて。

 別の場所から、彼を見つめる視線があった気がした。

 気のせいだと、そう思った。

 

 夢を、見た。

 

 弓を引く、彼を見た。

 弓を引く、妹を見た。

 でも、妹は、もう妹ではなかった。

 変色した髪も、瞳もそのままで。

 私とは違う姓で、生きていた。

 もう、戻れないのだと。

 そう思って、少し泣いた。

 

 夢を、見た。

 

 戦いがあった。

 遠坂の姓を持つ者として、避け得ぬ戦いだ。

 皮肉な笑みを浮かべた、従者。

 鉄の意志を持つ少年。

 彼の従者、私が呼び出すべきだった、剣の英霊。

 決して負けるはずの無い、余裕の戦い。

 

 夢を、見た。

 

 剣の英霊は、闇に汚染された。

 弓兵は、その片腕を少年に引き継いで、消えていった。

 妹は、闇の中を這いずり回っていた妹は、狂気に身を委ねた。

 

 夢を、見た。

 

 

 妹を、殺した。

 

 

 夢を、見た。

 夢でよかったと、そう思った。

 これは、耐え難い悪夢だ。

 妹が陵辱され続けていたなんて。

 誰にも救われなかったなんて。

 そんなの、悪夢以外の何物でもない。

 よかった。

 心の底から安堵して。

 妹が、あの腐臭漂う闇の中から救われて、よかったと、そう神に感謝して。

 そのあと、ふ、と思った。

 妹が助かったならば、誰が犠牲になったのだろう。

 妹にとっての救いは、誰にとっての地獄だったのだろう。

 この悪夢は、誰にとっての悪夢なのだろう。

 この夢を、夢でよかったと、そう思うのは、私だけではないのか、と。

 誰が、誰を苦しめているのだろう。

 一体、誰が、誰を。

 

 

 嫌な感覚で、目が覚めた。

 ぼんやりと目を開ける。

 淡い、揺れるような光。おそらくは蝋燭の火が、どこかで揺れているのだろう。

 そして、暖かい。

 冬場だというのに、汗ばむくらいには暖かい。きっと、どこかの部屋の中なのだ。

 軽く身を捩る。

 じゃらり、と、片方だけ残った手首のところで重たい響き。動かそうと試みるが、ピクリとも動いてくれない。

 もしやと思って、足を動かす。

 然り、じゃらりと重たい音、やはり拘束されている。

 なるほど、つまり――。

 

「状況把握は、終りましたか……?」

 

 足元から、声がした。

 背中に、重力を感じる。

 おそらく、寝台か何かに寝かされているのだ。

 ぴんと、一本の棒になったような姿勢。両腕があれば中々様になるのだが、片腕ではいかにも格好がつかない。

 元気のよい小学生が、高らかに腕を掲げたような、滑稽な姿勢。

 その様子を思い浮かべて、私は苦笑した。

 

「ええ、私は囚われの身、そういうことでいいのかしら?」

「はい、正解です、遠坂先輩」

 

 ぴちゃぴちゃと、音がする。

 舌だ。

 それが、私の全身を這い回る。

 下半身を確認することはできないが、少なくとも視界が届く範囲で、私は一切の衣類を身につけていない。

 おそらく、剥ぎ取られたのだろう。

 全裸で、拘束されている。

 それは恐怖よりも、諦めに近い感覚を呼び起こした。

 

「……で、どうするの?私を犯すつもり?ああ、そういえば、貴方、もとは女なんだったわね。なら、今からあの男に変化するの?」

 

 やけっぱちを口にして、それから少し震えた。

 あの、顔。

 頼りがいのあった私の従者と同じ顔でありながら、この上なく歪んだ、貌。

 それが、私の上に覆いかぶさってきたら。

 下卑た笑みを浮かべながら、腰を振ったら。

 私の一番大切なところを、犯したら。

 

 発狂するかも、しれない。

 

 士郎、助けて。

 

 悲鳴を、どうにか噛み殺した。

 

「安心してください、遠坂先輩。私は貴方を辱めたり、しませんから」

 

 くつくつと、笑い声。

 相変わらず、まるでそういう生き物のように、全身を嘗め回す、舌。

 小さく、可憐なそれが、この上なく不快だ。

 

「……じゃあ、どうするつもり?私を取引材料にでもするつもりかしら?」

「なら、お互いに幸せだったんでしょうけれど……」

 

 突然、視界が暗くなる。

 理由は、明快だ。

 誰かが私を覗き込んでいた。

 その、貌。

 間桐、いや、マキリ代羽。

 流れ落ちる、黒絹のような、髪。

 太目の、意志の強そうな眉が、嗜虐に歪む。

 瞳。黒曜石よりも黒い、漆黒。それは、一体どれほどの地獄を見つめ続けてきたのだろうか。

 そして、可憐な唇が、言葉を紡ぐ。

 

「私は、貴方を食べます。厭らしい意味ではありません。咀嚼し嚥下し消化する、そういう意味で、貴方を食べます。ばりばりと、ぐちゃぐちゃと。さて、覚悟は、いいですか?」

 

 ぽとりと、何かが落ちてきた。

 一瞬遅れて理解する。

 涎だ。

 彼女の口から、涎が落ちてきた。

 不意に、口元が笑みを作った。

 きっと、この少女は、お腹を空かせているのだ。

 

『ほら、僕の顔をお食べよ』

 

 そういって自分の一部を空腹の子供に分け与えるヒーローが、どこかにいたな。

 その様が余りにも滑稽で、どこかに恐怖を覚えたのだ。

 しかし、まさか自分が同じ立場になるとは、思いもしなかった。

 私は、喰われる。

 目の前の、少女に。

 理由は、分からない。

 命乞いは、無意味だろう。

 まずは、咽喉元からか。

 それとも、足先から少しずつ。

 ああ、よかった。

 魔術刻印を切り離しておいて、よかった。

 あれがあったら、楽に死ねない。

 きっと、血を流しすぎて失血死するまで、私は死ぬことができないだろう。

 明瞭な意識の中、少しずつ胃の腑に納まる自分を見続けなくてはならない。

 それは、耐え難い地獄だ。

 なら、一息に殺されるほうがいい。

 いや、嫌だ。

 だって、やっと一つになれたんだ。

 想いが、伝わった。

 もう、離れたくない。

 士郎、助けて。

 死にたくないよう。

 死にたくない。

 貴方と一緒に、生きたい。

 正義の味方なら、助けなさいよ、この馬鹿。

 

「怖いですか?だって、こんなに震えている……」

 

 彼女の小さな手が、私の乳房の先端に触れた。

 昨日、あいつが何度も愛してくれた場所。

 そこを、穢された。

 恐怖を遥かに凌駕する、怒り。

 それが、震えるこの身を焼き尽くす。

 

「そこに触るんじゃないわよ、この蟲が……!」

「ああ、いいわ、先輩。そんな声で罵られたら、濡れちゃうじゃないですか……!」

 

 恍惚とした、声。

 びり、と、激しい痛みが襲ってきた。

 顎を引いて、体を眺める。

 そこには、赤子のように乳房にしゃぶりつく、代羽の姿が、あった。

 

「……噛まないでよ。そこ、私とアイツの赤ちゃんを育てる、大事な場所なんだから」

「ああ、それは失礼。でも、ここが一番美味しそう……」

 

 そうだった。

 こいつは、食べるのだ。

 私を、捕食する。

 もう、蜘蛛の巣にかかった。

 あとは、ちゅうちゅうと体液を吸い尽くされるだけ。

 ならば、せめてもの抵抗を。

 地獄に堕ちても胸を張れるくらいの、抵抗を。

 

「――Anfang」

「無駄です、今の貴方に、魔術は使えない……」

 

 確かに、その通りだった。

 本来、全身に溢れかえっている魔力が、全く感じられない。

 エンジンに流れ込むガソリンが、存在しない。

 これでは、魔術が使えるはずなど、ないではないか。

 

「魔力を吸い取る蟲をね、貴方の体内に入れておきました。今の貴方は、一般人と変わる所が無い。普通の、女の子なのですよ……」

「人の体に好き勝手してくれちゃって……ん!」

 

 口を、何かで塞がれた。

 そして、口内で暴れまわる、太い芋虫のようなもの。

 ああ、覚えがある。

 昨日、窒息しそうなくらいに交わしたのだから。

 キス。

 それも、舌と舌を絡めあう、濃厚で緻密な、キスだ。

 舌を、噛み切ろうとする。

 顎を捕まれて、それが出来ない。

 ならばと舌で追い出そうとしても。

 愉しげに、絡み取られる、だけ。

 何も、出来ない。

 何も、出来ない。

 ただ、されるがまま。

 これじゃあ、本当に只のか弱い女の子じゃあないか。

 涙が溢れた。

 情けなかった。

 だから、心の中で、謝った。

 ごめん、士郎。

 私、汚されちゃった――。

 

 一体、何分ほども陵辱され続けたのだろうか。

 もう、息も続かなくなって。

 求めるように、鼻を鳴らしながら酸素を貪り始めた、とき。

 とっても、名残惜しげに、彼女の唇が、離れていった。

 つう、と架かる、唾液の端。

 それを、涙で濁った視界で、見つめる。

 そして、驚いた。

 だって、彼女は嗤っていると思ったから。

 哀れな、抵抗することすら諦めた哀れな獲物を、嗤いながら見つめるのだろうと、そう思った。

 

 でも、彼女は、泣いていた。

 

 口の端に泡立つ涎を貼り付けながら、絶え間なく涙を流し続けていた。

 

「……どうして、泣いているの……?」

「……お腹が、お腹が、空きました……」

 

 その、矛盾した思考。

 目の前に食料が転がっているのに、空腹に涙する。

 それを癒す最も簡単な方法があるにも関わらず、それを行わないで。

 何故。

 そう問うことは、己の寿命を縮める行為。

 好奇心は猫を殺す。

 愚か者でも分かるその理屈を、私はどこかに置き忘れてしまったのだろうか。

 

「……なら、何で私を、食べないの……?」

「食べたいんです!こんなにも、私は貴方を食べたいのに……!」

 

 少女は、咽喉の奥に、指を突っ込んだ。

 寝台の横で、嘔吐く音が、聞える。

 

「おえ、げええ!」

 

 びしゃびしゃと、凄い音が響く。

 つん、と、反吐の臭い。

 ああ、酷いな、こりゃ。

 そう、思った。

 

「食べたいよう、食べたいよう……」

 

 これは、地獄だ。

 きっと、あの子が垣間見た蟲倉以上の、地獄。

 

 餓鬼地獄。

 

 食べても食べても、空腹が癒えることは無い。

 只管に、食い尽くす。

 動物を、草木を、土を、虫を、糞便を、無機物を、人肉を。

 そして、最後に自分を。

 彼女は、そういう場所にいるのだ。

 それが、哀れでならなかった。

 きっと、私の妹の代わりに、地獄を味わった、彼女。

 ならば、この体が食べられてもいいか、そう思った。

 

「……どうして。どうして、食べられないんだろう……?こんなに、お腹が減っているのに、貴方は、あんなにも罪深いのに……何で、何で……」

 

 声が、聞えた。

 ただ、声が。

 

「遠坂、俺は、お前を、食べられない……!」

 

 その、響き。

 遠いどこかで聞いたことがあるような、その響き。

 それを聞いて、私は、決意した。

 

「いいよ、食べても……」

 

 ぴくり、と、何かが動いた、気配。

 それが、耳を立てて周囲を窺うウサギみたいで、少し可愛らしかった。

 

「だって、腕も一本ないし、足の一本くらいなら、いいわよ……」

「……遠坂、先輩……」

 

 ゆらりと立ち上がった、人影。

 目が、爛々と輝いている。

 その瞳は、墓場を徘徊するグールのそれだろう。

 しかし、美しいと。

 そう、思ってしまったのだ。

 

「条件は、二つ。痛くしないこと。あと、質のいい義足と義手を用意すること。これでどう?」

「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます……!」

 

 彼女は、何度もそう言って、私の胸元に縋りついた。

 そして、泣いた。

 声を上げ、恥も外聞もなく、泣き叫んだ。

 ああ、こんなに大きな子供を産んだつもりは無いのに。

 これでは、まるで母親ではないか。

 ならば、片足くらい、くれてやってもいいのだろうか。

 きっと、三十分後には後悔する思考。

 それでも、今はこの子を、助けたかった。

 いつしか、胸元の体温が、消えていた。

 ちくりと、注射針の感触。

 思わず顔を顰める。

 ごめんなさいと、何かが詫びる、声。

 しばらくしてから、音が、聞えた。

 視界の及ばない足元から、くちゃくちゃと肉を咀嚼する音が聞え始めた。

 

 ――ああ、私、食べられてるんだ。

 

 薬でぼんやりとし始めた意識の中、そう、思った。



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interval11 Boy,Meats,Girl

 私は、長い間ここに立っていた。

 一体、どれほどの時間だったのだろうか。

 目の前には、錆びの浮いた、鉄の扉。

 それを見つめながら、じっと立ち尽くしている。

 人は、弱い生き物である。

 基準が無ければ、安心できない。

 座標が無ければ、己を見失う。

 ここに秒針は無い。

 故に、一瞬は無限。

 もう、どれほどの間ここに立っているのか、分からない。

 ぼう、と、まるで影のように。

 じりじりと、蝋燭の焦げる音が聞える。

 どこかから隙間風が入ってきているのだろうか、時折ゆらゆらと揺らめく。

 私の影も、揺れる。

 現世においては稀人に過ぎない身ではあるが、庇の代わりくらいにはなるらしい。

 そう思うと、仮面の下の表情筋が、微妙に蠕動したようだ。

 皮肉なものだと思う。

 私は、限定された一つの用途のために召喚された。

 唯一つ、それ以外の目的を望まれない、いわば道具として。

 

 曰く、殺しあえ。

 

 他のサーヴァントを、或いは敵するマスターを殺す。

 それが、私がこの世界に存在する意味。そのはずだった。

 ならば、私は何度戦ったのだろうか。

 指折り数えようとして、止めた。

 あまりにも馬鹿らしくなったからだ。

 それくらいは、覚えている。

 いくら磨耗して、人を殺す方法についてしか記憶してくれなくなった脳細胞でも、それくらいのことは覚えてくれているらしい。

 

 たった、一度だけだ。

 

 私が戦ったのは、一度だけ。

 いつかの夜、赤い外套を羽織った弓兵と、一戦を交えただけだ。

 しかも、惨敗。

 本来であれば叱責も当然の、情けない戦果であった。

 その上、騎乗兵と二騎がかりでさえ、獲物を仕留めることは叶わなかった。

 全く、役立たずにも程があるというものだろう。

 しかし、彼女は怒らなかった。

 声を荒げることも、嫌み一つを口にすることも無く、いつも通りの平静な声で、私を労ってくれた。

 それが、如何程に私の自尊心を傷つけたか、あの少女は知り得るのだろうか。

 

 あと、私が為し得たこと。

 

 敵の本拠地を、空き巣のように家捜し。

 半死人の、とどめ。

 油断した女子供を、不意打ちで殺した。

 

 その、程度だ。

 

 正面きっての戦いは、全て彼女の中の彼に任せた。

 マスターの影に隠れる、サーヴァント。

 はは、らしいじゃないか、アサシン。

 全くもって、貴様らしい。

 生前も、死後も、お前にはそれしか出来なかったのだ。

 たった一つのことしか、出来なかったのだ。

 たった、一つ。

 

 人を笑わせることなど、出来なかった。

 雄々しく戦場で戦うことなんて、出来なかった。

 人を教え、導くことなんて、出来なかった。

 

 私に許されたのは、人を殺す、ただその一事だけだった。

 

 姑息に、卑劣に、下品に。

 

 闇の中で、首をへし折る。

 天井から、毒を垂らす。

 すれ違い様に、太腿の裏側を掻き切る。

 

 そうして、殺した。

 

 殺した。

 殺した。

 殺した。

 ああ、殺したよ。

 女と子供の肉は、驚くほどに柔らかかった。

 首を切るといっても、大動脈は想像以上にこりこりしていて、中々切れてくれない。

 切り裂いた胸の中に手を突っ込むとな、ぬるりと暖かいんだ。

 

 最初は、生きるために殺した。

 糧を得るため、そして、あの楽園に帰るため。

 でもな、どんどん薄れていくんだ。

 目的意識が、薄れていく。

 考えてみれば、明白だ。

 誰が、飯を食べるために、名前を捨てるか。

 誰が、女や薬のために、顔を焼くか。

 そんなくだらないもののために、血反吐を吐くような修練を耐え凌げるか。

 決まっている。

 そんなもののためじゃあない。

 生きるためとか、食べるためとか、快楽のためとか、どうでもよくなってくる。

 もちろん、高尚な思想なんて、最初から持ち合わせちゃあいないんだ。

 なら、何があるのだろうか。

 目的意識が薄れて、いずれ無くなって、真空になった空間に、何が残ったのか。

 知っている。

 俺は、覚えているよ。

 それは、血の味だ。

 目の前で真っ赤に咲く、他人の命。

 毒で咲かせた。

 刃物で咲かせた。

 魔術で咲かせてやった。

 どれも、凄く綺麗だった。

 他人の人生を終らせたという、満足感。

 他人の人生を自分のものにしたという、征服感。

 己の力は誰のも負けないという、優越感。

 それは、どんな麻薬よりも甘美だったんだ。

 だから、殺した。

 最初の目的は、何だったんだろうな。

 生きるために、糧を得るために殺す、もう一つ前、だ。

 もっともっと、前のこと。

 なんだったかな。

 もう、思い出せないな。

 何かのために、戦った気がする。

 何かが嫌で、何かになりたくて、戦った気がする。

 でも、駄目なんだ。

 一度殺すと、もう駄目だ。

 何かのために殺していたはずなのに。

 気がつけば、殺すための何かを探している。

 殺す理由を探している。

 殺すことが、幸せでならない。

 そのことに気付くと、もう駄目だな。

 私は、その瞬間に人を止めた。

 人並みの幸せを望まなくなった。

 愛しい恋人と口付けを交わす唇は、削ぎ落とした。

 愛しい稚児を抱くための掌は、はらわたに汚れている。

 もう、そんなことは、とうの昔に諦めている。

 

 そして、血の色だけを望むようになった。

 

 それが、幸せでならない。

 幸福で、ならないんだ。

 どこの哲学者が言ったのだろうか。

 人が深淵を覗き込むとき、深淵もまた人を覗き込む、と

 私は、魅入られてしまった。

 何か、深淵に潜む、何かにだ。

 もう、離れてくれない。

 この手が、離そうとしてくれない。

 だって、幸せなのだから。

 幸せならば、十分だ。

 人は、結局のところそれだけを求める。

 愛することも。

 憎むことも。

 子を為すことも。

 信じることも、裏切ることも。

 全ては、幸福となるための手段に過ぎない。

 平凡を求める。

 普通でありたい。

 他者よりも優れていたいという欲望と、相反するような希望。

 注目されたい、されたくない。

 労られたい、放っておいて欲しい。

 服従したい、従えたい。

 相反する欲望の塊でありながら、それらは全てが同一のベクトルを持っている。

 あらゆる生き方、思考、哲学、行動が、結局のところ幸福でありたいという欲望を充足させるものに過ぎない。

 聖女のような自己犠牲も、結局は己が幸せになりたいから。

 指向性は、死姦愛好者のそれと些かも変わりない。

 だから、私は充たされている。

 何故なら、私は確かに幸せだったのだから。

 人を殺して、やはり幸せだったのだ。

 己を卑下する必要は、無い。

 胸を張れ、アサシン。

 ハサン=サッバーハよ。

 貴様は、立派だよ。

 お前は、誰よりも殺したのだろう?

 世界を見渡してみろ。

 どこに、そのことを善なる行為と位置づける国がある、宗教がある。

 結果としてのそれを容認する国があっても、行為としてのそれを勧奨する国は、無い。

 殉教、聖戦を讃える宗教はあっても、快楽殺人を崇拝する教えなど、どこにあるか。

 どこにも無い。

 しかし、貴様は幸せなのだろう?

 人を殺して、その人生に無理矢理な幕を下ろして、そのことを自覚しながらも幸せなのだろう。

 ならば、正解だ。

 貴様の人生は、何ら恥じることなど無かった。

 充足した人生だったではないか。

 その結果としての地獄があったとしても、胸を張って受け入れればいい。

 地獄の獄卒どもに、自慢してやれ。

 己が殺した人の数を。

 どうだ、貴様らは私ほどに人を殺したのか、と。

 悔しがらせて、歯噛みさせて、身悶えさせてやればいいのだ。

 そうだ。

 私の人生に、悔いる要素など、一片たりともあるものか。

 そうだ。

 そんなもの、存在しない。

 

 だが。

 なら。

 ならば、だ。

 どうして、私は召喚に応じた。

 何を、未練たらしく求めているのだ。

 名前?

 本当にお前は、名前が欲しいのか。

 そうなのか?

 果たして、そうなのか、アサシン。

 そんなものが、そこまで欲しいのか。

 恋焦がれ、それこそ身を焦がすまでに、欲しいというのか。

 己の死後に、己の名前を求めて何になる。

 墓標に刻まれる文字が、多少変化したところで、それが何になろうか。

 私は、死んだ。

 仮に、私に生命があって、それを永劫のものにしたいというなら、別段。

 もう終わり、朽ち果てた命の呼称など、誰も気に留めない。

 神の名前ですら、この時代には軽すぎる。

 そんな時代に己の名前を残して、何になる?

 お前が欲するものは、何だ?。

 アサシン。

 至高の暗殺者として生きて、そして死んで。

 その後に、お前は何を求めたい?

 名前が欲しいのか?

 ハサン=サッバーハという、輝かしく呪われた名前。

 それを、自分だけのものにしたいと。

 本気で、そう思っているのか。

 そうなのか。

 私は、本当に。

 そんなものが。

「アサシン」

 

interval11 Boy,Meats,Girl.

 

「アサシン」

 

 疲れが染み出たような声で、私は目覚めた。

 夢を、見ていたのだろうか。

 酷く現実味の薄い、現実。

 今、再び目が覚めたとしても、それ自体驚くことは何も無い。

 そんな灰色の風景の中、私の主が佇んでいた。

 私の目線の、遥か下から、少女の声がする。

 

「……すまない、少し寝ていたようだ」

「……サーヴァントも、眠ることがあるのですか?」

 

 その響きに、皮肉や譴責に響きは無かった。

 あったのは、純粋な驚きの色のみ。

 それゆえに、私はより深く赤面する破目になってしまったのだが。

 

「……必要なわけではない。ただ、人の形をするということは、人の業に囚われるということ、それだけの話だ」

 

 誰が聞いてもそれとわかる、拙い言い訳。

 しかし、少女は微笑ってくれた。

 くすくすと、本当に楽しそうに。

 血に塗れた口元に、手を当てながら。

 それを見て、思ったのだ。

 ああ、よかった、と。

 

「ああ、おかしい!要するに、転寝をしていたのですね、貴方は!」

「……否定は、しない」

 

 私の言葉に、彼女は火がついたように笑った。

 口元に手を当てたまま、蹲ってしまった。

 ぴくぴくと、小さな背中が震えている。

 此間、平手打ちを喰らって憮然とした私を見たときも、彼女は同じく、大いに笑った。

 そのことを勘案するに、どうやら私の反応に、彼女の笑いの痛点を刺激する何かがあるのは間違いないらしい。

 それにしても、流石にここまで笑われると、私としても若干不本意である。

 前は、寝姿を見守っていたら平手打ちで報われた。

 故に、扉の外で警護をしていたのだ。

 確かに、その最中に船を漕いでしまったのだ、それが叱責の対象となることは間違いない。

 しかし、そこまで笑うことでもあるまいに。

 そう思うのは私の器量が狭いからだろうか。

 

「ああ、おかしかった。貴方にも可愛らしいところがあるのですね」

「……光栄だよ、心からな。……しかし、主殿は私の失態に応えるに、怒声ではなく笑い声をもって鞭を打つ。それが、少し痛いな」

 

 私がそう言うと、彼女の表情が少し沈痛に歪んだ。

 その姿に、ちくりと痛む。

 

「……すみませんでした。そういう意図は無かったのです。信じてください」

「……いや、私も言い過ぎた。少なくとも、此度のは私の失態である。いかなる罰を下されても甘受せねばならんところ。この程度の仕置きに不平を漏らすとは、あってはならぬことだな」

「そんな!……私は、本当にそういうつもりでは……」

 

 俯いて、僅かに震える彼女の肩。

 細く、薄く、肉が透けるほどに、白い。

 それを、抱きしめたくなる。

 

 抱きしめて、折り砕いて、血反吐を吐かせたくなる。

 

 この気持ちは、何だろう。

 この少女を、私だけのものにしたい。

 他の誰にも、触れさせたくない。

 この気持ちは、どこから来るものだろう。

 この世界に召喚されたときにも、味わった。

 あの時、己の血に塗れ、己の心臓を握り締め、己の祖父を食い殺した、彼女の表情。

 それを見たときに、私の胸中を充たした、感情。

 懐かしく、おそらくそれ以上に忌まわしい、感情。

 私の膝を、これでも組織の頂点にあった私の膝を、無条件に折り伏せた、あの感情。

 この、胸を締め付けるような澱に、何と名付ければよいのだろうか。

「…私も、主を非難する意図は無かった。そのことは、信じて欲しい。…もう、この会話は打ち切ろう。今の我々には、少しも相応しくない」

 懐に入れていた清潔な布切れで、彼女の口元を拭ってやる。

 咽喉元をくすぐられた猫のように、目を細める少女。

 その様が、私の深奥の澱を、更に大きくしていく。

 

「……食べたのだな」

 

 主語は、語らない。

 言うまでもないことだろうから。

 

「……はい。食べました」

 

 彼女も、語らない。

 もう、言う必要も無いのだろう。

「もう、幾百の命を食い殺しました。その数が、一つ増えただけ。もう、その数すらも覚えていませんが」

 

「……ならば、いいのだ」

 

 ぱさり、と、音がした。

 私が彼女の口元を拭った、布切れだ。

 真っ白だったそれが、赤黒く染まって、コンクリートの床を彩っている。

 もう、二度と使われることの無い、存在価値を終えた、ハンカチ。

 それを眺めながら、私は少女を抱きしめていた。

 

「……放しなさい、アサシン。私は、貴方にそのような行動を許可した覚えはありません」

「ああ、その通りだ。しかし、掣肘を受けた覚えも無い」

「……詭弁です」

「ああ、その通りだ」

 

 彼女は、私の腕の中、ピクリとも動かない。

 ただ、聞える。 

 彼女の息遣いと、私が抉り取った心臓の鼓動が。

 その音の、なんと安らかなこと!

 私の、既に動かなくなって久しい心臓に、暖かい血液が送り込まれるかのようではないか。

 

「……もう一度、言います。放してください」

「……ならば、何故振りほどかぬか」

 

 少女の声は、嗚咽に震えていた。

 涙は、流れない。

 その目頭に決壊寸前の水分を湛えながら、涙だけは流さない。

 まるで、それが最後の矜持であると、そう言わんばかりに。

 

「……決まっています。私が、貴方に抱かれていたいからです」

「……ならば、何故私を拒絶するか」

 

 私を見上げる、大きな瞳。

 瞼の裏の闇よりもなお暗く、しかし黒真珠よりも輝かしい。

 その、絶望と、それ以上に欲情に濡れた瞳。

 それが、私の中で消えかけていた欲望を刺激する。

 

「……貴方は、人でしょう。私の身体は、既に人のそれではありません」

 

 少女は、その流れるような長髪の一房を、引き千切った。

 夜空を細く削ったような、黒髪。

 それが、彼女の掌で、苦しげに蠢いた。

 うぞうぞと、焼けた地面に悶える、蚯蚓のように。

 

「もう、私の身体に、人であると胸を張れる部位は、残っていない。それは、私が人ではないと、そういうことでしょう?」

 

 徐々に縮れ、ついには枯れ果てた、彼女の髪だったもの。

 それは、人の腸に寄生するという長虫を思い起こさせた。

 

「人ではないから、人には抱かれたくないと、そういうことか」

「人ではないから、貴方が抱くには相応しくない、そういうことです」

 

 彼女は優しく微笑みながら、しかしおそらくは全身の力を振り絞って、私の腕の中からその身を逃れさせた。

 その、微笑み。

 このまま手首を掻き切りそうなほどに、矮小な存在感。

 もう、この場から消え失せてしまったかのような、失望。

 少女が、背を向ける。

 

 駄目だ。

 いけない。

 このまま彼女を行かせるわけには、いかない。

 

 私は、既に己の一部となって久しい、白い仮面を、掴んだ。

「マキリシロウ」

 

 

「マキリシロウ」

 

 一瞬、それが誰の声か、分からなかった。

 誰のことを呼んでいるのか、分からなかった。

 だって、初めてだったのだ。

 初めて、名前を呼ばれた。

 マキリ、シロウ、と。

 そう呼ばれたのが、そう呼んでもらえたのが、生涯で二度目の体験。

 初めて呼んでくれたのは、私が初めて誘った男性。

 あの、聳える巌のような、神父。

 次に呼んでくれたのが、彼。

 私が呼び出した、私だけの英雄。

 その彼の、私を指した言霊。

 それが、この上なく快楽だった。

 ああ、私の名前を知ってくれている。

 私の名前を呼んでくれる人がいる。

 それが、どれ程に救いであるか。

 どれ程の、安らぎであるか。

 

「こちらを向け」

 

 心なしか、堅い声。 

 どこかに決意を孕んだ、声。

 それが私の決心を鈍らせる。

 もう、立ち去ろうと思っていた。

 涙は、出来るだけ流したくない。

 流すにしても、人前は嫌だ。

 だから、部屋で泣こうと思った。

 その決心が、揺らぐ。

 ゆらゆら、ゆらゆらと。

 

「こちらを向け」

 

 繰り返された、有無を言わさぬ強い響き。

 その暖かさに負けて、私は振り返る。

 その行為が如何に恥知らずか、おそらくは十分に理解し得ないまま。

 そして、見た。

 初めて、見た。

 彼の、仮面の下。

 彼の、素顔。

 

「目を逸らすな。しかと焼きつけよ」

 

 その、顔。

 焼け爛れて、赤黒く濁った、皮膚。

 唇は、削ぎ落とされている。

 頬骨は削られ、鼻と呼べる突起は元から存在しないかのよう。

 目は、大きく真ん丸に見開かれている。

 ひょっとしたら、瞼すらも失ったのか。

 

「……ア、サシン、それは……」

 

 我知らず、二、三歩、後ずさっていた。

 

「勘違いするな。これは、己の意志で行ったもの。瞼をちぎったのも、鼻を削いだのも、唇を焼ききったのも、全ては己の意志。誰でもなくなることで、誰にでもなる。そうすることで、山の翁の名を受け継いだのだ」

 

 知っていた。

 その程度の知識、知っていた。

 そして、痛感した。

 知るという行為の、なんと儚いこと!

 そんなもの、無知、無意味、蒙昧にすぎる。

 如何なる知識も、彼の相貌を語るには矮小。

 その、余りに苛烈な、意志。

 それを語るに、己の浅慮をひけらかすなど、無恥にも程がある。

 

「どうだ、恐ろしいか」

 

 その声が、遠い。

 私の鼓膜が、千切れ飛んでしまったのだろうか。

 

「私を、恐れるか」

 

 否定したい。

 私は、露ほども貴方を恐れていない、と。

 この膝の震えは、異なる感情の発露である、と。

 

「ならば、いい。私を嫌悪して、私の腕から逃れるならば、それを許そう」

 

 違うの。

 私は、違うの。

 私は、こんなにも、貴方を。

 貴方、だけ、を。

 

「しかし、己を卑下するのは、許さぬ。私がお使え申上げているのは、その程度の方ではない。自分の身体が人でない?それが如何程のことか!貴方はほれ、そんなにも美しいではないか!」

 

 ああ。

 ああ。

 ああ。

 

「お間違えめさるなよ。今宵、貴方は私の醜さにより、私を恐れるが故に、私の腕から逃げたのだ。それ以外は在り得ぬ。己の身を恥じるような愚物が、私の主であるはずが無い。そのことを、ゆめお忘れになるな」

 

 私は、駆け出していた。

 

 ばちん、と、凄い音が鳴った。

 

 それが、私の掌と、彼の頬が奏でた音であると、やっとのことで気付いた。

 

 呆気に取られた、彼の表情。

 

 私の頭の、遥か頭上にある、その顔。

 

 私は、精一杯、跳躍して。

 

 彼の首に、腕を絡めて。

 

 その、存在しない唇に、私の唇を、合わせた。

 

 歯と歯が、かちんとぶつかる。

 

 その、どこか間の抜けた、音。

 

 驚きで僅かに空いた、歯の隙間。

 

 そこに、舌を滑り込ませてやる。

 

 技巧など、あったものではない。

 

 鼻息も荒い。

 

 貪るような、口付け。

 

 そこに、愛情なんて、無かったのかもしれない。

 

 憐憫、だろうか。

 

 意地、だろうか。

 

 怒り、かも知れない。

 

 それでもいい、そう思う。

 

 とにかく、許せなかった。

 

 何が。

 

 そう問われても、分からない。

 

 何がなんだか分からなかったが、それでも許せなかったのだ。

 

 やがて息が続かなくなって、唇を離す。

 

 そういえば、私の舌は、生血に塗れていた。

 

 そんなことすら忘れてしまうくらいに、私は怒っていたのだ。

 

「主殿、何を……」

 

 目の前にある、彼の素顔。

 醜く焼け爛れ、おそらく虫にも愛されない、そんな顔。

 その顔に、おそらく人を噛み殺すような笑みを向けてやる。

 

「……きなさい」

 

 擦れた、声。

 きっと、私が何を言ったのか、神様だって分からないはずだ。

 然り、きょとんとした彼の表情。

 それを愛しいと思ってしまったのだ。

 文句がある奴は、雁首揃えて出て来い。

 片っ端から、食い殺してやる。

 

「主殿、今、何と……?」

「私を抱きなさいと、そう言いました、この愚図!」

 

 その瞬間、左腕を、蟲が這い回るような掻痒感が襲った。

 この感覚は、覚えている。

 令呪。

 それを使ったときの感覚だ。

 全く、笑える。

 私は、これまでに二度、令呪を使った。

 一度目は、心臓を抉り出させるために。

 二度目は、無謀な戦を避けさせるために。

 で、三回目がこれか。

 最後の決戦を控えている今、それにどれほどの価値があるのか、計り知れない。

 おそらく、長い聖杯戦争の歴史でも、初めてのことなのではないだろうか。

 三度目の令呪、サーヴァントに対する掣肘として、他の二回よりも遥かに重要な意味を有する、令呪。

 それを、己の性欲を満たすために使用する。

 滑稽、ここに極まれり、だ。

 それでも。

 それでも、この一瞬だけ。

 私は、私のことが好きになれそうな、そんな錯覚を抱いた。

 

「主よ……!」

 

 彼は、私を押し倒した。

 背中に感じたのは、冷たく堅いコンクリート。

 ああ、もう少しムードのある場所で命じるべきだったかと、筋違いな後悔を抱く。

 それでも、そんな自分が楽しい。

 そんな感情、何時以来だろうか。

 

「主よ……主よ……!」

 

 切羽詰った彼の声。

 ああ、私はまたしても彼を侮辱してしまった。

 そのことだけが、痛い。

 でも、それ以上に嬉しかった。

 びりびりと、まるで紙のように破かれていく私の衣装。

 肌が寒気に晒されると、乳首がぴりりと縮こまる。

 それでも、私は知っている。

 この肌は、すぐに暖かくなる。

 彼の手が、私の身体を温めてくれる。

 きっと、それは泣きたくなるくらいに幸福だろう。

 なのに。

 何故。

 私の瞳からは。

 絶え間ない涙が、流れていくのだろうか。

 

「許してください、許してください、アサシン……!」

 

 どこかで聞える、誰かが謝る声。

 

「済まぬ、済まぬ、主よ……!」

 

 それに、もう一つ、間の抜けた声が、重なる。

 ああ、修羅場だな。

 そんな陳腐な感想を抱いた。

 そのとき、一際強く、蝋燭の火が揺らめいた。

 灯りに誘われた哀れな蛾が、それに飛び込んだのだ。

 季節は冬なのに、そんな気がした。

 

 

 夢を、見ていた。

 遠い、夢だった。

 原初の夢よりも、更に遠い夢だった。

 それは、違う他人の夢だった。

 多分、一人の男の夢だった。

 一人の、男。

 自分の知らない、一人の男の夢だった。

 遠い異国に、彼は生まれた。

 今日の糧に喘ぐような、寒村。

 人からも、神からも、時代からも忘れられたような、寒村。

 彼は、其処に生まれた。

 故に、彼は、外の世界に憧れた。

 いや、憧れたのではないか。

 彼は、恐怖したのだ。

 このまま、誰にも知られることなく朽ちていくことに。

 己という存在が、誰からも忘れられて朽ちていくことに。

 彼は、誰よりも臆病だったから。

 空腹よりも、夜の獣の遠吠えよりも、何よりも、一人であることを恐れた。

 独りぼっちになることを、恐れたのだ。

 だから、彼は悪魔の囁きに首肯した。

 きっと、彼は気付いていたのだ。

 それが、暖かいものではないと。

 それが、己を不幸にする楔であると。

 それでも、彼は首肯した。

 悪魔との契約を、是とした。

 それは、ひたすら恐怖ゆえに。

 己が一人になっていく、その恐怖ゆえに。

 全てを、打ち捨てた。

 父を、母を、友を、そして神を。

 それでも、一心に希ったのだ。

 勇壮は叙事詩の英雄のように。

 ああ、己も、誰かの中に息づきたいと。

 そうすれば、自分は永遠に一人ではなくなる、と。

 それは、愚かな望みだったのだろう。

 誰もが一笑に付す、くだらぬ願い。

 ならば、嗤えばいい。

 彼を、嗤えばいい。

 キグルイと憐れんで、愚か者と指差して、身の程知らずと蔑んで。

 腹を抱えて嗤えばいい。

 嗤うがいい、嗤うがいい。

 息が切れるまで、嗤い尽くせ。

 そうしたら、私が二度と嗤うこともできなくしてやる。

 

 

 瞼を突き通す陽光で、目が覚めた。

 柔らかくて暖かい何かに包まれている。

 ほかほかとして、麻薬のように眠気を誘う。

 寝返りをうつと、腰を滑る布の感触。

 まだ目を開けていないからハッキリしないが、おそらく清潔なシーツを敷いた、ベッドの上で眠っている。

 きっと、コンクリートの上で目覚めると思っていたから、意外といえば意外だった。

 ほとんど無意識に、私以外の温もりを探すが、それはどこにも見当たらない。

 無情なことである。

 そう思って、眉を顰める。

 

「起きたか、主よ」

 

 それは、いつもの彼の声。

 どこにも昨日の余熱は無い。

 それが、どこまでも彼らしくて、笑いが堪えきれなかった。

 布団を頭から被って、笑い声を殺してやる。

 だって、これ以上、優しい彼を傷つけるわけにはいかないから。

 

「……もう、慣れた。そうやって気を使われるほうが、心外だ」

 

 その、少しいじけた声は反則だろう。

 私は、声をあげて笑った。

 布団を、弾き飛ばして。

 生まれたままの姿で、笑い転げた。

 

「……満足であるか」

「ええ、もう、大満足!」

 

 眼の下を拭ってくれる、彼の長い指。

 昨日、散々私を弄んだそれが、細長く美しいことに、今更に気がついた。

 

「……勝とう。でなければ、嘘だ」

「……はい。勝ちましょう、アサシン!」

 

 既に、彼は仮面をつけている。 

 その、歪んだ笑み。

 そこに、私は口付けた。

 私は、微笑った。

 仮面の下の彼の素顔も、きっと微笑ってくれているはずだ。

 そんな、夢のような情景を、私は夢想した。



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episode74 それでも朝は、やってくる。

 目が、覚めた。

 意外なほどに、さっぱりとした目覚めだった。

 身を縮こませるような寒気も、それを助長したのだろうか。

 瞼が、軽い。

 視界が、一瞬で冴え渡る。

 少し、首の後ろが痛い。

 右手で摩りながら、あたりを見回す。

 見覚えのある部屋、しかし俺の部屋ではない部屋。どうやら、客間の一つに俺は寝かされていたらしい。

 布団を跳ね上げるように、起きる。

 身体が、軽い。

 それでも、がちがちと震える顎を疎ましく思いながら、急ぎ足で風呂場へと向かう。

 太陽よりも早く起きてしまったのだろう、部屋の外はまだ暗かった。これでは、おそらく三時間と寝ていないのではないだろうか。

 きっと、精神が興奮して、上手く寝付けなかったのだろう。未熟なことである。

 肩を抱きながら、廊下を歩く。

 途中、俺の部屋の前を通った。

 耳を、欹てる。

 すうすうと、安らかなセイバーの寝息。

 それに、泣きたくなるほどの安堵を覚える。

 そして、また歩いた。

 真っ暗な脱衣所に着く。

 手探りで灯りのスイッチを入れてやる。

 檜造りの自慢の湯船、その蓋を取ると、白い湯気が溢れ出す。昨日の残り湯ではあるが、冬の早朝、暖かい湯は何よりのご馳走だ。

 手早く寝巻きを脱ぎ捨て、二、三度、掛け湯をする。

 分厚い布団の中にまで冷気の侵略は及んでいたのだろう、多少冷めたはずの残り湯が、声が出そうになるくらいに熱く感じた。

 最後に頭から湯をかぶって、それから湯船に浸かる。

 痺れるような感覚に、思わず目を閉じる。

 息が止まるような数瞬。快楽と苦痛が綯い交ぜになって、瞼の裏がちかちかする。

 それでも、満足の溜息を吐き出す。

 真まで冷えた体に、じんわりと熱が染み渡っていく。

 最後に残っていた眠気の残滓が、汗と共に抜け落ちていく。

 ゆっくりと目を開く。

 雲の中みたいな、濃い湯気。

 ぽたぽたと、前髪から滴る水滴が、水面に波紋をおこしている。

 それを見つめながら、思った。

 夢じゃないんだ、と。

 これは、現実なんだ、と。

 

 一昨日の夜、憧れ続けていた女の子と結ばれて。

 昨日の夜、その子を攫われた。

 

「なんて、無様…」

 

 両腕を、思い切り水面に叩きつける。

 ばしゃりと、大量の湯が跳ね散る。

 その幾らかが、水滴となって眼球を打つ。

 だから、流れたのは眼に入った残り湯だけ。

 それ以外のものが流れたなんて、気のせいだ。

 頬肉を、噛む。

 じわりと、血の味。

 錆びた鉄の味が、吐き気を誘う。

 そして、思うのだ。

 こんなものを口にしなければ、彼女は生きていくことすら出来ないというのか。

 ならば、それは、どれほど苦しいことなのだろう、と。

 

episode74 それでも朝は、やってくる。

 

「死徒って、何のことか分かる?」

 

 家に帰っていきなり、イリヤがそう言った。

 時間は、深夜だ。そもそも学校に向けて出発した時間からして日付を跨いでいたのだから、そろそろ早朝と呼んだほうがいい時間帯になりつつある。

 ここにいるのは、俺、セラさん、ランサー、そしてイリヤの四人。あとは、全員が意識を失って床に伏せている。

 桜は、凛との戦闘とランサーとの契約で、魔力を使い果たしてしまった。おそらく、今日一日は動くことも出来ないだろう。

 リズは、既に一日の稼働時間の限界を超えてしまった、とのこと。ホムンクルスがどうとか、難しいところはよく分からなかったが、命に別状はないらしい。

 一番危ないのが、セイバーだ。

 あのとき、ヨハネが使役した、蟲。

 アポルリオン。

 人類を粛清するために神が使わした、滅びの蟲。

 その毒針を、もろに喰らったのだ。

 五ヶ月間、死に勝るようなあらゆる苦しみを味あわせ、しかし死は遠ざかるという、猛毒。それは聖剣の鞘をもってしても容易に解毒がかなうものではなかったようだ。

 ヨハネとアサシンが立ち去った後、セイバーはふらりと倒れた。きっと、緊張の糸が切れたのだろう。

 身体中を神話の毒で蝕まれながら、しかし俺なんかのために戦ってくれた彼女を想うと、涙が出そうになる。

 ぜえぜえと息の荒い彼女を背負って、家までたどり着いたのが午前の二時。彼女は今、俺の部屋に敷いた布団の中だ。

 

『サーヴァントがあれくらいで死ぬかよ。明日にはけろりとしてる。戦士に気を使いすぎるのはかえって残酷だぜ、小僧』

 

 彼女を看病しようとした俺に、ランサーはそう言った。

 たしかに、彼女は誇り高い。もし、目覚めたときに眼の下に隈を作った俺がいれば、彼女は間違いなく自分を責めるだろう。

 今日、誓ったのだ。

 彼女と一緒に、戦うと。

 背中を預けて、戦うのだと。

 それは、相棒を信じるということ。

 ならば、今俺の為すことは、彼女の苦しげな寝顔を見続けることでもなければ、その手を握り締めることでもない。

 俺は、出来るだけ静かに障子を閉めた。

 

「吸血鬼、のことじゃあないのか?」

「概ねのイメージとしては正解。でも、それだけしか言葉が出てこないなら、細かいところは知らない、そういうことね」

 

 緑茶を綺麗に啜りながら、イリヤはそう言った。

 純和式の、居間。

 そこにいる日本人は自分だけ。

 セラさんはさして苦しげでも無く正座をしているが、イリヤは胡坐を組み、ランサーは行儀悪く片足を立膝にしてくつろいでいる。

 時計の針の音ですら五月蝿いような、静寂。

 時折響くのが、お茶請けの煎餅を、ランサーが豪快に齧る音。

 

「…じゃあ、死徒っていうのは、何物だ?」

 

 イリヤが憂鬱そうな視線を寄越す。

 きっと碌でもない回答が返ってくる、それは予知にも等しい直感だった。

 

「定義は、難しいわ。人以外の動物でも死徒になることは可能だし、植物が死徒になったっていう稀な例も存在する。己を現象化して不死を得た者、己を一つの世界として不死を得た者。趣味で血を飲む者もいれば、飼い主の真似をして血を飲み始めたっていう個体もあるみたいね。ただ、あくまで一般的な死徒をイメージして一番大きな枠を当てはめるならば、『不死に限りなく近い、しかし生き永らえるために人の生血を吸う者』、こうなると思うのよ」

 

 テーブルに肘をついて、その上に顎を乗せた姿勢。

 しどけなく胡坐を組んだ足。

 だらしないはずのそれらが、何故だか優雅で、見惚れそうになる。これが生まれつき高貴な者と庶民の違いだろうか。

 

「…あの野郎は言ったな。代羽は、死徒だと。それは、そういうことなのか…?」

「あの雰囲気じゃあ、けちな脅しってわけじゃあないと思う。多分、あれは真実。マキリ代羽は、死徒。不死者にして人の血肉を貪るカニバリスト、そういうことでしょうね」

 

 ぐらりと、視界が歪む。

 光が、音が、どんどん遠くなる。

 

 イメージが、浮かんだ。

 学校だ。

 学校の、廊下。

 騒がしく、しかし不思議と耳に残らない笑い声。

 ざわついた足音が其処彼処から響いてくる。

 周囲を満たす人の気配、しかし、視界には、彼女以外誰一人映らない。

 窓から差し入ってくる、煌くような陽光。

 きらきらとしたその輝きが、目の前の少女の黒髪の上で滑り落ちていく。

 あまりにも美しいものは、光すらも恐れ戦くのだろうか。

 そう、思ったのだ。

 そして、眼が合う。

 黒い、墨汁で出来た染みのような、瞳。

 それが、にこりと微笑ってくれる。

 そして、言うのだ。

 

 こんにちは、今日も能天気そうでなによりです、衛宮先輩。

 

 その、優しい笑み。

 白い、歯。

 紅玉を溶かしたような、唇。

 それが、いつの間にか、真っ赤に染まっていた。

 赤く、赤く。

 とろりとした液体が、口の端から毀れていく。

 あれ、代羽。

 それ、なんだ。

 その赤いの、何だ、それ。

 ああ、そか。

 昼飯、ミートスパゲティ、食べたんだ。

 あの食堂、何でも肉の味しかしないあの食堂の中じゃあ、比較的食えるほうだもんな。

 まだ、ましな料理だ。

 それとも、トマトジュースでも飲んだのかい、代羽。

 でも、それにしちゃあ、嫌に粘着質じゃあないか。

 代羽、それは、なんだい?

 

 ああ、わかりませんか、衛宮先輩。これはね、遠坂先輩の、血液ですよ。

 

 にっこりとした、笑み。

 恍惚とした、笑み。

 ちろりと、紅い舌が顔を出す。

 そして、舐め取るのだ。

 口の周りについた赤い液体を、さも美味しそうに。

 

 美味しかったわ。遠坂先輩は、とても美味しかった。綺麗な人って、内臓まで美しいんですね、勉強になりました。

 

 ああ、そうらしいぞ、凛。

 よかったな、凛。

 美味しくて、美しかったらしいぞ、凛。

 最高の褒め言葉じゃあないか、凛。

 なのに、凛。

 お前は、今、どこにいるんだ?

 

 わかりませんか、衛宮先輩、今、遠坂先輩がどこにいるのか?

 

 いつしか、目の前にいた、少女。

 その口が、淫らに開かれる。

 糸を引く、桃色の唾液。

 舌が、淫靡にうねる。

 

 ほら、ここにいますよ。

 

 その小さく薄い唇が、俺のそれと、重なる。

 鼻を摘まれる。

 息が出来なくなる。

 反射的に開いた、口。

 そこに滑り込んできた、うねうねとした何か。

 少しつぶつぶしていて、何より鉄臭い。

 それが、俺の口蓋を蹂躙する。

 跳ね回るように、犯していく。

 人形のように呆けた俺を、意のままに操る。

 やがて、送り込まれてくる液体。

 彼女の唾液と、誰かの生血の混合液。

 それに、何か、異物が混じっている。

 口の中に絡みつく、細長い何か。

 目の前の少女を押しのけて、口中からそれを取り出す。

 つう、と、赤い液体の絡みついたそれは。

 黒く、ほんの少しだけ癖のある、艶やかな長い髪の毛、だった。

 

 ああ、まだそんなところに残っていたのですね、遠坂先輩。

 

 少女は、俺の手から、凛の一部を取り上げて。

 大きく開いた口の中に、放り込んで。

 くちゃくちゃと、さも美味しそうに、咀嚼するのだ。

 

「おい、坊主!」

 

 肩を揺さぶられて、起きた。

 ああ、今のは、夢だったんだ。

 でも、それ以外は、夢じゃあなかった。

 ほんの少しの安堵と、それ以上の絶望。

 知らずに、涙が流れていた。

 だくだくと、頬に熱さを覚えるくらいには。

 

「衛宮様、何を勘違いされているかは知りませんが、まだ遠坂の当主は死んでいません。まず、それをご理解ください」

 

 この上なく冷静な、声。

 セラ。

 その声が、俺の中にある一番理不尽な部分を刺激する。

 

「…何で、何で、そんな気休めが言える…!?凛は、攫われた!もう、戻ってこないかもしれないのに!」

 

 目の前にあったちゃぶ台に、精一杯の怒りを叩きつける。

 振り上げた両腕を、叩きつけてやる。

 真っ二つになったら愉しいと思った。

 でも、やっぱりちゃぶ台はそのままで。

 俺の腕が、痺れただけだった。

 

「…セラの言うとおりよ。少なくとも、今の段階でリンは死んでないわ」

「…何で、だ?」

「坊主、お前、頭が回るようで周りが見えてねえな。あの嬢ちゃんが喰われたなら、なんでセイバーは現界していられる?」

 

 あ。

 

 そうだ。

 

 セイバーは、まだいる。

 単独行動のスキルの備わっていないはずの、彼女。

 しかも、毒に侵されて、疲弊している彼女。

 その彼女が、まだこの世界にいるということ。

 それは、凛が、まだ生きていると。

 

 先程とは違う種類の涙が、頬を濡らす。

 きっと、口はあんぐりと、開けたまま。

 魂が抜けたような、呆けた表情を浮かべていただろう。

 それでも、よかった。

 ああ、生きている。

 凛が、生きている。

 そのことが。

 それだけで。

 これほどに。

 ただ、安心した。

 

「でも、一時間後に生きているとは限らないわ。ただ単に、気紛れで生かされているだけかもしれない。それに、生きていても―――」

 

 イリヤは、口を噤んだ。

 そうだ、彼女の言うとおりだ。

 凛は、今は生きている。

 分かっているのは、それだけ。

 一秒後に生きている保障なんて、どこにもない。

 それに。

 生きているとしても。

 生きているほうが、残酷な。

 そういう状況にないと、何故言い切れるか。

 

 立ち上がる。

 こんなところで、油を売っているわけにはいかない。

 とにかく、何かをしないと。

 ここではないどこかで、何かをしなければ!

 

「おう、坊主!どこへ行くつもりだ!?」

「そんなの、知らない!でも、ここにいても何にもならないじゃあないか!」

「お前が闇雲に足掻きまわったところで、どうにかなるもんでもねえだろう!」

「でも、それでも!」

 

 この場にいても、何にもならない。

 俺は、走った。

 とりあえず、玄関に向かって。

 その後、どこに行くのだろうか。

 分からない。

 それでも、ここにはいられなかった。

 だから、走ったのだ。

 

「ったく、しゃあねえな…」

 

 そんな呟きが、すぐ後ろから聞えて。

 首に、鋭い衝撃を受けた。

 そこまで、覚えている。

 そこまでしか、覚えていない。

 

 

 東の空に浮かんだ灰色の雲、それに色がつき始めた頃。

 居間のちゃぶ台の上には、人数分の朝食が完成していた。

 いつもの、オーソドックスな、日本の朝食。

 出汁巻き。

 昨日の夕食の残りの、芋と野菜の煮付け。

 焼き魚、今日は少し奮発して、マナガツオの西京焼きだ。

 納豆に、漬物。

 あとは、若布の味噌汁と白いご飯。

 これ以上無い、そう胸を張れる日本の朝食。

 きっかり、八人分。

 俺の分。

 桜の分。

 セイバーの分。

 ランサーの分。

 イリヤの分。

 セラの分。

 リズの分。

 そして―――。

 

「お、旨そうだな、坊主」

「おはよう、ランサー」

 

 にこやかに眼を細めながら、一番乗りはランサーだった。

 彼の象徴とも言える、紅い魔槍と蒼天のような皮鎧は身に纏ってはいない。切嗣が使っていた、俺には一回りから二回り大きな寝巻きを、少し窮屈そうに着ている。

 

「言峰の野郎は、こんな気の効いたもん、用意しやがらなかったし、バゼットもこっちには全然無頓着だったからなあ…」

「言峰って、やっぱり、お前は…」

「ん?ああ、まだ言ってなかったか。俺は元々バゼットっつう女に召喚されたんだがな、言峰の野郎に不意打ちを喰らって、令呪を奪われた。それ以来、奴の使い走りをやらされてたんだよ」

 

 あっけらかんと、彼はそう言い切った。

 そういえば、忘れていた。

 俺は、一度、こいつに殺されかけたんだ。

 あの、冷たい、人を人と理解しながら、それでも義務を遂行する、瞳。

 あれを思い出しただけで、膝が震えてくる。

 その男が、俺の作った料理を舌舐めずりしながら見回しているというのは、如何にも不思議な光景だった。

 

「なあ、早く喰おうぜ。料理は熱いうちが華だろう?」

「駄目だ。皆が起きてくるまで、我慢しなさい」

 

 そう口にしてから、心の中で笑った。

 だって、これでは聞き分けのない子供と、お母さんの会話だ。

 そういえば、セイバーにも似たような稚気があった。

 全く、英霊というものは理解し難い。

 

「そんなこと言ったってよ、今日は誰も起きてこないぜ、きっと」

 

 何気ない、口調。

 思わず聞き流してしまいそうになったが、到底無視しえるような内容の言葉ではなかった。

 

「ランサー、それはどういう…?」

「んー?言葉通りだ。今日は、きっと昼過ぎまで誰も起きてきやしねえよ、多分な。さっき一通り回ったがな、アインツベルンのお嬢ちゃん達と俺のマスターは魔力切れ。セイバーも、どうやら峠は越えたようだがまだ辛そうだったぜ。無理矢理起こして飯を食わしても仕方ないだろう?」

 

 そこまで、考えていなかった。

 昨日、時間的には既に今日だったが、イリヤは特に辛そうなふうでもなく話していたから、気付かなかった。

 イリヤも、セラさんも、キャスターと戦ってくれたんだ。

 キャスターも、あれで敵には容赦がないから、きっと殺すつもりで、本気で干戈を交えたはずだ。

 それを、生き残っただけでも、賞賛に値するのだ。力など使い尽くしていて当然、あのように話せたこと自体が驚異的な精神力の賜物なのだろう。

 

「ひい、ふう、みい…。それにしても、一つ多くねえか。俺の分だけ二人前用意してくれてたんなら別だがよ」

「…それは、凛の分だ」

 

 我ながら、声が堅い。

 でも、未熟を恥じるわけではない。

 むしろ、平然としているのが強さなら、そんなものはいらないと思う。

 

「ふーん、じゃ、これだけは置いておかなくちゃいけねえな。可愛い恋人の分だ、喰ったら虫歯になっちまう」

 

 ランサーはそう言って、箸を取った。

 俺も、それに習う。

 とにかく、ここにいる二人以外に誰も食べないなら、これ以上待って料理を冷めさせてしまうのも気が引ける。それに、食べれるときにはしっかり食べておかないと、いざというときに動けなくなる。

 今、俺がするべきこと。

 それは、闇雲に凛を探して街を彷徨うことではない。

 しっかりと英気を養い、唯一のチャンスを我が物とすること。

 それが、彼の生き方では無かったか。

 そんなことを考えているうちに、ランサーの前に並べた皿が、すっかり空になっていた。

 全く無遠慮に、他人のおかずに手を伸ばすランサー。

 俺も、負けじと食べる。

 既に、おかわりは二杯目だ。

 

「おう、それでいい。喰うべきときは、たらふく喰う。眠るべきときは、泥みたいに寝ればいい。戦うべきときは、自ずとやってくる。そのときに動けない奴は、カスだ」

 

 からからと笑うランサー。

 その言葉に、無言で首肯する。

 味噌汁を、啜る。

 少し、しょっぱい気がした。

 多分、気のせいだ。

 

 

 静かだった。

 おそらくは雀だろうか、小鳥の鳴き声と車のエンジン音が響く以外、何の音も聞えない。

 陽は、暖かい。

 最近は冬とも思えないような快適な気候が続いている。過ごしやすいといえばこの上ないが、一抹の寂しさがあるのも事実だ。

 そんな、どうでもいい思考を展開しながら、俺は天井を見上げていた。

 眠ろう、そう思ったのだ。

 皆に比べれば比較的ましな状態ではあるものの、睡眠不足と魔力の枯渇はわりと深刻なところにあると、ランサーに諭された。

 それを一度に解消する、一番手っ取り早い方法、それが睡眠だ。

 だから、俺は客間に敷きっぱなしになっていた布団に横になった。

 それでも、中々寝付けない。

 当のランサーは、索敵に赴いてくれた。おそらく一番怪しいマキリの屋敷、他にも空気の淀んだ場所を幾つか知っているから任しておけ、そう言って彼は出て行ったのだ。

 歴戦の勇士であり、ルーン魔術の使い手でもある、クー・フーリン。俺が下手に動いては、彼の邪魔をすることにもなりかねない。

 ならば、今、俺に出来ることは、身体を休めることくらいだろう。

 しかし、それ以外にも、何かあるのではないだろうか。

 何か、無いのか。

 凛は、今も俺の助けを求めているはずだ。なのに、俺はこんなところで寝転がっているのが、最善なのか。

 分からない。

 ぐるぐると、同じ場所を堂々巡りする思考。

 

 そして、結局考えるのは、凛のこと、代羽のこと。

 

 何故、彼女は。

 俺と同じ、魔術を使えるのだろうか。

 凛は、そしてキャスターは言った。

 この魔術は、規格外だ、と。

 確かにそうなのだろう。

 それは、何となく分かる。

 それでも、ならば、あれだって規格外だ。

 蟲を、生命を、投影する、魔術。

 そんなの、等価交換どころじゃあない、もっと重要な何かを、無視している。

 生命を、生み出す。

 

 そんなの、まるで、神様じゃあないか。

 

 じりりりり、じりりりり。

 

 けたたましいベルの音が、鳴り響く。

 時代から忘れ去られたようなダイヤル式の黒電話、その音。

 

 じりりりり、じりりりり。

 

 ああ、五月蝿いな。このままじゃあ、皆が起きてしまう。

 

「はいはい、ちょっと待ってくれ」

 

 何気なく歩いて、ふと気付いた。

 もしかして、これは代羽からの電話なのではないか、と。

 とたんに跳ね上がる、心臓。

 足が独りでに走り始める。

 どたどたと、この上なく滑稽に。

 その間も、絶え間なく鳴らされる、心臓によろしくない金属的な音。

 急いで、受話器を取る。

 

「…もしもし、衛宮、です」

 

 しばしの、間。

 受話器の向こうからは、何も聞えない。

 

「もしもし。…代羽、なのか…?」

 

 やはり、何も聞えない。

 焦りが、じりじりと嵩を増していく。

 まるで、足元を火で炙られるかのような、焦燥感。

 もう、駄目だ。

 溢れる。

 叫びだす。

 そう、思った瞬間、あちら側から声が、した。

 

『…どうやら、凛はまだ帰らぬか、衛宮士郎』

 

 その、声。

 重厚で、人の心の深奥に抉りこむかのような、声。

 聞き覚えがある。

 つい、最近だ。

 最近、この声を聞いたぞ。

 そういえば、昨日も聞いた。

 金色の、圧倒的な気配を持つ男、奴を従えていたのが、この声の持ち主ではなかったか?

 覚悟の声で、誰何する。

 

「お前、もしかして、言峰―――!」

『時間はあるかな、衛宮士郎。もし都合が合うならば、昼食でもどうだ。ついでに、私の知る全て、貴様が知りたい全てに答えようではないか』

 

 ちらりと、時計を見る。

 いつのまにか、十一時を回っていた。

 うつらうつらしながら、それでも少し眠っていたのだろうか。

 

「…いいだろう、場所は?」

『商店街の外れに、泰山という中華飯店がある。そこがお気に入りでな、中華料理は大丈夫かね?ああ、聞くまでも無いことだった。凛の得意料理がそれなのだから、恋人たる君がそれを嫌うはずがない』

「…すぐに、行く」

『落ち着け。十二時きっかりだ。それと、もし来るなら一人で来たまえ。それ以上ならば、私は君を食事を共にすることが出来なくなるだろうから、そのつもりでな』

 



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episode75 中華料理を食べに行こう!

 紅洲宴歳館・泰山。

 昔、切嗣に連れられて、一度だけ行ったことがある。

 料理の質は上々で、値段もそれほど高くはない。

 町の中華料理店にしては、穴場といっていいだろう。

 しかし、唯一にして絶対の欠点が。

 それは、辛いのだ。

 『辛』という一文字に『からい』と『つらい』の二つの意味を込めて、それでもなお生温いと思えてしまうほど、その料理は強烈である。

 逆に言うと、さほど辛くない料理、例えばあんかけ系や揚げ物系なんかは、他の料理の非常識さを考慮に入れても、なお食べる価値を有する。

 一言で言ってしまえば、魔窟。

 そして、なんだかとっても勿体無い店。

 それが、紅洲宴歳館・泰山なのである。

 

episode75 中華料理を食べに行こう!

 

 昼下がりだった。

 太陽は、分厚い雲に覆い隠されている。

 薄暗い昼間、身を切り裂くような冷たい風が吹き荒れる。

 最近は冬とも思えない穏やかな気候が続いていたせいか、思わず首を竦めてしまうほどの寒さだ。

 灰色の町並み。

 朝は染み入るような陽光が眩しかっただけに、この無彩色の世界が一層寒々しく感じる。

 人通りは、驚くほど少ない。家からここまで、一切の人間とすれ違うことは無かった。

 何も知らない普通に人たちも、恐れているのかもしれない。まるで、病魔の到来を息を潜めて見送る、中世の村人のように。

 ならば、それは在る意味において、正しい行動だ。

 人は、己の理解の及ばないものを、極力遠ざけようとする。

 何のことは無い、それが最も安全な手段だからだ。

 一番、生き残る可能性が高い。

 それは、今、この状況においても同じことだろう。

 だから、これがあるべき姿なのだ。

 そう、自分に言い聞かせながら、歩いた。

 

 

 マウント商店街。

 ふざけた名前だが、最近流行の郊外大型スーパーと正面からやりあって、なお優位に立つという男気溢れる店ぞろい。

 そして、幼い頃から俺を知ってくれている人達が、多い。

 

『お、士郎君、今日は鯵のいいのがはいってるんだが、どうだい?』

『やあ、士郎君、見てくれよ、この林檎。これ三つで三百円だ』

『士郎君、確か今日が入学式なんじゃあなかったのか?もってけ、祝い代わりだ!』

 

 そんな、落ち込むことも許されないような、賑やかさ。

 人情味溢れる、そう言葉にしてしまうと陳腐だが、俺はこの通りが大好きなのだ。

 それが、寒風吹き荒ぶ鈍色の空の下、あらゆる精気が吸い取られてしまったかのよう。

 誰一人、声をかけてもくれない。

 視線を向けると、面倒臭そうに逸らされる。

 それが、この街の置かれた状況を如実に顕しているのだろうか。

 そんな、寂れたような雰囲気の商店街の外れに、泰山はある。

 

「いらっしゃいませ、お一人でしょうか?」

「いえ、待ち合わせがありますので」

「そうですか、どうぞごゆっくり」

 

 笑顔で出迎えてくれた店員さんに礼を言って、店内を見回す。

 清潔な白と、幾何学模様的な赤。如何にも中華飯店といわんばかりの内装が、ごてごてと意匠を凝らしたものよりも好ましいと思う。

 入り口から見渡せるところに、待ち人の影は無かった。

 ゆっくりと店の奥に足を進める。

 鼻をつく、妙に辛い空気。きっと、唐辛子満載の料理が、厨房にて産声を上げているのだ。

 目を軽く瞬かせ、それでも奥へ歩く。

 そこに、奴はいた。

 店の一番奥、壁際の席を占領するかのような、巨体。二メートル弱の身長というのは、日本人としては在り得ないほどの巨躯といっていいだろう。

 おそらく、ほぼ同時に互いの存在を認識したのだろうか、奴の瞳が愉しげに揺れる。まるで、仕掛けにかかった獣を見つめる猟師のような瞳だ。

 

「よく、来た。しかも、言いつけどおり一人でか。なるほど、君の壊れ方も中々愉快だな」

 

 奴の前には、空になった大皿。俺の到着を待たずに食事を終えているあたりは、らしいといえばらしいのかもしれない。

 その真正面の席に、空の茶杯が置かれている。

 どうやら、ここに座れということらしい。

 

「見ての通り、私の昼食は終っている。君も何か頼むといい」

 

 無言で奴の向かいの席に座る。

 円卓。

 それほど大きなものではない。

 少なくとも、正面に対するこの男の威圧感を薄れさせてくれるほど、有難い距離は存在しないようだった。

 空の茶杯に、店員さんがお茶を注いでくれる。

 湯気と供に立ち昇る爽やかな香り。

 ジャスミン茶のようだ。

 

「御託はいい。さっさと本題に入りたい」

「先に食事を済ませておくことを薦めるよ。私の話を聞いた後であれば、食欲の欠片も残らんぞ」

「…ふん、『来るなら一人で来い』、そう言ったわりには気を使ってくれるんだな。てっきり、あの野郎がいるのかと思ったんだが」

 

 昨日の、夜。

 混沌とした戦場の空気を、一瞬にして支配した男。

 古代メソポタミアに君臨した、神と人の混血。

 英雄王、ギルガメッシュ。

 

「あの男は、気紛れでな。一応は私がマスターであるのだが、言うことを聞こうとはせん。進行方向の定まらぬ竜巻のような男だ、あれは」

 

 呆れたような表情。

 しかし、その目は漆黒のまま。

 如何なる感情も、そこから読み取ることは出来ない。

 

「じゃあ、ここで俺を捕まえるとか、有利な状況で交渉するとか、そういうつもりはないのか?」

「ああ、それは勘違いだな。君一人を呼んだのはな、もっと単純な理由からだよ。これでも神に仕え、清貧をもって是とする身ゆえ、あの人数全員で来られると財布の厚さが些か心もとないのだ」

 

 奴は、手元にあった小さな茶器を口まで運んだ。

 俺もそれに倣う。

 熱すぎない、適度に暖められた茶器が、冬の風に痛めつけられた指先には心地いい。

 口元までそれを運んでやると、ふうわりと気持ちのいい爽やかな香りがした。

 一口、啜る。

 口中から鼻腔に抜ける、花畑のような香気。

 それが、食欲を沸き立たせる。

 

「何でも頼むといい。君一人の胃袋を満足させるくらいは出来よう」

「いい。自分の分は自分で出す」

「まあそう言うな。親を亡くして独力で生計を立てている子供と食卓を供にしてその財布を軽くさせたのでは、吝嗇家との謗りを免れんだろう。ここは、私の名誉を守るためと思って折れてくれ」

 

 苦笑に歪んだ頬。

 何故だろうか、そこに一握りの安堵を感じてしまったのは。

 

「さて、君は私に尋ねたいことがあるのだったな。何でも答えよう、私の知る限るの事実の全てを」

 

 その視線は、神の僕に相応しく、迷い子の遥か上から。

 その瞳は、新しい玩具の箱を開ける手前の子供のように。

 要するに、だ。

 こいつは、楽しんでやがる。

 そう思っただけで、耐えがたい殺意を覚えた。

 

「…まず、聞きたい。あんたは俺の疑問に答えてくれる、そう言ったが、そのことであんた自身に何の益がある?少なくとも、今の俺には、相応しいような対価は用意できそうにない」

 

 ふむ、と、腕を組んだ目の前の男。

 一つ一つの動作が重々しく、しかし少しも鈍重ではない。

 隙のない所作。

 その動きを見れば、一目瞭然だ。

 こいつは、強い。

 

「まず、勘違いがあるようだから、そこから正しておこう。私は君との対話に関して、如何なる報酬も要求しない。それでも、あえて私が欲するものがあるとするならば、それは君自身の苦悩に他ならない。つまり、趣味と。そう言い換える事が出来るだろうか」

 

 趣味。

 人の悩み苦しむ姿を観察するのが、趣味かよ。

 全く、ここまで神父らしい神父も、初めて見た。

 

「衛宮士郎、趣味というものの定義はな、如何に労力を裂こうが苦にならず、しかし何ら生産性も無い、そういうことだ。私は君に真実を告げることで何ら益も被らない。しかし、そのことをもって無上の悦びを得ることができる。これを趣味といわず、何と言う?」

「…もういい。要するに、俺は気兼ねなく聞きたいことを聞けばいい、そういうことだな?」

「飲み込みが早くて助かる。しかし、問うということの本質は、相手に己の器量を指し示すということだ。愚鈍な質問は自分の価値を貶めるぞ。そのあたりには相応の注意が必要かも知れんな」

 

 奴は、一度茶を啜った。

 俺も、それに倣う。

 暖かい湯温が、乾いた空気に痛めつけられた咽喉には優しいようだ。

 

「…じゃあ、まず一つ。あんたは、この戦いで、何がしたい?あんたの目的は何だ?まさか、それも趣味と、そういうつもりか?」

「くく、そのように逃げ道を殺した質問は些か不快だな。しかしまあ、趣味と、そう言い切るには、この身を縛る枷はやや重過ぎる。私は、いや、代々の監督役はな、聖杯戦争のゲームマスターでありながら、聖杯を託すに相応しい人物を選定し、それを影ながら補佐すること、それを責務として負ってきた。第四次聖杯戦争における私の父などと同じく、な」

 

 聖杯に相応しい人物の、選定?

 それは、一体?

 

「分からんか、衛宮士郎。至極単純な話だ。この地における聖杯は、真実神の血を受けた聖杯ではない。そういう意味では贋作である。しかし、この贋作は本物と同じく所有者の願いを叶える、願望器としての役割を備えている。そこが、最も厄介なところだ。何故なら、このように、極東のちっぽけな島国の、それも片田舎で行われる黴臭い儀式如きで、下手をしなくても世界の趨勢が変わるのだからな」

「…言いたいことは、何となく分かる」

「本物であれば、教会はその存在価値の全てをかけて奪取にかかるだろう。しかし、表向き偽物と判明している以上、過激な行動は取り難い。教会と協会は、一応の不可侵協約を結んでしまっているからな」

「…それで、教会側の派遣した監督役が暗躍すると、そういうことか」

 

 言峰は、鷹揚に頷いた。

 

「聖杯戦争の本当の目的、それはここでは割愛しよう。帰ってからアインツベルンの小娘にでも尋ねるがいい。ともかく、いわゆる『魔術師』が聖杯を手にして、勝手に世界の外側に旅立つ分には、我々としては全く問題はない。しかし魔術師には変わり者が多い。中には本気で世界の滅亡を望むような愚か者も存在する。そう言った危険な手合に聖杯を渡さない、そしてあわよくば聖杯を教会の手で確保する。それが、監督役の真の使命だ」

 

 世界の外側。

 俺には何のことか、ちんぷんかんぷんだ。

 だが、一つ、分かっていることがある。

 そんなこと、どうでもいい。

 それだけは、間違いない。

 

「…じゃあ、あんたは聖杯なんてどうでもいい、そういうことか?一切の危険の無い人物に聖杯が渡れば満足と、そういうことなんだな?」

「結論を急くな、衛宮士郎。私は今、監督役の存在する意味について語ったに過ぎない。私自身のことは、まだ何一つ語った覚えはないぞ」

 

 奴の、目を閉じたままの、頬に刻まれたような笑み。

 そこには、探求者としての苦悩と悦楽が、ほぼ等分に存在していた。

 

「私はな、確かに監督役として存在している。そして、相応しい者がいるならば、その者に聖杯を渡して是とするつもりであった。しかし、人の身の悲しさよな、こうしていると欲が出てくる。私にも、叶えたい望みというものは在ったらしいのだ」

「…それは、俺が聞いても、構わないのか?」

「思ったよりも臆病なのだな、君は。しかし、最初にこう言ったはずだ。『私は君のあらゆる疑問に答える』と。その中には、当然私自身に関する事項も含まれる。例外は、存在しない」

「じゃあ…」

 

 言峰は、その大きな掌を俺のほうに向けた。

 ごつごつとした、古木のような指先。

 所々、そして打突部位の悉くが、瘤のように盛り上がっている。

 

「悪いが、少しだけ待って欲しい。物事には然るべき順序というものが存在する。私が聖杯を求める動機は、最後に語らせてもらいたい」

 

 …情報交換というよりは、一方的に教えてもらっている立場なのだから、贅沢は言えない。最終的に答を得ることが出来るならば、順番はさして重要ではないはずだ。

 

「…なら、違うことを。昨日の夜、あの金色の男、ギルガメッシュが、代羽を指してこう言ったな。『黒い聖杯』、と。あれは一体どういう意味だ?それに言峰。お前も、まさか代羽のことを知っていたのか?」

「質問は一つ一つで頼みたいものだな、衛宮士郎」

 

 奴は再び茶を啜った。

 ほう、と、満足げな吐息。

 空になった茶杯に、どこからか現れた店員が茶を満たしていく。

 奴はそれに笑顔で応え、その後姿を見送ってから口を開いた。

 

「その質問に答えるには、少しばかり昔語りをせねばならない。君は、時間のほうは大丈夫かね?」

 

 

 こえ。

 声。

 どこから。

 どこから、声。

 声が、する。

 ぼわぼわと、耳道に響く。

 萎びた鼓膜が、辛うじて己の責務を果たす。

 

「…ください」

 

 何を?

 何を、下さい?

 私の、命?

 駄目よ、絶対に。

 命は、あげられない。

 いくらあんたのお願いでも、命だけはあげられない。

 だって、私が死んだら、あの馬鹿が悲しむじゃない。

 絶対に、泣いちゃうじゃない。

 だから、残念でした。

 私の命は、あげられません。

 もう、手も、足も、一本ずつしかないけれど。

 命も、たった一つしかないから。

 それは、もうあいつに捧げたものだから。

 貴方なんかに、絶対にあげられません。

 

「起きてください、遠坂先輩」

 

 ああ、そうか。

 起きて、ください、ね。

 なんだ、そんな、勘違いさせないでよ。

 なんだかとっても恥ずかしいこと、考えちゃったじゃない。

 ゆっくりと瞼を開ける。

 ぼやけた視界、そこに映りこんだ美しい少女。

 間桐、代羽。

 いや、その呼称は正しくないだろう。

 マキリ、代羽。

 蟲使いの一族、マキリの当主。

 それならば、相応の敬意を持って応対しなければいけないだろう。

 

「…目覚めは、どうですか?」

 

 口の中が、乾いてる。

 じゃなけりゃ、唾の一つでも吐きかけてやれたのにな。

 

「…頭が、がんがんする。それに、身体の輪郭がぼやけてる感じ」

「すみません、それは薬のせいです。今日一日は我慢してください」

 

 …笑いを堪えながら、そう言いやがった。

 なんでだろう。

 こいつに笑われると、無性に腹が立つ。

 なんか、決して負けてはならない存在に負けたような、横綱が十両に転がされたような、そんな感じだ。

 

「はい、あーんしてください」

 

 いつしか、銀の匙が、口元に突きつけられていた。

 全く、馬鹿にしやがって。

 いいじゃなか、存分にこき下ろしてやる。

 これでも、私は料理が得意なんだ。

 

「…あーん」

「はい、素直でよろしい」

 

 口の中に放り込まれたのは、程よく冷まされた、粥だった。

 もぐもぐと、咀嚼する。

 …美味しいじゃないか、クソッタレ。

 

「どうですか」

「…美味しいわ、多分、私よりも」

「ふふ、私、貴方のそういうところは大好きです。如何ですか、もう一口?」

「…私は、あんたのそういうところが大嫌いよ。でも、もう一口頂くわ」

 

 全く、いけ好かない。

 何で、こいつに足の一本くらいならあげてもいいと、そう思ってしまったんだろうか。

 柄でもない母性本能に絆されたか?

 そんな気もするし、違う気もする。

 もっと、私の一番奥の何かが命じた気がする。

 でも、多分気のせいだろう。

 私は、こいつのことなんか、知らないはずなんだから。

 そして食事は終わり、狭い部屋の中、二人きりでしばらく経ち。

 

「退屈、ですね…」

 

 身動きはとれない。

 四肢と意識が切り離されたよう。

 よほど強い薬でも打たれたのだろう。

 もしかしたら、何か魔術的な要素でもあるのかもしれない。

 いずれにせよ、大事なのは結果だけ。

 身じろぎ一つできない。

 まあ、例え薬も手枷も無かったとして、手足が一本ずつしかない私には逃げることなんて出来ないんだろうけど。

 

「御伽噺をしましょうか」

 

 私をそんな状態にしている張本人、マキリ代羽が呟く。

 

「そうね、退屈をしないものなら歓迎よ」

 

 仰向けに寝転がったまま、視線だけを彷徨わせる。

 声の源は、辛うじて確認することが出来た。

 壁にもたれ、腕を組んだ彼女。

 その視線は、物憂げな様子で中空を漂っている。

 

「ご期待には添えそうにありませんね、これはとても退屈な御伽噺だから」

 

 彼女は何かに憑かれたような、疲れた表情で言った。

 

「むかしむかし」

 

 そう、御伽噺はむかしむかしのこと。

 人を苦しめるものはいつだって、むかしむかしからやって来る。  

 

 

「むかしむかし、あるところに、たいへんなかのいいきょうだいがくらしていました。

 ふたごの、あねと、おとうと。

 ふたりはふたごで、かおもそっくりだったので、

 あねは、おとうとをたいへんかわいがりました。

 ときには、けんかをすることもありました。

 おねえちゃんのケーキのほうが、おおきい。

 たまに、あねのいたずらが、けんかのげんいんになることもありました。

 なんで、ぼくのふくにおねえちゃんのなまえがかいてあるの。

 

 それでも、ふたりはたいへんなかがよかったのです。

 

 それは、あるよるのことでした。

 あねは、まどのそとがあかるくて、めをさましました。

 おかしいな。

 いまは、おつきさまがきれいなじかんなのに。

 なんで、こんなにおそらがあかるいのだろう。

 かのじょは、となりでねていたおとうとをおこします。

 ほら、おきて。

 こんなに、おそらがあかるいよ。

 それは、かぞくでいった、キャンプのかがりびのようで。

 かのじょは、とてもたのしくなってしまいました。

 だから、かのじょはたいへんおどろいたのです。

 おとうさんとおかあさんが、みたこともないようなかおで、へやにとびこんできたから。

 

 てくてく。てくてく。

 とことこ。とことこ。

 ちいさな、ちいさな、あしおとがふたつ。

 あねとおとうとは、あるきます。

 まいちるひのこと、ひとびとのきょうかんのなかを。

 おとうさんとおかあさんは、いません。

 おとうさんは、くずれたがれきにおしつぶされて。

 おかあさんは、ほのおにのみこまれてしまったから。

 

 てく、てく。てく、てく。

 

 ちいさな、ちいさな、あしおとがひとつ。

 おとのないせかいを、あるいていく。

 ひとびとのこえは、とおのむかしにたえはてて、

 くずれるたてものも、なくなったから。

 あたりは、とてもしずか。

 それでも、あねはあるきます。

 せなかにおった、だいじなものをまもるために。

 だいじょうぶだからね。

 おねえちゃんが、まもるから。

 

 てくてく、てくてく。

 ちいさな、ちいさな、あしおとがひとつ。

 あねは、なにもせおっていません。

 きっと、どこかでおとしてしまったのでしょう。

 つめたいあめのなか、ひとりきりであるいています。

 あてもなく、ひとりきりで。

 やがて、かのじょはそらをみあげる。

 そこにあるのは、くろいおひさま。

 あかいよぞらに、ぽっかりあいた、あなのようで。

 すいこまれたしまうんじゃないか、とすこしきたいをしました。

 でも、そこからあふれてきたのは、くろいどろ。

 どろどろ、どろどろ、くろいどろ。

 ああ、とてもつめたそう。

 あついのは、もういやだから。

 うれしいな、うれしいな。

 やがてかのじょは、いしきをうしないました。

 

 私は、今、生まれた。

 

『ようやく目覚めたか』

 

 こえがきこえる。

 くらくて、かおがみえない。

 あなたはだあれ。

 

『儂はこれからお主の親となるものよ』

 

 うそをついちゃだめなんだよ。

 だって、わたしにはちゃんと、おとうさんも、おかあさんもいるもの。

 

『ふむ、ではお主は父と母の顔を思い出せるのか』

 

 もちろん。

 おとうさんは、めがきりっとして、はながたかくて、

 頭が半分無くなってて。

 おかあさんは、かみがきれいで、はがしろくて、

 全身真っ黒焦げで。

 あれ。

 あれあれ。

 おかしいな。

 おとうさんってだれ?

 おかあさんってなに?

 そういえば、わたしはどこ?

 

『判ったか。お主は今、この世に生を受けた。ゆえに、儂がお主の親となる』

 

 わかりました、おとうさん。

 

『では、まずお主に名を与えよう』

 

 なまえ。

 

『お主の名は代羽。お主はこれより間桐 代羽として生きる』

 

 しろう。

 なつかしいなまえ。

 あたたかいなまえ。

 どこかできいたなまえ。

 わたしの、なまえ。

 なんだかわたしは、うれしくなった。

 

 わたしがなげこまれたのは、いけのなか。

 ぐちゃぐちゃ。

 きいきい。

 ききたくない、おとがする。

 なにかがからだにはいってくる。

 くちから。

 みみから。

 はなから。

 めから。

 てのつめのあいだから。

 おへそから。

 おしっこのあなから

 おしりのあなから。

 あしのつめのあいだから。

 

 あんまりいたくてくるしくて、

 めのまえがまっしろになって。

 でも、

 あんまりいたくてくるしくて、

 めにまえにくらやみがひろがって。

 

 そんなことをくりかえしてたら、

 わたしがどんどんこわれていって。

 そんなことをくりかえしてたら、

 わたしたちがどんどんうまれてきて。

 

 こわれていくわたし。

 うまれてくるわたしたち。

 

 どんどんわたしがちいさくなる。

 わたしのはへんから、わたしたちがふえていく。

 

 わたしは、きっと。

 どんどんちいさくなって。

 やがてきえてなくなってしまうのだろう。

 

 ボクガカワルヨ

 

 わたしのなかで、こえがした。

 

 イタイコトモ、クルシイコトモ

 

 きっと、わたしじゃない、わたしたちのなかの、だれかのこえ。

 

 ゼンブ、ボクガヒキウケテアゲルヨ

 

 ほんとうに?

 

 ダカラ、キミジャナイキミタチヲ、タベサセテ

 

 そんなことでいいの?

 

 ソウスレバ、ボクハドンドンオオキクナレル

 

 あなたの、おなまえは?

 

 ボクノナマエハ、ヨハネ」

 

 仕事を終えた語り部は、静かに口を閉じた。

 やはり、物憂げな視線を、中空に漂わせたまま。

 

「…本当に退屈な話ね。世界中、どこにだってある話」

 

 語り部は苦笑する。

 

「ええ、本当、その通り。どこにでもある、そして一番私の身近にあったお話」

 

 遠い視線。静かな声音。だからこそ、私は確信した。彼女の決意は何よりも固い。

 

「何で、私に話したの」

「さあ。きっと退屈だったから。もしかしたら、ただの甘えかも」

「……心の贅肉ね」

「ああ、その表現!本当に相応しいわ!」

 

 彼女は声をあげて笑った。それなりに長い付き合いだが、こんなに愉快そうな彼女は初めてだ。

 だからだろう、彼女は常なら絶対に口にしないようなことを言った。

 

「私の名前は奇妙でしょう?人にそのことを問われるたびに、『時代を羽ばたく』、その字をとって『代羽』だと誤魔化してきた。でも、本当は違います。本当に込められた言霊は、マキリ臓硯が不死の身体へ『羽化するための依り代』。その字をとって代羽。それが私の生まれた意味」

「あ、そう。それでなに、可哀想ね、とでも言って欲しいの?」

 

 珍しいことではない。

 魔術師の世界において、我が子を研究の道具として扱うことなど、日常の範囲内だ。まして、それが拾った子供ならば言うに及ばずだろう。

 

「そうですね、きっと私は誰かにそう言って欲しかった」

 

 彼女は心底愉快そうだった。

 その表情は、人質と話す優越感に満ちたものではない。

 まるで、気の置けない友人と話すときのように華やいでいた。

 

「でも、それ以上に私はあなたに知っておいて欲しかった。私はもうすぐこの世界から消えてなくなる。だから、私という存在を知っておいて欲しかった。だから、これはきっと、そう、心の贅肉ですね」

 

 その表情は。

 さっきまでの楽しそうなそれとは一変して。

 本当に、寂しそうで。手遅れなくらい達観していて。

 私は心底腹が立った。

 一言、文句を言ってやろう。

 そう思って口を開きかけた時。

 

「ねえ、遠坂先輩。一つ、賭けをしませんか?」

「……どんな?」

 



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episode76 食前問答

「―――そうして、彼女はマキリ臓硯の被保護者となり、マキリの後継者たる責務を負った。そういうことだ」

 

 音が、どこか遠くから聞えた。

 目の前の男との距離が、遠かった。

 いや、違う。

 世界が、大き過ぎた。

 自分が、どんどん小さくなっていく感覚。

 車輪。

 どこかから、ごうごうと回転する車輪の音が聞える。

 ばきばきと、何かを巻き込み、踏み潰し、粉砕しながら近付いてくる。

 知っている。

 これからは、逃れることは叶わない。

 逃げれば逃げた分だけ。

 走れば、その分加速して。

 その車輪は、どんどん近付いてくる。

 今まで一度も見たことのない、きっと黒い車輪。

 その名前は、何だったかな。

 諦観。

 そういう、名前だったかな。

 

episode76 食前問答

 

「君は、あの部屋を見たことがあるのだったかな?」

 

 あの、部屋?

 

「マキリの、隠し部屋、調教室のことだ」

 

 ああ、あの部屋。

 

「マキリの魔術は、というか、この場合はマキリ臓硯の個人的な嗜好によるものの色が強かろう、それは頭に理解させるのではなく身体に馴染ませることによって是とする。つまり、得体の知れない蟲の群れに己の身体を陵辱され尽くすことからその修行は始まるといっていい」

 

 あの、黴臭くて、埃臭くて、それ以上に腐った肉の臭気のする、部屋。

 

「あれはな、君が衛宮切嗣に拾われた、そのほぼ同時期にマキリの庇護の下に置かれた。おそらく、五歳か六歳か。その歳で、あれは男の生殖器を、いや、男の生殖器と同じ形をした蟲と、その体液の味を知る身体と成り果てていたのだ」

 

 あのとき、あの部屋に初めて足を踏み入れたとき、思った。

 ああ、代羽がここにいなくて、よかった、と。

 

「桜から、マキリの修練が如何なるものか、聞いているかね?毒入りの食事、蟲で満たされた溜池での苦行、胎盤を蟲に食い荒らされる苦痛。脳髄を蕩けさせるような快楽と屈辱。私が知っているのはその程度のものだが、漏れ聞えるものなど往々にして初伝に過ぎない。はて、奥伝を極めた彼女は如何なる地獄を見てきたのだろうな」

 

 何のことはない。

 あの空間は、彼女のものだった。

 彼女は、あそこで育ったんだ。

 あの、日も差さない暗い部屋で。

 きっと、たった一人で。

 

「それでもな、彼女はそれを救いだと言ったよ。修行が、愉しい、と。父を、蟲を、愛していると言った。苦しいこと、痛いこと、気持ちのいいことが大好きだと。それは、嫌なことを忘れさせてくれるから、と」

 

『なあ、凛。代羽は、ここにいなかったんだよな?こんなところに入ったことなんて、無いはずだよな?代羽は、幸せに生きてきたはずだよな?なあ、凛。そうだよな?』

 俺は、そう言ったか。

 ああ、よかった。

 その言葉を、代羽に聞かれなくて、よかった。

 

「彼女にとって真に苦痛だったのは、静寂だ。それは、絶え間なく己の罪を責め立てる。一番恐ろしいのは、夢だと言っていた。大切なものを見捨てる夢、それを繰り返し繰り返し見るのだと。涙で眼を腫らし、口の端に反吐を貼り付けたまま、彼女は私に縋りついたのだ」

 

「…なんで、あんたと代羽が、知り合いになったんだ…?」

 

「ふむ…。あれは、いつだったか。…ミサ、だったはずだな。そうだ、閉祭の儀も終わり、信徒の方々も帰られた、伽藍堂となった教会にな、薄汚い子供が一人、残っていたのだ」

 

 その瞳は、遠い過去を懐かしむように。

 まるで、美しい宝物を愛でる、幼い子供のように。

 

「彼女は、いぶかしむ私に問うた。暗い、暗い、奈落のような瞳でな、『地獄とはどのようなところですか』、と。正直に言おうか。私は感動を隠せなかった。考えてもみたまえ。幼子、未だ罪の意味も穢れの意味も知らぬであろう幼子が、天国よりも神様よりも、まず地獄について問うたのだ。それがどれほどの絶望から発せられた問いなのか、そのことに想いを馳せたとき、私の男性は勃起していたよ」

 

 ああ、その気持ちは、何となく理解できるな。

 怖かったんだ。

 地獄が、間違いなく自分が堕ちる場所が、たまらなく怖かった。

 だから、とりあえず知ろうとした。

 知っていれば、楽だからな。

 自分の罪の深さが、理解できるからな。

 ああ、そうだ。

 きっと、彼女は、怖かったんだ。

 

「それ以来の付き合いになるか。その日から彼女が倫敦に留学するまでの約五年間、日曜日のミサに彼女の姿を見なかったことはない。時折は無表情だったが、ほとんどは泣いていていたように思う。だが、彼女は菓子が好きだったな。一つ何十円という安い駄菓子に、目を輝かせていた。その瞬間だけは歳相応の少女で、非常に愛らしかったのを覚えているよ」

「…一つだけ、聞きたい」

「一つといわず幾つでも」

「あんたは、代羽を、愛していたのか?」

 

 男は、嗤った。

 その問いに、如何なる価値も認めないかのように、頬を歪ませながら。

 

「…子供は、神の送りたる最も崇高な価値を有する祝福だ。私はその悉くを愛している。…しかし、そうだな。彼女には、特別な感情を抱いていたことは事実なのだろう。これでも禁欲をもって尊ぶ身、そうでなくてはその戒律を破り、幼子に劣情を抱くことはなかっただろうから」

 

 劣情を、抱、く?

 それは―――。

 

「分からんか?私は、まだ初潮も迎えていなかった彼女を、抱いたと、そう言ったのだ」

 

 がたん。

 あれ、何の音だ?

 近付いてくる。

 目の前の男が、近付いてくる。

 テーブルが、すり抜けるみたいに。

 どんどん。

 あ。

 違うか。

 俺だ。

 俺が、近付いているんだ。

 目の前の男に、近付いている。

 テーブルを乗り越えて、行儀の悪いこと。

 で、何をするつもりなんだ?

 俺は、何をするつもりなんだ、衛宮士郎。

 その固めた拳で、何をするつもりだ、エミヤシロウ。

 知っているぞ。

 俺は、知っているぞ。

 固めた拳の為すべきことは、唯一つだ。

 固めた拳に為せることなんて、唯一つだ。

 俺は。

 目の前の、この男を。

 力一杯。

 

 ――視界が反転した。

 

 がしゃんと、食器のぶちまけられる音が聞える。

 世界が、横になる。

 テーブルの上に、押えつけられる。

 肩が、痛い。

 ぎりぎりと締め付けられる。

 あれ。

 おかしいな。

 何で俺はこんなところにいるんだろう?

 何で俺は、こんなことを?

 

「お客様、如何いたしましたか!?」

 

 ああ、そういえばここは店内だった。

 そんなところで暴れたら、店員さんに迷惑がかかるな。

 

「ああ、何でもない。騒がしてすまないが、しばらく放っておいて頂けると有難い。」

 

 上から、声がする。

 なんだろう、この声は。

 さっき、とっても嫌なことを言った声のような、気がするぞう。

 

「さて、衛宮士郎、落ち着いたかね?」

「殺す…!てめえ、殺してやる…!」

「ああ、その殺意はこの上なく甘美だ。しかし、このまま君が喚いていたのでは、この店にいることは出来なくなる。つまり、この会合も終了と、そういう運びになるが、それでもいいのか?」

「―――!」

「私は、既に昼食を終えた。もう主たる目的は果たしたからな、さほど名残惜しいわけではない。君のほうはどうかな?もう、聞きたいことも無いかね?」

「…分かった。もう、暴れないから、放してくれ」

 

 俺を押えつけていた力が緩む。

 ごつごつとした手が、俺の腕と肩を放した瞬間。

 

 俺は、とりあえず目の前の男の頬を、思いっきり殴っていた。

 

 ごつり、と。

 

 手の先から脳味噌まで直接響くような、重々しい感触。

 しかし、目の前の神父は、微動だにしない。

 頬に拳をめり込ませたまま、呪うように微笑っていた。

 

「…満足か?」

「…ああ、大満足だ」

「なら、掛け給え。まだ聞きたいこと、語りたいことは山とあるはずだ」

「…ああ、分かった。それと、すまない」

 

 神父は、お絞りで頬を拭った。

 それだけ。

 苦痛の声一つ、あげなかった。

 それが、この上なく悔しかった。

 

「さて、話を続けよう。…っと、どこまで話したか…。そうだ、私が彼女を抱いた件だったな。一応、彼女の名誉のために付け加えておくならば、その行為は互いの同意のもとに行われたものであったことを明言しておく。そこに暴力や金銭といった不純物の立ち入る余地は、一切無かった」

「…だからって、それが許される行為だというつもりか…!?」

 

 きっと、刺し殺すような視線。

 それでも、奴の鉄面皮は傷一つ付かない。

 

「法律や道徳から照らすならば、凡そ許されるものではあるまいな。しかし、彼女は救いを求め、私は神の僕である。ならば、彼女を救いうるあらゆる行為が等価であり、そのいずれにも貴賎は無い。しかし…或いは、私も彼女を求めていたのであろうか…」 

 

 遠い、過去を懐かしむ視線。

 その中で、彼女はこいつに抱かれているのだろうか。

 その情景を夢想して、再び抑え難い殺意が湧き出した。

 

「彼女はな、言っていたよ。私はこれから人で無くなる。だから、人であるうちに人として抱かれたい、と。おそらくそれ以前も彼女を犯した男は数多かったのだろうが、それらは全て修行の一環として行われた行為。彼女が女として組み敷かれたのは、あの夜が初めてだったのだろうな。柔らかな曙光に映える白いシーツ、そこに付着した純潔の赤い染みを、まだ、鮮明に思い出すことが出来る」

「黙れ…!」

「そして、彼女は旅立った。今は堕ちたとはいえ、マキリはかつての名門だったからな、生き残っている伝手も幾つかはあったのだろう。或いは、臓硯の生家の力添えでもあったか…。そこらへんの事情は不鮮明だが、とにかく彼女は時計塔への入学を許された。若干十歳での入学だ。それがどれほど異例のことなのかは分からんが、少なくとも私などの耳に入ることから考えれば人並みならぬことではあったらしい」

 

 時計塔。

 話でしか聞いたことの無い、魔術師達の最高学府。

 そういえば、初めて出会ったとき、彼女は外国に留学していたと言っていた。

 それは、なるほど、このことだったのか。

 

「そして、彼女は早々に其処を退学することとなる」

 

 えっ?

 

「理由は、極めて単純。神秘の漏洩がな、管理部門に見つかったのだ」

 

 それは…。

 

「不可思議な顔をするな、衛宮士郎。君の言いたいことは分かっている。神秘の漏洩、魔術師の間でも禁忌中の禁忌だ。それが、時計塔のお膝元で、しかも最も中枢の管理部門に把握された。その時点で抹殺は決定したようなものだからな」

 

 そうだ。

 確か、学校の結界が危険水域に達したとき。

 凛が、神秘の漏洩の危険性について、言及していたはず。

 ならば―――。

 

「ここからは、完全に又聞きの話となるゆえ、その真偽の判定は君に任せよう。彼女は審問にかけられ、実際、後一歩で抹殺される寸前まで追い込まれたらしい。臓硯などもそれなりの働きかけをしたようだが、所詮は中央から外れた異端者、発言力など塵に等しい。だから、彼女を救ったのは全くの第三者」

「第三者…?」

「時計塔の支配階級、ロードと呼ぶことが多いが、その内のおそらく最も力を持つ家の当主が彼女の身柄保護を申し出たそうだ。君は初めて聞く名前と思うがな、バルトメロイ家という」

「バルト、メロイ…?」

「そこの現在の当主…名前は、何と言ったかな。まあ、いい。その人物が、特異な人柄らしくてな。人格よりもその特性を評価し、強力な特殊能力を持つ人間にはそれなり以上の興味を持つ。おそらく、マキリ代羽の特異性が彼女自身を救ったのだ」

 

 彼女の持つ、特異性。

 言うまでもない。

 あの、魔術。

 そして、もう一つの人格。

 ヨハネ。

 滅びの、預言者。

 

「それからの彼女の噂はぷつりと途切れる。当然、時計塔に復学することも無かった。そして、ある日突然ふらりと日本に帰ってきたらしい。らしい、というのは私もそのことを後で知ったからだ。彼女は、私に挨拶にも来なかった。彼女と顔を合わせたのは、つい最近のこと、日本に帰ってきてからの彼女のことは君のほうがよく知っているだろう」

 

『はじめまして、間桐代羽です。

 衛宮先輩ですね、お話はかねがね兄から伺っております。お会いできて光栄ですわ』

 彼女は、そう言って、にっこりと微笑った。

 にこりと、何の屈託も無く。

 それが、どれほど難しい所作だったのだろう。

 彼女は、十年前、俺と同じく、あの火事で全てを失った。

 でも、俺には切嗣がいた。

 彼が、失った俺の全てを、暖かい何かで埋め尽くしてくれた。

 その空白の冷たさを、今でも覚えている。

 ならば、彼女の冷たかった空白は、今、一体何が埋め尽くしているのか。

 何故、彼女は微笑っていられるのか。

 何故。

 

「これが、私の知る彼女の全てだ。後の質問は…そうそう、黒い聖杯について、だったかな?」

 

 奴は再び茶を啜った。

 もう、この店に来てから一時間程度の時が経過している。

 おかしな客が来たものだと、店長は頭を抱えているかもしれない。

 

「聖杯というものについて、君はどの程度の理解をしているのかな?」

「…最上級の聖遺物。聖者の血を受けたもの。だが、この聖杯戦争における聖杯は、ただ力だけを持つ贋作、その程度だ」

「十分だ。ただ、あえて付け加えるとするならば、聖杯は形を持つものではなくあくまで霊的なもの。私が管理しているのは精巧なレプリカに過ぎない、そのことは君が教会に訪れた際に説明しているはずだな?」

「ああ」

 

 始まりの、夜だ。

 凛、桜、セイバー、アーチャー、キャスター。

 まだ守れる、大切な人。

 もう守ることも出来ない、大切な人。

 俺が守らなきゃいけない、大切な人。

 皆で、歩いたんだ。

 

「代々、聖杯を用意するのは御三家のうちでもアインツベルンに課せられた義務でな、第四回の際に用意されたそれは、ホムンクルスの心臓だった。紛い物とはいえ、聖杯という最高位の霊格を宿した礼具を鋳造する方法など、そう幾つもある筈が無い。故に、おそらくは今回も同様だろうと、私は踏んでいる」

 

 それは、つまり―――。

 

「…イリヤの心臓が、聖杯?」

「そういうことだ」

 

 そういえば、昨日、ギルガメッシュが言っていたではないか。

『勘違いするな、白い聖杯よ。此度の聖杯戦争においては、貴様に器としての価値はない。真品が贋作に劣るとはな、恥を知れ』

 器としての、価値。

 それはそのまま、イリヤの心臓が聖杯であると、そういう意味だったのか。

 しかし、ならば―――。

 

「黒い聖杯っていうのは」

「マキリ代羽、彼女の子宮のことだ」

 

 ああ。

 なんて、悪い冗談だ。

 もう、分からない。

 何が、なにやら。

 涙が溢れそうだ。

 これは、悲しいからでも、怒っているからでもない。

 もう、つらいんだ。

 これ以上、情報が、つらい。

 明らかに処理能力を超えてしまっている。

 もう、いらない。

 許してくれ。

 

「これも、聞いた話だ。彼女はな、聖杯の中に潜む泥に、汚染されている。いや、同化していると言ったほうが正しいか。普通ならば狂死するか、それとも自我を飲み込まれるかなのだが、彼女はそれを従えてしまっているらしい。マキリ臓硯は、魔術的な才覚など二の次に、そこに彼女の価値を見出したようだ」

 

 聖杯の中に潜む、泥―――?

 

「あの火災を生き残った君ならば、おそらくは見ただろう?黒い太陽、その中に詰まった呪いの塊を。あれが、聖杯の正体だ。彼女はな、それを一身に浴びてしまったらしい」

 

 ああ。

 知っているさ。

 あの、穴。

 地獄がぽっかり顔を出したような、その表現ですら追いつかないような、穴。

 無限の怨嗟が、響いてきた。

 切嗣が求め、しかし裏切られた、聖杯の、正体。

 其処から漏れ出した、泥。

 それが、一夜にして五百人の命を奪った、あの火災の真実。

 きっと、切嗣を呪い殺したもの。

 あれを、浴びたと。

 彼女は、それを従えていると。

 そう、言うのか。

 

「…在り得ない。あれは、人の従えられるものじゃあない」

「しかし、君は目の当たりにしただろう?彼女、いや、彼女の変貌したものが操る、明らかに人の身には許されざる量の、魔力の渦を」

 

 ヨハネ。

 サーヴァントと見紛うほどの、濃密な魔力。

 神代の蟲を投影し、自在に使役する。

 確かに、それは人間に許された業を大きく超越していた。

 しかし、だからといって、あの泥を受け入れられるかどうかとは話が違う。

 あれは、人の身に従えられるものではなかった。

 

「君の言いたいことはよく分かっている。そこのところは、確かに私も疑問に思う点ではあるのだ。或いは、そこが真にマキリ臓硯の心を引いた箇所なのかも知れんが…当人が既にこの世にいない以上、これより先の詮索は無意味だろう」

「…話は、分かった。でも、それが何で黒い聖杯なんて事柄に結びつく?」

「至極簡単な話だ。聖杯は、文字通り器としての役割を果たす。いわく、『座』へと還る英霊の魂を留め置く楔、それがアインツベルンの用意する聖杯の真の役割だ。そして、今、『聖杯』の中に潜むのは、あの穢れた泥の主。それとパスの繋がった彼女の子宮ならば、その用途を容易に為しうる、そういうことだよ。何せ、あの泥はサーヴァントを喰らうためにあるようなものだからな。それに汚染された聖杯に捕獲されては、逃げ出すことなど叶うまい」

「…ギルガメッシュは、イリヤの心臓よりも、代羽の子宮のほうに高い価値を見出したと、そういうことか」

「ああ、そういうことだ。そして、それは私も同じくな」

「あんたも…?」

「それは、私が聖杯に願うことと直接に関係してくるのだが…。ああ、すまない、紹興酒を頂けるだろうか。グラスは一つでいい」

 

 言峰は、軽く手を挙げて、駆け寄ってきた店員にそう注文した。

 昼間から、聖職者が酒を喰らう。

 何とも破戒的ではあるが、この男に限っては許される、そんな気がした。

 

「君も何か頼むかね?ああ、あのような話を聞いた後では食欲など湧くはずもないか。これは悪いことを聞いた」

「…ここからここまで、全部下さい」

 

 一回やってみたかった、王様オーダー。

 思ったよりも、気持ちいい。

 それが他人の財布だと、なお最高だ。

 

「…これでも清貧をもって是とする身、最初にそう言った筈だが」

「何でも頼むといい、そう言ったのはあんただ」

 

 苦虫を噛み潰したような顔。

 金がないと言っていたのは冗談だと思っていたが、案外本気だったのだろうか。

 

「…まあ、いい。この店は馴染み深い。ツケもきくだろう」

「おまたせしました、紹興酒です」

「ああ、ありがとう」

 

 テーブルに並べられた、紹興酒の瓶と、小さなカットグラス。その横には、小皿に盛られた半透明の白い結晶体が。

 

「…これは?」

「粗目糖だ」

 

 言峰は、それをたっぷり小匙に一杯掬って、グラスの中に入れた。

 その上から、濃い琥珀色の紹興酒を注いでいく。

 

「これはな、もともと質の悪い紹興酒を誤魔化すために考え出された飲み方なのだが、良質な紹興酒が輸入される今でも慣習として根付いている。そして、私もこの飲み方が好きなのだよ」

 

 からからと、指先でグラスをかき混ぜる。

 それは、凛と同じ癖であった。

 蜘蛛の糸のような跡を残しながら、粗目糖が溶けていく。

 

「…何で、いきなり酒を?」

「ふん。これから語ること、素面ではとてもとても…」

 

 手に持った液体の琥珀色よりも、なお濃い自嘲の笑み。

 それを頬に刻みながら、奴はグラスを傾けた。

 ごぼりと、一口。

 まるで石でも放り込んだかのように、グラスの中の液体は消失していた。

 



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episode77 食後問答

「驚いたな、あの量を本当に平らげるとは」

 

 純粋な感嘆の響き。

 この男からこのような台詞を引き出せただけでも、胃を満タンまで広げた価値があるというもの。

 

「…げふ、男はな、『喰うべきときは、たらふく喰う。眠るべきときは、泥みたいに寝ればいい。戦うべきときは、自ずとやってくる。そのときに動けない奴は、カスだ』、なんだとさ」

 

 目の前に座った男の表情は、些かも変化しない。しかし、あえて言うならば、少し呆れていたようだ。

 

「…誰の台詞だ、それは」

「アイルランドの光の皇子、その人だ」

「…ああ、なるほど、それは確かに相応しい!」

 

 笑っていた。

 初めて、この男が声を上げて笑った。

 頭部を握り潰すように手を当て、肩をひくつかせながら笑った。

 その姿が、何故だろう。

 とても、悲しく見えた。

 

「ああと、これは不味い。少し酒精が回り過ぎたか。いやはや醜態を晒した。忘れてくれると有難い」

 

 口元を新しいお絞りで拭い、しかしその眼はなお愉快気な光に揺れていた。

 

「…あんたも、笑うんだな」

「神は、人をそう御造りになった。であれば、笑うさ。人は、笑わねばならぬ。そうでなければ、人ではないのだからな」

 

 くつくつと、先程とは違う笑み。 

 頬を歪めるのは、諧謔ではなく自嘲ゆえに。

 それは、いつものこの男の表情だ。

 

「…何か言っていたか、あの男は?」

「…何も。ただ、元のマスター、バゼットっていったっけ、彼女の話をするときだけ、少し辛そうだった」

「そうか…」

 

 言峰は、視線を窓の外にやった。

 そこにあったのは、やはり鈍色の町並みと、錆び色の空。

 木の葉の装いを剥ぎ取られた木々が、寒そうに揺れている。

 いっそ、一思いに叩き折ってやるのが慈悲だろうか、そう思えてしまうほどに。

 

「…続けよう。でなくては、要らぬことまで口走りそうになる」

 

 その声は、微妙に震えていた。

 きっと、俺の勘違いなんかじゃあない。

 

episode77 食後問答

 

「…さて、次の質問は私が聖杯に望むこと、それでよかったかな?」

 

 無言で頷く。

 

「ふむ…。さて、どこから話したものか…」

 

 顎に手を当て、視線を彷徨わせる。その様子は、自分自身と問答を繰り返す禅僧の悩む様にも似ていただろうか。

 

「そうだな、まず結論から言おうか。私はな、神に問い質したいのだ。私という存在が、是なのか、それとも非なのかを」

 

 は?

 神に、問い質す?

 この男、何を―――?

 

 

「遠坂先輩、貴方は処女ですか?」

「ぶっ!」

 

 静寂を打ち破る、突然の質問。

 思わず噴出してしまった。

 げほげほと、咳き込む。

 ああ、もう、麻酔やら何やらで弱ってるんだから、やめてよね、ホント。

 

「…すみません、失言でした」

 

 そう、その通り。

 失言にも程がある。

 

「…別にいいけど。なんなのよ、一体?」

「別にいいなら教えてください。先輩、貴方は処女ですか?それとも、もう経験済み?なら、初めての相手は誰ですか?」

 

 仰向けの姿勢から見上げる天井、そこが心なしか赤く色づいた気がする。

 いや、それはきっと勘違い。

 空気が、色を変えたのだ。

 覚えがある。 

 教室の片隅、男子生徒がいないときを見計らって、女子だけが集まって何かを話しているとき。

 きゃあきゃあと、耳に優しくない声が聞えたとき。

 決まって、こんな色の空気が流れていた気がする。

 

「やはり、まだおぼこですか、貴方は。どれどれ」

 

 太腿の付け根に、冷たい感触。

 麻酔が効いていても見逃すものか。

 

「だあ、ちょっと、何してんの!?」

「いや、話してくださらないので、実際にこの目で確かめようかと」

「やめ、やめなさい、やめんか、この!」

 

 身体を捩る。

 それでも、彼女の冷たい掌の感触は放れてくれない。

 それどころか、私の太腿の感触を愉しむかのように、少しずつ上に遡って来るのだ。

 

「ちょ、本当、やめて!」

「別にいいじゃないですか、ちょっと処女膜を確認するだけですから」

 

 それが全然大丈夫じゃあない!

 

「ああ、もう、分かったわよ、経験済み、私は経験済みです、つい此間、一昨日の夜に経験しました!!」

「そうですか、お相手は?」

 

 相手は…。

 う。

 思い出しちゃったじゃないの。

 あいつ。

 いつもはへっぽこで、てんで頼りにならないくせに。

 あのときだけは、妙に男らしかったのよね。

 私の傷口を庇いながら、本当に初めてなのか疑わしいほど慣れた手つきで。

 何度も何度も、私を違う世界に飛ばしやがったんだ。

 そして、何度も注ぎ込まれた。もう、きっと卒業前にはハローベイビー、そんな感じで。

 

「…顔が、赤いですよ、先輩?」

「誰のせいだ、誰の!?」

「で、お相手は?」

「…よ」

 

 小さな、声。

 情けないくらい、小さな声。

 きっと、涙だって浮かんでいる。

 ああ、もう、ホント情けないったら。

 

「聞えませんでした。一体、誰…」

「衛宮士郎だって言ってんでしょうが、この馬鹿女!」

 

 声を張り上げて、高らかに。

 そうだ、何一つ恥じ入るところなんか、無い。

 だって、アイツは心底格好良くて。

 私だって、きっといい女だ。

 なら、これはベストカップル。

 他人が羨むことがあっても、非難される覚えも同情される所以もない。

 胸を張って言えばいいのだ。

 

「私は、衛宮士郎に女にされて、衛宮士郎を愛してるの!なんか文句ある!?」

 

 笑われると、思った。

 きっと、可愛らしいものを見つけたように、笑われると。

 でも、違った。

 彼女は、くすりとも笑わなかった。

 その代わりに。

 この上ないくらい真剣な声で、こう言った。

 慈愛と、誇りと、一抹以上の寂しさを含んだ、声で。

 

「ああ、そうだ、遠坂。お前は、そうでなくちゃいけない…」

 

 え?

 

 その、口調は。

 

「し、ろう…?」

「…私はね、遠坂先輩。十歳のときに、処女を捧げました。私には処女という概念がありませんが、それでも望んで男性に身体を委ねたのが、十歳のとき。ちょうど、倫敦に旅立つ前日だったでしょうか…」

 

 その声は、いつもの、代羽の声で。

 ああ、勘違いだったんだ。

 そう思って、パラシュートみたいに安心してしまった。

 忘れよう。

 きっと、悪い夢だ。

 

「相手の男性は、神父さんです。それまでも、何度も彼に救われた。だから、せめて人であるうちに彼に抱かれたかった」

「でも、十歳って、あんた…」

「ええ。私はそのとき、まだかぶろでした。でも、握り拳大の淫蟲に調教された身体ですから、男性を受け入れるのに何ら支障はありませんでしたよ」

 

 握り拳大。

 想像して、それだけで青くなった。

 だって、士郎ので、あんなに痛かったんだ。

 本当に、身体が真っ二つにされるかと思った。

 今の、これでも成熟した女の身体の私でさえ、だ。

 それが、僅か十歳。

 その時に、彼女の女性器は、どれほどの苦痛を味わってきたのか。

 桜が、あの明るかった桜が、一年と立たずに人形のようになってしまうような修練。

 彼女は、どれだけの間、それに耐え続けてきたというのか。

 

「彼は、寝物語に、己の半生を語ってくれました」

 

 そして、彼女は語り始めた。

 彼女を女にしたという、神父の話を。

 それは、私の知っている、腐れ縁の神父の人生と、酷似していた。

 曰く、美よりも醜に心惹かれる。

 曰く、人が苦悩し破滅する姿に、快楽を感じる。

 曰く、病魔に冒された妻を見取ったとき、その心を満たしたのは、己が手で止めをさせなかった後悔である。

 そんな、壊れきった人間が、二人もいることに驚いて。

 そう、真剣に思い込もうとした自分の逃避に、何よりも驚いた。

 

「彼の行動のベクトルは、常に他者の不幸を求めて決定される。ならば、彼は存在するだけで他者を苦しませる癌細胞だ。その彼の生に、貴方はどのような価値を求めますか?」

 

 何も、言えなかった。

 価値観のずれを認識しながら、しかし道徳は失わない。

 完全に外道に堕ちることはできず、しかし聖者として歩くのは苦悩の道以外、何ものでもない。

 誰とも分かり合うことは出来ず、しかし周囲はそれを求める。

 全く異なる言語体系の世界に、突然置き去りにされたような、いや、それ以上の絶望。

 自分を、誰も受け入れてくれない。

 きっと、神も。

 ならば、其処は。

 地獄と。

 そう、定義されるのでは、ないだろうか。

 

「私は、思うのです。彼は、神に愛されなかった。いや、神は彼を愛し忘れたのだと。でも、それ故に彼は神に帰依した。己の性を決定付けた、神に頭を垂れた。一体、どのような心理がそれを可能とするのでしょうか」

 

 彼女は、ゆっくりと立ち上がった。

 こつこつと、石造りの室内に、硬い靴音が響く。

 

「少し、出かけます。賭けのこと、忘れないで下さいよ」

 

 全く感情を感じない、その声。

 だからこそ、一つだけ尋ねたかった。

 仮に、その問いが私の寿命を縮めることとなったとしても。

 

「…貴方は、神を信じていないの…?」

 

 多分、彼女はにこりと笑って、こう言った。

 

「信じていますとも。じゃないと、殺せないでしょう?」

 

 

「私は、自覚している。己が、この世界に相応しくないと、自覚している。しかし、絶対なるはずの神は、確かに私をこの世界に使わした。この矛盾、整合性の無い問いの答を、私は人生を賭けて求めたよ。そして、それはまだ途上にある。故に、問いたいのだ。神は、私の存在を是とするか、それとも非とするか」

 

 目の前の男は、微笑っていた。

 他者の不幸だけでなく、己の不幸までもを愉しむように。

 

「…いっぺん、病院に行って来い。それが一番手っ取り早い解決方法だ」

「なるほど、君は聡明だな。そんなこと、私は思いもよらなかったよ」

 

 奴は、小馬鹿にするように俺を見やった。

 その瞳には、真実を知るものとしても、或いは苦悩にに満ちた道を歩いた先達としての優越が、確かに存在していた。

 

「パキシルかレキソタンか、それともメタンフェミンなどでもいいだろう。然り、最近は幸福すらもインスタントに得ることが出来る時代だ。そこに神などという概念を差し挟む余地はないのかもしれんな。祈りを捧げる代わりに、白い錠剤を一錠飲み下す。そうすれば、幸せはこの手に、なるほど、合理的だ」

「…そういう、意味で言ったんじゃあ…」

「では、どういう意味だ?そうか、薬に頼るのではなく、カウンセリングを受けろと、そういうことかな?ああ、それもいいだろう。今まで、私の全人生をかけて、ありとあらゆる存在に問いかけた煩悶、それでも得られなかった問いの答えが、書物と数字しか知らぬ若輩の研究者の一言で得られることもあるかも知れんな。禍福、いい言葉だ、何も知りえぬ第三者が使うには、最も便利で残酷な言葉だよ」

 

 しかしな、と。

 

 奴は、憂いをたたえた瞳で、機関銃のような言葉を区切り。

 そして、言ったんだ。

 

「衛宮士郎、何故、君がそうしないのだ?」

 

 頭を、何かどでかい玄翁で殴られたような、そんな錯覚を覚えた。

 

「君とて、方向性は違えど根本的には私と同じ罪人の筈だな。私は、他人の不幸にしか、幸福を感じ得ない。君は、他人の幸福にしか、幸福を感じ得ない。これは、全く逆の方向性に見えて、その実そうではない。他者に依存し、その反応をもってしか己の存在を認識できないという、生物としての致命的な欠陥。それを抱えているという意味では、君と私は同一だ」

 

 それ、は―――。

 

「治療をもって生き方を変える。それは素晴らしいことだ。君の前途には、輝かしい未来が広がるだろう。なのに、何故そうしない?」

 

 だって、俺には。

 俺には。

 あの、赤い世界を生きた、俺には。

 あの、赤い世界で、いろんなものを見てしまった、俺には。

 あの、赤い世界の中で、■さんを見捨てた俺には。

 幸せとか、そんなものを、求める、資格が―――。

 

「資格、人が幸福となるために、そんなものは必要ない。例え絞首台の前に立った猟奇殺人鬼であったとしても、幸福を追い求める権利だけは失わないのだ。どうだ、君は今から幸せを求めては。私は祝福するぞ。君の新たな人生を、君の新たな門出を」

 

 ぱさり、と。

 テーブルに、書類が。

 薄い。

 精々、四、五枚。

 

「…何だ、これは…?」

「戸籍謄本だ」

 

 …は?

 

 呆気に取られる俺のまえで、奴は悠々とその書類を手に取った。

 

「十年前の火災で、五百人の人間がこの世を追われた。しかし、彼らの死体が見つからずとも、その生きた痕跡は明白だ。その最たるものが、こういった公的な証明書である」

 

 こいつは、一体、何を―――。

 

「五百名死んだ。しかし高々五百名だ。その中から士郎という名の五、六歳の子供をピックアップすることは、それほど手間のかかる作業ではなかったな」

 

 し、ろう。

 お、れ?

 おれの、人せい。

 オレが、失っタ、じんセイ。

 俺の、本当のオレのジンセイが、ソコニ?

 

「どれ…、ふむ、やはり、きみのりょうしんはしにたえているか。シボウビハ…イウまでもナイナ」

 

 リョウ、シン。

 オレノ、トウサント、カアサン。

 あのひ、ホノオニノミコマレテレテシンダ、カアサン。

 アノヒ、瓦礫ニオシツブサレテシンダ、トオサン。

 ソシテ、ソシテ―――。

 

「ホウ、コレハ、メズラシイ。ヨロコベ、エミヤシロウ、キミニハ、フタゴノ、キョウダイガ、イル、ヨウダゾ」

 

 フタゴ、ノ。

 

 キョウダイ。

 

 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。

 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。

 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。

 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。

 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。

 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。

 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。 ■、サン。

 

「サテ、コレハ、ナント、ヨンダモノカ。…シャ…?ソレトモ―――トデモヨムノカ?ナルホド、コレガ、カノジョノ、ホントウノ、ナマエ、トイウワケダ」

 

 アア、ソノナマエ。

 

 ■、サンノ、ナマエ…?

 

 イヤ、チガウ。

 

 ソノ、ナマエハ、ソノ、ナマエハ。

 

「シカシ、マサカ、シンルイエンジャ、スベテガ、シニタエタ、ワケデモ、ナカロウ。サガセバ、キミヲ、ヤサシク、ウケイレテクレル、キトクナ、ヒトモ、ミツカル、ノデハ、ナイカネ?」

 

 ソコニ。

 

 オレノ。

 

 アタラシイ。

 

 ジンセイ、ガ…?

 

「スベテヲ、ステサレ、エミヤシロウ、ト、ヨバレタモノヨ。ソウスレバ、キミハ、コウフクニナルコト、ガデキル。スクナクトモ、コウフクヲ、オイモトメル、シカクガ、ウマレルダロウ」

 

 コウフクガ。

 

 ソコニハ、コウフクガ。

 

「コレハ、キミニ、シンテイシヨウ。ナニ、レイハ、イラナイ」

 

 ヤツハ、ソノテニシタ、ウスッペラナ、カミヲ。

 

 スルリト、オレノホウニ、ヨコシテ。

 

 ニコヤカニ、ワラッタンダ。

 

 フルエル、テ。

 

 ガタガタ。

 

 ソレガ、ソノ、ウスッペラナカミヲ、ツカム。

 

「ソウダ、ソレデイイ、ソレガ、ニンゲンダ」

 

 ガタガタ。

 

 ブルブル。

 

 ソノ、フルエル、カミヲ。

 

 オレハ、フルエル、テデ。

 

 ナミダノ、ニジンダ、ヒトミ、デ。

 

 

 一気に、破り捨てた。

 

 

 びりびりと。

 

 細切れに。

 

 たった一つの文字も、読み取れないほどに!

 

「はあ、っはあ、っはああああ!」

「…哀れだな、衛宮士郎。君は、そこまでして不幸を追い求めるか…」

「俺は、正義の味方になる…!それが、俺の幸せなんだ…!何故、それを誰も、認めてくれない…!」

 

 奴は、呆れたように立ち上がった。

 その目には、哀れな罪人を眺める、聖者の憐憫が、確かに存在した。

 

「…会計は、済ませておく。気が済むまで泣いてから、店を出るといいだろう。私が黒い聖杯を求める理由、それはいずれ語ることもあるだろうが…。それまで、壮健でな」

 

 悠然とした後姿には、如何なる罵声を投げかけることも出来なかった。

 声を出せば、それは必ず嗚咽に歪むことになるから。

 涙で滲んだ、視界。

 そこから、黒い、大きな背中が消え去ったことを確認してから。

 俺は、机に突っ伏して、大声を上げて、泣いたんだ。

 

 

 歩いた。

 とぼとぼと、歩いた。

 いつか、アーチャーにぶちのめされて歩いたときみたいに、とぼとぼと。

 時折、鼻を啜る。

 涙が、止まってくれない。

 もう、駄目だ。

 そう思えるほどに、涙が止まらなかった。

 顔を、握り潰すように、隠す。

 この際、人通りが無いのが、有難かった。

 だって、泣き顔はみっともない。

 男泣きは美しいというが、あれは嘘だな。

 泣き顔が格好いいなんて、嘘だな。

 泣き顔は、みっともないんだ。

 男女を問わず、みっともない。

 だから、それを隠すみたいに、歩いたよ。

 とぼとぼ、とぼとぼと。

 たまに、電柱に縋りついて、泣いた。

 コンクリートを全力で殴って、泣いた。

 何が悲しいのか、分からなかった。

 それほどに、悲しかった。

 分からない。

 それが、罪の深さだと、そう思った。

 何が、罪なのだろうか。

 この、他者を見捨てたことから始まった人生が、だろうか。

 俺と同じ境遇で俺よりも苦しんできた彼女、それを知らなかったことが、だろうか。

 それとも、分を弁えずに正義の味方を目指す俺自身が、だろうか。

 それをひっくるめて、もう一つの人生の可能性に一瞬でも心惹かれた、そのことが、だろうか。

 分からない。

 分からないから、涙は止まってくれなかった。

 だくだくと、滝のように流れた。

 いつしか、立っているのも、辛くなって。

 地に伏せて、滴り落ちる水滴の数を数えていたとき。

 優しい、小さな手が、俺の肩を、叩いたんだ。

 振り返る。

 涙で死んだ、視界。

 そこには。

 

「こんにちは、今日も能天気そうで何よりです、衛宮先輩」

 

 いつもの笑みを浮かべた、代羽がいた。

 



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episode78 デザートにクレープを

「お一つ、如何ですか?」

 

 差し出された、小さな手。

 その手には、暖かな湯気の立つ紙包みが。

 逆三角形の形。

 包装紙からはみ出した、毒々しいような果実の色と、それを包む生クリーム。

 それを持つ手は、病的なまでに白く、飴細工のように繊細だった。

 細く、細く、弱弱しい、手。

 それが、俺のほうに差し出されたのだ。

 輝くような、表情で。

 天使が微笑ったような、表情で。

 

「こう寒い日には、暖かいものが何よりのご馳走でしょう?どうぞ、冷めないうちに」

 

 そう言った、少女。

 にこやかに、微笑んでいる彼女。

 彼女の口元には、紅いソースが、べったりと。

 それは、まるで、血のように。

 俺の、恋人の、血のように。

 

「し、ろう…」

 

 彼女は、やはり微笑っていた。

 そう、ちょうど、初めて出会ったあの時と同じように。

 

episode78 デザートにクレープを

 

 なんと言えばいいのか、分からなかった。

 なにを言えばいいのか、分からなかった。

 言いたいことが、多過ぎた。

 聞きたいことが、多過ぎた。

 問い質したいことが、多過ぎた。

 何もかもが、多過ぎて、太過ぎて、抱えきれない。

 それが、一気に外に出ようとする

 狭い狭い、非常口から。

 一気に、我先に飛び出ようとする。

 悲鳴が、聞える。

 俺の中から、悲鳴が聞える。

 感情と感情がぶつかり合って、死んでいく声だ。

 つぶれていく感情と、軋む脳髄。

 ぐらぐらと、ちかちかと。

 ぜえぜえと、咽喉が鳴る。

 口が、ぱくぱくと動く。

 意味のある単語が、生まれない。

 生まれるのは、畸形児のような、喘ぎ声だけ。

 意味の無い、言葉。

 ならば、それは鳴き声だ。

 獣が、啼いている。

 慟哭している。

 ここにいるのは、人ではない。

 まして、衛宮士郎ではない。

 もっと、違うもの。

 人ではなくて、衛宮士郎ではなくて、○○士郎でもなかったもの。

 もっと、もっと、違うもの。

 この場所には、いてはいけない、もの。

 深海魚たちが、嗤っていた。

 嗤いながら、飛び泳いでいた。

 俺の周りを、さも楽しそうに。

 

 くるくる。

 くるくる。

 

 人の口で、嗤っている。

 己の仲間を見るように、嗤っているのだ。

 いつか見た、仲間たち。

 ここにいるべきではない、異邦者の群れ。

 存在すべきでない、異形。

 

『久しいな、衛宮士郎。』

 

 リュウグウノツカイが、そう言った。

 

『覚悟は決まったか、衛宮士郎?』

 

 メガマウスザメが、そう言った。

 

『ならば、その答に胸を張れ、エ宮士郎。』

 

 ヨミノアシロが、そう言った。

 

『お前はその答えに胸を張るべきだ、エミヤ士郎。』

 

 シンカイクサウオが、そう言った。

 

『誰かのために生きて、何が悪い、エミヤシ郎。』

 

 オニボウズギスが、そう言った。

 

『他人の幸福が己の全てで、何を恥じるか、エミヤシロウ。』

 

 フクロウナギが、そう言った。

 

『ならば、それは正解だ、○ミヤシロウ。』

 

 テンガンムネエソが、そう言った。

 

『貴様が選んだ道は、ただ、幸福へと連なっているぞ、○○ヤシロウ。』

 

 カイロウドウケツが、そう言った。

 

『さあ、人を救うがいい、○○○シロウ。』

 

 ドウケツエビが、そう言った。

 

『いずれ、その肺は血臭で腐り、呼吸することもままならなくなるだろう、○○○○ロウ。』

 

 スケイリーフットが、そう言った。

 

『手足は折れ砕け、無様に這いずり回る滑稽な生き物に生まれ変わるだろう、○○○○○ウ。』

 

 カイコウオオソコエビが、そう言った。

 

『それでも、戦い続けろ、○○○○○○。』

 

 トゲヒラタエビが、そう言った。

 

『それが、お前の望みだろう、○○○ヤ○○?』

 

 フクレツノナシオハラエビが、そう言った。

 

『人を救うために、人以外のものになりたいのではないのか、○ミ○○シ○?』

 

 ダイオウイカが、そう言った。

 

『人の身では人を救えないから、人以外の人になりたいのではなかったか、え○ヤ○○ロ?』

 

 ニュウドウカジカが、そう言った。

 

『それだけが、貴様の望みなのではなかったか、エミヤシロウ?』

 

 ホンフサアンコウが、そう言った。

 

『それが、父の姿だったのだろう、衛ミヤシロウ?』

 

 タウマティクチスが、そう言った。

 

『あの男のように、心の底から、笑いたいのだろう、衛宮シロウ?』

 

 デメニギスが、そう言った。

 

『お前は、あの男の願いを受け継いだのだろう、衛宮士ロウ。』

 

 デメエソが、そう言った。

 

『だからこそ、あの男は微笑いながら逝ったのではなかったか、衛宮士郎。』

 

 ボウエンギョが、そう言った。

 

『約定を違えるか。』

 

 ワニトカゲギスが、そう言った。

 

『あの顔を、失意で塗り潰すか。』

 

 カブトウオが、そう言った。

 

『あの微笑を、溜息混じりの悲嘆に変えるか。』

 

 シーラカンスが、そう言った。

 

『それは人に、いや、子には許されざる行為、そうは思わんか、衛宮士郎。』

 

 エゾイバラガニが、そう言った。

 

『いやいや、その実、そうではない。』

 

 ヒドロクラゲが、そう言った。

 

『親は子の幸福のみを望むもの。』

 

 シロウリガイが、そう言った。

 

『簡単な話だ、お前は己の幸福のみを追い求めればいい。』

 

 サツマハオリムシが、そう言った。

 

『己が幸せになること、それだけを考えればいいのさ。』

 

 ウリクラゲが、そう言った。

 

『あの女と添い遂げ、子を成し、その手に抱けばいい。』

 

 ムラサキカムリクラゲが、そう言った。

 

『それは、何と幸せか。』

 

 コウモリダコが、そう言った。

 

『さあさあ、覚悟を決めろ、衛宮士郎。』

 

 センジュナマコが、そう言った。

 

『貴様の前途には、幸福のみが待ち構えている。』

 

 オウムガイが、そう言った。

 

『それを受け入れる自信が無い?』

 

 ミツクリザメが、そう言った。

 

『そんなこと、なんの苦もないぞ。』

 

 オニキンメが、そう言った。

 

『ただ、為されるがままでいいのさ。』

 

 ザラピクニンが、そう言った。

 

『ならば、話は早い。』

 

 見たことも無い魚達が、ぐるぐる回っていた。

 

『貴様は、幸せだ。』

 

 ぐるぐる。

 

『五百人の怨嗟をその背に浴びて、それでも幸せだ。』

 

 やめろ、目が回る。

 

『それが、貴様に許された、唯一の贖罪。』

 

 溶けて、バターになっちまう。

 

『それでも。』

 

 どろどろ。

 

『それでも、貴様が、違うものを望むならば。』

 

 魚が、生き物が、海が、どろどろになって。

 

『幸福とは違う形の幸福を追い求めるつもりならば。』

 

 どろどろが、びちゃびちゃ、一つになって。

 

『私は優しいぞ、○○○。』

 

 うねうねと、黒々としたものになって。

 

『必ず貴方の声に答えよう。』

 

 それが、朗々と言うのだ。

 

『さあ、人を救え、○○○。』

 

 もう、一度見た、塊。

 

『歩くが如く救え。』

 

 体が、沈んでいく。

 

『喰らうが如く救え。』

 

 深海よりも、更に深いところへ。

 

『呼吸をするが如く、救え。』

 

 冷たさが熱さに変わり、熱さが甘い痺れに変わり。

 

『救って救って救い続けろ。』

 

 白く、白く漂白された、腐れた空間。

 

『そうすれば、貴様は確かに幸せだ。』

 

 誰かが、いた。

 

『死後も、救い続けることが出来る。』

 

 お前は、何者だ。

 

『それは、何と有意義な存在ではないか?』

 

 俺であって、俺で無い者。

 

『罪人として生きた貴様には、何よりの救いだろう?』

 

 何者でもあって、何者でもない者。

 

『そうではないか、この世の誰よりも、意味なき生を生きる者よ』

 

 ああ、お前は、阿頼耶識か。

 

 あ―――。

 夢を、見ていた。

 どんな夢だったんだろうか。

 わからない。

 ぼんやりとした視界よりも、さらに滲んだ意識。

 それが、深海から浮かび上がる。

 ああ、なるほど、と。

 深海魚が、浮上してきたんじゃあない。

 何のことは無い、俺が沈降していっただけだ。

 深い、深い、ところ。

 俺を求める、何かがいるところへ。

 

「はっきりしましたか、衛宮先輩?」

 

 鼻に突きつけられた、甘い香りのするもの。

 華やかな包装にくるまれた、小麦色のもの。

 色取り取りの、具材。

 

「ほら、前に言ったでしょう?フルールのクレープが食べたい、と。貴方があまりにも遅いから、私が買ってしまいました」

 

 見上げる。

 やっと、雲間から顔を出した、太陽。

 その光が、彼女を照らすためだけに、降り注ぐ。

 きらきらと輝く、宝石のような長髪。

 細められた瞳。

 人懐っこい笑み。

 その全てが、造られたものだと知る。

 

「ほら、またあのベンチで食べましょう?色々お話もしたいですし」

「…凛を、どうした…?」

 

 呪文を唱え、あの男に変貌するとき。

 彼女は、ちらりと俺を見遣ったんだ。

 その、瞳は。

 間違いなく、耐え難いほどの苦痛に濡れていた。

 

「全く、貴方はいつも行動が遅過ぎるのです。女性が欲しいといえば、即座に行動するのが男の甲斐性でしょうに」

「凛を、どうした…?」

 

 貴方は、そうだったのか。

 いつも、いつも、そうだったのか。

 蟲に凌辱され、人に凌辱され、悪夢に凌辱され。

 蟲を恨まず、人を恨まず、悪夢を恨まず、ただ己だけを恨み。

 歯を食い縛って、最下層の地獄を這いずり回っていたのか。

 それは。

 それは、違う。

 貴方には、ちっとも相応しくない。

 俺だ。

 俺が、引き受けるべき苦痛だ。

 貴方は、もっと輝かしくあるべきだ。

 いらない。

 俺なんて、いらない。

 俺には、幸福なんて、いらない。

 なのに。

 なんで、この人が、一番不幸でなければいけないのか。

 ゆっくりと、立ち上がる。

 もう、涙は、流れていなかった。

 だって、分かったから。

 何が罪だったのか。

 何が罪で、誰が罪人なのかを、理解した。

 

 俺だ。

 

 俺が、存在していること。

 俺が、この世界に存在していること。

 それ自体が、許されざる罪だ。

 俺が、いなければ。

 俺が、あの火事で消し炭になってさえいれば。

 彼女は、きっと苦しまなかった。

 もっと、光の当たる人生があった。

 なら。

 ならば。

 俺は。

 

「さ、行きましょう。あまり遅いと陽が傾きます。それはいくらなんでも寂しいでしょうから」

「凛をどうしたと、そう聞いている!答えろ、マキリ代羽!」

 

 差し出された手を、振り払った。

 高らかな、皮膚が皮膚を打つ音が、響いた。

 一瞬遅れて、ばちゃりと、破滅的な音が聞えた。

 俺の涙が染みこんだアスファルトの上で、クレープが塵屑に化けていた。

 

「…貴方が、私をその名前で呼ぶのですか…?」

 

 その表情には、些かの曇りも存在しない。

 ただ、くすくすと俺を見つめる。

 くすくすと。

 にたにたと。

 

「…そんなことは、聞いていない!答えろ、マキリ代羽…!答えによっちゃあ…」

「私を、殺しますか?」

 

 風が、吹いた。

 この季節には似つかわしくない、生暖かい風だった。

 生暖かく、それ以上に生臭い風だった。

 まるで誰かの溜息のようだと、そう思った。

 

「もう一度、聞きます。果たして、私の名前は、何ですか?間桐代羽でしょうか、それとも、マキリ代羽でしょうか、それとも、それ以外でしょうか?貴方は、私に誰であってほしいのですか?」

 

 大きく手を広げている。

 誰かを抱きとめる直前みたいだ。

 陽光を背負ったその姿は。

 神の仔を生んだという、聖母にも似ていたのだろうか。

 

「貴方の恋人になれというなら、喜んで手を差し出しましょう。貴方の母になれというなら、喜んで乳房を差し出しましょう。貴方の娼婦になれというなら、悦んで貴方の性器を慰めましょう。貴方の性奴隷になれというなら、悦んでこの首に枷を嵌めましょう。貴方の後輩のままでいいというなら、喜びながら微笑みましょう。貴方の先輩になれというなら、悲しみながら叱ってあげましょう」

 

 細い、身体。

 細い、身体。

 何で、こんなことに気付かなかったのだろうか。

 今なら、分かる。

 この身体。

 人の理想形のように、均整の取れた、美しい身体。

 さもありなん。

 理想は、理想。人のそれは、届かない。

 ならば、理想に届いたそれは、何なのだろうか。

 決まっている。

 それは、人ではないのだ。

 彼女は、人ではない。

 

 蟲だ。

 

 蟲が、蠢いている。

 彼女の身体の外で。

 彼女の身体の中で。

 彼女の身体の、ありとあらゆるところで。

 彼女の振りをして、蠢いている。

 

「さて、貴方は私に何を望みますか…?」

 

 肺の形をした蟲が、脹らんで

 声帯の形をした蟲が、震えて。

 唇の形をした蟲が、卑猥に歪む。

 人の形をした、蟲。

 人を形作る、蟲の群体。

 もう、既に、彼女は人ではなかった。

 蟲。

 人の形をした、蟲で形作られた、死徒。

 彼女は、もとからそういう存在だったのだ。

 

「私は、ご覧の通りの存在です。貴方が望むならば、どのような形にでも。ああ、そうでしたね、貴方のお好みは、こんな顔立ちでしたか?」

 

 彼女の整った顔が、ぐねぐねと歪む。

 骨格が、ばきばきと音を立てる。

 髪の毛の色が、変わっていく。

 赤紫がかった黒から、漆黒へ。

 一切の癖のない毅然とした長髪が、軽くウェーブのかかった柔らかい髪の毛に。

 

「これでどう、士郎?」

 

 耳に心地いい、声。

 そこには、よく見知った女性がいた。

 一昨日、俺の腕の中で、泣きながら慰めた、人だ。

 昨日、俺の腕の中から、するりと落としてしまった、人だ。

 今日、俺が、狂ったように捜し求める、人だ。

 遠坂、凛。

 彼女の形をした蟲が、そこにはいた。

 

「何でもしてあげるわ、士郎。貴方のものに、なってあげる。どんな娼婦も思いもつかない痴態を、見せてあげる。貴方のためだけに生きて、貴方のためだけに死んであげる」

「やめろ…!」

 

 その、凛の形をしたもの。

 服を、一枚一枚、脱ぎ捨てていく。

 その、見慣れた美しい、手で。

 普通の、街中で。

 疎らながら、人通りのある、アスファルトの上で。

 それは、どこまでも現実感を欠いた光景だった。

 やがて、露になる、乳房。

 股間の、淡い茂み。

 あの夜、淡い月明かりの中で見たそれと、寸分違わず同じ形。

 

「さあ、士郎。私を、どうしたい?ここで、皆が見てる前で、犯したい?それとも、私に首輪をつけて、引きずり回すというのはどうかしら?私、ちゃんと脚を上げて、犬みたいにおしっこするわ。アスファルトを四つん這いで歩くと、膝が擦りむけて痛いのだけれど、貴方のためなら我慢する」

「止めてくれ…!」

 

 後ずさる。

 それでも、捕まる。

 交尾を終えた後の、雄カマキリみたいだ。

 しなだれかかってくる。

 分厚い冬着越しに感じる、彼女の体温。

 それは、あの夜、狂おしいほどに交わった、彼女の体温と同じ。

 鼻腔を突き抜ける、淫らな雌の匂い。

 それは、あの夜、彼女の体液から漂ってきた香りと、同じ。

 

「でもね、士郎、お日様の下は、少ししんどいの。だって、私はもう人間じゃあないから。少しずつ、壊れていってしまう。それでも、貴方はそれを見たい?私が悶え苦しんで、のた打ち回る様を見て、愉しみたいの?」

「頼む…!もう、もう、許して…!」

 

 がちがちと、歯が鳴る。

 俺は、間違いなく恐怖していた。

 伝わってくる、体温に。染み込んでくる、雌の匂いに。

 耳に、暖かい吐息が吹き込まれる。

 彼女の髪の毛が、俺の鼻頭を擽る。

 その、甘美な感触。

 硬直した身体と、それよりも堅い身体の中心。

 

「ふふ、ご主人様の、こんなに堅い…」

 

 耳道を、ちろりと舐められる。

 その感触だけは、違った。

 凛ではなく、俺の後輩だった少女のものだった。

 

「ひいいいいぃぃぃぃッッッッッ!!!!!」

 

 思いっきり、突き飛ばした。

 目の前の、何かの形をした、何かを。

 もう、何がなんだか、分からなかった。

 とにかく、これは嘘だと思った。

 視界が、ガラス越しに歪んでいるみたいだった。

 きっと、これは、悪夢だと。

 そう、信じ込みたかった。

 

「…そう。それが、貴方の望みなのですね…」

 

 はあ、はあ、と、荒んだ呼吸が聞える。

 誰だ、誰の気配だ、これは。

 ああ、俺のだ。

 そう気付いて、無上の安堵を味わった。

 一瞬遅れて、脳が視界を認識する。

 そこには、凛の形をした蟲は、いなかった。

 ただ、俺の見知った後輩の形をした、蟲がいた。

 きめ細やかな、肌。

 桜色の乳首。

 足の付け根に、露になった女性器。

 それでも、それは人ではない。

 それが、この上なく恐怖だった。

 

「…お前は、お前は、人を喰うのか…?」

「はい、食べますとも」

 

 無邪気な声。

 のそりと、彼女は下着を身につけ始めた。

 慣れた手つきで、まるで始めから女性だったみたいに。

 その表情に、色はない。

 色の無い瞳が、揺れていた。

 

「人は、人であるために服を着るでしょう?人は、人であるために法を守るでしょう?私は、人であるために人の肉が必要なのです。ならば、食べます。ええ、食べますとも」

 

 知っている。

 死徒は、好き好んで人の血肉を貪るのではない。

 不死ともいえる長命により、崩壊していく人の遺伝情報。

 それを補うために、他人の血肉が必要なのだ。

 ならば、彼女は。

 

「私は、魔術師ではありませんから。この仔達を私の形に留め置くには、何らかの楔が必要となる。それが、人の形の設計図。一度、我慢してみたんですけどね、どんどん崩れていくんですよ。指が、ぽろりと腐って落ちる。目玉が、眼孔に収まっていてくれない。身体中で、蟲が共食いを始める。己が、己に食べられる。それがどれほど恐怖か、貴方に分かりますか?」

「人喰い…!」

「特に、ヨハネから戻ったときなんかは、酷い。きっと、身体中の細胞がずたずたになっているからでしょうね。胃の腑がね、締め付けられるんですよ。早く肉を喰え、と。そうでないと、お前を溶かしてやるぞ、と。」

「てめえ、凛をどうしやがった…!」

「ああ、遠坂先輩ですか?とても、美味しかったわ」

 

 何気なく吐き出された、その一言。

 まるで、コンビニのおでんの味を評するかのような、軽い言葉。

 それで、理解した。

 彼女にとって、人とはそういう存在なのだ。

 きっと、人が一膳のご飯の中に、何粒の米が入っているのか気にも留めないのと同じこと。

 彼女にとっての人間も、そう。

 只の食い物で、さらには日常食。

 恍惚を覚えるようなものでは、ないのだ。

 

「だって、とてもお腹が減るのです。さっきも言ったでしょう?彼から戻るときはいつもそう。本当に、お腹と背中がくっつくんじゃないかっていうくらいお腹が減るのです。だから、少しくらい摘み食いしても、許されると思いませんか?」

「…殺す!殺してやる!」

「そんなに怒らないでください。だって、彼女は無事ですよ?」

 

 言葉とは、裏腹に。

 その顔は、嗜虐に歪んでいた。

 いつの間にか、身体の震えは収まっていた。

 いや、ちがうか。

 身体は、震えていた。

 でも、それは恐怖による震えではなかった。

 怒りとか、殺意とか。

 そういう、マグマみたいに煮え滾った紅い感情の塊。

 それが、排出口に詰まって起きる、反射みたいな震えだった。

 

「殺してはいません。だって、殺してしまったら、人質の価値が無くなってしまうわ。だから、足を一本だけ。私はとても我慢強いから、足を一本だけ食べたの。二本付いているんだから、一本くらいいいでしょう?血はあまり出なかったわ。だから、彼女は無事です。ああ、本当に、とても美味しかった」

「よくも、よくも凛を!」

 

 いつの間にか、手には剣が握られていた。

 干将・莫耶ではない。

 そんな、人を守るためとか、生易しい形状ではない。

 もっと凶悪で、人を殺すためのフォルム。

 己の意に沿わない、全てを叩き潰すためのフォルム。

 バーサーカーの、斧剣。

 それが、手に握られていた。

 

「それで、私を、真っ二つにするつもりですか…?」

 

 無言で、振り上げる。

 怒り、それがここまでのエネルギーのなることが、信じ難かった。

 この燃料が切れたら、俺はどうなるのだろうか。

 そのことだけが、少し怖かった。

 思い切り、振り下ろす。

 軽い、手応え。

 何か、枯れ木の枝でもへし折ったかのように、そんな音が、手の先から響く。 

 そして、轟音。

 アスファルトが、割り裂ける。

 砂煙。

 そして、血煙。

 曇った視界。

 風が、吹き飛ばす。

 地中に埋まった、刃先。

 転がった、右手首。

 それでも、彼女の姿が、無い。

 一瞬の、隙。

 背後から、何かが首に巻きついた。

 長い、蛇みたいな、何かだった。

 

「貴方も、怒れるのですね…」

 

 その声は、初めて聞く声だった。

 欲望ではなく、慈愛に歪んだ声だった。

 いや、慈愛も欲望なのだろうか。

 慈愛も、欲望だというならば。

 その声は、なんと喜びに歪んだ声だったのだろうか。

 まるで、初めて自分の足で歩いた幼児を、褒め称えるかのような、声。

 

「まだ、摘み食い。でも、いずれは食べ尽くします。だって、あんなに美味しかったんだから」

 

 意識が、遠くなる。

 血が、脳から締め出される。。

 酸素が、足りない。

 視界が、白んでいく。

 

「今夜、私達が生まれた場所で、待っています。それまでは、我慢しますから。貴方の手で、止めてください」

 

 その声が、最後に聞いた声だった。

 俺は、失禁しながら、気絶していた。



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interval12 空と海の間にあるもの

 雲の上に、雲が重なる。

 薄く冷たいそれが幾重にも重なり、暖かな太陽の光を吸い尽くしているよう。

 空気が、じとりと湿り気を帯びている。

 遠からず、雨が降るのだろう。

 驟雨になるかもしれない。

 神父は、空を見上げながらそう思った。

 溜息を一つ吐いて、再び歩き始める。

 彼の目の前には、だらだらと長い坂道が続いている。

 何度もくねり、何度の切り替えし、そうしてやっと頂上にたどり着く、そういう坂道だ。

 長い、うんざりする様な坂道。

 もう、十年以上もこの坂道を登り続けている。

 冬木教会。

 その終着点としてあるのが、神の家であり、彼の寝床なのだから。

 彼は、いつもと同じようにその坂を上る。

 背をぴんと伸ばしたまま、その表情に一切の感情を表さないまま。

 中腹辺りで、ふ、と後ろを振り返る。唯一、それがいつもの彼と違うといえば、違ったのだろうか。

 彼の視界を埋め尽くすのは、灰色の空、灰色の町並み、そこを隔てる、鈍色の帯。

 そこには、冬木港を眼前に、まっ平らな海が広がっていた。

 距離が、うねるような白い波頭を掻き消している。

 のっぺりとした、鈍色の海。

 それを見ながら、神父の思考は数年前の森の中に遡っていた。

 

 

 暗い、森だった。

 

 

 あれは、何の折だったのだろうか。

 おそらく、外道に堕ちた魔術師の処理の際だったか。

 夜更け。

 獣を避けるための、薪。

 胸を梳くような炎、向かい合わせに座った、幾らか見覚えの在る、女。

 泣き黒子が印象的ではあったが、その仔細は覚えていない。

 彼女は、言った。

 今にも泣き出しそうな、迷い子の表情で。

 

 ―――時に、生きていることさえ苦しく思える。

 

 揺れる光源に照らし出された如何にも陰鬱な瞳は、彼の最も純粋な部分を刺激した。

 本来の彼であれば、揚々と意気込んで彼女の傷口を切開しただろう。

 だが、彼が行った行為は、唯一つだけだった。

 彼は口走ったのだ。

 苦悩し、それでも足掻こうとする女性を、哀れに思って。

 果たして、その時の彼の頬は、暗い喜びに歪んでいたか否か。

 

 ―――生きているのが苦しいのではない。

 ―――君は、呼吸をするのが厳しいのだ。

 ―――もし、君がその棘を枷であると認識しているならば。

 ―――自身が世界に不要であると感じるならば。

 ―――バゼット・フラガ・マクレミッツ。

 ―――お前は、おまえ自身の許すため、多くの世界を巡れ。

 ―――ちっぽけな自分、ちっぽけな国を捨てて、旅行鞄一つで世界を巡れ。

 

 今思えば、なんと拙い助言だったのだろう。

 おそらく、彼は幼い自分を、彼女の中に見つけたのだ。

 神の出題に、正しい答を見つけることの叶わなかった、遠い日の自分。

 足掻き、足掻き、足掻き抜いて、それでも正しい解答を求めた、自分。

 救いようの無いほど、哀れで、愚かで、脆弱だった自分。

 神父は、どう感じたのだろうか。

 小汚い子犬に、戯れに餌をくれてやった、その程度のものかもしれない。

 彼女を自分の過去と同じだと思ったのかもしれないし、或いは神父の真意は遥か遠いところにあったのかも知れない。

 しかし、金色の王の何気ない一言が彼に救いを見出させたように、その一言は泣き黒子の女性にとって確かに救いだった。

 その邂逅が彼女に破滅をもたらすことになるとしても、彼女はそれを尊んだ。

 ならば、救いと。

 そう呼んで、いいものだったのだろう。

 

 さて、と、神父は思考する。

 

 くるりと振り返り、再び坂道を登りながら。

 多くの世界を見て、多くの価値観を知る。

 視点を高く持ち、物事を多角的に捉え、その上で自己の価値を図る。

 それは、正しい見解だ。

 しかし、正しい見解が正しい解答を導き出すと、誰が決めたのか。

 世界は、続いている。

 ならば、苦悩もまた続くのだ。

 戦場は、その境界線を区切らない。

 どろどろとした触手を伸ばして、被害者を飲み込んでいく。

 それが、たかが地理的な差異如きで、逃れられるとでも?

 この世に真実の地獄が無いのと同様に、この世には真実の楽園も、また、無い。

 人生を、恥知らずにも戦場と例えるならば。

 その戦場は、限りなく続く。

 どこまでも、追いかけてくる。

 戦っても、戦場。

 逃げても、戦場。

 それを儚んで、人生に見切りをつけたとしても、やはりそこにあるのは、戦場だ。

 己の価値をどれだけ正確に汲み取ろうが、世界が戦場であることは、変わりないのだ。

 彼は己の安っぽい思考に呆れ果て、それでもふと思った。

 

 ―――ならば、私は何と戦っているのか。

 ―――ならば、私は何故戦っているのか。

 ―――人並みの幸せなど、とうの昔に諦めている。

 ―――今更、永遠の楽土を目指しているわけではない。

 ―――日々が、奥歯をすり減らすほどに苦しいものであっても、いずれは慣れる。

 ―――はて、ならば私は。

 

「お久しぶりです」

 

 少女の声が、した。

 ぴたりと、背後から。

 寒気がするほどの直近でありながら、しかし神父は身構えない。

 身構えず、ゆるゆると長い坂を上っていく。

 汗は、掻いていない。

 夏の、アスファルトが溶けるような陽光のもとでも、彼は汗一つ掻かない。

 ならば、冬の寒空の下においてをや。

 

「君か。もう、会うことは無いと思っていたのだがな」

「ええ、私も、もう会うことはないと、そう誓ったのですが」

 

 それは、或いは信頼の証でもあったのだろうか。

 こつこつと硬質な靴音を愉しみながら、神父は歩く。

 歩きながら、思い返す。

 さて、この前に彼女と顔を合わせたのは。

 教会で顔を合わせたのが、一週間ほど前だったか。

 そのとき、彼らは互いに感じたのだ。

 次に会うのは、雌雄を決するとき、と。

 その不文の誓いを破った罪は、少女にある。

 神父は少なからず安堵した。

 

「今日、彼と会いました」

「そうか、奴と顔を合わせたか」

 

 神父は、鉄の少年を思い浮かべた。

 少女は、錆び色の瞳の少年を思い浮かべた。

 二人はおそらくは同じ人物の顔を思い浮かべながら、しかしその固有名詞は違った。

 そのことに気付いていたのは、彼らのうちの、一人だけだったのだろうか。

 それとも、その両方が気付いていたことを、一人が認識していなかっただけか。

 

「哀れな人間だな、あれは」

「ええ」

 

 最短の返事に込められた無限の感慨を、神父はほぼ正確に汲み取っていた。

 この少女は、あの少年を想っている。

 それは、男女の情愛ではあるまい。

 一番近いのは、肉親の親愛だろうか。

 父は、死んでいる。

 母も、死んでいる。

 五百に上る物言わぬ死体の列、その中に二人の名前は確かに存在した。

 唯一生き残っている可能性があるのは。

 少年の、双子の、兄弟。

 だから、そういうことなのだろう。

 神父は、そのことを理解している。

 正直、信じられない思いもあった。

 一番可能性が高いのは、単なる書類上のミス、だろうとも思う。

 しかし、戸籍謄本と彼女の言葉は、確かに合致する。

 遠い昔に、聞いた。

 少女は、今よりも遥かに幼かった少女は、目の前の神父を試すように言い切ったのだ。

 己を卑下する、自虐の瞳で。

 しかし、誇り高く勇壮に、犯しがたい瞳で。

 己が如何様に蟲に弄られたか。

 どれだけ詰らない男が、彼女の上に圧し掛かってきたか。

 何度、その処女膜を蹂躙されたのか。

 そして、もともと彼女がどういった存在であったのか。

 もしかしたら、それが彼の性欲を如何に刺激したか、少女は知っていたのかもしれない。

 そして、彼らは求め合った。

 少女は父よりも大きい神父に抱かれ、神父は娘より小さな少女に欲情した。

 少女は貪欲に神父を飲み込み、神父は悪辣に少女を貫いた。

 汗が飛沫となって舞い散るような、激しい逢瀬。

 安ベッドのスプリングの軋む音。

 儚い蜀台の明かり。

 股間に走る、激しい痛み。

 初めての、絶頂。

 彼女の深奥で放たれた、神父の分身。

 意識を取り戻した彼女は、自身の太腿を伝うそれを集めて、丁寧に舐め取った。

 己の中に、彼の部品を取り込もうとしたのだ。

 そうすれば、生きていけると。

 自分も、強くなれると。

 それは、間違いなく妄信だ。

 しかし、その行為は少女に生きる力を与えた。

 彼女の主観として、初めての人喰い。

 ならば、やはり救いと。

 そう、辛うじて呼べるものだったのだ。

 

「貴方もそう。貴方も、彼と同じ」

「失敬だな、君は。私はあれほどは壊れていない。私は、私自身の幸福と安らぎを求めて戦う。最低限、その点だけは偽らないつもりだ」

 

 どこかで、狂っていたのだ。

 それを加速させたのが、今は亡きマキリの長老。

 マキリ、臓硯。

 彼の業、遺伝的要素をすら狂わす人外の外法をもってすれば、不可能なことではない。

 彼女は、狂わされた。

 その存在の、全てを。

 しかし、彼女はその全てを、微笑みでもって受け入れている。

 その様子は、さながら捨身の聖女のようではないか。

 神父は、内心に感動を抑え切れなかった。

 

「もし、彼が私を愛してくれるならば、私も彼を愛そうと思っていたのですけれど…。彼は、己に相応しい伴侶を見つけました。ならば、邪魔者は身を引くべきでしょう」

「ふむ、願わしいことだな。己と同じ遺伝子を持つもの同士が番うなど、神も祝福せぬだろうさ」

 

 少女は苦笑した。

 まるで、神父の答を予測していたかのようであった。

 

「気付いていたのですか?全く、貴方も人が悪い」

「で、君は聖杯に何を望むのだ?」

 

 少女は、真摯な瞳を前方に向けた。

 彼女の数少ない友人がそれを見れば、弓を持って的を狙う彼女のそれと同じだと気付いただろう。

 しかし、彼女と同じ方向を見つめる神父は、彼女の瞳に興味を抱かない。

 彼らの瞳は、いまだ交わっていなかった。

 

「知りたいのですよ。私自身が如何に罪深い存在か」

「それは、神のみが計り得る命題だな。人の身では、少々重過ぎはしないかね?」

 

 二人は、歩き続けた。

 二人が、もしも並んで歩いていたならば。

 二人が、慈しみあいながら歩いたならば。

 二人は、親子にも見えたかもしれない。

 

「ああ、少し言葉足らずでしたか。私は、私自身の価値観に照らして、私がどれ程に罪深いか、それを知りたいのです」

「そうか。なら、いい」

 

 神父は、足を止めた。

 急坂の、一番傾斜の厳しい、立ち止まるにはどうにも落ち着かない、そんな箇所。

 少女は、そのまま歩を進める。

 彼女が神父の脇を通り過ぎる瞬間、彼の鼻を鮮烈な香気がくすぐった。

 芍薬、だろうか。

 それは、一夜限りの逢瀬を、神父の男性に思い出させるに十分過ぎる香りだった。

 

「自身の罪の程度を知れば、自分にどの地獄が相応しいか、自ずと明らかだ。覚悟は安心を齎してくれる。つまるところ、私は私の欲を持って、私自身のために戦っているのです。どうです、失望しましたか?」

「いや、感動をすら覚えている」

 

 少女は、遠慮の欠片も無く歩き続ける。

 神父は、それに習って、再び歩き出す。

 立ち位置がその役割を決めるとするならば、二人の役割は確かに入れ替わった。

 救いを求める信徒は、救いを与える神父に。

 答を与える賢者は、答を求める求道者に。

 

「私は、てっきりこう思っていたのだ。君は、あの少年を救うためにこの戦争に参加したのだと」

「失敬ですね、貴方は。私は、そこまで自惚れてはいないつもりです」

 

 言葉とは裏腹に、少女は微笑った。

 神父は、ふとあの女性を思い出した。

 若かった自分との間に子を為した、あの女。

 さて、あの女、名前はなんと言ったか。

 さて、己が子には、なんと名付けたのか。

 

「人は、人を救うことなど出来ません。ただ、支えあうことが出来るだけ」

「君は賢明だ。しかし、それが少し悲しいな」

 

 風が、吹いた。

 それが、少女の長髪を舞い上がらせる。

 さらさらと、さながら弦楽器のようだった。

 心地よい幻聴が耳道の奥に響くのを、神父は確かに聴いた気がした。

 ふう、という少女の溜息は、風に掻き消されて神父の耳には届かなかったのに。

 

「貴方は、何を求めて戦うのですか…?」

「私か?私はこの聖杯戦争の、監督役に過ぎん。己の望みなど、あるはずが…」

 

 少女は、振り返った。

 神父は、立ち止まった。

 二人の間に存在する傾斜が、彼らの視線の高さを同一にしていた。

 初めて、彼らの視線は交わった。

 初めて、神父は少女の射殺すような瞳を、正面から受け止めたのだ。

 少女の瞳は、言っていた。

 悲しい、と。

 漆黒の瞳。

 神父は、それを抉り出して己の眼球と交換したくなる欲望と戦わなくてはならなかった。

 潤んだ瞼で、少女は再び言った。

 それは、偽りを許さない、神罰にも似た声だった。

 

「…貴方は、何を求めて戦うのですか…?」

「…私も、君に等しい。己を計るために、戦う。それだけだ」

 

 神父は再び歩き始めた。

 視線が、高くなっていく。

 少女の瞳が、少女の額に。

 少女の額が、少女の前髪に。

 やがて、少女が彼の視界から完全に消え去ったとき、彼は初めて安堵した。

 

「私の知己にな、一人の少女がいる。その少女は蟲に犯され、その身体は蟲と成り果てた。人として生きるためには人の肉を喰らわねばならない、この世でもっとも穢れた存在だ」

「…へえ。私以外にも、そんな子がいたのですね」

 

 神父の背中に、少女の笑い声が突き刺さる。

 その声は、彼が歩みを進めるたびに、少しずつ遠ざかっていった。

 もう、ついて来るつもりも無いのだろうか。

 

「彼女は、僅か五歳のときに女性器に男性を受け入れた。それは忌むべきことだったにも関わらず、彼女は依然その処女性を失っていない。何故なら、彼女の中に存在する蟲達が、彼女の傷を癒そうとするから」

「ええ、知っています。まるで、私と同じですね」

 

 しばらく歩いてから、神父は振り返った。

 彼の視界を埋め尽くすのは、灰色の空、灰色の町並み、そこを隔てる、鈍色の帯。

 そこには、冬木港を眼前に、まっ平らな海が広がっていた。

 距離が、うねるような白い波頭を掻き消している。

 のっぺりとした、鈍色の海。

 その中央に、少女は鎮座していた。

 白黒のモノクロームの写真の一点に、鮮やかな色が付いているようだった。

 美しい、と。

 

「…彼女の処女膜は、貫かれるたびに再生する。彼女の女性は、男性に愛される都度、血の涙を流して悶えるのだ。それは、彼女の処女性が永遠に失われないことを意味している」

「…あれは、結構痛いのですよ。男性の貴方には分からない痛みでしょうけれど」

 

 苦虫を噛み潰したような少女の表情。

 それをすら美しいと、神父は思った。

 いま、彼女を押し倒せば、彼女は自分を拒むだろうか。

 おそらくそうだろうと考えて、彼はほんの少しの寂寥を味わう破目になった。

 

「彼女は、永遠に処女性を失わない。それは、彼女が処女のまま懐胎することを意味している。処女のまま懐胎することを許されたのは神の子の母たる女性のみであり、処女たる母胎から生まれ出ることを許されたのは、神の子たる彼の人のみだ」

「…果たして、そうでしょうか」

 

 神父は、己の願いが如何に狂っているかを知っていた。

 知っていて、求めた。

 少女は、その神父が如何に狂っているかを知っていた。

 知っていて、求めた。

 

「しかし、哀れなるかな。聖母は、闇に汚染されている。彼女は女として生まれ変わった瞬間に、この世でもっとも純粋な悪意と臍帯をもって繋がっている。つまり、彼女が孕むのは、やはりこの世全ての悪の御子以外、在り得ない」

「…果たして、そうでしょうか」

 

 少女は、初めて苦々しげに俯いた。

 それは、達観した様子の彼女には珍しい、苦悩を湛えたものだった。

 知らず、神父の男性は、勃起していた。

 

「神の為す行為は、悉く善と位置づけられる。ならば、神こそは善性の体現。この世全ての悪が為す行為は、悉く悪と位置づけられる。ならば、言うまでも無くそれは悪性の体現。彼女が産む赤子は、二つの対極に位置する性質の双方を、父性として生まれるのだ」

「……果たして…、そう、でしょうか…」

 

 自転車が、二人の傍を走り抜けた。

 坂の頂上からの勢いをそのままにして走りぬける、元気のいい速さだった。

 その自転車に乗っていたのは、少年だった。

 輝くような笑みを浮かべた、少年。

 果たして、坂の頂上の教会に、一体どのような用件があったのか。

 しかし、少女はその少年の面持ちを、どこかで確かに見たことがある気がした。

 それは、遥か昔の彼女自身だったと。

 誰がそれを否定しうるだろうか。

 

「偉人は、言った。人は天使よりも優れている、と。何故だかわかるか、マキリ代羽よ」

「…天使はその善性ゆえに善たる。しかし、人は自由意志を持ち、悪に染まる可能性を持ちながら善にしがみつく、故に、生まれながらに善以外となりえない天使よりも、優れている」

 

 神父は、嘲笑った。

 少女も、ほとんど同じ気持ちだった。

 この言を吐いた偉人は、気違いかそれとも相当の恥知らずだったに違いない、と。

 

「その通りだ、マキリ代羽。そして、私は思うのだよ。世を救うような善性と、人を滅ぼすような悪性を同時に備え、その方向性の定まらない存在。それをこそ人と呼ぶのではないか、と。ならば、彼女が孕むのは、原初の人に他ならない」

「…突飛に過ぎます。過大評価も甚だしい」

 

 神父は、空を見上げた。

 遠くで、雷が鳴るような低い音が響いた。 

 稲光は、無かった。

 桑原桑原と唱える必要も、まだあるまい。

 

「原初の人ならば、その魂は原罪に汚れることはあるまい。それが、果たして私に対してどういう評価を下すのか。やはり無価値と断じるか、それとも一片の価値でも与えてくれるのか…。しかし、これでは私自身を計ることにはなり得ない。そうだな、やはりこれは好奇心に属する欲望のようだ」

「つまり、貴方は貴方自身の欲望のために、私を手に入れたいと。そういうことですか?」

 

 少女は呆れたのだ。

 一人の女性を手に入れるために聖杯を欲する、目の前の男性を。

 それでも、それが誇れる事実だとは思った。

 己を求めてくれる存在がいることが。

 それが、目の前の男性でありことが。

 彼女にとっては、この上ない誇りだった。

 

「その程度のことに聖杯を必要としますか。それでは、己の性欲を満たすために腕力をもって女性を屈服させる卑劣漢と、なんら変わるところが無いではないですか」

「ああ、やはり君は聡明だ。その通り、私は君を求めるが故に聖杯を欲する。君を蹂躙し孕ませるために、聖杯を欲する。それは、間違えた行動だろうか?」

 

 これは、愛の告白に等しい。

 もし、彼女が首を縦に振れば。

 聖杯などを必要とせず、自分の子宮を彼に捧げるといえば。

 彼は、何の遠慮も無く、この場で彼女を押し倒していただろう。

 その深奥に、思うさま彼の分身である白濁をぶちまけていただろう。

 

「いえ、それは極めて正しい行動だ。もう、私が愛するのは貴方ではない。故に、貴方が私に指一本触れるなど、奇跡でも起きない限り、許されない」

「手厳しいな、なかなか。しかし、それゆえに価値があるともいえるか」

 

 天を見上げたままの神父の瞳に、太い雨粒が当たった。

 豪雨を予感させる、肥太った雨粒。

 しかし、彼の瞼が閉じられることは、無かった。

 その水滴は、涙のように彼の頬を伝った。

 

「…何故、私に会いに来た?」

「一つは、貴方が何故黒い聖杯を求めるのか、それを問い質しに」

 

 きっと、あの男がうっかり漏らしたのだろう。

 人の色恋沙汰に首を突っ込むとは、如何に王でも越権に過ぎよう。

 例えようもない不快感。

 だが、神父は笑っていた。

 瞳から涙のような雨粒を垂らし、それでもやはり笑っていたのだ。

 

「もう一つは、貴方にお別れを言うために」

「ほう、別れと」

 

 ぽつぽつと、雨が降り出してきた。

 これは、本格的に一雨来るのだろう。

 冬の、雨だ。

 早々に引き上げるべきだろう。

 彼は、坂の頂上を目指して歩き始めた。

 その背中に、会合の名残は、一切残っていなかった。

 

 

「さようなら、お父さん。私、好きな人が出来ました」

 

 

 神父は、最後に一度だけ振り返った。

 そこに、少女の姿は無かった。

 神父は、苦笑した。

 彼女が父と呼んだ男は、悉く死んでいる。

 一人目の実父は、大火の中、彼女を庇って死んだ。

 二人目の義父は、彼女に食い殺された。

 人は、いずれ死ぬ。

 ならば、私は如何様に死ぬのだろうか。

 その様を、夢想する。

 そして、彼は理解した。

 彼が、何と戦ってきたのか、を。

 

 ―――そうか。

 ―――私は、戦いたいのだ。

 ―――戦う対象を求めるために、今まで戦い続けてきた。

 ―――人の戦場ではなく、己の戦場にて。

 ―――他者の苦悩を蒐集するのではなく、己の苦悩を蒐集したい。

 ―――故に、答を求めたい。

 ―――それだけのこと、だったのか。

 

 神父は、一人ごちた。

 そこには、深奥を覗いた者のみが浮かべ得る、酷薄な笑みが、存在した。



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episode79 Between the hammer and the anvil 1 再開

 ぱちぱちと、種火が爆ぜる音が聞こえた。

 それは、既に祭りが終ったことを教えてくれる、音。

 もう、ごうごうと天に昇るような篝火は、燃え尽きて。

 後は、静かに消えていくだけ。

 

 死者は、黄泉へと旅立った。

 

 残されたものは、ただ喘ぐのみ。

 赤い空が、少しずつ黒い空に戻っていく。

 全てを紅く染めた光は、どこかへ消え去ってしまった。

 放たれた光は、どこへ行くのだろうか。

 その場所は、燃え尽きて消し炭になった人達が向かう場所と、同じだろうか。

 

 ならば、いいと思った。

 ならば、救われるのに。

 

 だって、あんなに真っ黒になったのだ。

 光の無い世界では、互いが互いを認識することすら叶わないだろう。

 無明の世界で、手探りでお互いを探し合う。

 のろのろと、蚯蚓のように。

 決して完成しない、ジグソーパズル。

 幾らなんでも、寂し過ぎるじゃあないか。

 それとも、煌煌とした世界で黒焦げの己を認識するほうが、残酷だろうか。

 身体中から得体の知れない体液を流しながら、愛しい人と抱擁するほうが、残酷だろうか。

 でも、俺は、一人が嫌だ。

 僕は、嫌だな。

 この、暖かい手が、知らないどこかに行ってしまうなんて。

 絶対に、嫌だな。

 だから、ぎゅうと、握り締めるんだ。

 絶対に離さないでね、お■ちゃん。

 そしたら、ぎゅうと、握り返してくれたんだ。

 そこだけが、暖かかった。

 さっきまで、全身を炙っていた炎は、もう消えてしまったから。

 今は、身体中が震えるくらいに寒いです。

 がたがた。 

 震えてるのは、僕の手か、繋いだ大きな手か。

 でも、大丈夫。

 この手が、僕を守ってくれるから。

 一緒に、歩きましょう。

 てくてく、とことこ。

 

 痛いなあ、痛いなあ。

 どこが、どこが?

 それも、わからない。

 何が痛いのか、どこが痛いのか。

 ただただ痛くて、苦しくって。

 目の前にある暖かいものを、ぎゅうと抱きしめたんだ。

 ゆらゆらと、揺れている。

 もう、体なんて、動いてくれない。

 でも、景色は、動いていく。

 ゆっくりゆっくり。

 

 ああ、分かった。

 

 お父さんが、負ぶってくれているんだ、

 もう、疲れて立てなくなってしまったから。

 遊園地に行った、あの日みたいに。

 あれあれ、なら、おかしいぞ。

 だって、お父さんは、瓦礫に潰されて、死んじゃったのに。

 

 ああ、分かった、

 

 お母さんが、負ぶってくれてるんだ。

 もう、眠くなってしまったから。

 初めて幼稚園に行った、あの日みたいに。

 あれあれ、なら、おかしいぞ。

 だって、お母さんは炎に飲み込まれて、死んじゃったのに。

 じゃあ、一体誰が、僕を負ぶってくれているのでしょうか。

 小さな、背中。

 小さな、歩幅。

 ゆっくり、ゆっくり、景色が流れていく。

 焦げ付いて、ほとんど動かなくなった瞼を、こじ開ける。

 ぱりぱりと、少し痛かったけど。

 何とか開いて、くれたよ。

 そして、見ました。

 そこには、赤い、赤い、髪の毛が。

 僕と同じ、髪の毛が。

 そうして、名前を呼んでくれたんだ。

 ■■■って。

 ああ、僕の名前。

 僕は、嬉しくなってしまった。

 

 怖いものが来るよう。

 怖いものが来るよう。

 それは、黒いもの。

 黒くて、どろどろしてて、きっと冷たいもの。

 それが、ぽっかり開いた穴から、じろじろと見つめているの。

 ぎょろぎょろと、何かを探しているの。

 僕には、あっさり分かったよ。

 きっと、あの子は、お母さんを探しているんだ。

 だって、凄く、悲しそうだったもの。

 今にも、泣いてしまいそうだったもの。

 お母さん、お母さん。

 そう言って、泣いていたもの。

 僕は、なんだか可愛そうになって。

 少しだけ、声を出してみたんだ。

 ここにいるよ、って。

 そうしたら、あの子は、とっても喜んで。

 僕のほうに、向かってきたんだ。

 ああ、嬉しいな、嬉しいな。

 あの子も、僕と、一緒だから。

 友達に、なれるかな、なれるかな。

 僕は、うきうきしてしまった。

 どろどろが、近付いてきます。

 わくわく、わくわく。

 でも、いつの間にか、体は動かなくなって。

 壊れた体は、もとから動いてくれなくて。

 ぱりぱりに乾いて、閉じなくなった瞼が、その光景を、見つめていた。

 僕と同じ、赤い髪の毛が。

 くろい、どろどろに、飲み込まれていくの。

 まるで、誰かを、庇うみたいに。

 じぶんから、どろどろの中に、走っていったの。

 きっと、もう、動かない足で。

 きっと、誰かを守るために。

 ああ、もう、ずるいなあ。

 それは、僕の、役目なのに。

 僕が、お■ちゃんを、守らないと、いけないのに。

 やめてください、やめて。

 だって、それは、俺が呼んだものだから。

 貴方が、何故、犠牲にならないといけないのですか。

 それは、俺の過ちです。

 俺に、償わせてください。

 贖罪の、機会を、奪おうというのですか。

 それは、何の、残酷な。

 ■さん、■さん。

 貴方は、どうして。

 私に、償え、と。

 そう、一言、言ってくれないのですか。

 なら、私は、この罪を。

 どうやって、償えば、いいのですか。

 教えてください。

 ■さん。

 

 ぱちぱちと、軒先を叩く雨粒の音で、目が覚めた。

 

episode79 Between the hammer and the anvil 1 再開

 

 しとしとと、雨が降っていた。

 冬の雨である。

 雪か霙かそれとも雹か、そう粉うほど、冷たい雨。

 細かい、まるで針のように細く鋭い氷雨だ。

 それが、月と星と電灯で飾られた世界を、優しく濡らしている。

 じきに、止むのだろうか。あれだけ分厚かった雲も、見上げた夜空に散らばるように。

 ばしゃりと、時折足元から水音が鳴る。

 水溜りから跳ね散る飛沫を想像して頬が緩む。

 ポケットに手を突っ込んで、歩く。

 背は、卵を守るタナゴのように曲がっている。

 少し、首を竦めながら。

 傘は、さしていない。

 特に理由は無い。

 如何に穏やかであろうが、雨は雨だ。しかも、冬も盛りの、雨。

 ならば、濡れないに越したことは無い。

 冷気は、想像以上に体力を奪うのだ。

 悴んだ手は精密さを失い、冷えた関節は柔軟性を失う。

 時期と状況を考えるなら、自殺行為と言い換えても過言ではない。

 それでも、皮膚を湿らす夜滴が心地いいと思う。

 だから、雨に身を弄らせながら、歩くのだ。 

 ふと、足を止める。

 理由は、何も無い。

 何も無いアスファルトの上、何の理由も無く歩みを止め、何も無い頭蓋で、月の在る空を見上げる。

 満月、に、限りなく近い月。 

 月に、群雲。

 ああ、明日の月は綺麗だろうな。

 そうあれば、どれ程いいだろう。

 そして。

 眼球を優しく叩く、慈雨。

 月と雨とのコントラストが、どこか冗談染みている。

 きっと、少し遠いところから風で飛ばされてきた雨粒なのかもしれない。

 息が、白い。

 その白さは、口から漏れ出した魂のようでもあり、あの夜、俺の視界で立ち昇った煙のようでもあった。

 茹だった思考に苦笑して、再び歩き出す。

 乾燥した空気よりも、湿り気を含んだ今夜のほうが幾分温かく感じるのは気のせいだろうか。

 それでも、暖かいのだ。

 ならば、気のせいだろうが鬼のせいだろうが、有難いことではないか。

 歩く。

 目的地は、定まっている。

 ならば、歩くということの何と気楽なこと。

 その道程が如何に激しく、その起伏がどれほどの体力を奪おうと、あての在る旅路は楽しいものだ。

 ならば、それのない、旅路は。

 想像しただけで、足が竦んだ。

 だから、歩いた。

 余分なことに、蓋をして。

 鼻から、冷えた大気を肺に取り入れてやる。

 つん、と、痺れるような感覚。

 思わず涙ぐむような痛覚と同時に、郷愁を誘う香りが、した。

 アスファルトの、香り。

 それとも、排気ガスと埃と、人の汗の匂いが交じり合って一体となったような、匂い。

 どこか懐かしい、少年時代を思い起こさせる、香り。

 ふと、何かを思い出しそうになる。

 こんなに、刺すように冷たい夜なのに。

 思い出すのは、茹だる様な、真夏の昼間だった。

 目も眩むような陽光。

 抜けるような青空と、お化けみたいな入道雲。

 蝉の、鳴き声。

 鮮烈な、風。

 風鈴の、澄んだ音色

 玄関で、水を撒く音。

 ひまわりの、黄色。

 じとりとした、汗の感触。

 笑顔。

 もう一人の、自分。

 西瓜。

 赤と、黒。

 笑顔。

 二人で。

 いつまでも、楽しく。

 そんな、尊い、夢。

 それを、妄想した。

 雨だ。

 雨が、洗い流してくれる。

 優しい夢は、きっと悪夢。

 俺を、縛り付ける、錠前。

 前に。

 前に。

 前に。

 ならば、洗い流されてしまえ。

 とろとろと。

 汚れは、落ちていけ。

 それがあるべき姿ではないか。

 歩く。

 歩く。

 こんな時間に、バスなんて、無いから。

 目的地まで、あと僅か。

 時折、ヘッドライトが流れていく。

 自分の影が、伸び縮み。

 いい加減、疲れないか?

 少しは、落ち着けばいいのに。

 

「ねえねえ、そこのお兄さん、ちょっと時間大丈夫かな?」

 

 忙しなく、伸び縮み。

 そして、気付いた。

 いつの間にか、下を向いて歩いていたことに。

 

「おい、無視してんじゃねえよ」

 

 見上げて歩くやつは、名誉を求めている。

 見下して歩くやつは、金銭を求めている。

 それは、人生でも散歩でも同じこと。

 名誉は、遥か上空にしか在り得ない。

 金は、己の足元にしか落ちていない。

 

「まあ、いいや。俺たち、お金が無くて困ってんのよ。ちょっとボランティアしてくんない?」

 

 いつしか、濡れそぼった髪の毛から、雨が滴っていた。

 それが、涙のように、頬を濡らした。

 氷のように、冷たい軌跡。

 最近は、泣くことが多かったから。

 なるほど、涙が熱いのは本当なんだなと、場違いな感動を抱く。

 

「…てめえ!無視してんじゃねえっつってんだろ!」

 

 肩を、捕まれた。

 その感覚に、驚いた。

 驚くと同時に、かちりと、何かが噛み合った。

 エンジンに、ガソリンが。

 ピストンが、唸りを上げる。

 心臓が、跳ね上がった。

 汗が、にじみ出る。

 視界が、鈍く揺れる。

 音が、低く、遠くなる。

 ああ、時間が遅い。

 振り向く。

 そこには、きっと、敵が。

 うん、きっと、敵だな。

 なら、どうしたって、構わないよな。

 そんな、一瞬の思考。

 脳の思考というよりは、身体の思考。

 腕を、撓めて。

 相手を視界に収める前に、裏拳を走らせる。

 鍔鳴りのような、幻聴。

 ぴんと、高い音。

 鈍い感触。

 骨を貫いた音が、俺の骨を伝わる。

 

「…!」

 

 声も無く、敵が転がる。

 顔の下半分を、面白いくらいに歪ませたまま。

 視界に映るのは、五人。

 崩れ落ちていく、一人。

 後は、四人。

 顔が、黒い。

 飛び込む。

 罵声。

 聞こえない。

 左中段蹴り。

 膝を撓めて、足先を走らせる。

 バネか、弦のイメージ。

 脇腹にめり込む爪先の、心地よい感触。

 

「えげッ!」

 

 めしりと、あばら骨の拉げる、音。

 跳ね上がる肝臓。

 ごぼりと聞こえたのは、反吐が逆流する音だろうか。

 敵の覇気が、目に見えて衰える。

 それでも、身体は止まらない。

 止めようなんて、思わない。

 これが、機能だからだ。

 物が本来持つ機能を、思うが侭に振るう様というのは、美しいものだ。

 そして、これが俺という物の、機能。

 十年も、磨き続けてきた刃。

 はは、なるほど、情けない。

 この、程度か。

 倒れていく影を無視して、一歩踏み込む。

 新たな、敵。

 大きく足を広げた、無様な立ち姿。

 ああ、そんなんじゃあ、そこを蹴ってくれって言ってるのと同じじゃあないか。

 右足を、垂直に振り上げる。

 下から、上に。

 ちょうど、敵の股に、滑り込ませるように。

 だが、そのまま振り上げてなんか、やらない。

 当たる直前に、少し、横に捻るように。

 こうやると、金玉は、逃げてくれない。

 逃げることの出来ない金玉は、どうなる?

 決まっている、蹴り潰されるのだ。

 足先に、感触。

 ぷちりと、何かが潰れた様な。

 きっと、幻覚だ。

 

「げうっ!」

 

 蛙を潰したような、声がした。

 なるほど、急所を潰されると、人間はこんな声を上げるのか。

 いい勉強に、なったなあ。

 

「ひい!」

 

 後ずさる、二体。

 ああ、なるほど。

 そっちに、援軍がいるんだな。

 お前達が逃げ去る先に、武器が隠してあるんだな。

 じゃあ、逃がすわけにはいかないな。

 ここで、仕留めないとな。

 大きく、踏み込む。

 狙いは、鼻頭。

 ここを痛撃されると、涙が出る。

 まず、何よりも戦う意志が萎える。

 だから、狙うなら、ここだな。

 真っ直ぐ。

 肩口から、目標まで、何の遊びも無い、真っ直ぐの、打撃。

 最短距離を、一直線。

 縦拳。

 

 ごしゃり。

 

「…!」

 

 軟骨の潰れた音が、拳から身体の中心へと反響する。

 目標は、腰を視点にして、くるりと後ろにひっくり返った。

 ごつ、と、アスファルトと後頭部の奏でる衝突音。

 白目を向いて、悶絶している。

 開かれたままの口、そこに前歯は見当たらなかった。

 

「…ば、化け物…!」

 

 化け物?

 

 ああ、なるほど。

 お前、化け物を連れてくるつもりだな。

 サーヴァントみたいな化け物を、使役するつもりだな。

 じゃあ、倒さないとな。

 ここで倒さないとな。

 あと、一人だしな。

 ゆっくり、近付く。

 あれ?

 早く、倒さないといけないのに。

 早く、仕留めないといけないのに。

 なんで、俺の歩調は、こんなにゆっくりなんだろう?

 これじゃあ、俺が虐めているみたいじゃあないか。

 愉しんでいるみたいじゃあないか。

 なんだ、この頬の強張りは。

 これじゃ、まるで嗤っているみたいじゃあないか。

 悦んでいるみたいじゃあないか。

 

「ゆ、ゆるして…」

 

 え?

 ゆるして、何?

 あ、そうかそうか。

 もう、許してあげない、そう言いたいんだな。

 いい度胸じゃあないか。

 もう、一人しかいないのに。

 そんなに、顔を歪ませて。

 そんなに泣きそうになりながらも、なお戦おうとする。

 天晴れだ。

 凄いぞ、お前。

 じゃあ、本気でやらないと、失礼だな。

 手を、握る。

 拳を作る。

 それを、頭の高さまで、あげる。

 ちょうど、拳で頭を挟み込むみたいに。

 顎を、引く。

 背中を少し曲げて、前傾姿勢に。

 膝を、楽にして。

 足は、肩幅程度に。

 左足が、前。

 右足が、後ろ。

 爪先は、やや内股気味に。

 こうしないと、さっきのヤツみたいに、急所を潰される破目になる。

 切嗣に教えてもらったんだ。

 無手での戦い、その基本の立ち姿。

 そして、視線は敵を殺すかのように。

 

 って、あれ?

 

 目の前に、誰もいない。

 誰の姿も、ない。

 おかしいな。

 確か、誰かが、何かがいたような気がしたけどな。

 ああ、きっと、最初から誰もいなかったんだ。

 誰も、いなかった。

 ここは、影絵の世界だから。

 感じるのは、俺の息遣いだけ。

 それ以外の呻き声は、悉くが俺の幻聴。

 泣き声。

 反吐の毀れる音。

 折れた前歯と吐息が奏でる、甲高い風切音。

 その全てが、気のせいだ。

 そう思って、俺は走り出した。

 何故。

 そう問われれば、俺には答えることなんて、出来なかった。

 ただ、自分が情けなかった。

 この、身を焦がすような激情の正体が、わからなかったから。

 きっと、俺は脅えているんだ。

 そう、思った。

 走った。

 駆け足とかではない。

 ほとんど全力疾走だ。

 腕を、全力で振り。

 肺を、全力で駆動させる。

 息の白さが増していく。

 熱が、どんどん生産される。

 そして、費消されていくのだ。

 その感覚は、快美といえば、快美であった。

 それでも、やがて息が上がり、ふらつく足で立ち止まったとき。

 俺は、そこに立っていた。

 公園の、入り口。

 

 冬木中央公園。

 

 その、正面入口。

 車止めの、鉄の門。

 背の高い、木。

 既に消えた、電灯。

 風に揺れる木々が、まるで襲い来る魔物のように。

 ざわざわと、木の葉が擦れあう。

 黒と、影が支配する世界。

 一歩立ち入るだけで、寒気がした。

 背筋をちりちりと焼くような、不快感。

 無限の怨嗟が、聞こえる。

 

 ―――妬ましい。

 ―――私にも、温い身体を。

 ―――寒いのです。

 ―――お母さん、どこ?

 ―――よくも、見捨てやがったな。 

 

 風と木々が遊ぶ音、その音に混じるように、幾百の人の声が混じる。

 混在に、混一となった声は、木々のざわめきと同化する。

 結局、何一つ聞くことは出来ない。

 耳に心地いいような喧騒が残るだけ。

 死者の為せることなど、所詮はその程度。

 生者に呪詛を吐き掛ける、それくらいのもの。

 それくらいの、それ。

 それが、あまりに苦しくて。

 やはり、俺は、走ったのだ。

 心の奥で、謝りながら。

 口に出して、謝りながら。

 御免なさい。

 御免なさい。

 あの夜、俺は、貴方達を見捨てました。

 ただ、自分だけが助かりたいと、そう思いました。

 絶対に、貴方達と同じになるのは嫌でした。

 だから、逃げたのです。

 大事なものを見捨てて、逃げたのです。

 逃げました。

 だから、私がいます。

 今の、私がいます。

 決して消えない罪に塗れた、私が、ここに立っています。

 どうぞ、その様を見て御楽しみください。

 滑稽に、無様に、どこまでも醜悪に溺れる私を見て、その溜飲を下げてください。

 それくらいしか、私には出来ません。

 歩く。 

 視界が捉えた情報を、脳が処理してくれない。

 くらい、世界。

 何も、見えない。

 そんなことは、意識の埒外だった。

 聴覚も、嗅覚も、範疇から外れている。

 それでも、触覚だけは生きているんだな。

 こつこつと堅かったアスファルトの地面。

 それが、じゃりじゃりと小気味のいい砂利音に変わったとき。

 灯りを失った街灯、その下に置かれた、ベンチ。

 見慣れた、古びて錆びの浮いた、ベンチ。

 そこに、さらに見慣れた人影が、腰を下ろしていた。

 腹痛を抑えるように、蹲った人影。

 影としか映らないそれは、驚くほどに小さく、弱弱しかった。

 無言で、近付く。

 こちらが気付いたのとほぼ同時にあちらも気付いたのだろうか。

 のそりと、頭を上げた。

 きっと、こちらを向いているのだろうか。

 それすらも不鮮明な、闇。

 空を見上げれば、いつの間にか雲が月を隠している。

 無粋なことだ。

 溜息を付いてから、更に歩を進める。

 それでも、影は、動かない。

 こちらをじっと見つめたまま、微動だにしないのだ。

 その様子が、巣穴から顔だけ出した兎みたいで、少し可愛らしかった。

 風が、止んだ。

 木々が、押し黙る。

 響くのは、俺の靴音だけ。

 じゃりじゃりと、細かく石の擦れあう、音だけ。

 後は、心臓の鼓動と、白い呼吸音。

 それで、十分だろうか。

 

「俺が、遅れたのかな?」

 

 まだ、お互いの顔すら確認できない、距離。

 足を止めて、囁く。

 睦言のように、密やかに。

 おそらくは、彼女が聞き取れる、最小限の音量。

 それすらも、まるで改造車のマフラー音みたいに、夜気を切り裂いた。

 

「…いいえ。私が勝手に来て、勝手に待っていただけ。貴方は、おそらく遅れていない」

 

 ぼそぼそと、苦痛を噛み殺すような、声。

 一言一言が、石を吐き出すように重々しい。

 緊張、しているのだろうか。

 であれば、まだ可愛気があるというものか。

 

「でも、寒かっただろう?もう少し早く来たほうが、よかったな」

 

 くすりと、洩れるような笑い声。

 冗談を言ったつもりは無かったが、それでも笑ってくれるなら儲けもの。

 

「そうですね。冬の雨は、少し冷たかった。でも、もう、そんなことすら、忘れてしまいましたから」

 

 彼女は、そう、寂しそうに言った。

 影が、ごそごそと動いた。

 ポケットから何かを取り出そうとしているらしい。

 背筋に僅かな緊張が走ったが、一瞬遅れて、己の愚鈍さに呆れた。

 もし、不意打ちで殺してよしとするならば、俺はもうこの世にいない。

 あの時、まるで大蛇のような何かが意識を締め落としたとき。

 彼女は、如何様にでも俺を殺すことが出来たのだ。

 ならば、今更である。

 頬が、爽やかに笑みを作っていた。

 やがて、彼女は目的のものを見つけたようだった。

 そこから、細い何かを取り出して、口に咥える。

 その先に、手を翳す。

 かちりと、一瞬だけ、辺りが明るくなる。

 小さな炎に照らし出された彼女の顔は、痛ましいほどに濡れそぼっていた。

 

「まだ、未成年だろ?」

「ああ、それは気付かなかった」

 

 紫煙が、燻る。

 彼我の距離は、まだ遠い。

 その空間を、ニコチンとタールの香りが埋め尽くす。

 それは、どこか遠い昔に嗅いだことのある匂いだった。

 切嗣の愛飲していた煙草かと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 更に、更に、遠い昔の記憶だった。

 

「旨いのか、それ」

「甘くはありません」

 

 小さな小さな灯りが、洞穴みたいな暗やみに、燦然と輝く。

 彼女の口から、大きな煙が吐き出される。

 その、満足げな吐息に、羨望を覚える。

 

「前から、吸っていたのか?」

「私が吸うのは、初めてです。でも…、来し方に、いえ、それとも行く末にでしょうか、吸っていたことがあるようですね」

 

 彼女の声は、楽しげに揺れていた。

 からかわれているのか、そう思ったが、どうやらそうではないらしい。

 彼女が愉しんでいたのは、くだらない嘘を吐くことにではなく、己の甘んじる運命に対して。

 ならば、彼女の言うとおりなのだろう。

 彼女は、近い未来か遠い未来に、紫煙を嗜むのだ。

 彼女には、それが分かる。

 それだけの話だ。

 

「…女の子は、煙草を吸わないほうが、いいと思う」

「何故?」

「赤ん坊に、悪いだろう」

 

 彼女は、くつくつと声を殺して微笑った。

 小さな背中が、ひくひくと動いている。

 

「…私を抱く人間が、いるとでも?私が人の子を孕むことが出来るとでも?私がどういう存在か、気付いているでしょう?」

 

 その声は、自嘲にすら塗れていなかった。

 己の姿をあるべきものとして捉える、諦観の響きがあった。

 そのことが、何よりも悲しかった。

 

「…悪い」

「いえ、貴方を責めたわけではありませんから」

 

 彼女は、目の前にある水溜りに、煙草を投げ込んだ。

 じゅ、と、線香花火が落ちたときのような幻聴を、聴いた気がした。

 やがて訪れた、完全な暗闇。

 光の残像が、白い闇となって黒い闇を侵している。

 ふらふらと、それこそ幽霊のように。

 襲ってくれればいいのにと、そう思った。

 

「例えば」

 

 彼女は、言った。

 冷静を取り戻した、いつもの彼女の声で。

 

「遭難した旅人が、死んだ仲間の肉を食べて生き残ったとして、それは罪でしょうか?」

 

 透き通る、声。

 耳の、いや、脳味噌にかけられた一番頑強な鍵をすらをすり抜けるような、声だ。

 

「…」

「飢えで生死の境を彷徨う者が、同じ境遇にある者から食べ物を強奪して生き残ったのならば、それは罪でしょうか?」

 

 なんと、くだらない。

 そんな、有史以来議論され尽くしたような、ありふれた議題。

 答なんて、決まっているじゃあないか。

 命の危機にあるものが止むを得ずにとった行動は、そのほとんどが罪には問われない。

 カルネアデスの舟板。

 緊急避難というヤツだな。

 

「それは…」

「全身に火傷を負って、立ち上がることすら出来なくなった子供が、同じ境遇にある被害者を見捨てたとして、それは罪でしょうか」

「罪だ」

 

 断言した。

 罪だ。

 間違いない。

 それは、許し難い罪だ。

 万人が許したとして、それでも俺だけは許さない罪だ。

 決して、許されてはならない。

 絶対に。

 絶対に。

 俺は、許さない。

 俺は、俺を、許さない。

 

「…そうですか。やはり、貴方は私を許しては、くれないのですね…」

 

 寂しげに、彼女は呟いた。

 ゆるりと、立ち上がる。

 影が、小さな影が、やはり小さな立ち姿を晒す。

 それは、今にも消え去りそうな実在感だった。

 

「…違う。俺は、俺を許さない、それだけの話だ」

「…ふふ、それはね、勘違いですよ。貴方は、あの夜、もう一歩も動けないほどの傷を負っていたのですから。肺をすら焼き尽くされた子供が、どうして寒空の下を逃げ惑うことができるでしょうか」

 

 いつしか、彼女の両手には、星の光を反射させる何かが、握られていた。

 硬質で、透明感のある輝き。

 それは、剣、だった。

 一瞬、もう会うことの叶わない、弓兵の姿を見出した。

 気のせいだと、そう思った。

 

「…代羽。お前は、聖杯に何を望む。何故、奇跡なんて碌でもないものを、欲しがるんだ?」

 

 奇跡。

 奇跡の大逆転。

 奇跡の勝利。

 それは、敗れたものからすれば、悪夢の敗北であり、恥辱の失態だ。

 奇跡なんて、碌なものじゃあない。

 頑張ったものには、相応の御褒美を。

 それがあるべき姿じゃあないか。

 

「私は、この世界を自分のものにしたい。世界征服、素晴らしい響きだと思いませんか?」

 

 その音は、限りない空虚さを持って周囲を満たした。

 誰が聴いてもわかるだろう。

 

「…嘘だ」

「嘘ではありませんとも。世界を自分のものにする。どんな愚劣なことをしても、どんな卑劣なことをしても、許される。それはなんと、素晴らしい」

 

 呪文を、小さく呟いた。

 手に、ずっしりとした重量感。

 干将・莫耶。

 きっと、彼女の持つ双剣のように、輝いていることだろうか。

 

「今までね、苦痛にのた打ち回る私に気付かなかった世界に、復讐をするのです。私が助けを求めても、それに答えなかった全ての人間に鉄槌を下すのです。それは、私に認められた当然の権利、そうは思いませんか?」

 

 微動だにしない、大気。

 それを、雲間から差し込む月光が、切り裂いていく。

 中空を漂う水分が、光に反射してきらきらと輝く。

 その中で、彼女は。

 切れるような、鋭い笑みを浮かべながら、立っていたのだ。

 濡れた髪は、きらきらと光を跳ね返して。

 病的に、白い肌。

 身を包むのは、黒い装束。

 所々を、如何にも頑丈そうなプレートで保護している。

 ボディアーマーのようなものだろうか。

 

「力を思う様に振るう。それは、快楽です。まるで、先程の貴方のように」

「…なんだ、趣味が悪いな。覗き見か」

「ふふ、正確に言うなら、私ではなくアサシンが、ですけども」

 

 顔が、みるみる赤くなっていくのが、分かった。

 情けないところを見られた、そう思う。

 今思えば、あれは完全な八つ当たりだった。

 かわいそうなことをしたものだ。

 

「少し、やり過ぎでした。あの中には、おそらくこれからの人生でなんらかのハンデを負って生きていかなければいけない者もいるでしょう。それを、貴方はどう思いますか?」

「…運が悪かったんだろ。それだけだ」

 

 降りかかる火の粉は、払うさ。

 これじゃあ、まるで慎二の台詞だけどな。

 その結果、火の粉がどうなろうか知ったこっちゃ無い。

 それが、当然だろう?

 

「…そこまで、毒されましたか。それは、些か、貴方には相応しくない」

 

 彼女は、その両手をだらりと下げた。

 背筋を曲げた、前傾姿勢。

 脱力と、それが生み出す不動の中の勢い。

 間違いない。

 あれは、アーチャーの構えじゃあないか。

 

「…代羽、お前、それをどこで…」

「もう、音をもって語るべきは終りました。後は、強きをもって正しさとする領域です」

 

 手に汗が、滲んだ。

 目の前の少女の放つプレッシャーが、信じられなかった。

 こいつは、こんなに強かったか?

 信じ難い。

 もし、ヨハネが現れるなら、別段。

 何で、こいつがこんなに強いんだ?

 

「もしも、私が誤りで、己を正答と信じるならば。貴方の愛しき人を、再びその手に抱きたいのならば。さあ、衛宮士郎。貴方の持つ全ての暴力をもって、私を否定してみせなさい」

 



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episode80 Between the hammer and the anvil 2 雷舞

「お前さんに、覚悟はあるのかい?」

 

「殺されてもいい、そういう覚悟じゃあない」

 

「殺してもいい、そういう覚悟だ」

 

「相手の誇りを踏み躙って、その尊厳に泥と塩を刷り込む、そういう覚悟だ」

 

「―――そうか、なら、上等だ」

 

「ならば、お前は、戦士だ」

 

「臆するな」

 

「奪うことを、恐れるな」

 

「それは、一生をかけてお前に襲い掛かるぞ」

 

「幸運を、若き戦士よ。お前の刃に、戦神の祝福の宿らんことを」

 

 

「貴方に、覚悟はありますか?」

 

「殺される覚悟ではない」

 

「殺す覚悟でも、ない」

 

「生き残る覚悟、それがありますか?」

 

「呼吸をすることすら苦しい、そういう現実を生きる覚悟は、ありますか?」

 

「己を罵倒する己の声に耐える、その覚悟はありますか?」

 

「―――そうですか、ならば、私は沈黙しましょう」

 

「私は、貴方に背を預けると誓いました」

 

「私は貴方の剣であると、盾であると、そう誓いました」

 

「ならば、私が持ちうる全ての覚悟をもって、貴方を見送りましょう」

 

「御武運を、尊き騎士よ。御身に、精霊の加護の宿らんことを」

 

 

「どうしても、行くのですか?」

 

「どうして、私を連れて行ってくれないのですか?」

 

「責任というならば、誰よりも私にこそ責任がある」

 

「姉さんを信じることの出来なかった私こそが、最も罪深いはずです」

 

「なのに―――」

 

「―――わかりました」

 

「先輩、私、貴方が大嫌い」

 

「もう、顔も、見たくない」

 

「だから、お願いです」

 

「心の底から、お願いします」

 

「私の全てをかけて、お願いします」

 

「どうか、無事に」

 

「いえ、無事じゃあなくてもいい」

 

「お願い、生きて、生きて帰ってきて…!」

 

 

「どうしても、行くの?」

 

「私もシロウと一緒に歩くって言ったのに、シロウも私を置いていくの?」

 

「それじゃあ、キリツグと一緒だね」

 

「やっぱり、シロウはキリツグの息子だわ」

 

「―――褒めてないわよ、馬鹿」

 

「もう、知らない」

 

「シロウのことなんて、これっぽっちも知らない」

 

「だから、帰ってきてね」

 

「これから、シロウにいっぱいひどいこと、してあげるんだから」

 

「たくさん、たくさん、いじめてあげるんだから」

 

「だから、絶対に、帰ってきてね」

 

 

 ごめん、みんな。

 

 俺、嘘吐きだ。

 

episode80 Between the hammer and the anvil 2 雷舞

 

 雲が、月を隠した。

 もう、どこかに消え失せた筈の、雲である。

 恥知らずにも再び顔を出したそれが、薄い紙を束ねるように折り重なり、刻々と厚みを増していく。

 灰色の夜空。

 冷え冷えとした、夜。

 月明かりと星明りは、姿を消した。

 照らすのは、ちかちかと瞬く、街灯のあかりだけ。

 その、橙色とも黄色とも取りうる、曖昧な灯りの源。

 それすらも、まもなく姿を消すだろう。

 二人には、そういう確信があった。

 そうすれば、大層深い闇が、二人を照らし出すだろう。

 身体の輪郭が闇と溶け合うような、闇だ。

 だが、今は。

 今はまだ、明るい空間。

 それでもなお黒い影が、対峙していた。

 大きな影と、小さな影。

 向かい合う、影。

 じっと、動かない。

 いずれ大粒の雨が垂れ落ちてきても、それらは動かなかった。 

 息の白ささえなければ、それは彫像のようであったのかもしれない。

 不動。

 しかし、視線だけが、炯々と輝いていた。

 互いを、見詰め合う。

 いや、見詰めるという表現は、些か相応しくない。

 どちらかといえば、眺める。

 お互いがお互いを、風景の一部として視界に収める、そういう風情であった。

 そういう視界でないと、追いつかない。

 じっと一点を凝視していたのでは、対処しきれない。

 ぼんやりと眺め、しかし一挙手一投足も見逃さない。

 そうしないと、殺される。

 それを、理解していたのだ。

 故に、不動。

 動けない。

 動けば、読まれる。

 読まれれば、つけ込まれる。

 そうすれば、負ける。

 それは、許せない。

 己の敗北は、己の苦痛ではないから。

 その想いが、互いにあった。

 だが、ここは戦場だ。

 無機物の時間が、如何程流れただろうか。

 それらの無機物は、やはり生きていた。

 ゆらりと、二つの影が揺らめいた。

 それも、同時。

 コンマ何秒のずれも無かった。

 申し合わせても計れない拍子で、二人は動いたのだ。

 ゆっくり、ゆっくり。

 ふらりと、前へ。

 まるで、体重を前に預けて、そのまま倒れ伏していくかのような、のろのろとした速度。

 華の蕾が綻ぶような速度。

 頭から傾き、それに辛うじて足が追いつくような、不自然な動作。

 動きの起点の見えない、人外の動作

 その影には、手が二本、在った。

 その影には、足が二本、在った。

 その手には、短めの剣が、握られていた。

 大きさにこそ多少の差異は認められるものの、まるで鏡像のように重なり合う、影同士。

 ならば、初撃が同一であったことこそ必然。

 静から、動へ。

 刹那。

 空間が裂けるような、一閃。

 泡が、砕ける。

 大きな気泡は、無数の小さな気泡へ。

 その、刹那。

 双方の右手が、横薙ぎに振るわれる。

 黒を、白刃が切り裂く。

 狙いは、首筋。

 必殺の意思。

 同一の軌跡。

 故に、重なる刃と刃。

 音は、降り出した雨に掻き消された。

 故に、青白い火花は、闇の中でいっそのこと輝いた。

 高らかに、輝いた。

 それが、この意味の無い戦いの、開戦を告げる鬨だった。

 

「はあッ!」

「しゃああっ!」

 

 言葉は、無かった。

 会話は、無かった。

 十合を超えて、二十合。

 切り結ばれる刃と刃。

 力は、少年にこそ分があった。

 人の身体から神秘という要素を覗けば、それはリアリズムの塊だ。

 こと闘争において、骨格で劣り筋繊維の絶対量で及ばぬ少女が、少年に勝るはずが無い。

 それでも二人は互角。

 いや、むしろ僅かにではあるが、少女が優勢だった。

 確かに、単純な力、速度では少年が勝る。

 だが、少女には、それを補って余りある経験があった。

 魔導元帥、バルトメロイ=ローレライ。

 彼女の恩人にして、師にして、姉代わりだった存在。

 その走狗として人外の肉を食んだ、その経験が。

 その戦場で立ちはだかった敵は、悉く人外。

 人の想像力の及ばぬ、化け物たち。

 魔力も持たず、異能も持たず、ただ不死のみが武器の、少女。

 人が、その慮外の化け物を相手取るに、力だけでは余りに儚過ぎる。

 その力、その知恵、その技、その理性。

 全てを鍛え上げ、研ぎ澄まし、収束させたところでやっとの互角。

 そんな世界に、少女はいたのだ。

 武器は、不死のみ。

 貧弱な身体、貧弱な精神、貧弱な魔力。

 幾度も、敗れた。

 幾度も、凌辱された。

 幾度も殺されて、その度に生き返って、歯を食いしばって立ち上がった。

 そうして、少女は戦った。

 それこそが、贖罪と信じて。

 己が見捨てた存在の望みに叶うと、自分を偽って。

 涙は、一度も流さなかった。

 ただ、その眉目を覆う仮面だけが、厚く厚くなっていったのだ。

 陰気に、そうして堅牢に。

 それは、彼女が彼と出会うまで続いたことを、彼は知りうるのだろうか。

 彼女は、今でもその仮面を被り続けていることに、少年は気付きうるのだろうか。

 それでも、少女は戦った。

 己が人の役に立っている。

 己が人に必要とされている。

 それだけで、彼女は生きることが出来た。

 そうでなければ、彼女は生きることが出来なかった。

 殺したくは、無かったのに。

 人以外でも、人の形をしたものだから。

 だから、殺したくは、無かったのに。

 だけど、殺したのだ。

 仕方ないから。

 まるで、彼女の従者のように。

 それが、人か、人の形をしたそれ以外か、それだけの話。

 少女は、確かに人殺しだった。

 人殺しだったのだ。

 少年は、それを知った。

 今日、この場で、初めて知った。

 彼の身に宿った英霊の経験が、それを知らしめた。

 この剣は、人殺しの剣である、と。

 己と同じ存在が振るう剣である、と。

 それは、何よりも少年を悲しませた。

 目の前で、無表情に双剣を振るう、少女。

 知っていた。

 昔から、知っていた。

 後輩として。

 友人の妹として。

 それより前も。

 何か、違う存在として。

 知っていた。

 知っていたのだ。

 知っていたのに。

 彼は、その少女を助けることが叶わなかった。

 助けようと決心することすら、叶わなかった。

 ただ、安穏と暮らしていた。

 今日の晩御飯のおかずは何にしようかと、真剣に頭を悩ませていた。

 今日の晩御飯のおかずが美味しかったと、義父に褒められて喜んだ。

 そのとき、彼女は、きっと泣いていたのだと。

 泣きながら、誰かを殺していたのだと。

 殺して、そうして喰っていたのだと。

 泣きながら、涎を垂らしながら、その死肉を貪っていたのだと。

 今、初めて知った。

 だから、怒った。

 激怒した。

 はらわたが煮えくり返りそうなほど、激怒した。

 他ならぬ、彼女に。

 目の前で、己を殺そうと剣を振るう、少女に、激怒した。

 それは、きっと彼が守るべき存在だった。

 それでも、それゆえに、許しがたかった。

 

 何故、知らせてくれなかった!

 何故、助けを求めてくれなかった!

 

 怒り。

 激怒。

 憤怒。

 殺意すら、あった。

 それを込めて、剣を振るう。

 悲しかったのかもしれない。

 そうだ、確かに悲しかったのだ。

 自分が、悲しかった。

 少女が、悲しかった。

 自分が鍛錬をしている間に、兄に犯されていた少女が、悲しかった。

 自分が義父の土産話に目を輝かせていたとき、返り血に塗れていたであろう少女が、悲しかった。

 自分が料理を覚えるのに必死だったとき、蟲に凌辱されていた少女が、悲しかった。

 自分が誕生日ケーキに舌鼓を打った時、得体の知れない生肉を喰らうしかなかった少女が、悲しかった。

 自分が病院のベッドに横たわっていたとき、冷たい石の上でその身体を弄くられた少女が、悲しかった。

 要するに、ただ悲しかった。

 だから、少年は少女を許すことが出来なかった。

 理由は、明白だ。

 許してしまえば、彼は生きていられない。

 彼を支える全てのものが、崩壊する。

 存在の危機。

 故に、彼は刃を振るった。

 贖罪の代わりに、殺意を込めて。

 涙の代わりに、殺気を込めて。

 御免なさい、許してください。

 そう、剣を振るい続けた。

 いつしか、雨はその勢いを強めた。

 しとしととした霧雨は、叩きつけるような驟雨に。

 ざあざあと全身を貫く雨すら、二人の意識には遠過ぎた。

 ただ、剣と剣がぶつかり合う音が、雨音に掻き消されていった。

 

 剣戟は、続く。

 

 五十合。

 百合。

 同一存在の振るう剣は、致命には至らない。

 咽喉元を狙った突きは、切り上げる一閃に弾かれる。

 返す胴薙ぎは、巧緻にうねる刃が阻む。

 頭部を両断すべく振り上げられた必殺の意思は。

 頭上で交差された不破の防壁の前に拒絶される。

 徒労の刃。

 それでも、浅い傷は、無数に。

 互いの身体を、血化粧で彩っていく。

 だが、その戦場は暗闇ゆえに。

 赤は赤としての存在を全うできない。

 無色の液体として。流れていく。

 ざあざあと、流れ落ちていく。

 血も、血臭も、その熱も。

 全てが、冬の雨に流れ落ちていく。

 ざあざあと、響く。

 それを心地いいと思ったのは、果たしてどちらだったのだろうか。

 雨が、降る。

 青白い剣線が、闇を照らす。

 弾きあう独楽のような、剣舞。

 それを見守る瞳が、一組。

 じっと、闇の中から。

 苦痛と後悔に塗れた視線で、その戦いの行く末を、見守っている。

 それが、己に課せられた義務であるかのように。

 じっと、見つめていた。

 

「…驚きました。まさか、貴方がここまでとは…」

「…俺の方こそ、驚いているよ。代羽、お前、強かったんだな」

 

 またしても、無意味の呟き。

 それを理解したのは、ほぼ同時。

 だから、苦笑したのも同時だった。

 出来過ぎだ。

 そう思って苦笑したのは、片方だけだったが。

 

「…貴方は、自分の起源について、考えたことがありますか?」

「…起源?」

「はい。方向性、根源衝動、如何様にも言い換えることが叶うでしょうが、要するに己の存在価値、そのことです」

「…考えたことも、無い」

 

 くすり、と、少女は微笑った。

 少年に、その表情を読み取ることは、出来なかった。

 その微笑みのどこにも、邪気は無かった。

 あるとすれば、一抹の嫉妬だけがあっただろうか。

 それ以上のものは、読み取れなかった。

 それは、とりもなおさず、少女が彼よりも目上の存在であることを印象付けた。

 

 ―――後輩、だったのにな。

 

 そう思って、少年も微笑んだ。

 そんな、会話。

 そんな、嵐の中の凪のような、会話。

 それは、確かに幸福では在った。

 それ故、その時間は余りにも弱弱しい。

 弱弱しいから、幸福なのか。

 一瞬の空隙は、しかし殺意に塗り潰される。

 一拍の間合は、然り、瞬時に押し潰される。

 再び交わる、刃と刃。

 もう、幾度交わったのか、数えることも億劫だ。

 そう、どちらかが思ったととき。

 限界が、訪れた。

 それは、体力、ではない。

 それは、軋む手首の骨、でもない。

 折れ砕けたのは、剣だった。

 少女の持つ剣。

 彼女の、いや、彼女の中の彼の使役する、魔蟲。

 その中でも最高の硬度を誇る甲虫の外骨格。

 その中でも最も堅いところを削り出し、打ち鍛え、研ぎ澄ました逸品。

 更に魔力で洗練し、相応の血を吸わせた、逸品。

 それでも、宝具の域には程遠い。

 だから、これは当然の帰結であった。

 武器の優劣は個々の力量を埋めるほどの差異にはならない。

 鉄の剣であろうが、銅の剣であろうが、肉の身体を貫くには十分だ。

 しかし、個々の力量が拮抗しているならば、その勝敗の線引きに使われるのは、武器の質なのだ。

 そして、折れ砕けた少女の剣。

 少年は、一瞬だけ勝ちを確信した。

 一瞬後に、その思考を後悔した。

 パン、と、乾いた音が、雨の音を掻き消した。

 少年の大腿部を、焼けるような激痛が襲った。

 崩れ落ちた膝が、深い水溜りに沈む。

 

「があっ!」

 

 焼け付くような、声。

 その声は、萎え砕けそうになる己を鼓舞するものではなかったか。

 硝煙の香りが、瞬きほどの時間だけ周囲を満たして、雨の中に消えていった。



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episode81 Between the hammer and the anvil 3 士郎

Between the hammer and the anvil 2


 雨で、あった。

 

 しとしとと降る、優しい雨であった。

 

 それは、死者を黄泉に届ける葬列のように、優しい雨であった。

 

 煙が、立ち昇る。

 

 既に辺りは暗いというのに、その白さだけが不思議と際立っていた。

 

 男は、走る。

 

 煙の白さも、雨の冷たさも、無視して。

 

 ただ、走った。

 

 一刻も早く、と。

 

 涙で頬を濡らしながら、走った。

 

 絶望で砕けそうになる心を押し留めながら、走った。

 

 男は、必死だった。

 

 必死に、探していた。

 

 何を?

 

 男はそう問われれば、あまりの恥に、自害していたかもしれない。

 

 彼が探していたのは、人間だ。

 

 あちこちに転がっている、人間だった物では、ない。

 

 人間。

 

 息をしている、人間。

 

 心臓の動かすことの出来る、人間。

 

 生きている、人間。

 

 男は、それを求めて、走り回った。

 

 幾度も瓦礫に足を取られながら、走り回ったのだ。

 

 声が、響く。

 

 もう、辺りに音を立てることのできる何かは、ほとんど存在しないから。

 

 不思議なほど、涙に濡れたその声が、よく通るのだ。

 

 誰かいないのか、と。

 

 誰か、生きている者はいないのか、と。

 

 頼むから、誰か生きていてくれ、と。

 

 それは、男の、心からの叫びだった。

 

 もし、誰もいなければ。

 

 彼がその悉くを、殺し尽くしてしまっていたのならば。

 

 もう、生きていくことは、できない。

 

 その確信が、あった。

 

 だから、男は走り回った。

 

 生きてくれていれば。

 

 生きてくれてさえいれば。

 

 男の手には、騎士王の鞘。

 

 それが在れば、助けることが叶う。

 

 そう確信して、走り回って。

 

 走り回って、走り回って。

 

 咽喉が裂けるほど叫んで、肺が潰れるほどに走り回って。

 

 結局、男は、絶望した。

 

 どこにも、いなかった。

 

 生きている人間など、どこにもいなかったのだ。

 

 男の頬が、自嘲に歪んだ。

 

 知っていた、ことだ。

 

 呪いが、溢れたのだ。

 

 人類全てを殺し尽くす呪いが、溢れたのだ。

 

 こんなちっぽけな町、多い尽くすのが如何程のことだろう。

 

 逃れられるはずなど、無い。

 

 死んだのだろう。

 

 苦しみながら、死んだのだろう。

 

 悲しみながら、死んだのだろう。

 

 怨み言を吐きながら、死んでいったのだろう。

 

 

 ―――いたい。

 ―――あついあつい。

 ―――しにたくない。

 ―――なんでわたしだけ。

 ―――たのむ、おまえだけは、いきのこって。

 ―――うらめしい。

 ―――いやだ。

 ―――ゆめだ。

 ―――おねがいだから。

 

 

 不憫だと、思った。

 

 彼らは、誰が己らを殺したのか、それすらも知らずに黄泉路へと旅立ったのだ。

 

 恨むことすら、許されない。

 

 恨む対象が、見つからない。

 

 ならば、恨むことができるのは、自分自身だけだ。

 

 男は、誰よりもそのことを知っていた。

 

 だからこそ、正義の味方などという、訳のわからぬ存在を目指したのだから。

 

 ならば。

 

 自分を恨むことしか、出来ないならば。

 

 家族を、恋人を、恩人を守ることの出来なかった罪を、己に課すことしか出来ないならば。

 

 その魂は、永遠に救われることは、在るまい。

 

 他ならぬ、己が許すことが出来ないのだから。

 

 他の誰が許したところで、その魂は地獄の最下層を這いずり回る。

 

 本来、別の人間に与えられるべきだった罰を求めて、這いずり回り続けるのだ。

 

 永遠に、永遠に。

 

 全ての魂が。

 

 自分が、罪人だと。

 

 自分が、見捨てたのだと。

 

 お互いが、お互いを、見捨てたのだと。

 

 そう勘違いしながら、只管に許しを請い続けるのだ。

 

 永遠に、永遠に。

 

 その様子を想像して、男は嘔吐した。

 

 胃の腑を吐き出すように、激しく嘔吐した。

 

 地面に蹲り、神に許しを請う罪人のように頭を垂れながら、嘔吐し続けた。

 

 涙と涎が、絶え間なく流れる。

 

 男の目の前には、黄色と、それに赤の混じった、水溜り。

 

 饐えた臭いは、焦げ臭さに掻き消された。

 

 そして、その焦げ臭さすら、彼の鼻は認識してくれない。

 

 もう、慣れてしまったのだ。

 

 だから、臭いは、無かった。

 

 そのことが悲しくて、男はまた泣いた。

 

 泣いて、しばらく泣き喚いて。

 

 やがて、ふらりと、立ち上がる。

 

 彼の瞳は、澄み切っていた。

 

 ゆっくりと、歩み始める。

 

 それは、救いを求めての道行きではない。

 

 それは、結論を求めての道行きであった。

 

 男が求めた、最後の結論。

 

 曰く、罪人は死ね。

 

 それは、間違いなく逃避だった。

 

 死に勝る罰はないが、それと同義に、死に勝る許しも存在しない。

 

 自分の未来を、思い煩わなくて、済む。

 

 結局、楽なのだ。

 

 自分を責める声。

 

 自分を責める、自分の中からの声。

 

 耳を塞いでも、聞こえてくる。

 

 鼓膜を破って、耳小骨ごと蝸牛を引きずり出しても、聞こえてくるだろう。

 

 その声が、余りにも苦痛だから。

 

 男は、彼にとって最も安楽な道を歩もうと、決意したのだ。

 

 だから、そこに、崇高な理念など、無かった。

 

 責任を取るとか、世を儚んでとか、そういう詩的なものは、一切無かった。

 

 敗残者の自己憐憫と、現実逃避。

 

 在ったのは、精々がそれくらいのもの。

 

 男はそのことを理解しながら、のろのろと歩き続けた。

 

 場所は、決まっていた。

 

 あの、黒い太陽が、現界した、場所。

 

 この地獄の中央。

 

 そこが相応しいと、理由もなく、そう思ったのだ。

 

 歩いた。

 

 もう、できるだけ地面は見ないようにした。

 

 そこに何が在るのか大体は分かっていた。

 

 何より、死に場所までの道行きは、せめて己を責める声は小さくあって欲しかった。

 

 それでも、その声は刻一刻と大きくなっていった。

 

 もう、耐え切れない。

 

 ついに、最後の場所まで歩くことすら耐え難くなって。

 

 彼が、自分の骨で作った弾丸を、愛銃の弾倉に詰め込もうとしたとき。

 

 音が、した。

 

 久しぶりに、彼自身の罵声以外の音を聞いた男は、驚いた。 

 

 驚いて、走り寄った。

 

 万が一の可能性に、賭けたのだ。

 

 その時の、彼の表情。

 

 頬は削げ、目は血走っていた。

 

 髪が白くなっていないのが、いっそ不思議だった。

 

 それでも、その瞳は、希望に濡れていた。

 

 もしかしたら。

 

 その後に続く言葉は、飲み込んだ。

 

 それを声に出して、そこに何も無ければ、自分は狂うと、理解していたから。

 

 そして、その判断が正しかったことを、男は知る。

 

 死体、だった。

 

 黒焦げの、死体。

 

 それが、熱による引き攣れで、僅かに動いたのだ。

 

 それだけ、だった。

 

 

 彼は、弾倉に銃弾を、詰め込んだ。

 

 

 そして、また、歩き出した。

 

 手に握った冷たい金属が、男に無上の安心を与えてくれた。

 

 彼を終らせてくれるその冷たさを、初めて愛おしいと思った。

 

 それくらいしか、彼の手には残っていなかった。

 

 妻は、死んだ。

 

 教え子は、死んだ。

 

 娘は、戻らない。 

 

 暖かいものは、全てを置き忘れてしまった。

 

 もう、何も、残っていなかった。

 

 いつしか、彼の無表情には自嘲の笑みすら浮かばなくなっていた。

 

 それでも、歩き続けた。

 

 ふらふらとした足取りで。

 

 手には、黒光りのする金属を持ちながら。

 

 幾度も彼の生命を救った武器だ。

 

 幾人もの血を啜り舐めた、武器である。

 

 ならば、己に最後を与えるのに、これほど相応しいものもないだろう。

 

 それだけは幸運だったと、男は思った。

 

 そうして、また音が、聞こえた。

 

 ぱしゃりと、水溜りに足を突っ込んだような。音だった。

 

 男は、再び走った。

 

 その表情に一片の輝きも残さぬままに、走った。

 

 絶望しながら、走ったのだ。

 

 もしかしたら。

 

 その後に続く言葉は、飲み込んだ。

 

 それを声に出して、そこに何も無ければ、自分は狂うと、理解していたから。

 

 そして、その判断が正しかったことを、男は知る。

 

 死体、だった。

 

 犬の、死体だった。

 

 黒焦げの犬の、死体だった。

 

 その、おそらくは尻尾に当たる部分が、不自然に濡れていた。

 

 そこに、いくつかの肉塊が、転がっていた。

 

 まるで、子犬のような形をした、肉塊。

 

 男は、理解した。

 

 きっと、死んでから破水したのだ。

 

 それとも、最後の力で産み落としたのか。

 

 男は、肉塊に、目をやった。

 

 無惨に、命でなかったかのように転がった、数匹の子犬。

 

 それを、彼は抱き上げて。

 

 丁寧に、心音を確かめて。

 

 その全てが止まっていることを、確認した。

 

 男は、黒焦げの母犬、その乳房のあった場所に、子犬の死体を、並べた。

 

 只の、自己満足だ。

 

 母犬の顔は、笑ってくれなかった。

 

 男は、ふらりと、歩き出した。

 

 のんびりと、そこらを散歩するような足取りで。

 

 そうして、たどり着いた。

 

 大火災の中心。

 

 惨劇の始まりの地。

 

 そうして、それが終る場所。

 

 そこに、ただ、立ち尽くす。

 

 どれだけの間、そうしていたのだろうか。

 

 

 やがて、男は銃身を、口中の奥深くに突っ込んだ。

 

 

 もう、一瞬だって、生きていたくなかった。

 

 頭蓋の中で反響する検察官の声は、その音量を増していくばかり。

 

 それだけではない。

 

 弁護人も、彼を非難する。

 

 傍聴席からも、罵声が飛ぶ。

 

 裁判長が、にやにやしながらそれを眺める。

 

 そんな風景が、彼の脳味噌の中に、あった。

 

 それを、吹き飛ばしたかった。

 

 如何にも正当なそれが、ただ苦痛だったのだ。

 

 それだけだ。

 

 そして、彼の震える指が、引き金にかかったとき。

 

 また、音がした。

 

 またかと、彼は思った。

 

 

 彼は、引き金を引いた。

 

 

 引こうとした。

 

 それでも、引けなかった。

 

 いつもはあれだけ軽い引き金が、今だけは鉛以上に重たかった。

 

 彼は、呆れた。

 

 これだけ生を疎いながら、それでも生にしがみつこうとする己が、哀れなほどに浅ましくて。

 

 それを断ち切ろうと、最後の力を込めたとき。

 

 

 声が、したのだ。

 

 

 音では、無かった。

 

 声だった。

 

 擦れて、潰れて、今にも消えそうな弱々しい響きではあったが。

 

 それは、間違いなく、人の声だったのだ。

 

 男は、銃を投げ捨てた。

 

 己に最後の救いを与えてくれるであろう、救いの主を投げ捨てた。

 

 それは彼なりの覚悟だった。

 

 そこに、彼を救ってくれる何かがいれば、よし。

 

 いなければ。

 

 彼は、罰を受ける決意をしたのだ。

 

 生きよう、と。

 

 無様に、卑劣に、外道として生きようと、決意した。

 

 死を恐れたと人が言えば、理不尽な怒りをもってそれを殺そうと。

 

 老人から奪い、女を犯し、子供を殺し、それを笑うような。

 

 もう、あらゆる存在が己に唾を吐きかけるように。

 

 そんな惨めな贖罪を送ろうと、そう決意した。

 

 そして、走った。

 

 それが最後の疾走になるという、確信があった。

 

 もう、二度と走ることはあるまい。

 

 だから、走った。

 

 

 そして、見つけたのだ。

 

 

 黒焦げの、子供。

 

 髪は、焼けて焦げ落ちている。

 

 目は、片方だけ見開かれたまま。

 

 きっと、瞼を閉じる力すら、残っていないのだ。

 

 手と足は、綺麗に折りたたまれている。

 

 それは、焼死体のそれと、何ら変わるところが無かった。

 

 それでも、その瞳は、確かに生きていた。

 

 絶え間なく涙を流し続けるその瞳は、確かに生きていた。

 

 男は、何事かを呟いた。

 

 彼は、何よりも彼自身を信じることが出来なかった。

 

 これは、奇跡だと思った。

 

 せめて、許されたのだと。

 

 この上なく罪に塗れた、餓鬼がひり出す糞便にも劣る、この身ではあるけど。

 

 せめて、この子を助けることだけは許されたのだと。

 

 それは、紛れもない奇跡であった。

 

 男は、この上ない幸福に包まれて、少年を抱き上げた。

 

 少年は、漂白された意識の中で、男を見詰めた。

 

 それは、互いにとって、確かに救いだった。

 

 この瞬間だけは、何人もそれを否定し得なかっただろう。

 

 

 かつん、かつん、と、靴音が反響した。

 男は、冷たい廊下を、歩いていた。

 冷たい、リノリウムの廊下。

 しかし、不思議と無機質ではなかった。

 時折、子供の笑い声が、聞こえた。

 話に聞いたことがあった。

 内科棟の患者は元気が無いが、外科棟の患者は、元気がいい。

 遠からず健康を取り戻すことが叶う、その確信が声を明るくするのだ。

 なるほどと、彼はそう思って、久方ぶりの笑みを作った。

 鼻を刺激する、消毒薬の匂い。

 それに、どこか生臭い、生きた人間が発する臭いを足すと、病院の空気になる。

 そんな、埒もない、思考。

 彼はそれに呆れて、目的地を探し出す。

 もう、集中治療室から移されたことは、知っている。

 面会謝絶の看板も、一週間ほど前に取り払われた。

 だから、彼の足を遠ざけたのは、純粋な恐怖心。

 もし、糾弾されたら。

 あの瞳が、この身を詰ったら。

 そう思うと、足が竦む。

 それでも、彼は歩いた。

 それが、最後の矜持だった。

 やがて、病室が現れた。

 受付けで教えてもらった部屋番と、何度も見比べる。

 そして、深呼吸を一回。

 いや、二回三回。

 こんなに緊張したのはいつ以来だろうかと、思い返す。

 何と、話しかけようか。

 記憶は失っているらしい。

 無理も無いだろう。

 あんなに幼い子供が、死に瀕した、いや、間違いなく死んでいたのだ。

 ならば、記憶の一つや二つで済めば、儲けものである。

 男はそこまで考えて、第三者のような己の思考に吐き気を催した。

 嘔吐く声を、噛み殺す。

 酸っぱい唾を、無理矢理に飲み下す。

 浮かんだ涙を、スーツの袖で擦り取る。

 名前は、知っている。

 子供の、名前。

 幸運にも、服の製品タグに名前が書いていたらしい。

 その部分だけが、何かに守られるように、焼けていなかったとのこと。

 士郎と、いう。

 それが、この子供の名前だ。

 もう一度、深呼吸。

 何を話そうか。

 まず、彼はどうしたいか、それを聞こう。

 きっと、性急に過ぎる質問だろうけど。

 それでも、これだけは聞いておかなくては。

 得体の知れない、見たことも無い、中年の男。

 それに引き取られたいなどと、いくら子供でも思わないだろう。

 それでも。

 それでも、もし。

 もし、少年が、男の息子になることを選んでくれたなら。

 男は、いずれその全てを打ち明けるつもりだった。

 彼の主観からすれば、まるで永遠のような逡巡。

 そうして、やがて男は、病室の扉を開く。

 白い、室内。

 開け放たれた窓、そこから入ってくる風が、白いカーテンを弄る。

 白いベッド、白いシーツ。

 白い包帯に、ぐるぐる巻きになった、少年。

 不思議そうな、まるで人形のような視線を、男に寄越す。

 その無垢に、彼は気圧された。

 まるで彼の罪を糾弾しているかのようだと、思った。

 それでも、精一杯の勇気と、最後の意地を込めて、彼は言ったのだ。

 

「やぁ、士郎君、思ったより元気そうだね、よかった」



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episode82 Between the hammer and the anvil 4 最愛

 パン、と、軽い音が、一度鳴った。

 軽い、音だった。

 例え、視界を遮るほどの豪雨が無かったとしても、その音は夜の闇に吸い込まれて、余人の耳を騒がすことはなかっただろう。

 そんな、軽い音。

 花火や爆竹のそれと、何ら変わるところが無い。

 そんな、音が、一度だけ響いたのだ。

 そして、少年の苦痛の声が、辺りを圧した。

 喉の奥を絞り上げたような、声だった。

 ばしゃりと、少年の身体が崩れる音。

 次に、ぱんぱんぱんと、三回、乾いた音。

 音源は、少女の握った、黒い金属。

 人を殺すために作られた、呪われた出自を持つ、金属だった。

 いつの間に、手にしていたのだろうか。

 少年は、気付けなかった。

 機会があったのは、少女の構える双剣、その片方が折れ飛んだとき、だろうか。

 その、一瞬。

 意識が、闘争から次の段階への移行に、無意識に備えてしまった一瞬。

 彼女は、背中に隠してあったホルスタから、拳銃を抜き取っていた。

 早業では、あったのだ。

 まるで、西部劇の主人公が行うような、早抜き。

 いや、流石にそれほどではなかったかもしれない。

 だが、少年の油断をつくには、十分過ぎる速度ではあった。

 そして、何のためらいも無く、引き金は引かれた。

 

 まず、一度。

 

 狙いは、左大腿部。

 命中。

 苦悶の響きが、辺りを満たす。

 がくりと崩れ落ちる、少年の身体。

 少女は、表情一つ変えない。

 

 次に、引き金は三度引かれた。

 

 グロックシリーズ。

 各国の軍隊や警察組織で採用されている、名銃。

 その中でも"Baby"と称されるほど小さく、携帯に適した、それ。

 グロック26。

 彼女が握った金属塊は、それだった。

 きっちり三度のマズルフラッシュが、辺りを照らし出す。

 そして、苦痛の声は、一度。

 全てが、脚部に命中。

 そもそも、剣で斬り合うような至近から発射されたのだ。

 外せというほうが、むしろ難しい。

 では、何故頭部を狙わなかったのか。

 そう問われれば、彼女は苦笑をもってそれに応えたかもしれなかった。

 彼女の足元で蹲る、少年。

 彼の体には、四つの風穴が開いている。

 傷口を押さえ、無様に転げ回る。

 それでも、その瞳から戦意が失われることは、無かった。

 天より降り注ぐ慈雨が、少年の身体から流れ出した血液を、洗い流していく。

 しとしとと、癒すように。

 それでも、雨は徐々にその勢いを収めていった。

 ざあざあとした雨脚が、しとしととした、それに。

 そして、それすらも、勢いを落としていく。

 もう、雨は上がるのだろう。

 少女は、空を見上げた。

 

episode82 Between the hammer and the anvil 4 最愛

 

「さて、衛宮士郎。起源の話、でしたでしょうか…」

 

 少女は、豊かな程に蜜を含んだ声で、そう言った。

 彼女は、近場にあったベンチに腰掛ける。

 そこあったのは、勝者の余裕というよりは、敗残兵の疲れであった。

 雨に濡れた、ベンチ。

 腰掛ければ、服は濡れてその冷たさが直に伝わることだろう。

 しかし、そもそも彼女の体に、これ以上水分を含むことの出来る衣類は存在しない。

 べしゃりと、粘着質な音が、鳴った。

 少女は、僅かに眉を顰めた。

 眉を顰めながら、ポケットに手を突っ込む。

 そこから水浸しになったシガーケースを取り出し、近くの水溜りに投げ捨てた。

 

「魔術師が、その魔術の習得の際に、己の起源にあったそれを選ぶという話を聞いたことは…?」

 

 少女の、質問。

 しかし、少年は、答えない。

 答えることが、出来ないのだ。

 そもそも、その口はものを言えるような状態では、なかった。

 食い縛っている。

 奥歯を噛み折るかのように、満身の力で食い縛っている。

 理由は明白だ。

 開けば、苦痛の呻き声がもれる。

 それは、誰よりも彼自身の心をへし折るだろう。

 その確信があったから、彼は口を開けない。

 口を開かず、ただ睨みつける。

 そうして、戦おうとする。

 痺れて動かない足を無視して、両腕を持って起き上がろうとする。

 まるで、オットセイが鼻に玉を乗せるかのような、姿勢。

 そんな間の抜けた姿勢で、少女を睨みつける。

 それを、少女は鼻で笑い。

 少年の右肩を、手にした拳銃で打ち抜いた。

 

「うぎいいッ!」

 

 少年の身体は弾け飛び、左手で右肩を抑えながら、転げまわった。

 それを見る少女の視線は、やはり無表情。

 それは、若人の視線では、ありえなかった。

 まるで、人生に疲れた老婆のような諦観が、そこにはあったのだ。

 

「聞けば、疾く答えなさいな。そう、学校で教わりませんでしたか…?」

「ぐはあぁ、ぐはあぁ、ぐはあぁ…!」

 

 喘ぐような、呼吸。

 仰向きに寝転がった少年の影、その胸部が大きく脹らみ、萎む。

 少女はそれを見ながら、唾を吐き捨てた。

 まるで、口の中に異物が残っていたかのようだった、

 そうして、それは正にその通りだった。

 少女の吐き捨てた唾液、そこには細やかな、小動物のような毛が、大量に含まれていたのだ。

 

「人は、いいですねぇ…。鉛の玉で苦しんでくれる…。大変、安上がりです…」

 

 くすくすと、陰に篭もった笑い声が響く。

 少年は、それを聞く余裕すらない。

 ただ、苦痛に喘ぐ体を宥め抑えるので精一杯だ。

 だが、仰向けのまま、空を見上げた。

 そこに、分厚い雲は、無かった。

 薄い雲と、そこから覗く夜空と星々。

 通り雨だったのかもしれない。

 そう思って、一度だけ大きく息をついた。

 

「死徒を相手取るに、鉛の玉では通用しない。銀の弾丸、それも高名な悪魔祓い師に洗礼を受けたものでないと、障壁を貫くことすら出来ない。だから、私はいつも食うや食わずやでしたよ…」

「…お前、偉い貴族様に養われてたんじゃあ、なかったのか…?」

「…ああ、それは酷い勘違いだ。知っていますか、衛宮士郎。金持ちとはね、吝嗇家の代名詞なのですよ…」

 

 初めて、少女は本当に楽しそうに微笑った。

 少年も、その身を犯す苦痛が無ければ、笑いたかった。

 そうして、心底驚いた。

 自分の恋人を攫った、そうして、その身体の一部を喰らったであろう相手と、こんなふうに話せる自分が、不思議でならなかった。

 

「装備は、自費負担です。それでも、私は戦いに赴きました。一銭の報酬も出ない、戦いです。何故だか、わかりますか…?」

 

 少年は、再び答えなかった。

 銃弾が怖くなかったわけではない。 

 あれは、確かな苦痛だからだ。

 それでも、答えるわけにはいかなかった。

 何故なら、彼はその答を知っていたから。

 彼は、その問いに、正答をもって応じることができたから。

 それは、彼自身が同じ懊悩を抱えていると、宣言するに等しい行為だったから。

 

「また、答えて、くれないのですね…」

 

 彼女は、ゆっくりと銃口を持ち上げた。

 そして、それが当然のように、引き金をしぼった。

 パン、と、軽い音が鳴って。

 少年の身体に、もう一つ風穴が、開いた。

 

「ぐあああ!」

 

 まるで、陸に揚げられた海老のように、無作為に飛び跳ねる少年の身体。

 少女は、それを愉快だと思って。

 そうして、頬の内側の肉を、噛み切って、飲み込んだ。

 

「…私は、誰かに必要とされたかった。それだけで、私は生きていける、そうでないと、私は生きていけない。私は、そうだったのです。衛宮士郎、貴方は如何ですか?そう、思ったことは、ありませんか?」

 

 少年の喘ぎ声が、寒空の下に響いた。

 今度は、少女は、その手を持ち上げなかった。

 ただ、まるで泣き顔を隠すかのように、俯いていた。

 その理由は、明白だった。

 彼女も、少年の答を、知っていたのだ。

 

「『白』、です…」

「…?」

 

 少女の呟きに、少年は首を捻った。

 何のことを言っているのか、分からなかったからだ。

 それでも、少女の瞳は、真剣そのものだった。

 それ以上に、苦痛に満ち満ちてはいたが。

 

「…私達の起源は、『他の何物よりも、他の色に染まり易い』。つまり、『白』、それが私達の持った方向性です」

「…」

 

 少年は、その言葉をいとも容易く受け入れた。

 驚きというよりも、納得があった。

 ああ、なるほど、と。

 言われてみれば、そうかもしれない、と。

 そう、思ったのだ。

 少女の頬は、自嘲に歪んだ。

 内心で、思ったのだ。

 何と因果な起源だろうか。

 他の何物よりも、他の色に染まり易い。

 

 白。

 

 背景としての、色。

 他の色に塗り潰されるために存在する、色。

 それ単体では、色として成立しないような、色。

 彼らは、そんなものを起源として、生まれてしまったのだ。

 起源とは、魂の更に高次元に位置するもの。

 人の一生が如き薄まった価値観では、それに抗いようも無い。

 故に、彼らには、個としての意思が限りなく薄い。

 何せ、白、なのだから。

 他者の思想の影響を、真正面から受け止めてしまう。

 その飛沫にすら、毒される。

 そんなものに、人並みの幸福など、求めよう筈が無いではないか。

 人足り得ない、人。

 人以下の、人。

 それが、彼らに与えられた、宿命であった。

 

「ほら、貴方の名前にも、『しろ』の文字がある。きっと、私の名前にも、そうだった筈。名前に起源を練り込むというのは、どうやら魔術師の世界ではありふれたことのようですから」

 

 それは、例えば少年の義父のように。

 衛宮切嗣。

 切って、それを嗣ぐという、捻れた名前。

 それを冠した少年は、やがて少年の理想を抱えたまま、大人と成り果てた。

 それがどれ程の悲劇を周囲に撒き散らすか、それすら理解しないままに。

 そうなのだ。

 名前は、原初の願い。

 その言霊は、他の何物よりも強烈に個人を縛り付ける。

 起源とは、魔術の方向性をも含める。

 それを原初の言霊と同一化させることで、より魔術に強烈な意味を含ませる。

 ならば、それは呪いと。

 何故、言い切ることが出来ないか。

 

「…貴方は、火事によって空っぽになったのではない。私達は、最初から空っぽなのです。後から何かを詰め込むつもりだったのか、それとも、もうそんなことすら薄れるほどに、魔術から遠ざかっていたのか、それは定かではありませんが」

 

 遠い、遠い、もう、誰も覚えていない、意味の無い話だ。

 彼らの家は、普通の家だった。

 暖かい家族、暖かい食事、暖かい空間。

 それらは、魔道の探求に血道を捧げる一家のそれには、似つかわしくない。

 だが、少年と少女の体には、二十七本の魔術回路が走っている。

 もっとも、少年のそれが目覚めたのはごく最近のことであり、少女のそれはもう一つの人格に支配されて、彼女の体には化石のようにしか残っていないのだが。

 だから、それは真実だったのだ。

 その家は、真実、魔道を、切り捨てたのだ。

 それは、無為であると。

 誰も、幸福にしない、と。

 それは、完全な正解だ。

 何も、人外の秘法を求めずとも、人は幸福になれる。

 自分達と、その子孫の笑顔を得るに、魔術は必要ではない。

 そう、少し昔に悟った一族がいた、それだけのことだ。

 そうして、その一族から、魔の色は、消えていった。

 だが、連綿と続いたそれは、一代では消えてくれない。

 染み付いた穢れは、一代では落ちてくれないのだ。

 徐々に、徐々に、少しずつ。

 今までかけてきた時間を、手繰るように、少しずつ。

 そうして、慣習だけが残った。

 意味を失い、目的を失い、そうして形だけが残る。

 往々にしてあることではないか。

 惰性。

 この世の大半は、それで出来ているようなものだ。

 その家も、そうだった。

 優れた後継者を残すための儀式が、只のおまじないに。

 そうして、付けられた呪い名。

 一つの受精卵から分かたれたが故に、同じ起源を持つ二人。

 その双子には、共に『しろ』の韻を含む名が、与えられた。

 それは、完全な親の愛情からだった。

 幸せになってほしい。

 そう願わぬ親の、あろうことか。

 その名が、二人の子供に、この上ない因果を齎すことになったとしたならば。

 親は、そのような名前、掃き捨てたであろうに。

 違う名前、ならば。

 違う名前、だったならば。

 或いは、全く違う人生が、ありえたのだろうか。

 しかし、それは意味の無い仮定だった。

 意味の無い、仮定だったのだ。

 だからこそ、少女は、求めた。

 意味の無い仮定を。

 己の持つ意味を、計るために。

 

「貴方の身体には聖剣の鞘が与えられ、貴方の身体は無限の剣を内包する、巨大な鞘と化した。貴方の精神には正義の味方という呪いが与えられ、貴方はその盲信者となった。それは、共に我らの起源が故に」

「…じゃあ、代羽。お前の身体には、何が埋め込まれた?お前の精神には、何が埋め込まれたんだ…?」

「私が、ですか…?」

 

 少女は、一瞬、驚いたように目を見開いた。

 その後、自嘲に頬を歪めた。

 少年は、言葉を発してから、後悔した。

 音波が色と形を持つならば、それを回収したいという欲望と、戦わなくてはならなかった。

 分かりきっているではないか。

 彼女が、その身体に何を孕んだか。

 彼女が、その精神に何を孕んだか。

 知っているはずではないか。

 幾度も、戦ったのだから。

 それを、一瞬でも忘れた自分の脳髄が、恨めしかった。

 

「…私は、身体に無数の蟲を埋め込まれた。故に、私の身体は無限の蟲を内包する、巨大な蟲倉と化した。そして、私の精神には、ヨハネというもう一つの人格が埋め込まれ、私は彼の従者と成り下がった。それだけの、ことですよ…」

 

 少年は、耳を塞ぎたかった。

 それでも痺れた右手が、それをさせてくれなかった。

 その時点で、彼は初めて、己を撃った少女を、憎んだのだ。

 

「そういえば…彼女は、一度だけ私の願いを聞き入れてくれた。一度だけね、我侭を言ってみたのです。時計塔に保存されている、幻想種の標本が見たい、と。なるほど、彼女は最高権力者だ。あっさりと私の願いは叶った」

 

 彼女の視線は、遥か過去を眺めるかのように、遠くを見詰めていた。

 雨雲は、完全に姿を消していた。

 彼らの頭上には、月が輝いていた。

 ほとんど欠けるところのない、しかし満月にはぎりぎり手の届かない、そんな月だった。

 その月が、笠を被っていた。

 丸い、ぼやけたような線が、丸い月の回りを飾っていた。

 それは、涙で視界が滲んでいるようではないかと。

 二人は、ほとんど同時に、そう思ったのだ。

 

「私の世界に内包される蟲達の原型は、ほとんどがそこに在りました。だから…彼女はやはり、私と彼の、恩人なのでしょう」

「…代羽、お前の望みは、何だ…?」

 

 少年が、ゆっくりと立ち上がる。

 その様を見て、少女もベンチから腰を上げた。

 ふらつき、折れそうになる膝を叱咤して、それでも立ち尽くす少年。

 悠々と、それが当然であるかのように、しっかりとした足取りで近付く少女。

 彼我の距離は、約五メートル。

 それが、まるで無限のように、少年には思えた。

 

「貴方に、質問する権利は、ありません。ただ、答える義務があるだけ…」

「答えろ、代羽。お前は、聖杯に何を望む?世界征服とか、復讐とか、そんなくだらない嘘は、もういい。本当の望みを、聞かせてくれ」

 

 少女は、引き金を引き絞った。

 銃口は、少年の右膝を狙っていた。

 銃弾は、少年の右膝を破壊した。

 

「…!」

 

 少年は、顔を顰めた。

 顔を顰めただけで、苦痛の叫びはあげなかった。

 それがどれ程の精神力のなせる業なのか、少女には計り知れなかった。

 だから、もう一度、引き金を引き絞った。

 銃口は、少年の左膝を狙っていた。

 銃弾は、少年の左膝を破壊した。

 

「…!」

 

 少年は、顔を顰めた。

 それでも、やはり苦痛の叫びはあげなかった。

 都合、少年の身体には。八つの風穴が開いたことになる。

 もちろん、流れ出した血の量とて、致死に値する。

 雨に濡れた身体は、体温を保てない。

 意識が、遠くなりかける。

 実際に、先程から何度も細かく気絶と覚醒を繰り返している。

 そういう意味では、苦痛すら愛おしいほどだった。

 

「…教えろ、代羽。お前の、本当の望みは、何だ…?」

 

 少年は、少女に歩み寄った。

 一歩一歩、ゆっくりと。

 

 少女は、気圧されて、後ずさる。

 一歩一歩、ゆっくりと。

 

 少女は、悟った。

 この少年は、止まらない。

 止まることが、できないのだと。

 それが、彼に与えられた色で、呪いなのだと。

 そうして、彼は走り続けるだろう。

 彼の幻影の中にだけ存在する、義父の背中を追い求めて。

 そうして、走り続けて。

 最後に、奇跡を求めるのだ。

 そうして、走り続けて。

 彼は、英雄に祭り上げられるのだ。

 人類の抑止、アラヤの戦士へと。

 そうすれば、もう駄目だ。

 何者も、彼を救うことは、できない。

 それこそ、世界を滅ぼしでもしない限り、彼は永久に救われない。

 そんなのは、嫌だった。

 何よりも、それが許せなかったのだから。

 少女は、決意した。

 その、余りに幼い胸のうちで、決意した。

 

 少年を、殺そうと。

 

「止まりなさい、衛宮士郎。これ以上近付けば、貴方を殺します」

 

 その声に、一切の迷いは、無かった。

 あったのは、決意。

 堅い、堅い、ダイヤモンドのように堅い決意だ。

 堅く、鋭く、しかしダイヤモンドのように砕けやすい、決意だ。

 その声は、間違いなく、涙に濡れていた。

 少年が初めて聞く、少女の悲鳴、だったのだ。

 

「お前には、出来ないよ…」

「試してみますか…?」

 

 背筋を伸ばして、まるで最後の審判に立つ罪人のように、しっかりと屹立する少女。

 苦痛に背を丸め、それでも己の義務を果たそうと立ち上がった、無垢の少年。

 二人の視線の高さは、同一。

 荒い、呼吸。

 白が、二人の顔の前に、現れては消える。

 それは、まるで二人の運命のように。

 ゆっくりと持ち上がった、少女の腕。

 そこに握られた、小さな拳銃。

 人の命を奪う以外、如何なる機能も持たない、それ。

 その銃口が、少年の心臓を、ぴたりと狙った。

 もちろん、少年はそのことを理解していた。

 少女の視線に、全く嘘がないことを、少女以上に理解していた。

 だからこそ、引くことは、出来なかった。

 何故なら、少女は、泣いていたからだ。

 今も、以前も。

 初めて出会ったときから、ずっと。

 少女は、泣き続けていた。

 情けないことに、少年は、初めてその事実に、気が付いたのだ。

 そして、今、自分が引けば、少女はこれからも涙を流し続けることも。

 そんなの、いや、だった。

 絶対に、許せなかった。

 だから、立つのだ。

 皿を砕かれた、膝で。

 風穴を開けれれた、太腿と爪先で。

 必死に歯を食いしばって、それでも立ち上がったのだ。

 少女は、それを知っていた。

 少年が如何に優しいか、知っていた。

 知っていて、殺さなければならなかった。

 もし。

 少女は、そう思わざるを得ない。

 もしも、この男が卑劣漢であったならば。

 唾棄に値する、屑だったならば。

 彼女の懊悩は、どれほど軽くなっていたことだろうか。

 放っておけばいい。

 どこに行こうが、知らぬ存ぜぬで、関わらなければいい。

 勝手に生きて、勝手に死んで、勝手に英雄にでもなればいい。

 そう思えただろう。

 無関心は愛の対義語だ。

 愛は、人を苦しめる。

 ならば、無関心の何と安楽なこと!

 そんな仮定を夢想して、少女はぎしりと歯を鳴らした。

 結局、少年は優しすぎた。

 少女が全てをかけて庇護するに、十分過ぎる価値を有していた。

 だからこそ、彼女は苦しまねばならなかった。

 

 二人の視線が、交錯する。

 

「話せ、代羽、お前は、聖杯に何を望むんだ?」

「黙りなさい…」

 

 恐れないのは、少年だった。

 恐れているのは、少女だった。

 そして、全てを終らせる権利を持ったのも、少女だったのだ。

 

「話せ、代羽!お前は、聖杯に何を望むんだ!?」

「黙れと言っている!弟の分際で、私に偉そうな口を叩くな!」

 

 少年は、唯一残った左手で、その短剣を投擲した。

 少女は、その剣線から身をかわし、そうして数度、引き金を絞った。

 ぱんぱんと、二度。

 今までと合わせて、全部で十回。

 それで、彼女の愛銃の弾倉は、完全に空になった。

 狙いは、心臓。

 命中したのも、心臓。

 回転する弾頭が貫いたのも、心臓だった。

 倒れていく、少年の身体。

 少女が、弟と呼んだ少年の、身体。

 やがて、ばしゃりと、盛大な水音が聞こえた。

 水溜りの中に倒れ伏した少年。

 ぴくりとも、動かない。

 少年の身体は、今、機能することを、止めたのだ。

 そして、少女はやっと安堵した。

 これで、少年が英雄になることは、無い。

 これで、私の目的は、達せられた。

 なのに、何故。

 少女は、頬に、手をやった。

 明らかに雨粒とは異なる熱い液体が、そこを伝っていた。

 ああ、と、大きなため息が、響いた。

 せめて、彼の血の赤が、闇に隠れてくれていること。

 それが、この上なく、ありがたかった。



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episode83 Between the hammer and the anvil 5 代羽

episode83 Between the hammer and the anvil 5 代羽

 

 雨で、あった。

 

 しとしとと降る、優しい雨であった。

 

 それは、死者を黄泉に届ける葬列のように、優しい雨であった。

 

 煙が、立ち昇る。

 

 既に辺りは暗いというのに、その白さだけが不思議と際立っていた。

 

 老人は、歩く。

 

 まるで神のように、悠々と。

 

 時折、彼の足元で、乾いた音が、響く。

 

 それは、程よく焼かれた誰かの骨だ。

 

 それを無関心に踏み拉きながら、老人は悠々と歩くのだ。

 

 急ぐ必要など、無い。

 

 何故なら、全ては終ったのだから。

 

 全ては、老人の予想通りといってよかった。

 

 哀れな後継者は、勝手に自滅してくれた。

 

 彼に従わない一族郎党に、何の価値があるか。

 

 英雄に縁の品を無駄にしたのは痛かったが、それでも不穏分子が取り除けたのだ。

 

 ならば、良しとすべきだろう。

 

 何よりも、あれが無傷で残ったのが素晴らしい。

 

 万が一、雁夜がとち狂って、遠坂の胎盤辺りにでも泣きつけば。

 

 或いは、時臣が翻意して、あれを取り返しに来るという、最悪の事態もありえたのだ。

 

 最悪でなければ、最善。

 

 今のマキリの現状を考えれば、それくらいの苦渋は舐め取らねばなるまい。

 

 それにしても、老人の懊悩が尽きることは無い。

 

 ここ二百年あたり、後継者のことに関して明るい話題は何一つ無い。

 

 反比例して、暗い話題には事欠かない。

 

 まず、魔術回路の数が、代を重ねるごとに減少していく。

 

 代を重ねるごとに神秘の濃度を高めるのが魔道の在り方だとするならば、マキリは既に魔術の家ですらないのかもしれない。

 

 そう考えて、思わず嘆きたくなる。

 

 そうして、愚昧。

 

 今も、老人の後ろには、彼の後継者がついてきている。

 

 間桐鶴野。

 

 始まりの御三家の後継者でありながら、令呪も宿らぬ、無能。

 

 それが、老人を苛立たせる。

 

 苛立たせながら、ついてくるのだ。

 

 へっぴり腰で、おっかなびっくりと、時折漂う、人の肉の焦げる臭いに嘔吐しながら。

 

 もしかしたら、これがマキリの後継者としての最低限の義務とでも思っているのかもしれない。

 

 だとしたら、滑稽を通り越して哀れだ。

 

 マキリの後継者の義務は、唯一。

 

 次代に、より良い種を残すこと。

 

 それだけだ。

 

 それだけのことが出来なかったから屑だというのに、こんなところで妙な意地を張ったところでその評価が覆る筈も無い。

 

 そんなことも分からんのかと、老人は内心で、己の子孫を罵った。

 

 もう、幾度も繰り返した思索である。

 

 それが呪いとして機能するならば、一応の後継者はとっくに彼岸に旅立っているであろう、それほど濃厚な絶望だった。

 

 だから、老人は、ずっと不機嫌だった。

 

 今のマキリの当主が生まれてから、いや、生まれる前から、ずっと。

 

 故に、今も不機嫌であり、無表情に憮然としながら歩いた。

 

 片手に、杖を持っている。

 

 片手に、和傘を持っている。

 

 ぱらぱらと、小さな雨粒が傘をたたく、軽い音が響いた。

 

 それでも、老人の意識は、ただ前方に。

 

 しわがれた皮膚と、落ち窪んだ眼窩。

 

 その奥で炯々と輝く、人外の瞳。

 

 既に、雨は止みつつある。

 

 もう、この場に息のある人間がいないことは、確認済みだ。

 

 もっとも危険だったあの男、魔術師殺しのエミヤも、足早に戦場を立ち去った。

 

 大事そうに何かを抱えていたのが気にはなったが、それ自体は重要なことではない。

 

 今、老人にとって重要なこと。

 

 それは、欠片を手に入れることだ。

 

 聖杯の、欠片。

 

 黒い、泥。

 

 それを、何としても手に入れねばならぬ。

 

 あれは、聖杯の中に潜むものの体液に等しい。

 

 それを精製し、その中で培養した刻印蟲ならば、無条件にその存在とのパスを繋げるだろう。

 

 桜。

 

 あれは、素晴らしい母胎だ。

 

 如何なる責め苦にも崩壊しない、肉体と精神。

 

 出来損ないの後継者、その、更に出来損ないの息子にくれてやるなど勿体無い、そう思えてしまうほどに、逸材である。

 

 さぞ、呪われた生涯を送ることだろう。

 

 一生、日の目を見せてやらないのもいいかもしれない。

 

 蟲のように、じめじめとした暗い空間を、一生のた打ち回らせてやるのだ。

 

 退化した視界、無限の闇の中、四つん這いで這い回る胎盤というのも笑いを誘う。

 

 手足を蟲に食らわせ、文字通りの達磨のようにして、蟲倉に転がすのはどうか。

 

 さぞ、よい仔を為してくれるだろう。

 

 用済みとなれば、蟲の滋養としてやればよい。

 

 いや、仔に母を喰らわせるのはどうだろう。

 

 呪い仔に、更に呪いを孕ませる。

 

 その上で、呪われた女神を召喚すれば。

 

 或いは、悪神となった後の蛇女を召喚することも、出来るやも知れぬ。

 

 いやいや、それでは余りにも勿体無いか。

 

 では、こういうのはどうだ。

 

 あれには、文字通り仔を孕む機械となってもらう。

 

 魔術師の種、決して安いものではないが、好色な魔術師など掃いて捨てるほどいるのも事実。

 

 それに、代わる代わるあれを孕ませてもらえばいい。

 

 幼子であの美貌である。

 

 それが成長したならば、どれほどそれに磨きがかかるか。

 

 どのように扱っても構わない、そう申し渡しておけば、さぞいい種が釣れることだろう。

 

 そうして、大量の仔をなして。 

 

 蟲毒の壷に、放り込む。

 

 仔も、母も、我が後継者も。

 

 そうすれば、さぞ熟成された魔が生き残るだろう。

 

 それを、真の後継者と据える。

 

 それとも…。

 

 老人の妄想は、脹らむことはあれど萎むことはなかった。

 

 それが、彼の魔術師としての才を表していたのか。

 

 それが、彼の酷使された脳細胞の限界を示していたのか。 

 

 余人にも、彼自身にも、永遠に分かることはなかったのだが。

 

 そうして、老人は辿りつく。

 

 惨劇の震央、黒い太陽のあった場所、その真下に。

 

 彼は、初めて嗤った。

 

 聞く者の聴覚を犯す様な、底冷えのする笑みであった。

 

 彼が望んで止まないもの、それがあちらこちらにへばりついていた。

 

 へばりついて、淀みながら、それでも生きようと足掻いていた。

 

 考えようによっては、これらも被害者、なのだろうか。

 

 突然に眠りから覚まされ、望まぬ世界に招かれて、只管に災いを振り撒く。

 

 これが真実そういう存在だったとして、能力と指向性が一致するなど、誰が断言できよう。

 

 或いは、もっとも悲しんだのは、この泥の主かもしれない。

 

 しかし、老人にそんな妄想は、遠過ぎた。

 

 彼は、容器を開く。

 

 もちろん、只の器ではない。

 

 仮にも、『この世全ての悪』と名付けられた存在を封じる、器だ。

 

 幾重にも厳重な封印が施され、万が一にもその呪いが溢れださないように術式を組んでいる。

 

 その中にいるのは、一匹の淫蟲。

 

 桜の処女膜を削り取り、それを培養して生み出した、少女の一部といっても過言ではない、蟲だった。

 

 それが、瓶の片隅で、脅えたように動かない。

 

 その様子は、蟲の母胎である少女の苦悩を思い起こさせた。

 

 だが、いや、やはり、だろうか。

 

 老人は、極めて無感動だった。

 

 無感動に、泥を掬い。

 

 無感動に、それを瓶に詰め込んだ。

 

 流れ込む、呪いの塊。

 

 蟲は、一度だけ身動ぎして、やがて動かなくなった。

 

 それを、じっと見つめる老人。

 

 しばらくしてから満足の笑みを浮かべると、ゆっくりと踵を返そうとした。

 

 彼は、生粋以上の魔術師だ。

 

 必要なことは如何なる手段を用いても遂行する代わりに、不要なことに時間を裂くのを、極端に厭う。

 

 故に、早々にこの場を立ち去ろうとした。

 

 その時だ。

 

「うわあ!」

 

 素っ頓狂な声が、老人の耳を叩いた。

 

 彼は、舌打ちを隠そうとしなかった。

 

 またかと、内心を怒りで焼きながら。

 

 殺そうとすら、思った。

 

 もう、あれは、用済みだ。

 

 この上なく無能とはいえ、それでもマキリの血を受け継いだ男子を、為しているのだから。

 

 ―――不要なら、処分するか。

 

 そんな、冷たい思考が、老人の頭蓋に沸きあがる。

 

 今まで生かしておいてやったのは、殺す必要がなかったから。

 

 だが、もう、堪忍袋の紐も緩まり過ぎた。

 

 殺そう、そう老人は決意した。

 

 事実、次の一言が無ければ、彼はこの場で後継者を殺していただろう。

 

 その行為に、道義上の掣肘を感じるような性格ではないのだから。

 

 だが、次に老人が聞いた叫びが、その怒りを圧して余りあるほどの興味を呼び起こした。

 

「い、生きてる!こ、こいつ、この泥の中で、生きてやがる!」

 

 老人は、初めて駆けた。

 

 その痩身矮躯からは想像もできないような俊敏さで。

 

 そして、崩れ落ちた瓦礫の山、その頂に立ったとき。

 

 彼の眼下には、沼のように広がる泥の海と、その辺で腰を抜かす、後継者。

 

 そして。

 

 無限の悪意、その中で倒れ伏す、少年の姿を、見たのだ。

 

 

 数日が、たった。

 

 あれほどに降り続いた雨も、やがては収まった。

 

 人は、慣れる生き物だ。

 

 だから、あれほどの惨劇にも、慣れつつある。

 

 もう、日常を取り戻している。

 

 それは、強さなのだろう。

 

 老人は、相変わらず無表情だった。

 

 無表情で、少年の身体を調べた。

 

 あらゆる手段、あらゆる角度、あらゆる知識をもって。

 

 そうして、老人は、久方ぶりに、心から満足した笑みを浮かべた。

 

 それは、今まで彼が作り出した笑みのうちで、最も輝かしいものだっただろう。

 

 見るものが見れば、背骨に氷柱を突っ込まれたように総毛立つであろう、そういう笑みだった。

 

 広い、和室。

 

 広さは、十五畳ほどだろうか。

 

 呆れるほど、そういう訳ではないが、この国の常識的な間取りからすれば、かなり広いといえる。

 

 その中央に、ぽつんと鎮座する。

 

 そうして、思考するのだ。

 

 ―――さて、どうすべきか。

 ―――あれの特異性は、十分に把握した。

 ―――まさか、あのような起源があるとはな。

 ―――『白』。

 ―――他の何物よりも、他の何物かに染まりやすい。

 ―――自我を持たぬ、もしくは極めて薄い。

 ―――其れゆえに、何者になることも出来る

 ―――調教しだいで、如何様にでも化けうる、逸材。

 ―――おそらく、あの泥を浴びて死を免れているのは、その性質の恩恵。

 ―――むしろ、積極的に一体化しているとさえ言える。

 ―――完全に、あの泥を、従えているのだ。

 ―――惜しむらくは、あれが男だということだ。

 ―――もし、女であれば、桜を遥かに凌ぐ、最高の胎盤となっただろうに。

 

 老人は、臍を噛んだ。

 

 そうして、呆れた。

 

 己は、何を考えていたのか。

 

 ――そんなもの、どうにでも、なるではないか。

 

 確かに、あれは逸材だ。

 

 あれをマスターとして聖杯戦争を戦えば、勝利は自ずと飛び込んでくるだろう。

 

 何故なら、あれは聖杯と、完全にリンクしている。

 

 それも、例えば桜に施そうとしていたような、不自然な繋がりではない。

 

 もっと、自然に。

 

 例えるなら、母と子のように。

 

 ならば、当然聖杯の加護は、この少年に宿ることだろう。

 

 いや、少年という呼称は、もはや正しくない。

 

 今から、これに与えられる呼称は、違うものに変貌する。

 

 少女。

 

 あれは、今から、女としての一生を歩むのだ。

 

 あれは、今から、マキリの胎盤として生きるのだ。

 

 不可能か?

 

 可能だろう。

 

 マキリの業は、その遺伝的な資質の変成までも可能とする。

 

 ならば、たかが性別を弄くる程度、如何程のことも無い。

 

 男性器を切り取り、女性器を掘り、その奥に子宮をでっち上げればいいだけのこと。

 

 もちろん、それだけで済むはずがない。

 

 男性と女性とでは、脳の作りからしてして違っているのだ。

 

 その全てを在るべき形に作り変えようとすれば、相応の苦労と、想像を絶するような苦痛があるだろう。

 

 しかし、そんなことは、老人には関係ない。

 

 苦痛を被るのは、あくまでこの少年だ。

 

 そして、老人に救いを齎すのは、少年だった少女。

 

 上手く、行くだろう。

 

 老人には、確信があった。

 

 そもそも、少年に与えられた起源を考えれば、失敗するはずが無い。

 

 白ならば、その上に如何なる絵図面を描いたところで、それに歯向かうことなど出来ないのだから。

 

 桜は確かに逸材であるが、胎盤とするには小さからぬ危険を冒さねばならない。

 

 その点、この少年を胎盤とするには、毛の先程の危険も無い。

 

 そう考えて、老人は再び微笑んだ。

 

 その時、襖の向こうから、僅かに震えを帯びた声が、聞こえた。

 

「失礼します、お爺様」

 

 

 少年は、目覚めた。

 暗い、部屋だった。

 目の前に、見知らぬ老人がいて、少し驚いた。

 

「ようやく目覚めたか」

 

 老人の声が、遠かった。

 少年は、軽く目を瞬かせた。

 その瞳の不審を悟った老人は、鷹揚に微笑った。

 少年は、その小さな背中に、ひんやりと堅い、石の感触を覚えた。

 

「儂はこれからお主の親となるものよ」

 

 少年は、不満そうに首を傾げた。

 何か、言いたいことがあるのは、明白だった。

 それでも、彼の焼きついた声帯は、如何なる音も発してくれなかったのだが。

 老人は、彼の言いたいことを察したのか、そのまま会話を続ける。

 

「ふむ、ではお主は父と母の顔を思い出せるのか」

 

 少年はしばらく、逡巡して。

 泣きそうな瞳で、老人を見つめた。

 それは、正しく迷い子の瞳だった。

 老人は、如何にも満足気に頷く。

 

「判ったか。お主は今、この世に生を受けた。ゆえに、儂がお主の親となる」

 

 少年は、初めて微笑った。

 義父を、得る。

 それは、彼の人生にとって、逃れられない事実だった。

 だから、彼はそれをすんなりと受け入れた。

 

「では、まずお主に名を与えよう」

 

 そして、老人は、呪いを紡いだ。

 それは、彼の望みの体現。

 脆弱な蛹より羽化し、永遠の命を得るための寄り代。

 故に、代羽。

 それが、彼が我が子と呼んだ子供に与えた、最初の玩具だったのだ。

 

「お主の名は代羽。お主はこれより間桐 代羽として生きる」

 

 少年は、満足げに、微笑った。

 よほど、馴染みの深い、名前だったのだろう。

 どこか、彼と近しい人間に、同じ名前を持った者が、いたのかもしれなかった。

 

 

 少年は、目覚めた。

 暗い、部屋だった。

 彼は、自らの股間に、手をやった。

 そこには、何も、無かった。

 知っていたことだ。

 最初に、あの池の中に、放り投げられたとき。

 彼の股間にあった幼い男性器は、得体の知れない蟲に喰いちぎられた。

 視界が白く焼け付くような、激痛。

 そして、それは、それだけで終ってくれなかった。

 傷口から、強引に蟲が入ってくる。

 何も無い肉の壁を、蟲が割り入ってくる。

 その時の、ぶちぶちという形容し難い音を、彼はまだ覚えていた。

 そうして、約一ヶ月。

 蟲と外科手術による、外側からの改変。

 魔術と投薬による、内側からの改変。

 もう、彼には時間の感覚が、どんどんと薄れてきているのだけれど。

 それでも、約一ヶ月。

 少年の股間には、秘めやかな縦筋があった。

 それは、見間違うことなき、少女の女性器だった。

 彼は、それを愛おしげに、眺めた。

 彼は、彼が彼以外の何かになっていくのが、楽しかったのかもしれない。

 自分という存在がいたことが、何よりも許せなかったのかもしれない。

 それが、救いだったのかもしれない。

 今日、少年は、初めて淫蟲による調教を受けた。

 彼の女性器は、初めて男性を受け入れたのだ。

 それを思って、彼は微笑った。

 その笑みには、神による確かな救いを感じた、信者の狂信が存在した。

 少年は、自らの女性器から漏れ出した、蟲の体液と破瓜の血が混じった液体を、指で掬って。

 それを、嬉しそうに、しゃぶりあげた。

 彼が、彼女になった瞬間だった。

 

 

 少女は、目覚めた。

 暗い、部屋だった。

 冷たく、湿ったコンクリートの上に、直接寝ていた。

 体が、その過酷な環境に抗議して、ばきばきと不快な音を立てた。

 それでも、彼女は身体を起こした。

 ねちゃりと、粘着質な音が、股間から響いた。

 胎内で何かが蠢いている感覚に、少女は眉を顰めた。

 彼女は、自らの性器に、腕を突っ込んで。

 その中を、丁寧に弄って。

 指先で、淫蟲の鞭毛を掴んで、それを引きずり出した。

 もう、慣れたことだった。

 少女は、自らの腕を枕にして、再び眠った。

 もう、悪夢は見たくない、それだけが望みだった。

 

 

 少女は、目覚めた。

 暗い、部屋だった。

 それでも、いつものコンクリートの上では、なかった。

 柔らかな、ベッドの上。

 そうして、背中に体温を感じた。

 首を廻らす。

 そこには、巌のように巨大な、鍛え抜かれた男の背中が、あった。

 それで、ようやく思い出した。

 少女は、神父に抱かれたのだ。

 全てを、打ち明けた。

 自分が、罪人であること。

 いつも、得体の知れない蟲に、犯され続けていること。

 そして、もとは男であった、こと。

 全てを、嘘偽り無く、告げて。

 その上で、抱いて欲しいと望んだ。

 きっと、断られると、思った。

 正常な人間なら、そうするだろう。

 だから、少女の視線は、常に俯いていたのに。

 神父は、さも嬉しげに、彼女の頤に手を添えて。

 膝を、そして背中を折り曲げながら、少女の唇を貪ったのだ。

 その姿勢のまま、彼は彼女を抱え上げて、己の寝室まで連れて行った。

 まるで、強姦されるような、激しい逢瀬だった。

 神父は、彼女の幼い性器を、何の躊躇いも無く全力で貫いた。

 少女は、神父の杭が身体に打ち込まれるたびに、無上の快楽に酔いしれた。

 浅く、狭い、少女の膣。

 神父の長大な男性は、到底そこに納まるようなものでは、なかった。

 だから、少女はその女性器の全て、子宮も含めた全てで、神父を愛したのだ。

 蕩けるような、性交だった。

 神父にとっても、少女にとっても、それは初めての体験だった。

 二匹の蛞蝓が、一匹に合一するかのような、交わり。

 それを望んだのは、壊れた神父であり、誰よりも少女だった。

 だから、彼女は、完全に満たされていた。 

 神父の背中を見たときの彼女は、確かに幸福だったのだ。

 そのとき、ぬるりとした感触が、彼女の太腿を伝った。 

 それを、指で、丁寧に掬い取る。

 神父の精液と、彼女の、果たして幾度目かも知れない破瓜の血が混じった、桃色の液体。

 彼女は、嬉しそうにそれを見つめて、さも美味しそうにそれを飲み下した。

 初めての人喰いの味は、青臭くて、鉄臭くて、少し苦かったのだ。

 

 

 少女は、目覚めた。

 明るい、部屋だった。

 白昼夢を、見ていたのかもしれなかった。

 ぼうと、呆けた表情。

 それを、義兄が、訝しそうに覗き込む。

 

「ほら、ちゃんと挨拶しろよ。僕に恥を掻かせるな」

 

 兄の、声が、遠かった。

 日本に帰ってきて、それまでよりも更に疎遠となってしまった、兄の声。

 そんなもの、どうでもよかった。

 少女の前に、もう一人、男性が立っていた。

 

 赤い、髪の毛。

 少女も、昔はそうだったのだ。

 今は、赤に、マキリの青が混じった、赤紫みたいな黒だけど。

 

 錆び色の、瞳。

 少女も、昔はそうだったのだ。

 今は、この世全ての悪を孕んだ、黒い瞳だけど。

 

 そして、彼は、少年だった。

 少女も、昔はそうだったのだ。

 今は、蟲だって避けて通るような、爛れた女の肉だけど。

 そもそも、人の肉なんて、一片も残っていないけど。

 

 それでも。

 それでも、少女は、嬉しかった。

 自分がどんなに変わっても。

 彼は、ちっとも変わっていない。

 そして、生きていてくれた。

 その、事実が。

 涙を流すことを忘れるほどに、嬉しかったのだ。

 

「はじめまして、間桐 代羽 です。衛宮先輩ですね、お話はかねがね兄から伺っております。お会いできて光栄ですわ」

 

 少女の形をした蟲は、その顔に笑みと呼べる表情を刻んだ。

 目の前には、双子の弟の、照れたような笑み。

 それは、弟だったものが、兄だった少女を覚えていなかったと、それとも気付かなかったと、その残酷な事実を指し示していた。

 それでも、やはり少女は、嬉しかった。

 この世に神はいるのかもしれないと、恥知らずにもそう思った程に。

 

「ああ、これからもよろしく。ええっと、シロオちゃん」

 

 少女は、今度こそ本当に、微笑んだ。



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episode84 Between the hammer and the anvil 6 再会

 少女は、無言で立ち尽くしていた。

 水溜りの中、無言で立ち尽くしていた。

 澄み切った夜空の下、まるで彫像のように、無言で、立ち尽くしていたのだ。

 彼女の足元には、物言わぬ躯となった、彼女の弟が、いた。

 双子の、弟。

 血を分けた、程度ではない。

 半身、だった。

 彼女そのもの、いや、彼女自身よりも遥かに大切な存在だった。

 一度、彼女自身の罪によって失い、そうして再び出会えた存在であった。

 きっと、大切な宝物、だったのだ。

 

 だから、殺した。

 

 殺すしかなかったとは、言わない。

 それ以外にも、彼を助ける数多の方法が存在したはずだ。

 それでも、彼女は、彼を殺すことを選んだ。

 理由は、簡単だ。

 それが、最も簡単で、最も確実だったから。

 彼女は、気付いていた。

 もうそろそろ、彼女は役割を終えつつあることを。

 じきに、彼女は、この世から姿を消すだろう。

 そうすれば、彼を止めるものは、いなくなる。

 彼を守るものは、数多い。彼を慕うもの、愛するものも、両手の指では数え切れないほどに。

 少女は、そのことを誰よりも知っていた。

 それでも、彼を殺しうる人間がいないことも、知っていた。

 だから、殺したのだ。

 彼を、弓兵にしないために。

 果たして、少年はそれを喜ぶだろうか。

 余計なことをするなと、口汚く罵るだろうか。

 少女は、その様を思い浮かべて、苦笑した。

 要するに、彼女は自分がしたいようにしただけの話。

 誰を恨むわけでも、誰に許しを請うわけでも、ない。

 ただ、罪であることは、知っていた。

 そして、罰を受ける覚悟は、あった。

 それだけの、ことだ。

 やがて、少女は振り返る。

 彼が最後に投擲した、短剣。

 それを、受け止めるために。

 彼は、これで少女を殺そうとしたのだろうか。

 それとも、違う意図があったのか。

 それは、不明だ。

 でも、仮にそうだとしたら、それは強さだろうか。

 彼は、自分なりの強さを作り上げようとしていたのか。

 それとも―――。

 

 少女が、無為な思考を展開している間に、然り、短剣は弧を描きながら、持ち主の元に戻ってきた。

 

 夫婦剣、干将・莫耶。

 

 少女は、その性質を知り尽くしていた。

 ある意味においては、少年以上に知っていたといってもいい。

 だから、悠々と剣を叩き落そうと、そう思っていたのだ。

 彼女は、懐から新たな短剣を取り出す。

 甲虫の外骨格から削りだした、宝具にも届くような、二振りの短剣。

 少女はゆるりとそれを持ち上げ、構えようとした。

 そのときだ。

 

 死体が、呟いた。

 

 口を、泥水に浸しながら、泡立つような声で。

 

 壊れた幻想、と。

 

episode84 Between the hammer and the anvil 6 再会

 

 破裂。

 剣。

 赤い、炎。

 爆風。

 目が。

 耳が。

 痛い。

 何だ、これは。

 知っている。

 壊れた幻想。

 ブロークンファンタズム。

 英霊エミヤ、その武装。

 宝具を、爆弾に。

 何故。

 伏兵?

 在り得ない。

 在り得ない。

 ならば。

 在り得ること。

 在り得ること。

 それは。

 それは。

 それは。

 

 衛宮、士郎。

 

 死んで、いなかった!

 振り返る。

 遅れた。

 見下す。

 そこには。

 もう、誰も。

 当然だ。

 なら、どこに?

 いや、そもそも。

 何で?

 心臓に、銃弾。

 防弾処理?

 在り得ない。

 それに、最後の一発は。

 特性の、銀弾。

 死ぬ。

 死なざるを得ない。

 なら?

 いや、捨て置け。

 この思考は、余分だ。

 今は、目標の補足を。

 耳が。

 目が。

 馬鹿だ。

 どこに。

 …。

 いた。

 立っている。

 ぼう、と。

 炎の、下。

 はっきりと、青白い、顔。

 まるで、置物みたいだ。

 人形みたいだ。

 駄目だ。

 止めて。

 そんなの、気持ち悪い。

 貴方は、そんなの、駄目。

 許せない。

 銃を。

 マガジンの交換。

 完了。

 構えて。

 引き金を。

 

 パン。

 

 乾いた音。

 

 キン。

 

 乾いた音。

 弾かれた。

 剣が。

 射線上に。

 

「駄目だよ、代羽。そんなもの、もう、効かない…」

 

 やはりか。

 鷹の目。

 高度な、空間把握。

 銃口の位置。

 弾丸の射出角度。

 それが分かれば。

 不意打ち以外。

 通じない。

 もはや、用を為さない。

 放り捨てる。

 構える。

 双剣。

 切りかかる。

 

「はあっ!」

「ふん!」

 

 焼き直し。

 最初の。

 それでも、駄目だ。 

 押される。

 精神的に、負けている。

 何故?

 何故、死ななかった?

 斬る。

 斬り合う。

 赤い、光。

 木々が、燃えている。

 爆発の余波か。

 明るい。

 初めて、今日、明るい。

 その中で、斬り合う。

 弾き合う、刃。

 その一部が、細やかな傷を。

 彼の、顔。

 赤い、線。

 垂れる、血。

 それが。

 瞬時に。

 

「そうか、アヴァロン…!」

 

 しまった。

 あの時、セイバーに返したものと。

 返して、いなかったのか?

 いや

 違う。

 返したのだ。

 至高の宝具は、悠久の時を経て、担い手のもとに帰った。

 それは、ヨハネが確認している。

 ならば?

 決まっている。

 一つしか、ありえない。

 再び離れたのだ。

 鞘は。

 騎士王の、手元から。

 つまり。

 返して、再び貸与された。

 騎士王の、最も崇高な宝具。

 それを、与えられた。

 騎士として、認められたのだ。

 彼が。

 私の、弟が。

 あの、この世で最も誇り高い、王に。

 騎士であれと。

 騎士であって、よいと。

 そんなの。

 そんなの。

 そんなもの。

 糞喰らえだ!

 

「もう一度聞くぞ、代羽!」

 

 降りかかる、刃。

 悪夢のような、刃。

 あの、呪われた男と、同じ。

 私の中にいる、あの男と同じ。

 一部の隙も無い。

 自在に操られる、双剣。

 堅い。

 強い。

 私の模造刀では、防ぎきれない。

 いや、違う。

 それも、ある。

 しかし、もっと根本。

 私は、及んでいない。

 この少年に。

 彼に宿った、何かに。

 さもありなん。

 私は、私の中に、弓兵を宿した。

 故に、弓兵の技を持つ。

 彼は、弓兵によって覚醒させられた。

 故に、弓兵の技を持つ。

 そこは、同格。

 しかし、技が一緒でも。

 その技は。

 その技は。

 衛宮士郎に、最適化。

 マキリ代羽は、所詮。

 ならば。

 

「お前の望みは、何だ!」

 

 勝てない。

 勝てない?

 負ける?

 私が?

 私が?

 誰に?

 彼に?

 弟に?

 弟に?

 なら。

 ならば。

 私が、負けたならば。

 どうなる。

 彼は、どうなる。

 私に勝った、彼はどうなる。

 知っている。

 決まっている、

 止まらない。

 止まらない。

 このまま、走り続ける。

 このまま、前に進み続ける。

 終着駅は?

 その旅路の、目的地は?

 どこだ?

 どこにある?

 知っている。

 誰よりも、知っている。

 見たのだ。

 見たのだから。

 赤い、大地。

 罅割れた、大地。

 乾いた、風。

 無慈悲に吹き荒ぶ、風。

 流れる、雲。

 無彩色の、空。

 誰もいない、世界。

 完成された、世界。

 呪われた、世界。

 その中に、一人きり。

 一人きり。

 一人きり。

 一人ぼっち。

 誰もいない。

 誰もいない。

 誰もいない。

 声が聞こえない。

 目が、見えない。

 呼吸が、苦しい。

 喘ぐ。

 ぜえぜえ。

 それでも。

 誰よりも、救いがたかったのは。

 何よりも、哀れを誘ったのは。

 彼にとって。

 赤い、弓兵にとって。

 その、世界が。

 既に終わりを迎えた、世界が。

 何よりも、他のどこよりも、どんな理想郷なんかよりも。

 ただただ、安楽だったのだ。

 

「聖杯に、何を望むんだ、代羽!」

「黙れ、愚弟!」

 

 させない。

 絶対に、させない。

 私が、生きている限り。

 私が、貴方のそばにいる限り。

 私の、全存在を賭けて。

 私の、全知全能をかけて。

 貴方を、あんな世界に、連れて行かせない!

 

 

 めらめらと、燃えていた。

 雨に濡れた巨木が、燃えていた。

 宝具の、爆発。

 その火が、燃え移ったのだ。

 本来、在りうる話ではない。

 水分を大量に含んだ木が、天に昇るように燃え盛るなど、在り得ない。

 だが、それを見ている一人の少女は、当然だと思った。

 こんな崇高な戦いが、ただ闇の中で行われるなんて、あっていい話ではないと、そう思った。

 二人。

 少年と、少女。

 赤い照明のもと、剣舞に興じる、二人。

 二人とも、その手に双剣を持っている。

 それで、斬り合う。

 命を奪い合う。

 しかし、その戦いを見つめる少女は、そうは思わなかった。 

 二人とも、戦っているのではないと、いつしかそう思っていた。

 二人は、遊んでいた。

 例えば、道端に落ちている枯れ木の枝を聖剣に見立てて、ちゃんばらに興じる子供のように。

 例えば、陽が隠れるまでキャッチボールを止めない、意地っ張りな子供のように。

 二人は、遊んでいた。

 今まで、望んでも得られなかったものを、取り戻すかのように。

 今まで、決して還らないと思っていたものを、抱きかかえるかのように。

 二人は、遊んでいたのだ。

 少女は、羨ましいと。

 そう、思った。

 

 

「答えろ、代羽!お前は、聖杯に何を望む!」

 

 少年の刃が、奔る。

 

「くどい!」

 

 少女の刃が、遮る。

 

「人に言えないような、くだらない願いか!」

 

 少年の刃が、奔る。

 

「ええ、その通りです!」

 

 少女の刃が、遮る。

 

「俺でもか!」

 

 少年が、前に出る。

 

「…何と?」

 

 少女が、後退する。

 

「俺にも、言えないのか!」

 

 少年が、前に出る。

 

「…!」

 

 少女が、後退する。

 

「俺に、その資格は、ないのか!」

 

 少年が、追い詰める。

 

「それは…!」

 

 少女が、追いつめられる。

 

「また、俺は、お前を助けることが出来ないのか!」

 

 少年が、追い詰める。

 

「違う!見捨てたのは、私だ!」

 

 少女が、追いつめられる。

 

「何故、助けさせて、くれない!?」

 

 少年が、追い詰める。

 

「…違う、私は、違う!」

 

 少年が、追い詰める。

 

「何故、俺に償わせてくれない!」

 

 少年が、追い詰める。

 

「私は、私は、違う…!」

 

 少年の言葉が、追い詰める。

 

「俺は、あの日、貴方を見捨てたのに!」

 

 少年の視線が、追い詰める。

 

「違う…違うのです…」

 

 少年の想いが、追い詰める。

 

「罪は、償えないのが、苦しいんだ!何で、分かってくれないんだ!」

 

 少年の優しさが、追い詰める。

 

「許して…私は、私に、そんな資格は…」

 

 少年の存在そのものが、少女を、追い詰める。

 

「なら、答えろ、代羽!お前は、何を求める!奇跡に、何を求める!」

「見たかった!!!」

 

 少女は、激した。

 その様は、少年が初めて見る、少女の生々しい感情だった。

 少年は、気付きえただろうか。

 これが、少女が初めて見せる、少女の素顔だったことに。

 

「私は、見たかった!それだけだ!」

「何を!」

 

 少女が、前に出た。

 

「世界を、見たかった!」

「世界なら、いつもある!」

 

 それは、只の意地だった。

 

「私は、私のいない世界を、見たかった!」

「…!」

 

 それは、戦意では、無かった。

 

「私は、私のいない世界が、どれほど完成されているか、知りたかった!」

「…そんなもの確かめて、何になる!」

 

 それは、殺意でもなかった。

 

「私は、私のいない世界が、どれ程美しく、どれ程調和に富み、どれ程笑顔に溢れているか、それを確認したかった!」

「だから!それを確認して、何になる!」

「安心できる!」

 

 それは、本当に、只の意地だった。

 

「私は、私がいなければ、私さえいなければこの世界は完成される、そう思ってきた!」

「そんなの、誇大妄想だ!」

 

 何の価値ないガラス玉を必死に磨く、子供と一緒だった。

 

「知っている!それでも、私は、私がこの世界を捻じ曲げていると、そう確信して生きてきた!」

「違う!それは、貴方じゃあない!この世界を狂わしているなら、それは、それは…!」

 

 大切な宝物を母親に捨てられて、涙を堪えた必死な瞳で睨みつける、子供と一緒だった。

 

「それは、罪だ!調和を乱すならば、それは罪だ!」

「違う!絶対に、それだけは、認められない!」

 

 口喧嘩に負けそうな子供が流す、悔し涙と一緒だった。

 

「私のいない世界を見れば、私の罪の程度が、分かる!」

「誰も、救われない!」

 

 だから、それは、兄だったものとしての、意地だった。

 

「知っている!それでも、俺は、そうするしか、無かった!」

「違う!他に、方法なんて、いくらでもあった!」

「それでも、それが一番楽だったんだ!」

 

 絶対に、弟には負けられない、そういう意地、だったのだ。

 

「罪の程度が分かれば、罰の程度も明らかだ!そうして、初めて俺は、安心して眠れる!悪夢に魘されずに、済む!」

「違う!そんなもので、悪夢は、晴れてくれない!」

 

 だから、少女は、引かない。引けない。

 

「知った風な口を!」

「俺も、そうだったから!」

 

 それが、彼だった彼女の、最後の矜持だった。

 

「何を…!?」

「俺も、何度も魘された!その度に、跳ね起きた!」

 

 それすらも、もう、用を為さなかった。

 

「悪夢に魘されて、涙を流しながら跳ね起きて、便所に駆け込んで、嘔吐した!」

「…それは!」

 

 少年は、既に、少女の知る少年では、無かった。

 

「罪は、知るものじゃあない!消すものじゃあない!償うものだ!代羽、お前が、自分を罪深いと思うなら!お前は、お前自身を許す道を、探すべきだった!」

「…そうして、お前は、あの弓兵になるんだ!お前もきっと、俺と同じように、自分殺しなんて救いの無い救いを求めるようになるんだ!」

「俺は、求めない!」

 

 そこには、少女の知らない、少年が、いた。

 

「俺は、後悔しない!何があってもだ!どんな世界が、そこに在っても、絶対に、後悔しない!」

 

 少年は、強くなっていた。

 

「…お前が…だから!」

 

 それは、少女にとって、歓喜であると、同時に。

 

「だからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからだからあああぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 この上ない、罰であった。

 

「お前が、そんなだから、俺はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 少女の、乾坤一擲の、一撃。

 渾身の力の上に、渾身を乗せた、一撃。

 少年は、それを、いとも容易く捌き。

 少女の、首筋に、短剣を、突きつけた。

 それが、この剣舞の、終わり、だったのだ。

 

 

 無言で代羽の喉元に刃を突きつける。

 まいったか、そうは聞かない。

 ただ、それ以上の意思を込めて、彼女の瞳を睨みつける。

 しばしの静寂。

 そして、がらん、という硬質で重量感のある音が響いてきた。

 足元に視線をやると、透明感のある、歪な短剣が二本、転がっていた。

 ああ、終わった。

 安堵感が身体を包む。

 剣に込めていた力が、僅かに緩む。

 

 その瞬間。

 

 大きな質量を持つ物体が、もの凄いスピードでぶつかってきた。

 

「えっ」

「これで二度目ですね、衛宮士郎…!」

 

 明らかな優越を含んだ声は、常の彼女の、それだった。

 周囲の風景が激しくぶれる。

 自分が倒れつつある、そう理解したのは地面が背中を叩いた後。

 一瞬だけ暗転した視界が捕らえたのは、いつもと変わらずにこやかに微笑む代羽の顔。

 先程の、必死の形相はどこにも見当たらない。

 幻だったのかと、場違いな感想を抱いた。

 

「謝罪しましょう、衛宮士郎。いつかあなたに言いましたね、『人がいいのはあなたの長所である』、と」

 

 どこか、ぼやけたような、声。

 それで、分かった。

 どうやら俺は、軽い脳震盪を起こしているようだ。

 上手に、体が動いてくれない。

 それでも、代羽は、動くのを止めない。

 いつの間にか。

 身体と意識のラインが繋がる、その前に。

 彼女の小さな両手が、俺の右腕を捕らえていた。

 俺の上に馬乗りになっていた彼女の身体が、俺の右腕と共に、横方向に倒れていく。

 それと同時に右腕の根元、脇の下に近い部分が、彼女の両足に挟まれる。

 

 あ、これはまずい。

 

 なんだかしらないが、これはまずいぞ。

 理屈ではない。

 本能からの警告だ。

 咄嗟に体をばたつかせる。

 しかし、彼女の身体と、それに掴まれた右腕はびくともしない。

 左腕は彼女の足の先で押さえられて、剣を振り回すことができない。

 そして、彼女の背中が地面に触れたと同時に、俺の右腕の肘関節は、まるで一本の棒切れのように伸ばされていた

 

「どうやら私は嘘吐きです」

 

 艶のある声で、彼女はそんなことを、言った。

 

「さて、衛宮士郎。まいりましたか?」

「なにを…」

 

 そこに一切の慈悲はなかった。

 いや、それこそが彼女なりの慈悲だったのかもしれない。

 ぶちぶち、と。

 右腕から、寒気のする音が、聞こえた。

 例えるならば、鶏の手羽先を、引きちぎったときに聞こえる音。

 それを何倍にも不吉にして、体内から響かせた、音だ。

 最初に感じたのは、痛みよりも寒気。

 次に感じたのが寒気を吹き飛ばすほどの激痛。

 

 右肘が、凄い角度で曲がっていた。

 

「いいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ!」

 

 痛い。

 全てを吹き飛ばすくらいに、痛い。

 痛みで体が再構築されたのではないか、そう思えるくらいに、痛い。

 情けない悲鳴が漏れる。

 刃で切られるのとも、拳で殴られるのとも、拳銃で撃たれるのとも、違う痛み。

 本来、人間の身体が有している防御機能、例えば頑丈な骨格、或いは弾力性にとんだ筋肉、そういったものが一切役に立たない痛み。

 関節が、あり得ない方向に捻じ曲げられる、その嫌悪感。

 それらが綯い交ぜになって、この悲鳴。 

 はは、情けないったら。

 

「ああ、言い忘れましたが」

 

 痛みに犯される意識の中で、彼女の声が朗々と響く。

 

「今からあなたが上げていい声は、降参の意思表示以外には苦痛の悲鳴だけです。それら以外は戦闘続行の意思表示と見做しますのでお忘れなく」

 

 いつの間にか代羽は俺の右足を捕らえていた。

 彼女は両足でそれを挟み込み、踵を肘の内側で固定している。

 

「まいりましたか?」

「強化、開…」

 

 何の躊躇もなく、彼女は一気に身体を捻った。

 ぶちっと。

 膝から、嫌な音が聞こえた。

 右肘の痛みを忘れさせる程の寒気を感じて。

 やはり、それを吹き飛ばす程の激痛が襲ってきた。

 どんどん捻られていく俺の右足。

 膝を支点にして、爪先が明後日の方向を指し示す。

 

「ああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」

「詠唱不要の、シングルアクションの魔術が使えないのが貴方の敗因です。これが遠坂先輩や桜相手ではこうはいかなかった」

 

 俺の悲鳴など聞こえていない素振りで、彼女は続ける。

 

「魔術行使には精神の集中がまず必要。これだけのダメージを負ってしまってはそれも難しいでしょう。降参しなさい」

 

 聞こえない。

 痛みで、耳が塞がっている。

 会話が、出来ない。

 脳の機能が、停止している。

 ただ、なんとなくわかった。

 彼女が倫敦で習得した技術というのは、銃の腕のことだけではない。

 

 こっちだ。

 

 どちらと問えば、この技術、体術の方が、彼女が苦痛の末に勝ち取ったものだ。

 なんと。

 なんとまぁ、貧弱な技術だろう。

 こんなもの、百人の魔術師がいたら、九十九人には通用しまい。

 炎、氷、雷、幻術。

 あらゆる魔術が天敵だ。

 しかし、一人には通用した。

 俺には、通用した。

 彼女がそのことを知っていたはずがない。

 知っていて身につけた技術ではないのだ。

 彼女には、これしかなかった。

 魔術の才を持たず、或いは奪われ。

 しかし、戦うために。

 おそらくは役に立たないであろう、敵に蹂躙されるだけであろう技術を、血を吐きながら習得したのだ。

 なんという無駄。

 なんという喜劇。

 何が、彼女をそうさせたのか。

 そんな、どうでもいいことを考えていたら、今度は左足が捕まった。

 代羽の右脇に抱えられた左足首。

 アキレス腱、その下に彼女の腕が差し込まれている。

 そして、彼女が身体を倒していくと同時に、焼けた火箸を突っ込まれたような痛みが脳髄を貫いた。

 

「まいりましたか?」

「ふ…ざけるな…」

 

 ぶつん、と。

 拍子も無く、俺の中で太い何かが千切れた。

 痛い。

 痛い。痛い。

 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

「あああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

「まいりましたか?」

「………」

 ぶちん。

 

 熱い。

 

「まいりましたか?」

「………」

 ばき。

 

 痛いのではなく、熱い。

 

「まいりましたか?」

「………」

 めじ。

 

 全身を、鉄板で炙られているかのよう。

 

「まいりましたか?」

「………」

 べき。

 

 ふと、あの日を思い出す。

 

「まいりましたか?」

「………」

 ぐち。

 

 熱いといえば、なによりも熱かったあの日。

 

「…まいりましたか?」

「………」

 ぼき。

 

 熱かった空気と、暖かかった掌の感触。

 

「…まいりましたか?」

「………」

 ぶち。

 

 俺の手を引いてくれた、誰かの手。

 

「…まいり…ましたか?」

「………」

 ごき。

 

 ああ、俺は、覚えている。

 

「…まいったと……いってください…」

「………」

 びき。

 

 この掌の感触を、覚えている。

 

 

 少年の体は、聖剣の鞘という奇跡によって治癒される。

 千切れた靭帯、あるいは折れた骨。

 それくらいならば、五分もあれば完治する。

 完治すれば、彼は立ち上がる。

 立ち上がり、戦い続ける。

 

 だから、少女は、折り続けなければならない。

 靭帯を切り、骨を折り、肉を捻じ切らねばならない。

 愛した者の体を、痛め続けなければならない。

 たった一言の約束を取り付ける、その時までは。

 

 そして、少年は地獄を味わい続けなければならない。

 靭帯を切られ、骨を折られ、肉を捻じ切られねばならない。

 だが、一番痛いのは、そのことではない。

 一番痛いのは、愛する者の体を痛め続ける、目の前の彼女が漏らす、無言の叫びだった。

 許してください、と。

 許してください、と。

 しかし、彼女は、絶対にその言葉を口にしない。

 だから、彼は、たった一言の約束を口にするわけにはいかなかった。

 

 だから、泣いていたのは、少女のほうだった。

 その少女は、泣いていた。

 瞳は乾き、嗚咽も漏らさなかったが。

 どうしようもないくらい、まるで闇夜に置き去りにされた幼子のように、泣いていた。

 そのことを、少年は、知っていた。

 命を脅かすもの以外の、ありとあらゆる関節を破壊され、比喩ではなく壊れた操り人形のようになった少年。

 それでも彼は、己が敗北してはいけないことを知っていた。

 仰向けに寝転がる少年

 彼の上で、無表情のまま泣きじゃくる少女。。

 少年は慈しむように少女を見上げ。

 少女は、己の罪を恥じるように少年を見下ろした。

 異様な光景だ。

 罪に頭を垂れ、勝ちを懇願する少女。

 痛みに立ちはだかり、敗北を拒絶する少年。

 二人の間に会話は無い。

 ただ、無言。

 無言のまま、見つめあう。

 少女は、痛みと共に、少年を見つめる。

 少年は、痛みに耐えながら、少女を見上げる。

 ただ、無言。

 互いの吐息すらが、静穏を乱す闖入者。

 そして、距離。

 一メートルにも満たない、僅かな距離。

 それだけの、距離。

 しかし、二人の間にあったのは、空間だけではない。

 時間が、あった。

 

 離れ離れに過ごした時間が、あった。

 

 互いを身近に感じて過ごした時間が、あった。

 

 互いのことを知らずに過ごした時間が、あった。

 

 互いのことを忘れて過ごした時間が、あった。

 

 互いのことを知って過ごした時間が、あった。

 

 己のことを告げずに過ごした時間が、あった。

 

 相手の痛みを想像することすら許されなかった時間が、あった。

 

 それを知って絶望し、己を、そして相手をすら憎んだ時間が、あった。

 

 そして、気の遠くなるほどの時間があって。

 

 

 彼らは今、再会した。

 

 

「なぜ…まいった、と…いってくれないのですか」

 

「だって、俺が負けたら、貴方が苦しむ」

 

「私が望むのです。あなたは自分のことだけを考えていればいい」

 

「嫌だ。俺は一度貴方に救われた。なら、今度は俺が貴方を救う番だ」

 

「あなたの言っている意味がわからない」

 

「思い出したんだ、何もかも」

 

「―――――」

 

「あの日、、あの赤い世界で、俺を背負ってくれた背中を。俺を掴んでくれた手を」

 

「ほんとに…ですか…」

 

「ああ、何もかも、思い出した」

 

「…そうですか。ならば、私を殺しなさい。あなたにはその資格がある」

 

「えっ?」

 

「私はあの日、あなたを見捨てました。あなたには私を憎む理由があり、その資格がある。罪には相応の罰が必要です。だから、私を殺しなさい」

 

「嫌だ」

 

「私はアーチャーを殺しました。

 私はバーサーカーを殺しました。

 私はキャスターを殺しました。

 私はあなた達を謀りました。

 裏切りは原始の罪です。死刑こそが、応報でしょう」

 

「そんなこと、知らない」

 

「罪は、無条件に許されることの方が苦しいのです。貴方も先程、そう言ったではありませんか。罰してください。何故、殺してくれないのですか」

 

「俺が、貴方を殺したくないから」

 

「あなたは、間抜けですか」

 

「何でもかまわない。俺は、貴方だけは、殺さない。絶対に、憎まない」

 

「残酷ですね」

 

「そうかもしれない。でも、」

 

 

 兄さん、貴方より、ましだ。

 

 

 ああ、と。

 深い、深い絶望の声を発した彼女は。

 穏やかに、とても穏やかに瞑目し。

 氷の彫像のように、動かなくなった。

 

 一体どれほどの時間が流れたのか。

 

 一瞬だった気もするし、酷く長い間このままだった気もする。

 背中から、雨に濡れた服を通して、体温が奪われていく。

 それが、少し億劫になってきた、頃合。

 上に圧し掛かっている、彼女の重さ。

 それが、思ったよりも心地よいなと、どうでもいい感動を覚えた、頃合。

 やがて、彼女は前に倒れる。

 ゆっくりと、眠るためにベッドに倒れこむように。

 俺は、彼女に捻じ曲げられた両の手で、彼女を抱き止める。

 痛みは既に感じない。

 ただ、目頭が熱かった。

 

「恥知らずですね、私は」

 

 ぼんやりと、しかしどこか投げ遣りな声。

 

「どうして」

「己が見捨てた人間に、抱き留められた。これ以上の無様、この世にあるでしょうか」

 

 その顔に浮かんだのは、いつもと変わらぬ微笑。

 だから、分かった。

 彼女は、いつも泣いていたんだと。

 この貌は、涙の替わりなのだと。

 

「俺は貴方に助けられた。この世の誰が否定しても、俺はそう確信している。貴方にそれを否定する権利なんて、無い」

 

 俺の言葉に、彼女は目をぱちくりとさせて。

 やがて、くすくすと、笑い始めた。

 

「そんなことに権利という言葉を持ち出しますか。今更そんなことを言われて、私に何をしろというのですか、貴方は」

 

 彼女の、黒曜石のように黒い瞳が、直ぐ傍にある。

 まるで口付けを交わす寸前の恋人のような距離。

 額と額がこつりと触れ合う。

 しかし、まるで羞恥は感じない。

 緊張すらも、感じない。

 心臓の拍動も平時のそれと同じリズム。

 ならば、感じているのは、母に抱かれたような安堵だけ。

 ああ、なるほど。

 俺には、恥ずかしがる理由なんて、無かったんだ。

 

「たまには、泣いたらいいと思う。兄さん、貴方は、強すぎたんだ」

 

 もう一度、彼女はぱちくりと、目を瞬かせて。

 兄さんは、今度こそ、本当に愉快そうに、笑った。

 

「私は、貴方の前では、涙を捨てました。貴方に涙は見せないと、誓いました。でも、今はそれが少し残念。ああ、泣けないということは、哭くことよりも、悲しいのですね」

 

 その言葉が、この意味の無い戦いの最後だった。

 でも。

 意味は無くても。

 ただ一片の救いは、あったような気がした。

 多分、気のせいじゃあないと思う。



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interval14 少女、二人。

「ねえ、遠坂先輩。一つ、賭けをしませんか」

「……どんな?」

 

 目の前の少女は、私が初めて見る悪戯げな表情で微笑った。

 儚いというよりも、やや自虐的な笑みだったのかもしれない。

 

「遠坂先輩が、士郎、衛宮先輩を真人間に戻せるかどうか、です」

「…なに、それ。からかってるの」

 

 壁に背を預けた少女が、笑う。

 へばりつくような、笑み。

 

「いえ、本気です。これ以上ないくらい本気。だって、あの子壊れてるでしょう。あの子、色んな修理は上手いけど、自分だけは直せないみたいだから、誰かが直してあげないとどんどん壊れていく」

「……」

「私はもう手遅れ。でも、彼はまだ間に合います。正義の味方なんて、呪いみたいな理想を受け継いでしまったけど、それでも彼はまだ手遅れじゃない。私はきっかけを作ることはできる。でもアフターケアはできないのです。だから、それをあなたに任せたい。だめでしょうか」

 

 そう語る彼女の瞳は、くだらない理屈を挟むことができないくらい真剣で。

 私に、ある種の決意を抱かせるに、十分過ぎるほどだった。

 

「…賭けに勝ったら、何をくれるの?」

 

 彼女は、やはり真剣な瞳で答えた。

 

「土下座して、『負けました、遠坂凛様、あなたには遠く及びません』って言ってあげます。なんなら靴を舐めてもいいですよ」

 

 なんだ、その魅力的な賞品は。

 

「賭けに負けたら?」

「貴方を殺します。私はこの世界から消えてなくなるけど、それでも絶対貴方を殺しにいきます」

 

 なんだ、その過酷な罰ゲームは。

 まったく釣り合いが取れていないじゃないか。 

 片や、ただの土下座で。

 片や、私の命か。

 まったく、私の命も安く見られたものだ。

 でも、彼女はやっぱり真剣で。

 だから、とても愉快だった。

 くすくす、と笑いが漏れる。

 それを見た彼女が、やはり吹き出す。

 

「あはは、なによそれ、私の命って!」

「ふふ、なにを言うのです、この私が土下座するのですよ、それくらいは対価にしてもらわないと困ります」

 

 二人で笑って。

 いいかげん腹筋も引き攣ってきたとき。

 私はこう言った。

 

「ええ、なかなか面白い賭けね。考えておくわ」

 

 彼女は優しい笑みを浮べてこう言った。

 

「はい、考えておいて下さい」

 

 そんな、子供みたいにくだらない会話。

 でも、どこか尊くて、冒し難い会話。

 その余韻を噛み締めていたとき、ふと、耐え難いほどの眠気が襲ってきた。

 瞼が、私の意志の届かないほど、重く鈍くなる。

 

「…薬の影響でしょう。抵抗しないで。ほんの少し、眠るだけだから…」

「…これ以上、食べないでよ、私の身体…」

 

 最後に、彼女が笑ったことを、覚えている。

 

「ふふ、私はね、貴方の髪の毛の一本だって、食べていませんよ…」

 

 その言葉の意味を理解する一歩手前で。

 私の意識は、深い深いところに、落ちていった。

 

interval14 少女、二人。

 

 そんな、じゃれあうような、時間。

 それを、思い出す。

 裸。

 一切、この身体を隠すものは、羽織っていない。自由になった手足で部屋の中を探索してみたが、それらしきものは見当たらなかった。

 自由になった、手足。

 薬による重たい痺れは、無い。

 じゃらりと冷たい鎖も、無い。

 いや、そもそも、と。

 握る。

 動かす。

 そこにあるはずのない、しかし確かに存在する、左手を。

 そこにあるはずのない、しかし確かに存在する、両足を。

 夢、まず最初にそう思った。

 そうではないと気づいたのが、数瞬後。

 まだ薄く霞がかった、ローギアの頭で考える。

 左手は、いい。

 魔力を通したときに、多少の違和感がある。おそらく、これは精巧な義手の類だろう。

 しかし、両足があるのは、どういうことだろうか。

 あの時、薄れ行く意識の中で、彼女が肉を咀嚼する音を、確かに聞いたのだ。

 一体、あれは―――。

 そんなことを考えながら、裸のまんまベッドに腰掛けて、何をするでもなくぼんやりとしていたら。

 

「おはようございます、遠坂先輩」

 

 ちらりと、目をやる。

 音も無く開かれた扉。

 そこから、少しひんやりとした空気が流れ込んでくる。

 部屋の中の薄い光に慣れた瞳には、彼女が背負った太陽の光が優しくない。

 手を庇にしながら、数回瞬く。

 そこには、一人分の衣服を抱えた、黒髪の少女が、いた。

 

「具合はどうですか?そろそろ薬も抜けた頃合だと思うのですが…」

「…おかげさまで。不躾で悪いんだけど、いくつか聞いていい?」

「ええ、どうぞ。ただ、その前にこちらの服を着てくれませんか?同性とはいえ、先輩のような人の裸は、目に毒ですから」

 

 彼女は、輝くような笑みを浮かべながら鷹揚に頷いた。

 

 ―――散々人の身体を舐め回しておいて、今更何を言ってんだか。

 

 そう言おうと思ったが、何故だか後ろ暗い気がして、止めた。

 のそのそと、彼女が持ってきた衣服に袖を通す。

 流石にサイズに合う下着は無かったのか、胸が少しきつい。

 それでも、ゆったりとしたトレーナーの上下を着ると、人心地がついた。

 

「…じゃあ、聞いていいかしら?」

「ええ、存分に」

 

 彼女、マキリ代羽は、その小さな体を、やはり小振りのソファに沈めながら、頷いた。

 失われたはずの左手が、少し痒いような気がした。

 

「この左手、何?それと、足は、どうなってるの?あなたが食べたんじゃあ…」

「…その左手は、ご要望のあった、精巧な義手です。まあ、マキリが用意したものですからね、素材についてはあたりがつくでしょう?」

「…蟲、ね?」

「正解です」

 

 私は、おそらく眉を顰めたのだろう。

 それは、生理的な嫌悪というよりも、ただの反射に近い感覚だ。おそらく、これが宝石で出来ていても、人の身体で出来ていても、私の細胞を培養して作ったものだったとしても、私は、きっと同じ表情を浮かべていたに、違いない。

 それでも、私は、後悔することになった。

 目の前の華奢な少女が、少しだけ、ほんの少しだけ辛そうな顔をしたから。

 

「…御免なさい。そういうつもりじゃあ…」

「知っています。貴方は、誰よりも誇り高く、優しい。だから、貴方に慰められることは、何より辛い。申し訳ありませんが、それだけは、分かってください」

 

 彼女は、それでも微笑っていた。

 いつもと全く同じように、微笑っていたのだ。

 それは、まるで仮面、だった。

 まるで仮面のように、陰気で、堅牢な、笑み、だった。

 

「…その腕の寿命は、半年ほど。それまでに、蟲を制御する術式を組み立ててください。でないと、魔力の枯渇した蟲達は、まず手近にある肉を食らい始めるでしょうから」

「…一週間で、組んであげるわよ、そんなもの」

「ああ、貴方はやはり天才だ。そんな貴方だからこそ、その腕を託したのですけれど…」

 

 その満足気な笑みを、なんと名付ければよいのだろか。

 一瞬だけ逡巡して、私は理解した。

 それは、誇りだった。

 間違いなく、誇りだった。

 それも、自己を誇る、優越に満ちたものではない。

 例えば家族や、仲間、或いは恋人を誇る、穢れの無いそれだった。

 

「あと、貴方の足は、間違いなく両方ともが貴方自身のものです。あの時に打った麻酔薬は、あくまで魔力枯渇用に埋め込んだ蟲を摘出するためのもの。いわば、虫下しでしたから」

「…でも、あのとき確かに…」

 

 くちゃくちゃと。

 肉を咀嚼する、湿った音が聞こえたではないか。

 あれは、幻聴だったのか?

 それとも…。

 そう、思索する私がおかしかったのか、やはり彼女は微笑っていた。

 最早、彼女とその表情は、不可分なものと思えるほどだった。

 

「言ったでしょう?私は、人の肉を喰らう死徒であると。ならば、食べますとも」

「…じゃあ、あの時食べてたのは…」

「ええ。単純に、貴方以外の、人だった物の肉、そういうことです。それ以上、説明がいりますか?」

 

 彼女は、事も無げに言った。

 もう、それ以上聞こうと思わなかった。

 私の代わりに食べられた、どこかの誰か。

 その人のおかげで、私の足は、今ここにある。

 そして、その人の、或いはその人だった物の一部は彼女の胃袋で消化された。

 それだけの話で、それ以上の話ではない。

 その肉の出自や由来を知ったところで、何一つ変わらない。

 もし、今から彼女が人を食べるというのであれば、きっと私は全力で阻止するだろう。

 それでも、既に終った事実に心を痛めるほど、私の性格は可愛げのあるものではないのだ。

 果たして、それは罪だろうか。

 罪だと。

 誰かが、そう言った気がした。

 

「本当に、貴方を食べようと思っていたのですよ?それほどに貴方は魅力的でしたから。でも、食べることができませんでした。食べることが、できなかったのです…」

 

 何故、と。

 そう問う勇気が、私には無かった。

 聞けば、きっと彼女は正直に答えてくれるから。

 きっと、その答えは、この世で一番残酷なものだから。

 

「…もう、ありませんか?」

「…あと、二つ。時間は大丈夫?」

「ええ。夕食まではまだ時間がある。ならば、少しくらいのおしゃべりも悪くはないでしょう」

 

 夕食。

 彼女の夕食には、一体何が並ぶのだろうか。

 その選択肢に自分の肉が在りうることも考えたが、不思議と怖くはなかった。

 だからだろうか。

 既に令呪の使用も可能なのに、セイバーを呼ばなかったのは。

 

「貴方、嘘を吐いたでしょう」

「はい」

 

 一拍の間もない、断言。

 少しだけ噴出しそうになる。

 

「…まさか、そんなに自信満々に言われるとは思ってなかったわ」

「私も、これでも一応は人間のつもりですから。知っていましたか?人はね、乳児の頃から嘘を覚えるのです。只管に、母親の愛を独り占めするために。ならば、私とて嘘の一つや二つ、吐きますよ」

 

 からからと、彼女は乾いた声で笑った。

 

「…そういう、一般的な話じゃあ、ないわ。私が眠る前に聞いた話。昔々の、御伽噺のことよ」

「…ほう。あのどこに嘘があったと?」

 

 彼女の眼光が、ふいに鋭さを増す。

 まるで、鷹のような眼光。

 どこかの誰かさんのようだと、意味のない感想を抱く。

 

「あのとき、貴方は言ったわね。『あねとおとうと』って。でも、それはきっと嘘。本当は、『あにとおとうと』なんでしょう?」

「…その根拠は?」

「二つ。まず、貴方と士郎の、魔術の共通項とその特異性。私は、曲がりなりにもあいつの師匠だからね、あいつと貴方の魔術が同じものだっていうのは理解しているつもりよ」

「私の魔術が投影だと?」

「というよりも、己の内面にある世界から持ち出した、現実を侵食する幻想。それが、貴方の魔術であり、士郎の魔術。その本質は、大禁呪、固有結界。多分、もう一人の貴方、ヨハネの使ってたアレも、固有結界なんでしょう?」

 

 あの夜、ヨハネは無数の蟲を使役した。

 見たこともない、幻想種の群れ。

 いずれも、醜悪で、それ以上に精強。

 しかし、その中に一匹だけ、絶対に存在するはずのない蟲がいたのだ。

 アポルリオン。

 ヨハネの黙示録に記された、滅びの蟲。

 それだけは、この世に存在するはずがない。それが存在するということは、黙示録が成就した、もしくはしつつあることを意味するからだ。

 黙示録の成就は、限られたごく一部の人間以外にとってはまさに滅びそのものである。

 有史以来、そういった預言の成就を思わせる出来事は、存在していないはずだ。もし存在したならば、既に神の奇跡が具現化したならば、教会の存在価値そのものが無くなるのだから。

 つまり、いまだかつてこの大地に存在したことの無い蟲。

 それは、異例だ。

 なぜなら、彼らの魔術には、まず対象を視認しその解析を行うことが最低限必要な条件のはず。

 ならば、ヨハネは今まで一度も見たことの無い対象を、どうして自在に使役することができるのか。

 それは、滅びの蟲の出自が、ヨハネという人格の内面世界だからに他ならない。

 

「ヨハネという名前だからそういう世界を内に宿したのか、それとも、そういう世界を内に宿していたからヨハネという名前が与えられたのか、それは分からないけど。とにかく、投影と見紛うような特異な魔術と、その本質としての固有結界。この二つだけで貴方達が容易ならざる関係であることは推認できる。例えば、一卵性の双生児のような、ね」

「それだけでは、二人が兄弟であることの証明にはならないでしょう。仮に二人が一卵性双生児だとしても、異性の一卵性双生児というものも存在するのですから」

「ターナー症候群、クラインフェルター症候群のことね」

「ご存知でしたか。なら結構。では、果たしてもう一つは?」

「ああ、それはね、とても単純なの。見たのよ、あの地下室で、臓硯の日記を」

 

 地下室。

 マキリの修練場。

 腐肉と生肉と、蟲の体液の臭いしかしない、閉ざされた空間。

 そこにあった、隠し部屋。

 その本棚を埋め尽くしていた研究日誌。

 あの時は、さらりと読み飛ばしてしまったが、今考えれば明白だ。

 

 まず、最初の記述。

 

『○年○月○日 桜を遠坂に返却する。素材をマキリの胎盤とするための調整を開始。淫蟲は使用できないため、他の蟲にて代用。経過は順調。』

 

 淫蟲は、使用できない。

 

 次に、この記述。

 

『○年○月○日 調整完了。これより淫蟲を用いた調教を開始する。経過は順調。』

 

 最初は、おやと思ったものだ。

 何故、最初から淫蟲を用いた調教をしなかったのかな、と。

 少なくとも、桜はマキリに連れ去られた初日に、淫蟲による凌辱を経験している。

 幼い子供であっても、その修練の苛烈さ、或いは陰湿さは減ずるところが無いのは明白だ。

 では、何故この子供にはそれが無かったのかと。

 少し、違和感を覚えた。

 しかし、そこにこういった仮説を持ち込んでみる。

 

 使わなかったのではなく、使えなかったのではないか。

 

 淫蟲。

 詳しい生態についてはまだ解明の余地が多過ぎるが、大雑把なそれは明白だ。

 人間の血液、精液、骨髄を好む魔物。

 男ならば、その脊髄と脳髄を喰らう。

 女ならば、その子宮に潜み、胎盤を喰らう。

 いずれにしてもおぞましい限りだが、そこには決定的な違いがある。

 淫蟲の好む箇所は、少なくとも男にとっては、まさに致死なのだ。

 故に、男子の後継者の育成に淫蟲が使われることはないはずである。少なくとも、女子に使われるのと同じ用途で用いられることはあるまい。

 では、この子は男子だったのだろうか。

 それは、おかしい。

 なぜなら、約一ヶ月の期間をおいてから、確かに淫蟲による調教が開始されているからだ。

 この矛盾に、どういった整合性を求めるか。

 最初はわからなかった、というよりも気にも留めていなかった。

 だが、こういうことではないだろうか。

 

 最初は使えなかった、しかし一ヵ月後には使えるようになっていた。

 

 つまり。

 

 その間に、入れ替わったのだ。

 

 子供の性別が、男から、女に。

 

 在り得ないこと、だろうか。

 否。

 在り得ないことでは、無い。

 マキリの業は、髪の毛や瞳の色といった、遺伝的な資質の汚染にまで及ぶ。

 ならば、その業をもって性別如き入れ替えることができないと、どうして言い切れるか。

 そもそも、性というのは魔術とは切っても切り離せない重要な要素の一つだ。

 ならば、その操作が秘術として存在しても、何の不思議も無い。

 約一ヶ月という短い期間での、性別の転換。

 そこに、どれほどの苦痛があったのか。

 身体の隅々までを破壊されて、再構築されるような地獄だったはずだ。

 それを、五歳か六歳の子供が、自我を崩壊させることも無く、耐え切った。

 いや、或いは、その自我はそこで破壊されたのだろうか。

 だから、彼はもう一つの人格を宿した。

 少女としての、人格。

 それが―――。

 

「もう、結構。正解です。貴方の仰るとおり、私は昔、男でした。もっとも、第二次性徴の前でしたから、今の自分に違和感を覚えることはありませんが、ね」

 

 あっさりとした。答え。

 それでも。

 なんだろう。

 なんだろう。

 おかしい。

 何かが、おかしい。

 何かが、狂っている。

 違和感。

 歯に物が挟まったような、掻痒感。

 半分めくれた瘡蓋のような、異物感。

 掛け違えた、ボタン。

 壊れたジッパ。

 私の、一番奥が、叫んでいる。

 どうでも、いいことのはずなのに。

 あの話の姉が、実は兄だったから、何が変わるというのか。

 どんな不都合が生じるというのか。

 生じない。

 姉が兄だったところで、一切の不都合は生じない。

 精々、御伽噺にちょっとしたスパイスが効いたくらいの話だ。

 大勢に影響は無い。

 ならば、どうして。

 私の、魔術師としての感覚が、こうも騒ぐのか。

 これは、尋常ならざる事態だと。

 この差異は、決定的だと。

 

「そして、私は、衛宮士郎の双子の兄。まさに、貴方の仰るとおりです。もう、ほとんどのことは忘れてしまいましたが、彼と遊んだ夏のことは、昨日のことのように思い出せますよ」

「…じゃあ、ひょっとして、自分の名前も、覚えてる?」

 

 その質問は、何気ないものだった。

 代羽という、呪われた名前を与えられて。

 それでも、自分の本当の名前くらい、覚えているなら。

 それはほんの少しでも救いではないかと、そう思ったのだけれども。

 

「…貴方が、お前が、それを、聞くのか…?」

 

 それは、怒りだった。

 初めて、剥き出しの、怒りだった。

 私は、恐怖した。

 だって、その声は、この上ないくらい、怒りに濡れていて。

 それ以上に、悲しみに彩られていたから。

 

「代羽…」

「…失礼。少し、取り乱しました」

 

 そこにいたのは、いつもの彼女だった。

 私が味わったのは、安堵だろうか、それとも失望だろうか。

 

「…最後に。貴方は、聖杯に何を望むの?」

「…私は、何も望みません。だって、私は聖杯なのです。景品自体が景品を欲しがるなんて、おかしな話でしょう?…でも、もし許されるなら、私は見てみたいと思います」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「私は、自分のいない世界を、見てみたい。私のいない世界で、彼がどのように暮らして、どのように成長して、どのように過ごすのか、それを見てみたいと。そう、思います」

「…何で、よ?」

「…私は、あの日、彼を見捨てて逃げ出しました。もし、私が最初から存在しなければ、彼はどうなっていたのか。救われていたのか、それとも、あの火事の中で焼け死んでいたのか、そもそもあの火事に出くわすことそのものが無かったのか…」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「もし、私がいなくても彼が同じ人生を歩んでいたら、私には何の罪も無いことになる。それは、安心でしょう?」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「もし、私がいることで彼が少しでも幸福な人生を歩んでいたら、私には何の罪も無いことになる。それは、安心でしょう?」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「もし、私がいることで彼の人生が不幸なものになっていたとしても、その程度が分かれば量刑は明らかだ。それは、安心でしょう?」

 

 それは、夢見るような、声だった。

 

「遠坂先輩。私はね、安心したいのです。一瞬でいい、一瞬でもいいんです。安心したい。それは、罪でしょうか…?」

 

 縋りつくような瞳。

 必死なほどに同意を求める、瞳。

 私は、醜悪だと思った。

 彼女は、只管に過去に囚われている。

 それを変えようとするわけでは、ない。

 過去の改変、それは後ろ向きな行為でありながら、それでも一部は未来へ希望を託す行為だ。

 だが、彼女のそれは。

 あらゆる感情のベクトルが、過去へ向いている。

 そこから派生する、未来への反射というものが、一切存在してない。

 まるで、漆黒の深淵を覗き込むような、行為だ。

 人は、どれほどの絶望を味わえば、このような願いを持つことが叶うのか。

 それが、私には分からなかった。

 故に、醜かった。

 醜悪だった。

 でも。

 その一言を言う、勇気、或いは優しさが。

 私には、致命的に、欠如していたのだ。

 

「…これで、全て、ですか?」

 

 大きく溜息を吐いた彼女。その表情には疲れの色彩が強い。

 

「…ええ。感謝します、マキリ代羽」

 

 その言葉に、彼女は再びいつもの表情を取り戻した。

 

「ふふ、乙女の破瓜の相手を、聞き出したのです。この程度の対価は、安過ぎるというものでしょうに」

 

 ふいに、顔が熱くなった。

 

「あ、あんた…!」

「夕食にしましょう。それとも、もう帰られますか?であれば、特に掣肘はしませんが」

 

 私は、とことん彼女に付き合う覚悟を、決めたのだ。



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interval15 IN THE ABOLISHED FACTORY 2

 あらためて見回せば、ぼろぼろの室内だった。

 家具、そう呼べるものは比較的に新しく小奇麗なものが多いが、それ以外、例えば部屋の内装などは、致命的なほどに私の美的感覚とかけ離れてしまっている。

 剥がれかけの壁紙、天井に見えるむき出しのパイプ管、罅の入った窓ガラス。

 暖房器具などは無く、指先がぴりぴりと悴む。

 実際、どこからか隙間風が入ってくるのだろう、部屋の温度は、外気の低下と共に急激に下がってきている。

 思わず肩を震わすような、室内。

 電気は通っていないのだろうか、ランタンの火だけが燈る、薄暗い室内。

 素のコンクリートの床、そこに敷かれた薄いマットの上に、私と彼女は直接に腰を落ち着けている。そして、分厚い毛布を、まるでお雛様のように、ぐるりと体に巻きつけているのだ。

 

「…ここ、どこ?」

「聞いたことがありませんか?町外れの廃工場に、幽霊が出るという噂…」

 

 ああ、そういえば。

 確か、あれは蒔寺だったか、それとも外見にそぐわず噂話の好きな氷室だったか。

 町の外れにある、見捨てられた廃工場。

 そこに一組の男女の幽霊が出て、それを見てしまったものは呪い殺されるという。

 これでもこの霊地の管理人だ。いずれは調査に行かなくてはと思いつつ、延び延びになって未だ足を伸ばしたことも無い。

 そこに、今、私はいる。

 奇縁、そういうことになるのかも知れない。

 

「で、いたの、幽霊?」

「はい、いました。もっとも、丁重にお引取り願いましたが」

 

 …嘘だ。

 もちろん、嘘なのは、後半の発言。

 幽霊は、いた。

 しかし、きっと丁重でも穏便でもない手管で、こいつは幽霊を追い払ったのだ。

 この顔にへばりついた、如何にも嬉しそうな、そしてこの上なく嗜虐的な笑みを見れば、幼児でも分かるだろう。

 

「噂どおり、幽霊は男女二人組みでした。最初は、ぼう、と、柳の下に構える幽霊のように、悲しげにこちらを見つめるだけだったのですけどね、私の腕の令呪を見つけるなり豹変しました。まるで、長年の仇敵を見つけたかのように」

「…それって…」

「ええ。もしかしたら、過去の聖杯戦争参加者の怨念、だったのかもしれません。だとしたら、余程に高名な魔術師だったのでしょう。液体、あれは水銀でしょうか、それを盾のように、あるいは刃のように扱う完成された魔術、あんなものは流石の私も見たことが無かった」

 

 腰掛けた二人の間には携帯式のバーナーが置かれ、その上には並々と水の張られた鍋が置かれている。

 当然、電気が通っていないのだから、水道だって止められている。

 部屋の片隅には、山と置かれたミネラルウォーターのペットボトル。

 なるほど、ここは彼女の隠れ家なのだ。

 

「…で、勝ったのね」

「私は一度細切れにされましたがね、アサシン、英霊を前にして魔術師の亡霊程度では荷が勝ちすぎる。速やかにご退場願いました」

 

interval15 IN THE ABOLISHED FACTORY 2

 

 バーナーで熱せられた冷たい水は、既にぐらぐらとゆだる熱湯になっている。

 沸き立つ白い湯気が、部屋を満たさんとするほどだ。

 唯一、それが暖房器具と言えないことも無い。

 彼女は、その中に食材と調味料を放り込む。

 干し肉、海産の乾物、ジャガイモ、にんじん、大根、そして米。

 ほとんどごった煮だ。

 私は賓客なのだから、ホストのお手前を、ただじっと眺めている。

 やがて浮いてきた灰汁を丁寧に掬い取りながら、彼女は言った。

 

「…しかし、調教部屋に、隠し扉があったのですね。私は長い間あそこで暮らしていましたが、そんなものにはつと気付けなかった。情けないことです」

「慣れ親しんでるからこそ気付けないこともあるでしょうし、あれは余程精緻に隠されていたから。別に、気にすることも無いんじゃない?」

 

 鼻の奥を強烈に刺激する、いい香り。

 増進された食欲が、ほとんど無条件に、お腹のベルをかき鳴らす。

 ぐう、と。

 小気味いい音が、室内を満たした。

 

「…」

「…」

「………く…」

「…笑えばいいでしょう…!」

「…では、お言葉に甘え…、ぷっ、くく、あっはっはっはっはっはっは!」

 

 彼女は、右手で顔を握り潰すようにしながら、大いに笑った。

 翻って、私は不機嫌だ。

 だって、仕方ないじゃあないか。

 昨日の夕飯以来、水以外の食べ物を目にするのは、初めてなのだ。

 それが、こうもいい香りを醸し出していては、腹の虫の一匹も鳴らない方がおかしい。

 だいたい、私を空腹の状態で放置し続けた張本人が笑うのは、流石に筋違いだと思う。

 

「…そんなに、面白い?」

「だって、あの、あの、遠坂先輩が、遠坂先輩が、あの、遠坂のお腹が、ぐうって…そんなの、初めて聞いたよ!」

 

 肩が、痙攣するようにひくひくと動いている。

 まったく、ゲンが悪い。

 …しかし、代羽の口調は、時折変化する。

 普段の、丁寧そのものといった女性の口調から、やや男性的な、ぶっきらぼうな口調に。

 それは、後輩であることを装う必要が無くなった、ある種の開放感から生まれたものなのだろうか。

 それにしては、そこに込められた暖かい感情が、多過ぎる気がする。

 いや、ただ暖かいとか、親愛とか、そういう程度では言い表せないような感情の塊。

 これは、一体?

 

「―――いやいや、失礼しました。真っ赤な貴方が、余りにも可愛らしかったから。誓って他意はありません」

「だから性質が悪いってのよ…」

 

 そんなくだらない会話をしていたら、やがて料理は出来上がった。

 彼女は、それを椀に盛り、私に手渡す。

 

「はい、どうぞ。お口に合うかどうか分かりませんが、通常、人が口にするもの以外の食材は入っていませんので、どうか安心して召し上がってください」

「そんな前置きされると、逆に意識しちゃうじゃない…」

 

 彼女は、苦笑した。

 それを横目に見ながら、湯気の立つ椀に挑む。

 まず、だし汁を一口。

 …旨い。

 そりゃあ、しっかりとした調理器具、しっかりとした食材で作ったものとは比べるべくも無いけど。

 それでも、こんな環境、こんな食材で作るのであれば、望むことのできる最高のレベルなのではないだろうか、これは。

 もちろん、空腹だったというのもあるのだろう。古来より、空腹は最高の調味料というが、それは完全な事実だ。

 そんなことを考えながら箸を進めていたら、あっという間に椀が空になっていた。

 

「おかわりは?」

「…お願い」

 

 ぶっきらぼうに、椀を手渡す。

 彼女は、さも嬉しそうにそれを受け取った。

 お玉で鍋の中身を適当により分け、盛り付ける。

 その動作が、どこかぎこちなかったのが、少し不思議だった。

 

「…嬉しそうね」

「はい。こんなふうに、他人に自分の料理を喜んでもらえるのは、初めてですから。…いえ、そういえば、以前あの子に料理を作ってあげたとき、それはそれは喜んでくれたでしょうか」

「…それって、いつの話?」

「おや、聞いていませんでしたか?つい先日のことです。彼が体調を崩したときにね、彼の家で看病してあげたのです。ふふ、可愛らしかったわ、あの子…」

 

 あの子。

 こいつが言うあの子なんて、この世に一人しかいない。

 ―――あの、浮気者が。

 帰ったら、泣かす。

 

「冗談です。そんな険しい顔しないで、遠坂先輩。私が作ったのは、あくまで姉、或いは兄としてです。彼にとって恋人は、貴方だけなのですから」

「…そんなこと、知ってるわよ」

「ふふ、でも、油断しないことです。彼、意外ともてますよ。桜以外にもライバルは多い。手綱を離したら、あっというまです。絶対に、放さないでいてあげてください」

「…わかってるっての」

「約束、しましたよ」

 

 再び手渡された椀に、ヤケクソ気味にがっつく。

 暖められた各種の根菜、そして肉類が、身体に染み渡っていく。

 それが、ささくれ立ちかけた心を、癒してくれる。

 人間、寒いときと空腹のときは碌なことを考えない。それは、確かに真理だろう。

 暖められた血液を、まだ私のものではない左手も、心なしか喜んでいるようだった。

 

「…ところで、さっきあなた、どこに行ってたの?ずいぶんと長かったようだけど…」

「ああ、宣戦布告を、ちょっと」

 

 その不穏当な発言に、あれだけ滑らかだった箸の動きが止まる。

 ゆっくりと、脇に椀を下げる。

 

「おや、もういいのですか?」

「誰に?」

 

 きっちりと睨みつける。

 彼女は、いとも容易く私の視線を受け止める。

 これは、培ってきた人生の差だろうか。それとも、それ以外の何か。

 

「おそらく、貴方の予想通り。私は、私の双子の弟に宣戦布告をしてきました。珍しく、あの子、怒ってました。殺してやる、そう言われたんですよ、私」

 

 彼女は、そのほっそりとした右手首を摩りながら、言った。

 目を凝らしてみれば、そこにはうっすらとした赤い痣が。

 もしかしたら、士郎にやられたのだろうか。

 

「流石に、化け物殺し、ヘラクレスの斧剣。投影品とはいえ、それなり以上の概念が附加されている。切断傷など、普段であれば瞬時に完治するのですが、これは中々…」

 

 なるほど、先程、手つきが妙に覚束なかったのも、その影響だろうか。

 それにしても…。

 

「貴方、嬉しそうね」

「…そう、見えますか?」

「ええ。とっても、嬉しそう。血を分けた弟に手首を吹き飛ばされて、殺してやるとまで言われて、それで何でそんなに嬉しそうにしていられるの?」

 

 彼女は、少し煮立ち始めた鍋の中身を心配してか、バーナーの火を弱めた。

 電灯の点かない室内、そして外の帳は、完全に降りてしまっている。

 光源と呼べるものは、部屋の片隅に置かれたキャンプ用ランタンと、このバーナーの火のみ。それが弱められると、室内の闇が、一層濃くなる。

 私は、理解した。

 これは、顔色を隠すための処置で、彼女なりの矜持なのだと。

 

「私はね、言ったのです。貴方を、遠坂凜を食べた、と。そうしたらね、彼はとても怒ってくれました。それが、嬉しかった。それは、それだけ貴方を愛しているということでしょう?それは、それだけ貴方に執着しているということでしょう?これが嬉しくなくて、何が嬉しいでしょうか」

 

 後半は、ほとんど聞き取れなかった。

 思わず、顔に熱が集まる。

 そっか。

 あいつ、怒ってくれたんだ。

 私が喰われたと、そう聞かされて。

 それで、我を忘れるくらいに、怒ってくれたんだ。

 それで、女の子に刃を向けるくらい、怒ってくれたんだ。

 そっか。

 うん。

 そうなんだ。

 なら、許そうかな。

 うん、許してあげよう。

 

「愛とは、執着でしょう?執着は、生でしょう?なら、彼はこのまま人として生きていける可能性が、まだあるということでしょう?それだけで、それだけで、私は…」

 

 視界が、暗かった。

 辺りは、寒かった。

 それでよかったと、そう思った。

 だって、その声は、濡れていた。

 初めて、濡れていた。

 何に?

 分からない。

 喜び、だろうか。

 悲しさ、だろうか。

 驚きかもしれないし、絶望かもしれないし、希望かもしれない。

 それでも、その声は、涙に濡れていた。

 それだけは、はっきりと憶えているし、これからも忘れないだろう。

 目の前の少女は、ただ只管に、他人のために涙を流すことのできる、少女だったのだ。

 例えその口が、人の血液に濡れていても。

 例えその排泄物に、人の髪の毛が混じっても。

 その涙だけは、尊かった。

 それだけは、忘れないでいよう。

 そう、強く願った。

 そうして、バーナーの火を、完全に消してやった。

 一層、暗くなった室内。

 そこに、少女のすすり泣く声だけが、響いた。

 

「…止めないのですか?」

 

 俯いた声で、彼女はそう言った。

 

「…何を?」

 

 平静を装った声で、私はそう言った。

 

 ぽつぽつと、雨が窓ガラスを叩き始めた。

 いつの間にか始まったその独唱は、あっという間に大合唱に。

 通り雨だろうか。

 なら、さっさと止んでくれればいいのに。

 どんどん白くなっていく自分の息を見ながら、そう思った。

 

「彼では、私に勝てません。いや、純粋な意味で私に勝ちうる存在は、英霊も含めたところで一人も存在しない」

「それは、貴方が不死だから?」

 

 彼女は、ゆっくりと頷いた。

 そこに、誇りは無かった。

 ただ、己の身の穢れを恥じる、幼い少女だけが、あった。

 

「私は、いや、彼は、私の中にあった無数の泡沫人格を飲み込んだ。そうして、その悉くを一つの世界として従えている。魔術的な要素からすれば、彼は多数の世界の集合体です、それを殺すことは、一つの世界を消し去ることに等しい。彼は、おそらくこの世で最も不死に近しい者の一人です。その恩恵を間接的とはいえ被っている私も、限りなく不死に近い」

 

 分かっている。

 散々、見せ付けられた。

 キャスターの、人智を超越した大魔術。

 そして、ランサーの凶悪な宝具。

 その直撃を受けて、ヨハネはなお微笑っていた。

 おそらく、セイバーの宝具、剣というカテゴリの頂点、最強の幻想、それをもってしても仕留める事が叶うかどうか、あれはそういうレベルの不死だ。

 ならば、それを従者として従えているという彼女の不死のレベルも言わずもがな。

 当然、あのへっぽこに仕留めることは、叶うまい。

 いや、そもそも。

 そんな瑣末な問題ではなく、もっと大きなところで、彼はこの子を殺すことなんてできないのだろうけれど。

 

「…それでも、貴方は、止めないのですか?」

「ええ、止めないわ」

 

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 部屋を揺らす、古代の光。

 それに照らされた彼女の瞳は、どこまでも澄み切っていた。

 

「それは、彼を信頼するということですか?それとも、私が彼を殺さないとでも?」

 

 私は、ゆっくりと頭を横に振った。

 きっと、私の髪の毛が舞い踊ったことだろう。

 それが、この部屋の暗さを少しでも和らげることができれば、そんな埒外のことを祈った。

 

「確かに、私は彼を信頼している。でも、彼では貴方に勝ち得ないでしょうね。それに、きっと貴方は士郎を殺すわ。それだけの覚悟が貴方にはあるし、最悪あいつが歩む道程は、それだけのことをしても避けなければならないものなのかもしれないし」

 

 なら、何故、と。

 そう言いかけた彼女の顔は、明らかに怒りで染色されていた。

 開きかけた、唇。

 それを待ってやる義理なんて、どこにもありはしない。

 

「だからね、私が信頼してるのは、もっと別のものよ」

「…では、貴方は何を信頼しているのですか…?」

 

 意図的に、一拍の間を設けてやる。

 そうでもしないと、きっと私は笑ってしまう。

 照れ隠しで、笑ってしまう。

 その確信が、あった。

 

「私はね、私を信頼してるの。私の、男を見る目を信頼してるの。これでももてる方だからね、それなりのお誘いも今まであったわ。でも、てんで駄目。外見はどんなに良くても、中身はスカスカの風船人形みたいな奴ばっかだった。だけど、あいつは、違う。あいつだけは、絶対に違うと断言できる」

 

 彼女の唖然とした表情に、段々と色がついていく。

 それは、何だろうか。

 よく分からない、感情。

 羨望、だろうか。

 

「あいつなら、貴方に勝つわ。貴方の頬をひっぱたいて、そうして、在るべき形に治そうとするでしょうね。あいつは、頑固で、しつこくて、我侭で、何よりケダモノよ。精々気をつけることね」

「…それは、ベッドの中以外でも、ですか?」

「もちろん、ベッドの中以外でも、よ!」

「あはははははははははははははははは!」

 

 彼女は、転げまわった。

 転げまわって、笑い続けた。

 比喩表現ではなく、お腹を抱えて。

 コンクリートの冷え冷えとした床の上を、転げまわったのだ。

 その様子が、とてもおかしくて。

 私も、同じように、転げまわって、笑った。

 笑って。

 笑って。

 笑って。

 それは、幸せな時間だった。

 とても、幸せな時間だった。

 いつしか、その幸せな時間が過ぎ去ったとき。

 彼女は、言った。

 

「遠坂先輩」

「何?」

「隣に行って、いいですか…?」

 

 それは、脅えた声だった。

 拒絶を恐れる、幼児の声だった。

 それとも、抱きしめられることも無く少女になった、少年だったものの声だったのかもしれない。

 

「いいわよ。私も寒かったし、ちょうどいいわ」

「…すみません」

「だから、いいっての」

 

 彼女は、おずおずと私の隣に腰を下ろした。

 少し、肩が触れ合う程度の距離。

 それでも、実際にそれが触れ合うと、まる静電気が流れたかのように彼女は身を離す。

 まるで、兎か小鳥だった。

 それが、大変愛らしかった。

 だから、ほんの気紛れを、起こしてみたのだ。

 そっと、彼女の肩に、手を回す。

 びくりと、小さな身体が強張った。

 逃げようともがくその身体を、強引に引き寄せる。

 そうして、胸に埋めるように、彼女の頭を抱きしめた。

 

「…先輩、苦しいです」

「我慢しなさい」

「…先輩、痛いです」

「我慢しなさい」

 

 これでは、本当に母親のようではないか。 

 そう思って、苦笑しようとした。

 でも、できなかった。

 苦笑が生まれるよりも早く、私の顔には、きっと優しい微笑が、陣取っていたから。

 

「…先輩、お願いがあります」

「…何?」

「…泣いても、いいですか?」

 

 いつか、どこかで見た、光景だった。

 あれは、そう、私の自慢の妹を抱きしめる、あいつの姿だった。

 なら、私が為すべきことも、決まっているではないか。

 言葉は、要らない。

 人を本当に助けるのは、そんなものじゃあないから。

 だから、ただ無言で、力いっぱい彼女を抱きしめた。

 

「うええ、うええん…」

 

 悲しげな声が、狭い室内に響いた。

 それでも、彼女の小さな体は、温かかった。

 もう、寒くなかった。

 

「おとうさん、おかあさん…」

 

 彼女は、泣き続けた。

 そうして、泣き疲れて、眠りに落ちた。

 その様子は、ほとんどあの子と一緒だった。

 

 

「行くの?」

「はい。約束は守らないといけませんから」

 

 一度裸になった彼女は、妙に物々しい服を、手早く身につけた。

 素肌の上に直接被った、柔らかな、それでいて薄い、極上のレザーのような素材の服は、彼女の美しい身体のラインを存分に強調している。特に、胸の辺りの小さなふくらみを見ると、女の私でもどぎまぎしてしまう程だ。

 それでも、やはり一級品の武装。魔術的な加護が目一杯に付されていることは明白。

 その上から、関節や急所に、レガースやプロテクタのようなものを巻き付けていく。

 戦闘服。

 そういった誇称が、この上なく似合う出で立ち。

 それに設けられた各部のホルダに、小型の剣を収めていく。

 腰に、二振り。

 背中に、二振り。

 太腿に、二振り。

 それだけ携行して戦闘に挑めるということは、よほど軽い素材で出来ているのだろうか。流石の私も見たことの無い材質ではあるのだが。

 そうして、最後の仕上げと言わんばかりに、その腰部に備え付けられたホルスタに小型の拳銃を一丁、収める。

 

「…なんでそんなもの、持ってるの?」

「ふふ、この国はいいですねえ。金銭と手間さえ惜しまなければ、大抵の物は手に入る。本当はRPGとか、手榴弾とか、クレイモアとか、持っていきたいものは山ほどあるのですけどね。まあ、今回はこれくらいにしておこうかと」

「…ええ、お願い」

 

 私は、最愛の恋人の安全を想って、本気でお願いしたのだ。

 彼女は微笑いながらそれに応え、腰のポケットに煙草の箱とライターを押し込んだ。

 

「…身体に悪いわよ、それ」

「ええ、知っています」

 

 最後に、その長い髪の毛を、後ろで一括りにして。

 彼女は、立ち上がった。

 その瞳に、涙の跡は、どこにも無い。

 ただ、戦う者としての、覚悟だけが、あった。

 

「私は行きます。貴方はどうしますか?」

 

 馬鹿にしているのか、それとも優し過ぎるのか。

 おそらく、後者だろう。

 きっと、恋人が死ぬ様を、見せたくないと。

 そんな筋違いなことを、考えているに違いない。

 それでも、あいつは、付いて来てくれたんだ。

 私と妹の、醜い姉妹喧嘩の場所に。

 もしかしたら、私が死ぬかもしれない、戦場に。

 そして、一度も目を逸らすことなく、最後まで見届けてくれた。

 なら、私が行かないわけには、いかないじゃあないか。

 

「お生憎様。私は、そんな可愛げのある性格、してないわ」

 

 彼女は、微笑った。

 もう、お互いの間に言葉は、いらなかった。

 

「小生意気な後輩の性根を、私の恋人が叩き直すんだもの。そんなの、特等席で見ないと、一生後悔するでしょう?」

 

 震えそうになる舌の根を叱咤して、それでもそう言い切った。その瞬間の私は、賞賛に値すると想う。

 

「では、行きましょう」

 

 彼女は、背筋を一ミリたりとも曲げることなく、部屋を後にした。

 私も、それに続く。

 雨は、遠からず止むだろう。

 そのとき、誰が生きているのか。

 もし、士郎が死んだら、私は生きていない。

 生きている自信は、無い。

 きっと彼女に挑んで、無様に殺されるのだ。

 だから、頑張って、士郎。

 あんたは、愛しの恋人の命も、背負っているんだから。

 きっと、目の前の少女の命も、背負っているんだから。

 だから、お願い。

 負けないで、死なないで、士郎。



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interval16 負われて見たのはいつの日か

 カチカチという音の正体が何なのか。

 それは、最後まで結局、わからなかった。

 私の歯が鳴る音だった気もするし。

 遠くで聞こえる、刃と刃がぶつかり合う音だった気もするし。

 そもそも、私の歯の根が噛み合わなかった理由も、はっきりしない。

 恐怖、だろうか。

 寒さ、だろうか。

 それとも、全く別の理由?

 それすらも、分からなかった。

 ただ、震えていた。

 まるで鼠かチワワみたいに、がたがたと。

 そんな自分を想像して、少し緊張が緩んだけど。

 それでも、震えていたのだ。

 それほどに、目の前の戦いは、凄まじかった。

 別に、人外の凄まじさというならば、私はこの世界の誰よりも凄いものを見てきたのだという確信がある。

 聖杯戦争。

 そこで繰り広げられる、過去の英雄達の饗宴。

 その迫力と凄惨さに比べれば、目の前の戦いは児戯に等しい。

 それでも、私の心の琴線をどちらがより震わしたかといえば、それは今目の前で火花を散らす、刃の競演だった。

 

 

 最初は、互角。

 力で押し続ける少年と、それを受け流す少女。

 永遠に続くかと思われた剣舞。

 しかし、それは一発の銃声によって終わりを告げる。

 後は、酷いものだった。

 拷問、だった。

 少女が何かを口走るたびに、少年の身体に風穴が開く。

 銃口からマズルフラッシュが瞬くたびに、私は死にそうなほどに歯を噛んだ。

 まるで、今にも砕けよと、石を噛み締めるように、歯を噛んだ。

 それでも、耐えた。

 信じた。

 あいつは、士郎は、絶対に負けない。

 だって、あいつが負けたらみんなが不幸になる。

 私も。 

 桜も。

 イリヤも。

 藤村先生も、柳洞君も、綾子も、学校の皆も。

 きっと、彼を知る全ての人が、これからの人生に重い枷を負ったまま生きていかなくてはならなくなる。

 そして、誰よりも代羽が。

 彼の、ただ一人の兄が。

 間違いなく、不幸になるのだ。

 あいつは、確かにへっぽこで。

 唐変木で、朴念仁で、我侭で、ケダモノで、正義の味方だけど。

 それでも、きっと誰よりも優しいから。

 あいつは、負けない。

 自分が負けて皆が不幸になるなら、あいつは最強だ。

 だから、見守った。

 代羽の銃弾があいつの胸を貫いたときも、見守った。

 涙を流し、拳を巨木に叩きつけ、唇を噛み切り、奥歯を噛み折りながら、見守った。

 そして、あいつは、当然のように立ち上がって。

 色々と、あったけど。

 最後には、倒れこむ代羽の体を、優しく抱きしめてあげていた。

 私は、帰ろうと、思った。

 邪魔者だと。

 私はここにいるべきではないと。

 遠坂凜はクールに去るぜ、そう思って踵を返そうとしたとき。

 彼女を、見てしまった。

 彼女、代羽の、顔。

 あいつに抱き締められる、代羽の顔。

 その、なんと幸せそうなこと。

 安心しきって、蕩けそうなほどで、緩みきった、見たことも無いほど甘い、彼女の、顔。

 意図せず、再び体が震える。

 それでも、今度の震えは、明白だ。

 これは、怒り。

 ええ、私は、怒っています。

 決して嫉妬などでは、ありません、ありません、ありませんとも。

 私は、胸の奥に湧き上がる、黒いとげとげしたものを押さえられなくなってしまった。

 

「ああ、もう、はなれんか、おのれらー!」

 

 叫びながら、茂みから飛び出す。

 唖然とした、二人の顔。

 ふん、いい気味だ。

 

「り、凛、お前、いつからそこに…?」

 

 歪に捻じ曲げられた両手で、代羽を抱き締めていた、私の恋人。

 その分厚い胸板に、彼女の小さな頭を埋めていた、私の恋人。

 彼が、大きく見開いた瞳で、くりくりとした錆び色の瞳で、私を見るのだ。

 彼が、裏返った素っ頓狂な声で、冷や汗を掻きながら、私に問うのだ。

 お前、いつからそこにいたのか、と。

 どこから、見ていたのかと。

 うふふ。

 最初から、見ていました。

 ええ、もう、最初から、特等席で。

 貴方が倒れこむ代羽を抱きとめて、熱い抱擁を交わすところも、もちろん見ていました。

 貴方と代羽の額がキスをして、睦言を囁きあうみたいに言葉を交わしたのも、見ていましたとも。

 

「ま、待て、凛、誤解だ、お前は何かを誤解している」

 

 ゴカイ?なにそれ、釣りの餌?

 

「ええ、知ってるわ、士郎。貴方は、私の恋人で、代羽とは双子の兄弟、なんら疚しいところは無い、そうでしょう?」

「うん、そう。ああ、よかったなあ、おれ、はなしのわかるこいびとをもって、しあわせだよ」

「遺言は、それだけかしら?」

 

 ぎにゃー。

 

interval16 負われて見たのはいつの日か

 

「いっ、ぎああっ!」

「男の子が情けない声、あげない!」

 

 ごつん。

 

「ぐっ、つうぅ…」

「はい、次は足ね」

「…足って、お前、少しは休ませ…が、あああああ!」

 

 ごりっ。

 

「ってええぇ…、それ、凄く痛いんですけど…っ!」

「当たり前でしょう、外れた関節、無理矢理ねじ込んでんだから。関節はね、外すときよりも嵌める時の方が痛いの。いい勉強になったでしょう?代羽、そこ、ちゃんと抑えててね」

「だからっ…てえええええ!」

 

 いくら聖剣の鞘が全ての傷を癒すといっても、それは傷に限ったこと。

 例えば、間接が歪な状態で靭帯等の損傷が治癒した場合、その後遺症が残らないとも限らない。おそらくは関節の異常も含めたところで完全に正常な状態に戻してくれるものではあるのだろうけど、用心はするに如かずだ。

 だから、これは仕方なく。

 麻酔の魔術も施さず、力任せに関節をねじ込んでいるのも、仕方なく。

 ええ、仕方なくDEATHとも。

 

「と、遠坂先輩、か、顔が、顔が怖いです…」

「あら、代羽、何か言ったかしら?」

「いえ!何も言ってません!」

「ならよろしい。さ、今度は左手よ。きちんと抑えててね」

「あ、あくまだ…」

 

 冗談とささやかな気晴らしはここらへんまでにして、今度はきちんと麻酔をかけてやる。

 そうして、出来るだけ優しく関節をはめ込んでいく。

 

「…そういうふうにできるなら、最初からお願いしたかったな」

「御免なさいねぇ、忘れてたの。あまり余計なこというと、また忘れちゃうかもしれないけど、それでもいいかしら?」

「なんでもありません、師匠!」

 

 寝転がったまま、震える士郎。

 私の隣で、小さく震える代羽。

 全く、失礼な限りである。

 

「…それにしても、よくここまでばらばらにしたものね。士郎じゃなければ、痛みでショック死しててもおかしくないわよ」

「…ごめんなさい」

「止めてくれ、凛。これは尋常の戦いだったんだ。一方的に兄さんが悪いわけじゃあない」

 

 兄さん、ね。

 思わず隣の少女を、見つめる。

 黒絹のようにしなやかな、しかし光の具合によっては赤紫がかっても見える神秘的な美しい長髪。

 少し太めの眉は、なるほど士郎にそっくりかもしれない。

 大きな、黒真珠みたいな瞳に、小振りで形のいい鼻。

 唇は柔らかそうで、女の私から見ても羨ましい限り。

 雨に濡れて露になった身体のラインは、急激な起伏こそないものの、まるで天使のように整っている。

 これで、元男か。

 神様も罪作りなことをするものである。

 

「ねえ、士郎。今からでも女の子になるつもりとか、ない?」

「り、凛!」

「と、遠坂、やっぱりお前、そっちの気が…!」

「だああ、もう、冗談よ、冗談!」

 

 軽いジョークにここまで乗っかられると、言った本人がうろたえてしまう。

 純情ブラザーズ、恐るべし。

 

 そんなアホな会話をしながら、それでも士郎の関節の治療は終った。

 後は、彼の体に埋め込まれた聖剣の鞘が何とかしてくれるはずである。

 ふう、と、ほぼ同時に三人が溜息を吐いた。

 だから、それを笑ったのも、三人同時だったはず。

 考えてみれば、奇妙なものだろう。

 夜の公園、それも災害の跡地に建設されたいわく付きの公園のど真ん中で、男女の笑い声が響くというのは。

 もしかしたら、数年後に都市伝説の一部に組み入れられている、そんなこともあるかもしれない。

 

「…さて、用件は済みましたから、私は家に帰らせていただきますね…」

 

 一番最初に腰を上げたのは、予想通り、マキリ代羽その人だった。

 

「待ってくれ、兄さん、どこに行くつもりだ?」

「言ったでしょう、家に帰ると。それだけの話です」

 

 家。

 それは、あの寂しい廃屋か。

 それとも、蟲の体液の腐臭漂う、あの屋敷のことか。

 

「もう、貴方達の前に姿を見せる事はないでしょう。これでも敗者の誇りくらいは持っているつもりですから、その点については安心して頂いて結構ですよ。ただ、アサシンが貴方達を狙うことまで掣肘を加えるつもりはありません。今日敗れたのはあくまで私一人であって、彼はまだ誰にも敗れてはいない」

 

 少し長い台詞を誇り高く口にして、彼女は背を向けた。

 やはり、背筋は、一ミリたりとも曲がらず、天を突く巨木のように慄然としていた。

 なのに、何故だろう。

 背中が、煤けて見えたのは。

 

「待ってくれ、兄さん」

「…衛宮士郎。その呼び方は、出来れば止めて欲しい。その呼び方は、私の罪を糾弾するから」

「貴方に、罪なんて、無い」

 

 一拍、天使が囀るような間があって。

 それから、彼女は、振り向いた。

 泣き出す寸前の幼児の様に、歪みきった表情。

 その瞳から涙が零れなかったのは、最後の意地だろうか。

 それでも、声の震えを隠すこと、それは不可能だったらしいが。

 

「わ、わたしは、あのひ、あな、あなたをみすてた!それが、つ、つみでないと、そういうつもりですか!?」

 

 ほとんど金切り声に近かったそれを、士郎は平然と受け止めた。

 まるで、それを予測していたかのようであった。

 

「…兄さんは、勘違いしている。あの日、貴方は俺を見捨ててなんか、いない」

「世迷言を…!」

「本当なんだ。罪があるというなら、それはむしろ俺だ」

「違う!それは…!」

「聞いてくれ!」

 

 士郎は、語った。

 彼が覚えている、あの夜の全てを。

 第四回聖杯戦争、その終結した、夜。

 冬木が、比喩表現ではなく、正に赤く染め上げられた、夜。

 彼らは、その中心部を、当ても無く歩いていた。

 強烈に熱せられた大気は、問答無用に二人の肌を焦がした。

 ゆるゆると崩れ落ちていく町並み。

 じわじわと焼け落ちていく人の肉。

 ちりちりと髪の毛の焦げつく臭い。

 阿鼻叫喚。

 それでも、歩いた。

 いずれ、弟の体に限界が訪れる。

 彼らの身体性能が同一であった仮定すれば、そこにどういった偶然が働いたのか、それは分からないが。

 兄は、弟を背負って、それでも歩き続けた。

 地獄の中で、ただ助かりたいと願って。

 救いを、求めて。

 そして、弟は、夜空に浮かんだ黒い太陽を、見つける。

 まるで、違う世界との通用口のように、ぽっかりと浮かんだ、黒い太陽。

 弟は、願うのだ。

 助けて、欲しいと。

 やがて、黒い泥は、彼らのほうに流れてきた。

 弟は、焼け付いて閉じなくなった片目で、それを見つめる。

 その瞬間、彼の体を衝撃が襲う。

 払い落とされたのだと気付く。

 絶望。

 視界に映る、兄の背中。

 それが、黒い泥の中に突っ込んでいく。

 まるで、己が囮となって、大切な誰かを守ろうとするかのように。

 それを、涙で滲んだ片目で見つめて。

 焼け付いた声帯を震わせて許しを請おうとした、その場面で彼の記憶は途切れるという。

 

「…違う。私は、確かに貴方を見捨てた。ただ、助かりたいと願って、貴方を背から払い落とした。それが、私にとっての真実だ」

「分かったよ。相変わらず、兄さんは頑固だ。じゃあ、俺が、罰を与える。それで、いいんだろう?」

「ちょ、士郎!」

 

 代羽の唖然とした瞳。

 

「凛の麻酔が効きすぎちゃってさ、痺れて動けないんだ。誰かが負ぶって家まで運んでくれると、ありがたいんだけどな」

 

 それは、非常に建設的な意見だった。

 例え、私の魔術行使に一切の失敗がなく、彼の体は万全に動きえるのだとしても。

 例え、私が一言呪文を唱えれば、彼の体はまるで空気のように軽くなるのだとしても。

 私は、一言の抗議も、一節の呪文も、唱えなかった。

 ただ、にんまりと、微笑っていたはずだ。

 にんまりと、気持ちのいい微笑を浮かべていたはずだ。

 

「…なんと、残酷な…」

「だから、罰なんだろ?兄さん、まだ桜とイリヤに謝ってないんだからさ、ついでに済ませたらいい」

 

 代羽はぶちぶちと不平を言いながら、それでも弟の体を抱えて、如何にも器用に背負いあげた。

 今は、背丈の違う、二人。

 大きな少年が、小さな少女に背負われる。

 弟だった少年が、兄だった少女に背負われる。

 その、不可思議な光景が、ここまで神々しいと、誰が想像しうるだろうか。

 少女の頬に刻まれた、誇り高い笑み。

 少年の頬に刻まれた、安堵に満ちた笑み。

 その両方が、例えようも無いほどに羨ましかった。

 

「ねえ、代羽。疲れたら代わるわよ」

「馬鹿を!これは、私だけの権利だ!」

「じゃあ、士郎。体、動くようになったら言ってよ。私もお兄さんにおんぶしてもらいたなぁ」

「駄目だ!これは、俺だけの背中!」

 

 ちえっ、と、唇を尖らせる。

 両手を、頭の後ろでくみ上げる。

 そうして、空を見上げる。

 そこには、相も変わらず、恥知らずな月があった。

 私の後ろで、ゆっくりと、でもしっかりと聞こえる、一人分の足音。

 それを聞きながら、私は思うのだ。

 ああ、きっと明日は満月だ。

 

 

「些か厄介なことになったかも知れん」

「ほう。聞かせろ、コトミネ」

「黒い聖杯が、あの少年の軍門に下った。これで、奴らが抱える戦力は、サーヴァント三騎と、それに準ずる力量を持つ化け物が一人。実質、四対一だ。これでは、歯向かう術も無いな」

 

 神父は、相変わらず底の深い微笑を湛えたまま、事も無げにそう言った。

 その台詞は、例え聞いた者が英雄王その人でなかったとしても、その同意を取り付けるのは困難を極めただろう。

 何故なら、彼は愉しんでいたから。

 それが、本当に彼自身の置かれた苦境を思ってのことなのか、それとも己と敵した哀れな子羊の不幸を思ってのことなのか、そればかりは余人には計りようも無かったが。

 

「くく、コトミネ、貴様、ようやく冗談の一つも憶えたか。なるほど、雑兵は凝り固まってこその雑兵よ。一匹一匹を磨り潰すよりは、手間が省けた。望ましいとすらいえるではないか」

 

 その高慢。

 しかし、それこそが彼の本質であり、故に王。

 神父は、苦笑と共に納得した。

 

「精々、踊り狂えばいいのだ。この世は舞台、人は誰しもが一役演じなければならぬ。であれば、民草悉く必死に踊り狂え。我を愉しませろ。我以外の全ては道化であるが故に」

「ほう、シェイクスピアか。なるほど、その言が正しいとして、ギルガメッシュ。お前は、舞台たるこの世において、一体何を演ずるというのだ?」

 

 神父は、確定した回答を期待して、無価値の質問を口にした。

 英雄王は一度鼻で笑ってから、それでも律儀にこう答えたのだ。

 

「我が演じるのだ。王以外の何があるか」

 

 決戦は、近い。

 それは、予兆ではなく確信であった。

 神父は、明けつつある空を見上げた。

 黒から紫に、そして蒼に染まりつつある、東の空。

 その色を、まるで少女の髪の色のようだと、そう埒も無く、思った。



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episode85 家族風景

 目を覚ます感覚というものは、不思議なものだと思う。

 一体自分がどのタイミングで夢の世界から現実世界に回帰したのか、それすらも定かではないのに、自分は今覚醒したのだということが理解できるのだから。

 それを支えるのは、何だろう。

 

 布団の温もり、或いは重さ。

 目を焼く、朝ぼらけの曙光。

 鼻を擽る、朝餉の香り。

 それとも、今から始まる今日への期待感、或いは憂鬱感?

 

 色々あるだろうし、一定しているわけでもないのだろうと思う。

 ただ、今日、俺が一番最初に認識したのは、滑らかな肌の感触と前髪を弄る心地よい吐息だった。

 ゆっくりと、目を開ける。

 ぼやけた視界を埋め尽くす、艶のある黒。

 それが陽の光を反射して、宝石のように煌くのだ。

 俺の隣には、まだ目を閉じた、この世で一番愛おしい人が、いた。

 俺の、恋人。

 すうすうと、安らかな吐息。

 睫毛が、時折震える。

 枕で波打つ、艶のある黒髪。

 整った、鼻筋。

 少しだけ開いた、可憐な唇。

 両手が、祈るように口元で組まれている。

 世界で一番守らなければならない、そう決意を抱かせるに相応しい、寝顔。

 遠坂、凛

 彼女が、俺と抱き合うように、眠っていた。

 衣類と呼べるものは、一切身につけていない。

 防寒具、そう呼んでいいものは、少しぶ厚めの布団と、互いの素肌から伝わる体温だけ。

 想像以上に、暖かかった。

 彼女の命が、暖かかった。

 それが、どれ程に俺を暖めてくれたことか。

 ゆっくりと、手を伸ばす。

 彼女の額にかかった前髪を、払い除けてやる。

 

「ん…」

 

 彼女は僅かに身動ぎしたが、それでもとても気持ちよさそうに微笑んでくれた。

 その、口元に湛えられた微笑の、なんと優雅でなんと幼いこと。

 ほとんど衝動的に、彼女を抱きしめる、

 小さな額に、口付けをする。

 

「ん…し、ろう…?」

 

 薄ぼんやりとした声。

 そこには、目を擦りながら俺を見上げる、凛。

 眠りを邪魔してしまったというかすかな罪悪感と、今日彼女が見た最初の人間が自分だという優越感。

 どちらかといえば勝っているのは、後者だ。

 

「…おはよう、凛」

「…ん、おはよう、士郎」

 

 彼女が、俺の首に手を回してくる。

 引き寄せられる。

 抵抗なんて、最初からするつもりは無い。

 むしろ、俺も彼女を引き寄せる。

 互いの顔が、これ以上無いというくらい間近にあって。

 吐息が、重なって。

 最後に、唇が、交わった。

 信じられない位に柔らかな、彼女の唇。

 軽く、啄ばむような、キス。

 舌は、絡めない。

 そんなことしたら、我慢できなくなることくらい、一目瞭然だ。

 

「ふふ、やっぱり、士郎だ…」

「それ以外の、なんだっていうんだ、俺は」

 

 まるで子猫がじゃれあうような、逢瀬。

 感じるのは、性欲ではなく、征服欲でもなく、ただただ、幸福。

 肌と肌が触れ合う、それだけで人はここまで満たされるものなのだろうか。

 きっと無骨な俺の手で、彼女の滑らかな背中を撫でてやる。

 掌から感じる、心地いい心臓の拍動。

 これは、最早魔法だと思う。

 こんな単純なリズムが、人をここまで安らげてくれるのだ。

 そんなこと、この世で彼女以外に、できるはずが無い。

 

「えへへー」

 

 彼女は嬉しそうに微笑うと、きっと満身の力を込めて、俺に抱きついてきた。

 密着する、身体と身体。

 彼女の小振りな胸が、俺の胸板で潰れて形を変える。

 ふわふわとしたそれは、極上のマシュマロみたいだと思う。

 

「…ん…?」

 

 彼女が訝しそうに、布団の中を覗きやる。

 視線は、俺の股間に。

 そこには、いわゆる朝起ちをした、俺の分身が。

 

「…へえ、やっぱり男の子って、朝は堅くなるのね」

「…面目次第もありません」

 

 不思議そうに覗き込んだ凛の瞳に、僅かばかりの羞恥心を感じる。

 無粋かとも思ったが、少しだけ彼女から離れようとする。

 折角、昨日は死ぬような思いで我慢したのだ。それなのに朝っぱらから獣になったのでは、色々なものに申し訳ないではないか。

 そんな俺の心情を悟ったのだろうか、目の前のあかいあくまが、不敵に微笑った。

 

「んふふー、どうしたの、衛宮君、もう我慢できなくなってきた?」

 

 鼻の頭に、噛み付くような皺を寄せながら、彼女は笑うのだ。

 そうして、再び俺の唇に飛びついてきた。

 啄ばむように、数回。

 それから、顔中に、キスの雨を降らせてくれる。

 全く、その度に俺の忍耐力が、加速度的に削られている事実に、こいつは気付いているのだろうか。

 きっと、気付いている。

 気付いていて、わざと俺を試しているのだろう。

 俺の、何を?

 知るか、そんなもん。

 

「………いない」

「えっ?なんて?」

 

 視界一杯に広がった、凛の笑み。

 まるで殻を剥いたゆで卵みたいに、滑らから肌。

 俺の顔が映りこまないのが、不思議ですらある。

 

「何て言ったの、士郎?」

 

 不思議そうに首を傾げる、その仕草。

 ああ、起き抜けの頭には、その仕草は猛毒です。

 

「………って、言ったんだ」

「えっ?本当に聞こえないんだけど」

 

「一番好きな子にこんなことされて、我慢できる男なんていないって、そう言ったんだ、このバカ!」

 

 一瞬、びっくりした、彼女の表情に。

 ゆるゆると、湯船にお湯を張るみたいに、笑みが満ちていく。

 その、あまりに幸福そうな視線と、紅潮した頬。

 彼女の中で何かが決壊した瞬間、俺の顔は、柔らかな感触に埋もれていた。

 

「あー、士郎、あんた、反則!」

 

 暖かで、柔らかで、ふわふわとした、それ。

 感じる、二つの滑らかな隆起。

 それは、間違いなく、凛の、おっぱいだ。

 もう、指先一つだって動かせない。

 動かせば、俺は、彼女の言うケダモノに変貌する自信があった。

 それは駄目だ。

 だって、誓ったのだ。

 次に凛を抱くのは、この忌むべき大儀式に決着がついてから。

 何の制約もない誓いだけど、だからこそ破るわけにはいかない。

 そんな、必死の想い。

 でも、こいつはそんなこと、気にしちゃあくれない。

 わしゃわしゃと撫でられ続ける後頭部。

 ぎゅうと、押し付けられて、ふにゃりと形を変える、おっぱい。

 それが、悉く俺の理性を奪っていく。

 もともと絶対量の少ないそれが、阻止限界点を突破する。

 項を弄る冷たい風だって、そんなもの、止められない。

 

「凛…!」

 

 柔らかな拘束を打ち破って、彼女を布団に押し倒す。

 俺を見上げる、彼女の瞳。

 金色の曙光に映えるそれは、熱っぽく濡れていた。

 

「士郎…」

 

 彼女は、ゆっくりと目を閉じた。

 まるで、俺を受け入れる準備が整ったかのように。

 そうして、俺は。

 そして―――。

 

 はたと、気付いたのだ。

 

 なんで、冷たい、風?

 

 確かに、家屋が培った歴史と、その建築年数は比例する。

 当然、武家屋敷然としたこの家、それなり以上の建築年数は経過しているのは、純然たる事実。

 だが、定期的な保守点検は怠ったことはないし、当然隙間風なんかが吹く余地は無い。

 

 …まさか。

 

 凛を組み敷いたまま、そろりと後ろを振り返る。

 そこにあったのは、陽光を透過する、薄い障子紙。

 それを支える、木枠。

 そして、その中央。

 僅かに開かれて、そこから差し込む、朝日。

 そして、縦に並んだ、二つの瞳。

 赤い瞳と、黒い瞳。

 それが、同時にぱちくりと。

 凍る時間。

 やがて、レンジでチンされた、時間。

 二つの視線と俺の視線が交差した瞬間、それらの瞳は、にやりと歪められて。

 

「衛宮士郎の、えっちー」

 

「リンの、えっちー」

 

 そんな響きが、ピンク色の空気を、吹き飛ばしてくれた。

 聞き覚えのある、それらの声。

 その二つともが、いわば俺の姉と呼べる人達の口から放たれたものなんだから、性質が悪いよなあ、もう。

 そして、俺の下で、硬直した、彼女の体。

 それが、瞬時に爆ぜる。

 吹き飛ばされる、俺。

 転がっていく、俺。

 

「あ、あんたら、何覗いてんのよぉ!」

 

 きゃーきゃーと、遠ざかる、二つの声。

 誰にも見向きされない、俺。

 なんだか悲しくなってきた。

 

「全くもう…って、士郎、あなた、そんな格好で何してるの?朝っぱらからバックドロップでも喰らった?」

 

 もしそうだとしたら、喰らわせたのは、間違いなくあなたです、遠坂凛さん。

 訝しそうに覗く込む、彼女。

 逆さまになった彼女。

 しゃがみこんだ、その姿勢。

 天地逆さまになった、俺の姿勢。

 薄暗い、それでも朝日に祝福された室内。

 ならば、結果は明白だ。

 

「凛…」

「何、士郎?」

 

 きっと、碌でもない事態になるのは理解しつつ、それでも言ってしまう、悲しい男の性。

 

「…丸見えだ」

 

 ごす。

 

 その日、少し寝汚かった我が家の住人を起こしたのは、肉が肉を打つ、衝突音だったはずである。

 

episode85 家族風景

 

「「「いただきまーす」」」

 

 幾重にも幾重にも重なった、男女の声。

 ただっ広い衛宮邸の居間、そこの人口密度が酷いことになっています。

 臨時来客用のちゃぶ台が一つでは足りません。

 

 ちらりと左を見れば、そこには凛、セイバー、桜、ランサー。

 

 ちらりと右を見れば、そこにはイリヤ、リズ、セラ。

 

 ちらりと正面を見れば、そこには代羽とアサシン。

 

 本来、いがみ合い殺し合うが聖杯戦争の道理。

 なら、三組のサーヴァントとマスターが一同に朝食を食べるこの状況というのも、初めて見られる光景なのではないだろうか?

 のほほんとそんなことを考えていたら、隣からすごい声が聞こえた。

 

「おい、坊主、ぼさっとしてんな!おかわりだ!」

 

 抵抗や抗議は無意味なので、唯々諾々と従った。

 ああ、朝の空気はいいなあ、と。

 のほほんとお茶碗にご飯を盛っていたら、やはり隣からすごい声が聞こえた。

 

「シロウ、こちらもおかわりです!」

 

 それは、正しく鬨の声だった。

 それは、正しく剣戟音だった。

 剣の代わりに、お箸を構え。

 名誉の代わりに、満腹を求め。

 命の代わりに、おかずを奪い合う。

 それは、正しく戦場だったのだ。

 

「ランサー、貴方は既に唐揚げを二つ食べている!ならば、それはリンの分のはずだ!」

「あー、セイバー、私なら、別にいいわよ。もともと朝ごはん、食べない主義だし」

「何を腑抜けたことを!いいですか、リン!そもそも朝食とは一日の活力であり…!」

「あーもー分かったわよ。私の食べなかった分はセイバーの分、それでいいんでしょう?」

「私が言いたいのはそういうことではありません!ですが、それはそれとしてご厚情は頂いておきましょう!というわけだ、ランサー!犠牲となった唐揚げの代わりに、シュウマイを二つ、寄越しなさい!」

「んー、それって勝ち過ぎじゃない、セイバー?」

 

「ああ、もう、そんなにがっつかないでください、恥ずかしい…」

「あん?何言ってんだ、桜。ここは戦場だぜ。古来より、兵は巧緻より拙速を尊ぶって言ってな、早飯、早風呂、早糞が基本だ」

「早…!もう、食事中ですよ!」

「あー、いちいちうるせえな。そんなだと、白髪が増えるぞ、白髪が」

「…人の気にしてることを…!…うふふ、いいでしょう、ランサー、いい機会といえばいい機会です。この際、これからの良好な主従関係を構築するためにも、仔に入り細を穿つまで、話し合おうじゃあありませんか…」

「おい、ちょっとまて、桜、その影は何だ、その影は!」

 

「あー、納豆だ。私、これきらいー」

「イリヤ、私の卵焼きと交換する?」

「ありがと、だから貴方って好きよ、リズ」

「いけません、お嬢様。如何に豆の腐ったような、未開の原始人でも食べないような、最早嫌がらせとしか思えないような下賤の料理でも、食卓に出された以上はきちんと平らげるのが貴族としての礼儀。それと、リズ。貴方はいつもお嬢様を甘やかし過ぎなのです。だいたい…」

「…セラのお説教、長いから、嫌い…」

 

「片手では、鯵の開きをほぐすのは難しいでしょう。貸してください」

「要らぬ世話だ。この程度のことで主殿の手を煩わせることもあるまい」

「私が望んでいるのです。それとも、既に令呪を使い尽くしたマスターの命令など、聞く余地はありませんか?」

「…主殿は、卑怯である。そのように言えば私の舌は黙らざるを得ないことを知って、なおそれを利用するとは」

「ふふ、毒婦を主に持った従者の悲哀、そう思って諦めてくださいな。…そうだ、あれ、一度やってみたかったのですけど、お付き合い頂けますか?」

「…あれ、とは?」

「はい、アサシン、あーん」

「…不愉快だ!席を立たせてもらう!」

「あーん、ほら、アサシン、あーん」

 

 …カオスだ。

 

 …フリーダム過ぎる。

 

 これが、過去において、世界中に勇名を轟かせた英霊達の食卓なのだろうか。

 ぎゃあぎゃあと、喧しいことこの上ない。中学生の修学旅行だって、もう少し秩序だったものであるはずだ。

 そして、男の英霊達。

 ランサーと、アサシン。

 前者は、まさにお説教の真っ最中。正座して項垂れながら桜に怒られるその姿は、悪戯をして叱られる子犬を彷彿とさせる。

 後者は、涙目で縋りつく代羽を振り払えなかったのか、大人しくされるがままとなっている。箸が差し出されるたびに無言で口を開けるその様は、親鳥に餌を与えられる雛鳥みたい。見よ、白い仮面の上に哀愁が漂っているではないか。

 だいたい、過去の英雄が現代のマスターの尻に敷かれてるという状況は、一体どうだろう。ごく一部の地域を除けば、歴史上、世界的に男尊女卑の期間が長かったはず。その是非は置いておくとして、そんな時代に生きた英雄が現代の女性に頭が上がらないというのは少々情けない話なのではなかろうか。それとも、それだけ強くなった現代の女性を褒めるべき?

 うーん、わからん。

 そんなことを考えていたら、正面から声をかけられた。

 

「どうしましたか、衛宮士郎?」

 

 ほくほくと満足気な顔の、代羽。

 傍らに陣取っていた黒い人影は、逃げるように姿を消した。余程に恥ずかしかったと見える。

 

「…可哀想になあ…」

 

 不思議と、もう、アサシンには負ける気がしない。例え、夜道であの仮面を見ても、怖くない。むしろ、噴き出してしまわないかどうかのほうが心配である。

 

「全く、たった一杯ですよ。たった、ご飯一杯。それだけで満足してしまうなんて、健啖をもって尊ぶべき武道家の風上にも置けない、そうは思いませんか?」

「ああ、いや、うん、そうだね、俺もそう思うよ…」

 

 …それは、ご飯一杯しか食べられなかったんじゃなくて、そこが彼の羞恥心の限界だったんだよ、代羽。

 そう教えてあげようかとも思ったが、そんなことは百も承知な気がして、止めた。

 それでも、ぷりぷりと怒る、いや、怒るふうを装う、代羽。しかし、その頬は緩みっぱなしだ。余程、アサシンに『あーん』攻撃ができたのが嬉しかったと見える。

 俺は、心底彼に同情した。まさか、戦争の道具として召喚されて、こんな形の敗北を味わうとは夢にも思わなかったに違いない。合掌。

 まあ、ともかく、だ。

 色んな意味で満足した代羽は、今度はその食欲を満足させるべく、目の前の料理の征服に乗り出した。

 その細い体のどこに収まるのか、そういう勢いで姿を消していくおかずたち。ああ、藤村組の厨房を借りてまでたくさんの料理を準備しておいた甲斐があるというものである。

 

「あ、おい、小娘、それは俺の餃子だ!」

「代羽、その唐揚げは最後の楽しみに取っておいたもの、何と卑劣な…!」

「あー、シロ、その卵焼き、私のなのにー!」

「ほほひひへいふひほははふいほへふ、むぐむぐごくん、おほん、余所見している人が悪いのです。おかずは、然るべき時に然るべき人間の胃袋に納められるように出来ているもの。天に順う者は存し天に逆う者は亡ぶ、と言います。縁が無かったと諦めなさい」

 

 …肉親の贔屓目で見ても、それは詭弁の域にさえ達していないです、兄さん。

 正しく、盗人猛々しい。

 そんな彼女を見て、他の連中が発奮しないはずが無い。

 

「おい、桜、飯だ、飯を持って来い!」

「シロウ、おかわりです!このような屈辱、雪がずにいられましょうか!」

「お兄ちゃん、シロがいじめるー!」

 

 うちゅうの ほうそくが みだれる!

 

 こんなににぎやかで愉快な衛宮邸は、有史以来初めてです。

 

 もう、朝っぱらから俺の忍耐力と疲労度は、レッドゲージを突破しております。

 

 だから、兄さん。

 

 貴方の、そんなに楽しそうな顔が。

 

 初めて見る、貴方の、楽しそうな顔が。

 

 私は、嬉しいと。

 

 そう、思ってしまうのです。

 

 

 家に着いたときには、東の空は白み始めていた。

 いつもながら身分違いだと感じる、重厚な門。その先で、兄さんの背中から降りる。

 

「ありがとう、助かったよ」

 

 その広い背中が、どれほどに俺を安心させてくれたか、目の前の少女は知り得るのだろうか。

 やや間があって、それでも照れたような声が、聞こえた。

 

「…この程度では、何の罪滅ぼしにもなっていないでしょう。…それでは、失礼します」

 

 勇んで帰ろうとする小さな肩を、強引に捕まえる。

 もう、絶対に放さない、そういう決意を込めて。

 

「駄目だ。言っただろ、兄さん。まだ、イリヤと桜に謝ってないなら、謝っていけって。殺したなら別段、生きている人間に償うのに、一番大事なのは目の前で頭を下げることだと思う。だから、兄さん。逃げちゃ駄目だ」

 

 泣きそうな表情で息を詰まらせた少女は、やがて諦めたように肩を落とした。

 その小さな肩を、凛が支えてやっている。

 

「きっと許してくれる、なんて無責任なこと言えないけどね。でも、今しておかないと、明日後悔するわ。それだけは断言できるから。だから、代羽。もし貴方が許しを欲しいと思うなら、今、行かなくちゃ」

 

 立ち尽くした兄さんは、力なく頷いた。

 その様は、年齢相応と言うよりも、更に幼い少女の様子を思い起こさせた。

 そう、例えば母親の宝物に悪戯して、しょげかえる小学生のように。

 ひょっとしたら、兄さんの中にある一番大事な時計の針は、あの火事の日から一秒たりとも進んでいないのかもしれない。

 そんな絶望的な想像を、頭を振って、追い出した。

 

 

「ただいまー」

「…失礼します」

 

 兄さんは、慇懃に頭を下げてから敷居を跨いだ。

 おずおずとした様子に、思わず苦笑してしまう。

 

「兄さん、今日からここは兄さんの家でもあるんだから、そんなに畏まらなくてもいいのに」

 

 それに返すのも、少し苦笑したような声。

 

「それは違います。これからお世話になる家だからこそ、相応の礼儀が必要でしょう。それと、衛宮士郎。私と貴方が兄弟に戻るのであれば、それこそそういった畏まった口調は不要です。代羽、と、皆に話すのと同じように話しかけていただけると有難い」

 

 なるほど、そういうものかも知れないと、俺は納得した。

 

「ああ、分かったよ、代羽。…これで、いいのか?」

 

 目の前の少女は、花も恥らうような笑みを浮かべた。

 こんな笑顔が見られるなら、呼び方の一つや二つ変えるくらい、安過ぎる仕事だろう。

 そうして、三人が三人とも、どろどろの格好で玄関に上がる。

 泥水で水浸しになった靴下が、板張りの廊下に歪な足跡を付けていく。

 まあ、後で雑巾がけをすれば問題ないだろう。

 そう思って、歩く。

 まずは、一も二も無く、風呂である。冷えた体を温めないと、えらいことになる。

 

「ここが、先輩の家なんですね」

 

 後ろから、謡うような声が、聞こえた。

 振り返る。

 そこには、柱に手を添えながら、ぼう、とした代羽が、いた。

 

「代羽…」

 

 マキリ。

 あの家は異常だった。

 特に、あの修練場には怖気を通り越して、吐き気すら覚えた。あの部屋で代羽が受け続けた屈辱を思うと、怒りで目が眩む。

 

「…また、考えなくても良い事を考えているようですね。勘違いしないで、私はマキリの家になんら不満があったわけではありませんから。私は、確かにあの家に、救われたのです」

 

 視線を柱に向けたまま、代羽が呟く。

 それは、遠い過去に思いを馳せる視線ではなかったか。

 

「…ここは優しい家ですね」

 

 目を細めながら、代羽が続ける。

 

「自然と人が集まる場所には相応の理由が在るものです。

 ねえ、そうではありませんか、アインツベルン?」

「…なんでマキリの蟲女が、士郎の家に入ってきてるの」

 



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episode86 黄金の湯霧

「…なんでマキリの蟲女が、士郎の家に入ってきてるの」

 

 絶対零度の声が廊下に響き渡る。

 おそらく、それは人の発声しうる、最も冷たい声。

 屠殺場の家畜にだって、もっと優しい声がかけられるはずだ。

 あらためて、廊下の奥を、見遣る。

 そこには、氷よりもなお冷たい視線と気配を纏った、冬の少女が、立っていた。

 

「イリヤ…」

「出て行きなさい、ここは貴方が存在することを許された空間ではないわ。貴方には貴方に似合いの部屋があるでしょう」

 

 それは、あの穢れきった。

 蟲が、這い回る。

 彼女の肢体を、貪り尽す。

 

「イリヤっ!」

「…ふふ、つれないですね、イリヤスフィール。あの日、私のことはこれからシロと呼ぶと、そう、親愛を込めて言ってくれたではないのですか」

 

episode86 黄金の湯霧 

 

 あの日。

 昼下がり。

 住宅街の、公園。

 そのベンチで、初めて出会った二人。

 ほんの少し剣呑な空気と、その後の和やかなそれ。

 二人で、情けない俺の姿を肴にしながら、それでも楽しそうに話していた。

 

「…あの時、貴方が蟲の集合体だと気付けなかったのは、一生ものの醜態だわ」

「そうですね、白い聖杯よ。貴方にしては、些かお粗末だった。私の身体を調べるのに、魔術的な精査は不向きなのです。そちらに関しては、私は普通の人間で変わるところは一切無い。なぜなら、そのように擬態しているのですから」

  

 あの日、イリヤはこう言った。

『……驚いた、本当に違うのね、お姉ちゃんは』、と。

 しっかりと、代羽の身体の検査をした上で、そう言った。

 つまり、イリヤの魔術をもってしても、代羽の身体の特異性を見破ることはできなかったと、そういうことだ。

 少なくとも、あの時点においてイリヤは代羽に敗北していたのだ。

 おそらく、凛や桜が、代羽の真実を見抜くことができなかったのと同じように。

 それを思い出したのか、口惜しそうなイリヤの視線。

 明らかな殺気に塗れたそれを、何食わぬ顔で、代羽が受け止める。

 二人の距離は、僅かに五メートルほど。

 彼女たちに挟まれた無垢の空間が、悲しい声で軋み声を上げる。

 憎悪が帯電するような、空気。

 一触即発、そんな言葉では些か安穏に過ぎる。

 

「簡単なのですよ、ほら」

 

 代羽は、その濡れた髪の毛の一部を、力任せに引き千切った。

 ブチブチと、毛穴から毛根が引き抜かれる、嫌な音が聞こえるようだ。

 そして、彼女の右手に鷲掴みにされた、一房以上の髪の毛。

 それをにこやかに見つめる代羽自身の額から、一筋の血液が流れる。

 よく見れば、引き千切られた髪の毛の先端に、赤黒い何かが付着している。

 頭皮の肉ごと、剥ぎ取ったのか。

 思わず現実感の遠のくような、異常な光景。

 しかし、そんな常識の範疇の異常よりも遥かに外れていたのが、彼女が引き抜いた、無残な髪の毛の様子だった。

 苦悶していた。

 炭に炙られる烏賊の足みたいだった。

 苦痛に、身を捩っていた。

 釣り針を噛まされた多毛類のようだった。

 物言わぬはずの毛髪の一本一本が、怨嗟の声を上げながら、悶え狂っていた。

 やがて、毛髪の形をした蟲達は、その先端を代羽の身体に突き刺す。

 唇に、鼻の頭に、そして眼球に。

 その様子は、黒い針金が彼女を貫くようであり、或いはこの世で最も性質の悪い寄生虫が獲物に喰らい付いた瞬間のようでもあった。

 ずるずると、彼女の体に侵入を果たす蟲達。

 しかし、その本質は、ただ逸れた仲間が群れとの合一を果たしたに過ぎない。

 結局のところ、どれほど人の形が相応しくても、彼女は蟲の群体であるという事実は消えてくれないのだから。

 

「こうすれば、私が人でないことは一目瞭然だったのに。全く、口惜しいですね」

「…もっと早く気付くべきだったわ。そうすれば…」

「そうすれば、バーサーカーも死ぬことはなかった、そう言いたいのですか?」

「…そんなに死にたいの、貴方?」

 

 イリヤの紅い瞳が、その紅色を強めていく。

 白金の頭髪が、溢れ出す憎悪に巻かれて舞い上がる。

 際限を知らないように高まっていく彼女の魔力。

 不味い。

 このままでは、殺し合いになる。

 そう、思った瞬間。

 

「私は、謝りませんよ、イリヤスフィール」

 

 間の抜けた声が、廊下に響いた。

 それでも、毅然とした声であった。

 己の非を認めない、確固とした意志があった。

 しかし、同時に弱弱しくもあった。

 例えば、学級会で吊るし上げを喰らった、それでも己の正しさを主張する小学生のように。

 俺は、彼女の瞳を覗くことができなかった。

 そこに涙が溜まっていれば、俺は平静でいることが出来なかっただろうから。

 

「私の従者メドゥーサと、貴方の従者ヘラクレスは、正々堂々と、正面から渡り合った。私は、自分が如何に罪深いか、その一端程度は理解しているつもりです。しかし、私の謝罪が従者の誇りに泥を塗るのであれば、私は死んでも頭を下げるわけにはいかない」

「…、だからって…!」

「それに、故無き勝者の謝罪は、何よりも敗者の誇りを傷付けるでしょう。それでも、貴方は私如きの謝罪が欲しいとでも?」

 

 イリヤは、悔しそうに俯いた。

 俯いたまま固まってしまった。

 唇を噛み締めている。

 手を、握り締めている。

 俺は、動けない。

 俺の肩に置かれた、誰かの暖かい手にも、気付けない。

 

「そして、私は、ヘラクレスに謝罪するつもりが無いのと同時に、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンに謝罪するつもりも無い。何故なら、彼女は貴族だから。貴族は、戦う者だから。戦いを生業としたものが、何を求めて何を失うか、その全てを了解した上で参戦した大儀式。そこで敗れ去った弱き者に対して、どうして同情の言葉が必要なのですか?」

「…うるさい、黙れ…」

 

 雪の少女は、苦しそうに反駁した。

 目の前にたった蟲の少女を睨みつけながら、反駁した。

 それは、感情の塊だった。

 もう、理屈とか、敵とか、筋とか、そういうものではなかった。

 ただ、許せない。

 ただ、悔しい。

 ただ、悲しい。

 そういう、他者には到底伝えきることの出来ない感情の塊、それが彼女の中を、きっと荒れ狂っているのだろう。

 そう、思った。

 

「ただ、イリヤ」

 

 代羽は、そっと、歩き出した。

 たったの。数歩。

 べしゃりと、濡れた足音。

 それすらも、間抜けに響く距離。

 やがて、対峙する、雪の少女と蟲の少女。

 白い聖杯と、黒い聖杯。

 俺の、姉と、兄。

 そこに、人一人が立ち入るだけのスペースは、既に無い。

 

「私は、貴方にだけは謝罪したいと思います」

 

 彼女は、その場に膝を折って、床に直接坐り。

 両手をイリヤの爪先の前に揃えて、そのまま額を地面に擦り付けた。

 

「申し訳ありませんでした、イリヤ。私は、貴方の家族を、奪った。貴方の最も大切な人を殺した。その罪、万死に値します」

「…そのまま、『ハラキリ』でも見せてくれるの?」

「お望みと在らば。もっとも、その程度で死ぬことなど出来ませんが」

 

 じりじりと、どこかで音が鳴った。

 ひょっとしたら、冷蔵庫のモーター音かもしれないし。

 蛍光灯の、焼ける音かもしれないし。

 正直、どうでもよかった。

 ただ、目の前で土下座して許しを乞う代羽が、兄さんが、少し悲しかった。

 

「…私を殺そうとした貴方が、どうして私の許しを欲するの?」

「…確かに、私は貴方を殺そうとした。ありとあらゆる恥辱と凌辱の果てに、殺そうとしました。それでも、私は許して欲しい。イリヤ、貴方には、赦して欲しい」

「…あの時、貴方、言ったわね。私が罪深いって。それ、何のこと?少なくとも、直接的に貴方に恨みを買った覚えなんて、無いのだけれど」

 

 代羽を見下すイリヤの瞳に、既に怒りは無かった。

 そこにあったのは、憐憫だった。

 それが、年端もいかない少女、その前で膝を折る代羽の姿を憐れんでのことなのか、それ以外のものを憐れんでのことなのか、それは分からなかったが。

 

「…貴方の罪は、死んだことです。貴方にもっとも救いを求めていた者を見捨てて、安楽に満ちた違う次元に旅立ったこと。それが、貴方の赦されざる罪です」

「…私、まだ生きてるんだけど」

「はい、知っています。ですから、お願いします。心から、お願いします」

 

 ごつんと、低い音が、鳴った。

 それは、少女の額が、堅く冷たい廊下と正面からぶつかった、乾いた音だった。

 兄さんは、真実額を廊下に擦りつけながら、涙に滲んだ声で、こう言った。

 

「生きてください。生きてください。お願い、イリヤ、死なないで。みっともなくても、醜くても、どんなに苦痛でも。お願いだから、生きてください。彼を、見捨てないで下さい。お願いします、私には、お願いすることしか、出来ないの。だから、お願い。どうか、生きて、お願いだから、生きて…!」

 

 しばらく、誰も動かなかった。

 俺も、凛も、そしてイリヤも。

 ただ、蹲った代羽の背中だけが、寒さに耐えるように、ガタガタと震えていた。

 泣いているのだろうか、と。 

 俺は、残酷なことを思った。

 

「…つまんない。もう一回、寝直すわ、私」

 

 やがて、雪の少女は、その踵を返した。

 とたとたと、軽快に、それでも無遠慮に響く、少女の足音。

 それを遠くに聞きながら、代羽は額を廊下に押し当てたままだった。

 

「しろ…」

 

 彼女の背中、震えたままの小さな背中に伸ばしかけた、俺の腕。

 それを、誰かの小さな手が、制する。

 ゆっくりと振り返る。

 そこにいたのは、少し厳しい瞳で俺を見つめる、俺の恋人だった。

 彼女は、ゆっくりと頭を振ってから、そっと歩き出す。

 そして、小さくなった代羽の背中を摩りながら、彼女を優しく立ち上がらせてやった。

 うう、と、低くくぐもった声が、聞こえた木がした。

 嗚咽、だったのかもしれない。

 

「…さ、代羽、お風呂、入りましょう。大丈夫、私も一緒に入ってあげるから…」

「…ふ…っぐ…す、みません、おねがい、します…」

 

 よろよろと歩き出す代羽。

 その背中は、ついさっきまで俺と戦っていたことが信じられないくらいに、弱弱しいものだった。

 

「ほら、何ぼさっとしてんの、士郎。あんたも来るの!」

「え、俺?」

「あんた以外、士郎なんてどこにいるのよ?あんただってたっぷり雨に打たれたんだから、油断してると風邪引くわよ」

 

 …そりゃあ、そうかもしれないけど。

 

「ほら、早く来る!今更、知らない仲じゃあないでしょう!」

 

 いつもより高めの大声は、きっと少し緊張しているから。

 女の子にそこまで言わせたんだ。これでびびってたら男じゃあない。

 そんな、きっと言い訳を頭の中で聞きながら、俺の足はのったりと動き出したのだ。

 

 

「あー、極楽、極楽…」

 

 朝の光が、小さめの窓から差し込んでくる。

 その光は、湯気に満たされた狭い浴室を、鮮烈に照らし出すのだ。

 俺は、今、湯船に浸かっている。

 しっかり肩まで浸かって、あと百秒数えたらあがっていいよ、そんな状態だ。

 皆が使った後の残り湯だから、自然とその量は減っている。

 それでも、今、その水位は決壊寸前、しっかりと俺の肩までひたひたに温めてくれる。

 理由は、簡単。

 俺を含めて、三人分の体積が、湯船に沈んでいるからだ。

 

「んー、檜の湯船っていいわね。何度浸かっても飽きないわ」

「ええ、全く。この、胸を梳くような香りが、たまらない」

「…」

 

 俺の両サイドに、二人の人影。

 遠坂凛と、マキリ代羽。

 ここは日本の風呂、しかも個人の風呂なんだから、当然の如く二人とも一糸纏わぬ艶姿である。

 煌くような朝日の中、浮かび上がった二人分のシルエット。

 白く、艶かしい肌が、二人分。

 当然、いくら広めとはいえ、個人の家にある湯船がそれほど広いはずは無い。

 そこに三人分の肉体を詰め込めば、然るべくしてあれやこれやがぶつかるわけで…。

 

「ちょ、士郎、どこさわってんのよ、エッチ!」

「あん、士郎、そんな、大胆な…。こんな場所では…それに、凛の前では、少し恥ずかしいです…」

「な、士郎、あんた、もしかしてシスコン?いや、この場合はブラコン?それとも同性愛?」

「もう、ちゃんと言ってくれれば、私は何でもしてあげますよ?言ったでしょう、娼婦にでも奴隷にでもなると…」

「…士郎!あんた、代羽に何したのよー!」

「ふふ、激しかったわ…」

 

 …すみません、もう、勘弁してください。

 怒りに満ちた凛の声と、明らかに嗜虐に歪んだ代羽の声。振り返れば、凛からは見えない角度で小さな舌をだしている。少し眼が赤い気がするが、その様子はいつもの代羽だ。

 ああ、これ以上ここにいたら、殺されるな。

 そう確信して、心の中で白旗を振り回して、すっかり温まった身体を湯船から引き上げようとした、そのとき。

 

「…ん…?」

 

 磨りガラス越しに、誰かの影が、見えた。

 小さい。

 そして、長い髪の毛と、曇った視界でもわかるほどの、白い身体。

 これは―――。

 

「入るね、お兄ちゃん」

「イリヤ―――!」

「駄目、見るな―――!」

 

 がらがらと開いた、浴室の扉。

 その瞬間に俺の目の上から覆いをしたのは、きっと凛の掌だろう。

 

「これ以上、私の恋人に変態属性を噛ませるわけにはいかないの!お願いだから、見ないで!」

 

 …うーん、これでも一応はイリヤの身内だし、家族に欲情するほど、ケダモノじゃあないぞ、凛。

 そんな俺達なんていないふうに、イリヤの気配が室内に入ってくる。

 軽い、足取り。まるで体重なんて無いかのよう。

 

「…イリヤ」

「…少し、寝汗掻いちゃったから」

 

 風呂椅子を手繰り寄せる、音が聞こえた。

 きっと、それに腰掛けたのだろう。

 

「誰か、背中、流してくれると、嬉しいな」

「イリヤ…」

 

 ゆっくりと、目隠しが外れる。

 優しい戒めから解き放たれた視界には、無数の宝石が踊っていた。

 きらきらと輝く朝の光を、湯気が反射している。

 ダイヤモンドダストみたいだと、思った。

 そうして、それを従える彼女は、まるで雪の女王。

 その白い背中が、限りなく尊かった。

 

「…私でも、いいですか、イリヤスフィール」

「…イリヤ、そう呼んでくれたら、貴方でもいいわ、シロ」

 

 隣で、ばしゃりと湯から上がる音が、聞こえた。

 俺と凛も、無言でそれに倣う。

 ただ、違ったこと。

 俺と凛は、そのまま浴室を後にしたけど。

 もう一つの音の主は、其処に残って、雪の少女の背中を、労ったのだろう。

 それだけが、違うこと。

 三人が同時に浸かったあとの湯船だから、お湯の量が心配だけど。

 二人が同時に入るなら、それでも肩まで浸かれるだろう。

 それでいいと思った。

 ふかふかのタオルで、手早く身体を拭いて。

 下着を身につけて、パジャマを着て。

 そうして、ほかほかと湯気を身に纏ったまま、俺と凛は、同じ布団に、入った。

 布団の中で、さっき身につけたばかりの衣類を、全て脱がせあって。

 そのまま、優しい気持ちのまま、抱き合うようにして眠ったのだ。

 ほんの一時間少しの、短い眠りだったけど。

 それでも、一番深いところで眠れたのを、憶えている。

 

 

 朝食が終った後の、気怠い食卓。

 そこを、張り詰めた静寂が支配する。

 

「…以上が、この聖杯戦争の舞台裏。どう?少しは驚いてくれたかしら?」

 

 イリヤは、出来のいい手品を成功させたマジシャンみたいに、得意げに笑った。

 大変なのは、それを聞いたほうだ。

 凛、桜、ランサーは言うに及ばず、魔術の世界には疎い、俺やセイバーなんかも驚きを隠せない表情のまま固まっている。

 平静なのは、或いは平静を装えているのは、おそらく全てを承知していたセラとリズ、あとは代羽とアサシンくらいのものだろうか。

 

「…第三魔法、ヘブンズフィール、か。まさか、私のご先祖様が、第二だけじゃなくて第三魔法にまで関わってたなんて、ね…」

「ふふ、そういう意味では、貴方は自分の出自を誇ってもいいんじゃないかしら、リン」

 

 二百年前。

 集まった魔道の大家は、三つ。

 表の聖杯戦争と、裏の聖杯戦争。

 内を改変するのではなく、外に至る試み。

 そうして、第三回、聖杯戦争。

 アインツベルンの呼び出した、反英雄。

 アベンジャー、アンリマユ。

 この世全ての悪。

 ただ、悪であれと、そう望まれた存在。

 それが、聖杯に潜むものの、正体。

 

「代羽は、そんな奴と、パスが繋がっているのか…」

「ええ。私の子宮、黒い聖杯とアンリマユは、最早不可分なほどの強い結びつきがある。おそらく、今回の聖杯戦争においてイリヤの心臓に只の一つも英霊の魂が収められていないのは、そういうことでしょう」

 

 代羽は、事も無げに言い切った。

 おそらく、この程度のこと、彼女にとっては既定の事実だったのだろう。

 何せ、彼女が彼女として生まれたときから、そのくそったれな契は、そこにあったのだ。今更嘆き悲しめというほうが酷に過ぎるのかもしれない。

 だからこそ、その様子が、俺の目には限りなく残酷に映った。

 

「…貴方が受け入れているなら、話が早くていいわ。もし、今回の聖杯戦争で『穴』が開くなら、それはアンリマユがこの世に生誕することを意味している。今までみたいにアインツベルンの鋳造した聖杯ならばいざ知らず、今回は、いわばアンリマユの作り出した聖杯が道しるべなんだから、中にいる者が這いずり出てこない筈が無い」

 

 …つまり、代羽の存在は、アンリマユにとって闇夜を照らし出す灯台のようなものだということだろうか。

 今まではその出口が分からなかったから、泥なんていう迂遠な手段をもって外界に働きかけるしか出来なかった魔が、今回はその本体を受胎させることを狙っている、と。

 

「…では、この地の聖杯では、私の願いは…」

 

 ぎしりと、歯を軋らせる音が、聞こえた。

 そこにいたのは、かつての俺の従者で、今の俺の戦友。

 聖緑の瞳をした少女が、射殺すような視線で、己の膝を、見つめていた。

 

「…そうね。あなた方、招かれた人達には申し訳ないけど、既に冬木の聖杯は、あらゆる願いを『人を呪う』という方向性で叶えることしか出来なくなってしまっている。セイバー、貴方の願いが何なのか、私は知らないけど、貴方のような人が望む願いは、きっと叶えられない」

「…それでは、詐欺でないか…」

 

 血を吐くような、台詞。

 飲み込んだ石を吐き出すような、一言だった。

 彼女が、気高い彼女が、一体どんな願いを持っているのか、情けないことに俺は知らない。

 それでも、己の死後を預けても構わないと思うほどの願い。

 それが叶う機会が、後一歩のところで断たれた。その怒り、口惜しさ、歯がゆさは筆舌に尽くし難いほどだろう。

 

「…すまない、セイバー…」

「…何故、貴方が頭を下げるのですか、シロウ。貴方は、何一つ悪いことをしていない。悪いのは…」

「私も謝罪させて、セイバー。かつてアンリマユを呼び出し、かつて貴方を使役したものの子孫として、私には貴方の怒りを受ける義務があると思うの。だから、御免なさい。許して、なんて口が裂けても言えないけど…、でも、御免なさい」

「…頭を上げてください、シロウ、イリヤ。確かに、謀られた怒りは容易に消えてくれそうにはありません。しかし、今、我々には成すべきことがあるはずだ。これ以上民草の血を流さないためにも、我々はくだらないことで仲違いをすべきではない。故に、今回の件については、全てが終わるまで棚上げにさせて頂きたい」

 

 己の膝を見つめていた視線は、いつしか前のみを見据えていた。

 そこに、後悔や逡巡は、無かった。

 ただ、決意が。

 無辜の民、その涙と血を流させないという、真に誇り高い、彼女の決意が、あった。

 その光が、俺たちをどれだけ安堵させてくれるか、昂ぶらせてくれるか。彼女はそのことを理解しているのだろうか。

 

「…思えば、あのときの切嗣も、それを理解していたのでしょうか…。であれば、私は彼に所以の無い恨みを抱いていたことになる。ならば、この戦、彼に報いるためにも、負けるわけにはいかない」

「ま、俺は戦うために召喚に応じたんだ。別に、そこらへんはどうでもいいさ」

「…」

 

 三者三様の、サーヴァント達の反応。

 その中で、アサシンだけ、如何なる感情も発露させなかった。

 その笑った仮面の下で、何を考えているのか、少なくとも今の俺には窺い知ることは、できなかった。

 

「…そういえば、言峰は、この戦いで何を望んでいるの?」

 

 凛が口にした、余りにも当然の疑問。

 言峰綺礼と、そのサーヴァント、英雄王ギルガメッシュ。

 最後の、そしておそらくは最強の敵。

 

「…言峰神父の目的は、私の子宮を通じて、アンリマユをこの世に現界させること。英雄王の目的は…どうもはっきりしませんね」

「…子宮を通じてって…」

 

 くすりと、代羽は、笑った。

 己の下腹部を摩りながら、さも幸せそうに。

 

「彼はね、己の精子と私の卵子で、原初の人を、神を生み出そうとしているのです。そんなこと、成功するはずが無いのに。全く、馬鹿な人だ…」

「…とにかく、そういうことなら、私たちが為すべきは、何?」

 

 凛の疑問に、イリヤが答える。

 

「まず、サーヴァントを守護すること。これが第一よ。サーヴァントの魂が『座』に還ろうとする力をもって大聖杯は起動するのだから、その魂を小聖杯に取り込ませないこと。小聖杯の起動だけなら英霊の魂五つ分もあれば問題ないけど、大聖杯の起動には、普通の英霊ならきっちり六個分の魂が必要になる。今、シロの心臓に取り込まれた魂は、アーチャー、バーサーカー、ライダー、キャスターの四騎分。半神たるヘラクレスの魂を仮に二騎分と見積もっても、まだ余裕はある」

「あちらさんがこちらのサーヴァントを仕留める、その前に柳洞寺の地下にある大聖杯の起動式を破壊する。それが私達の勝利条件ってわけね」

「流石リンね、理解が早くて助かるわ」

「じゃあ、今すぐに行こう」

 

 息せき切って、腰を上げようとする。

 敵の目的も、目指すべき目的地も分かったんだ。

 なら、行動は早いほうがいい。

 

「待ちなさい、士郎。セイバー、貴方の意見を聞きたいの。言峰は、前回のアーチャーのマスターは、この真実に気付いていると思う?」

「…切嗣が気付いたのですから、おそらくは同じような立場にいたはずのアーチャーのマスターが気付いたとして、さほど不思議は無いでしょう。少なくとも、気付いているものとして、我々は行動すべきだと思います」

「そう。なら、言峰が従える前回のアーチャー、ギルガメッシュ。この場にいる全員が正面からぶつかったとして、勝ち目はある?」

「…彼には、他者を見下す悪癖があった。故に、前回の聖杯戦争では、ほぼ五分の戦いに持ち込むことが出来ましたが…。もし、彼が万全の準備を備えて我々を迎撃するというのであれば、私を含めて、今ここにいる面子では些か心もとないでしょう」

「な!?」

 

 この場にいる、全員でも、歯が立たない?

 サーヴァントが三騎と、それと同じ位の力量をもつ、ヨハネ。

 その力を束ねても、なお勝てないと、そういうことか?

 

「正確な状況把握、感服しました、騎士王」

「…代羽、貴方も同じ意見ということですか?」

「ええ。あれは、大嵐だ。いわば、自然災害の類。力のスケールが違い過ぎる。そもそも、人間の力をもってして押しとどめようというのが、どだい無理な話なのです。正面から挑むのは、愚策に過ぎる。搦め手を用意すべきでしょうね」

 

 しん、と静まった室内。

 誰も言葉を発しない。

 一人、ランサーだけが妙に承服し難い表情でそっぽを向いているのだけが印象的だった。

 

「…じゃあ、どうするんだ?」

「…敵も、守るべき場所がはっきりしている以上はそこを離れることは無いでしょうね。なら、時間的有利はこちらにある。ここは腰を据えて、じっくりとかかった方がいいと思うわ。さしあたって、戦場となるであろう柳洞寺、その付近の住人の避難と保護。あとは、セイバーを始めとして、疲弊した戦力の回復を待つ。動き出すのはそれからでも遅くないと思うんだけど、どうかしら?」

 

 またしても、誰も声を上げなかった。

 否定する意見が無いかわりに、積極的に賛同する意見も無い。

 確かに、正答は凛の意見で間違いないのだろうけれど、何かを見落としているような、小骨が咽喉に突き刺さったような不快感があるのは、隠すことが出来なかった。

 そうして、その場は解散となった。

 誰もが、その表情に承服し難い何かを抱えたまま。

 



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episode87 満月の夕暮れに

 咄嗟にあいた空隙の時間、どのように過ごしたものかと考えてしまうのは、俺がつまらない人間だからだろうか。

 ぼうとした目で庭を見遣ると、そこには日光を跳ね返してきらきらと光る水溜りがあった。

 空気は、驚くほどに暖かい。肌を切り裂くような寒気も、今はどこかに身を潜めているかのよう。

 太陽は既に中天を越え、あとは重力に引かれて落ちていくのみ。抜けるような青空は少しずつその青みを増していき、いつしか赤く染まったそれは闇夜に領土を譲り渡すのだろう。

 目を覚ましたとき、家には疎らな人影しかなかった。平時のそれと比べても少ないと感じるほどである。

 唯一、そう言って語弊は無いだろう、唯一残って居間で緑茶なんかを啜っていた代羽に、話しかける。

 

「…みんな、どこ行ったんだ?」

「おはようございます、衛宮士郎。といっても、もう昼もとうに過ぎましたが」

 

 彼女はこちらに一切視線を寄越さないまま、そう言った。

 その顔に浮かんだ表情は、怒りのようでもあり、呆れのようでもあり、焦りのようでもある。

 要するに、俺はまだ、彼女の感情の機微についていけていないのだ。それとも、これが現時点での、俺と彼女の器の違いなのかもしれないが。

 

「悪い、ほんの仮眠のつもりだったんだけど、まさかこんなに眠る破目になるとは…」

 

 ずずっと、熱い液体を啜る音が、ただっ広い居間に響く。いつもの見慣れたいつもの居間だというのに、今朝の喧騒を懐かしく感じてしまう。

 自分は、ここまで弱い人間だったのだろうか。いや、そもそもこれは弱さなのか?

 

「…昨日、私が貴方に何発の銃弾を打ち込んだか、何箇所の関節を破壊したか、教えてあげましょうか?私のような人間から言わせれば、貴方は今ここで起きて呼吸をしているほうが奇妙に思える」

「…もう、その事は忘れよう。俺だって、代羽の手首を…」

「はい、もう、忘れましょう。とにかく、貴方は自分では気付いていなかったかもしれませんが、相当に消耗している。だからこそ、遠坂先輩も貴方を起こさなかった。もし貴方が惰眠を貪っていると判断すれば、寝耳に熱湯を注ぎこんでも叩き起こす人です、あれは」

 

 ああ、その評価は痛く同感。

 でも、その人を愛したことに、後悔は無い。

 だから、その厳しさだって、愛せる。

 それは、どれほど幸運の女神に愛されたからこその結果なのだろうか。

 俺と代羽の頬に、同じような笑みが浮かんだことを凛が知れば、怒るだろうか、拗ねるだろうか。

 

「遠坂先輩と桜は、この街の有力者に掛け合いに行きました。柳洞寺付近の住民を穏便に避難させる手筈を整える、とのことです。全く、こんなこと、本来は監督役の所管たる雑事なのでしょうけどね」

 

 その監督役こそが、おそらくは最後の敵なのだ。

 ほとんど詐欺染みた所業だとは思うが、この場合誰に文句を垂れるわけにも行かない。強いて言うならば、そんな不良神父を養ってきた聖堂教会に対してだが、それもこんな短期決戦では如何なる効果も期待できない。

 おそらくは世界中に存在する愚痴の九割以上が迎える結末と同じように、俺はそれを飲み込むしかないのだろう。

 最後は、自分の力で。この世の真理である。

 

「おそらく、不発弾処理を装うのではないでしょうか。実際に戦闘による爆発があっても、それなりに誤魔化しやすい」

「ランサーとセイバーも、それに同行しているのか?」

「ランサーはそうです。セイバーはイリヤ達に同行しています」

「なんだ、イリヤも出かけてるのか。一体、どこに?」

「アインツベルンの城、その跡地です。何やら探すものがあるとか無いとか言っていましたが、詳細は把握していません」

 

 なるほど。

 イリヤが足を運ぶ場所に御付きの二人が同行しないなんて、ありえる話ではない。ならば、今この家にいるのは―――。

 

「俺と、代羽だけか」

「後ろに、もう一人」

 

 指を指されて、思わず後ろを振り返る。

 そこには、枯れ枝のように細い巨体と、白い髑髏の仮面。

 粉う事なき、アサシンがいた。

 

「…ああ、なるほど」

 

 本来であれば飛び上がるほどに驚いても不思議ではないのだが、今は笑いを堪えるのに必死だ。

 だって、この強面で、代羽には到底頭が上がらないのだ。それは今朝の食卓で、万人のしるところとなってしまったのだから。

 涙目の代羽に縋りつかれて、渋々といった表情で浮かしかけた腰を落ち着けたその様子は、あたかも駄々っ子に手を焼く、それでも子供想いの父親のようで、大変に微笑ましかった。外見は人間から外れている風だが、それでもやはり人なのだと再認識した。まあ、そんなことを言われて暗殺者の英霊が喜ぶとは思えないが。

 

「…でも、無用心じゃあないか?相手は、ここにいる全員の力を合わせても勝てないようなサーヴァントなんだろう?なら、ここは一箇所に集まって…」

「一箇所に集まっても勝てませんよ、あれには。それに、相手がどこにいるか把握できているのですから、今は特に警戒する必要はないのではないでしょうか」

 

 あくまで悠然とした様子の代羽。

 その様子に、一抹の違和感を感じる。

 なんというか、余裕がありすぎる。少なくとも、敵はこちら以上の戦力を抱えている以上、もう少し慌てふためくとか、そこまでいかなくても緊張するとかあってもよさそうなものだが。

 もしかしたら、代羽にはギルガメッシュを倒す秘策のようなものがあるのだろうか。

 それとも―――。

 

「衛宮士郎」

 

 まるで、自分の考えを見透かされたような拍子で声をかけられた。

 つつと、嫌な汗が流れる。これは、別に疚しいことを考えていたわけではないのだ、そんな意味の無い自己弁護をする自分に驚く。

 

「デート、しませんか?」

 

episode87 満月の夕暮れに

 

「昼食は、どうしたんだ?もう、冷蔵庫の中は空だったはずだけど」

「店屋物を。ふふ、あのときのセイバーとランサーの遠慮の無い食べっぷり、貴方にも見せてあげたかったくらいです。ツケにしておきましたから、あとでゼロの数を見て驚かないように」

「ああ、それは、何とも…」

 

 きっと渋い顔を浮かべながら、午後の陽光の中を歩く。

 歩幅を小さめに歩くのは、俺の左手を握り締めながら歩く少女のせい。

 さらりと長い黒髪が、時折吹く風に遊ばれる。

 その、極上のハープ奏者の手のように、優雅に流れる髪の毛。日の光を反射したそれが、神々しさすらを感じさせながら舞い踊るのだ。

 その、女神ですら羨むような毛並みの少女は、微笑みながら俺の腕を抱き締めていた。

 マキリ、代羽。

 俺の、兄、だった少女。

 彼女が、少し不服そうに、俺を見上げた。

 

「もう少しどぎまぎしてくれると、嬉しいのですけど」

「同性愛の気もないし、兄弟愛の気もないよ、俺は」

「ふふ、私が看病してあげた時は、あんなにも慌てふためいていたのに。あの可愛らしい弟はどこに逃げおおせてしまったのでしょうか?」

「ふん、涎を垂らしながら公園のベンチで鼾をかいていた兄さんよりは、マシだと思うけど」

 

 他愛のない、咽喉元を擽るような会話が心地いい。

 彼女もそうなのだろうか、まるで陽光に寝そべる猫のように、目を細めいている、

 柔らかな三日月を描く、その黒い瞳。

 俺の、錆び付いた銅のような色とは、全く違う。

 それでも、鏡に映った自分の瞳とはそっくりだと思う。

 それでも、黒い、瞳。

 狂った魔術師の手によって捻じ曲げられた、その黒い瞳。

 一体、今までどのような苦痛を、その小さな身体に刻んできたのだろうか。

 もし、彼女がそれを嘆き悲しんでくれれば、怨み言の一つでも吐き捨ててくれれば、まだ救われると思う。

 しかし、彼女は、あの薄暗い地の底をこそ、救いだったという。彼女の身体を弄繰り回し、性別を、その遺伝的な要素を捻じ曲げ、その身を凌辱し続け、人としての肉体すらを奪った祖父を愛していると、そう言うのだ。

 ならば、彼女を甚振り続けているのは、どのような地獄なのか。俺には想像もつかないし、そもそも想像することなど許されないのだろう。

 俺の、兄。

 一体どんな名前だったのだろうか。

 どうしても思い出すことが出来ない。

 ほんの少しだけ、あの時言峰に見せられた戸籍謄本を破り捨てたことが悔やまれた。

 

「代羽、これから、どうするんだ?」

「どうするとは?」

「あの屋敷で、一人で暮らすのか?」

 

 あの、屋敷。

 腐臭漂う、蟲達の巣。

 そこで、一人きり。

 それは、あまりにも―――。

 

「私は、既にマキリの魔術師、そしてマキリの当主です。ならば、それが当然でしょう」

「…俺は、俺の家で一緒に暮らせればいいかなって、そう思ってるんだけど」

 

 そんな、まるでプロポーズのような言葉。

 するりと、考える前に口から滑りでた。

 でも、一部の後悔もなかった。何故なら、その言葉はどこまでも本心だったから。

 少女は、相も変わらず微笑ったまま、頷いた。

 

「ええ、それはきっと素敵でしょうね」

「藤ねえだって、話せばきっと分かってくれる。そうだ、イリヤも一緒に暮らせばいい。あいつは切嗣の本当の娘なんだから、誰よりもウチに住む資格がある」

「ふふ、藤村先生が叫びだしそうですね、『またこんなに女の子ばっかり連れ込んでー!』って」

 

 その様子を想像して、やはり二人で吹き出した。その様子は既に確定した未来を思わせたからだ。

 

「代羽、料理得意だろ?これからは、桜と俺と代羽で、交代で料理を作れるな。俺は和食、桜は洋食、代羽は何が得意なんだ?」

「私は何でも。敢えて言うならば和食でしょうか」

「ああ、それはうかうかしていられない。そういえば、前に食べさせてもらった牡蠣雑炊、凄く美味しかった。また今度、レシピを教えて欲しい」

「あれは秘伝のレシピ、そう簡単に教えるわけにはいきません。それでも、そうですね、あとは遠坂先輩の中華料理を加えれば、如何にもにぎやかな食卓になりそうだ」

 

 遠坂、凛。

 彼女と一緒に住むということがどういうことか、それを再確認して赤面する。

 ずっと憧れだった、少女。

 俺が初めて抱いた、少女。

 俺に初めて抱かれた、少女。

 今日も、裸で抱き合って眠った、少女。

 ずっと、彼女と一緒に生きたいと思う。彼女と一緒に歩いていきたいと思う。それが叶えば、どれ程に幸福だろうか。

 それでも、それは―――。

 

「それでも、貴方は、正義の味方を選ぶのですか」

 

 少女は、俺の腕に込める力を、少し強めたようだった。

 まるで、縋りつくような力だった。

 

「ああ、もう、決めたから」

 

 だから、俺も、歩いた。

 もう、誰かに諭されて自分の道を変えるのは、嫌だった。

 

「頑固者。誰も、幸福にならない。私が保証します」

 

 その声に含まれていたのは、幾らかの憐憫に、怒りを少々、あとは羨望と蔑み一匙。

 その配合は、まさに彼女らしい。

 

「ああ、自分でも嫌になる」

「ならば、あらためなさい」

「ああ、ほんと、そう思うよ」

 

 

 少し疲れてたから、ベンチに、座った。

 いつか、代羽と一緒にハンバーガーを齧った、あのベンチだった。

 別に、探したわけじゃあない。公園の入り口から一番近いベンチがそこだったというだけの話だ。

 まだ、日は高い。それでも東の空は赤く色づき始めているようだから、おそらくは四時過ぎといった頃合だろうか。

 長い間、歩いたものだ。

 ヴェルデのウインドショッピングから始まって、その足で冬木港までぶらぶらと。女の子とまともにデートしたことなんか無いから良くは分からなかったが、女性というのはあそこまで体力があるものなのだろうか。そう感心してしまうほどに引っ張りまわされた。

 それでも、その疲れが少しも苦痛ではないのは、それが幸福の領域に属することだからだろう。

 傍らに置いた缶ジュースを、一口飲む。

 赤い背景に白のラインが数本描かれたラベルは、世界で一番有名な炭酸ジュースのそれだ。その濁った泥水色の液体が、細やかな爆発を起こしながら咽喉元を通過していく。

 その、えもいえぬ快楽に、思わず目を瞑る。

 きっと、一仕事終えた後に缶ビールを呷るお父さんというのはこういう具合なのだろうか。

 

「お待たせしました」

 

 そこには、少女が立っていた。

 いつもの、野暮ったい服装。

 白いブラウスの上に、ざっくりとパーカーを羽織っている。

 身体のラインのわかる、すっきりとしたジーンズ。

 スニーカーだけ赤いというのは、彼女なりのこだわりだろうか。

 そんな、いつもと変わらない、彼女。

 その彼女の右の耳を、銀色のピアスが飾っていた。

 目立った特徴の無いそれは、飾り物を好まない彼女が、珍しく俺にねだった物だった。

 それが、沈み行く陽光を反射して、きらきらと輝いていたのだ。

 

「…そんなのでよかったのか。もっと高い物だって買えたのに」

「無粋なことを言うものではありません。値札についたゼロの数が物の価値を決めるわけではないでしょう」

 

 そんなものかと、思う。

 そうして、彼女は俺の隣に腰掛けた。

 その手には、逆三角形の形をした、甘い香りのする包み。

 彼女は、それを俺の鼻先に突きつける。

 

「ほら、あの時一緒に食べられなかった、フルールのクレープです。これのお返しというにはやや見劣りしますが、ゼロの数が物の価値を決めるわけではありませんので」

 

 さも嬉しそうに悪戯っぽく笑われると、返す言葉も無い。

 だから、苦笑いだけを浮かべて、その包みを受け取った。

 代羽は、俺が受け取るのを確かめることも無く、既にクレープにかぶりついていた。その頬は、これこそが幸せと言わんばかりに、にこやかに歪められている。

 そんな様子を横目に見ながら、俺も代羽に倣う。

 ほんわかと暖かいクレープの皮、それと柔らかい甘さの生クリーム、各種苺の甘酸っぱいソースが口の中で絡み合う。なるほど、これなら五百円分の価値は十分過ぎるほどあるだろう。

 しばらく、無言。

 いい加減、口の中が甘ったるくなって、少し苦めのお茶でも欲しくなってきたとき、代羽が口を開いた。

 

「私は、たくさんの人を殺しました」

 

 無言で、そのままクレープを食べ続けた。

 胸を焼くような甘さが、今はありがたいと思った。

 そうでなくては、きっと要らぬ言葉を吐いていただろうから。

 

「祖父を殺しました。兄を殺しました。見知らぬたくさんの人たちを、ライダーの生贄のために、或いは私自身の食料として喰い殺しました」

 

 やがて、クレープは俺の手から姿を消していた。

 最後に残った包み紙をくしゃくしゃに丸めて、屑篭に放り投げた。

 

「家族もいたでしょう。恋人がいると命乞いをした者もいました。人が生きるということは、それだけの数の繋がりが生まれるということ。私は、何の権利も無くそれらを断ち切って、それでものうのうと生きている」

「…人を殺す権利なんて、誰にも無いよ」

 

 あるとしても、そう勘違いしているだけのこと。

 人の命を断つ権利なんて、本人にすらないのだから。

 

「例えば、死刑の執行官などはどうでしょうか。彼らには、人を殺す権利があるのでは?」

「違うと思う。あの人たちには、人を殺す義務があるだけだ。権利なんて、誰にも無い」

 

 さわさわと、皮膚を弄るような風が拭いた。

 彼女の髪が、少しだけ舞い上がって、俺の鼻先を擽った。

 えもいわれぬ、心地いい香りがした。

 

「…では、何の権利も無く人を殺めた私に、正義の味方たる貴方は、如何なる罰をもって応じますか?」

「…兄さんは、残酷だ」

 

 心の底から、そう思う。

 俺に、どんな答を期待しているのだろうか。

 死をもって償えと。

 無理だ。人を殺した罪は、自分を殺すくらいじゃあ消えてくれない。

 では、どんな償い方が?

 分からない。

 例えば、それからの人生を、身を粉にして他人のために尽くすことだろうか?

 しかし、それすらも犠牲者の家族からは偽善との謗りを免れ得ないだろう。

 だから、俺は、思うのだ。

 

「…償い方を、探すこと。誠心誠意かけて、一生をかけても、自分が殺した人に、どういうふうに償えばいいのか、それを探すこと。それが、償いなんじゃあないだろうか」

 

 それでも、自己満足の域を脱し得ない。

 それは、百も承知だ。

 それでも、何を為しえるのか、何を償え得るのか。

 それを探すことは、価値は無くても、意味だけはあるような気がする。

 きっと、錯覚だろうけど。

 

「…ならば、貴方にとってのそれが、正義の味方なのですか?」

「…どういう意味だ?」

 

 ちらりと、隣を見る。

 そこには、悲しげに空を眺める、代羽がいた。

 俺も、空を眺めやる。

 そこには、欠けるところの無い、月が在った。

 

「貴方は、あの火事の中で、多くの人を見殺しにした。それは事実とは異なりますが、貴方の主観でそう確信している以上、それは事実と異なるところは無い。そして、貴方は悔いている。己だけが生き残ったことを、誰よりも悔いている。違いますか?」

「…違わない」

 

 炎。

 物言わぬ、人だった物。

 それを横目に見ながら、俺は生き残った。

 今も、耳の奥に響く無限の怨嗟。

 それは、絶え間なく俺を責め立てる。

 仮に、俺が兄さんに背負われていたとしても、同じこと。

 仮に、俺が誰かを助けることが出来ないほどの傷を負っていても、同じことだ。

 要するに、俺は助けようとしなかった。

 彼らと同じになりたくなかった。

 彼らの救いを求める声を無視しても、自分だけは助かりたいと、そう思ってしまった。

 ならば、結局は同じこと。

 俺は、彼らを見捨てた。

 そうして、今、生きている。

 自惚れで無ければ、たくさんの人たちに愛されながら。

 こんなにも、恵まれて。

 駄目だ。

 幸せが許せないんじゃあ、ない。

 幸せであることで、彼らを忘れてしまうそうな自分が、怖い。

 そうすれば、俺は心の底から笑えるだろう。

 笑えてしまうだろう。

 それだけは、許せない。

 でも、違う。

 それだけじゃあないんだ。

 俺が正義の味方を目指すのは、それだけじゃあ、ない。

 

「…あの時、切嗣は、笑ってくれたんだ。傷だらけで、ぼろぼろで、きっと息をしているのも不思議な、焼死体一歩手前だった俺を見つけて、笑ってくれた。あの笑顔は、とても素敵だった。どんな影もない、幸福な笑顔だった。一度でいい。たった一度でも、あんな顔で笑えるなら…」

「全てを失っても、いや、切り捨てても構わない、そういうのですか、貴方は。それだけの覚悟が、あるのですか?」

 

 全てを、切り捨てる。

 凛の、愛も。

 セイバーの、信頼も。

 桜の、想いも。

 みんな、みんな、切り捨てて。

 誰かの涙を止めるために、人生を費やす。

 あの笑顔だけを、求めて人生を、歩む。

 その覚悟が―――。

 

「どうやら、あるみたいなんだ」

 

 自分でも驚くほどに澄んだ声だった。

 この咽喉が、自分の咽喉じゃあないみたいだった。

 まるで、どこかの天使の声だった。

 きっと、深海魚たちが、プレゼントしてくれたんだ。

 ありがたいと、そう思った。

 視界が、驚くほどに、クリアだった。

 まるで、無彩色の世界が、突然に色づいたみたいだった。

 その、空気を構成する粒子の一粒一粒すらも見渡せるような、美しい世界。

 ああ、この世界の調和のためになら、死後を渡してもいいのではないだろうか。

 そこが、あの乾いた世界でも、いいのではないだろうか。

 ならば、それはなんと幸福な―――。

 

「幸福は、ありません」

 

 隣で代羽が、そう言った。

 無感動に、そう言った。

 冷たい、声だった。

 それは、どういう感情が篭もっていたのだろうか。

 例えば、過去に人を殺して、そのことを悔いた人間がその瞬間を語るとき、そういう声で語るのかもしれなかった。

 

「貴方に、幸福はありません」

「そんなこと、分かってる」

「貴方の周りの人間にも、幸福はありません」

「それも、分かってる」

「貴方が助けようとする人間にも、幸福は無いでしょう」

「ああ、多分そうだろう」

 

 彼女は、初めて俺のほうを見た。

 その、瞳。

 端から、透明な雫が、つうと流れ落ちた。

 それでも、その声は嗚咽に濁ってはいなかったのだが

 

「誰も、誰も幸福にしないならば。貴方は、なぜその道を歩けるのですか。それは自己満足ではないですか」

「『自己満足、その言葉を使って他者を否定する人間は、真に自己を満足させたことの無い咎人です』、そう言ったのは、貴方だ、兄さん」

「ええ、その通り。そして、私は一度足りとて己を真に満足させたことの無い、咎人です。ですから、この言葉を使って貴方を非難する資格がある」

「兄さんは、卑怯だ」

「貴方より、ましでしょう」

 

 苦笑する。

 もう、笑うしかない、そういう笑みだ。

 隣は、見ない。

 きっと、彼女も笑っていると思った。

 そうあってほしいと。

 それは、独り善がりの願いだったのだろうか。

 

「誰かがしなければいけないんだと思う。誰もが笑っていられる世界なんて夢物語だけど、誰もがそれを嘲笑えば、それは夢物語のままだ。だから、俺は少し頑張ってみたい」

「それは、正義の味方に為せることではない。それは、魔法使いの所業です」

「ああ、きっとその通りだな。でも、俺、魔術の才能、無いみたいだからさ。とりあえず正義の味方、目指してみるよ。気が向いたら魔法使いを目指すのも、いいかもしれないな」

 

 子供の笑い声が、聞こえた。

 一つではない。重なり合う、二つの声だった。

 母親に手を引かれる、子供の影が、見えた。

 母親の右手と左手を、引っ張るように歩く、子供の影が見えた。

 そうして、ふわりと消えた。

 幻影だったのだろう。

 

「貴方は、大馬鹿です」

「理解してるよ」

「貴方は、恥知らずだ」

「お前の言うとおりだ」

「あの時、息の根を止めなかったことを、本気で後悔しています」

「ごめんな」

 

 そのまま、しばらく座ったまま。

 誰も、何も語らない。

 風すら、吹かなかった。

 空気が、凪いでいた。

 星が、落ちてきそうだった。

 月が、落ちてきそうだった。

 そうして、太陽の最後の残滓が、西の空を染め上げたとき。

 隣に座ってた人が、すっくと立ち上がった。

 

「用件を、思い出しました。先に帰っていてください」

 

 そのまま、俺の返事を待たないまま、彼女は歩き出した。

 

「どこへ」

「貴方に告げる必要は、無いでしょう」

 

 その背中には、絶対の拒絶があった。 

 ついてくるな。

 少女は、背中でもってそう叫んでいた。

 

「戦いは、今日の夜半か、遅くとも明日の同じ頃合になるでしょう。それまでには必ず帰ります」

「危険だ。今は一人でいないほうがいい」

 

 少女は、くすりと微笑った。

 どこか影のある、微笑いだった。

 言うなれば、彼女本来の、そして俺の大嫌いな、笑い方だった。

 そのまま、明後日の方向を見遣った。

 そこには、誰もいなかったのに。

 

「彼らは、きっと卵を抱く竜のように、目を血走らせながら大聖杯を守っているでしょう。ならば、どこにいたとて同じこと。それに、私にはアサシンがいる。サーヴァントを連れない貴方のほうが、危険といえば遥かに危険なのですよ」

 

 だから、早く帰りなさい、と。

 そう、背を向けたまま彼女は言うのだ。

 俺は、ベンチから立ち上がる。 

 そうして、その背中に向けて、こう言った。

 

「…俺も、ついていくよ」

「許しません。また、全身の関節をへし折られたいのですか」

「あれは、たまたまだ。油断していた」

 

 その瞬間、彼女の体が、激しくぶれた。

 少なくとも、その瞬間はそう表現するしかなかった。

 ぞくり。

 背筋に、嫌なものが、走った。

 ほとんど反射的に、背筋を反らせる。

 鼻先を、何か硬いものが、とんでもない速度で通過していった。

 それは、人を殺せる速度だった。

 彼女の踵。

 それが、さっきまで俺のこめかみがあった空間を、削り取っていた。

 

「しろ、止め―――」

「ちぇりゃあ!」

 

 振り切った足を踏み足にして、飛び込んでくる。

 その軸足が、外向きに。

 蹴り。

 膝の位置が、高い。

 ―――上段蹴り!

 彼女の右足が、再び俺のこめかみを狙って、跳ね上がる!

 左手を上げて、そこを庇う。

 受けたら、そのまま軸足を刈って、転がす。

 そのまま制圧すれば―――。

 

 あれ。

 何でだ。

 足が、手にぶつかってこない。

 あれ。

 彼女の足が、空中で止められて。

 そのまま、凄い勢いで、戻っていく。

 その反動を使って。

 彼女の身体が、回転して。

 彼女の左拳が、俺の脇腹に。

 

 どごん。

 

「うげえ!」

「貴方は、正直過ぎる」

 

 肝臓。

 衝撃が、突き抜ける。

 息が、出来ない。

 前のめりに。

 涎が、垂れる。

 膝から崩れ落ち―――ることが、出来ない。

 頭を、つかまれた。

 次は?

 分かっている。

 膝が、すっとんでくるはずだ。

 ああ、避けないと。

 せめて、受けないと。

 でも、駄目だ。

 身体が、動いて、くれな―――。

 

 ごしゃ。

 

 ―――。

 あ、凄い音が。

 鼻の軟骨が、拉げる音が。

 目の前に広がる、蒼い夜空。

 どこまでも、深い。

 背中に、冷え冷えとしたコンクリートの感触。

 大の字で横たわる。

 ああ、これは楽だわ。

 くすくすと、笑い声が聞こえる。

 俺の頭の隣に、微笑いながら覗き込む、彼女の顔が。

 さも、嬉しそう。

 

「これで、三回目ですね。貴方は、弱い」

「…不意打ちは、卑怯だ」

 

 ごぼごぼと音が鳴ったのは、鼻血が逆流しているからだろうか。

 ひょっとしたら、いや、間違いなく鼻の骨が折れている。

 

「ああ、色男が台無し。ちょっと待ってくださいね、と」

「つう!」

 

 彼女の手が、俺の鼻に触れたとたん、激痛が襲った。

 思わず涙ぐんでしまうほどの、激痛。

 こきんと、軽い音が、俺の中から聞こえた。

 

「とりあえず、元の形には治しておきました。あとは、鞘が何とかしてくれるでしょう。しばらく動かないことです」

「…最近、こんなのばっかだ」

 

 彼女は、やはりからからと笑った。

 そうして、立ち上がる。

 もう、俺にはそれを追いかける資格が無いことなど、明白だったにも関わらず。

 

「…これから貴方が生きる戦場は、こういう場所です。前を走っていた味方が、突然に銃口を違えてくる。隣で談笑していた友人が、脇腹に刃物を突きつける。後ろで脅えていた守るべき人たちが、井戸に毒を投げ込んでいる。貴方が戦うのは、そういう場所です。それでも―――」

「ああ、俺は、戦うよ」

 

 彼女は、無言で歩き始めた。

 どこからか姿を現した彼女の従者も、それに倣う。

 そうして、数歩、歩いた後で。

 彼女は振り返らずに、こう言ったのだ。

 

「そうそう、衛宮士郎。一度聞きたかったのですが、貴方はまだ、あの服を持っていますか?」

 

 服?

 何のことだろうか。

 

「貴方が衛宮切嗣に拾われたときに着ていた、あの服です」

 

 服。

 そんなもの、憶えていない。

 

「…もう、焼けてしまってぼろぼろだったから、きっと捨てたんだと思う」

「そうですか、残念。思い出の品だったはずなんですけどね」

「…思い出?」

「ええ。一度、それが原因で大喧嘩しました」

 

 少女は、くすりと笑った。

 寂しげな、笑みだった。

 もう、彼女は、何も言わなかった。

 その背中は、徐々に遠ざかっていった。

 その背中は、徐々に闇に紛れていった。

 彼女は、一度も振り返らなかった。

 ただ、彼女の従者である白い仮面が、一度だけ振り返った

 何故だか、その白さだけが、頭の片隅にこびり付いて、離れなかった。

 俺は、しばらくの間そこに寝そべって。

 いい加減、瞼が重たくなってきた頃合に、起きて、家に帰った。

 門を潜るときに、夕食の材料を買ってきていなかったことを、後悔した。

 代羽は、まだ家に帰っていなかった。

 



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interval17 森へ

 だらだらと続く長い坂道を、登っていた。

 横にくねり、時折下りとなり、幾度も切り返しながら、そうしてやっとの思いで上りきる、そういう坂道だ。

 自然、足が疲れてきた。足が重く、上手く膝が上がらなくなってくる。

 身体の奥から響く、不平不満の声。人のそれの場合は筋肉の漏らす声だが、私の場合は蟲の漏らす、聞くに堪えない愚痴なのだ。

 

『おい、頭の部分のやつら。俺たち、足の部分にだけ酷い労働をさせておいて、お前らは考える振りをするだけか。不公平にも程があるだろう』

 

 そう言って、重たい痺れを味合わせてくれる。全く、可愛らしいにも程があるというものではないか。

 そんな埒もない思考が、頬を持ち上げる。

 おそらく坂の中腹辺りで、息をつく。道端のガードレールの支柱に腰をかける。

 ふう、と、大きく息を一つ。何とは無しにジーンズのポケットを弄ったが、そこに煙草とライターは無かった。ああ、そういえば昨日、水浸しになったから捨てたのだった。

 もう一度、大きく溜息を吐いた。新しい煙草を用意していなかった自分に対する失望なのか、それとも紫煙を胸いっぱい吸い込むかわりに排気ガスを吸い込みたくなったのか。それは私にも不分明だ。

 そうして、海を、見つめた。

 冬木港を眼前に広がる、内海。快晴の日などは、目が清められるほどの美しい青と、奥に浮かぶ小さな島の緑とのコントラストが楽しめるのだが、今はのっぺりとした黒い空間が広がっているだけ。辛うじてポツリポツリと輝くのは、漁船の灯火か、それとも街のネオンか。

 しばらくの間それを眺めていたが、少し身体が冷えてきたので歩くことにした。

 杖が欲しいな、そう思うほどの急坂。それでも、歩き続けさえすればいつかは到着する。それは何と気楽な道行きではないか。

 そう考えると、鼻歌の一つも歌いたくなる。

 何が、いいだろう。

 そう考えて、苦笑した。

 

「―――ああ、もう少し、歌を知っていたらよかった」

 

 自分の呟きに絶望しつつ、それでも歩いた。

 徐々に近付いてくる、黒い影。

 黒くて、厳しくて、恐ろしい。

 なるほど、ドン・キホーテならずとも、恐怖に負けて突撃したくなるというもの。

 

 そうして、私はたどり着いた。

 

 冬木教会。

 

 石造りの、如何にも寒々しい外観。玄関の花壇も、いつの間にか枯れ果てて、うらびれた空気を醸し出している。

 正面玄関のやや上、二階に設置された小さな窓からは、如何なる灯りも漏れ出していない。

 まさか、本当に留守なのだろうか。それとも。

 

「…まあ、中に入れば分かるでしょう」

 

 …独り言は、不安の表れだ。

 それは紛れもない事実であり、私は不安だった。

 だって、あの重厚な扉を開けたそこに、彼の巌のような背中があったら。

 私は、心の中で誓った、最も崇高な約定を違えることになるから。

 踊る心臓を押えつけつつ、樫の古めかしい扉に、手をかける。

 ぎちぎちと、蝶番の軋る音が、闇夜に響く。

 ただでさえ濃厚な死の気配を纏わりつかせた空間、そこに、更に不吉な何かが満ちていく。

 私は、知っている。

 いや、思い出した。

 ここは、神の家だ。

 それでも、いや、だからこそ。

 ここは、死者がその怨嗟を思う様に吐き出すことの認められた、法廷なのだと。

 穢れの無い魂は、存在しない。

 罪の無い魂も、ある筈が無い。

 ならば、ここはあらゆる魂が無条件に地獄へと送られる、弁護人の存在しない法廷で。

 彼こそが、愉悦をもって魂を地獄へ送り出す、検察官だ。

 無慈悲な天使が、裁判長。

 誰も、助からない。

 誰も、救われない。

 ここは、そういう場所だった。

 やがて開かれた扉の奥に、漆黒の空間が広がる。

 それでも、ステンドグラスを通して、月の光が差し込まれる。

 きらきらと、まるで雪のように降りそそぐ。

 礼拝用の、長椅子。

 目の前の十字架、その下には、いつも彼が構えていた説教台が。

 祭壇には、誰の姿も、無かった。

 かつて私が愛した、底の深い微笑は、無かった。

 そのことに、私は深く深く安堵したのだ。

 そうして、足を踏み入れる。

 硬質な床と、ゴムの靴底が、こんこんと軽い音を立てる。全く、革靴でも履いてくるべきだっただろうか。あの、かつかつと堅い響きならばもう少し興もあっただろうに。

 ゆっくりと、歩く。辺りに人の気配は無いし、あったとしたら私は失望を禁じえなかっただろう。もし、そこに、蹲りながら、ぎらついた目で私を狙う彼の視線があったとしたら、おそらく私は突っ伏して泣き叫んでいたはずだ。

 広い室内は、それでも十数秒も歩けば突き当たりにぶち当たる。

 奥にあった、入り口に比べれば質素なつくりの、小さな扉。

 月明かりに照らされたそのドアノブを、掴んで回す。

 そこを開けて、中庭へと向かうザザッ

 

『たしか、言峰の部屋は』

 

 ザザザッ。

 何、だ、これは

 意識に、何かが割り込んでくる。

 自分が自分でなくなるような、濃厚な予感。

 自分以外の言葉が、自分の口から飛び出す、悪寒。

 意味の分からないそれらに、猛烈な吐き気を覚えた。

 

「ぐぼえ!」

 

 石畳の脇、昨日の大雨でできた水溜りに、吐き戻した。

 生クリームとベリーソースで彩られたザザー胃液は、絵の具のようなピンク色だった。

 荒く続く息を無視して、口の端ザーを拭う。全く、不法侵入をしておいて汚物まで残す。神でなくても怒るだろうな、これは。

 ふらつきザザながら、歩く。

 

『教会の内部は入り組んでいて、言峰の部屋が何処にあるかなど判らない。一度だけの記憶は曖昧で、正直、自分でも辿り着けないと分かっていた。』

 

 ザザザッ。

 

 また、ノイズ。

 そして、猛ザザザ烈なザ吐き気。

 

「ぐ、え、え、え…」

 

 咽喉を解放して、嘔吐く。ちょろりと、残り少ないザザシャンプーのノズルを押したときみたいに、可愛らしい反吐ザザーが、飛び出た。

 それでも、歩いた。

 ノイズは、どんどん強くなる。

 

『なぜ声を殺して歩いているのか、なぜこんなにも心臓が動悸するのか。なぜここで、厭な予感などしているのか』

 

 ザザザッ。

 ザーッ

 

『こういう時、自分の悪寒は正しい。“身の危険”を察する感覚は、半人前の魔術師としては上出来だ。だから、足が止まらない言峰は留守だ。ならばここに用はない。一人なんだから家に帰れ。おまえの選択は間違いだ。おまえの行動は間違いだ。おまえの悪寒は間違いだ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。悪いことは言わない。悪いことは何もない。ここには、教会には何もないから家に帰れ』

 

 ザザザッ。そう

 ザザザッ、それが

 ザザザッ。正解

 ザザザッ、だって

 ザザザッ。知っている、

 ザザザッ、そこには

 ザザザッ、あるんでしょう

 ザザザッ、いやな

 ザザザッ。ものが

 

 白まった、視界が、

 ザザザッ意味不明の縦線でぶった切られて、

 ざらざらとした音が聞こえるザザザッ以外のすべてを奪いつつも、

 したいだふらりとした地面が

 少しザーッずつ垂直に持ち上がシタイダってル気がする、

 壁ザザザッ絵の上を歩いている自分がいて、

 髪の毛が横向きの重力に引かれてちくちくと抜けていく、

 石畳がシタイダ目の前の死体を覆い隠して、

 涎が前に落ちながら私はその上に蹲って

 頭が割れるように痛くて喉の奥に指を突っシタイダ込んで汚らしい何かを吐き出シタイダそうとして

 黄色ザーッい液体が指の先だけを汚してそれでも這いずるように上へと進んで

 それでもその先に何があるのか私は知っているしている死体だ

 死体だ死体だシタイダ死体だ死体だ死体だし

 たいだ死体だ死体だ死体だ死体だシタイダ死体だ死

 体したいだだザーッ死体だ死体だシタイダ死体

 だ死体だ死シタイダ体だ死ザザザッ体

 だ死体だ死

 体だ死体だ死体だ死体だ死体だ死体だ死体だ死体だ死体だ

 死体だ死体だ死体したいだだ死体だ死体だ死体だ死

 体だしたザザザッいだ死体だ死体シタイダだ死体だ死体だ

 シタイダ。

 

 奈落のような奈落のような奈落のような奈落のような、黒。

 そこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへ。

 そこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへ。

 這いず這いず這いず這いず這いず這いず這いずって、一歩一歩。

 

 どん、どん、どん、どん、どさり。

 

 転がって、跳ね回って、揺さぶられて、叩きつけられて。

 階段から、落っこちたみたい。

 黒よりなお黒い、闇。

 ぐるぐると視界が回ってる気がするぞう。

 それでも、それすら分かりません。

 ああ、ここは地面でしょうか、空でしょうか。

 指が、おかしな方向に捻じ曲がっていたので、引き千切りました。

 うねうねとしたそれが、やがて私の中に、舞い戻る。

 這いずる。

 這いずる。

 這いずる。

 

『そこに言峰はいない。そこには誰もいない。そこに   などない。そこにシ  どない。そこに  イなどない。そこに タ などない。 そこに踏み入ってはいけ』

 

 あるんだ。

 知っている。

 そのために、私は来たんだから。

 そうして、這いずる。

 足が、歪に捻じ曲がっている。

 でも、引き千切れないから、這いずる。

 鼠のように、這いずる。

 ゴキブリのように、這いずる。

 ナメクジみたいに、ゾウリムシみたいに、アメーバみたいに、這いずる。

 どろどろと溶けていくイメージ。

 私は、俺は、ここにいては、いけない、気がする、???

 ああ、どうでもいい。

 早く、終わらしてくれ。終わりにしてくれ。

 もう、どうでもいいから。

 私を、助けて。

 神様、見捨てないで。 

 俺は、俺は、俺は。

 

 マキリ代羽なんかじゃあ、ない。

 

 かつかつと、足音が聞こえる。

 これは、自分の分。

 そう思って、這いずる。

 涙で視界が濁っている気がするが、そんなことは無かった。

 濁っているのは、空間自体が。

 ふわふわとした濃厚な埃。

 それは、怨念とも、望郷ともとれる、濃密な思念の塊。

 かつかつと、音が響く。

 後ろから、私が私を追いかける。

 

 早く、早く、早く!

 

 ハリーハリーハリー!

 

 尻を蹴られる感触。

 爪先が肛門にねじ込まれる錯覚。

 肛門が裂けて、そこから大便が漏れ出す幻覚。

 圧迫された内容物が、口から飛び出る幻痛。

 待って、待って、待って。

 まだ、まだ、まだ。

 私は、私は、私は。

 臭いが、臭いが、臭いが。

 薬品の、ホルマリンの、つんとした。

 ぽとり、ぽとり、ぽとり。

 垂れる、垂れる、垂れる。

 それは、命の、水の音。

 命を、繋ぐ、残酷な音。

 生きている、生きている、生きている。

 生かされて、生かされて、生かされて。

 死ねない、死ねない、死ねない。

 死にたい、死にたい、死にたい。

 生きていたくない、生きていたくない、生きていたくない。

 私なら、絶対に、生きていたくない。

 

 そう、確信させる、死体の、群れが、鎮座、ましまして、いました。

 

 私には、見えない。

 見えない、見えません。

 だって、私は、這い蹲っているから。

 なのに。

 

『ぽたりぽたりと落ちる水は、死体たちの唇へ伝っているだらしなく開かれた口は水滴を受け入れもう何年もそのままだろう唇はふやけ腐り中にはアゴの肉が腐乱したモノまであった』

 

 この、鮮烈なイメージは。

 どうして、水の滴る音と、その映像が、被さるように。

 寸分の、ずれも無く。

 

『そんなコト一目で気づいたこれほどの亡骸があるというのにここには死者など一人もいないというコトに生きていた』

 

 息遣いが、聞こえる。

 はあはあと、荒々しくは無い。

 規則正しく、落ち着いた拍子で。

 それは、取り乱すことも無く、冷静に、異形と化した己を確信しながら。

 

『死体はそのどれもが奇形であまりにもヒトとして欠損が多すぎた手足がない断ち斬られたもの末端から腐敗し骨だけを残したものすり潰され石畳の床の隙間に落ち込んだもの壁に打ち付けられ虫たちの苗床になったものその経緯はどうあれ彼らには胴と頭しか存在せずそれすらも枯れ木のようにボロボロだった』

 

 臭いが、鼻をつく。

 それは、私には馴染みの深い、腐敗臭。

 人の肉が腐った、臭い。

 肉が腐って、蛆が湧いて、骨に絡みついた肉までを食い尽くして。

 その蛆のさなぎが、白い骨の周りに、びっしりと。

 さなぎから生まれたニクバエが、新たな生を謳歌する。

 その苗床は、これらの生きている死体だ。

 何故、私には、そんな映像が。

 知っている。

 知っている。

 だって。

 私は。

 私は。私は。

 私は。私は。私は。

 

 衛宮、士郎、なのだから。

 

 声を上げては、いけない。

 足音をたてては、いけない。

 だって、死体が、振り向くでしょう。

 振り向いたら、零れ落ちるでしょう。

 その眼窩から、蕩けた眼球が、ごぼりと。

 それは、気持ち悪いでしょう。

 見たくないでしょう。

 だから、だから。

 

 べちゃり。

 

 しめった、おとが。

 なにか、にくかいが、へばりついた。

 それは、ころりと、ころがって。

 きいろい、しろめと、とびいろの、ひとみで。

 わたしを、じっくりと、なめまわす、のです。

 

 ――ここ

 

 ――どこ

 

 ああ。

 あああ。

 狂う。

 私は、狂う。

 狂って、壊れて、駆け出すだろう。

 全身に刺青を入れられた、罪人。

 断頭台の刑吏。

 遠くで啼く、鴉。

 曇った空。

 白い土煙。

 湧き上がる、歓声。

 笑顔、笑顔、笑顔。

 人は、微笑いながら、人を殺せるのです。

 海豚は、海豚を強姦する。

 笑いながら、同族を殺す、壊れた世界。

 神の、愛が、愛が。

 愛が、壊れて、いる。

 

「ふむ。意外―――では、あるのだろうな。最初にここに来る人間、それは衛宮士郎で間違いはない、そう確信していたのだが」

 

 びくん、と、身体が震えた。

 背中が、海老のように曲がっている。

 額に、何か堅いものが押し当てられている。

 膝が、これ以上無いくらいに折り曲げられている。

 要するに、要するに。

 私は、許しを乞うていた。

 知っていたの。

 知っていたのに。

 この地の獄に、どんな世界が広がっているか。

 どんな臭いがして、どんな声が聞こえて、どんな物が安置されているのか。

 その全てを、私は知っていたはずなのに。

 だからこそ、彼を連れてきてはいけない、全ては私が処分しなければならない、そう覚悟してきたのに。

 いつの間にか、私は、涎を垂れ流しを、同じ分量の涙と鼻水を垂れ流しながら。

 堅い石造り床に額を擦りつけ、許しを乞うていた。

 

「御免なさい、許してください、許してください」

「マキリ代羽よ、それは誰に対して許しを乞うているのかな?」

 

 二種類の呟きが聞こえて、そのいずれもが自分の声では無かった。

 ただ、無様に震えた、生贄子山羊の鳴き声と。

 それを解体する、喜びに満ちた、神父の声と。

 それを、冷たそうに見つめる、一組の視線と。

 それらを、つまらなそうに見つめる、私の意識が、あった。

 

「もうしません、もうしませんから、もう、こんなところに、面白半分で近付きませんから、許して…」

「それは酷い話だな。君は、純粋なる興味の対象としてこの場所を訪れ、そして彼らを見つけたのかね。だとすれば、それは重大なる冒涜だ。軽蔑の対象だ」

 

 髪の毛を、ぐいと捕まれた。

 引き起こされる。

 ぶちぶちと、何本かの髪の毛のちぎれる音が、した。

 そして、暗い、闇の中。

 よく見知った、厳かな神父の顔が、怒りと共に其処にあったのだ。

 怖い。

 怖い。

 身体が、動かない。

 怖いよう。

 助けて。

 助けて、■■■。

 

「答えろ。君は、何をするためにここに来たのだ」

「―――ひいっ!」

 

 その顔を見て、息を呑んだ。

 初めて見る、顔だった。

 怒りに満ちた、顔だった。

 真剣に怒っていた。

 地獄の獄卒の顔の方が、幾分マシだった。

 それは、きっと天使が怒った顔だった。

 

「彼らを殺すために来たのか?それとも、彼らを助けるため?ああ、もしかしたら我らを待ち伏せして仕留めるためか?ならば、如何にも君らしい。私は感服するだろう」

「ゆる、ひっく、ゆるして…」

「それとも、まさかとは思うが。」

 

 ――きみは、あやまりに、きたのかね?

 

「うわ、うわああああ!」

 

 掻き毟る。

 石の床を、掻き毟る。

 かりかり、かりかり。

 まず、床の表面が、軽くこそげて。

 そして、べりと、肉の裂ける音が、聞こえて。

 焼け付くような、痛み。

 肉が直接鑢かけられる、掻痒感。

 それでも、掻き毟る。

 爪など、最初の一掻きで失った。

 それでもだ。

 早く、骨が露出してくれ。

 逃げなければ。

 この男から、逃げたい。

 

「まさか、恥知らずにも謝るためにここに来たのか?自分達だけ助かって悪かった、そう言って頭を下げるつもりだったのか?もう苦しまなくてもいい、そう言い訳をして彼らの胸に短剣を突きたてる、まさか、そのつもりだったのではないだろな?」

「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ、ひっ、ひっ、」

 

 後ろから、声が追いかけて来る。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 逃げないと、逃げないと。

 殺される。殺される。

 ここで、私は、あの男に。

 身体と、精神と、魂の、悉くを。

 完膚なきまでに、殺される。

 

『痛い 痛い 痛い 痛い』

 

 知っています。貴方達がどれほど痛く、苦しかったのか。

 私も、それなりに痛くて苦しかったから。

 肉が腐って、自分の身体が自分のものではなくなる、その感覚は、共感できる。

 

『助けて 助けて 助けて 助けて』

 

 無理でした。私の背中には、重た過ぎる、荷物が。貴方達よりも、ずっとずっと大切な、荷物が。

 正直に言いましょうか。

 私は、貴方達など、どうでもいいのです。

 貴方達が如何なる地獄を味わおうと、どうでもいい。

 そんなことは、善悪の彼岸にある。

 興味なんて、ある筈が無い。

 あっては、ならない。

 ただ、苦しいのです。

 苦しい。

 これが、彼の味わうはずだった苦痛だと思うと。

 身も引き絞られるように、痛いのです。

 

『待って 待って 待って 待って』

 

 だから、許してください。

 貴方達に、貴方達のその姿に心痛めない私が、ここにいることを。

 どうか、許してください。

 貴方達を、心底どうでもいいと思う私が、貴方達に最後の別れを告げることを。

 

『返して 返して 返して 返して』

 

 あの火事で、私が罪だと思ったことは、唯一つ。

 私が、私の愛する人を、見捨てたこと。

 それだけなのです。

 それ以外は、背負っていないのです。

 重た過ぎて、背負えなかったのです。

 許してください、許してください。

 貴方達の苦痛を、背負ってこなかった、私を、許して。

 

『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』

 

「マキリ代羽よ、君はいつか言ったな。『己のいない世界を観察したい。それが唯一にして無二の、自分の願いである』、と」

 

 ゆっくりと。

 振り返る。

 そこには。

 いつもの表情を湛えた、神父が。

 ああ。

 安心した。

 彼は。

 一度も。

 怒って、いなかったんだ。

 

『ねえ ねえ ねえ ねえ』

 

「だが、この現実はどうだ。君の願い、ただ君のいない世界を観察しただけでは救われない人間が、現にこれだけ存在する。断言しよう。君がいようがいまいが、彼らはここに縛られる運命だったことを」

 

 知っている。

 人一人の価値など、塵芥。

 故に、蝶は羽ばたかない。

 羽ばたかない蝶の羽は、嵐を起こすことは叶わないのだ。

 

『お願い お願い お願い お願い……!』

 

「ならば、君は願うべきではないだろうか。彼らの幸福を、そして己の幸福を。君にはその義務と資格があると思うのだが、如何?」

 

 ゆっくりと。

 立ち上がる。

 まだ、足元は、覚束ないけど。

 それでも、そこには歪んでいない地面があった。

 ならば、立てるさ。 

 人の足は、そういうふうに出来ているのだから。

 

『戻して 戻して 戻して 戻して』

 

 そうして、初めて、彼らの顔を、見た。

 そこには、記憶とぴたり合致する、顔だけが、あった。

 まるで、テレビで見た有名人を、街中で見かけたときみたいに。

 少し、心臓が、ときめいた。

 それだけだった。

 

『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』

 

 ゆっくりと、腰に、手を回した。

 そこに、備え付けてあったホルスタから、拳銃を抜き取って。

 殊更、見せ付けるように、それを構えた。

 

「…ああ、なるほど。君は、衛宮士郎の、英霊としての彼の、双子の兄弟だったな。ならば、その魂を飲み込んだ結果として、逆に取り込まれたとしても不思議は無い。それほどに英霊の魂というものは純度が高過ぎるのだ。しかし―――興醒めだ」

 

 声が、五月蝿い。

 知っている。

 知っているさ。 

 この記憶は、俺のものじゃあない。

 それでも。

 この身体は、俺のものならば。

 この記憶だって、俺のものだ。

 そう考えて、何の問題がある?

 そうして、俺は狙いを定めて。

 

『戻して 戻して 戻して 戻して』

 

 一気に、引き金を十回。

 引き搾ったのだ。

 暗闇を、閃光が切り裂いて。

 硝煙の臭いが、地下聖堂を、埋め尽くして。

 やがて、その煙が晴れたとき。

 そこに、怨嗟の声は、無かった。

 物言わぬ、死体と化した死体が幾つか、転がっていた。

 私は、顔を拭った。

 鼻水と反吐と涎はあったけど。

 涙は、一滴たりとも、流れていなかった。

 つまり、そういうことなのだろう。

 

「…罪無き者を、躊躇いもなく殺めるか。それが英霊の在り方、そういうことかな?」

「…罪なら、ありますとも。ええ、彼らは大変に罪深い」

「ほう、ならば言ってみろ!何故、彼らは君に殺されなければならなかった!如何なる罪が、彼らに裁きの銃弾を課したのか!?」

「彼らが生きていたこと。それが、彼らの罪です」

 

 一瞬、空気が漂白された。

 その直後、私の後方から、篭もる様な笑い声が、聞こえたのだ。

 そして、目の前の神父も、微笑っていた。

 そこに神を見つけたかのように、感動の笑みを浮かべていた。

 

「…それは、どういうことだ?」

「彼らが生きていれば、そのことはいずれ、私の最も大切なものの知る所となるでしょう?そうすれば、彼は悶え苦しむでしょう?だから、殺したのです。彼らが物言わぬ死体となってくれれば、私の最も大切なものが苦しまずに済む。だから、殺しました。なにか、問題でも?」

「あっはっは!聞いたか、コトミネ!人は、ここまで傲慢になれるものなのか!?ああ、これはいい女だ!貴様には我のモノとなる価値がある、それを認めてやろう!」

「…そうだな。君は、今でも君のままだ。一切変わったところは無い。先程の非礼、詫びようではないか」

 

 血の臭いは、ほとんどしなかった。

 もう、流れ出る血液も、残っていなかったのかもしれない。

 ただ、枯れ木の腐ったような、懐かしい香りが、胸を梳いた。

 それが、彼らの残した最後の息吹だと思って、悲しいといえば、悲しかったのかもしれない。

 

「では、場所を変えようか。ここは、君と語らうには少し陰気臭くて敵わない」

「ええ、そうですね」

「どこがいいかな?」

「暗い、暗い森の中、など如何でしょうか?」

 

interval17 森へ

 



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interval18 夜は始めり、緞帳は再び上がる

interval18 夜は始めり、緞帳は再び上がる

 

 夜だった。

 

 雲一つ無い夜空に、欠けるところの無い月が輝く、心地よい夜だった。

 贅沢を言うならば、平年に比べて少し冷え込みがきついかもしれない。それでも寒さは厚着すれば堪えることが出来る。それに比べれば、月を楽しむには眼鏡をどれだけ磨いても不可能な夜というものは確かにあるのだから、やはり心地よい、そして贅沢な夜といっていいだろう。

 そんな夜に、三人の男女が、歩いていた。

 冬木教会へと至る、だらだらと長い坂道。そこを、親密とは決して言い難い距離を開けながら、しかし無関係とは到底思えないような表情で、ゆっくりと下っていく。

 奇妙な、三人組だった。

 おおよそ、其処に共通項を見出すのが不可能なのではないか、そう思わせる一団。

 

 一人は、見目麗しい少女。

 整った、しかし幼いところを残すその顔立ちは、美女というよりはその単語の間に『少』の一文字を加えてやっと相応しいかという具合。光が滑り落ちるように艶のある長髪が、明る過ぎる月夜には些か相応しくないようである。

 上はざっくりとしたパーカーを羽織り、下は使い古したジーンズ。腰まで届く黒髪が無ければ、少年と見間違えても罪は無いような、そういう格好だ。

 もっと見栄えのする格好、例えば身体のラインの浮き出るようなドレスや、そこまでいかなくとも可愛げのあるワンピースでも身に纏えばよかろうものを、彼女はあくまで実用本位の姿を崩さない。

 ただ、その右耳に付けられた銀のピアスだけが、数ある装飾品の中から選ばれた勇者のように、誇り高く彼女を飾り付けていた。

 

 一人は、重々しい神父服を纏った、長身の男性。

 鍛えこまれたその身体はさながら神佑地に聳える巨木のようであり、今は後ろ手に組まれている拳は、自然石を砕けるほどにごつごつとして、かつ、菩薩のそれのようにまろやかである。

 口元には、常の彼と同じく、底の知れない笑みが湛えられている。少し長い髪の毛は、そうあるように整えられた髪型というよりは己への無関心が高じた結果のものなのかもしれない。

 分厚い筋肉に飾られた背筋は、一切の角度も作らない直線。それこそが、ある意味彼の生き方を最も如実に表しているのかもれなかった。

 

 そして、二人を楽しげに眺めやる、もう一人の男。

 金色の髪の毛は獅子の鬣のように逆立ち、形のいい卵形の輪郭に強烈なアクセントを加えている。そして、鳩の血液のように赤い瞳。そこには絶対の強者のみが持ちうる、優しさと残酷さがほぼ等分に同居していた。

 黒いシャツの上から、ファーのついた白いコートを引っかけるという身軽な出で立ちではあるが、その一つ一つにえもいわれぬ気品が存在する。値札が無くとも相当の高級品であることは間違いないだろう。

 それにしても、人目を引く男であった。

 ただ目立つというのであれば、彼の前を歩く二人、少女の美しさも神父の厳粛さも劣るものではないが、この男に宿った魅力にはまた格別のものがある。

 何もせず、ただそこにいるだけで場の中心がその男に移る、そういえば分かり易いだろうか。

 華。

 それも野に咲く可憐で弱弱しい花ではない。

 あらゆる人の奉仕を一身に受けそれでもまだ足りぬと嘲笑い、周囲の土を枯らし尽くしてもそれが当然と胸を逸らし、小賢しい虫など寄せ付けず、あらゆる犠牲をもって孤高に咲き誇り、かつそれを省みない。そういう華。

 ならば、その華を何と評すればいいだろうか。

 絶世の美男子ではあるのかもしれないが、そう表現すると軽薄に過ぎる。この上なく禍々しいものを纏ってはいるが、その瞳に邪気は無い。かといって、清廉潔白な聖人君子と評すれば、間違いなく彼の怒りが下るだろう。

 金色。

 そう、表現することが出来るだろうか。

 金という色の持つ、神々しさと邪悪さ。尊さと卑しさ。清らかさと穢れ。

 それらを、ほぼ等分に抱えて飲み込み、その矛盾を愉しむような、そういう男だった。

 金色の、華。

 その男を、そう表現することができるだろうか。

 

 そんな三人が、ただ歩いていた。

 

 人とすれ違うことは、全くといっていいほど無かった。

 皆、この冬木に訪れた季節はずれの大嵐を避ける為に、家に立て篭もっているのだ。その矮小さ、或いは賢明さは金色の男の侮蔑を買うに十分だったが、こうも気分のいい夜に雑種と侮るべき存在がその視界を汚さなかったことについてだけは、男は満足していた。

 風は、ほとんど吹いていていない。

 彼らの視界に広がる冬木の海も、きっと今夜は静かなものだろう。彼らの良好な視力をもってしても、彼我の距離とその間に横たわる闇を見通すのは不可能だったが、おそらく白い波頭は立っていない筈であった。

 しばらく、彼らは無言で歩いていた。

 小一時間も歩いた頃だろうか。

 やがて、彼らの前に大きな橋が姿を現した。

 冬木大橋。

 全長665メートルにおよぶアーチ形式の巨大な橋。新都と深山町を一つにつなぐ、重要な生活道路の一つである。

 その中頃に差し掛かった頃合に、さも退屈というふうに金色の男が口を開いた。

 

「女。いい加減、歩くのも飽いた。交渉をするにせよ、矛を交えるにせよ、具合の良い場所は幾つもあったであろうが。貴様、一体何を企むか」

「ふふ、貴方は私を手に入れるのでしょう?であれば、端女の我侭、笑って飲み込むのが殿方の度量と愚考しますが、如何?」

 

 そういわれると、男としては返す言葉も無い。

 少女は彼に背中を向けて歩いているのだ。逃げ出す算段を企てているなら別段、こうも無防備に晒された背中を襲っては、男子の沽券に関わろう。

 かといって今すぐにこの場所で少女を如何こうするようでは、それこそ堪え性の無い小人物として嘲笑されても致し方の無いところ。

 ならば、男としては彼女が目的地を見つけるまで、唯々諾々と歩く以外の選択肢が無いこととなる。

 金色の男も、当然それくらいのことは分かっている。分かっていて、敢えて口に出したのだ。それほど退屈であったといってしまえばそれまでだが、それでも彼の口元には、蜜を含んだような柔らかな笑みが絶えることは無かった。

 

「…嬉しそうですね」

 

 女は振り返ることも無く、そう言った。

 時と場所を金色の男の治世のそれに直せば、その行為は許しがたいほどの不敬である。いくら王の愛妾であったとしても、即刻の斬捨てを免れることは在り得ないに違いない。

 それでも、男は楽しげであった。紅い瞳が歪められ、口元に不吉な皺を作り出すほどには、彼は愉快だったのだ。

 

「ああ、嬉しいとも。この十年、退屈で退屈で、倦んで倦んで倦んで仕方なかったのだ。まこと滑稽、愚民には奢侈に過ぎる時代であったが、それでも我を満足させるには程遠い。それが、今宵は少しは紛れそうなのでな、雌猫が多少の砂をかける程度の非礼、笑って許そうではないか」

「ふふ、それは重畳。まっことめでたき儀、謹んでお慶び申し上げますわ」

「うむ、格別に許そう。今宵は月も美しい。よい宴になるであろうや」

 

 そのとき、彼は月を見上げたのか。

 少女には、知る術は無かった。

 そして、しばらく無言で歩いた。

 時折、ぽつりぽつりと会話らしきものを交わすのは、決まって少女と金色の男。巨躯の神父は、その様子を愉しむかのように会話に参加することは無い。

 それでも、しばらく、歩いた。

 やがて、冬木を二分する大きな川を渡り終えた、ちょうどその拍子。

 少しの不機嫌を孕んだ声で、金色の男が口を開いた。

 

「おお、そういえば忘れるところであった」

 

 聞く人が聞けば、その場で身を投げ出して地に伏せ、平身低頭で許しを乞うような、声。

 しかし、少女の表情に一切の乱れは無い。

 当然の如く聞き、当然の如く歩く、それだけだ。

 

「あの公園で、貴様は言ったな。我が、まるで卵を抱く竜のように、目を血走らせながら大聖杯を守っていると。あれは、如何なる意図があってのことか?」

 

 初めて、男の声に殺気らしきものが込められた。

 少女は項をちりちりと焼くそれに耐えながら、努めて冷静な声を出そうとする。それでも、その語尾が僅かに震えたのは、人の身ならば責めるには酷というものだろうか。

 

「…どういう、意味でしょうか?」

「惚けるな。当然、我があの場にいたこと、気付いていたのであろう?」

「ああ、やはり、ばれていましたか」

 

 そのとおりである。

 少女は、自身と最愛の弟を舐めるように観察する、一対の視線に感づいていた。

 餓えた虎の如き、危険な視線。

 ともすればその刹那に襲い掛かってきてもおかしくは無い、そういう視線。

 その鋭さが、まさに危険水域の最悪のところを突破しようとした、その拍子。

 彼女は、その視線の主を見つめながら、こう言ったのだ。

 

 貴方は、所詮は卵を抱いて目を血走らせた竜に過ぎない、と。

 

 荘厳で、巨大で、なにより偉大であるはずの竜が、卑屈にも、己の巣に篭もり卵を守る。

 その姿の、何と卑小なこと。

 彼女は矮小な虫の分際で、竜の眼前にてそれを嘲笑ったのだ。

 竜は、激怒した。

 当然、竜は身の程知らずの虫共に懲罰を加えようとした。八つ裂きにしても飽き足らぬ、そう思った。

 しかし、その瞬間に、虫共は同士討ちを始めた。竜のことなど忘れた素振りで、互いを傷つけ合い始めたのだ。

 虫が互いに争っているときに竜が怒りと共に姿を現したのでは、道化は竜のほうである。

 故に、彼は、身分知らずの愚か者を誅殺する機を逸した。

 少女は、弟を傷付けることで弟を危難より救ったのだ。

 

「さて、この場合の竜とは誰のことで、卵とは何のことかな?返答如何によってはそれなりの罰が下るやも知れぬが」

「…彼らは、そもそも勘違いしている。貴方達が大聖杯を死守しなければならない理由など、何一つ無いというのに」

 

 少女は、懸命に震えを隠しながら、そう応えた。

 そうなのだ。

 彼らに、大聖杯をそこまで必要とする理由は、そもそも無いのだ。

 英雄王がこの戦いに身を投じる理由は、主に三つ。

 

 一つ、騎士王の誇りをへし折り、彼女に泥を食らわせて己に跪かせること。

 一つ、聖杯という彼の宝物を、下賤の者の手に渡さないこと。

 一つ、純然たる暇つぶし。

 

 確かに、大聖杯を起動させることが叶えば、その全てを同時に満たすことは可能である。

 騎士王を堕落させるための泥は手中に収まり、宝物は本来在るべき主の下に還り、彼はその自尊心を満足させうるだけの豊かな時間を過ごすことが出来るだろう。

 確かに、それはそれで素晴らしい。

 では、万が一、彼の意図と反して、大聖杯の破壊が成れば?

 騎士王に孕ませるための泥、それが手に入ることはあるまい。厳密に言えば、マキリ桜の身体に組み込むはずだった刻印虫や言峰綺礼の心臓に潜む泥など、泥自体が存在しないわけではない。しかし、騎士王を汚染させるほどの量と質を兼ね備えた泥の入手は著しく困難といわざるを得ない。

 残りの二つの条件はどうだろうか。

 賊の目的はあくまで聖杯の破壊である以上、彼の宝物である偽りの聖杯が破壊されることはあれど余人の手に渡るということは無い。そもそもが彼の宝物庫に選ばれなかった程度の、偽りの器である。彼以外の者がその所有権を取得するということが無ければ、それほどに目くじらを立てるほどのことでも在るまい。

 暇つぶし、これについては、如何様に事態が転ぼうと問題は無いだろう。彼の思うままにことが運ぶならば良し。彼の思惑を超えて雑種共が奮闘するならばそれもまた良しだ。いずれにせよ彼の退屈は紛れるだろうし、現に紛れてもいる。

 要するに、騎士王が手に入るか否か、彼にとって聖杯を手に入れるということはそういうことなのだ。増え過ぎた人類を間引きするという目的がないこともないが、それもあくまで退屈しのぎ以外の何物でもない以上、さほど気にすることも無い。

 また、神父にとっても目的は、彼の生の価値を判別しうる、特別な存在を降臨させること。それについては、マキリ代羽という女性の卵子と子宮を使えば可能であるので、わざわざこの世全ての悪を呼び寄せる必要もないだろう。

 もちろん、叶うならばそれに越したことはない。

 逆に言えば、その程度のこと。

 この世全ての悪と宿命付けられた赤子が、悪として生まれた己にどのような価値を与えるのか、非常に興味深いところではあるが、神と悪魔の両方の資質を備えた赤子がこの世界に如何なる価値を見出すのかというのもまた、負けじと興味深い。どちらが叶ったとしても神父の暗い好奇心の器は、その縁から零れるほどに満たされるだろう。

 

「彼らは、己の戦略課題と敵の戦略課題を、常に相反するものであると勘違いしている。貴方にとって最も重要なのはその身を蝕む無聊を如何に慰めるか、そしてその威に沿って如何に振舞うかということであり、貴方が最も執着している騎士王の存在とてその延長線上にしかないというのに」

「慧眼だな。であれば、我が天空を羽撃き獲物を食む竜か、それとも巣に潜み卵を守る竜か、そのいずれであるかなど瞭然であろう。ということは、成程あれは我の気を引くための方便か。くく、愛い奴よな」

 

 金色の男は、くつくつと微笑った。

 男にとって最も重要なことは、財を手にすることではない。そもそも、この世の全ての価値あるものは、その悉くが彼の手中に納まっている。己の所有物であるのに、それを手にするために目の色を変えて騒ぎ立てる程の無様、この男が演じるはずが無いではないか。

 それよりも、何よりも。

 彼は、王なのだ。

 あらゆる時代、あらゆる地域に存在する王、皇帝、それを僭称する者共の遥か上に君臨する、原初の王。

 只管に支配して、只管に君臨して、只管に蹂躙した王である。

 彼は、誰よりも王なのだ。

 王たることを、義務付けられている。

 それは、宝物庫を守る番人としての王ではない。

 宝物庫に無限の財を放り込み、それでも飽き足らぬと嘯く王である。

 それが、たかが女の一人や二人のために、自らの誇りに泥を塗りこむような真似を、するとでも?

 その誇りと気概を、どうしてこのような瑣末ごとで捻じ曲げることができようや。

 何故なら、彼はどこまでも王なのだから。

 

「今日、間抜け面して出歩くマスターどもを、何組か見つけた。その中には騎士王の姿もあったのだがな、全く、煮え滾る欲望すら一息で凍りつくわ。我があの薄汚い穴倉に逼塞していると思い込んで、その背は無防備にも程があった。騎士王も地に堕ちたか、そう思わざるを得ぬ」

「…貴方のことだ。どうせ今夜当たり、鼠が巣に固まったところを一気に殲滅するつもりだったのでしょう?」

「くく、さてな。しかし、今日、貴様が現れることが無ければ、違った形で暇を潰していたことだけは確実だ。ついでに、跳ね回る蚤共の一匹や二匹、潰していたやもしれぬわな」

 

 金色の男は高らかに笑った。

 少女は、その言葉に一切の虚飾も虚言も無いことを悟っていた。

 

「やはり、今宵は気分がいい。女、名を教えろ。我にその名を明らかにする栄誉を授けてやる」

「…シロウと。そう呼んでいただければ、恐悦至極に存知まする」

「シロウか。なるほど、良い名だ。残念ながら正妻は腐っても騎士王と決まっておるでな、妾として可愛がってやろう」

「有難き幸せ」

 

 そんな、会話。

 その会話に熱がないことを悟っていたのは、片方か、それとも両方か。

 神父の頬を微妙に持ち上げる以外一切の価値を持たない会話は、無人の闇の中に吸い込まれていくかのようであった。

 

 彼らは歩き続ける。

 平坦だった舗装路は、やがてなだらかな上り坂に。

 なだらかな上り坂は、間もなく、急な、剥き出しの斜面に。

 そうして、彼らは踏み入った。

 森。

 名前は、無い。

 近隣の住民に聞けば、何かいわくの付いた名前でも教えてもらえるのかもしれないが、少なくとも公的な呼称は存在しない。

 例えば、近くに由緒正しき寺があるわけでもないし、その森の奥に御伽噺のような古城があるわけでもない。

 ただの、森だった。

 暗い、暗い、しかし満月に煌煌と照らされた、森だった。

 

「…さて、マキリ代羽よ。ここならばお前の希望を叶えるに十分な場所なのではないかな?」

「…ええ。こんなにも静かで、こんなにも穏やか。なんて素敵な空気、そう思いませんか?」

 

 少女は、振り返って微笑む。

 くるりと踊った黒髪が、魔法のように舞い散る。

 その、絹のような一本一本が擦れ合う、その音すらはっきりと聞き取れるような、静寂だった。

 やがて、少女は決意したように顔を強張らせる。

 一瞬、声を絞り出すまでに、間が空いたか否か。

 

「…アサシン」

 

 少女は、己の従者に呼びかける。

 

「…」

 

 従者は、無言で答える。

 少女の意図は、明白だ。

 ここで、戦おうというのだろう。

 それが、明確な勝機に基づくものなのか、それとも正気を失ってのことなのか、それは暗殺者にも分からない。しかし、数の有利を捨ててただ一人敵に立ちはだかるというのは、闇より目標を屠ることになれた彼に言わせれば、やはり正気とは言い難かった。

 そして、何より。

 彼が彼女の正気を疑ったのは、次に少女から吐き出された、言葉だった。

 

「今まで、ご苦労でした」

 

 暗殺者は、その耳を疑った。

 其は、如何なる意味を持つ単語か。

 一瞬、彼の冷徹な脳細胞を、焼けた石のような疑問が煮沸した。

 彼は、当然に、後ろに控えた主を見遣る。

 そこには、彼と視線を合わせようともしない、見たことも無い表情の主が、いたのだ。

 

「聞こえませんでしたか。ご苦労でしたと、そう言いました」

「…聞こえている。しかし、真意が掴めぬ。説明を求めたい」

「暇を出します。どこへなりと、消え失せなさい」

 

 暗殺者は、少女の視線を探った。

 まるで、そこに固定されたかのように微動だにしない、少女の瞳。

 気丈で、気丈で、しかし一瞬だけ揺れ動いた、瞳。

 彼は、数秒、それを見つめた。

 もう、それ以上問い詰めようとは、しなかった。

 

「…我らの契約はここまで、そういうことか」

「…衛宮士郎。彼ならば、貴方を雇い入れてくれるでしょう。まだ現世に未練があるというならば、彼を頼りなさい」

「承知した。主殿、いや、かつて主だったものよ。壮健であれ」

 

 彼らには、それで十分だった。

 いや、十分過ぎた。

 だから、そう言い残して、白い仮面は闇夜に消え失せた。

 一陣の風が吹いた気がしたが、それは気のせいだろう。

 

「…どういうつもりだ。例え闇夜に隠れて女子供を襲う以外、何の能も無い下等なサーヴァントとはいえ、戦力は戦力であろう。シロウ、貴様、何を考えている?」

「…取引を」

 

 少女は、目の前に立つ二人の男と、堂々と向かい合った。

 その瞳に、一切の脅えや怯懦は存在しない。

 煌くような意思が、そこにはあった。

 さわさわと、木々の葉の擦れる音がした。

 風も吹かぬのに、不思議なこともあるものだ。

 

「…取引と。一応は耳を貸そう。まず聞こうか。我は、その取引によって何を得るか?」

「聖杯を貴方の手に授けましょう。既に、私の身体には英霊の魂が四騎分。半神であるヘラクレスと、悪神に還ったメドゥーサの魂の質量を考えれば、既に聖杯を降霊させるだけの要素は足りている。多少狭隘な穴となるかもしれませんが、それでも泥を取り出すだけならば十分でしょう」

「…聖杯は元々が我の物だ。それを授けるいう表現は些か気に食わぬが…、まあ、いいだろう。それだけか?」

 

 少女は、淀みなく続ける。

 おそらく、考えに考え抜いての決断だったのだろう。

 彼女の漆黒の瞳に宿った決意を見れば、それは明々白々だ。

 

「騎士王の令呪を差し出しましょう」

「ほう…」

 

 金色の男の眉が、一度だけピクリと動いた。

 少女は、彼に一冊の本を差し出した。

 その本の名は、『偽臣の書』。

 こん睡状態にあった遠坂凛の令呪、その一角を奪い取って形としたものだ。

 

「騎士王のマスターである遠坂凛、彼女の片腕は私の分身です。彼女を操ってその身に宿った令呪を差し出させるくらい、造作もない」

 

 騎士王を律する、令呪。

 確かに、それは金色の男にとって魅力的な条件といえる。

 無論、その強制力を使って、まるで卑劣な脅迫者のように彼女を屈服させるという選択肢は、最初から彼の思考に存在しない。彼が騎士王を屈服させるのは、ただ彼の力をもって。そうして、騎士王を地に平伏させ、泣き叫ぶ彼女の口に穢れきった泥を含ませて嚥下させる。そうでなくては彼の征服欲が満足することはないだろう。

 しかし、もし彼が泥を含ませる前に、騎士王が舌を噛み切れば?

 そうでなくとも、彼女の行く先を憐れんだ無粋なマスターが、令呪の力をもって彼女を強制的に『座』へと送還することも考えられる。無論、そのような愚行をした者は英雄王の怒りによって八つ裂きにされるだろうが、それでも彼としては承服し難い結果であることに変わりはない。

 ならば、それらの不手際を防ぐ意味で、騎士王の令呪を抑えておくことは、必ずしも無意味ではない。

 

「…なるほど、それは面白い材料ではある。で、取引というからには、求めるものがあるのだろう?シロウよ、貴様は何を求めるか?」

「衛宮士郎、および彼に近しい人間の命の保障」

 

 少女は、何の衒いもなく、言い切った。

 それこそ、鉄のように堅い意志、鋼のように鋭い声で。

 

「貴方にとって、騎士王さえ手に入るならば、その他の人間は悉く無価値な雑種のはずだ。それが生きようが死のうが、貴方の興味の及ぶところではない。違いますか?」

「…いや、正しくその通りだ。しかし、その中に騎士王は含まれぬのか?」

「優先順位の問題です」

 

 きっぱりと。

 一顧だにせず。

 その声は、気高かった。

 故に、悲しかった。

 彼女は、いや、彼女である彼だったものは、今確かに一番大切な過去を切り捨てたのだから。

 

「今の私を生贄に捧げれば、聖杯の起動は可能でしょう。しかし、それでもサーヴァント五騎分程度の魂では大聖杯の起動は不可能。故に、アンリマユが現界することは無い」

「…なるほど、だからアサシンを引かせたか。貴様にこれ以上の魂が溜まることのないように」

「…貴方達が彼らを見逃してくれるならば。彼らの安全を保障してくれるならば。私は、それらの条件を必ず達成して見せましょう。如何ですか、この取引、飲んでいただくわけにはいかないでしょうか?」

「…なるほど、面白い取引だ。降りかかる火の粉は、吹き飛ばさねば炎が我が身を焼こう。しかし、そうでないのならば彼の者の命は保障する。それでよいか?」

「十分です」

 

 少女は、寂しげに微笑った。

 金色の男の表情は…果たして、どうであったか。

 満足のいく取引ではなかったのか。

 騎士王の令呪の一角を手に入れ、そして聖杯を手にした。それと引き換えに失ったのは、精々が無礼な雑種を誅殺する刃程度のもの。それも、その雑種が歯向かうようであれば、容赦ない鉄槌を下してやればよい。手段を選ばないならば、わざと雑種に諸刃の刃を与えてやっても良いのだ。ただし、その刃が切り裂くのは持ち手の頭蓋になるのだが。

 あとは、正々堂々と、騎士王を叩きのめすのみ。躾の行き届かない野犬が文字通りの横槍を入れるかもしれないが、その程度のことは彼の優位を揺るがすには至るまい。

 そうして、全てが彼のものだ。

 騎士王は泥に汚染されて悶え狂い、それでも彼を主人として仕えるだろう。至高の宝は、本来在るべき蔵に収められる。世に蔓延るつまらぬ雑種どもは、いずれ機会を見つけて間引けば良い。

 そうして、いつも通り。

 いつも通り、退屈で下らぬ日々が、始めるのだ。

 それは、なんとも残酷な―――。

 

「…一つ、お願いが」

「…許す。申してみよ」

 

 少女は、俯き加減に口を開く。

 その、口元。

 既に、彼女の所有物ですらない、その口元。

 それが、明らかに歪んでいた。

 それは、奇妙な角度だった。

 彼女の身柄は、契約が成った時点において金色の男の所有するところとなっている。

 なぜなら、彼女は聖杯そのものなのだから。

 ならば、その口元にへばりついた笑みの、なんと異様なこと。

 まるで今から獲物の頚骨を噛み砕く、虎のような笑み。

 まるで今から鼠を狙って急降下する、梟のような笑み。

 それは、肉食の笑みだった。

 断じて、奴隷商人に鎖で縛られた人形が、浮かべていい笑みでは、無かった。

 それを見て、金色の男は、微笑った。

 ああ、退屈が遠のいたと。

 彼は、心中で、満足の吐息をついたのだ。

 

「私の中には、もう一人の私がいます」

「ふむ」

 

 少女が、ゆるりと顔を上げる。

 顔にかかった前髪が、少女の細やかな表情を覆い隠している。

 しかし、それでも明白だ。

 彼女は、やはり微笑っていた。

 

「その彼が、叫ぶのです。ああ、何故自分よりも弱い者に対して卑屈とならなければならないのか、と」

「ほう、それは許しがたい」

 

 少女は、腰から一振りの短剣を取り出した。

 そしてそれを襟元に突っ込み、一気に引き下ろす。

 ビビィ、と、布の切り裂ける、悲しげな音が、森の中に木霊する。

 はらりはらりと、少女を包んでいた繊維が、舞い散る。

 降り注ぐ月光。

 その、おそらくは世界の中央で、裸体の少女は、満面の笑みを浮かべていた。

 

「私では、説得しきれません。王よ、どうかこの、身の程知らずの不忠者に、その罪に相応しい罰を下してくださいませ」

「おうよ、承知した。では、その不忠者をここへ呼んで参れ」

 

 全く、意味の無い会話だった。

 今まで、本当の巌のように黙って二人の会話を聞いていた神父も、流石に苦笑せざるを得ない。

 それでも、二人は微笑っていた。

 少女は、獰猛に。

 金色の男は、傲慢に。

 その笑みは、全くもって、その二人に相応しかった。

 神父は、速やかに踵を返した。

 最早、ここは人の立ち入ることの出来る場所ではなくなった。

 無意味な意地や義侠心は、この際命取りになるだろう。数多くの戦場を渡り歩いた者だけが持つ、美しいほどの判断力だった。

 そして、二人だけが、残された。

 男と女だけが、残された。

 裸の、女。

 しかし、その美しさを取り除けば、そこに宿るのは剣山のような獰猛さだけ。

 それを、何よりも男は愉しんだ。

 先程の取引のことなど、既に忘れてしまったかのようだ。

 彼は、間違いなく、今宵で一番幸福だった。

 

「では、一言だけ、忠告を」

「許す。申せ」

 

 少女の黒髪が、浮き上がった。

 風は、相変わらず吹いていなかったのに。

 

「良識ある人は逃げなさい。私の守護者は凶暴です」

「従えぬな。これほどに愉しいのだ」

 

 少女と男の頬が、これ以上無いくらいに歪んだ。

 それも、同時であった。

 

「Ego sum alpha et omega, primus et novissimus, principium et finis」

 

 ばりばりと、何かが裂ける音がする。

 ぶちぶちと、何かが千切れる音がする。

 音の源は、美しく、小柄な少女。

 彼女の名前は、代羽(シロウ)といった。

 

 変化したのは、まず骨格。

 小柄な少女の骨格は、少女の肉の中で、男性の中でもかなり大柄なそれに変化した。

 体の中で、存在を巨大化させたカルシウムの塊は、

 柔らかな皮膚を張り詰めさせ、

 ついには内部からそれを破壊した。

 膨張した頭蓋骨によって頭頂部の皮膚は裂け、

 突き出た骨は、筋肉を引き千切った。

 極限まで伸びきった皮膚は、まるで破裂寸前の風船だ。

 事実、体のあちこちから血が噴出している。

 

 次に変化したのが筋肉。

 まるで棒切れのようだった体の各部に、エーテルで出来た肉が巻きついてゆく。

 例えるなら、針金で作った人形の芯に、青銅の粘土を肉付けしていくかのように。

 上腕部に、溶けた青銅を一塊。

 大腿部に、溶けた青銅を二塊。

 そして、そこには、まるで人間のような彫像が完成していた。

 

 最後に変化したのが髪。

 黒絹のようにしなやかな髪は、はらりはらりと抜け落ちて、

 代わりに強い髪が、そこにはあった。

 天に歯向かうように逆立ったそれは、

 まるで蒼穹のように蒼かった。

 その色は、マキリと呼ばれた一族の髪の色。

 

 そこにいたのは一人の男。

 端正な顔立ち。

 鷹のように鋭い目つき。

 すっきりと通った鼻筋。

 形の整った唇。

 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。

 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。

 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。

 視線は粘つき、見るものに不快を憶えさせる。

 全身を赤黒い呪刻で覆われた、その男。

 彼の名前は、代羽(ヨハネ)といった。

 

 

「二度目か、贋作者」

「いや、もっとたくさんだ、愚物」

 

「再会だな」

「ああ、再開だ」

 

「愉しいな」

「ああ、全くだ」

 

 次の瞬間、森が、爆ぜた。

 



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interval19 舞台の上で、愚者は踊り狂う

 きちきちきち。

 堅いものの、軋る音。

 かさかさかさ。

 多いものの、擦れる音。

 ずるずるずる。

 長いものの、這いずる音。

 

 月が、隠れた。星が、隠れた。

 代わりに、羽音があった。

 ぶーん、ぶーん、と、大群だ。

 そこに何がいるのか、確認できない。しかし、何かがいることは確実だった。

 数が、多い。

 そして、大きい。

 周囲の闇を一層深くするほど、大きく、数が多いもの。

 それが、空を覆い隠していた。

 

 べきべきと、森が泣いた。

 それは、木々の枝の、へし折れる音。

 そこに、何かが、張り付いたのだ。

 まるで、蜜に群がるカブトムシのように。

 違ったのは、それらが大き過ぎること。

 大きくて、多くて、無関心過ぎたこと。

 ただ、木々の折れ砕ける音をそのままに、じっと見つめるのだ。

 

 そして、何かが地面を埋め尽くした。

 もぞもぞと身体を捩る、色んなもの。

 堅いもの、柔らかいもの。

 それらの全てが、大きいもの。

 じっと、見つめる。

 暗がりから、じっと見つめる。

 赤い、目が。

 目が、目が、目が。

 じいぃぃいっと、見つめる。

 一声も啼かずに、ただ、じっと。

 

 蟲。 

 蟲だった。

 蟲が、蟲が、蟲が。

 空を、木々を、地面を、ありとあらゆる空間を。

 みっしりと、埋め尽くしていた。

 みっしりと、隙間なく。

 怖気を催すような、異様な数で。

 それは、悪夢の如き光景だった。

 人は、本能的に、数を恐れる。

 戯れに転がした石の裏に、ナメクジの群れを見つけたときのように。

 テトラポットに群がる、フナムシの大群を見つけたときのように。

 腐肉に湧いた、蛆の大群を見つけたときのように。

 猫の死体の肛門から列を作る、黒蟻の大群を見つけたときのように。

 本能に訴える、不快感。

 嘔吐を催すような、不快感。

 その場所には、確かにそれが存在した。

 赤い、赤い瞳の群れ。

 己を捕食対象として見つめる、逃れようの無い数の暴虐。

 常人であれば発狂して笑い転げてもおかしくない、そんな、悪夢の体現。

 その中央にて、黄金の覇者は、ただ胸を逸らしていた。

 

「なるほど、虫には森が似合いか。此間よりは、楽しめそうではないか」

 

 男が、腕を掲げる。

 刹那、空間そのものに、まるで凪の水面に石を放り投げたが如き波紋が、緩やかに沸き起こった。

 

 最初は、秘めやかに一つだけ。

 

 それを追いかけるように、もう一つ、もう一つ。

 

 更に、それを追いかけるように、もう一つ、もう一つ、もう一つ。

 

 徐々に数を増やしていく、波紋。

 際限なく数を増やしていく、波紋。

 幾重にも幾重にも重なった波紋が、最初に起きたその波を、打ち消したように思えたとき。

 最初の波紋、その中央だった場所から、鋼色の切っ先が、姿を見せた。

 

 最初は、秘めやかに一つだけ。

 

 それを追いかけるように、もう一つ、もう一つ。

 

 更に、それを追いかけるように、もう一つ、もう一つ、もう一つ。

 

 徐々に数を増やしていく、切っ先。

 際限なく数を増やしていく、切っ先。

 幾重にも幾重にも重なった切っ先が、あらゆる方向に向けて、その射出の準備を完了したとき。

 その切っ先に胸を晒しながら、黒い呪刻の男は、微笑った。

 

「…咽喉の調子は如何かな、英雄王」

 

 金色の男は、僅かに頬を歪めた。

 その言葉に、答えようとはしなかった。

 答える価値を認めなかったのか、それとも、これから始まる宴にこそ、その興をそそられたか。

 

「…存分に泣き叫べねば、肉を噛み千切られるとな、辛いものだ」

「ならば己の咽喉を心配せよや。楽に死ねぬ身体なのであろう?それに―――」

 

 二人の瞳が、交差する。

 二人の笑みが、交差する。

 二人の、殺意が、交差する―――!

 

「我も、楽に死なせるつもりは、無い―――!」

「気が合うな、英雄王―――!」

 

interval19 舞台の上で、愚者は踊り狂う 

 

 その瞬間、森の一角が消し飛んだ。

 宝具の軍隊と、魔蟲の群体が衝突する。

 ぶつかり合う、刃と外骨格。

 もはや、形容し難い音が、森の静寂を切り裂いた。

 

 ばきばき、ぐちゃり。

 きいきい、ぼきり。

 

 蟲の脚が、千切れ飛ぶ。

 得体の知れない体液が、ぶちまけられる。

 宝石のような刀身が、折れ砕ける。

 宝槍の柄が、へし折れる。

 

 轟音。

 

 異臭。

 

 阿鼻叫喚。

 

 そんな中、ただ動かない、二つの影。

 片方は、胸を逸らして。

 もう片方は、曲がった背筋で。

 にやにやと、見るものの肝を冷やす笑みで、互いのみを見つめる。

 

「なかなか、どうしてどうして…」

「ほう、意外に頑張るではないか…」

 

 それは、奇しくも数日前のマキリと遠坂の激闘と酷似していた。

 海浜公園。

 そこで、遠坂の若き当主と、マキリの老怪の皮を被った蟲人形。

 その一人と一体が、死力を尽くした、戦闘。

 幾重にも重なる、射線と射線。

 ぶつかり合う、魔力と蟲。

 それらが互いを打ち消しあい、弾けあい、貪り喰らう。

 剣と魔弾、その違いはあれど、戦闘の構図そのものはやはり似通っていた。

 だが、それは似ているようで、決定的に違っていた。

 

 まず、威力が違う。

 次に、規模が違う。

 そして、神秘の量が、違いすぎる。

 

 宝具の楽団を指揮するのは、かの神話に詠われた英雄王。

 この世の全てといわれるその財は、強力無比にして千万無量。

 その一振りにて、遠坂の小娘が如き魔弾など、その全てを薙ぎ払おう。

 魔蟲の群体を指揮するのは、穢れた聖杯。

 無限に近い魔力と、それによって生み出される魔蟲はさながら永久機関。

 その一匹において、マキリの使役する貧弱な蟲如き、その全てを喰らい尽くそう。

 それほどの、二体。

 英雄王と、魔蟲の王。

 戦争と戦争が、衝突する。

 空間が軋るような戦いは、それでもまだ序章に過ぎない。

 現代科学の粋を集めても造形しえない一振りの短剣を、醜悪な蟲が喰い散らかし。

 熊を一飲みにするような巨大な蟲を、御伽噺に描かれた騎士の剣が駆逐する。

 弾け飛ぶ、蟲の破片、剣の破片。

 その一部が、彼らに降りかかる。

 しかし、彼らには怯まない。

 さながら榴散弾のようなそれを眼前に、不敵な笑みを収めない。

 然り、下賎な蟲の一部は、まさに王の尊顔に傷をつけようとしたその手前で、蒸発するように消え去った。

 何らかの宝具を、既に展開させているのかもしれなかった。

 魔蟲の王を襲った剣の破片は、全てが彼に突き刺さり、しかし一滴の血を流させることも叶わない。

 突き刺さった傷口が、瞬時に治癒するからだ。

 彼我の距離は、僅かに十メートル程だろうか。

 それでも、舞い上がった異様な量の砂埃が、互いの姿を隠していた。

 見えない。

 そして、耳を劈くような轟音が鳴り続ける。

 聞こえない。

 故に、呟く。

 己を再確認するかのように。

 

「さて、そろそろ頃合か?」

 

 轟然と立つ、英雄王。

 彼の周囲だけ、その威容を恐れたかのように、土煙も及ばない。

 そんな彼の作る笑みが、より猛悪なものとなっていく。

 彼は、再び腕を掲げた。

 ぱちりと、誰の鼓膜を震わすこともなく、乾いた音が鳴る。

 その刹那、まるで湯水の如く溢れる、神剣、魔剣、宝刀、妖刀。

 全てが宝具であるのに、数打ちの駄剣でもかくやというその数。

 あらゆる方向に、目標を定めないかのように打ち出されていく。

 そして、弾け飛んでいく、蟲、蟲、蟲。

 明らかに、砲撃の質が、変わった。

 いうなれば、一斉正射から絨毯爆撃への切り替え。

 圧倒的なまでの火力。

 それこそが、戦争を従える、英雄王の真骨頂。

 いかに神秘の時代を生きた蟲の模造品とはいえ、その火力には歯が立たない。

 切り裂かれ、打ち砕かれ、蹂躙される。

 英雄王の足元に転がる、蟲の頭部。

 かさかさと動く触角を、彼は踏み潰した。

 無限と思われた蟲の群れは、既に空を見渡せるほど。

 地を埋め尽くすのは、生きた蟲ではなくその亡骸。

 勝利の女神の天秤は、確かに傾き始めていた。

 

「よもや、この程度か、贋作者」

「………」

 

 金色の男、その頬に、既に笑みは無い。

 在るのは、侮蔑と嘲弄と、激烈を極めた怒りのみ。

 大見得を切っておきながら、彼の眼前にて失態を演じる道化。

 そんなもの、生かしておく価値を、爪の先程も認めない彼であった。

 それに対して、漆黒の男の瞳は虚ろ。

 その視界に敵の姿を収めながら、しかしその目は何も見ていない。

 それどころか、ぶつぶつと、白痴のように、何事かを呟く。

 その様は、哀れを超えて滑稽であった。

 少なくとも、金色の男には、そう映った。

 

「…つまらぬ。疾く、消え失せろ」

「………et habebant super se regem angelum abyssi cui nomen hebraice Abaddon, graece autem」

 

 男が、天高く掲げた指を、三度打ち鳴らしたとき。

 ぱちりと、澄んだ音が響いたとき。

 今までに、更に倍する数の宝具が、打ち出された、まさにその時。

 同時に、預言者の呪文も、完成していた。

 

「Apollyon」

 

 無垢の空間を、黄金の輝きが切り裂く。

 俯くように佇む預言者、その無防備な裸体を、無数の宝具が食い尽くそうとした、その瞬間。

 彼を貫かんとした全ての宝具が、粉々に砕け散った

 預言者を守るように姿を現した、金色に輝く魔蟲の群れ。

 彼は、最後にこう唱えたのだ。

 アポルリオン、と

 

「アポルリオンと…。ああ、あの黴臭い占書の、つまらぬニクバエか」

「ああ、ただのニクバエよ、ただし、集るのはおのれの死肉だ」

 

 それは、彼の有名な黙示録にて記された、死ぬことの許されない、死より辛い苦痛を齎す蠍の毒を持つ蝗。

 人類を粛清せよ、と神に義務付けられた、絶対的な殺戮者。

 本来、この世に存在しない筈が、膨大な数の信仰によって受肉した幻想種。

 紛い物だらけの彼の内面に宿った、唯一つの幻想種。

 それを現界させることこそ、彼の固有結界。

 名前は、無い。

 名も無き固有結界。

 本来在るべき形から、捻じ曲げられ、捻じ曲げられ、そうして生まれた鬼子。

 その威容を、誰が挫こうか。

 

「さて、第二幕だ。英雄王よ、武器の貯蔵は十分か?」

「なるほど、まだ少しは楽しめるか。許す、せいぜい踊り狂え下郎」

 

 降りかけた幕は、再び上がる。

 傾きかけた女神の天秤は、再び水平を取り戻す。

 同時に、酸鼻を極めていく、戦場。

 ならば、舞台の演目は戦争活劇。

 演者は、只の二人。

 彼らは指揮官だ。

 戦争が始まって以来、只の一歩も動かない。

 そこに根を下ろしたかのように、一歩も動かない。

 動けば負ける、そう誤解しているかのように、一歩も動かない。

 そして、無傷。

 二人とも、髪の毛の先程の掠り傷も負っていない。

 穏やかな春の午後に森林を散歩するときほども、その身体は傷ついていない。

 しかし、彼らの指揮する軍隊は、無惨を極めた戦場にいる。

 女の顔をした滅びの蟲が、喘ぐ。

 ひいひいと、涙を流しながら。

 涙を流し、涎を流し、そうして嗤うのだ。

 嗤いながら、飛びまわる。

 けたけたと嗤いながら、潰れていく。

 狂気を身に宿しながら、死んでいく.

 その姿の何と不吉なこと。

 ならば、その不吉を引き受ける敵兵こそが悲惨。

 打ち出された神話の剣は、悉くが喰い散らかされる。

 その鋭い牙に、噛み砕かれる。

 大蛇に飲み込まれる、生贄のようだ。

 無音の悲鳴。

 無音の断末魔。

 砕かれる神秘。

 その音の、なんと哀れを誘うこと。

 それでも、相見える軍勢は、互角。

 打ち出される魔弾と生み出される魔蟲。

 死にゆくそれと生まれるそれの数は、拮抗している。

 千日手。

 やがて、周囲を圧する轟音にも耳は慣れる。

 辺りの木々はなぎ倒され、すっかり見通しが良くなった。

 そんな、頃合。

 

 二人のうちの一人は、勝利を確信した。

 

 預言者、ヨハネ。

 魔蟲の王、群体の指揮官。

 彼は確信した。

 己の勝ちであると。

 理由は単純。

 英雄王の武器の射出量が、目に見えて減り始めていたからだ。

 始めのうちこそ、まるで無駄打ちを楽しむかのように打ち出されていた宝具。

 だが、時がたつにつれ、狙いが慎重かつ繊細になってきた。

 言葉を変えるなら、臆病になったきた、と言ってもいい。

 当然だ。

 彼は、確かにあらゆる財を持っているのだろう。

 しかし、その中でも武器、更には宝具と呼ばれるものとなるとその数は限られるはずだ。

 それに対して、アンリマユとパスを通したヨハネの魔力は実質無限。

 そして、彼の魔力で編まれたアポルリオンの数も無限といっていい。

 ならば、勝敗の帰趨は明らかだ。

 預言者の、四白眼が、ぐにゃりと歪んだ。

 そうして、思った。

 

 ―――さて、目の前の男は、今、一体どんな気分なのだろう。

 ―――全てを支配し、その物量であらゆる敵を屠ってきた彼が。

 ―――物量において敗北し、私に支配されるのだ。

 ―――彼の胸の内を想像し、来るべき未来を思う。

 ―――ああ、何と、痛ましい。

 

 預言者の股間は、はち切れんばかりに屹立していた。

 

 無限に続くと思われた戦場は、やがて収束へと落ち着いていく。

 果たして、それは誰の望んだ結果だったか。

 十の蟲が放たれる。

 迎え撃つのは五振りの長剣。

 弾き飛ばす。

 二十の蟲が放たれる。

 迎え撃つのは三本の矛。

 蹴散らす。

 五十の蟲が放たれる。

 反撃は無い。

 どうやら財も尽き果てたと見える。

 魔蟲の王、その眷属が、英雄王を包囲する。

 最早、鼠の這い出る隙間も無いくらいに。

 けたけたと、微笑いながら。

 勝利。

 これ以上ないくらいの圧勝。

 そして、彼は思うのだ。

 

 ―――さあ、傷ついた王様を、どんな言葉で慰めてあげようかしらん。

 

 

「さて、と」

 

 刺激に飽いたその声は、預言者のそれ。

 英雄王は、無表情でその声を聞き流す。

 辺りは、とても静か。

 気紛れな突風が、舞い上がった砂塵を吹き飛ばす。

 姿を現した大地は、見るものの悲哀を誘うに十分過ぎるほど。

 周囲は見渡す限り更地になっている。

 いや、更地というのには語弊があるだろう。

 所々に隕石の落下でもあったかのように、巨大なクレーター。

 根元から吹き飛んだ大木。

 砕けた巨石。

 火薬など一片たりとも使用されていないのに、濃厚なそれの臭いを感じてしまうような、そんな光景。

 漆黒の空を、眩いばかりの真円が照らす。

 まるで昼間のように明るい夜の中

 それでも、なお一層輝く魔虫を引き連れた王が、気遣わしげに言い放つ。

 

「大昔から使い古されてきた台詞で申し訳ないのだが」

 

 長身。

 蒼い髪。

 猫背気味の姿勢。

 全身を覆う、黒い呪刻。

 大きな目と、それに比して小さな瞳が狂気を感じさせる。

 そして、吊り上った口の端。

 彼は冷静な、或いは熱情を込めた声で続ける。

 

「降伏と服従か、苦痛と死か。選んで頂きましょうか」

 

 英雄王は無言。

 逆立った髪の毛が、風に弄られている。

 既に、彼の周囲に財は展開されていない。

 在るのは、彼を嘲弄するかのように飛び回る、女の顔をした魔蟲の群れ。

 周囲を包囲する、圧倒的な敵勢。

 それでも彼は、なお傲然と胸を張る。

 

「ご自慢の財も尽き果てた。潔いのも王たる資質だと思うがね」

 

 その言葉に。

 

 黄金の支配者は相好を崩した。

 

「くく、くはははっははははははっ!」

 

 少年のように無邪気な顔で、腹を抱えて凶笑する英雄王。

 その声に、敗者の翳りは無い。

 

「いや、全く貴様の言う通りよな、我が財、既に尽き果てたわ!」 

 

 瞳の端に涙すら浮べ、息も絶え絶えに笑いながら、それでもその身に纏った威厳には些かの衰えもない。

 彼は、確かに幸福だった。

 これほど愉しかったのはいつ以来かと、指折り数えてしまうほどには。

 

「……なにがそんなに可笑しい」

 

 魔蟲の王が尋ねる。

 いぶかしむその声には、勝者の誇りが汚された苦味がありありと浮かんでいる。

 敗者は、這いつくばって許しを請うはずなのに。

 勝者は、優しく敗者を許してあげるはずだったのに。

 彼はそう考えていた。

 そんな敵対者の内心には気づかぬそ振りで、英雄王はなお嗤い続ける。

 

「いやいや、貴様が悪いわけではないぞ。貴様はよくやった。なるほど、これほど楽しめたのは彼の騎士王と矛を交えたとき以来かも知れぬ」

 

 その顔には、やはり濃厚な笑みが。

 ただし、それは無垢の少年のそれではない。

 あるのは、万物の支配者としての、常の彼の笑みだけ。

 

「ただ、かわいくてなぁ」

 

 彼は、そのしなやかな腕を軽く掲げた。

 

「…何が」

 

 黒い聖杯が尋ねる。

 

「何、と。決まっておろうが」

 

 パチン、と四度、指が鳴る。

 

「この程度で我が財を討ち果たしたと考えている下種が、な」

 

 放たれたのは一振りの剣。

 今までと同じように、激烈な勢いで彼の敵対者を襲う。

 それに対するのもいつもと同じ。

 十重二十重に張られた魔蟲の防御陣。

 それが剣の進軍を阻む。

 ここまではいつもと同じ。

 違ったのは。

 

 一匹目の蟲が弾ける。

 いつもと同じ。

 

 二匹目の蟲が弾ける。

 いつもと同じ。

 

 三匹目の蟲が弾ける。

 いつもと違う。いつもなら、ここで剣の勢いは殺されていた。

 

 四匹目の蟲も弾ける。五匹目も、六匹目も七匹目も。

 弾ける弾ける弾ける弾ける弾ける弾ける弾ける弾ける弾ける――――止まらない。

 

 そしてその切っ先は。

 不可侵だった防御陣を紙のように切り裂き。

 そのまま、魔蟲の王の右胸を、貫いた。

 

「えっ?」

 

 あれ、と。

 どうして、と。

 そんな、軽い声。

 聞きようによっては、酷く間の抜けた、声。

 自分に起きたことが信じられない。

 いや、そもそも自分に何が起きたのか解らない、そんな声。

 そんな声を残して、預言者は剣と共に吹っ飛んだ。

 木の枝をへし折りながら、激烈な勢いをそのままに。

 彼の身を串刺しにし、なお勢いを失わぬ神剣は。

 遥か後方の巨木に哀れな獲物の体を縫い付けると、ついにその猛威を収めた。

 

「なん、で…?」

 

 ようやく生まれた疑問をそのまま口にした、そんな声。

 それと共に、口元よりあふれ出る、黒ずんだ血液。

 ごぼりと、粘着質な音をたてて。

 虚ろな視線。

 悠然とした足取りで彼に近づく英雄王。

 彼を包囲した蟲どもですら、その威光を恐れるかのように道をあける。

 そして、彼は言うのだ。

 

「光栄に思うがいい。今、貴様の体を貫いているのはメロダック。かの騎士王の選定の剣、そして太陽剣グラムの原型となった神剣よ」

 

 愉悦に歪んだ声。

 勝者の傲慢に溢れている。

 

「こ、んなもの」

 

 預言者は、己の胸から生えたその剣を、抜き取ろうとする。

 かさかさと、ピンで留められた虫のように。

 そこに存在したのは、誇り高い預言者の姿ではない。

 ただ、現実を受け入れられない、敗残者の哀れだった。

 

「ほう、まだ動けるか」

 

 そんな預言者の奮闘を嘲笑うかのように、いや、事実嘲笑いながら英雄王が再び指を打ち鳴らす。

 虚空から現れたのは、万物を虚空に消す神の兵器。

 それが、たった一人に向けて打ち出される。

 やはり、姑息な虫の壁などではその進軍は止められぬ。

 

「………!」

 

 預言者は、声を上げようとした。

 しかし、それは叶わなかった。

 なぜなら、その声帯は眩い光を放つ槍によって破かれていたから。

 なぜなら、その心臓は血のように赤く染まった切っ先に貫かれていたから。

 なぜなら、その肺は濡れたように妖しく輝く刃に切り裂かれていたから。

 なぜなら、その横隔膜は巨岩のような石弾によって叩き潰されていたから。

 なぜなら、彼は、既に人の形では、無かったから。

 

「その槍は魔槍ブリューナク。その剣は魔剣アンサラー、神剣フラガラッハ。その石弾は魔弾タスラム。それらはかの光神ルーの所有した神器。いずれも貴様のような下種に使うには憚られる宝具よ」

「………」

 

 喉に光り輝く槍が突き刺さり、胸を濡れたような三本の刃が貫き、腹部は禍々しい石弾によって吹き飛ばされている。

 眼球と口腔と鼻腔、耳道、顔面に存在するあらゆる穴から血を垂れ流し、腹から下は千切れ飛んでいる。

 通常の人間ならば、両手で数え切れぬほどの死を迎えているであろう、その姿。

 しかし、それでも預言者は死なぬ。

 無限の魔力と、蟲の再生力が、彼を生かそうとする。

 

「ふむ、なかなか良い眺めよな。やはり虫には標本が似合いか」

 

 加害者は磔になった被害者を見上げて、楽しげに言った

 

「なかなか苦労したのだぞ、あの脆弱な虫と見合うほどに低級な宝具を見繕うのは。あまりに数が少なすぎて、流石の財も尽きてしまったわ」

「………な………ぜ」

 

 ようやく声を出せるようになったのか、それでも弱弱しい声で、その標本は尋ねた。

 

「何故、か。決まっておろう。貴様にその表情を刻み込むためよ。愚者の勘違いを正すのも王たる我の役目ゆえな」

 

 つまらなそうなその声。

 退屈に倦んだ、その声。

 その声は、他の何物よりも、彼の者の誇りを傷つけた。

 身を焼き尽くすような、恥辱と屈辱。

 怒りが、預言者の魔術回路を暴走させる。

 その、刹那。

 現れた蟲は四桁を超え、夜空の星に抗わんとするような無数。

 目を開くのも難しいような、圧倒的な光量。

 

「なめるなぁっ!」

 

 周囲を圧する裂帛の叫び。

 通常ならば勇者の雄叫び。

 万物を蹴散らす、まさしく神の僕の声。

 それが、号令。

 

 しかし、悲しいかな黄金の英雄王の前では。

 

 哀れな被害者の悲鳴以外、それは何物でもなかったのだ。

 

 まるで濁流のように襲い来る呪われた虫。

 人類を滅ぼせよと、神に義務付けられた軍勢。

 それを、まるで羽虫のように一瞥すると、英雄王は呟いた。

 

「鬱陶しい」

 

 その手には奇妙な剣。

 世界を切り裂いた、英雄王の唯一。

 そして、彼は言葉を紡ぐ。

 それが、この戦いの終わりを告げる、鬨の声だった。

 

「天地乖離す開闢の星」

 

 唸りを上げる、乖離剣。

 

 風が、風が、風が、吹き荒れる。

 

 風が、風が、逆巻く。

 

 風が、唸る。

 

 風が。

 

 静かだった。

 

 とても、穏やかな空気が流れていた。

 

 今までの破壊が児戯と思えるほどの大破壊。

 地を揺らし、天を轟かせたそれが収まると、周囲にあらゆる振動は、無かった。

 針の落ちる音も聞こえるような、静寂。

 何者も、何物も、動かない。

 当たり前だ。

 今、この場で命を永らえた生き物など存在しない。

 植物にも、動物にも。

 哺乳類にも、昆虫にも。

 そして、無機物にすら。

 ありとあらゆる生命に、平等な死が与えられた。

 それでも。

 そんな地獄の中でも、かつての魔蟲の王は生きながらえていた。

 無数の肉片に分かたれ、まるで単細胞生物のように細かく蠢くそれらを一つの生命と呼ぶことができるならば。

 しかし、彼が立ち上がることは、もう無い。

 彼は、その内面に無数の世界を従える故に、不死だった。

 その世界の悉くが、死の原典によって切り裂かれた。

 もう、彼に叶うことは、彼以外の誰かを生かすことくらいだった。

 それは、如何にも彼らしい。

 本来の彼であれば、迷うことなくそうしたであろう、選択肢。

 それを誇り高く抱いて、預言者は死んだ。

 そうして、勝者は哂った。

 誇り高く、勝者がそうあるべく、高らかに哂った。

 そして、言った。

 飛び散って、今だ生きようと足掻く敗者に言い聞かせるように。

 あるいは、この場に存在しない彼の生涯の敵に宣言するように。

 

「人類を粛清するために神が使わした虫だと?人を害する絶対権が与えられているだと?ふん、我を馬鹿にするのも大概にするがいい。神如きに我を裁く権利があると思うか」

 

 そう。

 彼は人ではない。

 神と人の要素を持ちながら、その両方であることを拒否した。

 彼は王。そして支配者。

 人も、神も、彼の前には跪く。

 だから、最初からヨハネに勝機など、存在しなかった。

 確かに、彼には人類を罰する絶対権があったのかもしれない。

 しかし、鼠を狩る権利を得た猫如きに、獅子を狩ることなどできるはずもなかったのだ。

 



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interval20 役者は代わり、それでも劇は終らない

 深い眠りから、意識が浮かび上がる。

 いや、その表現は正しくないか。

 全身を覆う激痛。

 それが、私の意識を引きずり起こす。

 痛い。

 体中が痛い。

 これほどの痛み、いつ以来だろう。

 思い出すのはあの日。

 冬木を飲み込んだ大火

 赤い空気の中で、弟を背負って彷徨った。

 じくじくと、皮膚を炙る熱。

 呼吸をするたびに、掻き毟られるように痛む呼吸器。

 そうだ、あれは、痛かった。

 もう、嫌、だな。

 そう思う。

 もう、見捨てたくないな。

 痛みに犯される意識の中で、

 そう、考えた。

 

 ゆっくりと、目を開く。

 まず最初に目にしたのは月。

 闇夜を淡く照らすそれは、太陽の光よりも優しかった。

 次に目にしたのは黄金。

 太陽と同じくらい輝くそれは、私の醜い部分を照らし出すようで、ひどく退廃的だった。

 

「…愚か者に、誅罰は課した。これで満足かな?」

 

 黄金が話す。

 なるほど、ヨハネは敗れたらしい。

 無限の魔力と不死を得たヨハネ。

 それが、敗れた。

 ああ、と、溜息を吐く。

 狭い狭い、私の中。

 空っぽの、私の中。

 そこは、もう、伽藍堂で。

 優しい守護者は、もういなかった。

 ああ、彼は、死んだのだ。

 きっと、最後に私だけを、助けて。

 そうして、何も言わずに、消えていった。

 せめて最後に一言だけ。

 今まで、ありがとうございました、と。

 どうして、お礼を言わせてくれなかったのか。

 それとも、それが彼なりの気遣いだったのか。

 ならば、彼は間違いだ。

 だって、私は、こんなにも寂しい。

 

「ヨハネは…死にました…」

「そうか」

「でも、私は、生きています…」

「そうか」

 

 今のうちに死んでおけ、と彼は言った。

 

 時は夜。

 

 死にたくても死ねなくなる、と彼は言った。

 

 場所は門の前。

 

 赤い瞳に浮かんだのは哀れみではなく嘲笑。

 端正な唇を曲げていたのは、親愛の情ではなく傲岸の念ゆえに。

 それでも彼は美しかった。

 身に纏うのは黄金の覇気。

 いや、それは違うか。

 彼の覇気と同じ色を黄金と呼ぶのだ。

 彼の覇気と同じ色だからこそ、ただの金属に高い価値が与えられたのだ。

 そう確信できるほど、目の前の存在は気高かった。

 

 我の手を煩わせるな、と彼は言ったのだ。

 

「…あなたの言った通りになりましたね。私の体は、こんなにも死から遠ざかってしまった」

 

 アンリマユとのパスは、繋がっている。

 ならば、私の不死が消え去ることは、あるまい。

 それでも、もう、私は、一人だ。

 私を守ってくれた彼は、いなくなってしまった。

 私を守ってくれた彼は、いなくなってしまった。

 それが、こんなにも、心細い、なんて。

 涙が、零れそう。

 でも、我慢。

 泣けば、無様でしょう。

 彼が、心配するでしょう。

 だから、泣きません。

 泣きませんとも。

 私は彼を見上げる。

 彼は私を見下ろす。

 無表情の瞳。

 孤独に歪んだ瞳。

 位置関係がそのまま地位関係。

 支配者と服従者。

 極めて正しいその認識。

 

「もう、満足であろう。さあ、行くぞ」

 

 冷厳に言い放つと、彼は虚空から一連の鎖を取り出した。

 まるで、それ自体が意志を持つかのように、私に向かってくる鎖。

 私は、それを飛びのいてかわした。

 

「ほう、まだ動けるか」

 

 純粋な感嘆を含んだ、声。

 だが、私にはそれに答える余裕など無かった。

 

 痛い。

 

 全身の細胞が、千切れかけているかのようだ。

 動くだけで、塩細工のように、身体中が解れそう。

 ひょっとしたら比喩ではなく、真実細切れにされたのかも知れない。

 体が痛むのではなく、痛みで体が構成されているような錯覚すら覚える。

 痛い。

 無条件で、痛い。

 ただ、こうしてみると、何も身に纏っていないのが好都合。

 表皮を撫でる微風すら、死にたくなるような激痛をもたらすのだ。

 衣擦れなど、考えるだけで恐ろしい。

 

「で、何をするつもりなのだ」

 

 彼の問いはもっともだろう。

 この身に武器は無く、魔力など最初から存在しない。

 守護者はおらず、私一人。

 勝機など無い。

 そもそも、あのヨハネを正面から退ける相手に、私が敵う筈など無いではないか。

 でも。

 

「私はあの時こう言ったはずです。『私の望みを妨げるのであれば、例え神でも食い殺してみせましょう』、と」

 

 成すべき事は定まっている。

 そのため成すべき事も明白だ。

 さぁ、立ち上がって。

 その、細い腕を持ち上げて。

 それでも、精一杯の拳を作って。

 相手を、睨みつけろ。

 

「ふむ、気概は勇ましい。しかし、賢明ではないか。まあ、よい。戯れである。先程の契約も、些かこちらに分がありすぎるものではあった。この程度の女の我侭、飲み込むのも男の度量よな」

 

 殴りかかる。

 体が動かない。

 正確に言えば、意志と体の接続が可笑しい。

 まるで、液体の中で戦っているような重い感覚。

 腕がスローモーション。

 足がコマ送り。

 思考にいたっては一時停止か。

 ははっ。

 笑えてくる。

 これが私か。

 こんなもののために、幾たびも血の小便を流したか。

 申し訳ない。

 過去の自分に、申し訳ない。

 貴方の努力を、貴方の苦痛を、生かしてやることが、できない。

 もともと、勝てるはずのない相手なのに。

 これじゃあ、戦いにすらなっていないじゃないか。

 

 振り回すような、子供の喧嘩のような拳撃。

 

 かわされる。

 

 振り上げるだけの、無残な蹴り。

 

 すかされる。

 

 ならば、と体ごとタックルにいっても。

 

 いなされる。

 

 そのままバランスを崩して地面に倒れこむ。

 

 直後に訪れた、地面との望まぬ抱擁と、小石への接吻。

 無様な抱擁の代償は、砂利との摩擦による叫びだしたくなるような激痛。

 へし折れそうなくらい歯を食い縛ってそれに耐え、なんとか仰向けになる。

 大きく喘ぎながら、目を開く。

 月が、あった。

 真ん丸い、大きな、月だった。

 今にも落ちてきそうな、そういう素敵な勘違いをしてしまう、そういう月だった。

 

「…話にならぬ。児戯とはいえ、それでも王をつき合わすのだ。程度というものが在ろうが」

 

 ゆっくりと、立ち上がる。

 身体の各部を、確かめる。

 痛みは、消えてくれない。

 それでも、痛みは実在感だ。

 動く。

 まだ、動く。

 掌を、握って開く。

 首を、左右に捻る。

 全て、思い通り。

 ならば、万全だ。

 万全じゃあないか。

 言い訳は、できない。

 言い訳は、侮辱だ。

 私が殺してきた人、私がお世話になった人。

 私を守ってくれた人、私が守ろうという人。

 その悉くに対する、侮辱だ。

 ならば、立ち上がれ。

 何でもないふうで、立ち上がれ。

 これから鼻歌でも謡うように、立ち上がって。

 そうして、不敵に笑え。

 でないと、塵だ。

 シロウよ。

 お前は、塵になるぞ。

 お前が、塵ならば。

 お前が、無価値ならば。

 お前が殺してきた人、お前がお世話になった人。

 お前を守ってくれた人、お前が守ろうという人。

 その悉くが無価値となる。

 だから、戦わなければならない。

 お前は、戦わなければならない。

 大事な人が、大事であることを証明するために。

 ああ、そうか。

 なるほど。

 少しだけ、理解できた。

 彼も。

 彼も、こういう気持ちで。

 正義の味方なんていう、得体の知れないものを。

 目指そうと、志したのかも、しれないな。

 

「コトミネ、あとは任せる。我は、もう飽いた」

「…よいのか?それは、既にお前の所有物であろうが」

「王の犬だからとて、その躾を王がせねばならぬ道理はあるまい。王には王の、調教師には調教師の役割がある」

 

 いつの間にか、目の前に、男が立っていた。

 神父服を着込んだ、まるで巌のような、男。

 どこかで、見たな。

 いつか、知っていたな。

 私は、抱かれたな。

 そうだ。

 そうじゃあないか。

 この人は。

 私の、愛した、人だ。

 

「…貴様らしい言い方では在るが、それは一面、真理であるな。ならば、任されよう。その代わり、如何様に躾けようと、不満は聴かんぞ」

「くどい。我に二度同じことを言わせるな。殺すぞ」

 

 あ、笑ってる。

 嬉しそうに、笑ってる。

 そうだ。

 そういえば、そうだ。

 この人に、抱き締められたことは、何度も合ったけど。

 この人に、慰められたことは、何度も合ったけど。

 この人に、抱かれたことは、一度だけ合ったけど。

 殴りあったことは、今まで、一度も無かったな。

 ああ、そうか。

 今日か。

 今日、この人と、私は。

 

「聴いたか、マキリ代羽よ。君は、私と戦わなければならない」

 

 はい。

 わかりました。

 

「君が取引を持ちかけておきながら、何故戦おうとするのか、それは知らん。だが、君が私に勝ち、そしてその様をあの男が気に入れば、或いは君の望む通りに事が運ぶやも知れぬ」

 

 はい。

 わかりました。

 単純な、ことですね。

 要するに。

 要するに。

 

「貴方に勝たないと、先は無い」

「やはり聡明だ、君は」

 

interval20 役者は代わり、それでも劇は終らない

 

 二人は、初めて向かい合った。

 神父と信徒として、ではない。

 抱く者と抱かれる者、でもない。

 まして、夫と妻として、ではない。

 ただ、敵として。

 倒す者と倒される者。

 未だ結果は定まらないが、不可避の未来として、彼らはそういう結末を辿る関係だった。

 染み一つ、黒子一つ無い、世の男性の理想像を形にしたような美しい裸体を晒す、少女。

 巨木のように揺ぎ無い、それでいて柳のようにしなやかな肉体を誇る、男。

 身長差、40センチ。少女の実感としてみれば、己に倍する巨人と戦うに等しかろう。

 体重差、40キロ。それは、事実として少女の体重に等しい。

 大人と子供、そう評するのも馬鹿馬鹿しい、それほどの体格差である。もし、それが脂肪という無駄な重量を抱えてのそれであれば救いもあるが、神父の身体を構成するのは鍛え込まれて鋼と化した筋肉のみ。それに引き換え、少女はあくまで女らしい、丸みのある柔らかな肉体を保った上でのその体重である。単純に筋肉の量のみを比較するならば、三倍、下手をすればそれ以上の差があるかもしれなかった。

 異常な差異である。

 少なくとも格闘戦において、勝つとか負けるとかを論ずるような域ではない。

 もしこれが試合であるならば、少女のセコンドは只管にこう願うだろう。

 

 頼むから、死なないでくれ、と。

 

 それでも、二人は並び立つ。少女は、自らの質量に倍する、しかし明らかにそれ以上の量感を備えた男の前で、なお哀れを誘わずに、ただじっと見据える。

 

「もし、手心を加えるというのであれば、私は一生貴方を軽蔑します」

 

 神父は、無言でその法衣を脱ぎ捨てた。

 照りつくような月光の元、露になった神父の上半身。

 これ以上無い、そう確信できるほどに引き締まっている。筋肉が見事に隆起を造り、ごつごつとした印象でありながら、少しも堅くない。それは、見せるために作り上げた不自然で不要な筋肉ではなく、全てが実用的で実践的な柔らかい筋肉であることを示している。

 それは、敵である少女が溜息を吐きたくなるほどに、見事な肉体だった。歳が40に近くなれば人の身体はどうしても緩みを憶えるもの。しかし、その男の体は、少女が彼と交わったあの夜と比べて、些かの見劣りもしないものであった。

 神父は、首に手を当てながら、軽く前後に動かした。彼なりの準備運動なのかも知れない。

 

「君が手心を加えてくれと嘆願すれば、考えないでもなかった。しかし、その場合は君を軽蔑していただろうから…、そうだな、互いに望ましいといえるか」

 

 彼は、法衣を放り投げた。

 少女が、一瞬だけ身を固くする。

 それでも、神父は動かなかった。それどころか、まるで今から寝床に入るかのようにその身体は弛緩している。

 おや、と。

 少女が思った、そのとき。

 神父の身体が、更に一回り、脹らんだ。

 

「すうううぅぅぅぅぅ…」

 

 具体的に言うならば、神父の上半身、その分厚い大胸筋に包まれた肺腑が、これ以上無いくらいに広がったのだ。

 その場に存在する大気を、全て取り入れるかのような、大きな呼吸。

 これ以上広がらない、これ以上脹らめば弾け飛ぶ。

 そう、少女が思ったとき。

 神父は、悠々と湛えられた空気を、吐き出していく。

 

「こおおおぉぉぉぉ…」

 

 息吹。

 日本の空手には、試合前に行う呼吸法の一つとしてそういう技法が存在する。戦う前ならばどんな上段者でもそれなりの緊張や恐怖を覚えるもの。それを取り除き心身をリラックスさせ、丹田に気を取り込むための手法である。

 言峰綺礼が行ったのもその亜種の一つ、もしくは源流であろう。

 少女の柔肌は、びりびりとした圧力が一層強まったのを敏感に感じ取った。目の前に立つ男の巨大な体が、更に一回り膨れ上がったようですらあった。

 

「…始めようか」

「もう、始まっていますとも」

 

 少女は、自然立ち。

 正中線を真っ直ぐに、両手はだらりと下げられている。

 極限まで脱力されたその構えには、一切の余分な力が加わっていないようである。

 風が吹けば倒れるような、しかし必ず元の形に戻ると確信させるような、構え。

 物に例えるならば、柳、あるいは柔らかな羽毛だろうか。

 神父の構えは、中国拳法のそれ。

 腰が、低い。太腿のラインが地面と平行線を描くほどにその腰は落とされている。

 そして、半身。肩口から少女を射抜くように、その視線を放つ。

 両掌は虚空から何かを掴み取るように自然な形で開かれ、肘は軽く前方に曲げられる。

 どっしりとした、巨岩のような構えであった。

 

 微動だにしない。

 二人の間に、たまらない緊張感が満ちていく。

 ぽとり、ぽとりと、閉まりきらない蛇口をもって湯船に水を張るように。

 少しずつ、ゆっくり。

 のろのろと、蚯蚓が這うような速度で、ゆっくりと、しかし確実に。

 それを眺めやる観客は、ただ一人。

 先程戦いを終えて、なおこの戦いを楽しげに眺める、金色の男だけ。 

 その視線を受けながら、二人は微動だにしない。

 じりじりと、焼け付くような緊張感だった。

 それは、少女に限ったことではない。

 男の、少女と比べれば鬼のような巨躯たる男の額にも、粒のような汗が浮かんでいる。

 やがて、動き始めたのは、男のほうだった。

 足の指で身体を動かしているかのように、少しずつ、少しずつ。

 二人の間に存在する空間が、悲鳴をあげるかのように縮んでいく。

 二人の間に存在する緩衝が、段々と用を為さなくなっていく。

 それでも、少女は動かない。

 一体、それがどれほどの胆力のなせる業であるのか。神父は内心に感嘆の念を禁じえなかった。

 それでも、彼はじりじりと間合を盗んでいく。

 じりじりと、地面をこそげ取るかのように。

 気の遠くなるような時間と緊張感。

 ついに、じわじわと縮まった二人の間合いが、それ以上縮まらなくなった。

 それが、必殺の間合の一歩外であることは、互いに理解している。

 故に、近づけない。

 神父も、もちろん少女も。

 まるで、透明な球体が浮かんでいるかのようだった。

 それ以上、一歩でも踏み込めば割れて砕ける、透明な風船。

 それが、二人の間に浮かんでいる。

 それを割ることを、二人ともが恐れているかのようだった。

 二人を満たす緊張感が、急激に嵩を増していく。

 蛇口が、全開になる。

 だばだばと、湯船に水が張られていく。

 そして、それが一杯になったとき。

 湯船の縁から、まさに最初の一滴が零れる、その瞬間。

 風が、一陣、吹いた。

 びょう、と。

 それだけだった。

 それが、合図だった。

 その風に乗るかのように、神父の身体が動いた。

 それは、ほとんど風と一体化していたと言っていい。

 それほどに疾く、それほどに隙がなく、それほどに理解できない。

 大地を踏み鳴らす震脚ではなく、大地を滑るような踏み込み。

 間合を盗む、その表現が相応しい。

 常人であれば、視界に映った彼が、突然巨大化したようにしか思えないだろう。

 ほとんど予備動作のない、氷の上を歩むかのような踏み込み。

 その一歩で、二人の間に存在した間合は、盾として用を為さないものに変貌した。

 少女は、理解してる。

 様子見は、無い。

 これが、必殺の一撃。

 拳法家は、連打を好まない。

 初撃こそ、必殺。

 初動こそ、必殺。

 逆に言えば、その確信がなければ、彼は一時間だって一日だって動かないだろう。

 その彼が動いたのだ。

 ならば、彼は、この一撃で少女を葬り去る気概なのだ。

 何が、来る?

 少女は、刹那にも満たないような瞬間で、考える。

 それは、脳の思考ではない。

 そんなことでは、遅れる。殺される。

 それは、眼の思考だ。

 筋肉の思考だ。

 身体の思考だ。

 彼女の体に染み込んだ、闘争の歴史の思考だ。

 それが、稲光のような速度で思考する。

 彼の、視線。

 腹部。

 ならば、中段崩拳?

 違う。

 そんな体重の配置ではない。

 右肩が、ピクリと。

 上段突き?

 違う、あれもフェイントだ。

 ならば、本命は下段蹴りで脚を払うか?

 それも、違う。

 違う。

 違う。 

 違う。

 幾重にも張られた虚と、その中に必ず紛れ込んだ実。

 それを取り違えれば、即ち死だ。

 だから、少女は必死に。

 考える。

 否。

 視る。

 神父を、視る。

 只管に、視る。

 じい、と。

 その一挙手一投足見逃さない。

 そういう具合に。

 そして。

 彼女は確信した。

 神父の、必殺の一撃は。

 

 ―――右足!

 

 ぶうんと、彼女の耳に、風が叩きつけられる。

 彼女はそれを幻覚であると理解していたが、それでもなお震えるほどの恐怖だった。

 それほどの、猛烈な存在感と、殺気。

 蛇のように地に沈み込んでいた男の身体が、それこそ蛇の鎌首のように、持ち上がる。

 浮き上がった身体。

 そして、膝が高く持ち上げられ。

 その先、脛から爪先までが、白鳥の羽のように折りたたまれて。

 それが、彼女のこめかみを狙って。

 それは、一瞬早く、彼女が風を感じ取った、まさしくその箇所。

 上段蹴り。

 もちろん、神父の巨躯を支える体重、その一分も逃さぬ程に体重が乗っている。

 樫の杖でもへし折るだろう。

 少女の細首は、千切れて飛んでいくかもしれない。

 それほどの、疾く、重たく、何より美しい蹴り。

 それを、少女は。

 

 来た。

 蹴り。

 上段。

 疾い。

 あの身体で。

 嘘みたい。

 しなやか。

 疾い。

 堅い。

 当たれば。

 死。

 受けるか。

 馬鹿か、私は。

 受けた手。

 折れる。

 そのまま。

 受け手ごと。

 頭が。

 砕ける。

 駄目だ。

 避ける。

 後ろに。

 スウェーで。

 駄目。

 避けても。

 いずれ、当たる。

 ならば。

 ならば。

 私の。

 武器。

 これだけ。

 ならば。

 こうする。

 簡単な。

 話だ。

 

 

 上出来だ。

 上出来の、踏み込みだった。

 百のうちに二度やれと、そう言われて出来るかどうか、そういう初動だ、これは。

 ならば、迎撃は不可能だろう。

 それ程に上々の踏み込みだった。

 事実、彼女の腕はだらりと下げられたまま。

 しかし、視線は諦めたふうではない。

 狙いは、後の先か。

 いいだろう。

 いいだろう。

 ただし。

 ただし、これを避けれたらだ。

 避けれたら、それもいい。

 受けるのは、許さない。

 受ければ、死ぬぞ。

 その細腕、何本束ねたところでへし折る。

 そういう蹴りだ、これは。

 そして、当たれば必死。

 必ず、死ぬ。

 死なざるを得ない。

 刃物とか拳銃とか、そういうものと等しい蹴りだ。

 凶器だ。

 確実に、お前を殺せる武器だ。

 それが、お前に頭に向かって、跳ね上がる。

 まだか。

 まだ、動かないか。

 後ろに下がれば、避けれるぞ。

 ただし、下がればその分私は前へ出る。

 ならば、次は今よりも強烈な打撃だ。

 その分加速するからな。

 それでいいなら、後ろに下がれ。

 あれ。

 まだ、動かないか。

 もう、膝はこれ以上無いくらい高く持ち上がって。

 爪先が、そのこめかみを狙って、走り始めているのに。

 まだか。

 まだ、動いてくれないのか。

 殺してしまうぞ。

 このままでは、私はお前を殺してしまうぞ。

 いいのか。

 いいのか、マキリ代羽。

 いや、マキリ代羽と呼ばれた者よ。

 それ以前は、違う名前で呼ばれていた者よ。

 おそらく、今と同じ発音で、呼ばれた者よ。

 私は、殺すぞ。

 認めよう、私は君を愛していた。

 おそらく、昔、愛して、子を成した女と同じ程度には、愛していた。

 それを、認めよう。

 だが、今の私は凶器だ。

 凶器は、人を愛するか。

 愛するだろう。

 きっと、愛するのだ。

 しかし、凶器が人を愛したところで、凶器がその刃先を曲げることは、ない。

 凶器は、悠々と、その愛した者を、貫くだろう。

 凶器とは、そういうものだ。

 いいのか。

 私は、殺すぞ。

 君が不死だろうがなんだろうが、関係ない。

 私は、君を殺すぞ。

 いいんだな。

 殺して、いいんだな。

 了解だ。

 さあ、死ね。

 ぞくり。

 背筋を、何かが。

 恐怖?

 悲哀?

 否。

 歓喜。

 快楽。

 ならば。

 死ね。

 ―――。

 あれ。

 感触が。

 潰れる、肉の感触が。

 拉げる、骨の感触が。

 無い。

 

 

 少女は、持ち上げた。

 蹴りを。

 自らの頭部を砕かんと襲い来る蹴り足を、荷物を担ぐように。

 左側頭部を、真横から狙ってきた足を、その左手で、上方に。

 それだけだ。

 それだけで、蹴り足は、彼女の頭上の遥か上を通過して、何物も砕くことはなかった。

 格闘技における打撃技は、どれも直線的なものである。

 突き、蹴り、膝、肘打ち。

 例え、その軌道が一つの平面から見れば曲線を描くものであっても、別の平面からみれば直線を描いている。

 そして、直線的なものは横からの力に弱い。僅かな力が与えられただけで容易に軌道をずらされ、また、その威力は劇的に減じる。

 事実、格闘技に存在する各種の受け技のほとんどは、正面から来る打撃を、横から力を加えることによって軌道を逸らし弾くもの。正面から受け止めるそれは受け技ではなく防御ということになろう。

 彼女がしたことは正にそれ。別段変わったことではない。

 しかし、理論だけで実践できるならば、この世はなんと容易に生きられることか。

 ほとんど予備動作を殺し、悪夢のような速度をもって飛来する、爪先の形をした弾丸。それを空中で掴み取り、力の流れに逆らわぬままその方向だけを変える。

 出来ない。

 理屈で分かっても、実践できるはずが無い。

 神業。

 そう呼んでも、過言ではないだろう。

 それを為さしめた要因は、三つ。

 まず、彼女が潜り抜けた死線、その中で培った胆力。

 次に、しなやかに極限まで脱力された、その構え。

 最後に、彼女の中に宿った弓の英霊の、際立った動体視力とその経験。

 いずれが欠けても、彼女の頭蓋は砕かれ、その脳漿は豆腐のように砕けていたであろう。

 そういう、奇跡のような受け技。

 当然、神父に予測しうるものではない。

 神父は、必殺の意思でその蹴りを放った。

 存分に体重の乗った一撃である。

 ならば、それを崩されたときの反動は、大きい。

 然り、彼は激しくバランスを崩した。

 並みの、いや、熟練の拳士であっても、その軸足を浮き上がらせ、後頭部から地面に落下するだろう。

 真剣の仕合、しかも剥きだしの地面での戦いならば、それは致死の隙だ。

 しかし、彼の鍛え上げられた体躯は、その体中での重心を操るだけで最悪の事態を免れ得た。それどころか、猛烈な勢いで回転する身体の勢いそのままに、裏拳振り打ちによる追撃を可能とし。

 正に、その拳を振り出そうとした、その刹那。

 彼の、根を張った巨木のように頑健な左軸足は、少女の細足によって、綺麗に蹴り払われていた。

 神父は、理解した。

 なるほど、二段構え。

 蹴り足の軌道を逸らすことでその重心を崩し、その浮き上がった軸足を刈り取る。

 これでは、神父と少女の体重差など、無いに等しくなる。

 当然、神父は倒れる。

 無様に、後頭部から。

 それでも、神父も百戦錬磨である。

 後頭部と地面の衝突による脳震盪、それだけは避けようとする。

 顎を引き、肩と背中で衝撃を吸収するよう落下。

 そして、頭部に伝わる衝撃を、その太い首の筋肉が吸収する。

 これならば、脳にダメージは無い。

 脳にダメージは無いが、しかし。

 立ち尽くす、少女。

 地に転がった神父。

 それは、絶対的で致命的な、隙だった。

 



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interval21 演目は、無惨劇

 神父の、丸太のような、足。

 それが放った、刃物よりも鋭利な蹴り。

 それを、少女は捌いた。

 少女自身、信じ難いような精度で成功した、珠玉の受けであった。

 寒気のするような轟音をたてて、頭の上を通過する、致死の技。

 それをただ見過ごすようなら、彼女の敗北は必至だった。

 そして、彼女は見過ごさなかった。

 神父の蹴りが彼女の頭上を通過し、彼の背中が向く、正しくその瞬間。

 唯一、堅牢な彼が、隙を見せた瞬間。

 彼女は、神父の軸足を、蹴り払っていた。

 体重のほとんどがその蹴り足に乗っていたのだろう、まるで枯れ枝をへし折るような具合で神父の足は刈り取られる。

 当然の如く彼は倒れた。

 ただでさえ不安定な上段蹴りの姿勢の途中で、ありえない精度をもってその蹴り足を捌かれ、しかも軸足を刈り取られたのだ。それで重心を崩さないならば、そのほうがどうかしている。

 どう、と、大きな音が響く。

 その様子を、金色の男は、さも愉快気に見守る。

 ならば、少女は。

 少女は、即座に動いた。

 神父の背中が地面と接吻する前に、その着地点の側面に。

 最低限頭部への衝撃を守りつつ倒れた神父は、その肩口に立つ少女の姿を視認し。

 しかし、その瞬間に、少女の踵は、天高く舞い上がり。

 神父の顔面、その位置を。

 一切に躊躇なく。

 思い切り。

 踏み抜いた。

 ぐしゃり。

 

interval21 演目は、無惨劇

 

 いいぞ。

 理想的だ。

 理想的な展開。

 もともと、打ち合って勝てるなんて思っていない。

 この男と打ち合って勝つなんて、英霊か化け物でもないかぎり不可能だ。

 ならば、どうするか。

 簡単なことだ。

 打ち合わずに、勝つ。

 それしかない。

 故に、後の先。

 これは、選択肢ですらない必然。

 唯一の手段。

 それが、劇的に成功した。

 彼の、寒気のする上段蹴りは、奇跡のような確立で、捌いた。

 その後、軸足を刈り取るのは、造作も無いことだった。

 そして、一歩、踏み込んで。

 倒れる彼の頭部を、待ちわびて。

 一瞬の、合間もなく。

 その、頭部を。

 踵で。

 思いっきり。

 踏み抜く。

 ここが、勝機だ。

 ここで、仕留めなければ。

 私は。

 ぐしゃり。

 

 

 視界が、急激に反転する。

 空が、地面に。

 地面が、空に。

 何が起きたのかは把握しているが、己の座標が掴めない。

 どこにいるのか。

 上は、どちらなのか。

 わからない。

 それでも、為すべきことは明白だ。

 まず、頭を守れ。

 後頭部を強かに地面とぶつければ、確実に脳震盪を起こす。

 一瞬、意識と身体が断線するのだ。

 それは、敗北だ。

 真剣勝負においては、敗北を意味する。

 まず、頭を守る。

 顎を引き。

 受身の態勢を。

 どすん。

 背中に、衝撃。

 それでも、視界は明瞭。

 まずは、成功した。

 次。

 次こそ、本命だ。

 彼女は、容赦しない。

 確実に、仕留めに来る。

 先程のやり取りで、理解した。

 これが、彼女の狙いだ。

 私に攻めさせておいて、その隙を突いて一気に仕留める。

 それが、彼女の作戦。

 そして、唯一の勝機。

 ならば、ここだ。

 ここを見逃すはずが無い。

 ならば、どうする?

 私の上に圧し掛かってくるか?

 いや、違うな。

 そんなことしても、圧倒的な体格の差は埋め難い。

 寝技に持ち込めば多少の体格差は埋められるが、それでもここまで圧差ならば、無謀に過ぎる。

 そして、彼女は賢明だ。

 ならば、それは狙わない。

 狙いは?

 その時だ。

 やっと、焦点を結んだ視界に、彼女の足が。

 私の頭の、横。

 鎖骨の、延長線上。

 そこに、立っている。

 は。

 なるほど、いい判断だ。

 それならば、勝ちうる。

 顔面への、下段踵蹴り。

 それならば、君と私の体躯の差でも、痛撃になるだろう。

 もちろん、決まればだ。

 しかし、一拍、遅かった。

 残念だ。

 ぐしゃり。

 

 

 骨が骨を打つ音が、響いた。

 骨の砕ける音を、確かに聞いた。

 その音を聞けば、分かる。

 それは、十分過ぎるほどに体重の乗った一撃だった。

 少女の細い身体を貫いた衝撃も、その事実を指し示している。

 例え己に倍する巨体でも、確実に仕留める一撃。

 下段踵蹴り。

 それを、顔面に。

 頬骨に当たればそれが砕け、折れた眼窩から目が零れだすだろう。

 鼻に当たればそれがめり込み、山脈が海溝に化けるはずだ。

 眼に当たれば、眼底骨折による脳挫傷。

 口に当たれば、前歯を悉くへし折り、舌を踏み千切る。

 顎に当たれば、顎部破損による呼吸困難。

 そういう、一切の手加減の無い、勝負を決める一撃だった。

 一瞬、少女の脊髄を、背徳感にも似た喜びが満たす。

 

 勝った!

 私は、この人に勝てた!

 

 その、無垢な喜びは。

 瞬時に、寒気のする悪寒に変貌した。

 

「何を喜ぶ、マキリ代羽」

 

 確かに、骨の砕ける音を、聞いた。

 しかし、彼女の踵は。

 神父の、眼前にて交差された。

 大蛇のように太い手首を。

 踏み抜いていたに、過ぎなかったのだ。

 

 

 不味い。

 不味い不味い。

 仕留めれなかった。

 勝負を賭けた一撃だったのに。

 防がれた。

 あの、手首。

 交差された、手首。

 おそらく、片方の手首の骨は、砕けているはずだ。

 それは、間違いない。

 そういう音が、した。

 でも。

 それだけ。

 片手を封じても。

 私と、彼の、体格差は。

 埋められる?

 は。

 馬鹿にするな。

 楽観にも、程がある。

 絶対に、無理だ。

 彼は、その程度のことでは、止まらない。

 止まってくれない。

 痛みなど無視して、攻め立てるだろう。

 だから、頭部だった。

 頭部を砕けば、勝負は決まっていた。

 山を持ち上げるような怪力でも。

 風よりも疾い身のこなしでも。

 どれほど研ぎ澄まされた達人でも。

 頭を潰してしまえば、それは只の肉の塊になる。

 それだけが、私の狙いだったのに。

 私の、勝機だったのに。

 ならば。

 ならば、もう一撃。

 もう一撃で、せめて片方の手首を砕ければ。

 まだ、私には、勝機が。

 ならば、もう一回。

 踵を高く上げて。

 そして。

 

 

 少女は、足を、高く上げ。

 そのまま、大きく後ろに飛び退いた。

 空間そのものに電撃が走ったかのように、俊敏な動作で。

 息が、荒い。

 少女は、喘ぐように呼吸を繰り返す。

 そして、全身を粘い汗が覆っている。

 それは、少女の裸体の上で月光を反射して、むしろ美しいほどではあったのだが。

 

「…いい判断だ」

 

 神父は、ゆっくりと起き上がる。

 数回、折れたほうの左手首を摩ったが、痛がる素振りは全く見せない。

 むしろ、その表情には隠し切れない喜びが刻まれている。

 それは、娘の成長を祝う、父親の顔だった。

 

「あのまま二撃目を加えにきたら、今度こそ、その足首を捕まえてやれたのだが。惜しい」

 

 少女の細首を、固形物のような唾液が通過した。

 その、ごくりという音が、辺りに響くようだった。

 少なくとも、少女の知るこの男の握力は、楡の生木を握り潰すほど。それなり以上の重量を誇る黒鍵を片手に三本持ち、それを正確無比に投擲する握力は、想像を絶する。

 ならば、少女の柔い足首を握り砕く程度、造作もない。

 足首を砕かれた少女は、間違いなく神父に捕獲される。

 そして、足首と同じように、全身の骨を砕かれる。

 少女も、そして神父も、そのことを理解していた。

 仮にもう一撃で、無事な片腕の手首を砕くことが叶うなら別段、折れた腕で防御され残る腕で掴まれるということにでもなれば目も当てられない。

 故に、少女は飛びのいた。

 その判断を、神父は讃えたのだ。

 

「手心を加えない約束だったな。であれば…」

 

 神父は、何事かを呟く。

 それから数回、手首を摩るような仕草を見せる。

 それだけだった。

 それだけで、神父の青く腫れ上がった左手首は、元の健康な肌の色を取り戻していた。

 ぼとぼとと、血液が流れ落ちる。

 しかし、神父の左手には如何なる外傷も存在しない。

 

「心霊医術…」

「その通り。これで仕切り直し、そういうことだ」

 

 垂れ流されたのは、骨折に伴い体内に溜まった血液を、摘出したもの。

 当然、骨折そのものも完治している。対価として、彼はその身に刻んだ令呪の一つを消費したが、そのことについては何の痛痒も感じない。

 そして、二人は、再び対峙した。

 全く、当初と変わるところはない。

 神父は、深く腰を落とした構え。

 少女は、脱力した自然立ち。

 ただ、違うこと。

 それは、二人の頬に刻まれた、笑み。

 神父の頬には、相変わらず底の深い笑みが湛えられている。

 しかし少女の青褪めた頬には、引き攣ったような笑みが浮かんでいた。

 それが、他の何よりも雄弁に、二人の置かれた状況を語っていた。

 

「さて、まだ続けるかね?」

 

 少女は、無言。

 無言で、神父を睨みつける。

 

「そうか」

 

 その言葉と共に、神父は構えを解いた。

 すっくと腰を上げる。

 ならば、それは戦いの終わりだろうか。

 違う。

 違うといっている。

 むしろ今から始まるのだと。

 細い細い、漏れ出すような神父の殺気が、そう言っていた。

 少女は、ただでさえ青かった表情を、一層青褪めさせた。

 最悪の戦術を選択されたことを悟ったからだ。

 もし、攻めてきてくれれば。

 先程のような、必殺の一撃を繰り出してくれれば。

 少女には、如何様にでも対抗する術はあった。

 繰り出される技を捌き、その隙を突く。

 困難ではあるが、弓兵の鷹の目がそれを可能にしただろう。

 しかし、神父はそれを放棄した。

 もう、自分から攻めることは無い、と。

 あの構えは、その宣言のようなものだ。

 ただ、前に出る。

 そして、少女を捕まえるだけ。

 取っ組み合いになれば、純粋な力の勝負となる。当然、少女に勝ち目があろうはずが無い。

 故に、少女は青褪めた。

 もう、彼を倒す術がないことを悟ったから。

 少女の絶望を知ってか知らずか、神父は緩やかに前に出た。

 背筋を伸ばし、両手をだらりと下げたまま。

 まるで、ちょっとそこまで散歩に行って来ると、そう言わんばかりに。

 すたすたと、全くの無防備で。

 ただ、少女の方に、歩いてくる。

 少女は、大きく腰を落とした。

 無駄を悟りつつも、他の選択肢を潰されたからには、そうする他なかったのだ。

 奇しくも、それは二人の最初の攻防を、逆転させた構図だった。

 少女が構え、神父は自然立ち。

 同じなのは、間合を詰めるのが神父であるという点。ただ、その勢いは比べるべくも無いほどに緩やかなものではあったが。

 そして、二人の間合いが重なる。

 神父は、先程のように足を止めない。

 悠々と、少女の間合に足を踏み入れる。

 その、刹那。

 

「いやあぁぁっ!」

 

 気合、一閃。

 少女の体が、爆ぜた。

 一息で、神父の深い懐まで。

 先程神父が見せた飛込みを静の神技と評するならば、少女のそれは動の神技。

 たわめられた全身のバネを、ただ一点、踏み足に込めて、それを爆発させる。

 本来、在り得ないような遠間からの、飛び込み。

 そして、顔面を狙って、一直線に伸びる拳。

 流石に、神父は両手で防御を固める。

 必中の、拳。

 しかし、それは只の囮。

 少女の拳と、神父の腕が接触するその直前に、拳は急停止し。

 少女の左足が、跳ね上がる。

 女性に特有の柔らかい股関節、そのしなりを極限まで活用した、弓から放たれる矢のような、中段蹴り。

 それが、神父の右脇腹、肝臓の真上に、突き刺さる。

 

 どごん。

 

 完全だった。

 少女の、たとえ軽いとはいえ40キロの体重、その全てを乗せた蹴り。

 それは、神父の右脇腹に炸裂し。

 神父の巨躯を揺るがし。

 そして、神父は。

 

「…何か、したかね?」

 

 その瞳に、嗜虐的な光を湛えたまま。

 大きく、その腕を振りかぶり。

 蹴りを放って、一瞬硬直した少女の。

 小振りな乳房、その中央。

 胸骨の、中心。

 それを、思い切り。

 打ち抜いた。

 

「げふっ」

 

 めしりと、嫌な音が響いて。

 少女の胸部は、神父の巨大な拳の形に陥没し。

 少女は。

 一塊、鮮やかな血液を吐き出して。

 そのまま、膝を折るように。

 崩れ、落ちた。

 

 

 あれ。

 なんだ、いまの。

 すごい、しょうげきが。 

 めが、みえない。

 みみが、きこえない。

 いきが、できない。

 からだが、うごかない。

 あれ。

 わたしは。

 なにを。

 ああ。

 そうか。

 なるほど。

 

 

 神父は、目を見開いたまま悶絶する少女の髪の毛を鷲掴みにして、そのまま高く持ち上げた。

 それでも、少女は呻き声一つ上げない。

 ただ、虚ろな表情のまま、時を止めたように固まっている。

 ぽたりぽたりと、異様な量の脂汗が滴る。

 それは、そのまま少女の身を蝕む苦痛を表していた。

 

「さて、まだ続けるかね?」

 

 神父は、尋ねる。

 少女に向かって。

 目の前で悶絶し、果たしてその言葉を聞き取れているのかすら怪しい、少女に向かって。

 然り、少女は答えない。

 それが、強固な意志によって答えないのか、それとも答えることすらできないのか、それは定かではない。

 

「そうか」

 

 そして、そんなこと、神父にとっても、どうでもよかった。

 大事なのは、彼女が敗北を認めなかったこと。

 神父には、それだけで十分だった。

 神父は、左手で少女を高く掲げたまま、その右手を少女の脇腹に押し当てた。

 そのまま、一度、呼吸を整え。

 

 ずしん。

 

 少女の体が、一度大きく揺らいだ。

 少女の頬が、栗鼠の頬袋の如く大きく脹らみ。

 瞼が、眼球を溢すほどに見開かれ。

 一瞬あって。

 残酷な、この上なく残酷な声が、辺りを圧した。

 

「ぐえええ!」

 

 蛙の潰れたような、呻き声。

 それとともに、反吐とも吐血とも取れる粘着質な体液が神父の顔に降りかかる、

 しかし、彼は、眉一つ動かさない。

 寸頚。

 拳と対象を密着させた状態にて、渾身の打撃を打ち込む技。

 彼が、既に身動ぎ一つできない少女に放った技の名前である。

 しかも、秘門。

 太さ30センチに至る生木の幹を、僅か三撃にてへし折る絶技。

 その、一切の手加減をしない打撃が、少女の薄いわき腹に叩き込まれたのだ。

 神父は、彼女の肋骨が、まとめて砕ける音を、確かに聞いていた。

 

「…なまじ不死だと、苦しいものだな」

「………」

 

 少女の瞳は、虚ろ。

 口の端からは、涎のような血液のような、どす黒い液体が垂れ続けている。

 そして、死人のような顔色。

 既に呼吸もままならず、チアノーゼを起こしているのだ。

 それでも、『死人のような』で済むのは、不死を誇る彼女だからこそ。

 余人であれば、間違いなく彼岸へと旅立っているであろう打撃、それを二度。

 少女の意識は、細い糸のように、千切れかけていた。

 

「起きろ」

 

 神父は、少女の頬を叩く。

 ばしんと、肉が肉を打つ音。

 少女は、目覚めた。

 それが、地獄であると、知りながら。

 

 

 あれ。

 なんだ、いまの。

 おなかのところで、どかん、て。

 わきばらが、いたい。

 こえが、でない。

 いきが、できない。

 ばしゃばしゃって。

 おなかのなかで、みずがでるおと。

 ああ、そうか。

 ないぞうに、あなが。

 ちが、あふれてる。

 からだぢゅうのむしが、ひめいをあげてる。

 なんで、こんなに、いたいんだろう。

 ああ、そうか。

 よはねが、しんだから。

 かれが、いなくなったから。

 いたいのも、くるしいのも。

 ぜんぶ、わたしがひきうけなくちゃ。

 ああ、そうか。

 かれは、いままで。

 こんなに、くるしかったんだ。

 ああ、そうか。

 わたしは、ひどい、おんなだな。

 じゃあ、がんばらないと。

 もうすこし、がんばらないと。

 

『さて、まだ続けるかね?』

 

 はい。

 まだ、すこしだけ。

 わたしは、がんばってみます。

 だから、これは、じゃま。

 くちのなかに、ころがってる、こいし。

 これは、じゃま。

 ちゃんと、したで、あつめて。 

 はきださ、ないと。

 

 

 神父の額に、こつりとぶつかるものが、あった。

 堅くて白い、小石のようなものだった。

 堅くて白い、少女の奥歯だった。

 少女は、口中に散らばったそれを、まとめて吐き出したのだ。

 そして、少女は、微笑う。

 血塗れの、凄絶な笑みを浮かべて、神父に笑いかける。

 

「……し……ね……」

「そうか」

 

 神父は、少女を高く掲げていた左手を、僅かに下げた。

 そして、今度は、少女の左乳房に、右拳を押し当て。

 

 ずしん。

 

 少女の体が、一度大きく揺らいだ。

 ぐちゃりと、柔らかい何かがつぶれる音が、響いた。

 そして、少女の頬が、栗鼠の頬袋の如く大きく脹らみ。

 瞼が、眼球を溢すほどに見開かれ。

 一瞬あって。

 残酷な、この上なく残酷な声が、辺りを圧した。

 

「ごぼえ!」

 

 ばしゃりと、大量の鮮血が、神父の顔面に降り注いだ。

 折れ砕けた肋骨が、肺腑に刺さったのだろう。

 それでも、やはり神父は、表情を、変えない。

 ただ、淡々と。

 

「さて、まだ続けるかね?」

 

 そう、問うて。

 

「そうか」

 

 そう、呟き。

 

 そして。



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interval22 終劇、されど幕は下りず

「久しいな、主よ」

 

 ―――あなたは。

 

「取り込み中とは思うが、これがおそらく最後の機会ゆえな、無礼を許して欲しい」

 

 ―――あなたに対して閉じる門を、私は持ちません。

 

「それは光栄であるが…。しかし、もういいのではないかな?誰も、君を責める事は無いと思うが」

 

 ―――ええ、私も、そう思います。

 

「では、何故続ける?哀れみこそすれ、誰も君を褒めることはないだろう」

 

 ―――あなたも、そう思いますか?

 

「ならば…。ああ、そういうことか。ならば、止めるわけには、いかんな」

 

 ―――ええ。そういうこと。これは、只の意地です。

 

「あの男は、彼らに勝ったからな。ならば、君とて彼らには勝ちたいよなあ」

 

 ―――自分に負けるのは、恥ですから。

 

「それが、平行世界の自分であっても、か」

 

 ―――むしろ、それ故に。

 

「なら、もう少し、頑張るか」

 

 ―――はい。本当に、もう少しだけ。

 

「きっと、苦しいだけだぞ」

 

 ―――きっと、その通りでしょう。

 

「誰も、幸福にならない」

 

 ―――そんなこと、知っています。

 

「それでも、君は」

 

 ―――あと少し。あと少しだけ。

 

「なるほど、俺とはずいぶん変わっちゃったけど、お前はやっぱり正義の味方だよ」

 

 ―――最高の、賛辞です。

 

 ―――ありがとう。

 

 ―――ヨハネ。

 

 ―――私を、産んでくれた、人。

 

interval22 終劇、されど幕は下りず

 

 荒れ果てた、大地。

 大木が根から千切れ飛び、巨石がごろりと転がっている。

 数時間前までそこが森林であったなど、誰も信じないだろう。

 

 人の形を辞めた人が、転がっていた。

 

 煌煌と輝く、美しい月。

 星々は、その輝きの前に恥じ入り、姿を消してしまっているかのよう。

 それほどに煌びやかな月光。

 

 その下に転がる、歪な形をした物体。

 

 それは、かつて少女と呼ばれた形だった。

 それが、ごろりと、冷たい地面に転がっていた。

 身体中を極彩色に染めながら、ピクリとも動かずに。

 胸すら、上下していない。

 理由は、簡単だ。

 横隔膜が、存在しない。

 無論、横隔膜と呼ばれた器官は彼女の中に存在する。

 しかし、ずたずたに破れ、既に呼吸という機能を放棄した器官を、横隔膜とは呼ばない。

 他の内臓も、似たり寄ったりである。

 その証拠として、少女の身体に存在するあらゆる穴からは、絶え間なく血液が流れ出している。

 眼、耳、鼻、口、尿道、女性器、肛門、果ては臍に至るまで。

 その全てから、だらだらと、どす黒い血液が流れ落ちて、止まる気配すらない。

 それを冷ややかに見つめる視線が、二組。

 彼女をかかる目に合わせた、巨躯の神父。

 二人の戦いと、その後の拷問を、終始楽しげに見つめ続けた金色の男。

 二人は、少女だったものを見つめる。

 それも、一瞬。

 神父は、少女だったものを、蹴り転がした。

 ぐねんと、ゴム人形かダッチワイフのような風情で転がり、仰向けとなったその物体。

 乳房は、青黒く潰れて、その原型を留めていない。

 腹部は、不自然に平べったい。おそらく肋骨の悉くが粉微塵に粉砕されたため、内臓をしっかりと支えることが出来ないからだろう。だるんと、左右に広がってしまっている。

 両の腕には、新たな関節が一つずつ設けられている。左腕は、肘と手首の間に。右腕は、肩と肘の間に。それが腫れ上がっていないのは、もう流れ出る血液すら無いからか。

 手首から先は…。もはや、形容をし難いほどに破壊されつくしている。中でも異様なのは、不自然に短くなってしまった指が幾本もあること。蹴り込まれた指が内部にめり込み、手の甲に埋まってしまっているのだ。

 大腿部から下が無事なのは、神父が情を働かせたからではなく、ただ破壊がそこに至っていなかっただけの話。しかし、人間味を残した美しい足は、上半身の異様さを際立たせるためのスパイスに過ぎなかった。

 

「最早、話せぬであろう、それは」

 

 金色の男は、軽く眉を顰めながらそう言った。

 その表情が、己の所有物をこれほどまでに手酷く破壊された後悔からなのか、純粋に目の前に転がる物体の醜さ故なのか、それは誰にも分からなかったが。

 しかし、神父はそ知らぬ顔で、少女の頭部の横に立った。

 少女の、顔。

 それは、彼女の身体に比べれば、まだ美しいと言えた。各所から血を垂れ流し、口の端がやや腫れあがっているものの、それでも人の形をしているのだ。それだけで十分に美しいといえるだろう。

 その顔を眺めながら、神父は胸に十字を切り。

 先程、彼女がそうしたように、その足を高く上げ。

 その踵を。

 見開かれたままの、彼女の漆黒の瞳目掛けて。

 思い切り。

 

 つき。

 つき。

 きれい。

 まんまる。

 ああ。

 きれい。

 つき。

 あれ。

 つき?

 くろい。

 いびつな。

 だえん。

 さきは。

 すこし。

 とがってる。

 すごく。

 かたそう。

 あれ。

 つき?

 なんだろう。

 ああ。

 わかった。

 くつの、うらだ。

 

 ぐしゃ。

 

 あ、ふまれた。

 

「私が殺す」

 

 ぐしゃ。

 

「私が生かす」

 

 はなが、おれ

 

「私が傷つけ」

 

 ぐしゃ。

 

「私が癒す」

 

 くちのなかで、ばきって

 

「我が手を」

 

 ぐしゃ。

 

「逃れうる者は」

 

 ぐしゃ。

 

「一人もいない」

 

 あ、わたしはなにを

 

「打ち砕かれよ」

 

 ぐしゃ。

 

「敗れた者」

 

 ぐしゃ。

 

「老いた者を」

 

 え、ここは

 

「私が招く」

 

 ぐしゃ。

 

「私に委ね」

 

 ぐしゃ。

 

「私に学び」

 

 あれ

 

「私に従え」

 

 ぐしゃ。

 

「休息を」

  

 なにか、きこえ

 

「唄を忘れず」

 

 ぐしゃ。

 

「祈りを忘れず」

 

 くちのなかにこいしがいっぱい

 

「私を忘れず」

 

 ぐしゃ。

 

「私は軽く」

 

 かりかりなってる

 

「あらゆる重みを」

 

 ぐしゃ。

 

「忘れさせる」

 

 はきだしたいけど

 

「装うなかれ」

 

 ぐしゃ。

 

「許しには」

 

 したが、ちぎれてる

 

「報復を」

 

 ぐちゃ。

 

「信頼には」

 

 やめて

 

「裏切りを」

 

 ぐちゃ。

 

「希望には」

 

 とめて

 

「絶望を」

 

 ぐちゃ。

 

「光あるものには」

 

 ゆるして

 

「闇を」

 

 ぐちゃ。

 

「生あるものには」

 

 たすけて

 

「暗い死を」

 

 ぐちゃ。

 

「休息は」

 

 ぐちゃ。

 

「私の手に」

 

 ぐちゃ。

 

「貴方の罪に」

 

 ぐちゃ。

 

「油を注ぎ」

 

 ぐちゃ。

 

「印を記そう」

 

 ぐちゃ。

 

「永遠の命は」

 

 ぐちゃ。

 

「死の中でこそ」

 

 ぐちゃ。

 

「与えられる」

 

 ―――い。

 

「許しは」

 

 ―――さい。

 

「ここに」

 

 ―――なさい。

 

「受肉した」

 

 ―――んなさい。

 

「私が誓う」

 

 ―――めんなさい。

 

 

 

「この魂に憐れみを」

 

 

 

 ああ、御免なさい。

 

 

 これで、相応しくなった。

 身体と顔が、相応しくなった。

 破壊され尽くした身体と、破壊され尽くした頭部。

 最早、それは人ではない。

 顔が、潰れている、

 彩るのは三色。

 内出血の青。

 鮮血の赤。

 乾いた血液の、黒。

 肌色などどこにもない。

 瞼は腫れて目は塞がり、鼻と呼べる突起は陥没して見当たらない。

 耳からは血が流れ出ている。

 唇は所々が裂け、巨大な甲虫の幼虫のように腫れあがっている。

 下顎は砕け、喉を押しつぶすかのようにひしゃげている。

 ビクン、ビクン、と時折体が跳ね上がるのは、痛みによるショックか、それとも呼吸困難によるショックか。

 傍らには男が立っていた。

 彼はこの醜悪な芸術品を作った張本人。

 彼は、ちらりと、その足を見遣った。

 まだ、少女だったものの中で、唯一人間味を残した、足。

 神父はそれを見遣り、しかし大きく一度、溜息を吐いた。

 それだけだった。

 不憫に思ったのかも、知れなかった。

 

「終ったか?」

「いや、まだだ」

 

 神父は、しゃがみこむ。

 その、西瓜のように腫れ上がった、頭部の横に。

 そして、だらだらと血が流れる耳道に向かって、こう問うた。

 

「まだ、続けるかね?」

 

 聞こえるはずが無い。

 聞こえるはずが無い。

 命があるだけでも奇跡なのだ。

 如何に不死の身体とはいえ、こうまで破壊され尽くした人間の身体が生きていられるものなのか。

 死は、救いであると。

 そう確信してしまえる、目の前のズタ袋。

 神父は、それに向かって問いかけるのだ。

 優しい、如何にも彼らしい声で。

 まだ、続けるのか、と。

 まだ、続けたいのか、と。

 まだ、続けることが出来るのか、と。

 聞こえるはずが無いではないか。

 聞こえるはずが、無い。

 しかし、その頭部の、おそらくは口があった箇所が、微かに動いた。

 微かに、震えるように。

 ひゅうと、隙間風のような、吐息で。

 神父には、それだけで十分だった。

 

「そうか」

 

 相変わらず、神父はそう呟いて。

 すっくと立ち上がり。

 少し離れたところに落ちていた、己の法衣を拾い上げ。

 少女を、それで、ふわりと包み。

 優しく抱き上げた。

 かくんと、少女の首はすわらない。

 それを眺める神父の視線、そのなんと柔和なこと。

 まるで、初めて我が子を抱く父親のような。

 その首を、しっかりと支え。

 赤子の小さな身体を、胸に埋めるように。

 それは、正しく父と娘の姿だった。

 

「彼女は、敗北を認めた。さあ、行くぞ、ギルガメッシュ」

「…嬉しそうだな、コトミネ」

 

 金色の男は、訝しげにそう問う。

 神父は、微笑みながらそれに答えた。

 

「ああ、嬉しいとも。何せ、我が子を抱くのは初めてなのでな」

「ふん、なるほど。貴様らしいといえば、らしいのかもしれん」

 

 それだけの会話だった。

 それだけ。

 そして、彼らは歩き出す。

 目指すは、柳洞寺。

 そこで、儀式は行われる。

 滞りなく、行われるだろうか?

 それとも、無粋な横槍が入るか。

 彼らは、確信していた。

 期待しても、いた。

 このまま、何も起こらないはずがないと。

 それを望んだのは、一人か、それとも二人か。

 それは、彼らにも分からなかった。

 分かったのは、唯一つ。

 飛び来る短剣の、風切音。

 それによって、その確信が、事実に変わったことだけだ。



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interval23 空の舞台で、道化はおどける

 ちりちりと、焦がされている。

 ちくちくと、刺されている。

 ぎりぎりと、抓られている。

 それは、痛覚。

 それとも、熱。

 分からない。

 痛みと熱を、区別できない。

 ぼわぼわとした感覚。

 自分が脹らんで、自分の外にはみ出している感覚。

 腫れあがった頭部は、外界との境が曖昧だ。

 熱い。

 耳から、熱い何かが垂れている。

 血液か、それとも鼻水か。

 きっと、脳味噌だって零れている。

 それでも、この体は生き汚い。

 ぎちぎちと身体の中で、響く音。

 それは、修復工事の、音。

 とんてんかん、とんてんかん。

 蟲の親方が、蟲の大工に激を飛ばす。

 急ピッチで、手抜き工事。

 それでも、既に体の各部の修復は完了している。

 時を置かず、頭部の傷も完治するだろう。

 これで、また戦える。

 戦えるはずなのに。

 あれは決定的だった。

 私は、確かに聞いたのだ。

 聞いて、しまったのだ。

 ぼきりという、音。

 でも、折れたのは骨ではない。

 ぶちりという、音。

 でも、千切れたのは筋肉ではない。

 もっと、別のもの。

 もっと大切で、もっと大事で、もっと致命的なもの。

 それが、木っ端微塵に、砕け散った。

 砕け散ったのだ。

 もう、いいか。

 諦めることには慣れている。

 うん、もう許してあげよう。

 今回は頑張ったほうだ。

 なら、いいじゃあないか。

 守護者は敗れた。

 私の修練は、これ以上ない形で否定された。

 だから、もう謝ってもいいですよね。

 ごめんなさい、お爺様。

 許してください、もう一人の衛宮士郎。

 あなた達の死は、無駄でした。

 私は無為に、あなた達を殺しました。

 申し訳、ありませんでした。

 私はきっとここで終わり。

 もうすぐそちらに伺います。

 貴方達の望みを叶えることは、できないみたい。

 だって、今からの私はただの人形で。

 ご主人様に飽きられたら、捨てられてしまう。

 だから、白銀の切っ先も。

 懐かしい気配も。

 空を滑る白い髑髏も。

 私に関係ないんだ。

 

interval23 空の舞台で、道化はおどける

 

 天には、輝く月。

 地には、暗澹たる木々の群れ。

 その中を行く、人影が二つ。

 異教の神父と、金色の王。

 そして、その腕に抱かれた、我が主だった者。

 しかし、そこにいたのは彼女ではなかった。

 虚ろな、ぼやけた水晶のような瞳をした人形がいた。

 心地よさそうに、父親の胸に抱かれた幼児のように目を細める、人形がいた。

 しかし、全身を鎖で縛られて、あたかも芋虫のように。

 一見で理解した。

 なるほど、彼女は敗北したのだろう。

 きっと、彼女の中の一番太い何かは、折れ砕けて。

 もう、元には戻らない。

 そういうことだ。

 ぼろぼろの髪の毛。

 全く、女性が髪の毛を粗末にするとは。

 我が主だった女性を見習わせたいものだ。

 泥と血に塗れた顔。

 復元は完了しているのか、傷らしき傷は見当たらない。

 おそらく、本当に傷を負ったのは精神の方か。

 

「薄汚い中毒者が何のようだ」

 

 金色の男はその歩みを止めることすらなく、明らかな侮蔑に歪んだ声でそう尋ねた。

 その刹那、懐から二振りの短剣を取り出し。

 目標を定めて、投擲する。

 もう、何万回と繰り返した動作だ。

 的を外すことも、仕損じることも、在り得ない。

 激烈な勢いで彼奴らの背後を襲う、二振りの短剣は。

 しかし二人の男を振り向かせることすら出来ずに、砕け散った。

 

「………何を、しにきたの………」

 

 その破砕音に紛れて。

 今にも消え去りそうな、弱々しい声。

 私の耳に、初めて触れる声。

 こんな声は、聞いたことが無い。

 少なくとも、私の上位に立つ者の声ではない。

 

「………もう、帰って………」

 

 神父の胸に抱かれる、女人形。

 なるほど、愉快な時代である。

 人形すら、言葉を憶えたか。

 賑やかなことではないか。

 

「………命令です。帰りなさい………」

 

 これはこれは、不思議なこと。

 人形めが、私に命令を下すとは。

 如何に下賤な暗殺者といえ、そこまで落ちぶれた覚えもない。

 いやいや、それとも相応しいか。

 誰にも頼まれず、命令されず。

 成功の見込みの無い暗殺に挑む、暗殺者。

 はは、まるで道化ではないか。

 ならば、人形如きに手綱を握られるのも、如何にも相応しい。

 であれば、引くか、アサシン。

 すごすごと、尻尾を丸めて。

 そうだ、逃げろ、アサシン。

 それが一番賢いではないか。

 なのに。

 なのに、お前は、何故。

 あ。

 まただ。

 また、この感情。

 胸の奥を焼く、瘧のような、この熱。

 此度の受肉にて、幾度も味わった、この感覚。

 何だ。

 これは、何だ。

 

 

 暗殺者は短剣を投げる。

 弓兵の射撃にも匹敵するようなその投擲。

 その際、彼我の間合は常に四間。

 彼の短剣は、それ自体が必殺の一撃でありながら、真の必殺への布石でしかない。

 故に、それは獲物の能力を測る物差しともなる。

 一の短剣で獲物の運動性を測り。

 二の短剣で獲物の行動法則を測る。

 三の短剣で獲物の焦慮を誘い。

 四の短剣で獲物の体力を削り取る。

 それが叶わなければ、五の短剣、六の短剣を用意するだけの話。

 そうして、獲物を追い込んで。

 その心臓を、握り潰すだけ。

 

 ただ、此度に限って言うならば、、それは一の短剣で十分であった。

 二の短剣、三の短剣は不要であった。

 あらゆるものが、図り取れた。

 己と、敵の、戦闘力の違い。

 そんなもの、一投で十分。

 十分過ぎるほどに、彼は理解できてしまった。

 

 私は、この敵に、勝てない、と。

 

 暗殺者は短剣を投げる。

 英雄王は、宝具を打ち出す。

 高らかに響く、冷たい金属音。

 ならば、それは戦闘か。

 否、それは戦闘ではない。

 なぜなら、英雄王はただ前のみを見据えている。

 前のみ見据えて、ただ歩く。

 下賤な暗殺者など、その存在すら認めていない。

 それは、男の隣を歩く、神父も同様に。

 ゆえに、哀れな道化が踊り狂っているだけ。

 何故、哀れなのか。

 そうとしか言いようがないではないか。

 観客に、罵声すら浴びせてもらえぬ道化。

 誰一人視線を向けることのない舞台で一人おどける道化。

 これを哀れといわずして、何と言う。

 暗殺者は短刀を投げる。

 生前培った最高の技術と、現在持ちうる最高の速度で。

 英雄王は、宝具で反撃する。

 敵を視界にすら収めず、傲然と胸を張り、獲物を引きずったまま。

 それでも砕け散るのは、暗殺者の短剣で。

 それでも傷ついていくのは、暗殺者の身体だった。

 圧倒的だった。

 比べるのもおこがましいほどの、格の違い。

 だから、そこで行われているのは戦闘ではない。

 一方的な虐殺ですらない。

 ただ、観客に無視された、哀れな道化の一人舞台。

 深い、深い森の中。

 道化は一人で踊り狂う。

 

 

 ダークを投げる。

 

 ―――今のは、何だ。

 

 同一の射線を、反撃の宝具が遮る。

 

 ―――どこかで、味わった感覚。

 

 宝具が、短刀を弾き飛ばし。

 

 ―――遠い昔、味わった感覚。

 

 ついでとばかりに私に傷をつける。

 

 ―――あれはいつだったか。

 

 立ち位置を変え、同じことを。

 

 ―――初めて人を殺したときか。

 

 寸分違わず同じ結果。

 

 ―――初めて女の肉に溺れたときか。

 

 投擲の数を増やしても。

 

 ―――初めて火酒をあおったときか。

 

 反撃の数が増えるだけ。

 

 ―――初めて薬の快楽に身を委ねたときか。

 

 奴は、まだ私を視界にすら入れていない。

 

 ―――いつだったか。

 

 

 ゆらゆらと、身体が揺れている。

 背中に感じる熱は、きっと彼の体温だ。

 彼の体温と、匂いに包まれる。

 ああ、暖かい。

 私は、幸せだ。

 まるで、あの日に戻ったみたい。

 彼に、激しく抱かれた、あの日。

 まだ、私の身体が人間のそれだった、あの日。

 ああ、気持ちいいなあ。 

 それに、とっても綺麗。

 見上げる月は満月。

 欠けるところのない、真ん丸なお月様。

 雲一つない夜空が、ちょっとだけ、寒々しい。

 でも、星はあまり見えないな。

 少しだけ、残念です。

 何で見えないのかな。

 月があまりに明るいからかな。

 それとも、地上で咲く火花が、あまりに眩いからかな。

 刃と刃が、ぶつかり合う。

 ぶつかって、弾けて、必ず片方だけが、砕け散る。

 可哀想なくらいに、呆気なく。

 それでも、音だけは、響くから。

 それは、金属と金属が奏でる協奏曲。

 でも、今の私には、とても煩わしかった。

 せっかく眠ろうと思ってたのに。

 やっとゆっくり眠れると思ったのに。

 もう、二度と、起きないつもりだったのに。

 あなたが、そんなにうるさくするから、

 血塗れのあなたが、そんなにも尊いから。

 おちおち昼寝もできやしない。

 だから、一言だけ、文句を言わせて。

 ありがとう。

 本当に、ありがとう。

 

 

 息など、とうの昔に切れている。

 身体中の筋繊維が、断裂寸前だ。

 背を、大木の幹に預けて、身体を休める。

 ひんやりと、奪われていく体温が心地いい。

 

 ―――もう、戦えぬか。

 

 私は、自分の体を見てそう結論付けた。

 既に左手は切断されている。これでは、短剣を投げることすら叶わない。

 右手は生きているが、それを生かすための両足が死んでいる。こんな機動力では、奥の手を使うこともままなるまい。

 全身は切り刻まれ、まるで葡萄酒の樽に突っ込んだかのような惨状を呈している。

 現界しているのが不思議なほどの深手。

 あとは、いつ『座』に送られるのか、それだけが問題だった。

 

 どだい、不可能な話だったのだろう。

 

 私が、何かを守るなど。

 

 今の今まで、私は殺すことしかできなかったのだ。

 殺すことしか、してこなかった。

 私の記憶は、楽園から始まる。

 老人に連れられた、山の奥の楽園。

 美味、美女、美酒、そして禁制の麻薬。

 この世のありとあらゆる快楽を体験し。

 突然に、その楽園から追い出された。

 山の翁は、言うのだ。

 戻りたければ業を磨けと。

 人を殺す道具になれと。

 そして、私は腕を磨いた。

 毎日弛まぬ修練を課した。

 誰でも無くなるために、顔を焼いた。

 いつの間にか、私に比肩する技量の持ち主はいなくなっていた。

 自然、私は名を継いだ。

 山の翁の、呪われた名を。

 それもこれも、全てはあの楽園に帰るために。

 つまりは、ただ己の欲望のために。

 思い返せば、私は誰かのために戦ったことなど無かった。

 生前は、失われた楽園のため。

 死後は、失われた名前のため。

 只管、ただ只管 に、己のために戦ってきた。

 それを後悔しているわけではない。

 もちろん、卑下するつもりもない。

 少し、残念に思っただけだ。

 もし、誰かのために戦えたなら。

 正義の味方など、目指してみたら。

 私もあの少年のように輝くことができたのかもしれないのだから。

 ああ、そうだ。

 思い出した。

 私は、そういうものに、なりたかったのだ。

 吟遊詩人が謳うような、英雄。

 悪竜を倒し、暴虐な王を滅ぼし、囚われの姫を助けるような。

 そういうものに、なりたかったのに。

 いつから、私は。

 私の、手は。

 血が。

 ああ、そんなことを、今になって、何故。

 気の、迷いだ。

 そうだ、気の迷いだ。

 それでも、申し訳ない、主殿。

 大言壮語を、詫びよう。

 

『私はあなたの長き腕。あなたの影に付き従い、あなたの意に沿わぬもの、あなたを害するもの、それらを悉く握り潰してみせよう。主殿の生ある限り、この誓いは破られることは無い』

 

 そんなことも、言ったか知らん。

 口だけの道化と罵ってくれ。

 私は、どうやらここまでだ。

 最後まで御使えすることは、叶わぬようです。

 

 

「何をしているのです」

 

 

 声が、響く。

 

 

「何故、戦わない」

 

 

 それは、人形の声ではない。

 

 

「何故、私を助けない」

 

 

 その目は、濁った水晶ではない。

 

 

「あの時の誓いは、虚言か」

 

 

 その瞳は、あの時の瞳。

 

 

「私は、まだ生きているぞ」

 

 

 崇高なまでに光輝いていた、あの瞳。

 

 

「何故答えない、ハサン=サッバーハ!」

 

 

 名を、呼んでくれるか。

 

 

「さあ、私の長き腕よ!私を戒めから解き放て!」

 

 

 体が、精神が、魂が、火龍の吐息が如く燃え上がる!

 

 

「ウオオオオオオオオっ!!」

 

 

 ははははははははははははははは!

 

 やっとわかったぞ!

 

 名前だ。

 

 あの時の感情の名前だ。

 

 そうだ、遠い昔に忘れていた。

 

 私の中から消えていた。

 

 思い出した。

 

 やっと、思い出した。

 

 あの時の感情の名前は、恋だ。

 

 ああ、そうだ。

 

 私は、この世界によばれたとき。

 

 己の血に塗れた、この少女を見たときから。

 

 どうしようもなく、恋に落ちていたのだ。

 

 なるほど、契約によるでもなく、令呪によるでもなく、私が跪くはずだ。

 

 何が心から敬服した、だ。

 

 そんな高尚なものか。

 

 もっと、単純に。

 

 もっと、獣のように。

 

 私は目の前に立つ少女に恋をしていただけなのだ。

 

 年甲斐もなく、まるで青い少年のように。

 

 年端もいかぬ少女に、一目惚れをしたのだ。

 

 ははっ、何が英霊か

 

 これでは女を知らぬ初心な清童ではないか。

 

 お笑い種だ。

 

 お笑い種だが。

 

 これほど心躍るのは何百年ぶりか!

 

「ウオオオオオオオオっ!!」

 

 何だ、この声は。

 

 一体、誰の声だ。

 

 誰もいない。

 

 私以外、誰もいない。

 

 ならば、私か。

 

 これは、私の声か。

 

 そうか。

 

 わたしの、死んだ喉も。

 

 このように、魂を震わすような雄叫びを。

 

 まだ今でも。

 

 そうか。

 

 そうか。

 

 彼女の、おかげか。

 

 ならば。

 

 ならば。

 

 ならば。

 

 千切れかけた足で疾走する。

 

 痛みが何だ。

 

 ああ確かに痛い。

 

 痛みで意識が飛びそうだ。

 

 だが止まっていたらきっと違う何かで意識が飛びそうになるはずだ。

 

 まるで世界が自分の物になったかのような高揚感。

 

 初めてハシシをきめたときでもこれには及ばなかった。

 

 何故だ。

 

 知っている。

 

 私は知っているぞ。

 

 呼ばれたからだ

 

 名を呼ばれたからだ。

 

 彼女に、名を呼ばれたからだ。

 

 そうだ単純なことだった。

 

 私は名が欲しかったのではない。

 

 私の名を呼ぶ存在こそが欲しかった。

 

 名前など個人を識別するための記号に過ぎぬ。

 

 どれほど輝かしいものであろうといずれは時の風と忘却の雨に朽ちていく。

 

 しかしそれを呼ぶものがいてくれるなら。

 

 彼女が、それを呼んでくれるならば。

 

 ハサン=サッバーハ。

 

 私の名であり山の翁の首領の名であり暗殺者の群体の名。

 

 そんなことはどうでもいい。

 

 ハサンの名を冠する山の翁は数多かろう。

 

 しかし彼女にその名を呼ばれたハサンは私一人だ。

 

 どうだ羨ましいか数多のハサン=サッバーハよ。

 

 貴様らの名はただの記号だ。

 

 朽ちていけ滅んでいくがいい。

 

 だが私の名は。

 

 私の名は彼女に呼ばれたぞ。

 

 彼女に呼ばれたんだ。

 

 これで私の望みは果たされた。

 

 素晴らしきかな我が主。

 

 私が如き薄汚れた暗殺者にその身を守る権利をお与えになったばかりでなく。

 

 この身に余る望みすら叶えてくださった。

 

 素晴らしきかな素晴らしきかな。

 

 無数の宝具が襲ってくる。

 

 その全てが一撃必殺。

 

 私のダークとなど比べるのもおこがましい。

 

 だがそれがどうした。

 

 それがどうした英雄王。

 

 私の望みは果たされたのだ。

 

 この命既に要なき物よ。

 

 死んでやる。

 

 死ね、たった一人のハサン=サッバーハ。

 

 死んでしまえ。

 

 分かっているのだろう。

 

 ここがお前の死に場所だ。

 

 それは何と幸福な。

 

 だが今死ぬ訳にはいかぬ。

 

 一人で死んでなどやるものか。

 

 貴様も一緒だ英雄王。

 

 右腕の戒めを解き放つ。

 

 剣の群れが私の足を両断する。

 

 槍の軍勢が私のわき腹を吹き飛ばす。

 

 いいぞ存分に食らい尽くせ。

 

 頭と心臓と右腕以外なら全てくれてやる。

 

 振り返る英雄王。

 

 やっと私を視界に収めたな。

 

 だがもう遅い!

 

 貴様の薄汚い心臓は我が掌の中だ!

 

 報いを受けろ英雄王!

 

「妄想心音」

 

 時は深夜。

 場所は深い森の中。

 対峙する二つの影。

 崩れ落ちるは一つの影。

 握りつぶされた心臓。

 消え行く存在密度。

 月はただ、煌々と照らす。



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Last interval 無人の劇場で、女は祈る

「これが、この時代の食事であるか」

 

「…貴方方は、そういった知識を、聖杯から与えられると聞いていたのですが?」

 

「知ることと経験することには埋め難い差異がある。確か、この国では何と言ったか…」

 

「百聞は一見に如かず」

 

「そう、それだ。ふむ、中々良い箴言だ。端的で、しかし的を得ている」

 

「ふふ、で、感想は如何?」

 

「これは、主殿がこさえたか?」

 

「はい。腕によりをかけました」

 

「王の食卓かと見紛うた。この身体、いわゆる食事など必要とはせぬが、それでも腹が鳴りそうだ」

 

「そこまで褒めていただけると、私も嬉しい。さあ、もしよろしければ、一緒に」

 

「よいのか?私は…」

 

「食べる必要が無いだけ。食べることが出来ないわけではないのでしょう?」

 

「あい分かった。それでは遠慮なく頂こう」

 

「ええ、召し上がれ」

 

「忝い。………む」

 

「………」

 

「………むむ」

 

「………」

 

「………むむむ」

 

「………アサシン、貴方、箸を使うのは初めてですか?」

 

「………このような食器、私が生きていた頃には、無かった」

 

「………でも、当然、知識としては…」

 

「………聖杯から。しかし、理論と実戦は異なる」

 

「………ああ、要するに、箸が上手に使えないと」

 

「………」

 

「………」

 

「………」

 

「………くく」

 

「………こんなもの使えずとも、人は殺せる」

 

「…ぷっ、…くく、くくく」

 

「………笑えばよかろう」

 

「あはははは、す、すみません、でも、でも!」

 

「………心外だ。なぜサーヴァントとして現界して、斯様なことで嘲弄されねばならぬか」

 

「ああ、すみません、すみません。…でも、アサシン、貴方は意外と…」

 

「それ以上、何も言うな。言えば、契約の破棄も考えねばならぬゆえ」

 

「分かりました。分かりましたよ。では、こうしましょう。貴方は、私の言うとおりに殺し、そして私を守る。代わりに私は…」

 

「………私は?」

 

「貴方に、ご飯を食べさせてあげましょう」

 

「………はっ?」

 

「ほら、あーん」

 

「…不愉快だ!」

 

「あーん、ほらアサシン、あーん。いいのですか、令呪使いますよ」

 

「くっ、もうこの時代で食事など、するものか…」

 

Last interval 無人の劇場で、女は祈る

 

 ぐらり、と崩れ落ちる体。

 視界が反転する。

 力が、入らない。

 感覚が、無い。

 もう、寒さも、疲れも、痛みすらも、遠過ぎる。

 意識も、間もなく消え去るのだろう。

 自分の宝具なのだ、その効力は熟知している。

 如何にサーヴァントといえ、心臓を潰されて生きていられる筈が無い。

 だが、何故だ。

 確実に心臓を破壊した。

 もちろん、奴の心臓だ。私のではない。

 その、柔らかで反吐が出る感触も、手に残っている。

 しかし、現に潰されたのは私の心臓のようだ。

 何故。

 一体、何故。

 

「なるほど、二重存在への攻撃による反射呪詛か。蛇蝎の類にしては気の利いた宝具よな」

 

 どさりと、音がした。

 一瞬遅れて、己が地に伏せたのだと、理解した。

 楽々と、仰向きに。

 視界にあるのは丸い月。

 違う。

 私が見たいものは、こんなものではない。

 もっと美しくて、もっと暖かくて、もっと優しいもの。

 ああ、主殿。

 

「戯けめ、我が呪詛返しの宝具如き持っていないとでも思ったか」

 

 ああ、なるほど。

 それは考えていなかった。

 呪いの類は、それが不成功に終わったとき呪術者本人に効果が還る。

 人を呪わば穴二つ掘れ、というやつだ。

 ならば、今の惨状は当然の帰結。

 なるほど。

 なんと、無様。

 

 ああ。

 

 無念だ。

 

 恋する相手なのに。

 

 救えぬか。

 

 未練だ。

 

 望みを叶えてくれた恩人なのに。

 

 届かぬか。

 

「ハサン」

 

 声。

 主の声。

 恋焦がれた、その声。

 応えようとする。

 応えようと、口を開く。

 それでも、声が、出てくれない。

 もう、私は、彼女の声に応えることもできない。

 すまぬ、主よ。

 役立たずであった。

 さあ、如何様にでも詰ってくれ。

 貴方には、その権利がある。

 何せ、外れくじを引いたのだ。

 私でなければ。

 私でなければ、貴方を助けることが出来たやもしれぬのに。

 口惜しい。

 私の力では、貴方を助けられぬ。 

 私は、役立たずだ。

 

「いずれ、また」

 

 ああ。

 

 ああ、あなたは。

 

 なぜ、あなたは。

 

 感情にならぬ激情。

 

 激情を凌駕する、慕情。

 

 この想い、声にすらならぬ。

 

 ただ、祈る。

 

 神よ。

 

 いや、悪魔でもいい。

 

 どうか、どうか私の願いを叶えておくれ。

 

 枯れ果てていた涙が、視界を遮る。

 

 最後に一度だけ、嗚咽が漏れた。

 

 

 願わくば、今宵と同じ、丸い月のもと。

 再び主と見えんことを。

 

 

 彼は光り輝く粒子になって、私の中に姿を消した。

 

 涙は流れない。

 

 悲しくないわけではない。

 

 悲しい。

 

 寂しい。

 

 この穢れた身が、張り裂けんばかりに。

 

 でも。

 

 何故だろう。

 

 涙は、流れない。

 

 知っているから。

 

 私は、知っているから。

 

 きっと、いつか、どこかで。

 

「シロウよ。貴様は、いい女だな」

 

 轟然とした、声が。

 

「男は支配し蹂躙するが本懐、女は組み伏せられ蹂躙されるが幸福。しかし、いい女は男を強くする。男は、いい女の前では強くあらねばならぬ。シロウ、誇れ。お前は、薄汚い暗殺者を、勇猛な戦士へと変えた」

 

 ぽろりと。

 

 ぽろり、ぽろりと。

 

 熱い何かが、頬を伝っていく。

 

 なんだろう、これは。

 

 どうしてこんなものが、ながれるのだろう。

 

 どうして。

 

「故に、お前には価値がある。我の手によって組み伏せられ、蹂躙される価値がな」

「光栄です、英雄王。でも、英雄王。私は貴方を殺します」

 

 ぽろり、ぽろりと、泣きながら。

 

 歯を食い縛り、顔を醜く歪ませながら。

 

「こんなにも他人に殺意を覚えたのは初めて。絶対、絶対絶対絶対絶対絶対殺します…!憶えておいてください…!」

 

 英雄王は無言。

 

 ただ、前のみを見据えて歩く。

 

 滲んだ視界にその姿が、この上なく憎らしい。

 

「そして、言峰綺礼。貴方もだ。貴方も、絶対に殺してやる」

 

「…マキリ代羽よ。私はな、いつかアサシンにも同じことを言われた。しかし、私は生きている」

 

 相変わらず、優しく私を抱えあげる、その逞しい腕。

 

 その、心地よい感触と、暖かな体温。

 

 でも、私はもう、目を細めない。

 

「これで君ら主従から命を狙われることになったわけだ。従者の啖呵は不発だった。果たして、君は私に安らぎを与えてくれるのだろうか」

 

 私を抱き締める腕。その力が強まった。

  

 そうして、立ち止まる。

 

 見上げる。

 

 彼は、月を見ていた。

 

 丸い、丸い、大きな月。

 

 ああ、そうだ。

 

 神になど、祈らない。

 

 悪魔は、神の手先でしょう。

 

 だから、自分に。

 

 自分と、貴方に祈りましょう。

 

 いつか、いつの日か。

 

 必ず、この、丸い月の下。

 

 再び、お会いしましょう。

 

 この、揺らめく月の光の下で。

 

 虹の辺のような、森の中で。

 

 

「みんな、覚悟は、いいか」

 

「愚問」

 

「俺を誰だと思ってやがる」

 

「私は遠坂の魔術師よ。なら、生まれたときからそんなもの」

 

「………」

 

「なら、行こう。最後の戦いだ」



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episode88 午後七時

「…それでは失礼します」

「ああ、言峰神父には良しなに伝えておいてくれたまえ」

 

 その言葉を遮るように、玄関のドアを閉めてやる。

 悪趣味な扉。全く、これを見れば住んでいる人間の程度など知れようというものだが、それにしても予測できる限界を極めていた。

 ああ、何でこの家に聖杯が降臨してくれないのかしら。もしここが戦場になれば、誰に気兼ねするでもなくこの家の敷地を、見渡す限りの荒野に変えてやれるのに。

 

「くそったれ、足元見やがって…」

「姉さん、地が出てますよ」

 

 隣から苦笑する声が聞こえる。

 全く、この子を連れてきて正解だった。

 この子がいなければ、最低三回はあの親父を殺していただろう。

 

「…桜、あんた、あれだけのことをされてよく笑っていられるわね」

 

 確かに、あの男は地元の有力者であり、裏の事情にも精通していて、色々な方面に顔が利く。それは十分に利用する価値を有するものだ。

 しかし、その価値に相応しく、いやそれ以上に度を越して、傲慢で鼻持ちならない男だった。あの不快な体臭は、今まで他人に傅かれ、苦労を知らず、この上なく甘やかされた人間だけが醸し出す、精神の腐臭だ。

 それでも、それが男の実力によって得た地位であるならばまだ納得も出来よう。だが、それが親からの遺産を受け継いだだけのものであるならば話は別。

 何の努力も無く、最初から何もかもを与えられ、スタートラインからして人の上に立ち、しかも人を見下すこと以外の如何なる能力も持たない人間に、果たしてどのような価値を求めろというのか。

 

「言うに事欠いて、『魔術師やめて愛人になれ』、だあ?何様のつもりだ、あの豚親父!こちとら、もう操捧げる相手は見つけてるっての!」

「でも、柳洞寺の人達を穏便に避難させるためには、あの人の力添えが無いと…」

「だからって!あんたもアイツにお尻撫でられたでしょうが!それで、なんでそんなに冷静でいられるのよ!」

 

 ダニだ。

 あれは、社会に寄生するダニの類だ。

 税務署とか税務署とか税務署とかは、ああいう連中から税金を搾り取るべきなんだ。

 よし、決めた。

 ちくってやる。

 あの男の家にどれくらいの財産があるかは把握してるんだ。

 ああいう男は、絶対に脱税とかしてるに違いない。

 この戦いが終ったら、絶対に密告してやる。

 

「はあ、確かに怖気がするほどに許せませんでしたけど…」

「けど、何よ?」

「私の代わりに、姉さんが怒ってくれますから。それに―――楽しいじゃあありませんか」

 

 桜は、これ以上無いというくらい、爽やかな笑みで―――。

 

「あの豚が、一体どんな泣き声で命乞いするのか、それを考えただけで、わくわくしちゃいます」

 

 ―――真っ黒だった。

 

 これが私の妹か?

 なんか、私との戦い以来、遠慮がなくなってきた気がする。

 まあ、だからってあの男に同情はしない。罪には、正当な罰が下されるべきなのだ。そしてあの下衆はそれだけの罪人である。

 だって、私達を怒らした。

 それだけで、万死に値する。

 

「―――なんなら、今から殺してきてやろうか、マスター」

 

 無垢の空間に、人の気配が生まれる。

 いつの間にか私たちと並び立つように歩いていた、この男。

 青い皮鎧。まだ巣立ちをしたばかりの若い獣のような、邪気の無い笑み。

 ランサー、クー・フーリン。

 

「駄目です。貴方は、私の楽しみを横取りするつもりですか?」

「そう言うと思った。だけどまあ、あんまり気にしないことだ。花が美しけりゃあ、虫は寄ってくる。益虫も、毒虫もだ。ま、芳しい花に生まれた身の悲しさだわな」

「黙りなさい殺しますよ」

 

 黙った。

 私も、黙った。

 それほどに、桜の殺気は凄まじかった。

 我が妹ながら恐るべし。

 だけど、私は知っている。

 あの豚が桜にちょっかいかけるたびに、誰もいないはずの空間から刺し殺すような殺気が漏れ出していたことを。

 ま、なんだかんだ言って、いい主従関係をやっているようである。

 

「…それにしても、少し残念でしたね。不発弾処理を装えば、戦闘に気兼ねする必要が無くなったのに。全く、達者なのは口だけで、この上なく無能。酸素を消費する資格も無い…」

「…でも、冷静に考えれば不発弾処理は派手過ぎるわ。関係してくる機関の数も並みじゃないし、騒ぎになりすぎる。その点、地盤の緩みによる崩落の危機を装った方が動く人員も少ないし、目立たない。結果オーライかもしれないわね」

 

 何はともあれ、これで最低限の準備は整った。私たちがどれだけ暴れまわっても、少なくとも直接的な戦闘の被害を受けて死ぬ人間はいなくなったはずである。

 決戦は、今日、できれば明日。正直、万全の準備を整えるには時間が欲しい。

 

 沈み行く夕日。

 何となく、隣を見遣る。

 その白皙の肌を夕日の色に染めた、私の妹。

 黒い髪の毛に、サファイア色の瞳。

 私と同じ、髪の色で、瞳の色。

 それらが、この上なく尊く、美しい。

 

「…私は、貴方が帰ってきてくれて、救われたわ」

 

 びくりと、彼女の肩が震えた。

 それでもこちらを見ないのは、罪悪感が邪魔をするからだろうか。

 

「…代羽、辛そうにしてた。きっと、私でもそうだと思う。あれだけ無視されるなら、罵倒されて殴られたほうが、マシだな」

「…なら、私の復讐方法は、間違えていなかったんですね」

 

 妹は、微笑った。

 いかにも力ない声で。

 

「…桜。貴方が代羽に引け目を感じる気持ちも、キャスターを殺された気持ちも、私なんかには分からない。軽々しく分かるなんて言えない。でも―――」

「それ以上言わないで下さい。それ以上言われたら私、姉さんのこと、嫌いになっちゃいます」

 

 私の口に蓋をしたのは、その言葉ではなく彼女の瞳。

 まるで迷い子のような、不安定な瞳の輝きだった。

 それでも、彼女は微笑いながら続けるのだ。

 

「分かっています。分かっているんです。でも、理屈じゃあない。私は、そんなに強くない。だから、時間が欲しいんです」

 

 ああ、その感覚は共感できる。

 

「…その言葉、代羽に伝えて、いい?」

「お好きに」

 

 相変わらず、町を歩く。

 冬木の町を一望できる、高台を。

 傍から見れば二人で、本当は三人で。

 夕日に照らされたその風景は、涙が出そうなくらいに美しかった。

 きっと、切り取った瞬間に色褪せて、何の価値も無くなる風景画。

 それが、今、この一瞬だけは、涙が出そうなくらいに神々しかったのだ。

 ああ、私は、この土地の管理人でよかったなあ、と。

 心の底から、そう思った。

 

「桜、相談があるの」

「…はい、何でしょう?」

「貴方、この土地の管理人になるつもり、ない?」

 

 流石に、桜が足を止めた。

 まあ、これは当然だろう。

 むしろ、聞き流されたら流石にショックだ。

 

「…姉さん、意味が分からない…。私、姉さんみたいに頭が良くないから、ちゃんと説明してもらわないと…」

「言葉通りよ。貴方が遠坂の当主になって、私が眷属になる、そういうこと」

 

 言葉を呑む空気が伝わってきた。

 私だって、きっと緊張している。少なくともこんな話題、緊張の一つもせずに話せる魔術師がいたら、お目にかかりたいものだ。

 まあ、私と桜以外にこの場所にいる人間みたいな存在は、楽しげな瞳で私たちを見つめていたわけだが。

 

「…意味は、分かりました。でも、意図が分かりません」

「遠坂がどうでもよくなったわけでも、魔術師に飽きたわけでもないの。そんなの、今までの自分の全否定だから、できっこないわ。でもね、それ以上に大事なものが出来ちゃったわけなのよ、これが」

「大事な―――、もしかして、先輩?」

「それもなんだけど…それ以外にもね」

 

 私は、自分の下腹部を優しく撫でた。

 桜の瞳が驚愕に凍りつく。そして、それは彼女の隣に立つ、アイルランドの光の皇子も。

 ああ、愉快。この二人の目を丸くさせるなんて、神様にだって出来やしない。

 

「姉さん、もしかして…」

「…間違いなくあの夜にね。散々、膣内で出されたから。全く、ゴムくらい用意するのが男のマナーだと思わない?」

 

 まだ、一週間と経っていない、あの日の交わり。

 それでも、私は魔術師だ。

 自分の中に、自分以外の生命が宿っていることくらい、次の日に気付いていた。

 だから、代羽に捕まったときは、本当に怖かった。

 私以外の命が私のせいでいなくなるなんて、絶対に嫌だった。

 

「あーあ、この歳で子持ちか。きっと学校も中退ねー。ま、どちらにしても倫敦には留学するつもりだし、魔術師に学歴はいらないから、別にいいんだけ―――」

「本当ですか!おめ、おめでとうございます!」

 

 飛びついてきた桜。

 彼女は、精一杯の力で私の両手を握り締めた。

 人間の瞳はこんなに輝くことができるのか、そういわんばかりに瞳を輝かせながら。

 ちょっと、驚いた。

 だって、この子、今でも士郎のこと、愛しているはずだから。

 

「…うんとね、今、ちょっとだけ、ううん、凄く、びっくりした」

 

 そう言うと、桜は微笑った。

 私の考えていることくらい全てお見通し、そういう微笑で。

 まるで、天使みたいに。

 

「私の大好きな人が、私の大好きな人の赤ちゃんを産んでくれるんです。これが嬉しくないはず、無いじゃあありませんか。ああ、今日はいい日です!あの豚さんの狼藉も、少しだけ許してあげちゃいます!」

 

 飛び跳ねて喜ぶ桜。

 その、如何にも嬉しそうな背中と、万歳された腕。

 でも、それを額面どおりに受け取れるほど、私は子供じゃあない。

 だって、嬉しそうに、本当に嬉しそうに私を祝福してくれた桜の瞳には、うっすらとした涙が浮かんでいたから。

 でも、いくら唯我独尊の私だって、彼女に謝れるほどに恥知らずじゃあない。

 それは、他のどんな罵声なんかよりも、彼女の誇りを踏み躙るだろうから。

 だから、こう言うのだ。

 他に言葉なんて、ありはしない。

 

「ありがとう、桜。私、絶対にこの子を幸せにするから」

 

 彼女は、目元を拭いながら微笑んでくれた。

 それで、十分だった。

 最高の妹だった。

 そして―――。

 

「ええ、お願いします。でも、先輩のこと、諦めたわけじゃあありませんよ。その子を幸せにする権利は姉さんにしかなくても、先輩を幸せにする権利は私にだってあるはずですもの」

 

 ―――強敵だった。

 

 まさか、幸せ一杯妊婦さんの前で、こうまであっさりと略奪愛を宣言されるとは。

 でも、ここまで開けっ広げだと、逆に清々しい。

 そして、ここまで煽られて、燃え上がらない炎のあろうことか。

 

「―――はっ。何言ってんのよ。私と士郎の間に、貴方が立ち入るような隙があると思ってんの?」

「狭ければ、こじ開けます。無ければ、作るまでです。覚悟しておいてくださいね、少しでも油断したら、あっという間ですから」

 

 好戦的な笑み。

 それは、きっと私の頬にも刻まれているだろう。

 

『ふふ、でも、油断しないことです。彼、意外ともてますよ。桜以外にもライバルは多い。手綱を離したら、あっというまです。絶対に、放さないでいてあげてください』

 

 そんな代羽の言葉を、今更ながらに思い出す。

 あれ、冗談じゃあなかったんだ。

 しかし、桜以外のライバルって誰だろう。

 そう考えた私の脳裏に、青いのとか金髪のとか縦ロールのとかが浮かんだ。

 はて、一体誰のことかしら。

 いや、そもそも何でそんなことを代羽が知ってるのか。

 まあ、いい。

 とにかく、今、あのへっぽこは私にぞっこんなんだ。

 この状態を、アイツと私のどちらかがくたばる瞬間まで、継続させるだけのこと。ぶっちぎりのスタートダッシュで後続を周回遅れにするのは、私の最も好むところである。

 

「ま、それは楽しみにしておくとして…。少し話が逸れたけど、私の言いたいこと、理解してくれたかしら?」

「はい」

 

 桜は、真剣な面持ちで頷いた。

 頭のいい彼女のことだ。私の言いたいことくらい、一から百まで理解してくれているに違いない。

 

 魔術師は、根源を目指すもの。

 それ以外の全てを切り捨てて、根源への到達を目指す。そうでなくては魔術師とは言えない。

 そしてその切り捨てるべきものの中には、当然の如く、配偶者や親、そして子供も含まれる。

 そもそも、魔術師にとっての配偶者は子を為すための道具であり、子供は己の血を次代に引き継ぐための道具。いや、己すらも、その家系が根源へと到達するための歯車と考えるものだ。

 己の代で魔法に到達出来なければ、次の代。次の代が無理なら、次の次。それでも駄目ならその次へ。それが、魔術師の思考である。

 そう割り切るだけの覚悟が無ければ、魔術師なんてとてもじゃないがやってられない。

 

「私は、もう駄目だと思う。もう、怖くなってしまったから。少なくとも、ぎりぎりのところで一歩退いてしまう。そんなの、もう魔術師じゃあない。並みの魔術師にはなれても、遠坂の魔術師として大成は出来ないでしょうね」

 

 これは、見切りだ。

 もう、私は私を見切ってしまったのだ。

 そして、そのことが。

 こんなにも、誇り高くて、こんなにも爽快で、こんなにも心地よい。

 

「だから、貴方に任せたい。駄目かしら?」

「…姉さんは、残酷です。卑怯です。身勝手です」

「ええ、貴方の言うとおり。きっと、残酷で、卑怯で、身勝手。返す言葉も無いわ」

 

 その通りだ。

 苦しいこと、辛いこと、重たいこと。

 その全てを妹に任せて、私は己の幸福だけを追いかける。

 その、何と卑劣なこと。

 私は、それを理解してない。もし理解していれば、こんなこと、素面で頼めるものか。

 

「貴方しかいないの。こんなこと頼めるのは、貴方だけ」

「…もし嫌だと、そう言ったらどうしますか?」

「多分、遠坂は潰えるわ。私の代が何とか面目を保っても、次、その次はもう駄目でしょう。だって、こんな半端な覚悟の親を目にした子供だもの。そんなの、魔術師を目指せるはずが無い」

 

 人の心を、情をもった魔術師なんて、半端ものだ。

 そんな半端な気概で根源へなんて到達できるはずが無い。

 ならば、やるだけ無駄だ。

 そんなもの、潰してしまったほうが、後腐れが無くていい。

 

「…きっと、お父様、泣くでしょうね」

「ええ、きっと泣いてるわ。娘がこんな不良に育ってね」

「いいのですか?」

「あ、桜、言ったことなかった?私ね、実はお父様のこと、大嫌いなの!」

 

 何せ、私の愛する妹を、あんな人でなしどもの家に渡したのだ。

 それだけで、唾棄に値する。

 今頃、地獄の極卒に鞭打たれているに違いない。

 いい気味である。

 

「あ、そうですか?実は、私もだったんです!」

 

 そう言って、桜は笑った。

 私も、笑った。

 それを、楽しそうに眺める奴が、いた。

 そんな、どうでもいい夕暮れ。

 でも、きっと、最後の瞬間まで忘れることの叶わない、夕暮れ。

 

「分かりました。謹んで遠坂の家督、引き継がせて頂きます」

「ええ、お願い」

 

 くすりと、桜は微笑った。

 それは、沈み行く太陽の、最後の残滓のような笑みだった。

 

「だって、私、姉さんと契約しちゃいましたから。先輩が正義の味方なんていう訳の分からないものを忘れるくらい、ハッピーにさせるって。そのためなら、仕方ないです」

「ふふ、そんな契約もあったかしら。でも、その言い方だと…」

「ええ。先輩にとって、姉さんと一緒にいるよりも私と一緒にいたほうが幸せだと判断したら、ぱくりと食べちゃいますから、そのつもりで」

 

 最後の一言は、完全に本気だった。

 あちゃあ、あの契約は諸刃の剣だったらしい。

 妹に、この上ない強敵に、格好の口実を与えてしまったか。

 参った。

 そして、何より参ったのが。

 そんな彼女を頼もしいと思ってしまう、自分の不甲斐なさだろうか。

 

episode88 午後七時

 

「ただいまー」

「ただいま戻りました、先輩」

 

 そんな元気のいい声が、玄関から響く。

 時計の短針は七の文字を指す、少し前。冬の太陽は、その仕事を早々と切り上げて、山の向こうに引っ込んでしまった。もう少しくらいは残業をしてくれても罰は当たらないと思うのだが。

 

「ただいまー、って、代羽は?」

 

 最初に顔を見せたのは、凛。

 

「ただいま戻りました、って先輩!その顔、どうしたんですか?」

 

 次に顔を見せたのが、桜。

 二人とも、ほっぺたが赤い。きっと、それだけ外は寒いのだろう。

 

「…代羽は、まだ帰ってきてない」

「まだ帰ってきてないって…。士郎、貴方と一緒にいたんじゃないの?」

 

 至極最もな意見である。

 真実は情けない限りだが、嘘を吐くわけにもいかない。

 

「…途中で分かれた。公園で、大体五時くらいまでは一緒だったんだけど」

「分かれたって、あんた…!今、代羽がどれだけ危ない立場か、分かってるの?あの似非神父と金ぴかが狙うとしたら、間違いなくあの子なのよ!」

 

 つかみ掛かるような勢いで俺を罵る凛。

 ああ、その思いは痛く同感。

 

「リン、あまりシロウを責めないでやってほしい」

「セイバー…」

「シロウは、可能な限り彼女と一緒にあろうとした。しかし、彼女がシロウの手を振り払ったのです」

 

 振り払ったという表現は正しくない。

 正確に表現するならば、ぶん殴って、顔に膝蹴りを叩き込んで、ぶちのめしたのだ。

 あまりにも手加減の無い攻撃だったから、逆に清々しい程であったが。

 

「…じゃあ、その鼻も?」

「ああ。もう骨はくっついてるみたいだけど、流石にまだ赤いだろ?」

「…はぁ。で?」

「で、って…?」

「わかるでしょ!あの子、どこ行ったのよ!」

 

 その声は、初めて聞く声だった。

 凛は、真剣に怒っていた。

 それは、俺に対して怒っていたのだろうか。

 それとも、この時期に勝手な行動を取った彼女に対して怒っていたのだろうか。

 

「…悪い。何も、聞いて無いんだ」

「…やっぱり…!」

 

 彼女は、天を仰いだ。

 それは、まるで自分が手痛い失敗をしたみたいに。

 そのことを、天にまします父に詫びるかのように。

 

「…間違いないわ。あの子、自分だけで決着をつけに行ったのよ」

「え、でも、明日まで準備を整えてって、皆で決めたじゃあないか」

「その、根拠は!?」

「…あいつらが、大聖杯を守って、動けないから」

「その大前提が間違いなのよ!」

 

 どくり、と。

 心臓が、一度、大声を上げた。

 それは、俺が、俺自身を罵る声だった。

 今頃気付いたのか、と。

 いや、違うか。

 あの時、俺は気付いていた。

 何か、違和感のようなものを感じ取っていた。

 それを、どうでもいいものと見逃した。

 そのこと。

 それに対する、侮蔑の声だった。

 

「私も、そう思った。あいつらが大聖杯を守って動かないなら、明日までは大丈夫だろうって。でも、それならあの子がこんな無謀なことするはずがない。きっと、その大前提が間違えていた。そう考えると…そうか、そうだ、あの子、確かに言ってた!」

 

 凛は、凄まじい剣幕で、顎に手を当てている。

 きっと、その頭の中では、暴走したコンピュータのように演算式が展開されているのだろう。

 その様を、ただ、見つめる。

 なんと、情け無い我が身であることだろう。

 

「すまない、凛、教えてくれ。何が何だか、ちんぷんかんぷんだ」

「…ああ、御免なさい。一言で言うとね、あいつらに大聖杯は、必ずしも必要じゃあないってこと」

 

 大聖杯が、必要、ない?

 

「あの子、言ってたでしょう?綺礼の望みは、マキリ代羽という身体を通して、神と悪魔の両属性をもった子供を産ませることだって」

「あ、ああ」

「この場合の神っていうのが何のことなのか分からないわ。でも、悪魔っていう言葉が表すものは、はっきりしている」

「アンリマユ―――」

「ええ。だからこそ綺礼には、アンリマユを現界させるために聖杯を手にする必要があるかと思ってたんだけど。でも…そうだ。あの子、言ってた。『私は、もうまともな子供を孕むことも出来ない』って。きっとそれは、あの子が生むことが出来るのは、アンリマユだけ、そういう意味だったんだ!」

 

 代羽が、アンリマユを、この世全ての悪を、産む?

 

「あれは、自分の子宮が蟲で形作られてることを卑下しての発言だと思ったけど…あれは、そういう意味じゃあなかった!じゃあ、やっぱり綺礼に聖杯は必要じゃあない!」

「リン、理論の飛躍が大き過ぎる。説明を求めたい」

「…セイバー、マスターとサーヴァントに繋がれたラインがどういうものか、貴方なら分かるわよね」

「はい。これは、私達と現世を繋ぐ、楔のようなものです。これが無くなっては、我々は限界することすら難しい」

「逆に言えば、そのラインがあれば限界することが叶う、そういうことにならない?」

「逆は必ずしも真ならずですが…。何が言いたいのですか、凛。落ち着いて話して欲しい」

 

 凛の表情は、もうすぐ泣き出しそうな女の子のそれだった。

 何を、そんなに悲しんでいるのか。

 何を、そんなに恐れているのだろうか。

 

「…あの子、元は男の子だった、それがマキリ臓硯の手で女の体に改造された、そのことは知ってる?」

「…いえ、初耳です。まさか、そんなことが…いえ、可能でしょう。事実、私もそれに近しい秘術によって性別を隠していたのですから」

「でもね、そう考えるとおかしいのよ。男から女の体に近づけることは出来ても、完全に女の体にするためには、大きな壁がある。そればかりは短期間ではどうしようもない。でも、あの子がマキリの胎盤としての役目を果たそうとすれば、それは必ず必要となる」

「凛、それは?」

「簡単な話よ。女性器、具体的に言うと、卵巣と子宮。外性器に近いものをでっちあげることは出来ても、遥かに複雑な機能を持つ内性器を男性の体内に一から作り上げるのは、不可能に近い」

「…確かに。私も王であったとき、男性器の形をした器官を魔術によって形成させました。それは男女の営みを可能とするものではありましたが、子を為せるほどに精緻なものではなかった。故に私は、私の細胞から育てたホムンクルスを子供と偽ったのです」

 

 それは、あの、カムランの丘で戦った―――。

 

 遠坂は、深く頷いた。

 

「この時代より遥かに神秘の濃度の深かったセイバーの治世ですらそうだったのよ。如何に人体の改造に詳しいマキリとはいえ、それ以上の魔術を引き継いでこれたとは考えにくい。だからね、私は思うの。代羽の体に宿った女性器は、別の女性の細胞から培養した女性器なんじゃあないかって」

「別の…?」

 

「ええ、別の、そして、彼女の体に、この上なく馴染む、別の、ね」

「それは、代羽の、母親の?」

 

 それは、つまり、俺の―――。

 

「違うわ。子供と親では、その遺伝子は半分も違う。生体肝移植なんかを考えれば女性器の移植も可能なのかもしれないけど、私が言いたいのは遺伝的な意味で馴染む物のことじゃあない。むしろ、逆方向。魔術的な要素で馴染む物が、あったのよ」

「魔術、的―――」

「聞いた限り、彼女は、いえ、その時点ではまだ彼だったのか、とにかく、代羽が臓硯に保護されたとき、その体はアンリマユの残した泥に、深く汚染されていた。つまり、その時点であの子の体には、アンリマユの要素が色濃く刻み込まれてしまった。しかも、彼女の起源は『白』なんて出鱈目なものだからね。ここまではいい?」

 

 俺は、頷いた。

 辺りを見ると、全員が同じタイミングで頷いていた。

 それは、まるで穴から顔を出す、プレーリードッグみたいだった。

 

「なら、アンリマユの要素を色濃く引き継いだ別の女性の細胞、それから作り上げた女性器ならば、少なくとも魔術的には代羽の体に適合する。魔術的な相性さえ合致するなら、それを移植するのはさして難しいことじゃあないはずよ。事実、マキリ臓硯自身の体だって、そうやって自分のものに改造した他人の肉だったはずだし」

 

 他人の体を、蟲に喰らわせる。

 そして、その肉を己のものとして、再構築する。

 それが、既にこの世に存在しない、堕ちた魔術師、マキリ臓硯の秘術だったはず。

 ならば、凛の理屈は必ずしも飛躍し過ぎたものとはいえないだろう。

 

「…嬢ちゃん、言いたいことは分かるがよ。そんなもん、存在するのかい?アンリマユなんて、規格外の化け物、しかもあっち側にしか存在できないものの属性を色濃く受け継いだ、そんな女が」

「…女性そのものは、いないでしょうね。ただ、女性の細胞なら、存在したのよ。ううん、存在しないとおかしいの」

「…よく、わからんな。つまり、女の身体自体にアンリマユは憑いちゃあいないが、その細胞とやらにだけは憑いた。そういうことか?」

 

 凛は、頷いた。

 

「あの時、マキリの家に攻め込んだ時に見つけた、臓硯の研究日誌。それを解読すると、臓硯は代羽を入手する前は、桜にアンリマユの泥から作った刻印蟲を埋め込むことで、アンリマユとパスの繋がった胎盤を作り上げるつもりだったことがわかったわ」

「…!おい、凛!お前―――」

「いいんです、先輩!」

 

 桜が、叫び声に近い声を、上げた。

 

「桜…」

「ここまで来て蚊帳の外に置かれるなんて、耐えられません。それに、この痛みは乗り越えるべき痛みです。少なくとも、遠坂の当主はそんなに弱くては務まらない!」

「…そうこなくちゃ。それでこそ、私の妹、私の仕える遠坂の当主。仕える側が誇りを持てるような当主でないと、やりがいが無いってもんよね。だから、もし嫌がっても聞かせるつもりだったわ。それこそ、その耳たぶを引き千切ってでもね」

 

 俺にはよくわからないことを言い合って。

 姉妹は、噛み付くような笑みで、お互いを見遣ったのだ。

 

「続けるわよ。だから、臓硯は泥を手に入れていたはずなのよ。おそらくは、前回の聖杯戦争、その終結の場所で。でも、それはどこにも無かった。もちろん桜には移植されて無いし、あの屋敷で最も秘された部屋であるはずの例の書斎にもそんなものは無かった。それ以外の場所にあるというのは少し考えにくい。だから、私は思うの。もう、その泥は使われた後なんじゃあないかって」

「…それが、代羽の子宮?でも、それは只の泥だろう?そんなものをいくら培養しても、女性器にすることが出来るのか?」

「無理でしょうね。でも、もしも泥自体に、その形となる方向性があれば、話は別」

「方向性…。その泥が、ただの泥じゃあなかったと、そういうことか」

 

 凛は、再び頷いた。

 

「マキリの魔術は、蟲を使役してその術と為す。つまり、泥も当然刻印蟲の形で保存されたはず。でも、この世全てといわれる極大の呪いを、そのまま蟲の形にして使役するなんて、不可能でしょう?なら、もともと存在した蟲にその泥を飲み込ませて使役すれば話は早い。もし私が臓硯なら必ずそうするわ。でも、そんな呪いを飲み込むだけの器、普通の蟲では些か心もとない。だから、桜自身の細胞を使って作り上げた、特製の蟲を用意するでしょうね」

「特製の、蟲?」

「桜、女魔術師の体で、特別に魔力が宿るのは、どこ?」

「…髪の毛。乳房。そして―――女性器」

「正解。特に、破瓜の血は特別に強力な魔力が宿るって言うわね。だから、きっと桜に埋め込むはずだった刻印蟲も、女性器周辺の細胞を餌として育てた、もしくはそれを直接変化させて作り上げたものである可能性が、非常に高い」

「じゃあ、じゃあ、じゃあ…」

「代羽の子宮を形作っている蟲の正体は、十中八九、マキリ臓硯がアンリマユの泥から作り上げた刻印蟲。そして、その刻印蟲は、桜の女性器の細胞から培養されたもの。そういうことよ」

 

 ああ。

 

 なんで、そんなことが。

 

「士郎、重要なのはここから。つまりね、代羽の子宮は、アンリマユそのもので出来てるの。そして、あの子の身体はアンリマユの色に染め上げられてて、この上ないくらいに太いパスが繋がっている。それこそ、アンリマユから無限に近い魔力を汲み上げられるくらいには、ね。どうかしら、セイバー、これだけの要素が揃っていれば、アンリマユのほうから代羽にアクセスすることが可能なんじゃあないの?」

 

 俺は、一縷の望みを込めて、セイバーを見る。

 きっと、縋るような視線。

 しかし、彼女は。

 

「…正確なことは分かりません。そして、私は魔術師ではない。だが、あくまで直感でいうならば、可能なのではないかと思います。話に聞くところのアンリマユも、元を辿れば我々のようなサーヴァントだったとのこと。いわば、魂に近しい形のはずです。憑依や降霊のような魔術式を使えば、彼女に宿った未熟な生命に己の分身を映し込むことは、必ずしも不可能とはいえない、そんな気がします」

「もちろん、私もそう思うわ。話に聞く転生無限者なんかも、未熟な胎児の魂を書き換えることで転生を図ってる節があるし。だとしたら第三魔法の成功例、魂を物質化させて現世に直接干渉できるアンリマユに似たようなことが出来てもおかしくはない…!」

「そのことを、言峰は知っているのか?」

「代羽は、幼い頃に、全てを打ち明けた上でアイツに抱かれたって言ってたから…。知っているものと考えて、間違いないでしょうね。だから、少なくともあの似非神父の望みを叶えるのに聖杯は必ずしも必要ではないのよ」

 

 しん、と、静まる。

 

「…じゃあ、ギルガメッシュは?あいつの望みを叶えるのに、聖杯は必要なんじゃあ?」

「…彼の狙いは、おそらく私です」

「…セイバーが?」

 

 こくりと、頷く。

 

「彼とは前回の聖杯戦争のときから因縁がある。そして、彼と矛を交えたときに、宣言されました。我が妻となれ、と」

「はあ?それって、プロポーズ?」

「その通りです、リン。ただ、この時代でいうならばそういうことですが、少なくとも彼の中のイメージでは、対等の伴侶を得るための結婚ということではないでしょうね。自分を愉しませる為の玩具として、私を欲したのだと思います」

「…悪趣味」

 

 桜の一言に、俺も深く同意する。

 人を物扱いする奴なんて、碌なもんじゃあない。

 それは、臓硯然り、慎二然りだ。

 

「じゃあ、あの時言ってた『返事』って…」

「求婚の返答のことでしょう。無論、受けるつもりなどありませんが」

「でしょうね。じゃあ、アイツ、セイバーを自分のものにするために聖杯を欲しがってるってこと?」

 

 遠坂の表情に、明らかな侮蔑が浮かんだ。

 それは、例えば強姦で捕まった犯人なんかをテレビで見たときと同じ表情だった。

 俺は、少し苦笑した。

 

「いえ、彼を庇うわけではありませんが、それはないでしょう。彼は、純然たる力と力の勝負にて私を屈服させようとしているはずですから。ただ、彼は完全に受肉していた。もし私に関して聖杯を必要とするならば、おそらくは私を受肉させ完全な形で手中に収めるために必要とするのではないでしょうか」

 

 受肉させるために、聖杯を?

 そんなこと、可能なのだろうか。

 いや、あの男は確かに肉の体を備えていた以上、それは可能なのだ。

 

「しかし、それらの事情を総合的に勘案しても、彼の気質からして専守防衛というのは考えにくい。むしろ、敵の陣地へ討って出るのが当然という気がします」

「私も、その点だけが引っかかってたの。あの、見るからに高慢ちきな金ピカが、宝物庫の番人みたいな真似して大人しくしていられるのかなって。でも、あれでも一応はサーヴァントだから綺礼の意向には従うものかと思ったんだけど…。綺礼にはそもそもその必要すらなかった。だから、彼らは地下洞窟にいない可能性もある」

 

 じゃあ、代羽は、やっぱり―――。

 

「彼女が向かったのは、おそらく、教会でしょうね。そこにあいつらがいるかどうか分からないけど、多分―――」

 

 立ち上がる。

 そのまま、玄関に―――!

 

「待て、坊主」

 

 肩を、捕まれた。

 

「どこ行くつもりだ」

「決まってるだろう、教会だ!」

 

 助けないと。

 兄さんを、助けないと!

 

「阿呆。今から俺たちが向かうべきなのは、そんなところじゃあない」

「じゃあ、どこに?一体、どこに?」

「決まってんだろ。大聖杯のある地下洞窟。そこ以外、どこがある。せっかくあの嬢ちゃんが敵を引きつけてくれているなら、今すぐそこに向かうべきだ」

 

 それは、それは。

 確かに、その通りかもしれない。

 でも、俺は。

 

「感服した。槍兵よ。貴殿は、やはり生粋の英雄であらせられるな」

 

 声がした。

 庭のほうから。

 消え入りそうな、それでもはっきりと耳に残る、独特な声。

 障子を開ける。

 漆黒の、庭。

 そこに、白い仮面が、浮かんでいた。

 



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episode89 午後七時半

「イリヤスフィール、まだですか?」

「んー、もうちょっとだけー。リズ、そっちはー?」

「だめ。見つからない」

「おっかしいなあ、たしかここらへんなはずなんだけど…」

「イリヤスフィール、我々は一体何を探しているのですか?」

「あれ?言ってなかった?」

「…キラキラした美しいドレスとは聞きましたが、それが何で何のために必要なものなのかは聞いていないはずです」

「あ、そうだっけ。ごめんなさい、うっかりしてたわ。えっとね、私達が探してるのは、天のドレスっていって…、セラ、危ない!」

「はっ?きゃあぁ!」

 

「「セラ!」」

 

「…大丈夫ですか?」

「ああ、あ、ありがとうございます、セイバー様」

「この辺りは崩れやすくなっているようですから、慎重にいきましょう」

「ふう、心配させないで、セラ」

「…すみません、お嬢様」

「セラ、うっかり者」

「リズ!その遠坂のような評価、即刻取り消しなさい!」

「ああ、もう…。ありがとう、セイバー。でも、ここはもういいから、一旦シロウの家に帰って」

「そういう訳にはいきません。私はあくまであなた方の護衛で来ているのですから」

「大丈夫よ。少なくとも今回の聖杯戦争において、私には聖杯としての価値はない。だから、あいつらが私を狙う可能性は少ないわ」

「しかし…」

「もし、あいつらが狙うとしたら、シロか、それともシロウか。ランサーも強いけど、彼一人じゃあギルガメッシュは荷が勝ちすぎると思うの。だから…」

「…分かりました。では、あまり遅くなり過ぎないようにお願いします」

「ええ。適当なところで切り上げるから。シロウにもよろしく言っといて」

 

episode89 午後七時半 

 

 それは、幻想的とさえ言える光景だった。

 暗い、暗い、闇。

 さわさわと、草木の擦れる微かな音色。

 アスファルトを舞う埃の匂いが鼻を擽る。

 そんな、闇。

 そこに浮かんだ、白い髑髏。

 微笑う、しゃれこうべ。

 かたかたと、震える。

 震えながら笑い、震えながら話し、震えながら踊る。

 本来、骸骨とは陽気な化け物なのだ。

 月夜の晩に、墓より出でて。

 怨むは亡霊、踊るは骸骨。

 己の不幸、己の不遇、己の無様。

 他者の醜聞、他者の憤懣、他者の無惨

 それを肴に、踊り狂う。

 そんな、意味の無い宴の情景を、夢想した。

 

「アサシン、何で貴方がここに…」

 

 少し、目が慣れる。

 室内よりは流石に暗いが、それでも肥太った満月の晩。

 僅かに白く色づいた、浅い闇。

 それは、彼の纏った黒い装束を覆い隠すほどのものではなかったのだ。

 闇夜に浮かぶ、長身。

 痩せた、しかし若竹のように長くしなやかな四肢。

 そこには、確かに暗殺者の英霊が、いた。

 

「なんであんたが一人で…いや、そんなことはどうでもいい。兄さんは、代羽はどこに…」

「…事実を、端的に伝えたい」

 

 暗殺者は、ぼそりと、小石を吐き出すように呟いた。

 聞き取り難い、だからこそ聞き入ってしまう声。

 それは、喚き叫ぶ声などよりも、遥かに耳に残る声であった。

 

「マキリ代羽は、現在言峰綺礼及びそのサーヴァントであるギルガメッシュと交戦中である」

 

 その一言は、十分に予想された一言だった。

 しかし、予想された一言が、安息を生むわけでも幸福を生むわけでもない。

 これは、むしろその対極にある一言。

 産んだのは、焦慮と不安。

 そこに戦って敗れたという言葉が無くても、何ら変わるところは無い。

 

「アサシン、教えてくれ、一体どこで!」

「ちょっと待って、士郎」

 

 勇んで庭に飛び出そうとした俺の肩を、恋人の小さな手が押し留める。

 

「アサシン、さっき、マキリ代羽って言ったわね。それに、貴方の魔力。ひょっとして…」

 

 いぶかしむ凛の声に、暗殺者は破顔した。

 くつくつと自嘲に塗れた響きは、笑い声でありながら闇夜を一際濃くするような陰鬱さがあった。

 

「察しがいい。おそらくは貴殿の予想されたとおり、私は今、主を持たぬ。前の主からは、三行半を突きつけられたでな」

 

 その瞬間。

 まさしくその瞬間、北の方角に聳える名も知らぬ山の麓から、大気を震わすような魔力の奔流が。

 爆発。

 濁流。

 津波。

 あらゆるものを飲み込んで、しかしその勢いを衰えさせない。

 それほどに慮外の魔力の渦。

 理解した。

 あれは、俺が足を踏み入れられる戦いでは、ない。

 

「始まったか…」

「クソ!セイバー、頼む!」

「承知!」

「待て!」

 

 振り返る。

 白い仮面。

 アサシン。

 

「無駄だ。蟲に喰われたいのか」

 

 蟲に、喰われる?

 

「マキリ代羽の、いや、ヨハネの魔術は、それほどに器用なものではない。あれに使役される蟲は、只管に喰らい只管に殺すしか能の無い、いわば病気か毒のような存在。少なくとも敵味方の区別など、してはくれない」

「…なるほど。だから、学校のとき、貴方は戦場から姿を消したのですか」

 

 セイバーの推察に、アサシンは首肯する。

 それはつまり、彼女の戦場においては、彼が無力であることを認めたも同然。

 その白い仮面が自嘲に歪んだ気がしたのは、俺の気のせいだろうか。

 

「少なくとも、今我等が動いたところで、足手纏いになるか、それとも戦場に混乱を齎すか、そのいずれかにしかならぬ。故に、マキリ代羽の意向を伝えたい。それに従うか否かは、貴殿らの判断に委ねる」

「…代羽は、何て…?」

「聖杯戦争は、終った。勝とうが負けようが、私が聖杯戦争は終らせる。各人、一旦この街から離れ己の身の安全を図ること。それが、マキリ代羽の願いである」

 

 辺りを、不快な静けさが満たした。

 それを、何と名付ければいいだろうか。

 無力感。

 疎外感。

 いや、そんなものではないか。

 

 ―――見捨てられた。

 

 他のみんながどう思ったのか、それは分からない。

 だが、少なくとも、俺は。

 見捨てられたと。

 また、置いていかれたと。

 そう。

 

「勝てば、ギルガメッシュの魂を生贄に捧げた上で、起動した大聖杯を破壊する。負けたとしても、最も被害の少ない形で、今回の聖杯戦争を終らせる。無論、そのための交渉は完了している」

「…交渉って、どんな内容なんだ?」

「彼女の要求は、衛宮士郎およびそれに近しい人間の命の保障。その代価は、聖杯たる彼女自身と、セイバーの令呪、その一角」

「セイバーの令呪って…ああーっ!」

 

 場違いに素っ頓狂な叫びが、凛の口から漏れた。

 

「しまった!今の今まで気付かないなんて、何て間抜け…!」

「マキリ代羽が卿に打った薬、あれは麻酔薬でも虫下しでもない。あれは、意識を混濁させ、その自我を乗っ取るための秘薬。ブードゥーのゾンビーを作る秘薬に近しいものだ」

「…義手一本の対価には、高過ぎるじゃない…!」

「マキリの秘術のうちに、令呪を本のかたちで第三者に譲渡し、仮初のマスターとする秘術がある。そのためには真実のマスターの同意が不可欠なそうでな。卿を謀ったこと、許してほしい、とのことだ」

 

 じゃあ、代羽がもし負ければ、セイバーは…?

 ちらりと横を見る。

 そこには、流石に青褪めた顔の、セイバーがいた。

 

「そんな、勝手な…」

「彼女の中での優先順位の問題だ。英雄王の望みは騎士王を己の手にすること。そのために聖杯の泥と、自害を防ぐための令呪を必要とした」

「…自害を防ぐ、とは…。はっ、私も舐められたものだな」

「奴は本来、聖杯に潜む者を使役して人類の粛清なども意図していたようだが、それは取引によって手を引かせた。よって、今回の聖杯戦争でこれ以上の犠牲者と成り得るのは、騎士王たる貴殿と、聖杯たるマキリ代羽の二人のみ。セイバー、貴殿はそれを罵るか?」

「…己を縛る手綱、それをあのような男に握られるのは例えようもないほどに不快です。しかし、それでシロウの安全が買えるなら、安いものでしょう」

「まあ、貴殿の対魔力ならば偽りの令呪如きに容易く縛られるとは思えぬが、戦いに敗れて瀕死の卿ならばそうはいくまい。要は勝てばよい。その程度の頚木だ、あれは」

「ちょっと待った。大事なことが抜けてる」

 

 顎に手を当てた凛が、会話を遮る。

 

「言峰は?あいつ、代羽の子宮を使ってアンリマユを現界させるつもりよ。そんなもの生まれたら、私たちの生死の約定なんて、吹き飛ぶわ。あれは全人類に向けられた呪いそのものなんだから」

「全人類を滅ぼす呪いだからこそ、そのことは問題とならぬのだ。あれの呪いは強大であればあるほど、その赤子が生れ落ちる可能性は加速度的に減少していく」

「何でそんな…あ」

「人類は、外的要因以外では滅びぬように出来ているのであろう?」

「そうか、阿頼耶識…。なら、確かにアンリマユは現界できない」

 

 凛は、一人で納得してしまった。

 桜もそれに倣って得心がいったような顔であるが、俺にはちんぷんかんぷんだ。

 阿頼耶識。

 どこかで聞いた言葉。

 そう、あれは。

 ゆらゆらとした。

 深海で。

 深海魚たちが、ぐるぐると。

 あれは、一体。

 

「凛…」

「気にいらねえな」

 

 僅かながらにも、確かに剣呑な響き。

 例えるならば、猛獣の唸り声だろうか。

 威嚇と、それに続く戦いを予兆させる声。

 ランサー。

 彼は、確かに怒っていた。

 

「何もかもがあの小娘の掌の上か?はっ、それでお前らは満足かも知れんが、何故俺がそれに従わなきゃいけねえんだい?」

「…であれば、貴殿は如何なさるおつもりか」

「決まってんだろうが。さっさと大聖杯を破壊して、その上であのいけすかねえ野郎と言峰を叩き殺す。それ以外の選択肢があるとでも?」

「…つまり、彼女の言葉には従えぬと、そういう訳だな?」

「くどいぜ。さ、行くぞ、桜」

「させぬよ」

 

 ダダン、と。

 屋敷の柱を貫通した、短剣が二振り。

 ダーク。

 暗殺者の英霊、ハサン=サッバーハの主武装の一つ。

 庭を見遣る。

 そこには、暗殺者らしくない、目に見えるほどの殺気を放つ骸骨が、いた。

 

「アサシン…」

「おいおい、話を聞いて、その後どうするかは任せるんじゃあなかったのかい?」

「それは、彼女の望み。私の望みとは異なる」

「…ああ、要するに、喧嘩売ってんのか、てめえは」

「…所詮は犬畜生。人の高潔さを理解せよというのが高望みであったか」

 

 その、言葉は。

 

「了解。死にてえんだな、てめえ」

「ランサー!止めてください」

 

 桜が、必死に制止する。

 それでも、槍兵の顔に浮かんだ狂相が消えることは無い。

 その手には、彼の無二の相棒、真紅の魔槍。

 それが血に濡れることなく収められる道理はないだろう。

 この戦い、極めて無意味な戦いは、最早不可避。

 誰もがそう思った瞬間。

 

「何故、分かってくれぬか!」

 

 暗殺者の悲痛な叫びが。

 

「何故、主の覚悟を、分かってくれぬ!これはな、只の愚行よ!あやつらを無視して大聖杯を崩せば、我らの負けは無いのだからな!しかし、それでも主は戦いたかった!戦わねばならなかった!」

 

 唯一、その叫びだけが、愚かな闘争を、制止した。

 槍兵の瞳は、真剣な面持ちで暗殺者を射抜く。

 

「覚悟には相応の礼儀が必要であろう!光の皇子よ!赤枝の騎士よ!何故、卿がそのことを理解してくれぬ!その誇り、犬に食われて消え失せたか!?」

 

 真紅の槍は、誰の血を吸う事も無くその姿を消した。

 槍兵は、無言で踵を返す。

 もう、この狂言に、興味は失った。

 そういうふうに。

 そして、どかりと腰を落とし。

 ちゃぶ台に置かれた湯飲み、そこに入っていた、冷め切った茶を飲み込み。

 眉を顰めながら、こう言ったのだ。

 

「…おい、坊主。これ、何だ?」

「え?ああ、梅昆布茶。不味かったか?」

「驚いただけだ。たまには悪くねえ」

 

 そう、苦笑しながら。

 

「そこの髑髏の言うとおりだな。考えてみれば、俺はこの戦に口を挟む資格は無い。これじゃあ、盛った犬ころと同じだ。だから―――」

 

 こう、言ったのだ。

 

「坊主、お前が決めろ」

 

 そう、宣言したのだ。

 

「今戦ってるのは、お前の兄だろう。今犠牲になろうとしているのは、お前の兄だろう。俺は、そもそも腹一杯に戦うため、それだけのために召喚に応じた恥知らずだ。この戦いがどう傾こうと、腹一杯に戦えれば満足して、そして消えていく。そんな奴に、口を挟む資格はない」

 

 それでも、その瞳は言っていた。

 これが、己の覚悟である、と。

 傍観者であること。

 己が流れを作らず、他者の作った流れに従うこと。

 これが、彼なりの覚悟であり、礼儀であると。

 であれば、お前はどうだ。

 衛宮士郎よ、貴様の覚悟はどうだ。

 そう、獲物を見定める、肉食獣のような瞳が、吼えていた。

 

「坊主。お前は、どうしたい?兄の誇りを守るか?それとも、それを踏み躙ってまで、兄を助けたいか?一体、どっちだ?」

 

 俺は。

 俺は。

 俺は。

 そんなの。

 考える、価値も無い。

 愚問だ。

 俺がしたいことなんて、ただ一つしかない。

 

「―――兄さんを、助けたい。たとえ憎まれても、軽蔑されても。もう、あの人に助けられるだけなんて、耐えられない」

「そうか。じゃあ、お前さんとそこの髑髏の主張は食い違うわけだ」

 

 分かっている。

 槍兵が何を言いたいか。

 これから、自分が何をせねばならないのか。

 時間は無い。

 これは、言葉をもって彼我の正しさを主張する領分では、ないのだ。

 視線がかち合う。

 初めて正面から受け止めた、暗殺者の殺気。

 それは、想像したものとは、全く違うものだった。

 それは、絡みつく蜘蛛の糸のような細い殺気でも、冷たく火傷するような凍てついた殺気でもない。

 ただ、燃え上がるような、身体の芯の一番熱いところの炎を煽るような、そういう殺気だった。

 

「時間はねえぜ。手早く決めな」

「…ああ、わかった」

「委細承知」

 

 裸足で、庭に降りる。

 誰も、俺を止めようとはしない。

 凛も。

 桜も。

 もちろんランサーも、そしてセイバーも。

 ただ、俺を見守ってくれた。

 それがどれ程の優しさゆえなのか。

 どれほどの感謝を捧げなければならないことなのか。

 いずれ、俺は思い知る日が来るだろう。

 それでも、今は、ただ前に。

 眼前の髑髏を叩き伏せる、そして兄さんを救う。

 それだけを、胸に秘めて。

 歩く。

 柔い、地面。

 そこは、昨日の雨の名残のある、しっとりとした大地だった。

 その冷たさが、身体の奥の瘧のような火を、更に煽り立てるかのようであった。

 

「…人の身で英霊に挑む。余人は、浅慮と言おう。猪突と言おう。無思慮と詰るやも知れぬ。それでも、私は尊いと思う」

「…それはどうも」

「正直に言うとな、少年、いや、衛宮士郎よ。私は、君の在り様に憧れていた。眩しかったよ」

「そういうことは、勝負が終った後に言うものだろう?」

「…そうであったな。厚顔であった。許せよ」

 

 呪文を紡ぐ。

 ずっしりとした両手の感触は、最早心地いいほどに。

 その重量を愛おしく撫でながら、構える。

 

「殺すつもりで来い。私は、殺すことしか知らぬ故に」

「ああ。もちろんだ」

 

 二人は、月下に対峙する。

 互いに、構えともいえぬような構え。

 ぼうと、枯れ木のように。

 隙だらけに見えて、その実、隙の一つもない。

 そのことは、互いに理解している。

 故に、動けない。

 無限ともいえる数瞬。

 それでも、意外なほどに早く、終わりは来る。

 おそらくは、此度の聖杯戦争において、最も無意味の戦い。

 その始まりを告げるのは、遥か遠くで響く戦火の声。

 蟲と宝具の戦争、その砲撃音。

 そして、一拍。

 互いの呼吸の白さが、闇を薄まらしたとき。

 骸骨は、動いた。

 まるで、風に揺らぐ柳のような。

 かの弓兵を、さんざ苦しめた、起点のない挙動。

 それが、魔術師の少年を襲う。

 少年は、迎え撃つ。

 己に宿った弓兵の生涯を頼りに。

 故に、それは再戦。

 弓兵対暗殺者。

 

 しかし、弓兵の魂宿りたるは、贋作の器。

 

 しかし、暗殺者に宿りたるは、戦士の魂。

 

 ならば、それは初見、そして初戦。

 果たして、いずれが勝ちうるか。

 最初の剣戟は、薄い夜空の元に、高らかと鳴り響いたのだ。

 

 



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episode90 午後八時

 彼にとっての戦いとは、作業に分類される。

 それは、例えば闇夜から獲物を仕留めるのと同じこと。

 故に、最も尊ばれるべきは、効率。

 如何に労力を削り、如何に危険を避け、その上で確実に仕留める事が出来るか否か。

 彼にとっての戦いとは、そういうもの。

 天秤の上で、金貨と胡椒を量り売るのと変わらない。神経をすり減らすものの、心昂ぶる何かは存在しない。

 彼は、そのためなら如何なる手段も辞さない。

 彼は、そのためなら如何なる手段も辞さなかった。

 人質をとる、脅迫する、罠を仕掛ける、甘言を弄する。

 全てが彼にとっての常套手段であり、同時に誇りであった。

 狩人が、己の作り上げた罠の精巧さを誇るかのように。

 罠に捕らわれた野兎は、狩人を罵るだろう。

 俺の足に敵わない奴が、卑怯にも罠を仕掛けて俺を捕まえやがったと。

 この、卑劣漢め、と。

 しかし、その罵声こそが、狩人たるものの誇りなのだ。

 だから、彼は恥じない。

 決して背中を丸めない。

 であればこそ、彼にとって英雄譚にあるような戦いは、正に唾棄すべきものであった。

 豪傑同士、名乗りを上げての真っ向勝負。

 鎬を削る戦い、そして決着、己を追いつめた敵への哀悼。

 彼は、それを鼻で嗤った。

 それは偽善ですら、自己満足ですらないと。

 それは、只の喜劇であると。

 嗤わねば、ならなかった。

 そうしなければ、己が己で無くなる。

 理想を思い出せば、今の醜さが浮き彫りとなる。

 ならば、思い出さなければ良い。

 全てを忘れた振りをすれば良い。

 それが彼の選択肢で、それは一切の間違いを持たないものだった。

 

 それでも、彼とて人である。

 追いつめられて、正面より戦わなければならない機会も、数少ないとはいえあった。

 その時の彼の戦い方も、決まり切っている。

 まず、獲物との距離は、常に四間。

 敵の刃の届かぬ間合、それを絶対とする。

 敵が前に出れば、その分だけ引き。

 敵が逃げれば、その分だけ追う。

 その間合を維持し、短剣を投げる。

 一撃で獲物の運動性を測り。

 二撃で獲物の行動法則を測る。

 三撃で獲物の焦慮を誘い。

 四撃で獲物の体力を削り取る。

 獲物の苦痛など、意に介さない。

 獲物の誇りなど、埃に塗れればいいでしょう。

 そして、無表情に、淡々と。

 一切、感情の機微を見せることなく。

 最後に、その心臓を。

 当然、一切の感情の機微を見せること、なく。

 ならば、それは闘争とは言うまい。

 勇者はもちろん、彼自身も。

 それは、狩りだ。

 ならば、彼は狩人だ。

 しかし、その事実の何処に卑俗の要素があるか。

 戦士に戦士の誇りがあるように、狩人には狩人の誇りがある。

 彼は、それを誇ってきた。

 それなのに。

 今の彼は、その手に短剣を握り締めたまま。

 尊敬すべき戦士に、挑むのだ。

 まるで、御伽噺の勇者のように、愚かしく。

 彼は、何よりもそのことを忌避していたはずの彼は。

 何故、心地よいと。

 そう、感じたのだろうか。

 

episode90 午後八時

 

 まず、最初に目を疑った。 

 暗殺者が、正面から勝負を挑む。

 その、明らかに投擲にしか適さない、貧弱な短剣で。

 次に、この腕に伝わる衝撃を、疑った。

 その速さ、その膂力。

 まるで、かの槍兵に匹敵する―――。

 

「があ!」

 

 骨の髄まで痺れさす、桁違いの腕力。

 全身の骨格が、軋みながら悲鳴をあげる。

 アサシン。

 枯れ枝のような四肢

 そのどこから、これほどの剛剣を。

 駄目だ。

 正面から受け止めては、何撃も保たない。

 剣より先に、体が折れ砕ける。

 ならば、力を逸らし、受け流す。

 しかし―――。

 

「甘い!」

 

 その、速度。

 上から。

 横合いから。

 巻き込むように、弾き飛ばすように、滑り込むように。

 まるで竜巻のような剣戟が、俺の意図を挫く。

 策や技術は、人が人を相手取るに培った技術。

 ならば、敵が人でなければ?

 人智を超越した、英雄であるならば?

 その、全てを断ち切る剣線を。

 双剣よりも手数で勝る、その連戟を。

 捌けというのか?

 捌けると?

 

「ぐっ、ずうぅ!」

「その程度か!」

 

 振りかぶった、大上段からの一撃。

 剣を交差させて受ける。

 そうでないと、押し切られる。

 受けた剣ごと、真っ二つだ。

 だから、両手で。

 でも。

 ずしん、と。

 足が、柔い地面に沈み込む。

 腕の筋繊維が、ぶちぶちと悲鳴をあげる。

 思わず、剣を落とした。

 痺れて、掌が言うことを聞かない。

 

「しいっ!」

 

 突き。

 眉間。

 真っ直ぐ。

 受けることはできない。

 後ろに、飛びのく。 

 それでも、伸びる。

 伸びる。

 まだか。

 まだ、伸びるか。

 驚くほどの間合。

 俺の両手を継ぎ合わせたほどの間合。

 背中を、これでもかと反らせる。

 それでも。

 それでも、伸び来る、刃。

 ちくりと。

 切っ先が皮膚を貫き、肉をこそぎ、骨を削ったところで。

 ようやく、剣は、その侵略を止めた。

 

「はあっ、はあっ、はあっ!」

 

 つうと、生暖かい液体が、鼻の横を通って落ちる。

 ぽたりと、それが地面に落ちた感触。

 それすらも、遠い。

 たった数回の打ち合い。

 それで、もうこれだけ息が上がってしまっている。

 これが、英雄と人の差か。

 これほどか。

 

「…失望だ。この程度か、衛宮士郎」

 

 呪文を、紡ぐ。

 この敵と戦うに、長大な剣では瞬殺される。

 せめて、亀のように遅い剣速を補うため、手数がなければ。

 故に、双剣。

 しかし、これで勝てるのか?

 本当に?

 

「君は、マキリ代羽を。彼女を、守るのではなかったか」

「守る。絶対に、守ってみせる」

「ならば、口だけだ」

 

 消えた。

 その白い仮面が、ことりと落ちる。

 その白さに、心を奪われた。

 その瞬間に、仮面の持ち主は姿を消していた。

 音が、無い。

 無限の闇が、彼の姿を覆い隠す。

 どこだ。

 どこにいる。

 視線を、感じる。

 あらゆる闇から、視線を感じる。

 動機が、早くなる。

 先程の溢れ出す様な殺気は、今は無い。

 ただ、巻きつく糸のような。

 それこそ細い蜘蛛糸のような、絡みつく殺気。

 全方向から監視されているような、重圧。

 動悸が。

 息が、荒い。

 視線が定まらない。

 狩場だ。

 ここは、領分だ。

 闇夜に紛れ、獲物を暗がりに引きずり込む。

 人外の存在、ここはその狩場だ。

 足が、がくがくと震える。

 咽喉が、渇いて張り付くように。

 吐息から漏れ出す水分すら、恋しい。

 

「叫び声を上げないだけでも大したものだが、既に五回は殺している」

 

 あらゆる闇から、一斉に話し掛けられる。

 どこにも反響する要素は、ないのに。

 それは、幻聴か?

 それとも、技術?

 後者であろう。

 それが、彼の培った技術なのだ。

 暗殺者の英霊。

 決して、格下ではない。

 英雄、豪傑、希代の魔術師。

 それらと比べても、何ら遜色ない。

 これが、英霊。

 一瞬でも勝ちうると思った自分に、腹が立つ。

 強い。

 アサシンは、強い。

 でも。

 

「諦めろ。君では、私には勝ち得ない」

「…それが、あんたか」

「…どういう、意味だ」

 

 だからこそ。

 だからこそ、分かる。

 こいつは、誇り高い。

 それこそ、セイバーやランサーに劣らずに。

 

「何で、守らなかった。何であんたは、今、ここにいる?」

「…意味が分からぬ」

 

 だから、悔しい。

 こいつは、悔しいんだ。

 悔しくて悔しくて、堪らないんだ。

 自分の無力さが、悔しくて堪らない。

 

「代羽を放っておいて、何でここにいるんだ、アサシン」

「…彼女が望んだ。そして、彼女は私よりも強い。ならば、私は不要だろう」

 

 そう。

 自分より、強い。

 愛する人が、自分より強いから。

 守れない。

 守りたいのに。

 自分の手から、離れてしまう。

 きっと、この人は。

 そのことが。

 この上なく。

 

「あんたは、守りたいんじゃあないのか、アサシン!」

 

 誰よりも。

 この場にいる、誰よりも。

 代羽を。

 貴方は。

 愛しているんじゃあ、ないのか。

 どうなんだ、アサシン。

 

「答えろ、てめえ!」

「…君の、言うとおりだな」

 

 ふわりと。

 突然、夜空から舞い降りたように。

 黒い、烏のような。

 その、顔は。

 人ではなくなった、その顔は。

 白い仮面を拾い上げ。

 誰でもない誰かと、なった。

 

「全く、今宵はどうかしている。月は人を狂わすというが…。あれは、火酒よりも強烈なのだな」

「…弱くても。たとえ、迷惑でも。邪魔になっても、除け者にされても!守りたいなら!あんたが、守りたいなら!」

 

 体を、熱情が焦がしていく。

 溢れ出すのは、涙ではなく意思の奔流。

 挫けそうだった背骨に、煮え滾った芯鉄が差し込まれる。

 それは、俺の中に宿った誰かのものじゃあない。

 俺自身の熱。

 俺自身の痛み。

 俺自身の、覚悟だ。

 これは?

 初めて味わう感触。

 なんだろう。

 なんだろう。

 力が溢れる。

 あの時。

 城で、理解した。

 己が何者で、何となるべきなのかを理解した、あの瞬間。

 あれよりも、強い。

 もっと熱く、迸るような感覚。

 何だ、これは。

 

「私の知らぬ感情だ。だからこそ、君と戦いたかった。そうすれば、分かるかと思ったのだ」

「…行くぞ!」

 

 駆ける。

 地面が、爆ぜる。

 疾い。

 俺は、疾い。

 この感覚。

 ずれがない。

 いや、ずれはあるのか。

 しかし、そのずれを理解したところで体が動く。

 膨れ上がった感覚だ。

 自分が、膨れ上がった。

 自分が、自分の中にあった誰かの経験を飲み込んだ感覚。

 それが、こんなにも、心地いい。

 自分の手綱を、自分が握っている。

 その確信。

 己が主人は、己のみ。

 ならば、闘える。

 まだ、強くなれるだろう。

 俺は、俺だ。

 衛宮士郎だ。

 

「しいぃ!」

「ぐぅっ!」

 

 ガチンと、金属が金属を砕く音。

 動く。

 体が、動く。

 思い通り、自由自在に。

 こんなにも、動く。

 それは、こんなにも。

 これが、俺か。

 なるほど。

 まだ、捨てたものじゃあ、ない。

 

「先程よりは。だが…!」

 

 反撃の一撃。

 只の一撃で、剣を落としそうになる。

 受けてなお骨ごとへし折れるような。

 これが、英雄。

 これでこそ、英雄。

 強い。

 知っていた。

 もちろん、これで勝てる筈がない。

 やっぱり、腕力は桁違い。

 体裁きは、比べるまでもなく。

 経験、鋭さ、戦術戦略。

 そのいずれもで負けている。

 ならば、何で勝つ?

 分からない。

 それでも。

 それでも!

 

「うおおおぉぉぉ!」

 

 もう、無茶苦茶だ。

 ただ、振り回すような攻撃。

 ほとんど、駄々っ子のそれと変わらない。

 もう、剣術ではない。

 体術でもない。

 魔術でもなく、技術ですらないもの。

 術は、いらない。

 その先。

 その奥。

 そこにあるもの。

 それで、切りかかる。

 それしか、無いから。

 その事を、知っているから。

 

「…ぐ、ぬう…!」

「はああぁぁ!」

 

 上段、打ち下ろし。

 受けられた。

 中段、横薙ぎ。

 避けるように、一歩後退。

 ならば、一歩詰めて。

 体重を乗せて、突き。

 頭を振って、かわされる。

 そして。

 来た。

 不用意な、一撃。

 苦し紛れの、袈裟斬り。

 それを、巻き込むように。

 これで。

 ここで決める。

 なのに。

 あれ。

 なんだ、これ。

 長い。

 包帯みたいな。

 それが、ひらひらと。

 あれ。

 アサシン、それ、何だ。

 その、細長いの。

 先が、五つに分かれていて。

 ああ、それ。

 腕、か。

 

「妄想心音」

 

「………………!?」

 

 なんだろう。

 

「………!…………………て!」

 

 小鳥が、ちゅんちゅん囀っている。

 

「……!さ…ら………と、水!」

 

 ああ、何て、耳に心地いい。

 

「……サシン!あんた、……に宝具かますな……、何…えてんの!」

 

 聞き覚えがある。

 

 これは、俺の一番大切な人。

 

 一番大好きな人。

 

 一番可愛らしい人の。

 

 声じゃあ、ないか。

 

「士郎、大丈夫!?私の声、聞こえる!?」

 

 ああ、聞こえるよ。

 

 だからさ。

 

 そんなに、泣かないでくれ。

 

「心配は要らぬ。少し、心臓の拍動を止めただけ。すぐに再動させたゆえ、頚動脈を締められて意識を失ったのと何ら変わるところはない」

「だからってねえ、あんた…!」

「…り、ん。やめて、げほ、やめてくれ…」

 

 少し、重たい意識。

 少し、重たい身体。

 でも、動く。

 さっきと一緒だ。

 これは、俺の身体だ。

 

「…俺、負けたのか…」

「決め事ならばな。しかし、卿は私に宝具を使わした」

 

 だからお前の勝ちだ、と。

 髑髏は、そう言わなかった。

 そうすれば、俺は彼女を助けに行くだろうから。

 どこまでも高い誇りを捻じ曲げてまで、その言葉を飲み込んだ。

 

「…冗談言わないでくれ。あんた、手加減してただろう」

「…それは、戦術のことか?」

「それも含めたところで、全部。あんたが本気出したら、今頃細切れだ」

 

 宝具を使ったのだって、きっと。

 俺に対する礼儀と。

 もう、時間が無かったから。

 

「…戦いは、終ったようだ。ならば、行かねばな」

 

 アサシンは、遠くを見遣った。

 そこは、北の方角に聳える名も知らぬ山の麓。

 もう、そこから一切の魔力は感じない。

 ただ、寒気のするような沈黙があるだけだ。

 

「…アサシン。先程の、恐るべき魔力の爆発。覚えがあります。あれは、おそらく英雄王の宝具。ならば、代羽は…」

 

 敗れたのだ、と。

 ならば、共に行こうと。

 セイバーは、それ以上言おうとしなかった。

 それが彼女の気高さであり優しさなのだと思った。

 そう思ったのは、アサシンも一緒だったのだろうか。

 白い仮面の下で、彼は微笑った。

 

「…先程のは、主の我侭。そして、此度は私の我侭だ。愚かな主従と罵ってくれればよい」

 

 彼は、背を向けた。

 その眼前に広がるのは、おそらく無限の闇だろう。

 それでも、彼は立っていた。

 まるで、その闇そのものに挑みかかるが如く。

 

「…衛宮士郎。先程の勝負、私の勝ちだ」

 

 起き上がる。

 流石に、ふらつく。

 それでも、構わない。

 だって、倒れそうな俺の体は。

 彼女に支えられる、それは決まっているから。

 

「士郎!」

 

 ほらな。

 だって、こいつは、誰よりも厳しくて。

 でも、他の誰よりも、優しいんだ。

 俺の自慢の、彼女なんだから。

 

「ああ、あんたの勝ちだ」

「…卿は、良き伴侶を得たな」

 

 さらりとした、その一言。

 羞恥は、感じなかった。

 ただ、胸が誇りと暖かさで一杯になった。

 だから、俺も言えたんだ。

 愛する人の肩を、抱き寄せながら。

 

「自慢の人だ。羨ましいだろう?」

「はははっ!いや、全く!」

 

 そして、彼は振り返った。

 もう、その仮面の白さですら、溶けるような距離。

 ぼんやりと、幽鬼の様な雰囲気で。

 音が、鼓膜を震わせる。

 俺は、理解した。

 これが、彼が残す最後の一言だと。

 

「…もし。もし、主が敗れれば、私はやつらに挑むこととなる。それが主の意向に背くものだったとしても」

 

 俺は、頷く。

 託されたのだと知る。

 彼の誇りを、彼の意思を。

 その、何と熱く、何と重たいこと。

 

「万が一、時計の短針が下り始めても私が戻らなかったとき。その時は、彼女を助けてやって欲しい」

 

 血を吐き出すような言葉だった。

 それが、代羽の意志を尊重した上での、精一杯の懇願だったのだろう。

 もう、自分はこの世にいないのに。

 もう、彼女のことは、忘れているはずなのに。

 それでも助けて欲しいと願う。

 暗殺者の言葉ではない。

 暗殺者となる前の、もう誰もその名前を知らない、誰かの言葉だった。

 

「恥知らずと承知で、託す。衛宮士郎よ。どうか、どうか彼女を頼む」

「任せてほしい。俺の兄さんだ。俺が助ける。…それにしても、あんた」

 

 これは、いつか神父に言った台詞。

 でも、同じ感想を抱いたなら、同じ言葉を吐いてもいいだろう。

 だから、言うんだ。

 

「あんたも、笑うんだな」

 

 暗殺者は、苦笑した。

 

「笑わぬよ。山の翁は笑わぬ。それでも、今宵は月が美しい。月に酔ったのだろう」

 

 彼は、月を見上げた。

 そうして、俺も。

 ああ、月はいい。

 美しいし、飽きさせない

 何より、罪を押しつけても文句の一つも言わない。

 全く、神様みたいだ。

 

「では、世話になった。短い時間だったが、楽しかった。彼女の分まで、礼を言わせて欲しい」

 

 そう言って、白い髑髏は闇に消えた。

 もう、如何なる余韻も残さない、彼らしい消え方だった。

 彼は勝つだろうか。

 いや、そんなこと考える必要はない。

 考えなければならないのは、彼が負けたときのこと。

 その時。

 その時は。

 あと、四時間。

 誰も、何も話さない。

 誰しもが、無言の覚悟の中に、いた。

 



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episode91 午後八時半

 月の光が、格子窓を通して、石の床を照らしている。

 やはり、今夜は明るい。一切の照明器具の無いこの土蔵も、それなりに見渡すことができる。

 ひんやりとした室温。

 産毛が立ち上がるような感触があるが、それでも凍えるほどではない。

 馬鹿みたいに逸る心臓には、返って有難いくらいだ。

 

「おい、本当にやるつもりか」

 

 振り返る必要など、ない。

 だって、そこに何があるのか、私は知っているから。

 青い髪の毛。

 赤い瞳。

 悪童みたいな表情と、噛み付くような笑み。

 それでも今は、どこか面倒臭そうにしているはず。

 ランサー。

 私がキャスターを裏切って、無恥にも契約を結んだサーヴァント。

 誰よりも勇猛で、誰よりも不器用で、そして暖かい。

 本当に、私などには釣り合わない僕であることだ。

 

「くどいですよ、ランサー。主が決めたことです。従ってください」

 

 がりがりという音は、彼が頭を掻き毟っているから。

 分かっている。

 私が今からする儀式は、無茶もいいところ。

 あの姉さんですら、年単位の時間をかけて行った苦行。

 それを、一晩、いや、それに満たない時間でやり遂げようというのだから。

 しかも、最後の戦いを目の前にして。

 ならば、愚行を通り越して自殺行為だろう。

 分かっている。

 少なくとも、分かっているつもりだ。

 でも、確信がある。

 今、私が為すべきこと。

 この、降って湧いたような四時間に、私が為すべきこと。

 それは、この一事のみであると。

 

「…俺は、魔術にはそれほど造詣は深くない」

「それは謙遜ですか?影の国でルーンを収めた、かのクー・フーリンの言葉とも思えません」

「茶々を入れるなよ。それでも、俺の本業はこいつだ。だから、ルーン魔術以外の知識は、それほど深くない」

 

 彼の手には、真紅の魔槍。

 ゲイ・ボルク。

 影の国の女王、スカハサから授かったとされる、彼の愛槍。

 御伽噺の騎士と、その武装。

 それを見ると、自分がどのような慮外の宴に参加しているのか、少しだけ実感できた。

 

「俺は、見知らぬ他人が首を吊るのを止めるほど御人好しじゃあない。そいつにはそいつの事情があるだろうしな。死にたい奴は、死なせてやればいいんだ。だが、いい女がそれをするなら別だ。縄をぶった切って、引っ叩いてでも止めてみせる」

 

 それは、あの時のように。

 キャスターを失って、錯乱した私を。

 殴りつけて、蹴り飛ばして。

 そして、抱き支えてくれた。

 あの時のように。

 知っています。

 だから、貴方に頼むのです。

 先輩は、優し過ぎるでしょう。

 姉さんは、優し過ぎるでしょう。

 ですから、貴方なのです。

 優しくて厳しい、貴方しか、いないのです。

 

「ランサー」

 

 胸いっぱいに、空気を吸い込む。

 まるで、この場にいない誰かから、力を借りるかのように。

 

「お願いします」

 

 振り返る。

 そこには、目を丸くした、槍の騎士が。

 私は笑ってやった。

 まるで、ほんの少しの恐れも無い、そういうふうに。

 本当は、怖いけど。

 今にも投げ出したいくらいに、怖いけど。

 でも、それを見せたら、この人が怖がるでしょう。

 きっと、誰よりも臆病な人だから。

 誰よりも、失うということを理解している人だから。

 だから、もし、これでも彼が制止をすれば。

 私は。

 

「…わかったよ。しゃあねえな」

 

 やはり、彼は、照れたように。

 頭を、がしがしと掻き毟って。

 それでも、悪童みたいに、笑ってくれたのだ。

 

「本当、俺は女運が無い。今回は、ちったあお淑やかなマスターに出会えたと思ったんだがな」

「ふふ、私のような女は、お気に召しませんでしたか?」

「いいや、大好物だ」

 

 破顔した、ハシバミの少年は。

 しかし、一転して真剣な表情で。

 

「だがな、やるからには失敗は無しだ。お前が死ねば、俺は都合二人のマスターを見殺しにしたことになる。であれば、次のマスターなんて、探すつもりは更々無い」

 

 下手な慰めは、侮辱だろう。

 だから、頷いた。

 彼の覚悟に応えることができるように。

 精一杯の、虚勢を張って。

 

「お前が死ねば、俺も消え去る。仮初とはいえ、他人の命を、お前は背負うことになる。それでもやるんだな?」

 

 それは、疑問でも制止でもなく、確認。

 ただ、私の意志を。

 果たして、死地に飛び込んで生還できる器なのかを。

 ならば、言葉はいらない。

 動作もいらない。 

 ただ、視線を。

 彼の覚悟に負けない、覚悟を。

 

「…わかった。張子の虎も、そこまでいけば虎に勝るだろうさ。ただな、条件がある」

「…何でしょう?」

 

 彼は、一歩、歩を進めた。

 それだけで、空気が変わる。

 まるで、獅子の檻に放り込まれたような、威圧感。

 全く、薄汚れた蟲なんかとは、格が違う。

 

「やるからには成功だ。それ以外の結果は、認めない」

「…私も、同意します」

「じゃあ、そのためにあらゆる犠牲を払う覚悟は出来てるんだな」

 

 彼は、更に一歩、歩を進める。

 彼我の距離は、ゼロ。

 吐息が交わるような間近に、彼の瞳が。

 美しい、紅玉を溶かしたような紅。

 血に餓えた獣よりも獰猛で。

 子を守る母よりも、優しげな。

 

「桜。俺は、今からお前を抱く」

 

 それは、分かっていた。

 知っていた。

 きっと、貴方がそう言う事を。

 だから、そんなに辛そうにしないで。

 私は、大丈夫だから。

 

「俺の魔力の一部をあんたに回す。だがお前さん、正規のマスターじゃあないからか、パスの通りがいまいち悪い。なら、体液交換の形をとるのが一番手っ取り早いだろう」

「…ええ。むしろ、こちらからお願いしたいくらいです」

「…無理をするな。そんなに震えてるじゃねえか」

 

 手を、握られる。

 あっ、と、間の抜けた声が漏れる。

 

「初めてなんだろう、男に抱かれるのは」

「…処女じゃあ、ありませんけどね」

 

 精一杯の笑顔を作る。

 きっと、何処までも引き攣った、見苦しい顔だけど。

 それでも、貴方があんまり辛そうだから。

 

「…謝ったら、殺しますよ」

「はっ、小娘が。俺を誰だと思ってやがる。お前みたいな生娘、腐るほどに食い漁ってきたさ」

 

 生娘と。

 私を、生娘と呼びますか。

 ああ、そういえば、クランの猛犬は、底なしだった。

 そんな、彼にしたら不本意かもしれない逸話を思い出す。

 いや、もしかしたら、どんな武勇伝よりも、そのことを誇るかもしれないけど。

 くすりと、笑いが漏れた。

 それを、彼がどう受け取ったのか。

 ふわりと、抱き抱えられる。

 まるで、童話のお姫様が、そうされるかのように。

 彼の、匂いに包まれる。

 それは、先輩とは違うけど。

 でも、安心する、心地よい香り。

 そして、柔らかい何かの上に下ろされる。

 肌触りのいい、毛布。

 先輩が、土蔵で寝入るときにいつも使っていた、毛布。

 先輩の、匂い。

 それに包まれて、私は女になるのだろう。

 一瞬遅れて、彼がそのことに気付く。

 明らかに、しまったという顔。

 その顔が可愛らしくて。

 私は、彼の唇を奪ったのだ。

 

「…すぐに、済ませる。嫌なら目を閉じていてくれ」

「ふふ、じゃあ目を開けていますね」

 

 唇が震えて、上手く言えたか自身が無い。

 それでも。

 彼は、笑ってくれた。

 彼は、謝らなかった。

 それだけで、彼には騎士の資格がある。

 そんな、偉そうなことを、考えた。

 

「…目をつぶっていてくれたほうが、楽なんだがなあ」

「あら、クランの猛犬が、挑まれた勝負を逃げ出すのですか?」

 

 再び、唇と唇が触れ合う。

 最初は、小鳥が啄ばむような。

 徐々に、舌を絡ませ、蛇と蛇が絡み合うような。

 

「あ―――はぁ…」

 

 とろんと、男の情欲を煽る声。

 そんな声が、漏れ出した。

 自分が、信じられない。

 ぷつり、ぷつりと、ブラウスのボタンが外されていく。

 寒気が、直接肌に触れる。

 ぴりりと、乳首が立ち上がった。

 その、甘い痺れに、思わず身震いする。

 

「威勢が良いのは口だけかい、小娘」

 

 憎まれ口は、労りの代わり。

 そんな、不器用な彼の優しさ。

 

「ん―――ふぅ…、言ってなさい。絶対に、泣かせてやるんだから…」

 

 そんな、普段でも言ったことのない言葉が、飛び出す。

 ああ、私も、あの人の妹なんだなあ。

 そんなことを考えながら、天井を見上げる。

 いつしか、私も彼も、何も身に纏っていなかった。

 生まれたままの姿で、抱き合う。

 逞しい、筋肉の隆起。

 それが、どこまでも柔らかく、暖かい。

 

「桜」

「…何ですか」

 

 彼は、私の顔だけを、正面から見つめて。

 

「綺麗だ」

 

 そう、言ってくれた。

 私は、後悔した。

 もし、彼に抱かれるのが、今夜でなければ。

 何の損得も無く、私を抱いてくれたならば。

 私は、彼を好きになれたかもしれない。

 初めて、先輩以外の男性を、好きになれたかもしれない。

 そう、思ったから。

 

episode91 午後八時半

 

「やっぱり、ここにいたのか」

 

 瞼を、持ち上げる。

 小さな窓から差し込む、少しきつめの月明かり。

 それ以外に、一切の照明はない。

 だが、それで十分。

 もとより、人工の灯りなどに頼らぬ生活を送ってきた身である。

 月がこれほど照らし出せば、戦場とて飛ぶように駆け回れるというもの。

 

「何してたんだ、セイバー」

 

 隣に、彼が腰掛けた。

 それだけで、鼓動が早くなる。

 認めよう。

 私は、彼を好いている。

 それは、理屈ではない。

 最早、抑え難い本能だ。

 

「…精神統一を。この空間は、非常に好ましい」

「ああ、前もそんなこと言ってたな」

 

 そう言って、彼は微笑った。

 その、純粋な笑みが、私からは遠過ぎる。

 もし。

 もし、彼が私のマスターのままで。

 もし、彼の心の中に住んだ女性が、私ならば。

 私と彼が結ばれる、そういう未来もありえたのだろうか。

 

「シロウ」

 

 私は、前を見つめる。

 板張りの床、そして壁、天井。

 その、無機質な空間が。

 なぜ、これほどに、心躍るのか。

 まるで、乙女のような感覚。

 この人が近くにいてくれるだけで、救われる。

 他に何もいらないと、そう錯覚する。

 

「私は、あなたに背を預けると誓った。故に、聞いて欲しい。私が、聖杯に何を求めるか」

 

 彼は、何も言わなかった。

 ただ、無言で頷いたのだろう。 

 その気配だけがあった。

 

「私は、私が王であったことを、消し去りたい。私以外の、より相応しい王を探したい。そして、故国を救う。それが、私が聖杯に託したい望みです」

 

 彼は、やはり何も言わなかった。

 それは、好ましい。

 百の言葉を紡いで、一の誠意も伝えることのできない輩より、遥かに好ましい。

 それでも、私は、強欲なのだろうか。

 彼の言葉が欲しいと、思った。

 なぜ、私の言葉に答えてくれないのかと。

 それは、手酷い裏切りなのではないかと。

 しかし、それが彼の優しさなのではないかと。

 彼は、私を慮って、何も言わないのではないかと。

 そう、何度も逡巡して。

 何度も、何度も、悶々として。

 一刻ほども経った頃合だろうか。

 彼は、ゆっくりと腰を上げた。

 そして、ゆっくりと入り口へと歩いていく。

 板の間の軋む、耳障りな音。

 その音を背景に。

 最後に、振り返り。

 

「なあ、セイバー」

 

 私は、答えない。

 それは、散々私をやきもきさせた、彼への意趣返しである。

 全く、これでは焼きもちを焼く乙女ではないか。

 そんな自分に、苦笑してしまう。

 その音が、静謐な道場に響き渡る。

 ああ、何と恨めしい。

 

「代羽は、兄さんは、見たかったらしい。自分のいない世界を。そして、安心したかったらしいよ」

 

 その、願いは―――。

 

「自分のせいで、世界がどれだけ歪んだか、自分のいない世界を観察すれば確認できる。だから、聖杯が欲しかった。やり直したいとは、考えなかったらしい」

 

 なんと、救われない―――。

 

「俺から見れば、セイバー、お前の願いも一緒だよ」

 

 ―――無礼な!

 

 一瞬で頭に血が昇る。

 なんと、未熟。

 そう、冷静に考える自分がいる一方、それを止められない自分も存在する。

 

「取り消せ、シロウ!私の願いは、そんな自己欺瞞なものではない!」

 

 立ち上がる。

 震える。

 寒さではない。

 怒り。

 怒りで、体が震えるのだ。

 空間の冷気を、丸ごと炙りつくすような怒り。

 振り返った、彼の顔。

 その、何かを憐れむような表情が、炎に風を送る。

 

「私は、私の無能によって国を滅ぼした!ならば、私以外のより良い王を選びなおすことで、国が救われる!皆が救われるのだ!それと代羽の願いの、どこに共通項があるか!」

 

 彼は、真剣な瞳で。

 

「…きっと、他の誰がやっても、結果は変わらなかったはずだ。いや、他の誰よりも、セイバーが一番うまくやれたんだ。だから、剣だってお前を選んだ」

「違う!私以外の、もっと相応しい者がいたはずだ!私は、あの剣を抜くべきではなかった!」

 

 ―――だから、あの剣は、折れ砕けて。

 ―――今、私の手に、無いのだ。

 

「…それに、国は滅びるものだろう?千年続いた国だって、いずれは滅びるんだ。なら、何でその罪を、セイバー一人が背負わなくちゃあいけないんだ?」

「…確かに、そうかもしれない。生き物に死があるように、国には必ず滅びがある。それは認めましょう。…しかし!あの時代、あの瞬間に滅びなければならない道理はなかった筈だ!私は、確かに私の知る人々を不幸にした!」

 

 そうだ。

 無数の、笑顔があった。

 無数の、笑い声があった。

 人々の活気でさんざめく大地。

 それを血と涙で汚したのは、私の責だ。

 ならば、その罪は、どう償われるべきか。

 決まっている。

 選ぶのだ。

 私以外の、より優れた王を。

 そうすれば。

 そうすれば、あの涙は―――。

 

「そうだな。確かに、セイバーの後の時代、ブリテンの人達にとっては苦難の時代が続いたそうだし」

 

 彼は、考え込むように、手を顎に当て。

 

「でもな、セイバー」

 

 優しく微笑みながら。

 

「その時代にも、お前の存在は、人々の支えだったんだよ」

 

 そんなことを、口にした。

 

「いつか蘇る王。いつか、自分達を導いてくれる王。彼らはその言い伝えを信じて、苦難の時代を乗り越えた。お前が支えたんだ、セイバー」

 

 違う。

 

「優れた王が、民衆を愛する王じゃあない。時には、優れた王ほど民衆を苦しめる。って、まあ、こんなの、釈迦に説法だよな」

 

 違う、違う。

 

「お前はさ、確かにお前の時代の人達を救いきれなかったのかもしれないけど」

 

 違う、違う、違う。

 

「でも、もっとたくさんの人達を救ったんだ」

 

 それは、私の功績ではない。

 

「お前が胸を張らないと、皆に嘘を吐くことになるぞ」

 

 それは、私の虚像を讃えるもの。

 

「今だって、信じられてるんだ。イギリスっていう名前になってるけどな。お前は、みんなに夢を与えている」

 

 私は、何一つ救えなかった。

 

「そんなの、お前以外の誰にだって出来なかったことだと思うぞ」

 

「違う!」

 

 認めるわけにはいかない。

 そんなの、気の迷いだ。

 私は、相応しくなかった。

 いや、私が相応しかったとしても、より相応しい者はいたはずだ。

 より、民衆を愛し。

 より、部下を愛し。

 より、妻を愛し。

 より、子を愛し。

 そして、より良く国を導く。

 その者が剣を抜いていれば。

 そうすれば。

 そうすれば。

 

「じゃあ、セイバーは、国の皆が幸せになって欲しいから、聖杯が欲しいのか」

「その通りです。選定をやり直し、より良い王を選べば、国は滅びずに涙も流れず―――」

 

 

「じゃあ、そう願えばいいのに」

 

 

 それ、は。

 

「国の皆が、幸せでありますようにって。王の選定をやり直すなんて胡乱なことしなくても、そうすれば全部解決するんじゃあないか?」

 

 違う。偽りの王の下では、民衆に、幸せなど―――。

 

「代羽もさ、そうなんだ。自分の罪を観察するなんてことしなくても、俺が、皆が幸せでありますように、そう願えばいいのに、そうしないんだ。一回、聞いてみたよ。何でかって。そしたら、何て言ったと思う?」

 

 それは、一体、何で?

 

「その手段を選べないのが、私の罪です、だってさ」

 

 ―――ああ。

 

「目的と手段が摩り替わってる。その根底にあったのが、罪悪感だった。あいつは、笑ってたよ。なんと不器用なことでしょう、そう言って笑ってた。なあ、セイバー。代羽のこと、どう思う?」

 

 そう言い残して、彼の姿は闇に消えた。

 何と、卑怯な。

 言いたいことだけ言って、答えを聞かずに立ち去るとは。

 全く、卑劣にも程がある。

 

「…見損ないました、シロウ」

 

 でも。

 それでも。

 彼が、今、ここにいるとして。

 私は、彼に何と反駁するのか。

 そうだ、私は民衆の幸せを求めると。

 それを聖杯に願うと。

 ならば、王の選定をやり直す必要など、無い。

 私が王のままでも、国は滅びなかったかもしれない。

 だが、その事実を認めれば、私は己に問いかけることになるだろう。

 何故今まで、そのように簡単な真実を見逃していたのか、いや、見ようとしなかったのか。

 そうすれば、私は私の根底にある、耐え難い何かと正面から向き合わねばならない。

 では、私は王の選定だけをやり直したいと。

 その結果など、どうでも良いと。

 それでは、罪の重圧から逃げている、臆病者ではないか。

 ならば、私は何と答えたのか。

 彼の問いに、何と答えることができたのか。

 明確な答えは、遥か彼方に。

 誰かが歯を軋らせる音が、空虚な空間を満たしていた。

 



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episode92 午後九時―――そして午前零時 戦開始

「う、ぎああああああ!」

 

 桜は、髪の毛を振り乱しながら、泣き叫んだ。

 

「いいいい痛い痛い痛い痛い痛いぃぃ!」

 

 爪が、俺の背中に突き立つ。

 震える指先が、耐えがたい苦痛を現している。

 抱き締める。

 小さな身体。

 それが、嵐のように荒れ狂う。

 

「殺して!お願いだから、殺してええええ!」

 

 桜は、元々令呪をもたないマスターだ。

 本当に、よかった。

 もし、今、彼女に令呪があれば。

 彼女は、己を殺させるために、それを使用しただろうから。

 

「ランサー、命令です、私を殺しなさい!」

「耐えろ、桜」

 

 じくりと、背中が痛んだ。

 爪が、皮膚を破って肉を毟り取っているのだ。

 それでも。

 それでも、俺の腕の中で泣き叫ぶ、この女の苦痛には遙か遠い。

 

「お願い!何でもするから、何でもするから殺して、殺してぇ!」

 

 ぎゅうと、抱き締める。

 大丈夫だ。

 桜。

 お前は、いい女だから。

 お前なら、耐えられる。

 耐えて見せろ、桜。

 

「ふううぅぅ!」

 

 がり、と。

 肩の肉が、こそげ取られる。

 噛みつかれた。

 そうだ。

 それでいい。

 耐え難い苦痛は、撒き散らせ。

 叫んで、喚いて、泣き叫べ。

 そして、打ち勝て。

 それが、俺のマスターの責務だ。

 

「…情けねえな、小娘。これじゃあ、坊主も姉に靡くわけだ」

「…」

 

 肩に食い込む苦痛が、強まった。

 がつんという衝撃は、骨を齧られたからか。

 

「通い妻みたいな真似して、あげくの果てにその様か。鳶に油揚げ、いや、もっと無様だな」

「…だ、まれ…!」

 

 いいぞ。

 そうだ。

 その調子だ。

 

「しかも、喧嘩挑んで、お情けで生き残って、生き恥晒してよお!」

「黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」

 

 怒りは、強さだ。

 悲しみは、強さだ。

 

「殺してやる…、お前、絶対に殺してやるぅぁああ!」

 

 それでいい。

 俺には、何もできないから。

 せめて、俺を恨んでくれ。

 そうして、生き残れ。

 桜。

 死ぬな。

 

episode92 午後九時―――

 

 縁側から月を見上げた。

 丸い、丸い、満月。

 降り注ぐ光は暖かい。

 まるで、陽光に照らされているような錯覚を覚える。

 そして、錯覚はあくまで錯覚でしかなく。

 私は、小さくくしゃみをしたのだ。

 

「風邪、引くぞ」

 

 ぶっきらぼうに、声をかけられた。

 それが誰かなんて、見るまでもない。

 愛しのマイダーリンがそこにいるのだろう。

 そう考えてから、内心で溜息を吐いた。

 全く、どうかしている。

 冗談にしても、こういう思考をする自分が信じられない。

 へっぽこ、鈍感、朴念仁。

 彼のことを思い浮かべたときに、想起される言葉の群れ。

 そのいずれもが、碌でもない言葉ばかりで。

 でも、この上なく暖かいもので、胸を満たしてくれる。

 何でだろうと、自問して。

 ああなるほど、と、自答する。

 要するに、もう、手遅れなくらいにいかれちゃってるんだ。

 遠坂凛という女の子は、衛宮士郎という男の子を、愛している。

 自分を、どうやったって誤魔化せないくらいには。

 遠坂という家を、魔術師という道を、諦めてしまうくらいには。

 

「これでも魔術師よ。風邪なんか引かないわ」

 

 強がりを、一言。

 でも、掛けられた言葉の温かさは消えない。

 その熱が、私を守ってくれるだろう。

 だから、心の中でだけ、ありがとう。

 そして、苦笑する。

 ああ、これじゃあ私も朴念仁だ。

 なるほど、似た者同士と。

 ただ、私はそのことを理解していて、こいつはてんで気付いちゃあいない。

 だからこそ、惹かれ合うのだろうか。

 

「どこ行ってたのよ」

「ん…、いや、ちょっとな」

 

 そう言って、誤魔化そうとする。

 その仕草が、可愛らしいと思う。

 だって、知ってるんだから。

 さっき、暗い表情で道場から出てきたの。

 今、道場にいるのなんて、あの子くらいのものでしょう。

 じゃあ、あの子と一緒にいたんでしょう。

 一握りの嫉妬。

 恋する乙女は繊細なのだ。

 

「ふーん、そっか、衛宮君は恋人の私に、隠し事するんだ」

 

 恋人のところを強調して言ってやる。

 

「い、いや、そんなこと、ないぞ!あ、そんなことないってのは隠し事のところであって、凛と俺が、その、コイビトであることは………」

 

 慌てた様子に、安心する。

 もし、万が一、私を悲しませるようなことしてたら。

 隠しきれるほど、器用な奴じゃあないからね。

 よしよし、可愛い奴め。

 頭を撫でる代わりに、彼の肩にしな垂れかかる。

 頭を、士郎の肩の上に乗せる。

 その、見た目より遥かに逞しい体格が、私を安心させてくれる。

 

「…凛。俺、お前だけだから。頼りない奴だと思うけど、それだけは信頼して欲しい」

「ん…。御免なさい、意地悪言ってみたかっただけなの」

 

 二人で、月を見上げる。

 丸い、丸い、満月。

 降り注ぐ光は暖かい。

 まるで、陽光に照らされているような錯覚を覚える。

 そして、錯覚はあくまで錯覚でしかなく。

 でも、隣から伝わる体温が、本当に暖かくて。

 私は、くしゃみをしなかった。

 

 なんて、落ち着いた雰囲気だろう。

 士郎と二人で、月を見る。

 彼のことを知ったのは、三年前。

 彼と仲間になったのが、十日前。

 彼と恋人になったのが、三日前。

 でも、まるで何十年も、一緒に歩んできたような。

 それは、きっと残酷な勘違い。

 でも、この胸は、本当に温かいから。

 それは、きっとこの家の罪。

 誰も拒まず、誰も恐れず、誰も傷付けない。

 これが魔術師の棲家だなんて、きっと誰も信じない。

 私だって、信じるもんか。

 ここに住んでいるのは、魔術師なんかじゃあない。

 へっぽこで、鈍感で、朴念仁で。

 誰よりも誇らしい、私の恋人が、住んでいるのだ。

 どうだ、まいったか。

 

「…切嗣とも、こうやって月見をしたんだ」

 

 彼は、ぼそりと呟いた。

 今にも消えてしまいそうな、声で。

 私は、彼の腕を抱き締めた。

 絶対に、彼を放さないために。

 絶対に、彼が離れていかないように。

 もう、一人になるのは嫌だった。

 炎の熱を知ってしまった獣は、もう炎から離れられない。

 獣は、もう、獣ではなくなってしまった。

 もう、寒い夜を、一人では生きられない。

 寂し過ぎて、恐ろし過ぎて、切な過ぎるから。

 

「最後も、確かここだった。ここで、誓ったんだ。俺、正義の味方を引き継ぐって」

 

 やめて。

 そんな顔、しないで。

 そんな言葉で、私に話しかけないで。

 

「そしたらさ、親父、笑ってくれたんだ。ああ、あの笑顔は、本当に素敵だった…」

 

「士郎」

「ん?」

 

 振り返った、彼の顔。

 月明かりに照らされた彼の顔。

 表情の消えた、私の一番嫌いな、彼の顔。

 そこに、色をつけてやる。

 

「ん…むぅ、…」

「ちゅっ、…ん…はぁ…」

 

 呆然とした表情は、それでも彼自身のものだ。

 彼以外の誰かに与えられた表情じゃあ、ない。

 

「凛、何を…」

「何よ、恋人同士がキスをするのに、いちいち理由が必要なの?」

 

 髪の毛と同じくらいに赤くなった士郎の顔は。

 本当に、食べてしまいたいくらいに可愛らしくて。

 つい、ぽろりと。

 つい、うっかりと。

 私は、この上なく大事なことを、口走ってしまったのだ。

 

「あーあ、この子もあんたと同じくらいに可愛らしく育ったらいいのになあ」

 

 口走ってから、口に手を当てた。全く、そんなことしても言葉は帰ってこないのに。

 ちらりと、お腹の子、その父親の顔を覗く。

 呆然とした、瞳。

 そりゃあ、そうだろう。

 誰だって、いきなり自分が親になったと知れば、呆然とするもの。

 私だって、驚いた。

 驚いて、怖くて、もうぐちゃぐちゃだった。

 そして、葛藤して。

 遠坂と、士郎の子供。

 どっちを選ぶか、迷いに迷って。

 この子を選ぶと、決めたのだ。

 

「…あの時の…か?」

 

 ああ。

 よかった。

 もし、誰の子だとか、素っ頓狂なこと、ぬかしやがったら。

 最後の戦いの前に、死体が一つ、出来上がるところだった。

 だから、私は、惚れなおした。

 全く、えみやしろう。

 これ以上私を惚れさせて、どうしようというのか。

 

「…たぶん、そう」

 

 可愛らしい声が、喉から飛び出る。

 全く、本当の乙女みたいに。

 自分でも、笑ってしまいそうになる。

 

「そうか、俺の子供が、凛のお腹に…」

「…私、産むわ。士郎に、絶対に迷惑なんてかけない。だから…」

 

 ああ。

 何言ってるんだろう。

 私が本当に言いたいのは、こんなことじゃあないのに。

 こんなに、私は臆病だったのだろうか。

 一緒に生きようって。

 家族になろうって。

 そう、言えばいいのに。

 

「少し、早かったな…」

「えっ?」

 

 早い。

 早過ぎる。

 それは、まだ駄目ってこと?

 まだ、産むなってこと?

 堕ろせと。

 まさか、そう言うの、士郎?

 

「あと一年経ってたら先に結婚できたのになあ。これじゃあ、凛を未婚の母に…、おい、凛、どうした!?」

 

 ああ。

 何だ、そういうこと。

 そんな、つまらないこと。

 

「わ、たし、このこ、産んじゃあいけないのかなって」

 

 つまらない、勘違い。

 なのに、どうして。

 こんなに、涙が。

 

「しろうとの、あかちゃん、おろさなきゃいけないのかなって…」

 

 後は、もう言葉にならなかった。

 それこそ赤ん坊のように泣きじゃくった。

 

「うわあああああ!」

「すまない、凛、俺の言い方がまずかった」

 

 抱きしめられた。

 この世で、一番愛しい人に。

 がっしりとした、胸。

 お日様みたいな匂い。

 眠くなってしまう。

 もう、遠い昔だけど。

 お母さんに抱かれたときも、こんなだったのかな。

 

「ひっ…ひっ…」

 

 彼の太い指が、私の涙を拭ってくれる。

 そして、こう言ってくれたのだ。

 

「ありがとう」

 

 本当に、嬉しそうに。

 

「ありがとう、凛」

 

 涙で、その顔をぐしゃぐしゃにしながら。

 

「…何が、ありがとうなのよ」

「分からない。でも、ありがとう」

 

 ああ。

 そうだ。

 嬉しいとか。

 驚いたとか。

 そんな、安い言葉より。

 生まれてくる命には。

 なにより、その言葉が相応しいはずだ。

 だから、私も。

 

「ありがとう、士郎」

 

 私を選んでくれて。

 私と出会ってくれて。

 生きていて、くれて。

 

 そのまま二人で抱き合って。

 そのまま二人で泣き合って。

 ありがとうと、言い合って。

 きっと、奇妙な二人。

 せめてもの救いは、覗き見していたのが、月だけだったこと。

 

「ねえ、士郎」

「ん?」

 

 本当に、何でだろう。

 どうして、私達は泣いてしまうのか。

 いつもいつも。

 あの時、初めて士郎に抱かれたときも、そうだった。

 二人とも、ぐしゃぐしゃに泣いて。

 一番弱い自分を見せて。

 でも、それがこの上なく幸せだった。

 自分の一番弱いところを、一番頼りになる人が、守ってくれる。

 一人では抱えきれない身体を、一番好きな人が、支えてくれる。

 それが、こんなに心地いいなんて。

 きっと、この人と出会わなければ、私は一生理解できなかった。

 私は、弱くなった。

 認めよう、これは弱さだ。

 でも、その弱さが、弱い自分が。

 こんなにも、誇らしい。

 

「私、初めて切嗣さんに感謝してる」

「…いきなりだな。どうしたんだ、一体」

 

 訝しむ、士郎の顔。

 

「士郎が正義の味方なんてものを目指す切欠を作った人だから。正直に言うとね、恨んでたの」

 

 その顔を、月が照らしている。

 

「でも、今は感謝してる。だって、彼があんたを助けてくれなかったら、私はあんたと出会えなかったから」

 

 照れくさそうに、でも、真剣な顔で。

 

「…俺、きっと止まれない。最後まで我侭を言うと思うし、凛には迷惑かけるだけだと思う」

「うん」

 

 その大きくて、温かい手が、私の冷えきった掌を包んで。

 

「正義の味方は、どうしたって諦められない」

「うん」

 

 その瞳が、この上なく真剣な瞳が、私を見据えて。

 そして、決定的な、一言を。

 

「もし、それでもよければ」

「結婚しましょう、士郎」

「…」

 

 唖然とした、未来の旦那様の顔。

 ああ、もう、本当に可愛いんだから。 

 

「凛、それ、俺の台詞…」

「言ったでしょう、私、勝負は先出しじゃあないと、気が済まないの」

 

 唖然とした顔が、呆気にとられた顔になって。

 それが、だんだんと笑顔に近づいていく。

 それは、私に勝利を確信させる、敗者の表情。

 ああ、愉快、愉快!

 

「…あの時の仕返しと」

「ええ、参った?」

 

 初めて抱かれた、夜。

 私は貴方に、負けたから。

 プロポーズの言葉は、私から。

 それは、その時から決めてました。

 きっと、会心の一撃。

 士郎は、両手をあげた。

 不承不承といった、仕草で。

 だから、私は笑った。

 声を上げて、お腹を抱えて。

 彼も、笑ってくれた。

 声をあげて、お腹を抱えて。

 

「勝ちましょう、士郎」

「ああ。絶対だ。生き残ろう、凛」

 

           ―――そして午前零時 戦開始

 

 すうすうと、赤子が眠るような、優しい寝息が響く。

 冷たい、石の床の上。

 男は、少女を抱きすくめる。

 その瞳は限りなく優しく。

 そして、それ以上に誇り高く。

 彼は、少女の髪を、梳き解す。

 その、白い髪。

 月の光を反射したそれが、処女雪のように輝くのだ。

 峠は越えたのだろうか。

 水溜りを作るほどの、夥しい汗。

 それも、既に引いている。

 少女は、打ち克った。

 少なくとも、己と、己の運命に。

 彼は、それを誇りに思った。

 己に打ち克った。彼女を。

 彼は、この瞬間、本当に彼女の僕になったのだ。

 膝を折らず、しかし力強く抱き締めて。

 

「よくやった」

 

 それだけ、呟いた。

 彼女が目を覚ましても、待っているのは戦いだけだ。

 だから、今だけ。

 今だけは、抱き締めていよう。

 そう、彼は誓ったのだ。

 

 

 少女は、目を開いた。

 無限のように広がる、闇の中で。

 雲が、一時だけ、月を隠したのだ。

 だから、彼女は目を開いた。

 鼻腔に満ちる、染み付いた汗の匂い。

 それは、彼の修練の歴史でもある。

 その最も新しいものは、少女と一緒に刻んだものだ。

 彼女は、思う。

 少年は、弱かった。

 しかし、今は強い。

 おそらく、彼女自身よりも。

 単なる剣や魔術ではなく。

 もっと、本質的なところで。

 何故だろうと考えて。

 答えの出ぬ問いであったと苦笑する。

 少女は、立ち上がった。

 ぎしりと、道場の床が哭く。

 ぎしり、ぎしりと。

 その音を聞きながら、少女は思うのだ。

 戦いが始まる。

 避け得ぬ戦いが、始まる。

 ならば、今は余計なことを考えるべきではない。

 余計な思考は、全てが終ったあとでいい。

 いずれにせよ、この地の聖杯は彼女の願いを掬い上げないのだから。

 それでも。

 彼女は、聖杯を求め続けるのだろうか。

 国を救うために。

 民を救うために。

 少女自身を救うために。

 少女には、分からなかった。

 何故己が揺らいでいるのか、それが分からなかった。

 その不快さを噛み締めながら、彼女は歩いた。

 目の前には、開け放たれた扉。

 そこから差し込む、月光。

 それはあたかも、彼女を戦場へと誘う軍使のようであった。

 

 

 刻限は来た。

 気の遠くなるような一瞬は過ぎ去り。

 頂点を迎えた短針は、重力に従って堕ち下るのみ。

 玄関は誰にも叩かれることなく。

 無情の静寂が、戦いの鐘を打ち鳴らす。

 そして、彼らは剣を取った。

 戦うために。

 ただ、戦うために。

 剣の名は、意思。

 潰れた刃は、やがて輝きを取り戻すだろう。

 夜に居座る、この過酷な運命を討ち滅ぼすために。

 

 

「彼らは来ると思うか、ギルガメッシュ」

 

 長身の男は、微笑った。

 いつもと変わらぬ、深い笑みを湛えて。

 その、底冷えのするような笑みを受けて、金色の男も笑った。

 

「いずれでも良い。いずれでも、愉しみようはある。奇術は騙されるが観客の義務なれば、我は待つ。それが王の度量であろうよ」

 

 彼は、乱れた衣服を整えた。

 彼の足元には、少女が転がっていた。

 全身を弛緩させ、まるで死体のように。

 弄ばれ、貫かれ、愛された。

 王の伽に、彼女は溺れたのだ。

 あらゆる苦痛に耐性をもった彼女の肉体も、天上の快楽には逆らい難かったのだろう。

 ぽかりと開いた女性器から、白く濁った粘液が流れ出した。

 ごぼりと、大量に。

 少女の喘ぎ声は、広過ぎる闇に吸い込まれて、今はもう無い。

 開いて閉じない瞳から、透き通った涙が流れ出した。

 つうと、一滴だけ。

 少女の嗚咽は、広過ぎる闇に吸い込まれて、今まさに消えていった。

 暗闇の中で、赤子が微笑った。

 



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episode93 神々の黄昏

 暖かい夜であった。

 いや、暖か過ぎた。

 風呂上りの涼やかな風が、辛うじて心地いいような。

 布団に包れれば、寝汗で綿が重くなるような。

 冬、寒さも盛りの季節とも思えない。

 一度だけ吹いた生暖かい風が、じとりとした湿気を運んだ。

 その大気に含まれた匂いには、捻じ曲げられた季節の苦悶がありありと。

 それでも、風が吹けばまだましというもの。

 粘い、空気。

 半固形化した液体の中を泳ぐかのよう。

 ただそこにいるだけで、たらたらと汗が流れ出る。

 星が、瞬かない。

 凪いでいるのだ。

 既に、風が息を潜めている。

 風だけではない。

 町が、人が、世界が凪いでいる。

 ひっそりと、葬列を見送る人垣のように。

 果たして、誰を彼岸まで送り届けようというのか。

 これより戦場に赴く、あどけなさの残る少年達を、だろうか。

 それとも、自分達。

 これは、己に向けた弔辞、それゆえの真摯さなのか。

 何も分からない。

 ただ、月だけが微笑っていた。

 

 門。

 風雪と酷暑に耐え、その度に重厚さを積み上げてきた、重々しい門。

 若武者達の門出を飾るに、これほど相応しい背景もまたとないだろう。

 堅く閉じられた、樫作りの、門。

 最初に立っていたのは、家主たる少年、衛宮士郎であった。

 無手である。

 如何なる武器も用意していない。

 身につけた衣服に申し訳程度の強化を付してはいるものの、それが命綱になるなどと戯けたことは考えていない。

 何も知らぬ者が見れば、無聊を慰めるために深夜の散歩に赴く若者と、なんら変わるところは無い。

 しかし、彼の手が武器を失うことは無い。

 いわば、生きた武器庫である。

 彼が真の意味で無手となるのは、その心臓が拍動をやめたときだけだろう。

 憮然とした立ち姿。

 あどけなさの残る顔立ちが、酒精に酔ったかのように紅潮している。

 知っているのだ。

 これが、最後の戦になることを。

 既に、日付は変わっている。

 彼の兄は敗れ、その従者も敗れ去った。

 待ち受けるのは、最強のサーヴァントと、それを従えるに相応しい神の僕。

 共に、彼如きに勝ちうる敵ではない。

 それでも、彼は戦うだろう。

 そも、敵の強弱など、彼にとっては瑣末ごとである。

 

 勝ちうる、倒しうるなど、意識の埒外。

 彼にとって、己の命の重量すらが末梢。

 

 ただ、誰かの涙を止めるために。

 ただ、大切な誰かを守るために。

 

 そうして戦ってきたのだ。

 そうして戦っていくのだ。

 

 見知らぬ誰かの涙を止めるために、大切な誰かを泣かせて。

 名も知らぬ誰かを助けるために、大切な誰かを切り捨てて。

 

 それでも、彼は戦い続けるのだろう。

 それでも、彼は歩き続けるのだろう。

 

 それが、衛宮士郎に許された唯一の道なれば。

 その生き方を、誰よりも彼自身が望むならば。

 

 自己満足と疎んじられれば、その通りと笑い。

 気違いと謗られれば、仰るとおりと首肯して。

 

 誰にも認められず、誰にも愛されず。

 一度の勝利も無く、敗北すらも無く。

 

 それでも彼は、赤い世界を目指す。

 それでも彼は、剣の墓場を目指す。

 

 けれども彼は、一人ではない。

 今宵、今晩、この時限り。

 彼は、唯の一人では、無い。

 

 彼の傍らに立つ、人影が一人。

 長い髪の毛。

 優雅な曲線を描くそれは、墨染めのように黒く。

 しかし、月明かりに輝くほど艶やかで。

 サファイアのような瞳。

 獲物を射抜く、女豹のそれである。

 身に纏うのは、朱色に染められた外套。

 珠玉の礼装を詰め込んだ、彼女の戦装束。

 その腕は前に組まれ。

 愛しい人の温もりなど、求めない。

 甘さを切り捨てた女武者の気迫が、そこにはあった。

 

 遠坂凛。

 

 既に、彼女は少女ではない。

 既に衛宮士郎の手によって、女とされた身である。 

 だが、今の彼女は衛宮士郎の恋人でもなければ、やがて生まれる生命の母でもない。

 戦士。

 これより戦場に赴く者である。

 そして、これからも戦場に赴く者である。

 衛宮士郎という名の、彼女の恋人。

 彼が経験するであろう戦場。

 苛烈で、凄惨で、一片の救いすらも求めようが無い、そんな戦場。

 彼女は、その事実を知っている。

 望まなくても、何度も見せられたのだから。

 彼女の従者の、夢。

 衛宮士郎という存在が、いずれは辿り着く理想形。

 その苦悶を、絶望を。

 彼女は、嫌というほど味わった。

 そして、彼女の恋人は、その苦しみを求めようとしている。

 必要の無い苦痛。

 本来、彼が辿り着くべきではない世界。

 そこに足を踏み入れようとする、彼。

 もう、止めることは叶うまい。

 だからこそ、彼女は決意した。

 誰にも止められないなら、せめて自分は隣にあろうと。

 苦しみを取り除けないなら、せめて共にのた打ち回ろうと。

 だから、一人一人。

 手は、繋がない。

 視線も交わさず、ただ互いに前のみを見据えて。

 それこそが、この二人の在るべき形だろうと。

 その完成された距離感が主張していた。

 

「お待たせしました」

 

 やがて、門は開く。

 そこにいたのは、騎士という存在の至高。

 銀色の甲冑。

 青い衣。

 金砂の髪と、聖緑の瞳。

 いつか蘇る王と呼ばれ、騎士王と称された者。

 アーサー王。

 御伽噺に謳われた、騎士の象徴。

 しかし、アルトリアと呼ばれた、か弱い少女。

 他者の流す涙を、誰よりも恐れた少女。

 凛としたその声に、戦を控える者としての緊張は無い。

 清としたその声に、己に迷う者としての戸惑いは無い。

 それは、いつもの声。

 そして、いつもの表情。

 常の彼女の声で、常の彼女の顔

 心を常に戦場に置いてきた者だけが持ちうる、静寂。

 それが、死地に赴く者にはそぐわぬ淑やかな芳香を醸し出していた。

 彼女を見て、先の二人は安心したような表情を浮かべる。

 体を縛っていた緊張感が、僅かばかりにではあるが解れていくようであった。

 それほどに、彼女の存在は大きかった。

 勝利を約束された彼女。

 ならば、それと共にある戦場に、何を恐れることがあろうか。

 

「セイバー、これ、返すよ。ありがとう」

 

 少年は、その手に抱いた鞘を少女に手渡す。

 跪きこそしなかったものの、その所作は、王に貢物を献上する忠臣のそれであった。

 重々しく両手が添えられた、しかし羽よりも軽い雅やかな鞘は、本来の担い手の元に帰る。

 

「確かに」

 

 王は、一切の躊躇いも無くそれを受け取った。

 彼女は、幾つもの言葉を飲み込んだ。

 その大半が少年を慮るものだった。

 しかし、千の言葉の代わりに、彼女は少年を見遣った。

 その瞳に、千を越える意志を込めて。

 それだけで十分であった。

 その様子を見守る少女が、少しだけ不機嫌そうであった。

 

 そして、再び静寂が訪れる。

 月が明るく、星が堕ちてきそうな夜である。

 星が、黒い絨毯に宝石を散らしたようであった。

 何故、満月の夜にこれほど。

 少年はそれを見上げてから不思議に思い、その後で得心した。

 おそらく、街が死んでいるのだ。

 地上の明るさと夜空の煌びやかさが反比例するならば、これは街を覆う闇の深さの象徴に他ならない。

 少年は、空から目を逸らした。

 忌むべきものを見てしまった、そう思ったのかもしれなかった。

 

「…桜達、まだかしら」

 

 少女が、呟く。

 少年がそれに応じようとした、正にその拍子。

 がらがらと、門扉が開く。

 最後の戦士が、その姿を現した。

 

「悪い、待たせた」

 

 まず、青の槍兵。

 赤い魔槍を、その肩に担いでいる。

 印象的だったのは、その真剣な表情だろうか。

 戦い、それも生きるか死ぬかという、正しく彼が恋焦がれた戦い。

 それを前にして彼の口の端が吊り上がっていなかったのが、如何にも不似合いに思えたのだ。

 そして。

 その彼を、赤枝の戦士を、まるで露払いのように従えて。

 しかし父親に手を引かれる幼子のように。

 しずしずと、一人の少女が歩いていた。

 

「さく…!」

 

 声を詰まらせたのは、果たして鉄の少年だったのか、姉たる少女だったのか。

 一人はそれでも声を上げ、もう一人は声を殺して息を呑んだ。

 彼らの視線の集まる先。

 まるで、そこだけが彼岸のようであった。

 少女の立つ場所だけが、幽谷のようであった。

 白い、辛うじて薄紅色の色素を残した長髪が、ゆらゆらと揺れる。

 月明かりを跳ね返したそれは、舞い散る桜の花弁のように繊細で、それ以上に儚くて。

 ぼんやりと、赤黒く濁った瞳。

 白い聖杯の瞳とも、彼女の従者たる槍兵の瞳とも、そして英雄王の瞳とも違う色。

 例えるならば、静脈血。

 体内を巡って、様々な老廃物を取り込み、濁り切った紅色。

 その視線は、ぼう、と、宙を彷徨う様に。

 何より印象的だったのが、その左頬だろうか。

 片方だけ結い上げられたリボン、そのちょうど真下。

 まるで血で描かれたように赤々しい、文様のようなものがはっきりと刻まれているのだ。

 明らかに数刻前の少女とは異なる、幽鬼のような女が、そこには立っていた。

 

「桜、こっちだ」

 

 槍兵に手を引かれた少女が、ゆっくりと歩き出す。

 足元はふらつき、しかし視線を地面に向けようとはしない。

 然り、二、三歩歩いて、大きくバランスを崩した。

 表情を変えず、声も上げずに倒れゆく少女。

 それを、槍兵の腕が抱きとめる。

 

「大丈夫か?」

「………」

 

 声をかけられても、その虚ろな視線が移ろうことは無い。

 ただぼんやりと、中空を見つめる。

 

「おい、ランサー、桜は―――」

「黙れ、小僧」

 

 槍兵は、開きかけた少年の口を、一喝をもって塞いだ。

 少年の口から、主たる少女を労る言葉を、聞きたくなかったからだ。

 何故なら、それは侮辱だから。

 これより死地に赴く戦士にとって、その言葉は何よりの侮辱だから。

 

「せん、パイ…?ああ、そこに…いるのですか…?」

「…桜、お前、目が…?」

 

 少女は、初めて微笑った。

 身に纏うのは、姉と揃いの黒い外套ではない。

 その瑞々しい肢体を包むのは、夜に溶け出すような黒いドレス。

 彼女自身の魔力によって編まれたそれには、鮮血が伝うように赤いラインが引かれ、呪いそのものを形にしたような禍々しさが醸し出されている。

 如何にも寒々しいその装束は、しかし夜を従える女王としての気品が溢れていた。

 

「せんぱい、私、頑張りました…。ほめて、くれますか…?」

 

 少女は、歩み寄る。

 ふらふらと、生まれたばかりの子鹿のように、頼りない足取りで。

 少年は、動けない。

 それは、闇を従えた少女が恐ろしく、何より美しすぎたから。

 そして、少女は少年の胸に、倒れ込むように縋りつき。

 手を、その首に巻きつけ。

 背伸びをするように、唇を交わした。

 

「………」

「…ん、……ちゅ、……っぷはぁ…。………ふふ、おいし…」

 

 舌と舌が絡み合う、濃厚な接吻。

 少女は自らの唾液を少年の口腔に送り込み、少年は為す術も無くそれを飲み下す。

 恋人以外との初めての口付けは、濃厚な血の味がした。

 その様を見守ってた少女の姉も、言葉も無かった。

 ただ呆然と、妹たる少女の暴虐を、眺めていた。

 

「…今は、これで我慢します…。…続きは、帰ってから…」

 

 ぱこん、と、軽い音が響く。

 

「…いたいです。何するんですか、姉さん…」

「何するんですか、じゃないわよ。ひとの恋人に何やってくれてんの」

「何って…キス?」

 

 ぱこんと、さっきよりも大きな音が響く。

 妹は、少し涙目で、頭の頂を押さえている。

 

「痛いです、姉さん…!」

「そりゃあ、そうしようとしたんだから当然でしょ。…で、成功したの?」

 

 姉は、全てを承知していてくれた。

 その上で、何も言わなかった。

 それは、己の半身に対する信頼ゆえに。

 だから、妹たる少女は、誇らしく微笑んだ。

 妹は、全てを引き受けてくれた。

 その上で、何も言わなかった。

 千の恨み言を、万の糾弾を飲み込んでくれた。

 だから、姉たる少女は、痛々しく見つめた。

 そして、抱き締めた。

 労りというよりも、怒りを込めて。

 

「全く、無茶して…」

「だって、私は姉さんの妹ですから…」

 

 姉は、一際強く、それこそ妹の肩の骨が軋むほどの強さで、抱き締めた。

 妹は、その僅かな苦痛を、心地いいと思った。

 名残惜しそうに離れる姉。

 それを追う妹の視線は、やはり虚ろなままだった。

 やや呆然とそのやり取りを眺めていた少年は、思い出したかのように赤面し。

 しかし、気を取り直すかのようにこう言った。

 

「みんな、覚悟は、いいか」

 

 剣の騎士は、苦笑しながら応じる。

 

「愚問」

 

 槍の騎士は、歓喜と共にこう言い切った。

 

「俺を誰だと思ってやがる」

 

 少年の恋人は、やや不機嫌な表情で。

 

「私は遠坂の魔術師よ。なら、生まれたときからそんなもの」

 

 恋人の妹は、ぼうとした表情のまま。

 

「………」

  

「なら、行こう。最後の戦いだ」

 

 少年が、そう宣言して。

 皆が、歩を進めようとした、その瞬間。

 

「ちょっと待ってください」

 

 その声に、一同は振り返り。

 少女の指差す先を、見つめる。

 

「…姉さん、靴紐が解けてます」

 

 くすくすと微笑いながら、そういう声が聞こえた。

 声をかけられた少女は、赤面しながら己の足元を見遣る。

 そこで、はたと気付く。

 自分が履いている革靴に、靴紐なんて無いということを。

 そもそも、その言葉を発した少女に、靴紐なんてもの、見えていないことを。

 

「桜、あなた、何を…」

 

 姉は、妹の顔を仰ぎ見て。

 その、優しい表情に安堵して。

 しかし、それ以上は口を開くことが出来なかった。

 彼女の周囲を、影の檻が覆っていた。

 それは、姉と呼ばれた少女を、深い深い眠りの底へと誘ったのだ。

 

「サクラ、何を…!」

 

 騎士王の声を無視して、立ち尽くす少女は倒れ伏す少女に近付く。

 くたりと崩れ落ちた姉を、妹は抱きかかえる。

 大事そうに、壊れ物を扱うように繊細に。

 

「ランサー、お願いします」

「…ああ、分かった」

 

 主から宝物を受け取った従者は、家の中に消えていった。

 それを、妹は見つめるのだ。

 

「…姉さんのお腹の中には、先輩の子供がいますから…」

 

 それだけ。

 それだけで、十分だった。

 少女の従者たる騎士王も、それ以上何も言おうとしなかった。

 少女に宿った生命、その父親も、何も言わなかった。

 やがて戻ってきた槍兵、彼を無言で迎えて。

 四人は、無言で歩き始めた。

 目的地は、柳洞寺。

 そこが、最後の戦いの場所の名前である。

 

 

 ごうごうと、大気の哭く声が響いていた。

 あれほどに凪いでいた風が、その上空だけは荒れ狂っているのである。

 柳洞寺。

 いや、円蔵山全体が、蠢いている。

 蟲、というよりも、内臓。

 それも、おそらくは子宮の類だろう。

 どくどくと、大気中のマナがどこかに吸い上げられていく。

 母胎から、臍帯を通って、どこかにいる胎児へと。

 それは宿主を枯らしてその美を咲き誇る宿木のように、貪欲極まる有様であった。

 

「…上は…違うな。誰もいない」

 

 槍兵の呟きに、騎士王も首肯する。

 つまり、小聖杯の降臨する祭壇には、誰もいないということ。

 ならば、残る選択肢は一つだけだ。

 少年は無言で歩を進める。

 目的地は地の底。

 円冠回廊、心臓世界テンノサカズキ。

 数百年前、寄り集まった魔道の大家が神秘の結晶を求め、そして叶わなかった妄執の地。

 その入り口は、白い聖杯の少女が伝えている。

 獣道を抜け、清水の湧き出る岩戸へ。

 ごつごつと積み上がった大岩は、稀人の姿を覆い隠す天岩戸のように。

 だが、岩戸に隠れるのは、太陽の化身ではなく地に宿る悪鬼悪霊。

 ここで舞い踊っても、顔を覗かせるのは溢れ出る魔の類だけだろう。

 ならば、こちらから赴くのみ。

 彼らは身を伏せて、その中へと立ち入る。

 禍々しさを越えて、神々しいまでの絶対的な闇。

 しかし闇は、やがて柔らかな光に薄れていき。

 生々しいまでの大源は、これが胎児の息づく子宮の中心であることを主張する。

 途中、幾つかの大きな空洞を通ったが、その数すら彼らの意識には遠過ぎる。

 やがて、ほのかな明かりは、強烈な炎に照らされたような赤々しい光へと変化して。

 坑道のように狭隘だった空間は、大きな、全体を見渡すことすら不可能なほど大きな空洞に。

 中央に、巨大な一枚岩。

 それは祭壇であろうか。

 そして、その更に上に聳える、黒い肉の頂。

 誰もが、確信した。

 其処こそが、目的地であり到達点。

 この濃密な世界の中心であると。

 

「遅かった、とは言うまい。適時である」

 

 歩を薦める少年は、大岩の袂に立つ、二つの人影を視認する。

 そして響く、重々しい声。

 

「儀式は、これより始まる。そういう意味では、理想的とすら言える拍子であるな」

 

 男は、法衣に身を包んだまま、そう言った。

 巨大な岩盤、その袂。

 そこに、二人の男が立っていた。

 一人は、黒い法衣を纏った、長身の神父。

 一人は、金色の鎧を纏った、やはり金色の覇王。

 

「…代羽はどこだ」

 

 少年の声に、神父は苦笑して。

 くいと、しゃくるように顎で示す。

 そこには。

 天から伸び来る鎖に、両の腕を絡み取られて。

 祭壇に捧げられた供物のように垂れ下がる、少女の姿があった。

 一糸纏わず、呪いの炎に炙られた皮膚は青白い。

 だらりと、力ない肢体。

 意識も無いのかも知れない。

 歪に捻じ曲げられた肩の関節は、おそらく脱臼しているのであろう。

 

「…代…!」

 

 少年は、絶句した。

 その、少女の惨状からではない。

 いや、ある意味それ以上の惨状を見たからである。

 少女の、下腹部。

 ぽこりと、膨れている。

 臍の下、女性器との間。

 そこに如何なる臓器があるか、基礎的な解剖学の知識のあるものなら一目瞭然であろう。

 子宮。

 少女の子宮が、膨れていた。

 彼女は、赤子を身に宿していたのだ。

 

「はて、受肉したサーヴァントの子種だからか、それともこの地において受胎した忌子だからか、異常なまでに生育が早い。これでは、扉が開かれるのが先か、彼女が産み落とすのが先か、分かったものではないな」

 

 似合わぬ多弁は、神父の暗い喜びを表すものであったのだろう。

 ぎしりと、少年の奥歯が軋んだ。

 

「いずれにせよ、彼女は神の卵であり、魔の母である。それを祝福する意図が無いなら、早々に立ち去りたまえ。ここは、新たな命が産声を上げる、神聖なる分娩台だ。無粋な戦士如きが立ち入っていい場所ではない」

「…御託はいい。全部、分かってるさ。だから…もう、しゃべるな」

 

 何を言っても、神父は少女を解放しないだろう。

 何を言っても、少年は少女を助けるだろう。

 そこに、交渉の余地は存在しない。

 ならば、言葉を用いた会話はここまでだ。

 それ以上に、神父と言葉を交わすことが、少年には耐え難い苦痛であった。

 

 鉄の少年は、その手に剣を握り締めた。

 騎士王は、鞘から聖剣を抜き放った。

 槍兵は、槍を下段に構えた。

 影の少女は、その魔力を解放した。

 

 それを見て、神父が笑う。

 それを見て、金色の男が笑う。

 

「これをもって、マキリ代羽との約定は破られた。火の粉は己の首に縄を巻きつけたのだから」

 

 神父は、厳かに宣言する。

 それを遮るかのように、少年は駆け出した。

 その両腕とその双眸に、絶対的な殺意を漲らせたまま。

 

「殺す前に、教えておいてやろう、雑種よ」

 

 英雄王は、その腕を高く掲げた。

 彼の背後の空間に、無数の波紋が浮き上がる。

 その中央から顔を覗かせる切っ先は、その悉くが少年の心臓に標準を合わせていた。

 

「貴様の姉、いや、兄となるのか?まあ、どうでもいい」

 

 一息遅れて、騎士王が駆け出した。

 一息遅れて、槍兵が駆け出した。

 

「我の腕の中で咽び泣く代羽の喘ぎ声はな、中々に愛らしかったぞ!」

 

 英雄王の哄笑が高らかに響き渡る。

 少年は、狂うと思った。

 事実、彼は狂った。

 叫んだ。

 咽喉が張り裂けるようなそれは、殺意と怒りの怒号であった。

 そして、それが、この戦いの開戦を告げる銅鑼の音であった。



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episode94 49秒

「うおおおおお!」

 

 少年の絶叫が、地の底にて木霊する。

 血を吐き出すような叫びだ。

 怒りと、それ以上の殺意に満ちた叫びだ。

 その表情も、尋常ではない。

 目を喝と見開き、口の端から涎が垂れている。

 異相であり、狂相であった。

 禍々しい。

 普段の彼には在り得ない双眸。

 それでも、彼の怒りを表現するには彩が足りない。

 何故なら、彼の心を焼くのは、明らかに人外の怒りであったのだから。

 

 そして、彼は駆け出した。

 赤い、まるで彼が生き延びた、あの地獄のように赤く色付いた空気。

 ごつごつとした岩場。

 聳える巨大な岩盤と、黒い、何かを掴み取る腕のような形をした黒い頂。

 その麓に立つ、絶対の威圧感を醸し出す金色の王。

 かの存在に歯向かうことは、即ち死だろう。

 彼は、理解している。

 そもそもが聡い少年である。

 彼我の実力の差など、理解していないはずが無い。

 それでも、彼は駆けたのだ。

 

 汚されたのだ。

 己の半身が、汚された。

 己の唯一残された肉親が、犯された。

 己をあの地獄から救ってくれた恩人を、守ることが出来なかった。

 まるで、我が身を引き裂くような怒り。

 それは、彼がかつての友人と対峙したときに感じた、烈火の如き怒りと同質のものであった。

 同質で、しかしより粘着質で、より高温で、より破滅的なものであった。

 その怒りを爆ぜさせて、彼は駆けた。

 手には、狂った大英雄の斧剣。

 彼の殺意の象徴として、これほど相応しいものもあるまい。

 一度たりとて砥がれたことの無い鈍い刃は、切る為ではなく叩き潰すためのもの。

 汚らわしいものを叩き潰すための刃。

 それを、目の前の男の薄ら笑いに叩き込む。

 その為だけに、彼は駆けた。

 だが、少年のさして大柄ではない体に、その剣は大き過ぎる。

 いや、例え天を突くような大男であったとしても、その剣は人の身が持ち上げることを許されるような重量ではない。

 しかし、彼の怒りはそれを可能とした。

 それでも、いや、だからこそ、その重量は彼の体を破壊する。

 一歩足を踏み出すごとに、彼の全身を構成する筋繊維は悲鳴をあげて千切れていく。

 骨と骨の軋み合う悲しげな音が、関節から響き渡る。

 身体中をばらばらにされるような苦痛のはずであるが、その苦痛すら憤怒で煮え滾った脳細胞には届かない。

 彼の赤く染まった視界に届くのは、焼け付くような殺意のみである。

 

 その、暴風のような感情の奔流を、金色の王は正面から受け止めて、なお微笑っていた 

 彼の苦悩を、悲しみを、怒りを、心地いいと言わんばかりの有様。

 そして、限りなく冷ややかな瞳。

 冷ややかに少年を見つめ。

 冷ややかに、掲げた指を打ち鳴らす。

 それが、号令。

 王の財宝、その進軍が始まる。

 激烈な射出音が鳴り響く。

 まるで、今まさに絨毯爆撃があったかのようなその轟音は、大空洞にいた全員の鼓膜を強かに打ちのめした。

 打ち出されたのは、武器の形をした弾丸。

 剣が、槍が、斧が、槌が。

 古今東西のあらゆる武器の原典が、無情に打ち出される。

 

 その数、二十。

 

 一つ一つが一級以上の宝具であり、少年の柔い体を紙よりも儚く切り裂くに十分過ぎる威力を誇る。

 その、いわば絶対の死の塊が、音をすら置き去りにして少年の頭部、心臓、肺腑、水月、肝臓、あらゆる急所に向かって飛来するのだ。

 常人であれば、いや、如何なる達人であったとしても、その一撃すらかわすのは不可能だっただろう。

 無論、歳若いその少年に防ぎきれるものではない。

 後ろより彼を眺める者は、ヤマアラシの如く無惨を呈するその背中を幻視した。

 しかし、少年の身の内に宿るのは、かの弓兵の生涯。

 例え、それが少年の歩むべき道程の果てにあるものでなかったとしても、同じ起源を有する彼にとって、その記憶の一つ一つが万金以上の価値を有する。

 故に、彼の沸騰した視界は、高速で飛来する切っ先の目標地点を、正確に見切っていた

 十は、弾幕であり、捨て弾。

 

 ―――そのまま直進すれば直撃はない。

 

 六を、身を捩ってかわし。

 

 ―――浅く肉をこそげ取ったが、致命には至らない。

 

 二を、その大剣をもって弾き飛ばし。

 

 ―――衝撃で左尺骨が折れ砕けたが、彼の体内に剣製された短剣がそれを繋ぎ直す。

 

 残りの二つは、折れ砕けた大剣を捨て去って、飛来する宝具と同じものを用意して相殺した。

 

 ―――衝撃で右上腕骨に罅が入ったが、螺子のような刃が、神経ごとそれを縫いとめる。

 

 脳髄を蕩かすような激痛は、流石に彼の足を止め、その唇から苦痛の呻き声を漏らさせる。

 それでも、生き残った。

 彼は、英雄王の一撃を喰らって、生き残ったのである。

 それだけでも驚嘆に値する奇跡だ。

 しかし、その代償は安くなかった。

 彼の全身は、まるで赤い蛇がとぐろを巻いたかのように血に塗れている。

 捨て弾と見切った刃が、弾き飛ばした切っ先の破片が、容赦なく少年の体を切り裂いたのだ。

 英雄王の戯れと言っていい一撃で、衛宮士郎の体は死に瀕していた。

 自然、制御を失った身体は、重力に従って地に伏せるだろう。

 彼は、無様に膝を突きかける。

 それを拒んだのは、彼が辛うじて投影した黄金の剣と、何より彼の意地から。

 剣の切っ先を岩に突き立て、柄を抱きかかえるようにして立ち竦む。

 歯を食い縛り、仇敵を睨みつける。

 貴様の前で、折る膝など持たない、そう言わんばかりに。

 だが、彼の足は、腱を断ち切られたかのように動かない。

 苦痛、疲労、恐怖。

 様々な原因があったが、結果だけは明白だ。

 つまり、彼では、目の前の男の冷笑を辞めさせることは出来ない。

 力の差が、ありすぎる。

 あまりの無念に泣き出す寸前だった彼の耳道に、二つの声が飛び込んできた。

 

「その程度か、雑―――」

「よくやった、小僧」

 

 果たして彼の霞んだ視界が、疾走する青い背中を捕らえることが出来たか否か。

 先行する少年を囮のように使って最前線に踊り出たのは、最速を誇る槍兵。

 一瞬とはいえ少年の猪突に心奪われた英雄王は、人の姿をした獣を確実に見逃していた。

 誰の鼓膜も震わすことの無かった舌打ちは、その失態を表すに十分過ぎるものだっただろう。

 この時点において、槍兵は英雄王に対して僅かばかりの優位を得ていた。

 英雄王の力の源泉たる無尽蔵の財は、中・長距離において真価を発揮する。

 槍兵は、そう見切っていた。

 だからこそ少年の先行を許し、敵の有効射程を駆け抜ける機会を窺っていたのだ。

 一面で言えば、味方、それもあどけなさの残る少年を、まるで撒き餌の如く使ったと見られても仕方の無い、非道な戦術である。

 しかし、彼にとって、戦場に立った者は悉くが戦士である。

 戦士であれば、死んで当然、いや、死ぬことが仕事とすらいえる。

 ならば何故それを、女子供にするように、わざわざ守ってやる必要があるだろうか。

 それは、覚悟を備えた一人の男に対する侮辱ではないだろうか。

 故に、彼は少年を省みなかった。

 彼の怒りと悲しみを囮として使って、一切の恥を憶えなかった。

 例え少年が先程の一撃で剣山のごとき彫像と化して絶命していたとしても、彼は悼みの言葉一つかけることは無かっただろう。

 何故なら、少年は戦士なのだから。

 彼が少年に詫びる事があるとすれば、それはこの一撃において敵の首級を挙げることが叶わなかった時に他ならない。

 彼の貌に浮かんだ狂戦士の相は、その覚悟を表していたはずである。

 獣の踏み込みで、堅い地面が爆ぜ砕けた。

 僅かに、三歩。

 たったそれだけで、彼我の距離はその半分まで縮められていた。

 それでも、それは間違っても槍の切っ先が届く間合ではない。

 ならば、主導権を握るのは依然として金色の王。

 然り、彼は再度指を打ち鳴らす。

 再び、激烈な射出音。

 打ち出されたのは、王の財宝をもって可能な瞬間最大数。

 それが、ただ一人の英雄に向けて打ち出された。

 言葉は無い。

 ただ、互いの頬を歪める愉しげな笑みが印象的であった。

 それにしても、状況は槍兵にとって絶望的である。

 襲い来る無数の刃。

 矢避けの加護が及ぶことは無いだろう。

 神秘は、それを上回る神秘に打ち消されるが道理。

 宝具のように具現化した神秘を前に、呪いによって得た加護如きで立ち向かうなど、愚かを通り越して哀れに過ぎる。

 当然、その程度のことは槍兵も把握している。

 故に、彼が無数の魔弾と立ち向かうのに有する武器は、自身の身体能力とその手に握る愛槍のみ。

 湯水のように溢れ出る宝具の前に、あまりに頼りないそれらを槍兵は心強く思った。

 そも、彼はこの二つだけをもって無数の戦場を生き抜いてきたのだ。

 そして、無敗。

 ならば、今更何を嘆くことがあろうや。

 だから、槍兵は駆けた。

 相変わらず、前にのみ向かって。

 飛び来る刃の軍勢。

 それを、かわす。

 潜り抜けながら前進する。

 しかし、密度を増した弾幕が、彼の足を縫いとめる。

 ならばと、弾く、いなす。

 目的は、唯一つ。

 目の前の、薄ら笑いを浮かべる男の心臓を、紅き魔槍をもって貫くこと。

 じりじりと、前に出ようとする槍兵。

 それをさせじと、彼を穿ち続ける宝具の群れ。

 流石にその前進は阻まれたが、それでも彼もまた、無傷。

 槍が織り成す不可侵の防御陣を、宝具の群れが突破できない。

 車輪かそれとも歯車の如く疾走する赤い魔槍が、宝具の大顎を阻み続けるのだ。

 故に、未だ互角。

 激烈な金属音。

 耳を劈くようなそれは、ある種の協奏曲を思い起させる。

 彼は、まるで舞踏家のようですらあった。

 無限に続くかと思われたその合奏と、共演。

 しかしその終演は以外に早かった。

 土台、不可能な話なのだ。

 確かに、槍兵は並みの英雄ではない。

 常人では立ち入ることすら難しい影の国に若くして単身赴き、魔女スカハサから秘槍を授けられ、故国に攻め入った魔女メイヴの軍勢を、単騎をもって退けた。

 武勇、逸話は数知れず。

 光の皇子、クー・フーリン。

 それでも、英雄王の従える軍勢は、魔女の従えたそれの比ではない。

 彼の繰り出す武具の一振り一振りが、珠玉の英雄の所持した聖剣、魔剣の類。

 いわば、英雄そのものであるのだ。

 ならば、彼が防ぐ一撃は、竜を倒した戦士の斬撃であり、海を断ち割った海神の怒り。

 槍兵の俊敏をもってしても、全ての刃を捌ききるのは不可能を越えた絶事である。

 槍兵も、それを悟っていた。

 だからとて、引けなかった。

 己の、そして己の知るもの全ての名誉を守るために、その命すら惜しまなかった男である。

 例え敵わずとも、一太刀。

 後に続く戦士に報いる一太刀を。

 しかし、尽きることを知らない英雄王の猛攻は、それすらも許さない。

 前進を阻まれた彼の足は、じりじりと後退を余儀なくされていた。

 手が、痺れる。

 足が、砕ける。

 衝撃で眼球が破裂するとさえ思った。

 荒々しい呼吸。

 徐々に、本当に少しずつ、彼の作る制空圏が縮小していく。

 その刹那である。

 一振りの短剣が、彼の頬に舐めるような掠り傷を作り出す。

 絶対だった彼の防御を飛越えて。

 それが、切欠であった。

 舐めるような掠り傷は、徐々にその幅を広げ、皮膚を抉りこむように。

 槍兵の四肢を、絶え間なく打ち出される刃の群れが喰らい尽くしていく。

 致命的な傷は無いものの、それも時間の問題であろう。

 左右に飛び退くには、時期を逸した。

 どこに逃げても、そこにあるのは刃の軍勢である。

 姿勢を崩した状態でその猛威に晒されれば、結末は火を見るより明らかであろう。

 だから、ここで受けきるしかない。

 瞬きほどの一瞬が、槍兵には無限の如く感じられた。

 そして、槍兵は悟った。

 無数に飛来する宝具の群れの中に、どうしても防ぎきれない一弾が紛れ込んでいることを。

 その着弾点は、己の心臓。

 かわせない。

 打ち落とせない。

 身体の、他の部位で受けきるのも不可能。

 そういう一撃が、確かに紛れ込んでいたのだ。

 槍兵は、未だ絶対の安全圏に身を置いて、彼の奮闘を眺める金色の男を、睨みつけた。

 男は、微笑っていた。

 見下すように、王者の視線で。

 つまり、全て承知の上だった。

 これは偶然ではなく、意図して放った一撃。

 その否定しようも無い認識に、槍兵は歯噛みした。

 彼は、生き残ることに特化したサーヴァントである。

 少々の、いや、身を引き裂くような死線とて、彼は幾度と無く潜り抜けてきた。

 それでも、彼は死を覚悟した。

 覚悟せざるを得ない状況であったのだ。

 ならば、せめて一撃を。

 ほとんど破れかぶれに、彼がその愛槍を投擲しようとした、その瞬間。

 彼の心臓を今まさに貫かんとしていた輝く宝槍が、一切の輝きを打ち消した、不可視の聖剣によって打ち落とされたのだ。

 槍兵は、隣を見遣ることをしなかった。

 不可視の剣、その主を確かめようとはしなかった。

 そこに誰がいるか、何があるか、最早明白であったから。

 

 そこには、銀色の鎧があるだろう。

 そこには、黄金に輝く聖剣があるだろう。

 そこには、金砂の髪があるだろう。

 そこには、聖緑の瞳があるだろう。

 

 始まりの夜、彼が矛を交えた仇敵。

 その一撃一撃が、大砲染みた魔力の爆発をもって、彼を叩きのめした。

 女と侮った存在に歯が立たない現実、彼は何よりもその事実に狂喜したのだ。

 これほどの強敵を用意した運命の女神とやらに、彼は忠誠を誓っていいとさえ思った。

 そして、誓ったのだ。

 忠誠ではなく、誓約を。

 この獲物は、俺が仕留めると。

 絶対に、他の誰にも渡さないと。

 倒し、犯し、征服すると。

 それは、恋愛感情にも似た、救いがたい男の性であった。

 その愛しの恋人と、矛を並べて戦う。

 なんと皮肉な運命だろうか。

 気に入った味方が敵となって立ちはだかるのが、彼の宿命であれば。

 討ち果たすと誓った敵が、いつの間にか味方となって轡を並べるのも、また彼の運命。

 それも悪くないと、男は笑ったか否か。

 そして、少女も槍兵を見ようとはしなかった。

 ただ、前のみを見据えていた。

 その様を見て、英雄王は微笑った。

 十年間、待ち続けた甲斐があるものだと、内心でほくそ笑みながら。

 

「押し通るぞ、ランサー!」

「応よ!」

 

 不可視の聖剣を担ぎ上げた少女は、その宝具の真名を解放する。

 いずれ、剥ぎ取らねばならぬ鞘である。

 ならば、友軍の露払いに使うのも、吝かではないはずだ。

 

「風王鉄槌!」

 

 裂帛の気合と共に振り下ろされた不可視の聖剣。

 それを覆い隠していた風の鞘が、暴風の大顎となって牙を剥く。

 まるで嵐を凝縮したかのような大気の塊が、宝具の軍勢を迎え撃つ。

 逆巻く風の蛮軍が、魔弾を押し留める。

 無論、弾き返すことなど出来ようはずがない。

 

 一瞬。

 

 一瞬だけ、その猛威を食い止めるだけで精一杯である。

 しかし、槍兵の形をした獣にとって、その一瞬で十分であった。

 彼は、駆けた。

 騎士王が作り上げた、束の間の静寂の隙を、縫うように。

 風王鉄槌の作り出した真空、その中に流れ込む大気の奔流に乗じたその体裁きは、ほとんど神速といっていいものだった。

 騎士王は、その様を見て苦笑した。

 まるで、前回の聖杯戦争の焼き直しだと、そう思ったからである。

 そして槍兵は、鉄壁の布陣を潜り抜ける。

 黄金の英雄王と彼の間に、その視線を遮る何物も存在しない。

 勝機、と。

 彼は確信して、獲物を視野に納める。

 

 故に、見えた。

 

 見てしまった。

 

 英雄王、その手に握られた、まるで石柱を組み合わせたような歪な剣を。

 その、威容。

 男の繰り出した輝かしい宝具が、一山いくらの数打ちとしか思えぬような、威圧感。

 槍兵は、己が誘い込まれたことを確信した。

 そして、跳躍した。

 最早、怯懦な後退は死を招くのみ。

 あれから繰り出される一撃は、距離をもって防げるような生易しいものではない。

 ならば、己に許された最高の一撃をもって迎撃することこそ、唯一にして、そして蜘蛛の糸よりも細い、生存への方策。

 彼の身に刻まれた無数の闘争の歴史が、それを確信させた。

 それは、騎士王も同様であった。

 出し惜しみは、即死に繋がる。

 そもそも、格上の相手に出し惜しみなど、意味をなさない。

 彼女は、再び聖剣を担いだ。

 その刀身に、ありったけの魔力を注ぎ込む。

 今、ここで仕留めなければ勝敗が決まる、そういう覚悟をもって。

 

 槍兵は、その全身をたわめられた弓と化して、その槍を番える。

 

「突き穿つ―――」

 

 騎士王は、絶対の信頼を込めて、その聖剣を振りかぶる。

 

「約束された―――」

 

 英雄王は、その二人の必死の形相を肴に、ただ嗤うのみだ。

 

「死翔の槍!」

「勝利の剣!」

 

 襲い来る、無数に分かたれた紅く凶暴な穂先。

 襲い来る、無限にも届きかねない魔力の奔流。 

 

 それらを一笑に付して、英雄王は剣を携え。

 

 そして、その魔剣の真なる力を解放した。

 

「―――天地乖離す開闢の星」

 

 轟音。

 途方も無い、力と力の衝突。

 空間が、軋む。

 果ての知れない大空洞が、震える。

 天地を揺るがす、その衝撃。

 光の奔流。

 それは、確かに彼我の視力、そして聴力を奪った。

 相殺され行き場を失った力の渦が、荒れ狂う。

 まず、地に足をつけていなかった槍兵は、為す術も無く大きく吹き飛ばされた。

 そのまま岩盤に叩きつけられていれば、さしもの彼でも、少なからず手傷を負っていたであろう。

 そんな彼の足を、伸び来る影の触手が掴み取る。

 そして、致命的な衝突から救ったのだ。

 やっとの想いで着地した槍兵は、主に礼を言うことも無く、前方を見据える。

 そこには、剣を地面に突き立てて、辛うじて立ち尽くす、二人の主従。

 その先には、この世を二分するかのような、濛々とした土煙の壁。

 手応えは、あった。

 ただ真名を解放しただけではない。

 彼の習得した原初のルーンによって魔力を付加された宝具の一撃の威力は、本来それが持つ能力の更に一つ上の位階に至ったはずである。

 それに、騎士王の持つ名高い聖剣、その一撃を上乗せしたのだ。

 仕留めた。

 耐えられる筈が無い。

 あの狂戦士とて、一撃で屠れるはずの威力だったはずだ。

 それは、極めて正しい認識だ。

 

 しかし。

 

 この場合、間違えていたのは槍兵ではない。

 槍兵の認識、そしてその行動は、悉くが正しかった。

 だから、間違えていたのは、そして在り得なかったのは、違うもの。

 在り得なかったのは、槍兵の敵、その力量だ。

 英雄王。

 原初の英霊。

 その力量が、あまりにも慮外だったこと。

 この一時について、槍兵に一切の責任は無い。

 ぱらぱらと、砂塵が舞い散る。

 その音に紛れて、声が聞こえた。

 

「中々、愉しませる」 

 

 ぞくりと。

 

 槍兵、そして騎士王の背の産毛が、逆立った。

 

 悠々と響くその声に、苦痛の色彩は存在しない。

 

 そして。

 

 再び、風が逆巻く。

 

 逆巻く風が、砂煙を吹き飛ばす。

 

 風王鉄槌、それすらも微風と見紛うような、風神の息吹。

 

 それが、軋みを上げる乖離剣から吐き出される。

 

 そして。

 

 鉄の少年と。

 

 影の少女と。

 

 騎士の王と。

 

 青の槍兵は。

 

 ほぼ同時に、それを見た。

 

 巨大な岩盤に背を預け、相変わらず微笑む黒い神父。

 

 その前に立ち、円柱の剣を構える、金色の英雄王。

 

 そして。

 

 先程と同じ、いや、それ以上に荒れ狂う、魔力の奔流。

 

 在り得ない。

 

 上級宝具、いや、間違いなく至高の宝具を全力で放っておきながら、この魔力はまるで―――。

 

 もう一撃―――!?

 

「ほれ、もう一度、気張ってみせい」

 

 悪いときには、悪いことが重なる。

 予想が、最悪を極める。

 神は、悪い方向にのみ全能なのだ。

 

「天地乖離す開闢の星」

 

 四組の瞳は、吹き荒ぶ魔力の猛威を、為す術もなく見つめた。

 

 呆然と、色を失った瞳の群れ。

 

 その瞳の色を名付けることが叶うならば、こう呼ばれるだろう。

 

 絶望、と。

 

 これにて、勝負は終わりを告げる、

 少年の咆哮が地の底を満たしてから、僅か49秒。

 勇敢なる二組のサーヴァントとマスターに対する死刑執行宣言は、無慈悲な静寂と共に下されたのだ。

 



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episode95 それでも刃、未だ砕けず

 全身の魔力の一切合財を、刀身に注ぎ込んだ。

 体を包み込む、心地よい虚脱感。

 それでも、もう、十分だ。

 持ち上げる必要は無い。

 何故なら、後は振り下ろすのみ。

 両掌に感じる熱は、黎明を照らす原初の曙光を思わせる。

 暖かで、しかし闇夜を残酷に切り裂く、容赦ない光。

 聖なる光は、邪なる闇を打ち滅ぼす。

 しかし、二元論的な正義は、より高みから俯瞰すれば独り善がりの暴虐に過ぎない。

 聖剣という誇称自体、恥知らずの代名詞だ。

 薙ぎ払え、薙ぎ払え。

 己だけの聖書を振りかざして。

 風の向くまま、気の向くまま。

 全てを無視して薙ぎ払え。

 それでこそ人間、それでこそ騎士、それでこそ王。

 

 高潔で、公平で、誰よりも誇り高く。

 

 蒙昧で、愚鈍で、盲目的で。

 

 そして、国を滅ぼした。

 滅ぼした。

 滅ぼした。

 滅ぼした。

 平和とは、無能が悪徳とされぬ幸福の時代。

 戦乱とは、無能が暴食色欲強欲憂鬱憤怒怠惰虚飾傲慢に劣後する時代。

 であれば、私は死罪人だ。

 私は、確かに、無能だった。

 だから私は、国を滅ぼした。

 そして残ったのが、この力。

 誰も救うことの叶わなかった、只の暴力。

 はは、らしい。

 あまりにもお前らしいじゃあないか、アーサー王よ。

 結局、お前に出来るのはその程度のことだったのだ。

 外患を討ち、内憂を押えつける。

 その手際は、正しく王者に相応しかった。

 君臨した。

 誰もが疑うことの無い、理想の王として。

 しかし、統治することは叶わなかった。

 治めることは、出来なかったのだ。

 

『王は人の気持ちが分からない』

 

 そのとおりだ。

 何故なら、私は人ではない。

 ならば、人の気持ちなど判るはずが無い。

 分かっては、ならない。

 だから、人は私を恐れた。

 恐れて、畏れて、懼れた。

 そして、滅びた。

 自明の理ではないか。

 虎に導かれた羊の群れは、いずれ滅びる。

 虎と羊では、分かり合うことは出来ない。

 分かり合えないならば、反目が生じる。

 反目が生じれば、軋轢が生じ、諍いが生まれ、やがては決壊する。

 決壊した堤防が生み出すのは、涙と破壊と滅亡だけだというのに。

 そんなことも、私は分からなかった。

 分かろうとしなかった。

 己が正しくあれば、皆も正しく在ってくれると。

 それは、己の理想の押し付けだった。

 だからこそ円卓は、いつしか熱と密度を失い。

 欠けた櫛の歯は戻ることなく。

 私は、裸の王と成り。

 それでも。

 それでも。

 己に課した、誓いだけを。

 さぞ、滑稽だったことだろう。

 さぞ、哀れを誘ったことだろう。 

 それでも。

 それでも。

 今の私には、これだけ。

 これだけ。

 でも、これがある。

 これだけは、残ってくれた。

 ならば、恥じることは無い。

 この力を振りかざすことを、決して恥じない。

 だから、英雄王よ。

 笑え。

 笑えばいい。

 腹を抱えて笑え。

 認めよう、私は道化だ。

 この世で一番迷惑だった道化だ。

 しかし、道化にも意地がある。

 覇気が、誇りが、執念がある。

 喰らえ。

 これが、道化の、最後の面目である。

 

「約束された、勝利の剣―――!」

 

 極光が、全てを飲み込む。

 

 漂白された視界。

 

 勝ったと、そう思った。

 

「中々、愉しませる」 

 

 声を、理解できなかった。

 

 この声は、一体、誰が?

 

「ほれ、もう一度、気張ってみせい」

 

 反応が、遅れた。

 

 体が、動かない。

 

 だから。

 

 愚かだ。

 

 だから。

 

 私は、愚かだから。

 

 見捨てて。

 

 なのに、何故、貴方は。

 

 シロウ。

 

 貴方は。

 

「天地乖離す開闢の星」

「熾天覆う七つの円環―――!」

 

 

 

 ―――――――――。

 

 

 

 ―――――――――。

 

 

 

 ―――――――――。

 

 ―――――――――あ。

 

 わ、たしは。

 

 いったい。

 

 なに、を―――。

 

 いたく、ない。

 

 めのまえに、かべ―――?。

 

 もたれかかって。

 

「…存外、呆気ない。…少し、見誤ったか?」

 

 おもたい。

 

 からだが、おもたい。

 

 ずしりと。

 

 ゆびいっぽん、うごかない。

 

「いや、エアを一度相殺しただけでも、賞賛には値しよう。それ以上は…酷であるやも知れぬわな」

 

 からり、と。

 

 こいしのころがる、おとが。

 

 まぶたを、なんとか、もちあげて。

 

 そこに、ころりところがる。

 

 あかい。

 

 あかい。

 

 あかい、かみのけ。

 

 あかい、からだ。

 

 どくどく。

 

 ちが。

 

 ああ。

 

 いのちが。

 

 こぼれて、いく。

 

 ああ、そうか。

 

 かんたんなことじゃあ、ないか。

 

 めのまえにあるのは、かべじゃなくて。

 

 わたしは、じめんに、はいつくばって。

 

 シロウのぜんしんは、まっかで。

 

 ひらいたままの、ひとみが。

 

 くちのはしからたれながれる、どろりとしたえきたいが。

 

 もう、いきすらしてなくて。

 

 ああ、そうか。

 

 わたしたちは。

 

 そうか。

 

 

 ―――負けたのか。

 

 

「し…ろう…」

 

 霞む視界。

 手を、伸ばそうとする。

 それでも、体は動かない。

 痛くない。

 辛くない。

 ただ、あまりにも重た過ぎて。

 指一本、動かせないのだ。

 ぽんこつだ。

 何が、最優の、サーヴァント。

 この様で。

 そして、主と誓った人物に、守られて。

 そうだ。

 あの瞬間。

 仕留めたと、油断した。

 慢心した。

 そして、一瞬、戦闘を放棄したのだ。

 

 防げない一撃ではなかった。

 

 鞘の真名を解放すれば、それは容易かった。

 なのに。

 私は、まるで人形のように、考えることを放棄した。

 倒した、と。

 よしんば生きていたとしても、二撃目は無いと。

 在り得ない、そう思った。

 だから。

 彼は、私を守るために。

 何故。

 何故、私などを。

 

「しろ…う…」

 

 ありったけの力を込めて、咽喉を震わす。

 それでも、蝶の羽撃きよりも、か細い声が。

 彼は、動かない。

 その命を止めてしまったかのように、動かない。

 ああ。

 私が。

 私が、彼を。

 私は。

 また、私は。

 また、大事なものを。

 また、守れなかったのか

 

「し、ろう…、返事を、返事をしてください…」

 

 蜥蜴のように、這いずる。

 ゆっくりと、精一杯。

 滲んだ視界。

 声が、震える。 

 無様に、愚かしく。

 歳相応の、乙女の如く。

 ああ。

 そうか。

 私は。

 王として生きて。

 王であることを、誇り。

 王でしか、なくなって。

 最後に、王であることまで、否定されたのだろうか。

 

「シロウ、頼む、返事を―――」

「何を嘆くか、騎士王よ」

 

 のそりと、振り返る。

 そこには、金色の鎧。

 逆立った金髪。

 鮮血のような紅の瞳。

 しかし、それがさも不思議そうに歪められる。

 

「そこな雑種は、貴様を守るために討ち死にしたのであろう?ならば、何故それを嘆くか」

「ほ、ざけ、シロウはまだ、死、んでいない。断じて、貴様、如きに殺され、などしない…!」

 

 ざくざくと、重たい足音が近付いてくる。

 それは、待ち合わせをした友人を見つけたときのように、軽々と、

 悠々と、一切の気負い無く。

 それが、奴と私の格の違いを見せ付けるようで。

 ただただ、悔しかった。

 

「民草の命は、王に奉仕するためにあるもの。ならば、その雑種はさぞ満足して逝ったであろうよ。また、王の価値はどれだけの民にその命を捧げられたかによって決まるもの。その程度のこと、まさか分からぬとでも言うつもりか、騎士王よ」

 

 ―――戯言を。

 

 怒りで、視界が赤く染まる。

 ぎしりと、奥歯が砕ける音がする。

 それでも、この体は立ち上がらない。

 痛みが、恋しい。

 痛みがあれば、転げ回るくらい叶うだろうに。

 のた打ち回るくらい、叶うだろうに。

 動かないのだ。

 動かない。

 

「…その…ような理屈…を、どの…法が是と…するか。…だから、お前は…国を滅ぼしたの…だ、英雄王」

 

 奴は、その言葉に、幼児が如く、目を丸くした。

 一瞬、鏡面のような静寂が空間を満たす。

 その、直後。

 空間そのものを震わすような哄笑が、空洞を満たした。

 

「く、くはははは、なるほどなるほど、それが貴様の理屈か、騎士王!おうとも、我は我の国を滅ぼしたわ!それがどうした!それでよい!国は、民草は、いかに滅びようとも構わぬ!精々が華々しく砕け散るが良いのだ!それでも、国は滅びぬよ!王があればそこが国である!我が在る限り、国は不滅である!」

 

 …言葉も、無い。

 何たる、傲岸。

 何たる、不遜。

 信じ難いほどの暴論。

 しかし、何より信じ難いのは。

 その言葉を、この男が一点の曇りも無く理想として掲げ。

 その姿が、この上なく、神々しいことだ。

 

「馬鹿な…。国を失い、民も絶えて、誰が貴様を王と崇めるか」

 

 そして。

 誰よりも。

 何時如何なる時よりも、真剣な顔と、声で。

 この男は、言い切ったのだ。

 

「我が崇める」

 

 そう、言い切った。

 そして、悟った。

 圧倒的なまでの自我。

 凶暴なまでの自尊心。

 なるほど、英雄王とはよく言ったもの。

 勝てない。

 私は、この男に、勝てない―――。

 

「確かに、我は国を滅ぼした。民草を苦しめたであろう。雑種どもの浅慮からすれば、我は粉う事なき暴君であろうな。だが、そういう貴様は、どうなのだ、騎士王」

 

 その言葉は。

 その矛先は。

 不可侵の筈の、防御壁を。

 いとも、容易く―――。

 

「国を滅ぼし、あまつさえ国に滅ぼされた高潔な王の言に、一片たりとでも価値を見出せと、まさかそう言うのか?」

 

 言うな。

 言うな。

 貴様が、言うな―――!

 

「そも、王の導かれ、王に従い、王に服従する愚民など、王の過ちと共に滅び去るが道理であろうが。むしろ、王が滅び、それでも蔓延る雑種など、吐き気がする。騎士王よ、民はな、王が死ねば悉く自決せねばならぬ。それが支配された者の義務であろうが。己の判断を持たず、誇りを持たず、全てを王に背負わせた飼い犬が、飼い主の滅びと共に次の飼い主に尻尾を振る。それを醜悪と呼ばず、何と言う?」

「違う、それは違う。なるほど貴様は強い、それは認めよう。しかし、民は貴様ほどに強くは無いのだ。だからこそ、我らは民衆を―――!」

「『守り導かねばならない』。まさか、そうは言わぬよな、騎士王よ」

 

 震えた。

 体が、震えた。

 感動ではない。

 恐怖だ。

 私は、恐怖した。

 怒りに。

 目の前の男、その剥き出しの怒りに。

 

「であれば、貴様は誰よりも民を蔑視している。自覚しているか、騎士王。貴様は、貴様が守るべき民衆の誇りに、泥を塗ったのだぞ」

 

 何をほざくか、と。

 どうして、私は、言えなかったのか。

 

「侮るなよ。民草はな、強い。貴様が想像するより、遥かに強く、猛々しく、凶暴だ。故に、真に英雄と名乗る資格ある者は、悉くが民に滅ぼされた。違うか、騎士王。だからこそ民は、王が死ねば滅びねばならぬ。力在る者が選んだ選択肢だ。それに殉じるのは当然であろうが。それが嫌ならば、王を滅ぼせ。咽喉笛に喰らいつけ。高きところから引き摺り下ろせ」

 

 足音が、私の耳の傍を、無関心に通り過ぎ。

 私の伸ばした手の先。

 そこにいる、大切な人のもとへ―――。

 

「や、めろ、ギルガメッシュ―――!」

「教えてやろう、騎士王。王とはな」

 

 一歩、歩く。

 

「他者を見下し、己を至高とし」

 

 一歩、遠ざかる。

 

「他者の失敗に死で報い、己の失敗を他者の責任とし」

 

 一歩、歩く。

 

「他者の功を己の功とし、己の功を詩人に謳わせ」

 

 一歩、遠ざかる。

 

「民衆の悲嘆を無視し、己の享楽のみを追い求め」

 

 一歩、歩く。

 

「滅び行く国と朽ち果てる民、その骸の上で高らかに笑い、次の国を作り上げる」

 

 奴の背中が、遠ざかる。

 

「それこそが王だ。王とは、国の上位概念なのだ。そんなことも分からぬから、貴様は国に滅ぼされたのだぞ、騎士王」

 

 立ち止まる。

 

 その、足元。

 

 ぴくりとも動かない。

 

 まるで死んだように動かない。

 

 シロウ。

 

 私の、愛する―――。

 

「貴様が王であれば、この男は栄えある殉死である。しかし、貴様が王でないならば、これは唯の犬死だ。―――どうやら、後者であったか」

 

 奴の手に、見たことも無い、長剣。

 赤黒い、拍動する心臓のような刃。

 あれが振り下ろされれば、シロウは―――。

 

「偽りの王に仕えた身の哀れよな。せめてもの慰めだ。真たる王の刃を抱いて、冥府へ堕ちるがよい」

 

「やめろ!」

 

 立ち上がっていた。

 いつの間にか、私は立ち上がっていた。

 未だ、痛みすら戻らない体なのに。

 膝は、一応立ち上がり。

 私は、一応戦う姿勢を取っていた。

 怒りではなかった。

 義勇ではなかった。

 歓喜ではなく、悲哀でもなく。歓楽でもない。

 

 恐怖。

 

 この膝を伸ばし、この柄を握り締める感情の名は、恐怖だ。

 私は、怖かった。

 シロウを失うことが。

 王という存在を否定されることが。

 何より、私の罪を否定されることが。

 だから、私は立ち上がった。

 私は、守らなければならない。

 彼の誇りを。

 己の誇りを。

 己の、罪を。

 ああ、そうだ。

 やっと、分かった。

 

 私は、許されたかったのだ。

 私は、許されたかった。

 重たい、あまりにも重た過ぎる荷物を、誰かに預けたかった。

 選定をやり直す。

 私よりも相応しい王を、選び直す。

 それは、逃避ではないか。

 覚悟と共に握った剣の柄、それを放す。

 奇跡を欲してまで、それを手放そうとする。

 それは、王座という重荷を背負いきれなかった小娘の、醜い逃避ではないのか。

 救国や贖罪など、言い訳に過ぎない。

 もしも、違うと。

 そんなことは無い、と。

 そうでないと、言い切れるなら。

 

 何故、あの結末を受け入れられなかったのか。

 何故、再び王としてやり直そうと思わないのか。

 何故、民の幸福を、聖杯に願わないのか。

 

 私は、許されたかった。

 全てを無に帰すことで、許されたかった。

 あの血塗れた丘の光景から、逃げ出したかった。

 罪に、耐え切れなかったのだ。

 認めよう。

 ギルガメッシュよ。

 私には、王たる資格は、無いのかもしれない。

 器量の問題ではない。

 技量の問題ではない。

 結果の問題ではない。

 ただ、その結末を直視できなかった故に。

 己の罪を、受け入れることができなかったが故に。

 

「ほう、その傷で…。なるほど、それが噂に名高き、聖剣の鞘の加護か」

 

 確かに、私は王たる器ではないのかも知れない。

 それは、認めよう。

 認めるが、しかし。

 引くわけにはいかない。

 私を王として仕えてくれた、騎士達の誇りにかけて。

 私を王として崇めてくれた、民衆の誇りにかけて。

 私こそが王であると胸を張った、かつての自分の誇りにかけて。

 そして。

 このように矮小な私を、卑劣な私を、騎士であると、認めてくれた。

 おそらく、私の愛する、彼のために。

 私は、引くわけには、いかない。

 

「で、どうするのだ?突っ立ているだけなら、案山子で十分だ。貴様は、何をするために立ち上がった?」

「その目は節穴か、英雄王。卑しくも、騎士を名乗る者が、剣を手に立ち上がったのだ。跪いて忠誠を誓うなら別段、それ以外にするべきことなど、一つであろうが」

 

 じわじわと、痛みが戻ってくる。

 全身を捻じ切るような痛みは。

 しかし、己の体が己の手元に戻ってきたということだ。

 うん。

 まだ、戦える。

 まだ、戦おう。

 きっと、今戦わないと、後悔するから。

 

「忠誠を誓うならば、我の靴は、貴様の唇を、今でも待ちわびているが?」

「寝言を言いたければ、今から寝かしつけてやる。喜べ、それも永遠に、だ」

 

 奴の頬に、切れるような笑みが。

 その背後に、無数の切っ先。

 一部の油断も無い。

 勝ち目は?

 考えるな。

 考えれば、膝が砕ける。

 涙が流れる。

 それは、敗北だ。

 ならば、考えるな。

 今は、奴の薄ら笑いを止めることだけを―――。

 

「せいやあぁぁぁぁ!」

 

 

 少女の声。

 嗚咽に塗れた、必死の声。

 裂帛の気合が、無限の如き闇の中に消えていく。

 それは、獅子の群れに歯向かう、兎の鳴き声が如きもの。

 意味無く、闇に吸い込まれ、いずれは刹那と消えるのみ。

 絶望的な戦い。

 だが、その、闘志に溢れた、その声は。

 二人の死人、その指を僅かに動かした。

 ほんの、僅かに。

 それだけだった。

 



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episode96 それでも牙、未だ折れず

 最初に気付いたのは、槍兵であった。

 何が彼に、その異変を気付かせたのか、それは彼自身にも分からなかった。

 ただ、違和感である。

 尻の穴がむず痒くなるような、掻痒感。

 項の毛をちりちりと焼くような、恐怖感。

 今、駆け出さねば全てが手遅れになるという、焦慮感。

 それらを綯い交ぜにした感覚が、槍兵に一つの確信を与えた。

 

 敵は、まだ健在である。

 

 何故、彼がそれに気付き、騎士王がそれに気付かなかったのか。

 距離、もあったのかもしれない。

 最前列にて恐るべき英雄王と相対したのは、正に槍兵である。

 戦場における第六感といえど、それが人の感覚であれば距離の暴虐からは逃れよう筈も無い。

 

 また、己の奥の手に対する気の置き所の隔たりもあったはずだ。

 騎士王も、彼も、己の宝具に対して揺ぎ無い信頼を置いている。

 その点において、二人の在り様には一切異なるところは無い。

 しかし、そのもう一歩先。

 その頂点において、二人の姿勢には若干の差異が見られた。

 騎士王は、己の宝具に絶対の信頼を置いてはいるが、それは最早信仰と呼んで差し支えないものとなっていた。

 至高の威力を誇るが故に、未だ敗れざる聖剣。

 その極光の前に、狂った騎乗兵の操る天馬も、征服王の操る神威の車輪も敗れ去った。

 故に、彼女は己の勝利を疑うことは無かったのだ。

 対して、槍兵は違う。

 確かに、影の国で賜った真紅の魔槍、その威力は熟知している。

 熟知しているが故に、その限界も弁えていた。

 強大である力は、より強大である力には歯向かい難い。

 それはどうしても覆し得ない、この世に真理。

 であればこそ、己の槍に貫かれ、微小の破片となって四散して、それでもなお不死を誇った預言者を前にしても、彼は平静だった。

 畏怖することはあっても狼狽することはなかった。

 ただ、冷静であった。

 であればこそ、此度もその心根が揺るぐはずが無い。

 

 今まで、約束された勝利しか得てこなかった者と、地を這い蹲り泥水を啜りながら勝利を積み重ねた者の違い。

 

 それが、騎士王をして絶対の直感を鈍らせた。

 それが、槍兵をして電光が如き思考を可能とした。

 槍兵の身体は、その主たる脳髄の思考速度よりも早く、次の行動を開始していたのだ。

 

 その時点において、槍兵の傍らには、彼の主たる影の少女の姿があった。

 息を荒げ、それでも凛と立つ、白髪の少女である。

 

 彼女は、鉄の少年が圧倒的な怒りに駆られて駆け出した、次の瞬間に彼を追う様に駆け出していた。

 無論、少女は魔術師である。

 斬った張ったの荒事は、むしろ彼女の最も苦手とするところ。

 それでも、彼女は駆け出していた。

 眼前にて展開される、人智を超越した戦い。

 それに巻き込まれ、いや、己から飛び込み、一瞬で襤褸切れの如く変貌した己の想い人。

 それでも、彼女は少年に縋りつくことを良しとしなかった。

 きっと、誰よりも彼自身がそれを是としないだろうから。

 だから、彼女は、彼の傍らを走りぬけ、己の従者たる槍兵のもとへと駆け寄った。

 何故だろうか。

 後から考えて、彼女は幾度となく困惑することになる。

 そして、赤面するのだ。

 自身を、少女から女とした槍兵。

 遥か幼き昔に失われた、少女の処女膜を貫いた、槍兵。

 己がもがき苦しむ有様を、ただ抱き締めて、じっと耐えてくれていた、槍兵。

 もしかしたら、彼女は、本当に彼を。

 もちろん、その時点において、そのような余分な思考を良しとする彼女ではない。

 彼女は、自身の従者の背中に労いの声を掛けようとして、次の瞬間にその甘えた考えをいち早く捨て去る。

 理由は明白だ。

 彼女の従者、青の槍兵、その背中が震えていたからだ。

 心細そうに、震えていた。

 夜の風に脅えるように、震えていた。 

 そして何より、来るべき戦いの昂揚を堪えるように、震えていたのだ。

 彼女は、身に纏った影のドレスの袖から、きらきらと光る小石を幾つか、取り出していた。

 無論、戦いの準備のためである。

 

「中々、愉しませる」 

 

 濛々とした土煙、その境界を易々と飛越えた声が、槍兵の鼓膜を震わせる。

 確固とした疑念を揺るがない確信へと変貌させたその声は、しかし槍兵の口元を急激に吊り上げさせる。

 そして、彼の肌を焼く、無遠慮な魔力の渦。

 それは最悪を極めた展開を、槍兵に確信させるに至る。

 まず、彼は逃げようとした。

 無論、敵に背を向けるという意味ではない。

 しかし、自分が敵の攻撃、それも圧倒的に致死の、その射線に立っておきながらそれを受け止めようとするのは、蛮勇ですらなく世の理を知らぬ愚者の行動。

 どれほど慮外の宝具であったとしても、それが指向性を持つ攻撃性宝具であるかぎり、その射線を免れれば劇的に損害を減じることが出来るのは道理である。

 

 故に、彼は己の背後にいるマスターを抱えて、大きく横に跳ぼうとした。

 そして、振り返る。

 

 故に、それは出来なかった。

 

 彼の視線の先に、あまりにも呆けた様子の、騎士王。

 彼は、歯噛みした。

 見捨てようと思った。

 戦場では間抜けな奴から死んでいく。

 だから、彼は同情しない。

 もしも、彼の視線の先にいる騎士が、今にも泣きそうな少女の瞳をしていなけれれば、だ。

 神経質な舌打ちの音が、一度だけ響き。

 彼は、その覚悟を飲み込んだ。

 その瞬間の彼は、正しく神速であった。

 地面に、空間に、彼自身の体に、ありったけのルーン文字を書き込んでいく。

 影の国、その女王スカハサ。

 彼女から授けられた、愛槍と、もう一つの宝。

 原初のルーン。

 その全てを、ただ己と、己の大切な者を守るために書き刻む。

 筆は、真紅の魔槍。

 彼の全方位に展開された輝ける文字の防壁は、瞬間的ながら神代の魔女の作り出した神殿の堅固さを凌駕する。

 それでも無力に過ぎないことを、槍兵は確信した。

 この程度の結界は、英雄王の暴虐の前に、まるで紙か布切れのごとく破れ散るだろう。

 彼は、死を覚悟した。

 ならば、せめて己の主だけでも。

 せめて、己が女とした、少女だけでも。

 その思考を、彼は後悔する。

 何故なら、少女は微笑んでいたから。

 彼は、勘違いをしていた。

 そこにいたのは、守られるべき可憐で脆弱な偶像ではなく。

 その手に槍と軍旗を掴み、最前線にて民衆を鼓舞し導く、秀麗な戦女神がいたのだ。

 彼は、少女の誇りを穢すところであった。

 無言の安堵を漏らす槍兵、彼を見つめる少女の瞳は、全てを了解しているかのように三日月型。

 従者の非礼には如何なる罵声も飛ばさず、ただ呪文を口ずさむ。

 

|「Ueber die zwoelfte Stunde!Die Streitkräfte des Schattens!Seine Haut so teuer wie moeglich verkaufen!」《湯水の如く!我が眷属よ!防げ守れ耐え凌げ!》

 

 高速詠唱は、神代の魔女には及ばずとも、その一番弟子と名乗るに相応しい手並みである。

 姉に倣って、少女が己の魔力を十年間溜めに溜めた、秘石の数々。

 その全てを、まるで惜しげもなく投入する気概は、彼女が戦闘者としても一流たる資質を秘めていることを明らかにしたといえる。

 槍兵の、上級宝具の一撃ですら退ける文字の城壁、それを補強し、なお高く聳え立たせた虚数の鉄壁。

 影という共通の概念で括られた主従の相性は、他のどの主従にも勝るだろう。

 ならば、互いの死力を尽くした侵されざる神盾は、難攻不落を越えて、ほとんど『遮断』の概念に辿り着くに至り。

 例え騎士王の聖剣の極光でも阻むであろう、硬度という価値観を無視した堅牢さ。

 少女は、その絶対を確信し。

 槍兵は、少女の柔い体を抱えて、一目散に飛び退いた。

 彼の判断は、どこまでも正しく、どこまでも残酷だった。

 その瞳を絶望に染めながら、それでも生き残る道を選んだ。

 

「ほれ、もう一度、気張ってみせい」 

 

 少女は、己の従者の肩越しに、見つめるのだ。

 吹き飛ばされた、山のような土砂が成す土埃の壁。

 吹き飛ばされたその先に、悠々と佇む、英雄王。

 その、円柱型の魔剣。

 そこから噴出す、魔力の異様。

 確信した。

 己が、間違えていた。

 涙が溢れる。

 絶望に満ちた瞳を、涙が彩る。

 勝てない。

 私たちは、絶対に、あの男に勝てない―――!

 

「天地乖離す開闢の星」

 

 一瞬であった。

 一蹴であった。

 パリンと、乾いた音を立てることすらなかった。

 絶対のはずであった防壁は、残酷な太陽の前に溶け去る薄氷が如く、姿を消した。

 それは、きっと少女の敵愾心も。

 そして、彼女の意識は闇へと溶け去る。

 痛みは、感じなかった。

 それが、せめて神に愛された証なのだろうか、と。

 自身を包み込む、暖かな筋肉の存在を心地よく感じながら、少女は意識を失った。

 

 

 心地いい。

 ふわふわとしてる。

 ぬくぬくして、柔らかい。

 雲の上?

 ならば、天国だろうか。

 穢れた私でも、神様は受け入れてくれたのだろうか。

 何という安心感。

 まるで、父に抱かれたような。

 ぎゅうと、力強い。

 まさか、本当に、お父様だろうか。

 貴方、なのでしょうか。

 貴方が、一度は見捨てた私を。

 もう、いいと。

 頑張らなくて、いいと。

 そう言いながら、私を抱き締めてくださるのでしょうか。

 ならば。

 ああ、ならば―――。

 

 反吐が、出る。

 

 死んだ?

 先輩を、見捨てて? 

 姉さんを、見捨てて?

 そして、私が死ぬならば。

 死ぬならば。

 消える。

 私の大切な人も。

 逃げるのか。

 自分を見捨てた、父を頼って。

 重たい瞼を、そのまま下ろして。

 全ての現実を、遮断するのか。

 それは、なんと安楽に満ちて。

 どれほど、汚名に満ちた。

 駄目だ。

 私は、駄目だ。

 昨日までの私には許されたが、今日からの私には絶対に許されない。

 何故なら。

 簡単な話だ。

 何故なら。

 私は。

 背負った。

 全てを、背負った。

 姉さんを、凶刃に倒れた父を、現実を忘れた母を、彼らの祖父を、その父と母と無限に分岐する人々を。

 私は、遠坂の頭首だ。

 ならば、私に後退の文字は無い。

 

『どんな時でも余裕を持って優雅たれ』

『勝負は何でも手を抜かない』 

 

 それが、我が家の家訓ならば。

 私の代で、もう一つの誓いを加えよう。

 

『やられたら、やりかえせ』

 

 いずれ生れ落ちる、私の愛し子。

 その子に、胸を張ってこの家訓を伝えるために。

 さあ、立ち上がろう。

 そして、ぶん殴るのだ。

 相手は?

 決まっているだろう。

 言うまでも、無いことだ。

 なのに。

 どうして、私は。

 私は。

 

 

 ―――ン。

 

 ―――キン。

 

 ―――ドゴン。

 

 ―――キン、ギン、ベキャリ。

 

 音。

 

 遠く、遠く、聞こえる、音。

 

 耳に優しくない、その音。

 

 ああ、私は生きているんだ。

 

 そうだ、私は―――。

 

「ア―――、と、す…まねえが、どいて…くれる…かい?」

 

 不思議と、体が痛くない。

 いや、痛いには痛いのだが、その絶対量が少な過ぎる。

 あの一撃を喰らったのだ。

 天を割り、地を裂くが如き一撃。

 死ななかっただけでも僥倖。

 腕の一本や二本、もっていかれてもおかしくは無い、むしろ当然なのに、何で?

 その疑問は、私が寝転がっていた地面を見て、氷解した。

 

「ランサー!」

「やっ…と…、きづ…いたか…。いま…のおれに…は、しょうしょ…う、おもた…いんでな、どいて…くれ…ると、あ…りがて…ぇ…」

 

 いつもの、噛み付くような笑みにも力が無い。

 片目が塞がっているのは、ウインクではなく血糊によって。

 蒼天を思わせる髪の毛は、まるで夕焼けのように。

 

「ランサー、ランサー!」

「ったく…、う…るせえ…なぁ、きこえ…てるよ…」

 

 鉄よりも硬い皮鎧は、ずたずたに切り裂かれて見る影も無い。

 そして。

 彼の象徴とも言える、紅い魔槍。

 それは、彼の手に握られたままだったのだが。

 

「わるい…が、やり…、とって…く…れるかい…?」

 

 しかし、その手が、彼の意思のもとに無かった。

 槍と腕だけが、遥か後方に。

 肩口から、綺麗に千切れ飛んでいる。

 そこから、どくどくと、赤い血が。

 溢れる。

 止まらない。

 わかった。

 全て、分かった。

 何で、私はほとんど無傷で。

 どうして、彼はこんなにぼろぼろなのか。

 庇ってくれた。

 あの、津波に飲み込まれた藻屑よりも激しく弄ばれる、意識の中で。

 彼は、私を守ってくれのだ。

 当然といえば当然である。

 サーヴァントは、マスター無しに現界は出来ない。

 それくらいは、分かっている。

 理解している。

 しかし、例え私がマスターでなかったとしても、彼は私を守ってくれただろう。

 己の身を省みず、私を守ってくれただろう。

 そのことも、理解してしまった。

 ああ。

 駄目だ。

 どうしよう。

 私は、どうしたらいいんだろう。

 

「どうしよう、ランサー、血が止まらない…!」

「つば…つけときゃ…あ、なおる…さ」

 

 駄目だ。

 死んでしまう。

 また、いなくなる。

 私の前から、いなくなる。

 お父様みたいに。

 お母様みたいに。

 キャスター、みたいに。

 また、いなくなる。

 私だけ。

 きっと、最後に私だけ。

 姉さんも、いなくなって。

 先輩もいなくなって。

 セイバーさんも、イリヤちゃんも、みんなみんないなくなって。 

 この人も、いなくなって。

 最後に、私だけ。

 私だけ、生き残る。

 そんなの。

 そんなの。

 

「どうしよう、どうしよう、ランサー、血が、血が、止まらないよう…!」

 

 どくどく。

 この音は、なんだろう。

 五月蝿いなあ。

 今、私は大変なのに。

 きっと、それどころじゃあないのに。

 なんで、こんなに五月蝿いんだろう。

 どこから?

 ああ、そこから。

 私の、胸の、真ん中から。

 どくどく、五月蝿い音が。

 こんなの、邪魔ですね。

 止めて、しまいましょうか。

 

「だい…じょうぶ…だって…、いって…んだろう…が…!」

「でも、血が、血が止まらないのよう…!」

 

 抑える。

 傷口を、手で押さえる。

 これで、安心。

 もう、漏れ出さない。

 なのに。

 何で?

 指の間から、赤い泥が。

 とろり、とろりと。

 ぬるぬるしてる。

 止まらない。

 止まってくれない。

 嫌だ。

 嫌だよう。

 なんで。 

 嘘だ。 

 こんなの、駄目。

 嫌。

 誰か、助けて。

 助けて、誰か。

 

「死、死なないで、死なないでよう、ランサー、私、耐えられない、もう、耐えられないのよう、だから、お願いだから、死なないでよう…!」

 

 涙で濁った視界。 

 その中で、ゆらゆらとぼやける彼の顔。

 それが、一回、とても嬉しそうに歪んで。

 そして。

 

 ぱあん、と。

 

 私の頬が。

 

 痛くて。

 

 驚いて。

 

 情けなくて。

 

 悔しくて。

 

 もう、死んでしまいたくて。

 

「…ゲホッ、かんちがい…するなよ、桜」

 

 その、顔は。

 

 烈火の如き、万物を焼き尽くさずにおかない、怒りに冒された、その顔は。

 

 まるで、忌むべき敵を貫くような、その、初めて向けられた視線が。

 

 ただ、怖くて。

 

「俺は、お前の飼い犬か?それとも、お前のサーヴァントか、どちらだ!?」

 

 質問の趣旨が、分からないくて。

 

 彼の求める正答が何なのか、分からなくて。

 

 そもそも、私の聴覚は、彼の声を、聞き取ることすら出来なくて。

 

 私は、只管に曖昧な笑みを、浮かべて。

 

 媚びるような、諂うような笑みを、浮かべて。

 

 彼は、もう一度、私の頬を、思い切り張り倒したのだ。

 

「…もう、逃げようよう…。死なないで、一緒にいて、何もしなくてもいいから、一緒にいて…!」

「共にいて欲しいだけか?傍で、慰めてやれば満足か?ならば、あの時のお前の覚悟は、偽モンか?ああ、アレがハッタリなら、それはそれで大したもんだ!」

「忙しないところ申し訳ないが、少しだけいいだろうか」

 

 声が。

 

 聞き覚えのある。

 

 最近も、聞いた。

 

 心の奥底を切開するような、鋭利で容赦ない。

 

 それでいて、心の奥底を優しく愛撫するような、何もかもを許すような。

 

「…言峰、てめえ…」

「ランサーよ、君は中々に手厳しいな。ほれ、そこに転がっているのは只の小娘だ。圧倒的な実力差に取り乱すのは、寧ろ当然だろう。優しく慰めるが男の役割では無いのか?」

 

 こつこつと。

 

 無思慮に、無分別に、無造作に。

 

 まるで、神などいないかのように。

 

 ゆるゆると、揺らぎなく。

 

 私は。

 

 あまりの恐怖に。

 

 失禁し、脱糞して、いた。

 

「あ、あ、あ、あ、あ、あ………」

「…そうだな、お前の言うとおりだ、言峰。ここにいるのは、只の小娘。ははっ、少し大人気無かったかもしれねえわ」

「そのとおり。そこにいるのは、まだ襁褓も取れないような、弱々しい赤子に過ぎん。それは庇護の対象以外、何物でもなかろうよ」

 

 彼は、立ち上がる。

 

 いまだ鮮血の噴出す片腕を、そのままに。

 

 その手に、己を象徴する赤い魔槍を握ることなく。

 

 ゆらりと、無関心に。

 

 もう、私など見ないかのように。

 

 私など、いないかのように。

 

 手を、伸ばす。

 

 行かないでと、手を伸ばす。

 

 それでも、その手は空を切って。

 

 誰の温もりも、掴めなかった。

 

「で、だ。てめえ、何しに来たんだい?」

「何、大したことはない。少し、因果の掃除を。これでも、臆病な気質ゆえ、君に命を狙われて以来、枕を高くして眠れた夜が無い。故に最近は少し寝不足気味でな、そろそろ深い眠りが恋しくなってしまったのだよ」

 

 彼は、微笑っていた。

 

 もう、私なんて忘れたように、微笑っていた。

 

 その瞬間、彼は私を愛していなかった。

 

 彼は、目の前に立つ、神父だけを愛していた。

 

「そりゃあ、ちょうどいい。俺もな、てめえを寝かしつけてやりたかったところだ。安心していいぜ、言峰。お前はこれから、不眠症の心配をする必要は、なくなる。一生だ。なにせ、お前は一生目覚めないのだから」

「それはいい。死こそ永遠の安息であると、果たして誰が言ったのか。死によってこそ愛は完成されると、果たして誰が言ったのか。ならば、私は君を愛そう。君のかつての主、彼女を愛したように」

 

 神父は、微笑っていた。

 

 本当に、私を忘れたかのように微笑っていた。

 

 その瞬間、彼は私を知らなかった。

 

「…単身、英雄に挑むとは、過信も極まったか、人間」

「何、冷静に彼我の戦力を分析した結果だ」

 

 二人とも、私を知らなかった。

 

「ほう。ならば、その結果は如何?」

「今の君では私に勝ち得ない」

 

 この世界で、誰も私を知らなかった。

 

「…お前は、後悔はしないだろう。ならば、存分に来い。クー・フーリンが相手をしよう」

「私は、君の後悔が欲しい。君の絶望が欲しい。さあ、いい声で泣き叫べ、クランの猛犬。君の苦悶は、我が糧となり我が血肉となる。君の仮初の生は、無駄ではなかった」

 

 誰もいない、この世界で。

 

 私は、私自身の排泄物の臭いに塗れて。

 

 唯、一人だった。

 

 涙が、つうと頬を伝った。

 



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episode97 聖女蹂躙

 ぎちりぎちりと、骨を軋ませる音。

 それが、体内から私の鼓膜を犯し続ける。

 

 ぎちりぎちり。

 ぎちりぎちり。

 

 締め付けられる力は、どんどん強くなって。

 いずれ、この両腕は、捻じ切られて落ちるのだろうか。

 それもいいかも知れない。

 もう、腕なんて必要ないのだから。

 私は、聖杯だ。

 私に、人としての機能は必要在るまい。

 このまま、この世で最も濃厚な魔を身に宿したまま。

 子宮で育て、そして産み落とす。

 果たして、腹を食い破って出てくるか、それとも産道を割り裂いて産声を上げるか。

 どちらでもいいと思う。

 どちらでも、この意識は胡乱だ。

 汚された。

 私は、汚された。

 英雄王に、汚されたと思う。

 今まで、蟲に凌辱され続けたのとは意味合いが異なる。

 今まで、見知らぬ下衆な男共に輪姦され続けたのとは、意味合いが異なる。

 今まで、狂ったような瞳で嗤う兄の精液を飲み下し続けたのとは、意味合いが異なる。

 

 私には、愛する人がいた。

 確かに、愛する人がいた。

 その人は、人ではなかったけれども。

 人であることを、とうに止めてしまった人だったけれども。

 それでも、私は愛した。

 確かに、彼を愛していた。

 自惚れでなければ、きっと彼も私を愛してくれた。

 それは、分かる。

 だって、彼は私の中にいる。

 今も、私の中で、私を想い続けてくれている。

 その、暖かさ。

 私の冷え切った体温を、心地よく溶かすような、その甘い暖かさ。

 

 それを抱きながら、私は英雄王に犯された。

 

 そして、狂った。

 

 彼が私に与える、想像を絶する快楽の檻に。

 

『はあ、はあ、はあ―――』

 

 頑なだった女の蕾は、いつしか、腐った果実のように愛液が溢れ。

 

『はあ、はあ、はあ―――』

 

 太い指をねじ込まれた尻の穴は、ぱくぱくと男を求めるように窄まり緩み。

 

『はあ、はあ、はあ―――』

 

 硬く閉じられた唇は、いつしか、彼の唾液を求めてだらしなく花開き。

 

『はあ、はあ、はあ―――』

 

 無理矢理だった口腔奉仕は、恍惚とした快楽を伴い。

 

『はあ、はあ、はあ―――』

 

 喉の奥に叩きつけられた生臭い液体の咽喉越しは、天上の美酒にも勝り。

 

『はあ、はあ、はあ―――』

 

 嫌悪しか覚えなかった愛撫は、幾度となく快楽で脳を焼き。

 

『ごめん、ごめん、さい、ごめんなさい―――』

 

 不浄の窄まりへの奉仕は、倒錯した悦楽で女の芯を痺れさせ。

 

『ゆるして、ゆるして、ゆるして―――』

 

 恐怖しか覚えなかった巨大な肉棒は、悦楽をもって私をひれ伏させ。

 

『アサ、シン―――』

 

 膣を、肛門を、何度となく貫かれ。

 

『わた、しは―――』

 

 女性器の最奥にて痙攣し、目一杯の欲望を吐き出した陰茎を想うと、女としての喜びが胸を満たし。

 

『はあ、はあ、はあ―――』

 

 それをしゃぶり清め、再び屹立させたときに、牝としての誇りを満たされ。

 

『もっと、もっと、もっと―――』

 

 正常位にて悶え狂う私の足は、彼の腰に巻きつき、その亀頭をより深く迎えようとする。

 

『頂戴、頂戴、頂戴―――』

 

 後背位にて悶え狂う私の舌は、肩越しに彼の舌と絡み合う。

 

『いかせて、いかせて、いかせてください―――』

 

 騎乗位にて悶え狂う私の腰は、快楽を求めて前後左右に蠢く。

 

『出して、出して、出して―――』

 

 己の意思を持って、蠢く。

 

『そのまま、そのまま、そのまま―――』

 

 誰に強制される事もなく、ただ、己の意思のみをもって。

 

『いく、いく、いく―――!』

 

 私の愛する人を、この胸に抱いたまま。

 

 愛する人に、見つめられたまま。

 

 

 ――愛する人を、愛したまま。

 

 

 私は、快楽に溺れた。

 

 何度も、何度も、達した。

 

 今までの生は、この瞬間のためにあったのだと、そう確信するほどに。

 

 幾度となく愛され、そして愛した。

 

『中々の伽であった。精々これからも励めよ、代羽』

 

 ことが終って、荒々しい吐息も収まらない、私に。

 

 恍惚として、未だ焦点も定まらない、私に。

 

 金色の男はそう言って、優しく口付けをしてくれた。

 

 それは、あの人が私を抱いてくれたときより、遥かに洗練されていて、遥かに甘美で。

 

 私は、確かに満たされてしまったのだ。

 

 ならば。

 

 私は、裏切った。

 

 私は、この人を、悲しませた。

 

 分かる。

 

 分かるのだ。

 

 この人の魂が、泣いている。

 

 滂沱の涙を流し、悲嘆にしゃくりあげながら。

 

 すまぬ、すまぬと、詫びている。

 

 私を守れなかったこと、それを悔やんで泣いている。

 

 すまない、許してくれ、と。

 

 ああ、なんで、貴方は。

 

 せめて、怒ってくれれば。

 

 その魂を紅く燃やして、残酷な罵声を叩きつけてくれれば。

 

 尻軽女と、売女と、家畜にも劣る娼婦と。

 

 そう、罵ってくれれば。

 

 私は、耐えられたかもしれないのに。

 

 彼の愛妾として、生きることも出来たかもしれないのに。

 

 なのに、謝るから。

 

 貴方が、その魂を悲しみに染めて、謝るから。

 

 あまりにも、やさし過ぎるから。

 

 もう、私は生きていてはいけない。

 

 生きていてはいけない。

 

 人は、愛する人が死んだら、自殺しなければならない。

 

 人は、愛する人が死んだら、自殺しなければならない。

 

 人は、愛に殉じなければならない。

 

 だから、私は死にましょう。

 

 この子とともに、死にましょう。

 

 果たして、卵が先か、鶏が先か。

 

 忌み子がこの身を焼き尽くすか。

 

 それとも、抑止が母子共々に塵と還すか。

 

 より皮肉なのは、後者だろうか。

 

 もし、あの赤い騎士が、私を滅ぼすこととなれば。

 

 私が殺した私自身が、私を滅ぼすこととなれば。

 

 それは、どれほど諧謔に満ちた―――。

 

 まあ、いい。

 

 どうでも、いい。

 

 どちらでも、いいのだ。

 

 どちらでも、私は死ぬことが叶うだろう。

 

 もう、疲れた。

 

 もう、死にたい。

 

 もう、死にたい。

 

 もう、死にたい。

 

 もう、死にたいのに。

 

 何で。

 

 何で、貴方達は。

 

 こんな私を、助けるために。

 

 どうして。

 

 もう、いいのに。

 

 英雄王も、狂った神父も。

 

 全て、私が連れて行きますから。

 

 私が、この世界ではないどこかへ、連れて行きますから。

 

 なのに、貴方達は、何故。

 

 知っている。

 

 私は、その理由を知っている。

 

 この身に宿らせた、赤い騎士の記憶が、私に教えてくれる。

 

 それが、衛宮士郎が与える、優しさだと。

 

 それが、衛宮士郎の受け取る、優しさだと。

 

 何て、残酷。

 

 これじゃあ、おちおち眠ってもいられない。

 

 一緒だ。

 

 私の一番愛する、愛しの暗殺者と、一緒だ。

 

 なら、私は眠ってはいけない。

 

 彼らを見捨てては、いけない。

 

 彼のときは、見捨ててしまったから。

 

 今度は、絶対に見捨ててはいけない。

 

 だから、私は起きましょう。

 

 起きて、義務を果たしましょう。

 

 でも。

 

 何か、おかしい。

 

 じくじくと、体が痛む。

 

 この、感覚。

 

 不可思議な、感覚。

 

 身体の中で、何かが燃えているような。

 

 熱い。

 

 なんだろう。

 

 体が、燃えている。

 

 精神的な昂揚による錯誤ではない。

 

 事実、体の中で、何かが燃え上がっている。

 

 私を縛り付けた、冷たい鎖。

 

 それよりも冷たくて重たい、何か。

 

 それが、ぶすぶすと焦げながら、燃えていく。

 

 なんだろう。

 

 一体、なんだろう。

 

 分からない。

 

 分からないが、私が為すべきことは、一つだろう。

 

 だから、私は、喰らいついた。

 

 己の一番傍にあった肉に、ぞぶりと。

 

 犬歯が、その皮膚を、易々と食い破る。

 

 迸る鮮血が、英雄王の唾液と精液に塗れた咽喉を、清めていく。

 

 苦痛。

 

 もう、この苦痛を引き受けてくれる騎士は、いない。

 

 それでも、これが私の義務であるならば。

 

 受け入れよう。

 

 そう、誓った。

 

 視界の端を、赤い赤い糸が、ふわりと揺らいだ。

 

 そんな気が、した。

 

 

 果てしない剣戟音が響く。

 必殺の意志を込めた、剣舞。

 人智を超越した力と技の応酬。

 踊り手は、二人。

 身体中を朱に染め、それでもかつての主を守ろうと奮戦する、騎士王たる少女。

 その有様を、まるで初夜に震える花嫁の姿が如く愛で眺める、金色の英雄王。

 二人は、拮抗した戦士でありながら、その在りようは天と地と程に乖離している。

 騎士王、セイバーは、その端麗な顔を、正に必死の形相に歪めながら切りかかり。

 英雄王、ギルガメッシュは、その流麗な顔を、正に天上の芸術を眺めるように歪ませながら嘲笑い―――。

 それでも、二人の剣舞は尽きることは無い。

 理由は、単純だ。

 圧倒的な優位を誇る片方が、その敵を滅ぼす意志を持っていなかったから。

 鼠を甚振る猫のように、弱りゆく獲物の剣線を愉しんでいたのだ

 戦局は、常に一定。

 攻めるセイバーと、防ぐギルガメッシュ。

 その表情さえ見なければ、優位にあるのはセイバーと勘違いしてしまう、そんなふうであった。

 

「おう、騎士王よ、まさかこの程度ではないわなぁ!?」

「せいやああぁぁぁ!」

 

 嘲る調子の声に応えたのは、鉄を裂くような裂帛の気合。

 正しく鉄を断つ大上段からの一撃は、英雄王の片腕によって容易くいなされる。

 圧倒的なまでに体制を崩した彼女。

 それに報いる逆撃の刃は、少女の頬を軽く掠めるに終る。

 それは、受け手の技術によってではなく、攻め手の嗜虐によって。

 然り、ギルガメッシュの口端が、在り得ないほどの急角度で吊り上がる。

 セイバーの、騎士としての誇りは、最早その形状を残さぬほどにずたずたであった。

 

「…おのれ、英雄王、誇り高き騎士を、どこまで弄れば気が済むかっ…!」

 

 しかし、彼女が本当に罵っているのは、目の前に立ちはだかる英雄王ではない。

 自分自身。

 剣を握り、剣の勝負を挑まれ、満足な五体にて敵を仕留める事を為し得ない、己の無様こそが他の何者よりも許し難かった。

 賢明なる英雄王は、そのことを知っている。

 何故なら、彼こそは原初の王。

 己を至高とし、他の何者をも蹂躙し辱め貶めた彼である。

 目の前の少女が流す無色の嗚咽を、それ自体が名画であるように鑑賞する。

 支配されるものが流す無念の涙など、それこそ飽きるほどには賞味しつくしてはいる。

 それでも、少女の涙は美しかった。

 その無念が深ければ深いほど、その美を増していくかのようであった。

 

 ―――これで、その純潔を散らせば、如何程美しく泣き喚くのだろうか。

 

 その様を想像して、彼の男性は屹立していた。

 

「騎士の誇りは、下種な騎士のみが帯びればよい。我が妻には不要である。故に、雪いでいる。何か不可解な点があるのか?」

「おのれ、おのれおのれおのれぇ…!」

 

 セイバーは、痛恨の思いで叫ぶ。

 それと共に、この上ない殺意を込めた突きを繰り出す。

 目の前で嘲り微笑う、男の咽喉元目掛けて。

 しかし、そのいずれもが、ギルガメッシュに対して如何なる痛みを与えることは無かった。

 彼は、前に泳いだ少女の足を蹴り払う。

 当然、前のめりに倒れる少女。

 その無垢なる頬を、聖緑の瞳を、金砂の髪を。

 血と砂煙によって形作られた汚泥が、汚していく。

 しかし、それすら美しかった。

 その穢れすらが、彼女を飾り立てる極上の華化粧のようであった。

 

「―――ああ、やはり貴様は美しいな、騎士王。その顔が苦痛に歪めば歪むほど、その美は昇華されていく」

 

 倒れ伏したセイバーは、そのままの姿勢で振り返る。

 絶望と怒りに染まった彼女の視界、その中で、黄金の英雄王は、高らかに嗤っていた。

 絶対の隙を見せた敵を、仕留めることもなく。

 理由は、単純である。

 仕留める必要すらない、この獲物には、そんな資格すらない。

 それは、獅子に対する狩人ではなく、小鳥を愛でる少女の感情。

 その優しさが、あるいは残酷さが、本物の獅子の誇りを如何に傷付けるか、ギルガメシュは理解していた。

 

「己を誇れ、貴様の美は、確かに我を虜にしている。しかし、己を呪うならばそれも吝かではない。そうすれば、その美はより熟成されるだろうから」

「―――っ!」

 

 最早、声は無かった。

 セイバーは、名高き聖剣を杖代わりに、歯を食い縛って立ち上がる。

 苦痛に耐えるが故ではない。

 油断すれば漏れ出そうとする、その嗚咽を噛み殺すために。

 そして、再び構える。

 そして、切りかかる。

 まるで、永久機関。

 それも、お情けによって活動することを許された、永久機関。

 一体幾人の観客が、その様を見て笑い転げているのか。

 戦い続ける少女には、そのことすら分からなかった。

 

 本来は技術、体術、経験、そのいずれにもおいて騎士王に劣るギルガメッシュが、彼女を圧倒できる理由。

 それは、一つではない。

 鞘の奇跡をもってしても即座に癒すことが叶わない、乖離剣の傷。

 己の主の瀕死を前に、浮き足立つ少女の焦り。

 しかし、何よりセイバーにとって致命的だったのは、ギルガメッシュが手にしている両手剣の性質である。

 魔剣グラム。

 北欧神話の大英雄、シグルドの所有したといわれるその魔剣は、悪竜ファフニールを討ち滅ぼしたと伝えられ、バルムンクと名を変えて他の英雄譚にも登場するほどの名剣である。

 しかし、それと並び立つほどの名剣宝刀の類ならば、英雄王にとって珍しいものではない。

 今この場において重要なのは、その切れ味ではなくその性質。

 竜を、滅ぼす。

 ドラゴンスレイヤーとしての機能は、幻想種の頂点たる竜をして唯一の弱点であり、それを相手取る脆弱な人にとって、唯一の希望。

 当然、竜の因子を色濃く受け継ぐセイバーにとって、天敵ともいえる武器である。

 ならば、その原典たるメロダックにも、相応以上に竜殺しの性質は存在する。むしろ、神秘の深い古代に錬剣された分、その性質は顕著であるといえよう。

 その伝説が、少女の身体を縛り付ける。

 彼女自身理解し得ない重圧の正体は、それであった。

 そして、英雄王の背後に浮かぶ、無数の切っ先。

 それらは、全て竜殺しの逸話を持つ神器の原典。

 そのいずれもからグラムに勝るとも劣らない重圧感が放たれ、そのいずれもが少女の肢体を縛り付ける。

 普段の彼女であればその正体をいち早く見抜き、相応の手立てを講ずることも出来ただろう。

 しかし、ギルガメッシュの暴虐によって心身ともに限界を超えている彼女にとって、その明快な解答を導き出すことすらが困難を越えた絶事。

 故に、唯闇雲に、切りかかる。

 希代の英雄王は、当然、そのような無策が通じる二流三流ではない。

 故に、彼女は勝てない。

 簡単な理屈であった。

 大河は、まるで止まったように見えて膨大な水を流し続ける。

 変化が無いように見えるこの戦いも、いつしかその様相を変えた。

 無限に続くかと思われた剣舞は、意外なほどあっさりとその舞台の緞帳を下ろすこととなる。

 単純な話である。

 舞手が、飽いたのだ。

 

「ふむ、貴様と戯れるのも中々に愉しかったが…。宴は、酣をもってしめるものであるな」

 

 相変わらず出鱈目に切りかかるセイバー、英雄王は幾度もしたように、その足を払ってのける。

 一体幾度目か、数えるのも億劫なほどに繰り返された、地面との接吻。

 しかし、此度だけは違った。

 

「げふっ!」

 

 起き上がろうとする少女の脇腹を、男の固い爪先が、思い切り蹴飛ばす。

 セイバーは、めきりと、肋骨の拉げる音を、確かに聞いた。

 

「ぐええっ!?」

 

 ごろごろと、苦痛を撒き散らすかのように転がった彼女は、いずれその動きを止める。

 まるで団子虫のように丸まったまま寝転がる彼女の右腕を、英雄王は押えつけ。

 その、手にした長剣で。

 昆虫採集の虫を、ピンで縫い止めるが如く。

 

「う―――ぎああああああああ!」

「ああ、その悲鳴、十年間待ち侘びたぞ!」

 

 細い手首、その中央を深々と抉った魔剣の刃は、ほとんど柄に近い場所まで地面に埋まり、彼女を標本の蝶とした。

 それだけでは終らない。

 今度は、左手を。

 少女は、必死の思いで抵抗を試みる。

 それは、意地とか誇りとか、そういう人間的な感情の発露ではなく。

 ただ、生物全般が持つ、生存本能としての抵抗であった。

 

「見苦しいぞ、女!」

 

 英雄王は、目を見開いて己に噛み付こうとする少女の顔を、思い切り蹴飛ばした。

 鈍い音が響き渡り、その後に小石が落ちたように軽い音が響いた。

 少女の歯が、砕けて飛び散った音であった。

 しかし、セイバーは、己が足蹴にされた事実すら認識していない。

 何故なら、その左手を、歪な形をした刀によって貫かれていたから。

 

「いぎいいいいいいい!」

 

 刀の名は、天羽々斬剣。

 此度の聖杯戦争が執り行われるこの地で、暴竜八岐大蛇を屠り去った神刀である。

 その刀身が、右腕と同じように、少女の左手を地面に縫い止める。

 少女は、正に標本に貼り付けられた、虫と同じであった。

 

「う…あ…あ…あ…あ………」

 

 最早泣き叫ぶ力すら残っていないのか、セイバーは虚ろな視線で中空を見上げる。

 口の端からは血が溢れ、その前歯の幾本かは姿を消している。

 無惨。

 万人がそう評して、否定すること無いであろう、姿であった。

 

「さて、次は足か…」

 

 ぴくりと。

 意識を失いつつあった少女の瞳に、色が燈る。

 それは、敵愾心とは遥かに無縁の。

 恐怖と。

 そう呼んで差し支えない感情の為す表情であった。

 

「…殺せ、いっそ、殺せえええええ!」

「おう、忘れるところであったわ」

 

 少女の絶叫を聞きながら、ギルガメッシュは懐から一冊の本を取り出す。

 無銘の著。

 しかし、その本にはこのような名がある。

 偽臣の書、と。

 

「マスターたる我が命ずる。セイバー、自害を禁ずる」

 

 瞬間、圧倒的な魔力がセイバーの身体を包み込む。

 そして、その声を聞いた少女の瞳に、涙が浮かんだ。

 察したからだ。

 理解したからだ。

 己の命、その生殺与奪の権利を、目の前の唾棄すべき男に奪われたことを。

 騎士の誇りとしての自刃。

 その権利すら、奪われたのだと。

 セイバーは、己をかかる破目に陥れた、代羽という少女を心底恨んだ。

 

「次は、足であったな」

 

 男は、少女の右足を掴んだ。

 そして、剣を突き立てる。

 剣の名は、ネイリング。

 ベオウルフの、竜殺しの魔剣。

 

「ぐぎゃあああああ!」

 

 男は、少女の左足を掴んだ。

 そして、剣を突き立てる。

 剣の名は、アスカロン。

 聖ジョージの、竜殺しの聖剣。

 

「いぎいいいいいい!」

 

 そこには、蝶がいた。

 美しい、蝶であった。

 美しい。

 その羽の優美な模様は、見るもの全ての視線を奪って、決して離すことは無いだろう。

 そして、老いない。

 朽ちない。

 しかし、飛ぶこともなく、子を為すことも無い。

 額縁の中の、蝶。

 磔にされた、蝶。

 彼女は、正にそれであった。

 深々と地面に埋まった四本の剣は、そのいずれもが竜殺しの伝説を持つ聖剣魔剣神剣宝刀。

 竜の体に食い込めば、その命を切り裂くまでは、決して抜け去ることは無い。

 それが、四本。

 少女の四肢を、大の字に縫い止める。

 

「ぜひっ、ぜひっ、ぜひっ、ぜひっ、ぜひっ、」

 

 喘ぐような呼吸。

 焦点を失った聖緑の瞳は、今にも零れ出さんばかりに見開かれ。

 顔は蒼白、それを、絶え間なく溢れる涙と脂汗と涎が覆い尽くし。

 だらしなく開かれた唇からは、巨大な蛭の様に、舌が垂れ下がる。

 胸は、そこにピストンを仕込まれたエンジンのように、激しく上下し、酸素を貪る。

 しかし、彼女の苦痛に終わりは無い。

 当然だ。

 少女の体を責め苛むのは、二律背反する二つの要素。

 彼女の身体を癒そうとする、聖剣の鞘の加護と。

 彼女の身体を蝕もうとする、竜殺しの呪い。

 その二つが相克し合い、その激しい衝突が、そのまま苦痛となって少女を更に苦しめるのだ。

 身体中の血管に王水と剃刀を同時に流し込まれたが如き苦痛は、常人を越えた彼女の神経ですら致死量を越えている。

 それでも、彼女は死ぬことが許されない。

 何故なら、令呪をもって命じられたから。

 

 自害を禁ずる、と。

 

 単純な方向性をもって命じられた令呪の効力は、魔法に届くような強制力を働かせる。

 その絶対性は、精神の防御作用としての自死をすら、許すものではなかった。

 故に、彼女は壊れることすら叶わず。

 痛みによって、自我を失うことすら叶わず。

 ただ、断続的に点滅を繰り返す意識の中で、この世に生まれたことを後悔するような苦痛を味わい続けなければならない。

 それは、許されざる罪に鞭打たれ続ける、地獄の亡者が受けるべき拷問にも似た責め苦であった。

 びくびくと小刻みに跳ね上がりながら痙攣する小さな体と、苦悶と恍惚の入り混じった忘我の表情は、無上の快楽に絶頂を繰り返しているようですらあった。

 それは、騎士王と呼ばれた少女の表情ではない。

 アルトリアと。

 かつてそう呼ばれた少女の、限りない無慚であった。

 ギルガメッシュは、その様を満足気に見遣る。

 しかし、一瞬遅れて困惑の表情を浮かべた。

 それは、如何にもこの男には似つかわしくない、表情であった。

 

「…このまま婚儀を進めてもよいが…。それは寸毫、雅やかさに欠けるか…」

 

 男は呟き、虚空から器と酒瓶を取り出す。

 豪奢な装飾の施されたそれらは、かつての聖杯戦争において、『聖杯問答』と余人が呼んだ戯れに持ち出したものと同じである。

 彼はその器に神酒を満たし、その口に含む。

 そして、苦痛で喘ぐ騎士王の身体の上に、圧し掛かり。

 その唇を、彼女の唇に重ねた。

 

「んんん!」

 

 少女の身体が、大きく跳ね上がる。

 縫い止められた四肢から、血が噴出す。

 それは、今までの、痛覚が齎す苦しみを、幻と見紛わんばかりの苦しみ。

 体ではなく精神を犯された苦しみ。

 騎士王の頬を、少女の涙が濡らした。

 そして、彼女の口中に注ぎ込まれる、神酒。

 英雄王の唾液の混ざったそれを、セイバーは吐き出そうとする。 

 しかし、鼻を摘まれ、口を硬く塞がれた状態で、それは不可能だった。

 

「飲み込め」

 

 仮初とはいえ、マスターの言葉は、弱りきった彼女の体を、抗い難い強制力で満たし。

 少女の咽喉が、ぐびりと動いた。

 ギルガメッシュは、その様を満足気に見守る。

 やがて、少女の視線は、はっきりとした焦点を形作った。

 少女の胃の腑に納められた神酒の麻薬性が、彼女の苦痛を溶かしたのだ。

 

「…満足か、ギルガメッシュ」

「ふん?」

 

 宛ら生贄に捧げられた乙女のようなセイバー、それを見下すギルガメッシュの紅い瞳。

 セイバーは、思い出した。

 かつて、目の前の男が、己の肢体を舐めるように見回したことを。

 その、背筋の毛が総毛立つような、怖気。

 そして、理解した。

 磔刑に処された四肢、失われた聖剣。竜殺しの呪いに冒された体では、聖杯の鞘を展開させることも叶わないだろう。

 ならば、己に抗う術など、一つ足りとも残されていないことを。

 

「…我が身を、辱めたければ思うがままにするがいい。しかし、この心まで辱めることが出来るなど、ゆめ思うな!」

「…く、ふふ、ふははははははっ!」

 

 男は、嗤った。

 正しく、狂笑であった。

 セイバーは、不可思議に思った。

 その笑いが、異質だったからである。

 最初は彼女の無様を嗤っているのかと思ったが、どうも違う。

 何かが、微妙にずれている。

 

「何が、おかしい」

「いやいや、貴様が悪いわけではないぞ、騎士王。…いや、半分は貴様の責なのだが…」

 

 にこやかに歪められた紅い瞳が、再び少女の肢体を犯す。

 その乳房を、臍のくぼみを、陰核を、子宮を。

 それは、おぞましい蟲が這い回るような、先程の苦痛に勝る程の耐え難い苦痛であった。

 

「先程、今の貴様と同じ啖呵を吐いた女を喰らってな。その女、最後はどうなったと思う?」

「貴様…!」

 

 英雄王は、虚空から一振りの長槍を取り出した。

 紅く、紅い、槍。

 呪いの魔槍。

 破魔の紅薔薇、その原典。

 それを、少女の咽喉元に突きつけ。

 そのまま、少女の体をなぞるように。

 首から、胸の中央に。

 そのまま臍をなぞり、最後に股の裂け目まで。

 一切の手応えも破砕音も衣の悲鳴もなく、少女の着衣は切り裂かれた。

 少女自身の魔力で編まれた武装と衣服は、破魔の魔槍を前に、あまりにも無力であった。

 光となって霧散する、女の防壁は。

 その下に、瑞々しい、この上なく美しい、女神の裸体を隠していたのだ。

 

「最後はな、己の愛する者の名を泣き叫びながら、我の上で腰を振っていたぞ。その滑稽な様、貴様にも見せたかったわ!」

「この、下衆が…!」

 

 セイバーは、男の顔を目掛けて唾を吐きかけた。

 しかし、少女を真上から見下していた男の顔は、あまりに遠く。

 頂点を極めた液体は、重力に従って落下し。

 生みの親の顔を、汚したに過ぎなかった。

 男の哄笑が、再び地の底を満たす。

 少女は、女に生まれた身を、初めて呪った。

 



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episode98 悪女降臨

 揚砲。

 

 鉄山靠。

 

 上歩衝掌。

 

 連環腿。

 

 裡門頂肘。

 

 崩捶。

 

 馬歩衝靠。

 

 双掌打。

 

 進歩里胯。

 

 一方的な戦いだった。

 片方の繰り出す攻撃の悉くはその敵に届かず、片方の繰り出す技の悉くはその敵を蹂躙する。

 互いに、素手。

 拳法家たる言峰綺礼と、クランの猛犬クー・フーリンの戦い。

 しかし、圧倒的に優位なのは、常人たる綺礼の方であった。

 かつて、己の本質を探究するために修めた拳法、その絶招の数々は、一切の容赦なく槍兵の体を破壊した。

 幾度となく吹き飛ばされ、その度に硬い岩盤に叩きつけられたランサーは、身体中の皮膚を剥ぎ取られたが如き有様。既に、人が歩いているのか肉の塊が歩いているのか分からない程酸鼻を極めた容貌。

 しかし、彼の口元から笑みが消えることは無い。

 身体中を朱に染め、其処彼処に青黒い痣を作りつつ、それでも槍兵は立ち上がる。

 まるで、それこそが戦士の誇りだと言わんばかりに。

 

「…呆れた頑丈さだ。常人なら、十は既に死んでいるが」

「はっ、俺を常人と比較するか…かは、げぼぉ!」

 

 ランサーは、咳と共に赤黒い血液を吐き出した。

 果たして、それが消化器系へのダメージによるものなのか、呼吸器系へのダメージによるものなのかは彼自身も分からなかった。

 分かっているのは、既に使い物にならない己の体と。

 敵と自分、その圧倒的なまでの実力差であった。

 

「ったく、くねくねと妙な動きをしやがって…。面倒くせえったらありゃしねえ…」

「それが、拳法というものだ。古来、拳法とは弱き者が力強き者に立ち向かうために編み出した術理の集大成故な。凡夫たる私が英雄たる君に挑むに、これほど相応しい武器も存在しない」

 

 油断なく腰を落としたまま、言峰綺礼はそう言った。

 満身創痍の半死人を相手に一切の手加減をしない。そういう意味での恥を、彼は一切覚えていない。

 何せ、今この場において彼が相対しているのは、かのクランの猛犬。

 僅か七歳の幼少時。

 十人の戦士でも御するのに梃子摺る猛犬、それを絞め殺した、ケルトの怪物。

 彼を相手取るに、たかが拳法を極めた人間如きが慢心していい道理は、存在しない。

 

「ああ、それはそれは、しゃらくせえ、な!」

 

 口の端を歪めたまま、ランサーは突撃する。

 それでも、ただ突っ込むだけ。

 無理もあるまい。

 彼は、それ以上の技を知らないのだ。

 槍術については言えば、余人には見えざる程の高きにある峰、その頂を極めた彼であるが、それ故に体術についての造詣はそれほど深くない。

 また、彼の生きた時代の闘技は、現代のそれ程に洗練されていなかった。

 

 単純な話だ。

 必要とされない技術は決して発達しない。

 

 彼の時代においては、人を殺したければ刃物を用いればよかった。

 ならば、誰が迂遠に、素手にて人を殺す術を修めたがるか。

 何故なら、そんなもの、戦場においては糞の役にすら立たないのだ。

 それは、現代においても同様であろう。

 人を殺したければ、刃物で武装すればいい。日本刀という凶器の危険性は、鍛え上げられた空手家の拳のそれを、遥かに凌駕する。

 人を脅したければ、銃器で武装すればいい。どれほど鍛え上げられた拳闘士でも、後頭部に銃口を突きつけられれば、大人しく財布を差し出すしかないのだ。

 しかし、それらは間違いなく法に反する。

 だから、人は己を鍛える。

 許された範囲で、己を、そして大切な誰かを守る力を手に入れるため。

 

 人を殺すことが重大な罪となり、しかし不当な暴力を制圧せねばならない。

 

 そういった二律背反の要請が産んだ畸形児こそが、拳法いうものの正体であるのだ。

 

 しかし、その畸形児は、今この場において、正統の嫡子たるランサーを強かに打ちのめした。

 理由は二つ。

 槍兵の体に刻まれた、英雄の宝具の爪跡。中でも、片腕を失ったのが致命的である。人の身体の部位は、その一つ一つが意外なほど重たく、突如としてそれを失えば致命的なほど重心が狂う。極端な話、直線に駆けるだけでも不可能事なのだ。

 そして、彼の手から失われた魔槍。槍を持たぬ槍兵など、銃弾の装填されない拳銃に等しい。銃身による殴打さえ注意すれば、それは既に武器足り得ない。

 だからこそ、神父は一見無謀ともいえる戦いを挑んだ。

 そして、神父の予測は完全に正しかったのだ。

 

「しいいぃぃっ!」

 

 神父の眼前にて、槍兵の体は捻じ曲がる。

 まず軸足が外側を向き、次に蹴り足が跳ね上がり、腰が回転する。

 中段蹴り。

 かつて、鉄の少年を、広い庭の端から端まで吹き飛ばした、致死の蹴りである。

 それを見て神父は。

 鼻で、微笑った。

 

「―――未熟」

 

 少年にとっては死神の鎌にも似た、その蹴りは。

 八極拳の奥義を極めた神父にとっては、あまりにも。

 

 溜めが甘い。

 腰が軽い。

 しなりが浅い。

 力の伝達が不十分。

 体重が乗り切っていない。

 狙いが読み安過ぎる。

 要するに、

 要するに、

 要するに―――。

 

「―――功夫が、練れていないな、ランサー」 

 

 然り、綺礼は、その蹴りをあっさりと捌くと。

 バランスの崩した槍兵の胸元へ。

 一歩、飛び込む。

 常識で考えれば、些か近すぎる距離は。

 八極拳という、近接戦闘に特化した武術の。

 明らかに、必死の間合―――!

 

「―――またかよ」

「まただ、ランサー。―――飛べ」

 

 震脚。たしかに、彼の靴底は、固いはずの岩肌を踏み抜いていた。

 生み出された膨大なエネルギーは、そのまま膝を通って腰へ。

 それは、身体の各部を伝わる過程において、倍化される。

 膝の屈伸、腰の回転、肩の捻り、背筋のうねり。

 そして、全ての功夫は、縦拳の、拳面に。

 その様、雷管を打ち抜かれた銃弾にも似ていたかもしれない。

 

 金剛八式、衝捶の一撃。

 

 かつて、衛宮切嗣の心の臓を、一撃にて破壊せしめた絶技。

 

 それが、槍兵の胸骨に叩き込まれた。

 

「がはあ!」

 

 高々と舞い上がった槍兵の体は。

 やがて、地面に叩きつけられ。

 ざりざりと、岩肌に鑢掛けられ。

 皮膚は剥がれ、肉が削れる。

 彼の体の一部からは、白い骨すら露出していた。

 

「は、ぐぎぃ、が、…、ぐぅ」

 

 地に伏せた獣は、身を捩り苦悶する。

 声にならぬ声。

 しかし、彼は立ち上がろうとする。

 不撓不屈。

 そう評して、更に足りない何かが、彼の瞳には存在した。

 しかし。

 

「げぼ、ごええ!」

 

 ばしゃばしゃと。

 吐き出された血液の量は、膨大。

 吐き出された血液の色は、鮮やかな紅色。

 今までの吐血とは、その質、量、共に一線を画する。

 明らかに、動脈が破れた故の吐血であった。

 おそらく、肺に肋骨が刺さったのだろう。

 それは、不死の身体でも持たない限り、明らかな致命傷である。

 立ち上がれない。立ち上がってはならない。

 それでも。

 それでも、彼は。

 

「…ランサー、告解すればな、私は今、呆れや軽蔑を通り越して、君の姿に感動を覚えている。畏敬の念すら禁じえない。答えてはくれまいか。一体、何が君をそこまで動かそうとするのか。英雄としての誇りか、それとも、闘争こそが君の願いたる故か」

「―――ああ、そんなところなんだろうがよ…」

 

 ふらりと。

 まるで、幽鬼が如き立ち姿。

 片腕は、最初から存在せず。

 岩との摩擦によって、その皮鎧は破け散り。

 露になった上半身、その一切が血に染まり。

 それでも、彼は立ち上がるのだ。

 

「それだけでは、ないと、そういうことか」

「…惚れた女の手前だ。格好つけなきゃあ、男が廃る。だろ?」

 

 槍兵の目に、仇敵を射抜くような暗さは、存在しなかった。

 そんな不純な感情は、どこかに置き忘れてしまったかのようであった。

 ただ、底抜けに明るい。

 太陽の下で友と遊ぶ、少年のような、瞳と声。

 その、愛の告白にも似たその言葉に、神父は苦笑した。

 

「…糞小便を漏らした小娘だ。今の貴様につりあうとは、到底思えぬが…。価値観の絶対を信じるほど、私も若くは無い」

「その通りだ。あれはな、いい女なんだ。具合だって最高なんだぜ。おまけに美人で、活きもいい。だから―――俺も、ちったあ頑張らねえと、つりあわねえんだよ。だからさ―――」

 

 からからと微笑ったランサーの口の端からは、絶え間なく鮮血が滴り落ちる。

 彼は、それを赤い舌で舐め取り。

 ごくりと、飲み下すと。

 

「もう一丁、頼むわ」

「―――胸を貸そう」

 

 獣が駆けた。

 迎え撃つは神父。

 結果の知れたる戦い。

 その終劇を告げるベルは、未だ打ち鳴らされない。

 

 

 何で。

 

 何で。

 

 どうして。

 

 貴方は。

 

 知っているでしょう?

 

 勝てないって。

 

 もう、私達に勝ち目は無いって。

 

 もし、その神父を倒しても。

 

 絶対に、あの金色の男には、勝てないって。

 

 分かっているでしょう?

 

 なのに。

 

 どうして?

 

 貴方は、私を。

 

 そんな、綺麗な瞳で。

 

 知らない。

 

 私は、知らない。

 

 そんな瞳、知らない。

 

 見えない。

 

 聞こえない。

 

 感じるのは、排泄物の臭いと、不快な感触。

 

 足が冷たいのは、漏れた小便が冷えたから。

 

 尻がべちゃべちゃするのは、漏れた大便がへばりついているから。

 

 まるで、あの蟲倉のような―――。

 

 それを、無様とすら思えない。

 

 もう、立ち上がれない。

 

 立ち上がろうとも、思わない。

 

 でも。

 

 何で、貴方は、私を。

 

 そんなに、綺麗な、瞳で。

 

 ただ、じっと、見るのですか。

 

 嗤ってください。

 

 蔑んでください。

 

 私は、相応しくなかった。

 

 貴方のマスターとして、貴方に抱かれる者として。

 

 一切、資格を持たなかった。

 

 なのに、貴方は、そんな瞳で。

 

 私を。

 

 嫌。

 

 もう、立ち上がるつもりなんか、なかったのに。

 

 このまま、土に還ってもいいと。

 

 そう、思いながら。

 

 なのに。

 

 その、瞳は。

 

 あの時の。

 

 私が、キャスターを、裏切って。

 

 貴方と、契約を交わしたとき。

 

 ランサー。

 

 つまり、貴方は。

 

 生きろと。

 

 戦えと。

 

 そう。

 

 何て、残酷な。

 

 でも、何て、相応しい。

 

 いいのですか。

 

 私で、いいのですか。

 

 貴方の隣にあるのが、私でいいのですか。

 

 もし、いいなら。

 

 こんな、汚物に塗れた、穢れた身体で。

 

 こんな、脆弱な、心根で。

 

 それでも、いいなら。

 

 もう一度。

 

 もう一度だけ。

 

 ―――。

 

 ああ。

 

 分かりました。

 

 分かりましたとも。

 

 捨てましょう。

 

 この命、貴方に捧げましょう。

 

 遠坂の頭首としてではなく。

 

 魔術師としてですらなく。

 

 遠坂、桜として。

 

 だって、綺麗だったから。

 

 私を見つめる、その瞳が。

 

 一切の感情を殺した、その瞳が。

 

 あまりにも、綺麗だったから。

 

 私は。

 

 私は。

 

 

 宴は続く。

 血と、肉と、反吐の舞い踊る宴。

 舞曲の曲目は、英雄の苦悶。

 楽器は彼の身体、打ち鳴らされるのは、肉が潰れ骨が砕ける低い音。

 それでも、宴は終らない。

 舞台に演者のある限り、この宴に終わりは無いのだ。

 

「うらああぁ!」

 

 振り回すような、槍兵の一撃。

 残った左手を振り回して、神父の顔面を打ち抜こうとする。

 綺礼は、襲い来るその拳を、手錠で縛られたが如き形の両手、その甲と手首の部位を用いて上方に逸らし。

 無防備になったランサーの懐に、一歩、踏み込み。

 当然、地を轟かす震脚。

 手首を返しながら、両の掌底をもって、槍兵の腹部を。

 

「ぐぶっ」

 

 虎撲手。

 

 形意拳が天才、郭峪生の生み出したる攻防一体の神技。

 練り込まれた気が、被害者の内臓を、蹂躙する。

 今までのように、槍兵の体が後方に弾け飛ぶことはなかった。

 それは、神父の放った全てのエネルギーがランサーの体に炸裂したことを意味している。

 目から、鼻から、耳から。

 彼の体に存在する、ありとあらゆる穴から、血が噴出した。

 立ったまま、目を見開いたまま。

 ランサーの瞳孔は、その機能を停止していた。

 

 勝負あり。

 

 神父は、そう確信した。

 いかに英霊、いかにサーヴァントといえ、内臓を粉微塵にされて生きていられる道理が無い。

 そして、彼の内臓は粉微塵だ。

 ゆえに、彼は死んだ。

 簡単な、三段論法としての体裁すら整えていない理屈であったが、彼は確信した

 

 それが、この戦いにおいて、言峰綺礼の見せた、初めての隙であった。

 

 すっくと、神父は膝を伸ばす。

 その、刹那。

 死体が、動いた。

 がしりと。

 その、顔面を。

 巨大な、掌が。

 

「づ、がばえだぜ、ごどびでぇ…!」

 

 如何にも楽しげに、微笑いながら。

 ランサーは、大きく口を開いた。

 底から覗く血に濡れた牙は、まるで悪夢のように。

 ぬらぬらと、桃色の唾液が、糸を引く。

 彼の意図は、単純明快。

 腕を引き寄せ、獲物の頚動脈を食い千切ろうと。

 それは、技ではない。

 人ですらない。

 獣が。

 人の形をした、肉食の獣が。

 

 しかし。

 

 哀れなるかな、哀れなるかな。

 

 一瞬、気を奪われた神父は。

 直後、その意識を取り戻し。

 自らの頭部を掴む、男の左手を、更に両手で掴み取りつつ。

 それを支点にして、脚は地を蹴り。

 中に浮いた神父の巨躯は、その両足を自由とし。

 蜘蛛が如き精緻と残酷をもって、槍兵の首に絡みつき。

 体を捻りながら、地に落ちる。

 

 飛びつき裏十地。

 

 神父の習得した八極拳の中に、このような技は存在しない。

 ただ、経験と、発想である。

 危機に陥った身体が、脳の命令を無視して動いた、輝くような反応。

 それさえなければ、槍兵の牙は、神父の首を噛み裂いていただろうに。

 

「まいったかね…と問うのは、侮辱だな」

 

 捕まえられた蝉のように、ばたつく槍兵の体を。

 その両足で、御しながら。

 神父は、その手に掴んだ腕を、大きく引き絞る。

 背を逸らし、後背筋を万全に活用し。

 

 めちりと。

 

 残された、ただ一本の腕、そこから布を引き裂くような音が。

 そのまま。

 止まらない。

 止まらない。

 どんどん、本来曲がらざる角度に、槍兵の腕は。

 めしめしと。

 ぶちぶちと。

 

「くわああぁ!」

 

 ランサーの口から、悲鳴が上がる。

 血に濡れた唾液が弾け飛ぶ。

 まるで、歓喜に悶える女のような、甲高い悲鳴。

 神父はそれを心地よく聞きながら。

 更に、折れ砕けた肘関節を、捻じ曲げて。

 やがて、ぶちりと。

 肘の関節、外側に向いたその内側から。

 折れた、白い骨、その先端が、露出した。

 綺礼は、それを満足気に眺めやると。

 ようやく、その両手を離したのだ。

 

「ぐううぅぅぅ!」

 

 地にて悶える、光の皇子。

 立ち上がった神父は、それを見下す。

 言峰綺礼は、この瞬間、確かに幸福だった。

 己の命を狙う復讐者を、返り討ちにした。

 しかも、凡百の輩ではない。

 クー・フーリン。

 伝説に謳われた、万夫不当の勇士を、である。

 片手間とはいえ、武に時間を捧げた人間にとって、これが嬉しくない筈が無い。

 あとは、地に伏せる敗者に、最後の慈悲を加えてやるだけ。

 そう思った。

 そして、気付いた。

 彼を見下す視線が、己のものだけではないことに。

 顔を上げる。

 そこには。

 

 白髪。

 

 赤黒い瞳。

 

 切れるような、笑み。

 

 夜をそのまま形にしたような薄いドレスと、それに包まれた豊満な肢体。

 

 本来は美しいであろうその白い足は、茶色く汚らしい液体に汚れている。

 

 まるで亡霊のような少女。

 それが、真紅の魔槍を片手に、微笑みながら己の従者を見下していた。

 

 綺礼は、大きく後ろに飛び退いた。

 距離をとり、そして構えを解く。

 傍から見れば、不可解極まる行動である。

 少女の手には、真紅の魔槍。

 それが本来の担い手のもとに帰れば、彼の優位は失われる。

 彼がランサーを圧倒し得たのは、あくまで互いが無手であるが故に。

 如何に瀕死の重傷を負っているとはいえ、彼我は凡夫と英雄である。

 宝具を手にした英雄を御しえると思えるほど、彼の思考回路は楽観的ではなかった。

 ならば、仕留めるべきだ。

 その槍が所有者の手に渡る前に、少女を仕留めるべきだ。

 その行為に、如何なる困難も伴わないことは、誰よりも神父自身が熟知している。

 彼が、腰を入れた突きを一撃叩き込めば、少女の顔面は陥没し、砕けた頭蓋骨から脳漿が飛び散るだろう。

 彼が、その柔い腹に本気の前蹴りを叩き込めば、口と肛門から内臓を吐き出して、少女は悶死するはずだ。

 それは、どちらもが確定した事実であり、当初の綺礼と桜の立ち位置は、それらを可能とする距離しか離れていなかった。

 必殺の間合。

 それを捨ててまで神父が欲したもの。

 それは、この主従が織り成すであろう、喜劇の鑑賞に他ならない。

 彼の顔に、深淵を覗いた者のみが浮かべる、豊かな笑みが浮かんだ。

 彼は、内心で、このような場面に立ち合わせてくれた神に、感謝の祈りを捧げたのだ。

 

 

「ランサー」

 

 冷たい声が、聞こえた。

 全く、火照った耳朶には心地いいくらいだ。

 ははっ、桜よ。

 声を聞いただけで分かるぜ。

 お前は、お前になったんだ。

 やっぱり、お前はそうじゃなくちゃあなあ。

 

「何をしているのですか。さっさと、立ち上がりなさい」

 

 お前は、やっぱりいい女だ。

 俺なんかには、二度も気に入った女を守れなかった俺なんかには、不釣合いな女だ。

 だが、桜よ。

 俺は、お前を手に入れるぞ。

 絶対に、放さんぞ、桜。

 覚悟して置けよ、桜。

 猟犬は、しつこいんだ。

 獲物の匂いは、決して忘れないし、逃さない。

 お前は、最悪の猟犬に噛みつかれたんだ。

 それを自覚しておけ、桜。

 

「無様な…それでも、英霊の端くれですか?」

 

 はは。

 このクー・フーリンをして、端くれと評するか。

 その言葉を発したのがお前じゃなければ、その咽喉笛を噛み切ってやるところだ。

 だが、無様というのには痛く同感。

 だったら、立ちあがらねえとなぁ。

 よっこいしょ。

 声は出ないから、心の中で声を出す。

 何とか、動いてくれた。

 ああ、鍛えておいて良かった。

 ここで立ち上がれなけりゃあ、男じゃあねえもんな。

 

「―――これを」

 

 差し出されたのは、真紅の魔槍。

 きっと、心地いい感触。

 俺は、それを心行くまで堪能しようとして。

 やっぱり、止めた。

 そんな目で見るなよ。

 言いたいことは、分かってんだ。

 

「…あい、げぼ、あいつとは、素手で決着をつけてえんだ…」

 

 それは、意地だ。

 あまりにも、醜く、誰も幸福にしない、意地。

 きっと、正義の味方を目指す、あの坊主と、さして変わらない。

 只の、意地。

 視線の先には、黒い神父。

 そのいけすかねえ笑みも、少しだけ見慣れてきた。

 

「このクー・フーリンが、ここまで虚仮にされて、黙ってられるか。だから、桜、その槍は―――」

 

 その台詞は、最後まで言わせてもらえなかった。

 ばかん、と。

 思い切り、後頭部を叩かれた。

 

「ってえな、何すんだ!」

「貴方は、どれだけ怠け者なのですか。貴方の相手は、彼ではない」

 

 桜は、屹っとした表情で。

 一切の慈悲も無く。

 もう一つの戦場を、指差した。

 そこは、少女の苦悶の叫び轟く、残酷絵巻。

 ギルガメッシュが、セイバーを、凌辱していた。

 

「英霊を倒せるのは、英霊のみ。であれば、貴方は彼女を助けに行きなさい」

 

 一瞬、返す言葉が無かった。

 この女は、言うのだ。

 片手を失い。

 残った片手をへし折られ。

 全身を血に染めた己の従者に。

 決して勝ち得ない、強大すぎる敵に挑んで来いと。

 そして、倒して来いと。

 ぶちのめして来いと。

 勝利を、もぎ取って来い、と。

 それは、なんと、無茶苦茶な―――。

 

「はい、だから、槍」

 

 ぽんと投げ渡された、愛槍は。

 俺の、折れ砕けた手の中に納まる。

 身を引き裂くような激痛があったが、ここで泣き叫ぶようじゃあ、それこそ犬にも劣る。

 だから。

 だから、俺は。

 

「本気か、桜?」

「冗談を言っているように見えますか?」

 

 首を傾けながら、満面の笑み。

 白く脱色された髪の毛が、さらさらと泳ぐ。

 

「お前、自分がどれだけ無茶な命令をしてるか、自覚してるか?」

「嫌いですか、こういうの?」

 

 その、瞳が。

 先程の怯えなど、一縷とて残さぬ、勝気な瞳が。

 優雅に歪められた口元が。

 ああ、桜。

 駄目だわ。

 俺は、本気でお前にやられたらしい。

 

「いいや、大好物だ」

 

 みしみしと、身体中の筋肉が膨れ上がる。

 痛みが、遥か彼方に吹き飛んでいく。

 全身を包み込む、高揚感。

 ああ、今なら、万軍とて単身で討ち滅ぼそう―――!

 

「先程の質問の回答です」

 

 投げ渡された、宝石。

 彼女の魔力の詰まった、せめてもの手向け。

 末期の水にも似たそれを、噛み砕いて飲み下す。

 全身に、更なる力が漲る。

 

「共にいてくれるだけでは、傍で慰めてもらうだけでは、私は満足できません」

 

 その言葉に、迷いは無い。

 であれば、俺の為すべきことは、ただ一つだ。

 

「私は、貴方と共にありたい。私から、共にありたい。それを、許してくれますか?」

 

 ならば、言葉は要らない。

 一度だけ、笑って。

 俺は、もう、振り返らない。

 目標は、もう見失わない。

 心臓を。

 あの、金色の、気にきわねえ野郎の心臓を。

 桜、お前にこそ捧げよう。

 

 

「―――失望したよ、遠坂桜」

「―――何故、でしょうか」

「あの日、姉を殺すと言い切った時の、底の知らぬほど暗い光を湛えた瞳、あれは相応に美しかったのだがな。今の君の瞳は、些か陳腐だ。失望を禁じえない」

「…それは、貴方にとって眩し過ぎるだけでしょう。貴方は、空っぽの洞穴だから、自分に飲み込めないものを拒絶してる。食わず嫌いの子供と一緒です」

「…成程な。或いは、それが真実やも知れぬ」

「私はあの時、貴方も殺すと誓った。今が、その約定を果たす時でしょう」

「ふむ、私『も』、か。であれば、君は今まで、誰を殺したのだ?それとも、これから誰を殺すのだ?」

「たくさんの、たくさんの人を。大事な人を。そして―――」

 

 深呼吸。

 

 大丈夫。

 

 今の私は、強い。

 

 今の私は、目の前の男よりも、強い。

 

 だって、失うものが多過ぎる。

 

 先輩、姉さん、そしてあの人も。

 

 失いたくない、大切なものが、多過ぎる。

 

 失うものがある。

 

 それは強さだ。

 

 失うものが無い強さ、捨て身の強さ。

 

 そんなもの、蟲にでも任せておけばいい。

 

 失うものがある。

 

 その、幸福。

 

 それがあれば、私は何時だって最強のはず。

 

「そして、何だね?」

「弱い、弱かった、自分を」

「―――いいだろう。君に価値を認めよう。遠坂桜、かつてのマキリ桜よ。君は確かに美しい」

「光栄です、言峰綺礼」

 

 思えば、私は初めて、彼の名を。

 この時に、呼んだのかも知れなかった。

 



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episode99 聖女堕落

 じゅぷじゅぷと。

 

 粘着質な液体の音で、目を覚ました。

 

 不思議な音だった。

 

 音でありながら、身体の深奥に火を灯すような。

 

 じゅぽじゅぽと、粘着質な音。

 

 速く、遅く。

 

 時折、空気を巻き込んだような音が混じる。

 

 泡立てた洗剤で、ガラスのコップを洗ったときのように。

 

 ぶぼっとか、ごぽっとか、そういう、間の抜けた音。

 

 なんだろう。

 

 この音は、なんだろう。

 

 それだけではない。

 

 人の声も、聞こえる。

 

 くぐもる様な、時折は感極まったような。

 

 その粘着質な音と、同調するように、或いは掻き消すように。

 

 聞き覚えのある、音。

 

 それとも、全く聞き覚えの無い。

 

 両方の感覚が、入り混じった、如何にも不可解な。

 

 なんだろう。

 

 この声は、なんだろう。

 

 瞼は、どこまでも重たかったけど。

 

 意識は、深いところに落ちて行こうとしていたけど。

 

 好奇心は、猫を殺した。

 

 とりあえず、目を開けることにした。

 

 ゆっくりと、目を開ける。

 

 

 そこには、金色が、在った。

 

 

 金色が、金色と、交わっていた。

 

 揺れる、金色。

 

 あれは、髪の毛だ。

 

 逆立った金色の髪が、上で。

 

 さらさらとした金色の髪が、下で。

 

 上の金色が、前後に体を揺すり。

 

 下の金色が、それに引きずられるように。

 

 ああ、わかった。

 

 蜘蛛だ。

 

 そして、蝶だ。

 

 蜘蛛と蝶が、交わっている。

 

 蜘蛛の巣にかかった蝶が、獰猛な蜘蛛に犯されている。

 

 身体中を、その舌で舐め尽されて、しゃぶりつくされて。

 

 身体中の体液を貪られ、干乾びてゆくのだ。

 

 からからに。

 

 残るのは、蝶の残骸。

 

 それは、既に、蝶と呼べるものではなくて。

 

 それは、何と、残酷な。

 

 手を、伸ばす。

 

 理由は、分からない。

 

 何をしようとしたのか。

 

 蝶を助けようとしたのか。

 

 蜘蛛が、憎かったのか。

 

 それとも、ああ、それとも。

 

 分からない。

 

 何も、分からない。

 

 酸素の行き渡らない脳味噌は、プリンか何かと変わるところが無くて。

 

 蜜に塗れた思考は、どこまでも曖昧で。

 

 ただ、目の前の光景を、ただ、見つめるのみ。

 

 ゆらゆら。

 

 ぎしぎし。

 

 揺れる、揺れる、二つの身体。

 

 まるで、安楽椅子みたいに。

 

 ゆらゆら、ゆらゆら。

 

 声が、聞こえる。

 

 女の、声だ。

 

 女の子の、声だ。

 

 やめて、と。

 

 ころして、と。

 

 もっと、と。

 

 おくまで、と。

 

 なんだろう。

 

 なんだろう。

 

 やがて、蜘蛛は、その動きを止めて。

 

 その毒液を、蝶の胎内に、注ぎ込んでいた。

 

 それで、最後。

 

 食事を終えた蜘蛛は、満足げに、蝶から離れる。

 

 その美しい金砂の髪を、一撫でして。

 

 どこまでも、愛おしげに。

 

 取り残された、蝶は。

 

 巣に繋がれたままの、蝶の残骸は。

 

 その脚の間から、白い毒液を垂れ流し。

 

 俺の方を、涙で濡れた、聖緑の瞳で見遣りながら。

 

 ぼそりと、こう言った。

 

 見ないで下さい、シロウ、と。

 

 そんな、夢を、見た―――。

 

 

 セイバーは、震えながら男を見上げる。

 ギルガメッシュは、嗜虐を含んだ視線で、少女を見下す。

 決着は、ついた。

 少女は、敗北した。

 その四肢を、長大な剣にて大地に縫い止められた少女。

 武器は無く、それどころか一切の衣服すら身につけない、完全なる裸体。

 おそらく男の視界には、彼女の秘めやかな女性器すらが露となっているはずだ。

 彼女が為せることといえば、その端麗な唇から漏れ出す美声をもって、男の誇りを罵ることくらいのもの。

 

 曰く、卑劣漢。

 曰く、騎士の誇りの何たるかを理解しない、野獣。

 曰く、力をもってしか女を従わせることの出来ない、不能者。

 

 少女の必死の攻撃を、男は微笑いながら受け流す。

 一切の反駁をしない。

 全てを、認める。

 

 応よ、我は卑劣漢。

 応よ、我は騎士の誇りの何たるかを理解しない、野獣。

 応よ、我は力をもってしか女を従わせることの出来ない、不能者。

 

 その通り、その通りと、嘲笑いながら。

 

 そして、言うのだ。

 

「セイバー、お前は今から、その男に抱かれるのだ」

 

 少女の顔が青くなる。

 彼女は、理解した。

 どれ程の弁舌を駆使して、どれ程汚い文句を並べたところで、男の確固とした自我は、傷一つ付かないだろうことを。

 だから、決着はついた。

 いや、それは正確ではないか。

 決着ならば、この勝負が始まった49秒後に、ついていたのだ。

 今しがた終わりを告げたのは、男の戯れ。

 籠の鳥を、ほんの少しの間だけ部屋に解き放ったのと同じ。

 鳥は、羽撃いた。

 狭い狭い籠の中、それよりは遥かに広い部屋の中。

 そこより更に広い大空へと通じる抜け道を探して。

 その様子を、飼い主は見つめた。

 無様に飛びまわり、透明な窓ガラスに衝突する様を嘲笑いながら。

 そして、時間が来た。

 鳥は、再び籠の中へ。

 もう、二度と外へ出ることは叶わない。

 羽は飾りとして以外の機能を失い。

 美しい鳴き声は、その番と睦言を交わすことも許されず、飼い主の耳を愉しませるだけ。

 今からの少女の人生は、ただ男の所有物として。

 彼を愉しませる、美しい小鳥として。

 つまり、そういうことだ。

 そういうことなのだ。

 

「我は女と食事に出し惜しみはしない主義でな。気の向くままに奪い、食らう。おっと、貴様には言ったことが無かったか?」

 

 くつくつと、陰に含む声は、隠し切れない喜びを孕んでいる。

 最早、セイバーはそれに応える気概も、必要性も見出さなかった。

 

 ―――どうせ、私は犯される。

 ―――もしかしたら、奴の子種で孕まされることもあるのかもしれない。

 ―――そうなったら―――。

 

 彼女は、如何なる手段を用いても、自決するつもりであった。

 令呪の束縛といえど、跳ね除ける自信があった。

 だから―――。

 

「私を抱きたければ、さっさとしろ。それとも、臆したか、英雄王」

 

 その口元に、皮肉な笑みを浮かべる。

 顔色の青さは隠しようがなかったが、それは如何にも彼女らしい表情であった。

 ギルガメッシュは、それを見て満足気に頷いた。

 この程度の窮状をもって手折れる華であれば、如何に美しかろうと彼の妻には相応しくない。

 如何なる凌辱にも、如何なる穢れにも汚れず、それを嘲笑って飲み下す。

 その程度も出来ぬ女であれば、彼が心奪われることは無かった。

 己の罪に悩み、そのことを直視できず、ただもがき苦しみ、それでも王を名乗った少女。

 本来、己以外の者が王を僭称するなど間違えても許容しない彼が、その少女には許したのだ。

 王を名乗ってよい、と。

 騎士王を名乗ってよい、と。

 それは彼が、一見脆弱すら見える少女の内に、輝かしいほどの強さを見出したからに他ならない。

 もしかすると、彼なりの愛情表現であったのだろうか。

 いずれにせよ、余人に彼の思考を追うなど、不可能を越えた絶事であるのだが。

 

「まあ、そう急くな。我にいち早く抱かれたいという心情、分からないでもないが、犬のように発情したのではその麗しさに傷が付こうというものだぞ、騎士王」

「はつじょ―――、貴様、どこまで私を辱めれば―――!」

 

 セイバーの視界から、金色の鎧の輝きが消え去る。

 彼女は、一瞬不審を覚えたが、かといって体を起こすことなど叶わない。

 一体、そう思った彼女の耳朶に、男の声がぶつかる。

 

「極上の美酒である。飲み下す前に、その産地と製法、歴史と略歴を知っておくのは、飲む側の礼儀と思うが、貴様はどうだ?」

 

 仰向けに磔とされた彼女、その足元から男の声は響いてくる。

 何を、戯言を―――。

 そう問おうとした彼女を、稲妻が如き鋭い感覚が貫く。

 

「ひゃん、な、なにを―――!」

「ふむ、美酒め、どうやらまだ栓は抜かれていないと見える。これは重畳」

 

 少女の女性器は、男の手によって左右に開かれて、その中身を曝け出していた。

 敏感な秘所に男の手が触れた未経験の感覚と、膣道が冷たい空気に晒された感覚は、少女から残り少ない平静を奪い取る。

 

「や、めろ、やめてくれ―――!」

 

 男は、その懇願に応える必要性を、一切見出さなかった。

 全く無遠慮に、品定めをするように、少女の深奥を覗き込む。

 真剣な男の視線の先には、少女の純潔を証する、見間違えようの無い証拠が、まざまざと。

 少女は、あまりの羞恥に身を跳ね上がれせる。

 四肢から血が噴出すのも、今の彼女には意識の埒外だ。

 

「くそ、貴様、死ね、呪われろ―――!」

「ふん、呪いか。この世全てと謳われた呪いも我を染めるには至らなかったが―――騎士王よ、貴様はどうであろうな?」

 

 ぞくりと。

 少女の全身の産毛が、逆立った。

 それは、今までとは異なる感情の発露。

 今までのが、己の表層に汚泥を塗りたくられる嫌悪であれば。

 今のは、己のはらわたを毒液でもって満たされるという恐怖。

 単純に、生命の危機に対する恐怖であった。

 

「このまま貴様を抱いてもいいのだがな。力ずくで処女を花開かせるのは我の好むところなれど、四肢を貫いた貴様をこのまま抱くというのも、些か趣に欠ける。そこで、だ」

 

 ギルガメッシュは、少女の口元に杯を突きつける。

 少女は、必死の形相でその中身を覗く。

 そこには。

 まるで、この世の全ての悪意を固めたような。

 くろい、くろい、泥、が―――。

 

「ギルガメッシュ、これは…?」

 

 隠し切れない脅えに震える、その声。

 まるで普通の少女のようなそれを、英雄王は歪んだ笑みをもって迎える。

 

「理解しているであろう?それは聖杯の中身、貴様が求め続けた聖杯の奇跡、その具現よ」

「これが、こんなものが、聖杯―――?」

 

 彼女は、その卓越した直感によって杯の中身が如何なる性質を持つものかを理解を理解した。

 呪い。

 それ以外の、何物でもない。

 呪いをもって何かをするとか、そういう不純物を一切取り除いた、純粋なる呪い。

 なるほど、この世全ての悪とはよく言ったもの。

 その羊水ですらこれなのだ。その本体は、如何ばかりの―――。

 

「思い煩う貴様の表情も美しいがな、今は思考する時ではなく決断するときだ。選べ、騎士王よ。この泥を自ら受け入れるか、それとも我に口移しで飲まされるかを」

 

 セイバーは、思わず目を見開き、その仇敵を見遣った。

 正気かと、そう問い質そうとした。

 これは、人の手によって手懐けられるものではない。

 それはサーヴァントでも同じ、いや、寧ろサーヴァントだからこそ。

 その言葉は、発せられる直前において騎士王の咽喉に飲み込まれ、日の目を見ることは無かった。

 何故なら、彼女は理解したからだ。

 彼女を見下す男、ギルガメッシュが、どこまでも本気であることを。

 

「もしその呪いを飲み下してそれでも我に歯向かう気力が残っていたならば、もう一度だけ貴様に機会をくれてやる。その刃をもって、我と存分に戯れよ」

「…飲まなければ?」

「無理矢理飲み下させるまで。最も、その時点において貴様は女と成り果てているであろうがな」

 

 ぎしりと、少女の口から歯軋りの音が響いた。

 彼女は、自覚した。

 自分は、どこまでもこの男の玩具に過ぎないのだと。

 そして、今の自分には、憎き敵の用意した選択肢のいずれかを選ぶ以外、一切の自由が残されていないことも理解してしまった。

 セイバー自身にとっては無限ともいえる逡巡、それでも実際は大した時間は経っていない。

 少女は、己の決意を口にする。

 それ以外の道を選びようが無かったとはいえ、騎士が、己の意志をもって選んだのだ。

 それを口にするときは、相応以上の気高さが必要なはずであり、少女の声はそれに満ちていた。

 

「…約定を違えるなよ、英雄王」

「侮るな。我は王ぞ」

 

 これにて契約は成った。

 少女は固く目を瞑る。

 それは、初めての男性を受け入れようと必死な、未通女のそれであった。

 

「口移しが必要かな、騎士王よ」

「侮るな、私は王だ」

 

 その時だけ、全く同じ拍子で、二人の表情に笑みが浮かんだ。

 英雄王は、全く無遠慮に、騎士王の口腔に泥を注ぎ込んだ。

 騎士王は、英雄王の流し込んだそれを、必死に嚥下しようとする。

 全く無味無臭のはずのその液体は、如何なる腐汁よりも、また如何なる毒薬よりも、少女の嘔吐中枢を刺激した。

 

「んうううう!?」

「溢すなよ。機会を二度用意するほど、我は寛容ではない」

 

 突如、少女の唇が硬く結ばれる。

 そして、その柔らかな頬が、まるで栗鼠の頬袋のように。

 閉じられた口が一層膨れ上がったのは、逆流した胃液の仕業だろう。

 重く、地の底から響くような呻き声が、鼻の穴から聞こえる。

 少女の体は泥の形をした呪いを、必死に吐き出させようとする。

 セイバーは、涙を流し、目を見開きながら、それを溢すまいとする。

 

「んぐ、うぐうう!」

「そうだ、それでいい」

 

 咽喉が、激しく蠕動する。

 腹が、飛び跳ねるように上下する。

 衣服に隠されない少女の薄い腹は、胃の腑が蠢く様を、はっきりと男に見せ付けた。

 そこには、紛れもない闘いがあった。

 嘔吐く本能を、意志の力で押し戻そうとする。

 少女の小さな鼻腔から、黒い液体が垂れる。

 焦点を失った視線は、まるで誰かの面影に縋りつくように。

 崩れきったその美貌を、最上の名画が如く眺める男が一人。

 その表情に、笑みはない。

 ただ、真剣に。

 名画の真贋を見極めるように。

 

 やがて、少女の体内での戦いは終わりを告げる。

 全力で暴れまわる防衛本能を、セイバーの意志が押し付けたのだ。

 ごくりと、泥が細い喉を通り、胃の腑に収められる。

 そして、彼女にとって、本物の地獄が、始まった。

 

 ギルガメッシュは、セイバーが泥を飲み下すのを見届けると、無表情に立ち上がった。

 

 ―――一度体内に取り込めば、アレが零れ出す事は無いだろう。

 ―――身体がそれを是としても、泥のほうが拒否をする。

 ―――つまり、騎士王は汚染された。

 ―――受肉するのも時間の問題だろう。

 

 そう考えて、少女を見下す。

 彼女の顔は、綺麗なものだった。

 少し呆けたようであったが、先程までの、嵐のような苦悶と穢れは消え失せている。

 ただ、視線は相変わらず虚ろで、絶えることなく何事かを呟いてはいたのだが。

 

「喜べ、騎士王。これで貴様は我と一緒になった。第二の生、精々謳歌しようではないか」

 

 再びしゃがみこみ、額に張り付いた少女の前髪を払い除けてやる。

 鼻の下にこびり付いた泥を、その指をもって拭い、舐め取った。

 

「此度の生は、貴様の価値に相応しい、享楽に満ちたものにしようぞ。―――それこそが、何よりも貴様を救うことになるだろうから」

 

 それは、彼なりの優しさで、気遣いであったのかもしれない。

 浅く開かれたままの少女の唇に、触れるだけの接吻を交わすと、男は再び立ち上がる。

 

「婚儀には、祝福が必要だ。祝福をもって、本当の意味で男と女は夫婦となる。我と貴様の婚儀、賓客にも相応の格式が欲しいところだが―――高望みは出来ぬか」

 

 そして、振り返る。

 そこには。

 疾風が如き、隻腕の男が―――!

 

「なればこそ、祝福しろ、クランの猛犬!犬畜生とはいえ、貴様の血をもって乾杯の神酒としようではないか!」

「やってみろや、ギルガメッシュ!」

 

 その、万軍を押しのけるような、鬨の声。

 その下で、倒れ伏した、少年の指。

 それが、僅かに、動いた。

 



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episode100 夢、もしくは後悔

「―――ン!」

 

 声がした。

 

 奈落の底から、天上の雲間から。

 

 声。

 

 五月蝿いと思う。

 

 私は、こんなに気持ちいいのに。

 

「―――い!―――ン!」

 

 呼ばれる。

 

 私の名前?それとも、私以外の名前?

 

 懐かしい、それともどうでもいい。

 

 もう、眠っていたいんだ。

 

 起こさないで欲しいな。

 

「―――きなさい、リ―――!」

 

 知っている。

 

 誰かが、今、ここにいないこと。

 

 私がここにいては、いけないこと。

 

 でも、でも、でも―――!

 

「起きなさいって言ってるでしょ、リン!」

 

 目が、覚めて。

 

 そこには。

 

 蛍光灯に光に照らされる、雪の少女と。

 

 掛けられた、暖かい布団。

 

 ああ、置いていかれたのだと。

 

 守られたのだと、自覚する。

 

 それは、優しくて、残酷で、情けなくて。

 

 私は、お腹を摩りながら。

 

 自分が泣いていることに、しばらく気付かなかった。

 

◇ 

 

 夢を見ている。

 これは夢だ。それ以外では在り得ない。

 だって、何も聞こえない。

 建物が崩れていく音も、燃え盛る炎の音も、断末魔の悲鳴も。

 きっと、あの時の夢。

 死んでゆく街を、あても無く歩いて、やがて彼と出会う。

 彼の人生が彼と出会ったことで始まったとするならば、これは多分前世の記憶。

 空気は肺を焼き、光は目を焼いた。

 動かない体。主人を失った四肢。

 ぼんやりと見上げる空、冷たい雨。

 ただ、息苦しくて。

 見上げた空に、懐かしい顔が。

 ああ。

 

 夢を見ている。

 これは夢だ。それ以外では在り得ない。

 だって、世界が漂白されている。

 白いシーツ、白い壁紙。窓の外は白い青空、話しかけてくる白い看護婦。

 無彩色の世界の中、ただ一つ色を持った存在が語りかけてくる。

 よれよれのダークグリーンのコート。

 しわくちゃのスーツ。

 ぼさぼさの黒髪。

 ところどころ剃り残しのある無精髭面。

 誰よりも知っている、見知らぬ男が問いかける。

 

「こんにちは。君が士郎くんだね」

 

 知っている。

 俺は、知っている。

 その、ぶっきらぼうで、不器用で、でも、どこまでも温かいその声が。

 どれほど、その子に安心を与えてくれるのか。

 

「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」

 

 彼は、選び取るだろう。

 必然の、選択肢を。

 

「―――そうか、良かった。なら早く身支度をすませよう。新しい家に、一日でも早く馴れなくっちゃいけないからね」

 

 たどたどしい手つきの、旅支度は。

 それでも、震える手で、一生懸命に。

 そうだ。

 今なら分かる。

 この頃から、彼は、もう―――。

 

「おっと、大切なコトを言い忘れた。うちに来る前に、一つだけ教えなくちゃいけないコトがある」

 

 いいかな、と。

 何気ない、必死さで。

 

「――――うん。初めに言っておくとね、僕は魔法使いなのだ」

 

 夢を見ている。

 これは夢だ。それ以外では在り得ない。

 だって、縁側に、男の子と、切嗣がいる。

 切嗣は、なんだか疲れたような顔で、月を見上げている。

 彼の視線の先には満月。

 やっぱり、疲れたような顔で。

 

「僕は正義の味方になりたかったんだ」

 

 知ってるよ、爺さん。

 

「でも、だめだった。正義の味方は期間限定で、大人になると、名乗るのが難しい」 

 

 そんなことはない。

 あなたは、いつだって、俺の理想だった。

 今だって、俺の理想だから。

 だから。

 あなたの理想は、俺が。

 

「ああ、安心した」

 

 彼は、静かに、眠るように息をひきとった。

 月は、まるで今夜みたいに真ん丸で。

 そのぼやけた輪郭が、本当に綺麗だったから。

 その子が泣いているのか、分からなかった。

 

 夢を見た。

 嵐の、夢だった。

 嵐のような、夢だった。

 嵐のように激しく、嵐のように儚く、嵐のように穏やかな夢だった。

 

『―――問おう。貴方が、私のマスターか』

 

 少女は、まるで俺の知っている少女で。

 

『関係あるわよ! 魔術ってのは金食い虫なんだから、使ってればどんどんどんどんお金は減っていくものなの!そうでなければ許さないんだから、とくにわたしが!』

 

 少女は、まるで俺の知っている少女で。

 

『はい。おはようございます、先輩』

 

 少女は、まるで俺の知っている少女で。

 

『ああ、時間を稼ぐのはいいが―――別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?』

 

『―――聖杯は欲しい。けれど、シロウは殺せない』

 

『判らぬか、下郎。そのような物より、私はシロウが欲しいと言ったのだ』

 

『―――やっと気づいた。シロウは、私の鞘だったのですね』

 

『最後に、一つだけ伝えないと』

 

『シロウ―――貴方を、愛している』

 

『お喋りはそれぐらいにして、お昼ご飯の準備をしてくれない? 道具一式、トートバッグの中に全部入ってるから。それと、あんまりモタモタしてると殺すわよ?』

 

『理想を抱いて溺死しろ』

 

『……信じられない。男の子に、泣かされた』

 

『そうだ、誰かを助けたいという願いが綺麗だったから憧れた! 』

 

『えへへ。キス、しちゃった』

 

『だ、だから色々は色々なのっ! もう、それぐらい察しろ馬鹿っっっっ!!!!』

 

『ええっと、し、しろう。士ろう。しろウ。しロう。し郎、城う、ではなく、士郎、士郎』

 

『ついて来れるか』

 

『……わたし、馬鹿、でした。ごめんなさい。ごめんなさい。こんなのつらいだけだった。ダメだって、負けるなって姉さんはずっと言ってくれてたのに、わたし、バカだから分からなくて、先輩が信じてくれたのに、裏切って、ばっかりで―――』

 

『おまえが最後のマスターだ。聖杯を前にし、その責務を果たすがいい』

 

『―――ううん。言ったよね、兄貴は妹を守るもんなんだって。……ええ。わたしはお姉ちゃんだもん。なら、弟を守らなくっちゃ』

 

『ええ、ただいま衛宮くん。そっちもいつも通りで嬉しいわ』

 

 夢を見た。

 

 騎士王の誇りを受け継いだ少年は、毅然と前を向いて明日を歩いた。

 

 赤い騎士の背中を見た少年は、己に対する覚悟を抱いて明日を歩いた。

 

 守るべき最愛の人を守りきった少年は、その温もりを抱き締めながら明日を歩いた。

 

 その顔のどれもが、輝かしくて、眩しくて。

 

 だからこそ、正視に堪えないほど、悲しくて。

 

 それらは、選ばれなかった可能性の残骸で。

 

 だからこそ、尊くて、冒し難くて。

 

 そんな、夢を、見た。

 

 きっと、幸せな、夢。

 

 嘘みたいに、奇跡みたいに、きらきらした、夢、

 

 俺以外の、誰かの、夢―――。

 

 

 様子見は無かった。 

 余裕など無かった。

 出し惜しみなど、ある筈が、無かった。

 必死である。

 正しく必死である。

 血が玉となり、そして雫となって滴る、逆立った髪。

 赤く染まった眼球は、見開かれた瞼から、今にも零れ落ちんばかりであり。

 いっそ裂けよと開かれた唇、そこから放たれる咆哮は、怒り狂った獅子をも追い払うであろう。

 片腕を失い、血に塗れた身体。

 身体中が傷だらけなのか、傷をもってその男の体が構成されているのかすら分からない。

 しかし、それを見た英雄王は確信した。

 目の前の男は、今が、一番危険である、と。

 この場所に姿を見せたとき、その万全であったはずの彼よりも。

 その手に赤い魔槍を握り、宝具の真名を解放したときの彼よりも。

 今の、満身創痍で、そのまま棺おけに収まりそうなこの男が、今までで一番危険な状態であることを、英雄王の嗅覚は嗅ぎ取っていた。

 先程まで、いくら精強とはいえ、只の人間を前に手も足も出なかった半死人である。

 それでも、やはり、今の彼は危険であった。

 例えば、古来の侍が、刀を手にすることによって自らを別の存在に作り変えたように。

 彼が槍を手にするということは、彼が別の存在に作り変えられるということ。

 人ではない、何か。

 英雄ではない、何か。

 もっと、おぞましい何か。

 獣。

 いや、鬼。

 戦鬼、であった。

 

「おきゃあああああ!」

 

 人の声ではない、声。

 人の顔ではない、顔。

 

 それは、鬼の声だ。

 それは、鬼の顔だ。

 

 血を滴らせる、鬼。

 血を貪り喰らう、鬼。

 

 狂ったような笑みは、狂気を飲み込んだ狂喜の笑みで。

 驚喜に爆ぜ踊る彼の四肢は、凶器以外の何物でもなく。

 狂戦士、クー・フーリン。

 心弱いものであれば、そのまま失禁しかねないような、狂相を前にして。

 英雄王は、やはり微笑ったのだ。

 そして、無言。

 無言のまま、手を掲げ。

 そのまま、振り下ろした。

 放たれる宝具の軍勢。

 一切の遠慮なく。

 

「暖かい血を噴出して死ね、犬ころ」

 

 切っ先の槍衾を。

 避けない。

 致命的なものは、叩き落す。

 掠り傷なら、儲けものでしょう。

 突き進む。

 突き進む。

 十戒など求めない。

 海は割り裂けないことを、知っている。

 ただ、海底を走り抜ける、求道者のように。

 一直線に。

 我不知に。

 出鱈目に。

 愚劣に。

 蒙昧に。

 只管に。

 前に。

 前に。

 前に。

 そして。

 宝具の敷いた紡錘陣は、ただ一人、満身創痍の英雄が神速によって、走破された。

 

「―――おのれ、腐っても…!」

 

 英雄王、その手に、乖離剣。

 唸りを上げる。

 その、前に。

 槍の石突を。

 その刀身に、叩きつけ。

 がらん、と。

 音が、響く前に。

 血塗れの男は、呟いた。

 頬を、急角度に吊り上げて。

 

「―――刺し穿つ死棘の槍」

 

 

 赤い闇の中にいた。

 赤い闇の中にいた。

 赤い闇の中にいた。

 私は、浮かんでいた。

 私の中を開きながら、浮かんでいた。

 私の内と外を逆転させながら、浮かんでいた。

 はらわたが、溢れ出す。

 脳みそが、初めての開放感に感涙する。

 骨が、主の意志を無視しながら踊り狂う。

 そして、眼球は。

 内側に裏返った、眼球は。

 只管に、私を。

 私だけを。

 見つめて。

 

『―――王は、人の心が分からない』

『お間違えめさるな。剣は敵を討つ物ですが、鞘は貴方を守る物』

『困った御方だ。この期に及んでなお、そのような理由で剣を執るのですか』

『王よ。貴方は私を愛してくださらなかった。故に、私は貴方を愛さなかったのです。ならば、何故罰をもって私に報いようとするのですか。それが、貴方の愛ですか』

『聖杯を求めると。陛下、貴方は十二人の奇跡を持ち、それでも重ねて奇跡を欲されるか。なるほど、ふん、まっこと、貴方は王に相応しい』

『王位を!私を息子と認めてくださらないのなら、せめて王位を寄越せ!』

 

 私を見つめる二十四の瞳。

 それが、口々に私を罵る。

 

 私のせいで、早過ぎる死を迎えた者。

 私のせいで、その名誉に、拭えざる泥を塗りたくられた者。

 私が、自ら死を与えた者。

 

 瞳が。

 その後ろに、なお、瞳が。

 

 私を愛した妻。

 私が愛せなかった妻。

 私が愛した民。

 私が守れなかった民。

 

 その子供。

 その子供の子供。

 その子供の子供の子供。

 

 餓えて死んだ人。

 戯れに殺された人。 

 奴隷として、鞭打たれて死んだ人。

 愛する人の目の前で犯されて、自ら死を選んだ人。

 

 その死体が。

 その死体が。

 干乾びた死体が。

 蛆の湧いた死体が。

 白い骨となった死体が。

 もう、姿も形も消え失せた、死体が。

 

 夜空の綺羅星が如き、瞳の群れが。

 夜空の漆黒が如き、呪いを。

 

 口々に、口々に。

 

 死ね。

 死ね。

 死ね。

 

 ―――はい、いずれは遠からず。

 

 呪われろ。

 呪われろ。

 呪われろ。

 

 ―――はい、刺青のように、消えてくれない。

 

 貴様のせいで。

 貴様のせいで。

 貴様のせいで。

 

 ―――はい、きっと、理解しています。

 ―――だから、私は、聖杯を。

 ―――相応しい王を。

 ―――そして、貴方達を。

 ―――なのに。

 ―――なんで、私を、そんな目で。

 

 貴様が、身の程知らずにも、剣を抜いたせいで。

 貴様さえ、あの黄金の剣に手をかけることが無ければ。

 

 後ろを見たことがあるか、小娘。

 

 貴様が剣を抜いた、その瞬間の後ろを、だ。

 

 見よ、どれほど雄々しい勇者がそこにいたか。

 見よ、どれほど威厳あふれる覇者がそこにいたか。

 見よ、どれほど深い教養を湛えた賢者がそこにいたか。

 見よ、どれほど寛容と慈愛に満ちた聖者がそこにいたか。

 

 己を省みろ、小娘。

 

 貴様は、その男よりも雄々しいか。

 貴様は、その男よりも威厳を備えていたか。

 貴様は、その男よりも完璧な真理を学んだのか。

 貴様は、その男よりも神に近しい存在だったのか。

 

 己に問い質せ、小娘。

 

 貴様は、何ゆえに、王となったのだ。

 貴様は、何を欲して、王となったのだ。

 貴様は、何を目指すが故に、王となったのだ。

 貴様は、如何にあらんとして、王などというものを志したのだ。

 

 何故、貴様は王であらねばならなかったのだ。

 

 思い出せ、小娘

 思い出せ、小娘。

 思い出せ、小娘。

 

 思い出せぬか。

 ならば、それが、お前の罪で。

 永遠に、苦しめ。

 それが、貴様に課せられた、罰である。

 



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episode101 正夢、ゆえに悪夢

「私は、行かない」

 

 目の前の、少女。

 

 銀色の髪。

 白皙の、雪のような肌。

 

 赤い、瞳。

 

 軽蔑に染まった、瞳。

 

「―――それが、遠坂の頭首たる貴方の決断かしら、リン」

 

 声も。

 

 声も、同じ色に、染まって。

 

「…もう、私は、頭首じゃあないわ。だから、頭首の意向には従う義務がある」

 

 頭首は。

 

 妹は。

 

 桜は。

 

 私と、この子に。

 

 生き延びて、欲しいと。

 

 なら。

 

「…そう。それが、貴方の決断なのね。なら、いいわ」

 

 彼女は、無造作に立ち上がって。

 

 興味を、失せたかのように。

 

「…私は、助けたい。死んでも、助けたい。例え無力でも、役に立たなくても、足手纏いでも、シロウを助けたい。絶対に死なせたくない。だから、行くわ。貴方はそこで待っていなさいな」

 

 なんだ。

 

 それは、何だ。

 

 知っているさ。

 

 私だって、そうだ。

 

 助けたい。

 

 一緒に、戦いたい。

 

 死ぬときは、一緒に。

 

 でも。

 

 でも。

 

 でも。

 

 この子が。

 

 アイツと、私の、赤ちゃんが。

 

「…事情も知らないで、勝手なこと、言わないで頂戴」

 

 くすり、と。

 

 篭もった、笑い声。

 

 かちん、と。

 

 私の中に、硬い感情が。

 

「…何が、おかしいの」

 

 彼女は。

 

 子供ではない。

 

 女。

 

 少女ではなく、女。

 

 間違いない尊属の視線が、そこにあった。

 

「そうね。事情なら、私にもあった。それこそ、ありとあらゆる人に存在する。でも、貴方は私の頬を打ったわ。憶えている?」

 

 それは。

 

 城。

 

 溢れ出す、蛇神。

 

 泣き崩れた少女。

 

 その腕の中の、私の想い人。

 

 石くれになりつつあった、想い人。

 

 あれ。

 

 何時に間にか。

 

 目の前に、人影。

 

 襟元を。

 

 捩じ上げられて。

 

「ふざけるな、トオサカ!そこで泣き崩れていれば、満足か!それで、シロウは救われるのか!」

 

 その、台詞は。

 

 糞。

 

 畜生。

 

 剽窃するんじゃ、ないわよ。

 

「もしそうなら、シロウを寄越しなさい!貴方はここで死ね!私は、弟を助ける!」

 

 勝手なことを。

 

 勝手なことを。

 

 勝手な、ことを―――!

 

 小さな手を、打ち払う。

 

 すっくと立ち上がる。

 

 あれほど堅かった膝が、柔らかに曲がり、伸びる。

 

 何のために?

 

 ただ、戦うために!

 

「アインツベルン!私も行くわ!連れて行って!」

 

 そうだ。

 

 そうだ。

 

 もし、アイツが死んで。

 

 私だけが、生き残って。

 

 私だけが、逃げ隠れて、生き残って。

 

 この子を、私だけで育てることになったとき。

 

 私は、私を、誇ることが出来るだろうか。

 

 戦わなかった私が、戦った彼の尊さを、教えることが出来るだろうか。

 

 私の誇りを、彼の誇りを、皆の誇りを、この子に伝えてやることが、出来るだろうか。

 

「ふふ、いいじゃない、リン!ちょっと素敵よ!」

 

 それに、この子は私と士郎の子供だから。

 

 自分のせいで、私が戦えなかったと知ったら。

 

 きっと、怒るだろう。

 

 私と、誰よりも自分に。

 

 ならば、少しくらいの危ない橋、一緒に渡るくらいでちょうどいい。

 

「ええ、イリヤ!貴方と同じくらいには、きっと素敵!」

 

 袖で、頬を拭う。

 

 もう、見ない。

 

 きっと、涙でぐしょぐしょだ。

 

 それでも、これが最後だと理解している。

 

 情けない涙は、これで最後。

 

 なら、切り捨てた。

 

 弱い自分は、流しつくした。

 

 だから、後は戦うために。

 

 戦うため、だけに。

 

 待ってなさい、士郎。

 

 もう、何も無いけど。

 

 魔術刻印も、切り札の宝石も、何もかも失ったけど。

 

 きっと、貴方の重荷にしかならないけど。

 

 私が、助けたいの。

 

 誰の意見も、考えも、優しさも、どうでもいい。

 

 私が貴方を助けたくて、私が貴方と一緒に戦いたい。

 

 一番優先されるのは、私の感情。

 

 だって、私が一番偉い。

 

 私が、世界の真ん中だ。

 

 だから、士郎、覚悟しなさい。

 

 我侭な奥さんを選んだ、貴方の責任。

 

 私が、貴方を助けるんだから。

 

 

 結論は、出た。

 勝敗は、決したのだ。

 

 何も、覆らず。

 

 槍兵は、及ばなかった。

 弓兵の心臓に、赤い槍は突き立っていない。

 未だ無傷の鎧は、依然として煌びやかな輝きを誇っている。

 そこに、髪の毛一本分の傷すら無く。

 きらきらと、黄金色に煌く。

 それは、男の自我のように強固で、絶対であった。

 しかし、この瞬間に限って言うならば、それは鎧の頑強さが齎した結果ではない。

 槍は、確かに鎧に傷一つ負わせることは出来なかった。

 当たり前だ。

 対象に触れ得ない穂先に、どうして傷を付けることが叶うだろうか。

 

「…何、しやがった、てめえ」

 

 槍兵の呟きは、空しく虚空を満たしたのみ。

 応える必要性を見出さなかったのか、英雄王は無言である。

 そして、槍兵も求めなかった。

 彼は、理解したのだ。

 疑問を口に出した、その後に。

 いや、疑問を口にした、その瞬間に。

 

「―――ああ、そういうことかよ。しくじったな、こりゃあ…」

 

 彼の、疑問。

 何故、穂先は心臓を貫かなかったのか。

 何故、ゲイボルクが、発動しなかったのか。

 

 因果の逆転。

 

 如何なる防御も回避も意に介さず、ただ心臓を貫くという結果を齎す、不可避の魔槍。

 彼の前に立ちはだかる敵にとって、それは冥府の王の呼び鈴に等しい。

 しかし、それは絶対ではない。

 事実、その発動が即ち敵の死に繋がらなかった事例も、稀ではあるが存在する。

 例えば、剣の騎士と相対し、呪いがその幸運に及ばなかったとき。

 例えば、鈍色の大巨人と相対し、呪いがその宝具の加護を貫きえなかったとき。

 例えば、得体の知れない預言者と相対し、呪いがその不死を打ち破ることが出来なかったとき。

 絶対ではない。

 絶対など、存在しない。

 それは、重々理解している彼である。

 それでも、絶対であるもの。

 彼の、宝具。

 彼の、半身。

 それは、彼を裏切らない。

 力及ばず敵に敗れることがあっても、それが彼を裏切ることは無い。

 その、絶対の信頼。

 それが、打ち砕かれた。

 何故なら、宝具は、敵の如何なる術理に敗れたのではない。

 もっと単純に、そして明快に。

 

 宝具が、発動しなかったのだ。

 

 その真名を解放し、十分な魔力を込めたにも関わらず。

 因果の逆転は、起きなかった。

 それどころか、ただの突きを繰り出すことすら出来なかった。

 

 何故。

 

 一瞬の思考、しかし永遠ともいえる煩悶。

 

 そして、槍兵は悟った。

 

 己が、最も重要な錯誤を成していたことに。

 

「―――ああ、それじゃあ、勝てねえわ」

「そういうことだな。貴様は、見誤ったのだ」

 

 その声は、無念と呼ぶには透き通っていて。

 その声は、諦観というには明る過ぎて。

 

 やはり、苦笑と。

 そう呼ぶ以外、如何なる呼び方も相応しくない、そういう声だった。

 

 槍兵が、見誤ったもの。

 それは、敵の力量ではない。

 彼は、敵の力量については、極めて正しい洞察をしていた。

 曰く、自分よりも遥か高みにいる。 

 であれば、己が命を賭けて討ち果たすしかない。

 死して生を勝ち取る。

 それは決して間違えた選択肢ではなかった。

 そして、成功した。

 宝具の魔弾、その弾幕を潜り抜け。

 絶対の死を司る、乖離剣を叩き落し。

 丸腰となった敵の心臓に向けて、己が誇りを打ち放つ。

 これで必勝といわず、何というか。

 

 しかし。

 ああ、しかし。

 

 この敵の、真に恐るべきはそこにあらず。

 そこにあらず、槍兵よ。

 貴様は、見間違えたのだ。

 

 絶対の物量、それを誇る英雄ならば、他にもいるだろう。

 無限の如き破壊を齎す死の原典、それを越える宝具もあるやも知れぬ。

 

 それでも。

 ああ、それでも。

 

 この男は、最強なのだ。

 間違いなく、最強なのだ。

 英雄である限り、この男には勝てないのだ。

 何故なら。

 何故なら。

 

「…その剣、どこでガメやがった」

「さてな、我が宝物庫にある数打ちの一つ。その由来など、とうに忘れたわ」

 

 轟然と胸を逸らす、黄金の覇者。

 その背後に浮かぶ、無数の切っ先の一つ。

 そこにあったのは、稲光が如く、閃く魔剣。

 白刃は、砥ぎ水に濡れたように怪しく照り光り。

 豪奢さを省いた装いは、かえってその神々しさを高めるに至る。

 

 剣の名は、硬き稲妻。

 カラドボルグ。

 神造の聖剣、エクスカリバーの原型とも言われる宝剣。

 

 詳細こそ差異はあれ、英雄王が用意したその剣は、槍兵の親友たるフェルグス・マック・ロイの所有した魔剣そのものであった。

 

「てめえ、ウルスター縁の者か?いや、んなわけねえわな…」

「ふん、我は原初の王である。ならば、我が治世の後に生まれた雨後の筍が如き王朝の数々、悉く我が属国と言えような」

「―――ああ、なるほど」

 

 この上なく、無茶な言い分ではあったが。

 この男には、それが許される気がした。

 

 魔剣、カラドボルグ。

 誇り高きクー・フーリンは、一つにゲッシュを誓った。

 

『この剣を持つものがウルスターに縁の者であったならば、我が背を地に伏せること、一度限り許そうではないか』

 

 哀れなるかな、光の皇子。

 彼が生前誓ったゲッシュは、死後も彼を縛るのだ。

 

 つまり、簡単なことであった。

 ゲイボルグが発動しなかったのではない。

 彼が、その魔性を発動させなかった。

 発動させることが出来なかった。

 何故なら、それは必勝の呪いであり。

 それを成せば、勝利は彼のものとなる。

 であれば、発動させれば誓いを挫くことになる。

 故に、発動させることが出来なかった。

 愛槍が彼を裏切ったのではなく。

 彼が、その愛槍を、裏切ったのだった。

 

「―――天の鎖よ」

 

 号令に応じる兵士のように、どこからか飛び来る鎖の束は、既に総身の力を使い果たした槍兵を拘束する。

 荒々しくは無い。

 寧ろ優しげに、最上の礼儀を保つように。

 それは、敗残者を縛り付ける、黄金の手錠であった。

 全身に絡みつき、彼の、片方しか残らなかった腕を引き絞るかのように。

 がらりと、魔槍が足元で悲しげな音を立てる。

 俯くようにそれを眺めた槍兵は、まるで観念したかのように、身動ぎ一つしない。

 それは、鎖の所持者に対してある種の訝しさを憶えさせるに十分な光景であったが、同時に勝利を確信させるに十分な光景でもあった。

 鎖は、彼を逃がさない。 

 仮に彼が万全だったとしても、その鎖を引きちぎることは不可能だろう。

 かつて、神の使わした天の荒牛を捕獲した、鎖。

 対神宝具。

 光神ルーを父とする、半神クー・フーリンにとって、天敵とも呼べる宝具である。

 

「貴様は、そこで我が婚儀を祝福するがよい。然る後、相応しい死を下賜してやる」

 

 英雄王の、真の強さ。

 それは、絶対の物量を誇る魔弾でもなければ、絶対の破壊を齎す死の原典でもない。

 彼の強さの本質は、彼が備える財の、千万無量たる性質である。

 この世の全てを備えた宝物庫には、あらゆる伝説、逸話を飾る宝具の原点が眠る。

 英雄譚の騎士、その武勇を彩る、魔剣聖剣。

 御伽噺に登場する、魔女の秘薬、神秘の鏡、神々の財宝の数々。

 そして、その中には、敵する英雄の、天敵も、必ず。

 

 騎士王に対する、破竜の剣のように。

 神の仔に対する、対神の鎖のように。

 

 英雄である限り、彼には勝てない。

 伝説を持つ限り、彼には勝てない。

 それは、覆せざる、真理であった。

 ならば、彼を倒し得るもの。

 それは―――。

 

 

 歓声が起きた。

 ついに、現れたのだ。

 硬き岩に深々と突き立てられた選定の剣を、堂々と引き抜いた者が。

 

 それは、天を突くような、巨躯の男であった。

 

 太い腕、太い身体、太い笑み。

 

 誰しもが思い描く、覇王としての王が、そこにいた。

 

 私は、群集に混じって、その様子を見届けた。

 そして、安堵の溜息を吐いた。

 ああ、これで国が、救われた、と。

 

 程なく、彼は王位を簒奪した。

 彼は国中の諸侯を集め、大遠征に繰り出した。

 地の果てを目指すような、大遠征。

 当然、国中の男たちは、徴兵され。

 国中の食料は、徴収され。

 国は荒れ。

 民は飢え。

 冬が来て。

 一片の小麦も無い、あばら家の中。

 骨と皮だけになった私は、餓えて死んだ。

 シロウのご飯が恋しいなと。

 そう思ったのが、不思議だった。

 

 

 歓声が起きた。

 ついに、現れたのだ。

 硬き岩に深々と突き立てられた選定の剣を、堂々と引き抜いた者が。

 

 それは、深い知性を瞳に湛えた、痩身の老人だった。

 

 己の才覚に絶対の自信を持つ、挫折を味わったことの無い笑み。

 

 誰しもが思い描く、賢王としての王が、そこにいた。

 

 私は、群集に混じって、その様子を見届けた。

 そして、安堵の溜息を吐いた。

 ああ、これで国が、救われた、と。 

 

 まず、彼は法を整備した。

 それは、万人に公平な、素晴らしい法であった。

 故に、特権階級たる諸侯連中に受け入れられることは、無かった。

 内戦が、起きた。

 肉親が、血で血を洗う、凄惨な内戦だった。

 それでも、彼は勝ち残った。

 そして、王として君臨した。

 だが、その瞳にかつての輝きは無く。

 猜疑と妄執に塗れた、人を辞めた人の瞳だった。

 そこに、安らぎは無く。

 その治める国に、安らぎは無く。

 私は、一人で死んだ。

 病で、死んだ。

 道端で野垂れ死ぬ、犬のように、誰に省みられることも無く、死んだ。

 ああ、シロウの家だったら、私は、寂しくは無かったのに。

 そう、思った。

 

 

 歓声が起きた。

 ついに、現れたのだ。

 硬き岩に深々と突き立てられた選定の剣を、堂々と引き抜いた者が。

 

 それは、輝くような笑みを浮かべた、端整な若者だった。

 

 天真爛漫に笑い、人の心を捕えて放さない、その笑顔。

 

 誰しもが思い描く、名君としての王が、そこにいた。

 

 私は、群集に混じって、その様子を見届けた。

 そして、安堵の溜息を吐いた。

 ああ、これで国が、救われた、と。 

 

 彼は、優しかった。

 まず、民のことを第一に考え。

 諸侯とも、対話をもって、誠意をもって接し。

 いつしか、その心を打ち解けさせ。

 一切の争い無く、国を統一した。

 誰しもが、幸福だった。

 笑顔に満ちた国。

 誰も餓えず、誰も凍えず。誰も犬のように死なない、国。

 ああ、これが、理想の国家だと。

 私が、そう確信しかけた、その時。

 海の向こうから、他国の軍隊が、やってきた。

 争いに不慣れなその国の騎士は、無力であった。

 王の笑顔も、血に狂った兵士の前に、無力であった。

 国は、滅びた。

 民は、奴隷となった。

 私は、人の皮を被った獣どもに輪姦され、戯れに殺された。

 これが、シロウと同じ人間だと、考えたくは無かった。

 

 

 色んな王がいた。

 色んな国があった。

 そして、その悉くが、滅びた。

 滅びた。

 死んだ。

 民が、騎士が、王が、国が。

 死んで死んで死んで。

 その死体の上に、次の花が咲いていた。

 その花も枯れ、その上に次の命が。

 その、繰り返し。

 繰り返し。

 繰り返し。

 誰も、止められない。

 誰も、止められない。

 憎しみの連鎖。

 争いの無限環。

 死の無始無終。

 誰が王でも、一緒であった。

 誰が王でも、滅びた。

 誰が王でも、涙が在った。

 止められなかった。

 止められるはずが無かった。

 王という役職を脱ぎ捨てた私は、どこまでも無力だった。

 そして。

 そして、そして、そして。

 何故。

 私は、こんなにも。

 私の頬は、こんなにも。

 

『どうだい、ほっとしたかい?』

 

 声が、した。

 どろどろとした、黒い赤の中から、人のような、声?

 

『それがあんたの望みだろう?』

 

 私の、望み?

 

『そうだ。あんたは、誰かに押し付けたかったのさ。自分が背負った、重すぎる荷物をな』

 

 違う。断じて、違う。

 

『愉しかっただろ?他人がどう足掻いても、自分の治世を超える政治を為しえなかった、その滑稽な様は』

 

 そんなことは無い。断じて、無い。

 

『そうかい?じゃあ、なんで今のあんた、そんなに晴れ晴れとした顔なんだい?』

 

 顔。

 

『知っているのかい、騎士王』

 

 私は、そんな、顔を。

 

『とっくに気付いてるんだろう、騎士王様よ』

 

 民が、国が、そして私が滅びる様を、見せられて。

 

『わらってるぜ、あんた』

 

 何故。

 

 あああああ。

 

 どうして。

 

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

 

 この、頬は。

 

 こんなにも、醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く歪んで。

 

 嫌だ。

 

 嫌。

 

 嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!!!!!

 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!!!!!!!!!!

 私は、哂っていない違う、私は、浅ましくない、私は、嗤ってなどいない浅ましくない、私は、私は、私は、私浅哂っていないましくないは私は、違う、私は、浅ましくない、私は、嗤ってなどいない、私は、私は、私は、私は私は、違う、私は浅ましくない、浅ましくな浅ましくないい、私は、嗤浅ましく哂っていないないってなどいない、私は、私は、私は、私は私は、違う、私は、浅ましくな哂っていないい、私は、嗤っ哂っていないてなどいない、私は、私は、私は、私は私は、違う、私は、浅浅ましくないましくない、私は、嗤ってなどいない、哂っていない私は、私浅ましくない浅ましくないは、私は、私は私は、違う、私は、浅ましくない、私は、嗤ってなどいない、私は浅ましくない、私は、私は、私はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!

 

『けけっ、わかんないかなぁ?あんた、安心してるんだよ。誰がやっても同じなら、自分に責任は無いってね。ああ、いいなあ、今のあんた、犯してから喰らいてえなあ』

 

 そんな。

 

 違う。

 

 私は、国を、民を、みんなを、救いたかった。

 

 それだけ、なのに―――。

 

『ひひ、なら俺様にこう願いな。《神様、世界の皆を幸せにしてください》ってな。そうすりゃあ、誰も死なない、誰も泣かない、誰も不幸にならない、理想郷だ』

 

 ―――そうだ。

 

 簡単な話だ。

 

 最初から、そうすればよかった。

 

 皆が幸せであれば、争いは生まれない。

 

 争いが生まれなければ、人は死なない。

 

 そうすれば、皆、幸せに。

 

 そうだ。

 

 私は、そう願うべきだった。

 

 彼も、そう言っていた。

 

 私は、馬鹿だった―――。

 

 神様、みんなを、この世界から、争いを、苦しみを、無くして、みんなを、幸せに―――。

 

『―――聞き届けたぞ』

 

 ぞくり。

 

 ぞくり。

 

 ぞくり。

 

 ―――わたし、は。

 

 私は。

 

 駄目だ。

 

 決して、願ってはいけない、願いを。

 

 願っては、いけない、対象に。

 

『救おう。世界の全ての人間を、悉く』

 

 あなた、は―――。

 

『我は、怨天大聖、この世全ての悪。それでも、私は願望器である以上、そなたの願いを叶えよう』

 

 アンリ、マユ―――。

 

 聖杯の中に、潜む、もの。

 

 それは、あらゆる願いを。

 

『簡単なことだ。人の争いを消したければ、人がいなければよい。人の苦しみを雪ぎたくば、人そのものを雪げばよい。騎士王よ、貴様の願いは正しく、かつ、その懊悩も正しい』

 

 違う。

 

 そんなの、私の、願いでは。

 

『違わないさ。人の争いは、苦しみは、外側からではなく内側から生じる。それは、罪とか穢れとかいうものよりも、もっと原始的な存在だ。ならば、人が人である以上、それは逃れ難い性である』

 

 知っている。

 

 そんなこと、貴様に言われるまでも―――。

 

『ならば、騎士王よ。貴様は、何故夢見た。誰もが笑いさざめく国を。それが夢物語であることを知りながら』

 

 私は、―――かった。

 

 私は、――たかっただけ。

 

 それ、だけ、なのに。

 

 どうして。

 

『解き放たれろ、騎士王。私は、君の咎を許そう。そして、全ての罪から解放しよう。そのための救世、そのための滅びである。死は、愛を完成させる。死こそ、最上の救いである』

 

 ああ。

 

 助けて。

 

 誰か、助けて。

 

『さあ、殺そう、君を憎む、亡者の恩讐を。さあ、殺そう、君の国を滅ぼした、許されざる咎人の同胞を。さあ、殺そう、君を苦しめる、ありとあらゆる煩悩を。親しい人を、愛しい人を、憎しい人を。殺して殺して、殺し尽くそう。そうすれば、君は救われる』

 

 違う。

 

 そんなもの、私の望みではない。

 

 助けて。

 

 誰か、助けて。

 

 誰か、私を。

 

 お願い。

 

「何故泣く、騎士王」

 

 何故?

 

 決まっているでしょう。

 

 悲しいからです。

 

 苦しいからです。

 

「そうか。では、何故悲しいのだ?何故、苦しいのだ?」

 

 重たいからです。

 

 冷たいからです。

 

 荷物が、重たくて、そして冷た過ぎるのです。

 

 償え、償え、償え、と。

 

 何度も、何度も、何度も。

 

 もう、耳に馴染んで、聞こえないほどに。

 

 鼓膜に張り付いて、固形化するほどに。

 

 幾度も、幾度も、幾度も。

 

 声が、声が、声が。

 

 私の、私自身の、罪を。

 

 暴き、糾弾し、弾劾し。

 

 離れてくれない。

 

 離れてくれないのです。

 

「耐え難いか、騎士王よ」

 

 はい。

 

 もう、耐えられない。

 

 一秒だって、耐えられない。

 

 だから、殺して。

 

 お願いだから、私を、殺して―――!

 

「ならば、我のものとなれ」

 

 ―――。

 

「その荷物、その苦しみ、その悲しみ、全てを我に委ねよ」

 

 ―――。

 

 ああ。

 

 あなた、は―――。

 

「お前は何も考えずともよい。全てを委ね、我の足元に跪いていればよい。そうすれば、永遠の安心を与えてやろう。最上の安息を授けようではないか」

 

 いいのですか?

 

 いいのですか?

 

 嘘を、言っていないですか?

 

 だって、この荷物は。

 

 こんなにも痛くて、こんなにも重たくて、こんなにも冷たくて。

 

 それでも、貴方は、これを。

 

 受け取ってくれる、と。

 

「むしろそれを寄越せ、騎士王よ。我はこの世の全てを手に入れるもの。そこに価値が在るならば、呪いであろうが苦しみであろうが、吝かではない。その全てが、我が愉悦なればこそ」

 

 見上げる。

 

 地面から、見上げる。

 

 そこには。

 

 私を、愛おしい、宝物のように、見つめる。

 

 真紅の、美しい、瞳が。

 

 ああ。

 

 王が。

 

 今まで、一度たりとも見出しえなかった。

 

 真の、王が―――。

 

「愛しているぞ、騎士王」

 

 ああ。

 

 ああ。

 

 英雄、王―――。

 

「我は、お前を愛している。だから、お前を、救わせろ。我が、他でもない我自身が、お前を、救いたいのだ」

 

 ぎゅうと。

 

 広い、暖かい、大きな、胸板が。

 

 鎧を纏わぬ、暖かな、その肌が。

 

 私の、小さな、冷えた、心臓を。

 

 まるで、鋳溶かし、作り変えるような―――。

 

 それは、なんと、なんと。

 

 心地、良い。

 

「―――です」

 

 声が、漏れ出した。

 

 あらゆる打算を排除した、声。

 

 それは、心の底からの、声、だった。

 

「何と言ったか、騎士王」

 

「私も、貴方を、愛します。貴方に、仕えます。貴方に、抱かれたい。貴方の、妻と、なりたい」

 

 彼は、その一言に。

 

 本当に、嬉しそうに。

 

 少年のように、瞳を輝かして。

 

「後悔、せぬか?」

「―――後悔、します。きっと、間違いなく、後悔します。それでも、今、私は、貴方に抱かれたいのです―――」

「―――これより、普通の女ならば一生かかっても味わいきれぬ、女の肉としての悦びを、そなたに与えよう。覚悟はいいか、我が妻よ」

 

 はい。

 

 私は、貴方の、后なれば。

 

 頤に、ほっそりとした指が、添えられて。

 

 くいと、持ち上げられ。

 

 そこには、優しげな、その顔が。

 

 その、瞳が。

 

 私は、目を瞑って。

 

 彼を、受け入れ―――

 

「駄目だよ、セイバー」

 

 

 意外なほど、さっぱりとした目覚めだった。

 徹夜明けに、思うが侭の惰眠を貪った、その直後のような目覚めだった。

 気持ちがいい。

 体が、思考が、きっと魂までもが、軽やかで爽やかだ。

 頭の芯を締め付ける頭痛は、無い。

 身体の各部を痛めつける疼痛は、無い。

 あらゆる痛みから解放されて、あらゆる疼きから解放されて。

 それは、きっと幻なのだと知る。

 

 見た。

 色んなものを、見た。

 それは、美しいものだった。

 ほとんどが、尊いものだった。

 時折は醜かったが、大半は気高く、近付きがたく、泣けてくるほどに愛おしかった。

 それは、人生だった。

 きっと、俺ではない誰かの、人生。

 衛宮士郎という存在でない誰かが送った、人生。

 それとも、それとも。

 あれが、衛宮士郎というものが、送るべき人生だったならば。

 俺は―――。

 

 まあ、いい。

 今、それは瑣末事。

 俺が、成すべきこと。

 それは―――。

 

「駄目だよ、セイバー」

 

 ふらりと。

 夢見るように。

 くすんだ金色の瞳をした、裸の少女は。

 俺の方を、霞んだ、瞳で。

 

「俺、好きな人がいるからさ、お前に偉そうなこと、言えないけど。きっと、今のお前がそいつを選んだら、後悔すると思うから」

 

「―――雑種。王族の婚儀を邪魔立てするか」

 

 そいつは、セイバーを抱き締めながら。

 セイバーは、そいつに縋りつきながら。

 その、噴出すような殺気は、冗談とかじゃあなくて。

 その、迷い子のような信頼は、作り物じゃあなくて。

 俺は、絶対に避けられない死を、確信したけど。

 俺が、無粋な邪魔者なんだって、確信したけど。

 でも、さ。

 でも、だよ。

 成すべきことが、あるんだ。

 なら、戦わないと。

 

「うん。本当は、セイバーが選んだなら、お祝いしたいんだけど。今のセイバーは、何かおかしい気がするから」

「…雑種よ。貴様らがそんなだから、この小娘は苦しまねばならなかったのだ。何故、そのことに気付かぬか。この姿こそ、この少女の本来なのだ。貴様らが、これの存在を捻じ曲げたのだ」

 

 うん、その考え方は大賛成。

 だって、セイバーは強すぎたんだ。

 だから、我慢をしすぎた。

 硬い剣は、折れやすいけど。

 折れることは、まだ、救いで。

 刀身に、無数の罅を、刻まれて。

 それでも耐える剣、その姿はどこまでも痛々しくて。

 だから、誰かに縋りつくのは、大正解。

 だから、きっと、これは只の嫉妬なんだろうな。

 こんなに綺麗なセイバーを、こんな奴に、渡したくないだけなんだろうな。

 

「貴様程度の器では、騎士王を飲み下すことは叶わぬ。潔く身を引け、雑種。ここは婚儀の場ゆえな、下賤な血で汚したくない。これは、最後の慈悲である」

 

 立ち上がる。

 目の前には、何も無い。

 何も無い、が、ある。

 ならば、為せるさ。

 何たって、この体は、そのためだけに特化した、魔術回路なのだから。

 

「…シ、ロウ…」

「…騎士王よ、お前は、まだ―――。…よかろう。セイバー、貴様の最後の未練であろうこの男、貴様の目の前にて八つ裂きにしてくれる。そうすれば、後顧の憂い無く、我が妻となることも出来るだろう」

 

 己の深奥に、問いかける。

 答えは、知っているけど。

 

「戯れである。なればこそ死力を振り絞れ。それが、死に行く者の、最低限の礼儀でり、義務である」

 

 立ち上がった、奴の姿。

 露になった上半身には、一切の隙も無くて。

 それでも、どうやら、好き勝手させてくれるらしい。

 はは、こいつは有難い。

 今、アイツが本気を出せば、間違いなく俺は針鼠だ。

 だから、感謝を。

 あいつに、セイバーに、兄さんに、今まで出会った全ての人たちに。

 感謝を。

 

「I am the bone of my sword.」             

 

 ぎちりと、脳の一部が軋みを上げた。

 

 苦痛で、詠唱が止まりかけた。

 

「Steel is my body, and fire is my blood.」

 

 ぶち、と、どこかで音が鳴った。

 

 視界が、赤く染まった。

 

「I have created over a thousand blades.」

 

 咽喉の奥から何かがせり上がって来たけど、飲み下したから何だったのか分からない。

 

 鉄臭かったけど、トマトジュースかな。『どんなトマトジュースだよ、それって』

 

「Unknown to Death.」

 

 警告音が、鳴り響く。『止めろ、止めろ』

 

 一体、どこから?『お前の、内側から』

 

「Nor known to Life.」

 

 警戒音が、鳴り響く。『辞めろ、辞めろ』

 

 一体、誰が?『お前、自身が』

 

「Have withstood pain to create many weapons.」

 

 脳のどこかが、拒否反応を示す。『それは、お前に許された呪文ではない』

 

 知っている。『真似するな、真似するな』

 

 知っているさ。『お前自身のために、真似をするな』

 

 でも、俺には、これしかないから。『それは、正解』

 

 これが、俺の出来る、唯一だから。『それも、正解』

 

 なら、唱えるさ。『それは、いいんだけど』

 

 これが、唯一の、衛宮士郎に許された、呪文、なんだ。『それが、大間違い』

 

「Yet, those hands will never hold anything.」

 

 ぎちり、ぎちりと、悲しげに軋む。『おいおい、ちょっとは考えろよ』

 

 軋みを上げる、脳味噌、身体、思考、魂。『何が、軋みを上げてるのか』

 

 ぎちり、ぎちり。『歯車が、噛み合っていないんだろ』

 

 何の、音、だろう?『単純だ。間違えたんだ』

 

 間違えた?『うん、そう』

 

 何を?『全てを』

 

 いつから?『最初から』

 

 最初?『そう、最初』

 

 君は?『俺は、衛宮士郎』

 

 僕は?『お前は―――

 

 衛宮士郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じゃあ、ない。』

 

「So as I pray, unlimited blade works.」



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episode102 代羽、シロウ、士郎

 もう一つ、戦いが在った。

 小さな、戦いである。

 取るに足らない、戦いである。

 例えば、その勝敗がこの決戦自体の趨勢に影響を与えるわけでもなく。

 例えば、その戦いに、世界の運命が委ねられているわけでもなく。

 ただ、意地と意地がぶつかる。

 故に、尊い。

 故に、凄惨な。

 戦いが、あった。

 

「さて、遠坂桜よ。まだ、続けるのかな」

 

 はぁはぁはぁ。

 

 荒い吐息が、広大な空隙を埋めていく。

 それは、少女の吐息。

 少女は、膝と接吻したがる掌を叱咤して、それでも背を伸ばして神父を見つめた。

 

「Es flustert―――Mein Nagel reist Hauser ab!」

 

 地を走る、鮫の鰭が如き影の刃。

 コンクリートを砕き、鉄を割り裂くそれは。

 

「蒙昧」

 

 ぐしゃり、と。

 神父の固い靴底、それが踏み砕いた。

 

「この程度の魔術では、今の私を相手取るなど、とてもとても―――」

 

 神父の、心臓。

 かつて、衛宮切嗣に打ち砕かれ、そして再生した心臓。

 既に、心臓ではない、心臓。

 それが、哭くのだ。

 嬉しさに、声を上げながら哭くのだ。

 ああ、帰ってきた、と。

 十年。

 決して短い時間ではない。

 その、長い旅路を終えた泥の一部が、母なるこの地において、涙を流し歓喜している。

 そこに、魔力が流れ込む。

 マキリ代羽に流れ込む魔力を真実無限と称するならば、今の彼に流れ込む魔力もまた、その飛沫とはいえ膨大な量で。

 魔術師としては二流の神父、しかし彼に為しうる最高の魔術行使を可能とし。

 

 五感強化。

 視覚嗅覚触覚聴覚味覚、その精度は、野生動物のそれよりも冴え渡り。

 

 反射の加速。

 全身を司る運動神経、反射神経、その伝達回路及び神経伝達物質の増幅及び質の向上。

 

 筋繊維と骨細胞、その量及び数の増幅。

 硬質化した骨格と筋肉は、真剣すら弾き返すほどに。

 

 身に纏う防弾僧衣及び各種武装の強化。

 ただでさえ小口径の機関銃の銃弾を弾き返すそれは、魔力をもって強化されたライフルの弾丸すら押し留めるだろう。

 

 かつて、『魔術師殺し』と畏怖された衛宮切嗣、彼をして畏怖させた魔人が、いまここに再臨したのだ。

 

「Satz―――Mein Blut widersteht Invasionen!」

 

 一点凝縮された、魔力の弾丸。

 それは、鉄を穿つ、金剛石の弾丸に等しく。

 

「脆弱」

 

 しかし、今の神父を包む、万単位の魔力の渦は。

 その一部を、拳頭に集中され。

 渾身の、中段崩拳突き。

 相殺され、霧散する、魔力の塊。

 

 遠坂桜の顔色が、その髪の毛が如く、白く染まっていく。

 

「尋ねるが―――よもや、本当にこれが限界なのか?」

 

 少女は、応えない。

 応える術を、持たない。

 何故ならば、完全に、それが事実であるから。

 彼女に許された、魔術行使は、今の彼女が為すそれで、完全に限界を極めていた。

 

「Es befiehlt―――Mein Atem schliest a!」

 

 魔力をもって織り成された、影の牢獄。

 それが、神父の四肢に纏わりつく。

 それでも。

 

「迂遠」

 

 極上の踊り手が如き連環腿。

 宙を舞う爪先が、細い、あまりにも儚い影の檻、その格子をへし折る。

 

 何一つ、通じなかった。

 何一つ、通じなかった。

 彼は、一度足りとてその脚を止めなかった。

 少女は、一瞬たりとも、彼の脚を止めることすら叶わなかった。

 

 圧倒的な、差。

 

 少女は、白を通り越して土気色となった顔で、震えていた。

 その足元に、ちょろちょろと黄色い小川が流れる。

 そのアンモニア臭に、神父は眉を顰めた。

 

「…懐かしいな、遠坂桜。君がマキリの家から救い出されたあの日、君はその排泄すら己の思い通りに出来ぬほど、衰弱していた。あの日、私は君の襁褓を変えながら、その細首を縊り折る誘惑と戦わねばならなかったのだよ」

 

 ゆっくりと、殊更ゆっくりと近付き。

 

 逃げ惑う少女は、小さな窪みに足を捕られ。

 

 可愛らしい悲鳴と共に、地に伏せる。

 

 それでも、這いずって逃げようとする。

 

 その、首を。

 

 後ろから。

 

 むんずと、掴み取り。

 

 生贄の雌鳥が如く、天高く吊るし上げる。

 

「祈れ、遠坂桜。神は、寛大である」

 

 ひい、と、小さな悲鳴が漏れ。

 

 ごきり、と。

 

 神父の掌に、枯れ木の枝をへし折ったような、乾いた、音が。

 

 びくびくと、痙攣する身体。

 

 その重量を心地よく思いつつ、神父は少女を寝かしつけた。

 

 見開いたままの、瞳。

 

 断末魔に歪んだ、美しい顔立ち。

 

 鼻から、小さく血が流れ出す。

 

 きっと、苦痛は少なかったに違いない。

 

 それが、神父の、唯一の慈悲であった。

 

 そして、彼は背を向けて歩き出した。

 

 少女の死体は、一度大きく痙攣して、その生命活動を停止した。

 

 

 少年は、血を吐き出した。

 そして、全身を大きく痙攣させ、苦痛に喘ぐ。

 それは、あたかも魔術回路の生成に失敗した、焼けた芯鉄に貫かれたが如き、苦痛であった。

 ある種、自身にとって懐かしいその痛みを噛み締めながら、しかし彼の意識はそこには無い。

 彼は、必死に考える。

 ある種、哲人が己の存在意義に思いを馳せるが如く。

 

 ―――ど―――うして?

 ―――なんで、発動しない?

 ―――スペルに間違いはなかった。

 ―――これは、衛宮士郎の心象風景を具現化させるための、唯一無二のキーワードのはず。

 ―――なのに、どうして。

 ―――どうして。

 

 少年は、理解しなかった。

 この瞬間も、そして、その死に至る瞬間までも。

 彼は、最後まで理解し得なかった。

 何故、彼がこの時、この場所において、その魔術の行使に失敗したのか。

 魔力の量は、十分であった。

 二十七の回路は悉くが唸りを上げて回転し、大気に溢れるマナを変換していく。

 まして、彼には複数のパスが通っている。今はこの場にいない、彼の恋人、そしてその妹と。ならば、魔力が不足するなど、ありえる話ではない。

 イメージは、明確であった。

 彼の身に宿った弓兵の記憶、そして彼が見た誰かの夢、それらによって彼が形作るべき世界の骨子は、十全に把握されていた。

 

 故に、彼は生涯悩み続けることとなる。

 

 ―――何故、自分は、あの時、あのような呪文を唱えたのだろうか。

 ―――あんな呪文で、己の心象風景を具現化するなど、出来るはずが無いのに。

 ―――しかし、思ってしまったのだ。

 ―――これこそが、己にとって、唯一無二の呪文である、と。

 ―――何故。

 

「ふん、期待させた挙句にこの様か。まあ、雑種如きに期待した我が愚かであったのやも知れぬ」

 

 ぼやける視界。

 奴の背後に、無数の波紋が。

 そして、その中央から。

 無数の、切っ先。

 その一撃一撃が、死神の鎌。

 逃れられない、絶対の死。

 それでも、そんなこと、今の俺には胡乱過ぎる。

 頭を埋め尽くす、たった二つの単語。

 

 なんで。

 どうして。

 

「全く、何を意図したかは知らぬが、その無様、貴様に相応しいといえばこの上ない」

 

 無表情に。

 その手は、高く掲げられ。

 そして、その指が。

 

「消え失せろ、雑―――」

「やれやれ、阿呆ですか、貴方は」

 

 その声は。

 振り返る。

 そこには。

 いつもの、冷ややかな微笑みを浮かべた。

 すたすたと。

 裸足。

 裸。

 円やかに、新たなる生命を宿した、腹部。

 長い、黒髪。

 滴る血液。

 ぱしゃぱしゃと。

 両手首から先。

 何も、無い。

 

「にい、さん―――?」

 

 その、傷は?

 あなたは。

 なぜ。

 私が、助けに来たのに。

 どうして、貴方は。

 私を。

 

「代羽、その傷…なるほど、喰いちぎったか」

「王の婚儀、邪魔するのは無粋かとも思いましたが。これでも、人の肉を喰らうのは、慣れていますので」

 

 彼女は、真っ青な顔で、そう言い切った。

 誇り高く。

 口元を、己の血で、真っ赤にしながら。

 そして。

 

「衛宮士郎。今の貴方に、その魔術は使えない」

「どう、して…」

「貴方の魔術に、その呪文は相応しくないということです」

 

 彼女は。

 轟然と。

 その胸を、敵に晒し。

 その背は、俺を守るように。

 限りなく、誇り高く。

 まるで、正義の、味方みたいに。

 

「その呪文は、衛宮士郎にだけ許された、オリジナルスペルです。貴方は、貴方だけの呪文を組み立てなければいけない」

「…それは、どういう」

「まぁ、今の私なら、繋ぐくらいはできるでしょう。後は、貴方の役割ですよ」

「…何を話している?」

 

 くすりと。

 艶のある笑い声が。

 漆のように艶やかな。

 少女の黒髪の、向こうから。

 

「王よ。これは、舞台を追われた哀れな道化、その一世一代の晴れ舞台。どうか、刮目されたい」

「ほう、ならば許す。誠心誠意、道化てみよ」

 

 彼女は、優しく微笑んで。

 蛇みたいに蹲った俺の、眼前に蹲り。

 そのまま―――。

 

「…ん、ちゅ……」

「……ふ、ん……」

 

 舌と舌が、鼻息と鼻息が交じり合う、濃厚なキス。

 その、蕩けるような血の味は。

 桜との口付けを、思い起こさせた。

 見詰め合う。

 それは、黒曜石ような瞳ではなく。

 ただ、錆びた鉄のように、赤茶けた。

 どこかで見た、瞳。

 少し考えて、思い出した。

 この瞳の、色。

 そうだ。

 これは、アイツの瞳の色だ。

 しかめっ面で、無愛想で。

 ソイツが腹の底から笑っている顔なんて、見たことも無い。

 ソイツの顔を見るときは、いつも無言。静寂とのお友達。

 ああ、なんだ、これは―――。

 俺の、瞳の、色じゃあないか。 

 

「…ふふ、遠坂先輩には内緒です」

「…話したら、殺されるよ」

 

 なら、安心です、と。

 彼女は、高らかに笑い。

 くるりと、背中を向けた。

 

「即席ですが、パスは繋ぎました。後は貴方のやる気次第」

 

 風が舞うように、靡く長髪。

 さらさらと、斜光が舞い遊ぶように。

 沈み行く太陽の残滓、その色ではない。

 真っ赤な、炎の海のような、赤毛。

 燃え滾る、血潮のような、赤毛。

 それも。

 ああ、それも。

 

「弱音の類は聞きません。不平不満は飲み込みなさい。逃げ出すならば殺します」

 

 そして、背中が。

 その小さな、背中が。

 それでも、見たことの無いくらいに、大きな背中が。

 

「血路は私が開きましょう。―――ついて、来れますか?」

 

 お前に、全てを託すと。

 そう、言っていた。

 

「I am the bone of my sword.」

 

 その響きは

 

「Steel is my body,and fire is my blood.」

 

 魂の、深奥に響くかのように

 

「I have created over a thousand blades.」

 

 その言霊は

 

「Unaware of loss.」

 

 俺の、最も懐かしいものを掘り起こすかのように

 

「Nor aware of gain」

 

 ああ、当然だ

 

「With stood pain to create weapons.waiting for one's arrival」

 

 俺が、この魔術を扱えなくて、当然だ

 

「I have no regrets.This is the only path」

 

 だって、これは、彼女にしか許されない呪文

 

「My whole life was」

 

 俺如きが唱えるなんて―――百年、早い。

 

 ―――unlimited blade works.

      

 

 世界が、改変された。

 風景が、侵食された。

 それは、見るものに吐き気を覚えさせるほど醜く、涙を流させるほどに美しかった。

 迸る炎の環が、世界を分かち。

 外なる世界と、内なる世界が、反転する。

 そこは、少女の内なる世界。

 そして、少年の内なる世界。

 剣の墓場にして、剣の産所。

 朽ち行く剣と、生まれ来る剣が、綯い交ぜとなり。

 そこに立つ、己が王を、讃える様に。

 固有結界、無限の剣製。

 それは、『衛宮士郎』という存在にのみ許された、一つの極致であった。

 

「―――見事」

 

 感嘆を含んだその言葉に、少女は相好を崩した。

 英雄王は、歩みを進める。

 縋りつく、彼の后を振り切って。

 

「そこで待っておれ、騎士王。婚儀の続きは、この舞台が終ってからだ」

 

 そこにあったのは、覇者の瞳。

 向かい来る逆賊、それを返り討ちにする喜びに、満ち満ちていた。

 

「私は、ここでおしまい。ほら、こんな手では、剣を握れないから」

「であれば、誰がこの舞台を引き継ぐか?」

 

 知っている。

 

 決まっている。

 

 ここまでお膳立てされたのだ。

 

 誰が、引けるか。

 

 引く奴は、死ね。

 

 今すぐ、死ね。

 

 俺が、殺してやる、

 

「…そうか、貴様か、雑種。…主菜にしては少々物足りぬが…酒の質によってはそれなりに愉しむこともできようか。ならば、必死をもって来い」

 

 ああ。

 

 そうだな。

 

 これでも、お前のほうが強いもんな。

 

 でも、さ。

 

 俺は、違うけど。

 

 俺は、衛宮士郎じゃあ、ないけど。

 

 衛宮士郎なら、こう言うんだろ?

 

 知ってるぜ。

 

 こう言って、啖呵を切るんだ。

 

 だって、俺も一応、衛宮士郎、だからな。

 

「行くぞ、英雄王。―――武器の貯蔵は、十分か」

「片腹痛いぞ、雑種。―――我が財数に、空想如きが及ぶと思うなよ」



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episode103 風、吹き来る。

 少女は、その戦いをぼんやりと見つめた。

 美しい、少女だった。

 しかし、呆けたような顔をした、少女だった。

 裸である。

 一切の衣類を、身に纏ってはいない。

 白皙の肌に、金砂の髪。

 まるで、女神。

 いや、女神とて嫉妬に狂うような、美貌の少女だった。

 目も眩まんばかりに美しい、裸体。

 歳相応、いや、ひょっとしたら同年代の少女よりは貧相な体つき。

 それが、まるで中世絵画に描かれた天使のようで、かえってその美しさを際立たせている。

 それでも、その表情は、呆けたようであった。

 魂が抜けたような、何かを諦めたかのような。

 普段ならば綺麗に結われたその髪は、いつしか解かれ、さらりと流れるように。

 聖緑の瞳は、呪いに侵され、濁った金色に染まる。

 儚い、本当に解けて消え去りそうなほどにか弱い、少女。

 その、無垢な瞳が、その戦いを見つめていた。

 

 どうして。

 どうして、戦うのだろうか。

 どうして、彼らは戦っているのだろうか。

 戦えば、痛いのに。

 痛くて、苦しくて、重たくて、冷たくて。

 いいことなんて、何一つ無いのに。

 どうして、戦うのだろう。

 どうして。

 

「こんばんは」

 

 声が、した。

 振り向く。

 そこには、真っ赤な、真っ直ぐな、髪の毛が。

 そして、錆び色の瞳。

 大きな、お腹。

 その中に、赤ちゃんが。

 こんなに、綺麗な人の、赤ん坊だから。

 きっと、可愛いんだろうなあ。

 

「…謝罪は、しませんよ、騎士王。私は、貴方よりも守りたいものがあった。それだけの話なのですから」

 

 彼女は、私の手を摩りながら、泣いていた。

 私の、大きな穴の開いた手首を摩りながら、泣いていた。

 泣くくらいなら、謝るくらいなら、最初からしなければいいのに。

 私は、少し不機嫌になった。

 

「見てください。彼が、戦っています」

 

 知っている。

 少年が、戦っている。

 私の愛した人と、愛した人が、戦っている。

 剣と剣が、ぶつかり合う。

 剣と剣が、へし折れる。

 剣と剣が、砕け散る。

 同じ、剣。

 同じ、剣。

 それが、砕け散る。

 剣の双子が、砕け散る。

 剣の双子が、死んでいく。

 何故だろう。

 何故だろう。

 それが。

 私には、それが。

 とても、悲しくて。

 

「目を、逸らさないで下さい。自慢の、弟なのですから」

 

 必死の形相。

 必死の形相。

 二人は、遊んでいた。

 二人は、遊んでいた。

 気が合う、友人のように。

 それは、明らかに遊んでいた。

 楽しんでいた。

 如何なる暗さも無く、ただ、単純に。

 戦争ごっこに興じる、少年のように。

 何て、羨ましい。

 私にも、ああいう、未来が。

 あったの、だろうか。

 求めれば。

 掴めた、のだろうか。

 

「何て、羨ましい…」

 

 貴方も、そう思うのですか。

 私も、そう思うのですよ。

 

「この世界の衛宮士郎は、幸福です。きっと、幸福になることが出来る。その資格が、ある」

 

 ふわりと。

 抱き締められた。

 その、長い髪の毛が。

 どこかで嗅いだ、誰かの匂いに、似ていた気がした。

 どこだろう。

 誰だろう。

 

「だからこそ、貴方にも託したい。どうか、どうか彼を幸せにしてあげてください。お願いします。お願いします」

 

 泣きながら。

 謝りながら。

 それでも、彼女は私の瞳を、見つめたまま。

 ああ、この瞳は。

 この瞳は、誰の瞳だろう。

 どこかで、見たような。

 何だろう。

 

「ですから、一言だけ、許して」

 

 少女は、そう言って。

 真っ赤な、瞳で。

 真っ赤な、頬で。

 真っ赤な、髪の毛で。

 一番、真剣な、微笑を浮かべて。

 そして、こう、言ったんだ。

 

「―――セイバー。俺も、お前を、愛している」

 

 その、台詞、は。

 その、台詞、は。

 何故。

 何故、貴方が。

 

 イメージ。

 朝焼け。

 全てが終った、達成感。

 もう、戻れないという、絶望。

 それでも、誓ったのだ。

 もう、交わることの無い、道程だけど。

 それでも、振り返らずに、歩いていくと。

 それは、最後の誓いで。

 でも、きっと、原初の誓いに等しく。

 悲しかったけど。

 でも、誇り高くて。

 彼に愛された自分。

 彼を愛した自分。

 自分の知らない、自分。

 きっと、この世界の自分ではない、自分。

 ああ。

 ならば。

 ならば、だ。

 目の前の、女性は。

 代羽、は。

 どうして、そのことを。

 なんで。

 知って、いる?

 どうして。

 どうして。

 どうして。

 

「貴方と別れた衛宮士郎は、幸せになりましたよ。誰よりも誇り高く、生きて、生きて、生き抜いた」

 

 知っている。

 そうじゃないと、許さない。

 そうじゃないと、許せない。

 あの人が、許せない。

 自分が、許せない。

 私が、許さない。

 でも。

 答えて。

 答えろ。

 答えなさい。

 代羽。

 マキリ代羽。

 どうして、貴方が。

 彼の、未来を。 

 知って、いるのだ?

 

「ええ、ええ、知っています。とてもね、単純なことなのです」

 

 にこりと。

 少年のように、微笑って。

 翳りのない笑みで、微笑って。

 まるで、シロウのように、微笑って。

 

「だって、私の本当の名前は、ね」

 

 こしょこしょ、と。

 耳に、その唇を近づけて。

 囁くように。

 秘密を、打ち明けるように。

 厳かに。

 罪を、明らかにするかのように。

 内緒話をする、乙女のように。

 秘密を共有する、悪童のように。

 彼女は、やはり微笑いながら。

 

「―――と、いうのです」

 

 ―――。

 ああ。

 そんな。

 なん、で。

 どうして。

 貴方は。

 何故。

 そんな。

 非道い。

 酷過ぎる。

 貴方が。

 何故、そのような姿に。

 貴方、こそが。

 こんな、私なんかよりも

 誰よりも、幸せにならないと。

 いけないのに。

 

「だからこそ、貴方にお願いします。セイバー、どうか、この世界の衛宮士郎を、守ってあげてください」

 

 その、瞳が。

 錆び色の、瞳が。

 どんどんと、近付いてきて。

 最後まで。

 微笑いながら。

 ふわりと。

 唇に、暖かい感触。

 触れるだけ。

 お互いの存在を確かめるだけ。

 私が、ここにいる。

 貴方が、そこにいる。

 この上なく、捻じ曲げられて。

 手の施しようのないくらい、穢されて。

 もう、何一つ、貴方ではなくなってしまったけど。

 唇に触れた、この感触は。

 まるで、本当の貴方のようで。

 

「ふふ、今回は、順番どおりですね」

「じゅん、ばん…?」

 

 いぶかしむ私に、彼は笑いかけ。

 ぎゅうと。

 一層強く、抱き締めながら。

 

「以前は、先に凛に唇を奪われ、その後に貴方の唇を奪いました」

「い、ぜん…?」

 

 白みがかった、イメージ。

 ざらざらと、砂嵐の流れる、乱雑な視界。

 それでも。

 絡み合う、三人の男女。

 ボロボロの、廃屋。

 埃の積もったベッドが、どこまでも柔らかくて。

 これ、は―――?

 

「きっと、衛宮士郎から流れ込んだイメージでしょう。混乱しないで。それは、怖いことじゃあなくて、とっても優しいもの。私が、保証します」

 

 知っている。

 知っている。

 貴方に保証なんて、してもらわなくても。

 私には、いや、私なんかにだって、分かる。

 だって、こんなにも、暖かい。

 だって、こんなにも、暖かい。

 

「全く、アイツ、自分の記憶を俺の弟に流し込みやがったんだな。余計なことをしやがって。―――まぁ、そのおかげで彼は生き残ったんでしょうから…あながち、間違えていなかったのかもしれませんが」

 

 彼は、一人納得していた。

 その様子が、憎々しげで、でも、とても楽しそうで。

 まるで、過去の自分の失敗、それを語る、老人の瞳のようで。

 私は、悟ったのだ。

 

 この人は、ここで死ぬつもりなのだ、と。

 もう、あの家に帰るつもりは、無いのだ、と。

 

「でも、俺、相変わらず、弱いからさ。あの時、セイバーに叱られた時のままだからさ。ギルガメッシュには、きっと勝てない。だから、セイバー、お前の力を、借りたい」

 

 何故だ。

 

「きっと、さっきの言葉は、本心なんだろう?お前は、確かにあいつを愛してしまったんだ。それを殺せなんて、言えないけど。でも、このままじゃあ、俺の弟が、殺されちまうから。お願い、できないかなあ?」

 

 何故、燃え上がる。

 

「悪いなあ、セイバー、違う世界なのに、迷惑かけっぱなしで」

 

 私の、一番奥底。

 

「令呪だって、ないのにさ」

 

 呪いにだって、冒すことの出来なかった、一番深いところ。

 

「鞘だって、ないのにさ」

 

 そこを、とろとろと、炙るように。

 

「こんど、お前の好きなおやつ、何だって作って、やるから」

 

 この熱は、何だ。

 

「頼むよ」

 

 こんなにも、熱くて。

 

「アルトリア」

 

 ただ、熱い。

 

 

 世界の中心で、少年が戦っていた。

 歯車の雲、剣の木々、荒れ果てた大地。

 吹き荒ぶ風は、剣を錆び付かせ、やがて朽ちさせる慈悲の風。

 その世界の中心で、己の編み出した世界の中心で、少年が戦っていた。

 両の手に煌びやかな長剣を携え、荒く息を継ぎながら。

 

「くはぁー、くはぁー、くはぁー…」

 

 肩が、激しく上下する。

 もはや、呼吸を読むとか読まないとか、そういう次元ではない。

 倒れないのが不可思議なほどの、満身創痍。ただでさえ血に塗れた彼の衣服は、その上から新たな血化粧を被り、もはや元の染色が何色で成されたのか、分からないほどに。

 それでも、彼は死なない。

 体内で練成した剣を微細に砕き、その鉄分をもって血液を偽造する。

 その、粗悪な血液が、彼の全身に絶え間ない苦痛で蝕み続ける。

 それでも、彼にはその苦痛が愛おしかった。

 せめて、痛くないと、苦しくないと、途切れてしまいそうな意識。

 だから、彼は痛みがありがたかった。

 もし、ここで、地に膝を付けば。

 自分を許せないだろう。

 その確信が、あった。

 

「…千を越える財を砕き、それでも我が眼前に立ちはだかるか」

 

 呆れと感嘆を、等分に含んだ声。

 呟きたるは、かの偉大なる、最強の英雄王。

 未だ、健在。

 息は上がらず、微細な傷を負うことも無い。

 露になった上半身は、半神たる栄光と美々しさを顕示するかのようで。

 しかし、それよりも猛々しく。

 威風堂々と、兵陣の先頭に立つ、戦王のようで。

 なるほど、原初の王。

 こいつが王様なら、命を賭けてもいいかもしれない。

 その治世のための、人身御供となっても、後悔しないかもしれない。

 でも、今は敵だから。

 中々に、上手くいかないものだ、と。

 少年はそう考えて、やはり苦笑した。

 

「贋作者と侮ったが…。なるほど、或いは貴様をこそ、一番畏れていたのやも知れぬ」

「ち、がう…」

 

 荒々しく、息を継ぎながら。

 それでも、貴重な酸素を吐き出して。

 

「おれ、じゃ、なくて、おれ、たち、だ」

 

 王は、笑わなかった。

 その代わりに、深く頷いて。

 真剣な瞳で、少年を見遣って。

 

「そうであった。許せよ」

 

 その手に、長剣。

 いつの間にか、少年が持っていた物と同じもの。

 

「贋作は所詮贋作、真なる宝物に敵うはずはない。それは覆せざる真理だ。故に、誇れ。この世界は、貴様らの辿り着いたこの世界は紛れもない真品、そして至高の宝物である」

 

 それをもって、切りかかる。

 その、異様な光景。

 彼は、最強たる魔弾の射手。

 であれば、何人たりとも彼には近付きえず。

 その冷笑を歯噛みしながら、剣山となるだけが、許された運命。

 なのに。

 彼が剣を手に、切りかかる。

 それが、どれほどのことか。

 少年は知りえず、そして知りたいとも思わなかった。

 英雄王は、知らせるつもりも無く、その必要性も見出さなかった。

 それでも、やはり異常な光景だった。

 

「しかし、そこまでか、雑種!ほれ、もう足元が覚束ない様子だぞ!」

「くううぅ!」

 

 そして、それは最悪の戦術であったのかもしれない。

 もし、英雄王がいつもと同じように、無限の財、その射手であるに固執するならば、少年にも勝ちはあった。

 現れる剣軍を、片っ端から複製し、相殺する。

 そうして肉薄し、最後の一撃を加える。

 それも不可能ではなかっただろう。

 

 しかし。

 

 振り下ろされる、白刃。

 英霊たる男の全霊をもって打ち下ろされる、絶対に絶命の刃。

 少年は、辛うじて斬り返す。

 ぶつかり、砕ける刃。

 その衝突は同時に、少年の体内をも蹂躙する。

 常識を凌駕した酷使に、彼の筋繊維はずたずたに千切れ。

 慮外の衝撃に、彼の骨格は歪み。

 表皮はこそげ落ち、真皮は削れ、そのピンク色の肉が露出するに至る。

 土台、無茶な話である。

 人と英霊が打ち合うなど。

 それでも、少年は無茶を省みないから。

 その代償は、彼の体に刻まれていくのだ。

 

「もう、限界、か?」

「は、ぐええ―――!?」

 

 どごん、と。

 少年の腹に、男の蹴りが炸裂する。

 目の前に剣、それを弾き返すのに精一杯だった少年は、なす術もなく吹き飛ばされ、盛大に吐瀉物を撒き散らした。

 乾いた地面を反吐が濡らし、一瞬で乾かす。

 異臭がしたのも、一瞬であった。

 

「よくぞ、ここまで持ち応えた。褒美をとらす。名を、明らかにせよ」

 

 それは、王としての男がその敵に与えうる、最上の栄誉であった。

 しかし、少年は答えない。

 そんな無駄なことをする間に、深呼吸を、一回、二回。

 そのほうが重要であると、知っているのだ。

 そして、王も、そのことを知っている。

 だから、激昂もせず、失望もせず、静かに少年を見遣った。

 

「―――よかろう。あとで、貴様の連れ合いに問い質すとしよう。それでも、今生において貴様の名を忘れぬこと、ここに約そう」

 

 そう、宣言して。

 その、手には。

 円柱を、組み合わせた。

 唯一、この世界に存在しない、神剣を―――。

 

 まずい、と。

 少年の本能が、咆哮し。

 彼は、手直にあった剣を。

 片っ端から、投擲し。

 

「手ぬるいぞ、贋作者!」

 

 剣線一閃。

  

 名剣宝刀の山は、真なる神剣によって駆逐される。

 

 それでも、それは、確かな隙。

 

 その瞬間。

 

 少年は、全力をもって、駆け。

 

 その手に、大英雄の、大剣を。

 

 これが、最後の一撃。

 

 その、覚悟。

 

 英雄王は、知っている。

 

 その瞳は、決して侮っていいものではない。

 

 その瞳をした者は、完膚なきまでに叩き潰さねばならない。

 

 それは、王としての、本能であった。

 

「来い!」

「うおおおおおおおおおお!」

 

 そして。

 二人の影が、交わり。

 

 そこに、如何なる工程も、存在しない。

 あらゆる工程を無視し、しかし全ての工程を凌駕しつくし。

 幻想を結びて、現実を超越する。

 

「全工程投影完了――――是、射殺す百頭!!!」

 

 叩き込まれる九連戟。

 しかし、発動したのは、只の一撃。

 それで十分、しかし、九連の音速を叩き込んだ神速の一撃は。

 紛れもない、死神の鎌として、男の眉間に。

 吸い込まれるように。

 

「其れでも―――届かぬ」

 

 故に、英霊、と。

 最後までは、呟き得ず。

 代わりに。

 その、代わりに。

 彼は。

 その神剣の、真名を。

 

「―――天地乖離す開闢の星」

 

 荒れ狂う、断裂の暴風。

 その中、大剣をもって、断裂そのものを断ち割ろうと前進する少年。

 一歩、あと、一歩。

 切っ先と眉間の距離、あと僅かに数センチ。

 涙が、溢れる。

 あと、一歩。

 あと、一歩なのに。

 それが、なんと、遠い―――。

 

「泣くな、名も知れぬつわものよ」

 

 荒れ狂う暴風の中。

 王は、はっきりと。

 

「大儀であった。我が許す―――もう、休め」

「ちく、しょおおおおおおおおお!」

 

 少年の慟哭は、嵐の中に掻き消えた。

 



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episode104 王道、相食む。

「それを手に取る前に、きちんと考えたほうがいい」

 

 得体の知れない、男だった。

 声は、若々しいようで、しかしどこかに老成した雰囲気があり。

 容貌は、二十歳に満たない若者とも、五十を過ぎた老人ともとれる。

 如何にも魔術師然とした、その佇まい。

 私は、悟った。

 ああ、彼は魔術師なんだ、と。

 

「それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ」

 

 ならばこそ、その言葉に嘘偽りは無いだろう。

 知っている。

 そして、知っていた。

 自分が如何なる運命を辿るか、そして如何なる結末を迎えるか。

 私は、知っていた。

 だからこそ、恐ろしくは無かった。

 あらゆる人間に恨まれ、惨たらしい死を迎えるという言葉も、恐ろしくは無かった。

 だって、知っていたのだから。

 己が、そういう存在だと。

 だから、畏れなかった。

 ただ、唯一、この手を震わしたのは。

 為し得ないこと。

 己を犠牲にして、他者を犠牲にして、全てを置き去りにして。

 それでも、己の誓いを果たせないこと。

 それが、恐ろしかった。

 それだけが、恐ろしかった。

 だから、その言葉に対する返事は、一つだけだった。

 それ以外の返答を、私は持っていなかった。

 

「―――いいえ」

 

 それは、原初の誓いだった。

 この胸に、最初に根を下ろした、誓いだった。

 他の、どのように崇高な願いよりも崇高で、他の、どのように醜悪な欲望よりも醜悪で。

 私は、頷いた。

 きっと、震えながら。

 それでも、彼の眼を見て。

 

「―――多くの人が笑っていました。それはきっと、間違いではないと思います」

 

 剣に手をかける。

 魔術師は困ったように顔を背けて、こう言った。

 

「奇蹟には代償が必要だ。君は、その一番大切なものを引き替えにするだろう」

 

 それでも。

 それが、宿命だとしても。

 それを覆すのが、人の業では不可能だとしても。

 私は。

 この国を、人々を、そして。

 私は。

 どうしても。

 

 

 まず、へし折れたのは切っ先だった。

 頑強を誇り、鉄とて断ち切る岩の切っ先が、ぺきりと砕けた。

 ぺきり、ぺきりと。

 まるで、小麦菓子を齧るように、少しずつ。

 本当は短い時間に、しかし少年にとっては永遠とも呼べる時間の中で。

 ぺきり、ぺきりと。

 齧られていく。

 子供が、最後の一枚となったクッキーを、名残惜しげに齧るように。

 少しずつ、刃先から、柄元に向けて。

 大英雄の岩剣が、食われていく。

 乖離剣、その生み出した断裂に、耐え切れずに。

 切っ先は飲み込まれ、刀身は折れ砕け、柄頭も消え失せて。

 彼の手から噴出した血液が、血霞となって飛び散り、その血生臭さとて残さずに。

 そして、少年は、霧散する。

 あたかも、最初からこの世に存在しなかったかのように。

 如何なる残酷さも残さぬ、完全な死。

 刹那に分かたれた彼は、大気と同化する。

 もはや、不可避の結末に、少年は目を瞑った。

 そして、心の中で、呟いた。

 凛、と。

 彼が最後に想ったのは、己が愛した少女と、やがて生まれ来る新しい命。

 それを守れなかったことが、唯一心残りで、悔しかった。

 だから、心の中で、呟いたのだ。

 もしかしたら、口に出していたのかもしれないが、荒れ狂う暴風の中では己の鼓膜を震わせることさえなかった。

 そして、少年は、霧散した。

 空間の断裂に巻き込まれ、粉微塵にされて、死んだ。

 骨は、残らない。

 遺髪とて、少女のもとに届けられることは無いだろう。

 そういう、死。

 そういう死を、迎える、筈であった。

 

 いつしか、彼の手は、暖かく小さい掌に包まれていた。

 その暖かさが、少年の瞳を、新たな涙で打ち濡らす。

 理解したからだ。

 誰が、隣にいるのか。

 確認するまでも無いことだった。

 決まっていた。

 いつだって、彼女だった。

 自分が死地に立って、もはや帰り道を断たれた時。

 彼の手を引っ張って、安らかな場所に届けてくれたのは、いつも彼女の温かい掌だった。

 

「申し訳ありませんでした、シロウ」

 

 何を謝る事があるのか、と。

 彼は、問い質そうとして。

 やはり、止めた。

 その問いこそが、誰よりも無粋であると、確信していたから。

 だから。

 出来るだけ、暖かいものを、込めて。

 

「ああ、遅かったな、セイバー」

「後は、私が」

 

 言葉は、紡がれなかった。

 少年は、意識を失うように、崩れ落ちた。

 安心したのだろう。

 先程までの必死の形相は、柔らかな、母に抱かれた幼児の笑みにすり替わっていた。

 

「そうですね。貴方は、そうしていてください。貴方には、誰よりもその資格がある」

 

 ―――なぜなら、貴方は愛されている。

 ―――あれほど気高く、暖かく、優しい存在に、愛されている。

 ―――それで幸福にならないなら、嘘だ。

 ―――そんな世界、いらない。

 ―――そんな世界なら。

 ―――もし、貴方に犠牲を強いる、世界ならば。

 ―――私が。

 ―――遮断、してやる!

 

 彼女は、前を見たまま。

 その、聖緑の瞳で見つめたまま。

 一切、視線を逸らせることなく。

 その、至高の宝具の真名を、解放する―――!

 

「全て遠き理想郷―――!」

 

 

 濛々とした土煙の中。

 この世の終わりのような、大空洞そのものを破壊するような、大破壊の爪痕の中。

 少女の周囲だけが、清廉な空気であった。

 妖精郷、その絶対の加護を受けた鞘は、世界の中に異界を持ち込む。

 その、不可侵の境界線。

 さしもの英雄王が宝具をもってしても、断ち切れるものではない。

 ならば、英雄王は。

 己が絶対の信頼を置く神剣、それを正面から打ち破られた、金色の王は。

 その端整な美貌に、切れるような笑みを浮かべて、目の前の少女を見つめていた。

 

「―――見事。それが、音に聞く、聖剣の鞘か」

「その通りだ。一度は我が過ちによって失われ、悠久の時を経てこの手に戻った、私には不釣合いの宝具である」

 

 その、聖緑の瞳が。

 紅い、魔性の瞳を。

 正面から、射抜く。

 ギルガメッシュは、感嘆の溜息を吐き出した。

 ゆっくりと、吐息そのものを味わうかのように。

 

「呪いに、打ち克ったか…」

「半分は、鞘の加護によって。後半分は…」

 

 少女は、目を瞑り。

 心中で、誰かと言葉を交わした。

 それは、彼女の知らない男性だった。

 しかし、彼女が誰よりも愛した男性だった。

 一度も会ったことはないが、二度の逢瀬を経験し。

 三度目の令呪によって、四散した聖杯。

 誇り高く、見送った。

 誇り高く、見送られた。

 その、記憶。

 私は、確かに救われた。

 違う私は、彼に救われた。

 そして、私も。

 私も、救われた。

 私も、彼に救われたのだ。

 

「守るべき人に、守られた。無様この上ないが、それが限りなく誇らしい。分かるか、英雄王。私は、今、幸福なのだ」

「間違うな、騎士王。貴様の幸福は、我の隣にこそ存在する」

 

 少女は、微笑った。

 馬鹿にしたような笑みではなかった。

 無論、挑発するような笑みでも、卑下するような笑みでもない。

 ただ、羨ましそうに。

 純粋な、羨望を込めて。

 

「ああ、きっと、そうでしょう。貴方の隣は、安らかで、居心地がよく、暖かいでしょう」

 

 その、表情で。

 英雄王は、悟った。

 この女は、絶対に、己のものにはなりえないと。

 獅子。

 獰猛さと、愚かしさと、それ以上の誇りを胸に秘めた、ケダモノの王。

 この女は、それなのだと。

 だからこそ、燃え上がった。

 男の男性自身は、はち切れんばかりに、かつて無いほどに屹立していた。

 男は、間違いなく、欲情していたのだ。

 

「…もう一度言うぞ、騎士王。我が物となれ。他の一切はいらぬ。お前が、お前だけが、我が物となれ」

「―――気の迷いかも知れない。魔が差したのやも知れない。藁に縋り付きたかっただけかも知れないのだ。それでも、英雄王。私は、あの時、お前の言葉を頼もしいと思った。お前の瞳を愛しく思った。あの時、私は確かに、お前を愛していたのだ」

 

 だから、と。

 少女は、言葉を紡ぐ。

 

「許してほしい、ギルガメッシュ。私は、貴方のものになることは出来ないのだ」

 

 それは、砂を噛むような言葉だった。

 じゃりじゃりと、歯を砕きながら、金剛石の礫を噛み潰すような、言葉だった。

 

「―――何故、に」

「私は、この身は、既に捧げてある。操を、誓ってしまっている」

「―――一体、何に」

 

 国、と、答えれば。

 彼は、失望を禁じえなかった。

 

 民、と、答えれば。

 彼は、激怒をもって報いただろう。

 

 主、と、答えれば。

 彼は、嬉々として少年の息の根を断ち切る。

 

 そして、少女の答えは。

 その、いずれでも、無かった。

 

「―――憶えているか、英雄王。私と貴様と、征服王を名乗るあの男の三人で酒を酌み交わした、あの日を」

「ああ、昨日のように思い出せるとも。『聖杯問答』と、あの男が呼んだ宴であったか」

 

 第四次聖杯戦争。

 集った珠玉の英雄は、三人。

 それも、それぞれが、王を名乗り。

 その王道の是非を、語り合う。

 

「そして、貴様だけが王道を語りえなかったのだ」

「ああ、あれは確かに、私の敗北でした」

 

 剣を携えない、しかし剣戟よりも激しい言葉の応酬。

 きっと、少女は敗れたのだ。

 今の彼女ならば、そのことを認めることが出来る。

 確かに、私は敗れた。

 当然だ。

 私は、間違えていた、いや、忘れていた。

 原初の、誓いを。

 いわば、剣を帯びず、鎧を纏わずに、戦場に赴いたようなもの。

 敗北は必然であった。

 それを思い出して、少女は苦笑した。

 その様子を、男は愛おしげに眺めやった。

 

「この場にいないあの男、彼の王道は、『征服』でした。そして貴方は―――」

「我が王道は、法である。我が王として敷いた法、それを絶対とする。それ以外は拒絶し、破壊しよう」

 

 少女は、頷いた。

 それも、王道であると。

 彼の一端に触れた彼女は、それを認めた。

 何故なら、彼女自身がそうであったように、誰よりも、民衆がそれを望むのだろうから。

 人は、常に支配したがる生き物ではない。

 優れた存在に導いて欲しい、そう希うのも、人の業。

 ならば、男の傲慢な物言いも、一つの覚悟と言い切ることができよう。

 あらゆる存在の清濁を飲み尽くし、それでも王であると。

 あらゆる存在をその背に抱え上げ、それでも王であると。

 誰にも導かれず、己が導くと。

 そう言い切って、省みないのならば。

 彼は、やはり王として相応しいのだ。

 

「―――まっこと、貴方らしい」

 

 それは、無限の羨望に満ちた、一言であった。

 その、輝かしい笑顔を。

 男は、星に憧れる少年のように、遠く眺めながら。

 

「そうだ。そうであったな。貴様だけ、己の志す王道を披露していなかったはずだ」

 

 だから、この場で追いつめられているのは、英雄王だった。

 だから、この場で追い詰めているのは、小さな少女だった。

 それを自覚していたからこその、その問い。

 しかし、誰より楽しんでいたのは、その男であった。

 

「であれば、あの男に代わって我が問おう。騎士王、貴様の王道は如何に?未だに、過去の滅却のみを求めるか」

 

 少女は、騎士王は、セイバーは、アーサーは、アルトリアは。

 

 しっかりと、目を瞑り。

 

 己の中で、己に罵声を叩きつける、群像に。

 

 しっかりと、相対して。

 

 その、一人一人の名前を、しかと思い浮かべ、噛み締めながら。

 

 背を、向けず。

 

 逃げず。

 

 畏れず。

 

 涙を流さず。

 

 気高く。

 

 誇り高く。

 

 原初の誓いを、口にした。

 

「私は、守りたい」

 

 そうだ。

 

 それが、少女だった、彼女の誓い。

 

 彼女は、守りたかった。

 

 人々の、安らぎを。

 

 人々の、笑顔を。

 

 だから、剣を引き抜いて。

 

 だから、人を捨て去って。

 

 そして、守ろうとした。

 

 それが、原初の、誓い―――。

 

「そうだ。思い出したのだ。私は、守りたかったのだ。その想いが王たる私を産んだのであれば―――我が王道は、そこに他ならない」

「―――守ると。それは、果たして何を。国か、民草か、それとも、まさか恋しい男をか」

 

 少女は。

 

 一切の、照れも無く。

 

 怯懦も、虚飾も、気負いも、後ろめたさも無く。

 

 ただ、ありのままに。

 

「―――我が誇りを」

 

 英雄王は、目を細めた。

 

 目の前の存在は、さしもの彼にとっても、眩しい存在であった。

 

 少女の、聖緑の瞳が、恋しいと。

 

 早く、目を開いて欲しいと。

 

 それは、男の性だろうか、愚かしさだろうか。

 

 彼女は、敵であるというのに。

 

 互いに、命を奪い合う存在であるというのに。

 

 やはり、彼は、どうしようもないほど。

 

 その少女に、惚れてしまっていた。

 

 己が所有物と、蔑みながら。

 

 その心は、既に彼女の虜であった。

 

「騎士としてではなく、王としてではなく。ただ、私としての誇りを守る。己に誇れる王である。それこそが私の目指すべき王道であり―――果たせなかった王道である」

 

 くつくつと、笑い声が響く。

 

 それは、その場にいた、二人からではなく。

 

 彼らの後方で、輝かしい鎖に縛り上げられた、青い獣から。

 

 見下す笑いではなく、全ての雑事を笑い飛ばす、笑い。

 

「ああ、ギルガメッシュよう、同情するぜぇ!こりゃあ、厄介な女に惚れちまったもんだなあ!」

 

 その、当たり前の事実に。

 

 英雄王は、苦笑をもって応じ。

 

 乖離剣を。

 

 四度振るう、その準備を。

 

「王が己を誇れぬ国に、明日があろうか。王は己を誇り、己が国を誇り、己が部下を誇り、己が民を誇らねばならない。ならなかったのだ。なのに―――」

 

 出来なかった。

 

 少女は王であろうとし、そのために己を押し殺し、己が誇りを蔑ろにした。

 

 だから黄金の剣は失われ、聖剣の鞘は失われ。

 

 その手には、刃だけが残り。

 

 そして―――。

 

 彼女の、瞼の裏側。

 そこにいる、人々。

 二十四の瞳。

 その背後の、那由他の瞳。

 その更に背後の、無数の瞳。

 それらが、微笑っていた。

 剣を持たず、鎧を纏わず、ただ、笑顔で。

 餓えず、凍えず、病まず、穢されず。

 ただ、微笑いながら、見送ってくれた。

 罪深い、王を。

 自らを滅ぼした、王を。

 それは、何と残酷で―――。

 それでも。

 ああ、それでも。

 そして、少女は、瞼を持ち上げる。

 そこには、聖緑の瞳。

 金色の呪いに打ち克った、聖緑の瞳。

 そして、剣を構える。

 ここは、通さない。

 守る。

 その、絶対の覚悟を込めて。

 

「礼を言おう、英雄王。貴方のおかげで、私は思い出したよ。原初の誓いは、なんとも青臭く―――しかし、芳しいのだな」

 

 英雄王は、一度だけ、深く頷き。

 

「我には理解の出来ぬ想いである。だが、あの時貴様が今と同じことを言っていれば、我は貴様を仇敵として葬り去っていたであろう。―――見事な解だ、騎士王、いや、アーサー王」

 

 風が、逆巻く。

 

 淑やかに、静寂を保ったまま。

 

 だからこそ、セイバーは確信した。

 

 次の一撃が、最強。

 

 今までのそれが児戯と思えるような一撃を、放つつもりだろう。

 

 それは、英雄王の王道そのもの。

 

 ならば、私が為すべきは。

 

「アーサーよ」

「アルトリア、と」

 

 ギルガメッシュは、一度、笑顔に近い表情を作り上げて。

 それから、真剣に、深淵を覗き込むような、表情で。

 

「では、アルトリア。これより、我が王道と、貴殿の王道がぶつかり、いずれかが敗れ去るであろう。その時、我が立っていれば、そして貴方が生きていれば―――我が求婚に、応じてくれるだろうか」

 

 それは、異例の問いであった。

 

 あらゆる存在を、人と神を含んだ悉くを己の所有物と言い切って憚らないこの男が、相手にその意志を問うたのだ。

 

 それは、異例を越えて、異常な事態であったのかもしれない。

 

 果たして、少女はそのことに気付いていたか否か。

 

 気付いていたのであろう。

 

 だからこそ、彼女は頷いた。

 

 輝くような笑みを浮かべ、深く深く、頷いたのだ。

 

「―――起きろ、エア」

 

 ごうごうと、風が唸る。

 

「―――起きろ、エア」

 

 吹き込まれた風が、圧縮されて、吹き出ていく。

 

「―――起きろ、エアァァ!」

 

 それは、あたかも、猛禽の羽が如く。

 

 豪奢な乖離剣を、より持ち手に相応しい威容に。

 

「土壇場である!火急の時である!焦眉の急である!」

 

 それを、握り。

 

 しかし、少年のように、微笑み。

 

 背後に、無数の切っ先を浮かべ。

 

 大空洞が、切っ先で埋まるほどの、切っ先を浮かべ。

 

「我が臣下、剛の者から数打ちに至るまで、悉く目覚めよ!これよりは、王の誇りを賭けた、戦である!」

 

 そして、令を下す。

 

 その、覇気溢れる、王の声にて。

 

「敵は、この世最強の守り手!相手にとって、不足無し!!皆の者悉く、我のために、ここで死ね!!!」

 

 極限まで魔力の装填された神代の魔弾は、正しく英雄達の乾坤一擲の一撃と変わる所が無い。

 

 故に、宝軍。

 

 彼の自我の象徴たる、最強の軍隊である。

 

「―――行くぞ、騎士王。見事、耐え凌いで見せよ」

 

 そして、号砲が鳴らされる。

 

 それが、この戦最後にして最大の、宝具の衝突であった。

 

「天地波濤す終局の刻―――!!!」

「全て遠き理想郷―――!!!」



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episode105 午前3時58分 終戦

 とぷん、と。

 その音は、誰の鼓膜も、震わさなかった。

 なぜなら、それは音ではなかったから。

 ただ、揺れたのだ。

 黒い、液体が。

 それは、影、と。

 辛うじて、そう呼べるものだった。

 

 少女は、死んだ。

 

 心臓は止まり、瞳孔は開き、小便と大便を撒き散らしながら、醜い死を迎えた。

 涎は白く乾き、舌はだらりと力無く垂れ下がり、瞳は濁り始めている。

 その姿は、紛れもない、死体。

 死体の形をした、人形だった。

 

 その、影が。

 

 死体の下に隠れていた、影が。

 

 とぷり、と。

 

 僅かに揺らめいて。

 

 そこから。

 

 白髪の頭頂部が。

 

 誰に気付かれることも無く。

 

 誰に、悟られることも無く。

 

 とぷり、と。

 

 やがて顕になった、その紅い瞳は。

 

 確かな、嗜虐に、歪んでいたのだ。

 

 

 歩く。

 もはや、急ぐ必要も無いだろう。

 歩く。

 まるで、私が歩んできた人生のように。

 真っ直ぐに、ただ只管に、一つの道を目指して。

 歩く。

 果たして、どこを目指しているのか。

 分からない。

 知らない。

 気付き得ない。

 それは、おそらく、回答を得た後も同じこと。

 

 例えば、悪たる宿命を負って産まれた子を祝福しても。

 例えば、神と悪魔の落し仔たる赤子を、取り上げても。

 私の本質には、如何なる変更が加えられる訳でもなく。

 ならば、この、苦悩に満ちた、道行は。

 永遠に。

 

 それでも、いい。

 それが、いいだろう。

 私に似合いの生き方である。

 不平はあるが、不満は無い。

 文句ならば山ほどあるが、絶望しているわけではない。

 この世界は、寛容で、大らかで、神の愛に満ち溢れている。

 それは、純然たる事実だ。

 何故なら、私がいる。

 私のように壊れた人間が、その生を許されている。

 他者の不幸にしか幸福を感じえず、他者の嘆きにしか喝采を送りえない。

 明らかな、不良品。

 失格。

 廃棄処分。

 それでも。

 ああ、それでも。

 私は、生きている。

 そうだ。

 ならば、いいではないか。

 如何なる結末を迎えようと、私は私でしかないのならば。

 私を私とした神は、私が私であることを、誰よりもお望みのはず。

 ならば、私は私として振舞おう。

 愚者の頭を蹴り潰し、被害者の傷を丹念に切開する。

 それが、私で。

 この世を滅ぼすであろう、赤子の生誕を待ち望むのも、私で。

 師の娘にして、我が弟子となる少女を、絶頂をもって葬るのも、私ならば。

 私は―――。

 

「なんとも、救い難い―――」

「ええ、ですから、私が救いましょう、言峰綺礼」

 

 何かが、巻き付いて。

 ぐるり、と。

 足に、腕に、首に。

 そして、力が、抜けて、いく。

 視界が、霞み。

 舌が、震える。

 地面が、起き上がって。

 いや、違う。

 私が、倒れて。

 

「どうですか、マキリ秘伝、『吸収』を備えた、影の味は」

 

 くすくすと。

 倒れ伏した、私の背に。

 声が。

 声が。

 嗜虐に歪み、獲物を甚振る、猫の声が。

 

「―――死んだのではなかったか、遠坂桜」

 

 全く、愚劣に過ぎる質問。

 それでも、少女は律儀に。

 

「ええ、貴方は、殺しましたとも。首を、頚椎をへし折られて、生きている人間など、存在しない。―――それが、人間であれば、ですが」

 

 なるほど、つまり―――。

 

「人形―――か」

「正解」

 

 人形。

 しかし、あれほど精巧な―――。

 遠坂に、そのような魔術は、無かったはず。

 ならば。

 それは、おそらく。

 

「マキリの、魔術か」

「はい。遠い昔に『調教』されたそれを、虚数魔術に組み込んでみました」

 

 つまり、臓硯が、他人の肉を使って、己の肉に作り変えたように。

 この少女は、エーテルを練り上げて、己の身代わりの人形を作った。

 そして、自分は安全は場所から、それを操り、戦わせる。

 しかも、魔術まで行使させて。

 全く、恐れ入る。

 凡人たるこの身には、どうしても届き得ない遥か高み。

 私の半分ほどの人生も生きていないこの少女が、そこから私を見下すとは。

 

「それはなんとも…」

「もう、聞きたいことは、終わりですか?」

 

 少女は、その懐から、一振りの短剣を取り出した。

 アゾット剣。

 遠い昔、この姉妹に、戯れにくれてやった、儀式用の短剣だった。

 

「ほう、それをもって、私に止めを刺すか」

「ええ。昔、貴方に貰った、成人祝いの短剣ですもの。貴方を地獄に送り届けるなら、これ以上の品物もないでしょう」

 

 豊かな蜜を含んだ、唇が。

 なんと、神々しい。

 

「そうか、なるほど、ならば当然気付いているのであろう?」

「…何を、ですか?」

 

 だからこそ、それを破壊することに、私は。

 

「それが、貴様の父の命を奪った、凶器であることを」

 

 限りない、快楽を。

 

「―――えっ?」

 

 一瞬。

 

 ほんの、一瞬。

 

 少女は、その、サファイヤ色の、瞳を。

 

 可愛らしく、まん丸にして。

 

 自分が握った。

 

 その、短剣を。

 

 見つめた。

 

「―――ああ、やはり、若輩だ」

 

 腕を、ブリッジの体勢に。

 腰を大きく逸らせ。

 その反動と。

 手首、肘、肩、それらの関節を、最大限に稼動させながら。

 全身のバネを使って。

 跳ね起きる、だけではない。

 極限まで強化された腕部は、常人の脚部の筋肉を、遥かに凌駕し。

 故に、腕で、跳ね飛ぶ。

 足を、凶器として。

 狙いは、少女の顎。

 当たれば、確実にその骨を砕く一撃は。

 辛うじて意識をこちらに向けた少女の、顎の皮を掠め取るに終わり。

 しかし。

 

「さて、仕切り直しかな、遠坂桜よ」

「―――!」

 

 立ち上がり、互いの距離は、その吐息が交わるほど。

 少女の狼狽振りは、それが予想を超えた自体であることを、如実に示している。

 

「…なんで…?」

「気付いていなかったのかね?既に私の魔力は、君の許容量を大きく越えている。いくら君とて、その許容量を上回る魔力を吸収することは叶うまい。ならば、その限界まで奪われたところで、私にとって痛くも痒くも無い」

 

 私は、そおっと、右の掌を、彼女の豊かな乳房にあてがい。

 少女は、危機を察して、後ろに飛びのく。

 それでも。

 あまりに、鈍重。

 

「―――飛べ」

「げはぁぁ!」

 

 まるで、栓を開けた、風船のように。

 それは、高い音を、奏でながら。

 遥か後方に、吹き飛んだ。

 どしゃりと、着地音。

 手に残る、確かな破裂痕としての、高い音。

 まるで、水風船が破裂したような、感触。

 

 間違いなく、先程の一撃で、遠坂桜の右乳房は、弾け飛んだ。

 

「ぎ、いいいいやあああああ!」

 

 悶える。

 苦しみ、悶える。

 右胸を押さえ、転げまわる。

 ぼたぼたと、盛大に血を撒き散らしながら。

 その、平坦となった、片方の胸部。

 赤と黒に彩られた衣装の下では、飛び散った皮と脂肪が、さぞ愉快な抽象画を描いていることだろう。

 

「あ、あ、あ、あ…私の、私のぉぉ…おっぱいがぁぁぁ…」

「それでも、君は生きている。それは、確かに君の乳房のおかげだろうな」

 

 もし、それがなければ。

 私の寸頸は、少女の肺腑を、一撃にて引き裂き。

 逃れられない、絶対の死を。

 獲物を甚振る趣味は無いが、それでも目の前の少女の狂態は、甘美であった。

 それが、もっと、欲しいと。

 神よ。

 私は、罪深いのだろうか。

 

 

 ざくざくと、近寄る。

 死神が、近寄る。

 私を殺そうとして、近付いてくる。

 駄目だ。

 私には、あれに勝つ術が。

 根本的に。

 

「策士は、その策が敗れたときは潔くするものだ。些か見苦しいぞ、遠坂桜」

「ぎはぁー、ぎはぁー、ぎはぁー、」

 

 這いずる。

 這いずって、逃げる。

 潰れた乳房が、地面と摩擦して、気の狂いそうな痛みを寄越す。

 それでも。

 それでも、死ぬわけには行かない。

 だって、託されたんだ。

 姉から、託された。

 なら、こんなところで、死んでたまるか!

 

「そうだ。そうでないと、愉しみが無い。死を覚悟したものを蹂躙しても、それでは意味を為さないのだから」

 

 がしり、と。

 首根っこを、捕まれて。

 高々と。

 まるで、あの影のように。

 

「命乞いは、不要だ。君はただ、泣き叫んでいればいい」

「は、なして…!」

 

「こうかね?」

 

 ぶうん、と。

 風切り音が。

 周囲が、ぶれて。

 私は。

 そのまま。

 壁面に。

 思い切り。

 ごしゃ。

 

 あ。

 

 私、は。

 

「さて、君が死を希えば、私はそれを与えよう。いつでも、口にしたまえ。ただし、口に出来るうちがいいだろう。しゃべれなくなれば…少し、辛いことになるやもしれぬ」

 

 ばき。

 

 くちゃ。

 

 ごしゃり。

 

 べき

 

 めきり。。

 

 がし。

 

 めじ。

 

 ぐちゃり。

 

 ぐちゃり。

 

 そこに転がったのは、少女の残骸。

 既に、人の形を止めた、少女の残骸。

 形容は、控えよう。

 それが、少女の魂の安らぎのためなれば。

 既に、肉親とて、それと判別のつかない程、破壊された顔は。

 細められた瞼の隙間から、虚ろな視線で、天上を見上げ。

 何事かを呟くように、口を開いた。

 

「懺悔か、遠坂桜」

 

 それを見下す、神父が一人。

 その手には、少女の持ち物だった短剣。

 アゾット剣。

 少女の父の命を奪い、正に今、己の命を奪わんとする短剣を。

 少女は、虚ろな視線で、見上げながら。

 やはり、何事かを呟いて。

 

「お別れだ」

 

 馬乗りになった、神父を。

 その目で、ぼんやりと。

 震える、手を、持ち上げて。

 そして。 

 

 

 音が、消えた。

 光が、消えた。

 空間が、消えた。

 全てが、消えた。

 全てが、消えて、消えて、消えて。

 

 力だけが、あった。

 

「―――――――――!!!」

「―――――――――!!!」

 

 互いの肌を焼くのは、無言の殺気と、無言の気迫のみ。

 この瞬間、この世界には、この二人しかいなかった。

 

 全てを破壊する矛を携えた、金色の英雄王。

 全てを守護する盾を構えた、聖緑の騎士王。

 

 二人の戦い。

 

 その結末は、最初から分かりきっていたはずであった。

 

 アヴァロン。

 

 騎士王にのみ許された、至高の結界宝具。

 その機能は、もはや防御というレベルではなく、遮断の域にいたる。

 真名をもって展開された鞘は、即座に数百のパーツに分解され、所有者を妖精郷に置いてあらゆる干渉から守りきる。

 その効果は、魔法の域にあり。

 あらゆる物理干渉、魔法である並行世界からのトランスライナー、六次元までの多次元からの交信を断ち切る。

 それは、この世界における最強の守り。

 五つの魔法さえ寄せ付けぬ究極の一。

 ならば、英雄王の一撃が、どれほど破格のものであったとしても。

 それが、この世界の物理現象である限り。

 騎士王の柔肌を傷付けること、永遠に叶わぬ筈。

 

 で、あった。

 

 しかし。

 

「―――く、う、う、う、うぅぅぅ!」

 

 少女の、苦悶の声。

 それは、勝者の優越に満ちたものではなく。

 ただ、耐える者。

 耐え凌ぐ、苦境に立つ者の声であった。

 

 勝負の前から、その不利は、悟っていた。

 

 宝具、全て遠き理想郷は、対界結界宝具。

 その防御は、如何なる攻撃も寄せ付けない。

 それは、知っていた。

 しかし賢明なる騎士の王は、それの限界も十分に弁えていた。

 

 ランク:EX。

 種別:結界宝具。

 防御対象:一人。

 

 防御対象:一人。

 

 防御対象:一人。 

 

 防御対象:一人。

 

 それが、この絶対無敵を誇る騎士王の至宝、その限界である。

 もし、この場にいたのが、騎士王一人ならば。

 彼女は、その宝具、聖剣とその鞘を思う様に振り回し、絶対の勝利を得ていたであろう。

 しかし。

 彼女の、後ろには。

 倒れ伏す、かつてのマスターと。

 その兄たる、一度の主従も結んだことも無い、マスターと。

 鎖に縛られた、槍の騎士が。

 彼らを見捨てれば、己の勝利は約束されている。

 それを、彼女は知っている。

 だが、彼女の王道は、守る事。

 己の信念、そして、己の大切な人達を。

 ならば、彼らを見捨てることは、一度捨て去った王道を、再び投げ捨てることになる。

 それは、死んでも出来ないことだった。

 ならば、出来ることはただ一つ。

 

 防御対象を、一人から複数に。

 

 結界の範囲を、広げる。

 

 不可能ではない。

 

 ただ、そのパーツが展開する密度を薄めてやるだけでよい。

 

 しかし、それは結界の密度が薄まることを同時に意味し。

 

 空間の遮断は、その効果を劇的に減じるにいたり。

 

 妖精郷と、血塗れた地の底は、微細な穴をもって直結し。

 

 その、微細な、穴から。

 

 極大の、魔力の塊が。

 

 じわり、じわりと。

 

 小さな穴を、少しだけ大きな穴に。

 

 少しだけ大きな穴を、より大きな穴に。

 

 じりじりと焦げ付く、少女の肌。

 飛来した礫が、その頬に傷を付ける。

 熱風が、肺を焼く。

 その空気が教えることは、ただ一つ。

 少女の敗北。

 このままでは、勝てない。

 そう、少女に教え諭す。

 ならば、為すべきことは、一つだけ。

 少女は、その手に握った聖剣の柄を、もう一度強く握り締めた。

 

 

 俺に見えるのは、後姿だけだった。

 その、小さくて、限りなく大きな、背中。

 今まで、どれだけの荷物を抱えてきたのか分からないような、そんな背中。

 それが、小刻みに震えていた。

 前方から襲い来る、最早知覚することが不可能なほどの魔欲の渦。

 それを支えて、小さく震えていた。

 駄目だ。

 そんなの、駄目だ。

 だって、俺は男の子だから。

 お前は、女の子だから。

 だって、俺はお前と一緒に戦うって決めたから。

 もう、一人で戦わせないって、決めたから。

 だから、セイバー。

 お前は、俺のことなんか、気にしないで。

 

「セ、イバー、俺のことは、どうでもいいから…」

 

 アイツを倒すことだけを、考えて。

 きっと、兄さんは死なない。

 ランサーだって、簡単にくたばるもんか。

 だから、俺だけ。

 死ぬのは、俺だけ。

 なら、十分だ。

 儲け物じゃあないか。

 だから、セイバー。

 その、結界を。

 

「おい、坊主」

 

 後ろから、声が、

 不機嫌な。

 でも、とても優しい。

 包み込む、父親のような。

 

「くだらねえこと言ってる暇があるなら、這いずってでもこっちに来い」

 

 その瞳は、言っていた。

 そんなことを言って何になる、と。

 セイバーが、それで己の信念を捨て去るような安い存在なのか、と。

 そうだ。

 それは、その通りだ。

 俺が、泣き喚いても、叱り飛ばしても、土下座をして頼み込んでも。

 こいつは、絶対に自分の信念を、曲げない。

 なら。

 

「ぐ、う、う、うぅおお―――」

 

 肘を、前に出し。

 それを、引き寄せて。

 また、肘を前に出して。

 それを、引き寄せる。

 その、繰り返し。

 もう、立つ力なんて、残ってないから。

 だから、もがき苦しみながら。

 一歩、一歩。

 

「そうだ、それでいい。お互い辛い立場だけどよ、この状況で燃えなきゃあ、男じゃあないわな」

 

 からからと、その笑い声が。

 俺の頬に、笑みを。

 ああ、そうだな、ランサー。

 頑張らないと。

 そうでないと、俺、凛に叱られちまうからな。

 全部、セイバーに任せて、眠ってました、何ていったら。

 きっと、アイツ、怒るもんな。

 

「そうだ、その槍を寄越せ」

 

 槍。

 真紅の、魔槍。

 一度は、俺の胸を刺し貫いた。

 震える指で。

 握り締める。

 重たい。

 どうやっても、動かせないくらいに。

 持ち上げられない。

 いや、持ち上げられても。

 俺が、立ち上がれない。

 なら、この槍を、ランサーの手に握らせるのは、不可能だ。

 諦観。

 それが、指の力を、奪って。

 からり、と。

 槍は、転がっていき。

 鎖で縛り上げられた、ランサーの、足元に。

 駄目だ。

 もう、今の俺に、あそこまで行く体力は、残っていない。

 涙が。

 なんて、役立たず。

 なんて、無様―――。

 

「すまない、ランサー…!」

「はぁ?何言ってんだ、坊主。お前は、よくやったぜ」

 

 ランサーは。

 みしみしと、その笑みを急角度に。

 それは、戦う前の。

 冬眠から目覚めた熊の、最初の狩りの様な。

 

「だって、俺はもう、動けない」

「ああ、もう、動く必要はねえわな」

「それに、あんた、その槍、拾えないじゃあないか」

「誰が拾うっつったよ、誰が」

 

 呆れかえった、その表情。

 それが、何故。

 こんなにも、頼もしく。

 

「ま、一対一の勝負に横槍入れるなんざ、俺の趣味じゃあねんだがよ。このクー・フーリンが足を引っ張るだけってのは、もっと頂けねえ」

 

 彼は、足首を、軽く回して。

 鎖で雁字搦めになった上半身、唯一動く首を、こきこきと鳴らし。

 

「手品を見せてやる。見て驚きな、小僧」

 

 炸裂する、魔力の息吹。

 一体、どこにそんな力を残していたのか。

 それほどの、魔力の奔流。 

 そして、男は。

 その自由な下半身、その片割れを大きく後方に引き絞り。

 その、足元に合った、槍の石突を。

 思いっきり。

 

 あ。

 

 思い出した。

 

 そうだ。

 

 何で、こんな簡単なこと、忘れていたんだろう。

 

 魔槍、ゲイボルグ。

 

 影の国の魔女、スカハサから与えられた、因果を操る宝具。

 

 人の手により鍛え上げたあらゆる武器を使い潰した彼に、唯一馴染んだ武器。

 

 巨大な海獣の骨から削りだされたといわれるそれは、投げれば三十の鏃となって降り注ぎ、突けば三十の棘となって破裂する。

 

 正しく、必殺の魔槍。

 

 そして。

 

 一説には、それは武器の名前ではなく、槍の投擲の秘術の名前だとも言われる。

 

 ゲイボルグという武器があるのではなく、魔力を用いた戦闘技術の一つが、ゲイボルグと呼ばれるのだ。

 

 その文献、曰く。

 

 アルスターの光の皇子。

 

 クー・フーリンは。

 

 その愛槍を。

 

 足を用いて、投擲したと。

 

 そうすることで、その威力を倍加させたと。

 

 それが、真実かどうかは問題ではない。

 

 重要なのは、それが神話として伝わったということ。

 

 この戦いは、神話の戦い。

 

 ならば、武神、クー・フーリン。

 

 彼に為せないはずが、無い―――!

 

 

 果断即効。

 少女のそれは、正しく賞賛に値した。

 このままではジリ貧であると。

 そう判断した少女は、鞘を捨てた。

 無論、ただ投げ捨てたわけではない。

 まず、鞘の出力を全開とし、その展開範囲を、結界の維持しうる最大限まで広げる。

 当然、薄まった異界との境目は、荒れ狂う断裂の刃に蹂躙され、儚く砕け散るが。

 それでも、彼女のもう一つの宝具、それを射出可能に至らしめるだけの時間は、十分に稼いでくれた。

 がらり、と。

 その足元に転がった、傷だらけの鞘を見て、少女は感謝の哀悼を捧げ。

 即座に、視線を目の前の暴風域に向け。

 大上段に振りかぶった金色の聖剣、それを真名と共に振り下ろす。

 

「―――約束された、勝利の剣!!!」

 

 黄金の極光が、無色の嵐に立ち向かう。

 

 それは、賭けであった。

 

 鞘を展開し続け、嵐の猛威が収まるのを待つか。

 それとも、傘を畳み、嵐の中を目的地まで突破するか。

 

 二者択一。

 そして、正解があるのかどうか、それすらも怪しい選択肢。

 その中から、彼女の直感が選び出した回答は、後者。

 それは、現状維持よりも遥かに辛い決断を要する選択であり。

 そして、完全に正解であった。

 

 英雄王。

 溢れ出す威厳と、それに相応しい魔力。

 それにしても、異常である。

 騎士王という、生きた魔力炉とも言うべき存在とてその聖剣を解放するのは、一晩に二度が限界。

 ならば、その聖剣に勝る出力を誇る乖離剣、それを一晩に四連打。

 その、異常性。

 騎士王は、説明のつかない魔力の源泉を、もはや無限と見切った。

 故に、絶対足り得なくなった堅固な守りは、無価値と切り捨てて。

 その、絶対の信頼を置く聖剣に、最後の賭けのシューターを託した。

 もし、その選択を選ばなければ。

 偽りと化した妖精郷の加護に、その身を委ねていれば。

 おそらく、少女と、彼女が守るべき対象は、いずれは際限なく放出される魔力の渦に巻き込まれ、塵と化して消え失せていたであろう。

 何故なら、騎士王の読みどおり、英雄王の魔力は真実に無限。

 彼が、この晩に契りを結んだ少女、マキリ代羽。

 少女の体に流れ込む聖杯からの魔力が、性交によって繋がれたパスを通じて、英雄王のもとへと流れ込んでいるのだ。

 

 だからこそ、機会は一度切り。

 出力の限界を超えて展開した、聖剣の鞘、それが押し戻した魔力の流れを、聖剣の一撃をもって加速させ。

 一気に、英雄王を葬り去る。

 もはや、勝機はその一点に限られた。

 

 しかし。

 

 ああ、しかし。

 

「貧弱だぞ、騎士王!」

 

 嵐は、既に人の手に負える域を超え。

 それは、正しく大嵐。

 自然が、小賢しい人の営みに、牙を向けるが如く。

 如何なる、策も、術も。

 まるで、紙切れが如く。

 

「死ぬなよ、アルトリア!我が物となるまで、決して死ぬでない!」

 

 それでも、迸る魔力に一切の手加減は無く。

 ただ、無遠慮に。

 ただ、無慈悲に。

 騎士王は、迫り来る、嵐を。

 為す術も無く。

 

「突き穿つ―――」

 

 しかし。

 その声を、聞いて。

 少女は、決して振り返らず。

 一対一の決闘で勝ち得ない、その恥よりも。

 一対一の決闘、その誇りを穢してまで、自分を助けてくれる騎士の存在を。

 どれほど、心強く、感じたか。

 だから、少女は、振り返らず。

 ただ、その魔力を、最後の一滴に至るまで、聖剣の刀身に―――。

 

「死翔の槍!」

 

 其れは、光。

 一条の、光線。

 夜空を切り裂く流星にして彗星。

 まるで、彼の生き様が如き、一撃。

 一瞬。

 一瞬だけ光る、流れ星。

 しかし、人の記憶に、決して消しえない軌跡を刻み込む。

 凍てついた永遠ではなく、一瞬の燃焼を。

 それは、如何にも、その英雄に、相応しい―――!

 

 これにて、勝負は拮抗する。

 

 英雄王は、一言の不満も口にせず。

 

 騎士王は、ただ歯を食い縛り、前のみを見つめ。

 

 光の皇子は、己が仕事は終ったとばかりに、目を閉じる。

 

 少年は、地に伏して動きえず。

 

 故に、一人。

 

 ただ、一人。

 

 その場で動きえた、ただ一人が。

 

 その胸に、絶対の覚悟を刻みつつ。

 

 立ち上がった。

 

 覚悟の名は、『不帰』。

 

 それは、悲しいほど鮮やかな、顔立ちであった。

 

 

 親指が、伸ばされて。

 人差し指が、伸ばされて。

 残りの指は、その全てが折りたたまれて。

 

 その形を、何と呼ぼうか。

 

 そうだ、拳銃だ。

 

 子供が、戯れに、ごっこ遊びに興じるときに、拳銃を模して形作る、手の形。

 当然、只のごっこ遊びである。

 その指先から、何かが飛び出るわけでもない。

 そんなもの、夢物語の世界である。

 だからこそ。

 その少女が手で作った、拳銃は、

 夢物語の世界に生きる、魔術師だからこそ。

 致死の、武器となり。

 

 どん、どん、どん。

 

 火薬が炸裂したが如き、発射音。

 それは、形を持った呪い。

 北欧に端を発する、呪いの一種。

 

 ガンド。

 

 通常は対象に性質の悪い風邪をプレゼントするに過ぎない魔術であるが、こと遠坂という魔術の家系に刻まれたそれは、他家のものとは威力の桁が違う。

 

 大型の拳銃にも匹敵する衝撃は、至近に在った神父の頭部を、強かに揺さぶり。

 

 その一撃で咄嗟の回避行動を封じられた彼の体に、機関銃も恥じ入る一斉掃射を浴びせかける。

 

 少女の体に馬乗りになっていた神父の体は、衝撃をもって宙に浮き。

 

 少女の魔力が尽きるまでの都合三十秒の間、宙を舞い続けた。

 

 そして、全身の骨を打ち砕かれ。

 

 まるで水母のように成り果てた神父の体は。

 

 重力に従って、力無く落下し。

 

 その下にあった、少女の体に。

 

 短剣を、己の腹部に固定するように構えた、少女の体に。

 

 覆いかぶさるように。

 

 呪文は、一言だけ。

 

 ならば、砕けた前歯でも。

 

 千切れた、舌でも。

 

 潰された、咽喉でも。

 

 その詠唱に、耐えることが叶うだろう。

 

「“läßt”――――!」 

 

 小さな、炸裂が。

 

 まるで、そこで手榴弾が破裂したような、音が。

 

 少女自身も、小さくは無い手傷を負うものの。

 

 神父のそれとは、比べるべくも無く。

 

 内臓、黒い心臓を含む全てを、挽肉にされた神父は、ごろりと寝返りを打ち。

 

 大きく、末期の吐息を吸い込み。

 

 そして、尋ねた。

 

「どうして、君が、ガンド打ちを―――?」

 

 それほど複雑な魔術ではない。

 

 しかし、あれほどに高密度の呪いは、一代の天才をもって為しうる術式ではなく。

 

 また、無詠唱ともなれば、その難度は飛躍的に高まる。

 

 だからこそ、彼は油断した。

 

 その距離で、彼女は如何なる攻撃も為しえるはずが無い、と。

 

 それ故の疑問は。

 

 しかし、隣に横たわる少女の横顔を見て、氷解する。

 

 その、頬。

 

 淡く輝く、幾何学的な、文様。

 

 それは―――。

 

「―――ああ、それは、遠坂の、魔術刻印―――!」

 

 まさか。

 

 ありえない。

 

 ついこの間まで、刻印を承継していたのは、少女の姉であった。

 

 刻印の移植には、悉く立ち会った神父である。

 

 その事実、曲解しようが無い。

 

 それは、間違いない。

 

 そして、それが刻まれた左腕は、遠坂桜との戦いによって失われて。

 

「…そうか、簒奪したか」

「―――ええ、その通り」

 

 全く、馬鹿馬鹿しい。

 

 正気の沙汰では無い。

 

 狂気の所業。

 

 通常は、十年を越えるような長い時をかけて行う儀式である。

 

 しかも、第二次性徴を越える成体の魔術師がそれを行うのは、ただでさえ死を希うような苦痛を伴うと言われる。

 

 その、荒行を。

 

 都合、三日の間に?

 

 その、神父の思考。

 

 しかし、事実は異なる。

 

 少女が、その儀式にかけた時間は、僅かに四時間。

 

 それを聞けば、神父は笑うか、それとも呆れるか。

 

「―――それゆえの、白髪」

「その通り。―――ああ、本当、痛かったです」

 

 ―――全く、姉が姉なら、妹は妹だ。

 

 そう思考して、神父は苦笑する。

 

 そのまま、少女は意識を失った。

 

 疲弊し尽した少女の体にとって、二言三言の会話は重労働に過ぎたのだろう。

 

 すうすうと、安らかな吐息。

 

 腫れ上がった、人かそれ以外かも分からないような、顔で。

 

 それでも、安らかな寝顔で。

 

 少女は、その、ぼろぼろの体と意識を、ヒュプノスの御手に委ねた。

 

 それを確認して、神父は安堵の溜息を吐く。

 

 その反応が、如何なる感情の発露によるものなのか、少しの間、考えて。

 

 やがて、彼は考えるのを止めた。

 

 もう、彼は思い煩う必要の無い、苦悩する必要の無い世界に旅立つのだ。

 

 その準備をするのに、何故思い煩わなければならないのか。

 

 その、致命的な矛盾に、今更ながらに思い至ったからである。

 

 やがて目を閉じた彼の頬には、如何なる感情も刻まれず。

 

 それゆえに、彼は完全に解放されていた。

 

「これにて、我が生も終わりか。―――ふん、小娘と侮った存在に終止符を打たれるとは些か予想外ではあったが―――相応しいかも知れんな」

 

 その言葉が、本当に最後の一言であった。

 

 神父は、今度こそ、大きく息を吸って。

 

 そして、吐き出して。

 

 再び吸うことは、なかった。

 

 言峰、綺礼。

 

 最後まで、献身的に神に仕え、神の愛を求め続けた男は。

 師を貫いた、裏切りの刃によって、己の生涯に幕を下ろす。

 無惨、と。

 どれだけ余人が嘆いても、彼は冷笑を浮かべるだけだっただろう。

 何故なら、彼は、確かに満足していた。

 己の、善悪の反転した生の果てにあるのが、無惨な死であると。

 その事実を受け入れ、その上で神の愛を信じ続けたのだ。

 だからこそ、彼は聖人であり。

 その魂は、紛れも無く天国に召されたのだ。

 

 

 槍兵は、聞いた。

 

 その、少女の声を。

 

「今まで、ありがとうございました」

 

 少年は、聞いた。

 

 その、少女の声を。

 

「よく、頑張りましたね」

 

 騎士は、聞いた。

 

 その、少女の声を。

 

「これ、お借りしますね」

 

 そして。

 

 少女は。

 

 その身に、聖剣の鞘を埋め込み。

 

 その、懐かしく、しかし初めて味わう不可思議な感覚に戸惑いながら。

 

 騎士王の、前に。

 

 絶対の力と力がぶつかる、最前線の前に。

 

 まるで、ゴールテープを切る、マラソンランナーのように。

 

 無造作に。

 

 一切の、気負い無く。

 

 ただ、そこにある荷物を、取りに行くが如く。

 

 だから、誰も止めえず。

 

 一言の言葉も、発しえず。

 

 ただ、呆然と。

 

 あっさりと。

 

 少女を、見送り。

 

 

 

 そして、少女は、歩く。

 

 

 

 光の中を。

 

 熱の中を。

 

 音の中を。

 

 力の中を、

 

 ただ、己の足で。

 

 裸の、自分で。

 

 焼き尽くされていく、皮膚。

 

 死んで行く、思考。

 

 その度に、蘇る。

 

 蟲の再生。

 

 鞘の再生。

 

 その、相乗。

 

 それをもってしても、そこは地獄。

 

 生命の、許されない、環境。

 

 死の、原典。

 

 この星の、生誕を祝う、熱の祭典。

 

 マグマが、少女の足を溶かし。

 

 熱風が、少女の瞳を焦がし。

 

 飛礫が、少女の体を貫通し。

 

 血は、瞬時に気化する。

 

 酸素は、燃え滾って存在しない。

 

 体が粉微塵となり、即座に再生する。

 

 空間の断裂に切り刻まれ。

 

 宝具の雨に、貫かれ。

 

 それでも、前に。

 

 前に。

 

 前に。

 

 手を、振りながら。

 

 背筋を、伸ばしながら。

 

 前を、向きながら。

 

 ただ、前に。

 

 そして。

 

 そこには。

 

 少女を、犯した、金色の男の、顔が。

 

 一瞬、驚愕に歪み。

 

 しかし、その後に、納得の笑みを浮かべ。

 

 己の胸元を貫いた、短剣を見つめる。

 

「―――これは、あの暗殺者のものか?」

 

 少女は、頷く。

 

 その腹部には、何かに切り裂かれた跡が。

 

 そこから、取り出したのだろう。

 

 腹の中ならば、短剣を隠すだけの余地は、確かに存在する。

 

 無論、苦痛を意に介さなければ、だ。

 

 それを、理解しているからこそ。

 

 英雄王は、無粋な邪魔者を、無碍に扱おうとはしなかった。

 

 血泡の浮いた、口元を歪め。

 

 少女の頭を、撫でさすってやる。

 

 少女は、心地よさそうに、目を細める。

  

 まるで、恋人のような二人だった。

 

 そして。

 

 がらり、と音が響く。

 

 二人の足元には、持ち主の手から離れた、乖離剣が。

 

 いずれ、飲み込まれる。

 

 それを理解したからこそ、少女は尋ねた。

 

 恐怖に恐怖を重ねた、表情で。

 

 恐る恐ると、恐々と。

 

「―――蔑みますか」

 

 英雄王は、一切表情を変えず。

 

 くしゃりと、少女の赤毛を、一撫でして。

 

 それが当然のように、こう言った。

 

「―――是非に及ばず」

 

 それが、最後。

 

 二人は、光に飲み込まれ。

 

 あとには、何も残っていなかった。



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Last episode IN THE DARKNESS

 暗い、道だった。

 左に曲がり、右にくねり、上へ上り、下へ下り。

 上下左右、東西南北、方向感覚の失調により胸苦しさが込み上げてきた頃合である。

 鳴動、した。

 まず、地震だと思ったが、それはあまりにも楽観が過ぎるというもの。

 

「リン」

「ええ、急ぎましょう」

 

 そう、呟いた刹那。

 何か、形容し難い悪寒が、私の触角を刺激した。

 その、言葉にならない嫌な感覚は。

 即座に、己が生命の存続に直結する、重大真摯なものであると悟る。

 

「伏せて!」

 

 最後まで、言い切れたかどうか。

 私の警鐘など聞くまでも無く、その場にいた全員が反射的にその身を地面の窪みに投げ込んだ。

 直後、頭上を擦過した慮外の魔力波に、肘と硬い岩が擦れるざりざりという嫌な感触を忘れる。

 もし、あれと正面からぶつかったら。

 特急の電車に飛び込んだ自殺志願者よりも、更に悲惨な末路を迎えていたに違いない。

 この先で何が起きているのか。

 少なくとも、私如きでその趨勢を分けることの出来るような、生易しい闘争ではないことは明らかだ。

 でも。

 それでも。

 これが、私の選んだ道なのだから。

 奥へ。

 這うように進む。

 やがて、吐き気を催すほどに生々しかったマナは薄れ、清廉な空気が満ち満ちて。

 それが、裏返しになった不愉快さを醸し出し。

 そして。

 大きな、地底にこれほどの空間があるとは信じ難い、それほどに大きな空間が。

 

「イリヤ…」

「ええ。ここが最初の約束の地、円環回廊テンノサカヅキ。ようこそ、それともお久しぶりと、そういえば良いのかしらね、トオサカの末裔よ」

 

 何かが乗り移ったような声は、少女のそれとは思えないほどに重々しく、また落ち着いていた。 

 隣を見ることが出来なかったのは、恐ろしかったのと、それ以上に痛々しかったから。

 だから私は世界を見渡す。

 広大な大地は、地の底に出来た世界の縮図のようで。

 その、中央に。

 黒い、黒い塔と。

 その、上空。

 天と地の境。

 裂け目。

 マナが、吸い込まれている。

 それは、『あちら側』の、入り口で。

 そこから。

 ぎょろり、と。

 蕩けた、眼球と。

 その、中央の。

 漆黒の、瞳が。

 

 ぞくり。

 

 一目で確信に至る。

 あれが、聖杯の中にいるものだと。

 そして、触れてはいけない、知覚してはいけないものだと。

 具現化した呪い。

 物質化した呪い。

 人類そのものに向けられた、呪い。

 

 そこから目を逸らすように。

 そして、私は見つけた。

 倒れて、ぴくりとも動かない人影が二つ。

 

 一つは、法衣を着た、大柄な男性。

 

 もう一つは―――。

 

「桜!」

 

 何だ。

 

 どうして、この子が。

 

 酷い。

 

 こんなの。

 

「桜!桜、しっかりして!」

 

 あの、美しかった桜が。

 

 あの、綺麗な唇が。

 

 あの、整った鼻梁が。

 

 無惨にも。

 

「…ねえ、さん?」

 

 裂けて、桃色の肉が見える唇から。

 先端の千切れた舌が覗く。

 前歯は、存在しない。

 

「わたし、こんなのに、なっちゃった…。ランサーに、きらわれちゃうかなあ…」

「喋らないで」

 

 抱き締めようとして、躊躇した。

 あの、嫉妬の対象だった、豊かな胸部の、片方が。

 存在、しない。

 

「でも、わたし、がんばりました。ほめて、くれますか…?」

 

 だから、手を。

 掌を、精一杯の力を込めて握ってやる。

 

「…馬鹿。あんたは遠坂の当主なんだから、これくらい出来て当然でしょう?」

 

 後半は、涙で濁って、我ながら何を言っているのか分からなかったが。

 この子は、微笑ってくれた。

 なら、よしとしよう。

 

「もう、ねむたいから、すこし、ねますね…」

「ええ。ぐっすり、眠りなさい。起きたら、何もかも元通りだから…」

 

 妹は、糸が切れたように眠りに落ちた。

 安心、したのだろうか。

 ならば、私の気休めは、彼女に安心を与えることが出来たのだろうか。

 せめて、それくらいは出来たのだろうか。

 

「…リズ、お願い。彼女を遠坂の家にまで運んであげて」

「―――でも、」

「リズ、リンの言うとおりにして」

 

 主の言葉に、自動人形は頷く。

 白い人影は、そっと、壊れ物を扱うように少女の体を抱き上げて、元来た闇の中に姿を消した。

 

「…リン、貴方のせいじゃあないわ」

「…ええ、分かってる。だからこそ、私のせいなのよ」

 

 あれが、遠坂の当主たるものが負うべき定めだったのならば。

 ここでズタ襤褸になっていたのは、きっと私の義務。

 私は、それを桜に押し付けたのだ。

 もう、私は一生かけても返しきれない大きな借りを作ってしまった。

 そんなの、私の趣味じゃないのに。

 借用書ぐらい作らせなさいよね、桜、と。

 如何にも、卑怯者らしく、彼女に罪をなすりつけながら。

 そう、思った。

 

「…行きましょう。急がないと」

「…ええ。それと、ありがと、イリヤ」

 

 私は、物言わぬもう一つの人影、既に体温を失いつつある兄弟子だった物に、一瞥すら与えることなく走り去った。

 ただ、心のどこかで、その男が立ち上がることを期待してしまったのは、私が薄情なゆえだろうか。

 それとも―――。

 

 そして。

 

 黒い頂、その麓に。

 

 割れ砕けた大地。

 

 その裂け目に飲み込まれるように、幾つかの人影が。

 

 隻腕の男。

 

 彼が抱える、少女。

 

 そして、そして。

 

 そのすぐ傍で、倒れたまま、動かない。

 

 赤い髪の、少年。

 

「しろう―――!」

 

 

「起きて―――」

 

 声が、する。

 

「起きて―――」

 

 優しい、耳に馴染んだ声。

 

「起きてください」

 

 もう、遠い昔にも、聞いたことのある、声。

 

「起きてください、衛宮士郎」

 

 瞼を持ち上げる。

 

 薄っすらと蒼ざめた空気、それを切り裂く曙光の熱。

 背中が凝り固まっているのは、またしても硬い土蔵の床で眠ってしまったから。

 がりがりと頭を掻き毟りながら起き上がると、そこには憮然とした兄さんの顔がある。

 いつもの、朝。

 俺は、大きく欠伸をした。

 

「全く、幾ら貴方が風邪をひかないとはいえ、態々ここまで起こしに来る私の身にもなってください。毎朝毎朝、私は貴方の母親ではないのですよ」

「ごめんごめん、でも、風邪をひかないって?」

 

 それを貴方が聞くのかと、その錆び色の瞳で非難してから、彼女は愉快そうに微笑うのだ。

 

「凛も桜も、セイバーもランサーも、みんな貴方を待っている。さあ、行きましょう」

 

 そうだ。

 皆が、待っている。

 きっと、楽しい食卓になるだろう。

 最近、少しお腹が目立ってきた凛と。

 それを羨ましそうに見つめる桜と。

 相変わらず、何事にも飄々としたランサーと。

 しゃんと背筋を伸ばし、しかしきっちり三杯はおかわりをするセイバーと。

 時折、セイバーにちょっかいをかけに来るギルガメッシュと。

 それを、可愛いものを見守るように見つめるイリヤと。

 アーチャーと、キャスターと、アサシンと、リズと、セラと。

 目も眩むほどに賑やかな食卓。

 でも、何物にも変えがたい、幸福が。

 きっと、微笑みながら、俺を待っていて。

 代羽は、微笑いながら手を差し出して。

 その手を、柔らかで暖かいその手を握りながら。

 

 ああ、これは夢なんだなあ、と。

 

 知りたくもない真実を、噛み締めた。

 

 

「士郎、士郎、士郎、士郎、士郎!」

 

 狂ったように、俺の名を叫び続ける少女。

 額に降りかかる涙が、どうにも暖か過ぎて。

 俺は、目を覚ました。

 

「…り、ん…?」

「分かる?私が分かる?」

 

 頬に、手を添えられる。

 柔らかくて、滑らかな感触。

 ずっと、このままでいたくなる。

 このまま、眠ってしまいたくなる。

 でも、そうはさせじと。

 少女は、その美しい唇を、俺の顔中に降らせてくれるのだ。

 そうして、抱き締められた。

 彼女の心音が、頭蓋を伝って鼓膜に響く。

 その、優しい音色が。

 まるで、母親に抱かれているような。

 

「ああ、士郎、士郎…」

「…大丈夫だよ、凛。俺、お前とその子を置いて、どっかに行ったりしたり、しないから」

 

 泣き笑いを浮かべた、赤色がこの上なく似合う少女は。

 その頬を、赤と呼ぶには、少し淡い色に染めながら。

 馬鹿、と。

 消え入りそうな声で、呟いたのだ。

 

「あーっと、お熱いのは結構なんだがよ」

 

 少しうんざりした声が、俺達を現実に引き戻す。

 直後俺を襲った、鈍い音と鋭い痛み。

 ごつん、と。

 地面と後頭部が、激しい接吻を交わしていた。

 ああ、凛。

 恥ずかしがり屋なお前も悪くはないけど、抱きかかえた恋人の頭を突然放すのはどうかと思うぞ。

 

「逃げるって…そうだ、兄さんは、代羽は!?」

 

 槍兵は、顎をしゃくる。

 その、先。

 彼の背後に背負われた、赤髪の少女。

 苦しそうに瞳を閉じているが、間違いなく生きている。

 俺の瞳から、何か熱い液体が、ぽろりと落ちた。

 

「もう、ほとんど欠片しか残ってなかったんだけど…噂に聞く、死徒の復元呪詛だってここまでのレベルじゃあないでしょうに。全く、馬鹿げてるわ、この子」

「おそらく、私の鞘の加護もあるのでしょうが…。それにしても再生は不可能なレベルだったはずです。よほど、相性が良かったのでしょう」

 

 何かを悟ったような、セイバーの瞳。

 どこまでも優しい光に満ちている。

 その先で、すやすやと眠る少女。

 もう、彼女が傷つくことも無いだろう。

 もう、彼女の不死が役立つことは、永遠に在り得ないのだ。

 俺が、絶対にさせない。

 そう、誓った。

 

 誓ったのだ。

 

 なのに―――。

 

「さっさと逃げようぜ。ここはもう危ない」

「…ええ、そうね」

 

 逢瀬の残滓もない、その声。

 見上げた、緊張に満ちた少女の顔。

 その、視線の先に。

 黒い、広げられた掌のようない、不吉な丘。

 その、更に上。

 

 折り畳まれた手足。

 握られた、弱々しくも巨大な掌。

 小さく曲げられた背中と、その体に比して大き過ぎる頭部。

 

 そこに浮かんでいたのは、胎児だった。

 

 黒い、黒い胎児。

 

 その、瞼が持ち上がり。

 

 とろりと、黄色く濁った白目と。

 

 その中央に、染みのように浮かんだ。

 

 黒い、奈落よりも黒い、瞳が。

 

 俺達を映し出して。

 

 そいつは、確かに、嗤ったのだ。

 

 直感だ。

 

 所詮、直感に過ぎない。

 

 それでも、俺は確信した。

 

 こいつは、絶対に生まれさせてはいけない、と。

 

 それが、どれほど身勝手で、どれほど残酷なことでも。

 

 こいつだけは、絶対に生まれさせてはいけない。

 

 こいつは、生まれるべき存在ではない。

 

 そう、確信した。

 

「さ、士郎。早く行きましょう」

 

 凛の、必死の言葉にも、今は首を縦に振れない。

 俺には、やるべきことがある。

 親父から、一つの理想を受け継いだ。

 赤い弓兵から、その果てを教わった。

 それが、例え借り物でも。

 俺が辿るべき未来じゃあなかったとしても。

 それが、綺麗だと思ったなら。

 それを、救いだと思ったなら。

 俺には、為すべき事が、ある。

 

「駄目だ。まだ、一番の大物が残っている」

 

 立ち上がる。

 一番驚いたのは、俺自身だ。

 どこにこんな力が残っていたのだろうか。

 それとも、残っていないのか。

 これは、何かの間違いなのか。

 ならば、大歓迎だ。

 

「あれは存在してはいけないものだ。この世にも、多分あの世にも。だから、何とかしなくちゃ」

 

 そう言った、直後。

 

 ぱああん、と。

 

 小気味のいい、音と痛みが。

 

 じんじんとした感触に、思わず頬を撫でる。

 

 目の前には、必死に涙を堪えながら、俺を睨みつける凛がいた。

 

「―――何とか出来るなら、最初からそうしてるわよ!でも、それが出来ないから逃げるって言ってるんでしょう!少しは私の言うことも聞きなさいよ、このへっぽこ!」

 

 少女は、声を震わしながら。

 ああ、その言葉。

 ほんの数日前まで、毎日のように聞いたその言葉が、今は死ぬほどに懐かしく、愛おしい。

 多分、それは幸福の成せる御業。

 俺は、微笑ったのだろうか。

 

「でも、アレが生まれれば、たくさんの人が死ぬだろう?」

 

 思い出すのは、あの赤い空。

 兄さんに負われて生き延びた、呪われた夜。

 それが、何百倍、何千倍の規模で拡大生産される。

 何百人という、何千人という衛宮士郎とマキリ代羽が生まれる。

 そんなの。

 どうしても、嫌だから。

 だから、少しだけ我侭を言わせてくれ、凛。

 

「じゃあ、どうするの!?教えてよ、何とかする方法を!」

 

 知っている。

 そんなこと、知っているさ。

 あれは、人間が如き力で如何こう出来るものじゃあない。

 せめて、可能性があるのはサーヴァントくらいのもの。

 でも。

 悔しそうなセイバーは、俺が見て分かるほどに疲弊していて。

 憮然としたランサーは、満身創痍の身体のどこを探しても、一片の魔力も無く。

 アーチャー、キャスター、アサシンはその役目を負えていて。

 

 要するに、だ。

 

 誰も、アレの誕生を止めうる者は、いないと。

 

 簡単な話だった。

 

「だからって、だからって、諦められるか…!」

 

 だって。

 

 俺は。

 

 きっと、出来損ないだけど。

 

 未熟者で、無資格者で、役立たずだけど。

 

 一応、正義の味方見習いのつもりだから。

 

「…大丈夫。士郎、安心して。アレは、絶対に生まれることは在り得ない」

 

 凛の声に、現実に帰る。

 その、まるで気休めとしか思えない言葉に、意外なほどの説得力がある。

 

「―――どうして、だ」

「あなたも魔術師なら聞いたことくらいあるでしょう、守護者のことを。あれは人類そのものに対する呪い。ならきっと、いえ、間違いなくアラヤが、抑止が動くわ」

 

 アラヤ。

 人類の統一的な意思。

 何を犠牲にしても、例え世界を滅ぼしても生き残りたい、そう考える生き汚い霊長の、存在し続けることそのものへの欲求。

 深海魚の、群れ。

 その、どろどろとなった、その先に。

 黒い、うねうねとした集合体が在って。

 まるで、俺を癒すように。

 誘うように。

 それが、阿頼耶識で、もしくは蔵識と呼ばれ。

 その尖兵が守護者である。

 

「でも、それは」

 

 そう、守護者が現れるということは。

 全てを。

 災いの原因となった、或いは原因となりうる全てを、跡形も無く吹き飛ばすということであり。

 

「結局同じことじゃあないか」

 

 守護者は人類全体の守り手ではあるが、個別の人間にとっての味方であるとはかぎらない。

 むしろ、彼らは人類全体に幸福をもたらすため、個々の人間に災厄を撒き散らす。

 あってはならなかった事柄を、無かったことにする存在。

 それは、まるであの赤い騎士のように。

 苦悶しながら。

 苦悩しながら。

 それでも、人類のために。

 加害者と被害者を、平等に殺戮する。

 

「…そうね、あなたの言うとおりかもしれない。でも、運がよければこの山が吹き飛ぶくらいで済むかもしれない」

 

 この山が、吹き飛ぶ。

 凛が、山の住人を避難させるための手回しをしたのが、昨日の昼で。

 それが成されるはずだったのが、今日の昼。

 当然、寺に住む人々は、俺たちの頭上で安らかな寝息をたてているはずである。

 つまり。

 この山が吹き飛ぶということは、即ち、俺の数少ない友人の一人が確実にこの世から姿を消すことを意味している。

 

「…運が悪ければ?」

 

 俺の、頭の悪い問いかけに。

 凛は、無色の表情で応えた。

 

「この街、いいえ、日本という国が地図から姿を消すこともあるかもね」

「―――そんなのは許さない。きっとまだ何か方法があるはずだ」

 

 俺と凛がそんなやり取りをしている間にも、穴の中の、黒い胎児は成長を続けている。

 まるでサンショウウオのようだった四肢は、徐々に人間特有の形状に。

 彼、或いは彼女は、進化の只中にいる。

 生命が悠久の時を経て築いてきた道のりを、そのまま辿っているのだろう。

 おそらくは、その全てを滅ぼすために。

 そのとき、胎児は鳴動した。

 きっと、嗤ったのだ。

 愉快そうに、瞳が歪められる。

 ぎょろり、と見開いたその目に、俺達はどのように映っているのだろうか。

 

「…許さない?あなたは何様のつもりよ。だれかを助けるとか、救うとかは、余裕のある人がすればいい。いえ、余裕のある人しかできない。もし、飢え死にしそうな人が同じ境遇の人に自分の食べ物を半分分け与えても、結果は餓死体が二つ生まれるだけでしょう」

 

 悲痛な面持ちで、凛が言う。

 まるで、聞き分けのない子供を諭すかのように。語勢は、先ほどとはうってかわって穏やかだ。

 だからこそ、余計に堪えた。

 何より、彼女は正し過ぎ、俺は捻じ曲がり過ぎている。

 そう、理解できてしまうから。

 

「今、私たちは災厄の真っ只中にいる。私だって、止めれるものなら止めたい。だって、その為にここまで来たんだものね。でも、今の私にその力は無いわ。私がどう足掻いても結果は変わらない。ならば、せめて私は生き残りたい。どんなに少ない可能性でも、士郎と一緒に生き残りたい。どう?私の言ってることは間違えてるかしら。それとも、ここで殉死でも気取るのが正しいとでも言うつもり?」

 

 凛の言っていることは正論だ。

 非の打ち所がないくらい正しいと、百人が聞けば百人がそう答えるだろう。

 でも。

 でも、俺は。

 また、自分だけが生き残って。

 果たして生きていられるのか。

 

「あーあ、凛にはがっかりね。今代の遠坂の当主が、ここまで頭が悪いなんて」

 

 場違いな、あまりに幼い声が虚空に響く。

 

血のように赤い瞳、雪のように白い髪。

 

 太陽の下では可憐に見えるいつもの服も、地の底ではひどく滑稽に見える。

 

 そして、如何にも悪戯っぽく。

 

 俺に向けて、微笑みかけるのだ。

 

「…イリヤ、なんでここに―――」

「なんで?愚かな質問ね、士郎。私はアインツベルンよ。それ以上の理由がいるのかしら」

 

 冷ややかな笑みを浮かべながらイリヤが答える。

 アインツベルン。

 聖杯に執りつかれた、妄執の一族。

 その、千年に渡る、長過ぎる旅路の果て。

 終着点たるこの地の底にて、彼らの悲願は達成されつつある。

 

 魂の具現化、第三魔法、ヘブンズフィール。

 

 負の方向にではあるが、聖杯がその奇跡を成しつつある今、雪の少女は何を思うのか。

 俺如きでは、イリヤの表情からは、どんな種類の感情も読み取ることができなかった。

 

「リン、確かに、あれが生まれれば守護者は現れる。それは間違いないわ。でも、本来ならあれが生まれる可能性が生じた時点で守護者は現れていなければならない。なぜなら、あれは人類の滅びそのものだから。でも、あれは今も存在しているし、守護者はその姿を見せていない。何でだと思う?」

 

 イリヤは凛にそう質問した。

 凛の表情が魔術師としての、探求者としてのそれに変わる。

 

「…確かに。聖杯戦争という儀式そのものの特異性、だけでは説明がつかない。他にも何か理由があると?」

 

 イリヤは、出来のいい生徒を見る教師のような視線で凛を見て、こう言った。

 

「例えば核兵器。人類は既に何百回も自身を滅ぼすだけの力を既に手に入れている。もし、あらゆる滅びの可能性に守護者が対処するならば、文明はここまで発達する事無く滅ぼされているはずでしょう」

 

 確かにその通りだろう。

 無限とも思えるような深い海の底、かつては憧れることしかできなかった夜空の月。今の人類の長すぎる腕は、容易にそれらを掴んでしまう。

 高度に発達し過ぎた文明は、それ存在自体が人類という存在そのものの首筋に当てられた諸刃の刃なのだ。

 

「つまり、守護者が呼び出される条件は最低でも二つ。一つは、人類という存在そのものに対する危機が発生すること。もう一つは、その危機が、抑止力を用いて現世の人間を動かしても阻止できる限界を超えること。もし、どこかの大統領がとち狂って、核のスイッチを押そうとしても、抑止が一人の人間を動かしてその大統領を暗殺させれば事は片付くものね」

 

 少しの間、自己の思考に埋没していた凛が、こう答えた。

 

「…イリヤ、つまり、あなたにはあれを止める術があるということね」

 

 イリヤは、にこりと、本当に嬉しそうな表情で。

 

「だーいせーいかーい!凛、さっきの言葉は取り消すね。だって、この身は聖杯。それも、あの呪いが在ることを前提に作られた優れものだから。あんな汚いのはちゃちゃっとやっつけちゃうわ」

 

 明るい、あるいは明るさを装った、声。

 でも、あるいはだからこそ。

 俺には、イリヤが。

 

「だから、士郎も凛もここを離れて。レディが戦ってるところなんて見るものじゃないでしょ」

 

 泣いているようにしか、見えなかった。

 

「嘆かわしい、最近のレディは平然と人を偽って、恥も罪も感じないのですか」

 

 静かな声が響く。

 人を突き放すような、暖かく包み込むような、矛盾した声。

 その場にいた全員の視線が、一点に集中する。

 槍兵の背中から、むくりと起き上がった赤い頭。

 少し不機嫌そうに、周りを見遣る。

 

「…代羽、起きたのか」

「怪我人を労わるつもりなら、もう少し静かにしなさい。あれだけ騒がれては、早く起きろと言っているようなものです」

 

 彼女は軽く髪をかきあげながら、ゆっくりと体を起こす。

 

「…あの傷から、もう回復したの?相変わらず化け物みたいな再生力ね」

「お褒めの言葉、恐縮ですわ、遠坂先輩」

 

 凛の呆れたような呟きに、代羽は満面の笑みで返す。

 その、噛み付くような笑みが二つ。

 何かを覚悟したような、笑みと笑みだった。

 

「シロウ、よくぞご無事で…」

「おかげさまでね。はい、これ、ありがとうございました」

 

 代羽は、セイバーに何かを渡した。

 セイバーは頷いて、それを受け取る。

 一体なんだったのか、よくわからない。

 ただ、二人とも、微笑っていたから。

 それは、きっといいことなんだろう。

 

「…ちょっと、シロ。その言い方だと、まるで私が嘘吐きみたいじゃない」

 

 イリヤが、むすっとした表情で代羽に噛み付く。

 

「あら、その言い方だと、まるであなたが正直者のように聞こえますが」

 

 代羽は眉一つ動かさずに、そう切り返す。

 

「確かに、あなたは嘘を言っていないかもしれない。でも、意図的に真実を話していないわ。それを正直というならば、この世の詐欺師の多くは天国に召されるのでしょうね」

 

 その言葉で、イリヤの表情が凍りついた。

 

「どういうことだ、代羽」

 

 よくわからない。

 どうやらイリヤは嘘を言っているわけではないらしい。

 しかし、一番重要なところを隠している。

 そういうことだろうか。

 

「衛宮士郎、人に尋ねる前に、まず自分で考えなさい。他者に依存するのが悪いことだとは言いませんが、度が過ぎれば自らの成長を阻害します」

 

 代羽は、大きく溜息を吐いた。

 まるで、いつもの彼女のように。

 学校で朝の挨拶を交わして、棘の付いた言葉を吐き出すときのように。

 でも、ほんの少しだけ、いつもよりも無表情に。

 

「しかし、状況が状況ですものね、今回は私が説明しましょう。正直に答えなさい、イリヤ。未完成のあなたが、あの穴を塞げる可能性はどれくらいなのですか?」

 

 凍ったままだったイリヤの表情が驚愕に歪む。

 

「…どうして、あなたがそのことを」

「私も聖杯なのよ。今の貴方が未完成品であることくらい、容易にわかります」

 

 今度はイリヤが大きく溜息を吐いた。

 観念したようなと。

 そう受け取ることも出来るような、達観した様子で。

 

「…そうね、なら仕方ないわ。天のドレスを装着しない私は、確かに聖杯としては未完成。その私が、あれだけ大きく開いた、しかも汚染された穴を閉じられる可能性は、良くて三割ってところかしら」

 

 天のドレス?

 

 聞きなれない単語だ。

 でも、以前にイリヤが言っていた。

 『天のドレスが失われた』って。

 そのこと、なのだろうか。

 

「士郎、天のドレスっていうのはね、いわば外付けの魔術回路、バックパックみたいなものなの。本来、私はそれを身につけることで小聖杯としての機能を十全に発揮することが出来る。ぎりぎりまで、探してたんだけど見つからなかったわ。壊れた、ってことはないけど、掘り返す時間が無くて、今、手元にはない。それは失ったっていうのと同じ意味でしょう」

 

 ということは、今のイリヤにはあの穴を閉じることはできない、と。

 そういうことか。

 

「それでも命を賭けてやれば、もう少しはマシな確立になる。きっと大丈夫、任せて頂戴」

「…それでいいのか、イリヤ」

 

 思わず、そう口走っていた。

 それが、どれほどに残酷な台詞なのかを知りつつ。

 それでも、言わずにいられなかった。

 だって、こんなに小さくて、可愛らしい女の子が。

 命を、賭けて。

 戦うと。

 そう、言っているのに。

 俺は。

 正義の味方のはずの、衛宮士郎は。

 一体、何をやっているんだ。

 

「…私だって死にたくなんか無いわよ。もっと生きていたわよ!もっとシロウと一緒に生きていたいわよ!けど、シロウを助けることが出来るのは、私だけなんだもの。やるしかないじゃない…」

 

 悲痛な顔で少女が叫び、そして呟く。

 ちくしょう。

 イリヤが、あの小さなイリヤが、あんなにも必死なのに、

 俺には何にも出来ないのか。

 このまま、蹲ったまま。

 また、誰かの助けを、待ち望んで。

 知っている。

 弱いやつは、いつだってそうなのだ。

 必死に戦っている振りをして、心のどこかで助けられるのを待っている。

 それが、当然だと。

 傲慢に、確信しながら。

 ああ、お前に相応しい。

 正義の味方の偽者よ。

 お前に相応しい卑怯と怯懦じゃあないか。

 全く、相応しい。

 

「呆れた。イリヤ、あなたには失望しました。アインツベルンの魔術師が、こんなに頭が悪いとは」

 

 どこかで聞いたような台詞。

 一瞬遅れてイリヤが憮然とし、凛が苦笑を浮かべた。

 

「たった三割、それを多少底上げした程度しか成功の見込みが無いのに抑止が働かない、そんな都合のいい話があるわけないでしょう。抑止が動かないのは、100パーセント破滅が起きない、そう既定したときだけです」

 

 イリヤと凛が、息を呑んだ。おそらく俺もだろう。

 気付いたのだ。

 何かが、走り始めたと。

 もう、取り返しのつかない方向に。

 そう、確信した。

 確信して、しまった。

 

「単純な話です。今、この場には聖杯は二つある。あれは聖杯でないと止められない。一つが未完成なら、もう一つの完成品を使えばいい」

 

 この場に在る二つの聖杯。

 未完成の一つがイリヤなら。

 もう一つの完成品は。

 その子宮に、もう一人の黒い胎児を宿した。

 目の前で、微笑む。

 

「私が内側から穴を塞ぎます。あなた達は直にここから脱出しなさい」

 

 沈黙が、場を支配する。

 まるで、誰かが声を出したその瞬間に、事態は取り返しのつかないことになる、と。

 そう、全員が確信しているかのように。

 

「                    !!!」

 

 声にならない声が響く。

 それは歓喜の声。

 もしくは、早過ぎる産声だ。

 生まれいづる自らを祝福する声。

 その声を聞いただけで確信した。

 

 もし、こいつが生まれたら。

 

 その姿を見ただけで、

 

 考えられうる、最も惨い死が、俺を祝福するだろう。

 

「時間がありません。さあ、早く」

 

 静かな調子で、兄さんが、そう言った。

 

「だめよ、あなたも来るの、代羽」

 

 厳しい口調で、凛が、そう言った。

 

「あなたが、あの呪いの中に身を投じる。その意味がわかってるの?」

 

 まるで、その言葉を、待ち望んでいたかのように。

 兄さんの表情は全く変わらない。

 ただただ、いつも通りに。

 静かに、静かに。

 まるで、聖母のように。

 

「あの呪いは人を殺すためだけに存在するもの。防ぐ術なんてないわ。それは、アンリマユとパスのつながったあなたでも、おそらく同じこと。でも、あなたはアンリマユから流れる魔力で復元し続けるから、死ぬことすら出来ない」

 

 彼女の瞳に浮かんだもの。

 それは、確信だった。

 凛ならば、気付くだろう、と。

 まるで、長い間共に戦場を歩いた、戦友のように。

 或いは、恋人のように。

 彼女のことを信頼しながら。

 それでも、そのことを、何よりも悲しく想っている。

 彼女の優しさを、何より悲しく想っているのだ。

 

「つまり、あなたはあの中で永遠に殺され続けることになるのよ」

 

 頭の中が。

 

 ふわり、と。

 

 真っ白になった。

 

 凛は今、何を言ったんだ。

 

 兄さんが永遠に死に続ける。

 

 あの、黒色の中で。

 

 永遠に、一人きりで。

 

 死に続ける。

 

 殺され続ける。

 

 安息という意味での死は訪れず。

 

 ただただ、無限の苦痛を味わい続ける。

 

 のた打ち回り、血反吐を吐き、断末魔の叫びを上げ続ける。

 

 そういう、ことか。

 

「ええ、知っています」

 

 微笑みながら、兄さんはそう言った。

 

 毅然とした、声と表情。

 

 でも、俺は見てしまった。

 

 彼女の、その細い指が、

 

 微かに、ほんの微かに、

 

 震えて、いたのを。

 

「しかし、それは正確ではありませんね、凛。あれは60億を殺すための呪いが詰まった穴。ならば、殺し尽くせば枯れるが必定」

 

 それは。

 

 この世全ての悪を。

 

 あなたが。

 

 その細い肩に。

 

 背負うということか。

 

「駄目だ」

 

 声が掠れる。

 

「絶対に行かせない」

 

 彼女の前に立ち、手を大きく広げる。

 

 とおせんぼ、のポーズだ。

 

 我ながら芸がない、と思う。

 

「そこをどきなさい、衛宮士郎」

 

 そんなことを言われて。

 はい、そうですか、と。

 言う通りにする馬鹿が、どこにいる。

 

「私独りの犠牲で、全てが助かるのです」

「嫌だ」

 

「逆の立場なら、貴方だって、そうするでしょう?」

「嫌だ」

 

「私はね、あの弓兵に嫉妬していたのです。そして、憧れていた。だって、あれは望みを叶えた私だったから」

「嫌だ」

 

「お爺様もね、この世全ての悪、その根絶を目指していました。因果なこと、私は彼の望みも受け継いでしまいました」

「嫌だ」

 

「だからね。散々貴方にお説教をしておいて、なんなのですけれど。私も、ちょっとだけ、正義の味方を目指してみます」

「駄目だ」

 

「だから、お願い。私を、祝福してください」

「お断りだ」

 

「祝福しなさい、衛宮士郎」

「嫌だって言ってるだろう」

 

「私は、貴方の目指すものになるのです。それは、喜ぶべきことでしょう?」

「知らない。そんなの、知ったこっちゃ無い」

 

「だから、貴方には義務がある」

「嫌だ嫌だ嫌だ」

 

「我侭を、言わないで」

「だって、俺、我侭だもん」

 

「―――ええ、そういえば、そうでしたね。昔もよく、困らされました。私の服なんかをねだって…。腹いせに私の名前を書いてやったりもしましたけど、憶えていますか?」

「…憶えて、ない」

 

「ふふ、とにかく、貴方は昔から、頑固で我侭でした。でも、それが、とても愛おしかった。私は、貴方を愛していました。そして、それは今も」

「なら!だったら!」

 

「だから、私は貴方を守りたい。貴方の生きる世界を、守りたい。それは、罪でしょうか?」

 

 罪である、と。

 

 どうして、俺は。

 

 そのとき。

 

 声を、張り上げて。

 

 言えなかった、のだろうか。

 

「ですから、衛宮士郎」

 

「あなたが正義の味方ならば」

 

「正義の味方を、を目指すのならば」

 

「貴方は」

 

「世界中の全てが私を罵っても、貴方だけは」

 

「せめて、貴方だけは、私を祝福しなさい」

 

「祝福、してください」

 

 

 嫌だ。

 

 嫌だ嫌だ嫌だ!

 

 絶対に、認めない。

 

 それが、どれほど素晴らしいことでも。

 

 それが、例え本当に世界を救う行いだったとしても。

 

 俺は、嫌だ。

 

 俺は、貴方に生きていてもらいたい。

 

 だから、

 

 だから!

 

「こんなのを!」

 

「こんなことを!」

 

「笑って見過ごすのが正義の味方なら!」

 

「笑って見過ごさなきゃ、正義の味方になれないなら!」

 

 

 ――俺は、正義の味方じゃなくて、いい!

 

 

 そう叫んだ、俺を見て。

 兄さんは。

 少し、困った顔をした後で、

 とても嬉しそうに。

 でも、いつもみたいに、少し寂しそうに。

 

 微笑ったんだ。

 

 その瞬間、俺の視界の中で、青い髪が踊った。

 

 視界が反転する。体が動かない。

 

「やめとけ、坊主。覚悟には相応の礼儀が必要だ。だから、ここはお前の出る幕じゃねえ。出る幕じゃねえんだ」

 

 獣の声が、不思議なくらい沈痛に耳道に響いた。

 

「ありがとう、ランサー」

「礼を言われるようなことはしてねえよ。ほら、さっさと行っちまえ」

 

 兄さんは、深く深く頭を下げた後、泣きそうな笑顔のまま、くるり、と背中を向けた。

 

 後ろから凛とイリヤの声がする。

 

 セイバーは、悲しそうに兄さんを見つめる。

 

 ああ、駄目だ。

 

 行ってしまう。

 

 やっと、会えたのに。

 

 やっと、ありがとう、と言えたのに。

 

 また、手の届かないところにいってしまう。

 

 視界が滲む。

 

 背中が遠ざかる。

 

 またか。

 

 また、俺は救われるしかないのか。

 

 動け。

 

 動け、俺の体。

 

 これから、ずっと動かなくていいから。

 

 頼むから動いてくれ。

 

 今だけでいい。

 

 今だけでいいから。

 

 せめて、今だけは。

 

 行ってしまうんだ。

 

 兄さんが、行ってしまうんだ。

 

 唇を噛み切る。

 

 歯を、噛み潰す。

 

 なんだ、口は動くじゃあないか。

 

 ならば、声の限り。

 

 喉が、肺が裂けるまで。

 

 俺は叫び続けてやる。

 

「なんでだっ!」

 

 遠ざかる兄さんの背中に向かって、これ以上ないくらい声を張り上げる。

 

 血を吐くような叫び。

 

「今まで、一番つらい思いをしてきた兄さんが、なんで!なんでっ!」

 

 涙で詰まって、上手く声がでない。

 

 もっと、もっと、言ってやりたい文句も、伝えたい想いもあるはずなのに。

 

 それ以上が、声にならない。

 

 言葉は無力だ。神が無力な様に。

 

 一番大事なときに、役に立たない。

 

 一番大事なときに、一番伝えたいことを、一番大切な人に、伝えることが出来ない。

 

 凛も、イリヤも、ランサーもセイバーも、何も話さない。

 

 石を噛むような沈黙。

 

 火に炙られるような静寂。

 

 それを破ったのは。

 

「増長するのもたいがいになさい」

 

 静かな声が、崩壊しつつある大空洞を満たす。

 

 それは、大聖堂に響く聖歌。

 

 ひたすらに、ただ一心に、何かに対して祈る声。

 

「貴方に何がわかるのです。人は、人を理解することなど出来ません。ただ、思いやることができるだけ」

 

 彼女は話す。

 淡々と。

 詠うように、詫びるように。

 

「私は、あの日、貴方を守ることが出来た。もしそれが事実ならば、私の人生は、それだけで誇ることができる。だから、一番辛い思いをしてきたのは、私ではありません」

 

 それは、彼女には珍しく、怒りを孕んだ声。

 

「私ではなくて、それは」

 

 貴方でしょう、と。

 

 聴覚ではなく、心が聞き取った。

 

「でも、」

 

 仮に、そうだとしても。

 

「でもさぁ!」

 

 百万歩譲って、そうだったとしても!

 

「これ以上!兄さんが!聖杯戦争なんかの犠牲にならなくたって―――いいじゃないかよお!」

 

 

 ああ、ありがとう、

 

 私の、大切な弟、

 

 私にとって、この世の誰よりも優しい貴方。

 

 貴方が生きる、この世界だから、

 

 どんなに、私に優しくなくても、

 

 命を賭ける、価値がある。

 

 神様、はじめてあなたに祈ります。

 

 どうか、もうすぐ私を忘れるこの世界が、

 

 この子にとって、優しいものでありますように。

 

 さようなら、最愛の弟。

 

 名前も知らない、誰かさん。

 

 

 ゆっくりとした、しかし確かな足取りで、彼女は前へ歩み続ける。

 

 涙が、止まらない。

 嗚咽が、止まらない。

 行かないで。

 行かないで。

 お願いだから。

 ぼくを、ひとりに、しない、で。

 

「ああ、忘れるところでした」

 

 立ち止まって、しかし振り返らず。

 

「最後に言っておきます」

 

 最後、という言葉には、どんな意志がこめられているのか。

 

「貴方は、アンリマユを倒せなかった」

 

 だから、あなたを救えません。

 

「貴方は、私を祝福できなかった」

 

 ごめんなさい、無理でした。

 

「故に、貴方に正義の味方を名乗る資格など、無い」

 

 そんなことは、知っています。

 

 ですから士郎、と。

 

 兄さんは、

 

 きっと、いつものように、

 

 優しく微笑んで、

 

 こう言ったんだ。

 

「貴方は、貴方の人生をお歩きなさい」

 

 彼岸と此岸を分ける黒い境界線。

 彼女は、一度も振り返ることなく、

 無造作に、それを超え、

 無限の闇の中に、その姿を消した。



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epilogue1 未来航路

 空を一面覆いつくす厚い雲を切り裂いて、暖かな日差しがカーテンに突き刺さる。

 三日前から続いた豪雨も、明け方には止んでいたようだ。

 雲の上に出てしまえば地上の天気など気にもならないが、旅立ちの朝は、やはり晴天のほうが望ましい。

 まして、日本で見る太陽はしばらくの間、これで見納め。太陽など、地球のどこから見てもさして変化のあるものでもないが、少しだけ神様に感謝したくなる。

 

「そろそろ時間だぞ、凛」

 

 ドアの向こうから、聞きなれた声がする。

 

 衛宮士郎。

 

 魔術師としての私の不肖の弟子にして、女としての私のかけがえのない人であり、そして、私の隣で眠る小さな双子の優しいパパ。

 

「ええ。ありがと、士郎」

 

 今日、私は彼と一緒に、日本を離れる。

 

epilogue1 未来航路

 

 戦いが終わって一週間、士郎はまるで抜け殻だった。

 いや、まさに、といったほうが正しい。

 ろくに食事は摂らず、夜もほとんど眠らない。

 突然泣き始めたと思ったら、何時間もマネキンのように動かない。

 頬はこけ、目は落ち窪み、幽鬼の如き鬼気迫る表情で、ただじっと一点を見つめる。

 もちろんそんな状態の士郎を、無事に退院した藤村先生に見せるわけにもいかず、適当な理由をつけて私の家に匿った。

 

 このままでは、士郎が壊れる。

 

 もともと、責任感と使命感の人一倍強い士郎に、目の前で兄を失ったという現実は重すぎた。

 なす術も無く、ただ、守られた。

 その自責の念が、彼を絶え間なく責め苛むのだ。

 しかも、その兄は、おそらくは今も死に続けている。

 暗い、暗い闇の中で、たった一人で。

 だからこそ、士郎はこのままではいけない。

 彼女が味わい続けている地獄の分だけでも、幸せにならないと嘘だ。

 過去を忘れることは出来ない、いや、してはならない。

 ならば、せめて先のことに目を向けさせるべきだろう。

 

「士郎、あなたはこれからどうするの?」

 

 テーブルに頬杖をつきながら、向かいに座った彼に話しかける。

 部屋を満たすのは、私が拙い技術と狭隘な知識を総動員して淹れた、珠玉の紅茶。

 その優しい香りすら、彼の意識には胡乱過ぎるようだ。

 壊れた玩具を思わせる緩慢な動きで、それでも何とか私の方に顔を向けると、うつろな表情のまま士郎は呟いた。

 

「…これ……から…」

 

 駄目だ。

 こんなの士郎じゃない。

 こんなモノのために、彼女は苦しみ続けているんじゃない。

 叫び出しそうになるのを堪えて、私は続ける。

 

「…ええ、これから。私は、この戦争の処理が終って落ち着いたら、倫敦にいくわ。そこでしばらくの間、魔術の研究をすることになる。ねえ、士郎。もし、あなたが魔術の世界に生きるつもりなら、一緒に行かない?」

 

 倫敦。

 時計塔。

 魔術師の総本山。

 

 本来なら士郎程度の半端者に門戸を開けているほど懐の広いところではないが、彼が望むなら、如何なる手段を使ってもその扉を開かせるつもりだ。

 

「…いや、遠慮しとくよ」

 

 光のない瞳で私を映しながら、彼はそう答えた。

 

「そう、残念ね。じゃあ、士郎は何かしたいことがあるの?」

 

 彼は、疲れた顔のまま、心底嬉しそうに笑いながら。

 ほんの少しも、嬉しくなさそうに。

 己を、痛めつけて。

 

「…決まってるだろ、この街で兄さんを待ち続けるよ。だって、兄さんが帰ってきたときに、俺がいなかったら、兄さん、きっと悲しむから…」

 

 私は、腰を上げようとした。

 立ち去ろうとした。

 辛過ぎた。

 この場所にいるのは、ほとんど拷問だった。

 だから。

 なのに。

 彼は、続けるのだ。

 

「…そうだ、凛。もし、死徒化の秘術を発見したら教えて欲しい。…だって兄さんはいつ帰ってくるか判らないんだし、その時まで俺は死ぬわけにはいかないから」

 

 ぷちん、と。

 小気味いい、音を立てて。

 

 切れた。

 

 私の中の、何か大事な物が切れた。

 

 もともと弾性に乏しい理性をしているのは自覚しているが、ここまで見事に弾け飛んだのは初めてだ。

 

 胸の奥で生まれた強烈なトルクが、問答無用で私の体を突き動かす。

 

 椅子から腰を浮かせる。

 

 手を大きく振りかぶる。

 

 足を捻ってエネルギーを蓄え、

 

 それを足から腰へ、腰から肩へ、倍加させながら伝える。

 

 目標は、目の前の大馬鹿野郎の左頬。

 

 掌なんて、生易しい場所は当ててやらない。

 

 当てるのは掌の付け根。手首との接合箇所。

 

 掌底。

 

 奥歯の十本や二十本くらいは砕けるかもしれないけど、

 

 そんなことは知ったことか。

 

 だって、お前は私を怒らせた。

 

 腕が鞭のようにしなる。

 

 きっと、私の手は音速を超えた。

 

 彼は呆けた表情のまま。

 

 よしよし、そのまま動くなよ。

 

 

 ゴキッ

 

 

 手首に最高の手ごたえが伝わる。

 視界に映る彼の顔が大きく歪む。

 それは衝撃のせい。

 私の涙のせいじゃないぞ、うん。

 振りぬいた私の手と同じ方向に、彼の体がすっ飛んでいく。

 ついでにカップとソーサーも。

 あちゃあ、あれ高かったのよね。

 ま、後で直せばいっか。

 

「―――ふざけるなっ!」

 

 叫び声は、どこか間の抜けた音階で、室内を満たした。

 仰向けに倒れた士郎、そのガラス玉の瞳が、天井から吊るされた照明器具を見つめる。

 ぼんやりと、そこに違うものが映りこんでいるかのように。

 

「死徒になりたいなら、私は止めない!でも、その方法くらい自分で見つけろっ!」

 

 つかつかと、彼の前まで歩いていって、襟首掴んで引き起こす。

 ぐねんと、一切の抵抗も無く。

 人形のように、力なく、そして薄っぺらな体重は。

 

「―――士郎、あなた、何か勘違いしてない?」

 

 彼を、後ろの壁に叩きつける。

 どごん、と、屋敷が揺れた。

 同時に、何かが落ちた音がした。

 きっと、二階の絵画が外れて落ちたんだろう。

 

「ごめんなさい、おにいちゃん、あなたをたすけられなかったむりょくなぼくをゆるちて、とでも言いたいの?―――甘えるのもいい加減にしなさい!」

 

 彼の表情は虚ろなまま。

 何を言っても、彼の感情は動かずに。

 そしてそのまま、緩慢な死を迎えるのだろうか。

 彼女は、彼の魂までも、無限の闇の中に連れ去ってしまったのか。

 

 違う。

 そんなの、違う。

 それは、絶対に、彼女の望みなんかでは、ない。

 

「あれは仕方がなかったことなの!あなたが何百回やり直しても!絶対に結果は変わらない!それなのに、それなのに、今のあなたは―――!」

 

 排出しきれない感情が胸で飽和している。

 言葉が、咽喉のところで詰まって、破裂しそうな錯覚。

 言葉が、咽喉の奥で化学変化を起こして、しょっぱい液体に化けそうな感覚。

 あの時の、代羽の背中に向けて叫び続けた士郎も、もしかしたら同じような感じだったのかな。

 

「…出て行きなさい…!今のあなたの存在は、それだけで代羽を侮辱してるわ」

 

「―――お前に、何がわかる」

 

 床に倒れた士郎は。

 ゆっくりと、体を起こしながら。

 血走った白目と、錆び色の瞳で、私を射抜きながら。

 呪詛の、言葉を。

 いいじゃないか。

 のぞむところだ。

 ここ一週間で、初めて士郎が見せた本当の感情。

 それが私への敵意ってのは、大歓迎だ。

 

「…ええ、私には何もわからない。だって、代羽も言ってたものね。人は人を理解なんてできっこないって」

 

 やっと生まれた士郎の表情に影がさす。

 彼女の最後の姿を思い出したのだろう。

 それでも、のそりと立ち上がって。

 私の前に立ち。

 ああ、こいつ。

 知らない間に、背が伸びている。

 少しだけ、大きくなっている。

 私は、嬉しくなった。

 そっと、手を伸ばす。

 自分でも、何がしたいのかは、分からなかった。

 

「…兄さんは、人類全てに向けられた呪いを一人で背負ったんだ。あの小さな肩でだぞ。そんなことできるわけないじゃないか!その役目は、俺が代わってやるべきだったんだ!」

 

 彼は、そんな私の手を振り払って、私の胸を突き飛ばした。

 後ろによろけて、尻餅をつく。

 

「俺には、それが出来なかった。だから、俺は兄さんを待つんだ。それしかできないから…。それの、どこが悪い!」

 

 ―――ああ。

 なるほど。

 こいつは本当の大馬鹿だ。

 そんなくだらない勘違いをしていたなんて。

 

「…士郎。多分、代羽が背負ったのは、そんなつまらないものじゃないと思う」

 

 私の口から出たのは、今まで自分自身聞いたことがないってくらい優しい声。

 自分で自分が気持ち悪い。

 

「きっとね、代羽が背負ったのは、たった一つだけの呪いよ」

 

 びっくりしたような士郎の顔。

 それを見上げながら、私は続ける。

 

「ねえ、士郎。代羽の最後の言葉、覚えてる?」

 

『貴方は、貴方の人生をお歩きなさい』

 

 私は、あんなに尊い言葉を聞いたことはなかった。

 おそらく、これからもないだろう。

 

「…死んだって忘れてやるものか」

「じゃあ、聞くけど、士郎。あなたは今まで、自分の人生を歩いてきたの?」 

 

 士郎の表情が凍りつく。

 いや、表情だけじゃない。

 まるで、彼の周りだけ時間が止まったみたいに、微動だにしない。

 

「もし、そうなら、きっと彼女はそんな言葉を残したりしないと思う。どうなの。答えなくていいから、真剣に考えてみて」

「俺は―――」

 

 そう言って、士郎はまた動かなくなった。

 発条のきれた、からくり人形みたいだった。

 

「あなたは以前、正義の味方になりたい、って言ってたわよね。それって、あなたが自分で目指した道なの?」

 

 やはり士郎は動かない。

 ただ、その視線は、遠い過去を思い出すかのように、或いは失った誰かを悼むように、彼方へと向けられている。

 

「衛宮切嗣が持った人の手に余る望み、それを引き継いだあなた。きっと、代羽にはそれが我慢できなかった」

 

 驚愕の表情で、士郎が私を見る。

 こいつ、こんな顔もできたんだ。

 

「…なんでそれを」

「ごめんなさい、代羽に、きいたの。―――ねえ、しろおぉ。せいぎの、みかたって、そんなに、いいもの、なのかなぁ…」

 

 駄目だ、涙が堪えられない。

 こんなのは魔術師として失格だ。

 ぐすぐすと、誰かが鼻を啜る音が、空しく響いて。

 彼はそのまま立ち尽くし。

 私は、服の袖で涙を拭い続け。

 それが落ち着いた頃合、私は大きく鼻を啜って、そして言った。

 

「…自分を省みないで、困った人を助けて悪を討つ。それは素晴らしいことよね。きっと、みんなが褒めてくれるわ。代羽の行為もまさにそれ。自分を犠牲にして、世界を救った」

 

 まるで、本当の正義の味方みたいに。

 彼女が、正義の味方になるべき運命だったみたいに。

 

「でも、今のあなたに、代羽を褒めてあげることができる?よくやった、って言える?」

 

 士郎は、私から目を逸らす。

 それは、億の言葉よりも、遥かに雄弁で。

 その、苦悶の表情は。

 まるで、呪いに魘される、罪人のようで。

 

「私の目を見て、士郎。正義の味方の行いは、きっと人類全体から見れば素晴らしいことよ。幸せな人が増えるんだもの。でも、正義の味方に近しい人達にしたら、それは酷い裏切りなんじゃないかな。だって、自分達の幸せよりも、愛情よりも、他の、顔も知らない誰かの幸せのほうが大事だ、って言ってるのと変わらないから」

 

 だから、ほら、あなたはそんなにも苦しんでいる。

 自ら犠牲になったものは知りえないのだ。

 残されたものの苦しみは、悲しみは、怒りは、絶対に、絶対に―――。

 

「しかも、その歪んだ憧れは、あなた自身が生み出したものじゃなかった。だから、彼女にはそれが許せなかった」

「…それじゃあ何か、自分で作ったオリジナルじゃないと、理想の一つも持ったらいけないのか」

 

 私は首を振る。

 きっと、涙が飛沫となって舞い散った。

 

「そうじゃないわ、士郎、そうじゃない。彼女はね、あなたが、自分がどんなものに憧れているかも知らずに、ただ、それに憧れているのが我慢できなかったのよ。だから、その身をもってあなたに教えたの、正義の味方がどんなものかを」

「…勝手な推論を並べないでくれ。それは、凛がそう感じただけじゃないか」

 

 苦しそうに、士郎が言った。

 御免なさい、士郎。

 でも、止める訳にはいかない。

 

「ええ、その通りね。気に入らないなら聞かなくていい。すぐにここから立ち去りなさい」

 

 冷厳と言い放つ。

 でも、きっと今の私の顔は、涙でぐしゃぐしゃで、威厳もへったくれもないだろう。

 なのに、彼は動かない。

 神の前で審判を待つ罪人のように、頭を垂れて、じっとしている。

 

「人の想いというものは大きな力を持つわ。それは、比喩じゃなくて魔術と一緒。プラスの方向に働けば、それは祝いになり、マイナスに働けば、呪いになる。そして、代羽はあなたが受け継いだ想いを、呪いと判断した」

「…切嗣の、切嗣の想いが、呪いだっていうのか。切嗣を貶めるなら、いくら凛でも許さない」

 

 勇ましい台詞だ。もしも、表情と内容が合致してるなら。

 ねえ、士郎、気づいてる?

 今、あなた、ね。

 きっと、代羽を、憎んでる。

 

「切嗣氏を貶めるつもりなんて、毛頭ないわ。彼の想いも、それはそれで尊いものだと思う。ただ、今重要なのは、それがあなたに呪いとして作用したと代羽が判断した、それだけ」

 

 私は酷い人間だ。この上なく傷ついて、ぼろぼろの士郎の心にハンマーを振り下ろそうとしている。

 それは、あの歪んだ神父の行いと、何が違うというのだろう。

 

「だからね、代羽にとって、人類なんてどうでもよかった。アンリマユなんてどうでもよかった。正義の味方なんて、どうでもよかったの。大切だったのは、唯一つ。だって、あの子、いつだってそうだったじゃない」

 

 そうだ。

 いつだって。

 彼女は、代羽は。

 ただ、一人。

 ただ一人だけの幸せを、考えて―――。

 

「なら彼女が背負った呪いが何なのかなんて、考えるまでもないでしょう。それは―――あなたが、衛宮切嗣から受け継いだ呪いだけなの」

 

 士郎の瞳から涙が零れる。

 それは、ここ数日続いた狂乱の涙ではなく、ただただ、静かに流れる滂沱の涙。

 

「でも、もしあなたが今のまま、立ち止まったままなら、あなたは新たな呪いを受けたことになってしまう。他ならぬ、代羽からの呪いを」

 

 私は、知っている。

 これが止め。

 きっと士郎は私を許さない。

 

「さあ、士郎、選びなさい」

 

 それでも、言わないわけには、いかないじゃあないか。

 

「あなたは、あの尊い言葉を」

 

 だって、私は遠坂凛で。

 

「かけがえのない想いを」

 

 私は、代羽に託されたんだ。

 

 だから。

 

 さようなら、士郎。

 

「―――醜い呪いにしてしまうの?」

 

 

 彼は、私の家を飛び出した。

 

 彼はきっと、戻ってこない。

 

 

「うあああああああぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

 クッションに顔を埋め、声を殺す。

 私は、泣いた。大泣きした。

 桜が家にいなくて良かった、心の底からそう思う。

 だって、今の自分を見たら、桜は必ず抱きしめて、一緒に泣いて、慰めてくれるから。

 そんなのは、ミスパーフェクトのプライドが許さないわ。

 

 泣いて、泣いて、泣きつかれて、眠って。

 

 起きたら。

 

 玄関の前に。

 

 あの馬鹿が突っ立っていやがりました。

 

「…どの面下げて帰ってきたのよ、この馬鹿」

 

 ウサギみたいに赤い目をした私が言う。

 

「…あれから、一晩考えたんだ。凛の言葉と、兄さんの言葉を」

 

 幽霊みたいな顔色の士郎が答える。

 目は落ち窪んで、クマも酷い。頬もこけたままだ。

 でも、その瞳には、確かな力強さがあった。

 よかった、士郎が帰ってきた。

 

「もしかしたら、いや、多分、凛の考えと兄さんの考えは違うと思う」

 

 それはそうだ。

 昨日の私の話が、全部代羽の想いと一致してる可能性など、砂漠の中から一枚の金貨を探し当てるそれと、ほとんど変わらないはずだ。

 もしも、昨日の私の話が、全部代羽の想いと一致してるなら。私と彼女は分かり合えていた、そういうことになってしまう。

 そんなのは、多分綺麗じゃないから。

 すれ違うくらいで、ちょうどいい。

 

「―――でも、俺は、凛の言っていることが正しいんじゃないかって、そう思うんだ」

 

 恥ずかしそうに、士郎が言う。

 あらら、他ならぬ弟君からのお墨付きをもらってしまった。

 

「だから、兄さんの言ったとおり、俺は俺の生き方を探してみる。だから、凛。俺を時計塔に連れて行ってくれ」

 

 私の頭の中で、色々な言葉がダンスを踊る。

 

 ―――ふざけんじゃないわよ、この遠坂凛を、あれだけ泣かせておいて。

 ―――あれだけ人を心配させておいて、ごめんなさいの一言も無し?

 ―――時計塔にアンタみたいなへっぽこを捻りこむ、それがどれだけ難しいか、分かってる?

 

 そんな、不平不満の声に混じって。

 一番大きな、声が。

 

 ―――士郎、私、貴方を愛してる。貴方が大好き。一生、離さないで!

 

 その声が、私の本心だと。

 そう、自覚して。

 顔が、目と同じくらいに真っ赤になって。

 私は、確信した。

 今、はっきりわかった。

 こいつは私の天敵だ。

 ここまで私の心を乱す存在が現れるなんて、一ヶ月前までは思ってもみなかった。

 この恨み、晴らさでおくべきか。

 でも、笑顔と一緒に、私の口から飛び出した言葉は。

 

「ええ、歓迎するわ、士郎!」

 

 ぐうっと、士郎のお腹から喜びの声がした。

 私の目と同じくらい顔を赤くする士郎。

 

「食欲が出てきたのね、感心感心。あがって。何か簡単なものを作ってあげる」

「ありがとう。でも、辛いものは勘弁してくれ、昨日のビンタで、奥歯が二本やられてるんだ」

 

 少し腫れた左の頬をさすりながら、彼が言う。

 

「あら、たったそれだけだったの。二十本くらいはやっつけるつもりだったのに」

 

 奥歯はそんなにないぞ、と苦笑しながら彼がついてくる。

 

 代羽、私にあなたみたいな真似はできないけど、

 きっと彼を幸せにしてみせる。

 いつか、あなたと再会したときに、

 胸を張ってこう言えるように。

 

 代羽、賭けは私の勝ちね、って。

 

 

 ぼんやりとした思考が、深い眠りの底から浮かびあがる。

 夢を、見ていたようだ。

 不思議な夢だった気がする。

 そして、何より、暖かい夢だった。

 内容は全く覚えていないが、それだけは間違いないだろう。

 頬の辺りにむず痒さを感じて、手を当ててみる。

 少しだけ、濡れていた。

 どうやら、夢を見ながら、涙を流していたらしい。

 ならば、きっと兄さんの夢を見たんだ。

 少しだけ、嬉しくなった。

 

 そんな、夢を見た。

 

 ゆっくりと、目を開ける。

 薄暗い明かりに、人工的な空間が照らされている。

 ごうごうと、低く機械が唸る声。

 そうだ、俺は今、倫敦へ向かう飛行機の中にいるんだった。

 さっきまで見ていた夢を思い出す。

 夢の中で兄さんの夢を見る、そんな不思議な夢だった。

 もしかしたら本当に涙を流しているんじゃないか。

 そう思って頬に手を当てようとしたが、右手も、左手も動かない。

 不思議に思って、右を見る。

 そこには、俺の手を握ったまま眠る、遠坂がいた。

 彼女の胸の中には、すやすやと眠る、一人の赤子が。

 もしやと思って、左を見る。

 やっぱり、俺の手を抱きしめて眠る、セイバーがいた。

 彼女の胸の中には、すやすやと眠る、一人の赤子が

 幸せそうに。

 本当に、幸せそうに。

 頬の辺りにむず痒さを感じるけど、これじゃあ確かめられない。

 だから、きっと涙は流れていない。

 だって、俺がそう決めたんだ。

 

 

 聖杯戦争が終わった後の一週間、俺は抜け殻だった。

 俺が立ち直れたのは、完全に凛のおかげだ。もしもあの時のビンタがなければと思うと、背筋を冷たいものが走り抜ける。奥歯の一本や二本くらい、安いものだろう。

 ただ、奥歯をへし折った次の日の朝に、泰山級の麻婆豆腐を食べさせるのはどうかと思うぞ、凛。

 

 その日のうちに、俺と凛は、柳洞寺へと向かった。

 立ち入り禁止の黄色いテープを乗り越えて、森に分け入った俺達の目に映ったのは、まるで巨大な隕石でも落ちたかのように陥没した裏山だった。

 

「…どうだ、大聖杯の気配を感じるか」

 

 自然と声が小さくなる。

 凛は首を横に振って、やはり小さな声で答えた。

 

「…いいえ、大崩落の直後と一緒。やっぱり、魔術的な気配は全く感じない。ここであれだけの大儀式が行われたなんて信じられないくらい、マナの気配が薄いわ」

 

 これだけの規模の陥没だ。

 あの大空洞に降り注いだ土砂は、おそらく数万トンを超えるだろう。

 総じて、魔術の装置はデリケートなもの。まして、魔法に近い奇跡を成そうとしたほどの大魔術の装置が、それだけの圧力を受けて正常に作動するとは思えない。

 きっと、もう二度と聖杯戦争は起きない。

 これは、只の勘だが、俺はそう確信した。

 

「…呆気ないものね」

 

 遠坂が、そう呟いた。

 きっと、俺と同じことを考えたのだろう。

 

 

 その二日後、病院から桜が帰ってきた。

 綺礼にやられた傷は決して浅いものではなかったが、そこは刻印を受け継いだ魔術師。一般人とは比較にならないほどの回復力だ。

 顔に多少の腫れが残っているものの、ほとんどの傷は完治している。

 ただ、一目で異常に気付く。

 彼女の自慢だった、豊かな胸。

 その片方が、姿を消していた。

 

「…私の宝具で、元に戻ると言ったのですが…」

 

 セイバーの呟きに、桜は苦笑で返す。

 

「ランサーは、そのままでも綺麗だと、そう言ってくれました。それに、この傷は遠坂の当主として初めて負った傷ですから、私の誇りなのです。治すとしても、私の力で治癒させたい」

 

 その声は、どこまでも誇り高く、冒し難く。

 彼女の成長を窺わせるのに、十分過ぎる程だった。

 

 大空洞での死闘の決着と、兄さんとの別れ。

 目を閉じたまま、桜はじっと俺の話を聞いてくれた。

 桜は結局、最後まで代羽と和解をすることは出来なかった。

 果たして、そのことを悔やんでいるのか、否か。

 静謐に満ちた少女の顔からは、一切の感情は読み取れない。

 それでも、全てを聞き終わったあとで、桜はこう言った。

 にこりと、全てを許すかのように。

 

「―――でも、先輩が生きててくれて、私は救われました」

 

 その言葉を聞いて、不覚にも涙が溢れた。

 涙もろくなったと思う。

 でも、それが不快じゃない。

 

 その後で、凛と桜の喧嘩が始まった。

 俺が熱い日本茶を飲めないのを訝しんだ桜に、凛が俺の奥歯を叩き折ったことがばれたのだ。

 

「ひどい、姉さん!」

「あれは仕方なったのよ!」

 

 はじめはそんな言葉のやりとりだったのが、

 

「ずるい、姉さん!」

「アレは私のものよ。…って、だいたいあんたにはランサーがいるじゃない!」

「それはそれ、これはこれです!」

 

 に変わっていったのはきっと気のせい、多分気のせい。

 

 凛の妊娠と、出産への覚悟。

 予定日は在学期間中であるため、当然、俺と凛は学園を退学しなければならない。

 だから、出産が終って少し落ち着いたら、俺たちは一緒に時計塔へ留学するつもりだ。

 その話を聞いた桜は、

 

「そんなの、抜け駆けは絶対に許しませんっ!」

 

 と、どこかの虎のように吼えまくった。

 しかし、代羽の想いと俺の決意を聞いた桜は、一年後に自分も合流することを条件にしぶしぶ引き下がった。

 桜の魔術属性は虚数。それは戦闘よりも、むしろ研究方面で貴重な戦力となるだろう。五大元素の凛との相性は最高のはずだ。

 凛は嫌そうに顔を歪めようとして、失敗していた。どうしても笑みがこぼれてしまうらしい。

 きっと、この二人はいつまでもぶつかりながら、仲良くやっていくのだろう。

 俺達の話を、如何にも興味がないといった素振りで聞いていたランサーが、大きく欠伸をした。

 

 

 半年後にイリヤが倒れた。

 もともと、短命というホムンクルスの宿命を持っているうえに、無茶な改造によって魔術回路を増やされていたのだから、体にガタが来るのは当然といえた。

 あらゆる手を施したが、イリヤの体は一向に回復の兆しを見せない。

 もはやこれまで、誰もが諦めかけたその時にセイバーが持ってきたのが、とある芸術展のパンフレットだった。

 

 後になって思う。セイバーが幸運A+で、本当に良かったと。

 

「最後に、士郎とデートがしたい」

 

 安静にしていることを主張する俺に、イリヤはこう言った。

 

「…私だけ、何にも持たないであっちに行くのは嫌」

 

 その言葉で、俺は折れたのだ。

 

 結局、デートのコースは、セイバーの持ってきたパンフレットに載っていた芸術展にすることにした。遊園地なども考えたが、子供っぽいとイリヤが嫌がったのだ。

 無名の作者が多いゆえか、人も疎らな館内。

 剣以外の芸術にはとんと疎い俺だが、素人目にもこの芸術展は素晴らしいものだった。一人として聞き知った名前の無い作者、その造詣したあらゆる作品が、美、あるいは醜を体現していた。

 それらは、俺よりもはるかに芸術に慣れ親しんだイリヤにも大きな感銘を与えたらしく、家での衰弱した様子が嘘のように、明るく元気だった。

 そんな俺達が、思わず足を止めてしまったのが、やはり無名の作者が作った人形、そのケースの前だった。

 

 すごい、俺はそう思った。

 

 剣を構えた古代ギリシャ石像風の人形は、まるで今まさにメデューサの束縛を打ち破り動き出さんとしているかのように、生気に満ち溢れていた。

 イリヤも俺も食い入るように、その人形を眺めていた。だから、後ろから人が近づいてくるのには気づけなかった。

 

「―――気に入って頂けましたか」

 

 驚いて振り向いた俺の前に立っていたのは、全身を黒一色の服装で包んだ、優しげな青年だった。

 年の頃は俺よりも幾つか上だろう。少し眺めの前髪で、片方の目を隠しているのが印象的である。

 

「すみません、驚かすつもりはなかったんです。それは、うちの所長が半年ぶりに作った作品でして、私としても、感慨深い作品なんです。気に入って頂けたようでしたら、とても嬉しいです」

 

 遠い目をする青年。きっと彼も苦労が多いんだろう。

 どんな人がこの作品を作ったんだろう。興味を覚えた俺は、彼に尋ねた。

 

「あの、これを作った人って」

「ああ、それは」

「―――私だ、魔術師の少年」

 

 ぎょっとして、声のした方向に体を向ける。

 そこにいたのは、鮮血を思い起こさせる緋色の髪をした、綺麗な女性だった。

 

「ふむ、自分の作品の展示会など、めったに来ることなど無いのだが、今日は見事にはずれらしい」

 

 ふぅっと、煙をふきだすと、彼女は持っていたタバコで空中に不思議な文字を書き始めた。

 まるで、それと感じさせることがないくらいに流麗な魔術行使。

 それだけで、目の前の女性が超一流の魔術師であることが分かる。

 そして、その冷たい殺意も。

 

「ああ、心配をする必要はない。すでに遮音結界も張っているし、人払いも完了済みだ。これからお前達がどんなに泣き叫んでも、助かる術はない」

 

 だから、と、彼女は言った。

 

「楽に死にたければ、さっさと吐いてしまうことだ。誰に頼まれてここに来た」

 

 戦慄が、体を走り抜ける。

 これは、あの灼熱の二週間で、嫌というほど味わった、あの感覚。

 死。

 

「投影、開―――」

「駄目、逃げて、士郎」

 

 イリヤが俺の前に出る。

 痩せ細った小さな肩が、やはり小さく震えていた。

 

「ほう、ホムンクルスとは、また懐かしいものを見る日だな」

 

 魔術師が軽く目をみはる。

 一目でイリヤがホムンクルスだと見抜いたのか。

 

「しかし、惜しいな。素材は申し分ないが、工程がお粗末過ぎる。私なら、はるかに素晴らしい作品に仕上げることが出来るのだがな」

「…へえ、アインツベルンの魔術の粋である私を見て、不良品というのね。流石に、封印指定の人形師は言うことが違うわね、蒼崎橙子」

 

 イリヤは魔術師を睨みつけながら、そう言った。

 アオザキトウコと呼ばれた女性が、苦笑する。

 

「ふむ、やはり追手か。依頼主は教会か?それとも協会か?」

 

 アオザキ、あおざき、蒼崎。

 どこかで聞いた名前だ。

 そう、あれは遠坂の講義のときに―――。

 

「…あんたが、あの蒼崎橙子なのか」

 

 俺は、彼女にそう尋ねた。

 蒼崎橙子は、全く感情を浮かべない瞳で、俺を射抜く。

 それだけで心臓を鷲掴みにされたような圧迫感を憶える。

 

「わざとらしいな、少年。しかし、質問には答えよう。その通り、私がその蒼崎橙子だよ」

 

 その言葉で、俺の理性は弾けとんだ。

 

「駄目、士郎っ」

 

 イリヤの制止の声を振り切って、

 呆気に取られていた、黒衣の青年の脇を走り抜けて、

 緋色の髪の魔術師の前に立ち、

 額を地面に擦りつけた。

 

「頼む、イリヤを助けてくれ!」

 

 

 一頻り腹を抱えて笑った後、橙子さんは言った。

 

「なるほど、これは謝罪をしなければならないらしい。訂正しよう、君達は追手などではないな。なぜなら、追手はその対象の目の前で、突然土下座などはしないものだ」

 

 くつくつ、となおも彼女は笑い続ける。

 橙子さんの後ろできょとんとした表情を浮かべる幹也さんが、少し印象的だった。

 

「しかし、彼女を助けるとはどういうことかな。よければ話してみろ」

 

 

「―――なるほど、確かに私なら彼女を助けることが可能だな」

 

 事も無げに、橙子さんは呟いた。

 

「本当ですか!それじゃあ―――」

「まあ待て。これはビジネスの話だ。確かに私は彼女を助けることが出来るが、それはただではないぞ。魔術だろうが、ビジネスだろうが、等価交換が世界の原則だ」

 

 橙子さんが出した条件は3つ。

 

 一つ、単純に金銭。ゼロが八つもついていたこと意外は単純といえる。

 一つ、聖杯戦争に関する克明なデータ。

 一つ、英霊であるセイバーとランサーの身体を調査する権利。

 

 これらが、イリヤの新しい身体の対価として要求されたものだ。

 

 金銭に関しては、凛が何とかしてくれた。

 といっても、その金銭はもともと凛のものではない。

 断絶したマキリの財産を凛が取得したものだ。どうやらこれはセカンドオーナーとしての正当な権利らしく、凛はほくほく顔で『当然の権利よ!』と言っていたが、俺は少し怪しいと思っている。

 それでも、本家と縁の切れたイリヤが助かるためには凛の力が必要だったことは間違いない。

 すまない、そういう俺を一通りいじった後で、凛はこう言った。

 

「代羽も、こういう使い方なら納得するはずよ」

 

 苦笑しながらそういった凛の横顔はとても綺麗だった。

 

 

 二つ目の条件である聖杯戦争のデータに関しても、協会に知らせないことを条件に凛が提供した。協会には俺と代羽を存在しないものとして偽造したデータを提出しているので、それがばれると査問される恐れがあるのだ。

 ただ、それでも俺の能力に関する事項だけは隠していたが。

 それを受け取った橙子さんは、一通り目を通してから、忌々しげにこう言った。

 

「…私を馬鹿にしているのか。なるほど、どうやら本気で妹を助けるつもりは無いらしいな」

 

 彼女にしてみれば、俺の能力が隠されたままの内容になっていることなど一目瞭然だったようだ。

 俺は、真摯に謝罪した後、凛、桜とイリヤの制止を無視して、こう唱えた。

 

「投影、開始」

 

 

「何か、異常な能力を持っていることは気づいてたけど、まさか固有結界持ちとはねえ…。あなたの調査も条件に加えておけばよかったわ」

 

 眼鏡をかけた橙子さんが、悔しそうに溜息を吐く。

 凛、桜とイリヤは、俺のことが協会にばれることを心配していたようだが、橙子さんはその心配を一笑に付す。

 

「私だって封印指定を受けてるのに、あなたのことを密告してどうするのよ。いまさらポイント稼ぎしたってもう遅いでしょう」

 

 よく分からないが、どうやら、俺のことは見逃してくれるらしい。

 

 

 最後の条件であるセイバーとランサーの身体の調査に関しては、精神的、肉体的な苦痛を伴う調査をしないという条件をつけて、認めることになった。

 ランサーは面倒臭そうに頭を掻き、『しゃあねえな』と、そう呟いた。

 セイバーは、『イリヤスフィールが助かるなら、どんな苦難でも耐えて見せます』と、言ってくれたが、セイバーが良くても、俺が良くない。

 

 しかし、橙子さんは、すんなりとその条件を飲んでくれた。

 そもそも、橙子さんレベルになると、解剖や洗脳といった下種な手段を使わなくても精緻な検査は可能らしい。

 

「ありがとう、これで新しい人形のためのデータが揃ったわ!」

 

 二人のサーヴァントの手を取る彼女の顔は、正しく喜色満面といった風情。

 もしかしたら、サーヴァントクラスの戦闘能力を持つ人形を作るつもりなのだろうか。ありえないことと思いつつ、彼女ならやりかねない、とも思う。

 

「予想外の成果、貴方たちのおかげよ。だから、これはサービス。売り払うなり実験材料にするなり、好きになさい」

 

 猫のように機嫌のいい橙子さん、からの素体をイリヤの分以外に、更に一体を寄越してくれた。

 果たしてどうしようか、そう腕を組む俺たち。

 しかし、桜が猛烈にその所有権を主張する。

 俺と凛は、その迫力に飲まれて、なんだか分からないうちに首を縦に振っていたのだ。

 

「ふふふ、これさえあれば、私も…」

 

 彼女は下腹を摩りながら、嬉しそうに呟いた。

 ランサーが、少し青い顔をしていた。

 

 

 ともあれ、イリヤは助かった。

 歪なまでの魔術回路の数と引き換えに、人並みの寿命と成長する体を手に入れた。

 まるで魂の成長に新しい身体が追いつこうとするかのように、イリヤは急激に成長した。あんなに小さかった体も、今では俺の身長に追いつこうとしている程だ。

 

「これで名実共にシロウのお姉ちゃんね」

 

 完成された女性の色香を身に纏わせながらイリヤは微笑んだ。

 もとの、子供の身体の時でさえ不可思議な妖艶さを漂わせていたイリヤである。身体が心に追いついた今、その破壊力は計り知れない。

 凛は成長したイリヤの姿、特に胸部を見ながら『あの時、成長にリミットのかかる特殊な人形を頼んでおけば…』などと不穏なことを呟いていたのだが。

 

「イリヤはこれからどうするんだ」

 

 季節は既に真冬。

 相変わらず寒さに弱いイリヤはコタツの住人となっていた。

 うつ伏せに寝転がり、雑誌を読みながらミカンを食べているその姿はお世辞にもレディとは言いがたいが、それでもどこかに気品のようなものが感じられる。

 

「もしよければ、凛や俺と一緒にロンドンに行かないか。凛も口ではああ言ってるけど、本当はイリヤのことを心配してる」

 

 イリヤは勢いよく体を起こし、向かいに座った俺を正面から見据えてこう言った。

 

「ありがと、シロウ。でも、とりあえず時計塔に行くつもりはないわ。あそこは実家に近いから、どんな揉め事に巻き込まれるか分かったもんじゃないし」

 

 コタツに肘をつきながらイリヤは続ける。

 

「それに、せっかくの凛とシロウの新婚生活を邪魔するつもりはないわ。ええっと、なんていったかしら、そう、他人の恋路を邪魔して馬に蹴られるのは遠慮したいから」

 

 それはそれで楽しそうだけど、と付け加えてイリヤはニタリ、と笑った。

 それは、本当に蠱惑的で、何かの間違いがあれば二重の不義を犯してしまう様な笑みである。

 

「あまり先のことはわからないけど、当分の間は橙子のところで世話になるつもり。だから、シロウの恋路の邪魔をするのはサクラとセイバーに任せるわ」

 

 少し残念ではあったが、それは十分に予想された返答だった。

 イリヤは新しい体を手に入れてから、幾度となく[伽藍の堂]に足を運んでいた。

 主な理由は体の調整であり、事実、橙子さんからも一月に一度は診察を受けるように言われていたのだが、イリヤは週に2・3回は[伽藍の堂]を訪れるようになっていた。

 どうやら、[伽藍の堂]の事務員である黒桐さんをめぐって特殊な三角関係が形成されており、それを混ぜっ返すのが楽しくて仕方ないらしい。この点、先ほどの『他人の恋路』のくだりの発言と矛盾していないこともない。

自分勝手な寂寥感を憶えてしまうが、イリヤも自分の歩くべき道を探し始めているのかもしれない。

 

「とにかく、私はもう大丈夫。安心して行ってらっしゃい。でも、絶対帰ってきてね」

 

 今まで見た中で、一番暖かく、一番大人びた微笑を浮かべたイリヤはそう言った。

 

 

「―――起きなさい、そろそろ着陸よ」

 

 左肩を揺すられて、俺は目を覚ました。

 ぼやける視界に映るのは俺の最愛の人。

 

 ああ、そうか、俺は。

 

「―――夢を、見ていたよ、凛」

 

 ほんの少しだけ怪訝そうな表情を浮かべた彼女は、労るように、優しく微笑む。

 彼女の手には、新しい、小さな命。

 すやすやと、安らかな寝息をたてる。

 それは、俺の右側に座ったセイバーの胸の中でも、同じように。

 俺と凛、二人の存在を受け継ぐ、新しい命。

 この子達の出産には、嫌がる凛を押し切って、立会わせてもらうの許可をもらった。

 苦悶の叫びを上げる凛の手を握り締め、それを励まし続ける。

 都合半日以上に及んだ初産の末、火がついたような泣き声を聞いたときは涙が止まらなかった。

 そんな、命達。

 つい二ヶ月前まで、この子が凛のお腹の中にいたなんて、正直信じられない。

 

「…ユキも、サチも、ご機嫌だな。これから違う国に行くっていうのに」

「頭のいい子達だから。きっと、自分たちが守られてるって気付いてるのよ」

 

 親馬鹿と、そう受け取ることも出来る、凛の言葉。

 彼女は、自分のお腹を痛めて産んだ二人の女の子に、一つの文字から分かたれた異なる読み方の名前を与えた。

 

 幸。

 

 ただ、幸福であってほしいと。

 人の親ならば誰でも願う、それは切たる想い。

 魔術とか、起源とか、そういうくだらないことを全て振り払った、純粋なる願い。

 それは、やはり祝福と。

 そう呼べるものなのではないだろうか。

 父親になった実感も伴わない俺は、シートに深く身を沈める。

 そんな俺を見て、俺の奥さんは苦笑した。 

 

「…きっといい夢だったのね。幸せそうな顔をしてたわ」

 

 自分の寝顔を見られていたことに軽い羞恥を憶えつつ、俺は答えた。

 

「…あの二週間のこと、それからのことの夢を見てた」

 

 凛は微笑を浮かべたまま、形のいい眉を寄せた。

 

「…代羽のことを思い出してたの?」

 

 俺のことを気遣う表情。

 勝気な表情が一番美しい凛だが、こういうのも悪くない、と思う。

 

「―――ああ、兄さんのことも、思い出してた」

 

 凛の瞳から視線をはずし、正面の座席を見つめる。

 思い出すのは最後のとき。

 しゃんと背筋を伸ばし、一歩一歩絶望へと歩を進める背中。

 

「…兄さんはあの時、いつもみたいに笑ってたのかな」

「そうに決まっています」

 

 呟くような問いに答えたのは、凛ではなく、俺の右側で座っていたセイバーだった。

 その小さな手で、それよりも更に小さな命をあやしながら、それでも毅然と言い切る。

 

「彼は、いえ、彼女は誇り高い。私の知る高名な騎士たちと同じく。そして、誇り高い騎士たちは自らが死地に赴くとき、必ず不敵な笑みを浮かべていたものです。だから、代羽もきっと笑っていた。私は確信しています」

 

 凛は、大きく頷いた。

 

「ええ、私もそう思う。悲壮な顔を浮かべた代羽なんて想像もつかない。怯えた顔は言わずもがな、ね」

 

「―――そっか」

 

 短く呟いてから、俺は目を瞑った。

 大きく息を吐き出して、そして思う。

 兄さんがあの時微笑っていた。

 それは間違いない。

 誰が否定しても、俺は知っている。

 ただ、凛が、そしてセイバーが同じ考えでいてくれたことに、安堵した。

 

 兄さん。

 私はこの素晴らしい恋人と、最高の友人と一緒に、あなたの生きた場所を訪れてみます。

 優しい世界が待っているとは思っていません。

 上り坂ばかりかもしれない。

 傷つき、倒れることもあるでしょう。

 もしかしたら、これはあなたの望む生き方とは、違う道なのかもしれません。

 でも、あなたが最後に示してくれた通り、私は私の人生を歩いてみようと思います。

 だから、少しの間。

 ほんの少しの間だけ。

 あなたの影に縋ることを、どうか赦してください。

 

 兄さん。

 

 私を助けてくれた兄さん。

 

 私だけの味方だった兄さん。

 

 おそらくは今も殺され続けている兄さん。

 

 あなたがいたから私は生きている。

 

 あなたのおかげで私は歩いてゆける。

 

 だから、兄さん。

 

 あなたが残してくれた祝福は。

 

 確かに、私の中に息づいています。

 

『間もなく当機は着陸態勢に入ります』

 

 安全確認の機内放送が流れる。

 もうすぐ俺は異国の地に降り立つ。

 俺は、これからどういう道を歩くのだろうか。

 凛たちと共に、魔術師として一生を送るのか。

 やはり正義の味方として、不毛の野に水を撒き続けるのか。

 それとも、それ以外の生き方を見つけるのか。

 先のことなど、わからない。

 ただ、俺は自分を救ってくれた人達に恥じない生き方を選びたい。

 

「士郎、いよいよね」

 

 遥かに開けた前途に興奮気味の凛。

 

「……」

 

 着陸の瞬間に備えて心もち緊張したセイバー。

 

 俺は少し苦笑して、シートベルトを締めた。



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Last epilogue FATE/IN THE DARK FOREST

 切り殺されるのは、もう慣れた。

 

 縊死は、思ったよりも心地いい。

 

 墜落死には、快楽すら覚える。

 

 焼死は、まだ少し辛い。

 

 凍死は、懐かしい夢を見ることが出来るから、待ち遠しい。

 

 餓死には、何の感慨も浮かばない。

 

 病死は、ものによりけりか。

 

 一番嫌なのは、枯死だろうか。己の小便すら啜りながら干乾びるのは、何度体験しても筆舌に尽くし難い苦しみだ。

 

 それでも、粗方は、慣れた。

 

 最初はその数も数えていたが、途中で疲れて止めてしまった。

 

 だから、この死が幾度目の死なのか、良く分からない。

 

 そもそも、人は60億という数を数えることが出来るのか。

 

 ありとあらゆる死を、経験した。

 

 

 鋭い矢尻が胸に突き立った。

 

 巨大な歯車に巻き込まれた。

 

 肺を海水が満たしていった。

 

 硫酸の海に突き落とされた。

 

 人柱として生埋めにされた。

 

 

 愛されながら、殺された。

 

 犯されながら、殺された。

 

 憎まれながら、殺された。

 

 蔑まれながら、殺された。

 

 笑われながら、殺された。

 

 

 物のように、壊された。

 

 獣のように、屠された。

 

 虫のように、潰された。

 

 屑のように、貶された。

 

 女のように、姦された。

 

 

 塵みたいに、死んだ。

 

 理のように、死んだ。

 

 蛆が涌いて、死んだ。

 

 骨が溶けて、死んだ。

 

 無になって、死んだ。

 

 

 狂喜の涙があった。

 

 憤怒の涙があった。

 

 後悔の涙があった。

 

 快楽の涙があった。

 

 恍惚の涙があった。

 

 

 槍に、貫かれた。

 

 剣に、削られた。

 

 斧に、砕かれた。

 

 槌に、潰された。

 

 手に、縊られた。

 

 

 目を潰された。

 

 鼻を削がれた。

 

 舌を抜かれた。

 

 指を裁たれた。

 

 膣を焼かれた。

 

 

 苦しかった。

 

 悲しかった。

 

 寂しかった。

 

 悔しかった。

 

 厳しかった。

 

 

 笑われた。

 

 嗤われた。

 

 哂われた。

 

 嘲われた。

 

 蔑われた。

 

 

 尊厳死。

 

 安楽死。

 

 感電死。

 

 轢断死。

 

 圧搾死。

 

 

 幻痛。

 

 苦痛。

 

 激痛。

 

 鈍痛。

 

 疼痛。

 

 

 怖

 

 痛

 

 痒

 

 辛

 

 眠

 

 い

 

 

 ああ、辛かった。

 ああ、苦しかった。

 そして、それ以上に。

 痛くて、痛かった。

 

 辛いんだろうな。

 苦しいんだろうな。

 そして、それ以上に。

 痛くて、痛いんだろうな。

 

 

 死んだ。

 何回も、死んだ。

 死、その単語が軽くなる程度には、死んだ。

 己の不死が疎ましくなって、でもそれが愛おしくなって、またそれが憎憎しくなるくらいには、死んだ。

 

 死ぬのだろう。

 何回も、死ぬのだろう。

 死、その単語を忘れるほどには、死ぬのだろう。

 己の不死すら無意味になって、それを憎むことすら忘れて、この上なく後悔するくらいには、死ぬのだろう。

 

 

 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。

 

 殺されるために、生き返って。

 

 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。

 

 辱められながら、生き返って。

 

 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。

 

 何の目的も無く、生き返って。

 

 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。

 

 それでも、ただ、生き返って。

 

 

 いい加減、私が私であることに嫌気が差してきたとき。

 世界に囚われた彼の気持ちが、欠片程度には理解できたとき。

 

 

 声が、聞こえた。

 

 

「はろー、はろー、俺の声が聞こえてますかぁ?」

 

 声。

 

 それが声と呼べるものであることに、やっとの思いで気がついた。

 

「聞こえるなら返事してよ。無視されたら傷ついちまう。これでも、俺ってば、繊細なのよ?」

 

 無茶を言う、と思う。

 

 一体何回殺されたか知らないが、その間私の喉は、断末魔の叫び声を上げる以外の機能は放棄していたのだ。

 

 人の言葉など、話せるはずが無いだろう。

 

「あ、なるほどね。そりゃあ百万回も殺されれば、言葉の一つも忘れるよねぇ」

 

 そうか。

 

 私は、百万回、殺されたか。

 

 ひょっとしたら、絵本にある猫みたいに。

 

 あと、一度殺されれば、私はこの苦痛から解放されるのかもしれない。

 

「ぶっぶー、外れでーす。俺がそんな簡単に許すと思う?あんたのせいで他の奴らを殺せなくなっちまったんだからさ、きっちりあと59億9千9百万回は死んでいってよ」

 

 ずいぶんと軽く言ってくれる。

  

 百万回の死、それだけで、私の自我はずいぶんと削り取られてしまった。

 

 おそらく、あと十回も死ねば、もっと致命的な何かが砕け散るだろう。

 

「でもさ、正直言うと、ちょっと飽きちゃったんだよね、同じ人間を何回も殺すの」

 

 なら、解放してくれればいいのに。

 

「やだよう、せっかく手に入れた玩具なんだから、骨の髄までしゃぶり尽くさないとねえ」

 

 なら、さっさと殺せばいいでしょう。

 

「でもね、さっきも言ったように、ちょっとだけ飽きちゃったわけなのですよ、これが」

 

 じゃあ、一体どうしたいのですか?これでも、暇ではないのですが。

 

「だから、提案です。俺と一緒に、ここで生きてよ」

 

 ―――。

 

「殺さないからさ。優しくするからさ。俺と一緒に、いてよ」

 

 あなたは、寂しかったのですか。

 

「うん。寂しかったし、辛かったし、怖かったよ。だから、ここにいてくれよ」

 

 あなたは、私と同じ苦痛を味わってきたのですね。

 

「多分、そう。でも、あんたがいてくれれば、救われる。だから、お願いだから、ここにいてください」

 

 嫌です。

 

「―――」

 

 私には、待ってくれてる人がいますから。

 

 ここであなたを愛するわけには、いかないのです。

 

「じゃあ、一生ここから出さないぜ?」

 

 それでも、です。

 

 私には、待っていてくれる人がいます。

 

 それだけで、私には生きる価値がある。

 

 それだけで、人は生きていていいのです。

 

「じゃあ、俺には生きる価値無し?ちぇ。あんた、結構ひどい奴なんだなぁ」

 

 今頃気付きましたか?

 

「もう、いいや。もう、いい。飽きた。飽きちゃったからさ、やっぱりあんた、外に出ていいよ」

 

 …意外に、あっさり、なのですね。

 

「でもさ、外にいいことなんて、何一つないぜ。ここならあんたは諦められるだろ?でも、外は悔しいことばかりだ」

 

 もう、慣れましたから。

 

「優しいことなんて何一つなくてさ。苦しいことばかりでさ。死ぬより、辛くてさ。それでも、外がいいのかい?」

 

 きっと、そこが私の居場所ですから。

 

「世界に忘れられてても、かい?」

 

 私は、覚えています。

 

 それで、十分でしょう。

 

「くそ、じゃあ、とびっきりの悪夢をプレゼントだ。せいぜいのたうち回んなよ。腹を抱えて笑ってやる」

 

 あなたは、結構、優しい人だったのですね。

 

「今頃気付きました?遅すぎるよ、あんた」

 

 私は、待っていますよ。

 

「何を?誰を?救いを?ひょっとして、神様とか?」

 

 貴方を、待っています。

 

「はあ?」

 

 私が、貴方を待っています。

 

「…意味、わかんねえ」

 

 だから、貴方も。

 

「…やめてくれ。下手な慰めは、踏み躙られるより残酷だ」

 

 知っています。だから、貴方を待つのです。

 

「俺は、ゼロだ。無だ。もとから存在しないものは、どうやったって存在できない」

 

 だが、貴方はこうして私と会話している。貴方が完全な無ならば、その矛盾をどう弁明しますか?

 

「それに、この世界は俺そのものだ。どうやったって、切り離せない」

 

 ならば、貴方はこの世界ごと、外に出ればいい。

 

「…正気?それって、俺が生まれるって事だぜ?世界が滅びちゃうよ?」

 

 その程度で滅びる世界なら、滅べばいい。

 

 もっとも、世界は、そして人間は、それ程弱くはないでしょうが。

 

「…あんたは、それを止めるために、馬鹿みたいに殺され続けたんじゃないのかい?」

 

 そうですね。あのように醜悪な貴方が人を殺すのは、母として流石に辛かった。

 

「じゃあ―――」

 

 だから、私が貴方を生みましょう。

 

「―――」

 

 私の子宮で貴方を慈しみ、この手で貴方を取り上げましょう。

 

「―――」

 

 私の乳で貴方を育て、この手で貴方の頭を撫でてあげましょう。

 

「そんなこと、不可能だ」

 

 まだ、パスは繋がっている。あとはやる気の問題です。

 

「…大聖杯も壊れちゃったんだからさ、世界を飛越えるようなもんだぜ、それって。やる気一つで何とかなるもんかなぁ」

 

 私の息子なら、何とかしてみなさい。

 

「………はっ」

 

 私の娘なら、何とかしてみせなさい。

 

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

 

 泣き言など、許しません。もし、貴方が私と共にありたいのなら―――

 

「くくっ、わかったよ、あんたの覚悟は、よーくわかった」

 

 幸いです。

 

「努力は、してみるよ。だからさ、あんたも―――」

 

 ええ、精一杯、励みましょう。

 

「うわ、普通、女がそんなこと、言う?慎みってもん、覚えたほうがいいぜ?」

 

 残念ながら、誰も教えてくれませんでした。

 

「じゃあ、俺がたっぷり教えてやるよ。覚悟しとけ」

 

 ええ、覚悟しておきましょう。

 

「いい名前、考えておいてくれよ」

 

 歯が溶けるくらい、大甘なものを用意しておきます。

 

「…程々がいいなあ」

 

 この件について、貴方の意見は聞きません。

 

「ひでえ。人権侵害だ、それって」

 

 親の特権です。

 

「そんなもんかなぁ」

 

 そんなものです。

 

「それじゃあ」

 

 ええ、それでは。

 

「また、会おうな、お母さん」

 

 ええ、いずれ、また。―――アンリマユ。

 

◇ 

 

 私は、今、生まれた。

 

 今の私は誰なのだろう。

 

 ヨハネか、それともシロウか。

 

 おそらくは、両方が正解、全てが誤り。

 

 昼間のように明るい闇の中で、自分の髪に触れてみる。

 

 それは、紫がかった黒でもなく、

 

 蒼穹のような蒼でもない。

 

 燃えるような、血のような赤毛。

 

 それは、彼の髪の色。

 

 本当の、私の髪の色。

 

 そして、私の大好きな色。

 

 あの夜から、いったいどれくらいの時が流れたのか。

 

 無限の死を味わった。

 

 同じ数の生を授かった。

 

 少なくとも短い時間ではなかったはずだ。

 

 長い、長い、産道だった。

 

 彼の名前すら思い出してしまうほどに。

 

 私の、弟。

 

 ――― (やしろ) 。

 

 まあ、いいか。

 

 私が成すべき事は決まっている。

 

 まずは遠坂をからかって。

 

 あの子にただいまを言って。

 

 ああ、それも、どうでもいい。

 

 今はただ、

 

 彼らに、

 

 会いたい。

 

 

 月の綺麗な夜だった。

 寺の夜は早い。いつもならとっくに布団に入っている時間である。

 それでも、今日は眠れそうにない。

 

 人が、多すぎる。

 

 悲しげに俯いた人が、気丈に胸を張る人が、それでも物陰で嗚咽を堪える人が。

 

 声が、多すぎる。

 

 涙を堪える声が、涙を噛み殺す声が、地に伏し涙を垂れ流す声が。

 

 そのいくつかは、おそらく私のものだ。

 この職についてから、人の死に涙を流すことが少なくなった。

 人の死を慰め、その魂が迷わぬように仏の御許に送り届けるのが、その職のあり方だから。

 それでも、今日くらいは泣いてもいいと思った。

 だから、一人で泣くことにした。

 坊主が泣き顔を見られるのは、如何にも格好が悪い。

 それに、かの人は仏の御許に旅立たれたのだ。

 ならば、これは悲しいことではないはず。

 だのに、この瞳からは涙が止まってくれない。

 だから、私は一人で泣くことにしたのだ。

 

 なんとなく、落ち着かずに、外に出た。

 

 寺のすぐ裏手にある、鬱蒼とした森。

 曽祖父の時代に出来たという、奈落のような大穴は埋め立てられて、今は綺麗なものだ、

 覚束ない足元を気にしながら、瞳の熱さが癒えるのを待つ。

 

 空を見上げる。

 

 そこには、兎が戯れる、丸い月。

 ひょっとしたら、あの方もあそこに旅立たれたのだろうか。

 あそこで、兎と一緒に餅をついているのだろうか。

 その無邪気な光景を幻想して、何時間か振りに笑みが生まれた。

 苛烈な、あまりに苛烈な一生を送られた方だった。

 ならば、死後とはいえ、その程度の余暇があってもいいのではないだろうか。

 そんなことをつらつらと思考しながら、ぶらぶらと歩いた。

 

 暗い、道である。

 

 満月に照らされているとはいえ、灯り一つ持たぬ身で深夜の森を歩くのは、やはり愚行だったのだろう。

 必然、何かに足を取られた。

 おそらく、張り出した木の根か何かだろうか。

 止まった呼吸と、前に崩れていく体。

 咄嗟に手を出す。

 きっと、擦り傷くらいは拵えるだろう。

 その無様に、心中で苦笑したとき。

 誰かが、私の肩を、掴んだ。

 細い、小さな手。

 それが、私を救ってくれた。

 思わず振り返る。

 木々の枝から、漏れ来る、月の光。

 それに照らし出された、一角の荒地。

 

 そこには、少女が、いた。

 

 満月に誘われて森に立ち入ったのが私の気まぐれなら、そこに彼女がいたのは運命だろうか。

 

「―――かたじけない」

 

 私の言葉に、少女はただ微笑むばかり。

 その口元に湛えられた微笑に、人外の何かを感じ取ったのは、おそらく私の不徳の致すところだろう。

 これほど穏やかに笑むことが出来る人など、私はかの人以外、知らぬというのに。

 姿勢を正し、少女と対する。

 

「しかし、こんな時間にどうされた。女性が一人で出歩いてよい時間ではないぞ」

「…あなたは」

 

 少女が、尋ねる。

 初めて聞く、声。

 擦れた、まるで初めて口にしたような彼女の声が、どこか懐かしい。

 そして、その姿。

 一糸纏わぬ裸体が、月光を従える。

 女性のみが持ちうる、優美な曲線。 

 豊満な乳房。

 腰まで届くような絹髪と、長い手足。

 右の耳に、場違いな銀の装飾品。あれは、愛しい人からの贈り物だろうか。

 しかし、何より目立っていたのは、その脹らんだ腹部だろう。

 そこに、新しい命が宿っていること。

 それは、誰の目にも明らかだった。

 それでも、いや、それゆえに少女は美しかった。

 夜魔。

 男性を惑わし、その精の最後の一滴までを搾り取る、許されざる存在。

 それとも、神の子を孕んだ聖女だろうか。

 枯れたはずのこの身に潤いを覚えるほど、少女は美しかった。

 

「…私は柳洞一成。この寺の住職を務めている」

 

「―――りゅうどう、かずなり」

 

 そう呟いて少女は瞑目した。炎のように赤い彼女の髪が、月の光を受けて神秘的な輝きを放つ。

 彼女は、自らの時を止めたように動かない。

 やはり化生の類かと考える。

 沈黙。

 なんとはなしに、気圧されて、自分の名の由来などを話す。

 

「おかしいかな。この名は、高僧と名高かった曽祖父から頂いたものなのだが」

「―――ええ、知ってます」

 

 彼女は微笑む。

 彼女は何を知っているのだろう。

 おそらくは私の知らないこと。知ってはならないこと。

 

「…ここで出会ったのも何かの縁であろう。どうかな、茶など一杯。それに、この寒空にそんな格好では、お腹の子に悪かろう。暖かい着物と寝所程度なら用意できる。もれなく破戒坊主の説教が抱き合わせとなるがな」

「ええ、よろこんで。それに、あなたの曾お祖父さんのお話も伺いたいわ」

 

 これはきっと夢。

 

 朝、目覚めれば彼女の姿はないだろう。

 

「名前を、伺ってもよいだろうか」

「私は―――」

 

 そこまで言って、彼女はその首を廻らした。

 視線の先には、寺の明かり。

 たくさんの人の気配と、そのざわめき。

 それでも、その距離と、間に挟まれた闇が、人の匂いを消している。

 

「…今日は、お祭りですか?」

 

 なるほど、事情を知らぬ人間が見れば、そうも思えるか。

 

「一人な。一人、偉大なお方が、逝かれたのだ」

 

 ならば、祭りなのだ。

 今は、祭りの準備をしている。

 かの人の魂を、仏の御許に、無事に送り届けるための、祭り。

 故人の話をして、泣いて、笑って、怒って、やはり泣いて。

 それでも、今日のうちに、全ての涙を流してしまおう。

 明日は、笑って故人を見送ることが出来るように。

 誰よりも、他人の笑顔を作ることに尽力した彼だからこそ。

 その門火には、さんざめくような笑い声こそが、相応しいはずだから。

 

「…一体、誰が、お亡くなりになられたのですか」

 

 どこか、遠い声。

 答を知りながら、それでもその答を求める、求道者の、声だ。

 おそらく彼女が知りえないであろう、しかし、彼女が求める答を、口にする。

 

「…衛宮士郎という」

 

 遠雷にも似た、その響き。

 ほう、と、彼女の可憐な唇が、小さな溜息を漏らす。

 

「かの方は…、いや、やめておこう。功績の数などは、墓石にでも刻まれればいいのだ。我々が心に刻むべきは、かの方が、ただ偉大であったという、その一事でよかろうな」

 

 我ながら、情けない。

 後半は、涙に濡れていた。

 一世代以上、歳の離れた、老人。

 既に御伽噺としてしか知らぬ曽祖父と友人であったという、老人。

 一体、あの方がどれ程の月日を生きたのか、正確に知る者は、少ない。

 それでも。

 たった数度の邂逅が、私の心に燦然と輝く。

 幾度、その言葉に掬われたか知れぬ。

 ならば、その涙も、当然か。

 

「…貴方は、彼の死に、涙を流してくれるのですか…」

 

 その声も、泣いていた。

 

「…おうさ。あの方の死が悲しくなくて、何が悲しかろうか。今は、あの方を奪った仏が、ただ憎いよ」

 

「…それは、貴方が口にしていい言葉では、ありませんね」

 

 頬を伝う涙が、歪んだ笑みに、その針路を変えていく。

 何という声だったのだろうか、それは。

 静かな、しかし沈痛な声だ。

 何故だか、彼女の顔を見ることが、出来なかった。

 多分、彼女がそれを望んでいるからだ。

 意味もなく、そう思った。

 

「…そういう貴方も、泣いているのか」

 

 だから、言葉で、確かめた。

 きっと、彼女もそれを望んでいるから。

 然り、少しほっとした声が返ってくる。

 

「はい、泣いています」

 

 嗚咽を堪えた、だからこそ凛とした響き。

 涙を誇るような響きが、そこにはあった。

 何故だろう。

 この人は、悲しくないのだろうか。

 

「悲しくないのか」

 

 無粋な質問。

 

「はい、悲しくありません」

 

 当然の返答。

 

「ならば、何故泣く」

 

 恥死の質問。

 

「きっと、嬉しいから」

 

 毅然の解答。

 

 言葉は、無い。

 ただ、隣に立つ。

 空気が、薄い。

 喘ぐような、呼吸。

 痺れるような、寒気。

 嗚咽と供に漏れ出した、歓喜。

 

「ただ、嬉しいのです。彼の死にこれほど多くの人が涙してくれる、その事実が」

 

 ああ。

 この人は。

 世界で、一番。

 今、悲しいのだ、と。

 そう、理解した。

 

 振り返る。

 

 そこには、誰の姿も、無かった。

 月に照らされた、老木だけが、あった。

 やはり、狐にでも化かされたのだろか。

 一抹の驚き、そしてそれ以上の納得と供に、踵を返す。

 

「―――そうそう、先程の質問に答えていませんでしたね」

 

 ああ、しつこい狐だ。

 それほどまでに、人恋しかったか。

 背中にその声を背負いながら、歩き始める。

 慎重に、慎重に。

 一歩ずつ、一歩ずつ。

 もう、転ぶわけには行くまい。

 なぜなら、きっと彼女は、また助けてくれるから。

 それほどに無粋なことをさせるわけには、いかないから。

 

「わたしの名前もね、士郎というのですよ」

 

 びょう、と、風が吹いた。

 

 彼女の匂いも、気配も、全てを掻き消していく、風。

 

 空を、見上げた。

 

 そこには、相も変わらず丸い月が在った。

 

 彼女は、言った。

 

 士郎、と。

 

 私には、その名が、とても悲しくて、

 

 この上なく、綺麗に思えた。

 

 

 月を見上げる。

 

 いつか、あの暗い森で見た、あの月と変わらない。

 

 完全な真円。

 

 変わっていればよかったのに、と思う。

 

 もし、あの月が欠けていれば、

 

 きっと私は諦められた。

 

 覚悟はしていたのに。

 

 喜ぶべきことの、はずなのに。

 

 しかし、突きつけられた事実は、

 

 億の死に勝る鋭さで、

 

 私の胸を貫いた。

 

 もう、誰もいないという、事実。

 

 もう、誰も私のことを知らないという、その事実。

 

 まるで、星の無い大海を行く小船のように。

 

 あたかも、蜃気楼に惑う旅人のように。

 

 寄る辺無き、この世界。

 

 朝が来る前にここを発とう。

 

 彼が天に昇る様子を、見送りたかったけれど。

 

 彼らの息吹を感じられる、この場所は。

 

 今の私には、暖かすぎる。

 

「いかがなされた、主殿。その目、砂嵐にでも遭われたか」

 

 在りうべからざる声がする。

 

 懐かしいその声。

 

 初めて聞くその声。

 

 目の前に立つ長身の青年。

 

 その姿は鮮烈で。

 

 暗い、暗い、地の底で。

 

 初めて、貴方と出会った。

 

 例え、この身が何度地獄に落ちても、

 

 例え、貴方が何度生まれ変わっても、

 

 見紛うことはあるまい。

 

 そう、思えたあの時と同じ。

 

 視界は滲んで、顔が見えない。

 

 何かが頬を濡らす。

 

 これが、なみだ。

 

 それは、まるで、あなたのように。

 

 こんなにも、あたたかい。

 

「なんで」

 

 あなたがいるのか。

 

「どうして」

 

 あなたがいてくれるのか。

 

「主殿の生ある限り、付き従うと言った私の言葉、よもや忘れたとは言わさぬぞ」

 

 ああ。

 

 その言葉は覚えています。

 

 その言葉を信じていました。

 

 でも。

 

 ああ、それでも。

 

 英霊の座を破って。

 

 輪廻の牢獄に飛び込んで。

 

 生まれ変わってまで、私の傍にいてくれると。

 

 信じることが、できませんでした。

 

 ごめんなさい。

 

 許してください。

 

 でも。

 

 ありがとうございます。

 

 ありがとうございます、

 

 ありがとうございます。

 

 怖かったです。

 

 辛かったです。

 

 寂しかったです。

 

 心細かったです。

 

 世界に、捨てられたと思いました。

 

 自分は、いらない人間なんだと思いました。

 

 だから、さっきまで私は独りでした。

 

 でも、今は貴方がいます。

 

 それだけで、それだけでこんなにも。

 

 それだけで、こんなにも私は。

 

「もちろ、ん、おぼえて、います。わたしからはなれる、なん、てぜったいに、ゆるさない」

 

 嗚咽に震える無様な声が、

 

 今は、この上なく誇らしい。

 

「ふむ、それでこそ我が主君」

 

 稚気に溢れたその表情で。

 

 はにかむような、綺麗な笑顔で。

 

 満足げに頷く暗殺者。

 

「どうかな、久方ぶりの逢瀬は我等に似合いの、この森の中で、というのは」

 

 森。

 

 深い森。

 

 貴方を失った森。

 

 ならば、再び貴方と契るのも。

 

 この森からが、相応しい。

 

 本当に、何故だろう。

 

 何故、貴方は、こんなにも。

 

 私の欲しい言葉を、くれるのか。

 

 ならば、私の答えなど。

 

 百年前から、決まっている。

 

 だから、涙を拭う。

 

 だから、鼻を啜る。

 

 だから、深呼吸を一回。

 

 だから、今だけは、我慢しよう。

 

 きっと、私は泣いていたから。

 

 今から、もっと泣いてしまうから。

 

 嬉しすぎて、もっともっと泣いてしまうだろうから。

 

 だから、今だけは、涙を我慢しよう。

 

 この言葉は、この言葉だけは。

 

 貴方の褒めてくれた、この笑顔と共に。

 

「喜んで」

 

 さあ、行こう。

 

 彼と共に。

 

 いざ、生こう。

 

 彼を供に。

 

 貴方が、私に手を差し出す。

 

 私が、貴方の手を取る。

 

 貴方は、私に偽りの生を預けてくれた。

 

 ならば、私の残りの命は貴方に捧げようと思う。

 

 

 それは儀式。

 

 これからも共にあらんという誓い。

 

 夜の奥へと至る道は、煌々と輝く満月に祝福されている。

 

 きっと、誰かの曾孫が戯れに打ち鳴らしたのだろう、浅い闇の中を響き渡る、荘厳な鐘の音。

 

 ならば、欠けるたるは誓いの指輪くらいのものか。

 

 しかし、それすら彼らには余計。

 

 彼らは、ただ共にある、それだけで完成している。

 

 絆の証など、不要なだけでなく無粋極まる。

 

 だから、彼女の願いは、間違いなく叶ったのだ。

 

 

 空には夜を従える月が一つ。

 

 地には少女の従える影が二つ。

 

 寄り添う影は一つになって。

 

 暗い森の中に消えていく。

 



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